甲殻大怪獣デボラ (彼岸花ノ丘)
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2019年
浜田太一の末路


 富士山のてっぺんで初日の出を見てみたい。

 十二月三十日、漫然と抱いたその欲求に大学生である浜田太一は抗う事をしなかった。幸いにして凡そ一年前に登山道具を一式購入しており、埃を被ってる以外装備に問題はなかった。両親も彼の突発的な行動には慣れたもので、快く送り出し、彼は富士山を登り始めた。

 勿論富士山登頂は楽な道のりではない。初日の出を拝むためとなれば、前日である大晦日の明るい内に登頂し、極寒の中一晩過ごさねばならないのだから。しかし太一はそれを可能とする体力があり、そして志を同じくする登山客の応援が気力を与えてくれた。

 彼はなんとか大晦日の日没前に富士山の頂上に辿り着いた。その後予約していた山小屋で一晩を過ごし、日も昇らぬうちに ― 初日の出を拝むためなのだから当然だが ― 起きて外に出た。身を刺すような寒さは下手な目覚ましより強力で、ぱちりと目が覚める。外ではたくさんの人々が山頂の東側を目指して歩いていたので、太一も彼等の後を追うように進んだ。

 かくして辿り着いた富士山東側の斜面。太一は適当に開いてるスペースに座った。体育座りでじっとする事になったが、眠気はやってこない。むしろ段々と胸の中のわくわくが大きくなり、頭が冴えてくる。空は満天の星空が広がっていて、朝日を遮るものは何もない。曇り空で初日の出が拝めないという心配はなく、太一はなんの不安もなくその瞬間を待った。

 やがて、段々と東の空が明るくなってきた。

「お、おお……」

 ざわざわと、周りから歓声のような声が聞こえてくる。太一も立ち上がりたくなる衝動を覚え、後ろに居る人の事を考えてどうにか抑えて前を見続けた。

 そしてついに太陽がその輪郭を露わにした――――その時だった。

 巨大な爆音が、太一の背後から聞こえてきたのは。

「きゃあっ!?」

 何処からか悲鳴が上がった。太一もまた悲鳴を上げそうになったが、大の男としてのプライドが、その悲鳴を無理矢理飲み込ませた。

 それでも心の動揺は収まらず、太一は音が聞こえてきた背後へと振り返る。

 見えたのは、朦々と立ち上る黒煙だった。

 うっすらと辺りを照らす朝日が、黒煙の黒さをより際立たせる。黒煙は太一達朝日を拝みに来た登山客から百数十メートルは離れている位置で上がっているが、視界全てを覆うほど広がっていた。その勢いは正しく爆炎のようであり、万一巻き込まれれば人間なんて簡単に吹き飛ばされてしまう事が容易に想像出来る。

 逃げなければ命が危ない。

 太一を含めた登山客の誰もが思っただろう。しかし誰一人としてこの場から逃げようとしない、否、逃げられない。大地が激しく揺れていて、歩く事はおろか立つ事すら儘ならないのだから。

 何が起きているのか? 答えは明白だ。地質学的な知識がない太一にも分かる。

 火山噴火だ。

 富士山は活火山であり、何時か大噴火を起こす……信じるかどうかは別にしても、日本国民ならば多くが知っている事。太一もまた聞いた事のある話だった。まさかそれが自分が登頂した日に起こるとは予想もしなかったが、起きてしまった事を否定してもただの現実逃避にしかならない。大事なのは事実を受け入れ、適切に対処する事。

 そう、これは火山噴火だ。火山が、噴火しただけの事である。

 ならば。

【ギギギギギギギギキイイィィィィ!】

 この、金切り声のような地鳴りはなんなのだろうか。

 唖然とする太一だったが、すぐに我に返る事となった。

 黒煙の一部が、自分達の方へと流れてきたからだ。本だかテレビだかで見た覚えがある。火山から噴き出た煙は、それ自体が何百度もの熱がある。もしも飲まれようものなら一瞬にしてその身は焼かれてしまい、苦しむ暇すらないと。

 逃げなければ死んでしまう。しかし地面の揺れは未だ収まらず、太一達登山客はただただ煙がやってくるのを見ている事しか出来ず……

 黒煙は、太一の横十数メートルの位置を駆けるように流れていった。

 若い人も、老いた人も、女も、男も……関係なく、何十人もの人々が太一の視界から消えた。黒煙がやってくる間際には悲鳴が響いたが、黒煙に飲まれた途端に消えている。それがあまりにも呆気なくて、太一は恐怖から腰が抜けてしまう。全身が震えてまともに動けない。

 唯一自由が利くのは、涙で視界がぐにゃぐにゃに歪んでいる目玉だけ。太一の目は、ぐるりと噴き上がる黒煙の方へと向く。

 故に彼は目の当たりにした。

 黒煙に混ざり、飛び散る紅蓮の光。その地獄のような景色の中で、蠢く巨大な影を。

 太一は目を見開いた。先程まで心を満たしていた恐怖心はすっかり失せ、代わりに驚愕と興味の念が沸き立つ。

 一体富士山に何が起きたのか。

 これから何が起きるのか。

 それを知ろうとしたのは本能からか、人としての矜恃からか――――されど彼の願いが叶う事はない。

 真実に辿り着く前に、太一の下に火山の黒煙が流れ込んできたのだから。




始まりました新連載。タイトル通り怪獣ものです。
この世界がデボラによってどう変わるか、デボラとはなんなのか。
その謎解きを楽しんでもらえるよう、頑張っていきます。


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緒方早苗の職務

 正月でもニュースはある。

 人が生きている限り、事件や事故は起きるのだから当然だ。昨今はネットの発達、そして既存メディアの信用低下によりテレビ報道の需要は減っているが、それでもお年寄りなどは未だテレビのニュースが大事な情報源。正月だから休みますとは言えない。需要があるのならば応える。

 故にテレビ局は正月でも休みなく報道を行う。報道を行うためには、読み上げる人員が必要だ。

 緒方早苗はそうしたニュースを読み上げる、アナウンサーの一人であった。

「(さてと、もう一度読んでおくかな……)」

 控え室にて、早苗はスタッフから渡されていた原稿を読んでいた。

 早苗がニュースを読み上げる番組が始まるまであと三十分。朝七時きっかりに放送される番組で、取り上げるニュースは昨晩から明朝に掛けての事件や事故が主なもの。原稿に書かれているニュースの多くは、今初めて目にするものだ。

 勿論原稿はあるのだから、それを読み上げれば視聴者には伝えられる。しかしただ原稿を読むだけなら、アナウンサーという職務は必要ない。丁寧に、分かりやすく、言い間違いもなく……それが出来なければ価値がないのだ。

 或いは若くて美人ならば多少拙くても良いかも知れないが、生憎早苗は自分の顔立ちがごく一般的なレベルであり、尚且つさして若くない事も自覚していた。アナウンサーとしての実力をキッチリ見せ付けなければ、『卒業』という事もあり得る。そんなのはご免だ。

「緒方さん、そろそろお願いします」

「――――ん。分かりました」

 しばし原稿を読んでいると、半開きにした扉から女性スタッフが声を掛けてきた。早苗は原稿を持ち、控え部屋を出る。早苗を呼んだスタッフは案内するように前を歩く。今更案内してもらわずとも行けるが、断る理由もない。

 早苗はスタジオに入り、自分の席へと向かう。この場を誰かに譲る気はない。堂々と座り、ニュース原稿を広げ、頭の中で今日の流れをイメージする。

 ある程度イメージした辺りで、正面を見据える。放送開始まであと二分。カメラの後ろにあるモニターを見て、自分の身形におかしなところがないかチェック。記憶を辿り原稿を余さず頭に叩き込んだ事も確かめる。全てが完璧であり、

「緒方さん、すみません! あの、これ今朝最初のニュースとして読んでくださいっ!」

 その完璧が、横からやってきた女性スタッフの一言で崩れ去った。

 とはいえこの程度で眉を顰めはしない。生放送は常に変化を起こすもの。機材の不備、自分の原稿読み上げが遅かった、ゲストの話が長い、ゲストの話が短い……様々な想定外により予定していた枠からはみ出す。

 臨時ニュースもまた、よくある『想定外』の一つだ。むしろこうしたニュースをあたかも前以て打ち合わせていたかのように読み上げる。それが一番カッコいい(・・・・・)アナウンサーの姿だ。

 早苗はスタッフから原稿を受け取り、ざっと目を通す。臨時ニュース時は、原稿を書くスタッフだって慌てている。誤字や脱字、変な言い回しが含まれている、同じ言葉が二回入っている……どれもよくある間違いだ。そうしたものを頭の中で組み替えようとする。

「……は?」

 その最中に、早苗は声を漏らした。今まで動かさなかった眉を顰め、この原稿と関係ありそうなスタッフ達を見遣る。

 誰もが苦笑いをしたり、困惑した様子だった。

 イタズラの類いではない。いや、生放送のニュース番組でイタズラなどするものか。ドッキリだとしても、そういうのは事前の打ち合わせがある。それがなかったのだから、これは『本物』のニュースだ。

 だが、だとしても、これは――――

「間もなく始まります。五、四、三……」

 戸惑う早苗だったが、問い詰める時間はなかった。残り二秒の間に引き攣っていた顔を真剣なものに変える。この臨時ニュースに相応しいのは、笑顔ではなく真面目な表情だと即座に判断した。

 無言の二秒が過ぎると、撮影機材の奥にあるモニターにテロップが表示され、早苗の顔が映し出される。生放送が始まった。

「おはようございます。今朝のニュースをいち早く、新年最初の朝イチチェックの時間です。それでは今年最初のニュースは……」

 朝の挨拶、番組コンセプト、番組名……何時も語っている文章を淡々と言い終えた早苗は、口籠もる。

 本当にこれを読んで良いのか。

 一瞬の躊躇いがあった。しかしほんの一瞬だ。仮にこれがイタズラの類いだとしても、責められるのは自分ではなく、原稿を用意したスタッフである。自分は何も悪くない。

 何より『本当』ならば、伝えない訳にはいかない大ニュースである。

「富士山で起きた、異変についてです」

 早苗は、臆さず原稿に書かれている内容を読み上げた。

「本日午前六時五十分頃、富士山で大規模な噴火が発生しました。噴煙は推定で高さ六百メートルほどまで上がり、今も噴火は続いている模様です」

 早苗がある程度読み上げると、撮影機材の奥にあるモニターの画面が切り替わる。噴煙を上げる火山の映像だ。画面の右端に「LIVE」の文字があるため、なんらかの方法で現地の映像を届けているのだろう。

「未だ政府からの発表はなく、詳しい噴火の規模や被害状況は不明です。番組中に新情報が入り次第、速報としてお伝えしていきたいと思います」

 原稿に書かれているのは、たったこれだけ。生放送の十分前に起きた事なのだ。確実な情報なんて『富士山が噴火した』ぐらいなものである。

 しかし富士山から初日の出を拝むというのは、昔からテレビでやっていた事だ。この報道局でも、何人かスタッフを派遣していてもおかしくない。そうしたメンバーから詳細は聞けないのだろうか。聞けないのだとすると、もしかするとメンバーと連絡が取れないのか。それはつまり……

 脳裏を過ぎる不穏な可能性。早苗の知り合いの中に、富士山に登ると語っていた者はいない。しかし語らなかっただけかも知れない。そう思うと無性に気になり、無意識にモニターをちらりと見た。

 途端、早苗はその目を大きく見開く事となる。

 遠目に見ているモニターだが、それでもハッキリと確認出来る。富士山から噴き上がる黒煙……その中で、巨大な影(・・・・)が蠢いていた。

 正確なサイズなど分からない。だが黒煙の大きさと比較するに、恐らく数百メートルはあるだろう。巨大な岩盤が火山の勢いで押し出されたのか? 一瞬そう思うが、しかし影の動きは明らかに岩盤では出来ない『細かさ』があったように感じる。

 なんだ今のは――――確かめようとしてモニターを凝視する早苗だったが、映像はパッと切り替わる。映し出されたのは、スタジオに居る自分の間抜け面だった。

 我に返り前を見れば、カンペを出しているスタッフが『次のニュース』と指示を出していた。富士山噴火に関する情報はこれだけだから新情報が出るまで他のニュースをやれ、という事だ。

 それは正しい判断に思える。ほんの一瞬、モニターに僅かながら映し出された『影』に気付いていなければ。

 早苗はあくまでアナウンサーだ。原稿を読み上げ、情報を視聴者に届ける。番組内容の構成はディレクター達スタッフの領分であり、自分が口出しするところではない。

 その上で一報道関係者として思う。

 あの映像の先にあるものは『特ダネ』であると。

「ごめんなさい、富士山の映像をもう一度映して!」

 早苗はハッキリとした声で、スタッフ達に頼んだ。

 生放送中の、予定にない発言。スタッフ達も戸惑い、責任者であるディレクターの顔色を窺う。ディレクターは一瞬渋い顔をしたが、生放送での発言だけに無視も出来ないと思ったのか。小声で隣のスタッフに指示を出し、すぐにモニターの映像がスタジオから富士山の様子へと切り替わる。

 スタッフ達全員が呆けた顔となるのに、それから数秒と掛からなかった。

 噴き上がる黒煙、それと共に飛び散るマグマや岩石。破滅的な光景は、しかし『それ』と比べれば遙かに地味な代物だ。

 黒煙を切り裂くように現れる、赤色の甲殻。

 背中にマグマを乗せながら、されど『それ』は平然としていた。前に付いている二本の巨大なハサミが大地を掴み、圧倒的な巨体を動かす。胴体の下には他に何本もの足が生え、忙しなく動いていた。

 『それ』の頭には四本の触覚が生え、子供の目のようにあちらこちらへと向けられる。頭に嵌まった二つの目は複眼か。平べったい身体はザリガニやイセエビに似ているが、背中に生えている背ビレ状の突起がそれらとは違う凶悪さを見せ付ける。

 ハッキリ言えば、巨大なエビ。

 爆発的噴火を起こしている富士山の中から現れたのは、そんな巨大エビだった。

「皆様、ご覧ください! 富士山の火口から何か、エビのようなものが現れました!」

 誰よりも早くその姿を理解した早苗は、大きな声で目の前の情報を語る。

「正確な大きさは不明ですが、数百メートルはあるでしょうか? これはSF映画のプロモーションビデオではありません! 現実に起きている光景です!」

 興奮混じりの声で早苗は喋り続ける。止める者はいない。いや、止められてもきっと止まらない。

 溜まらなく不安だった。

 早苗は生物学に詳しくない。エビの種類なんて好物である甘エビとクルマエビぐらいしか知らない程度だ。だが、あのエビが異常な存在なのは誰に教わらずとも分かる。マグマが身体に付いているのに平然としてるなんて、普通の生物じゃない。

 アレは一体なんなのか。どうして富士山から現れたのか。何故今現れたのか。

 これから、何が起きようとしているのか。

「巨大なエビが山を下り始めました! 何処へ向かっているのでしょうか? このカメラがあるのは、山梨県側との事です。これが現在の富士山です! これが、これが――――」

 今にも胸を破裂させそうな不安を誤魔化すように、早苗は番組が終わるまで話し続けるのだった。




個人的に、怪獣のニュース報道シーンって好きです。
日常が非日常に侵食されている感じがあって。


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足立哲也の恐怖

 哲也は幼少期、特撮番組に出てくる防衛軍に憧れていた。

 同年代の子がヒーローに憧れ、ヒーローの人形を買ってもらう中、哲也は一人防衛軍の乗る戦闘機や戦車ばかり買ってもらっていた。勿論ヒーローも好きだが、それ以上に防衛軍が好きだった。

 或いは、ヒーローが好きになりきれなかった、と言うべきかも知れない。

 ヒーローは強い。どんな怪獣や怪人相手でも臆さず、そして必ず倒す。大人になった今では必ずしもそうとは限らないお話も知っているが、少なくとも幼少期の哲也にとってヒーローとはそんな存在だった。

 対して防衛軍は、ヒーローと比べるとかなり弱い。全くダメージを与えられない事もよくある。だけど彼等は決して怯まない。やられたら自分が死んでしまうかも知れないのに、それでも彼等は戦う。戦う力を持たぬ人々を助けるために。

 必ず勝てるヒーロー。そうとは限らない防衛軍。

 勝てる勝負ばかりするヒーロー。例え勝てなくても信念で悪に挑む防衛軍。

 より勇敢でカッコいいなのは、きっと後者の方だ――――哲也は幼い頃からそう感じていた。そんな大人になりたいと幼子の頃から思っていた。だから彼は抱いた夢を叶えるために努力し……そして自衛官となった。

 無論、だから怪獣と戦いたいなんて考えた事は、幼少期を除けば一度もない。勝てる勝てないに関係なく、戦いが起きるという事は悲しむ誰かがいるのだ。なら、戦いなんて起きない方が良いに決まっている。大体怪獣との戦いなんてある訳がないのだから、望んだところで叶わないもの。叶わぬ夢を見るのは子供まで。大人は現実を見て、子供達を守らねばならない。

 この日までは、そう信じていた。

「……まさか本当にこんな日が来るとはな。イメージトレーニングをしておくべきだったか」

 哲也はぽつりと、独りごちた。

 哲也は今、自衛隊が誇る最新鋭の戦車・一〇式戦車に乗っている。彼は砲手であり、目標に砲弾をお見舞いするのが役目だ。

 砲手はその立ち位置の都合、照準越しの視界しかない。しかし事前に聞かされた作戦の情報と併せて考えれば、今、自分の乗る戦車が何処を走っているかは分かる。

 戦車が走るのは、深い森の中。自殺の名所として有名な青木ヶ原樹海だ。葉が落ちている木々は朝日を遮る事もなく、お陰で森の中はかなり明るい。しかしながら大地に張られた無数の根は真冬でも健在。如何に悪路を走破する事に適した戦車とはいえ、木の根を踏み越えながら進むのは中々大変である。無論早々簡単に壊れるものではないが、万一にでも肝心な時に動かないなんて事になっては大変だ。だからこそこの戦車はそこそこの、安全運転で走っている。

 とはいえ、のんびりしていられる状況でもないのだが。

「足立、私語は慎め」

「はっ。申し訳ありません」

 この戦車の人員を統括する車長に注意され、哲也は任務中の私語を反省。謝罪する。

「……まぁ、気持ちは分かるがな」

 すると車長は少し笑ったような口調で、哲也の気持ちに同意した。口には出していないが、戦車を動かしている操縦手も同じ気持ちだろう。

 よもや自分達が『怪獣退治』に出向くなんて。

 哲也達は今、富士山から現れた巨大生物の下へと向かっている。目的は勿論、巨大生物の撃破……ではなく、巨大生物が動き出した時、市街地に向かうのを阻むため。殺傷までいかずとも動きを止める、或いは巨大生物が富士山火口内に戻れば作戦成功だ。勿論殺してしまっても ― 世論のバッシングは別にして ― お咎めなしとは事前に上から言われている。

 政府から正式な命令が下されており、現在二十両の戦車が『足止め作戦』のため巨大生物の下へと集結している。既に機動力に優れる戦闘ヘリが巨大生物の周囲を警戒している筈だ。航空機も近くの基地でスクランブルを維持しており、『万が一』の時は直ちに援護に迎える体制にある。

 自衛隊の戦力が集結しつつある。

 しかしこの行動を起こせたのは、件の巨大生物が出現してから十九時間も経ってからだったが。

 自衛隊嫌いの野党がかなりの猛反発を示したらしい。「自衛隊の火器で巨大生物を刺激する方が危険だ」と。しかしながら推定三百メートルを超える生物相手に、警察や猟友会が立ち向かえるかという与党側の質問に肯定出来る訳もなし。なのに反対だけは続けたというのだから筋金入りだ。

 与党内部でも反対意見があり、そうした意見を纏めるのに時間が掛かり……自衛隊が動けたのは翌日の深夜だった。

「全く、今回の相手が巨大怪獣で良かったな。外国相手だったら、今頃上陸どころか都市部に前線基地が建てられてるぞ」

「……車長。あまり不用意な発言は」

「おっと、そうだな。今のは忘れてくれ」

 操縦手から窘められ、車長は軽い口調で謝罪する。哲也の上官である車長は、他の上官と比べ少しおちゃらけて見える。平時はその気さくさが心地良いが、今のような非常時には少し軽薄に見えてしまう。

 とはいえ本当に気を引き締めねばならない時は、車長がとても頼りになる事を達也は知っている。操縦手も同じ筈だ。

「さて、そろそろ見えてくる頃だが……っ、見えたな」

 外の様子を警戒していた車長が、『目標』の発見を伝える。

 巨大生物。

 告げられたその存在に、哲也は思わず息を飲んだ。事前の作戦で聞かされていた内容曰く、体長三百五十メートル近くある巨大な甲殻類……もっと言うならエビだ。本当に甲殻類の一種なのかは分からないが、その身体は立派な甲殻で覆われているという。どの程度の強度があるかは分からないが、果たして戦車砲が通じるのか、もし倒せなければ市街地の国民は……

 不安を振り払うように、哲也は首を左右に振った。特撮映画やSF小説ではなく、これは現実だ。戦車の徹甲弾はビルをも容易く貫通し、戦闘機のミサイルは爆風と高熱で敵を粉砕する。確かに三百五十メートルの巨体からすれば百二十ミリの徹甲弾でも針みたいなものだが、その針は深々と身体に突き刺さる危険な代物なのだ。目や肺を狙えば、当然致命傷を与えられる。

 それに、そもそも戦う必要すらないかも知れない。

 巨大生物は富士山火口から這い出した後、五合目付近で静止している。それもまるで倒れるように横になったまま。そこまで移動したのは出現から僅か十数分足らず。つまり政治家がぐだぐだと時間を潰し、ようやく出動した自衛隊が富士山の麓近くに辿り着くまでの丸一日近い間、巨大生物は全く動いていないのである。

 もしかすると死んでいるのかも知れない。生物学にはあまり明るくない哲也であるが、それは大いにあり得ると考える。なんらかの突然変異で生まれ、ここまで奇跡的に大きくなれたが、やはり無理な身体の大きさに耐えられず、此処で死んだ……些か拍子抜けする展開ではあるが、穏便に事が済むならそれに越した事はない。

「照準用意。射撃は待て」

 車長の指示を受け、哲也は戦車の照準を合わせる。現代の戦車はハイテクだ。タッチパネルなど多様な電子機器を用い、目標に狙いを付ける。電子妨害などを行われない限り、時速七十キロで走りながらでもほぼ百パーセント目標に命中させる事が可能だ。ましてや体長三百五十メートルの制止目標ともなれば、これはもう外す方が難しい。

 動かした照準の先に、赤い甲殻を纏った生物が見える。確かにエビだ。エビ以外の何物でもない。されど辺りに転がる大岩が砂粒に見えるほどの巨体は、間違いなく脅威だ。さっさとこの場から退かすべきであろう。

 しかしながら撃つ事は出来ない。自衛隊嫌いの野党議員ではないが、不用意な攻撃が巨大生物を刺激し、活性化させる可能性はあるのだ。慎重な対応が求められる。

 何分も、何十分も、何時間も……哲也達の乗る戦車は動かない巨大生物を見張る。集結した他の戦車も同様だ。勿論ローテーションで休憩を挟み、コンディションは万全に整えているが、何時までやれば良いのか分からない待機ほど辛いものもない。

 ついには夜が明け、一月三日になってしまう。

「……やっぱり、死んでるんじゃないっすかねぇ」

「かもなぁ」

 休憩中の哲也の言葉に、車長は同意の言葉を返した。

「一応明日には専門家チームが巨大生物に接近し、生命活動の有無を調べるそうだ」

「やっとですか」

「何分正月の真っ只中だからな。政治家の先生達も休みたいんだろ」

「発言を政治に向けるのは止めましょうよ」

「自衛官とて国民なんだから、政治に一言ぐらい言わせてほしいものだがね」

 他愛ない話を交わしながら、哲也はレーションをぱくりと口に放り込む。自分の休憩はこれで終わりだ。次は操縦手の番である。

「良し、足立は休憩終わり。新田、休憩入れ」

「了解」

 車長の指示を受け、操縦手こと新田が戦車から出ようと、ハッチから顔を出した。

 その時だった。

【ギギギギギギギギギギギイイイイイイイイイイイイイイイィィィィィィ】

 錆び付いた扉をこじ開けるような、歪な音が辺りに響いたのは。

 新田も哲也も固まってしまう。が、顔は自然と戦車の砲塔が向いている先……富士山へと向けられた。何故か? 答えは明白だ。あんな音を鳴らす心当たりなんて、哲也には一つしかない。

 富士山五合目付近には、今も巨大生物が居る。

 しかしその身はもう倒れ伏し手などいない。上体を力強く起こし、触覚を忙しなく動かしている。複眼で出来た目玉をキョロキョロと動かし、頭を左右に振っていた。

 そして前足に付いている二本のハサミを持ち上げ、残りの足で大地を蹴る。

 当然ながらかの巨体は、前へと進み始めた。

「総員配置に付け!」

 車長の怒声にも似た声で我に返り、哲也と新田は車両の中へと戻る。戦車の射撃システムは正確に巨大生物を捉えたまま。ボタン一つで敵戦車をも撃破する砲弾をお見舞い出来る。

「まだ撃つな。指示を待て」

 ただしそれは、交戦の許可が下りてからだ。

 しかし哲也は左程不安に思わなかった。これが外国の軍隊やテロリスト相手なら、反自衛隊の人々が話し合いを求めて混迷もしただろう。されど此度の相手は未知の『害獣』。今正に町へと向かおうとしている化け物相手に話し合いなど、通じる訳がない。加えて言えば、灼熱の噴煙に襲われた富士山で生きた人間が歩いている事もない。

 許可が出ない筈もなかった。

「交戦許可確認! 射撃開始!」

 車長の命令を受け、哲也は射撃を開始する。やる事は至ってシンプル。タッチパネルをポチッと指先で押せば良い。

 それだけで、一〇式戦車の百二十ミリ滑腔砲は火を噴くのだ。

 車体の揺れで感じる、射撃の手応え。それだけでなく、照準越しの景色には哲也が乗る戦車が放ったもの以外の砲弾も残像の形で映す。

 青木ヶ原樹海に集結した戦車は二十両。全てが最新鋭の一〇式戦車という訳ではないが、旧式でも性能的にそこまで見劣りするものではない。単純な火力に関しては、ほぼ同等だ。更には展開している戦闘ヘリも機銃を撃ち込み始めた。

 相手は巨大だ。一斉に攻撃を仕掛け、可能な限り火力を集中させねば倒せないだろう。しかし徹甲弾は戦車の装甲をぶち抜き、戦闘ヘリの機銃だって鋼鉄ぐらいは貫通する。体格差故に即死はないまでも、巨大生物は顔面に撃ち込まれた砲撃の痛みで身を仰け反らせる

 そうに違いないと確信していたのに。

「……!?」

 哲也は声にならない呻きを漏らした。

 巨大生物は、前進を続けている。

 砲撃は巨大生物の顔に集中している。どんな生物であれ、頭部が弱点である事に変わりはない筈だからだ。なのに巨大生物は意に介した様子もなく、淡々と進んでいた。

 死なないのは百歩譲って良しとしよう。だが動きが止まらない、つまり攻撃が効いていないのは明らかにおかしい。痛みを堪えて無理矢理進んでいる? そんな希望を抱いたが、進行スピードが速まる事もないという事実が現実を突き付ける。攻撃でダメージを受けているのなら、少しでも急いでこの場を抜けようとする筈だ。変化がないという事は何も(・・)感じていない(・・・・・・)という証拠である。

 生物が、ミサイルや砲撃の直撃に耐えられる筈がない。ましてや痛みすら感じないなど、どう考えてもおかしい。

 こいつは、本当に生物なのか?

「足立! 砲撃の手を緩めるな!」

 恐怖に満たされ始めた哲也を正気に戻したのは、車長の檄だった。手の動きが遅くなっていたのだと、今になって気付く。

 そうだ。怯んでいる暇なんてないし、ましてや慄くなんてあり得ない。

 自分達が戦わねば、この巨大生物は自由に全てを蹂躙していく。富士山を下り、麓の樹海を抜けたなら、奴が辿り着く場所は一ヶ所のみ。

 市街地だ。

 巨大生物が出現してから、近隣の町には厳戒態勢が敷かれている。巨大生物が動き出した事で避難指示に変わり、避難は始まっている筈だが……相手は兎に角巨大だ。アリが全力疾走しても人間の徒歩には追い付けないように、巨大生物の歩みは人間と比べ遙かに速い筈。全員の避難が間に合うとは限らない。仮に避難が終わっていても、壊された家や、そこでの思い出は壊されてしまう。

 そんな事は許さない。此処であの生物を倒さねばならない。

 哲也は照準を覗き、巨大生物の頭を、特に目玉を正確に狙う。目はどんな生物であろうと左程頑丈ではない筈。仮に内部まで到達出来なくても、目を潰せば活動を停滞させられる……哲也はそう考えた。他の戦車の砲手も同じ考えなのだろう。砲弾は次々巨大生物の眼球付近を直撃する。

 だが、人間達の努力を巨大生物は嘲笑う。

 何十発、何百発喰らおうと、巨大生物の歩みが止まる事はなかった。爆炎が晴れた時に見える頭には傷一つ付いていない。複眼はキョロキョロと激しく動き、なんら機能を失っていない事を物語る。

 ついに巨大生物は麓に達し、森の横断を始めた。頭部で起きる爆発の頻度が落ちてくる。空を飛ぶ都合身軽でないといけない戦闘機やヘリと比べれば遙かに潤沢とはいえ、戦車に積んである砲弾も無限ではない。この場に集結した戦車達の多くで残弾が尽き始めたのだ。

「……残弾なし!」

 哲也達の戦車もまた、間もなく弾が切れた。

 こうなれば、戦車といえども鉄の車でしかない。無論相手が人間なら、機銃を使ったり、車体そのもので轢き潰すなど手はあるが……体長三百五十メートルの怪物相手では、突撃したところで戦車の浪費にしかならない。それで勝てるなら挑む価値もあるだろうが、勝機は見えてこなかった。

「……了解。退却指示が出た、基地に戻れ」

「了解」

 帰投命令が出て、操縦手である新田が答える。哲也は照準から目を離さなかったが、車体が反転するのと共に巨大生物の姿が視界から外れた。

 もう、出来る事はない。

 自分がやれる事は全てやった。最善は尽くした。これで駄目なら、きっと何をしても駄目だったに違いない。哲也はそう思った。

 そう思わなければ、自分が何をしでかすか、分かったものじゃなかった……




人類の攻撃に対しきっちり反撃する怪獣は、人類への敵意剥き出しな感じが出ていて大好きです。
人類の攻撃を無視して突き進む怪獣は、超越的な存在っぽい感じが出ていて大好きです。


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加藤光彦の目撃

 加藤光彦という人間は、一言でいえば『どうしようもない』人物である。

 小学生の頃から担任にイタズラを仕掛けるなど、ルールから逸脱する事が多かった。成人してもその性格は直らず、むしろ悪友との閉じた関係の中でどんどん歪む始末。

 そして十年前恐喝と暴行事件を起こし、勘当される形で実家を追い出された。当時付き合っていた彼女とも別れた。だがそれでも光彦は己を戒めようとはしなかった。むしろ犯罪歴は悪友達の中では武功として扱われ、一層彼を調子付かせた。

 とはいえ犯罪を威張って暮らせるほど、日本社会も甘くはない。

 犯罪歴のある彼を雇用する場所はなく、彼は生活に困窮していた。やがて悪友を通じて知り合った犯罪組織に唆され、組織的犯罪に荷担するようになった。悪友達も流石に大部分は離れていったが、一部は一緒に堕ちてきたのであまり気にしなかった。

 しかし所詮は利用される側。賃金はかなり安く、それを何処かに訴える事も出来ない。傍から見ればただの自業自得なのだが、それを反省する事すらない有り様。そして先月、属していた犯罪組織が警察により一網打尽に。

 運良く逮捕される前に逃げたものの、安月給すらなくなった。それに指名手配こそされていないが、警察は逃げた『構成員』を探している筈である。バイトなんてしたら、身分証明書の提示やらなんやらで簡単に見付かってしまう。そもそも三十代でまともな職歴がない前科者を雇う場所などあるのか。とはいえ生きていくためには金が必要だ。どうにかして金を稼がねばならない。

 そんな彼にとって、避難指示により無人と化した市街地というのは宝の山でしかなく。

「へへへ……随分貯め込んでるじゃねぇか……」

 光彦は下品な笑いを漏らしながら、他人の家に置かれていた現金を自らの懐に締まっていた。

 巨大生物がやってくるという事で、皆慌てて避難したのだろう。玄関の戸締まりぐらいはしていたが、失念しがちな勝手口や窓など、何処かしら開いている家がかなり多かった。光彦はそうした家に忍び込み、現金を漁っている。宝石などの貴金属は足が付くので狙わない。狙わずとも、財布などを残している場合が多いので『収穫』は大きかった。

 物音を警戒する必要もない。通報する人間なんていないし、居たところで警察官もみんな逃げているのだ。捕まる心配などない。正にやりたい放題。のびのびと盗める。

 勿論避難指示が解除された後、警察が調べれば光彦が犯人だという物証がたくさん見付かるだろう……捜査したなら、ば。

 光彦が空き巣を行った家は、どれも巨大生物の進行ルート上であった。あれだけの大きさなのだ。歩くだけで家なんて虫けらのように踏み潰されるに決まっている。証拠なんて何も残らないし、現金がなくなった事に気付く奴もいない。

 この家も、そんな進行ルート上にあるものの一つだ。

「さぁて、次は和室へと行くかね」

 リビングを漁り終えた光彦は、次は和室へと向かう。仏壇などがあると良い。裏にへそくりでも隠しているかも知れないからだ。

 そんな事を期待しながら和室へと足を踏み入れたところ、部屋の真ん中に布で巻かれた何かが置かれていた。

 なんだろうか? 金目のものなら持って行こうかと考え、光彦は布を解いていく。

 中から出てきたのは、すやすやと寝ている赤子だった。

 ぴきりと、光彦は固まる。ゆっくりと赤ん坊を床に置き直し、まじまじと観察。寝息を立てている辺り、人形ではない。弟妹がいた事のない光彦は赤ん坊なんてよく分からないが、生後数ヶ月も経っていないように見える。

 どう見ても、人間の赤ん坊だった。

「……………いやいやいやいや、ちょっと待て。いや、待って。うん」

 ひとしきり混乱してから、光彦は冷静に考える。

 何故赤子が此処に一人で居るのか?

 避難する際連れて行くのを忘れられた? 物じゃないのだ、そんな事ある訳ない。では親が外出中でこの子は留守番か? まだふにゃふにゃしか言えないような赤子を置いて外出なんてするものか。なら、親がなんらかの理由で死んでいる? 家の中に死体なんてなかった。

 考えられる理由はただ一つ。

 育児放棄だ。どんな親だったかは分からないが、子供を捨てたのだ。巨大生物に踏み潰されれば、全ての証拠を隠滅出来ると信じて。

「……どうすっかなぁ」

 光彦はしゃがみ込み、赤子をじっと眺める。

 ハッキリ言って、この赤子を助ける義理など光彦にはない。また、巨大生物が何もかも破壊する事で、光彦が赤子を見捨てた事実も葬り去られる。むしろ助けて注目を浴びる方が、犯罪者である光彦にとっては不利益だ。

 しかし彼の胸の奥底に渦巻く感情は、この場からそそくさと立ち去る事を良しとしない。なんというか、このまま立ち去ると延々思い出しそうな予感がする。

 悪人である光彦だが、本質的には小悪党なのだ。盗みや暴行はしても、殺人が出来るような度胸も狂気もない。人死に対する嫌悪感は、常人並とは言わないまでもさして逸脱していないのである。

「……まぁ、避難所ぐらいには連れてってやるか」

 なので光彦は、気軽にそんな決断を下した。

 育てる必要なんかない。後で避難所とかで誰かに押し付ければ良い。そうするだけで後ろ髪引かれる想いから逃れられるのなら安いものだ。

 光彦は赤子を抱き上げる。持ち上げられた瞬間赤子は顔を顰めたが、わんわんと泣き出す事もない。

 光彦は赤子と共に玄関へと向かい、堂々と外へと出る。外は一月らしい突き刺さるような寒さで、光彦はぶるりと身体を震わせ、赤子もくしゃっと顔を歪ませた。

「さて、避難所は何処かしらっと」

 スマホで場所を調べられるだろうか。光彦は懐からスマホを取り出そうとして

 ズズンッ、と身体に響くような音を聞いた。

「……おいおいマジかよ、ちょっとゆっくりし過ぎたか?」

 光彦は悪態を吐きながら、玄関から離れ、見渡しの良い市道まで出る。

 音が聞こえた方を見れば、そこに『山』があった。

 あっちの方角に山なんてあったか? 答えはNOだ。光彦は、これでもこの辺りに住んで数年は経つ。その光彦の記憶にないのだから、今見ている方角に山なんてない。

 大体、山はゆらゆらと揺れ動いたりしないだろう。

 山だと思っていたものが富士山から現れた巨大生物だと理解するのに、左程長い時間は必要なかった。

「ちょ、おいおいおい!? なんでこっちに来てる……そりゃ来るよな此処進行ルート上だもんなぁ!?」

 自分で自分の疑問にツッコミを入れるが、遊んでいる暇などない。

 巨大生物は猛然と光彦の居る場所に向かっていた。目指している訳ではなく、あくまで通過地点だろうが、踏み潰されればそれでおしまいだ。

 いや、それより前に終わりは来るかも知れない。

 巨大生物が進む度に、その周囲で様々なものが飛び交っているからだ。小石のように舞うアスファルト舗装の道路、蹴飛ばされて何百メートルと飛ぶ自動車、爆破されたかのような勢いで飛び散る家々……どれかに当たればそれだけで致命的である。

 そして今し方飛んできたトラックが、先程まで光彦の居た家に突き刺さった。

「――――う、うおああああああっ!?」

 悲鳴を上げながら、光彦は走り出した。

 避難所の場所? そんなものは後だ。今は少しでも、あの巨大生物から離れなければならない。

 光彦はがむしゃらに駆けた。巨大生物の進行方向から見て右へと曲がり、小高い山を目指す。時折飛んできた車や家が民家を粉砕し、飛び散る瓦礫が自分に襲い掛かる。

 そうして逃げている最中において、胸の中の赤子はえらく邪魔だ。

 邪魔だから、光彦はぎゅっと抱え込んだ。そうした方が持ちやすくて、落とさないで済みそうだから。

 助けてやる義理はない。しかし拾った手前、もしもうっかり落としたら……きっと自分は足を止めてしまうだろう。

「っだぁ! 畜生っ! あんな家入るんじゃなかった!」

 叫びながら、必死に光彦は走り続けるのだった。

 ……………

 ………

 …

「も、む、りだぁ……!」

 ギブアップを宣言しながら光彦は芝生の上に倒れ込む。抱えていた赤子は放り投げ、ころんころんと転がった。

 どうにか光彦は目指していた小高い丘に生きて辿り着けた。息も絶え絶え、四肢は痺れてもう動かせない。それでももぞもぞとイモムシのように身体を捻り、どうにかこうにか仰向けになって町の方を見遣る。

 そうすれば悠々と町中を歩いている巨大生物の姿が見えた。

 遠目から見たその動きはとても緩慢だったが、実態は途方もない速さである事を光彦は身を以て経験した。計算をすると頭が痛くなるのでやらないが、恐らく車が走るぐらいの速さがある。しかも相手は信号なんて無視するし、あまりに大きいから曲がり角も建物も全部乗り越えて進んでくるのだ。時速百キロで市街地を爆走しても、逃げきれないかも知れない。

 巨大生物は次々と家を踏み潰し、淡々と直進する。大きな ― 恐らく二十階建てぐらいの ― マンションを前にした時は少しだけ足を止めたが、すぐに前進。ちょっと触れただけでマンションが積み木のように崩れるのを確かめたら、もう気にせず突進していった。

 しばらく見ていると、何処からかヘリが飛んできた。そして白い煙を放ち……いや、ミサイルを撃ち込む。自衛隊が市街地で攻撃して良いのか? 疑問に思う光彦だったが、答えはすぐに分かった。

 巨大生物の行く先に、小学校があるのだ。

 小学校というのは、震災時の避難場所としてよく選ばれる。まさか進路上の建物を避難場所になんて……と思いたいが、最寄りの避難所に行こうと考え立ち寄る輩が多くても不思議はない。スマホなどに疎い老人や中年女性、彼等に連れられた幼子達は特に。そして恐らく彼等に正しい避難場所を教える者は、進路上の学校にはいなかっただろう。

 ヘリコプターは続々と集まり攻撃していくが、巨大生物は止まらない。人間の努力も虚しく小学校に巨大な身体が押し入り、校舎を粉砕した。校庭をずかずかと節足で突き刺し、左右に降られた尾が体育館を薙ぎ払う。

 もしもあの場に人間が居たなら、きっと一人も生き残っていないだろう。老いも若いも、男も女も関係なく。

「……全く、真面目な奴が馬鹿を見るってか」

 泥棒をしていて難を逃れた光彦は、ぽりぽりと頭を掻く。息が整い、気持ちも落ち着いてきた。

 余裕が出てきた光彦は、何気なく自分が放り投げた赤子に目を向ける。するとどうだ、赤子はすやすやと寝ているではないか。

 内心イラッとしたが、赤子に文句を言っても仕方ない。「大物になりそうだな」という感想だけをぽつりと呟く。

 そんな呟きをしたからか、ふと考えてしまう。

 小学校を踏み潰してもなお、巨大生物は平然と歩いている。ヘリコプターの攻撃は一層苛烈になるが、まるで効いていない様子だ。

 軍事はあまりよく知らないが、ミサイルより強いものなんて自衛隊は持っているのか? 持っていても、あの様子ではちょっと強いぐらいでは同じ結果しかもたらさないだろう。つまり自衛隊では、あの化け物は倒せない。

 どうしてあんな巨大な生き物が現れたのか。もしかすると、これから日本はずっとあんな生き物に踏み潰されるのだろうか。一生懸命働いて建てた家を蹴散らされ、ちょっと判断を間違えただけで踏み潰され、どんなに努力しても何も変えられない日々が始まるのか。

 このガキが大きくなった時、世界はどんな風になっているのだろう。

 ……一瞬考えるだけで頭が痛くなり、どうしようもなく暗い気持ちが満ちていく。柄にもない事をした自分ですらこんな有り様だ。もしも真っ当な親なら、この何倍も強く、長く、深刻に考えるのだろう。

 自分には耐えられそうにない。

「結婚してなくて、良かったなぁ」

 ぽつりと、光彦はそんな言葉を漏らすのだった。




小悪党って割と好きです。

次回は来週月曜日投稿予定


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緒方早苗の放送

 死者三千人以上。

 行方不明者一万人以上。

 自衛隊が攻撃を仕掛けるも効果なし。

 たった三時間で静岡県を横断し、太平洋側の海へと姿を消す。

「これが、一月一日から一月三日までに起きた巨大生物による被害状況と経緯です」

 カンペに書かれていた情報を読み上げ、纏め終えた早苗は、視聴者に気付かれないよう小さく息を吐いた。

 夕方の生放送番組。早苗が司会を担当している番組の一つが、今収録されている。今日は一月四日を迎え、三が日ほど視聴者はいないだろうが、それでも大勢の人々の目がこの瞬間向けられている筈だ。スタジオに居るのはゲストとして招かれた学者が一人。六十代の男性で、真剣な面持ちをしている。

 早苗も強張った表情を浮かべていたが、これは演技などではない。割と素の表情だ。男性の方も恐らく同じだろう。

 正直なところ、ここまで酷い事になるなんて早苗は思っていなかった。

 元日の番組で巨大生物について取り上げた時、勿論驚きはしたし、あの巨体が暴れる事の恐ろしさは考えた。しかしながら相手は生物。ましてやエビだ。大きさが大きさだけに猟銃や拳銃は流石に効かないとしても、自衛隊のミサイルなんかで簡単に倒せると思っていた。

 結果は、大惨敗だ。

 自衛隊は巨大生物の足止めどころか、その歩みを鈍らせる事すら出来ていなかった。もしも巨大生物の移動速度を半分ほどまで落とせたなら、死者と行方不明者の数は激減したに違いない。口には決して出さないが、今行方不明者として扱われている者は恐らく大半は死んでいると早苗は考える。最終的な死者は一万人を超えるだろう。

 何より恐ろしいのは、巨大生物は海に姿を消した点だ。

 つまり、まだ生きているという事。何処かの町に再上陸する可能性は、既にネット上では盛んに議論が交わされている。悪質なデマも飛び交い、それによる事件も発生しているという。

 報道番組としては、視聴者に『正しい』情報を可能な限り多く伝えなければならない。

 そのために番組に招いた専門家が、ゲストの男性なのだが――――

「本日は那由多大学より、生物学教授の澤口先生をゲストとして迎えています。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「早速ですが、今回出現した巨大生物とは、一体なんだったのでしょうか?」

「……ハッキリと申しますが、分かりません」

 早苗の問いに、専門家である澤口は顰め面を浮かべながら答えた。

 基本的に、どんな番組でも事前の打ち合わせというのを行う。どれだけの時間を確保しているとか、どんな質問をするのかとか、知らなければスムーズに話を進められないからだ。

 澤口の回答は打ち合わせ通りのもの。早苗は少し困惑したような表情を作り、事前に決めていた言葉で澤口に話の続きを促す。

「それは、あの巨大生物があまりにも既知の生物とは異なるから、でしょうか?」

「はい。確かに人類が知る生物の中には、人間から見ればあまりにも過酷な環境で生きている種もいます。ですがどの生物にも一つ、超えられない壁があるのです」

「超えられない壁?」

「水です。どの生物も、なんらかの形で液体の水が確保出来る環境に生息しています。これを地球外にまで広められるかは議論の余地がありますが、少なくとも地球生命に関して言えば、生存には液体の水が必要なのです。マグマ内部には液体の水はないため、生物の生息には適さないと考えられます。もし生息しているとしたら、既知の生物とは全く異なる生理学を有している可能性が高い。そのためマグマから出てくる生物がどんな存在なのかという疑問に、現代の生物学では想定はおろか推測も出せないのです」

「クマムシなど、一部の生物は宇宙空間でも生きられる、という話もあります。そうした生物との共通点もないのでしょうか?」

「恐らくないでしょう。クマムシなどは、ある特殊な体質に変化する事で、厳しい環境をやり過ごしています。ですがこの状態は生命活動がほぼ停止しています。彼等は宇宙空間で繁殖はしませんし、成長もしない。暮らしやすい環境が戻ってくるのを待っているだけなのです。クマムシから巨大生物の生態を推測するのは、素潜りが出来る人間から一生水中で暮らす魚の生態を推測するのと、同じようなものであると私は考えます」

 澤口の話に、成程、と早苗は相槌を打つ。少々難しい話だ。日本人の理科離れが叫ばれる昨今、更に言えばこの番組の視聴者の多くは高齢者である事を考えると、この話にどれだけの視聴者が付いてきているのだろうか。小難しい話はあまり好ましくない……勿論簡単にし過ぎて意味が変わってしまっては元も子もないので、中々難しい事ではあるが。

「では、そもそもの疑問なのですが、何故生命には水が必要なのでしょうか?」

「端的に言えば、栄養や老廃物を運ぶためです。生命が生きていくためには、身体の隅々に栄養を届け、老廃物を回収して排泄する必要があります。気体では物質を運ぶのにかなりの圧が必要ですし、固体だと血管などで詰まりがちになる。液体にはこうした問題がなく、スムーズに生命活動を行えるのです」

「では、液体ならばなんでも良いのでは? 水にこだわる必要はあるのでしょうか」

「理論上はありません。だからこそ、地球外生命体に水は必要か、という事が議論になります。ただ、私個人の意見では、やはり水は必須と思われます」

「それは何故?」

「実は水というのは有り触れたものでありながら、極めて特殊な物質でして。タンパク質を変性させない温度で液体であり、その状態が百度という広い範囲で保たれている、というのは、実はとても珍しい事なのです。他にも様々な物質を溶かす、極めて軽量、軽い元素で出来ているため殆ど崩壊しない……利点は挙げきれません。少なくとも今の人類は、水の代用品を見付けられていませんし、恐らく今後も発見出来ないでしょう」

 言いたい事をひとしきり語り、澤口は満足したのだろう。集音マイクでも拾えない、早苗にしか聞こえないような小さな鼻息を吐く。

 ディレクターが少し顔を顰めている事には、恐らく澤口は気付いていないだろう。メインの視聴者(高齢者)は今頃テレビの前でぽかんとしているに違いない。ここまでの話は、生物学に明るくないものには少々小難しい話だった筈だ。クレーム……は来ないにしても、情報番組として首を傾げられては今後に関わる。

「成程。やはり生物には水が必要であるという事ですね……そうなると、ますますあの生物の異常性が際立ちます。マグマの中に、水はないですから」

 早苗はどうにか短い言葉で纏め、視聴者に分かりやすく伝えようとした。そろそろ別の専門家のインタビューと巨大生物の解説映像を流す時間でもある。一度話を切ろうと考えた

「とはいえ、あの生物の事を予言していた人もいたみたいですが」

 丁度そんな時に、澤口はぼそりと答えた。

 ――――現場のスタッフが、一斉に凍り付いた。

 早苗も同じだ。先程の澤口の発言は、事前の打ち合わせにはなかったもの。隠していた、という可能性は低いだろう。恐らく今になって思い出したか、はたまた大した情報ではないと思ったのか。いずれにせよ、まるで子供のように惚けた面をしている澤口に自分の言葉の重みは分かっていない。

 だが、これはあまりにも重大な話だ。

 ちらりと早苗はスタッフ達の方を見遣る。と、ディレクターがスタッフからカンペを奪い取り、素早く書き込んで、早苗に見せてきた。

 曰く『もっとつっこめ』。

 詳細を聞き出せという指示だった。

「……すみません。予言していた人がいたのですか?」

「ん? ええ、まぁ。昔読んだ論文でして。あの時は突拍子もない説だとは思いましたし、最近まで当時はあの人も若かったのだなと言われていましたが、こうして現実になるとあの論文は正しかったのかと」

「その論文を読んだのは、何時の事でしょうか?」

「三年か四年前ですね」

 ごくりと、早苗は息を飲む。

 三年以上前に巨大生物の存在を予言していた?

 そんな話、番組スタッフはおろかネット上でも見た覚えがない。澤口が知っていたので生物学の関係者では有名な話かも知れないが、恐らく日本の、いや世界の報道番組としては初めて取り上げる話の筈だ。

「論文の詳細は分かりますか?」

「うーん、お話するにはちょっと。流石に三年前に流し読みした程度ですから……でも書いた人の名前は覚えています。今、彼女の事を知らない海洋学者はいませんよ」

「彼女?」

 論文を書いたのは女性なのか。それに三年前で「当時は若かった」と言われる辺り、あまり高齢の人物ではなさそうである。

 考えを巡らせる早苗だったが、澤口は特段思い詰めた様子もなかった。研究一筋で、世間に対する関心が薄いのか。もしくはテレビの影響力を甘く見ているのかも知れない。

「及川蘭子。海洋生物学の若き天才です」

 だからこそハッキリと、彼はその名を日本中に伝えるのだった。




正式な名前が付くまでの間は、
「巨大生物」みたいに事務的な感じで呼ぶのが好き


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及川蘭子の解説

 総理大臣官邸。

 日本の行政府である内閣の閣議が行われる場所である……と言われても、ピンとこない人も多いだろう。行政に関わるので無関係な訳はないのたが、大抵の人はそれを意識する事はない筈だ。

 蘭子もまた、産まれてこの方二十五年が経ったが、今日まで大勢の一般人と同じ立場だった。されど今日は違う。

 彼女は今、若い官僚に連れられ総理大臣官邸の中を歩いている。官僚の年頃は、三十代前後だろうか。恐らく年上で、彼の給料は自分の何倍もあるだろうと蘭子は予測した。尤も金など殆ど興味もないので、それを羨ましいとも思わないのだが。

「先生、こちらが会議室です」

「そう」

 やかて官僚はある扉の前で立ち止まり、蘭子に中へと入るよう促す。蘭子はぽつりと返事をして、それから一応身形を確かめる。襟が立っていたので、パッと直しておいた。

 とはいえ今更襟が立っているぐらい、些末なものだとは思うが。

 何しろ蘭子は作業着姿で、手拭いを首から掛けた、如何にも工事現場のおっさんのようなスタイルなのだ。蘭子は少々目元に深い隈がある以外大変な美人なのだが、その服装が全てを台なしにしている。ついでに言うと髪を掻くと少しフケが出る。何分この三日は風呂にも入っていないのだ。

 勿論やれと言われたなら、スーツにも着替えたし風呂にも入った。その程度の常識は蘭子にもある。しかしながら『職場』に官僚達が押し寄せ、あれよあれよで連れてこられたため着替える暇もなかった。割とこの格好は不可抗力である。

 などと愚痴ったところで、今更着替えさせてはくれないだろう。それだけ状況は逼迫している……それもまた蘭子は理解していた。

 扉を開け、蘭子は会議室の中へと入る。

 室内には、大勢の人々が居た。知らぬ顔の方が圧倒的に多いが、見知った顔もちらほら見付かる。とはいえ知り合いという訳ではない。

 蘭子とて社会人。テレビに出てくる大臣の顔ぐらいは覚えている。

 会議室に居た人々の視線が、一斉に蘭子へと集まる。結構な割合の人々から顔を顰めていた。この格好は不可抗力なのだからその反応は大変不愉快なのだが、逐一腹を立てるのも面倒である。蘭子は気にせず、会議室の奥へと向かった。

 そして部屋の一番奥に辿り着いた蘭子は、くるりと舞うように振り返る。見た目だけは美人。大臣の何人かが少し頬を緩ませた。緊張感のない連中だ、とも思う。

 蘭子は、好んで政治家と関わろうとは思わない。出世欲なんてないし、お金にも関心がない。

 しかし自分のした事の『責任』は取らねばならないだろう。例え自分の存在を世間に公表したのが、顔も知らないボケ老人だとしても。

「初めまして、及川蘭子と申します。職業は生物学者――――先日富士山から現れた生物について、三年前に予言していた者です」

 若気の至りで出した論文が、大勢の人々を惑わせているのだから。

 ……………

 ………

 …

「まずは誤解がないように言っておきますと、私は決して、あのような巨大生物の存在を予言した訳ではありません」

 蘭子が最初に切り出したのは、自身がこの場に招かれた理由の否定からだった。

 いきなりの前提が崩れ、会議室の中がざわめく。混乱するのは分かっていたが、認識は正しく持ってもらわねばならない。蘭子とてあの巨大生物については殆ど分からないのだ。下手な期待を抱かれても困る。

 無論このままでは「じゃあ帰れ」と言われるだろう。別にそれでも構わないが、何も話さずに帰るのも『知識人』としての癪に障る。

 満足はさせられないが、表立って不満は出せないぐらいには話すとしよう。その程度の『ネタ』はあるのだから。

「私が予言したのは、マグマ内部における生物の活動可能性……分かりやすく言えば、マグマの中に生物が棲んでいる可能性です」

「何が違うんだ? あの生物は、マグマの中から出てきたじゃないか」

「私が考えていたのは、もっと微細なものです。細菌類と思ってくださって構いません。多細胞生物、ましてやシロナガスクジラの十倍以上の巨大種なんて想定もしていませんでした」

 閣僚の誰かが言った疑問に、蘭子は即座に答えを返す。

 そう、蘭子が論文で発表したのは「マグマの中にも微生物はいるのでは?」程度のものだ。

「私の専門は海洋生物、取りわけ深海生物です。深海生物の中には熱水噴出口という、百度以上にもなる熱湯の近くで生活する生物がいます。そうした極限環境生物を研究する中で、ある特殊なタンパク質を発見しました。五百度もの高温に耐える、超耐熱性タンパク質です」

 通常、タンパク質は熱に弱い。大半のものは六十度ほどで変性し、元の機能を失ってしまう。一部では特殊な糖類などの作用でこれを防ぐものもいるが、それでも精々百数十度……というのがこれまでの常識だ。

 五年前、蘭子は学生の身分でありながら、この常識を打ち砕くタンパク質を発見したのである。尤も、このタンパク質は特殊な化学物質に浸した状態かつある程度の圧力がないとすぐ自壊する性質があり、産業的に活かすのが難しいため、あまり世間には認知されていないが。

「五百度という温度は、一千度を超えるマグマの中で暮らすには不十分なものでしょう。ですが生物というのは、時として自らの生活環境には不釣り合いなほど高性能な機能を持ちます。例えばネムリユスリカという昆虫が、高々数十日程度の乾期に耐えるために、宇宙空間から生還出来るほど強靱な耐性を手に入れているように」

「……五百度もの高温環境に適応した種が、更に劇的な耐性を持てば、マグマにも適応出来るかも知れない、という事か」

「はい。それが、私が出した論文の概要となります」

 話を終えた蘭子は、ふぅ、と小さな息を吐く。水を飲みたい気分だが手元にはない。口に溜まった唾を飲んで我慢する。

 説明を聞いた大臣達は、一層困惑した様子だった。答えが分かると思っていたのだとしたら、期待を裏切って申し訳ない……なんて露ほども感じないが。

 さぁてこのまま帰れたら良いかな……等と考えていると、一人の老人が手を上げる。

 彼の顔には見覚えがある。この国の総理大臣・水柴田(みずしばた)藤五郎(とうごろう)だ。

「……君が、巨大生物について詳細を知っている訳ではないというのは理解した。その上で、結果的にとはいえ予言に成功した先見性に期待して尋ねたい。あの生物はなんだ? どうしてこの国に現れた? そして、何処に消えた?」

 淡々とした、しかし力強い口調での質問。

 最初は適当にはぐらかそうとも思った蘭子だったが、どうにもこの御仁には通用しなさそうだと感じた。無論本当に何も分からないのならそう伝えるが……パッと考え付いてしまう程度には、蘭子は優秀だった。

「……あくまで根拠のない、推論と言うよりも妄想染みた話で良ければ」

「参考程度に留めておこう」

「では、お話ししましょう」

 言質、と呼べるほどのものではないが、総理と約束を取り付けた蘭子は小さく息を吐く。

 挟んだ沈黙は数秒。

 その僅かな時間で考えを纏め、蘭子は『妄想』を語り始めた。

「アレの正体については、私としても言えません。予想を語るにしても情報が足りな過ぎる。あまりに既知から外れており、ネット上などで語られている陰謀論、つまり米国や中国が開発した生物兵器という線もあながち否定は出来ません。逆に真剣に兵器として見た場合、ただ歩くだけというのはあまりに効果が薄い。弾道ミサイルを作った方が遙かに安上がりでしょう。どちらの答えも、正解とするには問題が多い」

「…………」

「しかしその上で、今後については考える事が出来ます」

 会議室の中が微かにざわめく。蘭子はそのざわめきが収まるのを待ち、ゆっくりとした口調で伝える。

「あの生物がなんであれ、一度は地上に出現しました。そして難なく歩いている。私見ではありますが、あの生物は地上での活動に問題がない……生態的に、或いは開発的に、最初から想定されているように思えました。即ち」

「再上陸もあり得る、と?」

「日本にするとは限りませんが」

 蘭子の語る推論に、いよいよ会議室内は動揺の声で満たされる。それも仕方ない。自衛隊でも歯が立たないような怪物がまた来ると告げられたのだ。どうしたら良いかなんて誰にも分からない。

 蘭子としても同じ気持ちだ。だから自分ではなく、自分より真面目で頭の良い学者に研究してもらいたい。確かにあの巨大生物は非常に興味深く、一生物学者として今後生涯を掛けて生態を突き止めたい。いや、実際次の研究テーマは巨大生物の生態にするつもりだが……人命がどうたらこうたら、国家の存亡がうんぬんかんぬんとか、そういう責任はごめんなのだ。

 推論は伝えた。後は一ヶ月後とか一年後、いや明日とかに巨大生物が上陸してくれれば良い。そのニュースを聞き次第ただちに海外に高飛びし、対策委員会が出来上がるまで太平洋のど真ん中で深海生物でも捕獲する。そうすれば自分が委員会に組み込まれる心配はない

「た、大変です!」

 そう考えていたところに、ドアを激しく開ける音と、若い男の声が会議室に響いた。

 室内に居た全員が、一斉に会議室の入口に目を向ける。そこに居たのは、息を切らした若い男性だった。顔はすっかり青ざめ、ガタガタと足腰が震えている。余程急いできたのか、だらだらと汗も掻いていた。

 本来なら誰かが「会議中だぞ」の一言で窘めるべきなのだろう。しかし男性の異様な雰囲気に飲まれたのか、誰も声を上げない。そうして沈黙していると、若い男性が大きな声で告げた。

「と、東京湾で正体不明の陰を確認! 大きさから推測して、富士山より出現した巨大生物と見られます!」

 絶望が、すぐそこまで来ている事を。

 会議室の中が大きくざわめいた。しかし長くは続かない。誰もがすぐに沈黙し、入口に立つ若者から視線を外す。

 そうして動かした視線で次に見るのは、及川蘭子。

 ほんの今さっき、巨大生物上陸を『予言』した蘭子に、誰もが期待の眼差しを向けていた。あたかも次の『予言』を授けてくれと言わんばかりに。

 そして今から海外に高飛びなんて出来る筈もなく。

「……言わなきゃ良かった」

 自分の性格が学生時代から本質的には変わっていないのだと、蘭子は今になって思い知るのだった。




蘭子さんは本作の解説ポジションです。
これだけでもう生存フラグですよ。
或いは知り過ぎて死ぬ(どっちだよ)


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山下蓮司の宿命

 一月四日を迎え、世間的には年末年始が終わり仕事始めを迎えたが、山下蓮司は未だ休みを謳歌していた。

 何分彼は高校生。始業式は一月七日からである。それまでの三日間はまだ冬休み。自宅でごろごろしていても誰に怒られる事もない。

「蓮司! 何で炬燵(こたつ)を出してるんだい! 掃除機掛けられないじゃないか!」

 ……母に怒られてしまった。

 自宅の和室にて、炬燵を自ら出して入っていた蓮司は、ムスッと唇を尖らせる。一層炬燵の中へと入り、彼は抗議の意志を示した。

「なんだよー、一昨日も掃除してただろ。今日ぐらいしなくても良いじゃないか」

「昨日はしてないから今日するんだよ。ほら、片付けるからとっとと出なっ!」

「……ちぇー」

 最後に不満の意志を言葉にしてみるも、母の不屈の決心は揺らがない。渋々蓮司は炬燵を出て、伝統ある暖房器具を片付ける。折角暖まった身体は、部屋の寒さで一気に冷えてしまった。

「はい、ご苦労さん。掃除機掛け終わったら炬燵やって良いからね」

「へーい」

 ついには追い出され、蓮司は和室からとぼとぼと出る。

「兄さんったら、ほんと空気読めないんだから」

 そうして隣の部屋であるリビングに入ると、今度はソファーでスマホを弄っていた中学生の妹に小馬鹿にされた。学校ではそこそこ男子にモテるらしい、昔から一緒に暮らしている身としてはちんちくりんな小娘にしか見えない妹を、蓮司は鋭く睨む。

「うっせぇ。今日はめっちゃ寒いから早く暖まりたかったんだよ」

「そーいうのが空気読めないって言ってんの。うちのお母さん、二日に一回は必ず掃除機掛けるのぐらい覚えときなよ」

「……ちっ」

 妹からの指摘に、蓮司は舌打ちを返す。舌打ちしか返せるものがなかった。昔はぴーぴー五月蝿いだけだった妹だが、中学生になってから急に弁が立つようになった。今では口ゲンカをしても簡単に負かされる。

 いや、実際その事を失念していた自分が悪いのは確かだ。そう、自分が悪いのは分かっているし、こんなちっぽけな事で激昂するなんてアホらしいとも思うが……それをすんなりと受け入れるのは癪である。妹に当たろうとは思わないが、むしゃくしゃした気持ちが胸の奥底で燻っていた。

 どうしたものかと考えていると、自分のスマホから音が鳴った。SNSの着信音だ。蓮司はすぐにスマホをズボンのポケットから取り出し、着信を確認する。

 学校でよくつるんでる友達からだった。用件は極めて短く「暇だからゲーセンいかね?」との事。

 用件があるかといえば、そんなものはない。そして今胸の中で渦巻くむしゃくしゃを、レースゲームや格闘ゲームで発散するのも悪くない。

 少なくとも、このまま家の中に居るよりは余程マシだろう。

「……良いぜっと」

 衝動のまま至った答えを、友達に返信する。送信相手以外の友人からも行くというメッセージが来て、あっという間に三人で出掛ける事が決まった。

「母さん、友達に誘われたから、ちょっと遊びに出るわ」

「はいよ。お昼はどうすんの?」

「あー、多分外で食べるかな」

「そうかい。家で食べるなら早めに連絡しなよ」

「いってらー」

 外出を伝えれば、母も妹も特段引き留めもしない。

 蓮司は財布とスマホだけを持ち、友人達が待つゲームセンターへと向かった。

 ……………

 ………

 …

「あー、遊んだ遊んだぁ」

 蓮司は大きく背伸びをしながら、ゲームセンターの外へと出た。

 ぴゅうっと吹いてくる風が、暖房の効いていた部屋でぬくぬくしていた蓮司の身体に突き刺さる。燦々と降り注ぐ日差しがなければ、このままゲームセンターに戻ってしまうかも知れないぐらい寒い。

 蓮司が遊んでいたゲームセンター、そのゲームセンターが建つ駅前は小高い丘の上に存在し、かなり見晴らしの良い地形をしている。西の方を見れば、蓮司達が暮らす住宅地と、そこに隣接する東京湾が一望出来た。風を遮るものがないため、暖かな……いや、やっぱり寒い海風が蓮司の身体を撫でていく。蓮司は自分の身体を抱き寄せるように、腕を回した。

 蓮司に続いてゲームセンターから外に出てきたのは、二人の男子。一人はこの冬なのに頭を丸刈りにし、もう一人は眼鏡を掛けた優男である。

 二人は蓮司の友達で、ゲームセンターで遊んでいた面子だった。

「お前、連敗記録更新してたけどな」

「うっせぇ」

 ゲームセンターでひとしきり楽しんだ蓮司の言葉を、丸刈り頭の友人・芥川が茶化す。明るくて気の良い奴だが、どうにも一言余計な事を言ってくる。一応愛嬌と受け止められる程度の悪癖であるが。

「それで、この後はどうする?」

「あー、腹減ったから飯でも食おうぜ。お年玉あんだろ? ちょっと豪勢に行こうか」

「……いきなり浪費というのは、褒められた趣味じゃないな」

「じゃあ安いところで済ますか?」

「まさか。ファーストフードに百円支払うより、美味なレストランに千円支払う方がずっと有意義だよ」

 眼鏡を掛けた友人である三原は、こんな感じにちょっと嫌味な言い回しが多い。しかし愚痴りながらも毎回賛同する辺り、なんやかんや人懐っこい奴だと蓮司は思っていた。

 仲良し三人組、とまでは言わないが、それなりに付き合いは長くて深い。彼等と蓮司はそんな間柄だ。

「俺も良いぜー」

「良し、じゃあ決まりだな。さぁて、それじゃあ何処にしようかな」

 芥川も賛成し、蓮司はスマホを取り出して近場のレストランでも探そうとした。

 刹那、蓮司のスマホから激しいアラート音が鳴り響く。

 突然の警報に驚く蓮司。動揺から辺りを見渡せば、そこかしこからアラート音が聞こえてきた。芥川と三原のスマホからも鳴っているようで、二人も自分のスマホの画面を見る。

 蓮司もスマホを見てみれば、そこにはJアラートの文字が。

 確か地震とかどこぞの国がミサイルを撃った時に出る奴だ、と蓮司は自分の記憶からほじくり出す。一体何が起きたのかと書かれている文書を読んだ。

 曰く「巨大生物が東京湾に出現」との事。

 巨大生物? 特撮番組のような言葉に一瞬呆けたものの、すぐに思い出す。富士山から出てきたという生き物だ。正月番組があの生き物の報道ばかりになり、ろくに楽しめなかったのを覚えている。しかし今気にすべきは、今日のテレビがまた特番だらけになる事ではない。

 この町が、東京湾に隣接している事だ。

「おい、あ、あの怪獣、東京湾に居るのかよ!?」

「い、いや、でもほら、東京湾っつっても広いし、此処に来るとは……」

「来ないとも限らないだろ。必ず何処かに上陸するとも限らないが、最悪の事態を考えた方が良い」

 現実逃避しそうになる蓮司と芥川だったが、三原の意見で我に返る。そうだ、きっと大丈夫なんて言葉にはなんの根拠もない。

 すぐに行動を起こさねば手遅れになるかも知れない。

「……っ! ちょ、ちょっと家に電話する!」

 蓮司はすぐに家へと電話を掛けた。

【現在、回線が混み合っております。時間を空け、もう一度お掛けください】

 しかしスマホから鳴ったのは、無慈悲な通告。

「な、なんで……!?」

「そりゃ、みんな家に電話を掛けてるんだろう。今の山下みたいに」

「な、なぁ。もしかして、逃げた方が良かったり、するのか?」

「……一応まだ警報ではある。けど、出来るだけ海から離れた方が良いだろう。電話は繋がらないと思うから、メールとかにした方が良い。そっちも何時届くか分からないけど、電話よりはマシな筈だ。回線が通り次第転送される筈だから、電話みたいにタイミングを待たなくて良いし」

「そ、そうか。そうだよな、うん」

「それはそれとして、自分達の安全も考えよう。出来るだけ海から離れた方が良い。テレビやネットの情報が確かなら、あの巨大生物は車より速く歩くらしいからな。走っても逃げきれない」

 三原の話に、確かに、と蓮司は納得した。メールやメッセージは逃げながらでも打てる。今は兎に角遠くまで避難する方が大事だろう。

「えっと、避難所って何処だ?」

「いや、静岡では避難所に逃げた人の被害が多かったらしい。情報を集めながら逃げた方が……」

 蓮司は三原と相談し、何処に逃げるかを考える。三原はガリ勉というタイプではないが、ネットの情報に詳しい。こういう時には頼りになる奴だと蓮司は思っていた。

「お、おい……あれは、なんだ?」

 そして芥川は自分達二人が見落としたものに気付いてくれる奴である――――そう思っていた蓮司は、三原との話を切って芥川の方へと振り向いた。

 芥川は、じっと遠くを眺めていた。その方角は自分達の家がある住宅地が一望出来て……海が見える(・・・・・)

 ぞわりとした悪寒が、蓮司の身体に走った。

 蓮司は無意識に芥川の隣までやってきて、彼と同じ方角を見ていた。芥川が見ているのは、大海原。

 その大海原に、何か、変な歪みが見える。

 最初は蜃気楼かと思った。夏なら珍しいものではない……今は一月の頭という真冬だが。それに蜃気楼にしては歪み方が小さい。何かがおかしい。

 蓮司は更に歪みを見つめる。しばし観察したところ、歪みが段々と大きくなっていると気付いた。いや、大きくなっているのではない。

 近付いているのだ。

 巨大な海の(・・・・・)うねりが(・・・)この町に(・・・・)接近している(・・・・・・)

「っ!? に、逃げろ!」

「え? え、でも」

「でもじゃない! 走れ! あっちだ!」

 呆ける芥川を叱責しながら、蓮司は彼の腕を引っ張る。僅かな迷いの後、芥川は蓮司と共に走り出した。三原も走り、三人は海から離れた先……より高い丘の方へと向かう。

 蓮司は時々後ろを振り返り、海の様子を目に焼き付ける。

 蓮司が思った通り、歪みに見えたものは巨大な海のうねり……津波だった。しかしただの津波ではない。どんどんどんどん、底なしに高くなっている。この町には立派な、高さ十五メートルの津波も防ぐという防波堤があるのだが、津波はそれを遙かに上回る大きさだ。

 いや、上回るなんてものじゃない。

 五十メートル? 百メートル? まるで壁のようにどんどん大きくなっている。ゲームセンターがあった丘は町を一望出来る程度には高いのに、その丘さえちっぽけに思えるような高さだ。東日本大震災の時だって、津波の高さは十メートルかそこらだという話なのに。

 訳が分からない。唯一分かるのは、あんな大津波に飲まれたら命なんてないという事だけ。

「走れ走れ走れ! もっと上がれ!」

 檄を飛ばし、友人二人をどうにか走らせる。振り返れば、津波はついに町に到達した。

 高さは百五十メートルはあるかも知れない。家がミニチュアにしか見えないほどの大津波は、易々と全てを飲み込んだ。一軒家は勿論、マンションも、工場も、学校も……何もかもが津波に喰われる。

 膨大な水量から生み出される破壊力は、コンクリートなど砂のように粉砕した。建物は耐えるどころか跡形もなく砕け、ゴミ屑と化す。そうして土砂や瓦礫をたっぷりと含んだ海水は、そこにある全てを削り取っていく。

 津波は蓮司達が遊んでいたゲームセンターを飲み込み、どんどん駆け上がってくる。人間が出せる速さなんて比にならない、とんでもない速度だ。全力疾走ですら無理なのだから、走り続けてへとへとになった蓮司達に振りきれるものではない。

 最早ここまでか――――諦めかけた蓮司だったが、されど津波はぴたりと止まった。蓮司達から、ほんの二~三十メートル後ろでの事だ。

 やがて津波は、猛烈な勢いで引いていく。残った家の柱なども余さず奪い取るかのように、何もかもを持ち去る。

 蓮司達はその場で立ち尽くし、津波の暴虐を眺める事しか出来ない。眺めて、眺めて……ハッとなる。

 町の真ん中に、佇む巨物がある。

 それは途方もない大きさで町のど真ん中に陣取っていた。コンクリートの建物も易々砕く引き水を、まるでそよ風のように平然と耐えている。赤色の甲殻は瓦礫がいくらぶつかろうとも傷一つ付かない。

 蓮司達三人は、それを見た事がある。テレビでやっていた。だけど誰もが思った。

 テレビで見た時よりも、ずっと、ずっと、おぞましい。

「きょ、巨大生物……!」

 富士山から現れた巨大生物が自分達の町に上陸したのだと、蓮司は今になって理解した。立っている事が出来なくなり、その場にへたり込んでしまう。

 逃げないと、踏み潰されて殺される。

 だけど身動きが取れず、蓮司はカタカタと震えた。気付けばズボンの股が濡れたが、恥ずかしいなんて思えない。友人達もその場で右往左往するばかり。

 そうしていると、巨大生物はくるりと踵を返し、海の方へと向いた。

 そのまま海に向かって進み、大海原に飛び込む。着水と同時に再び津波が起こったが、最早被害は起こらない。沿岸部の町は、もう何も残っていないのだから。巨大生物は海に入っても動きを止めず、どんどん沖を目指して進んでいく。海底は深みを増し、巨大生物は沈んでいく。

 ものの一分も経たないうちに、巨大生物は姿を消した。

 つまり惨事は終わったのだが……あまりにも呆気ない。唐突に始まった災禍が、なんの合図もなく終わってしまった。蓮司達は何があったのか、何をされたのか、それさえも分からなくて、混乱してしまう。まともな事が考えられない。

 理解出来るのは、自分達が助かった事。

 そして津波が襲った町に居た家族が、どうなったのかだけだ――――



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芥川喜一郎の祈り

 好きか嫌いかで言えば、喜一郎は父親の事が嫌いだった。

 何時もガミガミ五月蝿くて、こっちの話なんて聞きやしない。意地っ張りで負けず嫌い。その癖自分と同じく大して頭が良くないから、ちょっと難しい話になると理解出来なくて、結果すぐ怒り出す。小遣いも寄越さないのに店である総菜屋の手伝いをしろと命じてきて、友達と約束があるから無理だと伝えても先にこっちを手伝えと平気で言ってくる。それを無視したらゲンコツだ。

 人間の屑、とまでは言わないが、こんな大人にはならないと思うような人物だった。とはいえ肉親は肉親だ。嫌な思い出ばかりでも、死んでしまえとか、居なくなれとか、そうは思えない。

 だからなのだろうか。

「蓮司!」

「父さんっ!」

 友人である山下蓮司が父親と再会した時、喜一郎はそれを羨ましいと思ってしまった。

「父さん、俺、俺……!」

「良いんだ、何も言わなくて良い。良かった、お前が無事で、本当に、良かった……!」

 蓮司と父親は人目も憚らずに抱き合い、嗚咽を漏らし合う。

 高校生の男が父親と抱き合うというのは、些か気持ち悪い姿かも知れない。だけど今、この時に限れば、決して彼等がおかしな訳ではないだろう。

 町の高台に用意された避難所。喜一郎達は今、そこに居る。

 夜を迎えたが、避難所の電灯はどれも点灯していない。代わりに立てられた蝋燭の明かりがほんのりと照らすこの場には、大勢の人々が集まっていた。蓮司達と同じく駅前の丘で難を逃れた人達、そして町から離れた場所で仕事をしていた彼等の肉親達が殆どだ。男も女も、老いも若いも関係ない。再び会えた事を喜び、或いは会えなくなった悲しみを分け合うように、誰もが抱き合っている。

 自分には、誰も居ないのに。

「よっこいしょっと」

 避難所の隅で座り、人々を眺めていた喜一郎の隣に誰かがやってきた。ちらりと横目で見れば、三原だと分かった。

「……なんだよ」

「いや、大した理由はないよ。ただ、みんなが抱き合ってる中自分の居場所がなくてね」

「ふん。お前のところは共働きで海外だったよな。良かったな、一家全員生きてて」

「本当に、幸運だと思うよ。ま、向こうは自分の息子が死にかけた事に気付いているかも怪しいけどね」

 三原としては小粋なジョークのつもりなのだろうか。全く笑えない。むしろムカついてきた。

 喜一郎は荒々しく鼻息を吐き、三原から顔を逸らす。三原は肩を竦めたが、その態度を戒めたりはしなかった。

 それどころか、慰めの言葉を掛けてきたりもしない。

「……何も言わないのかよ」

「何か言ってほしいのかい? 君はそういうタイプじゃないと思っていたんだけど」

「……分かんねぇ」

 三原からの質問に、深く考えずに出した喜一郎の答えはこんなものだった。

 未だ、実感が持てない。

 生きている筈がない。実家が総菜屋で、両親は共に店で働いているのだ。そして実家のある場所は巨大生物が上陸した際の津波に飲まれ、何もかも破壊された。確かに父も母も健康体で、体力のある大人だったが、そんな程度で生き残れるような甘っちょろい被害じゃない。

 そう、死んでいると思っているから、蓮司と父親の再会を羨んだ筈なのだ。なのにその気持ちに納得出来ない。自分が勘違いしているかのような、もやもやとした違和感を覚えてしまう。

 多分、きっと、家族の死体を見ていないからこんな気持ちになるのだ。

 死体がないから、死んだと思いきれない。どれだけ理屈を捏ねても、もしかしたら、が脳裏を過ぎってしまう。死体を見ない限り、きっとこの気持ちは消えない。

 だけどその家族の亡骸は、今頃海の何処かを漂っているのだろう。自衛隊や警察が捜してはくれるのだろうが、広大な大海原に流れ出てしまった亡骸が見付かるものなのか? 喜一郎には、とてもそうは思えない。

「……俺、ずっとこんな気持ちのままなのか」

 ぽつりと漏らす独り言。

 三原は何も言わない。何か言えよとも喜一郎は思ったが、多分何を言われてもムカついたとも思った。今の自分がまるであのくそ親父みたいだと感じて、それがますます胸に穴を開ける。

 喜びと悲しみの声が満ちる室内。

 居たたまれなくなった喜一郎はすっと立ち上がり、一旦人気のない外に出る事にした。三原は何も言わず、追い駆けもしなかった。

 避難所の外に出た喜一郎は、外の空気の冷たさに驚いた。ぶるりと身体を震わせながら空を見れば、満天の星空が見える。普段なんて一番星と二番星ぐらいしか見えないのに。何時もと星空が違う事に、喜一郎は僅かに動揺する。

 少し考えて、この星空が『本来』のものであると気付いた。町が津波に浚われ、電線などが切れた事で辺り一帯から明かりが消え、自然本来の空が戻ってきたのだ。

 途端に、喜一郎はこの空が憎々しく思えてきた。数えきれないほどの人が死んだのに、それを喜ぶような美しさがおぞましい。

 星空から目を逸らし、喜一郎は避難所の傍を歩く。ざくざくと鳴る足下の小石が、ちょっとずつ自分の気持ちを掻き乱し、曖昧にしてくれる。

「……ん?」

 段々と軽くなる足取りで喜一郎が歩いていると、ふと避難所から離れた場所に明かりがある事に気付いた。

 明かりの下には、十数人の人々が集まっていた。大半は大人のようだが、中には喜一郎と同じぐらいの年頃に見える者も居る。誰も声を発さず、静かにその場で座っていた。

 何をしているのだろうか?

