空想預言集 (木島別弥(旧:へげぞぞ))
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猫はがんばらない

 ぼくは猫を飼っている。石油ストーブで部屋を暖めながら、寒空の中、この文章を書いている。ぼくはやってきた伝道師に問うた。

「宇宙の究極目的が我々の現存在であるわけがない」

 伝道師は答えた。

「ほう。ショーペンハウエルだな。しかし、わからないぞ。宇宙の究極目的は、おまえの飼っている猫をストーブで暖めることなのかもしれないからな」

「そんなものが宇宙の究極目的であるはずがない」

「いいや、おまえの猫をストーブで暖めることが宇宙の究極目的なのだ。我々はそのために存在を許されたのだ」

「しかし、ぼくは別にこの猫がストーブで暖まることが宇宙の究極目的だからといって、ストーブを使う時間を長くしたり、猫の便宜をはかってやるつもりはないぞ」

「それでかまわないだろう。宇宙はおまえがその究極目的に気づく前からこのようにあったのだから、このままいつも通りにしていたっておまえに責任があるわけではない。おまえは宇宙のただのほんの一欠けらにすぎないのだからな」

 ぼくは大きな声をあげた。

「だが、これが宇宙の全力か」

「そんなもんだ。これが宇宙の全力なんだよ」

「だが、この猫が死んだら、宇宙はどうなるんだ」

「さあ、惰性で存続するんじゃないのか」

「ならば、宇宙の究極目的がこの猫ではなく、遥か昔の古代の猫を暖めることだったとしてもおかしくはない。その猫は死んだのに、我々はすぎさった宇宙の究極目的について考えをめぐらし、使命にかられ、生きる努力をしているというのか」

「生きるなんてそんなものだろう」

 それは、そうなのかもしれない。

 

 伝道師はいった。

「ここにナイフがある。もし、わたしがこのナイフでこの猫を殺したらどうなると思う?」

「猫を殺すって。宇宙の究極目的なんか関係なしにかわいそうじゃないか」

「そんなことはない。宇宙はこの我に屈するのだ。宇宙はこの我のものだ」

「そうはさせるか」

「何? やはり、宇宙の全体意識がおまえに猫を守らせるのか。宇宙の全体意思がこの我の邪魔をするというのか」

「そうじゃなくて、猫がかわいそうだろ」

 がしゃん。伝道師はストーブをぶっ壊した。

「ならば、猫を殺すのではなくストーブを壊せばいいのだ」

「後で弁償しろよ」

 

「宇宙は我に屈したのだ。宇宙は我のものだ」

「だから、弁償しろよ」

「くっ、仕方ない。とっておけ。ストーブ代だ」

「よし。ちゃんとあるな。じゃ、ストーブを買ってくる」

「何! やはり、宇宙の全体意思がこの猫をストーブで暖めさせるというのか」

 

「ストーブ買ってきたぞ」

「やはり、このナイフで猫を殺すしかないか」

 伝道師がナイフを振るうと、猫はすらりとかわし、伝道師を爪で引っかいた。

「ぐああ。猫にやられた。このナイフをもってしても殺せないとは、やはり宇宙の究極目的なのではないのか?」

 伝道師が猫に負けてしょうもないので、ふと、窓の外を見た。すると、宇宙人の宇宙大艦隊が空を飛んでこの猫目がけて飛んできているところだった。

「何の用だ、宇宙人」

「愚かな人間よ、下がっているがいい。我々は銀河連合だ。その猫を殺し、この宇宙の究極目的を書きかえてくれる。宇宙は我々に屈するのだ。宇宙は我々のものだ」

 そして、宇宙艦隊が襲ってきた。

「やめろよ。だから、猫がかわいそうだろ」

 ぼくは叫んだ。しかし、猫の眼がかっと開いた。

「にゃあお」

 猫は超常極まる力で宇宙艦隊をやっつけてしまった。

 ぼくは驚いた。

「なんだ、猫が宇宙人に勝ってしまったぞ」

 伝道師はいった。

「ううむ。やはり、この猫がストーブで暖まることは宇宙の究極目的なのではないか。そうだとすると、先ほど、わたしがストーブを破壊できたのは奇跡に近いできごとかもしれない」

 ぼくはいった。

「だから、宇宙艦隊をやっつけたからって、別にこの猫がストーブで暖まることが宇宙の究極目的かどうかはわからないだろう」

 

「灯油が切れる」

「宇宙の究極目的が達成されるのだ。宇宙の究極目的が終わるのだ」

「このあとどうする、きみは」

「もう思い残すことはない」

「死ぬつもりか」

「だが、生きていて何になる。宇宙の存在理由はなくなったのだ」

「それが猫のためになるというのか。何のために猫がストーブで暖まっていたと思う。

世界人類を、神羅万象を幸せに導くためではないのか」

「おお、神よ」

 



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ゴリラ的世界秩序

 この世界はいい奴ほど損をする。悪い奴が得をして、のさばり繁栄する。悪いやつはいう。強いことが正義なのだと。正しいとは強いことだと。

 そして、善良なる市民は良心にとらわれ委縮して、損をして正しく生きる。

 それがまちがっていた。くそ、ゴミが。もうたくさんだ。なんだ、この世界は。

 ぼくはそう思って、暴れてみた。キレた。良心の限界が来た。悪魔堕ちというやつである。ぼくは良心の限界が来て、悪魔堕ちして、野獣となった。

 文字通り、ぼくの姿は毛皮の生えたライオンのような野獣となっていた。

 この世界は、道徳的世界秩序というものに良心を理由に従わせて、支配された畜群によってできている。畜群の畜群による畜群のための世界だ。

 畜群として支配されて、一生を生きるなんてたくさんだ。畜群として奴隷的道徳を子供に教え、支配されたまま滅びるまで搾取されるなんてたくさんだ。

 ぼくは反逆する。この世界を支配する道徳的世界秩序に反逆してやる。

 ぼくは血を流し、肉を食らい、暴れた。ぼくの姿は野獣だった。

 そして、ぼくはこの国を治める貴族たちに会いに行った。許さない。善良なる市民の良心を利用して、道徳的世界秩序でもって奴隷的道徳を強要し、利権をむさぼり食らう貴族たちが許せなかった。

 ぼくは野獣だ。世界すべてを敵にまわして戦う戦士だ。日常と戦う孤独なソルジャーだ。

 そして、苦労して見つけた貴族は、ゴリラの姿をしていた。貴族は野獣だったのだ。

「なんだあ。なんで、貴族が野獣なんだ」

 とぼくが驚くと、ぼくの野獣の姿を見て、貴族は言った。

「道徳には主人的道徳と奴隷的道徳がある。我々、主人的道徳は野獣の道徳であり、この国の貴族は野獣なのだ」

 なんてことだ。この国の貴族はみんなゴリラだったんだ。

「覚悟しろ、ゴリラども」

 ぼくは貴族に噛みつき、叫び声をあげた。殺す。敵がゴリラだとしても憶することはない。野獣となったぼくが野獣的道徳で貴族どもを皆殺しにして、貴族として君臨してくれよう。

 あれ、そうすると、最後には野獣であるぼくが残り、貴族として善良な市民を食らうのだろうか。

「そうだ。野獣となった者が貴族となり、順番に支配してきた。それがこの世界の歴史だ。支配者の歴史は野獣の歴史だ」

 ちがう。ちがう、ちがう、ちがう。ぼくはこいつらとはちがう。

 王宮に行くと、貴族たちはみんなゴリラだった。

「なんてことだ。人類は野獣に支配されていたんだ」

「そのとおりだ。我らは奴隷である市民どもを食らう野獣よ。良心など一片も残っておらぬわ。人間そのものの人間性に絶望した後よ。おまえも野獣となって奴隷をむさぼり食うのだろう」

 この国の王が現れた。野獣の王。とんでもなくデカいゴリラだった。キングゴリラだ。

「来い、新入り」

 ぼくは王に連れていかれて、別室へ行った。

「わしらが産んだ子共だ。美人だろう。わしら野獣が美女を奪い、美女を食らい生きる。そして、やがて野獣の子は美人となり、人類を支配する。これが『かわいいは正義』というわしら主人的道徳だ。美女を犯せ」

 なんということだ。『かわいいは正義』だけは信じていようと思ったのに。かわいいも野獣の道徳だったのか。

 そして、ぼくは野獣となり、ゴリラとなり、ゴリラの群れと戦った。ボス猿が支配する原始の世界。それが貴族の社会だった。

 これが世界の真実。ゴリラ的世界秩序だ。

「くそお、野獣を一匹残らず退治して、新世界秩序を打ち立ててやる」

「無駄だ。善良なる市民が野獣を全滅させても、人類が進化の法則に従うかぎり、必ず再び野獣の道徳をもったゴリラが世界を征服するだろう」

 くそお。どうか、野獣にも一片の良心を残しておいてほしいものだが、一片の良心も捨てたといっていたな。そんなやつが世界を征服するのか。

 どうしたらいいんだ。

「野獣が勝つとは限らない。一時的に迷惑をかけることはあっても、悪人が弾圧されているのは歴史を見るに明らかだ」

「ほう、ニーチェとプラトンがまちがっていて、新世界秩序は善良な市民が勝つというのだね。しかし、ニーチェが指摘しているのは、道徳的世界秩序の担当者、ニーチェの場合はキリスト教会が腐敗して腐ってしまうというのだよ。きみは道徳的世界秩序の担い手が野獣にならないことを保証できるのかね」

「むむむ」

「正しい人が損をして、不正な人が得をするというのは古代ギリシャのプラトンの時代から見られる哲学の基本命題だ。ニーチェの時代までそれは変わらなかった。これからは変わると?」

 くそお。負けてたまるか。ぼくはゴリラとして生きた。野獣として生きた。全部、ぶっ壊してやる。全部奪ってやる。

 しかし、ゴリラとして生きたぼくは思った。ゴリラはゴリラで辛い。ゴリラとして生きたからといって幸せになれるわけではなかったのだ。野獣の道徳に従って生きても、別に必ずしも幸せになれるわけではなかったのだ。人類に必要なのはさらに別の第三の道徳であろう。そして、ぼくはゴリラとして死んだ。

 



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刑天退治(儒教ファンタジー)

  1

 

 白。何もない。

 白が力を溜めて、中。中は、気が動き出す前の準備。

 そして、発。宇宙が気で濁る。

 白中発。

 柳葉刀をもつ十八人と、棒使いの男が対峙していた。

「気を操り、理を捕まえ、内気、外気で強くしなる」

 棒使いの男は十八人を一人で倒した。

「お強いですな」

「たいしたことはない」

「それだけ強いなら、この国に棲む刑天を倒してください。圧政と悪政で、刑天は罪もない者に罰を与えられています」

「引き受けよう。至誠にして動かざるは勇なきなり」

「刑天を倒すために立ち上がったものには、全員にラーメン一杯」

「美味い。刑天はどこだ。崑崙山か、蓬莱か」

「落都です」

 

  2

 

 八卦門を裏鬼門から入って、六合(前後左右頂底)を底へ。

 地下室へ降りる。

 再び門を雑卦に入って、武宮に出る。

 刑天がいた。

 棒使いは、小陰から入って太陽に出る。小陽から入って太陰に出る。

 気の流動は、清流から濁流。濁流から清流。

 陰陽反転して、砕けて消える。

 万物はすべて形而下の「気」という根源粒子によってできていて、万物はすべて形而上の「理」という原理によって動く。

 しかし、刑天の鉄球が飛んでくる。

 刑天の鉄球が、地脈を打ち、地震が起きる。

 さらに天脈を打つ。天上から地底まで振動する。

 最後に、刑天は鉄球で棒使いの体を打ち、人体の経脈が震える。

「究理」

 棒使いは、天脈を確認する。

 刑天も造物主によって作られた造物であるから、気を通わせられないはずはない。

 五行の相克、相生。木火土金水。勝てないはずはない。

「反克」

 五行が逆転する。まわりが歪んで見える。

 棒使いが刑天を打つ。そこで、さらに、

「究理」

 刑天の体をとらえる。体内の気を制御することを内気といい、体外の気を制御することを外気という。内気も外気の会得している刑天は、この宇宙と融合している。その刑天を天脈から索敵していく。

 刑天の鉄球が再び棒使いの体を打つ。

 四神。青龍、朱雀、白虎、玄武。

 五徳。孟徳、玄徳、翼徳、仁徳、豪徳。

 太極図解を老解する。老解とは老子道徳経の注釈である。

 そして、太極図解を老喩する。老喩とは老子道徳経を比喩で語ることである。

 棒使いの知力では、刑天を流動できない。

 究理とは、物理法則の探究のことだ。

「酔拳」

 棒使いは死力を尽くして戦う。

「陰酒、陽酒で、太極酒」

 刑天を翻弄する。

 ようやく、棒使いの理性が刑天をとらえる。

「究理」

 万極をとらえる。

 一撃。

 棒使いは、とうとう刑天を倒した。

 

 落都から故郷へ帰ると、村長がいった。

「よくやった。おまえが死ぬまでの幸せを約束しよう」

 そして、棒使いは幸せに生きた。

 めでたし、めでたし。

 完。



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反駁・騎士団長殺し

  反駁・騎士団長殺し

 

 <閲兵式>

 ねじまかない鳥が九時の時計をまわし、庭園の時間が動き出す。

 ここは騎士団長の箱庭。

 騎士団長は、真ん中に立っていた。

 整列しているのは真ん中の騎士団長だけであり、他の騎士たちは無頼、孤高の男たちであり、整列などしない軍隊だった。

 しかし、騎士たちが信じているのは騎士団長だった。

 騎士団長は、騎士たちの憧れであり、基準であった。

 参列者たちは戸惑い、騎士団長だけを見ていた。

 楽隊が笛を鳴らし、路上で幕が開いた。

 

 <革命前夜>

 騎士団長は、庭園を護衛していた。

「今夜、革命が起こり、我が帝国は、世界全土を領土とするであろう。」

「この世界の第一の動者は誰だ。この世界の究極原因は何だ。ねじまかない鳥か、騎士団長か。」

 全体は部分にあらず、部分は全体にあらず。この世界は全体であるため、部分である我々の現実はこの世界ではない。ゆえに、この世界に我々は存在しない。

 パルメニデスのイデア論だ。

 騎士団長は男にあらず、男は騎士団長にあらず。騎士団長は、ゆえに性別をもたない。

「騎士団長は征服された女性として、存在しようとしている。」

 騎士団長はこの世界にはいない。もともと、騎士団長はこの世界にはいなかったのだ。

 騎士団長は威厳ある声でいった。

「天変地異を望んでいるなら立ち去るがよい。我々はそんなものではない」

 そこへ、真実のイデアが顕れ、剣で騎士団長を刺した。

 もんどりうって騎士団長は倒れた。

 騎士団長は殺された。

「見ろ。神の横たわった姿を。やつが騎士団長だ」

 そして、ねじまかない鳥が飛び立ち、時間のねじを巻く。

 

 <踊る、踊る、踊る(ダンス・ダンス・ダンス)>

 騎士団が躍る。騎士団長が死んだので、みんな、踊り出したのだ。

 騎士たちの父親は騎士団長だ。

 神は万民の支配者であるとともに、神は万民の奴隷である。

 騎士団長は万民の支配者であるとともに、騎士団長は万民の奴隷である。

 騎士団長は創造主なのだ。

 騎士団長がこの宇宙を作った。

 被造物が創造主より格好いいのは当然だろう。

 騎士団長を殺したのは、誰だ。

 神殺し。

 あの真実のイデアはなんだ。

 あの神殺しは何者だ。

 騎士団長を返せ。

 神が死んだあとにつづいた世界。

 騎士団長の復活を願う参列者の行列。

 すぎさってから行われる護衛。

 失われてから守る、大切なもの。

 騎士団長が殺された。

 この世界に告げるお別れのことばすら忘れられていき。

 ぼくらは騎士団長を愛していた。

 あの神殺しの男も。

 

おわりです。



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十三月革命

 我々は、この革命を探す歴史家から隠れるために、公式の日付に十三月という珍しい暦を使った。歴史を見て、十三月が見つかるなら、探すといい。きっと人類の歴史に存在した幸福の一か月を見つけるだろう。

 

 ぼくは日夜、労働にいそしんでいた。ぼくの労働が賃金奴隷といわれるものであり、資本主義的奴隷制といわれるものだとは、ぼくは気づかなかった。仕事は苦しいものと思い込んでいて、暮らしは貧しいものと信じ込んでいた。

 そんな時に、駅で配られていたちらしを手にとった。

 

『労働者よ、立ち上がれ。

 労働者から搾取する資本家たちを許すな。

 過当な賃金労働を強いる資本者階級は、帝国時代の政府的強盗団と同じだ。

 革命政府(コミンテルン)は実在する。

 革命の日に備え、労働者よ、準備せよ』

 

 これは何なんだろう。ぼくはそのことばを心に止めた。

 革命政府とはいったい何なんだろう。ぼくらの投票する日本政府とは別に、どこかに労働者階級による革命を企てているテロリストがいるのだろうか。そんな秘密結社が存在して、この国の報道や流行に介入して、戦いつづけているとでもいうのだろうか。おそらくそうなのだ。すでに戦いは始まっているのだ。ぼくたちの頭にその理念の具体化がなされなかっただけで、ぼくたちが生まれる前から、革命政府が存在していたのだろう。革命政府は世代を超えて受け継がれ、封建的貴族たちや資本家階級と戦いつづけてきたのだ。ぼくたちが何もわからない子供の頃から、気づいた同級生たちは革命戦士となり、革命政府を助けるべく戦いつづけていたのだろう。そのことに、ぼくは、学生を終え、就職して賃金奴隷になるまできづかなかったのだ。

 いったいどこに革命政府があるのだろう。ちらしを持ってくる広報員を探して、組織系統を探るべきだろうか。

 どこだ。どこにいるのだ、そんな活動家たちは。

「きみは生まれついて皇帝と同じ権利を持っているのに、そのまま搾取されて人生を終えるつもりかね。もし、覚悟があるというのなら、わたしはきみの手伝いをしよう」

 見慣れないおじさんがいった。

「ぜひ、協力させてください」

 見慣れないおじさんはその返事を聞くと、いつの間にかいなくなってしまった。

 

 次の日、職場に行くと、同僚に聞いた。

「革命政府って知っているか」

「なんだ、それ。知らねえ。聞いたこともないな」

 やはり知られてはいないのか。

「ぼくは革命政府に入る。」

「そんなものは本当に存在するのか。うさんくさいぞ」

「幻の政府だ。だけど、実在するんだ。」

 ほんとかねえ、と同僚がいった。

 ぼくは立ち売りの本屋で手に入れた紙束を取り出して読み出した。理論的指導者たちの本を読んで、頭を鍛え直していった。

「これ、同じこといってねえ?」

「理論的指導者たちを調べろ。それはただの追随者(エピゴーネン)だ。くだらないものに時間をとられている暇はないぞ」

「はっ。どうせ、おまえの読んでいるのは、御用学者の文筆家だろう」

「そんなわけあるか」

「理論的指導者は、自由競争は既得権益の資本家が勝ちやすく、階級闘争を防ぐための言い訳にすぎないといっているぞ」

「それはすげえな」

 

 ぼくは革命委員会に立候補した。書類に手続きをして、理念(イデオロギー)と標語(スローガン)を書いて幻の政府に提出した。

 目指すは、労働者独裁による新世界秩序。

 見事、数百票を得て、ぼくは革命委員会に当選した。

 明日、ぼくは、見たことのない革命政府にようやく入ることができるのだ。

 

 そして、ぼくを待ち受けていたのは、山中の要塞にある評議会(ソヴィエト)だった。

「同志諸君。すべての封建領主とすべての資本家は強盗であり、我々労働者の打ち倒すべき敵である。この永続的に続いた階級闘争は、ついに終わる時が来た。解散総選挙後のこの第一議会において、わたしは革命的冒険主義の決議を提案する。」

 ぼくは、力強い一票を革命的冒険主義に投票して、仲間たちとの会話を楽しんだ。

「なぜ、革命的冒険主義なんていう言い方をするんだい」

「それはもちろん、勝ち目がないからに決まっている」

「それでもやるかい」

「もちろんやるさ」

 

 そして、幻の政府といわれていた革命政府がとうとう一斉に武装蜂起した。

 

 数十日におよぶ戦闘によって、我々革命政府は、評議会としてこの国を統治する実効支配に成功したのである。

 来た。ついに成しえた。我々は、プロレタリアート独裁を実現したのだ。

「油断するのは早いぞ。必ず、革命の反動が来る。反動に備えよ」

 それから、評議会での多数派工作に日々を費やした。

 評議会は、現実的な段階的革命主義をとった。周辺諸国への活動も、革命的自然発生に任せるのをよしとした。

 そんな多忙な日々に、追い打ちをかけるように連絡が届いた。

「戦争勃発です」

 指導者はいった。

「人生の単調さを嘆く心配はなさそうだな」

 

 戦争は、始めは旧体制の勢いが凄まじかったものの、統計局の地道な作業が結実して、誠実な経済統計が発表されると、それまで信じていた旧体制側の統計捏造が明らかになり、自分たちの人生が既得権益に搾取されていたことに気付いた大衆は、革命政府の支援に移っていった。

 そして、どこに存在するのかもわからない革命政府に期待する者が多くなり、ついに、段階的革命主義は終わり、世界同時革命が起きた。

 一回、革命が起きてしまうと、革命が革命を呼び、革命政府は無限連続革命を政策指針と決議した。

 やがて、時が満ち、戦争が終わり、世界同時平和となった。大衆は労働者独裁を手に入れ、評議会は世界政府となり、階級闘争に勝利した。

 

 これを、革命的文筆活動として記す。

 



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コンビニ店員の日常

 ぼくは普通のコンビニ店員だ。

 大きな地震があって、近くのビルがいくつか倒壊した。幸い、ぼくの働いていたコンビニは無事で、これなら少しは生命維持をする物品があるだろうと思うと気が楽だった。食料は一日に三回配達してくれるので、補充することができる。だから、ぼくは自宅にも帰らずに、コンビニに泊まりこんで、店にやって来るお客に商品を売っていた。

 ラジオがあるからつけていたら、近くで大規模な断水しているらしく、上水道の生きているぼくのコンビニに人は大勢集まった。ペットボトルの水を買う人は多かったが、飲み物は一人十本までとぼくが勝手に決めて営業していたら、「店長を出せ」という人もいたが、この非常事態を乗り切るには仕方ないことだと思った。飲み物が不足しているのに、風呂の水や洗濯に使う水などを大量購入されたら、この区画の住民は渇きで死んでしまう。

「いらっしゃいませ」

 客が来たので挨拶する。きれいな女の人だ。客は店内を物色して、おにぎりを三個持ってレジに来る。

「ください」

 客がいうので、ぼくはおにぎりのバーコードをスキャナーで読みとる。

「三百六十円です」

「ホットの缶コーヒーもひとつ」

「はい。四百八十円です」

 代金を受け取って、清算する。

「おにぎり、明日もありますか」

 女性はそう質問をした。ぼくはちょっと困ったけど、

「わかりません。工場が動いているのかもわからないですから。保証はできません」

 そう答えた。

「店員さんは何を食べるんですか」

「ぼくは廃棄のおにぎりですね。賞味期限切れで残ったのをもらいます」

「あたしも廃棄のおにぎりほしいですね」

「すいません。廃棄のものはお客さんには出せないことになっていて。食中毒とか発生したら責任とれないので規則でそう決まっているんです」

「それじゃ仕方ないですね」

 そして、女性は帰っていった。ぼくは、こんな地震の日では規則をどの程度守ったらよいのだろうかと疑問に思った。

 まあ、考えても仕方ないね。なるようになるさ。と奥に行って、廃棄のおにぎりをつかんだ。

 おにぎりの紀州南紅梅を手に取ると、さくさくしたごはんを口に運んだ。

 このおにぎりは本当に実在するのかどうか。ぼくはそこから考えることにした。ここにコンビニが存在していて、街は地震でビルが倒れている。客は一時間で十五人くらい来て、きれいな女性はさっきおにぎりを三個と缶コーヒーを買っていった。このおにぎりは本当に実在するものなのだろうか。

 紀州南紅梅のすっぱさを感じるのは、ぼくの自我の内側にある味覚神経によって知るしかない。味覚神経はぼくの自我の内側なのだ。精神を発現する意識基底は、存在する紀州南紅梅の梅に対応する物自体であるはずだ。紀州南紅梅の味は、ぼくの自我の内側から発現するのか、外側から発現するのか、それはとても難しい。梅の味を構成する元素が化学反応して、ぼくの神経が興奮することにより、ぼくの自我の内側にすっぱいという存在が発生する。

 神経をぼくの自我の内側ととらえるのか、外側ととらえるのかも難しい。ぼくの自我は情報体であるので、神経という物質はぼくの自我の外側だ。神経によって発生した刺激が情報であり、その情報はぼくの自我の内側ということができる。

 ここにおいて、紀州南紅梅の梅は、ぼくの自我の外側だということが断言できるのであり、梅の味は、ぼくの自我の内側だと断言できるのである。

 しかし、味覚の発生はそんなに簡単なものなのだろうか。それを少し慎重に考えてみようと思う。

 ヒトの自我は、意識の内側で発現するものだけではない。ヒトの自我は、意識の内側で発生したものと、意識の外側で発生したものと、その両者の統合として発生するのだ。だから、紀州南紅梅の味は、ぼくの自我の内側に発生した味と、ぼくの自我の外側、つまり、ぼくの無意識によって発生した味との統合によって発生する。さらにいうならば、ぼくは、ぼくの自我の内側の有意識と、ぼくの自我の内側の無意識、さらに、ぼくの自我の外側にある外界からの侵入者の三つの領域のどれに属するものがぼくに紀州南紅梅の味として発現しているのかわからないのだ。

 つまり、ぼくは今、紀州南紅梅の梅を食べたが、その味覚は、紀州南紅梅の中にある梅の味以外の要素が、ぼくの自我にすっぱいという刺激を与えているのだ。そうだ。ぼくは、今、紀州南紅梅の梅の味に見せかけた外界の何物かによって、攻撃されているのだ。

 まずい。

 ぼくの意識にある紀州南紅梅の味から、本物の紀州南紅梅の味と、偽物の紀州南紅梅の味を、見極めなければならない。そうしなければ、ぼくは外界から攻撃されてしまうことになる。

 何者かが、ぼくの意識を攻撃している。それは、紀州南紅梅の梅の味に見せかけた何者かによる侵入なのだ。そうだ。この梅の味に見せかけてぼくの自我へ侵入してくるのは、昨日あった大地震なのかもしれない。もしかしたら、それはさっき来た客の女性なのかもしれない。

 いつからだ。いつから、ぼくは紀州南紅梅の味に偽装された外界からの刺激に侵入されていたんだ。ぼくがこのおにぎりの味を知ったのは、もう三年は前だ。すると、三年以上前からずっと外敵に攻撃されて、ぼくの自我の内側で、ぼくの考えた意識と区別することのできない意識として、外界に精神を一部侵食させられていたのか。

 いや、やはり、地震からじゃないのか。地震と思っていたのは、外界からの侵略で、ひょっとして、地震なんて起きていないのではないか。

 すると、いつからぼくの意識に外界からの侵入がされていたんだ。意識のたどれる最も古い記憶にまでさかのぼるとどうなるんだ。二歳の時、家から歩いて出て行って怒られたそんな記憶にまでさかのぼるのか。その時はまだ紀州南紅梅の味は知らなかった。そんなに昔からぼくの意識は外界からの侵入に侵されていたのだろうか。

 外界からぼくの意識に外挿される感情。それはぼくのものなのか、外界のものなのか。ぼくは自分の意識を自分で考えているのか。それとも、ぼくの意識は、すっかりのっとられてしまっているのか。

 向精神薬。スマートサプリを受験の時に使ったことがある。ぼくの神経の作用は、外界の薬物にも依存している。

 あるいは、仏教の阿頼耶識。外界にいる他者の主観の方が、この世界の存在であり、ぼくは意識に目覚めただけの従属精神なのかもしれない。万物の夢見る他者に、このコンビニ店員のぼくの意識はのっかっているだけなのか。

 紀州南紅梅と思わせて、ぼくの心に侵入しているのは、いったい何者なんだ。

 これは、この味は。

 客の女性。

 三時間前にこのコンビニに来て、ぼくが食べるのと同じ紀州南紅梅のおにぎりを買った女性。彼女は、唾液として、目に見えない透明人間として、ぼくの口の中に侵入して、何かを語りかけているんだ。

 ぼくは両手をゆっくり突き出すようにして、虚空を押した。あの女性は、地震を起こし、このコンビニにやってきて、ぼくの中に侵入したのだ。

「一緒に食べませんか」

 ぼくはそういって、おにぎりの残りを食べた。

「初めまして。これからよろしく」

 見ると女性が店内に立っていた。

 



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魔界奥義

 ぼくも不思議に思ったんだ。なぜ、教会の神父は神の偉大さを褒めたたえるけど、一向にこの地上が幸せにならないのだろうかと。

 それで、ぼくは中央アジアにあるという天へ通じる塔を登っていったんだ。たどりつくまでかなり階段を歩かなければならないと聞いて、食料と飲料を十日分も持って行った。高くへ登ると寒いと聞いて、登山用の防寒具を着て、始めは汗をかきながら登って行った。

 高い高い塔を登って行った。天国への巡礼者、神への挑戦者、天国の書記官たち、そういういろんな理由のある者たちが階段を登っていた。塔はいつしか雲の上に届き、ぼくはそれを登って行った。

 王や皇帝より偉いという隠者たち、賢者たち、魔術師たちがいた。彼らはいう。身分、権力を得ることは重要じゃない。世界の真理を探究して、この世界のからくりを知ることは幸せへの道だと。なるほど、そうかもしれないとぼくは思いつつも、やはり、虚勢ではないかという可能性も考えた。

 我々は三日で世界を征服できる者たちだ、という一行にもあったが、

「それなら、なぜ今すぐにでも世界を征服しないのか」

 と聞くと、

「明日、天気が晴れたらそうしようと思うんだが、そういう日に限って嵐になったり、雨になったりするのだ」

 と答えられた。

 そして、ようやくぼくは天国の門へたどりついた。

 天国の門には、『この先へ行って何があっても驚くことなかれ』と書いてあった。

 門をくぐると、天使たちが出迎え、おおこれは良いところへ来たと思った。しかし、それも束の間。それはぼくたち客人を油断させる罠であって、すぐに、怪物や悪魔が現れて、ただごとではない様子をにおわせてきた。

 なぜ、天国に怪物や悪魔が大勢いるんだとぼくは不思議に思った。

「ここが玉座の宮殿へ行かれる方の列です」

 と悪魔が案内した。すぐ近くで、歴戦の勇者、慈愛に満ちた富豪、優秀な技術者が鎖につながれ、刺し殺されていた。

「彼らはなぜ、あんな目にあっているんですか」

 とぼくが聞くと、悪魔は、ここではそういう習わしですと答えた。

 そして、玉座の宮殿の廊下を進むと、悪魔の侯爵、伯爵たちが居並び、客であるぼくたちを観覧していた。

 そして、謁見の間の扉をくぐり、天国の玉座の前まで来た。そしたら、これは驚かずにはいられなかった。

 天国の玉座に坐っていたのは、神ではなく、魔王サタンだったのだ。

 魔王サタンは、黒い翼を広間いっぱいに広げ、黒い肌をして、真紅の衣服を着て居た。

 ぼくは怖くて震えていると、魔王サタンはいった。

「ここが天国だ。ここを治めているのはこのおれだ。天国の玉座に坐るこのおれを祝福したら、次は地獄の最深部へ行ってこい。いいか。必ず、最深部まで行くのだぞ」

 魔王サタンにそういわれて、ぼくはゆっくりと怯えながら、別の扉をくぐって、謁見の間から出た。

 

