ひきこもり大戦記 (丸木堂 左土)
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第一話

 生まれ変わろう。

 六畳一間しかない、安普請のアパートの一室。その部屋の中心で、僕は遂に決心したのだった。

 いつもなら、決心するだけで終わりだった。精神は動けども、肉体は動かず。上っ面の決意だけじゃ、身体を納得させることはできない。そんなこと、とうに知っているくせに、形だけの決意で満足していた。

 でも、それでいいじゃないか。ソクラテスは己の無知を自覚することによって、他より抜きん出た存在となれた。僕だって自分をダメ人間だと自覚している分、他のダメ人間よりかは幾分マシではないか。

 下を見ることによって得られるちゃちな満足感を、味のなくなったガムを噛み続けるように、無理に味わって生きていた。

 今までは、それで良かった。しかし、今回は違った。胸中で渦巻く黒い塊に心が耐え切れなくなった。強い負荷をかけたバネがその分だけ反発するように、僕の心も限界をむかえてしまった。

 もう嫌だ。こんな自己嫌悪に苛まれるだけの日々が続くのなら、いっそ死んでしまったほうがマシだ。でも、自殺するような大それた勇気は持ち合わせていない。死には必ず苦痛が伴う。苦しいのも、痛いのも、ゴメンだった。

 なら、重い腰を上げて動くしかないだろう。酔生夢死の徒からの脱却。厳しい任務だ。だけど、僕は今夜、生まれ変わってみせる。

 そうと決まれば即行動だ。決意の熱が冷めてしまわぬ内に、具体的な行動計画を立てよう。

 壁時計を見る。

 現在の時刻は午前一時半。通常の生活サイクルを送る者ならば、今頃はみんな床についている時間帯だ。つまり、僕にとっては絶好の外出時刻である。

 この街は、世間一般に言う郊外のベッドタウンだ。こんな夜更けに出歩いている人間といったら、せいぜい酔っ払いのサラリーマンぐらいが関の山。なんの心配もない。

 あっ、けど、もし道中でからまれたりしたらどうしよう。酔っ払いは何をしでかすかわからない分、素面のサラリーマンよりもよっぽど性質が悪い。妙な難癖をつけられて、殴られたりするかも。嫌だな。痛いのは嫌だ。そもそも酔っ払い以前に、パトロール中の警察官に出くわして、職務質問でもされたらどうしよう。まともに対応出来る自信なんて、からきし無い。逆に、不審者として連行されてしまうかも。そしたら、僕は留置所入りだ。二度と日の目を浴びることなく、暗くてジメジメした牢獄で一生を過ごす。

 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 外は危険だ。外になんか出たくない。少なくとも、今日は無理だ。うん。だって今日は平日だし、せめて休日にしよう。なんで休日の方がいいのかはわからないけれど、とにかく休日にしよう。よし。今日はもう止めにして、また明日から頑張ろう。そうしよう。

「いけない、いけない」

 ネガティブな思考を振り払うために、頭を左右に振った。

 油断したら、すぐこれだ。とにかく今は、何も考えずにただ動こう。益体のない思考は、行動の硬直化を招くだけだ。

 作戦決定。

 僕は今から深夜のコンビニへ赴き、店内に置いてある求人誌をゲットする。そのついでに、夜食のポテチとコーラを購入。そのまま寄り道せずに、真っすぐこのボロアパートへ帰宅する。

 大丈夫、簡単なことだ。この程度のおつかい、小学生どころか幼稚園児にだってこなせる。今年で二十七になる僕に出来ないはずがない。

 頬をピシャリと叩いて、自らを鼓舞する。

 万年床を畳み、毛玉だらけの着古したスウェットを脱ぎ捨てた。押し入れにある真新しいシャツとジーンズを着る。その上に厚手のコートを羽織って、黒のニット帽を被った。

 洗面所の鏡で確認。とりあえず、おかしな格好ではないと思う。

 あいうえおー、と念のために発声練習をした。ただレジを通すだけの簡素な買い物だ。おそらく声を出す機会はないだろうけれど、暇を持て余したコンビニ店員が世間話をふってくる可能性も捨てきれない。

 脱ぎ捨てたスウェットを洗濯機へ放り込み、玄関へ移動した。

 大学生の頃から履いている汚れの目立つスニーカーをつっかけて、目の前にそびえ立つドアと対峙する。

 ここから先は、もう未知の世界だ。この部屋と違って、僕以外の人間が平然と闊歩している。弱者に厳しく、強者にも厳しい。そんな、冷たくて無関心な世界が広がっている。

 気分はさながら、異世界転移だ。大袈裟だと思われるかもしれないが、ひきこもりの僕にとっては、文字通り命懸けのイベントだった。主人公補正なんて贅沢な機能は、もちろんついちゃいない。僕はノーチートで、異世界に立ち向かわなければならない。

 一度、大きく深呼吸。震える心を鎮ませる。

 冷たいドアノブを握り、ゆっくりと引いていく。冬の冷気が、ドアの隙間から漏れ出てくる。それだけで引き返したくなる。だけど、それじゃ駄目なのだ。僕は今夜、生まれ変わる。

 外に出た。

 久しぶりの外界は、ゾッとするほどしんと静まり返っていた。肌を刺すような冷気が、僕の体温を奪おうと躍起になる。思わず、両手で身体を擦る。

 とりあえず、視界に人影はなかった。

 錆びた階段を降りて、恐る恐る道路に出る。等間隔に並んだ街灯が、スポットライトのように地面を照らしている。遠くでバイクのエンジン音が聞こえる。

 寒さのためか、それとも恐怖のためなのか、歯の根が合わずカチカチと硬質な音を立てる。大丈夫、大丈夫と心の中で何度も反芻しながら、僕はコンビニに向かって歩き始めた。

 

 静寂の世界を、独りきりで歩く。

 しばらく歩いていると、額に汗がにじみ始めた。思えば、歩行という行為すら久しぶりなのだ。単純に身体が疲れてきたのだろう。でも、その疲れすらどこか心地よい。

 僕は、やり遂げたのだ。

 達成感が、じんわりと胸に染み渡っていく。

 人類が初めて月面に降り立った時も、こんな気持ちになったに違いない。偉大な行為を成し遂げたという、純粋な喜び。ああ、僕の心も月まで飛んでいきそうだ。

 わかっているさ、他の人から見れば鼻で笑われてしまうような、小さ過ぎる一歩だってことくらい。だけど、僕にとってはあまりに大きな一歩だった。ひきこもりが外に出るということは、それほどまでに困難なのだ。

 僕は、本当に変われるのかもしれない。ひきこもりニートを卒業して、定職について、経済的にも精神的にも自立できるかもしれない。もう怯えたり、コソコソしたりせずに、胸を張って生きられるのかもしれない。人並みの人生を、送れるようになるのかもしれない。

 溢れんばかりの希望で、胸が一杯になった。妄想は四方へと飛んでいく。数ある未来の中には、平凡な家庭を築くものさえあった。僕は幸福の絶頂にいた。

 その時、後ろから足音が聞こえてきた。

 脱兎のごとく駆け出し、近くの電柱に身を潜める。心臓が信じられない速さで脈を打っている。ぎゅっと目をつむり、足音が過ぎ去るのを待った。

 早く、早く、早く、早く、どこかに行ってくれ!

 足音が遠ざかる。

 危機が去ったことを理解した瞬間、虚脱感に襲われ、その場にへたりこんだ。

 足音ひとつで、この怯えっぷり。あまりの情けなさに涙が出そうだった。先程まで描いていた希望は全てかき消され、後に残ったのは親しみ慣れた絶望だった。

 自惚れるなよ、僕。人がそうそう変われるわけがないだろう。今までの人生を振り返れば、そんなことすぐにわかるじゃないか。

 僕の堕落人生は、ここ数年の話じゃない。それこそ、この世に生を受けた時から、すでに堕落していたのだから。

 

 僕はいわゆる、社会不適合者だった。

 人とコミュニケーションをとるのが苦手で、いつも独りでいた。当然、友達は一人もできない。そのため、コミュニティ至上主義の学校の中では常に針のむしろだった。小中高とひきこもらずにいられたのは、今から考えると奇跡に近い。おそらく、イジメなどの決定的な障害に出くわさずに済んだ幸運によるものだろう。

 孤独の痛みは確かに感じていたけど、それと同じくらい耐えることにも慣れていた。僕は鬱屈をため込みつつも、なんとか学生生活を送ることができていた。正直、このまま平穏無事に過ごせるだろうと楽観する気持ちがあったことを否定できない。人生ってのは――そう都合よくできちゃいないのに。

 転機は大学三年生の春に訪れた。

 二流大学の文学部哲学科を二浪して入学した僕は、相も変わらず孤独な日々を送っていた。大学は小中高に比べると孤独に優しい環境だったし(ただしグループワーク必須の授業を除く)、僕にとっては決して悪くない場所だった。それに、専攻していた哲学に没頭することで、一時的に孤独を忘れることができたのも大きい。

 今までの人生を省みれば、大学時代は最も充実していたと言っても過言ではない。あの頃は、全てが順調に進んでいたのだ。

 しかし、思い出すのも忌々しい『あの事件』によって、僕の日常は完全に崩れ去った。

 後は見ての通りだ。大学中退を余儀なくされ、ひきこもりニートまで一直線に転がり落ちてしまった。ギリギリまで踏みとどまっていた堕落への淵を、越えてしまったのだ。

 未練がなかったといえば嘘になる。憎しみだってもちろんある。でも、仮に大学を卒業できたところで、僕はおそらく同じような道を辿っていたのではないかと最近は考えている。相槌を打つ協調性すら皆無の僕が、就職活動なんてたいそれたものをこなせるはずがない。ひきこもりニートの未来は回避できたかもしれないが、無職の未来は回避できなかっただろう。

 大学を中退した後は、一人暮らしの気楽さに慣れてしまっていたせいか、なんとなく実家に帰る気になれず、下宿先のボロアパートに居残っていた。親父の仕送りでなんとか糊口はしのげていたし、貧乏な生活だったけれど不満はなかった。

 そんな日々が、しばらく続いていた。僕は決して幸福ではなかった。だが、不幸でもなかった。親父には悪いとは思っていたけれど、実際動くとなると話は別だった。『あの事件』以来、外の世界が怖くなっていたのだ。

 けれど、今から二年前、僕の生活基盤を揺るがす大事件が起きた。

 親父が交通事故で亡くなったのだ。

 電話で訃報を聞いた時の、足元が崩れ落ちていくような感覚は今でも覚えている。ダメ人間だった僕を否定せず、最後まで肯定してくれた優しい人だった。きっと、言いたいことは色々とあっただろう。恨みつらみをぶつけたくなったことだって、何度もあったはずだ。けれど、親父は最後の最後まで僕のことを信じてくれた。そして僕は、最後の最後までその期待を裏切り続けた。

 そして、扶養主を失ったひきこもりニートはどのような顛末をたどるのか。収入源がなくなれば、当然生活することはできない。そのまま餓死することを良しとしないのなら、ひきこもりニートをやめて働くしかない。けれど、僕が今こうやって決死の思いでコンビニに向かっていることからもわかるように、二年前の僕はひきこもりニートを卒業しなかった。

 なら、どうやって生活していたのか。答えは簡単だ。僕を支えてくれる人が、まだ他にもいたのだ。僕は父親は失ったけれど、家族までは失っていなかった。

 僕の家族構成は四人。早くに病で亡くなった母と、交通事故で亡くなった父。そして、ひきこもりニートの僕を加えて、後もう一人、二つ年下の妹がいた。

 そう、僕はあろうことか、当時社会人になったばかりの妹に全てを頼ったのだ。親父の葬儀も、相続に関する諸々の手続きも、そして――今後の僕の生活についても、全て妹に丸投げした。そして彼女が何も言わないのをいいことに、ダラダラとひきこもりニート生活を続けていたのだ。

 兄として、これほど情けないことはないと思う。畜生にも劣る存在だ。今回の一大決心は、何よりも妹の存在が大きかった。これまで散々親父に迷惑をかけてきて、さらに妹にまで迷惑をかけていいはずがない。

 とにかく、アルバイトでもなんでもいいから一刻も早く職を持って、妹の負担を減らさなければならなかった。

 そのためにも、僕は変わらなくてはならない。今夜は、そのための第一歩だった。



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第二話

 異変が起きたのは、コンビニまで後五分というところだった。

 二つ先の街灯の下に、三人の人間が照らされていた。それを見て、反射的に近くの電柱に身を潜める。一難去ってまた一難。どうして神様は僕を無事にコンビニまで向かわせてくれないのだろうか。お前はひきこもりニートがお似合いだという思し召しなのだろうか。

 頼むから、さっさとどこかへ行ってくれ。必死に念を送りながら、こっそり前方を伺う。

「なあ、いいじゃんかよ」

 耳に届いたのは、甲高い男の声だった。閑静な住宅街だけあって、声は明瞭に聞こえてくる。

「勘違いしないで欲しいんだけどさ、俺らはあくまで善意で言ってるんだって。やましいことなんて、何も考えちゃいないからさ」

 前方にいる三人組は、男性二人に女性一人の構成だった。男性二人が女性と向き合うようにして立っている。

 男性の方は、背が高いのが一人に低いのが一人。両方とも髪を明るい色に染めていて、耳にはピアスがジャラジャラとついていた。穿った見方かもしれないが、軽佻浮薄の四文字が最も似合いそうな二人である。

 対する女性の方は、こちらに背を向けて立っているので、顔や表情まではわからなかった。長い髪をひとつに結んでいて、暗い色のスーツを着ている。何故かコートを羽織っていないので、見ているこっちが寒くなりそうな格好だった。

「やめてくだあさい」

 と、聞こえてきたのは女性の声だ。が、どうにも様子がおかしい。なんていうか、舌っ足らずというか呂律が回っていないというか、とにかく変だ。

 見れば、OLさんはフラフラと左右に揺れていて重心が定まっていない。もしかして、酔っているのか……?

「いいじゃん、いいじゃん。ちょっと俺の家で休むだけだって。ほら。ここら辺、最近物騒だって聞くし? そんな危ない中を、酔ってる女の子が一人で歩いてちゃさ、俺らも心配になるってわけ」

 お前らのほうがよっぽど危ないよ、と心の中でツッコみを入れる。というか、背の高い男の方が甲高い声の持ち主だったのか。

 だいたい状況が掴めてきたぞ。

 泥酔したOLさんが不用心に一人で歩いていたところを、二人組の男が目敏く発見。そして自分たちの部屋、もしくはホテルへ連れ込もうと目論んでいるらしい。

「それにしても寒いな。身体も冷えてきたし、さっさと行こうぜ」

 そう言いながら、背の低い男がOLさんの肩に手をかけた。しかし身長が足りていないので、見ようによっては子供が大人にぶら下がっているようにも見える。

 しかし男が手をかけた瞬間、OLさんがいきなりその手を振り払い、

「だーかーらー、やめてくらさいって、言ってるでしょうがっ!」

 相変わらず怪しい口調だったけれど、想像していたよりもずっと強い拒絶を示した。

 男たちは狼狽したらしく、女性から一定の距離を置く。ちなみに僕も狼狽していた。急に大声を出すのは心臓に悪いからやめてよ!

 チッ、と背の低い男が舌打ちする。

「うっせえなぁ、いいからさっさと来いって」

 あからさまな拒否反応に腹を立てたのか、男たちはさっきとは打って変わった乱暴な動作で、OLさんを連れて行こうとする。

 あ、ヤバイ。

 ここにきて、自身の身が危ないことに気付く。進路方向によっては、彼らと鉢合わせてしまう可能性があった。見た感じ男たちは苛立ってるし、僕が一部始終を見ていたとわかれば、口封じに暴行をはたらくかもしれない。

 早く、隠れなきゃ。

 だが周辺に視線を動かせども、人が隠れられそうな場所は見当たらない。路上駐車している車すらなかった。

 どうする?

 一か八か、走って逃げるか? でも、ちょっと歩いただけで疲れてしまうような人間が、男二人から逃げおおせられるのか? ダメだ。あっけなく捕まる結末しか見えない。そして、もし捕まったら僕は……。

 恐怖が精神を蝕み、僕はほとんど発狂しかけていた。緊張で喉元が締まり、酸素が欠乏する。そして結局、為すすべなくその場でじっと縮こまることしかできなかった。

 だが、幸運の女神が微笑む。

 ありがたいことに、男たちは僕の潜んでいる電柱とは逆方向に歩いて行った。鉢合わせの可能性はこれで消えた。全ての懸念は杞憂に終わり、ホッと胸をなで下ろす。

 しかし――それでも、喉に刺さった魚の小骨のように、僕の胸をチクチクと突く何かがあった。

「…………」

 そりゃあ、僕だって良心が痛まなかったと言えば嘘になる。

 でも、ひきこもりを卒業したばかりの人間に何ができる? ヒーローよろしく彼らの前に姿を現し、悪事を糾弾するのか? でも、そうすれば僕はどうなる。袋叩き決定だ。

 それに、OLさんに全く落ち度がないわけでもない。

 今回のことは、どう考えてもベロンベロンに酔っているOLさんの不注意によるものだ。厳しい言い方かもしれないが、自業自得である。

 僕に、他人の心配をする余裕はないのだ。何よりも可愛いのは自分である。卑怯者の誹りだって、甘んじて受け入れるさ。けど、僕だけじゃなくて、誰だってそうじゃないか。自分が可愛いんじゃないか。だからこそ僕はひきこもりニートに……。

「やめてっ」

 僕は何もしない。そう決めていた。しかし、今までで一番大きなOLさんの叫び声に、僕の死にかけていたはずの良心が甦った。

 即座に、周囲に視線を動かす。が、人っ子ひとりいない。通りすがりのヒーローが彼女を助けてくれる可能性はない。彼女を助けられるのは、正真正銘、自分一人しかいなかった。

 心臓が有り得ないぐらいの速さで脈を打っている。鼓動は、彼らとの距離が広がっていく度に、速さを増しているようだった。

 本当に、このまま何もせずに、彼らを見送ってしまってもいいのか。どう見ても、OLさんは嫌がっている。これはれっきとした犯罪行為だ。なら、僕には警察へ通報する義務が生じるのではないのか。けど、僕はあいにく携帯電話なんて持ち合わせていない。ひきこもりニートにそんなものは必要ないからだ。なら、交番に行くべきか。だけど、僕は交番の場所なんか知らない。今から探して間に合うだろうか。けど、仮に交番へ行けたところで、僕みたいなひきこもりニートがまともにこの状況を伝えることが出来るのか。いや。おそらく、失笑されて終わりだ。いい年した男が、変なことを口走っていると思われて。それで終わりだ。きっと、そうなる。だって僕、ひきこもりニートだもの。人間のクズだもの。絶対に、無理に決まってる。

「…………」

 結局、何も出来なかった。彼女が連れ去られるのを見届けるだけだった。

 仕方がないよ。

 僕はコミュニケーション不全のダメ人間だから。こうやって外に出歩けるようになったのも、ついさっきの出来事なんだし。いわば、僕は生まれたばかりの小鹿に等しい。悪漢に連れ去られそうな女性を助けるなんて、どだい無理な話だ。レベル一のまま、ひのきのぼうと布の服で魔王に挑むようなものである。

 だから、仕方がないよ。

 それに、最低だと自分を卑下する必要もないんじゃないかな。こうやってOLさんを助けなくてはならないという正義感に駆られてるだけ、僕はまだマシじゃないか。そこらのひきこもりニートが、悪漢相手に正義感を発揮できるだろうか。否。ひきこもりニートというのは、本質的に利己的な存在なのだ。他人の心配なんかするわけないし、利己的でなかったらそもそもひきこもりニートになんかになっていない。僕は他のダメ人間よりも、格段に勝っている。

 そうだよ。逃げ出さないで、辛い現実から目を逸らさないでいるだけ、僕はまだカッコイイじゃないか。普通のニートにこんなことできるか? できやしないよ。僕は少なくとも、ただのニートではない。スーパーニートだ。

