月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ (ヘソカン)
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番外編
りそなの日記 前編


書いてしまった影響で、りそなに救いを与えたいと思ってしまったので救います。
ただどうなるかは分かりません。取り敢えず前回の後書きの続き。前回の後書きの内容は削除します。
色々と無理もありますが、既に朝日の平行世界行きをやっているんだから、これぐらいは大丈夫だと思って書きました。
本編をお待ちしていた皆様、申し訳ありません。

『心から愛する兄はいなくなった。だが、彼女自身が気がついていない。不満を言い合っていた唯一の友がいる』

くららん様、笹ノ葉様、烏瑠様、dist様、エーテルはりねずみ様、獅子満月様、lukoa様、誤字報告ありがとうございました!


『大蔵りそなの日記』

 

【七月中旬】

上の兄がいきなり部屋に飛び込んで来た。

どうやら下の兄が桜小路家に居る事が知られてしまったらしい。

最悪の事態だ。でも、何故上の兄はあんな事を聞いて来たのだろう?

『遊星は帰っていないか』

何故彼はそんな事を聞いて来たのだろうか?

 

 

【七月下旬】

上の兄を通して、桜屋敷のメイド長に会った。

下の兄の正体を知って追い出した相手だが、謝罪しなければならない。

私がした事は下の兄の為とは言え、本来は許されない事だ。下の兄も謝罪したいと思っているに違いない。だから、申し訳なさに溢れながら謝罪をした。

ただ、どうしても気になったので下の兄の行方について聞いてみた。

『桜屋敷を追い出してから知らない』と言われた。

……下の兄。何処に行ったんですか?

 

 

【八月上旬】

下の兄の行方が分からない。この三週間全く音信不通だ。下の兄とメイド長のやり取りを知らないルナちょむや、ミナトンを含めた桜屋敷に居る下の兄と仲が良かった人達も捜索隊を出したと、チャットでルナちょむが言っていた。

上の兄も捜索しているようだが、行方が全く分からない。

……嫌な予感がしてならない。もう二度と下の兄に会えない予感が。

………そんな訳が無い。下の兄は何処かにきっと居る。

 

 

【八月中旬】

大蔵家の『晩餐会』が開催されると上の兄が帰国して来たと同時に、家にやって来て告げた。

そんな事よりも下の兄の方が心配だが、今彼の機嫌を悪くする訳にはいかない。もしも機嫌を悪くされて下の兄の捜索が打ち切られたら、大変だ。下の兄何処にいるんですか?

 

 

【八月下旬】

『晩餐会』は最悪だった。あの権力を求めている人間達と血の繋がりがあるだけで、嫌悪を感じてならない。心が潰れそうだ。

ただ予想外の事が起きた。下の兄を認めなかったお爺様が、急に下の兄に会いたいと言い出したのだ。血の繋がった母は怒っていたが、そんな事は気にならなかった。これで今まで以上に上の兄は、いや、大蔵次男家も下の兄の捜索に乗り出すに違いない。

下の兄が見つかる可能性が高くなった。

……そうだ。きっと見つかる下の兄は。

 

 

【九月上旬】

見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない!!!

どうして、どうして見つからないんですか!? 下の兄は何処かにきっと居るはずなのに!? 何で見つからないんですか!?

……まさか……違う。そうあり得ません。きっと下の兄は……

 

 

【九月中旬】

……見つからない。

 

 

【九月下旬】

……もしかしたら下の兄はもう(この後は、自分の考えを否定するようなめちゃくちゃな文字が書かれている)。

 

 

【十一月上旬】

……パソコンを起動させるのは久しぶりだ。今日大蔵次男家の上の従兄弟が訪ねて来た。

私の顔を見て驚いていた。そんなに酷い顔していたのだろうか? 確かに連日街を歩いて下の兄を捜索していて気にもならなかった。

街を歩いて気がつけば、部屋に戻されているのが私の日常になっていた。戻しているのは上の兄の部下の馬場だ。

上の従兄弟は私に聞いてきた『大蔵家が憎くないか』と。

……下の兄……早く帰って来て下さい。私はもう……限界です。

 

 

【十一月中旬】

 上の従兄弟の提案には心が惹かれた。

 『大蔵家が憎くないか』。そんなの決まっている。

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。憎くて仕方がない!

 あの一族と血が繋がっているだけで嫌悪感が沸き上がって仕方がない! これまでは下の兄と血が繋がっているという事実のおかげで目を逸らしている事が出来ていた。でも下の兄はもう(この部分は意味のない文字が書かれている)。

 だけど、もう目を逸らす事が出来ない。上の従兄弟が言うには、どうやら上の兄は独立に向けて動き出しているらしい。そしてあの血の繋がった母……いや、あの女は私を見限ったようだ。

 笑ってしまった。上の従兄弟の前だと言うのに大声で涙を流しながら、私は笑った。

 気がつくべきだった。上の従兄弟が、この部屋に簡単にやって来れた時点で。あの女は、上の兄が大蔵家当主に就く事を願い、私に自分の理想を押し付けていた。歪んではいたけれど愛してくれていた。

 ……下の兄が言っていた通りだ。私は血の繋がった母と呼びながらも、あの女を……母として心の奥で大切に思っていた。その相手を失ってしまった。

 大蔵家内で敵対関係にあって、上の兄と当主の座を争っている上の従兄弟があっさり私に会いに来れた時点で、上の兄もあの女も私なんてもうどうでも良いのだろう。これまで馬場がこの部屋に運んでいたのは、下手なところで死なれたら大蔵家の名に傷が付くから。

 もう私は彼らにとってその程度の存在。

 上の従兄弟は、自分が大蔵家の当主になった時にやる事を私に話した。

 

『一族の人間、父親も含めて大蔵家から除名する』

 

 ……心が惹かれた。大蔵家の一族全員から、大蔵の名を奪う。これほどまでに面白そうな事は無いと思った。

 でも、私は……上の従兄弟に協力しない。大蔵の名を奪うという事は、その相手の中には下の兄も入っている。

 下の兄は大蔵という名字に想い入れはないだろう。私も無い。

 何よりきっと、下の兄が居たら彼の提案には乗らなかった。下の兄は、私と同じように上の兄に畏怖と恐怖を覚えていたけれど、同時に尊敬もしていた。何時か認められたいと……いつも、いつも思っているのを私は見ていた。

 だから、どれだけ憎いと思っても……下の兄が望んでいない事だけは私には出来ない。

 上の従兄弟は『残念だ』と言って、帰っていった。後、『出来れば、それほど追い込まれていても君が想っている屋根裏王子に会ってみたかった』とも言っていた。

 帰る前に上の従兄弟に一つだけ願った。『もしも貴方の望みが叶ったら、私の名字だけは『小倉』にして下さい』と。

 ……この部屋から出よう。久々にオンゲをやって、オンライン上の友達だった皆と遊んで、別れの挨拶をして……下の兄を探しに行こう。

 

 

【十一月下旬】

 ……さようなら、大蔵りそな。

 下の兄を探しに行きます。

 

 

 

 

 

 

 

【十一月下旬】

 私は今、『桜屋敷』に……下の兄が『小倉朝日』として過ごしていた部屋にいる。

 あの日、住んでいた部屋から出た私は、上の従兄弟と上の兄の部下達に追いかけられた。どうやら二人とも、もう何の役にも立たないのにも関わらず、私を逃がす気はなかったようだ。上の従兄弟は自分の最終的な目的を私が知っていたから。

 上の兄は、私が捕まれば独立の準備に支障が出るからだろう。まだ、私にはお爺様への人質という価値はあったようだ。誰一人味方が居ない私は、上の従兄弟か上の兄の部下に捕まる未来しか待っていなかった。

 下の兄が駆け付けてくれないかと願ったけれど……彼はやっぱり居ない。

 追いつめられて、もう終わりだと思った瞬間、助けが来た。

 レイピアを持った覆面とトマホークを持った覆面。後遠くから投擲を行なっていた覆面の三人に。

 いきなりの事態に驚いていた私を三人の覆面は攫い、そのまま車に乗せられて上の従兄弟や上の兄の部下から逃げ回った。

 そして逃げ切った後、私が連れて来られたのは『桜屋敷』だった。

 夏にあのメイド長に謝罪してから来た事がなかったその場所に、私は連れて来られた。

 屋敷に入ると共にミナトンに抱き締められた。

 突然の事態に呆然としている私を、ミナトンは本当に大切そうに抱き締め無事で良かったと涙を流しながら言ってくれた。

 その後、ルナちょむもやって来て無事で良かったと私に言った。他にも、金髪の人と黒髪の人もやって来て、『朝日の妹ですのね。無事で良かったですわ』や『朝日の妹。やっぱり可愛い! 無事で良かったわ』と言ってきた。どういう事なのかと呆然としながら聞いてみると、ルナちょむが教えてくれた。

 久々にオンゲに現れて、いきなりこれまで溜め込んでいたアイテムの数々をばら撒いて、別れの挨拶をした私の行動を不審に思い、ルナちょむが『桜屋敷』に居た他のお嬢様達の付き人に頼んで護衛を陰ながら依頼していたらしい。

 何故そんな事を。私はルナちょむを騙した。女性と偽って、下の兄の為に付き人にさせたのに。

 ……その事をルナちょむは知らないと思って、私は……全部話した。桜屋敷にメイド長から口外しないように言われていたが、構わなかった。私に助けられる価値なんてない。

 だけど、ルナちょむは……全部知っていた。私が語る前から、下の兄の正体を。それだけじゃなくて金髪の人も、黒髪の人も、『桜屋敷』の全員が下の兄の事を知っていた。そして……全員が下の兄がした事を赦してくれていた。

 ミナトンが下の兄の素性も話していたみたいだ。

 だとしても、私がした事は許されないと言ったら。

 

『君は私の数少ない友人じゃないか』

 

 ……泣いた。耐え切れなくなって、私は泣いた。

 味方など居ないと思っていた。下の兄が居なくなった今、私には本当の意味で心を出せる相手がいないと思っていた。でも、違った。

 ミナトンはそんな私を抱き締めてくれた。

 泣き止んだ私に、ルナちょむは『暫らくはこの屋敷に隠れていろ』と言ってくれた。あまり好意に甘えるのは不味いと思ったが、今日だけはと思い、私は部屋を借りた。何処の部屋が良いかとルナちょむが言っていたので、厚かましいかも知れないが、下の兄が使っていた部屋を頼んだ。

 やって来たメイド長が、あの部屋はと言う顔をしていたけれど、もうすぐ大蔵家は大変な事になると話した。その場に居る全員が驚いたが、取り敢えず今日はという事になって部屋を貸して貰った。

 日記を書いていたら、ミナトンがやって来た。

 

『一緒に寝よう!』

 

 と言ってきたので、取り敢えず受け入れた。

 『りそながデレた!』と目を見開いて驚かされた。まあ、これまでの私の行動から考えて当然の反応ですが。

 複雑な気持ちになりながら、ベッドに入る。

 このベッドで、そしてこの部屋で下の兄は過ごしていた。彼がこの部屋を出てから随分と経つ。それでも、居なくなるまで過ごしていた事に変わりはない。

 せめて夢の中でぐらい、下の兄に会いたいと思いながら、ミナトンに抱き締められながら、私は眠った。

 

 

【十二月上旬】

 悪夢と言うべきなのか、嫌な夢を見た。

 私が大蔵家当主となっている夢だ。誰が好き好んで、あの家の当主になんてなるものか。しかも下の兄が側にいない。

 この時点で私にとっては悪夢だ。夢とは見る者の潜在意識が望んで見るものとネットで書かれていた。

 つまり、私には大蔵家当主になりたいという願望があるという事になる。冗談じゃない。すぐに忘れたいと思った。でも、何故かハッキリと夢を覚えている。しかも、時間が経っても夢の内容を忘れる事が出来ない。どういう事なのかと考えていると、ミナトンが起きた。

 何だか起きたら複雑そうな顔で考え込んでいたので、気になって聞いてみたら、『アメリカでルナがやっているブランドで営業部長として働いている自分の夢を見た』と答えてくれた。

 中々いい夢じゃないかと思った。少なくとも、なりたくもない大蔵家当主になっている私が見た夢よりは。

 

『ゆうちょがルナの旦那になっていた』

 

 ……悪夢だ。これ以上に無いほどの悪夢。

 会いたくて仕方がない相手が、知り合いの旦那になっているとか。ミナトンの気持ちが良く分かった私は、肩に手を置いて慰めた。

 朝食の席で恨みがましい視線を、私とミナトンに向けられたルナちょむは戸惑った。

 どうしたのかと聞かれたら、悪夢を見たとミナトンと一緒に答えた。夢の事で困らされるのは困ると言われたので、取り敢えず止めた。

 で、昨日私が言った大蔵家の事を話した。

 朝食の席に居た全員がまさかと言う顔をしたが、事実だ。上の兄は大蔵家からの独立を目指している。

 このままいけば、確実に大蔵家内で争いが発生する。そうなれば経済界や政財界が確実に荒れてしまう。

 家の規模を考えれば、その影響は想像を絶する。事前にこの情報を知ったルナちょむ達は対処出来るだろう。知らない家がどうなるかまでは私は知らない。

 下の兄と違って、私は優しくないから。

 ルナちょむ達は学院に行かないといけないので、私は残された。

 帰って来るまで待つ事になった私は……デザインを描く事にした。夢の中で、大蔵家当主になっていた私は、デザインを描いていた。ジャンルはゴスロリ。

 ゴスロリは好きなので、気晴らし代わりに描いてみよう。下の兄と一緒に学院に通う為に服飾の勉強もしていたから、デザインの描き方は知っている。だから、描いた。

 描いたデザインを、学院から戻って来たルナちょむ達に見せたら、初めてにしては上手いと言われた。

 気晴らしだったのだが、思ったよりも好評だった。

 その後、また今後の私に関して話す事になった。迷惑になるから出て行くと言ったけれど、ルナちょむ達は私を逃がす気はないようだ。

 出ていかれて野垂れ死にされるのは困るという事だ。

 ……ルナちょむ達の優しさを感じる。

 ……下の兄が、此処に居られる事を喜んでいた理由が分かった。此処は大蔵家に比べて、優しい場所だ。

 この場所に下の兄は戻れるかもしれない。見つかりさえすれば。

 下の兄……何処に行ったんですか?

 

 

【十二月中旬】

 桜屋敷に来てから、悪夢を見続けている。

 悪夢は変わらず、私が大蔵家当主になっている夢だ。しかも悪夢の内容は日によって変わる。

 『大蔵ルミネ』? 私の叔母? つまり、お爺様の娘という事になる。

 冗談ではない。お爺様はもう90歳以上だ。夢の中で出て来たルミネという女性は、夢の中の私よりも一回り若い。つまり、もしも大蔵ルミネという人物が産まれるとしたら、これからだ。

 いや、無理でしょう。お爺様の年齢で、子供が出来る筈が無い。

 ただ、この夢に関して不思議なところがある。ルミネという女性はハッキリと顔が見えるのだが、母親の方はぼやけて見えるし、名前も聞こえない。言っている時に、その部分だけが途切れて聞こえるのだ。

 私だけじゃなくて、ミナトンも同じで、付き人のヤンデレな人と一緒に働いていたり、ルナちょむやメイド長……そして下の兄の顔だけはハッキリと見えるのだが、一緒に働いている者達はぼやけて見える。後……想像もしたくないが、ルナちょむと下の兄の二人の子供の顔はぼやけて見えるらしい。

 子供が二人いると知った時は、また二人で恨みがましい視線をルナちょむに向けてしまった。

 いい加減にしろと怒られた。

 後、他にも気になる事がある。ミナトン以外にも、黒髪の人が部屋で寝た日も夢を見たと言っていた。内容は『京都で個展を開いている』とのこと。しかもハッキリと覚えている。

 ……変だ。この夢は明らかに可笑しい。

 ミナトンもそう思ったのか。別の部屋で寝てみようと、提案してきたのでその提案に乗った。

 夢はどうなるのだろうか?

 

 

【十二月下旬】

 別の部屋で眠ったら、あの悪夢は見なかった。ミナトンも黒髪の人も同じだ。

 気にはなるが、ルナちょむ達はフィリア・クリスマス・コレクションがあるので、取り敢えずこの件は保留という事になった。

 フィリア・クリスマス・コレクション。下の兄も参加したかった筈のイベント。もしかしたらと思って、ミナトンに会場の捜索を頼んだ。ミナトンも同じ事を考えていたのか、頷いてくれた。

 結果は……駄目だった。下の兄の事だけじゃない。ルナちょむ達は、フィリア・クリスマス・コレクションで準優秀賞という結果に終わった。最優秀賞ではない。

 下の兄の代わりにルナちょむの付き人になった樅山紅葉という背の低い人も落ち込んでいる。制作の段階でルナちょむは気がついていたようだ。背の低い人が付き人になった時には、型紙が終わっていた。

 敗因は型紙。下の兄が最も得意な分野だ。

 もしも下の兄が居ればと私は思った。勝手な考えだと分かる。でも、下の兄が居れば絶対に最優秀賞を取っていた。そう私は断言出来る。

 上の兄から散々な評価を貰ったと、ルナちょむが不機嫌そうに言ってきた。

 この不機嫌さを晴らす為に、朝日の部屋で私も寝てみると言い出した。どうも、私やミナトン、黒髪の人が言っていた事が気になっていたらしい。

 指示を受けたメイド長が、下の兄の部屋のカーテンを日が当たらないように厚手のカーテンに替えた。結構、日が当たるから、肌が弱いルナちょむが寝るには必要な処置だ。

 私は……あの悪夢を見たくないから、ミナトンの部屋で寝る事にする。ルナちょむも悪夢を見ればいいと、これまでのミナトンから聞いた夢の内容で思わず思ってしまった。

 

 

【一月上旬】

 フィリア・クリスマス・コレクションが終わった後、ルナちょむはずっと頭を抱えている。

 どうやら、夢の内容は彼女にとってかなり衝撃を受けたようだ。

 詳しく聞こうとしても、顔を赤くして首を横に高速で何度もブンブンと振って話してくれない。

 ただ。

 

『あんな事をわ、私が、あ、朝日にする筈が! い、いや、やってみたいと思わず考えて! って、ち、違う! こ、これ以上は聞かないでくれ。頼む!』

 

 あのルナちょむが顔を真っ赤にして動揺するような出来事が、夢の中で起きたらしい。

 後、どうでも良いどころか、聞きたくもなかったけれど、ルナちょむと下の兄の二人の子供の名前が分かった。息子の名前が『才華』。娘の名前が『アトレ』と言うらしい。

 ……本当に聞きたくもなかった。因みに顔も分かった。あの変な夢は、起きた後もハッキリと内容を覚えているので、ルナちょむが描いてくれた。

 息子の方はルナちょむと同じで白髪に緋色の瞳をして、下の兄に似た面影がある。娘の方は黒髪で日本人的な容姿をしていた。因みにこの話を聞いたメイド長は倒れた。

 どうやらもしかしたら自分は、ルナ様の男性の縁を潰したのかも知れないと思ったようだ。ルナちょむが寝るなら、下の兄の部屋で寝かせてやれと言って、巨人のメイドに運ばれて行った。果たして彼女はどんな夢を見るのだろうか?

 ……と言うよりも、そんな縁は潰れて欲しい。下の兄を想う気持ちは負けない。ミナトンにだって、私は負けるつもりはない。

 そう言えば時期的に『晩餐会』の時期だが、参加するつもりはない。上の兄や上の従兄弟が何もしてこないところを見ると、両者とも私に参加して欲しくないのだろう。

 もうどうでも良い。上の兄が勝とうと、上の従兄弟が勝とうと、私には関係ない。個人的には上の従兄弟に勝って欲しい。彼が勝てば、私の名字は『小倉』になるのだから。

 ……そう言えば、あの夢の中でも『晩餐会』はあるのだろうか? 気になる。

 久しぶりに下の兄が使っていた部屋で見てみよう。

 ……ああ、私は可笑しくなっている気がする。夢に過ぎないのに、夢の中が気になるなんて。

 気が狂っているのかも知れない。

 

 

【一月中旬】

 ……何だあれは?

 アレが大蔵家の『晩餐会』? 全然私が知っている『晩餐会』と違っていた。

 そう、アレは……家族の集まりだ。家族が集まって、楽しく過ごす団欒。あの上の従兄弟も兄も、私が知っている二人と全然違っていた。ト兄様は……あんまり変わっていなかった。

 でも、その『晩餐会』には……下の兄が居た。私が知っている下の兄よりも歳を経ているが、すぐに分かった。

 ……夢の中の下の兄は、幸せそうだった。望んでいた光景を見た筈なのに、胸が苦しかった。だってそうだ。

 所詮夢は夢。現実の下の兄はずっと行方不明のまま。本当に下の兄は何処に行ってしまったのだろう?

 大蔵家の方は分からないが、依然下の兄の捜索を黒髪の人とスイスの人が付き人に頼んで捜索している。

 なのに、居なくなった日以降の行方が分からない。可笑しいとしか思えない。

 考えたくはないが、事故にあったとしても、こんなに情報が集まらないのは可笑しい。

 可笑しいと言えば、この夢もだ。何故下の兄が使っていた部屋でだけ、こんな夢を見るのだろうか?

 内容は起きているのに、ハッキリと覚えている。

 私だけじゃない。あの部屋で見た誰もが同じだ。見た夢の内容を覚えていて、その内容が十数年以上経過していると思われる未来。いや、未来ではない。

 じゃあ、アレは何なのだろうか? デザインを描くのは一先ず止めて、ルナちょむにパソコンでも借りて調べて見よう。

 ……大分参っている。下の兄……夢ではなく、現実で会いたいです。

 

 

【一月下旬】

 分かっていた事だが、調べた意味はなかった。

 と言うかふざけているとしか思えない事があった。『バナナで滑ったら、過去に行った』なんて、ふざけている。

 そんな事で過去に行ったら、タイムトラベラーだらけだ。

 ……冗談は此処までにしよう。今日、上の兄から手紙が来た。

 手紙を持って来たのは、ルナちょむだった。私が居る場所なんて、やっぱり彼には知られていた。

 ただ内容は。

 

『愚かなる妹。いや、大蔵家から逃げた貴様は最早妹ではない。『晩餐会』に参加しなかった事で、爺の関心も薄れた。あの女も貴様を完全に見限ったようだ。そのまま二度と俺に顔を見せず、世間にも顔を出すな。もし出て来るならば、この俺の全てを以て貴様だけではなく、貴様を匿っている者共の家を潰してやる。良いか、最早貴様は大蔵の名を名乗る事は許さん。あの愚かなる弟同様に、このまま誰とも知られずに朽ち果てるがいい』

 

 ……戻って来いという内容ではなかった。

 手紙を見たルナちょむ達は、余りの内容に怒ってくれた。でも、ある意味では私は解放されたという事だ。

 大蔵家から。そして上の兄から。

 ただ行く当てが本当になくなったと思ったら、ルナちょむが。

 

『何時か私が開くブランドを一緒にやろう。何、りそなのデザインは中々のものだ。このまま練習を続ければ、必ずものになる。なに、あの夢の中で君はブランドを開いているんだろう? 夢だとしても、こうして描かれているデザインは良いものだ。朝日も見つけて、三人でやるのも良いな』

 

 ルナちょむの言葉に、ミナトンが『私は営業部長をやる!』と叫んで、黒髪の人とスイスの人を羨ましがらせた。

 ……涙が零れた。此処に居ても……優しいこの場所に居ても良いと分かって泣いた。

 下の兄……貴方は本当に良い場所に居たんですね。だから、早く帰って来て下さい。

 

 

【二月上旬】

 上の兄の警告もあったので、今年に服飾関係の学院に通うのは無理となった。

 取り敢えず、デザインを描いていよう。

 

 

【三月上旬】

 あの夢に関して検証を進める事になった。

 先ず第一に下の兄が使っていた部屋で寝る事が条件。他の部屋では見ない。

 第二に夢で見た内容は、起きてもハッキリ覚えている。

 第三に、夢の中で顔がハッキリ見えるのは会った事がある相手か、夢を見ている者の血縁者だけ。それと夢の中で見た相手の顔を、現実で描いてハッキリと分かるようになれば認識出来るようになる。ミナトンで試して、才華とアトレと言うルナちょむと……下の兄の子供が認識出来るようになったので間違いない。

 最後にあくまで見る事が出来るだけ。夢だから当然だ。

 ルナちょむは、『何時から私の屋敷の、あの部屋は怪奇現象を起こす部屋になった』と嘆いていた。

 今後も検証を進めていく為に、屋敷内の全員があの部屋で一度眠ってみる事になった。どんな結果が出るのだろうか?

 

 

【三月中旬】

 検証をしたが、やっぱり原因が分からない。

 何故あの部屋でだけこんな現象が起きているのだろうか?

 少なくとも未来の出来事ではない。下の兄が夢の中に居るからだ。その時点で、この現実とリンクしていない。

 だから、ルナちょむと下の兄が結ばれる事なんて絶対に無い!

 屋敷内の全員が変な夢を見たが、以前の条件以外に何も分からなかった。ただ、巨人のメイドの話だけは、ちょっと可哀想だった。本人と顔が分からないメイドと一緒に、この広い桜屋敷を管理していたとか。話を聞いた時は、思わず全員でルナちょむに厳しい視線を向けてしまった。

 本人は、『私じゃない! 夢の中の私の責任だ!』と言っていた。

 まあ、やってもいない事を責めるのは酷だ。しかし、巨人のメイドと働いているメイドとは誰なのだろうか?

 条件から考えて顔が見えないという事は、会った事がない相手。

 ……何故、その相手を私は気にしているのか分からない。でも、もし下の兄が巨人のメイドと同じ状況になっていたら、きっと桜屋敷を大切にしていたと思う。此処は優しい場所だから。

 

 

 

【四月上旬】

 今月からルナちょむ達は二年生。私は……場所は変わったが引き篭もりのままだ。

 下の兄の行方は未だに分からない。捜索をしてくれている黒髪の人とスイスの人が、実家に無駄な捜索をしている事を怒られたらしい。だけど、止めさせる気はないと言ってくれた。

 必ず下の兄は見つけると言ってくれた。嬉しかった。

 下の兄。貴方はこんなにも想われているんです。皆、桜屋敷に居る皆が、貴方を追い出したメイド長も心配しています。だから、帰って来て下さい。

 

 

【五月上旬】

 大蔵家の争いが激化しているという情報がネットで上げられた。

 どうやら、上の兄は遂に独立の道を歩み出したらしい。だが、相手はお爺様に従兄弟だ。

 事前準備はかなりしていたようだが、勝てるとは思えない。上の兄は大蔵家内で一人だ。

 あの女は役に立たないだろう。それが彼が選んだ道だから。今更私が出ても遅い。

 彼自身が望んでいないし、才能が無い妹の力なんて必要がないに違いない。

 ルナちょむ達も大蔵家の動向はかなり気にしている。経済や政財に関わる者にとって、この事態は見過ごす事が出来ない。

 

 

【六月上旬】

 年内で上の兄がフィリア女学院の学院長を辞めるという話が出たようだ。

 教師をしているメイド長の話だ。ただ代わりの学院長となる相手の名が出た時は、オカマの人が悲鳴を上げた。

 メイド長も心なしかげんなりとした顔をしている。一体どんな人物なのだろうか?

 大蔵家の争いがどれだけ続くか分からないが、私も早く通いたい。考えたのだ。

 私がデザインで有名なれば、きっと下の兄は見に来てくれる。彼は服飾が大好きだ。

 捨てるなんて考えられない。私の事を知っていて、それも有名になったら、どんな状況でも来てくれる。

 だから、デザインを頑張ろう。

 

 

【七月上旬】

 ……もうすぐ下の兄が居なくなってから一年。まだ、下の兄は見つからない。

 下の兄が居なくなった日が近づいて来ている今、その日に下の兄がした行動と同じ事をしてみるべきなのかも知れない。

 だけど、私は外に出られない。外に出たりすれば、上の従兄弟や兄が何かしてきそうだ。

 やりたい気持ちがあるが、それでルナちょむ達に迷惑を掛けたくはない。今回は見逃そう。

 ああ、だけど、久しぶりにあの部屋で寝よう。怪奇現象が起きるという事で、立ち入り禁止になった下の兄が使っていた部屋で。

 明日、ルナちょむに許可を貰わなければ。

 

 

【七月中旬】

 ……居た。

 下の兄が居た。何で何で何で何で、何でえええええええええ!?




因みに最後の【七月中旬】で、りそなが朝日の行動を真似るを選択していた場合……朝日の元に移動してりそな(朝日世界)ルートが完全確定していました。
最早他の誰にも割って入る事が出来ないルートです。

後、実は【一月上旬】の時点で衣遠は本格的に独立に向いて動いていて、金子は発狂しています。メリルルート、エッテルート同様に病院に入院しています。
上の従兄弟は、取り敢えずりそなが絶対に衣遠の味方にならない事を確信していたので基本放置。但し衣遠の下に行きそうになったら邪魔をします。
現当主の爺は、一月と五月の『晩餐会』にりそなが来なかった事で好感度降下しています。
大蔵家崩壊は確実に終わりの道に進んでいます。

序でに朝日が使っていた部屋で見る夢に関しては、本編に書かれている通りです。
会った事がある相手や、顔を知っている相手なら夢の中で顔と名前を認識出来るようになります。だから、朝日と面識がない八十島は夢の中で認識出来ませんでした。


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りそなの日記 後編

取り敢えず日記は此処までです。
これ以上書くと番外ではなくなってしまうので、残念ながら此処までになります。

秋ウサギ様、dist様、ちよ祖父様、笹ノ葉様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


『大蔵りそなの日記』

 

【七月中旬】

 ……下の兄を見つけた。

 ずっと探していた下の兄を……私は見つけた。正確に言えば、姿を目撃した。

 あの下の兄が使っていた部屋で見る変な夢の中に、下の兄が出て来た。

 ……酷い顔だった。髪の毛はウィッグでも付けていたのか、朝日のように長い髪だったが、悲しみと憔悴し切った顔。何よりもあの前向きだった下の兄とは思えないほどに、絶望に染まり切っていた。

 余りの姿に、悲鳴を上げて私は起きてしまった。アレは不味い。

 何時自殺しても可笑しくないほどに、下の兄は追い込まれている。所詮夢だと言い切れない。

 あの部屋で見る夢は、何故か起きた後もハッキリと内容を覚えているのだから。

 私の悲鳴を聞いた巨人のメイドが慌てて部屋にやって来て、すぐにルナちょむ達を集めてくれた。

 全員、『こんな時間になんだ?』と言う顔をしていたが、私の顔を見てただ事ではないと分かったのか、すぐに食堂で話をする事になった。

 内容は言うまでもなく、下の兄の事。桜屋敷にいる全員が、あの変な夢の事を知っているので一概に夢だと言い切れない様子だった。

 夢の中で、悪夢としか思えないが、大蔵家当主となった私が、偶然仕事帰りに下の兄を目撃した。

 下の兄は酷い状態だった。それこそ何時自殺しても可笑しくないと思えるほどに追い込まれていると私が言うと、食堂に居た全員が困惑と疑問に包まれた。

 私だってそうだ。何故下の兄が夢の中に出て来たのか分からない。だけど、アレは間違いなく下の兄だった。

 『晩餐会』で見た歳をとった下の兄じゃない。私が知っている下の兄だった。

 すぐにでも会いに行きたいと思うが、行ける筈が無い。何せ夢の中での話だ。

 それに目にしたのは私だけ。とにかく落ち着いて検証するという事になった。

 下の兄。貴方に何があったんですか?

 

 

【七月下旬】

 検証の結果、下の兄が夢の中の世界。其処に居るという前提で考える事になった。

 何せ去年から捜索し続けて、未だに見つける事が出来ないどころか手掛かりも得られずにいる下の兄に関する情報だ。夢だからと言って疎かには出来ない。特にあの変な夢に関しては。

 取り敢えず、私が見た夢の内容をルナちょむ達に話した。

 車に乗って大蔵本家に帰る途中で、車が信号で止まっていた時、下の兄が歩道を歩いているのを目撃したのが発端だ。夢の中の私も、慌てていたので私の見間違いではないと思う。すぐに車から降りて追いかけようとしたのだが、運悪く信号が青になって、車が発進してしまい、慌てて運転手に止めさせたが、既に下の兄の姿はなくなっていた。

 ルナちょむは難しい顔で『見間違いではないんだな?』と厳し声で質問して来たので、私は真剣な顔で頷き返した。

 アレは見間違いではない。絶対に下の兄だったと断言出来る。

 厳しい顔でルナちょむは考え込み、ミナトン、黒髪の人、スイスの人は心配そうな顔をした。

 当然だ。もしも下の兄が夢の中の世界にいるとしたら……どうすれば良いのか分からない。夢の中の世界に行けるわけが無いし、何よりもあちら側に下の兄の居場所は無い。

 ……認めたくはないが、あちらにはルナちょむと結ばれて名字が変わった桜小路遊星という存在が居る。

 その存在を知ったら、下の兄はどういう反応をするだろうか?

 少なくとも……良い反応は絶対にしない。寧ろ下の兄の性格だと、自分の不甲斐なさと申し訳なさに追い込まれて精神的に危険な状態に陥りかねない。

 と言うよりも、既に陥っている。私が見たあの絶望し切った顔が、何よりの証拠だ。とにかく何か手掛かりが必要だとルナちょむは考え、一度使ってから入るのを拒んでいたあの部屋で寝る事を宣言した。

 ……宣言するほどの事かと思ったが、ルナちょむの顔は真っ赤に染まり切って、一緒に部屋で寝る事になったメイド長は絶望した顔をしていた。

 どうにもあのメイド長……夢の中でも結婚出来ずにいたらしい。夢だとしても十数年経過していながら、結婚出来ずにいた事実には、私を含めて全員が憐れんでしまった。

 本人は、『アレは夢です! 私には未来があります!』と叫んでいたが。

 とにかく、どうにか下の兄の情報が手に入る事を私は願った。

 ルナちょむ。頼みます。

 

 

【八月中旬】

 ルナちょむの顔は、夏の暑さと関係ないほどに真っ赤に染まり切って恥ずかしさで毎日悶えていた。

 

『あああああ、あんなのは私ではない! 何だ!? あの甘酸っぱい日々は!? 見ているこっちが恥ずかしくなるほどに、甘酸っぱい! しかも、それをやっているのが私と朝日!? 人前や子供達の前では完璧だが、二人っきりになったら、あああんな事を!? 駄目だ! もう見られない! 見たらこっちが可笑しくなりそうだ!』

 

『うぅぅ、未来があると思っていたのに……私には未来なんてなかったなんて……いえ、ルナ様に仕えてその幸せな日々を見られるのは嬉しいのですが、私にだって幸せがあっても良いじゃないですか! 妹が結婚出来ているのに、何で私だけ!』

 

 ……情報を得る事なんて土台無理な状態にルナちょむとメイド長はなっていた。

 なんか腹が立ったので、ミナトンと一緒になって怒った。

 ただ何の情報も得られなかった訳ではなく、私が下の兄を目撃した日に、夢の中の私が電話をして来たらしい。

 これによって、あの夢の世界は……いや、もう誤魔化すのは止めよう。

 私達が夢で見ているから夢と認識していたが、恐らくあの夢の世界は存在している。

 ……認め難いが……小説なんかで出て来る平行世界。あっちの桜小路の名字になっている下の兄が成功した世界。

 で、こっちの下の兄が追い出された世界が……言いたくはないが失敗した世界だ。

 失敗して別世界に渡ったとか、どんな荒唐無稽な話だと思うが、当事者が下の兄だから笑う事なんて出来ない。しかも恐らく戻る手段はない。

 下の兄を目撃した日は、丁度下の兄が居なくなった日だ。多分、下の兄も此方側に戻ろうと状況の再現をしようとしたに違いない。

 其処まで考えたところで、私は思い出した。巨人のメイドと一緒に働いていた顔がぼやけているメイド。

 もしかしたらそれが下の兄じゃないかと考え、巨人のメイドに下の兄の写真を見せてあの部屋で眠って貰うように頼んだ。

 

 

【八月下旬】

 ……私の考えは当たっていた。彼方の世界で巨人のメイドと共に桜屋敷で働いていたメイド。

 そのメイドこそが……下の兄だった。顔写真を見せて認識出来たことが、何よりの証拠だ。

 下の兄はあの日、桜屋敷に追い出された後、超常現象に巻き込まれて世界を渡ったのだ。そして誰もいなくなった桜屋敷で、巨人のメイドに保護されて、今はあちら側の桜屋敷に居る。

 巨人のメイドが見た夢の中での情報から推測した結果だ。

 ……神が本当に居るなら私はその神が憎い。この手で殺したいほどに憎い。

 聞いた話では、かなり下の兄の状態は悪いらしい。一見すればメイドとして……あの下の兄。何であちら側でも小倉朝日の姿で女装しているのだろうか?

 いや、何となく分かる。恐らく桜小路遊星がいるから、自分は大蔵遊星に戻れないとでも考えて、小倉朝日に成り切っているのだろう。一種の防衛本能に近い。そうしなければ精神を保てないほどに、下の兄は追い込まれている。

 自分の現状。ルナちょむや桜屋敷にいる全員に対して行なった事への申し訳なさと罪悪感。

 下の兄は、自分が誰かにやられた事に対してはポジティブに考える。その反面、自分がしてしまった事に対してはトコトンまでネガティブに考えて自分を追い込んでしまう。しかもあっちには成功した自分が居る。

 この状況に追い込まれたら、下の兄じゃなくても大半の人間が参ってしまう。そんな環境下で耐えられているのは、奇跡に近い。

 彼方の巨人のメイドは、どうやら下の兄に何か負い目でもあるのか、深く踏み込もうとしないらしい。

 一体何があったのか?

 後、此方側の巨人のメイドが。

 

『あの……本当に男性なのですか? 仕草や行動が全部女性にしか見えなかったのですが?』

 

 ……下の兄。貴方は居なくなってからの一年。一体何をしていたんですか?

 

 

【九月中旬】

 日に日に巨人のメイドから教えられる下の兄の状況に、私達は焦りを覚えていた。

 下の兄の精神は、当初の私達の考えよりもずっと不味い状態にある事が分かった。

 ……服飾をやっていないのだ。あの、服飾の為なら女装までしてフィリア女学院に入る覚悟を持った下の兄が、服飾に関わる事を全て放棄して、桜屋敷の管理や家事だけに没頭している。

 ルナちょむがアトリエや私の部屋に行かないのかと質問すると、巨人のメイドは。

 

『その場所には徹底的に近づかないようにしているようです。彼方の私も近づけないように率先してやっています』

 

 ……すぐにでも会いに行きたい。でも、行く事は不可能だ。

 どうやって平行世界なんて場所に行けば良い。未だにあの部屋で何故平行世界が夢として見られるのか分からない。どうする事も出来ない自分に苛立ちを覚える。

 彼方の私は……秘書をしている上の兄に捜索を依頼したようだが……何故上の兄を信頼出来るのか分からない。

 と言うよりも、本当に彼方側では何があったのだろうか?

 私が就きたくもない大蔵家の当主になっていて、しかもその秘書が畏怖と恐怖しか抱いていない上の兄。

 …どんな経緯を辿れば、そんな未来に辿り着けるのか分からない。

 ルナちょむ達も、『あの学園長が秘書?』と、全員が首を傾げていた。絶対に在り得ない。私の下に就くぐらいなら、私を踏み倒して自分が上に立つのが本来の上の兄だ。

 『晩餐会』での事と言い、彼方の大蔵家は本当にどうなっているのだろうか?

 因みに此方の大蔵家は、絶賛争い中だ。お爺様も遂に本腰を入れたようで、上の兄はかなり追い込まれているようだ。一見、拮抗しているように見えるようだが、確実に上の兄は追い込まれている。

 お爺様は一代で大蔵家を世界に名だたる大財閥に伸し上げた人物。上の兄も類まれなる才能を持っているが、経験の差と上の従兄弟と共に居るお爺様相手には、やはり分が悪かったようだ。

 せめてこうなる前に大蔵家内で味方が居ればよかったが、上の兄は孤高を選んだ。

 今更私が出ても遅い。と言うよりも散々才能が無いと言われた私が出て、どうにかなる状況ではない。

 何より私は……上の兄の為に何かをしたいとは思えない。下の兄が居れば、何があっても上の兄に力を貸していただろう。

 あの下の兄は誰よりも上の兄を尊敬していたから。彼の為なら、私も力を貸した。

 ……此処まで書いて何となくわかった。

 下の兄だ。あの本当の家族のような大蔵家を作り上げたのは、きっと向こうの下の兄が頑張ったからだ。

 彼の為なら、私は成りたくもない大蔵家当主の座に就いても良い。でも、下の兄は居ない。

 上の兄の命運を分けたのは……きっと下の兄だ。

 この事は隠しておこう。下の兄が知ったら、自分を追い込みかねない。

 貴方はやっぱり大蔵家に必要な人間だったんです、下の兄。

 

 

【九月下旬】

 由々しき事態の報告が、巨人のメイドから告げられた。

 彼方側にいる下の兄が、桜屋敷を出ていくつもりらしい。原因は、彼方側の下の兄とルナちょむの子供達が日本に帰国するかららしい。

 アホかと思わず思ってしまった。だって、桜屋敷を出たら下の兄には本当に行く当てがない。

 戸籍も無い下の兄が桜屋敷という安全な場所から出たら、どうなるか分かりきっている。

 ……いや、多分下の兄は桜屋敷を出て、彼方側の実のお母様の墓に行ったら、きっと其処で自分を終わらせるつもりだ。

 焦りが募る。彼方の私は未だに下の兄を見つけられずにいる。上の兄は一体何をしている!?

 複雑だが、もう彼方側に期待するしかない。彼方の巨人のメイドも何か手を打っているらしい。

 それに賭けるしかない。下の兄、ルナちょむ達は貴方がした事を受け入れているんです。

 だから、自殺なんてしないで下さい。

 

 

【十月中旬】

 遂に彼方側のルナちょむと下の兄の子供である『才華』と『アトレ』が帰国してしまった。

 タイムリミットが来てしまったと絶望しかけた時、彼方側の上の兄が動いてくれた。巨人のメイドの報告では、何とか下の兄は桜屋敷を出るのを止めてくれたようだ。

 ルナちょむ達と安堵の息を吐いたが、続いて出された報告に桜屋敷全員が唖然となった。

 何と息子である才華が、女装してフィリア学院に入学すると言い出したらしい。

 ……親子二代で何をやっているんだと、心から思った。

 ルナちょむなんて。

 

『大蔵の遺伝子には女装癖でも在るのか? 言っておくが、私の家系に女装する人間なんていない。間違いなく、朝日の血の方が原因だ』

 

 言い返す事は出来なかった。提案したのは私だし、実行したのは下の兄だ。

 

『桜小路家のご子息が女装して学院に通おうとするばかりか、誰かに仕えようとするなんて……小倉さんは優良株だと思っていましたが、女装癖の遺伝子があるとしたら……止めておいた方が良さそうですね』

 

 どうやらメイド長は下の兄をルナちょむの相手候補から外すようだ。

 ミナトンと思わずガッツポーズをし、黒髪の人はルナちょむが描いた『才華』の絵を見て女装が似合うと思って目を輝かせていた。スイスの人は呆れていたが、付き人のオカマの人は微笑んでいた。

 因みにその後に、ルナちょむが何故かメイド長と言いあっていた。私とミナトンはメイド長を応援している。

 まあ、下の兄が帰って来れたとしても、ルナちょむが付き合う事はない。

 二人の相性は認め難いが最高だ。

 彼方の世界のように下の兄とルナちょむが結ばれる可能性は確かにあったに違いない。でも、もう無理だ。

 下の兄はルナちょむに対して罪悪感を抱えてしまった。それも一年間という時間を経て、その罪悪感は途轍もなく大きくなっているに違いない。これで対等に付き合う事は不可能だ。

 とにかくこれで後は彼方の上の兄が何とかしてくれるだろうと私達は思ったが……巨人のメイドの話は終わってなかった。

 ……下の兄は結局桜屋敷から出て行ってしまった。

 何故と思ったが、すぐに理由が分かった。どうやら『才華』の話の中に、仕える相手である主を軽んじる言葉があって下の兄が泣きながら怒り、『才華』を叱りつけた。

 上の兄と共に桜屋敷を去ったようなので、一先ずは安心出来る。

 別世界とは言え、上の兄を信用しても良いのかと思うが、これまで私が見た夢では上の兄はかなり変わっていた。

 別人としか思えないほどに、彼方の上の兄は家族を大切にしている。だから、下の兄の事も何とかしてくれるに違いない。

 ……凄い複雑だが。

 

 

【十一月中旬】

 可笑しい。一か月も経つのに、彼方の上の兄が彼方の私に下の兄を接触させようとしない。

 と言うよりも、未だに下の兄の事を報告さえしないどころか、捜索を打ち切られたとあっちの私が嘆いていた。

 何故、あっちの私に下の兄を接触させないのだろうか?

 

 

【十二月下旬】

 今年のフィリア・クリスマス・コレクションで、ルナちょむの作品が最優秀賞を取った。

 背の低いメイドが頑張った。去年と違って班が別だったスイスの人が悔しがっていた。黒髪の人も別の班だったが、此方はルナちょむを祝福していた。

 モデルだったミナトンは、製作した衣装を桜屋敷から出られない私の為に、目の前で着た姿を見せてくれた。

 何時か私が描いたデザインも衣装として世に出せるようになるのだろうか?

 そのパタンナーが下の兄だったら最高なのに。

 

 

【十二月下旬】

 フィリア・クリスマス・コレクションが終わった後に、上の兄からルナちょむを経由して呼び出しが掛かった。

 今更何の用なのだろうかと思った。ルナちょむ達も無視して良いと言ってくれたが……私は会いに行く。

 恐らく、上の兄と会うのはこれが最後になる。彼は今年でフィリア女学院の学院長を辞めて、欧州方面に行く。

 今、こうしている間にも大蔵家と彼の争いは続いている。

 状況は残念ながら、上の兄が不利だ。何故なのか分からないが、彼に付き従っていた者達が少しずつ離れて行っている。その分争いは激化しているので、かなり経済圏に影響が出ているらしい。

 事前に情報を得ていたルナちょむや、黒髪の人、スイスの人、ミナトンの家はこの難局を乗り切れそうだが、幾つかの家は被害を被っている。

 だが、あの上の兄は止まらないだろう。

 これがきっと最後の機会だ。私と上の兄が会える最後の機会。

 下の兄の代わりに、彼の真意を聞きに行こう。

 

 

【十二月下旬】

 上の兄に会って来た。

 久々に会った彼は、去年最後に会った時よりもやつれていた。一日、いや、一分一秒ごとに変わっていく現状に彼も神経を削っているのだとすぐに分かった。

 ……聞かされた話は衝撃を覚えた。

 上の兄は……下の兄と血が繋がっていなかった。母親の方だけではない。父親の方も。

 上の兄は……大蔵の血を引いてなかった。

 この情報は既に経済界や政財界に流れているようだ。それで分かった。

 何故上の兄の担当で支配下にあった欧州方面でありながら、彼から離れている企業や実業家達が居たのかが。

 今のところはギリギリ耐えられているが、一歩間違えば一気に崩れ去るほどに彼の周囲は追い込まれている。

 だから、これ以上日本に上の兄は居る事が出来ない。欧州方面で陣頭指揮を取らないといけないからだ。

 私を呼び出したのは、もう私に干渉する気はないという意思を伝える為。来年からは表に出ても問題はなくなった。

 フィリア女学院に通いたいのなら、好きにしろと言われた。そのぐらいの貯金はあるので確かに問題はない。

 後……下の兄の事も聞かれた。

 下の兄の現状を言える訳が無かったので、未だに行方が分からないと伝えた。

 それを聞いた上の兄は。

 

『ククッ、奴は最高の復讐をしたな。まさか、奴が消える事で此処までの事態に追い込まれるとは思ってもみなかったぞ……これ以上にない程の復讐だ。何処かで追い込まれているこの俺を笑っているのだろう』

 

 キレた。私はキレて、上の兄に怒鳴った。

 下の兄が復讐なんて考える筈が無いからだ。あんな状況に追い込まれていなければ、大蔵家を敵に回してでも上の兄に協力したと。

 何を馬鹿なと言う顔をされた。下の兄が居ないのだから、何を言っても通じない事は分かっている。

 それでも、私は上の兄の考えを全力で否定した。

 だってそうだ。下の兄は何があっても上の兄を尊敬しているからだ。

 服飾の授業を奪われた時も、自分の才能無さを嘆くだけで、一度たりとも上の兄に対する不満や怒りを漏らしたりしなかった。

 届かないと分かっていても、私は言い続けた。

 話にならないと上の兄が話を中断しようとしたところで、ルナちょむがメイド長を伴ってやって来た。

 その手には、下の兄が居た頃に製作していながら中断したクアルツ賞の衣装があった。

 何時か自分一人の力でルナちょむは作り上げるつもりだったようだが、縫製の技術が下の兄に及ばないので製作を躊躇っていた。だから、中断したところで製作は止まっている。

 上の兄はその作品を見て固まった。ルナちょむはそんな上の兄に言った。

 

『朝日には確かな才能が在った。もしもこの衣装を仕上げていれば、貴方も認めていただろう……私の心の弱さが朝日の才能を発揮する機会を奪っていた。だから、これを持って来た。貴方ほどの人物なら分かる筈だ。この衣装に込められた朝日の才能が』

 

 暫らく上の兄は確かめるように、衣装を触り続けた。

 

『……フン。こんな不完全な作品で才能が在るかなど分かる筈があるまい。だが、もしもこのまま製作を続けていれば、クアルツ賞を取る事は出来たかも知れんな。惜しい事をしたな、桜小路』

 

 上の兄は、下の兄に才能が在った事を認めた。

 それから私に、下の兄の母親の話をした。多分、もう自分には伝えられる機会が無いから、代わりに伝えさせるつもりで話したのだろう。

 ……複雑だ。色々と言いたい事があったのに、こうしてみるともっと兄妹として話したかったという気持ちが湧いて来る。その原因は、きっとの彼方の世界で見た上の兄の姿があるからだ。

 彼方のように家族に成れたかも知れない。でも、もう無理だ。上の兄は決めてしまった。

 そして争いが始まってしまった今は、もう止まる事は出来ない。

 上の兄か大蔵家のどちらかが勝たない限り、この争いは終わる事が出来ない。

 

『最後に一つ言っておくぞ、愚かなる妹。貴様には才能が無い訳では無い。大蔵家の後継者にならないように、この俺がストッパーをかけていた。だが、もう俺はお前に干渉する事は無い。好きに生きろ』

 

 それが上の兄の最後の言葉だった。

 もう会う事は無い。きっと私達の道が交わる事は……二度と無い。

 さようなら、上の兄。

 

 

【一月上旬】

 大蔵家と上の兄の争いは本格化した。長期戦ではなく、短期戦で挑むつもりのようだ。

 結果がどうなるかは分からない。それに私も其方ばかり気にしては居られない。

 漸く、彼方の私が下の兄の存在を知った。

 ……『晩餐会』で思いっきり恥をかかされた事は忘れない。聞いていたルナちょむは、思いっきり笑っていたが、その中に自分も含まれている事を知った時は、彼方の上の兄に怒りを覚えたようだ。

 と言うか、下の兄は彼方では上の兄の『娘』となってしまった。

 桜屋敷に居る全員が微妙な顔をした。男なのに『娘』。しかも父親は上の兄。

 下の兄。貴方は男に戻れる日が来るのでしょうか? 妹、かなり心配しています。

 

 

【一月中旬】

 下の兄が元気を取り戻してくれた!

 服飾に戻る決意もしている! この事実に桜屋敷で下の兄の事を知っている全員が我が事のように喜んだ。

 本当に良かった。

 ……だけど、油断は出来ない。服飾に戻る決意にしても、『桜小路遊星に挑む』という本来の下の兄が考えないような気持ちで決意している。この事から考えて、下の兄はまだ罪悪感を抱えている。

 何時以前の状態に戻っても可笑しくない程に危うい状態だ。此方からはどうする事も出来ない。

 彼方の私に期待するしかない。

 ……でも、下の兄との恋愛は認めない。その立場には私が居たいから。

 

 

【一月下旬】

 頭を思いっきり抱えたくなった。下の兄が再び女装して朝日としてフィリア学院に通う事になったのも抱えたくなったが、それよりも問題なのは、『才華』という向こうの私曰く甘ったれの行動がお爺様にバレかけているらしい。

 依然、お爺様の娘だという大蔵ルミネは、お爺様はかなり過保護に扱っているらしい。そんな人物が選りにも選って、『才華』のせいで裏社会と繋がっている家の娘と接触してしまった。

 冗談抜きで不味い。事実を知ったらお爺様の怒りは、彼方の桜小路家にまで及んでしまう。

 そうなったら彼方の下の兄の幸せな日々は終わってしまう。

 因みにこの話を聞いたメイド長は……。

 

『小倉さんはお嬢様の相手候補から外しましょう。優良株なのは間違いありませんが、将来が心配過ぎて、私が心労で倒れてしまいそうです』

 

 完全に下の兄とルナちょむの芽が潰れた事に、ミナトンと一緒に祝杯を上げた。

 ルナちょむが不機嫌そうな目を向けてきたが、何も言わなかった。

 きっとルナちょむは分かっている。ミナトンと私がしている事は……空元気だ。

 ……下の兄に会いたい。夢のような形で見るんじゃなくて、会話をしたい、触れあいたい。そんな気持ちで一杯だ。

 でも、それはどうやっても出来ない。可能性があるとすれば……下の兄が消えたあの日。

 あの日に下の兄と同じ行動すれば、もしかしたら彼方に行けるかも知れない。だけど、行けばきっと帰って来れない。下の兄が既に証明している。

 此方に家族が居るミナトンには、絶対に無理だ。

 大蔵家を出た私は出来るが……正直言って迷っている。去年までならきっと迷う事無く下の兄の下に行けた。でも、今はルナちょむ達と別れたくない気持ちもある。

 こんなに助けられたのに、何の恩も返さずに居なくなるような事をしてしまって良いのだろうか?

 メイド長はフィリア女学院に通うなら、早めに応募した方が良いと言っている。

 下の兄の下に行きたい。会って伝えたい事が沢山ある。

 ルナちょむ達とも離れたくない。ルナちょむが言っていた一緒にブランドをやるという夢に進みたい。

 ……両方を選ぶ事は出来ない。どちらか片方しか選ぶ事が出来ない。

 どちらを私は……選ぶべきなのだろうか?




本編にりそな(朝日世界)が登場する条件は、朝日との間に誰かとの好感度が【七月中旬】までに一定位置以上進んでない場合です。
これに関しては2世界のりそなも含まれていて、朝日を支えられる者がいないと判断されれば出て来ます。
支えられる者がいると判断した場合は、本来の世界でルナと一緒にブランドを開くルートに入ります。
次回から本編に戻ります!


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続・りそなの日記

明けましておめでとうございます!
昨年は沢山のお気に入り、評価、感想を頂き、本当に皆様に感謝しています。
本年も宜しくお願いします。
アンケートの結果は『続、りそなの日記(四月上旬)まで 』になりました。
と言う訳で投稿いたします。

獅子満月様、えりのる様、秋ウサギ様、はしき様、障子から見ているメアリー様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


『続・■■りそなの日記』

 

【一月下旬】

 夢の中で下の兄が拉致された。まあ、拉致した犯人はすぐに分かったので慌てて起きることは無かった。

 隣で眠っていたミナトンと京都の人が、嬉し涙を流しながら起きていた。二人とも、夢の中でとは言え、漸く下の兄の元気な姿を見れた事が心から嬉しかったようだ。

 私も下の兄の元気に頑張っている姿が見られて、寂しさと嬉しさを感じている。

 因みに今、下の兄が使っていた部屋には、以前よりも大きなベッドが置かれている。以前のベッドは最大で二人ぐらいしか眠れなかったが、今のベッドは三人は眠れる。

 このベッドの指示はルナちょむが出した。

 

『これからは夢でとは言え、朝日の姿を見られる機会が増えるのは間違いない。その機会を眠るところが無いという下らない理由で逃したくはない』

 

 というルナちょむの言葉に、ミナトン、京都の人、スイスの人も同意し、メイド長も他家のお嬢様を床で何て眠らせられないと言って今のベットになった。

 おかげで以前よりも部屋が狭く感じるが、そんな事は下の兄の姿を見られるなら些細な事だ。

 朝食で見た夢を話したら、ルナちょむは大変嬉しそうにしていた。

 何せ二月の中旬頃から、下の兄は彼方のルナちょむの下に行く。

 漸く夢でと言え、下の兄の姿を見られるのが嬉しいんだろう。ただ、スイスの人は不機嫌そうにしていた。いまだに自分だけが下の兄と会話していない事が、心から不満のようだ。

 それと朝食の席で、夢の中で起きた話題を話していたら、彼方の京都の人が描いたという下の兄をモデルにしたデザインについての話が出て来た。

 だけど……此方の京都の人は、『自分は朝日をモデルに考えたデザインを描いていない』と言った。

 この点だけでも、彼方と此方では流れが違うという事が分かる。まあ、これは仕方ないと私は思う。

 だって、彼方の方は夏を越えて下の兄が桜屋敷で過ごしていたが、此方では夏に入ってすぐに追い出されてしまった。

 桜屋敷から下の兄がいなくなった後、京都の人は付き人のポゥの人に下の兄の捜索を依頼したとはいえ、心配で気が気ではなかったそうだから、デザインを描いている余裕が無いのは当たり前だ。

 因みに、京都の人は……。

 

『これから彼方の私が日本に帰国するまで、毎日あの部屋で寝かせて貰うわね』

 

 有無を言わせない迫力の籠もった声に、ルナちょむも頷くしかなかった。代わりに下の兄が、二月に彼方のルナちょむの下に着いたら自分がと言っていたけど。

 ……その背後で一緒に眠る事になりそうで、憔悴し切ったメイド長の姿を私は見ていない。

 それと……考えた末に、私はフィリア女学院に入学することに決めた。

 何をして来るか分からなかった上の兄がいなくなった今、桜屋敷に引き篭もっている事に意味は無い。夏に試すかは一先ずおいておくとして、先ずは服飾を学ぶべきだ。

 幸いと言うべきか私個人でも服飾学院に通えるだけの貯金はあるので、通うのには問題は無い。

 警戒するなら上の従兄弟だが、上の兄とは離れたし、事前に協力もしないと告げていたので何かをして来る事はないと思う。

 さて……そろそろあの部屋で寝よう。二月からまた彼方の私と離れてしまう。

 そうなったら下の兄の姿が見れなくなってしまう。京都の人ではないが、私も下の兄の姿を確認出来るのは心から安堵出来るから。

 

 

【二月上旬】

 今日は、スイスの人が朝から付き人のオカマの人に向かって騒いでいた。

 まあ、それは仕方がない。夢の中で、漸く彼方のスイスの人が下の兄と出会えたが、どうやら連絡した京都の人は彼方のスイスの人は既に下の兄の事を知っているものだと思っていたようだ。

 と言うのも、下の兄が上の兄の指示でロンドンで過ごしていた時、彼方の下の兄の実のお母様のお墓参りに行った時の護衛をしたのが、何とオカマの人だった。

 明らかにスイスの人を驚かせるために隠していたのだろう。現に夢の中で驚いて騒ぐスイスの人を楽しそうに彼方のオカマの人が見ているのを私は見た。

 それだけだったら此方のオカマの人に、スイスの人が騒ぐ理由は無いのだが、オカマの人がその場面を見られなくて残念そうにしていたのが騒ぐきっかけだ。

 スイスの人は面白い人だ。ルナちょむから間違った日本語を教えられて、時々驚くような行動をしてくれるから私も楽しい。

 因みにルナちょむは少々機嫌が悪かった。自分のメイド(既に桜屋敷から解雇済み)なのに、下の兄の姿を確認するのが一番最後なのが不満のようだ。

 まあ、気持ちは分からないでもない。だけど、それ以外に予想外の話が私の下にやって来た。

 上の従兄弟が、私と話をしたいと桜屋敷に連絡して来たのだ。

 居場所がバレているのは可笑しくない。上の兄が私の居場所を把握していたんだから、上の従兄弟が把握していて当然だ。

 一体何の話だろうか? まさか、フィリア女学院に通うのを止めろと言うつもりなのだろうか?

 桜屋敷の主である、ルナちょむに『どうするのか?』と聞かれたが……とりあえず私は会ってみるつもりだ。

 この屋敷の皆には迷惑をかけたくない。

 

 

【二月上旬】

 上の従兄弟が桜屋敷にやって来た。

 随分と早い来訪だが、欧州の方で上の兄とやり合わないといけないんだから早く来るのは当然だ。

 久々に会った上の従兄弟は、社交辞令なのか『元気そうで良かったよ』と先ず言ってから話を始めた。

 その内容は……大蔵家の近況だった。遂にお爺様が上の従兄弟を次の当主に任命したらしい。

 上の兄を始め、真星一家が総出で『晩餐会』に出席しなくなった事にお爺様は激怒し、上の従兄弟こそ次の大蔵家を担う者として相応しいと宣言したそうだ。

 任命された時は、笑いを堪えるのが大変だったと、上の従兄弟は笑いながら私に話した。

 恐らく……大蔵家内で上の従兄弟の最終目的を知っているのは私だけだ。実の父親である富士夫叔父様も、弟であるト兄様も知らないに違いない。

 そして……私もこの話を誰かにするつもりはない。潰れてしまえ、大蔵家。

 他にも、約束の先払いだと言って、私の名字が『小倉』になった事も話してくれた。良く、お父様やあの女が許してくれたと思ったが、驚いたことにあの女は上の兄が独立する為に動き出した時点で、精神病院に入ったらしい。

 不義の事がバレ、しかも上の兄がどうやっても大蔵家当主になれない事で精神の均衡が崩れたのだろうと上の従兄弟は言っていた。その介護の為なのか、マンチェスターの屋敷に籠っていたお父様は今、日本の屋敷で過ごしているそうだ。

 とは言っても、上の兄から殆ど一家の権力を奪われていたお父様が出来る事は何も無い。

 残された財産の殆どを私に渡すことと、安全を保障する契約を上の従兄弟は交わしたそうだ。大蔵の名字を早めに私に捨てさせたのは、下手に『大蔵里想奈』が出て来るのは困るかららしい。

 何だったら在学中の学費も支払っても構わないと上の従兄弟は言ってくれたが、丁重にお断りした。あの蜘蛛に借りを作るのは宜しくない。

 話はそれで終わり、上の従兄弟は去って行った。

 ……きっとあの上の従兄弟は、夢で見ている上の従兄弟のように成れないだろう。

 あと、善意でお爺様の周囲には気を付けるように言っておいた。特に女性関係を。

 何を馬鹿なという顔をされた。私だってあり得ないと思っているけど……夢の中で大蔵ルミネという存在を見ているだけに、絶対にあり得ないと言い切れない。

 私の忠告を聞くか聞かないかは上の従兄弟しだいだ。どちらにしても、新しい叔母が出来たとしても……私がその叔母に会う事はない。

 私は……『小倉里想奈』だからだ。

 

 

【二月中旬】

 早朝、どうなったと思いながら食堂に行ってみると……ルナちょむがテーブルに突っ伏していた。

 ミナトンは事情が分かっているのか苦笑いを浮かべ……メイド長は顔を暗く俯かせながら立っていた。

 どうしたのかと食堂にやって来た全員が思った。だって、メイド長はともかく、ルナちょむは昨晩寝る前に漸く下の兄を見られると喜びながら、あの部屋に入っていった。

 何があったのかと、メイド長に聞いたら……桜小路家存続が危ぶまれる危険を才華がやっていた事を教えられた。

 なんでも、彼方のフィリア学院男子部存続の為に、お爺様の娘である大蔵ルミネとの結婚話を持ちだしていたそうだ。

 聞いた時は……『アホですか!』と心から叫んでしまった。いや、だって。あのお爺様だ。

 自分の娘に、下らない理由で結婚話が出されたと知ったら、怒り心頭で本気で何をするか分からない。

 たとえ彼方の下の兄が婿入りした桜小路家とは言え、例外ではない。現にとある出来事で真星お父様と富士夫叔父様は、次期当主候補から外され、いまだにその件をお爺様は許していないからだ。

 その件でルナちょむも落ち込んでいるのかと思っていたが、どうやら違うらしい。

 

『人とは恋をすれば本気で変わるものなんだな……まさか、この私があんなにまで変わってしまうとは夢にも思っていなかった……とりあえず、朝日が無事に日本に帰れる事を願う……まあ、メイド服姿の朝日を見たい気持ちは少し分かる』

 

 っと、不穏な言葉を言って沈黙した。

 何やら良からぬ事を彼方のルナちょむは企んでいるようだ。

 下の兄……どうか無事に日本に辿り着いて、彼方の私の下へ辿り着いて下さい。

 

 

【二月下旬】

 フィリア女学院の入学試験を終えた。私は考えた末に、一般クラスの方を受験する事にした。

 特別編成クラスに通えるだけのお金はあるが、下手にお嬢様クラスである特別編成クラスに入って、『大蔵里想奈』だと気がつかれるのは不味い。

 一般クラスなら私の顔を知っている相手はいないだろうし、何の憂いもなく『小倉里想奈』と入学出来る。

 勉強の方は桜屋敷に引き篭もっている間にやっていたので問題は無い。自己採点でも問題は無かった。デザインの方も、ルナちょむ達に中々のものだと言われているから大丈夫な筈だ。

 もうすぐ引き篭もり生活も終わる。その事に少し感慨深いものを感じながら、私は下の兄が無事に日本に帰国出来る事を願った。

 

 

【二月下旬】

 遂に彼方のルナちょむがやらかしたようだ。

 その証拠に、今日も朝からルナちょむはテーブルに突っ伏していた。一応何があったか尋ねたが、自分の恥部は語りたくないのか、顔を真っ赤にして首を横に振って沈黙した。

 一緒に寝ているメイド長は……。

 

『良かった! 良かった! 小倉さんが無事で! 危うく彼方のルナ様にとんでもない目にあわされるところでした! 彼方の私! 良くやりました! ……でも、私も恋愛したい』

 

 ……追い出した張本人の筈なのに、下の兄の無事を心から喜んでいた。最後の方は落ち込んでいたが。

 本当に何があったのだろうか? メイド長も主人の恥部は語りたくないのか、具体的な話は教えてくれなかった。

 因みに私も昨日は眠らせて貰った。事情を知った彼方の私が、日本にいる彼方の下の兄の息子達に何をしたのか知る為だ。

 どうやら彼方の私は、上の兄を通して現状を下の兄の息子に知らせたようだ。これで少しは反省……いや、かなり反省しただろう。彼方ではどうやら信じられないぐらいに、上の兄はこれまで甥と姪を甘やかして来たそうだから。

 恥ずかしさで話せないルナちょむの代わりに、メイド長が話してくれたところ、なんと建てたばかりの高層マンションをあっさりと与えたり、世界に50台しかない車を卒業祝いだと言ってプレゼントしたらしい。

 ……聞いた時は、呆然としながら口を大きく開けてしまう程に驚いた。人は変われば変わるものなのだと心から思った。

 因みに私はその話を聞いても全く羨ましくなかった。寧ろ其処まで期待されていながら、期待に応えられなかった時の上の兄の怒りを考えると身体が恐怖で震えてしまう。今すぐにベッドに入り込んで、毛布を被って芋虫になってしまう程に……怖い。

 ……だからと言って、下の兄の心の傷を抉って泣かせた事を赦すつもりはないが。それとルナちょむからは落ち着いたら何があったのか聞き出すつもりだ。私達の時には根掘り葉掘り詳しく下の兄の話を聞いて来た。

 今度は私達が聞く番だと全員が思っている。これはあくまで下の兄の現状を聞く為だ。

 決して、これまで散々弄ってくれた仕返しではない。

 

 

【三月上旬】

 今日は夕方に帰って来たメイド長とオカマの人は、まるで死刑執行前の罪人のように暗い雰囲気を発していた。

 新しいフィリア女学院の学院長が決まったらしい。その人物を大層二人は苦手としているらしく、『関わりたくない』と呪文のように呟き続けていた。

 流石のルナちょむも、二人の様子にからかうことも出来ず、部屋に戻って休めと優しく言葉を掛けていた。

 直後に、私とスイスの人はルナちょむの声音に引いたが。

 いやだって、あのルナちょむが本気で優しい声を掛けていた。性格を知っている者なら、誰だって引きそうだ。現にミナトンと京都の人も、引くまではいかなくても苦笑いをしていたし。あ、でも、下の兄なら『お優しいルナ様!』とか言いそうだ。

 後、学院から合格通知が届いた。驚いたことに結果は、首席合格だった。

 ……だてに引き篭もりながら服飾の勉強を続けていた訳では無いという事だ。

 だけど、ルナちょむが告げた事実に絶望した。

 

『おめでとう、りそな。フィリア女学院では入学試験を首席で合格すると、新入生代表としてスピーチを入学式ですることになっている。私も首席で合格したが、特別編成クラスと言う事で辞退する事が出来た。だが、君は一般クラスでの首席合格だから断る事は出来ない。入学式では君がスピーチする姿を楽しみにしているよ。因みに辞退する事は認めない。後、壱与に入学式をビデオで撮っておくように命じておいた』

 

 ……年単位で引き篭もっていた私にはキツ過ぎる!

 何とか辞退したいが、一般クラスで入学して、大蔵の一員じゃなくなった私には辞退する事は出来ない!

 下の兄! 妹はピンチです! 助けて下さい!

 

 

【三月中旬】

 漸く下の兄が日本に帰国した。ルナちょむは下の兄を見ることが出来なくなった事に残念そうにしながら、同時に羞恥心から解放される事に安堵しているという変な心理状態になっていた。

 ……後から教えて貰ったところ、彼方のルナちょむは彼方の下の兄の『小倉朝日』としての女装姿の写真や、当時着ていたメイド服を後生大事に宝物として隠し持っていたそうだ。

 えーっと、ドン引きしてしまった。提案してやらせた私が言えた事では無いが、流石に女装姿の写真を後生大事に隠し持っていたりはしない。私が下の兄をからかう為に撮っていた写真も、大蔵家を出る時に処分したし。

 因みにその事を話したら、ルナちょむと京都の人に怒られた。此方では唯一かも知れない朝日としての下の兄の写真が失われた事に、腹を立てたようだ。

 何とか復元できないかと相談する二人の姿には、やはり引いた。幾ら似合っていたとしても、女装姿の写真を大切にするのはどうかと心から思った。

 ……彼方にはその写真が大量にあるのだと思うと、彼方の二人の下の兄の心労が心配だ。

 どうか二人とも頑張って耐えて下さい。

 

 

【三月中旬】

 彼方の私が下の兄と再会した。直後、下の兄の姿を見て私も彼方の私も言葉が出なかった。

 ……凄く綺麗になっていた。正体を知らなければ、本当に男だとは思えないほどに下の兄は美人になっていた。

 えっ? 何故と思ったが、下の兄が言うには勝手な行動をした事に腹を立てた彼方の上の兄が、学院に通う為に就く事になった付き人の女性に命じて本格的なメイクをされたそうだ。

 ……そういえば、下の兄は女装しても薄いメイクしかしていなかった。本人が頑なに拒否していたし、私も流石に本格的なメイクをするまでもないと思っていたからだ。

 ……薄いメイクだけで充分に下の兄は女性に見えたからだ。

 この話を朝食の席でしたら京都の人が目を輝かせていた。どうやら、本格的なメイクの姿をした下の兄を想像して、どうしても見たいと思ったようだ。とは言っても、下の兄が京都の人に再び会えるとしたら夏頃だから、見られるとしてもかなり先の話だ。

 しかし……下の兄はちゃんと男性に戻れるのだろうか? どんどん戻れない状況になっていくことに、妹は一抹の不安を感じます。

 

 

【三月下旬】

 いよいよフィリア女学院への入学式の日が迫って来ている。つまり……私の入学式の新入生代表の挨拶の時が。

 ルナちょむ達は口々に楽しみだと言っている。人の気も知らないで。

 年単位で引き篭もっていた私には、ハードルが高すぎる! この心の痛みは、下の兄の姿を夢で見る事で何とか耐えている。

 ただ……最近、どうにも夢の調子が可笑しくなる時がある。今までは夢で見た内容は、全て覚えていたのに、所々朧気になってしまう時が少なからずあった。これは私だけじゃなくて、他の皆もだ。

 まさか……彼方との繋がりが薄れてきている? 何故?

 この不可思議な現象が何時か消えてしまう事は考えていた。そしてそれを恐れていた。

 だって、そうだ。この夢という形でしか、私は、私達と下の兄との繋がりはない。下の兄を見るまでは、悪夢としか思えない夢だったが、今では唯一の繋がりだ。

 何か理由が在るはずだ。その理由を見つけられれば、夢として下の兄を見られるし……もしかしたら彼方に行く手段を見つけられるかも知れない。

 その為にも、まだ夢としての形だけでも繋がりが欲しい。下の兄、妹はやっぱり貴方に会いたいです。

 

 

【四月上旬】

 遂にフィリア女学院入学式の日が明日に迫って来た。

 明日を思うと、朝から憂鬱で元気なんて殆ど出ない。対してルナちょむは、朝から大変気分が良さそうだった。

 そんなに私の新入生代表の挨拶が楽しみなのか? 楽しみに決まっている。こっちからすれば本当にキツイのに。

 こんな事なら入学試験の時に、もうちょっと手を抜いておくべきだったと後悔する。

 ……明日なんて来なければ良いのに。

 

 

【四月上旬】

 いっそ恥ずかしさで消えてなくなりたい。

 入学式だから、午前中しか今日は授業がなかったのが本当に助かった。疲弊しながら帰って来て、即座に着替えてあの下の兄の使っていた部屋に置かれているベッドに倒れ伏した。

 とりあえずメイドが呼びに来るまで、眠らせて貰おう。彼方でも入学式の筈だ。

 ……果たして、あの下の兄は無事にフィリア学院に入学する事が出来たのだろうか?

 

 

【四月上旬】

 ……やらかしてくれた。やらかしてくれた! 彼方の下の兄とルナちょむの娘であるアトレが!

 下の兄に対して一番言ってはならない事を言ってくれた!

 余りの怒りに勢いよく起きてしまった。まだ、駄目なのだ。下の兄が自分が犯した罪と、向き合う為には精神の回復が必要だったのに、あのアトレという娘は回復し切れていない下の兄に罪を突き付けてしまった!

 巨人のメイドが夕食が出来たと呼びに来てくれたが、私の怒っている姿に驚かれた。

 この怒りはそう簡単に治まりそうにない。だって、そうだ。ルナちょむにしてしまった事に対して、一番後悔しているのは他ならない下の兄だ。

 何よりも部外者でしかないアトレという娘が指摘して良い事じゃないのに!

 食堂に先に居たルナちょむ達は、私の怒り様に動揺したが。事情を説明すると食堂に居る全員が不機嫌になった。

 特にルナちょむは。

 

『どうやら彼方の私と朝日は、自分の子供だからと言って随分と甘やかして育てたようだな。まさか、自分達のミスを棚に上げて、その責任を朝日に突き付けるとは……何よりも私の大切なメイドを傷つけたのは許さん』

 

 ミナトンとスイスの人は下の兄を心配し、京都の人はルナちょむ同様に怒っていた。

 元々京都の人は、下の兄と違って女性を軽んじるような発言をしていた才華に対して不快感を持っていた。

 夢で見る限り、才華の方は反省しているようだが、アトレの方はまだ甘えている部分があったようだ。どうやら彼方の私は、才華の方には愛憎に近い感情を抱いているが、アトレの方は少々甘やかしていたようだ。

 だが、今回は彼方の私もアトレに対して甘さを見せなかった。当然だ。

 事は桜小路家だけじゃなくて、才華が仕えている主人の家の存亡も関わっている。彼方の下の兄の幸せな生活を壊そうとした才華達に対して、彼方の私は甘さを捨てた。

 それでも心の何処かでアトレは何とかなると思ったのだろう。だから、下の兄がしてしまった事を指摘した。

 腹立たしくてならない。下の兄は彼方の私にとっても、大切な相手で家族だ。家族を傷つけられて許せる筈が無い。

 現に下の兄が止めていなかったら、アトレの事を彼方の私は叩いていた。

 だが、今はそんな事よりも下の兄の精神状態だ。漸く回復して来たのに、アトレの発言で間違いなくマイナスの方に戻ってしまった。

 下の兄なら大丈夫だなんて思えない。だって、本気であの下の兄が服飾を捨てようとしていたんだから。

 ルナちょむも、不機嫌そうにしていて、今日はあの部屋で眠ると言っていた。

 彼方の自分に報告が行くかどうかが気になったようだ。

 私は……今日はもう遠慮させて貰った。夢の中で下の兄が泣いている姿を見たりしたら、私はアトレを憎んでしまうかも知れないからだ。

 だけど、願う。どうか、下の兄が立ち上がってくれる事を。

 貴方の罪はもう、赦されているんです。下の兄に起きた酷い理不尽な奇跡。

 奇跡なら、下の兄が幸せになれるような奇跡が起きて欲しい。叶わないと分かっているのに、私はそれを願う。

 

 

【四月上旬】

 ………起きた。奇跡は起きた。

 私が望んでいるような奇跡じゃない。でも、小さな。本当に小さな奇跡が、私達の下に届いた。




今回は此処までになります。
最後に書かれた奇跡の部分は本編にも関わって来ます。
因みに朝日世界の桜屋敷の皆は、ルナ様を始めとして才華達の評価は余り高くありません。
特に瑞穂は、親友の朝日を傷つけて泣かせたり、女性を軽んじるような発言を才華がしてしまった事で、男性不信が悪化しています。後、言うまでもなく朝日世界の瑞穂の朝日の性別は、『朝日』と認識しています。


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対談の始まりin桜屋敷

本編の更新じゃなくて申し訳ありません。
息抜きに書いていた以前アンケートで案を出した対談話のプロローグが完成してしまったので、取り敢えず載せて見ます。
因みに本編のネタバレも少々含んでいますのでご注意を。

秋ウサギ様、kusari様、コルネリア様、dist様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

 深い穴が欲しい。地の底にまで届くような深い穴が。其処に入り込んで二度と外に出たくない。

 そして胃薬が欲しい。今すぐに、切実に欲しい! もう胃がキリキリして吐きそうだ。

 

「これが我々の世代で起きた出来事であり、お前達の父親が成し遂げた偉業だ。我が弟なくして今の大蔵家は存在しなかった」

 

「……お父様は、本当に凄い方だったのですね。今の伯父様のお話をお聞きして改めて実感いたしました」

 

 隣に座って僕と一緒に伯父様の話を聞いていたアトレが、感嘆しかないというように言葉を発した。

 僕も同じ想いだ。お父様の凄さは知っていたが、まさかこれほど凄い事を成し遂げていたとは夢にも思っていなかった。

 ……そしてその努力を無駄に仕掛けた自分に、異常なまでに腹立ちを覚えてしまう。いや、ほんとに。

 

「……お父様になんてお詫びしたら良いのか」

 

「流石に全て知った時は気絶しかけていたがな。我が子の話では、お前がルミネ殿との結婚話を持ちだした時も、その場にいた奴を含めた全員が言葉を失ったそうだ」

 

「……今更ながらですが、あの時、冗談だと分かっていたとはいえ、お兄様を諫めなかった自分を恥ずかしく思います」

 

 言った本人の僕はもっとキツイよ、アトレ。

 発案者で実行者なんだから。はあー、一年前と言うかアメリカで過ごしていた頃が懐かしい。去年は本当に色々あったから。

 今はお正月の時期で、学院は冬期休暇中。フィリア・クリスマス・コレクションを何とか乗り切り、大蔵家で行なわれた『晩餐会』への参加も終えた僕とアトレは、伯父様に桜屋敷に呼び出された。

 一体何の呼び出しだろうかと戦々恐々としながら、アトレと共にやって来ると、伯父様はお父様と大蔵家に関する昔話をしてくれた。何故急にと思ったけど、伯父様が言うには、『去年の功績を考えれば、今のお前達には知る権利がある』らしい。

 聞き始める前は、どんな事が語られるのかとワクワクしていたけど……今は胃がキリキリしていて気持ち悪い。

 

「……まさか、金子おばあ様がお父様に、そんな仕打ちをしていたとは夢にも思っていませんでした」

 

 僕やアトレにも優しくしてくれるし、お母様との関係だって良好な人だったから。

 

「今の母上は、嘗ての母上とは全くの別人と言って良いだろう。当時の頃は、この俺を大蔵家当主の座に就かせる妄執に囚われ、りそなに対しても娘というよりも新しい自分という意識を強く抱いていた。愛情はあっただろうが、それとて妄執から出た愛情でしかなかったがな。現にりそなが我が弟の側に就くと確信した時は、次男家と共謀してりそなの婚約話まで持ち込んで来たほどだ」

 

「あ、あの金子おばあ様が、そのような事を……」

 

「特に遊星の話を本人の前でするのは駄目だった。名前を聞くだけで嫌悪感を示し、ヒステリックな声を上げるほどだった」

 

「そ、其処までですか?」

 

「お前達からすれば信じ難い事だろうがな。だが、それが嘗ての大蔵家だった。遊星という存在は家内で知られていても、りそなを除いた誰もが気にもかけていなかった。この俺もだ」

 

「伯父様もですか!?」

 

 信じられなかった。だって、伯父様とお父様は本当に仲の良い兄弟にしか見えない。

 血の繋がりがなくても、本当の兄弟のように仲が良いのが伯父様とお父様だ。それなのに。

 

「だが、そんな中で奴はやり遂げた。以前にも才華には言ったが、お前達の父親は誰よりも強き意志を持っていた。奴は決して、折れず、曲がらず、最後には全てを纏め上げた。それを成し遂げる事が出来たのは、強き意志を持っていたからこそ……そんな奴が折れるとすれば……自らが引き起こした罪だけだ」

 

『……』

 

 誰の事を言っているのか、僕とアトレには分かった。

 伯父様の子供となって、僕とアトレに良い影響を与えてくれたあの人の事だ。今、あの人はマンチェスターに行っていると伯父様は教えてくれた。

 漸く、誇れる報告が出来た事を、今は亡き母に伝えに行くそうだ。

 あの人の正体を知った時は、僕とアトレはそれは驚いた。いや、驚いたどころの騒ぎでは済まない。

 僕は二度目の人生最大の衝撃を。アトレに至っては失恋を加えた衝撃を受けた筈だ。

 ……失恋してるよね? 流石に正体を知った今では、まだ正体を知らない頃に抱いた感情は……なくなったと思いたい。

 

「漸く奴も前を本当の意味で向いて歩けるようになった……全く、手間をとらせてくれる」

 

 そう言いながらも、伯父様。今の貴方の顔は喜びに満ち溢れてますよ。

 軽い雑談を終えると、僕らは部屋の外へと出た。

 

「しかし、才華。いい加減にその服を屋敷内では脱いだらどうだ?」

 

 今僕は自作のメイド服を着ている。急に呼ばれたから男性服に着替える余裕なんてなかった。

 そもそも住んでいるマンションには、誰かが部屋を訪ねて来て見つけられたりしたら困るから、男物の服は置いていないし。

 

「これは急に呼ばれたからです。それにマンションでの私は『小倉朝陽』ですから、男性物の服を着る訳にはいきません」

 

「……どうしてこのような価値観が固定されてしまったのか。総裁殿も嘆いていたぞ」

 

「ですが、お兄様を含めた女装関係のそもそもの始まりは総裁殿が提案したからなのでしたよね。いえ、私もお兄様がまさかアメリカに居た頃から、女装を隠れてしていたとは夢にも思っていませんでしたが」

 

「ククッ、だから今は頭を抱えている。己の業がこのような因縁を生み出すとは、当時の奴は夢にも思ってなかっただろう」

 

 僕だって夢にも思っていませんでした。いや、本当に。

 

「……あっ」

 

「ん? どうした、アトレ?」

 

「いえ……そのフッと思ったのですが、あの人がいた世界の方はどうなっているのかと思いまして」

 

「考えるまでも無いことだ。それと、その疑問は決して本人の前では口にするな」

 

 伯父様の言いたいことは、すぐに分かった。先ほどまでの話で、あの人がいない大蔵家がどうなるかなんて分かり切っている。

 ああ、でも以前仕えていた家の方はどうなのかな? 家の方はあの人が関わらない限り、大蔵家とは縁はなかった筈だから、大丈夫だと思う。でも、あの人の主人の方には何らかの影響が……。

 そんな風に考え事をしていたのがいけなかったのか。階段の手摺りの近くで僕は……。

 

「あれ、なんでこんなところにバナナの皮がって!? あああああああぁああぁぁぁ!!!」

 

「才華ああああーーーー!!!」

 

「お兄様ああああーーーー!!!」

 

 

 

 

 

「ん……お父さま……お父さま、たすけてくださ……いたっ! ん、つうぅ……」

 

 腰から走った痛みで、意識が戻って来た。

 ゆっくりと目を開ける。視界の先は真っ暗だった

 

「あれ? ……何で屋敷の中が暗くなって?」

 

 変だなあ? 階段から落ちる直前は、確かに電気が付いていた筈なのに。

 伯父様とアトレが慌てて電気を消したとか? ……流石にないかな。

 

「伯父様、アトレ! 僕は無事です!」

 

 取り敢えず2階にいる筈の二人に呼びかけてみた。

 ……返事がない? 可笑しいなあ? 疑問を感じながら、痛む腰を押さえて立ち上がる。

 ……やっぱり可笑しい。幾ら待っても電気が付かないし、伯父様とアトレが2階から降りて来る気配もない。

 

「……先ずは電気を付けよう」

 

 こう視界が暗いと歩くのは危ない。

 一先ずは電気をつけてと。暗くても慣れ親しんだ桜屋敷。

 電気の位置なんて簡単に分かる。

 

「あ、此処だ」

 

 手探りで電気のスイッチを見つけた僕は、そのままスイッチを……押そうとしたところで誰かに手を大きな手で掴まれた。

 

「曲者!!」

 

「えっ?」

 

 聞き覚えのある声と共に腕を掴まれた僕は、そのまま腕を捩じられた。

 

「いたたたたっ!」

 

「こんな夜更けに屋敷に忍び込むなんて! お嬢様方の安全は私が守る!」

 

 こ、この声は!?

 痛みを感じて考えが纏まらないけど、この声の主を僕が聞き間違える筈が無い!

 

「ま、待って! いたっ! い、壱与!? 僕だよ! 才華!」

 

「……はっ?」

 

 力が緩んだ。

 どうやら壱与も僕に気がついて……。

 

「あたたたたたっ!」

 

 緩めてくれない!? 寧ろ力が増したように感じる! 何でえ!?

 

「誤魔化そうとしたって無駄です! いもしない相手の名前を出されたかと言って、誤魔化せるとお思いですか!?」

 

「誤魔化してないよ! で、電気を付けて顔を見ればハッキリするから!」

 

「……一体こんな夜更けに何の騒ぎですか」

 

 ……えっ?

 パチンッと電気が付くと共に聞こえて来た声に、痛みを忘れて固まってしまった。

 な、何でこの声の主が桜屋敷に!? 先日お母様とお父様と共にアメリカに帰ったはずじゃ!?

 

「あっ、山吹メイド長! 怪しい人物が屋敷内に居たので捕らえました!」

 

「何ですって!?」

 

 背後を振り返っている壱与の大きな身体の向こうから、間違いなくあの人の声が聞こえる。

 ……でも……何だかちょっと若いような気が?

 

「聞き覚えのない声がホールの方で聞こえたと思って覗いてみると、暗闇の中で何かを探している影が見えて、こうして捕まえました」

 

「お嬢様方の安全は!?」

 

 お嬢様方?

 

「付き人の方々が騒がれていない所を見ると、大丈夫だと思われます」

 

「そう……念の為に後で部屋を訪ねるとして、先ずは侵入者の方です。この桜屋敷に忍び込むなんて、一体どんな相手が……」

 

 壱与の背後から姿を見せた赤毛の女性は、僕の顔を見て目を丸くして固まった。

 明るくなった事で僕の姿を確認した壱与も、驚きで固まっている。今なら逃げ出せそうな気がするが……僕も驚きで動けなかった。だって!?