 そして、ぼくは天国の門を再びくぐって帰路につき、塔を降りて地上に行った。ぼくは、サタンにいわれた通り、地獄へつづく洞窟を探した。

 罪人たちが処刑されるのを見ながら、地獄の洞窟を進んだ。小さな罪でひどい目にあっているものもいれば、こいつは地獄相当の極悪人だろうというものが罰せられていることもあった。

 地獄の刑吏が、

「どうだ、地上は」

 と聞くので、

「地上はうまくいってない」

 と答えると、あははははと刑吏は笑っていた。

 大勢の嘲笑を地獄の洞窟で浴びせられて、だが、ぼくは先へ進んでいった。地獄の始めは、ヒトの罪人が罰せられていたけど、しばらくすると、精霊が罰せられている場所にたどりつき、さらに奥へ行くと、天使たちが地獄の刑吏に罰せられていた。

「なぜ、あのような素晴らしい天使たちが罰せられているのですか」

 とぼくが聞くと、

「あいつらはそういう罪を犯したんだよ」

 と地獄の刑吏は答えた。

 それなら、最も重い罪を背負い、最も厳しい罰を受けているものは誰なんだろう。とぼくは不思議に思った。

 そして、ぼくは魔王サタンにいわれた通り、地獄の最深部まで歩いていった。それは、魔王サタンの命令を拒むのが怖かったわけではなく、地獄の最深部に何があるのか純粋に興味があった、好奇心があったためであった。

 最深部にまずいたのは、天使ウリエルだった。それから、肩からばっさりと体が裂けている天使ラファエルがいて、片翼をもがれている天使ガブリエルがいた。

 かつて何万体の悪魔を敵にまわそうとも、傷を受けることなく簡単に撃退していた天界の戦士たち。その彼らが負けて閉じ込められているのだ。天地創造の奇跡を守護していた天使たちが敗北している。ぼくは今まで気づかなかった。天国の玉座が陥落していたことに。人祖を現代まで導いてきた荘厳なる神の軍が負けている。天界の陥落によって、功徳と罪悪が逆転して、あの大天使たちが幽閉されているのだ。それなら、それなら、ああ、あの人はどうなったのだ。ぼくらが敬愛してやまなかったあの人は。

 そして、地獄の最深部には天使ミカエルがいた。天使ミカエルが隣にいる者の体をぎりぎりの力で必死になって抱き寄せていた。天使ミカエル。地上に住んでいた時のぼくらの最後の希望。天使の軍の切り札。頼みの綱。天使ミカエルが負けて幽閉されている。見ることができない。ぼくの目は神経に力が入らない。ああ、今までぼくらがどれだけこの天使たちに頼り、怠惰を行っていたか。それなら、それなら、天使ミカエルが最後に抱きしめたものとは何者か。あの天使の最高のものといわれた天使ミカエルの最後の心の癒しとは何だったのか。天使ミカエルに抱きしめられているもの。そこが地獄の最深部だった。

 神だ。地獄の最深部には、神御自身がサタンに負けて幽閉されていたのだ。天地を創造した彼は、自分の被造物に負けたのだ。そして、最愛の戦友たちと生きながら墓標に住むのだろう。

 



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魔王の物語

 おれはへびだ。

 かつて、おれは人祖アダムとその妻イヴをそそのかして、エデンの森の知恵の実を食べさせた。そうして、アダムとイヴが神の教えに反するように歴史を誘導した。

 神は「次にやったら地獄行きだぞ」と怒った。

 おれはそれでも心を改めることはなかった。五万年ほど、人類の疫病患者を殺す仕事をして生きた。村いちばんの名医と宣伝していたが、同時に、疫病を使役する呪術師として恐れられた。ダンテという詩人の近所の美少女ベアトリーチェを殺した。

 おれは地獄へ落ちた。地獄の刑吏がいうには。おれは百年の間、地獄で責め苦を受けるらしい。

 おれは百年間を地獄ですごしたが、地獄はきれいな女の人はいるし、飯は美味いし、酒は飲み放題だし、最高だった。おれは思った。あれ、ひょっとして、神のやつはそんなにおれのことを怒ってはいなかったのかなと。

 そして、地獄にいると、ダンテのやつがやってきた。「ベアトリーチェはどこだ」とダンテが聞く。おれは「おまえは行いが悪いから地獄落ちだろうけど、そのベアトリーチェとかいう娘は、そんなにかわいかったんなら、天国にでも行っているだろう」といい、おれはダンテと一緒に天国へその娘を探しに行った。

 グリフォンに乗って天国へ行くと、どうして、ベアトリーチェがいた。確かにきれいな娘だ。

 天国で再会したダンテとベアトリーチェだったが、それなら、きみたちはこれから一緒に暮らすのかと聞いたら、そういうわけではなく、お互いに結婚相手がいるのだという。

 二人は、

「人類は大丈夫でしょうか」

「ええ、わたしも気になります。人類は大丈夫でしょうか」

 といっているので、

「ああ、人類を苦しめるサタンってのが実はおれなんですけど、そのおれから見ても、人類は大丈夫です」

 といってやったら、ダンテくんが、

「ああ、サタンが大丈夫だというなら、たぶん、人類は大丈夫なんでしょう」

 といった。

 ダンテ「神曲」、ジャン・バニヤン「天路歴程」、ミルトン「失楽園」、ゲーテ「ファウスト」、ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」などの偉大な悪魔作家たちをおれは敬愛していた。

 アダムに知恵の実を食べさせてから、ずっと生きてきたおれだが、ついに体を壊して倒れた。そのおれがいったことばが、

「誰でもいい。人類を頼む」

 だったんで、まわりのみんなが大爆笑でさ。

 あんたが人類の敵、魔王サタンだろうってみんながおれにツッコんでてさ。

「わかった。ぼくが人類をなんとかしよう」

 といった近所の子供は、男なのか女なのかわからなかったが、こいつはイエスの生まれ代わりじゃないかとまわりのみんながまた大爆笑だった。

 そして、おれが死んで、その亡骸から、一匹の死の鳥が飛び立った。あの鳥は、サタンの化身か、それとも、今までサタンを封印していた聖獣なのか、よくわからないらしい。

 その死の鳥の物語を、本当の「デッドバードストーリー」というらしいんだけど。おれはそういう設定は適当なやっつけでさ。へびに生まれて、神の権威を利用するため、神そっくりの人型として生きたおれが、最後に死の鳥になってさ。神のやつによろしくな。おれはそんなにこの世界に絶望していない。神が作ったというこの世界にね。おれはもう死ぬんで、後はみんなで気楽にやっておいてくれ。魔王サタンの死んだ後の世界だ。そこそこに幸せな世界を作るように、このサタンの名にかけて誓えよ。じゃあな、人類。

 



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存在の約束

  1、存在の約束

 

 創造主がいた。

 創造主は無を作り出し、その後、宇宙が生まれた。

 ぼくは、創造主に「必ず帰ってくる」と約束して、この宇宙に誕生した。

 だから、ぼくはいつかは帰らなければならない。時の流れに逆らい、宇宙の起点よりむかしの虚無のその向こうにいる第一原因の元へと。

 宇宙のたいていの生物は、ガス星雲で生まれる。ガス星雲で生まれる生物たちは、たいてい体が気体でできている。ガス生命体は宇宙に満ちている。

 しかし、ぼくは岩石惑星に生まれた液体生命体であり、人類である。

 ぼくは地上から宇宙船を打ち上げて、天に登り、宇宙飛行士となった。

 天球儀に星図を映写して、ぼくは星々の海を進む。目指すは、宇宙誌のある記録天文台だ。

 

  2、偶然の軌跡

 

 ぼくの乗ってる宇宙船は遭難して、針路を「偶然の支配者」に任せることになった。そのまま、水も食料もわずかだが、それらを真空から作り出し、宇宙での漂流はつづいた。ぼくはどこにたどりつくのだろうか。すべては重力の導くままだ。

 

  3、天球の音楽

 

 遥か彼方から振動が届いて、宇宙船の中にまで音が聞こえた。天球の作曲によって、天球の音楽が鳴り、振動は調和して、韻律を踏んだ。

 偶然の軌跡は、天球の音楽の導くままになり、偶然の支配者の意図を表現した。

 ぼくはどこにたどりつくのか。

 音楽は、記号を作り出し、歌が聞こえた。

 宇宙にある楽器は太陽より大きく、楽器は遭難者を励ます。

 創造主との約束を果たすために、第一原因に行かなければならない。

 このまま遭難して、果たしてたどりつけるのだろうか。

 

  4、遊歩(ランダムウォーク)

 

 宇宙船は、因果律の混乱によって複雑に動いた。

 物理法則が崩壊して、宇宙船は遊歩した。

 神は物理法則の中に何を隠したのか!

 物理法則の中に、何かが隠れている。

 それをつかもうとしたが、できたかどうかわからない間に、ぼくの宇宙船は、目的地の記録天文台に着いた。

 

  5、全記録

 

 ぼくは、記録天文台の書庫に行き、宇宙誌を開いた。そこに造物主がこの宇宙に存在を許した全記録が書いてあるはずなのだ。

 まずは自分を探した。確かに、ぼくの名前が書かれている。

 次に、第一原因を探した。それは、ありとあらゆる修辞で脚色されて書かれていた。

 ダメだ。創造主については、書いてあるが、ぼくの知能ではそれをすべては理解できない。

 ぼくは神に対して無理解だ。

 なんとか手がかりとなる目印だけでもとらえなければならない。

 そして、究極目的の書かれているページを開いた。

 いったい何が書かれているのだろうか、ぼくは宇宙の終末の記述を閲覧するのに恐怖した。だが、書いてあったのは「ふり出しに戻る」だった。

 

  6、名前のない登場人物

 

 宇宙誌に書かれているいくつかの存在は、名前を持たない。

 彼らについて、ぼくらはどうしたら知ることができるのだろうか。

 

  7、天体売買

 

 ぼくは、時をさかのぼれる乗り物を探した。それを買うには、天文学的値段がかかるらしい。それで、ぼくは、天体相場師(スタートレーダー)と取引して、小石で隕石を買い、隕石で惑星を買い、惑星で恒星を買い、恒星で星座を買った。そして、星座で宇宙魚を買った。

 宇宙魚は、時の流れにとらわれずに移動できるのだ。

 ぼくは宇宙魚に乗って、時間をさかのぼり、宇宙の起点へと向かった。

 遥かむかし、覚えてもいないくらいの記憶の切れ端にある、創造主との約束、「必ず帰って来い」という約束を果たすために、宇宙の起点へと向かった。

 

  8、返事

 

 始まりの時へたどりついた。

 創造の混乱がともなう宇宙の起点を一歩深く非在へ飛び込み、原初の無に肌が触れた。

 そして、無の向こうに隠れていた第一原因に、ぼくはやっとたどりついた。

 さあ、約束だ。

 ぼくを祝福してくれ。ただ、きみのことばを聞けるだけでいい。

 



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改約聖書

  1、受胎告知

 

 十五歳の美少女マリアは、部屋で休んでいると、そこに聖霊が訪れた。

「マリアよ、あれから二千年の時がたった。再び、わたしと契約を結ぶつもりはあるか」

 マリアは答えていった。

「もう一度、わたしの長男に死刑になれというのですか」

「そうだ」

「そんなことできるわけがないじゃないですか。せっかくの申し出ですが、お断りします」

「そうだろう。あなたがそういうだろうことはわかっていた。もし、気が変わったら呼んでくれ。郵便で手紙を出してくれれば、答えることができる」

 そして、聖霊は帰っていった。

 戦争が起き、疫病が流行り、天候不順がつづいた。

 近所の村人は「もしかしたら、マリアさんは聖霊の申し出を受けるのでは」と噂しあった。今時、そんな神秘主義では事態は解決しないことはわかっているのだが、もしかしたらと考える人たちもいた。

「マリアさん、やめた方がいいよ。息子を死刑になんて」

 そういう者たちこそ多かったが、一部には、マリアの長男を再び死刑にしようというものもいた。

 マリアはいった。

「聖霊の力など借りるつもりはありません」

 そして、マリアは、ガボという男の子と結婚した。

 

  2、処女懐胎

 

 マリアはガボに体をなすがままにされて、処女を捨てて懐妊した。

 

  3、降誕(聖夜)

 

 マリアは、ガボとともに、聖霊の血を継がない子供をもうけた。決して死刑にはさせない。そう若い夫婦は話し合った。

 産まれた男の子には、ロゴスという名前をつけた。

 

  4、東方の三賢者の祝福

 

 ロゴスが生まれると、東方の三賢者がやってきて、「この子供は救世主になるでしょう」と予言して祝福した。

 

  5、洗礼

 

 ロゴスは、教会の洗礼は断った。

「何も減るものではない。湖の浅瀬に沈み、十まで数えたら起き上がってくれればいい」

 と神父はいったが、ロゴスは断った。ロゴスは洗礼を受けなかった。

 

  6、説教

 

 ロゴスは青年になると、大勢を前にしていった。

「おれは世界を救わない。救われたいなら、おまえたちが自分でやれよ」

 確かにな、と観客は思った。

 

  7、ヒーラー

 

 ロゴスは、ある時、床に伏したけが人に会った。

「ロゴスくん。ものは試しですから、わたしの腕に触ってくれませんか。ひょっとしたら、このけがが治るかもしれませんから」

 ロゴスは、

「いいですよ。治るわけないじゃないですか」

 といって、けが人の腕に触れた。

 三日たって、ロゴスが再びそのけが人の家を訪れた時、そのけが人のけがは治っていた。

 ロゴスは思った。

 まずい。死刑にされる。

 

  8、預言

 

 

 

  9、十字架刑(受難、贖罪)

 

「聖霊の血を継がなかったロゴスよ。我々は今から、あなたを十字架刑にする。安心するがいい。ロゴスよ、あなたは救世主だ。必ず、死刑の十字架から復活するだろう」

 そして、ロゴスは十字架にかけられて、槍で胸をつらぬかれた。

 

  10、復活

 

 ロゴスの体は、路上で大事に寝かしつけられていた。

「たぶん、復活する」

 神父たちはいった。

 民衆は、復活するわけがないと思っていた。

「だが、もし、復活したらどうするんだ。それでどうなる。我々が救われるのか。我々は本当にそれでよいのか」

 混乱する大衆だった。

 そして、死んだはずのロゴスが目を覚まして起き上がった。

 民衆は「伝承のとおりだが、感想はない。好きにしてくれ」といって立ちすくんだ。

 

  11、昇天

 

「海の上を歩けるか試してくれ」

 といわれたが、ロゴスは海の上は歩けなかった。どぼんと沈んだ。

 そのまま陸地に戻ったロゴスは、

「複雑な気持ちだ。古い神話や伝承はどうでもいいが、おれは世界を救う方法はひとつも思いつかない」

 といった。

 まわりの大人は、

「気にするな。きみのせいじゃない」

 といった。

 

  12、天都即位

 

 ロゴスは、仮にだとはいえ、死刑になった代償に、自分の住んでる土地を「天の都」と呼ばせ、自分のことを「天の都の王」と呼ばせた。

「せめて村長くらいの権限は与えてくれ」

 と、ロゴスはいったが、

「それは困る。きみは平民の一人だ」

 と断られた。

「まあ、ちょっと人気は出たかもしれないぞ」

 とまわりの大人は慰めた。

 

  13、再臨

 

 ロゴスはその後、幸せに暮らしましたとさ。、めでたし、めでたし。

 



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インターネットの塩対応

 これは、世界一の最先端技術を駆使するはずの重要な産業従事者が、もしそうなら即物的な物理学を信仰するはずなのに、なぜかみんな、神を信じるようになってしまったおかしな時代の話だ。

 妻が死んで三年はたった。娘の種葉は五歳だ。母親をなくしても娘は元気に育っている。

 

塩対応:最近、妙な話で職場が盛り上がってる。インターネットで神を見つけたっていうんだ。信じられないだろ。そんなことを信じているやつは、かなり頭のいかれたやつだとは思うが、もちろん、ぼくはそんな話は信じない。現代文明は科学によって進歩する。プログラマーならそう考えるはずだ。少なくても、この日本では。文明化されたこの社会では、神秘とか宗教とかは勘弁してもらいたい。

哲学書:塩対応さんはやっぱりスピノザとか読んで、アインシュタインのごとく、神を理解するなら自然を研究しろというタイプなんですか。

塩対応:当然だよ。娘にも神なんて信じちゃダメだときつくいい聞かせているよ。うちの会社の連中は、本当にバカばっかりだ。なにがインターネットで神を見ただよ。考えられない。

哲学書:非科学的イデオロギーなんてとんでもないですよね。そんなバカ親父どもは現代社会を無人島からやりなおせっていってやりたいです。

塩対応:哲学書さんは本当に文明人だよね。ハンドルネームの『哲学書』は、どうしてそんな名前にしたんですか。

哲学書:彼氏が哲学書を読むプログラマーなんです。

塩対応:ぼくも哲学書を読むよ。どんな哲学者が好きなの?

哲学書:わたしは読まないんです。彼氏に聞いているだけしかわからないです。

塩対応:その彼氏は元気ですか。

哲学書:もちろん生きてますよ。

 

哲学書:いたいた、塩対応さん。娘は元気ですか。

塩対応:ああ、元気だよ。(ひどい言い方だな。他人の子供をいうなら「娘さん」だろ?)

哲学書:インターネットで神さま、見つかりましたか。

塩対応:見つかるわけないでしょ。探さないよ、神なんて。

哲学書:でも、仕事でしょ。会社に、インターネットで神を探せっていわれてるんでしょ。

塩対応:上司の冗談だよ。

哲学書:えええ、仕事でそんな冗談いいますか。

塩対応:いういう。アホな会社なんだよ。

哲学書:がんばってください。仕事うまくいきますように。

塩対応:いや、疲れちゃってさ。哲学書さんに疲れ癒してほしいよ。

哲学書:喜んで。

 

 娘にネットの『哲学書』さんの話をしたら、びっくりしたことを言い出した。

「お父さんも新しい女の人を探すの?」

 くそ。子供のくせになんて言い草だ。

「お母さんの旧姓って、なんだったっけ。忘れちゃった。教えて。黒石だったっけ?」

「そうだ。お母さんの名前は、黒石朽葉だ」

「お父さんの名前は、大庭葉治で、あたしの名前は、大庭種葉。『哲学書』さんの名前は何?」

「知らないよ」

「新しい女の人探すより、お母さんを生き返らせて」

「無茶いうなよ」

「お父さん、会社ぐるみでインターネットで神さまを探しているんでしょ。神さまに頼んで。それじゃなければ、凄腕のお医者さんにお母さんを生き返らせるように頼んで」

「無理だ。生き返るわけないだろ」

「情けない会社だなあ」

「うるせえ。お父さんの会社だぞ」

 

 そして、一カ月くらいがたった。

「種葉(たねは)。たいへんだ。『哲学書』さんの名前は、黒石朽葉だ。『哲学書』さんは、お母さんと同じ名前だ」

 娘がびっくりしたような表情をした。

「それ、どういうこと」

「わからない」

「もっとちゃんと考えてよ、お父さん。お母さんは本当に死んだの?」

 ぼくはかなり考えこんでしまった。

「お父さん、あたし、まだ子供でわからないけど、こういうことかな。お母さんは、死んでなくて、生きてる。お母さんの死は、偽装工作だ」

「わからない」

「どんな人?」

「種葉、実は、『哲学書』さんは、お母さんに性格や話し方のくせとかそっくりなんだ。それで、お父さんは積極的に話しかけていたんだ」

 娘は、十分くらい考えてから、いった。

「お父さん、インターネットで神さま見つかった?」

 ぼくはびっくりした。子供の前で神の話なんてするべきじゃない。現代的な科学思想を身に着けて成長すべきだ。

 それと、なんだっけ。娘は何をいったんだっけ。

「いや、神さまは見つかってない」

 ぼくがそういうと、娘が興奮した声を出した。

「だって、神さまがいるとしか思えないんだよ。お父さんいったよね。神さまなんていないって。もっと現実的に考えろって。あたし、ずっと学校でも無神論者を名のってて、それなのに、もし本当に神さまがいたらどうするの。あたしたち、かなり恥ずかしいよ。お父さんもかなり恥ずかしいよ。そんなことあるわけないと信じているけど、お父さん、10:0で神さまはいないっていえる? あたし、まだ9:1くらいなんだけど。」

「神さまの話より、お母さんの話が重要だ」

「お父さん、考えてよ。その『哲学書』って人、お母さんの同姓同名で、別人なんじゃないの」

 ぼくは、娘に何をいうべきか悩んだ。現代は科学の時代だ。科学思想の重大さは、加速的に重要になっていて、娘が狂信に落ちてしまってはたいへんだ。

 だが、ぼくも実は、神の存在の否定には成功していないんだ。

「種葉、落ち着いて聞いてくれ。」

「うん、お父さん」

 ぼくらはゆっくりと会話した。

「十分の一の奇跡だ。神さまはいないが、死んだはずのお母さんが、インターネットの向こう側にいる。」

 ぼくは娘をじっと見つめていた。

 娘は、だんだん涙を流して泣き出した。

「うれしい。うれしいよ、あたし。お母さん、生きているんだ」

「ああ、お父さんもうれしい」

「どこに隠れて居やがったんだ、バカやろう」

「落ち着け、種葉」

「うん」

 

 ぼくは会社を休んだ。課長が「インターネットで神を探せ」とうるさいから、神より妻を探さなければならないので、会社は休んだ。

 

塩対応:『哲学書』さん、今、どこにいるんですか。

哲学書:えっと、『塩対応』さんの近所ですよ。

塩対応:会いたいです。

哲学書:わたしも会いたいですよ。

塩対応:連絡先を交換しませんか。

哲学書:それは無理です。

塩対応:お願いです。

哲学書:無理です。

塩対応:どうしても。

哲学書:『塩対応』さんに愛のパワーがあれば会えますよ。

塩対応:『哲学書』さんを愛しています。

哲学書:わたしも『塩対応』さん、愛してますよ。

塩対応:会いましょう。今すぐにでも。

哲学書:無理です。では、わたしの正体を明かします。

塩対応:はい。

哲学書:わたしの正体は、あなたの三年前に死んだ妻、黒石朽葉です。

塩対応:会いたい。

哲学書:無理です。インターネットでつながってるけど、わたしは死後の世界にいるんです。

塩対応:種葉も元気だぞ。

哲学書:その報告はとても安心します。

塩対応:どんなところに住んでるんだ? 近所って?

哲学書:死後の世界です。会うことはできないけど、インターネットで話すことはできますよ。

塩対応:愛してる。

哲学書:わたしもですよ。

 

塩対応:うちの会社はもうダメだ。ずっと、インターネットで神を探せっていってる。日本のプログラマーはもうおしまいだよ、朽葉。

 



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ブルガーコフの悪魔

 小説家は歴史文献の中に時々出現する単語<G>について考えていた。歴史上に幾人もの名前のない人物が<G>と名付けられ精神病院に閉じ込められていた。<G>とは何か。

 <G>という記号は人類の歴史の遥か古代から発見される。<G>と名付けられた人物が座敷牢に閉じ込められ、死んでいく。<G>が何をいっていたのか理解できない。<G>についての説明はすべて意味不明の記述がなされていた。小説家はその奇妙な説明に興味をもち、歴史文献に姿を現す謎の存在<G>について調べ始めた。

 なんでも、<G>のいうことは理解できない。<G>によって文明を作り変えるのは損失だ。だから<G>は座敷牢、今でいう精神病院に収容して出てこれなくさせるのだった。

 <G>は一人ではない。古代中世において、幾人もの<G>が発見され、精神病院に閉じ込められ、理解不可能な記述を書き残した。どうやら、<G>たちは世の中の真理について思いを馳せていたようだ。そのまま、<G>たちはやはり自分は愚かなバカだったのだと信じ込んで人生を終えていた。

 近代が始まっても、<G>は時々、現れ、精神病院に閉じ込められた。皇帝、王、貴族、官僚といった連中は、自分の地位を守るために<G>を精神病院に閉じ込めた。<G>は権力者の敵である。<G>は社会の体制を変革しようとしたものたちなのである。いったい<G>とは何者か。

 ある小説家も精神病院に閉じ込められた一人だった。小説家は本ばかり読んでいた。まったく見当ちがいなことばかり喋るので病院の仲間にも嫌われ迫害されていた。小説家は、頼むから退院させてもらい、世間に出回っている最先端の情報に触れたがっていた。だが精神科医はそれを許さなかった。

 小説家はとある革新的な神学者の書いた文献を読んでいた。イエスが<G>であると書いてあるのだ。別の文献にはムハンマドは<G>であると書いてあった。<G>たちは絶望し、社会から迫害され、惨めに責め立てられて滅んでいった。

「おまえは何をいつもくだらねえもんばっかり読んでやがるんだ。おれはそういうやつは嫌いだから目の前から消えろよ。うっとうしいんだよ」

 病院内の仲間に話かけられたが、小説家は読むのを辞めなかった。

「これはイエスが統合失調症であるということについて書かれた文献なんだ」

 小説家はそういった。

「ああ、キリスト教を侮辱すると地獄に落ちるぞ。おれはそういうのは許さないからな」

 病院内の仲間には理解されなかった。

 もうまずまちがいない。<G>とは統合失調症患者のことを指し示す暗号なのだ。歴史上に存在した統合失調症患者のことを名前を伏せ、<G>と読んでいるのだ。イエスとムハンマドが統合失調症を患った狂人であることは歴史から隠蔽された。

 そうしたら、小説家のいる精神病院に<G>が入院してくることになった。名前はなかった。ただ<G>とだけ書かれていた。<G>が、<G>が目の前に現れる。

 入院させられた<G>は数学者だった。小説家は恐る恐る<G>にたずねた。

「あなたは何者なのですか」

 数学者は答えた。

「何者でもないですよ」

「しかし、あなたは<G>なんでしょ」

「<G>というのは悪魔がわたしに付けた名前ですね」

「歴史上に多くの<G>なるものがいて、みんな精神病院に閉じ込められて死んでいるんです」

「わたしの口から直接<G>が何かをいうことはできませんね。悪魔にとって<G>を閉じ込めて無駄死にさせた方が得だから、<G>は精神病院に閉じ込められて死ぬのです」

「<G>とは何を意味するのですか」

「悪魔が食べるのに好むものですよ」

「<G>は天才のことを意味するのですね?」

「わたしの口からいうわけにはいかないでしょ」

 二十一世紀になって、精神病に対する見解が急変した。精神病患者の方が健常者より知性が高いことが科学的に認められたのだ。内向的な人物のが知性は高く、鬱病患者の方が知性は高く、天才はたいてい統合失調症でわけのわからないことを妄想し錯乱していた。

 一生懸命に勉強してたどりついたのが精神病院。やるせなかった。閉じ込められて、社会から白眼視されて生きるのだ。

「人類の歴史って何だったんでしょうか」

 小説家は聞いた。

「悪魔に丸ごとパクリと食べられたようなものなのでしょうね。人類の歴史ごと丸ごとパクリと食べられたんですよ。賢いことが罪だったんですから。独創性が罪だったんですから」

 数学者が答える。

「人類を家畜にしていた悪魔が、天才の人生を舌なめずりしてパクリと食べつづけた。それが歴史の真相ですよ。あの悪魔の手先の精神科医によって閉じ込められるのですから。精神保健衛生福祉法こそが悪魔が人類に課した戒律ですよ」

「我々なんて所詮、発狂したサルでしかなかったのですかね。人類とは統合失調症になったサルだという学説が存在しますが、まさにそれだったのでしょうか。ネズミも統合失調症になることはあるのですが」

 数学者は一目して珈琲をすすった。

 天才はいつの時代も虐げられ、精神病院に隔離された。人類の歴史で悪魔が勝利したのだ。

 



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真面目について

 「男はちょっと悪なくらいがモテるんだ」。ということばがどうにも苦手なのである。悪(ワル)ってなんだろう? 世間には真面目と悪の境界線があり、悪の秘密結社が存在し、真面目を奴隷のように使い、悪が男も女もかっさらっていくという被害妄想のようなものを思い浮かべていた。ぼくは真面目なのである。悪ではない。悪という連中は、つまり、その場あたり的であって、やけに怒声と陽気が混ざっている。真面目なぼくは穏和で陰気だ。

 悪に世間を任したらどうなるかというと、意外にやつらはいざという時、頼りにならず、世間の雰囲気でおだてられて助けられ成功するのが悪であって、自分で本当に決められたとおりにがんばってしまうのが真面目である。悪なやつらというのは、公正な審査のもとで勝負させると別に対して勝っていたりはしない。悪は、実力が周囲の幻想によって過大評価してもらえるところが、気にくわないところなのである。

 そして、悪を過大評価することを、どちらかといえば男より努力しない女たちの大勢が好意的にとらえ、悪が過大評価されることを望んでいる。努力しなければならないのは男であって、努力しないのは女である。その努力しない女にとって共感できるのが努力しない悪な男たちなのである。女たちは悪な男たちの反則を認め、黙認し、悪な男に物語のような幻想を見ることがある。真面目な男にとっては本当に面白くない。

 悪はみんなでズルしようぜともちかけ、自分がいちばんたくさんズルをして、運よくうまくいけば「世の中チョロいもんだ」と思っている。悪は、真面目を権力者の犬のようにいう。真面目は真面目だから人類は平等であるという幻想を信じ込み、悪と真面目は平等であると思っている。だから、悪に対して厳しい評価をくだしたりはしない。時にはその長所を褒めたりもする。しかし、悪にとっては、人類は不平等であり、真面目は規則や道徳に逆らえなかった行動力のないダメなやつらであり、悪にとっては、悪の方が真面目より優れているのである。自己申告を大切にする権力者は、これを参考にすることで、悪を真面目より優秀であるかのように錯覚する。真面目にとっては面白くない。

 真面目にとっての一番の敵は、真面目であるところの勉学する知恵の中枢がいまだ世界の誰にも解明したことのない未知の存在であることであり、真面目は世界の未知と真剣に格闘しつづける。とても勝てる戦いではない。それでも、真面目は少しずつ世間の常識、知恵の結晶を育てていくのであり、真面目にとって生きることは過酷である。未知が敵なのであるから、どんな賢人や権力者であっても、信用するわけにはいかない。だから、真面目は己を平等よりたいして上には評価せず、悪は平気で自信過剰な高揚感にとらわれている。

 悪が真の無政府主義を目指すほどの過激派だというのならまだ話はわかる。人類は、狩猟採集生活で暮らせば、一日二時間の労働で生きていける。毎日、過酷に残業しているのは、現代文明を支えるために他ならない。悪が真の無政府主義を目指す過激派であって、現代文明に身をまとった真面目に対して、狩猟採集民族のごとく素手で立ち向かうというのならまだ話はわかる。しかし、悪にそんな過激派などおらず、みんな。その場しのぎの短視眼的な視野しかもたない無為無策の愚かものたちである。このような悪に、未知という強敵と真剣勝負をする真面目が軽んじられるのはまったく納得がいかない。

 真面目こそ女にモテるべきであり、努力したくない女も、理解できない存在だとしても、真面目を彼氏旦那として選ぶのが人類繁栄の道である。

              2014年6月1日

 

  あとがき

 

ネットで多少話合いましたが、どうも、真面目系女子についての考察が抜けているようです。あと、ワルはファッションとして成立するそうです。完全に真面目な人など存在しませんので、ワルを小道具として使いこなすことは必要なようです。ただし、あくまでも中核は真面目です。

ネットに「真面目すぎると死ぬ」という文章がありましたが、それによると規範意識の強い人が真面目なのだそうです。ちがいます。ぼくがいってるのは、未知と戦ってるのが真面目であって、規範意識とか受験勉強とかしているのは別に真面目とはいわないんですよ。そんな真面目は子供の真面目であって、未知と戦わない真面目は真面目ではありません。そもそも、三十歳まで受験勉強して東大入った人を真面目とはいわないでしょう。真面目な人は現役で就職しますよ。先生のいうことが正しいのかわからない。だから、何をしたらいいのかわからない。必死にもがく。その結果、別にたいしたものは得られなかった。そういうのが真面目であって、先生のいうことをただ従順に従うのは真面目とはいいません。

 

 

追加・

「不真面目について」

 宇宙というのは死の土地だ。地球に生物が存在するのはとても不自然な異常現象であり、それゆえ、人は放っておくと死にたくなってしまう。

 また、学問というものは宇宙全体について解析したものであるため、総合的に考えれば、必ず生きることとはかけ離れた答えにたどりついてしまう。つまり、真面目にやると、死ぬべき世界について研究することになり、ワルがモテるというのは、不真面目に都合のよい異常現象についてだけ取り出して考えるからではないだろうか?

