Fate/immature children (waritom)
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第一章
1


 銀の双眸が彼方を睨んでいる。

 礼拝堂の最奥に設置された像だ。本来は十字架が掲げられるはずの場所に、老いた長い髪の男の像がある。石造りで、全身が白と灰の間のような色をしているが、目だけは違った。古びているわけでもなく、あとから改修をしたわけでもない。銀の瞳はこの像の本来の姿なのだ。

 クサーヴァー・ロットフェルトは像の前に立っている。外へ繋がる扉に背を向けて、銀の瞳を見上げている。

 側面に取り付けられた窓から微かな光が入る。この場を照らす明かりはそれだけだ。

 ロットフェルト家の当主となってから幾度となく訪れた場所である。心に迷いが生まれるたび、礼拝堂の像を前に思案に耽ったことを思い出す。この像はロットフェルト家の幾代か前の当主を現したものだ。地方の魔術一家に過ぎないロットフェルト家を大家と言わしめるまで押し上げた当主。クサーヴァーは決断に迷うたび、過去の当主の思いを馳せていた。だが、これほど忸怩たる思いを秘め立っていたことはない。

 礼拝堂の空気が重く肩にのしかかる気がした。空気さえ支えきれぬほど老いたか、心の中で自嘲する。

 当主としてロットフェルトの魔術の完成に血道を上げ、先代から受け継いだ遺産たる魔術刻印はクサーヴァーの代で大きく拡張された。一代の魔術師として、大きな成果だと自負している。

 だが、ここ数年は魔術の研鑽よりもいかに這い寄る老いを引き伸ばすかに腐心していた。身体は節々が痛み始め、幾多の魔術理論を確かめるはずの脳も錆びついたように冴えを失っている。何より、確かに感じ始める死の予兆が、恐ろしく思えるのだ。

 当主の座を次代につなぐときが来たのだと思う。

「旦那様。皆様が揃いました」

 近くに控えていた使用人のクリストフの声が聞こえる。嗄れた、しかし、クサーヴァーよりも幾分若さを感じる声だ。身を翻すと、扉が見えた。像の真反対にある。そして、像と扉を結ぶ通路を挟むように、長椅子が左右に別れて整列している。

 クサーヴァーの血を分けた子ども達がいた。長椅子に、まばらに座っている。ある者は迷惑そうな渋面で、ある者は好気を目に宿しクサーヴァーを見ている。クサーヴァーは全員を見渡して、五人しかいないことに気が付く。

 ……あやつは、やはり来ないか。

 参集を呼び掛けたうち、一人がいない。しかし、あり得ることだと予想していたため、触れることなく話題を切り出し始めた。

「よく集まってくれた。皆も察している通り、儂はロットフェルト家の当主を退く。それゆえ、次の当主を決める必要がある」

 空虚さの漂う礼拝堂に、クサーヴァーの声が響いた。大きな反応を見せる者はいなかった。クサーヴァーが老いているのは誰もが知っていることだ。故に、当主を退くことなど驚きに値しないのか。

 ……皆が気にしているのは次だろう。

 そう思い、言葉を続ける。

「誰が継ぐか。これが問題だ。当主となるためには、ロットフェルトの魔術刻印を継ぐ必要がある。先祖から六代続くこの遺産はとても気難しい」

「親父殿」

 中央の長椅子に座る渋面の男が声を挙げた。次男のウッツだ。確か今はイギリスの大病院に勤めているはずだ。

「前口上はいらない。俺達がここに集められたのは、誰に継がせるかを宣言するためだろう。俺はそれが知れればいい。そもそも、当主の座にさえ興味のない奴だっているだろうさ」

 自嘲するようにウッツが言う。魔術の才能がない次男は、この話題には興味が無いのだろう。

「そうか。では言おう」

 クサーヴァーは少し間を置く。忸怩たる思いの根幹はここにある。

「ロットフェルト家の当主にふさわしい者はいない」

 クサーヴァーの言葉に、礼拝堂には動揺が広がった。この言葉は予想外であったろう。結論を急かしたウッツでさえ驚愕している。

「ロットフェルトの魔術刻印は資格を問う。ただ血族であるというだけ、魔術回路を持つだけでは受け継ぐに値しない。そもそも魔術回路を持たぬ者、魔術の道に背を向け家を出た者など話にもならない」

 長男のアーベルトが羞恥からか顔を伏せる。この男は魔術の修行に音を上げ、成人のおりに家を出た。十年以上前のことだ。きまりの悪い表情をする長女のエルナは生まれつき魔術回路を持たない。

「待ってくれ。父様」

 子ども達の顔を見渡していると、末の息子であるロイクが声を挙げる。出口の近く、クサーヴァーから最も遠い長椅子に座っていた。今は立ち上がっている。

「僕は魔術回路を受け継いでいるし、魔術の修行を投げ出してもいない。そもそも僕が生まれたのは兄さん達が当主として適正でなかったためだと聞いている。父様はそんな僕にさえ不適格だと言うのか」

 若い、二十代に届かない声が礼拝堂に響いた。

「そのとおりだ」

 ロイクの目が見開く。クサーヴァーは言葉を続ける。

「ロイク。お前は自分で言う通り、魔術師の資質を持ち生まれてきた。そして我が元で十全とはいかぬまでも修行を積んだ。同年でお前ほどの魔術を扱うものは少ないだろうよ。……だがな、お前が当主に足り得ぬのは臆病者の気質のためよ。脅威や困難を見れば逃げ惑い、逃げ切れぬとあれば儂に泣きつく。もし、 テオほどの魔術の器量があれば目を瞑ったろうがな」

 ロイクの顔が怒りで紅潮する。ここにはいない兄弟を引き合いに出され、気に触ったか。だが、何も言い返そうとはしない。

「そうやって怒りに駆られようとも、何もできないのがお前よ。それでよく適正者などと言えたものだ」

 再び告げられたクサーヴァーの言葉に応じるように、ロイクが礼拝堂を出ていこうとする。扉に手がかかったところで長女のエルナが口を開いた。

「待ちなさい。ロイク。まだ話が終わっていない」

「これ以上聞いたところで無駄だよ。ロットフェルトに次代はない。クサーヴァー・ロットフェルトが最後の当主だ」

「それがあり得ると思うか。親父殿がこんな形で諦めると思うか。ロットフェルトの跡継ぎのを作るという目的のために、これだけの子どもを異なった女に産ませた親父殿が」

 涙声のロイクに答えたのはウッツだ。エルナとウッツは気が付いている。クサーヴァーがまだ本題を話していないことに。

「座れ。ロイク。なに、子ども達をなじるためにスイスの山奥へ呼びつけた訳ではない。儂が言いたいのは、ロットフェルトの次代を担うには今のお前らでは荒療治が必要だということだ」

 クサーヴァーは懐から羊皮紙の巻物を取り出す。

「これは極東の地で行われた儀式の仕組みを示したものだ。曰く、万能の願望機である聖杯を地に下ろす」

 唐突に告げられた言葉に、子ども達が不審そうな目を向ける。極東、万能の願望機、聖杯。この場に相応しい単語ではないだろう。構うことなく、クサーヴァーは説明を続ける。

「無論、聖書に謳われる聖杯とは別物よ。だが、この聖杯も願望機として機能する。ロットフェルトに相応しき魔術師になることなど造作も無かろうよ」

 言葉を切る。その場の全員が願望機という荒唐無稽な言葉を吟味しているのだろう。信じられるのか。だが、クサーヴァー・ロットフェルトがこの場でふざけるような人間か。

「日本の冬木という地では三度この儀式が執り行われ、聖杯が降臨した。最後の聖杯は時計塔から離反したダーニック・プレストーン・ユグドミレニアが奪い取ったそうだがね。この巻物は彼から譲り受けたものだ。少しは信じる気になったかね」

 嗄れた声でクサーヴァーは嗤う。忸怩の念は自虐へと昇華した。このような外法を用いざるを得ない、我が身の愚かさに。

「儂はこのルスハイムの地で儀式が行えるように準備をする。残された時間は僅かだが、三年後に始めることを約束しよう。……忘れていたよ。聖杯を手にできるのは唯一人だ。皆、意味がわかるか」

 クサーヴァーが問う。そして自ら回答する。

「ロットフェルトの当主を望むのであれば、聖杯を奪い合え。これは、ロットフェルトを賭けた聖杯戦争だ」

 

 礼拝堂に残ったのはクサーヴァーと使用人のクリストフだ。疑問を挙げる子ども達の声を無視し、話はこれまでと解散させた。

 冬木の聖杯。ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア。情報を得るためにヒントは十分に散りばめられてある。疑問があれば、自ら調べれば良い。聖杯戦争の血なまぐさい現実に、尻込みするのであればロットフェルトになる資格はない。

「クリストフ」

 クサーヴァーの言葉に、使用人が無言で応じた。側に寄ってきたクリストフに命じる。

「此度の聖杯戦争、余所者が入り込む可能性がある。邪魔が入らぬように尽力せよ」

 クリストフが黙り込む。クサーヴァーは彼が言葉を選ぶとき押し黙る癖があるのを知っている。

「恐れながら。マスターの席を一つ、いただけませんか」

 クサーヴァーは笑う。

「儂と変わらぬ老いた身で、聖杯にかける願いがあるのか。かまわんぞ。儂が当主になってからの付き合いだ。特別に参加を認めよう」

 クサーヴァーの言葉にクリストフは首を振り否定する。そうではないと。

「旦那様が手がける聖杯戦争。聞き覚えがあります。世界中で散見されている魔術師同士の争い。人理に刻まれし英霊を召喚し争わせるという」

 クサーヴァーは関心する。老いた使用人が世界で起こっている聖杯戦争について知っていると思わなかったためだ。

「旦那様であれば、必ずルスハイムの地に聖杯戦争を実現するでしょう。それも、完璧に近い形で。そうであれば、ただの魔術使いである私めなど、微力にも及ばず。……万難を廃するには、専門のマスターとサーヴァントが必要かと」

「よい。では、人選も含めお前に任せる」

 クリストフが頷く。礼拝堂を出ると正面にプラウレン湖が見えた。思いの外、時間が経っていたようだ。湖面には夕日が射している。

 傍らに伴っていたクリストフに思い出したように声を掛ける。

「クリストフ。これをテオの元へ届けよ」

 応じて側に寄ってきたクリストフにクサーヴァーは手紙を渡す。

「よろしいのですか」

 言葉少ない疑問にクサーヴァーは首肯する。この場に集まらなかった我が子。魔術の才に恵まれながらもロットフェルトの家を出た。手紙には先程に説明した内容が書き記されている。

「テオにも参加の資格がある。ただの魔術比べであれば、あやつが一番有利だろうよ。問題は本人が望むかどうかだけだ」

 聖杯は願いあるものを呼び寄せる。テオにロットフェルトを惜しむ気持ちがあれば、戻ってくるだろう。

 クサーヴァーは自身の工房へ歩き始める。聖杯戦争の完遂は魔術師として、当主としての最後の大仕事であろう。魔術師としての狂熱を胸にする。そこには我が子を蠱毒じみた儀式へ誘う罪悪感は微塵も宿っていなかった。

 



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2

 クーナウ家は魔術師としての歴史は短い。

 代を重ねることが魔術の研鑽の度合いを示す世界だ。そのため、三代程度しか歴史のないクーナウ家は他の魔術師からは重要視されていなかった。クーナウの魔術師も理解していることだ。

 そのため長い歴史を持つロットフェルト家から呼び出されたとき、カヤ・クーナウは大いに驚いた。

 クーナウ家が居を構えるドイツのネフドルから国をまたぎスイスへ。その後、いくつか山脈を越えてようやくロットフェルト家のあるルスハイムに着いた。クリストフと名乗る老紳士に出迎えられ、ロットフェルト家が住む屋敷へと向かった。そこからクリストフの運転する車で山を越え、更にはフェリーに乗り換えて湖を渡る。ここまでの道のりを超えてようやくかの屋敷が見えてきた。山脈に囲まれたプラウレン湖に浮かぶ城。常人が迷い込まぬように幾重にも結界魔術が掛けられているという。

「聖杯戦争。ご存知だろうか」

 調度品で彩られた客室に案内されると、老紳士が口を開いた。広くはない部屋だが、三人の人間が話をするには不都合はない。ロットフェルト家の使用人クリストフ、カヤ、そしてクーナウ家の当主であるカール・クーナウ。カールはカヤの兄だ。

「もちろん存じております。今、世界各地で行われる魔術師と英霊による殺し合いでしょう」

 カールが答える。何ヶ月か前から頻発しているというのはカヤも知っていた。七人の魔術師が殺し合い残った一人が願いを叶う聖杯を得る。だが、実際に儀式が成功したことはないらしい。

「このルスハイムでも行われる。これは、我が主であるクサーヴァー・ロットフェルトが跡継ぎ選びのために行うものだ。貴殿には、この戦争に邪魔が入らぬように尽くして欲しい」

 カールが渋面を作る。この言葉少ない老人の意図が読みきれないためだろう。

「聖杯戦争というものを補足しよう。七人の魔術師がマスターとして戦場に集まり、そこで英霊を召喚する。七人七騎。これらで殺し合いを行い、残った一人が万能の願望機を手に入れる。これが、貴殿も聞き及んでいる聖杯戦争のあらましだろう」

「ええ」

「我が主クサーヴァー・ロットフェルトは万能の願望機を持ち帰った者をロットフェルト家の次期当主とすることを決めた。ロットフェルト家の当主候補は六人。此度の聖杯戦争ではそれ以外の参加者がいることは望ましくない。ここまでは、よろしいか」

 聖杯戦争の参加者が七人。後継候補が六人。このままでは、参加者の席が一つ余る。カヤはそれを理解すると、カールに先んじて答える。

「つまり、クーナウにマスターとして聖杯戦争に参加しろ、ということですか」

「いかにも。残る一席、どこの馬ともしれぬ魔術師に渡すとろくな事にはならない。また聖杯は、候補がいなければ間に合わせの魔術師ですらない者を選ぶことがあるという。ロットフェルトの儀式にこれらの異分子は不要だ」

 カールは疑問を口にする。

「何故、我々クーナウに助力を乞うのです。ロットフェルトとクーナウは先代から交流があるが、生死を賭けた戦いに参じるほどの義理はないなずだ」

 カヤも抱いているはずの疑問だ。クリストフが呆れたように答える。

「クーナウの先代は事故で亡くなられていたな。聞き及んでいないと見える」

 クリストフが羊皮紙を取り出す。そこまでは古びていない。儀式や魔術師同士の契約に用いられる。カールがそれを受け取ると、文面を読み始めた。紙面の内容をクリストフがまとめて、口にする。

「ロットフェルトの当主とクーナウの当主による契約。ロットフェルトの当主がクーナウの娘を治癒する。その代わり、クーナウの当主は一度に限り、ロットフェルトの当主の要請に答える義務を負う」

 クリストフが内容を要約して話す。クーナウの娘。それはつまり。

「カヤ・クーナウ。貴方は幼少に魔術の事故によって心臓に傷を負った。それは、医学では手の施しようのない、呪いのようなものだ。遠からず命を落とすところ、クーナウの当主であった父君が我が主を頼った。その際に取り交わした契約だそうだ」

 カヤは記憶を辿る。昔、心臓を患ったことは確かだ。そして、父や兄とは違う魔術師に命を救われたことも記憶にある。だが、このような契約は知らなかった。

「……クリストフさん。申し訳ありませんが、僕もカヤもこの契約は知らなかった。少し、考えさせていただけないか」

「それは無駄というものだ。聖杯戦争の参加は我が主、ロットフェルト家当主の要請。クーナウの当主が変われど、契約は続く。これを違えれば契約により施された魔術は露と消えよう。意味が解るか」

 カールの嘆願をクリストフが即答で打ち捨てる。ここに来て、何故ロットフェルト家が当主ではないカヤをここに呼び付けたのか理解した。我が身は人質なのだ。クリストフが欲しいのは、絶対に裏切ることのない、かつ使い捨てても構わない奴隷。

 カールがカヤを見る。その表情は苦悶に満ちていた。クーナウの若い当主として気苦労が絶えない様子はずっと見ていたが、このような表情は初めて見た。

 カヤは考える。最悪は何だ。カールが聖杯戦争に参戦したら。クーナウの力は弱い。戦闘に秀でた魔術師であれば難なく打ち倒せるだろう。兄が死ぬ。クーナウの家はどうなる。

「カヤ」

 カールが声を掛ける。その目に浮かぶのは涙だ。カールは自らの危機を憂い涙するような人間でない。魔術師としてクーナウの家を継ぐ時、クーナウを次代に繋ぐことを第一とした男だ。

 そこで、カヤは気付く。この状況でクーナウが一番ダメージを負わない選択。カールはそれに至り、カヤを見ているのだ。

「私が行くよ。そうすれば、クーナウの当主は傷がつかない。そうでしょう」

 絞り出すように答えた。カヤがカールの代わりに戦争に参加する。そうすれば、ロットフェルト家の要請に答え、かつ、クーナウ家が途絶える心配もない。

 魔術師の家で育った以上、ある程度危険な目に遭うことは覚悟していた。実際に、いくつか死地を越えたこともある。だが、これほどの危機が降りかかるとは思わなかった。

「すまない」

 カールが小さい声で、カヤよりも悔しさのにじむ声で答えた。

「クーナウの当主。大変感謝する。カヤ殿、我々が望むのは他の魔術師の横槍を防ぐことだ。何も聖杯をとってこいとは言わない」

 クリストフが幾分優しい口調で言う。カヤは何も答えない。返すべき言葉が見つからなかった。クリストフが構わず封筒を差し出した。

「聖杯戦争の詳細はここにある。質問があれば聞いてくれても構わない。私が知ることも、たかが知れているが。戦争の開始は二年と半年後、ルスハイムの地にて」

 封筒を受け取る。もう戻れない気がした。きっと無事では帰れない。そんな直感があった。

 



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3

 夜の隙間風で、テオ・ロットフェルトは身を震わせた。ロンドンの冬は寒い。いや、建て付けの悪い安アパートにしたのが間違いだったのだろう。冬が来る度に抱くこの後悔は、既に五回を数える。

 部屋には物が散乱し、建物自体の古さも相まって廃墟じみた印象を与える。住む場所が荒むと、心も荒むことをテオはこの五年で学んだ。尤も、テオが以前に住んでいたルスハイムの湖に浮かぶ城のような屋敷など、このロンドンで住みようがないのだが。

 スプリングが軋むソファベッドの上で、テオは蹲り自身を苛む原因を考えた。決してみすぼらしい生活が原因ではない。一ヶ月ほど前に届いたロットフェルト家からの手紙だ。

 記されていた内容は簡潔だ。ルスハイムの地にて魔術師同士の殺し合いを行う。ロットフェルトの血族は全員参加。家を出たテオも例外ではなく、参加資格を有する。テオには当主の座などに興味はない。故に、この争いに参加する意義など一つもない。それでもテオを苛むのはハンナ・ロットフェルトのことだ。テオと母を同じくする唯一の兄妹。五年前、ルスハイムに置き去りにした妹だ。

「いやいや、今日は冷えるね。テオ」

 長身の男がテオの部屋に入ってくる。昏い色のコートを羽織り、傍らには小包を抱えている。

「ゲルト。何の用だ」

 テオは男に不愉快そうに声を掛けた。ゲルトと呼ばれた男は構わずにコートを脱ぎ、ハンガーラックに吊るす。物の散らばる床を器用にかき分けて進むと、テオのいるソファベッドに腰掛けた。

「ひどい態度だ。ここの家賃はずっと私が払っているというのにね。パトロンの機嫌は損ねないのが得策じゃないのかな」

「文句があるなら打ち切ってくれて構わない」

 無愛想なテオの言葉に、ゲルトが苦笑が聞こえた。

「で、本当に何の用だ。用もなく尋ねる間柄じゃないだろう」

「そうとも。そろそろ返事を知りたくてね」

 そう言うと、ゲルトの声が一段低くなる。やや軽薄な雰囲気がなりを潜めた。

「ロットフェルトの聖杯戦争。参加する気にはなったかな」

 テオがゲルトと初めて出会ったのは、テオがロットフェルトの家を出て幾日か経ったときだった。

 家を出てすぐ、魔術といえばロンドンという印象だけを当てにして、イギリス行きの飛行機に乗った。テオに自由になる金銭はそれで尽きた。住む場所もなく、ましてロンドンに居を構える魔術協会・時計塔に入る伝手もない。考えなしの行動にひどく後悔したが、路銀が無い以上、帰る術さえもない。テオは立ち竦んだ。

『テオ・ロットフェルトだね。私はゲルト・エクハルト。魔術師だ。私に協力しないか。見返りに住む場所を与えよう』

 ゲルトが声を掛けたのはそのときだった。孤独に苛まれていたテオは直ぐに承諾した。それから時折ゲルトの魔術の手伝いをし、死なない程度の小遣いで食いつないでいた。テオのロンドンの生活はゲルトによって与えられたものだった。

 ゲルトからの接触が頓に増えたのは、ロットフェルト家からの手紙を受け取ってからだ。そこに至り、ゲルトが何故テオに協力を求めたかを知った。

 ゲルトが目的をテオに語る。何度目かわからない。

「クサーヴァー・ロットフェルト。私はどうしても彼の命が欲しいんだ。何故かは言わないよ。言えば純度が薄まる」

 テオの父であるクサーヴァー・ロットフェルトは恨みを買いやすい人物らしい。いや、テオ自身も怒りを感じているため、意外では無いのだが。

「この跡目争いは格好のチャンスだ。城に籠もりきりなクサーヴァーが出て来るかもしれないし、英霊の力を使えばロットフェルト城の結界も打ち破れるだろう」

 英霊。人類史に名を刻む、偉業を成した魂。聖杯戦争では参加した魔術師はパートナーとして英霊を使い魔として召喚し、他の魔術師を打破する。通常の使い魔とは一線を画する存在であり、サーヴァントと呼ばれる。聖杯戦争というシステムでない限り現代の魔術師が御しきれる存在ではない。ゲルトに言う通り、サーヴァントの力を持ってすれば現代の魔術師の築いた結界など造作もなく破れるだろう。

「聖杯戦争の趨勢は召喚したサーヴァントで決まる。サーヴァントから見れば現代の魔術師など物の数ではないのだからね。まして、二騎が揃えば現代の魔術師一人など問題になりはしまい」

 ゲルトから持ちかけられている交渉。出会ったときに頼まれた協力。聖杯戦争に参加し、父であるクサーヴァーを殺す手助けをすること。

「迷っているんだ」

 テオは小さく言う。

「驚いたな。君には父を思う気持ちがあるのか」

 違う。そうではない。テオの迷い、苛みの原因はハンナ・ロットフェルトだ。

「ハンナが立ち塞がったら、どうすればいい。クサーヴァーになど興味はない。死んだら胸がすくほどだ。だが、俺にはハンナを傷つけるような真似はできない」

 テオの吐露にゲルトは笑った。

「何を言うかと思えば。テオ。君は自分の本当の望みに気が付いていない。ハンナを傷つけたくないだって?違うだろう。君が本当に望むのは、妹を救うことじゃないのか。あの人でなしの魔術師共からハンナ・ロットフェルトを自分の元へ取り戻すことじゃないのか」

 ゲルトの指摘に、テオの顔が紅潮する。自分の手で救い出す。考えてもいなかった。なぜなら。

「たかが家出をしたぐらいで牙が抜け落ちたのかい。初めてあったときはもっと野心的な目をしていたよ。我々は魔術師だ。望みが有るなら祈るのではなく、奪い取る。違うかい」

 そうだ。首肯する。ロットフェルトの家を出たとき。逃げるように山を駆けながら誓ったじゃないか。いつかハンナを迎えに行くと。ロンドンでの緩慢な日々がテオの思いを忘却に追いやっていた。

「よろしい。私も君を手伝うことは吝かではない。お互いの目的は部分的に一致しているはずだ。君はハンナを救出し、私はクサーヴァーを殺す」

 そう言うと、ゲルトが手元の小包を手渡した。テオが封を破ると、一冊の本が現れた。中を捲る。カタログの様だ。

「それは私が融通できる触媒の一覧だ。知っているだろう。英霊召喚を行うためには英霊と縁のある品物が触媒として必要だ。手ぶらで召喚をしたら、何が出てくるかわかったものじゃない」

 ゲルトが立ち上がり、コートを手に取る。テオは無意識にゲルトを見送るように扉の前に立っていた。

「いいかい。私達は一心同体だ。共に苦渋の日々に終止符を打とう。一年後、ルスハイムの地で笑うのは我々だ」

 テオはハンナとの日々を思い出す。古き、幸せの記憶だ。取り戻す。固く誓った。ゲルトが扉を開けると、冬の風が入り込む。テオの頬を撫でたが、不思議と寒さは感じなかった。

「呼び出す英霊が決まったら、教えてくれたまえ」

 



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4

 カヤ・クーナウは再びルスハイムの地にいた。

 市街からは離れた山の中、廃れた一軒家を改造した工房にいる。手狭さは感じるものの、寝起きや儀式を行うには不都合はない。

 外見の悪さは自然と人避けになる。何より、霊脈に恵まれていることが決め手だった。

 聖杯戦争への参加を強制させられたときから、二年程が経っている。あの死刑宣告めいた会合の後、カヤは兄カールと幾度も話し合いを行った。カールは穴がないか幾度も契約書を読み返し、反故にした場合のリスクを検証した。

 その結果、契約書には全く付け入る隙がなく、クーナウ家は要請に従う義務があることがわかった。また、反故にした場合については何が起こるかわからないというのが結論だった。

『カヤの心臓に施された魔術が停止する可能性がある』

 カールがカヤの体を改めた結果、心臓に何かしらの術式が埋め込まれていることがわかった。

 これは十中八九、治療時に用いた術式の名残である。だが、最悪の可能性はこの術式が心臓を動かす機能そのものである場合だ。この場合、制御権はクサーヴァーが握っているのが自然だろう。

 つまり、カヤが契約を反故にした場合、クサーヴァーはカヤの心臓を止めることができる。

 ……なんて契約を結んじゃったのよ。父さん。

 契約の如何にかかわらずカヤの命はクサーヴァーの掌の上にあるのではと訝しんだが。が、

『それはないんじゃないかな。仮にいつでも心臓を止められるなら、業々しい契約書を作るなんて手間なだけだよ』

 というのはカールの言。信頼性は高くないが、一つの意見として頷いた。

 結局、カヤは聖杯戦争に全うに参加し、ロットフェルト家以外の参加者に退場いただくことになった。『僕も参加する!』とごねるカールは無理やりドイツの家に置いてきた。

「二人で参加して、共倒れしたら最悪じゃない」

 ルスハイム各地に設置する予定の感知魔術を試作しながら、独り呟く。兄の思いは嬉しいが、こんな血なまぐさい儀式には、魔術刻印を継承していない、つまり、死んでもクーナウの家に影響のないカヤ独りのほうがよい。

 戦争の開始まで残り五ヶ月程度を残している。ある程度早い期間にルスハイムに入ったのは、現地偵察ともう一つ理由がある。

『予定であれば、戦争の数ヶ月前になればクサーヴァー・ロットフェルトは聖杯戦争のシステムを起動するだろう。過去の聖杯戦争や、他の亜種聖杯戦争と同じであれば、令呪は戦場にいなければ宿らない』

 令呪。それは聖杯戦争にマスターの証である。また、召喚した英霊、サーヴァントに対して施行できる三画の絶対命令権でもある。利用すれば、非常識な戦力を持つサーヴァントを自死させることも可能だ。つまり、サーヴァントは令呪があるためにマスターに従わなくてはならない。サーヴァントは通常、生前の人格をそのまま有する。そのため、マスターと意見が衝突した場合を考え、このようなものが作られたらしい。つまり、令呪とはサーヴァントを制御する唯一の手綱であり、失った場合は死を意味する。

 作成していた感知魔術の動作確認を終えると、左の手の甲を見る。青白い、入れ墨のような紋様。ルスハイムに入り、三日後に宿ったものだ。並々ならぬ魔力が込められており、直ぐにこれが令呪だとわかった。クサーヴァーは予定よりもずっとはやく聖杯戦争のシステムを起動したらしい。

 令呪に気が付くと同時に、本当に戦場に来てしまったのだとひどく後悔した。

「令呪が配られませんでした、で帰れるわけないわよね」

 ため息が止まらない。そも、選ばれなかったらサーヴァントなしで要請に答える必要があるので、難易度は著しく上がるわけだが。

 カヤは自分で購入したソファに座り、テーブル上のカレンダーを見る。工房を設置し、令呪が宿った。残ったなすべきことは一つ。サーヴァントの召喚だ。自身の魔力が最高潮に達する満月の夜。潤沢な霊脈に近いこの工房。召喚の条件は可能な限り完璧に揃えた。呼び出す英霊は既に決めており、そのための触媒も用意している。ただ、迷う。これでよかったのか。

 聖杯で呼び出される英霊はそれぞれが七種のクラスに分類される。同じクラスの英霊は複数は呼び出されない。セイバー、アーチャー、ランサー。セイバーは剣を、アーチャーは弓を、ランサーは槍を使う。これらの三騎士クラスは対魔力と呼ばれる魔術を弾く能力が秀でており特に警戒が必要だ。ライダー、騎兵。アサシン、暗殺者。キャスター、魔術師。バーサーカー、狂戦士。有利な三騎士クラスはロットフェルトのマスターが取り合うだろうと思われるので、カヤはあえて選択肢から外した。

 この聖杯戦争におけるカヤの立ち位置は普通ではない。聖杯を狙わず、ロットフェルト以外のマスターを排除するのが目的なのだ。そう考えると、一概に強力なサーヴァントを引き当てるのも考えものだ。他のマスター同士が結託してカヤを狙うことが起きると、要請に答えるどころではなくなる。必要なのは情報。誰がマスターなのかいち早く察知し、ロットフェルト以外であれば退場いただくこと。

 マスターの情報を集め、先んじて対処する。それにふさわしいクラスは一つ。

「……アサシン、か」

 



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5

 ロットフェルト家の本拠地であるプラウレン湖に浮かぶ屋敷には、クサーヴァー・ロットフェルトとクリストフ以外いない。聖杯戦争を三ヶ月前に控え、公平を期するために屋敷に住む子ども達は全員が追い出された。もっとも、全員といっても恒常的に住んでいるのはロイクとハンナだけであったが。

 その一人、ロイク・ロットフェルトは憤慨していた。プラウレン湖畔にあるコテージの中。広々としたリビングで暖炉の火を見つめている。三年前の会合以来、ロイクの胸には常に怒りの塊とも言うべき存在が居座っている。どれだけ気を紛らわそうとも、ふと力を抜いた瞬間に、その塊が胸の内を熱いもので満たす気がした。

 原因は単純だ。ロイクはロットフェルト家を継ぐために誕生した。ロイクの上にいた兄弟たち、アーベルト、ウッツ、エルナは魔術師として素養はなかった。悲観した父クサーヴァーによって、魔術師として優秀な母体を用いて生まれたのがロイクである。

 父の目論見は達成された。ロイクは他の兄弟たちに比べ圧倒的な数の魔術回路を備え生まれてきた。父もロイクの教育に熱心で、二人で父の工房に籠もり、ロイクは魔術の薫陶を受けた。自他ともに次期当主はロイクであると思われていた。

 不穏の影はロイクが十二歳の頃に起きた。父が子どもを連れてきたのだ。十六歳のテオと十四歳のハンナ。二人共、十全たる魔術師の素養を持っていた。父とロイクの魔術教室にテオとハンナが参加するようになった。理解ができない。何故か。疑問がロイクの頭を支配したが、父に問いただすこともできなかった。だが、程なくして氷解した。テオの持つ魔術の才能が傑出しているのだ。治癒、蘇生という一つの分野に対してのみ、高度な魔術を苦もなく操った。

 次期当主はテオではないか。やがて屋敷を包んだのはそんな風評だった。ロイクの肩身はとたんに狭くなった。ロイクは次期当主になるべく産まれた子どもである。公然の事実だと思っていた。だが、テオが来てからはその事実は露と消えた。父は、テオを当主とするために呼び寄せたのだ。何故か。ロイクでは力が不足していたからだ。

 屋敷内で囁かれる事実に気が付きながらも、ロイクは心のどこかで状況を正当化していた。皆、わかっていない。父はただ、ロイクの成長のために競争相手を用意したに過ぎない。依然、次期当主はロイクである。

 ロイクにとって転機は、テオがロットフェルトの家を出たことだった。魔術儀式の事故でハンナが傷つき、恐れをなしたと聞いた。その折、ロイクはイギリスへクリストフとでかけていたため全く関知していなかった。知らせを聞いたとき、ロイクの胸に宿ったのは安堵であった。テオを競争相手だと嘯きながら、心では敗北を認めていたのだ。だが、テオは去った。これで、ロイクが次期当主となることに誰も疑問を抱かない。そう思い、ずっと生きてきた。あの、忌まわしい礼拝堂での会合までは。

 クサーヴァーの胸の内は違っていたのだ。聖杯戦争。そんな極東の田舎の儀式に当主を委ねるなど、恥を知るべきだ。いや、恥じるべきは紛い物の聖杯に頼らぬ限り、ロイクには当主の資格が無いと言い切ったことだ。それも気質と。臆病者と言ったのだ。そして何より許しがたい、クサーヴァーの言葉を思い出す。

『もし、 テオほどの魔術の器量があれば目を瞑ったろうがな』

 父は、ロイクよりもテオが優れていると言い切ったのだ。ロイクが生まれてきたその理由を、父が否定したのだ。怒りは塊となり、常に胸の内に居座るようになった。

『僕の素質を、認めさせねばならぬ。そして、当主としてテオよりも適していると証明せねばならぬ』

 会合から今日に至るまで、ロイクは聖杯戦争について調べ、準備を行ってきた。とりわけ、ルスハイムという馴染みの深い土地が戦場である。地の利は自分にある。他のマスターについてはルスハイム中に放った使い魔で監視している。魔術に素養のないアーベルト達が本気で参戦するとは思えないが、代理として魔術師を遣わせるくらいはやってのけるだろう。事実、ここ数ヶ月でルスハイムに見慣れない魔術の痕跡が増加している。だが、彼らは問題でないだろう。雇われた人間は一定以上の危険は侵さない。少し脅せば早々に諦めるはずだ。やはり注意すべきはテオだ。ロイクはテオが参戦すると確信していた。

 そして、ロイクの予想は的中した。空港を監視していた使い魔がテオを見つけたのだ。まだルスハイムには来ていないようだが、時間の問題だろう。感情が高ぶる。暖炉の火が一層強く燃え上がった。

 準備は整いつつある。残すはサーヴァントの召喚を行うのみ。戦いに相応しい、最高の戦士を呼び出す。些か入手が困難だったが、目当ての触媒は手に入れた。後は、自身の魔力が高まる時期を待つ。

 左手の甲に宿った令呪を撫でながら、ロイクは時を待つ。暖炉の火は消えない。

 



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6

 山の夜は静かだ。故に物音を立てる存在は、直ぐに存在を感知される。プラウレン湖を取り巻く山々は未だに切り開かれておらず、一般人が歩くには困難を極める。プラウレン湖自体へも辿り着く手段が限られており、いくつかの国道を不自然に逸れ、手付かずの山の中を進む必要がある。これはロットフェルトの当主が貴重な霊脈を晒し者にすることを嫌ったため、行政に介入した結果であった。そのため、プラウレン湖に近づく者はロットフェルトの事情を知る者に限られる。

 テオはこの事実をよく知っていたため、あえて霊脈が豊かなプラウレン湖近くではなく、ルスハイムから離れた別の街のモーテルに拠点を構えていた。短期滞在の旅行者用モーテルだ。安宿らしく、テオの部屋には最低限の調度品があるだけだ。埃っぽい空気も、スプリングが軋むベッドにもテオは慣れていた。ロンドンの生活と何も変わらない。

 気がかりはルスハイムにおらずとも令呪が宿るかどうかだったが、杞憂だった。テオの左手の甲には波がうねり合う様な刻印が宿っている。令呪は聖杯を求める者へ宿るという。そうであれば、テオの望みを聖杯は汲み取ったのかもしれない。

 宿った以上、早々に英霊召喚を行う。枕元に投げ出している箱を手に取る。ルスハイムへ訪れる直前、ゲルトから渡されたものだ。

『直前になってすまないね。だが、用意をしたとも。これで君の望むサーヴァントが召喚されるはずだ』

 ゲルトの用意した触媒は多分、完璧なのだろう。ある勇猛な騎士に関わる品。テオは触媒の真贋を見極めることはできない。それ故か、迷いが生まれている。昨今、世界中で行われている聖杯戦争では、英霊側から召喚を拒否される場合があるそうだ。英霊も、聖杯で叶える願いをもって召喚に応じる。紛い物の聖杯だと感づかれれば、参戦を拒否されるもの理解できる。察しの良い英霊や聖杯そのものに縁のある英霊、もしくは紛い物を嫌う潔癖な英霊では、召喚を拒否される危険が高いのではないか。これはテオの予想である。故に、ゲルトの用意した触媒を利用するのに抵抗が芽生えていた。

 ……アーサー王伝説に名高い、円卓の騎士。果たして召喚に応じるのか。

 テオはベッド脇に置かれた鞄から、布袋を取り出した。これはテオが自身で用意した触媒である。

 ゲルトに言われるままに参戦を決めたが、テオなりに準備を進めていた。特にゲルトが用意するという触媒はどこか疑わしく思えた。

『……気前が良すぎる』

 ゲルトの目的はクサーヴァーの殺害だ。協力することは構わない。だが、それが本当の目的だろうか。クサーヴァーを含めた、ロットフェルト家全員の殺害を目論でいないだろうか。ゲルト・エクハルト。どれだけ調べても、背景が全く掴めなかった。ロンドンでは生活の面倒を見てもらうほど頼ってしまったが、これ以上は危険だと判断している。

 手にした布袋を持ち、ゲルトの触媒は鞄の奥に仕舞い込む。腕時計を見る。午前一時。時間も申し分ない。テオは召喚を行うため、街へ出る。

 スイスの冬風は強い。山々が吹き下ろされる風に体が冷える。薄汚れたコートで身を抱くようすると、温まった気がした。そのまま、寝静まった街を車道沿いに歩き続ける。雪は降っておらず目的地までは苦もなく着くだろう。しばらくすると、外灯も薄くなる森に囲まれた。そこで車道を外れ、森の中を進む。動物と枯れた草葉の匂いがする。自然の只中だ。人間は異分子なのだろう。夜行性の動物に見られているような気がした。暗闇を嫌い、懐中電灯に明かりを灯す。そのまま歩き続けると木々が密集していない、開いた場所に出た。目的地だ。

 手際よく召喚の準備を始める。己の血を薄めた液体で召喚陣を作る。複雑な陣ではない。ものの十分程度で完成した。見上げると、木々の隙間から星々が光を注いでいる。ハンナを想う。必ず助ける、と。

 近くの石で祭壇を作り、布袋から中身を取り出す。黒とも赤とも言える色をした木片。込められた魔力を感じながら、テオは祭壇に恭しく置いた。準備が整う。時刻も申し分ない。召喚を始める。

 



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7

 カヤは工房の一画を儀式場とした。アサシンを召喚することに既に迷いはない。故に後は覚悟の問題。

 召喚陣を挟み、祭壇が正面になるように立つ。魔術の行使はイメージが重要だ。意識の切り替えを行うトリガー。カヤは目を瞑り、想像上の鉄の輪を作る。大小がある三つ。それらはカヤの心臓を囲むように絡み合い、静止している。一際大きな輪を、廻し始める。機械仕掛けのように他の輪も回りだす。鉄の輪同士の擦れる音が脳内に響く。回転する振動に、心臓が揺れる。カヤ・クーナウという存在は組み込まれ、世界と同一となる。輪の回転が激しさを増す。召喚陣に光が溢れ出した。魔力の奔流に意識が薄らぐが、持ち堪える。そして、呪文を口にする。

「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。

 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ

 閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)

 

 

 蝋燭の火に四方を灯された部屋から、常ならぬ魔力が溢れ出ていた。その現象を引き起こしている術士、ロイクは召喚に手応えを感じていた。怒りの炎を心に宿し、魔術を行使し続ける。呪文を紡ぐ。

「繰り返すつどに五度。

 ただ、満たされる刻を破却する

 ――――告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 

 森の枯れ木が揺らぐのを感じた。現代ではありえない魔力の暴走。それに世界が軋むような錯覚を覚える。それでも、テオは立っていた。

「誓いを此処に。

 我は常世総ての善と成る者、

 我は常世総ての悪を敷く者」

 続く呪文を唱える。魔力の奔流で、懐中電灯の光がかき消えた。だが、召喚陣から溢れる光が灯となる。徐々に、何かに引きずり込まれる気がした。逆らうように呪文を叫ぶ。思いを込める。俺が行くのではない。お前が来い、と。

「汝三大の言霊を纏う七天、

抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 召喚陣が一層の光を吐き出す。そして、光が途絶え、森が暗闇に包まれた。儀式は成した。成否を案じながら体内の魔力に集中すると、何かに流れていくのを感じた。確かに存在する。召喚陣の中央。光を感じずとも、膨大な魔力の塊がそこにいる。立っている。

 その存在ががゆっくりとテオの元へ歩いてくる。思わず後ずさりしそうになるが、制した。神秘の権化、現代ではありえない存在。サーヴァントだ。それはテオの眼の前まで来ると、歩みを止めた。

「問おう。お前が私を呼び出したマスターか」

 澄んだ声だ。暗闇で顔は見えないが、女だとわかった。

「そうだ。俺はテオ・ロットフェルト」

「テオ。契約を結ぶ前に答えてもらおう。お前は聖杯に何を望む」

 テオの背筋に寒気が走る。テオの目的は聖杯ではない、あくまでロットフェルト城に捕らわれているハンナの救出だ。英霊は聖杯を欲する存在。テオの真意が悟られてはならない。

 その理屈がわかっていながら、テオの口から出たのは剥き出しの本心だった。

「囚われた妹を救い出したい。手を貸して欲しい」

 暗闇の中にいるそれが、にぃ、と笑った気がした。瞬間、テオの真横を何かが通り抜けた。真後ろで小動物の鳴き声が聞こえる。振り返り、目を凝らす。程よく雲が裂け、月明かりが暗闇をかき消した。鳴き声の主はコウモリの使い魔だった。近づき、確認すると狭い眉間にナイフが刺さっている。絶命しているのは明らかだ。

 テオが気が付かぬ間に、魔術師に召喚を見られていた。いつから見られていた?いや、その事実よりも、テオは直前に起きた出来事に驚愕していた。女は暗闇の中で使い魔を認識し、ナイフで眉間を射抜いたのだ。認識を新たにする。眼の前の存在は、容易く自分を葬りされる存在だ。

「取り繕いのない回答、心に響いたよマスター。間違いなくアンタはアタシのマスターだ」

 テオは使い魔から視線を切り、声の方を向く。いつの間にかサーヴァントはテオの背後に歩み寄ってきていた。月明かりで、隠されていた姿が明らかになる。

 テオを越える長身に、獅子を思わせる金色の髪。腰には大ぶりの剣が二本。腕を通さずに肩に掛けられたコートは、綺羅びやかな宝石や黄金色の十字架が縫い付けられている。海賊だ。自分が望んでいた存在を召喚できたことをテオは確信した。

「改めて自己紹介をしよう。アタシはライダーだ。真名は……分かってるみたいだな」

 整った造形の顔がにやりと笑う。美しい顔だと思った。

「テオ。お前の望みを叶えよう。だが引き換えに聖杯を渡してもらう。さあ、そうと決まれば祝杯を挙げよう。寝床に案内しな」

 



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8

 全ての呪文を言い切り、鉄輪から現実に戻っていく感覚に浸る。カヤの工房は異質な魔力に満ちていた。閉じていた目を開くと、召喚陣の中央に男がいる。

 小柄な男だ。黒い外套で体型が隠れているが、ともすればカヤよりも小さい。だが、浅黒い肌の奥に覗く眼光はただならぬ存在であることを告げている。

 カヤは此度の戦争に当たり、アサシンに強固な触媒を用いた。アサシンは通常、ハサン・サッバーハと呼ばれる暗殺者集団の歴代当主が召喚される。これはアサシンという名称そのものがハサン・サッバーハを起源としており、名前自体が触媒として機能するためである。

 カヤはあえて、このハサンを呼び出すことを回避した。各地で起きている亜種聖杯戦争ではハサンが猛威を奮っている。そのため、歴代ハサンは詳細に解析されており、この情報は此度の戦争の参加者も入手しているだろう。さらに加えるならば、歴代ハサンのなかには諜報に秀でている者もいるが、暗殺のみに特化した者もおり、どのハサンが来るかは運任せとなる。

 改めて目の前の存在をつぶさに見る。ハサンの象徴たる髑髏面をつけてはいない。カヤは狙い通りの英霊が目の前にいることを確信した。

「……何を、見ているのかね」

 召喚人の中央に立ったまま、件の英霊が口を開く。

「私を呼び出したのは、女、お前ではないだろう。早々に主人を呼ぶがいい」

 アサシンの言葉に一瞬、カヤは理解が追い付かなかった。

 ……何故、私がマスターでないと勘違いをしている?

 そして、カヤは疑問をそのまま口にする。

「アサシン。私がマスターよ」

「んん?口が聞けたのか。使用人にしては魔力が充実していると思ったが、なるほどマスターとは。だがな、マスター。口が聞けるのならば、まず真っ先にすべきことが有るだろう」

 無礼極まる物言いに、腹立たしさを感じる。力ずくで押し黙らせるか令呪を見るが直ぐにやめた。まだ、早い。無礼には無礼で返せばよい。

「悪いわね。微動だにしないから、間違って石像でも召喚したのかと思ってね。口を開いてくれてよかったわ。あと少し黙っていたら失敗作として退去させていたから。……そうそう、自己紹介ね。でもね、こういうのは男性から始めるものじゃなくて?ジェントルマン?」

「これは失礼した。だが、使用人にいちいち名乗る貴族はおるまい。んん、使用人ではなかったな。重ねて失礼を。その汚い身なりで主人と言われても、なかなか納得できなくてね。まあ、この汚い屋敷には相応の格好ではある」

 ……確かに魔術式やら召喚陣の準備やらで、身なりが綺麗とは言い難いけれど。

 暴言を言い切ったアサシンは、召喚時から変わらず仏頂面を下げたままだ。彼なりの冗談とは思えないのである程度本気なのだろう。いつまでもこの応酬を続けるわけには行かないので、ぶっきら棒に話の流れを変える。

「パス。私から魔力が流れているの解るでしょ?感じ取れていないなら、それこそ退去させるわよ」

「んん。確かに君から魔力が流れてきているな。マスターだと認めざるを得ないか。んん。それにしても女とは。まあ、これも運命というか、因縁というものか」

 アサシンはブツクサと小言を並べる。後半はカヤには聞こえないほど小さい声になった。納得したのか折り合いをつけたのか、まっすぐカヤの元へ歩むと手を差し出した。

「改めて。サーヴァント、アサシンだ。軽口は癖のようなものだ。見逃し給え。そして口の立つ御仁は嫌いではない。んん。そういえば真名は必要かね?」

 カヤは差し出された手を握り返した。痩せて、骨ばった硬さを感じる。

「カヤ・クーナウよ。女で悪かったわね。まあ、あなたの伝承を思えば女性はうんざりってところでしょうけど」

「お察しいただき嬉しいよ、カヤ」

 アサシンは跪き、カヤの手の甲、令呪に口づけた。そして、厳かに言う。

「聖杯を我らのもとに。忠誠を誓いましょう」

「……貴方、私に使用人とか小汚いとかいってなかったけ」

「んん。何か特別な感情でも湧きましたかな。これはただの挨拶。魔力を与えてくれることへの感謝の念もほんの少し込めてますな。いかに小汚い娘であろうと財源は大事にしないと」

 跪いたままきっぱりと言い切るアサシン。頭が痛くなる。まさかこの段階で苦しみ始めるとは思わなかった。カールに変わってもらえばよかった。

「早速だが、カヤ、質問が」

「何。悪いけど、軽口に付き合う気はないわ」

 カヤはにべにもなく返事をする。時刻はもう遅い。今後の方針等は明日決めるとして、今日はもう眠りたかった。儀式場を後にしようとアサシンに背を向ける。

「君はこの戦争、勝つ気があるのかね」

 カヤは足を止めた。カヤの目的はロットフェルト家以外のマスターの排除である。聖杯は望んではいない。だが、アサシンは違う。英霊は聖杯を欲する存在であり、そのチャンスを得るためにサーヴァントという使い魔の身に甘んじる。

 マスターが聖杯を望まないと知られれば、サーヴァントはどのような行動を取るかわからない。如何に令呪があろうと、カヤの本心をアサシンに知られるのは危険だ。

「私の正体を知って召喚するものがいることに驚いたのだよ。だからだね、んん、本気で勝つ気が有るのならば、戦略を教授いただきたい。まさか、聖杯を望まずに英霊を召喚したわけではなかろう?」

「……願望機を望まずに、殺し合いに参加する無能に見えるかしら」

 アサシンの問に煙に巻くような解答をする。

「んん。ふむ。んん」

 彼の口癖だろうか。くぐもったつぶやきが聞こえる。

「もういいかしら。明日は街へ出るわ。戦場視察は基本でしょう」

「よろしい。我が性能の一端をお見せしよう。ところでカヤ、重ねて質問が」

「何よ。これで最後にして」

 振り返り、苛立たしく言い放つ。仏頂面だったアサシンがひどく困惑したような表情で言った。

「君は、その、んん、こんな汚い屋敷で寝るのかね?」

 



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9

 ロイク・ロットフェルトの儀式場には二人の存在があった。空気が、その空間の魔力が暴れるように循環していた。四方に設置された燭台には火が揺らめく。ロイクには召喚陣の中央にいる存在が、その原因だとわかっていた。

 長身痩躯。全身に張り付くような黒い鎧。表情を隠すように垂れ下がった前髪の隙間から、肉食獣じみた視線を感じる。およそ常人ではない。

 近寄り難い雰囲気を察したが、ロイクには召喚が成功した喜びが勝った。

「よく来てくれた。我が英霊!僕が君のマスター、ロイク・ロットフェルトだ」

 召喚陣の中央に歩み寄り、右手を差し出す。呼び出されたものは訝しげにロイクの手を見た後、ゆっくりと握り返した。

「召喚に応じ参じた」

 低い声が響く。ロイクはこの時点でこの存在が人語を介することに安堵した。間違ってバーサーカーが召喚されれば、意思の疎通さえ困難だったろう。ロイクの狙いはバーサーカーではない。

「で、だ」

 サーヴァントが一拍を置く。ロイクは右手に痛みを感じた。

「痛、痛い、痛い!」

「魔術師風情が。この俺に対等な口を聞くつもりか」

 ロイクの右手がサーヴァントによって徐々に上に持ち上げられる。それに連れ、痛みが増す。ロイクは召喚の喜びなど全く消え去り、ただこの状況を理解するのに精一杯だった。

 ……何故、何故、サーヴァントがマスターに逆らう!

 サーヴァントの背丈はロイクをゆうに超える。ロイクの手がサーヴァントによって限界まで吊り上げられる。ロイクの踵が宙に浮くほどになって、サーヴァントが口を開く。

「どうした。このままだと右手が砕けるぞ。流石は魔術師。この身体の弱々しさはもはや珍品の域だ」

「が、あっ!離せよ!」

「離して欲しいのか。であれば、マスターらしくその逆の手に宿るの神秘を行使するがいい」

 サーヴァントはそう言うと、空いた手でロイクの令呪を指さした。

 ……こいつ、なんて言った。

 ロイクはこの存在の狙いを察する。理由はわからないが、ロイクの令呪を使わせようとしている。しかし、そういうわけには行かない。これは三度のみ行使できる奇跡。こんな、呼び出したばかりのサーヴァントを御するために使うなど、滑稽すぎる。

 ロイクの思いを裏切るように、右手の痛みは増していく。ロイクの身体は宙に浮く直前だった。

「存外我慢強いな。だが、もう良いぞ」

 ロイクの右手から聞き慣れない音が走った。その意味を察する前に、一層の痛みがロイクの身体を襲う。堪えきれず、叫ぶ。

「があああああああああ!」

 サーヴァントはロイクの右手を解放する。前触れなく解き放たれ、床に蹲る。右手をかばうように抱くが意味はなかった。

「サーヴァント、ランサーだ。令呪というものがどういう類か身をもって味わいたかったのだが。なりに見合わず我慢強いな、マスター」

 蹲るロイクを気遣うわけでもなく、サーヴァント、ランサーは飄々と言った。ロイクは痛みに朦朧としながらも簡易的な治癒魔術を行使する。

 ……傷の治癒よりも、今は痛みを引かないと。

 サーヴァントが大道芸を見るような感心の声を口にする。小馬鹿にされているとわかっている。徐々に痛みが麻痺すに連れて状況が理解できた。このサーヴァントには友好関係を構築する気がない。

「お前、なんでこんな真似を」

「聞こえていなかったのか。それとも言葉が足らぬか。令呪がこの身体を如何様に縛るのか体験したかったのだ。これは俺とお前の主従関係を左右する、言わば要だぞ。故に、マスターが令呪を使わざるを得ない状況に追い込んでみたのだがな。ふむ。我慢強いのか使う度胸が無いのか」

 絞り出すようなロイクの問にサーヴァントは嘲るように答えた。違う。この存在はロイクが狙っていた英霊ではない。

 ……まさか、失敗したのか。

 湧いた疑問を口にせずにはいられなかった。

「お前、クラスはなんだ。まさかバーサーカーか」

「おいおい。気は確かなのか。先程名乗っただろうが。ランサーだ」

 ランサー。告げられたクラス名は残酷に響いた。ロイクが意図したサーヴァントはセイバー。アルスター伝説にある魔剣使い。豪快で誠実な赤枝騎士団の剣士。

 己の失敗に気が付き、呆然となる。ただ失敗したのならばまだ良かった。だが、代わりに現われたこの存在はなんだ。マスターに対しても容赦なしに暴力を振るうこの英霊は。

 まさか、あの魔剣使いは槍使いとして召喚されるとこのように反転するのか。

「赤枝騎士団。魔剣使いフェルグス・マック・ロイではないのか」

 途端、ランサーに浮かぶ嘲りの表情が凍った。ロイクは恐怖と共に直感する。先程までの態度はで戯れでしかなかった。自分は今、間違いなくこのサーヴァントの虎の尾を踏んだ。

「なるほど。呆けたことを言うから何かと思えば。俺ではなく、かの男を所望していたとはな。誠実で一本気な奴と比べたら、確かに俺は紛い物よ。英霊としても、戦士としてもな」

 ランサーが一歩、ロイクに近づく。ひ、と悲鳴を上げて、ロイクが後ずさるが何も変わらなかった。ランサーの手が伸び、ロイクの首を掴む。

「だが、紛い物にも矜持は有る。冥土の土産に我が真名を覚えて逝け」

 あまりに剥き出しの殺意に、背が凍る。この存在は本気だ。聖杯戦争のルールも、定石も関係ない。この英霊は己の思うままを貫く。ロイクは決する。今、実行せねば確実に死ぬ。

「令呪を持って命ずる!」

「我が真名は、ドゥフタハ・ダイルテンガ。アルスターのクロコガネと嘲られし、紛い物の戦士よ!」

「僕を殺すな!」

 ランサーの声を無視し、ロイクは令呪を行使した。左の手の甲に一瞬痛みが走る。ランサーの動きが止まる。そして一拍の間を置き、ランサーの手がロイクの喉から離れた。

「ほう、これが令呪。なるほど、お前を殺そうとすると力が抜ける。それに、殺す気が失せていく。良いな。体験しておいて良かった。俺の対魔力は並だと思うが、令呪は十分に機能しているようだ。お前、魔術師としては優秀なのか?」

 ランサーが感想を述べる。令呪の束縛を楽しんでいるかのようだ。ロイクは咳き込みながらも立ち上がる。左手の甲をみると、令呪の一部が輝きを失っていた。

「ランサー、お前、何がしたいんだ」

「無論。聖杯を取る。俺を嘲りしかの時代の戦士に、誇示しなくてはならないものがある」

 ランサーの顔がロイクに近づく。獣の瞳が怯える魔術師を射抜く。

「手段は選ばん。俺はお前を殺せない以上、どこまでも付き合ってもらうぞ。血塗られた道を歩く覚悟はあるか」

 



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10

 プラウレン湖に浮かぶ城めいた屋敷を始め、ロットフェルト家は付近の土地を私有している。屋敷そのものへは当主が許可した者しか入れないという仕組みであるため、付近には幾つか屋敷や客人を止めるゲストハウスが点在していた。

 ロイクの工房も元はその一つである。だが、聖杯戦争の折につけこれらの建物は基本的に使用禁止となっている。客人を泊める状況でもない。また、管理する使用人もクリストフを除けば全員が暇を出されている。

 そんなゲストハウスの中でここ数ヶ月か使われているものがある。一際湖に近く、ロットフェルト城へ赴く予定の客人が一時的に寝泊まりするための建物だ。故にロイクの屋敷と比べると作りは粗末で、大波が来れば跡形もなく消え去るような不安を抱く。

 その小屋とも言うべき建物に、ハンナ・ロットフェルトがいた。

 ロイクと共に屋敷を出た後、行く宛もないため、目についたこの小屋に寝泊まりしていたのだ。幸い、非常食などは十分に備えており、一冬を越えることは難しくない。

 ハンナの関心は自身の生活にはなかった。食い入るように何かを見つめている。ところどころをガラス玉で彩った手鏡だ。ハンナはその手鏡を床に置き、鏡面に映るものをじっと見ている。

「ああ、テオ。テオ。テオ!来てくれたのねテオ!」

 手鏡に映るのはハンナの顔ではない。遠く、今しがたルスハイムから離れた森で召喚を始めたテオ・ロットフェルトだ。

「懐かしい、なんて懐かしい顔。少し痩せたかしら。でも元気そうね、こんな魔術を使えるくらい」

 空間にはハンナしかいない。独り言だ。だが、誰かに話しかけるように、あるいは鏡面の向こうのテオに話しかけるように言葉を紡ぐ。

「何年ぶりかしら。もう、思い出せないくらい。少し痩せたかしら。ああ、苦労をしていたのね、テオ」

 常人であれば、関わり難いものとして目を背けるだろう。ロットフェルトの兄弟たちがそうしているように。

 鏡面の映像が光で満ちる。テオが召喚を終えた。ハンナも聖杯戦争の情報は理解している。テオに関わるものだから、知っておく義務がある。

 食い入るように鏡面を見つめていると、テオが何かと会話しているようだ。だが、その内容まではハンナには聞こえない。ハンナの使い魔は夜目が聞くが、音を拾う能力はない。不意に映像が消える。使い魔が死んだ。

 だが、ハンナはその存在を見ていた。使い魔が絶命するその瞬間。月明かりに照らされたその顔。

「……女よ。女。いけない、あの女はいけない!テオを遠くに連れ去ってしまう!せっかく帰ってきたのに、またどこかへ連れ去ってしまう!」

 狂乱するように暴れる。拍子に手鏡が手に当たり砕けた。ガラス片で切り裂け、血が飛び散る。構わない。ハンナは身体が拒否するまで、思うままに暴れた。

「取り返さないと。テオを」

 そして幾らか冷静になると、溢すようにつぶやいた。あの女からテオを取り返す。そうすれば、またテオは戻ってきてくれる。絶対に、そのはずだ。だから、あの女を殺させてください。どうか、どうか。

 不意に、左の手に痛みが走った。それは手鏡や部屋のあちこちにぶつけたためではない、根本的に別種に痛み。見ると、奇妙な紋章があった。令呪だ。

「……はははっははははは!そういうことね。ああ、神様がいる!これはご啓示よ!神は、聖杯は!自分の手で勝ち取れと言っているのね!」

 言うな否や、ハンナは血の滴り落ちる腕を振り回し、床に紋様を描いた。それは他の者には、ただの汚れにしか見えないだろう。だが、ハンナにとってはこれ以上ない召喚陣。ハンナは召喚の呪文を唱えながら願う。かの女を殺す存在を。天敵となるものをここに。テオを取り戻すために。

 そして、彼女の思いに応えるように狂乱者が召喚される。ハンナは確信する。テオを惑わすあの女は、私とこのバーサーカーが殺す、と

 



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第二章
11


 ルスハイム。スイス南部の都市は美しい山々や湖を有していながら、観光地としては無名に等しい。原因は交通手段にある。空港からルスハイムそのものへは交通手段はある。自分で運転しても、苦もなく辿り着くだろう。一方で、街から見える美しい山に分け入る手段は希薄だ。地元の人間の案内で分け入るくらいしか方法はない。まして、その山稜の奥地にあるプラウレン湖と呼ばれる湖は存在すら知られていない。何故か。それらは全てロットフェルトと呼ばれる魔術師一族が秘匿しているからである。

 その一族を引き継ぐには何が必要か。当主と血縁関係である。然り。賢きこと。然り。これは現当主の嫡男であるアーベルト・ロットフェルトの考えである。更に加えて言うのであれば、血縁も、賢きことも超え、一族に恩恵をもたらすことができるもの。これが相応しきものだと思う。

「私はね、自分がしてきた実績で評価して欲しいと言っている。ロットフェルトの持つ医薬系の企業は私が面倒を見ているのだよ。父が直ぐに投げ出した経営というものをね。今ではどの企業も抜群の業績だ。……確かに魔術というものには素養がなく、逃げ出したさ。だがね。誰がロットフェルトの家に一番貢献した?ウッツは他所の国で医者になり、エルナは早々に他の家に嫁いだ。学生の兄弟はまだまだ未熟という他ない。本来、議論にはならないはずなのだよ」

 ルスハイムの中、一際目立つ高い建物がある。数少ない観光客向けに建てられたシティホテルだ。その最上階、ワンフロアをアーベルトが借り切っている。

 アーベルトが高々と演説をするのは、最上階のフロアの中でも彼お気に入りの部屋だ。大きな窓からは今でこそ夕闇で何も見えないが、朝には広大な山稜が映し出される。アーベルトは窓を背に、続ける。

「聖杯戦争。魔術師には常識なのかどうか私にはわからん。知る気もない。ただ、そんな胡散臭い儀式で後継者を決めるなど、あってはならないのだよ。今までも父君には具申したがね。取り付く島もない」

 彼らは神妙にうなずく。数にして十を越える男達。皆が迷彩服に身を包み、大きな荷物を抱えている。アーベルトはその中身を知っている。言葉で聞かぬものを説得するための道具。

「君たちを雇うのも、実は心苦しかった。実の父に銃口を向けるなど、できた息子のすることじゃない。だがね、父は三年前、勝ち取れといった。なら、そうするのが筋というものだ」

 アーベルトが笑う。男たちは皆、押し黙っている。

「我が社が取引をする非合法な組織の中でも、とりわけ君たちはこの手の出来事に強いと聞いている。何、老人ひとりに考えを改めてもらうだけだ。この誓約書にサインをする気になるようにね。明日には出かけ、直ぐに戻ろう。祝杯はチューリッヒのレストランだ」

 男たちが笑った。アーベルトは彼らの人数を用意しすぎたのかと後悔する。小心に駆られ十人もここまで連れてきてしまった。思えば老人一人。やろうと思えばアーベルト単身でも武力に訴えることができたのではないか。

 そして、考えを打ち捨てた。これはロットフェルトの当主となる前夜。言わば、独身最後の夜のようなものだ。荒くれ者に囲まれて過ごすのも良いだろう。クーラーボックスからビールを出す。前夜祭と言わんばかりに飲もうじゃないか。

「さあ、君たちも飲み給え」

 男たちが歓声を挙げ、クーラーボックスに群がる。緊張した空気が弛緩する。何人かが近寄り、荒々しくアーベルトに感謝を述べた。その中の一人がアーベルトの持つビールに触れた。その男がアーベルトの持つビールを欲しがっているのだと気が付き、手渡す。

「これもまた君たちの習慣かね。東洋で言う、同じ釜の飯を食う、というような」

 アーベルトの言葉に男は答えない。アーベルトは見る。男がビール瓶の栓をちぎり取るように素手で開けると、その中身を一息で飲み干した。

「まずいな」

 アーベルトの意識はそこで途絶えた。全身に張り付くような黒い鎧の男が、自分の頭にビール瓶を振り下ろす様を記憶して。

 

 ロイク・ロットフェルトはルスハイムの高級ホテル、それも最上階にいた。ランサーを召喚したのが先日、もはや今朝のこと。そこから眠り、夜に目が覚めると否応なく行動を開始させられた。

『聖杯戦争の参加者は全て魔術師なのだろう。であれば取るべき手段は単純。この地の魔術師を根絶やしにする』

 唖然とした。どうやら冗談の類でもないらしく、訝しむロイクを常に囃し立てるのだった。

『おいおい、どうした。まさか今になって怖気づいたのか。それともお前、昨晩のことを根に持っているのか。右手くらい多めに見ろよ』

 昨晩ランサーにヒビを入れられた右手は現在も回復していない。現代治療とロイクの治療魔術で日常生活は過ごせるように誤魔化しているが、全快には時間がかかる。それよりも、左の手の甲。令呪の一画を既に失ったのが痛手だ。しかも内容が、自分を殺すな、だと。

 幸先の悪さに溜め息がもれるが、発見もある。ランサーの態度が若干だが柔らかくなったのだ。もしかしたら、令呪の効果でロイクへの殺意が薄まったためかもしれない。

『……闇雲に歩くなんて馬鹿な真似をする気はない。サーヴァントを実体化して戦闘させるだけで、こっちはそれなりに消耗するんだ。もともと、マスターの可能性のある奴は目星がある。そこから当たろう』

 既にロイクの使い魔が街中を調査している。内容はロットフェルト家の兄弟やロイクが知る有望な魔術師がいないか。尤も、ロイクが知る有望な魔術師は、ロイク程度の監視で見つかるほど間抜けではないが。

『ほう、話が早いな。であれば早々に向かおうではないか』

 これが二時間ほど前のこと。そしてこの高級ホテルに目をつけ、最上階のアーベルトを発見した。ロイクは部屋の外だ。透視魔術により中を見つつ、人よけの結界を展開している。

 ……一方的だ。

 ランサーはまず室内で実体化すると、アーベルトに近づきビール瓶で殴り倒した。英霊の姿で何ら警戒されずに近づけたのは、空気が弛緩しているのもあるが、なにより。

 ……こいつら、素人だな。

 ここが敵地であると理解していない根本的な違い。ここにいる全員が良くても独学の魔術使いといったところだろう。

 ランサーもそれに気が付いていたのか、彼の象徴たる槍を出さずにいる。ロイクは薄ら寒い思いに駆られる。昨晩の思い出、あの射抜く様な目が思い出されたのだ。

 時間にしたら、数十秒だろう。ランサーは中の人間を素手で引きちぎり、亡きものとした。戦闘というより、何か巨大な生き物が餌を捕食するようだった。

 扉が内側から蹴破られる。見るとランサーがいた。

「終わったぜ。こいつらは外れだな。お前に負けず劣らずの軟弱揃いだ。極めつけに軟弱な奴を一人残しておいたぜ。あれがターゲットだろ?」

 ロイクは透視魔術を解き、室内へ入る。むせ返るような血の匂いに満ちていた。魔術で生贄の血を頻繁に扱うロイクでさえ、この惨状には吐き気を催した。

 部屋の最奥、窓を背もたれにしアーベルト・ロットフェルトがいた。両の手で頭から溢れる血を堪える姿は、在りし日の年の離れた兄に重ならない。魔術に傾倒するロイクを侮蔑した兄とは。

「ロ、ロ、ロイクか!お、お前が何で」

 アーベルトの動揺ぶりに思わずロイクは笑ってしまう。

「何故って。アーベルト兄さん。これは聖杯戦争だよ。選ばれた者同士が戦い合う。敗者の末路は決まっているだろう」

 愕然とするアーベルトの手の甲を見る。右、左。双方に令呪は見つからない。

「兄さん、服を脱いで」

「え、え、」

「早く!」

 突然の命令に混乱するアーベルトをロイクは一喝した。傍らで見守るランサーは笑っている。

 一通り肌を改めるが、令呪らしきものはなかった。つまり、アーベルトはマスターではない。外れだ。ロイクの見立てでは、嫡男であるアーベルトが一番当主に固執していると思ったが、聖杯には選ばれなかったか。

「……マスターじゃないのか」

「だろうよ。ここまでやっておいて、サーヴァントが出てこないしな。次に行くぞ、マスター。さっさと片付けろ」

 ランサーは懐から短剣を取り出し、ロイクとアーベルトの間に刺した。ロイクがそれを引き抜く。左手に持つ。話が理解できていないであろうアーベルトが短い悲鳴を挙げた。

「そいつを生かしておく理由もないだろう」

「ロイク、すまない!すまなかった!今までのことは謝る。お前に対してひどく侮辱するようなことを言い続けた。すまなかった!」

 ロイクに戸惑いが生まれた。ランサーのことがなくとも、当主を巡り聖杯戦争に参加する時点で兄弟を殺す決意は持っていたはずだ。もとより魔術師。必要であれば、殺人など躊躇わない人種。だが、目の前の兄はひどく保護しなくてはいけない存在に思えた。自分が苦労して育てた子犬を生贄にしたときでさえ、こんな気持にはならなかった。

「そ、そ、そ、その右手、どうしたんだ。ロイク。怪我をしてるじゃないか。す、直ぐに治療しよう。お前は昔から怪我ばかりしていたから」

 甲斐甲斐しく世話をしようとアーベルトが右手に手を伸ばした。昨晩の情けない自分を思い出した。ふ、となにかが胸の内に点火する。その感情に逆らわず、ロイクはナイフ振り回しアーベルトを拒否する。

「うるさい!」

 退けるためだった。だが、ナイフの切っ先はアーベルトの喉を切り裂いていた。兄の身体が崩れる。死んだのだ。アーベルトの身体がだらしなくもたれかかった。喉から噴き出る血が、ロイクのズボンを汚す。

「ほう。筋がいいじゃないか。その感触を忘れるなよ」

 身体の中央に炎が揺らめいている気がした。寄りかかる兄の身体を打ち捨てる。ランサーを伴い、ホテルの部屋を出た。勝ち残るためには、この炎を宿し続ける必要がある。そんな気がした。

 



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12

 アーベルト・ロットフェルトが絶命した丁度その頃。同じようにロットフェルトに雇われた人間達がプラウレン湖を目指していた。数にして四,五人。行儀よく、一列に並び舗装されていない山中を進んでいく。ルスハイムの冬の夜は冷え込む。その集団は一様に麻で作られた薄手の服を纏っていた。常人であれば凍死しかねない。だが、かじかむ様子すらなく歩く。彼らが常人ではない証だった。

 先頭を行くのは壮年の男性だ。短い髪に青い瞳。寒さを感じないのは、彼の纏う服が一種の魔術礼装えあり、寒さ、暑さという温度に対して加護を持っているからだ。彼は魔術師だ。そして、彼の妻、エルナ・ロットフェルトの代役としてこの聖杯戦争に参加するつもりだった。

 だが、ルスハイムに入りしばらくしても、令呪が宿らない。聖杯戦争では令呪の宿るタイミングはばらつきがあり、いわゆる縁が深い魔術師から順に振られる。そして、聖杯が降臨する場に近い魔術師程優先的に割り振られる事がわかっている。

 彼の身の上を振り返る。本来ここにいるべきは妻であるエルナだろう。だが、彼女は魔術師ではないため、令呪は宿り得ない。自分は魔術師で、ロットフェルト家ほどではないものの、それなりの歴史を有している。つまり令呪が宿らない理由はないのだ。

 そう思い、サポーターとして連れてきた弟子たちとルスハイムに逗留していたが、しびれを切らした。令呪が宿るのを待つのではなく、既に宿ったマスターから奪い取る。そう、方針を変更した。

「先生、見てください」

 自分の後ろ、年長の弟子の声に応じる。彼女の指差す方を見ると、湖が見えた。あれがプラウレン湖だろう。

「全く。なんて道だ。ここまで来るだけで一苦労だ」

「依然来られたときも、この様な苦労を?」

 弟子の疑問に応える。うんざりという感情が隠しきれない。

「ロットフェルトの血縁者がいるときだけ通れる道があるのさ。妻とはそこを通って車で来たよ」

 あの高慢ちきな女が、山道に耐えられるわけがない。もし、と考えてみるとエルナの渋面を思い出された。胃が痛む思いがした。

「ロットフェルトのゲストハウスには末弟のロイク・ロットフェルトがいる。彼を強襲し、令呪を奪う」

 改めて作戦を繰り返す。末弟のロイクはエルナの話では魔術師としてはあまり優秀でないらしい。後から連れてこられた子ども達に劣ると見なされ、当主にも見放されていたという。

 ……不憫なことだ。

 魔術師にあるまじき、同情の念が湧いた。そして直ぐに制する。敵への同情など、この戦場では死につながる感情だ。

 ロイクがゲストハウスにいるというのは掴んでいたが、具体的にどのゲストハウスかはわかっていない。ロットフェルトのゲストハウスは数が多いが、虱潰しで当たるしかないだろう。

「手分けしますか」

「いや、分散は危険だ。時間が掛かっても慎重に進めよう。まずは見えているところからだ」

 そして男はプラウレン湖の直ぐ側にある小屋を指さした。暗闇でも強化の魔術を使っているため、日中と変わらない視界を得ている。

 弟子たちが頷くのを見て、行軍を再開する。

 小屋まで一定の距離に近づくと、先頭を行く男が合図を出す。男を含む三人が小屋に突入し、残る二人が待機と見張り。集団は男の意図したとおりに動いた。小屋までおおよそ二十メートルの位置。突入班の三人が戦闘用の魔術礼装を片手に持つ。男も同じように短剣を構えた。

「準備が整いました。全身強化及び精神汚染耐性は完了です」

 若い男の声に頷く。これで、三人の身体能力は全身強化により大幅に引き上げられる。そして、洗脳や催眠という魔術師特有の攻撃にも対策を講じた。だが、男の中に過るのは一抹の不安。

 ……落ち着け。相手は二十歳に満たない子ども。例えサーヴァントという奴がいたとしても、この人数なら使い魔一匹風情に遅れは取らない。

 不安から生じる高ぶりを抑えるように、男は呪いを唱えた。意味のある言葉ではない。ただ、大規模な魔術の前に唱えると、不思議と心が落ち着くのだ。だが、男は気が付かない。自分でも、たかが子ども一人の寝込みを襲うのに、大規模魔術並の不安を抱えている事実に。

 男が片手で合図を出す。三人が駆け出す。小屋へ、だ。男が、扉を蹴破り押し入る。すると。

 ……水?

 男は水中にいた。暗闇で男の陥った水ががどれほどの大きさかもわからない。空気を求める焦りと状況を理解しようとする冷静さが渦巻く。焦りが勝ち、身体が浮き上がる方向に任せると、水面が見えた。顔を出し、空気を求める。呼吸が可能になると、冷静さが働いた。

 ……転移魔術?飛ばされた?

 周りを見ると、自分が突入した小屋が見えた。つまり、男はプラウレン湖に浮かんでいるのだ。見ると、一緒に突入した男の一人も同じように湖に浮かんでいた。もう一人は見つからないが、きっと同じようにどこかに飛ばされているのだろう。

 他者を別の場所に移動させるという芸当、現代の魔術師でも一流に属するものにしか実現できないだろう。情報にあるロイク・ロットフェルトには不可能だ。であれば、可能性として。

「飛ばせる範囲はあまり広くないのね。サーヴァントの相手は厳しいかも。考えないと」

 強化した男の瞳が、小屋の前に立つ人物を見る。女だ。記憶を辿る。そして思い出す。ハンナ・ロットフェルト。エルナの妹。彼女がこの転移の原因なのか。事故により魔術師としての道は閉ざされたはず。

「もう少し感覚が知りたいわ。続けて、バーサーカー」

 男の強化された聴覚が、ハンナの言葉を捉える。バーサーカー。呼び出された英霊のクラスの一つ。英霊は真名を秘するため、クラス名で呼ばれるのが一般的だ。つまり、この不可解な現象はバーサーカーが行ったもの。

……馬鹿な。使い魔風情に転移などという大魔術が行使できるか。ましてやバーサーカーに!

 男の認識は直ぐに覆される。ハンナの声に呼応するように、姿を現した存在によって。

 少女だ。修道服を着ている。だが、神に仕える者の清涼さや、慎み深さを一抹も感じない。むしろ、その少女の周りに漂う魔力は昏く恩讐に溢れている気がした。男は過ちに気が付く。サーヴァントがただの使い魔である、という認識に。いやもっと根本的な過ちがある。あれを相手取るなど、到底不可能だ。

 全員に撤退の指示を出そうとしたとき、変化が訪れた。誰かが、叫び声を挙げながら森から現れた。行方がわからなかった仲間の一人。彼は短剣をバーサーカーに向けると、魔術を行使した。短剣の切っ先に魔力が集中し、塊となって放たれる。弾丸の速度をもって放たれたそれは、まともに当たれば容易く人の命を奪う。

 男は見る。明らかな殺意を持って放たれた魔弾が、バーサーカーに当たる直前にかき消えたのを。そして直後、弾丸が出現する。しかし、それは狙いが変わっていた。バーサーカーではなく、弾丸を放った術士に向いている。

「ひい」

 短い悲鳴。その後、頭が砕ける音が響いた。術士は自身の魔弾で絶命したのだ。

「いいわ、とてもいい。対象は人間だけじゃないのね。それに理解したわ。貴方はまだ片鱗も見せていない。これは貴方が現界するだけで及ぼす自動的な呪いなのね」

 ハンナの恍惚とした声が聞こえる。逃げなくては。全く歯が立たずに、貴重な弟子の一人を失った。

 念話にて全員に撤退を指示する。男は返事を待たずにプラウレン湖を泳ぎ始める。ハンナとバーサーカーに背を向けて進む。

「じゃあ、バーサーカー。少しだけ、本気を見せて」

 その声に不吉な予感があったが、振り返らずに進む。

 そして、男の意識が暗転した。そして気が付く。水中。自身が浮き上がってきたはずの湖の中にいた。がむしゃらにもがき、水面を目指す。徐々に水の冷たさを感じる。礼装に回す魔力が尽きているのだ。このままでは身体の動きが鈍り、溺れる。まずい。焦りが集中を乱し、魔術が成立しなくなった。水の冷たさが一層ます。水面に辿り着く体力がなくなる。後少しだ。呼吸が苦しくなる。必死の形相で水面に身体を浮き上がらせる。

 ……よし、これで。

 そこでまた、水中にいた。水の冷たさから身を護る術は失われていた。水面は先程よりも遥かに遠い。身体が湖の底に向かい、沈んでいく。男は後悔した。こんなところに来るのではなかった。エルナの我儘など、聞く耳を持つのではなかった。そもそも、あの女と結婚したことが、間違いだったのだ。

 



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13

 英霊召喚から幾日か後、カヤ・クーナウはルスハイムの街へ出ていた。真冬の寒さを感じるものの、陽が高く出ているおかげか程よい暖かさを感じる。温暖な気候は珍しいせいか、街には人が多い。通り過ぎたコーヒーショップを覗くと、人が満員になっていた。だが、待ち合わせはこの店だ。構わず入店し、注文待ちの行列に並ぶ。

 普段であれば、カヤは人混みを嫌う。しかし今は、聖杯戦争といういつ狙われるかもわからない非常事態だ。人混みが多ければ、他のマスターは露骨に手を出すことはできない。

(んん。本当に大丈夫かな。マスターの中に一般人の巻き込みを躊躇わない人種がいるかもしれないぞ。誰もが君のようにチキ……理性的とは限らない)

 霊体化し、傍らにいるアサシンに同じように説明をすると、このように解答があった。念話なので誰かに聞かれる心配はないが、物騒な話だ。

 ……それはともかく、チキンって。

 魔術師はまず、魔術を秘匿する義務がある。それは魔術に携わる際に初めに教わることの一つだ。魔術師ではないアサシンが知るよしもないのは当然だ。

(可能性としてはゼロではないけど、そのチキンじゃないマスターはどうやって私がマスターだと見抜いたのかしら。私達が何もアクションしていない以上、まだ素性がバレる状況じゃないわ)

(ふむ。まあ、そうか。あの隠れ家には使い魔などがいないのは確認済みだ。現在カヤがマスターであることを知る者はいないだろう。もっとも、私が呼ばれる前に君が間抜けをしていなければ、だが)

 嫌味なアサシンを無視し、ここ幾日かの行動を振り返る。

 まずアサシンを召喚した翌日。カヤはこの日から行動を開始すること考えていた。アサシンに土地勘を植え付けるため、ルスハイム中を回ろうと思ったのだ。

『それはありがたいがね。んん。今日は休んでいたほうが良い』

 意外なことに、異論はアサシンから出た。

『察するに、私の召喚で多少魔力が減じているな、マスター。なら、万全となるまではここで回復を図ると良い』

 アサシンの言う通り、召喚そのもので魔力を消費していた。だが、カヤにとっては微量で、戦闘はともかく、市街の散策程度なら難なくこなせるはずだ。それよりも時間を惜しむべきではないのか。そう言おうとすると、先んじてアサシンが続けた。

『カヤ。これは戦争だ。君が望まざるとも戦闘に巻き込まれる危険は常にある。休める内に休むのが得策だ。加えて言うならば、私の実体化や戦闘行為でどれだけ魔力が消費されるか、まずは自分たちのことから知っていこうじゃないか。んん。どうかね?』

 アサシンがまるで不出来な生徒を嗜めるように言った。カヤも特段、否定する要素が見つからず、アサシンの言う通り回復と現状把握に費やすことに決めた。そしてわかったことがある。

……このサーヴァント、本当に弱いな!

 アサシンの真名を知っているので、戦闘向きではないのは承知の上だ。だが、改めてその弱さに気が滅入る。なにせ対人ではマスターであるカヤに劣るのだ。

『戦闘行為とは……言ったがね……何も本気で殴ることはないだろう!』

 およそ英霊とは思えぬ言葉を吐く。付け加えておくならば、カヤは強化魔術で身体能力も底上げしていたので、本気以上とも言える。

 ともかくアサシンの傷の回復時間、カヤの魔力の消費量などを体感し、いよいよ街へ出たのが今日だ。

(それで、件の人物はここで待ち合わせかね?)

 注文したコーヒーを受け取る。周りを見ると、都合よく二人がけのテーブルが空いた。マナー違反を承知して、空いた席にバッグを置く。

(そうね。ここに潜り込んでいる協力者。言ったとおり、この戦争の根幹はロットフェルト家の跡取り争いよ。今から来る協力者は、そのロットフェルトに縁の深い人物。ロットフェルト家のマスターの情報を提供してくれるはず)

(ほうほう。んん。なるほど)

 アサシンが感心するような不思議な返事をする。カヤは昨日までにロットフェルトという一族と、この聖杯戦争に関することはアサシンに教授していた。無論、カヤがロットフェルト家以外のマスターを狩ることが目的であること、聖杯を求めていないことは伏せたままだ。

(手際が良いのだな。教授いただきたいのだが、その縁の深い人物というのはどういう者かね)

(ロットフェルトの使用人よ。それも当主直属のね。子ども達の世話もしているそうよ)

(んん。なかなかの人物だな)

(そうね)

(カヤ)

(何?)

(どうやって寝返らせた?)