 

「八千代の顔が若々しい!?」

 

「私はまだ二十代です!?」

 

「えっ? 二十代? 可笑しいな……確か去年の誕生日で八千代の年齢は四十……」

 

「それ以上仰るのでしたら、今すぐ警察を呼びますよ」

 

 ニッコリと微笑んでいるけど、八千代の全身からは強いプレシャーが放たれていた。

 僕は無言でコクコクと何度も頷いた。……怖い。

 

「はぁ……とにかく、壱与。手を放して差し上げなさい」

 

「わ、分かりました……山吹メイド長。もしやこの方は?」

 

「ええ……信じられないところですが、ルナ様が描かれた似顔絵とソックリですし……その上、この銀髪と瞳となると……間違いなくそうなのでしょう」

 

「ですが、いかがしましょうか?」

 

「そうですね……あの人の方だったらともかく、此方の方だと間違いなく……お嬢様がどんな反応をするのか考えるだけで怖いところがありますから……一先ずは空き部屋に移動しましょう。其処で詳しく話を……」

 

「うるさい、こっちの部屋まで声が聞こえて来て眠れないじゃないか。こんな夜更けに一体なんの騒ぎだ?」

 

「……えっ?」

 

 恐る恐る声が聞こえてきた方に振り返ってみる。

 その声の主は、2階からではなく、何故かキッチンの方から歩いて来た。

 僕と同じ……いや、僕よりも美しく輝く神秘的な銀色の髪。透き通るような白い肌。そして緋色の瞳を備えた凛々しい顔立ち。

 敬愛し、信仰に近い感情を抱いている人が不機嫌そうに歩いて来た。……若いお姿で。

 

「ああ……ああああ……」

 

「ん? 誰かいるのか? 聞き覚えのあるような、それでいて無いような声だが」

 

「あああああああああっ!!」

 

「……おーぅ」

 

 僕の顔を見て、目の前に立つ女性。つまり、若かりし頃のお母様は目を見開いて驚いた。

 そのまま、そそくさと2階へ無言で上がって行った。疑問を覚えたけど混乱する僕はそれどころじゃなくて、壱与と八千代に背を向けて丸まってしまう。

 

「ぐすっ、何がどうなって……僕、アメリカに帰りたい」

 

「帰っても路頭に迷うだけになると思いますよ……桜小路才華様」

 

「……えっ?」

 

 今、この八千代は僕の事を何と呼んだのだろうか?

 

「まさか、本当にメイド服を着て過ごしているなんて……桜小路家の男子が、このような趣味を持ってしまうなんて……嘆きしかありません。ああ……久しぶりに頭が痛くなってきました」

 

「心中お察ししますが、本当にいかがしましょうか? ルナ様に知られてしまった時点で、他のお嬢様方にもこの方の事が知られるのは間違いありません。そうなったら……」

 

「針の筵……いえ、それだけで済めば良い方でしょうしね」

 

「ですね」

 

 何だか不穏な会話しか聞こえて来ないのは……気のせいじゃないよね?

 えっ? ほんとに何がどうなってるの? 八千代やお母様が若くなっていたり、しかも桜屋敷で過ごしている。

 他のお嬢様方とか、本当に訳が分からないよ!

 とにかく、落ち着け、桜小路才華。今は『小倉朝陽』の姿だが、僕はあの美しい両親の息子で、ついさっき伯父様に認められて両親の過去を教えて貰ったばかりじゃないか。

 ……聞いた時にはお腹が痛くて仕方がなかった事は、おいておくとして。先ずは話を聞いて情報を集めないと。

 

「あ、あの……」

 

「何でしょうか? 桜小路家の御子息である桜小路才華様」

 

 ……ニッコリと微笑んでいるけど、明らかに若い八千代からは敵意のようなものを感じる。

 僕……何かしたかなあ? あっちの八千代ならともかく、こっちの八千代に怒られるような事をした覚えは無いんだけど。

 

「ど、どうして私の事を御存じでって!?」

 

 上階からの謎の発砲音と共に、僕の袖を高速の物体がかすめていった。

 僕、八千代、壱与は時間が止まったように固まった。……もしかしなくても……僕、撃たれた?

 

「ちっ、外したか。最近扱っていないせいで腕が鈍ったようだ」

 

 若い頃のお母様だった。喋りながら手に持つ銃に次弾を装填している。

 

「ル、ルナ様! 何をしているのですか!?」

 

「決まっている八千代。私の大切なメイドを傷つけて泣かせた相手に、制裁を加えてやろうとしているところだ」

 

「お気持ちは分かりますが、どうか落ち着いて下さい! この方はルナ様とは血の繋がった御方なのですよ!」

 

「だから、何だ。生憎と私には子を産んだ覚えはないし。そのような行為をした覚えもない。だから、其処のメイドとは他人だ。会ったらこの銃弾を叩き込もうとずっと思っていた。壱与。すぐに羽交い絞めにしろ。動かない方が当てやすいからな」

 

 ……若いお母様……いや、桜小路ルナさんの言葉にはふざけている様子はなかった。

 ……宿っている感情はただ一つ……怒りだ。

 此処までくれば此処が何処なのか分かった。……此処は……この桜屋敷は……あの人(・・・)が仕えていた桜屋敷だ。

 どういう経緯で僕があの人にしてしまった事を知ったのかは分からない。でも……この人は、桜小路ルナさんは本気で怒っている。してしまった事は決して許されないような事だとしても、それでもあの人はやっぱり大切に想われていた。

 この桜屋敷で。目の前にいる桜小路ルナさんに。

 

「本当に申し訳ありませんでした!」

 

「……」

 

「謝って済む事ではない事は分かっています……ですが、どうか謝罪だけはさせて下さい……貴女が大切に想っている人を傷つけてしまい、本当にすみませんでした!」

 

 服が汚れるのも構わずに、僕は床に土下座をした。

 それだけの事をしてしまったし。何よりも桜小路ルナさんは、あの人を今でも大切な人だと思っている。

 

「……なるほど。私達が知るお前よりもかなりマシになっているようだ。まあ、私達が彼方を見れなくなって、数ヶ月も経っているから可笑しくはないが」

 

 銃を下げてくれた。

 ちょっと安堵。あの銃から発射されるのは、スポンジ弾なのは知っているけど……当たるとやっぱり痛いってお父様が言っていたからなあ。

 何で痛い事を知っているのかは謎だけどね。

 

「はぁ、取り敢えず応接室に行って話を聞かせて貰おう。こうして彼方側からやって来たという事は、行き来出来る可能性があるかも知れないのだから」

 

「ルナ様。もう夜遅いのですから、話の方は明日にした方が宜しいのでは?」

 

「今は冬期休暇中だから多少の夜更かしは問題ない。そもそも早くあの部屋で眠るつもりだったのは、もしかしたら再び彼方を見る事が出来るかも知れないからだ。そうでなければ、今頃はまだデザインを描いている時間帯だ。それにだ……朝日(・・)と違って、この一応私とは血の繋がっている事になっているこれ(・・)が何時まで此方に居られるか分からないしな」

 

「それはそうですが」

 

「もしかしたら一分後にはこの場から消え去るかも知れない。或いは朝日のようにずっと此方にいることもあり得るが」

 

 それは非常に困る! あっちには家族がいるし、何よりも恋人だっているんだから!

 皆と会えなくなるなんて悲しくなって……。

 

「あっ……」

 

 ……そうか。この気持ちが、あの人が感じていた気持ちなんだ。

 これは……辛いどころの騒ぎじゃない……こんな気持ちをあの人は毎日味わっていたのか。

 うぅ……穴がまた欲しくなってきた。

 

「あの大丈夫ですか? お顔の色が余り良くないようですが?」

 

「えっ? ええ、大丈夫……です」

 

「混乱してしまうので、其方の私と同じように接してくれて構いません。一応ですが、自己紹介をしておきます。桜小路ルナ様の下でメイドとして働いている八十島壱与と申します」

 

 やっぱりそうなのか。でも、こうしてみると壱与は本当に変わってないな。

 もしかしたら医学の問題は、紅葉やカリンだけじゃなくて壱与にもあったのかも。

 

「お言葉に甘えさせて貰うよ。僕は桜小路才華」

 

「先ほどは腕を捩じって申し訳ありませんでした。まだ痛みはありますでしょうか?」

 

 軽く腕を動かしてみる。うん、問題は無さそうだ。

 

「大丈夫だから安心して良いよ。それに僕は此処では壱与の言う通り、侵入者だからね。対応は間違っていない」

 

「そう言って下さって心が軽くなりました」

 

 世界が違っても変わらない壱与の優しさに涙が出そう。

 

「話は終わったか? 取り敢えず本格的な話は明日聞く事にして、其方で朝日がどうなったのかだけでも聞かせて貰うとしよう。行くぞ」

 

「はい」

 

「それと念の為に言っておくが、この屋敷にいる大半がお前に対しては好意的な感情を抱いていない。寧ろ嫌っているものが多いと思う事だ。その中には私がいることも忘れないようにしておけ」

 

「はいっ」

 

 どういう訳だか分からないが、桜小路ルナさんは彼方の世界の事をある程度の期間までは把握しているようだ。

 その時期が何時ぐらいなのか分からないけど……あの人を傷つけてしまった頃からフィリア学院に入学するまでの期間だとしたら……どう考えても良い感情なんて抱かれる筈が無いよ!?

 

「何をしてる。早く来い」

 

 慌てて僕は後を追った。

 元の世界に戻れるのかはともかく……果たして僕の身は無事で済むのだろうか?




因みに言うまでもありませんが、桜屋敷の方々の才華達に対する好感度は最悪です。

ルナ様:元々両親及び兄妹、親戚の仲最悪。なので朝日のように近い親戚だと感じても好感度が上がる事はないので、大切なメイドを傷つけたので初期衣遠並みに好感度マイナス。『何故朝日が戻って来なかった?』

瑞穂:元々男性不信。しかも朝日効果が無いので回復の見込みもなく、更に才華が女性を軽んじる発言をしてしまったので最低値。『やっぱり男性は最低! この痛みを朝日に癒やして貰いたい』

ユルシュール:桜屋敷の中では比較的にマシだけど、やっぱり世界は違っても友人家を危険にさせたりしてしまった事で好感度は低い。『少しは家の大切さを学ぶ事ですわね』

湊:遊星への恋愛感情を断ち切れていないので色々複雑。でも、遊星を傷つけたのは許せないと思っている。『……ゆうちょとルナの子供』

サーシャ:全ての女装男子の味方なので、一番味方してくれそうだが、朝日を傷つけたことで朝日程陰ながら助けるかは謎。『ふふっ、同じ女装男子として語りあいましょう』

北斗:瑞穂と同じぐらい嫌い。しかも朝日と違って、瑞穂本人も嫌っているので原作のように割り切る事は先ずない。『ウララララララッ!』

七愛:元々遊星の事が嫌いなので、別段なんとも思っていないが、性格上才華の女装に関しては間違いなく辛辣な言葉を述べる。『……オカマ野郎の子供は、やっぱりオカマ野郎。私と湊様に近づくな』

小倉りそな:彼方との繋がりが消えるまで毎日見ていたので、四月の上旬に比べれば、好感度は多少上がっているが、本当に多少の範囲でしかない。『ウラミハラサデオクベキカ』

八千代:桜小路家の男子が女装!? 『頭が痛い』

紅葉&壱与:朝日と面識が無いので、桜屋敷のメイドの中では一番良心的。『主人の命令には従います』

その他の桜屋敷のメイド達:好感度低。『朝日を泣かせるなんて!?』

こんな状態です。


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桜小路ルナとの(軽い)対談 0時

本編でなくて申し訳ありません。
エイプリルフールでの投稿の為に、番外編を先に投稿させて頂きました。
その為に2回目のアンケートを行ないます。出来ればお答えして下さい。

秋ウサギ様、エーテルはりねずみ様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

「さて、話を聞かせて貰おうか」

 

「……はい」

 

 桜屋敷の応接室に移動した僕は、椅子に悠然と座る桜小路ルナさんに見下ろされていた。

 背なら僕の方が高いんだけど、今は床に正座している。自然とそうしていた。いやだって……ルナさんは明らかに不機嫌だ。その証拠に、腰の辺りにスポンジ弾入りの銃が置かれているからね。

 その態度とお母様の怒りを知っている僕からすれば、こうする以外に選択肢はなかった。

 悠然と椅子に座る、ルナさんの姿は綺麗だ。世界は違っても僕が敬愛し、信仰している御方なのには変わりはない。正座する僕の背後には八千代と壱与が立っている。

 因みに正座しているのは指示されたからじゃなくて、自主的だ。だって……。

 

『……』

 

 明らかにルナさんと八千代が不機嫌なんだもん。

 特に八千代は、フィリア・クリスマス・コレクション後に受けた説教を思い出させるぐらいに怖い。

 僕、アトレ、九千代、壱与、そしてあの人も叱られた。二度と八千代の事は怒らせないと誓ったよ。

 あの時と同じぐらい怖いオーラを発する八千代に戦々恐々としていると、ルナさんが話しかけて来る。

 

「先ずは……そうだな。一応自己紹介をしておこう。この桜屋敷の主である桜小路ルナだ。それとお前の背後に立つ二人の女性は、メイド長の山吹八千代とその部下の八十島壱与だ」

 

 はい、良く知っています。

 自己紹介を終えたルナさんは、顎で僕に促した。

 此処で女装時の名前である『小倉朝陽』を名乗ったら、間違いなく僕の眉間にスポンジ弾が叩き込まれるに違いない。なので、此処は普通に名乗ろう。

 

「さ、桜小路才華です」

 

「……はぁー……これが別世界の私と朝日のあれか……全くもって情を感じない。寧ろ腹立たしさしか感じない。今すぐにでもこの銃を撃ちたいが、素直に名乗った事で我慢するとしよう。それで桜小路毘沙門天」

 

「才華です!」

 

 そのキラキラネームで呼ばないで欲しい! 

 伯父様が言うには、僕の名前候補だったらしいから。背後にいる八千代も噴き出しているよ。

 

「あ、あのルナ様。毘沙門天と言うのは?」

 

「このあれを見ていたらフッと頭に浮かんだ。うん、桜小路毘沙門天。良い名前じゃないか。誰が名付けた名前かは知らないが、才華と言う名前よりもずっと良い。よし。八千代。明日、この屋敷にいる皆にこのあれの事は桜小路毘沙門天と呼ぶように……」

 

「才華と呼ぶように言います」

 

 あ、ありがとうおおおおーー! こっちの八千代! 本当にありがとおおおーーう!

 キラキラネームで毎回呼ばれるなんて、僕の精神が耐えられない! 貴女はたった今、一人の人間の精神を救うという尊い偉業を為し得ました。

 貴女が天使に。いえ、神に見えます! ゴッド・八千代!

 

「うぅ、ありがとうございます……ありがとうございます」

 

「袖を掴まれたら困ります……はぁ、何処かで似たような事がありましたね。本当にあの人と同じ血が繋がっているという事でしょうか」

 

「朝日の方がずっと可愛げがある。寧ろ何でこんな生意気そうで捻くれた顔をしているんだ……教育の仕方を間違えたんじゃないか。親の顔が、待て八千代。壱与に鏡を持って来るように言うな。分かった。毘沙門天とは呼ばない。これで良いんだろう」

 

 ……間違いなく目の前にいる人は、僕のお母様と同一人物だ。とんでもないネーミングセンスは、世界が違っても変わらないのですね。

 ……敬愛するお母様だけど、其処だけは変わっていて欲しかったかも。

 

「さて、先ほども廊下で言ったが、朝日は今はどうしている? まさかと思うが……自らの命を絶っていたりはしないだろうな?」

 

 質問したルナさんの声音と瞳には、ハッキリと不安と心配が宿っていた。

 ……此処までの話から推測すると……どのような手段なのか不明だがルナさん達は何らかの方法で僕達の世界を見ていた。荒唐無稽な話にしか思えないが、僕は既にあの人という荒唐無稽な人物と深い交流を持ってしまっているので驚きは少ない。

 それにこの世界は、本来あの人がいた世界だ。それを踏まえれば、此方側でも荒唐無稽な出来事が起きていても可笑しくない。おっと、今は考察よりもルナさんの質問に答えないと。

 

「大丈夫です! あの人は今は日本にこそいませんが、マンチェスターにある彼方の祖母のお墓参りに行っています」

 

「……そうか……良かった」

 

 心から安堵した笑みをルナさんは浮かべた。

 その笑みの美しさに見惚れそうになるが、流石に見惚れている場合ではないので我慢する。

 

「それにしても先ほどから朝日の事を、あの人と呼んでいるが、何故名前で呼ばない?」

 

「そ、それは……色々と複雑な心境がありまして」

 

 あの人の正体を知って受け入れたとはいえ、女性だと思っていたあの人がまさか男性で……しかもその正体は……若き日のお父様と同一人物。

 知った時は、あの夜以上の衝撃を受けた。いや、ほんとに。またも人生観が変わってしまいかねなかった。その時に好意を持っている女性がいなかったら……僕はきっととんでもない答えに至ってたかも知れない。男性同士の恋愛はノーの価値観のままでいたい。

 学院が冬期休暇の間には心情を整理して、以前のように名前で呼べるようになるつもりだったけど、まさか、こんな出来事に巻き込まれるなんて。

 

「……なるほど。朝日の正体を知った訳か。まあ、その点は気持ちが分からないでもない。私も八千代から朝日が実は男性だと聞いた時は、人生の中で最大に近い衝撃を受けたからな……言葉を失う程だったが、最後には笑っていた」

 

「笑っていた?」

 

「そうだ。朝日との日々。日常や学院での生活の中で、朝日が驚いたり、困っていたり、あれもこれも全て理由があったんだと気付いて思い返すと、いっそ笑いが出てしまう程に楽しかった」

 

「……」

 

 ルナさんの言葉には嘘はないだろう。

 この場にあの人がいない事が悔やまれてならない。ルナさんに許されない事をしてしまった事を、あの人は深く悔やんでいたんだから。

 短い間しか一緒に過ごしていないにも関わらず、此処まで共に過ごした日々を楽しかったと思って貰えるなんて……やっぱりあの人は凄い。

 

「で、そんな日々を与えてくれた朝日を、お前は傷つけて悲しませた訳だが」

 

「申し訳ありません!」

 

「謝ったところで許しはしない……と言いたいところだが……傷つけられた朝日本人がお前を許した時点で、既に部外者でしかない私が何か言う事は出来ない……だが、個人的な感情としてお前には一切の好意を持つつもりはない」

 

 ……つまり、嫌いという事か。

 いや、仕方がない。僕があの人にした事は、一般的に言わなくても最悪な事だし。しかも事前にあの人の事情を知っていたのに、本人の目の前で提案してしまったんだから。

 似たような事をされたら僕も怒る。ルミねえも九千代も、流石にフォロー出来ないって言っていたしね。

 でも、凄く辛い。お母様と同一人物に明確ではないけど、嫌いって言われたんだもん。泣きそう。

 

「……あ、あの一応お聞きますが、どのぐらい僕の事は嫌いですか?」

 

 桜小路本家並みに嫌いだって言われたら、最悪だ。どうやっても関係修復不可能だから。

 

「そうだな……あの元学院長代理並みだ」

 

「元学院長代理?」

 

 それって……この時期だと……伯父様!?

 

「お、伯父様……いえ、大蔵衣遠さんの事がお嫌いなのですか?」

 

 僕の世界だと、それなりに仲が良いのに。

 ……あっ、でも、あの人の一件から仲が悪くなってしまった。お父様が言うには、かなり敵対心むき出しらしい。一時的なものだと良いんだけど。

 

「好意に値するような事を目の当たりしていないのに、お前は好感を抱けるか? 寧ろ嫌うような事しか私は目にしていないぞ、あの男には」

 

 伯父様。……貴方は過去に何をやらかしたんでしょうか?

 

「あの……興味があるので、具体的に伯父様が何をしたのかお聞きしたいのですが?」

 

「……良いだろう。私からすれば信じ難い事に、お前はあの大蔵衣遠をかなり慕っているようだからなあ」

 

「正直信じられませんね。あの大蔵君が、幾ら甥だからと言って高層マンションをあっさり譲り渡したり、世界に50台しかない車をプレゼントするなんて……直接見たりしたら、天変地異の前触れではないかと思います」

 

 ……僕からすれば伯父様なら当然だと思えるけど、この時期からすれば伯父様の僕やアトレに対する行いは、天変地異の前触れだと思われてしまうぐらいに信じられない行動のようだ。

 ま、まあ、僕も桜の園をあっさり渡された時は内心で重度の甥姪コンぶりに驚いていたし。人は変われば変わるものだという事か。だから、僕だって伯父様が豹変した時の恐怖が忘れないんだから。

 しかし、これは良い機会だ。

 お父様の過去話は伯父様から教えて貰ったが、和解する前に伯父様がお父様に何をしたのかは詳しく教えて貰えなかった。とは言っても、お父様との仲良しぶりや、あの人に対する行動を考えるとそんなに酷い事はしていないに決まって……。

 

「先ず元学院長代理の顔を知った時の事を話そう。フィリア女学院で入学式の時期には語られる一件。『公開処刑入学式』が、私が元学院長代理の顔を直接見た時だ」

 

 ……な、何か今変な事を言われなかっただろうか?

 世界を渡ったせいで……僕の耳が可笑しくなったかな? 耳の穴に指を入れるのは美しくないのでしないけど、取り敢えず尋ねてみよう。うん。

 

「あ、あの……今変な事を言いませんでしたか? 『公開処刑入学式』とか?」

 

「その通りだ。あの入学式は朝日の事情を知った今では、そう表現するしかない」

 

「本当に酷かったですからね。一緒に壇上に立っていた創設者のスタンレーのフォローと、大蔵君の立場が無ければ、保護者からの非難殺到でしたでしょうから……二人とも非常識なのには変わりないけど」

 

「ぐ、具体的に伯父様はどんな事を?」

 

「スタンレーと元学院長代理が壇上に上がって祝辞を述べるところで、元学院長代理が挨拶をしようとした時、一部の女生徒から歓声が上がった」

 

 若き日の伯父様の容姿なら仕方がない。僕がフィリア学院で経験した入学式でも、総学院長が壇上に上がったら歓声が上がっていたしね。

 若くてかっこいい伯父様が壇上に立ったら僕も歓声を上げるかも!

 

「即座に元学院長代理は歓声を上げた女生徒達を退学だと告げ、ホールから出て行けとも言った」

 

 ………はっ?

 

「次に私達通っている生徒にはスタンレーは全く期待していないと言った。この時点で入学式に参加していた生徒全員が言葉を失っていたぞ」

 

「教員席から生徒達の様子を見ていましたが、中には泣きそうな顔をしていた生徒もいましたね」

 

 …………何それ?

 

「次にスタンレーは日本人には期待していない。なら、何故日本校を設立したかの話では、自分がスタンレーの掛け替えのない親友だからと告げ、自分だけが日本人の中で唯一日本人でスタンレーに認められていると宣言した」

 

 ……………僕ならそんな入学式を経験したら引き篭もりそう。

 

「次の教育方針の話では、一年目で才能ある者と無い者を篩い分けると堂々と告げられた。因みに才能が無い者が通う教室の事を豚小屋と言い、その教室から残り二年間出て来るなと言っていたぞ。言うまでもなく、この時点で教師も含めた会場にいた全員がどん引きだ」

 

 ………………僕もどん引きです、この世界の伯父様。若い頃の伯父様の苛烈さは、想像以上でした。

 

「そして此処からが『公開処刑入学式』の本番だ」

 

「ま、まだ続くんですか?」

 

 正直言って、もうお腹一杯なんだけど。

 でも、ルナさんは話を止めるつもりはなかった。

 

「続けるに決まっている。元学院長代理は、その入学式である人物の話を持ち出して来た」

 

「そ、それは誰ですか?」

 

「お前も良く知っている相手。朝日……いや、敢えてこの場では本名の方を呼ぼう。『大蔵遊星』の話題だ」

 

 ほっ。少し安堵した。

 世界は違っても伯父様がお父様やあの人を悪く言う訳が無い。現にお父様とは血は繋がっていなくても、とても仲良しだし。あの人にも形は違うけど、愛情を間違いなく注いでいる。

 そんな伯父様が入学式の場で、お父様やあの人の事を悪く言うはずが……。

 

「先ずあの男は朝日の事を、『凡俗の屑』と表現して話題を出して来た」

 

 ………はい? 『凡俗の屑』? 誰が? あの人が!?

 

「そんな筈がある訳ない! あの人が製作した衣装は、本当に素晴らしい衣装でした! そんな才能が溢れる人を『才能至上主義』の伯父様がそんな風に言うなんて!?」

 

「ある訳がないか? 残念だが、事実だ。あの男は朝日の才能に気が付けなかった」

 

「ですから、そんなことある……はず……が……」

 

 否定しようとしたところで、僕の脳裏に一つの事実が過ぎった。

 あの人の可笑しいと感じる自分への自信の無さ。もしもその原因の一つに伯父様が関わっているのだとしたら。

 

「元学院長代理は、朝日の才能を見逃した。これは揺るがない事実だ。あの男は朝日の型紙の才能を見逃し、結果屑だと判断して服飾の勉強を取り上げたそうだ。その後は自分の仕事の雑用をやらせたり、りそなの使用人をやらせていた。これはりそな本人からも証言を貰っている」

 

「本気で言ってるとしか思えませんでしたものね。叱咤激励だとしても、度が過ぎていました」

 

 ……ルナさんと八千代の言を否定したいのに、否定できる材料が僕にはなかった。

 此処に来る直前に伯父様からお父様に対する大蔵家の扱いを教えて貰っていたから。

 伯父様……僕が伯父様の事を大好きなのには変わりませんけど……これはフォローし切れません。

 

「当時はあの男の言動に脅えているだけだと思っていたが、りそなから朝日に対する扱いの話を聞き終えた後では、『公開処刑入学式』としか表現出来ない。尤も、その朝日を私が慰めたら毅然とした面持ちに戻ったがな」

 

 流石はルナさん!

 僕ならそんな入学式を経験したら、挫折してしまいそうです。

 ……そう言えば、あの人。フィリア学院の入学式の時は、やけに嬉しそうにしていたなあ。あれはまともな入学式を経験出来て嬉しかったという事だったのか。

 うん。今ならその気持ちが分かります。

 

「さて、これで入学式の話は終わりだ。それで……そんな事を初対面でやられた私が、あの男に好感を持てると思うか?」

 

 全力で首を横に振った。

 無理です。伯父様の事を良く知っているならともかく、初対面でそんな事をされたら好感なんて持てる筈が無い。寧ろ嫌いになるに決まってますよ、伯父様。

 い、いや、待て! あくまでこっちの世界の伯父様がした事だ。僕の世界の伯父様が同じことをしたとは限らないじゃないか。あの人の入学式での喜びようも、ただ久しぶりの入学式で喜んでいただけかも知れない。

 

「それと言い忘れたが、りそなの話では朝日は基本的に自宅に家庭教師を呼ばれて習い事をさせられていたそうだ。人の事は余り言えないが、人生初めての入学式があの入学式だったことに関しては本気で同情するぞ」

 

 ……………本当に酷い扱いだったんですね、お父様とあの人は。

 うぅ……また、お腹がキリキリして来た。だけど、ルナさんは僕の様子になど気にせずに話を進める。

 

「さて、お前の質問には答えた訳だが……」

 

「ルナ様。そろそろお話はお止めしましょう。流石にこれ以上の夜更かしは認められません」

 

「……はあー、確かにもう夜も遅いか。だが、その前に最後に重要な質問だけはしたい。良いか、八千代?」

 

「分かりました。では、次が最後の質問という事でお願いします」

 

 ……二人のやり取りを聞いていた僕は、内心で戦々恐々とした。

 どんな質問か大体分かる。でも……その質問に答えたらどうなるかなんて、考えるまでもない。

 いやだって……この状況でルナさんがして来る質問なんて……一つしかないよね。

 ……その質問がどれだけ重要な事なのかは分かるけど……本当に答え難いよ。だって……。

 

「どうやってお前はこっちに来た?」

 

 来てしまった! 重要なのは分かっている! だけど、これ以上に無いほどに答え難いし、答えられない質問はないよ!

 でも、答えないと……ルナさんの腕の中にある銃を向けられかねない。……答えても向けられそうだけど。

 

「え、えーと……その、答えるのは構いません。でも、どうか、落ち着いて聞いて下さい。本当に落ち着いて」

 

「……分かった。既に朝日に起きた出来事やこの屋敷で起きていた事を考えれば、どんな荒唐無稽な話を聞いても驚いたり怒ったりはしない」

 

「じゃ、じゃあお答えします……僕は此方に来る直前に……階段の手前に落ちていたバナナの皮に滑って階段を転げ落ちたら、こっちに来てました!」

 

 発砲音が鳴り響き、僕の顔の横をスポンジ弾が通り過ぎた。冷や汗で背中がびっしょりだ。

 

「フフッ、随分とふざけた事を言ってくれるな。そうか。真面目に答えるつもりはないという事か。私は本来体罰は大嫌いだ。人を暴力で屈服させるなど吐き気がする」

 

 ……怖い。ルナさんは笑いながら次弾を銃に装填している。

 言っている事とやっている行動が違います。

 

「だが、お前に対してだけは別だ。沸々と怒りがこみあげて来て、発散したくて仕方がない。今、この銃の引き金に掛かっている指は、途轍もなく軽い。もう一度チャンスをやろう。お前はどうやって此処にやって来た?」

 

「う。嘘じゃありません! 本当に! 本当に!、階段の手前でバナナの皮に滑って、気が付いたら此処に居たんです!」

 

「ふざけるな!! そんなふざけた方法で世界が渡れるなら! 何故朝日は帰ってこれない! どれだけ私達が朝日を此方側で探したと思っている! 苦悩の末に何時命を絶ってしまわないか心配する日々を過ごしたと思う……一言だけでも言葉を届けたいと願ったと思う……何故……朝日は……あんな目にあった……」

 

 ……僕と同じ緋色の瞳に涙をルナさんは浮かべていた。

 

「……朝日が私にした事は世間的には許されない事だろう……八千代が私の為を思ってしてくれた事も納得出来た……だが、それでも……朝日と過ごした日々は私にとって幸せな日々だった。誰がなんと言おうと、私は朝日のような人間に仕えて貰った事を誇りに思う」

 

 ルナさんは僕に背を向けた。

 その背は僕が良く知っているお母様の背に似ているのに……何処か悲しそうだった。

 

「八千代との約束通り、今夜の質問は終わりだ。壱与。そいつをあの部屋に連れて行って今夜は休ませろ」

 

「宜しいのですか。今夜はあの部屋でお休みになられるのでは?」

 

「構わない。あの部屋は私が寝ても構わないようにされているから、同じ体質のそいつも安心して休める。何かあればすぐ近くに部屋がある壱与がいる。八千代。私は自分の部屋で休む」

 

「すぐに準備をいたします。壱与。その方をご案内して差し上げて」

 

「かしこまりました。では、才華様。此方にどうぞ」

 

 壱与に促されて、僕は応接室の入口に歩いて行く。

 最後にルナさんの方に振り向いて、深々と頭を下げた。

 

「本当に……申し訳ありませんでした」

 

 ルナさんは返事をしてくれなかった。振り返ってもくれず、無言の背がさっさと行けと言っているようだ。

 これがこっちの世界の人達と僕の距離。そう思うと……少し悲しかった。

 

 

 

 

「お部屋の方は此方になります」

 

「ありがとう、壱与」

 

 案内された部屋の場所はダイニングの奥にある小さな使用人部屋。

 伯父様が教えてくれたが、お父様は学生時代はこの部屋で過ごしていたそうだ。……僕と同じで女装して。

 まさか、この部屋で寝泊まりする日が来るなんて夢にも思っていなかった。だけど……ベッド大きくない?

 

「随分と大きなベッドが置かれているね? 僕の方だと一人用のベッドが置かれているのに、こっちだと三人は余裕で眠れそうだ」

 

 小さな部屋なのに、大きなベッドが違和感を放っている。

 何でこんな大きなベットを?

 疑問に思っていたら、壱与が神妙な顔をして話しかけて来た。

 

「才華様の疑問はご尤もですね。確かにこの部屋に、このサイズのベッドが置かれるのは本来はない事でしょう。ですが、このサイズのベッドがどうしても必要だったのです」

 

「良ければ教えて貰えるかな?」

 

「はい。実は数ヶ月ほど前まで、この部屋では不可思議な事が起きていました。夢を見るんです」

 

「夢?」

 

 夢ぐらいで何をと思わないでもないが、壱与は不可思議な事と言っていた。つまり、ただの夢じゃないという事に違いない。

 

「その夢は本当に不思議な夢でした。夢なのに、何故かハッキリと起きた後も内容を覚えているのです。例えば私が見た夢では、高層マンションのコンシェルジュと桜屋敷の管理を行なっている自分を見ていました」

 

「それって!?」

 

「お気づきになられたようですね。この部屋で見る事が出来ていた夢。それは才華様の世界の私達を見る事が出来ていたのです」

 

 驚きで言葉が出なかった。

 手段は分からないが、ルナさんが僕の世界の出来事を見聞きしていたのは分かっていたが、まさか夢という形で見ていたなんて。

 ……バナナの皮に滑って階段から転げ落ちて世界を渡った僕の話よりも、ずっと信用出来る。うん。

 

「ですが、先ほども申しましたが、もうこの部屋でそのような出来事は起こらなくなりました」

 

「……何時頃から見られなくなったの?」

 

「大体7月の中旬頃だったと思います」

 

 7月の中旬か。その時期はあの人がまだ精神的に不安定だった頃だ。

 アトレの衣装を製作し終えてクアルツ賞も取ったけど、今思えばかなり精神が揺らいでいた。ルナさん達が心配なるのも無理はない。

 その上、急に見えなくなったんだから、不安の度合いはかなり高い筈だ。

 ……そう言えば、ルナさんは2階にある私室じゃなくて、一階にいた。

 改めてベッドを見てみると、きちんとベッドメイクされているし、僕やルナさんのような体質でも安全に眠れるように厚手のカーテンが窓に掛けられている。

 状況から考えると、ルナさんはこの部屋で寝ようとしていた。もう一度僕達の世界を見て、無事なあの人の姿を確認する為に。

 

「……本当に、どうしてこんな事が起きるんだろう」

 

 あの人と出会えた事に後悔はない。

 それは正体を知った時は、人生二度目の最大の衝撃を受けたが、その事を抜きにしてもあの人のおかげで僕は成長する事が出来た。伯父様にだって認めて貰えたし、お父様への反抗期を終える事も出来た。

 他にも沢山助けられた。

 ……だけど、こっちの世界では別だ。あの人がいなくなった世界。

 明日……僕はそれを知る事になる。一体何が待っているのか。……正直言って不安しかない。

 伯父様が言っていた。お父様なくして、僕らの世界の大蔵家はなかったと。

 

「私はそろそろ部屋を出ますが、お着替えの方はいかがしましょうか?」

 

 ……すっかり忘れてた。

 僕は着の身着のままに此方に来てしまったから、着替えなんてある訳がない。今着ている自作のメイド服だけが僕の服だ。

 

「……と、取り敢えず、今日はこのまま寝るよ。お風呂に関しては一度入ったから大丈夫だから」

 

 服に皺が付いてしまうが仕方がない。

 男性物の服なんて、この桜屋敷にあると思えないしね。

 壱与は安堵の息を深く吐いた。

 

「それを聞いて安心いたしました。これは大切な事なので良くお聞き下さい。私が部屋を出た後は、この部屋の鍵を必ずかけて、私かメイド長がお声を掛けるまで部屋を開けてはいけません。正直申しまして、このお屋敷の中は才華様にとって危険です」

 

「ル、ルナさんの件で良く分かったよ」

 

「いえ、それ以上に危険な方々がいます」

 

「えええぇっ!?」

 

 ルナさん以上に僕に危険な相手って一体誰!?

 いや、待て。今更だが、ルナさんはまだフィリア学院に通っているんだろうか?

 

「壱与。もしかしてルナさんはまだ学生なの?」

 

「はい。フィリア女学院3年生。今年の3月でルナ様はフィリア女学院をご卒業されます」

 

 ……最悪だ!

 ルナさんがまだ学生……その時期には桜屋敷でユルシュールさん、湊さん、そして……瑞穂さんが暮らしていた。

 その上、学生時代の瑞穂さんはかなりの男性恐怖症だったそうだ。お父様が学生時代に桜屋敷で女装していたのは、瑞穂さんの男性恐怖症を治す為でもあったらしい。……本当にそうなのかは分からないけどね。

 だけど、此方には瑞穂さんの男性恐怖症を治す事に一役買うはずのあの人がいない。つまり……瑞穂さんは男性恐怖症のまま。

 思い出すのは、フィリア・クリスマス・コレクション後にあった瑞穂さんとの会話。

 お父様に出会う前の自分だったら、心底僕の事が嫌いになっていたそうだ。同様に従者の北斗さんも、僕の事を嫌うとハッキリと言われた。

 そんな時期の瑞穂さんや北斗さんに出会ってしまったら、僕がどうなるかなんて明白だ。

 ボコボコに殴られるだけでは済まないかも知れない。

 ……壱与の指示には従おう。

 

「う、うん。充分に分かった。壱与か八千代が呼びに来るまでは、絶対に部屋を開けないよ」

 

「声も出さないようにお願いします。それではまた明日。いよいよ失礼いたします」

 

 壱与が部屋を出て行くと共にどっと疲れが湧き出て僕はベッドに倒れた。

 

「プハァー……何で……こんな事に?」

 

 どうしてあの人じゃなくて、僕がこっちに来てしまったんだろう?

 いや、それよりも、元の世界に戻れるかも心配だ! あの人という前例があるだけに、もしかしたらこっちの世界に永住してしまうかも知れない。

 そうなったら……針の筵じゃ済まない視線を向けられ続けるかも知れない。

 

「……寧ろ追い出されるかも」

 

 この屋敷の主である、ルナさんは、あの人と違って僕に全く好意を持っていない。

 と言うよりも、元の世界のお母様の大蔵家以外の親戚事情を考えると、ルナさんが親戚に好意を持つ筈が無い。

 桜小路本家との付き合いだって、今思えばお父様がいたからこその辛うじて付きあっていたに過ぎない。

 それに……。

 

「ルナさんがまだ学生なら、伯父様はフィリア学院の学院長をしている筈だ。なのに……」

 

 ルナさんは元学院長代理と言っていた。

 つまり、もう此方の伯父様はフィリア学院の学院長をしていない。

 

「僕が知る事実と大きく乖離している。いや、それよりも何よりも……どうやってもこっちじゃ僕やアトレが生まれないじゃないか!」

 

 片親がいないんだから、その子供である僕とアトレが生まれる筈が無い。

 ……凄いショックだ。お父様とお母様の子である事を誇りに思っている僕にとって。

 

「……考える事が多すぎるよ」

 

 それは……あの人がいなくなった後のこっちの事が気になっていたよ。

 でも、まさか、直接来る事になるなんて……ん?

 

「もしかして……僕がこっちに来たのは、こっちの事を知りたいと願ったから?」

 

 だとしたら、此方の事を詳しく知れば帰れるかも知れない!

 あくまで可能性に過ぎないけど、可能性があるならやるべきだ。

 

「明日の朝からやる事は決まった……不安しかないよ」

 

 何もしないよりはマシだけどさ。……難易度が高過ぎるよ。

 

「……とにかく今日はもう休もう」

 

 明日は間違いなく……修羅場になるだろうから。




因みに才華は気がついていませんが、朝日世界のルナ様の衣遠に対する好感度は桜小路本家並みに悪いです。
衣遠の事情は把握していますが……朝日がいないのでどうやっても上がりません。
後書いていて思ったのですが……衣遠の原作での行ないを書くと、『アンチ・ヘイト』になってしまわないかとかなり心配しました。だって……どうやっても入学式での出来事を好意的に書けないので。


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prologue
prologue1


side遊星 

 

 暗転。

 

 大蔵遊星の人生。

 

 【未来来訪編】開幕。

 

 

『拝啓、私のご主人様である桜小路ルナ様。

 私がお屋敷を離れてから、一年ほど経ちました。ルナ様におかれましてはご健康にお過ごしでしょうか?

 最早お会いする事は叶わない身ですが、それでもルナ様のご健康を私は、未来の桜屋敷よりお祈りしています。

 そう、未来です。

 信じ難い事ですが、私とルナ様がお会いした時から、十数年以上経過した桜屋敷にいます。

 あの日、致命的なミスで追い出されてから、私は当てもなく彷徨っていたら、気が付けば桜屋敷のルナ様が与えて下さった部屋のベッドで眠っていました。

 最初はあの出来事が夢だったのではないかと思いました。ですが、すぐに知りました。

 何故ならば、今私がいる桜屋敷は、私が知る桜屋敷と全く違ったからです。厳しくも優しく指導してくれた八千代メイド長も、先輩のメイドの方々。何よりもルナ様の姿が屋敷の何処にもありませんでした。

 ただ一人だけ。私の知らないメイドの方である八十島壱与さんが管理していました。

 聞けば、私は桜屋敷の庭に倒れていたそうです。

 それから更に信じられない出来事を知りました。信じられない事に、今の時代のルナ様はアメリカを中心にデザイナーとして活動して、世界的デザイナーとして活躍されているそうです。流石はルナ様と私は心の底から喜びました。

 ですが、次に教えられた事実に驚きと困惑を抱きました。何故ならば、そのルナ様のパタンナーとして活動している人物、桜小路遊星と言う名を聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。

 詳しく八十島さんに聞けば、旧姓は大蔵遊星。ルナ様とは夫婦関係で、二人も子供がいると知らされた時は、恥ずかしながら気絶してしまいました。

 そして私は理解しました。本当に私は全てを失ってしまったのだと。

 大蔵、いえ、桜小路遊星様は今もアメリカでご家族揃って幸せな日々を過ごしているそうです。

 では、私は誰なのでしょう?

 この時代、いえ、この世界には、桜小路遊星様がいる。

 私は大蔵遊星に戻る事さえ、出来なくなりました。この世界には、私は行く当てなど何処にもありません。

 桜屋敷にも居られないと思い、すぐに出て行こうとしました。そんな私を八十島さんが止めてくれました。

 

『自分一人だけで桜屋敷にいるのはやはり寂しいです。一人ぐらいならば私に雇う権利は与えられていますから、どうか一緒に桜屋敷を、何時か桜小路家の方々が戻って来るまで護ってくれないでしょうか?』

 

 そう、私は言われました。最初は断ろうとしました。

 私は桜屋敷から除名された身分。何よりも親愛なる貴女を騙していたのですから。今更桜屋敷には居られないと告げました。

 ですが、八十島さんが言うには、その事はこの世界のルナ様は私が仕出かした事を御赦しになられ、当時の桜屋敷に居た方々全員が納得して赦して下さったそうです。

 ルナ様がフィリア女学院をご卒業される間、桜小路遊星様が屋敷ではずっと小倉朝日として働いていたと教えられた時は複雑な気持ちになりましたが、色々と考え、今は桜屋敷の管理を八十島さんと頑張っています

 私が八十島さんの提案を受け入れたのは、寂しげな桜屋敷が嫌だったからです。

 あの華やかな桜屋敷が、寂れて行く事など、直前まで過ごしていた私には耐えられませんでした。

 コレを私は自らの罰なのだと思いました。図々しいと思います。身勝手だと理解しています。

 それでも、今の桜小路家の方々がお戻りになるその日まで、私は桜屋敷を護ります。

 もう、夢は追いません。私は、この桜屋敷で小倉朝日として生きています。

 桜小路家の方々がお戻りになるその日まで。

 

 小倉朝日より、愛を込めて、敬具』

 

 

「……その日も近いんだけどね」

 

 出す事は無い手紙を机の引き出しに仕舞いながら、僕はこの桜屋敷から離れる日が近づいて来ている事を実感する。

 その報告が届いたのは一か月前だった。この世界のルナ様と桜小路遊星様のご子息とご息女である、『桜小路才華』様と『桜小路亜十礼(アトレ)』様が、日本に戻って来るのだ。

 

「名前の話を聞いた時は驚いちゃったな」

 

 ユルシュール様のペットの犬や猫に、『モトカレ』、『ネトラレ』、『ボテバラ』とルナ様が名付けたと聞いた時は、遠回しの嫌がらせだと思っていた。

 他にも生まれたばかりの子猫に、『イシュカン』と名付けようとルナ様はしていた。訴えられたら負けるレベルでの嫌がらせだと、僕は思っていた。

 だけど、嫌がらせなどではなく、ルナ様自身のネーミングセンスが致命的なレベルだったらしい。

 八十島さんが言うには息子に『毘沙門天』。娘に『亜十礼威無(アテーナ)』と名付けようとしたらしいのだ。必死に周りが止めたと聞いた時は、僕も同意した。流石にそんな名前を付けられたら、子供が不憫過ぎるし、呼ぶ方も嫌だ。他には、『朝日』と言う名前も候補にあったらしいけど、ソレはこの世界の僕が猛反対したようだ。

 心の底から同意した。正直、その名前だけは我が子に付けたいとは、僕には思えない。

 

「……もうすぐ屋敷から離れないと」

 

 八十島さんは離れなくて良いと言ってくれているが、最初から決めていた事だ。

 桜小路家の方々が戻って来たら、僕は桜小路家を出て行く。突然でなくて良かった。

 事前に連絡が来ていたので、準備をする時間は在った。

 いらないと思っていたが、八十島さんが給料を出してくれていたので、幸いにも無一文ではない。

 

「先ずはマンチェスターのお母様の墓に行こう」

 

 場所は八十島さんが教えてくれた。彼女には感謝しかない。

 こんな行く当てもない僕を受け入れてくれたのだから。

 その後の事は考えていない。何処か求人を出している屋敷で働くのも良いかも知れないが、自分には戸籍も無いから無理だろう。

 でも、今度こそ桜屋敷には、戻るつもりは無い。

 ご子息とご息女がお戻りになる最後の日までは居るように八十島さんから頼まれている。食事の準備やお二人の寝所の準備などをして欲しいと頼まれた。

 最後の奉公だと思いながら、ベッドで横になって眠りに着く。

 脳裏に親愛なる主人であるルナ様と桜屋敷の人々の顔、そして妹である大蔵りそなの顔が浮かびながら、僕は眠りに就いた。

 

 

 

 

 アメリカから桜小路才華様と桜小路アトレ様がお帰りになられる当日。

 僕は朝早くから、桜小路家のメイド服を着て屋敷内を八十島さんと清潔にして行った。

 

「小倉さんが居てくれて助かったわ。私一人じゃ、間に合わなかったかもしれないから」

 

「いえ、私なんてまだまだです。八十島さんの方がベテランですから」

 

「……出来る事なら、このまま残ってくれると嬉しいんだけど」

 

「桜小路家の方々がお戻りになる日まで。それが契約でしたから」

 

「……やっぱり私じゃ止められないのね。……連絡しておいて良かったわ」

 

「ん?」

 

 急に小声になった八十島さんに、違和感を覚えた。

 八十島さんは男性のボディビルダーのような容姿でメイド服を着ている女性。一目見るだけでは男性と勘違いをしてしまいそうな容姿をしている。

 女性的な外見をしている僕とは、正反対の人物だ。

 ……今も男なのにメイド服を自然と着てしまっている自分を顧みて、改めて戻れない所まで堕ちてしまったのだと自覚する。

 桜屋敷で働くならメイド服を着ないといけないと思い、初日から着て仕事をしている。その思考が当然となっていた自分を認識した時は、愕然としてしまった。

 この時代の僕は、フィリア女学院をルナ様がご卒業後、八十島さんが言うのにはメイド服を着たところを見た事が無いと言っていたので、自分よりも男性らしいのだろう。

 

「ど、どうしたの、小倉さん!? 急に顔を手で覆いながら暗くなって!」

 

「い、いえ……ただ改めて自分を……か、顧みただけです」

 

 敬愛するルナ様の夫であり、そのパタンナーとして活躍している桜小路遊星。

 きっとルナ様の夫に相応しく成長したに違いない。メイド服を着て女性の下着に、パッド付きのブラ。序でにウイッグを付けるのが面倒だと思って、僕は髪も伸ばしてしまった。

 完全な女装男の姿が自然な姿になってしまった僕は、後戻り出来ないだろう。

 せめてお母様の墓に行く前には、髪の毛も切って、男性らしい姿にならなければいけないと思う。

 

「そ、それでご子息様とご息女様は何時お帰りになられるのですか?」

 

 話を変える意味もあるが、コレは聞いておかなければならない。

 今日までは八十島さんに言われたので残るつもりだが、明日には桜屋敷を出て行くつもりだ。

 敬愛するルナ様と、自分の子供に興味が無い訳では無いが、会えば会ったで複雑な気持ちになる。

 明日、日が昇る前には此処を出て行く。

 

「坊ちゃまとお嬢様は、時差の関係もあって22時頃に空港に着くそうなの。お会いしたら、食事が必要かどうか確認して必要だったら連絡するわね」

 

「分かりました。その時は腕に縒りをかけて作ります」

 

 この一年間、桜屋敷の管理を行ないながら、八十島さんとの料理の勉強のおかげで腕が上がった。

 その料理が桜屋敷での最後の仕事になりそうだ。もしかしたらご子息様とご息女様に料理の味で不信に思われるかも知れないが、別に構わない。

 その時には僕はもう桜屋敷にいないんだから。

 丁寧に掃除をしながら、そんな事を考えていると、来客を告げるインターホンが聞こえて来た。

 

「あら、来客みたいね。小倉さん。お願いして良いかしら? どうせまた何かの勧誘でしょうし」

 

「はい。それじゃ行って来ます」

 

 八十島さんに言われて、僕は屋敷の入り口に向かった。

 屋敷に来た最初の頃は、知り合いに会うのは不味いと思って、来客の対応は八十島さんにお願いしていた。

 だけど、来るのは何らかの勧誘ばかり。その事に寂しさを感じていたが、それなら僕が対応しても、問題は無いと判断して今は対応に出ている。

 今日も勧誘の類だろうと思いながら、屋敷の入り口の扉を開ける。

 

「当家へようこそおいで下さいました。ですが、あいにくとご当主様はご不在で……えっ?」

 

 入口の扉を開けて対応していたが、その相手の顔を見た瞬間、僕の頭は真っ白になった。

 

「クククッ、話には聞いていたが、八十島が言っていた事は事実だったようだな。最初に聞いた時は何を馬鹿なと思ったが、部下からの確認の報告の事実。何より、こうして直接会う事で確信出来た」

 

 その相手は、何が楽しいのか分からないが僕の顔を見て笑っていた。

 対して僕は、体が震え始めていた。その震えの原因は、畏怖と恐怖。

 僕が知っているあの人よりも、年老いているが、僕がこの人を忘れる訳が無い。

 震えながら、目の前の相手の名を呟いてしまう。

 

「……い、衣遠……兄様」

 

「久しぶりとお前には言うべきなのだろうな。小倉朝日。いや、我が弟、遊星」

 

 畏怖と恐怖の対象である大蔵衣遠兄様は、楽し気に僕を見つめていた。

 

 

 

 

 

 気が付けば僕は、桜屋敷の地下にあるルナ様のアトリエに衣遠兄様と一緒に居た。

 このアトリエとルナ様のお部屋だけは、僕はずっと近づかなかった。掃除などは八十島さんにお願いしていた。

 ルナ様のアトリエやお部屋に入る資格は、もう僕には無いと思っていたのもあるが、何よりも入ってしまったら捨てた夢を思い出してしまうからだ。

 その場所に衣遠兄様と一緒にいるのは、夢ではないのかとさえ思えてしまう。

 

「何をぼおっとしている」

 

「……申し訳ありません、衣遠兄様」

 

「フン……そのセリフをお前から聞くのは随分と久しぶりだ」

 

「……僕の事は何時からご存知だったのですか?」

 

 かって知っていると言わんばかりに、衣遠兄様はアトリエに置かれている椅子に座っている。

 衣遠兄様は、僕の事を知っていた。

 多分教えたのは八十島さんだろう。だが、彼女に裏切られたと言う気持ちは無い。

 思えば、八十島さんが急に僕に買い出しを頼んだ時が何度もあった。今思えばアレは、僕と衣遠兄様が会わないようにしていてくれていたのだろう。

 だけど、僕が出て行くのを引き留めるために、衣遠兄様に伝えたのかも知れない。

 信じられない話だが、この世界の衣遠兄様と僕の関係は良好らしい。最初は信じられなかった。

 だが、思い出してみれば衣遠兄様は『才能至上主義』。

 型紙の才能に目覚めたこの世界の僕となら、関係が良好になっても可笑しくはない。

 

「三か月ほど前だ。大蔵家総裁殿に急にニューヨークから呼び戻された時に、街中でお前の姿を見かけた。最初は何の冗談かとこの俺も思ったぞ。数日前にニューヨークで会った筈のお前が、日本に、しかも桜屋敷に戻って行く姿を見たのだからな。しかも、学生の頃の容姿で」

 

「……そうですか」

 

「八十島に連絡し、お前を外に買い出しにやらせて事情を聞いて見れば、信じられない事にお前は過去の遊星だと言う。しかも、俺が知る遊星と違い、桜屋敷から追い出されたそうだが?」

 

「……全て事実です。私……いえ、僕は正体がバレて桜屋敷を追い出されました。そして当てもなく彷徨っていて、急に意識がなくなり、気が付けば」

 

「此処桜屋敷に倒れていたと言う訳か……信じ難い話だが。だが、現にこうして若かりし頃のお前が目の前にいる。八十島に頼んでお前の髪の毛を回収し、鑑定した結果も、我が弟、桜小路遊星と同一人物と出ている」

 

 流石は衣遠兄様としか思えなかった。

 僕の事も事前に調べていた。だが、それならば何故今やって来たのだろう?

 正体が判明したのならば、すぐに来ても可笑しくはないのに。

 だけど、僕の疑問の答えを衣遠兄様は告げる事は無く、懐かしそうに僕を見つめて来た。

 

「しかし、随分と久しぶりに見るな、お前のその姿は」

 

「ご不快でしたら、すぐに着替えてまいりますが」

 

「……いや、その必要は無い。昔の俺ならば確かに貴様の今の姿を不快に思っただろうが、今は逆にあの頃を思い出させてくれる」

 

「……」

 

 衣遠兄様の言葉に、僕は言葉を失うしか無かった。

 僕にとって衣遠兄様は、絶対的な畏怖と恐怖の対象だった。そして衣遠兄様も僕の事は出来損ないの弟としか思っていないと思っていた。

 もしも女装姿など目にしたら、殺されるかも知れないとさえ思っていた。

 だが、目の前の衣遠兄様はこの時代の僕の事を、本当の家族と扱っていてくれる。

 正直嫉妬心が沸き上がって来た。全てを失った僕と違い、幸せな日々を過ごしているであろう桜小路遊星に。

 しかし、すぐに意味の無い事だと理解する。全てを失ったのは、僕自身が原因なのだから。

 

「さて、余り俺には時間が無い。事前に八十島から聞かせて貰ったが、率直に聞くぞ、遊星。お前はこの桜屋敷を出て行くそうだな」

 

「……はい。そう言う契約でした。僕が此処に居るのは桜小路家の方々がお戻りになられるまで。そしてご子息様とご息女様がお戻りになられるのでしたら、僕は此処を去ります。その後は、マンチェスターにあるお母様の墓参りに行くつもりです」

 

「その後は?」

 

「……」

 

「何も決まっていないのだな」

 

「……」

 

「ならば、話は早い。遊星。お前は今後、この俺の養子となれ」

 

「……はい?」

 

 一瞬、衣遠兄様が何を言っているのか分からなかった。

 養子になれ? 誰が? 僕が? 誰の? 衣遠兄様の子供?

 

「えっ? えっ? えええええええっーーーー!?」

 

「お前には戸籍が無い。ならば、この俺の養子となれば問題は無くなる。安心しろ。事前に根回しはしてある。お前は、以前事情があって自主退学をした『小倉朝日』の子供だが、両親と死別して行き場を失い、嘗て母親が働いていた桜屋敷のメイド長八十島に雇われて働いていた。そして母親から受け継いだ型紙の技術をこの俺が見初め、その才能を我が物とせん為に養子する事にしたと言う筋書きだ」

 

「な、なななななななななっ!? 何をおっしゃっているのか意味が分かりません!?」

 

 本当の意味が分からない!

 僕が衣遠兄様の子供になる!?

 衣遠兄様に抱いていた畏怖と恐怖なんて消し飛んでしまった。何よりも目の前にいる衣遠兄様は、僕が知っている衣遠兄様と性格が違い過ぎている。

 混乱する僕に対して、当然の事だと言わんばかりに衣遠兄様が話しかけて来る。

 

「言っておくが、コレはお前の為だ。戸籍も無いお前が、大手を振って表を歩けるようになる。今の状態でお前が表を歩けば、現大蔵家の総裁殿がお前を捕まえようとするだろう」

 

「大蔵家の総裁殿が僕を?」

 

「そうだ。そもそも俺が半年前に急に日本に呼び戻された理由は、総裁殿がアメリカにいる筈の兄が日本で女装姿で街中を歩いているのを見たと言われたからだ」

 

「……あの、何故総裁殿が僕を捕まえようとするのでしょうか? それに兄って? 僕の事ですか?」

 

「……まさか、知らないのか? 現大蔵家の総裁殿は、お前と俺の妹。大蔵里想奈(りそな)だ」

 

「えっ? ……里想奈が大蔵家の総裁?」

 

 あの、里想奈が大蔵家の総裁!?

 余りこの世界の僕が知っている人達の事を調べないようにしていたので、知らなかった。

 ルナ様とこの時代の僕の事は、八十島さんが教えてくれたが、まさか、あの里想奈が大蔵家の総裁になっているなんて、夢にも思ってなかった。

 

「総裁殿。いや、我が妹はお前に愛情を抱いている。桜小路にお前は奪われてしまい、今も行き場のない感情を抱いてな。だが、今此処に、まだ、誰の者にもなっていない大蔵遊星がいると知ったら、力尽くでも手に入れようとするだろう。秘書であるこの俺が情報を隠しているので、我が妹は今は知らないがな」

 

 ……確かに衣遠兄様の言う通りかもしれない。

 里想奈は僕と結婚したいと常々言っていた。まさか、この時代までそれが続いているとは考えても見なかった。

 

「万が一、お前が見つかり、総裁殿の傍にお前がいれば、桜小路も気がつく。今や、桜小路も大蔵家の人間。大蔵家には家族揃って集まる『晩餐会』と言う催しがある。その席でお前を傍に侍らせる総裁殿を見た桜小路が、どれほどの衝撃を受けるか。クククッ、その光景を考えるだけで笑いが込み上げて来る」

 

 何だか、僕と言う存在は、この時代では大蔵家を揺るがすほどになっているらしい。

 この世界の僕は、過去に一体何をやったのだろう?

 

「個人的には楽しみではあるが、大蔵家が荒れるのは困る。ただ荒れるでは済まず、間違いなく桜小路と我が妹は、お前を手元に置くまで熾烈なる争いを繰り広げるに違いあるまい。故に俺が先手を打って、お前を得ると言う訳だ。最も手元におくにしても、表向きは女性という事にしておく。お前の正体を隠す為だ。過去にお前と里想奈がこの俺に対して行なったように」

 

「……選択肢はありませんよね」

 

「ない。お前が想像している以上に、大蔵遊星と言う存在は大蔵家にとって重要な存在なのだ。そうなってしまった。そうなる前に、この時代に来てしまったお前には分からないだろうが」

 

 衣遠兄様の言葉に嘘はないと思った。

 だけど、僕には分からない。何故ならば、僕は全てを失っているのだから。

 この時代の僕が持っている型紙の才能だって、きっと僕は敵わない。服飾の世界から離れて、一年になるのもあるが、きっとこの時代の僕は得られたのだ。才能が開花するような出来事に。

 でも、僕には無い。ルナ様に褒められた型紙の才能にも、もう自信を持つ事が出来ない。

 一度だけ見てしまったのだ。この時代の僕がルナ様の為に造った衣装を。

 あの楽しみにしていたフィリア・クリスマス・コレクションの舞台で燦然と輝いていたルナ様とその衣装。

 勝てないと心の底から思った。僕にはアレほどの衣装を造る事は出来ない。

 だけど、このままでは居られない事も理解するしかなかった。

 

「……分かりました。衣遠兄様の養子になります」

 

「……そうか。ならば、今暫くは桜屋敷に留まれ。書類の準備が出来次第、書いてもらう必要があるからな。才華達の事は任せろ。最近マンションを一つ建てたのでな。俺が日本に留まる間は、そのマンションにいると知れば、才華達もマンションに住もうとする筈だ。そして養子の手続きを終え次第、お前には俺と共に来て貰うぞ」

 

 やはり、選択肢の余地など僕には最初からなかった。

 この人が僕の前に現れた時点で、僕には逃げ場など何処にもない。

 例え無断で屋敷を離れても、すぐに僕は捕まるだろう。

 

「さて、俺は総裁殿と話があるので、電話をする。お前はコレからやって来る才華達の為に食事の用意をしてやるんだな」

 

「……はい、衣遠兄様」

 

 僕は頭を下げて、アトリエから出て行く。

 また、自分の道が衣遠兄様に決められてしまったと、複雑な気持ちを抱きながら。

 結局、僕はあの頃から何も変わっていないのだと思い知らされる。憂鬱な気分になりながらも、この屋敷に帰って来る方々の為に、厨房へと向かって行く。

 だから、僕は気が付けなかった。

 

「予想以上に重症か。チッ……あの頃の俺がした事とは言え、こうして思い知らされる日が来るとはな」

 

 アトリエの中で、衣遠兄様が苦々しい気持ちを抱いている事を。

 

 

 

 

 

side才華

 

 懐かしい日本!

 僕は帰って来たのだ! この故郷である日本に!

 全てが嬉しかった。夢の為に必ず帰ると心に決めていた日本に、僕は帰って来た!

 そして何よりも!

 

「わあ!」

 

 従者が車のドアを開けてくれるも待っていられないと、僕は飛び出した。

 記憶の姿のままに佇んでいる桜屋敷。僕が生まれ、幼い頃を過ごした屋敷が当時の姿のままである。

 懐かしき我が家が、此処にあった。

 

「すごい! 昔のままだ! 此処に着くまでの景色は一致しなかったのに!」

 

「本当ですね。私も懐かしい気持ちになりました、お兄様」

 

 僕に遅れて車から降りて来た妹のアトレも、懐かしそうに桜屋敷を見ている。

 此処は僕の生まれた屋敷。見ているだけで胸に熱いものがじんと湧いて来る。

 

「屋敷を見ていると思い出して来るよ。あの眩しき幼い頃の日々を。それに僕らを迎えてくれたのは、あの頃と外見が変わっていない壱与だから、まるで時があの頃で止まったままのようだよ」

 

「私の外見が若い頃のままですって! あら嬉しい! 心だけが若い頃に戻っていただけじゃなくて、外見も若いままなら女性としてまだまだ頑張れそう! お坊ちゃまったら、お優しい紳士ね!」

 

「僕も壱与が見た目も心も美しい女性のままで居てくれて、嬉しいよ。どうしてこんな素敵な壱与が独身なのか分からないね。きっと周りに居た男性には見る目がなかったんだね」

 

「惚れちゃいそう! そして掘れちゃいそうよ、お坊ちゃま!」

 

 壱与は僕の言葉に感動で体を震わせている。

 一頻り感動したのか、壱与は冷静に戻ると、改めて僕を見て来た。

 

「でもせっかく紳士的な性格なのに、お坊ちゃまの外見はまるで乙女ね。いえ、それが悪いと言う訳ではないのですよ……でも、こうして成長したお坊ちゃまを見ると……本当に似ているわ」

 

「?」

 

 僕は壱与の言葉に首を傾げた。

 まるで、僕ではない誰かを、僕を通して見ているような視線を壱与は向けている。

 どう言う事なのかと質問しようとすると、僕らと一緒にアメリカから付き人としてやって来た九千代が苦言を告げる。

 

「八十島さん。桜小路家の長男である若に対して、乙女と言う発言は失礼です」

 

「あらごめんなさい。私ったら思った事を口にしちゃうおしゃべり乙女なもので」

 

「いいんだ、気にしてないよ。ただ僕は『お坊ちゃま』って呼ばれるのが苦手なんだ」

 

「やだ、そうだったの? それじゃ……私も九千代さんにならって若とお呼びするわね」

 

 若。僕は僕の誇る両親の長男。

 由緒ある桜小路家の御曹司。だから、そろそろ童心に返るのは終わりにしよう。

 僕は完璧。誇り高い人間。

 

「先ほども車の中で確認しましたが、夕食はお取りになられるのですね?」

 

「うん。機内食を食べてないからお腹が空いているんだ。壱与の料理が楽しみだよ」

 

「ウフフ、嬉しい事を言ってくれますけど、残念ですが、夕食の準備をするのは私ではありません」

 

「えっ? それじゃ一体誰が?」

 

 せっかく久しぶりに壱与の料理を食べられると思っていたのに。

 少し残念だった。

 

「それは会ってからご紹介します。さぁ、皆さまいよいよお屋敷の中へ」

 

 壱与に促されて、僕らは桜屋敷の中へ入って行く。

 その先で僕は。

 

「お帰りなさいませ、桜小路才華様。桜小路アトレ様」

 

 入り口の扉の先にいた女性の姿に、僕は言葉を失った。

 背中の半ばまで届いている長い黒髪。何処となく寂しさと悲しさ、そして憂いを感じさせながらも整った顔立ち。身長は僕と同じくらいだろう。仕草や言葉遣いから気品を感じさせる人物だった。

 華奢な体を桜小路家が務めるメイド服で纏い、その女性はやはり寂しさを感じさせる笑みを浮かべながら挨拶をして来た。

 

「私は八十島メイド長と共に当桜屋敷に務めております」

 

 僕の傍に居るアトレと九千代も、女性の余りの美しさに呆然としている。

 だけど、僕は二人とは違った意味で呆然としていた。

 この女性を僕は見た事がある。ずっと昔に、忘れる事が出来ないあの日。僕が女性に対して性的興奮を覚える事が出来なくなったあの日に。

 

「小倉朝日と申します。どうかお二方とも。宜しくお願いします」

 

 懐かしき故郷日本。生まれた屋敷である桜屋敷。

 帰って来たその日、僕は色々な意味で運命の人と出会った。




人物紹介

名称:大蔵遊星/小倉朝日
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』の主人公。重い生い立ちの生まれなのに関わらず、本来は前向きな性格をしているのだが、本作ではバッドエンド後から未来へとやって来たので全体的に暗くなりがちになっている。
桜屋敷にやって来てから一年間、ずっと家事を行なっていたのでその方面の方のレベルは格段に上がっているのだが、服飾関連は全く関わらないようにしていたので衰えてしまっている。
女装に関しては最早その道を進んでいる人物でも、初見では絶対に分からない領域に至ってしまった。その原因は、ずっと一緒に働いていた八十島壱与の見た目が男性と見間違える容姿の為に、その動きが男性的な動きだと本人が無意識に考えて実行していたせいである。また、他者との接触を出来るだけ控えていた事も原因の一つである。
アメリカに居る桜小路遊星には複雑な気持ちを抱いている。
本人は知らないが、朝日の存在がアメリカにいる桜小路家の面々に知られた場合、アメリカに強制連行される。また、大蔵家本家も同じであり、総裁である妹に見つかれば、即座に大蔵本家での監禁生活が待っている。


名称:八十島壱与
詳細:見た目はまるでメイド服を着たボディビルダーのような男性だが、れっきとした女性。主人達が渡米し、次から次へと先輩メイドが止める中、唯一桜屋敷に残り続け、十数年間管理と維持を行なって来た。
『小倉朝日』の正体を知っている人物である為に、当初は桜屋敷の庭で倒れていた遊星を発見した時は混乱したが、話を聞いて遊星に桜屋敷で働くように勧めた。
精神的にかなり弱っている遊星を案じているが、自分では支えきれないと判断して連絡をして来た衣遠に事情を説明し協力を仰いだ。


名称:大蔵衣遠
詳細:表向きには大蔵遊星の兄となっているが、実は大蔵遊星は知らないが血の繋がりが無い。それ故に、昔は野心に満ち溢れて大蔵家の当主の座を目指していたが、桜小路遊星の頑張りに寄り、現在は家族を大切に思うようになった。
現在から三か月ほど前の夏頃に大蔵家現総裁が、街中で偶然、小倉朝日を見かけ、捜索を命じられていた。
最初は何を馬鹿なと思ったが、桜屋敷に入って行く小倉朝日本人を目撃し事実だと認識。その後は壱与からの説明と、部下に頼んで行なったDNA鑑定の結果から大蔵遊星本人だと認定。ただ本人の精神状態と壱与から聞いた経緯から、接触する事を避けていた。だが、桜小路才華の帰国に寄って桜屋敷を遊星が去ろうとしている事を知り、接触。その接触の結果、予想以上に遊星の精神が弱っている事を知る。
その原因が過去の己の所業が原因だと悟っているので、内心では苦い思いを抱いている。


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prologue2

side遊星

 

「小倉朝日と申します。どうかお二方とも。宜しくお願いします」

 

 き、緊張する!

 可笑しなところはなかったかと内心では焦りながら、笑顔で動揺を隠してやって来た三人に僕は挨拶をした。

 八十島さんに話は聞いていたが、こうして直接会うのはやはり勇気が必要だった。

 敬愛するルナ様と同じ銀髪で赤い瞳のスーツ姿の男性が、桜小路才華……様。

 幼い頃のりそなに似た容姿をして、着物に似たゴスロリ服、確か和風ロリと呼ばれるジャンルの服を着ている女の子が桜小路亜十礼(アトレ)……様。

 それと僕と同じデザインのメイド服を着ている紅い髪の女性。

 ……八千代さんに似ている。確か八十島さんの話では名前は山吹九千代さん。八千代さんの姪らしい。

 三人とも、僕を見つめて固まっている。まさか、僕が大蔵遊星だとバレるとは思えないけど。

 

「……お父様?」

 

 いきなりバレたぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!!

 才華様が呆然と呟いた言葉に、僕は大量の冷や汗が背中に流れるのを感じる。

 えっ!? 何でバレたの!? 認めたくないけど、子供の頃一緒に遊んだ湊にも最初の頃はバレなかったのに!? 

 ……冷静に考えてみると、それはそれでショックなんだけど。

 とにかく、此処は演技を続けて何とか誤魔化さないと!

 

「……はっ?」

 

「お、お兄様!? 一体何を言っているんですか!? この方は女の人ですよ! お父様じゃありません!」

 

「……あっ」

 

 慌てるアトレ様の様子に、呆然としていた才華様は気がついたかのように首を横に振るった。

 ……気がついていない?

 それじゃ、どうして才華様は僕の事をお父様って呼んだんだろう?

 

「……申し訳ない。見ず知らずの女性をお父様と間違えるなんて」

 

「い、いえ! ちょっとは驚きましたけど、き、気にしてませんから!」

 

「本当に申し訳ない」

 

 才華様は謝罪しながら、僕に近づいて来てジッと顔を見つめだした。

 

「……な、何でしょうか? ご子息様」

 

「……才華」

 

「はい?」

 

「僕の名前は桜小路才華。才華って、貴女には名前で呼んで欲しい」

 

「……えっ?」

 

 何がどうなっているのか分からない!?

 えっ? 僕の正体に気がついている訳じゃないんだよね?

 と言うよりも、才華様の両手が、何時の間にか僕の両肩に乗っている。

 

「あ、あの?」

 

「何?」

 

「……手が肩に乗っているんですけど。それに顔が近いです」

 

「ッ!?」

 

 才華様は慌てて、僕の肩に乗せていた手を離して傍から離れてくれた。

 安堵の息を吐きながら、思わず両手を胸に当てて才華様から僕も離れる。

 その動きに才華様は動揺したように体を震わせた。

 ……何だろう? もしかして本当は僕が男だと気がついているのだろうか。とにかく、このままではいられないと思い、成り行きを見ていた八十島さんに声を掛ける。

 

「八十島メイド長。夕食の準備は出来ております。すぐにご子息様とご息女様はお食事になされるのでしょうか?」

 

「そうね。若、いかがいたしましょうか? 先ずはお部屋にご案内なさいましょうか?」

 

「部屋? 僕の部屋が用意してあるんだ」

 

「用意してあると言っても仮のものです。小倉さんと一緒に、来賓用の一室にベッドをご用意させていただきました」

 

「この屋敷の中は、僕が住んでいたころのままだよね?」

 

「はい。八十島メイド長の指示に従い、可能な限り当時の頃のままで残してあります」

 

 流石に僕が居た頃のユルシュール様や、瑞穂様、そして湊の部屋は残っていない。

 皆が出て行った後の屋敷を八十島さんに教えて貰って、才華様達を迎えられるようにしてある。

 

「そう。なら、僕はお母様の部屋を使わせて貰うよ」

 

 ル、ルナ様のお部屋!?

 ……お、落ち着いて。別段可笑しい事では無い。才華様はルナ様の息子で、今はこの屋敷の主だ。

 どの部屋を使おうと、一介の使用人でしかない僕が口を出す訳には行かない。

 

「お母様の部屋を? すぐにでも暮らせるようにしてありますが……お母様に許可を頂いてからの方がよろしいのではないかしら?」

 

「お母様には明日伝えておくよ。でも許可はいらない。いまこの屋敷の主は僕だ。そしてお母様の部屋はこの屋敷の主が住む部屋だ。だから、屋敷の主である僕が使う。荷物を部屋に運んで」

 

 ……胸に僅かに痛みを感じた。

 才華様の言っている事に間違いは無い。でも、やっぱり僕にとっての桜屋敷の主は、あの人だけと言う気持ちがある。

 

「若が其処までおっしゃるのでしたら。フフ、見た目は乙女なのに逞しく育ちましたね。アトレお嬢様は来客用の部屋で大丈夫でしょうか?」

 

「はい。私は構いません」

 

「それでは荷物を運びますね。若の荷物は私が。アトレお嬢様の荷物は、小倉さん。お願いします」

 

「分かりました、メイド長」

 

「あれ? 小倉さんはともかく、メイド長の壱与まで……あ、ひょっとして?」

 

 才華様は気づかれたらしい。

 今、この屋敷には私と八十島さんしかメイドが居ない事に。

 

「若のお察しのとおり、今この屋敷にいるメイドは私と小倉さんの二人です。主人一家が渡米された後、メイドの先輩方は一人、また一人といなくなり……臨時の庭師などを除けば、お二人のお母様が住んでいた当時のメイドは、いよいよ私だけになりました。メイド長とは名ばかり。行き先が見つけられなかっただけの話です」

 

「小倉さんは違うんだよね?」

 

「はい……私は一年前に八十島メイド長に誘われてこのお屋敷で働かせて貰っています」

 

「小倉さんが来てくれてからは、私も寂しくはありませんでした。まるであの頃に戻ったような充実を、この一年感じています」

 

「そう。壱与ほど優秀な人なら勤め先は幾らでもあっただろうに。長い間、屋敷を護っていてくれていたんだね。ありがとう。小倉さんも壱与と一緒に働いて、屋敷を護ってくれてありがとう」

 

 寧ろ僕も八十島さんには礼を言いたい。

 僕も才華様と同じ気持ちを八十島さんに抱いていた。

 一年ほどしか僕は桜屋敷の管理をしていないが、八十島さんは十数年も桜屋敷を護っていてくれていたんだ。

 なのに、八十島さんは寂しさを感じさせない笑顔を浮かべている。

 

「せっかく若がお戻りになられた日なのですから、明るい話をしましょう。そう言えば、小倉さん? 大蔵本家からいらっしゃった衣遠様は、まだ屋敷内におられるの?」

 

「えっ!?」

 

 わっ! 才華様の目が見るだけで分かるぐらいに輝いている。

 そんなに衣遠兄様に会えるのが嬉しいのだろうか?

 

「本当に衣遠伯父様が来ているの!? 何処に居るの!? すぐに会いたい! 小倉さん!」

 

「ア、アトリエの方にいらっしゃいます」

 

「フフ、若ったら、いよいよ嬉しそうね。伯父様の名前を聞いただけでまるで子供に戻ったみたい」

 

「それは仕方がないよ。あの人は僕の名付け親なんだから」

 

 才華様のお名前は衣遠兄様が付けてくれたのか。

 良い名前だと思っていたけど、衣遠兄様なら納得出来る。でも、父親としてはやっぱり僕自身で……って!?

 違う違う! 確かに才華様とアトレ様は僕と血が繋がっているけど、二人の父親は桜小路遊星。

 断じて小倉朝日を名乗っている僕じゃない。

 

「それじゃ、僕は伯父様に会って来るね」

 

 足早に才華様はアトリエに続く地下の入り口に走って行った。

 アトレ様も一緒に行くのかと思って、僕は顔を向ける。

 

「あの、アトレお嬢様はよろしいのでしょうか?」

 

「はい。お兄様と伯父様は仲が良すぎるので、邪魔にならないように大人しくしておくことが、お二人の為かと」

 

「そんな事はないと思いますけど。アトレお嬢様も、ご一緒に衣遠様と会えばよろしいと思うのですが」

 

「いえ、良いんです、私は」

 

 何だろう?

 何処かアトレ様は、才華様に遠慮しているような気がする。

 兄妹なのに何故と言う気持ちを抱くが、そう言えばりそなも僕に遠慮していたところがあったのを思い出した。

 僕の為に、フィリア女学院に入学する手伝いをしてくれたりそなには感謝しかない。だけど、そのりそなにもう何も返す事が出来ない事が、僕の心を重くする。

 

「朝日さん?」

 

「……何でもありません。それではアトレお嬢様と九千代さんのお部屋にご案内いたしますね」

 

 気持ちを切り替えて、僕はお二方を用意していたお部屋に案内する。

 来賓用の一室の扉を開けて、アトレ様の荷物を部屋の中に置く。

 

「此方がアトレお嬢様の部屋となります。あいにくと今日はもう夜なので出来る限りとなりますが、何か必要なものがございましたらお言いつけ下さい」

 

「いえ、大丈夫です。それよりも小倉さん」

 

「はい、何でしょうか?」

 

「先ほどはお兄様が失礼な事を言ってすみませんでした」

 

「先ほど? ……あぁ、私をお父様と勘違いされた事ですね?」

 

「えぇ……お兄様は小倉さんをお父様と勘違いなさるなんて流石に失礼過ぎます。九千代もそう思うでしょう?」

 

「はい……先ほどのは流石に若が失礼でした。小倉さんのような若くて綺麗な女性を、男性である旦那様と間違うなんて……アレ? 小倉さんどうしました? 急に顔を手で隠されて?」

 

「……き、綺麗って言われて……その……う、嬉しくて」

 

 正体がバレていない事は良いけど、やっぱりショックだった。

 血の繋がった相手からの言葉は、予想以上の悲しさを僕に抱かせた。

 でも、さっきのは本当に焦った。才華様にいきなり正体がバレたのかと思った。

 だけど、アトレ様と九千代さんは僕の事を女性だと思っていたようだ。なのに、何故才華様は僕を桜小路遊星だと勘違いしたんだろう?

 

「あの……つかぬ事を聞きますけど、私って、そんなに旦那様に似ているのでしょうか?」

 

「……確かに似ていると言われれば、お父様に似ているような気がします。でも、小倉さんは女性。お父様は男性。女性である小倉さんを間違うなんて、やっぱりお兄様が悪いです」

 

 グサッと、僕の胸にアトレ様の言葉が突き刺さるのを感じた。

 ごめんなさい、アトレ様。僕は本当は男性なんです。才華様が正解だったんです。

 ……まさかと思うけど、実はこの世界の僕はルナ様がご卒業されて、才華様とアトレ様が生まれた後も、隠れて女装していたんじゃ。

 ソレを才華様が偶然見てしまったとか?

 ……うん。無いよね。流石にソレは嫌すぎる。

 もしも、この考えが当たっていたら……自殺しよう。うん。

 そんな事を考えていたら、僕の耳にアトレ様のとんでもない提案が届いて来る。

 

「そうだ! 流石にこの件は、お母様とお父様に報告して、お兄様の勘違いを教えて叱って貰いましょう」

 

「それだけはお止め下さい!!!」

 

 僕は即座にその場に膝を着いて、土下座をアトレ様にしてしまった。

 突然の僕の行動にアトレ様と九千代さんは、目を見開くが、僕は構わずに土下座のままアトレ様に頼み込む。

 

「どうか! どうか! 奥様と旦那様に私の事を報告するのはお止め下さい! お願いします!! アトレお嬢様!!」

 

「こ、小倉さん? どうされたのですか、いきなり?」

 

「……申し訳ありません。ですが、どうか奥様と旦那様に報告するのだけは、お止め下さい……衣遠様のご命令なのです」

 

「衣遠伯父様の?」

 

「はい」

 

 衣遠兄様を理由にして誤魔化すのは不味いかも知れないけど、アメリカに居るルナ様と桜小路遊星に、僕の存在を知られる訳には行かない。

 知られれば、大蔵家と桜小路家で争いに発展すると衣遠兄様が言っていたのだから。

 

「詳しい事情は衣遠様に口止めされているので、話す事は出来ません」

 

「……分かりました。後で改めて衣遠伯父様に確認してみます」

 

「ありがとうございます、アトレお嬢様」

 

 土下座の姿勢のまま、僕はアトレお嬢様に礼を告げた。

 

「……お見苦しいところを御見せしてしまい申し訳ありません……夕食の準備をいたしますので、失礼します」

 

 僕はアトレ様に謝罪をして、そのまま来客室から出て行った。

 背後から訝し気な視線が僕に向けられているのを感じるが、振り返らずに通路を進んで行く。

 食堂へ着くと、才華様の荷物を運び終えたのか、八十島さんが食器を並べていた。

 

「小倉さん。お嬢様達の案内は終わったかしら?」

 

「……はい、終わりました」

 

「……その様子だと何かあったみたいね」

 

「……アトレお嬢様が先ほどの件を奥様と旦那様に報告しようかと告げられたので……思わず謝罪してしまいました」

 

「それは……」

 

 八十島さんは分かっている。

 僕の事がアメリカに居るルナ様と桜小路遊星に知られる意味を。以前の時とは違い、小倉朝日としての僕を知っている人達がいる。

 その人達が僕を見れば、どう思うだろう?

 衣遠兄様は、僕を大蔵遊星本人だと認めてくれた。だけど、他の人達が衣遠兄様と同じとは限らない。

 偽物。良く似た他人。最悪の場合は、桜小路遊星の浮気を疑う者が出て来るかも知れない。

 謂れのない中傷が彼を襲うかも知れない。いや、僕は知っている。

 僕とお母様がそうだったんだから。

 

「……私は……僕は、どうして此処にいるんだろう?」

 

 小倉朝日としての演技が出来なくなって来ている。

 一年前から何度も僕が感じていた気持ちが沸き上がって来た。

 桜屋敷から追い出され、当てもなく彷徨っていた先に辿り着いた場所は、十数年後の桜屋敷。

 憧れのルナ様と結ばれて、幸せな日々を過ごす事が出来た大蔵遊星がいる未来。

 きっとこの世界の僕ならば、ジャンが書き直してくれた遺書の内容を叫ぶ事が出来るだろう。

 

『ああ楽しかった!』

 

 でも、僕には無理だ。

 その機会を自らの致命的なミスで失ってしまった。

 今の僕はきっとジャンと出会う前の僕に戻っている。

 もう……僕は……。

 

「小倉さん。お嬢様達がもうすぐ来るわ。若を呼んで来てくれないかしら」

 

「……はい……メイド長」

 

 八十島さんの指示に従って、僕は才華様のいるであろうアトリエに足を進めた。

 同時、あぁ、やっぱり昔の僕に戻ってしまった事を感じた。

 

 

 

 

 

side才華

 

 あ、危なかった!

 もうちょっと小倉さんと話をしていたら、我慢出来なかったかも知れない!

 屋敷の地下に続く階段の壁に背を預けて、僕は息を整えていた。

 ごめんなさい、衣遠伯父様。あの場から離れる理由に貴方を使ってしまって。

 小倉さんの姿を見た瞬間から、僕の胸の高鳴りは治まらなかった。こんな事は初めてだった。

 子供の頃のあの出来事のせいで、女性に対して性的興奮が出来なくなっていたのに、小倉さんに対して僕は性的興奮を抱いてしまった。

 傍に寄って確認したが、あの人はお父様ではない。お父様にしては、小倉さんは若過ぎる。三十代後半のお父様と違って、どう見ても小倉さんは十代後半ぐらい。

 だけど、あの人の顔は、あの日(・・・)のお父様の顔と同じだった。

 

「……それに、小倉朝日? どうしてその名前をあの人が名乗っているんだ?」

 

 『小倉朝日』と言う名前を僕は知っている。

 お母様が学生時代に最も信頼していたと言うメイドの名前が、『小倉朝日』だった筈。

 

「……娘なのかな? でも、母親と同じ名前なんてある訳が」

 

 考えても分からない。もしかしたら衣遠伯父様なら何か知っているかも知れない。

 息を整えながら、僕はアトリエの入り口の前に立つ。

 

「そうか……やはり、廃止の方向か」

 

 伯父様の声だ!

 どうやら、入り口の近くで話しているらしい。でも、廃止?

 一体なんの事だろう? 電話で話しているのか、相手の声は聞こえない。

 アトリエの扉に鍵は掛かっていないから、ノックして開ける事や、いきなり開ける事も出来るけど。

 

「男子部に対して、特別な感情は俺には無いが」

 

 伯父様の声の様子から見て、真面目な話に違いない。

 邪魔をするのは不味いだろうから、僕は伯父様の電話が終わるまで待つ事にする。

 

「学院の意思に関わらず、存続するだけの募集が集まらなかったのだ。仕方があるまい。学院側は充分に宣伝を行なっていたのだから。だが、奴は非常に残念がるだろうな。クク、その報告をする方がお前にとって難儀なのだろう? それとも嫌われ役を秘書の俺に押し付けるか? 立場上やれと言われれば従うが、今更奴に嫌われるのは御免被りたいものだ」

 

 電話の相手の正体が分かった。

 僕の苦手な大蔵家総裁殿だ。

 

「その件に関しては大蔵家総裁殿に話して貰うとして……ん? ……例の人物に関してか?」

 

 例の人物?

 総裁殿は誰かを探しているんだろうか?

 

「捜索はしているが、やはり見つからない。お前の見間違いだったのではないか?……これ以上部下に無意味な時間を割かせる訳には行かん。本日をもって捜索は打ち切らせるが構わないか? ……そう落ち込むな。近い内に本家に顔を出す。その時には久々に兄妹揃って食事をしよう。ではな」

 

 電話が終わったみたいだ。

 僕はアトリエの扉を手をかけて、中に足を踏み入れた。

 

「衣遠伯父様!」

 

「……才華か!」

 

 僕を見た衣遠伯父様は嬉しそうだ。僕も嬉しい。

 

「半年ほど前にあった時よりも一段と髪が伸びたようだ。まるで甥ではなく姪のようじゃないか」

 

「半年ぶりにお会いしたらその挨拶ですか? 髪だけじゃなくて背も伸びたのですから、男らしくなったと言って下さい」

 

「フン、男らしくなったと言うなら伯父にあったくらいで女々しく嬉しそうな顔をせず、もっと堂々とするが良い」

 

 人を女々しくとか言いながら、伯父様は嬉しそうだなあ。

 今の伯父様を見たら、普段の彼を知っている人は別人だと思うかも知れない。

 そもそも僕の伯父様は只者じゃない。世界でも有数の大富豪と呼ばれる『大蔵家』の一員だ。

 当主でこそ無いが、世界経済に関わる大蔵家を支えている大黒柱だ。

 性格は苛烈。個人の能力を重視する『才能至上主義』を掲げ、内外から絶対の信頼を受けている。それこそが、大蔵衣遠伯父様だ。

 ただ僕には甘い。いつも柔和な態度で接してくれて、怖いなんて一度も思った事は無い。

 今も、僕に会えたのを喜び過ぎだと思ったのか、咳払いをして威厳を整えている。

 

「伯父様、以前から望んでいた日本の学園に進学するため、先ほど帰国しました」

 

「そのようだな。たまたま桜屋敷に用事があり、立ち寄ってみればこうしてお前に会えるとはな」

 

 またまた、僕が帰って来るまで待っていたくせに。

 

「帰国した初日に伯父様に会えるなんて思っていませんでした。後日、ご挨拶に伺うつもりでしたのに」

 

 衣遠伯父様は仕事で忙しいお母様とお父様の代わりに、日本での僕らの生活を見て貰う事になっている。

 伯父様は意地っ張りなので、本当の事を指摘するとそっぽを向いてしまう。

 だから、僕は僕に出来る最大の愛情表現で喜びを表現しよう。

 

「この偶然に感謝を。大志を胸に抱いて帰国した矢先に、大好きな伯父様が迎えてくれるなんて、これ以上の喜びはありません」

 

「分かりやすく甘えるものだ。卒業祝いは半年前に送った筈だが?」

 

 はい。まだ乗っていませんけど。車を一台頂きました。

 世界で50台しかない車を。

 

「家こそ違えどお前は家族だ。家族を大切にするのは大蔵家の本質……そうだ。先日都内にマンションを一つ建てた。其処には俺も日本で滞在する時に使用する。どうだ? お前とアトレは其方に住まないか?」

 

「えっ?」

 

 いきなりの提案に僕は僅かに戸惑った。

 確かに伯父様と一緒に住めるのは魅力的だ。部屋は違うかも知れないが、伯父様の事だ。

 すぐ隣の部屋が伯父様の部屋でも可笑しくはない。

 

「壱与には既に話をしてある。お前が望むならば、明日すぐにでも引っ越しを行なえるが」

 

 ……何だろう?

