ハガル・ヘルツォーク/災華公 (Nox Nostrum)
しおりを挟む
第1話 求道者
"渇望"
それは人が願うということの究極。
人が生きていく上で、抱いたとしてもなんらおかしく無いものであり、同時に決して抱き続けることのないもの。
夢とは違う。
夢はあくまで現実という法則の中で機能するもの。
例え不可能に近いとしても、決して抱いたものを苦しめ、狂気に堕とすものではない。
いや、"渇望"を抱くということ自体が、狂気に身を堕としたという証明そのものだろう。
平和ボケした社会の中で生きる人間は、それ程までの怒りを抱かない。
抱いても、様々な娯楽や時間がそれを薄れさせて、忘れさせる。
闘争や貧困に喘ぐ世界で生きるものは、徹底したリアリストであり、唯の一感情にいつまでも囚われない。
彼らは、生きるため、常に何かを削っている。
そういったことであるならば、彼らは生きることを"渇望"しているのかもしれないが、同時に狂おしい程に現実を見据えている故に、どこか自身の死に対して達観している。
それではダメだ。
"渇望"を抱くことを是とするならば、それ自体に、疑いも、諦めも抱いてはならぬ。
何れにせよ、"渇望"は自身を苦しめる。
絶対に叶わない、叶うはずのないそれは、現実で生きるには重荷でしかない。
狂わんばかりに想っていても、それは現実を生きる人々からすれば、狂人の妄言であり、唯の社会不適合者でしかない。
現実にはあり得ず、然りとて幻想に人は手を伸ばせない。
つまりは唯の苦しみ損と言ってもいい。
愚かもの。
負け犬。
逃避者。
そんなもののために、苦しみ喘いで狂い哭く。
誰がそんなものを望むという。
だが、確かにこの世にはいるのだ。
先天的にしろ、後天的にしろ、そういう異形の魂の形をしたものが。
でなくば、"渇望"などという近く、真に解することを忌避すべき言葉は生まれてはいないだろう。
「人間という存在の"死"を解すること」
それが先天的に魂に歪みを持った、異端なる男──雨生龍之介の"渇望"だ。
なにも初めから彼は自身の歪みを自覚していたわけではなかった。
かつては彼もまた、人並み以上に"死"というものを恐れた。
だからあの頃の彼なら、決して"死"を身近なものにしようとは思わなかっただろう。
だからその片鱗が浮き出たのは、きっとあの疑問を抱いた時からだ。
「なんで世界には"死"が満ち溢れているはずなのに、誰も真に理解できていないのだろう?」
と。
"死"というものを恐れたその頃の彼は、"人間の死"というものが描かれた娯楽作品を求め続けていた。
それはホラーの分野だけでなく、戦争やパニックものなど、さらにはただの冒険活劇にいたるまで。
様々な媒体を通して読み漁り、"人間の死"を理解しようと努めた。
何故そんな方法を取ったのか、あの時は上手く言い表せなかったが、今ならわかる。
それはつまり、虚構というオブラートに包んだ"死"を観察することで、"死"というものの恐怖を矮小化しようとしたのだろう。
"無知"を"智"へと。
"経験"により、"理解"を。
知ることを"誇り"、逆は強い"恐怖"を生む。
特になんでも理屈で理解しようととする現代人は、この傾向が顕著だ。
よって、恐ろしいものは解することで克服され、理性によって征服される。
ならば、"死"は?
龍之介が、おそらは今まで、そしてこれからも人々が熱望するだろうそれは、どうやって克服すればいい?