 興味を抱いた喜一郎は、その集まりに近付いてみた。しかしながらざくざくと鳴る自らの足音に気付いてしまうと、彼等の集まりの邪魔をしてしまうような気がして、途端に近寄り難くなる。どうしたものかと、ちょっと遠巻きに覗いてみるが……沈黙したまま座り込んでいるだけで、彼等が何をしてるのかはさっぱり分からない。

「どうされましたか?」

「うぉうっ!?」

 そうしてしばらく眺めていたところ、不意に背後から声を掛けられ、喜一郎は跳ねるほどに驚いてしまった。

 慌てて振り返ると、そこには喜一郎と同じく驚いたように目を見開いた、一人の少女が居た。少女といっても高校生である喜一郎よりちょっと背が低くてあどけない程度の、中学生ぐらいの見た目であるのだが。

 年下の子に驚いてしまった事が恥ずかしく、喜一郎は目を逸らす。

 それでもちらりと見れば、その子が大変な美少女だと気付けた。ちょっと無邪気な笑みが子供っぽいが、さぞ学校ではモテるのだろうと想像が付く。

 そうして何時の間にかじろじろ眺めて、驚かせてしまった事をまだ謝っていない事にふと思い至った。

「あ、いや、ごめん。ちょっと驚いて……」

「いえ、こちらこそ急に声を掛けてすみません。何かご用ですか?」

「用があるというか……何をしてるのかなって、思って」

「ああ。あれはお祈りです」

「お祈り?」

「……たくさんの方が、行方不明ですから」

 少女は僅かながら躊躇ったように、喜一郎の問いに答える。それは遠回しな言い方だったが、全てを察するのに十分な一言でもある。

 きっと、この場に居る人々は自分と同じなのだろうと喜一郎は理解した。

 確かに、今もたくさんの人が『行方不明』だ。そして恐らくその大半は、二度と見付からない。みんなそれは分かっている。分かっているが、受け止められない。悲しむべきなのか、諦めないでいるべきなのか、怒るべきなのか、嘆くべきなのか……誰にも。

 ここでの祈りは、そうした気持ちの整理をするための儀式なのだろう。

「あー、その、なんだ。これは、なんかの宗教、なのかな」

「ええ、そうです。聖書の貸し出しは、私の父が入信している教団で行っています。ただ、参加している人は信者以外もいますよ。祈りたい方は、誰であろうと拒みません。元より此処は公共の場で、私達も役所の方から間借りしているだけですし」

 尋ねると、少女は隠しもせずに明かしてくれた。宗教と聞いて喜一郎は少し気が引ける。なんというか、そういうのは胡散臭いものだと思っていたからだ。

 だけど、胸の中で燻る想いの整理は付けたい。

 ……体験入学というか、今回ぽっきりの気持ちで参加してみるとしようか。

「……ちょっと、参加してみても良いかな」

「勿論構いません。聖書はお読みになられますか?」

「いや、いい。一人で考えたい」

「分かりました」

 少女はぺこりとお辞儀をして、その場を後にする。喜一郎はぽりぽりと頭を掻きながら、祈りを続ける人々の後ろで胡座を掻いた。

 なんの宗教がこの場を貸しているか分からない。しかし様々な感情で溢れる避難所の中より、寒空の下にあるこの場の方がずっと落ち着ける。

 喜一郎は目を瞑り、じっと考え込む。何を、と言われても答えられない。もやもやとした気持ちを、ちょっとずつ、形にしていくだけ。

 例えその先にある感情がどれだけ辛くとも、分からないままでいるよりは、きっと良い事だと思えたから……




巨大な生き物が動き回るって、とても怖い事です。

次回更新は来週月曜日予定


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及川蘭子の命名

「……こーりゃまた随分とさっぱりしちゃって」

 呆れたような、感心したような、そんな呟きを蘭子は漏らした。

 彼女は今、真っ平らな大地の上に立っている……本当に、そうとしか呼びようがない。木どころか草一本すらなく、地平線まで平らな大地が続くだけ。建物や電柱だってない。街灯だって一本も立っておらず、空に広がる星空と月がなければ周囲は歩くのも困難な真っ暗闇だったろう。

 しかしこの場所は、元々こんな景色だった訳ではない。少なくとも三日前まではそれなりに大きな町があったのだ。

 巨大生物が津波を伴って上陸した、ほんの三日前までは。

「……犠牲者の数は、計り知れません。この町には三万人ほどの住人が居たのですが、その八割とは現在も連絡が取れていない状況です」

 蘭子の傍には、迷彩服を着込んだ若い女性自衛官 ― 若松という名前だ ― が付いていて、町の状況を報告する。まともな通信体制が確立されていなかった百年前なら兎も角、科学が発達した現代では発展途上国でも考えられないような大被害だ。

「なんとまぁ、酷い被害ねぇ」

「はい。まさか巨大生物上陸時に津波が発生するなんて……」

「推定体重百五十万トンの巨体よ。静止しているだけでも押し退ける水の量も恐らく同じぐらい。勢いよく上がれば、確かに津波が発生するでしょうね」

「我々がもっと早く予想していたなら……」

「してても、発見がそもそもギリギリまで分からないんじゃ意味ないわよ。あまり後悔ばかりしても仕方ないわ」

 落ち込みかける若松に、蘭子は励ますように言葉を掛ける。

 蘭子とて人間であり、そして日本人の一人だ。祖国がこのような目に遭い、大勢の人々が亡くなった事に思うところがない訳がない……されど同時に彼女は生物学者であり、また極めて自然寄りの考えの持ち主だった。人が死ぬ事は悲しい事だが、それを防ごうとして人間は自然を壊してきた。道理を無理に曲げようとすれば、より恐ろしい事が起きる事を蘭子は知っている。

 必要なのは正しい知識だ。あの巨大生物が何物なのか、どのような経緯で誕生したのか、自然とどのような関わりがあるのか――――それを突き止めて『正しい』対処をしなければならない。

 その対処を考える最前線に立てる事は、一学者として誇りに思う。結果的にではあるが、総理大臣の前で『持論』を披露したのは正解だったかも知れない。お陰で自分は、他の科学者は立ち入りが許されない場所に足を踏み入れる事が出来るのだから。

「ま、被害については専門家に任せましょ。私達の役割は、あの生物について一つでも多くの情報を拾い集める事よ」

「……はい」

「それじゃあ、探しましょうか。あの生物の体組織を」

 蘭子はそう言いながら、懐から取り出したビニール手袋を嵌めた。若松も手袋をし、準備を整える。二人は並んで、更地と化した住宅地を歩いた。

 今日の蘭子達の目的は、現場の視察と組織片の採取だ。

 自衛隊が攻撃を行った、富士山から太平洋までのコースでは巨大生物の組織を発見する事は出来ていない。それはあまりにも被害が凄惨で、未だ十分な探索が行えていないというのもあるが……それを考慮しても全く見付からないというのは、自衛隊の攻撃ではろくな傷が付かなかった証明と言えよう。無理矢理引っ剥がすのは難しく、自然に脱落したものを探すしかない。

 そこで蘭子が目指したのは、巨大生物が足を突き立てた地点であった。引いていく津波を受けても耐えるほどの重さ、或いはパワーが掛かっている部分だ。自然な脱落が起きていてもおかしくない。

 勿論富士山出現時にも、巨大生物は地面に足を突き立てている。だが巨大生物はエビに酷似した形態……つまり尾っぽを引きずっていた。そのため歩いた場所は軒並み尾で均され、埋め立てられている。反面此度の巨大生物は、丘に上がらず引き返した。これにより何ヵ所かの『足跡』が尾から逃れ、そのまま残っているのがヘリコプターによる調査で判明している。目撃証言により、波が引ききった後に引き返した事も確認出来ているので、より期待が持てた。

 運が良ければ、組織片が手に入るだろう。

「……それにしても、何故あの生物は、上陸しなかったのでしょうか」

 ぽつりと、若松が疑問を呟く。

 若松からすれば、二万を超える人々は何故こんな目に遭わねばならなかったのか、それを知りたいのだろう。勿論どんな理由であれ納得出来るものではあるまい。しかし知らないよりはマシだと考えているのは間違いなかった。

 蘭子は少し思案を巡らせる。若松が抱いた問いの答えに、仮説ではあるが一つだけ辿り着く……言わない方が良いようにも思えたが、一人の学者として知りたいという意識は尊重したい。

「ただの気紛れじゃない?」

 だから、自分の考えを伝えた。

 若松の顔が批難にも見えるような形相に歪むのは、多少は想像出来る事だった。

「気紛れって……」

「生物兵器だとしたら、津波を起こせるぞというパフォーマンス。野生動物だとしたら、ちょっと気になったから立ち寄った。そんな程度なんでしょ」

「……っ! そんなの……!」

「あくまで推測よ。私は確信してるけど」

 拳を握り締める若松に、蘭子はあくまで自分の考えだと伝える。

 若松は胸に手を当て、深い呼吸を繰り返す。ゆっくりと左右に振った顔には、もう憤怒の感情は表れていない。

「……そうですね。すみません、私、少し感情的で」

「人間味があるって事じゃない。内心、ちょっとわくわくしてる私より何倍もマシよ」

「わくわく、してるのですか?」

「そりゃあね。人智を超える生命体の秘密に迫れるのだから、好奇心を抑える事は出来ないわ。勿論アレを野放しにする事は反対だし、生物兵器だとしたら環境保護の面からもさっさと駆除した方が良いとは思うけどね」

「……及川先生、組織片が入手出来た場合、どのような事が分かりそうですか?」

 未だ奥底には想いが燻っているのか。気持ちを誤魔化すように、若松は別の疑問を尋ねてきた。

 この問いにも、蘭子はすらすらと答える。

「それはもう、色々分かるわ。甲殻ならどの程度の強度があるか計り知れるし、ゲノム情報の解析も可能かも知れない。特にゲノムが分かればあの生物が天然物か人工物かもハッキリするでしょうね。構成される遺伝子情報の中に珍しい動物がいれば、密輸などのルートから首謀国が明らかになるかも知れない」

「……仮にですが、人工的に作られた、つまり兵器だとしたら……先生は、何処の国が元凶だと思いますか?」

「米国か中国。現実的にこの二択しかないわね」

 若松の質問に、蘭子はハッキリと答える。

 遺伝子工学の発展は目覚ましい。今や何処の国でも研究は進められている。しかしそれでも、発展度合いは国によって異なるのが実情だ。

 米国と中国は、どちらもトップクラスと呼んで良い。金の掛け方が違うし……隠し方(・・・)も上手い。互いに世界の覇権を狙っている点からしても、今や世界の経済と防衛力にも関わるこの分野で相手に引けを取る訳にはいかないだろう。あの巨大生物が作れるとすれば、この二ヶ国だけだ。

 ネット上でも生物兵器だと主張する者の多くが元凶として挙げるのは、この二国だ。意見の内訳は中国が圧倒的多数で、米国は少数。攻撃してくるとしたら中国、と誰もが思っているのだろう。

 尤も、その話を信じている者達には「そもそも現代科学であのような生物兵器が造れるのか?」という根本的な疑問が欠けているのだが。

「まぁ、所詮は根拠のない思い込みによる推測。証拠はすぐそこにある……拾い上げるわよ」

 話を打ち切り、蘭子は立ち止まる。若松も立ち止まり、息を飲んだ。

 ぽっかりと空いた、何十メートルもある大穴。

 たった一匹の生物が空けたこの『足跡』の中に、二人は静かに突入するのであった。

 ……………

 ………

 …

「……こうもあっさり見付かると、ちょっと拍子抜けしちゃうわね」

「……ですね」

 蘭子が肩を竦めながら言った言葉に、若松も軽く同意する。

 組織片は、あっさりと見付かった。

 足跡の底に赤い欠片が落ちていたのだ。勿論もしかするとただの瓦礫という可能性もなくはないが、表面の凹凸や裏側の生体的な紋様から恐らく間違いないと蘭子は考える。お陰で突入して三十分で穴から脱出出来た。今は穴の側で足を伸ばし、伸び伸びとサンプルを観察している最中だ。

 採取出来たサンプルは、凡そ五十グラム。相手の巨体を思えばほんの僅かなものだが、一旦研究を進めるには十分だ。軟組織が見付からなかったのは残念だが、甲殻と思しき部分だけでも様々な知見が得られる筈である。

 とはいえ喜ぶのはまだ早い。極端な話、研究室に運ぶまでの間にこの甲殻が腐ってしまえば、折角の生態解明のチャンスを逃す事となる。出来るだけ採取時と同じ状態を維持させねばならない。

 しかしながら何分人類のこれまでの常識が通用しない生物の体組織である。どのような方法が適切かは分からない。そういった事を知るのもまた大事な『研究』だ。

 ある組織片は綿を敷いた箱の中に、ある組織片はアルコールに漬けて、ある組織片は窒素で満たした容器に……様々な保管方法を試してみる。

「さぁて、色々な方法でやってみたけど、どれか上手くいくと良いわね」

「そうですね……」

「あまり心配しなくても良いわよ。自衛隊の火砲を受けてビクともしない装甲なんだもの。雑に扱っても、早々変質しないと思うわ。むしろ簡単に朽ちたら、それはそれで相手の事を知るチャンスでもある」

「……成程、甲殻を脆くする弱点が分かるかも知れないという事ですね」

「ご名答。はい、これでラストっと」

 若松と話をしながら作業を終える。仮に全滅しても得られるものがあるというのは気楽なものだと、蘭子はひっそり思う。

 さて、標本を保存したら持ち帰り……をする前にやる事がある。ラベル付けだ。何時、何処で採取したのか、その情報を記録しなくては標本としての価値が激減してしまう。

 勿論ちゃんと覚えていられるのなら、研究所に戻ってからやっても良い。というより普通はそうする。野外で一々テープに小さな文字を書き込み、貼ってなんていられないのだから。しかし此度は普通ではない。持ち帰った生体サンプルは直ちに政府の研究機関に送られ、解析される。ラベル貼りの時間は恐らくないだろう。それだけ政府も『巨大生物』を危険視しているという事だ。

 蘭子は懐からテープとペンを取り出し、情報を記録していく。と、その最中にふと思い出した。

「そうだ、まだあの生物の名前って決められていなかったわね」

 巨大生物の名前がない事を。

「……巨大生物で良いのでは? 勿論後々名前は必要でしょうが、今付けなくても」

「政府に任せたら何時になるか分からないわよ。もしもその間に別種の巨大生物が現れたら、大変な混乱が起きる。それを防ぐためにも名前は必要よ」

「先生がそれを言うと現実になりそうなんですが……」

「リスク管理と言ってちょうだい。実際命名なんて政府がえいやっと決めちゃえば良いんだから、さっさと進めれば良いのよ」

 なんとも雑な言い方をする蘭子だが、その胸中には焦りにも似た感覚が渦巻く。

 実際問題、別種の『巨大生物』が現れる可能性は否定出来ない。もしもエビ型の巨大生物が地殻内部に生息する野生動物ならば、地殻内部になんらかの生態系が築かれている可能性がある。あの巨大エビの餌、或いは巨大エビを餌にしている生物が存在しているかも知れないのだ。巨大エビが地上に現れた今、それらが地上に現れない保証なんてない。無論同種がもう一体という事もあり得るだろう。

 生物兵器だとしても、開発国があの巨大生物だけを作ったとは限らない。いや、あり得ない。あれほどの完成度を誇る『兵器』だとすれば、その裏では数えきれないほどの失敗や派生型が存在する筈だ。巨大エビよりも危険性は低そうだが、何百、何千という数が存在する可能性がある。

 どちらが正しいにせよ、この世に現れる巨大生物はただ一体、なんてルールはない。現れてから決めるようでは悲劇を避けられない。簡単に出来る事は、さっさとやってしまうべきだ。

「ま、政府に任せてもエビ型巨大生物みたいな味気ない名前を付けられそうだし、ここは私が命名しましょ」

「味気なさより分かりやすさが大事では?」

「長ったらしい名前を付ける気はないわよ。そうね……」

 試験管の中に入れた甲殻の欠片を眺めながら、蘭子は考え込む。時間にして、ほんの十数秒。

「……デボラ。デボラにしましょう」

 その十数秒で、蘭子は巨大生物の名前を独断で決めた。

 由来の分からない単語に、若松は首を傾げる。

「先生、デボラって、どういう意味ですか?」

「私の地元の民話に出てくる神様よ。地獄からやってきて、田畑を滅茶苦茶に荒らすの」

「……現実のデボラの被害は田畑どころじゃないですけどね」

「あと、最後にラが付く」

「はい?」

「怪獣映画って見ない? 主役級の怪獣には名前の最後に『ラ』が付くのが多いのよ」

 蘭子の説明に、若松はピンと来ていない様子。どうやらあまり特撮映画は好まないらしい。それは勿体ない、今度ブルーレイを送りつけてやろうと、蘭子はひっそり考える。

 尤も、そんな暇が出来るのは当分先の話だろう。

「……良し、ラベル貼りも終わり。後は他の自衛隊員に任せて、私達は研究所に戻りましょ」

「了解です」

 蘭子の言葉を受け、若松はサンプルのしまわれたボックスを持つ。出立の準備を終えた二人は、共に歩き出した。

 ――――蘭子は知らない。自分の名付けたものがどんな存在であるかを。

 ましてやその名が、世界の誰もが知る恐怖呼び名となる事など、予感もしなかった……



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瀬尾進の経営

「社長、こちらが現在の状況となっております」

 東京某所のとある事務室にて。自分より二十近く年上の『秘書』の男性から渡された書類を手に取り、瀬尾(せお)(すすむ)は書面に目を通した。

 渡された書類の内容は、進が経営する会社の株価がこの一ヶ月で辿った推移。

 進は『瀬尾グループ』の社長を務めていた。都内でも有数の食品系大企業で、日本では知らない人の方が少数。会長は進の父親が務めており、親族経営と揶揄された事もある……そうした意見に辟易する事もあるが、同時に進は自身の立場が大変便利なものであると認識していた。何しろその意見を言った者は、上辺しか見ていない無能だという事が簡単に分かるからだ。あの『金の亡者』が息子というだけで社長の席を与える訳がないというのは、ちょっと付き合えばすぐ分かるのに。

 事実進は四十代という若さながら経営者として非常に優秀で、会社に多大な貢献をしてきた。金の亡者である父と違い、会社そのものに愛着があるし、部下にも慕われている。父との確執はあるが、今後も少しずつ会社を育てていきたいと考えていた。

 ――――とはいえ、今年は中々大変な年になりそうだが。

「……やはり株価の低下は避けられないか」

 進は社長室の椅子に寄り掛かりながら、ぽつりと呟く。目の前のデスクに書類を置いて秘書の顔を見れば、彼はこくりと頷いた。

「はい。特に外国の投資家の離れが深刻です」

「日本はただでさえ急激な経済発展が望めないのに、此処に来て『怪獣』だからな。ま、何処の経営部門も似たようなものだろうから、親父の小言を気にしなくて良いのが不幸中の幸いか」

 肩を竦めながら冗談めかして言ってみたが、秘書はぴくりとも笑わない。進はもう一度肩を竦めた。

 デボラ。

 それが日本国政府が付けた、富士山より出現した巨大生物の名前だ。出現から一週間以上経った一月十日に発表され、マスコミを通じて日本中、いや世界中に広まっている。発表からまだ今日で三日しか経っていないが、既に知らぬ日本人はほぼいないだろう。小学生でも覚えているに違いない。知名度なら間違いなく『瀬尾グループ』以上のビッグネームだ。

 そして今、日本国民が最も関心を寄せている事柄でもある。

 デボラは既に二度、日本に壊滅的な打撃を与えている。挙句台風や大雨とは違い、何処に出現するか分からない。おまけに相手は自衛隊の攻撃をものともしないときたものだ。社会不安が蔓延するのも頷ける。投資家は日本企業への出資を避け、海外に資金が流出していた。

 海外は特に顕著だ。経済的に安定している『安牌』ではあるが、大きな成長も中々ないため得られる利益が乏しいのがこれまでの日本の投資事情だった。ローリスクローリターンというやつだ。しかしデボラにより、企業そのものがなんの前触れもなく消失する可能性が出たとなれば……ハイリスクローリターンとなる。投資先としてなんの魅力もない。

 旨味がなければ人は投資しない。投資がなければ企業は資金調達が困難になり、事業拡大どころか経営そのものが立ちゆかなくなる危険がある。

 『瀬尾グループ』は世界的に進出している事もあり、日本だけで経営している企業に比べれば被害は軽微だが……売上の四割は日本だ。普通の投資家ならその辺りの情報を精査し、リスクを推し量る。あまり楽観も出来ない。

 とはいえ何が出来るかと問われると、それもまた困るのだが。

「自衛隊の火力で撃退出来ないような生物なんて、民間の食品会社にどうしろって言うんだか」

「いっそロボット開発でも着手しますか?」

「ああ、良いね。全長三百メートルのロボットで殴り合う訳か。で、怪獣を倒した後は人間同士で争い始めると」

「お約束ですな」

 秘書と他愛ないジョークを交わしながら、はははっと進は笑う。確かに軍事方面の需要は生まれるかも知れない。いざとなったらそれを食い扶持にするかと、自嘲気味に考えた。

「ま、現実的には被災地と自衛隊への食料品援助を続け、世間的なイメージアップに務めるぐらいだな。それと本社の経営システムのバックアップを増やす。本社がデボラに叩き潰されても、企業運営を問題なく続けられる姿勢を内外に示すしかない」

「デボラ出現時に出したのと、同じ指示ですね」

「民間に出来るのは備える事だけだ。政府に期待したいものだがね」

「……実は、一つ小耳に入れたい情報がありまして」

 既に決めていた対策を繰り返したところ、秘書が顔を近付けてきた。

 この社長室は密室だ。余程の大声で話さない限り外に声は漏れないし、そもそも社長室の前を行き来する社員は少数。小声で話す必要はない。

 無意識にでも、そういう行動を取ってしまう情報という事だ。

「……聞かせろ」

「社員の間に、外国人労働者に対する不満が溜まっています。具体的には、中国人とアメリカ人に対するものです」

 進が命じると、秘書はすぐに答えた。

 聞かされた情報に、進は正直なところ驚きを覚えた。

 確かに今、日本は全体的に外国不信を加速させている。デボラの正体が何処かの国の生物兵器だという噂が広がっているからだ。かくいう進も、よもやあのような ― マグマに浸かり、ミサイルが通じないという ― 生物が自然に誕生したとは思えない。何処かの国が開発したとしか思えず、そうしたものを作れるのはやはり米国や中国しかないだろうと考えていた。

 しかしあくまで状況証拠であり、確証のある話ではない。政府や研究所が事実を突き止めるまで、疑惑は疑惑のままにすべきだ。

 勿論人間は機械ではないので、合理性だけで動けるものではないが……

「多少は想定していたが、そんなに酷いのか?」

「当社にデボラ襲撃による犠牲者遺族がいまして。彼等の一部が、積極的に陰謀論を広めております。ある程度共感を得られれば、外国人労働者の排除に動き出すかも知れません」

 秘書の話に、成程、と進は頷く。遺族ならば感情的になるのも分かる。そして野生動物に踏み潰されたというのと、何処かの国に殺されたというのなら、後者なら当たれる(・・・・)相手がいる分マシかも知れない。気持ちが偏るのは致し方ない。

 致し方ないが、これは見逃せない大問題である。『瀬尾グループ』の売上の二割は米国、もう二割は中国だ。日本を遙かに上回る経済規模の二国での売上拡大は、グループ全体の命運を左右する重大事項。そのためにも『地元民』の力は必要になる。外国人労働者を排除するなど出来ない。

 そうした思惑を抜きにしても、社員間の不和は企業としての力を損なわせる。解決は急務だ。

「……急ぎでミーティングを行おう。部長級にこの問題を提示し、調査させる。問題の深刻さを正確に知りたい」

「承知しました。スケジュールを組みます」

 秘書はすぐさまタブレットPCを取り出し、操作を始めた。とはいえ年末年始というこの忙しい時期、様々な企画や経営方針のミーティングが行われる。時間を取れるのは何時になるか……

「しゃ、社長! 大変です!」

 考え込んでいたところ、不意に誰かが社長室に跳び込んできた。

 ノックなしで扉を開け、挙句大声で呼んでくる。かなり驚いたのが本音だ。同時に、のっぴきならない事態であると悟る。

 部屋に跳び込んできたのは、経営部門の部長だったのだから。

「どうした? 何があった」

「きょ、巨大……いえ、デボラがまた現れたというニュースが入りました!」

「何!?」

 部長の報告に、進は椅子から立ち上がる。すぐさま情報を集めるように、秘書に視線を向けた。

 秘書はタブレットPCを操作し、ネットでの情報を集め始める。が、その顔は渋い。操作する指を止める事もない。

「……申し訳ありません。デボラは何処に出現したか、その詳細は分かりますか?」

 ついには情報を見付けられなかったのか、部長を問い質す。

 問われた部長は一瞬口を大きく開け、息を整えて、

「……アメリカです」

 それからハッキリと告げた。

「……アメリカ……?」

「はい。現地社員から連絡が入りました。向こうは現在午前一時前。報道機関や政府機関も不意を突かれた形で、やや動きが遅いようです」

「……分かった。すぐに現地役員と連絡を取り、状況を把握しろ。人命第一だ。一人も死なせるな。それと役員会議を始める。新しい情報が入ったら、すぐに私の携帯に伝えろ」

「は、はい。分かりました」

 部長は返事もそこそこ部屋を出て行く。礼節はなっていない、が、そんな事に拘ってる場合ではない。彼がゆっくり扉を閉める間に、社員の家族が踏み潰されているかも知れないのだ。

 進もすぐにデスクにある固定電話を手に取り、父親……いや、会長に電話を掛ける。金の亡者と蔑んではいるが、経営者としての腕前は自分より格段に上なのは認めざるを得ない。迅速に連絡し、指示を仰ぐべきだ。

 そして呼び出しのコール音が鳴る中、進は別の考えも巡らせる。

 アメリカにデボラが出現した。

 現状どのような被害が出ているか不明だが、日本での二度目の出現時には津波により町が一つ消えた。行方不明者二万四千人以上……つまり二万四千人が死んだと思われる。何処に現れたかによるが、もしアメリカの大都市に現れたなら、それだけで何万人と死んでいてもおかしくない。

 デボラが生物兵器だとして、果たして開発国を襲うのものか? コントロールが利かなくて暴走しているとも考えられるが、普通なんらかの対策 ― 頭の中に爆弾を埋め込んでおくとか ― をしておくだろう。それがないという事は、アメリカがデボラを生み出した犯人だとは考え難い。

 このニュースが公になれば日本国内……そして社内で生じていたアメリカへ不信感は大きく解消される筈だ。それ自体は良い事である。むしろ疑惑を乗り越え、より硬い信頼と団結が結ばれるかも知れない。

 だからこそ、進は危惧する。

 一致団結した人間というのは時として、悪魔よりも恐ろしいものであるのだから――――




ハリウッドデビュー(被害甚大)


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レベッカ・ウィリアムズの悲劇

 カタカタと小物が揺れる音によって目を覚ました事は、その日レベッカ・ウィリアムズの身に起きた事では数少ない幸運だった。

 レベッカの暮らす町はアメリカ西海岸に近く、一月でもそこそこ暖かいが、夜間となれば流石に寒い。うっかり目覚めてしまったばかりに寒さを感じてしまい、レベッカは意識がどんどん覚醒していくのを自覚した。明日も学校があるから、ちゃんと寝ないといけないのに……

 仕方なく身を起こしてみれば、寝室でもある自分の部屋の中は真っ暗。部屋中に飾ってある人形達の姿も見えやしない。どうやら日もまだ上っていないようだ。手探りでベッド横の棚を探し、その上にある目覚まし時計を捕まえたが、生憎針は見えそうになかった。

 スマホがあれば画面で照らすなり、そもそも画面の時計を見るなり出来るのだが、残念な事にレベッカは自分のスマホを持っていない。両親が持つのを許してくれないのだ、十三歳である自分にはまだ早いという理由で。

 後はもう部屋の電気を付けるしかないが、しかし部屋の中を歩き回るにはあまりにも暗過ぎる。もう諦めて二度寝してしまおうとレベッカは思った。

 しないで済んだのは、小物が立てるカタカタという音が何時まで経っても収まらないからだった。

 何か、おかしい。

 違和感と不安を覚えたレベッカは、なんとなく外の様子を知りたくなった。長く伸びた栗色の髪を背中側へと回し、棚の中に入れたロザリオを手探りで取り出して首に掛けた後、ゆっくりとベッドから足を下す、記憶を頼りに部屋の中をゆっくり歩き、カーテンで閉じられた窓辺まで辿り着いた。カーテンの隙間から外の明かりが微かに入ってくる。室内より若干外の方が明るいのは、月とか街灯のお陰だろうか。

 レベッカはカーテンをそっと開けた。

 そうして目に入った景色は、しかしレベッカには理解出来ないものだった。

 本来、この家の前には広々とした道路と、庭を囲うように生えている木々と、お向かいさんの一軒家がある。なのに今、その全てが見付からない。暗いからではない。その存在が、跡形もなく消えているからだ。

 代わりにあるのは、暗闇の中でもハッキリ分かるぐらい濁った、川のように流れる大量の水だけだ。

「な、なに、あれ……?」

 想像すらしていなかった光景に、レベッカは震えながら後退り――――する寸前に、ドオンッ、ドオンッという音が聞こえてきた。それは身体に響くような重々しい音で、レベッカは驚きのあまり飛び跳ねてしまう。

 何が起きているのかさっぱり分からない。お向かいのマーティンさん一家のおうちは何処に行ってしまったのだろうか、お隣に住んでいる幼馴染のジョージはこの事に気付いているのか……色々と考え、思う事はあるが、どれも確かめる気なんてしない。

 それよりも今は何処かに逃げないと、きっと大変な事になると思った。

「パパ! ママ!」

 レベッカは両親を呼びながら、自室から跳び出した。両親の寝室はすぐ隣の部屋。例え真っ暗な中でも迷わず辿り着ける。扉を開けて両親が寝るベッドに跳び込むのに、一分と掛からない。

「う……ん、レベッカ……? どうしたんだ……?」

「パパ! 大変なの! お外を見て!」

「外……? ああ、分かったから、落ち着いて……」

 熟睡していたのだろうか。目覚めた父はのろのろと、ゆっくりとベッドから出る。その動きがもどかしくて、レベッカは今度は母親を起こすべく揺さぶった。母が唸りながら身を起こした頃、ようやく父は寝室のカーテンを開ける。

 外の景色を見た瞬間、父の眠気が一瞬で吹き飛んだ事が、レベッカには背中越しからでも理解出来た。

「……レベッカ、すぐに着替えなさい。可愛いのじゃなくて、ちゃんと動きやすいものにするんだ。マリア起きてくれ。洪水が起きてる」

「洪水? でも雨なんて」

「本当はなんなのかなんて分からないし、大した問題じゃない。とにかくたくさんの水が家の近くを流れている。逃げないと家ごと流されるかも知れない」

 父の強い言葉を受け、母もようやく動き出す。レベッカは自室に戻り、言われた通り可愛いのではなく動きやすい服装に着替えた。言われるまでもなくそうするつもりだった。大切なロザリオを首に掛け直し、ぎゅっと握り締めた。

「レベッカ、準備は良いか。外に出るよ」

 着替えが終わった頃、普段着に着替えた父が部屋にやってきた。レベッカはこくりと頷き、父親の手を握る。

 その時ふと父のズボンが膨らんでいる事が分かった。

 銃を持っているのだと察した。アメリカは銃社会で、治安が悪いところだと普通に銃を持ち歩くが、逆に治安の良いところでは早々持ち歩かない。この町は平和なもので、レベッカも家に銃があるのは知っていても、外に持っていくのは初めての事だった。思わず父と繋いだ手に力がこもる。

 父に連れられて向かった一階には、母が待っていた。母と合流したら一家揃って家の外に出る。

 家の前は、やはり大量の水が流れていた。何か独特の匂いが感じられ、しっかりと嗅いでみたところ、レベッカはそれが潮の香りだと気付く。あの水は海水なのか? 確かにこの町は海と近いが、家の前まで海水が来た事なんて初めての事だ。

 水の勢いは段々と衰えているようで、最初部屋から見た時よりは落ち着いているように見えた。しかしそれでもかなり激しい流れで、うっかり足を踏み入れれば、レベッカなんて簡単に流されてしまうだろう。今よりもっと強ければ……お向かいさんの家も押し流せてしまうかも知れない。

「あなた、これからどうしたら……」

「……とにかく学校に行こう。レベッカの通ってる学校だ。学校はこういう時避難所として使われるし、あの建物はこの辺りで一番高い位置にある。きっと此処より安全だ。車はもし水に飲まれた時危ないから歩いて行こう」

 戸惑う母に、父はやや早口に答える。レベッカは、それが言い訳する時の自分によく似ていると思った。父もまた不安なのだ。

 けれども父は決して取り乱している訳ではなかった。告げられた方針は、十三歳のレベッカにもとても正しいものに思える。母も父の傍に寄り添い、家族で学校に向けて歩き始めた。

 学校へと向かう道中で、ちらほらと人々の姿が見えるようになった。多くの人がスマホを使って情報を集めていたが、顔が強張っている。時折父が何があったか尋ねていたが、分からない、という答えばかりだった。時折ドオンッという音が聞こえて、人々は走り出した。レベッカ達も早歩きになったが、怪我をしないようしっかりと歩く事を重視した。

 やがてレベッカの通っている学校が見えてきて、同時にその校門の前に出来た行列も目に入った。行列の傍にはパトカーや消防車が並び、警察官が列を整理したり、喚いている人を宥めたりしている。

「すみません、何が起きているのでしょうか? 家の前が水浸しで、慌てて逃げてきたのですが状況が分からなくて」

 父は行列に並ぶ前に、近くの警察官に声を掛けた。

 警察官は帽子を被り直し、神妙な面持ちで答える。

「我々も正確には……ですが、どうやらデボラが出現したとの事です」

「デボラ? って、確か日本に現れた」

「ええ、巨大モンスターです」

 警察官の話に、父と母が呆気に取られたのがレベッカには分かった。

 レベッカもテレビで見た。日本に映画やゲームで出てくるようなモンスターが本当に現れた、と。学校の友達は放射能の影響だとかなんだとか言っていたが、本当の事かは分からない。そもそもテレビに出てきたデボラはどんな建物よりも大きくて、あんなにも大きな生き物が実在するとはとても思えず、レベッカはいまいちその存在を信じきれていなかった。

 そのモンスターがこの町に来たなんて。

「……レベッカ、大丈夫。今に軍隊がやっつけてくれるよ」

 無意識に手を強く握っていたらしい。不安な気持ちに気付いてくれた父が、にっこりと笑いながら励ますように声を掛けてくれた。

「ほんと? でも、日本の軍隊は負けたって、言ってたよ?」

「そうだね。でもアメリカ軍は日本軍より強いぞ。学校で習ったかな? 昔、アメリカと日本は戦争をしていたんだ。日本軍は色んな国を占領するぐらい強かったが、アメリカはそれを打ち破った。日本が負けたモンスター相手でも、アメリカ軍の敵じゃない」

 父の説明に、レベッカはこくりと頷く。納得したのではない。大丈夫だと思いたかったのだ。だから父の言葉を信じた。

「避難所は利用されますか? その場合記名が必要ですので、列に並んでお待ちください」

「分かりました、使いたいと思います。教えてくれてありがとうございます」

 デボラについて教えてくれた警察官にお礼を伝え、レベッカ達は行列の一員に加わった。

 行列はとても長く、受付に辿り着くまで何時間も掛かりそうだった。けれども大勢の人と一緒だと安心感があって、レベッカは気持ちが落ち着いた。

 心に余裕が出来ると、行列の様子を見ようと思えるようになった。

 殆どの人が行列が進むのを大人しく待っていて、家族と一緒の人達は家族と抱き合い、一人の人はスマホを使って情報を集めている様子だ。スマホを見ている人達の顔色があまり優れず、しかし行列から離れる事もしていない。あまり成果は上がっていない様子である。

 そんな観察をしていたところ、ふと頭上から轟音が聞こえてきた。顔を上げると、チカチカと光るものが見える。きっと戦闘機とか爆撃機とかの飛行機なのだろう。デボラ退治に向かっているのか。

 飛行機はあっという間に頭上を通り過ぎ、何処かに飛んでいく……と、ドオンッという音が何度か聞こえた。先程からずっと聞こえているこの音は、どうやらデボラを攻撃する際のものらしい。爆音が自分達を守ってくれる音だと分かると、途端に心強く感じられた。

 今にきっとモンスターを退治して、家に帰れる。レベッカは自分を励ますように力強く鼻息を鳴らし

【ギギギギギギギギギギギギイイイイイイ!】

 彼方より響く。終末のラッパがその鼻息を打ち消した。

 ――――よく考えてみれば、おかしい。

 さっきから爆音は何度も聞こえている。つまり軍隊は何度も攻撃している訳で、だからデボラは何度も攻撃されている訳で……何時までも戦いが続いているという事。

 どうして、戦いは終わらない? 何度も軍隊が攻撃しているのに。

 レベッカの不安に同意するように、行列を作っている人々も少しずつざわめき始める。警察官が宥めると一旦は大人しくなるが、すぐにまたざわめきが起こった。レベッカの父と母もそわそわし始め、母がスマホを取り出して情報を集め始める

 その最中の出来事だった。

 空から(・・・)降ってきた(・・・・・)何かが(・・・)みんなが(・・・・)目指していた(・・・・・・)学校に(・・・)突き(・・)刺さったのは(・・・・・・)

 その瞬間、まるで雷が落ちたかのような爆音が響いたが……赤子の泣き声以外、騒ぐ声は聞こえてこなかった。誰もが唖然としていて、ぼうっとしながら学校の方を見ている。父も母も見ていて、レベッカも誰に言われるでもなく学校の方を見つめる。

 ガラガラと崩れていく校舎の壁。中に避難していた人達は大丈夫なのか? 心配する気持ちは、しかし暗闇の中にあるそれに気付いた瞬間吹き飛ぶ。

 戦車だ。

 校舎に突き刺さっていたのは、戦車だった。つまり戦車が空を飛んできて、学校に突き刺さった? レベッカはクラスメートの男子ほど軍事兵器には詳しくない。けれども戦車がとても重い事は知っている。空を飛ぶなんてあり得ない。だけど現に戦車は空から落ち、学校に突き刺さっている。

 そして今、戦車が戦っている相手はデボラしかいない。

 レベッカは理解した。誰もが気付いた。

 自分達の国の軍隊は、デボラを全く止められていないのだ。

「ひ、ひいいいいいっ!?」

「いやあああああっ!?」

 悲鳴があちこちで上がり、行列が崩れる。警察官達が宥めようとしたが、もう人々は言う事を聞かない。

 中には警察のパトカーを奪おうとする人も居て、時折パンパンッと軽い音が鳴り響いた。

「パパ……ママ……!」

「あなた……」

「大丈夫。落ち着いて逃げよう。ほら、声は後ろから聞こえたから、あっちに逃げれば」

 レベッカは母と共に父にしがみつき、父は逃げる場所を指で指し示す

 その最中の事。

 父が指差した方角にある市街地が浮かんだ(・・・・)

 そうとしか言えない。並んでいた家々が一斉に、轟音と共にふわりと舞い上がったのだから。浮かび上がった家は解れるように崩れ、無数の板やコンクリートの塊へと分かれていく。それらは四方八方へと飛び散り……レベッカ達の方にも向かってきた。

 瓦礫達は決してレベッカ達を狙ったものではないのだろう。大半はレベッカ達とは関係ない方向に飛んでいっている。しかし空を埋め尽くすほどの量だ――――避けられない。

 きっと自分はここで死んでしまうのだとレベッカは思った。こんなたくさんの瓦礫から逃げきるのは無理だから。

 一人なら。

 だけどレベッカには両親が居た。そしてレベッカは父と母にとても愛されていた。

 両親二人が揃ってレベッカの身体に覆い被さるのに、迷いなんてなかった。

「パパ!? ママ!?」

「レベッカ、愛してる」

「大丈夫よ」

 二人の行動を止めようとして、だけど時間はあまりにも短い。

 全身を襲う衝撃と共に、レベッカは意識を手放してしまうのだった。

 ……………

 ………

 …

「う、う、ぅ……」

 途切れた意識が回復した時、レベッカは全身に痛みを覚えた。それと、ずっしりとのし掛かる重さも。

 痛みはまだ我慢出来る。しかし重さの方は如何ともし難い。重さが肺を圧迫し、息がし辛いのだ。

 四肢をバタバタと動かし、上に乗っているものを退かす。そこでレベッカは、ようやく自分が目を開けているのに辺りが真っ暗なのだと気付いた。どれだけ見渡しても、目を凝らしても、周りの様子は分からない。

 一体どうなったんだろう。パパとママは? 軍隊はモンスターをやっつけたの?

 疑問を抱いていると、不意に光が自分の目を刺激した。それは柔らかな青み掛かった明かりで、月明かりだとすぐに気付く。普段なら町の明かりに負けてろくに辺りを照らさないそれは、真っ暗闇の中では十分な光だ。

 だからこそ、全てを照らしてしまう。

 レベッカは理解する。自分の周りが、無数の瓦礫で覆われている事を。あちこちの瓦礫の下に、腕や足が見える事にも。どの方角を見ようとも、自分が暮らしていた町の姿なんて何処にもないのだと。

 そして自分のすぐ傍に、倒れている両親が居る事も。

「ぱ、パパ!? ママ!? ねぇ、起きて、起きてよ!」

 咄嗟に呼んでも、両親は起き上がるどころか返事もしてくれない。ついに我慢ならないとばかりに、レベッカは父の頭を掴んだ。

 その手にねっとりとした生温かな感触を覚えなければ、きっと力いっぱい頭を揺さぶっただろう。

「ひっ!? ひ、あ。ぁ」

 レベッカは尻餅を撞き、反射的に自らの手を見る。青み掛かった月明かりではよく見えないが、それは黒ずんだ液体のような気がした。

 レベッカとて中学生だ。これが何を意味するのか分からない歳ではない。どうしたら良いかを考え、助けを呼ぶべきだとの結論に至った。しかし周りには、自分が意識を失うまであった筈のパトカーや救急車の姿はない……いや、あるにはあったが、どれも瓦礫がぶつかったのか、車体が潰れているものばかり。それらを運転する警察官やレスキュー隊員の姿なんて、影も形もない。

 人に頼るのは無理そうだ。ならば何処かに公衆電話はないかと考え辺りを見渡せば、なんという幸運か。スマホが落ちているのを見付けた。両親からは使用禁止を言い渡されているが、そんなルールを守ってる場合ではない。

「電話、電話……え、これ、どうやって使うの……」

 なんとか電源を点けてみたが、ロックが掛かっている。解除方法が分からない。両親がやっていた事を真似してみても上手くいかず、もう諦めてやっぱり人か電話を探そうかと思い始めた

 その時だった。

【ギギギギギイィィィィ……】

 おぞましい鳴き声が響いたのは。

 ゾッとした。それがデボラの鳴き声なのは明らかで……何よりすぐ近く(・・・・)から聞こえてきたのだから。

「ど、何処、か、ら」

 聞こえてくるのか。その言葉をレベッカは、最後まで言いきる事は出来なかった。

 目の前で、壁が動いていた。

 壁はとても大きくて、高くて、故に今まで存在する事が分からなかった。しかし動き出した今、どうして今まで気付かなかったのかと自分を責めたくなる。

 地鳴りのような音を奏でるそいつは、なんとも緩慢に動いていた。けれどもあまりにもサイズが大きいがために、途方もない速さとなっている。装甲のような甲殻が、ガチャンガチャンと金属のような音色を奏でた。やがて『壁』は大きく仰け反り、身体の下にある足の何本かをレベッカに見せた。ちょっと前に母が作ってくれたパエリアのエビと、よく似た足だった。

 レベッカは確信する。

 自分の目の前――――ほんの百数十メートル先に居るこの『壁』こそが、デボラなのだと。

「あ、ぁ」

 レベッカは腰が抜け、その場にへたり込んでしまう。だけど不思議とそこまで恐怖は湧いてこない。

 きっともう、自分の心は諦めてしまったからだとレベッカは思った。

 死を覚悟したレベッカだったが、されどデボラが彼女に襲い掛かる事はなかった。むしろ三百メートル超えの身体を起こそうとして、直後にぐったりと横たわり、足を伸ばしたり……なんだか動きが鈍い。勿論巨体故にちょっと動くだけで瓦礫が飛び散り、地震のように大地が揺れたが、町を破壊し尽くしたほどのパワーは感じられなかった。

 もしかすると、このモンスターは弱っているのだろうか。いや、そうに違いない。軍隊が一生懸命攻撃していたのだ。平然としている筈がない。

 胸の中に希望が芽生えるレベッカ――――そんな彼女の前で、デボラは大きく背中を丸め始め

【ギ、ギィイイイイィィィィ……】

 断末魔としてはあまりに間の抜けた、のんびりとした鳴き声を上げた。

 それからデボラは、悠々と身体を起こす。デボラの姿などテレビでちょっと見ただけだったが、今の佇まいがとても元気の良いものだとレベッカは察する。やがて始まった歩みにも、何処かの足を労る気配すらなく、淡々と動くのみ。

 こいつは、このモンスターは、さっきまで寝ていたのだ。軍隊が滅茶苦茶に攻撃した、そのすぐ後に。

 デボラは軍隊の攻撃なんて、蚊が刺すほどにも感じなかったに違いない。でなければこんな場所で悠々と寝ている筈がないのだ。レベッカだったら、蚊が飛び回る草むらで昼寝なんて出来ないのだから。

 レベッカはその場から動けなかったが、デボラはレベッカなど見向きもしなかった。する訳がない。軍隊の攻撃すら気にも留めないのに、足下のミジンコをどうしてわざわざ踏み潰すのか。

 デボラはその身を反転させ終わると、何事もなかったかのように歩き出す。瓦礫の山を蹴散らして進む姿に、なんの目的意識も感じられない。

 レベッカは呆然と、デボラの後ろ姿を眺めるのみ。泣き叫ぶ事も、石を投げ付ける事もなく、呆けた顔で見つめるだけ。

 やがてデボラの姿は地平線へと消える。デボラが居なくなれば、もう、何も残っていない。

 そう、何も。

 建物も。人も。命も。

 そして悲しみさえも。

 レベッカの顔に涙が浮かぶ事は、なかった。




アメリカさんはなんやかんや世界最強なので、
怪獣の強さを表現する上で結構便利。


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足立哲也の夕食

「米軍が協力してくれるそうだ」

 同僚である佐倉に問われ、哲也は一瞬なんの事かと思った。

 自衛隊基地内での朝食時。公務員である自衛官にとって数少ない自由時間……と言えるほど自由な訳ではないが、大騒ぎしない程度の私語は交わせる。そして佐倉はこの時間、よく哲也に話し掛けてくるのだ。歳が比較的近くて、明るい性格というのが理由かも知れない。哲也としても彼の話題の広さ、知識の深さには学ぶ事も多く、彼との話は割と好きだった。

 とはいえ今の話の意味を即座に察するほど、親しい間柄でもないのだが。

「……いきなりなんの話だ?」

「デボラの話だよ。お前が戦った怪獣」

「……戦った、ねぇ」

 哲也は鼻で笑ったような言い回しでぼやく。日本で行われたデボラへの『作戦』は、確かに法律上は軍事行動であり、デボラへの攻撃としか言いようがないものだろう。

 しかし参加した者は口を揃えてこう答える。あんなのはただ奴の足下でぴーぴー騒いだだけだ、と。戦車砲を顔面に喰らわせても、対戦車ヘリのミサイルをぶち込んでも、デボラは進路を変えるどころか怯みもしなかった。まるで相手にされず、奴は傷一つ負う事もなく悠々と海に去っている。

 あれを攻撃と呼ぶのは、負け惜しみのように聞こえてならない。一人の『兵士』としてのプライドがあるからこそ、哲也はあの時の事を戦いとは呼びたくなかった。

「ま、お前が何を思ってるかはどうでも良いさ。それでアイツが昨日の夕方、深夜のアメリカに現れたのは聞いたか?」

「ああ。今朝ニュースで見た」

「日本よりも被害が大きい事も?」

「……ああ」

 デボラがアメリカに出現してから、まだ半日程度しか経っていない。そのため報道で得られる情報はまだ多くはなかったが、日本よりも……『二度目』のデボラ上陸よりも酷いのではないかという話は出ていた。

 同時に、哲也はこの話を訝しんでもいた。

 自衛隊の実力は世界有数のものだ。先進国の中で『対戦』を行えば、それなりに上まで勝ち上がれると信じている。

 それでも、米軍に勝てるとは思わない。

 圧倒的物量、軍事技術の高さ、戦争に対する知識、練り込まれた兵站、そして『経験』……第二次大戦から七十年以上経ったが、今でも日本が米軍に勝つ事は不可能だろう。

 無論状況の違いはある。しかし米軍がデボラ相手に自衛隊よりも酷い被害を出すとは、とてもじゃないが哲也には思えなかった。いや、被害を出すどころか、米軍ならばデボラを倒せるのではとも思っていたのに。

「米軍でも歯が立たないのか」

「いや、米軍は奮闘した。むしろ奮闘し過ぎたらしい」

「……どういう意味だ?」

「米軍に、デボラが反撃してきたそうだ。その反撃によって上陸した町の七割、交戦した部隊も半分が吹き飛んだそうだよ」

 佐倉が何気ない調子で語った話に、哲也は一瞬心臓が止まるのではないかと思うほどの驚きを覚える。

 米軍の攻撃でデボラが反撃した、という事は、少なくとも攻撃が全く通用しない訳ではないのだろう。それ自体は吉報だが……問題は『反撃』とやらだ。町が七割り吹き飛び、戦闘部隊が半分も喪失するとは、一体何をしたというのか?

「詳細は分からないのか?」

「流石にまだ秘密らしい。が、噂じゃ航空戦力も落としたそうだ。いよいよ怪獣染みてきたな」

 肩を竦め、冗談めかした言い回しをする佐倉。噂と彼は言っているが、佐倉の情報は毎度正確だ。今回も、大きく違うという事はないだろうと哲也は考える。

 そして佐倉はまるで世間話のように話しているが、これは大袈裟でなく世界を変えてしまいかねない展開だ。

 米軍は世界最強の軍隊だ。最先端の装備を持ち、最良のシステムを備え、犠牲も厭わぬ強い精神を有す。彼等とやり合うならゲリラ戦しかなく、そのゲリラ戦にしてもゴリ押しで削られる有り様。核兵器だって山ほど持っている。中国やロシア、EUやアラブ諸国、反政府組織やテロ組織であっても、アメリカと真っ向から対立するのは難しい。アメリカという巨人が米軍基地を通して見張る事で、世界情勢はなんとか安定しているといっても過言ではないのだ。

 そのアメリカですら敵わないのが、デボラ。

 全長三百五十メートルもあるとはいえ、甲殻類一匹倒せないとなれば米国の威信は地に落ちる。米軍なんて怖くないと反政府組織やテロ組織が活発化したり、領海侵犯や孤島の不法占拠が増える可能性も高い。加えてもしデボラが噂されている通り何処かの国の『発明品』だったなら、今度はその国が世界の覇権を握る事となるだろう。

 世界情勢が大きく変わるかも知れない。それが日本の国益になるのか、日本人の生命と財産を脅かすものになるのかは、なってみないと分からないが……少なくとも、米国はそれを望まないだろう。

「成程、だから共同作戦か」

「ご名答」

 情勢が分かれば、佐倉が最初に言った言葉の意味も理解出来る。米軍単独の撃破は難しい。しかし仲間を集めようにも、デボラがなんなのか ― 何処の国が開発したのか ― 分からない以上、同盟国といえども早々協力は出来ない。

 その点日本は、最初にデボラが襲撃した事で、恐らく開発国ではないと考えられる。それに自衛隊の戦力は、アメリカほどではないとしても世界でもトップクラスだ。軍事演習も頻繁に行い、連携も十分に取れている。足りないのは精々実戦経験ぐらいなもの。何万もの人命を奪った『巨大エビ』退治なら、日本の反戦団体も迂闊には批難出来まい。

 現状、パートナーとして日本は最適という訳だ。一国では無理でも、二国ならば勝ち目はある。国民性の違いもデボラ撃破のヒントとなるかも知れない。

「米国はいずれ正式に日本に協力を要請するだろう。日本としても断る理由はないし、国民も大部分は拒否しない筈だ。そうなった時、デボラとの戦闘経験があるお前は間違いなく辞令が出されるだろうな」

「……多分、な」

「どうだ? リベンジ出来る気持ちは」

 佐倉に問われ、哲也は僅かに考え込む。

 リベンジ。

 確かにそうなるだろう。初戦では相手にもされず、奴の暴虐をただ眺めている事しか出来なかった。しかし今度は違う。アメリカという心強い仲間と、日本国民の後押しがある。次の戦いには、きっと自衛隊の総力を尽くせる筈だ。

 全力で挑めば、どんな困難も乗り越えられる。デボラを乗り越えるとは、つまりデボラを倒すという事。哲也は、それが可能であると信じていた。デボラを撃破したなら、リベンジを成し遂げたと言えるだろう。そして可能ならば二度とあのような災禍が起きぬよう、デボラを倒したいとは思っていた。

 ――――しかし。

「辞令が来れば勿論作戦には参加する。だがあくまで任務が最優先だ。結果的に倒せれば良いが、俺の私的な感情を優先する訳にはいかない」

 あくまで哲也は、作戦を優先するつもりだった。

 一回目の襲撃で倒せなかった悔しさや恨みがないとは言わないが、怒りに任せて部隊を掻き乱せばそれこそデボラの利となる。自衛隊というのは、いや、軍隊というのは、国民を守るための組織なのだ。自分はその一員であり、私情で動きはしない。

 ……面と向かってこれを同僚に言うのは、少し恥ずかしいので黙っておくが。尤も佐倉はニヤニヤとした笑みを浮かべていたので、お見通しなのかも知れない。

「良い心構えだ。ま、頑張ってあの怪獣を退治してくれ。応援してるぞ」

「他人事みたいに言ってるが、お前も参加するかも知れないだろ」

「かも知れないな。でも俺は役に立たない」

「なんでだよ」

「特撮映画で戦闘機が役に立った試しがないからだ。賑やかしのミサイルを撃ち込み、落とされるのが精いっぱいさ」

 佐倉のジョークに、何処からかくすりとした笑いが聞こえた。哲也も肩を竦め、笑みを浮かべる。

 全く、面白い冗談である。

 佐倉清史郎――――哲也達と世代の中で抜群の腕前を持つパイロットが落とされる戦場になど、自分達には想像も出来ないのだから。




さぁ、そろそろ人類も本気を出す頃合い。
でも全力を出すって、後がないって事ですからね(ゲス顔)


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及川蘭子の考察

 日米共同デボラ攻撃作戦。

 それは米軍と自衛隊が総力を結集して行われる、日米同盟締結以来最大の軍事作戦だ。陸海空の全戦力を一切の出し惜しみなく振るう、文字通りの総力戦を想定している。

 作戦地点はデボラが次に出現した日米どちらかの土地。デボラには米軍がセンサーを打ち込んでおり、その反応は現在も健在。リアルタイムでその居場所を示している。デボラ上陸が予想された土地では一日以内の避難が行われ、無人化した前提(・・)の地域で徹底的に攻撃。これまでとは次元の違う火力により、デボラを一気に屠る。

 デボラの甲殻は強固だが、しかし人類側の兵器が全く通じていない訳ではない。少なくとも米軍の攻撃は通用し、故にデボラの『反撃』を受けた。なら、火力を維持するだけの戦力さえあればデボラを倒せる。

 実にシンプルで、強引で、だからこそ確実な作戦だ。

「……で? 何故私にそれを教えるのです?」

 そして作戦を教えられた蘭子は、率直に抱いた疑問をぶつけた。

 蘭子は今、国が用意した研究施設……その中の実験室に居る。実験室といっても滅菌などが必要ない、来客の応対も可能な部屋だ。とはいえこの部屋に来る来客は、正規の職員か、政府関係者ぐらいなものである。何しろ此処こそが日本のデボラ研究の最前線なのだから。

 流れに身を任せたら、蘭子はデボラ研究の主任に据えられてしまった。三十前の若造に主任とかなんでそんな過大評価してるの? と思わなくもなかったが、潤沢な予算があるので黙って受け入れている。実態は小チームのリーダーぐらいの地位なので、割と妥当な位置付けだったのもさして反発しない理由の一つだ。

 そんな蘭子の前に居るのは、強面の中年男性……自衛隊の幹部だった。階級とか聞かされても蘭子にはよく分からなかったが、見た目の年齢と付けた勲章の数から、かなり偉い人物なのは間違いない。

 偉い人物こと小沢(おざわ)(はじめ)は、蘭子の目を見たままこくりと頷いた。蘭子は彼が座っている安っぽいテーブル席の対面に着き、正面から向き合う。やがて始は、ゆったりとした口調で語り始めた。

「自衛隊でもデボラの解析は行いました。米軍も同じで、本作戦は実戦データを元に計画されています」

「そりゃまぁ、そうでしょうね」

 現代の軍隊というのは、かなり電子化が進んでいると聞く。照準も電子機器で補助する事で、高速で走る目標にほぼ百パーセントの命中率で榴弾をお見舞いする……なんて事も可能らしい。そうした電子技術を用いれば、デボラの詳細な甲殻強度や、効果的な攻撃も分かりそうなものである。

 恐らくこの作戦は、それなりに勝機があるものなのだろう。

 なのに、どうしてこの男は――――怯えたような顔をしている?

「データがあるのなら、何が問題なのですか?」

「……どうにも、嫌な予感がするのです」

「嫌な予感?」

「はい。我々はデボラに二度の攻撃を行い、それにより多くのデータを得られました。また及川さんがデボラ出現から一月と経っていないこの短い間に発見した、多くの生態的知見も活用しています」

「そんな大した発見はしていないのですが」

 始の感謝に、蘭子は苦笑いを返す。謙遜ではない。正式な報告として挙げた知見など、デボラの甲殻が重金属を多分に含んだ有機合金とでも呼ぶべきタンパク質を主体にしている事と、その甲殻の強度が戦車砲にも耐えられるほどである事ぐらいだ。役立たずとは言わないが、大発見と呼ぶにはあまりに基礎的過ぎる。

 せめてデボラの遺伝子解析が完了していれば、胸も張れただろうが……

「全てのデータが、我々人類の勝利を証明しています。私も一自衛官として、自衛隊の導き出した結果を信じています。ですが……」

「不安を拭えない?」

「……奴は何か、奥の手を残してる気がします。勿論、そんな事を言い出せばきりがないのですが」

 始の意見に「そうですね」と蘭子は同意する。

 『悪魔の証明』というやつだ。存在する事は何かしらの証拠を出せば証明可能だが、存在しない事を証明するには可能性を全て潰さねばならない。白いカラスがいない事を ― 実際には存在するが ― 証明するには、世界中のカラスを捕まえて調べなければならないのだから。相手に『隠し球』があるなんて疑いは、それこそ相手の事を全て知り尽くさねば断言など出来まい。

 だから始の不安を、色んな意味で仕方ないものだと切り捨てても良いのかも知れない。

 知れないが……同時に蘭子はこうも思う。

 年輩者の勘というのは存外馬鹿に出来ないものである、と。

「……実は、最近になって確認出来た性質があるのです。まだ情報の精査中で、政府や自衛隊に報告出来る内容ではなかったのですが」

「? なんでしょうか?」

「その前に一つ確認します。デボラの甲殻が有す、熱耐性がどの程度かはご存知ですか?」

「……安定的な耐性は、千五百度までと聞いています。それを超えると強度が落ち、二千度を超えると変性するとも」

 始は少しキョトンとした様子で答える。彼の回答は正しい。その結果を導き出したのは蘭子自身なのだ。そしてその情報こそが、日米共同作戦の要である事も理解している。

 だからこそ、今、此処で伝える必要がある。例えそれが、今はまだ確定的でない結果であっても。

「実は甲殻の熱耐性で、一つおかしな点がありまして」

「……おかしな点?」

「一週間ほど千五百度の熱に晒していたら、変性してしまったのです。本来安定的に耐える温度帯にも拘わらず」

「……それが、何かおかしいのですか? 安定的とはいえ、限界点の温度です。人間だって、気温四十度の中には一日ぐらいいられますが、何日もいるのは難しいでしょう? むしろ断続的な熱攻撃に弱いという証拠ではないですか」

「有機物の変性とは、人間が暑さでダウンするのとは訳が違います。例えるならこれは、生卵を常温で放置したらゆで卵になっていた、ぐらいの異常現象ですよ」

 変性とはつまり、タンパク質の構造が変化するという事。いくら長時間熱を加えたからといって、安定的な温度でこんな事が起きる筈がない。

 そもそも千五百度とは、確かに高めではあるがマグマとして存在しうる温度だ。核の近くでは五千度を超えるという説もある。千五百度という耐性は高いようで、蘭子には何か、中途半端な気がするのだ。

 勿論マグマに長時間耐える必要があるのは、デボラが地殻に生息する野生動物だった場合の話である。デボラが生物兵器なら、マグマに常時浸るものではないので、数日程度の耐久を有していれば十分と言えよう。しかしあれだけ巨大な……製造コストが高そうな代物が、ほんの千数百度でダウンするという弱点があって良いものだろうか?

 蘭子の違和感は、始も感じるところなのだろう。彼のキョトンとした顔は、今や真剣なものと変わっていた。

「……政府への報告は?」

「今週中にやろうと思っていました。正直何を意味するのか私自身分かりませんし、証明したというには調査が足りない。なので追試験を行っていたのですが、どうやらその時間はなさそうですね」

「かも知れません。仮に今報告したところで、先程の私のように作戦成功を裏付ける理論程度にしか思わない可能性もあります。及川さんと同じく疑問を抱いても、今すぐ計画を変更するのは難しい」

「戦車や戦闘機にしても、動かすだけで時間もお金も掛かるでしょうからねぇ」

 願わくば、デボラが自分達の『想像』を超えていない事を祈るぐらいか。

 とはいえ蘭子は、日米共同作戦が失敗しても構わないと考えていた。勿論失敗しないに越した事はない。それにアメリカでの惨事を見るに、失敗となれば大きな被害が出るだろう。しかし同時に、膨大な実戦データも得られる筈だ。そこから失敗の原因を探れば、新しい作戦も立てられる筈である。

 失われた人命は戻らない、付けられた心の傷も簡単には癒えない。しかし人類の発展はそうした犠牲の積み重ねであり、一足飛びに進化するものではない。むしろ性急な行いは、「焦るとろくな事にならない」という分かりきった教訓にしか生まないものである。

 一歩一歩着実に進む。人類はそれしか出来ないのだ。

 ……なんて事は、人生の先輩であろう始にはわざわざ説くまでもあるまい。

 しかし何故だろう。

 始の顔に、焦りのようなものが見える気がするのは。

「……どうかしましたか?」

「え? なんの事でしょうか?」

 何気なく尋ねてみたが、始はキョトンとした様子だった。誤魔化したのかも知れないし、本当に心当たりがないのかも知れない。蘭子には判別付かなかった。

 なら、気にしても仕方ないだろう。

「いえ、すみません。なんでもないです。それより、今話した内容は、出来るだけ優先的に研究していこうと思います。何か、作戦に関わる重大な事が分かるかも知れませんから」

「お願いします。我々も、可能な限り対応出来るよう尽力します……今日は突然の訪問にも拘わらず、ご対応いただきありがとうございました」

 始は礼を伝えながら立ち上がる。要件は済んだのだろう。蘭子としても引き留める理由はない。社会人マナーとして部屋の外へとつながるドアの前まで見送るが、それだけだ。

「では、これにて失礼します」

「ええ。また何時かお会いしましょう」

 社交辞令の言葉を交わし、研究室から出る始を蘭子は見送った。

 扉は閉まり、同時に蘭子は振っていた手を止める。

 始との話は悪いものではなかった。むしろ蘭子としても、それなりに益のあるものになっている。

 やはりあの性質……長時間の熱耐性の低さには、何かがある。始の勘がその感覚を後押ししてくれた。自分としても何かがあると考えていたが、始のお陰で自信が持てた。今ならこの性質の解明が必要だと、政府に堂々と言える。

 いや、そもそも自分は端から好き勝手に研究するのがモットーなのだ。これからデボラを退治するというのなら、今更国が求める研究などする必要はない。勿論それらの研究も楽しかったが、もっと楽しそうな研究テーマがあるならそっちをやる。

「さぁて、実戦より先に見付けないとねぇ……腕が鳴るわ」

 ワクワクを胸に秘め、蘭子は踵を返す。目指すは装置が置かれた実験室。

 使命も責任もない、純粋な好奇心のみで、蘭子はデボラの秘密を暴こうとするのだった。




蘭子さんはフラグ製造機。
まぁ、あらすじ時点で三部作って言っちゃってるし……


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加藤光彦の受難

「……なんでこんな事になってるんだか」

 そろそろお昼を迎えそうな時間帯。とある駅構内のベンチに腰掛けながら、光彦はぽつりと独りごちた。

 そんな彼の頬を、ぎゅーっと引っ張る者が居る。

 光彦がその腕の中に抱いている、小さな赤ん坊であった。普段の彼は割と短気で、子供相手にも簡単にキレるタイプなのだが……一度怒ったらわんわん泣かれ、派手に注目を集める事となった。あのような失態は二度としまいと、ぐっと堪える。

 ――――そもそも何故彼は赤子を抱いているのか。

 この赤子は、彼がかれこれ二週間ほど前に気紛れで助けた、あの赤ん坊だ。本来この赤ん坊は、避難所とかに適当に押し付けるつもりだったのだが……押し付けようとした避難所がデボラに踏み付けられて壊滅。警察や消防、市役所もデボラにやられて壊滅。押し付ける場所が何処にもなかった。

 そうなると赤子の世話は、当然拾ってしまった自分が見るしかない。やっぱりそこらに捨てるというのは、目覚めが悪いから拾ったという経緯からして出来ないのだから。自腹で粉ミルクを買い、おむつを買い、テレビだかなんだかで見た記憶を真似して世話をする日々。上手に出来たとは到底思えないが、拾った赤子はとても大人しく、滅多に泣かなかったので世話は楽だった。流石にオムツから中身が溢れた時は、とっとと泣けよ、とも思ったが。

 とはいえこんな子育ての真似事なんて、何時までも出来る訳がない。というよりする気がない。ついに先日、光彦はネットで見付けた児童養護施設を訪れた。赤子を預けるために。

 そしてその児童養護施設で、虐待されているとしか思えないボロボロな姿の子供を見付けてしまったのが運の尽き。

 気付けば光彦は、今でも赤子を抱えていたのだった。

「おーう、加藤。ビール買ってきたぞー」

 今日に至るまでの経緯を思い出して項垂れる光彦の頬に、冷たい感触が走る。跳ねるように顔を上げると、そこには両手に缶ビールを持ち、しわくちゃな笑みを浮かべる老女の顔があった。

 美咲ヨウコ。光彦とはそこそこの付き合いがあるホームレスの女性だ。生業はスリと空き巣と空き缶拾い。この手の女性は大概顰め面ばかり浮かべるものだが、ヨウコは何時もにこにこ笑っていて、人当たりの良い人物だ……窃盗をしている時点で善人ではないが。

「おう、ありがとな。しかしなんで奢ってくれるんだ?」

「そりゃ、お前さんが娘なんて連れてくるからさ。孫の顔を見たら、年寄りはみーんな優しくなる」

「だぁーかぁーら! 俺の娘じゃなくて、拾ったんだってば! つかテメェは俺の親じゃねぇだろ!」

「かかかっ! 年寄りのジョークをマジになって怒るんじゃないよ。それに、その娘はお前さんが育てる事になるんだから同じようなもんさ」

 楽しげに笑いながら、ヨウコは光彦の隣に座り、開けた缶ビールに口を付ける。昼からビールを飲むとは如何にも駄目人間。同じく駄目人間である光彦も、特段迷いなく缶ビールを口にした。凍えるような寒さの中でも、よく冷えたビールが身体を通り抜ける感触は悪いものではなかった。

「……どういう事だよ。俺が育てる事になるって」

 興奮を冷たいビールで醒ました光彦は、ヨウコに問う。ヨウコはちびちびと缶ビールを口にしながら、おもむろに懐から新聞を取り出して光彦に渡してきた。

 光彦は新聞を受け取る。何処を見ろとは言われていない。しかし一面記事にある、大きな見出しに自然と目が向いた。

 曰く『日米共同作戦 法案に問題』との事。

「日本とアメリカが、協力してデボラを倒すそうだ」

「へぇ、そうかい。ま、アメリカもこてんぱんにやられたらしいし、おかしな話じゃないな」

「ああ、アメリカが協力するのはおかしな事じゃない。おかしいのは日本さ」

「……?」

「鈍い奴だね。日本の政治家が、そんな簡単に自衛隊を動かせると思うかい? 協力するって決断するのに、何ヶ月も掛かるに決まってる」

 ヨウコの意見に、そうかも知れない、と光彦は思う。政治なんて殆ど興味もない ― 選挙なんて面倒臭くて行った事すらない ― が、自衛隊云々で政治家は何時も揉めていた気がする。自分ですらそう思うのだから、きっと大いに揉めていたに違いない。決断に何ヶ月も掛かるというヨウコの意見は、大袈裟なものではないのだろう。

 しかしながら今回は巨大怪獣を一緒に倒そうという話だ。何処かの国を攻めようとか、支援に向かおうとか、そういう話ではない。クマ退治とか野良犬退治の、ちょっと大袈裟バージョンみたいなものだろう。さくっと決まったとしても不思議じゃないし、何より悪い事とは思えなかった。

「良いじゃねぇか。あんな化け物、さっさと退治してくれるならそれに越した事はないだろ?」

「馬鹿だねぇ。こういうのには裏があるって事だよ」

「裏? 怪獣退治にどんな裏があるんだか」

「簡単な話だよ。日本の中だけじゃ、こんなに早く話は進まない。日本の決断を促せる相手、つまり」

 ヨウコは言葉を句切り、目を見開く。

「アメリカの陰謀があるんだよ!」

 そしてなんの躊躇いもなく、そう言いきった。

 ――――そういやこのババァ、大昔の戦争で家と家族を吹っ飛ばされて大のアメリカ嫌いになってるんだっけ。光彦はヨウコの価値観を思い出した。

「そうさ、連中は何時だって卑劣だ。今回もきっと日本を矢面に立たせて、国をメチャクチャにするための作戦で」

「あー、よしよし。こんな陰謀ババァの言葉なんか聞くんじゃねーぞー」

「って、人の話を聞かんかい!」

 わざとらしく赤子をあやし、ヨウコの言葉を無視する光彦。ヨウコはカンカンだが、別に老女が怒ったところで怖くもないので気にしない。ヨウコはふて腐れるようにそっぽを向き、あからさまに不機嫌な鼻息を吐いた。

「ふん。まぁ、良いさ。あたしの予想じゃ、アメリカはデボラ退治にかこつけて経済的に鬱陶しい日本をメチャクチャにする気だ。そうなったら孤児院も何もやる余裕なんかない。だからお前さんはその子を育てる事になるのさ」

「へーへー、そうですかっと。あと孤児院じゃなくて児童養護施設な」

「何が違うんだい?」

「さぁな。俺も知らん」

 赤子を高い高いしながら、光彦は適当に答える。赤子はにへぇとした笑みを浮かべた。可愛い、とまでは思わないが、隣の陰謀論者の話を聞くよりはこの笑みを見ている方がマシに思えた。

「ま、アドバイスは素直に受け取るとするか。デボラ退治が始まる前に、どっかに押し付けねぇとな」

「おや勿体ない。その子、結構なべっぴんさんになりそうなのに。血が繋がってないなら、手を出しても犯罪じゃないよ」

「何言ってんだよこの色ボケが。生憎ガキには興味ねぇ」

 話を流しながら立ち上がり、光彦はスマホを取り出す。近くに児童養護施設がないか検索し、探してみようと考えていた。

 丁度、そんな時だった。

 光彦のスマホからけたたましい音が鳴り響いたのは。

 否、光彦のものだけではない。あちらこちら、通行人達のスマホからも音が鳴っている。誰もが自分のスマホを見て、驚愕の顔色を浮かべた。

 光彦は知っている。ちょっと前に、これと似たような事が起きた事を。そしてもしも『アレ』が今起きたとすれば、あまりにも不吉だ。

 見るべきか、見ないべきか。

「何があったんだい。ちょっと見せな」

「――――あっ、テメ……」

 考えていたところ、ヨウコにスマホを盗られてしまった。流石はスリと言うべきか、鮮やかな手付きで奪い取る。一瞬何をされたか分からず、光彦は慌ててヨウコが持つ自分のスマホを取り返そうとした。

 けれども、彼は固まってしまう。自らのスマホに映る文字が、自分の予想通りのものだったがために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デボラが太平洋側に出現。

 

 十五時間以内に四国に上陸するものと予想。




小悪党再び。
ちっぽけで意地汚い人間は割と好きです。
凄く人間らしい感じがするので。


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佐倉清司郎の目撃

 佐倉清司郎は若手自衛官の中で、最も優秀なパイロットと称される。

 当人にそのような自覚はないが、しかし空を駆けるのは好きだった。領空侵犯してきた『所属不明機』とやらを追い払いに出る時さえ、戦闘機に乗ると笑みが零れてしまう。勿論所属不明機との戦闘……つまり命のやり取りをする可能性は常に脳裏を過ぎるが、それにも増して空を飛ぶのが好きなのだ。飛行中毒者(ジャンキー)と呼ぶべきかも知れない。

 そんな清司郎でも、『そいつ』の姿を見た時には表情を引き攣らせた。

 デボラ。

 体長三百五十メートルもの巨大生物は、悠々と日本の海を泳いでいた。清司郎が乗る戦闘機は、デボラの上空二千メートルほどの高さを飛んでいる。デボラはとても巨大なため、この高さからでも十分に目視で確認出来た。

 自衛隊の護衛艦と米軍の駆逐艦がデボラを追っていたが、上空からその様を眺めている清司郎の目には、彼等がどんどん引き離されているように見える。デボラの最大潜水速度は明らかとなっていないが、ざっと時速百八十キロ……百ノットは出しているらしい。日本の護衛艦でも、その速度は精々三十ノット程度だというのに。一体どんな原理で泳いでいるのか、そもそもどうやって浮いているのか。ただ泳ぐだけでも謎ばかりだ。

 そしてデボラが向かう先にあるのは、四国の沖。

 突き進む先にあるのは、発展した都市部。日本とアメリカ上陸時はどちらも『港町』だったが、此度はビルなどが並ぶ主要都市だ。上陸時の津波でどれほどの被害が出るか、想像も付かない。

 無理矢理にでも幸いな点を探すなら、その都市の人々はとうに逃げ果せている点か。

 日米共同作戦が決まってから、最初の都市が戦場となる事は決まっていた。避難は迅速に行われ、もう人は残っていない……残っていない事となっている。本当にそうなのかを確かめる時間はない。確かめるために、デボラへの攻撃が遅れれば次の被害が生じるかも知れない。

 何がなんでも、この地で敵を討つのだ。

 護衛艦と駆逐艦は沖が近くなると追跡を止め、近海で待機。デボラは軍艦の意図に気付いていないのか、それとも無視しているのか。速度を落とす事なく……いや、むしろ加速させて沖へと迫る。

 海面が大きくうねる。莫大な量の海水が押され、デボラより一足先に沖を目指す。

 そして海面のうなりは津波となって、都市を襲った。

 膨大な量の海水が都市に流れ込み、小さな建物を飲み込み、大きなビルは土台を砕いて薙ぎ倒す。大地震による津波でも、こんな馬鹿げた被害は考えられない。高さ百メートルという、自然すらも超えたスケールがもたらす破壊だった。

 海水は十数キロ先の地点まで押し出され、今度は引き波となって何もかもを持ち去る。一度目の衝突をボロボロになりながらも耐えた建物さえ、逆方向からの削り取るような力で跡形もなく破壊された。

 跡に残るのは、真っ平らになった土砂塗れの平地。

 そして津波を運び、津波の中でも平然としている、デボラだけだった。

【……ギイイィイィィ……】

 デボラは金属がひしゃげるような、背筋の凍る声を鳴らす。それから辺りを見渡すと、のしり、のしりと前に進み始めた。

 『作戦第二段階』の成功だ。デボラは上陸時、津波を伴って海岸付近を破壊し尽くす。そのため沿岸部に戦車などの地上戦力は配置出来ない。しかしデボラを誘引する方法などはなく、デボラが内陸まで進んでくれるかは一つの賭けであった。

 最初の賭けには勝った。ツキはこっちを向いていると清司郎は確信する。

 清司郎はデボラの頭上を飛び回り、奴の行動を監視する。これもまた清司郎の任務であり、指示が出れば攻撃も行う。周りには他の戦闘機も複数旋回し、デボラ攻撃の指示を待つ。

 デボラは巨体を誇るだけあり、その移動速度も速い。上陸してからほんの十分程度で、沖から二十キロ近い内陸部へと足を踏み入れた。沿岸部ほどではないがビルなどの建物が並ぶ、都市部。

 此処こそが攻撃地点。

 展開していた一〇式戦車三十両、エイブラムス三十両が、一斉に砲撃を始めた!

 攻撃するのは戦車だけではない。遠方に配置された自走砲、迫撃砲もまた雨のように撃たれる。隠れていた戦闘ヘリも何十機と集まり、一斉にミサイルを発射。

 最先端の照準により狙われた目標に、この一斉砲火を一発でも回避するなど不可能。日米が協力して放った攻撃は、デボラの頭部に集中した。

【ギィイイイイ……!】

 デボラが唸った。攻撃を不快に思ったのか、顔を大きく逸らしたのだ。富士山ではろくなダメージを与えられなかった事を思えば、多量の火砲を集中させた事の効果は明白だった。

 無論手を緩める事はしない。いや、作戦はまだまだ前半戦だ。

 折角何十機もの戦闘機が待機しているのに、活躍する前に倒れられては拍子抜けである。

【航空部隊、攻撃を開始せよ】

「了解。攻撃を開始する」

 司令部より通達された攻撃指示を受け、清司郎達航空機による爆撃も始まる。

 空爆というのは、地上からの攻撃とは比較にならない破壊力を有す。戦車砲に耐えるような装甲を、一発で簡単にぶち抜くほどだ。

 そんな爆弾を、容赦なく落としていく。空爆といっても第二次大戦時のものとは訳が違う。レーザーによる誘導が行われ、正確に目標へと着弾する代物だ。妨害でもされない限り、外す事はあり得ない。

 何十機もの戦闘機が落とした、何百もの爆弾は、余さずデボラを直撃した!