 だから、いいんだ。別に、立ち向かわなくたっていいんだよ。

 こぼれでる、自嘲の笑み。

 僕がそのまま、マイナスの感情に身を委ねてしまおうと思った時だった。

 声が聞こえた。

「誰か、助けて」

 それは、決して大きい声ではなかった。だが、その小さな声が僕の鼓膜を震わせ、脳を揺さぶった。

 フラッシュバックするセピア色の光景。

 夕日に照らされている、一人の女子。普段は凛と見開かれている瞳が、涙で頼りなく光っている。そして、今にも泣きだしてしまいそうな顔で、見えない何かに耐えるように拳を強く握りしめながら、彼女は誰にでもなく呟くのだ。

 ――誰か、助けて。

「ああああ、あっの、少し、よろしいでしょうか?」

 突然だった。

 噛みまくりの情けない声が、急に聞こえだした。

 誰だ? こんな聞くに耐えないような不快な声を出すのは。

「誰だよ、お前」

 いつの間にか、僕の目の前に背の高い男の顔があった。

 あれ? どうして、こんな近くに男の顔があるのだろう? さっきまでは、あんなに遠くにあったのに。

 僕はそこで、自分の息が途切れ途切れで苦しいことに気づいた。そうか。僕はいつの間にか、男たちのすぐ近くまで駆け出していたのか。

「だから、何のようなんだって聞いてんだろ」

 背の低い方が、肩を軽く小突いてきた。

「ひっ」

 たったそれだけのことで、僕は情けない声を出して、その場にペタンと尻餅をついた。男たちはキョトンとした顔でそれを見た後、ゲラゲラと下品に笑った。

「おいおい、なんだよ。ちょいと触っただけじゃねぇか。何をそんなにビビってんだよ」

 頭の整理が追いつかない。羞恥心と恐怖心で顔が赤くなる。

 くそっ、何をやっているんだ僕は。傍観するって決めたじゃないか。なのに、なんでノコノコとコイツらの前に駆けつけているんだ。正義の味方にでもなったつもりなのかよ。

 立ち上がって、汚れたズボンをはたく。

 ええい、ままよ。

「いいい、いや、嫌がっつるじゃあないですか、その人」

 半ばやけくそになり、男たちに向かって非難の声を上げる。僕が何のために現れたのかを知り、彼らの顔色が変わった。

「テメェには関係ねぇだろ」

「けけけっ、ど、それってはは犯罪になりますよね。女の人、いややがってるし」

「だからなんだってんだよ」

「たとえ、たとえですよ。仮にぼぼ僕が、なにもしなくたって、その女の人が、後ほど、けけ警察に通報したりするんじゃああありませんか?」

 自ら矛を収めてもらえるなら、それが一番だ。穏便に事を済ませようと、まずは説得を始める。

 だが、

「ああ、それについては問題ねえよ」

 下卑た笑みを浮かべて、背の高い男はあっけらかんと言った。

「ハメ撮り写真でも撮って、ばら撒くぞって脅せば、女なんて何も言わないからさ、実際。心底わかってんだよ。警察に行って一生の恥かくよりも、たった一夜の過ちを悔やんだほうが割に合うってな」

 目眩がした。視界が回って、足元もふらついた。

 ダメだ。コイツら、下手したら僕以上のクズだ。このような悪事を働くのが初めてではないことが、今の物言いで判明した。

「でででで、でもですねえ」

 正義のヒーローなら、ここで迷わず鉄拳制裁なのだろうけど、非力な僕にはただ説得を続けることしかできない。

「ああ、もうウッゼェ。さっきからネチネチとうるせぇんだよ」

 いつまでも突っかかってくる僕に痺れを切らしたのか、背の低い方が顔を殴ってきた。

「ぶっ」

 殴られた勢いで、地面に倒れこむ。アスファルトの道路にモロに顔をぶつけ、頬が擦り切れる。遅れてやってくる痛み。

 痛い。恐い。痛い。恐い。

 ダンゴムシのように丸まって、ガタガタと震えた。口内で血の味が広がっていく。

「んー?」

 そんな僕の情けない所作に疑問を感じたのか、背の低い方がボソリと呟く。

「お前って、もしかしてひきこもりか何か?」

 ビクリと大きく身体を震せる。ひきこもりという単語への脊髄反射だ。顔を上げると、頭上では我が意を得たりと背の低い男がニヤリと笑っている。

「おいおい、マジでヒッキーなのかよ、コイツ。えっ? なんですか? 今までずっと、社会の底辺が俺らに口を出していたってわけですか?」

 なんで、なんで、なんで、なんで。

 なんで僕がひきこもりニートだってことがバレたんだ。顔か、体格か、それとも雰囲気か。

 この瞬間、あやふやになっていた優劣関係が硬固たるものへと変化した。

「ふーん、ひきこもりねぇ」

 背の高い男も、これまで以上にバカにするような目で、僕のことを見下ろす。

「ひきこもりとか、社会のゴミじゃねぇか。ゴミがなに偉そうに人様に説教してんだよっ」

 そのまま、僕の腹を蹴る。内側からの圧迫感により吐き気が込み上げてくる。慌てて口を塞ぎ胃液を飲みこむ。

「その通りだな。ヒッキーはヒッキーらしく、じめじめと岩の下で暮らしてりゃあいいんだよっ」

 背の低い男は、顔を蹴った。唾液と血が混じったものが、口から流れ出て道路を汚した。

「ていうか、いっそ死んじまえよ」

「そうだそうだ。さっさと死ね。社会のクズが」

 容赦なく降り注ぐ、存在を否定する声。あくまで自虐として、自身の存在を否定することは日常茶飯事だ。だが、他人から否定されるの久しぶりのことだった。

「死んじまえ」

「死んじまえ」

 サラウンドに聞こえてくる、死を求める声。

 不思議な気持ちだった。普段、自分で自己の存在を否定していると、坂を転がり落ちるように気分も落ちていくものだ。

 けれど、他人に自分の存在を否定されていると――

 僕はゆらりと幽鬼のように立ち上がって、目の前の男たちを見据えた。

 僕の視界は真っ赤に染まっていた。この感情は、久しぶりだ。久しぶり過ぎて、忘れていた。そう、これは怒り。僕は今、猛烈に怒っている。

「僕はひきこもりじゃないっ」

 風船が破裂するように、僕も破裂した。

「ぼぼぼ僕のどこが、ひきこもりだって、言うんですかっ? ほら、見てくださいよ。僕はこうして今現在進行中で外を、ででで出歩いているじゃああありま、せぬか? なら、ひきこもりじゃあないでしょう。ええ、そうですよ。僕はたしかにひきこもりでしたよ。けど、それは過去のことです。過去形です。ワズです。だあかあらあ、いいいまは違うでしょうっ。ひきこもりじゃないでしょう? ニートですけど、ひきこもりではないでしょうがっ。て訂正してくださささいよおっ、今言ったひきこもりって言葉。訂正してくださいよおおお。どうせならニートって呼べよ。つーか、そう呼べええっ。さあさあさあささあさあっ」

 深夜の寒空の下、唾と血を飛ばしながら騒いでいるニートが、ここに一人。ええ、そうです。それは、僕です。

「…………」

 突如、態度が百八十度変化した僕に対し、男たちはドン引きしていた。口をポカンと開けて凝視する。

「お、おい。コイツ、ちょっとヤベェんじゃねぇの?」

 背の低い方が高い方を肘でつつく。

「あ、ああ。そうだな。確かにコイツ、かなりヤベェよ。見ろよ、あの目。完全にイッちまってる。あれはキ○ガイの目だ」

「ああ、間違いねぇ。ほんまもんのキ○ガイだ」

「ああああ! んだ、お前ら。だだだだ、誰がひきこもりだって!?」

「キ○ガイだっつってんだろ!」

 興奮によって、流れ出る鼻血。それを拭いとる余裕もなく、男たちに向かって歩いていく。

「なっ、ななななにをさっきからあ、ごごゴチャゴチャ言っ、てるんですかかかねえっ」

 ぼたぼたと鼻血を垂らしながら、距離を詰める。

「てて、て訂正しててくださいよおお。ぼ僕のことをひひ、ヒッキーって言ったことお、訂正してくださいよっ。しし、失言を正し、ってくださいよ」

 僕が一歩進むと、男たが一歩下がる。僕が二歩進むと、男たちも二歩下がる。それを何度か繰り返した後、背の高い男が遂に諦めの表情を浮かべた。

「今日は、もういい。さっさと行こうぜ。コイツ、マジでなにをしでかすかわからねぇぞ」

「ああ、同感だ」

 狂人を相手にするリスクの方が、一夜の快楽を手にする期待よりも上回ったのだろう。男たちはぐちぐちと悪態をつきながら、僕の前から逃げるように去って行った。

「…………」

 勝った。勝ってしまった。

 なにはともあれ、僕は二人の悪漢に打ち勝った。

 なのに、どうしてこんなに虚しいのだろう。滂沱の涙を禁じえないのだろう。

 コートの袖で、涙を拭う。

 僕は一体、何をやっているのだ。ただいたずらに自分の矮小さをさらけ出して、自分を傷付けただけじゃないか。僕がやっているのは、ただの自傷行為。リストカットをして、相手を引かせただけ。カッコイイことなんて、何一つない。ていうか、カッコワルイ。

 熱くなっていた頭とは対照的に、指先はとうに冷え切っていて、既に感覚が無かった。そうか、外はこんなにも寒かったのか。

「帰ろう」

 今更、コンビニへ行く気にもなれなかった。早く家に帰って、万年床の中でぬくぬく温まりたかった。しばらくの間は、外に出たくない。ってか、ひきこもりたい。

 僕は踵を返して、ボロアパートを目指した。

「ちょーと、待って……」

 しかしそれを妨げたのは、すっかり蚊帳の外であったOLさんだった。彼女は僕の肩を掴み、進行を妨げた。対する僕は、そういえば女の人に触られるのは久しぶりだなぁ、なんてことをぼんやり考えていた。

「とりあえーず、礼を言っておきましょう」

 助けられた側なのに、なぜだか尊大な口調でOLさんは礼を言った。甘ったるい酒の匂いが、こちらまで漂ってくる。

「いいですよ、別に」

 僕は素っ気なく言い放った。テンションが最低辺にまで落ち込んだ影響か、吃りまで消えている。誰かとまともに会話するなんて、随分と久しぶりだった。

 へっくちょい、とOLさんがくしゃみをする。僕は着ていたコートを彼女の肩にかけると、再度トボトボと歩き始める。

 再び掴まれる肩。

「いや、そういう訳にもいきまひぇんよ」

 OLさんはしつこく食い下がってくる。

「私、借りを預けっぱなしっていうのはあ、どうにも性分に合わないんれす。きちーんと返してもらいまふ。今はこんなんですから無理ですけど、後ほど改まって礼をさせてくらだい」

「いや、本当にそういうのいらないんで」

「わったしがよくないんですよぉ」

「いや、だから」

「ほら、さっさと連絡先をー、教えんしゃい」

「その」

「ほらぁ、早く早く早くぅー。私だってぇ、ヒマじゃないんですよ、ヒマじゃ」

 ブチッ、と何かが切れる音がした。

「あああ、もうウルサいっ。僕のことなんかほっといてくださいよっ」

 先程の興奮が尾を引いていたせいか、耐え切れなくなり激昂した。肩に置かれた彼女の手を乱暴に振り払う。

「あらら」

 しまった。

 身体の支えを失ったOLさんは足を滑らせ、そのまま後ろへ倒れていく。危ない倒れ方だった。このままでは、彼女は後頭部を打ってしまうだろう。

「危ないっ」

 OLさんに反射的に手を伸ばして、彼女の身体を抱き寄せた。普段の僕では考えられない、紳士的な行動だった。

 OLさんと目が合う。今になって気付いたが、彼女は驚くぐらい整った容姿をしていた。

 酔いのせいか頬は赤く染まり、目はとろんと半分垂れ下がってだらしの無い表情をしているが、それを差し引いたとしても、彼女は美しかった。

 女性と見つめ合うなんて、普段の僕なら到底できないだろう。が、この時ばかりは違った。僕は彼女の瞳にスッカリと魅入られてしまい、視線を外せずにいた。

 しばらく二人で見つめ合った後、OLさんが口を開く。

「……武井、くん?」

「え」

 いきなり呼ばれた、僕の苗字。

「今、なんて……」

「だから……あなた、武井くんれしょ?」

 OLさんは僕の名前を知っていた。

 フルまで踏んでいたアクセルが、更に振り切れる。色んな感情が織り交ざって、何も考えられなくなる。

 ひきこもりニートにとっての最大のタブー。それは、己の過去を知る人物に出くわすこと。そして今、目の前にいるOLさんは僕の名を、つまり過去を知っていた。

「……違います」

 僕は呟く。

「えっ?」

「違いまあああああすっ!」

 キャパシティを超えた。

 僕は叫び声を上げて、OLさんを押しのける。

「ちっ、違いますから」

 わなわなと震えて抗議する。

「僕は、僕は、決して、武井ヒロシなんかじゃあ、ありませんからああああああああ!」

 出した結論は、逃避。

 全力疾走した。少しでも彼女から遠ざかろうと、ただひたすらに走った。

 明日はきっと筋肉痛だろう。疼痛で一日中苦しむだろう。だけど、今はそんなことを考慮する暇もなかった。僕は走る。目的地は考えていない。ただ走るのだ。親友のもとへ向かう、メロスのように。

 こうして、僕が一大決心のもとに挑んだ一夜の冒険は、目的地に辿り着くことすらできず敢え無く失敗し、僕は悲痛の涙を流しながら、夜の街を一人遁走したのだった。



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第三話

 どうして、人は寝起きの時に機嫌が悪くなるのだろう。僕は常々疑問に思っていた。

 起床。それは誰もが経験したことのある生理現象だ。それも人間だけではなく、地球上に住む大半の生物にとっても無縁ではない。そう思うと、起床という行為が壮大なスケールの営みであることがわかる。

 さて、問題は機嫌云々である。なぜ、朝起きたら気が立っている人が多いのか。

 もっとも、そんなのは洋の東西を問わず、ましてや老若男女も問わず、この世に生きている者ならば誰にでも理解出来る不変の真理である。そもそも、このような自明の理を議論の俎上に置くこと自体がおかしい。

 それなら、なぜ自明の理に疑問を持つのか。ぶっちゃけ、思索癖のある僕の自己満足他ならない。しかし、誰に迷惑をかけるわけでもないのだし、別に構わないだろう。

 とにかく、僕は疑問に感じていた。どうして人は、起床という行為にここまでの苦痛を抱いてしまうのかと。いや、抱かざるを得ないのだろうかと。

 そりゃあ、血圧の高低とか、睡眠の不足とか、バイオリズム云々とか、幾つかの科学的根拠をあげることは可能だ。いや、科学的というのは些か大袈裟過ぎるかな。まあ、細かいことは気にしない。

 大学生の時は図書館へ行って、睡眠に関する書物を読み漁ったりもした。が、大半は睡眠のメカニズムや効用を説明しているだけであって、肝心の起床について書かれた本は極めて少なかった。あったとしても、せいぜいオマケ程度の扱いである。

 けれども僕は辛抱強く図書館に通い続けた。けれど、めぼしい成果はあげらなかった。活字が与えてくれる情報には限界があった。

 自分が的外れなことをしていると気づいたのは、しばらく経ってからだった。あれ待てよ、この手の疑問ってどちらかといえば哲学寄りなんじゃね、と。

 そういう訳で、僕はさっさと宗旨替えをし、引き続き答え探しに興じることにした。思いのほか、この哲学もどきには没頭できた。孤独ゆえに、昔から時間だけは有り余っていたからだ。

 けれど、時間をかけて考察しても答えは見つからなかった。いい具合に考えがまとまりかけても、必ず途中でほつれが見つかり、最後にはほどけてしまう。まるで永遠に終わらないライン作業をやっているみたいで、不毛な作業にさすがの僕も気が滅入りそうになった。

 脳内会議は平行線を辿った。あるグループがAだと言えば、別のグループがBだと反論する。そんでもって議長までもが、いやいやそれはCでしょ、と余計な口出しをするもんだから、議論はいつまでも終わらない。

 僕が今やっているような、目隠しをしたまま手探りのみで探そうとするやり方では、触れられるのは外層だけ。その先は、どうやっても越えることが出来ない。どうすればいい。やきもきした。

 そもそもさ、答えなんて無いんだって。考え方は十人十色、人それぞれじゃないか。なんてことを言って妥協する気など、さらさらなかった。

 たしかに、この問いに正解は存在しない。だけど僕は、少なくとも論理的に整合性のとれた、納得のいく答えを見つけ出したかった。

 僕が知りたいのは、表面的な原因とかじゃなくって、上手く言えないけど、もっと違う、深い所にあるような、人が本来から持ち備えている本能的な何かというか、心理の内奥に存在する抽象的な概念というか、とにかくそういう系統の事だったのだ。我ながら、何を言っているのか要領を得ないけれど。

 とにかく、僕は探した。幾度も何度も何回も探してみた。けれど、結果は同じだった。いくら時間をかけて熟考してみても、答えらしい答えは見つけられなかった。

 そして、いつしか僕は答え探しを止めてしまった。

 しかし結論から言ってしまうと、僕は答えを見つけることに成功する。

 喉から手が出るほど、とまではいかないが、それなりに欲しがっていた答えは、なんとも皮肉な事に、僕がひきこもりへと堕落してしまった後に、至極あっさりと見つけることになる。探している時は見つからなかった探し物が、後々になって見つかるのに近い。

 答えは、意外なほど身近にあった。灯台下暗し、というやつだろうか。見つけるのは容易であっただろうに、過去の僕には全く見えなかった。

 いや、もしかしたら無意識に目を逸らしていたのかもしれない。現在の僕のような、全てを失ってしまった人間だからこそ、それを直視することが出来たのだ。

 何故、人は目を覚ますのが苦痛なのか。それは、起きるという行為が即ち、戦うということに繋がるからだ。

 社会に生きている人々は皆、日々いろいろなモノと戦っている。

 爛れきった人間関係。努力とは決して比例しない成績。理不尽に降りかかる不幸。妬み、恨み、僻み、と数えればキリがない。聞いてるだけで頭が痛くなりそうなモノたちと、休む暇もなく戦っている。

 そして、人は就寝することにより一時的にその戦闘から開放される。だからこそ、睡眠という行為に途方も無い幸福感を得られるのだ。意識が途切れ、無意識に切り替わる刹那なんかは、この世で最も至福な一瞬だと言っても過言ではない。

 だが、起床はその真逆。再び戦場へと身を置くプレリュード。先に待つのは長い一日の戦闘であり、加えて休息は無に等しいときている。

 そんな未来が待ち受けているのに、誰が好き好んで暖かい寝床から起き上がるというのだろうか。十人いたら十人は起きないこと間違いなしだ

 なのに、世界に目を向けてみると、人々は起きていた。毎日毎日、飽きもせずに戦場へと向かい、自身の心と身体を傷つけていた。

 それは冷静に考えると、トンデモナイ異常事態だった。

 彼等は被虐主義者なのか。普通はそう考えてしまうが、違う。彼等はただ知っているだけだった。起きなかった場合、その先にはさらに恐ろしい未来が、大口を開けて待っていることに。

 もし起床することを放棄し、睡眠という麻薬に身を委ねてみろ。その先にあるのは破滅。社会という大舞台から役割を剥奪され、居場所を喪失し、終いには強制追放されてしまう。

 観客にもなれず、黒子にもなれず、劇場内の滞在すら許されず、宙ぶらりんで曖昧模糊とした存在に成り下がる。それはある意味、死よりもずっと恐ろしいことだ。

 なぜなら、人には居場所が必要だからだ。

 なので、人は戦う。毎日毎日、ボロボロになるまで。彼等は、後門の無を相手にするくらいなら、前門の虎と戦ったほうがマシなのだと理解していた。

 しかし、だ。

 仮に、戦いを放棄しひたすらに逃げることを選択する者がいたのなら。起床を放棄し、仕事も学校も全て投げ出して、ただひたすらに惰眠を貪ぼり続ける者がいたのなら。果たして、その者は一体全体どうなってしまうのか。