 アサシンが静かに問う。見えない彼の目がカヤを射抜いている気がした。

(……金銭とかその手の俗っぽいやり方よ。あんまり言いたくないわ)

 遠からず、このサーヴァントにはカヤの目的が聖杯にないことは看破されるだろう。その時はどうする。左手の手袋を見る。その下にいる令呪が光った気がした。

(んん。そうか。んん。……失礼した)

 幸い、アサシンが追求しなかったため、この話題はこれで終わりになった。

 その後、とりとめもない会話、……コーヒーの味を知りたいだの、教会へ行きたいだのをしていると、待ち人が来た。

「待たせたようだ。謝罪しよう」

 ロットフェルトの使用人、クリストフが目の前にいた。

 

 カヤがクリストフと直接会うのは要請を受けたとき以来であった。故にこのクリストフという男への印象はそのときから更新されていない。そして今日、約二年の時をおいて見ても印象は変わらなかった。クーナウの家に不幸を届ける遣い。カヤの心臓を握る男の手先。

「本来であれば当家で出迎えるところを、重ねて失礼する。だが、知っての通り特殊な状況だ。ここの方がお互い気を使うまい」

 席についたクリストフが流れるように言った。ロットフェルト家のゲストハウスが幾つもあるのは知っているが、そこでの会合は避けたかった。カヤはロットフェルト家のマスターと敵対するつもりはないが、向こうはそうは思っていないかもしれない。向こうの陣地で襲われれば、命はない。

(カヤ。なるべくこの男に情報を渡すな。マスターであることはよい。だが、私を召喚したことは伏せておけ)

 傍らで霊体化しているアサシンが言う。クリストフに気取られぬように返事はしない。

「戦争の準備は滞りなく進んでいるかね」

「ええ。先日、ようやく令呪が宿った。サーヴァントの召喚はまだこれからだけれどね」

 見えないアサシンが首肯した気がした。カヤはクリストフに問い返す。

「それで、私が狙っちゃいけないマスターは誰になるのかしら」

「その前に」

 クリストフは懐から小瓶を取り出した。中身は砂のようなもの。二人を囲むテーブルの中央に瓶の中身を注いだ。砂が山をなす。クリストフが何かを呟くと、魔術が行使された。カヤは一瞬警戒するが、直ぐに害意がないことがわかった。

「これは認識阻害の結界。これで声が外に漏れることはない。何も覗かれる心配も不要だ」

(……性格が悪いわね)

 クリストフは自分が喋る段になり、この魔術を発動させたのだ。カヤのときは全く気にする素振りもしなかった。

(それは違う。情報を渡すのにこの程度の配慮は当然だ。不躾に君が口を開いたとき、私は万の紳士ならざる言葉を胸に抱いたよ。必死に制御したがね)

「当家から参加が認められるマスターは現状三名。末弟ロイク様。次女ハンナ様。そして、三男テオ様」

「え、それだけ?他の三人の兄弟はどうしたの?」

 クリストフが若干口ごもる。だが、答える。

「長男アーベルト様は私的に雇ったマフィアを使い準備を行っていたようだが、ホテル・マリンハートのエクストラVIPルームでマフィアともども死体が見つかった。長女エルナ様は代理として夫であるリーヌス様が参戦。彼はエルナ様と違い、魔術師だ。数人の弟子を率いてルスハイムに逗留しているのがわかっているが、現在行方不明だ。だが、弟子の一人が錯乱している状態で見つかった。その様子から、襲撃され殺されたのだと思われる」

 カヤは背筋に冷たいものを感じた。ルスハイムにつき準備を進めている間。既に他のマスターは戦争を開始していたのだ。心のどこかで、まだ戦争は始まっていないのだと思っていた。誰かもスタートの合図を出していないから。違う。そんなものはないのだ。

「次男ウッツ様はそもそも不参加だ。絶縁しても構わない旨が通達されている。まさか英霊を呼び出す前に三名もリタイアが出るとは。当主もお嘆きだった」

 三名のリタイア。クリストフやロットフェルト家の人間からみればそうなるのだろう。カヤにとっては違う。本来、マスターですらない外部の闖入者を排除するのがカヤの受けた要請だ。マスターは 七人であるので、カヤを除く三名がロットフェルト家と縁のない、外部の魔術師となる。カヤは三名のマスターを排除する必要がある。絶望的な数字だ。

(カヤ。他の兄弟の情報を引き出せ。死んだ人間よりも、生きている人間の方だ)

「他の兄弟は?全員がマスターであることは確認したの?」

「……三男テオ様はスイスに入国されていることまでわかっている。だが、マスターかどうかは未だ不明だ。なにせ、ルスハイムにも来られていないからな。次女ハンナ様はサーヴァントを召喚していると思われる。ハンナ様が滞在しているゲストハウスから、ただならぬ魔術の気配が感じられた」

 とりあえず二人。口ぶりから兄弟達は几帳面に参戦の意思をロットフェルト家に伝えているわけではないらしい。クリストフはロットフェルト家の持つ独自の情報網で、それなりの詳細を掴んでいるようだった。

(ふむ。まあ、こいつでよいか)

 アサシンの不明瞭な独り言に思わず反応してしまう。

(どうしたの、アサシン)

(いや、失礼。それよりも最後の一人の話だ)

 促され、クリストフの話に集中する。そうだ、兄弟はまだ一人いた。

「そして末弟ロイク様だが、サーヴァントを召喚されその旨を審判役へ通達された」

(カヤ、審判役とはなんだ?)

「ちょっと待って。審判役ってなに?」

 アサシンとカヤが同じ疑問を持つ。

「聖杯戦争の審判役ということだ。聖堂教会から遣わされた者がルスハイムのはずれの教会にいる。戦闘による痕跡の秘匿を担うそうだ」

 クリストフが興味もなさげに言った。

「それってどういうこと?魔術師同士の争いに何で聖堂教会が関わってくるの?」

「尤もな疑問だ。だが、私は答えを持たない。なにせ彼らは四ヶ月ほど前に急に現れて、取り仕切ると言い始めただけなのだからな」

 そう言うと、クリストフはコーヒーを口に運ぶ。いかにも敵視をしているというか、口にするのも嫌といった風情だ。

「……教会の場所。教えてくれない?」

 ならば、自分で情報は集めよう。そう思って案を示す。クリストフはテーブル上のペーパーナフキンに何かを書き始めた。そしてカヤに手渡す。教会の住所だ。脳内でおおよその地理を頭に描く。ここからそう遠くない。

 クリストフが立ち上がる。この会はこれでお終いということか。テーブル上を見ると、砂山がいつの間にか指先ほどの大きさに縮んでいた。

「さて、改めて言おう。我が当主クサーヴァー・ロットフェルトは聖杯をロットフェルト家以外のマスターに渡ることを良しとしない。既に混じっているであろう三名の外部のマスターの排除、よろしく頼む」

 そう言って背を向けるクリストフ。アサシンが言う。

(カヤ。あの男に宝具を使う。許可を)

 宝具。サーヴァントが持つ、生前の武装や逸話に基づく奇跡の具現化。大抵はサーヴァントに放つ強力な攻撃を意味するのだが、アサシンの場合は違う。カヤは既に、アサシンから彼の宝具の詳細を聞いている。

(……いいわ。許可する)

 そしてアサシンが実体化する。だが、店内の人間にも背を向けるクリストフにもアサシンは見えない。アサシンというクラスが持つ、気配遮断というスキルの恩恵だ。並の魔術師ではまず、アサシンを認識できない。攻撃時には気が付かれる危険性が増すが、これからアサシンが行うことは彼特有の例外だ。

 アサシンの両の掌が、クリストフの頭を包むように広がる。魔力が集中する。宝具が展開され、一瞬の間を置き、閉じた。クリストフは何もなかったように店を出た。アサシンが霊体化する。カヤを除いて、誰もこの行動に気が付かない。

(何も問題はない。さて、教会へ向かいつつ、我が宝具の性能をおさらいしようか)



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14

 スイスの空の玄関と言える都市、チューリッヒ。そこからルスハイムまで伸びる国道は車がまばらに過ぎていく。その脇に広がる森の中を、男が一人歩いている。痩せた身体に、重たそうなカバンを肩に下げている。テオ・ロットフェルトだ。

 森の中でライダーを召喚した矢先、テオは自身が見張られていることに気が付いた。ロットフェルト家の監視は基本的にルスハイムを基点に広がっており、あのような郊外の森へ広がることは考えにくい。ゲルトが自分を見張るためかとも思ったが、そのメリットがわからなかった。故に、テオが出した結論としては、未知のマスターによる監視だ。この聖杯戦争の参加有力者だと、テオは自身について認識している。故に、外来のマスターが使い魔にテオ・ロットフェルトを探すよう命じ、運悪く見つかってしまった、と考えられる。

 そして一夜を明かすと、明け方からルスハイムに向けて出発した。

(あのよ。確かに移動したいって言ったのはアタシだぜ?だけど何も歩いていくことはないだろ)

(……金がないんだ)

 呆れ果てたように言うライダーに、申し訳なく答える。幾日分のモーテル代とこれから必要となる費用を考えると、節約しなくてはならない。

(なんて不憫なマスターだことよ!飯が食えていないから頭が回っていないときている!金がないならすべきはひとつだろ!?)

 ライダーの声が脳内に響く。することは一つ。彼女の出自を思えば、直ぐに答えに行き当たる。

(金がなきゃ奪い取れ!アンタの横を通り過ぎる鉄の塊には人が乗ってるだろ?それからいただけばいいじゃないか!)

(……気乗りしない)

(偽善者め!戦う気がないのか!騎兵が道の横を歩くだなんて屈辱もいいところだ。……おい、そこの停留所に入れ。何、奪いやしない。真っ当な金策という奴をアタシがしてやる)

 ライダーの声が一端低くなる。テオは道の先を見ると、ガソリンスタンドが見えた。看板を見ると、食事や買い物ができるようだ。ドライバーの休憩所も兼ねているのだろう。ライダーが何をするのか気になったが、足に疲れが有るのも事実だ。言う通り、入ることにした。

 ライダーの急かす声を聞きながら十分ほど歩く。ガソリンスタンドの駐車場に入ると、何台か車が停まっている。

(おい。まだ止まるな。服屋に言ってアタシの服を買ってこい。安物でいい)

(馬鹿言うな。金が無いって言ってるだろ)

(馬鹿はお前だ。これから何日も戦いをするっていうのに、戦場に辿り着く前に肩で息をしてるじゃねえか。今、他のサーヴァントに襲われたら、間違いなく死ぬぞ。アタシが金策をしてやるから、先行投資と思って買って来い)

 テオは押し黙る。このサーヴァントの言い分が紛れもなく正論なのだ。今の疲労困憊の状態じゃ、まともに戦うことなどできない。まして路銀がなければ、満足な食事も睡眠も敵わないだろう。ここで金策ができなければ、戦いどころではないのだ。

 結局、ライダーに安物の服を買い与え、実体化させた。安物のジーパンにシャツ。ジャンパーはテオの予備を貸した。二人は駐車場に立っている。

「やっぱり肉体ってのはいいもんだ。生きてる実感が湧くぜ」

「……それはいいけど、その服だってただじゃないんだ。稼ぐ当てがあるのかよ」

 テオが当てつけるように言うと、ライダーは何でもないかのように答える。

「ああ、そうだった。まあ見てなって。さっきここに置いてあった鉄の固まりから、金の匂い、というか現代っぽくない気配がしたんだよな」

 言うな否や、ライダーは駐車場に停まっている車を一つ一つ眺め始めた。そして、ある車の前で立ち止まる。白い小さめのバン。テオには何も変わった雰囲気が感じられない。

「あった。これよ、これ」

「指で窓を叩くな。中に人がいるかもしれないだろ。……何でこれに惹かれたんだよ」

 ライダーが困惑した雰囲気になった。まさかとは思うが、勘ではないだろうな。

「昔の売っぱらったお宝に似た雰囲気があるんだよな。多分だけど、アタシが生きた時代に近い品とか、それだけの神秘が詰まったものがこの中にあるぜ。直感だけど。運転手に頼めば分けてくれるって」

「本当か、それ」

「本当だとも。アタシのスキル、見えているんだろ」

 マスターはサーヴァントを見ることで、基本的なステータスと所有するスキルを知ることができる。ライダーの持つスキル・麗しの美貌。周囲の人間を引きつける魅力、カリスマ性。確かにライダーには相応しい能力だろう。そして彼女の逸話を思えば、頼むだけで持ち主が譲るというのも有り得ない話ではない。

「生前は飽きるほど婚約話が湧いてきたからな。中には結構な金持ちもいた。それがこういう形で昇華されたんだろ」

 ライダーを改めて見る。白い肌に大きな青い瞳。長身も相まって現代でも十分すぎる美人だ。実際、人の少ないこの駐車場でも男からの視線を感じる。

 その中に一際異質な、敵意の混じった視線を感じた。よく見ると、二人の大柄な男がこちらに向かって駆けてきている。

「うわ、こっち来てるぜ。これの持ち主か?めんどくせえ。テオがぼさっとしてるから」

「お前が車を乱暴に扱うからだ。どうするつもりなんだよ」

「下がってな」

 テオはライダーの言葉に従い、車から離れる。ライダーの方を見ると、男とは口論になっているようだ。いきなり暴れたりしなくてよかった、と安心とする。

 変化は男達から現れた。一人がライダーの肩に手を置き耳元で何かを囁いた。先程と変わり、懐柔するような雰囲気。嫌な予感がした。そして的中する。

 ライダーが囁いた男の顎を殴り抜く。あまりに素早い動き。注視していたテオでさえ、一瞬何をしたのかわからなかった。

 男の身体が崩れる。見ていたもうひとりが抱きかかえ、ライダーの元を去っていった。

(もういいぜ。戻ってきなよ。テオ)

 言われるままにライダーの元を戻る。

「何をしたんだよ」

「いいや、なにも。下世話な交渉を吹き掛けた代償として、ちょっと小突いただけだ。不愉快を買ったが、収穫はあったぜ」

 ライダーは満面の笑みで、テオに何かを手渡した。鍵だ。眼の前の車のキーだとわかった。いつのまにか盗んでいたのか。

「いい仕事したぜ」

 そして平然と運転席に乗り込むライダー。唖然としながらも、テオは続いて後部座席に座った。助手席には荷物が置いてあるのが見えたからだ。

「お前、生きてたときもこんなんなのかよ」

「いいや。無礼者には無礼に接し、礼儀を知るものには礼節を持って接する。それだけのことよ。ところでマスター」

 ライダーが振り返った。困惑しているようだ。

「これ、一体何だと思う?」

 ライダーが助手席を指差す。テオが先程荷物だと思ったもの。頭から毛布を掛けられ、眠っている女性だった。

 



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15

 クリストフから渡された住所へは時間を要せずについた。出迎えた神父はヘルマンと名乗った。見たところ二十代後半。神父らしく朗らかな笑みを浮かべていた。

 警戒しながらも、案内された応接室へ行く。ヘルマンはカヤにコーヒーを出した。今日はもう二杯目だな、と場違いなことを考えた。

「クリストフさんから聞いているよ。ロットフェルト家じゃないけど、公認のマスターがいるって。君のことだろ?」

「え、あ、はい。そうです。カヤ・クーナウです」

……普通だ。普通の常識人だ。

(カヤ。私はしばらく黙る。旧派とは話をしたくない)

 常識的な反応を見せるヘルマンに対して、アサシンは何故か不機嫌気味だ。もっとも霊体化しているので、ヘルマンには伝わらない。

「聖杯戦争ではこの教会は中立地点となる。何者も攻撃してはいけない。なにせ審判役だからね。審判を攻撃するスポーツなんてありはしないだろ?」

「はあ」

 カヤはアサシンやクリストフの話から、この聖杯戦争はスポーツなどとは縁遠い存在だと認識している。ヘルマンの考えは甘く聞こえるのだが、神父ゆえの心がけによるものだろうか。疑問に思ったが、口には出さない。

「やることは概ね二つ。一つは秘密の保全。魔術師同士の抗争はともかく、サーヴァント同士の戦いは兵器の打ち合いみたいなものだ。戦闘の跡とか事後処理しないといけない。記憶の改竄とかも……。だからといって、マスターの人には無茶苦茶はしないで欲しいかな。逸脱が過ぎると、それなりに対処しなくてはいけない」

 どうやら、このヘルマンは聖杯戦争に対して一定の権限を持っているようだ。サーヴァントを持つマスター相手にどうやって対処をするのだろうか。

「ああ、簡単だよ。僕ら審判役は報奨を与える権利があるんだ。ほら」

 そういってヘルマンは右の腕を見せる。神父服を捲り上げると、魔術による刻印がある。

「これは過去の戦争のあまり分の令呪。使い切らずに脱落していったマスターの令呪は教会が保全している。僕が持つのは二画だけどね。……この報奨をもって、ルールを逸脱したマスターを狩るように他のマスターに要請することができる。あまりしたくはないが、覚えておいて欲しい」

「破ってはいけないのは、神秘の秘匿、だけですか」

「とりあえずはね。でも、約束するわけではない」

 そういってヘルマンは自分のコーヒーを飲む。カヤは考える。これは大きな要素ではないか。この神父をコントロールすれば、マスター同士のパワーバランスを崩すことができる。ロットフェルト家のマスターに、カヤのターゲット、つまり外部のマスターを狩るように誘導できる。

「ああ、それともう一つ。こちらのが、君たちには重要かな。怒らないで聞いて欲しい。もしサーヴァントを失って敗退した場合、この教会はマスターの身柄を保護する」

 教会らしい機能だと思う。サーヴァントを失ったマスターは力こそないが、危険な存在だ。

「マスターは令呪さえ残っていれば、サーヴァントと再契約が可能だ。マスターをなくしたサーヴァントが入れば、再度契約し戦争に戻ることができる。マスターはそれがわかっているから、サーヴァントのいないマスターを積極的に狩るだろう」

 そう言ってヘルマンは溜め息を付いた。

「でもね。ただの魔術師と英霊たるサーヴァントの力の差を知っていれば、それが如何に危険か予想できるだろう。さらに言えば、野良のサーヴァントなんてそうそう発生しない。サーヴァントはマスターがいないと魔力供給が途絶えて、消滅するからね。サーヴァントを失ったマスターはまさに迷える子羊だ。故に保護する」

「なるほど。理解しました」

 カヤの言葉をヘルマンがじっと聞いていた。何か失礼を言ったかと思い、カヤは少し焦る。

「いや、良かった。前に他のマスターに同じ説明をしたら怒られてね。『僕が負けるはずがあるか!義理によって顔を出したが二度と来るか』みたいな感じ」

 クリストフの説明と合わせれば、他のマスターというのはロイク・ロットフェルトのことだろう。

 ……なるほど、そういう性格か。

 なにか質問はあるだろうか、とヘルマンが聞く。カヤはアサシンに念話を送るが、返事がない。どうやら教会を出ているらしい。

「大丈夫かな。困ったことがあればなんでも聞いて欲しい。他のマスターにも説明したいのだけど、ここの存在はあまり周知されていないみたいだ。……ともあれ、奮闘を祈るよ。カヤ・クーナウ」

 そして差し出された手をカヤは握り返した。握手。そんな爽やかな振る舞いをこの戦争ですることになるとは思わなかった。

 

 カヤ・クーナウは教会を出て、隠れ家までの道を歩く。途中アサシンへいなくなった理由を問い詰めるが、

(旧派は好かん)

 この一言であった。埒が明かないので、カヤは追求するのをやめた。

(さて、ふむ。説明してもらいたいことと、私から説明しなくてはいけないことがあるな。マスター)

 霊体化したアサシンは念話で話し始めた。カヤは応じる。コーヒーショップでのことだろう。

(可能なら、あなたの宝具から教えてもらいたいものね)

 アサシンを召喚した後、アサシンの持つ宝具については予め説明を受けていた。

 対象者の見聞きしたことを監視できる宝具。そして、対象者はその事実を看破することができない。

(魔力次第だが、あと四,五人は問題ないだろうな。ふむ。クリストフはまっすぐ屋敷に帰っているようだ)

 アサシンはこともなげに言う。

 カヤも含め魔術師は使い魔を利用し、監視や簡単な作業を行われることは多い。特にこの聖杯戦争では、監視として使われることが多い。だが、せいぜい屋外から主要な地点を見張る程度だ。その人物の見聞きしたもの全てを取得できる使い魔はカヤの知る限り存在しない。

(本来は対象の同意を得て行うものだが……ふむ。んん。まあ、いいだろう)

(なんて名前だっけ)

(やめたほうがよい。真名につながる情報は例え念話であっても控えるべきだ。んん。キャスターのサーヴァント並の感知を察せられるのなら、別だがね)

(……やめておくわ)

 アサシンはカヤの隠れ家で宝具や真名について説明をしたが、万事、この調子を崩さなかった。一度しか言わない。外では絶対に口に出さない。頭に思い描くことも控えるべき。

(英霊にとって真名は生前の存在を示すもの。故に生前の逸話から弱点も明らかにしてしまう)

 アサシンの場合は、戦闘能力が皆無であるという点だ。彼の人生。英霊と呼ばれるまでの功績をたどれば、容易に納得できる。

(故にカヤ。弱小の英霊と若輩のマスターのコンビではこの聖杯戦争いささか以上に厳しい。このまま情報を集め、それを利用して他のマスターと同盟を組むことを提案する)

 アサシンの言葉に反抗心が湧いたが、押し留めた。ロットフェルト家に比べればクーナウ家は若輩といえる。さらに、マフィアや魔術師の集団を相手取れる存在に対して、見栄を張っても意味がない。

(まだ情報が出揃っていないがね。ロイク・ロットフェルトはやめたほうがいいだろう)

(なぜわかるの。クリストフの話しからでは、ロイクは英霊を召喚しただけでしょう)

 アサシンが、ふむ、と口癖を呟く。そして話し始めた。

(まず、ロイクだが、んん、十中八九、長男アーベルトを殺害している)

(兄弟で殺害?こんな序盤から?)

 カヤにとっては兄弟は親愛の対象だ。可能な限り戦闘は後回しにしたい心情が自然だと思っていた。

(何を甘っちょろいことを。んん。魔術師なのかね?本当に君は。マスター候補がいるのならば、サーヴァントを呼び出す前に叩くのが効率がいい。サーヴァントがいれば、マフィア……傭兵のようなものか。こいつらも問題にならないだろう)

 そうか、効率。魔術師としての思考回路を忘れていた。効率を求めるのなら、兄弟から真っ先に殺し合うべきなのだ。

(でも、なぜロイクだと?たしかあと二人の子どもが、ロットフェルト家のマスターなのでしょう)

(ハンナとテオだ。名前くらい覚え給え。クリストフの言を信じるならば、テオは未だにルスハイムに入っていない。アーベルトは殺せないだろうな。ハンナはサーヴァントを召喚したと思われる、と言っていたな。彼女に大きな動きがあれば、それこそルスハイムの市街へ出るような、このような言い方はしないだろう。クリストフから見て、ハンナのマスターらしき様子は召喚の余波程度と言える。……意図して黙っていることがあるかもしれないがね。故にハンナは彼女の居城からほぼ出入りしていないと思われる。ロイクが容疑者筆頭だ)

(ロットフェルト以外のマスターにやられたとか、仲間割れとかは?)

(可能性がゼロとは言えない。だが、その場合はクリストフの言い回しが気になる。死因が不明のリーヌスに対しては『襲撃されたと思われる』。アーベルトに対しては『死体が見つかった』。……クリストフはアーベルトを殺したのが誰だか知っているのだろう。そうでなければ、『何者かに殺された』ような言い方をするはずだ。だが、『死体が見つかった』と言った。アーベルトの死に疑問点はない)

 カヤはアサシンの洞察に驚いていた。たったあれだけの情報を既に分析していた。自分が呼び出した存在が改めて規格外なのだと認識する。

(そして思い出せるのが、テオについてだ。『スイスに入国したことまではわかっている』だったな。つまり、クリストフは空港などの拠点は監視できているのだ。ルスハイムのホテルも同様だろう。つまり、アーベルトを襲撃した者はクリストフの監視の目に掛かっている。状況からみれば、ロイク・ロットフェルトしかいない)

 ロイク・ロットフェルト。クリストフからの情報では正当な魔術師であり、この戦争が始まるまでは後継者は彼だと思われていた。ならば、この戦争自体が不本意だろう。短絡的な、いや効率的な手段に訴えるのも理解できる気がした。

(ロイク自身の性格か、サーヴァントの気性かは不明だ。だが、好戦的な相手というのは交渉が難しい。彼らについては情報を収集するに留めたほうがいい)

(そうね。そのとおり。他のマスターも含めて情報を集めましょう)

(全く同意だ、マスター。ところで、こちらからの疑問を解消してもらっていいかね)

 アサシンが間を置く。聖杯戦争そのものはカヤとアサシンが協力して取り組むものだ。だが、アサシンとカヤの最終目標は違う。アサシンにそれを気取られぬようにしないと。

(んん。あのクリストフという男。買収したのではないな。むしろ、カヤ。君が買収されているかのような雰囲気だったが)

 予想通りの質問。隠れ家では煙に巻いたが、無理があったか。先のアサシンの推理を見るに、下手に隠し立てしないほうが良いと思われた。可能な限り正直に話し、最後の一線だけ、自分の思いだけを偽る。

(そうよ。隠れ家ではいい加減なことを言ったけど、本当はあのクリストフという男、いやロットフェルト家の当主クサーヴァーに要請されて参加しているわ。悲しいことにね、昔の契約で言うことを聞かないと私、死んじゃうのよ)

(ほう、ふむ。それは初耳だ。それで、その契約とは?)

(単純よ。ロットフェルト家の言うことを一つ聞くこと。今回は聖杯戦争に参加して、ロットフェルト家のマスター以外を退去させること。だから、ロットフェルト家以外のマスターを優先的に対処したいと思ってる。言ってなかったけどね)

 ここまでは事実。カヤは淀みなく続ける。悟られぬように。

(でもね、それで終わるつもりはないわ。私も魔術師の端くれ。聖杯にかける願望はないけど、聖杯のもつ膨大な魔力には興味がある。若輩のクーナウ家が躍進するには、これ以上ない起爆剤になる)

(ふむ。んん。ふむ。……つまり、お家のために聖杯を望むと)

 カヤは思う。この聖杯戦争に参加したのは偽りなく、クーナウの家のためだ。要請を反故にすれば、カヤは死ぬ。それはきっかけだ。関係が悪化した魔術師同士は争いになるだろう。クーナウ家は滅ぶ。

(そうよ。そのとおり)

(納得した。ふむ。魔術師らしいな。その選択、ゆめ後悔するなよ)

 アサシンの忠言に冷たいものを感じた。

 そしてしばらくすると、隠れ家が見える。クリストフを含め、使い魔による監視の夜が始まる。

 



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16

 ガソリンスタンドからルスハイムへ向かう道の途中、日が落ちる少し手前の時間。テオ・ロットフェルトはライダーの運転するバンの後部座席にいた。

 ライダーの発見した助手席の女性は見たところ大きな怪我はなく、暗示によって眠らされているようだった。今は起きていて、所在なさげにしている。

「あの、本当にルスハイムに向かってるんですよね?大丈夫ですよね?」

「大丈夫だって。本当に心配性だな」

 女性の心配をライダーは軽くいなす。

 ガソリンスタンドでライダーが発見した女性は宮葉環と名乗った。日本人らしい。

『フランスで作られた荷物をルスハイムまで届ける予定だったんです。すごい貴重品、というか高級品なのでボディガードを雇いました。そしたら』

『そしたら、そのボディガードに眠らされて荷物まるごと奪われそうになった、とか』

 ライダーが笑うように宮葉の言葉を予想する。

『すごい、なんでわかったんですか!』

 状況を見たら、そうとしか思えない。きっとそのボディガードというのがライダーが追い払った男たちだろう。車に近づいたテオとライダーに必死に駆け寄ったのこの事情なら納得できる。

『それで、その、ミス宮葉はどこまで?後ろの荷物はその高級品?』

 テオが疑問を呈する。宮葉は小動物のようにびくっと身体を震わせた。

『やめとけテオ』

……不躾だったか。でかい男二人に襲われた直後だもんな。

 宮葉の姿を改めて見る。アジア人はおおよそ欧米人よりも小柄な人物が多い。宮葉はその中でも一際小柄のように見えた。本人の言では成人しているそうだが、この国では身分証を出さない限り、子ども扱いされるだろう。男たちが不埒にも強盗を働こうと思ったのも理解できる。狙うならば弱い人間。鉄則だ。

『えっと』

『申し遅れたな。後ろの細い男がテオ。で、アタシがライダーだ』

 宮葉がどうも、と頭を下げる。むしろ、テオよりもライダーという名前に疑問を持っていそうだった。宮葉がおずおずとした調子で口を開く。

『お二人は魔術師ですか?』

 告げられた言葉にテオは押し黙る。ライダーもテオに同調するようだ。常人ならば一笑に捨てる問い。だが、それをこの場、この状況でいうとなれば、正直に徹したほうが良さそうだ。

『ああ、そのとおりだ』

 テオの言葉に宮葉はああ、とかうーんとか悩み始めた。そして意を決したように言った。

『積荷はルスハイムで行われる魔術儀式で使う祭具です。どうしてもそれを今日中に届けたい。お二人に道中のボディガードをしていただけませんか』

 回答は無論イエスだった。ライダーがテオを待たずに即答した。

 そして今に至る。

「お、ルスハイムまで二十キロだってよ。あと少しじゃん」

 かれこれ一時間ほどライダーの運転でルスハイムへ向かっていた。その間、宮葉は不安そうに待っているだけで、時折投げかけられるライダーの質問に答えていた。

「よかった。六時には着けそうです。そこから、えっと、魔術師の人の家に届けておしまい」

 宮葉の不安はライダーの具体的な情報で緩和したように見える。流暢に英語を話すが、看板の文字は読めないようだ。

「それにしても不幸だったよな。ボディガードに襲われるなんてそうそうないぜ」

「いえ、私が不用心でした。予め雇っていたのですけど、現地であった瞬間に殴られて……。やっぱりこの仕事向いていない……」

「思いつめるな、環。山道を走れば山賊が、海道を往けば海賊がいる。そいつらにあったのはただただ不運なだけだ。いちいち嘆いていては運送業なんて務まらないぜ。今回は荷物が無事だったんだし」

 ……奪う側だった人間がよくもまあ。

 テオの嫌味が通じたのか、ライダーが念話で返事をする。

(アタシが賊なら絶対このお嬢さん襲うね。格好のカモだ。……ところでこのお嬢さんの積荷、聖杯関連じゃないか?)

 ライダーからの意外な質問にテオは考える。ルスハイムにいる魔術師といえば、現状はロットフェルト家だけだ。当主クサーヴァーや魔術師のロイクなどは通常時は呪具祭具を取り寄せるだろう。だが今は聖杯戦争にかかりきりのはず。にも関わらず、取り寄せると慣れば聖杯戦争関連の品であるというのは自然に思える。ライダーの公算は当たっている気がした。

(それとなく、届け先の魔術師の名前を聞き出してくれ)

(了解)

「ところで、環。届け先はルスハイムのどこらへんだ?このまま家の前まで乗せってってやるよ」

「えっとですね。ロットフェルトさん?という方ですね。名はわからないです」

(大当たり)

 ライダーが念話で呟く。後ろの祭具はロットフェルトのマスターがサーヴァントに使わせるか、宝具の利用のために取り寄せたものだろう。奪い取れれば、優位に立てる。

「……ロットフェルト家ならば通行手形をもらっているはずだ」

 テオが後部座席から聞く。また怯えられるかと思ったが、環も今は落ち着たようだ。肩に掛けたカバンから名刺を取り出した。

「……これですか?よくわからないですけど、届けるときはこの名刺を持ってくるようにと言われました」

 ロットフェルト家は人の出入りを嫌う。そのため普通の郵便物は郵便局まで届けさせ、後ほど使用人が取りに行く。だが、魔術に関わるものの場合は環のような専用の業者を使う事が多い。当然郵便局には置いておけないため、使用人が直接受け取るか、特例として屋敷の付近まで入れる。その際の通行手形が使用人の名刺だ。

 この手形なしで屋敷に近づけるのは使用人とロットフェルト家の人間だけだ。テオはもう、その資格はない。

 ……よほどのものだな。後ろの品は。

「ライダー。市街に入ったらその名刺が行き先を示す。そのとおりに運転してくれ」

 その後しばらくすると、ライダーの運転する車はルスハイムに入った。既に日が落ち、辺りは暗い。宮葉が持っていた名刺が震え印刷された文字が動き出す。紙面には矢印が現れた。

「すごい。……手が込んでる。よく知ってましたね」

「……何かと縁があるから」

 無邪気に聞く宮葉にテオは冷たく答えた。この少女の存在で忘れていたが、ルスハイムに入ったということは既にここは敵地。本来はもっと周到に準備を進めてから来たかったが、仕様がない。これは千載一遇のチャンスだ。

(ライダー。宮葉を送ったら、その足でロットフェルトの屋敷に奇襲をかける)

(いいね。大胆な作戦だ。なんでまた思い切る?)

(この女がいれば、警戒されることなくロットフェルト城に近づける。俺は既に勘当されているから宮葉がいなくなると近づく術がない)

(なるほど)

 そして車は郊外へ抜ける。徐々に人通りがなくなり、自然に囲まれた道に出る。幾度かの曲がり道を経て、テオにとっては懐かしいロットフェルト家専用の私道に出た。しばらく進むとプラウレン湖が見えるはずだ。

(テオ。悪い知らせだ)

 突如、ライダーが念話で言う。問う前にテオにも理解した。異常と言える魔力の気配。この世ならざるものの予兆。ライダーを召喚したときと同じ、いやそれ以上の圧力を感じる。これは。

(サーヴァントがいる)

 ライダーが、端的に言い表した。

 



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17

 兄アーベルトを殺害したのが昨夜。その足で幾つかのホテルを襲撃したが、成果はなかった。エルナの夫リーヌスの一派がいるはずのホテルはもぬけの殻だったのだ。彼らの動向を知るために、一夜動き詰めだった。朝方、拠点にしているゲストハウスに戻ると、疲労のあまり起き上がれなくなった。ロイク・ロットフェルトは自身を虚弱とは思わない。だが、ここ何時間かの急激な変化に身体が音を上げたのだと思った。特に、兄を手に掛けた手の感触は忘れられない。

「手間のかかるガキだ。このまま引きずってでも連れていきたいが、そうすると死ぬのだろうな」

 ランサーは一夜の襲撃では飽き足らず、まだ場当たりな襲撃を続ける気でいた。ロイクが意識を失う直前に聞いたのは、英霊の怒りの籠もった声だった。

 そして目覚める。きっかけは使い魔である烏の呼び声だった。ルスハイム市街からロットフェルト城へつづく唯一の公道。そこに何者かが通ったことを意味していた。

 烏の視界を共有し、ロイクはその何者かを見る。そして怒りの火が胸の内に灯る。来るべきときが来た。既に夜の帳が降りかけている、プラウレン湖周辺の森。ロットフェルト城へ続く唯一の公道には車が通った。ロットフェルトの一族や使用人しか通れないこの道は、ロイクが真っ先に使い魔で監視下に置いていた。その使い魔の烏が見た。バンの後部座席にいる男を。テオ・ロットフェルト。ロイクが倒すべき、強さを証明すべき相手。やはりここに来たか。運転席と助手席にも人がいるが、どちらかがテオのサーヴァントだろう。

「ランサー、すまない。だが、吉報だ。サーヴァントがいた」

 熱にうかされているため、ランサーへの恐怖は霧散していた。

「ほう。良い。例え意識がなくともすべきことは忘れていなかったか。それにロイク。今のお前はとてもいい顔をしている」

 ロイクは自身の顔を、左手でなぞる。笑っていた。

「さて参じようか。我が力を見せつけてくる。お前はここにいろ」

 ランサーが窓から消える。ロイクは使い魔の視界から森を眺める。テオ・ロットフェルトへの力を見せつけるチャンスだ。兄を殺した罪悪感も、ランサーへの憤りも全てを忘れて、それだけを思う。

 

 テオ・ロットフェルトは圧は背後から近づいていることに気が付いた。

(どうするよ。マスター)

(決まってる。防戦だ。走り抜けて、ハンナを攫って撤退する)

(いい案だ!)

「環!運転変わりな!」

 車内の雰囲気がにわかに緊張したのを察していたのだろう、押し黙っていた環にライダーは突如声を掛けた。

「へ?え?」

「いいから早く!アクセルだけ踏んでいればいいから!」

 言い捨てて、ライダーは運転席の窓から外に出る。車内が衝撃に揺れた。ライダーがボンネットの上に立っているのだとわかった。車はライダーがいなくなったことで一時速度を緩める。が、戸惑いながらも運転席に移った環によって、再び速度を取り戻した。

 テオも後部座席の窓を開け、後ろを見る。暗闇に紛れているが、強化した視力が圧の正体を捉えた。痩身に張り付くような黒い鎧。手には長槍。おおよそ人では考えられない速度で追いすがる。

……間違いない。ランサーのサーヴァント!

「さあ、始めようか!初陣は派手に行こう!根こそぎ殺し尽くしてやる!」

 テオは窓から使い魔の蝙蝠を放つ。視覚を共有し、ライダーの戦いを俯瞰する。ライダーは既に現代服から、召喚された当時の海賊衣装に着替えていた。両手には長弓が握られている。

(お前、弓なんて使えるのかよ!)

(海賊ってのは何でもあるもので戦うんだよ!弓は嫌いだけどな!)

 テオは見る。ライダーが放つ矢の連打。テオには一息でいくつの矢が放たれたのか数えることもできない。その矢は道を砕き、ランサーにも向かっていく。

 ランサーが自身を射抜かんとする矢を、その身で受けた。だが、矢は槍兵の身を穿つことなく、地に落ちた。地を砕くほどの威力をもって、槍兵には防御をさせることすら敵わない。

(なんだあいつ!無茶苦茶じゃないか!)

(いや、今のはアタシが悪い。流石に遊びすぎた)

 不可解なライダーの言葉は、走り寄るランサーの言葉で解決した。

「ふざけているのか貴様!弓兵ですらない女の矢で、俺に傷をつけれると思ったか!」

「では騎兵らしくお相手しよう」

 ライダーが丁寧な口調に言う。そして、彼女の傍らに武装が出現した。大砲。船舶に取り付けられる大型の砲門がライダーの傍らに出現した。そして砲門がランサーを狙う。

 そして車内に轟音が響いた。運転する環が短い悲鳴を上げるが、直ぐにかき消える。砲撃は一度ではない。連続して続いている。蝙蝠の視界に集中すると、ランサーが遠くに立ち竦んでいるのが見えた。砲撃はランサーに確かにダメージを与えている。

「さあ、もう一つ!」

 ライダーはさらなる武装を出現させる。テオは自身の魔力が吸い取られる感覚を得た。そして使い魔の視界から見る。ライダーの武装を。ランサーに向かい、突撃していく巨大なガレー船の船首を。

 そして、船首は周囲の森を巻き込みながら、ランサーに衝突した。

 ……これがライダーの宝具か。

 周囲の森を薙ぎ倒して現界した船首からは、おびただしい魔力を感じる。果たしてこれが全体の姿を現すと、どれほどの猛威となるか。

「なんなんですか!一体何が起こっているんですか!」

「……聖杯戦争ってやつ。余裕があったら、あとで話すよ」

 泣き喚く環をテオは宥める。ミラーから後ろに出現した船首を見たのだろう。それでも言いつけを守りアクセルを踏み続けているところを見ると、なかなかの胆力だと思う。

 ランサーを押し潰した船首を、車は置き去りにしていく。脅威は去った。そう思い、肉眼で窓から顔を出し、後方を見る。

「馬鹿野郎!まだ終わっちゃいない」

 瞬間、テオに向け短剣が飛び込んできた。直線軌道を描いていた短剣は、テオの眉間に当たる直前に軌道を変え後方へ飛んでいった。

 訝しんで短剣の飛んでいった方向を見ると、運転席側のサイドミラーに刺さっていた。よく見ればサイドミラーには何か魔術式が刻まれている。

 ……環が何かしたのか。

 問おうと思ったが、ライダーの声に阻まれた。

「次が来るぞ!顔を引っ込めろ!」

 慌ててライダーに従う。使い魔の視界から見ると、状況は明らかだった。既にライダーの船首は消えている。そして船首があった場所。そこにはランサーが立っていた。笑っている。狂ったような笑いが聞こえてきた。

「いまのは良い攻撃だ、ライダー!女と見くびっていたこと、謝罪しよう!」

「そりゃどうも。……アンタもマスターばっかり狙ってないで、アタシと戦ったらどうだ!」

「何を間の抜けたことを。敵の弱きを突くのは戦いの常であろう!」

 ……まずいな。

 二人のサーヴァントの会話から、テオは危機感を抱いた。ランサーの狙いはテオ本人だ。ライダーと交戦するつもりはなく、合理的に戦うつもりだ。対してこちらは相手のマスターもわからず、環や詳細不明の祭具を積んでいる。環を守る積極的な理由はないが、見捨てるには気が進まない。なにより、ライダーは納得しないだろう。

(防戦しながらあいつを倒せるか)

(……無理だな。宝具を出せば状況は変わるが、テオや環を守れない。それにあいつ、まだまだ遊んでるぜ)

 ライダーは再び砲門を出現させ、追い縋る槍兵を攻撃している。ランサーは手元の槍で砲弾をいなし、近づき続ける。追い詰められているのはこちらだ。なにか手はないか。

「あ、湖」

 思い悩むテオに、環が場違いな言葉を言った。車は生い茂る森を抜けた。景色が一転する。道路はプラウレン湖を見下ろす形となり、前方には下りの山道が続いている。

 直線ではないこの道では、ランサーの攻撃はさらに肉薄するだろう。そこでテオは思いつく。そして、行動した。

「環!道を外れて森を走れ!」

「え、でも」

 躊躇う環に我慢できなくなり、後部座席からテオがハンドルを操作する。車は道を外れ、舗装されていない森の中を走る。

(おいテオ!お前、何をするつもりだ!)

 車が木々にぶつからないように細心の注意を払い、テオはハンドルを操作している。そのため、ライダーに答える余裕がない。環が怯えた声を出した。

「テオさん!前!」

「分かってる!絶対にアクセルを緩めるな!」

 一瞬だけ後ろを見ると、やはりというか森の中でもランサーは変わらない速度で近づいている。だが、気が付いていないはずだ。この先が崖だということ。環のベルトを外し、後部座席と運転席のドアを開ける。

 そして、車が崖から躍り出る。その刹那。

「ライダー!船首を叩き込め!俺と環を回収しろ!」

 ライダーはすぐに船首を出現させ、崖際に叩き込んだ。これで、ランサーの足は止まった。

 車が宙を舞っている。テオは開け放したドアから空中に躍り出る。ライダーが直ぐにテオの身体を抱えた。そして環を同じようにしようとして、ライダーの手が止まった。

「畜生め!」

 ライダーが吐き捨てると、車から離れた。

 落下する衝撃の中、テオは環の残る車内を見た。ライダーの悪態の原因があった。運転席で、祈るように目を瞑る環。それを守るような、特徴的な魔力の奔流。脅威がもう一つ、生まれようとしていた。

 



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18

 運転席で祈る宮葉環は自分の人生を振り返る。幸福とは言い難い人生だった。

 宮葉の家は魔術道具、祭具を作成し、それを魔術師に提供することを生業としている。環も家業に従事していたのだが、道具を作成するという才を持たなかった。作る道具は尽く失敗した。精々作れるのは初歩の呪い避けのお守り程度。これでは家業は継げないと、はっきり言われた。

 だが環には別の才能があった。道具を作る才能ではなく、見つける才能。父と環が宮葉の倉庫で清掃をしていると、環がたまたま古びた弾丸を見つけた。父は覚えがないらしく、鑑定するとなにかこの世ならざるものと契約した痕跡が見られた。言うまでもなく希少だった。

 そんなことが幾度も続き、環は磨くべき才能を見つけた気がした。

 環は古びた呪具祭具を調達する、新しい事業を初めた。

 ……多分、間違いだったんだろうな

 環の小柄な見た目と僅かばかりの魔術では、行く先々で困難に直面することは目に見えていた。今回はテオとライダーに助けられたが、運が良いとしか言いようがない。だから、これで最後にしようと思ったのだ。なのに。

 ……最後の最後で、とんでもないのを引いちゃったな

 自嘲の溜め息を心の中でつく。車が地面に衝突すれば確実に命はないだろう。ライダー達が先程飛び去るのを見た。いい人たちだったけど、しょうがない。魔術師のドライ加減はよく知っている。

 不意に、車に衝撃が走った。ボンネットに巨大な物が当たったような。きっと後ろから走ってきた男が何か投げつけているのだろう。

 だが、認識が間違っていたことを直ぐに知る。天から、いや穴の空いたボンネットから声が聞こえたのだ。

「マスター、マスター。どうする?とんでもない状況みたいだけど。生きたいか死にたいか、答えてくれよ」

 目を開き、声の方を見る。青年がいた。環の脳内は急速に現実感を取り戻した。落下中、多分すぐ死ぬ。眼の前の男は何だ。いや、今はどうでもいい。

「生きたい!」

「よし!」

 環の答えに破顔した青年。そして環を抱きかかえると、車を捨てて脱出した。

 

 ロイク・ロットフェルトは自身の拠点であるゲストハウスから、使い魔の視界を通して森の状況を把握していた。

 ……崖から車ごと飛び降りたテオがライダーを使い脱出した。

 ロイクはランサーに追撃を命じようとした。いや、言わずとも今がライダーを倒す好機であるのは理解しているだろう。ロイクはここまでの戦いぶりを見て、ランサーと戦略的視点は一致していると見ていた。

 だが、予想は外れた。ランサーは崖から落ちる車を見つめている。

(ランサー。ライダーとそのマスターはそこにはいない)

(わかっているさ。今、良いところだから、黙ってろよ)

 念話でランサーに確認をするが、ロイクには理解ができない。だが、使い魔越しに車を見ると直ぐに疑問は解消した。

 落下する車のボンネットの上に青年が立っている。狩人の様な風体にフードのようなもので顔を隠している。サーヴァントだ。ライダーの他に、もうひとり隠れていた。

 ……いや、召喚されたのか。

 ランサーがそのサーヴァントに向けて短剣を投げつける。尋常ならざる速度でサーヴァントに迫る。だが、それはサーヴァントに辿り着くことはなかった。ロイクには何が起きたのか理解できなかったが、ランサーは愉快そうに笑みを浮かべている。

「なかなかやるな。貴様、アーチャーか」

 ランサーの問にアーチャーと呼ばれた英霊は答えない。ただ、車内から女を連れ出して去っていった。

(ランサー!追え!召喚したばかりの今なら叩くチャンスだ)

(そうもいかない。派手に暴れすぎたみたいでな。もう一人、客人が来たようだ)

 崖際に立つランサーが背後の森を見る。ロイクも注視すると、客人の姿が見えた。

 ……なんだ、こいつ。

 身の丈を超す斧のような長剣。だが目を瞠るのはその全身が何か渦の様な紋様で彩られていることだ。紋様はそれ自体が生き物のようにうねり合っている。

「ほお、面白い装いだ。真名隠しのために魔術で化粧をしているのか」

 ロイクでも、それがサーヴァントであることは解る。だが、先のライダーともアーチャーとも違う、より機械的な性質を感じる。まるで意思を持っていないかのような。

「セイバー、でよいのか。視線でもって俺の邪魔をしたことは腹立たしい。貴様が黙ってさえいれば、ライダーかアーチャー、ともすれば双方を殺せたものを」

 アーチャーらしきサーヴァントを追わなかったのは、背後からの攻撃を警戒したためか。

 ランサーが槍を構える。眼の前の謎のサーヴァントに向けて殺意が籠もる。

「貴様の首で代わりとする」

 そして戦いが始まった。先の逃げ惑うライダーとの戦いとは違う、お互いが近接の間合いでの戦い。ロイクはランサーの周りを警戒しながら、その戦いを見る。

 ランサーの動きは人よりも獣に近い。両の手で持った槍でサーヴァントの身を突く。先の短剣投げが遊びであったのがよく分かる。ランサーの突きは、それ一回が必死の威力。如何に英霊と言えど、まともに当たれば致命傷だ。

 だが、ロイクは見た。その傷を負うはずのサーヴァントは長剣でランサーの突きを防ぎ、いなし、あろうことか自身の剣の間合いまでランサーに近づく。そして振られた長剣をランサーが避ける。

 ……ランサーの突きを軽く防御してる。

 ここに至り、ロイクは相対するサーヴァントがセイバーであると確信した。聖杯戦争における最優とも呼ばれるクラス、セイバー。高い対魔力性能と戦闘能力。バランスに秀でている英霊が多く、弱点も少ない。ロイクも狙っていたクラスだ。

 ランサーとセイバーの交戦は同じ映像を繰り返し見ているようだった。ランサーの間合いで雨の様な突きが繰り出される。それをセイバーは長剣で守り、いなしながら間合いを詰め、剣で攻撃する。

 高速で繰り返されるそれに変化が起きる。ランサーが森の中へ入ったのだ。セイバーが追う。ロイクの使い魔も後に続く。

 高く伸びる木々の間をランサーが縫うように走る。最中、槍でセイバーを牽制する。

「十五。この槍はお前を穿ったはず。見上げた堅牢さよ」

 そしてランサーが振り返り、再び槍でセイバーを突く。セイバーの顔面を狙った一撃。セイバーが長剣で突きを防ぐ。幅広の長剣はセイバーの視界を奪っただろう。

 ランサーがその刹那、木々を飛び移るようにセイバーの背後に移動した。セイバーの視界から消える行動。セイバーが長剣を降ろし、一瞬、動きが止まる。ランサーの意図した通り、セイバーは消えたランサーに一瞬、戸惑ったのだ。

 その空白をランサーが見逃さなかった。死角から放たれる突きは、正確にセイバーの喉を貫いた。

「どこの英霊だかは知らぬが、これで終いよ。この程度が最優というのだから聞いて呆れるな。呼ばれた甲斐もない」

 ランサーが槍を抜き、立ち竦むセイバーに背を向ける。

 ロイクは見る。背を向けるランサーに、喉を貫かれたセイバーが迫るのを。長剣を振りかぶり、ランサーに肉薄する。

 気配を察知したランサーは紙一重でその剣を躱す。振り返り、再び槍を構えた。

「……喉を穿たれてその動き。貴様、不死身か?」

 ランサーの言葉に初めてセイバーが剣を下げる。両者が睨み合うように相対する。

「また会おう。この傷はそこでお返しする」

 そう言ってセイバーが消える。

 ……あの不死性。調べる必要がある。

 ランサーが悪態をつく中、ロイクはセイバーについて考える。宝具による不死性であるならば、真名からヒントが得られるはず。

 そして使い魔の視点から、ライダーが去ったほうを見る。テオ。相対したときの激情は収まっていた。ライダーとランサーの格付けは決まった。正面から戦えばランサーが打ち倒すことができるだろう。今すぐである必要はない。

 ロイクはランサーへの帰還を促し、視界を自室に戻す。街へ出る必要がある。そう思った。

 

 セイバーが姿を消し、ランサーが去った後。崖下に転がる、テオ達が乗っていたバンに男が近づいた。神父服の男は引き裂かれたボンネットから荷台を探る。

「いや、無事で良かった。テオ・ロットフェルトも無茶をするなあ」

 男が手にしたのは、宮葉がロットフェルト家に運ぶはずの荷物だ。両の手で持てる程度の木箱に入ったそれを、神父が改める。

 中からは金色に彩られた盃が出てきた。

「さすが宮葉。いい仕事をしますね。いや、どこかの亜種聖杯戦争の余り物を盗ってきたのでしたっけ。……まあ、どちらにせよ、この小聖杯がなくては始まらない」

 神父は小聖杯と呼ばれた盃を木箱に戻す。そして木箱を抱えて、崖を駆け下りていった。

「さあ、宮葉の子のサーヴァントを含めてこれで 七騎。みなさん、頑張ってくださいね」

 神父、ヘルマン・バールは小さく呟いた。

 



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19

 ロットフェルト家の領地で起きたサーヴァントと同士の小競り合いから一夜が開けた。テオ・ロットフェルトはこの夜を苦々しい思いと共に明かすことになった。

 昨夜は予定では、ライダーによってハンナを救出するはずであった。だが、予想外の強襲により断念せざるを得なかった。

『悪いなテオ。アタシのミスだ』

 無論、テオとて途中で襲われることは想定していた。だから、ランサーが手強いといえどライダーが宝具を展開すれば逃げおおせたはず。本当の予想外は、他にある。

 宮葉環。ライダーが助けようとした際、明らかに彼女の元へサーヴァントが召喚された。宙を舞う車で、かのサーヴァントは何を思ったのかわからない。だが、テオを連れ車から離れるライダーに向かい、かのサーヴァントは攻撃を行った。テオはその様子を見ることができなかったため、詳細はわからないが、傷口を見る限り矢か銃による狙撃ではないかと思った。

 ……つまり、あの場で召喚されたのはアーチャーのサーヴァント。

 三騎士の一角、アーチャー。弓兵の英霊であれば、背を向けるライダーを狙い撃つ程度、造作もないだろう。むしろ、死角からの攻撃を間一髪で致命傷としなかったライダーを称賛すべきか。だが、当の本人は口惜しそうに言う。

『背に一撃。いいのをもらっちまった』

 致命傷ではないが相応に傷が深く、テオの治癒魔術を持ってしても一夜が必要だった。もしあのままハンナの元へ強行しても片道切符になる危険が高かった。

 故に、撤退を余儀なくされた。

 テオとライダーは現在ルスハイムのホテルに宿泊している。駅から遠く、建物自体も古い反面、人が少なく部屋が広い。ルスハイムで居室を構えることに抵抗があったが、ロットフェルト家にあれだけの侵入をした以上、あえて遠くに拠点を置く意味はなかった。

(よし、大分回復した。手間を掛けさせたな、マスター)

 ライダーは霊体化した状態で昨夜の傷を癒やしていた。このホテルは霊脈が豊かとは言い難い。だが、見込み通り一晩あれば回復できたようだ。

「昨日の作戦は失敗した。環のことは気がかりだが、俺たちが優先するのはハンナと聖杯だ。方針を定めよう、ライダー」

 ライダーが実体化して、テオのベッドに座る。昨日の傷は本人の言葉通り治っているようだ。

「環は良い子だった。だが、だからといってアタシに牙を剥いていい理屈はない。まあ、呼び出した英霊の早とちりだったというなら許さんでもないがな」

 ライダーが快活に笑った。

 テオがライダーに連れられて脱出したあと、あの崖でどのようなことが起こったのかはわからない。使い魔も含めて引き上げてしまったのだ。

 あの場にいたのは好戦的なランサーと、召喚されたばかりのアーチャー。ランサーがテオ達を追ってこなかったことを考えると、ランサーはアーチャーに目を着けたのではないかと思う。

「ライダー。何故ランサーが追ってこなかったと思う?」

 テオは自分の考えを確かめるようにライダーに問うた。

「そうだな。あの場にいたもうひとりのほうが、ランサーの興味を引いたんだろうよ。あのサーヴァント、真っ向勝負をお望みの様だったからな」

 昨夜のライダーとランサーの戦闘は、ライダーが終始逃げに徹することで被害を最小に抑えた。ランサーはその態度にあえて矛を交える魅力を感じなかったのだろう。逃げる者を追うことを良しとしない精神の持ち主なのか。いや、違う気がする。

「あのアーチャーはライダーよりも強力なのか」

「そう言われてハイと答える女に見えるか?荷物がなけりゃ、ランサーと真っ向勝負したって遅れはとらねえよ。あのアーチャーはよくわかんねえがな。……あのなテオ。アタシが言ってるのは環が呼び出した奴じゃない。もう一人、不躾にこっちを見てた奴がいたんだよ」

 もう一人。あの森には四体目のサーヴァントがいたのか。

「正体はわかんねえ。だけど、アタシかランサーか。残った方と戦おうとして待っていたんだろうぜ」

「そいつ、セイバーだな」

 テオはライダーに言う。ライダーが面白そうにテオを促す。

「言い切るな、テオ。そういうからには理屈があるんだろ。言ってみろよ」

「単純な消去法だ。アサシンなら隠れてマスター、俺かランサーのマスターを狙うだろう?キャスターなら自身の工房から出ようとはしないし、バーサーカーは待機なんて殊勝な真似しない。だから、あの森にいたサーヴァントはセイバー」

 付け加えるならば、アーチャーが未召喚というのがあるのだが、それはライダーも理解しているだろう。

 ライダーがふむふむと頷く。

「異論はないよ。だが、気をつけるといい。クラスの型にはまった奴ばっかりがサーヴァントってわけじゃないからな。……さて、これからの方針はどうするよ。当初の予定は既に崩れ去ってるぜ」

 当初の予定。ハンナを昨日の内に救い出し、ライダーの宝具で脱出する。最短距離を行く計画だったが、それを許すほど甘い状況ではなかった。それでも、テオの目的は変わらない。

「もう一度、ロットフェルト城へ行く。環の通行書が無いから昨日以上の強行が必要になる。だから、少し準備が必要だ」

「準備?何が必要なんだ」

 ライダーの疑問にテオは端的に答える。むしろ、これがライダーを召喚する以前から考えられていた予定だ。あの男との。

「他のマスターと協定を結ぶ。特に、ロットフェルト家に恨みを持つマスターと」

 

 テオが勇みルスハイムの街へ出ようとしたのをとどめたのはライダーだった。昨夜のランサーとの戦闘から一夜明けたが、その間テオはライダーの治療に専念し、ほとんど眠っていなかった。

「今、何でもできそうなのはな、ただの徹夜明けの高揚だ。身体は相応に疲れているんだよ。大人しく少し寝な」

 テオは素直にライダーの申し出に応じた。

 そして夕暮れ。テオとライダーはルスハイムの市街に出た。ルスハイムは決して田舎町というわけではないが、冬場の夕暮れともなるとめっきり人が少なくなる。市街と言えど、チェーンのコーヒーショップやハンバーガー店くらいしか開いていない。

 テオが街に出た目的は一つ。ゲルトと連絡を取ることだった。

 ゲルト・エクハルト。テオをこの聖杯戦争へ後押しした男。そして、テオの父であり、この聖杯戦争の発起人であるクサーヴァー・ロットフェルトを恨む者。彼の思惑のすべてを見抜いているわけではない。それでも、現状他のマスターの情報が殆ど無い以上彼が協力者の最有力だ。

「アタシはあんまり賛成できかねるな。素性が怪しすぎる。テオ、これは忠言だ。そいつを頼るくらいなら、まだ安否不明の環を探したほうがいい」

 テオとゲルトの経緯を聞いたライダーが率直な感想を言った。

「言いたいことは解るよ、ライダー。だけど、環を探しに行くのは難しい。ライダーの見込みどおりアーチャーと共に脱出していたとしても、どこにいるか全く不明だ。探し出す当てはあるか?」

 テオの言葉にライダーがむううと黙り込む。

「ダメ元で聞くがな、他の兄弟が助けてくれるとか期待できないのか」

「残念だけど、ロットフェルト家の兄弟仲は最悪だ。なにせ殺し合いに参加してるくらいだからな」

 だよなあ、とぼやくライダー。つまり、テオにとって敵対していないマスターはゲルトと環しかいない。そのなかで生死不明、行方不明の環より表面上は協力できそうなゲルトのほうがまだ期待できると思うのだ。

「……オーケー。アタシも納得したよ。だが気をつけろ」

「ああ、わかっているさ」

 そして夕暮れに差し掛かる頃、テオはルスハイムの市街を抜けて建物の跡地に着いた。テオがルスハイムに入る前、ゲルトと落ち合わせる約束をした場所だ。約束は出際に宿で使い魔を介して行った。後、三十分もすればゲルトも来るはず。

 人気のいない、荒涼とした場所。ここには昔、教会が立っていたらしい。だが、既に建物は崩壊しており、基礎部分が剥き出しになっている。地元の人間は危険なため、あまり近寄りたがらない。

「テオ」

 突如ライダーが実体化し、テオに声を掛ける。彼女の超人的な気配察知能力が何かを掴んだか。ゲルトか。

「ここに来たのは間違いだったかもな。アタシ達、ハメられたぜ」

 そう言ってライダーが戦闘態勢に入る。魔力が集中し、殺気が籠もる。

 ライダーの視線の先、テオは見る。日の沈む方向から堂々とした足並みでこちらへ進むその存在。目視して、その異常さに気が付く。聞くまでもない。あれはサーヴァント。

 ……なんだ、あいつは!

 全身が渦の様な紋様で彩られた大柄な騎士がいた。

 



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20

「よお、アンタはゲルト・エクハルトのサーヴァントかい?」

 異形の騎士を前に、ライダーが聞く。平常と変わらぬ調子に、テオは少しの安堵を覚えた。

 姿を現したサーヴァントは何も答えずにライダーの前に進み、長剣を構えた。ともすれば、斧にも見えるような、無骨で長大な剣。テオが確信する。この存在はセイバーのサーヴァントだ。そして、剣を構えるという行為が意味することは一つ。

「言葉は不要か。いいね。単純一途は悪くない。アタシも不甲斐ない一面を払拭したいと思っていたところだ」

 戦闘が始まると思い、テオはライダーの元を離れようとした。安全圏へ。ライダーの戦いの邪魔にならないように。

「テオ。近くにいろ」

 そのテオの行動を止めたのは、ライダーだった。意図するところは不明だが、テオは従う。

 夕暮れが、夜になりかける。微かな日に照らされていた敵の姿が闇に消えかける。だが、その純然たる脅威を確かにテオは感じてる。ライダーとサーヴァントは向かい合い、動かない。

 そして、日が完全に落ちた。

 騎士がライダーのもとへ飛び込む。戦いが始まった。

 ライダーが自身の宝具の一部である砲台を傍らに出現させる。砲門の数は三。それぞれが向かい来るサーヴァントを打ち砕く。

 テオは先のランサーとの戦いで、ライダーは砲を主として戦う、遠距離専門のサーヴァントだと思っていた。だが、その認識は覆される。

 砲撃の粉塵が晴れぬ中、ライダーが手元の剣を抜き、敵に飛び込んだ。

「うらあああああああああああ!」

 普段のライダーから想像もつかない怒りに満ち満ちた咆哮。そして、激しい剣戟の音が響く。砂塵に包まれているため、テオにはその様子が見えない。

 ……大丈夫か、ライダー。

 セイバー相手に剣で戦いを挑む。言うまでもなく、セイバーとは剣士であり英霊になりうるまでその技量を昇華させた存在だ。剣の戦いでライダーが勝目は薄い。

 砂塵が晴れて、二騎の様子をテオが見る。ライダーが敵のサーヴァントと斬り合っている。決してライダーが押されている訳ではない。

 ……いや。むしろ、攻勢か。

 セイバーは鈍重な動きで剣戟を繰り出す。その勢いは脅威だが、動きが遅い。身の軽いライダーは苦もなくそれを躱し、返す刀でセイバーを斬りつける。

 テオにはライダーが攻勢に見えた。だが、攻撃を加えた彼女の表情は冴えず不可解といった風だ。

 ライダーが蹴りつけ、セイバーの体勢を崩す。そして間合いを開けた。ライダーがテオの側に寄る。三つの砲がセイバーを打つ。砲撃の音が荒廃した広場に木霊した。

 これが止めに見えた。

「テオ。こいつはまずい」

 テオの予想に反し、ライダーの口からは撤退を滲ませるような言葉が放たれた。

 テオがその真意を問おうとする。が、テオが口を開く直前。砲撃の粉塵を打ち破るように、セイバーが突撃してきた。

 ライダーがテオを抱えて後方へ飛ぶ。その動きには一切のダメージが感じられない。対峙したときと変わらない勢いだ。

「こいつ、何度切りつけてもダメージがない!」

 騎士の姿を見る。全身を覆う渦の紋様がうねりあい、セイバーの身体を隠す。そのため、傷の有無を見極めさせない。

 ……マスターが近くにいて、セイバーを回復させている?

 テオがライダーに行っている行為だ。マスターがサーヴァントの傷を魔術で治癒することは考えられる。その場合、傷をつけ続けていれば、いつかセイバーのマスターの魔力が切れて回復が途絶える。

 ……だが、そうではない場合。

 セイバーの回復行為が自身の要因である場合。セイバーの持つスキル、もしくは不死身の身体そのものが宝具という場合、正面からの戦いはこちらが不利だ。

 ……まず、見極める。

 テオは決断すると、蝙蝠の使い魔を放つ。セイバーのマスターが治癒魔術を行っているのならば、マスターは必ずこの近くにいるはず。テオがマスターを見つけ、排除する。

(ライダー。セイバーのマスターは俺が見つける。それまで、粘ってくれ!)

(テオ。そんなまだるっこしいこと、やってられるか!)

 テオの決死の行動を、ライダーが否定した。そして、その真意は続く言葉で明らかになる。

(宝具を使わせろ!アタシの宝具でこいつと、こいつのマスターを分断する!)

 ライダーの宝具。彼女の生前の相棒とも言える船。確かに使えばテオの使い魔を待つよりも圧倒的に手早く分断が叶う。

 宝具を使うことはライダーの真名を晒すこと。テオの躊躇いの原因は、この戦いを見ているであろう他のマスターにライダーの真名を明らかにするリスクだ。真名が明らかになれば、生前の逸話から弱点を晒すことになる。

 ……まだ、この序盤で。いいのか。

「出し惜しむつもりか!テオ・ロットフェルト!てめえの目的を思い出しやがれ!危険を侵さずして叶う願いか!」

 ライダーの怒声が飛んだ。彼女は追い縋る剣士の攻撃を避け続けている。見ると幾つか傷があった。テオの躊躇いの間に、セイバーから与えられていた。

 テオの目的。ハンナの救出。そのためには、何でもしよう。

 そして決心する。ライダーの宝具を使う。

「ライダー、思いっきりやれ!」

「流石だマスター!」

 ライダーが再びセイバーに砲撃を叩き込む。先ほどのように傷を負わせることが目的ではない。彼女の船を呼び出す、その間を稼ぐためだ。

 ライダーの周囲に魔力が集中する。テオの身体からも魔力が吸い取られる。荒廃した空間が歪む。打ち捨てられた土壁が、魔力の奔流で砕かれる。嵐のような乱れがテオを襲う。だが、ライダーへの視線を切らさない。躊躇わず宝具を使わせること。それが今のテオにできる最大の協力だった。

 ライダーが、吠える。

「来い!我が誇りを取り戻すために!英国より授けられし相棒!」

 その声に呼応するように、宝具が姿を現す。テオとライダーを乗せ、地面から巨大な帆船が浮き上がる。巨大な、全体を黒に染めた船。

 ライダーがその船の船首に立つ。遥か下方、地面に立つセイバーと対峙する。

「死の覚悟はいいか?セイバー。生憎とアタシは捕虜は取らないことで有名なんだ」

 巨大な船と対峙したセイバーは剣を横に構える。それはかのサーヴァントにできる精一杯の防御なのだろう。だが、それでは不十分。ここからはじまる蹂躙に対して、ほんの気休めにもならない。

 ライダーが剣を抜き、船に命じる。セイバーにとっての死刑宣告を。

 帆が開く。血のように朱い、復讐の色をした帆が。

「叩き潰せ!『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』!」

 ライダーの船が地を砕きながら進む。剣士に突撃した。

 

 船は剣士を轢き潰すと、そのまま教会跡を削りとり周囲の木々をなぎ倒して停止した。

 ……なんて暴力的な宝具だ

 テオは心の中で呟く。

 ライダーの宝具『\ruby[g]{朱き我が復讐}{マイ・リベンジ}』。彼女が生前に利用した船であり、祖国への復讐のために英国から授けられた船。

 ライダーの真名、ジャンヌ・ド・ベルヴィル。最愛の夫をフランス王フィリップ六世に無実の罪で処刑され、その復讐のために祖国を蹂躙し続けた女傑。

 ……暴力的だとは史実にあったけど、これほどとは。

 テオは船尾に周り、攻撃を受けたセイバーを見る。その有様は無残というほかない。

 身体の防御に使用した剣は砕けきり、支えとした両腕は引き千切られている。セイバーの身体を覆う渦の紋様のせいで視認はできないが、全身に致命傷が与えられているだろう。

「おやおや。分断するだけのつもりが、つい高ぶって殺しちまったよ。悪いな」

 テオの傍らに立つライダーが愉快そうに笑う。

「始めから、こうするつもりだったのか?」

「いいや?このまま引きずって分断するつもりだったさ」

 そういうライダーの手には鎖が握られている。片方の先は船体と繋がっている。つまりライダーはこの鎖をくくりつけて、セイバーを引きずり回すというつもりだった。

 ……宝具が暴力的というより、発想が暴力的。

 テオが改めてセイバーを見るが、その傷が治癒されることはない。つまり、マスターによる治癒魔術が実行されていない。先程までの異常な耐久力はこのサーヴァント自体の性能だった。

「回復しねえな。マスターは逃げちまったのか?この根性有る剣士に比べて情けねえことだ」

 勝利の余韻に浸るライダーが笑みを浮かべて言う。

 油断するな、そう言いかけたがセイバーの様子を見ると杞憂に思える。後はセイバーが消滅するのを見届ければ終わりだろう。

 そうであれば、この巨大な船はいたずらに目立つだけだ。消去をライダーに申し入れようとして、彼女を見る。

 セイバーを見ていたライダーの眼が見開かれていた。慌てて、その視線の先を追う。

 ……馬鹿な。

 

 両腕を引き千切られ、武器を砕かれ、全身を引き裂かれた剣士が、立っていた。

 

 折れ下がった首が安定せず、上を向くようにライダーを見た。渦の紋様は剣士の顔色も覆い隠す。故にその意図はわからない。怒りか、称賛か。

「また会おう。この傷はそこでお返しする」

 無言を貫いていた剣士の声が聞こえた。その言葉は、ただの挨拶。どのような仕組みか。セイバーの折れた首の先から、声が聞こえた。そしてセイバーが消える。それは敗北による消去ではなく。ただの撤退。つまり、かのサーヴァントはまだ戦うことができるということ。

 テオは蹂躙し、圧倒し尽くしたはずの剣士に寒気を感じた。あのような姿になるまで追い詰めても、倒せない。

「ははははは。これは驚いた。あそこまでボロボロにしても生きてる奴は見たこと無い。愉快な奴だ。……いつでも来い。何度でも叩き潰してやる」

 テオとは対照に、ライダーが愉快そうに笑った。その姿に安堵を覚える。この英霊がいれば、きっと倒すことができる。

 



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21

「……なんという」

 カヤ・クーナウは隠れ家たる小屋で独り呟いた。彼女の視界には、使い魔である梟が見ているものが写っている。その梟は今、ルスハイムの郊外に位置する廃墟後にいた。既に日が落ちてから時間が経っており、辺りは暗い。だが、カヤの使い魔はその一部始終を見ていた。

「ほほう。んん。ふむ。これは中々。英霊同士の戦いというのは凄まじいな」

 カヤの傍ら、ソファに座る陰険な雰囲気の男が言う。カヤのサーヴァントであるアサシンだ。今はカヤの魔術によってカヤと同じものを見ている。

「セイバーとライダーの戦いね。見たところ、セイバーが撤退してライダーが勝ったって感じ」

 結果だけを言えばシンプルなものだ。だが、その過程が現実離れしている。

 何度切りつけても、全身を叩き潰されても意に介さない不死に近い堅牢さ。地を割り進む巨大な船。

「冗談じゃないわよ……どうやってあんなのと戦うのよ」

 カヤは頭痛に喘ぐように頭を抱えた。カヤのサーヴァントであるアサシンも彼らと同じく英霊だ。だが、その性能は戦闘という観点で大きく見劣る。理解はしていたが、その圧倒的な差をまざまざと見せつけられた。

「ふむ。収穫はあったな。この位置に使い魔を置いたのは僥倖だ。良い働きだったぞ。マスター」

 カヤの苦労など知ることもなく、アサシンが言う。主従が逆転したような物言いだが、カヤは何も言わなかった。余裕がない。

「で、あんたさ。あいつらに勝てそうなの?」

 代わりに、カヤはアサシンに問うた。

「直接の戦闘でかね?何を愚かな質問をするのだね。無論、不可能だ。勝つどころか、敵とすら認識されないだろう。言っておくがね、私よりそこら辺で餌を探している野良犬の方が余程強いからな」

 アサシンが自慢にもならないことを堂々と言い切る。彼の性能は諜報という一点に特化している。戦闘能力を期待してもいないが、ここまで頼りにならないと悲しくなる。

「悲観するのは止めておきたまえ。状況は変わらない。我々のすべきはこの戦闘で得た情報をまとめ、次に利用することだ」

 アサシンの言葉に、カヤは気持ちを切り替え始める。腹立たしいが、この黒装束の小男のいうことは正論だ。

 先程まで見ていた戦闘を思い出す。まずは登場人物からまとめよう。

「戦闘はセイバーとライダーの二騎。セイバーのマスターは不明。ライダーのマスターはテオ・ロットフェルト」

 テオ・ロットフェルト。魔術師の才がありながらロットフェルト家を飛び出し、聖杯戦争に戻ってきたマスター。やはり参加するか。

「んん。そうだな。これで我々から見て、ロイク、ハンナ、テオという三人がマスターだと判明したわけだ。だが、まだまだ不足だな。カヤを除けば不明なマスターが後三人いるわけだからな」

 戦闘に参加していたセイバーのマスターも不明だ。セイバーは最後にライダーに何か話しているように見えたが、それ以外はほぼ無言であった。セイバーのマスターがロットフェルト家のマスターかどうかも含めて、情報はない。

「セイバー側の情報は外見と性能だな。全身を覆う渦のような紋様。そして馬鹿げた耐久性。斧のような長剣。カヤ、どう思う」

 マスターではなく、サーヴァントそのものの情報。外見的な特徴や性能からその真名を予想する。

「……ごめんなさい。思い浮かばないわ」

「厄介なのはあの渦のような紋様だな。思うに、あれはサーヴァントの能力ではなく、マスターの魔術ではないかと思う。どうだ?」

 カヤは改めてセイバーの風貌を思い出す。全身を覆う渦のような紋様。うねるように動くそれは確かに魔術によるもののような気がする。

「仮に魔術によるものだとしよう。この場合、何が言えるか。んん。わかるかね」

 アサシンは講師のように言う。素直にカヤは考える。何故、自身のサーヴァントの見た目を隠すのか。

「……見た目に特徴があるから?」

「冴えているではないか。私の考えと同じだ」

 珍しくアサシンが褒める。そしてカヤの曖昧な考えを補強するように続ける。

「サーヴァントが何故真名を隠すか。それは言うまでもなく、そこに不都合があるからだ。

 仮に、セイバーがニーベルンゲンの歌に謳われる大英雄ジークフリートだとしよう。かの大英雄は悪竜ファブニールを打倒し、その血を浴びることで不死身の肉体を手に入れた。その折、背中に菩提樹の葉が一枚張り付いていた。そのため、その菩提樹の葉一枚分、かの英雄は不死身とは言えない。ジークフリートが敵として現れたとわかったなら、我々は如何に彼の背中を撃ち抜くかを考えれば良い。不死身の肉体と相対する豪傑も、悪竜を越える怪物も必要など無いのだ。背を射抜く一瞬の隙があればよい。彼の伝承が教えてくれるようにな。……端的に言えば、これが真名が晒されることの危険だ。

 大剣を扱い、そして不死身の肉体を持つ。我々が目撃したセイバーと特徴が一致していなくもない」

「でも、あのセイバーがジークフリートだとは思えないわ」

 カヤがアサシンに言う。

 セイバーの轢き潰された肉体を思い出す。絶命して然るべき傷を負い、それでも平然と立ち上がった剣士。あの醜悪さとジークフリートという大英雄がどうしても結びつかないのだ。

「今のはただの例だとも。んん。私もセイバーがジークフリートとは思わん。

 ジークフリートの不死身の肉体は傷付けることができないという意味での不死身さだ。対して、セイバーは少々趣が違う。如何に傷を負っても、それを無視して活動できる不死身さだ。……得てしてこの手の能力というのは、突くべき点があるはずなのだ。菩提樹の葉の跡ような、ね」

 そうか。セイバーには極端な弱点が存在する。だから、セイバーのマスターは全身を覆うような魔術を施した。外見的な特徴から、致命的な弱点が発露することを恐れて。

「んん。セイバーに関してはマスターの情報を含めて、調査をすべきだ。真名と弱点が顕になるまで、どういった形でも戦闘を避ける。……仮にセイバーのマスターがロットフェルト家以外のものだったら、非常に面倒なことになるのだろう?」

 カヤとアサシンの当面の目標はロットフェルト家以外のマスターの排除だ。セイバーのマスターがロットフェルト家以外のマスターである場合、カヤがセイバーを排除する必要がある。

 ……まあ、無理よね。

 戦闘能力が皆無のアサシンでは余程の弱点がない限り、セイバーに近寄ることすら不可能だろう。

「アサシンでは、弱点がわかっても排除はできないよね」

「言うに及ばず」

「格好をつけるな」

 アサシンではどうあってもセイバーに敵わない。なら、カヤたちの取るべき手段は。

「弱点を暴き出して、他のサーヴァントに潰させる」

「ふむ。そうだろうな。そのためにはいずれかのマスターと手を組む必要がある。……カヤ。ライダーのマスターはどうだろうか」

 ライダーのマスター。テオ・ロットフェルト。一度家を出て、そして戻ってきたマスター。

「私はね、んん。彼の行動が不思議なのだよ。テオ・ロットフェルト。戻ってきたのはよい。勢いで旧態然として家を飛び出し、当主の座をちらつかされて恥知らずにも戻ってきた。カヤの中でのテオという人間像はこんなところだろう」

「そこまで辛辣はことは思ってない。でも、まあ、概ねは当たってる」

「クリストフの言を思い出せ。カヤ、君がクリストフと合った時点でテオはまだルスハイムにいなかった。だが、この国には居たのだろう?チューリッヒの空港からここまでは半日あれば十分着く。だというのに、何故テオはルスハイムにいなかった?彼は一度家を出たとはいえロットフェルトの子ども。いわばこの聖杯戦争の正当な参加者だ。クリストフもそれは認めるところだろう。堂々とこの地に入れば良い。長男アーベルトやエルナの夫のリーヌスのように」

 アサシンの言動にカヤは考える。テオという存在に今までそれほど気にかけてはいなかった。アサシンの言うように、不自然さを感じる。その不自然さを、カヤは自分の言葉で現す。

「……後ろめたい?」

「ふむ。んん。近い。私もそう思う。テオ・ロットフェルトは可能な限り他の家族に自分の参加を気取られたくなかったのだと思う。だから、隠れて行動をしている。では何故家族に自分の行動を知られたくなかった?……現状ではこれ以上のことはわからない。だが、彼には何か事情がある。んん。ふむ。家を出たことと関係があるのかもな」

 テオがもしカヤと同じように、聖杯以外の目的が有るのであれば、彼に利する情報を渡すことで協力関係を結べるかもしれない。特にロットフェルト家とこじれているのであれば、カヤたちは大きなアドバンテージがある。アサシンはロットフェルト家の使用人クリストフの見聞きしたものを盗み見る事ができる。そう思えば、テオ・ロットフェルトとは話をする価値があるように思えた。

 そこではたと思い出す。もう一人、テオのサーヴァントである女性のことだ。

「ライダーのサーヴァント、宝具を使っていたわね」

「ふむ。あの黒い船体に真っ赤な帆。そして貴族的な麗しさを備えた顔立ち。真名は明らかだな」

 そう言って、アサシンがカヤを見る。わかるかね?と問うているのだ。

「……悪かったわね。思い当たらないわよ」

「おやおや、不出来な生徒をいじめてしまったようだ。すまないね、恥をかかせた」

「……本当に性格悪い」

 アサシンがカヤの小言を受け流す。そしてライダーの真名を言う。

「ジャンヌ・ド・ベルヴィル。英仏百年戦争の折に活躍した女海賊だ。フランス人でありながら、夫を無実の罪でフランス王に処刑され、その復讐として海賊となりフランス王に逆らった女性だ。女ではあるが、男に混じって剣を振るい、その残忍さは類を見なかったらしい。

 早い段階で真名を晒したのは彼女の史実を見ても取り立てて弱点がないからだろうな。キャスター辺りが見たらまた違った感想があるのかもしれないが」

「不出来な生徒に教えて欲しいのだけれど、そのジャンヌ・ド・ベルヴィルって他人と手を組むような性格?」

「彼女も戦争の中で生きてきた者だ。情報は欲しかろう」

 アサシンが答えた。どことなく親愛のような雰囲気があったのは気のせいだろうか。

「まさか、貴方、魅了なんてされていないでしょうね」

「それこそまさか、だ。私の言に親しさが籠もっていたのは、どことなく知り合いに似ている気がしたからだ。……それはともかく、どうだろうか。テオ、ライダー組との同盟は?」

 そしてカヤが答える。現状、カヤの知るマスターの中では理性的な気がする。最上の選択ではないかもしれないが、今は迅速に協力体勢を築きたい。

「いいわ。やってみましょう」

 使い魔の眼にはまだ、テオ・ロットフェルトが廃墟にいるのが見えている。カヤは急ぎ、戦場跡に向かった。

 



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22

 祈りは届かないと思っていた。自分は幸運というものから見放された存在だと思っていた。そんな宮葉環の自己認識は存外、そうでもないと改められた。

 崖から飛び降りた車。地面に叩きつけられる直前。祈ることしかできないの環は、青年に助けられたからだ。狩人のような風貌で顔はフード隠されている。それでも、環を抱きかかえる腕からこの青年が善良な存在であるというのが伝わってくるようだった。

 環を助けた青年はアーチャーと名乗った。

 環とアーチャーは暗闇の中、ルスハイムの市街地へ辿り着き、宿に泊まった。

「つ、疲れた」

 環はつい、アーチャーへの疑問や飛び去ったテオ達の疑問も捨て置き、感想を言った。

「ごめんね。もっと早い段階で召喚してくれてれば、こんな危機には巻き込まなかったんだけど」

 青年が心底すまないという風に謝る。謝罪よりも、青年の言葉に気になることがあった。環はおずおずとそれを聞く。

「あの、召喚って。あなたは、その、どういう人なんですか?」

 その環の様子を見て、青年が目に見えて困惑した。

「ああ、そうか。だからあんな状況になっていたんだ。お嬢さんは正規のマスターではないんだね」

 今度は環が青年の言葉に困惑する番だった。正規のマスター。身に覚えがない。

「そうだね。順番に説明していこう。お嬢さん、君は聖杯戦争という魔術師同士の殺し合いに巻き込まれた」

 そこで青年が説明した内容は、疲労に鈍麻しかけた脳に冷水を浴びせかけるようだった。

 七人の魔術師と、七騎の英霊たるサーヴァント。

 万能の願望機たる聖杯。

 マスターの証たる左手の令呪。

 そして何より既に、殺し合いは始まっていること。

「……やっぱり幸運から見放されているじゃないですかあ」

 青年が話を終えると、環はついにベッドに突っ伏して泣き始めた。今までも危険な目にはあったことがある。とある遺跡では魔獣に襲われ、わけのわからない呪いで死にかけたこともある。だが、今回のこれは飛び切りすぎる。

 環は森の様子を思い出す。テオという青年と、ライダーと名乗った女性。きっと彼らが聖杯戦争の正規のマスターだったのだ。

 環は既に身をもって知っている。英霊同士の戦いというのがどのようなスケールで行われているのか。

「でっかい船とか出てきたじゃないですかあ」

 彼らの纏う魔力が尋常ではなく、その戦いも想像を超えている。

「大丈夫。船くらいなら僕が壊せるから!」

 傍らの青年、アーチャーが朗らかに言った。

 環は知っている。如何にアーチャーが戦闘に優れていても、巻き込まれる環はろくな目に合わない。

 環の心情を察したのか、アーチャーが話題を変えた。

「お嬢さん。それでどうするんだい?僕としては聖杯戦争を一緒に戦い抜いて欲しいのだけれど、これは強制できない。……君には強く叶えたい願いってない?聖杯は万能の願望機。望めば何でも叶えるさ」

 この話題がアーチャーの一番気にしている点だろう。アーチャーの話が真実であれば、この聖杯戦争はマスターが主体でありサーヴァント側はあくまで使われる側だ。マスターに戦う気がなければ、サーヴァントが苦戦を強いられるのは想像に難くない。

「ないです。私は、平凡で小じんまりとした多少危険な生活を維持できればそれで……」

 そして環が思い至った。いや、自分の望みは危険な今の生活か。宮葉の家で自分のできることを見出し、それなりに誇りをもって仕事をしているが、危険は望んでいない。

 かといって、環が聖杯に不死身の身体を願ったらどうなるか。きっと環は以前とは異なる存在になるだろう。

(変身願望はないんですよね。私は私のままでいい)

 であれば。自分が変わらず、危険を排除する安全機構。環は目の前に立つ青年を見る。

「私はあなたを望みます。アーチャー、私の稼業を手伝ってください。……このくらいしか望みがないです。聖杯なんて大仰なもの、私はいりません」

 環がはっきりと言い切った。それを聞くアーチャーが困惑したような、戸惑いを見せた。そして言う。

「……愛の告白?」

「違います!」

 思わず冗談めいた雰囲気に飲まれそうになる。アーチャーの持つ空気感はどうも緊張感を失わせるようだ。環がなんとか正気を保っていられるのも彼のおかげだろう。いつもなら現実逃避に折り紙で菖蒲の花でも折り始めるところだ。菖蒲の花は綺麗だ。どんな魔術師の大事に抱える聖遺物よりもずっと美しい。

(でも、あの盃は綺麗だったな。金色で……。あっ)

「ロットフェルトさんへのお届け物!」

 バンの後ろに積んでいた荷物。今日、既に零時を回っているので昨日までに届けなくてはいけなかった。

「アーチャー。荷物とか持ってきてない?」

「……残念だけど、君以外は持って出る余裕がなかったな。君の鞄はいっしょに持ち出したけど」

 環の鞄には護身用のお守りなりが入っているくらいだ。当たり前だが、貴重な聖遺物をこんなところに放り込むわけがない。

 つまり、荷物は依然崖下にある。もしかしたら壊れているかもしれない。

 環が再び頭を抱えてベッドに突っ伏す。

「だ、大丈夫だって。きっとあそこに居た人が届けてくれるって」

「……そんなまさか」

 環は起き上がりアーチャーを見る。アーチャーが苦笑いしている。

 だが、案外あり得るのではないか。そもそもあの森はロットフェルト家の敷地内だ。なぜあそこであれだけの戦闘になったのかはよくわからないが、あんな事故があれば家の人が来るだろう。そうすれば崖下の車から荷物を回収してくれるかもしれない。

(いや、きっとそうだ。そうに違いない。……そういうことにしておくんだ、私)

 あの崖下にまた行くなんて考えたくない。アーチャーがいたとしても、危険は望んでいない。

「取りに行ったとしても、あそこはもういけないだろうね。あの一体は高度な結界で包まれていた。出るには簡単だけど、辿り着けないような類。……そもそもなんだけど、人の敷地であれだけ暴れたら、もう敵視されちゃってると思うよ」

 アーチャーがあの戦場について分析した。言われてみれば当然か。ロットフェルト家の敷地に現れた黒い鎧の男。あれはロットフェルト家の人間だろう。それがあれだけの攻撃を仕掛けてきたのだから、環はロットフェルト家の敵と見なされている。近づくなんてとんでもない話だ。

「……最悪。うちの評判下がっちゃう」

 もともと墓荒らしだなんだと評判は下がりようがないのだが、そこは心情だ。迷惑を被ったのは向こうなのだが、それでも納得できない気持ちがある。

(……嫌われるなら徹底的に、か)

 昔、環の父に言われた言葉だ。魔術師は偏屈で理解できない理屈で動く。そのため、一度敵視されると復権は不可能だ。悪しき場合は宮葉の稼業の邪魔をすることもしばしばある。

 こうなったら、こちらも敵対すればいい。損害がでたまま泣き寝入りなど、商売人の発想ではない。

 そして環は決める。この戦争から離脱することも、積極的に参戦することも望んでは居ない。だが、環の商売を邪魔した分は補填させてもらう。

 環は鞄から一冊の手帳を取り出す。確かあったはずだ。環のこの手帳には呪具祭具の持ち主を独自のルートで調べた結果が乗っている。これだけで、環はかなりの数の魔術師の機密情報を有していることになる。ここ半年前に呪具祭具の競売の落札者名にロットフェルトの名があったはず。環も珍しさで気になっていた品だ。見つける。クサーヴァー・ロットフェルト。確か、ロットフェルト家の当主だ。

「アーチャー。聖杯をとるかどうかはあなた次第にします」

「どういうこと?」

「私は聖杯はいらない。それよりも、クサーヴァー・ロットフェルトの持つ聖遺物が欲しい。これを手に入れたら、聖杯を取るために戦ってもいいです」

 環の言葉を聞いたアーチャーが笑みを浮かべる。先程までの朗らかさとは違う、困難を楽しむ挑戦者の顔。

「僕を試すか。いいとも、いいとも。望む者を手に入れよう」

 そしてアーチャーが手を差し出した。握手。環が握り返す。そして気が付いた。まだ、環はこの青年に名乗っていなかったのだ。

「宮葉環です。よろしく、アーチャー」

「名前が聞けて嬉しいよ、環。僕はアーチャーだ。本当の名前は機会が巡れば教えよう。

 直ぐに望みの物を手に入れて、聖杯戦争へ繰り出すことを約束しよう。我が身は君を守る盾。我が弾丸は君の敵を射つ」

 



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23

 紆余曲折あれどアーチャーと契約をした翌日。環とアーチャーは郵便局に居た。時刻は既に夕暮れ。窓口の女性はいかにも面倒という雰囲気で応対していた。

 昨夜の契約後、アーチャーと今後の方針について相談した。だが、環の知っている情報はテオから簡単に聞いた情報のみだ。そこで、地道な手段に訴えることにした。

『ロットフェルトの屋敷につながる道があるのであれば、聞いてみればいい』

 環の至極単純な方法がうまくいくとは自分でも思っていない。だが、手がかりが何もない以上、やってみるしかない。

 だが、結果は散々であった。そもそも個人情報だから教えられないという職員の言葉に、環は二の句が告げなかった。

 そこで思い出す。確か鞄にはあれがあったはず。緊急時であってもしまいこんだ記憶がある。

(何を探しているの?)

