デルタ・カラー (百日紅 菫)
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プロローグ
秋葉玲の心情


 渋谷凛が好きだった。

 意志の強そうな瞳、形のいい唇、美しい黒髪。端正な顔立ちから、自分を一切疑わない立ち姿。彼女を構成する全てが好きだった。

 だから、彼女が退屈そうにしている姿を見るのが嫌いだった。

 時折、虚空を見つめて憂う姿は綺麗だったけれど、やはり彼女には毅然としていてほしかった。堂々と胸を張り、時には笑顔を浮かべてほしかった。

 そのためなら、どんな努力も惜しまなかった。

 色んなスポーツをした。多くの本を読んだ。様々な場所へ行った。

 何か一つでも、どれか一つでも彼女の琴線に触れるものがあれば、と。

 「楽しかったよ、ありがとう」

 そう話す彼女は笑顔ではあったけど、心の底から楽しんでいるようでは無くて。

 その姿を見るたびに奮起して、彼女が夢中になれるモノを探した。

 探して、挑戦して、経験して、伝えて。

 何度繰り返しただろうか。

 彼女が諦めていたのは知っていた。彼女が夢中になれるものなど、無いのだと。

 それでも俺が諦めなかったのは、彼女の笑顔を知っていたから。

 僅かでも、心からの笑みを浮かべた彼女の美しさを知っていたから。

 俺は只管に求め続けた。

 「あの、さ。アイドルっての、やってみようと思うんだ」

 だから、彼女から話してくれたことに、彼女以上に喜んだことを良く覚えている。

 たとえそれを見つけたのが自分でなくとも。彼女が夢中になれるのなら。

 それを自分が見つけてあげられなかったと思うと、悔しさが込み上げる。それを見つけてあげた人を、羨ましいと思う気持ちもある。もしかしたら憎悪すらしていたかもしれない。けれど、それ以上に嬉しかった。また彼女の笑顔が見れるから。

 そうして、彼女の為の俺の努力は幕を下ろした。

 

 渋谷凛が好きだった。

 だからこそ、彼女の為に努力した数年を、俺は後悔しない。

 色んなスポーツをした。多くの本を読んだ。様々な場所へ行った。

 どれ一つとして彼女の心には刺さらなかったけど、それでも少しでも彼女の心に残ればいいと思って、俺は多くを経験した。

 どれもこれも、何もかも、彼女の為に。

 色んなスポーツをした。彼女の興味を惹けないとわかると、すぐに別のスポーツを始めた。それまでにやっていたスポーツはすぐに辞めた。

 多くの本を読んだ。彼女の心に響かないとわかると、それ以降は触れもしなかった。

 様々な場所へ行った。彼女が話題を出さなければ、二度と訪れなかった。

 渋谷凛がアイドルになった後、俺は自身を顧みた。

 さあ、彼女は夢中になれる何かを探しに行った。自分は何をしよう、と。

 

 何も、無かった。

  

 スポーツを始めてもすぐに辞められたのは、俺にも興味が無かったから。

 本を読んでも読み返さなかったのは、俺の心にも響かなかったから。

 何処かに行っても二度目が無かったのは、俺自身が話題になるとすら思わなかったから。

 渋谷凛の為に、俺は走り続けた。多くを経験して、切り捨てて、渋谷凛が夢中になれる何かを探して、自分の時間を走りぬけた。

 走り抜けた先に、何も無いとも知らずに。

 きっとそれは、俺が彼女が夢中になれる何かを見つけていたとしても変わらなかった未来だ。

 つまるところ、俺も彼女と同じだったのだ。

 ただ誤魔化していただけだったのだ。

 

 夢中になれる何かが無くて、好きだった彼女が同じだった。

 だから、彼女のそれを見つけてあげたいと思って、それだけに夢中になっていた。

 俺にとっての夢中になれる何かは、渋谷凛が夢中になれる何かを見つけることだった。

 それが叶った俺の心の中は、空っぽだった。

 何をするにも熱意は持てず、どこに行こうにも心は揺れず、誰と会っても楽しめない。

 彼女がアイドルになってから最初の内は、まだ熱は冷めていなかった。彼女の初ライブを見て盛り上がったし、苦しそうに踊るユニットデビューも見届けた。

 それからだ。自分の心が冷めていくのを実感したのは。

 アイドルが身内に渡すライブチケットを、自ら断り始めたのはいつからだっただろう。

 惰性で町を歩き回るようになったのはいつからだっただろう。

 

 そんな時だ。彼女に出会ったのは。

 

 「久しぶり」

 

 白いカーディガンに、巻いた茶髪。着崩した制服は女子高生らしく、アイドルと言われて不思議でない可愛らしさを持っている彼女は、中学の時に病院で出会った北条加蓮、その人だった。

 猫のような愛嬌で近づいてきた彼女は、何が面白いのか、休みの日には常に俺と一緒にいた。

 散歩していればどこからともなくやってきて、並び歩き。学校が同じだったらしく、休み時間のたびに俺の教室にやってきた。毎度毎度、レッスンが疲れるだの、早くデビューしたいだの、適当な相槌をうつ俺に愚痴を漏らす彼女は、その言葉とは裏腹にいつも楽しげだった。