【ギィイイイイッ!】

 爆撃を受けたデボラは、少しだけだが苦しそうな声を上げる。米軍から事前に提供された情報通りだ。空軍による攻撃は多少なりと効果があった、と。デボラが纏う甲殻は確かに現代科学でも理解出来ないような強度だが、決して無敵ではないのだ。

 同時に、デボラからの『反撃』が始まったのも空爆されてから、という話もある。

【……ギ……イィッ!】

 デボラが短く吠えた

 瞬間、デボラの頭部から半透明な(・・・・)空気の歪み(・・・・・)が放たれる!

 歪みは、あたかもビームか何かのように真っ直ぐな軌道を描く。太さはざっと幅三十メートル。地上を薙ぐように放たれたそれは、接触面を粉微塵に吹き飛ばしていく。舗装された道路も、建物も、戦車も人も関係ない。当たったもの全てが破壊された。近くに居た戦闘車両も、まるで子供の玩具のように飛ばされ、ひっくり返る。中には飛ばされた先に建つビルと激突し、砲弾の火薬が引火して爆散する自走砲もあった。

 一瞬にして何十両もの戦闘車両が撃破されたが、デボラの攻撃は止まらない。その巨体を大きく仰け反らせると、デボラが放つ空気の歪みは空高く昇る。秒速何十キロ、なんて速さではない。光のように、一瞬で空の彼方まで伸びる。

「ぐぅっ!?」

 清司郎は慌てて機体を傾け、空気の歪みを回避する。しかしそれが出来たのは、清司郎が優秀なパイロットだったからではない。空気の歪みが通ったのが、清司郎の操る機体から離れていたというだけの事。

 歪みが近くを通った機体は、直撃を避けたにも拘わらず木の葉のように吹き飛ばされる。航空機は空を飛ぶという性質上、機体はかなりの軽量化を強いられる……つまり重くて丈夫な装甲は乗せられない。吹き飛ばされた機体は、悲しいほど呆気なくバラバラにされてしまう。脱出装置など意味はない。あんな衝撃を受ければ、『中身』も同じくバラバラだ。

「くそっ! 聞いてはいたが、マジで戦闘機を落とすとは……!」

 悪態を吐きながら、清司郎は仲間の敵を睨み付ける。

 放射大気圧。

 圧縮した空気を持続的に照射し、何もかも吹き飛ばすデボラの技だ。有効射程は不明だが、高度一万メートルを飛んでいた爆撃機を撃ち落とすほどなのだから、十数キロはあるだろう。生物が対空攻撃をしてくるなど非常識の極みである。

 おまけにこの技、エネルギー効率も良いらしい。

 デボラは放射空気圧を、再び放つ。地上を薙ぎ払う一撃は、無数に展開していた地上部隊を易々と粉砕していく。一撃で一体何十の車両が、何百の人員が失われているのか、想像も付かない。そんな破滅の力をデボラは二度三度と放ち、地上に飽きたら空に向かって放つ。対戦車ヘリもついでとばかりに吹き飛ばした。

 ほんの数分で人類は展開していた戦力の多くを失ったが、デボラに疲労の色はない。むしろこの程度では物足りないと言わんばかりに、あちらこちらに放射空気圧を撃ちまくる。ビルが切り裂かれ、住宅地は更地と化し、道路は全て剥がされていく。

 一体、どんな軍隊ならこんな暴虐が可能だろうか? いいや出来っこない。人間の持つ兵器では、こんな滅茶苦茶が出来るものはただ一つ(・・・・)のみ。そしてアレは現代では禁じ手だ。その禁じ手と同じ事をデボラは成し遂げている。

 正しく怪獣だ。強過ぎる。

 米軍がこてんぱんにやられるのも納得出来た。自衛隊が総力を結集しても勝てるとは思えない。本当に、本当にとんでもない怪物だと、清司郎はデボラを評する。

 しかし清司郎は諦めた訳ではない。

 そう、ここまでは想定通り(・・・・)。分かりきっていた展開に絶望などしない。吹き飛ばされた地上部隊も、薙ぎ払われた空軍も、ここまでは覚悟の上だ。

 人類の反撃はここからが本番。

「……ようやく来たな!」

 レーダーに映る反応。それを見た清司郎は勇んだ声を上げた。

 海より飛んできたのは、エイのような形をした航空機。

 Bー2爆撃機……アメリカが誇る、最強格の航空戦力だ。

 増援として駆け付けてきた彼等のために、清司郎達生き残った航空機は道を空ける。颯爽と飛行した彼等はデボラの上までやってくると、次々とその株を開き、巨大な爆弾を落としていく。

 それはただの爆弾ではない。

 核シェルターをも貫くもの――――地中貫通弾(バンカーバスター)だ。

【ギッ!? ギィイイッ!】

 地中貫通弾はデボラの甲殻に命中。今まで快調に歩いていたデボラは、その打撃で身を仰け反らせた。次いで怒りに満ちた声を上げ、頭上を見上げる。

 放射空気圧を放つつもりだ。しかしただでは爆撃機を落とさせない。

 デボラの顔面に無数のミサイルが飛来、直撃する! 海上に展開した護衛艦と駆逐艦からの援護攻撃だ。デボラの顔を爆炎が多い、その視界を妨げる。デボラは激しく顔を振り、ミサイルが飛んできた方を睨み付けた。

 今度は地上から飛んできたものが、デボラの足を撃つ。

 地上部隊は、まだ生き残っていた。後方に控えていた戦闘員が即座に補充され、デボラへの攻撃を再開したのだ。今度は顔面ではなく、動きを止めるために足を狙う。

 攻撃されたデボラはすぐに地上部隊を見遣り、されどそこを爆撃機の攻撃が襲う。爆撃機へと振り向けば海軍が、海軍を向けば地上部隊が……三つの軍が、一つになっていた。

 デボラは確かに強い。きっとこの星で最強の生物だろう。

 だが人間には知恵があり、デボラにはそれが足りなかった。人間には力を合わせる仲間が居て、デボラには居なかった。

 人間は一人では弱い。けれども群れになればどんな猛獣でも打ち倒し、その力によってこの星で繁栄してきた。デボラはきっと歴史上最大の脅威だが、人類ならば乗り越えられる。

「いけっ……!」

 清司郎の小さな応援。

 それに呼応するように、Bー2爆撃機達は新たな地中貫通弾を一斉に落とし……全てがデボラを直撃する。

【ギイイイイイイイイイッ!?】

 デボラは呻きを上げながら、ついに膝を付いた。

 弱っている。

 清司郎は確信した。デボラは着実にダメージを受けているのだ。もっと攻撃すれば、このまま戦い続ければ、デボラを倒せる!

 それはこの場にいる者、全員の想いだった。誰もが勝利を確信した。恐るべき怪獣の最期を予感したのだ。

 だから――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤く光り始めたデボラに、誰もが呆気に取られた。




航空機落とせないと、
割と人類と戦うのが無理ゲーになるという。


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足立哲也の降伏

「……で、デボラ、発光してます……」

 戦車の照準器を覗いたまま、哲也はぽつりと呟くような声で報告する。

 日米共同デボラ駆除作戦に参加していた哲也は、放射大気圧の攻撃を幸運にも切り抜け、どうにか今も生存していた。彼は照準器越しに空軍と海軍が攻撃に成功したのも見ており、デボラが苦しんでいるところも目撃している。故に、このまま攻撃を続ければデボラに勝てると、そのような希望を抱いていた。

 だが、今は違う。

 照準器の向こうに見えるデボラは、赤く光り輝いていた。その輝きは最初ほんのりとした程度だったが、段々と強くなり……今では、降り注ぐ太陽にも負けないぐらい眩く輝いている。ずっと見ていると目が痛くなりそうで、哲也は目を細めながらの観察を余儀なくされた。

「なんだあれは……あのような変異は、報告されてないぞ」

 身体を外に出してデボラを見ている車長も、その変化に驚きを示す。自分が通達されたデボラ情報を理解しきれていなかった……そんな『暢気』な可能性が潰えて、哲也は息を飲む。

「こ、攻撃に対する、防御反応でしょうか」

「かも知れないが……嫌な予感がする」

「嫌な予感?」

「……新田、すぐに動かせるようにしておけ。後方にな」

「え? あ、はい。了解しました」

「足立は攻撃を続けろ」

「了解」

 車長の指示を受け、足立はこれまで通りの砲撃を、操縦手である新田は戦車の操作を行う。

 砲撃継続は当然として、後退の準備は上からの指示にないものだ。命令違反、ではないが、臆病風に吹かれたと言われても仕方ない。しかし車長が後方の下がるための、つまり後退の準備をさせたからには……きっと車長は今のデボラに何か、恐ろしいものを感じたのだと哲也は理解した。

 哲也達の戦車が逃げる準備を続ける中、空軍と海軍、そして戦車による砲撃は続く。赤色に発光するデボラは身動きを取らず、どの攻撃も命中。デボラに更なる損傷を与えた

「……ん……?」

 その時に、足立は違和感を覚えた。何がおかしいのかは分からなかったが、漫然とした疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 無意識に足立は光り輝くデボラのを凝視する。集中のあまり攻撃の手が緩むが、しかしその甲斐あって確認出来た事柄は、あまりにも重大な『想定外』だった。

 当たっていない(・・・・・・)

 砲弾やミサイルが命中する寸前に、まるで押し潰されるようにして崩壊している!

「車長! デボラへの攻撃、命中していません! デボラ表面から僅かに……恐らく数メートルほど離れた地点で、砲弾が炸裂しています!」

「何っ!?」

 足立からの報告を受け、車長はデボラを肉眼で観察。やがて舌打ちをするや戦車内に戻り、通信機に向けて叫ぶ。

「本部! 目標に攻撃が着弾していない! 目標から僅かに離れた地点で起爆している! 透明な……バリアのようなものがあるようだ!」

 車長の報告を聞き、足立は自分の見たものが間違いではなかったのだと理解した。しかし出来れば勘違いや思い違いであってほしかった足立は、悔しさから唇を噛み締める。

 バリアなんて、それこそSFの超兵器じゃないか。

 一体どんな原理で攻撃を防いでいるのだろう。それを解明しなければ、デボラに攻撃は通らない。攻撃が通らなければ、デボラを倒すなど夢物語で終わってしまう。

 足立は照準器から打開のヒントを探る。科学者でない身で解明出来る自信はないが、やらなければデボラは倒せない。現場に居る自分達でなければ気付かない事がある筈だと、哲也はデボラを注意深く観察する。

 やがて哲也は、デボラが何をしているのかに気付いた。しかしその気付きは、デボラの姿を観察して得られたものではない。

「……なんか、暑くない、ですか……?」

 戦車内にで起きた、気温の変化だ。

「……確かに、暑いな。エンジンの回転を上げたか?」

「い、いえ、上げてません。空調にも異常はないと思います」

 車長からの問いに、新田は狼狽え気味に答えた。

 哲也達が乗る一〇式戦車は、最新式の兵器だ。乗組員が暑さで倒れないよう、空調ぐらい備え付けられている。

 しかしその空調が稼働していながら、車内温度がどんどん上がっている。いや、そもそも今は二月にも入っていない、真冬の時期だ。寒くなるなら兎も角、暑くなるなんて考え難い。

 それこそ気温が大きく上昇しない限り――――

「まさか……!」

 車長は声を上げると、戦車から顔を出そうとして僅かに外につながる扉を開ける。

 瞬間、焼けるような熱風が戦車内に流れ込んできた! 車長は慌てて扉を閉じ、中へと戻る。

「な、なんだこれは……外が、とんでもない高温になってる……!?」

「が、外気温のセンサーが、急激な温度上昇を検知! 現在外は、六十度以上あります! 気温は今も上昇中です! このままでは車体のエンジンがオーバーヒートに陥り、機能が停止します!」

「不味い……こんな場所で動けなくなったら蒸し焼きだぞ」

「で、ですが、外に逃げようにも風も強くて……!」

 車長と新田のやり取りから、哲也も外の過酷さを知る。

 故に、デボラが(・・・・)何を(・・)しているのか(・・・・・・)、それも理解した。

 デボラは熱を放っているのだ。それも何キロも離れた位置の大気を六十度以上になるまで加熱するような、とんでもない放熱量である。デボラ本体、いや、デボラから数メートルの範囲がどれだけ高温かは想像も付かない。

 その高温により、周囲の大気を膨張させ、強烈な風を起こしているのだろう。超音速で迫る砲弾やミサイルを押し退けるほどの強風を。砲弾にしろミサイルにしろ、途中で押し退けられるような事態を想定していない。壊され、着弾の前に爆発しているのだ。

 専門家ではない哲也の推測ではあるが、現状そのように解釈するしかない。そしてこの解釈が正しければ、砲弾とミサイルをデボラに直撃させるのは実質不可能だ。

「本部! デボラは熱を放出し、砲弾を押し退けている! 着弾させる事は不可能だ! また気温が異常に上昇し、車体機能の停止が考えられる! 指示を請う!」

 車長もまた哲也と同じ結論に至ったらしく、上層部の指示を仰いだ。とはいえ哲也達の考えが正しければ、今のデボラに砲弾を幾ら撃ち込もうと通じない。撤退とまではいかずとも、作戦の練り直しが必要だと思われた。

「……了解。くそっ!」

 だが、上の考えは違っていたらしい。

「足立! 攻撃を続けろ! お上はなんとしても此処でデボラを倒す気満々だそうだ!」

「りょ、了解!」

 車長の指示を受け、哲也はデボラへの攻撃を再開する。

 一〇式戦車の照準システムは素晴らしい。砲手の動揺などお構いなしに、正確にデボラの顔面に砲弾をお見舞いする。

 しかし砲弾が炸裂するのは、デボラの顔から少し離れた位置。集中砲火を喰らわせても身を捩らせる程度なのだ。当たらなければ効果など得られない。空自や海自の攻撃も継続しているが、デボラに効果は与えられていない様子だ。

 勿論デボラとて生物なのだから、無限に体力が続く筈もない。生物学や物理学にそこまで明るくない哲也であるが、デボラの放熱に膨大なエネルギーが必要なのは分かる。あまり長時間は続けられないだろう。

 しかし人間側の兵器だって、無限に戦い続けられるものではない。容赦ない一斉攻撃は砲弾を急激に消耗する。戦闘機やヘリは燃料の問題だってあるのだ。

「……残弾なし。目標健在」

 哲也達の乗る戦車の弾が切れてから、さして時間も経たずにデボラへの攻撃は止んだ。攻撃中止の指示はまだ出ていない。一斉に攻撃を始めた結果、一斉に弾切れを起こしたのだ。

 日米共に攻撃の手が止まる。それから数十秒も経つとデボラが放つ光は急速に収まり、元の体色へと戻った。気温も一気に下降している事から、熱による防御も消えた筈だが……弾がなければ攻撃など出来ない。歩兵の対戦車攻撃などはまだ続いていたが、戦車砲などの攻撃と合わせずにやってもデボラからすれば豆鉄砲に過ぎないだろう。

 デボラは顔を上げ、無数にある足を動かす。空爆などによるダメージはもう残っていないかのように、立派に大地に立っている。

 ただし哲也は感じていた。

 デボラの胸の内にある『怒り』だけは、攻撃を受けていた時よりも更に激しく燃え上がっていると。

【ギギイイイイイイイイイイイッ!】

 デボラの怒りの咆哮が、哲也の印象が正しい事を証明した。

 デボラは再び放射大気圧を地上目掛けて照射。薙ぎ払うように、何キロにも渡って大地を吹き飛ばす。

「は、歯を食い縛って何処かに掴まれ!」

「ぐっ……!?」

 哲也達が搭乗する戦車も、放射大気圧の余波を受けた。数十メートルは離れた位置を通ったのに、重さ数十トンはある戦車が小石のように舞い上がり、大地を転がる。頑強な装甲に覆われた戦車でなければ、今頃スクラップだ。車長からの指示もなければ、舌を噛んで死んでいたに違いない。

 それでも、転がる車体の中で全身を何度も打ち付けたので、無傷とはいかなかったが。やがて車体は止まり、地獄のような時間は終わりとなったが、足立はすぐには動けなかった。

 転がった際に機材が壊れたようで、車内は真っ暗になっている。照準器から外の様子は見えない。どうやら車体を捨て、脱出しなければならないようだ。

「……大丈夫か、お前ら……」

「……じ、自分は、なんとか……」

 近くから聞こえてくる車長の声に、哲也は身体を動かしてから答える。少し痛むところはあるが、動けないほどではない。

「……すみません。足が、動かない、です」

 対する新田は、あまり良くない状態らしかった。

「足立、手伝え。新田を救助する。お前は車体のハッチを探せ」

「りょ、了解」

 車長から命令され、足立は戦車のハッチを探す。無論本来なら車体上部にあるもので、例え暗闇の中でも迷わず見付けられるものだ。

 しかし今の戦車は激しく転がり、その弾みで哲也達も座席から飛ばされている。もしかすると完全にひっくり返り、ハッチが地面で塞がってるかも知れない。その場合、救助が来るまで閉じ込められる事となる。

 幸いにしてハッチはすぐに見付かった。側面だ。どうやら戦車は横向きの状態で止まっているらしい。衝撃で歪んだのか手では開けられなかったが、思いっきり蹴飛ばしたところなんとか外れた。

 外は見晴らしの良い場所だった……否、正確には良くなった場所か。どうやらデボラの放射大気圧が抉った跡地に、戦車は嵌まったらしい。木々も草もない、剥き出しの大地が一直線に続く、おぞましい景色だった。

 こんな怪物と戦っていたのか……画面越しだけでは分からなかったデボラの力に、哲也は息を飲む。されど怯んでいる暇はない。このままひっくり返ってしまうかも知れない戦車内に、まだ仲間が居るのだ。

 車長と共に新田を引きずり出し、戦車から離れた位置に寝かせる。新田の息が荒いのは苦しさからか。不安が哲也の脳裏を過ぎる中、車長が簡易的な診断を行う。

「……どうやら足が折れてるようだ。固定するものが欲しい。足立、木でもなんでも良いから、棒を幾つか持ってきてくれ」

「了解!」

 車長からの指示を受け、哲也は駆け出す。抉られて坂道になった大地を登り、平地まで出たが、近くは放射大気圧の余波で何もかも吹き飛んでいた。遠くまで行かねば棒一本なさそうだ。

 そうして周りを見ていると、背後からぞりぞりと削るような轟音が聞こえてくる。思わず振り向いた哲也の目に映ったのは、彼方で暴れ回るデボラの姿だった。

 デボラは哲也達の戦車を吹き飛ばしただけでは飽き足らず、未だ放射大気圧をあちこちに撃ち込んでいた。放射大気圧が直撃した他の戦車は、耐える事すらなく圧壊。装甲が薄い自走迫撃砲などは掠めただけでバラバラに砕け、中身諸共消し飛んでいる。

 地上部隊を一掃したデボラは、しかしまだ怒りが治まらなかった。くるりと振り返ったデボラが見るのは海の方。人間の視覚には捉えきれない、数十キロ彼方に護衛艦と駆逐艦が浮かぶ場所。

 デボラは、放射大気圧を海に向かって撃った。

 放射大気圧は大量の海水を吹き飛ばしながら直進。五十キロは離れていた海自の護衛艦を、易々と貫いた。デボラはそのまま首を横に振り、ついでとばかりに米軍の駆逐艦も薙ぎ払う。二隻の戦闘艦が、一瞬にして撃沈された。

 デボラは空中の敵も許さない。空を見上げたデボラは、頭部を激しく揺さぶりながら放射大気圧を空目掛けて撃つ。するとこれまである程度集束していた空気の歪みが、大きく広がり、扇のような形となった。

 攻撃範囲を自在に変えられたのだ。勿論拡散させればその分威力は落ちる。しかし空を飛ぶ航空機達にとって、自然の暴風すら驚異なのだ。秒速百数十メートルもの風となれば、コントロールを失うには十分。次々と航空機が錐揉み回転しながら地上に落ちていく。

【ギイイイイッ! ギィ! ギイイイィィィィッ!】

 デボラは暴れ狂う。あらゆるものを放射大気圧によって吹き飛ばし、何もかもを灰燼へと変えていく。粗方敵を吹き飛ばしても、それでもまだ暴れたりないのか。

 町を吹き飛ばす。

 山を吹き飛ばす。

 大地を吹き飛ばす。

 何もかもが破壊されていく。

 空爆をあんなに喰らわせたのに、瀕死どころか元気いっぱいではないか。戦車どころか航空機、戦闘艦まで破壊するなんて、本物の怪獣だ。あんなのに勝てる訳がない。遠くに逃げないと殺される――――

「……こんな事、考えてる場合じゃない!」

 頭の中を満たす感情を払うように、哲也は頭を力強く振った。勝てる勝てないを考えるのは、司令官や政治家の仕事だ。自分は一介の自衛官であり、国民のため現場で戦うのが役割。強大な敵を前にして、情けなく膝を付く事ではない。

 今は仲間の救助を優先しよう。負の感情を、先程受けた『命令』で押し出して、哲也は再び走り出す。百メートル以上走ったところで、地面に突き刺さった木の棒を幾つか見付けた。太さと長さが少し心許ないが、周りを見る限り他に良さそうなものもない。

 ないよりはマシだと思い、五本ほどの枝を確保し、哲也は車長と新田が待つ戦車の下へと駆け戻る。

 戦車へと続く坂道を駆け下りる中、新田が身を起こしている姿が見えた。足は怪我しているが、腰から上は無事なようだ。遠目に見える朗報に、哲也は頬を綻ばせる。

 しかし近付くほど、彼の顔は強張っていった。

 車長と新田が、言い争っているような様子なのだ。最初はまさかと思ったが、距離が縮まるほどに確信が深まる。一体何があったのか。

「車長、枝を持ってきましたが……」

「足立! お前も手伝え! 新田を手当てして、急いでこの場を離れる!」

「足立、俺の事は気にするな! 早く逃げろ!」

 とりあえず声を掛けてみれば、車長と新田から別々の『命令』を出された。特に新田は基本的に指示を出す立場ではない。

 無論本来ならば新田の意見など無視し、上官である車長の命令を聞く。自衛隊……軍隊とは、上意下達を徹底しなければならない組織なのだから。しかし同僚である新田の叫びがあまりにも必死で、哲也の心に迷いを生じさせる。

 そんな哲也の状態を見抜いたのだろう。車長は捲し立てるように、哲也にこう告げたのだった。

「二十分以内にデボラへの原水爆攻撃が行われる! 早く新田の応急処置を終わらせて、少しでも遠くに逃げないと巻き込まれるぞ!」




水爆使用は負けフラグ(ぇー)
サメとかクモが相手なら、まだ勝てそうな感じなんですけどねぇ……


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及川蘭子の預言

「……成程ね。これがデボラの『能力』か」

 様々な数字の書かれた紙をデスク上に放り投げ、蘭子は自身が腰掛けていた椅子の背もたれに身を預けた。誰も居ない研究室の所長室で、見もしないテレビを点けっぱなしにしながら、天井を見つめて蘭子は考え込む。

 恐らく、今正に実行中である日米共同の駆除作戦は失敗する。

 力不足、というよりも相性が悪い。通常兵器でも多少のダメージは与えられるだろう。しかし計算通りにはいかない筈だ。それを裏付けるデータが、ようやく得られたのだ。

 さて、このデータは何時報告すべきだろうか。出来るだけ早い段階が良いのは勿論の事だが、作戦失敗の直前に報告しても理不尽な怒りをぶつけられそうで――――

「及川先生! 大変です!」

 考え込んでいると、室内にスーツ姿の若い男性が入ってきた。蘭子はちらりと、入ってきた男性を見遣る。

 彼は研究員ではない。デボラ研究の政府方針などを伝えてくる連絡係……というのは少々酷な言い方か。要するに官僚の一人だ。何度か打ち合わせをした事がある顔見知りで、蘭子としても信用している人物である。

 そんな彼が狼狽えた様子でやってきた。何か、大事な話でもあるのだろうか。

 例えば、今し方蘭子が辿り着いた『予想』が現実になったとか。

「どしたの? デボラ駆除作戦でも失敗したのかしら?」

「えっ……どうして、それを?」

「たった今、きっとそうなるってデータを得られたからよ。ま、後の祭ってやつだけどね」

 デスクの上に放り投げた紙を拾い、ぺらぺらと見せ付けるように蘭子は紙を揺らす。官僚の男性は一瞬戸惑った様子を見せたが、しかしすぐに緊迫した顔持ちに戻った。

「わ、分かりました。でしたら冷静に、聞いてください」

「……まぁ、聞くだけなら」

 何をそんなに話したいのだろうか。疑問に思う蘭子の前で、官僚は二度三度と深呼吸を繰り返し、自身の気持ちを鎮めようとする。

「米軍がデボラへの核攻撃を行います」

 それでも、告げた言葉には何処か怒りや悲しみが混ざっていて。

 蘭子は彼の告げた言葉で、頭の中が真っ白になった。

「……は、えっと……?」

「四国から東京までの距離でしたら、放射能による被爆などはあり得ません。ですがデボラ研究をしていた先生は、この核攻撃に対する関与が疑われる恐れがあります。マスコミなどの追求を受けた場合、回答を用意しましたので打ち合わせを……」

 若い官僚は真剣な言葉で蘭子に話す。蘭子という研究者の身を守ろうという気持ちがひしひしと感じられた。

 感じられたが、蘭子は彼の話を聞かなかった。代わりに自らの頭の中で、目まぐるしく思考を巡らせる。

 恐らく、デボラには殆ど通常攻撃が通じなかったに違いない。計算では貫通するような攻撃も、甲殻を砕く集中砲火も、全て無効化された筈だ。

 通常兵器が通じない。ならば通常ではない兵器が必要である。

 例えば生物兵器……デボラのような怪獣があるなら兎も角、細菌をばらまいてどうする。対人間用の細菌が、全く別系統の生物種に感染するとは思えない。

 ならば化学兵器……有効な量の毒ガスを散布するのも大変だ。そもそもデボラには放射大気圧という、大気を掻き乱す力がある。毒ガスなんて簡単に吹っ飛ばされてしまうだろう。

 残る兵器は、核兵器のみ。

 通常兵器とは比較にならない、出鱈目な威力。化学反応では生み出せない、物理学的事象による高熱ならば如何にデボラでも……そうした考えに米軍、いや、人々が辿り着くのは必然だろう。

 実際のところ、蘭子は核兵器にそこまでの忌諱感はなかった。やたらと使う事は賛同しないが、必要に迫られてもなお避けるべき選択肢とは思わない。核兵器により四国の大地が汚染され、何百万もの人々が住めなくなっても、何億という人々がデボラの驚異から永遠に解放されるなら、それは『合理的』な判断だ。

 だが、駄目だ。

 デボラに(・・・・)核兵器を(・・・・)使っては(・・・・)ならない(・・・・)

「……っ!」

「せ、先生? 電話を何処に掛けるつもりですか……?」

「防衛大臣、いや、総理大臣と連絡させて! 核兵器の使用を止めさせないと不味い!」

「や、止めさせるって、無理ですよ! 決定したのは米国で、こちらは一方的に通知されただけです! 作戦失敗が確定したら、核兵器による攻撃は行われます! もう止められません!」

 室内の電話から連絡を取ろうとする蘭子を、官僚は泣きそうな声で止めた。彼の言い分は尤もな話で、確かに意味はないように思える。

 だが、ならば尚更伝えねばならない。知っていたのと知らないのでは、今後の対応は別物になる。

「デボラの生理的能力について、一つの仮説がつい先程立てられたわ。恐らく奴は、熱エネルギーを吸収している」

「ね、熱エネルギー?」

「甲殻にそうした機能があるの。甲殻自体は千五百度程度の熱にしか耐えられないけど……恐らく循環している体液が、そうして得られた熱を回収しているんでしょうね。得られた熱は代謝機能に活用されると思われるわ。奴に通常兵器が殆ど通じなかったのは、甲殻が硬いからというだけじゃない。熱により活性化した代謝機能が、損傷を即座に再生させたのよ」

「ね、熱で再生力が強くなる……あっ!?」

「核兵器最大の特徴は、放射能やら広域破壊じゃない。膨大な熱量よ。熱で全てを焼き尽くすの。どれだけ威力が高くても、高熱を発する兵器ではデボラを倒せない……いえ、活性化させるだけね」

 蘭子の『預言』に、官僚は言葉を失ったように口を喘がせる。

 勿論これはあくまで実験データからの推測だ。得られたデータが示すのは、甲殻には熱を吸収する作用があるという点だけ。もしかしたら蘭子がデータを読み間違えているかも知れないし、熱を吸収するのが確かだとしても、核兵器の放つ熱波に耐えられるとは限らない。日本人は米を食うが、時速百キロで飛んできた米俵の直撃を受ければ、大体誰でも死ぬのだから。

 だが、生命は何時だって人間の予想を上回ってきた。ましてやデボラはこれまでの科学的常識の通用しない相手。何が起きるか分からない。

 永遠に中止しろとは言わない。けれどもせめて待ってほしい。本当に核兵器が通用するのか、通用するのなら必要な数は如何ほどなのか。せめてそれが分かるまでは……

 蘭子は祈った。間に合ってほしいと。

 ――――自分の祈りが届いた事など、ここ最近からっきしだったというのに。

【緊急速報です。政府は先程、米国がデボラに対し核攻撃を行った(・・・)との通知を受けたと発表しました】

 背を向けていたテレビから、無情な言葉が響く。

 蘭子はテレビの方へと振り返る。官僚の男も、愕然とした顔でテレビを見た。テレビの中のアナウンサーは、二人の気持ちなど露知らず、神妙な面持ちで語った。

【既に核ミサイルは発射され、デボラには十五分後に着弾するとの事。デボラ襲撃が予想された四国では既に住民の避難は行われ、市民への放射性物質による影響はないとの事です。ですがデボラの周辺には戦闘を行っていた自衛隊や米軍兵士が居り、彼等の身が危険に晒されるのではとの懸念があります】

「お、及川先生……」

 官僚が蘭子の方へと振り返り、名前を呼んでくる。なんとかしてほしい、そんな気持ちがひしひしと感じられた。

 それを言いたいのは蘭子も同じだ。けれども預言をしてしまった身として、自分の考えを否定する気になどならない。否定したところで現実は変わらない。

 出来るのは、これからを考える事ぐらいか、

「……結果を待ちましょう。私の予想が外れる事を祈って」

 普段信じてもいない神様にお願いする事ぐらいだった……




駄目みたいですね(冷徹)


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デボラの怒り

 デボラは悠々と大地を闊歩していた。

 人間達を蹴散らした彼 ― 雄かどうかは不明だが ― は、散歩をするようにゆっくりと地上を練り歩く。時折ビルをハサミで突いて破壊したり、小学校を踏み潰したり、一軒家を尾っぽで吹っ飛ばしたり……何も考えていないような、自由な移動を繰り返すばかり。警戒心も何もない。

 そんな彼の前に、彼からするととても小さなものが落ちてきた。

 彼は小さなものに対し、何もしなかった。いや、何かする暇もなかったというのが正しいだろう。

 落ちてきたものの名前はB83……アメリカが保有する水素爆弾の一つ。その出力はTNT換算で約千二百キロトン。広島に落とされたものの八十倍に達する代物だ。

 超音速のミサイルと共にアメリカから飛んできた水爆は、なんの問題もなくその機能を発揮した。内部に設置された『原爆』が起動し、そのエネルギーが本命である重水素を圧縮。核融合反応を生じさせ、膨大な熱エネルギーを生み出す。

 生成された熱は爆風となって辺りに吹き荒れる。中心部は四億度にも到達し、あらゆるものをプラズマ化させていった。

 デボラは、その直撃を受けた。

【ギイイイイイイイイイイイッ!?】

 デボラは悲鳴染みた叫びを上げた。されど核兵器の爆風が奏でる破滅の音色の方が、デボラの叫びよりも遙かに大きい。打ち付けられる熱波に、デボラの甲殻は溶けていく。

 しかしデボラの身が完全に砕ける事は、なかった。

 熱波を浴びたデボラの身体は、激しく機能を増幅させた。溶けて剥がれていく甲殻は剥がれる側から再生し、身を守る新たな盾となる。砕けた目も、折れた触覚も、瞬く間もなく元に戻った。吹き飛んだ足だって即座に生えてくるため、バランスを崩して倒れ伏す事すらない。

 熱波は一秒と経たずにピークを越え、減衰する。数秒後には周辺には爆風が吹き荒れ、コンクリート製の建物を藁の家かの如く破壊していった。人間にとっては死を招く嵐は、ミサイルの直撃にもビクともしないデボラにとってはそよ風。甲殻をも溶かす熱は一瞬で下がり、ちょっと温かな(人が丸焦げになる)空気が漂うだけとなる。

 核の炎が晴れた時、デボラは攻撃前と変わらぬ姿を人間達に見せた。

 存分に熱を受けた身体に傷はない。神の炎を受けてなお、その身は現世に留まり続ける。人智を嘲笑うかのように。

 されどデボラは人を嘲笑わない。

 代わりに、怒る。

 デボラは激しく怒った。如何に再生しようとも、目が抉られ、殻を剥がされたのだ。とても痛かったに違いない。

 人は理性で怒りを抑える。されど甲殻類である彼は理性を有するのか? 有していたところで、ちっぽけな虫けらの命にどれだけの関心を向けるのか?

 デボラは答えを示した。

 頭部の先より放たれる、瞬間的に加熱され、膨張した空気の波動。鋼鉄の塊さえも打ち砕く爆風は、周辺の大地を吹き飛ばす。自分を痛め付けてきた虫けらを、一匹残らず吹き飛ばすために。

 照射される空気の波動は、途切れる事を知らない。今のデボラの身体には、デボラの身体さえも吹き飛ばさんとした熱エネルギーが溜まっているのだ。どれだけ撃とうと、どれだけ壊そうと、デボラの力は止まらない。

 自分の周りを更地にしても、デボラの怒りは収まらなかった。デボラは周りに壊せるものがなくなった事を理解すると、そのまま北上を開始。市街地を破壊しながら、どんどん北上していく。

 日本と米国は、勿論彼の進行を黙して受け入れはしなかった。総力戦ではあったが、面積的に運び込めない分、時間的に間に合わなかった分の戦力はまだ残っている。核兵器が直撃したのだ。耐えてはいるが辛うじての筈であり、このまま攻め込めば倒せるに違いない……そんな想いもあっただろう。

 しかしデボラは弱るどころか、活力に満ちていた。溢れるパワーを持て余し、沸き立つ怒りに突き動かされていた。

 人類とて奮闘はした。二度目の核兵器が発射されなかったのは、日本の『科学者』がデボラの生態を解明したお陰である。熱攻撃は効果が薄いため、戦車砲と地中貫通弾による攻撃を主体とした。

 されど人類の攻撃は、デボラの怒りを買っただけだった。デボラは人類の抵抗を一息で吹き飛ばすと四国の海を渡り、関西に上陸。大阪を焦土に変え、京都を薙ぎ払い、滋賀を踏み潰していく。四国から遠く離れていた関西圏の人々は、自動車よりも遙かに速い速度で接近するデボラからの避難が間に合わなかった。何十万、何百万という命が、加熱された大気の暴風により吹き飛ばされていった。

 関西を越えれば、いよいよ関東である。デボラの進行は止まらず、大都市を巨体が突き進む。都市が抱える莫大な人口は、急速に接近する驚異など想定していない。逃げる人々で交通網は麻痺し、混乱から暴動が生じた。暴動は自分達が逃げるのに必要な交通機関を破壊し、自らその逃げ道を塞いでしまう。

 都市は棺桶となり、デボラはその上を移動した。暴れ回り、何もかも破壊していった。関東の大都市を踏み潰したデボラは、やがて東北へと到達。そこでも町を幾つか踏み潰し……四日ほど暴れた後、ようやく怒りが収まったのだろう。不意に動きを止めると、そそくさと太平洋に戻っていった。それは誰もが祈り、待ち望んでいた瞬間だったが、日本の何処からも歓声は上がらなかった。

 東京より避難した『政府』は、ただちにデボラ被害の大きさを調べた。大凡の規模が判明するまでではあるが、あまり時間は掛からなかった。調べる場所全てが、破壊されていたのだから。

 三度目の上陸後、デボラが横断した距離は約九百キロ。

 デボラは、その道中にあるものを手当たり次第に破壊した。例外などなく、躊躇いなどなく、あらゆるものを灰燼へと変えた。もう世界の最先端を進む都市もなければ、世界最高品質の製品を作り出した工場もない。全てが瓦礫の山となり失われた。

 日本は、デボラという生命体に破壊された。何百万という命が失われ、何千万といえ人々が悲しみと不安に襲われた。

 

 だが、これは始まりに過ぎない。

 

 日本の崩壊。

 

 アメリカの敗北。

 

 世界経済への波及。

 

 世界の警察の威信低下。

 

 大国の覇権争い。

 

 そしてデボラ。

 

 複雑に絡み合う因子が、世界を変えていく。

 

 それは誰が望んだ事なのか、

 

 望み通りになったのか、

 

 何が起きるのか。

 

 ……誰一人として知らぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後に『終末の始まり』と称される年の、最初の一月はこれにて終わり。

 

 次は、『智慧の失墜』とされる十年後の話である。




核も通じず、何もかも破壊される。
第一章はこれにて終わり。

三月より第二章の投稿を始めますので、
しばしお待ちください……


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2029年
加藤光彦の生活


「……金の延べ棒に、真珠のネックレス。それとこれは、プラチナの指輪か? 豪勢なもんだねぇ、全く」

 電気の付いていない暗い部屋の中で、光彦は箪笥の中身を物色しながら、肩を竦めて独りごちる。

 彼が漁っている箪笥は、彼のものではない。見知らぬ誰かの家に住む、誰かさんの私物だ。余程の金持ちだったのだろう、中にはたくさんの貴金属がしまわれており、光彦一人では持ちきれないほどだ。光彦は目利きが出来る訳ではなかったが、これだけあれば足下を見られても、質屋などで数百万ほどに換金出来ただろう。

 ……十年前であれば、という前書きは必要だが。

「今じゃ漬け物石にもなりゃしねぇ。まぁ、キュウリも大根も今じゃ嗜好品だがな……あー、浅漬け食いてぇなぁ」

 金品を投げ捨て、光彦は箪笥漁りを止めた。こんなものを持っていても役には立たない。すっかり伸びた顎髭を摩りながら、光彦は貴金属を踏み付けてこの場を後にする。

 箪笥が置かれていたリビングを通り、彼はキッチンへと向かった。キッチンには小さな人が居り、戸棚に頭を突っ込んで中身を漁っている。

「おい、アカ。なんか良いもん見付けたか?」

 光彦が呼ぶと、小さな人は戸棚の中に突っ込んでいた頭を出した。

 人は、十歳ほどの少女だった。顔立ちの整った子で、美少女と呼ばれるほどではないが、可愛い方であろう。長く伸びた髪はポニーテールで結ばれており、如何にもお洒落だが、その髪を結んでいるのは輪ゴムだった。着ている服はぶかぶかかつボロボロなTシャツとジーパン。ついでにいうと、ちょっと体臭がキツい……体臭については光彦が言えたものではないが。

「うん、こんなのあったよ、父ちゃん」

 アカと呼ばれた少女はニコニコと笑いながら、両手で小さなものを掴んでいた。光彦が顔を近付けてみれば、それはサバ缶だった。

「おっ、でかしたじゃねぇか。あと、俺はお前の父ちゃんじゃねぇって何度言や分かるんだ」

「別に良いじゃん、父ちゃんみたいなもんでしょ。大体私、本当の父ちゃん知らないし」

「そりゃまぁ、そうだがよ」

 アカの言葉に反論出来ず、光彦は目を逸らす。アカはくすくすと笑った。

「ま、良い。それより飯だ飯。早速食うぞ」

「うんっ! ところで父ちゃん。これ、なんて読むの?」

「サバだよ。魚の名前だ。十年前は普通に食われていた魚でな、うめぇぞ」

「うまいのかぁ、楽しみ」

 大事そうにサバ缶を抱えるアカ。実際のところ、そのサバ缶が食べて大丈夫な代物なのかどうかの問題はあるのだが……食べれば分かる事なので、光彦は特に言わなかった。

 光彦はアカから缶詰を受け取り、プルタブを指で摘まんで引っ張る。恐らく十年ほど放置されていた缶詰は、ぷしゅーっ、と空気の抜ける音と共に開いた。漏れ出た空気から中身の臭いがする。甘くてジューシーな、タレの香りだ。腐敗臭ではない。どうやら腐ってはいないようだ。

 中身の方は、どろどろに溶けて原形を留めていなかったが。

「……どれがサバ?」

「あー、まぁ、どうせ十年前とかに作られたやつだからな。中身が崩れてても仕方ねぇ」

 アカの疑問に、苦笑いしながら光彦は答える。懐からスプーンを二つ取り出し、一本をアカに手渡した。

 まずは光彦がどろどろに崩れた缶詰の中身を掬い、その味を確かめる……調味料の味しかしない。懐かしのサバの味を堪能出来るという期待を打ち砕かれ、光彦は僅かに肩を落とす。

「もぐもぐ。ん、美味しい。もぐもぐ」

 その僅かな時間に、アカは猛烈な勢いで缶詰の中身を頬張っていた。

「あっ!? テメェ何勝手に食ってんだ!?」

「早い者勝ちー」

「ちょ、ま、あ、あああああっ!?」

 『父親』からの制止を無視して、アカは缶詰の中身をどんどん食べていく。慌てて光彦もスプーンを出したが、出遅れは致命的。

 光彦が三口も食べたあたりで、サバ缶の殆どはアカの胃袋に収まってしまった。

「げぷぅ。ごっちそーさまー」

「こ、コイツマジで殆ど食いやがった……」

 幸せそうな顔のアカを、大人げない憤怒の目で睨む光彦。しかしアカは気にも留めず、むしろにししと楽しげに笑う始末。まるで飼い主に怒られる事を期待している、イタズラ犬のようだ。

 こうなるとゲンコツをお見舞いしても、向こうの希望に添うようなもの。光彦はため息と共に、怒りを吐き出すしかなかった。それに半端な量の食べ物が空きっ腹を刺激し、ますます腹が減ったような気がする。怒るよりも食べ物を探したい。

 尤も、その空腹を吹き飛ばす『音』が聞こえてきたのだが。

「――――父ちゃ」

「しっ、黙ってろ。そこを動くな」

 アカの口許に手を出し、光彦は一人キッチンから移動する。

 外から聞こえてくる、きゅるきゅると金属が擦れるような耳障りな音。

 光彦はカーテンが掛かった部屋の窓から、こっそりと外を覗く。と、丁度目の前に一台の『乗り物』がやってきた。光彦は慌てて頭を下げ、それから恐る恐るもう一度窓の外を見る。

 戦車だった。

 市街地の中を戦車が走っている。軍事兵器なんて殆ど知らない光彦だが、でっかい砲台とキャタピラを持つ鋼鉄の乗り物が戦車である事ぐらいは分かっていた。戦車はゆっくりとした動きで進んでいて、まるで何かを探すようである。

 そして車体には赤い星形のマークが付いていた。

 息を殺して光彦は戦車を観察し続け……戦車の方は、光彦には気付かなかったのか。そのまま光彦が潜む家の前を通り過ぎていった。見付からずに済んだと、光彦は深々と息を吐く。

 戦車はもう家の前から居なくなったが、光彦は這うように部屋を進んだ。キッチンまで戻ると、言いつけ通りじっとしていたアカが体育座りをしていた。アカは光彦の顔を見て、花が咲くように笑う。

「もう、行っちゃった?」

「ああ。だけど此処はもう駄目だな。ま、もう食い物なんてろくに残ってねぇし、そろそろ潮時だと思っていたが」

「ん。分かった。今度は何処に行くの?」

「一端町に戻る。仲間から、アイツらが居なくて、最近廃墟になった町を聞かねぇとな」

 光彦は立ち上がり、合わせてアカも立ち上がる。アカは光彦の手を握ったが、光彦はそれを振り解いたりはしなかった。

「でも、アイツらって本当に怖いの?」

「たりめぇだろ。全く、嫌な時代になったもんだ」

「テレビだと、正義の味方って言ってるけど。あ、私ら悪者か」

「確かに俺らは悪党だが、アイツらに比べりゃ優しいもんだ。とんでもないド悪党だよ」

「テレビが嘘言ってるの? なんで?」

「嘘言わなきゃ殺されるからだよ」

「へぇー」

 納得したのか、してないのか。暢気な言葉からはいまいち真意が読み取れない。が、光彦はさして気にしなかった。どうせ自分達には関係ない事なのだから。

「そんじゃ、見付からないように行くぞ」

「はーい」

 親子のように手を繋いで、二人は戦車が居なくなった外へと向かう。

 家の外へと出た光彦は空を見上げ、ぶるりと震えながら独りごちる。

「ああ、降ってきやがったか……」

 悪態と共に光彦の頬に付いたのは、一粒の雪。

 しんしんと降り始め、地面に落ちては溶けていくそれを見つめながら、光彦はアカの手をぎゅっと握り締めてから歩き出した。

 自分が知っている『四月』が、もう戻ってはこないのだと感じながら……




始まりました、第二章。
なんかもう最初から色々不安な状況ですが、
絶望具合ではまだ入り口です。


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緒方早苗の展望

「……はぁ」

 古びた一軒家の中で、早苗は大きなため息を吐いた。

 その手に開いているのは、一冊の手帳。

 『遠山銀行』と書かれたその手帳には、幾つもの数値が書かれている。開いているページの一番最後には、『8,000,000』と書いてあった。

 つまりそれは早苗の預金残高を示す数字だ。

 ――――今じゃ、『円』なんて幾ら持ってても紙切れにしかならないが。そもそもこの遠山銀行、もう日本には存在していない。

 最早なんの意味もない数字。何度見ても、どれだけ見ても、決して手元には戻ってこない。

「……こんな事になるのなら、ぱーっと使っちゃえば良かったわね。将来が不安だから貯金するって言うけど、本当に最悪な事が起きたら、なーんの意味もない行為になるなんて……けほっ、げほっげほっ」

 ぼそぼそと独りごち、咳き込みながら、早苗は家の窓から外を眺める。

 目の前に広がるのは、コンテナを改造して作られた金属製の家。塀どころか庭もなく、家だけが幾つも並んでいる。どの家も壁が錆び付き、窓がくすんでいた。外を出歩く人々は誰もが覇気を失い、屍が歩いているようにも見える。

 途上国のスラム街のような惨状。だが、此処は確かに日本である。それもかつて世界有数の大都市だった、東京都港区。

 十年前に破壊し尽くされた町であり、十年以上前から早苗が暮らしていた場所だ。

「……アイツが来てから、何もかも変わったわね」

 最早記憶にしか残っていない自宅を思い出し、早苗はそのまま昔の事を思い出す。

 今より十年前の、二〇一九年一月一日。日本の富士山からそいつは現れた。

 体長三百五十メートル、推定体重百五十万トン。巨大なハサミと無数の足を有し、赤色の甲殻に身を包んだ巨大甲殻類……

 その名はデボラ。

 一見して『デカいエビ』でしかないその生物は、しかし圧倒的な戦闘能力を有していた。自衛隊はおろか米軍の攻撃さえも跳ね返す頑強な甲殻、仮に傷付いても即座に再生する生命力、航空機すら撃ち落とす長射程攻撃、そして水爆さえも無力化する熱吸収能力。

 当時大きな被害を受けていた日本と米国が手を組み、共同駆除作戦を実行するも失敗。米軍が強行して使用した水爆もデボラには通じず、活性化したデボラにより日本は主要都市を破壊し尽くされた。政府首脳陣は破壊される前に逃げたため無事だったが、しかし主要企業は物理的に破壊されて倒産。水爆による放射能汚染により復興は絶望的となり、見込みのない『事業』に金は掛けられないとばかりに他国からの援助や融資は僅かしかない有り様。加えてデボラの襲来は収まる事を知らず、日本の情勢は良くなるどころか悪化する一方。復帰どころか成長の兆しもない国に投資など起こる訳もなく、資金不足による倒産も続出する有り様。結果、世界有数の経済力は、たった三年で途上国水準まで落ちぶれた。

 没落したのは日本だけでなく、米国も同じだ。いや、ある意味では米国の方が日本よりも没落具合は酷いかも知れない。

 日本と同じく米国も太平洋に面した国であり、そしてデボラは米国を避けるような『気遣い』をしなかった。デボラにより米国本土は蹂躙され、断トツの世界第一位のGDPが十位圏内から消え去るのにさして時間は必要なかった。

 米国が失ったのは経済力だけではない。費用の一部負担や現地民との揉め事など、様々な問題を起こしながらも駐留して(・・)もらっている(・・・・・・)駐在米軍が、少なくともデボラという脅威に対しなんの役にも立たない事は明らかになったのだ。勿論デボラは水爆すら通用しない超生命体。倒せなかった米軍が無力ではなく、デボラが強過ぎたというのが正しい。対人・対国家において米軍が頼もしい事に変わりはなかったが……「アメリカは同盟国にも核を落とす」という悪評 ― という名の事実である ― が致命的だった。勝てばまだ言い訳も出来ただろうが、負けてはただの落とされ損である。これならデボラに蹂躙される方がまだマシだと、反米デモが世界中で活性化した。

 それどころか反米テロ組織への支援と加入者までもが激増した。米国本土でのテロも増加し、年間数千人が犠牲になる。経済力低下により規模の縮小を余儀なくされ、何時やってくるか分からないデボラ監視をしている米軍に、テロ組織と戦う余力なんて何処にもない。世界中から米軍が撤退した。

 今や米国はテロと略奪が横行する、無法地帯と化している。自国の統制だけで手いっぱいで、世界に目を向けている余裕なんてない。

 そうして出来た力の隙間に入り込んだのが、中国だった。

 中国は米国が消えた地域に進出し、在中軍として滞在する事になった。当初は、負担金などなしに滞在してくれる中国軍を歓迎する国民が多かったが……その後中国による経済的・軍事的『支配』が行われた。中国企業の進出により国内経済が滅茶苦茶に。島などが占拠され、漁民が漁場を追い払われるなどの問題が発生している。反中テロ組織も多数生まれた。

 日本も現在、中国軍の駐留が行われている。戦力の壊滅に加え、経済難から装備さえも維持出来なくなった自衛隊に代わり、デボラ対策を行うための部隊だ。しかし実態は中国からの侵攻部隊。我が物顔で日本国内の反中組織の調査・逮捕を行い、豊かな漁場を中国人に占有させる。やりたい放題だ。

 今ではデボラは、中国が開発したものというのが日本国民の大部分が抱いている考えである。反中感情は劇的に高まり、潜在的にかなりの数の若者が『テロリスト』予備軍と化していた……尤もそれを黙って見過ごすほど中国は優しくない。廃墟と化した町を定期的に巡回し、不審者を逮捕するなど取り締まりを強化している。残念ながら逮捕されている者の殆どは、テロ組織メンバーではなく浮浪者の類らしいが。当然彼等はテロに関する情報など何一つ知らないが、そうなると強情なテロリストとして拷問に掛けられ――――

 日本は変わった。最早此処は世界で一番安全な国ではないし、何処かの組織が出した民主化ランキングの低さに「いい加減だ」と文句を言える国ではなく、『政府与党』に感情的な悪口を言える国でもない。

 当然報道の自由なんかもない。報道機関はもう、中国に乗っ取られた。経営陣も取材スタッフも中国人か、中国に媚びへつらう『人権家』に支配されている。多くの日本人スタッフや芸能人は業界から追い出された。

 早苗もまた、追い出された一人だ。彼女は正義感に強い訳でも、中国への反発があった訳でもない。ただ純粋に、本当の事だけを話し、筋の通った持論を述べただけ。それだけで、彼女は居場所を失った。それだけの事が、あの国には都合が悪かったらしい。

 仕事を失った彼女は両親の下で暮らし、両親の店を手伝う事で生計を立てていたが、その両親は先日他界した。十年前の日本だったら簡単ではないにしても、完治の見込みがあった病……結核によって。病院で病名は分かったが、高価で稀少な薬を買う事は出来ず、自宅療養の甲斐もなかった。

 そして両親の看病していた早苗も、同じ病を患った。

 確証はない。両親が受診した病院は、採算が取れなくなって潰れ、早苗は診断を受けられなかったからだ。しかし咳が延々と続く症状は結核としか思えない。

 八千万円もあれば、十年前なら問題なく結核の治療を受けられた筈だ。けれども今、この国で価値があるのは『元』……今や基軸通貨の地位に君臨した貨幣である。どんなに大きな額面が載っていようと、もう、この通帳が示している金にはなんの価値もない。

 適切な治療を受けられない場合、結核の死亡率は約五割に達する。早苗は感染して日が浅いためどちらに転ぶか分からないが、今の栄養状態を思えば、助かるとは到底思えなかった。

 感染源である両親を恨むつもりはない。看病は自分がしたかったからやったものであり、今時結核で死ぬ日本人など珍しくもないのだから。

 けれどもこのままだらだらと生き続ければ、その間延々と結核菌を出し続ける。この辺りは早苗と同レベルの栄養・衛生状態の人が多く住んでいた。もしかすると地域流行(エンデミック)を引き起こしてしまうかも知れない。

 早急に、菌を絶たねばならない。

 それをするための、一番簡単な方法は……

「……まぁ、長生きしても、げほっ、げほっ、希望はないし。迷惑掛ける前に、おさらばしましょうか……げほっ」

 立ち上がり、近くに置いておいた縄を手に取る。部屋の中でやるのは気が引けた。臭いがあるし、近所の迷惑にはなりたくない。

 ひっそりと、何処かの森に行こう。土に還り、養分となって、大きな野イチゴ ― 正式名はナワシロイチゴだったか ― になり、みんなのお腹を少しでも満たせたら……ちょっと素敵だ。

「問題は、そこまで行けるか、あと今時の日本に野イチゴの群生地が残っているのかだけど……最期の最期だし、気合い入れていきましょ」

 早苗は明るく、楽しげに、家の外へと出る。

 最期ぐらい前向きにならなければ、本当に、辛い事ばかりになってしまうのだから。




社会が崩壊した時、一番怖いのは病気だと思います。
ただの風邪すら治せるか分からない。


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山下蓮司の仕事

 蓮司はこの日のために、必要な事は全てやってきたつもりだった。

 『あの日』……母と妹を失った十年前から、トレーニングを始めた。それは過酷とは言えないものだったかも知れないし、効果的とも呼べないかも知れないが、高校生だった当時としては頑張ったものだ。『目的』のための学校にも通い、その中で優秀な成績を収めてきた。足りないのは経験ぐらいなもの。

 自分が英雄だとは思わない。けれども無力な学生ではないとは断言出来る。相手の強大さは身を以て知ったつもりだが、人間だって進歩しているのだ。だからこの『作戦』は初めての実戦であったが、何も出来ないまま終わるとは思わなかった。

 甘かった。

 英雄が一人(・・・・・)出たぐらいで(・・・・・・)何かが変わる(・・・・・・)程度の相手なら(・・・・・・・)、人類が十年も戦い続けている訳がないのに。

「山下ぁ! 生きてるか!? 返事をしろ!」

 自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

 蓮司は反射的に返事をしようとし、身体が痛くて声を詰まらせた。目を開けたが、辺りが暗くてよく見えない。

 息を整え、混乱する頭をどうにか落ち着かせる。痛みがあるのは全身だが、特に右足が酷い。何かが乗ってるように感じる。致命的な痛みではないがかなり圧迫されていて、動かす事が出来ない。他の部位に関しては、動きを妨げられる感覚はなかったが、場所が狭い所為で動かそうとするとすぐ何かにぶつかってしまう。

「……生きてます! 右足が、挟まれて動けませんが、他は無事です!」

「! 右足以外は無事なんだな!?」

 自分の状態を簡潔に説明すると、蓮司を呼んだ声は即座に次のオウム返しをしてくる。蓮司は「そうです!」と答えた。

 「分かった! 今助ける!」と外からの声が叫ぶと、ガコンガコンと物を動かす音が聞こえ始めた。最初は特に何もなかったが、やがて蓮司の右足に掛かる重みが段々小さくなる。

 そして光が視界を覆い、蓮司は思わず目を瞑った。

 目を瞑っている間に、蓮司は自分の足から重みがなくなり、次いで身体が一気に引き上げられる感覚を覚える。誰かに肩を化してもらった状態になり、身体を揺さぶられ、頬を叩かれた。ぶるりと全身が震え、強張っていた瞼は自然と開く。

 目の前に映ったのは髭面の中年男性。迷彩服を着ており、頭にはヘルメットを被っている。その背中には大きな銃……アサルトライフルが背負われていた。

 蓮司はその顔に見覚えがあった。そして蓮司もまた、中年男性と同じ格好をしていた。

「う……たい、ちょう……?」

「そうだ、俺だ。大丈夫か? 気分は悪くないか?」

 蓮司が『隊長』と呼んだ中年男性は、こくりと頷き、蓮司に質問をぶつける。蓮司は痛む頭を片手で押さえながら、大丈夫ですと答えた。

 実際気分はそこまで悪くない。足は少し痛むが、立っていても苦痛ではないので、恐らく骨折はしていないだろう。しかし自分の置かれている状況が思い出せない。

 何故自分はあんな暗闇……多分生き埋めの状態だ……に居たのか。何故自分はこんな格好で『隊長』と居るのか。何故自分は――――

「……っ!?」

 無意識に考え込んだ蓮司は、すぐ答えに辿り着いた。故に彼は目を見開き、正面を見据える。

 蓮司の前に広がっていたのは、何処までも続く瓦礫の山だった。

 瓦礫はコンクリートや材木、鉄筋で出来ており、かつてそれらが家屋を形成していたものだと分かる。瓦礫の隙間からは朦々と煙が立ち昇っていた。空には青空が広がっていたが、地上を埋め尽くす家々の残骸があっては爽やかさなど感じられない。

 ましてや彼方に居る『そいつ』を見れば、景色を楽しむ余裕を持てる人類はいないだろう。

 遙か彼方でも問題なく視認出来る。何しろ『そいつ』は体長三百五十メートルもあるのだから。

 燃え上がるように赤い甲殻の上では幾つもの爆発が起こり、人類による果敢な攻撃が続いている事を物語る。しかし『そいつ』は怯むどころか歩みを緩める気配すらない。

 それでも怒りはしているらしく、頭部の先より透明な空気の渦を放っていた。放たれた空気は大地を吹き飛ばし、小さな黒い塊……恐らくは戦車であろうものを粉々にしながら空へと舞い上がらせていた。そうして地上を一掃すると身体を反らし、空気の渦を空へと放つ。空気の渦は何十キロと伸びていき、爆弾を落としていた航空機を尽く撃墜していった。

 人類の攻撃は、まるで箒で払われるアリの行列のように無力だ。それは『そいつ』が現れてからずっと変わらぬ結末。予定調和の流れであり、最初からこうなると分かりきっていた事。

 だが、蓮司は悔しさから唇を噛む。

 そして、その名を呼んだ。

「デボラ……!」

 『そいつ』――――甲殻大怪獣デボラは、蓮司の悔しさを嘲笑うように行進し続けた。

 デボラの行く手には、未だ破壊されていない家屋がずらりと並んでいる。この地域……インド洋沿岸から十キロほど離れた位置にある都市を形成する、無数の住宅達だ。既に住人は退避した後とはいえ、そこには家族の思い出が詰まっている。何人であろうとも、国家であったとしても、無暗に破壊してはならない聖域だ。

 だが、デボラは気にも留めない。

 三百五十メートルもの身体を支える巨足が、小さな家々を踏み潰していく。足から逃れた家々は、気紛れに振られた平べったい尾によって蹴散らされた。まるでため息のように易々と吐かれた爆風が、彼方の住宅を粉砕する。

 何もかもが破壊されていく。何もかもが奪われていく。

 蓮司にはそれを見る事しか出来ない。何故なら蓮司達が使っていた『迫撃砲』は、デボラの攻撃により吹き飛ばされたのだから。蓮司は幸いにして瓦礫の隙間に入り、下敷きにならずに済んだが……

「……隊長。ジェイムズとハリーは……」

「……返事をしたのはお前だけだ。瓦礫の中にいるとは思うが……」

 決して分厚い瓦礫ではない。地上からの呼び声が聞こえないという事はないだろう。だとすればジェイムズとハリー……蓮司の仲間達は、きっともう助からない状態なのだ。

 彼等もまた、蓮司と同じく初陣だった。デボラに故郷を破壊され、家族を奪われた仲間だった。何時の日かデボラを倒そうと語り合ったものであり、共に訓練を乗り越えてきた。蓮司としては彼等に負けるつもりなど毛頭ないが、勝っているとも答えられない、優秀な兵士達だ。

 なのに、自分達が命懸けで、命を失って、得られたものはなんだ?

 デボラの足止めすら出来ずに、ただ命を失っただけ?

「……違う。俺は、俺達は、こんな事の、ために……」

「……ラッキーボーイ、今は自分の無事を喜べ。悲しむのは後でも出来る。生き残り、次に活かせ。俺も辿ってきた道だ」

 嗚咽が零れ、ぶつぶつと言葉が漏れると、隊長が蓮司の背中を叩きながら励ました。とても強い力で、走った衝撃により嗚咽が止まる。潤んでいた目を拭い、怒りを燃え上がらせた瞳で正面を見据えた。

 暴れ回るデボラに止まる気配はない。これからも奴は暴れ続け、破壊を続け、人々を蹂躙し続けるだろう。

 蓮司は、それを許さない。

「何時か、絶対……殺してやる……!」

 決意の言葉を発し、蓮司と隊長はデボラに背を向けた。

 蓮司達――――作戦行動中の太平洋防衛連合軍に撤退命令が出されたのは、それから間もなくの事であった。

 

 

 

 太平洋防衛連合軍。

 日本、アメリカ、カナダ、オーストラリア……様々な国から集められた『民兵』が所属する部隊。太平洋と名に付いているが太平洋に面していない国出身のメンバーも居るし、連合軍を名乗っているが主権国家に属していない武装勢力の類である。資金源は民間からの募金が主だ。

 実態だけならテロリストと変わらないが、彼等は殆どの国家から邪険にされていない。

 何故なら彼等は、デボラと戦う事だけが目的なのだから。

 構成員の多くはデボラに故郷を破壊され、家族を奪われた者達。次いで『モンスター退治』に憧れる勇猛にして無謀な者達だ。彼等の大半は善良な人間であり、派遣先の国でも問題を起こす事はない。基本的には『ボランティア』団体のようなものだ。正規軍では手が回らない村落での避難誘導や、正規軍が嫌がるデボラの誘導作戦を率先して行っている。非常に危険な任務が多く、実戦に投入された人員の大半は一年以内に死亡するとも言われていた。

 蓮司が所属しているのは、そんな組織の実働部隊だった。

「レンジ。おい、レンジ」

 組織の海上母艦の通路で、蓮司は背後から声を掛けられた。振り返れば、そこには若い男が一人居る。スキンヘッドの白人男性で、強面だが朗らかな笑みを浮かべていた。

 彼の名はリチャード。蓮司と同じく今回の……オーストラリアでのデボラ攻撃作戦が初任務の同期であり、そして蓮司と同じく生き残ったメンバーの一人だった。

「……リチャード。お前も生きていたか」

「ああ、なんとかな。奴の攻撃で吹っ飛ばされて、人差し指がおじゃんになったが」

 そう言いながらリチャードは右手を上げる。自ら話したように、その手には人差し指が欠けていた。

 人差し指は、様々な機械の操作で頻繁に使う。義手などが使えれば戦線復帰も可能かも知れないが、そうでなければ後方支援が限度だろう。

 或いは除隊もあり得るし、彼自身がそれを希望するかも知れない。

「……これからどうするつもりだ?」

「義手が使えるなら付ける。無理なら物資の搬入係でもやるさ。俺はアイツが、俺の町を踏み潰したアイツがボイルになるまで戦いを止めるつもりはねぇ」

 尤も、太平洋防衛連合軍の自主除隊率は極めて低いが。

 復讐心は人を狂わせる。故にどんな兵士よりも強い。彼は今後どうなるか分からないが、『強い兵士』になるのは間違いない。蓮司は同僚の将来をそう考えた。

「お前はどうなんだ、ラッキーボーイ」

「その呼び名を知ってるって事は、聞いてるんだろ? 無傷だよ」

「全く羨ましいね。迫撃砲の下敷きになって生き延びるなんてな……ジェイムズとハリーは残念だ。亡骸、回収出来なかったそうだな」

「ああ。二人とも、家族の墓に戻してやりたかったんだがな……」

 蓮司の言葉に、リチャードも神妙な面持ちとなる。ジェイムスとハリーは、倒れた自走迫撃砲などの瓦礫の下敷きとなっていた。そのため二人の遺体を確認出来た訳ではないが、呼び掛けをしたが反応がない事、隊員のバイタルサイン(生命兆候)をキャッチするセンサーに反応がない事から、戦死したと判断された。

 二人を『救助』するには瓦礫を掘り起こすしかないが、重機はデボラに踏み潰された市街地に回されている状態。ほぼ間違いなく死亡している兵士に回す余裕はない。市街地での救助が終わり次第派遣するにしても、何週間先の話になるか分からないとくれば……放置が、最も合理的な選択だった。

 デボラとの戦いで死んだ場合、遺体が回収される事の方が少ない。訓練生時代幾度となく聞かされた話であるが、まさか戦友がそのような結果になるとは。母と妹の亡骸が十年経とうと ― そしてきっとこれからも ― 見付からない蓮司としては、トラウマを呼び起こされる気持ちだ。乗り越えた、とは思わないまでも幾らか慣れたと考えていたのに、ざわざわとした感覚が胸を苛む。

「……あー、そうそう。そういえばもう一人、ラッキーな奴がいるらしいぞ」

 蓮司の気持ちの変化を察したのか、リチャードは話を変えてくる。蓮司としても、何時までもこの感覚に苛まれたい訳ではない。小さく息を吐き、リチャードの話に乗る。

「へぇ。俺以外にラッキーボーイがいたのか」

「いや、ラッキーボーイじゃない。ラッキーガールさ」

「ガール?」

 蓮司は首を傾げながらリチャードに訊き返す。

 別段、女性兵士が珍しい訳ではない。デボラ被害はある意味男女平等だ。家族や恋人、友人を奪われた女性が復讐に燃え、この組織に加わる事はよくある。万年人手不足な太平洋防衛連合軍にとって、そうした女性も貴重な人員だ。正規軍と比べかなり兵士や幹部の女性比率が高いらしい。

 なので純粋に、興味を持って訊き返しただけだ。しかしリチャードは、何故かにこにこと嬉しそうに笑っている。

「ああ。かなりのかわいこちゃんらしいぞ」

「……お前、まさか口説きに行くつもりか?」

「勿論。ラッキーボーイが一緒なら、俺みたいな残念兵士にもチャンスがあるだろう?」

 肩を組まれ、リチャードは平然とそう語った。なんとも軽薄な男に見えるが、多分自分を励まそうとしての事だろう。酒を飲みに行くようなものだ。

 それに、『かわいこちゃん』に興味がないといえば嘘になる。あの世に行った時、再会した戦友への土産話ぐらいにもなるだろう。

「分かった、付き合うよ。で? その子は何処に居る?」

「食堂でよく見掛けるって話で……おっ、やっぱりお前はラッキーボーイだな」

 リチャードは蓮司の肩をバシンッと叩き、通路の先を指差す。蓮司はその指先を目で追い、

 その目を大きく見開いた。

 通路の先に、一人の女性が居た。いや、女性というよりも少女だろうか? 太平洋防衛連合軍の規則には、十八歳未満の子供の参加は認められないとあるので『少女』という事はあり得ないのだが……そう見えてしまうぐらい、あどけない顔立ちをしていた。非常に整っていて、人形のようにも見える。

 或いは無感情な黒い瞳が、その印象を抱かせる理由だろうか。蓮司は太平洋防衛連合軍に参加して、まだ数年の新人だ。しかしそれでも、この連合軍に参加している人々の大半が何かしらの感情に燃えている事は知っている。なのに彼女には、ある筈の感情が見付からない。

 おかしいとか、奇妙とか、相応しい言葉が他にあるだろう。けれども蓮司は、こう思った。

 綺麗だ、と。

「……リチャード、彼女の名前って分かるか」

「ん? ああ、勿論」

 蓮司が尋ねると、リチャードは機嫌を良くしたように笑う。それからすぐに教えてくれた。

「レベッカ・ウィリアムズだ」

 その、可愛らしい女性の名を。

 

 

 

 これが、蓮司とレベッカの出会い。

 

 二人はまだ知らない。自分達が進む先を。

 

 二人は知る由もない。これから訪れる困難を。

 

 そして二人は想像も付かない。

 

 

 

 

 

 自分達が目の当たりにする、本当の『絶望』を――――




怪獣とラブロマンスは相性が良いと思う。世界が終わるほどに愛は輝くと思うので。
だが本作の主役は怪獣だ!


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及川蘭子の本心

「先生! 及川先生はいませんか!?」

 バンッ! と音が鳴るほど力強く扉を開け、白衣姿の男が一人部屋に入ってくる。黒人である彼が発する言葉は英語だったが、その胸に秘めた大きな焦りは全ての人類が察せられるだろう。

 彼が訪れた部屋は、書類やら本やらが散乱していた。標本箱や薬品も無数に置かれており、此処が何かしらの研究室だと分かるのだが……足の踏み場もないという表現が誇張でないほどの散らかりぶり。仕事が出来る環境ではない。

 そんな研究室の一角に居た三十代の女性 ― 白衣ではなく私服姿だ ― は現れた来訪者を見て、目をパチクリさせるだけだった。当然である。彼女は、この黒人男性の顔も名前も知らないのだから。

 白衣の男は一瞬身を乗り出したが、その女性が自分の探していた人物とは違うと分かり、バツが悪そうに後退り。それから改めて女性と向き合うと、男は人の良い笑みを浮かべた。

「あ、ああ。来客が来ていたのですね。大声を出してすみません」

「お気になさらずに。何か、御用でしたか……及川博士に」

「ええ、実はちょっと……先生が部屋に戻りましたら、『大佐』が来たとお伝えください」

 では、これにて――――言葉遣いは丁寧に、けれども動作はやっぱり慌ただしく、男は部屋から立ち去る。

 しばし、女性は部屋の中でじっとしていて……しばらくして大きなため息を吐く。

「及川先生、もう大丈夫ですよ」

 それから女性がぽつりと呟くと、部屋の隅に置かれていたロッカーがガタガタと揺れた。錆び付いているのか中々扉は動かず、やや間を開けてからガコンッと不格好な音を立てて開く。

 中から出てきたのは、こちらも女性だった。部屋に居た女性よりもかなり若々しく、二十代後半ぐらいに見えるかも知れない。顔立ちも端正で、かなりの美人だ。

 尤も、目の下にあるどす黒いほどの隈と、何日も洗っていない所為でギトギトになっている髪を見てしまえば、女の魅力など一瞬で感じられなくなるだろうが。

 彼女こそが及川蘭子。白衣の黒人男性が探していた『先生』であり――――今や世界で一番有名な科学者であった。

「いやー、助かったわ。やっぱ持つべきものは友達ね」

「友達なんですかねぇ、私達」

「十年間交流があるなら友達でしょ。例えきっかけは仕事だとしても」

 蘭子の言葉に「確かに」と返事をしながら笑う女性……若松(わかまつ)(りん)。蘭子も笑みを返し、テーブルの上に置かれた二つのコーヒーカップのうち一つを手に取って口を付けた。

 蘭子と鈴の出会いは十年前。デボラ研究のための助手兼護衛として鈴が派遣されたのが始まりだ。デボラにより日本が崩壊状態となった事で自衛隊が解体され、鈴が無職になってからも交流は続いており、年に数度程度ではあるが今でもちょくちょく顔を合わせている。鈴に国連職員としての仕事を紹介したのも蘭子だ。

 今日も暇だから(・・・・)という理由で蘭子が鈴を仕事場であるこの研究室に招いた。実際は……まるで逆だった訳だが。

「でも、良かったのですか? 大事なお客さんが来てるみたいですけど」

「国連軍の誰かさんよ。名前は忘れた。新兵器がどうたらとか、弱点はこうたらとか、毎月訊いてくるの。あるならとっくに報告してるのに」

「定例会議は大事ですよ。進捗の確認しないとですし」

「研究に進捗なんてものはない。ゲームみたいに人手増やせば単純に加速するもんじゃないのよ。特にデボラみたいな理解不能な生物を解明する時は」

「それが『国連デボラ研究センター』の一部門長の言う事ですかねぇ……」

「周りが勝手に担ぎ上げただけ。勝手に与えたものの責任を問われても知ったこっちゃないわ」

 あたかも他愛ない話であるかのように、蘭子と鈴は淡々と言葉を交わす。

 国連デボラ研究センター。

 突如現れた超生命体デボラ。その驚異から人類を守るため、世界中の優秀な科学者が集められて組織された国際機関である。蘭子はその中の『生態研究部門』の主任を務めており、日夜デボラの謎を解き明かすべく奮闘している身だ。

 ……現実には奮闘と呼べるほどの成果はないと、蘭子自身は考えているが。しかし世の中というのは何かしらの『権威』があると簡単に出世出来てしまうらしい。蘭子は出世欲など微塵もなかったが、周りが勝手に担ぎ上げ、面倒なので放置していたらこんな地位まで来てしまった。

 自分がした事など、誰よりも早くデボラの存在を予言しただけなのに。

「そんな態度でよく降格されませんね」

「私以外の誰かさん達が頑張ってるからね。私の助手とか共同研究者になると、私の五倍ぐらいお給金もらえるみたいだし」

「うわ、汚職の巣窟が此処に」

「私の研究に口出ししなきゃ、汚職しようが賄賂渡そうがどーでも良いわよ。引責辞任して一研究者に戻れるなら、そっちの方が良いぐらい」

 自分の立場すら興味がない蘭子に、鈴はくすりと笑う。昔から変わらない蘭子の姿に、何かしら思うところがあるのだろう。

 勿論汚職は撲滅すべきものであり、蘭子の周りの状況は笑い事などではない。国連の運営資金である分担金は、下を辿れば各国国民から徴収された血税なのだから。しかし生憎その証拠を掴んだり、何処かに告発したりする時間があるならば、蘭子はデボラ研究の方に費やす。金の流れの異常は、その流れを纏める事が仕事である、事務方が掴むべきだと考えていた。

 尤も、事務の方は恐らくは掴んだ上で(・・・・・)放置している(・・・・・・)のだろうが。

 日本と米国の力が著しく衰えた事で台頭した『あの国』は、文化と呼べるほど賄賂が盛んだ。一時期かなり是正されたらしいが、昨今はまた酷くなっていると聞く。その国の人間が職員として大量に雇われれば、当然その国の文化に浸食されるというものだ。

 そして鈴については、国連職員とはいえ金銭に関係する部門にはいない。金の流れを掴もうとしてもコネがないし……動けば妨害を受ける事だろう。出来るのは精々調査部門に報告する事ぐらい。それさえも、『あの国』の浸透具合を思えば徒労に終わりそうである。鈴は正義感に熱いので、報告ぐらいはするだろうなと蘭子は考えていたが。

 ともあれそれは後の話であり、今深掘りする話題でもない。しかし出したコーヒーは放置すると冷めてしまう。なら、今やる事は明白だ。

 そうして仲良く話していると、こんこんと部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 蘭子はびくりと跳ね、バタバタと再びロッカーに身を隠す。隠れてしまった蘭子に変わり、鈴が「どうぞ」とドアの前に居るであろう人物に呼び掛けた。

 鈴に招かれ入ってきたのは、若い男性だった。青年、或いは少年と呼んでも良いかも知れない。金色に輝く髪を持ち、青い瞳がきらりと光る。端正でくすみのない顔立ちは、もしや彼はアニメや漫画から出てきた人物ではなかろうかという馬鹿げた想像を過ぎらせるほど美しかった。

 一分の隙のない美青年に鈴が見惚れている中、美青年はきょろきょろと部屋を見渡す。散らかった汚部屋を見るや小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、蘭子が隠れ潜むロッカーを見つめた。

「及川先生はいないようですね。伝言をお願いします。何時までもその席に座っていられるとは思わない事です」

 ではさようなら。

 鈴の答えを待たず、言いたい事を言い終えた美青年は、そそくさとその場を後にした。呆けたように鈴は固まってしまうが、ガタガタとロッカーの揺れる音で我に返る。

「なんだ、セロンだったんなら隠れる必要もなかったわね」

 ロッカーから出てきた蘭子は、拍子抜けしたようなぼやきを漏らした。

「セロン、というのは、さっきの男の子の名前ですか?」

「ええ、そうよ。霧島セロン。日系アメリカ人と聞いてるわ。なんでも飛び級を重ねて、十五歳で博士号を手にしたとかなんとか」

「成程、所謂天才ですか……なんか、やたら先生を敵視していたような」

「あー、うん。なんか変に絡まれてる。お飾りの癖に主任なんて立場にいるからかしらね?」

 ほんと困るわー、という蘭子の訴えに、鈴は苦笑いを返す。他人に恨まれようがなんだろうが、蘭子にとってはどうでも良いのだ。

 あまりにも人間関係に無頓着だが、蘭子ももう ― 見た目はビックリするほど十年前と変わらないが ― 三十代の大人だ。鈴も蘭子の人間関係に口出しはしない。

 されど、疑問には思う。

「……ところで、セロン君はさっき、先生に向かってこう言ってましたよね。何時までもその席に座っていられるとは思わない事です、て」

 例えば先程の、まるで宣戦布告のような言葉の意味について。

「あー、なんか言ってたわね。なんの事かしら?」

「先生の周りで起きてる汚職の証拠とか掴んでるんじゃないですか?」

「いやぁ、あの子そーいうのでマウント取るタイプじゃないのよねぇ。むしろ本質的には私と同じタイプ。地位とか名誉とかどうでも良くて、知識と探求を求める方が大事ってやつ」

「……デボラ研究に携わる科学者は変人しかいないんですかね」

「ちょっと、さらっとディスらないでくれる?」

 鈴との会話を楽しみながら、蘭子はふと別の事を考える。

 そう、セロンは名誉欲や出世欲がないタイプである。

 だがプライドが高い。天才として、そこらの『凡骨』では到達出来ない高みにいるという自負がある。その自負に足る能力はあるし、捏造などの手段を「能力のない三下のする事」と見下しているので結果的に潔癖な人物なのだが……どうしても自分より『上』というものを認めたがらない。

 だからこそデボラ研究の第一人者にして、誰よりも(・・・・)デボラに(・・・・)詳しい(・・・)蘭子を敵視している。

 その蘭子を打ち負かす方法とは何か? 簡単だ。自分の方がデボラに詳しいという確固たる功績があれば良い。そしてそれは、蘭子には答えられない『謎』を解き明かす事で手に入れられる。

 即ち、デボラの駆除方法。

 何時までもその席に居られると思うな――――捨て台詞のような言葉だが、逆に考えれば……何時そこから転落させられるか、目処が立ったとも取れる。

 もしかすると、彼は本当に見付け、作り出したのかも知れない。

 デボラを打ち倒すに足る、何かを。

「……藪を突いてヘビを出す、なんて事にならなきゃ良いけどね」

 地位も名誉も、そして己の尊厳すらも興味がない蘭子は、ぽつりと本心を零すのだった。




蘭子さんみたいな無頓着系科学者が大好きです。


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レベッカ・ウィリアムズの達観

 太平洋上空を飛ぶ飛行機の中で、一人の少女が座席に座っていた。

 年頃は、そのあどけない顔立ちから十代後半ぐらいに見えるだろう。彼女は栗色の髪をポニーテールの形で束ねており、ぱちりと開いた目で前を見ていた……前を見ても、あるのは自分の前の席の背もたれだけだ。他には何もない。

 だけど彼女は延々と前を見続ける。瞬きをしなければ、もしかして『これ』は人形なのではないかと思うほどに。

「ねぇ、レベッカ。知ってるかい?」

 淡々と前を見続けていると、ふと隣の座席に座る人物……キャサリンが声を掛けてきた。彼女――――レベッカは、表情一つ変える事なくキャサリンの方へと振り向く。

 キャサリンは可愛らしい名前に反し、かなり強面の女性だった。肌こそ二十五歳という年齢らしい若々しさがあるものの、鋭い眼光や全身を包む筋肉は正しく戦士の出で立ち。女性らしい可愛らしさなど殆どない。

 とはいえ彼女が太平洋防衛連合軍の構成員、つまり兵士であると考えれば、その屈強な肉体も当然のものと受け止められるだろう。

 或いは麗しい美少女であるレベッカが太平洋防衛連合軍の一員であるという事実の方が、奇妙な事かも知れないが。

「何でしょうか、キャサリン」

「暇だからね、ちょっとしたお喋りさ……噂で聞いたんだが、次の作戦では新兵器が使われるらしいよ」

「新兵器?」

「ああ。国連の天才科学者さんが開発したらしいそうさ」

「そうですか。現状の武器ではデボラに有効なダメージを与えられませんし、是非とも期待したいところですが……どのような代物なのですか?」

「なんでも巨大なドリルだそうだ……天才科学者さんとやらは、日本の子供騙し(ロボットアニメ)がお好きらしい」

 小馬鹿にした物言いのキャサリンに、レベッカは眉一つ動かさないで話を聞く。と、キャサリンはふんっと鼻を鳴らした。

 確かに、ドリル兵器というのはなんというか……子供っぽいな、とはレベッカも思う。しかし曲がりなりにも国連所属の科学者が研究し、編み出したものだ。全くの役立たずとは思えない。

 何故彼女はそんなに、見てもいない新兵器を毛嫌いしているのだろうか?