 霊体化したアーチャーが尋ねる。今は環の傍らで見守っているはずだ。彼は環が昨夜寝込んだ後も寝ずの番をしていたようだ。

 状況を思えば、環はこの青年さえ信用するべきではないのかもしれない。だが、どこか人懐っこい彼の表情を見ると、悪人ではないような気がするのだ。

(ロットフェルト家に届け物をするとき、通行手形っていうのが渡されてたみたいなんです。……あった)

 鞄の底から、クリストフの名刺を取り出す。まだ昨夜のように名刺上の文字は矢印を形作っている。指す方角は西。通行手形はまだ生きている。

(環、ついてるね)

(不安がありますが……。行きます)

 そしてアーチャーを伴い、郵便局を出る。比較的人通りのある市街に位置しているが、既に日が暮れかけている。風が強く、寒さが染みる。宿に帰りたい気持ちを押し殺して、西へ歩き出した。

(環は魔術師なの?)

 歩き出して十分ほど経った。霊体化したアーチャーが時間を持て余したのか、環に質問をした。

(私は魔術師ではないです。私の家は魔術師というわけではないですし。ただ、稼業として呪具祭具を作っているので、魔術は知っていますし、使うこともできます)

(魔術を知ってるし、使えるのに、魔術師ではないの?)

 アーチャーの疑問は尤もだ。環が身を置く世界では常識ではあるが、傍から見れば不思議だろう。

(魔術師というのは、そもそも一つの目的を持っているんです。『根源』と呼ばれる全ての原因が詰まった場所への到達です。そのために魔術師は何代も掛けて研究と研鑽を続けます。一方で私達みたいな魔術を使い、関わるけれど『根源』に興味のない者は魔術使いと呼ばれます。……残念ですけど、魔術師からみたら魔術使いというのは癇に障るようです)

 環はそれ以上説明はしない。魔術使いというのは多くの場合、魔術師の世界から落第を押された者たちがやむなく身を置く立場だ。宮葉の家は元から魔術使いで『根源』には興味がないようだが、偏屈な魔術師達はそんな言い訳を聞いてはくれない。

(ふーん。複雑なんだね)

 アーチャーが特段興味があるわけでもないように答えた。

 ……魔術師も、このくらいの無関心さで接して欲しいんですけどね。

(それでも、僕の中に流れてくる魔力は十分な量だ。魔術師が如何ほどすごいのかは知らないけど、環も負ちゃいないさ)

(ありがとうございます。アーチャー)

 気を使わせたかな、と環は思う。それでも環は自分が落第者だと思っている。宮葉の家に適応できず、自分の道を切り開くことも挫折しかけている。

 ……魔術師を落第したら魔術使い。なら、魔術使いを落第したら何になるのでしょうね。

 心の中で自嘲するが、打ち切る。これは独りのときにすればよい。今はやらなくてはならないことがあるのだ。

(当てつけですが、そこそこにやる気が出てきました)

(よくわからないけど、やる気があるのはいいことだ。……ところでそろそろ道が途絶えるのだけれど、まだまっすぐ?)

 アーチャーの言う通り、郵便局から西へ続く道はあと百メートルほどで途切れている。その先は森だ。通行手形を改めて見るが、やはり矢印は西を指し続けている。

 ……前に来たときは車で入れたはずです。

 昨夜はライダーが運転する車がもっと奥まで入っていった。周囲が暗くなりかけているので定かではないが、道を間違えたか。

(通りを間違えたかもしれません。戻って隣の通りに入りましょう)

 そして環が身を翻す。

(環。待った)

 突如、アーチャーが声を掛けた。緊迫さを含むその声につられ、環の身体が強ばる。

(な、なんですか?)

(何かいる)

 環が足を止め、その先を睨みつける。夕闇の市街。周囲には人がおらず、背後には森が広がっている。とはいえ、思えばシチュエーションは最悪。襲われたら逃げ場がない。

(そのまま動かないで)

 アーチャーがそう言うと、環の側を離れた。突如不安が大きくなる。待って。そう言おうとしてうまく念話が送れない。

(大丈夫。あぶり出すから)

 言葉の意図を確かめようとする前に、変化が現れた。環の背後の森から凄まじい速度で何かが通り過ぎた。その先を環は見るが、何も見えない。ただ、音が現れた。動物の悲鳴。暗闇に、動物がいた。だが、このシチュエーションでただの動物が現れるはずがない。つまり。

 ……使い魔!

 正体が定かになると、環の身体に力が戻る。状況は理解した。今、環は魔術師の使い魔による攻撃を仕掛けられている。アーチャーは背後の森で実体化し、その使い魔を排除した。

(まだいる。油断しないで)

 身構えると、暗闇から歩く音が聞こえた。攻撃の張本人が姿を現す。

「私の使い魔が失礼した」

 暗い色のコートを羽織った、長身の男。足元には全身が白い大柄な犬を連れている。表情こそ笑顔だが、環にはどこか薄気味悪さを感じる。自分の底を偽るような、そして、偽っている事自体を隠すつもりがないような。

「ゲルト・エクハルトという。君は聖杯戦争に参加する魔術師だね?」

 現れた男の言葉に、環の思考が硬直する。

 ……やはり、聖杯戦争の参加者。

 そして環を庇うように、アーチャーが森から目の前に飛び出た。

「正気か、侮っているのか。サーヴァントを前にのこのこと姿を現す魔術師がいるとはね」

「いいや。そのどちらでもない。これは悪意のない、シンプルな勧誘だよ。……あと、私のサーヴァントは既にそこにいる」

 ゲルトという魔術師が指差す先、先程アーチャーが居た森の中から少年が歩いてきた。小柄な少年。だが、その存在はどこかこの世のものではないような浮世離れした雰囲気だった。少年はアーチャーと環を通り過ぎ、ゲルトという男の傍らで立ち止まる。

「攻撃が無いのを見ると、話を聞くくらいには心が揺れているのかな」

 ……状況が、わからない。

 聖杯戦争の真っ当な参加者であれば、先程の環は隙だらけに見えたはず。サーヴァントを使って不意打ちをすれば、有利に戦闘が始められたはずだ。なのに、ゲルトという男が行ったのはただ、使い魔をつれて環の前に姿を現しただけだ。

 ……敵意がないのは事実ですか。

 アーチャーの警戒度合いは依然、高い。敵のサーヴァントの正体は不明だが、最悪の場合でも逃げおおせることはできるはず。

 結論が出ると、環は震えを抑えて口を開く。

「本題を言ってください」

「近くで英霊同士の戦いが見れる。間に合わせの参加者である君たちには参考になるはずだ」

 



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24

 カヤ・クーナウがアサシンと共に廃墟跡に到着した。既に日は暮れており、周囲に建物が少ないこの場所では明かりが乏しい。カヤは自身の視力を強化し、日中と変わらない視界を得る。

(テオ・ロットフェルトは既にいないか)

(遅きに失したな。マスター)

 カヤはテオと協力関係を築くために急ぎこの場所へ来た。だが、肝心の彼とライダーが見当たらない。既にこの場を去っていったらしい。

 この場所で戦いがあったことは明白だった。近づくには人よけの結界を抜ける必要があった上、それ以上に揺るぎない証がここにはある。戦いの痕跡だ。

 地面は地割れが起きたかのように裂け目ができ、周囲の木々は薙ぎ倒されている。

(まるで災害の跡というところだな。んん)

(ええ、悪い冗談の様)

 アサシンの言葉に同意を返す。山崩れでも起きたような惨状だった。だが、そうではないのはカヤがよく知っている。先程目で見た光景がそのまま写っているのだ。そして何より、魔力の濃密な残り香がカヤを確信へ誘う。

 ……大規模な儀式でも、こんな魔力は溢れ出ない。

 ライダーの宝具。セイバーを轢き潰した巨大な帆船。それがもたらした結果だ。やはり、ライダーは非常に強力なサーヴァントだ。協力体勢を取れるのであればこれ以上ない収穫なのだが、当人達はやはり去っているようだ。

(貴方、サーヴァントの察知とかできないの?)

(実体化すればそれなりにできるな。んん。良いかね?)

(ええ)

 そして傍らに黒い装束に身を包んだ渋面の男が現れる。アサシンが実体化したのだ。

「カヤ、非常に言いづらいのだが」

 姿を現して早々に、アサシンが口を開いた。

「何者かが近づいてきている。状況から見て、他のマスターだろう。どうするかね」

「早く言いなさいよ!」

 カヤはそう毒づくと、アサシンが言う何者かが近づく方向と逆側、森の中へ退避した。アサシンは気配を察知するために実体化したままで、傍らに待機させる。アサシンの存在は、気配遮断スキルによって攻撃に移らない限り察知されない。

(マスターの情報を集めるわ。可能なら、貴方の宝具も使う)

(心得た。……気配が複数ある)

 アサシンの言葉を裏付けるように、カヤたちが居た場所には幾人かの人間が現れた。

 ……男が一人と……子どもが二人?

 男に手を引かれるようにあるく女の子どもが一人と、その後ろを歩く少年が一人。見ようによっては、父と子どものようにも見える。

 ……人払いの結界は消えていないから偶然ではないわよね。

 ならば考えられるのは、家族連れのマスターか。いや、それもおかしい。疑問に喘ぐカヤにアサシンが考えを言う。

(んん。あの少年はサーヴァントだな。男と女の関係はわからないが、少なくとも人間だ)

 アサシンにサーヴァントと指摘された少年。カヤの目には特別な印象が移らない。

(英霊ってあんな子どもでも召喚されるの?)

(稀有だろうがあり得るな。幼少期がその人物の最盛期ということは考えられる。だが、肉体派ではないだろう)

 ……見た目で判断は危険ってことね。

 アサシンとの相談をしている間も、三人は何か話をしているようだ。カヤの耳はその声を拾うことはできない。

(アサシン。話の内容を拾うことはできない?)

(近づいても気づかれないだろう)

 気配遮断スキルを持つアサシンは、攻撃に転じないかぎりその存在を気取られることはない。三人の立つ場所には隠れる物陰なども殆どないが、それを問題としないのが英霊たる所以だ。

(私が離れても問題ないかね)

(ここに居ても、肉の壁にしかならないわ)

(ふむ。んん。手厳しい)

 カヤの苦言にブツクサと文句を言いながら、アサシンが近づいた。共有された聴覚が三人の会話を盗む。

「そういうわけでね。私のサーヴァントだけでは心もとない。故に君には協力して欲しい」

 男の声が、アサシンの聴覚を通してカヤの鼓膜を揺らす。どうやら手をつないだ少女に向かって話をしているようだ。

 ……協力を求めている?どういう関係だ。

 そして変化が訪れる。四人目の存在が現れたのだ。狩人のような服装の人物。カヤの視点では、それ以上のことはわからないが、突如現れた以上、サーヴァントなのだろう。そこには驚きはない。

 ……人間が二人いるなら、両方がマスターだ。ならサーヴァントが二騎いるのは自然。

 アサシンの耳が新たに出現したサーヴァントの声を捉える。

「お前に悪意がないのはわかった。いい加減に僕のマスターから手を離せ」

 フードのサーヴァントが男に非難を行う。

 ……彼のマスターが少女。手を繋いでいるのは、何かの魔術か。

「ああ、そうか。人寄せの結界は過ぎたから、もう手をつなぐ必要はないね」

 男が少女の手を解放する。それを待っていたかのように少女が男から離れ、フードをかぶったサーヴァントの後ろに立つ。先程と違い、長身の男と少女が対立しているような構図だ。

「……人寄せの結界くらい自分で抜けれました。余計なお世話です」

「それは失礼。だけれど、こうした方が楽だったのでね」

 男が少女の言葉に苦笑する。

「それで、どうだろうか?先のライダーとセイバーの戦闘を見れば、この戦いが如何に困難を極めるか想像が着くだろう。オリジナルである極東の儀式でも、聖杯を手に入れたものはいないという苛烈さ。勝ち上がるには信頼できるパートナーが必要だと思わないか」

「苛烈さは知っています。身を持って味わったばかりなので。……けれど、パートナーは入りません。特に、ゲルト・エクハルト。あなたは信頼できません」

 ゲルト・エクハルトと呼ばれた男は大仰に肩をすくめた。

「なんということだ。君の背中を狙うこともせず、可能な限り紳士的に交渉し、あまつさえ敵となる他のサーヴァントの戦闘を見せるほどの気遣いをしたというのに。ミス宮葉。私はあと何を提供すれば信じてもらえるのかな?」

 ゲルトが乞うような言葉を放つ。

 ……交渉が決裂しかけている。

 そうなった場合、発生するのは戦闘だ。お互い協調できないのであれば、それは敵対関係であるということ。マスターが見えているこの場で始末すると考えるのは当然の成り行きだ。

 カヤの目には二騎のサーヴァントが映る。宮葉と呼ばれた少女を守るように立つ狩人風の青年。対象的にゲルトの後ろで退屈そうに待つ少年。

 マスターであるカヤはサーヴァントを見ることで、おおよそのステータスを知ることができる。そこから察せられる結論として、狩人風の風体の青年はアーチャー。そして少年はキャスターではないかと思う。

(…だと、思うのだけれど)

(私にはその情報は見えない。だが、このまま戦いにもつれ込むとすると、あの狩人の方が有利であるということか)

 通常のアーチャークラスであれば対魔力と呼ばれる魔術の影響を無効化するスキルを持つ。度合いこそ優劣があるが、キャスタークラスが魔術を主体として戦うサーヴァントであるため、一般にアーチャーが有利であると言える。

 ……だけど。

 だが、これは双方のキャスターのマスターも知り得ることだ。それでもあえてこの状況にもつれ込んでいるだとすれば、キャスター側に何かしら策があるのかも知れない。

(どうする、マスター。悪いが私には戦況を変える力はない。であれば、するべきことは一つだと思うが)

 アサシンがカヤに問う。この場でアサシンがどちらに加勢したとしても、有効な戦力にはならない。むしろ、アサシンの非力さをこの場で露呈させるほうが恐ろしい。

 故に、アサシンが環に求めることは一つ。宝具の使用許可。対象を監視下に置くアサシンの宝具はマスターに使うことが理想的だ。マスターが二人も姿を現すチャンスはそう何度も無いだろう。

 そして、アサシンへ許可を出そうとしてカヤは思い至る。

 ……なぜ、この場に二人は姿を現した?

 ここは先程までセイバーとライダーが争っていた戦場だ。人払いがあるとはいえ、宝具まで開帳するような戦いだった。多くのマスターも気が付いただろう。カヤも予めこの廃墟に目をつけていたとはいえ、同じようなものだ。

 つまり、この場は今、聖杯戦争で一番注目を集める場所。そこに姿を現すということは。

 ……他のマスターが来る!

(アサシン!直ぐに宝具を使って!撤退する!)

 アサシンに急ぎ念話を送る。返答を待たず、アサシンが行動を始めた。

 ……早くしなければ!

 好戦的な陣営であれば、敵が見つかれば直ぐに襲いかかるだろう。特に今は交渉が決裂しかけている。両陣営の戦いの最中に隙を突けば、同時に二騎を葬るチャンスだ。

 ……巻き込まれる!

 そしてカヤの不安は的中する。アーチャーとゲルトの間。両陣営のちょうど中央に新たな存在が姿を現した。

 修道服に身を包み、恩讐じみた魔力を伴う少女だ。

 



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25

 夕闇に落ちきった廃墟跡。戦闘の匂いを感じながら、環は目の前の男、ゲルト・エクハルトを睨む。彼の誘いを断った以上、ここから頼りになるのはアーチャーのみだ。

(戦うってことでいいの?)

 アーチャーは環以上にこの場の空気を感じ取っているのだろう。環に確認の念話を送ってきた。

 ゲルトの申し出を拒否した理由は自分でも説明がつかない。言葉や雰囲気の怪しさも当然にある。ただそれ以上に環の心の奥がざわつくような不安が宿ったのだ。

 ……これは、いつものやつ。

 このざわつきを環はよく知っている。価値有る呪具を見つけたときだ。そして、危険や罠を察知したときにも宿る。

 環はこのざわつきを冷静に分析していた。

 ……きっと、災いを感知している。

 宮葉の魔術にそのようなものはない。だから、環だけの特別な感覚だ。だが、この感覚がものに対して宿るときは必ずそれは特別だった。そして場所に宿るときは大抵、危険が潜んだ。

 ……人に宿るということは。

 近づいてはいけない。ゲルトの言葉よりも何よりも、環は自分をここまで生かしてきた直感を信じた。

(……戦います)

 言葉にすると、足が震えた。身体の芯が薄くなるように心細さが襲う。逃げたい。すぐに後悔が頭を過る。

 ……だけど。

 意地で前を向いた。アーチャーが少し振り返り、笑みを見せる。表情だけで勇気づけてくれた。

 それを合図にして、戦いを始めようとする。数少ない有用な礼装を取り出そうとしたとき、変化は予想外の形で起きた。

 アーチャーとゲルトの間、修道服の女がいた。

 ……なに。あれ。

 環の思考が硬直する。修道服の女が纏う雰囲気は尋常ではない。環が今まで見たどの呪具よりも濃密で耐え難い魔力を持っている。

「環!」

 途端、アーチャーが環を抱えて廃墟を囲む森まで後退した。逃げではなく、ただ突如現れた存在を警戒しただけのこと。それでも、いくらか環の思考は冷静さを取り戻した。

 ……あれは、サーヴァント!

 環の眼が修道服の女を見据える。その眼には確かにサーヴァントの情報が映る。つまり、修道服の女はサーヴァントである。そしてその基礎値を図る。

 ……強力ではない、けれど。

 筋力、魔力等はアーチャーが勝っている。だが、この近づきがたいような雰囲気は理解できない。

 修道服のサーヴァントは何をするでもなく、現れた場所で何もせず俯いている。英霊と言うよりも怨霊や悪霊のような存在を想起させる。

「どうする、マスター」

 アーチャーが問う。先程までの敵はゲルトであったが彼らはいち早く身を隠したらしい。既に状況は修道服のサーヴァントを如何にするかとなっている。

「戦います。マスターが出てこない以上、彼女は敵です」

 その言葉を聞くと、アーチャーは環を連れて森へ入る。そして地面に簡単な陣を書く。

「環。ここから出ないで。これは僕の幻術。他の人には何もないように見えるから。ここにいれば安全だ」

 環がその陣に入り、アーチャーに頷いた。アーチャーがフードを目深に被り直し、武装たる猟銃を握る。その眼に彼の持つ優しさが消えた。

 アーチャーが環の元を離れたのち、夕闇に立つ修道服のサーヴァントに変化が起きた。

 魔力の籠もった弾丸が、修道服を射抜いた。森に潜むアーチャーが狙撃したのだ。

 アーチャーの狙撃は加減されたものではない。それこそ必殺とも言える威力だ。だが、修道服のサーヴァントは貫かれたにもかかわらず、微動だにせず立ったままだ。依然、環は彼女の纏う魔力に不安を感じ続けている。

 ……効いていないのですか。

 先の戦いで、不死身じみたサーヴァントを見た。まさかこのサーヴァントも同様の能力を有しているのか。

(大丈夫。次で倒すから)

 アーチャーからの念話が送られる。環の不安を察してくれたのだろう。

 だが、その後に行われた行動は優しさとはかけ離れた行為だ。尋常ではない魔力の弾丸が、雨のように連発された。

 弾丸が地をを穿ち、廃墟を砕く。弾丸が地を打つ音が響き、思わず環は耳を塞いだ。周囲には土埃が舞い、環の視界が修道服を見失った。

 ……すごい。

 あまりにも安直な感想を抱く。先の弾丸はただの様子見。環には一撃で必殺とするようにさえ見えた弾丸はアーチャーにとってはただの一発でしかない。いま放たれた幾百の弾丸はそれを越える。その一発一発が現代の魔術師では成しえない奇跡の産物に見える。アーチャーは修道服を囲む森を駆け巡り、あらゆる角度から弾丸を浴びせている。

 弾丸の音が途絶えた。夜の風が一陣、砂埃を消し去る。アーチャーのもたらした破壊の跡が露となる。辛うじて保っていた廃墟の痕跡も砕かれ切っており、地面にはクレーターじみた穴が生まれていた。

 だが環は見つける。砕かれていなければならない存在がまだ健在でることを。

 そこには、傷一つない修道服が立っていた。

 ……冗談でしょう。

 環が修道服の女の周囲を注視する。アーチャーの弾丸は修道服の女の周りに集中しているのを見つけた。

(ダメだね、これは)

 アーチャーが軽い雰囲気で念話を送る。

(どういうことです?このサーヴァントも不死身なのですか?)

 環は焦るように疑問をぶつけた。

(いや、違うよ。僕の弾丸がすべて避けられているのさ。…いや、正確でないな。弾丸の弾道が彼女に当たる直前に歪んだのさ)

 ……常識外すぎです。

 環には修道服の女が何かしら魔術を実施した気配を察していない。自信を持って何もしていないと言える。だが、事実として彼女が行ったのは明らかに魔術による行動だ。そうでなくては説明がつかない。

(さて、どうしようかな。魔術で弾丸を避けているのなら、魔力切れを狙ってみようか。時間がかかるけれど、我慢をしてね。マスター)

 アーチャーの戦闘方針に環は口を出さない。我慢も構うことはない。環の不安は別にある。

 ……魔力切れなんてあるのでしょうか。

 環には修道服の存在が魔術を使っているようには思えないのだ。ただ、そこにいるだけで方向を歪めてしまうような、そんな気がするのだ。

 ……アーチャーに伝えるべきですか。ですが。

 確信があるのではない。ただ、そんな気がする。それだけなのだ。

 迷う環の耳が、不自然な音を拾った。

 ……これは、なんでしょう。

 耳を澄ます。そしてそれが調子を持って奏でられているのだと気が付く。つまり。

 ……歌?

 女の声で紡がれる歌。場違いなそれがこの場に響いていたのだ。途切れ途切れの小さい音だが確かにある。どこか悲しい旋律を環は知らない。

 そしてその歌は環の不安を一層に掻き立てた。音の源を探し、周囲を見渡す。そして、直ぐに見つかった。修道服の女が、口ずさんでいるのだ。

 だが、直ぐに音はかき消える。アーチャーによる再度の爆撃じみた射撃。破壊の轟音が小さな歌声を塗り潰す。再び、砂塵が舞い上がる。

 異変は環の直ぐ側まで近づいてから現れ始めた。環の結界のすぐ脇、小高い木の幹が破裂したのだ。突然の異音に環が小さく悲鳴を上げる。

 ……アーチャーの弾丸?

 環は冷静に原因を考える。現状、アーチャーの弾丸が幹に当たり破裂を招いたとしか思えなかった。だが、弓兵の英霊たる彼が、誤って環の近くにまで弾丸を打ち込むだろうか。

 ……ありえない。であるとすれば。

 環は砂塵の先にいるであろう修道服のサーヴァントを思う。あれが原因だ。

 アーチャーは先程、弾丸の軌道が逸らされていると言った。それは所詮、修道服の眼の前で身体を避ける程度のものを意味していた。

 ……違う。これはもっと大きい。いや、大きくなっている!

 環の確信は、修道服のサーヴァントのいる方向から知らされる。先程とは規模の違う弾丸の雨が環の周囲に浴びせられた。環を守る巨木が軋みの音を鳴らす。

 ……まずいです。

 環は急ぎ鞄から呪具を出す。掌に乗るほどの四角い紙に魔力を込めて丸め、なるべく遠くに放り投げた。瞬間、巨木を鳴らす音が収まる。環を狙う弾丸は宙を舞う紙へと標準を変えた。

 環の持つ数少ない役に立つ礼装の一つ。呪い寄せのアミュレット。アミュレットは効果がなくなるまで弾丸を集め続ける。

(アーチャー、ストップ!)

 環の声に応じるように、弾丸の音が止む。

(弾が逸らされて、私の周りを攻撃してます!)

 環の元へアーチャーが現れた。

「すまない、環!怪我はない?」

「ええ、大丈夫です」

 心底恐ろしい思いをしたが、環はそのことを伏せた。それは後でいい。それよりも重要な問題がある。

 アーチャーは既に環ではなく、別の存在に注視をしている。修道服のサーヴァントだ。

「彼女、バーサーカーだ」

 バーサーカー、狂戦士のクラス。敵味方見境なく攻撃を行う狂った英霊。だが。

「バーサーカーってもっとこう、筋骨隆々な戦士なんじゃ」

「普通はね。でも、彼女にとって暴力はこういうことなんじゃない?」

 アーチャーが軽く答えた。環が詳細を聞き出そうとしたが、それどころではないことを察した。

 歌が、また聞こえたのだ。

「これが僕の弾を狂わせてる原因だな」

 既に砂塵は晴れ、相変わらずバーサーカーは登場した場所から動いていない。

 バーサーカーの歌声の詳細はわからない。ただ、アーチャーとの相性は壊滅的に悪いというのだけはわかった。

「アーチャー、手立てはありませんか」

「直接ナイフで刺してみる」

「……止めておいたほうがいいです。あの手の呪いは見え透いた手に一番大きな罠を仕掛けていることが多いです」

 そうか、とアーチャーが納得したような声を出す。言葉とは裏腹に、あまり腑に落ちていないような顔つきだ。

「後は、宝具を使えば倒せる。だが、今はおすすめできないな。この森は覗き魔が多すぎる。……環、やっぱりこれを試させてくれ」

 アーチャーが腰のベルトからナイフを取り出す。そして環の返事を聞かず、バーサーカーに向かおうとする。

 その瞬間、不吉が環を駆け抜けた。何故か環にはアーチャーの行為が、この上なく危険なものに見えたのだ。

 ……待って。待って!

 立ち行くアーチャーについ言葉が出ず、手を伸ばす。

 だが、届かない。アーチャーの背が遠のく。

 違和感が伸ばした腕を襲った。

 眼を凝らす。

 蛇だ。

 魔術によって身体の透けた蛇が、環の腕に噛み付いていた。

 ……なんで。

 気が付く。環の腕はアーチャーの陣から外に出ている。

 ……油断しました。

 環は見た。自分の腕が、傷口から灰となる瞬間を。

 



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26

 カヤ・クーナウは廃墟の周囲を取り囲む森の奥地へ逃げ込んでいた。枯れ草を踏みつける音は遠くの銃撃の音にかき消える。だが、しばらくすると銃声は止まった。それでもカヤは足を止めず、戦場から離脱を図る。傍らにアサシンはいない。

 修道服のサーヴァントが現れた後、ゲルトが直ぐに撤退し、アーチャーがマスター共々森へ隠れた。戦闘が発生しないと踏んでいたのだが、読みを誤った。

 何か情報を得られないかとしているうちに銃声が聞こえ、しばらくすると弾丸が森を無差別に抉り始めたのだ。

 ……めちゃくちゃじゃない!あのアーチャー!

 そうして森の奥地、つまり戦場から遠ざかっているとアサシンが合流した。

「アーチャー陣営は苦労してるみたいだな」

「見たように言うじゃない」

 この戦場において、おそらく一番戦力にならないサーヴァントがこのアサシンだろう。それでも彼が持つ奇跡は他とは一線を画する。

「ふむ。んん。見ているとも」

 アサシンがカヤの言葉の真意を汲み、端的に答えた。

 ……アサシンはアーチャーのマスターに宝具を使った。

 修道服のサーヴァントが現れる直前、アサシンはキャスターのマスターとアーチャーのマスターのいずれかに宝具を使おうとしていた。

 対象の見聞きしたものを認識できる奇跡。彼の偉業の再現。そしてそれはロットフェルト家の使用人クリストフに続き二人目を絡め取った。

「残念ながら、キャスターの方は間に合わなかったがね。んん。色々わかったぞ、カヤ」

 森の奥地へ並走しながらアサシンが言う。

「まず、修道服のサーヴァントはバーサーカーだ。これはアーチャーの見解だ。そしてバーサーカーの能力は自分へ打ち込まれた弾丸を逸らすということだ」

「……なにそれ。アーチャーとの相性は最悪じゃない」

「んん。まったくもって。どう見る?マスター」

 アサシンの報告は現象をまとめているだろう。だが、多分違う。

「弾丸を避けるだけが能ってわけじゃないでしょう。それなら近接系のサーヴァントの手にかかれば直ぐに倒せる」

「ふむ。アーチャーもそれを考えているらしいな。だが、慎重なマスターが嗜めている。近づかせることが、本当の目的だと。んん。同意見だ。でなければ棒立ちにさせる意味がない」

 アサシンはリアルタイムでアーチャーとそのマスターの会話を盗み聞く。

「あとはアーチャーの宝具か。……んん。博打だな。宝具の詳細がわからないと如何とも言い難いが、バーサーカーが弾丸を操る能力だとすると非常にまずいな。強力な一撃がバーサーカーの手中に渡ると厄介極まりない。ふむ。おや」

 カヤへの報告というよりも、もはや独り言じみた風にアサシンが言う。

「アーチャー陣営はどうするって?」

「いや、どうも緊急事態のようだ。マスターが何か使い魔に襲われたな。んん。蛇か。キャスターの使い魔だろう。今は我々と同じ方向に駆けている。……撤退だろうな」

 妥当な戦略だろう。アーチャーにとって相性が悪いことははっきりわかった。一方で、セイバーやランサーと言った近接系のサーヴァントの手にかかれば、あのバーサーカーは容易く破れるかもしれない。

 ……これはあくまで戦争。自分で全員を倒す必要はない。

 無理をして倒したところで、この森に潜む他のサーヴァントに弱ったところを突かれるだけだ。

「それと、アーチャーのマスターの様子は?」

「今はアーチャーに担がれているな。だが、傷口が灰になっているようだ。んん。珍しい」

 ……どういう病状だ。呪いか?

 カヤは思いを巡らすが、妥当なものは浮かばなかった。アサシンの言うように、キャスターの使い魔だろう。そして目下の脅威に話題を移す。

「バーサーカーは追ってきている?」

「わからないが、アーチャーは背後に気を払っている風ではないな」

 追ってきていないとすると、バーサーカーには近接して攻撃する手段がないと思われる。これだけでもバーサーカーに対しての収穫としては十分だろう。

 何よりアーチャーのマスターを監視下に置けたのは大きい。

 ……もっとも有用になるのは彼女が生きていれば、だけれど。

 カヤは安堵した。一瞬、自分が戦場にいることを忘れて。

(マスター、気をつけろ)

 思い出させるのは、霊体化したアサシンの言葉だ。

(前方に、敵がいる)

 闇に覆われた森。忘れていたもう一人の脅威。

「やあ、お嬢さん」

 森に融けるような昏い色のコートの男。傍らには大型の白い狗の使い魔と少年のサーヴァント。ゲルト・エクハルトがそこにいた。

 

「静かな、良い夜だね」

 男が既に臨戦態勢であるのをカヤは察知していた。こちらも戦わなくてはいけない。だが、アサシンは戦闘では使い物にならない。

 ……どうする。

 ポケットの中にはカヤの礼装がある。握り込んではいるが、時間稼ぎにもならないだろう。それよりも、大きな疑問がカヤの頭を占めていた。

 ……何故、私の位置がこの男に知られている。

「知っての通り、私は聖杯戦争のマスターの一人だ。ゲルト・エクハルトという。……君のことは知っている。同じくマスターであるカヤ・クーナウだろう?」

 ゲルトの言葉に動揺が隠せない。

 ……何故知られている。いや、今は動揺を隠す。

「ええ、よろしく。キャスターのマスターさん。私は夜の散歩をしているのだけど、一体、何のようかしら」

 ……余裕を取り繕え。お前の行動など手の内、今はピンチでも何でもない。そう思わせろ。

 カヤの本心を知らずか、ゲルトが言葉を続ける。

「知っているのであれば話が早い。いや、なに。私の呼び出したサーヴァントはキャスター、それも子どもでね。彼を戦場に追いやることが忍びないが、聖杯を諦めることもできない。……窮していてね。他のマスターと協調できないかと思っているんだ」

 カヤはゲルトとアーチャー陣営の会話を思い出す。

 ……断られて節操なくこっちに来たわけ。

 合点がいくと分かりやすい。しかし、バーサーカーが乱入するまでは戦闘開始の直前だった。つまり、断れば敵ということだ。

 ……一時的にでも、協調しておくべきか。

 だが、続く言葉がカヤを更に動揺させる。

「君のサーヴァント。バーサーカーかな。すばらしい性能だ。アーチャーは驚いて攻撃に転じたようだが、君の本意は別にあるのだろう。双方の矛を収めさせ、三騎による同盟の確立を行う。そうだろう?」

 ゲルトが当然のように言う。

 ……こいつ、私のことをバーサーカーのマスターだと思っている?

(なるほど。んん。理解した。この場でマスターでありながら、サーヴァントを実体化していないということ。これだけで、自分のサーヴァントが今近くに居ないと見えるわけだ。そうすれば、自然とバーサーカーのマスターと勘違いする。ふむ)

 カヤは予め戦闘の折にはアサシンには霊体化するように命じている。それはマスターがアサシンのステータスを見た場合、それだけでアサシンの戦闘力のなさが露呈するからだ。

 ゲルトの誤認識はそれが思わぬ形で実を結んだと言える。通常のサーヴァントを持つマスターであれば、敵対サーヴァントが目の前にいる時点で自分のサーヴァントを実体化させる。サーヴァントに対抗し得るのはサーヴァントのみ。全員が理解しているためだ。

「君が私とアーチャーに敵意がないのはわかっている。だからこそ、バーサーカーをあの場所から動かさないのだろう?頭に血の登ったアーチャーが冷静になるために登場させた、違うかな」

 ……ああ、なるほど。そう捉える。

 事実を知っているカヤからすればとんでもない理屈なのだが、ゲルトの言葉には彼の確信が込められていた。であれば、カヤはそれを利用して生き延びる。

「ええ、そうね。生ぬるい攻撃ならバーサーカーに殺させようと思ったけど、あのアーチャーなかなか悪くないわ。同盟してあげてもいいかなって」

 カヤは偽る。この場はバーサーカーのマスターとして同盟を取り付け、脱出する。

(カヤ。虚言に忙しいところ失礼。アーチャー陣営がこちらへ向かっている)

 カヤは驚きを噛み殺し、表情を変えない。アーチャーが向かっているということは、いまいままで対立していたサーヴァントが向かい合うということ。戦闘の危険が高まる。

「意見が一致して嬉しいよ、カヤ」

 ゲルトが大げさに両手を挙げて喜びを表す。同盟を直ぐに結び、この場を離脱する。アーチャー陣営の説得は後日行うことにして、この場は逃げる。

「でも、私はアーチャーと敵対しちゃったのでね。今日は交渉する日とは言い難いわ」

 カヤの言葉にゲルトが一考する様な仕草を見せる。

「なるほど。そう捉えることもできるな。敵の状況を考えれば一刻の猶予もないが、仕損じることは何より避けるべき自体だ」

 ゲルトの言葉に違和感を感じる。敵。カヤは率直に疑問を呈した。

「あなたの指す敵って誰かしら。私達は最後は戦い合うのが宿命だけど、当面の敵は知っておきたいわ」

 ゲルトがあっさりと答える。

「敵は、ロットフェルトのマスター全員だ」

 カヤの心臓が一際高く鳴る。これはいけない。これは受けてはいけない罠だ。

 カヤの心臓はロットフェルト家の当主の魔術で動いている。そのため、ロットフェルト家に以外のマスターを排除するために参加を余儀なくされた。

「ああ、安心するといい。今はキャスターが結界を張っている。外からはこちらは見えないし、音も聞こえない。もちろん、出ることは簡単だとも」

 カヤの思案する様をゲルトが見抜き、言った。見当違いであるが、カヤはその言葉を受け取り、足元に境界線が有ることを確認する。心では別のことを考えている。

 ……仮に、反ロットフェルト家の協力をすれば。

 それがクリストフ、あるいは当主クサーヴァー・ロットフェルトの耳に入ればその時点でカヤの命が失われるだろう。それは同時に、ロットフェルト家とクーナウ家の戦いの発端となる。クーナウの家が滅びるのは明らかだ。

 ……しくじっちゃった。どうする。

 仮に同盟を受けても、戦争中にカヤを殺すことはないか。クリストフに予め裏切り前提だと伝えればよい?いや、それほど甘い連中か。聖杯の魅力に狂ったと思われるだけだ。

 ならば、今ここでゲルトと戦うか。いや、アサシンは戦闘力がない。この場でゲルトが身をさらけ出しているのは、仮に戦闘になったとしても、サーヴァントがマスターの身を守り切れるという自信があるためだ。アーチャーと決裂した場合でも逃げ切れる、ともすれば倒すだけの戦闘能力が見込まれる。

 ……だめだ、戦えない。

 カヤが心の中で毒づく。

(マスター。時間切れだ)

 アサシンが小さく言う。そして実体化したアサシンがカヤの腕を引っ張り、暗闇に倒れ込ませた。その行動の意味を遅れてカヤが理解する。

 ……そうか、ここは。

「アーチャー!キャスターはここだ!」

 ……結界の外!

 アサシンが叫ぶ。

 意図を察したゲルトが、使い魔を放つ。白い狗が牙を向き、カヤに飛ぶ。

 刹那。弾丸が使い魔を撃ち抜いた。

 狗の情けない悲鳴が響く。

 そして遅れるように、雨のような弾丸がゲルトとキャスターに降り注ぐ。

 



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27

 環は自分が見かけと言動にそぐわない、大胆な性格だと自認している。だからこそ、一人きりでいままで遺跡や魔術師の工房を漁ることができたし、家業に背を向けても辛うじて生きてこられたのだと思う。

 しかし、あまりの現実離れした光景に浮足立ってしまった。

 蛇に襲われた後、アーチャーは直ぐに攻撃をやめて環の元へ戻った。環の腕を噛む蛇は直ぐにアーチャーが排除したが、傷を治す手段はなかった。

 傷口を見ればわかる。環の腕はそこを基点に徐々に灰になっているのだ。今は指の先ほどの大きさが灰に変わり、さらさらと地面に落ちている。痛みは薄いものの、自分の身体が灰に変わっていくという恐怖が襲う。だが、環は努めて冷静に考えを巡らせた。

 ……こんなの、普通の魔術師の技じゃないですね。

 サーヴァントの仕業。考えられるのは、ゲルトのサーヴァント、キャスター。

「すまない。すまない、環!僕が側にいればよかった。……すぐにキャスターを倒す」

 環の返事を聞かず、アーチャーが環を抱きかかえてゲルトを追った。俊敏な移動で恐ろしさを覚えるが、蛇の毒で心も麻痺しているらしい。直ぐに慣れた。

「こちらから声が聞こえた。もうすぐだ」

 アーチャーが励ますように言う。その声に答えようとするが、うまく言葉が出なかった。その様子を察してか、アーチャーがより悲愴な表情を浮かべる。

 そして、環の耳にも聞こえるようなはっきりとした声が木霊した。

「アーチャー!キャスターはここだ!」

 聞き覚えのない、男の声。

 アーチャーの行動は早かった。立ち止まり、環を抱えたまま、片腕で猟銃を構える。声の方向に定める。

 無論、夜の帳が降りた森の中だ。常人の眼には何も見えず、魔術によって強化した環の眼にも木々が防壁のように立ち塞がっている。キャスターはおろか、声の主の姿すら捉えられない。

 だが、アーチャーが引き金を引いた。

 打ち出された弾丸は木々の隙間を縫い、何かに当たる。

 ……動物の声?

 アーチャーがその声を聞き、小さく溢す。

「よし、捉えた」

 そして環を下ろす。後は、途切れることのない銃声が響いた。

「アーチャー、キャスターはどうなりました?」

「弾は当たったようだけど、まだ生きている。……環、傷は?」

 環は自分の傷口を見る。

 ……灰が、収まっている?

「少し、収まっているようです」

「キャスターが呪いに回す魔力を打ち切ったのだろうね。それとも退去したか」

 アーチャーの疑問に答える術は環にはない。だが、今は呪いの危機から脱したことの安堵感が勝った。

「アーチャー、ありがとう。あなたのおかげで助かりました。……あと、足を引っ張って申し訳ありません。つい、陣から腕を出してしまって」

「いや、僕がもっと注意を払っておけばよかった。あいつが敵対するのがわかっているなら、環を安全圏に置いてから戦うべきだった」

 お互いが謝罪をすると、不思議と心に落ち着いた。

「あとは、ここから離脱しましょう。今後はこれから」

 

「これからでは困るのよね。今から考えてもらわないと」

 

 環の言葉を遮って、人物が現れた。女性。環には見覚えはない。金の髪が闇に光る。

 ……また、マスターですか。

 だが、心の中には驚きよりも呆れが宿る。本当にこの聖杯戦争の参加者は抜目がない。

 アーチャーが女と環の間に立つ。傍から見ていても伝わる殺意。先の会話からアーチャーの決意がより強固になったようだ。

「息巻いているところ悪いけれどね、貴方達と交渉に来たのよ」

 息巻くアーチャーを笑うように女は言った。そしてアーチャーの影に隠れる環を見る。

「アーチャーのマスター。どう?傷は治ったかしら?」

 ……何故。何故この人が知ってる?

 女性は何でもないように言う。警戒のレベルはゲルトのときとは比べ物にならない。知られている。それも、この森の戦いの一幕を。

 アーチャーも同じ考えに至ったようだ。猟銃を女に構える。

「だから、君の言葉は勘違いを招きやすいのだ。んん。情報を開示するのであれば、少し手前から話し給え」

 そしてどこからともなく、男の声がした。その声の方にアーチャーが猟銃を構えるが、直ぐに思いとどまる。

「その声、キャスターの位置を知らせた者か」

 そして男が姿を表す。女の後ろからゆったりと、歩くように。全身を真っ黒な外套で包んだ、背の小さい男。ゲルトは周囲に融けるよな印象だが、この男は逆。あまりの黒に、この森の闇でもそれが浮き上がって見える。相手にそれを印象づけるかのように。

「君の悪い癖だ。自分の知りたいことを優先する」

「悪かったわね。説教は後でいい?」

 女性と黒い男。環は確信する。マスターとサーヴァントだ。

「はじめまして。私はカヤ・クーナウ。アサシンのマスター。……貴方はアーチャーのマスター、宮葉環ね」

 そして、カヤ・クーナウが笑みを見せる。

「良ければ、協力関係を築けないかしら。私達、いい関係を作れると思う」

 

「キャスターとマスターのゲルトは貴方の弾丸を浴びて、撤退した。んん。ただ、あの様子ではまだキャスターは健在だろうな。呪いが止まったのはキャスターと距離が離れたことが原因か。もしくは、治癒に集中するために魔力を節約したのだろうな」

 カヤの言葉を引き継ぐようにアサシンである男が言う。

「それを僕たちに伝える理由はなんだ」

「だから言ってるでしょう?手を組みたいから、役立つ情報を教えているのよ」

 アーチャーの言葉にカヤが当たり前のように答える。

「他にもマスターの情報もある程度わかっている。……ミス宮葉。貴方は間に合わせで巻き込まれたマスターでしょう?そもそもこの聖杯戦争の経緯もわかっているのかしら」

 カヤの言葉は環の急所を突いている。確かに環には情報がない。他のマスターの情報は先程のゲルトと車で会話し戦闘も二度見ているテオだけだ。

 ……なによりも、この聖杯戦争の経緯?

 一般的な聖杯戦争については、アーチャーから聞いている。だが、カヤの言葉はもっと具体的な、今回にのみ存在する事情を指しているように思えた。

(どう思います?)

(ゲルトよりは信用できそうだけど、安直には決めたくない)

 環とアーチャーは先にゲルトで痛い目を見せられている。慎重に交渉を進めたいのは両者の本心だ。

「まあ、そんな感じになるわよね。……さて、どうしようかしら」

「おや、選手交代かね。んん。ふむ。もう少し粘ってみてもいいのではないかな。諦めが早いと何事も上達しないぞ」

「腹立つ言い方ばかり。……でも、そうね。アーチャー、ミス宮葉。貴方達を必要としている理由を教えましょうか」

 カヤが環の方を見る。そして、アサシン、カヤのサーヴァントを指さした。

「こいつのステータス。見える?」

 聞かれるまま、環はアサシンのステータスを見る。

 ……これは。

 低い。筋力、耐久力。まして魔力までもが低い。アーチャーはもちろん、ともすれば子どもであるキャスターよりも低い。

「びっくりしたでしょ。こいつ、本当に戦闘向きじゃないのよ」

 カヤが嗤うようにアサシンを見る。アサシンは渋面を作っているが、何も言い返さない。

「本当?」

 短く、アーチャーが問う。環は首肯した。その様子を見たカヤが言葉を続ける。

「だから、私達は聖杯を取るためには一時的にでも戦闘力があるサーヴァントが必要なの」

 確かに、カヤの説明は納得が行くものだ。加えて、協力関係とは言えアサシンの戦闘能力を見れば敵対後も脅威ではないだろう。

「僕たちに何のメリットがある?弱いサーヴァントと組んでも、いたずらに目立つだけだ。……情報と言うやつがこの聖杯戦争の事情程度であるのなら、君達と組む価値は薄い」

「んん。これは異なことを言うな、アーチャー。諸君は必死に情報を集めなければならない立場のはずだ。君達は、自分たちの情報を一方的に晒してしまっているのだからね。バーサーカーに対する有効打は見出だせたかね?この森でアーチャー、君はバーサーカーと最悪の相性であることは露呈しているのだよ。これは私だけでなく他のマスターも知りうることだ。……もっとも、この森の使い魔にも気が付かないのなら、君達と組むのはこちらからお断りしたいところだ」

 そしてアサシンが一拍の間をおく。

「断言しよう。直ぐにバーサーカーと手を組んだ他のサーヴァントが君達を襲う。君達の住処を暴き、寝食の間も与えられない。今日より苛烈な苦難が君達に降りかかる」

 冷たさを帯びるアサシンの声に、環の身体が震えた。幾多の危険は超えてきたはずだ。だが、今日の戦いはそれをゆうに勝る危険と死を孕んでいた。

「ミス宮葉。気が付いているか?私が声を上げなければ、君は死んでいた」

 ……そんなこと、気が付いています。

 アサシンの言葉に心の中だけで反論する。そう。環達はこの場で一番弱い。単純な戦闘という側面ではない。七人七騎が渦巻くこの戦況という側面。強かに戦場を生き延びる力が、弱い。

「我々には、君達の生存率を上げる手段がある」

 



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28

「我々には、君達の生存率を上げる手段がある」

 カヤ・クーナウは静まり返る森で、淡々と告げられる声を聞く。それは自身のサーヴァントであるアサシンから発せられるものだ。告げられた者、宮葉環は顔を青ざめ今にも崩れ落ちそうだ。

 ……言葉ほど、残酷な状況でもないけどね。

 アサシンの言葉通り、宮葉のサーヴァントであるアーチャーは不用意に戦闘を行い弱点を露呈させた。だが、それがストレートにアーチャーを狙う理由にはならない。

 ……そもそも、バーサーカー陣営と組むという発想がありえない。

 バーサーカーは理性を失う代わりに高い戦闘力を得ている。そのため、その制御はマスターでさえも容易ではない。また、魔力の消費も制御を失っているため、抜きん出た魔術師でも直ぐに魔力の枯渇を迎える。

 森に現れた修道服のバーサーカーも、戦士の様相ではないにしろ、制御を失っているという点は確認できた。アーチャーの弾丸を無差別に逸すのみ。相手を狙うことも、味方に弾丸が向かぬようにすることもできないだろう。

 バーサーカーは使い魔と言うより、使い捨ての魔術と見たほうがいい。

 まともなマスターであれば、バーサーカーと手を組む利点はない。アーチャー相手に有利に戦闘を進められるかもしれないが、巻き添えで自身のサーヴァントを失いかねない。

 つまり、現状危険な状況に置かれたのは、アーチャーではなく、むしろ戦闘を有利に進めたはずのバーサーカーだと言える。

 ……それをわかった上でアーチャー陣営の不利を煽るなんて、本当に性格が悪い。

 マスターである宮葉の顔色はますます悪くなっている。彼女も魔術師だろうが、見るからに若い。相手を騙し脅し、意のままにするという搦手の経験は薄かろう。対して、アサシンは専門家だ。

「窮地に陥った者同士、手を取り合う。んん。弱者の論理だが、この場では最善だ。どうだろうか」

 宮葉が言葉を失い、明らかに狼狽した。助けを求めるようにカヤを見るが、笑み以外に返すものはない。

 ……きっついなー。この立ち位置。

 笑顔の下で本心を吐くが、言葉にするわけにはいかない。

「僕らの状況はわかった」

 主に代わり弓兵が口を開く。

「アサシンの分析は正しかろう。……だが、協力するのであれば、君達に何ができるのか見せてもらわなくてはならない。我々には、君達の生存率を上げる手段がある、といったね」

「んん。そのとおり。詳細を伝えるつもりはないが、我々は継続的にある陣営の情報を得ることができる。また、ルスハイムの要所に監視の目もある。……自身の工房から出ることなく戦場の各所の情報を得ることができる」

(あんまり喋りすぎないでよ)

(わかっている。だが、クリストフと通じていることは構わんだろう?)

 カヤはここで自分の目的を再度確認する。ロットフェルト以外のマスターの排除。眼の前のアーチャーはその対象だ。だが、アーチャーの排除の優先度は高くない。まず、目的が不明である上、ロットフェルト家に敵意を向けたわけでもない。

 ……問題はキャスター陣営。ゲルト・エクハルト。

 カヤの最優先はそちらだ。明確にロットフェルト家への敵意を口にし、多くのマスターと協力を取り付けようとする姿勢。

 クリストフは明確に口にはしなかったが、彼の想定していた敵ではないのか。カヤは確信していた。だからこそ、多少のリスクを負ってでも戦力を整え、ゲルトがロットフェルト家に明確に牙をむく前に排除する。アーチャー陣営はそのために必要だ。

(ええ、構わないわ)

 カヤの言葉に応じ、アサシンがアーチャーに告げる。

「我々はこの聖杯戦争の立役者、ロットフェルト家の重鎮と繋がっている。彼らの情報は手に入れることができる」

 アサシンの言葉にアーチャーが渋面を作る。まだ、彼の信頼は勝ち得ない。

 だが、この言葉に反応したのは先程まで青ざめていた宮葉だ。

「……それって、使用人のアーベルさんですか?」

「ふむ。んん。違うな。使用人のクリストフという男だ」

「じゃあ、ロットフェルト家の当主の情報も掴める?」

 宮葉の声に熱がこもる。

 ……どうした?

 カヤには何が宮葉の心を刺激したのかわからない。

「んん。彼次第だが、不可能ではなかろう」

 そしてカヤが気が付く。宮葉の先程まで蒼白だった顔色が元の、血色の良い状態に戻っている。

 ……待って。待って。何が彼女を元気にさせた?

 カヤの理解が追いつかない。見ればアサシンも同様に訝しげにしており、アーチャーも不安そうに宮葉に視線を送っている。

「環、まさか、君」

「アーチャー、これは決め手です。初めにした約束、忘れたとは言わせません」

 直前まで怯えきっていたとは思えない凛とした声。

 ……約束?なんのこと?

 カヤの疑問を他所に、アーチャーは困惑している。彼らは理解ができるらしい類のものらしい。

「環。確かに約束は約束だ。絶対に守る。だけど、そんな目先の利益で決めていいことではないはずだ。……僕らは騙されたばかり。今は慎重に」

「組むかどうかはこの場で決めて欲しいのだがね」

 アーチャーの言葉を遮るようにアサシンが口をはさむ。狩人の鋭い睨みが小男に飛ぶが、どこ吹く風という様子だ。

「慎重を期すために、彼らと組むのです。クリストフさんについては本当に知っているようですし、情報という面では信頼できます」

 使用人の名前を間違えたのはわざとだったのか。

 ……以外と抜け目ないな。

 そして、宮葉が口ごもるように続ける。

「……それにその、ゲルトさんに感じたような不吉なものは彼女たちから感じません」

 それが決め手だった。

 アーチャーは観念したというか、もう好きにしろと言わんばかりに溜め息を付き、同意の旨を示した。

「共に戦えて嬉しいよ、アーチャー。我々は当面の敵をゲルト・エクハルト、キャスター陣営とするが相違ないかね」

「僕はまだ信用していない、アサシン。君が何か戦闘面で隠していないとも限らないしね。……キャスターを狙うことに異議はない。僕らにとっては天敵。そして何より環に害した怒りもある」

 サーヴァント同士の挨拶はそれで終わったようだ。見届けると、改めてカヤは宮葉に手を差し出す。宮葉は堂々と手を握り返した。そこに怯えるマスターはいなかった。

「改めて私はカヤ・クーナウ。この関係が長く続くことを祈るわ、ミス宮葉」

「宮葉環です。環で構いません。ミスクーナウ。……ところで一つお願いが」

「わかったわ環。私もカヤでいい。それで?」

 そして環が言いづらそうに、言葉を続けた。

「……安全な寝床を、紹介してもらえませんか?」

 



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29

 夜の匂いと冬の風が、テオ・ロットフェルトの身を包む。そろそろ夜も更けきり、常人は外を出歩くことはない時間。テオはつい何時間前かに戦闘を繰り広げていた廃墟跡にいた。

「またこんなところに来るとは、物好きな」

 テオの傍らに立つライダーが呆れたように言う。人目に付く心配がないから、実体化し戦闘用の海賊服を纏っている。

「それにしても、なんでこんなことになってるんだ?」

 ライダーが顎をしゃくり、廃墟跡を指した。

 そこはセイバーとの戦闘においてライダーが宝具で破壊を行った場所だ。だが今はそこに加えて地面には穴が幾つも空いており、かろうじて残る廃墟の壁には弾痕が刻まれている。

「詳細はわからないが、他のサーヴァントが戦闘をしたのだろうな」

 テオは傷跡からわかることを言う。だが、ライダーはあっそう、と素っ気ない返事だ。他者の戦いには興味が無いのだろう。

「一戦を終えて勝利の美酒に酔うアタシを連れ出すには、些か以上に殺風景じゃないか?くだらん用件なら帰らせてもらうぜ」

 ライダーが不機嫌を隠さずに言う。

 ……もう、道すがらに説明したのだけれどな。

 テオが心で愚痴を吐きながら、思い出す。

 セイバーの戦闘を終えた跡、テオはそこに現れるはずだったゲルトを気にかけていた。彼の目的はなにか。ゲルトのサーヴァントがセイバーで、テオたちを待ち伏せていた、というのがライダーの見解だ。

 テオはその考えが自然に思えたが、納得できない気持ちもあった。

 ……ゲルトが俺を嵌めるなら、もっと安直な方法で何度もチャンスがあった。

 テオはルスハイムに来る前、ゲルトの庇護下にあったのだ。テオ個人に思うところがあるのであれば、そこで果たせば手間がない。

 テオの考えは、何かしらの事情で約束の廃墟跡にこれなくなった、ということだ。そして、セイバーが撤退した後、廃墟跡を少し探索すると直ぐにそれが見つかった。

 ……ゲルトの使い魔。

 大柄な白い狗が、手紙を咥えていたのだ。

 テオは腕時計を見る。手紙には、約束を反故にした謝罪と、改めてこの時間に来て欲しいと書かれていた。その約束の時刻になりかけている。

「だからよ。アタシは何度も反対したよな。怪しい上に、約束を守らねえ人間は信用できねえ」

「わかっているさ。だから、これっきりだ」

 ライダーの何度目かわからない諫言を受け流すように答える。わかってねえんだよなあ、とライダーが続けるのを無視した。

 事実、テオは既にゲルトとの約束を反故にしている。ゲルトの用意した聖遺物を使わず、自分で用意した触媒でライダーを呼び出した。そしてそれは先の戦闘で露呈しただろう。宝具を使う時点で覚悟はしていた。

 ……それでも会おうという理由は一つ。

 協力体制は組めずとも、それよりも妥協した関係なら可能ではないか。お互いの目的がロットフェルト家であるのならば、襲撃のタイミングを合わせるくらいは可能ではないか。

 ライダーにこの考えを伝えたが、にべにもない答えが渡された。

「甘い。大甘」

 それでもライダーを押し切ってここまで連れてきた。故に彼女が不機嫌であることはテオの責任であると言える。

 そして待つこと五分程。今度は森の中から待ち人が来た。間違えるはずのない、何度も見た顔。ゲルト・エクハルトだ。

「や、やあ、テオ。いい夜だね」

 だが、彼の様子はどこかおかしい。よく見れば彼の昏い色のコートは所々に穴が空いている。歩き方もどこか庇うように不自然だ。

 普段のテオであれば、彼を気遣う。しかし、今はできない。企みを隠そうともしないゲルトを相手に、優しさなど無用だ。

「何故、約束の時間に現れなかった。それに、あのセイバーはお前のサーヴァントか」

 淡々とテオは疑問をぶつける。隣に立つライダーも戦意が宿っている。返答の如何ではゲルトの命はないだろう。

「向かう途中で、アーチャーのマスターを発見してね。協力を仰いでいたのさ。……残念ながら断られてしまったがね。そしてここに来たら驚きだ。君とセイバーが戦っているのだからね」

「つまらん嘘はやめろ、ペテン師。貴様、アタシとセイバーの戦いを隠れて見ていたろう。最初から」

 ゲルトの言葉をライダーが遮る。

「テオ、やはりこいつは敵だ。そして何を企んでいるのかわからん。……こういう手合はな、早いうちに切り落としておくべきだ」

 そしてライダーが傍らの剣を抜く。敵意に押され、ゲルトが後ずさる。

「企んでいるのはお前も一緒だろう?テオ。そのサーヴァントはなんだ?まさか、私の渡した聖遺物でこの女が呼ばれたとは言うまい」

 ゲルトがライダーに押されながらも、テオに詰問する。

「そうだな。お前から見れば企んでいるように見えるだろう。だが、単純な理由なんだ。俺は絶対にハンナを取り戻したい。そのために信用できる戦力が欲しかった」

「私の聖遺物が信じられなかったと?」

「そうだ。だからこれは返す」

 そしてテオは小箱をゲルトに向けて投げた。中にはゲルトから与えられた聖遺物が入っている。足元に転がったそれを、ゲルトが睨む。

「これは、私への明確な裏切りだ」

「違うな。ただ、有力な他の選択肢が生まれたからそれを選んだだけだ。……それとも、その聖遺物で呼び出される存在はお前に都合が良かったのか?」

 ゲルトが押し黙る。そこでテオは自分の選択が正しかったことを悟った。

「……終わりだな。殺すがいい」

 そしてゲルトが両の手を広げる。大仰な、何度も見たゲルトの仕草だ。ライダーが切り伏せるために剣を片手に近づく。

「いや、終ってなど居ない。ゲルト、サーヴァントがいるのなら、回復次第ロットフェルト家に襲撃をかけろ。そして、そのタイミングを俺に知らせろ」

 ライダーの行動を遮るようにテオが言葉を紡ぐ。

「テオ!いい加減にしろ!」

 ライダーの怒りに満ちた声が、音のない廃墟に響いた。テオは構わず続ける。

「俺たちは互いに信用していないし、信頼もしていない。だが、ロットフェルト城に用が有るのは確かなはずだ。これが俺にできる最大の譲歩だ」

 ゲルトが渋面を作る。

「三日後に仕掛ける」

「遅すぎる」

「……明後日だ」

 ゲルトが絞り出すように言う。それを聞くと、用はないとテオは背を向けた。きっと、ゲルトは背を睨んでいるのだろう。

「ロンドンで手を差し伸べてくれたとき、本当に嬉しかった」

 そしてテオは誰にも聞こえない様な声で呟く。それは離別の言葉だった。

 

 テオが去り、ライダーも渋々といった様子でテオに従った。ゲルト・エクハルトは安堵する。身を費やした賭けが功を奏した。

「生きているかい。マスター」

 いつの間にか、ゲルトの側には少年がいた。サーヴァント、キャスターだ。

「予定外ではあったが、ライダーもこれでよいだろう」

 わざわざ遠回しにテオの世話をし、この聖杯戦争へ導いた理由。リスクを承知で彼と今日あった理由はこのためだ。

 テオがゲルトの聖遺物でかの英霊を呼び出せばよし。キャスターであれば、容易に対処できる。そしてテオのゲルトへの信頼が盤石であることを意味する。

 一方で、他の英霊を呼び出した場合。リスクがあるが、背中を押してやる必要がある。肝が冷えたが、これで十分。

「そうだね。きっと彼と、彼のサーヴァントの中にはゲルト・エクハルトを裏切ったという自覚が芽生えたはずだ」

 キャスターの言葉に首肯する。アーチャー陣営にも同様の仕掛けを施したかったが、バーサーカーに邪魔をされてしまった。しかし、ここからサーヴァントの情報を集めれば十分に対処はできる。

 ゲルトの顔が笑みに歪む。順調だ。後は待つのみ。情報が、手元に集まるのを。

「行こうか、キャスター。地獄を熟成するため」

 そして少年の手を引き、昏い色の男が森の奥へ消えた。

 



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30

 カヤが隠れ家に帰ると、内なる戦いを余儀なくされた。

 ……疲れた。倒れたい。

 いつもであれば直ぐにそうするだろう。そしてアサシンが小言を投げつけるのだ。そのくらいであれば眼をつぶる。だが今はそうはいかない。

 古びた扉を閉める音がした。怯えたような調子で環が隠れ家に入ってきた。

 ……連れてきてよかってかな。

 森の一件のあと、家がないと訴える環に対してカヤは特に有効なアイデアが打ち出せなかった。そもそも家にいても襲われると脅して勝ち取った協力関係だ。こちらが安全な隠れ家を提供しない訳にはいかない。

 結局、考えあぐねても結論が出ず、自分の隠れ家に連れていくことにした。

「お邪魔します。……うわあ」

 丁寧な挨拶と共に悲鳴とも感嘆とも取れる声を出した。カヤには何故かわからない。

「無理からぬ。んん。安全第一とはいえ床が腐ったようなこの小屋で平気で寝られるカヤが特殊なのだ。全くその神経がわからん」

「これはひどいね。僕の時代の農民だってもっとまともな家に住んでいたよ。……うわ、ネズミがいる」

 呼んでも居ないのに二騎のサーヴァントが実体化してカヤへ文句を言う。

 ……あんたらは寝ないからいいじゃないの、どうでも。

 そう結論づけると、カヤはサーヴァントの言葉を無視して環に声を掛ける。

「汚れてて悪いわね。何分、誰も入れるつもりもなかったから。……適当にスペースを作って寝てくれる?」

 カヤの工房兼隠れ家は一部のスペースを工房として、そして少しの空間に居住できるようにソファなどが置いてあるが、それ以外は廃墟のまま放置していた。単に必要最低限を越えるものを用意するのが面倒だっただけだ。

 そしてカヤ自身は欲望のままにソファに倒れ込む。限界だった。そして直ぐにまどろみが襲う。

「彼女、本当に眠りだしたよ」

「私も初めにここでマスターが寝ているのを見たとき冗談だと思ったのだが。ふむ。アーチャー、お手数だが見張りを頼めるか?」

「いいとも。……あそこの屋根の上にいようかな。丁度穴が空いていて、建物の内部が見えるし」

「……あの、私、本当にここで寝るの?」

 消えゆく意識の中、そんな会話が聞こえたような気がした。

 

 眠ったのが朝に近い時間だったからだろう、目覚めると昼に近かった。既に環は起きているようで、アーチャーと会話をしている。

「目覚めたかね。彼らは待ち構えているぞ」

 実体化したアサシンに小言を言われる。確かに寝過ぎたのはカヤのせいなので、言い訳はない。適当に身支度を整えると、環を呼ぶ。

 低いテーブルを囲むようにカヤがソファに、環が床に座った。アーチャーとアサシンはそれぞれのマスターの傍らに立っている。

「床、固くない?椅子ならそこらへんにあるわよ?」

「私、床大好きなので大丈夫です。それに、いえ、どの椅子も腐ってるんで……」

 後半、声が小さくなって聞き取れないが、特に問題ないようだ。

「さて、じゃあ情報の整理をしましょうか。約束通りこの聖杯戦争の経緯について教えるわ」

 そしてカヤはロットフェルト家に発端をもつ聖杯戦争のあらましを説明した。無論、カヤ自身は使用人のクリストフに雇われたとだけ言った。環もアーチャーも特段きにしていないようだ。

「それで、ロットフェルト家のマスターは三人。ロイク、ハンナ、テオ」

 テオの名前を出したき、環の表情が一瞬曇った。

「どうしたの?」

「いえ、私、ルスハイムに来る前にテオさんとライダーに会っているので。……二人共、敵なんですよね」

 ライダー陣営。テオ・ロットフェルトとジャンヌ・ド・ベルヴィル。現状戦力がわかっている陣営の中では際立って強力だ。

「ライダーって変な名前だと思ったんですけど、こんな事情があったなんて」

「……不運を嘆いても始まらないわ。それよりも、テオとライダーについてどうやって出会ったのか教えてくれる?」

 そして環が自分の経緯を話す。思えば、このマスターはカヤにとって一番情報がない。意外な戦力になりえないか、薄っすら期待を込める。

「私、フランスで作られた祭具をロットフェルト家に運ぶ仕事をしていたんです。その道すがら、ライダーさんに救われて。それで、テオさんがロットフェルト家に用があるそうなので、一緒に移動したんです。でも途中で変な黒い男の人に襲われて」

「あれはランサーかな。車が崖から落ちるときに僕が呼び出された。……環は命の危機に瀕して、瀬戸際でマスターに選ばれたのだと思う」

 カヤは頭を抱えたい衝動に駆られた。情報が掴めていなかった最後のサーヴァント、ランサー。それを環は遭遇していたのだ。

(なんで言わないのよ)

(時系列的に私の宝具の監視下に置く前のでき事だ。いくらなんでもそれは知ることはできない)

 念話で隣に立つアサシンに苦言を呈する。アサシンは自身の宝具で環を監視下に置いている。そのため、アサシンはいつでも環の見聞きしたものを共有することができる。

 ……だけど、宝具で監視下に置く前の出来事は無理ってことね。説明しておいてよ。

 もっとも、環と協力関係を築いた以上、環を監視下に置く意味はあまりない。裏切りや独断専行の防止くらいか。

「それで、どんな風貌だった?真名はわかる?マスターは?」

 矢継ぎ早に質問を繰り出すが、黒い鎧を着ていたくらいしか情報はなかった。

 ……英霊を召喚する前だし、仕様がないか。

 申し訳無さそうな環を他所に、カヤは結論づけた。

「逆にこちらからお願いだ。分かっているマスターとサーヴァントを教えて欲しい」

 アーチャーがアサシンに願い出る。隠し立てしてもしかたのない情報なので提供するのはよい。アサシンも同じ考えだろう、勿体付けることなく話し始めた。

「ふむ。あまり情報らしいものもないがな。ここにいる二騎を除くと、ライダー、キャスターが分かっている。だがこれは今更だろうな。不明なのはセイバー、ランサー、バーサーカーの三騎。そしてサーヴァントは不明だが、マスターであることは確定しているのがロットフェルト家の二人。ロイクとハンナだな」

 アサシンが一旦言葉を切る。マスターの情報以外はアーチャーと環も知っているはず。

(んん。夜中にわかった事実も含めて、ここで考察してもいいかね?)

(なによ。新事実?)

(ゲルト・エクハルトがテオと同盟関係だった。君の使い魔の情報だよ)

 念話にて告げられた事実に、カヤの頭が混乱する。

 ……ロットフェルト家のテオと、ロットフェルト家に牙を剥こうとするゲルトが同盟?

(我々だけではこの不自然さを説明ができない。テオと面識のあるミス宮葉の情報を合わせればなにかわかるかもしれない。……いいかね?)

 少しの逡巡。そして許可することを決める。

(いいわ)

「ところでなのだが、ミス宮葉。んん。君がランサーに襲われた際、テオはどうしていたのかね?防戦していた?それとも積極的に敵対していた?」

 突然質問を振られた環が口ごもる。そして思い出すように言う。

「かなり積極的に攻撃してました。宝具の船も、その先の部分だけですけど、使ってましたし」

「なるほど。ふむ。ライダーの宝具はかなり目立つ部類のはずだ。いくら魔術で取り繕おうと、サーヴァントを呼び出す程度の魔術師であれば感づく。……カヤ、君が気づけなかったのは何故かね?」

 アサシンの矛先がカヤに向く。理由は直ぐに思い当たった。カヤが重要拠点と認識し、監視の使い魔を飛ばそうとして断念した場所。

「……その戦闘ってロットフェルト家の領地であったんじゃない?あそこら辺は私の使い魔が寄り付けないし」

 カヤは確認するように環に問う。

「そうです。通行手形を使ってロットフェルト家の領地に入りました。襲われたのはその後です」

 環の回答にアサシンが納得したように頷いた。

「んん。通行手形、というのが気になるが後にしよう。……つまり、テオはランサーとロットフェルト領地で積極的に交戦した、という事実が確認できた。聖杯戦争であるのだから、サーヴァント同士の抗争は自然な成り行き。残念だが、ランサーとそのマスターについてはこれ以上考えようがない。だが、んん、あえてここでは別の人物に観点を置いてみよう。テオ。テオ・ロットフェルトだ。仮説ではあるが、テオはランサーのマスターと聖杯戦争の関係を除いた上でも、敵対関係にあったのではなかろうか」

 言い換えれば私怨。ランサーのマスターはハンナかロイクのどちらかであるので、テオにとっては兄弟となる。ロットフェルト家の兄弟仲は事情さえあれば殺し合いを厭わない程度なので、親愛に満ち足りてはいないだろう。まして、テオは何年も前にロットフェルト家を単身で飛び出しているのだ。

「そういえば、テオさんは自身がロットフェルト家の家族だって言いませんでした」

 環が思い出した様に言った。仮説が一歩事実に近づいた気がした。

「良い。良い情報だ。んん。テオは自分がロットフェルト家だと名乗りたくなかったのだ。何故か。それは彼が家を飛び出したことと関係があると思われる」

「……負い目や嫌悪。魔術に関わる家柄を受け入れられる人とそうでない人が居ます。多分、テオさんは受け入れられなかった」

 一般的な倫理観とはかけ離れた思考回路。血縁者を跡継ぎとその補完者としてしか見ない発想。常識人であるほど、忌避感を覚えるだろう。

「ふむ。んん。テオの人格はこれ以上深入りできないだろう。妄想の一歩手前だ。だが、テオがロットフェルト家そのものと敵対しても不自然ではない」

 忌避感が嫌悪に代わり、そして敵愾心へと転化する。アサシンが言う通り、もはや妄想だが、想像に難くない。そしてこの考えは先のアサシンの情報と整合する。

「待てアサシン。ライダーのマスターを考察することになんの意味がある?僕らの当面の敵はゲルト・エクハルト。キャスター陣営だろう?」

 傾聴に徹していたアーチャーが痺れを切らして言う。アサシンがふむ、と一つ間を置いて、 新たな情報を公開した。

「昨夜遅く。使い魔がテオとゲルトが協力関係にあったことを暴いた。つまり、テオがゲルトのような男を頼りにする程度にはロットフェルト家そのものを敵に回す覚悟がある。そして、彼らは明日の夜にロットフェルト屋敷に襲撃をかけるそうだ」

 アサシンの言葉に、カヤまでも眼を見開いた。

 ……聞いてない!

 



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31

「おや、言っていなかったかね」

 驚愕が怒りに代わり、カヤはアサシンを問い詰めた。しかし本人はどこ吹く風という調子だ。

「ふむ。それはすまない。だが、事実は事実だ。ライダー・キャスター陣営は明日の夜に活動を始める。……改めての確認だが、敵にライダーが含まれていても問題あるまいね」

 アサシンがカヤを含めた全員に問う。カヤは俄に湧いた疑問のため、即答ができなかった。

 ……仮に、テオ・ロットフェルトと敵対したことがクリストフに知れたとしたら。

 カヤの使命はロットフェルト家以外のマスターを排除することである。その背景には聖杯をロットフェルト家の人間のみで競うことを当主が望んでいるためだ。そう考えると、テオとゲルトの同盟関係は捉え方が難しい。

 ……テオと敵対せず、ゲルトのみを排除する。そんなこと、できる?

「相手はどう動く?」

「どうも協力関係にあるようだが、仲良くロットフェルト屋敷を襲うというわけではないらしい。ただ、同じタイミングで仕掛けるというだけだそうだ」

 アーチャーが呈した疑問に、アサシンが答える。その回答にカヤは胸を撫で下ろす。

 ……別行動を行うのであれば、ゲルトのみを狙えばいい。

「詳細が見えないのが辛いところだね。二騎が固まっていられるのも厄介だけど」

「それは贅沢というものだ。んん。敵の作戦全てを手中に収められる自体など稀だ」

 サーヴァントが作戦を考える一方で、カヤは現実的な疑問をいだいた。

「そもそもなのだけど、どうやってロットフェルト屋敷の近くに行くの?」

 ロットフェルト屋敷はルスハイムの外れにあるプラウレン湖上に浮かぶ。しかし、プラウレン湖までに行くには幾重にも施された人よけの結界を抜け、その上で山を越える必要が有る。

「あの、それなんですけど」

「ふむ。通行手形だね」

 環が言いかけた言葉をアサシンが代弁した。合っているらしく、環が頷く。

「それがあれば、君達がランサーに襲われた道に出ることができる。んん。それで合っているかな?」

「昨日試したのですけど、まだわからないです。直ぐにキャスターに襲われてしまいましたし」

 環の話を信じるのであれば、通行手形があれば山越えをする必要がなくなる。体力的に楽ができるのはありがたい。一方で、通行手形を使ったとしても、万事解決とはならない。ランサーが襲ってきたということは、通行手形で通ずる道がロットフェルト家の監視下にあることを意味する。

 ……山越えを覚悟しておいたほうがいいわね。

 カヤは環を見る。彼女の小柄な体躯では厳しい行程になるだろう。そもそも環には何ができるのだろうか。ランサーに襲われた話が衝撃的で忘れていた。

「場合によっては山を越える必要があるかもね。環はそういうの、大丈夫?」

「ええ、秘境や遺跡に行くようなものですから。強化も使えるので足手纏いにはなりません」

「それなら安心ね。ところで、他にどのような魔術が使えるの?」

 カヤの純粋な質問に、環が明らかに狼狽したような様子だ。何かまずいことを聞いたか、発言を顧みるが特に見当たらない。

「……基本的な魔術です。あとは、呪い寄せのアミュレットが作れるくらいです」

 環が明らかに意気消沈といった雰囲気で言う。

 ……なるほど。そういうこと。

 環が祭具をここまで運ぶと言っていた時点で疑問ではあった。魔術の研鑽にしか興味を持たない魔術師がそんな雑用をするだろうか、と。環の様子で合点がいく。きっと魔術師として才がなく、小間使いに追いやられたのだろう。故に、自分にできることを聞かれ、意気消沈しているのだ。

「問題ない。何かあれば僕が担う」

「人を技量の有無で判断するものではない。品位を問われるぞ」

 アーチャーが環を励まし、アサシンがカヤに苦言を呈した。

 ……そんなに見下す眼をしていたかな。

 カヤの胸に宿ったのはむしろ同情、いや同じ境遇の者を見つけた安心感に近い。カヤもクーナウ家では当主となりえない、ただの魔術師の一人として扱われる。クーナウ家に伝わる魔術刻印もカヤは一部とて継承していない。ことさら気にしていないとはいえ、いざというときに危険を被るのはカヤの役割だ。命を掛けた小間使いを強制させられているのは環だけではない。

 ……私の場合は、私の命どころかお家の命運まで握っているのだけど。

 アサシンが主催した作戦会議はそこでお開きとなった。環とアーチャーはもう一度プラウレン湖に続く道を確認するために出かけた。そのため、工房にはカヤとアサシンのみになった。

「さて。んん。どう思うかね」

 二人が出ていって少し経過した頃。弓兵の聴覚でも聞き取れないほどの環が工房から離れたのを確認し、アサシンが口を開いた。

「報告事項は包み隠さず教えて欲しいわね」

「善処する。懸念はアーチャー、いやマスターである宮葉の方だ」

 カヤは環の様子を振り返る。不安や懸念はあるが、あえて口にするほどではないと思った。

「巻き込まれたマスターなのだし、仕様がないんじゃない?欲を言えば、戦闘に特化していて欲しかったけど、これは贅沢」

「私が言いたいのはマスターとしての性能ではない。それはサーヴァントの性能に比べれば些細な問題だ。んん。……言いたいのはね、何故、宮葉環はこの状況を受け入れている?」

 アサシンの言葉に、カヤは思わず押し黙る。間に合わせのマスター。サーヴァントの脅威は幾度も味わった。なのに、また苛烈な戦いに身を投じようとしている。彼女の意思を支える根幹は何か。

「純粋に、聖杯にかける望みがあるから?そうでなければ、令呪が宿らないでしょう」

「果たしてそうだろうか。んん。彼女はたまたまルスハイムに来たのであろう?そして死ぬような目にあった。それでもなお、偶然見つけた万能の願望機などを信じて命をかけるのか。不自然極まりない。……私はこの場でね、宮葉が離脱を申し入れると思ったのだ」

 アサシンの言葉が自然に思える。確かに、先の環はテオとゲルトと戦うことになんの疑問も持っていなかった。マスターとして自然体過ぎる。

「私の宝具で宮葉環は監視下にある。だからといって、心の奥まで覗ける訳ではない。マスター、折を見て宮葉に探りを入れて欲しい。んん。まさかとは思うが、キャスターに操られては居ないかどうか、ね」

 ……ああ、そうか。最悪はそのパターンだ。

 環が既にキャスターの手中に落ちており、カヤ達の行動が筒抜けになること。それが何より恐ろしい事態だ。

「わかったわ。それとなく色々聞いてみる。特段警戒されているわけではないと思うし。……ところで、クリストフの方は何か進展がないかしら。私にイエローカードが出ていないか気が気でないのだけれど」

 本来であれば環はロットフェルト家と関係のないマスターなので、カヤは排除する契約だ。しかし、対ゲルトを考えればアーチャーの戦闘力は捨てるにはあまりに惜しい。まして、向こうにライダーがついたとなればなおさらだ。

「彼の行動は逐一見てはいるのだが、カヤについて当主に報告する素振りはなかった。ふむ。率直に言ってつまらん。彼は仕事に忠実なようだが、毎日当主の世話をする程度だ。それも最低限の。雑談でもすれば多少は素性がわかるというのにな。んん」

「なにもないならいいわ。クリストフに関しては、私への監視をサボっていてくれたほうがありがたいし」

 環と協調することを含んでおいたほうがいいかとも思ったが、不要だろう。むしろ、藪蛇になる可能性が高い。

「了解よ。引き続きよろしく。環たちの方もお願いね。余計なことしてないかしら」

 そしてカヤはテーブルにルスハイムの地図を広げる。環たちが空振ったときに備えて山越えの行程を確認するためだ。

 ……決戦は明日の夜半。そこで、大勢が決する。

 弛緩した心に喝をいれ、戦いに備える。

 



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32

 カヤの隠れ家を出ると、涼やかな山の風が環の身体を撫でた。冬には珍しく、日が高く出ている。環は心地よさを感じながらルスハイムの街を歩く。

(アーチャー。カヤさん達はついてきていませんか?)