 いつの間にか、俺の隣にいたのは憧れ続けた渋谷凛ではなく、特別親しいとも思っていなかった北条加蓮になっていた。

 そうして、特別なことも無く、日々を無為に浪費していたある日。

 北条加蓮が渋谷凛と神谷奈緒と、トライアドプリムスというユニットでアイドルデビューをした頃。

 渋谷凛と俺の関係が、親しい友人からアイドルとアルバイトという希薄な関係になった頃。

 神谷奈緒を先輩として本当に尊敬し始めた頃。

 唐突に、日常が崩れ去った。

 

 「私と付き合ってみない?」

 

 ほんの少しだけ、心が揺れた。

 

 「私だけに夢中になってよ。凛に夢中になっていたように、私の為だけに時間を使って、私を君の夢中になれる何かにしてよ。絶対に、君を夢中にさせ続けるから」

 

 決して鮮やかとは言えない。

 けれど、投げかけられた言葉に、心が波紋を浮かべたのは確かだ。

 自分の心が、何を求めているのかは分からない。

 彼女の告白が嬉しかったのか、それとも別の誰かにそれを言ってほしかったのか。ただの勘違いか。

 なんだってよかった。

 このつまらない日常から抜け出せるのなら。

 

 心が何を求めているのかは分からなかったけれど、心の底から欲してやまないものがあった。

 憧れた彼女のように。

 

 退屈な日常が、色づいていく。

 

  



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北条加蓮の想い

 秋葉玲。15歳。高校一年生。得意科目は国語と数学、苦手科目は社会と理科。部活には入っていない。成績はそこそこ優秀で、運動もできる。過去の経験からスポーツは得意で、勉強以外の知識にも深い。家族構成は父、母、本人の三人家族で、マンションの一室に住み、学校までは20分ほどかけて徒歩で通っている。通学路には知り合いの親が開いている花屋があるが、最近では見向きもしなくなった。

 それが、秋葉玲の今。

 今日もまた、彼の一日が始まる。

 

 「おはよー」

 マンションのエントランスを出た先で、いつものように待ち構えている少女が片手を上げる。

 「…飽きないね、北条も」

 「お、挨拶も無しとは。唯一の友達に対する態度じゃないね」

 「はいはい、おはようおはよう」

 いつもと同じ白いカーディガンを着た北条加蓮の横を通り過ぎ、学校へと向かう。

 高校に入学してから再会した加蓮と玲は、以来ずっと一緒に登校していた。加蓮の家から学校までの道に玲のマンションがある為、玲の登校時間に合わせていつも玲のマンションの前で待っている。

 「ねーねー、私今日の放課後レッスンなんだよね」

 「おつかれ」

 「毎朝迎えに来てあげてるんだし、レッスン終わったら迎えに来てよ」

 「嫌。神谷先輩と一緒に帰れば?」

 並んで歩く二人は、傍から見れば恋人のように見えなくもない。

 普段の歩行スピードが日本一の東京都に住む人間とは思えない程にゆっくりとした歩調で歩く玲に合わせて、同じくゆっくり歩く加蓮。中学を卒業したばかりで、成長期が遅めの玲は加蓮より少しだけ身長が高い程度。特別、気を遣うことも無く、彼らの歩調は合っていく。

 「奈緒は今日仕事。裏方だけどね」

 「へー。まぁ暇だからいいけど」

 「だよね、知ってた」

 車通りの多い大通りを抜け、決して大きくない土地に多くの人を集められるよう高さのある校舎が、玲と加蓮の通う高校だ。

 「あ、後で数学の教科書借りに行くね」

 「…何限?」

 「3」

 「別にいいけど、北条忘れ物多すぎじゃね」

 「玲が荷物ほとんど学校においてるからね~」

 「重いからね」

 校門を通り過ぎる時も、外履きを履き替える時も、互いの顔を見ずに会話だけを重ねていく。

 

 二人が再会したのは、新入生として入学式を終えた放課後だった。強風が吹いていて、桜の木から花が無くなる勢いで薄桃色が舞う日。

 女子高に通うことになった友人の元に行こうと、新しいクラスメイトに目もくれずに走り出した玲の前に加蓮は現れた。

 「久しぶり」

 溢れ出す喜びをひた隠し、小さく笑う加蓮。対して玲は、苦笑気味に手を上げて、彼女の名前を呼んだ。

 「久しぶり、北条。同じ学校だったんだな。今日はちょっと急いでるから、また」

 いつも会っているような気安さで、加蓮の前を通り過ぎる。

 玲にとって久しぶりに会う友人よりも、ただ一人の少女の方が大事だった。だから、多少の礼儀として言葉を交わし、同じ学校ならまた会うこともあるだろうと、また、と口にした。

 たったそれだけ。

 けれど加蓮にとって、その行動は自分の心を濁らせて、その言葉は舞い散る桜よりも鮮やかに心に刻まれた。

 