本当の意味では体験することがでできないそれを、仕方なく人間は、他人の死の観察で本質を想像し、擬似的に体験しようとする。
人命を尊重する文明社会故に虚構依らざるをえないが、古来人々は様々な事象を虚構の中で再現し、我が身で行うにはリスクが大きすぎるものは、そうやって他者を観察し、不安を克服し、解消してきた。
──だから、銀幕やブラウン管は、悲鳴と嘆きと苦悶の涙に満ち溢れている。
だが、それらは決して彼を納得させるには至らなかった。平凡な現実での人生では、決して知り得ないだろう数の"死"と手段達。彼と同じ時代や国に生きる人々の心に訴えかける筈のその描写は、彼の前ではただの贋作でしかなかった。彼の歪みは、そんなものでは満足には至らせない。虚構は軽薄にすぎ、所詮は子供騙しのフェイク止まり。彼の鋭すぎる"死"への感性は、二次元ではない、現実を求めていた。
自由を謳う日本国憲法。
選択を与えるという教育。
されどそれらは決して、彼の求める"死の本質"への探求。人殺しという生き方を許さない。
殺人という罪が彼を縛る。そしていつか彼の首を締めるだろう。
はたまた、電気椅子へと彼を繋ぎ、彼を焼き上げるのかもしれない。
"死"への"恐怖"はまだあった。
もとより、それを克服しようということが動機でもあったのだから。
けれど、それらは克服できる。
現実でそれを犯し、感じればいい。
空気を求めて上げる苦悶の喘ぎ、人の身では耐えられず、焼かれ漂う人肉の匂い。そういった、人一人が"死に至る過程"を徹底的に堪能す る。
この地球上には七十億人以上もの人間が犇いているという。そしてその数値は日々、こうしている間にも何万という単位で上下している。人という生命の連鎖の元生産され、産廃として死んでいくのだ。ならば、龍之介の手による殺人など、一体どれほどの重みがあるだろう。
そして彼の行う殺人がもたらす彼への刺激と経験、その情報量は、彼の疑問に天啓をもたらしてくれるに違いない。
人類普遍の命題の探求への犠牲となるならば、それは確かに価値ある"死"なのではないだ ろうか。少なくとも、ただ生を貪り死んでいくという凡愚な一生よりは。
そして何より、彼はいつからか"死"を解そうとする自分に疑問を抱かなくなっていった。むしろ自分というのはそういうものなのだと、定義していた。
それは"渇望"の自覚。
歴史上の幾たびの争いのなかで二桁の殺しを行なったものなど、幾らでもいただろうが、"死"というものを理解し、普遍の真理としたものは誰もいない。
故に、彼のやり方でそれが達成できるなどという保証はどこにもない。人はそれをただの破壊願望というだろう。だが彼は確信していた。その成就を一片も疑ってはいない。
それは狂信。
不正なる信仰。
例え始まりから失敗したとしても、今の彼は己の行動を悔やみはしない。ましてや、手錠を掛けられ、虜囚となることなどあり得ない。何故ならその時は、自身の首を掻っ切って、刹那の"死"への到達の感 慨をもって"死"に触れようとするだろうから。
魂の歪みこそが彼の運命を決めたのならば、これより先、これから始まる
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
第2話 歓喜の幕開け
「♪
鼻歌交じりに呪文を龍之介は暗唱しながら、刷毛を片手に魔法陣を描いている。何かの儀式めいた奇特な行為ではあったが、行われている場所はそれと反比例している。儀式を行うにしての荘厳さも秘匿性もない‥‥‥いや、確かにそんな場所でこんなことをやっているとは誰も思わないだろうが、ありふれた日常のなかでのその非日常的行為は、強い違和感、チグハグさを感じさせた。詰まる所、彼が描いているのは昨今の日本の一般家庭が住むだろう住宅、そのリビングルームのフローリングである。所詮は雰囲気重視ではあるものの、この儀式に何か強い思い入れがあるわけではない、そんな上での自己満足。彼はこういったもの特有の辛気臭さよりも、フィーリングを大切にした。
そう、だがあくまで雰囲気重視。その上で彼のフィーリングを刺激するというのであれば、当然の如く描く魔法陣の絵の具は
今夜の魔法陣は、ある手記に図解されていた通りに一発で仕上がった。このためだけにこの家の両親と長女を殺害し、血を抜いたというのに、甲斐がない。まあ、それでもいいかと龍之介は独りごちた。人の血も、これから召喚するものの供物となるかもしれない。こう、ワインみたいに飲んでくれるかもしれないじゃないか。