 傍らには霊体化したアーチャーが控える。環は当然のこととして念話で問うた。

(少なくともカヤは来ていないよ。ただ、アサシンだけはなんとも言えないかな。諜報の英霊は伊達ではないだろう)

 ……仕様がないですね。確認する方法が無い以上、気にしては何もできません。

 環は別段、怪しい行動を取るつもりはない。気にしていたのは一点。カヤとアサシンがどの程度環達を信用しているか、だ。

 カヤ達から請け負ったように、プラウレン湖までの道を思い出しながら歩く。

(環、本当にカヤ達と共に戦うつもりなの?)

 アーチャーの心配そうな声が頭に響く。顔こそ見えないが、心配しているのが伝わる。それでも環の決意は揺るがない。

(ここで何も得ずに帰るわけには行かないのですよ。そうでないと……)

 そうでないと。その先を吐露しかけて、思い留まる。これは環の個人的な思いだ。アーチャーは信頼しているが、だからといって全てを打ち明けていいものではない。

(アーチャーだって、聖杯を望むのであれば私が乗り気な方が都合がいいんじゃないですか?)

 環はわざとらしく話題をすり替えた。

(それはそのとおりだけどね。せっかく死の際から救った少女が、また死地に向かうのは胸が痛む。それに、どうも環は生き急いでいるように見える)

 生き急ぐ。自身に与えられた評に思わず考え込む。

 ……生き急いでいるのでしょうか。

 宮葉の家に背を向けて、半ば自暴自棄で調達稼業を始めた。それはただ、宮葉の跡を継げなくても、それでも堂々と誇れる者になりたかったのだ。そうでなくては。

(環は若い。いたずらに危険地帯へ身を投じることはない)

(……知った口を利かないでください。才能がないのなら、自分の価値は実績で示すしかありません。そうでなくては)

 堪えていた言葉が、怒りとともに溢れ出す。言ってはならない。そう思ったが、環を覆う昏い自虐心が堰を外した。

(私は宮葉の跡継ぎを産むための、ただの母体に成り下がる)

 念話越しに、アーチャーの息を呑む様子が聞こえた。途端、環には後悔が訪れる。

 ……嗚呼、しまった。言ってしまいました。

 宮葉の家には後継ぎとなる子どもは環しか居ない。その環に魔術の才がないため、当主である父の関心はもっぱら環の子どもになった。父が環への優しさを失ったわけではない。むしろ今まで以上に環へ優しさを注いだ。それが、環を子どもとしてではなく、母体としてみなした結果だった。

 成人の後、日本の大学に所属していた環は付き合い程度で酒を飲んでいた。過度ではない。学生に似つかわしい安酒を嗜む程度の量だ。顔を赤らめて帰る環を見て、当主は激怒した。

『子どもに影響があったらどうするのだ』

 今にも手を上げかねない様子にひどく怯えたのを覚えている。当時の環には特定の相手がいるわけでもなく、まして子どもを授かったわけでもない。だというのに、父は何を言っているのだろうか。

 そして逃げるように自室に籠もり、理解した。父の目に映る私はもはや世継ぎを産むための女でしかないのだと。

 故に、飛び出した。宛があったわけでもないが、ただ怒りに任せての行動だった。自分の人格を認められない家で、養われたくなどなかった。

 なけなしの貯金を握りしめ、放浪に出た。世界を見ようと思った。気まま旅は環の怒りを収めたが、同時に実家に対する冷静な嫌悪感を自覚させた。

 だから、家に頼らず生きていこうと思った。持っているのは呪具祭具の見極めを行う眼のみ。それでできることはなにか。

 程なく、調達屋として生きていこうと思いつく。二年ほど前の出来事だ。

 ……軽率でしたね。死ぬような思いをしながら辛うじて食いつないでいるだけ。

 環は思い返しに長い時間を掛けてしまったことを自覚した。昨日、ゲルトと遭遇した場所に辿り着いている。ここは既に調べて、プラウレン湖に通じていないことは分かっていたはずだ。日はまだ高く、同じように襲われる心配はない。しかし、あまりの不用意さに嫌気が刺した。

(環、その、軽率だった。すまない)

 しばらく押し黙っていたアーチャーが唐突に謝罪をする。アーチャーの言葉は正しい。むしろ環が不条理に怒っただけだ。環は自分が不安定になっているのに気が付いている。その理由の一端を撫でる。

(アーチャー。そうでなくても戦う理由はあります。……昨日の傷、覚えていますよね?)

 環はコートごと強引に右腕を捲りあげた。昨夜、キャスターとの戦闘時に蛇の使い魔に噛まれた箇所。傷口から身体が灰になる現象はキャスターの撤退と共に収まった。前腕に貼り付けたガーゼを乱雑に剥がす。傷口とその周囲、環の腕は灰が押し込められたように固まっている。

(環、それは)

(灰になっていく現象は止まりましたけど、既に灰になった部分は戻っていません)

 これが何を意味するか。昨夜の段階では、アーチャーに傷を負わされたキャスターが、回復のために呪いへの魔力供給を打ち切ったと判断した。それは真実だと思う。一方で、呪いそのものはまだ生きている。つまり。

(今は止まっているけれど、キャスターがその気になれば、いつでも私の身体を蝕むことができるのでしょう)

 環が他人事のように言う。今朝、この状況に感づいてからアーチャーに相談する時間がなかった。

(だから君は、キャスターを討つことに異議を唱えなかったのか。……痛くはない?)

(痛みはないです。ただ、恐い)

 環にとって魔術師の設置した罠や呪いは縁遠いものではない。しかし、今までは天性の勘めいた能力で避けることができた。そのため、直接的に死を感じるこの状況は、環には前例のない恐怖だ。這い寄るような寒さを感じる。蛇が、こちらを見ているような。

(私は、死にたくない)

 縋るように思いを吐露する。立ちすくみ、泣き出しそうになる。

 ……だめだ。ここで死んでは、母体になったほうがましだった。そんなの、受け入れられない。

 死の恐怖と屈辱。混ざり合う感情はただただ黒く煮詰まる。寒い。ただ、寒い。

 そして、何かから逃げるように歩きだす。目の前のことだけに集中したかった。何も考えたく無かった。

 ……湖までの道、見つけないと。

 無性に、アルコールが飲みたくなった。

 



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33

 地図を片手に作業をすること数分、よくよく考えてみればあまり意味がないという結論に至った。

「そもそも魔術師の管理する森なのだろう?売り物の地図で何かわかるものなのかね?んん?」

 アサシンの物言いは腹立たしいが、カヤは正鵠を射ていると思った。カヤは廃墟から適当に引っ張り出した椅子から立ち上がり、一抹の恥ずかしさと共に地図を片付ける。

 ……山越えは出たとこ勝負か。環たちに期待ってところね。

 結局、他人が頼み。自分の力で物を進められないことに若干の不安はある。だが、この段になって環が逃げ出したりはしないだろう。念の為、アサシンに確認する。

「環達、ちゃんとやってる?」

「んん。君以上には」

「……あなた、その人の神経を逆撫でする物言い、なんとかならないの?」

 目を瞑り、カヤと向かい合うようにソファに腰掛けるアサシン。彼が集中して誰かの様子を観察するときの仕草だった。。そのアサシンがこちらを見た。

「ならんな。……それはそうとマスター。暇なら頼みたいことがある」

 アサシンが改まった調子で言う。

「何よ。ちょうど今、暇になったところだけど?」

「本があるところに連れて行ってくれないか。調べたいことがある」

 本があるところ。ルスハイムの市庁舎の近くには確か図書館があったはず。直近まで地図を見ていたのだから間違いない。

「図書館でいいかしら。そんなところに何のよう?」

「ふむ。んん。敵の調査だよ。特に、目下の敵になりえるライダーとキャスターについては情報を集めたい。ライダーは真名が分かっていることだしな。ふむ。あとはセイバーについてもわかるといい。あの不死性には何かしら仕組みがあるはずだ」

 アサシンの宝具と使い魔によって多くの情報を集めた。それに加えて彼の推理によって各陣営の動きや素性がまとまっている。アサシンを選んだ時点でカヤが期待した働きそのものなのだが、こうも喜々として働くと思わなかった。

 ……物言いは腹立たしいけど、頼りにはなる。

 だが、アサシンには戦闘力がない。それだけが欠点だ。

「わかったわ。それらしい本を環に頼んで取り繕ってもらう」

「いや、直接行きたい」

 カヤの提案はあくまで護衛となるサーヴァントなしで工房の外に出ることを危惧しての提案だ。既にカヤの顔はゲルトに割れているため、以前のようにのんきに街に出ることはできない。その点は環も同様なのだが、アーチャーがいるのでカヤよりは遥かに安全だろう。

「危険よ。外は」

 カヤが考える程度のことは、アサシンでさえ思い至っているはずだ。だからカヤは言葉を削ぎ落とし、端的に問うた。

「ふむ。そのとおり。全くそのとおりだ。正直に告白するとね、どうしても、これだけは自分の目で見たい物があるのだ。……なにせ明日には死んでいるのかもしれないからね」

 アサシンにしては歯切れが悪い。

「ふむ。どう説明すればいいだろうな。感情は説明が難しい。んん。私の真名、既に伝えているだろう。だが、聖杯に懸ける望みは伝えていたなかったな」

 アサシンの真名。それはむやみに頭に抱くことさえ禁じるように言われたもの。カヤは素直にそれに従い、彼の由来については考えないようにしていた。

 アサシンが恥じ入るように、視線をテーブルに下げた。

「私のな、評価を知りたいのだ。んん。後の世で私と私の同胞たちが、そしてかの女がどのように評されているのか、現世の者の言葉を知りたいのだ」

 いつも堂々としているアサシンが、小さな声で言う。

「それが、貴方が聖杯にかける願いなの?」

「そうとも。……稚拙な願いだと笑うか?」

 サーヴァントという写し身とは言え、聖杯戦争は命をかける戦いだ。死の痛みもあるかもしれないし、思いを裏切られるような目に合うかも知れない。だというのに、この男の願いは現世で本を読みたいだという、あまりにも小さな願い。

 カヤには初めてアサシンというサーヴァントが、ある時代を人間だったのだと思えた。

 ……もしかして、ようやく私は信用されたってことなのかしら。

 カヤの顔がほころぶ。この石像じみた無表情と辛辣な物言いのこの男に対して、俄に人間らしさを感じたためだ。いいわよ、そう言いかけたところにアサシンが言葉を被せた。

「ふむ。ではこうしよう。書庫に連れていくがいい、マスター。代わりに、君が隠していることは不問にしようではないか」

 先ほどとは打って変わり、傲慢に口の端を吊り上げ、アサシンが言った。

 

 難癖の一つでもつけようかと思ったが、時間を無駄にするだけだと結論する。カヤは黙ってコートを羽織り、工房を出る。遅れて数分、アサシンが実体化したまま工房から出てくる。

「ふむ。悪くない」

「馬子にも衣装ね。いや、孫と祖父というところかしら」

 霊体化したまま連れ立とうとしたが、アサシンが「本は自分の手で捲るものだ」とひどく主張をするため当世衣装を身に纏うことを条件として妥協した。黒いチェスターコートの下には適当に見繕ったセーターを着ている。実際、カヤの実家であるクーナウ家から取ってきたものだ。

「言うではないか。んん。気分がいいから許そう」

 無表情で分かり辛いが、言葉通り機嫌がいいのだろう。カヤを待たずに軽い足取りでアサシンは歩き出す。

 珍しく、雲ひとつない天気だ。冷たい風が時折吹くが、陽が身体を温める。ここ数日は夜の活動が主体であったため、このような晴れやかな気分で外に出ることはなかった。同じことを思ってだろうか、市街には人が多い。

 ……束の間の安息、かしら。

 先を行くアサシンは街に馴染んでいるように見えた。大通り沿いの店の前で立ち止まっては、物珍しそうに眺める。

 途中、サンドイッチを売るスタンドで店員の男がアサシンに話しかけた。慌ててカヤが駆け寄るが、特にその必要ははなかったようだ。

「やあ、いい天気だね」

「全くですな。んん」

 当たり障りのない会話。アサシンは何気ない会話を楽しみ、サンドイッチを買った。もちろん、支払いはカヤだ。

「おじいさんかい。大事にしなよ」

 店員の若い男から小銭を受け取りながら、カヤが苦笑を返す。

「違うぞ、青年。……私は劇作家。これは私の使用人だ。んん?」

 そんなことを繰り返して、二十分程。目当ての図書館に着いた。歴史ある建物なのだろう、古さもさながらに、威厳が伝わるような門構えがカヤ達を迎えた。中に入ると、アサシンは満足そうに大きく頷く。カヤから見てもルスハイムの図書館は大きい。

「ご満足いただけたかしら?先生」

「……小一時間ほど放っておいてくれ。時間が来たらどこかにいるから声をかけろ」

 カヤの小言には無反応を貫き、アサシンは本棚の森の奥へ消えた。独りになったカヤは気の向くままに館内を歩くことにした。

 ……懐かしい。子供の頃に父さんと来たとき以来かしら。

 本棚を眺めながら、郷愁に浸る。

 クーナウの家は古い歴史があるわけではない。そのためか、魔術師のらしい苛烈な教育ではなく、常識ある育て方をされた。魔術の修行と普通の学業の両立はそれなりに忙しかった。だが、歴史ある魔術一門の育て方を聞くと、子どもを殺しかねないようなことも平気でやるらしい。それに比べれば大甘もいいところだ。

 ……だから、カール兄さんも私も大甘に育ってしまった。

 魔術師は『根源』を目指すためならば、倫理にもとる行為も平然とやってのける。いや、倫理という一線すら意識をしないだろう。ロットフェルト家のように、跡目争いで血を流すことも珍しくない。

 カヤの両親も、いやクーナウの一族は元から非常に徹しきれないのかもしれない。そうでなければ、跡取りでもないカヤのために不利益極まる契約を結ぶことはしないだろう。カヤは当時を覚えていない。しかし、父が混乱のあまり、藁にも縋る思いでロットフェルトを頼ったことは想像に難くない。きっと母も気が気でなかったろう。

 ……二人を攻める気はないけど、魔術師として甘い。

 気が付くと、子供用のコーナーに来ていた。数人の少年が低い本棚を物色しているだけで、カヤのような存在も浮くことはなかった。

 目の前の本棚に並ぶタイトルを、何気なく目で追う。ふと、懐かしいタイトルを見つけて手に取る。王冠を頭に載せたカエルの表紙。思わずページを捲ってしまう。

 ……昔、母さんが読んでくれた本。

 もう、思い出せないくらい過去のこと。遠い過去を思う。もう父も母も生きては居ない。不慮の事故だ。二人が自動車で旅行をしている最中に、反対車線の車が突っ込んできたのだ。カヤの両親も含めて、相手の運転手も亡くなったそうだ。兄と二人で涙が枯れるほど泣き、死した相手の運転手を幾度も呪った。そのどれもに飽きたとき、どちらともなく言ったのだ。

『続けないとね』

 例え避けようのない事故であったとしても、魔術師の思考回路では死したほうが悪い。身を守れなかった者が悪いのだ。しかし、まだ敗北していない。

『本当の敗北はクーナウが終わることだ。僕たちがクーナウの魔術を続けさえすれば、いつか、遥か未来かも知れないが、根源に届くかもしれない。僕たちが続けさえすれば、二人は浮かばれる』

 両親は大甘だった。でも、だからこそ途絶えさせたくはない。

 そしてカールは若くして当主となり、魔術協会に借りを作りながらクーナウの魔術刻印を継承した。カヤは父や祖父の残した研究成果をカールと共にまとめ直した。決心は固かった。どの作業も苦とも思わなかった。

 ……だから、こんな奴隷じみた役割でも全うしないと。

 クーナウの家をカヤのせいで潰す訳にはいかない。きっとカヤが死ねば、カールが耐えられない。力の差も考えずにロットフェルト家に乗り込むだろう。そのときこそ、本当に終わってしまう。

 ……生き残る。例え何を犠牲にしても、この聖杯戦争を生き残ってやる。

 思わず手に力が入る。開いていたページから嫌な音がした。ページの隅の王女が破れている。後ろめたい気持ちを宿しながら、カヤは絵本を戻しその場を立ち去る。心臓から鉄の輪同士が擦れ合う、不愉快な音が聞こえた気がした。

 



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34

 ロイク・ロットフェルトはプラウレン湖が見える自分の工房たるゲストハウスに居た。寝室の大きなベッドの隅に腰掛けている。南には大きな窓があるが、厚いカーテンに遮られ光は届かない。薄暗い部屋だ。

 ランサーがライダー、アーチャー、そしてセイバーと交戦してから今まで、ロイクはランサーの回復のために全力を費やしていた。ランサーの交戦による傷は少なかったが、かのサーヴァントの消費魔力はロイクが考えていたものを云うに超えたものだった。

 魔力が急激に吸いつくされることによる生気の消失。それに伴う体中を覆う痛み。起き上がることも叶わず、昨日は丸一日中、寝込むはめになった。その甲斐あってか、今は平時と変わらぬ体調となった。

『あまりの情けなさに言葉もない。ロイク、貴様は俺を呼び出すに値しないマスターだ』

 意識が朦朧とする最中、ランサーがそう吐き捨て出ていったのは覚えている。もはやランサーとの信頼は決裂している。可能なことはかの英霊が望む相手を見つけ、彼の機嫌を損ねないように戦いに参じてもらうよう願うだけだ。

 明かりのない部屋で、ロイクは自身の左の甲を撫でた。一部が輝きを失った令呪。制御を失いつつあるランサーへの絶対命令権。この戦いを勝ち抜くためには、積極的に切っていくしか無い。それ故に一画の消費が悔やまれる。

 ……僕を殺すな、だと。情けなさ過ぎて笑えてくる。

 しかし、ランサーへのこの命令がロイクの命を永らえさせていることも理解している。その事実が腹立たしい。テオを打ち負かして当主となるどころか、生き残ることで精一杯ではないか。

 ……打って出る。こちらから、敵陣営を襲う。

 狙う相手は誰でもいい。テオを真っ先に狙いたいが、ランサーが従うだろうか。ランサーの意思を重視するのであれば、堂々と再戦を口にしたセイバーか。それとも彼の口から称賛を得たアーチャーか。

 ……いや、相手が誰かは問題ではない。どうせ全員倒す。順番だけの問題だ。

 ロイクは街へ出る支度を始める。調べるべきことが疎かになっていた。敵のことではなく、自らのこと。

 ……ランサーの真名。ドゥフタハ・ダイルテンガ。

 ロイクは彼を望んで召喚した訳ではない。そのため、その名を見覚えがあれども全ての伝承を知っているわけではなかった。本来であればありえないことだが、ランサーがどのような宝具を持つのかも知っていない。本人が仕えているのだから直接聞けばよいのだが、一蹴されるのは目に見えていた。

 ゲストハウスを出る。誰も居ない湖畔沿いの道を車で走り、目的地を目指す。

 程なくして、左右を森で挟まれた長い一本道に出た。四騎のサーヴァントが入り混じる戦闘の舞台だ。路面には幾つも穴が空き、周囲の木々もところどころ倒れているが、幸い通行できないことはなかった。しかし、聖杯戦争が終われば直さなくてはならない。聖堂教会も魔術師の私有地の保全まではしてくれないだろう。

 ルスハイムの市街に出る。足繁く通った訳ではないが、迷うことなく車を走らせると、直ぐに着いた。古い伝承を調べるための施設。図書館だ。駐車場に車を停めて、中に入る。途中で警備員が車から降りる不相応な年齢のロイクに疑問を呈したが、適当な暗示で黙らせた。来年の夏に十八歳を迎えれば、この様な煩わしさから解放される。

 迷うことなく奥へ進み、伝承・民俗学の本棚を探し当てる。表題からアルスター伝説に関する本を幾つか抜き取ろうとし、その横にある本が目についた。とある伝説にまつわる本だ。

 ……そういえば。

 昔、テオとハンナがロットフェルト家に来るよりも前、父クサーヴァーがこの伝説にまつわる品がロットフェルトにはあると言っていた。あまりにも過去の話であるため忘れていた。

 ……父の話が本当であれば、召喚される英霊は破格のはず。

 ロイクは自分で用意した触媒を用いてランサーを召喚した。それは触媒を集めるところから聖杯戦争であるというロイクなりの解釈をしての行動だ。しかし、この伝説にまつわる英霊であれば、そのこだわりをかなぐり捨てでも選択する価値がある。

 自身の選択を悔やむより、別の思いが先立つ。

 ……この触媒で召喚される英霊が、この戦争に混じっているとすれば、見直す価値がある。

 ロイクはそう思い、本を手に取りテーブル席に着く。館内はそれなりに人がいるが、ロイクの選んだ八人がけの長いテーブルには誰も居なかった。

 まず、ランサーの情報を集める。

 ドゥフタハ・ダイルテンガ。アルスター伝説の戦士。フェルグス・マック・ロイと共に仕えていた王に離反した、流浪組の一人。武功について資料がないが、ルーの槍という長槍を武器としていた。

 ドゥフタハがランサーたる所以である槍。その槍はいまは霊体化して、一度として振るわれては居ない。これまでの戦いでランサーが武器として使った槍はロイクが都合したものだ。

『俺の槍は振るうに相応しい時がある』

 理由を問うても、ただランサーはそう答えるだけだった。

 だが、改めて調べればその理由がわかった。

 ルーの槍。突けば必ず相手を死に至らしめ、投げれば一投にて九人を殺す槍。彼の宝具で間違いないだろう。強力な槍には相応の対価が存在する。柄は自然と発火し、持ち手を炙る。その発火能力は強大なため、安全に保管するためには、動物の血とドルイドの血を煮詰めた毒液の大釜に槍を浸し続ける必要がある。

 ……めちゃくちゃな能力だな。

 ランサーが宝具としてこの槍の性能をどこまで再現するかはわからない。しかし、軽々に使いたがらない以上、相応のダメージは発生するはず。

 ロイクは自身の魔力がランサーの戦闘数回で枯渇したことを思い出す。もしランサーが思うまま宝具を奮えば、その時点でロイクは絶命するだろう。

 ……だから、今まで奮えなかったのか。

 既にランサーに使用している令呪。ロイクを殺すなという絶対命令は、単純が故に強固のようだ。ランサーが闇雲に宝具を奮えばロイクは死ぬ。この事実をランサーが理解しているために、ランサーは宝具の利用を封じられていたのだ。

 ロイクは自然と唇を噛んでいた。胸の奥に燃える感情は怒り。他ならぬ自身への怒りだ。魔術師としての不甲斐なさが、ランサーの大きな足枷となっていた。

 ランサーは乱暴で魔術師と違った意味で倫理を無視する戦士だ。ロイクもランサーに対して親愛の情は薄い。呼び出す英霊を失敗したと思うくらいだ。それでも、ランサーに、ロイクは申し訳なく思った。ロイクがもう少し優れた魔術師であれば、彼はもっと自由に戦えただろう。

 ……切り替えろ。悔やんだとしても、直ぐに変わるわけではない。

 魔術師としての性能は一朝一夕で変わるものではない。悔しさと怒りはまだ胸の奥で燃え盛っているが、この思考を打ち切った。今の自分にやれることを考える。敵のサーヴァントの情報を集めることだ。そして、ロイクは最後に気にかけた、ランサーとは関係の薄い伝説の本を開き、目次を流し読む。そういえば、昔はこういう伝説を寝物語に読んだものだと、少し懐かしむ。

「大丈夫、ですかな?」

 一瞬、それがロイクへの言葉だと気が付かなかった。いつの間にかロイクの向かいの席には老人が座っていた。

「何か、震えておられたので」

「ええ、ええ。大丈夫です」

 先程の自分への怒りが、他人の目に見えるほど身体に表れていたらしい。適当に返事をして会話を切り上げようとしたが、老人が更に口を開く。

「どうやらお疲れのようだ。今日は陽が出ていて暖かいが、夜半は冷え込むでしょう。ご自愛されたほうが良い」

 老人の言葉は続く。ロイクは暗示をかけて追い払おうかと思う。しかし、目立ちにくい魔術とは言え警備員に一度使っている。そう何度も使うのは気が引ける。

 そんな思いを巡らせていると、老人の口からロイクの思考を硬直させる言葉が紡がれた。

 

「それとも、サーヴァントを御するのにお疲れですかな?」

 

 ……何故、こいつがそれを知っている?

「……んん?ロイク・ロットフェルト殿?」

 黒いチェスターコートを羽織る老人が口の端を吊り上げて言った。

 



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35

「私は貴方の姉君であるエルナ様が夫、リーヌス殿より伝言を頼まれた使者です」

 ……リーヌスの使者?しかし、わざわざ話しかける理由は何だ。

 老人が、ロイクの疑問を他所に言葉を続ける。

「実は、リーヌス殿は此度の聖杯戦争に窮する事態に直面しておるのです。んん。召喚なされたサーヴァントは既に傷つき、戦闘に赴ける状態ではありません」

 ロイクは矢継ぎ早に繰り出される老人の言葉を順次、理解していく。リーヌス。エルナの夫。マスターになっていても不思議ではない。だが、どのサーヴァントだ。傷ついた?どの戦闘で?

「リーヌスの召喚したサーヴァントのクラスは?」

「アサシンです。工房に籠もるキャスターを仕留めようとしたところ、失敗し逆に痛手を負ったようです」

 アサシンとキャスター。まだ、双方ともロイクには観測できていないサーヴァントだ。

 ……アサシンの存在を感知できたことは大きい。だが。

「お前、本当にリーヌスの遣いか?」

「ふむ。当然の疑問でしょうな。ですが、それを証明するには、もう少し話を進める必要がございます」

 彼自身がマスターの可能性もある。ロイクは老人の両の手を見る。令呪はない。しかし、全身を検分しないことにはマスターかどうかはわからない。

 ……そうであれば、既に僕を襲っているはず。

 ロイクの困惑を見透かすように、老人が言う。

「ふむ。んん。私が信用できないのは当然でしょう。では一つ、信頼に足るかどうか分かりませんが、情報をお渡ししましょう」

 そして続けられた言葉に、ロイクは自身の不備を恥じた。

「私のステータスをご覧になれますかな」

 ……マスターじゃない!こいつ自身がサーヴァント!

 思わずロイクは立ち上がり、老人から距離を取る。勢いで椅子が倒れる。大きな音が響くが、誰かが気が付いた様子もない。

 ……人払いもされている。まずい。

 思わず、左の手の甲を見る。令呪を使うか。ここでランサーを呼び出せば多くの一般人を巻き込む戦闘になる。だが、使わなければ目の前のサーヴァントに殺される。

「おっと。冷静に、冷静に。んん。……察していただけた通り私はサーヴァント、アサシン。暗殺者の英霊です。そして今はマスターであるリーヌス殿の使者です。だからこそ、ロイク殿。あなたに害を加えることなく姿を現しているのです」

 アサシンのサーヴァントはハサン・サッバーハという中東の暗殺者教団の歴代教主が召喚される。そのすべてをロイクが知っているわけではない。しかし、サーヴァントを引き連れずに読書に耽るマスターを仕留めることなど容易なはず。

「闇に潜むことを是とするアサシンが、目の前に堂々と姿を晒す。んん。これをもって敵意がないことの証明とさせていただけませんか。……それにしても、サーヴァントを連れずに歩くとは些か不用心ですな」

 ロイクとて、サーヴァントを連れずに出歩く危険を考えていなかったわけではない。彼なりの準備をしている。仮にそれが通じなくとも、令呪でランサーを呼び寄せれば良いとも考えていた。むしろ、我が身を囮としてでもサーヴァントを釣るべきだとすら考えていた。

「……わかった。聞こう」

「御慈悲に感謝します。我がマスター、リーヌス殿がキャスターを狙ったのには理由があります。それはキャスターのマスターがこの聖杯戦争にかこつけて、ロットフェルト家を狙っていることがわかったのです」

「ロットフェルト家を狙うというのはどういうことだ。ロットフェルト家のマスターを狙うという意味か?」

「言葉のままです。プラウレン湖に浮かぶロットフェルト屋敷を襲撃するという意味です。……キャスターのマスターは聖杯ではなく、サーヴァントの戦力を使った意趣返しを目論んでいるようですな」

 つまり、ロットフェルト家への復讐。父クサーヴァーは恨みを買いやすい質であることは知っているので、それを目論む魔術師がいる事自体は不自然ではない。

「リーヌス殿はこの聖杯戦争が部外者によって混乱に落とし込められることを憂いております。しかしながら、私は力がなくキャスター勢を止める術がありません。また、信じがたいことにご兄弟であるテオ殿もキャスターに加担している始末。リーヌス殿はこれを阻止するためにロットフェルトにまつわるマスターに助力を乞うているのです」

「待て。テオもキャスターに加担しているのか?」

 ロイクが自分でも信じられないほど冷静に言った。アサシンがええ、と頷く。

 ……テオがロットフェルト家を襲う?

 テオは才を持ちながら家を出た。今までロイクはその理由を、テオがハンナを巻き込む事故に怖気づいたためだと思っていた。

 だが、違ったのだ。アサシンを信じるのであれば、テオは今の今まで機会を伺っていたのだ。テオとハンナの平穏を壊し、魔術師の道へ誘ったロットフェルト家に復讐するために。

 ……ああ、そうか。そうであるのならば、とても良い。

 つまり、この戦争にかける力はテオの全力を超えたもののはず。それを打ち負かすことができれば、当主とて認めざるを得まい。ロイクはテオよりも優れた魔術師であると。内なる炎が、一際大きくなる。

「どうか、なさいましたか」

 アサシンが不審な目でロイクを見る。ロイクはなんでもない、と愛想もなく返した。

「早ければ明日の夜にでもキャスター達は行動を始めるでしょう。ロイク殿には是非に、ご助力いただき」

「構わないよ」

 アサシンが言い切る前に、ロイクは参加の意思を示した。ロイクにとってまさに好機だ。テオがわざわざロイクの領域にまで足を運んでくれる。これを逃す手はない。そうであれば、ここで悠長なことをしている場合ではない。すぐに戻り、準備をしなくては。

「話がそれだけなら、僕はもう行く。情報、感謝するよアサシン」

 そしてロイクは立ち上がり、アサシンに背を向ける。そのまま、図書館を後にした。既に関心はこの場にない。明日に訪れるであろう決戦に思いを馳せていた。

 ……テオが本気で来るのであれば、こちらも本気で立ち向かう。

 車を走らせて、ロットフェルト屋敷に向かう。ロイクが十全に活動できるようになったことはランサーも気が付いているだろう。今日の夜にでも帰るはずだ。

 ハンドルを握る左の手。ランサーの宝具の内容次第では、使用時にさらなる令呪のバックアップが必要かもしれない。令呪はサーヴァントへの絶対命令権であるが、同時に多量の魔力を備えた魔術刻印でもある。使い方次第だが、必ず勝てという抽象的な使い方をすれば効果は薄まるも一方で、ランサーのステータスの向上が見込めるだろう。

 ロットフェルトの領地に近づく。徐々に人通りが少なくなり、ロイクは逸る気持ちに呼応するようにアクセルを踏む。郊外へ向かう閑散な道路上に何かがいるのが見えた。

 ……なんだ。人?

 車の速度を緩め、その存在を確認する。まさか、サーヴァントか。そうであれば今度こそ令呪を使わなくてはならない。幸いにもこちらは車の中だ。令呪を使う間もなく殺されることはあるまい。

 その人間が近づく。そしてロイクはそれが誰か気が付いた。ドアを開け向かい合う。

「久しぶりだね。ロイクさん。ここにいれば会えると思った」

「何のようです?僕はまだ敗退していませんよ。ヘルマン神父」

 神父服を着た柔らかい印象の男。ヘルマンだ。ロイクはランサーを召喚した後に一度だけ彼の元を訪ねている。二度と訪れないと宣言した記憶もある。

「いやね。君に渡さなくてはならないものがあるんだ」

 何だ、と尋ねる前にヘルマンが改まった調子で言う。

「ロイク・ロットフェルト。今から君に僕の持つ令呪を一画譲り渡す」

 令呪の委譲。令呪は魔術刻印の一種であるので適切な魔術さえ行使できれば容易だ。だが、何故それをロイクに行う?一画分とはいえ、これは明らかな贔屓だ。場合によってはこの行為事態が戦況の決め手となるほどの。

「これは、ロットフェルト家の当主が僕に願い出たことだ。曰く、平等な状態での戦いが見たい、だそうだ」

 ロイクは先のアサシンとの会話を思い出す。明日、テオがロットフェルト領地に攻めてくる。間違いなく、ランサーとライダーの戦いになるだろう。

 ……当主はその戦いをもって後継者を決めるつもりか。

 リーヌスのサーヴァント、アサシンは助力を求めるほどの死に体だ。ステータスも異常と思えるほど低かった。他のマスターの状況はわからないが、既に状況はそこまで進んでいるのか。

「僕には意図がわからない。けれど、この聖杯戦争はロットフェルトの後継者を決めるための儀式。本来は元当主が全権を持っている。途中で勝者を指名して、すべてを終わらせてもいいくらいだ。……令呪一画の行方を自由にする権利はある、と審判役として判断した」

 ヘルマンが右腕を捲り上げる。そこには彼のもつ令呪が宿っている。

「無論、君が望まなければ無理に与えることはしない。どうする?」

 ロイクは迷うことなく自身の左手を差し出した。断る理由はどこにもない。聖堂教会の審判役であるのならば、その言葉に偽りはない。

「もちろん受け取る。当主に伝えてくれ。必ずや次代の当主に相応しい勇猛さをお見せすると」

 ヘルマンが満足そうに頷くと、小さな声で呪文を呟く。そしてロイクの手に痛みが走る。だが、その痛みには覚えがあった。令呪が宿ったときの痛みと同じ。つまり。

 光を失っていた令呪の一部が、その輝きを取り戻している。完璧な形だ。思わず、ロイクの口から歓喜の笑いが漏れる。

「良い戦いを祈っているよ」

 ……嗚呼、素晴らしい。

 期せずして全ての用意が揃った。胸の炎が全身を覆うように広がる。戦いが待ち遠しい。逸る心を抑えることなく、ロイクは車の速度を上げる。バックミラー越しに見えるヘルマンが急激に小さくなっていった。

 



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36

 カヤ・クーナウは激怒していた。

 図書館で何かしら魔術が行使されたのを検知すると、扉付近でロイク・ロットフェルトを発見した。偶発的な遭遇。本来の聖杯戦争であれば、この状況は圧倒的有利である。相手に気づかれず、一方的に存在を検知している。だが、カヤ特有の事情が混乱を招いた。

 カヤはロットフェルトのマスター以外を排除するために雇われている存在だ。ロイク・ロットフェルトは正式なロットフェルト家のマスターであるため、カヤが攻撃すべき対象ではない。仮に攻撃した場合はロットフェルトの当主がカヤの心臓を止めるだろう。

 しかし、相手から見ればカヤの存在は敵対マスターの一人となる。マスターだと感づかれれば攻撃されることは避けられない。

 サーヴァントは引き連れていないか。バーサーカーのような制御が効かないサーヴァントを連れていた場合、この図書館では一般人を巻き込みかねない。魔術師が当たり前にすべき魔術の秘匿さえ難しい。

 静かに去るべき。そう結論づけ、どこかで書に耽っているであろうアサシンに状況を報告すると、意外な答えが返ってきた。

『よろしい。んん。私が彼をけしかけてみよう。後、宝具で監視下に置かせてもらおう』

 そしてアサシンはカヤの返答も聞かずに、行動を開始した。こともあろうに堂々とロイクの前に座り、話しかけ、ごく自然に自分がサーヴァントであることを伝えた。

 ……心臓が止まるわ。

 本棚を物色する振りをして二人の会話に耳を傾けていたが、アサシンは真実と虚実を混ぜ合わせロイクを誘導しているようだ。狙いはカヤにもわかる。ロイクをキャスター・ライダー陣営にぶつけようというのだ。

 ロイクが少しでもアサシンを疑い、自身のサーヴァントを出現させたら、カヤは令呪を切るつもりでいた。環の元までアサシンを飛ばし、自分は急ぎ環と合流する。カヤはこうなるであろうことを予感して、いつでも行動に移せるように緊張を保ち続けていた。

 しかし、それは杞憂に終わった。ロイクは結局サーヴァントを出現させることなく、図書館を去っていった。

 そして現在、カヤはロイクが座っていた席につき向かいにいるアサシンを睨む。

「あのねえ!相談もなく命を懸けるような真似しないでくれる!」

 人払いの結界はカヤが張り、今も維持している。だから、どれだけ怒鳴り散らそうとも迷惑はかからない。

「ふむ。んん。懸けていたのは私の命のみだ」

 カヤの怒声に気圧されたのか、いつもよりも幾分調子を落としてアサシンが言った。

「だから、あなたがここで死んだら私の聖杯戦争が終わるの!どういうことかわかる?遠からずわたしも死ぬってことよ!」

 カヤは語気を弱めない。自分が間違ったことを言っているとは思わない。それ以上に、先のアサシンの行動は得られる利益と負うリスクが見合っていない。

 今回の行動でロイク・ロットフェルトを監視下に置き、明日の夜半にロイクとキャスター、ライダー陣営をぶつけることが可能になった。

 しかし、ロイクを監視することにどれほどの意味があるのか。カヤにとっては彼は攻撃対象ではない。一方で積極的に保護する対象でもないのだ。兄弟の抗争で死ぬなら死ねばいい。そもそも、ロットフェルト領地に陣を構えているロイクなら、キャスター、ライダー陣営の攻撃に直ぐに気が付くだろう。今日の成果といえば、ロイクが明確に準備を始めさせることくらいだ。あとは、リーヌスがアサシンのマスターだと誤認できたことだが、これは彼も信じているかはわからない。

 カヤはアサシンの洞察力を信用している。故に、この程度の結論にアサシンが至らないわけがない。それでもアサシンがこの様なリスクを犯した理由は一つ。

「貴方、殺されようとしたでしょう」

 カヤは、努めて冷静に言う。この理屈屋の英霊の思考傾向を掴めていた。ここに来た理由と彼の目の前に積まれている本の数々が、アサシンの心情を表していた。

『私のな、評価を知りたいのだ。んん。後の世で私と私の同胞たちが、そしてかの女がどのように評されているのか、現世の者の言葉を知りたいのだ』

 彼の、ここに来る直前の言葉だ。つまり、彼はこの聖杯戦争に参加した理由をやり終えたのだ。

「自分だけ欲しいものを得られて満足かしら。確かに、気持ちが良いでしょうね。後世の世は、英国は貴方を高く評価しているわ。あなたにとってはこれ以上ない幸福でしょう。思わず帰りたくなるくらい?……でもね、私は貴方を評価しないわ」

 アサシンが視線を落とす。

「カヤ、すまない。すまなかった。確かに軽率だった。……君の言う通り、浮かれてしまったのだ。血と裏切りに満ちた我が治世が、英国の確かな礎であったことが。だが、だが。決して君を残して死のうなどと思っていたわけではない。これだけは、神に誓おう」

 アサシンは誤魔化しをすることなく、率直に話した。カヤはその殊勝な様子に怒りの矛を収めることにした。

「全く、勝手なことばかり」

「重ねて謝罪する。すまなかった」

「もういいわよ」

 カヤはそっぽを向いて、短くアサシンの謝罪に返事をする。思わず怒った態度になってしまった。

 ……参ったな、決戦直前にこじれちゃった。

 心の中で自分の言を見直すが、アサシンを傷つけるには十分過ぎる。如何に英霊とて感じ入る心はある。冷徹な魔術師であれば使い魔の心情になど露ほども気を払わないだろうが、徹しきれないのはクーナウの血か。

 ……私も所詮、大甘の子どもよ。

 自嘲すると何故だか悲しみが湧いてきた。

「カヤ」

 ふと、アサシンの言葉に応じて彼を見ると、カヤの元に跪いていた。一瞬、驚くが直ぐに意図を知る。

「今一度、忠誠を誓わせて欲しい」

 カヤは席から立ち上がり、足元のアサシンへ令呪の宿る左手を差し出す。肯定の意思表示だ。

「聖杯を我らのもとに。忠誠を誓いましょう」

 召喚されたとき一言一句変わらぬ言葉。令呪へ口づけようとするアサシンにカヤは言う。

「もう気が付いているのでしょう?私、聖杯を求めていないって」

 アサシンの動きが止まる。彼ほどの慧眼をもってすれば、分かっているはずだ。カヤはただ、ロットフェルトの要請に答えるだけ。だが、アサシンが責めることはしないはずだ。彼にはもう、この戦いに望む理由はないのだから。

「では、カヤ、貴方はこの戦いに何を望む」

 アサシンが真摯に問う。

「私と、クーナウに仇なす全てを討つ」

 カヤも、その言葉に応じて真摯に答えた。

「カヤ。それは誓えない。私が仕えるのはマスターたる貴方だけだ。……貴方の家ではない」

 カヤは思わず苦笑する。このサーヴァントは本質的に真面目なのだ。わかったわ、と言って言葉を変える。

「私に仇なす全てを討ちなさい」

「誓いを此処に。我がマスターよ。貴方に仇なす全てを、このフランシス・ウオルシンガムが討ちましょう」

 そして、アサシンがカヤの左手に口づける。ようやく、このサーヴァントと本当の契約ができた気がした。

 



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37

 テオ・ロットフェルトの夢は、いつだって現実の残酷さを際立たせた。

 母と妹と暖かい食卓を囲む夢。目覚めれば、生まれ故郷ですらないスイスの地で、血が繋がっていることのみが繋がりの人間達とテーブルを囲んだ。

 妹と、ハンナと街へ出る夢。目覚めれば、陰鬱で満たされた魔術工房で生死を彷徨うような修練の日々が始まった。

 すべてを捨て、独り異国を歩く夢。目覚めれば、ロンドンの鈍色の空と荒廃したような安宿がテオを迎えた。

 いつだってテオは無力だった。望むものは儚く、ともすれば努力すら要せずに手に入れられるかもしれないもの。しかし、テオの周囲は否応なく全てを奪った。

 夢は、いつでもその事実を突きつけてくる。

 しかし、今日の夢は趣が異なる。

 テオが船の上に立っている。見覚えのある朱い帆の船。多くの男達が乗り込み、テオに気概を示すように声を掛ける。誰もが精悍で、戦いに赴く戦士の顔をしていた。

 戦いが始まる。海上で見つけた敵船に乗り込み、敵兵を斬り捨てる。テオは先駆けだった。誰よりも先に船首から敵船に飛び乗り、誰よりも果敢に戦った。

 胸に宿っていたのは悲愴な決意。テオには故郷を同じくしているはずの敵兵が憎らしく、たまらなかったのだ。

 ……生かしてはおけない。

 共に戦う戦士たちは、テオを囃す。それでも悲しみは拭い切れない。憎悪が消え去らない。そして、感情のままを殺し尽くし、運良く残った敵兵を母国に返す。

 王に伝えろ、ジャンヌ・ド・ベルヴィルが会いに行く。

 それを繰り返し、繰り返し、繰り返した。飽くほど繰り返し、それでも感情が身体を突き動かす。十年以上の月日が経っていた。既に、憎悪の対象たるフランス王は死んでいた。それでも続けた。

 唐突に、終わりを迎えた。

 賜りし朱い帆の船は沈み、数多居たはずの戦士たちも死んだ。しかしジャンヌは生きていた。息子と共に、簡素な小舟で漂流している。

 もう幾日も海の上。消耗は激しく、息子達も長くはない。特に消耗が激しいギヨームがジャンヌの手を取り、何かを言う。

 末期の言葉。息子は、ジャンヌを置いて先に死のうとしていた。

 朦朧とする意識でジャンヌは彼の言葉を聞き取ろうとする。耳をギヨームの唇に寄せ、言葉の一つでさえ聞き落とさないように。しかし、彼の言葉は聞こえない。ギヨームが声にする前に力尽きたのかも知れない。ジャンヌの体力が限界を迎えたのかも知れない。

 ジャンヌは五日間に及ぶ漂流の果てに、その生命を繋いだ。ギヨームは既に事切れていた。

 此処に居たり、ジャンヌを蝕む悲しみと憎悪は消え去っていた。剣を取る気概も消え、いくら戦士が持て囃そうと聞く耳を持たなかった。

 その心を占めるのは後悔。ギヨームの朧気な視線と、何かを伝えようと動く唇。決して誰も知りうることのないその言葉を、聞き取れなかった後悔だった。

 

「やっと起きたか。寝過ぎじゃねえのか」

 安宿で目覚めると、ライダーが不機嫌そうにテオを覗き込んでいた。既に当世風の服に着替えており、いかにも手持ち無沙汰と言った風情だ。

 ……今の夢は一体。

 思案して、テオは思い至る。あの夢に出ていたのは間違いなくライダーだ。船体を黒く塗られ、朱い帆を掲げた船。伝説とまで言われた勇猛ぶり。そして、子どもを失うことで幕を引く戦いの日々。

 テオはライダーへ魔力を供給するためにパスを繋いでいる。パスは精神をつなぐことと等しい。そのため、相手の経験したことが夢としてテオに流れ込んだのだろう。

 ……それにしても、悲しい夢だ。

 テオは予めライダーの史実を可能な限り調べている。先の夢はその史実をなぞるように展開し、彼女の戦いの終焉とともに目覚めた。

 史実に無い点は一つ。ライダーの、ジャンヌ・ド・ベルヴィルの胸中だ。

 目の前でテオに着替えを急かす女性のものとは思えない、深い悲しみと憎悪。その果に狂ったともいえる勇猛ぶり。

 ……なによりも、最後の光景。ライダーはギヨームの言葉を聞き取れなかった。

「なあ、ライダー」

 思わずテオはライダーに声を掛ける。何か言わなくては。そう思ったのだ。しかし、言葉が出てこない。ライダーは既に死した身。励ましも意味はなさない。

「なんだよ。泣きそうな顔しやがって。人のことを呼んでおいて、無言ってことはないだろ」

 何も言えないテオをライダーは苛立たしげに詰る。そして、何かに気が付いたようにはっとすると、片手で顔を覆い隠した。

「お前さ、まさか」

 パスが繋がっていることは、ライダーも当然知っている。だから、目敏い彼女は自分のことをテオが夢に見たことに感づいたのだ。

「す、すまない。見た」

 テオはそこに至り、ようやく言葉を形にする。ライダーは照れるような、呆れるような様子で大きく溜め息を吐いた。

「……恥ずかしいもんだ。アタシの人生ってのはひどい感情で塗りたくられるばかりでさ。そこに突き動かされるように何でもやったさ。血なまぐさい絵ばっかりだったろ」

 ライダーがベッドの端に座る。重みでスプリングがテオの身体を揺らした。夢の中の黒と朱の船を思い出す。

「いや、そんなことはない」

 テオには、そんな光景など気にもとめなかった。むしろ、気にかかるのは彼女の心象。ひどい感情と言うには、あまりにも深く底の見えない思いが印象に残っている。

「ライダー。お前は聖杯に、何を望むんだ」

 テオとライダーは召喚時に約束をしている。テオの望みである妹ハンナを救うこと。そしてその後に聖杯を奪取する。しかし、その先にある聖杯に望む願いというのは聞いていなかった。

「気になるか?テオに迷惑はかからん願いだ」

 テオも、何となく察しは付いている。その上で聞いたのは、夢に見たジャンヌと目の前のライダーの印象があまりにもかけ離れているためだ。

「わかったよ。マスターとしての問だ。答えよう。……アタシはこう見えても結構な歳でね。子どもも居た。血の気の多いやんちゃな息子は私の船に載せて、いっしょにフランス狩りをしてた。私に似て、なかなか筋が良かったよ。

 だがね、私のミスで死んじまった。それも、長く苦しむ形でね。そこで思ったんだ。アタシは、自分の生き方に子供達を巻き込んじまったんじゃないかって」

 ライダーの息子。ギヨーム。漂流の果てに絶命した。その光景をテオは知っている。

「だからよ。死んだ息子の言葉を知りたいんだ。あいつ、死に際に何か言いたそうにしてたからな。思わず聞き逃しちまったけど、拾ってやらないと可哀想だろ?」

 ライダーはそういって寂しそうに笑みを作る。

「アタシの願いってのはこれだけ。誰にも迷惑を掛けない、小さな願いだ。だけど、死者の声ってのは聖杯でも使わない限り聞く方法はない。……譲るつもりはないさ」

 万能の願望機を前に、母国からあらゆるものを奪った女海賊はあまりにも切ない願いを宿していた。テオにはライダーの願いを笑うことはできない。テオもまた、願望機を望まずに肉親の無事を望んでいるだけなのだから。

「……まったく、野暮ったい話しさせやがって。二度とこの話題を振るな。……あと、腹が立ったから飯と酒を買ってこい」

 ライダーがテオから顔を背けて言った。彼女の深部に踏み入ったことを後ろめたく思ったので、テオは外に出る準備をする。

「酒は要らないだろ?」

「なんて吝嗇なマスターだ!傷ついた女を癒やすのに酒の一滴も渋るだなんて!」

 ライダーが大仰に言う。

「そうじゃない。明日にはゲルトともに攻撃を仕掛けるんだ。飯はともかく、酒なんて飲んでる場合か」

「逆だ馬鹿。明日に大きな決戦を控える。だからこそ、最後のこの日に大いに酒を飲むんだ。そして、大いに語り、大いに笑うのさ。明日死んでも良いようにな。……これが、アタシの周りにいた男たちの美学だった。アイツラに囲まれていたから、アタシは十三年間なんて馬鹿みたいに長い月日、感情に押し潰されずに戦えたんだ」

 夢の中、ライダーの周りにいた男達。戦士の精悍さと海賊の粗暴さが入り交じった彼ら。彼らに支えられていたから、ライダーは内面とは異なる、竹を割ったようなさっぱりとした性格になったのか。

「まあ、戦い初めのアタシはもっとこう、どろっとしてたがな。根暗じみているというか。……アタシがそれなりにさっぱりした状態で召喚されたのは、マスター、アンタがそうさせたのさ」

 そう言って、ライダーがテオを指差す。そして、ハンガーラックにかけてある薄汚れたコートをテオに投げ渡した。

「アンタが妹を望むのではなく、この状況を作った親父を憎んでいたら、アタシは復讐者の側面が強く出て召喚されていただろう。もしかしたら、バーサーカーだったかもしれないな。今のアタシは海の男に混じって戦いに興じ、フランスの船をぶっ潰すことだけ考えていた頃のアタシだ。多分、血みどろの人生の中で今のアタシが一番折り合いが付いている」

 そう言って、ライダーが自分のコートを羽織る。当たり前のように、彼女も付いてきてくれるようだ。同調するようにテオはコートを羽織り、宿から出た。ルスハイムの暖かい陽がテオとライダーを迎える。

「じゃあ、とりあえず酒屋だな。この時代のビールはうまい。買えるだけ買ってこようぜ」

 苦笑いと共に、テオは頷く。ライダーの笑みが眩しかった。

 今日の夢は、あながち悪い夢とは言い難いな、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えていた。

 



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38

 カヤ・クーナウが自身の工房である廃墟に戻ると、既に環が帰っていた。この工房で唯一まともだと言えるソファに座っている。彼女のサーヴァントたるアーチャーは見当たらない。

「カヤさん。お帰りなさい」

 何事もないように環はカヤを迎えるが、その雰囲気はどことなく沈んでいるように見えた。カヤはただいま、と奇妙な感覚を得ながらも返答する。

 ……こんな小屋で出迎えられるなんて思わなかったわ。

「それで、プラウレン湖までの道はどう?使えそうだった?」

 カヤが環に依頼していたこと。それは環が聖杯戦争序盤に通ったとするルスハイム郊外からプラウレン湖に続く道がまだ入れるかどうか確かめることだ。

「時間がかかりましたけど、見つかりました。奥まで行っていないので分かりませんが多分大丈夫」

 環はそう言って微笑む。それに微笑を返しながら、アサシンに念話で確認をとる。

(この子、本当のことを言ってる?)

(嘘はついていない。確かに名刺が示す道を探し当てていた。ふむ)

 アサシンは宝具『不義の密命書(バビントン・プロット)』により、対象となる人物の見聞きしたことを取得することができる。環は既に監視下に置かれているため、カヤと別れてからの行動は筒抜けだ。

「それは良かった。明日はきっときつい戦いになる。山を越えるのは御免こうむりたかった」

 カヤは本心から安堵を口にするが、環ははい、と小さく返すだけだ。何かあったのか、と疑問を口にしようとして、アサシンが念話で答えを言う。

(どうも、ミス宮葉は軽率な行動を恥じているようだ)

(どういうこと?)

(彼女の脇の荷物を見給え)

 アサシンの言に従い、環の座るソファの足元を覗く。テーブルの下に、カヤが置いた覚えのない布の鞄があった。環があ、などと焦った声を出すが、構わずテーブルの上に置く。中を開くと思わずカヤは笑ってしまった。

「あの、えっとごめんなさい。私、昔から嫌なこととかあると、これに頼っちゃって」

 中身はカヤにも馴染み深いものだ。むしろ、環の見た目でよく買えたと思う。瓶のに詰められた黄金色の液体。ビールだ。

「いいわよ、いいわよ。よく考えればこうやって互いを知るってことも必要だったのかもね」

「そんなわけないだろ」

 カヤの笑い声に応じて、アーチャーが実体化する。柔らかい印象を与える彼だが、いまは怒り心頭という様子だ。

(ふむ。んん。どうやら我々が来る直前まで二人は喧嘩をしていたようだな。主にこの麦酒を巡って)

「カヤ。自分で言っていたじゃないか。明日は戦いの日。その前にこんな量の酒を飲むだなんて信じられない。万全で臨むべきだ」

「カヤさんに当たらないでください。先から言ってるじゃないですか。買っちゃっただけです。今日はもう飲みませんって」

 今日はもう、という環の言葉にカヤは疑問を覚える。テーブルの上のビール瓶をいくつか改めると、一つ既に空になっている瓶があった。

「あら、もう飲んでるの」

「そうなんだよ、カヤ。信じられるかい?ただでさえ未熟で間に合わせのマスターであるのに、その上に酩酊状態にまで陥ろうというのさ。我がマスターは勝利を捨てたよ」

「まあ、落ち着き給え。んん。アーチャー、見たところミス宮葉はさほど酔ってはいないようだ」

 アーチャーのあまりの喚き様に、思わずアサシンが口をはさむ。

 ……まあ、お酒くらい目くじらを立てることないわ。

 アーチャーの言う通り、明日に差し障りがあると話にならない。しかし、カヤも環も明日には生死を掛けた戦いに臨むのだ。この程度の我儘を許さずに、わだかまりを残したくはない。

 改めて隣に座る環を見ると、先程言い返していた元気もなくなり、落ち込んでいる。

「ダメですよね。私。つらくなるとすぐ他のことに逃げるんです。稼業もだめだし、仕事もうまくいかないし。……今だって本当は明日のことを考えなきゃいけないのに、ついこんなのに逃げちゃう」

 そう言って環はビール瓶を指で突いた。かん、という小さい音がする。明日のプレッシャーのために神経過敏になっているのだと思った。

(アサシン。丁度いいから環の本音ってやつを聞いてみるわ)

(ほう。どうするのかね)

(簡単よ。……適当に止めてね)

 訝しむアサシンを尻目に、カヤはテーブルのビール瓶を一つ取る。中身の入っているそれだ。鞄の奥にある栓抜きで栓を開けると、躊躇わずに口を付ける。

「カヤ!何を」

「カヤさん?」

 アーチャー主従が驚愕を示す。口の中にはほのかな炭酸の刺激で満ちる。そして後を追うようにオレンジの様な果実の苦味が訪れた。瓶の半量ほどを飲み下す。久しぶりのアルコールの刺激に、思わず溜め息が漏れる。

 聖杯戦争の本格的な準備を始めてから、アルコール類は一切取らなくなった。嫌いというわけではない。むしろこの複雑な味わいはカヤの好むところだ。

「久しぶりに飲んだけど、やっぱりいいわね。ビールって。チーズとかないの?」

 カヤの様子を環が未だに驚くように見ている。怒るとでも思ったのだろうか。まさか、明日の緊張に、何かに縋りたいのはカヤも同じだ。何もなければ、自己暗示の魔術で早々と眠っていただろう。

 そしてカヤは立ち尽くすサーヴァントに対して戦闘時と変わらぬ口調で言った。

「アサシン、アーチャー。使い魔らしく、つまみでも買ってきて」

 

 カヤの狙いとしては、依然アサシンから頼まれたように環が既に何者かに操られている可能性がないか確かめることがあった。しかし、既に環の行動はアサシンによって一定期間監視しており、独りになった時間でも怪しい点は見られなかった。むしろ、環の行動を肯定して少しでも緊張を和らげたかったという思いが強い。

 アサシン達が憎まれ口を叩きながら帰り、ビール瓶を開けてからはや一時間程。渋面を作っていたアーチャーでさえ、その場の空気に飲まれ酒を口にしていた。

『僕は飲まないと言っているだろう。何度も言わせるなよ』

『如何に環の言うことでもな。護衛失格だ』

『飲めないわけではない。飲まないのだ』

『カヤ!何故僕の前に盃を置く?』

『アサシン!何故注ぐ?』

 目の前の盃を乾かさないなんて、なんて失礼なサーヴァントでしょう、という環の小さい声が最後のひと押しとなり、結局アーチャーは口をつけることになった。

 その場は二つの島に分かれていた。自己嫌悪に陥ったアーチャーをアサシンが慰めすかし、不安に苛む環の口をカヤが穏やかに聞いていた。

「なんだって、私ばっかりがこんな目に。家を出てからも、ちゃんと仕事ができたことがない」

 既にカヤは環の口から、彼女のこれまでの略歴のようなものを聞いている。

 才能がなく、家業を継げなかったこと。

 世継ぎを産む母体としてしか期待されなくなったこと。

 勢いて飛び出して、魔術師の工房や遺跡から価値有る品を拝借する稼業に手を染めつつあること。

「もう、全然うまくいかないんです」

 そして、それさえもうまく行かず、聖杯戦争に巻き込まれていること。

「きっと無事に帰れるわ。そのために、私達は手を組んだんじゃない」

「感謝しています。でも、それだけではダメなんです。私は、私が独りでも生きていけることを証明しないと」

 カヤには環の置かれている状況がよくわかった。自分と似ている、いや近しい。カヤも魔術師であり割合一般的な感性の両親に育てられた。しかし、それは運が良かっただけだ。もし、カールの身に何かがあったら、カヤが次のクーナウの当主としての責を負うのだ。魔術の才能が見合わなければ、カヤとて次代の当主を産むことを期待される。

 ……要は、カール兄さんがいたから気楽な立場ってことよね。

 だからこそ、他人事でない。弱さを吐露するこの少女はカヤにとってはあり得る未来のひとつなのだ。

「魔術師の家なんて、いいことないわよね」

 ぽつりと、溢すように言う。そしてその言葉に自分が驚いていた。ただ励ますために、環の欲する言葉を選んだだけ。決して、本心ではない。カヤはクーナウの家に生まれたことに後悔はない。クーナウの家を続かせるため、この戦争に参加することになんの不満もない。

 ……絶対に、ない。

 それなのに、何故自分からこんな言葉が溢れるのか。

 環が、ええ、と答えた。カヤは唐突に頭を冷やしたくなった。

「ちょっと、外に出てくるわ」

「ここも外みたいなものじゃないですか」

「確かにそうだけど、気分の問題よ」

「戻ってきてくださいね」

「ええ、もちろん」

 そして、工房を出る。既にルスハイムは闇に覆われており、見上げると月明かりが工房を照らしていた。月が大きく見える。山の清涼な空気が、火照る身体を静かに冷ましていく。思考が鮮明になっていくのを感じる。

 ……環があまりにも、ありのままだから。

 環のような自分の心をあるがままに見せる魔術師は基本的に少ない。どこにいっても、如何に自分の得するか、優位な情報を引き出せるか、策謀している。魔術師の本拠地たるロンドンの時計塔は更に過激に謀略戦が繰り広げられているらしい。

 皆が、自分の家や勢力を伸ばすのに躍起だ。その家に背を向けるなんて、今まで考えたこともなかった。もし、自分が父と母に子を産むためだけの存在だと宣言されたら、と考える。

 ……受け入れちゃうだろうな。

 それが、クーナウの家のためなら。そのあり方が例え普通でなくても、カヤは飲み込む。それが魔術師の子の当たり前のあり方だからだ。

 そういえば、環と同様に家に背を向けた人物がいた。テオ・ロットフェルト。彼は何故ロットフェルト家を出たのだろうか。ライダーとの戦闘を見ていると、魔術の才が乏しいようには見えない。環のように家から落伍者として扱われることもなかったろう。

 ……魔術の才を持ちながら、自分の家に恨みを持つ。

 ゲルトと組むと分かっていなければ、カヤたちもテオと協力関係になりたいと考えていた。それはあくまで敵対する可能性が低いためであり、カヤの内心におけるテオの評価は良くない。才がありながら家の宿命に背を向け、あまつさえ牙を剥こうとする。

 ……一度、会って話がしてみたい。どんな考えをしているのか。

 そんな思いを巡らせていると、次第に身体が冷えてきた。少しの間だけ外に出るつもりだったのでコートを忘れていたのだ。

 環が待つ工房に戻ろうと身を翻す。そこにはアーチャーがいた。

「驚いた。居たのなら声を掛けてよ」

「すまない。環に気づかれたくなくて」

 先程まで口うるさくしていた雰囲気は消え去り、そこには英霊としての真剣な眼差しの弓兵が居た。

「折り入って相談がある。環をこの戦争から離脱させたい」

 戦争の離脱。アーチャーの言葉は酔いの覚めたばかりの頭には理解が難しい。

「どういうつもり?この場に及んで抜けられるとでも思っているの?」

「戦いを拒否するつもりはない。ただ、カヤ、君も分かっているだろう。環はこの戦いに向いた人間ではない。彼女の令呪を剥奪してこの戦争と関係を断ち切ってもらえないだろうか」

 徐々に、この弓兵の言いたいことが分かってきた。しかし、根本的な疑問が尽きない。

「つまりアーチャー。貴方がマスターなしで戦うということ?サーヴァントとマスターの関係を分かっている?」

「理解しているとも。アーチャークラスには単独行動というスキルがある。これはマスターからの魔力供給無しで行動を可能にする。僕のランクなら二、三日は行動可能だ。戦闘には多少影響が出るけど」

 ……そのスキルは知らなかったな。

 どの程度戦闘に影響があるのかはわからないが、カヤも環を戦闘に巻き込むのは気が引ける。環が全ての令呪をアーチャーのバックアップに使い、教会に保護されるのはどうか。アーチャーはその後消滅するだろうが、約束を反故にすることなく環の身を守ることができる。

 そこで疑問が生じる。アーチャーの提案を飲んだ場合に生じる不可解な点。

「アーチャー、聖杯に用はないの?」

 カヤの疑問に、アーチャーの顔が歪む。

「叶えたい願いは……ある。しかし、ここで環が無為に死なせてまで叶えたいわけではない。環とも、彼女の欲するものを勝ち取ってから、聖杯を狙いに行くと約束している」

 苦渋に満ちた声でアーチャーが言う。つまり、彼は自分の願いを諦めてまで、環を救おうというのだ。

「忠臣ね。でも、当の本人はどうなのかしら?」

 そしてカヤは背後、工房の方を見る。そこには環が立っている。その表情は怒りだ。

「アーチャー。何を勝手なことを」

「環。聞いてくれ。君がこの戦争で生命を掛ける必要はない。僕が必ずキャスターを」

「アーチャー!」

 環の怒鳴り声が、アーチャーの弁解をかき消す。

「私は、ここで何も得ずには帰れない。そう言いましたよね。これが最後だと自分で決めました。例えキャスターを討伐できたとしても、その後がうまく行かなかったら、私は我儘を止めて宮葉の家に帰ります。例え、どれだけ屈辱的な立場に甘んじても」

 アーチャーが押し黙る。カヤは環の事情を知るため、その思いが痛いほどわかった。

 ……自分の心臓を他人に握られて、どうしようもないとわかったとき。

 無力で、ルスハイムに来るのは屈辱的な思いもした。環は今、その分水嶺に立っている。

「これで最後です。最後にします。だから、私の思うままにやらせてください」

 カヤは見た。環の目には大粒の涙が浮かんでいることに。彼女の覚悟は本心で、目を逸したくなるほど悲痛だった。

 環の思いをを感じ取ったのは、カヤだけではなかった。

「環。すまなかった。……僕は君の意思を軽んじていた」

「アーチャー。貴方は私の敵を討つために在ります。絶対に、忘れないでください」

 環は謝ることもなく、アーチャーに言い切る。

「んん。ところでなのだが、ミス宮葉はそこまでして何を臨むのかね」

 いつの間にかカヤの後ろに控えていたアサシンが、空気を読まずに言う。

「今、関係ないでしょ。それ」

「いいや。彼女の覚悟に私も心を打たれた。我々の利益に反しない限り、情報を提供しようではないか。んん」

 アサシンの腹には打算があるのだろうが、それでもカヤはこの黒い男に関心した。

「私の目的は二つ。一つはキャスターを討つことです。私は今、キャスターの呪いに侵されています。進行はしていませんが、キャスターがいる限り死の危険がつきまといます」

 アサシンの声に応えるように、環が凛と言う。そこには怯える少女は居なかった。

「それで?もう一つは?」

 アサシンが急かす。きっと彼はこの情報は知っていたんだろう。

「ロットフェルト家当主が持つ聖遺物を奪います。これが私の最終目的。失敗すれば最後と決めた調達屋の仕事です」

 そして、環が言う。彼女の狙っている聖遺物を。

「アーサー王伝説に謳われる騎士達が囲んだとされる円卓。伝説の円卓の欠片がロットフェルト家に存在します。それを私は奪います」

 



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第三章
39


 チューリッヒから二時間ほど車を走らせたところに位置する都市ルスハイム。その郊外に広がる山間には世人の知らぬ湖がある。プラウレン湖。手付かずの自然に囲まれ、その湖はあるがままの美しさを保っている。湖面に映る景色は山々の色合いを儚く映し、幻想的な風景を与えるが、それを知るものは少ない。

 冬の朝日が湖を照らす頃。山々を作り上げる木々は葉を落とし、湖畔は乾いた寂しさで満ちていた。そこに点在する数少ない人工物がある。人が住まうための家々だ。大小あれど、美しき湖畔の神秘を壊さぬように建てられている。

 そのうちの一つ。寝起きしている小屋に無造作に捨て置かれたボートに乗り、女は湖を渡ろうとしている。美しく伸びた長い髪は、手入れを怠っているためか痛みが見て取れる。着飾れば相応に気品漂うであろうその相貌も、今は貼り付けられたような笑みがあるだけだ。常人であれば近づくことを躊躇われる様子だ。

 しかし、ハンナ・ロットフェルトは自己に関心を持たない。ただ今は朝霧の先にある我が家を目指す。ハンナにはボートの運転技術などは持っていないが、水流を操る魔術を修めている。その魔術でもってボートを目的地まで運んでいるのだ。この程度ができねば一人で家に帰れぬのだから当然である。

 十分程、漂うような速度で進み、屋敷の船着き場に着く。軽い足取りでボートから岸に降り立つと、その拍子にボートが船着き場から離れて流されていった。だが、ハンナは気にすることはない。

 焦点が合わぬ、虚ろな目が屋敷を捉える。この船着き場はロットフェルト家に赴くためだけの施設だ。そのため、予期せぬ来訪者があれば直ぐに家人に知れる。今もそうであった。

「何用でございましょうか。ハンナ様」

 かくしゃくとした調子で出迎えたのは使用人であるクリストフだ。まだ朝日が出て間もない時間であるというのに、ハンナの来訪を驚く素振りすらない。

 彼女は正当なこの家の住人である。来訪の是非を問われる立場にはない。家人が屋敷に帰るのは当然のこと。しかし、生涯に一度あるかないかというほどの異常事態が、この家を襲っている。

 聖杯戦争。万能の願望機たる聖杯を賭けて、七人の魔術師が殺し合う血に濡れた儀式。このロットフェルト家の住人達はその儀式の渦中にある。そのため、如何に血の繋がった家族であろうと屋敷の門を越えることは禁じられていた。

「ただいま帰ったわ」

 その事実を知った上で、ハンナ・ロットフェルトは当然といった口ぶりで帰郷を口にした。当たり前の様にクリストフの横を通り過ぎ、門を通り抜けようとする。

「当主の言いつけをお忘れですか」

 クリストフが振り返り詰問するような口調で言う。ハンナは門の前、後一歩のところでで立ち止まり、クリストフを見た。

「あなたこそ、何を言っているの?」

 ハンナは本心から言った。聖杯戦争で踏み入れることならず。だが、そんなことはどうでも良いくらいの事態が起こっているではないか。

「既に、聖杯戦争は終わっているじゃない」

 クリストフが眉をひそめる。ハンナの言葉が理解できていないということが、ありありと伝わった。ハンナは呆れた様子を隠すことなく嘆息する。

「テオが、テオが帰ってきたのよ。ロットフェルト家の当主としてこの屋敷に連れてこられた我が兄が、長き巡歴を終えてこの地に帰ってきたのよ。……もはや聖杯戦争の意味はないわ。お父様がテオの代わりを生み出すために起こしたこの戦争も、テオが帰還すれば不要でしょう」

 ハンナはテオの戦う様子を既に見ている。相手が誰であるのかは知らないが、剣士のようなサーヴァントがあっけなく轢き潰された。当主に相応しい戦い様に狂喜し、直ぐにバーサーカーを迎えにやったが、待てどもテオは現れなかった。一時は落胆したものの、テオにはテオの事情があるのだろうと思い直し、必ず会えるであろう場所で待つことにしたのだ。

 それが彼の帰る場所である、ここ、ロットフェルト城だ。

 ハンナはそれで終わりと、クリストフの様子を見ることもなく門を超えた。その刹那、ハンナの目の前に一羽の烏が降り立った。銀の瞳を持っている。ハンナはこの烏の正体を知っていた。ロットフェルト家の当主のみに使うことを許された銀の瞳の使い魔。

「あら、お父様」

「戻れ。狂った我が娘。例えテオが戻ってこようとも、聖杯戦争は継続する」

 烏がハンナの言葉に応じた。無論、この烏がハンナの父たるクサーヴァー・ロットフェルトではない。銀の瞳の烏はクサーヴァーの使い魔だ。この烏越しにハンナは父と会話をしている。

「そう。まだ続けるの。でも、テオが帰ってきたから、彼の部屋を掃除したいわ。とても疲れているだろうから。それに、きっと直ぐにテオは全てのマスターを排除して此処に来るだろうから」

 ハンナは烏に滔々と告げる。烏の向こうにいる父の顔色は見えないが、きっと納得しているだろう。

「ハンナ。お前もマスターであろう」

「そうね。そうよ」

「この戦いから降りる、ということか」

「ええ。誰との戦いも望まないわ。でも、テオのサーヴァントはいけない。あの女だけは良くない。あの女だけは殺しておかないと」

 そしてハンナはその場にしゃがみ込み、自分を見上げる烏を手に取った。

「テオは必ず此処に来る。何時かは知らない。でも全ての兄妹を殺して、此処に来るわ。そのとき、あの女を殺して、私は戦いを放棄する。だから、私はここでテオを待つの」

 ハンナの手が烏の首元にかかる。嘴から何かが呟かれているが、ハンナには聞こえない。銀の瞳をただ見つめ返す。喘ぐ様が滑稽だと思った。

「ねえ?だからいいでしょう?ちょっとだけ部屋の掃除をして、テオを待つだけ。もしかしたら、女を殺すときに汚すことになるかもしれないけど、直ぐに片付けるから」

 手に込める力が増す。生き物の苦悶の声が朝霧で満ちる港に響く。そして、一際甲高い声がすると、ハンナは力を抜き去る。その必要がなくなったからだ。

「ありがとう。お父様」

 留める者が居なくなった道を、ハンナは意気揚々と歩き出す。装飾に満ちた扉に手をかけたとき、思い出したようにクリストフに声をかけた。

「これ、捨てておいて」

 手に持った銀の瞳の烏を投げ渡す。空き缶を投げ捨てるような、そんな気楽さで。

「お腹を減らしているかもしれないわ。ご飯も用意したほうがいいかしら。ああ、早く帰って来て欲しいわ、テオ」

 



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40

 テオ・ロットフェルトはルスハイムの郊外にある森にいた。薄汚れたコートを身に纏っているが、スイスの冬には些か薄着だろう。その風体は良く言えば生活難を超えて精進する苦学生で、悪く言えば住む宛の失った若い浮浪者だ。しかし、その相貌は決意に満ちている。淡い青の瞳は森の先、まだ見えぬ何かを見つめている。その様は苦難に喘ぐようにも、行く宛を失っているようにも見えない。薄汚れた身なりと、それを裏切るように炯々とたる眼光。そして、もう一つ彼を異色めいている要因がある。

 テオの傍らに立つ、長身の女だ。男と同等の背丈だが、彼女の背がより高く見える。そう思わせるのは、彼女のあまりにも堂々とした立ち姿故。見る者を捉えて離さない美貌と、いたずらにそれを誇示しない気品。相反する特徴が調和した様はこの世ならざる高貴さを見る者に抱かせる。当世風の簡素な衣装を着ているが、それを気にかけさせない魅力が彼女にはあった。

 仮に彼らを主従と考えるならば、男は女に従う者だと思われるだろう。事実は違う。痩せぎすの男が主であり、堂々たる女がそれに従うサーヴァントである。

「飲み過ぎちゃあいないかい?テオ」

「当然さ、ライダー」

 ライダーと呼ばれた女の砕けた言葉に、テオは短く返す。テオを包む緊張が、長い言葉を選ばせなかった。

 時は既に夜半を迎えようとしている。冬のヨーロッパの日の入りは早く、四時ごろには日が傾き始める。この日も例外ではない。勤め人もまだ帰らぬ程の時刻であるが、夕暮れの様相を呈していた。間もなく、日は落ちて夜が訪れる。

 テオの緊張には明確な理由がある。今日が決戦の刻。ロットフェルト家に捕らわれている妹、ハンナ・ロットフェルトを助け出すときなのだ。目の前に広がる森を真っ直ぐ抜けると、直ぐに目的に繋がる長い一本道に出る。本来であれば、許された者のみが立ち入ることが叶う道。そこに至るための通行手形は、昨夜に用意されていた。それは協力関係にあるマスター、ゲルトによって届けられた。そして今は、テオの手に握りしめられている。

「今更だけど、その通行手形って奴は信用できるのかよ」

 ライダーが訝しむように言った。彼女の持つ力を使えば、この程度の結界は難なく突破できる。テオは目立つ行動を避けるために、このような抜け道を頼った。ライダーには面白くないのだろう。

「俺は曲がりなりにも元ロットフェルト家の人間だ。流石に自分の家の礼装の真贋はわかるよ」

 テオの手元の通行手形は名刺ほどの大きさの厚紙だ。そこには本来はロットフェルト家の窓口を務めるクリストフの名前が記されているはずだ。しかし今は文字が収束して矢印を成している。示す先は森の奥だ。

 ゲルトとの約束は夜。彼の性格であれば、きっと日が落ちてすぐに行動するだろう。時間にしても何にしても、余分を好まないのは知っている。

「まだ、時間はあるな」

 主従は並び、森を見ている。周囲には幾つか民家がある程度で、立ち尽くす彼らを不審に思う者もいない。

「ライダー、前から聞きたかったんだけどさ」

 テオが沈黙を破るように唐突に、ライダーに声を掛けた。

「なんで、お前は俺にそんなに優しいんだ?」

 ただ、沈黙を破るためだけの意味のない問いではなかった。これはずっとテオの胸の内にあった疑問。明らかにしたくとも、何故だか問うのは憚られた。

「唐突だな。いきなりどうした」

「いいだろう?これでも、緊張しているんだ」

 テオはわざとどうでもいい風を装った。緊張しているのも本当だった。ライダーがテオの様子を見て、快活に笑う。

「情けないマスターだ。武者震いを恥じることはない。……何、形は多少異なれどアタシとアンタは同じ痛みを知っているのさ。愛しき人に会えぬ痛みさ。アタシはもうどうしようもない。本当に、どうしようもな」

 ライダーが滔々と言う。愛しき人。それは彼女の死罪になった夫か。それとも末期の言葉を受け取れなかった息子か。

「けど、アンタは違うだろ?囚われているけど、会えるんだろ?……なら、会わせてやりたいじゃねえか。アタシの願いはその後で良い。こういうのは若い奴を優先してやらないとな」

 そう言ってライダーがテオの背中を叩いた。この段に至って、テオは何故自分の元にこのサーヴァントが訪れたのか、その理由を知った気がした。

「ありがとう、ライダー」

「何だテオ。死ぬのか?」

 死なねえよ。ライダーの口調が移ってしまったのが気まずい。それに気が付いたライダーが笑う。

 そして、森を朱に染めた日が落ち切る。夕闇がただの闇へと姿を変えた。今までは人の営み時間。今からは魔術師の戦いの時間だ。

「じゃあ、行こうか」

 森へ踏み入る。冬に静まる森の匂いがテオを迎える。枯れた草、朽ちた大木。踏みしめる感触が森の意思のようだ。近づくな。ここはまだ、ただの森。もしかしたら、テオの本心なのかもしれない。しかし、構わず進む。

 そして、境界線を越える、微かだが、明確な感覚があった。通行手形を持つ者のみが知りうる感覚。幾日か前は車だったので感じなかったが、今ははっきりと受け取った。

 目の前には道がある。左右を森で挟まれた長い一本道だ。所々の木が倒れており、道には大小の穴が幾つも空いている。見覚えがあった。これは、ライダーがランサーと戦闘をしたことによって生まれた傷。

「此処に出るのか。いやはや不思議な仕掛けだもんだ」

 呑気に口を開くライダーにテオは言葉が掛けられなかった。既に此処は敵地。何時どこから襲われるかわからない。

「さてとじゃあ、やりますかね」

 ライダーが戦闘状態に入る。テオの揃えた現代の服装から、彼女の本来の姿である海賊衣装に。

「ああ、行こう」

「あん?何やってるんだ、マスター」

 ライダーの意思を感じ、歩みだそうとしたテオを不可解そうな言葉で押し留めた。

「なんて学ばないマスターだ!またもや騎兵に歩行をさせようというのか!ここは既に敵地。歩いて財を奪いに行く海賊がいるものか!」

 そしてライダーの周囲に魔力が集中する。以前にも経験がある桁外れの神秘の凝縮。テオも魔力の喪失感を感じる。

「来い!我が誇りを取り戻すために!英国より授けられし相棒!」

 ライダーの咆哮と共に、黒い帆船が地面より現れる。ありえない神秘の出現に、木々が揺れ山が俄に騒ぎ出す。ライダーに手を取られ、テオも共に船首に上がる。木々を越える巨大な帆船からは、目的地であるプラウレン湖が見えた。

「は、なるほど。異様な魔力はあいつだったか」

 そしてライダーは懐の剣を抜き、そこを指す。ライダーがあいつといった存在。強化したテオの眼が捉えた。

 テオ達が立つ一本道の最奥。森の終わりにして下る山道との境目。依然、テオと環が崖から飛び降りた付近に悠然と立つその戦士は。

 身体に張り付くような黒い鎧。傍らには身の丈を優に超える長槍。肉食獣じみた視線が、テオとライダーを睨む。

 ランサーが、湖までの道を阻むように道の中央に立っている。

「さあ、行こうかテオ。あいつを超えて、邪魔をする全てを超えて、お前の望む物を奪い取りに」

 テオは黙って頷く。恐怖は既にない。緊張は飲み込んだ。戦う意思だけを身体に宿す。

 帆船の帆が降りる。それが合図。ライダーが宝具の名を叫び、テオの戦いが始まった。

「叩き潰せ!『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』!」

 朱き帆を掲げる黒い帆船が、地を砕き、森を進む。

 

 黄昏時が夜に変わる瞬間を、ゲルト・エクハルトはプラウレン湖を眺めながら迎えた。ゲルトは湖畔沿いを歩いている。雪が降ればこの辺りも白で一面覆われ、言いようもない幻想風景になるだろう。

 ……それが見られないのは残念だ。

 ゲルトが歩くのは既に戦場。敵対しているロットフェルト家の敷地である。しかしゲルトには周囲を警戒する素振りも、まして戦いに身が震えるような緊張も宿していない。ただ、自然体なままで、誰もいない湖の美しさを楽しんでいた。

 伴うのは背の低い少年だ。この世のものではないような浮世離れした雰囲気を持つ。寒さを凌ぐために厚手のダッフルコートを着ている。サーヴァント、キャスター。ゲルトの召喚した英霊である。

「ゲルト」

 キャスターがゲルトに声を掛ける。キャスターが指差している。その方向を見ると、ルスハイムに繋がる道が見えた。魔力の気配から、サーヴァントが実体化したのだろう。

 推測は確信に変わる。木々が揺らめき、静かな湖畔がざわめき満ちた。ただならぬ神秘が具現化したのだ。ゲルトには覚えのある魔力の気配。廃教会跡で見たライダーの宝具だ。

 テオ・ロットフェルトが約束を違えずにここに現れたのだ。

「ありがとう、キャスター。約束通り彼らも来たみたいだから、始めようか」

 そしてゲルトはキャスターの手を引き、湖面に近づく。

「ここら辺にしようか」

 透き通る湖面には、ただ微かに波があるだけだ。

 そこにキャスターが近づくと、早口に呪文を唱えた。現代の魔術師ではありえない魔力の濃度。ともすれば数人がかりで行う大儀式をキャスターは数節の詠唱で実現する。

 集積した魔力が奔流し、結果が現れる。

 湖面には小さな舟と長い髪の老人が居た。見れば粗末な作りだが、込められている魔力は相当なものだ。

 内心で驚嘆するゲルトを尻目に、キャスターは何でも無いように小舟に乗り込む。ゲルトも続くように乗り込んだ。

「渡し賃はいるかね」

「所詮皮だけだから、いらないよ」

 老人が舟を漕ぎ出す。夜霧の中を進む様はキャスターの体験を沿うようで趣深いと内心で笑う。

 ゲルトはテオがいるであろう方向を見る。サーヴァント同士が削り合う激しい魔力のぶつかり合いを感じる。きっと、ロイク・ロットフェルトが戦いを挑んでいるのだろう。

「頑張れよ。テオ・ロットフェルト」

 ゲルトは誰にも聞こえないほど小さい声で、呟いた。

 



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41

 ルスハイムの郊外は手付かずの自然が広がる。ロットフェルト家のあるプラウレン湖周辺は美しい自然を讃えているが、彼女のいる場所は趣が異なる。

 剥き出しの岩肌に、乱立する大樹。およそ人間が通るとは思えない厳しい自然をかき分けると、打ち捨てられた小屋がある。かつては変わり者の男が家族と住んでいたらしい。しかし、今は女が二人と人ならざる存在が二つある。

 カヤ・クーナウと宮葉環。そして彼女達が有するサーヴァントだ。

 カヤは焦りを覚えていた。今日の夜にテオ・ロットフェルトとゲルト・エクハルトがロットフェルト家に襲撃を仕掛けるというのは掴んでいた。

 ……だからといって、日が落ちてすぐにやる?