 僅かに伯父様に僕は違和感を覚えた。確かに伯父様の提案は魅力的だ。

 大好きな伯父様と一緒に暮らせるなど、夢のように思える。だけど、僕は。

 

「大変に魅力的な提案ですが、家ならば此処。桜屋敷があります。伯父様も仕事で忙しいこともあるでしょうから、大丈夫です。ですので、他のものを頂きたいのですが?」

 

「……ほう。随分と図々しいな。では、俺の提案の代わりにお前は何を望む?」

 

「はい、私が望むのは今から伯父様の時間を少し頂く事です。世界経済を動かせる大蔵家の心臓である伯父様の時間を、どうかしばしの間僕に下さい。伯父様と話がしたいのです」

 

「……確かに俺の時間は安くはない。だが、才能のある甥の望みとあれば、仕方があるまい」

 

「ありがとうございます! 伯父様! 大好き!」

 

 僕は伯父様に抱き着いた。

 ガタっと、アトリエの入り口の方から何か聞こえたような気がする。

 伯父様に抱き着きながら、振り返ってみるが、誰もいなかった。気のせいかな?

 

「フン、男子たるもの、この歳になって抱き着くなど軟弱極まりない!」

 

「いいえ、子は親に甘えるものです。伯父様は両親と同様に僕を愛して下さいました。ですから、私も伯父様を両親と同等に愛します。私の名付け親も伯父様です。才能が華開くと書いて、『才華』。素晴らしい名前を付けて下さった伯父様には感謝しかありません」

 

「仕方があるまいよ。何せお前の母親は、本気で『毘沙門天』などと言う名前をお前に付けようとしていたからな」

 

「……『桜小路毘沙門天』。伯父様が止めて下さり助かりました。そんな名前のままで日本で暮らしていたら、虐められていました」

 

 お母様は服飾のデザイナーに限り天稟としか思えない才能をお持ちだが、何処か大切な感覚が狂っているとしか思えない面があった。

 アトレの名前も最初は『亜十礼威無(アテーナ)』などと名付けようとしたらしい。

 家族一同、山吹メイド長。果ては友人の方々まで協力して止めてくれたのには、やはり感謝しかない。

 

「その母親は息災か? 以前、彼女にあってから大分経つが?」

 

 ニューヨークに居た頃、伯父様は僕と会う場合、外で会う事が多かった。

 甥コンの顔を両親に見せたくなかったらしい。因みに、両親にはバレています。

 

「お母様ですか? はい、昨日別れた時は元気でした。コレクションも終わり、デザインの仕事も一先ずは落ち着いたようです。夜間ではありましたが、外出を厭うその体で玄関先まで私を見送って下さいました。お母様の見送りに勇気を与えられ、家族のありがたみを何度も飛行機の中で感じました。」

 

「……そうか。つまり余裕がある訳か……少し急いだ方が良さそうだ」

 

 どうしたんだろう?

 急に伯父様の顔に焦りが浮かんだような気がする。

 でも、すぐに伯父様は平然とした顔に戻った。

 

「お前の母親は『家族』と言うものに、普通の人間の倍は思い入れが強い。感謝しておくと良い。もっとも、彼女は愛情の中に厳しさを込める人だった。お前には感謝の量だけ苦労もあっただろうが」

 

「はい。誇りを忘れるような真似を許さない人でした。尊敬する母です」

 

 誇り高く美しいお母様。自分もこうありたいと思える人。

 だからこそ、超えなければならない高い壁となる人。

 

「アメリカでの優秀な成績は耳にしている。両親の教育に問題はないようだ。あの両親も自慢の息子だと鼻が高いだろう。容姿も若き日の彼女を思い出させる」

 

「ありがとうございます。私はお母様こそ、世界で一番美しい人だと思っています。その人に似ていると言われるのは最高の喜びです」

 

 大変に気分が良い!

 僕は思わず両手を広げて伯父様に愛情を示した。やはり伯父様は僕の被害者だ。

 

「それに母親だけではなく、父親の面影も強くなって来た」

 

「う~ん」

 

 良かった気分が、一気に悪くなった。

 広げた両手を下げて、腕を組んで首を傾げる。

 

「ほう? 母親に比べて喜んでいないな。父親に対しては反抗期を迎えている最中だったか?」

 

「いえ、お父様の事も尊敬しています。私達の教育を使用人に任せきりにせず、外出困難なお母様の代わりに、学校の下見や行事の参加まで一手に引き受けてくれました。何より、お父様には才能があります」

 

 ガタっと、また微かに入り口の方から微かな音が聞こえた気がした。

 でも、やっぱり振り返ってみても誰もいなかった。

 

「お父様の型紙の才能は、お母様のブランドを世界へ押し上げる為の唯一無二の技術でした。尊敬しない筈がありません」

 

「では、何が不満なんだ?」

 

「……お父様は時に軟弱と感じる事があります。お母様と伯父様が意思の強い人なだけに、尚更そう思えるのです」

 

「あの男が軟弱だと? 俺が知る限り、意思の強さにおいて他の誰と比べても劣らない」

 

 伯父様の指摘した通り、今僕はお父様に対して反抗期の自覚がある。

 お父様の事を手放しで褒められると、素直に頷けなかった。親戚一同は、『君の父親は意思の強い人』だと言うが。

 技術は尊敬していても、僕にはお父様は軟弱にしか見えない。

 

「それに才華よ……軟弱が悪いと言うが、この世で最も嫌悪すべきなのは軟弱ではなく、『惰弱』だ」

 

「えっ?」

 

「そう惰弱こそ、この世で最も嫌悪すべきものだ。ただ眩しき日々を懐かしみ、其処から出ようともせずに留まるなど惰弱以外の何ものでもない」

 

 衣遠伯父様?

 どうしたんだろう? 目の前にいる僕じゃない誰かに今の衣遠伯父様は語っているかのようだ。

 

「お前の父親は惰弱ではない。あの男は癖の強い大蔵一族を相手に、折れず、屈せず、最後には全員に影響を与えて纏め上げた。今この俺が此処に居るのも、奴の意思の強さが成し遂げた事だ」

 

「……お二人の仲が良いのは分かりました。ですが、それでも私はお父様のようになりたいと思いません。お母様や衣遠伯父様に憧れます」

 

「フン、俺としては気分は悪くないが、奴が聞けば笑顔の裏で悲しむだろうな。世間一般の父親からすれば、息子が超える壁は己であって欲しいだろうからな」

 

「その悲しみを笑顔で隠す事こそ、男らしくありません。それも計算ならばともかく、お父様は正直です」

 

「随分と父親を煙たがる。やはり反抗期のようだ」

 

「反抗期中なのは否定しません」

 

 その出処は分かっている。まだ誰にも話した事はありませんし、今後も秘しておくつもりですけど。

 こんな反抗期特有の生意気な顔を伯父様には見せたくないと思い、話題を変えるつもりで気になっていた事を質問する。

 

「そうだ! 伯父様?」

 

「何だ?」

 

「この屋敷に務めている小倉朝日さんについて聞きたい事があるんですけど」

 

「関わるな」

 

「えっ?」

 

 いきなり険しい声を伯父様は出した。

 その顔は一瞬前まで、僕と楽しく話していた事など忘れたかのように険しくなっている。

 

「あのメイドに関わるな。近日中に此処から連れ出して、二度とお前とアトレに会わせないようにする。それで奴とお前達との関わりは終わりだ。母親と父親に報告する必要も無い。見ず知らずの使用人が一人消えるだけの話だ」

 

「……お、伯父様?」

 

 僕は今、初めて伯父様を怖いと感じた。

 決まり切った事をたんたんと告げているかのような冷酷さを、今の伯父様から感じる。

 しかし、すぐに伯父様は顔を戻した。

 

「さて、コレであのメイドに関しての話は終わりだ。他には何か話はあるのか?」

 

「……あ、はい。デザインを見て欲しいんです。伯父様に」

 

 伯父様の変わりように戸惑いを覚えるが、先ほどの様子から見て話をしてくれるとは思えない。

 

「聞いて下さい。素晴らしいデザインを描き、アメリカのファッション誌にも載ったのに、審査員の総評ではまた『何かが足りない』などと言われたのです」

 

「デザインは今から描くのか? 確か夕食の準備は終わっている筈だが?」

 

「大丈夫です。機内で幾つかのデザインを描きました」

 

「ほう。母親と同じく、才能の錬磨を怠っていないようだ」

 

「はい。お母様は日々の生活の中で研鑽する人です。その結果の成功を間近で見て来たのですから、私も自然と毎日の中でデザインを描くようになりました。何よりも私自身の野望の為。日々頭に浮かぶデザインを形にしています」

 

「野望とは大層な言葉を口にする。母親と同じ高みへ昇るつもりか?」

 

「いいえ、お母様を超えます」

 

 今日この日をずっと待ち望んでいた。僕の野望の第一歩。

 そして大いなる夢の始まり。

 これからの未来を思うと、誰かに宣言したかった。

 そして目の前には、僕の言葉に耳を傾けてくれる人がいる。

 

「私はお母様の始まりである『フィリア学院』の『デザイナー科』に進学します。三年間、誰もが憧れるほどの輝かしい道を歩みます。私に触れる誰もが幸せを覚えるだけの人間になります。この桜小路才華。同世代の中で、誰よりも華麗な人間になってみせます!」

 

「意気込みに水を差すようだが、フィリア学院のデザイナー科が、いや服飾部門全体が、今年限りで男子部は廃止するそうだ」

 

「えええええええーーーー!?」

 

 輝く始まる筈だった僕の未来は、最初の一歩から蹴躓いて縦回転する事から始まった。




IFルート
『もしもアトレがアメリカの桜小路家に朝日の存在を知らせたら』

「夫、率直に聞く。浮気したか?」

「い、いきなり何を言うの、ルナ!? してないよ浮気なんて!?」

「その様子では違うか。まぁ、夫が私を放って浮気する事などありえない筈だ」

「筈も何も絶対にありえないよ!」

「だろうな。何私も実は動揺している。その為にちょっと夫を困らせたくなった」

「い、意味が分からないんだけど、一体どうしたの?」

「先ほどアトレから連絡が来て、才華が壱与が雇っていたメイドを夫と勘違いしたそうだ。因みに信じ難い事に、そのメイドの名前は『小倉朝日』と言うらしい」

「ハァ!?」

「今画像を送るように頼んだ。何処の誰だが知らないが、私の朝日の名を名乗るなど赦し難い。壱与も厳重に注意しなければ……来たか。さて、私の朝日の名を名乗る不届き者の姿を拝んで……」

「どうしたの? どんな人……えっ?」

 アトレから送られて来た画像には、メイド服を着た『小倉朝日』の姿が確りと映っていた。

「……夫、八千代を呼べ。どうやら大蔵家の総裁秘書は、私に何か隠し事をしているらしい。それとすぐに日本行きの便を用意するようにも伝えてくれ」

「ル、ルナ……何だか嬉しそうなんだけど」

「フフ、そうか。あぁ、嬉しいとも。彼女が『朝日』ならば、私はどんな手段を使っても手にするぞ。幸いにも今は仕事が落ち着いている。あぁ、待っていてくれ、『朝日』」

「ル、ルナが……怖い」

アメリカ桜小路家使用人ルートが確定しました。


人物紹介

名称:桜小路才華。
詳細:『月に寄りそう乙女の作法2』の主人公。母親と同じで銀髪に赤い瞳で透けるような白い肌の持ち主。両親の才能を受け継いでる。性格は八方美人に近く、人を困らせる事が好きなドSでもある。
母親に関しては誇り高く尊敬しているが、父親には複雑な感情を抱いている。その代わりに伯父である衣遠はとても好きで伯父コンである。その原因は幼初期に目撃した在る出来事が原因。それが原因となって、女性に対して性的興奮を覚えられなくなってしまった。
にも拘わらず、父親に似ている女性である『小倉朝日』に性的興奮を覚えた事に戸惑っている。


名称:桜小路亜十礼(アトレ)
詳細:才華の実の妹。才華が四月生まれで、アトレは三月に生まれた。容姿は才華と違い、日本人的な容姿をしていてりそなに良く似ている。才華には容姿関連の問題で遠慮を抱いている。朝日に関しては確かに父に似ているが、綺麗な女性だと思っている。


名称:山吹九千代(このちよ)
詳細:桜小路家のメイド。先代の桜小路家のメイド長である山吹八千代の姪にあたる。
才華とアトレとは幼少の頃から付き添っている。いきなり土下座をした朝日には何かあると思い、警戒心を抱いている。


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prologue3

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side才華

 

 はぁ、まさかこんな事になるなんて。

 深夜に近い時間帯にも関わらず、僕は寝る事も出来なくてお母様の部屋で項垂れていた。

 僕の輝かしい未来の最初の一歩。『フィリア学院』への入学が難しい状況になっていた。

 と言うのも、伯父様が言うには、『フィリア学院』の服飾部門男子部が存続出来ないほどに募集が集まらなかったようなのだ。

 昨年は募集人数の三分の一にも満たなかったらしい。廃止が決定されたのは、それが決め手になってしまった。

 伯父様は僕らを『フィリア学院』と同等のレベルの学校に進学させれば良いと考え、廃止に賛成の一票を入れてしまった。

 

「あの時に入っていたら」

 

 その一票を入れた時が、まさに僕がアトリエの扉の前に立った時だった。

 悔やんでも悔やみきれない。何か他に方法はないかと思っても、寄りにも寄ってその決定をしたのが、僕が唯一苦手とする人物、大蔵家総裁殿だった。

 大蔵家には『総裁殿』と呼ばれる女性の当主がいる。世界で一番裕福な人物であり、伯父様も決定には逆らう事が出来ない。

 お飾りの当主などではなく、若年でありながらも本人の能力は高い。

 僕の叔母に当たる人物でもあるのだが、僕はあの人が苦手だった。

 会う度に『相変わらず甘えた顔をしていますね』と言われ続けるのは、結構辛い。

 僕が男子部の存続を頼みに行ったりしたら、逆に状況が悪くなるとしか思えなかった。

 

「伯父様も頑張ってくれているだろうし、僕もあの人を味方につけないと」

 

 伯父様は何とか男子部を存続させようと、今も動いている筈だ。

 だから、僕も僕なりに頑張らないと行けない。夕食が終わった後、すぐに日本にいる親戚の彼女に連絡した。

 明日には来て貰えるらしい。大きな難題が目の前にあるけど、彼女と再会出来るのは素直に嬉しい。

 大好きな僕の幼馴染と。

 

「なのに、眠れないなんて」

 

 明日の事もあるから寝ようと思ったのに、僕は眠れなかった。

 

「……水でも飲んでこよう」

 

 気分を変える意味をあって、僕は部屋から出て食堂に向かう。

 この時間では壱与も九千代も寝ているだろう。もう一人の人は、今日が初対面だったから頼み難いし。

 ……伯父様から彼女には関わるなと言われている。桜屋敷を出る前にも、伯父様は時間が無いのにアトレに会って、彼女に関わるなと告げたらしい。

 甥コンの伯父様が、僕の頼みよりも彼女を優先している事に僅かに嫉妬を覚えた。

 でも、すぐに振り払って食堂へと入る。

 そのままキッチンに進む前に、食堂の中にある椅子に誰かが座っている事に気がついた。

 

「だ、誰だ!?」

 

「……ご子息様? こんな夜更けにいかがいたしました?」

 

 その相手は、椅子から立ち上がり僕に顔を向けた。

 

「……小倉さん?」

 

「はい、私です」

 

 夕食の時に姿を見せなかった小倉さんがメイド服姿で、其処にいた。

 急に体調が悪くなったらしく、今日は休ませたと壱与が言っていたが、今僕の目の前にいる彼女を見て納得出来た。

 最初に会った時よりも、顔色が真っ青で、幽霊と見間違えそうなほどに彼女は弱っていた。

 

「こんな夜更けにどうしたんだい? 調子が悪いんだったら、部屋に戻って寝てた方が良いよ。明日もあるんだし」

 

「申し訳ありません。ですけど、明日の朝までには此処を出て行きますのでご安心下さい」

 

「出て行くって!?」

 

 言われて僕は気がついた。

 小倉さんの座っていた椅子の足元には、荷物を入れる鞄のような物が置かれていた。

 ……あの鞄? 思い出せないけど、何処かで僕は見たような気がする。

 気にはなるけど、今は何よりも小倉さんの方が大事だ。紳士として、こんな状態の女性を放って置く訳には行かない!

 

「壱与に何か言われたのかい?」

 

「いえ……自分の意思です。私はやっぱり此処から離れるべきだと思ったんです。八十島メイド長とは、元々そう言う契約でしたから」

 

「契約?」

 

「はい。桜小路家の方々がお戻りになられるその日まで、此処で働かせて貰う契約でした。そしてご子息様とご息女様がお帰りになられた今、私の中で此処に居られる理由が終わったんです」

 

 ……意味が分からなかった。

 何故僕やアトレが桜屋敷に帰って来たら、小倉さんがいる理由が終わってしまうのか分からない。

 ただ、この人をこのまま放っておくのだけは不味い事だけは分かった。

 

「……少し話をしてくれないかな?」

 

 伯父様には関わるなと言われたが、こんな状態の女性を放っておく事は出来ない。

 何よりも今の小倉さんの顔が僕は嫌だった。あの日見たお父様に似た女性が悲しんでいる事を、見逃す事は出来ない。

 僕が近づくと小倉さんは椅子から立ち上がる。

 もしかして駄目なのかと不安になった。

 

「ご子息様。何かキッチンに用があるみたいでしたけど」

 

「ああ、眠れなかったから水でも飲もうかと思ったんだ」

 

「でしたら、紅茶でもご用意いたしましょうか?」

 

「話をしてくれるの?」

 

「はい……私も少しだけご子息様に聞きたい事がありましたので」

 

 小倉さんは、キッチンの方へと向かって行った。

 僕は小倉さんが座っていた椅子の隣の椅子に座る。

 ……改めて、椅子の傍に置かれている鞄を見てみると、やっぱり何処かで見たような鞄だった。

 これに似た鞄を確か僕は……。

 

「その鞄は母の形見です」

 

 紅茶の準備が終わったのか小倉さんが戻って来た。

 形見と言われて、余り興味本意で見てはいけない物だと思い、僕は鞄から視線を逸らした。

 小倉さんは気を悪くした様子もなく、手慣れた様子で僕の前に紅茶を置き、僕はその紅茶を飲んでみた。

 

「あ! ……美味しい」

 

「ご満足頂けたでしょうか?」

 

「うん。美味しかったよ」

 

 本当にこの紅茶は美味しかった。

 僕もお父様から教えて貰ったけど、小倉さんが淹れてくれた紅茶はお父様に負けないぐらいに美味しかった。

 小倉さんは僕の言葉に僅かに嬉しそうに微笑んだ。だけど、その顔は悲しみに満ち溢れている。

 あの日見たお父様と同じ顔の人が、そんな顔をしているのは、何だか嫌だった。

 

「それでご子息様? 話とは何でしょうか?」

 

「……才華」

 

「えっ?」

 

「僕の事は才華って呼んでくれて良いって、最初に会った時に言った筈だけど?」

 

「あっ……申し訳ありません。八十島メイド長も、長年ご子息様にお仕えしている山吹さんも、ご子息様の事を名前では呼んでおりません。今日初めて会った私が、ご子息様をお名前で呼ぶのは失礼にあたります」

 

「今、この屋敷の主である僕が良いって言っているんだから別に構わないよ」

 

 この人に他人行儀でいられるのは、嫌だった。

 今日初めて会った筈なのに、そんな気が僕にはしなかった。

 もしかしたらあの日のお父様と同じ顔をしているこの人に、他人でいられるのが嫌だったからかも知れない。

 小倉さんは何かを迷うように視線を彷徨わせていたが、心が決まったのか僕を見返して来た。

 

「分かりました……では、才華様とこの場ではお呼びさせて貰います」

 

「うん。それで良いよ。それじゃ単刀直入に聞くけど……小倉さんの名前って、偽名なんじゃないの?」

 

「ッ!?」

 

 息を呑む小倉さんの姿に、僕はやっぱりと思った。

 動揺して体を震わせる小倉さんの姿に、ちょっと行けない気持ちが沸き上がって来た。

 僕はお母様と同じで、Sな部分がある。だけど、流石にこんなに弱っている女性を虐める訳には行かない。

 小倉さんが落ち着くのを待っていると、心が落ち着いたのか口を開いた。

 

「な、何故……そう……思われたのでしょうか?」

 

「僕は『小倉朝日』と言う名に覚えがあるんだ。まだ、お母様が学生だった頃、この屋敷で一番信頼していたメイドの女性の名前が『小倉朝日』。何でも伝説のメイドと呼ばれた人らしい」

 

「で、伝説のメイド……何でそんな事に……」

 

 ん?

 僕の言葉に小倉さんは顔を恥ずかしそうに、顔を俯けて体を震わせている。

 この様子だと、やっぱり僕の考えは当たっているのかも知れない。

 

「僕も詳しい事は知らないけれど、学生時代にお母様の衣装を手掛けた人はその人じゃないかって噂もある。尋ねてもお母様は教えてくれなかったけど。だけど、その人の事をお母様が大好きだったのは間違いない」

 

 尋ねた時のお母様の顔は、本当に楽しそうに微笑んでおられていた。

 その代わり、お父様の顔は何故か蒼褪めていたのが印象的だったけど。

 

「僕や妹の名前に、そのメイドの名前を名付けようともしたらしいよ。お父様が強く反対して、実現はしなかったらしいけど」

 

「……本当に心の底から感謝します、桜小路遊星様。この名前を使われていたら……もう立ち直れませんでした」

 

 小さな声で小倉さんが何か言っているが、良く聞こえなかった。

 だけど、顔色は真っ赤に染まって恥ずかしそうに体を震わせている。

 ……正直、可愛いなと僕は思ってしまった。

 

「だけど、その人は十数年前の人だ。若いままなんてありえない」

 

「……だから、私の名前が偽名だと思われたのですね?」

 

「うん、そう」

 

「……おっしゃる通り、この名前。『小倉朝日』の名前は……わ、私の……は、母の名前……です」

 

「やっぱりそうなんだ!」

 

 何処か辛そうにしながらも、僕の考えを小倉さんは肯定してくれた。

 

「お母様……親不孝な私を御赦し下さい」

 

 小倉さんは僕に背を向けて、小声で何かを呟いている。

 だけど、僕はずっと気になっていた人の血縁に会えて嬉しかった。

 

「それで君のお母さんは元気なの? お母様が知ったら、お喜びになられるかも知れないな」

 

「……その……母は……死にました」

 

「……えっ?」

 

 一瞬、言われた言葉が分からなかった。

 だけど、悲しみに染まった顔から事実だと悟る。

 

「詳しい事は家庭の事情があって話せませんが……私の母……『小倉朝日』は亡くなっています」

 

「……そんな」

 

 気になっていた人が既に故人になっている事は、ショックだった。

 何よりもこの事実を知ったら、お母様が悲しむ。詳しい事は話してくれなくても、お母様が『小倉朝日』をとても好きだったのは間違いない。

 何故それほど好きだった人を手放したのかは分からないけど、この事実を知ったらお母様は悲しまれるだろう。

 

「私も母から奥様の事はお聞きしています。ですから、奥様にはどうかこの事を内密にお願いします。奥様が悲しまれるのは、母も望んではおりませんから」

 

「……分かった。お母様には内緒にしておくよ」

 

 お母様が悲しまれるのは、僕としても嫌だった。

 それに小倉さんの様子から見ても、何か余程の事情があるのだろう。

 伯父様が小倉さんに関わるのを止めろと言ったのも、もしかしたらソレが原因なのかも知れない。

 小倉さんは僕の言葉に安堵の息を吐いた。

 

「……話を戻させて貰いますが、私の本名は『小倉朝日』ではありません。ですが、故あって『小倉朝日』を名乗らねばならない事情があります」

 

「その事情って何かな?」

 

「申し訳ありませんがお答え出来ません。例えこの桜屋敷の主人となられた才華様でも、この事情だけはお答え出来ないのです。何よりも、衣遠様に口止めをされていますので」

 

「伯父様から!?」

 

「はい」

 

 どうやら小倉さんの事情は、僕の予想以上に大きな事らしい。

 伯父様がわざわざ一介のメイドでしかない筈の小倉さんに、口止めをするぐらいなのだから。

 迂闊に割って入ったりしたら、伯父様の怒りを買いかねない。

 でも、気になるのは、小倉さんの容姿だ。

 

「?」

 

 長い黒髪に、外国人の血が入っているのか、瞳の色が紫色に見える。

 体格も華奢、撫肩、膨らんだ尻。そして身に纏っているメイド服が似合っていて、あの日のお父様をどうしても思い出してしまう。

 

「小倉さん。一応尋ねるけど」

 

「な、何でしょうか?」

 

「……まさかと思うけど、お父様の隠し子とかじゃないよね?」

 

「そ、そんな訳あるはずないじゃないですかーーーーーー!!!!!」

 

「うわ!!」

 

 いきなり大声を上げられて、僕は驚いてしまった。

 だけど、小倉さんは止まらずに僕に詰め寄って来た!

 

「桜小路遊星様には、桜小路ルナ様と言う人生のパートナーが付き添っておられると聞いています! 母から桜小路ルナ様がどれほど素晴らしい人なのかは聞きました! そんな素晴らしいお方がつ、つつつつ、妻として一緒におられるのに! 浮気なんて絶対にありえません!!」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 小倉さんの剣幕に、僕は思わず謝ってしまった。

 本気で怒っているのか、小倉さんの顔は真っ赤に染まっていた。

 息を何度も吐いて気を落ちつかせ、小倉さんは僕に注意して来る。

 

「……才華様。私の父は桜小路遊星様とは別の方です。今も存命しています」

 

「そ、そうなんだ」

 

「ただ、先ほども述べましたが家庭の事情のせいで、お父様とは殆ど会った事はありません。私は母の愛情だけを受けて育ちました」

 

 ……どうやら小倉さんの事情は、僕が考えていたよりもずっと重いもののようだ。

 軽はずみに立ち入ったりしてはしていけなかった。ごめんなさい、伯父様。

 貴方の言う通りでした。

 

「……そ、それじゃどうしてこの屋敷を出ようとするの?」

 

「……分かってしまったんです。私は……母から聞いたこの屋敷での思い出に、無意識に縋っていただけに過ぎなかった事に」

 

「えっ?」

 

 

 

 

 

side遊星

 

 驚いている才華様の顔を見ながら、僕は自身が桜屋敷に縋っていた事実に心が痛かった。

 八十島さんに言われて、地下のアトリエに向かい、才華様と衣遠兄様の話を隠れて僕は聞いてしまった。

 ……声を掛けようとしたら、いきなり才華様が衣遠兄様に『大好き』と抱き着く場面を目撃し、慌てて隠れてしまったのだ。

 後から考えれば、伯父への親愛の情だと理解出来たが、血の繋がっている相手が、実の兄に抱き着くのは衝撃的だった。おかげで出るタイミングを逃してしまい、しかも才華様が衣遠兄様との話を楽しんでいたので、尚更に出るタイミングが無かった。

 ……それにしても、軟弱って血の繋がっている相手から思われているのはショックだった。自分でも思っている部分だっただけに、才華様の言葉を聞く度にショックを受けた。

 思わず涙を流してしまった。

 だけど、それ以上に衣遠兄様の言葉が僕の胸に突き刺さった。

 

「私はこの屋敷に来る前に別の屋敷に務めていました」

 

「別の屋敷?」

 

「はい。私も母と同じで使用人として、とある屋敷に奉公に出ていました。其処での日々は本当に最高の日々でした。敬愛する主人にも出会え、厳しくても優しいメイド長。優しい先輩方。屋敷で過ごされる他家のお嬢様達との交流。その屋敷でずっと過ごしたいと願ってしまうほどに、私にとっては夢のような日々でした」

 

 本当に夢のような日々だった。

 あの日々を忘れる事は出来ない。

 僕の様子から、本当に幸せな日々を過ごしていたのだと悟ったのか、才華様が質問して来た。

 

「それじゃどうして桜屋敷に?」

 

「……私は忘れていたんです。私は最初からあのお屋敷に務める資格が無かった事を」

 

「えっ?」

 

 意味が分からないと言うように才華様は首を傾げた。

 

「あの屋敷で私は決して許されない事を最初からしていたんです。私は……敬愛し生き甲斐までも与えてくれた主人を騙し、危うくあの方の輝かしい未来に傷を遺してしまい兼ねないほどの罪を犯していたんです」

 

「ッ!?」

 

 才華様が息を呑んで僕を見つめた。

 だが、事実だ。あの方に、ルナ様に対して僕は許されない事をしていた。

 今でも僕を追い出した時の八千代さんの顔を思い出す。厳しくても優しかった八千代さんはいなかった。

 あの時、八千代さんは確かに僕をルナ様を傷つける外敵だと認識していた。事実そうだ。

 あの頃の桜屋敷にはルナ様だけじゃない。

 ヨーロッパでも屈指の旧貴族・ジャンメール家のご息女であるユルシュール様。

 日本の旧華族の出である花之宮家の娘である瑞穂様。

 僕の正体を知っているが、それでもお嬢様である湊。

 特に瑞穂様は男性が大嫌いで、男性が近づいただけで脅えて喋ることが出来なくなってしまうほどの方だった。

 桜屋敷には女性しかいなかった。いや、サーシャさんだけは別だったが、あの人は例外だろう。

 だけど、僕は違う。男性でありながらも女性として偽っていた僕の存在は、桜小路家に、ルナ様に必ず被害を及ぼす。

 だから、八千代さんは僕を追放したんだ。

 

「……ほ、本当なのかい?」

 

「全て事実です。これから屋敷を出る身ですので、嘘偽りは申しません」

 

 才華様に僕の正体以外を隠すつもりはない。

 寧ろ真実を聞いて、僕をこの屋敷を追い出す気になってくれるのなら助かる。

 今でも本当はあの日の出来事が夢で、実は今も本当の僕は桜屋敷で過ごしているなんて事を心の底で考えていた。

 そう、考えていた事に気がついてしまった。

 衣遠兄様の言葉に寄って。

 

『この世で最も嫌悪すべきなのは軟弱ではなく、『惰弱』だ。そう惰弱こそ、この世で最も嫌悪すべきものだ。ただ眩しき日々を懐かしみ、其処から出ようともせずに留まるなど惰弱以外の何ものでもない』

 

 僕はその言葉を聞いた瞬間、元々罅割れる寸前だった足元が崩壊する音を確かに聞いた。

 その後の事は殆ど覚えていない。気がついたら地下への入り口の近くにいて、頭を抱えて声を押し殺して泣いていた。

 才華様を呼びに行った筈の僕が戻って来ない事に気がついた八十島さんがやって来て、今日はもう休むように言われて部屋に戻された。

 部屋に戻ってからも僕は泣き続けた。自分の醜さと浅ましさが嫌になりそうだった。

 何が桜小路家の方々がお戻りになられるまで、この桜屋敷を護ろうだ。そんな考えじゃなかったのだ僕の本心は。

 心の底では、此処に居ればもしかしたら今僕に起きている出来事のような事がまた起きて、あの日をやり直せるかもしれないと思っていたのだ。

 だけど、現実はどうやっても変わらない。今確かに僕は此処にいる。

 

「……浅ましいですね、私は」

 

「えっ?」

 

「……母から聞いていたんです。桜屋敷での日々を。まるで夢のような日々だったと母は語っていました。私はきっと……此処に居れば、その日々を味わえるかもしれないなんて考えていたんです」

 

 八十島さんの提案を受け入れた本当の理由が、今才華様に言った事だ。

 だが、現在では無い。僕はずっと過去に戻りたいと願っていた。ただの過去じゃなくて、僕が追い出される直前に戻りたいと願っていたのだ。

 才華様の父親である桜小路遊星のような人生を、僕は歩みたいなんて考えていた。

 衣遠兄様の言っていた通りだ。僕の惰弱さは、嫌悪されて然るべきものだ。

 

「八十島メイド長の好意や、母が語った日々に私は甘えていました。それに気がついた今、これ以上此処にいるのは、八十島メイド長だけではなく、新たに屋敷の主になられる才華様や、アトレお嬢様に対して不誠実です」

 

「……それって、僕を主人だとは思えないって事なの?」

 

「はい……残念ながら」

 

 この桜屋敷の主は、僕にとってルナ様だけだ。

 この世界のルナ様は才華様が桜屋敷の主だと御認めになられるかも知れないが、僕には耐えられない。

 現状の寂れた桜屋敷でも耐えられなかったのだ。これから才華様の手によって変わって行く桜屋敷を見るのは、過去に縋っている僕には無理だ。

 きっと耐えられずに、何処かで壊れてしまう。

 僕には桜小路遊星のような精神的な強さが無い。現に衣遠兄様の指示に僕は従うつもりだった。

 でも、桜小路遊星はきっと乗り越えられたのだ。あの衣遠兄様の畏怖と恐怖を。

 だけど、僕には無理だ。小倉朝日、いや、大蔵遊星としての僕はもう、折れてしまっているのだから。

 きっとこの桜屋敷から出れば、衣遠兄様の部下の人が僕を捕まえるだろう。

 あの人ならそれぐらいの事をしているに違いない。

 捕まったら、衣遠兄様に連絡を取って貰って、僕としての最後の願い。

 母のお墓参りに行かせて貰おう。

 ……その後は……もう……何も考えずに……人形として。

 

「辞めさせないよ」

 

「……えっ?」

 

 才華様の言葉に、僕は驚いた。

 一瞬何を言っているのか分からなかった。

 正体以外の僕がした事を全て語ったのに、才華様は真っ直ぐにその瞳を僕に向けている。

 その瞳の輝きを僕は知っている。敬愛するルナ様と同じ力強い赤い瞳を僕に才華様は向けて来ていた。

 

「僕は小倉さんを辞めさせない。此処でこれからも働いて欲しいと思っている」

 

「……何故でしょうか? 先ほども言いましたが、私は以前の主人に酷い裏切りを行ないました。才華様には私の正体を知らせる事が出来ません。偽りでしか接せられない私を信用されるのですか?」

 

「うん。ただ僕が信用しているのは、小倉さんじゃなくて、壱与の方だよ」

 

「八十島……メイド長?」

 

「夕食の時にいなかったから小倉さんは知らないと思うけど、夕食が終わった後、壱与が僕らに頭を下げて頼んで来たんだ。『小倉さんを桜屋敷に置いて上げて下さい。あの人はもう限界寸前なんです。此処から出て行ったら、あの人は本当に終わってしまう。だからどうかお願いします』って、土下座しかねない勢いで頼んで来たんだ」

 

「……八十島さんが……私の事を」

 

「それともう一つ。この桜屋敷を小倉さんが本当に大切に思っていると僕は思っている。掃除はちゃんとされていたし、僕らを迎える為の準備もちゃんとされていた。あの夕食だって小倉さんが用意してくれたんだろう。本当に美味しかったよ。小倉さんが僕らの為に頑張ってくれていたのを感じられた」

 

「……才華様」

 

「確かに小倉さんは僕らに隠し事をしている。伯父様も小倉さんには関わるなって言うぐらいだから、よっぽどの事情があるのは分かる。それでも僕は壱与を信じる。十数年間ずっとこの桜屋敷を護っていてくれた壱与の判断を」

 

「……才華様の今のお顔……私が心から敬愛するあの方に似ています。厳しさの中にも優しかったあの御方に」

 

 ああ、この方は間違いなくあのルナ様の子供だ。

 僕が敬愛するあの御方に、才華様は良く似ている。この御方ならばきっと輝かしい未来へと進んでくれるだろう。

 

「才華様。今日はもう夜遅いので、お部屋にお戻りなられて下さい」

 

「小倉さんも僕に聞きたい事があるんじゃなかったの?」

 

「いえ……私が聞きたかった事はもう分かりました」

 

「?」

 

 才華様は首を傾げるが、もう僕には充分過ぎるほどに聞きたかった事が分かった。

 この世界のルナ様と桜小路遊星が、本当に才華様達に愛情を与えて育ててくれた事が。

 僕に促されて、才華様は椅子から立ち上がりキッチンから出て行こうとする。

 

「明日には居なくなっているなんて事はないよね?」

 

「ご安心下さい。才華様に説得されましたから。才華様……慰めて頂きありがとうございました」

 

 僕は笑みを浮かべながら、才華様に頭を下げた。

 ……どうしたんだろう? 才華様のお顔が急に真っ赤になった。

 動揺したように視線を彷徨わせて、僕に背を向ける。

 

「お、お休み!」

 

「お休みなさいませ」

 

 才華様の背が見えなくなるまで、僕は頭を下げ続けた。

 ……さて、才華様に説得されてしまったから、部屋に戻らないと。

 ああ、でも衣遠兄様が僕を屋敷から連れ出すって言っていたし、そっちも何とかしないと行けないかな。

 少しだけ、僕も桜小路遊星のように頑張ってみよう。

 アメリカにいる彼の代わりに、少しでも才華様達の助けに成ろう。

 

 

 

 この時の僕は知らなかった。

 この後に待っている悪夢に等しい出来事を。




IFルート
『もしも朝日が衣遠と才華の話を最後まで聞いていたら』

「ルナちょむ。悪いですけど、あの甘ったれを入学なんてさせませんよ。すぐに男子部廃止の通知を準備してやります……ん? 桜屋敷から電話? 可笑しい。この携帯電話の番号をあの甘ったれが知る筈がないんですけど……はい、こんな時間に誰ですか?」

『……良かった。携帯の電話番号を変えてなかったんだね。久しぶりって言えば良いのかな?』

「そ、その声は!? 何で貴方が桜屋敷に!?」

『……事情は説明するよ。だから、迎えに来て欲しいんだ。僕は逃げない。探してたんでしょう、僕の事を』

「ッ!? ……分かりました、すぐに迎えをおくります。逃げないで下さいね、下の兄」

 携帯を切ると、すぐさま部下に連絡をして迎えを送る。

「……上の兄。私に隠していましたね。まぁ、良いでしょう。ルナちょむに気がつかれないようにしなければ行けませんね。フフッ、誰にも渡しません。貴方は私のものです、もう一人の下の兄」

 この時、彼女の頭の中には直前までの桜小路ルナとのやり取りの記憶はもうなかった。
 この後に訪れた衣遠の提案も上機嫌で受け入れ、桜小路才華は無事に男子部のデザイナー科に入学する事になる。
 その影で、桜屋敷から一人のメイドの姿が消えた事を知る者は少ない。

大蔵家監禁使用人ルートが確定しました。


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prologue4

まさかのランキング入りに驚いています。
これも皆様のおかげです。ありがとうございました。

Nekuron様。誤字報告ありがとうございました。


side才華

 

「若。お目覚めになって下さい。本日はお客様がお見えになられる予定です」

 

 部屋の扉の向こうから、九千代が僕を呼ぶ声が聞こえる。

 

「おはよう九千代。大丈夫だよ、もう起きてるから」

 

「あ! 今朝は早起きですね!」

 

 本当は早起きをした訳では無い。

 

「大切なお客様を迎える日だからね。ただまだ着替えの途中なんだ」

 

「分かりました。ただお客様のご到着が予定よりも早くなるそうですのでお急ぎ下さい。大蔵家のメイドから、予定よりも一時間早く出たそうですから」

 

「うん。分かったよ。ただ洗面所にふかふかのタオルだけは用意しておいてくれるかな。後コーヒーもお願いするよ」

 

「かしこまりました」

 

「それとアトレにも伝言もお願い。あの子も話に加わりたいだろうけど、先ずは僕の要件が終わるまで待っていて欲しいんだ」

 

 今日来る相手には、僕の今後の為に頼みごとをしなければならない。

 交渉とは言え、妹に甘えたり強請ったりする姿は見せたくはない。

 

「かしこまりました。それではお嬢様にお伝えしておきます」

 

 九千代が部屋の前から去って行く気配を感じた。

 僕はその事に安堵の息を吐いた。今の僕の顔を誰かに見られたくはない。

 寝起きの顔と言う訳では無い。寧ろ寝不足で辛い顔をしている。

 何せ僕は昨晩の小倉さんとの会話の後から。

 

 一睡も出来なかった!!

 

 寝ようとしても、小倉さんの初めて見る笑顔が目を閉じると浮かんで来て目が冴えてしまった。

 あんなの反則としか思えなかった。寂しげな笑みしか見てなかったのに、いきなり笑顔を見てしまったんだ。

 小倉さんの笑顔は、正直これまで出会って来た女性の中で一番だとしか僕には思えなかった。

 あの出来事のせいで、僕は女性に美を感じられなくなっていた。

 唯一の例外はあの日のお父様だけだったのに、僕は小倉さんの笑顔を美しいと思ってしまった。

 思い出すだけで顔が赤くなり、心臓が早鐘を打ってしまう。

 

「……どうしよう」

 

 起きていたのに部屋から出なかったのは、小倉さんと出会うのを恐れたからだ。

 昨晩に屋敷に残って良いと言ってしまったのを、ちょっと後悔している。今、小倉さんに会ったら平静でいられる自信が、僕にはなかった。

 

「……とにかく、部屋から出て顔を洗わないと」

 

 小倉さんに出会わない事を願いながら、恐る恐る部屋から出た。

 こんな姿普段の僕らしくない。何時も堂々としてお母様のような誇りのある人物として振る舞って来たのに!

 今の自分の姿に情けなさを感じながらも、何とか洗面所に辿り着いて顔を思いっきり洗った。

 良く洗って眠気を取り払い、九千代が用意してくれただろうタオルで顔を拭く。

 そのまま自慢の髪を丁寧に梳かして、気分を変えるために頭に服を思い浮かべる。

 漸く何時もの僕に戻って来たと思いながら、洗面所を出てお母様の部屋に戻ろうとする。

 

「あ、才華様」

 

「ッ!?」

 

 背後から聞こえて来た声に驚き、恐る恐る振り返ってみるとティーセットを持った小倉さんが立っていた。

 

「こ、小倉さん!?」

 

「どうされました? アトレ様の伝言に向かわれた九千代さんに、コーヒーを才華様に運ぶように頼まれたのですが」

 

 しまった! 九千代に色々と頼み過ぎた!

 アメリカの屋敷と違って、今この屋敷には九千代、壱与、小倉さんしか使用人はいないんだった!

 ど、どうしよう!? 小倉さんの顔がまともに見れない。

 もし、あの笑顔をまた向けられたら……ぼ、僕は。

 

「才華様? お顔が赤いようですが?」

 

「……な、何でもないよ」

 

 心配してくれたのか、小倉さんが近寄って来た。

 その顔を見て僕は僅かに平静を取り戻せた。今の小倉さんの顔には、昨晩の笑顔の様子は無く、最初に会った時に見た寂しさが漂っていた。

 ……ちょっと残念だと思ってしまった。

 

「昨晩は眠れましたか?」

 

「う、うん。あの後、グッスリ眠れたよ! その証拠に僕は朝弱いんだけど、今日は九千代が来る前から起きていたからね」

 

 嘘です、ごめんなさい。

 本当は全然眠れなくてずっと起きていました。

 だけど、小倉さんは僕の言葉に安堵したのか、僅かに嬉しそうに微笑んだ。

 

「それは良かった。顔が赤いので体調が悪くなられたのではないかと、心配してしまいました」

 

「だ、大丈夫だよ」

 

「それではコーヒーをお部屋にお持ちいたしますので」

 

「い、いや! ぼ、僕が自分で運ぶよ!」

 

「使用人の役目ですから気になさらないで下さい」

 

「ち、違うんだ……その……お母様の部屋に僕の書きかけのデザインが何枚かあるんだ」

 

「……デザイン」

 

 ん? 何だろう、小倉さんの顔が急に曇った。

 でも、コレはチャンスだ。

 

「まだ、書きかけだから誰にも見せたくない。だから、このコーヒーは僕が運ぶよ」

 

「……分かりました。それでは失礼いたします」

 

 僕に運んで来たコーヒーを渡して、小倉さんは去って行った。

 その後ろ姿に僕は安堵しながら、急いで部屋に戻る。

 持って来たコーヒーをテーブルの上に置き、お母様が使っていたベッドの上に倒れた。

 

「……どうしよう、小倉さんの前だと全然僕らしくなれない」

 

 原因は分かっている。

 僕は小倉さんを、女性として見ているんだ。これまでだって女性とは会って来たが、僕はその人達に対して美を感じる事が出来なかった。だが、小倉さんだけは違う。

 あの人は、あの日のお父様に良く似ている。だからこそ、僕はあの人に対して美を感じてしまっている。

 だけど、それは小倉さんに対して失礼だ。お父様は男性。あの人は女性なのだから。

 

「……」

 

 見慣れないベッドの天蓋を見つめる。

 この部屋には様々な思い出がある。良い思い出も……そして悪い思い出も沢山ある。

 僕は日本に居た頃にこの場所に輝きを落としてしまった。落としてしまったものを拾う為に、僕は日本に戻って来たんだ。

 

『いつも笑顔でいられる自分を選べ。そして、ひとつ一つ強くなれ』

 

 お母様の言葉を思い出す。

 大好きなお母様。そうだ。僕は輝きを取り戻す為に戻って来たんだ

 幼い頃からの夢を叶えて、必ず取り戻して見せる。

 

「よし」

 

 小倉さんが用意してくれたコーヒーを飲んで、僕は部屋を出て廊下を歩いて行く。

 階下へと降りて行き、応接室に向かおうとすると、九千代が僕に声を掛けて来た。

 

「若。お客様がご到着されました。それで応接室ではなく、食堂の方で会いたいそうです」

 

「食堂? ……ああ、そう言う事か」

 

 来た客人が何故応接室ではなく、食堂に向かったのか分かった。

 あそこにはアレがある。ピアノが。

 僕が食堂へと向かうと、案の定、僕が呼んだ客人の女性がピアノの前に立っていた。

 

「久しぶりね」

 

 長い黒髪に整った顔立ち。背も僕ぐらいの女性は、僕の顔を見て挨拶して来た。

 

「ルミねえ、久しぶり。三年前にニューヨークで会った時以来かな?」

 

 彼女の名前は大蔵瑠美音(るみね)

 僕の幼馴染で、親戚である。昨夜の内に来て貰えるように連絡しておいたのだ。

 

「……ちょっと驚いたわ。才華さん。朝が弱かった筈だから、早めにくればまだ準備は出来ていないだろうと思ったのに。遅れるようだったら、ピアノでも弾いていようと思ったんだけど」

 

「酷いな、ルミねえ。僕だって早起きぐらいは出来るよ」

 

 本当は昨日から一睡もしていません。

 ルミねえはピアノから離れて、僕を改めて見て来た。

 

「背も随分と伸びたのね。髪も伸ばして、まるで別人みたいよ」

 

「ルミねえこそ別人みたいだよ。僕と同じで背も伸びて、三年前に会った時にあった幼さがなくなっている。もう立派なレディにしか見えないよ」

 

「そっちの方が立派なレディに見えるわよ」

 

 紳士的にして見たのだが、何故か逆の扱いを受けた。

 

「前に会った時は『中性的』で赦せる長さだったけど、今は女の子にしかみえないね。まさか、親戚がその道を選ぶとは思えなかった。でも、日本で性別を変えるのなら生殖器を無くしなさい」

 

 ん? 何だかキッチンの方で誰かが倒れるような音が聞こえたような気がする?

 

「アメリカの方の法律は明るくないけど、才華さんは国籍を日本にしたままだって聞いている。日本人なら日本の法律、規律を順守して」

 

「出た、ルミねえの規則至上主義」

 

 僕の幼馴染で親戚の大蔵瑠美音は、『規則至上主義』

 確実性のある規則に従えば、その集団は最高の成果を得られると考えている。

 

「主義や主張じゃなくて、規則は行動の基本となるものでしょう。自分の人生に関わる規則は知っておくのも当然ね」

 

「……あの~」

 

「うん?」

 

 キッチンの方から聞こえて来た声に、僕とルミねえは顔を向けてみた。

 其処には恐る恐る顔を出している小倉さんの姿があった。

 

「お話にお邪魔して申し訳ありません。ですが、お客様は何か勘違いをされているようですので」

 

「勘違い?」

 

「はい。才華様はその……女性になるつもりなんてないと思われるのですが?」

 

「あら、そうなの?」

 

「そうだよ。ルミねえの勘違い」

 

「そうなんだ。ごめん。少しも疑わなかった。だって、才華さんって、声も高いし、全体的に華奢だし、顔も美人だし、中性的だし、男としては少し気持ち悪いぐらい」

 

 ルミねえが僕を貶しているのか褒めているのか分からない。

 ゆっくりとルミねえは僕から離れて、小倉さんに近寄って行く。

 

「私の勘違いを注意してくれてありがとう」

 

「いえ……寧ろ使用人でしかない私がお客様に口を出してしまい、申し訳ありませんでした」

 

「気にしてないから良いわ。どうにも思い込みが激しいのは、私の一族の体質みたい。徐々に直して行くつもりだから、寧ろ注意された方が自覚出来るから助かる」

 

「一族ですか?」

 

「……そう言えばまだ名前を名乗っていなかった。私の名前は大蔵瑠美音」

 

「大蔵!? こ、これは大変失礼しました! わ、私はこの屋敷に務めさせて貰っています、小倉朝日です!」

 

「そう。小倉さんね」

 

 ルミねえは小倉さんへの挨拶を終えると、僕の方に戻って来た。

 

「それで話は戻すけど」

 

「まだ、続くの?」

 

「忠告しておくの。これからも才華さんの事を女の子だと誤解してしまう人がいるって、確信出来るぐらい女の子にしか見えない。だから髪の毛を切ったら?」

 

「絶対に切らない。お母様から譲り受けたこの髪の毛を切りたくない」

 

「ん」

 

 僕の言葉に、僅かにルミねえは驚いた様子を見せた。

 

「自分の髪を好きになったんだ。そう言えばニューヨークにいた時は、ずっと黒のウィッグを外していたわね」

 

「うん。せっかくの綺麗な髪を隠すなんて勿体ないって、歳を重ねてから気がついたから」

 

 幼い頃に日本にいた頃の僕は、黒のウィッグを付けていた。

 お母様譲りの大切な髪だが、あの頃はソレが原因で避けられた事があったからだ。

 僕の中に影を作った出来事だが、今は寧ろこの髪を誇りに思っている。だから、もう隠すなんて事はしない。

 でも、それよりも今は今後についての重要な話がある。

 

「小倉さん。キッチンの方に何か用があるみたいだけど、これから話があるから」

 

「分かりました。では、庭の掃除をして来ます」

 

 僕の言いたい事が分かったのか、小倉さんは食堂から出て行った。

 アトレと同じようにあの人にも、これから僕がする事を見られたり、聞かれたくはない。

 ルミねえは去って行く小倉さんの背を、感心したように見つめていた。

 

「出来た人ね。大蔵家の使用人としてもやっていけるレベルかも知れない。何よりも綺麗だし」

 

 あっ、廊下の方で倒れる音が聞こえた。

 その音にルミねえは僅かに驚き、僕が説明する。

 

「ああ、ルミねえ。あの人、あんまり自分が綺麗って言われるのに慣れてないらしいんだ。アトレと九千代が褒めた時も、恥ずかしくて両手で顔を覆ったらしいし」

 

「そうなの? あんなに綺麗なのに? ちょっと悲しそうと言うか、寂しげな感じは受けるけど、充分に綺麗な人よ。スタイルも良さそうだし、才華さんと違ってれっきとした女性なんだから」

 

 何だろう?

 廊下の方からもう止めてと言う、小倉さんの嘆きが聞こえたような気がする。

 僕もルミねえと同じように小倉さんは綺麗だと思うけど。

 今はそれよりも。

 

「それで呼び出して、一体何の用なの?」

 

「うん。実は日本に戻って来たのは進学の為なんだけど……大蔵家総裁殿に邪魔をされて困っているんだ。僕は来年のフィリア学院服飾部門に進みたい」

 

「服飾部門に進みたいって言うのは知っていたけど、それがフィリア学院だとは知らなかった。私もフィリア学院のピアノ科に進学する予定。学科は違うけど、才華さんがいるなら楽しみね」

 

「僕も凄く楽しみにしているんだ。それなのに、総裁殿が服飾部門の男子部を廃止するつもりらしいんだ」

 

「廃止? どうして?」

 

「ここ数年の受験者数が募集している人数分全く足りてなくて。クラスとしての維持を出来るほどの人数もいないらしい」

 

「ふぅん。じゃあ廃止ね」

 

「だけど、それは僕が困る」

 

「困るって言うけど、学院の方が困るわよ。才華さん一人だけでクラスでぽつんと授業を受けさせるぐらいなら、フィリア学院じゃなくて、家庭教師でも付けて貰えって話だね」

 

「だけど小さい頃からの夢なんだ。助けて!」

 

「助けてって言われても、服飾部門の男子部が募集している人数分集まらないと交渉の余地がないよ。現状のままなら、それは嘆願じゃなくて、ただの才華さんの我儘」

 

 否定出来ない。フィリア学院への進学は、ただの僕の我儘だ。

 

「募集要項に書いてある事は学院側が決めた規則。改正する必要が無い規則を覆す事に協力出来ない」

 

 規則至上主義のルミねえに、寝技を普通に依頼しても断られる事は分かっている。

 だけど、僕は彼女に禁じ手を持っている。

 

「ルミねえ。お願い」

 

「ぅ」

 

 ルミねえは例え自分の『規則至上主義』を曲げても、僕の本気のお願いをどうしても断れない。

 ずるい手段だ。ルミねえの気持ちを利用するのは、治癒した傷をつねる事なのだから。

 でも、今回だけはやらせて貰う。人生で一度きりの機会を失うか失わないかの瀬戸際なのだから。

 何時かルミねえが僕の力を必要とした時、どんな事でも迷わずに力を貸そう。だから今だけは、ルミねえの愛を僕に下さい。

 

「受験して落とされるなら仕方がない。だけど、挑む事すら出来ずに諦めたら、僕は一生後悔する」

 

 ルミねえの手を握って、僕は真摯にお願いする。

 

「衣遠伯父様にも頼んだけれど、秘書として立場上厳しいって言われた」

 

「うぅ、ぅ、ぅ」

 

 ルミねえの顔が赤くなっているが、僕は構わずに続ける。

 

「ルミねえも知ってのとおり、僕は総裁殿に目を付けられている。嫌われている訳じゃないけど、あの人は僕にいたずらじゃ済まない無茶ぶりをする。だから、直接交渉したり、お母様やお父様にお願いする事は出来ない。どころか、お母様と喧嘩になったりしたら、絶対に入学させて貰えない。だから、総裁殿と話せるルミねえの協力が必要なんだ。お願い。助けて」

 

「……ヮヵっタヨ」

 

 語尾を上擦らせながらも、ルミねえは首を縦に振るってくれた。

 そのまま僕から手を放して、恥ずかしそうに俯いた。

 

「……でも」

 

「うん。協力して貰えるなら、僕に求められる事は何も惜しまない。ルミねえと外でデートしても良いよ」

 

「いらない。後、外には出ないで。才華さん、肌が弱いんだから季節が夏だったら、直射日光で火傷もあるんだから」

 

 流石に外でのデートは僕も冗談だ。

 お母様譲りのこの顔に、火傷の跡など残したくはない。

 

「私が言いたいのは、私には大蔵家内での発言力なんてないって事。大蔵家は、自分の担当区域以外には不干渉が基本。だから、必ずしも期待には応えられないと思う」

 

「今の大蔵家は家族の意見を大事にするって聞いている。僕はともかく、衣遠伯父様とルミねえが二人がかりで説得してくれれば、総裁殿も聞いてくれるよ」

 

「その意見を無視出来る立場に総裁殿はいるの。なんたって大蔵家の家長だよ」

 

「総裁殿相手なら、ルミねえが大蔵家で一番の頼りだよ。何たってルミねえは前当主の娘なんだから。総裁殿には叔母にあたる」

 

 ルミねえは大蔵家の前当主、大蔵日懃(にちぎん)の娘。

 つまり、総裁殿にとって血の繋がりの関係上、叔母にルミねえは当たる。僕やアトレにとっては大叔母だ。

 ルミねえの父親である日懃は、僕と言う曾孫が出来たのを喜び、何故か自分も新しい家族が欲しいと言い出し、九十歳超えていたのにも関わらず、当時十八歳だった女性とできちゃった婚をしてしまった。

 そのせいでルミねえは一族最年少ながら、家族関係で言えば敬われる位置にいるという複雑な事になっている。

 

「叔母って言うのは止めて。最近ようやく本家で瑠美音さんが定着して来たんだよ。小学校の頃に『大叔母』とか『叔母』って呼ばれてるのが可笑しいって気がついてから、名前にさん付で呼ぶように根気よく訴え続けて、その努力が実りそうなんだから……もしも弟や妹が出来るなら、私と同じ悩みを抱えさせたくない」

 

「はは、まさか。確かひいお祖父さまとっくに三桁を超えて……え、可能性があるの?」

 

 蒼褪めて体を震わせながら首を縦に振るうルミねえ。

 その目には真剣さが浮かんでいた。

 

「お父様に『弟か妹が欲しいか』って、質問されて困ってる。お父様は今でも毎晩お母様と同じベッドで眠っているから。年頃の娘として困る」

 

「大奥様はまだ若いもんね」

 

「だけど、いい加減子離れして欲しい。私が今ぐらいの年齢になったら落ち着くと思ってたけど、最近は逆により過保護が増しているぐらいだし」

 

「家族の仲が良い事は、良い事なんだけど」

 

 前当主である大蔵日懃は家族想いの人なのではあるが、『家族』と言うものを間違った方向で愛している人でもある。

 僕の目の前にいるルミねえを過剰と言えるほどに溺愛している。老い先短いのもあるだろうが、人生の末に生まれた娘が可愛いらしく、ルミねえの為に一線から離れた。

 その為に大蔵家はルミねえを蔑ろには出来ない。総裁殿を説得するのにルミねえ以上の人材はいない。

 

「でもちょっと皮肉ね。私がフィリア学院を受験出来たのは、総裁殿が理事長だからなのに。才華さんは総裁殿のせいで入学出来ないなんて」

 

「やっぱり両親が共学の学校には反対したの?」

 

「ピアノ科は共学だから駄目って、お父様と揉めた。それでも身内が経営する学院だからって事で何とか説得は出来た。総裁殿が理事長だから良かったけど、理事長じゃ無かったら受験も無理だったかも知れない」

 

 ルミねえは自分を納得させるかのように、言葉を口にしている。

 

「私は総裁殿だから受験出来るけど、才華さんは総裁殿だから受験出来ない。何だか、お父様を説得していた時の苦労を思い出して他人事だと思えなくなっちゃった。私の主義に反する部分はあるけれど、このまま放っておく事は出来なくなった。協力するよ」

 

「ありがとう、大好きなルミねえ」

 

「私の方が年下なんだから甘えない。はい、それじゃ具体的な話をしよう」

 

 甘えられて照れているルミねえは可愛い。

 世界的親ばかが大富豪じゃ無ければ、男子に人気が出ていただろう。

 僕も事情がなければ、ルミねえに女性として興味を持っていたかも知れない。

 あ、でもルミねえだと付き合ったりしたら規則規則と煩くなりそうだ。ルミねえならお付き合いする為の規則も決めそうだ。緩みや弛みと言う面が無い人だから。

 

「最初に言っておくけど、家族に迷惑かけるような事は出来ないよ。才華さんは発言力が私にあるみたいに言ったけれど、無理やり言う事を聞かせるなんて無理」

 

「それは分かっている。だから、ルミねえには交渉材料を探して欲しいんだ」

 

「交渉材料? あの総裁殿相手に当てはあるの?」

 

「うん。実は、総裁殿は衣遠伯父様に頼んで誰かを探しているみたいなんだ」

 

 昨日の伯父様と総裁殿の電話を聞いていて良かった。

 ……割り込んでいた方がもっと良かったかもしれないけど。

 とにかく、僕はその時の電話で総裁殿に対する交渉材料を得ていた。

 

「半年間その相手を総裁殿は探しているらしいんだ。だけど、まだその相手を見つけていない。僕がその相手を連れて行けば」

 

「……難しいと思う。才華さんも知っていると思うけど、依頼者は大蔵家総裁。しかも実行者は大蔵衣遠。その二人が半年もの間見つけられなかった相手を、今から見つけるなんて」

 

「でも、可能性はあると思う。伯父様にその人物の特徴を聞いて、ルミねえの力も合わされば見つけられると思うんだ」

 

「……そうね。ただその相手が女性だと良いんだけど」

 

「……あ」

 

 ルミねえの両親はルミねえに男が近づくのを嫌っている。

 そのルミねえが男の捜索などに乗り出したりしたら、考えるまでもない。

 件の捜索者が女性であれば問題は無いが、男性だったりしたら不味い事になる。

 僕が聞いた伯父様の話では、男性か女性かも分からない。

 

「方法の一つとしては考えておこう。他にあるとすれば、男子部廃止の件と、才華さんがフィリア学院に進学する気だと聞きつけた私が、自分から動いた。この事を才華さんは知らずにね」

 

「ありがとう」

 

 お願いしたかったけど切り出しづらかった事を、ルミねえは言ってくれた。

 

「フィリアに進学するかどうかの意思の確認だけはとったことにするね。廃止を完全に撤回させられなくても、時間を稼げれば良いんだったら、探し人に関しても私が協力する事を交渉材料にして時間を稼げる」

 

「うん。その間に僕は他の受験者を募るか探してみる」

 

 余り時間は残されていない。

 こうしている今も、もしかしたら廃止の通知が出されてしまうかも知れない状況なのだ。

 だけど、一週間でも時間を得られれば思いつく限りの方法と僕の貯金で何とかして見せる。

 

「それとアメリカに渡っている間も、私と才華さんは仲が良かった事にするね」

 

「それは事実だから口裏を合わせなくてもいいんじゃないかな」

 

「メールも送って来ない。どのアプリでも友達申請をしてこなかったのに?」

 

「親戚にメールを送ったり、自分の私生活を覗かれるような環境を造らないよ。恥ずかしいからね。でも、日本についたら一番にルミねえに会いたかった」

 

 僕の言葉にルミねえは『白々しい』と思っているだろうけど、口元は緩やかな曲線を描いていた。

 こう言うルミねえの一面が、ひいお祖父様がルミねえを特別可愛がる理由なのだろう。

 

「フィリア学院への入学の意思確認メールをすぐに送るから、それだけは返事を返して。総裁殿に聞かれた時に答えられるように」

 

「分かった」

 

「じゃあ家に一度戻るね。今日は運よく総裁殿が本家で過ごしている筈だから」

 

「うん。よろしく。何かお礼への希望はあるかな? 難しいものだったら後日になるけれど」

 

「それなら次の演奏会の衣装でのデザインでもしてもらおうかな」

 

「才華、此処にいたか」

 

 ルミねえの希望を聞いていると、お忙しい筈の伯父様がやって来た。

 玄関の方で壱与の声が聞こえたと思っていたが、伯父様だったらしい。

 今もフィリア学院男子部の廃止を止める為に、動いている筈の伯父様がやって来たという事は。

 

「衣遠さん? ごきげんよう。本邸以外の場所で会うのは珍しいですね」

 

「叔母殿か、ごきげんよう」

 

「以前から言っている通り、『叔母』殿と言う呼ばれ方は苦手なんです。年下の親戚として扱って下さい」

 

「これは失礼。瑠美音殿が桜屋敷に来ているとは思わず、意識よりも先に言葉が出てしまったようだ。大蔵家の秘書として家族の予定を把握していなかった事を恥じる」

 

 家族思いの伯父様が、家族の一人であるルミねえに意識を向けられなかったなんて。其処まで僕の為に頑張っていてくれていたんですね。

 ありがとう、伯父様。

 

「才華に急な用事が出来た。話の途中のようだが、才華を借りたい」

 

「男子部の件なら、今話していたところです。伯父様がいらした理由が同じなら、彼女の前でも話して構いません」

 

「私も才華さんに協力するつもりです」

 

「なるほど、総裁殿を説得するのに最も適している。早めに連絡を取る相手とは正しい……と言いたい所だったが、昨日の内に連絡して瑠美音殿を味方にしておくべきだったようだ」

 

「おくべき『だった』? 過去形? もしかして?」

 

「つい先ほど、フィリア学院のHPが更新され、服飾部門において、男子部の募集は行なわれない事が正式に発表された」

 

「えっ、えええっ!」

 

 ルミねえが驚いて叫ぶが、僕は声を上げる事も出来なかった。

 まだ、少しぐらいは時間があると思っていた。昨日の電話の様子から、総裁殿は本心では男子部を無くしたくないと思っていたのに!

 どうして、いきなり!

 

「どうやら昨晩、総裁殿と才華の母親が個人的なチャットで会話をした事が原因らしい。チャットで話をしていたさい、才華の母親が『息子がそっちにいったからよろしく頼む』と総裁殿に頼んだ。頼まれた総裁殿は満面の笑みで男子部廃止を伝えたらしい。理由付きでな。それが決定打となって、とてつもない速度で男子部廃止が断行され、もはや総裁殿には取り付く島もない」

 

 つまりもう、ルミねえや前当主様が出ても総裁殿が今後の意見を変える事はないという事ですね。

 僕の為だったかも知れないけれど、余計な事を言ってしまうなんてお母様の馬鹿たれ。

 

「え、どうするの?」

 

「……今、考えてる」

 

 僕は今、総裁殿から強力な力で『諦めろ』と言われている。

 事実、状況を見てもどうやっても諦めるしかない。

 条件を決める権利は向こうに在り、『桜小路才華を入学させない』と言う前提で相手は動いている。

 だけど、僕には絶対に諦める事は出来ない。フィリア学院への進学を諦めたら、僕はデザイナーとしても諦めたという事になる。

 覚悟が必要だ。相手がどんな手でも使うなら、僕も出来る限りの無茶をする必要がある。

 そう、どんな非常識な手段でも。




人物紹介

名称:大蔵瑠美音(るみね)
詳細:大蔵家前当主大蔵日懃(にちぎん)が九十歳を超えていたにも関わらず、十八歳女性とできちゃった婚した結果生まれた娘。背は才華と同じぐらいで、黒髪黒目の美少女。実際は才華よりも年下だが、系譜で言えば大叔母にあたる為、あだ名で『ルミねえ』と呼ばれている。
『規律至上主義』と言う考えの持ち主なのだが、才華に対しては幼少の頃にある事で傷を負わせてしまった負い目があるので、時にはその考えを捻じ曲げて才華に協力する。
世界的にも名高い化粧品会社の社長であると共に、前当主の娘でもあるのでその気になれば大蔵家を動かす力も持っているが、本人にその気はない。


次回での予言。
『誰かと結ばれた彼なら、羞恥で苦しむが耐えられる。だが、彼には耐えられない。何故ならば彼は……全てを失った彼なのだから』


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prologue5

感想、お気に入り、評価を皆様ありがとうございます!

才華のバッドエンドフラグは早期に削除予定。
原作よりも覚悟を決めて貰います。


side遊星

 

 今、僕はルナ様のお部屋。

 ……じゃなくて才華様のお部屋に、桜屋敷内にいた人達全員と一緒に集まっていた。

 本当は入りたくはなかったのだが、才華様がどうしても集まって欲しいと言うので、今は出来るだけ出入り口の扉の傍で待機している。

 衣遠兄様と大蔵瑠美音様の姿もある。衣遠兄様には部屋に入る前に、何も口にするなと口止めをされた。

 実際、僕には今回の件に対して出来る事はない。一介の使用人である小倉朝日が、大蔵家総裁である大蔵りそなに意見が出来る訳が無い。

 正体を明かせば話は変わるかも知れないが、逆に悪化するとしか僕には思えなかった。

 僕と言う存在は大蔵家にとって劇薬でしかないのだから。

 

「困ったものです」

 

「今はまだ興奮状態にある。総裁殿が落ち着いた後に意見すれば、万が一程度の可能性はあるかもしれないが、俺には勝算が見えない」

 

 恐らくその万が一もあり得ないと思います衣遠兄様。

 りそなはやると言ったら、絶対にやる子でしたから。何よりも負けず嫌いな性格をしています。

 特にこの世界だと桜小路遊星に対する感情が複雑になってるようですし、才華様への風当たりの強さは僕以上に強いのかも知れない。

 

「総裁殿の妨害が入ってしまいましたか。あの人も負けず嫌いですから、説得は非常に困難でしょう。お兄様の愁苦と辛勤、お察しします。南無南無」

 

「アレ? アトレさんって仏教好きだっけ? 服の好みも変わっているけれど、其処から?」

 

「はい。住む場所はアメリカでも心は日本人でいたい。そう言う気持ちを和風ロリで表してみました。向こうではそれなりに受けが良かったんですよ」

 

 確かにアトレ様の服は似合っている。

 りそなも良くゴスロリ服が好きで良く着ていた。アトレ様の姿は僕にりそなを思い出させてくれる。

 ……僕の為に協力してくれたりそなに、僕は何も返す事が出来ない事も。

 

「良いんじゃないかな。総裁殿も好きそうね?」

 

「そうですね。あの方はロリ系全般に詳しくて、自分でブランドを作るぐらいですから」

 

 ……えっ? りそなが自分でゴスロリのブランドを作った?

 嘘! あのりそなが! 僕の記憶にあるりそなは、毒舌でネットゲばっかりやっていて、毎日部屋でゴロゴロしているのに!?

 服飾には興味無さそうだったのに、自分でブランドを作れるぐらいになっていたなんて。

 思わず目から嬉しくて涙が零れそうになってしまう。

 ……立派になったんだね、りそな。……才華様にはちょっとやり過ぎだと思うけど。

 

「そう言う服の趣味もあって、私には優しいんですけれど、お兄様には相変わらず厳しいのですね。ムキになられると手がつけられませんね」

 

「ムキムキですって!? 総裁殿には負けないわよ!」

 

 八十島さん。意味が違います。

 口を閉じているように言われているので、心の中で僕はポーズを取っている八十島さんにツッコんだ。

 

「私は若の為ならば何でもします! たとえ大蔵家の意向がどうあれ、最後まで若に味方します!」

 

 九千代さんはベッドに座ったまま黙っている才華様を励ましている。

 ……何故だろうか? 才華様の光を失っていない瞳に、僕は嫌な予感を覚えた。

 何故なのか分からない。だけど、諦めていない才華様に僕は途轍もなく嫌な予感を覚えてしまう。

 こんな事が前にもあった気がする。

 ……この場にはいたくないと言う気持ちが湧いてくるのは、何故だろうか?

 僕が自分の気持ちに悩んでいる間にも、話は続く。

 

「ルミネお嬢様? 若の為にも何とかならないでしょうか?」

 

「お父様に頼めば大抵の事は叶えてくれるけど、今回は無理。大蔵家から見れば些細な事でも経営が絡んでいる事だし、お父様は引退してからはお金のやり取りが発生する案件は口を出さないんだよね。才華さんは曾孫と言っても他家だし、期待するのは難しいかも」

 

 因みに僕はルミネ様の父親である日懃お爺様と会った事はない。

 マンチェスターにいる頃に聞いた話では、僕に大蔵の名を名乗らせる事もりそなの母親である奥様と一緒に強硬に反対したらしい。

 

「希望があるとすれば、大蔵家の最高意思決定機関である家族総会『晩餐会』だが、次の年始まで予定はない。其処まで時間が経過してしまえば、募集の条件を変更する訳には行くまいよ」

 

「衣遠伯父様に、たった今から大蔵家当主になって貰うのはいかがでしょうか?」

 

 ……流石にちょっと才華様に少し苛立ちを覚えた。

 才華様には慰めてくれた恩があるが、僕はりそなと才華様。この状況でどちらに味方するとしたら、残念ながら今はりそなに味方をする。

 妹であるりそなには返し切れない恩がある。僕を『フィリア女学院』に入学させる為に、様々な協力をしてくれたのだから。

 ……その方法が女装して、使用人となって入り込むと言う非常識な方法だった事はおいといて。

 今回の件は確かにりそなにも悪いところがある。でも、そもそもの原因は『フィリア学院』の服飾部門に男子が集まらなかった事だ。

 その事は衣遠兄様も分かっている筈。

 

「クククッ、何れはそうするつもりだ。が、まだその時ではない。今暫くの間、長い雌伏の時間を過ごした総裁殿が、華やかな栄光の中にいるのを見ていたい」

 

 ああ、この衣遠兄様はりそなの事もちゃんと家族だと思っているんだ。

 僕が知る衣遠兄様はりそなの事を、僕と同じように道具としか見ていなかった。

 だけど、目の前にいる衣遠兄様の言動からは、りそなへの愛情が確かに見えている。

 ……僕と違って。

 

「それと、一族の有力者の前でその家を簒奪などと、この身を滅ぼしかねない発言は止めて貰おう」

 

「私ですか? 衣遠さんが大蔵家当主の座を狙っている事なんて、お父様以外の一族全員が知っていますよ。そしてその全員が反対する気がないこともです。私も興味はありませんし、どうぞご勝手に」

 

「フン、欲のない連中め。揃いも揃ってお人好しな一族だ」

 

 ……大蔵家って、何だか随分と変わったみたい。

 僕が知っている大蔵家は、りそなが言うには家族の愛情などない。常に一族内で権力闘争が渦巻いているって話だったのに。

 一体何が在ったんだろう?

 

「他に方法があるとすれば……そうだ総裁殿の探し人」

 

「そうだ! 衣遠伯父様! 大蔵家総裁殿は誰かを探しているんですよね! その人ならもしかして!」

 

「……誰から聞いた?」

 

 衣遠兄様が、冷徹さに満ちたような声を出した。

 部屋にいる全員が衣遠兄様の変貌に、固まっている。そして衣遠兄様は視線を僕に向けた。

 僕は皆から見えない位置で、首を全力で横に振った。僕はその件に関しては才華様に話してはいない。

 一体どうしてルミネ様が知っているんだろうと思っていたら、才華様が頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい伯父様! 昨日アトリエで僕が電話を聞いてしまって」

 

「そうか……その人物を探しても無駄だ。この俺が半年以上探しても見つけられなかったのだからな。何よりも見つけ出したとしても、火薬庫に大量のニトログリセリンを撒き散らすほどの被害を及ぼしかねん。確実に大蔵家は荒れるだろう」

 

「……えっ? そ、そんなに危険な人物なんですか?」

 

「瑠美音殿が知らないのも無理はない。故にその人物への対応は慎重にしなければならない。故に今後は軽はずみに情報を漏らすな、才華」

 

「わ、分かりました……申し訳ありませんでした」

 

「分かってくれたのならば構わない」

 

 ごめんなさい、才華様。

 その探し人は僕です。だけど、名乗る訳には行かないんです。

 衣遠兄様に口止めもされていますが、どうも僕が考えているよりも不味い事態に発展しそうなので。

 今も衣遠兄様が僕を睨んで来ている。意味が嫌と言うほどに分かる。

 余計な事は口にはしません。

 

「それじゃ……はっ、ルミねえと政略的な結婚すれば、僕が大蔵家の当主になって募集を変えられるんじゃ!」

 

 一生を左右しかねない事を、こんな事で決めないで下さい、才華様!

 呆れたようにルミネ様が才華様に告げる。

 

「総裁殿からイジられている時点で無理だと思うんだ。次の後継者は現当主が指名することになるだろうし」

 

「お兄様とルミねえ様は結婚するほどに仲が良かったんですか?」

 

「いや、其処までは」

 

「嘘でも好きだといってくれれば良いのに」

 

「じゃあ嘘だけど好き」

 

 ルミナ様は才華様に平静に答えた。

 この方、キッチンで聞いていた時から思ったけど、真っ直ぐな方なのだろう。

 ……性別の話が出た時は思わず倒れてしまった。この方にだけは、正体が絶対にバレないようにしないと。

 

「愛情表現は大げさな方が嬉しいものだよ」

 

「『大げさ』で思ったのですが、久方ぶりに再会した若の喋り方は、どうしていつも演技掛かっているのですか?」

 

「あ、それは私も思ってた。才華さんの喋り方は、少し面倒くさい」

 

 そうなのだろうか?

 僕は才華様に会うのは、日本に帰国して来てからだから分からなかった。

 ユルシュール様の方が演技掛かっていたからかも知れないけど。

 

「アメリカで暮らしている内に、日本語が少し不自由になってね。勘を取り戻す為に使った教材が、演劇のDVDだったんだ」

 

「芸術家たる者、表現は過剰だと言われるぐらいでいい。我々は普段の立ち振る舞いも、作品相応のものでなくてはならない!」

 

 ……衣遠兄様。

 そのせいで僕とりそなは貴方に畏怖と恐怖を植え付けられました。今も他の人がいるから堪えられていますが、本当はすぐに逃げ出したい気持ちです。

 

「衣遠さんが言うと説得力はあるけれど……真面目な話。本当にこれからどうする?」

 

「うん。此処から大げさであっても、演技じゃなくて話をする。僕が希望通りに進学する為には、この場にいる皆の協力が必要なんだ」

 

 才華様が真剣な顔をして全員の顔を見回した。

 しかし、あるのだろうか? 才華様が『フィリア学院』に入学するような手段が。

 

「協力と言っても、どうすればいい? 総裁殿への説得はしてみてもいいけれど、もう才華さんの為って言うのは知られてるだろうし……いっそ、他の科とかはどう? 私が進学する予定のピアノ科とか?」

 

「残念だけど、それじゃ意味がないよ。フィリア学院のレベルだと、専門分野で入学してしまえば、課題に付いて行く為の予習や復習で手一杯になる。デザインの勉強が疎かになる」

 

 どうやらこの時代のフィリア学院は、僕が知っているフィリア女学院とは全く違うものになっているらしい。

 ピアノ科なんてそもそもなかった。服飾だけの学院だった筈だ。

 十数年も経過しているのだから仕方がない事だけど、ジャンが造った学校とは別のものになっているようだ。

 なら、僕は余り興味を持てない。僕にとって憧れの人であるジャンが造った学校だったから、『フィリア女学院』に通って見たかったのだから。

 

「他の科への正式な入学なら総裁殿からの文句はないだろうけど、それだと衣装が作れない。だけどデザイナー科への入学は総裁殿が邪魔をしている。それならいっその事、総裁殿の許可を取らずに入学するのはどうだろう?」

 

「ん?」

 

 ……何だか雲行きが怪しくなって来ている。

 嫌な予感がますます強くなって来ている。何となく今回みたいな事を経験した事がある気がして来た。

 現に衣遠兄様も何か考え込んでいる。

 

「フィリア学院の一部の部門には、お母様の代から続く特別な制度がある」

 

 心臓が早鐘をうち出した。

 才華様のお母様という事は、ルナ様の代からある特別制度?

 ……それって、まさか。

 

「前理事長ジャン・ピエール・スタンレー、それと衣遠伯父様が決めた制度。学院の決めた一定の入学金、授業料を払える生徒は、授業をフォローする付き人の同伴が認められている。一部の富層に認められる『特別編成クラス』システム」

 

 ……嫌と言うほどに僕はソレを知っている。

 まだ、あの制度残っていたんだ。なるほど、才華様もあの制度を使ってフィリア学院に入るつもりなんだ。

 でも、きっと僕の時と違っているよね? 今は男性の付き人も認められているに違いない。

 そうじゃないと才華様が提案する筈がないだろうし。

 良いな。僕の時にも男性の使用人が大丈夫な許可があれば、女装なんてしなくて済んだのに。

 桜小路家のご子息である才華様に付き人が出来るかは分からないけれど、確かにこの方法なら才華様が希望するデザイナー科に進学出来るかも知れない。

 

「扱いは正規の学生のものではないけど、文化祭や学院主催のコンクール、そして年末のショーにも参加出来る。僕の目的はそのショーだ」

 

 フィリア学院の年末のショー!?

 それって、もしかして!?

 

「いまや学生のイベントの枠を超え、最優秀賞を与えられた生徒には成功の未来が約束される『フィリア・クリスマス・コレクション』」

 

 ……残っていたんだ。

 学校の形態が変わっていても、僕が皆と協力して参加したいと思っていた『フィリア・クリスマス・コレクション』が。

 正直嬉しかった。まだ、僕の知っている事がフィリア学院に残っていてくれた事が、僕には嬉しかった。

 思わず涙が零れそうになる。八十島さんが気を利かしてくれて、僕の姿を隠すように移動してくれた。

 零れそうになる涙を、八十島さんの影に隠れて拭く。

 

「お母様も特別編成クラスの出身だ。僕も進学先として望みたい」

 

「特別編成クラスの存在は知っている。ただ、付き人とは言っても、女子部に男性の付き人の同伴は認められないよ」

 

 ……今、ルミネ様は何と言っただろうか?

 女子部に男性の付き人は認められていない?

 えっ? それじゃ何で才華様はこんな提案をしているのだろうか?

 また、心臓が早鐘をうち出した考えたくもない可能性が、僕の脳裏に浮かんで来た。

 その考えを肯定するように、才華様は真剣な顔で口を開く。

 

「分かってる。だから偽る。名前も、性別も」

 

「はっ?」

 

 えっ?

 

「僕は女性のメイドとしてフィリア学院に入学する」

 

「はぁっ!?」

 

 ……才華様は何と今言われたのだろう?

 女性メイドとしてフィリア学院に入学する?

 男性である才華様が、女性メイドになって?

 ……え?

 

「えええええええーーーー!!!!?」

 

 僕は思わず叫んでしまった。

 衣遠兄様の指示なんてもう頭の中になかった。余りの大声に全員の顔が僕に向いたが、ソレどころではなかった。

 そんな事には構って居られず、僕は慌てて才華様の前に移動した。

 

「さ、ささささささ、才華様……あ、あの今なんておっしゃられました?」

 

「僕は女性メイドとしてフィリア学院に入学するって言ったんだよ、小倉さん」

 

 聞き間違いであって欲しかった!

 何でそんな非常識どころか、犯罪行為を平然と言えるんですか!?

 ……僕が言えた事じゃないと気がついて、凄まじく胃が痛くなって来た。今も男性なのに、才華様達の前で女装してメイドをやっているんだから。

 固まってしまった僕の背後から、ルミネ様が才華様に質問する。

 

「女性ってどういう事? 女性になる気なんてなかったんじゃないの?」

 

「今もなる気は無いよ。あくまで女性のような外見で過ごすって事」

 

「……そ、それは……じょ、女装と言う意味ですか?」

 

「うん。そうだよ、小倉さん」

 

 僕は全身から力が抜けるのを感じて、その場に膝を着いて項垂れた。

 だけど、すぐさま顔を上げて才華様に縋りつく。

 

「さ、才華様!! どうかお考え直し下さい!! 他の方法を考えましょう!! そんな方法だけは絶対にダメです!!」

 

「他の方法って……どんな?」

 

「私が総裁様にかけあング!!」

 

「使用人の分際で煩いぞ。ククッ、少し黙れ」

 

 背後から衣遠兄様の手が伸びて来て、僕の口を手で封じて才華様から引き離された。

 何とか脱出しようと暴れる。此処で頑張らないと取り返しのつかない事になってしまう。

 だけど、衣遠兄様は嗜虐に満ちた顔で僕を見ていた。あっ、やっぱりこの人はりそなの兄だと思った。

 楽し気に僕を見つめる顔なんて、僕を困らせていた時のりそなとソックリだった。

 その間にルミネ様が才華様との話を再開した。

 

「あの時は小倉さんに注意されて私の勘違いだと思ったけど、女性になる覚悟を決めるなら、ちゃんとする事はしなさい」

 

「切って、戻せて、ちゃんと元通りの使い方が出来るなら、痛みと怖さは厭わないよ。だけど、お母様の桜小路家を断絶させるつもりはないし、三年後には男に戻るつもりなんだ」

 

「ングゥゥゥーー!!」

 

「ククッ!」

 

 才華様の考えが分かった。

 僕がフィリア女学院に入学する為に使った手段を、才華様はやる気なんだ。

 悪夢としか思えなかった。血の繋がった相手が、遺伝子上で言えば息子にあたる相手が僕と同じ事をやろうとしている。

 えっ? なにこれ? 何が悲しくて親子二代で同じ事をやろうとしているんだろうか?

 衣遠兄様は何が楽しいのか、僕を拘束しながら笑っている。

 離して下さい! このままでは才華様が僕と同じ過ちを犯してしまいます!

 口を押さえられているので目で訴えるが、衣遠兄様は僕を離そうとしなかった。

 

「在学中は、咄嗟に聞かれても僕は女だと言えるようになってみせる」

 

「そう言う中途半端な気持ちが、本当に苦しんでいる人を傷つけるんだよ。詭弁は良いから白か黒かはっきりしなさい」

 

「白い心に黒い身体を混ぜたグレーがいい。七不思議レベルの噂だけど、以前フィリア学院に、そういう人がいたと言う噂がある」

 

 才華様の言葉に八十島さんと衣遠兄様が、感心の息を漏らした。

 ……もしかして今の話って、僕と言うか、桜小路遊星の事なの?

 サーシャさんの可能性もあるけれど、あの人はちゃんと国に認められた人だった筈だから、やっぱり僕!?

 

「アメリカにいた頃の僕を知っている人はいないから、この問題は解決している。僕はアメリカでは父方の姓を使っていたんだ。有名人であるお母様の息子だと認識している人はいないよ」

 

 ……あの才華様?

 気づいておられますか? それって万が一にもバレたら、大蔵家に迷惑が掛かってしまうのでは無いでしょうか?

 

「アメリカの方は問題は無い筈。友人が来る事があれば僕を頼るかも知れないけれど、その時だけ男に戻ればいい。だから、後はこれからどう日本で暮らすかだ。三年間、本気で性別を捨てるつもりだ。ルミねえにも協力して欲しい」

 

「無理」

 

「私はお兄様のお役に立てるのならば、お姉様とお呼びします」

 

「呼ばないでよ」

 

 同感です、ルミネ様。

 

「この世の中は諸行無常。ゆく川の流れが元のままではないように、人生とは有為の四相、生相、住相、異相、滅相と変わって行きます」

 

 アトレ様。この話はそんな壮大な話にはなりません。

 女装して女学院に通うと言う非常識な話なだけです。

 ……それを僕はやってしまった訳ですけど。

 

「そんな壮大な話じゃなくて、書類を偽って入学したら学院側に嘘をつく事になるからね?」

 

「才華はメイドとして入学すると言った。学院側はメイドの書類提出を求めていない。学院長代理だった頃に改めようとしたが、俺が代理を止めてしまい有耶無耶になったままの筈だ。以前に本名ではない名前で登録していたメイドもいた。通り名、あだ名という事で押し通せば、少なくとも名前の点で学院側には嘘はついていない事になる」

 

「衣遠さん!?」

 

 ルミネ様が驚いた顔で衣遠兄様を見た。

 才華様も驚いた顔をしている。普通ならこんな馬鹿げた提案に衣遠兄様が乗る訳ないだろう。

 だが、僕には分かる。今、衣遠兄様はこの状況を楽しんでいる。

 

「いや、名前の問題だけじゃない。それ以前に才華さんは男。何を実現不可能な事を」

 

「クククッ、実現不可能か」

 

 申し訳ありません、ルミネ様。

 此処にいるんです。その実現不可能な事を、途中まで成功させてしまった人間が。

 今も実は成功しています。

 ……あぁ、何だろう。どんどん力が抜けて来た。何だかこの流れはもう止められるような気配が少なくなって来ている。

 いや、諦めちゃ駄目だ! 諦めたら、才華様が僕と同じになってしまうんだから!

 

「だけど、ルミねえは、僕の事を女性みたいだと言っていたよ」

 

「『女性みたい』と『女性』は全然違う」

 

「……」

 

「ぜんぜん……ちが……」

 

 ……ハッ!? 一瞬意識が完全に飛んでいた。

 才華様がいきなり女性みたいにしなりをつけたと思ったら、ルミネ様が困惑したように顔を赤くして。

 ……見たくなかった。ルナ様の息子が、女性みたいな動きをする姿なんて。もう涙が止まらなくなりそうで、才華様から見えないように体を後ろに向けた。

 衣遠兄様は僕の動きに合わせて手を放してくれたが、さっきみたいに才華様を止めようとしたら、すぐに止められるように僕の傍にいる。

 

「再会した時に小倉さんを除いた皆に僕は女性みたいって言われた。帰国した時に空港でも女性として見られた」

 

 ルナ様の子供にそんな失礼な事を、僕は言えません。

 何よりもそれを言ったら、今の僕なんてどうなるんだろう? 容姿だけじゃなくて動きまで女性化してしまった僕なんて。

 今も正体を知っている衣遠兄様と八十島さん以外の全員が、現在進行形で気がついていないし。

 ……駄目だ。もう本気で泣いてしまいそう。

 神様仏様ルナ様! どうすればこんな事態を僕は防げたのでしょうか!?