 北条加蓮は身体の弱い少女だった。

 義務教育の期間の半分を病院で過ごし、元気な子供のように外で遊びまわることのできない子供だった。

 そうした幼少からの経験は、思春期の少女の心を縛りつけ、精神の成長を止めてしまった。

 自分はどこにも行けない。自分は何も楽しめない。

 そんな思いが加蓮の心を覆い隠し、どこか客観的で理性的という、達観して諦めた主観性を持つのに、そう時間はかからなかった。

 入退院を繰り返し、学校にも馴染めず、当然仲の良い友人など作れる筈も無く、加蓮は孤独になり、彼女の主観性の度合いは強くなっていく。

 そんな時だった。秋葉玲という少年に出会ったのは。

 加蓮とはまるで相いれない真逆の主観性を持つ少年。元気に外を走り回り、スポーツや、知識や、知らない街の景観を、彼は知っていた。たった一つの目標の為に努力を続け、諦めなど知らないかのように、自分は何でもできるのだと知っているかのように、彼は前を向いていた。

 中学1年の秋。偶然にも病院の待合室で出くわした加蓮に対し、玲は興味を載せた瞳を向けて話しかけた。

 「君さ、うちの中学の北条さん?」

 「………」

 何処にも行けず、何も楽しめない自分は、誰かと関わったところですぐに独りになる。

 それを身をもって知っていた加蓮は、玲の言葉に無反応を貫いた。

 けれど玲は、加蓮が聞いているかなどお構いなしに話しかけてくる。

 「あんまり学校に来ない子が、すっごい可愛いって噂は聞いてたんだよね。だから一回会ってみたくてさ。確かに、あいつには劣るかもしれないけど、アイドルみたいに可愛いわ。あ、これ、俺がこないだ一人で行ったトコなんだけど、めっちゃ綺麗じゃない?北条はどっか行ったりしないの?」

 何故か常備しているデジカメに保存された写真を見せつけてくる。そんな玲に鬱陶しさを感じて別の席に移動しようと立ち上がった時、彼が見せつけてきた写真を視界の端に捉えた。

 深緑の森に幾重にも射す日差し。光と影のコントラストは神秘的な幻想風景を作り出し、加蓮の心に何かが染みわたる。

 「……きれい」

 無意識に、口が動いていた。

 ただの写真。掌に乗るサイズの画面に映る、二次元のデータであるはずのそれは、けれど確かに加蓮の心に響いた。

 そのことが嬉しかったのか、玲は次々に今までの軌跡を見せつける。

 湖に反射する富士山。荒々しく揺れる海。白く輝く雪原。賽銭箱の前で祈る恋人に、鳥居の下でポーズを決める浴衣姿の少年たち。

 旅行に行った記念写真と言われればそれまでだが、そのどれもが、加蓮にとっては未知の世界だった。

 いつの間にか玲のデジカメをひったくり、百枚を超える写真を見終わる頃、加蓮の心の中にあった主観性はあまりにも弱くなっていた。

 自分の知らない世界。自分の知らない感情。

 「北条は、どこか行ったりしないのか?何か習ってたりとか」

 そんな弱さが浮き彫りになっていたからか、玲の悪意のない疑問に、加蓮の本音が漏れた。

 「無理、だよ。昔から体が弱くて、どこにも行けない。友達もいない。何も楽しめない。私には、この景色を見ることが出来ないもん…」

 言葉にする。

 それは、自分の心情を吐露することで、自分が自分の気持ちを再認識すること。

 頭で理解していても納得のいかない気持ちを、加蓮は無理やり抑え込む。今までのように。

 けれど、そんなことを知る由もない玲は、思ったことを紡ぐ。出会ったばかりで、事情も経歴も知らず、何に嘆いているかも知らない少女に、ただ思ったことを口にする。

 「昔から体が弱くたって、これからどうなるかは分からないんでしょ?だったら、今の内から諦めるのは早いんじゃない?」

 加蓮のことなど何も知らない玲の言葉。

 「それならもっと楽しいこと考えたほうがいいよ。どこに行きたいとか、何がしたいとか。それを考えてるほうが、きっと心の健康には良い」

 だけど、一枚の写真で揺れた加蓮の心の波紋を、玲の言葉は広げていく。

 劇的な変化じゃない。明確な変化じゃない。

 けれど、玲との出会いは、確実に加蓮の心に変化を与えた。ほんの少しだけ、諦めるのを辞めただけ。

 それだけの事。

 「心の健康って、何それ」

 「保険の先生が言ってた言葉」

 それからおよそ半年。玲は加蓮に今まで撮影してきた写真やその説明、自分がやってきたスポーツ、読んだ本の面白さを話し、加蓮はその話を聞くたびに笑顔になっていく。

 だが、そんな二人の日常は、唐突に終わることになる。

 そもそも、玲が病院に来ていたのは左手首を骨折していたからで、当然完治すれば病院に来る必要はなくなる。

 そして、時期を同じくして、体調を崩した加蓮は短期間だけ入院することになった。

 その時期を境に、玲と加蓮の関係は一時の終わりを迎えた。

 だが、一人の少女の為に奔走し続ける玲と同じように、加蓮も一人の少年のようにと努力を続けた。

 