 昼過ぎからロットフェルト家に近づく人間がいないか、使い魔とアサシンによる監視に勤しんでいた。カヤの使い魔は異常を見つけられなかったが、アサシンの監視が変化を捉えた。

 今のカヤの視線はアサシンと共有されている。そして、今アサシンが見ているものは。

「ふむ。これは間違いなくライダー。そして相手取るのはランサーだな。……ランサーのマスターであるロイクは使い魔越しに戦いを見ているようだ」

 アサシンの宝具『不義の密命書(バビントン・プロット)』は対象の見聞きしたものを盗み見る事ができる。この宝具で現在監視下に置いているのは三人。

 ロットフェルト家の使用人クリストフ。

 アーチャーのマスターで協力関係にある宮葉環。

 ランサーのマスターで現在交戦中のロイク・ロットフェルト。

 アサシンが異常を検知したのはクリストフとロイクだ。今朝方クリストフが見たのはロットフェルト城に入るハンナ・ロットフェルトだ。この行動の意味はカヤにもアサシンにもわからなかった。そのため放置すると決めた。

 しかし現在。夕暮れが終わる瞬間に眼にしたのは明らかな戦闘の風景だ。

 既にライダーは彼女の持つ宝具を遺憾なく発揮しており、赤い帆の船が槍兵に迫っている。

 ……重要なのは戦況じゃない。此処にライダーが居るということは。

 ライダーのマスターであるテオ・ロットフェルトはこのタイミングで攻撃を仕掛けた。つまり、協力関係にあるキャスターも今頃行動をしているはずだ。

 ふと環を見る。カヤは環とは視界を共有していないが、状況は伝えている。そして、環はカヤよりもキャスターを討つ逼迫した理由がある。

「行こう。環。僕達もロットフェルト家を目指し、キャスターを討つ」

 環がアーチャーの声に応じるように深く頷く。見ると右腕を庇うようにもう片方の手で握りしめている。そこは、環がキャスターの使い魔によって呪いを受けた場所。傷口から徐々に身体が灰に変わる、恐怖の出発点だ。

「予定通り、僕と環はロットフェルト家へ行く。君とアサシンは此処で待機して欲しい」

「承知しているとも。んん。戦況はカヤを通じて逐一教える。特にキャスターが見つかったときは迅速にな」

 カヤに代わり、アサシンが応える。キャスターを倒せば環の呪いは解けると思われるが、万が一を考え環自身も戦場に赴くことにした。

 戦闘に不向きな環を連れて行くことに不安はある。昨夜の怯える様子が頭を過る。しかし、今に至って環は覚悟を決めたように前を向いている。

 ……一緒にお酒を飲んで良かったみたいね。

 カヤは胸中で自分の判断を自賛する。それを見咎めるようにアサシンが口を開いた。

「すまないね、アーチャー。我々は主従そろって戦闘力が皆無であって。私は監視で助力をしよう。……カヤ、もしかして暇かね?」

「知った上での協力体勢さ。君達がいなかったら、そもそもこの機会さえ与えられなかった」

 柔らかい笑みを浮かべるアーチャー。彼は環を伴い、工房を出る。その間際、環が振り返った。

「じゃあ、行ってきます」

「チャンスは今しかないわけじゃない。他のサーヴァントがキャスターを排除する場合もある」

 カヤの励ますような言葉に、環が戸惑うように笑った。

 環の心中は昨夜に知っている。彼女を蝕む呪いを解くだけじゃない。環自身が生き方を決めるターニングポイントをこの場と決めたのだ。ロットフェルト家の財宝を奪う。それは誰かが代われるものではない、環が自身でなすべきこと。

 わかってはいても、それでも無理をして欲しくはなかった。それでも、カヤは出立を祈る。

「いってらっしゃい」

 そして、アーチャーと環が工房を離れていく。半分の人間が居なくなった工房は些か寂しさを宿していた。

「私、暇じゃないから」

「んん。知っているとも。環達が私の使い魔と思っている動物達は、全て君が使役しているのだからね。だがあまりに自分を褒めるような顔をしていたので、少し戒めたかったのだ」

「本当に性格が悪い」

 アサシンはお決まりの、んん、という口癖を言って、そして黙った。カヤはアサシンが自分の仕事に集中し始めたのだと理解した。宝具で監視下に置いた者の巡回だ。

 同時に三人の見聞きしたものを監視するのは、並大抵のことではない。常人であれば、数分とやってられない作業だがアサシンは当然のようにまた、ときには軽口を叩きながら、それを実行し続けている。しかしこの正念場。さしもの英霊と言えど、平時の程の余裕は見られない。

 カヤも可能な限りの使い魔をアーチャーと環に伴わせている。彼らがロットフェルトの敷地に入るタイミングで使い魔を潜り込ませるためだ。人払いの結界に守られたロットフェルトの敷地には、この好機でしか使い魔を送る事はできない。

 アサシンの宝具に寄る魔力の消費。自身の限界数に近い使い魔の使役。カヤもまた集中が必要な立場であった。

「カヤ。アーチャー達が森に近づいている」

 アサシンからの報告にええ、と短く返す。使い魔の視界を覗くと、アーチャーが環を抱きかかえながら街を走るのを捉えた。使い魔の梟は彼らの様子を後ろから観察している。アーチャーを見失わないのは、使い魔の機動力を考慮してアーチャーが速度を緩めているからだろう。

 そして、アーチャーが足を止める。人気の更に少ない、まばらに民家が有るだけの奥地。降ろされた環が懐から名刺を取り出す。頷くと、アーチャーと共に道のない森へ分け入り始めた。

 ……ここ。

 そのタイミングに合わせて、使い魔の梟達が一斉に森へ飛び込む。総数は七羽。すべてが森へ入るが、弓兵と環は構わず走り続ける。境界線はまだだ。そして見る。前方に居たはずの二人の姿がかき消えていることに。境界線を超えた。確信と共に、使い魔へ司令を送る。

 ……往け!

 しかし、梟達は進めどもその境界を越えることはできない。すべてがある一線の前で羽ばたきをやめ、近くの木の枝に降り立ってしまった。

「アーチャー達が件の一本道に出た。そちらはどうかね?」

「ダメね。使い魔は一匹も通らなかった。やっぱりこんな浅はかな作戦、通じないわよね」

 溜め息をつき、カヤは森の使い魔達に帰還するように司令する。そして、ある一匹に集中する。

「それで、環は約束通りのことをしてる?」

 それは森にいるが、眠っている使い魔。その視点は今は暗闇が覆うが予定通りなら一本道を捉えるはず。

「イエス、だ」

 そして予定が現実と成る。カヤの使い魔の一羽が視界を得て、周囲を見る。所々の木が倒れている、一本道。環から聞いた道だ。

「よし。接続成功。ロットフェルト家に使い魔を送れたわ」

「……全く。こんな子供騙しの様な真似が通じるとは思わなかったよ。ふむ」

 アサシンは呆れる様子を隠そうともしない。カヤも本音を言えば情けない類の手段だと思っている。魔術師としての優雅さの欠片もない。

「環の鞄に一羽、使い魔を詰め込んでおく。……んん。魔術師ではなく奇術師の発想だ」

 鞄から環の手によって梟が取り出され、視界を得た。不安が滲むようにに環がこちらを見ている。

(大丈夫よ。ちゃんと見えているから)

(うわ。この子、念話ができるんですか)

(言ってなかったっけ?なるべく離れないように周囲を見てるから、伝えたいことがあったら念じて)

 梟越しに会話を済ませると、環の元から飛び立つ。冬の中空に身を躍らせると、視界が森を抜け急激に広がった。そして見る。湖がある。そしてその中央付近に、城めいた屋敷があった。

「久しぶりね。ロットフェルト城」

 城めいた屋敷を見るのは、カヤをこの戦争へ誘った三年前以来だ。忌まわしい思いと、守らねばならぬ義務感が交錯する。

「カヤ。感慨に耽っているところすまない」

 アサシンが声を掛ける。緊張を帯びている。

「ライダーとランサーが戦闘を終えた。ライダーは宝具の船に乗ったまま、プラウレン湖に向かっている」

 そして告げる。緊張の原因を。

「ランサーは健在だ。そして、アーチャー達のいる一本道の付近にいる」

 



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42

 夕暮れで湖面が朱に染まる頃。ロイク・ロットフェルトはプラウレン湖の周辺に点在する、ゲストハウスにいた。広々としたリビングには大きな暖炉が置かれ、炎が揺らめいている。

 ロイクの胸の内を満たすのは、それとは比較にならない熱量の炎だ。その原因、テオ・ロットフェルトが目の前にいる。正確には、ロットフェルト城へ続く一本道の入り口にいるのを、ロイクの使い魔たる烏が見ている。

 ロイクは昨日にリーヌスのサーヴァントを名乗るアサシンから、テオ達の行動を受け取っている。そのため、彼らを迎え撃つためにランサーを待機させていた。

 情報を訝しむランサーを説得するのには骨が折れたが、かの槍兵も一人の探索ではサーヴァントを見つけられなかったらしく、頼る情報もない状態だった。

『まあ良い。虚偽であればそのアサシンとやらを見つけ出して殺すだけよ。あの騎兵に興味はないが戦いの妙は弁えている。手慰みにはなろう』

 そして現在。ランサーの前に立つテオのサーヴァント、ライダーは只ならぬ魔力の集中を行っている。それが意味するものは一つ。

 ……宝具の展開。

 させてはならない。そう直感し、ランサーに指示を送る。

(ランサー!宝具を出させるな!直ぐに攻撃しろ)

 しかし槍兵は動かない。ライダーとの距離は大きく離れており、その距離を縮める手段がないのか。いや、違う。常識の枠ではこの思考は正しいだろう。だが、この槍兵は人類史に名を刻む英霊。彼我の距離など問題にはならない。では、何故に敵の切り札が開帳されるのを黙ってみているのか。

(黙れロイク。正体も知れぬのに近づく間抜けがいるか)

 向かい討つライダーもまた英霊。その真骨頂たる宝具に何が秘されているかわからない。ロイクはここに来て、戦いの指示を出すことをやめた。既に状況はロイクの理解を超えたところにある。ランサーの肉食獣じみた勘を信じる。

 そして、黒に塗られた巨大な船体が現れる。かつてランサーを襲撃した船首が、今はその全身を現している。森の枝に止まるロイクの使い魔が、見上げるように船首を見る。ランサーを睨みつけるように見下す女。ライダーだ。そしてその傍らに立つ痩せぎすの男。テオ・ロットフェルトがいた。

 ……テオ。テオ!

 胸の火が一層高く燃え上がった。思わず、ランサーに戦いを命じようとして口をつぐむ。ランサーは粗暴で一切の期待をこちらにかけない相手だ。しかし、戦いに関してはどの英霊にも劣らぬと信じている。

「叩き潰せ!『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』!」

 ライダーが剣を抜き、ランサーを指す。呼応するように朱き帆が降り、黒き船が地を割り加速を得る。

「悪いなランサー!この先に用があるんだ。道を開けてくれ」

「連れぬことを言うなライダー。命を賭けて遊んでゆけよ」

 船が地を進むという矛盾にも、槍兵は動じない。肉食獣じみた身体を伏せると、魔力が集中し身体が膨張する。ただの筋肉の膨張。しかし、ロイクの目にはランサーの全身が二回りほども大きくなったように見えた。

 槍兵がその溜めを爆発させる。同じく轟音を持って迫りくる船に迫る。

 ロイクにはライダー、いや、テオの狙いが見えた。彼らはランサーに興味はなく、このままプラウレン湖まで進むつもりだ。それ故にこの場で宝具たる船を実体化させた。

 ランサーにかの巨大な戦艦を押し止める方法があるか。ロイクが知る限りは存在しない。ランサーの宝具を開帳すればわからないが、この局面でその選択はしないだろう。ならばどうする。

 ロイクは答えを見る。ランサーは短剣を投げつける。それはライダーを傷つけるためのものではなく、あくまで船体を狙ったもの。そして狙い通り、短剣は黒い船体に刺さる。

 船首に取り付けられた砲台がランサーを狙う。ライダーの咆哮に合わせ、弾丸が発射される。砂塵舞う中、ロイクは見た。ランサーが飛ぶのを。

 その先は船体に刺さった短剣。そしてその短剣の柄を足場にし更に飛ぶ。

 槍兵の身体が中空に飛ぶ。

 砲台を超え、朱き帆さえも眼下に収めるほどの高さ。

 ロイクは烏を近づける。ただ、この戦いを逃さず見届けるために。

「これは、宝具ではない」

 ランサーが槍を構える。打つためではない。投擲の構え。

 上半身が捩じ切れんばかりに反らされた。

 月明かり差す中空に、黒い獣が口を開く。

 魔力と筋力が絡み合い、ランサーの身体に宿る。

 その力が、ランサーの身体が膨張させた。

 投擲の準備が整う。

 覚悟を込めた端的な一言と共に、槍が放たれる。

「死ね」

 ロイクの使い魔が見る。神速に近しい勢いで放たれた槍が、船体を射抜くのを。しかし、黒き船もまた神秘の結晶。船体を砕かれようとも留まることはない。ロイクの使い魔を置き去りにし、黒き船は速度を緩めずに先へ進んでいった。

 ロイクはランサーの槍のもたらす重要な結末を捉えられなかった。

 ……ライダーは、テオはどうなった?

 ランサーが長い滞空から地に降りる。両の足でしゃがみ込むような体勢だ。

(どうなった?)

(槍を失った。使い魔に持ってこさせろ)

 ロイクの問いに、ランサーが命令を返す。ランサーの槍は彼の持つ武装ではない。ロイクが彼の要望に答え、特別に用意した現代の槍だ。故に、投擲すれば砕けランサーが霊体化しても槍はそこに残る。ランサーの生前からの所持品たる槍は余程の戦いでない限りは使わない。

(まったく。貴様の槍でなければ仕留められただろうさ。だが、あの軟弱な槍では的が定まらぬ)

 ランサーが自分を置き去りにしていく船体を見ながら、呟くように言う。

(マスターの心臓を狙ったのだが、よく察して逃したものだ)

 



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43

 ランサーを後方に追いやり、黒い船は地を穿ち進む。既に目的地たるプラウレン湖とそこに浮かぶロットフェルト城は視認できている。しかし、あまりにも逼迫した状況がテオ・ロットフェルトを襲っていた。

 ……クソ。

 油断をしていたわけではない。そうであっても、あの槍兵が投げ放った槍は確かにテオの心臓を狙っていた。それを紙一重で躱すことができたのはライダーのおかげだ。

 中空に舞うランサーを見て、ライダーはテオを船尾へと蹴り飛ばした。あまりにも早い判断。それは以前の戦いで、ランサーがマスターを積極的に狙い撃つサーヴァントであることを見抜いていたため、実現した。

 しかし、槍兵は一枚上手だった。船尾に転がるテオに槍を投げる直前に狙いを変えた。支えもなく、踏みしめる足場もない空中での行動。その槍兵の機能美に刹那の間、気を取られた。

 一瞬に渡る攻防は意を通すという意味ではライダーの勝利だ。しかし、対価は大きい。

 

 ランサーの放った槍はテオの左脇腹を貫いていた。

 

「テオ!気張れ!」

 ライダーが叫び、船上に横たわるテオを貫く槍を折る。その衝撃に痛みが走り短い悲鳴が漏れた。

 ……痛い。いや、全身が熱い。

 ライダーにはテオを回復させる手段はない。できることは精々励ますくらいだ。

 これは明らかな窮地。テオの頭には撤退の文字が浮かぶ。だが、すぐにかき消した。此処で引くわけには行かない。後方にはランサーが控え、正面には本丸であるロットフェルト城がある。ランサーのマスターが誰だかは知らぬが、他のロットフェルトのマスターも直ぐに出てくるだろう。

 つまり、逃げ道はない。

「ライダー。変更はなしだ。……進め」

 痛みを堪え、なんとかそれだけを告げる。先程まで不敵な笑みを浮かべた女傑は不甲斐なさを恥じるように下を向いている。

「わかっているさ。魔力尽きるまで進んでやるよ」

 ライダーがテオの側を離れ、船首に向かう。テオは彼女の勘違いを正す気にはならなかった。感傷に浸り、前進を命じたわけではない。目的の達成を諦めていないから命じたのだ。

 テオは懐から小瓶を取り出す。赤黒い液体で満たされている。テオ自身の血を素に作成した、彼のみに有効な霊薬だ。

 テオは短くなった槍を自力で引き抜く。ライダーに抜いてもらえばよかったと後悔するが、声を掛ける気力はない。内臓が千切られる痛みが襲うが、躊躇わずに槍を引きずり出した。

 ……気が遠くなる。

 臓腑を抉る傷跡を認める。小瓶の中身を指につけ、傷跡を囲むように陣を描いた。目を閉じる。痛みと吹き出していく血液のために寒さが襲う。

 ……思い出せ。この程度ならば、クサーヴァーにやられたことがあるだろう。

 古い記憶を思いだす。ロットフェルト家での修業の日々。テオの治癒がどこまでの傷を癒せるか測るための実験。痛みと吐き気と恐怖の日々を。今以上の傷を治したことがあるはずだ。

 悪しき記憶を追い払い、そして魔術を行使するために集中する。イメージは逆周りする映像。一人の老人が若返り、母に抱かれる赤子と成るまで。その映像を魔力でもって早回しする。

「……リバース・プレイ」

 小さな声で、魔術の行使はなされる。

 テオ・ロットフェルトは治癒・回復魔術の古き大家たるロットフェルト家に於いて、一時は次期当主と言われていた男だ。とりわけ、自己に対する治癒は当主クサーヴァーでさえ認めるところであった。

 その真骨頂が今、赤の帆を張る船上で発揮される。テオの左の脇腹に空いた拳より一回り小さいくらいの穴が、ゆっくりと塞がっていく。外見の違いだけではない。穿たれた臓腑も同様に、緩やかではあるが、再生している。

「テオ、お前。大丈夫なのか」

 只ならぬ様子を察してか、ライダーが駆け寄ってきていた。既にテオの魔術は行使を終えている。後は緩やかな治癒を待つだけだ。

「死んだと思ったか」

 テオができる限り明るく言った。失った血と与えられた痛みが元に戻るわけではない。全身をだるさのような物が包んでいる。そうであっても、今にも泣きそうなライダーに強がりを言いたかったのだ。

「馬鹿野郎」

 女がそれだけを言って船首に戻っていった。

 テオは空になった小瓶を手に取る。ロットフェルト家に居た頃から溜めて、魔術によって加工を行っていたテオ自身の血。本来は大規模な術式を必要とする治癒魔術だが、濃縮されたテオの血によって術式の簡易化に成功した。もっとも、一度の魔術行使のために数年単位で血を貯める必要がある上に、即治癒するわけでもない。ランサーに負わされたこの傷も、治りきるまでにはあと数十分かかるだろう。

 一度切りの奥の手。窮地を脱したことは確かだが、この機会をものにしなければ無駄となる。テオは背後を見る。既に森は遠く離れ、傷を負わせたランサーも追ってこないようだ。この傷を見て、仕留めたと思ったのだろうか。

 木々を倒し、地を砕き進む船が大きく揺れた。上下に揺れる特徴のある振動。テオは記憶を思い返す。ライダーの夢で感じた、あの感触だ。

「待たせたな。テオ。中間地点に到着だ」

 船首に立つライダーがこちらを見て言う。既に調子を戻したようだ。

 テオは傷口を手で抑えながら起き上がる。ゆっくりと船首に向かうと、その意味がわかった。

 船はプラウレン湖に浮いていた。

「さあ、傷は治ったか。ここからが海賊の見せ場。地を征くなんて性に合わないこと、昔を思い出して嫌になる。……さあ、目的地はあそこでいいんだな」

 ライダーはカトラス剣で先を示す。そこには城じみた屋敷がある。ここからではまだ遠く、夜霧に遮られ辛うじて見極められる。ロットフェルト城。ハンナが捕らわれている場所。

「ああ、そこだ。そこにいるんだ、ライダー。見せ場と謳ったからには必ず届けてもらうぞ」

「当然だともテオ。私を煽ったこと、直ぐに後悔させてやる」

 女傑が不敵に笑みを浮かべる。朱き帆の船が速度を増し、かの城を目指す。テオは治りゆく傷口のことさえも忘れて、自分を待つ妹を想った。

 



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44

 弓兵は目が良くなくては務まらない。森を生き抜いた標的が感づかれぬほどの遠くから、その動きを視認し、引き金を絞る。アーチャーにとっての当然の日常だった。故に、森の中で音を立てず、また暗闇であっても目を光らせ、周囲を警戒するというのは彼の癖に近い動作だ。

 それが、功を奏した。

 カヤ・クーナウが発見し、我がマスターである環に伝えたところだと、この周辺にランサーが潜んでいるそうだ。ライダーとの戦闘後、何故か漫然たる動作で森へ霊体化して入ったらしい。

 アーチャーと環はプラウレン湖に続く道の周囲の森に、身を潜めていた。

 彼らの目的は二つ。

 一つはキャスターの討伐。これはマスターである環に対してキャスターが呪いを掛けているためだ。楽観的にはキャスターが倒れ、退去すれば呪いは解ける。しかし、万が一、呪いそのものが魔術として独立していた場合、キャスターを倒したところで解呪しないかもしれない。蛇や蜘蛛の持つ毒のような場合だ。この場合はキャスターに明示的に解呪を実行させねばならない。確実であるのはキャスターの令呪を奪い、強制することだ。

 二つ目はロットフェルト城に存在する遺物の回収。環はこの回収に心血を注いでいるが、アーチャーとしては優先度が下がる。昨夜の覚悟を聞いて胸打つものはあるが、命より大事ではないはずだ。

 アーチャーは環の考えを優先しながらも、自身で目的を再構築する。二つの目的の共通点は標的が同じ場所にいる可能性が高いということ。キャスターはロットフェルト城を攻める算段でここにいるはずで、環の目指す遺物は言わずもがな城にあるだろう。

 つまり、当面はロットフェルト城を目指すことで問題はない。

 そして、要らぬ戦闘を避けるためにキャスターとライダーが暴れてる間隙を縫い、目的を達成する予定だった。

 故に、この場でランサーと鉢合わせるのは避けたい。アーチャーはランサーとの戦闘を一瞬だけ経験している。投げつけられた短剣を銃で打ち砕いただけの交戦だったが、好戦的な目をしていたのを思い出す。こちらには環がいる。マスターを狙われれば勝ち目はない。

 アーチャーの指示に従い環は今目立たぬように伏せている。距離があるから目立たぬが、動き出せば気が付かれる可能性が上がる。

 ……ならばいっそ、此処で討つか。

 短絡的な考えが魅力に思える。向かい討つ敵をすべて討ち、悠々と目的を達成する。それができれば如何ほど楽か。アーチャーを支える魔力は十全とは言い難い上に、先のバーサーカーとの戦いで少々ではあるが消耗している。仮に万全であっても、アサシンを除く全てのサーヴァントを一人で相手取るなど非現実的だ。

 益体のない思考を切り上げる。

「アーチャー。待つべきです」

 同様に考えを巡らせていたのだろう。環がアーチャーに指示をする。

「アサシンはランサーの場所を感知できない?」

「先程聞きました。どうも、無理みたいです。カヤさんの梟も、霊体までは見つけられないそうです」

 ふと思いついたアイデアは、既に環の思考が通り過ぎていたものらしい。

 アーチャーは宮葉環というマスターを、戦闘力がない一方で冷静な判断が下せると評価している。昨夜は信じられない行動に声を荒げたが、彼女のそのような行動は日常時、危機が迫っていないときに衝動的に発する。一方で、明確に危険が迫る、今のような状況では取り乱すどころかアーチャーよりも深い考えを巡らせている。時折、言葉に迷うことがあるようだが、それは待てば良い。

 ……あの時、環は確かに何かを伝えようとしていた。それを待たずに走ったため、キャスターに狙われた。

 バーサーカーとの戦いで軽率に動いた己を戒めながら、アーチャーは振り返った。

「なるべく、今は待ちましょう。ライダーが暴れ始めているようなので、しばらくすれば他のサーヴァントが集まるはずです」

 他のサーヴァント。集まり得るのはセイバー、ランサー、バーサーカー、そしてキャスター。

「可能なら全サーヴァント。無理なら二騎の所在が知れたところで此処を動きます。……ランサーが居なければ直ぐにでも城を目指したいのですが、命には変えられません」

 環がそう言って傷口を押さえる。詳細不明の呪いは、ともすれば今すぐにでも環の全身を蝕みかねないのだ。見えない砂時計がすり減っていくようで、思わず、動き出したい衝動に駆られる。

 ……待て。待つんだ。

 だが、疑心が鎌首をもたげる。奥の手はある。アーチャーの宝具は現状を打破する可能性を持つ。既に環には召喚初日に詳細を伝えているので、彼女もそれを踏まえた上で考えを巡らせているだろう。

 ……自分のマスターを信じろ。

 祈るように、自分に言い聞かせる。アーチャーは孤独な狩りであればどこまでも待てる自信がある。狩人の英霊であることは伊達ではない。しかし、守るべき者が傍ら存在し、自身もまた狩られる立場というのは未体験だった。

「アーチャー。カヤさんから伝言です」

 環が口を開く。思考に囚われていたアーチャーが現実に帰る。

「湖上に、バーサーカーが現われました」

 



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45

 湖上に浮かぶロットフェルト城には、その家族達が住まう部屋がある。現在は二人の子が利用するのみになっている。その一室、バルコニーからプラウレン湖を望む部屋はハンナ・ロットフェルトのお気に入りだった。

 今朝方に帰宅し、直ぐにテオの部屋の掃除に取り掛かった。熱中していたが、日が落ちて間もなく、異変に気がついた。その原因を見るために、感じ取った方向を覗ける自室のバルコニーへ出た。

 薄暗い湖面には夜霧がかかり、幻想的な風景を作り出す。しかし、ハンナには既にその情緒を理解する回路がない。ただ、食い入るように見つめ、その原因を見極める。

「きっと、きっと、きっと。テオよ。テオのはずよ!」

 視力を強化し、湖を探す。いるはずだ。今日という日に、テオが来ないわけがない。もしかして、森にいるのか。

 ……それではいけないわ。バーサーカーと共に探しに行かないと。

 その心配は杞憂に終わる。ハンナの視界が捉えたのだ。プラウレン湖の最奥。ルスハイムへ繋がる一本道から直ぐの湖面に、朱い帆を張った船がいることを。そこの船首に最愛の兄であるテオ・ロットフェルトが立っている。

 しかし、ハンナの胸中に訪れたのは歓喜ではない。ハンナにとってテオが訪れることは当然のこと。テオがルスハイムに訪れた時点でわかりきっていたことだ。確実な予測が事実に変わった安堵はあれど、狂喜するほどではない。

 訪れた感情は怒り。それはテオの身に傷があったからだ。

「なんということ。テオが傷つくなんてあってはならない。……あの女が不甲斐ないから。あの女が不甲斐ないから!」

 怒りの矛先はテオの傍らに立つ女、ライダーに向かう。テオを守るという使命を帯びておきながら、彼に傷を負わせた無能。だというのに、恥じる様子もなくテオの側に立っている。

 ……許せない。やはり、あの女はここで死すべきだ。

「バーサーカー!」

 怒りの声に応じ、ハンナのサーヴァントたるバーサーカーが実体化する。修道服を身に纏った年若い女。そこに実体化するだけで恩讐じみた魔力が溢れ出す。

 不吉の権化たるその少女に向かい、ハンナは命じる。

「見なさい。あれが貴方の倒すべき女よ。あれが、貴方と私から最愛を奪い去った女よ」

 ハンナの言葉にバーサーカーの虚ろな目が反応した。ハンナにはバーサーカーの思考はわからない。いや、そんなものがあるのかどうかも不明だ。

 しかし、彼女の由来は知っている。ハンナと同種の痛みを持つこと。

 ハンナの思いを知ってか、バーサーカーの目に涙が宿る。そして激情を伴う叫喚が響き渡る。そこに込められた思いは、ハンナの持つ感情と同種だ。

「行きなさい、バーサーカー。あの女を殺すのよ。私達の最愛を取り戻しなさい!」

 その指示に従い、バーサーカーはバルコニーから身を投じる。

 バルコニー下に広がるのはプラウレン湖の水面だ。修道服の女は足が水面に触れる直前で、落下の動きを止めた。バーサーカーは湖面に立っている。

 ハンナに驚愕はない。彼女であれば当然の奇跡だ。そして、バーサーカーの真価はこの水面で発揮される。

 修道服の女が再度、朱き帆の船に向かって叫ぶ。そこに込められた感情は悲痛か、怨嗟か。常人には図り取れない。例外は彼女のマスターであるハンナだけだ。

「行きなさい!」

 ハンナはバーサーカーに再度命じる。涙を流しながら湖面を滑るように少女は駆ける。

 その涙の意味を知るハンナは狂乱した従僕が唯一の理解者であると知り、己の願望を託す。

 ……テオを取り戻しなさい。

 



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46

 朱き帆の船が、夜霧に覆われた湖を進む。テオは船首に立ち、行く先を睨む。目的地はロットフェルト城だ。先のランサーとの戦いで、テオ達がロットフェルトの敷地ににいることは既にロットフェルト家の人間には周知されているだろう。この先の城に住むであろうクサーヴァー・ロットフェルトも知ったはずだ。

 ならば、此処から先はランサーだけではなく、他のサーヴァントも出てくる。戦いはまだここから。先の一合の応酬など序の口に過ぎない。

「よお。来たぜ」

 傍らに立つライダーがテオに声を掛ける。意味するところは一つ。敵のサーヴァントが現われたのだ。

 テオもその存在を検知する。いや、探らなくとも気が付く。あまりにも禍々しい恩讐に満ちた魔力がそこにいる。テオとライダーに対する敵意を隠すつもりはない。

「嬉しいね。この戦い、真っ向勝負をする奴が多くて良い」

 テオが顔を背けたくなるほどの威圧感を前に、女傑はただ笑う。ライダーにとってこの程度は日常。向けられてきた悪意の量がテオとは比べ物にならない。

「じゃあ、まあ、私達は卑怯な手に出ますか」

 敵の姿が視認できない。強化した視力で夜霧に覆われた湖を探すが、サーヴァントらしき姿はない。ライダーの言葉の意図がわからない。テオが疑問を口にするよりも早く、ライダーが行動にて答えを示す。

「砲門用意!打て!」

 船首に乱雑に取り付けられた砲が轟音を叫ぶ。テオは思わず耳を塞ぐが意味があるのかわからなかった。

 ……やっぱり、乱暴だ!

 砲の叫びは一度ではない。二度、三度、その存在を誇示するように続く。だが、打ち出された砲弾が何かを砕く音はない。ただ、湖面を打つ音が響いた。

「ダメだな」

 ライダーが小さく呟く。敵が見えない中での砲撃だ。ライダーとて威嚇の意図が大きい。敵がテオ達の乗るような帆船であれば効果はあるだろうが、その常識は通じない。

 そこで、テオが何気なく船首から先を覗く。夜霧の間から有り得ないを見た。

 修道服の女が、湖面に立っている。

 禍々しい魔力の根源が少女にあることはすぐに理解できた。そして、それがサーヴァントであることも、同時に確信した。

「ライダー!」

 見たものを、敵の存在をライダーに伝える。騎兵もテオと同様にそのサーヴァントの存在を認知したようだ。

「あれはなんだ?戦っていいもんなのか?」

「馬鹿。当たり前だ!あんな敵意剥き出しな奴、そうそういないぞ!」

 些か以上に呑気なことを言うライダーをテオが嗜める。

 そうかい、とライダーがそっけなく答えて、長弓を握る。依然、その攻撃はランサーの激怒を招いた。曰く、舐めれるな、と。

 それでもライダーが弓を取ったのは、目の前の少女のような存在がその程度と判断したためであろう。

「テオ、下がってな。確かめたいことがある」

 テオはライダーの言に従う。甲板の中央、一際大きなマストにもたれかかる。ここからならば、ライダーの姿も見える。

 ライダーが素早い動作で矢を放つ。先の砲撃に比べれば遥かに優しい攻撃。しかし、常人であれば絶命しうるものだ。矢の行く末はテオの視界の外にある。

 テオは戦況を見るために使い魔を取り出す。蝙蝠を投げ出そうとしたところで、ライダーが声で制した。

「テオ!伏せな!」

 その声に反射的に従って、身をかがめる。そして、ライダーの言葉の意味を直ぐに理解した。風を切る短い音とともに、矢が放たれたのだ。そして、矢はテオのそばに立つマストに刺さる。

 ……相手はアーチャー?

 間一髪で命を拾いながら、テオの思考は冷静に敵を考える。

「テオ!生きてるか?」

「ライダー!何が起きた?」

「アタシの矢が打ち返されたんだよ!訳わかんねえ理屈でな!……クソ。一旦船を止めるぞ」

 苛立ちを含むライダーの言葉。少しの衝撃の後、船は前進をやめる。理解不能の相手に闇雲に突貫するのは自殺行為だ。

 テオは蝙蝠を放つ。先に一瞬だけ見た敵のサーヴァントを確かめるために。

 ……あれは本当にアーチャーか?違うよな。

 テオとライダーは一瞬であるが、アーチャーと思わしきサーヴァントと会っている。環が召喚した、ライダーの背を銃撃したサーヴァント。状況から見て環の方がアーチャーだろう。

 使い魔の蝙蝠が、湖面に立つ修道服の少女を捉える。下を向き、何かを呟いているように見える。

 ……何を言っている?

 確かめるために蝙蝠を少女に更に近づける。瞬間、テオの視界が暗転する。驚きのあまり、情けない叫び声を上げた。

「おい、テオ!どうした!」

 少女が攻撃をしてこないことを察してか、ライダーが船首を離れ、テオに近づく。テオは今起きたことをあるがままに説明する。

「あのサーヴァントに近づけた使い魔が、いつの間にか湖に沈んでいた」

 自身でも荒唐無稽な言葉だと思う。しかし、事実だ。

「あー、なるほど。理解した」

 しかし、ライダーはテオの言葉を訝しむことなく受け入れた。

「でもって、あのサーヴァントにも心当たりがある」

「何?本当か?」

 だがなあ、とライダーが逡巡している。その様子を変えぬまま、海賊はその正体を言う。

「船乗りの間じゃ常識というか、よくある話しさ。振った女が水面に立って、こっちを見てるって。女が手招きをすると、何故だか身体が応じちまう。そしたらそのまま海にどぼん、さ。……くだらねぇ怪談。暇な航海のときに新人を怖がらせる鉄板さ。見たこともない。だがな、いるとしたら、あんなんじゃねえか?」

 そういってライダーがつまらん話をした、と頭をかく。

「そいつ、名前は?」

「知らん。だから、怪談の類なんだよ。……忘れろ」

 ……違う。

 テオはライダーの話を咀嚼する。英霊として召喚されたのであればその存在は必ず真名を持つはずだ。ライダーの話に酷似し、名前を持つ存在という可能性がある。

 そして、テオは記憶を辿り、一つの名前を言う。

「ローレライだ」

 

 ハンナ・ロットフェルトは身を投げ出さんばかりにバルコニーから乗り出し、バーサーカーの様子を見ている。バーサーカーによる魔力の消費は尋常ではなく、ハンナの身体を相応に痛めつけている。しかし、その痛みに関心を払うことなく、ハンナはバーサーカーを叱咤する。

 ハンナにとってバーサーカーの戦いぶりは満足できるものではない。バーサーカーは湖面に立つばかりで、テオを誘惑する女を攻撃しようともしていないのだ。

「何をやっているの!」

 バーサーカーの真名。ローレライ。古いドイツ語で待つ岩を意味するその存在は、幾つかの伝説や詩によって語られる。

 曰く、歌声にて船乗りを誘惑し、船を沈める、岩山に佇む美しい少女。

 曰く、不実の恋人に絶望し、川底に身を投げ精霊となった修道女。

 創作として語られるその少女は、本来はこの聖杯戦争において召喚され得る存在ではない。英霊に至れず、虚構にて語られる存在。

 召喚されようとも形を持たぬはず。しかし、バーサーカーは確かにローレライとして現界を果たしている。

 ハンナにとっては至極どうでもいい疑問だが、バーサーカーとパスが繋がることによって解消した。

 帰らぬ水夫に再び会うことを願いに、海に身を投げた女達。しかし、冷たい海は願いを叶えず、彼女達は深い絶望を抱く。愛する者を奪った海を、愛する者を守れなかった船を、そして愛する者を海へと駆り立てた存在を。末期に抱いた絶望はより合わさって、船乗りを海底に誘う怨霊と成り果てた。

 バーサーカーは名を持たぬ怨霊がローレライという殻を被ることによって成立し、現界した。

 本来はありえぬ、正当とは言い難いサーヴァント。故に、バーサーカーにできることはただの一つ。ローレライとして行くものを惑わす歌であり、彼女の絶望と怨嗟を乗せた叫びである。

「貴方の思い、貴方の絶望。こんなものではないでしょう」

 ハンナは一転し、優しい口調を宿す。ローレライたる彼女はバーサーカーの狂化のためその御業を失っている。これまでバーサーカーが起こした現象はその残り香でしかない。

 故に、ハンナは思い出させる。その絶望と怨嗟の原因を。

 左の手を、湖の先で佇む彼女に向ける。

「令呪をもって告げる」

 淡々と言葉を紡ぐ。バーサーカーがこの命令により更に苛烈になるだろう。ハンナから奪われる魔力も相応に増えるが、躊躇うことはない。

「バーサーカー、思い出しなさい」

 



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47

 テオ・ロットフェルトは敵対するサーヴァントの真名に至ると、その詳細をライダーに伝えた。ローレライ。船乗りを惑わし船を沈める乙女。目の前の存在がその様な清純な者かは知らないが、狂化によって歪められているのだろう。

「怪談の代表格ってことね。船乗りの天敵だな」

 ライダーは端的にまとめる。いつもであれば強敵を前に笑みを浮かべるライダーだが、今はそれが消え去っている。ライダーの性格を考えても、相性の良いサーヴァントではないだろう。

 テオは思考を切り替えて、その存在が有する力を考える。射られた矢を打ち返し、近づく使い魔を湖底に沈めた。

「近づく物の方向を操作する能力か」

「なるほど。説明がつくな。……そうすると中々に厄介だ。アタシらの目的はあのバーサーカーの奥にある城。近づくにはバーサーカーを通り過ぎる必要がある。しかし、バーサーカーは物の動きを操作できる」

 ライダーの考察は正しい。しかし、打つ手はあるはずだ。考えろ。

「ま、単純なことから試してみるか。時間もないことだしな」

 思考を巡らすテオを尻目に、ライダーが軽く言う。

「何をするつもりだ、ライダー。時間がないってどういうことだ」

 ライダーの後を追うように船首へ行くと、その理由が理解できた。水面に立つバーサーカーがこちらを見ている。そして、叫びの声を上げた。

「来たな。こっから先がこいつの真骨頂だろうよ。……あたしもこっからは手加減抜きだ」

 ……なんだ?何が起きた?

 テオは船上からその声を聞く。使い魔を介して見たときは小さい声で呟くだけだった少女。しかし、その叫びには確固たる意思が宿っている。

「テオ!全力で行くぞ!」

 船首に立つライダーが吼える。テオの返事もまたず、それは展開され始めた。

 ライダーに集積する魔力が膨れ上がる。水面が波を打ち、空気がこの世ならざる存在を許容できぬかのように震え始める。

 ……この感触。ライダーが宝具を展開したときと同じ。

 ライダーが剣を抜き、中空を指す。テオはそこを見ると、正鵠を射ていたことを確信する。

 テオとライダーが乗る船。それと全く同じ黒い船が中空に召喚される。巨大な帆船は未だ帆を閉じたままで、緩やかに全身を現界させていく。

 ライダーが満足そうに見ると、そのまま剣をバーサーカーに向ける。

 中空の黒い船が回転し、船首をバーサーカーに向けた。テオはその行動の意味をすぐに察する。

 ……ライダーの英国から与えられた船は一隻じゃない。

 黒き船が帆を下ろす。朱に染まるその帆はライダーの畏怖の象徴。フランス兵を震え上がらせた、復讐の船の証。

「叩き潰せ!『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』!」

 ライダーの号令に、中空の船がバーサーカーに突撃する。

 その瞬間、テオは歌を聞いた。微かな音。しかし、確かに調子を持って紡がれる歌だ。そして、至る。バーサーカーが宝具を開帳していることに。

 ……まずい!

 しかし、テオが声を掛ける前に、衝突があった。中空から迫るライダーの宝具と呪いの歌で持って阻むバーサーカー。彼我の距離は二十メートル程。その距離を保って、船はバーサーカーの前に停止していた。船の巨大さを思えば、目の前と感じる距離だ。さしものバーサーカーといえど、この神秘の籠もる宝具を操るのは容易ではないらしい。

「テオ!捕まっていろ!」

 ライダーが叫ぶ。テオには意図が分からないが、差し迫った様子に思わずマストを掴む。

「突撃しろ!」

 その号令と共に、テオ達の乗る船も急加速する。目指す先は中空の船とせめぎ合う修道服の女。バーサーカーをテオ達の船で押し潰すつもりだ。

 ……めちゃくちゃだ!

 無論、中空の船もただでは済まない。だが、この時点でバーサーカーを倒すためのライダーの策。一隻の船を失えど、意を通す最善の方法だ。

 衝撃に備え、テオは下を向く。そして、轟音とともに天地が裏返る衝撃を受ける。船同士のぶつかり合いの衝撃だ。しかし、うまく往けばバーサーカーも倒しているはず。衝撃の収まりを感じながら、目を開ける。

 ……馬鹿な。

 バーサーカーが中空の船を押し留め、そしてテオ達の乗る船も同時に押し留めていた。

 テオの耳にはバーサーカーの歌がはっきりと響いている。その歌が聞こえるということは、既にテオ達がいるのは呪いの領域。ライダーの宝具はバーサーカーに絡め取られていた。

「畜生め!」

 ライダーが吐き捨てるように叫ぶと、テオ達の船が引き下がり始める。瞬間、中空の船がテオ達の方を向く。敵を穿つための船首がテオを標的とする。かの船は既にバーサーカーの手中に落ちていた。

 ……こちらに突撃する!

 しかし、テオの予感は外れる。空を駆け、こちらに迫る船は、少し進んだところで融けるように姿を消した。

「あのな。誰に断って人のものを使ってんだ」

 呆れるようにライダーが言った。バーサーカーがライダーの船を奪ったように見えたが、その所有権までも書き換えていたわけではないようだ。

 テオは胸を撫で下ろす。しかし、現状は何も好転していない。ライダーが二隻目の『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』を出現させて突撃させたが、押し止められた。加えて、ライダー自身の乗る船でも追撃を駆けたが、双方が受け止められた。

「うまくは行かないもんだ」

「ライダー、どうする。なにか手はあるか」

「怯えるなよテオ。向こう岸には着かなかったが、何も得るものがなかったわけじゃない」

 ライダーがそう言って手に持っているものを見せる。鎖だ。人の足ほどの太さの鎖がライダーの手に握られている。その鎖の片側はライダーの足元に山となっている。テオはもう片側を見やる。その鎖は先程突撃を行った先に続いている。

「あのお嬢ちゃんに巻き付けてきた。お前が下を向いてるときにな。……さあ、もう一回行ってみようか」

 そう言って、ライダーが再び剣を天に掲げる。そこから現れるのは彼女の宝具たる『』。その船首がバーサーカーを狙う。

「叩き潰せ!」

 ライダーの咆哮とともに、朱き帆が修道服に迫る。テオの乗る船も同時にバーサーカーに向けて速度を上げる。

 先と同じ光景。しかし異なるのはライダーが持つ鎖だ。テオはバーサーカーに鎖がまとわりついているのを見る。先の攻撃は無駄ではなかった。

 ライダーが鎖を引き上げる。怪力によって行われるそれは、小柄な修道服の女を中空に放り上げる。虚ろな視線がテオと交差する。小さな口元が開き、何かをつぶやこうとする。

「させねえよ!」

 しかし、それはライダーの予想通りの行動。鎖を巧みに操り、バーサーカーの口元を締め上げる。

「声が出せなきゃ歌えやしねえだろ」

 空からバーサーカーを狙う船が、迷うことなく突っ込んだ。

 



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48

 ライダーとバーサーカーによる尋常ならざる戦いを、遠く離れた廃墟で見守る女が居た。カヤ・クーナウだ。

「なんて乱暴な戦い方」

「んん。一時でも手を組もうとしていたのは過ちだったのかも知れないな」

 戦いの感想を小さな声で漏らすと、傍らのソファに座る男が返事を返す。カヤのサーヴァントであるアサシンだ。

「全くね。出会い頭に船をぶつけられていたかも知れない」

「あっさりと死んでいるだろうな。私もカヤも」

 アサシンが寸分も負い目を感じていないように言う。カヤも同意見なので特に否定はしない。

 ライダーの戦いぶりは廃教会跡で既に見ている。その際も不死を思わせるセイバーを相手に、巨大な帆船で轢き潰していた。不死じみたセイバーを行動不能に陥れるためだと理解していたが、単純にライダーの性格によるものだと認識を改める。

 対して、バーサーカーの戦闘方法は疑問が残る。呪いを撒き散らし、迫りくる物体の方向を歪める。魔術師がよく使う結界を、恐ろしいまでに昇華させた宝具だ。

「見たかね?ライダーは直前にバーサーカーの口を塞いでいるように見えた」

 呪いの媒介はバーサーカーの口ずさむ歌だ。カヤはプラウレン湖に放った梟にて、戦況をつぶさに観察していた。

「魔術師として、どう思うのかお聞かせ願いたい」

 アサシンがカヤに水を向ける。この老人はサーヴァントという極めて魔術的な存在ではあるが、魔術に関しては最低限の知識しか持たない。

 しかし、確信があるのだろう。怨霊とはいえサーヴァント。口を塞いだ程度でその宝具が防げるものかと。

「バーサーカーの歌っていうのは魔術師で言うところの呪文の詠唱。しかも、あの詠唱っていうのは外への働きかけではなくて内側を向いているものよ。魔術っていうは自己を作り変えて魔術回路を回すわけだから、トリガーがいる。バーサーカーの歌は珍しい形だとは思うけど、トリガーの役割」

 備え付けられた魔術回路は元来、人間の設計にはないものだ。それ故に、不自然な回路を作動ささるためには、自己の認識を人間から変化させる必要がある。無論、実際に人間の身体が変わるわけではない。要は集中と自己暗示。

 カヤの場合は心臓を覆う鉄の輪。理由は分からないが、このイメージがしっくり来たのだ。

「つまり?」

 アサシンが結論を急かす。

「つまり、大事なのは集中力。口を塞がれようがどうなろうが、気持ちさえ切れていなければ魔術は成立する」

 カヤの結論にアサシンはなるほど、と小さくこぼした。

「そうであれば、非常にライダーはまずい。歌というのは口、喉、腹で歌うものではない。……魂で歌うものだ」

 

 テオ・ロットフェルトの視界は水しぶきと破砕による木っ端で覆われていた。ライダーが確信を持って投じた『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』はバーサーカーを巻き込み水面に激突した。テオ達の乗る船はその様子を眺めるように佇んでいる。

 船首に立つライダーが誇ったようにその惨状を見る。自身の宝具の片割れが無残にも藻屑と成り果てているが、ライダーには後悔の様子は見られない。

 しかし、その相貌が歪む。テオもその理由をすぐに知る。歌だ。テオの耳に、バーサーカーの歌声が響いているのだ。

 あのバーサーカーが、先の宝具に寄る攻撃に耐えきれた道理はない。答えは一つ。口を塞いだ程度ではバーサーカーを止めることなどできなかった。バーサーカーの歌によって船は軌道を逸らされ、ただ湖面に激突した。ライダーの『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』の一隻を潰してまで行った攻撃は、無駄に終わったのだ。

 水しぶきが止み、視界が開ける。船の残骸が浮く湖面には、バーサーカーが立っていた。

「テオ」

 ライダーが淡々とした声でテオに呼びかける。打つ手のない絶望感を抱く。宝具でさえ防げなかったバーサーカーの呪いの歌。これを乗り越える手段などあるのだろうか。

 船首に立つライダーに近づくと、ライダーが手を肩に回した。

「どうした?」

 急のことで驚きを隠せない。しかし、ライダーがそのままテオに告げる。

「もう一個の宝具を使う。十中八九、アタシは元に戻れないだろうが、あの修道服はどうにかしてやる」

 ……もう一つの宝具。

 テオはライダーの宝具は『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』だけだと聞いている。故に、バーサーカー相手にすべての攻撃手段を試したのだと思っていた。

 しかし、それ以上にライダーの言葉に気にかかった点がある。

「戻れないってなんだよ」

「言葉の通りさ。この宝具はアタシのあり方を変える。馬鹿みたいに復讐に駆られて、フランス王を死に至らしめた、あの頃のあり方を再現するのさ。……要は、狙った奴を絶対に殺すまで止まらなくなる」

 彼女の精神性を戻す宝具。バーサーカーの歌が宝具なのだとしたら、『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』を操るのに手間取ったように、勝機があるかも知れない。しかし、テオに湧くのは勝利への期待ではない。

「けど、戻れなくなったら」

「ここで終わりだな。復讐者は復讐が終われば去るのみ」

 いや、それではいけない。ライダーにはまだロットフェルト城から先も付いてもらわなければならない。いや、それ以上にテオにはより感情的な想いが宿る。

 ……こんなところで、自ら死を選んで欲しくない。

 ライダーの聖杯に託す願いを知った。あまりにも細やかな願いを叶えたい。今、テオは自分の願いのようにライダーの願いを想っていた。

 ……どうすれば。

 ライダーの決心は固い。ここで立ち尽くしていてもハンナもライダーの願いも叶わないだろう。早く、決断をしなくてはならない。

 そこでふと、左手を見た。

「令呪だ。令呪であれば戻れるはずだ」

 今まで一画として利用していない絶対命令権。使い方次第ではサーヴァントの空間移動さえ実現する魔術刻印だ。ライダーの同意さえあれば、正気に戻ることも可能ではないか。

「ああ、なるほどね。まあ、期待しないでおくさ」

 テオの提案に、ライダーはにべもなく応える。そしてテオから離れ、剣を抜く。途端、テオ達の乗る船の真横に、もう一隻の『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』が出現した。

「こいつは虎の子、最後の船だ。テオ、お前はこれに乗って待ってな」

 そう言って、テオを乱暴に抱えあげると隣の船に向かって放り投げた。背中から甲板に着地し、無様に転がる。思わず傷口を庇うが、問題ないようだ。

「投げることはないだろう!」

 非難を口にするものの、ライダーは既にテオを見ていない。こちらに怨嗟を送るバーサーカーを睨む。

「テオ、覚えておけ。この宝具の名前は『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』」

 その顔には笑みも希望もない。陰が宿り、痛みに耐えるかのような表情だ。

 ライダーは自身の乗る船を加速させる。すれ違いざまに、ライダーが小さくこぼしたのを聞いた。

「できれば、見てくれるな」

 



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49

 ハンナはライダーとテオが離れる様子を見て、歓喜の笑みを浮かべた。

「ようやく、ようやく離れてくれたわ」

 ハンナにとってライダーは狙うべき相手。しかし、その奥にいるテオを傷つけることは望んでいない。そのため、彼らが離れるときをずっと待っていたのだ。

 ライダーの真意を探る。ライダーは今まで矢や砲、船を投げつけるといった遠距離からの攻撃に徹していた。それは単純に傍に控えるマスターたるテオに被害が及ばないためであろう。

 そのマスターを切り離すという行為が意味するところは一つ。ライダーがバーサーカーに直接攻撃を仕掛けるということ。

「いいわ。来なさいな」

 ハンナはバルコニーからライダーを睨む。浮かぶ表情は笑み。ライダーが近づきさえすれば、殺し切ることは造作もない。

 ハンナは自身の左の甲を撫でる。宿る令呪はあと二画。ライダーが近づいたその時、令呪で持ってバーサーカーに全力を出させる。そうすれば、ライダーなど湖底に沈むことしかできまい。

 無論、魔力を失ったバーサーカーも自滅するであろうが、構うことはない。自分でテオを迎えに行けば良いだけだ。

 機会を伺いながら、ライダーを睨み続ける。そこに予期せぬ変化が生まれた。テオのいる更に後方からボートが近づいてきている。小柄なモーターボートだが、その速度はかなりのものだ。

「……乱入者はお呼びじゃないわ」

 視力を強化し、そこに乗る存在を確かめる。邪魔立てするのであれば、ライダーの前に湖底に沈んでもらう。

 モーターボートの上に立つ存在。全身を渦で覆われた騎士だ。傍らには斧のような長剣を握っている。セイバーだ。

 ……また、テオを狙うつもりかしら。

 ハンナはセイバーが既にライダーと戦い、一度撤退しているのを知っている。どうやってあの損傷から回復したのかは知らないが、ライダーの苦戦を目の当たりにして好機と考えたのかも知れない。

 ライダーへ襲いかかるのであれば良い。それであればハンナの目的と合致している。しかし、セイバーがテオを襲うつもりであるのならば、見過ごす事はできない。

 狙いはどちらか。見極めるために騎士の動きを睨む。その二つの予想はどちらも裏切られた。

 セイバーがテオとライダーを通り過ぎ、真っ直ぐバーサーカーへ向かってきたのだ。

「……そう。騎士様は弱い者の味方ということね」

 ハンナは溢す。味方を期待したわけではない。むしろ、味方をされても目障りなだけだ。だが、明確な殺意を持ってバーサーカーに迫る騎士に、さらなる怒りの感情が沸き立つ。

 バーサーカーに向い、左手を差し出す。

「令呪を持って告げる。バーサーカー、すべての魔力を持って宝具を叫びなさい」

 

「ライダー!」

 テオは後方から迫りくるセイバーに気が付いていた。前方でバーサーカーを睨むライダーにそれを伝える。

 しかし、ライダーは振り向かない。もう一隻の『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』の船首に立ち前だけを見ている。

 もう一度叫ぶべきか。そう思った瞬間、セイバーがテオと、それどころかライダーを通り過ぎていった。そして、そのままバーサーカーへ襲いかかる。

 巨大な鎧がボートから飛び上がり、修道服へ斬りかかる。その間際、バーサーカーが叫び声を上げた。

 先程の小さな声で紡がれる歌とは質が違う。断末魔にも似た叫び。そこに込められた悲痛な感情にテオは寒けを感じた。

 その叫びのもたらす結果をテオは見た。飛びかかったセイバーの姿が消えたのだ。

 ……どこにいった?

 答えは直ぐに出た。セイバーは湖面から飛び上がり、ライダーの船の残骸に立った。つまり、セイバーは飛びかかったが、バーサーカーによって水中に転移させられたのだ。

 ……めちゃくちゃだ。

 セイバーはその後も幾度もバーサーカーへ飛びかかり、その度に湖の中へ転移させられる。テオにはどちらのサーヴァントも狂っているように見えた。

「ライダー、戻れ!セイバーが証明しただろう!バーサーカーに近づくのは自殺行為だ!」

 ライダーはそれでも振り向かない。どころか、更に船を前に進める。徐々にテオとの距離が遠くなり、声が届かなくなるほどだった。

 ライダーが肩に掛けるコートを脱ぎ捨てる。その下の海賊服が魔力によって別の物に変化していく。夜の中でも輝くように、黒き彼女の船と相反するような白い鎧がライダーを包んでいた。

 変化を終えた彼女の姿を、テオは騎士の様だと思った。海賊などという粗暴な存在ではなく、高潔な意思を持って行動する存在。変わらぬのは、獅子を思わせる金色の髪だけだ。

 ライダーが右の手を上げる。その空の手に剣が現界する。先まで奮っていたカトラス剣とは全く異なる、細い剣。誇示するための剣ではなく、ただ相手を刺し穿つための凝縮された剣。

 その切っ先が、バーサーカーを向いた。

「進め」

 あまりにも冷たい声が、遠く離れているはずのテオの耳へもはっきりと聞こえた。『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』が疾走する。バーサーカーと、その周辺で飛び跳ねるセイバーに向かって。

「殺しなさい」

 そして巨大な船が二つのサーヴァントを破壊する。決してその方向が歪められることもなく、まして自らに襲いかかることもなかった。

 ……何故だ?

 テオは自身のサーヴァントに対して起こったことを考える。セイバーが示した通り、バーサーカーの叫びは近づくものを湖底へと転移させる。それはライダーが実行したとしても変わらぬ結果を産むはずだ。

 ……何故、バーサーカーに攻撃が当たるようになった?

 疑問をライダーに投げかけようとしたが、尋常ではない様子を察して自らを制する。

 瞬間、何かが割れるような音が響いた。方向を探ると、船から聞こえてきた。二騎のサーヴァントを押しつぶさんとした脅威。いまライダーがのる船から音が響いている。

 それは崩壊の音だった。『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』は音を立てて崩れ去り、辺りには船の残骸が舞う。テオはその残骸に斧のような長剣が突き立っているのが見えた。

 ……セイバーの剣だ。直撃の際にこの剣で抗ったのだろう。

 ライダーが船を降り、近くに浮かぶ残骸に立つ。相棒とさえ呼んだ船に対する感傷など、微塵も感じさせない。相対するのは修道服の少女だ。どう動いたのか分からないが、『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』の突進を退けたらしい。

 睨み合う二人に、横槍が入る。水中からセイバーが躍り出たのだ。かの騎士が襲いかかるのは湖面に立つバーサーカー。セイバーの様子は尋常ではなかった。

 片方の腕は折れ、武器も持つことはない。ただ、無事である片方の腕を伸ばし、バーサーカーに襲いかかる。しかし、それすらも叶わない。バーサーカーに触れる直前にセイバーの身体は姿を消した。何度も繰り返された光景だ。

 テオはこの光景から一つの思いつきを得た。何故、バーサーカーがライダーの船を避けれたか、だ。

 ……バーサーカーは『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』に対してセイバーを叩きつけたのか。

 ライダーが騎士の姿になってから、バーサーカーはライダーの攻撃を避けることは叶わなくなった。しかし、それに気が付いたため転移を自在にできるセイバーを『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』に投じ、船の軌道を逸したのだ。

 先程まで傷一つ負わせることができなかった状況が、一変した。ライダーの攻撃がバーサーカーに当たるのであれば、この勝負は既に目に見えている。

 『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』。ライダーの持つ宝具の名前。詳細こそ聞かされていないが、その名はテオも知るところだ。

 無実の夫を処刑された復讐のために私財を投げうち剣を取った婦人。そして、十数年の戦いの果にそれを成した英雄。その功績は復讐を望む全ての者達の信奉の対象となった。

 ブルターニュの雌獅子よ。我が復讐に加護を。

 復讐は神が認める行為ではない。しかし、それを望む者にも祈る対象がいる。ジャンヌ・ド・ベルヴィルはその復讐を望む者達の崇拝を集めた。

『今のアタシは海の男に混じって戦いに興じ、フランスの船をぶっ潰すことだけ考えていた頃のアタシだ。多分、血みどろの人生の中で今のアタシが一番折り合いが付いている』

 ライダーの言葉を思い出す。快活に笑い、海賊として戦った彼女は一番折り合いが付いていると言った。ならばきっと、『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』は復讐者としての彼女を無理やり引きずり出す宝具だ。ライダーは、多くの復讐者達に望まれた復讐の化身に変わり果てた。

 その復讐の化身が、呪いの歌程度で標的を過つはずがない。

 ライダーが剣を取り、バーサーカーに斬りかかる。

 



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50

 ……状況が、混沌として来ましたね。

 ライダーとバーサーカーが戦うプラウレン湖からおよそ五キロほどの距離。両脇を森に囲まれた長い一本道の付近に、宮葉環は潜んでいた。片端に待機するのは彼女のサーヴァントであるアーチャー。彼もまた事態の把握がままならず判断に困っているようだ。

 混乱の原因は同盟関係にあるカヤ・クーナウから受けた連絡にある。ライダーとバーサーカーの戦闘は予想通りであったが、そこに異を唱えるようにセイバーが現われたのだ。三騎目のサーヴァント。しかもその騎士は何故かバーサーカーへ襲いかかっているのだ。

 ……どこから湧いてきたんですか。あのセイバーは。

 戦場たるロットフェルト家の敷地はロットフェルト家の人間を除けば、全員が聖杯戦争のマスターだ。そして、誰がどのサーヴァントを使役しているかも明らかになっている。

 ライダー、テオ・ロットフェルト。

 キャスター、ゲルト・エクハルト。

 アーチャー、自身たる宮葉環。

 そのサーヴァントの中にセイバーはいない。

 ……つまり、セイバーのマスターはロットフェルト家の人間のはず。

 にもかかわらず、セイバーはロットフェルト家に攻撃を仕掛けようとするライダーに味方をしているのだ。

 セイバーのマスターは考えなしに行動をしているのか。それとも、バーサーカーをそれほどに危険視しているのか。

「環。動くべきだ。状況は不可解だけれど、概ねのサーヴァントの位置は明らかになった」

 環は自身の目的を思い出す。キャスターから受けた呪いを解く。そして、ロットフェルト城にある聖遺物を簒奪する。

 敵対するであろうサーヴァント三騎のうち二騎がライダーに気を取られている。ならば、残るランサーはいずれかでキャスターの相手をしているのだろうか。

 ……欲を言えば、好戦的なランサーの居場所を確定させたいのですが。

 腕の傷口を握りしめる。キャスターの呪いはいつ再開し始めるかわからない。次に発動されれば環の身体はこの傷口から灰に変わるだろう。時間が勝負なのだ。

「行きましょう。多少のリスクは呑まねば何もできません」

 アーチャーが首肯する。そして環の身体を抱え上げ、弓兵は森を疾走した。目的地は湖面に浮かぶロットフェルト城。アーチャーには水面を走る能力はないので、湖畔にあるボートか船を拝借せねばならない。

 暗闇が覆う森を、アーチャーが音もなく駆ける。環は目を瞑り身体を預ける。この段に至って環の存在は重荷にしかならない。ならばせめて、悲鳴や怯えを隠す。命がけの我儘を聞いてくれたアーチャーへ唯一できる気遣いだった。

「環」

 アーチャーが静止する。促されて降りると、崖下からプラウレン湖が一望できた。暗闇であっても強化した環の視力はその湖の状態を捉えることができる。だからこそ、その異常さにもすぐに気がついた。

 バーサーカーである修道服の少女と、その周りに浮かぶ残骸。その残骸の上に立ち、バーサーカーに斬りかかろうとする二人の騎士。

 カヤとアサシンから聞いていた通りの光景だ。しかし、そこに込められた不吉さが環の不安に陥れる。

 ……森で戦ったときとは全く違う。あのバーサーカーには近づいてはいけない。

 環の眼は不吉なものや、危険な場所を見抜くことができる。通常はある程度近づいて、視界に映してから気が付く。これほどに離れた距離で気が付くというのは、初めての経験だ。

「なるべく、バーサーカー達から離れた場所で舟を探しましょう」

 アーチャーが否定せずに行動を始める。ことを急く性分があるが、それでもあのバーサーカーとライダー、セイバーの戦いが尋常でないことに気が付いたのだろう。目的を考えれば、あのただ中に飛び込むことは避けねばなるまい。

 再び抱きかかえられての疾走。バーサーカーを避けるために遠回りをすることになるが、アーチャーの速度を持ってすれば誤差と言える。

 しかし、その停止は早過ぎた。森の只中、バーサーカー達と切迫する距離でアーチャーは立ち止まっていた。訝しむように環は抱きかかえられたまま、アーチャーの顔を見る。

 その表情は苦悶。ただならぬ失敗を侵したときの顔。

「ここは戦場。戦いを避ける臆病者が何故に此処にいる?」

 無理やりアーチャーの腕から降り、その声の主を見る。その存在に選択の過ちを感じた。

 身の丈を超す長槍。全身に張り付くような黒い鎧を着た戦士。

 ……ランサー!

「久方振りだなアーチャー。一端の戦士が子守とは、不憫な役回りを押し付けられているな」

「好きでやっていることさ。ところで、不意を打たなかったのは交渉の余地があるからかい?」

 ランサーの見下すような言葉に、アーチャーが軽口を叩く。

「いいや。戦う価値もなくば 、槍を投げつけてマスターの命を頂くとも。しかし、アーチャー。貴様は悪くない。この下らぬ戦いにおいて、貴様とセイバーのみは正面切って戦うに値する」

 ランサーが槍の切っ先を環に向ける。嘲る口調も見下す態度も消え失せる。ただ、向い来る存在を殺めるための機構。一介の魔術使いである環には、ランサーの正面に立つことも苦痛だ。

「早々にマスターを逃がせ。巻き込んで殺すのは興が冷める」

 アーチャーがゆっくりとした歩調で環を森の中に連れる。そして身近な小屋の前に立たせた。環の足元に陣を書く。アーチャーの幻術だ。

「環。分かっていると思うけど、ここから動かないで。何かあったら令呪を使って」

「わかりました」

 そしてアーチャーは目深にフードを被る。視線と表情が隠れる。ランサーとは対象的に、その畏怖も脅威もすべてを守りに隠すかのような希薄さがアーチャーを包む。

「じゃあ、直ぐに戻るから」

 狩人の言葉には確信があった。

 

 長槍を立てかけ、木にもたれかかるランサーをロイク・ロットフェルトは使い魔の烏越しに見ていた。普段ロイクが根城にしている工房を出て、些か離れた木陰に座り込んでいる。

 ランサーに所望された槍を、ロイク・ロットフェルトは駆け足で届けた。ライダーとランサーの一瞬の交戦で失った槍はその大きさゆえに、ロイクの使い魔では運べなかったためだ。

『わざわざマスターがその足で届けるとはご苦労なことだ。できた魔術師ならその苦労は不要だろうに』

 ランサーの馬鹿にするような物言いにも、ロイクには返す言葉もなかった。一流の魔術師であれば人形やゴーレムを使うなど、いくらでも運ぶ手立てはあるだろう。しかし、使い魔の扱いが不得手なロイクには、精々が見張りの烏程度が限界だった。

 そして、近くに居たアーチャーを発見すると、ランサーはロイクの言葉も待たずに戦いを申し入れた。

 ……仕留めるべきはライダーだ。何故アーチャーを狙う?

 ロイクにとって並々ならぬ敵意の対象たるテオ。そのサーヴァントたるライダーはいま、プラウレン湖の湖面にてバーサーカーと戦闘を繰り広げている。ここにランサーが加勢すれば、ライダーとて万が一の可能性もなく抹殺できるだろう。

 この好機をものにしたい。一方でアーチャーに執心するランサーの機嫌を損ねる真似も取りたくはなかった。

 ロイクがヘルマンから与えられた一画の令呪。それに気が付いたランサーは激怒をしていた。使い方によっては戦況を覆しうる切り札であるが、サーヴァントから見れば自らを縛る首輪に他ならない。ランサーのような気位が高いサーヴァントであれば、その心情も理解はできる。

 ロイクは右の手を撫でる。既に包帯は取れ、見た目には異常があるようには見えない。しかし、この右手は召喚時に他ならぬランサーに砕かれているのだ。かの英霊は隙あらばロイクを殺すだろう。マスターなど、魔力を供給する貯蔵庫程度にしか思っていないはずだ。

 ……僕はランサーを制御する。そのためにのみ、令呪を使う。

 既にランサーとの主従の関係は破綻している。それでも、ロイクは聖杯を諦めたりはしない。ロイク・ロットフェルトにとって当主というのはその人生のすべての価値に等しい。

 アーチャーが一人で戻り、ランサーが槍を持ち、向かい合う。

 戦いはなんのきっかけもなく始まった。ランサーが獣じみた殺気を放ちアーチャーを刺し殺さんと突進する。

 ……何?

 そこに対峙するアーチャーは、動かなかった。向い来る槍をその身体にて受け止める。攻撃したはずのランサーですら、信じられないという顔だ。

 途端、アーチャーの身体が霧散した。これは敗北による退去ではなく、幻が晴れたような感覚。ランサーの足元には鼠が横たわっていた。

「幻術か!」

『そうとも。悪いが先を急ぐので、僕らは失礼するよ』

 吼えるランサーに応えるように、アーチャーの澄んだ声が遠くから響いた。しかし、声の主は見えない。

 ……勝てないと見て、逃げたのか。

 ランサーの顔色がみるみる紅潮していく。その感情は怒りだ。吐き出すように、声のした方向に黒い獣が吼える。

「逃げられると思うか!直ぐに見つけ出して殺してくれる!」

「それは恐いな」

 応える声と同時に、銃声が響く。声の方向は遠くではない。すぐ近く、ランサーの背後からだ。先程まで鼠の死骸があった場所にアーチャーが立っている。

 ……まさか、先の声も幻術!ランサーの隙を作るための二重の罠!

 背を打たれたランサーは、飛び跳ねるようにアーチャーから距離を取る。必殺に思われる不意打ちだったが、ランサーの常識はずれの直感が致命傷を防いだ。しかし、背に受けた傷は大きく、苦悶の声を漏らす。対して、絶好の機会を逃したアーチャーが舌打ちをする。

「……やるなアーチャー」

「卑怯と吼えるかと思ったよ」

「真逆。これは戦争。敵の隙、弱き所を着くのは常道よ。……やはり貴様は直接戦うに値する」

 不意打ちから、槍兵と弓兵の戦闘が始まった。

 



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51

 環にとってアーチャーの戦いを見るのは二度目になる。一度目はバーサーカーが陣取る森の戦闘。あのときは一方的にアーチャーが攻撃をしていただけなので、戦闘というよりも攻略といったほうが正しい。

 しかし、現在繰り広げられているものは明らかに戦闘だ。ランサーが木々を跳ね回りながらアーチャーを追い、アーチャーが幻術と銃弾を使い分けながら槍を躱し続ける。

 ……これがアーチャーの戦い。

 弓兵にとって森は身を潜める遮蔽物が多く、有利な地形だ。ましてアーチャーは森で狩人をしていた身。森の戦い方はランサーを上回る。

 対してランサーは長い槍を器用に振り回しているが、アーチャーの逃げるような戦いぶりに苛立ちを隠せないようだ。

 必殺の一撃を持ちながら、幻影を穿つのみのランサー。

 銃撃を行いながらも、ただ逃げ惑うだけのアーチャー。

 ランサーの一撃が弓兵の姿を打つ。しかし、その姿が露のように消え変わりにそこには太い幹の木が現われた。槍が引き抜かれると、その瞬間を狙ったようにランサーの顔面に銃弾が迫る。ランサーが首の動きで銃弾を躱す。常識外れの反射神経だ。

「どうしたアーチャー!逃げ惑うだけが取り柄ではなかろう!」

 苛立ちの感情が叫びに交じる。

 環はアーチャーの思考を考える。アーチャーはこの先、ロットフェルト城に乗り込み、キャスターと戦う必要がある。そのため、目の前のランサーを相手に全力を出すことを避けているのだ。

 ……けど。このままでは、いつかランサーに捕まります。

 アーチャーの狙いを考えるものの、環には思いつかない。ただ槍を振るうだけのランサーに、魔力切れは考えられない。

(環。宝具を使わせて欲しい)

 突如、アーチャーからの念話が飛ぶ。宝具を利用すればその魔力がマスターから消費されるため、許可を取ったのだろう。退ける理由はない。アーチャーは時間を稼ぎながら、宝具を使って槍兵を倒す算段が付いたのだ。

(かまいません)

 返答はない。その代わりに今までとは比較にならない魔力の吸い取られる感覚が襲ってくる。

 ……これは、ちょっと、しんどいですね。

 心の中で弱音を吐くが、それを表情には出さない。代わりに森に潜む従者を応援する。

 ……勝ってください。アーチャー。

 

 ロイク・ロットフェルトは努めて冷静に戦況を観察していた。

 追い縋るランサーに逃げるアーチャー。状況を見るとランサーが有利に見えるが、それは早計だ。ライダーと対峙したときと状況は似ているものの、全く異なる点がある。

 ……ライダーは逃げる目的地があったが、アーチャーには存在しない。

 つまり、アーチャーが逃げ惑っているのは何か策がある故。短絡的に考えればランサーの神経を逆撫でし、隙を作るとも思える。ランサーもそれを察してか、怒りに咆哮する振りをしていた。

 しかし今はなりを潜め、ただ冷静にアーチャーを追って槍を奮っている。アーチャーの狙いはそこではないと気が付いたのだろう。

 ……狙いはなんだ。どうすればいい?

 ロイクからランサーにできることは殆ど無い。ランサーが傷を負えば直ぐに治癒を行うが、一方的に逃げるとその必要さえなくなる。先に受けた不意打ちの傷を癒やす魔術はかけ続けているものの、すでに平常と変わらぬ程度には回復していた。

 ランサーが足を止める。そして槍を上段に構え、身を捻った。ロイクにはその動作に見覚えがある。先程、テオ・ロットフェルトに対して攻撃を行った動作。

 ……投げるつもりか。

 ランサーの真名、ドゥフタハ・ダイルテンガ。彼の宝具たる槍は投げることで必中必殺を叶えたという。ランサーの持つ槍はその宝具ではないが、ランサーには宝具を扱うに足る技量は備えている。しかし、ただの現代の槍は投げれば消え失せる。つまり、痺れを切らしたランサーが投擲という勝負に出たのだ。

 静かに、ランサーの身体に魔力が籠もる。森の静けさの中、黒い獣の深い呼吸が聞こえる。アーチャーの姿はない。また、身を潜めている。

 ……狙うべきは、銃撃が行われたそのタイミング。

 沈黙が続く。先の攻防が行われていたときとは別種の圧力が森を支配していた。ロイクは離れた場所で使い魔の視界を借りて戦闘を観察しているが、近くにいれば緊張で倒れていただろう。

 前触れもなく、銃撃音が響いた。

 ランサーがその音よりも早く反応し、構えた槍を放つ。その速度は銃撃を越える。迫り来るのを知ってからでは到底避けようのない必殺の攻撃。代償としてランサーの身を銃弾が穿つ。だが、ランサーは意にも介さぬとばかりに投げた槍の行方を追う。

 そこにはアーチャーがいた。投擲された槍が胸に突き刺さっている。その槍を引き抜こうと片手で柄を持つが、抜くことが叶わない。

「あまりにもあっけない幕切れだな。アーチャー」

 ランサーの言葉に、アーチャーが返答をすることはない。肩で息をしながらランサーを睨むだけだ。

「もはや軽口を叩く気力もないか。……よい。殺してやる」

 ランサーが死に体のアーチャーに近づく。片手には短剣を構えている。そしてアーチャーに触れられるほどの距離になったとき、飛び跳ねるようにランサーが後方へ退いた。

「貴様!」

 ロイクは見る。俯くアーチャーの口元が笑みに歪んだのを。

 瞬間、弾丸がランサーを襲う。それは一箇所ではなくランサーを囲むように縦横から打ち出されている。逃げ道はない。

 ……しまった。嵌められた!

 ランサーは両腕で頭を守る。槍さえ持っていれば防げたかも知れないが、今その槍はアーチャーに突き刺さている。アーチャーの行動はランサーが槍を手放すことまで見込んでの行動だった。

 全身を弾丸で穿たれたランサーは憤怒に顔を歪めている。

「やってくれたな……!アーチャー……!これが貴様の宝具か」

 ……誰もいない位置からの狙撃。いや、既に放った弾丸が再度ランサーを狙ったのか?

 ロイクはアーチャーの宝具について考えを巡らせるが、直ぐに思考を打ち切る。今は、ランサーの治療を優先する。

 アーチャーが立ち上がり、胸に刺さっていた槍を抜き捨てる。苦労する様子は一切なく、簡単にその動作を負えた。ロイクの使い魔が槍を見る。その切っ先は既に折れている。

「槍が刺さったように幻術をかけさせてもらったよ。芸がないけどね。……ただの槍で英霊を殺せるわけがないだろう?」

 アーチャーの嘲るような声。ランサーは呻くように傷口を抑えている。ロイクは治癒を行なっているが、傷が多くすぐには回復できない。

 ……せめて、近くにいれば。

 アーチャーが猟銃を構える。必殺の一撃を放つつもりだ。ランサーには身を防ぐ術がない。

 ロイクは左の手を見る。使うべきか。

「まさか、卑怯とは言うまいね?」

 弾丸が放たれる。その刹那、森全体に届くような叫び声が響いた。ロイクは思わずそちらに気を取られかけるが、直ぐにランサーに視線を戻す。

 アーチャーも声に惑わされることなく引き金を引いた。しかし、発射された弾丸はランサーには当たらず、あらぬ方向に軌道を変えた。その方向は誰も居ない。いや。

 ……プラウレン湖!

 先程の叫び声、それはバーサーカーの歌声か。湖から離れたこの場所にもかかわらず、バーサーカーの呪いの歌に支配されている。

 アーチャーが舌打ちをしながら姿を消す。

 残されたランサーが怒りに打ち震えながら叫ぶ。

「逃げるな!俺はまだ戦える!戦えるぞ!」

 ロイクは聞く。最後の叫びは、どこか懇願に似ていた。

「この卑怯者が!」

 



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52

 カヤ・クーナウは決断を迫られていた。

 使い魔たる梟が見たのは、ロットフェルト城のバルコニーから身を乗り出す女だ。何かを叫ぶように暴れる女はハンナ・ロットフェルトだと直ぐに気が付いた。

 そして、ハンナが暴れる理由にも見当がついていた。

 バーサーカーとライダーの戦闘。湖底に引きずり込まれたセイバーは離脱したらしく、浮き上がってこない。ライダーが船の残骸を飛び移るように跳ねながら、バーサーカーを切り刻んでいる。バーサーカーも目につく者を浮き上がらせて、ライダーに投擲をしているが効果は薄い。ライダーの剣がバーサーカーを斬り落とすのも時間の問題だった。

 その様をハンナ・ロットフェルトが狂乱しながら見守る。左の手をしきりに振り上げ、今にも令呪を使用しかねない勢いだ。

「……狂ってるわね。あのマスター」

 令呪は三画にて構成される、マスターとサーヴァントを繋ぐ契約の証だ。サーヴァントを絶対服従させるために使用したり、離れた場所にサーヴァントを送り込むなど超常的な使い方をすることができる。

 しかし、三画を使い切った場合、マスターとサーヴァントの契約は切れ、マスターにはサーヴァントを御する手段がなくなる。主従関係の良し悪しにもよるが、不本意な服従を強いられたサーヴァントは大抵の場合、元のマスターに反旗を翻す。通常のサーヴァントでさえ、自殺行為なのだ。ましてバーサーカーを令呪なしの状態にするなど考えられない。

「そうでもない。むしろ、ハンナ・ロットフェルトは自身の身を守るために令呪を捨てるつもりなのだろう。バーサーカーの消費魔力は尋常では無い。あのままバーサーカーに歌を叫ばせ続けていたら、先に倒れるのはマスターだ。んん。……もっとも、サーヴァントを失ったマスターがどうやって勝ち残るつもりなのかは疑問だがね」

 カヤの隣で座るアサシンが意見を述べる。

「問題はそこではないだろう」

「ええ。ハンナ・ロットフェルトは二画の令呪でバーサーカーの宝具を強化している。その範囲は環の戦闘の様子を考えると、プラウレン湖どころか周囲を取り囲む森にまで影響を及ぼしている」

 環から先程連絡された内容を思い出す。アーチャーとランサーは接敵し、ランサーを倒しかけるところにまで追い詰めたらしい。しかし、あとひと押しのところでアーチャーの弾丸が不自然に逸らされ、湖へ飛んでいったそうだ。

『以前にバーサーカーと戦闘になったときも同じ現象を見ました。ただ、あのときはもっとバーサーカーの近くにいましたけど……』

 環の証言と、先程まで繰り広げられてきたライダー、セイバーの戦闘の様子。カヤはバーサーカーの宝具が方向を持つものを歪める呪いの歌なのだと予想している。

 環達は以前の戦闘経験を基に、現状を危険と判断して森に待機している。ランサーを一時的にでも戦闘困難な状態に陥れたのは幸運だった。バーサーカーの呪いが続く限り、アーチャーはまともに戦闘を行うことができない。

「アーチャー達は待機しているようだが、安全とは言い難いだろうな。バーサーカーの呪いがこのまま強まれば、一歩踏み出すだけでセイバーのように湖底に転移されかねない」

 ……アサシンの言う通り。環達の無事を願うのであれば、行動するしかない。

 ライダーのようにバーサーカーの呪いを無効化して攻撃できるサーヴァントが他にもいる可能性はある。今の環はサーヴァントが無力化している状態で、敵対しているサーヴァントが何騎も跋扈する戦場に取り残されているのだ。

「カヤ。決めるのは君だ」

 アサシンの言葉が重く響く。決断をしなければならない。

 ……環を助けに行くか、行かないか。

 カヤにとって環は協力者だ。アーチャーの存在は唯一と言える戦力であり、軽々しく切り捨てることはできない。

 一方で、カヤがロットフェルトの敷地に無断で踏み入ることは非常にリスキーな行為だ。カヤの心臓は当主クサーヴァー・ロットフェルトが握っている。この状態でカヤがロットフェルト家に敵対していることが露見した場合、早々に命を奪われる。そしてそれはクーナウ家とロットフェルト家が戦争状態になることを意味している。

 環を助けに行くということは、カヤの命どころか、守らなければならぬクーナウの家さえ危険に晒す。カヤの心臓から、鉄の輪が擦れ合う音が響いた気がした。

 ……理性的な判断をするならば、環はここが切りどころ。もともと、部外者のマスターなのだから私には排除する義務がある。

 幼き日の誓いを思い出す。志半ばで他界した両親の遺志を継ぐという誓い。従うならば、取るべき選択は目に見えている。

 ……でも。

 それでも、カヤは見捨てるという言葉を口にすることはできなかった。

 昨夜の環の泣き顔が頭を過る。環の無力感も、屈辱も、そのどれもカヤは壁一枚を隔てて感じていたのだ。

 家業を継げなかった無力感。カールが居なければ、カヤもその無力感に苛まれていた。

 両親から期待されなくなり、ただ次代を産むことのみを期待される屈辱。カールが居なければ、カヤとてその屈辱に晒されていた。

 宮葉環という存在は、カヤ・クーナウにとってあり得たかも知れない現在なのだ。その上、環はあの小さい体で、拙い魔術回路で、巻き込まれたこの死闘で、目的のために戦っている。

 ……見捨てるなんて、できるわけないじゃない。

 決意を口にしようとして、急に心臓が高鳴った気がした。これは警告か。このまま進めば、最悪の事態がカヤを襲うとでもいうのか。

 死を、恐れているのではない。父と母の残したものを、自らの手で台無しにするのが恐いのだ。何より、カールに見損なわれるのが恐い。

 気がつけば、ソファの上で膝を抱えていた。子供の頃の癖。こうしていれば、父か、母か、兄が優しく声を掛けてくれるのだ。ここには、誰も居ない。

「カヤ」

 だから、傍らに控えているアサシンが声を掛けてきたことが、意外だった。

「私の主の話をしよう。貴方ではなく、以前のだ」

 脈絡のない話に、思わずカヤはアサシンの顔を見た。アサシンは昔を思い出すように、遠くを見つめている。

「かの女と私は良好な関係とは言い難かった。私は臣下として尽くしていると思ったが、かの女の眼にはそうは映らなかったらしい。それでも、私は英国のために働き続けた。敵国の密偵を探り出し、女王暗殺の計画を幾度も防いでね。女王の姪でさえ、英国に仇なすことが分かれば容赦はしなかった」

 アサシンの真名、フランシス・ウオルシンガム。エリザベス一世に仕え、反女王勢力から幾度も女王を救った。その方法はヨーロッパ全土にウオルシンガムの手足となるスパイを送り込み、疑いある人物、組織を監視することだった。秘密警察という組織の雛形となっている。

 英国を支えた原初のスパイマスター。その際立った功績はスコットランド女王メアリー・スチュアートの陰謀を阻止したことだろう。ウオルシンガムは女王の姪に当たるこの人物が、暗殺計画に加担していることを突き止め、その証拠を女王に突きつけた。

「かの女は決定が遅く、更に決まったことを覆すことも度々あった。殺意を持つ相手を処刑する許可を得るにも、多大な苦労を要した。私の身体を患うほどにね。だから、スコットランド女王の処刑が終わったあと、私は胸を撫で下ろしたのだ」

 だが、とウオルシンガムは小さく言う。

「それは軽薄な感情だった。女王は姪の処刑が終わると狂乱したように我ら臣下を罵倒した。あまつさえ、処刑されるべきは我々だったとまで言った。そこに居たのは、女王などではなかった。ただ肉親の死に怒り、悲しむ一人の女だった。……かの女は優柔不断であるがとりわけ優秀な女王だと思っていた。毛の一本に至るまで完璧な。しかし、私は最後の一線を超えてしまったのだ。女王と人とを分かつ一線だ」

 そしてアサシンは眼を閉じた。その瞼の裏にはきっとその日の光景が写っている。

「王は人の心を捨て切れなかった」

 その言葉に、アサシンの後悔が込められていた。きっとアサシンは女王にではなく、英国に仕えていたのだ。それ故に、王の真意を汲み取れなかった。

『私が仕えるのはマスターたる貴方だけだ。……貴方の家ではない』

 図書館での彼の二度目の誓い。今のウオルシンガムはカヤの家ではなく、カヤという個人に仕えている。きっと、彼の後悔を繰り返さないために。

「私はもう、あの悲しみを目の当たりにしたくない」

 ウオルシンガムはカヤに忠言をするわけでも、諫言をするわけでもなかった。ただ、その悲痛な言葉はカヤの決心を後押しするのに十分だった。

 震えが止まる。抱きかかえた膝を解放し、ソファから立ち上がる。

「行きましょう、アサシン。貴方のその願いを私は聞き入れる」

 アサシンも立ち上がり、カヤを見る。過去に思いを馳せる老人はおらず、戦場へ赴く意思をもった英霊がいた。

「分かっているわね?これで完璧に私は後ろ盾を失う。ロットフェルト家にバレたら命を落とすわ」

「ならば状況は単純というもの。我が主の本当の敵はロットフェルト家というわけだ。早々にアーチャーと合流し、ロットフェルト家を襲撃しよう」

 カヤは工房の扉に手を掛け、夜の森に出る。目の前に広がるのはルスハイムの街だ。その東に行くと、戦場たるプラウレン湖がある。湖への道を封鎖する結界があるが、抜ける方法は行きすがら考える。

「幸いにも使い魔を通してアーチャー達とは連絡が取れる。最悪の場合、山間で落ち合うことはできるだろう。んん」

「その口癖、忘れないでよね。調子が狂っちゃう」

 



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53

「カヤさん達がこちらに来てくれるそうです」

 プラウレン湖の周囲を囲む森。その中の小屋の一つに宮葉環は避難をしていた。レンガ造りの粗末な小屋である。中には寝起きのためのベッドがあるだけで、他には申し訳程度に食料がある。今は壁で守られている感覚だけでもありがたかった。

 ベッドに座るアーチャーはカヤの声に訝しむような表情を返した。ランサーとの戦闘によって消耗しているものの、力は温存できているようだ。切れ長の目が環を見つめる。

「アサシンがこちらに?彼らは戦闘能力が皆無に等しいのではなかったの?」

 環が見た限り、アサシンのステータスはかなり低い。純粋な戦力としての期待はできないだろう。しかし、それはアサシンとカヤも知るところのはずだ。

「それでも来るということは、何か打開策を持っているはずです」

 小屋の外。プラウレン湖を覆う森はバーサーカーの支配下にある。修道服の女の怨嗟の声が今も響き渡り、バーサーカーに近づくものを容赦なく湖の底へ転移させる。

 環達はランサーとの戦闘後、バーサーカーの危険を察知して可能な限り湖から離れた。ランサーに損傷を負わせたが、戦いを続けるのは危険であった。バーサーカーの宝具の影響で銃弾が無効化されれば、こちらに戦う術はない。

 小屋の床に座る環の膝には、一羽の梟がいる。カヤが放った使い魔だ。周囲の観察を担っていたが、バーサーカーの影響を考え、飛ばすことをやめて環達と合流した。今はこの梟を経由してカヤと会話ができる。環は梟の頭を撫でる。撫でる手から不安が吸い取られる気がした。

「それで、アサシン達はどのくらいで着ける?」

 アーチャーがしきりに時間を気にする。声色は落ち着いているが、その様子には焦りが隠し切れない。問題は時間だ。環の呪いがいつ再発するかはキャスター次第なのだ。他人に命を握られる感覚から、一秒でも早く解放されたい。その思いは当人である環以上にアーチャーが感じているのであろう。

「分かりません。結界をどう抜けるかもわからないですし」

 環の返答にアーチャーはそうか、と短く答えた。考え込むように下を向くアーチャーに釣られて、環も下を向く。膝の上の梟がとぼけた顔でこちらを見上げていた。

(環。聞こえている?)