 こっちのほうが、答えは簡単だよね。

 ご察しの通り、そうした人間の成れの果てが僕だ。快適な起床を手にした代わりに、それ以外の全てのモノを失った。文字通り、全てのモノをだ。

 それで釣り合いがとれているのかどうかはわからない。もしかすると、誤った選択をしたのかもしれない。掴まなくてはならない未来を、取りこぼしてしまったのかもしれない。

 でも、そんなのはいくら考えてもわかりっこないし、どうでもいいことだった。だって、過去の自分を責めたところで、過去には戻れない。今の僕には、現在しかない。この現在を、生きていくしかない。

 そういうわけで、僕は寝覚めがいい。全世界の人類に対して、申し訳なるほどに。

 そうして、今日も僕は目を覚ます。

 ハッキリとした覚醒だった。

 万年床の中からむくりと上半身を起こし、まぶたを擦った。カーテンの隙間から漏れでている月明かりが、ちょうど僕の顔を照らしている。眩しい。けれど、眠気の残滓は月明かりで雲散霧消する。

 部屋の中は真っ暗で、しんと静まり返っていた。蛍光塗料で光る壁時計の針を見て、今が午後八時半だと知った。いつもの起床時間だった。

 くうあ、と奇妙な欠伸をひとつかまして、毛布を捲りあげる。すると、妙な匂いが僕の鼻腔を刺激した。なんだろう。微かに香る、薬品の匂い。視線を下げると、そこには隙間なく湿布が貼られた貧相な足が伸びていた。

「あっ」

 やばい。

 ぎゅっと目を瞑って、身構えた。

 が、いつまで経っても、くるべきものがやってこない。おかしいなと思い、恐る恐る目を開けて、自分の足を眺める。

 見たところ、昨日と変わったところは何もない。試しに、爆発物でも扱うような手つきで足をつついてみた。激痛覚悟だったが、何もなし。ふくらはぎが感じているのは、人差し指による微力な圧力だけだ。

 よかった。

 いつの間にやら、あれ程までに僕を苦しめていた筋肉痛はすっかり消えていた。多少の倦怠感は残っているものの、完治したと言っても差し支えないだろう。

 ホッと胸を撫で下ろし、溜め込んでいた息を吐く。

 そして万年床から這い出ると、頭上でぶら下がっている電灯の紐を引っ張った。何度か点滅を繰り返した後、光が灯る。ついでにコタツの電源も入れて、卓上にあるノートパソコンを立ち上げた。起床したらまずパソコンを起動させる。それが、ひきこもりのライフワーク。

 パソコンが立ち上がるまでの間、僕は脳内で例のBGMを再生させながらラジオ体操を開始した。

 こうやってコマメに身体を動かすことが、ひきこもりを長く続ける秘訣だったりする。ひきこもりは本当に動きが少ない生き物なので、こうやって身体を動かさないと筋肉が削げ落ち、日常生活に影響を及ぼす。

 黙々と固まった身体をほぐしていく。

 単調な作業が続くと、嫌でも考え事をしてしまう。僕は、あの忌々しき夜のことを思い出した。

 あの悪夢のような夜から、かれこれ三日が経っていた。

 僕が曲がりなりにもひきこもりを卒業し、ひきこもりニートからノーマルニートへとレベルアップした夜。そして、輝かしい未来へ向かって大躍進するはずだった夜。そして無残に散ってしまった夜。

 あの後は散々だった。翌日には酷い筋肉痛に悩まされ、少し足を動かすだけでも呻くような痛みが走った。トイレにだって満足に行けず、波のように押し寄せる疼痛により、夜も眠れなかった(正確には昼なんだけど)。

 それに筋肉痛だけじゃなくて、悪漢二人に殴る蹴るされた傷も僕を苦しめた。口内の切り傷は今だってしみるし、顔の腫れもまだ引いていない。まさに満身創痍の状態だ。

 けど、それよりももっと酷い傷がある。心の傷だ。

 肉体的な傷はじきに癒える。どんなに重い怪我だって、治る怪我ならば時間が経てば必ず治る。

 が、心の傷はそうはいかない。あれは目に見えないぶん尚更タチが悪く、しかも個人差があるので、程度の判断が難しい。そして治療方法も千差万別で確立されていない。

 心のダメージが何より大きかった。一大決心の元で外出したのだ。期待が大きかった分、やられたダメージも計りしれなかった。

 もう、いいや。僕は一生、ひきこもりニートのままでいい。

 それが、僕の出した結論。

 外の世界は、思っていたよりもずっとずっと恐ろしかった。はっきり言って、舐めていた。一応、あの世界で過ごしていた経験はあったから、今回もきっとうまくいくはずだという、そんな楽観があった。けど違った。現実はもっと厳しかった。

 高い授業料だったと思う。けど、得た物が何も無かったわけじゃない。

 今回の事件から学べたことがある。それは、本質的に人は変われないということだ。

 僕みたいな根っからの社会不適合者が外に出ようったって、どだい無理な話なのである。人間が空を飛ぶことが出来ないように、ひきこもりもまた外へ出ることが出来ない。定められた運命には、ただ従うしかない。

 ――僕はこれからも、社会を、自分を、全てを、憎みながら生きていくしかない。

 ラジオ体操を終えた。

 寒さで身体が震える。体操を一通りこなしたってのに、身体は全く温まっていない。このボロアパートは壁がないのかと思うくらい通気性がいいので、常に極寒の地方の如し温度を保っている。そのくせ、夏はジメジメしてて蒸し暑いのだからたまったもんじゃない。この不良物件め。僕がひきこもりニートでなかったら絶対に引っ越しているのに。

 温かいコタツの中に入り込む。文明の機器だけが僕にぬくもりをくれる。じんわりと身体に熱が伝わっていくのがわかった。両手をコタツに入れ、指がほぐれるのを待つ。

 ノートパソコンは既に立ち上がっている。何気なく画面を見ると、新着メールのポップアップが出ていた。スパムメールでも受信したのだろうか。そう思いながらクリックして――固まった。

 目を剥いて、デスクトップに映る文字を凝視する。念のために、何度か目を擦って見間違いじゃないか確認した。が、結果は変わらない。ノートパソコンは無機質に、残酷な事実を告げている。

 そうか、もう、そんな時期になるのか。

 諦観の念に襲われる。いつものことながら、これだけは慣れない。ビックリ箱だとわかっていても、開けたらやっぱり驚いてしまうのと一緒だ。

 しかしながら、驚愕はそれだけでは終わらなかった。

 突然だった。

 ドンドン、とノックにしては些か激しすぎる音が、突如、室内を揺るがした。

 タイミングがタイミングだったので、僕は飛び上がり「きゃあ」と女子のような悲鳴を上げた。

 何事だ?

 落ち着きなく視線をさまよわせて、ようやく音の発生源であるドアに辿り着く。コンコンと手の甲で優しくノックする感じではない。ガンガン、とまるでドアを殴り破らんばかりの勢いである。

 いきなり訪れたホラー映画よろしくのシチュエーションに、僕の理性は吹き飛んでいた。先ほどから脳裏にちらついているのは、あの凸凹コンビの男たち。

 もしや、アイツらが僕の居場所を突き止めて、三日前の報復に来たのでは……。

 嫌な想像が頭の中で膨らむ。そして膨張は止まることを知らず、爆発寸前まで膨れ上がる。

 翌朝のテレビニュースで、とある惨殺事件が報道される。「本日未明、都内某所のアパートで二十七歳無職男性が殺害される事件が起きました」と顔にファンデーションを塗りたくった中年女性アナウンサーが、淡々と告げている。スタジオのコメンテーターたちは「本人の防犯意識が低すぎるんじゃないの? 被害者はひきこもりニートみたいだし」と辛辣なコメントを吐いている。おいおい少しは肩入れしてくれよ。これじゃあ、お茶の間の同情は得られそうにないじゃないか。というか、防犯意識とひきこもりニートの間には相関関係がないだろ。

 ガチャガチャとドアノブを捻る音が聞こえてくる。その音からは、ドアが開くまでは決して退かないという強い意志を感じた。

 正直に告白しよう。僕はもう限界だった。ドアを叩かれる度に精神は磨耗し、そのまま擦り切れてしまいそうだった。ガクガクと情けなく身体を揺すり、ただただ呆然と、叩かれるドアを見つめることしかできなかった。

 そして緊張が最高潮に達し、死さえも覚悟した時、

「はやくあけてよー」

 と、妙に子供っぽい声が室内に響き渡ったのだった。

「あたしに居留守を使ったって無駄だよ。明かりも点いているみたいだし、ちゃんと起きてるんでしょ? なら早く開けないさいよー、外、寒いんだから」

「…………」

 僕は、無言で顔を隠した。

 恥ずかしかった。おそらく、耳まで真っ赤になっていることだろう。ああ恥ずかしい、恥ずかしくてしょうがない。自害したくなるほど恥ずかしい。

 どうして僕は、あんなにも怯えていたのだろうか。穴があったら入りたいよ。でもこの部屋には穴がない。コタツしかない。仕方がないのでコタツに入る。暑い。顔だけ出す。今の僕ってコタツが甲羅の亀みたいだなー、なんて軽く現実逃避。

 ハァー、と長い息を吐き出して、胸の動悸が収まるのを待つ。

 冷静に考えれば、この部屋を訪れる人間なんて新聞の勧誘と宗教の勧誘と某テレビ局の受信料催促を除けば、ネット通販で買った食料品と娯楽品を届けにきてくれる宅急便のお兄さんしかいない。

 そして、お兄さん以外に此処を訪れる人物といえば――

 あけろー、そして落とし前をつけろー、とヤクザの取り立てじみた声は続いている。

 その声を聞いて、僕は何度目になるかわからないため息を吐いた。

 マジでどうしよう。ぶっちゃけ、今は誰にも会いたくないし、このまま無視してしまいたかった。それに、僕はあまりに傷つきすぎた。彼女の相手をする余裕など、微塵も無い。

 が、そういう訳にもいかないだろう。彼女には、決して少なくない恩義もあるし、そしてなにより、ひきこもりである僕には居留守という裏技が使えない。

 仕方がないか。

 パソコンを折り畳むと、のそりとコタツから出て立ち上がった。嫌だ嫌だ会いたくない会いたくないとゴネている重い足を引きずり、玄関へ向かっていく。

 ドアの鍵を解錠し、自分の視界を確保出来る分の、ほんの少しの隙間を開けた。

 一瞬だった。

 突っ掛けを履いた白い足が、ドアの隙間をぬうようにして、蛇の如くスルリと伸びてきた。僕は慌ててドアを閉めようとしたが、時既に遅し。足が完璧にドアをブロックしていて、閉めることが出来ない。

 おいおい、手口がマジでヤクザの取り立て屋と同じじゃないっすか。

「やっと開けてくれたかー。出るのが遅いぞヒロシ」

 隙間から聞こえてくる声に合わせて、白い足がピョコピョコと動く。その動きがあまりにも奇怪だったので、まるでその足が、本体とは独立して生きている別の生き物のように感じられた。

「な、なんの、ようですか?」

 歯磨き粉のチューブをひねり出したような声だった。誰かと話すのは三日振りだったので、自然とそんな声になってしまう。

 相変わらずの不快ボイスだったが、彼女は気に留めた風でもなく、

「何のようですかって、そんなつれないこと言わないでよ。用が無かったらあたしは来ちゃいけないんかい」

 と、僕を非難した。

 そうですよ、と言いたかったが我慢する。

 彼女は、子どものような甲高い声で続けた。

「生存確認にきたんだよ。ほら、お姉ちゃん、最近忙しくて構ってあげられなかったじゃん? あたしと会えないのを寂しく思ってヒロシが夜な夜な泣いていると思うと、胸が張り裂けそうでさ。仕事帰りでクタクタなのを堪えて会いにきたってわけ」

 弁明するまでもないと思うが、僕は決して夜な夜な泣いてなんかいない。嘘、ひとりでめそめそ泣くときは結構あるけど、彼女のために泣いたことはない。

「べ、別に、頼んでないですし」

 まだ癒えきっていない心の傷がそうさせたのか。言葉は自然とぶっきらぼうで粗暴なものになった。

「と、いうか、もう、来ないでくださいよ。め、迷惑なんすよ。ほ、ほんとうに。僕の、ことを気遣って、くれているんなら、ほっといてください。僕には、それが、一番いい」

「えっ……」

「生存確認と、やらに、きき、来たんでしょ。僕が生きてるって、わ、わかったんだから、早く帰って、ください。いいい忙しいんで。やるこ、ととか、あるし……」

 その呟きを最後に、長い沈黙が訪れた。

 しばらくの後、沈黙に揺らぎを与えるように、彼女がポツリと呟いた。

「そんな風に言わなくたっていいじゃん……」

 言い過ぎた、と思った。彼女が僕のことを心配しているのは紛れもない事実だというのに、今の言い方はないだろう。これだから僕はコミュ障なんだ。

「お姉ちゃん、ほんとに心配してるんだからね」

 白い足が、落ち込んだようにしゅんと頭を垂れた。履いている突っ掛けが脱げそうになっている。

「ヒロシはひとりだから、もし怪我とか病気とかで危ない状態になってても、誰も気づけないでしょ? そのまま、もし野垂れ死んじゃったりしたら、そんなことになったら……あたし……あたし……」

 謝ろう。そう決めた。しかし、口は閉ざされていて開こうとしない。照れているとかじゃなく、単に謝罪の言葉が思い浮かばないのだ。人に謝るという経験が、僕には圧倒的に不足していた。

 こういう時って、なんて言えばいいんだろう。

 けど、言わなくちゃいけない。なんでもいい。アドリブで適当に繋げていけ。とにかく、今は一刻でも早く彼女に声を届けるんだ。

 そう思って口を開きかけ、

「そんなことになっちゃったら……この部屋が事故物件扱いになって、ただでさえ低い家賃がさらに下がっちゃうじゃない。そんなことになったら、あたしの……あたしのささやかな副収入が……うぅ。今、欲しい服とかバッグとかあるのに……」

 って、そっちの心配かよ! 僕は心の中で鋭いツッコミを入れた。

 いやいやここは常識的に考えて、もしヒロシが死んじゃったりしたらあたしもう生きていけない好き好き大好き愛してるあなたを追ってあたしも死ぬわー的なセリフを言うべきだったでしょ。空気読んでくださいよ空気を!

 嗚呼、やっぱり謝る必要なんてなかった。なんだよ家賃って。僕より家賃の方が優先順位が上なのかよっ。そんなわけないだ――いや……まあ、そうか、うん。普通、そうだよね。僕、ひきこもりニートだしね。社会の屑だしね。どう考えても『家賃>僕』だよね。ごめんなさい、僕、自惚れてました。あー……なんかいい感じに死にたくなってきたぞ。今ならサクッと死ねる気がする。どうしよう、このあと自殺でもしよっかな。まあ、どうせ出来っこないんだけどね。……マジ死にたい。

 段々とダウナーになっていく僕とは対照的に「てゆうかお姉ちゃん最近ねー」とか聞いてもいないのに嬉々として自分の近況を語り始める彼女だった。切り替え早いっすね。ついていけないっすよ正直。

 鬱状態に突入していたので、話は全く耳に入らなかった。言葉は右の耳から左の耳へとだらだら流れていく。まあ、今は好きに喋らせておこう。

 ところで。

 先程からドアの向こうの彼女は何かにつけて僕の『姉』を自称しているが、彼女との間に血の繋がりは一滴だってない。それどころか、従姉妹でも遠い親戚ですらない。はっきり言って他人である。勝手に僕のお姉ちゃんを名乗っているにすぎない。

 余談になるけどさ、マンガやアニメによく出てくる、血の繋がらない姉って邪道もいいとこだよね。そもそも近親恋愛の醍醐味ってのは血縁者同士が契りを結んでしまうという禁忌、その背徳感が良いのであって、義姉や義妹、ましてや自称姉ごときではそのカタルシスを――

 ヒロシ、と僕を呼ぶ声で、邪な思考が中断される。

 なんですか、となおざりに返事をした。

「そろそろお姉ちゃんを中に入れてくれないかな? 真冬の深夜は寒くてしょうがねえのですよ」

 さむさむ、と白い足がブルブルと震えた。

 いやー、それにしても本当に器用な足ですね。素直に感心できる。テニスボールくらいなら簡単に掴めてしまいそうだ。

「……お姉ちゃん、無関心ってれっきとした暴力だと思うの」

 だけど無関心ほど優しい暴力はないですよ、と経験者は語ってみる。

「あーん。こんな仕打ちってないよ。あたしがこんなにもヒロシのことを想ってるってのに、部屋すら入れてもらえないなんて。お姉ちゃん寂しいなー悲しいなー」

 ……そう言われると僕も弱い。

 ちょっと、やりすぎちゃったかな。彼女が可哀想になってきて、様子を見るために少しだけドアを開く。

「ほら、見てよ。お手々がかじかんで真っ赤になってる。それに身体も冷えて鳥肌だらけだし、たぶん唇も真っ青だよ。寒いなー、寒いなー。このままあたしは凍死しちゃうのかなー」

 もう少しだけドアを開く。

「なんで寒いのかというと、実は今、スッゴくエッチなカッコをしてるからです」

 思いっきりドアを閉めた。

「んニゃっ!!」

 尻尾を踏まれた猫みたいな声を出して、扉に挟まれた足が悶える。

「いったーい! なんで急にドアを閉めるのっ。今のところはむしろ血走ったいやらしい目を爛々とさせながら光速でドアを開けるべき場面でしょうがっ」

「すんません。本当に興味ないんで」

「まさかのガチ謝罪!? 止めて止めて。そういうの止めて。あたしがむなしくなるから。てゆーか、アンタどんだけ冷めてんのよ!」

 ムキー、と白い足が怒りでのたうちまわった。加えて「鬼畜ドSリョナ好きー!」とか叫んでいる。他の住人が聞いたらあらぬ誤解を受けてしまいそうだ。止めてくれ。ひきこもりニートで変態とか本当に生きている価値がなくなるじゃないか。

 ああ、もう、わかりました。わかりましたよ! 入れればいいんでしょ入れれば。

 指で眉間を揉み、盛大な溜め息を吐いてから、黙ってドアを押し開け、彼女と対峙した。

 そこに居たのは、小さな女の子だった。

 身長は間違いなく百五十センチを切っているだろう。僕より頭一つ分以上は小さいく、今も精一杯顔を上げて見上げている状態だ。

 小動物然としたくりくりの丸い瞳が小さな顔に収まっており、栗色に染めた髪はゆるくウェーブしていた。

 美人というよりも可愛いといったベクトルではあるが、それなりに容姿は整っているほうだと思う。

 着用しているのは子どもっぽい桃色のパジャマで、その上には学生が着ているような小麦色のカーディガンが羽織られていた。当然のことながら、エッチなカッコとやらはしていない。

 どう見ても中学生、いや、見ようによっては小学生にも見えるが騙されることなかれ。その実、今年で三十路である。

 それが、このボロアパートの住人であり持ち主でもある人物。大家さんであった。

 と、僕はそこで異変に気づく。

 大家さんが壊れてしまった時計のようにピクリとも動かないのだ。呆けたような顔をして(もし口に出したら怒るだろうがまさにマヌケといった表情で)丸い瞳でまじまじと僕のことを見つめているのだった。

 見た目はロリっ娘でも一応は女性。なんとなく気恥ずかしくなって、視線を逸らした。

「ど、どうしたんですか?」

 僕の声に反応して、大家さんはようやく我に返った。忘れていた瞬きを何度かして、ううんなんでもないのと顔の前で手を振った。

「そ、そいじゃあ、お邪魔しまするかな」

 妙な日本語を呟きながら、ドアをおさえている僕の腕の下をアーチのようにくぐって、そそくさと室内に入っていった。履いていた突っ掛けは、途中で乱雑に放り投げている。行儀悪いなあ。