 

「それは、その。そんな顔をして動きまで意識されたんじゃ、女にしか見えないけれど……」

 

 ……今のルミネ様の発言が何か気にかかった。

 才華様の動きは認めたくはないが、確かに女性的なものだった。

 だけど、果たしていきなり女性的な動きが出来るものだろうか? 僕も桜屋敷に面接に行くまでは、ずっと思い出したくはないがりそなに注意されながら訓練をした。

 そのかいあって、桜屋敷に面接に行った時も男だとは思われなかった。

 ……思い出すだけで僕の男としての部分が悲鳴を上げる声が聞こえる。

 とにかく、そのおかげと言うべきなのか、才華様の動きに僕は違和感を覚えた。

 何か重大な事を見逃しているような気がする。

 

「る、ルミネお嬢様! 説得されかかっています! どうか若の非常識を止めて下さい! それが出来るのはルミネお嬢様だけです!」

 

「そ、そうだよ! 外見が女性として通用する事は理解したけど!」

 

「理解しないで下さぁい! 小倉さんも説得に参加して!」

 

「……ず、ずいまぜぇん…な、涙が……と、止まらぁなくてぇ……」

 

「何で泣いているんですか!!」

 

 九千代さんは僕が本気で泣いている事に驚いていた。

 さっき止めようとしたから期待してくれていたんだろう。

 だけど、今は説得への参加は無理だ。こうして拭いても拭いても、次から次から涙が流れて来て前が見えない。

 何時の間にか床に膝もついていた。もう本気で辛い。

 何でこんな事になったのか、僕は知りたくなった。最初は才華様のフィリア学院への入学の為の話し合いだった筈なのに。

 今は才華様の女装問題。僕なの? 僕が悪いの?

 女装なんてしてフィリア女学院に入学したのが間違いだったの?

 

「クククッ」

 

 楽し気に笑っている衣遠兄様の声が聞こえる。

 涙で前が見えなくても分かる。今の衣遠兄様の顔はきっと嗜虐に満ちた笑みが浮かんでいるに違いない。

 

「論理感とか、道徳観とか、抵抗とかあるでしょう!?」

 

「同級生の女性に視覚的部分で迷惑をかけないようにする。理由を付けて、男女としての生活の区別はきちんとつける。自分から女性の体をみようとはしない。僕はマザコンなんだ。他の女性には性欲は……持たない」

 

 才華様甘いです。

 女子学校に入ると言う時点で、かなり女性との接触があるんです。

 メイドだと主人の体の測定をしたり、休憩中に入れるトイレは女子トイレだけなんです!

 其処で聞こえる音や女性との会話とか。

 ……正体がバレていたら、確実に僕は警察行きでした。訴えられたら間違いなく負けます。

 後、マザコンなのは仕方がないと思います。だって、あのルナ様が母親なんですから!

 涙で前が見えなかった僕は気が付けなかった。才華様が一瞬だけ僕を見ていた事に。

 

「堂々と言う事?」

 

「自分より綺麗な女の子じゃないと特別な意識は持たない。僕はナルシストなんだ」

 

「才華さんじゃなくて、他の人が嫌だって言ってるの」

 

「嘘は最後まで貫き通す。ただでさえ目立つ外見なんだ。僕が人生で顔を出すのは在学中だけにする。隠し事は墓まで持って行く」

 

 ………。

 

「罪悪感はあるの?」

 

「バレたらルミねえに僕の子孫を託して、身体の一部を切り取るぐらい」

 

 …………何を。

 

「それなら他の方法を探そうよ。代替案は思いつかないけど」

 

「私は性別よりも、桜小路の若君が、一時的とはいえ他人に仕える事が許せません!」

 

「僕じゃないよ、九千代。僕と良く似た女の子が仕えるんだ。でもせっかくだし仕えて楽しい人がいいな」

 

 この方は……。

 

「若、聞いて下さい! 若の体ではメイドの仕事は出来ません! 天気のいい日に窓ふきも、洗濯物も干す事は出来ません! 外への買い物なんて尚更無理です!」

 

「僕が助けるのは服飾に関わる事だけだよ。それでも僕は優秀だから、欲しがる人は探せばみつかると思うんだ。以前、屋敷に壱与と一緒にいた紅葉がそうだった」

 

 ……一体……。

 

「女の子の恰好をするのに抵抗は無いの?」

 

「自分のやりたい事に繋がると思えば」

 

 その言葉が引き金だった。

 この方は一体何を言っているんだ!?

 

「……ふざけ……ないで……下さい」

 

「……えっ?」

 

 僕の声に全員が静かになった。

 ゆっくりと僕は立ち上がり、才華様の前に進んだ。

 

「何が『嘘は最後まで貫き通す』ですか……何が『隠し事は墓まで持って行く』ですか」

 

「こ、小倉さん?」

 

「何が『バレたら、身体の一部を切り取る』ですか……何が『せっかくだし仕えて楽しい人がいいな』ですか……『助けるのは服飾に関わる事だけだよ』? ……『自分のやりたい事に繋がると思えば』。ふざけないで下さい」

 

 才華様の気持ちは僕にも分かる。

 僕自身が、そして桜小路遊星がやった事なのだ。才華様を批判する資格なんて、きっと僕には無い。

 でも、我慢が出来なかった。

 

「……どれだけ傷つくと思っているんですか? 騙された方も、騙した方も」

 

「ッ!?」

 

 ハッとしたように才華様は僕を見つめた。

 昨晩、僕は自分のした事を目の前の方に語った。なのに、今、この方は僕がした事と同じ事をしようとしている。

 涙が零れた。さっきまでの恥ずかしさの涙ではない。

 怒りと悲しさに満ちた涙が、僕の頬を伝って行く。

 ……覚悟は決まった。未練はあるけれど、才華様に気がついて貰えるなら、未練も捨てよう。

 迷う事無く、僕は右手を振り上げた。

 

「お兄様!?」

 

「わ、若!?」

 

「才華さん!?」

 

 アトレ様、九千代さん、ルミネ様の悲鳴が耳に届く。

 ……これで条件は整った。

 振り上げた右手を僕は驚いている才華様の肩に置き、左手も続いて肩に置き才華様の顔を真っ直ぐに見つめる。

 

「才華様を雇ったお方が騙されていたと知った時、どんな気持ちになると思っているんですか?」

 

「そ、それは……」

 

「一緒に学び共に過ごした相手が嘘をついていたと知れば、心からその方は悲しまれるでしょう。才華様からすれば、フィリア学院に入る為の手段に過ぎないかも知れませんが、共に過ごして行けば必ず信用や信頼は培われます」

 

 培った信用と信頼を僕は裏切った。

 その成れの果てが、今此処にいる僕だ。才華様には、僕みたいになって欲しくない。

 

「そして真実が明らかになった時に知るんです。『何て事をしてしまったんだろう』って。そして願うんです……戻りたい! 帰りたい! あの暖かな……私にとって唯一心から幸せだったって言える日々に帰りたい! 戻りたいって! 毎日! 毎朝! 毎晩!! 願ってしまうんです!!」

 

 涙が頬を流れて行く。

 昨晩にも伝えた事を、今度は秘めていた感情を乗せて才華様に伝える。

 幸せな日々を過ごしているルナ様と桜小路遊星の息子である才華様に、僕のようになって欲しくないから。

 

「……才華様……似たような事をした私には、才華様を止める権利はありません。ですが、どうかお願いします。本当に先ほどの提案をなさると言うなら、相手側の気持ちを考えて上げて下さい」

 

 僕は才華様に自分の気持ちを伝えた。

 才華様の両肩に乗せていた手を退かし、そのまま背後へ下がると、呆然としている才華様に頭を下げる

 

「……ただいまをもって辞めさせて頂きます、桜小路家のご子息様」

 

「……えっ?」

 

 言われた言葉の意味が分からなかったのか、才華様は呆然と声を出した。

 だけど、僕は才華様に背を向けて八十島さんに頭を下げた。

 

「長い間、お世話になりました。八十島さんには感謝しています」

 

「待って小倉さん!? 今のは若を思っての行動よ!」

 

「いいえ。私は怒りに駆られて才華様に手を上げようとしました。それはこの場にいる全員が見ていた筈です」

 

「そ、それは……」

 

 多分、八十島さんは気がついている。

 僕が右手を振り被った行動の意味を。だけど、屋敷の主である才華様に手を上げたのも事実だ。

 何とか引き留める方法は無いかと考えている八十島さんの前に、衣遠兄様が動く。

 

「その通りだ小倉朝日。貴様はこの屋敷の主である才華に手を上げようとした。最早この屋敷には居られん。俺の車が駐車場に置かれている。荷物を纏めて待っていろ」

 

「……はい、衣遠様」

 

 僕は衣遠兄様に向かって深々と礼をし、思い出深いルナ様の部屋から出て行った。

 

「あっ」

 

 背後で才華様の声が聞こえたが、もう僕は振り返らなかった。

 僕はもう……あの方には会わない。




連続更新は残念ながら此処までです。
次の話は出来るだけ早く上げる予定です。


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prologue6(終)

少し遅れてしまいました。
今回にてprologueは終わりです。

饅頭ともち様、Nekuron様、にょんギツネ様、読み専さかな様、mr.フュージョン様
誤字報告ありがとうございました!


side遊星

 

 衣遠兄様の車に乗って、僕は助手席の窓から街の光景を見ていた。

 隣の席では衣遠兄様が、車を運転している。

 桜屋敷から僕は遂に出た。まさか、こんな形で出る事になるとは思っても無かった。

 僕はもうあそこには居られない。でも、未練は無かった。

 最後に、大切なお方の血を引く方の過ちを僅かでも止める事が出来たんだから。

 

「……遊星。才華の件だが」

 

 衣遠兄様はきっと怒っている。

 才華様を衣遠兄様が大切に思っているのは、僅かな間でも良く分かった。

 そんな才華様を僕は叩こうとしたんだ。車に乗ってからは静かだったが、遂にお叱りの言葉を言われるのだろう。

 

「……才華を良く叱ってくれた」

 

「えっ?」

 

「もう気がついているだろうが、俺は才華に甘い。嘗てのお前やりそなのような扱いを、俺はこれからも才華やアトレには出来まい」

 

 僕は言葉も出せずに衣遠兄様を見つめた。

 

「アメリカにいる才華の両親も同じだ。特に父親の方は才華に対して過保護だ。奴ではあそこまで強く才華を叱れないだろう。だからこそ、お前が才華を叱ってくれたのは感謝する」

 

 ……そうなのかも知れない。

 僕も家族には拘っている。自分に子供が生まれたら大切にしようと思う。

 才華様やアトレ様とは確かに血が繋がっているが、自分の子供と言う認識は薄い。

 だからこそ、強く叱れたのは皮肉だと思った。

 

「俺は才華の話を聞いて興奮を感じた。お前には信じられないだろうが、アメリカにいる我が弟が小倉朝日を名乗っていた時代は俺にとって劇的で、華やかで、力強く駆け抜けた時代だった。その息吹が再び吹き返して行くのを感じた……だが、俺はお前と言う例を忘れていた」

 

 信号で車が止まると、僅かに悔いるように衣遠兄様は、顔を下に俯けた。

 

「……才華の試みが成功すればまさに俺にとって劇的な時代の復活だ。だが、失敗すれば……才華はお前と同じように全てを失うだろう。いや、お前以上に失う可能性もありえる。危うく俺は才華の才能を潰しかねなかった」

 

 『才能至上主義』の衣遠兄様にとって、自分の判断ミスで才能が潰れる事は許せないのだろう。

 特に才華様には一際目をかけている。その才華様が僕のようになってしまうかも知れなかった。

 それを止められた事を喜ばれている。だけど。

 ……何で親子二代で、女装して学院に入ろうなんて事になったんだろう?

 枯れ果てた筈の涙が、また零れて来る。

 

「……衣遠兄様。才華様は僕が女装して学院に入っていた事は」

 

「知らない筈だ……だが、それは怪しくなって来た。お前は知らないだろうが、俺が知る桜小路は小倉朝日としてのお前に執着を見せていた。卒業後は、アメリカにいる我が弟は小倉朝日になった事はない筈だが」

 

「……なりたくないですよ。今だってこうして女装してますけど、あと数年経ったら僕だって男性的な姿に」

 

「お前にとって不幸な情報を教えてやろう。我が弟、桜小路遊星は、未だに女と間違われる事がある」

 

 知りたくなかった!!

 僕の中での男性的になっている筈の桜小路遊星のイメージが、音を立てて粉々に砕け散った。

 えっ? 僕って男だよね? 最近自分でも自信が無くなって来ているけど男だよね?

 ほら、確か瑞穂様の採寸の時に……普通に会話していた記憶しかない!?

 アレ? よくよく考えてみると男性として女性の下着を見ている筈なのに、平然と会話していたの可笑しいよね?

 それ以外だと僕がお風呂に入っている時に瑞穂様と湊が入って来た時なら……自分の正体がバレるのが怖くて震えていただけだった! 待って! もしかしてあの頃から僕って後戻り出来ないほどになっていたの!?

 ……これ以上考えるのは止めよう。僕の中の男としてのアイデンティティが崩壊しかねない。

 僕が自分の尊厳と戦っている中、衣遠兄様は話を続ける。

 

「才華の提案に関しては、あの後、明日、全員が改めて冷静になったら話す事になった」

 

「……そうですか」

 

「奴の提案には心が惹かれるが、お前と言う例を考えれば判断は慎重にならざるを得ないだろう。遊星。お前の行動は紛れもなく、あの場において正しい判断だった。尤も才華に我々が納得出来るだけの話があれば、悪いが俺は全面的に才華に協力させて貰う」

 

「衣遠兄様!?」

 

「無論。正体がバレた時の対策はしておく。何処まで才華を護り切れるかは分からんが……何よりも才華が何故あそこまで日本のフィリア学院に拘るのか……その真意を聞かねばなるまい」

 

 それは僕も気になっていた。

 才華様は何故か日本のフィリア学院に拘っている。

 僕は憧れだったジャンが創立した学院だったからだ。あそこでなら僕は新しい僕を始められるかも知れないと思ったから、どうしても通いたかった。

 だけど、才華様は違う。聞いた話ではアメリカにもフィリア学院の分校があるらしい。

 何故日本のフィリア学院に才華様が拘っているか分からない。

 でも、僕にはもうそれを知る事は出来ない。桜屋敷を出たのだから。

 才華様に会う事は、もう無いだろう。

 なら、僕がやりたい事は一つだけだ。

 

「……お兄様。お願いがあります。母の……マンチェスターにある母の墓参りに行きたいのですが」

 

「……年始まで待て。年始ならば『晩餐会』で大蔵家の人間が集まる。その時ならば、今はマンチェスターの別邸に住んでいる父や母も日本にやって来る。今年は我が弟、桜小路遊星も才華の件で総裁であるりそなに会いに来る筈だ」

 

「ありがとうございます」

 

 願っていた母の墓に漸く行く事が出来る。

 万が一にも桜小路遊星に会わないように配慮してくれる衣遠兄様には感謝しかない。

 

「遊星。今度りそなと行く予定の店が近くにある。其処で夕食を取るぞ」

 

「……分かりました、衣遠兄様」

 

 衣遠兄様の提案に、僕は僅かに微笑んだ。

 最初に会った時の畏怖と恐怖は、何時の間にか感じなくなっていた。

 この人は違うと分かったから。僕が知っている衣遠兄様と違って、優しい衣遠兄様だと言う事が。

 桜小路遊星と本当に家族として過ごしているんだろう。

 だから、思い出してしまう。

 

『雌犬の子。愚かなる弟よ』

 

 僕を道具としか思っていなかった僕の衣遠兄様を。

 ……隣にいる衣遠兄様は、本当に僕を見ていてくれているのだろうか?

 それとも……僕を通して桜小路遊星を見ているのだろうか?

 分からない。……いや違う。きっと僕は怖いから知りたくないんだ。

 ……桜小路遊星を通して、僕と言う人間が見られてしまう事実を。

 

 

 

 

side才華

 

 昨日の話し合いから一晩が経った。

 前日眠ってなかったおかげで今日は眠れた。眠れてしまった自分に怒りを覚えたくなった。

 僕は知っていた。あの人、小倉さんの心の傷を。

 なのに、僕はその傷を広げるような事をあの人にしてしまった。

 あの人から言われた言葉の一つ一つを、僕は忘れる事が出来ない。

 悲しみの涙で歪んでいたあの人の顔を忘れる事が出来ない。心から美しいと思ったあの人の笑顔が、思い出せなくなるほどの光景だった。

 僕がそうさせてしまった。あの人を、小倉さんを悲しませてしまった。

 ……正直言えば、僕は自分の考えに浮かれてしまっていたんだ。

 誰にも話した事が無い僕の秘密。僕は。

 

 女装しないと良いデザインが描けない!

 

 それと言うのも、子供の頃、僕はこの屋敷で夜中に見てしまったのだ。

 お母様の部屋で使用人の格好して黒のウィッグを付けて、お母様に犯されているお父様の姿を。

 その時のお父様の姿は美しかった。今まで見て来た女性の誰よりも。だけど、当時の僕はその事を理解出来なかった。だから徐々に忘れて行ったが、アメリカで雇った使用人に言われた言葉が、僕に思い出させてしまった。

 

『まあ可愛い。サイカ様のお顔はお父様と良く似て、まるで女の子みたい』

 

 衝撃だった。忘れかけていた事が現実で、僕が見た美しい女性は、お父様本人だったと理解してしまった。

 それからだ。元々そうだったのだが、本格的に自覚してしまった。僕が女性的な美しさの対象とみれるのが、お父様だけとなっている事に。

 そして僕自身の外見が憧れる女性の外見になってしまった事も気がついた。

 そのまま僕自身に性欲を抱ければ、完全な変態となれたかも知れない。だけど、僕にはお母様の面影もあった。

 お父様と違って、お母様には僕は崇拝に近い憧れのようなものを抱いている。性欲の対象として見れる筈が無い。

 他人にも性欲を抱けず、自分にも性欲を抱く事が出来ず、僕は自分に潔癖な凛々しさを求めた。

 それも男性の姿ではなく女性の姿で。変態にもなれない矮小な存在こそが、僕の正体。

 だけどそれは両親と共に生活する環境では、人前に晒せるものではなかった。信頼する妹にも『女装したい』などと話せない。

 部屋で一人、それも自分で作った女性物の服を着て、潔癖な女性を演じるしかなかった。

 でも、その行為は僕に芸術的な恩恵を齎した。誇り高き女性の姿でいられる事が、僕の創造を極限まで豊かにした。アメリカで賞を得たデザインは、全て女装をして描いたものだ。

 だけどその姿を人前には晒せなかった。僕は常識を捨てきれなかった。

 いっそ女装癖がある人間だと開き直れればどれだけ良かったか。

 何れは常識に囚われ、女装しなければ描けないデザイン達は消えて行ってしまうのではないかと、悲しみを覚えた日もあった。

 でも、今回の件で僕は機会を得られたと思った。

 女性の姿のまま服飾学校に通える機会。天啓を得たとさえも感じていた。

 だから、本当は後ろめたさや怯えを感じなければならないのにも関わらず、女性の姿で学院に通えるかもしれないと楽しく感じていた。

 皆さえ説得出来れば実現出来ると思っていた。でも、浮かれて僕は大切な事を忘れてしまっていた。

 

「……小倉さん……ごめん」

 

 謝ったところでもう遅いと分かりながらも、僕はこの場にいない人に謝った。

 あの人の心の傷の深さを知っていた筈なのに、僕は自分が望む最高な環境で学べるかもしれない事に浮かれてしまっていた。

 小倉さんの言う通りだ。もしも僕が付き人として仕える相手が、僕と同じように服飾に熱心になっている人だったら、僕が仕える事で正体がバレてしまった時、その人にどれだけ足枷になるか分からない。

 僕は完璧だからなんて言って、挑んでは行けない事だ。

 それに気づかせてくれた小倉さんには感謝しかない。

 なのに、僕はあの人を傷つけた!

 止められなかった。僕に背を向けて去って行くあの人の背を。

 心が痛んだ。才華様ではなく、桜小路家のご子息と他人行儀に呼ばれた事が。

 謝りたい。すぐにあの人に会って、昨晩の事を謝りたい!

 頭を抱えて僕が苦悩していると、ノックの音が聞こえて来た。

 

「若。衣遠様とルミネ様がお見えになりました。応接室にご案内してあります」

 

「ッ!? 小倉さんは!?」

 

「……小倉さんの姿はありません。衣遠様に聞いても、もうこの屋敷には関係ないと言うだけで」

 

「すぐに伯父様に会いに行く!」

 

「あっ! 若! 廊下を走っては行けません!」

 

 部屋から飛び出した僕を九千代が諫めるが、僕は構わなかった。

 急いで応接室に向かい、飛び込むように僕は入った。

 いきなり入って来た僕の姿に、ルミねえ、アトレ、壱与が驚いているが、僕は構わずに平静としている衣遠伯父様に質問する。 

 

「衣遠伯父様!?」

 

「騒々しいぞ、才華」

 

「……申し訳ありません」

 

 何時もと変わらない衣遠伯父様の姿に、僕は落ち着きを取り戻した。

 

「あ、あの……」

 

「小倉朝日なら今朝の便で、故郷の国に帰った。もう日本には居ない」

 

 伯父様は僕が質問しようとした事を先んじて告げられた。

 その意味を理解した僕は、床に膝を突いてしまう。

 

「こ、故郷の国?」

 

「八十島と俺を除いたこの場にいる全員が知らないが、奴の両親の片側は外国人だ。日本人との間に生まれたので、小倉朝日と名乗っていた」

 

「壱与。本当なのですか?」

 

「はい、アトレお嬢様。小倉さんの生まれは日本ではありません」

 

「元々奴は才華達が帰って来たら屋敷を辞めるつもりだった。それを八十島が引き留めようとしていただけだ。最も俺自身は、奴がこの屋敷から離れたのは良かったと思っているがな」

 

 一瞬、伯父様の言った言葉の意味が分からなかった。

 でも、徐々に理解して来た僕は立ち上がり、伯父様を見つめる。

 

「伯父様! 今の言い方は!」

 

「才華。俺はお前に教えた筈だ。この世で最も嫌悪すべきなのは『惰弱』だと。此処にいた小倉朝日は、『惰弱』そのものだ」

 

 ……この人は僕が知っている伯父様なのだろうか?

 アトレも驚いたように伯父様を見ている。ルミねえも、後から来た九千代も冷徹としか思えない伯父様の様子に、困惑している。

 壱与だけが何かを察しているのか、黙したままでいた。

 

「あ、あの、でも……小倉さんにお礼が言いたいんです。小倉さんは若を止めてくれました。だから」

 

「……小倉朝日に関しては、これ以上関わるな。俺が言えるのは此処までだ。今はそれよりも才華の話だ。才華、お前は昨日の件をまだ続ける気はあるのか」

 

 取り付く島が無いと言うのは、こう言う事なのかと思った。

 伯父様の中で既に小倉さんの事は終わった事になっている。此処で幾ら言葉を尽くしても、伯父様は取り合ってはくれないだろう。

 なら、納得出来なくても昨日の話の続きをするしかない。何処かで伯父様に交渉を持ちかける為にも。

 でも、皆一晩経った事で冷静になっている。昨日のような勢いに任せた話では、少なくとも今の伯父様とルミねえには届かないだろう。

 

「先に言っておくけど、私はやっぱり才華さんの提案に反対。女装して学校に通うなんて非常識な事は許せない」

 

「私はお兄様のお役に立てるなら喜んで協力いたします」

 

「アトレさん。流石に今回は止めようよ。昨日、小倉さんが言っていたけど、事は才華さんだけじゃない。才華さんをメイドとして雇う人側にも類が及ぶんだから」

 

 そうだ。僕はその事を軽く考えていた。

 だから小倉さんは僕を叱った。あの人はもう知っていたんだ。

 自分がその事を既に経験していたから。

 

「私は、若の意思にお任せします。もしもなさるのなら、私は全面的に協力させて頂きますけど」

 

 壱与は僕に選択を委ねてくれた。

 九千代は強く睨んで来ている。何時もは流されやすい九千代だけど、昨日の小倉さんの姿に心が打たれたんだろう。

 今回は絶対に退かないという意思が、目から見える。

 昨日は言えた言葉が、今は口にする事が重い。この言葉を言えば、もう後には引けない。

 でも、僕は。

 

「……やる。どうしても日本のフィリア学院に通いたいんだ」

 

「何でなの? 昨日家に帰ってから、改めて海外から取り寄せていた雑誌を見てみたけど、才華さんが賞をアメリカで取った作品の完成品は良いできだったと思う」

 

「わざわざ海外から雑誌を取り寄せてくれていたんだ。嬉しい」

 

「でも、それでいいよね? アメリカの雑誌で評価されたら、フィリア学院ニューヨーク校へ通った方が扱いは良いだろうし。パリやローマにだってフィリアはあるよ。日本にしても服飾学校ならフィリア学院以外にもあるんだよ。理由もなく拘っているなら、悪いけど、総裁に報告させて貰う……あの小倉さんって人、本当に悲しんでいたから」

 

 ルミねえも小倉さんの悲しみを感じていたらしい。

 先に言っておくべきだった。僕がフィリア学院に通いたがっている理由を。

 

「もっともだ。僕は先に皆に言っておくべきだったんだ。フィリア学院に拘っている理由を……小倉さんにも話しておくべきだった」

 

 もう遅いけれど。あの人は去ってしまった。

 だけど、せめてこの場にいる人達には知って貰おう。同情を引くつもりではないけれど、気持ちを打ち明けなければならない。

 僕の心の中にある傷を。

 

「ルミねえは再会した時に指摘したと思うから知っていると思うけど、僕は小さかった頃に黒のウィッグを付けていた」

 

「うん、覚えてる」

 

「この屋敷もあると思うけど、アメリカの僕の家には、学生時代のお母様がファッションショーでモデルを務めた時の写真が飾ってある」

 

「……見た事あるかも。綺麗な衣装だったね」

 

「うん、凄く綺麗だった。子供の頃の僕は、その写真に憧れてた。僕のお母様は、なんて美しい人なんだろうと、幼稚舎に上がる前からずっと思ってた」

 

「……皮肉だな。あの写真に片方は憧れを抱き……もう片方は絶望に落とされるとは」

 

 伯父様が小声で何かを呟いたが、良く聞き取れなかった。

 話を遮るつもりはないらしく、僕は話を続ける。

 

「僕はその写真に憧れて、自分のこの髪の色をとても自慢にしていたんだ。幼稚舎に上がる前に、お母様に黒のウィッグを付けるかと尋ねられた時も、ありのままの姿で通いたいと言った」

 

 今でも覚えてる。何故自慢にしていた髪を隠す為に、黒のウィッグなど必要なのか、不思議に思った。

 そして当然のように拒否した自分の声も覚えてる。

 お父様とお母様は、僕の返事を聞いて、とても嬉しそうにしていた。その優しさの影に、何時か訪れる未来を見越して、寂しさが隠れていた事に気が付けなかった。

 

「でも現実は僕が考えていたよりも厳しかった。周囲と髪の色が違う僕をみんなが避けて、友達なんて出来なかった。クラスメイトの両親や、保育士の先生ですら、お父様とお母様に遠慮していて、何処か余所余所しかった。幼い僕は堪え切れなかった。陰口や指をさされて、一週間で心が挫けて、涙を堪えられなかった」

 

「昔は大人しい子だったもんね」

 

 言い返す事も、強がることも出来なかった。

 今もその頃の事が後悔として胸に刻まれている。

 

「……それだけじゃありませんよね。若はアトレお嬢様までが、好奇の対象になる事を恐れたんです。それを理由に、ニューヨークではアトレお嬢様とは別の姓を名乗っていたんです」

 

「妹の存在に自分の弱さをなすりつけるつもりはないよ。堪え切れなくなった僕は、あの日の夜にお母様に願い出たんだ」

 

 この話をしようとすると口が震える。

 まるで、憐れみをこう見たいで情けないから。

 

「『この髪を隠す為にウィッグを被りたい』と僕は自分の口でお母様に言った」

 

 お母様が僕に優しく微笑んで、『私には気持ちが分かるんだ』と言いながらウィッグを被せてくれたのを思い出す。

 

「それからは他の子と変わらない生活を送る事が出来た。一か月ぐらいで、案外みんな僕を受け入れてくれた。全てはお母様の美しい髪の毛と引き換えに」

 

 幼い頃のルミねえにも、どうしてウィッグを被るのかと尋ねられた。

 僕は曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。

 

「それ以来、僕は心の奥でずっと悔やんでいた。飾られている衣装を着たお母様の写真を見る度に、何故こんなにも美しいものを否定しなければならないのか、悔しくて悔しくて仕方がなかった。だけど、幼い頃の僕には何も出来なかった。自分の本当の意思を、とうとう日本を出るまで言い出せなかった。それは劣等感として僕の中に残っている。デザインにも表れている」

 

 僕は確かにアメリカで賞を取っていた。

 だけど、審査員の人達からは常に、『何かが足りない』と告げられていた。

 

「今までは才能で誤魔化せていたけれど、もう限界なんだ。このままではデザイナーとしての僕は駄目になる。それは一生の夢を捨てる事に等しい。飾ってあったお母様の写真が、フィリア学院のショーのものだと知った日から、僕は自分がモデルを務めて、その舞台に立ちたいと願って来た」

 

 だから、アメリカでの雑誌のコンクールで自分がモデルを担当するのは避けて来た。

 賞をとっても取材の対応はメールで返事を返していた。

 自分がモデルとして出るのは、日本のフィリア学院のフィリア・クリスマス・コレクションの年に三回だけで良いと思っていた。

 お母様と同じように、デザイナーとしての自分の評価に、身体の事情が絡むのは避けたいから。

 でも、これから僕がやろうとしている事の重さを認識した今、この程度の覚悟じゃ足りない。

 

「……一年、違う入学してからフィリア・クリスマス・コレクションの間だけ、僕に協力して欲しい。最優秀賞を取っても取れなくても、その期間が経ったら、僕はフィリア学院を退学して、仕えていた人にも全部話す。それでその人が僕を赦せないんだったら……僕はデザイナーを諦めます」

 

「お、お兄様!?」

 

 アトレが悲鳴のような声を上げた。

 僕がどれだけデザイナーとして頑張りたいかを知っているからだろう。

 だけど、正直コレでも足りないと僕は思っている。途中で失敗する可能性もある。

 でも、僕はどうしても諦めきれない。

 

「……本当はデザイナーを諦めるなんてしたくない。でも、僕が差し出せる最大の覚悟はコレしかない。仕えた人が腕を折れと言ったら……僕は折ります」

 

「……入学からフィリア・クリスマス・コレクションまでか。良いだろう。妥当な期間だ」

 

 伯父様は僕が提示した期限に頷いた。

 

「仕える相手の問題は残るが、年間の最優秀賞を取ったのなら、正にあの時代の再現だ。総裁殿は確実にお前を認めるだろうよ。そして総裁殿が認めた暁には、俺が知る小倉朝日の全てをお前に語ろう」

 

「本当ですか、伯父様!?」

 

「本当だ。だが、あくまで最優秀賞を取った時だ。それ以外の賞では総裁殿は認めまい。また、お前の両親も結果さえ出せば文句はないだろう」

 

「えっ? お父様とお母様もですか?」

 

「そうだ。あの二人には認めざるをえない事情がある」

 

 伯父様の言葉に、アトレだけじゃなくて僕も驚いた。

 僕も結果さえ出せば、お父様とお母様が認めるだけの事情を知っている。

 それは僕だけの秘密だと思っていた。でも、今の伯父様の発言から見て、伯父様も何か知っているに違いない。

 本格的に伯父様が協力してくれる事に内心で喜びながら、僕は悩んでいるルミねえに顔を向ける。

 

「……一年浪人するとかじゃ駄目なの? 来年男子部が復活するかもしれない」

 

「それだけの人数が集まって、総裁殿が納得してくれるならだけど……今、この覚悟を捨てたくないんだ。一年経ったらまた甘えてしまう気がする」

 

 今此処までの覚悟が出来ているのは、小倉さんに叱られたからだ。

 一年も経ったら、僕はまた甘えてしまう気がする。だから今しかない。

 僕の意思の強さを感じたのか、ルミねえは額に手を当てて、溜め息を吐く。

 

「分かったよ。協力してあげる。だけど、約束。仕える人にはフィリア・クリスマス・コレクションの後に全部話す事」

 

「嬉しい。ありがとう、ルミねえ」

 

「分かったってば。はあ、性別を隠して入学させるなんて大それた事に手を貸さないといけないなんて」

 

 ルミねえは酷く疲れたように呟き、深々と椅子に背を預けた。

 

「……後、もう一つ。小倉さんに会えたら。ちゃんと謝る事」

 

「それは勿論だよ!」

 

 言われなくても僕は小倉さんに誠心誠意謝るつもりだ。

 期待を込めて伯父様に僕は顔を向ける。だけど、帰って来た答えは。

 

「奴の居所を教えるつもりは無い」

 

 ……伯父様の意地悪。

 どうにも小倉さんに対する伯父の扱いは、シビアだ。

 

「奴をこの屋敷に戻すのも無しだ……俺が言えた事では無いが、そろそろ奴にも再び歩み出して欲しい。その為にも奴は此処から出る必要がある」

 

 ? 良く分からないが、伯父様はどうやら僕と違った形で小倉さんを大切に思っているようだ。

 出来る事ならすぐに会って、昨日の事を謝りたい。でも、何故かは分からないが、伯父様は此処に、桜屋敷に小倉さんを居させたくないらしい。

 

「……これで反対する者は居なくなったな」

 

「まだ、私が居ます! 私は全ての事情を知っていますが絶対に認めません! 此処にいない小倉さんの為にも頑張ります!」

 

 どうやら昨日の小倉さんの行動で、九千代はやる気になっているみたいだ。

 何時もは流されやすいのに、今日は絶対に認めないという意思の強さが瞳から見える。

 

「九千代。本当にお願いだよ……僕は小倉さんに謝りたい。その為にもあの人の事が知りたいんだ。伯父様はフィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取って、総裁殿が認めたらあの人の事を教えてくれるって言ってくれた」

 

「ウッ! だ、駄目です! 確かに小倉さんの事は気になりますけど、仮にも桜小路の若君が女装して誰かに仕えるなんて、絶対に認められません!」

 

「……なら、九千代が僕に仕える人を見極めるって言うのはどうかな?」

 

「えっ?」

 

「九千代が嫌がっているのは、誰かも分からない人に僕が仕える事だろう? その人の実力を九千代が見極めて、妥協出来る範囲の人だったら良いよね?」

 

「そ、それは……」

 

「残りの期間も四か月ぐらいで、九千代が妥協出来る人材でなかったら入学は諦める。こう言う条件だったらどうかな?」

 

「……まぁ、それなら。ですけど、私は厳しく審査をしますよ!」

 

「うん。構わないよ」

 

 ……九千代。ちょっと既に流されかけているよ。

 八千代と違って、本当に九千代は流されやすいな。

 

「それで才華? お前の女装の時の名は決まっているのか?」

 

「はい、伯父様……色々と考えましたけど、戒めを込めて名を決めました」

 

 伯父様に答えながら、僕は胸に手を当てた。

 これから名乗る名前に緊張を覚える。僕なんかじゃ気安く名乗って良い名前じゃない。

 あの人にとって、この名前は重要な意味を持っているに違いない。

 僕はその名を名乗らせて貰う。これから行なう事への戒めを込めて。

 そして、何処かでその名を聞いたあの人が、どんな形でも良い僕の前にもう一度現れてくれる事を願って。

 

「『小倉朝陽』。僕がフィリア学院に入学出来て、フィリア・クリスマス・コレクションの時まで性別を捨てて名乗る名前です」




prologueは此処までです。

次からは一月から入学式編までとなります。
遊星sideと才華sideがあって、遊星sideは『奮起』。才華sideは『原作』と言う流れで進みます。
それで入学式で合流です。遊星sideはオリジナルなので、原作乙女理論のキャラやつり乙無印のキャラ達が出て来る予定です。
遊星sideから始まる予定なのでお楽しみ下さい。


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一月編
一月上旬(遊星side)1


今回より遊星の衣遠の呼び方が兄様から変化します。
兄から別の立場に変化しますので

そして遂につり乙からキャラが一名参戦します!
正直この人で大丈夫かなと思いましたが、今後出すタイミングが思いつかなかったので此処で出させて貰いました。

また、あとがきに注意IFエンドがあります。
内容は……バッドです。

Nekuron様、にょんギツネ様、誤字報告ありがとうございます!


side遊星

 

『拝啓、私のご主人様である桜小路ルナ様。

 新しい一年の始まりを告げる年始。私は今、桜屋敷から離れ、遠いイギリスのロンドンにいます。

 私は先日、遂に一年間過ごした桜屋敷を出ました。ずっと住んでいたあの屋敷を離れる事は、正直に言えば辛いです。

 未練が無いと言えば嘘になりますが、私はもうあの屋敷に戻る事はないでしょう。

 この世界のルナ様のお血を引く二人のお方にも出会う事が出来ました。

 ルナ様と同じ銀色の髪と赤い瞳の男性である桜小路才華様。

 りそなに良く似た容姿をされていた桜小路アトレ様。他にも山吹メイド長の親族である山吹九千代さんとも会いました。

 残念ながらお三方と一緒にいられたのは、一日にも満たない時間でしたが、才華様とアトレ様はルナ様と同じようにお優しい方々でした。

 ですが、申し訳ありません。私は屋敷を出る前に才華様を叱りました。

 才華様にも事情があったのでしょうが、私はどうしても才華様の為さろうとしている事に耐え切れませんでした。

 しかし、この件に関して私は後悔はありません。才華様が為さろうとしていた事は、私が貴女に対してしてしまった赦されざる行いだったのです。止めなければいけないと思いました。

 そのすぐ後に私は桜屋敷を出ました。

 今は、新しい保護者となった衣遠父様が用意してくれたホテルの一室で過ごしています。

 入学式やクワルツ賞の審査通過通知の時の私を知っているルナ様からしたら信じられないでしょうが、私は先日正式な手続きを終え、衣遠父様の子となりました。

 大蔵家本家には年始にある『晩餐会』で、私の養子の件を伝えるそうです。

 この世界の衣遠父様は、私が知っている衣遠兄様とは別人としか思えないほどにお優しい方でした。

 ですが、私は本当にその優しさを受け取って良いのかと思う時があります。この世界の衣遠父様が優しくなれたのは、桜小路遊星様のおかげです。なのに、同一人物というだけで、何も成し遂げられなかった私が、衣遠父様の優しさを受けて良いのかが分かりません。

 衣遠父様には感謝しています。あの人が養子に迎えてくれなければ、戸籍の無い私は何処かで路頭に迷っていたでしょう。今こうしてロンドンに滞在出来ているのも、衣遠父様のおかげです。

 でも、私は残念ながらあの人にも何も返せないと思います。服飾の道に戻る気はありません。

 戻る資格は、もう私には無いのですから

 このような懺悔のような手紙しか書けない私を御赦し下さい。

 

 小倉朝日より、愛を込めて、敬具』

 

 

 ルナ様への手紙を書き終えた僕は、そのまま手紙を閉じる。

 そしてテーブルの上に置かれている灰皿に乗せて、火を付けて燃やした。

 桜屋敷では仕舞って保管していたが、出た今はこうして書いた手紙を燃やしている。屋敷を出る時に持ち出した手紙も全て処分した。本当は少しでも明るい話題を手紙に書きたいのに、どうやっても僕が書く手紙は懺悔のような内容にしかならなかった。

 ……僕はやっぱり赦しを請いている。そんな資格など無いというのに、あの人に。

 僕が知っているルナ様に赦して欲しいと願ってしまっている。

 

「……ルナ様……りそな……湊……瑞穂様……ユルシュール様……会いたいよ」

 

 イギリスに来てから、僕はずっと寂しさを感じている。

 桜屋敷では感じなかった。その事実が、僕は桜屋敷を護っていたのではなく、桜屋敷に護られていたのだと告げられているようだった。

 零れ落ちそうになる涙を堪えていると、新しい父から渡された携帯電話がなった。

 

「……はい」

 

『俺だが、マンチェスターの別邸から出た父と母が日本に到着した』

 

 電話越しに聞こえてくるのは衣遠兄様……いや、衣遠父様の声。

 

『アメリカから桜小路遊星と桜小路ルナも日本にやって来ている』

 

「えっ? ……桜小路遊星様だけではなく、ルナ様までもでしょうか?」

 

 身体的問題でルナ様はこれまで大蔵家の『晩餐会』には参加していたのは、日本にいた頃までだと聞いていた。

 そのルナ様までが何故今回参加されるのだろうか?

 

『どうやら才華の件でりそなに直接物を言いたくなったらしい。過保護だと遊星に対して言っているが、桜小路も変わらん。特に今回は日本にいるという事で才華とアトレが『晩餐会』に参加するから、心配になったのだろう』

 

「そうですか」

 

 僕は僅かに微笑んだ。

 年月を経てもルナ様の優しさは変わっていない事に安堵を覚えた。

 

『此方としては好都合だ。今回の『晩餐会』で、俺が養子を取った事を報告するのだから』

 

「……今更ながら大丈夫なのでしょうか? 僕の養子の件を大蔵家の方々に報告して?」

 

 特に日懃お爺様が心配だ。

 引退したとは言え、その影響力は無視出来ない。以前僕を大蔵家の庶子として認める事にも強硬に反対された方だ

 正体を明かせない僕を養子にしたなどと知れば、衣遠父様に迷惑が掛かるかも知れない。だけど、僕の不安を衣遠父様は笑う。

 

『フン、貴様が心配する事では無い。此方に何の策も無く、正体を明かせないお前を養子にした件を明らかにする訳があるまい。だが、事が上手く行けば、総裁殿とは間違いなく会う事になる』

 

「えっ?」

 

 胸の中で鼓動を打つ音が聞こえた気がした。

 現大蔵家の総裁。それは僕の妹であるりそな。この世界のりそなに会う事になる。

 でも……。

 

「衣遠父様? 僕を総裁殿と会わせたくなかったのでは? だから、総裁殿にはご報告しなかったのではなかったのですか?」

 

『それはお前に立場が無かった時の話だ。今のお前には俺の子という立場がある。何安心しろ。俺も少々才華の件で総裁殿には不満を持っている。お前という存在を利用して、総裁殿が困る姿を『晩餐会』で眺めさせて貰うとする』

 

「……」

 

 どうやら電話の先に兄、いや、父は僕を使ってりそなに何かをする気らしい。

 一瞬、りそなを怯えさせる衣遠兄様の姿が脳裏に浮かんだ。だけど、衣遠父様の顔が浮かぶと、その光景は消え去った。

 この人ならもう、衣遠兄様のようにりそなを恐怖させる事はないと信じられた。

 寧ろ、困っているりそなの姿を眺めて笑っている姿が思い浮かび、僕は僅かに笑ってしまった。

 

『フッ、お前の笑い声を聞くのは久しぶりだ』

 

「あっ……」

 

 そう言えば父の指摘通り、些細な事で笑うのは随分久しぶりな気がする。

 いや、もしかしたら一年ぶり以上になるかも知れなかった。

 

『遊星。お前は明日墓参りに行け。案内役は用意してやった。明日の朝九時に、ホテルのフロントに向かえば会える』

 

「案内役ですか? 母のお墓の場所は八十島さんに聞いていますから、自分で行けますけど」

 

『万が一という事態もあり得るからな。護衛役を含めてだ。それでは俺は『晩餐会』の準備があるので話は終わるぞ。ではな』

 

 通話が終わり、僕は携帯を仕舞った。

 そのまま窓の外へと顔を向ける。明日はずっと待ち望んでいたお母様の墓へと行ける。

 ……だけど、その時に僕が報告するのは、桜小路遊星と全くの逆なのだろう。

 

 

 

 

 翌朝。僕はお兄様……じゃなくて衣遠父様の指示に従って、ホテルの一階のロビーで案内役の人を待っていた。

 一体誰が来るのだろう? そう言えば衣遠父様からどんな人が来るのか聞き忘れていた。

 もう日本では『晩餐会』が始まっているだろうから、連絡を取る事が出来ない。

 ……出来れば早く来て欲しい。何だかロビーにある椅子に座っている僕を見ている人の数が増えている気がする。

 特に男性の視線が。

 イングランドに来た頃は、衣遠父様の指示に従って観光をしようと考えていたが、初日で断念した。

 行く先々で男性からナンパされるのだ。男の僕が。

 桜屋敷にいた頃はメイド服を着ていたが、女装をする必要が無いイギリスではコートを羽織っている以外は出来るだけ大蔵遊星が着ていた服装でいるというのに。

 ……着た時に酷く馴染めなかったのを感じたが、きっと気のせいに違いない。うん!

 この伸ばしてしまった長い髪が、悪いのだろうか?

 

「……やあ、美さしぶりね」

 

「えっ?」

 

 聞き覚えのある声に振り向いて見ると、ラフな男性服を着こなした銀髪の男性が僕に手を掲げてた。

 その男性を僕は知っている。僕が知っているあの人よりも歳を取っているけど、間違いない!

 

「サーシャさん!?」

 

「本当に美さしぶり、朝日」

 

 サーシャ=ビュケ=ジャヌカン。

 フィリア女学院ではユルシュール様の付き人として働き、桜屋敷で共に過ごした人。

 僕と同じで女装していた人だが、サーシャさんは国が女性として認めている人だ。

 女性と見間違えるほどの顔立ちには歳が経っていても陰りが無く、僕が知っているサーシャさんだとすぐに分かった。

 

「ど、どうして此処に!?」

 

「イオンの奴に不本意だけど頼まれてね。アイツの頼みなんて本当は死んでもごめんだったんだけど、若い朝日に会えるって言うから半信半疑で頼みを聞いてやったの」

 

「衣遠父様に!?」

 

「プッ! あ、アイツが父様!? ちょっと、朝日! 笑わせないでよ!」

 

 僕の呼び方にサーシャさんは笑い声を上げた。

 一頻り笑い終えると、サーシャさんは改めて僕の顔を眺める。

 

「……本当に朝日ね。イオンの奴が過去から朝日がやって来たとか言った時は、遂に頭が可笑しくなったんじゃないのなんて思ってたのに、こうして会えるなんて」

 

「自分でも信じられない気持ちですけど、サーシャさんに会えるなんて私も思ってませんでした」

 

「あぁ、良いのよ。素の方で。だって、私、貴方に会った最初から正体を見破っていたしね」

 

「えっ!?」

 

 サーシャさんが告げた事実に、僕は驚いた。

 でも、よくよく考えてみれば可笑しな事では無い。だって、この人は、僕と違って本職の人なんだから。

 

「さ、最初からですか? それじゃ何で黙っていてくれたんですか?」

 

「私は全ての女装男子の味方。当然朝日にも味方するわ。現にユルシュールお嬢様にも黙っていたしね」

 

「……そうだったんですか。ありがとうございます」

 

 この人が僕の正体に最初から気がついていたのに、主であるユルシュール様が僕の正体に気がついている様子はなかった。

 知らない所で僕はサーシャさんに助けて貰っていたらしい。何よりちょっと嬉しかった。

 サーシャさんが僕を男だと認識していてくれる事が。

 

「でも、正直言って腕を上げたわね、朝日。今の貴方は、あの頃の私でも気づけないほどに女性になっているわ! きめ細かな肌に、サラサラな髪の毛! 僅か一年で此処まで極められるなんて、やっぱり貴方には才能があったわね! って、どうしたの? 貴方の美つくしさを褒めているのに、落ち込むなんて?」

 

 床に両手と膝を突いて落ち込む僕にサーシャさんが質問して来たけど、僕は答えられなかった。

 えっ? そんなに僕は酷くなっているのだろうか?

 今だって男物の服を着ているのに?

 

「あ、あの……僕って今男物の服を着ている筈ですけど?」

 

「悪いけれど、私にも男装しているようにしか今の貴方は見えないわ。だって貴方、動きが女性化しているんですもの」

 

 ショックだった。

 本職の人であるサーシャさんにまで女性と見間違えられた。

 ……もう男としての僕は終わりに近い気がする。

 いや、まだ希望はある!

 

「……つ、付かぬ事を聞きますけど?」

 

「何かしら?」

 

「さ、サーシャさんって、この世界の僕と言うか、朝日を見た事があるんですよね?」

 

「勿論よ。三年間一緒に桜屋敷で過ごしたんだから」

 

「……僕とどっちが女装が上ですか?」

 

 もうこれに僕は賭けるしかなかった。

 桜小路遊星は三年間朝日になっていた。僕はまだ一年半ぐらい。

 きっとあっちの方が女装としてのレベルは上な筈だ。

 だけど、ルナ様と結ばれたという事は、男性として桜小路遊星は大丈夫な筈だ。

 なら、同一人物である僕も大丈夫な筈!

 だけど、僕の切なる願いは。

 

「勿論、貴方よ」

 

 無情にも砕け散った。

 

「あの朝日は確かに歳が経って色気が最後の方で出て来たけれど、其処までが限界だったわ。だって、一日の半分は男性学生として過ごしていたし、桜小路のお嬢様と恋仲だったんだから」

 

 ……そう言えば、去年までフィリア学院には男子部があった。

 きっと桜小路遊星は、その男子部でフィリア学院を卒業したに違いない。

 ……つまり彼には男性として過ごしていた期間があった。

 対して僕は、大蔵遊星には戻れないと考えて一年間ずっと『小倉朝日』になっていた。365日、24時間ずっと小倉朝日として。

 

「でも、貴方は違う! 動きから既に女性的で肌も綺麗! 何よりあっちの朝日は髪の毛がウィッグだったのに対して、貴方は地毛でありながらもサラサラな髪の毛なんだから! 天然物とウィッグじゃ超えられない壁を、貴方は乗り越えたのよ! どっちが上なのかなんて一目瞭然じゃん!」

 

「………髪の毛、切ります」

 

「えええええーーーーー!!!!」

 

 僕の決心にサーシャさんは悲鳴を上げた。

 だけど、僕は立ち上がり、すぐさまホテルの出入り口に向かって駆け出した。

 少しでも男に見られるために、髪の毛を早く切らないと!

 本気で僕が髪を切ろうとしている事に気がついたサーシャさんは慌てて、僕を背後から羽交い絞めにする。

 

「駄目よ、朝日! そんな美しい髪を切るなんて美の喪失よ! 早まった真似はしないで!」

 

「お願いですから切らせて下さい! もう女装関係は限界で涙腺が緩くなっているんですから! 少しでも男に戻りたいんです! じゃないと僕は自分を保てません!!」

 

「何が!? 何があったの!? 私が知っている朝日よりも貴方、女装に対して追い込まれてるわよ!」

 

 涙を流してホテルから出ようとする僕を、サーシャさんが必死に止めて来る。

 そのまま僕らはホテルの警備員が止めに来るまで、不毛な争いを続けた。

 後、結局髪は切らして貰えなかった。

 

 

 

 

 ホテルの人達に謝罪をし終えた後、僕はサーシャさんが運転する車に乗って母の墓がある墓地へと向かっていた。

 その最中に僕はサーシャさんに、僕がこの時代に来るまでの経緯を話していた。

 

「なるほどね。八千代に貴方は追い出されて、気がつけばこの時代の桜屋敷に倒れていたという訳ね。不思議と言うか、信じられない事もあるものねぇ」

 

「はい……その後は一年間ずっと桜屋敷に八十島さんと一緒に過ごしていました」

 

「あのメイド。まだ桜小路家に仕えていたのね。でも、まさか、こんな形でまた朝日に出会える日が来るなんて思って無かったわ」

 

「僕も驚いています。まさか、この時代のサーシャさんに会えるなんて思ってもいませんでしたから……正直嬉しいです」

 

 本当に嬉しかった。

 多分衣遠父様が配慮してくれたに違いない。サーシャさんはレイピアの達人でもあったし、護衛役としても十分な実力を持っている人だ。

 ……でも、どうして僕の護衛を僕が知っている人にしてくれたんだろう?

 

「イオンの奴の頼みなんて聞きたくなかったけど、朝日とこうして会話出来たからチャラね」

 

「嬉しいです。でも、衣遠父様とサーシャさんって知り合いだったんですか?」

 

「だから、私の前では父様って衣遠を呼ぶのは止めて頂戴。今は車の運転中だから笑い出したら危ないんだから……えぇ、知り合いよ。いけ好かなくて大っ嫌い」

 

 機嫌悪そうなサーシャさんの様子に、どうやら衣遠父様との間には何か因縁があると僕は感じた。

 でも、迂闊に聞くべき事では無いと思ってこれ以上は聞かずに、別の話題を出す。

 

「今はどうされているのですか? やっぱりユルシュール様の下で?」

 

「えぇ、お嬢様の下で活動中。お嬢様は今はヨーロッパ方面のデザイナーとして活躍しているの。他のお嬢様方は……」

 

「あっ、それ以上は良いです」

 

「うん?」

 

「……会うつもりはないので……それにあのお屋敷にいた皆が頑張っているのを知ると……今の自分が情けなくなりますから」

 

「……朝日、その手」

 

「手?」

 

「そう……離れちゃったのね、朝日……服飾から」

 

「あっ……はい」

 

 僕は顔を俯けて、自分の両手を見つめる。

 何も変わっていないように見えるが、服飾に携わっているサーシャさんからすれば一目で分かるほどに服飾から離れた手になっているらしい。

 その事にも僕は気づけなくなっていた。だけど、この手のままで良いんだ。

 僕はもう……夢を捨てたんだから。

 

 

 

 

「着いたわよ」

 

 車が止まり、僕は用意しておいた花束を手に持って外に出る。

 冬の寒々しい風が、僕の髪の毛を揺らすが、僕は墓標が立ち並ぶ墓地を見つめていた。

 

「私は此処で待ってるわ」

 

 サーシャさんの優しさが胸に染みる。

 僕は無言で頭を下げ、再び顔を上げてサーシャさんから離れ、真っ直ぐに墓地の中を進んだ。

 一歩一歩進む度に、母と別れた後の日々が思い浮かんで来る。

 ボーヌでの日々。母の訃報が告げられた日。ジャンとの出会い。

 衣遠兄様に連れられて日本で過ごした日々。りそなとの再会。

 敬愛するルナ様との出会い。瑞穂様、ユルシュール様との出会い。

 湊との再会。桜屋敷での日々。フィリア女学院での日々。

 

「……んなさい」

 

 母の名前が刻まれた墓標の前に僕は、遂に立った。

 

「……ごめんなさい、お母様!」

 

 墓標の前で僕は膝を突き、両手で顔を思わず覆ってしまう。

 地面に用意して来た花束が落ちるが、僕は構わずに母の墓の前で謝罪し続ける。

 

「ぼ、僕には! 貴女に何も誇れる報告が出来ない!」

 

 きっとお母様に桜小路遊星は誇れる報告をしたに違いない。

 でも、僕には何も誇れるものがなかった。此処に来る時は必ず誇れる報告をすると誓っていたのに。

 僕には……何も無かった。

 

「ああああああああああああっ!!!!!」

 

 泣き叫んだ!

 声が枯れても構わないほどに、僕は母の墓を抱いて泣いた。

 母に伝えたかった言葉があった。

 でも、僕には言う資格がない。だって、僕は……母の願いを裏切ったんだから。

 

『誰かの為になれる大人になる』

 

 違う! 僕はあの方に、敬愛する主人の人生に消えない傷をつけかけた。

 母との約束と逆の事をしてしまった。

 だから、此処にいる。この世界に、桜小路遊星という幸せな未来を掴んだ僕でありながら、僕じゃない別人がいる世界に。

 これはきっと罰なのだろう。分不相応な願いを抱いた僕への。

 母との約束を破った僕への罰。

 僕にはそうとしか思えない。

 これから先、どうすれば良いのか分からない。

 いっその事、此処で死にたいとさえ願いたくなる。

 だけど、駄目だ。それだけは出来ない。今、こうして泣いている時も、日本では衣遠父様が僕を正式な養子として認めさせる為に、大蔵家を相手にしている。

 あの大蔵家を相手にして失敗したりすれば、幾ら総裁であるりそなの秘書という立場があっても無事では済まない。

 なのに、あの人は僕の居場所を造ろうとしていてくれている。

 心から嬉しいと思うと同時に悲しかった。だって、その愛はきっと僕には向けられている訳じゃないから。

 

 

 

 

 気がつけば夕暮れに空が染まっていた。

 涙が枯れ果てるほどに泣いた僕は、母の墓標の前に膝を抱えて座っていた。

 唯一やりたかった事も終わってしまった。虚脱感だけが全身を包んでいる。

 立ち上がろうという気力も湧いてこない。

 本当にこれからどうすれば良いのか分からない。

 

「朝日。もう墓所が閉まる時間よ」

 

「……はい」

 

 迎えに来てくれたサーシャさんに従い、僕は立ち上がって地面に落ちたままだった花束を拾う。

 花束を母の墓の前に置き、背を向けてサーシャさんに顔を向ける。

 

「お別れの挨拶は良いの?」

 

「……お母様……ごめんなさい」

 

 こんな事を言いたいんじゃないのに、僕は謝罪の言葉しか口に出来ない。

 あの言葉を。絶対に此処に来た時に言いたかった言葉が、口から出す事が出来ない。

 今度こそ別れの言葉を言い終えた僕は、サーシャさんと共に墓所から出て行った。

 

「ねぇ、朝日? スッキリした?」

 

「……分かりません」

 

「私もね。昔似たような経験があったわ。思いっきり泣いた事があるの。朝日の状況とは比べられないけれどね……で、今回イオンの奴に本当に頼まれていた事だけど……アンタが自殺でもしようとしたら止めてくれって言われてたのよ」         

 

「えっ?」

 

「朝日が自殺!? あり得る訳がないじゃんって!? ……思ってたんだけど、今日最初に会った時、今回もイオンの奴が正しかったって思ったわ。アンタ、自分じゃ気がついていないのかも知れないけれど本当に暗い顔をしているのよ。それこそ何時プッツリ切れても可笑しくない糸みたいにね」

 

「……そうかも知れません」

 

 今の僕は確かにサーシャさんの言う通りだ。

 何時も笑顔で居ようとしていたのに、何時の間にかその笑顔が浮かべられなくなっていた。その事にさえ気がついていなかった。

 だけど、衣遠父様には僕の気持ちなんてお見通しだったらしい。

 

「アンタがイオンから向けられている愛を信じ切れないのは無理ないわ。私だって同じ状況になったら信じようとは思えないし。って言うか、絶対に信じない! 何か裏があるんじゃないかって疑うわ! アイツ陰険だから!」

 

「ハハッ」

 

 僕は乾いた笑い声を上げるしかなかった。

 実際、僕もいきなり衣遠兄様が理由もなく優しくして来たら間違いなく疑ってしまうと思う。

 

「まぁ、でも。どんな形にしても、アンタはイオンに大切にされている。それだけは間違いないでしょうね。嫌ってるのを知っている私に態々連絡をして頼むぐらいだから」

 

「あっ、そう言えばどうして衣遠……兄様は」

 

「もう良いわよ。どうも朝日の中じゃ、兄の方のイオンとアイツは別に扱っているみたいだし、こっちが我慢するわ」

 

「すみません。それじゃ改めて聞きますけど、衣遠父様はサーシャさんに僕の事を頼んだんですか?」

 

「……正直言って、私ぐらいでしょうね。あの頃の桜屋敷にいた人の中で、こんな過去の、正確には別の過去の朝日が未来にやって来たなんて聞いて動揺をせずにいられるのなんて」

 

「……それは確かにそうですね」

 

 普通に考えれば、良く似た別人だとしか思わない。

 僕だって当事者でも無ければ信じられない気持ちで一杯だ。

 

「特に桜小路の奥様なんて、アナタの事を知ったら是が非でも手に入れようとするわよ。桜屋敷にいた頃は、朝日は恋人。遊星は未来の婚約者だって言っていたし。家のお嬢様だって知ったら、パタンナーとして欲しがるでしょうし。他のお嬢様方も狙うんじゃないかしら? モテモテね、朝日」

 

 ……アレ!?

 

「えっ? ……この不思議な現象の件は?」

 

「そんな些細な事よりも、皆朝日が欲しいのよ」

 

「些細じゃないと思いますけど……」

 

 普通に考えれば、時間移動とか物語の中の話だ。

 なのに、何で些細な事で済まされてしまうんだろう?

 ……段々とこの世界の桜小路遊星が歩んだ道が知りたくなって来た。

 でも、どうか、ルナ様と結婚した後は女装だけはしてないで欲しい。

 

「あぁ、それとイオンの奴からメールが来て、『晩餐会』の方は成功したらしいわよ」

 

「本当ですか!?」

 

「えぇ……これで居場所が出来たわね、朝日」

 

「あっ」

 

 微笑むサーシャさんに言われて、僕は気がついた。

 この世界になかった筈の居場所が、衣遠父様のおかげで出来た。

 だけど、僕には其処を本当に居場所として良いのかが分からない。

 悩む僕の肩をサーシャさんが叩く。

 

「アンタはまだ若いんだから。服飾に戻るのか、別の道に本格的に進むのか。良く考えて決めなさい。困った事があったら、手ぐらい貸すわよ」

 

「……ありがとうございます。サーシャさんに会えて今日は良かったです。ホテルのロビーでの話も、僕を元気づける為の……」

 

「あっ、それは本当。さっきも隠れて様子を見ていたけれど、泣いている姿なんて女の子にしか見えなかったわ。これからも頑張って、その道を極めてね、朝日。先達として応援しているわよ」

 

「……うぅ……極めたくないです」

 

 枯れた筈の涙がまた零れて来た。

 僕はどうやったら男に見えるように戻れるのだろう?




人物紹介

名称:サーシャ=ビュケ=ジャヌカン
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』のヒロインの一人、ユルシュールの付き人。フランス人で見かけは女性に見えるが、男性。ただし本国で女性として認められているので、戸籍上は女となっている。ナルシストで在り、日ごろ自らの美を追求している。朝日(遊星)を初見で男性と見抜いていたが、全ての女装男子の味方を公言しているので主人であるユルシュールにも黙っていた。遊星の憧れの人であるジャンの事が好きだが振られている。衣遠の事は大嫌いだが、朝日の事は気に入っている。


注意IFエンド
『もしも衣遠が遊星を養子ではなく保護扱いし、またサーシャではなく、普通の護衛役を派遣していたら』

「……お母様……この身は少々現世を生きるのに疲れました」

 泣き終えた後、僕はゆっくりとコートの中に手を入れる。
 取り出すのは用意して来た幅が広い包丁。
 僕は包丁を逆手に持って、自分の胸に向けた。

「……今、其方に参ります」

 迷う事無く僕は包丁を自分の胸に深々と突き刺した。
 刺した場所から血が地面に零れ、着ている衣服が真っ赤に染まって行く。
 ……力が抜けて、身体が地面に倒れた。
 体から流れる大量の血が、地面を濡らす。
 ……意識が朦朧として行く。

「……ごめん……なさい」

 消えゆく意識の中で最後に僕が見たのは、悲しみに染まった母の顔だった。

大蔵遊星/小倉朝日バッドエンド(母の墓の前で)


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一月上旬(遊星side)2

悲しみの気持ちは出し尽くしました。此処から始まるのは喜劇を交えた再起への物語です。

烏瑠様、エーテルはりねずみ様、(ry様、Nekuron様、かにさん様、誤字報告ありがとうございました!


side遊星

 

 お母様が眠る墓地から、僕とサーシャさんは元々泊まっていたロンドンのホテルに戻って来た。

 夕食も二人で食べ終え、僕は元々泊まっていた部屋に。

 サーシャさんは衣遠父様が用意していた部屋に向かって行った。

 どうやらサーシャさんは明日、僕が空港に向かうまで護衛をしてくれるらしい。

 

『イオンの奴から次の行先は聞いているから、明日教えるわね』

 

 『晩餐会』が終わったら日本に戻ると僕は思っていたが、どうやら今度は別の国に行くようだ。

 今度は一体何処の国に向かうのか部屋の中で考えていると、衣遠父様から電話が掛かって来た。

 

「はい」

 

『クハハッ!! 俺だ』

 

 電話の先にいる衣遠父様は、声を聞くだけで分かるほどに上機嫌だった。

 

『ククッ! お前にも見せてやりたかったぞ! 大蔵家の人間が、俺の報告を聞く度に動揺し、顔を怒りに染め、最後には養子の件を納得して行く様は、正に最高だった! 何れ俺が大蔵家の総裁となった時に広がる光景を先取りした気分だったぞ!』

 

 よっぽどその時の出来事が嬉しかったんだろう。

 今の衣遠父様は、僕が知っている衣遠兄様に戻ったように感じる。

 ……ちょっとこの方に対して畏怖と恐怖が戻ったように感じた。

 

『特に我が妹である総裁殿は、俺の報告に悲鳴を上げ、桜小路にバレないように言葉を遮ろうと泣き叫んでいたぞ!』

 

 どうやらりそなは相当酷い目にあったらしい。

 ……会った時に僕は無事で済むのだろうか?

 

『だが、その努力も最後には無駄となった。何せ貴様の姿を写した写真を、大蔵家の人間全員に見せたのだからな! 我が妹はその写真が出た瞬間、椅子から転がり落ちたぞ! 今までの努力が全て無駄だったと分かった瞬間のりそなの絶望に満ちた顔は、内心で笑いを堪えるのが大変だった。ククッ』

 

「……えっ?」

 

 今この父は何と言ったのだろうか?

 僕の写真を大蔵家の人達に見せた?

 えっ?

 

「ええええええええっ!?」

 

『喚くな。騒々しいぞ』

 

「ま、待って下さい! ぼ、僕の写真を見せたって! どう言う事ですか!?」

 

 大蔵遊星と言う存在を隠すという話だったのに、何故衣遠父様は大蔵家に明かしてしまったのだろう?

 方針が変わったのだろうか?

 それとも、何か不測の事態が起きたのかと不安になった。

 

『正確に言えば、お前の写真ではなく、『小倉朝日』の写真だ』

 

「……ハアッ!?」

 

 一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。

 えっ? 小倉朝日の写真? つまり僕の女装姿を大蔵家の方々に見られた?

 思わず気絶しそうになってしまうが、冷静な衣遠父様の声が僕を現実に引き戻す。

 

『最初に会った時に言っておいたはずだが? 表向きには女性と言う事にしておくとな』

 

 そ、そう言えば言っていたような気がする。

 あの時は衣遠父様への畏怖と恐怖のせいで良く聞いていなかった。

 

「あ、あの……僕は男ですけど」

 

『正確に言えば、前当主殿が亡くなるまでの話だ。あの爺は血の繋がった娘の類は特に甘い。現に奴が当主の座に就いていた時は、大蔵家の殆どが手を焼いていたが、ルミネ殿が生まれたら即座に引退した。総裁殿やメリル・リンチにも奴は甘い』

 

 知らない人の名前が出て来た。

 『メリル・リンチ』さん? 一体どんな人なんだろう?

 何だか父がその名を告げる時に誇らしげだった様子だから、きっと凄い才能の持ち主なのかも知れない。

 

『奴は新たな血の繋がった女がいるかも知れないと分かった途端、不機嫌さが僅かに薄れた。そして『小倉朝日』の写真を見せたら、僅かに顔が緩んでいたぞ』

 

「……全然嬉しくないです」

 

 本当に全く嬉しくない。

 大蔵遊星だった時は強固に反対したのに、『小倉朝日』だったら赦すとか、一体日懃お爺様と言う人はどんな人なんだろう?

 

『他の大蔵家の人間達も大半が、『小倉朝日』の写真を見たら、お前の養子入りに賛成した』

 

「……えっ? た、大半がですか!?」

 

 本気で驚いた。

 絶対に反対が家族内で出て揉めると思っていたのに、僕の写真を、と言うか『小倉朝日』の写真を見せたら納得って。

 一体どうなっているんだろう?

 

『才華には内緒でルミネ殿にはお前の養子の件を説明しておいた。大蔵の血を引く者だが、正確な素性を明かしてしまえば一族内での混乱が発生するので隠していたとな。最初は驚いていたが、お前の様子を覚えていたから納得してくれた。『晩餐会』での様子から更に納得出来たのか、俺の養子入りに彼女も賛成した』

 

 喜んで良いのか分からない。

 ルミネ様は短い間でも分かるほどに規則を大事にする方だ。

 そんなお方が知らない内に、本当は男なのに、女だと偽った僕を大蔵家に入れる事に協力してしまった。

 ……衣遠父様の努力を無駄に出来ないので真実を伝えられない。

 日懃お爺様にはルミネ様の為には長生きして貰いたい。何れ真実を伝え、誠心誠意謝るしかない。

 申し訳ありません、ルミネ様。

 

『大蔵家の次男家の方も問題無しだ。富士夫殿だけは反対していたが、あの男には何の力もない。実権を握っている大蔵駿我が了承した事で次男家は納得した……奴には気を付けろ』

 

「は、はぁ? よ、良く分かりませんが、分かりました」

 

 何だか意味が良く分からないが、急に父様の警戒心が上がったように感じたので頷いた。

 と言うか、衣遠父様。僕は大蔵家の人達の顔も知らないのですけど。

 

『父も母も了承した。お前の顔は、お前の母と瓜二つだからな。嘗てと違い母もあの女には寛容になっている。寧ろ罪悪感を感じたのか、積極的に俺に協力する気になってくれた』

 

「……それも桜小路遊星……様のおかげですか?」

 

 僕が知っている奥様は、僕と母の事を目の敵にしていた。

 だけど、僕はあの人への恨みと言う感情は無い。何時か和解したいと願っていた。

 その願いまでも桜小路遊星は叶えている。

 ……こんな感情を抱いちゃ行けないのに、抱きたくなってしまう。

 嫉妬と言う醜い感情を。

 

『メリル・リンチも新しい家族が増える事に喜んで了承していた。だが、一つだけ予想外があった。養子の件は納得したが、今回の『晩餐会』に当事者であるお前が来ていなかったのが不満だったのか。大蔵の名を名乗るのは認めないと前当主が騒いだ。本人の精神状態が悪いのでと説明したが会うまで認めんの一点張りだ。悪いが来年の『晩餐会』には参加して貰うしかない』

 

「……分かりました」

 

 こればかりは仕方がない。

 大蔵家の人間にはどうやっても顔を見せるしかない。

 ただ気になるのは。

 

「あの、やっぱり姿は?」

 

『クク、小倉朝日以外にあるまい』

 

「……で、ですよね」

 

 名高い大蔵家の方々に、女装姿を見せなければならない事実に涙が零れて来る。

 今日のサーシャさんとの件で、もう女装は止めようと思っていたのに今後も続けなければならなくなった。

 しかも今度は自分だけではなく衣遠父様の人生まで背負って。

 実は僕は男だと大蔵家の方々にバレてしまえば、日懃お爺様を始めとした大蔵家の方々はきっとお怒りになる。

 ……何で僕の女装はこんな重すぎるものを背負う事になったんだろう。

 と言うか、男に戻りたい。

 

「あ、あのせめて髪の毛だけは切らして貰って良いでしょうか? 今度からはウィッグを付けますから」

 

『駄目だ。正体がバレる可能性は出来るだけ下げなければならない。髪の毛はそのままだ』

 

「そ、そんな!?」

 

 この長い髪さえ切れば、少しでも大蔵遊星に戻れる時間が出来るのに!?

 ……こんな事になるんだったら、髪の毛なんて伸ばさなければ良かった。

 床に膝を突きながら、伸ばそうと思ってしまった過去の自分を恨む。

 

『それで話は戻すが、桜小路家の方だが』

 

 ……あっ!

 そう言えば自分の女装姿の写真で忘れていたが、今回の『晩餐会』には桜小路遊星様とルナ様も参加されているのだった。

 つまり、桜小路遊星様にとっては。

 

『我が弟遊星は俺が養子を取る事に対して最初は驚いていたが、俺が本気だと分かったのか協力すると言っていた。クク、だが小倉朝日の写真が出された瞬間、目の前の机に顔を思いっきり叩きつけてしまったぞ』

 

「……申し訳ありません! 桜小路遊星様!!」

 

 この場にいないのに、僕は桜小路遊星に謝った。

 僕にとっては現在だが、彼にとっては過去の出来事。女装なんて普通に考えて黒歴史の類だ。

 そんな写真を才華様やアトレ様を含めた大蔵家全員の前で晒された。

 彼の心労が僕には痛いほど分かる。

 桜小路遊星に対して抱いていた嫉妬心とか複雑な気持ちが、全部吹き飛んだ。今はただ申し訳なさしかない。

 

『才華達が驚いて『小倉さん!?』と叫んだ時は、床にりそなと同じように椅子から転がり落ちてしまっていたぞ。クク、久々に心が震えた』

 

 もう彼に会ったら謝る以外の選択肢が僕には無い。

 本当に申し訳ありません!

 

『桜小路の奴も痛快だった! 俺がりそなを慌てさせていた時は楽しんで眺めていたが、小倉朝日の写真を見た瞬間、理解が追い付かなかったのか呆然としていたぞ。だが、話を進めて行く内に理解して来たのか、苦虫を噛み潰したような顔をして机を何度も叩き、俺を睨んでいた』

 

 ……お願いです、お父様。

 これ以上僕を追い詰めないで下さい。

 もう罪悪感で胸が一杯です。

 

『才華達から自分達が帰国した次の日まで、確かにいたという証言も出た時は、りそなと揃って愕然とした顔をしていた。奴のあんな表情が見れるとは思って無かった。これもお前のおかげだ、遊星。いや、我が娘! 『大蔵朝日』よ!』

 

「こっちは全然嬉しくありません!! 何て事をしているんですか!? 後、まだ大蔵の名を名乗るのは認められていないから小倉朝日で……ハッ!?」

 

 今、自分が自然に口にした名前が何だったのか気がついた僕は電話を落として両手を床に突いてしまった。

 えっ? 此処まで朝日が自然になっていたの?

 僕の名前は大蔵遊星。大切な母に貰った名前。

 ……桜屋敷で生活していた時に、自分の名前を捨てて小倉朝日で居たいという想いがあった事はおいといて。

 少なくとも日懃お爺様が生きている間は小倉朝日。

 名前を名乗る事が認められれば大蔵朝日。……僕は何時大蔵遊星に戻れるんだろう?

 

『『晩餐会』が終わった後、俺は体調が悪くなったりそなの介抱で離れる事で、桜小路達の追及を逃れた。今頃は八十島や才華達に事情を聞いているだろう。故郷の国に戻った事が知られたとしても、すぐにイギリスに行ける準備は出来まい。そして明日にはお前は別の国に向かう事になる。奴にはもうお前を見つける手段はないという事だ!』

 

 勝ち誇った父の声が床に落ちた電話から聞こえて来る。

 僕は力を振り絞って電話を取り、再び耳に当てた。

 

『では、話は終わるぞ。これから怒り心頭の総裁殿と話をしなければならんからな』

 

「……失礼します」

 

 最後の気力を振り絞って僕は電話を切った。

 

「……もう寝よう」

 

 居場所が出来たのは嬉しいが、もう心労で限界だった。

 不貞寝する勢いで僕はベッドに飛び込み、深い眠りについた。

 

 

 

 

 翌朝、昨晩グッスリ眠れたおかげで気力が多少回復した僕はベッドの上に置いた二つの服を前に悩んでいた。

 片方は男性物の服。もう片方は朝日として使って来た女性物の服だ。

 

「って、悩む必要なんて無い」

 

 思わず、自分に対してツッコんだ。

 そう悩む必要なんて無いんだ。日本では今後、朝日として過ごさなければならないから女性物の服を着なければならないが、此処はイギリス。

 外国にいる間、ずっと男物の服を着て男としての自分を取り戻さなければならない。

 僕は男物の服を手に取り、着替えをする。

 

「朝日! 大変よ!」

 

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」

 

 いきなり部屋の扉が開き、僕は思わず服を抱いて胸を隠した。

 直後、自分の行動と上げた悲鳴に気がつき、暗くなった。

 だけど、部屋に入って来た相手であるサーシャさんは笑顔を浮かべながら親指を僕に立てた。

 

「グッドよ、朝日。悲鳴から仕草まで完璧に女性にしか見えなかったわ。もう私が教えられることは何も無いわね」

 

「……う、嬉しく……ないです……後、何も教えられた事は……ありませんよ」

 

 本当に嬉しくない。

 それどころか、悲しさしか湧き上がって来ない。

 前に八千代さんに似たような事をやられた時は、まだ男性的な悲鳴だったのに!?

 ……考えるのは止めよう。いよいよ本当に男として僕が死にそうだ。

 それよりも!

 

「い、いきなりどうしたんですか!? へ、部屋に入って来るなら、ノックぐらいはして下さい!」

 

「そんな事を言ってられないのよ! 今さっきイオンの奴から急ぎの連絡が届いて、昨日の夜の内に桜小路家の奥様と旦那様がやっちーを伴って、イギリスに向かったらしいのよ!」

 

「え? ええええええっ!?」

 

 ルナ様と桜小路遊星様、それに八千代さんがイギリスに!?

 一体どうして!? 衣遠父様はすぐには向かえないって言っていたのに!?

 

「どうも、桜小路家の奥様と旦那様は元々イギリスに来る予定だったらしいわ。多分目的は朝日と同じで貴方のお母様へのお墓参り」

 

「あっ」

 

 そうだ。

 桜小路遊星様のお母様は僕と同じ。

 ルナ様も一緒にアメリカから出るなら、これを機会にお母様のお墓に来ても可笑しくない。

 

「それでも本来の予定だったら、日本にお子さん達と一日ぐらいは一緒に過ごす予定だったみたいなの。だけど、そのお子さん達も『小倉さんに謝りたい事があるから、居場所に覚えがあるなら僕達の事は構わずに行って』って言ったみたいで、『晩餐会』が終わってすぐに日本を発ったらしいわ」

 

 才華様! ちゃんと僕の言葉は届いていたんですね!

 って、喜んでいる場合じゃない! この世界のルナ様と桜小路遊星様がイギリスに向かって来ているんだから。

 

「イオンの奴は大蔵家の総裁を宥めていて、今朝知ったみたいなの」

 

「ど、どうしましょう!?」

 

 たとえ世界が違ってもルナ様に会えるのは嬉しいけど、心の準備が出来ていない。

 ……それに会ったら、今の僕じゃ縋ってしまいそうで怖い。

 僕が敬愛するルナ様の代わりとして、この世界のルナ様を見るなんて最低では済まない。

 そんな行為は侮辱でしかない。

 

「とにかく着替えてイギリスから逃げるわよ! 幾ら桜小路家でも、事前に用意していたイギリスならともかく、別の国にはすぐに追えないわ! あっちは仕事もあるし、此処さえ乗り切れば良いのよ!」

 

「わ、分かりました!」

 

 僕はすぐに着替えを始める。

 そうだ。先ずは服を着ないと。

 

「ところで朝日。相変わらず可愛い顔をしているのに、貴方、大きいわね」

 

「何処を見ているんですか!? って言うよりも、見た事があるんですか!?」

 

 

 

 

 着替えを終えた僕はサーシャさんを伴ってエレベーターに乗ってロビーに向かっていた。

 ……一分一秒も無駄に出来ないと思って、着慣れてしまった女性物の服を選んだ自分が憎い。

 でも、サーシャさんが言うには、多分あっちは僕が男性物の服を着て行動をしていると考えているだろうから、良い目くらましになるかも知れないらしい。

 一応サングラスを付けて、顔もマスクで隠し、厚手のコートを着て正体がバレないように変装している。

 ……どう見ても今の僕は怪しい。しかもコートの下の服は女性物の服。

 ……変態としか僕には思えなかった。

 

「……」

 

「そう落ち込まないの。車にさえ乗れば変装は解いても大丈夫だから」

 

「……はい」

 

「それじゃ私がチェックアウトを済ませて来るわ」

 

 ロビーに着くと僕の部屋の鍵も受け取って、サーシャさんはフロントに向かって行った。

 早く戻ってきて欲しい。出来るだけ人目につかないように見え難い場所に立っているが、それでもこの格好では何時警備員が来ても可笑しくない。

 どうか早く終わってと僕が願っていると……。

 

「よし。急いでホテルのフロントに向かうぞ!」

 

「ル、ルナ! 落ち着いてよ! そんなに急いだら危ないよ!」

 

 ……駐車場へ向かう通路の方から敬愛するあの方に似た声と、僕に良く似た声が聞こえて来た。

 まさかという思いで覗いてみると。

 

「悠長にしている暇はない! もう一晩経った! 日本にいる総裁秘書も私達がイギリスに向かった事に気がついている筈だ! 早くしなければ朝日が遠退いてしまう!」

 

 ルナ様あぁぁぁぁぁぁぁ!!!

 あぁ、歳を経ても美しいお姿は変わらずに。いや、僕が知っているルナ様のお姿よりも美しくなられて。

 で、でも、僕にとってのルナ様は学生のままで。

 って、そんな事を考えている場合じゃないよ!

 何でルナ様が此処に!? それにその隣にいるのは、もしかして!?

 

「ほ、本当にこの国にいるか分からないでしょう?」

 

 気が高ぶっているルナ様を落ちつけようと声を掛けている男性。

 間違いなく、あの方こそこの世界の僕。桜小路遊星様に違いない。

 彼の容姿を思わず確認し、落ち込んだ。

 髪は昔の僕と同じぐらいの長さ。十数年の年月を経て歳を感じさせるが……やっぱり女性よりの顔立ちのままだった。

 成長すれば変わると思っていたのに。衣遠父様の言葉も実は冗談だったと思いたかった。

 

「いや、居る筈だ。昨晩飛行機に乗る前にユーシェに確認したら、サーシャは今イギリスのロンドンで休暇を取っていると言っていたんだ。このタイミングでサーシャがロンドンにいるなど、朝日と関わりがあるとしか考えられん!」

 

「で、でも、物語じゃないんだから本当にいるとは僕には思えないよ。実は衣遠兄様の冗談で、朝日に似た容姿の人に朝日を名乗らせただけなんじゃないのかな?」

 

「大蔵家の『晩餐会』で、そんな質の悪い冗談を言ったらどうなるか、夫にも良く分かっている筈だ。第一才華達も会ったと言っているんだぞ。夫は才華達が嘘をついていると思うのか!?」

 

「そ、それは……才華達が嘘なんてつくとは思えないけど」

 

「ならば、間違いなくいる。第一あの写真は最近撮られた物だ。夫は気がついていないが、あの朝日は危険だ。何時自殺しても可笑しくないほどに追いつめられているぞ」

 

「自、自殺って、まさか!?」

 

「私には分かる! 何故なら私は朝日の恋人だからだ!」

 

「いや、それは違うよね!」

 

 ……ル、ルナ様。

 世界が違っても優しさは変わっていない。

 こんな僕を心配して来てくれてイギリスまで急いで来てくれたんですね。

 ……でも、僕はルナ様の恋人になった記憶はありません。そんな恐れ多い立場には僕はいられません。

 そのお気持ちは、お隣にいる桜小路遊星様にお向け下さい。

 

「朝日」

 

 何時の間にかチェックアウトを終えたのか、サーシャさんが僕の傍に寄って来た。

 

「このまま二人がフロントに向かったら、私達は駐車場に急いで向かうわよ」

 

 僕は無言で頷いた。

 ルナ様の優しさは嬉しい。だからこそ、今は会えない。

 今の僕では貴女の優しさに縋ってしまうから。

 二人がフロントに向かうのを確認した僕は、サーシャさんに促されて駐車場に向かう。

 

「ハァ~、疲れた。奥様もいきなりイギリスに向かうなんて言うから、良く眠れなかったわ」

 

 ……。

 

「最近肌がカサカサになって来たし。夜は確りケアして眠りたいのに」

 

 ………。

 

「大蔵君も質の悪い冗談をしてくれるわ。旦那様がこの世界に二人いるなんて。しかも片方は若い頃の姿でとか。そんな夢物語ある訳ないのに」

 

 ……駄目だ。

 僕は我慢する事が出来ない。だって、もしもこの人に会えたら必ず謝ろうと誓っていた。

 向こうからすれば、何を言っているんだと怒鳴るかも知れないけど。

 

「って、サーシャさん! 良かった。やっぱりこのホテルに泊まっていたんですね。サーシャさん、聞いて下さい。家の奥様が小倉さんがいるとか言って、予定を無視してイギリスに来る事に」

 

「す、すみませんでした!!!」

 

「えっ!?」

 

 いきなり通路で土下座した僕に、山吹八千代さんが目を白黒させた。

 だけど、僕は構わずに土下座したままサングラスとマスクを外して顔を見せる。

 

「山吹メイド長からすれば今更何を言っているんだと思われるでしょうが、本当にその節は申し訳ありませんでした!」

 

「……こ、小倉さん? えっ? う、嘘? 本物!」

 

 八千代さんは僕の顔に困惑したように目を瞬かせた。

 あちらからすれば意味が分からないかもしれないが、僕にとっては重大だった。

 たとえ世界は違っても、この人だけには会う事があったら必ず謝罪しようと誓っていたんだから。

 だけど、そのせいで背後から今は会いたくないお方の声が聞こえて来た。

 

「今のは朝日の声だ! やはり居たか!」

 

「朝日! 逃げるわよ!!」

 

 背後の通路から聞こえて来た声に、サーシャさんは僕の腕を掴んで引っ張った。

 そのまま昨日乗った車まで移動し、後部座席に放り込まれ、サーシャさんは運転席に入り込みエンジンをかけた。

 

「朝日!!」

 

 車が発進する前にルナ様の声が聞こえたが、僕は後部座席に顔を埋めた。

 あの人の顔を面と向かって見るのは無理だ。今の僕では耐えられない。

 

 

 

 

 イギリスの街中でサーシャさんが運転する車と八千代さんの運転する車との間で、長い時間追いかけっこをしていた。

 まるで映画の中に入り込んだみたいな出来事だった。何度僕は悲鳴を上げたか分からない。

 きっと八千代さんが運転する車の中で、桜小路遊星様も悲鳴を上げていただろう。

 ……ルナ様は寧ろもっとスピードを出せとか言っていそうな気がする。

 どうかお体に害がない事を祈るしか僕には出来ない。

 そして八千代さん達を撒いた僕達は、ロンドンの空港にいた。

 

「フフッ、やっちーとの追いかけっこなんて初めてだったけど、楽しかったわ。何時かまたやりたいものね」

 

「僕はもうこりごりですよ」

 

「そう、残念ね。で、此れが行先の空港チケットよ」

 

「あっ、はい」

 

 サーシャさんから受け取ったチケットを見てみる。

 チケットを見てみると、行先はフランスのパリになっていた。

 

「それともう一つ。こっちは行くかどうか自分で決めなさい」

 

「……ファッションショーの参加チケットですか」

 

 渡されたチケットは、今の僕には辛いものだった。

 服飾に関わるつもりは無いのに、何でこんなチケットを渡したんだろう?

 

「そのチケットのショーだけどね。貴方の妹さんの最新作が出るそうよ」

 

「りそなの……最新作……」

 

 りそながゴスロリのブランドを作った事は聞いていた。

 その最新作が発表されるショーを、このチケットがあれば見ることが出来る。

 ……でも、それは今の僕にとっては辛い。

 

「朝日。アンタが服飾に関わりたくないって思っているのは分かるわ。でも、きっと妹さんは貴方に見て貰いたいと思ってると思う」

 

「……パリに着くまでには決めます」

 

 今の僕に出せる答えはこれが限界だった。

 りそなの頑張りを見てみたい。だけど、僕なんかが見て良いのかとも思ってしまう。

 思い悩んでいると、空港のアナウンスが鳴り響き、僕が乗る飛行機の搭乗時間が告げられた。

 

「それじゃ朝日。また、何時か会いましょう」

 

「サーシャさんもお元気で……今はまだ無理ですけど、次に会う時までには前を向けるようになってみます」

 

「何時か、私が覚えている朝日の。あのひだまりのような笑顔が見られる事を願っているわね」

 

 無言で僕はサーシャさんに向かって頭を下げた。

 サーシャさんは僕に手を振って去って行った。

 次に向かう先は花の都。芸術の都『パリ』。

 其処できっと僕は再会する。大蔵家で唯一の僕の理解者だった僕の妹。

 大蔵りそなと。




因みに朝日と別れた後、サーシャは空港にやって来た八千代に捕まって、怒り心頭のルナに朝日の行先以外の全てを白状させられました。
何とか行先を聞き出そうとしたら、事前に呼んでいたユルシュールがやって来てサーシャを放免せざるえなくなり、時間切れでアメリカに帰りました。

今回は人物紹介はお休みです。
本格的に朝日と出会った時に、ルナと桜小路遊星、八千代の紹介は書きます。


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一月上旬(遊星side)3

今回で漸く一月上旬が終わりました。

Nekuron様、烏瑠様、AYM様、誤字報告ありがとうございました!