 普通の人と同じ程には丈夫になった身体に喜びを感じつつも、それ以上に彼と再会できることを心待ちにしていた加蓮は、変わらない玲に安堵しつつも、どこか寂しさを覚えていた。

 話しただけでわかる、自分が玲の中で二番目以下の存在であるということに。

 彼の中に存在する、何よりも優先されるべき少女に、ずっと憧れと嫉妬を抱いていた。

 だからこそ、4月の半ばから5月にかけて全てに興味を失った、過去の自分のようになっていく彼を見て、悲哀と歓喜を抱いた。

 ああ、彼の中の大事なものは無くなってしまったのだと。彼の中にあった順番が無くなったのだと。自分にチャンスが回ってきたと。

 

 「それじゃ、また後でね」

 「おー」

 玲はA組。加蓮はB組。

 隣り合う教室に分かれて入る二人は、いつまでも顔を合わせない。否、玲が加蓮の目を見ようともしない。玲の横顔を、加蓮が見つめるだけ。

 ただそれだけで、加蓮は幸せを感じた。

 好きな相手が、自分を含めた何事にも興味を持たず、今積極的にかかわっているのは自分だけ。

 アイドルとしてデビューするのも遠くない筈。

 彼のおかげで、今の私は順風満帆だ、と。

 

 それがたとえ、彼にとって一番だった少女のおこぼれに預かっていただけだとしても。

 



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渋谷凛の悔恨

 渋谷凛の現在を一言で言えば、順風満帆という言葉で表せる。

 夢中になれるものなど無いと諦めていた15年を覆すように、仲間たちとともに同じ夢を見て、駆けている。

 アイドルのプロデューサーを名乗る不愛想な大男に示されて、アイドルに憧れる島村卯月の笑顔に憧れた。そうして足を踏み入れたアイドルという未知の世界は、今まで触れたことの無い刺激を凛に与えてくれた。

 目指すべきモノになるために辿る道筋が、決して輝かしいものではないこと。

 人の気持ちに寄り添うことが、どれだけ難しいことかを学んだこと。

 仲間との絆が、挫けそうになる心の支えになってくれること。

 どれもこれもが、今までの渋谷凛の心の中には無かったもので、その全てが新鮮だった。

 夢中になれる何かが、まだ明確に描け無いけれど、ぼんやりと心の中に浮かんでくる。

 それだけの事がたまらなく嬉しかった。

 

 だけど、ふとした時に思い出す少年の姿が、凛の心を締め付ける。

 自分と同じような背格好で、いつも楽しそうに近寄ってくる男の子。物心ついたときには傍にいて、小学校高学年になる頃から、本当に多くの事を凛に教えてくれた幼馴染。

 女子でも楽しめるスポーツを始めたから、興味が出たら言ってくれ。

 この作家の本は凛が好きそうだけど、読んでみないか。

 こんな景色が見れる場所に行ってきたけど、そういう場所に興味は無いか。

 正直言って、興味はあるけど、やらなくてもいいならやらないし、読まなくていいのなら読まないし、行かなくてもいいなら行かない。その位の興味しか湧かないものばかりだった。

 けど、自分を考えての行動に悪気を持つことも無く、むしろ好感を抱いていた。

 気づけば隣にいてくれた少年が、自分の為に何かをしてくれることの喜びは、空虚な凛の心をほんの少しだけ満たしてくれる。自分の全てを懸けてまでしたい何かを彼から貰うことは無かったけど、彼の存在と彼の行動が、数少ない凛の喜びでもあった。

 だからこそ、アイドルになると決めた時、真っ先に少年に伝えた。

 それが、今まで彼に甘えてきた自分が通すべき筋だと思ったからだ。

 「それ、ずっと続けていきたいって、凛が思ったの?」

 「続けていくかは分からないけど、でも、うん。私が、やってみたいと思った」

 「そっか…」

 「ごめん。あんなに色々してくれたのに…」

 「何言ってんの。夢中になれるかもしれないものを見つけたんだろ?これ以上嬉しいことなんて無いよ!ライブとかやるんだろ?絶対呼んでくれよな!」

 彼は自分の事のように喜んでくれて、その姿を見て自分も微笑んだ。

 城ヶ崎美嘉のバックダンサーとして初めてステージに立った時、彼は興味の無かったアイドルのライブに来て、楽しかった、凄かったと言ってくれた。

 ニュージェネレーションズとして、本田未央と島村卯月と自分の三人だけでステージに立った時、彼は最初から最後まで見届けてくれて、ぎこちない笑顔だった自分達に大丈夫かと心配してくれた。

 そんな彼に今の自分を見てほしくて、ちょっとしたライブでも彼だけは必ず呼んでいた。

 

 けど、いつからか、彼の笑顔を見る機会が減っていた。それに気づいたのは、夏の暑さが本格的なものになってきた頃だったけど、後から思えばもっと前から彼の笑顔は見ていない気がする。