「それが、何か問題あるのですか?」

「大ありだよ。私らはその武器を守るために命を賭けろって命じられるのさ。こんな馬鹿馬鹿しい話、ないだろう?」

 それから肩を竦め、レベッカに同意を求めてくる。

 どうやら彼女は、役立たずな武器を守って死ぬ……というのが嫌らしい。キャサリンの気持ちを察したレベッカは成程と思いつつ、少し考え込む。

「それが命令なら、従うのが『軍人』として正しいと思うのですが」

 そして、極めて『事務的』な返答をした。

 キャサリンは目を見開き、次いで苦虫を噛み潰したように顔を顰める。次いで鼻を鳴らし、あからさまな侮蔑の眼差しをレベッカに向けた。

「流石、『お人形さん』は言う事が人間とは違うねぇ」

 そして周りに聞こえるぐらい大きな声で、独りごちた(・・・・・)

 それは明らかに侮辱の言葉だった。レベッカにもそれは分かった。だけど彼女はキャサリンに何も言い返さず、なんらかの行動を起こす事もなかった。

 何故なら何も感じなかったから。

 何も。

 何も。

 

 

 

 両親を殺した仇。

 そんな存在に対して、普通はどんな感情を向けるものなのだろう? ――――それは、レベッカにも分かる事だ。怒りだとか憎しみだとか、攻撃的な感情が殆どに違いない。或いは何も出来ない自分への悔しさかも知れないし、憎たらしい親を殺してくれた事への感謝でも良いだろう。兎に角、何かを思う筈なのだ。

 レベッカは、何も感じられなかった。

 十年前のあの日……デボラが町に上陸した日、レベッカは両親を失った。動かなくなった両親を見た時には悲しみも感じたし、自分の身に起きた悲劇への怒りも感じていた。

 だけどデボラを見たら、何も感じられなくなった。

 恐怖のあまり心が死んでしまったのかも知れない。或いはデボラがこちらを見向きもしなかった事で、人間の命が如何に無価値なのかを理解したからかも知れない。理由は分からないが……あの瞬間からレベッカは感情を失った。両親が死んだ事を悲しいと思わなくなったし、デボラの事を怖いとも思わなくなった。

 それを悲しい事だとは思わない。感情がなくなったのだから。

 だけど何も感じられない自分というのが……時々、無性に『嫌』になる。

 嫌といっても感情的なものでなく、例えるなら熱いストーブの前から逃げたくなるような感覚なのだが……けれども『心』から逃げたくなってもどうにも出来ない。元の自分に戻る事がどれだけ苦しいかは分からないが、このままではいたくないという感覚がじわじわと胸を苛むばかり。

 勿論レベッカは何もしなかった訳ではない。精神科医によるカウンセリングは受けた。祖父母が暮らす穏やかな環境で療養もしてみた。本もたくさん読んだ。だけど何も、戻らなかった。

 だからレベッカは、デボラと戦う事を決めた。

 自分の両親を殺した奴を倒せば、何かが変わるかも知れないから。奴に殺される瞬間、なんらかの想いを感じられるかも知れないから。

 もう一度何かの感情を感じられるのなら……死んだとしても、悪くはないのだろう。

「(まぁ、先週のオーストラリアでの初陣でも何も感じなかったから、最期まで何も感じないまま死にそうだけど)」

 先週でのデボラとの死闘 ― 人類が一方的に蹂躙されただけだが ― を思い返しながら、レベッカは武装の点検を行う。

 飛行機に乗っていたレベッカが運ばれたのは、インドネシア諸島のとある島。

 デボラに取り付けられた発信器により、次の上陸地点として予測された場所だ。島には小さな村が存在しており、人々の避難が始まっている。とはいえデボラの移動速度はかなり速い。島での避難は恐らく間に合わないだろう。

 そのためレベッカ達太平洋防衛連合軍がデボラの足止めを担う。

 危険な任務だ。それに足止めすら成功するか分からない。しかし誰かがやらねば、島に暮らす数千人の命が脅かされる。戦わねばならない。

 レベッカ達は既に島の浜辺から十キロほど離れた位置……海岸付近だとデボラ上陸時の津波に巻き込まれる危険があるため、この距離での待機が定められている……にある、見晴らしの良い山地に陣取った。レベッカの周りには三百人ほどの兵士が居て、何時でも戦闘を行える体勢にある。

 彼等の多くはレベッカと同じく、家族をデボラに奪われた身。レベッカのように感情を失った者はいないが、代わりに誰もが闘志を剥き出しにしている。デボラを前にしても、彼等は勇猛果敢に挑むだろう。

 それに此度の任務には、彼等の士気を『一応』高めてくれるものが用意されている。

 レベッカは自分の背後へと振り返る。

 そこには、五台の大きな車両が止まっていた。それらは本来ミサイルを搭載し、撃つための車両なのだが……此度は普段とは載っているものが違う。

 載せられているものは、大きな筒状の『杭』だった。杭といっても真っ直ぐに尖ってはいない。螺旋を描いており、なんとも奇妙な形をしている。おまけにその螺旋にはギザギザとした突起があり、非常に凶悪な見た目を作り出していた。

 一言でいうならば、確かに『ドリル』。

 このドリル――――大型装甲貫通弾こそが、国連の用意した新兵器だった。現場に用意されたものは三百本ほど。大きさはかなり小さく、相当数運び込まれている。それにレベッカの傍以外にもこのミサイルを搭載した車両は展開しており、かなりの数が此度の戦闘に参加しているとレベッカはブリーフィング時に聞いた。短時間で弾切れになって役立たずに、という事は早々ないだろう。

 ……レベッカ的には、あの奇妙な形のミサイルが真っ直ぐ飛んでくれるのかが心配である。試験運用ぐらいはしてる筈なので流石に杞憂だろうが。

 それに、使えるものは全て使うべきだ。

 でなければ、今し方地平線の先にある大海原に現れた『うねり』の根源から、生きて帰る事も叶わなくなるのだから。

【海面隆起を確認! 総員警戒態勢!】

 耳に嵌めた小型のインカムから、レベッカ達兵士に指示が飛んでくる。作戦本部からの命令。レベッカ、そしてレベッカの周りに居る兵士達は、己の武器を構えた。

 レベッカの武器は対デボラ用に改造されたロケットランチャー。反動を抑えた事で、女性や未熟な若者でも扱いやすいよう作られた代物だ。構造も単純化されているため量産コストも安い。

 欠点は現代の主力戦車相手には複合装甲で簡単に防がれてしまう事と、対人相手に使用するには爆破範囲が狭い点だが……デボラ相手に使う分にはなんら問題はない。

 当たって爆発し、衝撃を与える。対デボラに求められるのは、この二つだけで十分なのだから。

【センサーに反応あり! 海面上昇はデボラによるものと確定! 総員、デボラを確認次第攻撃せよ!】

 戦闘許可が下りた、瞬間、海岸付近まで近付いた海面のうねりが一際大きくなる! うねりはそのまま海岸を乗り上げ、大津波となって海岸線に並ぶ小さな家々を飲み込んでいく。

 一瞬にして何十、何百の建物が消える。海岸付近に暮らしていた住人は優先的に避難が行われ、既に全員島外へ避難したという話だが……彼等の帰る場所はもう存在しない。汚泥と塩が彼等の故郷を汚していく。

【ギギギギギギィイイイイイ……!】

 そして破滅的な鳴き声と共に、デボラが姿を現した。

 姿が見えた、その瞬間にレベッカはロケットランチャーのトリガーを引く。簡略化された機構は、量産化のみならず安定性にもプラスとなる。装置は問題なく稼働し、たっぷりの爆薬を詰んだ鉄塊が放たれた。

 他の兵士達も、次々と攻撃を開始する。レベッカと同じ地、海から来たデボラから見て正面に位置する、南側の山地に集められた兵士は三百人。数百発の弾頭が空を駆け、デボラへと時速数百キロの速さで突撃する。更に西と東の地帯に展開している部隊からも攻撃が行われ、一千発もの破壊兵器がデボラに撃ち込まれた。

 人間ならば、直撃すれば粉々になる威力。

 しかし人間と同じ、生命体である筈のデボラは全く動じなかった。次々と爆炎がデボラの甲殻上で起き、目玉も爆発に包まれるが、デボラの身を傷付ける事は叶っていない。

 デボラの甲殻は戦車砲にも耐える強度がある。航空爆撃やミサイルさえも殆ど通用しない。人間が扱える程度の武器など、デボラの甲殻の隙間部分にすら傷を入れられないのだ。

 蚊が刺すほどにも感じない、という言葉がピッタリ当て嵌まる状況。十年前のデボラであれば、恐らくちょっと煙たい程度にしか感じず、攻撃を無視しただろう。

 されど今のデボラは違う。

 十年間の戦いの中で、人類はデボラについて新たな、そして重要な知見を得ていた。

 デボラは賢い(・・)のだ。どう見ても甲殻類にしか見えない姿でありながら、過去の経験から現状を理解する程度の……つまり哺乳類に値するほどの知性があるらしい。

 デボラは学んでいた。自分を攻撃しているものが、自分よりも遙かに小さな生物である事を。そいつらが繰り出した攻撃が、かつて自分の甲殻を砕き、痛め付けてきた事も。

 デボラは許さない。自分に危害を加えるあらゆるものを。

 例えそいつらが、今は自分を傷付けるほどの力がなくとも、だ。

【ギギィイイイイッ!】

 デボラの頭部から、半透明な歪みが放たれる!

 放射大気圧。

 デボラが体内で生成した熱により膨張した大気を、圧縮・照射する事で放たれる破滅の一撃。有効射程は確認された限りでも四百キロを超え、その破壊力は地中貫通弾(バンカーバスター)にも耐える基地の壁を容易く粉砕するほど。加えてデボラにとってあまり負担の大きな技でないらしく、連射・持続的放射も可能という万能ぶりを誇る。

 現代兵器を鼻で笑うような攻撃を、デボラは地上に展開していた人間達に照射した。デボラは賢いが、加減というものを知らない。或いは巨大なデボラにとってはこれが最低限の威力なのか。ぶちかまされた放射大気圧により大地は砕け、その場に居た何十人かの人間を纏めて塵芥に変える。

 此度の放射大気圧はレベッカからかなり離れた位置に撃ち込まれた。が、安心は出来ない。何故ならデボラは、その頭を大きく振るったからだ。

 放射大気圧は頭の先から撃ち出されている。その頭を振るえば、当然放射大気圧も大きく振られる。

 あたかも鞭でも振るうかのように、破滅の空気が大地を薙いだ!

 放射大気圧は一秒と立たずに何十キロと動き、照射された場所の地面を粉々に吹き飛ばす。レベッカは幸運にも直撃を受けずに済んだが、背後千数百メートルの位置に控えていた後方支援部隊が吹き飛ばされてしまう。あそこには弾頭などの補給物資も置かれていた。このままでは長時間の戦闘は困難である。

 デボラが補給線を絶った、というのは正確ではない。奴はどうにも攻撃が大雑把なのだ。小さいものを狙うのに慣れていないのだろう。しかしこの雑さが、人間にとって厄介極まりない。何しろどの部隊が攻撃されるか、何処が攻撃されるのか、いまいち判断出来ないのだ。つまり補給部隊を『安全な場所』に置いておく事が出来ない。

 今回は一発でこの様だ。補給が絶たれてこれからどうすれば良いのか。レベッカ以外の兵士に動揺が走る。

 まるで、その動揺を鎮めるかのように。

 難を逃れた『新兵器』が、動き出した。

 レベッカは駆動音を鳴らし始めた新兵器・大型装甲貫通弾の方を見遣る。大型装甲貫通弾はゆっくりと昇る発射台と共に持ち上げられ、デボラへと向けられた。

 そして、轟音と共に射出。

 レベッカの目にも見えるぐらい派手に、大型装甲貫通弾は回転していた。レベッカが抱いた不安を払拭するようにその軌道は真っ直ぐで、デボラに一直線に飛んでいく。

 そのままデボラに直撃し……ぐしゃりと、潰れた。

 不発? 一瞬そう思ったが、すぐに違うとレベッカは理解した。

 攻撃を受けたデボラが、僅かではあるが身動ぎしたのだ。加えて大型装甲貫通弾が命中した場所に複眼を向け、少し気にしているかのような反応を見せる。

 まるで、痛かった、とでも言いたいかのように。

 大規模な爆撃以外では殆ど見られない仕草だった。少なくともあんなちっぽけなミサイル一発で取った事は、レベッカが知る限りでは一度もない。

 加えて大型装甲貫通弾は、まだ此処いらだけで二百九十九発も残っている。

 東西南の三方から次々と飛び、空気に白い筋を残しながらデボラに撃ち込まれる大型装甲貫通弾。デボラは命中の度に身動ぎし、やがて大きくて不気味な声で鳴いた。更には放射大気圧を撃ち込んできたが、今度はその雑さが仇となり、大型装甲貫通弾を載せた車両に当たらない。攻撃は継続され、デボラはますますよろめく。

【ギギ……】

 やがてデボラは小さく鳴くと、一発の放射大気圧で辺りを薙ぎ払う。が、これまた雑な攻撃故に肝心の大型装甲貫通弾は無事。ミサイル攻撃は継続される。

 するとデボラは更に怒り狂ったのか――――甲殻を赤く輝かせ始めた。

 デボラの体色変化を見て、レベッカ、そして周りの兵士達は後退準備を始める。あれはデボラの防御体勢。高熱により生じた空気の膨張圧で攻撃を妨げ、同時に自らの肉体回復を促す技だ。

 この技は、過去に何度か観測されたものである。だからこそ、レベッカは僅かながら『違和感』を覚えた。強靱な甲殻を持つデボラが防御体勢を見せた時というのは、先進国……アメリカや日本、オーストラリアなどが総力戦を仕掛けた時だけだからだ。

 たった数百本の最新式ミサイルが、一国の総力を上回るダメージを与えた。そうとしか考えられない事象だった。

【ギ、ギギギィイイイイイッ!】

 防御体勢に入ったデボラだったが、継続される攻撃に鬱陶しさを覚えたのか。デボラは咆哮を上げると、三度目の放射大気圧を西にある山地へと放つ。

 二度も外した事で、デボラも学習したのだろうか。此度の放射大気圧はかなり幅の広い、広範囲を薙ぎ払うようなものであった。これは流石に外れてくれない。密度が下がった事で威力は落ちた筈だが、ミサイル車両は余波だけで呆気なくバラバラになっていた。

 一撃でレベッカから見て左側の山地の部隊は壊滅したのだろう。西から飛んでくるミサイルが止んだ。生き残った二方向の車両が攻撃を続けるが、四射目、五射目の放射大気圧により何もかも吹き飛ばされてしまう。

 最新鋭兵器が潰れてしまえば、最早残る武装は歩兵の携行火器程度。とても敵うものではない。絶望が兵士達に広がる。

 だが、

【……ギ、ギ、ギィ】

 デボラが鳴いた。ほんの少し、上機嫌にも聞こえる声色で。

 そしてあろう事か、その身を翻し、海に向かって進み始めたのだ。

「……え」

 レベッカは、ぽつりと呟いた。周りの兵士達も呆けていて、じっとデボラを見つめるばかり。

 何が起きたのか。

 感情が乏しくなっているがために、レベッカは冷静に思考を巡らせる。巡らせて、一つの仮定が浮かんだ。

 『満足した』のではないか。

 つまりデボラは『強敵』を倒したと思い込み、意気揚々と帰った。先の姿は、レベッカの目にはそんな風に感じられたのだ。

 本来、この結果は屈辱的なものと言えよう。

 相手を倒すどころかろくな傷も与えられず、一瞬で薙ぎ払われた『新兵器』。しかしその攻撃は、傷こそ付けなかったが着実にデボラを苛立たせた。そして吹き飛ばされ、跡形もなくなったが、結果デボラを海へと帰した。

 内情は情けないものだ。けれども人類は、この『情けない結果』すら今まで満足に得られなかった。大切な人を守ろうとしても、その想いは何時も虫けらのように踏み潰されていた。

 だが、今日は違う。

 今日、人類は、大切な人々を守れた(・・・)のだ。

「……お……おおおおおおおっ!」

 一人の兵士が、唐突に叫ぶ。

 その叫びに最初は誰もが困惑していた。やがて雄叫びを上げる人間は一人、また一人と増えていく。ついには戦場全体から、生き残った兵士達の声が響き渡る。

「やった! やったぞ!」

「俺達は、アイツを追い払えたんだ!」

「はははっ! 大戦果だ!」

 喜びの声は止まず、誰もが『勝利』を喜んだ。誰もが歓喜に沸いた。

 この瞬間、兵士達の心は一つになっていた。人種、性別、年齢……あらゆる違いに関係なく。

 ただ一人、何も感じられないレベッカを除いて――――




デボラ様は本当に頭のよいお方(適当に敵を倒したので満足)


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霧島セロンの目的

「今回の件、どのように落とし前を付けるつもりだ?」

 身長百八十センチ、体重九十キロはあるだろう屈強な大男が、威圧的な声でそう尋ねた。

 常人ならば、彼の放つ威圧感に潰され、目に涙を浮かべてしまうだろう。訓練された兵士でも、手がぶるぶる震えてしまうかも知れない。何しろ彼の纏う雰囲気を例えるならば、怒り狂った猛獣のようなものなのだから。彼が居る小さな事務室の中は今、ピリピリとした空気に満たされている。

 だがそんな彼――――国連所属『デボラ対策軍』司令官ヴィスコム・グローリーの重圧を受けても、霧島セロンは眉一つ動かさなかった。

「なんの話だい?」

「惚けるな! 先日のオーストラリアでのデボラ襲撃時、国連で開発した最新鋭兵器を無断で非公認の武装組織に提供しただろう!?」

 首を傾げるセロンに、ヴィスコムは強い口調で問い詰める。

 『天才』と呼ばれるセロンには、ヴィスコムの言いたい事はすぐに理解出来た。要するに、何処の国にも属していない『武装組織』に国連の武器を渡した事が気に入らないらしい。

 ヴィスコムの怒りの原因は分かった。分かった上で、セロンは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「ふん、その件か……それの何が問題なんだい?」

「何が、だと……!?」

「太平洋防衛連合軍は、数多の国の人間が所属する組織だ。何処かの国の軍隊より、余程中立的な組織だと思うよ? 少なくとも彼等は、デボラ以外に提供した武器は使わない。そうだろう?」

「……っ!」

 セロンの意見に、ヴィスコムは口を閉ざしてしまう。

 難しい話ではない。デボラはどの国にとっても脅威だが、全ての国にとって最優先事項ではないという事だ。

 デボラ出現初期、途上国ではデボラへの対抗手段などないも同然だった。上陸すれば撃退はおろか、足止めすら出来ない有り様。そこで国連が新設した対デボラ対策部隊は、途上国への武器提供を行ったのだが……その武器をデボラ以外の『敵対勢力』に使う国家が出たのである。

 それは決して多くの国で起きた出来事ではなく、むしろ様々な不運が重なった希有な事象であったが……国際的な ― 国家ではなく市民側の ― 不信感が噴出。対デボラ兵器のより慎重な運用が求められるようになったのである。

 勿論対デボラとして開発された兵器が人間へと向けられるのは、ヴィスコム達デボラ対策軍の面々にとって最も忌むべき事態だ。しかしデボラ被害から治安や情勢が悪化する昨今、世界中で軍事政権や独裁政権の樹立が相次いでいるのも事実。彼等に武器を渡せばどうなるかは、人類の歴史が教えてくれる。

 デボラによる民間人への被害を防ぐためにも、兵器の供給は行わねばならない。けれどもその兵器が無辜の市民に向けられる事も警戒せねばならない。

 太平洋防衛連合軍は、その意味では間違いなく最適な組織である。彼等はデボラ打倒というシンプルな目的のために集い、結束している。そこに人種も性別も宗教も関係ない。デボラという『人類共通の敵』のみを見据える彼等は、決して銃口を人間には向けないのだ。

「……お前の言う事は、確かにその通りだ。彼等が、提供した兵器を市民に向けるとは私も思わない」

「なら良いじゃないか」

「規則があると言っているんだ! 規則というのはただの面倒な約束事じゃない! 経験から培われた安全のためのルールであって」

「ルール、ルールねぇ」

 ヴィスコムの叱責を受けても、セロンは何処吹く風。まるで堪えない。

 セロンからすれば、ルールという『思考停止』の方法に則ってる時点で二流の考えだと思っていた。一流は状況を的確に理解し、その都度最適の答えを導き出す。ルールなんてもので選択肢の幅を狭めるなど愚の骨頂である。

 勿論一般人……セロンから見た『二流』の連中がルールを守るのは良い事だ。二流の連中では、都度都度正しい答えを出せはしないからである。だが、一流の人間に二流のルールを当て嵌めてくるのは我慢ならない。

 無論この考えは既にヴィスコム含め、国連の上層部にセロンは伝えている。それでもルールを守らせようとするのは、組織というのは統率が取れていなければならないからだ。ましてやそれが、実際はどうあれ、『公平』を謳う組織ならば尚更である。

 国連とセロンの考えが合う事はない。

 ――――そろそろ引き時だろう。

「OK、あなたの言いたい事は理解した。つまり、国連の仲間でいたいならルールを遵守しろという訳だね?」

「……そうだ。ルールさえ守ってくれるなら、こちらとしても最大限君の研究と開発を援助し」

「じゃあ、ボク達の関係はここで破綻だ。今日までありがとう」

 ヴィスコムの話を遮り、セロンは己の言いたい事を歯に衣着せずに語る。

 最初、ヴィスコムは呆けたように固まっていた。それからしばらくして口をパクパクと動かし……ギョッとしたように目を見開く。

 その間にセロンは事務室の扉の前まで移動しており、ヴィスコムは慌ただしい足取りで彼の後を追った。

「ま、待て!? それはどういう……」

「皮肉でもなんでもない言葉を理解出来ないのは、四流以下だよ。君、そこまでお馬鹿だったのかい?」

「そうじゃない! こちらはただ、ルールを守ってほしいだけで……」

「そのルールを守るという行為が鬱陶しいんだ。だからボクはここではもう働かない。シンプルだろう?」

 淡々と、思った事を答えるセロン。ヴィスコムは最初ただただ戸惑うばかりだったが、やがてその顔には憤怒の色が浮かんでくる。

「き、貴様のように身勝手な輩を、誰が雇うというんだ! 研究が続けられなくなるぞ!」

 ついには脅しの言葉を発し……セロンはくるりと振り返る。

 そして、ニタニタとした笑みをヴィスコムに見せ付けた。

 ヴィスコムは後退りし、口を閉ざす。嘲笑うような表情。天才が向けた感情に、『凡夫』である彼は怯んでしまった。

「生憎、ボクの頭脳を欲しがる人は多いんだ。ま、君達にとっては些か都合の悪い相手かも知れないけどね」

 セロンはそんなヴィスコムに、意地悪く告げる。

 ヴィスコムはごくりと息を飲み、立ち止まってしまう。セロンはそんな彼には目もくれず、踵を返すと彼を置いて歩みを再開してしまう。

 やがてセロンは国連本部……かつてニューヨークにあったその建物は、今ではドイツに移転されている……の玄関口に辿り着き、外へと出る。と、まるで彼を待っていたかのように一台の黒塗りの車がやってきた。博識なセロンはその車が所謂高級車であり、今は一般市民では手の届かない代物である事を知っている。

 車は窓を開け、乗員が顔を見せる。セロンにとってそれは見覚えのある『アジア人』の顔。想定外の人員でない事を確かめたセロンは、自動的に開かれたドアをくぐって車内へと入る。

「穏便に『退社』出来ましたか」

「ああ、とても穏便にいったよ。想定通りだ」

 訛りのある英語で尋ねてくる運転手に、セロンは饒舌な英語で答える。ドアが閉まった車は走り出し、異国への玄関口である空港目指して走り出した。

 もう、セロンは此処に戻ってくるつもりはない。

 此処よりももっと良い場所を、彼は五年以上前から見付けていたのだから……




協調性のない科学者が凄いものを作るというお約束。


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李 正の不安

「いい加減、白状してはどうですかな?」

 しわがれた老人の声が、会議室に響いた。

 国連本部の一室……各国の代表数人が集まり、非公開(・・・)のやり取りを行う一室。この部屋に居るのは数人の国家的代表者と、彼等の通訳のみ。

 しわがれた声の痩せた老人――――現日本国首相である新田(にった)文彦(ふみひこ)の言葉も即座に通訳が英語に換え、他の通訳がその英語から各国代表者の母国語へと翻訳する。

 部屋に居たのは文彦以外に、アメリカ大統領グラヴィス・カーター、イギリス首相ブリジット・キャメロン、インドネシア大統領バハルディン・ウィラハディクスマ……そして中華人民共和国最高指導者である()(セイ)の五人。

 そして正以外の四人は、文彦の言葉を通訳により伝えられるや正の方を見る。

 正は、訳が分からないと言うように肩を竦めた。言葉を返すよりも早く、故に強い感情を感じさせる返答方法だ。

「白状と言われましても、なんの事ですかな?」

「単刀直入に言いましょう。デボラの事ですよ。アレ、作ったのはおたくじゃないので?」

 ハッキリと、臆面もなく文彦は己の考えを明かす。正はわざとらしく目を見開き、「はっはっはっ!」と豪快に笑う。

 正以外、誰も笑わなかった。

「おっと、失礼……あまりにも突拍子のない話で、つい笑いが……日本人はジョークが下手だと思っていたのですがね」

「生憎、ジョークではありません」

「今日、皆に集まってもらったのはあなたを問い詰めるためですよ」

 文彦をフォローするように、ブリジットが話に入る。彼女が浮かべる笑みは嫋やかで、齢六十を超えるというのに女性的な魅力に満ちている……目が、笑ってさえいれば。

「デボラ……我々は、あの生物が天然のものだとは思っていません。そして出現当時、あのような生物を作り出すほどの遺伝子工学技術を持ち合わせていたのは、アメリカと中国だけでした」

「お褒めいただき光栄です。当時を知る身としては、まだまだ我が国はアメリカを追う側だと思っていたのですがね」

「ですが今では名実共に頂点です。我らが合衆国がデボラにより衰退した事で」

 ブリジットの言葉を引き継ぐように、今度はグラヴィスが正に話し掛ける。

 元陸軍所属の兵士だというグラヴィスは、正よりも遙かに恰幅が良く、間違いなく腕力ではこの中の誰よりも強い。そのグラヴィスの発言を聞いた正は、表情を強張らせた。不愉快だ、と言わんばかりに。

「……それだけで、我が国を犯人扱いとは。法と正義と公平を愛していたのは昔の事という訳ですか」

「生憎、無法者に語る愛はありません」

「キリスト教国とは思えぬ発言ですな」

「今ではキリスト教などすっかり廃れましたよ。審判の日に現れたのがイナゴではなくエビでしたから。今では新興宗教であるデボラ教が我が国最大の宗派と言われる有り様です」

 選挙対策として改宗する議員も多いのですよ、と最後に付け加えて、楽しげに笑う米国大統領。宗教弾圧を繰り返す中国共産党の代表は、彼の言葉になんの返事も返さない。

 やがて訪れた沈黙。

「……此処での話を公表するつもりはありません。記録も何もなければ、ただの頭のイカれた人物ですからね。それでも、本当の事は話してくれないと? 真実を教えてはくれないのですか?」

 これを破ったのは、バハルディン。この中では誰よりも若く、六十四になった正からすれば息子ぐらいの歳である彼の視線と声は、故に誰よりも情熱に満ちたものだった。

 正は、口をへの字に曲げたまま。やがて小さく鼻を鳴らすと、席から立ち上がる。

「もっと有益な会話が出来ると思っていたのだがな。時間の無駄だった。私はこれで失礼させてもらう」

 正はそう言うと、すたすたと部屋の扉まで歩く。通訳は慌てて後を追うが、国家の代表者達はそれを引き留めない。

 正は扉を開け、振り返る事もなく外に出て、扉を閉める。

 五人から四人に減った国家の代表達は、同時にため息を吐いた。

「やはり、そう簡単には白状せんか」

「物証があれば容易いのですが……」

「今じゃ世界中、どの組織にもかの国の手が入っている。デボラが現れる前からそうやって不都合な情報を抹消してきた奴等だ。日本も我が国も衰退した今、十年前以上に好き勝手やっている」

「だが、状況証拠は着実に積み上がっている。半年前、ついにロシアにもデボラが襲撃し、原発を破壊した。軍も壊滅したと聞く」

「東南アジアはデボラにより崩壊。米国と日本の後ろ盾を失った朝鮮半島は言いなりの植民地状態。中東は工業が中華系企業に乗っ取られて経済支配されたも同然」

「アフリカでも幾らかの企業が進出し、それなりの影響力を与えている。しかも先進各国の支援が途絶えた影響で経済が悪化し、内乱が頻発して最早国家としての体すら成していない。あれは頭数にすらならん」

「残るはヨーロッパ諸国だけ、という訳だ」

 通訳を介し、それぞれの意見と考えを伝え合う指導者達。

 デボラの出現は中国にとってあまりにも露骨な追い風だった。

 かつて中国とやり合えるほどの経済力や軍事力を誇った国は、デボラにより壊滅している。そうした国々が影響力を及ぼしていた中東やアフリカ、朝鮮半島や東南アジアの一部を中国は貪欲に確保。日本にもデボラ対策の名目で軍が駐屯し、不穏因子と呼んで反中思想を取り締まっている。今や世界の六割は中国の言いなりだ。曲がり形にも現代の国際社会は多数決(民主主義)を採択しており、故に今の国際社会は中国の意向を全面的に受け入れる独裁状態にあるといっても過言ではない。

 中国は更に、国際的機関に莫大な援助を行っている。デボラ研究機関への出資は特に旺盛だ……果たして研究所は、スポンサーにとって不利益な発表が出来るのか? 答えはNoだ。掴んだ真実は握り潰され、偽りが世界に発信されるだろう。

 世界は、着実に中国に蝕まれている。

 その事に対し、この場に居た誰もが危機感を覚えていた。彼等は政治家であり、正義の味方ではない。腹芸もするし、綺麗事だけ語るつもりもない。しかし多少の愛国心を持ち、国家を任された者というプライドがある。

 中国の好きにさせるつもりはない。国も年齢も性別も、信仰する宗教も価値観も異なる彼等だが……この一点については、揺るぎないほど共通していた。故に彼等は団結し、中国を追い詰める決意をする。

「アフリカ諸国への根回しをしましょう。あれを纏めるなら私達イギリスの右に出る者はいないですから」

「こちらは国内世論の形成を急ごう。反中思想を維持出来なければ、いよいよ属国化もあり得る」

「我々の間で経済的結び付きを強め、プレッシャーを与える必要がありますね」

「軍事的な協力も必要だ。近い日に演習を行うのはどうだろうか」

 会議室の中で、愛国者達が言葉を交わす。

 自らの国を、国民を守るために……

 ……………

 ………

 …

「……はぁぁ……」

 会議室を出て公用車に乗り込んだ正は、大きなため息を吐いた。

 車はドイツの高速道を走り、空港へと向かっている。夜分遅い時間というのもあってか道は空いており、これならすぐ空港に着けるだろう。

 彼の隣では、秘書である若い女性が座っている。ノートパソコンを開き、カタカタと何かを打ち込んでいた。今後の予定か、或いは報告書か。なんにせよ彼女を信頼している正としては、何をしていると訊くつもりはない。

 むしろ、向こうからこちらの事を訊いてほしいぐらいだ。

「李主席。どうやら先の会議、上手くいかなかったようですね」

 そしてその気持ちを、秘書はしかと汲んでくれた。正は俯いたまま、こくりと頷く。

「ああ。彼等、こちらの話を全然信じてくれなかったよ……」

「状況証拠的には甚だしく怪しいのは確かですからね」

「全くだ。こっちだって、こんなに状況が『好転』すると分かっていたら、もっと色々手を打てたのに……」

 ぶつぶつと愚痴る正の言葉を、秘書は黙して聞き入れる。

 正は、デボラの正体を知らない。

 本当に知らない(・・・・・・・)。十年前初めてテレビ報道でその姿を見た時、呆気に取られたものだ。そして日本の自衛隊の攻撃をものともしない姿にも恐怖した。

 当時の人民解放軍は確かに人員や装備数こそ自衛隊を大きく上回っていたが、技術面では劣る部分が多かった。自衛隊は『敵』として相手にしたくない存在であり、口では威嚇しても本当にぶつかり合う事態は避けたいのが本心だった。

 そんな自衛隊にすら倒せない怪物が中国に上陸したら……町は滅茶苦茶になるだろう。社会不満が蓄積している中大量の被災者なんて出たら、本当にクーデターが起きたかも知れない。

 しかしデボラは中国に来なかった。太平洋から見て日本が防衛線となってくれたからか、大気汚染を嫌ってか、それともただの気紛れか……理由は分からない。

 それ自体は喜ばしい事なのだが、デボラによりアメリカと日本が没落してしまった。

 当時の中国の戦略 ― 経済的・領土的支配の拡張 ― は、アメリカや日本から数多の妨害を受けた上で進める前提だったのだが、その妨害がパタリと消えたのだ。現地も現地で、経済大国二つの崩壊により中国依存が加速する有り様。結果、枷を外したかのように中国の支配は広まった。

 これに一番困ったのが、計画を立てた当人達だ。正直、十年で世界の六割を支配するなんて性急過ぎる。人員が全然足りないしノウハウもない。しかし支配してしまった手前手放す事も……長年の教育政策で国民に熱狂的な『愛国心』を植え付けてなければ適時出来ただろうに……出来ない。デボラ出現初期では行政がパンクし、書類不備やら紛失やら粉飾やらが溢れた。今でも、あまり状態は変わっていない。

 そんな中で真面目に仕事をしていたら功績が山ほど積まれていて、なんか最高指導者になっちゃっていたのが正だったりする。

「本当に、なんなんだあのデボラという生物は……」

「我が国が開発した生物兵器と聞いています」

「もし本当にそうなら、もうそっちの方がマシだよ……」

 秘書からの皮肉さえ、今の正にとっては『ありがたい話』だ。コントロールしているのが陰謀論通り自分達なら、少なくともデボラが中国を襲う事は絶対にない。内々の危機を誤魔化しながら、少しずつ立て直しを図れば済む話となる。

 されど現実には、中国はデボラを制御などしていない。少なくとも正が知る範囲では絶対に。つまり、何時デボラに襲われてもおかしくないという事だ。

 だからこそ中国は様々な研究機関に資金を渡し、研究を促してきた。彼等の報告内容に圧力など加えた事がない。真実を知りたいのは正も同じなのだから。けれどもそうした動きすら、世界は中国の暗躍だと決め付ける。

 国内世論から突き上げられ、世界の反感を買ってまで支配を広げるしかなく、結果行政機能は破綻。なのに恐ろしいデボラの止め方は全く分からない。

 冗談抜きに最悪だ。どんなきっかけで国家が崩壊してもおかしくない。今の中国は、何時破裂するか分からない風船も同然だ。

 そして民主国家ではない国が崩壊したなら、その時トップに居た指導者は……

「李主席。空港に着きました」

 頭を抱える正に、秘書が淡々と状況を伝える。正はハッとして顔を上げると、そこには自分がこの国に降り立つため使った空港が見えた。

 正は咳払いをして、背筋を伸ばす。車内 ― この車の窓ガラスは特殊な加工がされていて、外から中の様子は見えない作りだ ― や自室で頭を抱えるならまだしも、外でこんな姿をしたら一瞬で世界中に報道されてしまうだろ。

 米国大統領は自身の健康ぶりを示すため、多少無理にでも大食らいを演出するという。ロシアの大統領も寒中水泳やクマへの騎乗などで、己の強さを見せていた。

 『世界の支配者』である中国共産党最高指導者が、頭を抱えている姿を市民に見せる訳にはいかない。

 それに、デボラへの『対抗策』は既に打っている。不安はあっても、怯え続ける理由はない。

「……分かった」

 正は己の気持ちを切り替えるためにも、秘書の言葉に力強い返事をする。

 彼は扉を開け、真っ直ぐ空港目指して歩く。と、そんな正の前に一台の黒塗りの車が現れ、止まった。

 車のドアが開き、中から一人の青年……いや、少年が現れる。

 正は彼の事を知っている。国連の天才科学者である霧島セロンだ。尤も、正確に言うならば『元』科学者であるが。

「……来てくれたかね、霧島セロンくん」

「ええ、李主席。今後はボクがあなた方のプロジェクトに参加します……まぁ、実際には五年以上前から接触している訳ですが」

「確かに。今更他人行儀だったかな?」

 セロンの意見に、顎を触りながら正は答える。

 セロンが言うように、セロンと中国政府は五年以上前から関係を持っている。国連で好きなように研究が出来なかったセロンと、優れた技術者を欲していた中国との思惑が一致したからだ。国連には秘密で両者は交流を重ね、とある『計画』を進めてきた。

 そして秘密裏に進められていた計画は、間もなく実現しようとしている。

国連側で(・・・・)テストした(・・・・・)データも持ち出しています。解析途中ですが、大凡予想通りの結果です。もしかするとプロトタイプでも成果を上げられるかも知れませんね」

「では……」

「人民解放軍と太平洋防衛連合軍から、良い人材を持ってきてください。それで計画は始動出来ます」

 セロンの言葉に、正は本心からの笑みを浮かべた。

 長年推し進めていた計画がいよいよ始動する。この時を、今か今かと待ち侘びていたのだ。それが実現すると聞かされて、どうして喜びを隠せるのか。

 いよいよ始まるのだ。デボラを倒し、中国が『本当』に世界を支配するための計画。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『メカデボラ建造計画』を。




うちのメカさんはコンビナートとかにはならないです。
アレはアレで好きですけどね、私は。


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山下蓮司の情熱

 デボラが人類文明をここまで蹂躙出来た要因は何か?

 巨体から繰り出される驚異的パワーだろうか? それとも最新鋭駆逐艦を遙かに上回る航行速度? 或いは放射大気圧の絶望的破壊力と射程か?

 どれも確かに脅威である。が、本質的には些末な事。本当に恐ろしいもの、人の世を砕いたものは別にある。

 答えは、その生命力。

 どんな破壊力を持とうと、どんなスピードを誇ろうと、倒せてしまえば被害は局所的なもので済む。未来に希望を見出し、復興は迅速に進められるだろう。逆に今よりもっと力が弱くとも……死ななければ、やはり人類文明に脅威を与えた筈だ。死なない生命体ほど恐ろしいものはない。

 核をもはね除けるデボラの生命力こそが、デボラを人類の脅威たらしめるものなのだ。

 では、その生命力の根源は何か。

 それは熱を吸収するという生態だ。現代兵器の大半は、莫大な熱を生み出す。核兵器は正に熱を用いた兵器の頂点であり、故にデボラに対して殆ど効果がなかった。ミサイルや砲弾にしても、爆発して高温を撒き散らすようではデボラには通じない。

 デボラを倒すには熱以外の攻撃が必要である。

 しかし毒は通じない。デボラに襲われた様々な国で化学兵器……サリンやVXガスなど……が用いられたが、デボラは平然としていた。一説には体内を循環している莫大な熱エネルギーにより、化学物質が熱分解されているのではないかともいわれている。これが事実なら、デボラにあらゆる毒物質は通じない。放射線耐性が尋常でなく高い事も核攻撃から生還している事から明らかなため、放射性物質をぶつけても意味がない。細菌兵器も高熱により『消毒』されているのか、効果は見られなかった。

 残された手段は、熱をあまり生じさせない破壊……即ち大質量の物質を衝突させ、その運動エネルギーにより粉砕するというもののみ。

 そしてその目的のために開発されたものこそが、中国で秘密裏に開発された新兵器。

 『メカデボラ』である。

「全く、勝手な名前を付けてくれたものだよ……腹立たしい」

 なお、その名前は兵士達が勝手に名付けたものであり、開発者であるセロンは大変不服に思っているようだが。

 そしてその不満を、彼と同じエレベーターに乗っていた青年――――山下蓮司は、苦笑いを浮かべながら聞いていた。

 メカデボラ、というのはあくまで俗称である。正式名称は『多脚式大型陸上戦闘兵器試作四型』だ。報告書などに使われるのはこの名前、精々略称である『四型』ぐらいであり、『メカデボラ』なんて文字は一切出てこない。

 ……それでもメカデボラと呼ばれるのには、相応の理由があるというもので。

「さてと、着いたよ」

 エレベーターが止まり、扉が開くのと共にセロンはそう語る。

 扉の先にあったのは、巨大な空間だった。床も壁も天井も、全てが無骨なコンクリートに囲まれている。当然陽の光なんて届かないので、設置された無数のライトが内部を照らしていた。空間内にはショベルカーやトラックなどが幾つも駐車しており、それが小さく思えるほど遠くにも存在していて、この部屋の広さを物語る。遮蔽物もないため、一層その広さが際立って感じられた。

 けれども室内には、この部屋そのものが小さく思えるぐらい巨大なものが配置されている。

 全長約四百メートル。全体を覆うのは白銀の金属であるが、紅く明滅するライトは脈動する血管のようであり、どこか生物的質感を思わせる。平べったい形をしているが、『身体』の輪郭にはギザギザとした刃のような突起が並んでいる。大地を踏み締めるのは無数の足。前方には巨大な『ハサミ』までもがあった。

 それは正に金属で出来たデボラ。

 そしてこれこそが、セロンが主導して開発した『四型』であった。

「アイツが『四型』だ。未完成部分はあるが、試運転ぐらいなら出来る筈だよ」

「これが……メカデボラという呼び方も、納得出来る造形ですね」

「……五月蝿いなぁ、仕方ないだろ。地上で活動可能であり、尚且つ近接戦闘に耐えうる形態を模倣したらこうなったんだから」

 蓮司がつい本音を漏らすと、セロンは不愉快そうに顔を顰めながら答えた。どうやら目的を追求した結果、デボラと酷似したものになったらしい。

 つまり、生物兵器か自然の産物かは分からないが、それだけデボラの姿が完成したものであるという事。

 デボラを倒すための兵器が、デボラと同じ姿になる。神様なんてものがいるとすれば、相当意地悪に違いないと蓮司は思った。どちらに対してかは、まだ分からないが。

 ――――さて、そんな超兵器である『メカデボラ』こと『四型』が置かれている部屋に、何故蓮司は、その『四型』を開発したセロンと共に訪れたのか。

 答えは単純明快。このデボラの操縦者に、蓮司が選ばれたからである。

「ところでどうかな? 自分が動かす機体を前にした感想は」

「……思いの外、落ち着いています。自分はあくまで『補欠』ですので、現実味がないというのもあるのですが」

「結果が良ければ正式採用もあり得るけどね。ま、操縦手か、清掃員かは分からないけど」

 笑いながら告げるセロンに、蓮司は苦笑いを返す。

 開発された『四型』は非常に巨大なため、複数人での運用が想定されている。どのぐらいの人数かといえば、まず戦闘に関係する操縦を担うものだけで十数人程度。更に機体各部を調整する整備士や、動力炉を管轄する機関士も必要である事を考えれば……ざっと百人ほどが必要だ。

 しかもこれはあくまで最低限必要な人員である。実戦となれば怪我人や死人は当然出てくるだろう。彼等を治療するスタッフが必要だし、万一に備えて『交換』のための予備人員も必要だ。機内物資の管理者や、それら全てを統括する指揮者、指揮官を補助する人材も置いた方が良い。

 あれよあれよと必要な数は増えていき、『現実的』な乗員数は五百人ほどとなってしまった。操縦を担当する人員も、十数人居れば良かったものが三十人にも増えている。彼等は通常戦闘時には損傷箇所の修理などを担当するが、メイン操縦者が『負傷』した際は代わりにデボラを操作する任務に就く。

 蓮司は、そんな補欠人員の一人に選ばれたのだ。勿論補欠とはいえ、操縦がド下手なんて事は許されない。卓越した技量はなくとも、戦闘継続に支障がない程度は動かせねばならない。

 今回蓮司が此処にやってきたのは、そうした補欠メンバーでの操縦練習をするためである……シミュレーションではなく、『実機』で。

「まぁ、予定している戦闘時期は四ヶ月以上先だから、あまり根を詰めず、のんびりやってくれ。じゃ、ボクは起動時のデータ収集があるから戻らせてもらうよ。そのうち他のメンバーも来るから、のんびり『四型』を眺めていてくれ」

 『四型』を眺める蓮司にそう告げると、セロンはすたすたと軽やかな足取りでこの場を後にする。残された蓮司はしばしその場で立ち尽くしていたが、やがてその視線は『四型』へと向けられた。

 『メカデボラ』。

 その名前は、『四型』がデボラに似ている事から付けられたものだ。しかしながら、蓮司はこうも思う。もしも『四型』がデボラを倒したならば……誰にこの『四型』を倒せるのだろうか?

 デボラ亡き後、『四型』がデボラに成り代わるのではないか?

 ……勿論、中国政府は『四型』を用いて日本やアメリカの国土を蹂躙する事はないだろう。する必要がない。デボラを倒した力があると誇示すれば、たちまち世界は中国の前に膝を付き、頭を垂れる。今や世界がデボラに跪いているのと同じように。

 『メカデボラ(機械仕掛けのデボラ)』。

 名付けた者は相当の皮肉屋に違いない。そしてその皮肉を理解しながらも、蓮司にこの誘いを断るつもりはない。

 自分の家族を奪ったデボラ。

 世界中で、自分と同じような境遇の人間を作り続ける化け物。

 その化け物を倒せるのなら、世界がどのように移り変わろうが構わない。勿論中国が世界でしている横暴の数々は、蓮司の耳にも入っている。しかしデボラよりは(・・・・・・)マシだ(・・・)。デボラは中国が開発した新兵器との話もあり、それが事実ならば吐き気がするほど忌々しい自作自演だが……今はまだ、真偽不明の内容に過ぎない。

 今そこにある脅威を、憎悪の根源を、討ち滅ぼす。

 ちっぽけな人間である自分に出来るのは……いや、出来るかどうかは分からない。挑めるのは、と言うべきか……ただそれだけの事だと蓮司は理解していた。

「あの、すみません。『四型』の予備人員の方でしょうか」

 決意を胸に『四型』を眺めていた蓮司だったが、ふと背後より声を掛けられた。若い女性の声。この後の行動について連絡しにきてくれた人かも知れない。

「はい、そうで、す、が……」

 そう思った蓮司は振り返りながら返事をしようとし、けれどもその動きは半端な角度で止まり、声は途中から擦れるように途絶える。

 何故なら蓮司の後ろに居たのは、美少女だったから。

 蓮司は彼女が何者かを知っている。何故なら彼女は『仲間』だからだ。栗色の髪も、整った顔立ちも、感情の色のない瞳も……全て『あの時』と変わらない。

 レベッカ・ウィリアムズ。

 蓮司が一目惚れした少女であった。

「れ、れれ、れれれ……!?」

「……レレレのおじさん?」

「古い!? しかもなんで知ってるの!? あ、いや、そうじゃなくて! レベッカさん!? なんで此処に!?」

「『四型』の予備人員に選ばれたから、その訓練に来ました。あなたは……確か……」

 動揺する蓮司の前で、レベッカは眉一つ動かさずに考え込む。考え込むという事は、つまり彼女は蓮司をなんとなくでも覚えているという事。

 初めてデボラと戦い、生き延びたあの日。蓮司はそこで初めてレベッカとも出会った。すっかり見惚れていた蓮司はあまり上手く喋れなかったのだが、レベッカはそれでも覚えていてくれたのだ。蓮司は胸の中が燃えるように熱くなるのを感じ、

「なんか、やたら挙動不審だった人ですよね」

 とてもちゃんと覚えていてくれた事が分かる一言により、思わずこけそうになってしまった。

 第一印象は大変残念なものになってしまったらしい。中々のマイナスポイントだが、挫けてはいられない。どうにか姿勢を立て直し、蓮司はレベッカと向き合う。

「あ、あはは。恥ずかしい姿を覚えられたみたいですね……いや、まぁ、うん。覚えていてくれて嬉しいです」

「そうですか」

 蓮司の言い訳がましい ― しかし本心そのものである ― 言葉に、やはりレベッカは大した反応を見せない。

 感情が乏しい、お人形のようだ――――太平洋防衛連合内にてよく聞く彼女の評価そのものの姿。

 普通の人はその姿に、ちょっとした不気味さを覚えるものらしい。蓮司としても、明るく笑ってくれる女の子の方が可愛いという感覚は理解出来るし、そういう女の子と『お近付き』になりたい気持ちはある。

 だからこそ、思うのだ。

 このお人形のようなレベッカが自分に微笑んでくれたなら、それはどれほど可愛らしく、魅力的なのだろうか、と。

「あなたも予備人員として呼ばれたと思って良いのですよね?」

 またしても見惚れていたところ、レベッカから淡々とした問いが来る。我に返った蓮司は反射的に頷いた。

「では、あなたの近くに居れば一緒に呼ばれますね」

 するとレベッカはそう言って、蓮司との距離を少し詰める。

 客観的には十分に離れた距離だったが、蓮司からすれば愛らしい少女が近付いてきたのと同じ。心臓が跳ね、そわそわとした気持ちになり取り乱す。

 しかし今、この二人きりの時間を逃す手はない。ちょっとした会話でも一つずつ重ねていく事が、男女の仲が進展する上で大事なのだとネットか何かで見た気がする。或いは話したいがためにそう思い込んでいるだけかも知れないが、蓮司にとって『話さない』という選択はあり得ない。

「あ、あの――――」

 意を決し、蓮司はレベッカに声を掛けた。

「あ、すみませーん。予備人員の方々ですかー?」

 が、直後に空気を読まない若い男の声が。

「はい。そうです」

「えーっと、お名前を教えてくれますか?」

「レベッカ・ウィリアムズです」

「レベッカさんっと……ああ、いたいた」

 無感情にレベッカは男の問いに答え、やってきた若い中国人風の男性 ― 話している言葉は流暢な英語だった ― は彼女の名前を尋ねる。名前を伝えられると彼は持っていた紙を指でなぞり、嬉しそうに分かった。

「えっと、あなたのお名前は?」

 次いで、蓮司にも尋ねてくる。

「……あ、えと、山下蓮司、です」

「ヤマシタレンジ……うん、いますね。予備人員の方はあちらの控え室で訓練開始までお待ちください。ご案内します」

 男はそう言うと、すたすたと歩き出す。レベッカはその後を疑問もなく追った。

「……あ、はい」

 そして蓮司は、少し間を開けてレベッカの後を追う。

 『可愛い女の子』との会話が出来なかった蓮司は、少しむしゃくしゃしたように眉を顰める。けれども数秒もすればその顔には笑みが浮かんできた。

 ここでは話も出来なかったが、まだチャンスはある。

 そしてその考えが過ぎってすぐに、蓮司は己の表情を引き締めた。とはいえ何もレベッカに対し格好付けようと思った訳ではなく、自然とそんな顔立ちになっただけ。

 『四型』ことメカデボラ。

 膨大な熱を発してしまう現代兵器では倒せないデボラを打ち倒すべく、人類が開発した最新兵器。

 これで本当にデボラを倒せるかはまだ分からない。しかしこれが人類にとって現状唯一の対抗手段だ。これがデボラに全く通じなければ、人類はほんの僅かな希望すらも失うだろう。負ける訳にはいかない。負けるにしても……それは未来に続くものでなければならない。

 燃え盛る決意で熱くなる胸を押さえながら、蓮司は駆け足で控室へと向かうのだった。

 




青春してるねぇ


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足立哲也の再会

 現在、日本に自衛隊は存在しない。

 何故ならデボラにより破壊の限りを尽くされた今の日本では、自衛隊を維持する力すら残っていなかったから。自衛隊が保有していた兵器は世界でも最高峰の性能だったが、その性能は豊富な生産力によって成り立つもの。どんな強力な兵器でも、補給がなければただの置物に過ぎない。そしてその置物を置物のまま保管するだけでもそれなりに金が必要となる。経済的に崩壊した日本では、到底支払えるものではなかった。

 苦渋の決断として自衛隊は解体され、現在、日本の防衛は駐屯した中国人民解放軍が担っている。つまり自衛隊所属の隊員達は上から下まで揃って解雇という事。日本が終われども仕事は探さねばならず、彼等は様々な仕事へと移った。

 例えばある者は実家の家業を継ぎ、

 例えばある者は自営業を始め、

 例えばある者は不法行為に手を染める。

 自衛官となった志、現在置かれている自分の立場……様々なものを考え、彼等は自衛官以外の職に就いた。中には中国人民解放軍に燃料や弾薬を補給する仕事をしている者もいる。そうした者達にしても理由は様々だ。例えば病に倒れた子供の治療費を稼ぐため、売国奴の汚名を着せられる事も厭わない者もいた。或いは中国だろうがなんだろうが、軍事力の存在により治安が良くなると考える者もいた。

 誰が正解とか、誰が間違いとか、そういう問題ではないのだ。生きるためには、何かをしなければならないのだから。

 そして足立哲也が選んだ『何か』は――――地元の家業と、自警団だった。

「異常なーし」

 海沿いに立てられた、ざっと十メートルほどの高さがある物見櫓……と呼ぶにはあまりにも簡素な作りの木造の建物の頂上。頑張れば人が三人ぐらい座れそうな広さの床板の上で胡座を掻きながら、哲也は手にした無線機 ― ボロボロで薄汚れた骨董品だ ― に向けて報告をしていた。

 彼の視線の先には、朝日を浴びてキラキラと輝く大海原が見える。高台から眺める景色は穏やかそのもの。遠くには船が何隻か見え、彼等が真面目に仕事をしている事が窺い知れる。

 すっかり無精髭が生え揃った頬を手で摩りながら哲也はにっこりと微笑み、大海原の監視を続けた。

 彼の地元は、福島県沿岸部に存在するとある町……厚角町(あつかどちょう)だ。

 この町は、日本の他の町と比べれば幾らか平穏を保っていた。失業率は以前より上がったとはいえ他の町ほどではないし、人民解放軍に属さない、日本人による(・・・・・・)治安維持組織が存在している。つまり地方としての力を、ある程度は保っているという事だ。

 これには理由がある。一つはこの町がデボラの直接的被害を避けられたから。とはいえそんな町は他にも無数にあり、これはいわば『前提条件』のようなものだが。

 もう一つの、そして大きな理由は、元々この町が人も仕事も日に日に廃れ行く状態だったため、外部との関係が極めて小さかったからだ。東京などの都心部と強く依存していた村落は職を失う人で溢れる中、地元内で完結する仕事が多かった厚角町の失業率上昇は最低限に留まった。

 加えてこの町で一番大きな雇用は、漁業関連のものだった。

 つまり食糧生産の機能を持っていたという事。デボラによる直接的被害を免れ、都市との交流が少ない町や村でも、輸送網の途絶や産地の破壊により食料品価格の著しい高騰が起きていた。失業した状態で値段が上がったなら、食べ物が買えなくなってしまう。

 人間というのは単純なものだ。口では尊厳がどうたらこうたら言いながら、食事と安全が確保されれば大した不満は抱かない。逆にいえば、生存権が脅かされれば容易に爆発する。

 都市部のみならず、田舎の村でも暴動が起きるのは必然だった。

 こうして生じた暴動は生き残っていた数少ない職場を破壊し、更なる暴徒を生み出す。本来ならここで外部からの強力な……つまり国家が差し向けた『軍』などの……組織による鎮圧が必要なのだが、デボラによってそれを破壊された日本には為す術もなし。人民解放軍も「日本の国内問題」といって ― しかし正論だ ― これを放置。負のスパイラルは止まらず、数多の市町村が崩壊した。

 厚角町はそうした負のスパイラルを起こさず今に至っている。今でも油断すれば全てが崩れかねない、非常に危うい状態ではあるが……少しずつ、再生に向かっていた。哲也が聞いた地方自治体の発表が正しければ、今年に入って失業率と実質賃金がかなり改善されたらしい。哲也の周りからも、去年よりはマシになったという話をよく聞くので、恐らくは本当なのだろう。

 さて、そんな哲也が所属している自警団は、言ってしまえば警察の真似事組織だ。

 経済破綻により国家が力を失ったのと同時に、警察も機能を停止した。自衛隊の時のように解体はされなかったが、賃金未払いや補給が止まる中では機能を維持する事など出来ない。厚角町にも警察官は幾らか駐在しているが、正直かなり頼りない。

 そこで住人達が立ち上がり、自警団を結成した。装備はそれこそ警察官以下ではあるし、多くは ― 哲也も含めて ― 兼業なので練度も高くない。しかしそれでも「自分の町は自分で守る」という意思表示にはなる。治安を守る者がいるというのは、それだけで強い抑止力となり、犯罪を防ぐものだ。自警団に入って数年になる哲也だが、彼が駆り出されたのは……十数人の酔っ払いがべろんべろんになりながら暴れていた時ぐらい。

 彼の仕事は、専ら海を眺める(・・・・・)事だった。

「よぉーう、元気してるかー」

 今日も何時も通りに眺めていた哲也だったが、ふと背後から声を掛けられた。

 振り返れば、そこには見知った顔があった。吉田(よしだ)邦生(ほうせい)。哲也の高校時代の同級生だ。痩せこけた面は十数年前に開かれた同窓会の時と大して変わらない気もしたが、その時には目の下に隈などなかったと記憶している。苦労をしているのだろうが、それでも彼は笑顔を絶やさない人間だ。

 そして今は、哲也と同じく自警団に属している。普段の仕事は漁協での作業員だ。

「邦生か。こっちはまぁ、元気だな。本業はからっきしだが」

「お前んち、確か八百屋だったか。お前が接客というのは、確かに似合わねぇだろうな」

「うっさい。客商売が向いてないのは知ってるから、裏方での荷物運びが主な仕事だよ。力仕事なら得意だからな」

「元自衛官は流石だねぇ」

「……客の相手が出来なきゃどの道店は潰れるから、早いところ嫁を探せと言われたがな」

「あっはっはっ! そりゃ親御さんの言うとおりだ。でも今なら簡単に見付かるだろうよ。隣町まで足を運んで、綺麗なお嬢さんに一言こう伝えれば良い。うちに来れば衣食住には困らせないよ、ってな」

「……お前は隣町を、内戦で荒廃した発展途上国か何かと思ってないか?」

 ツッコミのつもりでぼやいた言葉に、哲也は呆れるようにため息を吐いた。しかし邦生の案は、そこまで突拍子のないものではない。衣食住に困り、明日どころか今日をどうやって生きれば良いか悩んでいる人々が、今の日本には溢れているのだ。どうせ今日までの命ならばと、甘言に釣られる人は一定数いるだろう。

 かつて世界でも最高峰の経済力と治安と科学力を誇っていた国も、今では発展途上国並という現状。過去形とはいえ国に仕える身であった哲也としては、少し居たたまれない気持ちにさせられる。

「ま、お前さんに結婚の意思があるなら、簡単な話っつー訳だ……親御さんを安心させるためにも結婚した方が良いぞ?」

「……お前は」

 どうなんだ。そう訊こうとした口を、哲也はぐっと閉じる。

 邦生の左手の薬指には、指輪が嵌まっていた。十数年前の同窓会で散々見せ付けられた指輪だ。少し傷は見られるが、ピカピカと輝いている辺り大事に手入れされているのだろう。

 もう、その指輪の相方を付けている人はこの世にはいないのに。

「……そうだな。少しは探しておこうか」

「そーそー。結婚は良いもんだぞ。子供が産まれればなお良い。うちはそうだった」

「……そうか」

 邦生の意見に生返事を返し、邦生も以降は口を閉じる。

 大海原から運ばれる塩の匂いと、さざ波の音だけが、哲也達の周りを包み込んだ。

 ――――されど、安寧は長くは続かない。

「……? ん……」

 海を眺めていた哲也は、ぽつりと声を漏らす。

 最初は、ちょっとした違和感だった。確信など何もない、もやもやとした、言葉に出来ない感覚だった。

 されどもやもやは段々と形を持つ。

 海が(・・)うねっている(・・・・・・)

 ぞわりと、哲也の身体に悪寒が走った。まだ確信出来るほどの距離じゃない。だが確信出来た時にはもう遅い。

 狼少年になるのは怖い。だが本当だった時に比べれば、嘘吐き呼ばわりなんて些末なものだ。アレが本当に『奴』なら……既に殆ど手遅れだとしても……一秒でも早く告げねばならない。

 哲也は無線機を握り締め、叫んだ。

「デボラ確認っ! 町に向けて進行中!」

 日本を崩壊させた『大怪獣』の出現を。

 哲也の報告から数秒後、町中に警報音が流れた。防犯ブザーのような甲高い爆音。寝ている人をも叩き起こす音色に町が包まれる。

 次いで、建物から人々が溢れ出た。

 物見櫓から見えるその光景は、正しく阿鼻叫喚だった。人々が押し合い、互いに相手を突き飛ばしてでも逃げようとしている。避難路は団子となった人々により塞がれ、前へと進めない。子供が置き去りにされ、足腰の弱い老人がきっと初めて出会ったであろう幼子を抱き締めていた。

 しかし本当の地獄は、ここから始まる。

 哲也が確認した海のうねりは、高速で町に接近していた。接近速度は遅くなるどころか、一層加速している。うねりに煽られた船が何隻か転覆していた。うねりは陸地に近付くほど高くなり、もう、百メートルを超えるぐらいの高さがある。

 そしてうねりは、哲也達から数百メートルほど離れた港に『激突』した。

 港にぶつかったうねりはそのまま丘へと上がり、内陸目掛け駆け上る。大量の海水により付近の建物は粉砕され、逃げ遅れた人人を容赦なく飲み込んだ。

 哲也達が居る物見櫓も、海水の直撃を受けたなら呆気なく倒壊しただろうが……幸いにして、物見櫓の周りには建物が幾つかあり、それらが迫り来る海水の勢いを弱めてくれた。尤も、その所為で哲也達は人々が水に蹂躙される様を最後まで見せ付けられる訳だが。

 哲也は怒りに震えた。こんな暴虐が許されて良いのかと。

 しかし同時に恐れた。かの存在を止める事は、日本という国家すらも叶わなかったのだから。

「デボラ……!」

 哲也に出来るのは、数百メートル彼方に上陸した巨大生物――――十年ぶりに再会したデボラを睨み付けてやる事だけだった。

「で、デボラ……あの野郎……!」

「落ち着け! 俺達じゃどうにもならん。冷静になれ」

 今にも跳び掛かりそうなぐらい興奮した邦生を宥めつつ、哲也はデボラの動きを見定める。

 デボラは極めて気紛れな存在だ。上陸してすぐに引き返したり、沿岸部を散歩するようにふらふらと歩いたり、目に付いた山を放射大気圧で吹き飛ばしたり……行動に何一つ一貫性がなく、何がしたいのかもよく分からない。まるでうっかり待ち合わせに早く着いてしまったから、ぶらぶらと時間を潰しているかのような適当さである。

 そして此度のデボラは、直進する事を選んだ。

「……クソっ。最悪の方向に進んだか」

 哲也は無意識に悪態を吐く。

 デボラ上陸時に起こる津波を想定し、この町では避難場所は内陸方面に設定していた。つまりデボラが真っ直ぐ進めば、避難所はその直線上に位置する事となる。多くの人々がデボラから逃げられず、その巨躯の踏み潰されるだろう。

 尤も、仮に助かったところで、この町ではもう暮らせない。デボラにより家も職場も破壊され、大勢の人々が路頭に迷う。彼等はやがて飢えと寒さから暴徒と化し、己や家族のために生き残った人々の衣食住を奪うだろう。自警団の力でも、それを止められるか分からない。いや、自警団とて人であり、この地で仕事をしている身だ。大勢の離反者が出る事を思えば……

 忌々しきデボラ。されど無力な人間である哲也には、デボラを憎しみの目で睨む事しか出来ず。

「……ん?」

 その行為が、哲也に違和感を覚えさせた。

 デボラは真っ直ぐ進んでいる。

 ひたすらに直進していた。邪魔な建物は全て押し潰し、その速度を衰えさせるどころか加速していく。まるで人の営みなど目に入っていないかのように。

 デボラは気紛れだ。だから脇目も振らず直進したとしても、それが奇妙な事だとは言えないだろう。人の営みなんて、体長三百五十メートルもの身体からすればちっぽけなものである。足下を逃げ回る人間が奴には見えてなくとも不思議はない。

 そう、なんらおかしなところはない。

 おかしなところはないのだが、故に哲也は奇妙に感じたのだ。

 気紛れで、うろちょろして、なんの気なしに全てを破壊する。そんな傍若無人な生命体が、一直線に突き進む……哲也は一度だけ、その行動を目の当たりにしている。

 初めてデボラが日本に出現した、あの日だ。富士山から現れ、しばらく休んだ後……デボラは歩き出した。真っ直ぐ、その場にあるものなど目もくれず、一直線に。

 あたかも、海を目指すかのように。

 ならば、だとしたら。

 今のデボラも、何かを目指しているのだろうか?

 海を越え、山を越えた、その先にあるものを――――




ちょっと通りますよ(死傷者多数)


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霧島セロンの想定

「……ふむ。まぁ、こんなものかな」

 目の前に置かれた小さなモニターを眺めながら、にこやかな笑みを浮かべて独りごちた。

 セロンが居る部屋には、他にも多数の科学者……白人や黒人などが入り乱れるかなり多国籍な面子だが、大多数は中国人だ……が居た。彼等は忙しなくパソコンを操作し、或いは慌ただしく書類を運び、時折英語で激しく議論を交わしている。

 そしてセロン含め彼等が注目しているのは、各々のモニターに表示されているとあるマシン。

 メカデボラこと『多脚式大型陸上戦闘兵器試作四型』である。

 『四型』は今、セロン達が属する研究所の一室に置かれていた。一辺二キロもの広々としたホールであるが、全長四百メートルを有する『四型』からしたら、ちょっと狭いかも知れない。

 そんなホールの中を『四型』はのそのそと歩いていた。極めてゆっくりとした、時速三十キロ程度の速さだが、確かに動いていた。大地に突き立てられている足がしっかりと自重を支え、着実に自らの巨躯を前へと運ぶ。やがて壁が迫ればしっかりと足を止め、機体を斜めに傾けながら方向転換してみせた。蹴躓いて転倒する素振りもなく、淡々と歩くのみ。

 これは一見して非常に地味な動きであったが、科学的には偉大な動きだった。

 何しろ、これほど巨大な陸上マシンを動かすなど『世界初』であり……そして物理学の常識が塗り替えられた瞬間なのだから。

「ミスター・霧島。起動実験は上手くいったようだな」

 『四型』の歩行をモニター越しに眺めていたセロンに、背後から声を掛けてくる者が居た。

 振り返ったセロンの目に入るのは、三十代ぐらいの黒人男性。白衣を纏う姿から彼もまた研究者の一人だと分かるが、その身体はかなりガッチリしており、彼が室内ではなくフィールドワークを主体にするタイプだと分かる。顔立ちは野性味溢れる凜々しいもので、一言でいうなら『女性受け』しそうな人物だ。

 ワルド・オスマン。イギリス人科学者であり、生物形態学の権威。そして現在は中華人民共和国にスカウトされ、『四型』開発に携わるメンバーの一人となっている。

 立場上研究主任(・・・・)であるセロンの方がワルドよりも地位が上だが、彼は何時もセロンに対してため口だ。しかしそれは年下のセロンを見下している訳ではなく、一人の科学者として敬意を払っている証。彼は興味のない人物にこそ敬語を用いる、割かし慇懃無礼な性格の持ち主だ。

 それを知ってるセロンは彼のため口に悪い気などせず、上機嫌に答えた。

「ああ、君が提供してくれた歩行データのお陰だ。アレがなければ、五年は計画が遅れただろうね」

「光栄だね。とはいえまだまだぎこちなさはある。やはりアイツの研究は奥が深い。研究すればするほど新しい発見があり、我々が如何に生物に対し無知だったかを教えてくれる。実に新鮮な毎日だよ。私としては、将来的に倒してしまうのが惜しいぐらいだ」

「……確かに、その通りだ。アイツは謎の宝庫だね。調べれば調べるほど疑問が出てくるほどに」

 ワルドの言葉に同意しつつ、セロンは顔を彼から背ける。

 背けた顔は、悔しそうに唇を曲げていた。

 『四型』は本来、現代の人類科学では歩行すら為し得なかった存在である。何しろ総重量は凡そ三百五十万トン……デボラより二倍以上重い。素材が頑強な合金製故に、有機体であるデボラより重たくならざるを得なかったからだ。そして機体強度そのものは合金により確保されたが、動かすための馬力が足りない。例え二千五百万キロワット級『核融合炉』エンジン……中国政府が大量の資本と科学者を投入し、ついに実用化させたものだ。尤も核融合炉としては少々貧弱な代物だが……を搭載していても、だ。物理学上、三百五十万トンの物体を秒速一メートルという人の徒歩程度の速さで動かすためには、三千四百万キロワット以上のエネルギーが必要である。『四型』の総出力は全盛期の日本の消費電力の二割を占めるが、全く足りていない。

 本来ならばこんな程度のパワーではどう足掻いても動かせない。しかしこれ以上巨大な核融合炉を搭載するには機体を大型化させるしかなく、されど大型化させると機体への荷重も増大し、装甲強度が『戦闘』に耐えられないものとなってしまう。

 この物理学的壁を突き破ったものこそ、『四型』で打倒しようとしていたデボラであった。

 デボラの体節構造は、エネルギーを蓄積する仕組みが組み込まれていたのだ。これにより、運動に使われたエネルギーの一部が『循環』する。その循環したエネルギーと元々あったエネルギーを合わせれば身体は加速し、更にそのエネルギーを循環させ……と繰り返す事で、巨体を高速で動かせるのである。

 この極めて画期的な機能により、『四型』は機体重量を増やさずに、実用的な速さで動かせるようになった。

 つまり、デボラが(・・・・)いなければ(・・・・・)『四型』は完成出来なかったといえよう。

「(忌々しい……!)」

 それが、セロンの気持ちを逆撫でする。

 たかがデカいエビ風情が、自分ですら及ばなかった理論を宿している事に苛立つ。天才と称され、自らも自認する彼にとって、自分以上の『知性』にはプライドが酷く刺激されるのだ。

 だからこそ、デボラを倒したい。

 謎を解き明かし、あまつさえ利用し、相手を完膚なきまでに打ち砕く――――天才としてのプライドが高いセロンにとって、それこそが自尊心を満たせる方法なのだから。及川蘭子を超える手段として、彼女でも倒し方が分からないデボラの駆除を考えた時のように。

 とはいえ彼はやはり天才であり、一時の感情で判断を誤る事もしない。完成した『四型』の性能は素晴らしいものだし、デボラ解析で得られた新技術も素晴らしいものだが……まだまだ試作段階だ。現時点で課題は幾つか挙がっているし、この起動訓練により新たな問題点も確認されるだろう。

 技術的問題だけではない。訓練をしている乗組員達からも課題が出てくる筈だ。インターフェースや乗り心地など、可能な限り配慮した作りにはしたつもりだが、実際に動かしてみなければ分からない事は多い。例えば制止時は便利なボタン配列も、移動などで揺れると押し間違いが頻発する……なんて事もあり得る。それにセロンと他人の感性は異なる訳だから、どれだけセロンが気を遣っても相手が喜ぶかは分からない。こればかりはどんなに天才的頭脳でも ― 或いは凡人とは違うからこそ ― 終わるまでは知り得ない事だ。

 『四型』はまだ試作段階。デボラとぶつけるのは、この『四型』の次世代機となるだろう。

 気持ちを切り替えたセロンはほくそ笑む。未来予想は得意だ。次世代機の設計図を頭の中で描きながら、試験の様子を眺めた

「た、た、大変です!」

 最中に、誰かが大きな声を上げた。

 若い研究員だった。新人であり、主に雑務を担当している。セロン的には無能寄りの『凡夫』であり、顔も名前も覚えていない人物だ。相手をするのも面倒臭い。声だけでこれを判断したセロンは、声の方に振り返りもしなかった。

「どうしましたか、宝研究員」

 無視するセロンに代わり、ワルドが『敬語』で尋ねる。宝と呼ばれた新人研究員は息を切らしながらも、なんとか報告しようと声を絞り出す。

「で、で、でぼ、デボラが、日本に上陸! デボラは直進して日本海へと入り、我が国を目指して進んでいるとの報告が入りました!」

 そして叫ぶように告げた言葉に、セロンは目を見開きながら振り返った。

 彼が言う我が国とは何処か?

 悩むまでもない。此処、中国だ。日本を横断し、日本海へと入り、そのまま真っ直ぐ進めば、確かに中国へと辿り着くだろう。

 だが、どうして?

 今までデボラは中国に見向きもしていない。当然だ。もしもデボラが中国の開発した生物兵器なら中国を襲う筈がないし、逆にデボラが野生動物なら日本という『堤防』を越えてやってくる事は早々あり得ない。故にこの十年間、中国はデボラの被害を免れていた。

 なのに今日、デボラは中国へと向かっている。

 それだってふらふらとやってきたなら納得も出来よう。何時もの気紛れ、大した意味などないと……だが真っ直ぐに向かっているとなれば話は別だ。デボラに『それなり』の知性があるのは、デボラ研究に関与した者達には周知の事実。直線的な行動にはなんらかの意図がある筈。

「(なんだ? 何故デボラはこの国に向かっている? 今日、この国で何かしているのか? なんだって今日、よりにもよってこの大事な実験の最中に――――)」

 セロンは目まぐるしく思考を巡らせる。常人よりも遙かに頭の回転が早いセロンは、その『結論』に至るまでさしたる時間を必要としなかった。

 ただし結論を受け入れるのには、それなりに掛かったが。

 今、この国では『特別』な事が行われている。この十年間で、この国どころか世界でも初めての、そして盛大なる行い。

 乗組員の訓練及び『四型(・・)()初起動試験(・・・・・)

 デボラが直進してくる理由が他にあるとは、セロンには到底思えなかった。




想定(外)


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レベッカ・ウィリアムズの平静

【デボラが接近している。ただちに機体を操作し、訓練から作戦行動へ移れ】

 機内に響いた『機長』からの放送に耳を疑った。

 感情がすっかり消えてしまったレベッカですらそうなのだから、『四型』機内に居る他の人員が大きく動揺するのは、当事者ながら客観的に物事を見ているレベッカにはなんとも予想通りの展開だった。

 デボラが近付いているから、訓練から作戦行動へ移れ。

 この言葉から連想されるものはシンプルだ。つまり、デボラと戦えという事である。機長からの命令ではあるが、実際には更にその上……研究主任か、軍司令部からの命令だろう。レベッカ達は中国人民解放軍と無関係な組織の人員だが、中国人民解放軍が開発した『四型』に搭乗している今は彼等の指揮に従わねばならない。

 確かにレベッカ達は今、『四型』の人員としての訓練を受けている最中だ。シミュレーターによる事前学習は済ませたし、マニュアルだって丸暗記済み。他のメンバーも程度の差はあれ似たようなものだろう。そして機体を実際に動かしたのだから、後は実戦あるのみと言えなくもない。

 乗る機体である『四型』も、型番こそ試作機ではあるが、ほぼ完成形だと聞いている。次世代機こそが正式版となるらしいが、現時点でもそれなり以上の戦闘力は備わっているようなので、理論上は『建造目的』を果たせる筈だ。

 デボラ打倒という目的を。

 ……とはいえこれらは全てカタログスペックの話である。

 訓練はしたが、ハッキリ言ってぐでぐでだった。揺れる機内じゃボタンやレバーを正確に操作出来ないし、マニュアルに書かれていた内容と実際の機能が異なっている箇所も幾つかあった。指揮系統も纏まりきれておらず、似たような名前の部署を聞き間違えるというミスも多発しているらしい。歩くという動作をするだけでひーひー言ってるのが現状で、巨大生物に豪腕を叩き付けるなど夢のまた夢である。

 『四型』そのものだって欠陥がある。デボラに手痛い一撃を食らわせるための巨大なハサミ二つのうち、右側の動作不良が確認された。プログラムと機体構造の不一致によるバグらしい。動かせない事はないが、思ったような動作とならない。訓練で動かすだけなら兎も角、戦闘では使い物にならないだろう。

 こうした問題を解決し、完璧な ― そしてそうしたつもりであっても実戦になって初めて出てくる問題というのもあるもので ― 状態でデボラに挑む。そういう計画だったのに。

【デボラは現在、この研究施設を目指すように直進している。『四型』の退避が必要だ。進行ルートは制定されている。そのルートに従い、『四型』を移動させろ】

 されど機内の動揺は、二度目の放送で幾らか収まった。上層部も現状を正しく理解しており、戦闘ではなく逃走を選択したのだ。

 動かすだけでひーひー言っているが、逆にいえばひーひー言うぐらい頑張れば動かす事に支障はない。レベッカ、そして他の隊員達は士気を取り戻し、各々の持ち場へと移る。

 レベッカの持ち場は、操縦席だ。常に冷静沈着、動揺というものを知らない彼女のメンタリズムは、『肉弾戦』の中で大きなアドバンテージになると判断されたからである。

 操縦席は他に五つあり、それぞれ動かすものが異なる。レベッカの担当は『右ハサミ』……バグにより上手く動かせない場所だ。そもそも歩行機能とはあまり関係ない部分。

 レバーを握りつつも特段操作する事はなく、レベッカはただ座るだけ。脚部担当のメンバーの操作を待つ。操縦席正面の壁には大型のモニターが設置されており、機体正面の映像、側面映像二つの計三箇所が映し出されていた。外では研究員らしき人々が慌ただしく『四型』から離れ、自らの安全を確保している姿が見えた。

 そしてモニターから外したレベッカの視線は、ふと一人の人物の姿を捉える。

 山下蓮司だ。彼は、『四型』に積まれた火砲の制御を担当している。強張った表情で彼は大型モニターを見ていた。勿論そこには遠く離れたデボラの姿などなく、『四型』が格納されている研究所のコンクリート壁が見えるだけなのに。

 蓮司だけではない。他のメンバーも表情が硬い。デボラと戦う訳ではないのに、誰もが緊張している。

 レベッカだけが、平然としていた。

 やがて他のメンバーの操作により、停止していた『四型』は立ち上がり、その足を前に進め始めた。最初はとてもゆっくりな動き。けれども脚部にエネルギーが蓄積するほど、足の動きは速くなり、機体を力強く加速していく。

 前へ前へと進んでいくと、壁が迫ってきた。このままでは激突する。

【壁があるが気にするな。両方の前方腕部を前に出し、直進しろ】

 再び放送される機長の言葉。指示された通りレベッカは端末とレバーを操作し、バグを考慮した動きで前方腕部――――ハサミを前へと突き出させた。もう片方のハサミも前に出た事を、モニターに表示された機体前方の映像から確認する。

 直進した『四型』は、ついにハサミの先端が壁に激突。厚さ数十センチにもなるコンクリート壁は、されど三百五十万トンの重量を支える特殊合金を歪める事すら叶わない。

 ついにコンクリートの壁は突き破られ、『四型』が研究所の外へと歩み出た。

 研究所が置かれていたのは、中国国内のとある山奥。秘密裏に進められていた計画故、機密性の高い場所が選ばれたのだが……今や隠している余裕などない。

 大型モニターの右下部分に新たな映像が表示され、『四型』が進むべきルートが示される。南西方向……現在の『四型』から見て、正面右方向だ。大型モニターの映像にはでこぼことした自然の隆起が見え、研究所の平らな床とは明らかに難度が高い道となっている。

 しかし諦めるという選択肢はない。示されたルートに従い、『四型』は進んでいく。『四型』からすればちょっとした段差も、人間から見れば自分の背丈よりも何倍も大きな崖だ。機体は激しく上下し、中の人間も揺さぶる。一応は揺れの緩和を行う機構が付いているものの、平坦な研究所内を歩くだけでも不十分な代物だった。自然の地形では殆ど役に立たない。

 されど人間というのは存外逞しい。

「進路維持! 直進につき加速します!」

 脚部を動かしているメンバーが、大きな声を張り上げる。

【推進機関問題なし!】

 通信機より告げられる機関部の言葉は力強く、訓練時に感じられた慌ただしさはない。

【異常なし!】

【異常なーし!】

【異常なしッ!】

【第六歩行脚部機関に異常確認!】

【第八整備班が向かう!】

 機体各部の整備士より上がる報告もハッキリしていて聞き取りやすく、そして迷いがない。

 研究所内の時よりも機体の揺れは激しくなっていたが、乗員達の動きは訓練時と比べ衰えていない。いや、むしろ良くなっている。

 デボラが迫っているという状況認識が、彼等の潜在能力を引き上げていたのだ。こうなると、むしろ淡々としているレベッカの方が成績に劣る。頑張ろう、なんとかしようという気概がないのだから。

「……良いな」

 ぽつりと、気持ちが声に出る。けれどもその口を閉ざし、レベッカは首を左右に振り――――前を見る。

 レベッカは息を飲んだ。

 何故なら山下蓮司が、自分の方を見ていたのだから。蓮司はレベッカと目が合うとニッと笑みを浮かべ、何事もなかったかのように前へと向き直す。

 偶然だろうか。

 きっと偶然だろう。レベッカはそう思った。思ったのに、胸がざわざわする。

 この感覚は、一体?