雨生龍之介という男は狂人だ。あるのかどうかさえわからない死の真理とやらを希求するさまは、幻想に手を伸ばすという意味ではオキュルティスムと変わらない。だが、彼は別にオカルトに興味があり、実践者たろうとして魔術師を称す存在ではない。
その存在を信じ、到達を疑わぬという信仰は、そこらのその手の輩とは一線を画す。とはいえ、彼はそういった手合いを馬鹿にしているわけではない。むしろそういった世界の中には自分のように歪みを持つ存在がいるだろうとも思っている。
しかし、彼が今までそういった世界に目を向けなかったのは、単純に彼の求めるものはそんな学術的で体系化された、あるいはさらなる研究によってそうしていくようなものを必要としなかったからだ。
彼の望みは人を殺すことで手に入る。いや、それでしか手に入らない。そして彼は殺す相手の生命力、人生への未練、怒りや執着といった感情を、ありったけ絞り出して堪能する。犠牲者達が見せる末期の様相は、それ自体が彼らの人生の縮図とも言える濃厚で意味深長なものばかりだった。
何の変哲も無い人間が見せる奇態な行動。逆に、変わり種に思えた人間の凡庸極まりない死に方──そういった数多の人間模様を観察した彼は、死に精通し、その裏返したる生についても深く学んだ。殺せば殺すほど、彼は人生への理解を深め、それは彼自身を変えていった。
知るという事、弁えているという事はそれ自体が一種の威厳と風格をもたらす。そういった人間力を、彼は正確に表す語彙を持たなかったが──強いて要約するならば、"COOLである"という表現が全てを語る。
動物でいうなら、いつか見たテレビ番組の豹。優雅な身のこなしと、鮮やかな手口の狩り。親近感さえ覚えるそれは、あらゆる意味で彼の規範となるCOOLな生き物だった。
いや、それだけではやはりわかりづらい。喩えるなら、小洒落たバーやクラブに通うようなもの。そういう遊び場に慣れていないうちは、空気が読めずに浮いてしまうし、愉しみ方もわからない。だが、立ち振る舞いのルールを身に付けるようになっていけば、それだけ店の常連として歓迎され、雰囲気に馴染んでその場の空気を支配できるようになる。それがつまりCOOLな生き様、というものだ。
言うなれば龍之介は、人の生命というスツールの座り心地に慣れ親しんだ、生粋の遊び人だった。そうして彼は新手のカクテルを賞味するような感覚で次々と犠牲者を物色し、その味わいを心ゆくまで堪能した。
実際に比喩でも何でもなく、夜の享楽では、龍之介は誘蛾灯が羽虫を引き寄せるかの如く、異性からの関心を引いた。
洒脱で剽軽、そのくせ何処か謎めいている。そんな居住まいから醸し出される余裕と威厳はまぎれもない魅力となって女達を惑わした。そういう蠱惑の成果を、彼はいつでも酒の肴感覚で愉しんだし、本当に気に入った女の子については、血みどろの肉塊にしてしまうほど深い仲となることもしばしばだった。
夜の街はいつでも彼の狩場で、獲物達は決定的な瞬間まで捕食者である龍之介の脅威に気がつかなかった。
そんな彼は、いつしか豹のイメージを自意識として持ち合わせるようになった。常に衣服の何処かには豹柄をあしらった。ジャケットやパンツ、靴や帽子、それが派手すぎるようなら靴下や下着、ハンカチや手袋の場合もあった。琥珀色のキャッツアイ
さて、では何故自身の指針と在り方を正確に理解し、定義している彼が、今更になって魔術師の真似事などをしているのか。それは暫く前、彼が5年ぶりに彼の実家へと帰省した日が起因となる。
それまで、30人程の人を殺した彼だったが、最近モチベーションが上がらなくなってきていたのだ。処刑や拷問といった様々な手口を持って犠牲者達に死を齎してきた彼だったが、もはやどれからも新鮮で刺激的な死を感じることができなくなってきたのだ。
では、ここでもう自分の求道は終わりなのか?
否、まだまだ足りない。
自分はまだ死を解し切れていない。こんなものではまだ足りないにもほどがある。
そこで彼は原点に帰るという意味で、両親の寝静まった深夜に裏庭にある土蔵に忍び込んだのだ。彼が最初に殺した犠牲者たる実の姉は、家人からも放棄されたその場所に隠匿されていたのだ。
姿形の変わらないそれを見ても、何のインスピレーションさえ湧かない。無駄足と落胆しかけたそのとき──その崩れかけの土蔵のなかで、ある一冊の随分と古び、朽ちかけた古文書を見つけたのだ。
薄い和綴じの、虫喰いだらけその本は、刷物ではなく個人の手記だった。奥付けには慶応二年とある。今から百年以上も昔、幕末期に描かれたことになる。