 ステージから彼の姿が見えなくなったのはいつからだっただろうか。

 ライブに誘っても断られることが増えてきたのはいつからだろうか。

 

 彼の異変に気が付いたのは、一体いつからだっただろうか。

 

 渋谷凛は秋葉玲が好きだった。

 いくら冷め切った心を持っている中学生時代の凛とて、思春期の多感な時期だ。そんな時に、自分の為に頑張ってくれている男子の存在があれば、好意を寄せてもおかしくない。

 だから、玲が話しかけてくれる現状に甘えていたのかもしれない。

 近所に住んでいる幼馴染で、互いに好意を抱いていることは明確で、唯一の親しい異性。玲が怪我をしたときには病院で出会った女の子の話もしていたけど、それも完治してからは無くなっていた。

 

 だからだろう。

 凛が夢中になれる何かを見つけて、玲がそれを失くした時。

 玲の中には自覚があった。

 凛はアイドルとして夢中になれる何かを探して必死だった。

 玲は夢の先に進んでしまっていて、凛は夢の道を進んでいる最中だった。

 ただそれだけの差が、二人の絆に大きな亀裂を入れたのだ。

 

 「今度の日曜にさ、小さいところだけどライブやるんだ。良かったら来ない?」

 「あー、その日は用事あるんだ。ごめん」

 

 「関係者席のチケットなんだけど、玲いるでしょ?」

 「…たまには他の友達にあげてみなよ。俺はほら、何回も行ってるし」

 

 ライブの誘いを断られるうちは、アイドルになったばかりの自分を気遣っているのだと思っていた。

 けれど、シンデレラプロジェクト総員が出演するサマーフェスの合宿前、アイドルとしての自覚が出て、成長した姿を見せたいと思って誘った凛に、玲は見たことも無いような冷め切った表情で言い放った。

 

 「…俺は、いいや」 

 「え、なんで…?」

 「特に理由は無いよ。それじゃ」

 

 その言葉に、凛の心はガラガラと崩れ去った。それでもアイドルとしての責任でサマーフェスは無事にアイドルらしく乗り越えたが、凛の心には確かな傷と疑問が渦巻いていた。

 何故、どうして。

 家に帰ればそのことばかり。帰宅途中にある玲のマンションの前を通っては、立ち止まって見上げるようなことが何日も続いた。

 

 渋谷凛は秋葉玲が好きだ。

 いつまでも一緒にいると思っていたし、玲が自分の事を好きなんだと知ってもいた。

 だからこそ、こんな未来は想像すらしていなかった。

 新しい仲間が増えたことで、昔からいつでも自分の為に動いてくれていた少年が自分の前から消えてしまうなんて。

 けれど今更、夢中になれる何かを掴めそうなアイドルという道を捨てることなんてできない。

 彼が示してくれた道を全て切り捨てて、ようやく見つけた夢なのだ。それを捨ててしまうのは、今の仲間にも、彼にも失礼な行為だと凛は知っている。

 

 だが、玲への義理を通そうとすれば、今の玲との接点が失せていく。

 自覚した恋心を抑制するように、義理と想いが凛と玲の絆を遠ざけていく。

 これまでは玲から凛への一方的で、独善的な想いがあった。

 それを凛は受け入れて、あまつさえ嬉しいと思っていた。

 しかし、ようやくその気持ちに応えようと思った時、既に玲の中ですべてが終わっていた。

 玲の熱は冷めきって、以前とは逆に凛からの一方的な想いに、玲が応えることは無い。

 

 すれ違い、行き違った心は色褪せて、一方の心は風化していく。

 

 何もかもが遅かったと自虐する、見当違いなアイドルを取り残して。



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神谷奈緒と後輩

 「あ、どもっす」

 「おお、秋葉か。こんな時間にどうしたんだ?」

 夏も近づいた6月。太陽が完全に姿を消し、街灯やビルから漏れる室内灯の灯りが町を照らし始めた頃、秋葉玲は巨大なビルの前で人を待っていた。その姿はラフなパーカー姿で、涼し気なハーフパンツに赤いサンダルを履いている。