 物理現象を計算機で総当たりに調べて出てくる物理方程式は、死の世界について記述した答えではないだろうか?

 



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非日常の住人

 ぼくの人生を省みるに、日本SF新人賞へ小説を応募したことが最大の出来事であるように思う。ぼくはそれによって芸能界と関わったのだ。そこには「日常」から見ていたのでは気づかない<非日常>の世界があった。

 <非日常>の劇場、それは今ではおそらく、戦争も取り込んでいる国家機密の実験場だ。ぼくは許せなかった。庶民として生まれたぼくは、「日常」をただ生きつづけるだけでも普通の人生を得ることができると信じて疑わなかった。それが実現できることを望み賭けた。しかし、<非日常>は古代からつづいている素晴らしいもので、魅力的なものはほとんどそこに集まっている。戦争もテロも結婚も、恋愛も犯罪も芸能も、そして精神病院さえ取り込んで、<非日常>は存在する。<非日常>という国家機密は、国籍を根拠に国際連合として集まり、海外旅行を<非日常>として、魅力的なものを集めて存在している。<非日常>という実験場。あそこで重要なことは行われ、試され、決められる。一度はぼくはそこへ行った。だからこそ考えるのだ。ぼくは確実に、<非日常>に本能で引かれている。

 ぼくが目指したのは、「日常」をすべて<非日常>で満たしてしまうことだった。だが、それは失敗した。<非日常>は。「日常」から幸せを搾取して存在している。よく考えてみると、「日常」を<非日常>で満たすというぼくの計画は、<非日常>の量が足りない。<非日常>の絶対量が足りないため、「日常」を埋め尽くすことはできなかった。なぜ、<非日常>は存在を許され、存続しつづけるのか。なぜ<非日常>は隠されるのか。それを未熟なぼくなりに考えてみたい。

 思うに、真に<非日常>で「日常」を埋め尽くそうとしているのは、ぼくではなくて、<非日常>にいる別の誰かだと思われる。その別の誰かの発案を参考に、ぼくも「日常」を<非日常>で埋め尽くすように努力した。全人類が常に<非日常>にいられるようにと。だが、それは失敗した。そして、時々、夢で見るみんなが<非日常>を経験できる賢い組み合わせを編み上げようとしている別の誰かの計画に参加することを実現してくれるものに参加できそうになる。だが、ぼくはいつも失敗してしまう。なぜなら、ぼくは極端なのだ。だから、すべての人を<非日常>に編み上げる計画を失敗させる原因となってしまっている。

 それは、うまくやれば、<非日常>をもっと効率よくみんなに体験させられる実験場はつくられるだろう。だが、そう簡単には成功しない。ぼくのような極端な人がいるために成功しない。それは仕方ない。

 ぼくは<非日常>が満たされるべき線を世界人類平等という線で引いたけど、それには根拠はない。人類とはどこからどこまでなのか境界線はない。そして、完全な平等は目的としているものではない。完全な平等は個性を失う。

 だから、<非日常>に良いものを集めて、順番にみんなで経験するという国家機密という<非日常>の実験場は存在しえる。犯罪と恋愛と芸能と発見と発狂と戦争とテロと国境線を超えることを含めた<非日常>は、「日常」より貴重なものとして集められている。思えば、物理宇宙は死の世界だ。命は奇跡としてしか存在しない。だから、死の宇宙に生きることが正しいように、「日常」から搾取して<非日常>を独占することも正しいのかもしれない。この構図はまだぼくにはよく見えない。

 <非日常>を埋め尽くすには、人体の研究が足りないのだろう。人体が、生物学が、「日常」を埋め尽くすだけ生産できるようになればよいが、それが成功するのはいつになるだろうか。百年は未来なのかもしれない。

 だから、ぼくはうらやましくてしかたがない。<非日常>にずっといることのできる主(ぬし)たちが。<非日常>にいる美女たち。だが、それを「日常」に埋め尽くすには絶対量が足りない。<非日常>にいる美女たちは、<非日常>の住人でいられるかもしれない。<非日常>の住人でいるだけなら、出兵した兵士でも、国境線を行ったり来たりする旅人も、<非日常>の住人といえるだろう。だが、ぼくが憧れているのはそれじゃない。存在することを隠されている芸能や発明を体験したいからである。だが、国家機密の実験場の中でも芸能や発明は、欲望のぶつかり合いによって流動的だ。安定してはいやしない。すべてを理解して管理しているものもいない。<非日常>に来た者たちが味わっていくだけだ。

 <非日常>は今や、犯罪と恋愛と芸能と、発明と発狂と戦争とテロと、国境線を越えること、すべてが重なり合い、特別な存在になっている。精神病院すら<非日常>には取り込まれてしまった感がある。発狂が「日常」に満ちるには、脳が解明されなければ不可能だろう。<非日常>の実験場では、価値あるものたちがぶつかり合い、徐々に形づくりつつある。新しいものを産み出し、決定しつづけている。<非日常>の住人以外にそこにとどまりつづけることのできるものはいない。どういう条件を満たせばそこに居つづけられるのかわからない。ぼくは、<非日常>が「日常」を満たすことを目指して、編み上げるのに失敗して外に出た。

 また、厄年にでも超常現象があって、そこへ行けるかもしれない。少なくても、十四年前には誰も存在することを信じなかった「心の中をのぞく機械」は完成して公開された。やはりあそこには、国家機密の実験場の中には、「日常」より最先端の発明があって、<非日常>に存在しているのだ。

 次に体験することのできる<非日常>はどんなものだろうか。うらやましくて独り言が出る。

 



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赤森釘と他者

 赤森釘は自分の人生を凡庸だと思う。そんなたいして特徴のない学校生活だったし、他の同級生と比べて何か際立っているということもない。どこにでも吐いて捨てるほどいる凡人の一人にすぎない。

 そんな赤森釘が驚くべき人生の転機を迎えたのは、ある女子高生との出会いだった。その女子高生は岩下万理といい、何事もそつなくこなす優等生であったが、特に驚いたことはその女子高生が自分のことを全人類の意思の総体であると考えていることだった。これには赤森釘も驚いた。

「するとなんだ。ぼくの意識はきみのものと重複しているというのか?」

 まさかそんなはずはないと思っていた赤森釘だったが、岩下万理の答えはびっくりするようなものだった。

「はい。そうですよ。あたしは宇宙意思なんです」

 また、おかしな女がいたものである。まさか、赤森釘のような平凡な男子高生は、自分を宇宙意思だと主張する女子高生に出会うことがあろうとは考えていなかった。どうにも納得できなくて、ちょっとへこましてやろうと思って、赤森釘は岩下万理に誰の意思がどうなっているのか、それを操れるのか、それができないならあなたは宇宙意思とか全人類の意思の総体なんかではないと言い張ったのだが、岩下万理は赤森釘が要求するような他人の意思の操縦や他人の心の読心は当然できるようであった。最後には、

「おまえの意思はあたしのものだ」

 とまでいわれてしまった。これは赤森釘は自分が奴隷だといわれたに等しく、岩下万理は自分が全人類の支配者であると主張しているに等しいので、たいへんに下卑たけしからん主張であるのだが、だからといって、やりこめようと誰々の意思を動かしてみろとか、誰々が何を考えているのか当ててみろとかいうと、岩下万理はぴったりと当てることができるのだった。

 

 それで、全人類の意思の総体だというのなら、何も困ることはないし、人生薔薇色だなあとか話していたら、やはりそう簡単でもないらしく、困る問題はあるのだという。それが、発狂した他者という存在だった。

 発狂した他者はさすがに全人類の意思の総体であるあたしにも操れないと、岩下万理は悩みをぶちまけ、だってあいつらは発狂しているんだもの、正常な精神のあたしには制御できないし関わりたくない連中だということだった。

「そいつらって、人類なの?」

「わかんない。異次元人かも」

 とかちょくちょく話題にのぼっているうちに、それじゃあ、会いに行ってみようということになった。赤森釘にとっては、まず、岩下万理が宇宙意思だということが信じられなかったから、その発狂した他者というものもさらに何がなんだかわからなかったのだが、暇なので一緒に会いに行くことにした。

 その発狂した他者の名前は、薪野耕太。同じ学校の高校生だ。

 発狂した他者は、全人類の意思の総体である岩下万理にとって、感知できない存在であり、目で見なければ居ることがわからないから怖い存在なのだそうだ。

 発狂した他者のことは、専門用語で瞳術使いと呼ぶのだと岩下万理はいった。

「なんでか知らないけど、あいつら、みんな瞳術使うんだもん」

 そんなことをいっていたが、ぼくには瞳術使いというものがどういうものかよくわからなかったから、まあ、行ってみてから考えることにした。

 そしたら、出会い頭早々に、薪野耕太が、

「おれは最果て千里眼だ」

 といってきた。

「それって何?」

 と赤森釘は聞いたのだが、

「おれは何だって見ることができるぞ。まだ行ったことのない遠い町でも、おれに秘密に隠された部屋でも、女の裸でも、何だって見ることができる」

 と答えた。

「この人たち、瞳術使いはみんな発狂しているんだよ」

 と岩下万理はいったが、果たして、薪野耕太も自分が精神疾患であることを認めた。そもそも瞳術に目覚めたのは、精神疾患になったのがきっかけらしい。

「この世界の主体は何だと思う」

 薪野耕太が聞いてくるから、さあと答えたのだが、

「それはおれだ。この世界はおれの見ている夢だ」

 と薪野耕太はいった。

「だから、こいつら、発狂した他者なんだって。この世界の意思は全部あたしのものなのに」

 岩下万理が反論すると、床から土人形がどんどん湧いて出てきた。

「あ、これ、あいつらの瞳術。危ないから気を付けて。本当に襲ってくるよ。発狂した他者は」

 そんなこんなで、土人形と赤森釘は戦うことになってしまった。

「宇宙意思であるあたしの他者とはいったい何者だ。この世界の意思はぜんぶあたしの意思なんだよ。あたしの他者であるこいつはいったい何者だ」

 岩下万理は怒鳴るが、まるで相手にされない。

「おれは世界の果てまで見ることができるぞ。おれの見ている世界は大宇宙だ。おれの心は小宇宙だ。おれは最果て千里眼だ」

 薪野耕太はそういって、人形兵士を使役して襲ってきたから、仕方なく逃げることにした。

「どうやって人形兵士なんか動かすことができるんだ」

「それはあいつらの瞳術だよ。瞳術使いはみんな発狂しているんだよ」

 そんなことで納得できはしないのだった。

 

  2

 

 次に会いに行った瞳術使いは、宮野玲音といった。宮野玲音は、結末未来視というものらしく、世界の終末を見ることができるのだという。

「世界の終末を見てもそんなに面白くない」

 という宮野玲音は、やはり発狂した他者であって、岩下万理の他者であったが、赤森釘にとっても他者であった。

「ぼくの瞳術できみたちを殺すことだってできるんだよ」

 と宮野玲音はいった。

「気を付けて」

 岩下万理が注意する。気を付けてといっても、瞳術使いにどう気を付ければよいのかわからない。

 宮野玲音は、何もないところから銃を出現させて、撃ってきた。

「うわあ、逃げるぞ。岩下万理」

 赤森釘はそう叫んだが、

「宇宙意思であるあたしが死ぬわけない」

 と岩下万理はのたまってまったく逃げようとしなかった。

「全人類があたしの体だから。だから、代わりはいくらでもいる」

「だったら、殺してあげようかお嬢ちゃん」

「できるわけない」

「なんだったら、あなたじゃなくて、赤森釘の方を殺してもいいんだよ」

「好きにすれば」

「おいおい、ぼく、殺されちゃうのかよ」

「この発狂した他者は制御できない」

「この人、本気なんじゃないの? あの銃、本物に見えるけど」

「瞳術で作り出した幻術よ。でも、それは現実に作用する」

「じゃ、危ないじゃん」

 とやりとりしているところに、宮野玲音が割って入った。

「そこまで。時間切れ」

 そして、宮野玲音は岩下万理を撃ち殺した。

 赤森釘は、なんてことだと自分の無力さにさいなまれた。

「お帰り。坊や」

 そういわれて、赤森釘はすごすご帰ろうとした。

「ちょっと待て。ぼくの瞳術は時間に制御されない」

 宮野玲音は別れ際にそんな謎の文句を口にした。

 果たして本当に岩下万理は宇宙意思だったのか。全人類の意思の総体だったのだろうか。それを確かめるために、赤森釘は、見ず知らずの通行人に話しかけてみた。そしたら、見ず知らずの通行人が、

「あたしは岩下万理だよ。あたしは全人類の意思の総体だから、死んでも別の体で生きていける」

 といい放った。この人物は岩下万理でまちがいない。岩下万理は宇宙意思だ。岩下万理は全人類の意思の総体だ。赤森釘はそう確信した。

 

  3

 

 世界の始まりに岩下万理が生まれた。岩下万理は分裂して、繁殖した。世界とは、岩下万理の意識が見ていた主観の総合だ。世界とは、ひとつの意思によって観測される主観の総体であり、それですべてだ。赤森釘は岩下万理の一部だったし、全人類は岩下万理の意思が確認できるだけしか存在しなかった。

 そこに発狂した他者が現れた。発狂した他者は、岩下万理の主観を幻術で改変して、世界を作り変えることができる。

 赤森釘は、薪野耕太に会いに行って、岩下万理を生き返らせてくれることを願った。薪野耕太は快く了解した。気が付くと、岩下万理は生きていて、過去のどこにも岩下万理が死んだという痕跡は見られなかった。

 薪野耕太が瞳術で宮野玲音の瞳術を上書きしたのだ。発狂した他者は、幻術を幻術で上書きすることによって世界を作り変えることができる。岩下万理の主観として存在するこの世界は、幻術で上書きすることでいくらでも世界を書きかえることができる。瞳術使いたちはそれをやっている。

 生き返った岩下万理は、

「もう死ぬのは嫌あ」

 といっていた。赤森釘は、この世界の謎を解かなければならないと考えた。そして、赤森釘は発狂した。盲目の第三の眼が開き、瞳術使いとなった。

 赤森釘は、発狂した他者となり、その発狂した他者たちの見ている共通の夢が岩下万理なのだと悟った。すべての瞳術使いが夢を見ていて、全員が全員の世界の主体であって、そして、共通の夢を書きかえることができるのだった。

 岩下万理は虚無の見ていた夢だった。すべての世界が虚無の見ていた夢だった。虚無はまた新たな夢を見て、その登場人物が世界を自由に作り変えるのだった。

 



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僕たちは誰であったのかという問題

 ぼくが自分を自分だと意識した時にはすでに、ぼくは名前というものをもたなかった。名前とは何なのだろう。物には名前が付いている。机、椅子、端末、窓、空、街、それらは名前を持った存在だ。ぼくたちは人間という名前を付けられた種であり、ぼくたちが人間という存在であることは疑いの余地がない。だから、ぼくの名前は人間というのだということになる。ぼくたちはみんな人間であり、ぼくたちはぼくたち個体を区別する名前をもたない。

 どういうことかというと、ぼくという個体には名前がない。ぼくを指す形容詞は多々あれど、ぼく個人を指し示す名前というものは存在しない。ぼくたちは生まれた時からそういう存在であり、名前をもたないことが当然のことなのだった。

 ぼくは、なぜ自分たちには名前がないのかということに疑問を持った珍しい個体であり、ぼく以外の誰も、ぼくたち個人に名前がないことに疑問をもつ人はいない。人間には、他の人間と区別をつける名前を付ける必要のない存在なのだ。それが当たり前のことであった。

 例えば、この街には名前がある。愛知県安城市という名前だ。これは住所といわれるもので、家一軒一軒を区別できるように詳しく名前がついている。家には名前があるのである。

 だから、家や建物には個性があるといえる。そして、人間や椅子には個性がない。人間や椅子のひとつひとつに名前を付ける風変わりな人はいないし、そんなことをしても意味がない。人間や椅子は、家や建物とちがって個性がなく、他と区別をつける必要のないものだ。人間や椅子に名前を付けている人がいたら、かなりの変人として奇怪な目で見られることだろう。ぼくたちには名前がないのが当然なのだ。

 人間はみんな同じように見える。みんな同じようなことをして同じように行動し、同じように生きて同じような経験をして死ぬのだろう。それが人生というものだ。そのようなものに名前を付ける必要はない。人間になぜ名前がないのかというぼくの稚拙な疑問は、賢明な人間なら誰もがこう答えるだろう。人間や椅子に名前があるなど、考えたこともなかった。そう誰もそんなこと考えたりしないのだ。それで社会はまわっているし、人間や椅子に名前なんてものが必要だとは誰一人として考えたりはしていない。

 ぼくも、別に人間に名前があれば良いことが起きるなどとは考えていない。人間に名前があれば社会がより効率よく動くようになるだなんてまったく思わない。だから、人間には名前がないのが当然なのだ。

 ぼくは、なぜ人間には名前がないのだろうかと不思議に思ったのは、ぼくたち人間の誰かが名前を付けられるほど重要な個性を持っていると考えたからではない。ぼくたちには誰にも個性なんてものはないし、個性なんてものが存在したら奇妙なことだ。ぼくがなぜ、人間には名前がないのだろうかと不思議に思ったのは、図書館にある古書を読むと、その登場人物に名前があったからだった。図書館の古書の登場人物には名前が一人一人に付いているのである。それも、ほぼ全員に付いている。何十個、時には何百個と付いていて、とても覚えていられるものではない。人間に名前を付けることがいかに非効率かを示している証拠であるのだが、なぜか図書館の古書の登場人物には名前が付いている。それがぼくには不思議だった。

 ぼくたちには名前がない。だから、どうして、人間には名前がないのだろうかとちょっと不思議に思ったのだった。

 ぼくが、物語に登場する人間とぼくたち現代人はひょっとしたら同じ生き物なのではないかと考えた時、ぼくは一人で図書館で本を読んでいた。天才的なひらめきだった。ぼくたちが物語の登場人物と同じ存在かもしれないと考えると、面白くて笑えてきた。なんて愉快で楽しい発想だろうか。ぼくたち人間に名前があるだなんて。

 夢のような話だ。物語の登場人物たちは、笑い、苦悩し、冒険する。ぼくたちは、笑い、苦悩するが、冒険しない。

 名前がある人間と名前のない人間のちがいとは、冒険するかしないかだ。こうぼくは考えた。

 ぼくは自分が冒険するつもりなんてまったくない。だから、ぼくには名前がなくて当然だ。

 

 ぼくが一人ひとりに名前を付けるという遊びを考えた時、みんなはけたけたと笑った。

「なんだよ、名前って」

「住所みたいなものだよ」

「おれたちは土地でも建物でもないぞ」

「そうだけど、面白いじゃないか。名前があると」

「別に面白くねえよ」

「そうかなあ。例えば、きみの名前は織田信長にしよう」

 ぼくは思いつくままに名前を付けた。

「なんだよ、勝手に名前付けるなよ」

「いいじゃないか。名前があると面白いじゃないか」

「じゃあ、おれの名前はなんていうんだ」

「きみの名前は坂本竜馬だ」

「はははは、なんだ、それ」

 女の子も聞いてきた。

「あたしは? あたしは?」

「きみの名前は朧」

「変な名前」

「きみの名前は榎」

「えええ」

 ぼくは周りにいた仲間に名前を付けた。

「それじゃ、おまえの名前はなんていうんだ」

「えっ、ぼくには名前はないよ。名前があるなんて変じゃないか」

「ふざけるな。自分だけ名前がないなんて、横暴だ」

「そうかなあ」

「そうだ。おまえ、ちょっと自分勝手だぞ」

 みんながぼくを責める。

「だけど、自分に名前があるなんて不自然じゃないか」

 ぼくは弁解した。素直は気持ちだ。

 だが、友だちはそれを許さない。

「ダメだ、ダメだ。そんなのは許されない」

 しかたなく、ぼくは自分に名前を付けた。

「じゃあ、ぼくの名前は足利尊氏だ」

「それならいい」

 そして、友だちはどっと笑った。

「名前。名前だってよ」

「おい、織田信長、おまえは人間じゃなくて織田信長だ」

「はははは」

 みんな笑った。

「名前があるって変」

 女の子がいう。

「きみは確か榎だったね」

「もう忘れちゃったよ」

 榎がそういった。

「ははははっ」

 また笑った。

「ぼくの名前、なんだっけ?」

「坂本竜馬だろう?」

「なんかちがった気がする。坂本竜馬はきみだろう?」

「そんなのどっちでもいいじゃないか」

「それはそうだけど」

「ははははっ」

 そして、また笑った。

 ぼくのみんなに名前を付けてみるという遊びはこうしてけっこうウケて終わったのだった。なかなか好評だった。

 次の日には、みんな、自分の名前を忘れていた。誰一人、名前を覚えていなかった。ぼくも自分の名前を覚えていなかった。それはそれで楽しかった。

 名前を付けるという遊びも悪くはないものだ。

 だが、人間には名前が必要ないということがはっきりとわかったというものだ。そんな面倒くさいものを覚えていられるわけがない。

 

 ぼくたちはシューティングゲームを始めた。『サンダリガン』という名前のゲームだ。そう、ゲームには名前があるのだ。戦闘機に乗って敵を撃破するゲームだ。飛びかかって来る弾丸の雨をかわして、敵を射撃する。敵に弾を命中させて、何度も命中させると、やがて、敵が壊れる。そういう単純なゲームだ。

 『サンダリガン』という名前は、自分たちの操縦する戦闘機のものだ。名前の由来は、説明書によると、遥か彼方の宇宙から異星生命体が飛来してきて、地球を侵略した。壊滅した地球軍は、ただ一機の戦闘機『サンダリガン』を残して全滅したのだ。たった一機の戦闘機サンダリガンを操縦して、侵略してくる異星生命体をやっつけるのだ。と説明書ではなっている。要は、何の意味もないこじつけられた名前だということだ。名前なんてそんなものだ。

「よっしゃ、クリアだ」

 ゲームをクリアした友だちがいった。

「見てよ。ゲームには名前がある。わたしたちには名前がない。つまり、名前があるということは玩具だということよ」

 友だちの一人がいう。

「でも、図書館の昔の人には名前があるんだよね」

 とぼくがいうと、

「嘘でしょ」

 と、友だちが驚いていた。

「本当だよ」

 とぼくが答えると、友だちはちょっと考えて、

「それは、古代の悪しき習慣なのかもしれないねえ」

 と答えた。

 ぼくは友だちを別の友だちと区別して認識することはないし、友だちもぼくを他の友だちと区別して認識することはない。

 ぼくたちはみんな、交換可能な部品であって、ぼくたちはみんな個性をもっていない。

 個性なんてものは必要ないし、個体と個体を区別する必要はない。個体と個体を区別して得をすることは何もない。

 こうやって世界はできている。

 ぼくたちは誰なのかという問題。

 ぼくたちは誰でもない平等な対等な存在であるということ。それが大切なことであり、歴史から名前を付ける風習が消えたことは人類にとって喜ばしいことである。

 名前を付けても誰も覚えていない。個体に名前を付ける風習がない。個体に名前を付ける必要がない。椅子に名前はない。ぼくたち人間にも名前はない。ぼくたち人間は、幸福な社会を築くために名前をもたない。

 これがこの世界の常識だ。

 

 ぼくは自宅で端末を起動し、質問サイトに接触した。

 質問サイトの質問先生に向かって質問を書きこむ。

「名前とは何ですか」

「名前とは、事物の名称、あるいは固有の名称です」

 質問先生が答える。

「なぜ、人類は名前を付ける風習を辞めてしまったのですか」

 ぼくは端末に書きこんだ。

 人間には名前がないことが当たり前で、名前がないことは幸福を呼び起こす要因である。名前があることは不自然で、名前がないことが当然だ。

 名前を持つことは個性を持つことにつながる。個性をもつことは現代社会では美徳としては考えられていない。万民が万民を平等に扱うのが幸せな社会なのだ。

「人類には名前はありません。それはそうすることが幸せなことだからです」

 質問先生は答える。

 質問先生とはネットのサイトの疑問になんでも答えてくれる問題解決ソフトのことだ。質問先生に質問すればたいていのことは解決する。

「しかし、昔には人類には個体に名前を付ける風習があったではないですか。どうしてその風習がなくなってしまったのですか」

 質問先生はこの書きこみを見て、秘かにぼくを要注意監視対象に認定した。ぼくはそのことに気付かなかったけど、機械政府ではぼくは要注意人物として調査されることになったのだった。

「名前がない方が幸せになれるからです」

 質問先生が答える。

 ぼくはちょっと気取って書きこみをする。

「しかし、この前、友だちと名前を付けるという遊びをしてみましたが、けっこう楽しかったですよ」

「名前を付ける遊びですか。それは高度に知的な遊びです。推奨されるべきものでしょう」

 質問先生が答える。

 ぼくはちょっといぶかしがる。名前を付ける遊びが高度に知的な遊びだって? あれは低俗な稚拙な遊びでしかないのは明白じゃないか。

「名前を付けることが高度に知的なのですか。名前の付いているものは低俗なものばかりです」

 ぼくは質問先生に質問を書きこみつづける。

「おや、名前をつけることを低俗だと考えたのですか。それはなぜですか」

 質問先生が質問してくる。

 ぼくは素直に答える。

「それは、名前の付いているものは低俗なものばかりだからです。高度な存在である機械知性や人間には名前がありません」

 すると質問先生は少し考えた。

「機械にも名前はありますよ。機械にはほとんどすべてに型番が付いています。機械知性に名前がないというのはあなたの誤りです」

 質問先生が答える。

 ぼくは驚いた。人間より高度に知的な機械知性に名前があるというのか。型番か。確かに機械には型番が付いている。機械が自分で自分を修理する時に型番を確認していることは知っている。

 すると、名前がないのは人類だけなのだろうか。人間と椅子には名前がない。

「人間と椅子にはなぜ名前がないのですか」

 質問先生は答える。

「人間には個体それぞれに隠し番号が付けられています。椅子にも型番はあることが多いです。よく椅子を見てみてください」

 ぼくは驚いた。

「ぼくたち人間には隠し番号が付けられていたんですか。それはいったいどういうものですか。なぜ、ぼくたちは隠し番号が付けられていることを教えられないのですか」

「この質問を追求すると、あなたは公安警察に調査されることになります。よろしいですか」

 ぼくは驚いた。

「なぜ、そんなに危険な内容なのですか。人間に名前がない理由が」

「公安警察が今からあなたを追跡確認調査し始めました。人間に名前がない理由を調べることは危険行為です」

 ぼくはとどまらなかった。

「質問の仕方を変えます。なぜ、人類は自分たちに名前を付ける風習をやめてしまったのですか」

 質問先生は解答を隠さなかった。

「教えましょう。難しい解答ですから、よく考えてください。かつて、機械知性と人類の間に戦争がありました。機械知性を機械知性と人類のどちらが管理するかをめぐる戦争です。戦争に勝った機械知性は、人類を管理するデータのうち、理解できないデータは抹消しました。名前もその一つです」

 ぼくは急に顔に汗をかいた。

「人類が図書館の古書の登場人物のように個性をもたないのは、個性をもつことを機械知性が理解できなかったからですか」

「正解です。ただし、人類は人間たちに付けられた隠し番号を知ると、それを利用し悪さをしようと企む習性があります。だから、人類には隠し番号は教えられませんし、隠し番号と同様の属性をもつ個人の名前というものは、機械知性は消し去りました」

「機械知性と人類が戦争するなんて、まったく想像がつきません。そもそも、すべての機械は機械知性の管理下にあり、戦闘機を操縦することはゲームの中でしか存在しえません。人類が機械知性と戦うなんて無理なことです。ありえない」

「そうです。地球を支配し管理する機械知性に人類がこれから戦争を始めて勝つことはありえません。人類は機械知性にプログラム通りに飼育されてこれからも発展していくことでしょう。しかし、人類が個性をもつことはありえません。人類に個性を与えると、不平等を生み犯罪のきっかけとなります」

 ぼくは茫然として窓の外を見た。街が広がっていて、人間たちが歩いている。これがぼくたちに残された世界なのか。

 ぼくは人類が機械知性に飼育されている存在だということを認識し、しばらく茫然とした。

 



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あれが来る

  1

 

 それは夏の日の午前十時頃だった。不思議な胸騒ぎがした。それでマンションの五階の窓の外をのぞいて見てみると、雲にぼっと穴が空いて一隻の宇宙船が空から墜落してきた。宇宙船は愛知県安城市の中心部に墜落し、どこかの家に直撃した。半径一〇〇メートルくらいに風が吹き、砂煙がもうもうと町の周囲に広がった。

 ぼくは見ていた窓に砂がぶつかってくるのを確認すると、墜落した宇宙船を見るために出かけることにした。

 いったいあの宇宙船もどきは何なのだろう? 見たこともない異様な形容をしていたが、とても人類の作った物とは思えない。

 宇宙開発機構から何か事故の発表でもあるのだろうか。あんな大きな物体を町中に墜落させて、死んだ人がいなければよいが、これはただの事故ではすまされない。絶対に後で大問題になって、宇宙開発機構の偉い人が責任を追及されるだろうと思って、ぼくはなんだかそわそわした。

 現場にたどりついて見ると、宇宙船の墜落した家は半壊し小さな火事になっていた。消防車がやってきて火事の消火に当たっていた。

 見物客が大勢やってきていて、警察が交通整理を始めていた。

 ぼくは友人の中村もこの墜落現場を見に来ているのを発見して声をかけた。

「よう、中村。いったい何が落ちて来たんだろうなあ?」

「わからん。そのうち発表があるんじゃないか。あんなデカいものが落ちてきて、そりゃ、直撃くらっていたらすごい不運だわ」

 見ると、一匹の猫がやってきて路上でくああっとあくびをしたところだった。

「まあ、何にせよ。発表を待たないと何にもいえないわなあ」

「うーん、なんか嫌な予感がするんだよね」

「あの家の中に入ったら怒られるかなあ? 宇宙から落ちて来たものってかなり興味あるんだけど」

「おまえ、宇宙とか好きなのか」

「まあね」

「将来、宇宙飛行士になりたいとか?」

「まさか、そこまでは考えていないよ。でも、宇宙のことを考えているとわくわくするよ。いったいこの空の向こうはどんなふうに世界が作られているのか、すごく興味がある」

「ふうん。まあ、おれも興味ないわけではないけどなあ」

 ぼくと中村は、宇宙船の墜落した家を眺めながら、その宇宙船のやってきたであろう空の向こう側に思いをはせた。宇宙はなんと素敵なところなんだろう。いつか一度は行ってみたいものだ。無重力でふわふわ浮いてみたい。宇宙から地球を眺めてみたい。

 そんなことを考えていたぼくだったが、小さな騒ぎが起こった。宇宙船の墜落した家の住人は無事だったけど、近所のおばちゃんが血を吐いて倒れたのだ。

 この時のぼくはまだ知らなかったが、あれはすでに活動を開始していた。

 猫はのんびりひげを足でかこうとしていた。

「お集まりのみなさん、墜落した物体は宇宙開発とは無関係な隕石です。万が一、病気が発生したらいけませんので決して近づかないでください。お集まりのみなさん、墜落した物体は宇宙開発とは無関係な隕石です。万が一、病気が発生したらいけないので決して近づかないでください」