たまたま学生時代に漢書を齧ったことのある龍之介にとって、その手記を読み解くこと自体には何の苦もなかった。──が、その内容は理解に苦しんだ。細い筆文字で、とりとめもなく書き綴られた──しかし書かれている内容からはそれが真剣に、決して悪ふざけではなく記されていることがわかる書物だった。
書かれていたのは江戸の末期という時代において異端とされた蘭学。その中でもさらに最異端となる西洋オカルト系。文書には
ただの悪ふざけとは言えないだろうそれだったが、龍之介はその信憑性の真偽についてはハナから興味がなかった。既に実家の土蔵から出てきたオカルトの古書というだけで充分COOLでFUNKYである。殺人鬼が新たなインスピレーションを得るには十分な刺激だったのだ。
龍之介は手記に書かれた"霊脈の地"──現代の冬木市に拠点を移し、新たな殺人への準備を始めた。雰囲気作りに重点を置き、極力和綴じの古書の記述を忠実に再現すべく行動する。
まず最初に、夜遊び中の家出娘を深夜の工場で生贄にしてみたところ、これが予想以上に刺激的で面白い。まだ未経験だった儀式殺人というスタイルは、完全に龍之介を虜にした。病みつきになった彼は第二、第三の犯行を矢継ぎ早に繰り返し、平和な地方都市を恐怖のどん底に叩き落とした。
そうして、都合四度目の殺人が今回だ。
「
儀式の工程を終えた彼は、満足気に部屋の片隅に猿轡とロープで縛り上げた少年を振り返る。幼い少年は泣き腫らした目で切り裂かれた両親と姉を凝視し、その死を信じられないもののように見ていた。しかし、そんな静か過ぎる様子は龍之介にとっては宜しくない。彼はこれから悪魔のための贄にする予定なのだ。これからの恐怖に慄いてくれていたほうが、きっと悪魔にとっては美味しそうなのではないか。
「ねー坊や、悪魔って本当にいると思うかい?」
だから龍之介は少年の身に起こるこれからを話してあげることにした。
「新聞や雑誌なんかだとさぁ、俺のことをよく悪魔呼ばわりするんだよねぇ。いや、別にそれは全然かまわないんだけどさぁ。ちょっとおかしくね?とも思うんだよねぇ。俺が殺してきた数の殺人なんて、ダイナマイト一発あればすぐ生産できちゃうしさぁ。そもそも俺のやってる殺し方も、昔なら良くやられてた処刑とか拷問方法であるわけでぇ。そうなると、もし本当に悪魔がいたら失礼な話だよねぇ。なんせ、彼らならもっと人間にはできないようなCOOLな殺しかたができそうじゃん。ほら、魔法とか使ってさぁ」
彼は饒舌に、かつ上機嫌に愛嬌を振りまきながら少年に独白する。普段、本来の彼は喋ることさえ億劫なのだが、とかく血を見ると──そして殺人といった死を身近とする為の、または死に瀕した者の前に立つと、人が変わったように豹変する。それは彼の人生の至上命題に関することなのだから、当然と言えば当然なのだが。
「『チワッス、雨生龍之介は悪魔であります!』なんて、名乗っちゃっていいもんかどうか。だからさぁ、これから確かめようと思うんだけど、ねぇ、もし悪魔サンがお出ましになったらさぁ、もてなしてあげてくれない」
もてなすって何だ?少年は最初、何を言っているのかわからなかった。そもそも悪魔やら何とかなんて、いるわけがない‥‥‥筈だ。そんなことは少年の彼でさえわかる常識なのに。しかし、状況と彼の齢の精神年齢が、もしかしたら本当にいるのではないかと思考させる。いや、もしこんな状況でそれを鼻で笑えるなら、それは大人とか齢とか関係のない次元の話だろう。
とにかく、少年はこの時恐怖に震えた。何がどうなるにせよ、自分は死ぬ。はたまた、より悪い何かが起こるのかはわからないけれど。
両親と姉の上げる恐怖と苦悶の絶叫が、今になって脳裏で響き出す。
狂人の戯言は、彼を一周回って現実に引き戻したのだ。
「何の準備もなく茶飲み話だけってのもマヌケだしねぇ。あぁ、でも悪魔ってどんな風に人を殺すんだろう?というか、食べたりするのかなぁ?」
ケラケラと笑いながら、されどこれで何も起こらなかったら白けるなぁなんて、冷めた思考をしていたその時だった。
それは右手の甲だった。強い劇薬を飲まされたかのような激痛が走った直後に、赤い紋様が表れていた。痺れるようなその余韻が、確かに現実だと認識させる。
「‥‥‥何、だ?これ‥‥‥」
不気味さや、不安といったものより先に、龍之介の伊達男としてのセンスが反応する。三匹の蛇が絡み合ったようなそれは、トライバルタトゥーのようで、なかなかどうして洒落ている。
突然の異変に、もしかするともしかするんじゃないかとワクワクし始めた矢先、更なる怪奇現象が起こる。