 近所を散策するような恰好の玲に話しかけてきたのは、ボリュームのあるポニーテールと太めの眉が特徴的な少女、神谷奈緒だった。

 「北条の迎えです。神谷先輩は今日仕事だって聞きましたけど?」

 「裏方で美嘉先輩の撮影の手伝いだったからな、早めに上がれたんだよ。それより、先輩は止めろって言ってるだろ」

 「先輩は先輩っすよ。とりあえず、お疲れ様です」

 「はぁ。まぁいいや、秋葉もお疲れ。加蓮ならもうすぐ来ると思うから」

 「そうですか」

 制服姿の奈緒は、いつもと同じようなシンプルでラフすぎる恰好の玲を見てため息を吐く。

 「にしても、秋葉はもっとオシャレとか気にしたらどうだ?ぶっちゃけ小学生に見えなくも無いぞ」

 「興味ないんで大丈夫です」

 「お前なぁ。素材は良いんだし、仮にもアイドルの卵を迎えに来てんだから、多少は気にした方がいいぞ」

 まるで親戚のようなことを言う奈緒に対し、玲はどこ吹く風。ポケットに手を突っ込んで、ぼうっと空を見上げている。

 誰と会っても、どこにいても、どこか心ここにあらず。それが奈緒の玲に対する第一印象で、今でも変わらない印象だ。

 「アイドルの卵に言われても。つーか、帰らなくていいんですか?」

 「ああ、加蓮もすぐ来るし、一緒に帰ろうかと思って。ダメか?」

 「ダメじゃないですけど、神谷先輩がいるなら俺がいなくても良くないっすかね。北条に怒られると思います?」

 「後でポテト奢らされると思う」

 「ですよね」

 二人並んでビルを囲う塀に寄りかかる。

 ここは美城プロダクション。芸能業界切っての最大手であり、多数のトップアイドルを輩出しているアイドル界の登竜門だ。玲の知り合いである北条加蓮、神谷奈緒はこの事務所でアイドルの卵として努力していて、少し前まで付き合いのあった渋谷凛に至ってはすでにアイドルとしてデビューしている。有名どころで言えば、高垣楓や城ヶ崎美嘉といった元モデルのアイドルや、元アナウンサーの川島瑞樹、幼いながらもその容姿と天然のセンスでお茶の間を沸かす輿水幸子など、多くのアイドルが在籍している。その分セキュリティも高く、不法侵入でもしようものなら即座に警備員に捕まることだろう。

 そんな見た目も警備も城のような事務所の前で、二人は加蓮を待つ。

 「そういや秋葉って色んな所行ってるんだっけ」

 「昔の話っすよ」

 「中学の時って聞いたぞ。写真とか無いのか?」 

 「ありますよ。見ます?」

 そう言って背負っているワンショルダーのボディバッグから一台のミラーレスカメラを取り出す。

 「あるのかよ。見るけど…」

 軽く突っ込みながら、玲が差し出すカメラを手に取って起動し、今まで撮影してきた玲の軌跡を覗いていく。

 森林。海原。雪原。神社。観光客。地元民。

 風景から人物から、様々な被写体が、様々な角度から撮られている。美しく、時に躍動的に、まさしくその一瞬を切り取ったように撮影されていた。

 おぉ、と感嘆を溢す奈緒を余所に、玲は相変わらず空を見上げていた。ビルや街灯の光が強いせいで満点の星空は見えないが、変わらずにある月だけははっきりと見える。そこに情緒を感じている訳ではないが。

 「すごいなこれ。何処で撮ったんだ?」

 「青森、北海道、京都、愛媛、あとは福岡、ですかね」

 「何してんのお前?中学生で日本一周してるとか普通じゃないからな」

 「やろうと思えば何でもできますよ」

 「いやいや、てかお金とかはどうしてたんだ?バイトはできないだろ?」

 「ばあちゃんとじいちゃんが農家なんで、手伝いして小遣い貰ってました。ちゃんと時給でもらってましたよ」

 「子供らしくない子供だな…」

 

 神谷奈緒は、本来大人らしい性格だ。大人しい、ではなく大人らしい。

 周囲の人間関係によって、羞恥に顔を染めたり、大げさなリアクションを取ることも多いが、玲のように大人びているというか、冷めている様な相手に対しては今のような態度をとることもある。

 つまるところ彼女は、人間関係を円滑に回す術に長けていて、それを無意識にできる大人らしい高校生だった。

 だからこそ、やらなくてもいいのなら人と関わることすらしない今の玲とも、ある意味、加蓮よりも親密なコミュニケーションを取れている。

 淡々と紡がれる会話は、内容こそ高校生のものではあるが、その口調と雰囲気が大人の会話に見せているようだ。

 だからこそ、玲は奈緒を先輩と呼び慕う。

 こんな自分とも、円滑で適切なコミュニケーションを取れる奈緒を尊敬しているからだ。自分と似ているからではなく、神谷奈緒という一人の人間として、様々なタイプの人間と対等なコミュニケーションがとれる、自分にはできないことを容易く為す彼女は、先輩と呼ぶに相応しいと判断した。

 

 「…神谷先輩」

 「先輩!?急にどうした今すぐやめろ!」

 「先輩!奈緒が先輩だって、あははは!」

 「笑うな!一応あたしは先輩だ!」

 

 初めて奈緒を先輩と呼び始めた時の奈緒と加蓮の騒ぎようは凄まじかった。

 奈緒を小バカにすることが多い加蓮の爆笑はともかく、奈緒本人も後輩男子から先輩と呼ばれる経験が無かったせいか、羞恥からか違和感からか、ひどい慌てようだった。

 ともかく、それから幾ばくかの日数を経てどうにか慣れた奈緒は、あいさつを交わすように先輩呼びを辞めるように言っているが、玲は聞く耳を持たない。まぁ敬称を改めるというのも難しい話だが。

 