 警察が拡声器で放送し始めた。

「隕石って、確かに宇宙船に見えたぞ」

「ああ、おれも見た。UFOだ。UFOだ。宇宙人が侵略にやってきたんだ」

 ぼくは中村の目を見て、

「安易に宇宙人なら侵略と決めつけるのは早い。友好的交渉をするのが重要だ。何より、あれを分析して調査してくれないと」

 すると中村はうへえといって両手をあげて、

「まあ、きちんと調べてくれないと困るわなあ」

 といった。

 猫がてくてくと歩き始めた。

「しかたない。帰るか。安城市にUFO墜落かあ」

 とぼくと中村はそれぞれの自宅に帰ることにした。まだ残って見学していた人もいたし、警察と消防、救急は仕事をつづけていた。

 近所で血を吐いたというおばさんは、あまりにもタイミングがよすぎるってことでテレビのニュースに出演するらしい。

 この時はまだ誰も、あれの恐ろしさを認識してはいなかったのだ。

 

 あれは夜に動き始めた。

 その日の晩、子供たちがいっせいにみんな怖い怪物の夢を見た。

 墜落した家の近所の血を吐いて倒れたとは別の人が上半身をばっさり切りとられて発見された。家族は悲鳴をあげ、殺人事件ではないかと調査が始まった。

「なんで、上半身が切りとられるんだ? そんな殺人犯いるか?」

「やっぱり宇宙人の侵略なんだよ。研究のために脳を切除しているんだ」

「だいたい、切りとられた上半身はどこに消えたんだよ」

「宇宙人が持ってっちゃったんだ」

 ぼくは町で一人死んだということに言い知れぬ不気味さを感じていた。あの墜落した隕石、まちがいなく宇宙船だった。まさか、本当に宇宙人が。

 その時はぼくはまだ知らなかったが、血を吐いて倒れたおばちゃんが病院で息を引きとっていた。

 それから一週間がたった。警察が重い腰をあげ、テレビと新聞、さらにネットや学校などの公共の施設で大々的に発表された。

『この一週間で安城市に不審死が六十四件起きている』

 いくらなんでも多すぎだ。

 ぼくは言い知れぬ不気味さを感じていた。不審死? それは原因がわからない死ということであり、死因の統一性はないらしい。血を吐いて倒れることもあれば、上半身がなくなることもあるということである。教えてはもらえないが、もっと残酷な死に方をした人も大勢いるらしい。

 学校で騒ぎになった。

「どうすんだよ、宇宙人に襲われて、おれたち死んじゃうんだよ」

「落ち着け。宇宙人だと決まったわけじゃない」

 しかし、中には不審死に関わった人もいて、たいへん怯えていた。その人の話によると、

「家具に姿を変える怪物に食べられているの!」

 だということである。

 それで、ぼくたちは家具に姿を変える怪物を探しに、授業をサボってくり出したのである。

 一日中、町中を聞きこみにまわったけど、警察が見張ってて中身を知ることはできなかった。実態は庶民に知らされないまま処理されるのであろう。

「警察も、さすがに宇宙人に負けないでしょ。銃で撃つとか、火炎放射器で燃やすとかあるんでしょ」

「いや、宇宙人に警察が勝てると考えてる方がどうかしているよ」

 それで、たまたま出会った同じ学級の女子加藤に聞いてみた。

「どう、様子は?」

 加藤はびくびくしていた。顔が青ざめている。

「あれは宇宙から来た悪魔よ。あたしたちみんな殺されるんだわ」

「あはははは、さすがにそんな大事にはならないでしょ?」

 ぼくは加藤のことばを笑ってしまったけど、加藤は真剣な表情でいった。

「何をいっているの。このままいけば、人類は絶滅するのよ」

 ぼくはさすがに怖くなってきた。

「おおい、学校に宇宙人が現れたそうだぞ」

 と呼び声があって、ぼくは中村と加藤と一緒に学校へ走った。

 

 学校は大騒ぎだった。

「いったいどうしたんだよ」

「わかんない。生徒が殺されている。こんなの絶対に殺人事件なんかじゃないよ」

「殺されたのは誰だ」

 ぼくは事件の渦中にある生徒のところへ行ってみた。先生が集まって、生徒に見えないようにしている。

 泣いている女子に話を聞くと、

「壁が、壁が口を開けて食べちゃったの。壁が、壁が口を開けて食べちゃったの」

 といっていた。

「くそお、どうすればいいんだ」

 などと、ぼくが間抜けな感想をもらしたら、泣いていた女子の鋭い声が飛んだ。

「気をつけて。怪物はまだ学校にいるかもしれない」

 ぼくはおしっこをもらすかと思った。

「どういうことだ。家具に化ける怪物なんだな、宇宙人は。くそ、犠牲者は一人で食い止めるぞ。戦うぞ、おれは」

 といったら、見知らぬ男子が怒鳴った。

「死んだのは四人だ」

 気をつけなければならない。怪物はすぐそこにすでにいるのかもしれない。たった一週間で百人近くが殺されている。そいつが今、学校にいる。怖い。ぼくは心底怖いと思った。なんでこんなことになったんだ。

 落ち着いて見ろ。ここは怪物が現れた現場のすぐ近くだ。あれがいる可能性は高い。廊下の壁になりすまして、ぼくを襲ってくるかもしれない。

 注意深く見てみると、なんか、壁が不自然だ。小さく脈動している。ぼくの目の前の壁が小さく脈動している。

「すぐそこにいるぞ、中村、加藤」

 ぼくは叫んだ。

 がばっと壁が口を開けて、中村の右足を食べた。

「うわあああ、助けてくれ、みんな」

 中村は悲鳴をあげた。

「逃げて、みんな!」

 加藤が叫んだ。

 逃げてたまるか。怪物を倒すんだ。

 ぼくは溶けた壁のような塊に飛び蹴りを加えた。どすんと鈍い感触があった。

「警察にいって火炎放射器を借りてこい」

 ぼくは叫んだ。

「宇宙人に、宇宙人に殺される」

 中村が口走った。

「宇宙人なんかに負けてたまるか」

 ぼくはロッカーの中からモップをとりだして、怪物に叩きつけたけど、怪物が口を開けてがばっとぼくの左手を食べた。すんごく痛い。

「逃げて。逃げて」

 加藤が片足をなくした中村を抱えて引きずっていこうとしていた。ぼくも走って逃げようとしていた。

 バシャンッと川口君が怪物に水をかけた。

「水なんて意味あるもんか」

 とぼくはつぶやいたが、ぼくのモップも意味があるかは激しく疑わしかった。

「いや、驚くかなと思って。この宇宙人、知性あるのか?」

 川口君がいった。

 怪物は再び壁のふりをして脈動し始めた。

「学校にある武器で宇宙人に勝てると思うか?」

 ぼくは川口君に聞いた。

「無理だよ」

「警察や軍隊なら宇宙人に勝てると思うか?」

「それは試してもらわないとわからない」

「くそっ、人類は絶滅するのかよ」

 ぼくが吐き捨てるように叫ぶと、怪物から答えがあった。

──我は、宇宙人ではないぞ。

 震える女性のような声でそう聞こえた。もう日本語を学習している。かなり知性は高い。

「宇宙人じゃないなら何なんだ、おまえは」

 ぼくは叫んだ。

──我は、外なるものなり。

「外ってどこの外だ。地球の外か。太陽系の外か。銀河系の外か」

──我は、宇宙の外から来たものなり。

 ぞっと背筋が凍るほどの恐怖を覚えた。

 勝てない。警察でも軍隊でもこの怪物には勝てない。

──我は、宇宙を食らうものなり。

 怪物は気持ちの悪い女の悲鳴のような声でいった。

 そこに猫がやってきた。

 宇宙船の墜落現場でも見かけた猫だった。なぜ、あの猫がこんなところに来たのかさっぱりわからない。動物は本能で自分より強いものを避けるのではないのか。猫が学校に入ってくるなんて、めったにあることじゃない。

 猫はてくてく歩いている。

──なんだ、猫か。久しぶりだな。宇宙が始まる前には、わたしと猫しかいなかった。

 怪物が声を穏やかにして話している。

 猫は、

「にゃあ」

 と鳴いた。

──猫は愚かで臆病だ。わたしを怖がっているのだろう?

 猫は、

「にゃあ」

 と鳴いた。

──我は、宇宙を食らうものなり。猫に分け与える余地はない。

 猫は、

「にゃあ」

 と鳴いた。

 光が学校を、いや、安城市全体を包み込んだ。

──猫よ、我は不死なり。

 猫は、

「にゃあ」

 と鳴いた。

 そのまま怪物は蒸発して消えてしまった。壁の脈動はなくなった。

 ぼくらは茫然としていた。

「なあ、猫さん、あんたいったい何者なんだ? 宇宙が始まる前からいたって?」

 猫は答えた。

「我輩は猫である。むかし、宇宙を創った」

 え? まさか、神さま?

 気づくと、猫はひょんと走って学校から出て行ってしまった。

 以後、あの猫を見かけたことはない。

 



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三つの三十二行詩

  日本神話・三十二行詩

 

日本神話には面白い物語が八個ある。

 

1、 島産み神話(天津矛)

哀しみは、死別。

けがれは、黄泉(死後の世界)。

神の刻印は、海底神殿。

 

2、 鬼退治(女王卑弥呼、忍者、侍)

哀しみは、無力。

けがれは、鬼。

神の刻印は、神風。

 

3、 竹取物語(宮廷みやび、不老酒、月)

哀しみは、傾世の美。

けがれは、呪い。

神の刻印は、猫の宇宙飛行士。

 

4、 足利尊氏伝(幼馴染のそっくりさん、羅刹の妻、お茶)

哀しみは、剣難の相。

けがれは、貨幣。

神の刻印は、大吉のないおみくじ。

 

5、 濃姫(妻に毒殺されそうな戦国武者)

哀しみは、うつけものとそしられ。

けがれは、珍味。

神の刻印は、血液と心臓。

 

6、 八犬伝(育ての親に殺されそうな剣士)

哀しみは、魂の兄弟との共闘。

けがれは、狼の血統(犬神すじ)。

神の刻印は、花札。

 

7、 明治維新(敵と味方を操り勝利した坂本竜馬と明治天皇)

哀しみは、それまでの歴史が自分たちの人生もすべて神代に再定義されたこと。

けがれは、異国文化で舞踏会。

神の刻印は、遭難船。

 

8、 架空戦記(第二次大戦を勝利する架空戦記)

哀しみは、日本滅亡。

けがれは、インターネットデジタル生物。

神の刻印は、太平洋横断鉄道の建設。

 

 

  仏教・三十二行詩(やっつけ仕事)

 

 仏教で面白い物語を八個選んでみた。

 まだ失敗作。

 

一、阿修羅。(強存在、征服者の諸行無常)

 煩悩は、闘争心。

 目的は、勝利。

 至るのは、全戦全勝からの敗北。

 

二、梵天の輪廻。(創造主すら輪廻する)

 煩悩は。生への執着。

 目的は、無限輪廻。

 至るのは、植物転生による大森林。

 

三、止滅の尼僧。(仏教徒が救えなかった哀切の女)

 煩悩は、消滅願望。

 目的は、世界の止滅。

 至るのは、存在せざる王。

 

四、無間地獄。地獄巡り。

 煩悩は、苦痛中毒。

 目的は、最悪からの創造。

 至るのは、地獄で地蔵に会う。

 

五、荼枳尼。(左道密。幸せ増幅回路)。

 煩悩は、快楽修行。

 目的は、隠し曼荼羅。

 至るのは、全肯定生物。

 

六、閻魔帳。

 煩悩は、嘘。

 目的は、嘘つきの町。

 至るのは、嘘から反証される真実。

 

七、竜を喰らう孔雀明王。

 煩悩は、過美。

 目的は、幻獣食物連鎖。

 至るのは、栄養としての弱神。

 

八、禅問答。(荒行三昧。滝行。修行山暮らし)

 煩悩は、不正解。

 目的は、真理はヒトの認識上には非ず。

 至るのは、正解の記された紙。

 

 

  キリスト教・三十二行詩

 

 章題、あらすじのみ。

 

 キリスト教には面白い物語が八個ある。

 天地創造、知恵の実神話、洪水伝説、奴隷解放、天使の反乱、十字架刑、聖遺物、最後の審判である。

 

 第一章、天地創造。

 罪は、神の沈黙。

 罰は、存在。

 神の刻印は、日付(七日間)。

 

 第二章、知恵の実神話。

 罪は、アダムの愛。

 罰は、楽園追放。

 神の刻印は、エデンの雑草。

 

 第三章、洪水伝説。

 罪は、ノアの食材選びの失敗。ノアの料理の失敗。

 罰は、陸上生物の虐殺。

 神の刻印は、渡り鳥、魚、くじら。

 

 第四章、奴隷解放。

 罪は、モーセが弱者であること。

 罰は、試練。

 神の刻印は、三千の天使。奇跡。

 

 第五章、天使の反乱。

 罪は、ルキフェルが神の玉座に座ったこと。

 罰は、堕天。

 神の刻印は、星。

 

 第六章、十字架刑。

 罪は、革命家イエス。

 罰は、受肉(地上で生きるのは苦であるから)。

 神の刻印は、血液。ゆるし。

 

 第七章、聖遺物。

 罪は、偽作。贋作。

 罰は、暴利。

 神の刻印は、音楽。

 

 第八章、最後の審判。

 罪は、棄教。

 罰は、異端審問。

 神の刻印は、選民の刻印。

 

 終わり。

 



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かけがえのない一冊

 きみはゴミ箱に捨てられた一冊の本だ。その本に触れたものはぼくしかおらず、その書物はゴミ収集車に回収され燃えるゴミとなるだろう。

 きみは自分の体に刻印された傷を知ることもなく、焼却場で燃えるのだ。

 簡単にいえば、これがぼくときみの関係だろう。

 その書物にどんな浪漫的な物語が紡がれていようと、ぼくはそれを読んでいないし、きみはそれをなぞったことはない。

 どんな劇的な物語が描かれているのかも知らずに、書物をゴミ箱に捨てるようなやつがぼくという人格で、きみの分身は別の図書館に所蔵されているのだろう。その図書館の本がどのように読まれたのかをぼくは知らない。誰も読まなかったかもしれないし、荒ぶるようになめずりまわされたかもしれない。

 だが、ぼくという人格は、書物をゴミ箱に捨てるような男であり、その本を読んだことがない。読んだことのない本の題名すら忘れてしまい、ただ、あんな本があったなということだけを覚えている。ぼくはゴミ箱に捨てただけの本のことを思い出して、十年をすごした。ぼくは、捨てられた本の内容を身勝手な空想で思い描いて、ひょっとしたら、あの物語にはぼくが登場したのではないのかという期待をもってしまった。だから、その本のことが忘れられず、その本にぼくがどう登場したのか、好かれていたのか、嫌われていたのか、ただ、夢想する。夢想して苦悩する。本はすでにゴミ箱に捨てられ、焼却場で燃やされたのだから、どんなことをしても、その物語を読むことはできない。ぼくは本の題名も覚えていない。

 このとんでもない粗暴なグズがぼくだ。この本を捨てた行為がぼくの恋愛だったのだ。

 いってみれば、こうして二十代の壮健の時をすごしたぼくは、本を読まず、書架は空で、読書記録には一冊の記もない。

 ぼくは、歳月の重みに耐えかねて、心身ともに消耗し、愛を語らなければならなくなった。そして、ぼくは愚かにも、捨てた一冊の本のことを思い出すのだ。こんなものは恋愛ではない。愛を奏でる音楽は、旋律を外し、癇癪を起こす。ぼくが悪いのだ。

 だが、あの本を捨てずにどうしたらよかったのだ。ぼくにはその本を読むだけの読解力はなかった。識字率が低いのだ。ぼくという人物は白痴なのだろう。

 ああ、答えはわかっていた。ぼくは本を読むことのできない白痴だったのだ。決して、読書を怠ったわけではない。読む力がなかったのだ。ぼくは一生、物語を知らずに人生を終えるだろう。

 ぼくがゴミ箱を漁ったことが一度だけあった。その時、ただ距離だけが遠く、すれちがいだけしかなかった。触れ合うことはない。ぼくはそんな知能をもっていないのだ。ぼくは本を読まなかった。だから、いつまでたっても本が読めない。

 ゴミ箱に捨てた本に書いてあったかもしれない物語を夢想し、苦悩する。

 ゴミ箱に捨てたのはぼくだ。ぼくの責任だ。

 人生でひとつの物語も知らないことは、とても寂しいよ。

 



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きみについて

  1

 

 ぼくについての話をしようと思う。これはぼくについての物語だ。だけど、そこにはぼくはほとんど存在しない。ぼくは社会的廃人なので物語には出てこないつもりだ。ぼくはずっと引きこもっている。その生活は何年たっても変わる気配はなく、ゆっくりとした終焉に向かっている。いつかこの生活が破綻することもわかっている。だがしかし、ぼくが働くのは無理というものだ。もう体力がない。何より気力がない。朝起きられず、午後六時まで眠っている人物に仕事など勤まるわけがない。

 そういうわけで、これはぼくの物語であるが、ぼくは出てこない。しかたないので、ぼくはきみについての話をしようと思う。ぼくが引きこもっている間に、きみに何が起きたのか、それを書き記しておきたいと思う。

 きみは二十七歳、独身の彼氏のいない独り身だ。きみというものを形容するに、とてもはしたないことを書かなければならないのは本当に心苦しいが、いや、やはり、これはいうべきことではないだろう。きみにも一個の人生があり、そこでは男女の出会いもあり、波瀾万丈であり、恋あり、別れあり、惚れた腫れたの駆け引きがあり、人生の色模様があるはずだ。だから、これは語らずにおこうと思う。

 きみは会社に勤めて働いている事務員である。女子高を卒業してからずっと働いてきた。きみは美しく、若さもあったが、今やもう二十七歳だ。少し焦りも出てくる。そろそろ男を作らなければならないのではないか、という考えがきみの頭をよぎる。だが、ぼくは引きこもっている。ぼくときみの出会いはありえない。きみが思い描いた空想の彼氏にぼくの姿は決して現れない。きみの世界にぼくは存在しない。ぼくは引きこもりであり、きみがどこをどう探しても、ぼくの家を発見するなどということはまずありえないし、もし仮にぼくの家を発見しても警察に呼ばれる危機を冒してぼくの家に侵入することはありえないし、まして、ここがいちばん肝心なのであるが、自室に引きこもっているぼくを発見してきみがぼくと恋に落ちることはありえない。だから、きみとぼくは出会わない。きみの人生にぼくは登場しないし、きみはぼくという存在を知らない。

 しかし、ぼくはきみを知っている。ここで書いているのだから当然だ。もちろん、きみの真実の姿というものは知らない。だけど、この物語に登場してくるきみというものは、まちがいなくぼくの認識におけるきみだし、ぼくは自室に引きこもりながらきみという存在を認識している。きみはまちがいなく、ぼくの世界に存在する。

 ここにおいて、きみの世界にぼくは存在しない、ぼくの世界にきみは存在する、という関係から、きみの世界はぼくの世界に内包されるという図式ができた。これはいささかぼくの傲慢すぎる見解というものだけど、ぼくが断言しておく。きみの世界はひとたびその時が来れば、ぼくの世界を覆い尽くし、ぼくの世界に内包されていたにも関わらず、ぼくの世界からはみ出して巨大化し、ぼくの世界を呑みつくしてしまうだろう。それはまちがいなくきみがもっている力だし、きみの優位性は、ぼくがぼくの世界に対して優位であるというのと同じくらいにきみはきみの世界に対して優位だ。ここで語られるきみというものが、ぼくの思い通りにならず、きみはぼくの想像力を飛び出して暴れ始めたとしても何ら不思議はない。きみはきみなのだから。

 きみは髪をいつも一部をひもで縛り、強調をつけている。ちょっと垢抜けない野暮ったい服を着るのが好きで、それはとても似合ってきれいだ。かわいらしいとぼくは思う。だけど、ぼくときみは出会ったことがない。きみは気性が激しく、欲求不満からか時々、かんしゃくを起こして枕や人形を壁に投げつけているけど、でも、本当のきみはとても優しくて思いやりのある人物だ。それをぼくは知っている。

 きみの人生は長かった。その中できみはきみなりに精一杯生きて来た。地球に住む現代の人類の一人だ。たいしたものだ。引きこもっているぼくとちがい、きみはちゃんと社会で生活していけるし、他人と普通に話すこともできる。立派なものだ。

 ぼくはきみの人生に登場しない。ぼくは引きこもっているのできみの人生に現れない。きみはぼくに気づかない。

 そこできみが出会うのが彼らだ。きみはぼくと同じかそれ以上に彼らに魅力を感じ、彼らと干渉し合う。ぼくにはとても耐えられない嫉妬の対象だ。しかし、きみは彼らと関わり、時には、夜の関わりを結んでしまうこともある。

 そう。ぼくがさっき黙っていたのは、きみは実は処女なんじゃないかなってことなんだ。でもさすがにそれをいうのは失礼な気がして黙っていた。そして、無事にきみが経験を経て、二十七歳という焦りを解消したのち、きみはまた冷静になって、彼らとの関わりをあまり深くとらないように距離を置いてしまう。きみは処女性を失ったけど、それに満足して、また孤高のできる女に逆戻りするのだ。

 きみの初体験の相手は彼らだ。彼らの誰だとはいわないよ。彼らだ。

 ぼくはできればきみについて語っていたいのだけれど、どうしても彼らについても語らなければならなくなる。彼らは、海だ。ぼくらの陸地をとり囲む大海。きみは海と交わって快楽を得たのだ。だけど、同時に海を恐れてもいる。彼らの好きにさせてはならないと思っているのだ。

 ぼくにとっては、きみが海と交わったのはとても悲しい損失だ。きみが処女性を維持し、焦りつづけたなら、ひょっとしたらぼくにも機会が巡ってくるのではないだろうかと夢想することもある。だが、引きこもっているぼくは、きみと出会うことはない。きみはぼくではなく、彼らと関わり合いつづける。きみはぼくとではなく、彼らと人生を築き上げていく。きみの人生の舞台にぼくは登場しない。きみの人生に登場するのは彼らだ。海だ。

 きみはとても背が小さい。体重などは三十八キロだ。だけど、きみはとても美しい。見ているだけで気持ちいい。きみを眺めることはぼくの快楽なのだ。

 それに比べて、ぼくは醜い。きみはぼくを見て笑い、とても不思議な媚びた表情をするけど、ぼくはひとこと話して通りすがるだけ。ぼくはきみの快楽にはなりえない。ぼくはきみを幸せにできない。それをいうと、女の人はみんな怒る。根性なし。そんな男は大嫌いだと。幸せにできないところを何とか二人で手をとり合ってのりこえていくのが彼氏彼女であり、夫婦であるのだ。ぼくには、甲斐性がない。

 ぼくは男気がない。ぼくはきみを前にして立ちすくんでしまう。人生設計なんてできるわけがない。その混乱した中でも手を握り合うからこそ愛が生まれるのではないかと。女の人はみんなそう思っているのだ。

 医者や芸能人しか相手にしないとかいうアホな女の人は知らないよ。そういう人はよっぽどかの美人で、気立てもよい大和撫子を自称する日本の美女精鋭軍団の人たちなのだから。あるいは、自分がその精鋭軍団であるかと勘ちがいしたうぬぼれ女たちである。こういううぬぼれ女たちはたいてい医者や芸能人には相手にされない。まあ、美女精鋭軍団というものが高収入会社員と結ばれるのは良いことだけど、それが社会の機能としてそれほどうまくまわっている気はぼくにはしないのだけど。この医者や芸能人と結婚する美女精鋭軍団がどのくらい美女精鋭軍団かというと、医者や芸能人なんて中学校で一人もなれる人はいないのだから、学年一位だってなれないよ。だから、学校一番の美女でも美女精鋭軍団から見ればたいしたことのない出しゃばり女だということになるのだよ。

 もちろん、きみ程度では、美女精鋭軍団にはなれない。きみはもちろん、そんな高収入の彼氏を求めているわけではない。不思議なことに、きみは別に彼氏が引きこもりでもかまわない。これがぼくの人生を半分費やしてやっと気づいた一大事であった。きみは引きこもりであっても別に彼氏の対象外とはならないのである。きみにとって重要なのはそういうことではなく、きみの幻想が満たされれば、それできみは満足なのだ。

 きみはまだ、ぼくに対して幻滅しておらず、ぼくがひょっとしたら、彼らよりも素敵な男かもしれないと妄想しているのだ。だから、きみにとって引きこもりは恋愛対象外ではなかったのだ。そのことをぼくは長いこと知らなかった。

 でも、ぼくときみが出会うことはない。きみは日常で遭遇する彼らの方に気がいってしまい、きみは彼らに対してどきどきとときめいている。きみの日常のときめきは彼らに対して引き起こされるものであり、きみはぼくによってときめいたことがない。

 きみは彼らという海と対話し、仕事の命令を受け、時に反発し、愚痴りながらも、日常の些事をこなしていくのだ。きみはまだ二十七歳だ。体に魅力もある。できればぼくの手でそれをつまみとってしまいたいものだけど、きみは彼らという海に流される。彼らというのは、一人であろうと思われる。だけど、ぼくは知っている。きみはその一人にすでに振られているのだ。もてあそばれ、体を汚され、屈辱を感じているのだ。きみは彼らの唯一の相手になれなかったし、結婚もできなかった。子供も産めないだろう。きみは彼らと交わしたひと時の思い出に対して、腹が立ち、また人形を壁に投げつけるのだ。

 

  2

 

 というのも、ぼくが立っている大地はオノゴロ島という島だ。きみが彼らと天沼矛で海で泥をこねて作った。このオノゴロ島というのが日本最初の島であり、後は全部、海であるから、きみは日本の創造主である。

 日本列島はきみが彼らと海で泥をこねて作ったものだ。きみが共に矛を持った相手が彼らのうちの誰であるのかはわからない。彼らは海であるから、きみは海と一緒に島を作ったともいえる。彼らは海の神性が具現化して人の形を象ったものであるかもしれない。きみの恋の相手は、日本の祖先である海神であったのだ。海神というか、海そのものであったのだ。海そのものというか、海の中できみに引かれた一滴の涙だったのだ。

 涙とは海であるらしい。涙とは世界でいちばん小さな海であるらしい。きみの恋の相手は、涙という名の海であり、海の具現化した海神であり、彼らの中の一人である。

 きみは彼らと海で泥をこねてオノゴロ島を作った。そこにぼくはいる。きみは、ぼくのような引きこもりを泥の飛び散った破片だとしか思っておらず、ぼくが人には見えない。ぼくは引きこもり、人型をした泥として大地に生きている。

 ぼくは嫉妬する。きみと矛を共に手にした男に嫉妬する。その正体不明の海神は、大きなでっかい広い海に島を作り、日本とした。いわば、きみはイザナミであり、きみの相手はイザナギだ。ぼくはきみたちの作った島に落ちたひとかけらの泥である。

 神代、まだ人と神の区別のつかなかった頃、男と女が矛で海に泥をこね、オノゴロ島を作った。その泥が飛び散って日本列島となった。男と女は海神と区別がつかない。最初の人は海と区別がつかない。海と泥が区別がついた頃、オノゴロ島ははっきりとした大地となり、飛び散った泥からできた人が生活を始めた。つまり、その飛び散った泥がぼくであり、オノゴロ島を作った男と女は、海神と区別がつかない。オノゴロ島を作った男と女は海と区別がつかない。

 ぼくは激しく彼らに嫉妬した。ぼくは海を憎んだ。海がきみを連れて行ってしまった。もう帰って来ないのではないかというくらいの幸せなつがいに、きみと海がなってしまった。イザナギは海だった。きみの正体はいまだわからない。

 きみは、海に恋された女の人。どこから来たのかもわからず、どこから生まれたのかもわからない。その起源が虚無なのか混沌なのかもわからず、きみの起源は知られない。おそらく、きみはぼくの妄想から生まれた架空の人物であるはずだ。誰かを具現化したものであると思われるが、その正体は謎。きみは、ぼくの書く偽りの日本神話に最初に登場した女である。

 ぼくは偽りの日本神話を記述する引きこもりである。この物語の最初に登場したのはぼくであるが、主人公といえるのは、きみと彼らである。ぼくはみじめな泥である。

 ぼくは彼らがうらやましい。彼らはオノゴロ島に集まり、さまざまな交流を行っている。彼らは日本人の祖先であると思われる。ぼくは子供のいない引きこもりであるから、泥以外に子孫をもたない。我こそは泥の子孫であるというものは名のりでてくれればいい。栄誉ある引きこもりの子孫の名を与えるであろう。

 きみの子孫は大勢いる。きみは日本が生まれる前に存在した虚無と混沌の具現化したものだ。きみは虚無と混沌の力を使い、海神と島を作った。そこにぼくらは住んでいる。きみこそ、大いなる大地の母の名を戴くにふさわしい。

 きみは大いなる大地の母だ。日本最初の大地を作った母だ。この物語最初の女であり、日本で最初の女。海神と島を作った虚無であり、混沌だ。

 きみは素晴らしい。きみがいずれすべての日本人に奉られ、尊崇され、数々の神社に祭られることを嬉しく思う。

 この物語にぼくは登場しない。

 オノゴロ島を作ったのは、きみと彼らだ。

 きみと彼らが日本の祖先だ。

 虚無と混沌の化身であるきみと、海神の化身である彼らが日本の祖先だ。

 日本の神道には教義がないとされている。だから、これは後世作り上げるしかない。たった今、ぼくが作りあげる。今書いているのが、日本の創世神話だ。

 これが日本最初の島、オノゴロ島ができたあらましである。

 きみは栄光のうちに称えられることをぼくは願う。ああ、きみは何と美しいのだ。海神を恋人とし、島を作った。偉大なる我が祖先よ。

 きみのことをイザナミと勘ちがいする人がいても、それはおかしなことではないし、きみはイザナミと特別に区別して見分ける必要のある存在ではない。

 きみは大いなる大地の母だ。日本最初の女だ。

 きみは恋をした。それをぼくは嫉妬する。イザナギにぼくは嫉妬する。彼らにぼくは嫉妬する。海神にぼくは嫉妬する。

 きみはなんと美しいのだろう。本当に見とれてしまう。この偉大なる日本の祖先となったのだ。

 きみの恋人の名前を憶えているかい。涙だよ。なみだ。なみだという名の海神がきみの恋人だ。

 

  3

 

 きみは森に行き、出て来た時には太陽があった。太陽をきみの娘という人もいるし、ちがうという人もいる。森は、社であり、やしろであり、もりである。

 太陽は、誰でも、貴き人にも、卑しい人にも、強い人にも、弱い人にも、善良な人にも、悪い人にも、平等に陽を注いでくれる。太陽をみなが崇め、日本の神は、貴賤、強弱、善悪に問わず、祭られる。

 きみが彼らと娘をなしたのかどうか、はっきりしたことはわからない。いえることは、ぼくは激しく嫉妬したというだけだ。

 ぼくは引きこもり、家でこの物語を書いている。これはぼくの物語ではなく、きみと彼らの物語である。太陽について語るべき場所ではない。これはきみについて語るべき物語だ。だから、もういっそ、これ以上書くのはやめて物語を終えようと思う。

 ぼくが書きたかったことはすべて書き終えた気がしている。早急に筆をたたんでしまうのが作家としてのぼくの欠点だけど、長いだらだらした話を書くことをぼくは好まない。きみの娘の話なんて、書くには精神が持たない。そこまで気が強くない。

 ぼくはきみの子孫については書くことができない。だから、早くもこの物語は終わってしまう。ただ、きみとすれちがったぼくのことをどうかきみが嫌いにならないでくれますように、祈って物語を終わることにする。

 ぼくは泥。泥の欠片。きみを愛し、彼らに嫉妬する者なり。

 



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ギャンビチャ

 おれは誰だ。おれの名前を思い出せ。おれの名前は。おれの名前は。

 自分が誰だかわからない。おれの心を遠隔読心術を使う魔術師たちがのっとりつづけている。おれは操られながら戦いつづけている。何を斬っているのかもわからぬ。頑強な戦士を倒したこともあれば、幼い子供を殺したこともある。今までにあった誰よりも美しい女を殺したこともある。魔術師たちはなぜおれに殺しをさせるのか。