(カヤさん!)

 カヤから念話が届いた。思わず大きな声で返答をしてしまう。その後、修正するようにちゃんと答えを返した。

(はい。聞こえています。こちらには来れそうですか?)

(そのことなんだけど、環の持っている通行手形を送ってくれないかしら。使い魔に持たせたら届けられるわ)

 ……ああ、そうか。単純な方法を見落としていました。

 環は肩から掛けた鞄を漁り、名刺ほどの大きさの紙を取り出す。文字列が矢印を作る異様な名刺だ。外からプラウレン湖に至るためにはこの名刺がなくてはならない。いや、山間を抜ければ道はあるのだったか。

(わかりました。直ぐに持たせます)

(ありがとう。しばらく念話ができなくなるけど十分くらいで着くはず)

(待ってます)

 短い返答の後、環は手に持った通行手形を梟の口に咥えさせる。そして建て付けの悪い窓を力ずくで開けると、梟が飛び立っていく。その瞬間、心細さが環を覆った。もしカヤ達が来なかったら。もし、見捨てられてしまったら。そう思うだけで足が震えた。

 ……十分。

 カヤ達を信じる。そう思い、震えを強引に抑える。努めて冷静に、アーチャーに伝える。

「アーチャー。カヤさん達は後十分ほどで着くそうです」

「そう。意外に早いね」

 アーチャーの感想がどこか冷たいのは、アサシンにあまり期待していないのだろう。昨夜の様子を見る限り、性格が合う様に見える。ただ、根本的にこの場を打開する策をアサシンが持つかどうか、疑問を抱いているのだろう。つまり、性能の問題。

「環、今はカヤとアサシンは会話を聞いている?」

「いいえ?使い魔がいなくなったので、聞こえていないですよ」

 アーチャーの問いの意図がわからず、環は戸惑う。

「アサシンが聞いていない内に話しておきたいことがある。僕の真名についてだ」

 アーチャーの真名。召喚してから暫く経つが、未だに聞きそびれていたことだ。幻術を使い、猟銃にて敵を射つサーヴァントは一体どの時代の英霊なのか。気にはなっていた。しかし、環には疑問が残る。

「この場で切り出したのは何故ですか?」

 言ったものの、何も話をしないと恐怖で押し潰されそうだった。アーチャーがこのタイミングで話をしてくれたのは助かった。もしかして、この弓兵は気を使って話をしてくれたのかも知れない。

「単純なことさ。アサシン達に聞かれずに話ができるのは、きっとこのタイミングしかないからさ」

「それは、カヤさん達が信用できないということですか?」

「そうじゃない。ただ、アサシンに盗み聞きされるのは不本意なだけだ。環が信用できると思ったのなら、早々に打ち明ければいい。僕は僕自身以上に、環の見る目を信用している。だから、環にだけ先に打ち明けたいんだ」

 環はアーチャーの言葉に納得した。本来であれば、召喚よりも前に知っておくべき情報が今の今までなし崩しで伝えそびれてきたのだ。ならば、早くその遅れを是正しておくに越したことはない。

「初めに言っておくけれど、僕の事情は複雑だ。正当な聖杯であれば、僕のような存在は呼ばれないと言えるくらい」

「今の戦況も十分に複雑なので、もう一つ複雑が増えたところで気にしません」

「それは良かった」

 環の軽口に応じるように、アーチャーが笑った。弓兵の相貌が、俄に爽やかな青年の表情に戻る。

「僕は言わば幻霊と呼ばれる類の存在だ。本来は伝説や作り物の世界に存在し、実在はしないもの。しかし、語り継がれる内に人々によって存在を信じられるようになった人物さ」

 幻霊。作り物の世界の住人にして、本来は存在しないもの。アーチャーのような狩人の物語に環は覚えが合った。

「もしかして、『魔弾の射手』ですか」

「ああ、やっぱり知っていたんだね」

 環の予想に青年が笑みとともに回答した。

「悪魔と契約し、必ず標的に当たる弾丸を得た狩人。それが僕の正体」

 アーチャーの声が、どこか他人事の様に語られる。目の前の人物が作り物の存在であるとは、環にはどうしても信じられなかった。

「誰かがアーチャーを生み出したということですか?」

「いいや。そうじゃない。『魔弾の射手』という作り物の脚本には、元となる実在の人物がいた。森で狩りをし、代々の受け継がれていた魔術を研鑽していく家系の男。気まぐれに一族の秘術を友人に貸し出したら、それが噂になって語り継がれてしまった。終いには演劇の原点にまでなるだなんて、恥ずかしい限りだよ」

 狩人の青年は本当に恥ずかしがるように肩をすくめた。

「じゃあ、アーチャーは実在の人物?」

「そういうこと。『魔弾の射手』として語られた架空の狩人を皮として、名も忘れられた森の人を中身として詰め込んだのさ。だから、本当のところは僕の名前は不明だ。僕自身も忘れている」

 何でもないことのように言うアーチャーに環は複雑な思いを抱く。

 ……確かに複雑。けど、それ以上に、悲しい。

 自身の名も語られているわけでもないのに、戦争に駆り出され命を賭けさせられている。これでは人というよりももはや機構と言ったほうが似つかわしい。

「じゃあ、アーチャーは名前を取り戻すことを聖杯に願っているのですか?」

「いいや。僕はそこにこだわりはない。魔術師としても狩人としても、なんら恥じることのない人生だったさ。ただね」

 言葉を切る。青年の表情に後悔の色が混じる。

「僕が気まぐれで渡した弾丸で、人生を狂わせた奴がいるらしい。一言、謝りたくてね」

「聖杯に願うには、ちょっと小さすぎる願いですね」

「そうかもね」

 環とアーチャーが笑い合う。環を多く不安が和らいだ気がした。そこに不釣り合いな音が響く。扉をノックする軽い音だ。環の返事を待たずに扉が開く。

「よかった。合流できた」

 長い手足に暗さを一切感じさせない白い肌の女性。走ってきたのだろうか、少し頬に赤みが射している。泣きそうにも微笑みにも見える表情だ。環は思わず立ち上がり、駆け寄ってしまう。抱きつくと、外の、冬の匂いがした。冷えた身体が彼女の優しさを証明しているようだった。

 カヤ・クーナウがそこにいた。

 



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54

 カヤ・クーナウはロットフェルト家の敷地に入ることに迷いはなかった。既に、アサシンとの会話にて心は決まっている。その上、環からの今にも泣き出しそうな声がカヤの背中を押した。

 バーサーカーの呪いがプラウレン湖を多い囲む森にまで影響を及ぼしている。しかし、環達の居場所が湖から離れていたために、その影響を受けることなく辿り着くことができた。

 ……途中でランサーにでも遭遇したら、その時点で死んでいた。

 環達の様子を知っているので、ランサーがしばらく戦闘に復帰できないのは分かっている。それでも万が一の危険を侵しても、カヤは最短距離を駆け抜けることに決めた。

『待っています』

 ……あんな泣きそうな声。待たせられるわけないじゃない。

 一時でも環を見捨てようとした己を恥じた。そして、その自分に気づかせてくれたアサシンに感謝の念を抱いたが、口には出さない。

 使い魔の案内を得て、環達のいる小屋にはすぐに辿り着いた。使用人のための家なのだろうか、湖に浮かぶ城めいた屋敷に比べて作りが粗末で古さを感じる。木製のドアをノックすると、木が弾む軽い音がした。中で、何かが動いた気がする。

 冬の空気に冷え切ったドアノブを掴み、扉を開ける。正面に、今にも泣き出しそうな環がいた。小動物を思わせる小さな身体が、カヤに抱きつく。黒く短い髪が乱れているのが今までの戦いの過酷さを伝えていた。しかし、怪我をしている様子もない。安堵からか、思わずカヤの瞳にも涙が浮かんだ。

「それで、状況はどうかな?」

「分かってると思うけど、バーサーカーが厄介だね。あの調子なら長くは持たないと思うけど」

「それはわからない。んん。バーサーカーのマスターはあの宝具を維持するために二画の令呪を使った」

「……正気を疑うな。バーサーカー陣営は主従揃って狂っているのか」

 カヤと環が再開の感動に浸る中、従僕達は変わらぬ調子で状況の確認をし始めた。気まずさを感じ、どちらともなく離れ始めた。

「好きなだけ続けてくれて良いぞ。んん?」

「からかわないで。それで、どうなのよ?」

 カヤは髪をかき上げながらアサシンに問う。黒い外套の男はふむ、と前置きをして話を始めた。環とアーチャーもそれに応じてアサシンに注目する。

「まず状況を整理しようか。我々の目標はキャスターの討伐だ。付帯して色々やりたいことはあるだろうが、今は置いておく」

 カヤと環が同時に頷く。環はロットフェルト城に保管されている聖遺物に用があり、カヤはロットフェルト家の当主に聞かねばならないことがある。しかし、現状として優先されるべきは環を蝕む呪いだ。

「キャスターの行方は未だに掴めていないが、既にロットフェルト城に乗り込んでいるのではなかろうか。ライダー、キャスターがどこまで結託しているかは不明だが、ライダーが陽動となりキャスターが本丸を攻める作戦というのは非常にわかりやすい」

「目指すべきはロットフェルト城だろう?それは百も承知だとも」

「ふむ。であれば、行く手を阻む障害を考えよう。兎にも角にもバーサーカーの対処だ。マスターであるハンナ・ロットフェルトは屋敷から直接こちらを見ている。令呪は後一画あるが、彼女の狂乱ぶりを見ると今にも使いかねない勢いだ。当然、その利用方法はバーサーカーの宝具の強化。実行されると、ロットフェルト城に近づくのが更に困難になる」

 環とアーチャーが神妙な顔つきに変わる。彼らにとってバーサーカーのマスターのことは初耳だったのだろう。

「早急に、マスターを討つ必要があると?」

「その通り。残念ながら、私にはその術がないがね」

 アサシンは悪びれることもなく言う。

「平時であれば狙撃することは難しくない。だが、問題はやはりバーサーカーの宝具だ。行く物の方向を操作するだなんて天敵も良いところだ」

「もし、バーサーカーの宝具がなければ、可能かね?」

 アサシンの言葉に、俯いたアーチャーが顔を上げた。期待が半分、不審が半分という表情だ。

「可能だとも。僕の宝具を開帳すれば万に一つも外すものか。だが、この仮定に何の意味がある?」

「では、湖面に立つバーサーカーはどうか。マスターとサーヴァント。同時に討つことは可能かね」

 アサシンはアーチャーの疑問に応えることなく続きを問うた。弓兵が訝しみながら、しかし、聞かれたことにだけ応える。

「同時、は不可能だ。弾の装填に時間がかかる。尤もその装填時間に何かをさせることはないけどね」

 皮肉交じりの回答にアサシンは満足がいかないようだ。ふむ、んん、といつもの口癖を溢している。たまらなくなり、カヤはアサシンに抗議の声を上げた。

「アサシン、話が見えない」

「単純なことだ。アーチャー、合図があるまで待機して何時でも宝具が打てるように準備を頼む。狙いはマスターだけでよい。バーサーカーはライダーに叩かせよう」

 そしてたっぷりと間を置き、アサシンが話しの根幹を口にする。

「バーサーカーの宝具は、私がなんとかしよう」

 

 小屋を出て、光の差さない森を走る。時折、何かが打つかるような音が響いていた。バーサーカーとライダーがまだ戦っているのだ。

(急いだほうが良い)

「分かってるわよ!全く!」

 霊体化したアサシンの小言に、カヤは走りながら悪態をつく。アサシンがここまで隠し事をしていたことに憤っているのだ。

『私の宝具は一定の条件があるが、他者の宝具を無効化できる。それでバーサーカーを無力化するので、その間にマスターを討て』

 当然、そんな宝具の存在をカヤは聞いていない。

(なんで予め言わないのよ)

(んん。使い所が難しいのだよ。私の真名は確実に白日の下に晒せれる上、しくじる可能性もある。あと、この宝具を使う前は『不義の密命書(バビントン・プロット)』は使えないからな)

 湖に向かって真っ直ぐ走ると、直ぐに視界が開く。カヤは使い魔の梟を湖に向けて飛ばした。向かう先は黒い船だ。戦闘を遠巻きに見つめている。

 ……無事に着くかしらね。

 既にこの湖付近もバーサーカーの支配下にある。彼女の叫ぶような悲痛な歌声が、剣戟の合間から聞こえている。

「さて、どうかね?」

 アサシンが実体化した上で問う。ここから先、戦闘力のない彼が矢面に立つことになるが緊張もしていないようだ。

 梟の行方を追うと、やはりというか、船の近くまで行くが、直ぐにその姿を消した。湖底に引きずり込まれたのだ。

「ダメね。引きずり込まれちゃった。むしろ、私達がここまで走ってこれただけでも良しとしないと」

「ふむ。仕様が無いな。後はアーチャー達の準備を待とう」

「いえ、既に準備は完了しているそうよ」

 環のところに置いてきた梟を介して、念話で状況を把握している。既にアーチャーはいつでも宝具を射てる状態だそうだ。

「では、早速始めようか」

「死なないでよね」

「善処しよう」

 そしてカヤは左の手を掲げる。向ける先は黒き船。

「令呪を持って告げる」

 

 テオ・ロットフェルトはライダーの戦いを見守り続けていた。『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』を使ったライダーには、もはやテオの声は聞こえていない。ただ、復讐を遮るバーサーカーを打ち倒すことしか考えていない。

 騎士の様相をしたライダーが、船の残骸からバーサーカーに飛びかかる。バーサーカーが湖に浮かぶ船の残骸をライダーに打ち付け、迎撃を行う。行く手を塞がれたライダーが空中で身を翻す。

 先程からこの繰り返しだ。

 テオはライダーの姿に恐怖を感じていた。快活で、挑戦を好むライダーは既に消えた。テオのサーヴァントは復讐を討ち果たすための獅子になった。

 左の手の甲を見つめる。バーサーカーが魔力切れを起こせば、すぐにでも使うつもりだった。『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』は令呪でないと解除できない。

「ふむ、苦戦しているようだね。テオ・ロットフェルト」

 テオの背後、予想外の方向からかけられた声に思わず振り向く。そこには黒い外套の男がいた。

「誰だ」

「アサシンのサーヴァントだ。んん。敵意はない」

 ……アサシン!

 所在の知れなかった暗殺者のサーヴァント。マスター殺しを生業にする英霊のはずだ。直ぐに思い至ると、テオはアサシンから距離を取った。

 しかし、アサシンは困ったように肩をすくめた。

「時間がない。んん。殺すつもりなら背から刺していたことぐらい、直ぐに分かって欲しいものだ。……バーサーカーを止めて欲しくはないか?」

 アサシンのサーヴァントは気配遮断というスキルを持つため、マスター程度の魔術師ではその存在を認識することすら難しい。目の前の男の言う通り、敵対するのであれば悠長に話しかけたりしない。

 ……それよりも。

「止められるのか?あのバーサーカーを」

「イエス。んん。……ただし条件がある。テオ・ロットフェルト。キャスターが掛けた呪いを解け」

 テオはアサシンから投げかけられる言葉に、心当たりがなかった。その雰囲気を察してか、アサシンが渋面を作る。

「まあよい。早々にライダーに準備をさせろ。直ぐに始める」

 そしてアサシンが船首からライダーとバーサーカーを見る。かの黒い男の周りに尋常ならざる魔力が滾る。静かだが、確固たる意思を感じる魔力だ。

 ……ライダーよりも静かだ。

 そして、アサシンが口を開く。低い、断罪の声が響く。

「連れてゆけ、『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』」

 戦闘を繰り広げるバーサーカーの周囲に異常な魔力が集まる。テオは見る。その魔力が形作られるのを。

 ……あれは、牢獄か。

 バーサーカーの宝具を、攻撃を、そのすべての行動を奪い去る牢獄だ。バーサーカーには理解ができないというように暴れるが、牢獄は微動だにしない。

「邪魔だ」

 ライダーが外から攻撃を繰り出す。しかし、牢獄はすべてを拒否するかのようにライダーを弾き飛ばした。魔力が更に集積し、牢獄を取り囲むように塔を作る。中からも外からも壊すことは敵わない牢獄塔が生まれていた。

 

 宮葉環は小屋の外に出て、湖の方向に光の塔が出現したのを見た。

「全く、本当に彼は暗殺者なのか?あんな目立つ宝具を使って」

 呆れるアーチャーの声は環の上空から聞こえた。弓兵は小屋の屋根に立ち、猟銃を構えている。ロットフェルト城にいるバーサーカーのマスターを狙撃するためだ。

 ……本当に、人を殺すのですね。

 ここまでの戦いで環は幾度も殺されそうな目に遭っている。しかし、能動的に敵のマスターに害を加えるのは初めての経験だった。

「環。これは僕の意思で行う狙撃だ。環の意思ではない。決して気に病まないで」

 思い詰める環に、アーチャーが励ます。

 ……いいえ。アーチャーを止めない限り、私も同罪のはず。

 しかし、声に出すことはできなかった。自らの意思で命を奪うことに、どうしても声を出して賛同できないのだ。

「すみません、アーチャー」

「本当に、魔術師らしくないね」

 魔術使いです、と小さく応えるが、意味のある反論かわからなかった。

(環、聞こえる?今なら届くから射って!)

 カヤの念話に、環は迷いを消す。行動をしなければバーサーカーに殺されるかもしれない。何より、ここで環が行動をやめれば、環を助けに来たカヤが危険に晒させる。

「アーチャー!」

 環の声よりも早く、アーチャーは既に行動を開始していた。魔力が弓兵の猟銃に集まる。そして、直ぐにそれは放たれた。アーチャーの祈りのような声とともに。

「『主よ御手もて引かせ給え(デア・フライシュッツ)』」

 魔力の籠もる弾丸が、木々の隙間を、夜霧の間を抜け、ただまっすぐ目標に迫る。城にいるバーサーカーのマスターだ。

 命を奪う閃光が夜を切り裂いた。

「よし」

 アーチャーの声が落ちてきた。環は命が奪われたのだと知った。

 

 テオ・ロットフェルトは暗闇を割く閃光を見た。

 ……あれはなんだ?

 状況は停滞していた戦闘から一変して、急速に変わっていた。

 アサシンが登場し、バーサーカーを光の牢獄塔に閉じ込めた。バーサーカーとライダーが内と外から食い破ろうとしているが、梨の礫だ。

 そして先の閃光。サーヴァントによる行動であることは疑いもない。アサシンによるものだとは思えない。もう一騎、サーヴァントが潜んでいた。

「テオ・ロットフェルト!ライダーのマスター!」

 状況を確認する思考は、アサシンの呼び掛けで途切れた。

「バーサーカーを解き放つ!ライダーで攻撃し給え」

 船首に立つアサシンは、テオの返事を待つことなく姿を消す。バーサーカーを解き放つ。つまり、バーサーカーの宝具が再び具現化するだろう。アサシンは、バーサーカーの宝具の発動よりも早く、ライダーでバーサーカーを打ち倒せと言っているのだ。

 ……良いように使われているが、今は先へ進むのが優先だ。

 そのためには、ライダーの『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』を解除し正気に帰らせねばならない。さもなくば、ライダーはバーサーカーを打倒した後に消滅する。そんなことは許容できない。

 船首に立ち、左手を掲げる。令呪を行使しようとしたとき、耳元に低い男の声が響いた。

「ゆめ、呪いを解くことを忘れるな。約束を反故にすれば、疾く我が遣いがお前を殺すだろう」

 思わず声の方向を見るが、そこには誰も居ない。

 ……アサシン!

 アサシンの言葉について考えるのをすぐに止める。バーサーカーを囲む光の牢獄が崩れかかっているのが見えたからだ。

「令呪を持って告げる。ライダー!正気に戻れ!」

 左の手の甲に痺れが走る。令呪の行使の結果は直ぐに現われた。牢獄に攻撃を加え続けるライダーが手を止めて、テオの乗る船を見ている。

 ライダーが足場とする船の残骸から飛び上がり、テオの目の前に立った。白金の鎧に金色の髪が靡いている。その表情は未だに凍ったままだ。

 ……失敗したのか。

 ライダーは『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』の解除を令呪に頼ると言った時、訝しむような様子だった。ライダーの宝具は令呪でさえ解除できない強制力を持つのだろうか。不安が胸を過ぎる。

「……悪いなテオ。迷惑をかけた」

 しかし、杞憂だった。ライダーが照れ隠しのような表情で謝罪を口にした。そしてテオの回答を待たずに、白金の鎧が海賊服に変わる。左手の細身の剣が武骨なカトラス剣に変貌した。

 かつてのライダーの姿だ。

「ライダー」

「感動の再会は後だ。あいつと決着をつけようぜ」

 そしてライダーが乱暴な仕草で顎をしゃくる。そこには牢獄が消え、湖面に蹲るバーサーカーがいた。アサシンの宝具が解けたのだ。

「さあ、行こうか。これで終いだ!」

 ライダーのカトラス剣がバーサーカーを指す。何故か、テオには懐かしさが湧いた。朱い帆が夜の風に靡いた。黒い船の歓喜だと思った。

「ぶっ潰せ!『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』!」

 テオとライダーの乗る船が、唸り声を上げてバーサーカーに打つかる。修道服の少女は、何もできずにその身に復讐の一撃を受ける。

 その直前に、ライダーの声を聞いた。

「愛されなかったってのは、悲しいもんだな」

 破砕の音が湖に木霊した。

 

 ロットフェルト城のバルコニーでハンナは自身に起こったことをようやく理解した。

 胸に手を当てると、生暖かいもので濡れていた。血だ。

 ……嗚呼、死ぬのね。

 バルコニーからバーサーカーを叱咤し、令呪を使おうか考えていた矢先だった。湖から少し離れた所から細い閃光が迫った。ハンナが脅威であると認識する前に臓腑を貫き、決して助からない傷を残していたのだ。

 ……相手に死という概念を押し付ける。まるでルーンのような強制。傷の治癒は無意味ね。

 足に力が入らず、バルコニーの外壁に前のめりにもたれかかった。死の際に至り、ハンナは自身の状況を冷静に分析できた。死は、避けようがない。

 首を無理やり上げて、視線をバーサーカーに送る。

 バーサーカーが赤い帆の船に叩き飛ばされているのが見えた。

 ……悔しいでしょうね。私もよ。

 その船には憎き女がいる。今は海賊服に着替えているが、見間違えようがない。テオを連れ去った女だ。その女が、テオとハンナの家に迫っている。

「バーサーカー、バーサーカー!……私の怒りを、貴方の怒りを、このままにしておけないわよね?」

 バーサーカーは湖面に伏せ、今にも退去されようとしていた。しかし、去りゆく船を睨むその目は意思が秘められている。ハンナと同じ意思だ。

「……令呪を持って告げる!」

 肉体の死が近づきながらも、ハンナの魔術回路は未だに令呪を行使するだけの力を持っていた。最後の一画が輝く。

「ライダーを沈めなさい!」

 渾身の思いを込めて吼える。左の甲にハンナの最後の力が吸い取られた。

 ……バーサーカー、貴方だけでも、思いを叶えて。

 最後の令呪がもたらす結果を目にすることなく、瞼を閉じる。同胞への思いを残し、ハンナ・ロットフェルトの命は閉じた。

 

 テオ・ロットフェルトの耳に、ありえぬ声が響いた。声のする方向は船尾。そしてその声は確かにバーサーカーの悲痛な歌だ。

 ……まだ倒せていないのか。

 バーサーカーを退けての突貫。倒したと確信していた。

「テオ!アタシに掴まれ!」

 ライダーの声に応じて、理由を尋ねることなくライダーにしがみついた。

 辛うじて聞こえる程度の声が、絶叫となり響く。その声に従い、崩壊が訪れた。

 何かを強引に引き千切る、不気味な音が聞こえた。思わず、そちらを見る。絶叫の方向にある船尾から、船が崩れている。まるで、先へ向かう船を強引に引き止めるかのように、船を尾から引き千切っていく。

「畜生め!」

 ライダーが悪態と共に、テオを抱きしめたまま海へ飛び込む。湖面に飛び込む直前、船の赤い帆が沈みゆくのを見た。

 



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55

 カヤ・クーナウは湖を囲む森から、船が崩れていくのを見た。巨大な黒い船が船尾から崩れていき、湖の中に吸い取られている。

 船を逃さないという執念を感じる。既にバーサーカーの姿は消え掛かっているが、かのサーヴァントの恩讐は絶叫として響いている。

 カヤの心配は黒き船ではない。カヤ自身のサーヴァントである。

 カヤは令呪を使ってアサシンをライダーのマスターのいる船に送り込んだ。如何にバーサーカーの宝具が強力とは言え、令呪の奇跡を防ぐほどの強さはなかったようだ。

 しかし、船からの脱出に令呪を使うつもりはなかった。バーサーカーが最後の足掻きで宝具を使うなど予想していなかったからだ。

 ……アサシン!

 黒い男の脆弱さをカヤは一番分かっている。ライダーの宝具さえ崩壊せしめる御業に、あの老人が耐えられるはずなどない。

「戻った。んん。全く、バーサーカーの往生際の悪さには肝が冷えた」

 カヤの心配を裏切るように、アサシンが傍らに立っていた。

「うわっ!驚いた」

 唐突な登場に、思わず甲高い声が出た。

「ひどい反応だ。命からがらで逃げてきたというのに」

 アサシンが眉間に皺を寄せながら言った。

「悪かったわね。絶対に死んだと思ったから、令呪を使おうか迷ってたの」

「んん。バーサーカーがライダーのみを狙ったようで助かった。船の脱出が遅れていたら令呪に頼ることになっていただろう。……ともあれ、作戦は成功のようだな」

 アサシンの宝具たる『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』により、バーサーカーの宝具が無力された。その間隙を縫い、アーチャーがバーサーカーのマスターを仕留める。最後にバーサーカーが宝具を使わなければ、すべてがアサシンの作戦に沿ってことが進んだことになる。

「最後のバーサーカーは、令呪に寄る強制起動だろう。んん。意図はわからんがテオ・ロットフェルトに多大な怨みがあったのだろうな」

「そうかもね。……でも今は自分達のことよ。環達のところへ戻りましょう」

 そしてアサシンが霊体化する。カヤはアサシンを連れて小屋を目指して駆け始めた。歌声が消え、森の静けさが際立っている。

(アサシン、ところで宝具の説明をしてくれない?)

 バーサーカーを拘束した宝具。あの光の牢獄についてカヤは何も聞いていなかった。アサシンが使用を躊躇ってことも含め、説明が欲しかった。

(ああ、ふむ。そうだな。あれは倫敦塔を模した宝具だ。私の主に仇なすとわかった者を閉じ込め、その力を剥ぎ取る。魔力、権力、財力。あらゆる力を、だ)

 英国の倫敦塔はかつては政治犯を捕える監獄の役割を担っていた。アサシン、フランシス・ウオルシンガムも多くの政治犯を捕え、この監獄に閉じ込めたと記録されている。

(良い宝具じゃない。なんで今まで黙ってたのよ)

(安定しないからだ。まず、あの塔は閉じ込める相手の持つ悪意の過多で出現時間が決まる。いや、厳密には私の確信している悪意の過多、か。もし相手が我が主、カヤ・クーナウに親愛の情を持っていた場合、あの塔は出現せずに不発に終わる。ただ、いたずらに魔力を消費するだけだ。……隠したい理由が分かったかね?)

 一見すれば、相手の宝具さえも無効化する強力な武器。しかし、相手の感情という曖昧な点に依存して脅威が変わる。幾度も使えば誰かが弱点に気が付くだろう。いざというときまで隠しておきたい気持ちは理解できる。

(そしてこれが明確な弱点なのだが、あの牢獄は内からも外からも破れない。私が死ぬか、塔が自然に消滅するまで、誰の手にも自由にはならない。故に、『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』を開帳するのであれば、マスターを攻撃する方法が必要となる。だが)

(貴方は攻撃手段を持たない。となると、必然的に他のサーヴァントの協力がいる)

(ふむ、その通り)

 アサシンの続く言葉が予想できた。この宝具、『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』は矛盾を孕んでいる。

 使えば敵対サーヴァントを無力化でき、マスターを無防備にできる。しかし、マスターへの攻撃手段をアサシンが持たない故に、他のサーヴァントに攻撃を依頼するしかない。先の場合でいうと、バーサーカーを無力化し、協力者であるアーチャーがハンナを討った。

 しかし、『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』はアーチャーに対しては効果を発揮しないだろう。何故ならアーチャー自身がカヤに対して協力関係である限り、悪意を持たないからだ。

 聖杯戦争が正常に推移した場合、協力関係はいつか破綻する。必ずだ。そのとき、先んじてアサシンが協力関係の破綻に気が付かない限り、この宝具は機能しない。

(召喚した際に言ったな。私を召喚する者がいるとは思わなかったと。……それは私に、戦士として、暗殺者としての史実がないから問うた。そして、私の性能は最後の一人になるためのものではない)

 フランシス・ウオルシンガムの責務は、英国に仇なす陰謀を暴き、先んじて牢獄に投じる。蜂起された戦乱を兵を率いて鎮めることでも、敵国に攻め入ることでもない。それは他者の責務だ。フランシス・ウオルシンガムはただ、彼らを支援する。

(理解したわ。過信はしない)

(特に気をつけて欲しいのは、相手がカヤに悪意を持っているかではない。私が相手の持つカヤの悪意に気が付いているか、という点なのだ。物証に寄る明確な殺意ならば満点。殺意の言葉でも十分過ぎる。怨嗟の籠もった絶叫でもまあ良し。ただ、何もなければ、何も起こらない)

 カヤは心の中で納得する。アサシンの二つの宝具は連携することが前提なのだ。

 『不義の密命書(バビントン・プロット)』によって、マスターへの悪意を集め、確信する。

 『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』によって、その悪意を糧にサーヴァントを無力化する。

 強力な武器だと思う。アサシン自身に戦闘能力がないことが殊更悔やまれる。

 新たな情報を脳内で整理しながら森を走る。環達のいる小屋が見えたところで、誰かが走ってくるのが見えた。小柄な女性。宮葉環だ。

「カヤさん!」

「遅れてごめんね。でも、なんとかなった」

 安堵と達成感に満ちているような雰囲気に浸る。しかし、環にとって重要なのはここからだ。

「アサシンは無事かい?彼の宝具のおかげで助かった」

「なんともないとも。詳細を説明する気はないがね。……感動もそこまでだ。早々に行動しよう」

 実体化したアーチャーとアサシンが簡単に会話を済ませる。

 ……そう。ロットフェルト城のキャスターと当主に会わなくては。

 環に掛けられたキャスターの呪い。カヤの心臓を縛るであろうロットフェルト家当主の魔術。どちらもここで片を着けなければならない。

「アーチャー、ミス宮葉。一応だが、テオ・ロットフェルトへキャスターに呪いを解くように脅しておいた。どこまで意味があるのかは不明だがね」

 アーチャーが環を抱え、カヤも気持ちを一新したところでアサシンが唐突に言った。

「どういうことですか?テオさんはキャスターのマスターではないですよね?」

「その通りだ。んん。しかし、恩を売るという意味でバーサーカーを無力化する対価として、呪いを解かせるように約束させた」

 アサシンが宝具を使う直前。ライダーの船の上で会話をしているのは知っていたが、そんなことをしていたのか。抜け目のない。

「でも、どこまで強制力があるの?」

「全くない。破れば使い魔が殺しに行くと脅したが、どこまで意味があるか。やらないよりもましと判断した」

 無論、アサシンに遠隔による攻撃を行う術もないし、テオが自分のサーヴァントではないキャスターに強制力を持っているわけではない。

「期待はするな。だが、言わないというのもおかしなことだと思ったのでね」

「いえ、ありがとうございました」

 環がアサシンに丁寧にお辞儀をした。アーチャーに抱えられながらなので、あまり格好はついていなかったが。

 アーチャーが湖畔に向けて走り出す。カヤも後を追って走り出した。ロットフェルト城へ行くためのボートを探すためだ。

「そもそもだけど、ライダー達が無事とも思えないしね」

 カヤが独り言のように溢す。ライダーの船はバーサーカーの最後の足掻きによって湖底へ藻屑と消えた。ならば、その上にいたライダーとテオの命も同様の末路を辿っていると思われた。しかし、その予想は霊体化したアサシンに否定される。

(そうとも限らない。ジャンヌ・ド・ベルヴィルには生き残りの逸話があるのだからね)

 



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56

 テオは覚醒すると、自分が暗い空を見上げているのに気が付いた。空がゆったりとした調子で左右に振れ、自分が舟の上に横たわっているのだと知る。微睡みが頭を支配していた。

 ……確か、バーサーカーにやられかけて。

 バーサーカーの死に際の一撃によって、ライダーの船が瓦解した。そして湖底に沈みゆく前にライダーと共に湖に飛び込んだのを覚えている。抱きかかえられた安心感と、直後に訪れた濁流。激しい記憶が、テオが戦場にいることを思い出させた。

 ……ライダー!

 覚醒した意識で周囲を改めて見る。テオの乗る舟は小さく、戦いで使用した船よりも簡素だった。舟は船着き場の端に止められている。

 テオはこの場所に見覚えがあった。思わず舟を降り、古びた門へ走る。

「……ロットフェルト城!」

「そうさ、無事に届けてやったぜ」

 テオの驚嘆の声に応えるように、背後から声がした。ライダーだ。思わず振り向こうとするが、声で制される。

「おっと。振り向くなよ。……分かってるだろ?マスター、アタシは此処が限界だ」

 ライダーの言葉に、テオは唇を噛みしめる。バーサーカーとの戦いにおいて、幾度の宝具の利用によりライダーは既に限界に達していた。

 それでも、テオを此処まで送り届けたのはライダーの持つ逸話のおかげだろう。船が倒れた後も、彼女だけは小舟で漂流し生きて戻ったという。この話はよく知っている。

「この小舟はな、本当に最後の最後になってようやく出せるんだ。戦うためじゃなくて、逃げるための舟。なんとかこいつで、城まで来れたよ」

 ライダーが自嘲するように言った。テオは滲む思いを、背を向けたまま言葉にする。

「ライダー、本当に最後なのか」

「ああ、ダメだ。もう武器はない。『朱き我が復讐(マイ・リベンジ)』は潰えた。『戦いの雌獅子(ライオネス・オブ・ブリタニー)』は使う気はない。というか、霊器がボロボロなんだ。気が付いているだろうよ」

 だから、とライダーは続ける。

「これでお別れだ。だが、アンタの目的には繋げたぜ。すげえだろ、アタシ。……早く行って、妹を連れて帰りな」

 握り込む拳が、痛いほどだった。サーヴァントは現世を仮宿とする亡霊。別れが来るのは必然のことだ。しかし、あまりにも早く訪れてしまった。

 ライダーの金の髪が偲ばれた。快活に笑うあの笑顔に、また勇気をもらいたかった。

「せめて、顔を見て別れを言わせて欲しい」

「ダメだ」

 テオの滲み出るような懇願も、ライダーが阻む。

「アンタの記憶に残る最後のジャンヌ・ド・ベルヴィルが、こんな傷顔じゃあな。……後生だ。見てくれるな」

 ライダーの声は徐々に意気を失い、最後は独り言のように聞こえた。食い下がりたい気持ちを堪え、テオは目の前を見据える。厳しい門が拒絶の意思を持っているようだ。前を向き続けなければならない。ライダーが命を費やして得たこの機会を無駄にはできない。

 だから最後に、テオは一言だけ残して歩み始める。

「ありがとう、ライダー」

「おう」

 あまりにも短い返答。だが、きっとそれがライダーにできる限界だった。テオは消えゆくライダーの繋がりを触れるように感じながら、ロットフェルト城の扉に手を掛けた。

 

 去りゆくマスターの足音を、聞き取ることすら困難だった。自分の身体が崩れるという未体験の感覚に、ジャンヌ・ド・ベルヴィルは身を委ねていた。

 マスターであるテオにはもっと話をしたいことがあった。彼の生き方は狭窄で、ともすれば崩れ去ってしまうような危うさがある。剣を取ったばかりの自分を見ているような思いだった。

 ジャンヌは崩れ行く身体で、湖に浮かぶ小舟に横たわる。空を見上げると、夜霧に反射された月の明かりが粒のように降り注いでいた。死の際にあって、どこか清々しい気分だった。

 ……そういや、アイツもこんな気分だったのか。

 ジャンヌの息子ギヨームもこの舟で最後を迎えた。丁度、今のジャンヌと同じ様に空を見上げながら死んでいった。最後の言葉は、あまりにも小さな声でジャンヌには聞き取ることができなかった。

 ……アイツ、何が言いたかったんだろうな。

 聖杯に掛けるほどの願い。叶わぬと分かっていながらも、ジャンヌは最後まで思いを馳せる。しかし、消えゆく思考で一つだけわかったことがあった。

「末期の一言なんて、こっ恥ずかしくってでかい声で言えねえよ。……なあ、ギヨーム」

 はっきりとした声は、誰の耳にも届かない。亡き子の思いに確信を得て、ジャンヌ・ド・ベルヴィルは消滅を受け入れた。声にはしなかった思いを、心に宿すだけにして。

 ……テオ、アタシみたいになるなよ。

 



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57

 ロットフェルト城の内部。その中は魔術によって異界に変容していた。外から見ても大きさを感じる城だ。その上、一度外敵とみなされると巨大なな城は途端に迷宮となる。

 ゲルト・エクハルトは迷宮をサーヴァント、キャスターと共に踏破していた。

 治癒、回復魔術の古き大家たるロットフェルト家の当主が作成した工房。外敵を阻むための結界は幾重にも敷かれ、直接的に排除するために死霊さえもゲルト達を襲う。

 しかし、どの仕掛けも意味をなさない。そも現代の魔術師が人類史に刻まれた魔術師の英霊たるキャスターを阻むことなど、無謀と言う他ない。

 二人は最上階の当主の工房を目指し、降りかかる仕掛けを愚直に潰しながら歩いていた。光の入らない石畳の廊下が真っ直ぐ伸びる。明らかに城の大きさを越える長さ。しかし、それに驚く素振りもない。

「まったく。魔術師がキャスターを阻むなど無意味だと言うのに。魔力がもったいない」

 昏いコートの男が嘆息する。キャスターと呼ばれた少年は、何も言うことなく、廊下に掛けられた絵画を見ている。そして、何かを小さく呟くと変化が訪れた。

 廊下の石畳が、絵画が、先が見えぬという映像が剥がれる。ただの絨毯の敷かれた廊下。そして目の前に扉がある。

「幻術だった」

 大家とまで言われた老魔術師の幻術を破った少年は、なんでもないかのように報告した。

「ご苦労さま。これで最後だろう。老人との対決は私に任せてくれ」

「わかった。一度分だけれど、地獄の準備はできている」

「ああ。合図をしたら、私に対して使ってくれよ」

 顕になった扉に手をかけて、開く。金属の軋む音と共に、目当ての空間に出たことを悟った。

 建物の一室とは思えぬ広い空間。足元には草が生い茂り、中空には月が浮く。明かりは月明かりのみだ。夜の草原が、その一室には再現されていた。

 例外は一つ。草原に似つかわしくない豪奢な椅子がある。そこには一人の老人が座っている。ゲルトはその老人と対峙するように立つ。老人はつまらなさそうな顔でゲルトを見つめていた。

「騒がしい夜だ。ここがロットフェルトと知っての行いか」

 老人が不機嫌を隠すこともなく言った。嗄れた声だ。

「この喧騒も貴様の仕掛けた戦争が原因だろう。クサーヴァー・ロットフェルト」

 老人、クサーヴァー・ロットフェルトは緩やかな動作で立ち上がった。

「全く。露払いはクリストフに任せたはずなのだがな。あやつめ、仕損じたか。アーベルトも死に、ハンナも死んだ。テオも生きているか分からぬ。誠に我が血族の不甲斐なさに恥じ入るばかりよ」

「気にすることはない。貴様も道を同じくするのだから」

 ゲルトの口の端が吊り上がる。ここに来て、ようやく見つけた標的に感情を堪えきれなくなっていた。

 ゲルトの感情に呼応し、昏いコートが膨らむ。そして、何かを弾き出した。白い狗だ。牙を向き、一心不乱に老人に襲いかかった。

「貴様を殺す者の名を覚えていけ。ロットフェルト家に滅ぼされた家の末裔、ゲルト・エクハルトだ」

 怨みの言葉と共に狗がクサーヴァーの喉元に食らいついた。老人はその牙を避けることなく受け入れた。白い狗が喉の肉を咥えてゲルトの足元に返ってきた。

「エクハルト、エクハルト。さて、どこの家だったか」

 ゲルトが驚愕から眼を見開く。クサーヴァーは喉を食いちぎられながらも平然としている。

「ああ、思い出した。置換魔術で合成獣を作ることに特化した家系だったな」

 喉から血を吹き出しながら、クサーヴァーは続けた。

「貴様、何故平然としていられる」

「既に治癒を終えているからだとも。侮られたものだ」

 クサーヴァーがゲルトの疑問に答え、片手で喉元の血を拭う。直前まで吹き出ていた血が止まり、食い千切られた傷も塞がっていた。ただ、老人の皺の刻まれた肌があった。

 ……この一瞬で致命傷を回復したのか。

 行使のタイミングさえ見えぬ治癒。魔術の高度さよりも、その手慣れ具合が、クサーヴァーの実戦経験の数を物語っていた。

「気が済んだか?良ければ、死んでもらうのだが」

 クサーヴァーの灰色の眼に殺意が籠もった。直ぐに白い狗が襲いかかる。再びクサーヴァーの喉元に食らいつこうとしたが、老人の枯れ枝のような腕に阻まれる。鋭い牙が骨を砕く音が響いた。

「エクハルト。確か魔術師の妻を治癒したな。対価として当主には働いてもらったとも。そして確か。……なんだったか」

 それでも、老人は平時の変わらぬ様子で言葉を続ける。白い狗がゲルトの足元へ戻った。

「貴様が滅ぼしたのだ!我が父はロットフェルトの要請に応じ、その力と魔術を提供した!秘すべき魔術刻印の一部さえ開示したのだ!しかし貴様はそれに満足せず、すべてを奪ったのだ!」

 ゲルトが吼える。普段の昏い雰囲気が消え、激情が声に宿る。

「そうだったな。エクハルトが惜しむ故、すべてを殺して奪った。いつもの通りで、忘れていた」

「貴様は、貴様が治癒した母さえも殺したのだ!」

 ゲルトが思い出す。銀の眼をしたロットフェルトの魔獣が父と母を殺すのを。エクハルトから奪った魔獣達。エクハルトの家族は奪われた自身の魔術で殺された。

 ゲルトだけが生き残った。貯蔵してあった礼装も、父の身体に刻まれた刻印も、すべての財産を奪われてもゲルトだけは生き残ったのだ。ゲルトに残されたのは、僅かに移植されていた魔術刻印と、形見の礼装。胸に宿ったのは復讐だ。

「魔術師が死を受け入れられぬとは、片腹痛い。子を成した以上、女に用はなかろう。情にほだされた魔術一家など、儂が殺さずともいずれ滅びていたとも」

「ロットフェルトもここで滅びる。願望機に一縷の望みを掛けるなど、落ちたものだ」

 クサーヴァーが喉を鳴らすように嘲笑った。くっくっという不気味な音が偽りの草原に響く。

「そう。落ちたものだ。全く言い返しようがない。儂も心を痛めたものだ。どの者を選ぼうとロットフェルトは終わる。それがありありと見えている。だからこそ、聖杯を利用しようと考えたのだがな。真なるロットフェルトの後継者であれば、令呪を宿し戦争に勝つ」

 聖杯は願望機だ。無論、後継者になること以外を願うこともできる。しかし、この老人は自分の子がロットフェルトに相応しい後継者に成ると願うと、疑いを持っていないのだ。

「狂ってる」

「応とも。狂わずして魔道を歩くことができるかよ。……エクハルト。お前らは狂っていないから、滅びたのだ」

 クサーヴァーの言葉にゲルトは身体に熱が宿った。そして行動に移る。白い狗が姿を変える。長い、一本の角だ。聖獣たるユニコーンを模した角。エクハルトに残された最後の、唯一の礼装。ゲルトは聖獣の角を握り、槍を操るようにクサーヴァーに突貫した。

 老人は、やはりその角を受け入れた。今度は正確に、クサーヴァーの心臓を貫いた。老いた肉を射抜く感触が両手にある。

「刺されば治癒も叶うまい。その傲慢を悔いて死ね」

「流石はエクハルトだ。かの聖獣の角を、模造品とはいえ作り出しているとはな」

 見上げるクサーヴァーの口が、笑みに歪む。

「これは、欲しいな」

 その不気味な笑みに思わず角を引き抜こうとする。しかし、心臓に刺さった角はクサーヴァーの身体で何かに引っかかるように動かない。

「お前の敗因を教えよう」

 その声に、角すら手放して後退しようとする。ゲルトは両の手を離そうとするが、手が動かない。

「お前の使い魔、この角の前に使っていた狗。儂の血肉を口にするのは些か軽率ではなかったか」

 ……しまった。

 ゲルトの使い魔の白い狗はクサーヴァーの喉の肉を咥えた。その血を多少なりとも内部に取り入れたのだ。血は、魔力を通す基本的な媒介。まして、怪物じみたこの老人の血に、何が混じっているかわかったものではない。

 此処に居たり、ゲルトは魔術師としての敗北を認めた。自身の、エクハルトの魔術ではこの怪物を殺しえない。

 だが。

「キャスター!やれ!」

 二人の戦いを退屈そうに見守っていた少年が、声に応じて立ち上がる。

「魔術師としての戦いかと思ったのだがな。矜持さえ失うか、エクハルト」

「黙れ!」

 ゲルトの叫びとともに、キャスターがその宝具の名を唱えた。

「『三位一体百歌英雄地獄(ディヴィナ・コミディア・インフェルノ)』」

 そして、世界が塗り替わる。

 涼やかな偽りの草原は消え去り、荒涼とした岩肌が露出する。命など存在しないような岩の渓谷だ。大小の岩が放置され、何かの動物の死骸のように見えた。ゲルトとクサーヴァーは谷底にいる。ゲルトが見上げると、キャスターが見下ろしていた。少年は断罪の声を待つ。

 クサーヴァーの顔にようやく焦りの色が見えた。しかし、もう遅い。この世界は、キャスターが生み出した地獄。かの少年が書き上げ、多くの英雄が此処に至ったと人々に思わせた一つの世界。

 固有結界。魔術師の世界ではその様に言われる。

「エクハルト。貴様、己ごと儂を殺すつもりか」

「端からそのつもりだとも。化物相手に生きて帰ろうなどと思っていない。命をとして一族の悲願を成す」

 嘲笑の笑みをゲルトが浮かべた。先程までクサーヴァーが浮かべていた表情。まるで写し取ったかのように、ゲルトは口の端を吊り上げた。

「キャスター!我が業を断罪しろ!」

 そして、炎が二人を包む。キャスターの宝具は対象となる人物の抱く業や罪を写し取り、地獄という形で相手に与える。

 ゲルトの罪は他者を欺いた罪。多くのマスターに対して、裏切ることを前提に共謀を持ちかけたこと。そして何より、テオ・ロットフェルトという若者を誑かしたことだ。

 ……テオが居なければ、私はこの戦争に至れなかった。

 ロットフェルトの血族というだけで、ゲルトに取っては憎むべき対象だ。しかし、ロンドンの寒空で孤独に奴れる彼を憎むことはできなかった。一族を失い、露頭に迷ったゲルトと同じ目をしていたのだ。

 故に、ゲルトはテオに対して、矛盾する二つの感情を抱いていた。ロットフェルトの血族としての嫌悪。そして、失った者同士という同族感。

 炎が、容赦することなく二人を抱く。肉の灼ける不快な臭い。

「離せ!……この角を抜け!」

 老人の力ない言葉に、ゲルトは灼かれながらも、嗤う。両親が授けた最後の礼装は、地獄の炎にも耐えている。

 ……嗚呼、聞こえていますか。我が一族を根絶やしにした男を漸くそちらに送れます。

 ゲルトは悶えるクサーヴァーの耳に小さな声で語る。

「これで、貴様の魔術刻印も灼かれ、消え去る。ロットフェルトは此処で潰える」

 炎が顔を焼き、もはやクサーヴァーの表情もわからない。だが、絶望に悶ている。そのはずだ。そしてゲルトは命の尽き果てる寸前、勝ち誇るように老人に告げる。継ぐ者の居ない、最後の当主に。

「エクハルトの魔術刻印は私の子に移している。エクハルトは、終わらない」

 そして命が灼き尽きるまで、ゲルト・エクハルトは嗤い続けた。岩の渓谷でその声を聞くのは従者の少年だけだった。

 



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58

 バーサーカーの脅威が消え去った森で、青年が一人佇んでいた。夜も森の清涼さを味わうわけでもなく、その表情は思いつめたものだ。

 ロイク・ロットフェルトは困惑していた。彼のサーヴァントであるランサーはアーチャーとの戦闘によって深手を負い、今は霊体化している。絶え間なく治癒魔術を施し続けているが、全快には時間を要するだろう。

 しかし、ロイクを惑わす原因はランサーのことではない。ロイクの眼の前にいる、一羽の烏だった。烏は低い場所からロイクを見上げ、繰り返し同じ言葉を伝える。

「ロイク様。クリストフです。旦那様に火急の危機が迫っております。どうかサーヴァントによるご助力をお願い致します」

 烏はロットフェルト家の使用人であるクリストフが遣わした使い魔だ。この使い魔を通じ、どこかにいるクリストフとロイクは会話をしている。

 使い魔を通じての遠隔通信は、珍しいことではない。しかし、このクリストフという、ロットフェルト家に長く忠義立てしてきた老紳士が、直接請願に訪れないことに疑問を持っていた。

「僕らは今、聖杯戦争の只中にある。その間のロットフェルト家の出入りは禁止されているのは、お前もよく知るところだろう。それに父に危機など訪れない」

 大家と呼ばれたこともあるロットフェルト家の当主が、そう簡単に危機に瀕するはずがない。ロイクはクサーヴァーが幾度も命を狙われる場面を見ている。どのような危機であっても、父の顔色を変えることすら叶わなかった。

「それどころではないのです。火急の危機とは、当主の身に危険が迫っているのです」

 老人の声に緊迫が纏われる。ロイクはクリストフのこの様な声を聞くのは初めてだった。

「キャスターと思われるサーヴァントが当主の間に踏み入ったのです。如何に当主と言えど、この度は危険という他ありませぬ」

 クリストフとて、クサーヴァーの魔術師としての経験を知っているはず。その彼がここまで食い下がるのであれば、応じる必要があるか。ロイクはあくまで『父の助けに参じた出来息子』を演じるために行動に移ろうとした。

 しかし、続くクリストフの言葉に考えを翻す。

「当主の刻印が灼き尽くされるやもしれません。これは、当主の命の問題ではなく、ロットフェルト家の宝が失われることを意味しております。ロイク様、そもそものこの戦争の意義が失われようとしているのです」

 並の魔術師など問題としない父も、英霊が相手となれば分が悪いだろう。命以上に守るべき魔術刻印が失われることも、有り得ないわけではない。

 ……ここで、ロットフェルトの魔術刻印を失えば。

 ロイクは左の手を見つめる。戦争当初にロイクは自身の手で長兄のアーベルトを殺めている。不可抗力ゆえの行動だと思っているが、左の手の感触な確かに死を覚えていた。兄を殺したことが無駄になる。いや、兄殺しの不名誉を無意味に被ることになる。

 ……いや、違う。

 ロイクはここで、胸に揺らぐものを感じた。ロイクにとってロットフェルトの魔術刻印は勝者としての証。それをみすみす失うということは、ロイクはこの戦争においてテオに優位を示す機会を意味する。

 この聖杯戦争はロイクにとってテオを打倒する唯一に近い好機だ。ここを逃せば、テオとロイクは一生交わることなく後の人生を歩むだろう。それはロイクに敗北者の消えぬ烙印を押すことに他ならない。

 ……それは、耐えられない。耐えられるはずがない!

 思いが決意に変わり、返事を待つ烏に答える。

「分かった。直ぐに令呪にてサーヴァントを当主の間に遣わせる」

 ロイクの言葉に烏が慇懃に礼を述べ、飛び立っていった。

「貴様、正気か」

 その烏が消えるのを待ち、ランサーが実体化する。アーチャーに負わされた傷は見た目には塞がっているが、まだ完治していない。しかし、傷が深いのはむしろランサーの精神の方だった。

「バーサーカーは消えたが、未だにサーヴァントは五騎残っている。この状態で益にもならぬことに令呪を費やすか」

 ランサーが苛立った様子で言う。令呪という首輪に嫌悪を示していたこの英霊は、一度の敗戦から考えを改めたらしい。

「令呪を使えば、あの弓兵や不死身の剣士に優位を作ることもできるのだぞ?何故此処で切る?」

「聞いた通りだランサー。今、令呪を使わなければ僕が戦いに望み意義が消える。そうなれば、如何に令呪が強大であろうと意味がない」

「馬鹿なことを。この戦いの果てにあるのは万能の願望機。意義などそこにしかなかろう」

 ランサーが愚か者を見る目でロイクに視線を送る。

 ……違う。欲しいは聖杯ではなく、テオを圧倒したという事実。

 胸に揺らめく炎が、槍兵の言葉に食って掛かるようにロイクをけしかける。しかし、食い下がればランサーとの関係にまたも傷が入るだろう。

 それでも、一言返さなくては気がすまなかった。

「理解が欲しいわけじゃない。ただ、僕が求めるのは完全な勝利だ。すべての期待に答え、僕は堂々と勝者となる」

「力もなく強欲を語るな」

 ロイクの言葉にランサーが嫌悪も隠そうとせずに吐き捨てる。

「やはり貴様は気に入らぬ。不愉快な隷属の代償、必ず払わされると思えよ、ロイク。令呪が消えた後、俺が一番にお前を殺そう」

 ランサーがロイクを睨む。獣の双眸に込められた殺意に、先の言葉が真実であると直感する。それでも、ロイクには頼る術はこの英霊しかない。

「……令呪を持って告げる。ランサー、父の元へ飛べ」

 

 命の消えた岩の渓谷は姿を消し、今は偽りの草原に姿を戻していた。そこに三つ合った存在は今は一つに減じている。

 ゲルト・エクハルトは自身の命と引き換えに、クサーヴァー・ロットフェルトの命を奪わんとした。ゲルトの身体だったものは既に灰と消えており、草原に跡一つ残していない。

 対して、もう一人の魔術師はそうではなかった。同じく炎に包まれた身体は痛ましい火傷に包まれているが、その傷は回復していっている。

 クサーヴァーは徐々に意識を取り戻していった。全身を灰に返すほどの炎をもってしても、クサーヴァー・ロットフェルトという魔術師を絶命するに至らなかった。

 ……エクハルトめ。

 クサーヴァー・ロットフェルトの身体が五体を取り戻し、草原に堂々と立つ。命を奪わんとした炎はしのぎ切ったが、身体の治癒に使用した魔力は甚大だった。

 クサーヴァーを支える自動治癒魔術は長年蓄積した体内の魔力を使用し、身体の傷を自動で治癒する。そこに、クサーヴァー自身の意思は介在しない。そのため、意識を失うほどの苦しみからでも、生還を果たすことができた。

 一方で体内の魔力が底を突いていることを知る。これは、彼の身体を支える治癒が既に機能しないことを意味する。

 ……流石は英霊といったところか。百を越える人生で、此処まで追い込まれることはなかった。

 月明かりに照らされる草原には、既にキャスターの姿はない。マスターであるゲルトが死に絶えた以上、かの英霊も消滅するのが定だ。

「貴様がロイクの父か」

 故に、この草原に自分以外の存在がいることに驚愕を隠せなかった。

 全身を覆う身に張り付くような黒い鎧。垂れ下がった前髪から覗く殺意に満ちた双眸が、その存在の異常さを物語っていた。

「ランサーか。いかにも、儂がロイクの父だ」

 それでも、クサーヴァーは悠然と答える。それはただ、クサーヴァーがランサーのマスターがロイクであることを知っているからだ。ロイクが自分に逆らうはずがない。大方、キャスターの存在に慌てたクリストフが遣わせたのだろう。

「我が主が貴様を救えと言うのだが、これはどういうことだ。ここにはキャスターがいると聞いたのだが」

「奴はマスターもろとも消滅した」

 クサーヴァーの反応にランサーが見るからに落胆の様子を表す。

「おいおいおいおい。無能もここまで来ると悲劇だ。笑うことすらできない。……貴様の子は貴様の身を案じ、俺をここに令呪で遣わせたのだぞ?その結果が既に死んだだと?」

「手間を掛けたな」

 詰るようなランサーにクサーヴァーは短く答えた。令呪まで使ったロイクに対する献身は微塵も感じてはいない。むしろランサーと同様に、当主の力を侮り、令呪を使ったロイクに侮蔑の感情を抱いた。

 ……やはり、臆病者の気質は変わらんか。

 嘆息を一つ漏らす。既にロットフェルトに連なるマスターはロイクのただ一人。ロイクが聖杯を勝ち取らなければ、名実ともにロットフェルトは終わる。

『エクハルトの魔術刻印は私の子に移している。エクハルトは、終わらない』

 ゲルトの末期の言葉を思い出す。一抹の思い出はあるが、クサーヴァーはゲルトを羨み、そして直ぐにその思いを消去した。

「ところで、当主殿」

 草原に立ち、苛立ちを顕にしていたランサーがこちらを向いている。その表情に宿るのは好奇心だ。

「貴様、身体を自動で治すのか」

 ランサーが見ていたのはクサーヴァーの身体だ。立つことは叶うとは言え、全身の火傷はまだ回復を要している。

「神秘濃き時代を生きた英霊殿には珍しくもなかろうよ」

「いいや、そうでもない。似たような者と剣を交えたことがあるだけだ」

 ランサーが言葉を終えると、跳ねるようにクサーヴァーの首を捕えた。万力に挟まれたように首が悲鳴を上げる。

 ……こいつ、何をやっている!

 脳内で疑問を抱くが、抗うための魔力がない。

「貴様の不死性、セイバーのサーヴァントと関係があるだろう。奴とパスが繋がったことでその不死性を得たか。いや、奴とは芸の趣が違うか」

 ランサーがクサーヴァーの喉を締め上げたまま、草原の端まで歩く。そしておもむろに懐から短剣を取り出すと、空間を裂いた。

 偽りの草原が消える。何の予兆も、余韻も残さず、クサーヴァーの作った結界は要を失い、ただの仄暗い工房に戻った。

「下らぬ。どこかにセイバーが潜んでいると思ったが、それもない」

 そしてランサーが工房の西に作られた窓を叩き割り、クサーヴァーの身を中空に差し出す。偽りではない月明かりに照らされる。地は闇に覆われ、視認することも敵わない。

「令呪を使い、セイバーを呼べ。さもなくば殺す」

 冬の風よりも冷たい声で、黒い獣が宣告した。しかし、クサーヴァーの左の手を見て、ランサーが直ぐに舌打ちをした。

「度し難い一族だ!ロットフェルトとという一族はな!既に全ての令呪を使い切っているとはな!」

 そしてクサーヴァーの身が中空に投げ出された。なけなしの魔力を可動し、生き残るための魔術を行使する。

 ……重力の操作を!

「させるかよ」

 ランサーの短剣が眉間に刺さる。その勢いのままクサーヴァーの首は折れ、意識が霧散した。

 

 窓から階下を眺めるランサーが一つの変化を感知した。地に落ちたクサーヴァーの身体は潰れた無花果の様に無様だった。周りの血が身体に戻らんと動いているのが、一層の不快感を煽る。

 その身体を、抱え上げる存在がいた。全身に渦を纏った騎士だ。その騎士も剣を持たず、片腕は無残に折れ曲がっている。

 ランサーは、階下の騎士を呼ぶ。

「やはりそいつがセイバーのマスターか!なあ、セイバー!マスターが死ねば貴様も永くはなかろう。……どうだ、一戦交えぬか。ただ消えるよりも、剣で倒れる名誉が望ましかろう」

 セイバーはランサーを一瞥し、夜に消えていった。ただ、静寂だけが残された。

「本当に、下らぬ戦いよ」

 黒い獣は工房の薄暗さを味わいながら、唾棄するように溢した。

 



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59

 カヤと環は共にロットフェルト城を目指し、プラウレン湖を取り囲む森で走り回っていた。当然、二人のサーヴァントであるアサシンとアーチャーも傍らにいる。

 プラウレン湖に浮かぶロットフェルト城に乗り込むには、当たり前だがボートが必要だ。直ぐに見つかると高を括っていたが難航していた。

 その足を止めたのはアサシンの声だ。

「カヤ。少し待て」

 思わず身を構える。この森は未だに敵地だ。バーサーカーという目の前の脅威が去ったとは言え、未だにロットフェルトのマスターはいるはず。特に好戦的なランサーが現れると厄介だ。

「敵のサーヴァントか?僕が出よう」

「そうではない、アーチャー。今、私の監視に見逃せない言葉が流れた。……カヤ、クリストフが屋敷から逃げたぞ。多分、奴は君を縛る契約書を持っている」

 契約書。その言葉に先とは別の緊張が走った。カヤの心臓は以前にロットフェルト家の当主、クサーヴァー・ロットフェルトに治療された。その際に取り入れられた術式によりカヤの心臓は可動している。しかし、クーナウとロットフェルトの交わした契約が破られれば、たちまちこの術式はクサーヴァーの手によって停止され、カヤの命は失われるだろう。

 カヤ・クーナウがそもそもこの聖杯戦争に参加した理由は、両家で交わされた契約を履行するためだった。しかし今、カヤはその契約に違反し、ロットフェルト家に牙をむく環に味方をしている。そしてカヤ本人も、契約を反故にして、力ずくで命を永らえさせようと考えていた。

 ……方法は色々考えつくけど、まずは心臓の術式を理解しないと。

 そのために、まずはロットフェルト家の人間から話を聞く必要がある。それも敵対した状態が明るみに出た上で、だ。

 クーナウとロットフェルトの契約書を持ったロットフェルト家の使用人、クリストフ。カヤにとって両得といってもいい存在だ。ここで逃がす手はない。

「環、アーチャー。私達、別行動するわ」

 カヤは立ち止まったまま、様子を伺う環に告げる。環の目的はロットフェルト城にいるキャスターだ。先程、アサシンがクリストフから当主の部屋にいることを盗み聞いている。ロットフェルト城にはアサシンの『不義の密命書(バビントン・プロット)』の監視に置いている者はいないため、これ以上は力にはなれない。

 アーチャー主従が顔を見合わせている。彼らから見れば、アサシンの『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』という宝具を封印する武器が失われるのだ。先にいるであろうキャスターを思えば、カヤとアサシンの別行動を渋るのは当然に思える。

「いいですよ。むしろ、私達は付いていかなくてもいいですか?」

 だから、環の回答にカヤは驚いていた。環とアーチャーが考えていたのは、カヤの危険のことだった。この森で、いや聖杯戦争の参加者の中で一番戦力に乏しいのはカヤとアサシンだ。別行動をすれば、途端にその危険は増す。特に、アサシンの『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』の脅威を曝け出した直後のため、尚更だろう。

 環の思考をなぞり終えると、カヤは薄く微笑んだ。自分の命の懸かる局面で、他者を優先する精神。カヤに助けられたという負い目もあるのだろう。魔術師としては大甘だが、同時にこの宮葉環という存在の魅力に思えたのだ。

 ……改めて、助けて良かった。

 そして、環の申し出を丁重の断る。

「ありがとう。でも、ここからは私の問題だから、アサシンがいれば十分よ」

 環が心配そうな顔をするが、分かりました、と答えた。

「何かあったら使い魔越しでも教えてください。直ぐにアーチャーが駆けつけます。……私は一度カヤさんに命を救われています。絶対に恩は返しますから」

 

 環と別れ、カヤは森を疾走する。アサシンの宝具の開帳と戦場特有の緊張に寄る疲れが出始めている。それでも、気持ちに喝を入れて身体強化を施す。熱を持った全身が、冬の寒さで直ぐに冷まされていく。永遠に走れる気がした。

(カヤ。そのまま真っすぐ。んん)

(それにしても、何故クリストフはこの段で森に逃げたのかしらね)

 傍らで霊体化したアサシンのナビゲートを受けながら、カヤは疑問を溢す。

(今、この森は戦場よ。マスターではないクリストフが出歩くにはちょっと危険すぎない?)

(その危険を犯しても、ロットフェルト城から逃げ出したかったのかもしれん。だが、彼の様子を見るに、焦って逃げ出したという風ではないな。キャスターが侵入したのを知り、予定通り城を出たというような)

 長年ロットフェルト家に仕えてきた忠臣クリストフ。しかし、その内情は忠誠の一枚岩ではなかったのかもしれない。

(万が一の可能性として、クリストフもマスターである可能性は捨てきれない。未だにセイバーのマスターは不明なのだからな)

(そうなれば詰みね。セイバーが湖底で消滅していればいいのだけれど)

(どうだろうな。んん。ライダーとの戦いで見せた不気味なまでの堅牢さをもってすれば、湖の底から帰還することなど造作もなかろうよ)

 白兵戦に富んだライダーをもってして倒しきれなかったセイバー。諜報に特化したアサシンが太刀打ちできるはずもない。

(それでも、このチャンスは逃さないわ)

(同感だ。マスター)

 そして疾走に集中する。そのまま数分と経たず、見覚えのある老人の背が見えた。カヤの駆け寄る様子に気が付いたのか、クリストフが振り返り、血相を変えて走り出す。

 しかし、たかが老人の足に追いつけぬ道理はない。カヤは直ぐに追いつくと、器用に老人を地面に転がし、動きを封じた。厳しい表情が怯えに染まっている。

「な、何故、お前がここにいる?何故、私にこのような真似をするのだ」

「悪いわね、クリストフさん。私はもうロットフェルトに利するのは止めたのよ。……長話をする気はないわ。クーナウとロットフェルトが交わした契約書を出して」

 カヤは上がる息を押し殺し、冷徹を演じて言った。クリストフは苦悶の表情を浮かべながら、否定を口にする。

「知らぬ。それは当主が持っている」

「マスター。嘘だ」

 実体化したアサシンが冷たく宣告する。カヤは拳を強化し、クリストフの右の太ももを殴りつけた。骨の軋む、不快な音が響く。遅れて、老人のくぐもった悲鳴が聞こえた。環を連れてこなくて良かった、とカヤは別のことを考える。

「アサシンは嘘を見抜くわ。次はない」

 カヤの言葉に応じる様に、クリストフがたどたどしい動きで背にかけた鞄から紙束を取り出した。カヤに渡す表情には明らかな諦観が見えていた。

「これは?」

「……クサーヴァーが治療の契約を行った魔術師の一覧と契約書だ。私はこの中から戦争に参加する魔術師を選択する任務を負っていた。無論、お前の望む物もある」

「これをどうしてあなたが持っているの?」

「盗んだ。当主が外敵の相手に夢中になる間に」

「何故?」

「決まってる。この契約書の中には、私と取り交わした契約も入っているからだ。私は自身の治療の代わりに、終わらぬ隷属を約束させられた」

 クリストフが悪びれることなく言った。

 ……忠臣なんて真っ赤な嘘ということね。

「頼む。その束が欲しければくれてやる。だが、私の契約書だけは返して欲しい。お前も命を他者に握られ、隷属する屈辱を知っているだろう」

 クリストフがカヤの手を握り、懇願する。カヤは纏わりつく老人の両手を不愉快そうに払う。

「まあ、いいわ。この契約書を破棄すれば、私達は自由の身なの?」

 カヤはクリストフの返答を待たず、紙束から老人の望むものを探し出す。百をゆうに超える数に辟易としたが、存外すぐに見つかった。

「そうだとも。破り捨てることによってロットフェルトによる呪縛は終わる。そう、クサーヴァーが言っているのを聞いた」

 カヤの取り出した契約書を、クリストフが血走った眼で追う。飢えた犬が餌を見つけたような表情だ。アサシンがその契約書をカヤの手から取り去る。そして、クリストフの目の前に見せつけながら、言う。

「クリストフ。ここで破け。いや、私が破ろう」

 アサシンの言葉に、クリストフの表情が一瞬、凍る。しかし、直ぐに頷いた。

 ……嘘は言っていない。アサシンの脅しが効いたかも。

 アサシンが言葉通りの動作を実行する。古びた羊皮紙が力任せに破られた。枯れ葉の積もる地面に打ち捨てると、どういう仕組か、羊皮紙は自然に発火し燃え上がった。

 カヤはクリストフを見る。その表情に変わったところは見えない。

 しかし、変化は羊皮紙に起こった。

 炎に灰と化すだけに思われたが、そこに魔力の奔流を感じ取った。ただならぬ様子にカヤは思わずクリストフの拘束を解き、炎から距離を取る。アサシンがカヤと炎の間に立ち、カヤの身を守る。

 炎に籠もる魔力が形を作っていく。鏃のような先の尖った物体が、空に浮いている。切っ先が鋭敏な動きでクリストフを向いた。

 ……矢が目標を定めている?

 ただならぬ様子に遅まきに気が付いたクリストフが、走り去ろうとする。しかしカヤに付けられた右の足の傷のため、片足を引きずっており、大した速さはない。

 矢が、射出される。軌道が魔力の名残を残し、空間に線を書くように見えた。弾丸の速度をもって射出された矢は、逃げるクリストフの心臓を背から居抜き、胸から貫通して飛び出た。そしてそのまま崩れ去る。

 心臓を射抜かれたクリストフは地面に仰向けに倒れ込んでいた。カヤが慌てて駆け寄るが、既に息がない。

「やはり、一筋縄ではいかんか。ふむ。もとよりロットフェルトの当主は契約者を生かすつもりなど微塵もなかったらしい」

 一連の様子を見たアサシンが淡々と感想を述べる。カヤは思わず心臓のある左の胸に手を置いていた。

「信じられない。こんなの契約でもなんでもないじゃない!」

「全くだ。……だがな、カヤ。危険物である契約書が手に入ったのだ。もはやカヤには危険は及ぶまい」

 そうだといいけど、とカヤは小さく溢す。その声はアサシンには聞こえていなかったようだ。自身にも起こりうる悲劇を目の当たりにし、寒さのためではない、内から滲み出るような冷たさを感じた。

「ロットフェルトの当主であれば、同じことを契約書なしでも行うかも知れない」

「……あまり思い詰めることはない。んん。今は宮葉環達の元へ戻るのが先決だ」

 そして、その声を聞いていたかのようにカヤの頭に環の声が響いた。呼び掛けに応じると、喜びと戸惑いが混じった声が聞こえた。

(キャスターに受けた傷なんですけれど、今、治ったみたいです)

(どういうこと?)

(いえ、私もよくわからないのですけれど、もしかしたらキャスターが既に退去したのかもしれません)

 要領を得ない回答だが、可能性の一つに挙げていたことだ。キャスターがロットフェルト城で他のサーヴァントに倒されれば、自然と呪いが解ける。可能性として最も望ましいことが現実になった。

(ともあれ、私とアーチャーは一旦工房に戻ろうと思います。アーチャーの消耗が思った以上に激しくて、これ以上は危険です)

 環の声に、了解を返す。アサシンに聞いた内容を伝えると、鷹揚に頷いて喜びを示した。

「良かったではないか。んん。労せずして最上の成果を得た。……こちらも同様に得るべき物を得たのだ。宮葉環に倣い、帰還しよう」

 アサシンの言葉に応じるように、カヤはクリストフの死体に背を向ける。

 アサシンの言葉を得て、ようやくカヤは環が危機を脱したという確信を持てた。そして、カヤ自身も最大の目的である契約書を手に入れた。この聖杯戦争の目的の大半を成したと言っていい。

 達成感からか、辛うじて残っていた気力も底を付いたように感じた。無視していた疲労感が纏まって背に被さったように、身体が重い。きっと、アサシンも同様に油断していたのだろう。

 だから、この存在が駆け寄って来ることに、直前まで気が付かなかった。

 



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60

「カヤ!」

 先に気が付いたのはアサシンだ。近寄るそれに対して身を覆い、短剣の一撃を受け入れる。

 その光景を目の当たりにし、カヤは自身の油断を悔いた。

 アサシンを切った黒い鎧のサーヴァントがクリストフの死体の傍らに座り込んでいる。

 ……ランサー!

 最悪の予想が現実になった。アーチャーによって深手を負ったはずのランサーは、既に行動できるほどに回復したらしい。

 斬られたアサシンは苦しそうに身悶えしているが、倒れる様子はない。間一髪で急所は避けれたらしい。

「面白い魔力の奔流を感じて駆けてきたが、思わぬ拾い物だ。これは如何なる技か?」

 ランサーが立ち上がると、身を翻してアサシンの方を向く。値踏みする視線が垂れ下がった前髪の間から覗く。

「たかが老人を殺した矢が気になるか、ランサー。んん?」

「これを高が矢と侮る時点で度量が知れるぞ。必中必殺の矢。先に見せられたアーチャーの宝具と思われるものと同種の奇跡だ。……まあ、些か以上にこちらは劣るがな」

 そして、ランサーがクリストフの死体を踏みつける。厳しい老人は既にその侮辱に答える意思を持たない。

 ランサーの行動の端々から殺意が見て取れた。

 ……どうする。

 打開策に窮し、カヤは思わず紙束を胸に抱きしめた。槍兵の鋭い眼光が、その些細な動きを見咎める。

「女の抱える紙がこの技の正体か。貴様の技ではないのだな、暗殺者」

「そうだと言ったら、見逃すかね?槍兵」

 戯けるようなアサシンの問いに、ランサーの口の端が歪む。それが答えだった。ランサーには今、明確な殺意が宿っている。

 ……そうだ。

 明確な殺意。ならばこそ、この局面を逃れる術がある。アサシンはそれを示すために、わざと戯けた問を放ったのだ。

 確信を持ってカヤは行動に移る。

「令呪を持って命ずる!アサシン、『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』を開け!」

 ランサーが驚愕に眼を見開き、カヤを斬り裂こうと駆ける。しかし、直ぐに現われた光の牢獄がその動きを防いだ。

(急げ!永くは保たないぞ!)

 アサシンの言葉に身に鞭を打って駆け出す。一瞬ランサーの方を振り向く。光の牢獄は塔になっている。バーサーカーのときよりも展開が早い。アサシンの持つランサーの悪意はそう大きくないのか。

(カヤ!)

 思いを巡らしていると、カヤの目の前に烏が現われた。アサシンの言葉に一瞬、反応が遅れた。驚愕に思わず両の手で身を護る。烏はカヤを襲わずに、右の手に持つものを奪い取る。

 ……しまった。契約書が!

 後悔も遅い。烏は契約書を咥え、空高く舞い上がっていく。使い魔であることは明らかだった。

(アサシン!)

(……無理だ、カヤ。今はランサーから逃げることに徹しよう)

 縋るようにアサシンに呼びかけるが、無念そうな声が響くだけだった。重なる油断に、カヤは叫び出したい気持ちに駆られる。だが、押し留めただ、森を走る。好機を逃した後悔に嘆く頭に、槍兵の叫びが聞こえた。

「返して欲しくばアーチャーを此処へ呼べ!明日の夜明けまで待つ!」

 



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61

 見知った館の階段を走り、上階を目指す。豪奢な調度品に彩られた館に懐かしさを感じることも、完全に立ち消えたライダーとの繋がりに思いを馳せることも捨て去り、テオ・ロットフェルトは屋敷を駆けていた。

 ……ハンナ、ハンナ!