【緊急連絡】

 考え込みそうになった思考を、機長の声が引き留めた。レベッカはごくりと息を飲み、通信機の言葉に耳を傾ける。

【現在、当機の歩行速度は時速百五十キロに達している】

 機長の言葉に、レベッカの居る操作室内がざわめいた。広い屋外とはいえ、今まで出せなかった速さに達したのだ。レベッカ以外は嬉しくもなる。

 加えて、これまで観測されたデボラの速さは時速百キロ前後が最大だ。その速度を大きく超えるスピードを出せた、つまり『四型』の基本性能が、少なくともデボラに劣るものではないという証。

 『四型』ならデボラを倒せるかも知れない。そんな思いが脳裏を過ぎる事だろう。

【だが、デボラは現在時速六百七十キロ(・・・・・・)で移動中だ。振りきれる速さではない】

 その想いは、あまりにも呆気なくへし折られる。

 時速六百七十キロ。

 最早新幹線やリニアすらも凌駕する超スピード。それらだって空気抵抗を減らすべく様々な技術を用いているのに、デボラはイセエビ染みた格好でそれを為し得た。つまり、馬鹿力で無理矢理加速したという事。

 時速百二十キロという値の意味が逆転する。

 ――――このマシンでは、まだ、デボラに勝てない。

【また、デボラは方向を微調整し、真っ直ぐ当機を目指している。仮に速度を上回っていても、永遠に逃げ続けねばならなくなる……よって作戦を変更。総員持ち場を維持。中国人民解放軍の協力の下、ここでデボラを迎え撃つ】

 なのに下された決断は、またしても乗組員の期待を裏切った。

「おいおい、冗談じゃねぇぞ畜生っ!」

「負けて死ねって事かよ……クソがっ」

 メンバー達が口々に悪態を吐く。

 されど機長の判断は妥当だ。デボラがこの『四型』に向かい、逃げられない現状、いずれは追い付かれる。ならば有利な場所に陣取り、準備を整える方がまだ勝機があるといえよう。加えて、やられるにしても研究所の近くであれば多くのデータが得られる。

 そのデータを下に『四型』を改良すれば……次こそは、チャンスがある。

「了解」

 合理性がある指示。否定する理由はないと判断し、レベッカは機長に応答する。

「了解っ!」

 次いで、蓮司がレベッカと同じ答えを返した。

 あまりにも迷いのない言葉。二人の返事は、機内のメンバーの耳にも届く。

 心を動かした、という訳ではないだろう。

 されど搭乗しているメンバー……太平洋防衛連合軍の人員は、デボラ打倒を夢見る者達。勝ち目のない戦いに出向くのは何時もの事である。

 若い二人が覚悟を決めたのに、年上が逃げ出すというのはどうなのか。

「……了解! やってやる!」

「了解」

「りょ、了解っ!」

 合理的でない(・・・・・・)判断により、メンバーから次々と勇ましい声が上がった。

 通信機からも続々と返事が聞こえてくる。勇ましき戦士達は誰もが逃げず、勝ち目のない……けれども何時もよりは幾分マシな戦場に居座る事を決めた。

【良し。東南東へ方向転換。此処でデボラを迎え撃つ】

 機長の指示を受け、足を止めた『四型』は反転。東南東に頭の先を向ける。

 多少移動したとはいえ、未だ『四型』がいるのは山奥に位置する辺境。日本海から遠く離れた内陸だ。

 されどデボラは時速六百七十キロという猛スピードを出している。そして内陸とはいえこの山奥は、日本海からほんの三百キロほどしか離れていない。

 一時間も待つ必要はない。

 轟音が、モニターより聞こえてくる。大地を粉砕し、木々を踏み潰す音が『四型』の外で鳴り始めた。

 音は段々と大きくなり、やがて地響きも起こる。三百五十万トンもある『四型』がガタガタと震え始め、モニターの画面も揺れている。

 巨大な力が迫っている。

 そしてそのような力の持ち主は、今、この地球には一体しかいない。

【ギギギギギイイイイイイイイッ!】

 不気味な叫びと共に山を砕いて現れた、甲殻大怪獣デボラのみだ――――




山は吹き飛ばすもの


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山下蓮司の屈辱

 山をも砕く。

 言葉にするだけなら簡単なそれを、デボラは成し遂げる事すら易々とやってみせた。それも普段人々を吹き飛ばしている放射大気圧ではなく、自らの身体によって。

 砕けた山は無論発泡スチロールの塊なんかではなく、長年の堆積により岩石のように硬くなった代物。地上のどんな生物だろうと敵わない自然の産物も、デボラにとっては幼児が作り上げた砂山のようなものらしい。

 圧倒的肉体能力。分かってはいた事だが、三百五十メートルという巨体を動かすパワーは凄まじいものだ。人智を超えているといっても過言ではない。

 これからその力と蓮司達はぶつかり合う。未完成の兵器を使って。

 恐らくは叩き潰されるだろう。だが、例え『四型』に乗らずとも、デボラと戦えば同じ結末が待っている。

 なら、やる事は変わらない。

「(ここで貴様を、討つ!)」

 蓮司は憎悪のこもった眼差しをモニターに映るデボラに向け、

 デボラは、不思議そうに首を傾げた。

 そうとしか思えない仕草だった。奴は時速六百七十キロという爆速でやってきたが、『四型』を見るや足を止めている。じろじろと『四型』を眺め、観察し、困惑している様子だ。

 まるで「あれ? なんか思ってたのと違う」と言わんばかりに。

【……ギギギ】

 デボラは小さく鳴きながら、『四型』に歩み寄ってくる。

 デボラに敵意は見られないが、ゆっくり接近してくるなら好都合。蓮司含めた乗組員達全員が『その時』に備える。

 デボラが来るまでの間に、周りには人民解放軍の部隊が展開している。いざとなれば援護をしてくれる手筈だ……とはいえデボラに通常火器は殆ど効果がない。ミサイルなどの熱攻撃は、最悪回復量の方が大きいぐらいだ。戦力としてはあまり役立たない。

 戦うのは『四型』だ。故に蓮司達は待った。

 デボラが『四型』の三十メートル圏内にやってくる時を。

【左前方腕部を用い『攻撃』せよ!】

「了解!」

 機長からの声に答え、操縦手が端末を操作。

 併せて『四型』の左ハサミが、大振りな動きで振るわれた! その動きは遠目からは微妙にすっとろく見えるだろうが……スケールが違う。三十メートルという距離を〇・一秒で進めば、その速さは時速は一千キロを超える。

 そして『四型』の腕部質量は約五万トン。

 巨大隕石に相当する質量が、音速に迫る速さで大気を掻き分けているのだ! 狙うは生物として最も脆弱であろう頭部。

 人類史上最も重たい『打撃』が、デボラの側頭部を捉えた! 打ち付けた衝撃により爆音が轟き、余波が衝撃波となって周囲に広がる。木々や草花が吹き飛び、その威力の大きさを物語った。

 最高の一撃ではないだろう。まだパンチを繰り出す練習はしていなかったのだから。

 しかしそれでも実戦的な打撃は与えられた。それも脳天に。ならば上手くすればこれでダウンが取れるのでは――――

【……ギィ】

 蓮司が期待を抱く中、デボラは小さく鳴いた。

 瞬間、蓮司はぞわりとした悪寒を覚える。

 今の一撃は、それなりには痛かっただろう。ハサミによる打撃を喰らい、デボラはその体勢を傾かせているのだから。

 だが、それだけ。

 細い十本の足は大地を踏み締めたまま。打撃を与えた甲殻にはヒビも入っていない。何よりデボラの……複眼であり、哺乳類のような感情を示す機能はない筈の……瞳から生気は失せていない。

 むしろ、どんどん怒りを燃え上がらせていて。

【……ギ、ギギギィッ!】

 感情的な叫びと共に、デボラはぐるりと横方向に一回転(・・・)

 それはとても軽やかな動きだった。水槽の中の小エビが身を翻すように。

 しかしデボラは小エビとは比較にならないほど巨大である。巨大な身体で小さな生き物と同じスピード感を出すには、その大きさに見合った速さを出さねばならない。

 つまり、デボラが振るった尾は圧倒的速さを誇るという事。

 蓮司には分からない。モニター下部に表示された速度計に、時速八千百キロと表示されていた事など。何故なら見る暇すらなかったからだ。

 振るわれたデボラの尾は、『四型』の胴体を直撃。格闘戦を想定していた装甲はぐしゃりと潰され、しかしデボラの動きを止められない。

 まるで抉り取られるように、『四型』胴体の装甲が尾によって持ち去られた。

 中身が露出し、重要な回線が軒並み切り取られてしまう。予備の回線に切り替わるが……損傷が大きい。表面積の五パーセント近くを傷穴が占めている。多少は余力を見た作りになっていたが、全身を支えるための強度が足りなくなっていた。

 一部の崩壊をきっかけに、『四型』は全身が潰れるように崩れ落ちる。

 たった一撃。

 たったの一撃で、『メカデボラ』はデボラの前で膝を折ったのだ。

【……ギギ?】

 あまりにも呆気ないと思ったのか、デボラはハサミの先で『四型』の頭部を突く。亡骸のようになった『四型』が微動だにせずにいると、納得したように離れた。

【ギィ】

 そして一言静かに鳴くと、身を翻す。

 用件は済んだとばかりに、デボラはこの場を後にした。人民解放軍の一部、展開していた航空ヘリ部隊が後を追うが……ヘリコプターに搭載したミサイル態度では、デボラの足止めすら叶わない。デボラは悠々と海に帰るだろう。

 ――――そしてその様子を、蓮司はハッキリと見ていた。

 倒れ伏した『四型』の操作室……それはデボラが尾によって殴り付けた場所から、ほんの五十メートルほど後ろに存在していた。『四型』はデボラと殴り合う事を想定し、重要機関の殆どを下半身側に寄せているのだ。お陰で蓮司達は、デボラの攻撃を直撃せずに済んだのである。モニターなどの機器も、複数回線で結ばれているため今も生きている状態だった。

 しかしそれは操作室が無事だった事を意味しない。

 自重を支えられなくなり、倒れ伏した衝撃……それにより床や天井の一部が落ちてきたからだ。一瞬の出来事故逃げる事など誰にも出来ず、多くの乗員が生き埋めになっている。

 蓮司は幸運にも下敷きにはならずに済んだが……倒れた衝撃で椅子から転げ落ち、頭を打った。字面にすると間抜けだが、恐らく似たような怪我をした乗組員は他に何十人もいるだろう。出来る事なら救助に向かいたいが、自分自身も怪我人となってはどうしようもない。

 幸いにしてデボラは立ち去った。近くには中国人民解放軍が来ているので、そう遠からぬうちに救助隊が来てくれるに違いない。そう信じて今は待つしかないだろうと考え、蓮司は倒れたままの身体から力を抜いた。

 その待つ間に考え込む。

 まるで歯が立たなかった。

 確かに勝てるとは思わなかったが、善戦すら出来ないとは思ってもいなかった。蓮司に至っては火砲の起動すら出来ておらず、殆どモニターを眺めていただけ。戦おうというチャンスすら与えられていない。デボラの力はこちらの想像を凌駕し、まだまだ遙か上の領域に立っている。

 だが、此度の戦闘データは次世代機の開発に大いに役立つ筈だ。必要なスペックもより具体的に判明するだろう。もしかするとデボラの弱点なども判明するかも知れない。

 まだ人類は負けていない。いや、負けない。圧倒的な力を持つが一体しかいないデボラと違い、人間には仲間と協力し、力を合わせる事が出来るのだ。過去から学び、より良い未来を掴むために考え続ければ……いずれデボラを組み伏せられる。

 人類の叡智は、何時か必ずデボラを打ち倒せる筈。

 蓮司は勝利を確信する。これが良かった点の一つだ。

 そしてもう一つは。

「しっかりしてください。大丈夫、すぐに救助が来ます」

 可愛いあの子(レベッカ)が、自分と違って怪我もしていない事。

 今は生き埋めとなった乗員の救出を自ら進めている彼女の姿に、男としてちょっと情けなさを感じつつも、憂いはなくなったとして蓮司はゆっくりと意識を手放すのだった。




ま、まだ試作機だし(震え声)


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及川蘭子の見解

 中国にデボラが上陸した。

 先月に行われたこの報道は世界を駆け巡り、政府・民間問わずに大混乱を引き起こした。

 何しろ今や多くの人間……それこそ政治家さえも含む……が、デボラは中国が開発した生物兵器だという『陰謀論』を信じていた。勿論その陰謀がある程度の合理性 ― 何故か(・・・)今までデボラは中国を攻撃していないなどの ― を有していたというのもあるが、何より侵出と蹂躙を行う中国への恨みから、広く人々に受け入れられてきたのだ。

 だが、デボラは中国を襲った。

 あまつさえ、中国が開発していたという『対デボラ兵器』を破壊している。こうなると陰謀論者お得意の『自作自演説』も説得力が欠けてしまう。わざわざ対デボラ兵器なんか作って破壊させるなど、自作自演にしたってまどろっこしいのだから。勿論それでも頑なに信じる人も居た……そう、居てしまった。

 皮肉な事に陰謀論は、不安定化する世界情勢の中、国や人々を結び付ける『絆』となっていた。中国という共通の敵を前にして、世界がある程度団結していたのだ。ところがその敵だという認識が実は誤解だったかもとなれば、結束はあえなく解れてしまう。共闘していた国同士が意見を違え、地域同士の関係すらギクシャクする始末。中には陰謀論への『ツッコミ』が、内紛にまで発展した地域もあるという。

 根拠のない非合理な盲信は、一時的には人類を纏めていたが……今やそれが不和の要因と化し、人の世界を破滅へと歩ませていた。

 尤も、及川蘭子はこの事態に左程関心を持っていなかった。紛争や戦争にあまり興味がなかったし、何より、この事態は『想定内』である。

 それよりも気になる事がある。

「やっほー。遊びに来たわよー」

 だから蘭子は、その場所を訪れた。

 かつての同僚である霧島セロンの研究室へと。

「……やぁ、及川蘭子。久しいね。何ヶ月ぶりかな?」

「さぁ? 半年ぐらい?」

 表情を引き攣らせながら尋ねてくるセロンに適当な答えを返しながら、蘭子は室内をぐるりと見渡す。

 セロンの研究室は、無数の書類や本、それから開発中のものと思しきパーツが置かれていた。しかし無造作に放置されている訳でなく、きっちりと整理整頓されている。なんでも適当に置いている自分の研究室とは大違いだと蘭子は思った。

 ……思いつつ、座ろうとしていた椅子の上にあった書類を適当に、他の書類の上に置いてしまうのが及川蘭子という人間なのだが。セロンの眉間にぴきりと青筋が走ったが、蘭子は気付かなかった。

 セロンは大きなため息を一つ吐く。

「……まぁ、良い。それで、なんの用なのかな? まさか世間話をしに来た訳じゃないだろう?」

「んー、まぁねー」

 蘭子は椅子に座ると、自分の髪を弄りながら視線を虚空へと向ける。

「あなたの作った『メカデボラ』、アレで本当にデボラに勝てると思ってるのか聞こうと思って」

 そしてなんて事もないかのように、疑問をぶつけた。

 セロンは、一瞬口を強く閉ざした。が、すぐに不敵な笑みを浮かべる。

「ああ、当然だ。逆に訊くけど、君は勝てないと思っているのかい?」

「ええ。無理でしょうね」

「随分迷いなく語るね。根拠は?」

「アイツは私達の理解の外にあるから」

 問われる事の一つ一つに、蘭子はハッキリとした言葉で答えていく。

「あなたなら知ってるでしょう? デボラの遺伝子解析結果」

「……もう三年も前に出てるやつかい? 当然だろう。中国政府直轄の研究所が出したからと一般人(無能)共は信用しなかったけど、生物系の知識があるまともな学者ならすぐに本当だと分かるやつ」

「ええ、それで合ってる。アレに書かれていたでしょう……デボラが、遺伝子改良を受けていない『天然物』だって」

 蘭子は記憶を辿り、三年前の論文を思い返す。

 デボラの遺伝子配列は極めて独特なものであった。

 されど同時に、極々自然な産物でもあった。アミノ酸配列の変異率から推定される、現代見られるエビ類の共通祖先からの分岐は約五億六千万年前。軟殻綱(エビの仲間)が現れたと考えられている時期より少し前であり、系統的にはエビと異なる生物だと推察される。解析された塩基配列は現代のエビ類と大きく異なるもの。あまりにも異なり過ぎて、未だ九割はどんな機能があるのか、それとも無意味なものなのかも分かっていない。

 もしも人工的な生命であるなら、『解析可能』な遺伝子がごちゃ混ぜとなっているだろう。しかしデボラの遺伝子は謎めいていて、されど規則性がある。

 即ち、デボラは野生動物だという事だ。

 一体どんな進化を辿れば、デボラのような生命が誕生するのか? そもそもデボラは何故地上に来た? 生物がどうしてあれほど頑強な甲殻や、航空機も落とす攻撃手段を有しているのか?

 まるで分からない。

 そんな分からない生物を、どうして倒せると断言出来るのか。

「理解の外、ねぇ……負け犬らしい言い草だね」

 蘭子の沈黙から何かを察したのか、セロンは、蘭子を見下すように語る。

「あら、そうかしら? 謙虚なだけのつもりなんだけど」

「確かに、デボラは分からない事だらけだ。しかし人間には知恵がある。自然にはそれがない。馬鹿共は自然に『知性』を感じるそうだが、ボクには全くの逆さ。無秩序で、品性の欠片もない、ごちゃ混ぜのカオスだよ。そしてカオスが相手なら、知性は必ず打ち破れる」

 セロンの言葉に、成程、と蘭子は思った。実際彼の言う事は正しい。自然の秩序だった仕組みは、無限大のランダムの中から『不適合』が省かれた結果に過ぎない。何百回もダイスを振るい、その中で気に入った(・・・・・)値を選び出して表に書き込むようなものだ。規則正しく見えて、内実は数でのごり押しでしかない。

 しかし知恵であれば、そのランダムな変異に直線で挑める。

 目標を持って直進するのと、右往左往しながら真っ直ぐ進んだものだけを選ぶ……どちらが速く先に進めるかは一目瞭然だ。『競争』をすれば、自然は人類の叡智に勝てない。セロンの言う事は全くの正論である。

 だが――――

「仮に、だ。デボラが本当に人の手に負えない怪物だとして、じゃあどうするんだい? 黙って見ていろと?」

 セロンの意見に納得しつつも反論を組み立てていた蘭子だが、セロンは次の問いを投げ掛けてくる。

 蘭子は一瞬声を詰まらせた。

「……生態を解明し、可能なら共存の道を探るのが、今の私が出したベターな結論。勝てない奴に挑むより、諦めて折り合いを付ける方がマシだと思わない?」

「確かにベターな(悪くない)結論だね。デボラにより地球環境が激変している点に目を瞑れば」

 蘭子が答えると、セロンはすかさず反論してきた。その反論は想定内だ。蘭子自身、自分の持論への『ツッコミどころ』として悩んでいる部分なのだから。

 日本の関東圏で、四月に降った雪。

 あれは今や異常気象などではない。地球の平均気温はデボラ出現前と比べ、八度も低下している。ここまで気温が下がると大気循環そのものがおかしくなり、影響が大きかった日本では夏の気温が二十度近く下がった。昨年の八月はついに雪が振り、恐らくは今年も……

 原因は明らかだ。デボラしかない。

 デボラには熱を吸収する力がある。恐らくは地殻にいた時からこの力を使い、地熱を活力に変えていたのだろう。

 なら、その力を大気中で使えば?

 推定質量百五十万トンもの巨体と、それを悠々と動かすほどの身体能力だ。生きていくだけで途方もない熱量を必要とする筈である。ただ一匹であっても、十年もいれば環境に大きな影響を与えるだろう。デボラを生かしておけば、この環境変化が更に悪化する可能性は高い。勝てる勝てないではなく、勝たねばならないという考えは、至極尤もなものだ。

 しかしながら蘭子が思うに、話はそこまで単純ではない。

 デボラが地上に来たからといって、地球が持つ熱の総量は変わらないからだ。デボラが今まで地殻で暮らしていたのなら、デボラが居なくなった地殻ではその分の熱が吸収されずに残っている。地殻の熱はじんわりと地表まで伝わり、デボラが大気中で吸った熱の『帳尻合わせ』をしてくれる筈だ。

 無論大気から直に莫大な熱を奪えば、気流の流れに変化を及ぼし、なんらかの気候変動を起こすだろう。されど世界の平均気温を八度も下げるのは、どう考えてもおかしい。

 デボラ以外の『原因』もある筈だ。そして原因となり得るものがあるとすれば、

「そのデボラによる気候変動を、人間が後押ししてるとしても?」

 人類以外にはないだろう。

「……」

「沈黙するって事は肯定よね? ま、思い付いてない筈ないけど」

 口を閉ざしたセロンに、今度は蘭子が言葉による追撃を行う。

「デボラの放つ放射大気圧、更には熱放射による防御……いずれも莫大なエネルギーを消費するでしょうね。そしてそれはきっと、地殻の中で放つような事はしてなかったんじゃないかしら」

 もしも地殻内で放射大気圧を乱射していたなら、人類が観測している筈だ。あんな出鱈目な破壊力を見落とすほど、十年前の人類は鈍感ではなかったのだから。地上に出てくるまで未観測だったという事は、平時は殆ど使っていなかったに違いない。

 ところが今のデボラは頻繁に放射大気圧を放ち、都市を吹き飛ばしている。

 何故か?

 人間の攻撃が、デボラを怒らせているからだ。何度も何度も、デボラが上陸する度に攻撃し、放射大気圧を誘発している。そしてその度に、デボラは大量の熱を吸収しているだろう。

 もしも人間がデボラを攻撃しなければ……

「……君の言いたい事は理解している。確かに、その通りだろう。人間が攻撃しなければ、デボラが地球にもたらす影響は最小限で済んだ筈だ」

 蘭子の考える『推論』。セロンは、それを認めた。

「だけど、じゃあどうするのが正解だったんだい? 何もしない事かな? デボラが上陸して町を津波で飲み込もうとも、踏み潰そうとも、見て見ぬふりをしろと?」

「そこを指摘されると弱いわねぇ。犠牲になる人からしたら、ふざけんなって話だし」

「そうだろう? 大体、もう手遅れなんだよ」

「手遅れ?」

 蘭子が問い返す。

 セロンは部屋に積まれている書類を一枚抜き、蘭子に差し出す。蘭子はそれを受け取り、読んで……目を見開いた。

「現在、世界の穀物生産の六割を中国の内陸部で担っている。この場所は現在まで、気候変動の影響をほぼ受けていないからね。国策で、多少強引だけど食糧を増産出来た。今や世界の胃袋はこの国が握っている」

「……けれども去年、気温の著しい低下が見られた。今年の気温は去年以上の低水準。生産量は前年度より三十四パーセントほど減るものと見られる」

「分かるかい? 世界の食糧生産能力が完全に潰えようとしている。今更共存しましょうなんて暢気な話を言える空気じゃないのさ」

 セロンの断言に、蘭子は言い返せない。渡された書類のデータは、彼の言葉の正確性を物語っていたのだから。

 中国による世界支配が不満だらけでも受け入れられている背景の一つが、食糧支援だ。食うに困らなければ、人間というのはそれだけで満足してしまえる。自力での食糧生産が難しいなら尚更だ。どれだけ腹の立つ統治でも、飢えて死ぬよりマシなら抗えない。いや、抗おうとする動きを潰そうとすらするだろう。機嫌を損ねて食糧供給を絶たれたら困るのだから。

 しかし逆に言えば、空腹を満たせなければ中国による支配などなんの価値もない。各地で反抗活動が盛り上がるだろう。いや、自国民への食糧供給が途絶えれば、内乱だって起こり得る。

 問題なのは、政府を打倒したところで何が変わる訳でもないという事だ。むしろ本格的な無政府状態となり、利権の争奪戦が起きる筈。破壊と略奪が至る場所で繰り広げられ、人の生存権を、人自らが削っていく。

 唯一この未来を変える方法があるとすれば、デボラを倒す事。

 デボラを倒し、これから世界は良くなるのだと人々に希望を与え……その間になんとかする(・・・・・・)しかない。

「……それで? あなたの方は具体案があるの? 『四型』は呆気なく破壊されたみたいだけど」

 自分の案よりもセロンの意見の方が『現実的』に人類を救えると思えた蘭子は、その上で問題点を指摘する。デボラを打倒しようにも、その矛がないだろう、と。

 するとセロンはにやりと笑った。予想通りの質問だと言いたげに。

「現在、『四型』の問題点を解消した『一式』を建造中だ。これでデボラを打倒する」

「実戦データを得た事で、具体的なスペックを決められた訳ね。で? 何時完成予定なの? この気候データから考えるに、二年もすれば中国最大の農地が穀物生産に適さない環境となるみたいだけど」

「八月末」

「……来年の?」

「今年の八月末さ」

 セロンの答えに蘭子は一瞬呆けた。呆けて、考えて……驚愕する。

 今年の八月末なんて、もう、あと二ヶ月しかないじゃないか。

「なっ……ど、どうやって!?」

「基礎フレーム自体は既に開発済みでね。外装に必要な機材も九割は集まってるし、最新型核融合炉も製造に着手している。必要なのは実戦データだけ。それがあれば、『一式』でデボラ倒せるか判断出来た。で、判断してOKを出した。それだけさ」

「でも、だからって二ヶ月は……」

「中国の国家体制は素晴らしいね。いざとなれば国民を総動員して兵器を製造出来るし、例え危険な兵器でも市街地の側(・・・・・)で開発出来る。民主主義国家じゃ到底出来ない事だよ」

 褒めるように、嘲笑うように、セロンは語る。蘭子はもう、何も論理的な言葉では言い返せない。かの国なら、それが可能だというのは分かっているからだ。

「……勝てると思う?」

 もう、言い返せるのはそんな問い掛けだけ。

「勿論。データは完璧に揃ってるんだ。なんの問題もないね」

 その問いに、セロンが答えを迷う筈もなかった。

「……分かった。なら、こちらから言う事はないわ。現状、あなたの考えの方が『合理的』なのは確かだし」

「そりゃどうも」

「聞きたい事は聞けたし、私は帰らせてもらうわ」

 蘭子は椅子から立ち上がり、研究室のドアの前まですたすたと軽い足取りで向かう。

 と、ドアノブを掴んだ状態でくるりと振り返る。横目で蘭子を見ていたセロンと目が合った。

「そうそう、一つ忠告をしておくわ」

「忠告?」

「叡智は真っ直ぐ走るのが得意だけど、自然はルールに縛られないのが得意なのよ。あまりデータを過信しない方が良いかもね」

 それだけ、と言い残して蘭子は部屋を後にする。

 どうせ、自分の忠告をセロンは聞き入れないだろう。

 聞き入れたところで、今更計画がどう変わる訳でもあるまい。デボラ打倒の計画は最早セロン一人のものでなく、無数の人間の思惑と利権が絡んでいるのだ。『納期』すらずらせまい。

 果たしてどのような結果になるのか。

 どちらかといえば人類存続を期待する蘭子の胸に、一抹の不安が残るのであった。




勝っても負けても後がない。
うーん、詰んでる。私こういうの大好き!(歪)


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レベッカ・ウィリアムズの困惑

 デボラ決戦仕様兵器第一式。

 試作機として作られた『四型』の後継機にして、デボラと対決するための正式機……それが『一式』だ。

 曰く、エンジンパワーと装甲が大きく強化されている。先の戦闘により『四型』のスペックでは逆立ちしても勝ち目はないと判明したが、そこから得られた戦闘データによれば、『一式』はカタログスペック上では十分デボラと戦える性能を持っているという事である。これだけで、対デボラ兵器の名を冠するに相応しい。

 改善されたのは戦闘能力だけではない。機体の震動を緩和する仕組みや、ボタン配列などが改善されている。実戦時によく使う経路は本数を増やすか広くし、逆に当初の想定よりも使われなかった道は細くしていた。戦闘能力に比べればなんとも地味な改善だが、しかしどれほど強い機体であろうとも、乗組員が快適に操作が出来なければ実力を発揮出来ない。こうした改善も、非常に重要なものだ。

 かくして様々な機能を盛り込んだ『一式』は、現在中国の首都北京郊外にて建造が進められている。大量の人材と資源を惜しみなく投入しており、完成は二ヶ月後……八月末の予定だ。勿論市街地近くでの開発は市民を危険に晒すし、精錬により生じる大量の汚染物質は浄化する暇がないので垂れ流し。北京以外の都市でも鉱石採取のために自然環境が破壊されている。本来なら国際的非難が集中するところだが、中国元凶説が揺らいだ影響で、国際社会から目立った声は上がらない。

 何より寒冷化の原因であるデボラを、これ以上放置も出来ない。何処の国でも、自国民に満足な食事も与えられていないのだ。中国による食糧支援が途絶えれば、本当に内乱が起きる。デボラが中国の開発した兵器ならこの心配はなかったが、中国までもが被害者ならいずれ……

 一時のリスク、一時の破壊、一時の汚染。気にしている余裕など今の人類にはない。人類の叡智を結集し、悪辣非道な自然の暴虐に打ち勝たねば、人の未来は絶たれる。『一式』は人類の希望となっていた。

 レベッカは、そんな『一式』のメインパイロットに選ばれた。

 本来ならば補欠として採用されていた彼女であるが、どんな状況下でも変わらない正確な操作技法、そして訓練用シミュレーションの成績の向上から、繰り上げ採用となった。

 自分以外にも、多くの補欠候補が正式メンバーに引き上げられたとレベッカは聞いている。デボラと戦えたのは ― あれを戦いと呼べるのだろうか? ― ほんの数秒とはいえ、その数秒が乗組員達を大きく成長させたのだ。特にメンタル面……デボラへの恐怖心の克服が大きい。

 尤も、それはデボラ相手に活躍出来たメンバーだからこその恩恵だ。『四型』には大勢の乗組員がいたが、全員が全員、等しく活躍出来た訳じゃない。

「はぁ……」

 例えばレベッカの自室にてため息を吐いた男――――山下蓮司も補欠から抜け出せないでいる一人だった。

「……今回も駄目だったの?」

「え? あ、うん。い、いやぁ、正式メンバーになるのは難しいなぁ……」

「基本的には素養のある人が選ばれてる訳だから、当然の結果だと思う。シミュレーションの成績で上回っていないなら、私だってあなたじゃなくて元々の正式メンバーを採用する」

「ぐふっ」

 ベッドに腰掛けているパジャマ姿のレベッカの無感情で容赦ない言葉に、ベッドを背もたれのように使っていた寝間着姿の蓮司は呻きを漏らす。顔は苦悶で歪んでいて、割と本当に苦しそう。

 蓮司は『四式』にて砲手を担当していたが、先のデボラ戦では砲は全く使われていない。そのため蓮司の腕前を披露する事はなく、また成長も出来なかったのである。肝は据わったようだが、シミュレーション結果が良くならなければ意味がない。

 故に中々正式メンバーに選ばれず、このままだと補欠候補のままで終わりそうなのだ。補欠でも搭乗員となれば仕事はあるし、『一式』に乗れる事には違いないが……補欠という肩書きは、男として思うところがあるらしい。

 彼を苦しませてしまったレベッカも、眉を顰めた。

 彼が自室……正確には中国政府が与えた寮の一室だ……に入り浸るようになって、どれだけの月日が経っただろうか。

 デボラとの戦った翌日から、ちょいちょいと話をするようになり、一緒に行動する事が増え……ある日「部屋に行っても良いか」と問われたのでOKを伝えたところ、割と高頻度で来るようになった。レベッカとしても蓮司の事は嫌いじゃない(・・・・・・)ので特に問題はなく、こうしてのんびりと話を交わしている。

 ……感情は失われていても、元々は一介の少女だ。レベッカにも、蓮司が自分にどんな感情を向けているかは分かる。

 好きな割には手を出してこないし、寝る時はしっかり自室に戻るので、誠実で真面目な人だとはレベッカも思う。顔立ちも、良い方ではないだろうか。ボランティア団体みたいなものとはいえ、このご時世に『仕事』もしている。恋人、その先にある婚約相手としては申し分ない。

 だけど、レベッカに愛情はない。

 ……感じられない。自分を好いてくれている人なのに、その人に対し何かを感じられない。

 それが、胸をざわざわと掻き乱す。

「ねぇ、蓮司」

「ん? なんだい?」

「あなた、私の事が好きなのよね?」

 さらりと、レベッカは蓮司に問う。

 問われた蓮司は顔を真っ赤にし、右往左往。実に分かり易い反応だった。蓮司自身もそれは自覚するところなのか、胸に手を当てながら息を整え、相変わらず赤面したままの顔をレベッカに見せる。

 それからこくりと、頷いた。

 否定しないところは『好感』が持てる。だけどそれは愛情となってくれない。

「ごめんなさい。私、恋がよく分からないの」

 だからレベッカは、正直に己の気持ちを伝える。

 蓮司は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐににっこりと微笑んだ。次いで手を伸ばし、レベッカの頬を触る。

 温かで、優しい手付き。

「なぁ、ここでクイズをやらないか?」

「? クイズ?」

「今、俺が何を考えているか当てるクイズ」

 いきなりクイズを振られ、レベッカは僅かに戸惑う。

 そう、戸惑った。デボラとの戦闘すら動揺しなかったというのに。

 自分の心境に気付き困惑しつつ、レベッカは言われるがままクイズに挑む。しかし感情が乏しくなってから十年が経つ今のレベッカに、人の気持ちを汲むのは中々至難の業である。

「……好きだなぁ、とか?」

 とりあえず、相手が自分の事を好きなのだという前提からこの答えを導き出す。

「残念、思ったよりほっぺたぷにぷにで可愛いなぁ、でした」

 すると蓮司は、大変細かい答え方をした。

 そんな複雑怪奇な答え、分かるものか。大体頬がぷにぷにしてるなんて自分で感じられるものじゃなく、どう考えてもその部分は分からないだろうに。

「……それ、当てられる訳がないと思うのだけれど」

「当てられるかどうかじゃないさ。こんなしょうもない事をして、楽しいかどうかだ。俺は、君が楽しいならそれが良い」

「……あなたは楽しい?」

「うん、楽しい。ちょっと寂しいけどな」

「……そう」

 私は、楽しくない。楽しいという感情が出てこない。

 それを言うのはとても簡単な事なのに、今日のレベッカの口は重く、上手く伝える事が出来ない。

「まぁ、気長に待つとするよ。俺はそのぐらい、君の事が好きだから」

 そして自分の胸の内にある言葉をきっと察したのであろう蓮司に、そう言わせてしまう事が……自分の胸を更にざわざわさせる。

「……そう」

「おっと、もう夜遅いね。俺はそろそろ自室に戻るよ。明日も、また来て良いかい?」

 立ち上がり、明日の予定を尋ねてくる蓮司。

 帰らずに、泊まっていけば?

 それを言ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。泊まらせたら、『何』があるのか。

 『疑問』はたくさんある。だけどその疑問を解消せねばならない合理的理由はなく、疑問の解消を拒否する合理的理由は幾つか浮かぶ。

「ええ、明日も問題ないわ」

「分かった。じゃあ、また明日来るね。おやすみ」

 レベッカの答えを受け入れ、蓮司は部屋から出ていく。見送りはしない。その合理的理由がないから。

 部屋に一人残されたレベッカは、しばし天井を仰ぎ見る。煌々と光る電球。リモコンを押して明かりを消し、真っ暗にした部屋の中、手探りでベッドに潜り込む。

 掛け布団の中へと入り、レベッカは目を閉じる。何時もなら数十秒で眠りに落ち、スッキリと目覚める事が可能だ。

 だけど今日は違う。

 ざわざわとした胸のざわめきが、彼女の眠りをほんの少しだけ妨げるのであった……




甘酸っぱい恋愛が書きたいけど、書いてる人に甘酸っぱい恋愛経験がないという。


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加藤光彦の災難

 光彦は困惑していた。

 今日も今日とて、彼は廃墟と化した市街地を歩いていた。目的は食べ物を得るため。今回訪れたこの町はほんの一月ちょっと前に壊滅したばかり ― なんでも中国に向かう最中のデボラに踏み潰されたらしい ― であり、つまりつい最近まで人が住んでいた地域。生鮮食品は無理だとしても、缶詰などの保存食は確実に、干物や燻製なども少しは手に入ると踏んだのだ。

 果たして思惑は、見事その通りに進んだ。いや、むしろ思惑以上の結果だ。元漁村という事もあり、大量の缶詰が残されていたのである。今日の分と言わず、一週間は暮らしていけるだろう。交通網や情報網が遮断されたこの時代において、事態から一月ほどで辿り着けたのが功を奏した。

 おまけに魚醤までもが手に入った。個人的に使うのも良いが、この手の味覚に飢えている輩に小瓶一つ分でも渡せば数日分の食糧と交換してくれる筈だ。ある種の『貨幣』である。

 大豊作といっても過言ではない。

 ――――うっかり余計なものを見付けなければ、であるが。

「……どうしたもんだかなぁ」

 光彦はぽつりと独りごちる。

 そんな彼の前には一人の、成人した女性が倒れていた。

 行き倒れなら問題なかった。そんなもの、今の時勢では珍しくもなんともない。しかし見れば胸の辺りが上下していて、生きているのだとハッキリ分かる。

 生きてはいるが、炉端で倒れているという事は色々ヤバいのだろう。今は陽が沈み、間もなく夜になろうとしている。七月に入ったとはいえ、デボラの影響により夜は厚手の上着が必要になるほど寒くなる。放置すれば凍死……まではいかずとも、残り少ない体力は空になるだろう。

 さて、どうすべきか。

 助けるべきか、無視すべきか……

「どうする父ちゃん。追い剥ぎしとく?」

「……自然とその発想が出てくる辺り、お前もなんやかんや『現代っ子』だよな」

 娘のようなものであるアカからの意見はとりあえず脇に置き、光彦は考える。

 助ける、というのが人として正しい行いなのは光彦にも分かる。しかし彼は善人になろうとは思っていない。そして今の世界は、自分一人生きていくのすら大変なのが実情だ。今日はたくさんの食糧を見付けられたが、それすら一週間もすれば尽きる程度。誰かに分ける余裕などない。

 恨みたければ好きにすれば良い。どうせ死人に口はないのだ。

「ま、捨て置くとするかね。明日になって死んでたら、身に付けてるものでも頂くか」

「分かったー」

 光彦はそう結論付け、アカも光彦の方針を受け入れる。ならば此処に居る理由はもうないと、立ち去ろうとした

 直後、光彦は足首をがしりと掴まれた。

 恐る恐る、光彦は足下を見る。倒れている女が腕を伸ばし、自分の足首を掴んでいた。現在進行形で行き倒れているのに、ギリギリとした痛みが走るほどのパワーを発揮している。

「クイモノ、ヨコセェェェェ……!」

 そしてゆっくりと上げた、やや歳は重ねているが整った顔を悪鬼のように歪め、ケダモノのように低い声で訴える。

 光彦は悟った。コイツぁヤベぇ奴だと。恐らく生きた人を襲い、喰う事も厭わない。これぞ『野生の人類』だ。

 極限の空腹状態が彼女の本能を呼び起こしたのか? 或いは厳しい環境により理性が消失したのか? 様々な考えが脳裏を過ぎるも、光彦はそれらを一旦頭の隅へと寄せた。そう、そんな事は大した問題ではない。

 問題なのは、冗談抜きにこの女がヤバいという事。

 そしてその女に、今、足首を掴まれているという状況。

「……はい」

 悪党ではあるが小物に類する光彦に、彼女に逆らう気概などある筈もなかった。

 ……………

 ………

 …

「ぶっはははははは! ははははっ! ひっ、ぶく、ふははははっ!」

「……そんなに笑わなくても良いじゃない」

 瓦礫の山が積み上がる旧市街地の屋外にて。月明かりを浴びながら光彦は馬鹿笑い。笑われた行き倒れの女性――――緒方早苗は唇を尖らせた。それでも光彦は笑うのを止めないので、彼女はふて腐れるように、ずずずと両手に持った缶詰の汁を啜る。

 しかしこれが笑わずにいられるかと、光彦は何時までも笑った。

 この早苗という女、聞けば結核……だった(・・・)らしい。

 両親の看病後、自分も同じ症状を患ったのだ。そう思うのは当然だろう。だからこのまま苦しみ、人に迷惑を掛けるのは嫌だと思って死に場所を探し歩いたが……野宿生活をしていたら、何故かどんどん体調が回復していったらしい。

 腹を空かせて食べた野草に薬効でもあったのか、自然の澄んだ空気が良かったのか、心理的な開放感により免疫が向上したか、そもそも結核だというのがただの思い込みだったのか。今となっては答えは分からないが、なんにせよ元気になったら死ぬ気も失せた。というより死にたくなくなった。

 では家に帰れば良いかというと、そうもいかない。何故ならもう死ぬ気満々だったため、バッチリ書き置きを残してしまったのだ。しかも「私は野イチゴになります」なんて赤面ものの一文まで付けて。そもそも山中を歩き回っていた所為で帰り道が分からない始末。

 かくして色々歩き回って早二ヶ月超え。これまでなんとか生きていたがついに限界を迎えて――――今に至るそうだ。

「しっかしまぁ、よく二ヶ月も生きてこられたな。俺達みたいに意地汚い訳でもないだろうに」

「ええ、苦労したわ……岸に打ち上げられた魚とか、自生してる野菜とか、そんなのばかり食べてきたもの。あと、先週はついに盗みをしてしまったわ。やってみたら、意外とどうって事もなかったけど」

「前言撤回。やっぱお前俺達寄りだわ……女なら身体使えば、今でも食いっぱぐれる心配はなさそうだがなぁ」

「こんなおばさんに需要なんかないわよ。大体、今時女にお金を払うような『紳士』がいるとも思えないし」

 さらりと述べた下ネタに、早苗もさらりと返す。極限状態に置かれて色々吹っ切れたのか、それとも元々平気なタイプなのか。なんにせよ、光彦としては嫌いではない。

 ついでに言うと早苗は割と自身の容姿を卑下しているが、光彦的にはそんなに悪くはないだろうと思っていた。確かに若々しくはないが……十分『イケる』歳だろう。肉付きもほどよく、実に美味そう(・・・・)である。尤も、だからこそ男性を警戒するのは当然と言えたが。

 しかし、それを考えると……

「ところで俺は警戒しないのか? 随分打ち解けてる様子だが」

 光彦も、割と無法者寄りの男性な訳で。

 されど早苗は気にした様子もなく、隙だらけで缶詰の中身を味わう。

「警戒はしてるわよ。でも、あなたなら大丈夫な気はする」

「なんでだよ」

「だって娘連れてる人だし」

「……………」

 それを言われると、何故だか反論し難い。光彦は口を閉じてしまう。

「父ちゃん父ちゃん!」

 バツの悪さを感じていた光彦にとって、慌ただしいアカの声は、大変タイミングの良いものであった。

「おっ。どうしたアカ。なんか美味いもんでも見付けたか」

「それどころじゃないよ! アイツらが来た!」

「アイツら……?」

 アカの言う『アイツら』とは何者か。光彦は僅かに考え込み――――答えに辿り着いて、ゾッとした。

「おいおい、マジかよ……見間違いじゃねぇよな?」

「多分!」

「多分かよ! っつーても、無視も出来ねぇか……」

「何? 誰が来たの?」

 『アイツら』なる者に心当たりがない早苗は、キョトンとしながら光彦に尋ねる。そんな暇はないし、早苗が『アイツら』に見付かったところで光彦の心は痛まないが……下手な事を喋られても面倒この上ない。

「こっちに来い。安全なところに行ったら説明してやる」

 ひとまずは早苗を黙らせ、光彦はアカと共に動き出す。

 早苗は一呼吸ほど遅れてから、光彦達の後を追う。光彦はこそこそと近くのは瓦礫……のように一見見える、よくよく見ればひっくり返った家屋だ。

 元は二階だった場所の窓を足で蹴破り、光彦は家だった瓦礫の中へと入る。アカは躊躇わずに続き、早苗は息を飲み、呼吸を整え、恐る恐る入ってきた。

 窓から床……正確には屋根だった場所……までは高さがあり、先に飛び降りた光彦は降りてきたアカを受け止める。ついでに早苗も受け止め、アカにはしゃがんで身を隠すよう指示。自分は飛び降りた窓から外を覗き込み、早苗も一緒に外を見る。

 しばらくは、何もなかった。

 けれども数分も経つと、パキパキと、瓦礫を踏み付ける音が聞こえてきた。

 足音の数は一つではない。パキパキ、パキパキ、パキパキ……何十という数が居る。それらは段々と光彦達が潜む瓦礫の方へと近付いていた。

 そして、ふと明かりが見えた。

「っ!?」

 早苗が仰け反りながら、塞ぐように自らの口に手を当てた。咄嗟に出そうになった悲鳴を、咄嗟に自ら抑えたのだ。

 余程大きな悲鳴でない限り聞こえぬだろうぐらい『アイツら』とは離れていたが、それでも悲鳴を上げそうになるほど『アイツら』は異様だった。

 『アイツら』は手にランタンを持ち、あちこちを照らしながら瓦礫の上を歩いていた。ランタンなので、その輝きは懐中電灯のように狭い範囲ではなく、ぼんやりと広範囲を照らす。そのため『アイツら』の姿は、遠くからでもハッキリと確認出来る。

 『アイツら』は赤黒い装束を纏っていた。頭から足先近くまであるローブで、顔には周りを見るためのものと思われる穴が二つ開いているだけ。体格からなんとなく男か女かは分かるが、年頃は窺い知れない。

 彼等はゆっくりと練り歩きながら、時折瓦礫を協力してひっくり返したり、何かに跪いたりするなど、奇怪な行動を繰り返していた。奇声を上げたり、嗚咽を漏らす者も居る。

 やがて彼等はその場から去り……見付からなかった光彦は、大きなため息を吐いた。

「……それで? 安全になったけど、教えてくれるの?」

 尤ものんびり休まる暇はなくて、早苗がじっとこちらを見ている。面倒臭いが『アイツら』が立ち去った手前、もう一度黙ってはくれないだろう。

 仕方なく、光彦は説明する。

「俺もそんなに詳しくはないけどな。アレだよ、宗教団体。デボラ教だ」

「デボラ教? あれが噂の……」

 早苗は窓から身を乗り出し、既に立ち去った『アイツら』が向かった方を見る。どうやら早苗は初めて彼等に出会ったらしい。

 デボラ教。

 デボラにより日本が壊滅した後、ぽつんと生まれた新興宗教の一つ。曰く、デボラはこの星の神である。彼は人間によって汚れた地球を綺麗にするため、『清浄な空気』で全てを浄化している。人間は自らの行いを恥じ、悔い改め、地球の意思と一体化する事で浄化された地球で暮らす権利を得られる。さもなくば肉体を滅ぼされ、魂を穢れた世界に送られるだろう……と彼等は主張している。

 いっそ清々しいほど胡散臭い教義である、と光彦は思う。ところが人間というのは、どん底に突き落とされるとこんなものでも有り難がるらしい。デボラ教はデボラにより家族や仕事を奪われた人々の間に爆発的に広がり、信者の数は世界中で激増している。噂ではあるが、アメリカでは今やキリスト教より人気だというから『世も末』だ。

 彼等は基本的には善良であり、信仰の押し付けも特にしない。無理矢理改心させても、心から地球と一体化しなければ意味がないと考えているからだ……と彼等自身は主張している。本当にそうかは分からない。何しろ『善良』な人間というのは、基本的にお節介だ。「穢れた世界から人々を助け出す!」という使命感を『押し付け』だと認識出来る人間がどれだけいるか怪しいものだ。

 聞いた話では、善意の下に人々を拉致し、洗脳し、信徒に加えているとの噂がある。

「ま、所詮は噂だがな。でももしかしたら本当かも知れないから、近寄らない方が身のためってやつだ」

 デボラ教について、光彦はそう纏めた。

「じゃあ、あなたは此処から立ち去るつもり?」

「……食い物は惜しいがな」

 光彦はそう言って、窓に手を外へと掛け這い出す。アカも窓に駆け寄り、光彦が伸ばした手を掴んで外へと出る。

「ま、そういう訳だから、俺達は此処から立ち去るわ。後はテメェの好きにしな」

 そしてそれだけ言い残し、光彦はこの場を後にする

「あら、それはつれなくない?」

 つもりだったのに、早苗が呼び止めてきた。

 光彦は振り返る。家だった瓦礫の中から、早苗は一人で這い出した。ぱんぱんと服を叩き、汚れを落とした彼女は堂々とした歩みで光彦に歩み寄る。

「一人は退屈していたの。もう少し一緒に居ましょ」

「……いやいや、お前と一緒でどんな得が」

「私が、一人が嫌って言ってるの。OK?」

 有無を言わさない強い口調。早苗は光彦と向き合い、荒い鼻息を吐く。

 何もOKじゃない。アカ一人でさえ喧しいのに、また女が一人増えるなど溜まったもんじゃない。食糧の消費だって増える。絶対にお断りだ。

 が、早苗はこちらの気持ちなど聞いていない。なんとも強い女だ……悪党だが小物な光彦よりもずっと。恐らく何を言っても、コイツは付いてくるだろう。

 抵抗は無意味。

「……OK」

 あっさりと諦めた光彦は、肩を落としながら早苗に返事を返すのだった。




これが今流行りのおっさんハーレム……!
ハーレム?


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山下蓮司の決意

 機銃担当。

 機体そのものを操る操縦手と比べれば、遙かに地味なポジション。デボラの身体能力を思えば、そもそも役に立つのかも怪しい立ち位置。

 しかしながら『一式』の正規乗組員の一人には違いなく。

「いよっし!」

 長い間補欠人員の一人であった蓮司にとっては、待ち望んでいた役目であった。

 中国人民解放軍より割り振られた ― ベッドとテレビがあるだけの、シンプルさなら監獄にすら勝りそうな ― 自室にて。ベッドに腰掛けている蓮司は一枚の紙を眺めながら、自分に告げられた報告を何度も何度も読み返す。自分の勘違いではない事を確信し、蓮司は満面の笑みを浮かべる。

 最後の人員審査。

 『一式』の正規乗組員を確定させるそれに、蓮司はとうとう選ばれた。蓮司の努力が実を結んだのか、それとも有力視されていたメンバーが辞退したのか、選考の過程に不備でもあったのか……理由は分からないが、そんなものはもう蓮司にとってはどうでも良い。そもそも補欠人員でも『一式』には乗れるのだから、正規乗組員になりたいというのは蓮司の自己満足でしかない。

 そう、自己満足だ。

 自分の好きな人と一緒に戦えるという、なんともちっぽけな自己満足。

「良かったわね。正式な乗組員になれて」

 蓮司の隣に座る少女――――蓮司に呼ばれ部屋へとやってきたレベッカは、淡々とした声色で蓮司を祝福する。彼女は既に『一式』の左腕部操縦手として正式採用されている身だ。尤も、仮に落選していたとしても、その声色はちっとも変わらなかっただろうが。

 愛しい少女の言葉に、蓮司は頬が弛みそうになる。どうにか気合いを入れて表情の『真面目さ』を保とうとするが、嬉しさからとろんとしてくるのを止められない。

 蓮司が表情の張りを取り戻したのは……当初の、自分の原点を思い起こしてからだ。

「これで、デボラと戦える……今度こそ、本当に……!」

 無意識に力が入り、蓮司は自らの正式採用を伝える紙に皺を作ってしまう。

 蓮司がデボラと戦うのは、自分の家族を奪ったデボラを討ち取るため。

 悠然と全てを粉砕してきたデボラ。数多の人々の命を奪い、今や地球環境さえも破壊しようとしている怪獣。どんな兵器を用いても、何百何千という英雄が挑んでも、抗う事すら敵わない最強最悪の生命体。しかしそんなのはどうでも良い(・・・・・・)

 自分は、自分の手でデボラを倒したい。

 そのシンプルな目的のために、蓮司は太平洋防衛連合軍に参加したのだ。

「……レンジは」

 過去に思いを馳せていたところ、ふとレベッカが名前を呼んできた。蓮司はレベッカの方を見遣り、憎悪の顔を和らげる。

「レンジは、デボラを倒した後はどうするの?」

 今度は、投げ掛けられた問いに驚き、目を丸くした。

 デボラを倒した後の事……蓮司は、まるで考えていなかった。

 確かに、怪獣を倒してジ・エンド、というのは漫画や映画だけの話だ。デボラを倒してもこの世界は何時までも続き、エンディングなんてものは訪れない。デボラにより招かれた貧困は相変わらず残るし、世界は中国に支配されたまま。寒冷化は良くなるかも知れないが、もしかすると何かの拍子に悪くなるかも知れない。

 よく漫画などで「今は先の事なんて考えられない」と答える主人公がいる。その気持ちは蓮司にも分かる。正に今、蓮司がその状態なのだから。しかし後の事はその時になったら考える、なんて計画性皆無にもほどがあるだろう。

 デボラを倒した後にやりたい事。蓮司は腕を組み、しばし考え込む。レベッカは蓮司の答えを促したりはせず、黙ったまま待ち続ける。

 やがて蓮司は、ゆっくりと口を開き、語り始めた。

「……まず、日本に帰る。今の日本は治安や経済が最悪だけど、デボラがいなくなれば良くなる筈だ。それに故郷の復興もしたい」

「うん」

「それから、仕事を探す。デボラ退治の英雄様になれたら、まぁ、警察とか軍人にはなれるだろう、多分」

「そう」

「で、生活が安定したら、結婚する」

「成程……成程?」

 レベッカが首を傾げる。蓮司はその顔と向き合い、レベッカの手を握る。

「レベッカ。デボラとの戦いが終わったら、結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?」

 そして蓮司はハッキリと伝えた。

 レベッカは最初、キョトンとしていた。しばらくして目をパチリと見開き、泳がせ、そわそわと身を捩らせる。何かを答えようとして口を開き、閉じ、開き……

「あ、え、えと……考えて、おく」

 返ってきたのは、とても曖昧な答えだった。

「そ、そうか」

「……あ……あの……私、もう部屋に戻って、寝るから」

 レベッカはそう言うと、足早に部屋から出ていってしまう。

 結婚に対し、肯定も否定もしなかった。

 悲観的に考えるなら、断り方が分からなかったので逃げた、とも取れる。しかしレベッカは感情が希薄であり、故に物事をハッキリと告げる。断るつもりならズバッと、こちらが再起不能になるぐらいハッキリと述べるだろう。

 それを言わなかった、という事は……

「……~~~っ!」

 ベッドの上でじたばたと、蓮司は悶える。

 デボラを倒した後、どんな日々が待っているかは分からない。思い描く未来予想図の通りになる保証は何処にもない。

 だけど、悪い事ばかりではなさそうだ。

「……絶対、終わらせる」

 強い決意を胸に刻み込む蓮司。

 憎しみだけでなく、明日への希望を掴むため、デボラを打ち倒すのだと心に誓うのだった。

 

 

 

 蓮司が『一式』の正規乗組員として採用されてから一月が経った。

 季節は夏真っ盛りである八月の終わり頃。しかし今年の夏も、気温は非常に低い。中国の首都北京では、十年前の平均最高気温は三十度前後だったが……今日は最高気温でも二十度を上回らない予報だ。デボラによる寒冷化は着実に世界を蝕んでおり、北京の町には長袖を着た人々の姿が目立つ有り様である。

 自然環境、そして農業的には大問題な環境変化。しかし『軍人』の健康を考えると非常に好適な気温だった。基礎体力作りとして走り込みをしても熱中症の心配がなく、長時間のトレーニングを行える。集中力も維持しやすく、非常に効率的な訓練が行えた。

 『一式』の乗組員である蓮司もまた、デボラによる寒冷化の『恩恵』を受けた。二ヶ月という短い期間で、かなり成長出来たと蓮司は手応えを感じている。

 無論デボラは恐るべき生命体だ。一人の人間が二月で遂げた成長など、奴にとってはなんの差異も見出せないだろう。しかし『一式』の乗組員は正規・補欠合わせて五百人。個々の成長は微々たるものでも、合算すればそれは大きな成長となる。

 そしてその成長を活かすための『武器』が、ついに完成した。

「……コイツが、『一式』か」

 蓮司は自分の頭上を見上げながら、独りごちた。

 目の前に佇む、全長四百メートルに迫る巨体。

 形状は、デボラと瓜二つだった『四型』よりもやや幅広になった。銀色の装甲が煌めき、赤いライトが所々で明滅している。腕部が『四型』よりも小型化しているようだが、動きを良くするための改良だろうか。内部は外見よりも更に大きく変わり、特に動力源である核融合炉は二基に増設。核融合炉そのものの性能が向上し、八千万キロワットという莫大なエネルギー量を生み出すようになっているそうだ。

 『四型』から得られた戦闘データを元に改良されたであろう姿。『四型』での戦いは惨敗に終わり、失われた命は決して少なくなかった。『一式』には、数多の命が費やされたといっても過言ではない。

 その命達に報いる術があるとすれば、この『一式』を用いてデボラを打ち倒す事だけだろう。

「やぁ、蓮司くん。『一式』の見学かい?」

 眺めていた蓮司は、背後から声を掛けられた。振り返ると、そこには正しく『一式』の開発者……霧島セロンが居た。手を振りながら、彼は蓮司の隣までやってくる。

「試験運用は十時からだけど、準備は良いかい?」

「はい。心身共に万全です」

「それは何より……念のために尋ねるけど、試験運用という事は何をすべきか、分かっているよね?」

 セロンは蓮司の目を見つめながら問う。ここで不正解を出せば、セロンは容赦なく蓮司を正規乗組員、いや、補欠からも外す……そんな気持ちがひしひしと感じられた。

 幸いにして、それはすぐに答えられる問いだった。

「はい。デボラと戦闘し、勝つ事です」

 だから蓮司は迷わずに答える。

 恐らく、デボラは熱を感知している。

 それは熱を餌とするが故の生態か、それとも別の目的があっての事か……理由はどうあれ、そのような生理的機能を有しているのは間違いないと推察された。『四型』は動力源として核融合炉を積んでおり、その膨大な熱量がデボラを引き寄せたのだと。

 ならば『四型』を遙かに超える巨大核融合炉を搭載した『一式』の稼働を、デボラが察知出来ぬ筈がない。試験運用を行えば、デボラは必ずやってくる筈だ。

 当然デボラは『一式』を破壊しようとするだろう。『四型』を葬った時のように。

「分かっているなら良いよ。君達の働きに期待している」

 セロンはそう言い残すと、この場を後にした。何しに来たのか、という疑問はあるが……天才の考える事だ。凡人である自分には分からないと蓮司は考える事を放棄する。

 それに、そんな事に頭を使う余裕はない。

 シミュレーションによる操作訓練は何度も行った。『四型』の戦闘データを元に、『四型』より遙かに実戦に則した内容のシミュレーションだ。しかしどれだけ述べたところで、『一式』そのものを動かした事がない事実は揺らがない。

 自分達が積み重ねた経験や知識が本当に正しいのか、致命的な勘違いをしていないか……それを確かめられるのは、実戦だけ。

 もしかすると、またデボラに負けるかも知れない。

 デボラによる寒冷化は留まる事を知らない。此度の『一式』開発も、中国の巨大資本とマンパワーでようやく成し遂げた。もしも敗北し、デボラが海へと帰らずに中国を蹂躙すれば……今度こそ、人類は立ち直れないだろう。

 三度目はない。全ての責任が、自分達にのし掛かる。

 負けられない。

 負ける訳にはいかない。

 だけど――――

「レンジ、どうしたの?」

 蓮司が我に返った時、正面にレベッカの顔が迫っていた。可愛らしいその顔にドキリと心臓が跳ね、蓮司は後退りしてしまう。

「あ、ああ。いや、なんでもないよ。ちょっと、緊張していただけだから」

「……そう」

 咄嗟に蓮司が誤魔化すと、レベッカも少し後ろに下がる。

 ……何故だろうか、その顔が少し不機嫌そうに蓮司には見えた。眉は下がっていないし、唇も曲がっていないが、そんな気がする。

 違和感から蓮司がレベッカの顔を見ていると、不意にレベッカは蓮司の手を握り締めた。いきなりの『スキンシップ』に、蓮司はそれこそ心臓が破れそうなぐらい胸が高鳴り、顔が赤くなる。頭の中も沸騰しそうなぐらい熱くなってきた。

「……大丈夫。きっと勝てるから」

 だけど、レベッカの透き通った声は頭の中によく響く。

 蓮司が呆けていると、レベッカは手を離した。「頑張ろうね」と言い、彼女は蓮司から離れていく。

 蓮司はしばしレベッカの背中を目で追い……その場にしゃがみ込む。

 もう、頭の中に今まであったプレッシャーは欠片たりとも残っていない。

 自分はなんと単純なのだろうか。嫌悪にも似た感情が湧いてくる。でも、そんな感情はすぐに吹き飛ばされ、跡形もなくなった。

 人間の行動なんて単純で良いのだ。世界の平和? 後がない? 人類の存続? そんな大きくて面倒な事を背負う必要はない。

 死にたくない。

 好きな子の笑顔が見たい。

 頑張る理由なんて、それだけで良いのだ。

「……うしっ!」

 己に活を入れ、蓮司は立ち上がるや『一式』目指して走り出す。

 デボラを倒し、生き残り、

 大好きなあの子と、これからも生きていくために――――




着実にフラグが積み重なってますねぇ。
なんのフラグかはお察し。


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霧島セロンの勝負

 緊張などした事がない、と言えば嘘になる。

 セロンとて人の子なのだ。初めての実証実験を行う時は、それなりに緊張する。しかしながら天才である彼は、少し考えれば『世界』の事を大体理解出来てしまう。「これをああすればこうなる」というのがしっかりとイメージ出来るのだ。だから緊張はするが、失敗したらどうしようという不安までは抱いた事がない。失敗する筈がないと、論理的に分かるのだから。

 つまりは、セロンにとって産まれて初めての経験だった。

 自分の作り上げたものが、負けたらどうしようと思う感覚は。

「……忌々しい」

 ぽつりと、セロンは独りごちる。

 セロンは今、研究所のとある一室に居た。とても広い一室で、何十台ものパソコンと、何台もの巨大な機械が設置されている。部屋の奥の壁にはとびきり大きな、横十メートル縦四メートルはあろうかというモニターも設置されていた。モニターには複数の映像が分割して表示され、様々な……例えば外の様子や海の画像など……景色を写している。

 無論部屋には機械だけではなく人も大勢居て、作業服姿の者や白衣姿の者、更には迷彩服姿の者が忙しなく行き来していた。会話も頻繁に交わされ、ざわざわとした喧騒が部屋を満たしている。

 彼等は『一式』起動のための作業、そして日本海や太平洋沖の監視を行っている人員だ。この部屋は彼等が作業を行い、その結果を『一式』へと送信可能な部屋……所謂司令室である。

 彼等の誰もが表情を硬くし、苛立ちを見せている。当然だろう。彼等の誰もが『一式』の起動がデボラを引き寄せる事を知っているのだ。加えてデボラが、試作機であった『四型』を一撃で粉砕している事も知っている。

 一部機能が上手く動かなければどうなるか、画面に映ったデボラをうっかり見落として奇襲を受けたらどうなるか、そもそも『一式』はデボラに勝てるのか、負けたなら人類は――――

 彼等の不安は、セロンにも理解出来た。セロンもまた同じ不安を抱いていたから。そして凡夫共と同じ気持ちを抱いているという事実が、セロンをますます苛立たせる。

「セロン、調子はどうだい?」

 その苛立ちから爪を噛んでいたセロンに、正面から声を掛ける者が居た。

 ワルドだ。凛々しい顔に爽やかな笑みを浮かべており、緊張とはまるで無縁なように見える。

 セロンは苛立ちを隠さない鼻息を吐き、ワルドに鋭い眼差しを向けた。

「最悪だよ。人生で今より不快な想いをした事はない」

「成程、天才である君でもデボラと本格的に戦うとなれば、幾らか緊張もするのか。人間らしい一面が見られて、私としては非常に面白い」

「ふん。君は相変わらず能天気だな。なんの心配もないのか?」

「ある訳がない」

 セロンの問いに、ワルドはなんの迷いもなく答える。眉一つ動かさないその笑みは、酷く人間味が欠けているようにセロンには見えた。

「我々が負けようと、勝とうと、私としてはどちらでも構わないからね。現時点での計算では、『一式』が勝てる可能性は七十四パーセントと出ている。実際に戦い、そして勝ったならば、我々の計算が正しかったという裏付けになるだろう。しかしもしもデボラが逆転勝利を収めたなら、それも易々と成し遂げた時には……新たな形態的機能を見せてくれるかも知れない。実にワクワクする話だとは思わないかね?」

「……前々から思っていたけど、君、割とマッドな考えしてるよね」

「研究者など程度の差はあれども、この考えの持ち主だと思うがね。むしろ持たない者は『凡夫』の域を出ない。そうだろう?」

 ワルドからの問いに、セロンは口を噤む。彼の意見に、少なからず同意してしまったがために。

 セロンもまた科学者の一人なのだ。知識の探求に喜びを見出さない訳ではない。敗北は求めていないが、それが未知への扉だと思えば……ほんの少し、気が楽になったようにセロンは感じた。

「……ふん。ボクの事を凡夫呼ばわりするなんて、君じゃなかったら降格処分しているところだよ」

「そんなつもりもないのだがね……おっと、そろそろ始まるようだ。私も自席に戻ろう。では、共に頑張ろうか」

 ワルドはそう言うと、そそくさと自席に戻っていった。励ましに来たのか、茶化しに来たのか、ただの気紛れか。どれもあり得そうだと、セロンは笑う。

「間もなく『一式』の起動時間となります!」

 その笑みは、職員の一人が告げた言葉により強張ったものへと変わった。

 セロンは顔を上げ、モニターに視線を向ける。モニター画面に表示されたのは現在時刻と……巨大な格納庫。そしてそこに佇む『一式』の姿だ。

「十、九、八、七」

 職員の一人が、正確にカウントを進めていく。場に緊張が広がり、ゴクリと、息を飲む音が聞こえてくる。

 ここでセロンが一言中断を宣言すれば、恐らく止められるだろう。しかしそれをする合理的理由はない。だからセロンは黙する。

 セロンが口を閉ざせば、最早誰にもカウントは止められない。

「三、二、一、〇!」

 カウントがゼロになった、瞬間、作業員と研究者が一斉に動く。

 『一式』に電力供給開始。一千万キロワット相当の電力を投じると、『一式』内部にて強力な磁場が形成される。更には加熱が始まり、内部の燃料をプラズマ化。そのプラズマを磁場によって閉じ込め、拡散していくのを防ぐ。

 冷める事を許されない原子達は、やがて互いに反発する力を超えて融合。新たな一つの原子へと変化し、その際に余剰質量がエネルギーへと転化していく。このエネルギーを用いて新たなエネルギー生産と、活動に必要な電力を確保する。

 これが核融合炉。一度動けば莫大なエネルギーを生み出す機関に火が灯ったのだ。しかし人類の夜明けを意味するこの火に、無邪気な喜びを示す科学者はこの場には居ない。

 核融合炉の熱は、デボラを招き寄せるのだ。もしも核融合炉は動いても、他の機関に異常が起きていれば……

「エネルギー生産既定値に到達! 『一式』進行開始!」

 あらかじめ予定されていたスケジュール通り、『一式』を前へと動かすための指示が飛ばされる。

 司令室から飛ばされた指示は、『一式』に搭乗している機長が受け取り、その機長から各部担当に指示が送られる。だから指示が反映されるまで、僅かながらタイムラグがあった。

 命令が出されて十数秒後。普段ならどうという事もない時間にセロンが僅かな焦れったさを覚えた直後、モニターに映る『一式』の足が動いた。

 『一式』は無事歩き出したのだ。

「『一式』、機体に異常はないか」

 司令室から確認の指示が飛ばされる。飛ばしたのはこの場に居る軍人達の中で、最も地位の高い男だ。数秒後、返ってきた答えは【異常なし】の一言のみ。

「外部モニタリングにも異常はありません」

「異音、異臭などの反応なし」

「エンジン出力安定。データリンク問題なし」

 司令室にてパソコンを叩いていた研究者や軍人からも、正常を知らせる返答が得られる。間違いなく『一式』は無事に稼働していると分かり、現場にようやく安堵が広がった。

 しかし喜んでばかりもいられない。

「デボラの活動は確認出来たかい?」

「いえ、まだです。現在索敵範囲を広げています」

 セロンが尋ねると、衛星画像を監視していた軍人は現状について正確に報告する。

 かつて、アメリカはデボラに発信器を埋め込んだ。その発信器は現在では破損し、もう使えないが……発信器という発想自体は現在も有効な代物だ。あまりに小さく、それでいて無害だからか、デボラは発信器を意図的に取り外そうとはしないからである。そのため各国がデボラに発信器を打ち込み、その動向を辿っていた。中国でも独自に発信器を打ち込み、その行動の監視は行っている。

 だが、一度打ち込めばもう安心という訳にもいかない。

 まず、破損の可能性がある。上陸したデボラには、市民の避難を行うため苛烈な攻撃が行われるのが常だ。発信器といえどもただの機械であり、爆風の直撃を受ければ簡単に壊れる。デボラが身体を地面や高層ビルなどに擦り付ければ、やはりそれでも壊れてしまう。防御反応である熱放射を行えば、金属で出来た機械など溶けて完全にお終いだ。

 また、何かの拍子に取れてしまう事も多い。何しろデボラは時速数百キロで泳ぎ、走り、暴れるのだ。その滅茶苦茶なパワーを受ければ、どれだけ強固な接着方式を採ろうとも、何時までも着いていてくれるものではない。デボラが一ヶ所に留まっていると思ったら、外れた発信器が延々と信号を発していただけ……そんな誤認から壊滅した都市もあるという。

 最後に、それなりの頻度でデボラは発信器が届かない場所に行ってしまう。海底数千メートルまで潜られると、小さな発信器では電波の出力が足りず、信号が途絶えてしまうのだ。反応が現れたのが上陸一時間前の地点でした、なんて事例も報告されている。

 発信器は有効だ。けれども過信すれば痛い目に遭う。そしてデボラが今何処に居るのか、少なくとも中国は把握していない。

 何処に現れるのか、現れた事を察知出来るのか……司令室に緊迫が広がる。

「発信器に反応あり! 太平洋沖にデボラが浮上しました!」

 その緊迫を破る、若い軍人の声。

 どうやらデボラは海中深くに潜んでいたらしい。上陸間際まで居場所が分からないという、最悪の事態は避けられた格好だ。

 しかし最大の問題は、デボラが何時上陸するか、だ。

「推定到着時間は?」

「……四時間八分後です!」

「お昼ご飯を食べる時間はあると。優しい事だね全く」

 セロンのジョークに、笑うものは居ない。笑える筈がない。

 四時間八分後。

 そこで、人類の命運が決まろうとしているのだから――――




ご飯タイムを挟んでくれる、優しい怪獣。
それがデボラだ!(なお地球には優しくない模様)


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李 正の応援

「デボラ、都市部に侵入。間もなく『一式』の交戦エリアに入ります!」

 役人の一人からの報告に、正はごくりと息を飲む。四時間以上前から伝え聞いていた、その時が来たのだと、今になって強く感じた。

 正は今、人民大会堂の一室に居る。

 この部屋には正以外にも大勢の役人、そして十数人の共産党幹部が居た。全員が大きな長机に着き、壁にあるモニターを見つめる。目的は勿論、デボラと『一式』の戦いを見守るためだ。

 部屋に置かれたモニターは三つ。一つは『一式』を近くで捉えたもの。こちらには町中に佇む『一式』が映っており、その堂々たる姿を正に見せている。足下にある家々はまるでミニチュアのようで、『一式』の巨大さを物語っていた。

 もう一つのモニターは、遠くから『一式』を映していた。巨大な一式がオモチャのように小さく、周辺の様子がよく見える。夏晴れの空が広がり、住人が避難しているため車からの排ガスも殆どない。とてもクリアな映像だった。

 最後の一つに映るのは――――デボラ。

 海を渡り、陸へと上がり……大地を揺らしながら疾走するデボラが映し出されていた。役人曰く、航空機からの映像らしい。

 デボラ。

 その圧倒的力により人類を苦しめ、地球環境を激変させた元凶。

 モニター越しからも伝わる存在感に、正は思わず仰け反る。本当にデボラがこの国に来たのだと、モニターに映る海沿いの町並みが伝えていた。モニターは役人と共産党幹部達も見ているが、彼等もデボラの『映像』に慄いている様子だ。

 やがてデボラは、遠くから『一式』を映しているモニターに入り込む。

 即ち、交戦圏内に入ったという事だった。

 役人達からの話によれば、デボラ達は此処から八百キロほど離れた場所にいるらしい。それは肉弾戦を眺める位置という意味では、デボラの大きさを考えても十分過ぎる距離である。しかし放射大気圧の射程は優に何十キロもあるのだ。立ち位置や撃ち方次第では、更に遠くまで届く可能性がある。このぐらい遠くでなければ安全とはいえない。

 いや、もしも『一式』が負け、デボラがこちらに駆け寄ってくれば……八百キロという距離すら、安全とは言えない。勝率は七割超えと聞いているが、四回に一回は負ける計算ではないか。命を賭けるには分が悪過ぎる。

 怖い。今すぐ逃げ出して、安全な……ヨーロッパとかに避難したい。それが正の正直な想いだ。実際党幹部の中には共産党員を辞任し、中国から逃げ出した者が大勢居る。家族については大半の者は逃がし、正自身も妻と息子と孫はヨーロッパに向かわせた。

 けれども正自身は首席だった。トップが逃げる訳にはいかないし、周りが逃げさせてくれない。彼の周りに立つ党幹部や役人は、正を守る護衛であるのと同時に、正を見張る者達でもあった。

 正の命運は、正が納める国が作り上げた兵器――――『一式』に委ねられたのだ。

「李首席、作戦開始が司令部より告げられました」

 室内の役人の一人がそう報告する。

 まるでそれをゴングとするかのように、デボラと『一式』は同時に動き出した。

 速いのはデボラの方だった。『一式』がゆっくりと加速していくのに対し、デボラはまるで跳ぶように一気にスピードを上げる。『一式』の半分以下とはいえ、デボラの推定重量は百五十万トン。その重さを瞬時に加速させる馬力が如何ほどのものか、正には想像も付かない。

 家々を木の葉か小石のように吹き飛ばしながら接近するデボラに『一式』は反撃しようとしてかハサミを振り上げるが、デボラの方が速い。デボラは頭から『一式』に突っ込み、体当たりをお見舞いした。『一式』の巨体が浮かび、よろける。

 だが、『一式』は転ばない。

 どうにか踏ん張るや、今度こそハサミを振り上げ、デボラの頭部を殴り付けた! 数万トンの質量を有する一撃。旧式である『四型』時点ではろくなダメージにもならなかった打撃だ。

 果たして今度は――――デボラを、大きくよろめかせる事に成功した。

「お、おお……!」

「効いてるぞ!」

 役員達や党幹部達が歓声を上げ、正も握り拳を思わず作る。

 怯んだデボラの隙を突き、『一式』は次の手を用意する。頭部付近の装甲が開き、中から銃口のような……とはいえ長さ二十メートルはある代物なのだが……ものが四本ほど生えてきた。

 そしてその銃口から、弾丸が放たれる。

 弾丸はデボラの甲殻に命中するや、爆発を起こした。けれどもそれは炎ではなく、砕けた自らが舞い上がらせた粉塵によるもの。即ちこれは物理的打撃による攻撃である。

 科学者曰く、あの巨大銃口はレールガンと呼ばれる兵器らしい。音速を超える速さで弾を撃ち込む……原理にすれば極めて単純な、故に火薬などを使わない、デボラにとって最も有効な兵器の一つとの事だ。

 それが一門秒間一発もの速さで、四つの砲門から放たれる!