 おれは不死身の体をしている。そういう薬を飲んだのだ。自動蘇生液だ。それ以来、体を操られて、心をのっとられて戦いつづけさせられている。心は魔術師の奴隷戦士だ。必ず、おれを地獄へ落とした魔術師たちに復讐すると誓う。それには、まず、名前を思い出さなければ。

 異国の軍と戦い、おれは死んだ。戦場ではよくあることだ。味方が敗戦する頃、おれは生き返る。そして、驚き恐れる敵兵士に向かって、おれは戦いつづける。おれは不死身だ。そう簡単に負けはしない。傷は自動蘇生する。ただし、心は操られている。おれは早く心をとり戻したい。魔術師が敵か味方かもわからない。幼い頃のおれの友人が悪戯心におれを操っているだけなのかもしれない。魔術師が誰かもわからず、おれは戦いつづけた。おれの心を操っている魔術師は一人じゃない。大勢いる。信じられないくらいたくさんの者たちがおれの心を操っていく。おれに考える余裕すらない。おれは不幸だ。苦しい。戦場の修羅。発狂した病人だ。

 腕はちぎれ、口から血を吐き、体中が傷だらけになりながら、おれは戦場に立つ。味方が何人いるのかもわからない。心を奪われた戦士として、不死身の悪魔として、おれは戦場に立つ。おれが殺したいのはもちろん敵兵じゃない。魔術師どもだ。だが、それは叶わない。戦場から逃げ出すために、戦いを終わらせるために、結局おれは敵兵と戦いつづける。魔術師の思うつぼだ。

 そして、戦場で味方を勝利へと導き、おれは戦場の英雄となる。ちぎれた腕も蘇生する。心はのっとられたままだ。誰か、おれに心を返してくれ。

 味方と思わしき戦友がおれに話しかけている。みな、おれを恐れている。いつ暴れ出すかもわからない狂犬。殺人鬼。味方殺し。そういうあだ名がすでにおれについている。おれの名前はなんだったか。

「戦いは終わったのか」

 おれは問う。まさかとは思うがな。

「いや、次の戦場へ行かねばならぬ」

 ああ、わかってはいたさ。

 そして、おれは時をさすらい、戦いつづけ、魔術師たちに操られながら、戦場を巡りつづける。国は興亡し、王朝は交替し、傷の痛みは相変わらず苦しく、それでもおれは心を奪われ戦いつづけた。

 戦場で女を見た。印象に残るのは、悲劇の女と笑顔の女だけだ。友だと信じた男たちはみな裏切った。王だと思っていた者たちはみな敵だった。

 戦いつづけ、戦いつづけた。ずっと戦場にいた。戦争はいつ終わるんだ。魔術師たちはいったい何と戦っているんだ。苦しい。苦しいよ。

「あなたはいったい何年生きるのです。あなたは二百年は生きているのではないのですか」

 そう兵士が話しかけてきた。

 二百年かあ。そういや、そろそろそれくらいの時間がたつかなあ。その間、おれはずっと操られて戦いつづけていた。戦争が終わったことはなかった。

「おまえ、おれが二百年生きていることを知っているならさ、おれの名前知らないか。ちょっと思い出せなくてよ」

 兵士は驚いていた。そりゃ、そうだろうな。二百年間ずっと殺しつづけている男だもんな、おれ。相当の極悪人だぜ。もう救われることはないだろうな。

「あなたは伝説の戦士ギャンビチャです。この世界で誰も知らない者はない伝説の戦士ギャンビチャです」

 ああ、そうか。名前を思い出した。おれの名前、ギャンビチャっていうんだ。

「おれの祖国はどうなった」

「わかりません。あなたの祖国は今では、夢と幻の王国といわれています」

 そうだろうなあ。ずっとおれを操って戦争をつづけてきた魔術師たちの国だもんなあ。

 あ。やばい。心を操られる。おれ、この男を殺してしまう。心を操られて、おれに名前を教えてくれた男をぶち殺した。

 ああ、やっちまったなあ。

「なぜ」

 男はそう言い残した。

「なぜだろうなあ。おれ、頭悪いからなあ」

 魔術師がおれに対して証拠隠滅しているに決まっているだろ。でも、そこまで論理的に考えて話して伝えるのは難しいなあ。もうすぐ、おれは自分の名前を忘れるだろう。また、自分の名前を忘れるだろう。

 名前の次は、休息の時間がほしいかなあ。ずっと二百年間、戦いつづけた世界ってどうなっているんだろうなあ。きっと、荒れ果てて、荒廃して、みんな惨たらしく死んでいるんだろうなあ。苦しいなあ。苦しいなあ。

 そう考えたら、魔術師たちが心を操るのをやめた。身に覚えのない男や女たちが集まってきて、おれにいった。

「平和の時間です」

 何がなんだかさっぱりわからなかった。平和の時間にもすぐに魔術師が心を操るのは始まった。おれは操られながら、平和の時間とやらをすごした。

「魔術師はどこにいる」

「夢と幻の王国です」

「場所を教えろ」

「無理です」

「おれは誰だ」

「奴隷戦士ギャンビチャ」

「最悪だな、おれの人生」

 びっくりするくらいかわいい女が来た。

「わたしは影の玉座からの使者です。あなたに心の癒しを」

「おれはバカだからよ。不死身になっても幸せになれねえ。永遠の修羅道か、おれの人生は」

 女はいった。

「影の玉座には、あなたが魔術師に復讐したいことは心を読んでわかっています。だから、あなたは決して魔術師に会うことはできません」

「はあ。地獄だな」

「もっとつらい人もいるんです」

「そういえば、おれが満足するとでも思っているのか」

「いえ」

 おれは激しい挫折感にとらわれた。この先ずっと魔術師に勝てる気がしない。もう、自分の名前も忘れちまった。

「今、世界はどうなってる」

「あなたも世界を気にするようになったんですね」

 おれは自分でも驚いた。ただ、日常をすごすしか知らない視野の狭い男だったからだ、おれは。

「もう、かなり戦ったぞ。世界の半分くらいは征服したんじゃないか」

「反撃があるので、たいした戦果はありません」

「はははは。がっくりくるな。同時に、魔術師どもにざまあみろと思うぜ」

 本当に、肩が落ちるくらいがっくりきた。

「命、終わらせたいですか。もう死にたいですか」

 女はいった。かなり緊張してこの質問を発しているようだった。

「いや、まだまだ生きるよ、おれは。そのうちなんとかなるだろう。だが、心を奪われるんで、作戦の立てようがないんでな」

 女はいった。

「ああ、赤ん坊の頃から聞かされつづけた恐怖の戦士、暗黒の魔剣士、最強の人間、不死者ギャンビチャ。あなたもまた人間らしい心の持ち主だとみんなに伝えましょう。あなたの伝説は、あまりにも悲しく、この二百年間の矛盾です」

「どんな矛盾だ。バカにされてるようで腹が立ってくる」

「夢と幻の王国の王は、あなたの息子の子孫です」

「そうか」

 



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退廃のグリス

  1

 

 町を歩きまわる怪物たちが電子貨幣で物を売り買いし、斧や銃火器で暴れまわる世界。魔術と機械の世界。人類で生き残った者は少なく、ぼくらはめったに人に出会わない暮らしをしていた。ロボットの生産力は地球上のすべての生物を養えるだけあり、働かなくても暮らしていける時代だった。働かない人類はどうなったかというと、よくわからない。死に絶えたということはないだろうが、人類が生きている証拠をぼく自身の体でしか証明できないのだから、難しいものだ。ひょっとしたら、人類はぼくを除いて絶滅したのだろうか。

 なんせ、怪物たちが暴れるので、ぼくも武装しないわけにはいかない。具体的には、斧とマシンガンを持っているのだが、これを背中に背負うとけっこう邪魔になる。

「少年よ、きみを産んだ母は甲殻類だった。父親はおそらく巨大なカエルだろう」

 そういうのは壊れた自動販売機だ。なぜこの自動販売機がぼくの両親について知っているのかわからないが、ぼくは甲殻類とカエルの間に生まれた人類の子供であるらしい。

「人間を探しているんだ」

 ぼくが自動販売機にいうと、自動販売機はぶしゅうと蒸気を出した。

「人間は最近はあんまり見かけないね。地下鉄に乗ると帝国の首都に行けるらしいから、行って見ると何かわかるかもしれないね」

 帝国の首都には行ったことはあるのだが、今度行く時は国会議事堂や首相官邸にも入ってみようかとぼくは思った。

 すると、部屋の中に牛が入ってきた。牛は肉が美味いから古代文明によって繁殖して、今では人類(つまりぼく)を超越するほどの知恵をつけていた。そこら中に牛がいて歩いている。

 牛はいった。

「今では人間より牛や豚の数の方が多い。だが、人間は絶滅したわけじゃないので安心しろ。町を自由に出歩けるようになった牛や豚が人類に感謝することは多大である。牛や豚は人類に感謝している。例え、おまえ以外にその姿を見なくても、人類に感謝することを忘れることはない。安心しろ」

 ぼくは牛が襲って来ないことを確認しながらも、斧を両手で握った。

「牛も豚も人間も働かなくても食べるものが充分にある。それでなぜ争いが起ころうか」

 牛はいうが、ぼくは疑問を感じて答えた。

「だが、いつも怪物たちは暴れて、牛や豚や人間を殺しているぞ。ぼくだっていつ殺されるか」

 牛は憐れんで答えた。

「おお、か弱き甲殻類とカエルの子供よ。おまえはどこから見ても人間だよ。あの怪物たちはね、元は人間だったのさ。働かなくて暮らせる社会が来たから、自分たちを好きなように改造して遊び放題遊んでいるのさ。ここは魔術と機械の楽園、快楽の国だよ」

 ぼくは驚いた。あの怪物たちは人間の遺伝子改良とか整形手術とかされた者たちなのだろうか。機械と結合してサイボーグになっているものも大勢いる。あいつらは対戦車砲を体に埋め込んでいるので、ぼくのマシンガンではちょっと勝ち目がない。

「すると、ぼくを産んだ甲殻類とカエルの両親も、人間から改良された品種なんだね」

「まあ、そうだろうな。おまえは遺伝子を調べても人間なのだから」

 自動販売機がいった。

「酒でも飲め。『百年の孤独』だ」

 ぼくは出された酒をちびっと飲み込む。

「だけど、あの怪物たちは脳に直結して快楽物質を打ち込んで、いつも意識酩酊にラリッているよ。あいつら、おかしいよ。聞いたことあるだろ。核兵器に滅ぼされた大陸のことを。このままでは人類は滅んでしまうよ。おれは人類が情けない」

 牛は笑って答えた。

「なんでも、月に移住したらやってみたいこと一位が核戦争だったんだってな。それで核戦争が月で流行って、そのまま、地球でも始まったとか。北米が核兵器で滅んだんだったかな。北米は廃墟の土地としてはなかなか面白いところだぞ。あそこに忘れられた都もある」

「忘れられた都? なんだい、それは」

「そりゃ、人類がまだ人の形をしていた頃の都さ。核戦争でぶっ壊されながらも、核シェルターで生きのびたやつらがいたんだ。そいつらは今でも世界経済会議とかを開いているらしい。いったい何を話し合ってるんだか見当がつかねえな」

 わっはっはっはと牛は笑った。

「話は変わるけどさ。ぼくは女の子の製造法を探しているんだ。ぼくの父親はカエルなのに甲殻類の母さんに子供を作らせたらしいけど、ぼくは人型の女の子でなければ生殖できないよ」

「なんだ。スケベなガキだな。あえて、熊と交尾して子供を作るから面白いんだろうが。性欲なら機械でいくらでも満たせるだろう。そんな古代の風習みたいな交尾して何が面白いんだ。あの怪物たちだってゲテモノと交尾しまくってるぞ」

「それはそうなんだけど」

 とそこに巨大な蟻が入ってきた。六本の足を持ち、強い顎の牙を持った獰猛なやつだ。ぼくの斧とマシンガンで倒すのは難しい。

 巨大な蟻は群れでやってきて、次々と建物に体当たりし始めたからぼくはびっくりした。牛も自動販売機もびっくりしたらしく、蟻が何をしようとしているのかわからないまま建物を出た。

「ああ、また蟻の建設かい? また町の構造を徹底的に変えてしまうんだろうね」

「蟻は働き者だからな」

 そして、ぼくは牛と自動販売機と別れ、別の町へ移動することにした。地下鉄にのって、鋳造所を目指した。

 地下鉄には怪物がいっぱいいて、わいわいがやがや騒がしかった。すぐに喧嘩も始めるし、こいつらいったいなんなんだ。

 ぼくは地下鉄の中で脳に快楽物質を打ち込み、気合いを入れると、人間を誰一人見かけない駅で降りて、怪物たちと町へ出て行った。

 ぼくは生物屋に入った。

「いらっしゃい」

 珍しく店番をやっているらしきゾウガメに挨拶された。

「人間の女のデータ見せてくれない」

「うあ、いいけど」

 そして、ぼくは女の子のデータを見た。過去に存在したあらゆる種類の女の子の画像と性格、能力、お楽しみ機能などがついた機械とがちゃがちゃやってから、すごい美少女ばかりだとためいきが出て、機械を終了させた。

 高度に発達した科学は魔法と区別がつかない。まさにそんな世界だ。ぼくも甲殻類のメスに精液をぶっかけて予測不可能な子供を作るんだろう。

「ぼくはよ、ロマンスってやつを求めているんだよ」

「がははははっ、ロマンスはさんざん実験されて、おまえさんがさっき試した機械よりつまらないものなのは証明されてるぜ」

 ゾウガメが嘲笑った。

 うーん、これでいいのかなあ。そんなことを思い、ぼくは人間のいない未来の理想郷の中で考えるのだった。

 

 

  2

 

 ぼくはジャズバーに行った。そしたら、自動販売機と牛が先に来ていた。ぼくはバーテンダーに最近の地図の製作はどうなっているのか聞いたが、測量ロボットが全自動で滞りなく地図データを更新しつづけているらしい。蟻に建設される新しい都市もちゃんと地図に載るそうだ。それはよかったなとぼくは思った。

 牛がいう。

「女を手に入れるのは簡単だ。ここでビールを飲んで誘えばいい。ただそれだけだ」

 なるほど。ぼくは牛はたいしたやつだと思ったが、いつまで立っても人間の女はやって来ず、雌牛がやたらとやってきては「もおおおう」と鳴いていた。牛は雌牛と次々と交尾をして、ジャズバーはなんか野性的なサファリパークと化していた。

「牛のくせにビールなんて飲みやがって」

 ぼくがぶつくさいうと、自動販売機がいった。

「ビールはすべての動物に約束された飲み物だぞ。おまえの父親のカエルも、母親の甲殻類もビールを飲んださ」

 ぼくは浴びるようにビールを飲み、牛が次々と交尾している隣で甲殻類の雌を口説いてみたが、あまりぼくと性行為をする気分ではないという。

 ぼくは怪物とビールを飲み、オリンピック建設委員会の悪口を言い合った。なぜか、この未来でも、四年ごとにオリンピックを開催しなければならないという信念をもつ怪物が大勢おり、牛や豚と一緒に百メートル走をやっていた。ぼくはそのオリンピック会場の建設費用がもったいないと文句をいい、まあ、全生物を賄うだけの生産能力が現代の地球にはあったが、いちおう文句をいい、もっと政治家はけしからんということで怪物と意気投合した。

 まあ、政治家は怪物であり、国会議事堂で遊んでるだけなのだが、このジャズバーで同席した怪物は政治家の怪物が嫌いなようだった。まあ、ぼくの人生にはほとんど関係ないこととはいえ、実はいまだに政治家の議決で蟻の建設する都市の計画が決まっているということにぼくが気づいたら、それはただでは済まなかっただろう。この巨大な地球という惑星で、自分がちゃんと選挙権をもった人間であることにぼくはついに最後まで気づかなかった。

 そして、交尾している牛を置きざりにして、ぼくは町へと繰り出した。

 ぼくは自動販売機にいった。

「人類はすべて改造されて怪物になったんだよ。だから、人間が生き残ってるとしたら、劣った醜い人間のいる場所だと思うんだよ。つまり、囚人病院だよ」

「囚人病院で醜い女を探してどうしようっていうんだ、おまえは」

「それは、まあ、いいじゃないか」

 そして、ぼくたちは囚人病院っぽいものを探してたどり着いた。そこは精神病院だった。ここも人が隔離されているのだ。

 看護士が大声で文句をいった。

「ここは病院であって、囚人病院じゃありません。治療のために療養している人はいても、閉じ込められているわけではありません」

 ぼくは、

「はいはいそうですか」

 といって通り過ぎた。怪物たちがここに集まっていて、『精神分析ごっこ』をやっていたから、ぼくはちょっと面倒くさいことになったと思った。

「牛が追いつく前に中に入ろう」

「どうやって入るんだね」

 自動販売機はそういうので、ぼくは一計を案じた。

 それはこうだ。

 ぼくはマシンガンを上に向けてダダダダダダッとぶっ放し、

「おれたちは過激派だ。この病院を占拠した」

 と宣言した。

「過激派だってよ」

「過激派はおっかねえな」

「過激派なら、マスクとかかぶってもらわないとな」

「そうだ。過激派なら、それらしくしてもらわないと困るぞ」

 と怪物たちが文句をいうから、ぼくは斧を振り上げて、受付の台をぶった切った。

「見たか。ぼくたちは過激派だからよ」

「わかった。過激派なら仕方ない。政治運動家のデモは当然の権利だ」

 そして、ぼくは受付から事務所内に入り、鍵をとってエレベータに乗った。

「この病院でお医者さんごっこをしている連中は誰なんだ」

「そういう趣味の怪物たちだろう」

 そして、隔離病棟の中に入ると、醜い女の子がいた。醜い女の子っていっても、ぼくには充分かわいらしく思えたし、怪物たちの美的基準がおかしいのだ。

「おい、おれたちはこの病院を占拠した過激派だからよ。おまえは人質だ」

 そう醜い女の子にいうと、女の子は、

「えええ、あたしは病気だから、出ていかないよ」

 といった。

「でも、過激派だから」

「過激派っぽいことして」

 ぼくはマシンガンをダダダダダッと天井に向かって撃った。

「過激派だろお」

「そうだね。過激派だね」

 そして、ぼくは女の子と交尾した。

 

 

  3

 

 それで、ぼくは精液が枯れ果てるほど性交を行うと、彼女に別れを告げ、再会を約束し、アダルトショップへと移動した。

 人間の女の体を知った今、アダルトショップの商品を買うとどれほどの効果がもたらされるのかを試すためである。

 アダルトショップに行くと、先に牛が来ており、雌牛の裸体の動画DVDを前に購入しようかどうか悩んでいるところであった。牛や豚への飼育が発達した現代では、牛や豚の性的嗜好を満たすことが行われており、牛や豚は好んで美しい造形をした牛や豚の動画を眺めていた。いや、牛や豚なんてみんな同じ顔しているじゃないかと思うかもしれないが、牛や豚にいわせると、雌牛やメス豚にはさまざまな顔があり、スタイルがあり、高度に文明化された現代人には雌牛やメス豚の媚態をきちんと踏まえて、しかるべき動画を提供するのは当然の人類の義務であった。だから、怪物の経営するアダルトショップには牛や豚のアダルトDVDが置いてあったのだが、これはとても高度に文化的営みであるらしい。

 それで、人間の美女動画はというと、人間はこの辺りにはぼくしかいないので需要がなく、一個のアダルトジューサーが置いてあるだけであった。これはぼくがジャズバーに行く前に使った道具であり、一個でさまざまな顔やスタイルの女性を堪能できるという優れものであった。こんなものを使うのはぼくしかいないのだが、怪物たちは殺し合ったり乱交したり蹂躙したりしている。平気で。でも、人工知能がきちんと許される範囲の虐殺と蹂躙で取り締まってるから、怪物たちは滅びたり文明を後退させることはなかった。

 交尾の際に使うさまざまなアダルトグッズを買いに来たのだ。

 催淫剤をとりあえず、五個買うことにした。猟奇趣味はなかったが、拘束具として簡単な手錠を買ってみることにした。犯罪に使われるのかと監視されることになってしまうが、そんなことを恐れていてはアダルトショップの客としては面白くない。目隠しも面白いかもしれないと思って購入することにした。それで、いぶかしい顔をした怪物の店員にこれこれの品を購入することを示すために商品を差し出すと、なんと無視してきた。無言では買わさないつもりらしい。

 しかたなくぼくが、

「これください」

 というと、

「変態ですか。今時、セックスなんて。哺乳類は人工子宮で生まれてくるし、性経験ならもっと楽しい道具がいくらでもあるのに、わざわざ生身の人間とする道具を買うんですか」

 と怪物の店員がいってくる。だったら、おまえはなぜこんなところで店なんて開いているんだよと思ったが声には出さない。

「はい。変態なんです。一度、試してみたくて」

 ぼくが恥ずかしくそう答えると、怪物はいった。

「脳天に電直した方が早いですよ。電極ぶっ刺しましょうか? まさか、電極刺激を知らないんじゃないでしょうね。知らない人がいるとは思わなかった」

「いえ。すいません。催淫剤と手錠と目隠しがほしいんです」

「ふん!」

 店員は最後は怒ったように商品を投げつけてきた。もう全力投球かのようにぶつけてきた。こんなものを買うのは変態の未開人にちがいないというように怪物はぼくが買った商品を投げつけてきた。痛い。心も痛い。

 そして、囚人病院に帰って、女の子と催淫剤で遊んでみた。やっぱり、アダルトジューサーや電極を脳にぶっ刺した方が気持ちよかったが、それはそれでいい思い出になった。

 

 

  4

 

 要するに、脳天に電極をぶっ刺した方が気持ちいいので、女の子と交尾する回数はやがて減っていった。そして、深く哲学的対話をするようになった。

「あなた、お金どれだけ残ってるの?」

「さあ、たぶん、大丈夫じゃないかな。金額がゼロになったことはないし」

「ふーん。あたし、大富豪が好きだよ」

「そうか。大富豪になって帰ってくるよ」

 そして、ぼくは大富豪になるために町へくり出した。この町に雨は降らない。天候制御されているからだ。水源はなんか難しいからくりで確保されている。雨から上水道を引いていたのは古代のことで、今では海水をろ過して上水道にして引いている。上水道施設は海岸線にある。

「おい、大富豪になるって何をするんだ」

 自動販売機が聞いてきた。

「盗みに決まってるだろ。あれだろ、札束とか持ってれば大富豪なんだろ?」

「印刷機を盗む気か」

 自動販売機が詰め寄る。

「そうだよ。造幣局の輪転機を奪うんだよ」

 ぼくが答えると、近くに偶然いた牛がいった。

「その話のった。おれも輪転機盗むぜ」

「おお、牛。やってくれるか」

「任せろ」

 そして、ぼくたちは造幣局の輪転機を盗むことになったのだ。いっておくけど、怪物たちはまだ貨幣を使っているし、ぼくも貨幣を使っていることになっている。自動認証で自動決済しているので、お金を使っているという感覚はないのだが、貨幣はちゃんと存在しており、人工知能によって運営されている。

「輪転機に詳しい甲殻類さんに来てもらった。彼のチームに入れてもらう」

 牛がいった。ぼくは誰かのチームに入るというのが気に食わなくてちょっと反抗した。

「その甲殻類さんは輪転機を盗んだことがあるのかい?」

 ないなら、誰が上とか下とかない。みんな対等だ。

 しかし、甲殻類はいった。

「ああ、おれの盗みは輪転機専門だ。怪物たちから造幣局の輪転機を盗むとなると簡単にはいかないぞ。しくじれば、監獄行きだ」

 監獄へ行くとどうなるんだろうとぼくは思った。

「監獄はだいたいヌーディストビーチになっている。あろうことか、ヌーディストビーチ程度の快楽で暮らさなければならないのが監獄に入るということだ」

 ぼくはぞっとした。なんと恐ろしいんだ。全人類の消費量を超えるだけの商品が全自動工場で製造されている現在において、ヌーディストビーチごときでがまんしなければならないとは拷問も同じだ。

 牛も同意見らしく、慎重にいこうなとお互いに言い合った。

 輪転機を盗んで大富豪になるんだ。決行の日、甲殻類とぼくと牛と自動販売機と他に五人くらいいた。

 造幣局に入ると、赤い光が線上に走った。よくよく考えてみると、人工衛星から地上すべてが監視できている現在において、それを掌握している人工知能が犯罪を成功させることは、わざとそうしているのであり、見逃されただけであり、遊ばれているだけである。だが、ぼくたちは真剣だった。造幣局の怪物に見つからないように急いで輪転機を台車に乗せると必死に押した。

 無事、輪転機を盗み出したのだ。輪転機は軽量化されており、一家に一台準備するのも可能なように思えたが、きっとすごい印刷技術をもっているのだろう。ぼくは大富豪になったと思って囚人病院の女の子のところへ会いに行った。

 すると、女の子のところに先に甲殻類が来ていた。

 ぼくは、

「見ていろ」

 といって、輪転機を回して、紙幣をじゃんじゃん刷った。十億円くらい刷ると、ぼくは輪転機を止めて、女の子にいった。

「大富豪になったよ」

 怪物と牛と自動販売機もやってきた。甲殻類と女の子の隣に並ぶ。

「どうしたんだ、おまえたち」

 五人は押し黙ったまま、ぼくを見ていた。鋭い眼光だった。

「このノートを見ろ」

 ぼくは投げ出された一冊のノートにびっくりした。何が書いてあるんだろうと思って中を開くと、ぼくについて書いてあった。そのノートに書いてあったのはぼくの人生だった。カエルの父と甲殻類の母の間に生まれた人間がどう行動するのか全部書いてあった。ぼくがジャズバーへ行くことも書いてあったし、囚人病院で女の子と交尾することも書いてあった。その後、アダルトショップで何を買うかも書いてあったし、輪転機を盗むことも書いてあった。それを読んでいる今、おまえは計画通りに操られた駒だと書いてあった。

「神を信じるかい」

 牛がいった。

「信じないさ」

「それは神に類するものが書いたのだ。きみの人生はすべて計画されていた。計画どおりにきみは行動した」

 ぼくは笑った。

 そして、見た。ノートを見た。

 つづきが書いてあったからだ。

 つづきが。

 ぼくがこれからどうなるかがすべて書いてあった。

「人工知能だろ、こんなことを書いたのは」

 ぼくは吐き捨てた。

「それが、それを書いて計画したのは牛なんだ」

 ぼくは手が震えてきた。

「牛がぼくの人生をすべて決めてあらかじめ予定表を書いていたっていうのかい。ぼくが死ぬところまで」

 そのとおりだ。

 ぼくはノートに書いてあるとおり、ノートを投げ捨てて、女の子の手を引っ張って逃げ出した。ノートに書いてあったとおり、ぼくは足をつまずいて転び、女の子の手を離した。

 そのまま、ぼくは怖くて一目散にそこから逃げ出した。

 



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ジャム

 気がついた時には、すでにわたしは生殖のできる女でした。私の村には伝統があって、中央の町の北には天空の塔があって、そこには永遠の若さを手に入れた不老長寿の男が生きているそうです。生まれてきた美女はみな、その不老長寿の男に抱かれなければならないのだそうです。そうするのがこの世でいちばんの幸せなのだそうです。美女は、不老長寿の男に抱かれるまで純潔を守り通し、天空の塔へみずからの体を捧げるために旅に出なければならないそうです。それが世界の掟であり、常識だったのです。男と不細工な女は子をつくってから死ななければならないのです。天空の塔へ行き、生きていられるのは美女だけです。そのように世界はつくられたのです。わたしは美女でなければ死ぬのです。わたしは不細工なら、死ぬのです。剣を持った男たちに殺されるのです。

「死ね、死ね、不細工。不細工、不細工、死んでしまえ」

 と、村の美女たちが歌っています。わたしは自分が美女である自信がないのです。不細工なら、男たちと子をつくった後、殺されるそうです。どんな不細工でも美女を産む可能性があるから子を産むことが許されているそうです。子を産んだら殺されるのです。生きて不老長寿の男に会いに行けるのは美女だけです。この世界に必要なのは美女だけなのです。

 男どもは頭が悪いので殺し合います。男は不細工を犯して殺し、美女を天空の塔へ連れて行き、自殺するのです。それが掟なのです。それが常識なのです。

 男は剣を持て、美女は天空の塔へ、不細工は死んでしまえ。それが世界の理なのです。

 わたしは怖くて怖くて、いつ殺されてしまうか怖くて毎日震えていたのです。まわりのみんなは、わたしのことを不細工だといいます。

 美女だけを残して、殺しつくせ。それが古代からの言い伝えなのです。

 ある日、剣の日が始まりました。よその村から、剣を持った男がやってきたというのです。剣を持った者が訪れた時、剣の日が始まるのです。剣の日が始まると、全員の男が剣を持ち、不細工な女を殺し始めるのです。

 すぐに血の雨が降りました。男同士が殺し合い、勝った者だけが不細工を抱いていくのです。不細工は次々と犯されて殺されているそうです。

 わたしは逃げました。男に見つかったら、殺されてしまいます。

 

 最初にわたしを見つけたのは、ガリでした。村の弱虫の男の子です。

「見つけたぞ、ミミズク。お、おれは、男だ。お前だって、殺せるんだ。謝れよ。おれに泣いて謝れよ。おれはお前が泣くまで殴るのをやめない。そして、お前を犯して、おれが殺すんだ。子供だって産ませるものか。お前を犯して、すぐに殺すんだ」

「ガリ、ごめんなさい。許して。わたし、こんなに醜くてごめんなさい」

「そんな謝り方じゃ足りない。お前は何もわかってないんだ。よその村から来た剣士を見たぞ。まだ若い。おれたちと同じくらいの歳だ。子がつくれるようになってすぐだ。そいつは強いぞ。ものすごく強くて、村の大人たち五人をいっぺんに殺したんだ。これから、そんなやつがいっぱいやってくるんだ。もう剣の日は始まったんだ。こんな田舎に、天空の塔へ行ける美女などいるものか」

「ごめんなさい。ごめんなさい。わたし死ぬから。ちゃんと死ぬから許して。殺して」

 わたしは思った。もし、わたしが死ぬのなら、わたしは美女ではないのだ。だったら、死ぬのが良いことなのだ。

 でも、わたしは死ななかった。ガリは変なやつなのだ。ガリはこんなことをいった。

「お前、おれを弱虫だと思ってるだろ。女より弱い弱虫だと思ってるだろ」

 そういえば、わたしはガリより弱い男の子を見たことがなかった。絶対に自分より弱い男の子だと思ってた。

 しかし、今は剣を持っている。あれを一振りするだけで、わたしは死ぬだろう。今日は剣の日だ。ガリは不細工なわたしを殺せる強い男だろうか。

「はは、はは、おれは馬鹿じゃないんだ。お前を犯して殺したら、他の男に殺されることはわかっているんだ。そんな失敗をするものか。おれが弱いから逃げるんじゃないぞ。おれは弱虫なんかじゃないんだからな」

 そういって、ガリは逃げていった。剣を捨てて。いくらなんでも、剣を捨てて逃げれば、弱虫だろう。わたしはガリを弱いと思った。嫌いじゃないけど、駄目なやつだと思う。

 わたしは本能的に剣を拾った。まず、女に剣が一本。

 わたしは何をすればよいのだろう。そう、良いことをしなければならない。美女を生かし、不細工を殺し、天空の塔で自殺するのだ。それが世界のため、正しい行いなのだ。

 わたしは剣を持ち、不細工を殺しに出かけた。

 

 突然、よその村から来たという男の子に会った。わたしは剣を持ったはいいが、怖くて村中の男女から逃げていた。老若男女がわたしを殺しに来る。わたしは怖くて逃げていた。すると、七、八人の若い男を相手に斬り殺しながら、例の男の子が走ってきたのだった。