 なんにせよ、玲の軌跡を見終わった奈緒はカメラを玲のバッグに入れてやる。手渡そうかとも考えたが、加蓮を待ち始めて十分弱。そろそろ加蓮も来るだろうし、背中にあるボディバッグを態々前に回すのも手間だろうと思ったからだ。財布とカメラを入れるポーチしか入っていないバッグを開けて、カメラをしまう。

 「あれ、なんで奈緒がいるの?」

 「仕事が終わったからな。一緒に帰ろうと思って」

 「あれあれ、寂しかったの?だったら言ってくれればよかったのに~」

 「違ぇよ!」

 すると、下校したときと同じ制服姿の加蓮が事務所の巨大ビルから出てきた。

 玲と一緒に奈緒がいると思っていなかったのか僅かに驚きつつも、いつものように弄り始める。いつもの光景に態々玲が反応するわけもなく、二人を置いて歩き始める。

 けれど、それで二人が置いてかれるわけもなく、喚きながらも付いてくる。先頭に玲、その後ろに加蓮と奈緒というのが、この三人の割とよくある日常風景だった。

 通っている高校こそ違うものの、事務所からの帰宅ルートは駅まで三人とも一緒であり、やることも無い玲とコンビを組んでいる奈緒が加蓮の我儘に付き合うという、三人の日常。

 中学時代に玲と加蓮が出会っていなければ、玲はこの事務所の近くにすら来なかっただろう。

 

 だから、神谷奈緒は北条加蓮に感謝していた。

 

 アイドルの卵とはいえ、一緒に輝かしいステージに向かって共に努力してくれる相棒であることに。

 友人として、先輩後輩として好意を持てる、大人しくも自分が落ち着いてコミュニケーションを取れる秋葉玲という少年と出会わせてくれたことに。

 まるで姉弟のように。まるで仲の良い部活の後輩のように。

 学校の友人とも違う、事務所で知り合ったプロデューサーやアイドルとも違う、どこか危うく、けれど安心できる少年は、神谷奈緒の憩いの場になってくれるから。

 

 秋葉玲にも、神谷奈緒にも、その自覚は無いけれど、互いに互いを尊敬し、尊重し合える存在であることは、きっと得難い物であるはずだと、二人は知っている。



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1章 マルチプル・トライアングル
夜に愁う


 「それじゃ、またな」

 「お疲れ様です」

 「おつかれ、奈緒。また明日ね」

 駅前で奈緒と別れた玲と加蓮は、並んで大通りを歩いていく。左右に立ち並ぶ店のショーウィンドウを覗く加蓮と、ポケットに手を入れながら歩く玲。朝の光景の焼き増しのようだが、二人の間に会話は無い。元から進んで話すタイプではない玲はともかく、普段おしゃべりな加蓮が黙るともはや沈黙しか生まれなかった。

 そもそも、加蓮が静かになること自体珍しく、普段から一緒にいる奈緒でさえあまり見ない光景だ。

 けれど、好きで一緒にいるわけではないが、奈緒よりも加蓮といる時間が長い玲には、加蓮が静かになる原因を察していた。

 「もうすぐ着くから、帰ったら風呂入って寝なよ」

 「…うん」

 歌とダンスのハードなレッスンによる疲労。いくら普通の人と同じ程に健康になったとはいえ、その普通の人ですらキツいレッスンを行えば、当然疲労が溜まる。そのせいで強烈な睡魔が加蓮を襲っているのだった。

 玲に言われて自覚したのか、重くなってくる瞼に抵抗しつつ、ふらつく足取りで玲を追う。

 しかし、その姿に流石の玲も興味が無いで片付けられないと思ったのか、ポケットに入れていた右手を加蓮に差し出す。

 「ほら、手ぇ繋いでやるから」

 「おぉ、玲がデレた…」

 「置いてくぞ」

 「わー!繋ぐ繋ぐ、繋ぎます!」

 眠気をそのままに差し出された右手に飛びつく加蓮。自分の左手を腕ごと絡ませて、玲に寄りかかるように歩いていく。

 「…ありがとね」

 「そう思うなら、もうちょい限界を知ってくれ。体を動かすのが嬉しいのはわかるから」

 「うん…」

 満足に運動できなかった中学時代の加蓮を知っている玲としては、その喜びこそ理解できるが、それで今倒れてしまっては元も子もないだろうと思う。自分が暇だとは言え、態々世話をする義理も無いので面倒くさいと思う気持ちが無いわけでもないが。

 ともかく、玲のマンションよりも駅から近い加蓮の家に着くと、どうにか玄関に加蓮を置いて、ようやく自分の帰路に就く。ちなみに、中学時代から付き合いがある為、加蓮の両親とも顔見知りである玲は、加蓮を迎えに行って送り届けるたびに晩御飯に誘われていたりする。

 

 閑話休題。

 