 建て付けの悪い木造ドアを閉めて施錠し、ついでに大家さんの突っ掛けを玄関に綺麗に並べてから、先に入った彼女の後を追っていった。



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第四話

「へぇ、思ったよりも片付いてるのね。ひきこもりの部屋って、もっとゴチャゴチャしていると思ってたのに」

 大家さんは部屋を一望しながら(そもそも一望出来るほどの広さしかない)興味深そうに言った。

 それは違いますよ、と心の中で反論する。

 ひきこもりの部屋が汚いというのは大きな偏見だった。何も、世にいる我が同士の部屋全てが散らかっているわけじゃない。簡素な部屋のひきこもりだって、決して少数派ではない。

 それに、彼らの部屋は汚いんじゃなくて単純にモノが多いのだ。収納スペースが限られているのに、モノだけはどんどんと増えていくから、自然と居住スペースが狭まり、見栄えが悪くなってしまう。

 僕みたいな一人暮らしのひきこもりならともかく、実家暮らしのひきこもりはそこのところかなり切実と聞く。同じひきこもりとして、同情を禁じ得ないよ。

 まあとにかく、全国のひきこもりたちの名誉のためにも、ここは強く擁護させてもらいました。

「だけど、ひきこもりって本当にすることがないのね」

 大家さんが、からかうような口調で言う。

 なんとなく嫌な予感がして視線を移すと、大家さんはちょうど何かを覗き込んでいるところだった。

 何を見ているのだろうか。彼女の小さな背中越しに、それを伺い見る。

 ゴミ箱だった。長年使用している、なんの変哲もないゴミ箱だ。ただひとつ特徴をあげるとするなら、使用済みのティッシュがたんまりと盛り上がってるぐらいで――

「って、ちょ、ちょ、ちょっと、なに、見てるんすかっ」

 普段ひきこもっているとは思えない、肉食獣も惚れ惚れするような俊敏さでゴミ箱に飛びつき、素早くビニール袋の口を閉めた。この間、僅か十秒にも満たないだろう。火事場の馬鹿力というやつだ。

 畜生、と心の中で吐き捨てる。

 部屋に誰かを招くなんて事態、ひきこもりは想定していない。完全に油断していた。

「ちちち、ち違いま、すかかか、ら。はな、鼻を、か、かむのにつつ、使っ、たティッシュ、で、ですから。け、決して、い、い、いかがわしい、目的、で使っ、った、て、ティッ、シュでは……」

 性生活の断片を見られた羞恥に歯噛みする僕とは対照的に「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫よう」と大家さんがニヤニヤしながらしながら言った。

「たとえヒロシが毎夜毎夜お姉ちゃんとの夜伽を夢想しながら事に及んでいたとしても、そりゃ仕方がないものってわけでさ」

 してねえよ! と、本日二度目のツッコミ。

 くそっ、生ける合法ロリのくせして一体全体なにを言っているのだこの人は。自分の体型を鏡で確認してから言って欲しい。特に、その断崖絶壁な胸とかを。

 そもそも、僕にロリ属性はない。

 たしかに、大家さんはなかなか可愛らしい容姿をしているし、十二分に人目を惹くかもしれない。が、それはあくまで愛玩動物的な可愛さであって、性的な魅力とは丸きり無縁だ。

 なので、僕からしたら大家さんのツルペタボディとか実にどうでもいい。ぺったんこでスベスベしてそうな胸とか、形の良さそうな小ぶりのお尻とか、実にどうでもいい。ほ、本当なんだからねっ!

 と、ひとり身悶えていたのだが、大家さん的には今のやりとりはもう終わったことなのか、いつの間にか勝手にコタツの中に入り込んでいた。

 ふぃー、と湯に浸かったおっさんのような声を出して、猫みたく丸まっている。

「やっぱ冬はおこたよねー。あたしもストーブやめてコタツにしよっかな」

 卓上に頭を乗せて、そんなことを訊ねてきた。とりあえず質問を無視して、邪魔そうにしていたノートパソコンをどかしてやった。ありがとう、と大家さんは礼を言う。

「ど、どっちでも、いいんじゃ、ないですか? ストーブも、コタツも、か、変わらない」

「いんや、それがけっこう変わるのよ。ほら、コタツは一極集中だから部屋全体は温められないでしょ? けど、ストーブ使ってる部屋全体が暖かいから、布団を出るのが億劫になりにくいの。それに停電の時にも使えるから非常事態の時には大活躍だし。でもなー。燃料代がなー。維持費の面で見ると色々違ってくるし、他にも細かな相違点があるのよねー。けどなー、あたしはやっぱりストーブかなー。なんていうか、コタツだときちんと暖まったって気がしないのよね。実際、外に出てる上半身はどうしても寒くなっちゃうし。それに、お姉ちゃんはいつもストーブの上にヤカン乗せて――あっ」

 そこで大家さんはハッと顔を上げた。

「そうだよ。なにか足りないなって思ってたら、梅昆布茶だ。今のあたしたちには梅昆布茶が足りないよ」

 コタツから出て立ち上がると、

「よし、ヒロシ。今からお姉ちゃんがお茶の用意をしてあげるからね。おこたで待ってなさい。茶筒と急須はどこに置いてあるの?」

「な、ない、ですよ。そんなもの」

「え?」

「え?」

「……またまたー。梅昆布茶を置いてない家庭なんてあるわけないじゃない。冗談はいいからさ、ほら、早く教えてよ」

「だっ、だから、本当に、ない」

「……あのさ。それ、嘘とか冗談とかじゃなくて、本気で言ってるの?」

「そうですよ。う、家に、梅昆布茶なんて、ないです。ち、茶筒とか、急須とかも、ない」

「…………」

「あっ、あの、お、大家さん?」

「ええええええええええぇぇぇぇぇぇ!」

 大絶叫した。近所迷惑とか、そういうのは全く考慮していない、あまりにも純粋な驚き。見たところ、いつものふざけた演技の類ではないようで、正真正銘、心の底から驚愕していた。

 当然、僕は混乱する。

 えっ、なになにこの反応。ただ梅昆布茶がないってだけなのに、どうしてここまで驚かれる? 梅昆布茶って、そんなに普遍的かつ一般的な飲み物だったのか? 寡聞にして聞いたことがないぞ。

 まだショックが抜けきらないのか、茫然自失とした表情で、大家さんはぼそぼそと呟いている。

「そうよね……ヒロシは、ひきこもりだもんね。常識とか、マナーとか、そういうのを知らなくても無理ないよね……。うん、そうだよ。そういうのを含めて、これからあたしが教えていかなくちゃ……」

 いやいやいやいや。いくら僕がひきこもりだからって、梅昆布茶如きで常識とかマナーとかを疑われたくない。

 というか、大家さんはまるで梅昆布茶が米やパン等の主食、いや、それ以上の必須食品みたいに言っているが、明らかにそれはおかしい。梅昆布茶常備派の方が絶対にマイノリティだ。いくら長年ひきこもっているといえ、それくらいの想像はつく。

 ヒロシ、と大家さんは憐憫の情を織り交ぜた瞳で見てくる。止めろ、そんな目で僕を見るな。

「お姉ちゃん、今から部屋に戻って梅昆布茶を持ってくるから、先にお湯を沸かしといてちょうだい」

 これからお産に取りかかる産婆のような切実さでそう言うと、返答を待たないうちに大急ぎで部屋に戻って行った。

 どうやら、拒否権はないらしい。別に梅昆布茶とかどうでもいいんだけどな……。

 ぽりぽりと頬を掻く。

 仕方がない。不承不承ではあるが、言われた通りの準備をしよう。

 台所へ向かい、棚から底の焦げたヤカンを取り出して、水道水を入れてから火にかける。

 大家さんの並ならぬ梅昆布茶への情熱を見る限り「どうしてミネラルウォーターじゃないのっ!」とか言われそうな気がしたけど、そんな上等なもの置いていないのでスルー。

 そのままコンロの火で暖をとっていると、大家さんが戻ってきた。

 茶飲み道具一式を乗せた盆を持って、ふらふらと危なっかしい動きで台所に置く。はかったようなタイミングで、ヤカンもピーと鳴いた。

 ヒロシはもう座ってて大丈夫よ、と言われたので、温かいコタツへ戻り、大家さんがお茶の用意をする姿をぼんやりと眺める。

 慣れているのだろう、彼女は非常に手際よく準備した。ヤカンの熱湯を急須に注ぎ、茶筒から角切り昆布を適量入れる。すると、梅昆布茶の香りがこちらまで漂ってきた。

 そして、またもや危なっかしい足どりで盆をコタツまで持ってくると、ファンシーな紅白セットの湯のみに、湯気の上る液体を注いだ。赤い方を自分の方に、白い方を僕に差し出す。

 よっこらせ、と大家さんもコタツの中に入り、しばらくのあいだ愛おしそうに湯のみを撫でてから、梅昆布茶に口をつける。

「へはー」

 そのままとろけてしまいそうな表情を浮かべて、コクコクと頷く。

「緑茶、紅茶、烏龍茶、と世の中には沢山のお茶があるけれども、やっぱり一番は梅昆布茶よね。これだけは譲れないわ。ヒロシも、そう思うよね?」

 同意を求めてきたので、適当に頷いておく。ちなみに、僕はまだ手をつけていない。猫舌なのだ。

 それからは沈黙だった。お互いに話題も尽きたため、箸休めのような静謐の中にいた。

 心地の良い沈黙、という言葉を小説などで目にするが、こと僕に関してはそんな素晴らしい沈黙は持ち合わせていない。沈黙はただ気まずいだけだった。

 唯一の救いといえば、大家さんが僕の無言に慣れていることだろう。今更、僕からの話題投下など期待していないはずだ。

「あのさ」

 案の定、沈黙を破ったのは彼女だった。

「そろそろ、聞いてもいいかな?」

 先程のおちゃらけた態度はどこへいったのか、やけに神妙な顔をするので、自然と身構えてしまう。なにやら胸騒ぎがする。ゴクリ、と生唾を飲んで、問い返す。

「な、なにを、ですか?」

「そのヒッドイ顔について」

 大家さんの質問は、ナイフのように深く冷たく、僕の胸へと突き刺さった。

 一瞬、呼吸が止まる。大家さんが気づいていたのは、部屋へ招き入れた時の表情から推測できていた。でも、彼女なら訊かないだろうと勝手に期待していた。とんだ見当違いだった。まさか、ここまでストレートに訊いてくるなんて。

「ひ、ひどいのは、もとからですよ」

 これ以上は踏み込まないでください。

 言葉の裏に潜む意図を察してもらえるよう、わざとらしく誤魔化した。

「違う違う。あたしが言ってるのは容姿云々とかじゃなくってさ。そのお饅頭みたいに膨らんだ、痛々しい顔についてだよ」

 しかし、大家さんは容赦なかった。

「……このまえ、へ、部屋、で、転んだんすよ」

「転んだ? 一体どういう転び方をすれば、そんな綺麗にほっぺたが腫れるのよ。少なくとも、あたしには誰かに殴られて出来たものにしか見えないけど」

「…………」

「よかったら、聞かせてくれない? ここ最近のヒロシに、何があったのか」

 冷や汗が一筋、頬を伝い、顎に雫をつくる。

 脳内で再生されているのは、三日前の夜のこと。あの愚かしく、チンケな冒険譚。

 人によっては、あれを喜劇だと捉えるかもしれない。だが、少なくとも僕にとっては悲劇でしかない。園児の学芸会よりも幼稚で、残飯を貪るハイエナよりも醜悪な、ただのつまらないお話。

 ――あれをもう一度、話せと言うのか。

 いつの間にか握り締めていた拳が、膝の上でぷるぷると震える。

「ごめん、踏み込みすぎた」

 大家さんの対応は早かった。僕の発するただならぬ嫌悪を即座に嗅ぎ取り、深々と頭を下げる。

「別に、ヒロシを傷つけたいわけじゃなかったの。けど、結果的には同じになっちゃったね。これじゃあ、尋問と何も変わらない。今の質問は、もう忘れて」

 そう言って、気まずそうに目を伏せた。

 僕も俯いて、梅昆布茶に映る自分を見つめた。

 わかっていた。大家さんがなぜ、話を聞き出そうとしているのか。それは、僕の力になりたいからだ。

 誰かに殴られた痕を見つけ、それを黙って見過ごせる人でないことは、僕も十分に知っている。彼女のおせっかいな優しさに、過去の傷ついた僕は救われたのだから。

 だけど、それでも、大家さんがなんと言おうとも、僕に話す気はなかった。

 苦い思い出を共有したところで、何が変わるというのか。僕が嫌な気持ちになって、大家さんも嫌な気持ちになる。嫌な気持ちがが二倍になる。そんなの無益じゃないか。それなら、僕のところで留めておいた方が生産的だろう。

 それに、己の醜態をおおっぴらに語れるほど、自虐的で卑屈な人間ではない。だから、あの事件は墓まで持っていく。そう決めていたのだ。

 ――そう、決めていたのに。

「……み、三日前、な、なんです」

 僕の口は、動いていた。自らの意志とは関係なく、感情とも関係なく、淡々と動き出していた。

 梅昆布茶に映る僕は、目を点にしている。

 なにをしているんだ。どうして、こうも容易に事を打ち明けているのだ。理解できない。心変わり早過ぎだろ。意味不明。

 もういい。どうにでもなれ。

 説明は、ひどいものだった。

 話は飛び飛びだし、すぐ脇道に逸れるし、補足とかのフォローもないし、聞き手からしたら、たまったものではないだろう。僕が拝聴者なら、もうすでに席を立っている。

 けれど、大家さんは辛抱強く聞いてくれた。口を挟まず、相槌も打たず、真摯な態度で聞いてくれた。

 話す側として、その態度はありがたかった。下手に横槍を入れられでもしたら、錯乱してしまうからだ。おかげで、割と感情も抑えて話せたと思う。

 話を終えた頃には、時計の長針は一周していた。

 なんだか、ひどく疲れた。長時間喋り続けていたせいか、気付かぬ間に喉がカラカラに渇いている。

 喉を潤すため、既に冷たくなった湯飲みを手に持ち、飲み干した。口内にしょっぱい味が広がる。

 そして、否が応でも気づかされる――自分がちっともスッキリしていないことに。

 洗いざらい話してしまえば、楽になれるかもしれない。そんな期待を抱いていた。なのに、結果はご覧の有り様だった。

 ふつふつと怒りが込み上げていく。

 なんだよ、何も変わってないじゃないか。こんな結果になるなら、話さなきゃよかった。これじゃあ、いたずらに心を毀損しただけだ。イライラする。なにもかも、無理やり話を聞きだしてきた大家さんのせいだ。

 恨みの対象を睨みつける。

 彼女はうつむいていたので、栗色の髪に隠れて表情は見えなかった。おそらく、僕を慰める言葉でも探している最中なのだろう。

「な、何もかも、無駄だったんですよ」

 機先を制するために、皮肉たっぷりに言葉を投げかける。

「大家さんは、か、勘違いしているかもしれませんが、ぼ、僕は、あの二人組には感謝してい、るんです。変な勘違いを、し、してしまうのを未然に防いでくれた、んですから。今以上に傷つかなくて、済んだ」

 こんな時だけは饒舌になるんだな、と自嘲する。

「それに、こっ、今回の出来事を通して、た、大切なことを、学べました。人が、本質的に変わるのは不可能という、じっじ、事実です。どんなに努力をしたって、ひきこもりは、ひひ、ひきこもりのままなんです」

 じわり、と視界が歪む。泣くなよ、こんなことぐらいで。どんだけメンタル弱いんだ僕は。死ねよ。

「僕は……僕は一生、このままなんです」

 その言葉を最後に、室内を支配するのは、深沈とした空気。

 洟をすする。情けない。このまま消えてなくなりたい。本気でそう思った。

 溜め込んでいた涙がこぼれ落ちそうだったので、慌てて袖で目元を拭う。これ以上、惨めなところは見せたくなかった。

「ヒロシ」

 大家さんが顔をあげて、僕の名前を呼んだ。

 やめてください。今はなにも言わないでください。ほっといてください。帰ってください。

 思念を飛ばすが、彼女の口は迷わず動きだす。

 聞きたくない。

 そう思って、背ぐくまったのだが、

「ごめん。ヒロシの言ってること、お姉ちゃんぜんっぜんわからなかった」

 てへっ。ペロリと舌を出して、イタズラが見つかった子供のような顔で謝る大家さん。

 ……。

 …………。

 ………………ええー。

 バイバイ、シリアスな空気。よろしく、なんとも言えない微妙な白けさ。いや、ほんと空気が読めないってレベルじゃないぞ。

 なんてゆーかなー、と大家さんは困惑したように顎に手を添えている。

「下手な比喩になるけどさ、あるところに足が遅いと嘆く陸上選手がいるとするじゃない。で、実際にタイムをはかってみたら、なんと百メートル九秒台だったの。周りの人たちはタイムを見せて、いかに走者の足が速いのかを説明するんだけど、彼はそれをただの慰めとしか受け取らない。相変わらず自分は足が遅いと嘆き続けるだけ。まあ、そんな感じかね」

 大家さんは名探偵よろしく人差し指を突きつけると、

「ヒロシ。アンタ、もう変われてるよ」

 裁判官のように、高らかと宣告を下した。

「…………」

 呆気にとられてしまい、しばらく何も言えなかった。大家さんの言ってることを脳内で吟味し、ようやく意味を理解した後、鼻で笑う。

 なにを言うかと思えば、くだらない。

「僕が、も、もう変われてる、ですか。ハッ、どっどうせ大家さんは、僕が外に出たことを、あのOLさんを、たったた、助けようと二人組に立ち向かったことを、へ、変化などと呼ぼうとしたん、でしょう? ちっ。違いますよ、それ。あんなのは断じて、せい、成長なんかじゃない。だから、適当なこと言わないでください。意味のない慰めや賞賛が、ぎゃ、逆効果だってのは、大家さんだってわかっているでしょう」

「わかってるよ。分別はわきまえてる。それをわきまえたうえで、あたしは変わったって言っているんだよ」

「なら、証拠を見せ、てくださいよ。ぼ、僕がが、変わったっていう証拠を」

 大家さんは首をかしげた後、黙って自分のことを指さした。

「えーと、証拠はあたし、としか言いようがないかな」

「わっわ、わけがわかりませんよ。言葉遊びは、よしてください。僕は変わってないし、これか、かっからも変わらない。それで、いいでしょう。屁理屈をこねるのは、やめてください」

「じゃあ、どうしてあたしはここに居るの?」

 それは、意表を突く一言だった。自分の気付かぬ、もう一つの視点を指摘された時の驚き。まるで、だまし絵を見ているような気分だった。

 そうだよ、どうして大家さんは、ここに居る? どうして、僕の部屋に居るんだ?