風が湧いている。閉め切った屋内ではあり得ない気流は、微風から旋風へと強さを増し、リビングルームで吹き荒れる。描かれた鮮血の魔方陣は燐光を発し、風は、小型の竜巻もかくやというレベルに達し、テレビや花瓶といった調度品ばかりか龍之介さえをも吹き飛ばそうとする。
あからさま過ぎる怪現象は、龍之介が軽蔑するホラー映画のように大げさにすぎたが、現実で起きると笑うに笑えず、あまりの想定外に惚けてしまう。
光る魔方陣の中央で、靄状のものが立ち上がり、その中で小さな稲妻が発生する。現実とはかけ離れすぎたその光景。だが、龍之介は全く怖じることなく、手品に見入る幼子のように心躍らせていた。
未知なるものの幻惑──
かつて"死"というものへと感じた蠱惑。重ねられた屍の上でなお輝きながらも、どこか遠ざかってしまったもの。これはきっとそれと同種のものに違いない。そしてこの先に、きっと自身の見出すべきものがあるに違いないと、運命さえ感じてそれに魅入る──
閃光。そして落雷のような轟音。
高圧電流に灼かれるかの如き衝撃。身を襲ったそれと同時に、彼と繋がる確かな何かを感じ取った。
かつて雨生という一族に伝えられていた異形の力。今や子孫にすら忘れ去られ、されど確かに血で連綿と受け継がれてきた『魔術回路』という神秘の遺産。その眠りは覚め、一気に覚醒する。龍之介に介入した"外なる力"は、たった今彼の中に開通したばかりの経路を循環し、それから再び外部へと流れ出て、異界より招かれたモノへと吸い込まれていく。
──いわば、それは例外中の例外だ。
もとより冬木の聖杯は、それ自身の要求によって七人のサーヴァントを必要とする。資質あるものがサーヴァントを招き、マスターの資格を得るのではない。聖杯が資質ある者を七人まで選抜するののである。
英霊を招き寄せる召喚もまた、根本的には聖杯によるもの。魔術師たちが苦心して儀式を執り行うのも、より確実に、万全を期してサーヴァントとの絆を築くための予防策でしかない。例え稚拙な召喚陣でも、呪文の詠唱がなされなくても、そこに依代としてその身を差し出す覚悟を示した人間さえ居るのなら、聖杯の奇跡は成就する‥‥‥
故に先程言った運命という言葉は、決して誇大な表現ではない。彼の一族の歴史の末に生を受けたものが渇望を持ち、偶然を積み重ねた結果この場にたどり着いた。そして聖杯は彼を認める。これは百年以上もの時を経て、彼の一族の探求が成就への道を再度、歩き出したことを意味するのだ。
聖杯に依らぬ無作為の奇跡。そしてまたこれは、新たな奇跡を呼ぶ。
「応えよ。此方が私の、マスターかね」
その雰囲気、その造形、明らかに人ではない圧倒的な上位の何か。蠢く何かは決して正しい輪郭を持たない。しかし、召喚者とサーヴァントという繋がりが、何とか彼のあり方をとらえさせる。沸騰するほどの悪意。殺意、忿怒、怨嗟。その他ありとあらゆる負と呼ばれる感情が彼を構築している。その有様。彼という呪いは桁が違う。あらゆる人が理不尽と言うであろう人の死を演出し、見聞した彼をして、その怨念の域は有り得ないと言わざるを得ない。その在り方は、発狂してしまいかねない程に冒涜的だ。
陳腐ではあるが、一言彼を表すのであれば‥‥‥そう──
彼は
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
第3話 我に祝福を与え給え
眼前に広がるのは気絶している己のマスターと思わしき男と、陰惨な殺人現場。人間の死骸を見るに、どうやら私の召喚の為の贄とされたらしい。であるならば、縛られて私の威で狂い死んでいる少年も、恐らく同様に贄なのだろうと推測する。
「ふむ、ならば蘇生するのはマスターだけで構うまい。だが‥‥‥」
自身を呼び出したらしき青年は、まだ死んではいない。己の召喚者の格を調べる為に、そして己に対する令呪の無意味さを教える意味であえて、召喚者が自身の本質を覗こうとするのを止めなかったのだが、本来なら死んだ少年同様の状態に陥ってもおかしくはないのだ。だと言うのに、植物状態のようなものとはいえまだ生きている。これは僥倖だ。己がマスターはなかなかに特異な存在になっているらしい。
「面白い。《原型想起》」
対象の記憶を読む魔法を使い、この召喚者がどういった男なのか、と現状について調べる。
「私を召喚するのも頷ける。そして何より、この魂の歪み。渇望。実に私好みだ」
一瞬で龍之介の記憶のみならず、心のありよう。魂の形さえをも読み取ってみせたサーヴァントは、彼を自身の契約者として認めたらしい。
朝日が昇る前に召喚者の拠点へと戻る。それが先決だろうと考え、しかしその前に、
「せっかくの贄だ。受け取るとしようか、龍之介。《上位悪魔召喚/影躍の悪魔》」