『この世界において、彼をフィルターの存在を無視して見れる者は一人だけ。何故なら彼女は、最初から彼の理解者であり味方だったのだから』


side遊星

 

「……パリか」

 

 花の都。芸術の都。『パリ』。

 僕は今、『世界で最も美しい通り』と称えられるパリの大路を歩いていた。

 正直感動した。日本の表参道とはスケールが違うパリの大路に。

 例えるならパリの大路は、上品で懐の深い貴婦人の美しさを雰囲気から感じる。

 パリには過去に何度か訪れた事があった。でも、あの時は特別使用人の授業の一環だったり、お兄様のショーを手伝う雑用の一つだった。

 余裕がある今なら、喜んでこの大路を歩めると思ったが、気持ちが高揚する事はなかった。

 ……今の僕にはこの通りを歩く事さえ分不相応に思える。

 自然と顔が俯いて行き、人の目に映らないようにして歩こうとしてしまう。

 周りにいる人々の目が僕を見ているように思えて来た。しっかりしないと行けないのに、顔を上げる事が怖い。

 

「君、日本人?」

 

「は、はい!」

 

 いきなり声を掛けられた僕は、思わず日本語で大きな声を上げてしまった。

 しまった。これじゃまるで初めての海外旅行に脅える旅行客みたいだ。もしかしたら鴨だと狙われたのかも知れないと思って、大切な母の形見の鞄を強く握って警戒する。

 声を掛けてくれた相手は、仕立ての良いスーツを着た年配の男性だった。

 

「そんなに暗い顔をして下に俯いたりしていたら、いい鴨だと思われるよ」

 

「す、すみません。ありがとうございます」

 

「良いよ。同じ日本人だからほっとけないと思っただけだから」

 

 どうやら本当に親切で声を掛けられたみたいだ。

 まだ油断は出来ないけど。改めて相手の顔を見てみると、相手の男性は何故か懐かしそうに僕を見ていた。

 

「あ、あの? 私の顔に何かついていますか?」

 

「ああ、すまない。もう十数年前になるかな。君と同じようにこの通りで肩に力が入った日本人の女性に声を掛けた事があるんだ。その時の事を思い出してしまったんだ」

 

「そうでしたか」

 

 どうやらこの人は親切な人らしい。

 なら、その親切を大切にする為にも顔を俯けたりしてはいられない。

 

「改めてありがとうございました。もう大丈夫です」

 

「いや、気にしなくて良いよ……正直、まさかまた此処で会えるとは思って無かった。運命と言う奴かな」

 

 急に男性は僕の顔を見ながら小声で話し出した。

 良く聞き取れなかったけど。もしかしてやっぱり危ない人なのかと思い、警戒心が戻って来た。

 だけど、男性は片手を上げて軽い挨拶をする。

 

「もう、大丈夫そうだね、じゃ」

 

「えっ? あ、はい」

 

 僕が警戒するまでもなく、挨拶を終えると男性は去って行った。

 ……ちょっと悪い事をしてしまった気がした。

 あの人は本当に親切で僕に声を掛けてくれたのだろう。

 悪い事をしてしまったと思いながら、僕はコートの中からファッションショーのチケットを取り出す。

 

「……行くしかないのかな」

 

 サーシャさんに渡されたのは、パリ行きの航空券とこのファッションショーのチケットだけ。

 衣遠父様からの連絡は無い。最低でもこのファッションショーの会場付近まで僕は行かなければならない。

 

「……近くまで行くだけ……ファッションショーは見ない」

 

 機内の中で考えた末に決めた事だ。

 正直、りそなには悪いと思う。だけど、駄目だ。

 見たりしたら服飾に戻りたくなってしまう。

 サーシャさんが言っていた。僕の手は服飾の手じゃなくなっているって。

 其処までになっているんだ。だからもうすぐ捨てられる筈なんだ。

 残滓のようになっている服飾への想いを。

 チケットにはファッションショーの開催時間が書かれている。

 この時間が終わるまで、近くで時間を潰していよう。

 僕は決意を固めると、地下鉄の入り口に入って行った。

 

 

 

 

「……」

 

 チケットに書かれた会場の場所にやって来た僕は驚いた。

 ファッションショーとなる会場は大きな場所で、沢山の人々が会場に入って行く。

 年始という事もあるだろうが、此れだけの人々がりそなの作品を見に来ている。

 感動した。あのりそなが、これだけの人々に見たいと思わせるほどの衣装を作り上げている事が。

 もしかしたら他の人の衣装もあるかも知れないけれど、りそなの衣装を見に来た人も必ず居る筈だ。

 

「……見たい」

 

 自然と僕の足は会場に進んでいた。

 此処に来るまでの決意なんて吹き飛んでしまった。ただ今は、りそなの、僕の妹が作った衣装を見たいという気持ちで溢れている。

 見終わった後に、惨めな思いを抱いてしまうかも知れない。止めろと僕の心が何処かで叫ぶ声が聞こえる。

 でも、駄目だ。他の人の衣装のコンクール。たとえルナ様の衣装でも、僕は見ようとは思えなかった。

 だけど、りそなの作品だけは違う。僕はりそながどんな生活を送っていたのか知っている。

 そのりそなが、此れだけの人々に見たいと思わせる衣装を作り上げた。

 きっと衣遠父様は知っていたんだ。今の僕の心を動かせる者が誰なのかを。

 悔しいという気持ちは無かった。只今は、僕の妹の衣装だけが見たいという気持ちに突き動かされ、僕は会場内に入って行った。

 

 

 

 

 気がつけば、ショーは終わって会場内には僕だけが残っていた。

 久々に見た衣装の数々に魅了された。時間も忘れて僕は魅入ってしまった。

 その中でもりそながデザインしたという衣装が出て来た時は、言葉も失うほどに感動した。

 ショーを見に来た人達全員が歓声を上げていた。誇らしかった。

 僕の妹の描いた作品が作られ、人々の歓声を受けている光景が。気がついたら涙を流していた。

 今まで流していた悲しみの涙じゃない。感動の涙が溢れて溢れて仕方がなかった。

 こうして席に座っている今も、心の中に暖かい余韻が残っている。

 

「どうでしたか、妹の作品は」

 

 きっと来ると思っていた。

 

「ルナちょむがイギリスに向かったと聞いた時は、焦りましたよ。このショーに来れなくなるんじゃないかって」

 

 僕が知っているりそなの声とは年月を経て変わってしまっているけど。

 

「でも、来てくれて良かったです」

 

 背後まで来ている。

 でも、僕は席に座って前を向いたまま口を開く。

 

「……本当はね。此処には入らないつもりだった」

 

「えっ?」

 

「僕は夢を捨てた。だからもう服飾に関わる物には手も触れないし見もしないようにして来た」

 

「……」

 

「でもね。沢山の人が会場に入って行くのを見ていて、我慢出来なくなった。どんな作品が出て来るのかって、久しぶりにワクワクしたんだ」

 

「……どうでしたか?」

 

「最高だったよ!」

 

 僕は勢いよく席から立ち上がり、背後を振り向いた。

 其処に立っていたのは長い黒髪で、イギリスで見た桜小路遊星に似た美女だった。

 告げられた言葉に女性は嬉しそうな笑みを僕に向かって浮かべた。

 

「この場合……初めましてと言うべきなのでしょうか?」

 

「知っている相手に他人行儀で呼ばれるのは嫌だな。でも、僕よりも年上になっているから目上の人みたいに扱った方が良い?」

 

「ああ、止めて下さい。貴方にそんな風に扱われるのは何だか嫌です。後、歳の事は言わないで下さい。結構妹気にしてますから……お久しぶりです、下の兄」

 

「久しぶり……りそな」

 

 この世界に来て僕は初めて自覚しながら浮かべた笑顔で、成長した妹に向かって微笑んだ。

 

「ウッ! な、何ですか? えっ? 笑顔なんて浮かべられないんじゃなかった筈では? 上の兄から見せて貰った写真には笑顔なんてありませんでしたよ。ドキドキが止まりません。こ、コレはもしやギャップ萌えと言うやつなのでは? な、何て恐ろしい技を身に付けたんですか、この下の兄は」

 

 どうしたんだろう?

 僕の顔を見たら急にりそなが後ろを向いてしまった。

 何か喋っているようだけど、小声のせいで良く聞こえない。

 ……もしかして。

 

「あっ……ごめん、りそな。せっかくのりそなのショーだったのに、こんな格好で来ちゃって」

 

 今の僕は小倉朝日の姿だ。

 つまり、女装。そんな姿で妹の大切なショーを見に来るなんて失礼だった。

 僕が申し訳なさで落ち込んでいると、りそなが慌てて振り向く。

 

「いやいや、問題無いから構いませんよ。あの屑の上の兄のせいで、貴方は小倉朝日という女性という立場で大蔵家に認められてしまったんですから。寧ろ男だとバレるのは前よりも危険です」

 

「屑って……流石にそれは言い過ぎだよ」

 

「妹が最初に見かけて、半年間も探させていたのに、見つけたのをずっと黙っていたんですよ、あの上の兄は。しかも捜索を依頼して間もなくに見つけていたらしいじゃないですか。それを『晩餐会』で報告されて、養子の件まで急に持ち出された私の気持ちが分かりますか?」

 

 不機嫌さに満ちた顔をして、りそなは衣遠父様に対する愚痴を溢した。

 

「思いっきり『晩餐会』で恥をかかされたんですよ。だから、一か月分の仕事を押し付けて来てやりました」

 

「それで衣遠父様から連絡が来なかったんだ」

 

「父様って!? ……いえ、立場上仕方がないんですけど」

 

「ごめん。僕からすれば衣遠父様は衣遠兄様とは別人にしか思えなくて」

 

「ああ、確かにそうですね。あの頃の上の兄しか知らない貴方からすれば、今の上の兄は別人にしか思えないでしょう……それに私からすれば今の貴方は甥という形になります。妹では難しかったですが、この立場なら」

 

「僕は近親婚は反対だからね。それにそういう形になるんだったら、りそな叔母さんって僕は呼ぶ事になるよ?」

 

「うわぁ~。止めて下さい。止めて下さい。妹が悪かったです。あの人の事は父と呼んで構いませんが、妹の事は妹という形にしたままでお願いします」

 

「うん。そうさせて貰うよ」

 

 僕はりそなの言葉に笑みを浮かべながら頷いた。

 何でだろう? 衣遠父様とやり取りする時は、何処かで心が痛んでいたのに、りそなと会話するのは心が痛まない。

 どうして? と考えた。そして気がついた。

 元の世界でルナ様の屋敷に行く前から、唯一僕が本心から接する事が最初から出来ていたのがりそなだけだった事を。桜小路遊星という存在を介さずに、りそなは僕を見てくれる。

 そう信じる事が僕には出来た。

 

「さぁ、行きますよ。人がいなくなったとは言え、此処は会場ですから。私が借りている部屋で話しましょう」

 

「うん。久しぶりのりそなとの話。楽しみだな」

 

「クゥ~、何ですかこの下の兄は。胸のドキドキが止まりません……フフッ、ルナちょむ。逃げられた貴女と違ってこの下の兄は私から逃げませんよ。絶対に逃しませんからね。下の兄」

 

 何だか猛禽類が獲物の動物を狙うような目でりそなから見られている気がする。

 だけど、そんな事が気にならないほどに、僕は久しぶりのりそなとの会話が楽しみで仕方がなかった。

 

 

 

 

 りそなが借りている部屋に移動した僕達は、夕食を取り終えると話を再開した。

 僕がこの世界に来る前に起きた出来事を聞いたりそなは。

 

「だからあれほど気を付けろといったでしょう。お風呂場で居眠りをするなんて見つけてくれと言っているようなものです。妹、呆れて、言葉も罵倒も叱責も蔑んだ目すらもありませんよ」

 

「ハハッ。その言葉、絶対にりそなに言われると思っていたよ」

 

「そうですか? やっぱり妹と下の兄は心が通じあっているんですね」

 

 りそなは嬉しそうに笑みを浮かべた。

 こんな風に相手と気軽に話せるのは何時以来だろう。

 多分、この世界に来てからは初めてのような気がする。今まで会った人達とは、何処かで壁が出来てしまっていたように感じていた。

 だから、今しているりそなとの会話は本当に楽しかった。

 

「そう言えば」

 

「何ですか?」

 

「確かりそなが一番最初に僕を見つけたって聞いているけど、それって何時の話? この一年間殆ど桜屋敷で過ごしていて、出来るだけ人と会うのは控えていたんだけど」

 

「……アレは、夏頃でした。時間帯は夜で、仕事の帰りに桜屋敷付近を通りかかった時に、荷物を持って街中を歩く貴方をみたんです」

 

「夏頃……あっ」

 

 覚えがあった。

 夏頃に、僕は一度夜に荷物を持って桜屋敷を出た。

 その日は……僕が桜屋敷を追い出された日だった。

 

「ほんの僅かな間でしたけど、私が見たあなたは酷い顔をしていました。それこそ今にも自殺しそうなぐらいに」

 

「……」

 

 あの日、僕は最後の望みに賭けていた。

 同じ日。同じ時間帯。条件さえ整えば、元の世界に戻れるかもしれないと考えた。

 だけど、やっぱり無理だった。朝まで街を歩いたが結局、僕は戻れず、桜屋敷に戻るしかなかった。

 

「すぐさまアメリカにいるルナちょむに連絡を取りました。下の兄が日本に来ていないか?って 下の兄はアメリカにちゃんといました。ですけど、私は自分が見たのは間違いなく下の兄だと思いました。だから、上の兄に捜索を願い出たんです」

 

「そうだったんだ」

 

「あの、今にも自殺しそうな貴方の顔が忘れられませんでした。怖くて怖くて仕方がありませんでした。もしかしたらテレビや新聞に貴方の顔が映ってしまうんじゃないかって、見るのも怖くなっていました。だから、夢だという確信が欲しくて、私は上の兄に捜索を依頼したのに……それなのにあの上の兄は。私に貴方の存在を隠していました」

 

「……りそな。勝手な事だけどその事で衣遠父様を責めないで欲しい……本当の事を言うけど、僕は昨日のお母様の墓に行った時に……自殺しようという気持ちが無かった訳じゃないんだ」

 

「なっ!?」

 

「……僕はあの方に……ルナ様の人生に消えない傷をつけかけてしまった。ずっとその事が頭に残ってた。お母様との約束も僕は破った。この世界に本当の意味での居場所も無かった。だから、僕は死にたいと心の何処かで願っていた」

 

「……ごめんなさい。私が……私が……あんな提案をしたばかりに貴方はこんな事に……ごめんなさい」

 

「違うよ、りそなは間違ってない。現に桜小路遊星様は幸せな日々を送っている。だからりそなのやった事は間違いじゃないんだよ……失敗してしまった僕が悪いんだ」

 

「いいえ! こんな風になってしまう可能性を考えなかった私が悪いんです!」

 

「誰もこんな事になるなんて予想出来ないよ。別の時代、しかも別世界に移動するなんて……物語の話だしね」

 

 実際に僕に起きた現象を説明する事は誰にも出来ない。

 それにりそなを恨む気持ちは全く無い。りそなのおかげで僕は桜屋敷で幸せな日々を送る事が出来たんだから。

 寧ろ今も涙を流しかけているりそなには、感謝の気持ちしか抱けなかった。

 僕は思わずりそなの顔に手を伸ばし、涙を拭ってあげる。

 せっかくの綺麗な顔が涙で濡れるのは嫌だった。

 いきなりの僕の行動にりそなの顔は赤く染まった。やっぱり、兄妹でも恥ずかしかったかな?

 

「話は戻すけど、自殺を踏みとどまらせてくれたのは、衣遠父様のおかげなんだ。あの大蔵家を相手に頑張っているあの人の努力を無駄にだけは出来ない。だから、死ぬ事だけは許されないと思ったから」

 

「上の兄……本当に助かりました。正直今の話を聞くまでは怒りを抱いていましたが、良いでしょう。あの人への怒りは忘れてあげます」

 

「ありがとう」

 

 良かった。

 僕のせいでせっかく良好だった家族関係が、壊れるなんて耐えられない。

 本当に良かったと思い、何故か笑顔が浮かんで来てしまう。

 

「ウゥッ! ……もしかして今この笑顔を向けられている相手は、世界で私一人だけですか? ……独占してしまいたい」

 

「どうかした、りそな?」

 

「いえ、何でもありません……そ、そうだ。今日の私の描いたデザインから作られた衣装はどうでした?」

 

「凄く良かったよ! 確かゴスロリはフランスじゃあんまり理解されて無かった筈なのに、あんなに沢山の人達から喜ばれるなんて本当に凄いよ!」

 

「フフン、当然ですよ。妹、このパリのフィリア女学院を主席卒業しました。在学中はパリコレで最優秀賞を取った事もあるんですから」

 

「最優秀賞!? ……本当に凄いね、りそなは」

 

「まぁ、其処に行くまでには色々とありました。本当に色々と」

 

 僕は我が事のようにりそなの頑張りが嬉しかった。

 やっぱり僕の妹は、頑張れば出来る子だったんだと心の底から誇らしかった。

 ……正直、桜小路遊星には嫉妬を覚える。この妹の頑張りを、彼は見る事が出来たんだから。

 複雑な気持ちを抱いていると、りそなが真剣な顔を向けて来た。

 

「ただ不満もあります」

 

「不満?」

 

「えぇ……私の作品は全て上の兄が依頼してくれたパタンナーがしてくれています。専属と呼べるパタンナーが私にはいないんです。だから、下の兄……もし良かったら、私の専属のパタンナーに」

 

「ごめん……それだけは出来ないんだ……僕は服飾を捨てたから」

 

「……えっ?」

 

 りそなの提案は嬉しい。

 この妹の頼みならどんなお願いでも聞いて上げたいと思ってる。

 だけど、服飾に関わる事だけは、願いを叶えて上げることが出来ない。

 

「……会場でも言ったけれど、僕は夢を捨てた。だから、もう二度と服飾には戻らない」

 

「……嘘ですね」

 

「えっ?」

 

「妹、貴方の事なら分かります。貴方が服飾への夢を捨てられる筈がありません」

 

「な、何言ってるのさ? 現にこの一年間、全く服飾関係には関わってないんだよ。服の手直しもしてないし、鞄の中にあった服飾関係の本も全部燃やしたし、ファッション雑誌も見てないんだよ。プロのサーシャさんにだって、服飾をやっている手じゃないって言われたんだから」

 

 これ以上にないほどに僕は服飾を離れたと言い切れる。

 もう二度と関わりたくない。今日確かにファッションショーを見たけど、それはりそなの作品が出るからだ。

 第一、僕にはそんな資格は……。

 

「貴方は夢を捨てたんじゃなくて、夢から逃げたんです」

 

 何処かで罅割れるような音が聞こえた気がした。

 

「妹。今日貴方を見て確信しました。貴方が昔の私みたいになってしまっている事に」

 

「な、何を言って?」

 

「昔の私は学校に行くのが怖かったです。下の兄も知っての通り、立派な引き篭もりでした」

 

 そうだ。僕が知っているりそなはそうだった。

 部屋に閉じこもり、月に二回学校に行ければいい方だった。

 その原因は、りそなが大蔵家の人間だった事。学校という特殊なフィールドの中で、特別視される視線に耐え切れなかったからだ。

 大蔵家の人間というだけで、教室内でりそなは目立ってしまった。テストでたった一つミスをする度に、陰口は増えて行き、兄がデザイナーとして地位を高めてからは尚更にりそなへの陰口は増えて行った。

 耐え切れなくなったりそなは、外界から目を閉ざし、遂に外界すらも閉ざした。

 

「色々あって今の私は、外に出る事が出来ました。だから、私には分かります。上の兄からも聞きました、貴方が何故服飾への熱意を失ってしまったのかも」

 

「……て」

 

「最初は違ったんでしょう。純粋に好奇心。或いは期待感。それらの感情が貴方を突き動かした」

 

「…めて」

 

「今の桜屋敷にいるあのメイド長も、貴方に元気になって欲しくて見せてしまった」

 

「止めて!!」

 

「いいえ、止めません! 貴方は見た。アメリカにいるもう一人の下の兄。桜小路遊星がルナちょむの為に作り上げた衣装を! 貴方が服飾から逃げた本当の理由は!!」

 

「もう止めてよ!!」

 

「『桜小路遊星と比較される自分になりたくない』! だから、貴方は小倉朝日になり切る事で服飾から逃げたんです!!」

 

 ……何処かで割れる音が、僕の耳に届いた。

 必死にりそなの言葉が聞こえないようにする為に、耳を押さえていた両手が力無く下がった。

 今、りそなが言った言葉が、僕の根幹を確かに貫いた。

 

「……な……何で……分かったの?」

 

 隠していた筈なのに。この感情だけは、誰にも、りそなにも知られたくなかったのに!

 

「妹も同じだったからです。特別視される視線に耐え切れなかった。貴方の場合は、きっと私以上に怖かった筈です。同じ人間の筈なのに、成功した自分がいる。なのに、自分は失敗した側。正直その辛さは想像する事も出来ません」

 

「……そうだよ……りそなの言う通り、僕は怖かった。自分じゃないのに、自分を通してその相手に見られる視線が」

 

 この感情が決定的になったのは、この世界のルナ様達が学生だった頃の一年目のフィリア・クリスマス・コレクションの作品が写っている写真を見た時だった。

 それまでにも漠然とした不安をずっと抱えていた。僕が知らない人なのに、僕に対して親身になってくれた八十島さん。彼女には感謝しかないけど、やっぱり何処かで違和感を抱いていた。

 そんな僕の不安が仕事に出ていたのか、八十島さんは元気づけるつもりでフィリア・クリスマス・コレクションの写真を見せてくれた。

 その時の僕は楽しみだった。どんな衣装が出されたのか楽しみで仕方がなかった。

 ……だけど、その衣装を見た瞬間……僕は絶望した。

 桜小路遊星がルナ様の為に作り上げた衣装は、言葉も失うほどに綺麗だった。

 敬愛するルナ様をこれ以上にないほどに輝かせている衣装。ソレを作り上げたのは、この世界の自分。

 

「……無理だって思った……僕にはあんな素晴らしい衣装は作れないって、心から思ったんだ」

 

 それからは八十島さんの視線が怖くなった。

 出来るだけ、人と接触しなくなったのも、ずっと小倉朝日として過ごしていたのも、大蔵遊星としての自分が、桜小路遊星と比較されるのが怖かったからだ。

 服飾から離れたのも、自分が作る物が桜小路遊星の作るものと比較されるのが何よりも怖かったからだ。

 だから、燃やした。

 ……この世界に来る時に、鞄の中に入っていた服飾に関わる全てを。涙を流しながら、燃やし尽くした。

 燃やし尽くした後は、家事に熱中した。他の事に熱中すれば、服飾を忘れられると思ったから。

 夢を捨てられたと思った。

 これで桜小路遊星と比較されずに済むって、心の何処かで安堵していた。

 なのに。

 

「衣遠父様がやって来た! あの人は僕を見てない!! 僕じゃなくて僕を通して桜小路遊星を見ている! 一番見られたくない視線で! 僕を見ているんだ!」

 

 最初にやって来た時から怖かった。

 元々あの人には畏怖と恐怖しか僕は抱いてなかった。八十島さんから衣遠兄様は変わったと聞いていた。

 現に僕も変わったと思った。優しいお兄様になっていた。

 そして、拠り所の無かった僕に居場所を作ってくれた。でも、それは……本当に僕の為なのか分からなかった。

 桜小路遊星と同一人物だから、助けているだけなのかもしれないと考えると、悲しくてたまらなかった。

 

「……衣遠父様には感謝してる。この世界で居場所を作ってくれた。あの人の頼みなら、りそなと同じように叶えたいと思う。だけど、服飾だけは……服飾だけは出来ないんだ」

 

 服飾だけは桜小路遊星と関わってしまう。

 今の僕には、ソレが耐え切れない。彼が作り上げた衣装と、自分の作った衣装が比較されるのがたまらなく怖かった。勝てないと心の何処かで思っているから。

 

「だから、ごめん。りそなには悪いけれど、僕はもう服飾には……」

 

「貴方は! 貴方はあのルナちょむが着た衣装がどんな経緯で作られたのか、知っているんですか!?」

 

「……えっ?」

 

 一瞬、言われた言葉の意味が分からなかった。

 あのルナ様の衣装が作られた経緯? 普通に製作したのではないのだろうか?

 

「桜屋敷にいるあのメイドは、あの出来事を知りません。彼女が桜屋敷に入ったのは、あの出来事の後だったんですから」

 

「……何があったの?」

 

「あの出来事の発端は、貴方が『フィリア女学院』に入学した年の11月の下旬ごろでした。ルナちょむ達はフィリア・クリスマス・コレクションに向けて三着の衣装を作っていたんです」

 

「三着? えっ? でも?」

 

 それは可笑しい。

 僕が見たのは、ルナ様が着ていた衣装一着だけ。残りの二着は何処に行ったのだろう?

 

「ルナちょむが着たのは、アメリカにいる下の兄が内緒で作っていた四着目の衣装です。最初に製作していた三着の衣装は……盗作されてしまい使用出来なくなってしまいました」

 

「盗作!? 一体誰が!?」

 

「……本人からも言っていいと言われているので教えます。上の兄です」

 

「衣遠父様が!?」

 

 ありえないと思った。

 プライドの高い、あの衣遠父様が盗作などするとは思えなかった。

 だが、りそなの真剣な目が事実だと僕に伝えて来ている。

 

「そもそも発端はルナちょむの生家である桜小路家が原因です。下の兄も多分知っているでしょうが、あの家はルナちょむが表に出る事を嫌っていました」

 

「あっ」

 

 ルナ様が応募していたクワルツ賞の時の出来事を思い出した。

 あの時もルナ様の生まれた家である桜小路家が介入して来て、最終的にルナ様はクワルツ賞を辞退した。

 

「当時のフィリア・クリスマス・コレクションは、フィリア女学院の創立者であるジャン・ピエール・スタンレーがショーに来るという事で注目度を上げていました。それに気がついた当時の桜小路家当主はルナちょむを表舞台に出さないように上の兄に訴えました。それを上の兄は了承し、ルナちょむの注目度を上げない為に出展する予定だった三着の衣装のデザインを盗作して、自分の作品だと公表したんです」

 

 ……言葉が出せなかった。

 ルナ様の生まれた家である桜小路家が、まさか其処まで介入して来るとは思っても見なかった。

 そしてそれに手を貸した衣遠父様も信じられなかった。

 僕の顔から考えを察したのか、りそなが説明してくれた。

 

「あの頃の上の兄は、どうしても大蔵家の当主の座が欲しかったんです。その為なら、どんな手を使っても構わないと考えていました。桜小路家への協力もその一つです。勿論、ルナちょむ達は毅然として上の兄に挑みました。だけど……勝てませんでした。ルナちょむ達には弱点があったんです。決定的な弱点が」

 

 ……ソレが何なのかりそなが言わなくても分かった。

 ルナ様達の決定的な弱点。『小倉朝日』。つまり、当時の大蔵遊星の存在がルナ様達の弱点になってしまったに違いない。

 用意周到な衣遠父様なら、『小倉朝日』の存在も利用するだろう。

 

「そして『小倉朝日』は学園を退学になり、下の兄は私の下に連れ戻されました。だけど、下の兄は諦めていませんでした。希望が残っていたんです。限りなく小さな希望。ルナちょむ達にも秘密で作っていた四枚目の衣装が。だけど、本当に小さな希望でした。だって、裁断までしか終わってなかったんですから」

 

「裁断までって!? 確かその出来事が起きたのは、11月の下旬だったんだよね!? フィリア・クリスマス・コレクションが開催されるのは12月の下旬だから……間に合う筈が」

 

「普通なら間に合いません。でも、下の兄は間に合わせました。心身を削って、妥協も一切せず、何時倒れても可笑しくないのに……やり遂げてあのルナちょむの衣装を作り上げたんです」

 

 ……あの素晴らしい衣装が作られた裏に、そんな経緯があるなんて考えても見なかった。

 だけど、同時に納得も出来た。それだけの出来事があったのならば、あの素晴らしい衣装が生まれても可笑しくない。

 僕は深々と椅子に座り込み。顔を上に向けて、片腕で目を隠した。

 

「……ハハハッ……勝てない筈だよ……悔しいな……悔しいよ」

 

 悔しいという気持ちを抱いたのは、久しぶりだった。

 ずっと勝てないと思って諦めていたから。

 

「……ねぇ、りそな」

 

「何ですか?」

 

「……りそなは、僕を見て桜小路遊星が見える?」

 

「見えません。っと言うか、妹。ルナちょむの所に行くまでの貴方を、ずっと見ていたんですよ。私には弱かったあの頃の貴方がいるようにしか見えません」

 

「……ありがとう……あぁ、思い出しちゃった」

 

「何をですか!? もしや妹への愛情ですか!?」

 

「違うよ、ジャンに言われた言葉を」

 

「ウワッ! 慰めたの妹ですよ! 妹! なのに他の人の事を思い出すなんて!?」

 

「ごめん……でも、ずっと忘れていたんだよ。あの言葉を」

 

『自分がこうだと思う意思。意思が希望を生んで、希望が夢を育てて、夢が世界を変えるんだ』

 

 ずっと忘れていたあの言葉を思い出してしまった。

 そして今、僕の内に宿った意思は一つだけだ。

 

「……挑みたい」

 

「えっ?」

 

「……届くか分からない。貴重な時間を一年も無駄にした。だけど、挑みたいって思った。桜小路遊星の作った作品に挑みたい」

 

 それが今、僕の胸の内に宿っている意思。

 彼に勝てるかは分からない。一年も離れていたんだ。

 簡単に服飾の技術が戻るとは思えない。だけど、どうしてもこれだけはやり遂げたいと思える意思が抱けた。

 力強く握る僕の拳に、りそなの手が重なる。

 

「妹。協力しますよ」

 

「良いの? 相手は桜小路遊星なんだよ?」

 

「構いません。向こうにはルナちょむがついているんですから。こっちに私がついて上げます」

 

「……本当にありがとう、りそな」

 

 申し訳ありません、僕の主人であるルナ様。

 貴女にした事が、赦される日はきっと来ないでしょう。

 ですが、僕はもう一度だけ夢に向かって歩ませて頂きます。




人物紹介

名称:大蔵里想奈(りそな)
詳細:『乙女理論とその周辺』のヒロインの一人。大蔵遊星の異母妹。現大蔵家当主であり、総裁と呼ばれている。
極度のブラコンで、遊星に対して恋愛感情を抱いている。その為に桜小路遊星と親友である桜小路ルナとの間に生まれ、二人の容姿が合わさったような桜小路才華には複雑な感情を抱えている。本人は才華の事を甘えた人間だと表し、才華が唯一苦手としている。半年前に朝日(遊星)を目撃し、衣遠に捜索を依頼していた。


と言う訳で、りそなが朝日こと遊星を前に向かせました。
これに関してはバッドエンド後から遊星が来ているので、『乙女理論とその周辺』に至れなかった事もあったので、当初から彼女が遊星を立ち上がらせる事を決めていました。
ただ決めていても、ルートが確定している訳ではありません。この作品はつり乙2なので。


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一月上旬(才華side)4

遊星sideがひと段落ついたので、『晩餐会』の内容を書くために才華sideの話になりました。

続きを期待していてくれた方々申し訳ありません。

Nekuron様、烏瑠様、kuzuchi様、Soralis様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

 年始めの年始。僕は大蔵本家に訪れていた。

 年始の初めに大蔵家で行なわれる『晩餐会』に招待されたからだ。

 去年までは僕の体の事情や、アメリカに住んでいる事もあったのでお父様だけが招待されていたけど、今年は日本にいる事もあったので僕やアトレも呼ばれた。

 実は僕はこの晩餐会に出席するのが楽しみでもあった。総裁殿には思うところがあるのだが、それ以外にもこの『晩餐会』には必ず出席している人物がいる。

 その人物に僕の描いたデザインを見て貰いたかったのだ。

 お母様と同じで、世界的なデザイナーである『メリル・リンチ』さんに。

 

「……良いデザインだと思います」

 

「本当ですか!?」

 

「えぇ……ただ……何と言えば良いのでしょうか。才華さんの作品には『何かが足りない』という印象を感じます」

 

 控室で待機していた亜麻色の髪の女性。

 メリルさんに見て貰ったデザインの評価に、僕はまたかと思ってしまった。

 

「こればかりは才華さんの描いたデザインなので才華さん自身が気がつかないと、答えは出ないでしょう」

 

「……そうですか」

 

「ごめんなさい。私は人にイメージを伝えるのが苦手ですから。ただ良いデザインなのは間違いありません」

 

 お母様と同じ世界的なデザイナーであるメリルさんなら、答えが分かると思っていたのに残念だ。

 どうしても僕が描くデザインには同じ評価がつき纏う。一体何が僕のデザインには足りないんだろう?

 僕が難しい顔をしているのに気がついたのか、メリルさんが頭を下げた。

 

「本当にごめんなさい。お力になれなくて」

 

「いえ……大丈夫です」

 

「元気を出して下さい。才華さんには間違いなく貴方のお母様と同じで才能があります」

 

「ありがとうございます」

 

 僕はメリルさんにお礼を言って、控室から出た。

 そのまま宛がわれている部屋に戻る。部屋の中にはアトレと九千代が待っていた。

 

「お兄様。どうでした?」

 

「……やっぱり、何かが足りないって言われた」

 

「そうですか」

 

「若! 元気を出して下さい!」

 

「九千代の言う通り、落ち込んだままだとこれから来るお父様とお母様が心配しますよ」

 

「そうだね。もうすぐ二人が来るんだから、落ち込んでなんていられない」

 

 今日の『晩餐会』には毎年参加しているお父様だけではなく、お母様も来てくれる。

 僕と同じで体の事情があるお母様だが、僕の進学の件で心配になって来てくれるらしい。

 その事は嬉しかった。離れてそんなに経ってはいないが、やっぱりお母様とお父様に会えるのは楽しみだ。

 ……ただ、お父様の顔を見てしまうと、小倉さんの顔を思い出してしまいそうだ。

 フィリア学院に女装して入り込む決意を固めてから、僕らは準備をしていた。

 伯父様は僕の体の事を気遣って、フィリア学院の目の前に二月に完成する予定だった『青山スカイレジデンス』。総額550億円の66階建ての高層マンションを、僕とアトレを所有者にして与えてくれたのだ。

 伯父様が甥姪コンなのは知っていたが、ここまで重症だったとは思って無かった。

 お父様とお母様には、僕を二人に次ぐ美人に産んでくれたことに感謝しかない。大変気分が良い!

 ……ただ、それだったら小倉さんの事も教えて貰いたかった。あれからそれとなく会う度に聞いて見るのだが、聞こうとするだけで冷徹な怖い視線を伯父様は向けて来るのだ。

 正直あの視線は怖い。

 その伯父様に連れて行かれた小倉さんは、どうしてるんだろう?

 

「……若。また小倉さんの事を考えているんですか?」

 

「う、うん……今どうしているのかなって?」

 

「お兄様がこんなに女性の方を気にするのは、初めてですね。やっぱりあの叱りが効いたのでしょうか?」

 

「正直私、小倉さんの事を尊敬しています。だって、若の為に身を捨てて間違いを教えてあげてくれたんですから。最初会った時は警戒していましたけど、今は小倉さんがいてくれた方が良かったと思います!」

 

 九千代の言う通り、小倉さんがいたら僕らの計画は止められていたかも知れない。

 真剣にやるつもりではいるが、一歩間違えば、僕がやろうとしている事はあの人が心に傷を負った出来事を引き起こしてしまう。

 だからこそ、小倉さんの意見も聞きたかった。何よりもあの人に色々と教わりたかった。

 『小倉朝陽』としてメイドをやると決めてから、僕は壱与や九千代に頼んで桜屋敷の事をやらして貰った。

 体の事情があるので、出来ない事もあったけど、それでも出来るだけやって見た。

 その結果、小倉さんがメイドとして非常に優秀だという事が分かった。

 正直、あの人のスペックはお父様に匹敵するとしか思えないほどだった。

 十数年桜屋敷を管理していた壱与も、小倉さんが来てからは仕事が楽になったと言っていた。

 一体、あの人は何者なのだろう?

 その答えを知る為にも、フィリア学院に入学してフィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取らなければならない。

 

「でも、いまだに僕の雇用主の候補も見つからないんだよね」

 

「流石にそう簡単にはみつかりませんよ」

 

「えぇ、幾らお兄様と私が雇用主となったマンションを雇用の条件に加えても、信頼出来る人物でなければお兄様を預けられませんし。ルミねえ様も探しているようですけど」

 

 ルミねえとアトレには、受験の合間に僕の雇用主候補を探して貰っている。

 だけど、やはり条件が条件なだけに見つけるのは難しかった。二人にも受験勉強があるから無理を言う事は出来ないし。

 いざとなれば来年受験する手段しかないが、今の覚悟を失いたくないから何としても今年で入学したい。

 今後について悩んでいると、控室の扉が開き、その先から僕が待ち望んでいた二人が入って来た。

 

「才華、アトレ。久しぶりだな」

 

『お母様!』

 

 僕のお母様! 桜小路ルナお母様がやって来た。

 離れていた間はまだ短いけれど、僕と同じ銀髪で緋色の瞳。その美しさには陰りが見えない。

 僕にとって、この人が母親である事はやっぱり誇りだ!

 

「才華にアトレ。元気そうで良かったよ」

 

 次に入って来たのはお父様だった。

 アトレと同じ黒髪の男性。……やっぱり小倉さんに似ていると感じる。

 顔立ちが良く似ているし。本人があんなに顔を真っ赤にして否定してなければ、僕は今も実はお父様の隠し子ではないかと疑ってしまっていたに違いない。

 僕と同じ気持ちなのか、アトレと九千代もお父様の顔をジッと見つめてしまっている。

 

「三人ともどうしたの? 僕の顔に何かついている?」

 

「いえ、何でもありません、お父様」

 

 僕達三人は首を横に振るった。

 事前にアトレと九千代に小倉さんから聞いた話を説明しておいて良かった。

 本当はあの人の許可なく話すのは不味いのかも知れないけど、小倉さんはお父様とお母様に自分の事を知られたくなかった筈。せめてこれぐらいはしておかなければいけないと思って、僕は二人に話していた。

 ……もう一度会った時に怒られるのは嫌だけど。いや寧ろ僕は怒りに来て貰いたいのかも知れない。

 楽し気に僕らを見つめるお父様の顔を見る度に、僕が悲しませてしまった小倉さんの顔が脳裏に浮かんでしまう。

 

「才華。元気が無いようだが?」

 

 お母様が僕の様子を察したのか、心配そうに声を掛けて来た。

 

「フィリア学院の受験についてはすまなかった」

 

 どうやら受験の事で僕が落ち込んでいると思ったらしい。

 お母様に嘘をつくのは嫌だけど、此処はお母様の勘違いに乗らして貰おう。

 

「いえ、僕自身、伯父様にフィリア学院の受験について話していませんでしたから。お母様のせいではありません」

 

「そうか……だが、才華。すまない。私はお前に更に残酷な事を伝えなければならない」

 

「な、何でしょうか?」

 

「お前はフィリア学院の男子部が来年復活出来る可能性を信じているようだが……率直に言うと無理だ」

 

「えっ?」

 

「後から私も知ったんだが、フィリア学院男子部の廃止は大蔵家総裁のりそなだけの意向ではない。寧ろりそなは、夫の母校である男子部存続を何が何でもしてみせるという勢いで此処数年一人で頑張っていた」

 

「そ、そうなのですか?」

 

 あの総裁殿が、寧ろ男子部の存続を頑張っていたのは驚きだ。

 てっきり何時もの僕へのいたずらの類だと思っていたが、事はそう単純では無いようだ。

 

「そうだ。だが、去年遂に男子部の存続意向に焦れった役員達がりそなの理事解任にまで動き出したらしい。幾ら大蔵家当主の立場にいるとは言え、此処数年もの間、入学者の数も少なく、何の実績も上げていない男子部を存続させようとするりそなの行動は、役員達にとってはただの我儘にしか見えなかったようだ。しかも間の悪い事に今年は大蔵ルミネが受験する意向をりそなは知っていたので、男子部廃止を泣く泣く認めざるをえなかったようだ」

 

 聞かされた話は衝撃だった。

 ルミねえがフィリア学院を受験出来たのは、身内が経営する学院だから。もしも身内が経営していない学院になってしまえば、父親であるひいお祖父様が受験を認めないに違いない。

 

「にも関わらず、何も知らなかった私が『息子がそっちに行った。フィリア学院を受験するから宜しく頼む』などとチャットで言ってしまったものだから、人の気も知らないでとりそなが我慢の限界を迎えたのが、今回の顛末だ」

 

「僕らも後から知って驚いたんだ……りそなが本当に男子部存続の為に頑張っていてくれていた事を。だから、才華。受験出来なかった事でりそなを怒らないで欲しいんだ」

 

「……分かりました」

 

 複雑な気持ちに僕はなった。

 だけど、良く思い出してみれば最初の衣遠伯父様の時に、会話相手である総裁殿は男子部廃止を嫌がっているような気がした。それに衣遠伯父様が男子部廃止の通知が流れた時も、総裁殿は興奮状態だと言っていた。

 あれは、お母様との喧嘩が原因ではなく溜まりに溜まっていた不満が爆発したからだったからなのかも知れない。

 だが、コレでどちらにしてもフィリア学院男子部復活は絶望的になってしまった。

 

「一年浪人する気のようだが、やはり今からでもアメリカの学院に入学する気はないか?」

 

「……一年だけ時間を下さい。日本の他の服飾学校も見てみたいですから」

 

 やはり、今行なっている計画以外にフィリア学院に入学する手段はない。

 だけど、この事をお父様とお母様に知られる訳には行かない。

 二人が僕を説得に来たのは分かるけれど、僕は僕の夢の為にも諦める訳には行かないんだ。

 

「……意思は固いようだな。分かった。一年の間時間をやる」

 

「何かあったら、すぐに連絡してね、才華」

 

「はい、お父様」

 

 僕はお父様に返事を返した。

 内心で今実行している計画を必ず実行してみせると誓いながら。

 

「失礼するぞ」

 

「失礼します」

 

 控室の扉が開き、衣遠伯父様とルミねえが入って来た。

 二人の姿にお父様は笑みを浮かべながら、話しかける。

 

「お兄様、それにルミネさん。お久しぶりです」

 

「久しぶりだな、遊星。それに桜小路も」

 

「遊星さん。お久しぶりです。才華さんのお母様も」

 

「うむ。ルミネさんには才華が世話になったそうだな。やはり此処は叔母殿と呼ぶべきか」

 

「それは止めて下さい」

 

 お父様とお母様は伯父様とルミねえと楽しそうに会話をしている。

 でも、伯父様は真剣な顔をしてお母様に話しかける。

 

「桜小路。すまないが、遊星を少し借りたい。重要な話だ」

 

「夫を? ……才華の受験の件か?」

 

「いや、違う。だが、大蔵家にとって重要な話だ」

 

「大蔵家にとってですか、お兄様?」

 

「あぁ。悪いが遊星はともかく、桜小路達は他家の扱いになってしまうので今は話せない。『晩餐会』で話は出すが、事前に遊星の協力を得ておきたい」

 

「ふむ……かなり重要な話のようだ。分かった、夫。行って来て構わないぞ」

 

「ありがとう、ルナ」

 

 伯父様はお父様とルミねえを連れて部屋から出て行った。

 ……お父様だけではなくルミねえも一緒という事は、本当に大蔵家にとって大事な話に違いない。

 だけど、コレはチャンスだ! 何時もお父様がいるせいで聞けなかった事が、お母様に聞ける。

 部屋にあった椅子に座って、九千代が淹れた紅茶を優雅に飲んでいるお母様に僕は話しかける。

 

「お母様」

 

「何だ、才華? 何か聞きたい事があるのか?」

 

「はい。桜屋敷に住んでいて思い出したんですけど、あの屋敷にはお母様が学生だった頃に伝説のメイドと呼ばれている人がいたんですよね、確か名前は」

 

「『小倉朝日』。私が最も信頼しているメイドだ。あぁ、懐かしい」

 

 お母様の顔が嬉しそうに微笑んだ。

 名前を言うだけで、此処まで喜ばれるなんて。

 やっぱり、『小倉朝日』さんはお母様にとって大切な方だったのだろう。でも、その人は小倉さんが言うのにはもう……。

 

「朝日との思い出は私にとって掛け替えのないものだ。今こうして私が世界的なデザイナーとして活躍出来ていられるのも全て朝日との出会いがあったからこそだ」

 

「そんなに大切な方だったのなら、どうして手放されたのですか、お母様? 確かお母様が学生だった頃に一年とたたずにフィリア女学院を辞めたと聞いていましたけれど」

 

「……手放したのではない、アトレ……朝日は私の為に学院を辞めざるをえなかったのだ」

 

「えっ?」

 

 僕は思わず驚いて声を上げてしまった。

 お母様の為に学院を辞めた? 一体どういう事なのかと、僕、アトレ、九千代がお母様の顔を見てみると、お母様の顔には僅かに悔しさが浮かんでいた。

 

「今は夫も居ないから三人に語ろう。夫がこの話を聞くと、嫉妬するからな。朝日との出会いは、私がフィリア女学院に付き人を探す事にした事から始まった。何度も面接を行ない、面接相手を私が落としていく中、りそなの紹介で朝日はやって来た」

 

 少し驚いた。

 まさか、『小倉朝日』さんが総裁殿紹介で桜小路家にやって来ていたなんて。

 

「その時の私はもう面接相手をするのも面倒になって来ていた。そんな中、私を見て何の変化も見せなかった朝日でもう良いと決めた。ただ八千代が朝日に対してあまり好感を持っていなかった。どうしたのかと聞いて見たら、桜屋敷を見てぼおっとしていてミスを犯してしまったらしい。思わず天然だと笑ってしまった。それで採用」

 

「えっ? ミスをしたのにですか?」

 

「九千代の疑問は尤もだが、私は朝日が気に入った。それから共に過ごして行く内に、私の中で彼女への信頼が芽生えていった。だが、当時の私は臆病だった。彼女の私への献身が何処かで裏切られる事を願っていた」

 

 僕は思わず目を見開いた。

 お母様が臆病だった? この完璧なお母様が、『小倉朝日』さんの献身を裏切る事を願っていたなんて信じられない。

 

「だが、私の想いは朝日の誠実さに敗れた。彼女の作ってくれた衣装は何処までも丁寧だった。作業が進む度に私は、何度も何度も確認して。手にした衣装越しに愛情を感じた。いつしか私は朝日を美しい人だと思うようになった。彼女なら裏切らないと私は心の底から信じられた」

 

 本当に『小倉朝日』さんの事を、お母様は大切に思っていたんだろう。

 その表情は何処までも嬉しそうで、語る事で懐かしさが込み上げて来ているのか笑みが浮かんでいる。

 だけど、その笑みが僅かに陰り、悔しさが滲んだ声でお母様は話を続ける。

 

「だが、私は逃げてしまった。朝日には私にも話していないある事情があったんだ」

 

「事情ですか?」

 

「そうだ。彼女はそれを語ろうとしてくれたのに、私はそれを聞くのが怖くなってしまった。だから、先延ばしにして逃げた……そして何時か聞こうなどと甘えた考えで進んでしまったせいで……あの運命の日。朝日が学園を辞める日が来てしまった。当時の私には力が無かった。だけど、朝日と二人なら茨の道だろうと進めると思っていた。だが、朝日は私以上に目の前に迫って来た困難を理解していた」

 

 お母様の顔に悔しさが滲んでいた。

 余程、その時の事が悔しかったんだろう。僕は今のお母様しか知らないけれど、昔お母様も間違いなく困難にぶつかってしまったに違いない。

 

「朝日は自らが学園を辞める事で、私に迫っていた困難を回避させた。悔しかった。力の無い私が。朝日を犠牲にしなければ、前に進む事さえ出来ない自分が。朝日に頼んだ。どうか私と一緒にいてくれと。朝日となら前に進めると言った……だが、朝日は学院から去った。私の力の無さのせいで」

 

「じゃあ、あのお母様がフィリア・クリスマス・コレクションで着た衣装は『小倉朝日』さんの作品じゃないのですか?」

 

 僕はてっきりのあの魅了された衣装の作り手が『小倉朝日』さんだと思っていたけれど、もしかして違うのだろうか?

 お母様は首を横に振って、僕の考えを否定した。

 

「いや、アレは朝日の作品だ。私の為に朝日が作ってくれた最高の衣装だ。私は朝日の誠実さに応えるべく、舞台に立った。私は誇らしかった。私が信頼した人の作った衣装は、此処まで人を魅了させる事が出来ると示せた事が」

 

「……素敵な人ですね」

 

「そうだ、アトレ。朝日は最高だ。もしも今、彼女が再び現われでもしたら、夫は嫉妬するかも知れないが、どんな手を使っても私の下に置く。彼女は誰にも渡さない」

 

「じょ、冗談ですよね、お母様? だってその人も家庭とかあるでしょうし」

 

「フフッ、アトレの言う通りだ。離れてしまったが、朝日は幸せに過ごしているだろう。きっと子供も出来て毎日、私が好きだったあの笑顔を浮かべて暮らしているに違いない」

 

『私の母……『小倉朝日』は亡くなっています』

 

 僕の頭の中に、小倉さんの言葉が浮かんだ。

 お母様に僕が会った小倉さんの事を伝えた方が良いのかも知れない。

 何があったのか分からないけど、小倉さんが別れる前に僕らの目の前で語った。

 

『あの暖かな……私にとって唯一心から幸せだったって言える日々に帰りたい! 戻りたいって! 毎日! 毎朝! 毎晩!! 願ってしまうんです!!』

 

 『小倉朝日』の娘だと名乗った小倉さん。

 彼女がどんな人生を歩んで来たのか、僕は良く知らない。

 だけど、あそこまで真摯な想いで叫んでいたんだから、きっと辛い人生を歩んで来たんだろう。

 お母様に教えれば、きっと小倉さんを探すのに協力してくれる。

 でも、その為にはこんなに嬉しそうに『小倉朝日』さんを語るお母様が悲しむ事実を伝えなければならない。

 僕にはどちらが正しいのか分からなかった。

 自分は完璧だと思っていたのに、小倉さんを悲しませてしまった事で揺らいでしまった。本当に完璧だと言うなら、あの人を悲しませる事もなかったのに!

 

「さて、朝日に関しての話はこれで終わりだ。どうだ、朝日の感想は?」

 

「本当に凄い方だと思いました!」

 

「はい! 同じメイドとして『小倉朝日』さんを誇りに思います!」

 

「そうか。そうか。それで才華はどうだった?」

 

「……はい。凄い人だと僕も思いました」

 

 重いと思ってしまった。

 フィリア学院に通う為に偽名として、『小倉朝陽』を名乗る事を決めた僕だが、その名前は予想以上に重い名前だと実感した。

 僕は果たしてこの名を背負うだけの結果を、フィリア・クリスマス・コレクションで出せるのだろうか?

 結果を出せずにこの名を使ってしまえば、お母様はお怒りになるかも知れない。

 いや、お怒りになるだろう。こんなに誇らしげで嬉しそうにお母様が語ったのだから。

 今ならまだ止められると思ってしまうが、僕はもう止める気はない。

 本当にこれが最後のチャンスだと分かってしまったから。

 事前にフィリア学院男子部廃止の真相を、教えて貰っていて良かった。

 

「その、お母様」

 

「何だ、才華? 悪いが朝日の話は終わりだぞ」

 

「いえ、その」

 

「ん? 何だか何時もの才華らしくない。何があった。話して見ろ」

 

「……実は」

 

「失礼しますよ」

 

 僕がお母様に小倉さんの事を告げようとしたら、部屋の扉が開き誰かが入って来た。

 聞き覚えのある声に振り返ってみると、僕が唯一苦手としている人。

 大蔵家総裁、大蔵りそな叔母様が部屋に入って来た。

 誰かを探しているのか、部屋の中を見回している。

 

「……上の兄も下の兄もいませんね。居るなら此処だと思って来たんですけど」

 

「やぁ、久しぶりだなりそな。先日はすまなかった」

 

「お久しぶりですね、ルナちょむ。直接会うのは何年ぶりでしょうか?」

 

「チャットでは良く会話をするが、直接会うのは確かに久しぶりだ。才華の受験の件は本当にすまなかった。君が一人で夫の母校を護っていたのを知らなかった」

 

「……もう良いですよ。下の兄からも電話で謝られていますから」

 

 僕の時と違い、総裁殿はお母様とにこやかに会話をしている。

 だけど、僕の姿を捉えるといやらしい笑顔を浮かべた。

 

「良い進学先を見つけて下さいね。その甘ったれなお坊ちゃん気質も厳しい現実を味わえば、少しは変わるでしょうし」

 

「りそな……余り息子を虐めないでくれ」

 

「ルナちょむも下の兄も甘いんですよ。息子だからこそ、厳しく当たらないと行けないのに、二人が甘やかすから、こんなお坊ちゃま気質になってしまったんでしょう」

 

 ……相変わらず僕に対して厳しい。

 やっぱり僕はこの人が苦手だ。

 

「まぁ、其処の甘ったれはともかく、上の兄と下の兄は何処に行ったんですか? そろそろ『晩餐会』が始まる時間なんですけど?」

 

「? 夫なら総裁秘書殿とルミネさんが連れて行ったぞ。りそなは知らなかったのか?」

 

「えっ? マジですか? 可笑しいですね。一体上の兄とルミネさんは下の兄に何の用なんでしょうか?」

 

「総裁秘書殿は大蔵家に関わる事だと言っていたが、りそなは知らなかったのか?」

 

「はぁ? ……そんなの知りませんよ?」

 

 総裁殿はお母様の言葉に、首を傾げた。

 ……これはどういう事なのだろうか?

 大蔵家のトップである総裁殿が、伯父様の行動を知らなかったという事になる。

 でも、それは可笑しい。確かに伯父様は大蔵家にとって重要な話だと言って、お父様を連れて行ったんだから。

 部屋の中に誰もが伯父様の行動を疑問に思っていると、件の伯父様がお父様とルミねえを伴って戻って来た。

 

「これは総裁殿。いかがなさりました?」

 

「何がなさりましたですか? もうすぐ『晩餐会』が始まる時間ですよ」

 

「これは失礼。久方ぶりに会った我が弟の会話が弾んでしまいまして。ククッ」

 

 ……何だろう?

 何となくだけど、今日の伯父様は何時もよりも芝居がかっているような気がする。

 皆もそう思ったのか、伯父様を訝し気に見ている。見ていないのはお父様とルミねえだけだった。

 どんな話をしていたのか、ちょっと気になる。

 

「……まぁ、良いでしょう。上の兄とルミネさんは一緒に行きましょう。下の兄達は大蔵家の報告が終わった後の会食で呼びますんで、それまで待っていて下さい」

 

「うん。分かったよ、りそな。会食の時は久しぶりに話そうね」

 

「……安心しました。やっぱりアレは、気のせいだったんですね」

 

「えっ?」

 

 お父様の笑顔を見たら、急に総裁殿は何故か安心したように微笑んだ。

 ……こんな風に総裁殿も笑う事があるんだと、ちょっと驚いてしまった。

 何時も僕は、総裁殿に厳しい事を言われたりしているからかも知れないけれど。

 そのまま総裁殿は伯父様とルミねえを伴って、『晩餐会』の会場となる部屋へと向かって行き、僕らは会食の時まで待つ事になる。

 お父様は桜小路家に婿入りしたので、大蔵家の会社経営に関する話では桜小路家である僕らは呼ばれない。

 本当に家族交流となる会食の時に呼ばれる。

 その時まで僕らは時間を潰すしかない。

 

「夫。総裁秘書とは何を話していたんだ?」

 

「ごめん、ルナ。その事は絶対に会食の時まで話せないんだよ」

 

「何? 私にも話せないと言うのか、夫」

 

「本当にごめん、此れだけは本当に簡単に話せない事なんだ」

 

 伯父様の件をお母様に詰め寄られても話さないお父様の姿に、僕はちょっと驚いた。

 何時もお母様に従っているのに、頑なに話そうとしない。

 こういう面も持っていたのかと僅かに驚きながら、僕はアトレと共に何とか話を聞き出そうとするお母様とお父様の様子を見つめていた。




『才華達と離れた後の遊星達の会話』

「……事実なのですか、お兄様?」

 お兄様から聞かされた話に僕は驚いた。
 大蔵家の使用人が、ある大蔵家の人間に子供を産まされ、その子供は認知もされず、更には存在さえも秘匿されて育ち、母と死別すると共に放逐された。
 それだけではなく放逐された後に、母の伝手で働いていた先の屋敷からも追い出されて路頭に迷うしかなくなっている現状には、頭が痛くなりそうだった。
 真実が知ったりそなが、秘密裏にその人物の捜索をお兄様に依頼したらしく、今はお兄様の下で保護されているらしい。

「事実だ。その人物にはルミネ殿も会っている」

「衣遠さんから話を聞いた時は驚きましたけど、確かにあの人は寂しげで悲しそうな笑みを浮かべていました」

「……お兄様はその人物をどうしたいんですか?」

「……遊星。俺はその相手を養子にする事にした」

「お兄様の養子に!?」

「あぁ……正直この人物の経歴はお前に近しいからな」

「あっ……」

 言われてみれば確かに僕と似ている。
 お兄様はだから、放っておけなくて自分の養子にする気なのだろう。
 だけど、それは困難な道だ。

「これから行なわれる『晩餐会』で養子の件を発表するつもりだ。お前にも是非協力して貰いたい。ルミネ殿は納得してくれた」

「えぇ。この人物にはちょっと借りもあるので。私も衣遠さんに協力します」

「……分かりました、お兄様。僕も手伝います」

「ククッ、お前と言う味方がつけば心強い。頼むぞ、遊星。我が娘となる者の為にも」

「はい! お兄様!」

 僕は差し出されたお兄様の手を力強く握り返した。
 似た境遇で苦しんでいるお兄様の娘となる相手の為にも、必ず成功させると誓いながら。



人物紹介

名称:メリル・リンチ
詳細:『乙女理論とその周辺』のヒロインの一人。亜麻色の髪が特徴の女性。天才的なデザイン技術を持ち、独学で立体裁断や縫製の高い技術を身につけている。幼い頃から修道院暮らしだったが、実は大蔵家の血を引いている。ただ修道院での教えのおかげで無償の奉仕が当たり前だと考えているので、金銭欲は全く持っていない。寧ろ質素な生活を好んでいる。現在は世界的デザイナーの一人として活躍中。

名称:桜小路ルナ
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』のヒロイン。桜小路遊星と結ばれ、才華とアトレの二児の子を持つ母親。銀髪の緋色の瞳が特徴で、その容姿の為に日の下に直接出る事が難しい。大蔵りそなとは親友。現在はアメリカでアパレル企業を営んで世界的デザイナーとしても活躍中。
夫である桜小路遊星と小倉朝日をこよなく愛し、朝日は恋人。夫は生涯の伴侶と宣言している。才華に女性に対して性的興奮が出来なくなった元凶の一人。
彼女が朝日の存在を認識した瞬間、争奪戦が間違いなく開始されてしまうだろう。


名称:桜小路遊星
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』の主人公。この世界では桜小路ルナと結ばれて幸せな生活を送っている。才華とアトレの父親。妻である桜小路ルナを支える世界的なパタンナーでもある。
ルナの特徴を受け継いだ才華に対して過保護な部分がある。息子と娘を大切にする良き父親ではあるが、才華は軟弱だと思っていて現在反抗期に悩んでいる。
桜小路ルナが卒業した後は女装を止めたが、実は密かにルナとの夜の営みで行なっていた。その現場を偶然才華が目撃してしまった。つまり、才華の女性不信の真の元凶。
朝日共々、その真実を知ったら間違いなく首を吊りかねないほどに苦悩するだろう。


次回
『衣遠兄様による晩餐会劇場開幕』


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一月上旬(才華side)5

『芸術家たる者、表現は過剰だと言われるぐらいでいい。我々は普段の立ち振る舞いも、作品相応のものでなくてはならない!』
そう宣言した方がメインの話になりました。

Nekuron様、烏瑠様、kcal様、wanwanwan様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

 会食の時間が漸く訪れ、僕らは『晩餐会』に参加していた。

 今回の食事の用意は衣遠伯父様が手配したらしく、僕ら桜小路家と大蔵家の面々は思い思いに食事を楽しんでいる。

 そんな中、仕立ての良い黒いスーツを着た男性が僕に近寄って来た。

 

「やぁ、才華君。久しぶりだね」

 

「駿我さん、お久しぶりです」

 

 僕に挨拶に来てくれたのは大蔵駿我さんだった。

 大蔵グループ米国支部の管理者で、米国という事で僕ら桜小路家によく遊びに来てくれていた。

 ……何故か駿我さんが来る時は、お母様がちょっと警戒心を抱いていたような気がする。

 僕やアトレには良くしてくれている良い人だけど。

 

「アトレさんも元気そうで良かったよ。二人とも日本の学校を受験するんだったけ?」

 

「はい。ただお兄様は一年浪人する事になりそうで」

 

「浪人?」

 

「はい。僕が通うつもりだったフィリア学院男子部の募集が昨年度を以て募集しない事になったんです。其処しか候補を考えてなかったので、今年は伯父様に面倒を見て貰いながら浪人する予定です」

 

「……そうか。日本の学院の事だったから知らなかったよ。しかし、男子部廃止か。少々残念ではあるね」

 

「アレ? 駿我さんもフィリア学院に思い出があるんですか?」

 

「あぁ、昔ちょっとね」

 

 何かを懐かしむような顔を駿我さんはしている。

 そう言えば、この人は今だ独身だ。衣遠伯父様もだけど。

 駿我さんの弟である大蔵アンソニーさんには、息子がいるらしい。

 会った事はないけれど。

 

「駿我さんはご結婚とかしないんですか?」

 

「……結婚か。一時は考えた事もあったけれど、どうにも見合いとかで会う女性を、初恋の女性と比べてしまうんだ。その初恋の女性の事が忘れられなくてね」

 

 ……驚いた。

 この人にも好きな人がいたらしい。何となく聞いてみただけだったんだけど。

 僕だけじゃなくて、横で聞いていたアトレも驚いたように、駿我さんを見ている。

 

「もう十数年も昔の話だ。今だにその失恋を引き摺っているせいで、女性に縁がない。俺自身としては一生独り身でも構わないと考えているから、今後も結婚をする事はないだろう」

 

「……一途にその人の事が好きなんですね。素晴らしいですよ」

 

「フッ、女々しいだけさ……彼女は俺にとって救いだったから」

 

「何の話をしているんですか?」

 

 急にお母様がやって来て、話に割り込んで来た。

 ……何だかお母様の顔が険しい。駿我を睨むように見ている。

 

「少々昔の話をしていただけさ。君と僕との共通の相手である彼女の話をね」

 

「……悪いですけど、たとえ駿我さんでも昔言ったように渡しませんよ」

 

「あぁ、分かっているさ。彼女が選んだのが君で良かったと今も思っている。しかし、それでも俺は何処かで彼女の姿を追ってしまっているのさ」

 

「相変わらず気持ち悪いな、大蔵家」

 

「お母様!?」

 

 いきなりの無礼な発言に僕は思わず叫んだ。

 だけど、言われた当人である駿我さんは気にした様子も見せずに笑みを浮かべた。

 

「ハハハッ、才華君。気にしてないから大丈夫だよ……ただ大蔵の血を引いている君とアトレさんに一つ忠告をしておくよ」

 

「何でしょうか?」

 

「これは俺なりの考えだが、大蔵の人間は誰かを心の底から愛するとその相手以外に異性としての興味を覚え難くなってしまう」

 

 ……えっ?

 

「弟のアンソニーや俺の親父のように複数の女性に手を出す者もいるが、此方は此方で問題だ。だが、本当に問題があるのは俺や総裁殿の方だ。今でも俺や総裁殿は愛した相手を忘れられずにいる。それこそ他の相手との恋愛など考えたくもないぐらいにね」

 

 ……駿我さんの言葉に僕は覚えがあった。

 現に僕がそうだ。僕はあの日のお父様の顔が忘れられずにいる。

 唯一の例外は今のところ良く似ている小倉さんだけ。それ以外の女性には、性的興奮を覚えた事は一度も無い。

 成長して綺麗になったルミねえも含めて。

 

「だから、君達も好きな相手が出来た時は気をつけた方が良い。まぁ、俺の考えが間違っているかも知れないが」

 

「いや、今の駿我さんの意見には同感させて頂く。何故なら夫がそうだからな。私の夫は私以外の女性に興味がない」

 

「フッ、羨ましいね。惚れた相手と歩めるというのは」

 

 お母様と駿我さんは楽し気に会話をしている。

 ……何となく疎外感を感じた。やっぱりこういう場では、昔話がある方が良いと分かる。

 現に今も、離れた場所ではアンソニーさんとお父様が楽しそうに笑いあっている。

 

「こうして久方ぶりに会うが、やはり遊星君達家族は仲が良くて良いな。俺も息子と仲良くしたいのだが」

 

「やっぱりまだ壁がありますか?」

 

「うむ。何とか話をしようと色々としているんだが、『晩餐会』に呼んでも来てくれないんだ。だが、俺は諦めないぞ! 何時か遊星君達家族のような関係を息子と築いて見せる!」

 

「応援しています!」

 

 あちらはあちらで楽しそうだ。

 出来れば僕もルミねえやメリルさんと会話したいけど、今は二人ともひいお祖父様と大奥様の話し相手をしている。

 伯父様ならと思って周りを見回してみる。

 

「……アレ?」

 

「どうされました、お兄様?」

 

「伯父様の姿が何処にもない?」

 

「えっ? ……あっ、本当ですね。何時の間にいなくなったんでしょう?」

 

 アトレも気がついたように、会場内を見回すが、伯父様の姿は何処にもなかった。

 総裁殿は、真星お爺様と金子お婆様と会話をしているようだ。

 駿我さんとアンソニーさんの父親である富士夫おじ様は一人で黙々と食事をしている。

 僕とアトレが探している衣遠伯父様の姿は、『晩餐会』の会場の何処にもなかった。

 ……可笑しい。家族を大事にする伯父様なら、あまり会えないお父様との会話を楽しむと思っていたのに。

 

「本当に何処に行ったんだろう?」

 

「お父様に聞いて来ますか?」

 

「……いや、良いよ、アトレ。伯父様がいないのは寂しいけど、あの人は今回の『晩餐会』の準備をしていた筈だから、きっと忙しいのさ」

 

 正直に言えば、伯父様と楽しく会話したかったが、居ないのならしょうがない。

 僕とアトレは伯父様が用意した『晩餐会』の食事を楽しむ事にした。

 あっ! 美味しい!

 流石は伯父様! 食事がとても美味しいです!

 そのまま僕らは食事を楽しんだり、時には手が空いた人と交流して『晩餐会』を楽しんだ。

 

「では、食事もそろそろ終わりましたし」

 

 楽しい時間が過ぎるのは早かった。

 『晩餐会』に未だ姿を見せない伯父様を除いて参加した全員が用意された席に着席し、総裁殿が『晩餐会』の終わりを宣言しようとする。

 ……結局、伯父様は『晩餐会』が終わるまで戻って来なかった。

 本当に今日はどうしたんだろう?

 

「本年度初めての『晩餐会』はこれにて終了と……」

 

「お待ち下さい、総裁殿」

 

「えっ?」

 

 総裁殿が『晩餐会』の終わりを告げようとした瞬間、右脇に何かの資料と白い布に包まれた四角い何かを持った伯父様が姿を現した。

 今まで何処に行っていたんだろう?

 僕と同じ事を会場内に誰もが思ったのか、全員の視線が衣遠伯父様に向いている。

 ……いや、良く見てみれば、お父様とルミねえだけは何かを決意しているかのような顔をしている。

 そう言えば、伯父様は『晩餐会』前に二人と一緒に何かを話していた。もしかしたらこれからソレが始まるのかも知れない。

 

「『晩餐会』の終了宣言を暫しお待ちいただきたい総裁殿」

 

「いきなりなんですか? と言うか、今まで何処に行っていたんです?」

 

「ククッ、少々頼んでいた物の準備に手間取ってしまったので。本日は是非とも大蔵家、そして桜小路家の方々にお伝えしたい事があるのです」

 

「一体なんじゃ衣遠よ? 『晩餐会』が終わる直前に告げる事などあるのか?」

 

「あります、前当主殿。これよりこの大蔵衣遠が報告する事は、大蔵家の方々に不快感を与えてしまいかねない為、『晩餐会』を楽しみにしていた方々の為にこうして終わりまで待っていたのです」

 

「何じゃと?」

 

 うわっ! ひい祖父様の目が険しくなった。

 やっぱりこの人は一線から離れても、大蔵家を築き上げた人だと分かるぐらいに迫力があった。

 だけど、ソレを相手にしようとしている伯父様は、平然と立っている。

 

「……衣遠よ。下らぬ事で我ら大蔵家にとっての大事である『晩餐会』を台無しにすると言うなら、覚悟はあるのだろうな?」

 

「フフッ、前当主殿。残念ながら下らぬ事ではありません。事は大蔵家全員に関わる事なのですから」

 

 伯父様の発言に大蔵家の方々全員が困惑した。

 いや、やっぱり、お父様とルミねえだけは困惑していない。つまり、二人はこの伯父様の行動を事前に知っていたに違いない。

 僕の隣に座っているお母様は、予想外の事態に最初は驚いていたようだけど、今はこのやり取りを楽し気に見ている。

 流石は僕のお母様! その誇りと余裕が素晴らしいです!

 

「……衣遠君? 聞き捨てならない言葉が出たね? 我ら大蔵家全員に関わる事とは一体何なのだね?」

 

「今説明します、富士夫殿」

 

 伯父様は会場内にいる全員の視線を受けながら、堂々と総裁殿の横に立った。

 

「では、大蔵家、そしてこの『晩餐会』に来てくれた桜小路家の方々に宣言させて頂きます。この大蔵衣遠! 先日養子を取らせて頂きました!」

 

 誇るように伯父様は僕ら全員に宣言した。

 その宣言に、会場内にいる誰もが固まった。

 ……えっ? 今伯父様はなんて?

 養子を取った? 伯父様が!?

 

「なっ!? 何じゃと!?」

 

 いち早く伯父様の発言に我を取り戻したのは、『家族主義』のひい祖父様だ。

 だけど、その顔は烈火に染まったが如く、真っ赤になっていた。

 ひい祖父様は確かに家族主義だが、その『家族』に対してねじ曲がった考えを持っている方!

 そんな方の前で、養子なんて発言をしたら伯父様は!

 

「血迷ったか! 衣遠! 養子を取るなどと!?」

 

「正確には違います、前当主殿。養子を取った(・・・)です。既に書類関係は全て終え、この大蔵衣遠には子供がいる事に書類上はなっています」

 

「なななななななっ!? 何じゃと!? 貴様!!」

 

 ひい祖父様は怒りに満ちた声を上げながら立ち上がり、伯父様を睨んでいた。

 ……僕は正直ひい祖父様の姿が怖かった。

 ルミねえに頼んで、こんなに怖い人の手を借りようとしていたのかと後悔している。

 だけど、怒りを向けられている伯父様は余裕に満ちた顔をして立っていた。

 

「衣遠! やはり貴様には『家族』の大切さが分かっていないようだな! 十数年前は見逃したが、今回の件! 覚悟は出来ているのだろうな! 大蔵の血を引かぬ者に大蔵の名を与えるなど断じて認めんぞ! 儂の力で即刻そんな決定は取り消し! 貴様を破滅させてやる!」

 

 此れは本気でひい祖父様は怒ってる。

 このままじゃ伯父様が!?

 僕は心配になって伯父様に顔を向けるが、伯父様は余裕に満ちた笑みを浮かべていた。

 

「ククッ、前当主殿。落ち着いて下さい。貴方は今言いましたね。『大蔵の血を引かぬ者に大蔵の名を与えるなど断じて認めんぞ』と?」

 

「そうだ! なのに貴様は大蔵の血を引かぬ者に大蔵の名を!」

 

「早合点しないで頂きたい。私が何時大蔵の血を引かぬ者を養子にしたと言いましたか?」

 

「……何? ど、どういう事じゃ? ま、まさか……」

 

「私が養子にした相手は血を引いています。大蔵の血を確かに!」

 

「なっ!?」

 

 伯父様の発言に、会場内にいる大蔵家の面々だけではなくお母様も驚いた。

 僕も驚いている。伯父様が養子を取った事にも驚いたが、その相手が大蔵の血を引く相手だったなんて!?

 

「信じられないでしょうが、これは事実です。私が養子にした相手との鑑定は、前当主殿。貴方の娘であるルミネ殿に協力をして頂きました」

 

「お父様。衣遠さんの言葉は本当です。私も鑑定の際に同席し……確かに親族関係だと鑑定の結果が出ました」

 

「ル、ルミネ……事実なのか?」

 

「はい。間違いなく、衣遠さんが養子にした相手は、私と同じ、大蔵の血を引いてます」

 

 ルミねえの同意の発言に、会場内が静まり返った。

 これが他の大蔵家の人だったら、ひい祖父様は疑ったかも知れないが、規則至上主義で愛娘であるルミねえの発言では疑う事は出来ない。

 そうか。伯父様はこの為にルミねえと一緒に『晩餐会』前に行動していたんだ!

 

「会場内にいる方々には突然に新たに大蔵家の血を引く者がいると知って驚きでしょう。ですが、当然です。その相手は誰にも知られる事なく産まれてしまった大蔵家の人間。ある大蔵家の人間が使用人に手を出し、産ませてしまった子なのですから」

 

 お母様が僅かに不快そうに眉を顰めた。

 僕もちょっと気分が悪い。愛されて産まれた僕と違い、その人物は恐らく妾の子として産まれたんだろう。

 だけど、伯父様は僕の想像以上の事を語り出した。

 

「産まれたその子は、親に認知される事なく育てられ、母と共に使用人となるように育てられていたのです」

 

「……衣遠。事実なのか?」

 

「まさか、そんな!?」

 

 真星お爺様と金子お婆様は、何かを苦悩するように伯父様に質問した。

 伯父様は深く頷き、二人は顔を蒼褪めさせる。

 

「しかし、事の発覚を恐れた父親は、その者の母の死後に家から子供を追放。そのまま子供は居場所も無く転々と場所を変える生活を営んでいました。唯一受け入れてくれたと思われたとある屋敷からも、隠していた秘密が露見し追い出されたとの事です」

 

「……そんな酷い事が。衣遠さん? その方は無事なのですか?」

 

「ご心配なくメリル殿。確かに精神状態は悪いですが、今は私が依頼した護衛役と共に過ごしています」

 

「良かった……衣遠さん。その方には居場所が必要なのですね? 自分がいると思える居場所が? だから、貴方はその人を養子に取ったという事でしょう?」

 

「その通りです。大蔵家の方々には事後報告になってしまったのは申し訳なく思いますが……一刻の猶予もないとこの大蔵衣遠は判断しました。あのまま居場所も無いままでいれば……最悪自殺するほどに精神が追い込まれていましたので」

 

「ッ!? ……其処まで追い詰められているなんて」

 

 メリルさんは辛そうに顔を歪め、両手でそのまま顔を覆ってしまった。

 ……僕も悲しくなって来た。自殺したくなるほどに追い込まれている人がいるなんて事実が。

 現に僕の横にいるアトレが、涙を流しそうになっている。

 優しく僕はアトレを撫でた。

 すると、お父様が椅子から立ち上がり、ひい祖父様に声を掛ける。

 

「前当主様。どうか衣遠兄様の養子を御認め下さいませんでしょうか?」

 

「遊星。しかし」

 

「僕も似たような生まれです。前当主様はご不快に感じるでしょうが、大蔵の血を引くならば僕らは家族となれます」

 

「前当主殿。事後報告になってしまった事は深くお詫びいたします。ですが、どうか我が娘となる者の為にもお願いいたします」

 

「む、娘じゃと!?」

 

 娘と聞いたひい祖父様は動揺したように、頭を深く下げている衣遠伯父様を見つめた。

 ……そうか。衣遠伯父様の養子の相手は娘なんだ。

 どんな人なんだろうと僕が考えていると、黙って話を聞いていた駿我が伯父様に顔を向けた。

 

「衣遠。お前はどうやって養子の相手の素性を知った? 今の話が事実なら、その相手の素性はそう簡単に分からない筈だが?」

 

「それは全て総裁殿のおかげ」

 

「はっ? ……えっ? 私?」

 

 いきなり自分が関わっていると言われた総裁殿は、困惑したように衣遠伯父様に顔を向けた。

 伯父様はゆっくりと右脇に抱えていた資料を手に取り、総裁殿の前に置いた。

 

「報告が遅れて申し訳ありませんでした、総裁殿……件の人物、発見いたしました」

 

「……えっ? えっ? ええ? えええええええええええええっ!?」

 

 突然、総裁殿が悲鳴を上げて資料と衣遠伯父様の顔を何度も見比べた。

 

「まっ! まっ!? まさか!?」

 

「鑑定の結果も一致しています。総裁殿。ご報告するのが遅れて申し訳ありません」

 

「みぎゃあああああああああああああああっ!?」

 

 会場内に総裁殿の悲鳴が木霊した。

 今まで僕が一度も聞いた事がない悲鳴。その相手は目の前にある資料を慌てて抱き締めると、伯父様を睨みつける。

 

「か、隠していましたね!」

 

「隠すなど。ただ私は大蔵家の為に最善の方法を取っただけです」

 

「よ、選りにも選ってこんな場所で、しかも!?」

 

 何だろう?

 突然総裁殿はお母様に視線を向けた。

 件のお母様は慌てる総裁殿を楽し気に見ている。

 僕もちょっと嬉しかった。こんなに慌てる総裁殿は見た事が無いから。

 

「総裁殿。何を慌てているのですか? さぁ、その資料を大蔵家の方々に御見せして私の養子の件の正当性を示させて頂きたい」

 

「いやいや! 駄目です!! これだけは絶対に見せられません!」

 

「ふぅ、それは困る。このままでは我が身だけではなく娘までもが前当主殿に破滅させられてしまう」

 

「現当主として宣言します! 件の人物を大蔵衣遠の養子として認めます! はい! 『晩餐会』終了! 今すぐ全員退出です!!」

 

「待ってくれ、りそなさん。流石にそんなのでは納得出来ない。俺にも見せてくれないかな。その資料を」

 

「俺も俺も! それには衣遠の娘になる子が載っているんだろう? 見せてくれよ、従兄弟殿」

 

「あっ、僕もお願い、りそな。お兄様の子ってどんな子かな!」

 

「私も是非拝見したいです!」

 

 大蔵家の方々は総裁殿に語り掛ける。

 だけど、総裁殿は断固として資料を見せないと言わんばかりに強く抱き締める。

 

「ぜ、絶対駄目です! こ、この資料だけは見せません」

 

「総裁殿。どうかお願いする。このままでは私と娘が破滅してしまう。ククッ!」

 

「こ、この兄!? に、憎しみで人が殺せたら!」

 

「おやおや。では資料が駄目なら私の口からその相手の名を告げるとしましょう!」

 

「なっ!?」

 

「我が子の名は!」

 

「ひぎゃああああああああああっ!!! 止めて止めて!! この場でだけはお願いしますから、止めて下さい! お兄様!!」

 

 あっ、遂に総裁殿に泣きが入って来た。

 何時も僕に嫌味を言って来るので、困っている総裁殿を見ているだけで胸がスッとして来る。

 こんな光景を見れる日が来るなんて!

 ありがとうございます、大好きな伯父様!

 

「おい、りそな。大蔵家の面々が駄目なら私ならどうだ? 夫の親戚に加わる相手の顔が見たい」

 

「絶対駄目! こ、こんな資料があるから!!」

 

 総裁殿は突然資料を抱くのを止めて、紙を破き始めた。

 ビリビリと資料を破いて行き、紙くずが床に落ちる。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、これでもう誰にも見られません」

 

「クククッ!!」

 

「この上の兄は!? 後で覚悟しておくんですね!」

 

「……フフッ、見ての通り資料は総裁殿が駄目にしてしまいました。申し訳ありません、前当主殿。ですが、我が娘の顔だけでも見ていただきたい!」

 

「……えっ?」

 

 伯父様の発言に総裁殿の顔が青ざめた。

 だけど、伯父様は構わずに右脇に抱えていた白い布で覆われた四角い何かを、テーブルの上に置いて皆に見えるようにした。

 

「さぁ! どうぞ! 我が娘の顔を! 御覧……」

 

「さ、させません!!」

 

 すぐ傍にいた総裁殿が伯父様の手から白い布に覆われた物を奪った。

 そのまま総裁殿は奪った物を大切そうに抱き締める。

 

「ぜ、絶対にさせません!! この場でだけは絶対に見せる訳にはいかないんです!」

 

「おやおや。では最終手段を取らせて頂こう。総裁殿。貴女は忘れている。今日の会場の準備を誰がしたのかを。その写真ならば、傷は少なかっただろうに……俺だ。やれ」

 

 スーツの上着から携帯を取り出した伯父様は、手早く何処かに連絡を取った。

 同時に会場の扉が開き、メイドが二名入って来て壁際に移動を始めた。

 伯父様は一体何をやるつもりなのだろう?

 ワクワクする気持ちで僕が待っていると、壁際に移動した二人のメイドが其処にあった紐を引き、何かが下に向かって広がった。

 

「ご覧ください! 大蔵の名を得た事で得た名は、『大蔵朝日』!! これぞ我が娘の姿!!」

 

 会場内にいる全員に見えるように、その光景は広がった。

 寂しげな顔をしながら左手で髪を押さえ、枯れ葉が茂っている木を見上げるメイド服を着た黒髪の女性。

 一つの芸術が僕らの前に広がった。憂いと悲しさで満ち溢れたその顔を僕は忘れない。

 この人は!?

 

「ほげえええええええっ!?」

 

 突然総裁殿が絶望に満ちた悲鳴を上げ、そのまま背後に椅子ごと倒れ伏した。

 同時に僕のすぐ傍で勢いよく何かがぶつかる音が響いた。

 僕とアトレが顔を向けてみると、お父様が顔をテーブルに叩きつけていた。

 他の大蔵家の面々も、呆然と壁に広がった女性が写っている写真を見つめている。

 

「ま……さ……か」

 

「……おいおい。この子は確か?」

 

「……朝日さん? えっ? この人が衣遠さんの養子?」

 

 ……今メリルさんは確かに朝日さんって言った?

 じゃあ、やっぱりこの写真に写っているのは!?

 

「小倉さん!?」

 

「お兄様! 確かに小倉さんです!! 何であの人の写真が!?」

 

 僕とアトレは驚いた。

 それと共にまたすぐ傍でぶつかる音が響いた。

 一体何事かと見てみると、お父様が今度は背後に椅子ごと倒れて転がっていた。

 

「お父様!!」

 

「大丈夫ですか、お父様!?」

 

「……お……兄様……こ、これは……どういう……事ですか?」

 

 小さな声でお父様は何かを呻いている。

 もしかして頭をぶつけてしまったのかと心配になり、アトレと二人で介抱する。

 ……そう言えば、お母様は?

 

「………」

 

 呆然と。それこそこれまで一度も見た事が無いような顔をして、お母様は壁一面に広がる小倉さんが写っている写真を見ていた。

 魂が抜け落ちたような顔をして、お父様が倒れた事にも気がつかずに、ただジッと小倉さんの写真を見ている。

 

「……衣遠よ」

 

「何でしょうか、前当主殿?」

 

「この娘が大蔵の血を引くのは間違いないのか?」

 

「はい。先ほど述べましたが、ルミネ殿との鑑定結果が一致したのは……彼女です! 前当主殿! どうか彼女の大蔵家の入りをお願いします!」

 

「ま、待ちたまえ! い、衣遠君! 勝手に話を進められては!」

 

「黙れ、親父」

 

「ヒィ! す、駿我?」

 

 一度も聞いた事のない怖い声を駿我さんが出した。

 その声を聞いた富士夫おじ様は悲鳴のような声を上げて、縮こまった。

 駿我さんは実の父親の様子になど構わず、腕を顔の前で組みながら衣遠伯父様を睨みつけている。

 その目は偽証は許さないという意思が込められているのが、離れている僕にも分かるぐらいに鋭かった。

 

「……衣遠。質の悪い冗談だったら潰すぞ?」

 

「ククッ、冗談? この『晩餐会』でその様な事が出来る訳があるまい」

 

「なら……本当に?」

 

「いる。間違いなく我が娘はいる。『大蔵朝日』。いや、旧名『小倉朝日』は実在している」

 

 真剣なやり取りをしている二人の姿を僕が見ていると、叩く音が僕の耳に聞こえて来た。

 音の方を見てみると、お母様が何かを堪えるように何度も両手でテーブルを叩いていた。

 

「お、お母様?」

 

「大蔵衣遠!! 良くも! 良くも朝日の名を! 大蔵などに!?」

 

 ……こんなお母様を見るのは初めてだった。

 怒りを発散するかのようにテーブルを叩いている。

 お父様はまだ呻いているし、どうしたら良いのかと悩んでいると、伯父様が僕に声をかけて来た。

 

「才華」

 

「は、はい、伯父様!?」

 

「お前は会っただろう? 小倉朝日と?」

 

「……はい。僕らが帰国した次の日まで桜屋敷に小倉朝日さんはいました」

 

『なっ!?』

 

 僕の証言にお母様と何とか立ち上がろうとしていた総裁殿が愕然とした顔をした。

 伯父様はその二人に勝ち誇った笑みを浮かべる。

 

「ククッ、これで分かっただろう、駿我。小倉、いや、我が娘である『大蔵朝日』は実在している。何だったら、今護衛役をしている相手に、写真を撮って送って貰うとするか?」

 

「……いや、必要ない。才華君の証言だけで充分だ。そうか、いるのか。彼女が」

 

 駿我さんは何かを確かめるように呟いている。

 ……小倉さんを知っているのだろうか?