【ギ、ギギィ……!】

 猛攻を受け、デボラは呻いた。カタログスペックでは秒速二千五百メートルの速さで、重量百キロの合金弾を撃てるという。人間ならば余波だけで粉微塵に吹き飛ぶだろう攻撃は、それでもデボラ相手には威力が足りないのか苦しませるには至らない。しかしそれでも着実なダメージは与えているらしい。でなければ、後退りなどする筈もない。

 そこに追い打ちを掛けるように、今度は『一式』の背中が開く。

 放たれるのは無数のミサイル。けれども一般的なものではない。

 かつてセロンが開発し、デボラ相手に効果を上げたもの……大型装甲貫通弾、それの改良型だ。一度に十発と放たれたそれは、余さずデボラを直撃。デボラは苦悶の鳴き声を上げながら、大きくその身を捩らせた。

【ギギイイイイッ!】

 そして怒りを露わとするかのように、デボラは頭部前方より放射大気圧を放つ。

 人類側の兵器を幾度となく吹き飛ばし、数多の都市を更地に変えた攻撃だ。モニターからその攻撃を目の当たりにした党幹部達の顔に、恐怖と絶望が浮かぶ。

 されど放射大気圧は、『一式』が最も警戒していた攻撃だった。

 放射大気圧は、超高温に加熱された大気があたかもビームのように飛んでくる攻撃だ。ならば大気そのものをぶつければ、放射大気圧の威力を減衰させられる。

 戦車の複合装甲技術を応用し、放射大気圧の直撃を受けた『一式』の装甲からは空気が噴出する仕組みとなっていた。それも放射大気圧によって装甲が凹む勢い(・・・・)を利用し、現在の人類ではどんな機械でも出せないような風速で、である。これにより放射大気圧を減衰させる事が可能であり、装甲で受け止められるようになる。

 今まで机上の空論でしかない装甲原理だったが、放射大気圧が直撃し、殆ど損傷が見られない『一式』がその正しさを証明した。人民大会堂の一室に笑顔が広がる。正も満面の笑みが浮かんだ。

 自慢の攻撃が防がれたデボラは、されど驚き怯む事もなく、今度は一気に接近してきた。遠距離戦は無意味と判断したのか。『一式』が放つレールガンとミサイルをものともせず、勇猛果敢に突進する。

 生憎、人間はデボラの土俵に素直に乗るつもりはない。

 突撃するデボラに、側面から迫る無数のミサイルが直撃した! 突然の痛みに驚いたのか、デボラは大きく身を仰け反らせた。

 これは人類の存亡を賭けた戦いだ。一対一で戦うつもりなど毛頭ない。

 交戦エリアと設定された地域の外に、ミサイル車両部隊が展開していた。彼等は『一式』の援護が目的。遠距離より、デボラに大型装甲貫通弾による攻撃が行う。

 更には高高度に展開した航空機が、地中貫通弾を投下。

 デボラの背面に、強力な『打撃』が突き刺さる!

【ギッ!? ギギィイイイイッ!】

 人類側の連係攻撃に怒りを露わにし、デボラは空を見上げた。哀れ航空機は放射大気圧で撃ち落とされる……のが今までの人類。だが此度の人類側にとってこれはチャンス。

 正面に陣取る『一式』が、好きなように攻撃出来るのだから。

 『一式』はこの隙を突きデボラに接近。ハサミのパンチをお見舞いする! 一発だけではない。二発、三発と絶え間なく喰らわせてやる。デボラにとっては予期せぬ連携だったのか、守りを固められずに殴られ続けた。

 そしてついにデボラの甲殻の一部が砕け散った。

 砕けた甲殻の中身である、柔らかな肉がモニター越しに居る正達の目にも映る。血などは出てないので深手とはいえないが……明らかな怪我だ。そして再生は、少なくとも目に見える速さでは起きていない。

 初めて、人類がデボラに有効な傷を与えた瞬間だった。

 歓声に湧く人類側に対し、デボラは怒りを覚えたに違いない。激怒するかの如くデボラは咆哮を上げ、ぐるんと横に回転。反撃とばかりに尾による攻撃を仕掛けてくる。旧式である『四型』を一撃で粉砕した、正しく必殺技。胸部にこれを受けた『一式』は大きく吹き飛ばされ、こちらも装甲を砕かれた。

 傷の程度は、デボラよりも『一式』の方が大きくなった。十メートルはあろうかという大穴が開き、中身が露出している。放射大気圧は装甲の機能を利用して防いでいるため、この穴に向けて撃たれれば致命傷となるだろう。

 ならば撃たれなければ良い。

 そう、この状況もまた人類にとっては想定内。本来援護の部隊はこの時のために展開しているのだ。

 側面から撃たれる大型装甲貫通弾。『一式』に打撃を与えたデボラに、小さいながらもダメージを伝える。怒り狂ったデボラは放射大気圧でこれを吹き飛ばそうとするが、『一式』がそれを許さない。デボラ由来の技術により十分なエネルギーを貯め込んだ『一式』は、デボラに超高速で体当たり! 二倍以上の体重差で、デボラを突き飛ばす!

 デボラは大きく後退し、放射大気圧を『一式』目掛け撃ってきた。装甲の大穴を狙っており、黙って受ければここで『一式』は破壊される。

 だが、その攻撃は読めるもの。

 如何に知性があるとはいえ、所詮はただの哺乳類程度のものだ。人間に値する訳ではない。予測された攻撃を『一式』はハサミを構えて受け止め、これを無力化する。【ギギギィ……!】という歯ぎしりのようなデボラの鳴き声が響いた。

 『一式』は攻撃の手を緩めない。放射大気圧を防ぎきると、今度は構えていたハサミを振るい、デボラへと打ち付ける! デボラが大きく後退すれば、『一式』に搭載されている数々の砲台とミサイルが火を噴き、展開している地上部隊からも苛烈な支援砲火が行われた。航空支援も続き、デボラに傷を与える。

 デボラは悲鳴染みた声を上げ、更に後退る。

 形勢は、人類側有利に傾いていた。

「……これは、もしかしたら」

「いや、もしかせずとも、これなら……!」

 デボラを押していく『一式』の姿に、モニターを見ていた党幹部達から勝利を確信した声が漏れ出る。

 正もまた、これならばいけると考えた。無論まだ勝負の真っ最中である。『一式』には大きな傷があり、ここに一撃もらえば逆転もあり得る。どちらに勝利の女神が微笑むかは分からない。

 だが、人類の勝利は確定だ。

 負けたなら、『一式』以上の性能を持った『二式』を作れば良い。或いは『一式』を量産するのも手だ。確かに勝利したデボラは中国を滅茶苦茶にし、生産力は衰えるが……そうなれば世界に支援を求めれば良い。『一式』の有効性さえ示せれば、世界も『一式』に縋る事となるのだから。

 デボラは強い。間違いなく、この地球で最強の生命体だ。

 だが、人類には知恵があった。大勢の力を集め、敵を分析し、立ち向かうための知恵が。デボラにも多少の頭はあるようだが、所詮はケダモノの域。人間に比類するものではない。

 どれだけ強かろうとも、どれほど非常識でも……叡智の力を用いれば、人は困難を乗り越えられる。

 正は、そしてこの場の誰もが、思った。

 モニターの映像は、彼等の考えを裏付けた。大きく怯んだデボラの前で『一式』がぐるんと横回転したのである。

 それは『四型』を屠ったデボラの一撃と同じもの。

 デボラ最大の物理攻撃を、倍以上ある質量によって真似した事で、デボラの身体は大きく吹き飛ばされた。デボラの体長を考えれば一千メートル近く後退し、デボラはそこで蹲る。

 デボラが膝を付いた。全盛期の日本とアメリカによる大攻勢以来、初めての姿だ。

 当時と違うのは、ここでデボラが発熱し、大気による防御と回復力強化を図ったところで、『一式』には無意味という事だ。動かなくなったデボラを存分に殴るのみ。

 勝敗は、ここに決した。

 ――――今の人類の『叡智』から考えれば。

 だが、

「あ、あれ?」

「どうしましたか?」

「いや、なんか……」

 ざわざわと、室内に喧騒が広がる。正もごくりと息を飲み、モニターを注視する。

 このまま行けば、『一式』はデボラを倒せる。これまでに得られた知識がそれを物語っていた。そう、このまま、今まで通りに進めば。

 正は知らない。

 この場に居る誰も知らない。

 地球上の誰もが知らない。

 デボラの甲殻が、開き始める(・・・・・)なんて状況は――――




本作、三部作なので(最大級のネタバレ)


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山下蓮司の初恋

 デボラの甲殻が開いている。

 そうとしか言えない光景に、『一式』の砲台の操縦席に着いていた蓮司は呆気に取られた。

 その変化は突然起きた。一千メートルは離れた位置で蹲っているデボラの胸部甲殻の一部が、まるで捲れるかのように浮かび上がったのだ。最初はこれまでの戦いによる怪我かと思ったが、しかし開かれた甲殻は昆虫の『翅』のように整った形をしており、傷口のようには見えない。

 甲殻は蓮司の印象に応えるように、翅のように二枚に別れて広げられた。翼の生えた甲殻類……イセエビやザリガニに似ていたデボラの姿が、一瞬にして『怪獣』のそれへと変貌する。

 この変形が何を意味するのか、蓮司には分からない。ちらりと後ろを振り返りレベッカの姿を見たが、レベッカもまた僅かながら動揺しているように見えた。感情が薄い彼女ですら困惑しているのだ。他の乗組員については言わずもがなである。

 だが、黙ってそれを眺め続ける事ほど愚かな行為はないだろう。

【全砲門、攻撃を開始せよ】

 放送により伝えられる攻撃指示。我に返った蓮司はすぐにレールガンを起動させようとした

 が、その手が一瞬止まる。

 デボラが赤く輝いていた。

 輝き自体は、最早人類にとって見慣れたものだ。デボラが己の身を守る時と同じ輝きである。しかし今度の輝きは、熱波を撒き散らしてなどいない。

 それどころか、デボラの周りが凍り付いている。

 デボラが赤くなるほど、周りの家々が白く染まっていく。靄のようなものが漂い始め、デボラの姿を覆い隠した。

 気温が急激に低下している。蓮司はそう思った。

 デボラには熱を吸収する性質がある。それにより地球環境は激変した。今のデボラも同じく大気中の熱を吸い取っているのだろうが……あまりにも急激だ。靄が外の空気との寒暖差で起きたとすれば、瞬く間にデボラ周辺の気温が十数度以上下がった事を意味する。いや、周りの家々が凍結している事を思えば、二十数度は下がってるかも知れない。

 デボラは何かをしようとしている。

 あまりにも明白な事柄に、蓮司含めた誰もが慌てて動き出した。呆けて止まっていたのは精々数秒。数秒の間に出来た事など、砲の照準をデボラに合わせるぐらいだろう。

 だからその結末は、例え呆けていなくとも変わらなかった。

 デボラの全身の発光が赤から白へと変わった、その瞬間に何もかもが終わったのだから。

 ――――デボラの開かれた『翅』の先端から、二本の光が放たれる。

 光は雪のように真っ白で、けれども周りの大気を吹き飛ばすほどに熱くなっていた。光速で飛来するエネルギーに、『一式』は、蓮司はなんの反応も取れない。

 二本の光はそれぞれ『一式』を撃ち抜いた。

 文字通り、貫通したのである。三百五十万トンの機体を支え、百五十万トンの物体とのぶつかり合いに耐える超合金が、なんらかの抵抗を見せる事なく。

 そして次の瞬間『一式』は弾けた。貫かれた装甲周りが赤黒い液体へと変化し、激しく四方に飛び散る。その衝撃により更に外側の、無事だった装甲までもが砕け、バラバラに吹き飛ばされる。時間にして一秒も掛かっていない。瞬きする暇もなく、何もかもが粉々になっていく。

 『一式』の上半身は粉砕された。溶解した金属と、粉微塵に砕けた破片へと変わり、瞬きする間もなく原形を失う。上半身には前方腕部の制御や、砲台の整備を担う人材が居たが……彼等がどうなったのかなど、語るまでもない。

 その意味では、蓮司は幸運と言えた。

 激しい揺れが操縦室全体を襲う。立つどころか座り続ける事すら難しく、蓮司は座席から放り出された。身体が金属の床に叩き付けられ、酷く痛い。けれども先程まで自分が座っていた場所に、五メートルはあろうかという金属の板が突き刺さるのに比べれば、遙かにマシだった。

 揺れそのものはすぐに収まった。

 蓮司は顔を上げ、辺りを見渡した。自分がずっと居た筈の操縦室は、すっかり様変わりしている。巨大な金属板や柱が床や人を貫き、照明は危険を知らせる赤ランプが薄らと光るだけ。『一式』を動かすためのコンソールパネルの画面は黒くなり、あちこちから火花が散っていた。

 そして『一式』正面を映し出す巨大モニターの姿は何処にもない。

 代わりに、彼方に広がる真っ白で美しい雪景色と、だらだらと天井付近から流れ落ちる液化した金属……その中心に佇むデボラの姿が見えた。

 『一式』の上半身が消し飛び、機体中央に位置する操縦室の壁面の一部までもが破壊され、外の景色が丸見えとなった――――順序立てて考えればすぐに出てくる答えに、蓮司は中々辿り着けない。自分の置かれている状況が理解出来ず、目の前の雪景色と同じように頭の中が真っ白になる。

 ただ一つ分かる事があるならば。

 ……『一式』をじっと見つめているデボラの怒りは、収まる気配すらないという事だ。

「ひっ!? ひぃ!」

「た、たす……!」

 蓮司と同じく難を逃れた乗組員達が、続々と逃げ始める。彼等は極めて合理的だ。『一式』は破壊され、最早デボラに立ち向かう事すら出来ない。だけど命を繋げば次があるかも知れない。なら、逃げるのが正解だ。

 蓮司は逃げなかった。

 崩れた金属の瓦礫の下敷きになっている、レベッカの姿を見付けたのだから。

「レベッカ!」

 少女の名を呼びながら、蓮司は瓦礫の方へと駆け寄る。

 蓮司が見付けた時、レベッカは巨大な金属の下でうつ伏せに倒れ、上半身だけが外に出ている状態だった。蓮司が声を掛けると、レベッカは上体を起こし、真っ直ぐ蓮司の事を見据えてくる。瞳はしっかりと開かれ、起こした身体も揺れたり震えたりはしていない。

 どうやら死んではいないし、死にそうという状態でもないらしい。

 その事には蓮司も安堵するのだが、されどレベッカは自力で這い出そうともしない。蓮司がすぐ傍に来てからも、レベッカはその場から移動しようとはしなかった。

「レベッカ! 大丈夫か!?」

「……一応。身体の内側に痛みはないから、骨折とか臓器の損傷はないと思う。だけど足が挟まって動けない」

 レベッカは淡々と答える。口調はやや拙くなっているものの冷静で、自己診断の通り重篤な怪我はしていないのだと蓮司も納得出来た。

 同時に、足が挟まっている、という言葉も嘘ではないのだと理解する。

 蓮司は身を伏せ、レベッカの下半身を下敷きにしている瓦礫の隙間を見る。よくよく見れば瓦礫はレベッカの身体には乗っておらず、強い圧迫はしていないのだと分かったが……足は、確かに瓦礫の隙間に入り込んでいた。

 恐らく瓦礫を退かさないと取り出せないだろうが、何分金属の塊だ。いくら訓練しているとはいえ女の子一人、足の力だけで動かせるものではない。

「待ってろ、今瓦礫を退かす!」

 蓮司は瓦礫を退かそうと隙間に手を入れ、持ち上げようとする……が、ビクともしない。何しろデボラと殴り合って戦うために開発された合金である。それなりのウエイトが必要だからと、重量はかなりあるのだ。とても一人では動かせない。

 誰か協力してくれる人は居ないか。気絶している人や、隅で蹲ってる人は……助けを求めようとして蓮司は辺りを見渡す。

 尤も、モニターのあった場所から見えるデボラが再び赤く輝き始めたと気付けば、その行為が如何に無駄かは察せられた。

 しばし呆然とデボラを眺めてから、蓮司は腰が抜けたようにへたり込む。後はもう、動こうともしない。デボラの輝きの意味は分かっているのに。

「……逃げないの?」

「いやぁ、ありゃ無理だよ。一人で全力疾走しても間に合わない。それに」

「それに?」

「好きな子を置いて逃げるぐらいなら、好きな子と一緒の時間を過ごす方が遙かに有意義だ」

 蓮司の答えに、レベッカは「成程」と呟き相槌を打つ。

 二人は口を閉ざし、デボラを見据える。一発目の発射を見たから分かる。あと十数秒もすれば二射目が放たれるだろう。

「……ここでクイズです。今、俺はどんな気持ちでしょうか」

 蓮司は、ぽつりと呟く。

 小さな呟きだったが、レベッカには聞こえていたらしい。顎に指を当て、考え込む素振りを見せる。

「……すごく、怖い?」

 やがてレベッカは淡々と答え、

「正解」

 蓮司はその答えに丸を付けた。

 するとレベッカは目をパチパチと瞬かせ――――ふにゃりと、笑った(・・・)

 天使のような微笑みだった。無意識に言葉に例えてその笑みを記憶しようとするが、心の中があっという間に塗り潰され、浮かぶ側から言語が消えてしまう。

「おんなじ気持ちだぁ……」

 そして柔らかそうな唇から紡がれた言葉は、もう、過去に掛けられた全ての声を忘れそうになるほどのものだった。

 蓮司は思った。

 仇は討てなかった。人の世を守る事も出来なかった。

 だけど見たかったものが見られた。感じたかったものを感じられた。

 なら多分、これは悪い人生ではなかったのだろう、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恋よりも熱い波動と、微笑みよりも眩い輝きが、二人を飲み込んだ。




愛も想いも希望も、
全て焼かれて灰になる。


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デボラの裁き

 デボラが放った二度目の熱光線は、『一式』を跡形もなく消し飛ばした。莫大な量の金属が液化し、辺りに飛び散り、世界を真っ赤に染め上げる。

 だが光は未だ消えず、そのまま数百キロ彼方まで伸びていく。その行く先にあるのは、『一式』を生み出すためフル稼働していた中国の首都・北京。『一式』が稼働するためのエネルギー生産と産業維持のため、今も多くの人々が暮らす都市部。

 光は、北京に到達した。

 光に触れたものは何もかも消えた。液化する事すら許されず、大気へと還元されたのだ。人さえも二酸化炭素と窒素と水蒸気へと変わり、後には跡形も残らない。光の通り道には幅十数メートルの『道』が作られ、その周りになってようやく紅蓮の液体が姿を現す。何万トンものコンクリートで作られたビル一棟一棟が、数万トンものマグマへと変貌していた。

 人工物のマグマはまるで津波のように流れ、何百メートルもの範囲に広がっていく。光と熱を奇跡的に生き延びた人々を、灼熱の液体が飲み込んだ。地下へと逃げた者は出入り口を塞がれ、二度と日の目を見る事を許されない。

 光線は焼き尽くす。逃げ惑う無辜の人々も、炉端のアリも……等しく全て。此処には二千万を超える人々が生きていた、その痕跡すらも許さぬかのように。

 『一式』を粉砕し、人の営みをも破壊したデボラ。されどデボラは未だその甲殻を開いたまま。熱を取り込み続け、周辺をより白く、より冷たく凍り突けていく。

 まだ、怒りは収まらない。

 そう言わんばかりに、デボラは展開した翅の先より三発目の熱光線を何処かへと放つ。放たれた光線は無事だった都市部を直撃し、恐怖に震えていた人々の心を肉体から解放させた。

 四発目、五発目、六発目……神が如く光は幾度となく大地を薙ぎ払い、世界を赤く染め上げる。何時までも、何処までも、デボラの破壊は広がっていく。死すらも超えた消滅が繰り広げられていく。

 世界最大の都市が、消える。神の怒りに触れて。

 あたかもそれを祝福するかのように。

 真夏の北京に、しんしんと雪が降り始めた。

 

 

 

 

 

 

 人は叡智の力により栄えてきた。

 

 世界の理を理解し、利用し、支配する事で、人は己の領地を拡大していった。自らに降り掛かる災厄を打ち破り、より安全で豊かな生活を得てきた。

 

 知識は武器であるとある者は語った。

 

 人間は考える葦だと言い、叡智の素晴らしさを述べた者もいる。

 

 学問から得た見識が人の立場を決めるのだと、勉学の重要性を説く者もいた。

 

 人々は誰もが人の叡智を信じた。それこそが未来を照らす光であると、これこそが世界を制する力なのだと。例え『神』が如く物の怪が現れようとも、自分達ならば乗り越えられると疑わなかった。

 

 故に人間は『剣』を作り上げた。『神』を模し、神以上の力を持つと『剣』を。この剣であれば神を貫き、叡智を有す人類こそが星を統べると疑わなかった。

 

 故に『神』は怒る。

 

 人が神を模倣し、崇め奉った偶像は完膚なきまでに破壊された。太陽に近付き過ぎたイカロスが、蝋の翼を溶かされ墜ちたように。

 

 最早叡智は未来を照らさず、極寒の地獄の訪ればかりを口ずさむばかり。結束を訴えたところで、壊れた偶像を作り直す事すら出来やしない。叡智にはそれが分かってしまう。

 

 ならば、叡智など必要なのか?

 

 自分達が偉大だと誤解させ、

 

 神の怒りを買い、

 

 不安を煽るばかりで役に立たない。

 

 そんなものを、どうして持たねばならない?

 

 叡智の威信は地に落ちた。人々は叡智に頼らない、否、叡智そのものを拒絶する。

 

 ある者は古来からの信仰に頼り。

 

 ある者は沸き上がる本能に縋り。

 

 ある者は流されるまま運命に身を委ねる。

 

 理性は世から消え、制するは感情のみ。世界から知は失われ、原初の世界へと回帰していく。

 

 『叡智の失墜』により、世の終わりは加速する。

 

 されどその世は人のもの。人の統治は終われども、世界は変わらず続いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生き延びた人々は十年後、『新世界』を目の当たりにするだろう。




抗わなければ起きなかった結末。
突き付けられる終わりの予想図。
叡智の価値は地に落ちて、第二章完結。

最終章は5/1より投稿開始予定。
いよいよ全てが明らかになります。


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2039年
及川蘭子の調査


「例のものは、あの建物の下にあるようです」

 一人の黒人男性が、遠くを指差した。

 男の名はアラン。細身で、優しい顔立ちをした青年だ。歳は二十五歳と自称している。

 そんな彼を『助手』として雇っている蘭子は、彼の指が示す先を見つめる。もうすぐ五十になる筈の身体は、まるで三十代の、熟れと若さを両立したような美貌を保っていた。とはいえ目や耳は流石に衰えており、昔なら簡単に見えたであろう距離のそれを、目を細めてじっくり凝視せねば分からなかった。

 アランが指差した先にあったのは、廃墟と化した住宅地の真ん中に建つ教会だった。宗教にはさして詳しくない蘭子であるが、見た目からして西洋風の代物だろうと推測する。

 遠目からだと少し分かり辛いが……どうやら教会はなんらかの攻撃を受けたようで、壁面などの崩落が確認出来た。柱は大きく欠けており、少し大きな地震が起きればそのまま崩れてしまいそうに見える。

 そうした傷跡はどれもあまり高くない、精々人の腕が届く程度の位置に出来ていた。空爆やロケットランチャーなどの兵器ではなく、人力により破壊が行われたものだと分かる。

 即ちこの教会は、大勢の一般人から襲撃を受けたのだ。

「随分思いっきりやられたわねぇ。偶々見付けただけなのに、同情するわ」

「いえ、実際には見付けてからもう何十年も経ってるそうです。教会の神父が、所謂原理主義者でして。聖書にこのような魔物を記した記述はない。だから『アレ』は悪魔の誘惑だって言って、上に教会をぶっ建てたそうです。悪魔を封じるために」

「前言撤回。万死に値するわ、その神父。いや、ほんとマジで取り返しの付かない事してくれちゃってるじゃない……」

 大きなため息を吐きながら、蘭子は項垂れた。

 蘭子はまだ、あの教会の下に眠るものの『実物』を見ていない。しかし送られた画像データと資料が正しければ……神父のした事が如何に愚かしいかが分かる。

 もしも神父が隠さず、壁画を公表していたなら、今の世界もほんの少しはマシになったかも知れないのに。

 とはいえ過ぎた事を気にしても仕方ない。万死に値する神父は、実際とある連中(・・・・・)が暴行を加えた結果、本当に死んだと聞く。死者に鞭を打つのは、蘭子の趣味ではないのだ。

「ま、今更批難しても無駄だし、気持ちを切り替えましょ。案内、お願いするわ」

「分かりました。こちらに来てください」

 先導するアランの後を追い、蘭子は目の前の教会に足を踏み入れる。

 中へと入れば、すぐに礼拝堂が蘭子達を出迎えた。しかしながら此処で神に祈るのは少々難しい。

 何しろ内部もまた、酷く破壊されていたからだ。椅子や壁が内側から破壊され、焦げ跡などもちらほら見られる。床には瓦礫やガラス……それと黒ずんで固まっているが、なんらかの『生物』の体液……などが散らばり、足の踏み場もない。

 尤も、足の踏み場云々は根性の問題だ。アランは瓦礫を踏み越え、蘭子も同じく瓦礫と体液の跡を踏んでいく。

 礼拝堂の奥まで進むと、そこには横倒しになった十字架が置かれていた。そして十字架の台座の側に、地下へと続く階段がある。階段の周りにはうっすらと残る四角い跡があり、長年台座によって隠されてきた事が窺い知れた。

 アランは懐から懐中電灯を取り出し、階段の奥を照らしながら下り始める。蘭子も自前の懐中電灯をズボンのポケットから取り出し、アランの後ろに続く。

 階段を下りた先には洞窟があった。幅も高さも人がやっと通れる程度。アランも蘭子も身を捩りながら、岩と岩の隙間を潜るように抜け、奥へと向かう。懐中電灯がないと明かりもないため、必然歩みはとても慎重なものとなった。

 歩き続けて、果たして何分経っただろうか。入口からそう遠く離れていない場所で、アランは立ち止まる。

「着きました。これが件の代物です」

 そういってアランは、懐中電灯で洞窟の壁を照らした。

 映し出されたのは、壁画だった。

 黒い壁に、茶色い線が描かれていた。蘭子は線に駆け寄り、間近でそれを観察する。どうやら染料を塗った訳ではなく、表面の岩を薄く削っただけの、極めて簡素な代物のようだ。

 線により描かれているものも、極めて簡易な『イラスト』だ。こう言うのも難だが芸術性はあまり感じられない。人間らしき絵は比較的分かり易いものの、他の動物らしき絵はかなり適当だ。シカなのか牛なのか、サイなのかゾウなのか、いまいちよく分からない。

 古代の壁画に対し、そこまで造詣が深い訳ではない蘭子だが……正直この『下手さ』は、技術が未発達だとか道具がないだとかではなく、描き手に絵心がないだけだと思えた。

 しかし蘭子は、だからといってこの絵を笑おうとは考えない。いや、むしろ下手だからこそ、この絵の描き手の気持ちに胸が痛んでくる。

 この絵を描いた誰かは、きっと絵が下手くそに違いない。下手くそだが、それでも描かねばならないと思ったのだ。

 後世に『アイツ』の存在を伝えるために。

「……これが、お送りしたデータの壁画です」

 アランはそう言うと、壁画の一部を懐中電灯で照らす。

 光に当てられ、浮かび上がるのは巨大な『怪物』の絵。

 それは途方もなく巨大な存在だった。周りに描かれたどんな獣達よりも大きい。人間は為す術もなく逃げ、怯えているのだろうか。怪物から遠く離れた場所に、何人もの人が寄せ集まっているのが描かれている。されど中には怪物の足先と重なるように描かれた……「ああ、踏み潰されているんだ」と分かる人物も存在していた。

 この絵を描いた者は、確かに絵心はなかったのだろう。だが、深々と刻まれた傷には当時の、古代人の感情が今も色濃く残っている。

 大人すら涙が出るほどの恐怖。

 抗えない力への絶望。

 家族や仲間を失った悲しみ。

 何時まで経っても助けに来ない神への呪い。

 未来に一欠片でも希望を残すために振り絞った、勇気。

 ……こんなにも色々な想いが感じられるのに。それを「自分の信じるものと違う」というだけで踏み躙った輩に、蘭子は一層の怒りを覚えた。正直、そいつが死んでしまった事が惜しい――――顔面を一発ぶん殴る事も出来ないのだから。

「……少し、感情的になったかしら」

 顔を横に振り、蘭子は熱い感情を吐息と共に外へと追い出す。壁画を描いた人の想いを汲むのは大事だが、囚われてはならない。それは真実を見落とすものだ。

 そう、蘭子は真実の探求をするためこの地を訪れた。故郷である日本を捨て、例えもう二度と故郷の土を踏めなくても構わないという覚悟を持って。

「アラン。念のため一つ確認させて……この壁画、描かれたのは何時?」

 蘭子は壁画を見つめたまま、アランを問う。

 アランは一呼吸置き、ゆっくりとした、けれどもハッキリとした言葉で答える。

「推定ですが、七万から七万五千年前とされています」

 告げられる途方もない年月。蘭子はその数字を頭の中で巡らせ、次いで肩を竦めた。

「時期的には正しく『どんぴしゃ』ね。アレそのものは人類のボトルネックの主要因ではないって研究が出ていたけど……コイツの仕業なら、そりゃ減るわよねぇ」

 そして壁画の一点を見つめながら独りごちる。

 大きく描かれた怪物。

 巨大な尾を持ち、無数の足を有し……触角を生やし、二本のハサミを持ち、胸部が大きく膨らんでいる。

 例え絵が下手でも、これだけは、コイツだけは伝えようとしたのだろう。他の絵より明らかに細かく描かれたそれは、誰が見ても正体は明らかだ。

 デボラ。

 七万年以上前の壁画に、デボラの姿が描かれていた――――




最終章は古代の文献漁りから始まるお約束。
という感じで始まりました、第三章。
いよいよデボラの正体に迫るお話となります。


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加藤光彦の人生

 地平線まで続く大海原を眺めるように、砂浜に座りながら光彦は悩んでいた。

 例えば食糧について。

 中国の開発したメカデボラだかなんだかが負けて以来、世界はますます寒冷化が進んだ。今はまだ九月なのに、昨日も雪が降っている。寒さの所為で山に入っても枯れ木ばかりが広がる有り様。植物が芽吹かなければ動物も生きていけないため、山には獣の姿も見えない。獲物がいないのだから、狩猟で食べ物を得る事なんて不可能だ。海産物に関しては陸の幸より幾分マシらしいが……砂浜で暮らす貝は寒冷化により壊滅。無事なのは沖の生き物だ。船を持たない人間は、跳ねる魚を眺めるのが精いっぱい。安定した食べ物は得られず、今日、今日の分の食べ物を探さなければならない。

 例えば治安について。

 十年前より更に悪化した。食糧がないのだから当然である。人間を最も凶暴化させるのは、怒りや後悔ではなく、空腹なのだ。食糧を持ってると分かれば、相手の人数が上回っていても襲い掛かる……下手な野党より余程凶暴な『孤児』が至る所に潜んでいる。油断をすれば、一瞬であの世行きだ。

 どちらの問題もちゃんと考えなければ死を招くものだ。他にも水や寒さの問題もある……しかしながら光彦にとって、これらは今気にする問題ではない。

 今、気にするべきは。

「とーちゃんっ!」

 考え込んでいると、不意に光彦の背後から抱き付いてくる者が居た。

 振り向かずとも声だけで分かる。なんやかんやもう、二十年の付き合いになるのだから。

「……アカか。どうした、いきなり」

「んー、父ちゃんが居たからくっついただけー」

 光彦がその名を口にすれば、とても上機嫌に、『娘』のようなものである女性――――アカは答える。

 出会った時には赤ん坊だったアカも、今や二十になる大人だ。身長はとても伸び、百七十二センチある光彦より僅かながら高いほど。これまで得られた栄養が少なかったからか、手足や腰はすらりとしていて、二十年前ならばファッションモデルとして出られそうな体躯である。顔立ちもあどけなさはあるが大層な美人で、二十年前ならさぞモテたに違いない。長く伸びた髪が油でベタついているのは……こんなご時世なのだからご愛嬌だ。

 そんな美女に育ったアカは、光彦を背中からぎゅうっと抱き締める。とても強く……嫌がる素振りもなく。その身に纏っているのは、もういっそ裸でいた方が余程恥ずかしくないのではないかと思えるほどボロボロな服なのに。

 光彦は、眉を顰めながら窘める。

「お前なぁ、何時までべたべたしてるんだよ」

「え? 別に何時までも出来るけど?」

「そうじゃねぇ。年頃の娘は、こう、普通は父親を嫌うもんだっつー話だ」

「普通なんて言われても、私にとってはこれが普通だし」

 光彦にどれだけ窘められても、アカは離れる気配もない。ついに光彦は大きく項垂れ、ため息を吐いた。

 どうにもアカは、ファザコンの気がある。

 いや、実父ではないのだからファザコンでもなんでもない筈だが、兎に角アカは光彦の事が大好きなのだ。正直かなり鬱陶しい。二十年前の世の父親達が何故娘とのスキンシップを望んでいたのか、さっぱり分からない。

 実際問題、少しは『親離れ』をしてもらわねば困る。治安が悪いどころか、食糧すら満足に得られない時勢なのだ。何時自分が死ぬかなんて分からない。こんな甘ったれでは、いざその時が来た時、何時までも泣き続けて飢え死にしそうな気までする。それは、光彦としては面白くない(・・・・・)話だ。

 ……なんやかんや歳も五十を超えたからか。はたまた二十年も一緒に暮らしてきたからか。昔の自分だったら吐き気を催していたであろう甘い考えに、光彦は自嘲気味の笑みを浮かべる。

「んー? 父ちゃんどうしたの?」

「ふん。何時までもガキみたいなガキを持つと苦労するなって思っただけだ」

「む! 流石にそれは馬鹿にされたって分かる!」

「じゃあ少しは親離れしてみろよ」

「それは断る!」

 キッパリと告げるアカに、光彦は小馬鹿にするように鼻を鳴らす。しかしそれで離れるようなら苦労はせず、アカはますますべったりと光彦にくっついた。

「相変わらずの仲良し親子ねぇ」

 そんな彼等を見て、感想を述べる女性の声がする。

 その声もまた、光彦の知り合いのものだ。

「おう、早苗か。なんか良い物見付かったか」

「缶詰一つ。正直、もう此処はダメなんじゃないかしら」

 手に持った缶詰を見せ付けるようにして語る女性こと早苗に、光彦は頷いて同意する。

 早苗との付き合いももう十年。どうせすぐ別れると思っていたのに、存外長く一緒に過ごしている。仲良しこよしだった訳ではなく、割と口喧嘩は交わしたが……不思議と今日まで離れはしなかった。

「んじゃ、次は何処行くかなぁ」

「あー、南行こうよ。南って暖かいんでしょ」

 立ち上がる光彦に、アカが希望を述べる。

 成程、確かに南の方は暖かい。学がない光彦にもそのぐらいの事は分かる。

 分かるのだが……ちらりと後ろを振り返る。

 光彦の視線の先には、大きな看板があった。そこにはこう書かれている。

 『ようこそ和深の海へ』。

 此処は紀伊半島の南端――――九州でも最も南側に位置する町だった。二十年前は関東で空き巣をし、十年前は東北で飯を漁り、そして今では南の海で途方に暮れる毎日。我ながら中々愉快な人生をしていると、光彦は自嘲気味に笑った。

「おう、じゃあお前あっちに泳いでいけ。南はあっちだ」

「海じゃん!? えー、なんだよぉー、南って海なの?」

「今じゃ南に行けばちゃんと暖かいかも怪しいと思うけどね。夏の九州で連日雪が降るとか、気流の流れも変わってるでしょうし」

「実際、どうしたもんかなぁ」

 ぼんやりと、海を眺めながら光彦は考える。

 今、日本の人口がどの程度のものかなんて光彦には想像も付かない。寒冷化により農業や畜産による食糧生産が行えず、山の幸も採れないとなれば、数万人も生きていれば御の字ではないか……とは早苗の弁である。

 しかしその数万人は、恐らく誰もが南を目指しているだろう。少しでも暖かく、苔でもなんでも良いから植物が生えていて、虫でもトカゲでも良いから生き物のいる環境……その心当たりなど『南』以外にはあるまい。

 もしも、その数万人の誰かと鉢合わせたらどうなるか?

 間違いなく、襲われる。極論人間だって『肉』なのだ。その気になれば食べられる。おまけに……こう言うのも難だが、早苗もアカも美人だ。イッてる(・・・・)輩にとっては是非とも手を付けたい一品に違いない。無論光彦は要らないのでぐちゃっと潰してポイだろう。

 三対一なら返り討ちに出来るかも知れないが……三対二だとちょっと厳しいかも知れない。三対三ではどうにもならない。女の力ではまず男には勝てないのだから。

 困った困った。しかし困ったところで答えは下りてこない。しばし目を瞑って考え込み――――

「っ!? 父ちゃん、父ちゃん!」

 不意に、アカが大声で喚いた。

「なんだぁ? 今考え中なんだから静かに……」

「アレ見て! 海の方!」

「……海?」

 アカに言われるがまま、光彦は海を見遣る。早苗も光彦と同じ場所を凝視した。

 アカが指差す先には、ぽつんと小さな影が見えた。

 海にある影。真っ先に光彦の脳裏を過ぎったのは、大怪獣デボラの姿だ。アレが上陸すれば、その際に起きる津波で海岸付近は壊滅的な被害を受ける。

 思わず身を仰け反らせる光彦だが、しかし僅かな違和感が彼の足を止めた。もう一度、海に浮かぶ影を見つめる。

 影は、黒く、細長かった。細長さは兎も角、黒というのはデボラの特徴ではない。盛り上がった海面なら水と同じ色だし、身体が海上に出ているならば赤く見える筈。どうにもデボラの影っぽくない。

 そうして見つめていると、影は段々と大きくなる。近付いているのだ。光彦は真剣に、じっと影を凝視し……

「……船?」

 ぽつりと早苗が呟いた言葉により、確信を抱いた。

 船だ。海上に船が浮かんでいるのだ。

 まさか船が浮いているとは思わなかった。ガソリンやらなんやらなんて、十年前の時点で既に稀少品だったのに。

 そしてそんな貴重な筈である船が、自分達の方へと近付いている。

「……どうする?」

 早苗に問われ、光彦は考える。

 アレが自分達にとって安全な船だという保証は何処にもない。もしかしたら中からぞろぞろと、大勢の無法者が出てくる恐れもあるだろう。戦いになれば絶対勝てない。

 ひとまず逃げるべきか……そう思った、矢先の事だった。

【にげないでくださーい】

 海の方から、機械的な声が聞こえてきたのは。

「うひゃうっ!? え、な、何? 今の、放送……?」

 アカは動揺し、不安げに光彦にしがみつく。

 彼女は慣れていないのだ。『拡声器』の存在に。物心が付く頃には文明と社会が衰退し、夕方五時のチャイムすら聞いた事がないのだから。

 しかし機械的に増幅された音など幾度も聞いてきた光彦と早苗も、身体が強張って動けなくなっていた。

 今の放送は、明らかにこちらに向けて伝えられたもの。

 つまりあの船の乗員は、自分達の存在を認識している。今から慌てて逃げたところで、向こうもそれを確認するだろう。そして船を動かせるほどの燃料を持っているのなら、バイクや車の一台二台は動かせてもおかしくない。

 十中八九逃げられない。

 なら、下手に抵抗するより……大人しくして、怒りを買わない方がまだ『マシ』か。

「(やれやれ、年貢の納め時ってやつかね)」

 肩を竦めて、光彦はその場に立ち尽くすのであった。

 ……………

 ………

 …

 尤も、光彦の予想は全く当たらなかったが。

「よく今日まで無事に生きてこられましたね! 本当に良かった!」

 眩い笑顔と共に掛けられたのは、こちらを気遣う言葉。

 砂浜付近にやってきた船……全長百メートルを超える軍艦だった。早苗曰く駆逐艦の一種らしい……から下ろされたゴムボート。そのゴムボートに乗って光彦達が待つ砂浜にやってきたのは、一人の女性だった。

 女性は二十代ぐらいの若者で、ボロ布を纏っている。ボロ布といっても、殆ど裸同然のアカと比べれば遙かにマシなものだが。顔立ちからして日本人のようだ。実際彼女の日本語はとても流暢で、聞き苦しいものではなかった。

 思っていたのと違う乗組員の姿に、光彦は呆気に取られてしまう。アカは見慣れぬ他人に怯えているのか、光彦の背中に隠れてしまった。

「……あなたは何者? 私達にどんなご用かしら」

 言葉を失った『親子』に代わり、早苗が女性に尋ねた。

「はいっ! 私達は、今まで生き延びてきた人々を探し、そして『新天地』にお連れする事を目的としています!」

「新天地?」

「現在、大勢の人々がその地で暮らしています。農業や畜産も行われていて、食べ物も豊富ですよ」

「……何処の馬の骨とも知れない私達を、そんな素敵な場所に連れていく? 胡散臭いわね」

 早苗がきっぱりと告げると、女性は少し苦笑い。しかし図星を突かれて慌てるようではなく、「確かに」と同意するかのよう。

「正直に言いますと、人手が足りないのです。新天地に来た人々は安心感から……お子さんを持つ人が多いので」

「ああ、成程。人口爆発しちゃったのね。食糧の消費が増えたのに、働き手は増えていない。だから大人の労働力を補充しないといけない、と」

「恥ずかしい話ではあるのですが……」

 照れたような笑みを浮かべながら答える女性だったが、その言葉の意味は決して笑えるものではない。

 安心感から子を作る。光彦にも、それは自然な考えに思えた。アカを拾った時、デボラを見た不安から「家庭を持たなくて良かった」と思ったぐらいだ。逆の心境になれば、つい、作ってしまうのも頷ける。

 人口が増えているという事は、その『新天地』とやらはさぞ住み易いところなのだろう。

「私達は社会を安定させる労働力が得られる。あなた達は安全な寝床と安定的な食糧を得られる。WinWinな関係というやつです。無理強いはしませんが、悪い話ではないと思いますよ?」

「……ちょっと相談させて」

「ええ、構いません。ゆっくりご家族の方とお話になってください」

 光彦達を家族と勘違いしながら、女性は早苗を送り出す。特に否定もせず、早苗は光彦とアカの下へと寄ってきた。

「……で、どうする?」

 光彦はひそひそ声で早苗に尋ねる。

「私は、彼女の話を信じても良いと思うわ」

 早苗はすぐに、ひそひそ声で自らの考えを打ち明けた。

「理由を教えてくれ」

「あの女の人、服が綺麗だった。まぁ、二十年前なら雑巾に使われるような布だけど……私達が着ているよりマシでしょ? デボラに世界が滅茶苦茶にされる前、二十年前に作られた物であそこまで綺麗なものはもう残ってないと思う。だから多分、あの人の言う『新天地』では布が生産されている筈よ」

「……それがなんだ?」

「良い? 布ってのは、当然食べられないもの。ないと困るけど、死にはしないものよ。布を生産出来るという事は、食糧にある程度余裕があるに違いない。あの人の話には信憑性があるわ」

 早苗の語る推論に、成程、と光彦は思う。流石は元テレビ関係者という典型的インテリだ。こうした推理は、光彦にはとても出来ない。

 勿論早苗の推理が完全に当たっている保証もない。運良く綺麗な布を手に入れた無法者、という可能性は否定出来ないからだ。罠だとしたら、あるのは身の破滅だけである。

 しかし、生き続けたところでこの地に今更どんな希望がある?

 そう、そんなものは何処にもない。自分達が歩き回ったところで、恐らく楽園は見付からない。遅かれ早かれ野垂れ死ぬだけだ。

 どうせ暗く終わるしかない人生ならば、ちょっとぐらい夢を見るのも良いだろう。

「……分かった。俺も賛成しよう」

「父ちゃんが賛成なら、私も良いよ」

 光彦の意見に続き、アカも答える。早苗はこくりと頷き、女性の方へと振り返った。

「聞こえたかしら?」

「ええ、歓迎しますよ。何か、持ち込みたい荷物などはありますか? あまり大きいものだと、ゴムボートでは浮かべないので難しいのですが……」

「私達にそんな財産があるように見える?」

 身軽さをアピールするように、早苗は両腕をひらひらと動かす。随分と剛胆な女になったものだと、光彦はぼんやり思う。

 そして自分は、女共に囲まれて少し女々しくなったかも知れない。

「そうだ、乗り込む前に一つ確認したい。その新天地とやらは何処にあるんだ?」

 光彦が尋ねると、女性はニコリと微笑む。

 そして彼女は、臆面もなくこう答えるのだ。

「人類誕生の地、アフリカです。我々は帰る時が来たのですよ」




怪しい人に付いていってはいけません(ストーリー完全否定)


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李 正の亡命

 南アフリカ。

 二十年前、この地は世界の中でも取り分け不安定な地域だった。植民地支配の影響、独立した時期の国際情勢、『誤った援助』による産業破壊……様々な要因に振り回された結果、政争や紛争、弾圧や差別が繰り広げられるようになったからだ。

 争いは経済発展を停滞させ、国民の間には貧困が広がる。貧困は子供への教育を滞らせ、無教養な大人が量産される。無教養な大人は迷信と暴力しか知らず、新たな争いの火種となり……

 抜ける事の出来ないループが、延々と繰り返される毎日。穏やかで豊かな先進国に住む人々の中には「民主主義が早過ぎた」だの「土人の集まり」だのと、差別的な皮肉を語る者も居た。

 そして西暦2039年――――南アフリカは、世界で最も活気に満ちた大陸へと変わっていた。その南アフリカでも特に大きな『都市』がある。

 その都市には無数の家が建っていた。家といっても掘っ立て小屋と呼ぶ事すら難しい……トタン板を組み合わせただけの……代物だが。そんなものが何百、或いは何千、規則性もなく敷き詰められている。あまりにも無秩序な建て方をしているものだから、道というよりも、家と家の隙間という方が正しい有り様だ。

 地面は何も舗装されておらず、黄土色の大地が剥き出しになっている。草一本生えないほど踏み固められていたが、乾燥している表面は風で容易く舞い上がり、何時も都市は黄土色の靄に覆われていた。

「■〇□■△! 〇××!?」

「〇×〇×〇〇▽!」

「×〇◇☆~×〇♪ ×〇★×!」

 都市の中では何語かも分からぬ言葉が、あちらこちらで飛び交う。それぞれの言葉には統一感がなく、語学に堪能なものならば本当に言葉が統一されていない事に気付くだろう。

 乾ききった黄土色の土の上を、大勢の人々が行き交いしていた。彼等の外観に共通点はない。男も女も、子供も老人も、白人も黒人も……何もかも関係なく。

「ギャアッ!?」

 そして時折人の悲鳴が上がるが、誰も気に留めない。

 ……人の通らぬ道を覗けば、時折倒れて動かない人の姿を見付けられるだろう。見付けたところで、誰一人驚かない。視界に入っても、その人間が『裸』だと気付くと舌打ちして無視する有り様だ。

 凡そ先進国と呼べない、法の支配が及ばぬ世界。

 そこに彼――――李 正は暮らしていた。

 正は全身をボロ布で包み、顔を隠すように布を被っていた。人混みの中を器用に歩き進み、向かうは都市の一角。都市の他の場所と比べ、幾らか静かな区画へと足を踏み入れた。

 そこを行き交う人々は、大半がアジア系の……もっと言うならば中華系の顔立ちをしていた。

 此処は漢族が集まって暮らしている区画だった。

「やぁ、()さん。久しぶりだね」

「えっ、あ、ああ。久しぶり、元気してたかい?」

 中年の男性に『毛』と呼ばれ、正は少しどもりながら答える。酒でもどうだと中年男性に誘われたが、これを断り先を急ぐ。

 やがて正は区画の最奥に建つ、一軒の家の中へと入った。

「……私だ。誰か居ないか?」

 家の中に呼び掛ける。と、奥から蝋燭を持った老婆がひょこりと現れた。

 老婆と言ったが、その顔立ちは極めて凜々しく、老いを感じさせない。生半可な男ならばその眼光だけで慄き、手が出せないだろう。

 その気迫は、十年前と変わらない。あの時は、嫋やかな笑みを浮かべるだけの余裕があったが。

「……ああ、李さんですか。久しぶりですね、あまりに遅いからくたばったかと思いました」

「ははっ、これは手厳しい。こちらこそ久しぶりです、ブリジッド」

 正は目の前の老婆――――元イギリス首相ブリジッド・キャメロンに挨拶し、それと共に被っていたフードを脱いだ。

 此処は、正とキャメロンの暮らしている家。

 即ち国家元首が二人も集まり暮らしている場所だった。尤も、二人ともその役職の頭には『元』の文字が付くのだが。今では二人ともしがない老人であり、売上や税金の計算など、専門的(・・・)な事務作業を仕事にして生計を立てている。

 メカデボラが撃破された時、正は幹部達と共に首都北京を脱出した。

 後に聞いた話では、デボラの攻撃により北京の三割が溶解(・・)したらしい。都市が溶解とは何事かと思ったが、衛星からの画像を見て得心がいった。デボラが放射する熱光線により、全てが溶かされていたのだ。

 そしてその瞬間から、中国共産党の幹部はデボラを不用意に怒らせた『諸悪の根源』と化した。

 幹部達は逃走した。暴徒化した人民を恐れて。正もその一人であり、彼も信用出来る側近と共に中国を脱出。国から国を転々とし……三年前、ついにアフリカにあるこの町に到着した。アフリカを目指した理由は、デボラ襲撃と世界的寒冷化により先進国が軒並み崩壊する中、比較的マシ(・・・・・)な状態を保っていたのがアフリカだったからである。

 とはいえアフリカの言語に全く詳しくない正は、中国人が作ったコミュニティに身を寄せるしかなかったのだが。偽名を用い、出来るだけ貧しそうな格好をして……なんとか李 正ではないと誤魔化して、この中国人コミュニティに加わった。

 そこでなんの因果か、ブリジッドと再会し、ここで共に暮らすようになったのである。ちなみにブリジッドがアフリカに居た理由は「暴徒化した民衆に『金持ち』だからという理由で襲撃され、EUから逃げ出したから」……民主化していようがいまいが、極限状態の民衆というのは何処も同じらしい。

 ちなみに此処にはもう一人住人が居た。元インドネシア大統領のバハルディンだ。しかし今日はその姿が見えない。

「ところでバハルディンは?」

「今日は仕事です。事務が出来る人は、今じゃすっかり珍しいですから」

「それで三日に一度しか仕事がないのだからな……向こうとは大違いだ」

 やれやれと肩を竦めながら、正は独りごちる。官僚上がりというかつてのエリートも、政府機関がなければひ弱な理数系でしかない。頭よりも筋肉の方に需要があるこの地では、仕事にありつけるだけありがたいというものだ。

 そう、この地では。

「……向こう(・・・)はどうでしたか?」

 ブリジッドからの問いに、正は一瞬口をキュッと閉じる。室内なのに辺りを見渡し、家の入口付近に人が居ないのも確かめ……ブリジッドの耳許に顔を寄せて話す。

「……噂以上だ。正直、この時代であんなにも巨大で、尚且つ安定した国家を形成出来るとは、とても信じられん」

「やはりルールは、彼等の宗教によって成り立っているのですか?」

「いや、信仰の自由が保障されている。私が確認出来ただけでキリスト教や仏教、イスラム教にゾロアスター教、それと日本のカルト宗教も容認していた。無宗教でも問題なく生活している。無論罪を犯せば逮捕されるが、宗教を理由に罪状が増減する事もない。強いて言えば、『宗教で相手を差別しない』という法は施行されていたが、それだけだ」

「……にわかには信じ難い。確かに、元々排他的な思想ではありませんでしたが。何か、裏があるのでは?」

「かも知れない。が、こんな時代で何を企む? 独立宣言をしたところで、容認する国も批難する国もなく、国連の調査団だって入ってこないんだぞ」

「……………」

 正の言葉で、ブリジットは口を閉ざす。やがてゆっくりと唇を震わせながら、小さな吐息を漏らした。

「……分かりました。元より、その地を見てきたのはあなただけです。あなたがどうしたいか、決めてください」

「なら答えよう。私は、あの国に行くべきだと思っている。それは勿論、私達が安全に生きていくために必要な事だというのもあるが……」

「あるが?」

「あの国は、人類最後の希望だと思っている。老い先短い身だからこそ、その最後の希望の地の発展に力を貸したい」

 正は、ブリジットの瞳を見つめながら答える。少年のように澄んだ瞳と声だった。

 ブリジットは目を丸くし、やがてニコリと笑った。嫋やかで、女らしい、かつての笑みだ。

「今更真面目な公務員になるつもり?」

「私は最初から最後まで真面目な公務員だったよ。十年前の職務は、私には向いてないものだったがね。無論失態の責任はある。だからこそ、自分の力を活かせる場所で人々に貢献したい」

「青臭い。まるで未熟なワインね」

「自覚はしている。しかしこのままビネガーになるよりはマシだとは思わないかね?」

「ええ、全くその通り」

 正の言葉に同意し、ブリジットは立ち上がる。正も立ち上がり、二人は顔を見合わせた。

「バハルディンが帰ってきたら、早速出ましょう。その前に身支度だけはしておくわ」

「ああ。周りに勘付かれる前に動きたい。いくらあの国が人手不足とはいえ、このスラムの人間の半分をいきなり受け入れられるほどのキャパシティがあるとも思えないからな」

 キャメロンと考えを合わせ、正もまた荷物を纏め始める。

 正はしばし旅に出ていた。

 目的は、噂に聞いていた『国』が実在するのか確かめる事。半信半疑で、正直野垂れ死ぬ可能性の方が高いと ― そしていっそその方がマシだとも ― 思って始めた旅だが……噂は真実だった。

 勿論そのまま見付けた国に住む事も出来ただろう。しかし正は戻ってきた。

 キャメロンもバハルディンも、この町で長い間共に暮らしてきた。キャメロンとバハルディンは正と血の繋がりはなく、血縁主義が強い中国的価値観で言えばさして大事な相手ではないが……家族と合流出来ず、ずっと一人だった正にとって二人は家族のようなものになっていた。裏切るなんて真似は出来ない。

 これから長旅になるだろう。その旅は辛く、厳しく、もしかすると誰か命を落とすかも知れない。

 それでも、旅路の果てに幸せな生活があるのなら――――危険を冒す価値はある。

 何時殺されるか、飢えて死ぬかも分からぬ世界で日々を無駄にするよりは、ずっと。

「……いよいよだ」

 正はぽつりと独りごち、思い出す。

 この地から遙か北西、かつてカメルーンと呼ばれた国があり、そのカメルーンの名を冠するカメルーン山の麓に出来た『国家』……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『神聖デボラ教国』の存在を。

 

 

 




名前だけでヤバさが分かるというのは大事な事だと思う。


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足立哲也の疑念

「アダチ、今日の仕事は丸太を運び入れるところまでで良い。それが終わったら帰って良いぞ」

 がたいの良い五十代ほどの黒人男性に英語で言われ、哲也は両手で抱えていた丸太を一旦地面に置いた。

 哲也が居るのは、開けた平地だ。とはいえ広さはほんの縦横十メートル程度の小さなもの。周りには木材を組んで作られた家 ― というよりも小屋のような代物だ。尤も『現代』においてこれより立派な家なんて早々ないが ― が建ち並び、此処が所謂『空き地』なのだと物語る。

 哲也はこの空き地に木材を搬入していた。此処には新しい家が建つ。その家を建てるための建材が、今まで抱えていた丸太なのだが……丸太を持ち込んだだけでは家にはならない。この丸太を加工し、組み立てる必要がある。そして今日は最低限の土台作りまでは進める予定だった筈だ。陽もまだ高いので、中断する理由もない。

「どうしてですか監督。今日は土台作りまで進める筈だったと思うのですが……」

 理由が分からず、哲也は首を傾げながら黒人男性……この『建築現場』の監督に尋ねた。監督は顔を顰めながら答える。

「大工の奴等が来ないんだ。なんでも南地区と中央を繋ぐ橋が壊れて、そっちの対応をするよう『国』から言われたらしい」

「成程、ライフラインの復旧が優先された訳ですか」

「南と中央を繋ぐ道はまだ少ないからな。橋一本使えないだけで、物流にかなり支障が出ちまう。大工はまだ数も少ないから、総出で直さないと復旧が何時になるか分からんそうだ。だから仕方ないんだが……こっちも短納期だからなぁ。納期が長ければある程度融通が利くってなもんだが」

 ぽりぽりと縮れた黒髪に覆われた頭を掻き、監督は心底困ったようにぼやく。

 けれども哲也にはその顔が、少し、楽しそうにも見えた。

「……なんか楽しそうですね」

「楽しい訳あるか。だが、まぁ、パソコンを叩くだけよりは、今の方が仕事をしている感じはあるがな」

 ガハハと笑いながら答える監督に、哲也も釣られて笑う。

 監督は元々アメリカのとある金融会社に務めていたエリート社員、だったらしい。

 デボラによるアメリカ没落の影響で務めていた会社が倒産し、夜逃げ同然に世界を渡り歩いて……アフリカにあるこの『国』に辿り着いたそうだ。嘘か本当かは分からないが、彼は意外と教養があり、勉強熱心な事を彼の部下である哲也は知っている。全くの出鱈目ではないだろうというのが哲也の意見だ。

「ま、そんな訳だからお前はとっとと仕事を片付けて帰れ。待ってる奴がいるんだからな」

「……分かりました。さくっと終わらせます」

 監督のご好意に甘え、哲也は丸太運びを再開する。丸太運びをしているのは哲也だけでなく、監督は他の作業員にも説明をしていた。全員が今の仕事をさっさと終わらせようと躍起になる。

 仕事は、ほんの三十分ほどで終わるのだった。

 ……………

 ………

 …

 掘っ立て小屋のような建物が並ぶ、居住区。何百軒もの小屋……のような家が並ぶという事は、それだけの人が住んでいるという事の証である。

 哲也が暮らしているのは、そんな居住区の一角に建つ家。他の家と見た目の違いはなく、表札代わりに出している草の飾り付けが目印だ。哲也は鍵のない木製の扉を片手で押し、開けて中へと入る。

 中は、広々としたリビングのような部屋になっていた……というよりこの部屋しかない。寝室もキッチンもこのリビング的大広間に設置されている。二十年前にテレビで見た、とあるアフリカ民族の家のようだ……という感想はそのものズバリであろう。この家の基本的な設計は、とあるアフリカ人がしたものらしい。

 二十年前の日本人からすれば、シンプル過ぎる構造にも思える。が、しばらく住めば意外と良いところも多いと気付く。例えば形がシンプルなので掃除の手間がない、というのが哲也的に好印象だ。

 それと帰宅してすぐに、家族の姿が一目で確かめられる。

「テツヤ、おかえりなさい!」

 哲也の帰宅に気付き、一人の女性が笑顔と共に哲也の方を見る。二十代ぐらいの若い女性。顔立ちは東南アジア人のそれだが、瞳が碧い。ややふっくらとした容姿は温かみを感じられ、傍に居るだけで安らぎを与えてくれるだろう。

 そして彼女のお腹は、とても大きく膨らんでいた。少し覚束ない足取りで哲也の下に来る姿は大変健気で可愛らしいが、哲也からすると色々心臓に良くない。

「イメルダ! 身重なんだから無理をしたら……」

「無理なんてしてないわよ。妊婦でもちょっとは運動した方が良いって、テツヤの国では言われてなかったの?」

「む……いや、すまない。その手の知識はあまりなくて……」

「だから、そんなに気にしなくて良いの」

 真面目に謝罪する哲也の頬を、イメルダという名の女性はにこやかに笑いながらつんっと突く。ちょっとばかり子供っぽい仕草に、哲也も思わず笑みが零れた。

 イメルダは哲也の妻である。五年前、この『国』で暴漢に襲われていたところを哲也が助けたのをきっかけに交際するようになり、二年前に婚約を結んだ。交際時は「二十近く歳が離れていて果たして上手くいくのだろうか」とも思ったが、付き合えば付き合うほど馬が合うもので。収入的理由がなければ、交際一年で結婚していただろう。

 結婚二年目の今では、第一子がイメルダのお腹に宿っている。父親になるという実感が、哲也の心を幸福で満たしていた。

「ところで、今日は随分と早い帰りね。どうしたの?」

「ああ、実は大工達が来られなくなってな。丸太運び以上の事が出来なかったんだ。なんでも南区の橋が壊れたらしい」

「ああ、その話は噂になってるわね。大工さん、南区に住んでいたの?」

「いや、橋の修理に駆り出されたそうだ。お国の命令だそうだよ」

「成程ね」

 哲也の説明を聞き、イメルダは納得したように頷く。

「悪いところをすぐに復旧しようとするのは、この国の良いところね。私の生まれ故郷の国より、政府はマシかも」

 それから冗談めかした言い方で、そう付け加えた。

 国。そう、此処は国だ。

 神聖デボラ教国という名の国である。

 二十年前に結成されたデボラ教。そのデボラ教信者が、今からほんの数年前に作り上げた国だ。一介の新興宗教が始めたものであるが、その内実はかなり本格的なものである。

 そもそもにして、現在の地球で国と呼べるものは殆どない。デボラにより地球全域が寒冷化し、世界中の農業が壊滅。食糧不足を起因とする暴動から社会秩序が崩壊し、国家機能が止まったからだ。

 アフリカはこの環境変化の影響を、あまり受けなかった。そのため農畜が可能な環境が残り、大勢の人を養える条件を保っていたのだ。そしてアフリカの土地は決して農業に不向きなところばかりではない。例えばジンバブエは植民地時代、世界でも有数の農業国だった。アフリカの農業が上手くいかない原因は、主に政治的なものであった。

 デボラ教が何時頃からアフリカ大陸に目を付けていたかは分からない。或いは世界中で国を興そうとして、アフリカだけが幸運に恵まれていたのかも知れない。なんにせよ気付けば彼等はアフリカの地に、立派な農業施設を作り出していた。農作物を狙う者も多かったが、『信仰心』によって結ばれた彼等は強固な軍隊のような統率も兼ね備えていた。外敵を尽く撃退し、地域はどんどん発展した。

 更に彼等は、広い範囲から『移住者』を求めた。来る者は基本拒まずに受け入れ、デボラ教への改宗も強いる事なく、職業の斡旋をして移住者の生活安定を図る。デボラ教国と名乗りながら、国民の八割は非デボラ教徒らしい。哲也も彼等に招かれ、デボラ教徒にならずに『国民』となった身だった。

 人が増えると社会はより発展する。職業が専門化する事で、小規模な集団よりも生産性が向上するからだ。生産性が高まればより多くの人口を養えるようになり、生活も豊かになる。そうするとまた人が増えていき……

 これを繰り返し、この国は国家と呼ぶに足る規模まで成長した。今も発展を続けている。

 デボラにより滅亡寸前まで追い込まれていた人類は、細々とだが再起を始めていた。それは哲也にとって嬉しい事だ。産まれてくる子のために、未来は明るいものであってほしい……哲也自身、希望があるから子供を作ってしまった訳で。

 しかし同時に、小さな違和感を覚える。

「(……デボラ教って、終末思想の類じゃなかったか?)」

 自警団に居た頃の知識を思い返す。デボラ教は、人類が穢した地球はデボラにより浄化され、地球の意思と一体化した者だけが綺麗になった地球で暮らせる……確かそんなものだった筈だ。

 しかし彼等がしている事は、文明の再建に他ならない。デボラ教のいう穢れがどんなものかは知らないが、人間が地球を穢したというのなら、文明を再建する事は穢れにならないのだろうか? 現に人が集まり、産業化が進んだ事でこの国の一部では大気汚染が起きている。汚染といっても炭焼きの煙であって、古代の人類もやっていた程度の事だが……

 何か、おかしい。

 おかしいが、何が目的かは分からない。デボラ教は何を求めてこんな都市を……

「もう、テツヤったらまた難しい顔してる」

「ふぐっ」

 考え込んでいたら、イメルダがほっぺたを両手で摘まんできた。思考を中断させられた哲也に、イメルダはにっこりと微笑む。

「それより、そろそろお昼よ。一緒に食べましょ。今日はあなたの好きな豆のトマト煮よ」

 そしてイメルダはそう言って、玄関口に立ったままだった哲也を家の奥へと連れていこうとする。

「……ああ、そうだな」

 哲也はイメルダの誘いを受け入れた。哲也は考えていた事を全て頭の隅へと寄せてしまう。

 十年前なら、食事など後にしていただろう。しかし今の彼は十年前とは違う。

 窓から見えるカメルーン山を眺めながら、愛する人と共にする食事は格別なのだと知ってしまったのだから……




カメルーン山のお膝元~
うん、嫌な予感しかしない。


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霧島セロンの研究

 雲一つない空から降り注ぐ朝日によってキラキラと輝く大海原を、一隻の船が走っていた。

 船は所謂モーターボートであり、決して大きな代物ではない。二人ほどの人間が乗れば、それだけで窮屈さを覚えるだろう。屋根どころか転落防止の『柵』すらなく、迂闊に立ち上がって転ぼうものなら、そのまま大海原に放り出されてしまう。しかしその粗末さ故に軽量で、船体の割に積んであるエンジンが大きい事から、スピードはとても出る作りとなっている。

 そしてこの船のエンジンは今、壊れそうなぐらいの爆音を鳴らしていた。

 つまりはとんでもない速さで、船は海上を進んでいるという事。まるで切り裂くように波を立て、スピードの出き過ぎが原因で時折船体が跳ねている。明らかに危険な速さだ。乗組員は常軌を逸している……この船を見ている者が居れば、誰もがそう思うに違いない。

 霧島セロンにとって、それは非常に不本意な事だ。

 何故なら彼はこの船の乗組員だが――――暴走している『馬鹿』は、もう一人の方なのだから。

「ちょ、ちょおおぉおおおっ!? も、も、もっとスピードを抑えろこの馬鹿!」

「はっはっはっ! この程度で参るとは、君もまだまだ若いなぁ!」

 だからセロンは必死に止めているのだが、船の操縦桿を握る馬鹿こと屈強な黒人男性……ワルドは楽しげに笑うだけ。エンジンを入れるためのレバーは全開のままで、止まる気は微塵もないようだ。

 ワルドは足下に置いてある機械に時折目を向ける。機械は四角い板状のもので、表面は傷だらけでボロボロ。電子機器的な光を一つだけ発しているが、表面が傷だらけの所為でいまいち見辛い。

 しかしワルドには、光の指し示すものが見えている(・・・・・)。迷いのない動きで船を操作し、何処かを目指して突き進む。スピードは全く落とさない……セロンがどれだけ悲鳴を上げたとしても、だ。

「だから止めろって言ってるんだ! 何時まで全速力で突っ走るつもりなんだよ!?」

「いやいや、此処で止まるのは良くないと思うのだが」

「はぁ!? どういう意味だ!?」

 当然セロンはますます激しく、感情を露わにしてワルドを止めようとするのだが、ワルドは意味深な事を言ってくる。セロンは更に強く問い詰めた。

「奴がすぐ近く居る。というより、私達の足下を泳いでいて、現在接近中だ。出来るだけ距離を取るのが賢明ではないかね?」

 するとワルドは、とてもあっさりと答えた。

 答えられて、セロンは凍り付くように固まる。次いで恐る恐る、自らが乗る船を……船の下に広がる大海原を見遣った。

 海は今日も静かだ。朝日を受け、キラキラと宝石のように光り輝いている。されどそれは人間のちっぽけで、狭苦しい視野から語った一面でしかない。もっと高く、鳥のような視点から見渡せば一目で分かっただろう。

 セロン達が乗る船のすぐ下に、巨大な影があると。

「……い、いいい急げ急げ急げ急げぇ!」

「ははは! 忙しないな君は! だがその意見には賛成だよ!」

 慌てふためくセロンに、ワルドは快活に笑いながら答える。エンジンを更に唸らせ、船体が悲鳴を上げるほどの速さで海上を駆けた。

 やがて、海が大きく盛り上がり始める。

 海面は五十メートル近く膨らみ、セロン達の船をその端っこが襲う。端っこでも高さ十メートルはあろうかという大きなうねりだ。モーターボートは簡単に持ち上げられ、翻弄されてしまう。ワルドの卓越した操縦技術がなければ、セロンは今頃海の藻屑になっていたに違いない。

 幸いにして大海原に還らずに済んだセロンは、うねりという名の卵を破るようにして現れたモノを目の当たりにした。

 そいつは真っ赤な甲殻を有す。

 そいつは二本の立派な触角を有している。

 そいつは身の丈百メートルすら大きく超えた、地球の誰よりも偉大な体躯をしている。

 見紛う筈がない。忘れる筈がない。そいつこそがセロンの探し求めていた、かつて(・・・)敵対していた存在。人類を易々と蹴散らし、この星の真の支配者となったモノ。

 甲殻大怪獣デボラだ。

「デボラ……!」

「うむ、デボラだ」

 セロンの呟きに同意するワルドは、船体に積んでいた猟銃のような形状の銃を取り出し、構える。

 照準の向く先は、デボラ。

 強大無比なる怪生物に、ちっぽけな銃口が火を噴いた。放たれた金属の塊は音速に近い速さで飛び、デボラに命中する。

 無論デボラにこんなものは効かない。質量数万トンの物質が音速に近い速さでぶつかろうとも、ろくに怯まないほど頑丈なのだから。しかしワルドは何もデボラを傷付けようとして金属を撃ち込んだ訳ではない。むしろ全く効いていない方が好都合。

 今し方撃ち込んだのは、発信器なのだから。

【……………】

 デボラは鳴き声一つ上げず、己の正面をじっと見据えるだけ。発信器を撃ち込まれた事はおろか、すぐ近くに浮いているセロン達にも気付いていない様子だ。

 しばし大海原を悠々と泳いだデボラは、思い出したようにスピードを上げ、潜行を始める。海面に出ていた部分だけで数十メートルはあろうかという巨躯だが、デボラは非常に素早い。あっという間に水中へと潜ってしまう。

 デボラが海上に出ていた時間は、一分ほどだった。助かったのだと分かりセロンは安堵のため息を吐く、が、これはこれで気になるところ。

 一体、アイツは何をしに浮いてきた?

「わざわざボク達の船の下まで来たのに、攻撃もしてこない……なんだ? 何をしに……」

「ああ、アイツが船の下に居た事に意味はないよ。私がミスしただけだ」

「……は?」

「いやぁ、調子に乗って近付き過ぎてしまったよ。はっはっはっ」

 疑問を言葉にすると、ワルドはすぐに答えてくれた。答えてくれたが、それはセロンに納得を与えない。セロンは呆けて、考えて……

 そして怒りが込み上がり。

「こ、この! この馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿っ!」

 セロンは極めて頭の悪い罵詈雑言を、楽しげに笑っているワルドにぶつけるのであった。

 

 

 

 十年という月日は、若者であればあるほど長いものだ。

 十年前、一般人なら高校に通っているような年頃だったセロンにとっても同じ。気付けば成人し、身体は大人になった。髭が濃く生えるようになったし、身体付きもガッチリしてきた。昔の自分が如何に『図に乗っていた』かを少しは理解し、精神的にも成長している。

 そしてかつて机上で全てを理解出来る人間であった彼は、今やフィールドワークを主にする研究者となっていた。

「あー……身体が温まる……」

 お湯を注いで作ったスープ ― 乾燥させた魚介類に、塩による味付けをしただけのシンプルな代物 ― を飲みながら、セロンはため息を吐く。

 セロンが座り込んでいるのは、月だけが照らす夜の海岸だ。内陸の方には森が広がっていたが、寒冷化の影響か木々は皆枯れている。虫の音は勿論、獣や鳥の姿も見られなかった。

 実のところ此処がどの国の海岸であるのかもよく分からない。いや、国家と呼べるものが尽く崩壊した今、『国のもの』ではないかも知れないが……南米大陸の何処か、というのが精々だ。

 赤道付近に位置する筈の海岸は、夜になると非常に冷えていた。雨が降れば雪になるかも知れない。これでも内陸部に比べれば幾分マシなのだから世も末(・・・)である。

「うむ! やはり温かな食事は最高だな! これだけあれば人間は生きていけるものだよ」

 なお、セロンの隣で同じくスープを啜るワルドには、そんな悲壮な世界を生きているという感覚はこれっぽっちもない様子だった。なんとも逞しい知人の姿に、セロンは先程とは異なるため息を吐く。次いで、残りのスープを一気に飲み干した。

「……ところで、何か分かったのかい?」

 『夕食』を終えたセロンは、呆れた調子でワルドに尋ねる。

「ああ、かなり色々分かったよ」

 そしてワルドは、先程までと変わって真剣な面持ちを浮かべた。

 ワルドは自分の側に置いていたタブレット……船に積んでいたのと同じ代物だ……を手に取り、画面を指先で叩く。するとタブレット画面に映像が映り、ピコピコと輝く光が現れた。画面が傷だらけで、いまいち見辛い。文字も表示されているが、傷に隠れてセロンには殆ど読めない有り様である。

 しかしワルドにはちゃんと読めているらしく、彼は納得したように頷いた。

「うむ。先程取り付けた発信器は問題なく機能している。デボラの進行水深がハッキリと分かるぞ」

 ワルドは嬉しそうに、タブレットに映る反応の意味を言葉にする。

 今朝、ワルドがデボラに撃ち込んだものは発信器だ。それも海中の深度を測るのに特化したものを。

 デボラにはもう一つ、緯度経度を示すのに特化した発信器が撃ち込まれている。三ヶ月前、セロンとワルドが撃ち込んだものだ。この二つを併用する事でデボラの位置を正確に把握出来る……尤も、画面の傷の所為でセロンにはさっぱり分からないのだが。

「そりゃ何より。で? 奴はどんな動きをしている?」

 セロンが画面の意味を理解するには、ワルドの説明が必要だった。

「活動が活発化しているようだね。移動速度が平時よりずっと速いし、しかも深い位置への移動が少ない」

 ワルドはセロンの問いを受け、すぐに答える。口調は軽やかだが、その意味合いまでは軽くなかった。

 セロンは眉を顰め、新たな疑問を言葉にする。

「まだ発信器を付けて一日も経っていないが、それでも確信出来るものなのか?」

「ああ。十年前に観測された平均的行動パターンのグラフは、私もよく覚えている。奴は本当に気紛れだが、日中は海面付近を活動し、夜間は深海深くを移動する事が多い。しかし今は夜にも拘わらず、極めて浅い場所を移動している。平均値から大きく逸脱した行動だよ」

「記憶が正しければ、二十年前のアメリカ初上陸は真夜中だったと思うんだけど」

「はははっ。それを言われると反論は出来ないな。何しろコイツはほんと気紛れでね」

 あっさりと降参するワルドに、セロンは大きなため息を吐いた。とはいえワルドが適当なのではない。

 二十年間、ろくにデボラの生態が解明出来なかった一因の一つがこの気紛れぶりだ。

 兎に角動きに一貫性がない。一月連続でオーストラリアを襲撃したり、二ヶ月間姿を見せなかったり、十日間海底から動かなかったと思えば、次の十日間時速百キロ以上で地上を駆け続けたり……

 なんの一貫性もない。周期的に行動を繰り返す訳でもない。あまりにも無秩序で、一体なんの意味があるのかすら分からない。

「或いは、過去に観察された全ての行動に意味なんてものはないのかも知れないね」

 セロンが考え込んでいると、ワルドはそのような意見を述べる。

 セロンは眉を顰めた。理由を考えないなど、『知的生命体』としてあまりに不甲斐ないと思えたがために。

「二十年も地上で暴れていて、なんの意味もない?」

「その通り。そもそも二十年という時間が、デボラにとって大した年月ではないかも知れない。地底生活なら季節感なんてないだろうし、百度に満たない気温変化など彼にとっては大きな環境変異ではないだろう。いや、そもそもデボラは彼なのだろうか? もしかしたらメスかも知れん」

「産卵活動に来たって可能性か。あんな化け物がわんさか増えるとか最悪だな」

「しかしデボラ出現時から指摘されている、最悪の可能性の一つだ。尤も、繁殖行為が確認出来なかった事から、十年前には下火になってしまった説だがね」

「君がついさっき言ったように、奴にとって二十年が大した時間じゃないなら、さして不思議でもないと思うけど」

 淡々と話を交わしながらセロンとワルドはデボラの生態について議論する。

 セロンはそれを嫌だとは思わない。

 十年前、セロンはデボラに負けた。

 自分が思い付く最高のテクノロジーを、当時最高の技術力を有していた国で生産し、そうして作り上げた兵器に最も適切な人員を配置させた。けれども改善点なんかない、とは思わない。今、同じだけの資材を用意してもらえれば十パーセントは戦闘力を上げられるだろうし、搭乗員の訓練カリキュラムを改良すれば更に良い人材が確保出来た筈だ。

 だが、そんなのがなんだと言うのか。

 デボラが放った……恐らく純粋な熱エネルギーの照射だろうとセロンは考える……あの光は、セロンが、人類が生み出した超兵器『一式』を一撃で粉砕した。二発受ければ跡形も残らない有り様である。十パーセント戦闘力を上げたところで、結末がちょっと早まるのが精々だ。

 アイツには、人間がどう足掻いたところで勝てやしない。

 その『直感』はセロンが天才だからこそ強く確信し、天才であるが故に彼の心を強くへし折った。

 しかし折られた心の名はプライド。

 彼の心の奥底にあった科学者としての好奇心は、未だ潰えていなかった。

 一年ほどはデボラへの恐怖と屈辱で引き籠もっていたが、「人手が足りない」という理由でワルドに引っ張り出され……今ではデボラ研究のため世界を駈け回る日々。

 正直、驕り高ぶっていた十年前より楽しい毎日だ。純粋な好奇心を糧にして、セロンは自らの意思でデボラの謎を追い続けている。

「(デボラの奴は何時かギタギタにしてやるがな。生態の全てを解明して、駆除方法を見付けてやる)」

 ……三つ子の魂百までとはよくいったもので、性根の方は殆ど変わっていなかったが。

「ふぅーむ。意見を交わすのは楽しいが、やはり確証に至るにはデータが足りない。今回の発信器で、何か新たな知見を得たいものだが」

 ワルドはセロンとの討論をそう締め括ると、再びタブレットに目を向ける。先程見たばかりの画面だ。新たな情報が得られるとはセロンも思わないが、なんとなくワルドの顔色を窺う。

 故にセロンは、ワルドがその目を大きく見開くところを目の当たりにした。

「なっ……これは……!?」

「どうした? 何があった?」

「……デボラが、移動している」

「……移動しているのは珍しくもないだろう?」

「そうじゃない!」

 セロンが問うと、ワルドは語尾を強めて否定する。普段の彼らしからぬ言葉遣いに、セロンも僅かながら動揺した。

「デボラが真っ直ぐ(・・・・)移動しているんだ! 時速七百キロ近い速さで!」

 そしてその言葉で、セロンはますます心を揺さぶられる。

 セロンは知っている。

 何時も自由気ままで、能天気で、気紛れなデボラ。されど『野生動物』であるが故に奴は決して油断などしない。必要があればぶらぶらなどせず、一直線にその場所へと向かう。

 そう、例えば――――自分を打倒し得るほどの何かが現れた時。

「(馬鹿な、あり得ない! 今の人類に『一式』どころか『四型』に値するものすら建造不可能だ! 資源も技術も人材も、何もかも足りないのに!)」

 頭の中で否定しながらも、セロンはワルドが持つタブレットの画面を見る。画面にはデボラの反応を示す赤い点が光り、その光は確かに真っ直ぐ、目視可能な速さで動いていた。

 しかしながらタブレットの画面は傷だらけ。セロンには赤い点(デボラ)が何処に向かっているのかさっぱり分からない。

「ワルド! デボラは何処に向かっているんだ!?」

 セロンは問い詰めるようにワルドへと尋ねた。ワルドは顔を上げると、口をパクパクと喘がせ……やや間を開けて、どうにかといった様子で答える。

「……東の方角に真っ直ぐ。もし仮に、このまま真っ直ぐ向かったなら……アフリカ大陸に到達する進路だ」

 ワルドの言葉に、セロンはぞくりとした悪寒を覚える。

 アフリカといえば今や人類最後の生存可能地域。人類文明が細々と続いている、恐らく地球で唯一の場所だ。

 もしもそこにデボラが突撃なんてしようものなら……集まった物資も人材も、全て踏み潰されるだろう。アフリカの肥沃な大地は吹き飛ばされ、草一本生えない不毛の世界と化す。

 即ち、人類の生存は――――

「ワルド! 戻るぞ!」

「あ、ああ。いや、だが今から戻ってもデボラには……」

 ワルドの意見に、セロンは口を開け、しかし反論は出てこない。

 セロン達はこの南米大陸まで飛行機で来たが……その飛行機は第二次大戦前後で現役だった骨董品だ。出せる速さは時速四百キロにも満たないのである。しかも大西洋を真っ直ぐ渡ったのではなく、海岸線をなぞるように、時折燃料を補充しながら、だ。到底デボラに追い付けるものではない。

 アフリカの地にセロン達が着いた頃には、恐らく『全て』が終わっている。

「一体、何が起きようとしているんだ……!」

 セロンは悔しさで唇を噛み締めながら、東の方角を睨むように見つめる事しか出来なかった……




デボラが来る。


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アカの世界

 世界というものは、本当はもっと豊かで、楽しいものだったらしい。

 光彦(父親)からそのような話を聞いた事があるのだが、アカにはこれまでピンと来た事がなかった。

 確かにこの世界は、自分が物心付いた頃から日に日に悪くなっている。食べ物はどんどん手に入らなくなっていったし、寒さも毎年酷くなっている。獣みたいな子供に襲われたり、食べ物をたくさん持っている強盗を襲ったり……『悪い事』をしないと生きていけなくなっている。もしも光彦が言う通りの、食べ物が何処でも手に入って、道端で子供に襲われず、強盗を襲わなくて良い世界があるのなら、それはとても良いものだと思う。

 しかしアカはそんな世界を知らない。心を許せる人は僅かで、死体から物を剥ぐのが当然な世界で生きていたアカに、父の語る世界は夢物語というか……現実味のない(・・・・・)言葉だと思っていた。

 今日、この時までは。

「ふぉ、ふおおぉぉぉぉ!」

 あまり女の子らしくない、けれども大変正直な声でアカは驚きを示す。

 アカは今、一隻の船に乗っている。とても大きな船だ。『くちくかん』という名前の船らしい。細かい事はよく分からないが、大きな船という事だとアカは理解している。アカ達以外にもたくさんの人が乗っていて、アカのように日本で暮らしていたという人も何十人と同乗していた。

 その船の甲板から、陸が見えた。

 陸にはたくさんの『家』が建っていた。どれも木で作られたもので、日本にあった廃屋よりもちっぽけに見えるが……しかしどれも真新しい。海に張り出すように建っている『もの』は港らしい。アカが知る港はどれもコンクリートという石で出来ていたのに、この地では木で作っているようだ。

 見た事がないものばかりで新鮮だ。だけど何より気になるのは、その『家』がたくさん建ち並ぶ場所……町の中に、小さな影がたくさん動いているところだろう。

 遠くに居るのでハッキリとは見えないが……恐らくは人だ。

 物凄くたくさんの人が、町の中を歩いているのだ! アカが暮らしていた日本では、一月に一度誰かに襲われれば(・・・・・)多い方だというぐらい人がいないのに!