 目的は一つ。テオの妹たるハンナ・ロットフェルトだ。この聖杯戦争に臨んだ理由も、ハンナをロットフェルトという魔術一家から救い出す他ない。

 ……謝りたいんだ、ハンナ。

 テオは過去、ハンナを置き去りにしてこの家を去った。それは、テオの弱さの他に理由はない。度重なる常軌を逸した修練の日々にテオの精神が限界に達したのだ。

 だが、それが家族を見捨てていい理由にはならない。

 テオは自分の行いを、短慮を、悔いていた。逃げ出すのならば、ハンナを連れて逃げるべきだった。それをしなかったのは、テオのずる賢い、自己保身ゆえの考えだった。幼いハンナはロットフェルト家を出るときに足手纏いになる。しかし、だから置いていくだなんて、兄として、家族としてあるまじき行いだ。

 ハンナの部屋の前に立ち、扉を強引に開ける。迷いはなかった。

 そこにはハンナが居て、テオを待ち望んでいて、きっと直ぐにロットフェルト家を出ることができて、二人でロンドンに行くのだ。楽ではないけれど、二人で生きていく。幸せに、幸せになるのだ。

 だから、この光景は受け入れられない。扉の先にある大きな窓は開け離れており、バルコニーが見えた。そこにはハンナが居た。横たわり、胸から血を流している。仰向けで、大きく見開いた眼が、その死の際の苦悶を伝えていた。

「あ、あ、あ、あ」

 足が、震える。これは、何かの間違いだ。テオは自分に言い聞かせる、しかし、近寄ったハンナからは何の暖かさも感じない。古いこの家の調度品のように、ただ、そこに置いてあるだけのように思える。胸に空いた血の溜まりだけが、人の名残だった。

 テオはそっとハンナの頬を撫でた。冷たい、石膏のような肌触りだ。生きていないのだと、残酷なまでに理解した。

「ハンナ、ハンナ」

 立っていられなくなり、そのまま謝るように頭を抱える。ハンナ、済まないと答えるはずのない存在に謝り続ける。

 謝罪に涙が混じり、そして慟哭に変わった。敵地で、誰かが駆けつけようと構わない。むしろ、このまま殺して欲しかった。ここで死ねば、すぐに死ねば、ハンナの近くに逝ける気がしたのだ。

 だから、唐突に眼の前に現われたそれを見たときに、テオは優しく尋ねた。

「君は、なんだ?俺を殺してくれるのか?」

 それはテオを見て悲しそうに首を横に降った。小さな手がテオの頬に触れる。熱を持ったテオの頬が、少年の手で慰められるように思えた。

「僕は、君に会いたかった」

 彼は幼い声でそう言った。この世の者ではないような、浮世離れした雰囲気を持つ少年だ。見覚えが合った。ゲルトの傍らにいた少年だ。

「テオ・ロットフェルト。死を、憎むかい?」

 動かなくなったハンナを思い、少年の声にただ頷く。首が壊れるほど、強く頷く。もう、嗚咽が邪魔で声が出なかった。

「僕はキャスター。君と同じく、死を憎み、それを乗り越えようとした魔術師の成れの果て」

 テオの頭が優しく何かに包まれた。柔らかい感触に、キャスターに抱かれているのだと分かった。そして、その儚さからキャスターが退去しかけていることを察する。

「志を同じくする同胞よ。共に聖杯を取ろう。そして、この悲しみを過去にしよう」

 キャスターの言葉がテオの頭に染みるように入っていく。死を憎む。そうだとも。この悲しみを過去にする。そうだとも。

 キャスターがテオの頭を放す。テオは見上げ、少年の眼を見る。信じられると、直感した。

 テオの令呪が光った気がした。嗚咽を交えながら、契約を言葉にする。

「汝の身は、我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の、寄る辺に従い、この意、この理に従うのならば、応えよ」

 震える声のたどたどしい詠唱。それでも、キャスターは応じる言葉を口にする。

「同じ痛みを持つ友よ。我が真名に懸け、汝の魂の慟哭を受け取ろう」

 荘厳さを感じる、少年の声がテオの胸に響いた。

「我が真名はダンテ・アリギエリ。最果ての乙女を求め、永遠を旅する者。同胞よ、聖杯を手にしよう」

 



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第四章
62


 戦いの余韻を消しされぬまま、カヤ・クーナウは工房へ向かっていた。既に明け方に迫ってきており、如何に時間を費やしたのか知らせるようだった。

 ロットフェルト城の戦いを終えたカヤは、消沈を引きずりながらルスハイムの街を歩き、時間を費やして帰ってきていた。もはや、街を駆け抜ける気力がなかったのだ。

 レンガ造りの家が立ち並ぶ。後数時間で、人が活動を始めるだろう。今は、誰もいない中を歩きたかった。誰の顔を見ても、カヤを咎めるように見えてしまうだろう。

 カヤの心を占めるのはランサーに奪われてしまった契約書のことだ。あの契約書はそのまま、カヤの命と言える。契約書を破られたクリストフはカヤの目の前で死んでいった。その命綱を、事もあろうに好戦的なランサーに奪われた。

 死の危機が間近に迫っている。ランサーとそのマスターはクサーヴァー・ロットフェルトのように理性的な判断をする様子はない。ほんの気まぐれで、カヤの命は奪われるかも知れない。乗せてはならぬ者の手中に、自身の命を委ねてしまった。

 石畳みを踏み込む足に、力が入らない。カヤの足を留めるのは、去り際に投げつけられたランサーの言葉だ。

『返して欲しくばアーチャーを此処へ呼べ!明日の夜明けまで待つ!』

 ランサーはアーチャーとの再戦を望んでいる。つまり、環をこの戦争に巻き込むことを望んでいるのだ。カヤは、工房に戻ればこの事実を環に告げねばならない。どれだけ考えを巡らしても、環を巻き込まずに終わらせられる方法が浮かばない。

 ……アサシンだけでランサーを迎撃する。ダメ。現実的じゃない。

 それとも、いっそ座して死を待つか。そうすれば、環だけはこの戦争から無事に抜け出すことはできる。カヤの命は、ロットフェルトがいなければとうの昔に消えていたのだ。ここまで永らえていたのが不自然だった。兄のカールには悪いと思うが、カヤ・クーナウという妹はいなかったのだ。此処までの道のりも、全て夢だった。

 ……なんて、魅力的。

 ならばもう、歩くことに意味はない。工房に帰ることもない。カヤはその場に座り込む。次の夜明けを待たず、このまま死にたかった。

「カヤ」

「……何よ」

 カヤの後ろに、黒い男が立っている。アサシンだ。ここまでの道のり、この従僕にも思うところがあったのだろう、一言も声をかけることはなかった。ランサーから受けた傷が響いていたのかもしれない。

「私のミスだ。あの時、ロイク・ロットフェルトの使い魔をもっと早くに感知していれば、みすみす奪われることはなかった」

「ええ、そうね」

 カヤは意図して冷たく返す。アサシンが傷を負っていたとは言え、ロイクを監視下に置いていたのはこの様な自体を防ぐ意味もあったはずだ。

「もう良いの。もう、私は諦めた。ロイクは、ランサーはきっとあの契約書を破り捨てるわ。それは、アーチャーと戦った後かもしれないし、もっと早いかもしれない。でも、破り捨てないという選択は有り得ない」

 ロイクとランサーはこの聖杯戦争において一番の好戦的な陣営だ。そもそも実の兄を英霊召喚する前に葬るという残虐性。また魔術師の世界における効率をよく知っている。紙一枚でサーヴァントを消滅できるチャンスを逃す意味はない。

「アサシン、私はこのまま消える。クーナウの家に迷惑を懸けないように、ロットフェルトへの謝罪文でも書いて、湖に飛ぶわ。……環に味方してあげて」

「それはできない。カヤ、私の主は君だ」

「じゃあ、どうしろっていうのよ!」

 アサシンの言葉が、気取った様に耳障りだった。カヤの心も限界だった。三年前からずっと命を他者に委ねられる恐怖。ずっと誤魔化していた思いが、具体的な現象として理解してしまった。クリストフの無残な死に顔が頭から離れない。

「私だって、私だって、死にたいわけないじゃない!でも、もう、無理なのよ。……私はもう、戦えない」

 言葉に涙が混じる。ここまで死地を超えてきた自覚はある。だが、カヤの魔力は底を突き、昨晩に令呪を二画も使った。既に武器はない。手負いのサーヴァントには戦いの術がない。

 アサシンが消える。実体化を止め、霊体に戻ったのだ。

 掛ける言葉がなかったのかも知れない。それとも、ヒステリックに叫ぶカヤに呆れたのかもしれない。

 カヤは、自分から突き放つ言葉を口にしながら、アサシンの行動に胸に穴が空くような心地がした。そして悟る。ここで、本当に終わりだと。

 しかし、アサシンの行動が別の意味を持っていたことを直ぐに知る。

 誰も歩くはずのない夜明け前。軽い足取りで、石畳を弾む音がした。そちらを見る。前方だ。朝の日が登っている方向。冬の日の光を背にしているため、相貌が見えない。だが、確信した。

 小さい背に、乱れた短い髪。真っ黒な瞳を持つ目から涙が溢れようとしている。

 宮葉環がそこにいた。

「カヤさん」

 環がカヤの目の前で立ち止まる。カヤは立ち上がり、抱きしめ、すべてを曝け出したい衝動に駆られた。しかし、堪える。環にすべてを打ち明ければ、きっとランサーの元へ行くだろう。命がけの戦場に、カヤが環を誘うことになる。それはカヤが耐えられない。

「カヤさん。戦ってくれて、ありがとう。私はカヤさんのおかげで帰ってこれました」

 環の言葉にカヤは首を横に降る。違う。救ってなどいないのだ。

「私はただの協力者よ。利益があるから味方しただけ」

 俯いたまま、吐き捨てるように答える。環に軽蔑されたかった。そのまま自死への背中を押して欲しかった。

「そんな人が命がけで敵地に乗り込みませんよ」

 でも、少女のように環は笑った。

「さあ、そこに座っていたら風邪を引きますよ。帰りましょう」

 環が地を撫でるカヤの手を取った。冷たい手だ。ずっと、カヤを探して走り回っていたのか。思わず、カヤは環の顔を見る。

 朝日を背に、少女が、母のように柔らかく笑んだ。

 それが、限界だった。カヤは堪えていた感情を解き、思うままに環を抱きしめ、そのまま、ただ、泣いた。

 



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63

 ルスハイムの郊外にある森の戦いを、多くの人は知ることはない。しかし、その只中にいた者はこの森で行われた戦いが如何に現実離れをしていたかを知っている。

 人外の脅威たる英霊が、七騎すべて戦いに参加したのだ。無論、その結果として爪痕を刻まれた者、戦果を得た者がいる。

 単純に、勝者と敗者で定めるのであれば、ロイク・ロットフェルトは昨夜の敗者と言える。サーヴァントであるランサーはアーチャー相手に敗北した。止めを刺されなかったのは幸運としか言えない。一方で、ランサーが討ち取ったサーヴァントは一騎とていない。無為にアーチャーに傷を負わされただけだ。

 ロイクはプラウレン湖を囲む森の中、ゲストハウスを改造した工房にいた。暖炉のあるリビングにて柔らかいソファに身を預けている。戦いの余韻に浸りながら、失策の原因を考えていた。

 ……アーチャーとの戦闘は言い訳の仕様がない。

 問題は、アーチャーとの戦闘の後だ。ロイクはクリストフに請われ、ランサーに令呪を使い、父の元へ駆けつけさせた。その後、ランサーから何時まで立っても連絡がなかった。いくら念話を送っても、梨の礫だったのだ。

 一度だけ、返答があった。ロイクの質問を無視し、何故かランサーはロイクに使い魔を寄越すように命令した。訝しみながらも従ったが、目的も理由も分からなかった。

 そして現在、午後の日差しが注ぐ頃、ランサーがロイクの元へ戻ってきた。ロイクはその気配を察すると、工房から外に出る。冬の寒さが身体に響くが、薄着のまま外に出る。

 実体化して槍兵が乱雑に引きずるのは、老人だ。ロイクはこの老人を知っていた。クリストフ。ロットフェルトに長年仕えた使用人。ロイクにとっては父よりも父らしく躾けられた相手だ。

 ロイクは慌てて駆け寄るが、既に息がないのは明らかだった。胸に大きく穿たれた穴が、クリストフの死を確信させる。むごたらしい死に様に、思わず声を荒げる。

「どういうつもりなんだ!」

「どう、とは。森で見つけたから持って来たまでよ。打ち捨てておけと?」

 ランサーが訝しむようにロイクを睨む。しかし、怯むことなくロイクは言葉を続けた。

「何があったか、全て話せ!」

 高圧的なロイクの態度に、ランサーの表情が歪む。しかし、直ぐに元の表情に戻る。

「猛るなよロイク。怒らずともすべて話すさ」

 そしてランサーがロイクの横を通り過ぎ、工房に入っていく。ロイクは戸の前に捨てられたクリストフの死体を見る。小柄な老人の身体が、何かを訴えているようだった。

「どうした。動いたか?」

「黙れ。先にリビングで待ってろ」

 鼻で笑うランサーを無視し、ロイクは工房の脇に建てられた倉庫から寝袋を持ってくる。元は大きめの生贄を工房へ運ぶため袋だが、今はこれしか相応しいものがない。

 薄着のまま外に出て、寝袋を開封する。クリストフの死体の足を抱えて、寝袋の中へ入れようとする。しかし、ロイクの力では持ち上げることは敵わない。小柄な体躯だが、死体がこんなに重いとは思わなかった。

「クソ」

 悪態を突くと、急に重さが消えた。疑問に思い見上げるとランサーがクリストフの死体を持ち上げていた。

「なんだ、お前」

「この袋に入れればよいのか」

 ロイクの返事も聞かず、ランサーは死体を袋に入れ倉庫に運び入れた。そして、呆然とその様子を見るロイクを急かす。

「どうした、小突かれなくては家にも入れぬのか」

 おずおずとリビングに入り、改めたようにランサーに向かい合う。ソファに座るロイクに対し、槍兵は向かい合うように壁にもたれかかっている。

「で、昨夜のことか」

「ああ」

 ランサーの行動に多少怒りが抜けているのが分かった。既に怒鳴り散らす気もなく、冷静にランサーの話に耳を傾ける。

「まず、セイバーのマスターを討った。あの城の中で遭遇した」

「セイバーのマスターだと?それは誰だ?」

 ロイクの中の疑問が膨らむ。ロットフェルト城にランサーを遣わせた際、中にいたサーヴァントはキャスターだけのはずだ。

 ロイクの問いに、ランサーが眉をひそめる。

「何?貴様、知らないのか。ロイク、貴様の父はセイバーのマスターだったぞ。城内のキャスターを仕留めたと言っていたな」

 ロイクは自身の顔が歪むのを感じた。ロットフェルトの跡取りを決めるための戦いで、何故、当主の椅子を譲る父がマスターになっているのだ。いや、それよりも。

「お前、父を殺したのか」

「応。マスターである以上、必然だ」

 ランサーが平然と答える。自身でも意外なことに、ロイクの身に宿ったのは肉親を殺された怒りでも悲しみでもなかった。冷徹に、一つのことを懸念した。

「……父の背の魔術刻印はどうした?いや、死体は燃やしたり、湖に捨てたりはしていないだろうな?」

 ロットフェルトの当主の証たる、魔術刻印。クサーヴァーの背に刻まれた、それの心配だ。例えクサーヴァーが死んだとしても、死体さえ見つかっていれば移植は可能だ。

「ほう。先の男の死体を見たときと違い、いやに冷静じゃないか」

「……うるさい」

 ランサーの嘲る声に短く答える。ただ、疑問に対する回答はロイク自身にも分からなかった。感情の答えを探そうとするが、どれだけ思いを巡らそうとも、父への感情は湧いてこない。むしろ、セイバーという厄介なサーヴァントが脱落したことへの安堵が勝る。そして、クサーヴァーの死体を逸早く回収することで、この戦争の成否を問わず、ロットフェルトの当主になることが可能だ。

「死体だがな、セイバーがどこかへ持っていった。マスターが死んだ以上、セイバーもどこかで野垂れ死んだはずだが、場所まではわからん」

「だが、ロットフェルト城の敷地内だろう?」

 そう言って、ロイクは窓から見える大仰な屋敷を指差す。

「然り」

「なら、構わない。時間があるときにゆっくり捜索すればいい」

 現状、ロットフェルトのマスターで死んでいないのはロイクとテオだ。テオの所在は知れないが、バーサーカーの断末魔に巻き込まれ、湖に消えたのは見た。如何にテオが自己への回復に長けていようとも、あの状況下では無事には済まないだろう。ロイクはテオが既に死んだと考えている。

 そして、バーサーカーのマスターであるハンナは死した。当主クサーヴァーとクリストフがいない今、ロットフェルト城に出入りできるのはロイクのみとなる。

 既にロイクが勝ちを誇るべき相手もいない。そして、それを称賛する肉親も死んだ。ロットフェルトの跡取りを争う聖杯戦争という意味では、既にロイクの勝利と言える。

 戦いにおいて他のサーヴァントを打倒せず、ただ降って湧いた勝利にロイクは興が冷めていた。後は、事務的にクサーヴァーの死体を見つけ、魔術刻印の移植を行えばいい。先んじる者も、認めぬと吼える者もいない。

 一方で聖杯戦争の盤面は終局を迎えつつある。優先すべきは、残りのサーヴァントの駆逐だ。残りはアーチャーとアサシン。

「で、だ。戻り際にアーチャーとの再戦を取り付けた。セイバーが消えた以上、俺の興味のあるサーヴァントはあやつのみだ」

 ロイクは首肯する。ランサーの行動を咎める理由はもうなかった。好きに戦い、好きに消えればいい。

「ロイク、この戦い、貴様も出ろ。我が宝具を開帳し、全力を持ってアーチャーを打倒する。そのためには貴様の持つ令呪が必要だ」

 口の端を歪めて笑うランサーにロイクは、構わない、と短く返す。

 精々派手に戦い、終幕を飾ろうと思った。そうでもすれば、冷めきった胸の内に次代の当主を勝ち得たという興奮が宿るかも知れない。

 



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64

 プラウレン湖に浮かぶ城めいた屋敷。主を失ったこの城の、最上階に位置する一際大きな部屋は当主の工房として代々受け継がれていた。魔術師の工房は危険を内包し、工房の持ち主か余程の命知らずでもない限り、足を踏み入れようとはしない。無論、持ち主の家族であろうとも例外ではない。

 テオ・ロットフェルトはその危険が潜むやも知れぬ工房で、豪奢な椅子に腰掛けていた。昨日にキャスターと契約を結んで以降、ずっと座り、うつむき続けている。

 テオは以前までこの屋敷の住人であった。当時使っていた部屋が残っているが、一目見ただけで入ることが躊躇われた。幾年も使っていないはずの部屋は、丁寧に掃除されており、埃一つ落ちていなかったのだ。

 ハンナの行いだと、ひと目で分かった。ハンナが唯一残した痕跡を、部屋にいることで消し去るのが億劫だったのだ。何より、ハンナの痕跡を感じ取ってしまったら、今度こそ立ち直れないという確信があった。

 故に、テオはあえて忌嫌う工房に足を踏み入れた。キャスターの案内があったのも要因だ。しかし、テオがこれから行うことを思えば、魔術師の工房が相応しい気がしたのだ。

「テオ。落ち着いたかい」

 薄暗く、仄かに黴の匂いさえ漂う部屋に、一人の少年が現われた。新たなるテオのサーヴァント、キャスターだ。

 漫然とした動きで、テオはキャスターを見る。少年の透けるほど白い、儚い顔がテオを見つめている。

「ああ」

 落ち着くはずはない、と口にする気力もなかった。失う悲しみが続いたことで、感情が麻痺しだしていた。

 少年が真意に気が付いたのか、悲しみの表情を浮かべる。

「テオ、君の悲しみは、かつて僕が味わったものだ。その悲痛な慟哭を過去のものにするために、僕は魔術に手を染めた。聖杯さえ手に入れば、僕の魔術は完成する」

 テオは少年の顔を見る。キャスター、ダンテ・アリギエリ。幼き日に出会った少女に焦がれ、その少女の無念の死を悼み、詩作に傾倒した男。ゲルトが何故このサーヴァントを呼び出したのか分からないが、今のテオには相応しい気がした。

 キャスターがテオに何かを手渡す。昏い色のコートだ。

「それは、ゲルトの使っていた礼装だ。持っていて欲しい」

「何故、俺に」

「ゲルトは君を気懸かりに思っていた。だから、彼の遺品であるこの礼装は君が持つのが相応しい」

 テオはコートに僅かばかりの魔力を込める。すると、コートの一部が白く変色し、そこから骨のような白く長い棒が現われた。手に取ると、静謐な魔力を内包しているのがわかった。理由は分からぬが、テオの中の悲しみがその骨に吸われていくような気がした。

「ユニコーンの角を模した礼装。今のテオに、必要なはずだ」

 テオは、自然と角を抱きしめていた。悲しみが和らぐとともに、ゲルトという存在への疑問が湧いた。

「なあ、ゲルトは何がしたかったんだ?」

「彼の目的は復讐。君の父であるロットフェルトの当主を憎んでいた。偽りなく、本心から。ゲルトは確実に復讐を成すために、自ら諸共死することを選んだ」

「……ゲルトにはキャスターがいたはずだ。何故、自死を選ぶ必要がある」

「ゲルトの魔術回路は枯渇しかかっていた。元来、潤沢な魔力を持つ家系ではない上に、魔術の素養を持たなかった。だから、魔術効率の良い僕を呼び出したのさ。……だけど、それさえもゲルトは失敗した」

 キャスターが俯く。どこか自らを攻めるような声色があった。

「僕の姿は全盛期ではない。ゲルトの魔力量に耐えられるように若い頃の姿で召喚されたのさ。そしてその分、能力も下がっている。真っ当なサーヴァントと直接戦えば、直ぐに敗退するだろう。だからゲルトは、自らを巻き込んでの道連れを選んだ」

 テオはゲルトの顔を思い出す。どこか企みを隠しきれない、余裕の見える魔術師らしい魔術師。それが、ゲルト・エクハルトの印象だ。その男に劣等感じみた苦悩があるとは露程も思わなかった。

「だから、ゲルトは色々なマスターに協同を呼び掛けていたのか」

 キャスターが頷く。

「けれど、その目的は一つではない。僕の宝具の性能に関わるもう一つの目的がある」

 キャスターの宝具に興味を引かれたが、少年は急に微笑み、言葉を続けることを止めた。テオは自分の頭にもやが掛かっていることに気が付く。

 知らず、まどろみがテオを包んでいた。抗わずに目を閉じる。

「暫く眠ると良い。目覚めるまでに、いくらかサーヴァントを間引いておくよ」

 キャスターの中性的な声が聞こえる。

「目覚めたら、聞かせておくれ。僕と共に戦う意志があるのかを」

 言葉の意味を理解する前に、テオは意識を失った。

 



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65

 カヤ・クーナウは廃墟じみた工房に帰ると、みっともない程に泣いた。その間も環が声をかけ続けてくれ、そして、気が付いたら眠っていた。

 目覚めると、午前が終わりかけていた。ソファから身を起こし、気持ちを整える。頭が少しずつ鮮明になってくると、アサシンが声を掛けた。

「落ち着いたかね」

 黒い男はいつものと変わらぬ仏頂面だ。怒る様子もない。声を掛けられて、環とアーチャーは居ない事に気がついた。

「環達は食事を買いに出ている。暫くすれば戻るだろう」

「そう」

 カヤは怒りに任せて言ったことを気にしていた。カヤに仕え、献身を躊躇わないアサシンに対して八つ当たりをしたのだ。

「朝のことを謝るわ。感情的になった。ごめんね」

 アサシンはふむ、とお決まりの口癖のあと、表情一つ変えずに続ける。

「前の主はこの程度の癇癪など日常茶飯事だったからな。私にとっては詫びられる程のことじゃない。むしろ謝られることが新鮮だ」

「そう、それでもごめんね」

「よいと言っているのだ。雰囲気を変えようとしているのを察し給え」

 アサシンの言葉に、急にカヤは頬が紅潮するのを感じた。よもやこの男に雰囲気について苦言を呈されるとは思わなかったのだ。

「さて、戦意はまだあるかね」

 カヤは今朝の言葉を思い出す。明らかにカヤは戦いを辞退しようとしていた。感情に任せた言葉であったが、本心であることは確かだ。

「環に伝えるわ。そうじゃないとフェアじゃない」

 カヤはあえて遠回しな回答をする。

「んん。よろしい。状況は簡潔だ。ランサー陣営から契約書を奪い返す」

 アサシンが言い切りながらも、問いかけるようにカヤの顔を見た。神経質そうな顔がカヤの回答を求めている。

「ええ、そうね。そう」

「心配することはない。一晩立ち、ランサーもマスターと合流を果たしている。……覚えているかね?ランサーのマスターであるロイク・ロットフェルトは私の監視下にあるのだよ」

 カヤはアサシンの言葉に思わず、あ、と声を挙げた。アサシンの言葉通り、失念していたのだ。

「ロイクとランサーは言葉通り、アーチャーを待つという選択をした。不自然なのはランサーが契約書の話を持ち出さなかったことだな。あの主従関係は歪なこともあるのだろう。んん。ランサーがわざと話を出さなかったのだと思う」

 ランサーが契約書の存在を秘匿した。それの意味することはなにか。

「ロイク・ロットフェルトはサーヴァントを召喚する前のマスター候補を襲っている。魔術師としては真っ当に、効率的に行動しているわ」

「その効率的な魔術師が、契約書のことを知ればどうなる?迷わず破り捨てるだろうな。ふむ。ランサーはそれを察して契約書を隠したのかも知れない」

「それって、どういう意味?」

「破り捨てられては困るのか、もしくは我々にまだ利用させたいことがあるのか。……想像し難いことだが、尋常に約束を守るつもりなのかもしれないな」

 ランサーの獣めいた目を思い出す。高潔さとは縁遠い、本能のままに敵を狩る戦士。アサシンの言う通り、槍兵が約束を守るつもりとは思えなかった。

「どちらにせよ、状況が直ぐに変わることはない。今は失った魔力の回復と戦略の決定に時間を費やすべきだ」

 森の戦いでカヤの魔力は底を突いていた。一眠りしたおかげで多少は回復しているが、万全とは言い難い。

「回復を要するのはどのマスターも同じこと。んん。だから、環とアーチャーも食料の買い出しに出たのだ。少しでも精がつくようにな」

 アサシンが廃墟の古びた扉を見る。軋む音と共に、扉が開かれた。環とアーチャーが帰ってきた。

「ただいま帰りました」

 両手にビニール袋を下げた環が、カヤの方を見て声を掛けた。今朝の痴態を思い出し、カヤは顔を伏せる。

「大丈夫だとも。恥ずかしさのあまり、合わせる顔がないだけだ」

 アサシンの言葉に思わず顔を向け、何かを言いかける。しかし、返す言葉が見つからず、カヤはただ顔をあげるだけになった。

「元気になって良かったです」

 朗らかに笑う環と目が合う。一層の恥ずかしさに、カヤは顔が赤くなっていることを自覚した。

「今朝は、その、ありがとう」

「カヤさんだって、私のことを励ましてくれたじゃないですか」

 環がそう言って、テーブルの上にビニール袋を置く。そして、カヤの横に座った。気恥ずかしさをごまかすためにビニール袋をの中を見る。サンドイッチやペットボトル飲料など、手間のかからない食べ物が入っていた。もちろん、ビールなどは入っていない。

「食事を摂りながらでいいから、今後の話をしよう」

「ふむ。我々から報告したいことがある」

 アーチャーの言葉に応じ、アサシンが話題を切り出す。

「昨夜の戦いの後、ランサーと戦闘になりかけた。令呪を使い間一髪で逃げ出したが、代償を払う羽目に陥っている」

 そして、アサシンがカヤを見た。この先は、カヤの命に関わることだ。自身の口からいうべきだ、とアサシンが水を向けているのが分かった。

「代償、というと?」

「すべてを説明するには、時間がかかるわ。聞いてくれる?」

 アーチャーの疑問に、カヤが答える。アーチャーと環が頷くのを見て、カヤは自身の身に起きたことを包み隠さず話し始める。

 カヤ・クーナウという魔術師が、聖杯戦争に参加した理由。クーナウとロットフェルトの契約。破れば、カヤの命が危ういということ。そして。

「昨夜、別行動をしたときに偶然だけど、他の人の契約書が破棄される瞬間を見たわ。破り捨てられた契約書が燃えて、そこから黒い矢が現われた。矢が放たれて、心臓を射抜いてお終い。一瞬のでき事だった」

 ゆっくりと自分の言葉で話したことで、カヤは自分が冷静さを取り戻したことを確信した。だから、現状の危機も取り乱すことなく口にする。

「そして、契約書は今、ランサーの手にある」

 ランサー。その単語が響いた途端、アーチャーが顔をしかめた。

「彼の望みは僕だろう?」

 アーチャーの先んじた言葉に、カヤが頷く。ランサーとアーチャーが戦闘に陥ったのはカヤも知るところだ。そこで、当人達にしか分からない関係が生まれていても不思議ではない。

「その通りよ。返して欲しかったら、明日の夜明けまでに森へ来いと言っていた」

「じゃあ、行かないとですね」

 環が迷うことなく応じた。カヤは目を見開く。その様子を察してか、環が付け加えるように言った。

「繰り返しですけど、私はあの森で死にかけているのを救われているんです。カヤさんの決死の行動で。だから、このくらいのお返しは当然です」

 今朝と同じ様に、環は当たり前の様に言い切った。引き止めたい気持ちと、どうあっても引かないだろうという直感が交錯する。気持ちを言葉にできない。

 引き止める言葉は、意外な方向から来た。

「いや、環は此処に残ったほうが良い」

 アーチャー。狩人のような服装の青年が環を押し留めたのだ。切れ長の目の奥に決意を秘めて、主を見ている。

「どういうことですか」

「多分、ランサーは次の戦いで全力を出す。もちろん、宝具を開帳するだろう。彼の宝具はわからないけれど、場合によってはマスターを巻き込みかねない」

 アーチャーの声が、重く響く。遠回しに、アーチャーは環を足手まといと断じているのだ。

「環、僕は契約を切りたいと言っているんじゃない。ただ、この戦いだけは危険だ」

 環の顔色が暗いものに変わる。しかし、直ぐに元の表情に戻る。

「わかりました。ただ、危険だと思えば私は令呪で連れ戻します」

「分かった。でも、それは契約書というのを手に入れてからにして欲しい。ただ逃げただけではカヤを危険に晒すことになる」

 環とアーチャーが互いに頷きあう。その様子に、思わずカヤが横槍を入れてしまった。

「なんで、そこまでしてくれるの?」

「カヤ、君は環のために森へ駆けつけ、二画の令呪を失った。その行動に報いるのは当然だ」

 それに、と続ける。

「僕はまだ聖杯を諦めたつもりはない。ランサーとはいずれ戦うのだから、いい機会だ」

 そう言って、青年が微笑む。ありがとう、とカヤは答えた。

 その様子を、環が訝しみながら見ている。

「その、ちょっと疑問なんですけれど、カヤさんが見た矢ってどんなのですか?」

 環の質問は思わぬものであった。答えに窮していると、アサシンがテーブルの上にそれを置いた。クリストフを貫いた黒い鏃だ。

「現場から回収していた。印象よりも、実体を見たほうが良いだろう」

 環が手に取ると、ほんの少し感触を確かめた後、アーチャーに手渡した。受け取りつつ、アーチャーが環に質問する。

「どうだい?何か感じる?」

「印象は普通です。何も感じないですね。むしろ、アーチャーの得意分野かと思います」

 ……あ、アーチャーは魔術師よりの英霊だったわね。

 カヤは環とアーチャーの会話を盗み見ているので、アーチャーの真名を知っている。後ろめたさがあるが、集中している環とアーチャーに告げるタイミングではないと思い、押し黙った。

「これだけでは何とも言い難いかな。確かに魔力が籠もっているけれど、僕の宝具とは仕組みが違う」

 アーチャーが鏃を鑑定するように丹念に見る。アーチャーの宝具は森で見たように、対象を如何なる距離であろうとも射抜く必中必殺の弾丸だ。確かにクリストフを死に追いやった光景と酷似していると言える。

 アーチャーが鏃をアサシンに返す。そして、結論づけるように言う。

「この矢自体には特段の細工は見つからなかった。誰かを狙うとかそういう術式も、呪いめいたものもない。だから、どちらかというと、細工は矢ではなくて的にされているんじゃないかな」

 そして、その場の全員がカヤを見る。この場合の的。言うまでもなく、カヤを指している。

「んん。的を見ればなにかわかるかね?」

「可能性としてはある。でも、そんな術式を仕込まれたことなんてあるのかい?」

 そして、カヤは思い至る。アサシンも同様の結論に至っているのだろう、カヤの心臓を指さしていた。

「私の心臓は昔、ロットフェルトの当主に治療されているの。なにかされたというのなら、そのときにしか考えられない」

 兄カールと術式を調べたとき、何も分からなかった。あのときは刻まれた術式が、心臓の運動や生命活動に影響あるものだと決めつけて調べていた。しかし、今ならわかる。あの術式はただ、鏃を寄せ付ける札のようなものなのだ。

「なるほど、それが本当であれば相当に悪どいね」

「治療とは全く関係なく、脅すためだけに術式を埋め込んだのですか」

 アーチャーと環がそれぞれに感想を漏らす。今までのロットフェルト家の行動を見ていれば、そのくらいのことをやるだろうとカヤは思った。

「ともあれ、まだ確証はない。んん。術式だけでも見せてみたらどうかね」

 



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66

 アーチャーとアサシンを追い出し、隠れ家には女性が二人いる。当たり前のようにアーチャーが術式を検分しようとしたが、「そんな人だとは思いませんでした」と口撃したのはやりすぎたかも知れない。

 宮葉環は魔術に卓越しているという訳ではない。しかし、環の命を幾度となく救った『不吉なものを見抜く目』を持ってすれば、カヤの術式を理解できるかも知れないと思っていた。実際、魔術に造詣の深いアーチャーも環の意見は受け入れていた。

「もしかしたら、環の眼は魔眼の類なのかもね」

「魔眼ですか」

 カヤがジャケットを脱ぎながら、何気なく口を開いた。今朝のショックは既に抜けきっているらしく、初めて会ったときのように凛とした声が響いている。

 反面、環は胸の高鳴りを感じていた。テーブルを挟んで向こう側に立つカヤから眼を背けている。

 ……なんでこんなにドキドキしているのでしょうね。

「魔眼っていうのは独立した魔術回路を持つ特殊な眼球のことよ。そのものが術式を持っていたりして、使っている魔術師も珍しくない。中には大魔術や魔法の域に至る能力を有する魔眼もあるわ」

「はあ、そんな大した物ですかね」

 カヤの話が頭に入らず、思わず空返事をする。シャツのボタンを外す微かな音が、いやに大きく聞こえた。

「危険そうなものを感じ取る、というだけではあまりいい価値のではないかもね。魔眼の本領は眼球の持つ視るという受動的な役割を超えて、世界に干渉できることにあるから」

 テーブルの上に、真っ白なシャツが舞い落ちる。思わず受け取ると、生々しい温かさが伝わった。

「直ぐに着るから、そのままでいいわよ」

 カヤがそう言うと、背を環に見せつけるようにテーブルに腰掛けた。

「どう?」

 環がカヤの背を視る。

 シャツの白さとは類を別とする白磁を思わせる肌。浅い息に呼応して緩やかに上下に運動している。吸い込まれそうな魅力に、思わず、指で撫ぜる。雪面を思わせる背に人の温かさが宿っていることを感じる。

「ちょっと、何やってるのよ」

「いえ、白くていいなって思いまして」

 大胆になったじゃない、というカヤの言葉に環が思わず笑ってしまう。思えば、初めて会ったときはこの女性にとんでもなく脅されたものだ。

 心臓のある、左側の背を注視する。魔術師の工房を探索するときのように集中し、術式を探す。

「初めて会った時、悪い言い方だけれど、どうしようかと思ったわ。魔術師同士の抗争なんて向いている感じじゃなかったもの」

「でも、意外とやるものでしょう?」

 環が小さく笑う。背に集中しているため、思いついた言葉がそのまま出てきてしまった。

「ええ、本当に。バーサーカー相手に奮闘して、キャスターの呪いも退けて、ランサーとの戦いも生き残った。マスターとして、十分過ぎる実績よ」

 直接的に褒められて、言葉が詰まる。思えば、人から褒められるなんてずいぶん久しぶりのように思える。

「家業のことはわからないけれど、環の能力は私が認めるわ。あなたと此処まで戦えて幸運だった」

「褒め過ぎですよ」

 くすぐったい思いから、思わず左の背を撫でる指に力が入った。そして、そこにある違和感に気が付く。術式だ。両眼に魔力を注ぐイメージを持って、注視する。

「ありました。……確かに、不吉なイメージが湧きます。回復魔術ではこんな印象を受けないです」

「ああ、予想通りってことね。ダメ元で言うけれど、環が外せたりしない?」

「……すみません」

 いいのよ、と言うとカヤが腰掛けているテーブルから立ち上がり、乱雑に積まれたシャツを手に取る。白磁の肌が、白い布で隠された。

 背から目を切り、中空を見るように上を向いた。古びた天井が目に入った。集中しためか目が疲れているのを感じる。

「お疲れ様」

 天井を遮るように、カヤの顔が現れた。驚きから顔を逸らそうとしたが、カヤの両の手が環の顔を逃すまいと固定する。何が面白いのか、環の眼をじっと見つめてる。整った顔が環の奥まで見透かすようで、鼓動が高鳴るのを感じた。

「流石に私じゃ、魔眼かどうかは分からないわね。かといって直ぐに分かる方法もないし。……全部終わったら、しっかり調べたほうがいいわ」

 ……魔眼を調べるためでしたか。

 行動の意味を察すると、鼓動が落ち着きを取り戻す。

「じゃあ、アーチャー達を呼んできますね」

 先程追い出されたサーヴァント達を呼び戻すため、環は工房を出る。まだ昼過ぎほどの時間のはずだが、雲が厚く陰鬱な雰囲気を醸していた。朝の日差しは一瞬のことだったらしい。

「終わったかい?」

 環が声をかけようかと逡巡すると、直ぐにアーチャーが実体化した。どうやら扉の前で霊体化し、待っていたらしい。

「ええ、カヤさんの背に嫌な感じの術式がありました」

 アーチャーが残念そうな、沈んだ面持ちになる。

「どうしました?」

「さっき、アサシンと話していてね。どうにかしてランサーの思惑を外したいなと思って。ただ、カヤに仕掛けがあるとすると、正攻法で契約書を奪うしか方法がないか。……この場に聖人のサーヴァントが入れば、解呪ができたのかも知れないけれど」

 既に次の状況に備えて作戦を考えているらしい。環は工房に残るとは言え、令呪という最大の武器を持っている。策を練るのであれば、話し合いに加わるべきだろう。

「ないものねだりをしても始まりません。さあ、カヤさん達を交えて作戦を考えましょう」

 



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67

 湖面が曇天の色を写す。冬らしい切れ間のない厚い雲の層に、押し固められた空気の圧力を感じる。この時期の典型的な気候とはいえ、今日の空気の異様さは覚えがない。

 ロイク・ロットフェルトは自身の工房から足を踏み出し、湖畔を覆う森に居た。既にこの森からは敵は撤退しており、何かに圧力を感じる必要はない。しかし、それを感じざるをえないのは近くで気にもたれかかる男のせいだろう。

 長身に細い身体。見た目だけであれば、黒い鎧も相まって甲虫の想起させる。しかし、男が動き出せば、その印象は一変する。獰猛かつ残忍。獣の殺意が敵を襲う。

 ランサー、ドゥフタハ・ダイルテンガ。ロイクのサーヴァントである。

 ランサーは木に持たれながらも、周囲に緊張を与え続けている。その理由は一つ。来るべき敵を待ち続けているのだ。

『アーチャーを待つ。アサシンが約束を違えていなければ、夜明けまでには訪れる』

 ランサーはそれだけを言うと、正午から今と変わらずに弓兵を待ち続けている。ロイクは工房でランサーの姿を見ていたが、異様な緊張感に耐えきれなくなり、傍らで見守ることにした。

「ロイク。これを持っていろ」

 ランサーがロイクへ向けて紙の束を投げて寄越した。枯れ葉の上に落ちた紙束を拾い上げる。魔術に寄る契約書のようだが、ロイクには見覚えがなかった。

「これは?」

「アーチャーが此処に来る理由だ。貴様が持っている方がいい」

 疑問はあるが、手に持っていることにする。平時のロイクであれば、行動の意図を苛立ち混じりで問いただすだろう。しかし、ロイクはただ受け取るだけで取り立てて詳細を聞こうとはしなかった。

「えらく殊勝じゃないか、ロイク。どうした?」

 口では心配をする風ではあるが、ランサーの声色には嘲りが見えていた。

「勝ちを見せつける相手が消えて、気持ちが落ちているのさ」

 ロイクがこの戦争に望んだのは、当主の座を得るためだ。しかし、それ以上にテオ・ロットフェルトに自分の素養を見せつけるという目的があった。今は、勝利を断ずる当主も因縁の相手たるテオも死んだ。ロイクにとって、戦う理由が希薄になりつつあるのだ。

「競うべき敵が労せず消えたのだろう。効率を重んじる魔術師であれば臆面もなく喜ぶのではないか?」

 ランサーが侮蔑を潜め、心底から分からぬという風に聞く。

「聖杯を得るのがこの戦いの目的。であれば、邪魔立てするものは排除する。手間なく消えれば両手を上げて喜ぶ」

「相手がライダーのマスター以外であれば、そうだったさ。けれど、称賛されなくては勝利の意味はない」

 ロイクにとって勝利とは幾多の敗者を踏みにじり、手にに入れるものだ。勝利の証は盃ではなく、敗北者の悔しさの滲む顔だ。

「たった一人生き残って聖杯を手に入れて、どうしろと言うんだ。ありがたく屋敷に飾れとでも?」

「余計な考えの多い奴だ。奪い取ってから考えればいいことだろう」

 ランサーの言葉に、ロイクが気が付く。勝利のために最短経路を行かないのはこのランサーも同じことだ。

 昨夜の戦い。アーチャーとの戦闘ではランサーは一対一の正面衝突を望んだ。そして今も、アーチャー相手に真正面から打ち倒そうと待ち焦がれている。

『この下らぬ戦いにおいて、貴様とセイバーのみは正面切って戦うに値する』

 アーチャーと相対したときのランサーの言葉を思い出した。ロイクへは効率を説きながら、自身は異なる道筋を行こうとするランサーに疑問を抱く。

「なんで、アーチャーとセイバーを特別視しているんだ?」

 思わず口をついて出た疑問に、ランサーが先とは違う、真剣味を帯びた視線を送る。ロイクの背筋に冷たいものが走った。召喚初日のことを思い出す。令呪によって縛ることに成功しているとは言え、ランサーはロイクの手を砕き、あまつさえ殺そうとしたのだ。マスターにさえ殺気を隠さぬサーヴァント。ロイクは先の質問の軽率さを悔いた。

「は。知れたこと。ただの障害であればどの様な手段でも取り除く。しかし、一介の戦士に対しては戦士として向き合うのが礼というもの。無様に策に拘泥すれば、強者との戦いを避けた卑怯者の名が後の世に残るだろう。この点は貴様を笑えぬな、ロイク」

 ロイクの予感に反して、ランサーは誠実とも言える回答を口にした。

「俺の思う戦いと他の戦士の思う戦いは異なっていた。俺は戦いに望むのであれば、利用できるものはすべて使う。それが礼儀だとも。だが、他の戦士はそうではなかった。愚かしいまでに一対一の戦いに拘泥した。……奴らがこの戦いに参じてみろ。令呪でさえ卑怯と眉をひそめるであろうな」

 そういって、ランサーが笑った。そこにはどこか、自嘲するような寂しさが紛れているようだった。

 ドゥフタハ・ダイルテンガ。アルスターのクロコガネというあだ名のある戦士。彼の伝承は少なく、有名なものでも不名誉なものだ。

 同郷の戦士であるクー・フーリンと敵対した折、フェルグス・マック・ロイが矛を交えるのを躊躇う中、嘲るように言い切った。

『何を躊躇う。敵は強力と言えど一人きり。対してこちらは数で優勢なのだ。取り囲み攻勢をかければ、一人は不意を打てるだろうよ』

 この発言がフェルグスの激怒を買い、軍の最後尾まで投げ飛ばされる。ランサーにとっては不名誉な伝説だろう。

 ドゥフタハの思考は、戦士というよりもむしろ魔術師に近い。特に一対一を重んじたアルスターの戦士達の中では異端に見えたろう。故に、後の世に残った伝承は不名誉に塗り固められている。しかし、傍目でドゥフタハを見ているロイクの印象は違う。

 ……弱者には見向きもせず、強者とあれば矛を交える。きっと、敵わぬ者には策を講じてでも打ち倒すのだろう。

「アーチャーとの戦い、危機になったら僕は令呪を使うぞ」

「当然だ。そのために連れてきた。僅かほどでも躊躇ってみろ。今度こそ殺してやる」

 ランサーの相貌が獣じみた獰猛さに彩られる。戦いの時が近いのを感じた。

 



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68

(ねえ、本当に良かったの?)

 アーチャーが工房を出て、ランサーのもとへ向かった。無論、戦いを望んでた。カヤの使い魔が後を追うが、戦いに助力することはできない。カヤの工房には現在、カヤと環が居た。

 カヤの念話による疑問は自身のサーヴァント、アサシンへ向けたものだ。傍らの環を意識し、言葉が少なくなった。。

 敵がランサー一体であるのならば、サーヴァント二騎で戦うのが良いと思える。しかし、戦闘力の無いアサシンの場合、その選択が常に最善とは限らない。

 アサシンができることは宝具『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』によるサーヴァントの無効化だ。強力な反面、魔力が不足している現状では発動できない。令呪による強制発動も考えたが、カヤの持っている令呪は残り一画だ。使えばアサシンとの契約が切れる。

 ……最悪の場合、アサシンを諦めてでもアーチャーをサポートする。

 そのため、カヤはアサシンをロットフェルトの敷地内に待機させている。

(我が主の最善がこの形であるのならば、仕方あるまい。ふむ)

 森の入口で気配を消すアサシンが、嘆息混じりに答えた。忠義に厚いサーヴァントではあるが、自死を厭わぬ作戦を受け入れてくれた。

(契約書を手にいれれば安泰なのだろう?であれば、我が生命など惜しくない。ああ、惜しくないとも。全く)

(すまなかったわよ)

(作戦を立てるときも言ったがね。敵のサーヴァントはまだ二騎いるはずなのだ。敵対するランサー。セイバーも湖底に落とされたくらいではまだ生きているだろう。それに、死んだとするサーヴァントも怪しいものだ。んん。環の呪いが解けた以上、キャスターは退去した可能性が高いが油断はできん。ライダーにも生き残りの伝承があるのだ、生きていても不思議ではない。……確実に倒したと言えるのはバーサーカーだけだ)

 アサシンが珍しくまくしたてるように言う。サーヴァントの退去は間近で見なければ確信を持つことはできない。カヤとアサシンが間近で見たのはバーサーカーだけで、確かに他のサーヴァントについては状況証拠しかない。

(不透明な状況を作らないための『不義の密命書(バビントン・プロット)』なのだが、んん、全く空回っているな。腹立たしい)

 念話越しにでもアサシンの神経質な表情が歪んでいくのがわかる。

(現状、手がない以上心配をしても仕様が無いわ)

(いいや、違う。カヤ。これは本当に胸に刻んでおいて欲しいのだがね。まだサーヴァントが残っているということは、依然君は狙われる立場なのだ。私がここで消えれば、君を守るものはいなくなる。如何に戦争を降りると君が言おうとも、他のマスターから見れば関係がない。念のために殺すくらいはやってのける)

 アサシンの言葉がカヤの心を揺さぶった。死の危険はなにも契約書だけではない。ここまで安全に暗躍できたのはアサシンの力が大きいのだ。

(軽率が死を招くことだけは、覚えておいて欲しい)

(分かったわよ)

 そして念話を打ち切る。正念場を前に、カヤの気持ちが沈むのを感じた。

「カヤさん」

 ソファで隣に座る環が声を掛けた。見ると、机の上で何かを作っている。

 ……確か、折り紙という日本の遊び。

 環が器用に一枚の紙を幾重にも折り重ね、新たな形を作る。紫の紙は直ぐに一輪の花になった。四枚の花弁が垂れる、儚げな花だ。

「これは?」

「菖蒲という花です。私、落ちかないときにはつい、こういうのを作っちゃって」

 環が差し出した菖蒲をカヤは掌に乗せた。紙の軽さが不思議に感じる。

「恐いときとか、不安なときとか、ゆっくり手順の決まったことをすると自然と落ち着くんです」

 そういう環は確かに静かに、焦りもないようだった。

「折ってみますか?」

 環が笑み、紙を差し出す。一点の皺もない綺麗な正方形の折り紙。

 ……戦いの前に呑気なことかとアサシンには呆れられそうだわ。

 だから、ではないが、カヤは環の提案を丁寧に辞した。

「大丈夫。不安なら、この子が取っていってくれたから」

 カヤは右の掌に乗る菖蒲を見せる。そして、それに、と言葉を続けた。

「もう、そんな時間も無いみたい」

 森を眺める使い魔が、槍兵の姿を捉えた。弓兵が遠巻きから、疾走し肉薄している。

「ええ、では行きます」

 状況を掴んでいる環が作戦通りに行動する。左手の甲に手を当てた。

「令呪を持って告げる」

 

 森で佇み、眼の前の湖を眺めるロイクは、急に現われた魔力の奔流に飛び退いた。明らかなサーヴァントの予兆。どころか、宝具の開帳に匹敵する魔力の集中だ。

 ……アーチャーが来た!

 しかし、確信が遅いと悟る。既にランサーはもたれかかっていた木を離れ、迎撃に出ていた。ロイクは油断を恥じながらも使い魔の烏を飛び立たせ、戦いの現場を探る。

 烏は直ぐにランサーを見つける。

 異様な光景だった。木々の合間を縫うように無数の銃弾がランサーを追い、ランサーは銃弾を避けつつもアーチャーを探す。

「糞が!」

 ランサーが回避した銃弾の雨は後方へ消えることなく、軌道をぐるりと変えて、ランサーの背に迫っている。まるで銃弾そのものに意思があり、ランサーを討たんとしているようだ。

 確信した。これはハンナを死に追いやった宝具だ。あのときほど集中した一撃でないが、威力を下げて銃弾が幾つにも分かれている。

 以前の戦いで、ランサーを窮地に追いやった攻撃。既に見せた技を、惜しむことなく初手に費やした。

 ランサーの背に、銃弾の一つが食い込む。獣の相貌が一瞬、苦悶に歪む。

「ランサー!」

 ロイクは遠隔から治癒魔術を行使する。胸に灯る炎。イメージを引き金に魔術を使う。ランサーの背の傷は徐々に塞がるはずだ。

「良い魔術だ」

 ロイクの後ろから、突如声がした。振り向く前に、ロイクの胸に衝撃が走る。思わず、苦悶の表情に歪む。

 地面に倒れながら、凶弾の原因を見る。深くフードをかぶった狩人。アーチャーだ。

 ……何故。ランサーが追っているはず。

 そしてロイクは気が付く。森で幾度も味合わされたアーチャーの幻術。

「君の従僕が追っているのはただの鼠だ。何度も同じ手を食うなんて、間が抜けているな」

 アーチャーの言葉にロイクの表情が変わる。胸の痛みも、宿り始めた滾る熱もすべてを混ぜ合わせるように、笑った。

 不信に思うアーチャーを尻目に、ロイクは振り絞り、湖に飛ぶ。湖面に触れる直前、凪いだ水面に水流が現われてロイクを湖畔から湖の中央へ運ぶ。

 ロイクが叫ぶ。痛みも構わず。

「令呪を持って告げる!ランサー!アーチャーに宝具を使え!」

 そして、森に炎が具現化する。湖畔からロイクを狙うアーチャーが身を翻すのが見えた。しかし、ロイクは確信している。それでは遅すぎる。

 魔力のうねりを伴い、炎を纏う槍兵がアーチャーに突撃した。両の手で持つ槍はランサーの付き穿つ動作に合わせて、必殺の閃光を描く。

 ドゥフタハの声が聞こえた。

「『九殺する炎の呪槍(ルー・ケルトハル)』」

 呪槍が炎を放ち、アーチャー諸共森を焼き払った。

 

「アーチャー!」

 弓兵と視界をともにする環は、ランサーの放った炎に思わず声を荒げていた。

 アーチャーの作戦は成功していた。アサシンの能力により契約書はマスターであるロイクの手にあることは分かっていた。そのため、遠隔から『主よ御手もて引かせ給え(デア・フライシュッツ)』による攻撃を行い、ランサーを足止めした上でマスターであるロイク・ロットフェルトを襲撃する。全七発の内、既に三発は使っている。そして最後の一発は使うことができない。故に、残りの三発のうちの一発を使ってランサーを追い詰める作戦だった。

 不備があったとしたら、ロイクの予想外の行動だ。

 ……アーチャーの攻撃を耐えた?

 環は確かにロイクがアーチャーの銃弾を胸に受けたのを見た。宝具でこそ無いが、英霊の一撃は常人に耐えられる理屈はない。しかし、ロイクは苦しみつつも令呪を使いランサーに宝具を開帳させた。

「環!契約書は?」

「ダメです。奪えていません」

 カヤの言葉に環が悔しさを滲ませ、答える。ここでロイクの契約書を奪えていれば戦いは決していた。令呪でアーチャーを帰還させれば良い。しかし、ロイクがあまりにも予想外の行動に出たために判断が遅れた。

 湖の中央に流されたロイクは、湖上に放置されたボートの上に立っている。魔術に寄る水流操作でボートの位置に流れたのだろう。

「予め用意していたのでしょうか」

「いや、違うわ。直前に決めた作戦なら、アサシンが気が付いている。……あのマスター、始めからランサーの宝具を使うことを想定して、ずっと前から準備をしていた」

 カヤが悔しさの滲む声で呟く。

「それよりも、アーチャーは?」

 環はアーチャーの視界越しに森だった景色を見ている。宝具の炎は森の奥から湖の側にいるアーチャーへ放たれ、周囲の森を焼いた。アーチャーの視界には現在、焼き払われた森とその原因が見えている。隠れ潜む場所もなく、対峙している。

 ランサーの宝具は奇っ怪だった。身の丈を超す槍であることは良い。しかし、その槍の纏う炎はこともあろうに、ランサーの握る柄から吹き出ていた。

 嘲りを宿す槍兵の表情が、苦悶に歪んでいる。柄から出る炎は森と、敵と、ランサーそのものを焼いているのだ。遠隔にいるマスターと令呪によるサポートにとって、ランサーの身体は辛うじて維持できているのだとわかった。

「待ち焦がれたぞ、アーチャー」

 身を炎に灼かれながら、ランサーが言う。

「ずいぶんと苦しそうだ。無理をせずにその槍を置いたらどうだ?」

「貴様が倒れた後に、そうしよう」

 それが戦いの合図だった。ランサーが炎の槍を横薙ぎに振るい、アーチャーが飛び退く様に焼けていない森の奥へ退避する。しかし、槍によって放たれた炎が、隠れるアーチャーを顕にする。

 逃げるアーチャーと、それを追うランサー。昨日と同じ図式。だというのに、環の心に宿るのは昨日と比較にならぬ不安だ。

 ……こんなの、反則です。

 アーチャーの戦法は隠れて罠を張り、敵を仕留める。得意の幻術も、相手の見えぬ内に仕掛けるから効果があるので、姿を常に晒され続ければ意味がない。

 環にできることはない。ただ、祈るだけだ。既に枯渇した魔力では、令呪がないと宝具さえ開帳できない。先に一画を使ったので、あと二回。

 獣の咆哮が響く。ランサーのものだ。逃げるアーチャーへ向けたものか、その身の痛みに耐えるためか分からない。ただ、炎に灼かれながらも槍を奮うランサーは英霊というよりも、英雄に倒されるべき怪物に見えた。

 



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69

 ロイク・ロットフェルトはプラウレン湖に浮かぶボートに立っている。湖面に起こした波は既に収まりかけている。しかし、胸の痛みから、平衡感覚が危ぶんでいることを察した。

 ……油断していたとは言わない。この程度なら、計算の内だ。

 ロイクは自身の胸に空いた穴に、躊躇わず、指を入れた。駆け巡る痛みに苦悶が漏れるが、構わない。そして、指が狙いの感覚を見つける。金属とも、氷とも言えるような鋭く冷たい感触。指で存在を確かめながら、呟くように魔術を行使した。

「リリース」

 イメージの炎を燻らせる。炎が心臓を取り巻く金属の膜を灼く。魔術の完了を確信すると、穴から指を引き抜いた。そこから、血に混じり、透明な液体がこぼれ落ちる。

 ロイクの身を守ったのは治癒魔術ではない。ロイクはこの戦争に参じるに辺り、自身の身体に保険を掛けていた。心臓、動脈など急所と言える内蔵を取り囲むような魔術に寄る保護膜。一度きりだが、直接攻撃であれば防ぐことができる。準備には大いに時間がかかったが、その甲斐あって、ロイクの命を救う結果となった。

 真っ向から魔術比べをしかければ、ロイクはテオに劣ることを知っている。そのため、ロットフェルトの魔術とは言い難いが、ロイクのオリジナルとしてこの戦いのために作成していた。

 ……テオとの戦いのために用意していたけれど、役に立ったな。

 彼ならどの様に今の場面を防ぐだろうかと考える。きっと、傷口を愚直に治癒魔術で治すのだろう。王道で、強者の発想だ。その方法では、ロイクはアーチャーの攻撃に耐えきれず、死んでいただろう。急場を自身の策で凌いだというのに、ロイクの心には未だ劣等感がある。

 しかし、劣等感を払拭する相手はもういない。故に、ロイクは目の前の相手に負の感情をぶつけることにした。

「殺せ、ランサー!」

 

 ランサーは炎を身に纏い、長槍を奮う。炎は槍を持つ右の腕を中心に広がっており、肉の焼ける不愉快な匂いが鼻についた。

 マスターであるロイクには宝具の詳細は話してはない。だが、ロイクから聞かれていないということもあるが、ランサー自身が誇るべきものだとは思っていないからだ。

 『九殺する炎の呪槍(ルー・ケルトハル)』。アルスターの英雄ケルトハルから借り受けた炎の呪槍。ドゥフタハが宝具として奮ってはいるが、真実、彼の持ち物というわけではない。しかいし、伝承を紐解けばドゥフタハの代名詞として語られる槍だ。

 持つ者を灼き、穿てば必ず命を奪う槍。

 アーチャーの銃弾が放たれる。右の腕に被弾しかけるが、弾丸が炎に溶け、傷を与えるに至らない。いや、傷を与える必要がないほどに、ランサーの腕は焼けただれている。

 ……思ったよりも、保たないな。

 ランサーは冷静に自身の傷を観察をしていた。ロイクの治癒と令呪に寄る補助によって、ランサーの身体は常に回復している。しかし、宝具の炎が治癒を上回る速度で身体を傷つけている。

 アーチャーは気が付いているのか、決定打を放とうとせず長期戦の構えを見せている。この森へ入って来たときの大技は、もう出す気がないのか。

 ランサーがアーチャーを追う足を止める。わざわざ付き合う必要はない。

「一投にて穿つ」

 ランサーが右手を大きく挙げ、槍を掲げる。そして、主を灼く炎が一層激しさを増した。槍に込められた魔力が更に増したのだ。

 ランサーが大きく身を捻る。捩じ切れんばかりの溜めを作り、身体が筋力により一回り膨らむ。極限の充填を行った後、炎の槍が、弓兵へ向けて放たれる。

「『九殺する炎の呪槍(ルー・ケルトハル)』」

 

 

 焼け消えた森を走りながら、アーチャーは後方から魔力の集中を感じた。

 ……とんでもないな。とてもじゃないが、避けることはできない。

 昨日の戦いとは比べ物にならない圧力。現代の槍と神秘の具現たる宝具の違いなど、比べるべくもない。だが、双方の脅威を身に受けると、これほどの差があるのかと愕然たる思いに駆られる。

 初手のランサーの宝具の開帳は、辛うじて避けることができた。しかし、あれはただ槍を開帳しただけに過ぎない。槍の一撃を受ければ、自身の身体など耐えられるはずがない。

 そして後方に感じる魔力は、十中八九、槍の投擲だ。ランサーがどこの英霊かは分からないが、秘中必殺の投げ槍ということは十分に考えられる。

 ……宝具には、宝具で戦うか。

 現状、アーチャーにはランサーの攻撃に耐える手段はない。幻術ではランサーの眼をごまかすことはできても、仕掛ける瞬間を見られては意味がない。

 意を決し、猟銃を構えて姿勢を屈める。初手の技とは違う、バーサーカーのマスターを打倒したときの一撃を用意する。

(環。令呪をくれ。宝具で槍を砕く)

(アーチャー。大丈夫ですか)

 環の沈痛な声が響く。大丈夫、とは言い難い。しかし、マスターを不安がらせることにも意味がない。だから、答えるべき言葉は一つ。

(大丈夫。槍を砕いて、それでお終いだ。昨日倒しているのを見てるだろ?)

 強がりを口にする。アーチャーに宿る不安を悟られていないかと案ずるが、直ぐに考えを改めた。

(信じてます)

 環の声には、アーチャーのすべてを察したような強さがあった。

 環のマスターとしての性能はお世辞にも高くはない。アーチャーのサーヴァントとしてのスペックにも影響が出ているほどだ。最大で七発射てる宝具も、二発までで環の魔力は尽きてしまった。

 それでもなお、アーチャーは環がマスターで良かったと思う。

 銃口の先に気持ちを込める。その先にいるランサーを睨む。

 槍を掲げた右の腕が炎を纏っていた。こちらに殺意を向ける、黒い獣がいる。

「あんなのを相手にできるなんて、狩人冥利に尽きるよ」

 そして、猟銃の銃口に魔力が籠もり、宝具が開帳された。

「槍を討て。『主よ御手もて引かせ給え(デア・フライシュッツ)』」

 魔弾が、迫る呪槍に向かって放たれた。

 

 森の上空を飛ぶカヤの梟は、宝具と宝具のぶつかり合いを見た。

 槍兵の槍は炎の軌道を描き、弓兵に向かう。

 弓兵の魔弾は光の矢を彷彿とさせる神々しさをもって、呪槍に向かう。

 二つの衝突は魔力の暴走を招く。槍の炎が森へ飛び散り、葉の落ちた枯れ木を灼いた。隠された神秘の森は、今、更なる神秘に焼き払われようとしていた。

 衝突の結果は見るに明らかだった。

 弓兵は森の中で猟銃を片手に立っている。焦燥の顔色は見えるが、傷を負った気配はない。

 槍兵は燃え盛る森に立っている。投げ去った槍は既に右の手に戻り、既に腕に炎を宿している。

「続けようか、アーチャー」

「ああ」

 そして、戦いは続く。

 



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70

 戦いの迫力に圧倒されていた。カヤは、この戦いをすぐ終わらせる方法に考えを巡らして、一つの結論に至った。

(契約書だけでも奪いに行けないの?)

 ロットフェルトの敷地内で待機しているアサシンも、この戦いの様子を知っているのだろう。ならば、アーチャーが危ういことも分かっているはずだ。

(ランサーのマスター、ロイクが令呪を切った。彼の残りの令呪は一画。マスターはもう令呪を切ることができない。今なら、孤立しているロイクを襲うことができるわ)

 カヤは積極的に戦いの場へ赴くことを提案している。しかし、アサシンが悔しさの滲む声で考えを伝える。

(すまない。カヤ。ロイクを襲うこと自体は可能だが、必ずの帰還は約束できない)

 戦闘力の劣るアサシンは、ともすればマスターにでも敗北しうる。如何に気配遮断を持とうと、戦闘行為そのものが危険だ。

 ……せめて、令呪さえあれば。

 悔やむが、後一画の令呪が増えるわけではない。隣を見ると、環が祈るようにアーチャーを応援している。その姿に、カヤは焦燥する。

 ……何か、何かできることは。

(アサシン。何か策はないの?)

(今は、アーチャーを信じて待つ。無闇に動いて、彼の戦いを邪魔してはならない)

 アサシンの言葉にカヤは歯噛みする。使い魔の視点には、ロイクが見える。

 ……せめて、マスターをどうにかできれば。

 思いを裏切るように、森の奥地から火柱が上がった。中途半端な戦力は必要とされていない。まざまざと思い知らされるようだ。

 

「どうした?逃げても戦況は変わらんぞ!」

 追い縋るランサーから逃げながら、アーチャーは思考を重ねていた。

 ランサーの言葉は真実ではない。宝具である槍は柄が燃え、握る右の手は無残にも爛れている。マスターの魔術だろうか、徐々に回復をしているようだが、焼け石に水だ。

 ……このまま逃げ続ければ、いつかランサーは力尽きる。

 しかし、先の槍の投擲を思い出す。明らかに神秘の籠もる、必中必殺の槍だ。アーチャーの宝具を使って砕こうとしたが、無為に終わった。宝具と令呪を無駄にしたことの後悔もあるが、退けたランサーの槍が異常なのだと思う。

 ……神代の物に近しい槍。

 ランサーの槍の炎が、アーチャーの背を掠める。宝具から発生した炎はまともに当たれば致命傷だ。時間はアーチャーの味方だ。しかし、一手間違えれば即死の環境。策を弄する必要がある。

 木々の隙間から、プラウレン湖が見える。その奥、アーチャーの弾丸に耐えきったランサーのマスターが居る。湖面の中央に浮かぶボートの上に仁王立ちになり、ランサーの戦いを見守っている。

 ランサーの攻撃が止む。一瞬振り返ると、炎を纏う黒い獣が上半身を捻っている。槍を投げる動作だ。

 アーチャーの中に、直感めいた予想が過った。一瞬躊躇うが、策もない。予感を信じ、行動に移す。

 アーチャーは逃げる方向を変える。森の奥地ではなく、燃え落ちた木々の隙間を行く。向かう先は湖だ。隠れる場所はない。

「血迷ったかアーチャー!」

 隠れる場所がなくなれば、地力で劣るアーチャーが不利だ。それでも、灼けた森へ進んだのには理由がある。

 ランサーの魔力が膨張する。先にも感じた、投擲の予兆だ。そして放たれる直前、急激に魔力が衰えていくのがわかった。

「貴様……!」

 ランサーの苦悶の声が聞こえた。アーチャーは予感が的中したことを確信した。そして、それを声にする。

「そこからでは槍を放てまい!マスターを巻き込むのが恐ろしいか!」

 アーチャーの目の前にはロイク・ロットフェルトの立つボートがある。背後から槍で射抜こうとすれば、その射線上にいるロイクが犠牲になる。ランサーの宝具は見るからに制御の聞かない暴れ馬だ。槍の投擲によってアーチャーを的確に射抜けたとしても、槍の纏う炎がマスターを灼くだろう。

 アーチャーは湖に向かって走り、勢いそのままにボートに向かって飛んだ。湖の中央に佇むボートに降り立つ。そこに立つ青年が怯えた表情でアーチャーを見ている。

「ひ、ひ」

「契約書だ」

 ロイクが手に持った紙束をアーチャーに渡す。震える手から強引に奪い取る。銃撃をしようと猟銃を構えると、アーチャーの腕に短剣が突き刺さった。

 見覚えのある短剣だ。飛び去った湖畔を見ると、憤怒の表情に彩られた槍兵がいた。

「戻れ!アーチャー!」

 アーチャーは怒声を無視し、傍らのロイクを人質にしようとする。しかし、一瞬の間にロイクはボートから飛び降りていた。湖を探すが、見当たらない。潜っているのか。

 ……逃げ足の早いマスターだ。

 舌打ちを一つ残し、ランサーのいない方向の岸に向けて飛び去る。短剣の突き刺さる手にはしっかりと契約書が握られている。枯れ木が乱立する冬の森に立つ。そのまま、街へ向けて走る。

(環、いま帰る!)

 短く報告する。喜びに彩られた返事が返ってきた。しかし、既に令呪が残り一画だ。転移は使えない。この足で逃げ切る必要がある。

 背後を振り返ると、追い縋る気配がした。ランサーだ。しかし、その姿が見えない。まだランサーとは距離がある。アーチャーは残る魔力でありったけの幻術の罠を仕掛ける。

 ……これで、帰れる。

 令呪こそ二画を失ったが、当初の目的を達した。後はこのまま走り去るのみだ。ランサーは脅威だが、索敵能力は高くない。

 油断があったのかも知れない。勝利を確信して走るアーチャーの耳に、感情の籠もらない声が響いた。

「この門を潜る者は一切の希望を捨てよ」

 そして、眼の前に異形が現れる。アーチャーを越える巨大で黒い身体に、蝙蝠のような翼。敵意を示すような鋭い鉤爪がアーチャーの胸に振り下ろされた。

 傷跡から血が滴り落ちる。力が入らず、血溜まりに倒れ込む。その間に目の前の異形が消える。代わるように、少年の声が聞こえた。

「その契約書。僕が頂こう」

 この世のものではないような、浮世離れした雰囲気を持つ声だった。少年が優しくアーチャーの手を解き、握られていた契約書を奪い取った。

 



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71

「アーチャー!」

 宮葉環は弓兵との視界の共有が途絶えたことに気が付いた。そして、直前の景色が原因であることを知っている。

 ……あれは、キャスター!

 だが、相手よりも倒れた相棒を案じる。視界の共有が途絶えたのはアーチャーが瀕死に陥っているということだ。

(アーチャー!返事をしてください)

 念話で呼びかけるが、応答がない。しかし、パスに寄る魔力の供給は続いている以上、退去してはいないはずだ。

(環、聞こえるかい?)

 幾度かの呼びかけの後、アーチャーからの返事が来た。短い間だが、環には気が遠くなるような長さに感じた。

(アーチャー!無事ですか?)

(大丈夫だ。それよりも、契約書がキャスターに奪われた。直ぐに奪い返すから、合図をしたら令呪で転移してくれ)

 令呪による転移を提案したことに、環はアーチャーの状態を察した。

 ……アーチャーはもう、永くないのですね。

 環の令呪は残り一画。使えばアーチャーとの繋がりは途絶え、環とアーチャーの聖杯戦争は終わる。この事実をアーチャーが理解していないわけがない。

 つまり、もう令呪を惜しむ必要がない。退去が迫っているのだ。

 覚悟していたはずが、訪れた現実に耐えきれなくなる。涙が目に溜まっているのが分かった。それでも、アーチャーの仕事はまだ終わっていない。今、涙を流すわけにはいかない。

(分かりました)

 短い返事を、感情を隠すように返す。隣で不安そうに見つめるカヤが声を掛けた。

「アーチャーは?」

「契約書を奪い次第、令呪を使います」

 環の言葉に、カヤの顔色が曇る。環の的外れの返答の中に、如実に回答が含まれていた。

 そして、環は立ち上がる。そのまま、カヤの方を見ることもなく、外に出ようとする。

「環、どこへいくの?」

「外の風を浴びてきます。もう、私にできることはありませんから」

 

 外に出ようとする環に掛ける言葉もなく、カヤ・クーナウは立ち竦んでいた。自身のサーヴァントを失う感覚というのは、身を切るような辛さだろう。カヤの命を救うために、そこまで献身をしてくれたことに感謝を覚える。一方で、悲しむ環に何も言えない自分に腹が立った。

(カヤ、そちらはどうなった?ロイクとランサーはアーチャーを見失っている)

(アーチャーがキャスターに強襲された。契約書も奪われて、瀕死みたい)

 森で控えるアサシンに、カヤは端的な報告を済ませる。アサシンはランサーのマスターであるロイクの監視に専念しているので、アーチャーの状況を把握できていないようだ。

(……そうか。んん)

 アサシンもアーチャーを案じているのだろうか。歯切れの悪い言葉だけが返ってくる。

 カヤは視界を使い魔のものに置き換える。まばらに灼けた森を飛ぶ梟は、遠巻きからアーチャーとキャスターを捕捉していた。

 自身の血溜まりに伏せるアーチャーと見下ろすキャスター。キャスターの手には紙束が握られている。カヤの命を脅かす一枚。

「アーチャー……」

 縋るように言葉を溢す。今のカヤには、それが精一杯だった。

 

 幾重にも仕掛けられた罠を超え、ランサーは森を疾走していた。既に右の手に持つ宝具は霊体化させており、ロイクに寄る緩慢な治癒が進んでいる。

 ……アーチャーめ。

 己の最大の武器を使っても、仕留められなかったことへ不満はある。しかし、戦いの途中で逃げ出したアーチャーへの不満はなかった。

 もとより、これは紙束を巡る戦い。アーチャー側の目的が紙束にあるのであれば、奪い次第逃げるのは当然だ。命の取り合いだけが戦いではない。

 しかし、眼の前に入ってきた光景は、激怒に値するものだった。

「貴様、キャスターか」

 追い求めた弓兵は血溜まりに沈み、背の低い子どもが見下ろしていた。只ならぬ風貌に、少年がサーヴァントであることを瞬時に察する。

「死んだと聞いていたのだがな」

「魔術師が生き汚いのは知っているだろう」

 そうさな、と小さく答え、傷のない左の手に短剣を握る。

「で、だ」

 悠然と歩き、弓兵の横を通り過ぎる。魔術師と向かい合った。

「魔術師風情が。誰の許可を得て戦いに横槍を入れる」

 躊躇うことなく、ランサーが短剣を横に薙ぐ。しかし、キャスターは軽やかな動きで避けた。

「傷が見えるね。ランサー。テオの言う通り、君のマスターは治癒が苦手かな」

 黙れ、と答えるが宝具の傷とアーチャーから受けた傷が深いことは確かだった。しかし、戦いを侮辱するこのサーヴァントを生かして返すつもりもない。

 短剣を持ち、キャスターに襲いかかろうとした矢先、変化が起きた。既に死に体と思われていたアーチャーが、猟銃を構えたのだ。狙う先はキャスター。いや、紙束を持つキャスターの腕だ。

 アーチャーの身体が消えかかっているのは見るに明らかだ。しかし、それでも動かすのは気力としか言いようがない。

「何故、そこまでして他人の命にこだわる?」

「他者じゃない。マスターの友人だ」

 弾丸は正確にキャスターの腕を射抜く。キャスターが苦悶の声を漏らしつつ、姿を消した。手放した紙束には目もくれない。

 そして、地に落とされた紙束をアーチャーが拾い上げんとする。ランサーの視界に、アーチャーが背を曝け出した。

「させぬ!」

 阻むため、ランサーは短剣を投げつけ、そのままアーチャーへ迫る。アーチャーは刺さる短剣を歯牙にも掛けず、紙束へ手を伸ばした。

 しかし、そこまでだった。ランサーの宝具たる槍が伸ばした腕を貫通するように、アーチャーの腕を穿った。槍を握る手が焦げ付くが、些かも気には留めない。消えゆくアーチャーへの思いが、痛みを上回る。アーチャーの指は、隙間一つというところで地に落ちる紙束に届かなかった。

「この勝負、俺の勝ちだ」

 静かに、猛ることもなく勝ち名乗りを上げる。称賛の声はない。ただ、消えゆく弓兵の苦悶の声が響いていた。

 そして、弓兵が姿を消す。消滅したわけではない。霊体化か、それとも令呪に寄る転移か。原因は分からぬが、弓兵の血にまみれた紙束が、ランサーの勝利の証であった。

「確かに、称賛なき勝利など味気ないものだな、ロイクよ。……こんなものを飾り立てる気にもならぬ」

 戦いに赴く前のマスターの言葉を思い出し、感傷的な言葉を溢す。

 そして槍を乱雑に振り回し、地に落ちた紙束に炎を放つ。燃える紙束から魔力の奔流が始まるが、ランサーは気に掛けることなく背を向けて、姿を消した。

 



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72

 冬の空気に身を任せ、悲しみを寒さで誤魔化そうとする。頬と目頭に貯まる熱が、乾燥した空気でどこかに消えることを願った。

 環は工房から外に出て、ただ願うだけの時間を過ごしていた。アーチャーの死は免れない。既に、環と繋がるパスも弱々しくなっていることに、否が応でも気が付く。

(環、失敗した)

 そんな中、アーチャーから悲痛な念話が届いた。返す言葉もなく、ただ、はい、と受け入れる。

(すまない。環、僕は君の願いを果たせない)

(そんなこと、そんなことはどうでもいいです)

 アーチャーが悲痛な言葉を紡ぐ。乾いたはずの瞳が、直ぐに濡れ始めていることに気が付く。

 しかし、感情のまま泣くことはできない。環にはすべきことがあった。

『マスター、君は僕のようにはなって欲しくない。自分のせいで友人が貶められていくことは、耐え難い後悔になる』

 アーチャーの以前の言葉を思い出す。環はアーチャーの思いが痛いほど分かった。

 ……今、カヤさんが死んでしまったら。

 アーチャーが失敗した以上、契約書は直ぐに燃やされるだろう。そうなれば、心臓を穿つ矢がカヤを襲う。カヤの死は免れない。

 環の手が震える。命を賭して環を救った恩人を、環の力不足で殺してしまうなど、到底受け入れられるはずがない。そんな結果、世継ぎを産むだけの存在にすら劣る。

 ……そうなるくらいなら、私は死んだほうがましです。

 だから、環は自らの死を行う。アーチャーにも、ましてカヤにも伝えていない、覚悟の行動だ。

 既に準備は完了している。自然の只中に陣を描き、その中央に座る。後は覚悟だ。

(環、契約書が燃えて魔力が集中している)

 矢が発生していることが告げられる。もはや、猶予はない。

(令呪で、僕の身体を盾にして。もしかしたら、矢の威力を弱めるくらいはできるかも)

 サーヴァントの意図と合致していた場合、令呪はサーヴァントの行動の補助として、ステータスを引き上げる。そのため、アーチャーの提案も効果があるかも知れない。

 ……本当に、ひどいマスターですね。

 最後の令呪にて、より無残な死をサーヴァントに強制する。恨まれてもおかしくない所業だ。

(じゃあ、これで最後だ。君がマスターで良かったよ。環)

 別れの言葉に、堪えていた涙が頬を伝った。

(出会った日の約束、守れなくてごめんね)

 召喚初日、環が気まぐれで提案した約束。

『私はあなたを望みます。アーチャー、私の稼業を手伝ってください』

 ……ああ、そんなことを気にしていたのですか。

 柔和な狩人の笑みを思い出す。生真面目で、実直な、英雄らしい英雄だった。彼と共に駆けた時間は、短くとも、かけがえのないものだったと思う。

 だから、環は偽りのない本心を、英雄に告げた。

(あなたと出会えて、幸運でした)

 そして、最後の言葉を紡ぐ。

「令呪をもって告げる」

 

 カヤ・クーナウは使い魔の視点から、アーチャーの行動を見た。

 燃え盛る契約書の前に立ったのだ。意図は直ぐに分かった。炎から生まれる矢を防ごうとしているのだ。

 アーチャーの身体は既に限界だ。身体の所々は火傷を負っており、右腕は槍で穿たれた穴から血が吹き出ている。その傷でも動くことができるのは令呪のおかげだろう。

 環の令呪はこれで三画。すべての令呪は使い切った。アーチャーと環の契約は切れた。つまり、これがアーチャーの最後の行動だ。

 ……ありがとう。でも。

 燃え盛る契約書から、矢が生まれる。矢がゆっくりとした動きで、カヤのいる工房の方を向いた。

 ……あの矢が放たれたら、私は。

 カヤは契約書を灼かれた時点で、死を覚悟していた。仕方のないことだ。死力を尽くし、敗北したのであれば、この死は受け入れるべきものなのだ。環に縋り泣き、自分の心に整頓がついていた。

 しかし、言い訳はしない。カヤ・クーナウは友人である宮葉環の命を救うために、家を裏切るような真似をした。後ろめたい思いはない。

 矢が放たれる。その矢をアーチャーが身を挺して受け止めた。使い魔の耳に、肉が裂けて骨が砕ける音が響いた。アーチャーの苦しみは壮絶だろう。しかし、弓兵は目を瞑り、苦悶を感じさせない。

 ……ごめんなさい。ごめんなさい。

 苦しむアーチャーに、ただ謝ることしかできない。近くに環がいなくてよかったと思う。この光景を見れば、申し訳なくて、環の顔を見れなかった。

 矢が、アーチャーの身体を貫通する。勢いが殺された矢が工房へ向けて進む。

 ……止めることは、できなかった。

 アーチャーの身体が消えていく。その姿が見ていられずに、カヤは目を閉じた。そのまま、アーチャーに謝罪を続けた。

(カヤ。今、矢がそちらに)

(ええ。ダメだったみたい)

 アサシンの念話が届く。焦りの籠もる言葉に、カヤは諦めたように言った。

(アーチャーが身を挺してくれたけれど、多分ダメね)

(んん。直ぐにそちらに行く)

 アサシンがそれを最後に念話を打ち切った。駆けつけるだろうが、あまり意味がないだろう。

 ……これで、全て終わり。

 諦めた気持ちのまま、ソファに大きく仰け反る。古びた天井が目に入った。最後の景色にはあまりにも相応しくない気がして、思わず立ち上がる。

 ふらつく足で外への扉に手をかける。その時、扉の向こう側から只ならぬ魔力の気配を感じた。大規模な魔術儀式の行使。

 ……まさか、環?