三人の遺体の上で魔方陣が展開され、そのまま遺体へと降下する。遺体へと触れた瞬間から魔方陣は刻印され、遺体はまるで生きているかのように直立する。そして、口から黒い何か、タールのような何かが溢れ出し、形を成していく。遺体はそれを吐き出す程に枯れてゆき、全てを何かに捧げてしまったかのように、髪の毛一つ残さず消滅した。
現れたのはのは白い仮面をつけた3体の悪魔だった。蛇に似た、DNAの螺旋構造のような体躯を持ち、その上を機械の外殻が覆っている。体軀から伸びる機械の鋭爪は、六つ。それは敵を殺すと言うよりも、捉え、拘束するためのもだった。地上より浮いたまま器用に臣下の礼を取ったそれらは、それぞれ歓喜,忿怒,悲哀を表した仮面の奥から、どこか機械的な声を出した。
「御命令を。我が君に聖杯を捧げる、その一番槍となる栄をお与えください」
彼への忠義と懇願の言葉に対し、彼は緩やかな微笑を持って返す。
「許す。もとよりそのつもりだ。1ヒはマスターの影へ。万が一の時は守護しろ。2ヒは一先ず遠坂邸,間桐邸を見張れ。何か動きがあればすぐに魔法にて知らせろ。必要であれば、こちらから《隷属する悪魔》を使う。恐らく他のマスターの使い魔もいる筈だ。気づかれるなよ」
「
そう言うと、三体の悪魔は一瞬にして消えた。影の中へと、まるで溶けるように、何の痕跡も、音さえ残さず。
雨生龍之介は夢を見ていた。あまりに真に迫り過ぎるそれを、ただの夢と言っていいのかは分からなかったが。
始まりは真実、どうして何故だという疑問の念を孕んだ怒号だった。
「──ふざけるな!」
何処でもない、この場所でもう一度。彼は、いや彼等は、確かに仲間と呼び、今もそう思い続けている、ある39人を待ち続けていたのだ。
だが、そう思っていたのはただの片恋慕だったのかもしれない。やって来たのは数人。それも最後まで残ってくれたのは一人としていなかった。あと数時間もすれば、この世界は崩壊するというのに。
そう、この世界は今日終わる。虚構の世界の夢は覚める。0と1の海の終わりに、開戦の号砲は要らない。倒れるべき神も、怪物も初めからいないも同じなのだから。
「此処は皆で作り上げたナザリック地下大墳墓だろ!なんでそんな簡単に棄てることが出来る!」
そう叫ぶ彼の目から涙は溢れない。当然だ。彼は人ではない異形。骸骨の姿をした彼の眼窩には、赤黒い光が灯るのみだった。そして何より、この数字でしかない世界では、例え人であったとしても、あらゆる感情は、それが出す声音でしか判断出来ない。故に、叫ぶ骸骨の姿は無機的な雰囲気との乖離を生み出し、チグハグに感じさせた。
しかし俺は、その悲しみと怒りを充分に、そして誰よりも共感することができていた。同じく、この場所を維持し、何よりこの世界、この姿にしか自身を見出せなかったものとして。
「‥‥‥いや、違うか。簡単に棄てたんじゃないよな。現実と空想。どちらを取るかという選択肢を突きつけられただけだよな。仕方がないことだし、誰も裏切ってなんかいない。皆も苦渋の選択だったんだよな‥‥‥」
そう、己に言い聞かせるような呟きを前に、俺は二つの受容と拒絶の念を抱いていた。
それに追従する諦観の念。それは社会人として、遊戯にふける大人として、当然で受け入れるべき現実だった。それぞれに夢があった。家庭があった。そもそも飽きて、此処に夢を見れなくなった奴だって当たり前にいただろう。誰もがそうやって過ぎていく泡沫の自分としてこの場所にいた。自分だってそうやって、振り返る事もなく忘れて今ものうのうと生きていたかも‥‥‥違う!違う!あり得ない。そんな未来は俺には来ない!
そんな、常識を拒絶する深い絶望。楽しかった。楽しかった。楽しかった。そんな冒険の日々。神すら倒した。数倍からなる人間の侵略者どもからこの地を守った事もある。あり得ないような栄光と、勝利を冠したこの地を築き上げた朋友達。決して全員と意気投合していたわけではない。寝首を掻いてやろうかと敵対していた奴も居た。それでも、現実で与えられなかった祝福を、此処で手に入れられた気がしたから。なのにそもそもから、焦がれて焼かれた我等と彼等の想いには、ただの冷や水で判然とする程に、大きすぎる差があったらしい。
俺も、彼も未だ天に手を伸ばして喘き続けているというのに。
いや、やめよう。本当にそう思っているのは彼だけだろう。俺の場合は、その前にエゴイ本音が一つ。此処でなら叶えられる。叶えられたと思っていた、▪️に成りたいという渇望を。その象徴たるこの景観は、足蹴にしてしまえるほどに、安く思われていたのだろうか?