「とーちゃんとーちゃん! すごいよアレ! めっちゃたくさん人が居る! あんなにたくさんの人に襲われたら大変だね!」

 この興奮を伝えたいと思い、アカはくるりと振り返る。

 彼女の後ろには、父……っぽい他人である光彦と、全くの他人である早苗が居た。早苗はくすくすと笑い、光彦は呆れるように肩を竦める。

「お前はほんと、ナチュラルに思考が物騒だなぁ。つか襲われるかもって思ってるのに、なんでそんな楽しそうなんだよ」

「だってあんなにたくさん人が行き交うところなんて、見た事ないもん」

「あー、そうかもなぁ。十年前でも大概の町は閑散としていたし、人の多いところはヤベェのも多いから近寄らなかったし」

「そうねぇ。むしろ出会う頻度が多い分、今より酷いかもね。デボラが現れて十年で、あんなにも酷くなるものなのねぇ」

「人間なんてそんなもんだろ。いざ環境が悪くなれば、簡単に悪事に走るもんだ」

 懐かしむように、光彦と早苗は昔の話をする。アカは昔の話が好きじゃない。幼い頃の、或いは産まれる前の時代の話なんてアカは知らなくて、知らない話に付き合うのは疲れるからだ。

 アカはふて腐れるように再び前を向き、迫る大地を眺める事にした。

 さて、アカ達は今、日本から遠く離れた土地に居る。

 曰くこの船が向かっているあの陸地は『あふりか』という大陸らしい……大陸というのは海に浮かぶ大きな島のようなものだとか。アカにはよく分からないが、要するに日本から海を越えた先にある土地だ。

 なんでもこの地にはまだまだたくさんの人間が居て、今も少しずつ集まってきているらしい。そうして町を作り、国を作り……今に至るという。

 国の名前は神聖デボラ教国。デボラを崇めている国だそうだ。そしてアカ達はこの国の国民だというデボラ教信者に連れられ、この国にやってきた。

 目的はこの国の国民となるため。光彦と早苗がそう決断した事でそうなった。アカは特に意見していない。何分『こくみん』なるものがよく分からないので。

「(どんなところかなー。食べ物がたくさんあるらしいから、お腹いっぱいになれるかなー)」

 とりあえずの楽しみとして、アカは現地の食事に興味を持つのであった。

 ……………

 ………

 …

 結論から言えば、光彦と早苗の選択は大正解だったとアカは思った。

「長旅でお疲れでしょう。この国で採れた作物を使った料理です。質素なものですが、お召し上がりください」

 上陸後招かれたとある施設にて、若い女性がそう言いながら出してきたのは――――木で編んだ入れ物 ― ばすけっと、というらしい ― に山ほど積まれたパンと、皿いっぱいに入った豆入りスープだった。

 質素だなんてとんでもない。アカはそう思った。十年前ですら食事は缶詰ばかり。今じゃ魚だとか犬だとかの死骸、コケや枯れ草……そんなのばかり食べてきた。人間の死体には手を付けていないが、それは光彦から「こんなもん喰ったら病気になる」と言われたから。言われなければ、アカとしては食べる事に抵抗などない。そのぐらい何時も空腹で、ろくなものを食べられなかった。

 なのに此処では、山のように食べ物が出てきた。これだけでも驚きだが、他にもまだまだビックリするところはある。

 例えばパンというのは初めて見る食べ物だ。『乾パン』というのは食べた事があるが、それとは違って見た目がふわっとしている。本当に食べて平気なのだろうか? 綿毛みたいに口の中で絡まらないだろうか。ちょっと心配だ。

 スープは日本でも割とよく食べたが、具材の形がちゃんと残っている事に驚いた。何しろアカが食べてきたスープは、製造されてから十年以上経った缶詰ばかり。どれも中身が溶けきっていて、具材の形なんて残っていない。豆がこういう形をしているものだったとは今まで知らなかった。

 未知の食べ物が並び、アカはごくりと息を飲む。正体不明のものに躊躇……なんてしない。している間に誰かに盗られてしまうかも知れないではないか。

「いただきまふっ!」

「あっ、アカお前!」

 既にテーブルの席に着いていたアカは、光彦の制止を無視してパンに齧り付いた。

 噛んだ瞬間、ふわっと広がる香りと食感。

 一体なんだこれは。本当に食べても平気なものなのか? 迫り来る未知に戸惑いを覚えたのは一瞬。唾液と反応したデンプンが糖へと変化し、甘さを感じた時アカから迷いは消えた。ごくりと飲み、空いた口にパンを押し込んでいく。パンに水分を吸われて口が乾いてきたら、スープを含んで潤す。後はこの繰り返しだ。

 とても美味い。こんな美味い食事は産まれて初めてだ。

「ほうひゃんほへふばいへ!」

「何言ってんのか分かんねぇよ」

 光彦に同意を求めると、彼は笑いながらツッコミを入れてきた。

 アカはまた驚いた。父がこんな風に笑いながら食事をするところなど始めて見たのだから。

 光彦の隣では早苗が静かにパンを食べていたが、彼女も頬がすっかり緩んでいた。この施設……『はいきゅうじょ』というらしい……にはアカ達以外にも数人の、光彦と同い年ぐらいの大人達 ― アカと同じく日本からこの国にやってきた人々だ ― が居たが、誰もが微笑んでいる。

 日本での食事に笑顔がなかったとは言わない。だけど油断は出来なかった。油断をすれば背後から何者かに襲われ、食べ物を奪われたり、殺されたりしてしまうかも知れなかったから。

 だけど此処の人々は、皆油断している。心から笑っている。ガツガツと頬張る者も居たし、光彦も勢い良くパンとスープを食べていたが、誰も警戒心は微塵も見せない。心から食事に集中しているのが分かる。

 必死になって食べていたのは自分だけだった。

 ……なんだか面白くない。アカは無意識に唇を尖らせた。

「ん? どうしたアカ」

「……んぇ? なぁに?」

「いや、なんかお前、機嫌悪くしてないか?」

「……別にしてないけど」

 ちょっと言葉を濁らせながら、アカは答える。

 どうして言葉を濁らせてしまったのか、アカにもよく分からない。分からない自分の行動が無性に腹立たしく、アカはますます唇を尖らせる。

 なんだか知らないが、あんまり此処には居たくない。

「……はぐっ、んぐんぐんぐ、あぐ、むぐぐむぐむぐ」

「そんな急がなくても誰も盗らねぇぞ。おい、アカ?」

 光彦の言葉を無視して、アカは一気にパンとスープを腹に流し込む。早食いは得意だ。ものの数分で満腹まで平らげる。

「ごちそーさま! 私、町の様子見てくるね!」

 そうして食事を終えたアカは、慌ただしく席を立った。

「おい、アカ!? お前何を勝手な……」

「アカちゃん、誰かの物を勝手に取ったり食べたりしたらダメだからね。あと、遠くに行って迷子にならないようにー」

「早苗!?」

 引き留めようとする光彦だったが、早苗はアドバイスと共に送り出す。

 勝手に何かを取ったらダメなのか。今まで人の物だろうがなんだろうが取ってきたアカは、自分の知らなかったルールをちゃんと覚えて、配給所の外へと繋がる出口を目指す。

 出口には女性が数人居たが、誰もがにっこりと微笑むだけ。彼女達はアカを止めようともしない。アカは配給所の扉を開け、外へと跳び出した。

「お、おぉー……!」

 外に出たアカは、思わず声を上げる。

 船の上からでも見えていた家々は、間近で見るとまた違った雰囲気に思えた。日本の家々と比べれば、草と木で作られたそれらは確かに質素なものだが……しかし新品故の綺麗さがある。それに屋根に穴が空いていたりもしない。

 道路も舗装はされていないが、剥き出しの土は真っ平らに成らされている。日本のように経年劣化で陥没やひび割れを起こしているアスファルトより、ずっと歩きやすい。

 そして本当に、たくさんの人が行き来している。

 ……あまりにたくさん人が居るので、アカは段々怖くなってきた。興奮により麻痺していたが、もしかすると自分に襲い掛かる人が居るかも知れない。

 やっぱり配給所に戻ろうかとも思ったが、跳び出した手前なんとなく戻り難い。

「……うん。大丈夫。船の人が、此処にはあんまり悪い人はいないって言ってたし。多分、平気だよね」

 考えた末に、アカは町の方へと向かう事にした。

 配給所から真っ直ぐ伸びる道を進み、町の中に入ると、配給所近くから見えた分よりも更にたくさんの人が歩いていた。何十どころではない。何百もの数だ。こんなにたくさんの人々が集まるところなどアカにとって初めてで、面食らって足を止めてしまう。

 すると後ろから大人の男にぶつかられ、よく分からない言葉で怒鳴られた。多分邪魔だと罵られたと思い慌てて退けば、大人の男は何も言わずに通り過ぎる。

 アカは、凄いと思った。本当に平和なところだ……日本だったら今頃、三人ぐらい仲間がやってきてボコボコにされてるだろうに。

 アカは周りを見ながら、他の人達に併せるように歩いた。あまり遠くに行くと迷子になるという早苗の忠告は覚えていたが、道は真っ直ぐだ。真っ直ぐ行って、真っ直ぐ戻れば、きっと元の場所に帰れる。

 多くの人々と共に歩きながら、アカは周りを見渡した。

 家だと思っていた建物の前には、たくさんの物が並べられていた。食器や家具、鉛筆に材木……それに食べ物のようなもの。人々はそうしたものに近寄り、何かぴかぴか光るものを渡し、物を受け取っていた。

 そういえば十年ぐらい昔は日本でもお金というものがあり、それで物の売り買いをしていた事を、アカはふと思い出す。今の日本ではお金などなんの役にも立たないが、此処ではまだまだ現役らしい。食べ物を手に入れるにはお金が必要なようだ。

 アカはお金を持っていない。配給所で満腹まで食べてきて良かったと思った……良い匂いのするものばかりなので、腹ペコだったら勝手に手が伸びていただろう。此処では勝手に物を取ったらダメなようなので、光彦に怒られてしまうかも知れなかった。

 見るだけに留めて、アカは町の中をどんどん歩く。何もかもが初めてで、新鮮な気持ちが胸を弾ませた。先程までの憂鬱な気持ちは飛んでいき、今ではもう楽しさしかない。

 こんな素敵な場所でこれから暮らせるのか。毎日お腹いっぱいになれるのかな。あのへんてこな道具で遊べるのかな……未来への期待から、心のウキウキが止まらない。

「ん?」

 そんなウキウキしていたアカの目に、ふとあるものが目に留まる。

 路地裏の少し奥……暗がりの中に、光るものがあったのだ。なんだろうと思い目を懲らすと、それは小さな、コインのようであった。

 アカはこの『国』について詳しくないが、そのコインは町の中で人々が渡し合っていたものと同じように見える。

 つまりお金だ。

 人の物を勝手に取ってはいけないと教えられたアカだが、落ちているものは人のものではないと考える。それに此処ではお金がないと物が手に入らない。光彦も早苗も、お金は持っていない筈だから、このままでは買い物が出来ないだろう。

 あの一枚で何が買えるかは分からないが、拾っておいて損はあるまい。それにウキウキしながら歩いていたのでちょっと忘れ気味だったが、配給所からかなり遠くまで来てしまったように思う。このコインをお土産にして、一旦帰るとしよう。

「んふふふーん♪」

 アカは路地裏の入口に足を踏み入れる。薄暗い場所だが、アカの若い視力は落ちているコインを見逃さない。真っ直ぐ手を伸ばし、拾い上げた

 直後の事だった。

 暗闇の中から、一本の『手』が伸びてきたのは。

「――――げっ」

 しまった、と思った時には遅かった。

 暗闇から伸びてきた手はアカの腕をガッチリと掴み、思いっきり引っ張る! アカは反射的に身を仰け反らせたが……手の力が強く、抗いきれない。

 一気にその身は暗闇の中へと引き摺り込まれてしまう。

 道端を楽しげに歩いていた若い女性が、暗い路地裏へと消えた。この町にとってもそれは大事であり、町の人々は決して看過しないだろう。

 ただしそれは気付けたならの話。無数の人々が行き交い、買い物や交渉で忙しい中、路地裏にひょいっと入った女性の事など誰が意識するだろうか。

 つまるところ、誰もアカが路地裏に入った事など意識しておらず。

 アカが何時まで経っても表通りに戻ってこない事を、気に留める者など誰もいないのだった。




凍える世界で生きてきた子に、
この国は熱過ぎる。


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ハルキの興味

 神聖デボラ教国は社会福祉に力を入れた国家である。

 例えば新たな移民には、しばらくの間食糧や技術的な支援を行い、就労の手助けをしている。家宅も私有物というより公共からの提供品という扱いで、誰もが最低限の家を ― 掘っ立て小屋レベルであるが ― 持っている。認可された診療所には政府が資金を出し、市民は無料での診断が受けられるようになっている……等々。

 とはいえ経済は基本資本主義的構造で成り立っており、勝ち組負け組はどうしても出てしまうもの。そうした負け組のための支援もあるにはあるが、それでもやはりこぼれ落ちる者は少なからず出てしまい……彼等の中には、決して素行が良いとは言えない者も存在する。

 ハルキは、素行が良くない者の典型例だった。

 彼はイラン国籍を持つ、二十二歳の青年である。尤も日本かぶれの両親が日本滞在中に産んだ身であり、幼少期はずっと日本で育ってきた。イラン人らしさは顔付きだけ。言葉も考え方も基本的には日本人のそれ。イスラム教も信仰していない。

 もしも何事もなければ、風貌が外国人なだけの生粋の『日本人』として育っただろう。しかし時代がそれを許さなかった。

 デボラの出現により、彼の運命は大きく変わった。治安の悪化、経済の崩壊……一家は離散状態となり、知恵も力もなかった彼は誘拐され、奴隷のような扱いを受けてきた。

 数年前に『ご主人様』を殺害し自由になったものの、その頃の世間は元奴隷に優しくしてくれる事はなかった。いや、それどころか奴隷という『弱者』を蔑み、あまつさえ絞りカスのような財産までも奪おうとしてくる始末。痩せたガキなど雇えないとまともな仕事は得られず……犯罪以外に生きる術はなかった。盗みや殺人を繰り返し、今では心もすっかり極悪人。

 デボラ教徒達に誘われこの国に来たものの、真面目に働くためのスキルも気持ちも持っておらず、選んだ道は間抜けな輩から奪う事。

 かくして今日もコインに釣られた通行人の一人を路地裏に引き込み、脅して金目の物を盗ろうとしていた。

 そして今、今日一人目の獲物に遭遇している。

 若い女だった。年頃はハルキと同じぐらいか。顔付きからして日系人のように見える。目を大きく見開き、顰めた表情からして自分が失敗した事は理解しているのだろう。すらりと伸びた手足は細く、あまり力はなさそうだ。

 女は『獲物』として扱うには丁度良い。力がなく、それでいて宝石などの高価なものを好んで持ち歩く。

「金を出せ」

 ハルキは早速片手に持っていたナイフを女性の喉元に突き付けながら、自分の『用件』を伝えた。見た目は日系人のようなので、まずは日本語だ。もしかすると自分と似たような、つまり海外産まれで日本語が殆ど分からない奴かも知れないが、ナイフを突き付けられればどの国のどの民族でも脅されている事は理解するだろう。

 女の首に突き付けたのはボロボロに刃こぼれしたナイフで、切れ味はいまいち。しかし人間一人の喉笛を掻き切るには十分な代物だ。恐怖を与えるには十分。

 己の命を刈り取る凶器を前にして、女性は――――怯える素振りすらなく、キョトンとしていた。

 ハルキは困惑した。脅しに屈しない女性というのも、この過酷な時代では少なくもないのだが……こうも敵愾心のない反応をされるのは初めての経験。一体この女が何を考えているのか分からない。

 ひょっとして目が見えない? 成程それならナイフを突き付けても……なんと馬鹿馬鹿しい考えだ。この女は落ちていたコインに釣られてきたというのに。なら耳が聞こえていない? 言葉が分からなくてもナイフが見えていれば十分だと考えていたのは自分ではないか。それとも単なる阿呆か? 最早それ以外に考えられず、そうだとすると厄介だ。脅しが効かないとなると最早殺すぐらいしか

 等と目まぐるしく考えがハルキの脳裏を巡る。つまるところ考え込んでしまった訳で、

 突然女性が動き出しても、すぐには反応出来なかった。

「えっ」

 驚きから声こそ出たが、身体は硬直して動かない。女性が素早く手を振り、ナイフを握る手を叩いてもそれは変わらない。

 気付けばガチャンという音が鳴り、見れば握っていた筈のナイフが遠くに落ちていた。

「……しまっ……!?」

 反射的に、ハルキはナイフへと手を伸ばす。

 彼の選択は悪いものではなかった。相手は若い女性とはいえ、武器を持てば男とも戦えるだろう。刃物を奪われたら形勢が逆転し、逆に脅される……いや、興奮した相手が自分を刺してくるとも考えられる。ナイフを奪われては不味い。

 そう、相手に武器を奪われない事は重要だ……相手に武器を奪う気があればの話だが。

 女性にその気はなかった。

「せいっ!」

 彼女はハルキがナイフを拾うために向けた背中を、なんの躊躇もなく蹴り飛ばしたのだ!

「ぐぇっ!?」

 突然の一撃に、ハルキは呻きを上げた。まさか攻撃してくるとは思わず、前に進もうとしていた足は後ろからの打撃に耐えられない。

 がくんっと膝を折ってしまうハルキだが、しかし女性は更に体重を乗せてきた。不安定な体勢では、如何に男と女の力の差であろうと堪えきれるものではない。

 ついにハルキは押し倒され、女性は膝をハルキの背骨に当ててくる。更に腕を掴んで思いっきり伸ばし、ハルキの身動きを完全に封じる。

 なんという技なのか。一瞬で組み伏されたハルキはただただ唖然とするばかり。

「……あ。意外とやれるもんだなー」

 挙句組み伏せた側までもが驚いているとなれば、彼が一層の戸惑いを覚えるのも仕方ない事だろう。

「な、なん、なんなんだお前は!? なんでこんな、体術みたいな……」

「んっとね、早苗っていう知り合いの女の人に教わったの。アカは可愛いから護身術ぐらい覚えときなさいよーって」

「ま、マジかよ、っででででで!?」

 能天気にぺらぺらと喋る女 ― アカという名前らしい ― は更に力を入れ、ハルキの動きを封じる。

 ハルキが格闘技の類を何かやっていれば、この拘束から逃れる術があったかも知れない。しかしハルキは長年奴隷として過ごしてきた身であり、体術なんて『知的』なものとは縁遠い。アカの拘束を自力で振り払う事は無理だった。

 とはいえアカの方も、このままずっとハルキを抑えておく訳にもいかない。自分が逃げるためには何処かで必ず、力を抜く瞬間が生じる。

 その隙に抜け出せば

「さぁーて、このまま背骨をボキッとやっちゃうかー」

 なんて考えが全くの甘えたものであるも、ハルキはアカから突き付けられた。

 ハルキは背筋が震えた。脅された事で恐怖が込み上がったから、ではない。奴隷時代、「ぶっ殺してやる」だのなんだのなんて言葉は飽きるほど聞いてきた。そしてそういう事を言う奴は、まず手を下さない事も学んだ。

 本当に人を殺す奴は、殺したい相手にぶっ殺すなんて言わない。警戒されたら失敗するかも知れないからだ。

 そしてアカは言った。言ったが、ハルキに聞かせるような言い方ではなく……独り言(・・・)のようだった。つまり先の言葉は脅しではなく自問自答。

 必要なら、コイツは殺しすら躊躇わない。

「ま、まま、ま、待て! 待ってくれ! もうしない! 襲わないから!」

 本能的にヤバさを理解したハルキは、無我夢中で命乞いをする。恥も外聞もない必死さだが、死ぬよりはマシだ。

 その甲斐もあってか、ハルキの背骨に走る痛みは強まる事はなかった。

「……本当に襲わない?」

「襲わない、本当に、本当に」

「……………」

 疑っているのか、アカは中々ハルキを自由にしてくれない。

 信じられないのは尤もな話だ。

 しかし実際、ハルキは反撃する気などなかった。恐らく反撃しようとすれば、アカはすぐに対応するだろう。この女にはそれが出来るとハルキは判断していた。もしも再び組み伏されたなら、今度こそアカはすぐに止めを刺してくるに違いない。

 女相手に逃げるなど男のプライドが傷付くものの、文明の崩壊したこの世界においてそんなものはあっても得にならない。命あっての物種だ。

「まぁ、仕方ないか」

 アカは恐らく全く信用していないが、離さないままという訳にもいかない。渋々といった様子で納得し、慎重に手の力を弛める。

 ここで突き飛ばすように身体を動かせば――――邪念が過ぎるが、ハルキは堪えた。アカの警戒心は弛んでいない。妙な動きをすれば、すぐにまたこちらを拘束し、『危険』を排除するだろう。例えそれが誤解だとしても。この女にはそれを躊躇わないという、雰囲気がある。

 その気になれば数秒も掛からずに済む『移動』に、何十秒費やしただろうか。ようやくアカは完全に退き、ハルキは自由になった。勿論ここで跳び起きるのは、アカに余計な誤解を与えかねない。ゆっくりと、慎重に起き上がり……その場に座る。

 ここでようやく、ハルキはアカと向き合う。

 『獲物』だからとあまり真面目に見ていなかったが……中々どうして、可愛い顔立ちをしている。それにあの状況で恐怖に支配されず、淡々と行動するとは。この国でハルキは自分と似たような境遇の人間と何人か知り合ったが、誰一人として彼女のようには振る舞えないだろう。

 女にやられて悔しくないのかといえば、確かに悔しい。しかしそれ以上に『面白い』。

 ハルキは元奴隷であり、他にも多くの奴隷を見てきた。女も男も居たが、現状を嘆く奴というのは五月蝿いだけで役には立たない。むしろ反抗の作戦を伝えても怯え、自分の支配者に媚びるために『味方』を売る。ハッキリ言って敵だ。

 アカは違う。この女は自力でなんとかしようとするタイプだ。或いは、そうしないと生きられなくて、自然とそう考えるのか。

「じゃあ、私はもう帰るから、追ってこないでよ」

 ましてや今し方命を狙われたのに、こうもあっさりと別れを切り出されたなら。

 ハルキは、アカに強い興味を抱いた。

「あ、ま、待ってくれ!」

「ん? なぁに?」

 咄嗟に呼んでみると、アカはくるりと振り返る。まさか振り返ってくれるとは思わず、ハルキはとても驚いた。

「お、おう。待ってくれるんだ……」

「んー。まぁ、あなたそこまで悪人じゃなさそうだし」

「ナイフを突き付けられても?」

「私の故郷なら、脅す前に刺されてる。それをしないんだから十分優しいでしょ」

 あっけらかんと答えるアカ。ハルキは口許を引き攣らせた。この女、一体今までどんな場所で暮らしていたんだ?

 固まってしまったハルキに、今度はアカの方が興味を持ったのか。可愛らしく首を傾げながら、今度はアカが尋ねてくる。

「というか、あなたなんで強盗なんてしてるの? はいきゅーじょとかいう場所でご飯もらえるじゃない」

「あそこは入国して数ヶ月の間しか使えないんだ。どうしても仕事がない奴等は、国が公共事業を与えている。俺はあんな肉体労働はやりたかないからな」

「ふーん。そうなんだ」

「……そうなんだって、軽蔑とかしないのか? 真面目に仕事をせず、犯罪に手を染めているんだぞ」

「? 強盗の方が楽なら、そりゃ強盗するでしょ。私は返り討ちが怖いからやらないけどね」

「……ぷ、くふ、ふははははっ! ははははははっ!」

 アカの答えに、ハルキは大きく目を見開く。次いで、笑いが込み上がり、噴き出してしまった。アカが怪訝そうな眼差しを向けてきたが、ハルキの笑いは止まらない。

 なんて面白い奴なのだろうか。

 ハルキは悪事の中で様々な人間を見てきた。悪事を働く者、悪事を働かない者……考え方は様々だったが、一つだけ共通点がある。

 自分と違う考えを、酷く嫌悪している事だ。

 悪事を働く者は、働かない者を偽善者と罵るか、正直者は馬鹿だと見下す。悪事を働かない者は、働く者を悪人と軽蔑するか、可哀想な境遇だと同情する。正しいのは自分だと、間違っているのは相手だと、そんな事ばかり言っていた。

 だけどこの女は、相手の考えなど気にしない。

 相手が薄汚い犯罪者であっても、相手が真っ当な仕事をしている偽善者でも、アカは嫌悪も侮蔑も同情もしないのだ。その淡泊な態度が、ハルキの関心を一層惹き付ける。

 もっと色々見てみたい。

 仲良くしたいという感情ではなく、例えるなら変な動物を見付けた際の好奇心のようなものが、ハルキの心を満たしていた。ならばこのまま大人しく帰すなんて選択がある筈もない。

「くくくっ。お前、面白い奴だな」

「そう? まぁ、とうちゃんからお前は天然ボケだーとは言われたけど」

「ははっ! 父親にも言われているなら俺の見立て通りだな。気に入った! この町に来たばかりなら、俺が色々教えてやるよ」

「え。いや、別にいらないし」

「遠慮すんなって」

「遠慮じゃなくて、怪しいから信用出来ないって意味なんだけど」

 こんな面白い奴を逃してなるものか。ハルキは少々強引に、顔を顰め始めたアカに言い寄った

 その直後の事であった。

 ぐらぐらと、大地が揺れ始めたのは――――




ちなみにアカちゃん、
ワガママボディ(死語)だけど初恋はまだだったり。


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及川蘭子の研究

「……以上の事から、約七万年前のアフリカ大陸にデボラが出現していた事は、確定的と思われます。彼はその存在感から人類に多大な影響を与え、その進化や文化の変化に大きく関与した事でしょう」

 蘭子は手にした自前のメモを一通り読み上げ、息継ぎがてらのため息を漏らした。

 真っ直ぐ立つ蘭子の前には、今、三人の男性が椅子に座った状態で向き合っている。三人とも六十代ぐらいの男性。誰もがキリスト教系の神父を彷彿とさせる、清潔感のある白い服を着ていた。その手には紋様のようにも見える複雑な形状の杖が握られており、なんとも荘厳な雰囲気がある……尤も彼等の座る椅子は質素な木製で、見た目とのチグハグさがちょっと滑稽でもあるのだが。

 勿論それを堂々と指摘するほど、蘭子は子供ではないし、彼等と親しい間柄ではない。むしろ立場的には、彼等の機嫌を損ねないよう気を付けねばならない関係だ。

 何しろ彼等こそが、今の蘭子の『スポンサー』なのだから。

「成程、よくぞ調べてくれましたね。あなたのお陰でより『神』への理解が深まりました。感謝します」

 三人組のうち、真ん中の席に座る男が蘭子を褒めてくる。蘭子は営業スマイルを浮かべ、男の褒め言葉を心から喜んでいるように『演技』した。

 蘭子の前に居る彼等は、デボラ教の『神官』達である。

 正確な役職名は大神官と言い、役割はデボラ教の戒律を管理し、信徒達の要望や疑問を汲み取り、教義の改訂・追加・解釈を行う事。即ちデボラを信仰する集団ことデボラ教徒達のまとめ役だ。

 そしてこの国こと神聖デボラ教国の統治者である。統治者といっても神事以外には関与せず、この国の内政は選挙で選ばれた政治家が行っている……というのは表向きの話。実際には財政や政策にかなり口出しをしている、というのがデボラ教徒以外の『国民』の印象だ。選挙で選ばれたとはいえ、或いはだからこそ、国民の二割を占めるデボラ教徒を政治家達は無視出来ない。あらゆる宗教や人種を集めた結果、組織票と呼べるのはこのデボラ教徒ぐらいしかいないのだから。現状汚職や失政をしていないから、大神官達の行いは見逃されているようなものである。

 蘭子は現在、彼等から仕事を貰っている立場だ。職務内容は『デボラの生態及び歴史的研究(・・・・・)』。

 つまり何処かの誰かが建てたという教会の下にあった壁画……アレの調査を許可し、促したのは、デボラ教のトップ三人だという事だ。

「今後も引き続き研究を続け、デボラが歴史に与えた影響等を解明していきたいと思います」

「ええ、期待しています」

「それにしても彼女の研究成果には、毎度驚かされる。どうかね? 今後の調査をより効率的に進めるため、彼女により高性能な乗り物を提供しては」

「良い考えだ。彼女の研究にはそれだけの価値があるだろうし、何より及川博士は優秀だからな。限りある資源は、優秀な人材に費やすべきだ」

「……私としては、才能に拘わらず資源はある程度公平に分配すべきだと思いますが、しかし彼女への『投資』は公的利益になるでしょう。異論はありません」

 三人の大神官は自分達の意見を語り、調整していく。彼等の議論は ― 事前に打ち合わせたものでないのなら ― 異なる意見の擦り合わせで、健全なやり取りのように見える。

「あなたにヘリコプターを一機貸し与えます。今後の調査の進展を期待していますよ」

 やがて議論の末、蘭子にヘリコプターが贈呈された。

 各国の統治機能が失われ、文明崩壊と呼んでもなんらおかしくない『現代』。一体何処でヘリコプターを手に入れたのか、どうやって維持してきたのか……気になる点は多々ある。が、追求しようと思うほど、蘭子の興味を惹く疑問でもない。藪を突いて蛇を出す、なんて可能性も思えば尚更だ。

 何よりヘリコプターを貸してもえるのなら、それは大変嬉しい話である。

「はい、ご期待に応えられるよう、鋭意努力を続けていきます」

 社交辞令の微笑みを返し、蘭子は大神官達からの『褒美』をありがたく頂戴するのだった。

 ……………

 ………

 …

「あぁぁぁぁー……づがれだぁー……」

「お疲れ様です。お茶をどうぞ」

 机に突っ伏しながら重苦しい感情を吐き出す蘭子に、彼女の助手であるアランが微笑みながらお茶を差し出した。蘭子はカップに入った茶色の液体……薄味の紅茶を一気に胃へと流し込み、中年男性よりも男らしいゲップを出す。お茶を渡したアランは、蘭子の女らしさのない姿に肩を竦めた。

 蘭子とアランが居るのは、彼女達の『研究所』だ。研究所といっても材木を組んで作ったおんぼろ小屋で、ろくな設備も置かれていない。強いて豪勢なものを挙げるとすれば、つい先程大神官達からもらったヘリコプターが庭に置かれているぐらいか。なんとも目立つ『機材』であるが、研究所が建てられているのは人里離れた土地なので、ヘリコプターを興味深そうに見る者は居ない。今はヘリコプターを運んできたパイロットが遅めの昼食を機内で楽しんでいるが、彼が帰ればヘリコプターを見張る者も居なくなるだろう。

 そして研究所の室内は資料が床に散らばり、足の踏み場もない有り様……なのは蘭子が片付けをしない所為だが。

 お茶を飲んで多少なりと精神的にリフレッシュした蘭子は顔を上げ、大きく背伸び。幾らかマシになった顔付きでアランと向き合う。

「それにしても、ヘリコプターですか。調査範囲が広げられますし、迅速に行動出来るのもありがたいですけど……そこまでしてもらえる研究ですかね、これ」

「ないわよ。やってる事は、デボラについて描かれた壁画がありましたーって報告してるだけ。別に私じゃなくても出来るでしょ、こんなもん」

 アランの疑問に、蘭子は自嘲気味に笑いながら答える。アランも苦笑いしていたが、否定しないところが彼の気持ちを物語っていた。

 確かに、蘭子はデボラに二十年もの歳月を費やしたベテラン研究者だ。今の世界で蘭子よりデボラに詳しい者はいないだろう。

 しかしその知識の大半は生物学的なもの。歴史研究など蘭子にとっては専門外の分野であり、そこまで詳しいものではない。

 なのに大神官達は、どうもデボラの生態よりも歴史的観点を気にしているようだ。生態に無関心という訳ではなく、程度の問題ではあるが。

「というか、宗教家が科学者を支援っていうのが胡散臭いですよね? 彼等はデボラを信仰していて、その信仰対象の神秘を暴く行為をどうして容認するのです?」

「別に不思議な話じゃないわ。むしろ必然の流れじゃないかしら」

「必然?」

「西洋科学の出発点は聖書、つまり宗教よ。完璧で美しい、神の愛に満たされている筈のこの世界を理解したい……その衝動が科学を生んだの。好きな人の事をもっと知りたいという意味では、恋と同じね」

「……それで思っていたのと違う姿を前にしたら、勝手に幻滅して憎さ百倍になると」

「あら、上手いわね」

 けらけらと蘭子は笑い、アランは肩を竦めた。

 そんな和やかな雰囲気の中、蘭子は考える。

 そう、デボラ教の大神官達がデボラの研究を進める事は、なんら不思議な話ではない。大神官達の信仰心が本物なら、『神』の意思を理解し、人々を導くためにも研究が必要だ。反対に彼等がなんの信仰心も持っていなかったとしても、デボラを利用するためには研究が必要だ。

 だから大神官達の行動はなんらおかしくない。おかしくないが……違和感を覚える。

 どうにも彼等は、疑念を確信に(・・・・・・)変えようと(・・・・・)している(・・・・)ような気がするのだ。

「(まぁ、彼等がデボラについて、何かしらの情報を掴んでいてもおかしくはないのだけれど)」

 教会の地下にあったデボラの壁画。あの情報は大神官達から渡されたものだ。蘭子は専門化の立場から壁画を解析しただけである。

 デボラ教は出自不明の宗教だが、存外このアフリカの地が発祥かも知れない。もしかすると壁画のような、なんらかの『文献』を見た者が気紛れにデボラを崇めよ云々と言い始めたのかも知れない。それがSNSなどを通じて爆発的に広がり、今に至るとすれば……デボラ教は科学者達の知らない、多くの考古学的資料を有している可能性がある。

 故に蘭子は、デボラ教徒の支配するこの国で、彼等の支援を受けながら研究を進めているのだ。彼等が持っているかも知れない、古代の文献を目にするために。

 それこそがデボラの真実を解き明かすと、確信しているからである。

「……しかしまぁ、七万年前というのも、凄い年月ですよね。そんな前からデボラが居たなんて」

「あら。アレが本当にデボラとは限らないわよ? もしかしたらエビの神様を描いただけかも。或いはエビ型宇宙怪獣が襲来してきた可能性もあるわね」

「そんな事、露ほども思ってない癖に」

「まぁね。私としては確信があるもの。多分、大神官達にも」

「……大神官達にも?」

 蘭子の言葉に、アランは眉を顰めた。

 隠していた訳ではない。ただ今の今まで確信が持てず、だからこそ話してこなかった。

 今は確信がある。壁画の存在を、大神官達から伝えられた事で。証拠はないが、蘭子の中では間違いないと思うようになった。ならば話しておくべきだろう。

 本当に正しければ、それはアランの命に関わる話なのだから。

「……そもそもの話、どうしてこの町はこの場所にあると思う?」

「? どうしてって……海沿いにあって交易上有利だから、じゃないですか? デボラ教の人達、世界中から人々を集めているみたいですし」

「ええ、そうね。世界中から人々を集めている……カメルーン山がある、この地に」

 蘭子は後半を強調するように語る、が、アランはまだまだピンと来ていないようだ。

 私の助手を名乗りながら些か不甲斐ないのではないか。蘭子はそんな気持ちのため息を吐き、アランは少し動揺する。仕方ないので説明するとしよう。

「良い? カメルーン山は――――」

 そのために蘭子は口を開いた

 直後、ズドンッ! と身体を突き上げるような振動が蘭子達に襲い掛かった。

 突然の事に蘭子は身を強張らせた……ただし一瞬の事だ。彼女はすぐに席から立ち、窓辺に向けて走る。

 尤もその後やってきた『大地震』によって、蘭子は転倒してしまったのだが。

「うわっ!? え、じ、地震!? と、兎に角今は、机の下に……」

 アランもまた戸惑い、されど彼は適切な行動を取る。机の下に逃げ込もうと、いそいそと動き

「駄目よ!」

 しかし蘭子はこれを戒めた。

 アランは呆気に取られた。何故? そう聞きたげな視線を向けてくる。

 蘭子はすぐに答えた。時間がないのだ。

カメルーン山が(・・・・・・・)噴火したのよ(・・・・・・)!」

 自分の予想が正しければ。

「ふ、ふん……!?」

「カメルーン山は活火山よ! 二十七年前の二〇一二年にも噴火しているわ!」

「で、でも、でもだから噴火とは……」

「言ったでしょ! 奴等には確信があるのよ!」

 納得してくれないアランに、蘭子は苛立ちを露わにしながらぶつける。

 そう、『奴等』は知っている。

 『奴等』の教義はなんだ? デボラの力により地上は浄化され、世界が綺麗なものへと生まれ変わるというものだ。ならば『奴等』にとっての善行とは? 簡単な話だ。生き延びた人々(穢れた連中)をデボラの下へと送り、綺麗な世界(あの世)へと吹っ飛ばしてもらう事だ。

 そして『奴等』の上層部……デボラ教の大神官達は知っていた。

 かつて、この地にデボラが現れた事を。

「急いで此処から逃げるわよ! ヘリをもらったから、そのヘリを使って……」

 蘭子はアランに逃げるよう促す。

 だが、その言葉はアランには届かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ギギィイイイイイイイイイイイイッ!】

 世界を絶望に陥れた雄叫びが、この町の全域に響き渡ったがために――――




二十年ぶりの演出。


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足立哲也の逃走

「う、うぅ……」

「大丈夫、大丈夫だ……落ち着いて」

 凍えるように震えるイメルダを抱き締めながら、哲也は顔を上げて辺りの様子を窺う。

 妻であるイメルダと自宅で食事をしていた最中、突然地震に襲われた。

 震度は決して大きなものではなかった ― 体感的に四~五程度だろうか ― が、この国の建物の多くは掘っ立て小屋と大差ないもの。足立夫妻が暮らす家も小屋のようなもので、この程度の揺れでも崩れる恐れがあった。

 地震は数十秒程度で収まった。食器や一部の家具は倒れたが、火を使っていない時だったので火事の心配はない。哲也はホッと安堵の息を吐く。

 しかし安心してばかりもいられない。この家から火の手は上がらないとしても、隣の家から上がらないとは限らないのだ。それに一見して無事なように見えるこの家も、実は揺れにより家の柱などが破損していて、時間差で倒壊する可能性もゼロではない。このまま家の中に留まっているのは危険だろう。

 確かこうした災害の時、民間人が避難するための場所があった筈だ。何処かに地図をしまっていたと思うのだが……

 イメルダをもう少し落ち着かせたら、部屋の中を探そう。哲也はそう思った。

【ギギィイイイイイイイイイイイイッ!】

 ただし、この声を聞くまでの話だ。

 ぞくりと、哲也の背筋に悪寒が走る。

 忘れられる筈がない。自分はそいつに何もかも奪われ、故郷を滅ぼされたのだから。

 そして今度は、ようやく出来た家族すら奪おうというのか。

「っ……イメルダ、立てるか!?」

「て、テツヤ……?」

「大変だと思うが、早く外に出よう。急いで此処から逃げるんだ!」

 哲也の説得に、イメルダは怯えた表情でこくりと頷く。怖がらせてしまったか、と申し訳なく思うが、謝っている暇はない。

 イメルダと共に哲也は外へと出る。道には他にも数多くの人の姿があり、誰もが右往左往している。何処に逃げるべきか分からず、迷っているようだ。

 哲也は一旦足を止め、頭の中に地図を描く。

 『奴』は何時も海からやってくる。そしてその際『奴』は大量の海水……津波を伴って上陸してきた。だから少しでも海から離れるのが最善の回避策である。

 海は此処から南西の方角だ。だから反対側の、北東方向に逃げれば良い。

 哲也は空を見上げる。太陽を見ればその方角が正確に分かるからだ。勿論家の周りの方角ぐらいは覚えているが、混乱時の人間はとんでもない間違いをしてしまうものである。こんな時だからこそ冷静に、ミスを潰さねばならない。

 幸いにして今日は晴れ。燦々と南に輝く太陽を哲也は確認し、

 その太陽を暗雲が隠してしまう瞬間も目の当たりにした。

「……なん……だ……?」

 哲也は思わず独りごちた。その暗雲が、あまりにも濃い黒さだったがために。

 立ち尽くした哲也に、イメルダが抱き付いてくる。イメルダの身体は震えていて、哲也はその震えで我に返った。

 悩んでいる暇はない。少しでも『奴』から離れなければ……

 哲也は一瞬見えた太陽の位置から方角を判断。北東方向に避難すべく、イメルダを連れていこうとする。

【ギギギィイイイイイイイイイ!】

 再度聞こえてくる『奴』の咆哮。身の毛もよだつ恐ろしさに身体が強張りそうになるが、哲也はその強張りを勇気で振り解いて歩を進めた。

 が、すぐに止まる。

 哲也は、『奴』から逃げようとしている。だから海から離れるために北東を目指して進もうとしていた。『奴』から少しでも、一歩でも遠くに逃げるために。

 なのに。

 どうして自分の進もうとした方から『奴』の雄叫びが聞こえてくる?

「ひいいいいいいぃ!」

「逃げろ! 逃げろぉ!」

 唖然となる哲也の耳に、男達の情けない悲鳴が聞こえてくる。

 反射的に振り返ると、北東へと続く道から何人かの若い男達がこっちに走ってくる。誰もが必死で、中には目に涙を浮かべる者まで居る始末。叫ぶ言語はバラバラだが、この国で暮らすうちに幾つかの言語を覚えた哲也は、誰もが人々に逃げるよう促している事を理解出来た。

「山から! 山からデボラが出たぞ! 海の方に逃げるんだ!」

 そして逃げてくる者の一人が、そう教えてくれた。

 尤も、哲也は彼の言葉をすぐには飲み込めなかったが。

 哲也は無言のまま、視線を北東へと向け、ゆっくりと歩く。

 家々の隙間を覗き込むように見れば、そこにはこの国に隣接する形に位置する山……カメルーン山が見えた。大昔よりそびえる山は、何時もと同じ姿を見せてくれる。哲也はそう期待していた。

 期待は一瞬で裏切られた。

 カメルーン山は黒煙を立ち昇らせていた。赤黒い液体を辺りに飛び散らせており、煙が止まる気配はない。耳を澄ませば、微かだが地鳴りが聞こえてくる。

 カメルーン山が噴火している事は明白だった。規模が大きいかどうかは火山学者でない哲也には分からないが、出来るだけ遠くに逃げた方が良い事は間違いない。

 しかし、火山の噴火など些末なものだ。

【ギィィィイイイイイイイイイイイイィイイイイッ!】

 カメルーン山より響く、おぞましい叫び声に比べれば。

 人間ならば即死しかねない有毒の黒煙に包まれようともの、そいつはなんの支障もなく動く。標高四千メートル以上を誇る山体と比べ、それでも余りある存在感を示す巨体。噴き出すマグマを浴びようと怯みもせず、マグマよりも赤い甲殻を麓の人類に見せ付ける。

 やがて黒煙から這い出してきた巨体には、大きなハサミが二本あった。平坦な身体をし、頭に生える四本の触角は小動物のように忙しなく動いている。背中には背ビレのような突起があり、そいつの獰猛さを物語っていた。

 見間違う筈がない。忘れられる訳がない。だからこそ認められない。

 カメルーン山からデボラが現れたという、最悪の状況を。

【ギギィイイイイイイイイッ!】

 されどデボラの猛々しい叫びは、哲也の意識を現実へと引き戻した。我に返った哲也はすぐに駆ける。

 そうだ、のんびりしている暇はない。

 デボラそのものは勿論危険だ。しかし放射大気圧などで攻撃してこない限り、基本進路上だけが被害を受ける。それよりも今は四方八方に広がる恐れがある、火山ガスの方を警戒すべきだろう。

 哲也は、妻であるイメルダに寄り添う。臨月を迎えた彼女に走って遠くまで逃げるよう促すのは酷、いや、『危険』といっても過言ではない。

 故に哲也が選んだのは、イメルダを抱き上げる事だった。

「きゃっ!? え、て、テツヤ!?」

「山は駄目だ! デボラが居る! 海も、アイツが向かうかも知れない! 山とは反対側の陸地に向かおう!」

 驚くイメルダに口早に説明。返事を待たずに哲也は駆ける。イメルダから反論はなく、落ちないよう必死にしがみついてきた。

 イメルダはややふっくらしているとはいえ、決して大柄な訳ではない。しかし『二人』分の重さは哲也の腕にずしりとのし掛かり、足を止めようとしてくる。一般人なら恐らく一分も走ればしんどくなるだろう。

 されど元自衛官にして肉体労働者である哲也にとって、イメルダぐらいの重さならまだ楽なものだ。走りながら、頭をいくらか働かせる余裕だってある。

 何故、デボラは山から現れた?

 最初に過ぎった疑問はこれだったが、されど考えれば特段おかしな事ではない。二十年前も、デボラは富士山から出現した。水爆の熱すらも吸収する奴にとってマグマなどぬるま湯、いや、心地良い温泉みたいなものに違いない。大方海底火山に入り、マグマを泳いでやってきたのだろう。実に非常識な事だが、デボラならば出来たとしてもなんら不思議はない。

 問題はこれからだ。

 火山が噴火したという事は、間違いなく――――

 思考を巡らせていると、ズドンッ! という爆音が哲也の身体を叩いた。強い衝撃に危うく転びそうになるが、維持と気合いで哲也はどうにか踏ん張る。イメルダも恐怖からか強くしがみついてきたが、哲也が安定を取り戻すと安堵したように息を吐いた。

「ひっ……!」

 その安心が幻想だと気付き、イメルダは小さな悲鳴を漏らす。

 自分達が逃げようとしていた先にある家が、粉々に吹き飛んでいたのだ。そしてバラバラになった家の跡地の中心には、真っ赤に輝く巨石が佇む。巨石は三メートル近い大きさで、朦々と白煙を噴いていた。

 噴石だ。火山噴火の衝撃により飛ばされた石が、この地点まで飛んできたのだ。勿論こんな大岩が直撃すれば、足立家は一瞬にしてお陀仏である。

 そして飛んでくる石が一つだけとは限らない。いや、むしろ一個で済む訳がない。

【ギィイイイイイ!】

 デボラの雄叫びに呼応するかのように、カメルーン山から爆音が響く。

 新たな噴火だ。即ち……多量の噴石を噴き出したという事!

「っ! ぬ、うぉおおおお!」

 哲也は最早山は見ず、全力で駆けた!

 間もなく背後から聞こえてくる、空気を切り裂くような音。次いでズドン! ズドン! と衝突音が響いた。噴石が近くの家々を吹き飛ばしたのだ。

「きゃあああああっ!? テツヤ、テツヤ……!」

「大丈夫だ! 顔を埋めてろ!」

 怯えるイメルダの顔を自分の胸に埋めさせ、哲也は前だけを見据えて走り続ける。

 後ろを見てもらった方が良いのでは? そんな考えも過ぎるが、イメルダは少しおっとりとした性格の『一般人』だ。高速でこちらに迫ってくる落石を、正確に目視で捕捉出来るとは思えない。出来たところで、わーわー騒ぐだけでは意味がない。それなら少しでも静かにしてもらい、自分は全身全霊で走り抜けた方がマシだと判断したのだ。

 もう一つ付け加えるなら。

「ぎゃあっ!?」

「ぐぼっ!」

 目の前で落石の直撃を受けて吹き飛ぶ人々の姿を、心優しい彼女に見せたくなかった。

「ふっ! ふぅ! ふっ、はっ! はっ、はっ! はっ! ふぅぅっ!」

 人々が、建物が噴石により吹き飛ぶ中、哲也は走り続ける。吹き飛んだ家の破片が足を打ち、衝撃波が身体を煽ってくるが……彼は止まらない。

 自衛隊員になっていて良かった。お陰でこの身体はちょっとやそっとの事では愛しい人を落とさず、襲い掛かる破片から家族を守り通せる。

 デボラと戦っていて良かった。人の死には慣れている(・・・・・)。目の前で一般人が吹き飛ぼうが、悲惨な最期を遂げようが、それで足が竦みはしない。

 一体何百メートル走り続けただろうか。噴火の音が絶え、落石の音も聞こえなくなり……哲也はここでようやく山の方へと振り返る。

 カメルーン山は未だ黒煙を上げ、山体が赤い溶岩で輝いていた。しかし爆発は起きていないようで、朦々と立ち昇る黒煙は先程より幾らか大人しくなったように見えた。

 そしてデボラは、山を下り始めている。

 デボラがこれからどちらに向かうかは分からない。デボラはかなり気紛れで、その動きの予想は難しいからだ。しかし顔の向きからして、哲也がこれから向かおうとしている方角とは別の場所に進むように思える。

 このまま真っ直ぐ走れば逃げきれそうだ。

 そう、このまま走れば……

「(デボラ……俺の国を、故郷を……!)」

 哲也は強く唇を噛む。

 脳裏を過ぎる風景。美しい国を踏み潰し、立ち直ろうとしていた故郷を押し流し……憎しみが胸の中で燃え上がる。

 勿論戦いを挑んだところで勝ち目などない。十年前に中国(人類文明)が総力を結集して作り上げた兵器をも破壊した、恐るべき生命体なのだから。

 しかしそれでも憎しみの念は消えない。一矢報いるためなら、故郷の友人や仲間達の無念を晴らすためなら――――どす黒い感情が哲也の内を満たした。

「テツヤ……」

 その怨念を一瞬で打ち消したのは、イメルダの小さな声だった。

 哲也は我に返った。そうだ、自分が行ったら彼女が一人になってしまうではないか。そのお腹に宿った、自分の片割れと共に。

 家族にも、友達にも、仲間にも置いてきぼりにされた。

 今度は、自分が愛しい人を置いていくのか?

「……すまない、イメルダ。デボラは俺達とは別の方に行くみたいだし、少し、落ち着いて逃げよう。もう少しだけ我慢してくれ」

「うん、分かった……」

 哲也はイメルダに優しく語り掛けてから、再び走り出す。

【ギィイイイイイイイイイイ!】

 デボラの嬉々とした叫びが町中に響き渡る。

 けれども、哲也が後ろを振り返る事はなかった。




今更ですが、火山からデボラが現れるシーンは「ゴジラVSモスラ」のオマージュです。
あのシーンほんと好き。


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加藤光彦の再会

「おいおい、マジかよ……冗談じゃねぇぞ……!」

 配給所の窓に張り付いたまま、光彦は悪態を吐く。傍には早苗も居て、彼女もごくりと息を飲んでいた。

 朦々と黒煙を上げる山。

 地平線の先に見えるその山は、どうやら火山だったらしい。真っ赤な溶岩まで吐いていた。誰が見ても戦慄するほどの大災厄である。

 その山から這い出してきたデボラさえ居なければ、という前置きは必要だが。

「嘘だろ……」

「なんで奴が此処に!?」

「あ、ひ、ひっ……!」

 配給所内に居た他の『入国者』達も、愕然としたり、狼狽えたり、恐怖に震えていたりしていた。どうやら自分だけが見ている幻覚という訳ではないらしい……幻覚ならばどれだけマシだったかと、光彦は肩を落とす。

 しかし何時までも現実逃避をしている訳にはいかない。

 デボラがどちらに向かうかは分からない。奴は極めて気紛れだからだ。逆にいえば何処に逃げようと来るかどうかは運否天賦。

 ならば考える前にさっさと逃げるに限る。

「おい、急いで此処から出るぞ。兎に角アイツから離れた方が良い」

「待って、アカちゃんは?」

 早苗に逃げるよう促すと、彼女はアカについて触れてくる。

 そう、アカは今何処かに行ってしまっている。

 恐らくはこの付近に居るだろう。しかし辺りを探し回る時間があるかは分からないし、もしもアカがこの配給所に戻ってきたらすれ違う可能性もある。

 待つべきか、探すべきか、逃げるべきか。

「アイツなら今頃とっくに逃げてるだろうよ。俺達もさっさと安全なところに逃げるぞ」

 光彦は迷わず逃げる事を選んだ。

「迷わないわねぇ……まぁ、迷ってる間に死んだら元も子もないわよね。アカちゃんもそう思ってるだろうし」

 早苗は呆れるように肩を竦めながら言うが、批難はしてこない。早苗もアカとは十年の付き合いだ。アカが光彦の事が大好きであるのと同時に、やたらと冷静で淡泊な事も理解している。

 生きていればきっと再会出来る。冷静なアカならちゃんとその考えに至り、淡泊であるが故に『家族』への情愛に引かれる事もない筈だ。

「そーいう訳だ。分かったらちゃっちゃと逃げるぞ」

 光彦はそう言い、真っ先に配給所の外へと向かう。扉はすぐ目の前にあるのだ。逃げるのになんの支障もない。

 扉の前に人が立ち塞がらなければ、という前提は付くが。

「……? おい、邪魔だぞ。そこを退け」

 光彦はハッキリと退くよう促すが、扉の前に立つ者はにこりと微笑むだけ。

 扉の前に立つのは若い男だった。光彦より身長は高いが、ほっそりとした体躯。無理矢理にでも退かすのはさして難しくない。

「良いから退け! 早く逃げないと」

 粗忽にして暴力的な光彦は手っ取り早い方法を採用。強引にでも此処から出るべく、男の肩を掴んだ。

「どうして逃げるのです?」

 ただし男からの問いによって、一瞬その動きが止まってしまう。

 どうして逃げるのか? デボラに踏み潰されたくないからだ。

 この場に居る誰もがそう思っている筈だ。ところがこの男は、尋ねてきた事からしてどうやら違うらしい。

 だが、デボラが何かを知らぬ訳ではない。

「デボラ様が現れたのですよ? この世界を綺麗するために。逃げる必要など、ないではありませんか」

 でなければ、こんな世迷い言を語る筈がないのだから。

「……お前、デボラ教の……!?」

「あなたが清い生き方をしていたなら、恐れる事はありません。己を信仰せねば助けぬような、偏狭な他教の神々とデボラ様は異なるのですから」

 光彦の事など見えていないかのように男……デボラ教徒は、淡々と答える。

 その時物音が聞こえ、光彦は周りを見渡す。

 室内に、多くの職員達が集まっていた。光彦達に食事を与えてくれた彼等は、皆一様に笑みを浮かべていた。子供のように無垢で、心から喜んでいるような微笑みだ。そしてその喜びを、自分達(・・・)と共有したいと思っているし、出来ると信じているように見える。

 常人ならば、彼等の思考は理解出来まい。

 しかし光彦は五十年近い人生の中で、様々な人間と出会ってきた。その中には悪人や善人だけでなく、奇人や狂人も多々いた。だからこそ彼等の、デボラ教徒の目的を理解する。

 コイツらは、確かに善意で自分達をこの国に連れてきたのだろう。労働力を欲していた事も嘘ではあるまい。隠していたのはただ一点。

 この場所にデボラを招き、全ての悪人を滅してもらうという目的だけを隠していたのだ。

「(コイツらの教義じゃ、善人は助かるもんな。騙して連れてきてもなんの問題もないってか……!)」

 日本で彼等の真意を見抜けなかった事を、光彦は心から悔しがる。

 それにしてもまさかこの国の近くにある山からデボラが現れるとは。しかしよくよく考えてみれば、中国にて対デボラ兵器を開発した時、デボラはその兵器に引き寄せられた、という噂があった。デボラ教がなんらかの方法でデボラを呼び寄せる事が可能なのは、可能性としてはあり得た話。

 善人ならば、自分の失態を反省するところか。

 しかしながら光彦は『悪人』である。ついでに言うと割と『馬鹿』でもある。

「ふんっ!」

「ぶぐぇっ!?」

 自分の責任など露ほど考えず、目の前の邪魔者を暴力で打ちのめす事にした。不意打ち、しかも手加減なしの一撃を喰らったデボラ教徒の男は、当たり所が悪かったのだろうか。ぐるんと目を回し……ばたりと倒れる。

 そしてそのままぴくぴく痙攣するばかりで、立ち上がろうともしなかった。

「……死んだ?」

「いや、気絶してるだけだろ」

 早苗の指摘に、光彦はちょっと引き攣った声で答えた。悪人ではあるが小者でもある。傷害は躊躇わずとも、殺人ほどの罪になると背負えない。善人から見ても悪人から見ても、半端でしょうもない人間が光彦だった。

 ともあれ邪魔者は退かす事が出来たのだ。出入口を塞ぐ輩はもう居ない。

 念のため配給所内を見渡してみれば、職員達は突然の暴力に少なからず動揺していたが、光彦達を拘束しようとはしてこない。狼藉者に恐れ慄いたのか、或いは『デボラ様』を受け入れない者をわざわざ捕まえるつもりもないのか。道を塞いでいた男も、ちゃんと話せば案外簡単に退いたかも知れない。

 尤も、今は悠長に話をしている暇などない訳だが。

「兎に角逃げるぞ!」

 光彦は扉を開けて外へと出る。後から早苗が続き、次いでデボラ教徒以外の『入国者』達も外へと出る。

【ギィイイイイイイイイ……】

 そして聞こえてくるおぞましい声に、誰もが声のする方へと振り向いた。

 遠くに見える山から、真っ赤な甲殻を持った生物が降りてきている。

 どう見てもその生物はデボラだった。光彦とて直接目の当たりにしたのは人生で一度だけ、それももう二十年前の話であるが……あの姿は今でも目に焼き付いている。恐怖で全身が凍るような想いだ。

「こっちだ! 早くしろ!」

「え、ええ」

 早苗の手を引き、光彦は走り出した。入国者達の一部は走り出した光彦の後を追い、一部はデボラの動きを見定めるためか山をじっと見ている。

 どちらが正しい行動か。それは光彦にも分からない、が、彼はさっさと逃げるべきだと考えていた。

 光彦は一度デボラに追われた事がある。その経験からして、留まるのは得策ではない。デボラの足は滅茶苦茶速いのだ。逃げ道が分からずとも、兎に角遠くに行くしか避けようがない。

 配給所を出た光彦は、山とは反対方向へと伸びる市街地を走る。たくさんの住人が慌てふためいていたが、不思議と全員同じ方角に逃げていた。恐らくは最初の誰かが走り出した後を大勢の者が追い、気付けば逆らえないほど強烈な人の流れが出来ていたのだろう。

 光彦としても、元よりどっちに逃げようとは考えていない。人の流れに従い、大勢の者達と同じ道を逃げる。

 市街地ともなると建ち並ぶ家々に阻まれ、山の姿はよく見えない。無論山の斜面に居たデボラも見えないため、奴が今どちらに向かっているかは不明だ。勿論デボラが進めば足下の家々が踏み潰されるので、その音で接近には気付けるだろう。しかし周りは逃げ惑う人々の怒号やら悲鳴やらで五月蝿く、家が潰れるような物音はデボラがかなり接近してこなければ分からないに違いない。

 もしかすると、もうかなり近い場所までデボラは来ているのではないか。過ぎる不安に光彦の足が僅かに鈍る。

 しかし早苗が強く手を握り締めてくると、光彦の胸にあったそんな気持ちは何処かに飛んでいった。

「(つーか、なんで俺はコイツの手を握ってんだか……)」

 夫婦どころか恋人ですらないというのに。悪態混じりのため息を光彦は吐く。そんな彼の気持ちなど知る由もない早苗は、変わらず手をしっかり握っていた。

 そうしながら十分か、或いは二十分ほど走り続けた頃だろうか。光彦は自分達が小高い丘を登っていると気付いた。住宅は段々と疎らになり、配給所近くの町並みと比べ、こじんまりとした建物が多くなる。更に数分丘を登り続け、過酷な日本列島生活で鍛えられた肉体でも疲れを覚えるぐらいの高さに来ると……開けた場所が見えてくる。

 どうやら大きな公園らしい。公園といっても遊具一つ置かれていない空き地だが、能天気な幼児が遊ぶだけなら十分使い物になるだろう。恐らく災害などがあった際の避難所として指定されている区画か。

 とはいえ町中の人が集まっているのか、公園内は人でごった返していた。公園内に入る事は難しそうである。そもそも光彦的には、入るつもりもない。

 光彦は公園の入口で足を止め、一旦山の方へと振り返る。

 登り続けた丘からの眺めは、海沿いに建っていた配給所近くよりずっと良かった。周りの建物も小さいお陰で、麓に広がる市街地の様子がよく見える。

 そして市街地に到達したデボラの姿も。

 デボラは既に山から下りていて、市街地を蹂躙していた。光彦は知らない事だが、デボラの出てきた山の標高は約四千メートル。山体が正確な正三角形だとしても、山頂から麓までの距離は約五千六百メートル程度だ。自動車並の速さでどんな段差も乗り越えていくデボラからすれば、十分かそこらで歩けてしまう距離。既に市街地にはデボラの歩いた跡が残り、大きな破壊が確認出来た。

 そのデボラであるが、何故か町の中で立ち止まっている。

 休んでいるのだろうか? 一瞬そんな考えが過ぎるものの、すぐにそれは違うと光彦は思う。デボラは頭をしっかりともたげ、一点を見つめていたからだ。休んでいるのであればもっと楽な姿勢を取る筈である。

 一体デボラは何を見つめている? 光彦は自然と、その視線の先を追う。しかしデボラが見ていたのは町に隣接しているアフリカの海で、特段おかしなものは何もない――――

「……んぁ?」

 そう思った刹那、光彦は違和感を覚えた。

 海に何か、歪みのようなものが見える。蜃気楼とかの類だろうか?

 否、歪みではなく海面の盛り上がりのようだ。

「(いや、待て……待て待て待て待て待て!?)」

 どっと、溢れ出すように光彦は冷や汗を流す。周りでは未だデボラから避難する市民の声に満ちていたが、最早光彦の耳にそれらは一切届かない。

 海面の盛り上がりは、どんどん陸地に近付いてきていた。具体的な高さは分からないが、近くに浮かんでいた船のサイズ感からして、百メートルはあるように見える。

 速さも凄まじい。時速にして数百キロは出ているのではなかろうか。減速するどころかどんどん加速し、高さを増していきながら陸地へと接近して、

 ついに岸に激突する。

 莫大な量の海水が、地上の建物を全て押し流していく。海面の盛り上がり……津波が激突したのは光彦達が使っていた配給所の付近で、配給所や周りの建物は跡形もなく流されていた。

 市街地には、山より現れたデボラから逃げ惑う人々がまだ居た筈だ。その多くが無慈悲に津波に飲み込まれたであろう。助かる見込みはない。

 恐ろしい惨事に、しかし光彦は声を上げない。傍に居る早苗も黙ったまま。二人はただただ津波が押し寄せた岸辺を見つめるのみ。

 いや、二人だけではない。

 この場に居る誰もが、押し黙っていた。辺りを満たしていた喧騒はもう何処にもない。木々が風で揺れる音が五月蝿く感じるほど、しんと静まり返っている。

 誰もが言葉を失っていた。

 誰もが恐怖に震えていた。

 そして誰もが否定したがっていた。

【ギギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 大海原より、二匹目(・・・)のデボラが現れた事を――――




どっちが顔見知りかな?
どっちでも人類的には大差ないがな!


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及川蘭子の衝撃

 海からやってきたデボラと、山から出てきたデボラが対峙している。

 上空数百メートルの高さで浮遊しているヘリコプターからその姿を眺めている蘭子は、その光景を目の当たりにして思わず息を飲んだ。

 海からやってきたデボラ……恐らく彼こそが、この二十年間人類を苦しめてきた個体だろう。一目で分かるような特徴がある訳ではないが、二十年間蘭子はずっと彼の事を研究してきたのだ。だからなんとなくではあるが、海から来た方は自分達の知るデボラだと分かる。

 そしてカメルーン山より出現したデボラ……あれは『新顔』だ。目立った違いがある訳ではない。強いて言うなら山から出てきた方が、海から来た方より顔立ちが少し無骨だ。蘭子にはそう見えた。

 山から出てきた方を新デボラと呼ぶとしよう。デボラと新デボラは向き合いながら、じりじりと距離を詰めていく。互いに警戒している様子だが、しかし近付かないという選択肢はないらしい。少しずつ、町を踏み潰しながら、着実に二匹は接近し――――

 最初に動いたのは、デボラの方だった。

【ギギ、ギイイイイイィィィ!】

 デボラは前足である二本の巨大なハサミを開き、新デボラへと跳び掛かった!

【ギイイイイイィィィィ!】

 僅かに遅れて新デボラも動き出す。デボラが繰り出した二本のハサミは、一本は新デボラの右のハサミを掴み、されどもう一本は新デボラが繰り出したハサミに挟まれてしまう。

 互いに相手のハサミを掴み、身動きが取れない。しかしどちらも自分からハサミを放すつもりはないようだ。

【ギイイィィ!】

 デボラは雄叫びを上げながら、新デボラを押していく!

 体格は互角。されどパワーではデボラの方が上らしく、新デボラはどんどん押されていく。新デボラは踏ん張っているようだが、その身の後退が止まる気配はない。

 掘っ立て小屋のような建物が、新デボラとデボラにより踏み潰されていく。そこにはたくさんの人々が暮らしていたが、二匹は足下の虫けらに興味すら持たない。

【ギィイイイアッ!】

 押され続けていた新デボラは、吼えるや否やデボラを掴んでいた方のハサミを放した……のも束の間大きくその身を屈ませる。

 デボラは新デボラの動きに付いていけず一瞬その身を強張らせ、新デボラはその隙を突いて屈ませていた身を一気に起こす! 新デボラの頭部はデボラの胸部を下から突き上げるように打ち、強烈な衝撃を与えた事だろう。打たれたデボラの身体は浮かび、堪らずデボラも挟んでいたハサミを開いた。

 突き飛ばされたデボラは数百メートルと後退。だが新デボラはここで休憩を挟むほど優しくはないらしい。打撃を喰らわせたのも早々、一気にデボラ目掛け駆ける!

【ギ、イイィッ!】

 そしてぐるんと回転しながら、自らの尾を振るった!

 尾の直撃を受け、デボラは大きく吹き飛ばされた。百五十万トンはあるだろう巨体が浮かび、ひっくり返って大地を転がる。

 背中と比べれば幾分柔らかい腹を晒してしまったデボラに、新デボラは追撃とばかりに突撃する! 自慢のハサミを振り上げ、新デボラは止めの一撃をデボラに喰らわせようとした

【ギッ、ギィイイイイ!】

 瞬間デボラの頭部より放たれたのは放射大気圧!

 顔面に放射大気圧の直撃を受け、新デボラは大きく仰け反りながら後退。この隙にデボラは体勢を立て直し、二発目の放射大気圧を放つ!

 一撃で町をも吹き飛ばす破壊。連続で受ければ如何に新デボラでも……

 そんな甘い願望を叶えてくれるような存在ではない。

 新デボラもまた放射大気圧を撃ち、デボラからの攻撃を相殺――――否、押し返す! 肉弾戦ではデボラに分があったが、放射大気圧の力では新デボラが勝っていたようだ。

【ギギィッ!? ギッ……ギイイイイイイッ!】

 新デボラからの放射大気圧を顔面から受けたデボラは、だが後退りはしない。むしろ怒りを滾らせ、新デボラ目掛け突進する!

 新デボラの方も放射大気圧でデボラを止められるとは思っていないのか。数発の放射大気圧を喰らわせるや、こちらも自ら突撃を始める。

 時速六百キロオーバー同士の接近。相対速度は音速を超え、百五十万トン同士が一切の躊躇いなく衝突!

 新デボラの身体が僅かに浮くのと同時に、あたかも爆撃でも行われたかのような衝撃波が周囲に広がる! デボラ達に踏み潰されずに残っていた家々も、この衝撃波で軒並み吹き飛ばされていく。

 二匹による肉弾戦は何もかも破壊していくが、されど二匹は止まらない。デボラは浮かんだ新デボラに追撃の体当たりを喰らわせるが、デボラはぶつかってきた新デボラを両手のハサミで抱え込み、着地と同時になんと豪快に投げ飛ばす! 人間やサルほど器用な飛ばし方ではないが、それでも百五十万トンという巨大隕石並の質量が一度は宙に浮かび、自由落下で墜落したのだ。大地が揺れ、空気の震えが何もかも打ち砕いた。

 もしも地上でこの戦いを見ていたなら、恐らく蘭子は今頃死んでいたに違いない。大神官達からもらったヘリコプターが早速役に立った。尤も、空中に居ても放射大気圧の流れ弾が飛んでくればその瞬間にお陀仏だが。

「ら、蘭子さん! 逃げましょう! 早く!」

 共にヘリコプターに乗り込んだアランの意見は、至極尤もなものだ。折角高速で移動出来る乗り物に搭乗しているのだ。撃ち落とされて死ぬなど間抜けにもほどがある。ヘリコプターを操る操縦士 ― ヘリコプターを蘭子の家に送り届けた後、のんびり昼食を取っていたのが幸いした ― もこくこくと頷いていた。

「駄目よ!」

 だが、蘭子はすぐにこれを拒む。

「な、な、なんでですか!?」

「『一式』を知ってる!? あの巨大兵器の起動時、デボラは『一式』の下までやってきた! つまり奴は『一式』の活動を検知し、そして接近したという事! 動力として積まれていた、核融合炉の熱を探知したんじゃないかってのが有力な説ね!」

「それがなんだって言うんですか!? そんな事より早く逃げないと……」

「まだ分からない!? デボラは莫大な熱量を発する存在……自身と同等の何かを感知する力があるのよ! そして此処にデボラがもう一体現れた! つまり!」

「つ、つまり……!?」

「つまり、デボラにとってこの出会いは必然! 最初からアイツは想定していたのよ! 自分以外の(・・・・・)デボラと(・・・・)遭遇する事を!」

 蘭子の告げた言葉に、アランは驚愕からか口を喘がせるようにパクパクと空回りさせる。

 蘭子にとってもこれは推論だ。想像力をフル回転させて生み出した、ただの仮説でしかない。

 しかしそうとしか思えないのである。遙か彼方に存在する、自身と同じだけのパワーを感知する性質……それはよもや『一式』という人類がぽんっと作った代物を探知するために備わった器官ではあるまい。

 最初からデボラは、いや、デボラの種族は想定していたのだ。

 同種内での積極的な出会い、その結果から生じる闘争を。

「最初から疑問だったのよ。放射大気圧にしろ、熱による防御反応にしろ、どう考えても地中で必要になるものじゃない。だって地中の、マグマの中に空気なんてないんだから」

「……でも、地上で同種と戦うのなら、それらは必要になる」

 アランの言葉に蘭子は無言で頷いた。

 地上では未だデボラと新デボラの争いが続いている。

 デボラは殴るには遠過ぎる距離から、放射大気圧を放つ。体内に宿る莫大な熱を物理的運動量に変換して放つこの攻撃は、熱を吸収してしまう同種相手にもそれなりの打撃を与えるだろう。一方的に相手を嬲れるなら、それに越した事はない。

 これを迎え撃つ新デボラは身体を赤くし、膨大な熱を放出した。熱による大気膨張は、同じく空気の塊である放射大気圧を霧散・消滅させる。更には身体の細胞が活性化させる事により傷も癒え、戦う力を自分に与えてくれる一石二鳥の策。

 人類の攻防を容易く粉砕してきた二つの力は、同種との戦いでこそ本領を発揮するものなのだ。人間に使用してきたのはその応用に過ぎない。この闘争こそが彼等本来の生態なのだろう。

 そしてこの二つの形質は、地上でなければ役に立たない。

 何故彼等は地上で戦うのか? 地上で戦うために、どうしてこんな能力を身に付けた? そこにはなんらかの、デボラという種にとって大切な『意味』がある筈だ。

 この戦いがデボラの自然の姿であるなら……この戦いを見逃せば『デボラ』の真実を解き明かす事は永遠に出来なくなる。蘭子はそう確信していた。

「二十年間の謎が解けるかも知れない以上、この戦いから逃げる訳にはいかないわ。どうしても逃げるなら私を下ろしてからにしてちょうだい」

 蘭子のこの言葉は、せめて自分の身勝手にアランを巻き込むべきではないという、微かな理性から零れたもの。

 仮に本当にこのヘリコプターから追い出され、デボラ同士が戦う地上に降ろされたとしても……蘭子は一切後悔しない。デボラの謎に半生を費やした蘭子にとって、何があったか分からないままの方が、踏み潰されるよりもずっと辛いのだ。

「……ええいっ! ボクも学者です! そんな事言われて、おめおめと逃げられますか!」

 しかしアランがこう言った時には、少しだけ後悔した。

 自分の語った話が彼の好奇心に火を付けたのだとしたら、自分が彼をこの危険な地に縛り付けたのと同じ事なのだから。

 そして同時に、助手である彼が学者らしい姿を見せた事が、ちょっと嬉しかったり。

「……学者ってのは難儀な種族よねぇ」

「難儀な種族だから学者になるんです」

「そうかもね。あ、そうそう。操縦士さんはどうする? あなたがNoと言うなら、私達二人で降りる事になるけど」

「ご冗談を。あの話を聞かされて、おめおめと逃げられませんよ。私も、デボラの真実を知りたいのは同じなのですから」

 ヘリの操縦士を務めている三十代前後の白人男性は、屈託のない笑みを浮かべて答える。怖がっている様子はない……むしろギラギラとその目を輝かせているように見えた。

 操縦士も何かデボラに対し想うところがあるのか。しかしそれを問い詰めている暇はない。

【ギギギィイイイイイイイッ!】

 デボラが叫びを上げた、次の瞬間、背中の甲殻が開かれる(・・・・)

 デボラが出現して二十年。その二十年間でただ一度だけ確認された行動だ。蘭子はそれを知っている。

 同種である新デボラも知っている筈だ。だからこそ彼もまたその背中の甲殻を開き、二枚の翅のように広げたのだろう。

 『翅』を広げて向き合う二体。周辺の気温が急激に下がり、大地や家々の残骸が凍り付いていく。更に気圧までもが変化したのか、上空に分厚い雷雲が広がり始めた。雷鳴が轟き、地上に幾つも落ちていく。雷撃を受けた家は、凍り付きながら燃え出した。

 その恐ろしい光景に、蘭子の背筋に悪寒が走る。

「っ! 離れて! 出来るだけ!」

「え、あっ、はい!?」

 蘭子は反射的に指示を出し、操縦士はそれに応えてヘリを動かす。本当に急いで動かしたのか、慣性が蘭子達の身体を襲う。内臓が掻き回されるような感覚に、蘭子は吐き気を覚えた。

 結果として蘭子の判断は正しかった。

【ギィィイイイイッ!】

【ギギギイイイイッ!】

 二匹の怪物が吼えるや、四枚の翅の先から光が放たれる!

 熱光線だ。一撃で人類最強の兵器であった『一式』の上体を吹き飛ばした、恐るべき攻撃。デボラと新デボラは、その力を容赦なく同胞に放った。

 人類には抗いようのない力は、しかしデボラ達にとっては想定されていた力なのだろう。熱光線の直撃を受けた甲殻は弾け、デボラの肉片と体液が飛び散った。だが、デボラ達の身を貫くには至らない。

 何故なら熱光線の直撃を受けた箇所が、猛烈な勢いで再生していたからだ。肉を吹き飛ばす熱光線を、盛り上がる肉塊が押し返す。熱光線は甲殻こそ貫いたが、その肉の深部には達する事すら叶わない。

 デボラの肉体は熱エネルギーにより活性化し、劇的な再生能力を発揮する。爆薬を積んだミサイルどころか水爆にすら耐えるその力は、デボラ同士の撃ち合いにも活躍していた……いや、本来はこの熱光線に耐えるための進化か。水爆への耐性など『おまけ』だったという事だ。

【ギ、ギ……ィギィイイッ!】

 デボラは大きくその身を傾ける。

 すると熱光線の一本が、まるで反射するようにデボラの身体から逸れた! 熱光線はデボラから数キロ離れた地上に命中――――した瞬間、その場所の大地が加熱・溶解。

 紅蓮の溶岩と化した大地が、激しく弾け飛ぶ! 一千度を超えるであろう液体が町だった場所に降り注ぎ、木々で出来た家々を燃やしていく。その下に、まだ生きている人々が居るかも知れないのに。

 だがデボラ達は人間の命など気にも留めない。デボラは当てられる二本の熱光線を弾きながら全身。その身の動きによって熱光線は乱反射し、あちらこちらに飛んでいく。彼方の市街地が一瞬で焼き尽くされ、大地が溶岩に沈み、畑が焦土へと変わり果てる。

 時には空へと熱光線は飛び、蘭子達が乗るヘリコプターのほんの十数メートル先を通り過ぎた。

「うわぁっ!?」

「ぐっ、く……!」

 熱光線により加熱された大気が、暴風となってヘリコプターを襲う。機体が大きく揺さぶられ、危うく墜落するのではと思うほど傾いた。

 もしも蘭子が指示を出さず、熱光線が放たれる前と変わらぬ位置に居たなら……直撃したとは限らないが、より強い暴風を受けた筈だ。本当に機体がひっくり返り、墜落したかも知れない。

 蘭子は自分の心臓が破裂しそうなぐらい鼓動している事に気付いた。無意識に手は己の胸に当てられ、乱れた呼吸で酸素を吸い込む。本当に死ぬかも知れなかった事態に、身体は悲鳴を上げていた。

 されど心は、かつてないほど昂ぶっている。

「(凄い……)」

 賞賛の言葉が自然と沸き上がる。

 デボラは新デボラの熱光線を切り抜けて肉薄。巨大なハサミを新デボラの顔面に叩き付ける! 怯んだ新デボラは大きく仰け反り、撃っていた二本の熱光線はあらぬ方向へと飛んでいった。そのうちの一本がカメルーン山に命中し、開けた穴より多量の溶岩が噴出する。

 噴火だ。新デボラが引き連れてきたマグマが、未だカメルーン山には蓄積していたのだろう。僅か数十キロ先で起きた『地殻変動』……下手をすれば地球環境が更に悪化しかねない要因だ。

 されどデボラは山など振り向きもせず、新デボラを殴る。殴って殴って殴りまくる!