 いや、もしかして駿我さんが知っているのは、小倉さんのお母さん。『小倉朝日』さんの方なのかも知れないけど。

 ゆっくりと駿我さんは組んでいた腕を解き、伯父様に何時もの顔を向けた。

 

「分かった。大蔵家の次男家は、小倉……いや、大蔵朝日さんのお前への養子入りを認めよう。良いな、アンソニー」

 

「う~む。正直俺は戸惑っているが、兄上がそういうなら俺も賛成だ」

 

「私もです。これも神が与えた運命。あの朝日さんに似た人が苦しんでいるのなら、私は助けたい。これからは私達が彼女の家族です」

 

「ククッ、感謝する」

 

 勝ち誇った笑みを浮かべながら、伯父様は頭を下げた。

 その伯父様に今度は金子お婆様が話しかける。

    

「……衣遠。この方はいるのですね?」

 

「はい、母上。嘗ての遊星のような境遇にあります」

 

「……これで私がした事が赦されるとは思えませんが、良いでしょう。この大蔵金子も養子入りに賛成します」

 

「私もだ衣遠。彼女とは何れ会ってみたい」

 

「必ずや会わせる事を約束しましょう」

 

 これで大蔵家の大半が小倉さんの養子入りを納得した。

 後の問題は、ひい祖父様だけ。

 

「……此処まで他の者が彼女の家族入りを認め、どのような形にしても現当主であるりそなも認めているのならば、認めざるをえないか」

 

「では」

 

「だが、その件の彼女がこの場には来ていない。これから家族となると言うのに」

 

「それに関しては今は療養中と説明した筈ですが」

 

「分かっておる。お前への養子入りは儂も認めよう。だが、大蔵の名を名乗る事を赦すのは直に会って確かめてからだ」

 

「……では、一年後の『晩餐会』までお待ち下さい」

 

「良かろう。一年後の楽しみが出来た。では、りそな」

 

「……は、はい。それでは……『晩餐会』を終了といたします。もう休みたい。何もかも忘れて」

 

 今まで見た事が無いぐらいに総裁殿は、憔悴しながら会場を出て行った。

 僕らも呻いているお父様を連れて出ようとするが、その前に伯父様が床に落ちていた白い布が巻かれている四角い物を拾い上げ、いまだに椅子に座ったままのお母様に近づく。

 

「桜小路。今年は良く来てくれた。ククッ」

 

「大蔵衣遠! 一度ならず二度までも、私から朝日を!?」

 

「ククッ、流石は桜小路。貴様にはやはり分かるようだ。だが、本人が会いたくないと言っていたのでな」

 

「なっ!? そ、そんな……朝日が私に会いたくないなどと……あ、あり得る筈が……」

 

「クハハハハッ! また、来年も来るが良い! その時は正式に『大蔵朝日』となった我が娘に会わせてやろう! これは餞別だ!」

 

 伯父様は勝ち誇りながら白い布を取り払い、額縁に飾られた小倉さんの写真をお母様の目の前に置いた。

 

「では、俺は総裁殿に話があるので失礼する。桜小路。今日は楽しかったぞ。クハハッ!!!」

 

 伯父様は笑いながら部屋を出て行った。

 僕はアトレと共にその背を見送り、もう一度お母様に顔を向け、すぐに目を逸らした。

 お母様の顔は今まで見た事が無いぐらいに怒りに染まり、小倉さんの写真が入った額縁を握りつぶさんばかりに持っていた。

 ……小倉さん。貴女は一体何者なのでしょうか。

 僕はいますぐに貴女の事が知りたいです。




因みに展示された朝日の写真のイメージは、『乙女理論とその周辺』のパッケージで出てる朝日を憂いを帯びた表情にして鞄無しで、横から撮っている感じです。
取ったのは衣遠の部下(写真家志望)で、朝日を監視していた時に撮ったものです。
今回の正確な顛末を朝日が知ったら、多分数日間罪悪感で寝込んでアメリカに行って土下座をやるでしょう。

人物紹介

名称;大蔵駿我(するが)
詳細:『乙女理論とその周辺』で出て来る大蔵家の次男家の長男。大蔵グループ米国支部を管轄する管理主義者。嘗ては衣遠を相手に当主争いを繰り広げていたが、今は悠々自適に暮らしている。実の父親である富士夫が妾に産ませた子を引き取って育てているが、本人は独身。今だに十数年前にパリで出会ったとある女性の事が忘れられないでいる。米国の担当者なので、才華達とはそれなりの付き合いをしていた。

名称:大蔵アンソニー
詳細:駿我の異母弟。大蔵家のムードメーカー。二年前に息子を認知したが、その息子との関係は旨く行っていない。何とか息子と和解出来ないかと悩んでいる。


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一月上旬(才華side)6

今回は何時もの半分ぐらいになってしまいました。
理由は、この辺りで切りが良かったからです。
これ以上話を進めちゃうと、一月下旬まで才華sideを続けないと行けなくなってしまうので。『晩餐会』の事後までとなりました。
次回からはまた遊星sideに戻ります。

烏瑠様、kcal様、Layer様、Nekuron様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

「……一体何があったんですか?」

 

 『晩餐会』が終わった後、僕らはお父様とお母様を連れて大蔵本家に用意されていた控室に戻って来た。

 控室の中には、お父様とお母様と共にアメリカからやって来た九千代の叔母である八千代もいた。

 八千代は戻って来たお父様とお母様の姿に、目を見開いて驚いていた。

 ……僕も驚いている。

 小倉さんの写真を見て呻いていたお父様は、何とか我を取り戻せた。

 ……それでもちょっと青い顔をしたままだが。問題はお母様の方だ。

 『晩餐会』の会場では怒りに燃えていたお母様だが、小倉さんの写真を見ている内に様子が変わって行った。

 何時も誇り高く凛としているお母様が、椅子に座り込んで憔悴し切った顔で小倉さんの姿が写っている写真を見つめている。

 

「……朝日。間違いなく朝日だ……だが、私の知っている朝日はこんな暗い顔をした事は無い。一体何があったんだ、朝日」

 

「……ル、ルナ。と、取り敢えずその写真を仕舞おうよ」

 

「……嫌だ。もっと見ていたい……朝日」

 

 顔を蒼くしながら声をかけるお父様に構わず、お母様は大切そうに写真に写っている小倉さんの顔を撫でている。

 ……そんなに小倉さんの顔は、母親である『小倉朝日』さんに似ているのだろうか?

 

「……大蔵君。何て質の悪い冗談を『晩餐会』で行なったんでしょうか? 小倉さんが若いままで姿を現す訳がないのに。だって、あの人は……」

 

 八千代の言う通り。

 『小倉朝日』さんがお母様の傍にいたのは十数年前。どう考えても八千代の言う通り、当時の姿で現れる訳が無いのに。

 ……だけど、お母様は小倉さんを朝日と呼び続けている。

 ……伝える時は今しかないのかも知れない。僕が小倉さんに聞いた話を。

 

「あの……お母様?」

 

「……何だ、才華?」

 

「その人はお母様が知っている小倉朝日さんじゃなくて、娘の小倉さんだと思います」

 

「……娘? 朝日の娘だと?」

 

 お母様はゆっくりと顔を上げて、何故か僕ではなくお父様を睨みつけた。

 後、八千代も何故か険しい視線をお父様に向けた。

 二人に睨まれたお父様は必死になって首を横に振る。

 その姿にお母様と八千代は安堵の息を吐いた。

 ……今のやり取りは何だろう?

 意味が分からなかったけど、僕は話を続ける。

 

「僕とアトレが帰国した当日に小倉さんは桜屋敷にいたんです」

 

「ほ、本当なの、才華? そ、その人は本当に『小倉朝日』って名乗ったの?」

 

「はい。お父様。私もお兄様と同じように聞きました。ちょっと変わっているところがある方でしたけど、良い人でしたよ」

 

「か、変わっているところって、何かな?」

 

「綺麗な人なのに、何故かそれを指摘すると顔を両手で覆って恥ずかしそうにしていたんです」

 

「ルミねえも同じように綺麗な人って言ったら、廊下で倒れたりしていました」

 

「そ、そう……えっ? まさか、本当に」

 

 急にお父様は小声になって考え込んでいる。

 何か今の言葉に引っかかる事でもあったのだろうか?

 気になるけど、今は話を続けないと。

 

「それで話を続けますけど、僕はその日の夜に小倉さんと話をしたんです。その時、小倉さんが言っていたんです。自分は『小倉朝日』の娘だって。訳があって本名が名乗れなくて、母親の名前である『小倉朝日』を名乗っているとも言っていました」

 

「……他に何か言っていたか、その朝日は」

 

「……桜屋敷に来る前に勤めていた屋敷を追い出されたと言っていました。自分には最初からその屋敷に勤める資格は無くて……大切な主人の人生に消えない傷をつけかけた事を後悔していました」

 

「……まさか。いえ、そんな事があり得る筈が」

 

「八千代。私は少なくとも才華とアトレが嘘を言っているとは思えない」

 

 ゆっくりとお母様は椅子から立ち上がり、大切そうに小倉さんの写真を脇に抱える。

 その姿には先ほどまであった憔悴した様子は見えない。お母様は力を取り戻したようだ。

 

「未だ混乱している部分はあるが、少なくとも『小倉朝日』を名乗る何者かが居て、その人物の姿は私が知る『小倉朝日』と瓜二つなのは間違い無いようだ。そしてあの大蔵衣遠は、自分の娘として『大蔵朝日』にしようとしているのは間違いない。そのような事を、私は断じて許しはしない」

 

「い、いやだけど。本当にいるのかな?」

 

「いる。この写真が証拠だ、夫。私は当時の朝日の写真を全て大切に保管しているから分かる」

 

「えっ? そんなの僕は知らなかったけど?」

 

「当然だ。大切な思い出だからな。で、話を戻すが、その写真の中にこんな暗い顔をした朝日の姿は一枚もない。この写真は最近撮られたものに間違いない。今すぐ桜屋敷に戻れば全ての事実を知っているだろう壱与から真相を聞けるのだろうがそんな時間は無い」

 

「お母様? 時間が無いというのは?」

 

 普通に急いで屋敷に戻って壱与から真相を聞けば良い。

 僕らが聞いても教えてくれなかったけど、お母様とお父様が聞けば壱与はきっと教えてくれるだろう。

 だけど、お母様の考えは違った。

 

「何よりも優先すべきなのは、朝日の確保だ。このままでは朝日は『大蔵』などと言う気持ち悪い名字を名乗る事になってしまう。そんなのは絶対に嫌だ」

 

「あの、ルナ。大蔵って僕の実家なんだけど」

 

「夫の名字は桜小路だ……私も甘かった。あの大蔵衣遠こそ、私の不俱戴天の敵だった。そうだ。何故忘れていたんだ。あの男が私や朝日にした事を……今度こそ朝日を渡しはしない」

 

 お母様は何かを決意するように呟いている。

 小声のせいで良く聞こえないけど、お母様はやる気になっている。

 もしかしたら小倉さんにまた会えるかもしれない!

 

「才華?」

 

「は、はい!」

 

「朝日の手掛かりは何かないか? あのお前やアトレに甘い大蔵衣遠の事だ。何か情報を漏らしているかも知れない」

 

「……行先は分かりませんけど、小倉さんは外国にいると思います。伯父様が故郷の国に帰ったと言っていましたから」

 

「故郷? 朝日の故郷? ……そうか。この朝日がそうなら……あの国しかない!」

 

「行先に覚えがあるんですか、お母様!」

 

「恐らくだが、今朝日がいる国はあの国以外にあり得ないだろう。彼女……の母親から故郷を聞いた事がある。よし、運が向いて来たぞ! 八千代!」

 

「は、はい、奥様!」

 

「予定を変更だ! 今すぐイギリスに向かうぞ!」

 

「えっ!? お、奥様! お待ち下さい! 確かご予定ではイギリスに向かうのは、明後日の筈です! 明日は一日家族揃って桜屋敷で過ごすという予定だったではないですか!?」

 

 そうだったのか。

 僕もお母様やお父様と一緒に桜屋敷で過ごしたい。

 ……でもそれ以上に小倉さんに僕は謝りたかった。

 そんな僕の手をアトレがゆっくりと握ってくれて、顔を向けると頷いた。

 

「……お母様。行って下さい」

 

「才華?」

 

「……僕はどうしてもあの人に謝罪したい事があるんです。だから、行先に覚えがあるなら行って構いません」

 

「私もです。小倉さんがお屋敷を出たのは、お兄様を叱ったからですし」

 

「えっ? 才華を叱った?」

 

「はい。お父様。お兄様が無理な事をやろうとしたら、叩くふりまでして屋敷の皆の前で叱ったんですよ。多分小倉さんは叱る時に屋敷を出る覚悟を決めていたんだと思います」

 

「ほう……夫。凄い覚悟を持っているな。才華を叱った朝日は。夫にもそれぐらいの厳しさを持って欲しい。少々夫は才華に対して過保護だと私も思っていた」

 

「うっ……確かにそうかも知れないけど」

 

 困ったようにお父様は呟いた。

 僕自身もお父様は過保護だと感じている。現にフィリア学院に入学出来なかった事を報告した時に、お父様は自分も日本に来ると電話で言ってきた。

 僕の事が大好き過ぎて困った人だ。勿論、日本に滞在されると困るので拒否したが。

 ……思えば僕は余りお父様に強く叱られた事がなかった気がする

 その辺りが小倉さんとお父様の違いかも知れない。

 確かに二人は良く似ているけど、別人だと僕は思えた。

 

「八千代。とにかく急いで車を回せ。あの大蔵衣遠は、『晩餐会』での様子から見て、今日はりそなとの話で余裕がない筈だ。私達がイギリスに行く準備をしていた事を奴は知らない。今しかない。奴を出し抜いて朝日に会うチャンスは!」

 

「ですから、冷静になって下さい、奥様! 常識的に考えて小倉さんがいる筈がありません! 良く似た別人を使って大蔵君が質の悪い冗談を言ったとしか私には思えません! そのような非現実的な話でご予定を変えるなど認められません!!」

 

「なら、何故りそなはあそこまで慌てていた。特に大蔵衣遠が資料を見せた後は、私の様子を何度も伺って来ていたぞ」

 

 そう言えばそうだ。

 総裁殿は伯父様から資料を渡された後、頻りにお母様を警戒するように見ていた。

 破かれてしまった為に資料の内容はもう分からないけれど、きっと総裁殿はお母様に小倉さんの事を知られたくなかったに違いない。

 其処まで考えて僕は思い出した。総裁殿が伯父様に命じて誰かを探していた事を。

 

「お母様。伯父様が言っていました。総裁殿が半年ぐらい前から誰かを探しているって」

 

「半年前? ……夫、そう言えば半年ほど前にりそなが慌てて電話して来た事があったな?」

 

「う、うん。電話に出たら、ちゃんとアメリカに居るって分かって、酷く安堵していたのを覚えているよ。どうしたのって聞いたら、何でもないって言って切られたけど」

 

「……やはり、朝日はいる。この酷く弱っている朝日が間違いなく。八千代。急げ!」

 

「もう!! ハァ~、分かりました、すぐに準備をいたします。才華様とアトレ様に関しては、桜屋敷にいる壱与に迎えに来て貰えるように手配いたします。大蔵君も本当に困った事を」

 

「では、才華、アトレ。急な別れになってしまったが、約束する。必ず朝日を見つけて見せる」

 

「お母様……お願いします」

 

「うん。行くぞ、夫!」

 

「ま、待ってルナ!」

 

 お母様は大切そうに小倉さんの写真を抱えながら、八千代とお父様と一緒に部屋を出て行った。

 どうか二人が小倉さんを見つけてくれる事を、僕はその背に願った。

 ……あっ。お母様に小倉さんの写真を貰うのを忘れた。

 あの写真、綺麗だったから、僕も欲しかったのに。

 後で伯父様に頼んでみよう。

 

 

 

 

 お父様とお母様が八千代と共に出て行った事で予定が変わった僕とアトレは、控室で壱与が桜屋敷から迎えに来るまで待っていた。

 すると、ノックの音が響き、部屋の外で待機していた九千代の声が扉の向こうから聞こえて来た。

 

「若。ルミネお嬢様がお見えになりました」

 

「入って貰って良いよ。九千代も、もう部屋に入って良いから」

 

「分かりました」

 

「失礼します」

 

 部屋の中に九千代とルミねえが入って来た。

 ルミねえは入って来ると部屋の中を見回し、お父様とお母様がいない事に気がつく。

 

「アレ? ルナさんと遊星さんは?」

 

「小倉さんを探しに行ったよ」

 

「えっ? 行先を知っているの?」

 

「ルミねえ様は知らないのですか? 小倉さんの居所を?」

 

「うん。知らない。衣遠さんは其処まで教えてくれなかった」

 

 ちょっと僕は驚いた。

 てっきり伯父様に協力しているみたいだったから、小倉さんの居所をルミねえも知っていると思ったのに。

 だけど、今は。

 

「それよりもルミねえ。酷いよ。小倉さんが大蔵家の人間だって知っていたんでしょう?」

 

「その事を知ったのは、才華さんのやろうとしている事に協力する事にした後。私だって衣遠さんから聞いて驚いたんだから」

 

「そうなの?」

 

「そう。今だって此処に来るまでに、お父様とお母様に小倉さんの事を聞かれていたの。ちゃんと鑑定してあの人が大蔵家の人間だって知った時は、私も言葉が出なかった」

 

「じゃあ、本当に小倉さんは」

 

「……大蔵家の血が流れているのは間違いないよ」

 

 ルミねえの言葉に、僕は声も出せなかった。

 あの小倉さんが大蔵家の人間。でも、それだったら納得出来る部分もある。

 思い出してみれば小倉さんは、お父様だけじゃなく総裁殿にも似ている気がする。ルミねえとも何処か似ている。

 『晩餐会』の様子から大蔵家の方々の様子から見ても、小倉さんの姿を見てから急に養子入りに納得していた人達もいたように思える。

 

「……そう言えば、お母様が言っていたよ。小倉さんのお母さんの『小倉朝日』さんは、元々総裁殿の紹介で桜屋敷にやって来たって」

 

「となると、小倉さんのお母さんは元々大蔵家に仕えていたメイドだったのかもね。才華さんの屋敷を辞めた後に、大蔵家に戻って……それで小倉さんを産んで衣遠さんの話の通りになった……嫌な気分になっちゃった」

 

「でも、それだったら納得出来るような部分が私にはあります……この世は諸行無常と言いますけれど、小倉さんを襲った出来事には言葉もありません」

 

 僕はそんな人の心の傷を踏み躙ってしまった。

 後悔の念が湧いて来て、顔が下に俯いてしまう。

 

「……ちょっと暗い話になっちゃったね。ごめん」

 

「いや、良いよ、ルミねえ」

 

「大丈夫です、若! きっと奥様と旦那様が小倉さんを見つけてくれますよ!」

 

 そうだ。

 僕が信頼する両親が小倉さんを探しに行ってくれたんだ。

 きっと見つけてくれるに違いない。

 ……ただ小倉さんの方はどうなんだろう? 小倉さんはお父様とお母様に会うのを嫌がっていたから。

 出来れば見つけて欲しい。

 

「あっ、そうだ。才華さん。暗い話ばかりじゃなくて、一つ朗報があるわよ」

 

「何、ルミねえ?」

 

「此処じゃ詳しく話せないけど、才華さんの雇用主になれそうな人が見つかったんだ」

 

「えっ、本当?」

 

「うん」

 

「良かったですね、お兄様」

 

 小倉さんの事があるから素直に喜べない部分もあるけれど、僕は嬉しかった

 探し始めてからそれなりに経つけど、中々雇用主になってくれる人は見つからなかった。

 元々家事を任せず。服飾のサポートのみで、僕の外見を認めてくれるお金持ちの服飾生。

 家事に関しては伯父様のおかげで専門家の人が僕らのマンションに来てくれるので、僕がやらなくても問題はないが、それでも厳しい条件だった。

 そんな条件の中でも僕の雇用主になってくれる人を、見つけて来てくれた事に感謝しなければならない。

 

「詳しい話は後日、桜屋敷に行った時に話すから」

 

「ありがとう、ルミねえ」

 

「それで例の衣遠さんが貴方とアトレさんに上げたマンションの名前は決まったの」

 

「うん。良く考えて決めたよ」

 

 僕は考えた上で、伯父様から僕らに与えられたマンションの名前を決めた。

 僕が隠している秘密を晒せる楽園。ありのままの姿で皆と過ごせる場所。

 66階の高層マンションの天空にある桜小路才華の庭園。

 

 『La Cerisaie() dens() Ie() ciel』

 

 此れこそが僕の住む場所となるマンションの名前だ。

 何時かこの場所に家族や小倉さんにも来て欲しいと願っている。




人物紹介

名称:山吹八千代
詳細:桜小路家のメイド長。幼少の頃からルナに付き従っているメイド。ルナに対しては姉のように慈しむ献身で仕えている。フィリア女学院では講師を務めていた。朝日の世界では正体を知り、追い出した人物だが、此方の世界では朝日の正体発覚後も受け入れ、寧ろ積極的に遊星とルナの恋愛を後押ししていた。
現在(一月上旬遊星side終了時点)は朝日の身に起きた事を知り、自分なら確かにそうすると判断しているが、同時にルナの恋愛の縁を潰してしまった事も自覚していて、精神的に悩んでアメリカの桜小路家で療養中。朝日が知ったら、即座にアメリカに向かうだろう。

明日の0時に次話投稿です。


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一月中旬(遊星side)7

今回は独自設定が出て来ます。
あの人なら有名になっても、絶対にお金持ちらしい生活はしないと思っていますので。

Nekuron様、黒百合大好き様、荻音様、烏瑠様、獅子満月様、Layer様、誤字報告ありがとうございました!


side遊星

 

『拝啓、私の敬愛する主人である桜小路ルナ様。

 今日はルナ様に一つの決意をお伝えします。

 私は……服飾の道に戻る事を決意しました。

 この決意を聞いたルナ様はどう思われるでしょうか?

 ふざけるなとお怒りになるでしょうか? それとも漸くかと笑われるのでしょうか?

 どちらがルナ様のお答えなのかは、私には分かりません。ですが、たとえお怒りになられるとしても、私の決意は変わりません。

 身勝手な事を言っているのは承知しています。ですが、私はもう一度だけ服飾に挑みたいと思っています。

 道半ばで敗れるかも知れません。今度こそ立てなくなるような事が待っているかも知れません。

 それでも、もう一度だけ前を向いて進みたいと思います。

 思い出した憧れの人の言葉を胸に、私は前へ歩き出します

 

 小倉朝日より、愛を込めて、敬具』

 

 朝早く起きた僕はルナ様への決意の手紙を書き終えた。

 この手紙だけは他の手紙と違い、決意を忘れない為に燃やさずに持っていよう。

 次に父から渡された電話を手に取り、初めて電話を掛けた。

 思えばこれが初めてなのかも知れない。自分の意思であの人に電話を掛けるのは。

 

『俺だ』

 

 数コールもせずに衣遠父様は電話に出てくれた。

 りそなに仕事を押し付けられて忙しいのに、電話に出てくれた事が嬉しかった。

 

『悪いが今は忙しい。用件は手短に話せ』

 

「……衣遠父様。僕は服飾に戻ろうと思います」

 

『ほう。ククッ、我が妹の作品はお前を動かしたか』

 

「はい。とても素晴らしい作品でした」

 

 りそなが描いたデザインから生まれた衣装は本当に素晴らしかった。

 今でもその衣装が脳裏に焼きついて離れない。それに、りそなのおかげで心の中にあった迷いが晴れた。

 もう一度服飾をやりたい。その想いを伝える為に、僕は口を開く。

 

「……衣遠父様。私は貴方の視線が怖かった。貴方の僕を見ているようで、僕じゃない誰かを見ている視線が悲しかったです」

 

『……お前の言う通り、俺はお前を通して我が弟を見ている』

 

「はい、分かっていました。だから、僕はこれから貴方に僕自身を見て貰う為に……挑みます。桜小路遊星に」

 

『……ク、クハハハハ! そうか! 挑むか! 桜小路ルナという天才と共にある我が弟に! それでこそ我が子だ!』

 

 分不相応だとは言われなかった。

 電話越しに楽し気な衣遠父様の笑い声が、僕の耳に届いた。

 

『だが、挑むなどと軟弱な言葉を口にするな。この大蔵衣遠の子なら、我が弟を超えてやると言う気概を見せろ!』

 

「はい!」

 

『ククッ、才華は桜小路ルナを超えると言い。お前は桜小路遊星を超えると言う。やはり心の滾りを感じるぞ。お前が作る作品が楽しみだ。娘よ』

 

「あの、出来れば其処は息子と言って欲しいんですけど」

 

 其処だけは出来れば訂正して貰いたい。

 今後も小倉朝日として過ごさなければならなくなったとは言え、僕の男としての尊厳の為にも。

 

『ククッ、駄目だ。少なくとも前当主が亡くなるまではな』

 

 衣遠父様は僕の切なる願いを受け入れてはくれなかった。

 本当にこれからも小倉朝日として扱われそうで、ちょっと悲しくなって来た。

 

『遊星を超えると言うなら、我が妹に相談しろ』

 

「は、はい。そのつもりですが」

 

 元よりそのつもりでいる。

 桜小路遊星を超えるにしても、具体的な構想はまだ浮かんでいない。ただ漠然とそうしたいと今は思っているだけ。何よりも、確実に衰えてしまっている服飾の技術を取り戻さなければならない。

 ……正直、どのぐらい落ちてしまったのか心配だ。

 プロのサーシャさんにまで、服飾をやっている手ではないと言われただけに、相当落ちてしまってるのは間違いないだろうけど。

 

『俺は才華への協力で忙しい。お前に何かをする事は出来ない』

 

「……いえ、居場所を作ってくれただけで充分です。……お兄様」

 

『何だ?』

 

「思えば僕は、どうして……お兄様が大蔵家のトップを目指していたのか知りませんでした」

 

 今だけは父と呼ばずに、兄としてこの人を呼びたかった。

 今更遅いけど、僕は衣遠兄様と向き合いたくなっていた。

 

「プライドの高いお兄様が、盗作などしてまで桜小路家に協力したとりそなから聞きました。僕は、僕の知るお兄様なら絶対にそんな事をしないと思っていました」

 

『ククッ、それは買いかぶり過ぎだ。あの頃の俺は大蔵の当主の座を得る為ならばどんな事でもしていた。お前をマンチェスターに送り返し、父の慰み者にしてやろうとも考えていた』

 

「……その根幹にある理由を、僕は知りたいです。何故お兄様が大蔵のトップで当主の座を狙っていたのかを。きっとそれを知ったからこそ、桜小路遊星とお兄様は分かり合えたと思うから」

 

『……フッ、やはりお前は遊星だ。本質が全く同じだ。だが、今はそれを語る時ではない。俺はお前自身を見ていないからな』

 

「はい。ですから、僕自身を見てくれるようになった時に教えて下さい。……ありがとうございました」

 

『……次に会う時は、少しは明るい顔が出来るようになっておけ。ではな』

 

 電話が切れた携帯を僕は大切に胸に抱いた。

 昨日までは向かい合う事が怖かった相手と、ちゃんと会話をする事が出来た事が嬉しかった。

 まだ、心の中に怯えは残っている。でも、ちょっとずつでも前に進もう。

 そう思えるようになった自分が嬉しかった。

 

「……久々にりそなに朝食でも作ろう。あっ、でもりそなの今の味の好みを聞いてなかった。僕が知っている好みと変わっていないと良いけど」

 

 

 

 

 朝食を作り終え、寝ていたりそなを起こし、僕らはそのまま食事を取った。

 久々にりそなに食事を作れる事に僕ははりきり、二人で楽しく会話も出来た。

 

「フフッ、妹。幸せです。十何年ぶりに下の兄と食事を二人っきりで取れるんですから。しかも、この生活が後一か月も続く! こんなに嬉しい事はありません。今なら、上の兄がした事も笑って許してあげますよ」

 

「そんな大げさな」

 

「妹にとっては大げさじゃないです。本当に嬉しいですから」

 

 嬉しそうに食べるりそなの様子に、僕も嬉しかった。

 もうこんな楽しい食事は取れないかもと、心の何処かで思っていたのかも知れない。

 だから、今叶わないかもしれない事が叶っている事に、思わず涙が零れてしまう。

 

「ど、どうしました!? 急に涙を流して!?」

 

「ご、ごめん……僕も嬉しくて……情けない兄でごめんね」

 

「……別に気にしていません。貴方はこれまで苦労していたんですから、これからは悲しみじゃなくて喜びの涙を流して下さい。妹、その為なら幾らでも協力しますよ」

 

「うん。ありがとう、りそな」

 

 僕は微笑みながら食事を再開した。

 食べ終えた僕は食器を片付けて行く。

 こうした作業は、りそなの使用人をしていた時よりも手早くなっている。

 余り時間を掛けずに片づけを終えると、りそなと向かい合うようにして座った。

 今後について話す為だ。

 

「先ずは下の兄の現在の服飾技術がどれぐらいになっているのか、確認してみましょう。このパリには幸いにも確認出来る場所に心当たりがあります」

 

「うん。お願いするよ」

 

 先ずは自分の技術の確認が急務だ。

 ただ、自分でも分かっているが余り期待は出来ない。一年も服飾から離れ、プロのサーシャさんからも服飾の手じゃないと宣言された。

 僕の技術は確実に落ちている。いや、それどころか。

 

「……ねぇ、りそな?」

 

「何ですか?」

 

「……この時代って、僕がフィリア女学院に通っていた頃から十数年経っているんだよね?」

 

「はぁ? 何を今更言ってるんです?」

 

「……僕が習っていた事って、今の服飾教育からすれば古い事だよね」

 

「……あっ」

 

 りそなも気がついたみたいだ。

 技術とは日々成長している。だからこそ、学校の教科書とかも毎年変わっている。

 僕がいた時代から十数年も経過しているとなれば、服飾技術もかなり差が出ているに違いない。

 

「……き、基礎的な部分は変わっていませんよ」

 

「……それ以外の部分は変わっているんだよね……どうしよう?」

 

 一番簡単なのは、りそなに服飾の先生を雇って貰う事だ。

 だけど、そうなるとりそなと一緒に居られる時間が少なくなってしまう。

 お父様が仕事をしているおかげで、一か月は休めるだろうが、その後は大蔵家当主としての仕事にりそなは戻らなければならない。

 ……やはり僕がいた頃のりそなとは違う。

 残念ながら僕にはりそなの付き人としての仕事は出来ても、大蔵家当主としてのりそなへの協力は出来ない。

 だから、せめて一か月の休みの間だけはりそなの傍にいて上げたいと思っている。

 此れから更に遅れるのは残念だけど、その考えを告げようと僕は決める。

 

「りそな。僕は……」

 

「下の兄は、フィリア学院に興味はありますか?」

 

「えっ?」

 

 一瞬、言われた意味が分からなかった。

 何故フィリア学院の話題が出て来たんだろう?

 

「……もしかしてパリ校のフィリア学院の事? 確か日本校は男子部が廃止になったけど、他の国のフィリア学院には男子部が残っているんだよね?」

 

「いえ、違います。妹が理事を務めている日本校のフィリア学院の事です」

 

「……正直に言うけど、僕は今のフィリア学院には興味がないよ。僕が『フィリア女学院』に通いたかったのは、ジャンが設立した学校だったから……聞いた話だと今のフィリア学院はジャンが作ったフィリア女学院と全く違うらしいから、興味は無いかな」

 

「本当にないんですか?」

 

「うん。な……」

 

 いや、一つだけあった。

 僕の唯一のフィリア学院の興味。フィリア・クリスマス・コレクション。

 桜屋敷の皆と一緒に頑張ろうと思っていた舞台。それが今も残っている事が嬉しかった。

 ……僕が通っていた頃と内容は大きく変わっているかも知れないが、やはり心惹かれる舞台には違いない。

 黙った僕の様子から察したのか、りそなが質問して来る。

 

「あるんですね?」

 

「うん……フィリア・クリスマス・コレクション。皆と頑張ろうって決めていたから、少しね」

 

「あの舞台でルナちょむとアメリカの下の兄は結ばれましたから、こっちの下の兄も心惹かれるでしょう。で、本題なんですが、下の兄。調査員という事で学生になってフィリア学院に入る気はありませんか?」

 

「えっ? 調査員って何の?」

 

「服飾部門の男女共学化が可能かどうかの、調査を含めた学院内部の調査です」

 

「共学化って? えっ!? ええええええっ!?」

 

 聞かされた話に驚いてしまった。

 と言うよりも、今更何で共学化なんて話が出て来たんだろう?

 その話があるなら才華様もあんな事を考え……止めよう。正直思い出すだけで精神的に辛い。

 

「な、何で今更共学なんて話題が出てるの? それだったら最初から共学の方向で進めてれば良かったんじゃ?」

 

「妹。そのつもりでした。だけど、他の役員達が女学院だった頃からの気風だとか、女子の心情だとか言って共学化を阻んでいるんです」

 

「そうなの?」

 

「そうなんです。何とかアメリカの下の兄の母校である服飾部門の男子部廃止を止めさせようと頑張っていたんですが、全然上手く行かなくて。その上、理事の我儘だとか散々陰口を言われました。だったら、共学ならどうかって言えば、今度は女子の心情があるから駄目だです」

 

「それは……分かるかも」

 

 僕の身近な例で言えば、瑞穂様だ。

 あの方は男性が大嫌いで、傍に男性が近寄るだけで怯えてしまう。

 学院に通う女子全員が同じだとは限らないが、男性がいない方が気が楽だと思う女性は多いだろう。

 

「ぶっちゃけた話、妹、ルミネさんが学院を卒業したらもう理事辞めようかって思ってます。今の学園長とも折り合いが悪いですし」

 

「仲が悪いの?」

 

「やり方が気に入らないんです。あの学園長。特別編成クラスの学生と一般入試の学生の争いを故意に煽って対立させているんですよ。結果的に競争意識が高くなって、卒業生のレベルが上がっていますが……妹。そんなやり方は好きじゃありませんから」

 

「あんまり争うのはね」

 

 家族間の抗争を目にして来ただけに、りそなからすれば争わせるのは気に入らないのだろう。

 僕もその点に関しては同意だ。

 

「それで話は戻しますが、妹の最後の我儘で女子の心情調査の為に特別編成クラスに調査員を一人入学させる事にしたんです。共学化が本当に無理かどうかを確かめる為に」

 

「それって学生である事必要かな? アンケートとかでも良いんじゃ?」

 

「まぁ、その案でも良かったんですが、先ほども言ったように何か学院内で問題は無いか調べるのもあります。例えば教員からの虐めや、学生同士での喧嘩。共学化への心情調査はあくまで序でに近いです。言うなれば、学生視点からの調査員という事です。最近学園長の方針のせいで対立の激化が表面化しつつあるんです。冗談抜きでその対立にルミネさんが巻き込まれでもしたら、お爺様の怒りがフィリア学院に襲い掛かります」

 

「……それは怖いかも」

 

「そうなったら、理事を務めている妹も危ないです。だから、調査員を派遣してどのような問題が起きても事前に察知出来るようにしておきたいんです」

 

「でも、僕、男だよ」

 

「……今の下の兄を見て初見で男性だと思う人物はいないでしょう。実際、妹が知る朝日よりも、貴方のほうが女らしいですよ」

 

 グサッとりそなの言葉が胸に突き刺さった。

 ……りそなと会話出来て、男らしい部分が戻ったと思っていたけど、第三者から見たら女性に見えたままらしい

 顔が自然と俯き、自分でも分からなくなってしまった事をりそなに質問する。

 

「……どうやったら男らしい動きに戻れるんだろう?」

 

「其処まで分からなくなっているんですか!?」

 

「うん。本職のサーシャさんにも女性にしか見えないって言われた。実は男物の服を着ても、全然着慣れなかった。後、イギリスで男物の服を着ていたのにナンパを何度もされた。正直男らしい動きと女らしい動きの違いが、もう僕には分からない」

 

「うわ~。……此処まで朝日になっていたなんて……後、あの鬼畜兄。貴方の戸籍を女性戸籍にしていましたよ。因みにスイスの国籍も得ていました」

 

 ……つまり僕はサーシャさんと同類になってしまったという事だろうか?

 フィリア女学院でサーシャさんが男性だと知った時に羨ましいなどと思ってしまったが、実際になってみると凄く落ち込む。

 

「今回は自分の身の破滅も関わる大事ですから、徹底的に体以外は……いや、あの兄の事ですから、バレたら即日モロッコに送られるかも知れませんね」

 

「凄く怖い……何でこんな事になったのかな?」

 

「……妹。今の貴方を知っていたら、絶対にあんな提案はしませんでした。本当にすみません」

 

 謝られても困る。

 本当にどうやったら男に戻れるんだろう?

 と言うか、戻れる日は来るのだろうか? 最近このままずっと朝日として過ごさなければならないのではないかと、恐怖している。

 桜小路遊星を見たせいで、将来的にも女性らしい顔立ちのままだと判明したので、その気になれば朝日として過ごしていける可能性も出てしまった。

 ……考えるのは止めよう。せっかくりそなとの会話で、僅かながらも遊星に戻れているんだから。

 思い悩んでいると、りそなが何かを決意したように両手を組んで僕を見て来た。

 

「妹。決意しました。貴方がそんなに男に戻りたいなら、この体を使って男にして」

 

「それでりそな。話は戻すけど」

 

「……妹の決意をスルーですか。クゥッ! 本当なら下の兄が寝入った後に襲うつもりだったのに……この歳になってもいざと言う時に決意が固められない自分が憎い」

 

 そんな事を企んでいたんだ。

 りそなには悪いけれど、今日からは別の部屋で鍵をかけて寝かせて貰おう。

 

「僕をフィリア学院に入れる気なの?」

 

「今の貴方は大蔵衣遠の娘という立場にありますから、入学自体は問題はありません。ただ正体がバレる危険性も考えると、あくまで候補の一つとしておいた方が良いかも知れません。駄目だったら、他の調査員を送るので」

 

「……分かった。考えておくね」

 

 一度失敗しているだけに判断は慎重にした方が良い。

 何よりも恐らく、才華様がじょ、女装してフィリア学院に通って来るだろう。

 ……あの方には余り会いたくない。女装に関する事で心情的な部分もあるが、あんな別れ方をしただけに会う気になれない。

 ……ふと思った。僕じゃなくても良いんだったら才華様でも良いのでは?

 女装の部分には抵抗はあるけど、僕よりもやる気がある才華様だったら喜んでりそなの提案を受けそうな気がする。

 ……いや、よくよく考えてみるとこの思考自体が可笑しい。血の繋がった相手が女装して女学院に通う事を認める時点で、もう可笑しい。実際にやった僕が言える訳がないけど。

 何よりこの事をりそなに伝えたら、才華様達の企みがバレてしまって邪魔をしそうだ。

 此処は黙っていよう。だけど、ちょっと気になったので質問してみる。

 

「ねぇ、りそな?」

 

「何ですか?」

 

「桜屋敷にいた時に聞いたんだけど、りそなって才華様の事が……」

 

 僕は最後まで聞く事が出来なかった。

 才華様の名前を出した時点で、りそなの機嫌が目に見えるほどに悪くなったからだ。

 すわった目でりそなが僕を睨んで来る。

 

「……下の兄」

 

「はい!」

 

「私と過ごす間は、絶対にあの甘ったれの名前を出さないようにして下さい。マジで機嫌が悪くなりますから」

 

「そ、それは今のりそなをみれば分かるよ。そんなに駄目なの?」

 

「冗談抜きで嫌です。ああっ! 考えるだけで心がぐちゃぐちゃになります! 何でルナちょむとアメリカにいる下の兄の子なのに、あんなに甘ったれでお坊ちゃん気質に育ったんでしょうか! 現実の厳しさを叩き込んでへし折ってやりたいと何度考えた事か!」

 

 どうやらりそなにとって、才華様は相当複雑な相手らしい。

 

「そう言えば、下の兄はあの甘ったれやアトレの事をどう思っているんですか? やっぱり自分の子だと思っています?」

 

「其処までは思えないよ。僕からすれば血の繋がった親戚ぐらいかな、二人とも。少なくともりそなよりは近く感じられないよ」

 

「……この場合、喜ぶべきなのでしょうか? それとも悲しむべきなのでしょうか? 妹に対しても親戚ぐらいの扱いだったら、この兄も手を出してくれたかも知れませんし」

 

 それは無理だよりそな。

 

「……まぁ、もうあの甘ったれの話は良いです。今は何よりも下の兄の服飾の腕を確かめる事が先決です。行きますよ」

 

「うん。あっ、そうだ。りそな。途中で寄りたいところがあるんだけど、良いかな?」

 

「何処にですか? 相手側との待ち合わせの時間もありますから遠いところは駄目ですよ」

 

「遠いところとかじゃないから安心して。僕が行きたいのは」

 

 行きたい所をりそなに伝え、僕らはパリの街へと出て行った。

 

 

 

 

「わあ~!!!」

 

 感動した。

 りそなに頼んで寄って貰った本屋で買ったファッション雑誌の数々に載っている衣装に。

 

「凄い! 凄い!! これが今のルナ様のデザインから作られた衣装! こっちはユルシュール様の衣装! それにジャンの衣装もある! 良かった! ジャンは今も衣装のデザインを描いているんだ!」

 

「……うわ~、服飾に戻るとなったらこれですか。いや、下の兄らしいんですけど」

 

 僕と一緒に車に乗って横に座っているりそなが、呆れたように僕を見て来る。

 でも、僕は気にならなかった。そんな小さな事よりも、今は雑誌に載っている衣装への感動で一杯だった。

 

「こんなに凄い衣装が作られていたなんて! ルナ様やユルシュール様が活躍しているなら、きっと瑞穂様も活躍しているよね!」

 

「あの人でしたら着物デザイナーとして活躍していますよ」

 

「本当!?」

 

「本当です。序でにミナトンはルナちょむの会社で営業部長をやっています」

 

「湊も活躍しているんだ。皆本当に凄いよ!」

 

 昨日までは聞く事も拒んでいたのに、今は僕が知っている皆の現状が知れて嬉しかった。

 車の外から見えるパリの綺麗な街並みにも目が行かないほどに、僕は雑誌に写っている衣装を見続ける。

 

「下の兄が嬉しそうなのは良かったんですけど、車から降りたら注意して下さい」

 

「注意?」

 

「えぇ、注意です。何処にルナちょむの手が伸びているか、分かりませんから」

 

「ルナ様の手って? 何で伸びてるの? 何の為に?」

 

「貴方を狙っているからに決まっているじゃないですか?」

 

「えっ? 僕を?」

 

「正確に言えば朝日としての貴方です。ルナちょむの朝日への執着は尋常ではないですから」

 

「……サーシャさんも同じ事を言っていたけど、意味が良く分からないんだけど? だって、この世界のルナ様には桜小路遊星っていう旦那様がいるよね? それなのにどうして僕と言うか、朝日に執着しているのかな?」

 

「……そもそも原因は、ルナちょむがアメリカの下の兄に惚れた経緯です。ルナちょむ……最初に遊星としての下の兄じゃなくて、朝日の方を好きになったんですよ」

 

「……はっ?」

 

 言われた意味が分からなかった。

 ……この世界のルナ様が好きになったのは遊星の方じゃなくて、朝日の方が先?

 いや、それは可笑しいのではないだろうか? 認めたくは無いけど、朝日としての僕は女性を演じきっていたと思う。

 女性同士の恋愛というのはあるが、僕が知る限りルナ様が女性に興味があったとは思えない。

 色々と恥ずかしい思いをさせられた事もあったけど、ルナ様は健全な価値観を持っていたと思う。

 

「朝日の方を好きになったルナちょむは、当然悩みました。女性を好きになるなんて事がある訳ないって。ところが日々想いが募って行き、遂にルナちょむは女性でも構わないという結論に達してしまったんです」

 

 ……この場合、どう判断すべきなのだろうか?

 健全な価値観を持っていただろうルナ様を歪めてしまった事に後悔すべきなのか、それともどんな自分でも受け入れてくれる相手が出来た事に喜ぶべきなのだろうか?

 因みに僕にはルナ様への信仰に近い敬愛の感情はあるけど、恋愛感情は無い。

 あの方にそんな感情を抱く事さえ恐ろしいし、何よりも罪悪感が先に来てしまうので今後も恋愛感情は抱けないと思う。

 

「それでその後に朝日が男だったと判明。結果、ルナちょむの中で朝日としての下の兄と、遊星としての下の兄がそれぞれ別の相手として愛するという形になってしまったんです」

 

「も、もしかしてそれがサーシャさんの言っていた、朝日は恋人で、桜小路遊星は生涯の伴侶なのかな?」

 

「そうです。冗談抜きでルナちょむの朝日への執着はやばいです。聞いた話だと、ルナちょむが卒業前にアメリカの下の兄が朝日を辞めると行った時は、何とか継続させようとしていたらしいですから。まぁ、こっちは止めたくても止められない状況にありますけど。下の兄はこっちのルナちょむの愛を受け入れられますか?」

 

「……無理かな。正直桜小路遊星の件が無かったら、僕とルナ様が恋愛する未来なんて想像も出来なかったよ」

 

 りそなに会う前に出会っていたら、罪悪感もあってこの世界のルナ様に縋るような形で使用人になっていたかも知れない。

 だけど、今は少なからず自分の意思を持てている。

 それに僕には生涯の伴侶を得ているルナ様に、恋愛感情を抱くなど出来ない。絶対に無理だ。

 何よりその時のルナ様の僕に向ける視線は、きっと今の僕が苦手とする視線に違いない。

 

「それを聞いて安心しました。フフッ、ルナちょむ。下の兄を二人も手に入れるなんて絶対に私は許しませんよ」

 

 何だか急にりそなが悪そうに笑っている。

 ……だけど、もしかしたら近づいているのかも知れない。

 この世界のルナ様と桜小路遊星に出会う時が。

 

 

 

 

 りそなに案内された場所は、パリの街中にある一軒の服の仕立て屋だった。

 

「此処です。最初に言っておきますが、此処に住んでいる人は貴方の正体を知りませんので、朝日の方でお願いします」

 

「分かりました、りそな様」

 

「……えっ? こんなにあっさりと成れるんですか?」

 

「どうされましたか? もしかして可笑しなところでもありましたでしょうか?」

 

「……いや、すみません。冗談抜きで貴方が女性の朝日にしか私にも見えません」

 

「其処まで!?」

 

 ショックだ。

 りそなにも朝日としての自分は、別人に見えるらしい。

 

「……そ、そんな事よりも人を待たせているのですよね。早く中に入りましょう」

 

「えぇ、そうしましょう。失礼します」

 

 りそなに促されて僕は仕立て屋の中に足を踏み入れた。

 

「あっ、りそなさん。待っていましたよ。それに初めまして朝日さん」

 

 亜麻色の髪の女性が立っていた。

 優し気な雰囲気を纏っている女性は、服の仕立て直しでもしていたのか目の前には服が置かれていた。

 

「あの、貴女は?」

 

「私の名前はメリル・リンチです」

 

「メリル・リンチさん? ……その名前は確か衣遠父様が言っていたお名前!? それじゃ貴女は大蔵の!?」

 

「はい。大蔵家の一員の一人です。そしてこれからは貴女の家族です」

 

「あっ……」

 

 メリルさんから差し出された手に、僕は困った。

 果たしてこの手を握る資格が僕にはあるのだろうか?

 だけど、迷う僕の手をりそなが掴み、メリルさんの手に重ねた。

 

「朝日。貴方はもう大蔵家の一員です。だから、握る資格はあります」

 

「えぇ、りそなさんの言う通りです」

 

「……ありがとう……ございます」

 

 震えながらも、僕はメリルさんの手を握った。

 手から伝わって来る温かさは、此処にいても言われているようだった。

 ……最近、涙もろくて本当に困る。

 これからも涙を流してしまいそうだ。嬉し涙を。

 

「でも、本当に驚きました。あの朝日さんにこんな素敵な娘さんが居ただなんて」

 

 ……ん?

 

「あ、あのメリルさん? もしかして貴女は?」

 

「はい。貴女のお母様にお会いした事があります。もう十数年以上も前の事ですけど」

 

「……私がパリに留学する事になった時に、アメリカの下の兄が夏休みを利用して来てくれたんです」

 

「どうして、女装姿で来たのですか? 普通に大蔵遊星で良かったと思いますけど」

 

 メリルさんに聞こえないように小声で事情を教えてくれたりそなに、僕も小声で質問した。

 

「あの頃は、ちょっと大蔵家でゴタゴタがありましたから。下の兄は遊星として表立って動けなかったんです。だから、朝日としてやって来てメリルさんに会ったんです」

 

「そういう事ですか」

 

「どうされました? 二人とも?」

 

「い、いえ。まさか、母もパリに来ていたとは思ってなくて」

 

「とても素敵な方でしたよ。でも、朝日さんの方が綺麗に見えますね……アレ、どうされたんですか? 急に顔を隠したりして」

 

「……す、すみません。私……本当にその綺麗とか可愛いとか言われた事が少なかったので」

 

 僅かに桜小路遊星が朝日だった時に会った人でも、僕の方が綺麗だと言われる事実はやっぱりショックだ。

 ……もう受け入れよう。少なくとも桜小路遊星の朝日よりも、僕の方が朝日として完成している事実を。

 でないと綺麗と言われる度に変な行動をしてしまう。

 少なくとも数年、失敗すれば十年単位で朝日で居なければならないのだから。

 僕の行動にメリルさんは申し訳なさそうな顔をした。

 

「申し訳ありません。朝日さんの事情はある程度は聞いていたんですけど。あのやっぱり本名の方は教えては」

 

「……すみません。本名の方は」

 

「事情は衣遠さんから聞いています。貴女の心が癒された時に、教えて下されば良いです」

 

 ……物凄く罪悪感を感じる。

 ほんの少しの会話だけでもメリルさんが良い人なのが分かる。

 そんな人を騙している自分が、酷く悪い事をしているとしか思えなかった。

 ルミネ様同様に、メリルさんにも真実を話せるようになったら謝罪するしかないだろう。

 

「それでりそなさんから聞いてますけど、朝日さんも服飾をやっているそうですね」

 

「は、はい……ただ此処一年ほどは離れてしまっていて」

 

「ちょっと手を見せて頂きます」

 

 メリルさんは僕の手を取り、真剣に見つめる。

 

「……これは……服飾の手とは言えませんね」

 

「あの、メリルさんも服飾をやっているんですか?」

 

「メリルさんは世界的なデザイナーの一人ですよ。ほら、さっき貴方が買った雑誌に写っているこの衣装がメリルさんの作品です」

 

「ええっ!? この素敵な衣装のデザイナーがメリルさん!?」

 

 驚いた!

 確かに雑誌を見ていた時も、ルナ様の衣装に劣らない衣装だとは思っていたけど。

 まさか、その衣装のデザイナーが目の前にいるメリルさんだったなんて。

 ……そう言えば、お父様との電話の時にメリルさんを誇るように声を弾ませていたような気がした。

 ルナ様と同じデザイナーの天才なのだろうと僕が考えていると、りそなが説明してくれた。

 

「メリルさんはデザイナーとしてだけではなく、立体裁断や縫製の高い技術を身につけてますよ。私もパリ校に在学中は良く助けられました」

 

「す、凄いですね」

 

 お兄様に才能が無いと言われた僕からすれば、言葉もなかった。

 

「でも、何故そんな凄い方が服の仕立て屋をやっているんですか? それに大蔵家の一員ならお屋敷とかに住んでいるんじゃ?」

 

「いえ、私にはそんな環境での生活は無理です。皆には確かに屋敷を得て、其処に住むように勧められていますけど。私にとってはこの店が一番住みやすいんです」

 

「メリルさんは元々修道院暮らしで、大蔵家の人間だと判明したのはずっと後だったんですよ。お金とかには全く興味が無くて、デザイナーとして手に入れたお金も寄付とかでしか使わないんです」

 

「こうして街の人達から服の仕立てを頼まれるのが好きなんです。後、この店のアトリエは学生の方々にも貸し出しています」

 

「立派ですね。尊敬します」

 

「いえ、この考えも元々は私がパリに来た時に下宿先だった大家さんの考えから来ています。私はただ真似をしているだけです」

 

「それで此処に朝日を連れて来たのは、事前に話してあった通り、今の朝日の服飾の腕を見る為です。この子、型紙の才能はあるみたいなんですけど、何分ずっと離れていましたから」

 

「分かりました。では、此方に」

 

 メリルさんに案内されて、僕はお店のアトリエに足を踏み入れた。

 

「わああ~!!」

 

 アトリエの中に広がっている光景に感動した。

 ルナ様のアトリエと違って整頓はされていないが、それはメリルさん以外の人も使っているからだろう。

 僕は楽しくなって広いアトリエの中を進んで行く。

 

「うわ~! こんな高そうな生地や糸が沢山! 工業ミシンまで置かれているし、他のメーカーのミシンまである! それに生地も普通のものだけじゃなくてベロアもあるし、エナメルもある。このサンテも綺麗で素敵だなぁ」

 

「喜んで貰えて良かったです。どうぞ自由に使って下さい」

 

「メリルさん唯一の贅沢ですからね。あの大家の下で過ごしていなかったら、こんな贅沢も思いつけなかったでしょうけど」

 

「ふふっ、そうかも知れませんね」

 

 此処で僕は服飾を新たに始められる!

 その事実がとても嬉しかった!

 

「それじゃ、朝日さん。始めましょうか」

 

「あっ! その前にちょっと着替えても良いですか?」

 

「はぁ? いや、その服のままでも良いと思いますけど」

 

「申し訳ありません、りそな様。どうしても服飾をやるなら着たい服がありまして」

 

「……嫌な予感がしますけど、取り敢えずメリルさん。お願いします」

 

「では、此方で着替えて下さい」

 

 メリルさんに促されて、僕は個室に入り手早く着替えて行く。

 最早慣れ親しんだ服だ。何せこの服は、自分と同じようにこの世界にやって来た服なのだから、愛着はある。

 

「準備出来ました!」

 

 着替え終えた僕は個室から出て、二人の前に出た。

 即座にりそなに手を引かれ、個室の中に引き戻された。

 

「いやいや、何を着ているんですか?」

 

「何って……桜屋敷のメイド服だけど」

 

「その時点で可笑しいでしょう!? と言うか、何で持っているんですか!? 桜屋敷から出た時に置いて来るでしょう普通!」

 

「……このメイド服。八千代さんに追い出された時に、こんな物を屋敷において置けないでしょうって、投げ渡された」

 

「うわ~、思いっきりトラウマの服でしょうが。それをずっと桜屋敷に居た頃から着ていた訳ですか」

 

「うん。だけど、これを着ていると朝日になっている実感が湧くし、今は服飾の勉強をするぞって気になれるから」

 

「……妹。思いっきりドン引いてます。七月ごろに追い出されたそうですけど、その時点で貴方手遅れだったんですね」

 

 最早言葉も無いと言うように僕を見つめるりそな。

 でも、僕はどうしてもこの服からまた服飾を始めたかった。

 僕と同じように世界を渡った服だから。




と言う訳でメリルさんはパリの街で世界的デザイナーながらも、仕立て屋をやっていて服飾学校の学生などにアトリエを解放している事にしました。
また、この作品ではメリルさんは朝日=大蔵遊星だとは知らない事になっています。
『乙女理論』では今後も付き合って行く事から正体を明かしていますが、ルナアフターアフターを見る限り、朝日として接触したのは一か月にも見た無さそうだったので知らない事にしました。
後、朝日のメイド服は書いた通り、八千代から投げ渡された設定です。
普通に『乙女理論』で着てましたけど、そもそもあのメイド服。八千代のデザインから生まれた桜屋敷限定のメイド服なので。

『その頃のアメリカ桜小路家』

「二人とも良く来てくれた」

「いや、いきなり呼び出してなんなのルナ?」

「そうね。どうしても力を借りたいって言うから急いで来たんだけど」

「実はある人物をアメリカのこの屋敷に連れて来て欲しい。どうしても会って話がしたいんだ」

「誰なの? ルナと会えるって言うなら、今だと誰でも会えるよ」

「無理だ。私が会いたくても、相手が拒否している。仲介を用いなければ恐らくはまた逃げられてしまう」

「ルナに会いたくない人って誰なの?」

 二人に差し出されたのは、『小倉朝日』が写っている写真だった。

「……いや、これってゆうちょじゃん。家でルナが毎日会っているでしょうが。まさか、若い頃のゆうちょに会いたいとか無理を言うんじゃないよね」

「違う! 信じ難い話かもしれないが、この世界には今、夫以外にもう一人朝日が存在している!」

「……ルナ。少し休もう。大丈夫、会社の皆には私から言っておくから」

「だから、本当だと言っている! 現に『大蔵家』ではこの人物を養子にして『大蔵朝日』などと言う気持ち悪い名字を与えて認めている!」

「気持ち悪いって、旦那の実家なんだよ。って言うか、朝日に関してはルナも同類なんじゃ」

「……ねぇ、ルナ。本当にいるの?」

「何言ってるの!? 居る訳ないじゃん!」

「でも、この写真の朝日を良く見て。こんな悲しそうな朝日を私は見た事がないわ」

「……言われてみれば……えっ? もしかしてマジ?」

「私はこの朝日をイギリスで後ろ姿だけだが目撃した。八千代も最初は信じなかったが、直接顔を見ている。それ以外にもサーシャの奴が会って話をしたらしい」

「そう言えば八千代は?」

「……今は倒れて療養中だ」

「倒れたって、一体何があったの!?」

「いや、本人は関係していないんだが、とにかく精神的に辛い事があって今は動けない。私が動けば大蔵家も警戒して朝日を遠ざけるだろう。だが、私はどうしてもこの朝日に会わなければならない。だから、協力してくれ!」

「……まぁ、いるって言うんだったら探してみるけど、当てはあるの?」

「今りそながパリで長期休暇を取っている事が分かった。間違いなくこの朝日が傍に居る筈だ。パリに向かってくれ。仕事の方は何とかする」

「私も今は落ち着いているから大丈夫。パリに行ってみるね」

「頼む」

「……因みにゆうちょはどうしてるの?」

「……久々に朝日の姿を見て……燃えてしまって動けなくなってしまった」


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一月下旬(遊星side)8

今回で一月の遊星sideは終了です。
残るは才華sideのみです。

三角関数様、じゅすへる様、Nekuron様、黒百合大好き様、烏瑠様、AYM様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございました!
感想、お気に入り、評価をくれている方々も本当にありがとうございます!


side遊星

 

 メリルさんのアトリエに通い始めてから十日が過ぎた。

 その結果、分かった事は。

 ……僕の服飾技術は地に落ちていたと言う事実だった!

 

「……まさか、此処まで腕が落ちていたとは。習い始めた頃のミナトンよりはマシでしょうけど」

 

「手を見た時から覚悟はしていましたけど。これは一度学び直さないと行けない状況ですね」

 

 背後から聞こえて来るりそなとメリルさんの言葉に、顔が下に俯いてしまう。

 自分でも覚悟はしていたけど、やっぱりショックだった。

 デザインも描いてみたけど、今の僕じゃ上手く描けずに断念。

 一番期待していた型紙や立体裁断に関しても、残念ながら全然上手く出来ない。縫製も綺麗に出来ずにいる。

 

「頑張ろうという意欲があるのは伝わって来ますが」

 

「根本的に学び直さないと行けない状態ですね。でも、今から受験出来る学校なんてありませんし」

 

 二人が背後で相談している。

 でも、元気が湧いて来なくて思わず、アトリエの端の方に移動して膝を抱えてしまう。

 

「やっぱり、私なんて」

 

「だから、すぐに暗くならないで下さい。全く、すぐに鬱になるんですから」

 

 りそなは慣れた動きで僕を立ち上がらせて、席に座らせた。

 

「……もうあの提案を受けて下さい。今は良いですけど、私やメリルさんも仕事に戻らないと行けなくなりますから」

 

「そうですね。此処のアトリエは自由に使っても構いませんけど、私もそろそろデザインを描き始めないと行けませんし」

 

「ですけど、りそな様。私が日本の学院に通うのは流石に」

 

「貴方は、大蔵衣遠の娘なんですから問題はありません」

 

 立場的な問題じゃなくて、身体的な問題なんだけど。

 確かに一から学ぶには学院に通うのが一番だ。だけど、当の昔に受験を受けられる期間は過ぎている。

 使用人として働いていたから勉強も全くしていない。それで受かる事が出来たら、奇跡だ。

 つまり、僕が服飾を少しでも早く学ぶチャンスがあるとしたら、りそなの提案に従って、日本のフィリア学院に調査員として入るしかない。

 りそなの提案は確かに良い提案に聞こえるが、僕自身に問題がある。

 

「りそな様……幾ら何でも……というよりも私の精神が耐えられません」

 

 もう一度女装しながら、女学生達の中に飛び込むなんて僕には無理だ。

 今度正体がバレたら、多分耐え切れずに自殺してしまう。

 

「完全にトラウマになってますね、コレは。と言うか、貴方がバレたのは学園じゃなくて屋敷の方じゃないですか。以前よりも完成している貴方なら、確実にバレませんよ」

 

「何の話ですか?」

 

 僕らの会話の内容が分からなかったメリルさんが質問して来た。

 だけど、素直に教えられる訳もなく、二人で誤魔化した。

 

「……もうコレしかありません。今の貴方には余り使いたくなかったんですけど」

 

「何でしょうか?」

 

「私の為にフィリア学院に入って下さい」

 

「えっ? りそな様の為ですか?」

 

「そうです。貴方の為じゃなくて、私の為です」

 

 いきなり何だろうか?

 というよりも、何で女装してフィリア学院に入学する事がりそなの為になるのだろうか?

 

「実は先日、お爺様からフィリア学院に信頼出来る調査員を必ず入れろって連絡が来たんです」

 

「それはまた、何故でしょうか?」

 

「……どうにもルミネさんが厄介な相手と接触している事が知られたみたいなんです」

 

「厄介な相手とおっしゃいますと」

 

「裏社会と繋がっている家の娘とルミネさんが懇意にしてる事が、気になったらしくて」

 

「裏社会? 何でそんな方とルミネ様が?」

 

「いや、こっちが聞きたいですよ。お爺様が言うには最近、ルミネさんがやたらと服飾部門の特別編成クラスに入りたがっている人と接触している事に気がついて、遂には実家が裏社会と繋がっている相手とも接触してしまったので心配になったみたいなんです」

 

 どうやら日懃お爺様は過保護な方らしい。

 だったら何故僕が大蔵の名を名乗る時は強硬に反対したのか謎だが、娘と孫の違いかも知れない。

 或いは本当にお父様の言う通り、男子と女子では扱いが違うのかも知れない。

 と言うよりも何故ルミネ様はそんなお方と接触したのだろうか?

 あの方は、少しの間一緒にいるだけでも規則を大事にする真面目なお方だと分かった。

 ……ふと思った。もしかして才華様の為なのでは?

 僕がりそなにルナ様という主を紹介して貰ったように、才華様もルミネ様を経由して主人と言うか雇用主を探しているのかも知れない。

 急に押し黙って考え込み出した僕に、りそなが不審の目を向けて来た。

 

「そう言えば、朝日。貴方何処でルミネさんと会ったんですか?」

 

「さ、桜屋敷に居た時にルミネ様が遊びに来てそれで」

 

「あぁ、あの甘ったれが呼んだ訳ですか……全く三年近くも碌に連絡も取っていなかったくせに、帰国した次の日にルミネさんを呼び…だ……ん? 呼び出した? 待って下さい。確かあの頃に上の兄がフィリア学院の男子部廃止に関して急に意見を変えたような」

 

 不味い!

 

「い、いえ、本当に遊びに来ていただけですよ!」

 

「……怪しい。貴方、何か隠していますね?」

 

「隠していません!! 本当にルミネ様は桜屋敷に遊びに来ていただけでした、りそな様!」

 

 このままだと才華様がやろうとしている事がバレてしまう!

 血の繋がった相手が女装してフィリア学院に入ろうとしているなんて言いたくない!

 確かに僕とりそなもやったけど、それを次の世代までやろうとしているなんてりそなも夢にも思って無いだろう。

 と言うか、その事実を僕の口から言うのは無理だ。精神的に辛い。

 何とか誤魔化さないと! と思っていると、在庫を確認していたメリルさんの声が聞こえて来る。

 

「う~ん。製図用紙が少なくなって来ましたね」

 

 チャンスだ!

 

「あっ! お世話になっていますから、私、買って来ますね!」

 

「待ちなさい、朝日! まだ、話が終わって!」

 

「行って来ます! りそな様!」

 

「早っ!?」

 

 素早く着替えを終えて、僕はメリルさんの仕立て屋から飛び出した。

 ごめん、りそな。幾ら何でも才華様のやろうとしている事は言えないよ。

 

 

 

 

 十日も住めばパリの街にも慣れた。

 移動は基本的に車だったが、自分でも生地や糸が欲しくなった時に店の場所は教えて貰っていたので製図用紙は買い終えた。

 だけど、僕はすぐに仕立て屋に戻る気にはなれなかった。

 パリの公園で今後に関して考えていた。

 

「……どうしよう」

 

 間違いなくりそなは、僕が何かを知っている事に気がついている。

 でも、それを言うのは心情的に辛い。

 

「でも、このままだと才華様が危ないよね」

 

 此処で僕がりそなの提案を拒否しても、既にフィリア学院に学生の身分を与えた調査員が送り込まれるのは確定事項になっているのは間違いない。

 その相手がどんな人物なのか分からないけれど、少なくとも僕よりも調査の方面で秀でた人物だろう。

 では、その相手が才華様の事に気がつけばどうなるか。

 ……確実に連絡がりそなに送られて、そのまま才華様は学院から追い出されるに違いない。

 才華様のじょ、女装の技量がどれほどなのかは分からないけれど、本職のサーシャさんに匹敵するほどの観察眼を持っている人がいたら正体がバレてしまう。

 と言うよりも、どう考えてもりそなの様子から見て、先ず第一の調査対象になりそうなのはルミネ様が接触したという裏社会に関わる家の娘さんになりそうだ。

 

「……ルミネ様。もう少し気を付けて下さい」

 

 恐らくルミネ様も焦ってしまったに違いない。

 僕の時はりそながルナ様を見つけて来てくれた。よくよく考えたら僕の時だって条件は厳しかった。

 と言うよりも、りそなはあの提案を出した時点で色々裏で準備をしていてくれたのだろう。

 ……本当にりそなには感謝しかない。

 今の現状だとかなり複雑なところもあるけれど。だけど、恐らくルミネ様にはりそなほどの警戒心がなかった。

 この時代では違うが、僕の知っているりそなは常に家族も含めて周囲を警戒して動いていた。

 だから、僕がフィリア女学院に入ろうとしている事をお兄様も気がつけなかった。

 そしてりそなほど家族に対して警戒心がなかったルミネ様は、中々才華様の雇用主となれる人が見つけられない事を焦り、相手の事を良く調べずに接触してしまったに違いない。

 

「……このままだと最悪な結果になっちゃうよね」

 

 この現状を止める方法は二つ。

 りそなに全てを話すか、りそなの提案に乗って学園に入るかのどちらか。

 前者だと即座にりそなは怒りに燃えて、才華様の企みを潰すだろう。その結果、才華様の目的であるフィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取るのは不可能になってしまう。

 後者だと僕は自分に協力してくれるりそなを騙し、才華様を陰ながら護る役目を負う事になる。結構それはキツイ。と言うよりも、りそなを騙すのなんて今の僕には無理だ。多分やったら、途中で吐いて入院する事態になってしまう。そうなる自信が僕にはあった。

 

「本当にどうしよう!?」

 

「……どうしたんだい?」

 

「えっ?」

 

 僕が顔を上げてみると、見覚えがある黒いスーツを着た年配の男性が立っていた。

 

「……あ、貴方は……確かパリに来た時に声をかけてくれた方でしたよね?」

 

「覚えていてくれて嬉しいよ」

 

 男の人は嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

「でも、ちょっと驚いたな」

 

「な、何がでしょうか?」

 

 も、もしかしてこの人、僕の正体に気がついているんじゃ!?

 サーシャさんにも女にしか見えないって言われたけど、分かる人には分かってしまうのかも知れない!

 最近、朝日の姿が自然になっていたせいで忘れかけていたけど、男性が女装している時点で本来は変態だ。

 このまま会話をするのは危険かもしれないと思うが、男の人は別の事を指摘して来た。

 

「君の顔色だよ。最初に会った時は、暗かったのに、今は明るくなっているからね」

 

「あっ。それは……情けない話ですけど、妹に慰めて貰ったからです」

 

「妹さんが居るんだ?」

 

「はい。私の自慢の妹です」

 

 これだけはハッキリと言える。

 僕にとってりそなは自慢の妹だ。初めて会った時に天使のような子だと思っていた。

 日本で再会してからも、僕は一度もりそなを軽蔑した事は無い。りそなにはりそながそうなる事情があった事も分かっている。

 だから、僕にとってりそなは自慢の妹以外の何ものでもない。

 なのに。

 

「……でも、慰めてくれた妹に伝えられない事があるんです。伝えたら誰かが傷ついてしまうから……それが怖くて」

 

 本当に僕が優先すべきなのはきっとりそなだ。

 だけど、才華様のやろうとしている事を止める資格は僕には無い。

 それに、きっと才華様にも事情があるんだ。でなければ、女装してまでフィリア学院に通いたいとは思わないだろう。僕がフィリア女学院に入ったように。

 

「難しい問題だね」

 

「はい」

 

 見ず知らずの人に話しても仕方がない事だ。

 きっとこの人はこれ以上関わりたくないと、思って去ってしまうだろう。

 

「……要するに二つの問題を君は抱えている訳だね」

 

「えっ?」

 

 男の人は去らずに、考え込むような顔をして立っていた。

 

「違うのかい?」

 

「い、いえ、違いません」

 

「なら、その二つの問題を妹さんに話してみたらどうかな?」

 

「そ、それは……絶対に怒ると思います」

 

「怒るだろうね。だけど、さっき君は妹さんを自慢の妹だと言っていた。なら、誠心誠意話して説得するのも良いんじゃないかな?」

 

「……説得ですか」

 

 出来るだろうか?

 これまでの事からりそなが才華様に、複雑な感情を抱いてるのは間違いない。

 ふと気がついた。確かにりそなは複雑な気持ちを抱いているが、決して嫌っている訳では無い。

 実の父親である桜小路遊星では反発が出てしまうかも知れないけど、僕ならもしかしたら説得出来るかも知れない。

 無論、説得に失敗するかも知れないが、誠心誠意頼んでみよう。

 才華様達はりそなに隠しておくつもりのようだが、此処まで周囲の状況が悪くなって来てしまっている。

 お父様もりそなに仕事を押し付けられて、身動きが取れない筈だ。

 なら、僕が何とかしてみよう!

 

「ありがとうございます! 少し迷いが晴れました!」

 

「それは良かった……君にはやっぱり暗い顔よりもそっちの顔の方が似合っている」

 

「えっ?」

 

「じゃ、また何処かで」

 

 男の人は手を軽く上げて去って行ってしまった。

 ……親切にしてくれたのに、名前を聞くのを忘れてしまった。

 今度会ったらもう一度お礼を言って、名前を教えて貰おう。

 僕は公園から出て、メリルさんの仕立て屋への帰路についた。

 

「……本当にいやがった。大蔵遊星」

 

 

 

 

 夜。メリルさんの仕立て屋での勉強会が終わった後。

 僕とりそなは部屋へと戻り、夕食を取っていた。

 出来るだけりそなの機嫌を良くする為に、夕食は全てりそなの好物を振る舞った。

 あからさまに機嫌を取ろうとしている事を察したりそなは、不審の目を向けて来ていたが、それでも美味しかったのか喜んで食べてくれた。

 そして、遂に僕は……桜屋敷で起きた出来事を全て語った。

 

「あの甘ったれええええええっ!?」

 

 案の定、話を聞き終えたりそなは頭を抱えながら叫んだ。

 

「女装して学院に通う!? 何でそんな非常識な事を!?」

 

「いや、りそな。僕らが言えた事じゃないよ。一番最初に始めたの僕らだし」

 

「こっちとあっちじゃ全然違いますよ! 妹は妹一人で準備を頑張ったんですよ! なのに、あの甘ったれは選りにも選ってルミネさんをとんでもない事に巻き込んで! ああっ! こんな事実がお爺様にバレたら、桜小路家と大蔵家の間で争いが起きてしまう! せっかく、アメリカの下の兄が頑張って大蔵家を纏めたのに!? だから、現実を知らない甘ったれなんですよ!! 上の兄もなんて事に手を貸しているんですか!?」

 

「多分だけど、お父様はルミネさんが接触した相手の事までは知らないんじゃないのかな? 今、りそなが押し付けた仕事で忙しいだろうし」

 

「くぅっ! 下の兄との幸せな一か月の生活の為でしたけど、まさか、こんなどんでん返しが待っているなんて思ってもいませんでした……どうしてくれようか、あの甘ったれ」

 

「……その事だけど、りそな。才華様がやろうとしている事を見逃して欲しいんだけど」

 

「はぁっ? いや、このままだと本当にヤバいんですよ。早急にあの甘ったれの行動を止めさせないと、桜小路家が潰されます。幾らルナちょむでもお爺様には勝てませんよ」

 

「うん。分かってる。だけど、才華様はどうしてもフィリア学院に通いたがっていた。その理由までは聞く事が出来なかったけど、きっとルミネ様はその理由を聞いたんだと思う」

 

 ルミネ様は規則を大事にする方だ。

 それなのに規則に反するような事に手を貸そうとしている。

 何か納得出来るほどの理由を、才華様は示したのだろう。

 

「甘いですね、下の兄。どうせあの甘ったれの事だから、ルミネさんに甘えたに決まっています。自分の方が年上のくせに、年下のルミネさんに甘えるなんて……あぁ、頭がゴチャゴチャして来ます」

 

「りそなが怒るのは分かるよ。でも、その気持ちを蔑ろにするようになるかも知れないけど、才華様に一度だけチャンスを与えてくれないかな。それを叶えてくれるなら、僕はりそなの提案にも従うし、学院を卒業した後はりそなのパタンナーになっても構わない」

 

「……ずるいです」

 

「うん。ずるいよね。慰めてくれたのに、こんなりそなを裏切るような事を言う僕なんて」

 

「そういう意味じゃありません」

 

「えっ?」

 

 りそなは真剣な顔をしながら、僕の手を取って見つめて来た。

 

「先に言っておきます。私にとっての人生とは、貴方を、大蔵遊星を幸せにする事と同意義です。そしてアメリカの下の兄が幸せになった事で、私の人生はある意味で終わっていました」

 

「そんな事は無いんじゃないかな。りそなにはりそなの人生があるんだから」

 

「いえ……周りの人達は、私を『最も華やかな道を歩いている女性』と言いますが、妹はずっと空虚さを抱えていました。妹が本当に欲しかったのは、大蔵家の当主の座ではありません。下の兄と共に過ごす日々です」

 

「……りそな」

 

「私が貴方の頼みを断る事は出来ない。たとえ世界が違ったとしても、貴方がこの世界に来てしまうような出来事に導いた提案を出したのは、妹です。だから、貴方にもアメリカにいる下の兄同様に幸せになって欲しい。妹、その為ならどんな理不尽でも我慢します。複雑なあの甘ったれの行動も見逃しましょう」

 

「……ありがとう」

 

 本当に目の前の人は、僕には過ぎた妹だと思う。

 何時かこの妹に、僕は恩を返したいと心から思った。

 

「とは言っても、あの甘ったれは許しません。目的はショーに出る事らしいですから、そのショーで無様な結果を出したら、即刻アメリカに送り返してやります。まぁ、納得出来る成果が出た時は、そのまま通う事も一考して上げますよ」

 

「本当にありがとう、りそな」

 

 心から僕はお礼を言った。

 僕の顔を見たりそなは顔を真っ赤にして、急にソッポを向く。

 

「や、止めて下さい。お礼なんて……第一、貴方は良いんですか? 事前に私があの甘ったれのやろうとしている事を知っていたら、貴方が疑われますよ」

 

「構わないよ。才華様達に嫌われるのは確かに残念だけど。それよりも僕はりそなに嫌われたくないからね」

 

「……こ、これはもう我慢出来なくなりそうです……し、下の兄! 『なっつぁん』! 『なっつぁん』を買って来て下さい!」

 

「えっ? 良いの? 夜はあんまり出歩いたら駄目って言ってなかったっけ?」

 

「いやいや! 今ちょっと一人で冷静にならないと不味いので! 早く行ってください!」

 

「う、うん。分かったよ」

 

 りそなの指示に従い、僕はコートを着て夜のパリの街へと出て行った。

 

 

 

 

 パリの夜の街はやっぱり暗かった。

 この街に来てからは、ずっと夜は出歩かないようにりそなに言われていたので、尚更にそう感じるのかも知れない。

 暗い夜道はちょっと怖いから早めに買い物を終わらせて戻ろう。

 

「よし。ちゃんと買えた」

 

 この時間でもやっている店を見つけたので、目当ての『なっつぁん』を手に入れる事が出来た。

 もしも無かったら、自販機を探す羽目になっていたので見つけられて良かった。

 りそなが待っている部屋に戻ろうと夜道を進んで行く。

 

「……ん?」

 

 一瞬誰かに見られているような視線を感じた気がした。

 立ち止まって周囲を見回してみる。

 ……誰もいない。

 気のせいだったのだろうかと思いながら、足を前に進めようとする。

 一歩前に踏み出そうとした瞬間、何かが足に絡みついてきて、もつれてしまった。

 

「うわっ!」

 

 突然の出来事に僕は対処出来ず、地面に倒れてしまう。

 一体何がと思って足の方を見てみると、左右に重しのような袋が紐で結ばれた物が僕の足に絡まっていた。

 

「…な、何が?」

 

「……大蔵遊星」

 

「えっ?」

 

 背後の暗がりから、僕の名前が呼ばれた。

 小倉朝日ではなく、本当の名前である大蔵遊星の名を。

 一体誰が!?

 ……いや、違う。僕は今の声を知っているような気がする。

 

「言った筈。暗い夜道には気を付けろって。まぁ、お前が知っている私が言ったか知らないけれど」

 

 声の主は言い終わると同時に、暗がりから飛び出し僕の口や鼻に手早く濡れたハンカチを押し付けて来た。

 ハンカチから漂って来る匂いで意識が薄れていく中、僕はこの声に聞き覚えがある事を思い出した。

 ……まさか……この人は。

 

「本当は連れて行きたくないけど、お嬢様が探しているから連れて行く。まさか、見つけた初日でチャンスが来るとは思ってなかった」

 

 ……間違いない。

 ……この人は……な……。

 

 

 

 

「……本当にゆうちょだ」

 

「あぁ、朝日! また、貴方に会える日が来るなんて! この髪の毛はウィッグじゃなくて地毛なの!」

 

「お嬢様。余り弄られてはいけません」

 

「でも、北斗! この手触りは凄いわ!」

 

「うわっ! 本当だ! 凄いサラサラ! 私よりもサラサラかも。男でこの髪って、羨まし過ぎ」

 

「湊様に髪の毛を弄って貰えるなんて……やっぱり大蔵遊星は七愛(なない)の敵」

 

 ……聞き覚えのある声が聞こえた気がする。

 僕が知っている皆よりも声がちょっと変わっているけど、懐かしいと思える声が。

 

「おや、気がついたようですね」

 

 ゆっくりと目を開けてみると、最初に目に映ったのは天井の灯だった。

 急な眩しさに目が痛くなりながら体を起こす。

 

「……えっ? 嘘。ごめん。凄い起き方が綺麗に見えたんだけど」

 

「正直私も湊様に同意見です。聞いてはいましたが、此処まで腕を上げていたとは」

 

「あぁっ! 素敵よ! 朝日!」

 

「キモ。男のくせして」

 

 ……やっぱり聞き覚えのある声が耳に届いて来る。

 今だ覚醒し切らない頭に悩まされながら、声の聞こえた方に顔を向けてみる。

 其処には、僕が良く知っている四人に良く似ている人達が立っていた。

 

「……湊?」

 

「うん!」

 

 僕が知っている湊よりも歳を得ているが、あの元気な幼馴染である柳ヶ瀬湊。

 

「……瑞穂様?」

 

「そうよ! 朝日! あぁ、本当に会えるなんて!?」

 

 大和撫子然とした黒髪の女性は、間違いなく花乃宮瑞穂様。

 

「……北斗さん?」

 

「君には久しぶりと言うべきなのかな?」

 

 瑞穂様の付き人で緑色の髪をした女性、杉村北斗さん。

 今は男装を止めたのか、女性らしい服装を着ているが凛とした佇まいは変わっていない。

 

「……七愛さん?」

 

「出来れば会いたくなかった」

 

 不機嫌さに満ちた顔をして僕を見ているのは、湊の付き人をやっていた名波七愛さん。

 四人とも答えてくれた。

 どうやら本当に湊、瑞穂様、北斗さん、七愛さんらしい。

 ……って!?

 

「ええええええっ!?」

 

 何で皆が此処にいるの!?

 いや、それよりも此処は何処だろう!?

 僕は確かパリの夜道を歩いていたらいきなり襲われた筈。

 それで今、僕がいるのは何処かの高級ホテルの一室のようだ。

 

「いや~、ごめん。ゆうちょ。七愛が気絶させてたらしくて。いきなり気絶したゆうちょを背負って戻って来た時は、本当に驚いたよ」

 

 原因判明!

 やっぱり、あの時の声は七愛さんだった!

 つまり、僕を襲撃した犯人は七愛さんだ! そう言えば最初に会った時の自己紹介で夜道での投擲が得意とか言っていた気がする!

 当人はしれっとした顔で僕を見ているけど。

 

「あんなに警戒心もなく夜道を進んでいる事の危なさを、七愛は体で教えただけ」

 

 ……いきなり背後から物を投げつけられて地面に倒され、薬を染み込ませていたハンカチを押し付けられた記憶しかないんですけど。

 いや、それよりも問題は。

 

「……あ、あの?」

 

「何ゆうちょ?」

 

「……湊。僕の事を知っているの?」

 

「うん。ルナから聞いた」

 

 ルナ様からの刺客だ!

 りそなから聞いた時は冗談だと思っていたけれど、本当に刺客が来たよ!

 

「最初に聞いた時は、ルナが可笑しくなったんじゃないかと思ったんだけど、こうしてもう一人のゆうちょが本当にいるんだから驚きだよね」

 

「驚きじゃ済まないと思うけど」

 

 普通に物語の世界の話だ。

 それが現実に起こってしまっているのだから。寧ろ湊の最初の反応の方が正しい。

 

「私も最初は信じられなかったけど、ルナから見せて貰った写真で、もしかしたらと思って」

 

「写真?」

 

 何だろう?

 凄く嫌な予感がする。そう言えば何処かでその類で嫌な事があったような。

 思い出したくない事を思い出してしまいそうで頭を悩ませていると、瑞穂様が鞄から四角い額縁を取り出した。

 

「これよ。依頼を受ける時に暫らくの間、貸してってルナにお願いしたの」

 

「そん時のルナの顔は凄かったよね。断腸の思いだって伝わって来るぐらいに、苦しい顔をしていたし」

 

 瑞穂様と湊が何かを言っているが、僕はそれどころでは無かった。

 渡された額縁に飾られている写真。

 桜屋敷の木々を寂しげな顔で見上げているメイド服の黒髪の女性。

 小倉朝日としての僕の姿。

 ……思い出した。いや、思い出したくなかった!

 『晩餐会』でお父様が大蔵家の方々に見せた写真って、此れの事だ!

 

「でも、その写真って綺麗だよね。ちょっと悲しそうだけど」

 

「これはコレで良いと思うわ。朝日の魅力が出ているもの」

 

 湊と瑞穂様が何か言っているけど、気にしていられない。

 今何よりも僕が優先すべき事は、一つしかない。

 

「……北斗さん」

 

「何かな、朝日?」

 

「ライターとか、燃やせる物は何かありますか?」

 

「……何の為に必要なのかね?」

 

「……写真を燃やします」

 

「だ、駄目よ! 朝日!!」

 

 瑞穂様は僕の手から写真を取り戻そうと手を伸ばして来るが、僕は必死に胸に抱いて奪われないようにする。

 

「お願いですから、処分させて下さい! 瑞穂様! こんな恥ずかしい写真なんて消したいんです!!」

 

「恥ずかしくなんてないわ! こんなに綺麗だし。やっぱり、朝日は素敵だわ!」

 

「……全然、嬉しくないです」

 

「って言うかさ、その写真焼いても意味無いと思うよ。聞いた話だと、ゆうちょのお兄さん。壁一面に広がるほどの写真を大蔵家の人に見せたって話だから」

 

 ……今、湊は何と言っただろうか?

 壁一面に広がる僕の写真を見せた?

 つまり、今僕の腕の中にある写真よりも遥かに大きな写真に写った女装姿の僕を、大蔵家の方々に見られた?

 ……何の冗談なのだろうか?

 固まってしまった僕の腕の中から、瑞穂様が写真を引き抜く。

 取り返すという気力さえ湧かないほどの、事実が僕に圧し掛かって来た。

 

「……ウゥ……何でそんな事に……」

 

「いや、アメリカにいるゆうちょも倒れたそうだよ」

 

 それは倒れるよね!

 本当に桜小路遊星様に会ったら、先ず謝罪しないといけないよ!

 

「でも、良かったわ、朝日。もしも貴方がこの写真の朝日のままだったらって、心配もしていたから」

 

「確かに。瑞穂様と同じく心配していましたが、今の君は元気を取り戻せているようだ。本当に良かった。これも妹さんのおかげかな」

 

「は、はい……りそなのおかげで服飾に戻れる勇気が湧きました」

 

「あっ! 服飾に戻るんだ! 其処は結構心配していたんだよね。ルナから、朝日が服飾を捨てるほどに追いつめられているって聞いていたからさ」

 

「ルナ様が?」

 

 何故ルナ様が其処まで知っているんだろう?

 もしかして八十島さんが伝えたのだろうか?

 

「本人はサーシャさんから聞き出したって言っていたけど」

 

 瑞穂様の言葉で疑問が晴れた。

 僕と別れた後に、ルナ様達に捕まってしまったんだろう。

 今度会えた時にお礼と謝罪をしなければならない。

 とは言え、こんな形で皆と出会うとは思ってなかった。これで後、会っていないのはユルシュール様だけだ。

 でも、これ以上此処にいる訳には行かない。壁に掛かっている時計を見ると、大分時間が経っている。

 きっと帰って来ない僕を心配してりそなが動き出しているに違いない。急いで連絡を取らないと。

 コートの中に仕舞ってある携帯を取り出す為にポケットに手を伸ばしていると、七愛さんの声が聞こえて来る。

 

「はい。目標を確保しました……分かりました。すぐに代わります」

 

 七愛さんは持っていた携帯を僕に差し出して来た。

 ……これ、僕の携帯だよね?

 何で七愛さんが平然と使っているんだろう。

 

「電話」

 

「は、はい。誰からだろう。もしもし」

 

『やぁ、朝日』

 

「ッ!?」

 

 全身が固まった。

 分かっていた。此処に懐かしい桜屋敷の面々が揃っている時点で、この方が関わっている事は。

 

「……ル……ルナ様」

 

『そうだ。この場合、初めましてだろうか……いや、君と私との間で今の言い方は私が嫌だ。だからこう言わせて貰う。久しぶりだな、朝日』

 

「……お久しぶりです、ルナ様」

 

 覚悟はしていたけど、遂に訪れてしまった。

 僕が敬愛するルナ様と同じでありながら違う、この世界のルナ様と会話する時が。




今回の顛末は二月編で明らかになります。
真面目にある程度、ルナ様側も説得していないと朝日探しで抗争が始まってしまうので。

人物紹介

名称:柳ヶ瀬湊(やながせみなと)
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』のヒロインの一人。大蔵遊星の幼馴染で桜屋敷で唯一朝日(遊星)の正体を知っていた桃色の髪の女性。明るい性格をしていて、桜屋敷ではムードメーカーを務めていた。実家は運送会社を営んでいる。遊星に恋して服飾学校にまで入学したが、残念ながら失恋に終わった。現在はルナの会社で営業部長をしている。朝日の存在を聞いた時は、ルナが可笑しくなったと思っていた。

名称:花乃宮瑞穂(はなのみやみずほ)
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』のヒロインの一人。実家は華族で八百年の歴史を持つ花之宮家。大和撫子然とした黒髪の女性。温厚な性格だが芯は強く、やや天然なところがある。大の男嫌いで学生時代は、男に近づかれるだけで怯えて喋れなくなるほどだったが、『小倉朝日(桜小路遊星)』と接触を重ねて行く内に症状が緩和した。朝日の事は身分を超えた親友と思っている。ルナほどでは無いが、朝日の事が友人として好き。その為に、朝日の最新の写真を何とか手に出来ないかとルナと交渉中。現在は着物デザイナーとして活躍している。

名称:杉村北斗(すぎむらほくと)
詳細:瑞穂の付き人である緑色の髪の女性。学生時代は、瑞穂の男性嫌いを治す為に男装をしていたが、現在は普通に女性服を着ている。嘘をつかない部族であるブラックホーク族と大自然の中で暮らしていた事があるらしい。サーシャとは敵対関係にあったので、学生時代はレイピアやトマホークのぶつかりが日常的に起こっていた。

名称:名波七愛(ななみなない)
詳細:学生時代は湊のメイドをやっていた。元々は湊の同級生だったのだが、色々と悲惨な目にあっていたところを湊に救われ、間違った愛情を抱くほどになってしまった。
その為に湊が好きだった大蔵遊星に対しては、殺意を抱き、好かれていた朝日まで嫌っていた。だが、ルナと桜小路遊星が結ばれた後は殺意を抱く事は無かった。
しかし、まだ誰とも結ばれていない朝日に関しては別。もしも朝日が湊に手を出した場合は、夜道は背後を気を付けなければならなくなるだろう。


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一月中旬(才華side)9

お気に入り千件到達。
皆様、本当にありがとうございました!