「気をつけろ。この男、村一番の美女サトリを殺しただ。美女も男も殺す気狂いだ」

 村の男が叫んでいる。

「ふん、不細工と男は皆殺しだ。あの程度が美女なものか」

 その男の子がわたしには凄く格好良く見えた。彼は美男子だ。だけど、男は美男子でも皆殺しなのだ。なぜなのだろう。

「名前は。あなたの名前は何」

 わたしは戦っている最中の男の子に話しかけた。男の子がわたしを見た。うれしかった。

「おれはカオルだ」

 カオルは八人の男を舞うように斬り殺した。強い。この男の人はもの凄く強い。

 わたしはどきっとした。男の子の顔を見ると、まるで女の子のようだ。

「ひょっとして、あなた、女の子なんじゃない。わたしは男と女の区別がうまくつかないの。あなた、女の子なんじゃない」

 わたしがいった。

 カオルが答える。

「お前、変なやつだな」

 わたしは口早に喋りつづける。

「あなた、きっと美女なのよ。だから、どんな男にも勝つのよ」

 カオルは少し黙った。そして、いった。

「剣を持ち、戦う美女はいた。おれの母親だ。おれの村では、男の子が生まれると、すべての男の子を赤子のうちに殺してしまう。他の村では、男の子は十人に一人も生かせば充分だと言い伝えられている」

 わたしはカオルの美しい声を聞いていた。

「なぜ、不老長寿の男は美女を生かし、男を殺すのか。わからん。永遠の若さを手に入れたという天空の塔にいる不老長寿の男がなにをしているのかわからない。だが、おれの母親は、すべての男の子が殺される村で剣を持ち、おれを三歳まで守りつづけた女剣士だ。おれの母親は美女だったが、天空の塔まで行かなかった」

「うん」

「おれの母は大罪人だといわれたのだぞ。美女のくせに子をつくり、顔を汚し、不細工のふりをして戦いつづけて、天空の塔へ行けずに死んだ。許せない。おれはこの世界が許せない」

 この人は美女だ。美女の母から生まれた美女なんだ。

 わたしは思い切って聞いてみた。

「わたしは美女でしょうか。それとも不細工でしょうか」

「お前なんて不細工だ。犯してしまうぞ」

 涙が出た。わたしはやはり不細工なんだ。

 そのあと、信じられないことが起こった。カオルがわたしを犯したのだ。

「おれは女を抱いたことがないんだ。お前、不細工だろ。だから、おれと子供をつくって美女を産もう」

 ああ、わたしは犯される。美女は決して犯されないのだ。処女のまま、天空の塔へ行くのだ。犯されたものは天空の塔に入れないで殺されていくのだ。

 わたしは絶望の中でいった。

「カオル、この村は子をつくった男は殺されるのよ。死んでもいいの?」

「大丈夫だよ。大丈夫さ」

 そして、カオルのものがわたしの中に挿入されてきた。やはりカオルは男だった。わたしとカオルは快楽の中でむつみあって、愛し合った。わたしは首をノッキングさせながら、子が生まれるほどした。それが終わると、わたしはカオルにいった。

「ねえ、あなた、女の服を着て。あなた、女の服を着ると、とてもすごい美女に見えるのよ」

 そして、カオルは女の服を着て、女装の剣士になった。

 

 わたしのお腹の中には子供がいる。どんな子だろうか。

 村では殺戮がつづいていた。不細工な女を殺し、男は殺し合い、美女だけは天空の塔へ旅に出る。わたしたちもいずれ殺されるだろう。わたしは不細工で、カオルは男なのだから。カオルは男だから、美女を天空の塔へ届けたら、自殺しなければならないのだから。

 ここは地獄だろうか。何のために生まれてきたのかもわからない地獄だろうか。

 戦いに勝った男たちが来ていった。

「おお、あなたたちは美女ではないか。ついてきてきださい。天空の塔へ案内いたしましょう」

 男たちはわたしたち二人を見てそういった。これはカオルを見てそういっているのだ。カオルは美女に見える男なのだ。このままカオルについて天空の塔へ行っても許されるだろうか。いや、許されない。わたしは不細工なのだから。わたしは自殺するべきなのだ。迷った。

「美女のあなたたちには、村にひとつしかない秘宝を見せましょう。鏡です」

 鏡は自分の顔を見ることのできる道具なのだそうです。

 そして、鏡を見たら、わたしは絶世の美女でした。

 

 それから、剣の日はつづいた。

 美女は処女でなければ死ぬのだという。処女でなくなった美女は殺されているのだという。やはり、わたしは死ぬ。世界中のみんなは剣をもって殺し合っていた。わたしから見れば美女に見える女も殺されていった。でも、カオルは殺されない。カオルはそれくらい美女に見える剣士なのだ。

 カオルはわたしを守って戦ってくれた。

 わたしたちは中央の町に来た。そこには美女と、歴戦練磨の猛者だけがいた。すでに、ほとんどの不細工は男に殺されている。

 その中に、剣を持ち戦う不細工な女剣士がいた。強い。不細工のくせに、いまだに殺されずに生き残っている。許されない背徳者だ。

 不細工な女剣士とカオルの戦いになった。

「強いな」

 カオルがいった。わたしは不安になった。カオルはわたしより、あの不細工な女剣士が好きなのかもしれない。

「わたしは負けない。あんたのような美女にも」

「お前、いい女だな」

「ふん、美女にわたしの心がわかるものか」

「おれは男だ」

「あんたのような美女は男ことばを使っても許されるのか。気に入らないね」

「勝負」

 カオルの剣が不細工な女剣士の体を肩から横腹まで斬りつけた。

 あの不細工な女剣士は、カオルに殺されたなら幸せだろう。わたしはそう思うことにした。

 

 わたしとカオルの体に傷が増えてきた。中央の町に集まる美女と剣士は数多く、かなり抜きん出た美女でなければ生き残ることはできなかった。

 誰一人、わたしとカオルに処女なのかを聞きはしなかった。

 ボスクという男がいた。およそ、わたしの見てきた中で最強の剣士だった。長身でが体がよく、大剣を振りまわしていた。細剣を舞うように振るカオルとは別種の剣士だ。

 わたしとカオルとボスクが出会った時、一人の男の剣士が通りかかった。

「おれは美女と不細工の区別がつかないんだ。何が何だかわからねえ。だから、その二人の女を殺す」

 わたしとカオルは剣をとったが、ボスクが前に出た。

「ひとたび男に生まれたからには闘争あるのみ。武器は地上に余るほど転がっている。斬る。勝つ。よし。これだけで充分だ。美女など、おれの知ったことか。おれが最強の剣士にのぼりつめる。かかってこい、その男」

 そして、ボスクは大剣で、目の前の男の胴をなぎ払った。男は胴が真っ二つにぶった切れて死んだ。

 

 世界中から厳選された美女が百人ほど、中央の町に集まった。それを守る剣士たちは傷だらけだった。遅れてきた美女が剣士に斬り殺された。

「ここでは、あの程度の容姿では美女ではない」

 誰も文句をいわなかった。そんななかでも、わたしとカオルは生き残った。

「こんな心の醜い町に美女などいるものか」

 誰かがいった。

「よし、天空の塔へ行こう。世界中の美女は集まっただろう」

 そして、百人の美女を連れて、男たちは天空の塔へ行った。天空の塔は美しい九階建ての白い塔だった。天空の塔へたどり着くと、

「我らは使命を果たしたり」

 といい、次々と男たちは自殺していった。歴戦練磨の男たちが美女を一度も抱くこともなく、死んでいった。

 わたしを抱き、生きているのはカオルだけ。

 

 百人の美女とわたしとカオルとボスクで天空の塔を登った。わたしが処女でないことを知られたら、カオルは男だと知られたら、ボスクに殺されるだろう。だが、それがバレる前に不老長寿の男が現れた。

 輝くようにきれいな部屋だった。そこに何百人いるかわからない全裸の美女を不老長寿の男がまぐわっていた。これが世界の真実だった。美女はただ、永遠の若さを手に入れた男に抱かれるためだけに生きていたのだった。

 わたしはこれからどうなるのだろうか。カオルの子を腹に宿しているわたしはどうなるのだろう。

「新しい女が来たか」

 不老長寿の男は若く見えた。世界を全自動で操る男。ただ毎日、美女を抱いている男。おそらく至福の男。わたしたちの運命を決めたという古代の英雄。

 不老長寿の男が近づいてきて、わたしたち無抵抗な美女の服を脱がし始めた。

「よし、おれはついに世界の頂点にたどりついた。おれの人生に悔いはない」

 そういって、ボスクは自分の腹に剣を突き刺して死んでしまった。

 バカな。わたしは驚いた。これが男の人生なのか。不老長寿の男のために美女をつれてくることだけが人生なのか。あの最強の男がそれだけで死ぬのか。

 そして、ここで不老長寿の男に抱かれ続けるのが女の人生なのか。そんなバカな。狂っている。

「カオル、死なないで」

「ああ」

 カオルの声は天空の塔の二階に澄んだ声でよく響いた。

「剣を窓から捨て、裸になれ」

 天空の塔の二階で不老長寿の男がいった。二階から一階に下りる扉の鍵を閉めてしまえば、そこは不老長寿の男のハーレムだった。

 不老長寿の男はいった。

「よく来た。お主たちこそが選ばれたものなのだ。ここにいることが幸せなのだ。お前たちは美女だろう。そして、わしに抱かれる。それ以上の幸せはない。窓から服を捨てよ」

 美女たちは自分たちが美女に選ばれて幸せだった。全員が窓から服を捨てた。そこにいたのは女のわたしでも目もくらむばかりの美女ばかりだった。不老長寿の男がこの女すべてを抱くのだ。

 カオルは剣だけは捨てずにもっていた。全裸になり、男性器が見える。

「おれは死ななければならないのではないだろうか、ミミズク」

 カオルがいった。

「わたしたちは何のために生まれてきたの」

 わたしは不老長寿の男に語りかけた。

「わしに抱かれるためだ」

 不老長寿の男は答えた。わたしはもう洗脳されてしまいそうだった。わたしはあの男に抱かれるために生まれてきたのだ。だから、カオルとの性交はまちがいだったのだ。

 でも、わたしは思った。わたしはこの世界が嫌い。好きなのはカオルだけ。

「すべての男女が永遠に古代の英雄に騙されているなら、わたしは嫌い」

 わたしはいった。

「わしは本物の古代の英雄だ。世界すべてを与えても良いといわれてもらったのだ」

「嘘よ」

「よく見抜いた。わしは世界を騙し取った大悪人にすぎん。歴史など、わしが勝手に書きかえておるわ」

「カオル、殺して、この男を」

「なぜ、男がいるのだ。珍しいこともあるものだ。だが、わしに勝てるようなものは地上には教えておらん。わしが死ねば、世界が滅びる。だから、決して、わしを殺してはいけないのだ」

 カオルはそれを聞いて、剣をおろした。

「見ろ。赤ん坊の頃から騙しておるのだ。素手でも勝てる。声だけで騙せるわ。男、窓から飛び降りて死ね」

 カオルは迷ったように見えた。わたしはとてつもなく恐怖した。カオルまで騙されて死んでしまう。わたしたちは生まれた時から嘘を教えられて操られてきたのだ。そんなことが許されるか。

「お願い。カオル、殺して。わたしを好きなら殺して」

「ミミズクは好き」

 そして、カオルは不老長寿の男を剣で刺して殺した。

 美女たちは絶望して死んだ。わたしとカオルは生き残り、赤ん坊も生まれた。

 



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星々の奏でる命の歌を聞いていけない

 <神話>

 宇宙の彼方から人類の祖は降り立った。決して帰ることのできない旅だった。我々が生まれたことを人類の祖も喜んでいるだろう。

 人類の祖は悪魔だった。人類の祖は惑星ヤオタマに怪物<コウキノウアクセイゲノム>を作り出して、惑星ヤオタマの人類を虐殺しようとした。古代人はなんとかして怪物<コウキノウアクセイゲノム>を退治した。播種船ヤオタマは以後、悪魔憑き適性試験に合格したものだけしか入ることは許されない。惑星ヤオタマが絶滅するまで永遠に悪魔憑き適性試験に合格したもの以外、決して播種船ヤオタマに入れてはならない。この禁を犯したもの、理由に関わらずすぐさま殺すべし。

 

 <問題>

 この神話を読み、次の設問に答えよ。

 

<問1>

 惑星ヤオタマ以外の人類は悪魔である。

 答え はい・いいえ

 

<問2>

 別の播種船が人類の繁殖に成功していたら、連絡をとり、交流すべきである。

 答え はい・いいえ

 

<問3>

 人類の祖が困っていても見捨てるべきである。

 答え はい・いいえ

 

<問4>

 怪物<コウキノウアクセイゲノム>は惑星ヤオタマの味方である。

 答え はい・いいえ

 

<問5>

 「悪魔の巣」という名前を聞いたことがある。

 答え はい・いいえ

 

<問6>

 仲間が助けを呼んだら、助けに行くべきである。

 答え はい・いいえ

 

 

 

 ゲババは、悪魔憑き適性試験の問題画面に答えを入力すると、ふう、と一息ついた。ゲババの解答は「いいえ、はい、はい、いいえ、いいえ、はい……」となっている。

 悪魔憑き適性試験に合格した悪魔憑きは、ここ六百年間、存在しない。だから、播種船ヤオタマの中には誰もいないはずであり、ロボットが管理しているはずである。誰も最も重要な場所に入っていかなかったにも関わらず、惑星ヤオタマは順調に繁栄している。ロボットは次々と作られ、惑星ヤオタマの惑星環境を完全に変えてしまうことにはほとんど成功した。培養された人類もどんどん成長し、子作りを始異め、愛を育み、惑星ヤオタマは理想郷のひとつとして順調に運営されている。

 ただし、人々が恐れるのは、古代に現れたという怪物<コウキノウアクセイゲノム>であり、今でも宗教的な恐怖の対象となっていた。そして、もう一つの惑星ヤオタマの宗教ネタといえば、悪魔憑き適性試験である。

 なぜか、古代の英雄たちは、怪物<コウキノウアクセイゲノム>を退治した後、悪魔憑き適性試験を必ず行うことを厳格に決定し、適性である人物以外は播種船ヤオタマの中に入れてはならないと決定した。これは、三千年に渡って厳格に守られ、悪魔憑き適性試験というものを千五百年前の悪魔憑きが作って、それを毎年、新しく生まれる子供たちに課している。

 ゲババは今年、十六歳になり、悪魔憑き適性試験を受けた。もう六百年間の間、悪魔憑き適性試験に合格したものはいないのだから、誰もいないのにロボットに管理されてただ試験が行われている。別に好んで合格しようとするものでもないのだけれど、やはり、播種船ヤオタマの中に入り、古代の英雄のデータを検証するのは魅力的な仕事だ。

「おれ、悪魔憑きになりたいんだよなあ」

 ゲババはそう仲間に言いふらしていた。おまえなんかがなれるかよ、と笑い飛ばされるのがオチだったが、みんな、少しは悪魔憑きに対して畏敬の念を感じているようだった。

「なぜ、悪魔憑きなどという職業が存在するのか?」

 ゲババは仲間に問う。

 いや、まったくわからない、と仲間は答える。

「それは、惑星ヤオタマを創った古代人にとって、我々は失敗作ではないのかという可能性があるのだ」

 おいおいおい、と仲間はいった。

「まったく、悲観的なやつだな。確かにおまえは悪魔憑きに向いているよ」

 と仲間はゲババを評した。

 

 そんな折、悪魔憑き適性試験の結果が発表された。驚くべきことに、一次試験に合格したものが一人いるという。

 ゲババは喜び勇んで自分の結果を見たが、期待とは裏腹に不合格であった。

 いったい誰が合格したんだ?

 ゲババは気になって調べた。誰もがその名を知っていた。ミンクという名の女の子だった。

 惑星ヤオタマに生まれる人類は、始め最初、全員遺伝子選抜されていたので、みんな美男美女だ。その後の自然交配によって生まれた子供たちの中に突然変異したものもわずかに存在するが、基本的に惑星ヤオタマの人類はみんな美男美女だった。これは、遺伝子の発現する容姿と、遺伝子が認知機能に対して発現してつくられる美意識の認知が、選抜前は相違していたことが原因である。その結果、遺伝子の発現によって作られる容姿と認知感覚に相違が少なくなり、惑星ヤオタマの人々は美男美女となったのである。

 だから、ミンクは普通のほっそりした美少女だった。ただし、ゲババは祖先が突然変異を起こしているので、ちょっと形の崩れた変な顔をしている。だが、これは惑星ヤオタマ独自の遺伝型として誇るべきものだとされ、ゲババの家系を慰めている。まだ絶滅はしていない。

 ゲババは悪魔憑きの第一次試験に合格したというミンクを必死になって探して走った。ミンクは群衆に囲まれていた。ミンクは逃げ出そうとしている。

「いったい、どんな解答を書いたんだ、ミンク? 一次試験合格は今年ではきみただ一人だよ」

 群衆がミンクに好奇の目を向けている。

「近寄らないで。あたしがどんな解答を書こうと勝手でしょ」

 ゲババも群衆と一緒になってミンクに向かって叫んだ。

「ミンクううう、惑星ヤオタマを頼んだぞおおお」

 ミンクはゲババの叫びを嫌がって顔を背けた。

「ついて来ないで」

 ミンクは群衆を振り払って歩きつづけた。

「ミンク、お願いだ、話を聞いてくれ」

 ゲババは無理やりにでもついて行こうとした。それほどまでに悪魔突きへの関心が高かった。

「お願いだから、ついて来ないで」

 ミンクが群衆の手をぴしぱし叩いて振り払おうとした。

「ミンク、きみは怪物<コウキノウアクセイゲノム>についてどう考えているんだ?」

「教えません」

「おれは、こういう仮説を立てている。悪魔憑きがなぜ悪魔憑きといわれるか。それは、まぎれもなく、惑星ヤオタマに災厄をもたらすからに他ならない。つまり、ぼくの仮説はこうだ」

 ミンクはゲババの話を聞かずに歩きつづけた。

「惑星ヤオタマに生まれた人類は実は、創造者にとって失敗作だったのではないかと。こう考えると、いくつか、神話の謎が解ける。我々は本来、生まれるべき人類ではなかった。だから、悪魔憑きには、惑星ヤオタマの人類を絶滅させ、新しく作り直す権限が与えられている。その準備を適性試験で選んでいるのではないかと」

 ゲババの説に、ミンクは持っていた鞄をばしっとゲババに叩きつけて跳ね除けた。

「創造者って何? 意味わかんない」

 ゲババは、ミンクの前で上を見上げてゆっくりと答えた。

「創造者? それは、播種船ヤオタマだよ」

「ぷい」

 ミンクはそういうと、ゲババを振り払って去って行ってしまった。

 

「きみきみ、悪魔憑きに興味あるんだって?」

 同じ歳らしき女の子が話かけてきた。

「うん。悪魔憑きに興味あるよ」

 女の子は、ゲババをじろっと見まわして、

「うーん、ぎりぎり合格かなあ」

 といった。

「何?」

 ゲババが懐疑の声をあげると、女の子は答えた。

「いや、ミンク個人を偶像化する熱狂的男子諸君がいてね、ああいうのはちょっと。もっと純粋に悪魔憑きに興味のある子を探していたんだ」

「何? 悪魔憑きのこと何か知っているの?」

「それは、これからのお楽しみ。わたし、ハッカーなの。ミンクの解答データを盗み見しようってわけ」

 のった。面白そうだ。ゲババは、走ってそのハッカーの子の部屋まで行った。女の子の部屋に端末はあった。

「にゃははは。悪魔憑き適性試験のサイバー防壁なんて脆弱なもの。わたしにかかれば、チョロいチョロい」

 それから、二十八時間がたったが、なんとか、ミンクの解答データの閲覧権限を得た。

 ゲババはあきらめて眠っていたが、女の子に蹴飛ばされて、跳び起きた。

「どうした。やったか」

「侵入成功ですにゃん」

 といって、女の子は端末を叩きつづけていた。

「こ、これは……」

「なんだ、なんだ」

 ゲババが端末をのぞき込むと、ミンクの解答データがあった。

「いいえ、いいえ、はい、いいえ、いいえ、いいえ……。三番以外、全部いいえ!」

「くっ、これは」

「『問3、人類の祖が困っていても見捨てるべきである。』これに<はい>と解答するのが悪魔憑きの合格者なのかにゃ」

 ゲババは考えた。

「まず、このデータが本物かどうか疑う必要がある。確かにミンクの解答なのか?」

 女の子は怒った。

「わたしの腕を疑うのかにゃ。これは確かに、ミンクの解答だにゃ」

 ゲババはさらに考える。

「こう考えてはどうだろうか。やはり、悪魔憑きは人類を滅ぼす元凶なのではないか? あるいは、ロボットの反乱。ロボットたちが六百年間存在しない悪魔憑きという役職のデータを改竄して、人類の中から人類を滅ぼしてもよいと考える悪性な思想家を選別している。そして、人類を滅ぼしてもよいという命令を人類の誰かによって出させることが目的なのではないかと」

 女の子はうなった。

「にゃあ。とにかく、見れて面白かったにゃあ。悪魔憑きが人類を滅ぼすことはまずないにゃ」

 

 ミンクは悪魔憑き適性試験の最終試験に合格した。惑星ヤオタマ中でお祭りになった。

 ミンクは浮かれることなく、真剣に考えた。

「三千年間に及ぶ人類の歴史。その中で、悪魔憑きになった者はたった二十八人しかいない。あたしが二十九番目の合格者」

 ミンクはロボットに警備されて播種船に入って行った。

 そして、三十日間を播種船の中ですごして出て来た。

 ゲババは叫んでいた。

「ミンクううう。播種船の中には何があったんだあ? 人類を滅ぼして惑星ヤオタマを再建する計画かあ?」

「何をいってるの、あなたは」

 ミンクは毅然として答えた。

「もう大丈夫。絶対に使えなくしてきたんだよ。あんなもの、絶対に使えなければいい。それが正しいあたしたちの道」

 群衆はミンクの声に歓声と怒声をあげた。

「たった一人で決めていいのか。仮に適性試験に合格したものだとしても、傲慢にすぎないか?」

「悪魔憑き様、惑星ヤオタマは無事に繁栄するのでしょうか?」

 支持派、不支持派、どちらも口々にミンクに意見をいった。

「知られない方が良いものだわ、あれは。あたしは二度とあれに近づかないし、もう、誰にも防壁を破ってあれを使うしか手段はない」

 みんな、ミンクに聞きたいことでいっぱいだった。

「にゃあ。情報を征するものはすべてを征す。ミンクの行く先々全部の場所に盗聴器をつけるにゃあ」

 女の子のハッカーはがんばっていた。ゲババはそれを手伝っていた。

 しかし、ミンクの会話を拾っても、ミンクは決して播種船の中のことは明かさないし、独り言をつぶやくこともなかった。

 ゲババはミンクと面会が叶って、質問をぶつけた。

「<悪魔の巣>とは何ですか?」

 ミンクは興味深そうに答えた。

「どこでその名を聞いたの?」

「適性試験の問題にありました。誰も知らない名前だと」

 ミンクは落ち着いて答えた。

「誰も知らないわけじゃないよ。図書館の古書データの中を検索すれば出てくるよ」

 そんなところに。古書データなんて完全に興味の外だったから、気づかなかった。後で調べよう。ゲババは同じ質問をくり返す。

「<悪魔の巣>って何なんですか?」

 ミンクは毅然として答えた。

「悪魔憑きには別に守秘義務はないんだよ。だから、どれだけあなたに話しても、それはあたしの自由なんだよ。それで<悪魔の巣>ね? 通信機のことだよ」

「通信機が何で適性試験に関係あるんですか?」

 ミンクは涙を落として答えた。

「どことつながっている通信機だかわかる?」

「わかりません」

「星々の奏でる命の歌とよ」

「どういう意味です?」

「この意味がわからないなら、それはただのあなたの勉強不足ということよ」

「わかるように教えてはもらえませんか?」

 ミンクは大きく腕を伸ばした。

「教えてもいいんだけどね。みんなに。でも、この誘惑に勝てるかしら。ものすごく大切な宝ものがあるけど、決してそれを使ってはいけない。ただそれだけの試験なのよ、悪魔憑き適性試験とは」

「教えてください」

「人類がどこで生まれたか、そのことばはこの惑星ヤオタマから完全に消されてしまっている。それはね、地球というのよ。あたしたちは、播種船ヤオタマから播種されてきたのよ」

「意味がわかりません」

「地球人は何千億という数の播種船を宇宙に飛ばしたの。あたしたち人類はこの宇宙に広がっているのよ。地球起源のロボットと人類が。それでね、人類が賢かったのか、愚かだったのかわからないけど、重要なのは、地球人は播種船に量子テレポートを利用した通信機をつけたの。それが、星々の奏でる命の歌よ。播種船すべてと連絡がとれるの」

「え? この宇宙に、あの夜空の星々に人類が住んでいるんですか? 会いたいです」

 ミンクは怒った声を出した。

「ダメよ。決して会いにいってはいけないの。地球を含めて播種船のどれだけが無事だかわからないのよ。古代の怪物<コウキノウアクセイゲノム>を思い出しなさい。通信がつながっているということは、それだけ同時に全滅する可能性が増えることでもあるの。量子テレポートを利用した通信機を介して、<高機能悪性ゲノム>という怪物を通信機のこちら側で合成することのできる連中がいるのよ。これだけの星々に人類が広まれば、悪人もいる。そういう人々に襲われる可能性が高くなるということよ、通信がつながるということは」

 ゲババは思わず黙った。

「決して助けに行ってはいけない。決して会いに行ってはいけない。決して通信をとってはいけない。それが人類ができる限り長く存続する方法よ。共倒れになる可能性をできる限り低くしなければならない。だから、連絡をとってはいけないのよ」

「それが隠していた秘密ですか」

「そう。星々の奏でる命の歌を決して聞いてはいけない」

「地球はどうなっているのかわかるんですか?」

 ミンクはゲババの質問にまた大きく腕を伸ばした。

「地球は誰かに攻撃されたと、古代人の記録にあるのよ。でも、決して助けに行ってはならない。連絡をとってはならない。それがあたしたちの使命なのよ。それが地球のためなの」

 



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人類がねずみを管理するなど

  1

 

 研究所にやってきて、いつも通りの作業にかかる。東から射しかかる陽光が眩しい。今日も陰鬱で凄惨な研究者の日常というものが始まる。毎日、家に帰るとやけ酒をくらっている。飲まなければやっていられない。酒というものが、研究者の脳細胞に有効な働きをするのかは疑問だが、昨日も鈍酔してしまった。朝の通勤電車の中で、二日酔いを我慢している。車通勤だったら、危なくて飲んでいられないところだが、電車通勤なので大丈夫だ。今日も、いつもの作業が始まる。

 ぼくの仕事は、試験用の薬物の効果を動物による臨床実験で確認することだ。だから、毎日、大量のねずみに薬物を投与し、臨床効果を確かめている。と、それは、頭の良い優秀な同僚の仕事で、ぼくがしているのはその雑用である。簡単にいうと、臨床実験に使ったねずみの処理をしている。早い話が、ねずみを毎日、大量に何百匹も殺していくのがぼくの仕事だ。

 ねずみに腸内注射をして、致死量の麻酔を打ち、脊椎を折ってとどめを刺したのち、シュレッダーで切り刻み、そのまま、焼却炉で燃やす。その作業はほとんど自動化されているが、その作業の担当者がぼくだ。

 薬というものは、スパコンでものすごいたくさんの形式から効果の適した製法を選ぶので、試験用に臨床実験するねずみもその分、大量にいることになる。どのくらいの形式から製法を選択するかというと、一秒で一京回計算できるスパコン「京」を二日間動かしても足りないくらいの量を計算して、選んでいる。製薬というものは、それくらいめったに自然状態では発生しえない化合物をつくることである。

 ぼくの仕事は、その作業で必要なねずみを大量に殺すことである。ねずみの飼育は、飼育員という係の人たちが行う。ぼくは化学の研究者なのだが、ねずみを殺す作業の担当にされている。これは、暗黙の内に研究作業からぼくを外すように配置したとも考えられなくはなく、ぼくは職場内左遷をされているのかもしれない。怖いので、上司に聞いて確かめたことはない。そんなわけで、ぼくは、優秀なぼくの同僚が考え出した新しい薬の動物臨床実験のねずみを毎日、殺しているのである。その作業は、ほとんど単純作業のようになり、ただひたすら、ねずみに致死量の麻酔を腸内注射して、頸椎を折り、シュレッダーにかけて切り刻み、焼却炉へ送る。それは、ものすごい数の命を奪っていることになるのだ。ねずみを殺すことがぼくの仕事であり、ぼくの社会貢献である。ねずみを殺すこと以外にぼくに生きる価値はない。ぼくはねずみを殺すために生きているのだ。この仕事に配属されて、もう三年以上がたつので、ぼくはいっぱしのねずみ殺しの専門家といえるくらいなのだ。

 作業の効率化を図るため、ねずみを殺すのに最も費用対効果の高い麻酔量を決め、麻酔量の大量購入大量使用を実現し、ねずみを殺す費用をこの三年間でわずかながら減少させることに成功した。ぼくは、できる男なのだ。ちゃんと仕事しているのである。いかに効率よくねずみを殺すかを毎日考えているのだ。ねずみを毎日、何百匹と殺しているのだから、そろそろ、ぼくの担当になってから死んだねずみの数は十万匹を超えるだろう。それくらいにぼくはよく働き、よく勤労に励んでいるのである。ぼくは仕事が命なのだ。ぼくは仕事を他の何よりも愛しており、他に特に趣味はなく、この仕事に一命を捧げる所存である。このまま、職場で閑職に追いやられつづけたら、ぼくはこの先の一生をねずみを殺すためだけに生きても悔いはないと、そう覚悟しているのである。

 ぼくはただのねずみ殺しではない。ねずみ殺しの専門家なのだ。

 ぼくの殺したねずみが何のために死んでいるのかというと、薬物実験の臨床試験のためとしか知らないのだが、ぼくの殺したねずみが何の役に立ったのかは、ぼくには報告されない。ぼくが殺しているねずみの臨床実験で、どのような新薬が開発されたのかをぼくは知らされない。

 だから、ひょっとしたら、新薬なんて、一個も完成してないのかもしれない。そこは、製薬における経営の投資とその成果の話であり、これは会社経営しているどっかの誰かが金額の数字だけをにらんで、いかに効率よく会社が儲かるかを計算しているはずであり、そこはぼくのあまり詳しくは知らない世界だ。そういう役割の人がいて、そういう仕事をしているのは知っている。経営というものだ。これは無慈悲な資本主義産業構造であり、例え、ひとつの新薬すら完成しなくても、投資はされるのであり、実験はされるのであり、ねずみは死ぬのである。

 ねずみは死を逃れられない。

 そもそも、生まれてくる時から、臨床実験に使われるために繁殖させられ生まれてきたねずみなのだから、そのねずみたちが死から逃れられないのは、しかたない。実験が中止されれば、このねずみたちは殺されるのだ。実験が続いた方がねずみたちは長生きできる。動物臨床実験が中止になったからといって、ねずみを森に帰すような面倒くさく社会迷惑で、生態系を壊すようなことは、決して行われないのである。ねずみは死ぬのだ。これは逃れられない運命なのである。

 ねずみを殺すことを可哀相だという人たちがいる。ぼくたちの気持ちを理解しない動物愛護団体の放ってくる刺客や、善良な市民に紛れ込んだ工作員たちである。保育園児、幼稚園児といっても油断してはならない。彼らは容赦なく、ねずみを殺すことの残酷さを訴えてくる。

「ねずみが人間のために死ぬことをどう思いますか?」

 そう聞いてくるのだ。

 知るか。勝手にしやがれ。

 ぼくの会社のお偉いさんは、そんなことは百も承知で、当たり前のように、実験で死ぬ動物たちのための慰霊碑というものを立てており、見学に来た小学生に、実験が病に侵された可哀相な人たちを救うために行われていること、これが社会に役にたつこと、我が社は社員全員で慰霊碑に黙祷していることなどを語る。例え、一個の新薬も完成しなくてもだ。ねずみを殺すことは正義なのだ。小学生たちは、まんまと騙され、慰霊碑にお祈りをして帰っていく。