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
第4話 死喰い人
深い、深い夢の底から龍之介は眼を覚ます。そこで初めて、自分が寝ていたことに気づいた。ならば随分長く眠っていたのだろう。長時間の睡眠をした後特有の倦怠感を強く感じる。
そんな、未だはっきりとしない頭の中で、先程見た夢について思案する。いや、あれは夢‥‥‥だったのだろうか?いいや夢なのだろう、それは。いまの今まで寝ていたのだから、状況的にいえば一択だろう。しかしあれは、もう一つの現実と言われても信じてしまいそうなほどに現実味があった。ただ見ていたというのではない。龍之介自身が彼だった。彼の想いは、まるで自分自身がそう思っているかの如く頭に浮かんできたのだ。
というか何で自分はあんなものを見た?そもそも何でそんなに長く寝ていたんだ?さっきまで確かに儀式をして‥‥‥じゃあここは刑務所なのか?訳がわからない。
けど‥‥‥まっいっか。起きれば大体わかるでしょ。
そう、龍之介は思考を打ち切った。ここが刑務所だとしたら、十中八九死刑確定だが、そんなことでは龍之介は微塵も揺るがない。
無残無愧。してきたことへの後悔も、恥もありはしない。顧みることなどそもそもない。そして"死"への"恐怖"は既に超克している。
だから今、龍之介の心を支配しているのは怒りだった。こんなところで、自分の求道が終わるかもしれないということに対する忿怒。自身への、世界への、そしてもしいるとするならば"神様"への、憎悪で満溢れていた。
そしてだからこそ、彼は諦めてなどいない。こんなところでは終わらない。己に満足を与えぬ"神様"の方が間違っているのだと。この男はそう吠えて、足掻き続ける。
そんな想いを胸に秘め、一切を表層には出さず、龍之介はいつものどこかお気楽に、されど何かを秘め誘うような微笑と雰囲気をまとって瞼を開けた。
まず瞼に飛び込んで来たのは、闇だった。それは彼が見慣れたいつもの光景。つまり、彼のアジトだった。
そして、周りを見渡すと‥‥‥明らかにこの場にそぐわない一色が混じっている。何か光源があるわけでもないのに、赤いカーペットが一直線に敷かれているのが見て取れた。そして、その先にはあの儀式に使った、龍之介が描いたのと同じ魔法陣が描かれている。そして、その上には絢爛たる玉座が鎮座していた。本来此処にはありえなかったそれらを前にして、龍之介は少しずつあの時のことを思い出す。
そうだ、確かにあの時あの場所で、何かが起こったのだ。なぜ忘れていたのだろう。あれ程の慄れを。あれ程の
事実、自分は今思い出し始めているではないか。あの"悪魔"の行使した力の片鱗によって。
龍之介はゆっくりと体を起こし、カーペットの上を歩いていく。この先には"悪魔"がいる。それはもはや、龍之介にとって疑いようのない事実だった。だからいつものように、感じる"死の鼓動"にハイテンションで臨むわけにはいかなかった。
死という彼の生きる世界にとっての"非日常"。それを追い求め、見取ってきた彼は知っている。この"
詰まる所、
すくなくともそういった存在で、彼にとっては真実そうなりうる。だから、拝跪し、礼讃しなくてはならない。そして、"悪魔"は臣下の礼を望んでいる。
龍之介が呼び出した。そして"悪魔"は応え、現れた。
本来ならば召喚者が、あの手この手でその"悪魔"を縛り、従わせるのだろう。だが、龍之介にはそんなつもりも手段もない。そんなことは、もはや"悪魔"だってわかっているはずで、されど"悪魔"は玉座にて待ち構えている。
お前が私の元に来い。そして乞え、と。
だから龍之介は、厳かに、最大限の敬意をもって歩を進める。
そして、玉座の前で跪く。
「来たな、龍之介」
龍之介が跪き、一拍の間を置いて玉座に現れた"悪魔"は、妖しくそう声を掛けた。
もはや、名前を知られていることぐらいで龍之介は驚かない。
「面をあげよ。そして立て。椅子は用意した。座るが良い」
龍之介は言われるがままに立ち、後ろを振り返ると、確かに緻密な彫刻が成された椅子が、いつのまにか鎮座していた。
龍之介が座るのを待ってから、"悪魔"はこう切り出した。
「さて、私は此方の記憶を見た。ああ、素晴らしかったよ。故に、此方を私のマスターとして認めよう。そして、此方の"渇望"も理解できるぞ、"死喰い人"よ」
"死喰い人"。
そう呼ばれた龍之介は、思わず笑い出したくなるのを堪えていた。
"死喰い人"。
それは、まさに龍之介にピッタリの名前だ。彼は多くの他者の"死"を糧にして、自分を成長させ続けてきたのだから。自分という求道者を定義するのに相応しいその名を得たことで、歓喜が溢れて笑いとなる。そしてついに‥‥‥
「くくっくくくくく、くははははははは──────!」
外へと決壊する。
「あはははは、ははははは、ふはははははは──────! 」
呼応するかのように、彼の新たな旅路を祝福するかのように、"悪魔"もまた笑いを弾けさせる。
「喜ばしいか?素晴らしかろう!
そうだ、初めからわからなかったのだ。気にも留めなず、振り向きもせず、既知であると烙印を押して通り過ぎた。それでも確かに心の中では燻り続けていた。
「他者を殺し、その"死"を想い、成した自分は確かにそこに存在する、と。果たして本当にそうか?」
足りなかったのだ。それだけでは。まだ自分を確信できない。だって‥‥‥
「だって、人である自分には、致命的な欠陥があるから。そう、"死"がある。その"恐怖"を克服できたとしても、その概念は覆らない。ああ、ならばどうして肯定できようか!」
人でしかない自分には、"死"は必ず迫り続ける。享受するしかない"死"。誰よりも"死"を見取ってきた彼は、その時の呆気なさを知っている。ならば、そんな簡単に消え去ってしまう自分が、どうして自分自身の在り処を断定できる?