くららん様、kcal様、エーテルはりねずみ様、烏瑠様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

「ぅ、寒。こんにちは、才華さんはいますか」

 

「あら、ルミネお嬢様? いらっしゃいませ、いまお出迎えします」

 

「お邪魔します。と、それよりも先に八十島さんにはあけましておめでとうございます」

 

「はい、本年も当家と……それに若と良いお付き合いをお願いします。お嬢様が本日お越しになったのはもしや?」

 

「えぇ、『晩餐会』の時に伝えられなかった才華さんの雇用主の話です」

 

「やはり、そうでしたか。その連絡が届くのを若はずっと待っていました。さ、玄関は寒いですから中にお入りください」

 

「ええ、今日は一段と。雪が降りそうなほど寒いですね」

 

「その寒さの中、歩いて来たのですか? お車ではないようですが」

 

「運転手の何気ない一言で、頻繁に桜屋敷へ通っているのが、お父様に伝わる事もあるかなと思ったんです。才華さんやアトレさんと仲良くすること自体には何も言わないでしょうけど、あんまり多過ぎると何を言われるかわかりませんからね。私も一応受験生ですし」

 

「若やお嬢様の事を気遣ってくださったのですね。それといまご自分でおっしゃられたように、ルミネお嬢様も受験を控えているのに。こうして何度も若の為に当家に訪れてくれて……」

 

「協力するって約束しちゃいましたからね。中途半端は嫌なんです。あ、それで才華さんは?」

 

「若ならもう少し時間がかかると思うので、お嬢様は応接室でお待ちを……」

 

「ルミねえ! おはよう! 来てくれるのを待っていたよ!!」

 

「……」

 

 食堂から姿を見せた僕を、ルミねえは怪訝そうな顔で僕の全身を数十秒見つめた。

 仕方がないかも知れない。何せ今の僕は女物の服を着ている。つまり、女装している。

 ルミねえの前で女性の恰好を見せたのは、今回が初めてだ。でも、そんなに違和感はない筈だ。

 

「『晩餐会』からずっと何時ルミねえが来てくれるのかと思うと、待ちきれなかったよ」

 

「私は今、そんな恰好で平然としている才華さんに驚いている」

 

「聞いてルミねえ。伯父様から連絡があって、一か月ぐらいは仕事で忙しくて連絡も取れないんだって。総裁殿が『晩餐会』の件でお怒りになって、一か月の長期休暇に入ったらしいんだよ。しかも行先はパリ。良いな。僕も芸術の都と呼ばれるパリに行ってみたいよ」

 

「最大のツッコミどころを無視したまま話を進められて困惑している。どうして女性の服? 趣味? え?」

 

「これ? ルミねえから雇用主の話を聞いたから、何時でも面接を受けられるように特訓。女性の生活に慣れておこうと思ったんだ」

 

 ルミねえが漸く雇用主候補を見つけて来てくれたんだ。

 面接に失敗しない為にも、女装の腕を磨く為に『晩餐会』が終わってからは殆ど女装で過ごしている。

 

「若、このプリンはもう少しカラメルが苦いと味が上品に……あ、ルミネお嬢様。ようこそ、いらっしゃいませ」

 

 僕と一緒にキッチンでプリン作りをやっていた九千代が、ルミねえに挨拶をした。

 九千代はもう慣れたのか、僕の女装姿に何も言う事は無かった。

 

「お邪魔してます。そして、山吹さんもこの格好の才華さんに普通に対応していて驚きます」

 

「いいえ、この山吹、お屋敷の中ではお止め下さいと、何度も申しています」

 

「でも九千代は流されやすいから、今ではすっかり馴染んでくれたよ」

 

「馴染んだって事は、少なくとも二回以上はしているって事かな」

 

「『晩餐会』が終わってから、毎日だよ」

 

「……」

 

 絶句するルミねえの顔を、僕は楽し気に見つめた。

 ゆっくりとルミねえは額に手をやって頭が痛そうに押さえる。

 

「……せめて会う前に警告して欲しかった」

 

「変かな?」

 

「それがね、変じゃない。なんだか自然に受け入れていて、それどころか、綺麗な女の子だなって感心している自分に少し戸惑いを覚えてる。自己判決、一晩反省」

 

「それは今後の生活を始めるにあたって、実に心強い反応だよ。ありがとう、ルミねえ。良かったらこのプリン食べる?」

 

「頂きます。あ、美味しい」

 

 僕が作ったプリンは、ルミねえの舌に良くあったみたいだ。

 真顔でルミねえはプリンを試食していた。

 

 

 

 

「さっきのプリン、もう無いの?」

 

 どうやら先ほどの僕のプリンがお気に召したらしい。

 コートを脱いで、応接室にある椅子に座るなり尋ねられた。

 

「ルミねえが自分からお菓子を求めるなんて珍しいね」

 

「親戚なら良いかなと思って。さっきのプリン美味しかった」

 

「ありがとう、お菓子作りには自信があるんだ。アトレの作ったものほどじゃないけどね。この子のお菓子を作る技術は、今すぐプロの世界に入っても通用するんじゃないかって思ってる」

 

 ルミねえと対面するように座っていたアトレを僕は称賛した。

 アトレは僕の言葉に嬉しそうに微笑む。

 

「お兄様のお役に立てるのであれば、いつでも御作りいたします」

 

「ふうん」

 

 ルミねえがそわそわしている。

 お菓子に惹かれるのは、年頃の女の子らしいと思うよ。

 

「じゃあ、さっきお菓子を作っていたのはアトレさんの受験勉強の手伝い? 確かアトレさんは、フィリア学院のパティシエ科を受験するって聞いたけど?」

 

「違うよ、これは僕の受験勉強。メイドとして雇って貰わないと、学院へ通う事すら出来ないからね。何よりも『小倉朝陽』の名前に恥じない働きが出来るようにならないとね。だから、デザインの時間を4時間減らして、壱与と九千代に見て貰いながら、午前中は家事の勉強をしている。今日は、たまたまそれがお菓子作りだったんだ」

 

「4時間も減らしたの!?」

 

 ルミねえは僕の報告に驚いた。

 そう、僕はデザインする時間をかなり減らしている。『晩餐会』前は家事に当てていた時間は、3時間だったけど、お母様の話を聞いた今では、更に1時間家事の勉強時間を増やした。

 デザインの時間を減らす事に関しては悩んだ。だけど、『小倉朝陽』の名を名乗るなら、妥協する事は許されないと思った。

 その分、屋敷の中で女装をする事で僕自身の感性を研ぎ澄ませる事にした。結果、隠していた時よりもデザインするのが楽しくなった。

 そんな僕の事情を知らないルミねえは、心配そうにしながら詰め寄って来た。

 

「……家事はしなくて良い事になってるよね?」

 

「それでも使用人として一日過ごす知識と、最低限の経験は身に付けておかないと、雇って貰えないかも知れない。選択肢なんてないに等しいからね」

 

「手を見せて」

 

 ルミねえは僕の手を取り、裏、表の肌を注意深く確かめた。

 無理やり捻られてちょっと痛いが、ルミねえが本当に僕を心配してくれている気持ちが伝わって来て嬉しい。

 でも、二、三か月かそこらで、肌は目に見えて荒れないと思う。

 

「何度も言っているけど、他の人よりも肌が弱いんだから、身体は大切にしてね。過剰に反応する私は面倒な人間かも知れないけれど、何かあってからじゃ遅いから」

 

「ありがとう、ルミねえを面倒だと思った事なんて一度も無いよ」

 

 だけど少しは照れるから、そんなに強く手を握らないで欲しい。

 真剣に心配してくれている、ルミねえには言えないけれど。

 

「若は何を任せても、私から教える事がないほど丁寧、また上手に家事をこなすので、驚きました」

 

「アメリカにいた頃は目にした事は積極的に学びたがるので、私と旦那様で、手取り足取りお教えいたしました。それも優秀にこなすので、若は家事全般からあらゆる教養までを高いレベルで身に付けています」

 

「そうなの? もしかして、アメリカでは自分で全部やっていたの?」

 

「使用人を雇っている以上、其処まではしないよ。だけど、お父様は何事も全部自分で出来る人だったから、僕も男として、いざと言う時は自分でできるようになりたかっただけだよ」

 

 真実を言えばお父様への対抗心。

 あの人が身に付けている事は、自分でも出来るようになりたかった。

 

「それに九千代は褒めてくれるけれど、お父様と比べれば、文字通りお子様程度にしか何事も出来ないけどね」

 

「倍の年齢差があるのですからしかたありません。それに若とお父様を比べる必要はありません。あの方もまた、特別な環境下で育った人ですから」

 

 ありがとう壱与。でも、理解できても、抱えた劣等感が納得してくれないんだ。

 何よりも今は、もう一人比較対象が出来てしまっている。

 

「それに……正直小倉さんにも僕は負けているしね」

 

「えっ? 小倉さん?」

 

「うん。この二、三か月で分かったんだけど、小倉さんはメイドとして一流だよ。最初はあの人の代わりをやってみせるなんて思っていたんだけど。小倉さんのスペックはお父様並み。九千代もそう思っただろう?」

 

「はい。同じメイドとして悔しいですけど、私も小倉さんには勝てないと思いました」

 

「あの方はあの方で事情があります。特にこの屋敷に来てからの働きぶりは、『小倉先輩』以上でしたので比較対象には入れない方がよろしいと思います」

 

「ふうん……まぁ、小倉さんは子供の頃から使用人の教育だけは受けていたみたいだし、仕方が無いかも。そう言えば……その小倉さんを才華さんとアトレさんのお母様とお父様が探しに行ったんだよね? その後はどうなったの?」

 

 ……出来るだけ考えないようにしていた事を思い出してしまった僕は、顔を下に俯けてしまう。

 

「って、どうしたの?」

 

「お母様から連絡があったんですけど、後一歩のところでイギリス国外に逃げられてしまって捕まえられなかったそうです」

 

「あ、逃げられちゃったんだ」

 

「……今度は行先も本当に分からないみたい」

 

 お母様とお父様なら小倉さんを捕まえられると思っていたけど、相手の背後には伯父様がいた。

 どうやら『晩餐会』が終わった翌日には、別の国に移動する手筈が整っていたらしく、小倉さんを発見出来たものの逃げられてしまったらしい。

 もしかしたら会えるかも知れないと思っていただけに、報告を聞いた時はショックだった。

 後、壱与が電話でお母様に叱られたみたいだけど、詳しい事は聞けなかった。

 

「……壱与」

 

「若。すみませんが、小倉さんに関して私が語れる事はありません。これは私自身の意思でもありますが、奥様からも言いつけられてしまいましたので」

 

 縋るような眼で見ても、壱与はやっぱり小倉さんに関しては何も教えてくれない。

 しかも今度はお母様からの口止めまである。

 ……本当にあの人は何者なのだろう?

 お父様に匹敵するスペックに、大蔵家の血を引いている。

 癖のある大蔵家の方々が、写真に写る姿を見ただけで養子入りに納得。

 僕が苦手としている総裁殿の豹変。そしてお母様も小倉さんの存在を知ったら豹変した。

 しかも養子に取ったのは、僕の大好きな伯父様。

 小倉さんの正体がどうしても気になる。

 その為の近道は、やはり伯父様が提示したフィリア・クリスマス・コレクションで最優秀賞を取るしかない。

 

「小倉さんの正体を知る為にも、もっと頑張らないと!」

 

「意気込むのは分かるけど、家事の練習をするのにまで、女性の恰好をする必要はないと思うよ。と言うよりも、まともな感性の女性だったら、今の才華さんを見て引くと思うな」

 

「泣いてましたもんね、小倉さん。アレって、思えば自分が仕えるかも知れない主が、女装で過ごす事に泣いていたのかも知れませんね」

 

 ……ルミねえと九千代が酷い。

 

「い、違和感なく暮らす為の練習は必要だよ。その為に最近は来客の予定が無い日は、女性として過ごすように心がけている」

 

「私も女装している間はお姉様と呼ぶようにしています。何だか少し物足りなくて、もどかしい気持ちなのですが、お化粧すればより美しく……」

 

「わあ」

 

「私も若ではなく、お嬢様と呼んでいます」

 

「うわあ……小倉さん。帰って来てくれないかな」

 

 ルミねえのアトレと九千代を見る視線が、人外を見るような視線になっている気がする。

 と言うよりも九千代。完全に流されているよ。

 

「全く違和感が生まれず、いよいよ桜屋敷は平和です」

 

「これで平和? ……私が可笑しいの?」

 

 遂にルミねえが思い悩んで考え込み出した。

 此処で更に追撃を、僕が加えよう。

 

「だけど身内だけじゃ正しい反応が見えてこないから、そろそろ外出を試みる段階だと思ってる」

 

「才華さんが女の子の恰好で外を歩く……聞いているこっちがドキドキして来た」

 

「うん。ちょうど話にも出たし、日が落ちたら買い物に出かけよう」

 

「え、えぇぇ、本当に? 怖くないの?」

 

「流石に少しだけ緊張する」

 

 アメリカで女装する時は部屋に籠って一人っきりでやっていた。

 日本に来てからは屋敷内にステップアップしたけど。多くの人に見られるのは初めてだ。

 僕はスリルで快感を覚えるタイプではない。でも、フィリア学院に通う事が出来れば多くの女性に見られる事になるのだから、今の内に慣れておかなければならない。

 土壇場になって失敗を犯す訳には行かないんだから。

 

「若、お待ち下さい。お一人で出かけるのは、万が一の事を考えた場合危険かと。私が同行したいのですが、今晩はアトレお嬢様と、全日本ショコラティエ選手権を見学する予定です。出かけるのならば明日にされてはいかがでしょうか?」

 

「明日なら私もご一緒出来ます」

 

 九千代とアトレが心強い事を言ってくれた。

 この二人と一緒ならば心強い。明日二人にはお願いするとしよう。

 でも、今日は今日で同行者になってくれそうな人がいる。

 

「ルミねえは?」

 

「えっ? 私?」

 

「受験の準備で忙しい中で申し訳ないけど、もし時間があるなら買い物に付き合って貰いたい」

 

「今晩……予定はないかな。ただ、ピアノの練習を最低8時間義務付けているから、この屋敷のピアノを貸して貰えるなら」

 

「ルミねえが一緒だったら心強い。夜までピアノの練習をするなら、食堂のものを使って」

 

「朝に3時間は弾いて来たし、これから夕方まで5時間は取れそう。遅くならなければ、帰ってからも弾ける。うん、才華さんの事は心配だし、別に良いかな」

 

「やった! 実はルミねえと二人でデートしたい気持ちもあったんだ!」

 

「それなら男の恰好で出掛ける時に誘おうよ」

 

 ルミねえは少し呆れた口調ではあるけれど、軽く口元を微笑ませながら、僕の誘いに応じてくれた。

 ……これで後の予定も決まった。そろそろ例の件に移るべきだ。

 

「それで……ルミねえ。『晩餐会』で言っていた僕の雇用主候補って?」

 

 背水の陣で挑むべきだ。

 家事を任せずに、服飾のみのサポートで、更に僕の外見を認めてくれるお金持ちの服飾生なんて、厳しい条件なんだ。

 この面接に失敗は許されない。

 

「うん。アイルランドの貴族、アーノッツ子爵の四女エストさん」

 

 ……背水の陣は一瞬で大失敗に終わった。

 そんな僕の心情を知らないルミねえは話を続ける。

 

「聞き覚えのない家の名前だから調べてみたけれど、子爵だけあってそれなりに長く続いている家で、桜小路家と比べても歴史の面では劣ってなさそう。九千代さんも納得してくれると思う」

 

 ……うん。確かに家柄の問題はないね。

 九千代を説得する時の条件に、桜小路家の家柄に劣らない事が条件の一つだったから。

 

「没落しかけた時期もあるみたいだけど、ここ数代で傾いていた台所事情を建て直して、今では貴族なりの裕福な暮らしをしているみたい。データを表面上で見る限り、こっちの用意した部屋に娘を住まわせるくらいできそう……って、どうしたの?」

 

 暗い顔をしている僕らに、漸くルミねえは気がついた。

 何故僕らは暗くなったのか。その説明をアトレがする。

 

「せっかく候補を見つけて頂いたのに申し訳ないのですが、アーノッツ家のエスト嬢はお兄様の知り合いです」

 

「えっ?」

 

「昨年、お兄様はアメリカのファッション誌で最優秀賞を取りましたが、その雑誌の賞で準優秀賞を取ったのがエスト嬢なんです。その前の年に、お兄様は別の賞で準優秀賞に選ばれた事がありましたが、その賞で最優秀賞に選ばれたのはエスト嬢です」

 

 次から次へと知らされる事実に、ルミねえがぽかんと口を開けた。

 お嬢様育ちのルミねえが、こんな顔をするのはレアだが喜べる訳が無い。

 

「アメリカでは同時期に生まれた若き二人の天才と表されていますが、お兄様とエスト嬢は実力を認めあいつつ、お互いに悔しい思いをさせられた間柄です。犬猿の仲と称しても過言ではありません」

 

「本当なの?」

 

「犬猿の仲じゃなくて竜虎相打つ間柄と言って欲しい。どちらが竜かって尋ねられたら、僕だとは思うけどね」

 

「本当だ。才華さんがムキになっている」

 

「ムキムキさでは若にだって負けないわよ! 筋骨隆々、ドン!」

 

 暗い雰囲気を吹き飛ばすつもりなのか、壱与がダジャレを飛ばしてくれた。

 僕は思わず笑ってしまう。壱与のダジャレは、僕と笑いのセンスが合うので大好きだ。

 ……だけど、実際のところ、エストとは仲が悪い訳では無く、なれ合いをしたくないだけだ。

 僕も、恐らく向こうも互いのデザインの才能を認めている。でも、僕も彼女もプライドが高い。同世代では一番だと思っている。だから常にお互いにファイティングポーズを構えてしまう。

 

「デザインに関して意欲的で、実績もあるって話だったから期待していたけど……もう繋がりがあったんだ、それじゃ駄目ね」

 

「それと実家について、良くない噂を耳にしました。どの家にも多かれ少なかれ苦難の時期はあるので、他家の在り方に非難するつもりはないのですが、現代のアーノッツ子爵が裕福なのは裏社会との繋がりに依るところが大きいです」

 

「裏社会……私の主義に真っ向から反する人達だ」

 

 裏社会と言うのは、言葉だけで胡散臭い気がするけど、実際に存在しているしなあ。

 

「アーノッツ家は表向き健全な貴族を振る舞っていますが、その実ロンドンを始め、ヨーロッパ各地のマフィアと癒着しています。正確に言えば癒着と言うよりも一員に近いですね」

 

「若! この家は駄目です!! 若の計画だと、フィリア・クリスマス・コレクション後にはエスト嬢に真実を話さなければ行けません! もしもエスト嬢が若の行いに怒りを抱いたら、腕を折られるだけじゃ済まないかも知れません!」

 

 九千代の言う通りだ。

 相手は裏社会と繋がっている家の娘。僕の行いは明確な犯罪行為に分類される。

 真実を知った時に怒りを抱けば、容赦はしないだろう。

 ……だけど、これ以上待っていて面接相手が見つかるかどうかも微妙だ。既に二か月近くも、ルミねえとアトレが候補を探していてくれたのに、漸く見つかったのはエスト嬢のみ。

 なら危険はかなり大きいけれど、面接だけでも受けてみる価値はある。

 

「元々騙している側はこっちだ。その覚悟は出来ていたよ」

 

「若!?」

 

「九千代の心配は尤もだけど、これ以上時間を掛けても面接相手が見つかる可能性は低いよ。奇跡が起きて、付き人が誰もついていないご令嬢が、いきなりフィリア学院の特別編成クラスに入学するなんて事態でもない限り」

 

「それはないね。特別編成クラスにも募集期間はあるし」

 

「ルミねえの言う通り、特別編成クラスの募集期間はもう過ぎてる。大体の相手には当たってくれただろうし、その中で可能性があったのは唯一エスト嬢だけ。なら、彼女に賭けてみるしかない」

 

 竜虎相打つ間柄だけど、彼女しか可能性が無いなら受け入れるしかない。

 

「問題は、『小倉朝陽』が桜小路才華だと彼女が気付くか気づかないか。アトレの言う通り、僕達はお互いを意識していて、僕は彼女の作品が雑誌に載ればチェックをしていた。向こうも多分していると思う。メールでのやり取りも何度かした。だけど、僕は彼女の顔を知らない。向こうも僕の顔を知らない。それなら僕の顔を見て何か反応が無いか、面接の時点で確かめた方が良いよ」

 

 エスト嬢がフィリア学院に通うのならば、僕は上手く入学出来れば学院内で会ってしまう。

 なら、面接の時点で僕の正体がバレないかどうかだけでも確認しておいた方が良い。

 

「若。やっぱりもう止めましょう。このまま危ない橋を進んだら、本当に若の身が危険です」

 

「じゃあ何度も叩いて橋を渡ろう。そう、顔よりも寧ろ僕の描いたデザイン画の方が、桜小路才華だと言う証拠になると思う。彼女とはデザインの駄目出ししあったからね。僕のデザイン画を見れば、きっとすぐに見破られる」

 

「私が作るお菓子も、自分ではお父様の味に近づけたつもりでも、お兄様やお母様の舌に掛かれば利き分けられてしまいますもんね」

 

「私がピアノの練習をしている時も、総裁殿や衣遠さんが聴くと、誰が弾いているのか分かるみたい」

 

「その道に親しんでいる人、それも何度も目にしていると、ちょっと誤魔化した程度では見破られてしまいますもんね……デザインとなれば尚更に。若のデザインは若だけのものですし」

 

 意見を変える気が無いと悟った九千代は諦めた。

 それで即座に考えを切り替える速さには感謝したい。

 

「だから『小倉朝陽』は、アメリカで桜小路才華のゴーストだった事にしようと思う」

 

「えっ?」

 

「彼女が入学する時点で、どの道何処かで僕のデザインを見られるのは間違いない。なら、早い内に彼女に『小倉朝陽』の存在を知らせて納得して貰った方が良い。学院生活を安心して暮らせるようにする為にもね」

 

「待って下さい、お兄様。それではお兄様の名誉に傷がつきます」

 

「名誉の傷なんてこの際しょうがないよ。面接に受かれば、結局のところフィリア・クリスマス・コレクション後に全部彼女に話すんだから。まぁ、印象を良くする為に面接の時には、この姿では表に出られない『小倉朝陽』の作品を世に出そうとしてくれた美談として話すよ。その上で『小倉朝陽』の意思として頼めば、世間には公表しないでくれると思う」

 

「はい。疑問。その流れで進んだとしても、どうしていきなり桜小路才華から離れて急に行動したのかって、質問が来ないかな?」

 

「ルミねえの言う通り、来るかも知れないね。その時は、どうしても知りたい相手の人がいて、その人の事を知る為にフィリア学院に入学したいって言うよ」

 

 嘘ではない。

 僕にとってフィリア・クリスマス・コレクションに参加するのは絶対の目標。

 だけど、同時に今は小倉さんの事を知る唯一の手段でもある。

 

「どちらにしても、デザイナーとしてエスト・ギャラッハ・アーノッツが認める。桜小路才華の評価は二度と修復できないものになるだろうね。それでも僕は入学してショーの舞台に立ちたい」

 

「評価だけで済めばいいけど」

 

 ルミねえの言う通りだ。

 入学出来てフィリア・クリスマス・コレクション後には、エスト嬢に全てを話す。

 その時に何が起きるのか僕には分からない。彼女と信頼関係を結べなければ、僕のデザイナーとしての人生は終わってしまうだろう。

 失敗すれば、人生までも。

 

「自分が認めるライバルに軽蔑されても良いの?」

 

「やめて、言わないで。とにかくルミねえ。面接のセッティングをお願い」

 

「才華さんが苦しんでる。軽蔑されるけど? 辛くない?」

 

「お願いですプリンを作るから、面接のセッティングをして下さい」

 

「うん、ごめん。少し生意気ぎみに育ったから意地悪言った。分かった。面接の連絡はしておくよ」

 

 プリン一つで許してくれるなんてルミねえは簡た……。

 

「やった! 好きな時にプリンを食べられる権利を得た!」

 

「えっ? 回数の上限なし?」

 

 どうやらルミねえは、思ったよりも強かな人に育ったらしい。

 先の苦労を考えて僕は落ち込み、ルミねえは上機嫌になった。

 

「そう言えば、ルミねえ様?」

 

「何? アトレさん」

 

「ご両親にエスト嬢の件は知られていないのですか?」

 

「う~ん。多分大丈夫だと思う。彼女の事を調べたのは『晩餐会』前だったから。今まで何も言って来ない所から見て、気づいていないよ」

 

「それは良かったよ」

 

 もしもひい祖父様に、ルミねえが裏社会と関わりがある家の娘と会う約束などしている事がバレたら大変な事になっていた。

 正直、『晩餐会』で僕はひい祖父様の恐ろしさを知ってから、あの人を頼るのは止めようと思っていた。

 本気であの人は衣遠伯父様を潰すつもりだったに違いない。その相手と真っ向から戦って勝った伯父様には、更なる尊敬を抱いたけど。

 

「それじゃ才華さん。食堂のピアノを借りるから」

 

「うん。僕は家事の練習の続きをやって、時間が来るまで、デザインを描いているよ」

 

 ルミねえとのデートが楽しみだな。

 ……僕は女装しているけど。




予定では後一、二話で一月は終わりです。
因みに前話で書いた通り、ルミネの行動は両親にバレています。
ただ、余り構い過ぎると娘に嫌われるかも知れないので自重しているだけです。
巡り巡ってそれが朝日を呼ぶ事になるとは夢にも思ってないでしょうけど。


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一月中旬(才華side)10(終)

一月編はこれにて終了です。
才華とエストの出会いは二月から。でも、その前に遊星sideをやります。

エーテルはりねずみ様、Layer様、三角関数様、烏瑠様、めさじぇ様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

 時刻は夜になり、僕とルミねえは夜のデートに出た。女装してだけど。

 尤も僕の着ている服装は予定通り女装。ただ、一つミスをしてしまった。

 ずっと屋敷の中でしか女装していなかったので、厚着の女装の用意をしていなかった。

 おかげでこの寒空の下の中、僕がコートの下に着ているのは、薄着。寒くて仕方が無い。

 

「……少し寒いですね」

 

「そんなに寒いんだったら、この辺りで終わりにしない?」

 

 僕の横を歩いているルミねえが心配そうに声を掛けてくれた。

 

「いえ、まだ始めたばかりですから止める訳には行きません」

 

「う~ん。慣れって本当に怖い。才……朝陽さんの話し方が完全に女の子なのに、違和感がないんだもの」

 

 屋敷から出てから、僕は出来るだけ女性を意識して口調を変えている。

 昔から声は高いと言われて来た。お父様も男性なのに声が高い方なので、きっと遺伝したに違いない。

 だけど、初対面の人が違和感を覚えるなら駄目だ。それを確かめる為にも、人が多い場所に行きたい。

 ルミねえと相談して向かう場所は渋谷と決め、明るい場所へと出て人混みの中に紛れ込む。

 

「今のところあからさまな反応はないね」

 

「視線は感じますけど、皆、私の髪ばかり見ている気がします」

 

 この髪を感嘆で見られるのは、大変気分が良い!

 世界で一番美しいお母様から譲り受けた僕の髪だから。

 蔑みや侮蔑で見られるどころか、ほう、と感心した息遣いまで聞こえて来るのは、僕の気分を良くしてくれる。

 思わず、周りのスペースが広がっている場所で、僕は手を髪に差し込み広げた。

 

「全然普通に歩けるね」

 

 交番の前も通り過ぎたが、何かを言われる事はなかった。

 確かに歩いている分には問題はないようだ。

 だけど。

 

「まだ声を出して、人と話していません」

 

 重要なのは男性と気がつかれずに、女性と思われて過ごせるかどうかだ。

 その為にも会話出来るかどうかは確かめなければならない。

 僕は周囲を見回して、遠慮のなさそうな相手がいないか確かめる。

 ……いた。道端に座り込んで、ガハハと笑っているギャルっぽい女の子の集団が。彼女達なら、僕が男だと分かってもネタだと思ってくれそうで、確認するには打って付けだ。

 

「行って来ます」

 

「えっ? 行って来るって? あの子達と話すって事? ま、待って!」

 

「やる気マンゴスチンです」

 

 緊張を解きほぐすつもりで、たまにお父様が言っている言葉が出た。

 何せこれからの会話が、『小倉朝陽』としての第一声になる。

 ……落ち着いて。気品を忘れず。凛々しい女性に僕はなる!

 アメリカにいるお父様、お母様。たとえ女装をしていても、僕は二人の子供である誇りを忘れません!

 

「こんにちは、お話し中にすいません。少々道をお尋ねしてもよろしいですか?」

 

「うわー。なにコレ? なんかスッゲ美人に話しかけられちった」

 

「目ぇ浄められ過ぎて視力回復したんすけど。え、あのどこウッド女優の人すか?」

 

 僕に向けられた視線は侮蔑だとは遠いものだった。

 寧ろ憧れにも似た視線が向けられている。僕はあの美しい両親の子供だから当然なのだけれど、こうして褒められるのは大変気分が良い!

 当たり障りなく会話を続けて、取り敢えずレディースショップの場所を彼女達から聞く。

 愛嬌がある顔の女性が教えてくれて、僕は彼女達から離れてルミねえの下に戻って行く。

 

「うわ、あっちも美人!」

 

「こんな美人を二人も見られる日が来るなんて!」

 

 背後からルミねえも称賛してくれる声が聞こえて来る。

 その声に更に気分が良くなり、思わず彼女達に合ったデザインが頭の中に浮かんで来てしまう。

 今まで僕の引き出しになかったデザインまで浮かんで来て、この創造の機会を与えてくれた彼女達に感謝した。

 

「勇気あるね。私、一人で彼女達に話しかけるのはちょっと怖い」

 

「もちろん正体を見破られる怖さはありました。ですが私は外へ出て、人と会話する機会そのものが少なかったので、興味の方が強いのです」

 

 アメリカの学校での同級生達との会話とは、また違う刺激を感じられた。

 おかげで新しいデザインの発想が浮かんで来た。

 世界の全ての物事は、新しい創造に繋がると心から感じた。

 

「先ほどの表情を浮かべていた彼女に似合う衣装は、今この瞬間に会話する事でしか出会えませんでした。ですから私は世界中の人が好きですし、世界中の誰からも愛されたいと思います」

 

「そんな大げさな話じゃなくて、相手を怒らせたらどうするのって話」

 

「怒った時の彼女に似合う服のデザインを創造します」

 

「ふぅ~ん……じゃあ、才華さんを叱った時の小倉さんに合う服のデザインも創造できるんだ」

 

 グサッと僕の胸に鋭く尖った刃が突き刺さった。

 ……そ、それだけは想像も出来ない。寧ろ忘れたくて仕方が無い出来事だ。

 あの件だけは正直謝っても許して貰えるかどうか分からない。許されなかったらどうしようと悩んでしまっている。

 

「……も、申し訳ありません。少々迂闊でした」

 

「分かれば宜しい。うん。今度から朝陽さんが勝手な事をしたら、小倉さんの件を持ち出そうかな」

 

 満足そうにルミねえが頷いている。

 ……どうかそれだけは許して下さい。

 罪悪感で胸が苦しくなりそうです。

 

「世の中には言葉が通じない人もいるんだから、気を付ける事」

 

「はい……あ、ところでさっきの人達、性別については何も聞かれませんでした」

 

「あれ……本当だ」

 

 明るい街灯の下で、正面から顔を突き合わせて会話したのに、僕の性別には触れられる事はなかった。

 まだ、100%安心は出来ないが、一先ずは第一関門は突破したと思って良いだろう。

 

「流石は私。あの両親の娘です。何の問題もありませんでした」

 

「そこは残念さも覚えようよ」

 

 ルミねえの声には呆れが混じっていたが、安心もしていてくれていた。

 

「では、もう何人か会話したら、先ほどの彼女達から教わったレディースショップに入って、店員さんと話してみようと思います」

 

 第二関門に人と会話する機会が多そうな人が望ましい。徐々にレベルを上げて行こう。

 

「ジャジャン! こんにちは、貴女の運命の僕でぇーす! 今から結婚前夜を迎えませんか!」

 

 僕らが歩き出そうとした途端、男の人の方から声を掛けられた。

 

「ほら面倒な事になった……この人との出会いでも新しいデザインが浮かんだ、なんて言える?」

 

「はい。彼は今、私の頭の中でコレクションのランウェイを歩いています。与えてくれた創造に感謝します。ですが他に用事があるのでご一緒に行動は出来ません。ごめんなさい」

 

「いやいやいや俺はしつこいよ? セックスしてくれるまで此処は通さないぜ! ギャハハ!」

 

「はっ!?」

 

 思わずの素の声が出てしまった。それだけびっくりした。

 驚いているのは僕だけじゃない。ルミねえも、周りの人達も、声を掛けて来た人も、たまたま通りかかった警察官の人も全員びっくりしている。

 

「あ、今の内。すいません。絡まれているので対応お願いします! 才か……じゃなくて、朝陽さん、行こう!」

 

 固まっている僕に代わり、ルミねえは男の人を警察官の人に預けて、僕の腕を抱えて歩き出した。

 半ば引っ張られながら僕は続いて行くが、それどころではなかった。

 ……だって、僕が? セックスしようって言われた?

 ある程度離れると、ルミねえは腕を離してくれたけど、僕は呆然自失していた。

 

「朝陽さん? 大丈夫?」

 

「……う、うん。ちょっと驚いただけ」

 

「ちょっと? その割には珍しく迫力のある顔していたけど、怖い目にあって少し目が覚めた?」

 

「怖い目に遭ってない。ただ……」

 

「ただ?」

 

「今の男の人は、僕を恋愛対象として見ていた?」

 

 僕の言葉に、ルミねえはからかうような顔から真顔になって僕を見つめた。

 

「恋愛対象って言うか……何処から見てもナンパだったね。想定してなかった?」

 

 全くしてなかった。

 男の人が僕に視線を向けて来るのは、この美しい髪とお父様とお母様に似た顔が綺麗だからだと思っていた。

 僕自身が恋愛対象として見られるなんて、想定外過ぎた。

 

「美人だと思ったら、中には声をかけて来る男の人もいるんじゃない?」

 

「恋愛対象として見られるのは困るな。まるで想定してなかったし、男性から向けられる恋愛感情は、僕のデザインには結びつかない」

 

 かと言って、女性から恋愛感情を向けられても僕が応えられるとは思えないけど。

 僕は女性に対して美を感じられないから。

 ……でも、もしも小倉さんが僕に恋愛感情を向けてくれたら。

 

「あ、また小倉さんの事を考えてる」

 

「えっ?」

 

「気がついていないの? 才か……じゃなくて朝陽さん。貴方、小倉さんの事を考えている時、顔が赤くなっているよ」

 

「ッ!?」

 

 指摘されて思わず、僕は両頬を手で押さえてしまった。

 え? 嘘。ずっとそうだったの!?

 

「まぁ、その反応から見て朝陽さんがノーマルなのは間違いないから、さっきの出来事でショックを受けるのも当然。但し自分の気持ちに気がつけていない未熟者には違いないから、判決、串刺し刑」

 

 ルミねえは判決を言い渡すと共に、僕の手を頬から退かせて人差し指を刺して来た。

 割と強めで、頬が押されている。

 

「ル、ルミネお嬢様止めて下さい!」

 

「フフ、何か今の朝陽さん可愛い。今度は両頬で」

 

 ルミねえは今度は左右の頬を指で突き刺して来た。

 自然と頬が窄められて、唇がヒヨコみたいにルミねえに向かって突き出された。

 

「あれ? この表情でこの距離って、まるで」

 

「ああああああああああああぁああああああ!!!」

 

 賑やかな雑踏に、突然大音量の大声が響き渡り、僕の耳を右から左へ串刺しにした。

 誰もが響き渡った大音量に固まっている。ルミねえも、楽しく雑談していた通行人の人達も。

 ただの奇声だったなら、すぐに皆我を取り戻していたかも知れない。だけど、声の主の方を見て、僕も含めて全員が固まってしまう。

 着ぐるみが僕の背後に立っていた。周囲の人達が着ぐるみを見て、『おがっしー?』と言う囁きが聞こえて来る。

 それで分かった。確かに日本では多数のマスコットキャラクターが多数制作されている。

 僕の視界の先にいる人形もその類なのだろう。

 

「綺麗だあああああああああAHHHHHHHHHっ!!!」

 

 僕が振り返ると絶叫された。

 この状況を何と言えば良いんだろう? 奇声を上げられて着ぐるみに綺麗だと言われる僕。

 ……シュールだ。

 ルミねえも呆然としている。だけど、目の前の着ぐるみが発した単語は『綺麗』。敵対的なものではない。

 

「私ですか?」

 

「うん! はい! すごっく綺麗ですね!」

 

「ありがとうございます。髪の毛を褒められるのが一番嬉しい」

 

「……いや、それは違うんじゃ」

 

 何だかルミねえが呆れたようにしている。

 着ぐるみの方は、僕の微笑みに腕を高速回転させてじたばたと踊った。その動きは着ぐるみを着ているとは思えないほどに軽快な動きで、お世辞抜きで感心した。

 

「貴女の踊りを見ていると、明るい気持ちになれます」

 

 僕が褒めると、着ぐるみがぶんぶんと頷き始めた。

 それでも手の高速回転は止めていない。面白い人だ。中の人がどんな表情をしているのか、気になって来る。

 好意を僕に持ってくれているようだし、楽しい会話が出来るかも知れない。

 そんな期待が生まれたと同時に、目の前の着ぐるみの首が背後から刈り取られた。

 

「でゅふっ!」

 

「キャラクターになりきってる間は喋っちゃダメって言われッたしょが!」

 

 着ぐるみの首を刈ったのは、先ほど僕が会話していた人達よりも抑えめだけど、金髪のギャルっぽい子だった。

 

「けほけほ。痛いです」

 

「今バイト中で移動中で街ン中だから。あーもー、とりあえず急いで戻るし、今から一言も喋んない、おけ?」

 

「うん分かった喋んないの巻」

 

「いや喋んないでって」

 

「てかね喋んなくなる前にひとつだけお願いなんだけどね」

 

「一つだけお願いする前に、一つだけ私のお願い聞いてよ。喋んないでよ」

 

「喉かわいたから其処でお茶買ってほしいのとね、あともう一つ。でゅふふふ」

 

「やりたい放題だなお前」

 

「そのひと、あ、その方を引き止めちゃったから私の代わりに謝って欲しいです」

 

「その人?」

 

 ギャルっぽい人が、漸く僕らに視線を向けてくれた。

 

「こんばんは。この着ぐるみのキャラクターが喋れないものだと知らず、会話に応じてしまいました。まだ日本に戻って間もないので、ご容赦下さい」

 

「え? あ、海外の人? モデル? いや、声をかけたのはこっち側なら、返事するのは普通じゃないですか。ていうか、だと思います」

 

 ギャルっぽい人は声の調子も変えずに答えてくれた。人と話すのに慣れた印象を感じる。

 状況から考えて、この人は目の前の着ぐるみのマネージャー的な存在なのだろう。面倒事や人との対話に慣れているに違いない。

 

「この子がご迷惑をおかけしました」

 

「ごめんなさい」

 

「いや喋んないでよ。私、何の為に謝るの代わったの?」

 

「ごめんなさい」

 

「楽しかったです。この後も、お仕事頑張って下さい」

 

「はい。感激しました」

 

「感激?」

 

 どういう意味だろうか?

 何か感激するような事があったのだろうか?

 だけど、その疑問の答えが出る前に、ギャルっぽい人が着ぐるみの首を腕に引っ掛ける。

 

「あ、ごめんなさい。ほんともう時間がなくて」

 

「はい、お嬢さん! ありがとうございましたーー!」

 

 間違いなく人生で初めて会話したゆるっぽいキャラクターは、着ぐるみ姿でもありながら丁寧に頭を下げてギャルっぽい人と一緒に去って行った。

 着ぐるみが去ると同時に、野次馬的な気持ちで見ていただろう通行人の人達も去り、残されたのは僕と目をぱちくりさせているルミねえだけだった。

 

「今のは何だったの?」

 

「私も同じ質問をしようとしていました。今のキャラクターは有名なのではありませんか?」

 

「知らない。私がそういう存在を知らないのもあるけど、全国に数千体くらいいるらしいから」

 

「私もアメリカにいたのでその辺りは詳しくありません。ですが、着ぐるみの中の人には好感を持てました」

 

「何処が? 私だったら、風評被害も込めて裁判沙汰にする」

 

「私の髪を褒めてくれました。おかげでまた一つ自信の源が生まれました。彼女の事が大好きになりました。大変に気分が良いです」

 

「感謝と自信って大げさな」

 

「それに女性扱いもしてくれました」

 

 これは何よりも重要な事だ。

 女装姿の僕が女性として見られるかどうかが目的だったんだから。

 あの声の様子からして、着ぐるみの中に入っているだろう女性には感謝するしかない。

 

「ん、まあ……外を歩く試験としては成功だね。面接するまでには、もう何度か確認したいけど」

 

「あと何回かルミネお嬢様とデートが出来るんですね。楽しみです。その時にはお礼として、ルミネお嬢様にご馳走します」

 

「本当? じゃあ才華さんの手料理が食べたい」

 

「最高の料理をご馳走します」

 

 僕らは笑い合いながら、桜屋敷の帰路へとついた。

 ルミねえに手料理を振る舞う時は、何を作ろうかな?

 

 

 

 

「さて、桜屋敷に戻る前に……才華さん。話がある」

 

 もう少しで桜屋敷が見えて来る時になって、ルミねえが真剣な顔を僕に向けて来た。

 

「どうしたの? もうすぐで屋敷に着くけど? 話があるんだったら、屋敷でしない?」

 

 コートを羽織っているけど、下が薄着なだけに、早く屋敷に戻りたい。

 だけど、ルミねえは僕の意見に首を横に振る。

 

「ごめん。だけど、あの屋敷には八十島さんがいるから。才華さんと二人だけで話したいの」

 

「壱与に聞かれたくないの?」

 

「うん……率直に聞くけど、才華さん。『晩餐会』での出来事をどう思った?」

 

「どう思ったって? ……正直驚かされたけど、伯父様は凄いと思ったよ。ひい祖父様や大蔵家の方々を相手に、小倉さんの養子入りを納得させたんだから」

 

「そう……納得した。癖の強い大蔵一族の大半が、父親が(・・・)誰なのか不明のまま小倉さんの養子入りを」

 

 ……えっ?

 

「可笑しいと思わない? 私は衣遠さんから小倉さんの養子入りの話を聞いた時、『晩餐会』で父親の所業も追及すると思った。それだけの事をしていて、大蔵家の名を名乗るなんて許される筈が無い。小倉さんの養子入りと共に、小倉さんの父親を糾弾して二度と大蔵の名を名乗らせないまでに追い込むと思った。衣遠さんならそれぐらいはやると思う」

 

 ルミねえの言う通りだ。

 伯父様は僕やアトレには甘い人だが、本質は苛烈な人だ。

 家族思いのあの人なら、家族を蔑ろにする所業をした相手を追及して責め立てただろう。

 でも、あの『晩餐会』では、ただ小倉さんの養子入りを納得させるだけで終わった。

 確かに総裁殿を慌てさせたりしたが、それだけだ。

 

「他にも可笑しい事がある。駿我さんが言っていた言葉もおかしかった。『質の悪い冗談だったら潰すぞ』。可笑しいよね? 小倉さんの写真を見て出る言葉がそれって……普通だったら、『本当にこの子なのか?』じゃない?」

 

 そうだ。思えばあの『晩餐会』に出た大半の人が、小倉さんの写真を見て動揺していた。

 お父様とお母様を含めて。特にお母様は僕が見た事がないほどに怒りを抱いていた。

 その怒りの対象は……伯父様だった!

 何で伯父様に怒りをお母様は向けていたんだろう?

 

「私は、最初、才華さんには悪いけれど、小倉さんの父親は……遊星さんじゃないのかなって思った。だって、あの二人。正直似すぎているもの」

 

「そ、それはないよ、ルミねえ。僕は小倉さんに会ったその日の夜に確認した。小倉さんに実はお父様の隠し子じゃないかって。だけど、小倉さんはその話を聞いたら顔を真っ赤にして怒って否定したんだよ。アレが演技だったとはとても思えない」

 

 あの時の小倉さんが演技していたとは、僕には思えない。

 確かに二人は良く似ている。だけど、それで親子だという証拠はない。

 

「似てるって言うなら、ルミねえにだって小倉さんは似ているよ。総裁殿にも似てるし、お父様が本当に父親だったら、絶対に小倉さんが酷い生活を送るようにしないよ」

 

 これだけはハッキリと断言出来る。

 僕は確かにお父様に対して複雑な気持ちを抱いて、反抗期になっているけど、お母様を悲しませる事だけはあの人は絶対にしない。

 だけど、ルミねえは納得出来ないのか、話を続ける。

 

「『晩餐会』の場で、一番小倉さんの姿に動揺していたのは、才華さんのお父様である遊星さんと総裁で妹のりそなさん。もしも……もしもだよ。これはあくまで私の考え。小倉さんの実の父親は遊星さん。そして母親が……妹のりそなさんだったらどう?」

 

「それって……近親相姦を二人がしたって事? 幾らルミねえでも流石に僕も怒るよ。第一、僕はお母様に聞いた。十数年前に確かに桜屋敷に『小倉朝日』さん。つまり、小倉さんの母親が実在していた事を。これを話してくれた時のお母様は本当に嬉しそうにしていたんだ。嘘をついているとは思えない。『小倉朝日』さんは確かにいた」

 

「そう……なら、私の考えは間違っていた。安心した。だけど、また最初に話は戻すね。小倉さんの父親は誰?」

 

「それは……」

 

 僕にも分からない。

 子供が居るなら確実に親となる人が二人必要。小倉さんの母親が、『小倉朝日』さんだとすれば、父親は大蔵家の誰かなのは間違いない。

 でも、その父親は不明。不明のまま小倉さんは伯父様の養子となって、名乗る事は許されて無いけど、大蔵家の一員となった。なってしまった。

 謎を残したまま小倉さんは伯父様の養子となり、娘として大蔵家に認められた。

 

「多分、衣遠さんはそれを狙っていたんだと思う。小倉さんの存在を明らかにする前に、総裁殿を使って場を乱し、どんな形でも良いから総裁殿に小倉さんの養子入りを認めさせる。これさえ上手く行けば、お父様でも簡単には覆せない。だって、お父様は既に一線から引退した方なんだから」

 

 其処まで考えて伯父様は動いていた。

 ルミねえの説明には納得出来る。だとすれば、伯父様は小倉さんの存在が大蔵家に衝撃を与える事を知っていたんだろう。

 いや、知っていたに違いない。総裁殿が探していたのが小倉さんだとすれば、ずっと前から、それこそ捜索を開始した頃から既に小倉さんの事を把握して隠していた。

 総裁殿に小倉さんの事を早期に知られるのは、何か伯父様にとって不都合な事があった。だから、『晩餐会』の時までずっと伯父様は小倉さんを隠し……いや、護っていた。

 

「……ルミねえの言う通り、小倉さんには謎が多いのは分かった。だけど、それでルミねえはどうしたいの? 今から小倉さんの養子入りをやっぱり取り消したいの?」

 

「衣遠さんは確かに隠し事をしているけれど、少なくとも規則を破っている訳じゃないから、私には文句はない。隠し事に関しても大蔵家にとって不利益になるかも知れないから、敢えて隠しているのかもしれないし」

 

「だったら、何でこんな話を僕に?」

 

「私が心配なのは……小倉さんがこれからどうするのか? それが心配」

 

「どうするって? 伯父様の娘として過ごすんじゃないかな?」

 

「……才華さん。幸せな家庭生活を送っているから分からないかも知れないけど、小倉さんの境遇は世間一般からしたら酷い家庭環境なんだよ。望まれずに生まれた子供が、どれだけ迫害を受けるのか。その迫害の中で育った子が、どんな気持ちを抱いてしまうのか……正直に言う、私は小倉さんは元気になったら、大蔵家に復讐をしないか心配してる」

 

「そんなこと、小倉さんがする筈ない!」

 

 僕は声を荒げてルミねえの考えを否定した。

 あの人が、小倉さんが復讐なんて考えを抱くなんて絶対にありえない!

 だって、あの人は、桜屋敷に来る前に追い出された屋敷に対しての怒りや不満なんて一度も口にしていなかった。

 どれだけ自分が悲しんで、苦しんでいても追い出された屋敷を語っていた小倉さんは嬉しそうだった。寧ろ自分のした事が大切な主人の人生に傷をつけてしまっていたかも知れない事実を、心の底から悔やんでいた。

 そんな誰かの為に優しさを抱ける人が、復讐に走るなんて僕には考えられない!

 

「ルミねえは小倉さんとちょっとしか話してないから分からないんだ! ルミねえに小倉さんが挨拶した時も、大蔵家と分かって驚いていただけじゃないか。もしも本当に小倉さんが復讐なんて考えていたら、もっと違う反応を見せていたと僕は思う」

 

「うん。私は小倉さんの事を良く知らない。だから、一般的な考えからで言う。迫害に等しい生活を送っていた人が、それを送らせていた人達を赦すとは思えない。もしも赦せる人がいたら、どれだけ純粋な人なの? 正直いたら会ってみたい」

 

「……それは」

 

 僕はルミねえの言葉に何も返せなかった。

 小倉さんの事を信じたい。だけど、ルミねえの言う通り一般的に考えれば、迫害を受けた相手が迫害を行なった相手に良い印象を持つとは思えない。

 寧ろ考えれば考えるほどに、ルミねえの言う方が正しいように思えて来る。

 ……違う! 僕は何を考えているんだ!

 小倉さんが復讐なんて考えを持つ筈が無い! だって、あの人は僕を叱った時も暴力は振るわなかった!

 自分の心の傷を踏み躙られても、暴力に訴えない心の強さが小倉さんにはある!

 

「ルミねえが何と言おうと、僕は小倉さんを信じる。あの人はどれだけ追い込まれても、絶対に他人に怒りをぶつけない人だって僕は信じる」

 

「……分かった。才華さんが其処まで言うなら、もう何も言わない。だけど、私はあの人を警戒する……もしもあの人が才華さんを傷つけたりしたら、絶対に赦さない」

 

「……ルミねえ」

 

 どうしてルミねえがこんな話をして来たのか、漸く分かった。

 目の前にいる僕の大好きな幼馴染は、僕の事を心配してくれていたんだ。

 僕があの人に……お父様以外に初めて心が惹かれている小倉さんに裏切られてしまうかも知れない事を。

 

「……ありがとう、ルミねえ。大好きだよ」

 

「その言葉……できれば女装の時じゃない時に聞きたかった」

 

「ハハハッ、ごめん。だけど、ルミねえも小倉さんとちゃんと向き合えば、きっとあの人の優しさが分かるよ。もしかしたら惚れちゃったりするかもね」

 

「ない。私はノーマルだから」

 

「僕もだよ。さっきのちょっとした仕返し。さ、もう屋敷に帰ろう。壱与が夕飯を作っていてくれている筈だから」

 

「うん。分かった」




今回ルミネがちょっと嫌な役をやりましたが、あくまで朝日の事を良く知らない故に行動です。
ルミネも会社の社長をやっているだけに、りそなほどではないにしても人の汚さは見ているでしょうから。
まさか、自分にやられた事が全部自分の糧になっていると考えて、母親と死別させた元凶とも何時か和解して仲良くなりたいと考える何処の聖人だよと言える思考を朝日が持っているとは夢にも思ってません。
元気になって一番最初にやった事が、ファッション雑誌で買って服飾に意欲を燃やしたと聞いたら、目が点になるでしょう。

漸く次回からは二月編。そしてルナ様との出会いです!


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二月編
二月上旬(遊星side)1


今回から二月編です!
結構難産でした。
アフターアフターのルナ様で行こうか、それとも乙女理論の方のルナ様で行こうか悩み、こんな形にしてみました。

皆様、感想、お気に入り、評価ありがとうございます!

烏瑠様、獅子満月様、kcal様、誤字報告ありがとうございました!


side遊星

 

 フランスのパリ。

 以前この地を離れる時は何の感慨も浮かばなかったのに、今は離れるのが寂しく感じる。

 僅か一か月だけど、パリでの生活は楽しかった。そう思えた事が、僕は嬉しかった。

 

「朝日さん」

 

 空港のロビーで、僕は一か月の間、アトリエを貸してくれたメリルさんと別れの挨拶をしていた。

 

「メリルさん。色々とありがとうございました。昨日までのメリルさんとの服飾の勉強は本当に楽しかったです」

 

「此方こそ楽しい毎日でした。また、パリに来た時は来て下さい」

 

「はい。パリに来た時は、必ずメリルさんのお店に寄らせて貰います」

 

 僕とメリルさんは再会の約束を交わした。

 必ずまたパリに来よう。その時に僕の服飾の腕を、もう一度この人に見て貰おう。

 互いに笑みを浮かべながら握手をしていると、湊と話をしていたりそながやって来た。

 

「朝日。アメリカでは気を付けて下さい」

 

「分かっています、りそな様」

 

「……いい加減、私に様付けは止めて欲しいんですけど。貴方はもう使用人じゃないんですから。大蔵家の一員ですよ」

 

「も、申し訳ありません。どうしても癖で思わず」

 

「メリルさんはさんづけなのに、何で私は様なのか」

 

 ごめん、りそな。

 朝日として話していると、目上の人相手だと思うと様がついちゃうんだよ。

 メリルさんには目上の人って感じがしないからさん付けで呼べるんだけど、りそなには使用人として仕えた事があったから。遊星なら呼び捨てに出来るんだけど、呼んじゃうと、そのまま口調が遊星になっちゃう気がするし。

 悪いけど僕が慣れるまで我慢して。

 

「ミナトンにも頼んでおきましたけど、本当に気を緩めないで下さいよ。正直信じ切れない部分がありますから」

 

「大丈夫ですよ、りそな……さん。ルナ様は私をそのまま屋敷に置いたりなんてしたりしませんよ」

 

「甘いんですよ、貴方は。ルナちょむの朝日への執着心を知らないから。あ~、何でしょうね。腹を空かせた虎の巣に何も知らない小鹿を送る気分です。ミナトンもそう思いますよね?」

 

「ハハハッ……ノ、ノーコメントでお願い」

 

 湊、それだけで不安になるよ。

 そんなにこの世界のルナ様の朝日への執着心は凄いのだろうか?

 でも、この前電話で話した時は、そんな感じは受けなかったんだけど。

 あの日、懐かしい人達と再会し、この世界のルナ様と、そして桜小路遊星様と会話した時の事を僕は脳裏に思い出す。

 

 

 

 

「……お久しぶりです、ルナ様」

 

 覚悟はしていたつもりだった。

 だけど、声が震えるのを隠す事は出来なかった。周りにいる湊達も、僕の様子に押し黙っている。

 もしかしたら声だけではなく、身体も震えているのかも知れない。

 

『怖がらなくて良い、朝日。私は君と会話がしたいだけだ』

 

「……はい、ルナ様」

 

『……君の事情はサーシャから聞き、壱与にも確認して把握している』

 

「ルナ様……八十島メイド長が私の事を隠していたのは、私が頼んだからです。ですから、どうかその件で八十島メイド長を責める事だけはお止め下さい。もしも罰が必要だと言うなら……私が罰を受けます」

 

『いや、罰を与えるつもりはない。確かに壱与が君の存在を隠していたのは驚いた……と言うよりも愕然としたが、君の精神状態が其処まで追い込まれていたからの判断だ。彼女に何らかの処分を下す予定はない』

 

「ありがとうございます、お優しいルナ様」

 

 あぁ、世界が変わってもこの方の優しさは変わっていない事に安堵を覚えた。

 実感が湧いて来る。今、僕は世界は違っても敬愛したルナ様と会話していると言う実感が。

 だけど、この実感に浸ったら駄目だ。電話の先のルナ様は、僕が敬愛したルナ様とは別人なんだから。

 

「それで……本日はどのような用件でお電話をなされたのでしょうか?」

 

『ふむ、では、率直に言わせて貰う。朝日、君と直接会って話がしたい。アメリカの屋敷に来て貰えないか?』

 

「話……ですか?」

 

『そうだ。サーシャや壱与から事情は聞いたが、やはり君と直接会って改めて話が聞きたい』

 

「……分かりました」

 

 僕自身一度ルナ様に、会わなければならないと思っていた。

 未だに理解出来ない部分もあるが、朝日を巡って大蔵家と桜小路家が争う可能性があるらしい。

 四月にはフィリア学院に入学しないと行けない。才華様の事もあるから、余り他の事に気を取られたくはない。

 ……と言うよりも、まかり間違って才華様が女装してフィリア学院に通っている事がルナ様や桜小路遊星様に知られるのは不味い。

 特に桜小路遊星様は僕の件でかなり精神的に辛い目にあった。この上で、息子が自分と同じように女装して学院に入学するなど知ったら、今度は気絶では済まないかも知れない。

 僕も聞いた時は涙が止まらなかったから、ある程度療養期間は必要だ。

 何よりも僕の件で迷惑を多大にかけただけに会ったら必ず謝罪しようと思っていたんだから、自分から会いに行くべきだろう。

 ……そう思えるようになっている事に、僕は驚いた。

 あれだけ会うのを怖がっていたのに、今は自分から会いに行きたいと思えるようになっていたんだから。

 電話の先にいるルナ様も、僅かに驚いたように声を上げた。

 

『ほう……なるほど、イギリスの時と違って私達から逃げる気はないという事か』

 

「……あの時は申し訳ありませんでした……ですが、あの時の私ではきっと貴女に会えば縋ってしまいそうでした。それは私の敬愛するルナ様と、貴女に対する侮辱だと思っていたんです」

 

『……確かに私も君の事情を知る前は、君と私の朝日を混同していた部分があった。だが、今は新たに関係を始めたいと思っている。その為にもアメリカに来て貰って話がしたい』

 

「……行くのは構いませんが、りそな様の休暇が終わるまでお待ち下さい」

 

『……そ、それは後どれぐらいだ?』

 

「後20日ほどになります」

 

『は、20日か……すぐに会いたいが……流石にそれは我儘か。うん、分かった。それまでに君を迎える準備をしておこう』

 

「ありがとうございます、ルナ様」

 

 心の底から貴女に感謝します。

 どのような形だとしても、貴女に会える機会があるのですから。

 そう言えば。

 

「あの……不躾なお願いですが、其方に桜小路遊星様はいらっしゃるでしょうか?」

 

『夫なら私のすぐ横で話を聞いている。八千代もだ』

 

「……では、遊星様と電話を代わって頂けないでしょうか?」

 

『分かった』

 

 電話越しから電話が渡される音が聞こえて来る。

 ……落ち着け。正直心臓がドキドキしているけど、向き合わないといけない相手なんだ。

 

『……え~と、初めましてで良いのかな?』

 

 イギリスでも聞いた声に、息が詰まりそうになった。

 今、電話先には間違いなく、僕が超えようと思った、この世界の僕である桜小路遊星様がいる。

 

「そ、そうですね……変な感じではありますが……初めまして桜小路遊星様……私は……いえ、僕は大蔵遊星。別の世界での貴方です」

 

『……君の事を聞いた時は驚いたけど、その君は?』

 

「はい。七月に正体がバレてしまい、僕は桜屋敷を追い出されました」

 

『……辛かった? いや違うよね。辛かったよね』

 

「はい。貴方にも分かるでしょうが、僕にとって桜屋敷での日々は幸せな毎日でした。あの日々がずっと続いてくれればと願ってもいました。だから、その日々を過ごし続け、ルナ様と結ばれた貴方の事を知った時は……嫉妬を覚えなかったかと聞かれれば……覚えました」

 

 最初に会話するのが電話で良かった。

 直接会っていたら、罪悪感できっと今から言う事を伝えられなかったと思うから。

 謝罪は直接会った時に。

 今は……。

 

「フィリア・クリスマス・コレクションでルナ様が着た衣装を見た時、僕は……貴方には勝てないと思っていました。僕にはあんな衣装は作れない。だから、服飾の夢も捨てて小倉朝日になることで逃げました。貴方と比べられたくないから」

 

『………』

 

「でも、先日りそなに貴方があの衣装を作った経緯を聞いて……悔しいと思いました。ただ逃げていた私と違って、貴方は希望を捨てずに前を向いて進んだ。本当に心の底から悔しいという気持ちで一杯でした……だから、僕は……貴方に挑んで超えようと思い、また服飾を始める事にしました」

 

 ……自分で言っておいて変な感じだと思う。

 だけど、此れが今の僕の偽りない気持ちだった。

 

『……良かった。また、服飾を始めるんだね? 本当に良かったよ』

 

 思わず苦笑が出てしまった。

 電話越しから聞こえて来た声には、心から安堵していると分かる声と嬉しさが溢れていた。

 何となく分かっていた。桜小路遊星様なら、いや、僕ならきっと同じ言葉を言うと思っていたから。

 

「やっぱり、変な感じですね」

 

『うん。確かに……でも、君は僕じゃない』

 

「はい、貴方は僕じゃない」

 

 同じ道を進みながらも、僕らは道が違った。

 その時点で桜小路遊星には僕は成れない。きっとこれからも時々彼に嫉妬を覚えてしまう時があるかも知れない。

 だけど、もう僕は逃げない。また、歩みを止めてしまうかも知れないけど、それでも今度は逃げない。

 必ず前を向いて歩いて見せる。

 

『会えるのを楽しみにしてるよ』

 

「その時は申し訳ありませんけど……小倉朝日として会う事になると思います。本当に申し訳ありませんけど」

 

 これだけは本当に申し訳なく思う。

 彼にとっては女装姿の自分は黒歴史の類だろう。でも、僕は小倉朝日を暫くは止める事は出来ない。

 ……本当に直接会った時は必ず謝罪しよう。それしか僕には出来ないけど。

 

『か、覚悟はしておくよ……後、聞きたいんだけど、『晩餐会』でお兄様がやった事を君は最初から知っていた?』

 

「知りませんでした……後から聞かされて、気絶しそうになりました」

 

『だ、だよね。お兄様も事前に教えてくれていたら良かったのに』

 

「あ、あの余り……お父様の事は怒らないで欲しいです。あの時の僕は、貴方に会う勇気がなかったんで……それを配慮してくれていたんだと思いますから……多分ですけど」

 

『お父様って……ああ、君はあの頃の七月頃までのお兄様しか知らないんだよね。それじゃ』

 

「はい、どうしても僕の知っているお兄様とあの人が同一人物だとは思えなくて。立場的な事もありますから、今後もお父様と呼ぶ事にしています」

 

『……何があったか聞きたい?』

 

「いいえ。それはお父様が僕自身を見てくれた時に教えてくれると約束してくれましたから。その時にお父様自身の口から聞きます」

 

 お父様が変わった件の直接の当事者である桜小路遊星様に聞けば、当時の事が分かる。

 だけど、僕はお父様の口から聞きたいと思っている。

 これもやり遂げたいと思っている事の一つだ。だから、彼の口からは聞くつもりはない。

 

『うん。分かったよ。お兄様は簡単に認めてくれないと思うから……頑張って』

 

「頑張ります。やる気マンゴスチンです!」

 

 僕達は互いに笑いあった。

 あんなに会話するのが怖かったのに、こうして電話越しとは言え、会話出来るのが楽しかった。

 こんな気持ちを抱けるようになったりそなには、感謝しかない。

 

『それじゃアメリカで』

 

「必ず会いましょう」

 

 桜小路遊星様との会話が終わり、またルナ様に代わった。

 

『では、朝日。私もアメリカで君に会えるのを楽しみにしているよ』

 

「はい、ルナ様。必ず参ります」

 

『うん。では』

 

 電話が切れた。同時に心地よい満足感が胸に湧いて来た。

 急な形だったけど、ルナ様と、そして桜小路遊星様と会話する事が出来たのが嬉しかった。

 少し前の僕だったらきっと無理だっただろう。でも、今はあの方達と向き合っていけると言う確信が湧いて来た。

 胸の内から湧いて来る気持ちに浸っていると、瑞穂様が僕の前にしゃがんで手を握ってくれた。

 

「瑞穂様?」

 

「ごめんなさい、朝日。私、貴方の事を何処かで、私が知っている朝日と同じように考えていた」

 

「あ、あの瑞穂様? 私に触っても大丈夫なのですか?」

 

「うん。もうあの頃と違って男の人に触れても大丈夫だよ」

 

「良かったです」

 

「それで朝日。私もこれからは貴方自身を見るように頑張る。だから、また初めからやりましょう。私とお友達になって」

 

「い、いえ、あの身分が違いますから」

 

「いいえ。今の貴方は使用人じゃないんだから。私とお友達になる事は最初から出来るわ」

 

「あ……」

 

 言われて気がついた。

 確かに僕はもう使用人じゃない。朝日としてもだ。大蔵衣遠の子という立場に、今の僕はいるんだから。

 花乃宮家の瑞穂様と友達になる事に、何の問題もない。

 

「ほら、これだけでも私の知る朝日とは違うでしょう。だから、朝日」

 

「……ありがとうございます、瑞穂様」

 

「様はいらないのに」

 

「な、慣れるまでは我慢して貰いたいです」

 

 流石に今すぐに瑞穂様を呼び捨てにするのは、僕には無理だ。

 ルナ様ほどではないが、僕には瑞穂お嬢様にも騙していたと言う罪悪感があるから。

 

「で、出来るだけ、早く呼べるようにしますから」

 

「うん!」

 

 瑞穂様は嬉しそうに微笑まれた。

 その微笑みに、やっぱりこの方が僕が知る瑞穂お嬢様の成長された姿なのだと感じられた。

 ゆっくりと瑞穂様に促されて、僕は床から立ち上がる。

 

「瑞穂様がお認めになられたのなら、私からは何も言う事はない」

 

「北斗さん」

 

「ただ、私は嘘が嫌いでね。事情があるとは言え、今後も性別を偽り続けなければならない君を友とは認められない」

 

「……はい」

 

 覚悟はしていた。

 僕の正体を知って受け入れてくれる人もいるだろう。そして受け入れてくれない人がいる事も。

 北斗さんは受け入れてくれない側だった。

 ……悲しくないと言えば嘘になるが、それでも僕の正体を明かさないでいてくれるように頼むしかない。

 そう、決意して口を開こうとする。

 

「北斗さん、図々しいのですが……」

 

「何せ君の今の立場は大蔵衣遠の娘という立場でもあるから、私如き従者が友でいるのも不味い」

 

「……えっ?」

 

「君があの穢れた文明人と同じ立場になってしまった事は残念だが、君も好きで偽りを述べている訳じゃないのだろう?」

 

「は、はい」

 

 戻れるんだったら、すぐにでも髪を切って男に、遊星に戻りたい。

 だけど、大蔵家の方々に朝日として大蔵家の一員として認められてしまっているだけに、遊星に戻る事は出来ない。

 居場所を作ってくれたお父様には感謝しかないけど、せめて男子として紹介して貰いたかった。

 

「君が思い悩んで女装をしていたという事実は認識出来ている。だから、私も君の今の立場で接した方が良いと思う」

 

「北斗は相変わらず真面目なんだから」

 

「いえ、嬉しいです」

 

 今の僕の立場を思って行動してくれる北斗さんには感謝しかなかった。

 ……ただその立場を思うと凄く悩んでしまう。

 余り考えないようにしていたけど、今の僕の立場ってお父様の娘なんだよね。

 今まで使用人としてしか人と接触してなかった僕に、ルナ様やりそなのようなお嬢様としての演技が出来るんだろうか?

 いや、それよりも何よりも僕は男なんだけど。

 急に思い悩み出した僕に、北斗さんが話を再開する。

 

「これからも悩むだろう君に、この言葉を捧げましょう。『怒りは力を生む。しかしその力ではバッファローは倒せない。許しは己の意思を曲げる。しかし、その力は大地をも揺るがせる』」

 

「良い言葉ですね」

 

「そしてこの踊りも捧げましょう。アワワワワワワ! ポゥ!」

 

「素敵な踊りですね」

 

 踊り出した北斗さんを僕と瑞穂様は、楽しく眺めていた。

 そんな僕の肩を、湊が叩いて来る。

 

「アハハハハッ、朝日……私はちょっと待っていてね。出来るだけ朝日とゆうちょを混同しないようにしたいんだけど」

 

「湊……」

 

 苦笑いをする湊の様子から、僕は察した。

 そうだ。湊は僕が好きだと言っていた。でも、桜小路遊星様はルナ様と結婚している。

 つまり、湊は……。

 

「あっ、その申し訳なさそうな目は止めてよね。ルナとゆうちょの事は、私もちゃんと納得しているし、今じゃ良い思い出になっているんだから」

 

「ご、ごめん!」

 

「まぁ、朝日も知っているからしょうがないよね……うん。私フラれちゃった。あ、だけど、その気持ちを朝日に向けたりはしないから。ゆうちょはゆうちょ。朝日は朝日って、考えられるようになるから……だから、はい」

 

 湊は僕に手を差し出して来た。

 

「これからまた始まり。宜しくね、朝日」

 

「ありがとう……湊」

 

 差し出された手を僕は握り返した。

 本当に桜屋敷にいた人達は、世界が違っても良い人ばかりだ。

 ……ん?

 

「湊様と手を握り合っている? やっぱり大蔵遊星は七愛の敵? いや、まだ分からない。でも、湊様に不純な行為を行なおうとしたら……覚悟は出来ているんだろうな? 今日は気絶させて運ぶだけで済ませたけど、次は気絶じゃ済まさないぞこのダボが!」

 

 この人だけは絶対に油断できない。

 パリに湊がいる間は、余り触れたりする接触は控えよう。

 湊からして来そうで怖いけど!

 

「そ、そう言えば皆さんはこれからどうするんですか? やっぱり私を見つけたから戻るのでしょうか?」

 

「いや、それがさ。まさか、こんなに早く見つけられるなんて思ってなかったから期間がまだ残っているんだよね。後でルナに確認してみるけど、多分朝日を連れて来いって言われるだろうから、こっちにまだ残ると思う」

 

「私も。今は落ち着いているから、パリに残って朝日との友情を深めるね」

 

「よっしゃ! じゃあ、明日は皆でパリを観光しようぜ!」

 

「楽しんで来て下さいね」

 

「朝日も行くの!」

 

「……すみません、湊様。本当に今の私には観光を楽しんでいる余裕なんかないんです」

 

「ふぇ、何かあったの?」

 

 急に暗くなった僕に、湊が質問して来た。

 僕は自分の現在の服飾の技量を説明した。部屋の中にいた全員が、信じられないと言う顔で僕を見つめて来た。

 

「……マ、マジで?」

 

「……はい。りそな様からも、フィリア学院に入学した頃の湊様よりはマシだと言われましたけど、自分から見ても酷くて情けなくなりました」

 

「朝日がそんな事になっていたなんて」

 

「仕方がありません瑞穂様。技術を会得するのは苦労しますが、逆に失われるのは早いものです。特に朝日は今は違いますが、弱っている時は本気で服飾を捨てるつもりだったのでしょう」

 

「代わりに上がったのが、女装の上手さとか。マジでキモイ」

 

 皆からの言葉を聞いた僕は、部屋の端の方に移動してそのまま膝を抱えて座り込んでしまう。

 

「やっぱり、私なんて……」

 

「暗ッ!? えっ? 本当にこれがゆうちょと話していた時の朝日? やる気マンゴスチンとか言ってたよね?」

 

「今だ精神が不安定な部分があるのでしょう。自信を付ければ回復出来ると思いますが」

 

「……そうだ! 朝日。明日から私も服飾の勉強を手伝ってあげる!」

 

 座り込んでいた僕を立ち上がらせながら、瑞穂様が笑顔を浮かべて言って来た。

 

「で、ですけど、瑞穂様。せっかく仕事が落ち着いているのですから、ゆっくり休暇を堪能された方が良いと思いますが?」

 

「友達が困っているのに、観光なんて出来ないわ。朝日には元気でいて貰いたいし」

 

「じゃあ、私も手伝うね。小物とかは得意だし」

 

 ……まさか、湊に服飾を教わる日が来るとは思ってなかった。

 だけど、二人の協力は助かる。メリルさんも教えてはくれるのだけど、どうにもメリルさんは自分のイメージを相手に伝えるのが苦手らしい。

 聞いたイメージとメリルさんが伝えたいイメージが違う事があって、困っていたところもあった。技術が衰える前の僕だったら、メリルさんのイメージを掴めたかも知れないけど、今の僕には無理だ。

 りそなはデザインが専門らしいので、型紙とかは基礎しか教えて貰えなかった。それに幾らゴスロリで自分のブランドを持っていても、りそなの本業は大蔵家の方だ。

 でも、目の前にいる二人は違う。瑞穂様は今は着物デザイナーとして活躍しているらしい。湊もルナ様の下で仕事をしている。瑞穂様は言うまでもなく、湊も少なからず服飾に今も関わっているのだろう。

 瑞穂様と湊も協力してくれれば、早く僕も服飾の腕を取り戻せるかも知れない。

 

「ありがとうございます、お二方。このお礼は必ずいたします」

 

「じゃあ、私は朝日の手料理と、私が描いたデザインのモデルをお願いしても良いかな?」

 

「りょ、料理はともかく……モデルですか?」

 

「うん。実は学生だった頃に、どうしても朝日に着て貰いたいと思って描いた作品があるの。だけど、ルナの事もあったから頼み難くて」

 

「あっ! あの作品だよね! 瑞穂、まだ大切に持っていたんだ!」

 

「うん! だって、アレは朝日に着て貰いたいと思っていた服だから!」

 

「……分かりました。ど、どのような服かは分かりませんが、瑞穂様がそれを望まれるなら……き、着てみます」

 

「本当!?」

 

 目を輝かせながら瑞穂様は僕の手を握り締めた。

 そんなに僕と言うか、朝日に着て欲しかったのだろうか?

 露出が少なくて、恥ずかしいと思えるような衣装でない事を願いたい。

 でも、瑞穂様って確か、アイドルが好きな方だったから。不安だな。

 

「あの、でも着るのは瑞穂様の前だけでお願いします。流石に大勢の前では……恥ずかしいので」

 

「勿論よ! 本当は大勢の人にも見て貰いたいけど、朝日にも事情があるのは分かるから。でも、写真だけは撮らせてね?」

 

「……はい」

 

「え~、私も見たいな。じゃあ、私へのお礼はそれと、瑞穂と同じで朝日の手料理でお願い」

 

 此処まで来たら覚悟を決めよう。

 これ以上見る人が増えない事を願うしかない。

 ふと何か重大な事を忘れているような気がした。本当に何か重大な事を。忘れたりしたら、それこそ大変な事態になりかねない程に大切な事が、僕にはあった筈なのだ。

 一体何なのかと考え出すと同時に、携帯が鳴った。

 

「……」

 

 表示された番号を見た僕は、何を忘れていたのか思い出した。

 恐る恐るボタンを押し、携帯を耳に当てる。

 

「も、もしもし?」

 

『……下の兄。覚悟は出来ていますよね?』

 

 僕の妹は、非常に怒っていた。

 

 

 

 

 あの後は大変だった。怒るりそなの機嫌を何とか直して、事情を説明し、アメリカ行きの説得をした。

 当初は、僕のアメリカ行きにりそなは強硬に反対していたが、日本に戻ったら一緒に暮らす事で認めて貰えた。

 大蔵本家の本邸に住む事になるかもと覚悟していたが、一緒に暮らせる事で上機嫌になったりそなが、フィリア学院近くのマンションで暮らす手配をしてくれる事になった。本邸はどうなのかと聞いて見ると、りそなが言うには、あそこは自分の家という感じがしないらしい。

 実際に、本家の本邸にはお爺様と新しい大奥様、そしてルミネさんも暮らしている。現当主とは言え、りそなからすれば他人の家に住んでいるように感じていたんだろう。

 それからの毎日も楽しかった。湊、瑞穂様、北斗さん、七愛さんも加えてのメリルさんのアトリエでの服飾の勉強は楽しかったし、途中からユルシュール様とサーシャさんが会いに来てくれた。

 どうやら瑞穂様が連絡したらしく、僕を見て大変驚いていた。

 サーシャさんから聞いていなかったのかと疑問に思ったけど、どうやら僕の事は隠していてくれていたらしい。

 本人は、ユルシュール様の驚く顔が見たくて黙っていたと言っていた。

 でも、やっぱり皆今の生活がある。瑞穂様と北斗様は一週間経ったら日本に帰国し、七愛さんもアメリカに戻って行った。

 ……帰る時に感情のない瞳で、『湊様に手を出したら殺す』と言われた時は本当に怖かった。

 湊だけは、ルナ様からの指示で僕をアメリカに連れて行く為に、パリに残った。

 

「まぁ、大丈夫だと思うよ、りそな。あっちの朝日を迎える為の準備は、八千代が取り仕切っているようだから」

 

「あの人がですか。まぁ、ルナちょむが取り仕切るよりは信頼出来ますね。朝日の下宿先も、アメリカにいる大蔵家の人間が住んでいるところにしましたし」

 

「アレ? 桜小路家ではないのですか?」

 

「だから、それこそ飢えた虎に小鹿を与えるようなものですよ。まぁ、あの人もあの人で心配な面があるんですが、朝日がアメリカに来るなら是非とも家に来て欲しいと言ってきました」

 

「どのような方なのですか?」

 

「昔は大蔵家内での上の兄のライバルでしたが、今は自由にやっている人です。少なくともルナちょむに朝日を渡さないという点では、私と同意見ですから信頼は出来ます」

 

「大蔵家内でのお父様の昔のライバル……」

 

 そんな人がいたんだ。どんな人なんだろう?

 そう言えば、僕は結局、今のところ大蔵家の人達で顔を知っているのはメリルさんとルミネ様だけだ。

 こんな事なら、りそなに頼んで大蔵家の人達の顔写真でも見せて貰っておくべきだった。

 後悔していると、飛行機の搭乗時間のアナウンスが流れた。

 僕は足元に置いておいた荷物を拾い上げ、メリルさんとりそなに向き直る。

 

「それではメリルさん、りそなさん。行って来ます」

 

「どうかお元気で。また会える日を楽しみにしています」

 

「本当に気を付けて下さい。私は日本で貴方を待っていますから。必ず帰って来て下さいね」

 

「はい。それでは湊様」

 

「うん。行こうか」

 

 僕と湊は並んで歩き、飛行機の搭乗口を目指す。

 搭乗口に入る前に、僕はメリルさんとりそなに向かって大きく手を振った。

 二人も振り返してくれた。胸の内が暖かいもので満たされる。

 この気持ちがあれば、僕はもうあの方から逃げる事はない。

 行こう。あの方が、この世界のルナ様が暮らしている国。アメリカへ。




次回は遂にあの人の正体(バレバレな)が判明!

『朝日との会話後のアメリカの桜小路家』

「ふぅ、どうやら小倉さんは元気を取り戻してくれたようですね。一時はどうなるかと思っていました」

「八千代さん。心配してましたからね」

「心配と言うか、心労と言うか……サーシャさんから話を聞いた時は本当に驚きました。私自身がやった事ではないのですけど、それでも小倉さんが自殺でもしたらと思うと、本当に気が気じゃなくて……本当に元気になってくれて良かったです」

「……」

「どうしたの、ルナ?」

「いや……少々複雑でな。あの朝日が元気になったのは、りそなのおかげだ。出来るなら、私が助けたかった」

「それは……」

「分かっている、夫。きっと私では無理だった。業腹だが、大蔵衣遠の手腕は認めざる得ないだろう」

「それじゃお兄様の養子入りを認めるんだね!」

「それとこれとは別だ」

「えっ?」

「朝日の名字が大蔵になるなど、やはり認め難い。今からでも桜小路朝日に成らないかと、説得しなければ。場合に寄っては、夫の隠し子として認めるのも考えて……」

「奥様。流石にそれは認められません。只でさえ大蔵家の方々の中には、容姿の件で小倉さんと旦那様の関係を疑う方も出るでしょう。桜小路家の名に傷が付くのは、この山吹八千代が赦しません!」

「しかし、八千代!」

「しかしじゃありません! 大蔵君に連絡して、今やっている仕事が落ち着き次第に小倉さんと旦那様とは一切無関係と大蔵家の方々にお伝えするように頼んでおきました!」

「そんな!? ……それでは朝日を当家に迎える事が出来ないじゃないか!?」

「はぁ~、やっぱりそんな事を考えていたんですね。小倉さんの滞在先も当家ではなく、大蔵家の方にして貰うように手配しておきます。後、小倉さんが来てもメイド服に着替えて貰えるように頼んでは行けませんからね」

「八千代! 私を何処まで悲しませるんだ! 朝日のメイド服姿が見られるのを、どれだけ私が楽しみにしていると思って……」

「八千代さん」

「夫! 一緒に頼んでくれ……」

「ありがとうございます! 僕も協力します!」

「えぇ、旦那様も本当にお願いします。頭が痛くなりますけど、小倉さんは大蔵家で確りとした身分が保証されていますから。そんな方にメイド服を着させて使用人として扱っているなんて知られたら、本当に大変な事になってしまいます。奥様の暴走を二人で止めましょう」

「はい!」

 固く八千代と桜小路遊星は誓い合った。
 そのすぐ傍で、桜小路ルナは膝を抱えて涙を流すのだった。


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二月中旬(遊星side)2

感想、評価、お気に入りありがとうございました!

kcal様、Layer様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


side遊星

 

「いや~、漸く着いたね。私的には帰って来たって感じなんだけど」

 

「そう言えば、湊はルナ様の会社で働いているんだったね」

 

「うん、そうだよ。今は営業部長としてキャリアウーマンのナイスレデイとして働いているんだ。七愛も一緒に」

 

「……今更だけど部長なのに、20日以上も会社から離れて大丈夫なの?」

 

「いや、今回は社長のルナからの指示だし。七愛が先に戻って状況も報告してくれたけど、問題はなかったから。表向きはフランスで長期休暇していたりそなとの交渉をしてたって事になっているしさ」

 

「た、確かに嘘じゃないね」

 

 その交渉内容が、僕をアメリカに連れて来る事でなければ。

 湊と共に飛行機に乗ってアメリカに到着した僕らは、空港のロビーを目指して歩いていた。

 ロビーには、もう大蔵家の人が来ているのだろうか?

 りそなの話では、僕がホームステイする先の人は、大蔵家内でのお父様のライバルだった人らしいけど。

 流石に本人が迎えに来る事はないと思う。多分、会社の部下の人とか、屋敷に住んでいる使用人辺りが来ているのだろう。

 ……そう言えば。

 

「……湊」

 

「何、朝日?」

 

「あのさ、僕がこれから会う予定の人って、湊は知ってる?」

 

「うん。知ってるよ。アメリカで何度か会ってるし……あ、そう言えば、昔桜屋敷に来た事もあったよ。私達がフィリア学院を卒業する少し前ぐらいだったかな?」

 

「……えっ?」

 

 告げられた事実に、僕は固まってしまった。

 桜屋敷に来た事がある? しかも、湊達がフィリア学院を卒業する前に?

 ちょっと待って! その時期って確か、まだ桜小路遊星様は『小倉朝日』で居た頃だよね!?

 

「も、もしかして……その人って……『小倉朝日』の正体を知っているんじゃ?」

 

「うん。知ってる筈。確かあの時、最初はゆうちょが対応していたのに、途中で『朝日』になっていたから」

 

 背中から冷や汗がだらだらと流れるのを感じる。

 つ、つまり、これから会う事になる人は、僕の正体を知っているかも知れない。

 今更ながら、りそなにもっと詳しく話を聞いておくべきだったと後悔する。

 ……と言うよりも、何故大蔵家の人に僕と言うか、桜小路遊星が女装していた事が知られているのだろうか?

 『晩餐会』で何故か、僕と言うか朝日の写真を見せたら、大蔵家の人達が養子入りに納得したのか疑問だったけど、もしかして大蔵家内では僕が女装していた事が知れ渡っているのだろうか?

 ……深く考えるのは止めよう。軽く鬱になってしまいそうだ。

 でも、本当にどうしよう!?

 このままだと不味いんじゃ!

 

「やぁ」

 

「はっ?」

 

 聞き覚えのある声に顔を向けてみると、パリで二度ほど会った年配の男性が軽く手を上げながら歩いて来た。

 

「久しぶりだね」

 

「お、お久しぶりです」

 

「元気そうで良かったよ。今日はお友達と一緒なんだね」

 

「は、はい」

 

 どうしてこの人が此処にいるんだろう?

 パリにいるんじゃなかったのだろうか?

 僕が疑問に思うと同時に、湊が男の人に近づく。

 何だか親し気な様子だけど? 知り合いなのだろうか?

 

「お久しぶりです、駿我さん。朝日を連れて来ました」

 

「ご苦労様、柳ヶ瀬さん」

 

「えっ? ……あ、あの……も、もしかして貴方は?」

 

「自己紹介がまだだったね。俺の名前は大蔵駿我。これから宜しく、小倉朝日さん。いや、大蔵遊星君と呼ぶべきかな?」

 

「え? ええ? えええええええええええっ!?」

 

 僕は思わず周囲に人がいるにも関わらず、空港のロビーで大声で叫んでしまった。

 

 

 

 

 アレから何とか落ち着いた僕は、駿我さんが運転する車に湊と共に乗って桜小路家を目指しながら、事情の説明を受けていた。

 

「遊星君……いや、君の事情を考えて小倉さんと呼ばせて貰うとするよ」

 

「は、はぁ、構いませんけど」

 

「悪かったね。ただ俺も昔遊星君には驚かされた事があったから、今度は君に驚いて貰おうと思って正体を隠していたんだ」

 

「そ、そうだったんですか? それじゃパリで会ったのは偶然じゃないんですか?」

 

「いや、偶然だよ。最初に君に声をかけた時は、小倉さんの写真を見て懐かしくなってね。それでパリに行ってみたら、パリの街を歩く君を見つけたんだ」

 

「それじゃパリで会った日本人の女性って、もしかして?」

 

「うん。女装して『小倉朝日』を名乗っていた遊星君だ。尤も当時は遊星君だとは夢にも思ってなかったけどね」

 

 凄い偶然だ!

 まさか、僕と同じように桜小路遊星様も、『小倉朝日』の時に駿我さんに声を掛けられていたなんて。

 

「二度目の時は、パリに仕事で用があって行ったら、公園で悩む君の姿が見えてね。ただあの時は驚いたよ。一度目に会った時は、暗かった君が元気を取り戻していたからね。りそなさんに任せたのは正解だった」

 

「ははっ、其処まで知っていたんですか?」

 

「まぁ、今回ばかりは衣遠の奴の手腕を認めるよ。君を元気にするなら、りそなさんに任せた方が良いとあいつも分かっていたんだろう」

 

「……はい。兄としては情けないですけど」

 

「でも、りそなは本当に凄いと思うよ。私、あの写真の朝日に会ったら、どう元気にしたら良いかって悩んだから」

 

 兄という立場では複雑だが、りそなが褒められるのは嬉しい!

 ……その褒められる内容が、僕を元気にする事だったから、結構へこむけど。

 

「あ、あの駿我さん?」

 

「何かな?」

 

「……え~と、大蔵家の人で僕と言うか、朝日の正体を知っている人は駿我さん以外にいますか?」

 

「あぁ、気になるよね。君の正体を知っているのは、大蔵家では俺を除いて弟のアンソニーだけだ」

 

「アンソニーさんですか?」

 

「うん。ただ、アイツには君が別の世界と呼ぶべきなのか、其処から来た事までは話していない。細かい事を気にする奴じゃないから、とにかく昔の小倉さんにソックリな家族が出来たと説明したら納得したよ」

 

「そ、そうですか」

 

「他にはいないね。メリルさんとも遊星君は小倉さんとして会った事があるようだけど、数か月ぐらいだったから説明はしていなかったと思うよ」

 

 確かにメリルさんは、一度も僕を遊星とは呼ばなかった。

 彼女は僕と言うか、昔の小倉朝日の正体を知らなかったのだろう。と言うよりも、正体を知られている相手は少ない方が良い。

 もしも僕の事が知っている人が多かったら、正体がバレてしまう。そうなったら、大変な事になってしまうので正体を知る人は少ない方が助かる。

 

「あの駿我さん?」

 

「安心してくれ。君の事を喋るつもりはないさ。俺としても今の自由な生活が気に入っているし、何より君は大蔵の血を引く家族だ」

 

「家族ですか……ありがとうございます」

 

 また、一人受け入れてくれる人が出来て嬉しかった。

 優しそうな人だし、これから仲良くやっていけそうだ。

 

「それじゃ改めて自己紹介をさせて頂きます。私の名前は……小倉朝日です」

 

 本当の名前を言いたいけど、言える訳が無い。

 たとえ相手が事情を知っている人でも、小倉朝日として今後は振る舞って行くべきだ。

 結構……へこむな。早く本当の名前が言えるようになりたい。

 落ち込む僕と違って、駿我さんは満足そうに頷く。

 

「うん。それで良いと思うよ。少なくとも衣遠が言った通り、前当主が亡くなるまでは対外的にも、内側的にも小倉さんとしていた方が良い。今回ばかりは本気でアイツにやられた」

 

「あ、あの……駿我さんとお父様は仲が悪いのでしょうか?」

 

「そうだね。アイツとは未だに犬猿の仲だ。ただアイツが大蔵家の当主になる事は別に構わない。俺は今の生活が気に入っているからね。他の大蔵の人間を蹴落として当主になろうと言うつもりはないから、安心してくれ。」

 

「そうなんですか」

 

 良かった。

 家族で争うのは僕は嫌だ。複雑ではあるけど、桜小路遊星様は本当に大蔵家を纏められたんだ。

 一体どんな経緯で纏めたんだろう? 気にはなるけど、何時かお父様が話してくれる時まで我慢しよう。

 

「あぁ、そう言えば、小倉さんに言っておく事があった」

 

「何でしょうか?」

 

「これから桜小路家に行く訳だけど、着いて会ったとしてもいきなり謝罪とかはしないでくれよ」

 

「えっ?」

 

「今の君の立場はもう使用人じゃない。少々複雑ではあるけど、大蔵衣遠の娘という令嬢の立場に今の君はいる」

 

「れ、令嬢ですか……そうなんですよね」

 

 改めて指摘されると落ち込む。

 男なのに令嬢。今の僕は、世間的に言えば僕が知る桜屋敷にいたルナ様達と同じ身分だ。

 ……何となく駿我さんの言いたい事が分かって来た。つまり、身分にあった振る舞いを、今後は気を付けてしなければならないのだろう。

 出来るかな僕に? ずっと使用人としてしか、人と接触して来なかったのに?