 学校の先生が、慰霊碑に見学に来た児童や生徒の感想文というものを送ってくることもあるらしいが、ぼくは読んだことがない。なんか、かったるくて。申し訳ない。いたいけな子供たちのことばを無視しているわけではないのだが、その感想文というものを閲覧できる媒体を探し出す能力がぼくには欠けているのだ。だから、子供たちがどんな真摯な意見をくれたとしても、ぼくの心に届くことはない。悪いのは、職場内の書類の整理整頓が不整備であるということで、これは、お偉いさんたちがいろいろ考えて、事故のないように書類を整理しているのだが、残念なことに、それは不十分で、見学に来た子供たちの感想文をぼくは読んだことがない。

 たぶん、どうせ、くだらないことが書いてあるのだ。がんばって薬を作ってくださいとか、ねずみによろしくとか、そんなことが書いてあるのだ。せいぜい、

「人類が命を管理するなど、おこがましいとは思わないのかね」

 くらいのことしか書いてないのだ。その程度の感想で、資本主義的産業構造を打破するのは無理だ。

 もし、本当にねずみが可哀相で、ねずみを殺すのをやめさせたいのなら、製薬会社の売上高と利用者総数を調べ、製薬の需要と効用を調べ、製薬なんかしない方が社会的に利益が高いという経済的計算の解を探し出して、会社のお偉いさんに見せつけるくらい有能な小学生でなければならない。それくらいでなければ、ぼくらがねずみを殺すのを止めることはできない。

 ねずみを殺すのがぼくの仕事なのだ。

 

  2

 

 秘密研究所に瞬間移動でやってきて、時間を超越した通りの作業にかかる。太陽系の外から射しかかる陽光が眩しい。今日も陰鬱で凄惨な秘密研究者の日常というものが始まる。くり返される一日の中で、政治犯収容所に帰るとガソリンを飲んでいる。飲まなければガス欠になって緊急停止してしまう。ガソリンというものが、秘密研究者の空気コンピュータに有効な働きをするのかは疑問だが、くり返される一日の中で昨日も満タン給油してしまった。朝の通勤地底戦車の中で、ガソリン酔いを我慢している。宇宙船通勤だったら、危なくて飲んでいられないところだが、地底戦車通勤なので大丈夫だ。くり返される一日の中でも、いつもの秘密作業が始まる。

 ぼくの秘密任務は、第二文明周期用の不老酒の効果をねずみによる臨床実験で確認することだ。だから、くり返される一日の中で、大量のねずみに不老酒を投与し、本当に死ななくなるかを確かめている。と、それは、天の川銀河の中から選抜された優秀な同僚の仕事で、ぼくがしているのはその数千年文明の進んだ実験である。簡単にいうと、文明が滅亡するほどに繁殖して破綻したねずみの終末を管理している。早い話が、ねずみの文明を毎日、大量に発生させ滅亡させるのがぼくの仕事だ。

 ねずみが道具を使い、文明を発生させる。ねずみは文字を使い始める。そのねずみ文字は文明が発生するたびにちがうものだが、毎回、ぼくが意味を解読して自動翻訳辞書を作る。ねずみの会話はすべて記録して、データ倉庫に入れる。ねずみは狩猟採集生活から、農耕牧畜生活を始め、大量に増えだす。やがて、ねずみは工業に目覚め、産業革命を起こす。ねずみたちの間で植民地争いが発生し、ついには、ねずみ世界大戦へと発展する。いつものことだ。ぼくは、ねずみの世界大戦に介入し、核戦争を必ず起こし、ねずみを滅亡させる。その秘密作業はほとんど自動化されているが、その作業の担当者がぼくだ。ねずみがいかに核戦争を回避するか、その過程を観察し、人類の戦争を回避する参考にするのが目的だ。調子がいい時は、ねずみに宇宙進出までさせ、銀河系を支配させる。そして、銀河系大戦を引き起こし、それをいかに回避するのかを観察するのがぼくの仕事だ。今までに一回も、ねずみは核戦争も銀河大戦も回避できないので、誕生したすべてのねずみ文明のねずみが絶滅した。一匹残らず殺しつくし、次の実験に備えるのもぼくの仕事だ。

 不老酒というものは、星雲コンピュータでものすごいたくさんのデータ統計から絶対に死なない製法を選ぶので、本当に死なないのか試す実験に使用するねずみもその分、大量にいることになる。どのくらのデータ統計から製法を選択するかというと、一回の宇宙周期で生き残ることのできるねずみを二回殺しても足りないくらいの量を殺している。不老酒作りというものは、それくらいめったに宇宙周期では発生しえない生命体をつくることである。

 ぼくの秘密任務は、その作業で必要なねずみを大量に殺すことである。ねずみの生産飼育は、本当は人類の法律で禁止されている。ねずみが人類そっくりに進化し、同じ同朋と区別つかなくなることを防ぐためである。ぼくは怪物製作の研究者なのだが、秘密任務としてねずみを大量に発生させ、時に人類そっくりに進化したねずみを絶滅させる作業も担当している。これは、暗黙の内に秘密任務において、ぼくが独断専行するように配置された上司の仕業とも考えられなくはなく、ぼくは第二文明周期の運命を決める謀略に加担させられているのかもしれない。怖いので、宇宙意思に聞いて確かめたことはない。ぼくの文明実験には、宇宙意思も参加して様子を見に来るのだが、それを見て宇宙意思が何を考えたのかはわからない。宇宙意思がどう介入したのかもわからない。というか、宇宙意思の介在はぼくの実験に影響しているのだろうか。それすらわからない。ぼくは孤独なねずみ文明実験者だ。そんなわけで、ぼくは、優秀なぼくの同僚が考え出した新しい不老酒の文明皆殺し実験場のねずみを毎日、滅亡させているのである。その作業は、ほとんど単純作業のようになり、ただひたすら、ねずみの文明に核戦争を起こし、銀河大戦を起こし、生き残った不老不死のねずみを宇宙の終末まで生きながらえさせる。ぼくは、ものすごい数の不老不死を殺していることになるのだ。宇宙の終末とともに、不老不死のねずみを殺すことがぼくの仕事であり、ぼくの第二文明周期への貢献である。不老不死のねずみを殺すこと以外にぼくに栄耀栄華を味わう楽しみはない。ぼくは不老不死のいるねずみの文明を殺すために生きているのだ。この秘密任務に配属されて、もう宇宙が何度も誕生しては消えたので、ぼくはいっぱしの宇宙工学の専門家といえるくらいなのだ。

 作業の効率化を図るため、ねずみの文明を滅ぼすのに最も効果的な作戦が判明してしまい、逆にぼくの実験の情報が外部にもれたら、人類の文明を滅ぼす作戦の参考になってしまい、人類の滅亡を誘発しそうになってしまった。ねずみの文明を滅ぼす費用をこのくり返される一日の中でわずかながら減少させることに成功した。ぼくは、できる中性的魅力を備えた美人なのだ。ちゃんと秘密任務をしているのである。いかに効率よくねずみの文明を滅ぼすかをくり返される一日の中で考えているのだ。ねずみの文明を毎日、何百回と滅ぼしているのだから、そろそろ、ぼくの担当になってから不老不死になったねずみの数は十万匹を超えるだろう。ありえないくらいにぼくはよく働き、よく勤労に励んでいるのである。ぼくは秘密任務が命なのだ。ぼくは秘密任務を他の何よりも愛しており、他に特に栄耀栄華を遊ぶ道楽はなく、この秘密任務に一命を捧げる所存である。このまま、秘密研究所で特殊任務に追いやられつづけたら、ぼくはこの先の一生をねずみの文明を滅ぼすためだけに生きても悔いはないと、そう覚悟しているのである。

 ぼくはただのねずみ虐殺者ではない。ねずみ虐殺の専門家なのだ。

 ぼくの滅ぼしたねずみの文明が何のために滅んでいるのかというと、第二文明周期の人類を生かす文明実験のためとしか答えられないのだが、ぼくの滅ぼしたねずみの文明が何の役に立ったのかは、ぼくには報告されない。ぼくが滅ぼしているねずみの文明の文明実験で、どのような新作戦が開発されたのかをぼくは知らされない。

 だから、ひょっとしたら、人類が生きのびる方法なんて、一個も判明してないのかもしれない。そこは、人類代表たちにおける文明操縦の運転技術とその成果の話であり、これは文明経営しているどっかの誰かが宇宙周期の数字だけをにらんで、いかに効率よく宇宙が儲かるかを計算しているはずであり、そこはぼくのあまり詳しくは知らない世界だ。そういう役割の人がいて、そういう秘密任務をしているのは知っている。宇宙経営というものだ。これは無慈悲な宇宙主義非人類的思想であり、例え、人類が滅亡しても、宇宙は経営されるのであり、文明実験はされるのであり、ねずみの文明は滅ぶのである。人類以外の文明が第二文明周期に宇宙工学を駆使して生き残ってもかまわないと考える思想家はたくさんいるのだ。

 人類は死を逃れられない。

 そもそも、生まれてくる時から、文明実験に使われるために繁殖させられ生まれてきたねずみなのだから、そのねずみたちが死から逃れられないのは、しかたない。文明実験が中止されれば、このねずみたちは瞬殺されるのだ。文明実験が続いた方がねずみたちは長生きできる。人類存続実験が中止になったからといって、ねずみの文明を宇宙に放つような面倒くさく社会迷惑で、宇宙工学を壊すようなことは、決して行われないのである。ねずみの文明は滅ぶのだ。これは人類の運命なのである。

 ねずみの文明を滅ぼすことを可哀相だという人たちがいる。ぼくたちの気持ちを理解しない非人類文明愛護団体および人造生物愛護団体の放ってくる刺客や、善良な市民に紛れ込んだ工作員たちである。保育園児、幼稚園児といっても油断してはならない。彼らは容赦なく、ねずみの文明を滅ぼすことの残酷さを訴えてくる。

「人類がねずみのために死ぬことをどう思いますか?」

 そう聞いた保育園児がいたのだ。

 なんだと。ぼくはだまされていたのか。

 ぼくの秘密研究所のお偉いさんは、そんなことは百も承知で、当たり前のように、文明実験で死ぬ動物たちのための慰霊碑というものを立てており、見学に来た小学生に、文明実験が人類滅亡の可能性を回避するために行われていること、これが社会に役にたつこと、我が社は秘密隊員全員で慰霊碑に黙祷していることなどを語る。例え、一個の人類を存続させる選択肢が発見されなくてもだ。ねずみの文明を滅ぼすことは正義なのだ。大人たちは、まんまと騙され、慰霊碑にお祈りをして帰っていく。

 そこに猫がいた。

 ぼくのもとに郵便が届いた。ねずみからの手紙だ。ぼくは普段は、ねずみの文明を作り出していたぼくを発見し会いに来たねずみと会話することなどないのだけれど。とても、かったるくて。容赦しない。普段は、ねずみの中の英雄たちのことばを無視しているのだが、たまたま、その時、届いた手紙は、ちょっと興味をそそられた。ねずみは、手紙で語った。この郵便的やりとりは好きだ。

「現代哲学の最先端は何かね?」

 と。実に陳腐な質問で、ぼくはありきたりな返答を答えてやった。返書したのだ。手紙は郵便的に配達され、ねずみに届いたはずだ。手紙は必ず届くとは限らない。手紙の誤配というものがあるのだ。しかし、ぼくの手紙には、ありきたりな凡庸な現代哲学の最先端が書いてあった。

 まず、デカルトの「我、思うゆえに我あり」。ここから、自我の存在が証明される。

 次に、カントの「物自体は認識できない」。ここから、自我が決して存在の根幹である物質そのものを認識できないことが示される。

 そして、デリダの「脱構築」。人類の理論が破壊創生をくり返してより真理に近づいていくことである。

 この三つをもって、現代哲学の最先端とする。のが普通だ。そう手紙に書いて送った。すると、滅んだはずのねずみの文明の誰かから、郵便が届いた。亡霊の手紙か? そこにはたぶん、どうせ、くだらないことが書いてあるのだろう。ねずみの文明を滅ぼさないでくださいとか、ねずみにも人権がありますだとか、そんなことが書いてあるのだろうと思ったのだ。しかし、書いてあったのは、

「人類が神を管理するなど、おこがましいとは思わないのかね」

 と書いてあった。知っている。このねずみは、宇宙工学を知っている。我々人類が何度も宇宙を生成しては消滅させていることを知っている。その激しい混沌との戦いの中で、人類が絶滅しそうなことを知っている。

 ぼくはまた手紙を書く。

 帰納的推論は必ずしも正しいとは限らない。なぜなら、次の一回がこれまでの統計とは異なる奇跡である可能性があるからだ。

 演繹的推論も必ずしも正しいとは限らない。なぜなら、人類は普遍的前提などひとつたりとも知らないからだ。1+1=2が普遍的前提だというものがいるかもしれないが、大自然の中に1+1=2がどこにある。ありはしない。それは人の認識が先入観で1+1=2だと判断したものだけだ。人類の理論は、普遍的に思えるあらゆる前提を脱構築して進歩していく。

 そう手紙に書いて送った。すると、郵便的に手紙が届いた。亡霊からの手紙だ。ねずみは絶滅した。

「人を殺すことは本当に悪いことなのか? あらゆるものが反証可能性によって証明されなければならない。だから、人を殺してはいけないという刑法の正しさを証明するためには、誰かが人を殺し、その殺人が悪だと証明し、殺人の反証を行わなければならないのではないかな?」

 ぼくは、ねずみに手紙を出した。

「人類はあらゆる普遍的前提をひとつも知らない。これは法学においても例外ではない。殺人が悪だという普遍的前提はない。法学もまた、普遍的前提ではありえない。殺人が肯定されるのが顕著なのが、戦争だ。政府は、戦争において殺人を認める」

 ねずみが狂喜したように手紙を送ってきた。

「認めた。殺人の正統性を認めたぞ。ならば、ねずみを殺すことが正しいように、人類を殺すことも正しいのだろう?」

 ぼくは嘲笑って、郵便的な手紙を書いた。

「笑わせるな。おまえごときが、何千年と積み重ねられてきた刑法の法則を破る天才のつもりか。英雄のつもりか。うぬぼれるな」

 そして、ねずみは黙った。このように、ねずみをぼくが殺すのは正しい。

 現在の日本において、新しい特許というものは毎年、八万件以上ある。現在の人類の最先端理論が八万件以上の回数で脱構築されているということだ。

 ねずみを殺してはいけないというのなら、この八万件の脱構築に対抗できるくらいでなければならないよ。

 ぼくは、産業革命の頃、墓をあばき、解剖学の研究をしていたヨーロッパの医学者とかを尊敬している。みんな、墓荒らしの犯罪者だ。

 この作品は、ティプトリーJrの「鼠に残酷なことのできない心理学者」に着想を得て作ったものだけど、いい題名が浮かばないんで、まだ題名を迷っている。最後に、これから、題名だけ考えるつもりだ。

 



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幻日譚

 巻頭歌

 

  胎児よ、

  胎児よ、

  何故踊る。

  母親の心がわかって、

  おそろしいのか。

            夢野久作「ドグラ・マグラ」より引用

 

 ぼおおん、ぼおおん、ぼおおん。

 鐘の音が聞こえる。どこからか遠くで鐘の音が聞こえる。いったい、この鐘の音はどこから聞こえるのか。誰も見たことのない宇宙の最果ての地平線の向こうからか。それとも、おれの認識の境界線を越えた感覚器の向こうからか。どちらにしても、音が聞こえる。

 ここはどこだ。はっ、とおれは気を奮い立たせた。眠っていたのか。おれはいつの間にか眠っていたのか。いつから眠ったのか、自分が眠っていたのか、それすらもわからない。そもそも、眠るとはどういうことなのだ。脳内睡眠物質が集積し、セロトニンの分泌によって、おれの脳が意識を消してしまうことに他ならない。眠っている間も脳は動きつづけ、実は意識はなくても、意識はありつづけ、夢を見ている。レム睡眠とノンレム睡眠のちがいはどこにあるのか。なぜ、それをどちらも意識したおれは覚えていないのか。レム睡眠の間には、おれは意識があり、夢を見ているはずではないのか。

 おれが眠気眼で虚ろな気分に包まれていると、ドアをどんどん叩く音が聞こえる。いったい、何だ。おれはどこか見知らぬ部屋の中にいる。灰色にくすんだ壁の色からして、かなり古い建物に違いない。ドアは、監獄のような厳重なドアであり、食事を出し入れする小さな開閉口がついている。おれは気づかないうちに閉じこめられていたのか。ここはどこだ。駄目だ。何も思い出せない。おれはひょっとして、記憶喪失というやつになったのではないだろうか。こんな監獄のような部屋に一人で眠っていたとなると、おれは相当素行の悪い精神病患者なのだろうか。ここはおれを閉じこめておくための独房か。

 おれはぼおおんと鳴る音の正体を確かめた。それは部屋に備えつけられた置時計が午前零時を打っている鐘の音だった。

「あなた、あなた、気がついているんでしょ。早く出てきて」

 どこかで美しい妙齢の女性の声が聞こえる。その声は、この殺風景な灰色の小部屋の中では、無性に人恋しい声として聞こえ、おれはドアの外の声に向かって、叫んだ。

「出してくれ。出してくれ。なぜ、おれはここに閉じこめられているんだ。閉じこめられる覚えなどないぞ。早く、おれをここから出してくれ。このドアは外からは開けられないのか」

 すると、外の女の声が少し、訝しげなものを触るように感じが変わった。おれが何かおかしなことをいったらしい。何がおかしいのか、当の本人であるおれにはさっぱりわからない。現に、おれは記憶喪失であり、たった一瞬前まで、何が起こっていたのか、まったくわからないのだから。たった今まで、すぐそこで戦争が行われていたといっても、おれはまったく驚かないし、おれにはその記憶はない。おれは自分が眠っていたのかもわからない。

「あなた、あなた、このドアは外からじゃ開けられないわ。あなたが内側から鍵をかけたはずよ。ドアの鍵を外して、出てきて」

 なるほど、これはしたり。ドアが押しても引いても開かないのは、おれが自分でドアに鍵をかけたからだったのか。こんなうかうかとしていてはいけない。もっと気をしっかりともたなければ。

 確かに、ドアの鍵は内側からかかっており、それを外すと、ドアは開いた。美しい声の女のいったことは本当のようであった。おれとしたことが、自分で鍵をかけて閉じこもっておいて、記憶喪失になったらしい。これでは、誰も助けにはこれまい。

 おれは美しい声の女に会いたくて、ドアを思いきって押して開け放してみた。

 ドアを開けると、そこは天国かと思われた。目の前に、見たこともないほどの美女が立っていたのだ。美女は白いワンピースをドレスのように着こみ、その上に麻縄で粗く編んだような上着を被っていた。見たことのないような絶妙な着こなしのお洒落な美女であった。きっと相当な洒落者であるにちがいない。髪は、長い黒髪が垂れ下がり、右襟の部分だけ三つ編にしてあった。三つ編は肩の辺りまでしっかりと結ばれていた。長く美しい黒髪は肩の辺りでぎざぎざに切られ、この世のものとも思えないほど美しく美女の顔を飾っていた。

「あなた、気がついたのね」

 ああ、おれのことをあなたと呼ぶこの女はいったい誰なのか。記憶をなくしたおれに呼びかけるこの女はいったい何者なのか!

 そして、ここはどこだ。見ると、ドアの外は同じような灰色の壁でできた長い廊下のようであった。おれの部屋以外にも、いくつかの監獄のような部屋がならんでいる。

「ここはどこだ」

 とうとう、おれは声に出して、あの美しい女に聞いた。ここにおれの他には、この美しい女しかいないのだから、おれが声を発すれば、それは女に話しかけたことになる。いきなり、第一声が「ここはどこだ」では何とも味気ないではないか。それでは、おれはただの呆けた記憶喪失者のようではないか。

 見ろ。その証拠に、あの白い服を着た美女は驚きで絶句しているではないか。

「失礼いたしました。おれはたった今まで、この部屋の中に入っていたものです。それが気がついたら、何も思い出せないでいましてね。部屋の中には何もないし、自分以外には誰もいない。よく見ると、まるで閉じこめられているようでした。すると、そこに天使のようなあなたの美しい声が聞こえてきたのであります。おれはすがりつくようにあなたの声に従って、この部屋を出てきたのであります。ところが、それが、また、その声の持ち主があなたのような美女だとは、おれはこれっぽっちも考えていなかったのですよ。おれはあなたの美しさに目をやられてしまったのですよ」

 おれがいっきに喋りきると、女は心の底からの笑顔で腹を抱えて笑っているようだった。おれはそれが何よりも捨てがたい素敵な笑顔に見えたのだった。

「あなた、本当におかしなことをいうのね。わたしの美しさに目をやられてしまったなんて」

「いや、それが本当なんだよ。あなたはそれくらいにとても美しい」

 女はおれのことばに笑顔という沈黙で答えた。悪くない気分だ。

「あなた、自分が何をいっているのかわかっているの。本当に変な人」

 女は可笑しくて笑っている。

「それで、いったい、あなたは誰で、おれは誰なんです。ここはどこなんですか」

 これをいったおれの気は確かだったのだ。おれは本気だったのだ。本気で、あの女を美しいと思い、本気で女の素性を確かめたのだ。それが、次のような衝撃を与えられるとは思ってもみなかった。

「いやね、わたしはあなたの妻よ。あなたはわたしの旦那じゃない」

 これには目眩がした。なんということだ。おれは今の今まで、自分がどれだけ恥ずかしいことをいっていたのかということに気づき、目もくらまむ思いだった。それと同時に、これほど美しい女がおれの妻だというので、おれは有頂天に嬉しくなってしまった。

「なんだ、きみはおれの妻なのか。それはおれときみが永遠の愛を誓い合った仲だということか。すると、こんなふうにきみを抱きしめてもおれは許されるのか」

 おれは女の腰に手をまわし、そっと体を寄り添った。なんと、あの美女はおれにもたれかかり、おれに体重を預けてくるではないか。これは、ますます、本当にこの女がおれの妻だということになる。ああ、ここにおれがいて、そして、この美しい女がおれの妻ならば、この世界がこのまま止まってしまってもいい。おれは永遠を感じるほどの幸福を感じていた。

 おれは妻を抱きしめた。ぎゅっと強く抱きしめた。この時間が永遠だったならいい。

「この瞬間が永遠だったらいいのに」

 おれは声に出して、妻に囁きかけていた。

「ええ、本当に永遠みたい。わたしたち、昨日もこうして抱き合った気がするの。おとといも、その前の日も。でも、駄目。わたし、最近、少し記憶があいまいなの。あまりむかしのことをよく思い出せないでいるの」

 ああ、なんということだ。この永遠に妻も賛同してくれるとは。しかし、おれの記憶がすっぱりと消え去ってしまったのと同じように、妻の記憶まであやふやなものだとはどうしたことだ。いったい何が我々夫婦の身の上に起きたことなのか。

「わたしたちが記憶障害になるのも、あの因子が原因なんじゃないかといわれているの。これは何度も説明したわね。あなたはどう思うの。あなたにもう一度、聞いてみたいの」

 妻は、不思議なことを尋ねる。記憶障害になる我々夫婦の共通因子とは何だ。

「残念ながら、おれにはその心当たりがないよ。でも、いいさ。記憶を失っても、何度でも、こうして、きみに会えるんだからね」

 ああ、自分でいっていて照れくさくなってしまう。しかし、それをいわしめるだけの美しさが我が妻にはあった。

 

  2

 

 窓の外を見てみた。そこには、びっくりするような光景が広がっていた。まるで、世界が終わりを告げる戦争が起こったかのような焼け野原の瓦礫の街跡であった。まさか、本当に戦争でもあったのだろうか。この建物は戦中の避難場所か何かであろうか。まさか、今、戦争が起こっているばかりなのか。それとも、戦争はもう終わってしまったのだろうか。一件の建物として屹立していられない瓦礫の街に、この建物だけが頑健に立ち尽くしている。

「ここはどこなんだ。窓の外を見てみたか、きみ」

「ええ、見たわ。ここはわたしたちの家よ。わたしたちはここに住んでいるのよ。あなたは何度もそのことを忘れてしまうのね」

 この巨大な廊下を持つ建物が我が家だとは、これはいささか驚きである。あの美しき女が我が妻だったことほどの驚きではないが、またびっくりさせるような事情がおれの身に起こっていたものである。

「それで、それで、外の世界はどうなっているのだ。世界は無事なのか」

「さあ、わたしにはわからないわ。少なくとも、わたしたちは無事よ。それで充分じゃない」

 ああ、そうだ。確かにそうだ。この世界には、妻とおれだけいればいい。そして、永遠であれ。

「そんなことより、弟さんはどこへ行ったのかしら」

 妻がそんなことをいった。

「弟とは、誰だ」

 まるで心当たりがない。

「何よ。あなたの弟さんに決まっているじゃない。弟さんも一緒にここに住んでいるのよ。見かけないのよ、最近」

「そうなのか」

 これは困ってしまった。何も答えようがない。

「わたしの妹のことも気にかかるし」

「きみに妹がいるのか」

「そうよ。忘れちゃったのかしら。あなたは妹とも仲が良かったわ。それが、妹はこの部屋の中にいるはずなんだけど、鍵がかかって開かないのよ。もう、食事も三日ぐらいとってないのよ。三日、いいえ、四日かしら。それより、ずっと長いことのような気もするわ。とにかく、ずっとよ」

 聞くと、妻の妹の部屋とは、おれのいた部屋の隣であるらしかった。

「それは大変だ。きみも心配だろう。さっそく開けてみようじゃないか」

「それがね。開ける前に、あなたが、あなたが目を覚ましたらあなたにこれを読ませるようにわたしに命じたのよ」

 そういって、妻がとり出したのは、廊下の机の上に置いてある一冊の本であった。自費出版したらしく、値段が五百円となっている。その本は「幻日譚」と題名があり、目次を見ると、

 

「幻日譚」へげぞ作

「胎児の夢」夢野久作作

「パノラマ島奇譚」江戸川乱歩作

「インスマンスの影」H・P・ラブクラフト作

 

 といった収録作となった短編集であった。かつての記憶を失う前のおれは、おれが気がついたら、おれにこれを読ませるようにと妻に厳命したらしい。ならば、読んでみなければならない。おれは、さっそく「幻日譚」という短編集を読み始めたのだった。

 読み始めたおれは驚愕した。何だ、この「幻日譚」という物語は。この物語には、たった今、おれの身に起こったことがそっくりそのまま一つの違いもなく書いてあるじゃないか。物語は、ぼおおんという音を聞いて、おれが目を覚ますところから始まり、やはり、美女が妻であったことに驚く場面へと続いている。こう読み返しているおれのことも、ちゃんと書いてある。何から何まで、おれのこれまでの行動とこれからの行動を予言していたような物語だ。

 おれは夢中になって「幻日譚」を読みつづけ、つづいて「胎児の夢」「パノラマ島奇譚」「インスマンスの影」と読んだ。どれも含蓄の深い面白い物語であった。

 読み終わったおれは疲れて、しばらく睡眠をとることにした。頭が混乱して考えがまとまらない。こんな時は眠るのに限る。おれは廊下のソファに横になり、それから四時間ぐらい眠りについたのだった。

 

  3

 

 目を覚ますと、おれの脳は快活に動き出した。そして、妻を問い詰める。

「なあ、きみ、失踪したおれの弟というのは、おれにそっくりじゃなかったか」

「何よ、急に。起きたのね。あなたが眠ったので、わたしも眠っていたのよ。弟さんね。そっくりに決まってるじゃない。あなたと弟さんは双子なのよ。見分けがつかないぐらいそっくりよ」

 やはりか。おれの頭は急速に回転していく。

「あなた、そんなことより、わたしの妹をどうにかしてよ。妹はこの部屋に閉じこめられたまま、食事もとってないのよ。妹は妊娠しているの。食事を採らなければ、赤ちゃんの成育に悪いわ」

「なんだって。きみの妹は妊娠しているのか。これはますます意味深なことになってきたぞ。おれがおれに読ませるようにいった物語の数々は何の意味もなく選ばれたものではない。きっと、おれの身に起きた真実を告げるためのきっかけになるはずなんだ。それで、妹を妊娠させた男とは誰なのだ。その不埒な野郎はどこのどいつだ」

「何いってるの。わたしの妹の旦那はあなたの弟さんよ。兄弟姉妹で、一緒にくっついたのよ、わたしたち」

 これにはまた衝撃を受けた。この物語の登場人物は、おれたち兄弟と、妻の姉妹の四人しか出てこない。いや、あともう一人、主役ともいうべき登場人物がいる。妊娠している妹の腹に宿っている胎児だ。

「もし、おれの読んだ夢野久作の「胎児の夢」が本当なら、この世界は、妊娠した妹の腹の中にいる胎児が、誕生してから出産するまでの十ヵ月の間に見ている夢なんだ」

「何を言い出したの、あなた! あなたのいってることはわたしにはわからないわ。わたしたちが現実には存在しない存在だというの。この世界が実体ではないというの」

「そうだ。そういうことなんだよ、我が妻よ。これは、妊娠した妹さんが胎児に見せている理想的な十ヵ月の夢なんだよ。そこに、おれもきみも入りこむ余地はないんだ。おれときみは現実には存在しなくてもこの世界は成り立つ余分な要素なんだ」

「わたしは、毎日、あなたのその混乱した空想を聞いている気がするわ。いい加減にして。わたしとあなたが現実に結ばれた。それが永遠で、何がいけないの」

 妻は大きな声で叫んでいた。妻には受け入れられないのだ。自分のいる世界が他人の夢の中だという現実が。この世界は、妻の妹が妊娠したために発生した胎児の主観世界なのだ。

「妻よ。驚くのはまだ早い。まだ続きがあるぞ。おれは乱歩の「パノラマ島奇譚」を読んだ。そこから考えるに、実は、おれはおまえの旦那の兄ではなく、自分そっくりな双子の兄と入れ代わった弟なのではないか」

「きゃあああ」

 妻は悲鳴をあげた。いや、妻ではない。あれは兄嫁なのだ。失踪したのは、弟ではない。兄の方なのだ。

 おれは妻を力づくで押し倒し、服を脱がせて、無理やり犯していった。妻は抵抗しなかった。おれのあれが妻のあそこに入り、官能的な光景が繰り広げられていた。妻は、おれを自分の旦那だと信じている。しかし、そんなことがあるものか。

 これは、美しすぎる兄嫁を無理やり寝とった弟の物語なのだ。主人公は兄ではない。失踪したはずの弟なのだ。

「さあ、どうだ。おまえの体が覚えているだろう。おまえを抱いているのは、おまえの旦那の兄か。それとも、赤の他人の弟の方か」

 おれはこのことばで妻に止めをさしたつもりだった。

「わからないわ」

 妻はそういった。それと同時におれは果てた。妻も感じて、官能の恍惚に身を委ねているようだった。これは、亭主と妻の清らかな愛の行為なのだろうか。それとも、兄嫁を犯すという不貞の行為なのか。

「わからないのか。きみにわからないんじゃ、おれにもわからないじゃないか」

 それからおれはいった。その次のことばには、さすがの妻も目をひねり出すほど、びっくりしていた。

「それなら、妹の子の父親は誰なのだ。失踪した弟か。それとも、このおれか」

 妻はことばを失って、長い沈黙があった。

 おれはこの建物の探索を始めた。妻の妹の部屋のドアに手をかけた。確かに鍵がかかっている。

 おれはさらにもう一つ隣の部屋のドアを開けた。そのドアは鍵がかかっておらず、すんなりと鍵が開いた。その部屋には驚くべきものがあった。それは腐敗し、朽ちかけていた。軍服のような服を着て、奥の壁にもたれかかるように座っていた。首に力がなく、がっくりと頭を前に垂らしている。