「なんだかんだでヒロシとも長年の付き合いになるけどさ、部屋に入れてもらうのは今日が初めてだよ。……なんて言えばいいのかな、重ね重ね下手なたとえになるけれど、ヒロシにとってこの部屋は、何人たりとも足を踏み入れてはならない、聖域みたいな場所だったじゃない? だから、ドアを開けて中に入れてくれた時は、驚いて動けなかったよ。半ば冗談で言ったつもりだったのに、本当に入れてくれるんだもん」

 まっ、その特殊メイクみたいな顔にも驚いたけどね、と彼女は付け足した。

 大家さんの言う通りだった。

 僕にとってこの部屋は、言わば核シェルター。越えられてはならない最終防衛ライン。今までだって、ほとんど人は入れたことはない。なのに、どうして今日はこうも簡単に――

「とどのつまり、社会で最も必要なのって、コミュニケーション能力なのよ」

 大家さんは続ける。

「けど、コミュニケーション能力ってのは、誰しもが最初から兼ね備えている訳じゃない。あれは他者と交流して培ってくものだからね。ヒロシも無意識下にそれを理解している。 だから、あたしを入れた。人嫌いな自分を殺して、他者と交わろうとした。コミュニケーション能力を得るために。社会に適応するために。こういうのをさ、人は成長って呼ぶんじゃないの?」

 成長。その言葉が、ストンと僕の中に落ちる。

「これは推測だけど、変わろうとした動機は、単純に悔しかったからじゃないかな。臆病なヒロシが珍しくキレたっていうし、散々自分をバカにしたアイツらを見返してやりたいって心底思ったんだよ。僕はお前らが言うようなひきこもりニートじゃないぞ、ってね」

 言われてみれば、あの時は自分らしからぬ憤怒だった。通常の僕ならば、泣いて逃げ出しているというのに。逃げるどころか、悪漢二人組に立ち向かっていった。

「たしかに、小さいよ。顕微鏡で見なきゃ視認できないほどの進化かもしれない。けどさ、三日前の事件を通して、自分の足で一歩進んだってのは、紛れもない事実だよ」

 大家さんは慈愛に満ちた表情で、柔らかく微笑みかけた。

「今回は、いつもと違う。覚悟さえすれば、この生活から抜け出せる。大丈夫、このあたしが保証する」

 一際強く、心臓が鼓動する。

 本当に、脱却できるのか。この生きてるか死んでるかわからない腐った生活から、抜け出せるのか。証文の出し遅れには、ならないのか。

「大家さん」

「んっ?」

「僕は、変われるのでしょうか」

「変われるよ」

 きっぱり、断言してくれた。その力強さが、頼もしかった。

「……変われるよ」

 不意に遠い目をして、大家さんが言う。

「あたしが変われたんだもん。ヒロシだって、絶対に変われる」

 昔日を、思い出しているのだろう。僕と大家さんが出会った、最初の頃を。

 けど、

「大家さんの時とは、違うじゃないですか」

「まあ、そうなんだけどね」

 痛いところ突くなあ、と困ったように呟く。

「けどさ、ひとりの人間が変わったってとこは一緒なんだから、参考くらいにはなるんじゃね?」

 うわっ、超適当。いかにも大家さんらしい言い草だった。

「しかーし、老婆心ながらアドバイスさせてもらうと、ヒロシはちょっと急ぎすぎかな。今までずっとひきこもってきたんだから、もっとじっくりコトコトいかなきゃだよ。あたしのお爺ちゃんもよく言ってたよ『人生に、抜け道あれども近道なし』ってね。あたしたちみたいな凡人に抜け道なんて見つけられるはずないんだからさ、地道にゆくしかないのですよ。だからさ」

 大家さんはいきなり立ち上がったかと思うと、

「まずは、お姉ちゃんと仲良くなることから始めようぜ」

 可愛らしくウインクした。

「…………」

 しばしの無言の後、僕はがっくりとうなだれた。

 これまで長ったらしく垂れてきた講釈の意味が、今わかった。要は、これが言いたかっただけなのだ、大家さんは。

 冷静になって振り返ってみると、大家さんの言っていることは勝手なこじつけばかりで遺漏も多い。論理的に破綻しているところも少なくない。いわば、勢いに任せた演説なのだ。

 あーあー。つくづくちゃらんぽらん言いやがって。アホらしいったらありゃしない。

「あのですね」

 調子に乗ってる彼女に釘を刺すために、反論しようと口を開きかける。

 が、大家さんの太陽よりも明るい、天衣無縫な笑みを見ていると、なんだかそんなの全部どうでもよくなってきて、なんとなく可笑しくなってしまって、

「……く、くくくっ」

 そして、僕は、本当に、本当に久しぶりに、ほんのちょびっとだったけど、

「はっ、ははははっ」

 心の底から、笑ったのだった。

 

 明日も仕事があるから、そう言い残して、大家さんは自分の部屋へ帰って行った。

 彼女は僕と違って、舞台側の人間だった。無味乾燥とした戦場で、どのような時を過ごしているのかはよく知らない。だが、きっとそれは、死にたくなるほど辛いものなのだろう。尊敬に値する。

 同時に、僕も再びあの舞台へのぼれるのだろうか、という漠然とした不安が胸を曇らせた。

 でも、今になって憂いても仕方がない。大家さんの言葉を額面通りに受けとるのなら、僕はもう進んでしまっているのだ。後戻りは出来ない。

 ――しかし、アレはなんだったのだろう。

 大家さんとの、最後のやりとりを思い出す。

「ところで、ヒロシ。アンタをボコボコにした二人組の男って、どんなヤツらだった?」

 玄関で突っ掛けを引っかけながら、大家さんが何気ない口調で訊ねてきた。

「ど、どんなヤツらって……それを聞いてどうするんですか?」

「別に、ただの興味本位」

 別に、話しても問題ないことではあった。多少、嫌な気持ちにはなるものの、それを一種の成長痛と捉えることもできる。

 ――だけど。

 僕は結局、話さなかった。理由は自分でもよくわからない

 ただ――いつもは少女のようにあどけない表情をしている大家さんが、ひどく冷たい表情をしていたせいかもしれない。いつもはストレート過ぎるほど自身の感情を露わにするのに、その時ばかりは、分厚い仮面で顔を覆っていたため、彼女の真意が読み取れなかったのだ。

「わかった」

 と言いつつも、大家さんはやや不満そうだった。煮え切らない様子で部屋へ戻って行く姿を見て、選択肢を間違えたのではないかと不安になった。

 じんわりと、殴られた頬の痛みを感じた。

 さて、と。

 自分の心に区切りをつけるように、ドアの鍵を閉めた。

 コタツへ戻り、寝っ転がって、しばらく電灯の光を眺めた。

 急に、部屋が静かになった。祭りの後のような、ノスタルジックな郷愁に襲われる。

 しかし、僕にはこういう空気のほうが合っていた。昔から、独りを好む男だったのだ。この孤独を愛する気性だけは、未来永劫変わることはないのかもしれない。大家さんといるのは(彼女には悪いが)やっぱり疲れる。

 時計を見る。現在の時刻は午前二時。僕の一日は、まだ始まったばかりだ。

 エロゲでもするかな。そう思って、スリープ状態で待機していたノートパソコンを開く。

 不意打ちをくらった。

 僕は、反射的に目を閉じる。幾分か良い方向に向かっていた気分が、一気に吹き飛ぶ。

 忘れていた。たとえるなら、夏休み最終日にやり残していた宿題を見つけてしまったような気持ち。面倒事を後回しにしてきたツケを払う際の、過去の自分への恨みに歯を食いしばる。

 見なかったことにしたい。このままパソコンをシャットダウンしたい。けど、そんなことしたって意味がないのはわかっている。

 なら、向き合おう。

 おそるおそる目を開ける。ディスプレイにうつる文字を確認。新着メールが一件。ノートパソコンは無機質に、メールの受信を知らせている。

 僕は震える指でカーソルを動かし、メールの本文を開いた。

『明後日、午前一時に伺います』

 メールの内容は普段の彼女らしく、簡素で洗練された文体だった。

 差出人には、武井涼子の四文字。

 届いたメールは、僕の妹からだった。



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第五話

「……会いたくない」

 僕の呟きは、六畳間に拡散し、静寂に溶けていった。ボロアパートは通気性抜群で、室内は絶対零度もかくやという気温を保っている。そのため、呼吸する度にちろちろと白い煙が口元をうろつく。なんか幻想的。きれい。

「…………会いたくない」

 僕は下半身だけをコタツの中に入れ、上半身は畳の上に投げ出すようにしていた。ジイィィ、とコタツの稼働音が聞こえてくる。そろそろ上半身も冷えてきた。首根っこまでコタツに浸かろう。そう思うのだか、気力がわかない。

「………………会いたくない」

 卓上で起動しっぱなしのノートパソコンは、焼け付きを防止するために一定時間毎に壁紙を変化させている。お気に入りのラノベのヒロイン、お気に入りのアニメのヒロイン、お気に入りのエロゲのヒロイン。スクリーンの女の子たちは、笑顔で僕を見ている。

「……………………会いたくない」

 嗚呼、やっぱり二次元はいいなあ。どうして、僕の生きる世界は立体なんだろう。僕が世界にうまく適応できないのは、3D酔いが原因なのかもしれない。平面の方が生きやすいって、絶対。ていうかさあ、前々から疑問に思ってたんだけど、どうしてまわりの奴らは人生ノーマルモードだってのに、僕だけは人生エクストリームウルトラベリーハードモードなんだよ。難易度設定ミスりすぎだろ神様。すぐにでも抗議文書を天界に提出したい。武井ヒロシの大幅なスペック変更を希望する。

「…………………………会いたくない」

 まずはコミュ力から、次に顔、次に身体、次に知力、ていうかもう全て最初からやり直してしまいたい。異世界転生してチートでハーレムな人生を送りたい。もしくはエロゲ主人公みたいな人生がいい。次は最新OS搭載のハイスペックな仕様で頼むよ神様。

「………………………………会いたくない」

 新たに生まれ変わった武井ヒロシは、恵まれた家庭に生まれて、恵まれた環境、恵まれた友人を持つんだ。隣の家にはおせっかいな幼馴染みが住んでいて、小さい頃からお互いを意識しつつも、なぜだか素直になれない。そして、いつも変態的な行動ばかりして痛い目みる悪友がいて、無口な先輩やら元気ハツラツな後輩やらがいる。ついでに生徒会長とか、文学部の部長なんかもいたりする。攻略次第によっては、女の子全員が僕に尽くしてくれるハーレムルートまである。

「……………………………………会いたくない」

 あれ? 最高じゃね、この世界。どうやったら行けるんだよ、誰か教えてくれ。こんなユートピアに行けるのなら、何を差し出したっていい。あれかな、死ねば行けるのかな。俗世から解脱すればいいのかな。どうよ、涅槃とか目指しちゃう? ようし、なんかやる気がわいてきたぞ。そんな桃源郷に行けるのなら、明日から頑張っちゃうぜ。目標は仏陀先生だ。さあ、いざ行かん、理想郷!

「…………………………………………会いたくない」

 うん、そろそろ現実逃避は止めよう。

「会いたくなあああああああああああいいいいいいぃぃぃ!」

 絶叫しながら、水揚げされた魚のようにビチビチと畳の上を跳ねる男がひとり。もう誰だか言わなくてもわかるよね。そうです。僕です。

 しばらく頭を掻きむしり、もんどりを打った後、電池の切れたロボットのように停止する。

 疲れた。それに、あんまりうるさくすると他の住人から怒られるかもだし。冷静になろう。クールになれヒロシ。うん、落ち着いてきた。

 ふはぁ、と溜め息とも深呼吸ともとれる息を吐き出して、上半身を起こす。そして、卓上のノートパソコンを手早く操作して、一件のメールをクリックした。

『明後日、午前一時に伺います』

 妹から届いた一通のメール。僕の精神が崩壊しかかってる原因はこれだ。そして、このメールに書かれている明後日というのが、今日だったりする。つまり、後一時間ほどで、涼子は僕の元へやってくるというわけだ。

 彼女が何をしにこのボロアパートへやってくるのかは、僕がひきこもりニートであることを鑑みれば、容易に答えを導き出せるだろう。答えはズバリ生活費。ひきこもりニートである僕の元に、こうやって月に一回、生活費を渡しにくるってわけだ。

 なら、なぜ妹と会うのを嫌がるのか。妹からカネをたかるクズのくせして、言うことが生意気じゃないか、と。全くを以て、その通りだと思う。反論のしようがない。

 しかし勘違いしないで欲しい。僕自身、涼子には感謝している。彼女というライフラインがなければ、文字通り僕は餓死してしまうのだから。ありがたいと思わないわけがない。

 けど、こればっかりは理屈じゃないのだ。

「…………」

 暗澹とした気持ちで、差出人の武井涼子の文字を見つめた。

 ま、どちらにせよ、僕に選択肢はない。なぜなら、ひきこもりに逃げ場はないからだ。昔からあーだこーだ苦悶しながらも、涼子との面会は行ってきた。たとい死ぬほど嫌でも、我慢するしかないのだ。

 降参です、と宣言するように両手を高く上げ、仰向けに倒れこむ。電灯の光が思いのほか眩しく、目をつむる。仄白い光が、眼底に残る。

 そんな時だった。大家さんの言葉が頭をよぎったのは。

「ヒロシは、もう変われてるよ、か……」

 大家さんの口車に乗せられて、初めは乗り気になっていた。だけど、実際はどうなんだろ。僕は、本当に変われているのだろうか。イマイチ実感がわかない。

 なにせ今でも絶賛ひきこもり中なわけだし、心理的にも経済的にも自立していない、どこに出したって恥ずかしくない絵に描いたようなひきこもりニートだ。

 だけど――と僕は考えてしまう。

 もし大家さんが言うように変われていたのなら、ひきこもりニートから脱出できていたのなら、今夜はどんな選択をしていたのだろうか。いつもとは違う、大胆な選択肢を選びとったのだろうか。

 そうだな。そしたら多分、僕はきっと――

 閃いた。

 閉じていた瞼を剥くようにして見開くと、起き上がり、手早くキーボードの上に指を滑らせた。

『私事で申し訳ないのですが、急用を思い出しました。今夜は帰宅できそうにありません。今月の生活費は、ポストの中に投函しておいてください。追伸・いつもお仕事お疲れ様です』

 そしてカーソルを送信のところに合わせ――躊躇した。

 勢いに任せてこんな文章を書き綴ったはいいが、本当にやれるのか。

 ――やめとけよ。

 弱気な僕が忠告してくれる。

 ――出来もしないことを妄想するのはよして、おとなしく妹を待っていようぜ。

 が、メールを送信した。

 送信完了と映るディスプレイの文字を見て、改めて決意する。

 そして立ち上がると、顔を洗うために洗面台へ向かった。洗顔料は使わずに、水のみで洗う。キンキンに冷えた水道水で顔を洗い、清潔なタオルで力強く拭うと、幾分か気分がサッパリした。

 鏡で自分の顔を見る。顔の腫れはスッカリひいていて、今ではその痕跡すら残っていない。怪我は完治。相変わらずのブサイクさは変わらないけれど。

 次は押し入れに向かい、中から数少ない衣服を取り出す。なぜかコートが見つからなかったので、厚手のジャケットで代用する。服を着替え、最後にニット帽を目深にかぶった。

 さて、僕がこれからしようとしていることは唯一つ、武井ヒロシの常套手段である逃走であった。

 生活費がなくては生きていけない。だけど、涼子と会うのは嫌だ。それなら、生活費だけを置いてもらって、涼子には会わなければいい。こんな素敵なアイディアが思いつくなんて、ヤバい僕超天才。

 ただし、一見完璧にもみえるこの作戦には、大きな穴があった。作戦達成の必要条件に、僕の外出が含まれていることだ。ひきこもりに居留守は使えない。ならば、実際に家を出て、留守の状態を作り出すしかない。

 たぶん、無理だろう。内心、そう思っていた。自分はきっと、外に出れない。

 今までも、ずっとそうだった。今日こそは外に出てやると意気込んで、勇猛果敢に外出の準備をするのだが、いざドアの前に立つと、固まってしまう。ドアノブを握りしめたまま、押し開くことができない。そして結局、また寝間着に着替えなおして、しとどに枕を濡らすのだ。いつも、その繰り返しだった。

 今回もまた、同じことを繰り返すのだろう。限りなく確信に近い予感。だが、それでもいいと思った。今夜だけは、とことん大家さんの戯言に付き合ってやろう。そう決めたのだ。

 滞っている世界に、一石を投じる。それだけで、ひきこもりニートには御の字の結果なのである。

 踵の潰れたスニーカーをきちんと履きなおし、ドアの前に立つ。

 すぅー、はぁー、と大きく深呼吸。

「行くぞ」

 冷えきったドアノブを握り、押し開き、外に出た。扉を閉めて、施錠する。赤く錆びた階段を降りて、通りに出る。

「あれ?」

 思わず振り返って、背後のボロアパートを見つめる。闇の中に佇むその姿は、さながら幽霊屋敷のようだった。

 それを見て、ようやく実感する。

「……出られた」

 出られてしまった。いともたやすく。葛藤らしい葛藤もなく。赤子の手を捻るが如く。

「は、ははは……」

 自然と、笑いがもれる。

 タララッタッタッター。ヒロシは、ひきこもりニートからノーマルニートへレベルアップした。

 イヤッホー、と歓喜の快哉をあげたくなるが、近所迷惑を考慮して、小さくガッツポーズするにとどめる。

 久しぶりに踏みしめる地面の感触が新鮮で、意味もなくステップしてみた。固い。いつも足裏に感じている畳の柔らかさと違う感触だけで、楽しくなる。

 大家さんの言っていた事は、今の今まで全て半信半疑だった。けれど、総じて撤回させていただこう。

 僕は、変われている。昨日までのうじうじしてた自分とは、もうオサラバだ。外出のひとつやふたつ、お茶の子さいさいだぜ。楽勝楽勝。ヒャッホー!

 人目がないのを確認してから、路上で小躍りする。言葉にできないくらい最高の気分だった。今の僕なら、空を飛ぶことだって、就職することだって容易にこなせる気がする。三次元なんてもうアレだよ。ヌルゲーですよヌルゲー。

「って、調子に乗りすぎだろ僕」

 ここら辺で、さすがに自省する。達成感に酔いしれるのはいいが、本来の目的を忘れてはいけない。とっととボロアパートから退散しなくては、涼子と出くわしてしまうかもしれない。

 今の僕は、遠足前の小学生のようにそわそわしていて、妙に落ち着きがない。気持ちを静めなくては。

 冬の冷たい空気を、肺が痛くなるほど吸い込み、吐き出した。それでも、マグマのようにたぎってくる昂揚は抑えられなかった。嬉しさのあまり、にまにまと頬が緩んでしまう。

 が、立ち往生していても話が進まない。とりあえず、歩き出すことにした。具体的な行動計画はたてていなかったが、構わないだろう。涼子が帰るまで、適当に街を練り歩いていればいい。

 それでは、出発進行。

 通行人も車両も通らない静かな道路を、ひとりぼっちで歩き始める。

 空はおののくほどに真っ暗で、砂粒みたいな星が、ばらまいたように散らばっている。それらを眺めながら、のんびりと歩を進める。

 最初こそ、雲の上を歩いてるようなフワフワした足取りだったけれど、次第にしっかりしてきた。

 そして、なんとなく手持ち無沙汰になってきたので、お気に入りの中二妄想を開始した。

 妄想の中の僕は、日本政府のシークレットエージェントだった。表沙汰に出来ない秘密裏の事件を政府から依頼され、それらの任務を鮮やかに達成する。

 僕はファンタジー系の妄想よりも、こういうハードボイルドな妄想を好んだ。学校にテロリストが侵入してきて、その日たまたま屋上で居眠りをしてた僕は、みたいなのは大好物である。

 政府から与えられたコードネームはH。僕は、いやHは、古今東西の武術を組み合わせた独自の格闘術をあやつり、肉弾戦では無敵の部類に入った。

 銃の扱いもピカイチで、ハンドガン、ショットガン、アサルトライフル、スナイパーライフルと種類を問わず、高い精度の射撃能力を有している。優秀という言葉が、ピタリと当てはまるような男だった。

 だが、有能かつプロフェッショナルなHにも、弱点と呼べるものがひとつあった。それは、突発的な不幸体質だ。Hの任務はいつも、突然のアクシデントと共にやってくる。

 たとえば、あそこの角を曲がったら、逃げ惑う黒髪の美女がHに抱きついてきて、こう嘆願する。私を助けて、と。

 彼女の背後からは、黒服の、いかにも怪しげな男たちがこちらに向かって駆けてくる。手には大口径の自動拳銃。銃社会と無縁の日本じゃあ、到底拝めそうにない代物ばかりだ。

 やれやれ、とHはいつものように軽く肩をすくめ、ニヒルな笑みをひとつ見せた。そして、誰にでもなく呟くのだ。今回も難しい任務になりそうだぜ、と。そして、黒髪の美女の手をとって、夜の街を走り出す。

 きっと、今夜もそんな展開になるに違いない。

 脳内の妄想を加速させながら、Hは角を曲がった。

「あっ」

 そこで、OLさんと鉢合わせた。

 踵を返して、逃げ出した。

「ちょっと――」

 OLさんが僕の(もうHはいいや妄想終了)背中に何か言葉を投げかけているが、当然無視。全速力で逃げ出す。

 先ほどまでの楽勝ムードは雲散霧消。すいません。正直、調子に乗ってました。やっぱり、外は恐い!