 

「君のこれまでの経緯を考えれば、いきなりお嬢様らしく振る舞うのは難しいと思うけど。出来るだけ気を付けて欲しい」

 

「うわ~、結構それって朝日にはキツイんじゃ。ゆうちょだって、気がついたら自分でやっていて、結構八千代達を困らせたって、ルナが言っていましたよ」

 

「俺も実際に聞いたよ。遊星君は使用人泣かせだと言われているらしい」

 

 何だかその言い方だと不純に聞こえます。

 でも、本当に困った。僕は誰かに何かをして貰うのは苦手だ。それよりも自分でやって、相手に喜ばれるのを嬉しく感じる。

 正直僕にはルナ様やユルシュール様みたいに、誰かに命じたり頼み事したりする事が出来るとは思えない。

 

「この件はメリルさんでも悩まされた。彼女も自分でやってしまう方で、大蔵家の人間だと公表されてもパリ校を卒業するまでは、付き人をやっていたんだよ。相手がそれなりの名家だったから問題にはならなかったけど。今回の場合は違う。特に今日の訪問は、相手側からの要請となっているから、行動には注意した方が良い」

 

「え~と、具体的にはどうすれば良いですか?」

 

 このままでは、ルナ様達に迷惑を掛けてしまうかも知れない。

 そうならないようにする為にも到着する前に、駿我さんの意見を聞いておいた方が良さそうだ。

 

「うん。先ずは君がしたいだろう謝罪に関しては、事情を知っている者達以外がいる場では控えて欲しい。アメリカの桜小路家で雇われている使用人は、メイド長を除いて現地で雇った人達だからね」

 

 僕の事情を知っているのは、八千代さん、桜小路遊星様、そしてルナ様の三人だけ。

 この三人以外の場所で謝罪は駄目。

 

「それと、挨拶する時も様付けで相手を呼ぶのは駄目だ。君は大蔵家の令嬢という立場にいるからね」

 

 これは結構キツイ。

 僕にとってルナ様は、世界が違っているとは言え、呼び捨てにする事は出来ない方だ。

 うっかり、ルナ様と呼ばないように気を付けないと。

 

「そうだな……うん。桜小路家当主様と呼ぶのは問題はないよ。今回は顔見せ的な形だから、相手を敬う気持ちも持っていた方が良いだろう」

 

「なるほど……それだったら何とかなりそうです」

 

 馴れ馴れしく名前に様付けは駄目だけど、肩書なら様付けで呼んでも問題は無いんだ。

 良かった! 寂しくは感じるけど、これなら僕も呼べそうだ。

 これからの訪問に、光が見えて来たと僕は喜ぶ。

 だけど、隣に座っている湊は、何だか渋そうな顔をして考え込んでいた。

 

「あの~、駿我さん。それって……」

 

「何か俺のアドバイスに問題はあったかな?」

 

「……い、いや、間違ってはいないんですけど……ルナ、大丈夫かな?」

 

「どうしたの、湊?」

 

 何か今の相談に問題があったのだろうか?

 

「う~ん。確かに間違ってはいないよ……あぁ、でも……いや、朝日の立場を考えれば……ごめん。私の考えすぎだった」

 

 ? 何だか不安を感じるけど、問題は無いみたいだ。

 これからアメリカの桜小路家に向かう。

 緊張からか、胸がドキドキしている。僕は早く着かないかなと、車の窓から見えるニューヨークの街並みを見ながら思った。

 

 

 

 

 ニューヨークにある桜小路家の屋敷は、桜屋敷よりも広かった。

 会社を経営し、世界的なデザイナーとして活躍しているルナ様が住んでいるというだけに、立派な屋敷だった。

 僕と湊、そして駿我さんは屋敷内の駐車場に車を停めて、屋敷の入り口に向かって歩いて行く。

 ……やっぱり緊張する。覚悟してやって来たけど、これから僕はルナ様に会う事になるんだから。

 心の奥に残っている罪悪感で、胸に痛みを感じてしまう。

 

「朝日。大丈夫?」

 

「……は、はい。だ、大丈夫です」

 

 湊に出来るだけ、笑顔を浮かべながら僕は答えた。

 

「そんなに緊張していたら駄目だよ。駿我さんも言っていたけど、相手から朝日を呼んだんだから、緊張している方が失礼を起こしていると相手に勘違いされちゃうよ」

 

 流石はお嬢様だった湊だ。

 こういう場での対応にも慣れている。

 僕は深呼吸をして心を落ち着けて、前を向く。

 

「それじゃ、行こうか」

 

 駿我さんに促されて僕と湊は後をついて行く。

 大きなドアの前に辿り着き、備え付けられたインターホンを駿我さんが鳴らした。

 

『はい。桜小路家です』

 

「訪問の予定があった大蔵家ですが」

 

『少々お待ち下さい。今すぐにドアを開けますので』

 

 インターホンから返答があってから数十秒後、ドアが開いた。

 その先から出て来た人物に、思わず僕の体が反応してしまいそうになるが、何とか耐える。

 

「当家にようこそおいで下さいました、大蔵駿我様。そして小倉朝日様。私、当桜小路家にメイド長として仕えております、山吹八千代と申します」

 

 どうやら八千代さんは、初対面という形で対応する予定らしい。

 実際、僕の素性はお父様が作ったものでは、桜小路家とは関わりが無いようにしてある。

 もしも関わっていたとされた場合、僕と桜小路遊星様の関係を疑われかねないから初対面としておいた方が良い。

 

「は、初めまして! 大蔵衣遠の養子となりました小倉朝日と申します! こ、この度は桜小路家へのお招きありがとうございました!」

 

「そんなに緊張なさらないで下さい」

 

「は、はい!」

 

 緊張したくなくても、貴女に対する罪悪感で緊張してしまいますよ、八千代さん。

 

「湊さん。小倉さんの案内をありがとうございました。奥様が執務室でお待ちですよ」

 

「分かりました。それじゃ朝日。またね」

 

 湊は手を振って、執務室があると思われる方へと歩いて行く。

 後でまた会うだろうけど、今は報告が先のようだ。

 

「では、小倉さん。お荷物をお預かりいたします」

 

「はい」

 

 僕は八千代さんに持っていた鞄を渡す。

 あっ、渡す前にパリで買ったお土産だけは持っておいた方が良いよね。

 八千代さんにその旨を伝えて、鞄の中から手早くお土産だけを取り出した。

 同時に八千代さんが僕に顔を寄せて、小声で質問して来た。

 

「まさかと思いますけど、鞄の中に桜屋敷のメイド服が入ってませんよね?」

 

「……りそなに取り上げられました」

 

 パリで着ていたメイド服は、りそなにパリを出る前に取り上げられた。

 りそなが言うには。

 

『この服を持って行ったら小鹿に美味しいソースを振りかけるようなものです。この服は妹が没収します。返して欲しかったら、妹の下に帰って来て下さい』

 

 そう言われて、僕は泣く泣く桜屋敷のメイド服を手放した。

 ……アレがないと結構不安になるんだけど。確かに僕にとっては辛い思い出がある服だけど、それ以上に楽しい日々を思い出させてくれる服だから。

 八千代さんは僕の報告に、他に控えているメイド達に気がつかれないようにガッツポーズをして笑みを僕に向けて来た。

 

「それでは大蔵駿我様。小倉朝日様。応接室の方でお待ち下さい」

 

「はい」

 

 荷物を持った八千代さんとは別のメイドさんに応接室に案内される。

 

「……残念だ。小倉さんのメイド姿が見られると思っていたのに」

 

「えっ!?」

 

「冗談さ」

 

 駿我さんは微かに笑みを浮かべた。

 じょ、冗談だったんだ。良かった。

 そのまま僕らは応接室の中にあった椅子に座り、ルナ様達が来るのを待つ。

 ……部屋の中にいるメイドさん……名前を聞いたらナイチンゲールさんが、お茶を入れてくれる時に、思わず体が動いてしまいそうになった。

 視線で駿我さんが止めてくれたから良かったけど。大丈夫かな僕?

 気がついたら自分でやってしまっていそうで、本当に怖い。

 そのまま二人でお茶を飲みながら待っていると、八千代さんが戻って来た。

 

「奥様と旦那様の準備が出来ましたので、執務室の方にご案内いたします」

 

 遂に来た!

 覚悟していた時が訪れた。

 心臓が更にドキドキと音が聞こえてしまいそうになるぐらい高鳴る。

 前を進む八千代さんの後を、駿我さんと一緒について行く。

 

「此方の執務室の中に、当家の奥様と旦那様、それと報告した湊さんがおられます。それ以外の者は誰もおられませんし、中は防音と成っています」

 

 この執務室の中なら問題なく謝罪が出来る。

 八千代さんの説明に心の中で感謝をしながら、開けられた執務室の中に足を踏み入れる。

 

「ようこそ、当家に。待っていた」

 

 執務室の扉が八千代さんに依って閉められると共に、部屋の奥に置かれていた椅子に座っている女性が告げた。

 綺麗な銀髪で、緋色の瞳の女性。間違いなく、イギリスで僕が見たこの世界のルナ様だ!

 その横には僕に似た男性である桜小路遊星様と、何故か不安そうにしている湊が立っていた。

 緊張で事前に頭の中で考えていた行動が、吹き飛んでしまった!

 ど、どうしよう!? 何て答えたら良いんだろう!?

 混乱して固まってしまっている僕に、駿我さんが小声で告げて来た。

 

「先ずは挨拶だよ」

 

「こ、この度はお招き頂きありがとうございました! 私は大蔵衣遠の娘として大蔵家の一員となりました! 小倉朝日と申します! 本日は本当にお招きありがとうございます! 桜小路家当主様!」

 

 ビキッと、僕の挨拶が終わると共に部屋が硬質化したように感じた。

 ……ア、アレ? 何か間違ってしまったのだろうか?

 混乱する僕に、椅子に悠然と座っていた筈のルナ様が、身体を震わせる。

 

「す、すまない……わ、私の耳が可笑しくなったのか? 今、朝日は何て私を呼んだ?」

 

「えっ? 桜小路家当主様と呼びましたけど。それが何か?」

 

「朝日が私を他人行儀で呼んだ!」

 

 突然、ルナ様は椅子から飛び出すと共に執務室の端の方に移動してさめざめと泣き出した。

 ……えっ? なにこれ? 僕はただルナ様に失礼のないように挨拶しただけなんだけど?

 

「ル、ルナ。落ち着いてよ。ただの挨拶なんだから」

 

「夫! 何の為に私が事情を知っている者達以外を、執務室から遠ざけたと思っている! 全ては朝日との会話を楽しむ為だ! な、なのに、あ、朝日が……わ、私を他人行儀で呼んだんだ! これでショックを受けないと思っているのか!?」

 

 あっ、そういう配慮だったんですね。

 気づけなくて申し訳ありません、ルナ様。

 

「あ~、やっぱりこうなった」

 

「湊! 朝日の挨拶を知っていたのか!?」

 

「うん。でも、間違ってないよね。一応朝日はルナとは初対面なんだし。最初の挨拶は他人行儀でやっておいた方が良いかなと思って」

 

「加えて言えば、これが小倉さんにとって大蔵家の一員となって、初めての他家への挨拶だからね。失礼があっては、今後の事で問題が出てしまいかねない」

 

「大蔵駿我……そうか。貴方の入れ知恵か。大蔵衣遠と言い……此処最近の大蔵家は、余程私を怒らせたいようだ」

 

「お、落ち着こう。ルナ!」

 

「そ、そうです! ルナ様! 落ち着いて下さい! 私の対応が間違っていたのなら、謝罪いたしますから!」

 

 桜小路遊星様と共に、僕もルナ様の説得に参加した。

 だけど、何故か桜小路遊星様は、僕の行動を見た瞬間、床に膝を突いてしまう。

 ……アレ?

 

「あ、あのいかがされました?」

 

「……ごめん。止めてくれようとしているのは分かるんだけど……客観的に朝日としての自分を見るのは、思っていたよりも辛くて……」

 

「……あっ」

 

 そう言えば、自然過ぎて忘れていたけど今も僕は女装している。

 桜小路遊星様からすれば、生きた黒歴史が目の前で動いているようなものだ。しかも、本職のサーシャさんからのお墨付きで、本当の女性にしか見えない朝日が。

 ……直後、僕も桜小路遊星様と同じように膝を突いてしまう。

 女装姿が何の違和感も感じなくなっているのは以前から感じていたが、こうして別世界の自分の行動で実感してしまった。

 

「……す、すぐに男性物の服に着替えます」

 

「駄目だ、朝日! メイド服の君を見られないんだ。代わりに今の姿を私は堪能したい」

 

「で、ですが、ルナ様? このままではまともに話なんて出来そうにありませんけど」

 

「あぁ、久々だ。その迷い子のような目をする朝日を見るのは。気持ちが高ぶって来る。新しいデザインが浮かびそうだ」

 

 ルナ様のデザインが浮かぶのは大変喜ばしいのですが、このままではまともに話も出来そうにないのですけど。

 

「何となくこんな形にはなるような気がしていましたが、こうして見ると……カオスですね」

 

 八千代さんの冷静な言葉に、僕は心の底から同意した。

 

 

 

 

 何とか立ち直った僕らは、改めて挨拶を交わし、今は対面するように執務室に置かれていたソファーに座っていた。

 そして漸く状況が赦されるようになった僕は、桜小路遊星様に対して全力で謝罪した。

 

「本当に色々とご迷惑をかけて申し訳ありませんでした!!」

 

「い、いや気にしないで……それは最初は驚いたけど……う、うん。実は今もちょっとショックが残っているけど、事情は分かっているから大丈夫だよ」

 

 彼の優しさが逆に心に突き刺さる。

 実際、僕が同じ事をやられたら彼と同じ行動をするだろう。それが分かるだけに尚更にキツイ。

 しかも、暫くは止められる予定はない。

 

「あ、あの~、これせめてものお詫びの品です」

 

 僕はパリで買ったお土産を差し出した。

 

「ありがとう。中身は何かな?」

 

「パリで限定発売していた入浴剤です」

 

「わぁ~!」

 

「さ、流石は同一人物。自分が買って貰って喜ぶのが何かなんて、簡単に分かるよね」

 

 お風呂が好きな僕は、入浴剤を買うのが好きだった。

 桜小路遊星様への謝罪の品としては、これ以外にないと思って買って来た。

 

「さて……朝日。君の経緯はサーシャと壱与から聞いているが、改めて君から説明して貰いたい」

 

「は、はい……僕は……」

 

 朝日としてではなく、遊星として僕は説明した。

 この世界に来る前に起きた出来事。お風呂場で居眠りをしてしまい、八千代さんに見つかって桜屋敷から追い出された。

 その後、夜の街を歩いていたら気を失い、気がつけばこの世界の桜屋敷で倒れていた。

 それからはずっと八十島さんと共に才華様やアトレ様がお戻りになる日まで、朝日として働いていた事までを説明した。

 

「……改めて事情を聞いても、信じられないという気持ちはありますが、実際に今此処に小倉さんはいます。そして私なら確かに同じ事をしたでしょう。遊星様と違い、小倉さんの正体を知ったのが自分一人なら、ルナ様への最善の行動と考えて小倉さんを追い出します」

 

 八千代さんの言葉が、僕に突き刺さる。

 当然の罰なので、甘んじて僕は受ける。寧ろあの時、警察に通報されなかっただけでも良かった。

 それがルナ様の為で、こんな事になっても僕にはあの八千代さんを恨む気持ちはない。寧ろ感謝しか彼女には抱いていない。

 

「しかし、風呂場で居眠りとは……馬鹿だろう、君」

 

「はぅっ!」

 

「いや、夫も正体がバレてからうっかり風呂場で八千代に見られた事があったが、君の場合、正体が知られる前にそんなミスをした訳だから」

 

「ル、ルナ。恥ずかしいから止めてよ」

 

 ……桜小路遊星様もやってしまったんですね。

 ですよね。お風呂に入っていると油断しますから。

 覚えちゃ行けないけど、ちょっとだけ親近感を覚えてしまった。

 でも……僕の方は致命的でした。

 

「でも、これはやはり悩んでしまいますね」

 

「な、何がでしょうか?」

 

 本当に悩んでいるという顔をしている八千代さんに、僕は不安を感じた。

 

「正直言って、小倉さんぐらいしかお嬢様には本当に男性の縁がなかったもので」

 

「……はっ?」

 

「優良物件だった小倉さんを、私自ら逃してしまうなんて考えただけで頭が本当に痛くて。でも、対応としては間違っていないのも分かりますから……あぁ、また頭痛が」

 

「よ、良く分からないんですけど……あの私にはルナ様に対して恋愛感情は一切ありませんよ。多分、今後もあの方にはそういった感情は抱けないと思います」

 

「朝日! 君からそんな言葉を聞きたくはない!」

 

 僕の心からの言葉に、ルナ様が涙を流した。

 その姿に心が痛むけど、今此処で伝えておいた方が良いかも知れない。

 

「ルナ様。電話でも言いましたが、私は貴女様と私が仕えたルナ様を一緒に考える事は出来ません。弱っている時なら、確かに貴女様に仕えていたかも知れません。ですが、それはお互いのルナ様に対する侮辱です。今日此処に来たのは、それをハッキリ伝える為です。私は、大蔵衣遠の養子として来年の『晩餐会』に参加し、正式に大蔵の名を名乗る事を許可して貰うつもりです」

 

「俺個人としては、今すぐに名乗って貰っても構わないんだけど……引退したとは言え、前当主殿の力は未だに強い。正攻法で許可を得られるのなら、そっちの方が良いだろう」

 

 駿我さんが嬉しい事を言ってくれた。

 

「……『大蔵朝日』……駄目だ。その名が浮かぶだけで、かなり辛い。せめて小倉のままで。いや、いっそのこと、桜小路朝日と」

 

「奥様。その話は駄目だと言いましたよ」

 

「後、衣遠兄様から連絡も来て、僕と朝日は無関係だって大蔵一族内に伝えられたそうだから、もう無理だよ」

 

「俺の方にも連絡が来た。気に入らないけど、衣遠の奴は良い仕事をしたよ」

 

 どうやらお父様は、りそなから押し付けられた仕事を全て終えたらしい。

 それで即座に遊星様のフォローを行なったようだ。

 最早、自分の味方は居ない事を悟ったのか、ルナ様は無念に満ちた顔をして項垂れた。

 

「……悔しいが負けを認めよう。ただ朝日」

 

「何でしょうか?」

 

「……電話でも言ったが、私自身も君と新しい関係を始めたいと思っている。その結果、君が私の下で働くという事はあるのか?」

 

「それは先の事なので分かりません。何より今は衰えた服飾技術を取り戻す事に専念したいですし。今のままではルナ様の下で働いても、お役には立てないと思います」

 

「七愛から報告は聞いていたが、其処まで酷いのか?」

 

「……はい。湊様から聞けば分かると思いますが、正直に皆さんのおかげで漸くちょっとマシになった程度です」

 

 瑞穂様、湊、北斗さん、七愛さんのおかげで服飾の勉強は捗ったが、やはり短い期間だった。

 残念ながら十数年分の知識の差を埋める事は出来なかった。加えて言えば、僕の技術も衰えていた。

 結果的に言えば、多少はマシになったが、それでも服飾を学び直す必要性を嫌と言うほどに感じた。

 僕の様子と言葉から事実だと悟ったのか、ルナ様は顎に手をやった。

 

「其処までか……なら、朝日。今、君にはどれだけ時間的に余裕がある?」

 

「余裕ですか? ……え~と、四月にはりそな……さんの伝手を頼って服飾学校に通う予定なので、準備とかしないと行けませんからアメリカにいられるのは一か月ぐらいです。あっ、勿論泊まる予定だった駿我さんが許可をしてくれればですけど」

 

「俺は構わないよ。小倉さんとは仲良くしたいからね」

 

「駿我さん。まさか?」

 

「桜小路さん。俺も同一視はしていないよ。小倉さんとは新しい関係を始めようと思っているだけだ」

 

 何だろう?

 急にルナ様はこめかみをひくつかせ、笑みを浮かべている駿我さんを睨んでいる。

 今の会話の何処かに可笑しいところがあったのだろうか?

 

「それで桜小路さん。話を続けたらどうだい?」

 

「……そうですね。此処でことを荒立てるのは、私の方が不利になるので……話は戻すが、朝日。その一か月間、夫と八千代に服飾を学ばないか?」

 

「えっ?」

 

「はっ?」

 

 いきなり話が振られた桜小路遊星様と、八千代さんが口をポカンと開けた。

 

「あ、あのルナ? どういう事?」

 

「そのままの意味だ。確か朝日は夫に挑むつもりなのだろう?」

 

「は、はい」

 

 正確に言えば、超える事が目的なんだけど。

 

「なら、今の夫の技術は見ておくべきだろう? 八千代も久々に服飾の教師が出来るし、問題は無い筈だ。良いか、八千代。それに夫?」

 

「……私は別に構いません。ただやるからには厳しくやらせて頂きますが」

 

「僕も良いよ。ただそろそろ新しい衣装の型紙をやらないといけないから、八千代さんほどは教えて上げられないかも知れないけど」

 

「それだけでも充分だ。この世界的デザイナーである私の型紙を務める夫を、朝日に見せたい」

 

 ……これは願ってもないチャンスだ。

 超えたいと思っている相手の現在の技術を見る事が出来る。

 問題は……僕の心が耐えられるかどうか。回復したとは言え、まだ僕には不安定な部分がある。

 桜小路遊星様の技量を見て、心が折れてしまうかも知れない。

 でも、もう決めた。彼からは逃げないと。

 

「……分かりました、ルナ様の提案をお受けいたします」

 

「うん。良い答えだ……ところで、七愛から聞いたが君は服飾をやる時に、メイド服を着るそうだが」

 

「奥様。小倉さんのメイド服は、大蔵家当主様が預かっているそうです。また、当家では絶対に貸しませんので、諦めて下さい」

 

「りそなっ!!」

 

「ありがとう、りそな。また、助けられたね」

 

 嘆くルナ様と、日本にいるりそなに感謝を捧げる桜小路遊星様に、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。




当初のルナ様の計画では、威厳を見せて朝日に自分が主だと思い出させる予定でした。
しかし、駿我さんがそう来ると思って、ルナ様が一番ダメージを受ける策を朝日に与えていました。
おかげで朝日は、自分の敬愛するルナ様とこの世界のルナ様を同一視せずに済みました。


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二月中旬(遊星side)3

二月の遊星sideは一先ず終了。
次回は才華sideになります。

感想、お気に入り、評価を皆様ありがとうございました!

烏瑠様、Nyan cat様、誤字報告ありがとうございました!


side遊星

 

「あっ、そうだルナ。忘れる前にこれ返しておくね。瑞穂に貸してた朝日の写真」

 

「おおっ!」

 

 湊が渡した額縁に入っている僕の写真を、ルナ様は目を輝かせて受け取った。

 ……あの写真。結局処分出来なかった。

 パリで瑞穂様が居た時に、それとなく何度も処分してくれるように頼んだんだけど、ルナ様から借りた物だからと言って処分して貰えなかった。

 『晩餐会』の会場で、壁一面に広がるほどの僕の写真が出されたそうだけど、女装姿の写真なんて残しておきたくはない。

 僕と同じ気持ちなのか、桜小路遊星様も険しい視線をルナ様の手の中にある写真に向けている。

 とりあえず、ルナ様に頼んでみよう。

 

「あ、あのルナ様……どうかその写真を処分してくれないでしょうか?」

 

「嫌だ。貴重な朝日の写真だ。しかも此処まで悲し気な朝日の写真など、私が所持していた写真にもなかったんだ。大蔵衣遠への怒りは忘れていないが、この写真は大切に保管するつもりだ」

 

 ……今、ルナ様は何と言ったのだろうか?

 えっ? 写真が他にも在るの?

 僕と言うか、桜小路遊星様が『小倉朝日』だった頃の写真が?

 無言で僕が顔を向けてみると、申し訳なさそうな顔で彼は首を縦に振った。

 

「ごめん。僕も最近まで知らなかったんだけど……ルナが保管していたんだよ」

 

「一番のお気に入りは、朝日が寝ている時の写真だ。あどけない朝日の寝顔が写っている写真は、見る度に私の心を何時も癒してくれている」

 

「……ルナ様。どうか全て処分して下さい。正直、そんな物をご子息様やご息女様に見られたら、桜小路遊星様と私が辛いです」

 

「駄目に決まっている。大丈夫だ。朝日の写真は全てアルバムに収めて、特注の金庫の中に仕舞ってあるから、才華やアトレに見られる事はない」

 

 でも、ルナ様は見るんですよね?

 女装姿の写真なんて、残しておきたくはないんですけど。

 ……瑞穂様に何れ写真を撮られるのは、黙っておこう。僕と桜小路遊星様の精神の為に。

 

「しかし、瑞穂がやけにあっさり返したな? アレだけ譲って貰うと息巻いていたのに?」

 

「あぁ、それはね」

 

「湊様。どうか言わないで下さい」

 

 黙っておくつもりだったのに、報告しようとする湊に、僕は頭を下げた。

 だけど、僕の様子から何かあると察したルナ様が、首を振って湊を促す。

 どうか言わないで! 心の底から僕は湊に願ったが、湊は苦笑を浮かべて話してしまう。

 

「夏頃にね。朝日が瑞穂に会いに花乃宮家に行く事になってるんだ。その時に個人的なファッションショーをやる事になっているんだ。ルナも覚えているでしょう? 学生時代に瑞穂が、朝日をモデルにしようと考えていたデザインの事」

 

「まさか、あのデザインか!?」

 

「まぁ……瑞穂様。遂にあのデザインを使うんですね」

 

「えっ? 何の事?」

 

 覚えがあるのか驚くルナ様と八千代さんに対して、桜小路遊星様は困惑していた。

 

「夫が知らないのは当然だ。あのデザインは、1年の時に私のデザインをフィリア・クリスマス・コレクションで使うことを決めた後、瑞穂が密かに描いていたデザインだからな」

 

「懐かしいですね。私も桜屋敷にいた時に、意見を聞かれました。正直言って、ルナ様の描いたデザインに劣らないほどの出来でした」

 

「私も気に入っていた。瑞穂の描いたデザインは好みだったんだ」

 

「そんな衣装があったんだ。アレ? でも、僕は聞いた事がなかったよ。桜屋敷で過ごしていた時に、一度も瑞穂さんからそのデザインの話は出なかったし?」

 

 桜小路遊星様の疑問に、ルナ様と八千代さんは揃って困ったように顔を見合わせた。

 何か、そのデザインを使えない理由でもあるのだろうか?

 ルナ様が絶賛するほどだから、きっと凄い衣装に違いないんだろうけど。

 

「……実は瑞穂はそのデザインの衣装を、当時の夫。つまり、朝日に着て貰いたがっていたんだ。だが、夫が学院を退学になり、フィリア・クリスマス・コレクションの舞台に朝日として出れなくなった事で、瑞穂はその衣装を諦めた」

 

「そ、そうだったんだ」

 

 素直に喜べない気持ちが良く分かります。

 正直、フィリア・クリスマス・コレクションの舞台の上で、女装姿を見せる勇気は僕には無いです。

 でも、朝日の正体を知らなかった頃の瑞穂様は、朝日としての僕を表舞台に立たせたかった。

 その為にデザインを描いた。朝日を衣装のモデルとして。

 

「本人は2年目でも良いと思っていたが、朝日が退学になり正体も判明してからは、流石に着て貰うのは頼み難かったんだろう……私と夫が恋仲になった事もあったから」

 

「何だか……瑞穂さんに申し訳なく感じるよ」

 

「私は別に構わなかったんだが、瑞穂は私と夫に遠慮して、そのままデザインを使わずに保管してしまったんだ」

 

「懐かしいよね。私もあの衣装を着た朝日を見てみたかったよ。だって、想像するだけで似合っていそうだったから」

 

 其処まで絶賛される瑞穂様の衣装。

 一体どんな衣装なんだろう? 楽しみでワクワクする気持ちが湧いて来るけど……着るの僕なんだよね。

 それを考えると素直に喜べない。

 なるべく恥ずかしくない衣装でない事を願うしかない。

 

「……その衣装。正式に大蔵家で作って貰えるように依頼するのも良いかも知れないね」

 

「えっ?」

 

 突然の駿我さんの言葉に、僕は驚いた。

 他の面々も、驚いたように駿我さんを見つめる。

 

「小倉さんは来年の『晩餐会』には必ず出席する。その時の衣装に、秘匿されていた花乃宮瑞穂の衣装が使われたとなれば、前当主殿も驚くだろう。彼女は確か着物デザイナーとして有名な人物だ。加えて、世界的なデザイナーである桜小路さんも絶賛するほどの衣装。来年の『晩餐会』の主役は間違いなく小倉さんだ。その小倉さんが有名デザイナーの衣装を着て行けば、前当主殿の印象は良くなるだろう」

 

「……あ、あの~、それなりに高級なスーツを着て男装して行くのでは駄目なんですか?」

 

「駄目だろうね。少なくとも女装はしておかなければならないし……それに衣遠の奴が赦すとは思えない」

 

 そうでした!

 お父様が赦す筈が無いですよね! それどころか今年の『晩餐会』のように、任せたら何をやらかすか分かったものじゃない。

 もしかしたら瑞穂様の衣装以上に、恥ずかしい衣装を着させられるかも知れない。

 それなら駿我さんの言う通り、衣装だけでも自分で決めた方が良い。

 僕は確認の為に桜小路遊星様に顔を向ける。無言で頷いてくれた。

 

「……わ、分かりました。ただ瑞穂様に確認はしてみます」

 

 衣装の作製は瑞穂様が行なってくれる。

 元々、瑞穂様の個人的なファッションショーの為の衣装だ。勝手に決める訳には行かない。

 僕は携帯を取り出して、教えて貰った瑞穂様の電話番号に連絡をする。

 

「あっ、瑞穂様ですか? 朝日です。実は例の衣装の件なのですが……」

 

 僕は瑞穂様に事情を説明した。

 

「と言う訳で、例の衣装を大蔵家の『晩餐会』で着たいのですけど……駄目でしょうか?」

 

『任せて朝日! 私の衣装で、貴女を大蔵家のアイドルにして上げるわ!』

 

「いえ、大蔵家のアイドルになりたいんじゃないんですが」

 

『夏に必ず家に来てね! それじゃすぐに衣装の準備をしないと! じゃあまたね!』

 

 瑞穂様のやる気に満ち溢れた声と共に、電話が切れた。

 

「だ、大丈夫みたいです……瑞穂様はとてもやる気になっていました」

 

「くぅっ! あの衣装を着た朝日を見られるのは、とても嬉しいが。着るのは、朝日の名字が正式に大蔵になってしまう大蔵家の『晩餐会』! ……八千代。私達も夏に花乃宮家に……」

 

「奥様。残念ですが、日本の夏は日差しが強いので、お体に障ります」

 

「『晩餐会』まで待とう。ルナ」

 

「それでは朝日の名字が大蔵になってしまうではないか!? 一体どうすれば良いんだ!?」

 

「……来年の『晩餐会』が楽しみだ」

 

「いや~、まさか、こんな事になるなんて……ごめん、朝日」

 

「……湊のせいじゃないよ。お父様に任せるよりは、瑞穂様の方が多分大丈夫だと思うから」

 

 今年の『晩餐会』でやらかしたお父様に頼むぐらいなら……瑞穂様の衣装を着た方が良い。

 そう思う事で……僕は自分を納得させた。でも、瑞穂様。

 ……どうかフリルとかは付いていない衣装でお願いします。

 

 

 

 

 日が沈み、夜になった。

 僕が訪問するという事で、夕食は桜小路家の方で用意していてくれていた。

 ……ただ、その夕食を作ったのが桜小路遊星様というのは問題は無いのだろうか?

 

「小倉さんも知っていると思いますが、奥様は余り食事には興味がなかったお方です。その奥様が気に入っているのは、旦那様のお食事なので」

 

「私は夫の料理を最高の物だと思っている。他の来客なら、八千代の指示に従ってシェフを呼ぶが、朝日は別だ。夫の料理を堪能してくれ」

 

「は、はい」

 

 正直言って料理は美味しい。僕の好みの味付けがちゃんとされているし。

 ……一年、家事に熱中していたけど、今の僕では作れない味だ。

 やはり年月の差は大きい。これは服飾の方も覚悟しておいた方が良いかも知れない。

 彼の技術を、このアメリカにいる間に少しでも学んで糧にしないと。

 

「そう言えば……朝日」

 

「何でしょうか?」

 

「『晩餐会』の時に聞いたんだが……才華を叱ったそうだな?」

 

「は、はい! その件に関しては申し訳ありません!」

 

「いや、責めてはいない。寧ろ良く叱ってくれた」

 

「はっ?」

 

 どういう事だろうか?

 てっきり、才華様を叱った事を注意されると思っていたのに。

 

「私も夫も才華に対しては、少々過保護でな。正直な話、夫はこれまで才華に対して余り強く叱った事がないんだ。それどころか、今回フィリア学院に通えずに、日本に残ると才華から連絡があった時は、夫は自分も日本に行くと言ったぐらいだ」

 

「えっ?」

 

 僕は思わず、桜小路遊星様に顔を向けてしまった。

 ルナ様の言っている事が正しいのか。桜小路遊星様は困ったように笑っていた。

 流石に過保護過ぎないかと思ってしまう。でも、僕も自分に子供が出来たら大切にしてしまうと思う。

 特に才華様はルナ様と同じ体質の方だ。それを心配しているなら、気持ちは分かるかも知れない。

 

「朝日。君は才華とアトレに会ったが、二人にあってどうだった?」

 

「……りそなさんにも言いましたが、私には二人が自分の子供だとは思えません。確かに血筋で言えば親にあたりますけど、親戚の子供という感じでしょうか?」

 

「まぁ、それぐらいだろう。だから、才華に叱れた訳か」

 

「個人的に言わせて貰うけど、桜小路さんも遊星君もそろそろ子離れするべきだと思うよ。特に衣遠の奴は才華君とアトレさんを甘やかし過ぎている。先日も建てたばかりの高層マンションを譲渡したという話だ」

 

 お父様。流石にそれは与え過ぎなのでは?

 高層マンションという事は、かなりの金額がする筈。

 それを簡単に譲渡するなんて。

 ……もしかして才華様の入学の為なのだろうか?

 

「駿我さんの言う通り、私も才華様とアトレ様に対して大蔵君の行動には悩まされています。二人を大切に思っていてくれているのは分かりますけど。流石に度を越し過ぎている面はあると思っていますから。才華様の卒業祝いだと言って、世界に50台しかない車をプレゼントしたと聞いた時は、頭を抱えたくなりました」

 

 ……本当に何をやっているんですかお父様?

 甥姪コンが行き過ぎていると思います。

 

「私も甘やかし過ぎたとは思っている。だから、今回の才華とアトレの日本行きに納得したんだ」

 

「でも、やっぱり心配だよ。才華が無茶をしないか」

 

「夫。そういうところが反抗期の原因なんだ。もっと強く言うべきところは言うべきなんだ。現に朝日が叱ったら、才華は反省していたぞ。でだ、朝日?」

 

「はい」

 

「君は何故才華を叱った?」

 

 ルナ様の質問に僕は固まってしまった。

 ……い、言える訳が無い! 僕と同じように女装して付き人になってフィリア学院に通おうとしているなんて、この場では絶対に言えない!

 言ったら才華様のやろうとしている事を止めようとする筈。

 いや、ルナ様なら面白そうだと言うかも知れないけど、八千代さんは確実に怒るし、桜小路遊星様は気絶するに違いない。

 僕もあの時は本当に涙が止まらなかったから。

 

「さ、才華様のプライベートですのでお話は出来ません」

 

「才華様? 小倉さん。貴方は、才華様を名前で呼んでいるのですか?」

 

「えっ?」

 

 何か可笑しかったのだろうか?

 僕は才華様に名前を呼んでも良いって言われたんだけど、困惑している八千代さんの様子から見て、何か変な事があるのだろうか?

 

「は、はい。才華様に名前で呼んでって言われましたので」

 

「……驚きました。才華様は基本的に使用人には名前ではなく、若と呼ばせているのですけど」

 

「例外は八千代ぐらいだ。昔は確かに名前で呼ばせていたが、今ぐらいになってからは、家族である私達以外には若と呼ばせている」

 

「そうだったんですか……でも、多分それは私が桜小路遊星様に似ているからではないでしょうか?」

 

「……そうかも知れませんね。でも、小倉さんは女性にしか見えないのに、旦那様と勘違いなされるのでしょうか?」

 

 ……ちょっと胸に痛みが走りました。

 やっぱり、女性に見えていたんですね。それだけではなく、胸に走った痛みが弱くなっている事も落ち込む。

 もう女性扱いに慣れてしまって来ているのだろうか? それに慣れたら終わりのような気もするけど。

 

「まぁ、才華が朝日を気に入ったという事だろう。良かったな、夫。才華も朝日を気に入ったようだ」

 

「嬉しくないよ、ルナ」

 

 悲しそうな声を桜小路遊星様は上げた。

 そうですよね。嬉しくないですよね。

 実の息子が、女装している相手を気に入るなんて。ましてその相手が、過去の自分と同じ姿をしている相手なんて。

 ……本当に嬉しくないどころか、悲しくなって来ました。

 

「で、話は戻すが、何が原因で才華を叱ったんだ? 正直言って、君が他者を叱るなんてよっぽどの事があったと思っている」

 

「あ、僕もそれは気になる。才華には悪いけれど、話してくれないかな?」

 

 ど、どうしよう!?

 ルナ様と桜小路遊星様の顔は、子供を心配する親の顔だ。

 僕が叱った内容が、それほど気になるのだろう。

 他の面々も見回してみるが、全員僕の答えを待っている。八千代さんはきっと、才華様の事を心配して。

 駿我さんも気になるのか、僕を見ている。

 湊は……駄目だ。食事と共に出されたワインを飲んで、眠ってしまっている。

 どうすれば良いのかと考え込み、あの時の会話の中で本当の話題を逸らせる事がなかったかと考える。

 ……そうだ! これなら!

 

「え~と、話すのは構いませんけど、才華様を怒らないで貰えますか? わ、私が叱った事で反省しているようですから」

 

「分かった。君が桜屋敷を出たのは四か月も前だからな。今更その時の事をほじくり返すつもりはない」

 

「ただ、どんな理由で叱ったのか気になっているだけだから、才華を叱る気はないよ」

 

「では、お話しします……あ、あの時才華様は、フィリア学院の男子部廃止を止める為に、りそなさんの代わりに大蔵家の当主の座に就こうと考えて……ルミネ様に結婚を申し込もうとしました」

 

 ピキっと、八千代さんが固まってしまった。

 

「それは流石に……」

 

 駿我さんも困ったように視線を彷徨わせている。

 

「さ、才華……幾ら何でもそれは」

 

「ま、不味いよ」

 

 ルナ様は口元をひくつかせ、桜小路遊星様は頭を抱えてしまっている。

 良かった! りそなに話した時に、ルミネ様がお爺様からどれほど大切に思われてるか聞いていたから、これなら誤魔化せると思ったけど上手く行った!

 ……冷静に考えてみると、こっちもこっちで大変な事だったんだよね。

 あの時の僕は、ルミネ様に対するお爺様の過保護を良く知らなかったから、りそなの方でちょっと苛立ったけど、ルミネ様と結婚しようと言うだけでとんでもない事だ。

 才華様……もうちょっと危機意識を持って下さい。

 

「小倉さん」

 

「や、八千代さん?」

 

 固まっていた八千代さんが復活すると共に、僕の手を大切そうに両手で握った。

 

「貴方がいてくれて本当に良かったです。もしも才華様が止まらずにことを進めていたら、桜小路家は終わっていました」

 

「あ、あの。私が止めなくても、ルミネ様自身が呆れていましたから、最初から無理だったと思います」

 

「いいえ! たとえ止まったとしても、才華様はその件を反省はしなかったでしょう。貴方が叱ってくれた事で、才華様は過ちに気がつけたんです! 本当に感謝します!」

 

 ……真摯に僕に感謝の念を捧げる八千代さんに、凄く罪悪感を感じた。

 ごめんなさい、八千代さん! 本当はルミネ様への結婚の件じゃなくて、別の件で僕は才華様を叱ったんです!

 しかも、その件は今も進んでいます。本当にごめんなさい!

 

「朝日。私からも礼を言う。才華を止めてくれた事を感謝する」

 

「ル、ルナ様?」

 

 心から感謝していると言うように、ルナ様が僕に頭を下げた。

 止めて下さい! 貴女に頭を下げられるなんて、本当にキツイです!

 ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!

 心の中で僕は何度もルナ様に謝罪した。

 

「僕からも本当に礼を言うよ。才華を叱ってくれた事。本当にありがとうね」

 

 もうやめてーー!!

 罪悪感とか申し訳なさで、胸が張り裂けそうです!

 

「うん? どうした、朝日? 急に顔を押さえて」

 

「……ま、まさか、ルナ様に……こ、こんなに……さ、才華様を叱った事を……か、感謝されるとは……お、思ってなかったので……な、涙が……」

 

「いや、大げさな話じゃないよ、小倉さん。君は間違いなく、桜小路家を救ったんだ。正直才華君もなんて危険な手をやろうとしていたんだか。怖いもの知らずと言う他にないね」

 

「……そ、其処までですか?」

 

「悔しいが、引退しても尚、大蔵日懃の力は絶大だ。私も才華がやろうとしていた事が知られた場合、護りきれるか分からない。夫にもう一度『小倉朝日』になって奮い立たせて貰う必要があるだろう」

 

「こんな形でなりたくないよ。と言うよりも、なっても護りきれるか本当に分からないよ」

 

 涙を流す桜小路遊星様の姿に、僕は場違いながらも安堵した。

 良かった! 桜小路遊星様はルナ様の卒業後に、『小倉朝日』にはなっていないんだ!

 ……って、喜んでいる場合じゃないよ!?

 りそなも言っていたけど、才華様! 貴方は何てとんでもない事をしようとしていたんですか!?

 今更ながら才華様がやろうとしていた事に恐怖を感じる僕に、顔の前で両手を組んでいる駿我さんが冷静に分析する。

 

「知られた場合、先ず桜小路家の取引先全てに大蔵日懃から連絡が行き、取引を打ち切られるだろう。恐らくその時はアメリカの支部担当の俺が動かされる。俺としては遊星君一家を潰したくはないから、前当主の要請を跳ね除けるけど。それだったら別の手だと言わんばかりに、他の大蔵家の面々に連絡が行く。りそなさん、衣遠やアンソニーも聞かないと思うが、そうなったら最悪、前当主殿と俺達の間で戦いが始まってしまう」

 

「大事の騒ぎどころではありません。せっかく遊星様が纏めた大蔵家が崩壊してしまいます」

 

「その上で原因となった桜小路家は、大蔵家と繋がりのある家全てを敵に回してしまう。繋がりが一切いなくなれば、最早どうする事も出来ない。世界的デザイナーとしての私の名も地に落ちる」

 

「僕はもう桜小路の人間だし、お爺様も敵だと考えてしまうかも知れない。前の時のようにはもう行かないと思う」

 

 ……とんでもなく大事の事態になった!

 これで実は才華様の為に、ルミネ様が裏社会と繋がりがある家の娘と接触してしまったなんて明らかになったら、一体どうなるんだろう?

 ……深く考えないでおこう。もうこうなったら、フィリア学院に入学して女装して来るだろう才華様を全力で見守らないと行けない。才華様の正体がバレそうになったら、調査員の権限を使って恨まれてでも、秘密裏に学院から追放しよう。それぐらいの覚悟が必要に違いない。

 

「……朝日が叱って止めてくれて本当に助かった。ただ夫。今後は才華を叱るようにしよう。過保護にし過ぎた結果、危うく大惨事になるところだった」

 

「う、うん。そうするよ」

 

「本当にお願いします、奥様、旦那様」

 

 ……落ち込むルナ様、桜小路遊星様、八千代さんの姿に、僕はもう一度心の中で頭を下げた。

 本当の事を言えなくて、申し訳ありません!!

 

 

 

 

 疲れた。本当に色々あり過ぎて疲れたよ。

 夕食の出来事を終え、僕と駿我さんは桜小路家から出た。

 ルナ様はもう遅いから泊まって行けば良いって言ってくれたけど、駿我さんが今後アメリカで僕が暮らす場所になるから案内はしておくべきだと言ってくれて、桜小路家から出た。

 ……悔しがるルナ様と、それを宥める桜小路遊星様。そして笑顔で手を振ってくれていた八千代さんが、印象的だった。

 因みに湊は完全に寝入っていたので、そのまま桜小路家に泊まる事になった。疲れていたんだろうね、湊も。

 

「小倉さん。此処だ」

 

「えっ? 此処ですか?」

 

 車に乗って駿我さんが案内してくれた場所は、高級だと一目で分かるマンションだった。

 

「あ、あのお屋敷とかでは?」

 

「アメリカの屋敷は親父が住んでいる。親父は残念だけど、君を歓迎はしていないから、会ったら気まずくなると思う」

 

「……そうですか」

 

 やっぱり、大蔵家全体が僕を歓迎している訳じゃない。

 これまで会ったメリルさんや駿我さんが歓迎してくれているだけに、ちょっと寂しさを感じた。

 

「余り気に病まなくて良い。と言うよりも、あの親父に何かを言う資格は無いからね」

 

「どういう事ですか?」

 

「あの親父……妾に子供を産ませていたんだ」

 

「えっ?」

 

「名前は、『山県大瑛(やまがただいえい)』。今は日本のフィリア学院にピアノ科で通っている。親父は認知する気もなくて、母親の方も遊び回っているから、俺が引き取った。君と同じように真っ直ぐな子だから、りそなさんは気に入っているようだよ」

 

「……知りませんでした。りそなからそんな話は聞いてませんでしたから」

 

「多分、りそなさんは今の大蔵家の裏を見せたくなかったんだと思う。正直遊星君が頑張ってくれたのに、大蔵家には変わっていない部分も残念ながらある。ただ俺達の世代が君を歓迎している事だけは、確かだから安心して欲しい」

 

「ありがとうございます」

 

 優しく笑う駿我さんに、僕は頭を下げた。

 

「さぁ、部屋に案内するよ」

 

 駿我さんに案内されて、僕はマンションの中に足を踏み入れた。

 案内されたマンションの部屋は、広かった。りそなが借りていた部屋よりも広いかも知れない。

 置いてある家具も、質が良く高級な物だ。キッチンも備わっていて、調理器具も桜屋敷で使っていた物に劣らない器具が全て揃っていた。

 何よりも嬉しいのは、ミシンを始めとした服飾道具が揃っている。

 

「気に入ったかい?」

 

「はい! 私の為にこんな素晴らしい部屋を用意してくれて、感謝の言葉もありません」

 

「そうか。喜んで貰えて良かったよ。俺の部屋は隣だから、何かあったらすぐに呼んでくれ。明日からの桜小路家への送り迎えも俺がするから。ただ時間だけは守って欲しい」

 

「は、はい……あの?」

 

「何かな?」

 

「その……お仕事の方は大丈夫ですか? 桜小路家の場所は分かりましたから、私一人で直接向かっても大丈夫ですけど」

 

「構わないさ。りそなさんから君の事は頼まれてるし、暫らくは海外に行く予定もない」

 

「ですが……」

 

「もし気になるんだったら……そうだな。明日から朝食と昼の弁当を作って欲しい」

 

「えっ? 朝食とお弁当ですか?」

 

「あぁ。夕食は桜小路家で取る事になりそうだから、朝食と昼食だけで構わない」

 

「……分かりました。腕によりをかけて作らせて貰います!」

 

 こんな事でお礼になるか分からないけど、駿我さんの好意に報いるために頑張ろう!

 

「何かリクエストがあったら、前日に教えて下さい」

 

「明日は君に任せるよ。それじゃ、また明日の朝に」

 

「おやすみなさい、駿我さん」

 

「おやすみ」

 

 部屋から駿我さんは出て行った。

 それを見送った僕は、部屋の奥に置かれていたベッドに移動して倒れる。

 

「……つ、疲れた」

 

 本当に疲れた。

 こうして一人になると全身が疲れ切っているのを感じる。

 ……でも、嬉しかった。世界は違っても、ルナ様と八千代さんと話す事が出来た。もうあの二人とは直接会って話す機会はないと思っていたから。

 桜小路遊星様とも向き合えた。未だ申し訳なさを感じてはいるけど、弱っていた時に時折抱いた嫉妬の感情は無くなっていた。今は寧ろ早く彼の服飾の技術を見て学びたい。

 駿我さんのような優しい人とも出会えた。彼にはアメリカにいる間、お世話になるんだから食事以外にも何かお礼がしたい。何か良いのはないかな? 以前の僕だったら、シャツとか縫えたんだけど、今の僕じゃ無理だし。

 何か良いプレゼントを日本に帰国する前に考えて、駿我さんにプレゼントしよう。

 ただ……やっぱり才華様が女装してフィリア学院に通う事は、秘密にしておいた方が良さそうだ。

 パリでのりそなの慌てぶりから予想は出来ていたけど、ルミネ様はかなり大蔵家の中で重要な位置にいる。

 お爺様の娘だから当然だけど、その過保護ぶりを僕は甘く見ていた。

 ルナ様達の様子から考えて、もしもルミネ様に何かが起きればお爺様が動き出す。今のところ、りそなを信じて直接的に動いていないのが助かった。

 

「知られないようにしないと」

 

 りそなからもこれ以上、誰かに知られるのは不味いと注意されている。

 幸いにも僕が才華様を叱った件は、誤魔化す事が出来た。

 後は僕が口にしなければ、このまま隠しておける。

 

「そう言えば……どうして才華様は僕を桜小路遊星様だと勘違いしたんだろう?」

 

 今更ながらに気になった。

 今日の桜小路遊星様の言葉から考えて、間違いなくルナ様がご卒業されてからは『小倉朝日』にはなっていない筈だ。と言うよりも、僕と違ってなる必要性が無い。

 

「なのに、才華様は確かに僕を『お父様』って呼んだ。アトレ様や九千代さんは、違うって言っていたのに……何でだろう?」

 

 もしかしたら才華様は勘が鋭いのかも知れない。

 だとしたら、フィリア学院で会っても距離を取るべきかも知れない。

 僕のせいで、せっかく女装の事が知られていないのにバレたら、桜小路遊星様に申し訳が無い。

 ただでさえ『晩餐会』での出来事や、朝日の姿である僕のせいでかなり心労が重なっているだろうから、これから服飾を教えて貰う身だ。これ以上の心労を与えないように気を付けないと。

 

「よし! フィリア学院では才華様と距離を取ろう!」

 

 ちょっと寂しいけど、それがお互いの為に違いない!

 さぁ、明日からは桜小路家での服飾の勉強があるから、お風呂に入ったら寝ないと。

 明日からの一か月が楽しみだな。




因みに本編で言っている瑞穂の衣装とは、瑞穂ルートで瑞穂が着た衣装です。
あの衣装を着た朝日を、見たかったです。
後、この話では、料理では遊星が一歩リードしていますが、その他の家事では朝日の方が上です。


『ルナ様の野望』

「完全に後手に回ってしまっている」

 朝日が漸く来てくれたのに、私との仲を進める機会が少ない。

「それもこれも夫に八千代。そして大蔵家のせいだ。朝日のメイド服を姿をどれだけ私が楽しみにしていたと思っているんだ!」

 若い朝日のメイド姿なんて、見たいに決まっているのに!
 いや、夫の夜のメイド姿も最高ではあるが、あの女性らしさが増している朝日も最高だ!
 だからこそ、メイド姿を見たいのに! 勿論、今の女性姿もそれはそれで素敵だが。

「やはり朝日と言えばメイド服なんだ! なのに、そのメイド服姿が見られないなんて! ……こうなったら、仕方が無い」

 私は執務室の本棚の前に移動して、一冊の本を取る。
 その奥に仕込んで在ったスイッチを押す。
 同時に本棚が動き、隠し金庫が現れた。

「……大切な思い出だったが、あの朝日になら」

 金庫の中にあるのは、夫にも内緒で撮っていた朝日の写真が納められたアルバム。
 おおっ! やっぱり、このアルバムを見ると心が震える。今夜にでも夫を可愛たがりたくなってきてしまうではないか!
 いや、今はそんな時ではない。重要なのはアルバムではなく、金庫の中にアルバムと共に入ってるトランクの方だ。

「……良し。手入れはしておいたから傷んではいない」

 夫も八千代も、コレの事は知らない筈だ。

「七愛の報告通りなら、あの朝日はメイド服を着ていないと服飾の時に落ち着けない筈だ。なら、コレを渡せば」

 ようは、私が朝日に着せようとするから問題なんだ。
 なら、逆に朝日自身が自分から着れば問題は無くなる。
 最愛の夫と、最愛の恋人が両方一度に手に入るかも知れないんだ。
 このチャンスを絶対に逃しはしない!

「朝日は誰にも渡さない。必ず私のものにしてみせる」

 狙っている相手は多い。
 少なくともりそなと大蔵駿我は間違いなく狙っている。
 他にも狙う者は出て来るだろう。何せ朝日は天然の人たらしだ。
 たらされた私が誰よりも知っている。

「その為にも、コレを着て貰う。喜んでくれ、朝日」

 コレを着る朝日を頭の中に浮かべながら、私はトランクの中身を見つめる。
 夫が『小倉朝日』として着ていた、桜屋敷のメイド服を。


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二月上旬(才華side)4

今回は基本原作通りです。
それだけだとちょっと味気ないので、あとがきに一つの話を書きました。

三角関数様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました!


side才華

 

 遂にこの日が来た。

 僕のこれからの命運を分ける日が、遂にやって来た。

 努力した。アトレや九千代、そしてルミねえに協力して貰い、外出を何度もして僕の女装は完璧なものになったと言える。

 伯父様から譲られた66階の高層マンション。『桜の園』も完成した。

 今、僕は『桜の園』の最上階にあるアトレの部屋にいる。これから面接があるからだ。

 僕、桜小路才華の……いや、違う。

 今日から僕は。

 

「これまでは練習期間として、心から『なりきらず』に、時折、自分を確かめるようにしていました。ですが、今日この日よりフィリア・クリスマス・コレクションの時まで、一切の迷いを捨て、いかなる時も『小倉朝陽』でいる事を心掛けようと思います。大蔵ルミネお嬢様、親愛なる家族の皆様。どうぞよしなに」

 

 呆然と僕を見つめるルミねえと九千代に挨拶をした。

 そして僕の妹は。

 

「あーヴぁヴぁヴぁばばばばばばばばばばっ! ぶるっ、ぶるわああああああああっ! うつっ、うつっつつっつっつ、美しゃああああああああっ!」

 

 ……僕の妹は壊れたように意味が分からない事を叫んでいた。

 

「吾輩は死ぬ。死んで天上界にこの美しさを喧伝する。この愛を三千大千世界へあまねく訴えたい。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、ありがたやありがたや」

 

 まるで仏に出会ったかのように、アトレは僕を見て拝んでいた。

 褒めてくれているんだろうけど、死んだら駄目だからね。

 

「お兄様……いいえお姉様。素敵です、私は、アトレは、こんな姉が欲しかったのだと胸を張って言えます! ああ、なんて美しいお姉様……たとえ使用人の身に窶していても、気品と麗しさが華々しく輝いて、傅きたい衝動にかられます」

 

「ありがとうございます、お優しいアトレお嬢様。その喜び方を見ていると、まるで私は女性として生まれて来た方が良かったかのようですね」

 

「はい! その通りです、お姉様! もうお兄様はいらないんじゃないでしょうか?」

 

 はははアトレは無邪気で可愛いなあ。

 そんなに褒めて貰えると自信が付くよ。

 ……だけどね。あんまり邪気がなく言わないで欲しい。お兄ちゃんが傷つくから。ぐすん。

 心の中でアトレの言葉に、僕は涙を流した。

 

「……確かに美人ではあるけど」

 

 無邪気なアトレに対して、ルミねえは険しい顔をしていた。

 

「いかがなされました、ルミねえ様? 美し過ぎる私のお姉様を直視出来ませんか?」

 

「もしかして冗談で言ったのかもしれないけど、半ば正解。美人過ぎるのが問題。これが演技だなんて犯罪だと思う。判決、市中引き回しの上に、美術館に禁固10年」

 

「はい。今回の行動の反対派だった私ですら、圧倒されてしまうほどの美しさです。我が主は女性だったのかと錯覚するほどに唖然としています」

 

「世界で一番美しい女性は私の母ですと、断言します」

 

「普段なら『その通りでございます』と頷くのですが」

 

「申し訳ありませんお姉様、そしてお母様。私は、アトレは、桜小路家の歴史の中で、お姉様こそが最も美しい方だという考えを改める事が出来ません。今までお兄様に抱いていた想いは思慕、そして尊敬の念だったのに。私は、アトレは、たった今、恋と言う感情を知りました。今なら『晩餐会』で駿我さんが言っていた言葉の意味が分かりました。私はもう、この素敵なお姉様以外に愛を抱けません」

 

「大げさ……と言いたいけど、実際にそれだけの美人だと思ってしまう自分が危うい」

 

「隠そうとしても溢れる貴人の風格。若に使用人をさせる訳にはいかないという自分の言葉を撤回します。桜小路才華様は、女装をしていても王者たる者として立派なままです。いいえ、より輝きを増したように思えます」

 

 うん。褒めてくれるのは嬉しいよ。

 だけどね、君達。其処まで言ったら、男性としての僕の批判になるから止めて欲しい。

 顔は笑顔を浮かべているけど、心では涙を流しているからね。今の僕は。

 

「ええ、九千代さんの言う通り、今までの試験的な外出は、あえて気軽にしていたのがよく分かります。本番へ挑むために覚悟を決めた今は、迂闊に声をかけられないオーラを感じます」

 

 ……そろそろ口を挟まないと、僕の心が限界だ。

 

「皆さんの言葉を胸に、私は私らしく振舞おうと思います。桜小路家の一員でいる事を常に心掛けて行動します。これまでのご協力に感謝します。ありがとうございます、お優しい家族の皆様。この胸から溢れんばかりの愛を捧げます」

 

 皆に心からの愛を捧げる事が出来て幸せだ。

 やはり僕は人に愛を与える為に生きたい。

 ……それなのに、僕はあの人を傷つけた。愛ではなく、傷を与えてしまった。

 思い出せなくなってしまったあの人の笑顔を思い出す為にも、今日の面接は必ず成功させないと!

 

「まだ体に硬さはありますが、程良い緊張感の中で面接の本番に挑めそうです。やる気マンゴスチンです」

 

「緊張してるんですか? どう見ても堂々としていますが」

 

「寧ろ、この風格にあてられて、相手が委縮してしまわないか心配。使用人として扱って良い相手じゃない事は一目で分かるし、一緒にいて息が詰まる相手だと思われたら採用されないかもしれない」

 

「それは困ります。隙あらば場を和ませるジョークを口にして、お相手の方に笑って貰おうと思います」

 

「ジョーク? ……たとえば?」

 

「実は私、男の子なんです」

 

「笑えない」

 

 ルミねえは半目になって、僕のジョークを批評した。

 ……そ、そんなに笑えないのだろうか?

 け、結構自信があったのに。

 

「お姉様は大変に素敵ですが、笑いのセンスが致命的にない事が欠点ですね」

 

 ……アトレにも駄目出しされた。

 

「それ、それでは、胸を張って面接に挑んでまいります。や、やる気マン、マン、マンゴスチンチンです」

 

「動揺してる。しかも女子が絶対言わないような事まで言ってるし」

 

「ですが、親しみやすさが出来ました。新人メイドとしては、この方が良いのではないでしょうか」

 

 そうか! きっとルミねえとアトレは、風格が漂っていたから親しみやすさを教える為に、心を鬼にして僕のジョークをつまらないと言ってくれたんだ。

 だって、本当は面白い筈なんだから。僕のギャグは。

 だから、些細な心の傷なんて忘れよう。今日の面接次第で僕の命運は決まる。

 幼い頃からの夢を諦めて一生劣等感を抱いて行くか、輝かしい戦場の舞台となるフィリア学院に通えるかの命運が。

 

「それでは行ってまいります」

 

「……あっ! 小倉さん!?」

 

「……はい? いかがなさいましたか、ルミネお嬢様?」

 

 玄関に向かおうとしたところで、いきなり背後から呼ばれた僕は、ゆっくりとルミねえに振り返った。

 振り向いて見ると厳しい目をしたルミねえが僕を見ていた。

 

「ちょっと反応が遅かった」

 

「いきなり呼ばれたのですから、動揺はするものです」

 

 僕は冷静にルミねえに返事を返した。

 でも、ルミねえは信用していない目で僕を見ている。だ、大丈夫だ。

 今だってちょっと動揺しただけなんだから。僕は小倉朝陽なんだから、名字で呼ばれても慌てる訳が無い。

 これで大丈夫だと思ったところで、内線を握っていた九千代が叫んで来た。

 

「た、大変です! 今1階にいる八十島メイド長から連絡が来て、このマンションに小倉さんがいるそうです!」

 

「えっ!? 嘘!?」

 

 九千代の報告に、僕は思わず素の声で反応してしまった。

 同時にルミねえ、アトレ、九千代が、ジッと僕に視線を向けて来た。

 

「……あっ」

 

「本番でも弱点克服ならず」

 

「お姉様……」

 

「致命的ですね。まさか、自分の名字である小倉に反応してしまうなんて」

 

 三人の何とも言えない雰囲気に、僕は床に膝を突いてしまった。

 そう、僕は自分の名字として名乗る筈の『小倉』を聞くと、思わず小倉さんが近くにいると考えて動揺してしまうという弱点が出来ていた。

 この弱点に気がついたのは、アトレと九千代と共に女装して外出した時。ルミねえやアトレは僕を朝陽と名前で呼んでいたので気が付けなかったけど、九千代が名字の方で僕を呼んだ瞬間、僕は慌てて周りを見回してしまった。

 すぐにその場から離れた事で問題は無かったけど、由々しき事態だ。

 何せ自分の名字なのに、呼ばれると過剰に反応してしまうなど、どう考えても可笑しい。

 

「今の面接への意気込みに燃えている状態なら、克服出来ると思っていたんだけど」

 

「トラウマと言うほどではないでしょうが、やっぱりあの件はこ、小倉様に効いていたんですね」

 

「憎い! アトレは初めて嫉妬と憎しみを覚えました! 私のお姉様に此処まで想われている小倉さんに嫉妬を覚えます!」

 

「アトレさん。流石にそれは駄目だよ。でも、ちょっと驚き。朝陽さんなら表面上は平然としていられると思っていた」

 

「……思えば、小倉様をあそこまで強く叱ったのは家族や叔母を除いたら、小倉さんが初めてかも知れません」

 

「なるほど。初めて他人に叱られて、しかも相手を泣かせてしまったから、罪の意識を自覚してる。これは朝陽さんを小倉さんに会わせて謝罪させるのが一番の薬になるんだろうけど」

 

「いまだに小倉さんの居所は分かりません。アメリカの桜小路家の方も、急遽大切なお客様をお迎えする事になって、捜索している暇はないと屋敷のメイドが言っていましたから」

 

 九千代の言う通り、小倉さんの捜索で唯一当てに出来たアメリカのお母様達も当てに出来なくなっていた。

 何でも大切な客が2月に来る事になって、その対応で屋敷は大忙しらしい。何時もは電話を掛ければ出てくれるお父様も対応出来ず、それどころか九千代の叔母である八千代までも僕への応対をしてくれなかった。

 他の屋敷に勤めているメイドが応対してくれるんだけど、どうも詳細を知っているのはお父様とお母様、そして八千代だけらしく、詳しい事は何も分からなかった。

 どんなお客様なんだろう? 気にはなるけど、何もこの時期に来て欲しくはなかった。

 小倉さんの居場所に関しては、伯父様は教えてくれないだろうし。と言うよりも、伯父様とは本当に1月の最後の連絡から、一度も電話がかかって来ない。ちょっと寂しい。

 ……いや、今はこんな事を考えている場合じゃない!

 

「だ、大丈夫です! た、確かに名字を呼ばれると動揺をしてしまいますが」

 

「あっ、認めた」

 

「ど、動揺はしますが、元々使用人が主人に名字で呼ばれると言うのも可笑しい事です! そう、これは寧ろチャンスです! 相手と親密になる為にも、名前で呼んで貰えば良いのです!」

 

「……まぁ、その方向で行くしかない」

 

「ですが、本当に気を付けて下さい、お姉様。その弱点さえ隠せれば、後は笑いのセンスが無い事以外はお姉様は完璧なのですから!」

 

 うん。嬉しい事を言ってくれるけど、笑いのセンスが無い事は言わないでアトレ。

 もう心だけじゃなくて、実際に涙を流してしまいそうだから。

 

「では、面接に行ってまいります!」

 

 覚悟を決めて僕は、アトレの部屋から出て面接の場へと向かった。

 とは言っても、僕の覚悟に対して、あっけないほどに目的地はすぐ其処だ。今僕達がいる部屋のフロアから一つ下の階。階数にして65階に、僕の面接の場所がある。

 伯父様から贈られた総工費550億円のマンションである『桜の園』は、先日正式に内縁会を終え、入居者達が入って来ている。

 僕とアトレ、そしてルミねえは、先月の後半から引っ越しして入居していたけど、面接相手は先日の内縁会後に入って来たので、今日が面接日となった。

 頼もしき家族に見送られて先ず僕が向かった先は、マンションのエントランス。内縁会を終えた後なので、人がまばらにいるけど、僕の姿に違和感を覚える人はいない。

 『小倉朝陽』を完璧に演じていると感じながら、桜小路家が依頼したコンシェルジュに呼びかける。

 彼女は書類整理でも奥でしていたらしく、大きな体を広いエントランスに現した。

 

「あら朝陽さん。日傘を持っているなんてお出かけですか? 車が必要ならお呼びしますが?」

 

「いいえ、これから面接ですので、外からインターホンで連絡する私は、日傘を持っていないと違和感が出てしまいますから」

 

 事前にこれからは、『桜の園』では女性として扱って欲しいと壱与に頼んでいたので、その通りに対応してくれる壱与に感謝する。

 ……僕の弱点の事も知っているので、朝陽で呼んでくれた事にも感謝だ。

 

「それでしたら、紹介者のルミネお嬢様もご一緒の方が宜しいのではないでしょうか? 何かあった時のフォローをしてくれる方がいた方が安心出来ます」

 

「これからフィリア学院に共に通う方かも知れない相手です。一対一で挨拶をしたいと思ったんです」

 

「まるで果し合いに挑むみたいね。この緊張感、まるで桶狭間に挑む覚悟を感じるわ。今川義元、ドン!」

 

「これから壱与さんにも多くの部下が付きます。仕事も楽になる分、どうか私を陰ながら支えて下さい。毛利新助、ドン!」

 

「本能寺の変にて討ち死にィ!」

 

 やっぱり壱与との会話は楽しい!

 緊張も解れたから、ルミねえから教えて貰った部屋の番号をインターホンで押そうと手を伸ばす。

 

「あぁ、そう言えば、これは朝陽さんじゃなくて、若にご報告を」

 

「何でしょうか?」

 

 急に小声になった壱与に違和感を覚えて、僕は顔を近づける。

 と言っても、壱与の方が背が大きいから屈んでもらう形になってしまったけど。

 

「実は先日、若達がいない時に桜屋敷に大蔵駿我様がお訪ねになりました」

 

「駿我さ……様が?」

 

 予想外の人物の名前に思わず、馴れ馴れしく呼びかけてしまったけど、何とか堪えた。

 何故あの人が桜屋敷に?

 

「訪ねられた理由は、小倉さんが本当に屋敷にいたかどうかの確認でした」

 

 納得した。

 小倉さんは大蔵家に認められたけど、僕達を除いて直接会った者はいない。

 本当にいるのかどうかの確認の為に、桜屋敷を訪ねに来たんだろう。

 だけど……。

 

「桜屋敷を訪ねられたのなら、『桜の園』に訪ねられても構わなかったのに」

 

「私もそう思ったのですが、才華様達はマンションのオープンで忙しいだろうからと言って、確認が終わったらお会いもせずにすぐにアメリカに帰国されてしまいました」

 

 駿我さんも良い人なんだけどな。

 でも、あの人は伯父様と違って僕やアトレを甘やかしたりしない。忙しい僕らを思って、邪魔をしない為に挨拶もしないで去ったんだろう。

 そう納得した僕は、今度こそ部屋の番号を押してインターホンを鳴らす。

 彼女とはメールでのやり取りはあったけど、音声付きで会話をするのは初めてだ。

 

『はい』

 

 ……おや、日本語が聞こえて来た?

 とは言え、相手は英国人。此処は英語で返事を返すべきだろう。

 

「こんにちは、本日の面接に参りました小倉朝陽と申します」

 

『ん? 貴女は日本人だと聞いていたけど、英語を喋るの?』

 

 確認された。もしかしたら失敗したかも知れない。

 相手がアイリッシュだからと思って、英語で会話すべきだと思ってしまった。

 でも、よくよく考えてみれば此処は日本だ。日本の学院に通うのに、日本語が出来ないと不味いに決まっているのに。

 

「失礼いたしました。日本語は問題なく喋れます。英語の方が慣れているのではないかと思い、要らぬ気遣いをいたしました」

 

『私に合わせてくれたの? そう、ありがとう。それなら良いの、大丈夫。貴女は親切な人ね。安心した』

 

 会話から推測するに、不審を覚えても、その事を引き摺らずに、相手の良い部分を見つけられる人のようだ。こちらこそ安心した。

 ただ、この時点で僕という人間を審査していると見るべきだろう。

 先ほどの言葉遣いでの件に関しては厳しかった。恐らくは人を見る目に長けているのかも知れない。

 だとすれば、注意しないといけない。正体がバレた時点で終わりなんだから。

 

『その親切に甘えて申し訳ないんだけど、まだ全然準備が出来てなくて、だらしない性格だから許してね」

 

 ……。

 

『と言うよりも、準備どころか、今はまだシャワーを浴びている最中なの。面接の時間の事をすっかり忘れていて、慌てて身嗜みを整えていて』

 

 ………。

 

『めんごめんご』

 

 ……何だろう? 彼女の言葉を聞く度に、気が抜けて行く。

 これが僕のライバルで、ご主人様(予定)である人物?

 僕の想像の中にあった『エスト・ギャラッハ・アーノッツ』像が聞くたびに崩れていく。

 この人、いい加減にも程がある。このまま面接は楽勝になるかも知れないとさえ、思ってしまう。

 ……いや、駄目だ! そんな甘い考えのせいで、僕は何をしてしまった!?

 油断をしたらいけないんだ桜小路才華改め、小倉朝陽!

 もしかしたら他人には厳しい人なのかも知れないじゃないか!

 気を引き締め直さないと。

 

「それではエントランスでお待ちいたします。準備が出来たら、コンシェルジュにお知らせ下さい」

 

『私の部屋の番号を伝えて、飲み物を頼んで待っていなさい。エントランスには大抵の有名な本は置いてあるみたいだから、時間はそれで潰して。今髪を拭いているから、20分くらい後にこの階まで上がって来なさい。鍵は開けておくから勝手に入って』

 

 指示を出すのが好きな人のようだ。

 それだったら時間指定せず、支度が整ってから連絡を寄越した方が良いのでは?

 と思うけど、それはあくまで僕が桜小路才華という主人の立場での話。

 今の僕は使用人なんだから、彼女に返せる返事は一つだけだ。

 

「分かりました。20分後にお伺いします」

 

『時間きっちりに来なくて良いからね』

 

 その返事を返す前に通話が切れた。

 ……少なくとも今の会話の中で、不快感を覚えるような事はなかった筈だ。

 ただ、最後の会話だけは気になる。相手からすればなんとなく口にしただけかも知れないけど、もしかしたら短いやり取りの中で、僕が時間に細かくて厳しい人間だと思われたのかも知れない。

 相手は自称だらしない人らしいから、一緒にいて窮屈だと思われたら採用されないかも知れない。

 だとしたら、『20分』丁度には行かず、21分後に部屋を訪れた方が良いだろう。

 こうやって他人とのやり取りに考えを巡らせるのも楽しい。自分とは違う考え方の相手と接する事が出来て幸せだ。

 だからこそ、注意も必要だ。相手の気持ちを上辺だけで考えたら、どうなってしまうのかもう僕は思い知っているんだから。

 

「朝陽さん。嬉しそうですね」

 

「はい。良き出会いに巡り合えそうで、大変気分が良いです。エレベーターが65階まで移動する時間を教えて下さい。それとアントン・チェーホフの『桜の園』を貸して下さい」

 

 これから会う人にも愛を与えたい。その喜びを想像すると胸が躍った。

 だけど指定された通りアバウトな時間で訪れて呼び出しても、彼女からの返事はなかった。

 

「ん?」

 

 ドアに手を伸ばしてみると、鍵がかかっていない事に気がついた。

 そう言えば、『鍵は開けておくから勝手に入って』と言っていた。

 もしかしたら返事が無いのは、僕が彼女の意思を無視していると思われたからかも知れない。

 それなら今はこちらの気遣いよりも、彼女の意思を尊重するべきだ。一瞬だけ迷ったものの、結局僕は彼女の許可を得ずにドアを開く事にした。

 

「失礼します。本日の面接にまいりました、小倉朝陽です。よろしくお願いします」

 

 返事はなかった。もしかしたら部屋を間違えたのかと思い確かめたけど、エレベーターの脇にある表示板を見てみる。

 表示板は間違いなく65階を示していた。このフロアには、この部屋しか存在しないから間違いはない。

 もしかしたら僕を迎える気になって、エントランスに向かってしまい、すれ違ったのだろうか?

 いや、このフロアに来た時にエレベーターは他に動いて無かった筈だ。

 

「お邪魔します」

 

 考えても分からないと思い、僕は部屋に足を踏み入れた。

 僕の主人(予定)にお尻を向けないよう、靴を脱ぐ時は体を横向きにして揃える。

 よし。この数か月で九千代の指導を受けたから、メイドとしての心得は完璧だ。その教えを実践しつつ、部屋の奥に更に足を踏み入れた。

 だけど、その矢先に、爪先へ何かが当たり、僕は躓きかけた。

 何だろうと思い足元を見て、僕は驚愕した。

 

「えっ? ……エストさっ……お嬢様!?」

 

 僕の主人(予定)となるべきエスト・ギャラッハ・アーノッツが、全裸で廊下に転がっていた。

 いや、これはどう見ても彼女の意思で寝ている訳じゃない。プロンドの髪は床に広がっているし、隠すものすらなく胸や肌を晒し、足は大きく開いたままという格好で横たわっている彼女は、気絶していたんだから。

 女性として、余りにも気の毒な体勢のままでいさせることに耐えられず、僕は彼女の肩と膝に手を当てて、そのまま一気に彼女を抱え上げた。

 気を失っている人間を持ち上げるのは、本来なら相手が抱えられる意思を持っている時に比べて重いと聞くけど、今は火事場の馬鹿力でもこの腕に発生しているのか、彼女の体は紙のように軽く感じた。

 見たところ大きな外傷はない。その事に多少安堵しつつ、とりあえず柔らかい場所はないかと部屋の奥へ進んで行く。

 

「お嬢様、お気を確かに? 意識はありますか? 私の声は聞こえていますか? 今すぐコンシェルジュに連絡を取り、すぐに病院に運びます。どうかご無事で」

 

「……待って……」

 

 僕の声に意識を取り戻したのか、彼女は英語で返事を返してくれた。

 

「びょ、病院は駄目……この格好で運ばれるのだけは……勘弁勘弁マジ勘弁勘弁……」

 

 意識を取り戻してくれた事に安堵しながら、僕は英語で答える。

 

「お嬢様、目が覚めたのですね……良かった。ですが、恥ずかしいなどと言っている場合ではありません。何が起こったのか分かりませんが、気絶して倒れていたのですから。適切な治療を受けていただかなくては、万が一の事態にもなりかねません」

 

「わかった……それならとりあえず服を着せて……その前に体を拭いて……シャワーから出たばかりだったから……この格好のまま男性に運ばれるのなら、私もう生きてられない……帰国する」

 

 それは非常に此方も困る!?

 もう貴女しか僕には希望がないんだから!

 

「わ、分かりました。先ずは体を拭いて、服を着せてからコンシェルジュに連絡を取ります」

 

「ありがとう、私の体を任せた……部屋に来てくれたのが貴女で良かった……かくっ」

 

 僕の腕の中で、その言葉を最後に彼女は再び気絶した。

 すぐにでも病院の手配をしたいけど、彼女は息が絶え絶えになりながら、それでも『男性に全裸を見られたくない』と口にした気持ちは理解出来る。

 名誉よりも死を選ぶ事の出来る誇り高き人だ。自分の主人(予定)となる人に、また一つ好感を覚えた。

 彼女の意思を優先して、ソファに彼女を寝かせると、タオルで丁寧に体を拭いた。

 次にワードローブの中から適当な服を見繕って、彼女に手早く着させる。意識が無い人に着させるのは難しかったけど、女性物の服を着るのは慣れているので、ちょっと手間が掛かったぐらいで済んだ。

 そのまま壱与に連絡を取ろうとしたところで気がついた。

 よく考えたら男性に全裸を見られたくないのなら、彼女の名誉をいま正に犯しているのは……僕だ。

 

「……来年、僕はもしかしたら海の底にいるかもしれない」

 

 使用人として認められたら、フィリア・クリスマス・コレクションまでに彼女との強固な信頼関係を築かないといけない。

 ……男だと知っても、壊れないほどの強固な関係。

 果たしてそんな関係を僕は、彼女との間に築けるのだろうか?




因みに才華達は全く実家があるアメリカの桜小路家に朝日がやって来る事を知りません。
これに関してはアトレが受験を控えている事と、才華の体を思っての判断。後、暴走しそうなルナ様の警戒やら大蔵家との打ち合わせで本気で忙しかったので、連絡を忘れているからです。と言うよりも、僅か一日ぐらいしか会ってないんだから、其処まで重要な存在に朝日がなっているとは夢にも思ってないからです。

人物紹介

名称:エスト・ギャラッハ・アーノッツ
詳細:『月に寄りそう乙女の作法2』のヒロインの一人。アイルランド共和国のアーノッツ子爵家の四女。ブロンドの髪が特徴で、スタイルも良い外見上は非の打ちどころのないお嬢様。だが、性格はずぼらでだらしない。実家が裏社会と繋がって他人を苦しめている事に抵抗を覚えている。性格は優しくて、底抜けに親切。
才華とはアメリカ時代でのライバルで、竜虎相打つ関係。才華曰くエストは虎で、自分は竜らしい。因みに隠れS。彼女にはある秘密があるのだが、その詳細は本編で。


『大蔵駿我の独白』

 最初は衣遠の奴の質の悪い冗談だと思った。
 この世に彼女がいる筈が無い。何せ彼女は彼に戻ったんだから。現に『晩餐会』の時に彼はあの場にいた。
 居る筈がない。最初の頃の衣遠の話も、またかと言う気持ちしかなかった。
 親父のように誰かがミスを犯した程度の認識だった。
 それが一変したのは、彼女の写真が飾られた時だ。正直怒りしか最初に俺は覚えなかった。
 何せ写真に写っていた彼女の顔には、俺が知っている彼女の明るい笑顔なんてなかった。寧ろ逆の、行く当てもない今にも消え去りそうな悲しさしか無かった。
 冗談抜きで潰してやろうと思った。穏やかな暮らしを望んでいる俺としては嫌だが、大蔵家が荒れようと構わないと本気で思ってしまった。
 衣遠を潰す。そのつもりで質問してみたが、予想に反してアイツの目にはふざけている気配はなかった。寧ろ逆。全力で養子として認めさせると言う覚悟を感じた。
 才華君やアトレさんの証言を聞いて、半信半疑な面もあったけど彼女の養子入りを認めた。
 何より、総裁になってからは全く見られなくなったりそなさんの動揺。彼女があれほど動揺するとすれば、彼に関わる事だけだ。
 『晩餐会』が終わった後、俺はすぐに部下に連絡をしてりそなさんのスケジュールを調べさせた。そして『晩餐会』後に、りそなさんの描いた衣装が主役のファッションショーがパリで開催される事が判明した。

 俺は確信した。彼女が本当に居るなら、必ずパリに現れると。
 そして予想通り彼女は現れた。パリの大路で会ったのは偶然だけど、俺がパリにいたのは偶然じゃない。
 パリで開催されるファッションショーの会場を張る為に、俺はパリに行ったんだ。
 正直嬉しいと言う気持ちよりも、弱り切った彼女の姿に悲しみを覚えた。俺が気に入っていた彼女の笑顔は何処にもなかった。
 そのまま浚ってしまおうかと言う考えが脳裏に浮かんだけど、りそなさんに任せる事にした。俺と彼女は初対面なんだから。大蔵の名を名乗っても、俺の顔を見て何の反応も示さなかった事から、彼女には俺との面識がない事は明らかだった。
 なら、衣遠の計画通りに進ませてみようと思った。悔しかったけどな。
 そして出会ってから10日ぐらい後に、パリでの用事を仕事で作り、彼女を様子を見に行って見た。
 驚いたよ。何せ悲しみしか顔になかったのに、改めて会った彼女の顔には俺が気に入っていた笑顔が戻っていた。りそなさんがやってくれたんだと嬉しくもあり、悔しくもあったね。
 何か悩んでいる様子だったので聞いて見たら、思っていたよりも難しい問題だった。なるべく問題を抑えられるように、俺なりにアドバイスをしてみた。
 アドバイスを聞いた彼女は笑顔を浮かべて礼を言ってくれた。この笑顔は俺が浮かべたんだと思うと、嬉しくて心が躍った。
 全く……彼女には本当に困らされる。穏やかな暮らしを望んでいる筈なら、心は落ち着いていた方が良いのに。だけど、悪い気もしないから本当に困る。
 それからりそなさんから急な連絡が届いた。
 どうやら彼女がアメリカの桜小路家に訪問する事になったらしい。
 俺はすぐにりそなさんの頼みを引き受け、すぐさま彼女を迎え入れる準備をしながら、パリでの彼女の悩みに関して気になっていた。
 どうにも気になり、日本にわざわざ訪れて桜屋敷に訪問してみた。才華君達から情報を得られないかと思ったからだ。だが、予想に反して才華君は桜屋敷に居なかった。
 聞いて見れば、衣遠の奴が総工費550億円のマンションをプレゼントしたらしい。
 心の底から呆れたよ。アイツは才華君とアトレさんを甘やかし過ぎている。昔、遊星君やりそなさんをどんな風に扱っていたのか知っているだけに尚更にね。
 最もだからこそ、彼女には自分から何かを命じるのを控えて、距離を取っているんだろう。遊星君の才能を発揮出来る場を整えたのは、りそなさんだ。
 彼女の事も、りそなさんに任せた方が良いと思っているに違いない。
 とは言え、才華君達にした事に呆れ、そのまま帰ろうとしたが、ふと衣遠が与えたマンションの建築場とフィリア学院が建っている場所の近さが気になった。
 不動産屋に行って、パンフレットを調べて見れば、建築される予定のマンションの地下には、フィリア学院との直通通路がある事が判明した。
 その瞬間、俺は才華君達が何を考えているのか。そして彼女が何を悩んでいたのか悟った。
 才華君達は、遊星君と同じ手段でフィリア学院に入学するつもりだと。
 なるほど、コレは伝えるのを悩む筈だ。りそなさんは才華君に複雑な気持ちを抱いているし、彼女からすれば才華君は憧れた人と遊星君の息子なんだから。
 俺も波風をたてる気はなかったから、そのままアメリカに帰国した。才華君のこれからがちょっと気にならないと言えば嘘だが、今は彼女を迎え入れる準備の方が優先だからだ。
 特に桜小路さんは、彼女も手に入れようとするだろう。悪いがそれは認められない。
 遊星君が桜小路さんと一緒になったのは良かったと思っているけど、彼女まで渡すつもりは無いからね。

 そして遂に彼女がアメリカにやって来た。
 事前にりそなさんからくれぐれも頼むと言われていたので、彼女に幾つかのアドバイスもした。
 俺が大蔵の人間だと知った時の彼女の顔には、思わず笑ってしまった。
 意地悪だとは思ったけど、昔、俺も遊星君に驚かされたからね。その仕返しと言う訳だ。
 桜小路家で聞いた彼女の話を聞いて、俺は一つの確信を持った。
 『彼女の世界の大蔵家は潰れる』。
 恐らくは桜小路さんも気がついているだろう。だが、この件を彼女に伝える訳には行かない。元の世界に戻る方法なんて分からないんだから。最悪死んだら戻れるかも知れないなんて考えたら、最悪だ。だから黙っている事にした。
 遊星君は恐らく気がついていない。自分が成し遂げた事の難しさと重要性を理解し切れていないからだ。
 彼女がいなければ、りそなさんは立ち上がれず、衣遠も止まる事が出来ずに進む。
 そして俺も、親父から与えられた強迫観念を晴らす事が出来ずに進んでしまうだろう。
 とは言え、これに関してはどうする事も出来ない。残念ながら運がなかったと言うしかない。彼女の世界の大蔵家は。
 夕食の時に伝えられた事実には、正直眩暈を覚えかけた。
 才華君は大蔵日懃と言う人間を、ルミネさんなら制御出来ると思っているようだが違う。寧ろルミネさんの存在こそが、大蔵日懃の逆鱗だ。ルミネさん自身も気がついていないだろう。
 本格的に老い先が短いあの爺は、ルミネさんの人生に一点の曇りも無く輝かしい人生を生きて欲しいと願っている。その為なら例え自分が嫌われたとしても、爺はルミネさんの人生に汚点になりそうな相手を消し去るだろう。それが例え、身内だとしてもだ。
 彼女が才華君を止めてくれた事を桜小路さんや遊星君は感謝しているようだけど、恐らく彼女が才華君を叱った本当の内容は違うだろう。
 俺は才華君のやろうとしている事を知っているからね。
 そして彼女も恐らく、フィリア学院に通うつもりだ。才華君達を護る為に。
 ……世界は違っても彼女の本質は変わっていない。心が惹かれてしまうよ。
 部屋に関して、彼女は気がついていないだろう。本気で俺の好意だと思っているに違いない。
 本来今回の桜小路家への短期で、一か月もアメリカに滞在する予定はなかった。
 だから、ミシンなんて用意する必要性は無い。
 俺は、桜小路さんが必ず彼女をアメリカに滞在させると確信していたからだ。
 これからの一か月が楽しみだ。だけど、油断は出来ない。
 桜小路さんは彼女を諦めていないだろう。味方がいない孤立無援の状況だけど、彼女が諦めるとは思えないからね。どんな手を使って来るか?
 とは言え、彼女を渡すつもりは無い。彼女は大蔵家に正式に入って貰う。
 今のところ俺と彼女の関係がどうなるか分からないけど、それは先の話だ。
 明日から始まる彼女との生活を楽しもう。
 明日の朝食が楽しみだよ、小倉さん。


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二月上旬(才華side)5

今回も原作通りです。
次話で才華達にも大きな出来事が起きます。

Nekuron様、烏瑠様、獅子満月様、誤字報告ありがとうございます!


side才華

 

「助けてくれてありがとう。ただいま戻りました」

 

 エントランスで待っていた僕に、病院から帰って来た僕の主人(予定)であるエスト・ギャラッハ・アーノッツが挨拶してくれた。

 

「おかえりなさいませ、検査の結果はいかがでしたか?」

 

「大丈夫、異常はないみたい。外傷もないし、傷が残る事もないの。だけど、頭部を強く打っているから、来週になったらまた病院に来なさいって」

 

「それを聞いて安心しました。後遺症の残るような事がなくて良かったです」

 

「心の傷は残ったけどね」

 

「その現場を見たのは私だけです。お互いに全てを忘れましょう。思い出す機会が無ければ、心の傷はゆっくり癒えていく事でしょう」

 

 寧ろそのまま忘れて欲しい。

 フィリア・クリスマス・コレクションの後には、彼女に僕の正体を教える事になるんだから。

 もしも覚えていたら、本当に来年の僕は海の底か、墓の中にいそうだ。

 迂闊にこの事実を思い出させないようにする為に、誰にも話さずにおこう。

 で、彼女に何があったのかと言うと、彼女曰く、シャワー