"死"を理解するという"渇望"。
直感したそのための道。
果たしてそれは己が確かに考え導いたものなのか?もしかしたら自身の知らない、何かがそうさせているだけではないのか?そもそもこの世界に住む
「人を殺した。たくさん殺した。全て芥へと還してしまった。故にわからぬ。己もまた同じ芥でしかないと知ってしまったから。賢しいが故に見逃せない。幼少から感じてきた違和感。ここはなんだか気持ちが悪いと。符号してみれば、もはや忘れることは不可能だ。故に
"悪魔"は龍之介の心を見通しながら、その心の声に合わせるように言葉を紡ぐ。
きっかけはまだ小学生にもならない頃からだった。何か此処はズれて見えた。けれど直ぐに気のせいだと思ったそれは、成長するにつれて増してゆく。
そして、人を初めて殺した時に決定的となった。その時に孕んだ疑念は己が"渇望"を至上として打ち消した。
そして今、始まりから続いた疑問に解答が成された。
ああ、
己が神は此処にいた。
「すげぇや。すげぇ。すげぇよ!」
思わず敬語さえ忘れて感嘆の声を漏らす。
「さあ、私の手を取れ。しばし、この聖杯戦争を駆けるなら、今は此方がマスターだ。"渇望"の果てを見せてやる」
「最高だよ!神様!なる!なるよ!マスターになる。だから、俺にも神様の"渇望"を見せてくれ!」
龍之介は歓喜の果てに"悪魔"の手を取る。マスターとかいうのはよくわからない。けれど、きっとこの"悪魔"についてゆけば、自分は数多の"死"を貪れるのだろう。そうすれば、"渇望"は成就する。だってこの"悪魔"はそう龍之介に名付けたのだから。だから‥‥‥
「だから、神様の"渇望"を教えてくれよ。俺にも手伝わせてくれ」
この"悪魔"は生きとし生けるものの悪意の塊だ。その行く先には災厄がもたらされるのだろう。
そして、この"悪魔"にも"渇望"があるはずだ。でなくば、この"悪魔"は人間如きの儀式に応じ、魔名まで授ける筈が無い。どこまでも見下しているのだ、この"悪魔"は。その激越なる悪意は人へと向いている。肌で感じる龍之介にはそれがわかる。
どうか俺にも手伝わせてくれ。俺はその災厄の尖兵となりたい。己に光を与えたものよ。その輝きの元での耽美を許して欲しい。
「良かろう。ならば、此方は我が災厄として爪痕を残せ。牙で抉れ。私の"渇望"が知りたくば、我が旗下にて悟るが良い。此方を、我が一匕として名乗ることを許可しよう」
「ああ!ああ!ああ!」
「師よ、最後のサーヴァント──キャスターが現界したようです」
闇の中で、男は師と仰ぐ相手へと声を掛ける。目の前に、いや男の周辺には、彼以外誰もいない。あるのは、骨董品というがふさわしい蓄音機のみ。卓上に載せられたそれは、真鍮製の朝顔を男に向けて傾けている。
「そうか。では、明日にでも始めようか、綺麗。既に我が邸宅の周りには、蝙蝠が群がっている。キャスターも、少なくとも明日には飛び始めるだろう」
かすかに音質が歪んでいれど、洒脱で余裕を含んだ声が返ってくる。男──綺麗は、了承の意を示す。
状況から推察するに、それはきっと"通信装置"なのだろう。その骨董装置は、古式ゆかしい朝顔型の集音部分があるせいで、蓄音機と見紛うが、その下にあるべきターンテーブルと針が無い。代わりに朝顔型の終端にあるのは、針金の弦によって支えられた大粒の宝石である。
曰く、魔術師特有の品。"魔導具"というやつだ。綺麗と会話する男の下にも、きっと同じものがあるのだろう。
二つの装置の宝石は距離を隔てて共振し、朝顔から伝わる空気の振動を相互に交換し合う。そういう仕組みなのだろう。
「私のサーヴァントは最強だ。そして明日、我々が聖杯戦争の開戦を示す。綺麗、それが我らの陣営の勝利を盤石とする。先祖より賜った縁により君という協力者を得、私は私の力と運命によって彼の王を呼び寄せた。ならば私は、これより先の運命を手繰る運命を得たと思う。故に今言おう。‥‥‥勝ったぞ綺麗。この戦い、我々の勝利だ‥‥‥」
目次 感想へのリンク しおりを挟む