 しばらくの間、無我夢中で走った。冷えた夜の空気が目にしみて涙が出るが、それでも速度は緩めなかった。一歩でも多くOLさんから離れるため、必死だった。

 ここまでくれば、もう大丈夫だろう。そう確信できる地点までやってくると、近くの電柱に全体重を預け、火照った身体を冷やした。ぜえぜえと息が荒く、額からは汗が噴き出している。

 さて、どうしようか。

 部屋に帰りたいというのが本音だが、そうもいかない。あちらはもう涼子が到着しててもおかしくないし、これでもし鉢合わせでもしてしまったら、まさに本末転倒であろう。意を決して外出した意味がない。

 やはり当初の計画通り、このまま街を歩き続けるのが賢明なのか。OLさんと出くわすリスクは継続するが、多少はやむを得ないだろう。OLさんに見つからないよう最大限の注意をはらいながら、街を徘徊するしかない。

 奇しくも先ほどのハードボイルド妄想と妙にマッチングする結論を出して、額の汗を拭った時だった。

「待ちなさいっ!」

 闇夜を切り裂く、鋭い声。発生源を追いかけると、そこにはこちらに向かって走ってくるOLさんがいた。

 なんで追いかけてくるんだよ!

 反射的に、僕も再び駆け出す。爽やかとは程遠い汗を振りまきながら。

 深夜の閑静なベッドタウンに、二人の足音がこだまする。追う者と追われる者。なんと奇妙な追走劇だろう。

 へたに休憩を入れてしまったせいで、足がだるくなっている。ヘロヘロになりながらも、逃走経路を模索した。

 走っていて気づいたのだが、この街は曲がり角が非常に多い。そのため、場所によっては迷路のように複雑に入り組んでいる。住宅の数が多いからだろうか。原因はわからないが、なにはともあれ、この地形を利用しない手はない。

 OLさんを振りきるために、角を曲がったり、曲がらなかったりと、とにかく無作為に走った。彼女の視界から消える回数が増えれば、そのぶんT字路などの分岐点の時に、迷いが生じるだろう。僕が走った方向は、右なのか左なのか。その逡巡の分だけ、余分に逃げることができる。

 けれども、OLさんはホーミング機能でも付随しているのかってくらいに、正確無比に追いかけてきた。まるで鳥の視点から、この住宅街を俯瞰してるかのように。僕の目論見は外れ、二人のいたちごっこは続いた。

 元から、僕の運動神経は最低部類に入る。しかも、ひきこもりニートという最悪の要素が加わり、運動能力は下の下。いくら相手が女性とはいえ、追いつかれるのも時間の問題だった。そろそろ年貢の納め時か、と僕も諦めかけていた。

 しかし、勝利の女神は僕に微笑んだ。

 必死に足を動かしながら、首だけを軽く後ろに回して、OLさんの足元辺り、正確には彼女の履いている靴に目をやった。

 OLさんの履いている靴は、いかにも社会人の女性らしい、ややヒールの高いものだった。当然のことながら、僕の履いているスニーカーみたいに、運動性に富んだ靴ではない。OLさん自身も、非常に走りにくそうにしていた。

 靴のハンディーというのは、思ったよりも大きかったらしい。僕と彼女の距離は、徐々にではあるが、確実に離れていった。

 勝った。

 僕は確信する。天は自分に味方している。

 あまりにも距離が離れてしまえば、OLさんの魚雷みたいなホーミングも機能しないはず。この調子で走り続けていれば、僕の勝利は約束されるのだ。

 はっはっは! 恨むのなら僕じゃなくて、そんな踵の高い靴を履かなくてはならない社会人になった自分を恨むんだな!

 と、心の中で悪罵を送り、目の前にぶら下がっている勝利の二文字にほくそ笑んでいたのだが、

「だから、待てって言ってるでしょうがっ!」

 OLさんが、思いがけない行動に出る。このままでは追いつけないと判断したのか、履いている靴を脱ぐと、それを両手に持って、素足のまま駆けだしてきた。なんたるバイタリティ。おいおい人生全力投球すぎるだろ。

 楔から解き放たれたOLさんの走りは、先ほどとは雲泥の差だった。もともと、運動神経も優れているのだろう。ぐいぐいとスピードを上げて、離れていた間隔をみるみると縮めていく。白星が一転、黒星に変わる。

 ちくしょう、捕まってたまるか。

 全力稼働中の足に鞭うって、更にスピードをあげた。筋肉痛も辞さない、鉄砲玉の如き勢いだった。

 ――のだが、デレていた勝利の女神が、ツンに変わった。

 運動不足が祟ったのだろう。激しく地面を蹴りつけて進んでいた足が、空中でもつれてしまい、空回りして、そして、

「へぶしっ」

 道路の上に、顔から滑り込んだ。

 顔全体が満遍なくアスファルトにズルズルとすれて、熱を帯びたような痛みが襲ってきた。

 やっと前回の傷が完治したってのに、またもや顔面を負傷するとは。なんなのですか。僕は常に顔に傷がないとダメな呪いにでもかかっているのか。畜生、これ以上ブサイクになったらどうするんだよ。責任とって養ってくれよ。

 って、そんなことを憂いている場合じゃない。早く逃げなくちゃ。

 すぐに立ち上がろうと、両腕に力を込めたのだが、

「ぐえっ」

 物凄い力で、上に引っ張られた。猫のように首根っこを捕まれ、ぐいと上昇した目線の先には、OLさんの顔。全力で走った所為か、頬が上気していて息が荒い。肩が激しく上下している。

 彼女は乱れた息を整えることもせずに、僕に対して冷然と言い放った。

「少し、付き合ってもらえるかしら?」

 果たして首肯する以外に、僕に何が出来たというのだろうか。是非、皆に問いたい。



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第六話

 今、何時くらいなのだろうか。ふとそう思い、公園の中央にそびえ立つ時計台を見ると、針は午前一時半を知らせていた。いつの間にか、涼子と約束した時間はとうに過ぎていた。

 明日は平日だ。社会人の皆様方はお仕事だろうし、それにあらかじめ不在のメールは送ってある。彼女も帰ったに違いない。賢い彼女が、僕を待つような無益な行動はとるまい。

 ホッと胸をなでおろすのも束の間、ピリリと走った頬の痛みが、安寧に浸ることを許さなかった。

 先ほど繰り広げた真夜中のマンチェイスを思い出し、げんなりする。果たして、どちらの不幸がよりマシであったのか、今となってはわからない。

 現在、僕はとある公園のベンチにぽつねんと座っていた。住宅街の中にある、ありふれたつくりの公園だ。昼間はたくさんの子どもで賑わっているのだろうけど、深夜という時間帯もあってか、今は不気味なほど静まり返っている。今日は風もほとんどないので、寒さはさほど厳しくない。かえってあのボロアパートよりも暖かいくらいで、居心地は悪くなかった。

 けれど、心の居心地は最悪だった。自室を出てからずっと、まるで親戚の家に預けられた子どものような、所在ない不安に苛まれていた。全力疾走による肉体的な疲労もあってか、どうも精神が安定していない。

「まるで、平均台の上を歩いているみたいだ……」

 独り言が多いのはひきこもりの悪癖だ。咄嗟に口を閉じ、辺りを見回したが、誰がいるはずもなかった。せいぜい塗装の禿げたパンダの遊具が、意味のない微笑みを浮かべているくらいだ。

 こうして見ると、本当に特徴のない公園だった。少しの遊具と、少しのベンチと、少しの芝生。敷地面積自体はそこそこあるのだが、いかんせん中身がすっからかんなので寂しい印象を受ける。遊具を増やすための税金もないのだろう。

 すべり台の近くに、汚れたサッカーボールが転がっていた。最後にサッカーをしたのは何時だったっけか。ぼんやりと考える。

 その時、緩やかに吹いていた風が止まった。

 風が凪げば、心も凪ぐ。

 おそらく、油断してしまったのだろう。

 あのボロアパートの一室のように、雑音のない、孤独な環境に戻ったせいで、つい心のガードを緩めてしまったのだ。

 急に、サッカーボールが左右に揺れ始めた。生命を宿したかのような、肉感を持った動きだった。そして、徐々に、徐々に、その動きは大きくなり、同時にボールの体積も大きくなっていく。通常サイズであったものが、次第にバランスボールくらいの大きさに、そして大玉転がしの玉くらいに、遂にはすべり台を超すサイズになっていく。

 巨大化したのは、サッカーボールだけではなかった。自分の周りにある全てのもの、ベンチが、電灯が、時計台が、多種多様の遊具が、自動販売機が、全て巨大化し、僕を見下ろしてくる。いや、それとも不思議の国のアリスのように、僕が小さくなったのか。

 発作だ。

 そう気づいた時には遅かった。

 ――お前は、一体何をしているのだ?

 誰かが、僕の耳元でささやく。反射的に耳を塞ぐが、そんな薄い装甲で声を防げるはずがなく、容赦なく貫通する。

 ――お前は今、どこにいる? 外だ。広くて、冷たい、外の世界にいる。これは、いかん……これは、いかんよ。本来なら、お前の世界はあのシェルターの中で完結しているじゃないか。だというのに、今はどうだ? 外の世界にいる! これは、とてもバカげていることだ……急速に世界が広がりすぎているよ! 

 声は黒い手となって、塞いだ手の甲をすり抜け耳殻をなでた後、耳孔を通り鼓膜に触れた。そのあまりに悍ましい感覚に、爪を立ててしまう。

 ――いいかい、武井ヒロシ? 井の中にいる蛙はまず、大海を知る前に井の中を狭いと思わなきゃならない。けれど、お前は一度でもあの安普請を狭いと思ったことがあるか? ここから抜け出したい、外に出たいと切望したか? いいや、思ってない。これっぽっちも願っていない! あの小さい女にそそのかされて、一時的に気が大きくなっただけさ。

「……やめろ」

 震える声で呟くが、僕のささやかな抵抗はかえってヤツの嗜虐心を煽ったようだ。ささやき声はもう抑えきれないといった様子で、次第に声量を増していった。

 ――いかんよ、これはいかんよ! お前の許容量を大きく越えてしまっている……ほら、見ろ! 背伸びをしすぎて、足がちぎれそうになっているじゃないか。人間、無理をするものじゃないね。勘違いしないよう忠告しておくが……お前は、弱者だ。どうしようもなく、弱者だ。そして、弱者は強者と違った生き方をしなくてはならない。与えられた場所で、ひっそりと生きる……重石の下で生きる虫のように、弱者は弱者らしく生きなくてはならない。それが、弱者のせめてもの矜持じゃないか。だというのに、お前は……ああ! 言わんこっちゃない! ほら、あそこを見てみろ!

 顔を上げると、そこには闇があった。巨大化している電灯でも、到底太刀打ちできないほどの完全な闇。その闇は、大量の虫が這っているかの如くもぞもぞと蠢いていた。

 闇から、白い楕円形のものが、一個、二個、三個と次々に浮かび上がっていく。それは僕が瞬きをする度に倍増していき、遂には数え切れないほどになった。

 生理的な嫌悪感で、一気に肌が粟立つ。

 それは眼だった。異様に黒目の大きい眼が、獲物を探すようにギョロギョロと四方へ動いている。そして、ウサギのように震える僕を捉えた。全ての眼が、僕を見る。見る。見る。見る。見る。

 ――見えるだろう?

 声がする。

 ――あそこにいるのは、いわば世界の眼だ。ひとつやふたつじゃない。無数の眼が、お前を見ている。はっは、指をさして嘲笑っている者もいるね。眼が指をさすだなんて、いかにも滑稽な言い回しだがね……要はお前を異物と見なしているのさ。どれだけお前が世界を望もうと、世界はお前を望まない。外の世界に飛び出すなんて、はなから無謀なことだったのさ。

「……妄想だ」

 僕は呟く。

「これは、全て僕の妄想だ……外に出たせいで不安定になっている神経が、暴走しているだけだ……だから、恐れる必要なんて微塵もない。これは妄想の産物……僕の産み出した、妄想だ」

 ――妄想じゃないさ。これは現実。圧倒的なまでの現実さ。ひきこもりニートのお前が世界に受け入れられると考える方が、よっぽど妄想じゃないか。

 冬だというのに、僕は大量の汗をかいていた。歯がカチカチと音を立て、視界がぐるぐる回りだす。粗悪な密造酒に酔ったかのような、悪質な酩酊に耐えきれず、強く目をつぶる。身体を丸くし、防御の体勢をとる。が、それはあくまで外部からの攻撃に備えるものであり、内部からの攻撃に対しては有効でない。ささやき声は容赦なく僕を責め立てる。

 ――無理だ。無理なんだよ。ひきこもりニートのお前が、外に出ようたって無理さ。真空の世界で呼吸をするような無謀さだ。お前は、世界にとって必要のない存在だ。誰もお前の存在を肯定してくれやしない。あの小さい女だって、本心では何を考えているかわからないぞ。塵芥のお前にムダ金を費やされている妹なんて……嗚呼、こんなことは言うのも野暮だ!

 心がひび割れ、欠片が膝の上に落ちていく。僕は狂気の淵に立っていた。目の前の奈落はぱっくりと大口を開けて、僕が飛び込むのを待っている。

 ――お前は必要のない、必要とされない、邪魔にしかならない存在だ。さあ、訊こう? お前のような存在が、果たしてどのような生き方をするべきなのか……いや『生き方』というのは語弊があるか。正しくは……いいや、これも野暮だ。これ以上は野暮ってものだ。お前だって、本当は、知っているのだろう?

 狭くなった視界の端に、パンダの遊具がちらついていた。先ほどまでの意味のない微笑みが嘲笑に代わっていて、歯茎を剥き出しにして僕を笑っている。口を広げすぎているせいで口の端が裂け、血とヨダレが混じった粘性の液体が、ポタポタと砂利に垂れている。

 もう、限界だった。

 僕が、そのまま奈落に身を投げる――その寸前だった。

「武井くん?」

 頭上から降ってくる声があった。

 顔を上げると、OLさんが眉根を寄せ、心配そうに僕を見ていた。

「どうしたの? ひどい汗じゃない。それに、顔色だって……」

 彼女はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭おうと手を伸ばす。

 寸でのところで、身を後ろに引く。

「だっ……大丈夫です。い、い、いつものことなんで……いや、正確には、いつもじゃないんで、すけれど……た、た、たまに、こうなるっていうか……いえ、と、とにかく、大丈夫なんで」

 結果として、彼女の優しさを拒否する形になったが、OLさんは別段気を悪くした風ではなく、相変わらず気をもんでいるようだった。差し出したハンカチをどうするべきか迷い、結局ポケットの中に戻した。

 こめかみの血管が、ドクドクと脈を打っているのがわかった。昂った気を静めるために、深呼吸をする。冷たい空気に肺が痛むが、身体の震えと汗は止まった。手の甲で、汗ばんだ額を拭う。

 発作は収まっていた。いつもならもっと尾を引くのだが、なぜか狂気の残滓はすっかり取り除かれていた。

 世界も元通りになっていた。周りのものは巨大化していないし、もちろん僕も小さくなっていない。遊具のパンダも同様だ。

 まさか幻覚幻聴のダブルパンチとは……これほどひどい発作は久々だった。おそらく外に出たことに起因しているのだろう。己の豆腐メンタルを呪いたい……。

 僕が一応の平静を得たのを確認すると、OLさんは手に持っていたコンビニのビニール袋を差し出した。正直受け取りたくなかったが、立て続けの拒否は気が引けたので、おそるおそる受け取ると、中にはガーゼと消毒液が入っていた。

 ――そしてOLさんはそのまま僕の横に腰かけて、すり傷の治療を開始する。頬に塗られた消毒液が染みて「いてて」とか痛がってみると「男の子なんだから我慢しなさい」と母性感じる微笑みと共に――なんてことはなかった。普通に僕の前で腕を組んで立っていた。

 どうやら自分で治療しろということらしい。……おかしいな。僕が普段見ているアニメや漫画やライトノベルだと、こんな展開にはならないのに。

 仕方がないので、ひとり寂しく治療を開始する。いてて。消毒液が染みるなぁ。

 雑な治療を一通り終えると、どこに持っていたのか、OLさんの手には缶コーヒーが二つあった。

「ん」

 一つ差し出され、反射的に受け取る。既にぬるくなった缶コーヒーのラベルは真っ黒で、『ブラック無糖』の文字があった。すぐにでも返却したかったのだが、そんな勇気が僕にあるわけない。カイロ代わりに手の中で弄ぶことにする。

 カコッ、とプルタブを引き上げる乾いた音がした。OLさんはうっすらと口紅のついた唇をフチにつけて、缶コーヒーを傾ける。

 月をバックにしたその姿は、あまりにも絵になりすぎていて、「ああ、この人って綺麗だったんだな」と僕は素朴に感心していた。

 初めて会った時は、目も当てられない酔いどれ状態だったので、どうにも変なイメージが固着しているが、なんて言えばいいのだろうか。連続ドラマなんかによく出てくる、有能キャリアウーマンをそのままテレビから連れてきた感じ。

 スラリと伸びる手足。キッチリと着こなした黒のパンツスーツ。なぜか羽織っている男物のコートのせいか、やや中性的な印象を受ける。ひとつに結んだ長い髪だけが、唯一の女性らしい要素だった。

 こういう、いかにもキツそうな感じの女性は苦手だった。というか、女性が苦手だった。なんなら男性も苦手だった。……僕って人間向いてないな。草や木に生まれたかった。

「悪いことをしたわね」

 一瞬、何を謝罪されているのかわからなかったが、頬に貼られたガーゼを見ているので、おそらく僕に怪我をさせたことに対してだろう。

「でも、どうして逃げたりなんかしたのよ。待ってくれって、わたし言ったじゃない」

 ライオンに追いかけられているゼブラが止まったりするでしょうか。あの時の恐怖感を三十分スピーチしたところで、彼女には三分の一も伝わらまい。理由なんて伝えようがなかった。

 うんともすんとも言わないで、口をもごもごさせているのを返答の拒否ではなく思索の過程と受け取ったのか、OLさんからは待ちの気配が伝わってくる。

 妙な沈黙が、僕の背中をじりじりと焼き付ける。

『地獄とは他人のことである』

 学生時代に読んだサルトルの戯曲にそんな言葉があったが、その通りだった。OLさんから向けられるまなざしは、まさに地獄としか言いようがない。

「ぼ、ぼ、僕は……」

 辛うじて出た無意味な一人称は、夜の静寂に波紋ひとつ起こさないで、無意味に消えていく。

 そして、沈黙。

 ああ、嫌だ嫌だ。この空気は嫌だ。会話ひとつまともにこなせない自分の無能さをまざまざと思い知らされる。それに僕は、治療用品を受け取った時も、缶コーヒーを受け取った時も、何も言わなかったじゃないか。お礼のひとつくらい、言うべきだったろうに。

 先ほどの汗が、着実に体温を下げていくのを今頃になって感じ始めた。厚手のジャケットは、かえって内部の冷たさを閉じ込める役割を果たした。

「まずは報告」

 痺れを切らしたのか、口火を切ったのはOLさんからだった。

「先週のあの二人組の男、覚えているわね?」

 忘れられるわけがなかった。僕の心に消えない傷跡を残し、ほとんどトラウマと化しているのだから。今朝にだって夢に出てきたくらいで、今だってあの二人に出くわさないかヒヤヒヤしているくらいだ。

「捕まったから」

「は?」

 間の抜けた声が出てしまった。

「つつつ、つ捕まったって……あ、え?」

 OLさんは僕の混乱を横目で流し、仕事の報告をするみたいに淡々と続ける。

「あの一件の後に、警察署へ行ってパトロールを強化してもらうようにお願いしといたのよ。あの二人の口ぶりからすると、あれが初めてってわけじゃなさそうだし、他にも被害者がいそうだったから。そしたら……最近の警察って意外に律儀なのね。昨日、あの二人組が捕まったって連絡をもらったのよ。強制わいせつ未遂で現行犯逮捕されたって。詳しく訊いてみると、案の定、初犯じゃないみたいで余罪もどんどん出てきているそうよ。執行猶予はなし。刑務所行きは、おそらく免れないわね」

 僕はなんてリアクションしていいかわからず、うろたえるばかりだった。

 なんとも、まあ、呆気ない結末である。僕を悩ませていた悪夢の種は、芽を出さぬうちに掘り出されてしまったというわけか。

 ざまあみろと思う気持ちが半分、それと、煮え切らない思いが半分。

 性犯罪は基本的に親告罪である。OLさんは余罪がありそうだと言っていたが、被害届を出さずに涙をのんだ被害者だって相当多いはずだ。消えぬ傷跡を、過去の悔恨の中に葬ってしまった人々を想えば、あの二人組が正当に裁かれているとは到底言い難い。実際に犯した罪の数に比べたら、ずっと軽い処罰で終わることだろう。

 しかし、その現実に思い至ることができても、僕の心は外気のように冷え切っていた。はなから、義憤を感じるような正義感なんて持っちゃいない。そもそも、この僕だって、罪人という意味では彼らと変わらない。

「そして、ここからが本題」

 センチメンタリズムに浸っていた僕の方へ、彼女が一歩距離を詰める。さあ逃がさないぞ、と言わんばかりだった。退路を塞がれたゼブラは、大人しく喉元を差し出すしかなく、僕は身を引くこともしないで大人しく彼女を見上げた。

 そして、開かれた口元からは、

「借りを返させて」

「へ?」

 今、なんて言った? 狩り? 狩りをさせて? ハントならもうしているじゃないか。精神的にいたぶられすぎて僕のライフはゼロだぞ。

「借りを返させて欲しいの。どういう過程であれ、結果としてわたしが助けられたのは事実だし、それに……我ながら面倒な性格だとは思うけど、借りを返さないと、なんていうか、気が済まないのよ。相手に弱みを握られているみたいで、気分が悪いから」

 本当に面倒な性格をお持ちですね……狩り、じゃなかった借りなんて返さなくてもいいのに。つーか、そもそも借りを返すって表現は、自分が受けた屈辱を相手に味合わせる的なマイナスな意味で使われることが多いのであって……。

「い、い、い、いいですよ、べっ、別に借り、とか、ほんと、いらない、いい、っていうか……」

 激しくどもりながらも即座に拒否をする。今更、クーリング・オフなんて許さないぞ! 特定商取引法反対!