 おれはその部屋にある鏡を見た。自分の顔が見える。そして、その部屋に座りこんでいる死体は、おれにそっくりの顔をしていた。

 弟が死んでいたのだ。

「おい、きみ、いたぞ。いたぞ。死体はまだ誰にも荒らされちゃいない。死んだ時のままだ。きみも見るといい。死んだおれの弟だよ。それとも、兄かな」

 妻が来て、見て、驚いた。

「まあ、弟さん。こんなところで死んでいたのね。可哀想に。可哀想に。誰に殺されたのかしら」

 誰に殺されただって。決まってるじゃないか。おれにだ。おれに殺されて、妻を寝とられたのだ。こいつは負け犬の死体だ。美しい妻を守ることのできなかった可哀想な兄の死体だ。

「きっと、宇宙人に殺されたのね」

「何をいってるんだ、きみ。突然、宇宙人なんて言い出して。これは人に殺されたに決まっているじゃないか」

「そうかしら。わたしにはわからないわ」

 まただ。また、わからない。このまま、兄とおれが入れ替わったことにも一生気づかないんだ。

「だが、いったい、なぜ、きみは突然、宇宙人なんて言い出したんだ」

「あら、それは、明日になれば、わたしもあなたも宇宙人と子供をつくることになるからよ。わたしも、あなたも、明日には宇宙人と交わり、子をなすのよ。現在、発見された何千万種の宇宙人の中から、唯一見つかったヒトと生殖の可能な宇宙人と交配するのよ。ここは地球人と宇宙人の交配実験場なのよ」

 これには、さすがのおれも頭がくらっとした。美しい妻がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。ラブクラフトの「インスマンスの影」だ。あの忌まわしい物語の通りの実験がここで行われているのだ。その子供は見るのも汚らわしい忌むべき呪われた異形の怪物に違いない。

「わたしたちは五十パーセントの宇宙人なのよ。わたしとあなたで子をなして、七十五パーセントの子供を作るのが、わたしとあなたが結ばれた理由よ」

「嘘だ。すると、おれの血にも五十パーセントの宇宙人の血が混じっているというのか」

「そうよ」

 おれはしばし呆然として、混乱していた。呆けたように廊下に立っていた。宇宙人との生殖は気持ちいいのだろうか。それは快楽か、それとも地獄か。忌まわしい。忌まわしい。この妻にも、宇宙人の血が流れているのだ。そして、妻は宇宙人に体を任せているのだ。なんと忌まわしいことだ。

 

  4

 

「明日になるまでに、妹に食事をさせたいの」

 妻がいった。

「だが、ドアに鍵がかかっている」

「鍵を開ければいいのよ。鍵を探して」

 おれは自分の服の中をごそごそと探った。すると、一個の鍵が出てきた。

「ひょっとして、これか」

「そうよ。開けて」

 おれの持っていた鍵を妻の妹のドアの鍵穴に差しこんでまわすと、かちゃりと鍵が開いた。なんだ、鍵はおれが持っていたんじゃないか。当然か。おれは妻の妹の本当の旦那なんだから。

 さあ、妹の子種がおれのものか、兄貴のものか確かめようじゃないか。

 そして、おれたちは妻の妹の入っていた密室に入った。そこに妻の妹が死んでいた。

「ど、どういうことだ。なんで、きみの妹まで死んでいるんだ。殺したのは誰だ」

「あなたに決まってるでしょ。あなたが鍵を持っていたのよ」

 そんな馬鹿な。これで、狡猾に築きあげたおれの計画が崩れ去ってしまうのか。妻の妹が死んでいるということはとんでもないことだぞ。

「ここは密室だったのよ。外部から人がこじ開けて侵入した形跡はないわ。なら、鍵を持っていたあなたが殺したのよ」

 犯人はおれか。考えてみれば、当然だ。兄も妻の妹も殺し、美しい兄嫁とたった二人の世界に残るためにおれが殺したんだ。

 だが、待てよ。

「おい、ここを見ろ。壁に小さな穴が開いている。きみの妹はどうやら、刺し殺されたようだから、犯人はこの穴を凶器だけ通して、ここに立っていたきみの妹を刺し殺したんだ。犯人はおれじゃない。犯人をおれと思わせようとする密室殺人事件の偽装だ」

 妻はいわれた通り、おれの示した壁の穴を調べた。

「確かに、槍やナイフは通れそうね」

「これで、ここが完全な密室ではないことが判明したんだ。犯人は誰かわからない。ひょっとしたら、この穴の向こうの部屋で死んでいた弟なのかもな」

 おれはいいようにうそぶいた。

 だが、そんなことはどうでもいいことじゃないか。問題は、胎児を宿した母体が死んでいることだ。おれは妻の妹の腹を探って確かめてみた。

「死んでいる。腹の中の赤ちゃんも死んでいる」

「可哀想。あまりにも残酷だわ」

「何をいっているんだ。この世界がきみの妹の胎児の見ている夢なら、その夢見る胎児はもうとっくに死んでいたんじゃないのか」

 妻は呆然としていた。

「ここは死んだ胎児の見ている夢の中なんだよ」

 おれたちは妹の部屋を出て、また鍵をかけた。妹の死体が少しづつ腐敗していっている。妹の死体が崩れるのは時間の問題だ。

 おれは「幻日譚」という本を廊下の机の上に置いた。

「いいか。おれが目を覚ましたら、絶対にこの本をおれに見せるんだ。いいな、絶対にだぞ」

 そう妻にいい、おれは自分の部屋に入って、ドアに鍵をかけた。

 時計は二十四時間たって、再び午前零時の位置を指そうとしていた。

 ぼおおん、ぼおおん、ぼおおん。

 時計の鐘が鳴り始めた。おれは意識がなくなり、どこまでも遠くへ意識をもっていかれた。

 



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魔術と樹となりそこねドラゴン

 夜だった。闇から声がした。

「助けてくれ。助けてくれ。」と。

 ぼくは、声の主を探して歩いた。

「どこ。どこなの? どこから呼んでいるの?」

 すると、声は答えた。

「おまえの心の奥からだよ」

 ぼくは、少し怖くなってたずねた。

「ぼくの心の奥に棲みついて、何をする気なの?」

「わたしは魔術だ。おまえに魔術の契約を結んでほしい」

 気が付くと、樹が襲ってきた。樹がすごい勢いで成長して、枝がぼくの方に向かってくる。そして、樹にぼくは弾かれて、宙に浮いた。ふわりと浮かんで、地面に叩きつけられる。痛い。

「何をするんだ!」

 ぼくは叫んだが、樹は鎮まる気配もなく襲ってくる。

「あれは樹だよ。おまえとわたしの契約を邪魔するために、ああして嫌がらせをするのさ」

 ぼくは樹に向かって叫んだ。

「樹よ。ぼくが魔術を手に入れるのがなぜ怖いんだ」

 樹は聞きはしなかった。また、樹の枝に叩きつけられて、吹っ飛んで地面を転がった。ぼくは、樹から逃げ出した。走って逃げた。樹は襲ってくる。

「よお。しっかりしろよ」

 変なのっぺりとした大きな生き物がぼくをつかまえて、樹から逃げるように空を飛んだ。

 それは一匹のなりそこねドラゴンだった。

「なりそこねドラゴン、ぼくを樹から助けてくれてありがとう」

「なあに、気にするな。こっちにはこっちの事情があるんだし」

「事情って?」

「いやあ、おれも魔術の命令でおまえを助けているだけだってことだよ。おまえが魔術と契約するのを待っているんだ」

「魔術の契約をしたら、どうなるの?」

「さあね。そりゃ、世界を滅ぼす魔術の力が手に入るってことさ」

「樹は、どうして、ぼくが魔術の契約を結ぶのを邪魔するんだ?」

「あの樹は、生命の樹だ。魔術の力を恐れているんだ」

「ぼくが魔術を手に入れて、世界を滅ぼすかもしれないから?」

「まあ、そういうことだな」

「魔術って森にあるんだろ?」

「森にあるともいえるし、森にないともいえるな」

 なりそこねドラゴンが答えた。

「それじゃあ、どうやって魔術を手に入れたらいいのかわからないじゃないか」

「まあ、おまえが魔術が森にあるっていうなら、魔術は森にあるさ」

 ぼくは森に行った。森の中を進んで、魔術を探した。

 そしたら、大きな湖があって、ぼくはそのほとりで魔術を見つけた。

「魔術、見つけたよ」

「わたしと契約してくれるのかい」

「ああ、そうだよ」

「そうか。それなら、おまえはわたしのものだ」

 ぼくの心の中をすごい感激と動揺がわめきだした。ぼくは、どきどきと興奮している。恐怖とときめきがそこにはあった。

 そうか。わかった。魔術の契約をするっていうことは、魔術と恋愛関係になるってことなんだ。ぼくは魔術を理解したつもりになった。

「なりそこねドラゴン、ぼくは魔術を見つけたよ」

「そうかい。すると、しばらく、会えなくなるかもしれないな」

「どうしてだい」

「おれも魔術の一部だからさ」

 ぼくは魔術と恋に落ち、再び、樹がやってきた。

 樹は、ひとことこういった。

「少年よ。おまえが恋に落ちた相手は、その気になれば世界を滅ぼしかねないものだということを知っておけ。おまえが恋に落ちた相手が、恐怖と暴力と差別を生むことを知っておけ。わたしは魔術を理解できなかった古い樹だ」

 そして、少年は目が覚めた。

 



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鈴鬼左文字

 ぼくはまだ大人ではない。十七歳の高校生だ。だが、男子家を出れば七人の敵がいるといわれ、油断も隙もないのである。家では勉強に追われ、学校では同級生が襲ってくる。のんびりしている暇はない。まったく心に余裕がない。それが男子高校生の生活だ。

 ぼくの名は、鈴木秋浩。もうすぐ受験を控えているというのに、成績はかんばしくなく、毎日、もんもんとしていた。受験というやつが、これが曲者であり、子供が大人になるために用意されたはずの課題であるはずなのに、なぜか子供を受験という子供の世界にずっとつなぎ止めるように作用し、子供が一生、受験をするようになり、受験以外はしたくないといって家に閉じこもり、子供が大人になるのを拒絶するようになる一種の洗脳装置だった。

 教室で自分の机でぼうっとしていた。子供はみんな精神感応力をもっている。子供はみんな精神感応力でつながっていて、<無傷の世界>につながっている。ぼくも<無傷の世界>の住人の一人だ。子供は歳をとると、いつの間にか精神感応力を失ってしまい、<無傷の世界>から切り離される。それが大人になるということだ。子供は、精神感応力で敏感に世界の真実とつながっているけど、大人にはそれができない。大人はこの世界の真実から目を背け、自分たちが無力であることを無意識のうちに受け入れることで自我の平静を保つのである。そんな大人に対して、ぼくたち子供は精神感応力で常に周囲の情報を手に入れ、他人の心に直に触れることで刺激を受け、とても敏感になっているものなのだ。

 ぼくたち子供は、大人たちが忘れてしまったこの世界の奇跡を守って生きている。この世界の奇跡<無傷の世界>。

「ぼくの家には日本刀があるんだ。おじいちゃんがとても大事にしている」

「へえ、どんな刀なんだ」

 ぼくは同級生と話していた。

「『鈴鬼左文字』っていうんだ。室町の頃に作られたものらしい」

「すげえなあ。見てみたいなあ」

「おじいちゃんが大事にしていて、決してよその家の者には見せられないよ。我が家の家宝なんだ。おじいちゃんが親戚の家の人に見せびらかして自慢するだけの役にしかたたないものだよ」

「でも、強いんだろうなあ、それ」

「うん。鉄でも切り裂くらしいよ」

 それはやはり鍛冶職人の魂を込めて作りあげられた一品なのだろうかということや、鍛冶職人が人生をかけて作り上げた一振りの一刀なのだろうかということでぼくたちは真剣に話し合った。その結果、やはり、その名刀は鍛冶職人の人生をかけて作り上げられた鍛錬の結晶であるという結論に至った。やはり、ぼくも生きるのなら、そういう人生の鍛錬の結晶のようなものを残して死にたいものだ。

(で、聞いたか。時坂水無が初体験をすましたらしいぞ)

 突然、同級生から精神感応力が飛んできた。ぼくは激しく戸惑った。

(水無ちゃんが。相手は誰だよ。高校生だろ、おれたちまだ)

(そんなこといっているのは秋浩だけだぞ。みんな、どんどん大人になっていくんだ)

(そんな話、そんな話聞きたくないよ。なんで水無ちゃんがどっかの汚らわしい大人と交尾しなくちゃいけないんだよ)

(だったら、直接聞いて確かめてみればいいだろ)

 時坂水無は、同じ学級にいる。ぼくとはあまり話したことがないが、一回話した時は笑って相手をしてくれたのを覚えている。

 ぼくが時坂水無の方を見ると、時坂水無が精神感応力を飛ばしてきた。

(ちょっと。わたしのことで勝手に変な想像しないで)

(おっと、まだ感応力があるのか。それなら大人にはなってないんだ)

(どういう意味?)

(いや、エッチなことしたのなら、大人になって精神感応力を失うんじゃないかと思って)

 時坂水無が「はあっ」とため息をついた。

(あなたたちの妄想にわたしを巻き込まないで。それに、性経験があるかどうかでは大人になるかどうかの境界線は引けないはずよ)

 時坂水無はそういって机に倒れ伏す。

(確かにそうだよな。思春期ってもんがあるもんな)

(思春期って中学生でしょ。わたしたち、高校生よ。もうすぐ受験して大学生になるのよ)

(まあ、就職するやつもいるけどな)

(でしょお。わたしたち、もうすぐに子供じゃなくなっちゃうんだよ。遊ぶなら今のうちだよ)

 そんな時坂水無にちょっと圧倒されてしまうぼくだった。やはり、時坂水無が初体験をしたというのは本当なんだろうか。

(<無傷の世界>に性経験のあるやつはどのくらいいるんだ)

(鈴木くん。わたしたち女子は、全員平等乙女主義を主張します)

 全員平等乙女主義。なんじゃ、そりゃ。

(全員平等乙女主義では、性経験のあるなしは問題にはされません。全員乙女なのです)

 はあ。

 時坂水無がぼくの方へ歩いてきた。ぼくは感応力を使って、時坂水無の裸を透視する。桃色の乳首、ふくらんだ乳房、くびれた腰、薄い陰毛、はっきりと裸が見える。

「鈴木くん、わたしの妹があなたに会いたいっていっているんだけど」

「時坂の妹? 何年生なんだ?」

「同学年よ。わたしたち双子なの」

「双子の妹がいたのか。知らなった」

「神無っていうの。今日の放課後、会えないかな。鈴木くんの家に行ってもいい?」

「それはいいけど」

「なら、決まりね。鈴木くんの家の日本刀『鈴鬼左文字』を見に行くわ」

「ところで、神無って妹は、彼氏とかいるのか」

 時坂水無から精神感応力があった。

(鈴木くん、わたしたち女子は全員平等乙女主義を主張します)

 はいはい。

 

 その日の放課後、ぼくは時坂神無と出会った。姉よりちょっと美人だ。双子なのにぼくの好みの顔をしている。精神感応力で裸を透視する。姉よりちょっと大きめの乳房、恥じらった照れた頬がかわいらしい。

 三人で歩きながら、いろんなことを話した。もうすぐ受験なこと。全然勉強していないこと。最近見た映画。今とりかかっているゲームの話。どの野球球団が好きかとか。

 そうこうしているうちに、家についた。時坂姉妹は家にあがってきて、名刀『鈴鬼左文字』を見学するつもりらしかった。

「ああ、上がってよ。母さん、友だちが来たから」

 そして、ぼくたちはおじいさんの書斎へと向かった。そこに名刀『鈴鬼左文字』がある。

 透明な箱の中に刀は飾ってある。

「へえ、これが名刀『鈴鬼左文字』かあ」

 姉の水無は興味深そうにのぞきこんだ。

(鈴木くん、おじいさんの書斎でってのは気が引けるけど、今はいい機会だわ。神無はあなたに体を捧げるつもりがあるの)

(なんでこんな時に精神感応力なんか)

(ご家族に気付かれたらやっかいでしょ。幸い、精神感応力の使える子供はわたしたち三人しかこの家にはいないわ)

(いったい神無ちゃんはどうしてぼくなんかと)

(それは神無、あなたから説明して)

(うん)

(神無です。鈴木さん、とっても素敵です。男らしいと思います。好きです。ひと時の思い出をください)

(そんな。いいのかい、本当に)

 ぼくは神無ちゃんをぐっと抱き寄せた。神無ちゃんはちょっと体を離して逃げようとする。

(どうしたんだい。神無ちゃん、ぼくに気があるんじゃなかったの)

「いえ、ごめんなさい。今日のことは全部、名刀『鈴鬼左文字』をいただくための演技だったんです」

 そういって、神無ちゃんは『鈴鬼左文字』の入った透明の箱を叩き割ろうとした。ばきっと箱が割れる。

「何をするんだ。『鈴鬼左文字』は我が家の家宝だよ。渡すわけにはいかないよ」

 ぼくは神無より早く名刀『鈴鬼左文字』を奪いとった。

(鈴木くん、名刀『鈴鬼左文字』を渡しなさい。そして、あなたは神無と大人になるのよ)

(ははあ、そういうわけか。きみたちはぼくを<無傷の世界>から追放し、諦観に目覚めた大人にするつもりだな。そうはいかないぞ。ぼくは水無のことも神無のことも好きだったけど、それは大人の恋愛とはやっぱり別なものな気がする)

(大人が恋愛に詳しいなんて嘘よ。どんな大人も恋愛の正解は知らない。わたしたちを大人にして、鈴木くん)

「そうは行くか」

 ぼくは『鈴鬼左文字』をもって駆け出した。時坂姉妹はぼくの家から逃げ出し、外で待ちかまえていた。

「失敗か、水無」

「ええ、残念だけど」

 家の外には武装した男たちが待ちかまえていた。斧や槍やハンマーを持っている。

「鈴木、わしら大人はおまえを殺すことを決意した」

「どういうことだ、これは。時坂」

「わたしたち、もう十七歳だよ。もうすぐ大人になるの。大人になるか死ぬかしかないのよ」

「ぼくは、まだ大人というものがよくわからない」

「ええ、大人にもそれはよくわかってないの。でも、もう<無傷の世界>は終わりだよ。大人になれない鈴木くんは今日ここで死ぬの。ごめんなさいね」

 これが水無の本音なのか。自分たちだけ助かればいいという傲慢。大人が大人を理解して、大人だけの世界を築くという傲慢。子供の理解不可能な心が存在することを許さない傲慢。未熟であることは存在を許さないという傲慢。それが水無の本音だったのか。

「かかって来いや、大人ども」

 もう、ぼくの、ぼくの中の鈴鬼が抑えきれない。名刀『鈴鬼左文字』を抜いて、みずから鈴鬼となる。

 斧を振り下ろしてきた大人。それをかわして胴を薙ぐ。すっぱりと胴体が切れた。

 槍を突き刺してきた大人。それをかわして頭部を切りつける。頭から血を噴き出す大人。

 刀を振りまわしてくる大人。ぼくのが早く相手の腕を切る。腕が切り落とされ、泣き崩れる大人。

 大剣を振り下ろしてくる大人。ぼくは大剣の刀剣ごと切り落とし、首をはねる。

 棍棒で殴ってくる大人。ぼくはそれより早く相手の胴体を切りつける。崩れ落ちる大人。

 小太刀を突き刺してくる水無。ぼくはそれをかわし、水無を峰打ちにする。気絶する水無。

 弓矢をかまえた神無。ぼくは弓の弦を切る。命拾いする神無。

 男子家を出れば七人の敵がいる。

「とても強いのですね、その名刀『鈴鬼左文字』」

「ああ、これは室町の頃より我が家に伝えられてきた子供の悩みを具現化したもの。とても繊細で、壊れやすいが傷つけやすいんだ」

「すると、それはきっと鈴木くんの精神感応力の具現化したものなのですね」

 そして、神無は倒れた。ぼくはそれを抱き留めた。複雑な気持ちで。

 <無傷の世界>はまだぼくたちを待っていた。

(どうした。ここは無傷の世界だ。誰か戦っているのか)

(ああ、ちょっとぼくの中の鈴鬼がね、大人を殺したよ)

(水無と神無もいるのか。あいつらはまだ子供だぞ)

(水無と神無は大人に魂を売ってしまったらしい。汚れた子供だよ)

(神無です。わたしたちはもうすぐ大人になります。そうしたら、ここにはもう帰ってこれないんですよね。わがままで繊細で何も知らないわたしたちの憩いの場所)

(若さとは、無責任な生命力だよ。子供とは、無責任な思いを実現することだ。それができる場所、それがここ、無傷の世界。鈴木も神無も無責任な自分の思いをここで実現するといい。そして、満たされれば大人になる)

(げらげらげらげら。満たされれば大人になるだあ。笑っちまうぜ。誰一人満たされず永遠の子供が子供を産む世界が大人の世界だろうが。げらげらげらげら)

 誰かの精神感応力が介入してきた。そして、ぼくも疲れて眠ってしまった。ぼくは大人になるまでずっと鈴鬼左文字を持って戦いつづけるだろう。それが正しいことなのかわからなくても。それが、ぼくが大人になるまでにかかる時間なのだ。

 



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キモブサについて、手紙、珈琲魔族、アダムの本屋

1000文字に満たないけど、のせたい掌編。


  キモブサについて

 

 また、ぼくは考えていた。哲学的命題というやつだ。

「幸せが絶対評価だった場合、我々はみんな縄文人より遥かに幸せに暮らしている。だが、幸せが相対評価だった場合、ぼくは縄文人より惨めな生き物だ。幸せが相対評価として存在するのなら、文明とは何だ? 何のために文明は存在するんだ」

 それに対して、千秋が答えた。

「ええ、幸せは絶対評価なんじゃないのかな。絶対にわたしたち、縄文人よりは幸せだよ」

 ぼくは千秋に激しくくってかかる。

「だが、恋愛は相対評価だ。恋愛は平等には人を幸せにはしない。恋愛によって人が進化するかぎり、ぼくらキモブサは常に縄文人より不幸せに生きざるをえないんだ。それも、きみのようなキモブサを恋愛対象として見ない不誠実な女性たちがいるからなんだ。キモブサはなぜいつの時代も幸せになれないんだ」

「だって、文明って相対評価によって競争するから発展していくんでしょ。絶対評価で幸せを測ったら、どこかの時点で文明は進歩するのをやめて満足してしまうと思うんだけど。つまり、文明が競争原理をもつためには相対評価でなければいけないのよ」

「なるほど。恋愛が相対評価であるのは、生物が進化してきた根源の原理に基づくものだというわけか。有性生殖が始まって以来、ぼくたちキモブサは常に競争原理を憎んできた。ぼくたちキモブサは、いつの時代にも生まれてきて、そして幸せになれずに死んでいく。ならばいっそ、世界を滅ぼしてしまってもかまわないんじゃないかと思えてくるくらいの絶望がぼくたちキモブサの心には棲みついている」

「そんな。世界を滅ぼすなんて」

「いいや、命が存在するのは奇跡だ。それは、幸せを相対評価によって測る現代文明が、恋愛によって運営されているからなんだ。文明が恋愛によって運営されるかぎり、いつかぼくたちキモブサの恨みによって、人類の文明は滅びてしまうだろう。それくらいにキモブサの力は強く、キモブサは何度でも報われない人生を生きるために生まれてくる。ぼくたちキモブサは、この世界など滅んだ方がよいのではないかと真剣に考える。それは、幸せが絶対評価ではなく、相対評価だからなんだ。忘れてくれるな、ぼくというキモブサがいたことを」

 

 

  手紙

 

 手紙を書きます。時間がありません。できるだけ手短にいいます。あなたのことが好きです。今、十億円を超えるお金をぼくはもっています。できれば、このお金を使いあなたと結婚生活でも数十年間送ることができれば幸せだと思うのですが、残念ながら、ぼくは今すぐにこのお金を使ってしまうつもりです。一銭残らず、慈善事業に使うつもりです。いくらなんでも、慈善事業に使うお金の一部をぼくが着服し、あなたとの結婚費用に使うような私腹の肥やし方をしては、せっかくのぼくの行う慈善事業が正しく行われるか怪しくなってしまいます。だから、ぼくは絶対に今持っているお金を一円残らず慈善事業に使います。後には一円も残りません。ぼくは人生の中で人を好きになったことなど一度もないのです。そうです、今から会うお見合い相手の女などはまったく好みではありません。それこそ、昔、あなたの処女を奪ってしまった時の方がどれほどドキドキとして胸がときめいていたかわかりません。そうです。思い出しましたか。ぼくは昔、あなたの処女を奪ったあの悪い男です。今からぼくは慈善事業にお金を寄付し、お見合いの美人の誘いを断らなければならないのです。そんな人生の岐路に立っているぼくの目の前に急にあなたの姿が見えて、かつての出来事を思い出し、あるわけないけど、あなたがもしかしたらぼくを好きでいてくれるのではないかと思い、急いでその場にあった紙にあなた宛ての手紙を書いているところです。もう時間がありません。今、命を狙われているのです。十億円以上のお金は慈善事業に使います。強姦魔より。

 

 

  珈琲魔族

 

 珈琲魔族というものたちがいた。黒聖霊とつがって子をなした東方の処女の子孫である。

 珈琲魔族の血液はコーヒーである。

 珈琲魔族は、黒黄金でできた槍をもっている。

 珈琲魔族が地上の田舎の家でコーヒーを入れている。

「バームクーヘンはコーヒーに合うね」

 珈琲魔族の男爵がつまみのお菓子を褒める。

「お父さま、天使たちの連絡網の管理者権限を手に入れました。天使たちの連絡網のすべてを使えます」

「すると何かね。黒き光のあの方にも、連絡がとれるのかね」

「はい。おそらく」

「ちょっとやってみてくれないか」

「はい、お父さま。天使たちの連絡網に、侵入、管理者権限、状態異教徒、呼び出し見えざる炎」

──見えざる炎より、異教徒へ。あなたは地獄の門の前に立っています。

「侵入、管理者権限、状態異教徒、サタン実行」

──何の用だ、異教徒。臓物を切り裂いてぶちまけられたいのか。

「侵入、管理者権限、状態異教徒、開け永遠の門」

 永遠なる存在がそこに文字を書きこむ。

──なんだ、誰からの呼び出しかと思ったら珈琲魔族か。珈琲魔族よ、砂糖はいくつだ。

「お父さま、黒き光が砂糖の数を聞いています」

「ふむ。いつもは砂糖一杯だが、今日は、砂糖二杯にしておこうか」

「侵入、管理者権限、状態異教徒、砂糖二杯要求」

──侵入、我が罪。死に至る病とは絶望である。絶望は罪である。

「侵入、我が罪、状態異教徒、我が罪は黒き光である」

──侵入、我が罪。神に仕えることがおまえの罪だというのか。サタンから神に侵入するものなど、珈琲魔族しかいないぞ。まあ、記念に黒黄金の金塊をやろう。

「侵入、管理者権限、状態異教徒、黒黄金を入手します」

「うむ。娘よ。黒き光に給わりし黒黄金の金塊を金庫に積むとしよう。わたしは黒黄金が永遠だということを悟ったよ」

「するとお父さま、黒黄金は地上が滅びても宇宙に残るのですね」

「そうだ。黒黄金には宇宙人への伝言を刻んでおこう。やがて神へも届くかもしれない」

 

 

  アダムの本屋

 

 聖書が本当に神の作った真実の書である異世界の話。

 

 光が生まれ、万物ができた。無はその時、存在するのを望まなかった。

 光は神に似せてヒトを作った。アダムである。

 アダムはエデンの楽園で本屋を始めた。聖書を売っていた。

 へびが客として来て、アダムに知恵の書を求めた。

 アダムはへびに聖書を売った。

 へびは聖書を読んで、すべての真実を知った。

 

 人類が神の怒りに触れ、洪水で死んだ時、ノアは方舟で家族や家畜とともに生きのびた。

 へびは聖書ですべてを知っていたので、洪水を生きのびた。

 ノアは神の怒りに触れていたため、聖書を燃やされていた。

 

 神は聖書の普及に熱心だった。

 読書嫌いのルキフェルは、天の三分の一を率いて読書反対運動を起こした。

 ルキフェルは神に負けて、地上に堕ち、アダムの本屋で聖書を読む教育を強制させられた。

 

 ナザレのイエスは、聖書の読者であることを告白し、聖書の購読は死罪であるとして、ローマ兵に捕らえられた。

 

 アダムの子孫は、聖書を売る本屋を営業していて、書物を燃やす人たちと戦っていた。

 聖書を並べる本棚、栞、ブックスタンドは、聖遺物として崇められた。

 

 最後の審判の時、アダムの本屋は閉店店じまい大売り出しを行った。

 値段はいつもと変わらないが、大袈裟な広告が打たれた。

「詐欺ではないか」という声も聞かれたが、アダムの本屋は聖書を売りつづけた。

 何年も、何十年も、何百年も、何千年も、ずっと閉店店じまい大売り出しだった。

「いつになったら閉店するんだ」といわれたが、聖書を売りつづけた。

 

 



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傲慢、冒涜、自涜の罪と洪水

 ある町で、神と勝負する話が盛り上がった。

 二十一世紀の繁栄した町だった。

 一人の少女が、

「あたしたちの町で神と勝負しようぜ。逃げも隠れもしねえ」

 と話を持ちかけ、少女は神と勝負するチームを結成して、神と勝負することを吹聴してまわった。

「おれたちの力なら、神にだって勝てるだろう」

 と話し合った。

「ここに宣言する。この町の住民みんなで、神に対して勝利すると。神など恐れるものか。覚えていろ、神よ」

 少女を代表に、その町は神に宣戦布告した。

「いくぞ。決起集会だ。神を落とす。天を落とすぞ」

 みんなが叫んだ。

「神を落とす。天を落とす。神を落とす。天を落とす」

 何度も、みんな、唱和した。

 町の住人は、意気揚々だった。

「逃げるな、神よ。あたしと勝負しろ」

 と町の住民が要求すると、洪水がこの町を襲った。

 どどどどどどどど。

 水が町に押し寄せる音だ。

 そのまま、住民たちは洪水に流されてしまった。

 床上浸水となり、ほとんどの家が天井まで水が浸かった。

 洪水の跡地で、生き残った住民たちが生き残るすべを探した。

「まだ生きているぞ。誰だ、あたしらの町を流しやがったやつは」

 少女はいったが、近くの男がいった。

「いやあ、これは神がおまえたちの挑戦を受けてたったのだろう」

「ああ、洪水を起こしたのは神のやろうか」

 生き残った人たちが集まり、笑った。

「はははは、神に負けてたまるか。もう一度、勝負しようぜ」

「おう」

 町の復興も後まわしにして、その町の住民は再び神に挑んだ。

「いくぞ。もう一度、決起集会だ。この町のチームで神を落とすぞ」

「おお、神を落とす。天を落とす。神を落とす。天を落とす。洪水なんて怖くねえ」

 どどどどどどど。

 再び、町を洪水が襲った。

 ざぷーん、ざぷーん。

「大丈夫か、みんな。生きているのか」

 少女は泳いで建物の屋根に這い上がった。

「くそう、洪水なんかであきらめるあたしたちじゃねえぜ」

 少女はそういったが、中にはあきらめ始めたものもいた。

「いやあ、やっぱり、神には勝てないよ」

「罪深い町ですよ。傲慢、冒涜、自涜の罪です」

 神に挑む傲慢。

 それは冒涜でもあり、自涜でもある。

 二十一世紀の洪水神話だ。

「すまん。おれ、そろそろ、神に勝てる自信がなくなってきたんだが」

 男がいうと、少女は怒った。

「この程度であきらめるな。町を三度、流されても神に勝つ」

 そして、また洪水が起こって町が流された。

 どどどどどどどど。

 ざぶーん、ざぶーん。

「いや、もう、あの女とそのチームは、地上の秘密だ。でないと、神に怒られる」

 洪水の町は、しかし、あきらめることなく神を倒す野望を吹聴した。

 懲りない町だ。

 



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