 思わず、外へ飛び出し、気配の感じる方向へ駆ける。曇天の下、葉の落ちた木々の隙間を行くと、原因を見つけた。

「環!」

 思わず、叫ぶ。

 カヤの眼には枯れ葉の上に寝込む環が見えた。胸が血で染まり、その傷を抑えるように呻いている。環の周りには無数の呪符が撒かれていた。

 ……これは。まさか。

 カヤは環の近くに駆け寄る。幸い息があるようで呻きながらもカヤの言葉に反応した。

「カヤさん、私」

「もういい。なんで、こんなこと」

 環の周りに撒かれている札。そして、以前に環が言っていたことを思い出す。

『……基本的な魔術です。あとは、呪い寄せのアミュレットが作れるくらいです』

 つまり、環はカヤに向けられた矢の方向を、呪い寄せのアミュレットによって環に向けさせたのだ。

 カヤは焦りながらも治療魔術をかけ続ける。しかし、傷口は一向に塞がる気配がない。

 ……純度の高い呪い。私では手に余る。

 環を抱え、工房に走る。ソファに環を寝かせ、工房の一角に陣を作る。希少な霊薬を基に作った陣だ。その中央に改めて環を寝かせた。

「カヤさん」

「いいから。この陣の中なら、呪いの進行は弱まるはず」

 カヤは陣に魔力を通す。清涼な魔力が環の傷に集まり、打ち込まれた呪いを癒やし始める。

「言いたいことはいっぱいあるけど、今は寝ていて」

 環がその言葉に従い、目を閉じた。

 ……馬鹿なことを。

 環がカヤの代わりに呪いを受けた。その理由は聞くまでもなかった。

『私はあの森で死にかけているのを救われているんです。カヤさんの決死の行動で。だから、このくらいのお返しは当然です』

 カヤが一度、環を救った。ただそれだけの行動に、環は命を投げ出したのだ。

「なんてことを。そんなことをされたって」

 つい環を攻めるように言ってしまう。理解はできても、行動に移すとは思えなかったのだ。頭を抱えるように、環の陣の前に蹲る。

「友達、だからですよ」

 下を向くカヤに、環が声を掛けた。

「先に、命を投げ出すようなことをしたの、カヤさんじゃないですか」

 戦う力のないアサシンを連れて、敵が潜む森へ潜った。けれど、それだけだ。環ほどの覚悟があったわけじゃない。確実に近い死を受け入れる覚悟なんて、カヤは持っていなかった。

 環の苦悶の声が工房に響く。治癒のための陣を敷いたが、所詮は即席だ。環を蝕む呪いは、徐々に進行している。

「カヤ」

 カヤの背後に、いつの間にかアサシンが立っていた。アサシンもまた、カヤと同じ様に悲痛を込めた表情を浮かべている。一瞥し、カヤは環に視線を戻した。

「環が、君を庇ったのか。即死じゃないのはアーチャーの献身のおかげだな」

「……ええ。そうね」

 クリストフは同じ矢によって即死していた。環が逃れているのは直前にアーチャーが身体で矢を受け止め続けていたからだ。

「アサシン、私、どうすれば」

 それでも、環は蝕まれている。全力を賭したとしても、カヤでは環を救えない。無力さが全身を覆っていた。思わずアサシンに泣きつくような声を出してしまう。

「私では、どうにもできない」

 分かっていたことを、それでもサーヴァントは愚直に答える。

「だが」

 小さく、続けるように言った。その先に続く言葉が気になり、カヤはアサシンを見据える。

「我々にはまだ、手段が残っている。聖杯を手に入れるのだ」

 聖杯。この戦争の勝者に与えられる報奨。特殊な参戦をしたカヤにとっては、今まで他人が争う原因という程度のものだった。しかし、万能の願望機であれば、環の呪いを解く程度は容易いだろう。

 環の苦悶の表情が目に入る。時間がない。悠長な手段を選んでいられない。悲劇に嘆く思いが消え、決意が宿る。

「環。ちょっと待っててね」

 カヤが立ち上がる。コートを羽織、外へ行く準備を整える。

「行くかね?んん?」

 アサシンが問う。意思ではなく、覚悟を問うている。

「魔力もない。令呪もない。サーヴァントは戦力にならない。でも、行くわ」

「何故?死ぬかもしれぬぞ」

 アサシンがカヤの後ろに着く。扉を開けると、征く足を止めるように冬風が向かってきた。向かい風を正面から捉えながら、構うことなく外へ出た。

 そして、アサシンに答える。

「決まっている。友達を救いに行くためよ」

 



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第五章
73


 冷たさの滾る湖から這い上がる。水の冷たさにロイク・ロットフェルトは身を震わせた。ボート上に現われたアーチャーから無様に逃げ出したが、今は生き残ったことへの安堵が大きい。湖の汚れた水が身体を汚れも気にすることなく、枯れ葉の上に寝転がる。

 サーヴァント相手に常人が立ち向かえるはずがない。そのため、ロイクが選択した逃亡は妥当な行動のはずだ。

「無様な姿だな、ロイク」

 しかし、ロイクを出迎えたサーヴァントは不愉快を隠そうとはしなかった。

 身に張り付く様な黒い鎧。ところどころに穴が穿たれており、銃撃の傷跡だと気が付く。幾つかは血が滲んでいる。相貌は苦悶に満ちており、平時の嘲る様子など微塵も感じさせない。そして、最も目につくのは右の腕だ。炎の呪槍を握っていた右の手は、灼けるという状態を超えて真っ黒に焦げ付いている。傍から見れば右の腕は二度と動かせる状態ではない。どころか、今すぐにでも崩れていきそうだ。治癒魔術も、令呪に寄るサポートも焼け石に水だったようだ。

「アーチャーは死んだぞ」

 崩れかけた右腕も気にかけることなく、ランサーは淡々と告げた。

「そ、そうか。後はアサシンだけだな」

「いや、アサシンのマスターは死んだだろう。あと、キャスターが生きていた。マスターはテオと言うらしい」

 ランサーの言葉にロイクの身体が固まる。テオ。湖に沈んでいった彼がまだ生きていたのだ。ロイクの胸の内に炎が宿る。キャスターがいるとすればロットフェルトの屋敷か。

「ランサー。傷が塞がり次第、キャスターの討伐へ行くぞ」

 向かい合うようにランサーを見る。平時は戦いに焦がれる様子のランサーが、消沈したような、感情の消えた瞳で睨んでいる。

「ロイク。悪いが俺は降りる」

「どういうことだ」

 ランサーの言葉に、ロイクは戸惑いながら問い糾す。思わずランサーに近寄るが、ランサーが傷の浅い左の手に短剣を持ち、その切っ先をロイクに向けた。

 ……本気で、抵抗しようとしている。

 ランサーの目に浮かぶのは、どこまでも冷めきった感情だ。

「この戦争、既に興味は失せた。残りは魔術師ただ一人。片付けたところで俺の求める称賛には程遠い」

「だったらなんだ。聖杯を諦めるとでもいうのか」

 ランサーが冷めた目のまま首肯した。

「そうとも。俺が求めるのは強者を打倒したという勝利の証。それ以外に興味はない」

 ランサーが求めていた強者。セイバーとアーチャーだろう。しかし、そのどちらも既に敗退している。残るキャスターに興味を失っていても不思議ではない。

「残る令呪で俺に自害を命じろ。さもなくばロイク、死なぬ程度に傷をつける」

 ロイクに残る令呪は一画。使い切ればランサーだけでなく、ロイクも敗退することになる。

 ……それはできない。まだ、テオが残っているのだから。

 テオ・ロットフェルト。ロイクが打倒すべき肉親。テオのことだけを考えて、ロイクは戦争に望んでいたのだ。

 短剣の切っ先がロイクの頬を切り裂いた。地面に散らばった書類を集めるような自然体で、マスターであるロイクをランサーが傷つけたのだ。いかにも面倒という感情が、ランサーから伝わる。

「どうした。早く命じねば傷が増えるぞ」

 もはやランサーに交渉の余地はない。強者が消えたという現実が覆らない限り、態度が改まることはないだろう。

 思わず、左の甲を見る。

「貴様の父のように全身を灼かれても立っていられるか、試してやろうか」

 父、クサーヴァー。全員に秘してセイバーのマスターとして参戦していた。セイバーは不死なる堅牢さを持つ騎士だった。

 ロイクの首元に、ランサーが剣の切っ先を当てる。切れ味の鋭いこの短剣ならば、横に薙げばロイクの首は胴から落ちることになるだろう。

 父ならば、クサーヴァーならば、首を落としても生きていただろうか。場違いな現実逃避を考える。

 ……そういえば。

 突如、ロイクの脳内に天啓じみた直感が宿った。

 ……いや、まさか。

「どうした、早く使え」

 短剣がロイクに押し当てられ、首筋から血が流れる。それでも、ロイクは考えることをやめない。断片的な部品が繋がり合い、天啓を裏付ける。

 そして、導き出される事実を、ロイクは口にした。

「ランサー、ついて来い。セイバーはまだ生きている」

 



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74

 カヤ・クーナウは街を駆けている。冬の風が身を切るように身体を冷やす。しかし、疾走する足を止めることはない。

 徐々に日が落ちている。ルスハイムの空が朱に染まっている。間もなく闇に覆われるだろう。

「カヤ、報告することがある」

 実体化して並走するサーヴァントが、カヤに念話で告げる。

「アーチャーから遺言を預かっている」

 アーチャー。ランサーとの戦いの最中、キャスターの不意打ちで破れたサーヴァント。そして、死の際にカヤを狙う呪いから助けた恩人だ。

「キャスターのマスターはテオと言う名だそうだ。んん」

 アサシンの告げた名に、覚えがある。テオ・ロットフェルト。ロットフェルト家を出て、聖杯戦争の折に戻ってきた血族。

「ライダーのマスターね。敗退したと思っていたわ」

「ライダーが生き残らせたのだろう。んん。そして、キャスターと再契約したというのが妥当なところか」

 聖杯を勝ち取ろうとするマスターであれば、自然な行動だ。しかし、カヤはテオ・ロットフェルトという存在を訝しんだ。

 ……家に牙を向いていたテオが、何故ロットフェルトの敷地にいる。

 テオは以前のキャスターのマスターであるゲルトと共に、ロットフェルト家を強襲していた。この戦いは他ならぬカヤが間近で見ている。それゆえに、カヤにはテオの目的が聖杯ではなく、むしろロットフェルト家を襲うことあるのではないかと思っていた。

「不自然さがある。テオは何故、ロットフェルトの敷地でアーチャーを襲う?んん」

 アサシンが自問する。カヤと同じ疑問だ。

「テオの様子では、ロットフェルトを大層憎んでいるようだった。キャスターのマスターとなっている以上、ゲルトは死したのだろう。……いかんな。情報が足りぬ」

 独り言のように紡がれる言葉の羅列に、カヤも疑問が深まった。

 テオ・ロットフェルト。ロットフェルト家を襲い、未だにその敷地にいる以上、彼の敵は排除されたはずだ。敗走したのであれば、ロットフェルトの敷地にいることがおかしい。

 テオの敵。当主であるクサーヴァーだろう。ロットフェルト家に攻撃を仕掛けた者を、当主が捨て置くはずがない。まして、敷地内で好きにさせているなど有り得ない。

 つまり、ロットフェルト家の当主は既に死し、当主の座はテオの手に落ちた。聖杯戦争の決着を待たず、実質の当主の座を確定させたのか。

 ……けれど、やっぱり不自然。

 ロットフェルトの森で見た、悲壮感の漂うテオの顔を思い出す。当主の座を簒奪せんとする野心家の目ではなかった。もっと、素朴な願いを叶えんとするような、そんな目だった。

 不自然な参加をしたマスターが、不自然な状況の中心にいる。カヤにはテオが、脅威でもなく、恐れるべきものでのなく、ただ不可解の塊に思えた。

 ……問い糾したい。何を思って、何をしようとしているのか。

 人だかりが少なくなり、郊外へ至る。ロットフェルトの森は眼の前に広がる。

「これを」

 言葉少なく、アサシンがカヤに紙を渡した。ロットフェルト家の敷地へ入る、通行手形だ。

「これもアーチャーから?」

「ああ、これだけではない。彼は死した身体でここまで走り、私にすべてを託した」

 アサシンの言葉に沈痛な感情が伺えた。アーチャーとの関係は事務的なものに終始していたようだった。しかし、最後の思いを託され、さしものアサシンも心を揺さぶられたのだろう。

「切り替えるぞ、カヤ。ここからは敵地。真っ直ぐ城へ向かい、テオ・ロットフェルトとキャスターを打倒する」

 アサシンの言葉に首肯する。

「これが、最後の戦いよ」

 



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75

 プラウレン湖に浮かぶロットフェルト城には、併設されている建物が一つある。港から城へ至る階段を通り過ぎると、その建物へ至るもう一つの階段が現れる。

 その階段を登りきると、城とは比べるべくもない小さな建物が見える。その建物の扉の前に、ロイク・ロットフェルトは立っていた。背後にはランサーが控えており、疑い深い瞳がロイクの背を見ているのを感じる。

 ……ここは、始まりの場所。

 三年前、当主のクサーヴァーに集められ、聖杯戦争を行うことを知らされた場所だ。ロットフェルト家の家族が唯一、祈りを捧げる礼拝堂だ。

 木製の古い戸に手をかける。力を掛けずとも容易に開いた。一歩踏み入ると、埃臭さと静謐な空気に懐かしさすら感じる。そして、最奥に設置されたロットフェルトの祖先の像が目に入る。一般的な礼拝堂を裏切る要素は、この像ただ一つだ。

 しかし、今は違った。祖先の像の前、ロイク達を待ち構えるような人影があった。眼を凝らす。そして、その正体を捉える。

 全身が渦の様な紋様に覆われた、大柄な騎士。

「セイバーか……!」

 背後のランサーが歓喜の声を上げた。ロイクの思惑どおり、セイバーはまだ敗退していなかった。

 ランサーが前に出て、セイバーと向かい合う。

「いつかの続きをしようか」

 低い声が礼拝堂に響く。それが合図だった。傷の浅い左の手に短剣を構え、ランサーがセイバーに飛びかかる。

 ……何?

 ロイクは驚嘆と共に見た。セイバーは、ランサーにされるがまま、短剣の斬撃を受け入れたのだ。

「……どういうつもりだ」

 ロイクの元へ飛び返ったランサーが、怒りを込めて問う。

 しかし、答える声はどこにもない。セイバーはただ、傷口から魔力が溢れていくのを受け入れている。

 そして、セイバーの身を覆う紋様が鎧と共に消え去る。そこにいたのは、確かに人間だった。

「やあ、久しぶりだね。ロイク・ロットフェルト」

 男は柔和な笑みを浮かべていた。ロイクはその男を知っている。

「ヘルマン!」

「そうとも、ヘルマン・バールだ」

 神父服の男は、ロイクの驚きを気にかけることなく、名乗った。

「疑問がある、という顔だね」

 ヘルマンが両の手を後ろに組み、穏やかな表情で言った。ロイクは状況が理解できず、ただ黙っていることしかできない。

 ……サーヴァントの正体が人間だった?有り得ない!

 ヘルマンがロイクの疑問を察したのか、言葉を続ける。

「まず、僕について説明しようか。僕はサーヴァント、セイバーという訳ではない。そもそも、セイバーというサーヴァントは通常のサーヴァントとは多少異なる存在だ」

 そう言って、ヘルマンは溜め息を一つ溢す。

「亜種聖杯戦争。今各地で行われる冬木の魔術儀式の模倣だが、完全な形の再現をほぼできていない。特にサーヴァントの召喚が難点で、七騎を召喚できた儀式など皆無に等しいんだ。しかし、ロットフェルトの聖杯戦争ではある方法によってこの難所を補った。わかるかい?」

 講師のように述べるヘルマンが、ロイクの回答を待つことなく続ける。

「七騎のうちにね、英霊未満を混ぜることだ。名を伝えられていはいるが、存在が不確かなもの。創作の原点として人々に信仰された、名を失った英雄。これらは英霊に比べれば力は劣る一方、召喚することの難易度は下がる。クサーヴァーはそうまでして七騎のサーヴァントを揃えようとした」

 湖で見たバーサーカーを思い出す。あれは英雄などではなく、ただ人を惑わす亡霊だ。確かに、英雄未満の存在と言われれば納得がいく。

「此度のサーヴァントでそのイレギュラー枠となったのは三騎。バーサーカー、アーチャー、そしてセイバー」

 ランサーの舌打ちが聞こえた。宿敵で、一度は屈したアーチャーを蔑まれたように思ったのか。しかし、疑問が先んじているのだろうか、言葉を発することはなかった。

「バーサーカーとアーチャーは召喚が遅れたゆえに、通常の英霊が呼び出されたなかった。しかし、セイバーは違う。セイバーのマスターが意図してこの存在を呼び出したのだ」

 そして、ヘルマンが背後からなにか大きなものを取り上げた。ロイクには見覚えがある。いや、忘れるわけがない。

「クサーヴァー!」

 父、クサーヴァー・ロットフェルトの亡骸だった。全身に火傷があり、額には何かが突き刺さった跡のような穴が空いている。

「なるほど。貴様がそのマスターを回収して、ここに待機していたのか」

「その通り。なにせいきなり窓から投げ捨てるのだから、驚いたよ。……彼が呼び出したのは英霊ではあるのだが、人に憑依する必要があってね。審判役として呼び出された僕に、白羽の矢が立ったわけだ。尤も、賛同した覚えは全くないのだけれど」

 クサーヴァーの亡骸は、既に死に絶えているように見える。しかし、先の様子だとセイバーは問題なく行動していた。

「通常、サーヴァントはマスターからの魔力補給が潰えれば消滅する。セイバーがマスター無しで行動しているのは何故だ」

「憑依先の僕が魔力を提供しているからさ。通常のサーヴァントも魂を食うことで魔力を補給することは可能だろう?セイバーもそれをしているのさ。それに、ね」

 そして、ヘルマンは礼拝堂の床に横たわるクサーヴァーをつま先で蹴った。その瞬間、死したと思われる魔術師の死体が、緩慢な動きで立ち上がった。

 しかし、クサーヴァーに生気はない。操り人形のようにただ、立っているだけだ。

 ロイクは、クサーヴァーから魔術の気配を感じた。死体から、魔術回路が励起しているのをはっきりと探知できる。

 ヘルマンの言葉に、ロイクの思考は回答を探す。目の前にいる立ち上がった死体。励起した魔術回路。死体の魔術回路は動かない。しかし、目の前の死体は確実に魔術の駆動を行っている。

 ……これは有り得るのか。

 ロイクは、疑問の答えを探し、考えを巡らす。そして、始めに至った結論をそのまま口にした。死者を立たせるほどの異質な現象。可能にする要素で、クサーヴァーが持っているもの。血眼で求めたものだからか、直ぐに思い至った。

「魔術刻印。ロットフェルト家の魔術刻印だ」

「然り。背に刻まれた魔術刻印によって、クサーヴァーは立っている」

 クサーヴァーの死体の目が虚ろな灰色から、銀色に変わっていく。銀色の瞳がロイクとランサーを射抜く。

 ……これは、ロットフェルトの使い魔の証!

 そして、ロイクは理解した。ロットフェルトの後継者とは魔術刻印を受け継ぐのではない。目の前の存在のように、魔術刻印の苗床となるのだ。

「生前からクサーヴァーは魔術刻印によって思考を操られていた。特に老いてからが顕著だったようでね。聖杯戦争なんてものを企画したのも、次の苗床に相応しい身体が見つからなかったからだ」

 ……そんなもののために、僕は。

 ロイクが命がけで望んだもの、勝利の証。それが傀儡の権利だなど馬鹿げた悪夢だ。そのために、ロイクは実の兄を手に掛けた。幾多の時間を費やし、兄妹で血を流す戦いを強いられた。

 ロイクはただ、告げられた言葉の重さに膝を屈した。

「それがどうした」

 言葉が、上から落ちてくる。励ましでも、同情でもない。だた、現実を見据えた疑問の声だ。

「セイバーがお前に憑いていることはわかった。セイバーのマスターが魔術刻印なのも分かった。……それで、どうした?よもや聖杯を諦めるということもあるまい」

 ランサーのどこまでも冷徹な声が響く。この英雄はマスターの心情など気にかけることなく、ただ聖杯を、栄光ある勝利を望んでいる。

「話が終わったのならば、セイバーに変われ。俺が望むのはセイバーとの決着よ。正体などどうでも良い。……ロイク、たかが言葉ごときで膝を折るな。貴様の悲願は、その先にあるのだろう」

 ロイクの望むもの。それはロットフェルトの当主。

 ……いや、違う。

 テオ・ロットフェルトに勝利することだ。ロットフェルトの当主などただの証に過ぎない。この先に待つでテオを打倒することこそ、ロイク・ロットフェルトの真なる望みだ。

 ロイクは立ち上がり、ヘルマンを見据える。

「ランサー。後にはキャスターが控えている。消耗しすぎるな」

「始めから、そうやって堂々としていろ」

 そして、ランサーが左の手に槍を構えた。『九殺する炎の呪槍(ルー・ケルトハル)』。ランサーの宝具は静かに炎を宿す。

「残念だ。辞退してくれれば助かったのに」

 ヘルマンの身に魔力が集まる。魔力が形を作り、鎧を成す。そして、異形の騎士が現れる。しかし、既に魔術に寄る渦の紋様はない。故に、セイバーの姿が初めて顕になった。

 身を覆う鎧。兜に隠された両眼。そして手に持った斧のような長剣。そのすべてが緑に染め上げられていた。

 セイバーが吼える。瞬間、礼拝堂のすべても、緑に染まった。

 異様な状況に驚く暇もない。セイバーが剣を構える。

 槍兵と剣士。戦いが始まった。

 



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76

 槍と剣による激しいぶつかり合いの音が響く。

 静謐さは失せ、武器を持つ二人の戦士の奏でる剣戟で礼拝堂は満ちていた。緑の鎧に覆われた騎士は長大な剣を振るい、迫る黒い鎧の槍兵を退ける。

 槍兵に浮かぶのは焦りだ。槍兵、ランサーの身を灼く槍は当たれば必殺だ。しかし、騎士の奮う剣により、必殺の一撃が幾度も防がれている。

 ……何故だ。

 ランサーの戦いを見守るロイクは、セイバーの様子に驚きを隠せなかった。

 依然に、ルスハイムからロットフェルトの敷地に入る森でランサーとセイバーは戦闘を行った。その際は迫るランサーに防戦一方のセイバーという風であった。

 しかし、今は様子が一変している。セイバーはランサーの攻撃を捌き、その上で長大な剣による反撃を行っている。

 緑の剣が、礼拝堂の床を砕く。何の魔術か、緑に一面染まった礼拝堂は異様な圧迫感と緊張をロイクに与える。

「治癒をよこせ!」

 ランサーの大声に、ロイクは治癒魔術を行使する。セイバーの剣を受けたわけではない。槍を握る左の手が、炎に炙られて傷ついているのだ。

 傷一つ無いセイバーに対して、ランサーは既に満身創痍だ。それでも宝具『\ruby[g]{九殺する炎の呪槍}{ルー・ケルトハル}』を取り出したのは、短期決戦を望んだためだ。ランサー自身も、限界を察しているはず。

 セイバーの一振りが、ランサーの右の腕を襲った。幾多の攻防の中に辛うじて見えた、僅かな隙間。そこを見落とすことなく、セイバーが突いた。

「畜生め!」

 黒く焦げた腕に、剣が突き刺さる。ランサーが苦悶の表情を見せた後、笑った。セイバーは剣を引き抜こうとするが、刺しどころが悪かったのか、引き抜くことができない。

「馬鹿が。そのまま死ね」

 一瞬の隙きを突き、ランサーが槍を打つ。セイバーの喉に向けて放たれた槍の一撃は、傍目にも不可避に見えた。

 しかし、セイバーは首を少し曲げるだけで、必殺の速度を持つ一撃を難なく避けた。驚嘆するランサーを足下にし、強引に剣を引き抜く。

「あいつ、動きが別物じゃないか」

 ロイクはセイバーを凝視する。マスターであるロイクはサーヴァントを見ることで、おおよそのステータスを得ることができる。そして、セイバーの動きの違いの理由をそこで知る。

 ……すべてのステータスが、上がっているだと?

 森の戦闘で見た際は、セイバーのステータスはお世辞にも高くはなかった。それが、今は軒並み最上クラスの物に引き上げられている。

 ……大英雄に近しいステータスじゃないか。

 引き上げられたステータスは、有にランサーのものを越える。如何に宝具を装備しようとも、技量が大きく引き離されては意味がない。

 ランサーが槍を霊体化させた。左の手には短剣が握られる。しかし、それも満足に行かないほど、手の傷は無残だった。

 右の手は既に使い物にならず、左の手も限界に近い。ランサーの戦士としての刻限はすぐそこにまで迫っていた。

 ……考えろ。考えるんだ。

 急に伸びたセイバーのステータス。そして、今は見せていないものの以前に見せた不死じみた堅牢さ。仕掛けがあるはずだ。

 セイバーの奮う長剣を、ランサーが躱し続ける。ランサーが攻撃を止めて、防戦に徹している。一瞬、ランサーがこちらを見た。

 勘違いかもしれない。だが、あの戦いにこだわる槍兵が、意味もなくロイクを見ることなどありえない。何かを伝えようとしたのだ。

 ……まさか。僕に暴けと言うのか。

 気位の高いランサーが、面と向かってロイクに頼むはずがない。しかし、正面からの戦いで簡単に敗北を認めるほど、潔い戦士でもない。敵が強いのならば、策を弄してでも勝ちを拾いに行くのが、ドゥフタハ・ダイルテンガという英霊だ。

 ……ああ、わかったよ。僕が暴く。

 そして、ロイクはセイバーを見る。全身を覆う緑の鎧。渦によって隠す必要があったのは、この緑の鎧が真名に直結しているからだ。そして急にステータスが上昇したという事実。なにより、クサーヴァー・ロットフェルトというマスターのこと。

 ……既に、一度考えていた。セイバーの真名。

 あり得る可能性の一つだった。そして、ランサーに剣を向けられたときに確信した。ロットフェルトから消えた聖遺物、円卓の欠片。アーサー王伝説に縁の騎士が呼ばれているはずだ。

 ……セイバーの様相と、円卓の欠片。不死の堅牢さ。

 情報は十分に集まっていた。セイバーの真名。

 ……緑の騎士、ベルシラック・ハウスデザートだ。

 

 アーサー王伝説の外伝で語られる騎士。円卓の騎士達が集まる宴の中にただ一人で乗り込み、円卓の騎士の勇気を試した。順番に、互いの首を落とし合うという遊戯。緑の騎士は我が首を取る勇者はいないかと円卓を挑発した。円卓随一の騎士ガウェインに首を落とされたが、それでも平然と緑の馬にのり、自分の首を落としたガウェインと礼拝堂での再戦を約束し帰っていたという。

 ガウェインは礼拝堂に向かう道中に見つけた城で休んでいた。その城主は食事と休養を与える代わりに、ガウェインが受けた施しを城主に与えるように約束した。

 ガウェインは約束に従ったが、最後の晩に城主の妻から与えられた帯だけは、城主に与えなかった。帯は傷を防ぐ加護を持っていたからだ。

 帯を返さぬまま礼拝堂に辿り着いたガウェインは、緑の騎士と向き合う。そして、緑の騎士の一撃を受けようとしたが、二度の躊躇いの後、緑の騎士はガウェインの首の皮一枚を切り裂いた。

「その傷は、卿の隠した帯の分だ」

 そして緑の騎士は姿を変える。ガウェインに施しを与えた城主ベルシラック・ハウスデザートだった。魔女の魔術によってベルシラックは緑の騎士に変えられ、円卓の騎士に挑んだのだであった。

 

 物語は自分の行いを恥じ、帯を返すガウェインと、その姿に騎士の清潔さを称えるベルシラックで幕を閉じる。

 ……けれど、ならば。

 セイバーの正体がベルシラックであれば、ヘルマンが関与する余地はない。セイバーの真名から、礼拝堂にいることは予想できたが、ヘルマンが待ち構えているとは思わなかった。

 セイバーが予想通り、ベルシラックという存在であるならば、ロイクに打倒の手段はない。アーサー王を含めた円卓の騎士を相手に、一人で乗り込んだ勇者なのだ。策を弄する余地すらもない。しかし、ヘルマンの存在が、ロイクに思考の余地を残す。

『彼が呼び出したのは英霊ではあるのだが、人に憑依する必要があってね』

 ベルシラックは自身が修練を行った騎士ではなく、魔女によって姿を騎士に変えられた、言わばただの被害者だ。ヘルマンも同様に、自分が被害者の様な口ぶりをしていた。

 ロイクは理解した。ベルシラックの役割がヘルマンだったのだ。そして、聖杯は魔術刻印に思考を乗っ取られるクサーヴァーに相応しい英霊を呼び出した。

 ……緑の騎士を生み出す魔術そのもの。それが、セイバーの正体だ。

 しかし、まだランサーに掛ける言葉はない。ランサーにとって重要な事実はこの先だ。如何にして、セイバーを打倒するか。

 ……思い出せ。ガウェインは帯を返さなかった故に、傷を負った。今ならば、何に相当する?

 ガウェインにとっての帯。ランサーにとっての何だ。ランサーはこの戦いでロイク以外の人物と話している素振りはない。あったとしても、戦闘の際くらいだ。

 ランサーを目で追う。一瞬、向かい合うように立つクサーヴァーの銀の瞳が目に入った。

 ……ああ、違うんだ。試されていたのは、僕達だ。

 ランサーの言葉を思い出す。既にセイバーのマスターの令呪は使い切られていた。何故か。セイバーであるヘルマンに強制的に命じたのが一画。そして後の二画は譲り渡したのだ。他ならぬ、ヘルマン・バールという審判役に。

 ……僕は、その二画を見ている。

 左の甲を見る。残る一画の令呪は、ヘルマンから与えられたものだ。来るロットフェルトの敵を打つために、特例として与えられた一画。

 ……これが、僕にとってのベルシラックの帯。

 伝説によれば、ガウェインが帯を渡さなかったために、緑の騎士に傷を負わされた。円卓随一で無敵とも思われる騎士に、傷を負わせるほどの能力。ロイクが帯を持つが故に、セイバーの力が底上げされているのだ。

 どうすべきかは分かった。残りは、覚悟の問題。この戦いにそこまでする意味はあるのか。逃げても、命を取られる訳ではない。ただ、甘んじた敗北が一つ増えるだけだ。

 不意に、ロイクの脳裏にクサーヴァーの顔が浮かんだ。銀の目ではない。見下すような、憐れむような、そんな目だ。

『お前が当主に足り得ぬのは臆病者の気質のためよ』

 三年前、ロイクに投げかけられた言葉。丁度、クサーヴァーはその言葉を放った位置に立っている。銀の双眸の像の真下だ。

 伝承を思い出す。緑の騎士は、円卓の勇猛さを試すために剣を取った。何故、クサーヴァーは緑の騎士をサーヴァントに選んだのか。決まっている。円卓の勇猛さを試したように、ロットフェルトの子に、当主に相応しいか試すためだ。だから、セイバーはロットフェルトのマスターのサーヴァントだけを襲っていたのだ。

 ならば、この剣士を越えることが、後継者としての条件。

 この先に待つであろう宿敵の顔が頭に浮かぶ。テオに先んじて、当主の座を奪う。臆病者の誹りをここで払う。

 ロイクの胸に、炎が燃える。ここで引けば、一生の敗北者だ。クサーヴァーが立って、こっちを見ている。ならば、最後にロイク・ロットフェルトの勇猛さを見せてやる。

「ランサー!宝具を出せ!」

 ロイクの叫びが、緑の礼拝堂に響く。ランサーを見ることなく、ロイクは短剣を取り出した。アーベルトの命を奪った短剣。捨て置けず、懐にしまっていたものだ。軽く振るだけで、肉を断ち切るのはよく知っている。右の手にその剣を持つ。ランサーに砕かれた痛みがロイクを襲う。しかし、躊躇わない。

 ロイクは左の手首に向けて、短剣を振った。甲に宿った令呪ごと、左の手が礼拝堂の床に落ちた。

 



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77

「ランサー!宝具を出せ!」

 礼拝堂で剣を奮うランサーは、マスターの怒声を聞いた。

 ……一丁前に叫びおって。

 ランサーがセイバーを相手に攻めあぐねているのは確かだ。セイバーの力量は森の一戦とは比べるべくもない。一太刀浴びれば、ランサーの命はかき消えるだろう。

 ロイクを見る。何を考えているか分からぬが、左の手が地に落ちている。令呪を捨てたのだ。ランサーに供給される魔力が途絶える。遅れて、主の絶叫が響いた。

 しかし、ランサーは構わず、『\ruby[g]{九殺する炎の呪槍}{ルー・ケルトハル}』を左手に抱えた。持ち手の炎がランサーを灼く。そして、炎がセイバーを襲い、後へ飛び退く。

 槍を構えるランサーと、剣を構えるセイバー。彼我の距離が開く。ランサーは状態を大きく捻り、なけなしの魔力を込めた。

「『九殺する炎の呪槍(ルー・ケルトハル)』」

 そして槍を投擲する。必殺の槍が礼拝堂を炎で包んだ。迫る槍を前に、セイバーはただ立っているだけだ。

「見事」

 その言葉が、誰に向けたものかも分からない。ただ、槍はセイバーの中心を貫いた。不死なる英霊はそのまま倒れ込み、起き上がらない。

 炎に包まれた緑の礼拝堂。ランサーが勝者となった。

 黒い鎧の獣が、歓喜に吼える。手に戻る槍を持つことも敵わず、床に落ちる。幾多の銃撃の傷跡も癒えることはなかった。両の手は宝具に灼かれ、もはや何も掴むことができない。

 しかし、その果に掴んだ勝利をランサーは味わう。これこそが、自身の望みであったかのように。

 

 ランサーの歓喜が響く中、ロイクは左の手の痛みに蹲り、苦しんでいた。魔術による治癒は行っているが、宝具の使用によってロイクの内蔵した魔力の殆どが持っていかれてしまった。感覚の麻痺を行っているが、傷口を塞ぐほどの余力はない。

 苦しむロイクの前に、人影が立つ。見上げると、ランサーがいた。

「約束を覚えているか、ロイク」

 歓喜の表情は失せ、ただ無表情の戦士がいた。全身の至るところに傷があり、両の手は特にひどい。間もなく、消えていくだろう。

「貴様の令呪が失せた時、俺はお前を殺す。約束を履行する時が来た」

 ……ああ、そういえばそうだったな。

 ランサーとの最初の契約。憤るこの男が放った言葉を、確かにロイクは覚えている。

 しかし、ランサーの両の手は灼けきっており、もはや短剣すらも持つことは敵わない。そして、ランサー自身も棒立ちで、何かを待っているようだった。

 ロイクには、この英霊が何を望んでいるのかを察した。

「殺されるのは、いやだからな」

 立ち上がり、床に突き刺さった彼の槍に近寄る。右の手で槍に触れると、ロイクの右手が灼けるのが分かった。

 構わず引き抜き、勢いそのままにランサーを貫く。槍兵はあっさりとその槍を受け入れた。

「良い。ロイク・ロットフェルト。貴様が勝者だ」

 槍から手を離すと、途端にその槍は姿を消した。見ると、ランサーの身も崩れていくのがわかる。

「勝者たる貴様は、敗者の遺言を叶える責がある」

「ああ」

 身を一歩引き、ランサーと向かい合う。消えゆく槍兵の顔は、穏やかだった。

「クロコガネと嘲られし我が名を、この戦いの様相に相応しい勇者として語り継いで欲しい。クランの猛犬にも、フェルグス・マック・ロイにも劣らぬ戦士、ドゥフタハ・ダイルテンガとして」

 ランサーの言葉に、何故か涙していた。一時とて好意をいただいたことなどない。まして、幾度も嘲られた。右手を砕かれもした。

 しかし、ランサーは最後までロイクとともにあった。ただそれだけなのに、ロイクにはランサーが消えゆくことが悲しかった。

「ロットフェルト家の名に置いて、約束しよう」

「違うわ、たわけめ」

 ロイクの額に何かが打つかる。ランサーがロイクに頭突きをしたのだと、一拍遅れて気が付いた。

「この軟弱な家の名に、何の意味がある。約束すべきは俺に勝った者であるお前自身だ。マスター」

 ……ああ、そうか。そうだな。

 ランサーの言葉を反芻し、ロイクは言葉を変える。

「僕、ロイクが約束しよう。ドゥフタハの名を卓越した戦士として広めることを」

 ロイクが言葉を言い切る。それを言い終えると、ランサーはゆっくりとした動作で燃える礼拝堂から出ていく。慌てて追いかけ、礼拝堂の戸を開く。そこには、夕闇に染まるプラウレン湖が見えるだけだ。

 ランサー、ドゥフタハ・ダイルテンガが消えたのだと、確信した。

「ランサーも消えたか。戦争も大詰めだね」

 背後を振り返ると、神父服の男がいた。ヘルマンだ。背にクサーヴァーを抱えている。思わず身構えるが、ヘルマンが手を振り、敵意のないことをアピールした。

「もう、セイバーも消えた。ランサーの槍でね。彼の温情なのかどうか知らないけれど、傷は治しててくれたよ。君も、どれ」

 ヘルマンが自分の身に起こったことを説明しながら、クサーヴァーをおろし、ロイクの左の手を取った。短い言葉を紡ぐと、傷が塞がっていくのを感じた。

「治癒魔術だよ。落とした左の手は中か。もう、厳しいだろうな」

 ヘルマンが心底残念というように言う。

「なんで、助ける?」

「決まっている。聖職者が傷ついたものを見捨てるわけ無いだろう。僕の身に危険がない限り、助けには応じるよ」

 さて、といってヘルマンはクサーヴァーを再び抱え上げようとした。しかし、クサーヴァーの死体はその手を振りほどき、城の方へと歩き出す。

「彼はこの戦争の決着に興味があるらしい」

 にべにもなくヘルマンが言う。特に追う気はないようだ。

「この戦争も大詰めだ。ここに残るかい?まだアサシンとキャスターが残っているが、程なく決着するだろう。どうする?」

 ヘルマンの言葉に、ロイクは答えを返さない。ただ、クサーヴァーの背を見つめる。小さくなる父の姿が、屋敷へ続く階段へと消える。すれ違うように、一人の人間が現れる。

 痩せぎすの姿に、煌々と輝く瞳。そして、昏い色のコートを羽織っている。ロイクは、その男の名を呟く。

「テオ……!」

「久しぶりだな、ロイク」

 



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78

 炎に燃える礼拝堂の前で、二人の男が視線を交わす。

 一人は両の手に傷を負い、今にも倒れそうな青年だ。向かい合う男を睨みつける様からは、彼の内なる獰猛さを感じさせる。

 もう一人は痩せぎすで、弱々しい男だ。しかし、その細い体躯とは裏腹に凛とした瞳を持ち、無表情に青年を見つめている。

 二人共が、聖杯戦争のマスターだ。しかし、双方ともにサーヴァントを連れていない。

「テオ、お前をどれだけ待ち望んだか」

 ロイクは心に宿る思いを隠さずに、言葉にする。敗北を認めさせねばならぬ男。ロイクが聖杯戦争で唯一倒さねばならぬと思った男。兄である、テオ・ロットフェルトへの感情が渦巻く。

「サーヴァントを失ったのか。ロイク」

 ロイクの怒りを気にする素振りもなく、テオが言った。

「それがどうした。お前もサーヴァントを連れていないじゃないか」

「ああ。おかしな死体を見つけたそうだから、工房へ連れて行かせている。キャスターをここに連れてくる意味はないからな」

 ロイクは瞬時にテオの意図することを察した。サーヴァントを手元から離れさせることは、自身の最大武装を手放すことに等しい。ロイクが此処にいると分かって、そうしたのであれば、意味することは一つ。

「お前は、まだ僕を愚弄するのか」

 ロイクを、敵と認めては居ないということ。サーヴァントの力無くして、撃退できる存在だと侮っている。

「戦う気がないだけだ。サーヴァントと令呪を失った以上、俺達が争うことに意味はない」

「僕にはある。お前の令呪を奪い取れば、僕はまたマスターに戻れる」

 ロイクが令呪の宿らない右の手を広げる。それが戦いの合図。

「僕は、お前を倒してロットフェルトの正当な当主となる」

 覚悟を込めて、言葉を放つ。すでにロイクの魔力は空に近い。身体の傷も激しく、戦闘などできる状態ではない。それでも、目の前の相手に降参することはできない。テオに敗北することは、ロイクには耐えられない。

「当主の座か。そんなもののために、お前はここに来たのか」

 テオの呆れる声が聞こえた。その声を無視して、ロイクは魔術を行使しようとする。詠唱をしようとした矢先、ロイクは息を飲んだ。

 一瞬。テオの昏い色のコートが膨らみ、何かが飛び出す。先の尖った、長い骨のようなものだ。真っ直ぐロイクの喉元へ伸び、突き刺さる直前で静止した。テオの手が、骨の柄を掴む。

「その傷で、その魔力で、本当に戦うつもりなのか」

 ロイクの身体は、ロイクが思っていた以上に限界だった。テオの攻撃の行動に対して、頭では理解ができても対応することができなかった。ほんの一瞬の間。それで、宿敵たるテオとの戦いが終わってしまった。

 それでも、ロイクの胸の内の炎は消えない。敗北を認めることはできない。テオがひと押しすればロイクの喉に風穴が開く。死の恐怖を前にしても、ロイクはただテオを見つめる。テオのどこまでも静かな瞳を見ているうちに、ロイクは感情が溢れ出した。

「僕は、お前が嫌いだった。今も嫌いだ。僕がどれだけ必死になっても、追いつこうとしても、そうやって冷ややかに見つめるだけだ。何故、勝ち誇らない?何故、当主に相応しいのは自分だと宣言しない?」

「興味がない。俺はただ、静かな暮らしを守りたかっただけだ」

「ならば何故。何故、戻ってきた!ロットフェルトに背を向けたまま、一人で生きていけば良かったろう」

 ロイクの言葉に、初めてテオが表情を変える。悲しみを堪える、苦しそうな表情に。

「クサーヴァーが許せなかったか。それとも、ロットフェルト全員を恨んだか。僕から見れば、お前の望みこそ、不毛極まりない」

「黙れ、ロイク」

 テオの辛辣な言葉に、ロイクが笑う。テオに悪意が宿ったことが、愉快だった。

「怒る感情は持ち合わせているんだな。いつも無表情を貫くお前が、僕は心底嫌いだった。言ってみろよ、テオ。僕はこの戦いに、当主の座を望む。お前は何を望んでいた?僕の生きる意味を追い出してまで、お前は何を望んでいたんだ!」

 ロイクが饒舌に語る。テオが気圧されたように、小さく言った。

「ハンナを、ハンナを取り戻したかった」

 ハンナ。テオと母を同じくする妹で、バーサーカーのマスター。言うまでもなく、絶命している。

「ハンナ?ハンナだと?」

 ロイクは、テオの言葉に信じられないというような態度を示す。

「ハンナを救うために、何故、聖杯戦争を頼った?この戦いでなくとも、お前が家を出てからいくらでも機会は作れたんじゃないのか?何故、今まで迎えに来なかった?」

 テオの表情が歪んでいく。ロイクの言葉が、テオに突き刺さっている。そして、テオの様子からロイクは悟った。根本的な、家では決して分からなかった、テオの性根。奇しくも、クサーヴァーから出た言葉が、ロイクを直感させた。

「わかった。わかったよ。テオ。お前は僕と同じく、臆病の気性を持っていたんだな。だから、今までハンナを助けに来なかったのだ。……父は見る目がない。わざわざ連れてきた子が、この有様とは。テオ。お前にロットフェルトは継げないよ」

 テオに命を脅かされながら、それでもロイクは言葉を緩めない。何より、自身よりも優れていると言われ続けた男が、自分以上の臆病者だったのだ。例え武器を振りかざしていようとも、ロイクにはすでにテオは恐れる存在ではなくなっていた。

「うるさい!俺はそんなものはいらない!ただ、キャスターと共に聖杯を勝ち取る!」

 テオの声が響く。だが、我儘を叫ぶ子どもの言葉のように、ロイクの胸には何も響かない。むしろ、喚くテオが滑稽に見えた。嘗ての敵と思った男が、ひどく矮小に見え、一抹の寂しさを感じる。ロイクは吐き捨てるように言う。

 そのようなテオは、見ていたくなかった。

「ああ、そうか。ならば僕が貰おう。聖杯も好きにすればいい。あんな魔術刻印、継ぐ価値もない」

 そして、ロイクが喉元の角を退ける。テオが慌てて構えるが、ロイクはただ言葉で制する。

「僕は聖杯戦争を降りる。故に、殺すことに意味はないよ、テオ。僕を殺すなら、怨みで、感情で持って殺せ。聖杯戦争の理屈抜きで、度し難いから殺すのだと、そう誓え」

 今までロイクのことを何とも思わなかった。そのテオが、命を奪うほどの敵意をロイクに向けている。だと言うのに、ロイクの胸の炎は小さくしぼみ、熱を失っていた。

 テオの持つ角を、遮る者が居た。様子を見ているだけヘルマンが、割って入ったのだ。

「ロイク。先の言葉は、教会の保護を望むという意味でいいね?」

 教会は脱落したマスターの保護を行う。無闇に命を奪う行為をヘルマンは許容しない。

「ああ」

 ロイクは短く答える。端的な回答に、満足そうにヘルマンが頷く。

「テオ。ロイクは教会の庇護下にある。ここで生命を奪おうというのなら、僕が全力で阻止しよう。どうする?君も意味のない戦いは望むまい」

 テオが苦渋の表情のまま、角を地面に落とす。途端、昏いコートの中に角が吸い込まれるように収納された。そして、テオがロイクに背を向ける。何も言わずに、屋敷の方へと歩いていく。その姿が、クサーヴァーの死体と重なった。

 テオの姿が消え、ヘルマンとロイクの二人になる。神父服の男がロイクを見て、口を開く。

「ロットフェルト家のマスターはテオを除いて全員が脱落した。一方で、テオ・ロットフェルトは当主の争いを辞退した。僕は、現当主クサーヴァー・ロットフェルトの従僕として、彼に代わり、次代の当主を指名する。現当主の定めた試練を超え、マスターとして勝利した者。その者が、次代の当主に相応しい」

 ヘルマンは、厳かに、ロイクへ事実を伝える。

「ロイク・ロットフェルト。君が、ロットフェルト家の当主だ」

 



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79

 テオ・ロットフェルトが工房に戻ると、景色が一変していた。黴と埃の匂いで敷き詰められたクサーヴァーの工房は、何故か一面の草原に変わっていた。見上げると、月が明かりを落としている。幻想的な光が、ロイクに抉られた心を照らすようだった。

 ……これは、テクスチャが張り替えられている?

 見えている景色を変化させる魔術は、高度ではあるが珍しいものではない。特に、自身の工房のみに影響を与えるのであれば、尚更実現は容易だ。

「この工房の主は、自然に思いを馳せながら魔術に向き合ったらしい」

 テオの背後から声が聞こえた。少年の声だ。振り返ると、キャスターがいた。

「ランサーのマスターに、いじめられたのかい?」

 キャスターの言葉には、悪意はなく心底にテオを心配する様子があった。しかし、テオにはロイクの言葉を考えたくなかった。ただ、キャスターと定めた目標を闇雲に目指したかった。

 テオはキャスターの言葉を無視して、工房に話題を移す。

「父が、この景色を?」

 キャスターが肩を竦める。気遣いを無視されて、機嫌を害したのかも知れない。

「気になるならば、直接聞けばいい」

 その言葉に応じて、草原にもう一つの人影が現われた。皺の刻まれた顔に、小柄な体躯。テオはこの男を知っていた。クサーヴァー・ロットフェルト。テオの父にして、この工房の主だった男だ。

 思わず睨むが、クサーヴァーの様子は尋常ではなかった。灰色の目が銀に染まっており、全身から意思というものが抜け落ちたように覇気がない。にもかかわらず、尋常ではない魔力の駆動を全身から感じる。

「どういうことだ」

「彼は死んでいる。魔術刻印が残った魔力で辛うじて身体を動かしているだけだ」

 クサーヴァーがテオの側に近寄る。害意、どころか何の意思も感じないため、テオは椅子に座ったまま、その様子を見つめていた。

 テオの眼の前まで近づいたクサーヴァーが手を差し出す。機械が音声を再生するように、感情の消えた声がクサーヴァーの喉から響いた。

「ロットフェルトを、受け取れ」

 言葉の意味を、直ぐに察する。ロットフェルト家の当主の証である魔術刻印。それを、テオに譲渡すると言っているのだ。

 ……しかし、なぜだ。

 テオにはクサーヴァーだったものの意図が分からない。既に家を出た者に、何故、魔術刻印を渡そうというのか。

「今の声は、きっと魔術刻印の意思だね。面白いことを考えたものだ。魔術刻印そのものが指向性を持っている」

「魔術刻印に、意思があるということか?」

「意思、とは違う。目的地が設定されているということだ。魔術師の目的である根源への到達。この魔術刻印は目的達成のために、最適な宿主を選ぶ機能を持っている」

 キャスターがクサーヴァーの背を撫でながら説明する。

「おかしいな。クサーヴァーの手紙には、全員に資格がないと言われたはずだが」

 そもそも、この聖杯戦争はロットフェルトの子どもに魔術刻印を継ぐ資格がないことに端を発する。聖杯を手に入れていないテオには、変わらず資格が無いはずだ。だからこそ、ロイクはテオに、聖杯も魔術刻印も譲ると言ってのけたのだ。

「君が変わったのさ、テオ。手紙を受け取ったときの君と、今の君では望むものは違うはずだ」

 キャスターが甘い声でテオに言う。

 ハンナを求める意思は既に砕かれ、今は別のものを望んでいる。キャスターと同じものだ。

「死という概念を乗り越えよう。既に死したるものと生きるものとが交わる世界を作ろう。僕らの喪失の悲しみを、この世の誰にも味合わせない」

 ハンナを失った悲しみ。絞り出すような慟哭を思い出す。二度と、繰り返してはならない痛みだ。キャスターも、同じ苦しみと悲しみを味わった。

「君が妹を悼むように、僕も最果ての乙女を悼む。そしてそのためには、何だってしよう。根源への接続が必要なのであれば、ただ、そこを目指す。そうだろう、テオ?」

 キャスターの言葉に、テオは頷く。テオは既に決めている。キャスターと共に、死を乗り越える、と。

 ……この意思が、俺がロットフェルトを継ぐために欠けていたものか。

 通常の魔術師の子孫であれば持っている、根源や魔術の完成を願う意思。確かに、テオにはずっと欠けていたものだ。

「過去の君であれば、受け取ることに意味など見出さないだろう。しかし、今は違う。君の家の魔術は治癒に特化してるそうだね。ならば、僕達の目的に大いに役立つはずだ」

 キャスターの言葉に逆らわず、テオはクサーヴァーの手を取った。途端、魔力の塊が繋がった手を介して流れてくる。

 ……これは。

 刻印の膨大な魔力に、神経が圧迫される。テオの身体が魔術刻印によって作り変えられていく。突如襲われる異物感に、意識が遠くなるのを感じた。

「大丈夫。僕がいる。ただ、受け入れるだけでいい」

 キャスターが、テオに優しく声をかける。ただの声のはずなのに、何故か安心するような気持ちになる。それでも、襲い来る未体験の感覚に、苦痛の声が漏れる。

「抗うな。受け入れるんだ」

 頭の中に声が響く。キャスターの声ではない。聞き覚えのない声が、テオの脳内から聞こえている。テオ・ロットフェルトという容れ物に、たくさんの他者が詰め込まれたような違和感。

 詰め込まれた者が、テオに囁く。

 根源を目指せ。魔術でもって死を乗り越えろ。

「受け入れるんだ」

 キャスターの声を耳が捉える。脳内の声がテオを誘う。不快感に吐き気を感じ、テオはよろめくように椅子から転げ落ちた。

 椅子に立てかけてあった長い角が傍らに転がる。思わずに手を取ると、白くざらついた表面から不快感が吸われていくように、身体が楽になった。

「定着にはまだ時間がかかるかも知れない」

 キャスターの言葉に、短く、ああ、とだけ返す。ふと、クサーヴァーの死体を見ると、草原に倒れ込んでいた。完全なる父の死を目の当たりにしても、テオの感情は動かなかった。

「弱っている暇はないよ。テオ」

 頭に残る声を隅に追いやり、キャスターの声に耳を傾ける。少年は警戒の色を浮かべ、言葉を続けた。

「最後のマスターとアサシンが、ここに向かっている。どうする?」

 最後のマスター。つまり、既にアサシン以外のサーヴァントは敗退したのか。テオが気を失っている内に、聖杯戦争は終局を迎えつつあるようだ。

 最後の戦い。ならば、策は要らない。すべてを持って敵を打ち倒すのみだ。

「打ち倒す。ここで戦おう」

 



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80

 アサシンを伴いルスハイムの街を駆け、ロットフェルトの敷地に入った。その後、近くの小屋に停められていたボートを使ってプラウレン湖を渡り、城に辿り着く。不気味なほど、他のマスターからの妨害はなかった。残るマスターであるテオ・ロットフェルトはロットフェルト城で向い打つ算段なのだろうか。

 疑問を口に出さず、船着き場から城へと続く長い階段を登る。最後の一段に足をかけると、巨大な扉に手が届く距離になった。

 緊張からか、思わず躊躇いが生まれる。

「気を負うな、カヤ。それとも、臆病風に吹かれたのかね。んん」

 背後に立つアサシンが冗談めいて言う。

「何を言ってるの。気を負ってるし、怖くて震えそうよ」

 カヤはアサシンの言葉に、正直に答える。

「では帰るか?」

 アサシンの言葉に、カヤは笑みと共に返事をする。

「有り得ないでしょ」

 回答は決まっている。ここで引くなど有り得ない。引けば、命懸けでカヤの命を救った環が死するのだ。

「では、行こうか」

 そしてアサシンに促され、自然と扉に手が伸びた。冷たい戸の感触を味わいながら、それでも扉は滑らかに開いた。豪奢な装飾に満ちたエントランスが目に入る。しかし、人の気配はない。おずおずと中に足を踏み出す。

 途端、景色が一転した。人工の構造体は消え去り、カヤの眼には自然物が満たされているように見えた。草原だ。わずかに伸びた草が生い茂る広い空間。その空間に光をもたらすのは中空の月だ。

 ……どこかに、転移された?

 目に見えていたエントランスは確かに存在していた。しかし、踏み入れた途端に何者かの手によって転移をさせられたのだろう。

 ルスハイムの市街から城に入るまで、一切の妨害がなかった。万に一つ、敵がカヤ達の侵入に気が付いていない可能性も考えていたが、間違いだったようだ。

 夜の草原の中央に、不自然なものがあった。椅子だ。装飾に満ちた、機能性よりも権威を示すような大きな椅子。

 その椅子に、青年が腰掛けている。

 ひどく、疲れたような表情だ。若く見えるが、その奥にある懊悩が隠しきれていない。長い棒のような物を抱くように持ち、カヤを睨みつける。

 カヤは、その人物を知っていた。

「テオ・ロットフェルトね」

 カヤの言葉に、テオがふらつきながら立ち上がる。

「アサシンのマスターだな」

 テオから見れば、カヤの存在など取るに足らないだろう。アサシンのマスター。それ以上の認識はないということだ。

「ねえ。戦う前に聞いておきたいのだけれど、いいかしら」

 テオがカヤを睨んだまま、問に答えない。しかし、攻撃を始める気配もない。カヤは肯定と受け取った。

「貴方、何がしたいの?」

 テオの口の端が歪む。

「無論、魔術の完成だ。俺は聖杯を掴み、俺達の望む魔術を完成させる」

 テオの言葉に、カヤは落胆の思いが過った。

 テオ・ロットフェルト。ロットフェルト家に背を向けて、ロットフェルト家を襲った血族。カヤは、彼に普通の魔術師ではない思いがあるのではないかと思っていた。しかし、目の前にいるテオという人間は、カヤの知る魔術師像を裏切ることはない。

「貴方には、もっと理解できる望みがあると思っていた」

「理解されたいとは思わないさ。ただ、俺は俺の目的を達する」

 そしてテオの傍らに、少年が現れる。サーヴァント、キャスターだ。

「久しぶりだね、アサシン」

「貴様がここまで残るとは思わなかったぞ、んん、キャスター」

「それはお互い様だ。戦う力がないのは僕も君も同じだろう」

 マスター同士が睨み合うように、サーヴァントも敵対する意思を隠そうともしない。

「ランサーが倒れ、セイバーも死んだ。この戦いが正真正銘の最後だ」

 キャスターに魔力が籠もる。それが、戦いの合図だった。

 カヤはキャスターを無視し、テオへの距離を詰めるべく、走り出す。草がカヤの駆ける足に千切れて、宙を舞った。

 ……近づきさえすれば。

 戦闘力の無いカヤとアサシンが唯一持つ武器。それは、カヤの魔力が少ないが故に、距離を詰めねば発動しない。

「アサシンの宝具は知っている。無駄な様子見は命取りだ。だから、初手で殺す」

 しかし、距離を詰めることは敵わない。カヤは見た。テオ・ロットフェルトが左手の甲に宿る令呪を使用するのを。

「令呪を持って命ずる。キャスター、宝具を開帳せよ」

 



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81

「『三位一体百歌英雄地獄(ディヴィナ・コミディア・インフェルノ)』」

 少年の声を皮切りに、カヤは世界が変わるのを体験した。先の転移とは違う、自分ではなく、世界が変わる感覚。目に見えている景色はすべて消え去り、キャスターの宝具の世界が新しく上書きされる。

 ……これは。

 魔術師ならば、この御業を知っている。魔法の領域に近い大魔術。自らの心象風景を世界に侵食させる奇跡。

「固有結界……!」

 カヤの目の前には、一面の白い世界が現われた。地には白い砂が敷き詰められ、空は朝焼けのように白んでいる。キャスターも、テオも、アサシンもいない。徹底して、すべてが排除された世界だ。

「何よ、ここ」

 口を開き、そして痛感する。呼吸が苦しく、言葉が詰まる。手足が急激に震え始める。

 ……寒い。

 思わず、蹲る。膝を着くと、白い砂と接する部分が一際冷たくなるのを感じた。震える手で砂を手に取る。

 ……これは、氷?

 寒さに鈍麻した感覚にも、砂の冷たさを感じ取る余力があった。白い世界を覆っているのは、極小の氷だ。地に敷き詰められた一面の氷が、世界をどこまでも極寒へ誘っているのだ。

 氷の大地は地平線を超えて広がる。周囲を見渡しても、どこにも終わりがない。絶望し、空を見る。雲の一つもない白んだ空は、彼方まで続いているようだった。

 カヤは、この空間で圧倒的に一人だった。

 ……ダメだ。私はテオを、キャスターを倒さないと。

 気持ちを奮い、立ち上がる。氷を踏みしめて、ただなにもない地平を歩く。この行為が正解なのかは分からない。しかし、直感があった。立ち止まり、膝を屈したら、二度と動けなくなる。

「君も、ここへ招かれたんだね」

 どれほどの歩みの後だろうか。不意に、頭に響く声がした。この世のものではないような浮世離れした雰囲気。キャスターの声だ。

 銀世界を睨む。消え入るほどの大きさだが、この世界の果てに少年が立っている。声だけが、耳元に近づいているのだ。

「ここは裏切り者の落ちる地獄。君の呵責がこの地獄を作ったんだ」

 キャスターの言葉の意味が分からない。思考が麻痺仕掛けている。しかし、裏切り者、という言葉だけは分かった。

 裏切り。カヤ・クーナウは何を裏切ったのか。考えずとも分かっている。

 ……家族。兄さん、母さん、父さん。

 兄も、両親も、カヤがクーナウの家を損ねるなど考えもしなかったはずだ。真っ当にロットフェルト家に従事し、生き残って帰ることを願っていたはず。

 ……それを、その想いを、私は裏切った。

 友達を救いたい。真っ当な願いの代わりに、カヤはロットフェルト家に敵対した。そして今、ロットフェルトの次期当主と戦っている。きっと、ロットフェルト家はクーナウ家を許しはしないだろう。

 環を救うことに後悔はない。しかし、同時に家族を裏切る思いを消しされるほど、カヤは器用ではなかった。

「自責の念を受け入れるといい。この世界の冷たさは、君の裏切りの自責の念の重さを表している。僕が君を苛んでいるのではない。君が、君自身が苛んでいるんだ」

 いつの間にか、少年の姿が近づいている。表情こそ見えないが、確かにいることがわかる。

 ……自責か。

 カヤは家族が好きだった。魔術師らしくない両親と、直情的な兄。両親が死んでから一層思いは強くなった。家族のために、クーナウという家を続けるために、生きようと思ったのだ。

 その決意は、沈んでしまっていた。宮葉環。たまたま救っただけの少女。誓った思いを曲げたのは、何故だったのだろうか。

 ……ごめんなさい。

 自らの思いに耐えきれず、膝が屈した。氷の大地に身体が倒れ込む。地に接した部分から、カヤの身体が凍っていくのが分かった。

 ふと、白い世界に、有り得ないものが現われた。紙で作られた花だ。四つの長く、垂れ下がった花弁をもっている。白い大地に根ざしているわけではない。花だけが転がっている。

 ……これ、環からもらった花。

 確か、菖蒲という花。アーチャーが森へ向かう間に、環が作り、カヤに手渡したもの。カヤの懐から転がり落ちたのだと気が付いた。

 菖蒲は直ぐに凍りつき、鮮やかな色紙の紫は色彩を失っていく。何故か、見ていられなかった。緩慢な動作でカヤは朽ちかけた菖蒲を手に取る。そして、これ以上朽ちぬように懐の奥に仕舞い込む。

 そして、唐突に理解した。

 ……ああ、この感情だ。私が、環に抱いた感情は。

 見ていられない。理想が高いくせに、実力が伴わない。何も言わない癖に、唐突に行動を始める。泣き喚いたと思ったら、戦場では冷静だったりする。不安定で、危なっかしい。

 泣く姿に、あり得たはずの自分の姿のようだと思った。

 微笑む姿に、在りし日の母の姿を重ねた。

 複雑で、様々で、一筋縄ではいかない感情の群れ。確かな事実は一つ。

 ……こんなに感情を動かされた相手、いない。

 そういう相手を、どう言い表すのだろうか。カヤには分からない。でも、兄も両親も、こんな相手を見捨てたら、どう思うか。

「きっと怒るわね」

 魔術師として大甘な両親だ。その分、人の道には厳しい。環を見捨てれば、きっと怒る。

 ならば、この行いは。

 唐突に、カヤを覆う氷が溶けだした。全身に体温が戻る。運動能力を取り戻した身体を、確かめるように動かす。そして、立ち上がった。

 キャスターは、もう、目の前にいた。

 そして、堂々と、恥じることなく告げる。

「私の選択は、裏切りじゃない」

 世界を覆う氷が溶けだした。偽りの世界が砕ける前兆。空間が軋む音に混じり、少年の声が響く。

「君は、自らの行いを省みることすら拒否するのか」

 少年の表情は、嫌悪に満ちていた。

 



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82

 偽りの世界が砕け、月の浮く草原に戻る。キャスターの固有結界は破られ、元の世界に戻ったのだと実感する。

 目の前にはアサシンが立っている。カヤに背を向けているが、カヤ以上に体中の凍傷が激しい。

 ……私以上に、裏切りの自責がある。

 アサシン、フランシス・ウオルシンガム。女王の意向を汲まず、ただ英国のために女王の肉親でさえも処刑した男。その思いの強さは、カヤの持つ感情よりも苛烈であったのだろう。

「何をしている。やることは決まっているだろう。んん」

 背を向けたまま、アサシンが言う。カヤは答えることなく、期待に応じる。

「令呪をもって命じる。アサシン。『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』を開きなさい」

 カヤに残る最後の魔力。それは既に、使い道が決まっている。故に、令呪によってしか宝具を展開する術がない。

 光の檻が、少年を捕らえる。キャスターは困惑したように、檻の手をかけ揺さぶる。そして、何か魔術を行使しようと呟くが、何も起こらない。

 そして、その隙をカヤは逃さない。歯噛みするテオに向い、駆ける。

「キャスター。いや、神曲の作者、ダンテ・アリギエリ。君の持つ我がマスターへの悪意は相当な様だ。やはり、裏切り者は度し難いかね?んん?」

 背後から、アサシンの勝ち誇った声が聞こえた。キャスターは宝具名を口にしている。その名は、彼の代表作そのもの。教養の深いアサシンが、真名に辿り着かないはずがない。

 ダンテ・アリギエリ。神曲という一つの世界を詩曲にて創造した詩人。実在した人物や神話上の人物を取り入れた作品は、多くの者に本当の地獄の様子かと思わせた。

 そして、地獄の最下部。コキュートスに、自分を裏切った者達を配置した。これは、ダンテの私怨によって、裏切りを最も罪深いものとしたのではないかと言われている。

 ……だから、私に対して、あんな嫌悪の表情をしたのか。

 カヤはキャスターの真名に気が付いているわけではなかった。ただ、固有結界が砕ける間際の表情が、どうしようもないほどの悪意に染まっていたのだ。

 そして、固有結界が砕けた後、カヤに向ける表情をアサシンも目撃している。ならば、『血塗られた倫敦塔への道(タワー・グリーン)』は成立する。

「貴様がただ最愛の人を求めるだけであれば、この宝具は成立しなかったろう。んん。我が束縛の強さは、貴様の雑念の重さだ」

 檻が、ゆっくりと塔へと姿を変える。その中でキャスターが悔しさを隠そうともしない。

 しかし、勝利はまだ手に入っていない。カヤの向かう先にいる相手、テオ・ロットフェルト。白い角のような礼装を片手に、カヤに対峙している。

「俺が、倒す」

 白い角が、カヤに向かって迫る。カヤは避けようともせず、右肩に角を受け入れた。

 覚悟をしていた行為だ。しかし、痛みのあまり声が漏れる。

「どういうつもりだ」

 テオが、訝しげにカヤを見る。

「ここまで近づければ、十分ってことよ」

 そして、ジャケットのポケットから最後の武器を取り出す。

『彼は死した身体でここまで走り、私にすべてを託した』

 アサシンがロットフェルト城に至る道程で、カヤに託したもの。それは、アーチャーがアサシンに託したものだ。

 アーチャーの真名。戯曲、魔弾の射手にて歌われた狩人の原型となった人物。戯曲内での役名はカスパール。親友マックスに魔弾を与えた人物。

 つまり。

「それは、アーチャーの弾丸か!」

 掌の二つの弾丸を、カヤはこれ見よがしに見せつける。

「これが、私の秘密兵器」

 弾丸の一つが、カヤの意思に呼応して輝く。込められた魔力が行使される。心臓を守る鉄の輪が回る。これが、この戦いにおける最後の魔術だ。出し尽くす。故に、鉄の輪が弾け飛ぶ程に回転を強制する。もう、心臓が剥き出しになっても、構わない。

 カヤは、祈るように、遠くで苦しむ環を想うように、この宝具名を呟く。

「『主よ御手もて引かせ給え(デア・フライシュッツ)』」

 弾丸が走る。テオが白い角を引き抜き、身を守ろうとするが、間に合わない。魔弾がテオの魔術回路に突き刺さる。

「が、あ、あ」

 射抜かれたテオは、目を見開き、苦悶の声を漏らす。魔弾は正確にテオの急所を射抜いたようだ。

 ……魔力が不足していたけれど、届いた。

 英霊カスパールの魔弾。史実通り、他者に分け与えることができる。魔力さえ込めることができれば、必中必殺の弾丸は誰でも使える。

 しかし、委譲にはカスパールの意思が不可欠だ。故に、カヤに委ねたのはアーチャーがカヤを、カヤの環を想う気持ちを信頼してのことだ。

 この弾丸がなければ、テオを倒すことはできなかったかも知れない。戦闘に特化していないカヤには、戦う術など無いのだ。

 テオが草原に倒れる。魔術回路を失った以上、キャスターも間もなく退去するだろう。勝利を確信し、身を翻す。

「カヤ!」

 そこで、アサシンの檄が飛んだ。意図は明白だ。危険が迫っている。慌てて振り向くと、背後にはテオが立っていた。

 しかし、その様子は尋常ではない。聞き取れないほどの声で、何かを呟いている。

「……ハンナ……ハンナ」

 背に、冷たいものが走る。近づいてはならないと本能が訴えている。

 ……もう、武器はない。一旦引かないと。

 後退するカヤに、テオが異常な速度で近づく。

「これが、ハンナの受けた痛みか」

 目が覗き込めるほどの距離。テオの呟きが明瞭に聞こえた。しかし、口にされた内容よりも、テオの様子に圧倒された。テオの目が徐々に色を変えている。

 テオ・ロットフェルトの瞳が、銀色に変わっていた。

 驚嘆の隙に、テオが角をカヤの腕に突き刺す。手に握っていた最後の弾丸が草原に転がった。テオが、弾丸を拾い上げた。

「これが、ハンナの命を奪った弾丸か」

「欲しければあげるわよ。自分で使いなさいな」

「俺が、そんな手に乗ると思うか?」

 テオは忌々しそうに弾丸を投げ捨てる。

「魔弾の射手。最後の弾丸の行方くらい、俺でも知っているさ。悪魔が標的を定めるのだろう?なら、射手が討たれるのは必然だ」

 テオの表情が怒りに歪む。そして、武器の角をカヤに向けて振りかぶる。

「ごめんなさいね」

 カヤは目の前の光景に、思わず言葉が漏れた。

「……魔術師が命乞いなどするな。俺達の目的の礎となった者として、忘れぬことを誓う」

 テオの言葉に、カヤは笑みを浮かべた。違うのだ。この言葉は、テオに向けたものではないのだ。

「ふむ。んん。気にするな。これも忠誠の形」

 テオが背後の声に振り返る。そこにいるのは黒い男。アサシンだ。

 アサシンが、驚くテオを羽交い締めにする。

「何をする」

「んん。……暴れるな。直ぐにわかる」

 そして、アサシンの手から答えが落ちた。

「武装を気安く投げ捨てるなど、不用心だろうよ」

 アーチャーの弾丸。射手が討たれる運命の最後の一撃。アサシンはその弾丸に最後の魔力を込める。

「テオ!逃げるんだ!テオ!」

 光の塔のキャスターが声を荒げる。しかし、遅い。

「『主よ御手もて引かせ給え(デア・フライシュッツ)』。我が身ごと、テオ・ロットフェルトを貫け」

 弾丸が、中空を舞う。直線を行くはずの弾丸は草原を駆け巡る。これまでの魔弾とは違う。気まぐれを具現したかのような弾道。しかし、最後にはテオとアサシンに向けて真っ直ぐ襲いかかる。

「やめろ!やめろ!」

 直撃の際。テオの叫びを聞きながら、アサシンが目を瞑るのを見た。まるで、刑に処されて罰せられるようだった。

 そして、弾丸が二人を貫く。弾丸はカヤの真横を通り過ぎ、そして、消えた。射抜かれたテオが草原に倒れると、その後ろにいたアサシンが見えた。

 全身を凍傷で患い、胸の中心を弾丸で射抜かれている。表情に余裕は消え、いつもの軽口も聞こえない。

「テオ。テオ!聞こえているか、テオ!」

 悲痛な叫びが、光の塔から聞こえる。見ると、キャスターが倒れた主に向かって叫んでいた。その身は消えかけており、声を出すことさえ苦痛だろう。しかし、少年の叫びはとどまらない。

「僕達の道のりは終わらない。次だ!次の聖杯戦争を目指すんだ。僕を呼び出せ。また、次の戦争で僕と共に聖杯を取ろう。例えどれだけの年月をかけようとも最果てに辿り着くんだ!」

 そして、少年の姿が完全に消えるまで叫びは続いた。聞くはずの主は既に身じろぎもしない。

 キャスターが退去すると、草原に新たなる存在が現われた。偽りの月が緩やかに、しかし、確かに降りてきている。

「まさか」

「ああ、ふむ。あれが此度の聖杯だ」

 月は地に降りる間に形を変えてゆく。緩やかに、だが確かに、盃の形に変わっていった。そして、カヤとアサシンの間で、留まる。まるでどちらかが手に取るのを待っているようだった。

「カヤ・クーナウ。この戦いは我々の勝利だ」

 アサシンが、厳かに言う。既に彼の身は消えかけており、これが最後の言葉になるかもしれない。故に、カヤは精一杯の思いを伝える。

 だが、まとまらない。この男に何を伝えればいいのか。感謝もある。抱きつきたいほどの思いもある。しかし、アサシンの望む言葉はどれとも違う気がしたのだ。

 だから、アサシンが、ウオルシンガムが、生前に与えられなかったものを、与えようと思った。

 刺された肩と腕が痛い。しかし、精一杯に胸を張る。

「誓いに違わぬ働き、英霊として相応しいものでした」

 アサシンが目を見開く。カヤの意図がわかったのかも知れない。

「貴方が私の臣下であったこと、神が与えた幸運に他なりません。貴方の献身に、心から感謝します」

 言い切ると、恥ずかしさから頬が紅潮しているのが分かった。しかし、アサシンから目を離さない。

 ウオルシンガムが、薄く微笑みながら言う。

「良き主に巡り会えた。こちらこそ、幸運だったとも」

 アサシンの姿が消えてゆく。カヤはその最後の一瞬まで見届けた。

「最後くらい、口癖を言ってよね」

 ふと、目頭を抑える。泣いているのだと分かった。

 



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第六章
83


 両手の治癒にはかなりの時間が必要だと、男は言った。

「分かっていると思うが、無茶のしすぎた。右の手の火傷は異常に治りが遅いし、骨折もしている。左手に至っては切り落とされているのだからな。治癒と言うよりも義手の作成が必要だ。……何?自分でやった?知っているとも。だからこんな言い方をしているんだ」

 清潔で満たされた空間。戦場のスイスから遠く離れたイギリスの病院に、ロイク・ロットフェルトはいた。総合病院の個室にはロイク以外には男が一人いるだけだ。

「分かっているなら、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかな。それだけ大変な戦いだったんだよ」

 ロイクはベッドに身体を預け、戯けるように言ってみる。

 聖杯戦争の集結から、一ヶ月近くが経っていた。セイバーとランサーの戦いを最後に、ロイクはヘルマンによって教会に保護された。怪我の応急的な処置は教会の者が施したが、両手の怪我は簡単に治るものではなかった。

 右の手はランサーを召喚直後に砕かれており、更に、彼の燃える槍を握ったためにやけどを負っている。英霊たる戦士の槍の炎だ。簡単に治る道理はないだろう。今もロイクを疼痛に悩ませるが、不思議と不愉快ではなかった。

 左の手は更にひどい。今は包帯で見えないようになっているが、手首から先がないのだ。セイバーを打倒するために、令呪ごと切り落とした。自分でやったことだが、思い切ったことをするものだと思う。切り落とした手首は礼拝堂で燃えてしまったらしい。

 このような大事態になってしまったため、ロイクは教会が提示した病院を辞退し、最後の頼りを使うことにした。

「感謝しているよ。ウッツ兄さん」

 ウッツと呼ばれた長身の医師は小言を止めて嘆息をした。

「何事かと思ったぞ。くだらない親族争いで親父と兄貴とテオとハンナが死んで、お前が大怪我をしたって。本当に魔術師というのは度し難い集団だな」

 ウッツの表情に嫌悪とも後悔とも取れる色が混じる。

「それに、お前は俺を嫌っていたと思ったのだがな」

「そんなことは、そんなことはないよ」

 ロイクにとって兄妹は後継の椅子を闘う相手でしかなかった。しかし、もとより魔術回路を保たないウッツは例外だった。同様にエルナも魔術の素養がないが、彼女にはロイクの方が毛嫌いされていた。

「まあ、なんでもいいさ。しかし、よく俺の勤め先を知っていたな」

「クリストフから聞いていたんだ」

 ロイクの言葉に、ウッツが残念そうに目を伏せる。

「あの人は、たまに手紙をくれてたからな。最後まで親父に尽くす義理なんてないだろうに」

 ロイクにとって、クリストフはある種父のような存在だった。ウッツにとっても近しい感情があるのだろう。

「これだけの死人を出しておいて、お前はまだ魔術というやつに拘るつもりか?」

 ウッツが改めて、ロイクを見つめる。真っ直ぐな目に、思わずロイクは俯いた。

 結局、ロットフェルトの魔術刻印は誰が継いだのかわからない状態だった。当主である父の死体は見つかったが、背中にあるはずの魔術刻印は抜き去られていた。

 ……手練の魔術師の技か。それとも。

 考えられるのは、テオが持ち去ったことだ。テオの行方は杳と知れず、確かめる術はない。

「いや、ちょっとだけ寄り道をしようと思っている」

 ウッツの問に、ロイクはゆっくりと回答した。

「この戦争が終わったら、ロットフェルトの後継者として大手を振って時計塔に行こうと思っていた。今も、魔術師として道を極めたい思いはある。……けれど、ね。普通の大学に行って、研究をしたいんだ。古い、神話の研究を」

「何故また、そんなことを」

 ウッツは不思議なものを見るように、ロイクに質問した。

 ロイクが最後に命を奪ったかの男。そして、その勇猛な戦いぶりはロイクが誰よりも知っている。彼の強さが歴史に残っていないはずがないのだ。

 ロイクの中に過ぎるのは、罵られながらも最後まで戦った槍兵の顔だ。彼の最後の願いを、ロイクは叶える必要がある。

 ロイクは、ウッツに端的に答えた。

「勝者の義務さ」

 



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84

 湿ったステップを降りると、冬の風に襲われた。背後のバスはカヤが降りると直ぐに発進して、他の車のいない国道を走り抜けていく。その様子を眺めていたのは、ルスハイムへの感慨の気持ちが表れたのかも知れない。

 ロットフェルト城での戦争が終わると、カヤは聖杯を掴み、そのまま偽りの草原に倒れ込んだ。カヤを助けたのは一度だけ会ったことのある、審判役という男だった。

 ヘルマン・バール。何故か神父服をボロボロにした彼は、カヤに提案した。

『聖杯を僕にくれないか。その代わり、宮葉環の命を保証しよう』

 カヤは既にキャスターの宝具を生身で受け、更に魔力を使い切っていた。対して目の前のヘルマンは服こそボロボロだが、身体に傷を負っているわけではなさそうだ。断るということは、カヤにとって危険な選択であった。

『とはいえ、聖杯の中の魔力は治療に使う。あまりの聖杯は君には不要だろう』

 そもそも、カヤにとっては聖杯は環を救うためのもの。であれば、ヘルマンが環を救えるのであれば、もとより聖杯は不要だ。

 カヤはヘルマンの提案を受けた。そして、環と共に教会で治癒を施され、ようやくこの地を出る決意を固めた。

 なにもない国道から視線を外し、目の前の建物を見る。高いポールには各国の国旗が掲げられている。空港だ。平日の朝だからか、人の出入りも激しい。カヤの目の前を多くの人が行き交っている。

「カヤさん、どうしたんですか?」

 その中で、カヤの目の前の人物が振り返った。短い髪に、少女を思わせる小さな体。今は眼鏡を掛けている。

「なんでもないわ」

 環の容態は直ぐに回復した。ヘルマンの治癒の技が冴えているのか、聖杯の魔力が起こした奇跡なのかは分からない。しかし、カヤにとってはどうでもよかった。

 環に連れられるようにして、空港の中に入る。大きな荷物を押す人混みをかき分けて、ターミナルにあるベンチに腰掛けた。

「まだ、空港のチェックインまで時間がありますね」

「意外とバスが早く着いたものね」

「それにして、カヤさん。本当に良かったのですか?」

 環が心配そうにカヤの顔を覗き込んだ。カヤは微笑みで返答をするが、うまく笑顔を作れた自信がなかった。

 ……ダメね。ちょっと頭を冷やさないと。

 思うや否や、ベンチから立ち上がる。

「朝ごはん、まだだったでしょう?売店で買ってくるわ」

 環が何かを言いたそうにしているが、構わず歩き始めた。

 構内には人が多い。カヤはわざと遠くの売店まで歩くことを決めた。歩きながら、決心を固めたかったのだ。

 環を救った後、カヤは故郷に帰ることを躊躇っていた。友人を救うためにクーナウの家を裏切ったのだ。自分の行動に後悔はないし、何度繰り返しても、同じ選択をするだろう。きっと兄はカヤの行動を許すとは思う。しかし、合わせる顔がなかった。

 行く宛を無くして消沈するカヤを、環が誘ったのだ。

『私の故郷に来ませんか?実家に帰るつもりはないんですけど、そろそろ恋しくなりまして。……ほら、異国の地で戦いの疲れを癒やしましょうよ。温泉とかいいですよ』

 環も考えての提案ではなかった。故に、冗談半分の誘いに躊躇いなく頷いたカヤに、環が驚いていた。

 それが、昨日の出来事。カヤが早業で飛行機を予約した。明日出ていく、と伝えられたヘルマンは驚くことも止めることもなく、了承した。心の底では、早く出ていって欲しかったのかも知れない。

 しかし、これでいいのか。やはり、帰るべきではないか。一晩が明けると、急に臆病な考えがカヤを捕らえた。故に、今朝から気持ちが沈みがちになっているのだ。

 売店の前に辿り着く。丁度、外へと続く扉の真横に設置されている。自動ドアがひっきりなしに開閉を繰り返すために、売店の周囲だけが嫌に寒かった。店員も厚手のコートを着ている。

「いかがします?」

 女性の店員の尋ねられ、そこで何を買うべきか全く考えていないことに気が付いた。慌ててメニューを見る。しかし、その行為も直ぐに中断された。

 原因は、声だ。

「カヤ!カヤじゃないか!」

 背後の人混みから、唐突に自分の名を呼ぶ声がしたのだ。振り向くと、直ぐに声の主が分かった。

 高い背にしっかりとした体躯。青年の体に、どこか幼さの残る顔つき。そして、カヤと同じく金の髪を持っている。

「カール兄さん!」

 兄であり、クーナウ家の当主であるカールがいた。人混みを気にすることなくカヤに駆け寄ってくる。

「どうして、ここにいるの?」

 息の荒い兄に対して、カヤは冷静に言った。カールは聖杯戦争に巻き込まれるのを避けるために故郷であるネフドルにいるはずだ。

「決まってるじゃないか!カヤが連絡を寄越さなくなったから、心配で居ても立ってもいられなかったんだ」

 大声に周りの人がカールを見るが、構わずカヤを捲し立てる。

「本当に心配したんだ!君の身に良くないことが起こったんだろうって。それがどうして空港にいるんだ?戦争はどうなったんだ?」

 カールの矢継ぎ早の質問に、カヤは答えを窮した。カールに連絡を怠ったのは不備としかいいようがない。戦争の趨勢についても、カヤが勝利したとは言い難い。そして何より、ロットフェルトとクーナウの関係もどういう結末を迎えたのか十全に理解できていないのだ。カヤが理解できていない以上、カールに説明することなどできるはずもない。

 横目に店員を見ると、困ったように笑っている。カールとカヤは商売の邪魔でしか無い。

「ねえ、ちょっと向こうへ行かない?」

「その前に教えてくれ。ロットフェルトはどうなった?……いや、やはりいい。カヤの命を賭けるなんて間違っていたんだ。カヤ、僕も戦争に参加する。そして、ロットフェルトを討つ。始めからこうするべきだったんだ。 きっと父さんも母さんもご先祖も許してくれる。さあ、ルスハイムに行こう。いや、その前にカヤの英霊を教えてくれ。予定では英国のアサシンだったよね?紹介してくれると嬉しい」

 カヤの声も聞かず、周りの注目も気にすることなく、カールは口を開き続ける。

 いい兄だと思う。しかし唐突に、カヤはあらゆることが面倒になった。

「あの、どういう関係ですか?」

 気の弱そうな店員が、邪魔とは言えずにカヤに声を掛ける。

「ごめんなさいね。耳の遠い兄なの」

 店員は気の抜けたようにはあ、とだけ返した。意地の悪さの籠もったカヤの言葉に、カールが驚いた表情をする。

「兄さん。私、ちょっと旅行に行こうと思うの。悪いけど、暫く探さないで」

 そして、カヤは身体に魔力を流し、その場からを駆け出した。人混みを掻い潜り、環の元へ急ぐ。

「カヤ!」

 背後から兄の声がする。きっと追ってくるだろう。兄の愛おしさより、離れたい思いが勝る。カヤ・クーナウではなく、ただのカヤという人間として異国を歩いてみたい。

 ベンチで座る環の前に、行きの十倍の速さで戻る。呼吸の荒いカヤの様子に環は驚いているようだった。

「環、私と行きましょう。場所はどこでもいいわ。暫く二人で世界を見たい」

 言葉が、自然と紡がれる。魔術師としてではなく、クーナウの家の者としてでもなく、ただカヤという人間の欲することが言葉になった。

 環が驚愕から微笑みに変わる。いつか見た、母のような笑みだ。

「ええ、もちろん。そのつもりでしたよ」

 そして、環が手を差し出す。カヤは受け取り環をベンチから引き上げる。眼鏡の向こうにある黒い瞳が近づき、殊更に大きくなった。

 カヤを呼ぶ声が近づく。カールが追ってきている。カヤは環の手を引いて、チェックインカウンターへ急ぐ。

「カヤさん?誰かに呼ばれてません?」

 環の言葉にカヤは店員と同じ様に答えようとした。しかし、降って湧いたように冗談を思いつき、思わず口に出す。

「あれは私の使用人だ。んん?」

 



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85

「あれから三ヶ月。長いようで、すぐだったね」

 断続的な揺れに身を預けていると、いつの間にか眠っていたらしい。トラックの荷台は意外なほど快適で、食料と共に積荷扱いされていることを忘れさせた。トラックはかなり古く、荷台には簡素な幌が取り付けられているだけだ。隙間から、強い日差しが差し込まれる。

 声の主は、同じく荷台に居た。古びたトラックに似つかわしくない神父服を纏い、男とは対象的に不快感を隠そうともしない。気を紛らわせるために、口を開いたのだろう。

「君の治療は大変だった。宮葉環に使った残りの聖杯の魔力をもってしても、命を繋ぎ止めるのに間一髪だ。しかし、僕はこれでも神職でね。危機に瀕した命を見捨てることは選択肢にない」

 神父服の男、ヘルマンは、一人で言葉を続ける。目を合わさずに、布の隙間から外の景色を覗く。荒れた砂地が続く。

「それにしても驚いたよ。体調が戻って直ぐに、次の聖杯戦争に行きたいだなんて。確かに、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアに端を発した亜種聖杯戦争は世界各地で起こっている。僕はその戦いを審判するのが役割だ。望むのならば、案内することは吝かじゃないさ。けれど、君はもう、戦いなんてうんざりじゃないのかな」

 ヘルマンの声に、男は何も言わない。言うべき言葉がないのだ。うんざりという感情は持ち合わせていない。ただ、心の底から湧き上がるような渇望を叶えるためには、聖杯が一番の近道なのだ。

 反応を寄越さない男に対して、神父が嘆息を漏らす。

「じゃあ、興味のありそうなことを言おう。僕らが向かっているのは砂漠にある地下都市。既に死んだ魔術師が残した工房だ。いや、死んだと思われていた、が正しいかな。人としては死んでいるのだけれど、実は生きていてね。聖堂教会の僕から見ればいない存在なのだけれど、吸血種になって生き延びていたらしい。魔術師というのは分からない生き物だね。人の身を捨ててまで、何を求めているのだか。……その彼が聖杯を下ろすために、聖杯戦争を望んでいるそうだ。君には、人ならざる参加者全員を殺して聖杯を奪って欲しい」

 砂塵が布を叩く音が響く。布の隙間から砂が入り込み、ヘルマンが顔を顰めた。

「まったく。見つからないためだからといって、なんだってこんなところに住もうとするかな」

「地獄に、似てるからだろう」

 男には、砂漠の吸血種の気持ちが分かった。道を往くには安寧は不要だ。ただ、純粋な思いがあればいい。そして、自分には願い以外の何もないと、常に知らしめておく。地獄に似た何もない砂漠は、うってつけの環境だ。

「なあ、テオ。君の身体は治したけれど、一箇所だけ元に戻らなかった。僕にはそれが、致命的な手遅れに思えるんだ。僕は元の君をよく知らないけれど、君はもっと人間らしかったろう?」

 男は神父の言葉に何も返さない。元、など知らないのだ。そして、テオという名前も見に覚えがなかった。ただ、自分を見て、その名で呼ぶ者は幾人かいた。

「君は、何を望んで戦場に行く?」

「無論、魔術の完成。我が同胞と共に、生と死の境を取り払う。そして、すべての死の悲しみを過去のものにする」

 言葉を発すると、男の頭に見に覚えがない情景が映し出される。可憐な、儚い少女。そして、彼女が既に死していること。胸から血を流し、無残に息絶えていること。

「……ハンナ」

 男は小さく名前を言う。ヘルマンにさえ聞こえない程、小さな声で。

 幌の隙間から生き物のいない砂漠が見える。この先に、聖杯を手にすれば頭の中の、決して届かぬところにいる少女に会うことができる。男はそれだけを願い、死の砂漠の最果てを見る。

 銀の双眸が彼方を睨んでいる。

 



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