【ギィイイイッ!】

 新デボラは堪らず後退。熱光線も止めた。追い打ちを掛けるようにデボラは更に大きく腕を振り上げ、

 新デボラの身体が、一瞬眩く光った。

 瞬間、新デボラの周囲に爆風が吹き荒れた!

 爆風は音速を超えていたのか、白い靄のような『色』を付けて広がる。そのパワーは、あろう事かデボラを大きく押し退けるほどのものだった。

 推定体重百五十万トンのデボラを押し退けるのだ。人間が作り出したものに耐えられる訳もなく、半径数キロのものが跡形もなく吹き飛んでいく。いや、家々だけではない。大地すらも吹き飛び、巨大なクレーターが形成された。

 周囲はついに完全な荒野と化した。付近に居た人間は一人残らず消え去ったに違いない。

 体力回復のための防御反応とは違う、始めて見せた行動だった。恐らく肉弾戦で押し込まれた際の反撃手段……膨大な熱を瞬間的に放ち、空気を一気に膨張させ、その圧力で『敵』を吹き飛ばすのだろう。

 人類が作り出した兵器の中で、唯一デボラとまともに戦えた『メカデボラ』……だが、アレさえもデボラに本気を出させるには足りなかったらしい。デボラはまだまだ、恐るべき技の数々を持っている。

 それを理解した蘭子は、恐怖と同じぐらい興奮した。人智など足下にも及ばない、生命と生命のぶつかり合い。これを前にして、どうして恐怖を感じる余裕などあるのか。

 そしてこの戦いが、まだまだ『序の口』である事を蘭子は理解する。

【ギィイイイィイイイギギギィイイイ!】

【ギギギギギィイイイイイイイイイイ!】

 二匹のデボラの闘志は未だ衰えず、一層強く燃え上がっていたのだから……




怪獣大決戦(同種)


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アカの生存

 重たい。

 こんなにも重たい感覚を味わったのは、産まれて初めてだ。手足もろくに動かせないし、胴体も押さえ付けられているかのように強く圧迫されている。おまけに辺りは真っ暗で、何をどうすれ良いのかもよく分からない。

 そんな状況に、今のアカは置かれていた。

「(うーん、これはアレか……生き埋め(・・・・)というやつか)」

 冷静に……というよりいっそ暢気なほどに、自分の状況をアカは的確に理解する。理解した上で、変わらずゆっくりと考える。

 このまま生き埋め状態のままだと、どうなるだろうか。

 じわじわと押し潰される、なんて事になるのかも知れない。仮にならなくても、このまま下敷き状態ではご飯も探せない。ご飯を食べないとお腹が空いて、やがて死んでしまう。

 死ぬのはあんまり怖くない。周りでバタバタ人が死に、死んだ亡骸からものを盗って生きてきたアカにとって、死とは忌むべきものではないのだから 。

 しかしお腹が空くのは駄目だ。出来る事なら満腹状態で死にたい。

 つまりこの死に方は『お断り』だ。

「ぬ、ぐ、ぐぎ、ぎ……!」

 唸り声と共に、アカは両腕に渾身の力を込めていく。

 本能のまま出したフルパワーは、ほんの僅かだがアカの上に乗っている『何か』を押し退けた。すると僅かながら風がアカの顔に吹き付ける。風が来たという事は、この先に外へと繋がる隙間がある証だ。

 アカは素早く腕を前へと伸ばした。真っ暗なのでろくに何も見えていないが、野生の勘によるものか、伸ばした手は一発で隙間に入り込む。

「ふぬ、ぬぎぃいいいいい……!」

 取っ掛かりを得たアカは、更に全身に力を込めた。ここで力を抜けば、押し退けたものが反動と共に一気に戻ってくる。そうなれば本当に潰される。アカはなんとなくだがそれを察していた。

 気合い、凄み、執念。

 どう表現しても良いが、要するに『根性』により、アカは己が身体をついに起こす。そのまま上へ上へと、行く手を遮るものを素手で退かしていき……

「ぶっはぁ! はぁ、はぁ……出口だぁ!」

 自力で、アカは生き埋め状態から脱してみせた。

 きょろきょろと辺りを見渡せば、一面瓦礫だらけの景色が映る。というより瓦礫しか見えない。人の姿どころか草木や動物の姿もない、彩りこそ様々だが非常に殺風景な景色が広がっていた。

 アカが埋もれていたのは、そうした景色を作る瓦礫の一部。瓦礫といっても石材の類は少なく、木の板や薄いトタン板など……この国の家々の材料が殆ど。

 つまりこの瓦礫達は元々この国に建ち並んでいた住宅であり、アカはそれらの下敷きになっていたという事だ。

 さらりと超人的生還を果たしたアカ。しかしながら彼女は何故生き埋めなどという事態に陥っていたのか。

 その答えは、アカから十キロは離れた場所にある。

【ギィイイイイイイイッ!】

 空気がビリビリと震えるほどの、恐ろしい叫びと共に『巨大エビ』が駆ける。最早家の欠片すら残っていない荒野を、身体の下に生やした無数の足で突き刺しながら猛スピードを出していた。

【ギィギギギギィィイイイイイッ!】

 その『巨大エビ』を待ち構えるのもまた、『巨大エビ』であった。

 互いに一歩も退かなかった両者は正面衝突。しばらくしてアカまで届いた爆音は、心臓が止まるのではないかと思うほど大きなものだった。しかし『巨大エビ』同士にとっては大したものではないらしく、二匹は争いを止めようともしない。

 あのエビが、デボラなのか。

 自分が生まれ育った世界をこんな風にした元凶……と色んな場所で聞いてきたが、実際に目にしたのはこれが始めて。かつて七十億人も居たという人類が束になって倒そうとしたが、呆気なく返り討ちになったという話だ。

 確かにこんなとんでもない化け物、人間が何人集まっても勝てないとアカは思う。むしろ二十年前の大人達はどうして勝てると思ったのだろうか?

 というより、デボラは一匹だけではなかったのか……

「おっと、疑問に思ってる場合じゃないや」

 無意識に考え込みそうになったが、すぐに『本能』によってアカは我を取り戻す。

 あのデボラ達の争いの余波こそが、アカを生き埋めにした元凶だ。

 何キロも離れている筈なのに、戦いの余波が飛んでくるとは思いもしなかった。遠くから瓦礫の山が飛んできたのを見た瞬間、さしものアカも頭が真っ白になってしまった。どうにか直撃する寸前で我に返り、反射的に近くの家に跳び込んだお陰で瓦礫の直撃は避けたが……建物自体が崩れて生き埋めになった、というのが事の顛末である。

 デボラ達は今も争っている。此処に居たらまたさっきのように余波が飛んできて、瓦礫も舞い上がるかも知れない。それに何百メートルもの大きさがあるデボラ達は、立ち位置を少し変えるだけで数百メートルと移動する。町を薙ぎ払った放射大気圧(爆風)や山をも貫く熱光線(眩しい光)に至っては、平然と何十キロも飛んでいったように見えた。数キロ程度の距離では到底安全とは言えない。

 もっと、出来るだけ遠くに逃げる必要がある。別行動中の光彦(とーちゃん)もきっと同じ事を考える筈だ。

「良し、さっさと逃げよう」

 そうと決まれば善は急げ。アカはすぐにでもデボラ達から更に離れようとして、

「ぶっはぁ! はぁ! はぁ!?」

 自分のすぐ傍で上がった声に反応に、無意識に振り返った。

 見れば瓦礫の山から身を這い出している青年が一人。

 ハルキだ。そういえばデボラが現れた時、一緒に行動していた。それから一緒にデボラから逃げて、その時にデボラ同士の戦いの余波に襲われて……

 咄嗟に建物内に逃げ込んだ時、アカは彼の事などすっかり忘れていた。そして今の今まで忘れたままだった。

 別にこのまま忘れていても後悔などしなかっただろうが、思い出した後に無視するほどアカも薄情ではない。

「あ、生きてたんだ。大丈夫?」

「な、なんとかな……お前こそ、よく無事だったな」

「まぁ、そこは気合いで。ほら、手を貸すよ」

 アカはハルキに自らの手を差し伸ばす。ハルキはアカの手を躊躇わずに掴み、アカはそんなハルキを力いっぱい引き上げた。

 無事脱する事が出来たハルキは、一時その場に蹲る。相当体力を使ったのか、過呼吸のように荒い息を繰り返していた。時間と共に段々収まると、体勢を直してその場に座り込む。

 疲れてはいるようだが、動けないほどではなさそうだ。

「んじゃ、さっさと逃げようか。また生き埋めになったら、次はないかもだし」

 ハルキを助け出したアカは、すぐにでも逃げたい意思を伝える。

「……良いのかよ。この下、多分まだかなりの数の人間が埋もれているぞ」

 しかしハルキは、アカの指針に疑問を示す。

 ハルキの言う通りだろう。アカとハルキが逃げている時にも、周りにはそれなりにたくさんの人が居た。彼等も当然巻き込まれ、瓦礫の下敷きになっている筈だ。

 アカは幸いにして根性で脱出出来たが、それが無理な状況の人も多いだろう。彼等は暗くて身動きの取れない中で、誰かの助けを待っているに違いない。

 アカにもそれは理解出来る。

「? そうだと思うけど、まぁ、自分が死んだら元も子もないし」

 理解出来るが、だから助けようという考えに結び付かないのがアカだった。生きていて困難に見舞われるのは当たり前。勿論アカとて家族(光彦)仲間(早苗)以外の者を、手助けしたりしてもらったりした経験はあるが……互いにメリットがある時や、自分の生命が脅かされない状況の時だけだ。

 今はデボラがすぐ近くまで来ている。現在進行形で生命の危機だ。人助けをしている場合ではない。

「お前の親父さんも、この下に埋まっているかも知れないのに?」

「とーちゃんが埋まってるって確信したら助けるけど、そうとは限らないし。大体何処を探すのさ」

 例えハルキが『可能性』を示しても、アカの気持ちは変わらない。

 冷淡でもなければ冷酷でもない。

 そうして『無理』な事を迷いなく切り捨てなければ、生きていけない時代に育ったのがアカなのだ。

「……だな。悪い、試すような真似をして」

「? 試す?」

「大した事じゃない。やっぱお前は面白い奴だって、再認識しただけさ。話し込むのは終わりだ。逃げるぞ」

 ハルキは話を切り上げて立ち上がった。疑問はあるが、しかし話し込んでいる暇はない。

 例えば今この瞬間、アカ達からほんの数百メートル離れた位置を、熱光線が通り過ぎたりしていた。肌が焼けそうなほどの熱波がアカ達まで押し寄せ、溶けた大地が溶岩となって飛び散る。至近距離で受ければどうなるかなど、考えるまでもない事だ。

「だね。さっさと逃げよう」

 ハルキに同意してアカは走り出す。ハルキもまた同じく走り出した。

 出来るだけ遠くに、もっと遠くに。そうして遠くに逃げればきっと助かる。

 アカはそう考えていたし、それ以外に助かる方法なんて思い付かない。だからがむしゃらに、ひたすらに走り続けた。それは自分達以外の走る人の姿が見えても、何も変わらない――――筈だった。

 ただ一つの例外を除いて。

「ん? んんんんんっ!?」

 不意に、アカは歪な声を漏らす。

「どうしたんだアカ?」

 いきなりの奇声にハルキが声を掛けてくる。が、アカは返事すらしない。ただただ一点を見つめるのみ。

 アカが見つめるのは、自分達の横数十メートル先。本来なら住宅などに遮られて見えないであろう道は、しかしデボラ同士の戦いの余波で建物が崩れ、平地となった事で丸見えとなっている。

 隣の道では、かなりの数の人が走っていた。薄汚れていたり、頭から血を流していたり……無事とは言い難い姿だが、どうにか生き埋めを免れた、或いは脱出出来た人々のようだ。

 デボラ達の戦いの余波をあまり受けなかった、という事はあるまい。恐らく開けた場所、例えば公園などに避難していた事で、大きな瓦礫の下敷きになるのを避けられたといったところか。二十年前では公園や学校が避難所に使われていたという話を聞いた時、アカは「そんなところに逃げて意味あんの?」と思ったものだが、成程これだけ大勢が助かるのなら確かに意味はあったらしい。

 しかしアカからすれば、顔も知らないような人が何百人生きていようがどうでも良い話だ。

 アカが気にしたのは、走る人間の中に紛れてちらりと見えた見知った顔の二人組。

 光彦と早苗の姿だった。

「とうちゃん! 早苗!」

「えっ?」

 突然声を上げたアカに驚くハルキだったが、アカはもうハルキの声など聞こえていない。

 大声で呼んでみたが、光彦達らしき姿は振り向きもしない。別人か? いや、遠くてこちらの声が聞こえていないのかも知れない。周りの人々の喧騒も、きっと邪魔している事だろう。

 もっと大きな声を、もっと近くで聞かせなければ……

 真っ直ぐ走るのを止め、アカは斜めに移動する。瓦礫を乗り越えながら進むのは中々大変だ。埋もれているとはいえ、道のあった場所を沿うように走るのとはちょっと違う。

 それでもアカの身のこなしは軽く、すいすいと瓦礫を跳び越えた。

「とうちゃん! 早苗ぇーっ!」

 アカはもう一度、先程よりずっと大きな声で叫ぶ。

 今度は、人影の一つが振り返る。

 降りかえった顔は、驚きの表情を色濃く見せていた。同時に明るい笑みも浮かべてくれた。それだけでアカは彼等が誰であるか確信が持てた。

 間違いなく光彦と早苗だ。あの二人は、ちゃんと生きていたのだ。

「アカ! 生きていたか!」

「とうちゃん! とーちゃぁーんっ!」

 大きく手を振り駆けるアカ。光彦は笑みを浮かべてアカを見続け――――

 ふと後ろを振り返った時、光彦の顔が強張った。

「来るな!」

 直後、アカに向けて罵声染みた声を飛ばす。

 罵声をぶつけられ、アカは怯んだ。見知らぬ人間の大声なら、大して驚きはしない。しかし光彦が今し方出した大声は、まるで酷く怒っている時のようで、彼女の足を反射的に止めるのに十分なものだった。

 そう、アカは足を止めた。

 だからアカは――――目の前を(・・・・)高速で横切る大量の瓦礫に、巻き込まれずに済んだ。

「……えっ?」

 呆けた声が漏れ出た時、アカの前には何も残っていない。

 そう、何も。

 建物が崩れて出来た瓦礫の道も、その上を走っていた人々の姿もない。当然ついさっき自分を怒鳴ってきた光彦も見えない。

 何故なら瓦礫が、全てを吹き飛ばしてしまったから。

 彼方で今も激しくぶつかり合っている二匹のデボラ。その二匹のうちのどちらかが放った放射大気圧の一撃が、逸れるか外れるか弾かれるかして……こちらに飛んできた。

 そして偶然アカの目の前、光彦達の居た場所を直撃か掠めたのだ。

 ……気付かなければ、そのまま呆然と突っ立ったまま、無感情のままでいられたかも知れない。けれどもアカは勘だけは良く、この残酷な時代によく適応した子である。

 どんな辛い現実も、彼女はすぐに理解出来てしまった。

「ぇ、ぁ、と、とうちゃ――――」

 ぐちゃぐちゃになる思考。喉まで登ってくる激情。

 もしもその感情を口から吐いたなら、声は耳から頭の隅から隅まで行き渡り、何も考えられなくなる。それは今、デボラ達から逃げている今、あまりにも致命的。

 だけどアカ一人では止められないものであり、

「アカ! どうした!?」

 ハルキが傍に居なければ、きっと、アカは動けなくなっていただろう。

 ハルキに呼び掛けられて、アカは振り返る。パクパクと、喘ぐように口を空回りさせるだけ。何も答えられない。

 事情を知らないハルキは、アカが答えようとしている言葉を待たなかった。

「何があったか知らんが今は逃げろ! 考えるのは後だ!」

 ハルキの叱責が、アカの心を揺さぶる。

 ハルキは言うだけ言うと、アカを待たずに走り出す。無論この場から逃げるために。

 アカは、光彦達の居た場所を……振り返らない。振り返ったら、きっとまた足が止まってしまう。だけどハルキはもうこの場には居ない。

 アカはハルキの後を追うように走る。がむしゃらに、一生懸命、ハルキよりも速く。

 きっと、とうちゃんは死んだ。

 多分早苗も死んだ。

 だけど自分はまだ生きている。

 そしてとりあえず……今はまだ死にたくない。

 アカが居なくなってしまった家族や仲間を探さず、この場から全速力で逃げ出す理由は、ハルキのお陰で思い出せたそんな考えだけで十分だった。




生きてるだけで儲けもの。


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加藤光彦の強運

 運が良いか悪いかで言えば、悪い方だと思っていた。

 ギャンブルではろくに勝った事がない。困った時に頼った奴等はどいつもこいつもクソ共で、何度騙された事か。挙句盗みをしたらガキを拾う羽目になり、さっさと孤児院の類に捨てるつもりが二十年も一緒ときた。

 しかしながらガキを拾ったあの日、迫り来るデボラにギリギリ踏み潰されずに済んだ。二十年間、なんやかんや生きてこれた。そういう意味では、案外自分は幸運なのかも知れない。

 そして極めつけに、デボラの攻撃に巻き込まれたのに生きているとなれば。

「……流石に運が良過ぎねぇか」

 ぼそりと、光彦は呆れたように独りごちた。

 身体は滅茶苦茶痛い。手足を動かすとビリビリとした痛みが走る。しかし骨が折れているような感覚はなく、少し休めばなんとか動かせるようになりそうだ。

【ギギギィイイイイイイイイッ!】

【ギィイイイイ! ギッ! ギギギギィ!】

 ……遙か彼方で怪獣共の声が轟き、白いビームやら空気の渦やらがあちこちに飛んでいる光景を見ている限り、あまりのんびり休んでいる暇はなさそうだが。

「い、っつつ……!」

 痛む腕を動かして杖代わりにし、身を起こす。その際、ふさふさとした弾力のある感触を覚えた。

 己の手をちらりと見てみれば、そこには山積みになった稲藁のようなものがあった。どうやらこの稲藁っぽいものがクッションとなり、衝撃を和らげてくれたようだ。しかしこの稲藁っぽいものはなんだろうか?

「ンモォー……モォー……」

 自分のすぐ横で牛が呻きながら横たわっているのを見て、光彦はその正体を察した。

 どうやらこの稲藁のようなものは、牛小屋に敷かれていたもののようだ。デボラの放射大気圧が牛小屋を吹き飛ばし、その際この稲藁のようなものも飛び、自分は幸運にもその稲藁とぶつかったのだと光彦は理解した。

 ちなみに横に倒れている牛は、足が変な方向を向いている。息も絶え絶えで、恐らくそう長くはない。生憎、光彦には助けるつもりなんて最初からないが。

「早苗! 早苗! 生きていたら返事をしろ!」

「……生き、てるわよ……ギリ……」

 大声で呼び掛けてみると、少し離れた場所から早苗の声が聞こえてくる。光彦は深く息を吸い、止めて、意地と気合いで立ち上がった。痛みに再び膝を付きそうになるが、ここで倒れたらしばらくは立ち上がれない。そんな予感から、光彦は激痛を堪えて歩いた。

 十メートルも歩かないうちに、光彦は早苗を見付ける事が出来た。彼女はうつ伏せに倒れ、稲藁や瓦礫の下敷きになっている。痛む身体では稲藁一つ持ち上げるのもしんどいが……助けられないほどのものではない。

 光彦は稲藁を退かし、出てきた早苗の手を掴む。光彦なりに一生懸命引っ張り、早苗自身の這い出そうとする力も相まって、早苗はどうにか地上へと戻ってこられた。

「はぁ、はぁ……ごめんなさい、助かったわ」

「おう、礼は良いからさっさと逃げるぞ」

 早く立ち上がるよう早苗を促しつつ、光彦は辺りを見渡す。

 あの放射大気圧の一撃に巻き込まれた人数は、ざっと数百だろうか。

 周りにはぽつぽつと、十数人程度の人影が立ち上がっている姿が見えた。自分を含めた彼等が生存者の全てだとすれば、生還率は数十分の一程度。今生きている事が中々の幸運であるのは違いない。しかし放射大気圧の一撃を受けたにしては、やけに生存率が高いようにも思える。

 牛小屋の稲藁がクッションになったのもあるが、もう一つの理由として、瓦礫の多くが材木や草などの植物で出来たものである事が考えられた。この国の家は極めてボロボロで、どれも貧相なものばかり。つまり軽くて脆く、人を確実に傷付けるほどの強度がなかった訳だ。

 もしもコンクリート製の建物ならば、激突の衝撃か、のし掛かった際の重さで全員死んでいただろう。文明の衰退が、結果的に光彦達の命を助けた訳だ。

 生憎光彦はそうした皮肉に考えを巡らせるほど、頭は良くないのだが。

「……うん、動ける。行きましょ」

 待っている間に早苗は回復。光彦も幾らか痛みが引いた身体を動かし、一歩一歩、歩いてデボラから逃げる。

 他の人々も、よたよたとした歩みでデボラ達から逃げていく。一歩でも遠く、一秒でも早く、安全な距離を取らなくては……

 光彦は歩く。早苗も、まだ身体が痛むのか息を荒くしつつ歩く。二人はどちらが肩を貸す事もなく、周りに目を向けもしない。自分達が誰を追い抜いても、追い抜かれても、歩みは常に一定だ。慌てて逃げても調子が狂い、帰って逃げ足が遅くなる事を二人は知っているのだから。

 勿論前からやってきて、自分達の横を通り過ぎる者が現れても歩みは止まらな

「は?」

「え?」

 否、光彦も早苗も足を止めた。

 二人が同時に振り返ると、確かに一人の……後ろ姿からの印象だが……痩せた若い女性が、ふらふらと光彦達とは逆方向に歩いて行くのが見えた。光彦達と同じく放射大気圧から生還した人々も、その女性が自分の横を通る度に振り返っている。誰もが思わずといった様子だ。

 当然だ。女性が向かう先では今もデボラ達が戦っているのだから。そんなところにのこのこと向かうなど、自殺行為以外の何ものでもない。

 或いはそれこそが目的なのか。

「……ちっ、自殺志願者かよ」

 もしかすると熱心なデボラ教徒かも知れないが、結果的には変わるまい。このままデボラ達に近付けば、あの女性は死ぬだろうと光彦は思った。

 しかしわざわざ引き返し、女性を殴り飛ばしてでも止めようとは思わない。今は自分が助かるだけで手いっぱいなのだ。それにこのろくでもない時代、死んで楽になりたいとか、『デボラ様』に縋りたくなる気持ちは、共感はしないが分からなくもない。

 何よりあの女が死んだところで、自分にはなんの関係もない。死にたきゃ勝手に死ねば良い。誰もがそう思うからこそ女性を無視しているのだろう。

 光彦も同じ考えだ。だから再び前を向き、女の事など忘れて逃げようと思った。

「ふ、ふぇぇええぇあぁぁあぁ」

 そう思っていた最中に、背後から『赤子』の鳴き声が聞こえた。

 光彦は反射的に振り返った。一緒にデボラ達から逃げていた早苗よりもずっと早く、素早く。

 赤子の姿は何処にも見えない。だけど声だけは何時までも聞こえてくる。何処だ? 何処に居る? 光彦は視線をあちらこちらに向け、声の場所を探す。

 視線が止まったのは、自殺志願者らしき女の背中だった。

 赤子の姿は見えない――――いや、見えた。女の胸元ぐらいの高さから、小さな手がジタバタと動いている姿があるではないか。女は赤子を抱きかかえてあるのだ。

 赤子は女の子供なのだろうか。それとも拾っただけか。しかしそんなのは今、些末な疑問だ。重要なのは女が今、赤子と共にデボラに近付いているという事。

 無理心中、というやつだろう。

「み、光彦さん」

 早苗が声を掛けてくる。言いたい事は分かる。あの女をどうするのか(・・・・・・)と聞きたいのだ。

 無視するのが正解だ。赤ん坊が居ようが居まいが関係ない。遠くまで逃げなければデボラの攻撃に巻き込まれ、仲良くお陀仏なのだから。

 実際周りの人々も女が赤子を連れていると知るやギョッとしていたが、振り返るだけで戻ろうとはしない。自分の命が危ういというのに、自分のではない赤子をどうして助けるのか。

 仮に助けたところでその後は? 神聖デボラ教国が残っていれば、育てる事も可能だったかも知れない。しかしデボラ二匹が暴れ回った事で、最早この国は滅茶苦茶だ。政府機能も消滅しているだろう。当然仕事はなくなり、食糧も手に入らなくなる。自分の食べ物すら得られるかどうか怪しいのに、見知らぬ赤子など育てられるものか。

 助けない、無視する。それが極めて合理的な選択だ。誰もが合理的に判断し、自分の安全を最優先にしていた。

 そして光彦は、

「ちっ、くしょうがぁ!」

 感情のまま、デボラ()の方へと駆け出した!

 自分でも馬鹿をしている自覚はある。あの手の狂人は拘わる時点でデメリットしかなく、放っておくのが最善なのは、なんやかんや五十年以上生きているのだから知っている事だ。

 赤ん坊を見捨てるのも同じ事。育てられない子供を助けてなんになる。見捨てるのが最善の選択。

 そう、見捨てるのが最善なのだ。

 ――――だが目覚めが悪い。

 あの無力な泣き声を聞かされた上で死なれたら……夢に出てきそうではないか!

「(ああ、クソ! また馬鹿やってるなぁ俺!)」

 走る度に足が痛む。けれども沸き立つ情動が、光彦の背中を押し続ける。

 思い返せば何時もそうだ。深く考える前に身体が動き、何かをやらかす。人をぶん殴るのだって反射的にムカついたからであり、物を盗むのだって「金に困ったら盗めば良い」と思ってしまうから。理性による自制が効かず、感情や本能のまま動いてしまう。

 だから二十年前には赤ん坊を助けて、大人になるまで育てる羽目になった。そのまま死なせたら目覚めが悪いという、ただそれだけの理由で。

 同じ理由でまた苦労を背負い込もうというのだから、これを馬鹿と言わずになんとなる。

 しかし加藤光彦という男は、生粋の愚か者だった。

「おらぁっ!」

 故に彼は殆ど躊躇なく、女の背中に渾身の蹴りをお見舞いした!

「ぐぶっ!?」

 不意打ちの一撃に、女は大きく呻く。九死に一生を得た光彦の身体はボロボロで、ろくな力も出せなかったが……全体重を乗せればそれなりの威力にはなる。ましてや痩せた女となれば、男の力に敵うものではない。

 女は地面に倒れた。仰向けに倒れれば、アジア系に見える女の顔と、赤子の姿がハッキリと見える。赤子は余程幼いのか泣き声はふにゃふにゃと力弱く、だからこそこの無力な命を連れていこうとした女が腹立たしい。

「っ! この……!」

 光彦は赤子に掴み掛かった。女は光彦の突然の行動に驚くように目を見開く。

「や、止めて! 私の赤ちゃんを連れてかないで!」

 そして発する言葉は、いっちょ前に母親らしいものだった。

 相手が日本語を話した事など頭にも上らず、光彦は怒りを露わにする。

「何が私の赤ちゃんだ! お前何処に行こうとした!?」

「ど、何処に行こうと私の勝手でしょ!」

「ああ勝手にしろ! けど子供は置いていけ!」

「止めて! 離して! この子と一緒に居させて!」

「テメェ一人で死んでろ馬鹿が!」

 どちらが悪党か分からぬ罵声を浴びせるが、女性は一向に赤子を離さない。いや、むしろ更に強くなっているようだ。これが母の力だというのなら、全くふざけた話である。

「光彦さん! 何してるのよもう!」

 苦戦していると、早苗までもがこの場にやってきた。苦戦していた時だけに大変ありがたい。こっちを手伝えと伝えるべく光彦は大口を開けた

 にも拘わらず、その声が早苗に届く事はなかった。

 何故なら突然の爆音が、辺りに轟いたからだ。

「ぬぉっ!?」

「きゃあっ!?」

 いきなりの爆音に光彦は跳び退き、女も身を縮こまらせる。早苗は爆音と共にやってきた振動により、尻餅を撞いた。

 またデボラ共が何かやったのか。光彦は無意識に音が聞こえた方……自分達が逃げようとしていた方角を見遣った。

 光彦はギョッとなった。

 自分達から、ほんの数キロメートルほどしか離れていない地平線近く。そこから、朦々と黒煙が噴き出していた。瓦礫に火が付いて燃えているのか? そんな疑問は、黒煙に混ざって地上に出てくる赤黒い液体が否定する。

 噴火だ。山からではなく地面から出るものを噴火と呼ぶのかは知らないが、兎に角そういった現象だと光彦は理解した。

 まるで大地を押し退けるように、噴き出す黒煙とマグマは勢いを増していく。見れば人影がチラホラとあり……赤い液体を被る人影も少なくない。彼等は頑張ってデボラから逃げた結果、突然生じた噴火口に近付き過ぎてしまった訳だ。

 自分達も、この女の後を追わなかったら今頃……ごくりと光彦は息を飲む。

 しかし難を逃れたというにはあまりにも災禍が近い。早く此処から離れなければと、光彦は再び赤子を奪い取ろうとした。

【ギギギギギィイイイイイイイイイイ】

 今度は、そのおぞましい声が光彦の動きを止めた。

 聞き慣れた声だ。遙か彼方で戦っている二匹が、もう喧しいぐらいに聞かせてくれている。

 だが、どうした事だろう。

 何故今の声は、すぐ近くから(・・・・・・)聞こえてきたのか。

「……ちょっと、おい、それは流石に……」

 光彦は否定の言葉をぼやいた。あまりにもちっぽけで、自分すら信じていない希望を乗せて。

 その僅かな希望を摘み取るかのように。

 世界が激しく揺れ始める。黒煙とマグマの噴出が激しくなり……内側から弾けるように、何百メートルもの範囲に渡って大地が吹き飛んだ。その吹き飛び方はまるで子供がバケツに入れた水を投げるように、真っ直ぐ、狭いもの。お陰で光彦達はその被害を受けずに済んだが、それはなんの救いにもならない。

 何万トンもの土砂をバケツの水のように投げ飛ばす『化け物』がいるという、絶望的な証でしかないのだから。

 吹き飛んだ大地に出来た亀裂より、マグマと黒煙を纏いながら『赤い』ものが出てきた。赤いものはエビのハサミのような形をしていて、大地に深々と突き刺さる。

 直後、まるで布団から軽やかに跳び起きるような軽快さで、亀裂より巨体が現れる。

 巨体は、途方もない大きさだった。

 光彦はデボラの大きさを知っている。何しろすぐ近くまでやってきていて、追われるような逃走劇を繰り広げた事もあるのだ。デボラというのは本当に山のように大きくて、こんな馬鹿デカい怪物には誰も勝てないと思わせるような存在だったのを今でも覚えている。

 だけど、コイツは桁が違う。

 コイツは明らかに(・・・・)デボラより(・・・・・)デカい(・・・)。デボラの体長は三百五十メートルもあるのに、そのデボラが子供に思えるサイズだ。一千メートルはあるのではないか。

 いくらなんでもデカ過ぎる。こんな生物が居る筈ない。しかし幾ら光彦が否定しても、立つ事も儘ならないほどの揺れが、そいつの存在を物語る。

 いいや、この際デカい事は良いとしよう。

 本当の、そして一番の問題はそいつの姿。

 赤い甲殻を持ち、エビのようなハサミを持ち、イセエビのように平べったい体型ながら、背中に背ビレのような突起を持つ……そんな生物は一種しかいない。そしてその生物は、ただ一匹だけの孤独な種族でない事は『今日』明らかとなった。ならばどうしてその存在を否定など出来るのか。

 そう、出来やしないのだ。どんなに否定したくても、これほどハッキリと姿を見せ付けられたなら、認めるしかない。

【ギギギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 三匹目の、そしてこれまでの二匹とは比べものにならないほど巨大なデボラが、この地上に現れたのだと――――




こういう感情剥き出しな愚か者、
大変人間臭くて私は好きです。


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及川蘭子の真実

 流石の蘭子も、これには心臓が止まるかと思うほど驚かされた。目を瞬かせ、己の見ている『映像』を何度も切り替えるが、網膜に映るものは何一つ変わらない。

 ならばこれは現実なのだ。

 三匹目の、そして先に出現した二匹を遙かに上回る超大型デボラが出現した事は。

「い、いくらなんでも、デカ過ぎる……」

 ヘリコプターに同乗しているアランが、弱々しい声で独りごちる。操縦士の白人男性に至っては声を失ったのか、喘ぐように口をパクパクと空回りさせるだけ。

 確かに、三匹目のデボラはあまりにも巨大だった。推定される全長は一千メートル以上。先に現れたデボラ二匹が横に並んでも勝てない大きさだ。

 なんらかの要因により、巨大化した個体だろうか? では一体その要因とは?

 上空より観察している蘭子が考え込むと、超大型デボラはその身を大きく仰け反らせる。

【ギギギィイイイゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!】

 次いで、吼えた。

 あまりにも大きな声だった。声は超大型デボラの頭部の先より放たれ、何処までも広がっていく。

 無論その咆哮は争いを続けていた二匹のデボラにも届いた事だろう。デボラも新デボラも一度戦いを止め、超大型デボラの方へと振り返った

【ギ、ギィイイイイ!】

【ギギギィイイイイ!】

 のも束の間、まるで我先にとばかりに相手に殴り掛かる!

 どうした事か。デボラと新デボラは一層激しく、いや、最早がむしゃらといった具合に相手を攻撃し始めた。ハサミを大きく振りかぶり、体当たりをお見舞いし、尾で薙ぎ払う。熱光線や放射大気圧の頻度は下がり、肉弾戦の量が大きく増えた。これまでの戦いはただの準備運動、己の肉体こそが真の武器だと周りにアピールするかのように。

 そうして激しく殴り合うデボラと新デボラを、超大型デボラは乱入する事もなく遠くから眺めるだけ。それどころか疲れたと言わんばかりにその場に伏せ、だらけた姿を見せる。

「(あの個体、観察している? デボラ達の戦いを?)」

 蘭子は考える。

 超大型デボラの圧倒的な巨体を使えば、デボラも新デボラもまとめて叩き潰せるだろう。しかしそれをしないという事は、超大型デボラはデボラ達と戦うつもりがないようだ。デボラと新デボラも逃げないという事は、超大型デボラに『襲われる』心配はないという確信があるのか。

 自分より遙かに巨大な個体を恐れない。だとすればあの巨体は、デボラ達にとって想定外のものではないという事か。

 圧倒的巨体。

 闘争に混ざらない。

 争いを静観。

 このような行動を取る個体は――――

「……雌」

「え? 蘭子さん、今なんて」

「雌よ! あの個体、三匹目のデボラは雌なんだわ!」

 アランの言葉をきっかけに、蘭子は脳裏を過ぎった推論を叫んでいた。

 雌雄で大きさが異なる生物というのは、珍しいものではない。理由は種によって様々だが……かなり大きな差が出る事もある。例えばトドでは雄の方が雌の三倍以上の体重を誇り、逆にある種のチョウチンアンコウの雄は雌の十分の一以下の体長しかない。雄の体長が雌の三分の一、推定体重が二十七分の一だとしも、自然界ではさして極端な違いとは言えないのだ。

 そして雌だとすれば、デボラと新デボラの戦いに首を突っ込まないのも頷ける。デボラ達は雄であり、雌はその戦いを見定めるつもりなのだろう。どちらが強いかを確かめるために。

 そして、その後に起こるのは――――

「……全部、繋がった」

「繋がった? 先生、どういう意味ですか?」

「アイツらの生態よ! ああ、そういう事! だとしたら……」

 大声で騒ぐように、蘭子はぶつぶつと自分の考えを口にする。確かに考えは繋がったが、しかし未だ頭の中で論理的な形にはなっていない。一科学者として、口で説明出来ないものを理解とは呼びたくない。蘭子は声に出しながら、情報を纏めていく。

 デボラが出現した事を示す、現存最古の記録は七万年前に描かれた壁画だ。

 逆にいえば、七万年前以降に出現したという記録は見付かっていない。壁画という形は勿論、化石や目撃情報、神話などの伝承でも語られていない事だ。無論未発見である可能性も十分にあるが、だとしてもデボラの圧倒的巨体を思えば、数千年程度の近年に出現すれば何かしらの痕跡は残るだろう。少なくとも二十年前、全盛期の人類では『誰か』がそうしたアプローチからデボラを解明しようとした筈である。

 そうした発見がついになかった事から、デボラは七万年、そうでなくても数万年間は人類の目に触れなかったと思われる。

「数万年って……なら、どうしてデボラは数万年ぶりに地上に出てきたのですか? 数万年間地中に潜み続けたのなら、わざわざ地上に出てくる必要はないじゃないように思えるのですが」

 蘭子の『推論』に、アランは反対意見を述べる。彼の指摘は尤もなものだ。デボラにとって地中深くでの生活が本来のものであり、地上への進出は異常な行動と言える。

 蘭子とてその『疑問』は認識している。そして勿論答えも用意していた。

 なんという事はない。生物にとって住み慣れた土地を突然離れる事も、普段らしからぬ行動を取る事も、同種同士で争い始める事も……何も珍しい行動ではないのだ。

「繁殖のためよ」

 繁殖期という、特別なイベントの期間内であれば。

「は、繁殖……繁殖!?」

「あら、おかしな事を言ったつもりはないのだけれど? デボラだって普通の生物種なのだから、繁殖だってするでしょ」

「だ、だからってそんな、デボラは二十年前から出現しているんですよ!? まさか、二十年もアイツは、雌が来るのを待っていたというのですか!?」

「二十年も、というのは人間的な視点ね。数万年というライフサイクルを持つデボラにとって、人の一生すら大したもんじゃないと思うわ」

 仮にデボラの繁殖サイクルが最古の壁画が示すように七万年周期だとして、その七万年を人が成人する二十年程度の期間に相当すると換算すれば……二十年なんて月日は、デボラにとって二日ぐらいのものでしかない。

 ましてやデボラにとって、地上というのは『極寒』の地だ。千五百度を超えるマグマの中から見れば、地上で起きる百度にも満たない気温変化など感じられるかも怪しいもの。季節の変化、土地の気候など何も感じぬまま、数日間とある場所に滞在する……可愛い『女の子』を待つためならそのぐらい出来るのが『男の子』というものであろう。

 例えその場所に『人間(アリ)』が棲み着いていたとして、どうしてそんなものを気にするのか。『人間』が攻撃してきたところで、逃げる事などあり得ない。待っている間暇なので辺りをぶらぶら歩き回り、結果『人間』やその住処を踏み潰す事もあるだろう。もしもその場所に何か、自分とよく似たものが現れたなら見に行くに決まっている。恋のライバルかも知れないし、思いの外小さな女の子かも知れないのだから。

 かくしてデボラは『二日』ほど待ち、そしてついに待ち望んでいた時がやってきたのだ――――女の子よりも先にライバルの男の子がやってきたようだが。

【ギッ、ギッ、ギィイイイッ!】

【ギギギ! ギ……ギィギギギ……!】

 デボラと新デボラは取っ組み合いの大ゲンカにもつれ込む。最早熱光線は出てこない。放射大気圧など放つ暇もない。ただただ泥臭く、故に懸命な生命の営みを繰り広げるのみ。

 可愛い女の子をものに出来るかどうかの大勝負。足下に居る虫けらに目を向ける暇などありはしない。人間が必死であるのと同じぐらい、デボラ達も死力を尽くしているのだ。

 そして死力を尽くした戦いは、間もなく終わるだろう。いや、デボラ達はきっとすぐにでも終わらせようとする筈だ。

 デボラ達の求める『女の子』を掻っ攫う不埒者が、自分達の争いの隙を突いてくるかも知れないのだから……




ようやく書けた、デボラという生命について。
謎が明かされたなら、後は見届けるだけ。


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足立哲也の希望

 デボラが現れてすぐに逃げ出した哲也は、幸いにしてデボラ達の争いから迅速に離れる事が出来た。

 無論熱光線や放射大気圧は、時として大地を貫通し、何十キロ、或いは何百キロと伸びる事もある。実際何処かに放たれた熱光線が、数キロ離れた国の一画を直撃して吹き飛ばしていた。哲也の記憶が確かなら、あの一画にはデボラ教のトップである大神官達の住む教会があった筈。無論大神官達だけでなく、大勢のデボラ教関係者が居ただろう。ならばあそこに居た人々は……苦しまなかった事を祈るしかない。

 哲也とその妻イメルダ、彼等と同じ方向に逃げた数百人の人間達もまだまだ危険な場所に居る。本当ならもっと遠くに逃げねばなるまい。哲也は未だイメルダを抱き上げている状態なので、イメルダを待つ必要はなく、すぐにでも逃げ出せる状態だ。

 だが、哲也を含めた誰もが足を止めていた。

 何故なら彼等の視線の先には、二匹のデボラすら小さく見えるほどの超大型デボラが居たのだから。

 体長三百五十メートルのデボラが二匹。更に一千メートル近い巨大デボラが一匹。合計三匹のデボラがこの国に集結している。

 一体これはなんの冗談だ? 何が起きようとしている? 疑問は幾らでも湧き出してくるが、一つだけ明確な答えがある。

 全盛期を迎えていた二十年前の人類は勿論、百年後、二百年後まで順調に進歩し続けた人類であっても、『デボラ』という存在には勝てないという事だ。

「(あんなの相手に戦って、国民を守り抜く? なんの冗談なんだか)」

 二十年前の自分なら臆面もなく言えた言葉に、哲也は胸の中で自嘲してしまう。二十年前の……人類の敵と呼べるのは同じ人類か『天災』だけと思い込んでいた、驕り高ぶった人類があまりに愚かしい。恐ろしい怪物から誰かを守り抜く……二十年前までなら気高いと受け取られる言葉が、最早身の程知らずの戯れ言ではないか

 人の常識を超えた『怪しい獣(得体の知れぬ生命)』。

 デボラは紛う事なき怪獣であった。人智を超えた存在に、人智で挑むなど間抜けが過ぎるというものだ。人に出来るのは、その恐ろしい存在から自分と家族の命を守る……その『努力』だけである。

 哲也も、今更デボラを倒そうなんて思わない。誘導しようとする事さえもおこがましい。自分達人間に出来るのは、一歩でもデボラから離れる事だけだ。

「イメルダ、此処も危ない。もっと遠くに行こう。しっかり掴まっていてくれ」

「え、ええ……」

 哲也が促すと、イメルダは怯えるように頷く。その顔には不安の色がありありと出ていて、片手で大きなお腹を抱えながら、もう片方の手で哲也にしがみついた。

 イメルダの不安は分かる。

 三匹のデボラが恐ろしい……それだけの理由ではない。デボラはたった一体でこの世界を冷たいものに変え、人類文明を崩壊させた。間接的なものまで含めれば、たった一体で何十億もの人間を殺した存在である。

 そんなものが更に二体も増えれば、例え今逃げ延びたとしても、『将来』がどうなるか……不安にもなるだろう。

 哲也としても不安だ。デボラの直接的攻撃から逃げ延びる事は出来ても、デボラが引き起こす環境変化からはどう足掻いても逃げきれない。アフリカは比較的気候変動が少なかったとはいえ、全く起きなかった訳ではないのだから。

 哲也が考える限り、確かに未来には絶望しかないように思える。下手に生き長らえても苦しみが長引くだけ。いっそプチッと踏み潰されてしまう方がずっとマシかも知れない。

 だけど、哲也はそれを選ばない。

 彼の手の内にはまだ愛する妻が居て、その妻のお腹には待ち望んでいた子供が居るのだ。

 ワガママを言わせてもらうなら、死ぬなら子供との思い出を作ってからにしたい。その思い出はたった一つだけで、これから訪れる万の苦しみにも勝ると信じるがために。

「……良し」

 覚悟を決め、哲也はデボラ達から逃げるように走る。

 哲也に釣られるように、他の人々もまた動き出す。誰もがまだ、今はまだ死にたくなかった。

 そんな人々を、嘲笑うかの如く。

「!? で、デボラが!?」

 逃げる人々の誰かが、そんな悲鳴を上げた。

 哲也は思わず振り返った。またデボラが熱光線を撃とうとしているのか、或いは衝撃波のようなものを出そうとしているのか。前者はどうにもならないが、後者なら自分が盾になればイメルダと赤子だけは助けられるのでは……自衛官時代に培った素早い状況判断能力をフルに働かせる。

 なんと愚かしいのだろう。

 デボラは人智を超える(・・・・・・)。ほんの今さっき考えていた事を、もう忘れるなんて。

 振り向いた哲也は、その直後呆気に取られて固まってしまう。

【ギ、ギギギギギギギギギギギィ!】

 一匹のデボラが、かつてないほど力のこもった唸りを上げる。

 その両手のハサミは、もう一体のデボラの両ハサミを掴んでいた。そして相手のハサミを掴んだまま……回している(・・・・・)

 文字通り、デボラがデボラを振り回している! あたかも砲丸投げの鉄球が如く!

【ギィイイイィイ!? ギギ、ギィ!?】

 振り回されるデボラもまた悲鳴染みた声を上げるが、ハサミを掴むデボラは決して止まらない。振り回されるデボラは、遠心力によるものかピンッと背筋が伸びており、完全に宙に浮いていた。これでは地面を踏み締め、抵抗する事さえ儘ならない。

 デボラは更に相手を回す。どんどんどんどん、速く回していく。三百五十メートルという巨体なのに、まるで人間のプロレスを見せられているようなスピードが出ていた。

 ……戦い続けているあのデボラ二匹がどんな関係なのか、哲也には分からない。

 しかしハサミで殴るどころか、放射大気圧や熱光線まで撃ち込んでいる。結果相手の甲殻は砕け、大きなダメージを与えていた。その傷は自慢の再生能力で癒えたが、万一内臓などに攻撃が到達していれば、致命傷となった可能性はある。

 相手を殺そうとは思っていないかも知れない。されど「死んでも構わない」とは思っているだろう。

 そんな相手を高速でぶん回した後、ゆっくりと下ろすだろうか?

「おい、ちょ、待っ……」

 祈りが日本語の形で哲也の口から出てきたが、遙か彼方で戦うデボラが聞く耳を持つ訳もなく。

 哲也の目の前で、哲也達の方目掛け――――デボラは、デボラをぶん投げた!

 悲鳴は上がらなかった。そんなものは、誰も想像していなかったから。

 デボラという生物は、途方もないパワーの持ち主らしい。自分と同じ体格の存在を、自身の体長の十倍超えの距離……数キロも投げ飛ばすのだから。人間が自分と同じ体格の相手を十五メートルも飛ばせるだろうか? 少なくとも哲也には無理な話だ。

 数キロと離れていた哲也達の頭上を、デボラが猛スピードで通り過ぎていく。

 必死に、全速力で逃げて、ちょっと休みはしたけれども懸命に生きようとして……哲也達はデボラから離れたのに。

 たったの十数秒で、その努力は無駄となる。

 投げ飛ばされたデボラが、哲也達の行く手を遮ったのだから。

【ギ……ギィギギギギギギギィイイイイイ!】

 投げ飛ばされたデボラが、怒りの感情と共に動き出す! 向かう先は、当然自らを投げたもう一体のデボラだ!

 投げ飛ばされたデボラが跳び越した哲也達から見れば、それはデボラが自分目掛けて猛然と突撃してくるのに他ならない。

「っ!」

「て、テツヤ!」

 哲也はイメルダを抱き締めながらしゃがみ込み、イメルダも哲也にしがみつく。周りの人間達もその場に伏せた。走って逃げたところで間に合わない。イモムシが身を守るため丸まるように、少しでもマシな体勢を取ろうとする本能的行動だった。

 そして何百もの人々が一瞬にして跪き、平伏する姿はあたかも王を讃えるかのよう。

 しかし猛進するそれは王ではなくケダモノ。デボラは平伏す人間に一瞥くれる事すらしない、否、見ている余裕などない。

 向かい合うもう一体のデボラも、全速力にしか見えないスピードで駆けているのだから。

 ズトンズトンと爆発音にしか聞こえない足音が、哲也の間近に迫ってくる。そう思った時には、もうすでに真横で爆音が鳴っていた。悲鳴は上がらない。上がる前に踏み潰され、大地の染みにすらならない。

 ついに爆音は哲也の背後へと通り過ぎた。されど安堵する暇もなく激突する爆音、続いて衝撃波が哲也達を襲う。大地が揺れ、誰も立ち上がる事すら出来ない有り様。ましてや身重な妻を抱いたままの哲也など身動き一つ取れやしない。

 人間には抗う事はおろか、逃げる事すら出来ない災禍。

 その恐怖に震える妻の上に覆い被さりながら、哲也は思う。

 確かに恐ろしい。正直このまま気絶してしまいたい。目が覚めた時、この地上か、それともあの世かは分からないが、妻と共なら何処でも構わない。兎に角此処から逃げられるのなら、自分の生死すらもどうでも良くなるぐらい怖かった。

 だけど、少しずつだが『希望』を感じる。

 根拠はない。強いて言うなら自衛官として培ってきた経験。その経験が強く訴えているのだ。

 間もなくこの戦いは終わるのだと。

 その終焉が自分達にとって良いものである事を、哲也は願わずにはいられなかった。




足下のアリと同じ。


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アカの閉幕

「はっ、はぁっ、はぁ……はぁ……はぁ、はぁっ、ん、ぐ……」

 息を切らしながら、アカはひたすら走る。

 足下の瓦礫は疎らになり、走るのに支障はなくなってきた。どうやら町の……この国の外側に近付いてきたらしい。元々小さな国だけあって、ちょっと走るだけで簡単に『国外』に出られたとしてもさして不思議ではない。

 しかし国の外に出たところで、安全とは言い難い。

 今は遠く離れているが……争うデボラ二体にとって、国という人間が勝手に敷いた枠組みなど関係ないのだから。

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……! ああ、くそっ。くそっ、クソクソッ!」

 アカのやや後ろを、ハルキが走っていた。さっきから延々と悪態を吐いており、少しずつだが足が遅くなっている。喋る体力があるのなら、それを走る方に割くべきだ。ついでに言うとちょっと五月蝿い。

「五月蝿い。黙って走って」

 アカは思った事をそのまま、ハルキの方へ振り返る事もなく伝える。

「あぁクソッ! 分かってるよ! うぁぁっ!」

 するとハルキは、本当に分かっているのか甚だ怪しい叫びを上げた。

 やはり五月蝿い。が、二度目の忠告はしない。

 きっと、ハルキは怖いのだろう。

 勿論アカもデボラは怖い。踏み潰されて死ぬのなんて嫌だし、熱光線で焼かれるのも嫌だ。光彦や早苗のように吹っ飛ばされるのも勘弁してほしいし、半端な大怪我を負って動けなくなり餓死……というのは一番止めてほしい。

 だけどこんなに取り乱すほど怖いとは思わない。

 今まで何度も見てきた人や動物と同じように、自分もまた望んでいない形で死ぬだけだと思うだけだ。

 とはいえ大人達が自分と違う考え方なのは知っているし、ハルキもどうやら大人達に近い考え方らしい。ハルキはデボラの事が怖くて怖くて堪らないのだろう。そういう人間に静かにしてと頼んだところで、黙るどころかますます喧しくなるのが関の山だ。これ以上言っても仕方ない。

 幸いにしてハルキが叫んでも、アカの走りの邪魔にはならない。好きなだけ騒がせるとしよう。

 それよりも自分の方が問題だった。

「(流石に、そろそろ、疲れてきた……感じ……!)」

 もう何十分も走り続けている気がする。『ヤバい奴』から全力疾走で逃げた経験は一度や二度ではないが、こんなにも長い間走り続けたのは初めてだ。ふくらはぎが張り、痛い上に動きがぎこちなくなっている。

 根性を出せば走り続ける事は出来る。出来るが、こんな状態で走っても、歩くのと大差ないスピードが限界だ。加えて何か突発的な事態に見舞われたなら、疲労困憊の身体ではなんの対処も出来ないだろう。

 それならばいっそ休んでしまい、体力の回復に努めた方がマシではないか。

 この考えが疲労から来る甘えか、はたまた理性的判断による合理的選択か。アカには分からないが、拒絶するほどの気力もない。アカは段々と足から力が抜け、走りが歩みへと変わり、立ち止まるのと同時にその場にへたり込む。一度膝を付いてしまえば、もうしばらくは立ち上がる事すら出来そうになかった。

 後ろを走っていたハルキはアカを追い抜いた、が、彼もまた崩れ落ちるようにその場に跪く。息は絶え絶え。倒れるように寝転がり仰向けとなる。

 二人揃って、この場から動けなくなってしまった。

「もぉー……無理ぃー」

「お前……止まるなら、止ま、げほっ! ごほっ、がほっ!?」

 力尽きるアカに、ハルキが文句のようなものを言おうとしてくる。どうやらアカにつられて立ち止まってしまったらしい。だとしたら申し訳ない……なんてアカは思わず、つられたそっちの責任じゃんと感じた。尤も、ハルキのようにクレームを入れられるほどの体力は残っていないので、アカは何も言わなかったが。

 アカは残っていた僅かな体力を振り絞り、ごろんと寝返りを打って姿勢と身体の向きを動かす。形はうつ伏せ、頭の向きを自分達が走ってきた方へと変えた。そこに丁度良く転がっていた瓦礫に顎を乗せて前を見据えれば、楽に眺められる。

 地平線近くで未だ戦い続けている二匹のデボラと、そのデボラを観察する超巨大デボラが。

「(さぁて、どっちが勝つかなー)」

 アカは漫然と、そんな事を思う。

 しばし走るどころか立ち上がれそうにない。そしてデボラの戦いが、あの超巨大デボラが現れてから激しさを増している事からして……恐らく遠からず決着が付く。

 ならばその決着を見ておこう。そんな気持ちからの行動だった。

【ギ、ギィイ……!】

【ギギギギ……!】

 二匹のデボラは互いに相手の両前腕の付け根をハサミで掴み、ガッチリと固定して互いに相手を離さない。押し合い、捻り、引き……様々な動きで相手の隙を誘うが上手くいかず、膠着状態が続いていた。

 しかし一方のデボラの足下は、不運にも脆かったらしい。デボラの重さに耐えられなくなったのか、不意に鈍い音を鳴らして大地が陥没。一方のデボラが体勢を崩した。

【ギッ! ギィイイイッ!】

 そのタイミングを狙っていたかのように、無事だったデボラが片方のハサミに渾身の力を込める!

 足下の陥没で僅かに気が逸れたのか、体勢を崩したデボラのハサミの付け根は込められた力に耐えられず……ぶちりと生々しい音と共に、引き千切られた!

【ギィイイイ!? ギギギギィイイイイイイイイッ!】

 これには流石のデボラも痛みがあるらしく、大きな叫び声を上げた。されど逃げ出そうとする素振りすらなく、むしろ自分を傷付けた者に更なる敵意を見せ付ける。

 腕を切られても戦うなんて、アカにはきっと真似出来ない。果たしてこの戦いはどちらが勝つのか、アカは益々興味を抱く……とはいえこのままではどちらがどのデボラか見分けが付かない。なんとなく優しげな顔をしている ― そして今し方片方のハサミを引き千切られた ― 方を片腕のデボラ、どちらかといえば顔が厳つく見える方を厳ついデボラにしよう。

 厳ついデボラは引き千切ったハサミを投げ捨てると、自由になったハサミで片腕のデボラを殴り付けた。ガヅンッ! と響く音は遠く離れたアカの身体をも震わせ、その力の大きさを物語る。されど片腕のデボラはビクともせず。それどころかもう片方のハサミを捻るように動かし、相手を自分と同じ目に遭わせようとしていた。

 腕を引き千切るだけでは決め手にならないのだろう。

 そう思うアカの考えが正しいと物語るように、デボラ達に新たな変化が起きる。

 二体のデボラは背中の甲殻を翅のように開いているが、その翅が段々と輝きを増していたのだ。更にデボラ達の周囲が一瞬で銀景色へと変わり、アカ達の居る付近もひんやりとしてくる。パキパキと彼方から聞こえてくる音は町が、否、国そのものが凍結し始めている証だ。

 デボラ達が周りの熱を吸収している。これまでの戦いも多少なりと見ていたアカは、デボラ達が熱光線(白い光)を至近距離から撃ち込むつもりかと考えた。しかし少し間を開けて、どうにも様子がおかしいと気付く。輝きがどれだけ強くなっても、デボラ達が熱光線を放つ気配は一向にないのである。

【ギギ、ギ……ギィイイイッ!】

 厳ついデボラが吼えると、そいつは大きなデボラの顔面に強烈な頭突きをお見舞いする! さぞや強烈な一撃だったのだろう。片腕のデボラは大きく仰け反り、掴んでいたハサミを開いた。頭突きを喰らわせた方である厳ついデボラもハサミを開き、自由になった両者はお互い離れるように後退り。

 されど『予期せぬダメージ』を負った、頭突きを喰らった片腕のデボラの方が体勢を大きく崩している。

 厳ついデボラは、折角のチャンスを逃す間抜けではなかった。

【ギッギィイ!】

 一際大きな気合いがこもった、人間にはそのように感じられる叫びと共に厳ついデボラが飛んだ(・・・)

 正確には跳躍なのだろう。しかしただ跳ねただけではない。

 開いた二枚の翅の先――――そこから熱光線を真後ろに向けて射出し、その身を押し出しているのだから!

 コンクリートを易々と溶解させる熱光線を、攻撃ではなく推進力として用いる。そうして得られた加速は、厳ついデボラの巨体をただの体当たりとは比較にならない速度まで押し上げる! 仰け反っていた片腕のデボラもこの体当たりに気付いたのかビクリと身体を震わせたが、しかし高速で迫り来る巨体を避ける時間はない。

【ギッ!?】

 ぐしゃりと、体当たりを受けた片腕のデボラの甲殻が凹み、体液が飛び散る。外傷を受けるほどの一撃だ。ダメージとしては決して小さくない。

 だが、再起不能に陥るほどではなかったようだ。

 体当たりを喰らった片腕のデボラは、開いていた翅を大きく輝かせた。そう、熱を吸収していたのは厳ついデボラだけではない。攻め込まれた片腕のデボラの身体には未解放のエネルギーがある!

 片腕のデボラが一際強く翅を光らせた、刹那、翅から熱光線が放たれた! ただし熱光線が向かう先は、向かい合う厳ついデボラではなく、かといって自分の真後ろでもない。

 右斜め後方だ。

 そして熱光線を放ったのと同時に、片腕のデボラは己の身体を大きく捻り……己の長大な尾を振るう!

 熱光線による加速を受け、デボラ必殺の一撃は更なる威力を持つ! 加えて厳ついデボラは、体当たりの反動で僅かに身体が浮いていた。全ての足が大地から離れ、踏ん張る事の出来ない体勢にある。

 厳ついデボラがどれだけ足をばたつかせても、ハサミをがむしゃらに振り回しても、もう遅い。

 片腕のデボラ渾身の一撃が、厳ついデボラを打ち飛ばした!

【ギィギイギギギィイイイイィイッ!?】

 薙ぎ払われた厳ついデボラは、地上を蹴られたボールのように転がっていく。さしものデボラも自らの重量と、必殺技ともいえる大威力の一撃は大きなダメージになったようだ。巻き上がる粉塵や瓦礫に混ざり、小さな足が何本か飛んでいくのがアカにも見えた。

 足がもげるなど、人間からすれば致命的な傷だ。無数の足を持つデボラにとっても、決して無視出来る怪我ではあるまい。

 つまりそれは最大のチャンス。

 片腕のデボラは駆けた。熱光線による加速は行わない。己の筋肉だけを用いた全力疾走で厳ついデボラに接近する。切断された腕の断面から体液が溢れ出していたが、一瞥すらしない全力疾走。

 そして走り続ける片腕のデボラの、残っていたハサミが赤く輝く!

 光り輝くハサミの先からは真っ白な、人間であるアカの目にも分かるぐらい莫大な熱量を放つ! その熱の輝きは少しずつ、ハサミの周りから離れるように伸びていく(・・・・・)

 厳ついデボラが立ち上がった時にはもう、片腕のデボラは大きく振り上げたハサミの射程内に厳ついデボラを捉えており、

【ギギギギギギィイイイイイッ!】

 吼えるのと共に片腕のデボラは、剣のように伸びた光を腕と共に振り下ろした!

 厳ついデボラは素早く両腕を振り上げた、が、光の剣はその両腕を易々と切り裂く! 切断されたハサミからは体液が溢れず、熱を吸収するデボラの身体を焼き切った(・・・・・)のだとアカは察した。

 そして光の剣は厳ついデボラの頭目指して迫り、

【ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 厳ついデボラは、その頭を強引に逸らした。

 どのぐらい強引か? 身体を構成する甲殻が砕け散り、まるで軟体動物か脊椎動物のように頭の位置を逸らすぐらい強引だ。傷口から体液が噴き出し、傷の深さを物語る。

 その強引さの結果、片腕のデボラが振り下ろした光の剣は厳ついデボラの頭ではなく、首の付け根辺りを斬り付ける事となった。頭ではないので致命傷ではない……致命傷ではないが、極めて深い傷だ。

【ギギギィイイイイイイイ!? ギィィィィ……ギ、ギィ……!】

 斬られた厳ついデボラは大きく後退りをして、崩れるようにその場に寝そべる。

 片腕のデボラも力を使い果たしたのか、その場で膝を付いた。先の一撃は、正しく必殺の一撃だったらしい。体力を大きく消耗した様子だ。引き千切られた腕の断面からの出血も多く、かなり危険な状態に見えるが……厳ついデボラに比べれば、幾分マシに思える。

 大勢は決した。アカにはそう見えた。

【ギギオオオオオオオオオオ!】

 そしてその見方は、超巨大デボラにとっても同じようだ。

 超巨大デボラが一声上げると、二匹のデボラは超巨大デボラの方へと振り向く。無論二匹とも満身創痍な上に重傷だ。その動きは酷くゆっくりなものだが、当人達としては必死な動きなよう。

 そして超巨大デボラが動き出す。

 動き方は決して速くない。しかし圧倒的な巨体だからか、凄まじいスピードでデボラ二匹に接近。

 傷だらけになったデボラ二匹は、超巨大デボラに擦り寄る。超巨大デボラは傷だらけのデボラ二匹を交互に見つめ、頭にある触角で優しく触れていく。

 最後にこつんと頭の先で触れたのは、アカが片腕のデボラと名付けた方……必殺の一撃を喰らわせたデボラだった。

【……ギキィ、ギィィィィ……】

 触れられなかった方は物悲しげな声で鳴き、しかしそれ以上の事はせず、超巨大デボラと片腕のデボラに背を向ける。傷付いた身体を引きずるようにして去る姿は、アカにも哀愁を感じさせた。

【ギィ! ギギィ! ギィギィギッ!】

 対して選ばれた片腕のデボラは、まるで子供のようにはしゃいでいる。はしゃぎ過ぎて身体中の傷口から体液が溢れ出したが、全くのお構いなしだ。超巨大デボラに擦り寄り、人間の目にも分かるぐらい喜んでいた。

 超巨大デボラはちらりと片腕のデボラを見遣ると、軽やかな動きで片腕のデボラに背を向ける。すると片腕のデボラは素早く、ある種の必死さを感じさせる身のこなしで超巨大デボラの尾に跳び乗った。

 片腕のデボラは自らの尾を巻き付けるように、超巨大デボラの尾の下に潜り込ませる。潜り込ませた尾はしばしもぞもぞと動かしていたが、不意にピタリと止めた。

【ギィギイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 そして片腕のデボラが大きく仰け反りながら、途方もない咆哮を上げた。

 十数キロと離れている筈のアカ達の身体が、ビリビリと震えるほどの大声だった。近くで聞いたなら、もしかしたら声に殺されるのではないか。そんな予感を覚える。

 アカは人間だ。だからあんなエビの怪物の気持ちなんて分からない。

 けれども今の声には、アカでも分かるぐらい喜びが含まれていた。何処までも純粋で、言葉に出来ないほど強い――――種の枠組みさえも超えてしまう、根源的な喜びを。

 デボラ達が何故戦っていたのか、何故あのデボラが喜んでいるのか、今のデボラが何をしているのか……どれもアカには見当も付かない。だけど一つだけ、確実に分かる事がある。

 デボラとデボラの戦いが終わった。

 つまりはこれ以上、何処かに逃げる必要なんてないという事。

「……疲れた」

 ぽつりと独りごちたアカは、デボラに向けていた目をゆっくりと閉じるのであった。




瞼と共に閉じる戦い。
明日でラストです。


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デボラの世界

 デボラ。

 二十年前、日本の富士山より現れた超巨大生命体。自衛隊の攻撃をものともせず、米軍さえも蹂躙し、日米同盟をも打ち破り……ついには核の炎をも受け止めた。

 十年の間に数多の国を衰退させ、世界そのものの在り方すら変えようとしていた。変わりゆく環境に、人類もいよいよ覚悟を決め、資源と人材を惜しみなく投じ、最強の兵器を作り上げ……善戦はしたもののあえなく粉砕された。

 そして二十年が経った今、人類最後の希望の地を廃墟へと変えた。

 かつて宇宙にも飛び出し、無数の生物種を自らの欲望で滅ぼし、星の環境すら変える力を持った、七十億体もの知性体である人類。その人類をたった二十年で絶滅寸前まで追い詰めた元凶デボラ。

 そのデボラの死骸が、及川蘭子が見つめる先……数十キロ彼方に転がっていた。

「いやー、見事なもんねぇ。傷だらけとはいえ世界で唯一の死骸。是非とも標本にしたいわ」

「いやいや無理ですよ、あんな大きな生物を標本にするなんて。というか何処に置くんですか」

 思うがままに発言したところ、傍に居る助手のアランに蘭子はツッコミを入れられた。

 デボラの亡骸は、瓦礫の積み上がった……元住宅地の上でうつ伏せの体勢で存在している。

 甲殻は傷だらけの上に体液塗れ。腕は一本取れたまま。そして闘志で燃え上がっていた複眼は白く濁り、もうなんの生気も感じさせない。

 ほんの一時間ほど前まで、超大型デボラに選ばれたデボラ……二十年前から地上に存在すると推測される個体は、超大型デボラの腹に己の尾の先を元気に潜り込ませていた。恐らくはそれがデボラの交尾行動なのだろう。交尾自体はほんの数分で終わった。

 そして一仕事終えたデボラは、まるで一息吐くようにその場で蹲る。

 蹲って……そのまま死んでしまったのだ。

「しかし……なんか、その、交尾を終えた後すぐに死んだように見えましたけど」

 アランは戸惑いながら、自分が見た光景をそう解釈する。その解釈に蘭子は反対などしない。蘭子自身、そう見えたからだ。

「そうね。恐らくある種のハチやアリとかと同じで、生涯に一度しか交尾が出来ないタイプの種なんでしょ。交尾を終えた雄個体は、種としては用済みだからさくっと死んでもらうと。実に合理的な生態ね」

「男としては悲しくなるのですが」

「雌だって多分一度の産卵で死ぬわよ。七万年規模のライフサイクルなんだから、古い世代が何時までも残っていたら世代更新が上手くいかないだろうし」

 淡々と語りながら、蘭子はちらりと視線をデボラの亡骸から逸らす。

 見つめる先にあるのは海。

 そして海に足を踏み入れる超大型デボラこと、雌個体の姿だ。

 遺伝子解析の結果が正しければ、デボラが現生のエビ類の祖先と分岐したのは約五億六千万年前。当時はまだ植物すら上陸していない時期であり、よってデボラの祖先は海中の、熱水噴出口付近で暮らしていたものと思われる。

 その祖先の形質が今も残っているのだろう。デボラの産卵は灼熱のマグマ内ではなく、海中で行うのだ。陸生のカニ類であっても、大半の種では産卵と初期発育を海で行うように。

 出来れば卵からデボラが産まれる瞬間も見てみたい。産み落とす卵の大きさや数を知り、デボラの生存戦略をもっと詳しく知りたい。しかし衰退しきった今の人類には叶わぬ夢である。

「……あの、博士。もしも、もしもの話なのですが」

 夢を諦めた蘭子に、アランが話し掛けてくる。蘭子は顔を上げ、笑顔でアランと向き合った。

「ん? なぁに?」

「例えばですよ、今の人類に大量の兵器を運用する力があったとして……デボラの産卵地を爆破するなりして、デボラの卵を粉砕したなら、デボラを絶滅に追い込めるのでしょうか?」

「どうかしら。デボラが卵を生むとして、その卵は一ヶ所に纏めて生むものなのか、それとも海流に乗って拡散するものなのか。もしかすると卵胎生で、大きく育った子を産み落とすのかも知れない。次世代の残し方次第としか、言いようがないわねぇ」

「無脊椎動物が卵胎生なんてあり得るのですか?」

「勿論。例えばツェツェバエっていうハエがそうね。というかあなたアフリカ育ちなのにツェツェバエ知らないの?」

「ボク、これでも都会っ子なんで虫とかはあまり……」

「都会っ子ねぇ……」

 今時都市なんて何処にも残ってないでしょうが、というツッコミを蘭子は静かに飲み込む。確かにこのご時世に学者になろうと思う辺り、中々育ちは良いのかも知れない。あまり人に興味がない蘭子は、今になって助手の出自が少し気になった。尤も、追求するほどではないが。

「まぁ、仮に根絶が可能だとしても、やらない方が得策でしょうね」

「……得策、ですか」

「幼体がどの程度の大きさまで海で暮らすかは分からないけど、生育の大半はマグマの中の筈。つまりマグマ内にある炭素や窒素を取り込みながら成長し、大きくなったら地上に戻る……地殻と地上間の物質循環を担ってる可能性があるわ。デボラを絶滅させた場合、長期的に見れば全ての元素が地殻に沈んで地上が荒廃、なんて事もあるかもね」

「……そう、ですか」

「不服?」

 蘭子が聞けば、アランは押し黙る。が、やがてゆっくりと頷いた。

「なんか、悔しいじゃないですか。デボラはボク達人間をこんな……絶滅寸前まで追い込んで、地球環境を滅茶苦茶にして、なのに全然お構いなしに生きていて……不公平な感じがします」

「不公平、ねぇ」

 そういう意見もあるのかと、蘭子はアランの意見に少なからず『感銘』を受ける。

 確かに人間は今や絶滅寸前。僅かな生き残りもデボラ教徒がこの国へと集め、そしてデボラ同士の闘いにより大勢死んだ。もしかすると、もう本当にあと数十~数百万人ぐらいしか生き残っていないかも知れない。

 加えてこの破滅は、今回が初めてではないと思われる。

 前回デボラが現れたと思われる七万年前……その時人類には未曾有の災厄が襲い掛かっていたと考えられている。何故なら人類の遺伝的多様性が急激に減少、即ち人口が急激に減った痕跡があるのだ。一説では総人口が一万人を下回ったともいわれている。

 その原因の一つと挙げられているのが、インドネシアに存在するトバ火山の噴火だ。この噴火による気候変動が人類の数を減らした要因だというのだ。これを『トバ・カタストロフ理論』と呼ぶ。

 もしも七万年前デボラ出現により、大噴火が起きたとすれば? デボラの上陸に伴う津波などの被害が、アフリカ沿岸地域の集落を襲ったなら? 今日のような決戦が、七万年前のアフリカ大陸でも起きていたなら?

 人類の数が一万人以下になっても、なんらおかしな話ではない。

 むしろ古代人はよくその程度の被害で済んだというべきか。現代人はたったの二十年で、人口を推定九十九パーセント以上失ったというのに。それとも下手に力を持ち、抗おうとした結果か。

 まだたった一匹しかデボラが現れていなかったのに。

「それに、あの……多分ですけど……デボラ、まだ現れますよね?」

「現れるわね。間違いなく」

 アランの漏らした不安を、蘭子はあっさりと肯定した。

 地殻のエネルギー量でどれだけのデボラが養えるかは不明だ。しかしたった三体で種が存続出来るとは思えないし、『地熱』という莫大なエネルギーを手にした彼等が少数しか生存出来ないとは考えられない。蘭子の予想では最低でも二十、多ければ千体ほどのデボラが、今後数十年間に出現するだろう。

 そのデボラ達も、雌に自らの強さをアピールするために戦う筈だ。それも世界の至る所で。アフリカ以外に人類の生存可能領域が残っていても、その地もまたこの国のように踏み潰されるかも知れない。気候も更に変化するだろう。

 アランが言うように、人類絶滅という危機感は決して大袈裟なものではない。

 だけど。

「それでも、私は人間が滅びそうだとは思わないけどね」

 蘭子はその危機感を、あっけらかんと否定した。

「……え?」

「デボラは常に火山から出現し、その際に大規模な噴火を引き起こしている。火山から出て来るのは、出易いところを探した結果でしょうね。雌はそれを無視して岩盤ぶち抜いていたけど……ともあれ、その結果引き起こされる噴火は、一時的には噴煙が太陽光を遮断して気温低下を招くわ。でも同時に大量の二酸化炭素を放出するから、長期的には温室効果をもたらす。実際恐竜時代で有名なジュラ紀は、三畳紀から続く火山活動の影響により二酸化炭素濃度が高く、その結果平均気温がかなり高かったとされているわ。あと二酸化炭素濃度の上昇は植物の生長を促進するから、農業的にもプラスね」

「つまり、デボラが出現するほど長期的には気温が上昇して、農作物の生産量が増えるのですか?」

「可能性の話だけどね。でもそう思ったら、絶望ばかりじゃない気もしてこない?」

 蘭子が問うと、アランはやや間を開けてから頷く。理解はした、が、納得はしていないのだろう。

 それも仕方ない。蘭子が語ったのはあくまで可能性であり、確証なんてない……ある種の願望だ。そして蘭子にはアランが納得出来るような『証拠』は持ち合わせていない。

「ほら、アレを見てみれば少しはそんな気がしてこない?」

 出来るのは、目に見える『可能性』を提示する事だけ。

 蘭子が振り返った先には、三つの人影があった。男一人と女が二人の三人組……いや、女の一人は赤子を抱いているので、正確には四人組だ。

「だぁーかぁーらぁー! 俺はお前が眼鏡なしじゃろくに見えないド近眼なんて知らなかったんだっつーの!」

「嘘吐きなさい! ほんとは私の赤ちゃん奪って、売り払うつもりだったんでしょ! 許さないから!」

「大体テメェがデボラの方に向かっていくのが悪いんだろうが!」

「見えなかったんだからしょうがないでしょ! 吹き飛ばされた所為か、耳がキンキンしてて音の方角も分からなかったし!」

 そして男の一人と女の一人は激しく言い争っていた。残る女は、巻き込まれたくないのかそっぽを向いて二人から距離を取っている。

 三人が歩いてきたのは、デボラの亡骸が横たわる、神聖デボラ教国の残骸方向。デボラ達によって散々破壊された市街地を踏み越えながら、何時までも口喧嘩を続けていた。

 神聖デボラ教国の跡地から来たという事は、彼等はデボラ達の争いを目の当たりにしていた筈。生き延びた数少ない人類同士だというのに、こんな時でも人は仲間割れを止めない。

 真っ当な人間ならば、きっとこの光景に失望するのだろう。団結出来ない人間はこのまま滅びの道を歩むのだと。

「……こんな時にケンカとか……」

 アランは正にそんな考えのようで、げんなりしている。

 しかし蘭子は逆だ。

 どんな時でも、どんな逆境でも、人は人のままだ。ならばきっと、この性質は古代から変わらぬものなのだろう。

 古代人達はデボラの脅威から生き延びた。ならばその直系の子孫である自分達が、何時までも変わらなかった自分達が生き延びられない理由はない。きっと人はデボラ達により変貌した世界に適応し、また立ち上がる筈だ。

 それこそ今この瞬間にも。

「ちょっと李さん! 国は何処なのよ!?」

「い、いや……な、なんでこんな……瓦礫の山に? というかあそこに死んでるのデボラじゃ……」

「一週間歩き通しで、もう食べ物は残ってないのですが……」

 のこのことこの場にやってきた老人と中年の三人組。年配者である彼等の知識は、きっとこれからの発展に役立つだろう。

「っだぁ! 間に合わなかったぁ! 運良く神聖デボラ教国の船に見付けてもらって、跳び乗って来たのに!」

「はっはっはっ。いやぁ、本当に何があったんだろうねこれは!」

 押っ取り刀で駆け付けた科学者二人。彼等の持つ専門的知識と技術は、年配者の語る理想を形にするだろう。

「とーちゃーん! とーちゃーん!」

「おい! 待て! ほんと待て! お前なんでそんなに体力が有り余ってるんだよ!? さっきまでぶっ倒れていたじゃないか!」

 仲良く国の残骸からやってきた二人の若者。体力と判断力に優れた彼等は、科学者が理想を形にするための物資を運び、生み出されたものを使いこなすであろう。

 そして、

「た、た、助けてくれ! うちの妻が産気付いた! 誰か詳しい人は居ないかぁ!?」

 彼等の作り上げたものを継承する、新たな命がこの瞬間にも生まれている。

 人は何度でもやり直せる。例え恐ろしい怪物に何度踏み潰されても、何度でも立ち上がれる。

 きっと七万年後、自分達の子孫は立派な文明を再建しているに違いない。

 人の逞しさに感動した蘭子は、自分に出来る事がしたくなった。そう、例えば……

「……レリーフの一つぐらいは残せるかしら」

「レリーフ?」

「ええ。石が良いわね、長持ちするから。そこに刻むの」

「えっと、何をですか?」

 首を傾げるアラン。そのアランに蘭子は微笑みながら答える。

 人はこの星の支配者を自称してきた。

 何故か? それは人がこの星の環境すらもある程度自由にコントロールし、その気になれば数多の生物種を滅ぼせるからだ。

 されど科学が進み、その考えが誤りと知る。コントロールしているつもりだった環境は激しさを増していき、ある種の生物の絶滅はある種の生物を制御不能なまでに増殖させる。人間はこれっぽっちもこの星を支配出来ておらず、この星の環境に身を委ねるしかない存在だった。

 だが、デボラは違う。

 デボラに人ほどの知性はない。恐らく愛情などもなくて、本能のまま生きている。

 だけど誰もがデボラには逆らえない。地上が凍り付こうとも、文明が消え去ろうとも、地上生命が根絶やしになろうとも……デボラには関係ない。

 その身一つで星の環境を意のままに変え、

 気紛れに数多の命を踏みにじり、

 されど頂点は決して揺るがず。

 デボラという種は脈々と命を繋ぎ、星が終わる時まで生き続ける。

 だからレリーフにはこう刻もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生き延び、再び地に満ちた子孫達よ。

 

 自然を支配したと思い込んだならば、己の足下に目を向けなさい。

 

 そこには我等の知らぬモノがいる。

 

 そこには我等の手に負えぬモノがいる。

 

 我等が繁栄は、彼等が微睡んでいる間の夢である事を知れ。

 

 我等の玉座は、彼等によって簡単に踏み潰されると弁えよ。

 

 この世界は人のものではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 此処は、デボラの世界である。

 

 

 




全三章、これにて完結です。
自分が書きたいものを書くというモットーの下、好き勝手に書きました。少しでも皆様に楽しんでもらえたなら幸いです。
そして本作を読んで、ほんのちょびっとでも創作意欲が湧きましたなら、怪獣により蹂躙される世界の物語を書いてください(本音)

そんな感じに怪獣系小説がもっと増える事を祈りまして、終わりとさせていただきます。
では!


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