「それだと、わたしが困るの」

 だが、返ってきたのは不服申し立て。

「で、で、も……」

 それでもなけなしの勇気を振り絞って、拒絶の意を示そうとすると、その気配を獣のような俊敏さで悟ったOLさんが、さらに一歩詰めてくる。

 ヒィ! 助けられた側なのに、なんでこんなに威圧的なんだこの人。人情モノ作品にありがちな「あっし、名乗るほどの者ではございませんので……」って言い残して格好よく去ろうとする主人公の肩を掴んで「いや、名乗ってください」と真顔で言い放って余韻をぶち壊すタイプの人間だなコイツ。つまりは空気読むの苦手な人間ってわけか。僕かよ!

 けれど、いくらビビりチキン野郎の僕でも、決して退けない一線というものがある。誰かと関係性を築く余裕なんてないのだ。涼子と大家さん。この二人でもう手一杯なのだ。だから、ここはキレイさっぱりお互いの関係性を清算しようじゃありませんか。ね? そうしましょう?

「絶対に嫌」

 端正な顔立ちは、不満に歪んでいる。彼女の意志をテコで動かそうとしたら、逆に僕の心が折れそうになっていた。

 時計台を見る。現在、午前二時半。おそらく、今夜は長くなることだろう。

 長期戦を確信し、僕はようやく手元の缶コーヒーを開けた。口をつけると、口内にはまどろみを吹っ飛ばす苦みが広がった。

 苦い。人生とブラックコーヒーってのは、いつだって苦い。

 どちらの方の不幸がマシだったのか。その答えは、今から出ることだろう。



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第七話

 深夜の公園に、二つの影が対峙している。

 一方は自信満々に腕を組み、もう一方はベンチに腰掛けうなだれる。

 どちらか優勢なのは、一目瞭然だ。しかし意外なことに、情勢は拮抗していた。

 借りを返す。借りを返させない。

 傍からみれば、これは不毛としか言いようのないやり取りだった。

 もらえるものなら、もらっておけばいいじゃん。第三者はそう思うだろう。僕だって金一封とかなら喜んで受け取るけど、OLさんからはどうにも一回だけじゃ終わらせない、その後の伸展をにおわせるような不穏な雰囲気があったので、僕としてもおいそれと首を縦には触れなかった。

 彼女はもはや敵意を隠そうともせず、マンガだったら『ギロリ』なんて擬音がつきそうなくらいの勢いで睨みつけていた。おかしいな……僕は一応、恩人(仮)だったはずじゃ……。

 苛立たし気に腕を組んでいるOLさんの姿は、この展開が不本意なものであることを告げている。

 実際、不本意だったろう。僕みたいな気の弱そうなもやしっ子、すぐに説き伏せられると考えていたに違いない。しかし、実際は塹壕戦の様相をなしていて、決着がつきそうな気配は今のところ見えない。

 が、それは意外でもなんでもないことだった。こっちは普段から世の「働け」という正論に耐えているのだ。それに比べれば、これしきのプレッシャーなんちゃない。意固地になったニートの頑強(頑迷)さを思い知るがいい!

 ジリジリと焦げ付くような停滞の後、ハァと煩わしさと共に白い息が吐き出される。

 いい加減、水を掛け合うだけの議論には疲れたらしい。OLさんは勢いよく缶コーヒーを飲み、中身を空にすると、数メートル先のゴミ箱に向かって投擲した。ナイスコントロール。見事、空き缶は目標地点にイン。

 長身のモデル体型から繰り出された、華麗なピッチングフォームを見て、思う。

 ――彼女は、どうして僕とつながりを持とうとするのか。

 なにも僕は、自分のことだけを考えて拒絶しているのではない。僕みたいな気持ち悪いニートとこれ以上付き合わなくていいように、彼女に配慮してやっているのだ。それが、なぜ伝わらない。もしくは、わかっていて気付かないフリをしているのか。

 借りを返さないと気が済まない性分だと、OLさんは言っていた。

 そこには杓子定規な義理堅さだけじゃなくて、幾ばくかの善意も含まれているのだろう。しかし、その善意が困りものなのだ。

 善意の押し売りがなぜいけないのか分かった気がする。善意というのは、相手が望むものを十分に理解していて、初めて成り立つものなのだ。一方的な善意ってのは、ほとんど暴力と変わらない。

 ほら、ひとりはいただろう? ちゃちな博愛主義を掲げて、爪弾き者を集団の中に引き戻そうと努力する哀れな善人が。そいつがどうして孤独なのかを理解せず、お行儀のいい思想を掲げて余計な行動を起こし、結果……いや、脱線している。過去の苦い思い出はとりあえず脇に置いておこう。

 とにかく、人とのつながりなんて、持たない方がいいに決まっているのだ。

 

 人とのつながり――僕はこれを『糸』と呼んでいた。

 一般的に、糸を持つのは良いこととされている。学校教育でも、しばしば糸を『絆』という耳障りの良い言葉に変換し、道徳の授業等で礼賛している。

 糸は素晴らしい! 糸によって人々は助け合い、共存しているのです! 皆さん、一本でも多くの糸を保有しましょう! 糸が人生を豊かにするのです!

 授業の中で、テレビの中で、書物の中で、インターネットの中で、手を変え品を変え、糸を至上だと喧伝している。

 そのプロパガンダを疑う者は誰一人としていない。無邪気な賛同ゆえに、糸の布教は電撃のような速さで広まり、順調に信者を増やしていく。

 一元化された価値観の中では、糸を一本でも多く持つ者が勝者となる。糸を手に入れるべく奔走し、量と質を自慢する。友だち多いアピール、人脈広いアピール、著名人と交流あるアピール。糸を自慢する輩が後を絶たないのは、これが原因だ。

 が、僕は疑問を呈したい。そして、危険性を訴えたい。

 ――糸は本当にそんなに良いものなのだろうか、と。

 結論から言ってしまうと、糸は害悪でしかない。しかし、人類にとって悲劇なのは、糸を持つことを強制されていることだ。

 何も難しい話ではない。

 たとえば、学校や会社などの社会集団において、糸を持たずにいればどうなるか。簡単だ。孤立し、排除されるだろう。ひどい時には、攻撃される可能性だってある。

 だからこそ、彼らは必死で糸を掴んでいる。そして全神経を注いで、糸を調節している。

 糸は、緩めすぎても、張り詰めすぎてもいけない。緩めすぎた糸は徐々に細くなって、いつかはちぎれてしまうし、張りつめすぎた糸は、その張力に耐えきれずプツンと切れてしまう。

 それが、一本だけならまだいいだろう。しかし、その実、二本三本、いや、十本五十本、人によってはさらに多くの糸を調節している。

 多くなった糸は、絡まるのが自明だ。多数の糸を絡まらないように調節するのは至難を極め、神経がすり減る作業である。そして起こり得る最悪のケース――糸が絡まってしまった場合などは想像したくもない。

 なんとか解こうと苦心するけれども、緊張で震える手ではうまくいくわけがなく、かえって状態は悪化してしまい、遂には玉状になって、切断する以外には道が無くなって、けれど切断してしまえば己の立場が危うくなるため、どうしようもできず右往左往し――そして彼らはようやく気付く。

 手に掴んでいたはずの糸が――いつの間にか、己の首元に括られていることに。

 …………。

 以上のような地獄を目にしても、なお、糸は素晴らしいものだといえるだろうか。いえるわけがない。自殺の原因不動のナンバーワンが人間関係というのも頷ける話だ。

 だが、真実を口にしたところで何も変わりはしない。現実を直視しても辛いだけだ。だから皆、地上ではなく天上を見上げ、糸を祭壇へと掲げ上げ、崇め奉る。かつてドイツ唯物論が、神は人類を疎外する悪しき概念であると喝破した功績を、再び無に帰す愚行を犯している。

 しかし、数少ないながらも、そんなグロテスクな現状を、欺瞞であると見抜いた人々がいる。

 ひきこもりニートたちだ。

 ひきこもりニートは、世間とのつながりをなるべく断とうとする傾向を持つ。それは、人間関係が己を殺しうる刃へと変質するのを熟知しているからだ。

 実家暮らしのひきこもりニートの場合、お盆や正月はまさに正念場といえる。実家に続々と集まる親戚たち。「この部屋なにー?」と無邪気な疑問とともに叩かれるドア。「もういい年なのに、いつまでああなのかしらね……」と壁越しに聞こえてくる大人たちの嘆き。

 その度に、ひきこもりニートは思う。

 孤独でいたい、と。誰も自分を知らず、関わろうとしない土地で生きていたい、と。

 糸の性質のひとつに、保有者が弱者であればあるほど、鋭利になるというものがある。ピアノ線のような鋭さとなった糸は、保有者の皮膚を裂き、血を流す。

 こんなもの、手放してしまいたい。けれど、手放せない。

 ライフラインを他者に委ねてしまったひきこもりニートは、ひとりで生きていくことができない。故に、彼らは歯を食いしばって痛みに耐えながら、血だらけになった手のひらで糸を握るのだ。

 つまり。

 糸は極力断ち切るのが正解である。余計なものは削ぎ落すというオッカム先生の理論は、人間関係にも応用できる。

 だから、僕とOLさんは、関わるべきではない。関わってしまえば、そこに新たな苦痛が生じるだけ。

 大手を振って、サヨナラバイバイ。これが、互いにベストな選択だった。

 

「詭弁ね」

『糸』論を再考した直後、頭上から降ってきた否定に、思わず顔を上げる。

 心を読まれたのかと思った。が、単に僕の悪癖が出ただけだと気付き、慌てて開けっ放しの口を閉じる。

「欠点を度外れに拡大して、さも誤謬しかない論であると誘導するのはデマゴーグの手法そのものよ。どんな思想にも、良い点と悪い点がある。その功罪を総合的に捉えて批判するのが、正しい展開じゃなくって? 確かに、あなたの言う糸によって苦しむ人は多い」

 でも、と彼女は自分の身を抱きしめるように片腕を寄せ、

「それと同じくらい、糸によって救われる人は多いはずよ」

 僕を見つめる瞳には、切実な色があった。知識人が民衆に蒙を啓く時のような上からの教えではなく、なんとか自分の考えを理解して欲しいといった、地道で土臭い、健気な光があった。

 なぜ、彼女はこのような瞳をするのだろうか。

 面と向かって説かれたものだから、さすがの僕も馬鹿正直に受け取らざるを得なかったが、提示されたヒューマニズムはすぐに冷笑的な色に塗りつぶされた。

 結局、OLさんの考えは恵まれた者の意見でしかなかった。糸から恩恵しか受けてこなかった人には、なかなか負の側面が見えてこない。円満な家庭の中にいた人と、日常的に虐待を受けてきた人とでは、家族という共同体に対する考えが百八十度異なるのと同じように。

 僕と彼女の間にある溝は、思いのほか深いようだ。

「それに、武井くんがさっき例に挙げていたひきこもりニートたちは、まさにその糸のおかげで生きているんじゃない。彼らが糸を否定してしまったら、野垂れ死ぬしかないわよ」

 マジで深いようだ。

 僕の『糸』論は、一瞬で切り捨てられた。そりゃもうバッサリと袈裟切りに。もしやおぬし辻斬りか? と危うく訊ねるところだったでござるよ。

「というわけで、借りを返すことは決まったわけだけど」

 いつの間にか決まってしまった。

「武井くん、何か困っていたり、助けて欲しいことはない?」

 困っていることか……なんなら今、すっごい困っている。OLさんが僕の前から去るだけで、その借りを返すという目標は達せられるわけだが、そんなことは口が裂けても言えなかった。

 どうしよう……と、視線を下げた先には缶コーヒー。

「か、缶、こ、コーヒー」

「? 缶コーヒーがどうしたの」

「おご、奢ってもら、ったから、ち、チャラ、ってことで、こ、これで、かか、借りは……い、いや、なんで、もないです」

 無言で凄むのは反則だろう。思わず途中で回れ右しちゃったじゃないか。

「それに、借りといえばこれだって……」

 と言って、彼女は肩のあたりをポンと軽く叩く。

 OLさんの意味深な目配せの意味を捉え切れずにいたが、

「あ」

 コートだ。見覚えのあるコートだと思っていたら、僕のだった。そういえばあの日の夜、彼女の肩にかけてあげた気がする。ほとんど無意識にやっていた行為だったから、すっかり忘れていた。

 というか、どうしてOLさんはわざわざ僕のコートを着ているんだ……。返すつもりなら、袋にでも入れて別に持っていればよくない? ああ、でもそしたら荷物になるしなぁ。そもそも、僕と会える可能性はかなり低かったわけだし、そっちの方が合理的か。

「これ、返すわね」

 と、口では言っても、OLさんは中々コートを脱ごうとしなかった。そりゃそうだろう。誰だって寒い冬の夜に、防寒具を外したくはあるまい

「あ、あ、あげ、ますよ」

 多少、値の張った代物ではあるが、長い間使ってきたコートだ。もう十分に元はとった。

 が、言った直後に、僕が長年着てきたコートが、もはやゴミそのものだということに気づく。ゴミ処理を相手に押し付けてしまった罪悪感に襲われ、慌てて申し出を取り下げる。

「あ、の、ややや、やっぱり返して、ください。そんな、ふ、古いコート……いら、ないです、よね。だ、だからぼ、ぼぼ、僕が」

「もらえるのなら、もらっておきます」

 顔には出していなかったが、やっぱり寒かったのだろう。もう返さないぞといった感じで、前開きだったコートを閉じる。

 それから、なんとなく会話が途切れ、僕らは二人で黙りこくっていた。

 その隙間のような時間帯が息苦しくなる直前、

「武井くんって、今、何しているの」

 彼女にとっては何気ない質問だったろう。いい年した大人がする世間話なんて、仕事の話に決まっている。

 が、その世間話は、僕にとっては喉元に突きつけられたナイフと相違なかった。

「ここ、コーヒーを、飲んでいます」

 返答に困った僕は、あろうことかウィットのないジョークで誤魔化した。そのまま僕の会話スキルの欠如を、呆れた様子でスルーしてくれれば有耶無耶になるかと期待したが、

「いえ、そういうことではなくって、武井くんが今、何の仕事をしているのかってことなのだけれど」

 ……逃がしてくれませんね。さっきから確実に殺しにくるな、この人。ターミネーターかなんかなの?

 僕はうなだれて、汚れたスニーカーを見つめた。

 さて、どう嘘をつこう。きちんとしたストーリーを考えなければならない。なんせ、僕はもう二十七歳だ。四年制大学を出ている人ならば、普通に働いて、それなりのキャリアを身につけている頃。しかし、まともな労働経験がない僕に、具体性のこもった話などできるはずがない。

 ならば、アカデミズムの世界に身を投じている設定にするか? 中退こそしたが、大学には通っていたわけだし、内部のシステムには精通している。よし、これでいこう。なかなかポストが空かず、不満たらたらな研究生の武井ヒロシくん。完璧だ。

 と、僕が設定を煮詰めていると、

「武井くんって、ひきこもりなの?」

 対戦車砲を歩兵相手に用いるようなオーバーキルだった。

 動揺が大きすぎて、地震が起きたのかと錯覚したくらいだ。喉がギュッと締まり、数秒、呼吸ができなくなる。瞬きの回数が倍に増え、眼球は焦点を失う。

 ――この女、確実に殺しにきやがった。

 取り落としそうになった缶コーヒーをギュッと掴み、

「あ、あ、あ、のですね。僕は、今、どこにいる、いますか?」

 質問の意図が読み取れなかったのか、OLさんは困惑気味に「どこ?」と呟いている。

「そそ、外。外、ですよ。深夜の、公園ですよ。こ、これの、どこがひきこもりだって、いうんですか。屋外で、どど、どうやって、ひき、ひきこもればいいんですか」

 ちょっとキレ気味な語調に、彼女も少しばかり驚いている様子。上体をやや後ろに逸らし、遠慮がちに目を伏せた。

「ととと、というか、どど、どうして、僕を、ひ、ひきこもりだと、お考えに、なな、なったんですか」

「どうしてって……さっき、武井くんが糸について話していた時、ひきこもりについての具体例がやたらと実感がこもっていたから」

「ひひき、ひきこもりの例は、昔、書籍で読んだことがあ、あるだけで。ほ、ほほとんど、いん、引用みたいなものですよ」

「それに、あの日の夜、二人組にひきこもりだって指摘された時も、妙に反応していたから」

「あれは、ああ、あれは、売り言葉に買い言葉と、いい、いうやつでして、言葉の綾と、いい、いいますか……」

 大丈夫、落ち着け。とにかく冷静に対応しろ。ボロを出さなきゃ、僕がどうしようもない堕落的人間だってことはバレやしない。

 ボクシングのスパーリングのように、しっかりミットで受け止めろ。そうすれば、直撃を食らうことはない。

「……わかった。質問を変える」

 さっきよりも幾分、声を落として、

「武井くんって、ニートなの?」

 ………………。

 僕は、夜空を見上げた。

 世の中には、決して訊ねてはいけない質問というものがある。

「今、何しているの?」「仕事は?」「恋人は?」「結婚しているの?」「子どもは?」「え、キミいくつだっけ?」「ああ……まあ、人それぞれだからね」

 ――嗚呼、OLさんには人の心がないのだろうか。

「に、ににニートの定義にもよります」

 ややもすれば落涙しかねなかったので、なるべく淡々と答えた。

「そもそも、に、ニートの語源は、ノット・イン・エデュケーション・エンプロイメント・オア・トレーニング……ぼ、ぼ、僕はエンプロイメントは、していないけれど、え、エデュケーションと、と、トレーニングはしている……た、たしかに、広義のニートには、含まれるかも、しれないけれど、ごご、語源的なニートの定義からは、やや、逸脱してい、るわけでああ、あってでして……つまり、で、ですね。僕をニートと、定義するかどうかは、恣意的な見方によるもの、であり、確実性の薄弱な……」

 コミュ障特有の一方的な長広舌。会話の基本はキャッチボールだというのに、バッティングマシンのようにポンポンと球を放っても仕方があるまいに。でも、弱りに弱った今の僕には、こんな対応しかできなかった。

 なので、

「……ええ、そうです。ぼ、僕は、たし、たしかに、ニートです」

 認めることにした。

 余計な飾りを外して身軽にはなったが、心には新たな重りが付け加わった。

 もういっそ、僕がどれだけ駄目な男なのかを滔々と語ってやろうか。

 へっへっへ、と自虐的な笑いが漏れる。今が、昼間じゃなくてよかった。子ども連れの多い昼間の公園で、こんな笑い方をしていたら通報されかねない。

 己への蔑みを求めてOLさんを見るが、彼女の瞳には蔑みの色はなく、ただ食い入るように僕を見つめていた。

 女性の身体には合わない男物のコートが、徐々に肩からずり落ちる。

 襟を首元まで引っ張り上げて、

「武井くんはどう思っているの」

「……ど、どういう意味で、しょうか」

「あなたは現状で、ニートのままで、満足しているの」

「まさか!」

 僕はベンチから勢いよく立ち上がった。

 残り火のように、心の奥底で微かに熱をもっていた何かが急激に燃え立った。

「こ、この、このままで、いいわけないじゃ、ないですか。このままで……」

 僕は一から説明しようとして――思いとどまった。

 仮に百万の言葉を費やしたところで、スーツを身に纏うこの女性には一も伝わらないことを瞬時に悟ったからだ。

 彼女にわかるわけがなかった。

 無為な一日が、どうしようもない早さで過ぎることを。食事をする時、娯楽を消費する時に、これは自分のカネではないのだと後ろめたさを覚えることを。社会に居場所がないことによる居たたまれなさに、身体中が痒くなることを。するべきことは理解しているのに、行動に移すことができず、爪を噛んでいるうちに朝が来ることを。そして、「また明日」と呟いて、眠りにつくことを。

 彼女にわかるわけがなかった。

 絶対に流すまいと決めていた涙が、あっけなく頬を伝う。

「僕は……」

 何度も、考えていた。僕をこんなに苦しめるものの正体は一体何なのかと。

 最初は、社会の同調圧力かと思っていた。

 いい学校を出て、いい会社に就職して、結婚して子どもをつくり、幸せな老後を送る。

 社会で漠然と共有されている『普通の人生』が、僕を疎外しているのだと思っていた。

 けど、違った。

 僕を苦しめているのは、僕自身だった。

 何も生産せず、寄生虫のように妹の財布にへばりつく僕を、僕自身が許せなかったのだ。

 人は、究極的には外部からの攻撃ならば耐えられる。しかし、内部からの攻撃にはどう耐えよう? 自分の頬を自分で打つだなんて、狂人の所業でしかない。

 だからこそ、和解せねばならなかった。でも、断罪者はニートである僕を許しやしなかった。

 人はパンのみにて生きるにあらず。十字架に張り付けられた彼はそう言った。全く正しいと思う。人には、衣食住だけでは到底満たすことができない、尊厳みたいなものがあるのだ。そしてその尊厳は、社会に参加し、与えられた役割の中で誠実を尽くすことによって、露の一滴だけをようやく得られる。

 やるべきことはわかっている。わかっては、いるのだ。

「決めたわ。あなたへの借りの返し方」

 迷いを断ち切るような強い声。しかし、その勇健な声音とは対照的に――優しい笑顔がそこにあった。

 不思議な笑みだった。

 たとえるなら、押し入れの中にしまっていたおもちゃ箱から、昔ベッドで眠る前に抱きしめていた人形を見つけたような。

「私は、武井くんのニート脱出の手助けをする」

 提示された回答はあまりに斜め上であった。あまりに斜め上だったものだから、虚を突かれ、「アッ、ハイ」と機械的に首肯してしまった。

「決まりね。それじゃ――」

「いやいややっぱ、やっぱり、ちょ、ちょっと待った!」

 両手を突き出し、ブンブンと振る。

 待て待て待て待て。今、OLさんは何て言った? 僕のニート脱出の手助けをするだって? 勘弁してくれ。有難迷惑どころじゃない。大迷惑だ!

「いいいい、いや、あ、あありがたい、申し出では、ありますが、自分のペースでやりたいといいますか……」

「自分のペースでやった結果が今なんでしょう?」

 ぐっ!

「で、で、でも、僕は、つい最近、ひき、ひきこもりを脱出しました。だから、に、ニート脱出も、近いうちに……」

「今までひきこもっていた人が、とんとん拍子でニートを脱出できるとでも? 小さな成功体験を都合よく解釈しすぎじゃないかしら」

 うぐぐぐっっ!

 くそ……さっきから正論ばっかり言いやがって。ふざけるなよ! 何も言い返せないじゃないか!

「武井くんは自分に甘すぎるのよ。そして多分、まわりの人たちも優しすぎる。今のあなたに必要なのは優しさじゃなくて厳しさよ」

「……す、スパルタ反対」

「あのね、苦しいのも痛いのも嫌、でも変わりたい。そんな贅沢な願い、神さまにだって叶えられやしないわよ。いい? 変わるためには、身を削る覚悟が必要なの」

 身を削る覚悟。そう言った時のOLさんには、社会の荒波にもまれてきた人だけが有する妙な説得力があって、口ごもってしまう。

「武井くんは変わりたいの? それとも、今のままでいたいの?」

 正論の刺し傷による出血多量で死んでしまいそうな僕に、最後通牒が突きつけられる。

 武井ヒロシは本当に変わりたいのか、それとも、ただの皮相な頑張っているアピールなのか。

「本当に変わりたいと思うのなら、この手を握って。強制はしない。決めるのは武井くん自身よ」

 差し出される手。

 それは地獄に垂れ込む救いの糸か、それとも地獄へ引きずり込む災いの糸か。

 この『糸』を、僕は持つべきなのか。

 ……。

 頬に残っているであろう涙の跡を、上着の袖で掻き消す。雑に張り付けられたガーゼも一緒にこすってしまい、ひりつくような痛みが残る。

 けれど、これから進むであろう道には、こんな痛みとは比にならない痛みが待ち受けている。

 ……。

 僕は、ニートだ。

 ひきこもりは卒業できた。

 けれど、ひきこもりとニートとでは、卒業の難易度は全く異なる。

 目の前にそびえ立つ険しい山脈を、たったひとりで登りきれるのか。休むことなく、引き返すことなく、山頂を見上げ、一歩一歩前進できるのか。

 僕は、そんなに強い人間なのか。

 ……。

 成長とは、己の弱さを自覚することから始まる。

 認めよう。

 僕は弱い。それも、とんでもなく。

 身体こそ大人だが、精神的にはまだ赤ん坊だ。そして赤ん坊は、誰かの手を借りなければ、ひとりで立つことすらできず、生きていくこともできない。現に、僕は「ひとりの方がずっとマシさ」とうそぶく一方で、ひとりの力で生きていない。

 ならば、どうするべきか。

 ……。

 後、数時間もすれば、この街は動き出す。大勢の人が、社会の一員として動き出す。その中で、僕はどうするべきか。

 ……。

 頬の痛みは、もう気にならなくなっていた。

「……もう、寝覚めのいい毎日にはウンザリなんです」

 僕は握り締める、眼前に垂れ込む糸を。

 思いのほか小さくて温かい、その糸を。



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第八話

 朝が近づいていた。

 東の空は仄かに白めき、太陽の到着を今か今かと待ちわびていた。その前面には、電線にとまっている鳥たちがいて、まるで楽譜の音符のように連なっていた。まだ目が利かない時間帯なのか、飛び立つ気配はない。

 いつもは窓越しで見ている朝の訪れを、生身の身体で経験している。

 百聞は一見に如かずという言葉があるけれど、見るだけではまだ足りないと知った。五感を以て体験することで、初めて経験となり得るのだ。

 だって同じ朝なのに、抱く感慨が全然違う。

 足音ひとつ聞き漏らすまいとそばだてている耳は、運よく何も拾わない。始発電車には少し早いようで、駅に向かう人もなく、住宅街は未だ静寂を守っていた。

 ――朝焼けを迎えたい。

 そんな衝動に駆られたが、明らかに望みすぎだった。

 後、一時間もすればこの道も人が行き交うようになる。僕は成長したのかもしれないが、それはあくまで閉じた世界の中でだ。

 不特定多数の人々を相手にするのは、まだ恐かった。いつの時代だって、穀潰しは軽蔑される。立ち居振る舞いや雰囲気でニートであることが露見してしまい、数多の双眸で弾劾されれば、僕の細い神経では耐えきれず、容易に発狂してしまうだろう。

 だから、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、自宅を目指す。

 タバコの煙のようになかなか立ち消えない白い息を顔に受けながら足早に歩く。

 タッタッタとペース良くアスファルトを蹴る音。ジャケットにかじかんだ手を突っ込み、ジョギング一歩手前の歩行速度を保つ。

 早い歩調は、何も焦りだけが全てじゃなかった。ぐつぐつと煮えたぎる高揚感が、のんびりしていることを許さなかったのだ。

 この感覚を、なんとたとえればいいのだろうか。新しい学校に転校生として飛び込む感覚? 言葉の通じない海外にひとりで旅行に行く感覚? もしくは、新社会人として新しい職場に臨む感覚?

 わからない。僕にとってはいずれも未知であったし、名付けようのないこの感覚に無理矢理名前をつけたところで、本質を掴めやしないだろう。

 だけど、止まっていた歯車が動き出し、停滞していた世界が音を立てているのは事実だった。

 あの公園での選択が正しかったのかはわからない。

 僕の進む道にOLさんが絶対に必要かというと、おそらくNOだろう。けれど、彼女の持つ厳しさは絶対に活きてくる。彼女が指摘したように、僕の甘ったれた性格がひきこもり生活を増長させた面は少なからずあった。そして、その糖分過多な環境を許してしまう優しい人たちで構成されている世界で暮らしていれば、成長のしようがない。

 しかし、そこに鬼教官を放り込めばどうなるか。

 しつけのなっていない犬を容赦なく鞭で叩く冷徹さに、僕が耐えきれるのかは定かでない。またぞろ、お得意の現実逃避が始まるかもしれない。それどころか、かえってトラウマを増やす結果となり、ニート脱出はおろかひきこもりに逆戻りする危険性だってある。

 だが、それがどうした。

 兵は拙速を尊ぶ、という孫子の言葉は正しい。長い間、あの狭い一室の中で熟慮を重ねてきたが何も変わらなかった。稼働しない機械は錆びて動かなくなるように、無意味な長考は行動の硬直化を招いただけだった。ひきこもり生活が長引いたせいで、唯一機能していた脳味噌にすら蜘蛛の巣が張ってしまい、非行動を是とする思想を積極的に生み出す有様だった。

 だからこそ、あの糸を掴み取った判断は間違っていないと信じたい。

 ポケットから手を出し、苦労の跡がない綺麗な掌を見る。未だに、彼女の熱が残っている気がした。

 そういや女性の手を握るのは小学校の時のフォークダンス以来だったけな、なんて暗黒の思い出をひとつ挟み、これから訪れるであろう彼女との日々を想う。

 OLさんなら、そう……きっとこんな具合にご教示くださるはず。

「さあ、武井くん。まずはあなたの回らない舌を矯正するために発声練習をしましょう。私に続いてこう言うのよ。この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます。ハイ、続いて」

「は、はぁ? そ、そんなこ、こと……言えるわけ、ない、じゃないですか」

「どうして」

 絶対零度の瞳で見下される。

 彼女は表情ひとつ変えないまま、僕の肩を強く押す。支えのない身体は後ろに倒れかけるが、咄嗟に膝を落とすことで転倒を防いだ。

 結果、跪くような姿勢になり、物理的にも見下される構図がつくりだされた。

「どうしてブタが意見するのかしら。今回は特別にブタ語じゃなくて人語を喋らせてあげようとする私の好意が理解できないのかしら。それとも、ブタ並みのオツムしかないから人語そのものが理解できないのかしら」

 ゆっくりと脚を上げ、レコードの針のように高く尖ったハイヒールで、僕の剥き出しの太ももを強く踏む。

「痛っ」

 漏れる声。

 苦痛に変化する僕の表情を楽しむかのように、強弱をつけながら絶妙に圧をかけてくる。

「ほら、言って。さっきの言葉を。それとも忘れちゃった? なら、もう一度言ってあげましょうか」

 あくまで淡々と機械的に述べようとしている言葉に、徐々に嗜虐的な色が織り交ざっていく。

「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます」

「……くっ。なな、何をしたって、ぼ、僕は、いい、言わないぞ。人間には、捨てちゃ、いけない、じ、自尊心というものが……はぅあぁ!」

「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます」

「じぇ、絶対に……言う……あひゃぁぁん!」

「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございます」

「あ……あん……あ、ぼ、ぼくは……」

 絶え間なく与えられる甘く快く感じられる痛みに、人としてのプライドが薄れていく。

 凝りほぐされていく些末な頭で、思う。

 僕は本当に人間なのだろうか、と。

 果たして、部屋にひきこもって食って寝るだけの存在を人間と呼んでいいのだろうか。これでは、食肉センターに送られる前にブクブクと太らされるブタと同じではないか……僕は、人間なのか……それともブタなのか……ニンゲン……ブタ……。

 突如、太ももを通して供給されていた快楽が消え去った。

 驚愕し、愛に飢える子どものように心細げに見上げるが、あるのは能面のような無表情。

「欲しいのなら」

 後は言わなくてもわかるでしょう? そう言わんばかりに、凄惨に口の端を吊り上げる。

 じくじくと痛む太ももをさすり、歯噛みする。

 ……欲しければ、捨てなければならない。ゴミ箱の中へ、廃棄物処理場の中へ、僕自身を。そして人間としてではなく、一匹の醜悪なブタとして生きなければならぬ。だけど、そんなこと……僕には……僕には。

 決断するまでに、さほど時間はかからなかった。

 人と家畜との葛藤の中、僕は叫ぶ。

「この食べて寝るしか取り柄のない生産性皆無のブタめにご高説を賜りありがとうございますぅぅぅぅ!」

「よろしい」

 そうして彼女はやおら鞭を取り出し――って、おいおい混ざってる混ざってる。この前プレイしてたエロゲの内容と混ざってるって。一体、僕は何を妄想しているんだ。確かに、OLさんは女王様的な気質がありそうだけども、そして似合いそうではあるけれども、さすがにそんな調教……じゃなかった教え方はしないはず……しないよな?

 このゲーム脳ならぬエロゲ脳を圧殺したいと思う明け方近くでした。

 ピンク色の妄想が鳴りを潜めるのを待ち、熱っぽい身体を静めるため肺に冷気を取り込む。

 らしくもなく興奮していた。身体だけではなく、心の方まで急いていた。熱せられた魂には、いかなる肉体的な冷却も意味をなさず、単に肺を痛めるだけだった。

 堪らず、走り出した。

 ここ最近は走ってばかりだった。先週も走ったし、数時間前にも走っていた。が、その内容は全く異なっている。今までは逃避ゆえの疾走であったが、現在はゴールに向かっていく直向きな情熱があった。

 悪い気分じゃなかった。いや、ちょっと嘘。やっぱり恐い。比率としては、九割は恐怖。そして残りの一割に、鈍く光る期待が見え隠れしている。

 僕は、人生の転換期にいる。立っているステージが六畳一間の部屋から一段上がり、眼前には無限の世界が広がっている。

 意味もなく、叫びたくなった。

 

 ボロアパートが見えてくると、一気に疲労感と眠気が襲ってきた。眠る時間にはまだ早かったが、思っている以上に消耗していたようで、自然とあくびが出た。

「生活リズムも元に戻さないとなぁ……」

 夜に起きて昼に眠る生活は健全とはいえないだろう。けれど、深夜勤務の仕事に就くのなら、今の方がいいのかもしれない。コンビニの夜勤とか、あまりお客さんが来なさそうだし、脱ニートにはちょうどいい仕事な気がする。

 ……まあ、捕らぬ狸の皮算用か。そもそも、まともに外出できるようになったのだってここ最近の話だし、就労開始時期がいつになるかだなんて予想もつかない。どれだけのレベルアップを重ねれば、アルバイターまで辿り着くのだろうか。

 今にも崩れ落ちそうな錆だらけの階段を静かに登りながら、未来予想図を思い描いてみるが、集中力の切れた頭ではすぐに白紙になってしまう。

 どちらにせよ、今日はもうおしまいだ。イベントは消化した。後は休息を得て、明日から発生するであろう新イベントに備えよう。

 何か一つ、大きな出来事をこなすと、今日はこれで終いだという気がするのは、何も僕だけではないだろう。

 けれど、こんな言葉もある。一難去ってまた一難。災難というのは一度だけで終わらず、連続性を有している。そして不条理な災難は、善人だろうが悪人だろうが、構わず降りかかってくる。

 階段を登り切り、自室へ向かおうと短い角を曲がって――硬直した。

 全身の肌が粟立つ。外気の冷たさにではなく、心因性の恐怖によるものだった。脊髄に直接、冷水を注入されたような感覚に眩暈がした。悲鳴を上げかけるが、臓腑の引きつりにより強制的に中断された。

 二○三号室の前に、誰かが立っていた。

 木肌の荒いドアにもたれかかり、心ここにあらずといった様子で白む空を見上げている。

 どれほどの時間、外で待っていたのだろうか。化粧気のない顔は気の毒になるほど白く、まるであてどなく彷徨う幽鬼のようだった。存在感が希薄化し、周囲の景色に溶け込む姿は一枚の風景画みたいで、危うく見落とすところだった。

 最後の最後にとんでもない爆弾を落とされ、上向いていた感情がオセロのように一気にひっくり返った。

 逃げなければならない。

 本能的にそう思った。

 忘我の状態にあるのか、幸いにも階段の軋む音が聞こえていなかったようで、僕の存在にはまだ気付いていない。

 焦らず、音を立てず、慎重に階段を降りていけ。その後のことは気にするな、街頭に人があふれていようとも、少なくともこの場所より百倍マシだ。

 うまくいくはずだった。

 足音一つ立てまいとスニーカーを脱ぎ靴下姿になったし、姿勢を低くして死角に入る入念さまでみせた。

 が、個人の領域ではどうにもならぬ要素があった。

 地平線と家屋に隠されていた朝日が、ようやく顔を出した。

 残響の如く、微かに付着していた夜の暗闇を追いやる白い光が、あらゆる者を照らし出し、はぐれ者の背に遮られた影が、彼女に向かって伸びていく。

 ――あれほど迎えたいと切望していた朝焼けに裏切られるだなんて、これ以上の皮肉があろうか。

 与えられるはずの陽光が不足していることを訝しみ、血の気のない顔をゆっくりと、遮蔽物の方へ向ける。

 そして、汚れた靴を片手に持った、腰を引いて縮こまる情けのない姿の愚者を、両の眼が見据える。

 その声は小さかった。

 だが、ノイズのない朝の世界では、僕の鼓膜を震わせるのに十分な声量だった。

「兄さん」

 武井涼子が、兄を呼ぶ。



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