 一人になった玲が自宅マンションの前まで辿り着くと、エントランスの前に一人の少女が立っていた。

 長い黒髪に黒いカーディガン、都内の女子高の制服を着たその少女はふいに振り返り、玲と目が合った。

 片や驚きと喜びと悲しみが複雑に絡み合った大きな瞳。

 片や死んだような薄く開かれた瞳。

 間違っても旧友と再会した様子でない光景だが、少なくとも少女、渋谷凛にとっては嬉しい偶然だった。

 帰宅ルートから少し外れて、若干の遠回りになるこのマンション前の道を通っては、どうにか玲と会えないかと考えていた。

 中学時代にはほとんど一緒にいた相手だが、会いに来るのはいつも玲。凛は玲の住んでいるマンションまでは知っていたが、その部屋までは知らなかった。

 だからこそ、今目の前に玲が現れたことに、僅かながらの期待を抱いていた。

 「あ、えっと、久しぶり、だね」

 「ああ、久しぶり」

 常に堂々としている凛にしては珍しく動揺していて、この姿を凛と同じユニットの本田未央が見ればオーバーに驚いてくれるだろう。

 「どこか行ってたの?」

 「あー、同級生?と先輩と会ってた。渋谷こそ、仕事忙しいんじゃないの?」

 「わ、私は今日レッスンだけだったから。あ、それで、その、今度美城の事務所がサマーライブやるんだ。私達も出るから友達も来るんだけど、良かったら来ない?」

 そう言ってスクールバッグの中から一枚のチケットを取り出す。

 それは、美城事務所の関係者が知人にのみ渡せるチケットで、関係者席で多数のアイドルが出演する大型ライブを観ることができる、ファンならば垂涎もののチケットだ。

 

 だが、玲にとってはただの紙切れ同然だった。

 「…俺は、いいや」

 凛が差し出したチケットに目もくれず、人気アイドルになりつつある渋谷凛からの誘いを断る。

 大して仲の良くない友人からの誘いを断るように、あまりにも無慈悲に、凛に一切の希望を与えないかのように、ばっさりと切り捨てる。

 例えアイドルに興味の無い人間でも、アイドル本人からライブに誘われれば多少なりとも行くかどうか悩むだろう。それが普通の人で、普通の反応だ。その上、中学時代に仲の良かった旧友ならば尚更。

 しかし玲は、悩む素振りを見せることなく、即座に誘いを断る。

 それは、何度も渋谷凛のライブに足を運んだことがあるからでもあり、玲にとって経験したことは何一つ夢中になれないと知っているからでもある。

 

 経験すること。それを知ること。

 それは夢中になれる何かを知る一歩目で、夢中になれない何かを知る一歩目だ。

 だから。

 「え、なんで…?」

 凛の問いに、玲は応えることができなかった。

 それもそうだ。

 「特に理由は無いよ。それじゃ」

 なんで。

 何でもないから。

 ただ、それだけの事だった。

 玲の問題は玲だけのもので、いくら過去に関わった凛であっても立ち入ることはできない。

 

 呆然と固まる凛の脇を、「またね」と言って通り過ぎる。

 マンションのエントランスに入ると、持っている鍵でエントランスホールの自動ドアを開錠し、非常階段を使って自宅である5階まで上っていく。二台のエレベーターがあるにもかかわらず、5階まで態々非常階段で上る人間は少なく、一人悠々と空の見える階段を上っていく。

 黒い空を見上げながら器用に階段を上る玲は、先ほどの出来事を思い出す。

 「俺はいいや、か」

 凛の誘いをすぐに断った自分。その姿は中学時代の凛のようで、脳裏に浮かべた過去の姿が重なって、思わず自嘲する。

 昔の自分は、無理やり凛に付き合わせていたのに、と。

 断ることすら許さないような勢いで迫り、好きでもない所に連れまわし、見る必要も無い光景を見せ、挙句に凛の為になるようなことなど一つも無かった。

 無意味どころか時間を無駄に浪費させるという、無駄という言葉では言い表せない程のマイナスを凛に与えた自分が、その凛からの誘いを断るとは。

 「…ふざけてんな」

 その言葉は、夜空の暗闇に溶けて消えた。

 

 息切れすることも無く自室にたどり着いた玲はオートロックの扉を開けて、部屋に入る。光源は一つもなく、外よりも暗い部屋の中を何かにぶつかることも無く歩き、数十歩歩いた先で暗闇の中でも存在感を放つ黒い塊に手をかける。

 がこ、と開けたそれは冷蔵庫で、中から2リットルのペットボトルを取り出し、両親から与えられた小さな自室に入る。ベッドとクローゼット、シンプルな机の上にノートパソコン、小さな本棚しかない四角い部屋が玲の城。玲だけの世界だった。

 ボディバッグの中から財布とカメラを取り出して机の上に置いた玲は、ペットボトルに直接口をつけて冷たい水をがぶ飲みする。

 「…っはぁ」

 椅子に座り、小さな窓から見える景色は昔から変わらず、けれど玲にとっては新鮮なものだった。

 「昔は、近い物に眼がいかなかったからなぁ」

 昔から凛の為だけに走り回っていた玲は、自分の近くにある、自分だけに見える景色を知らなかった。

 理由は単純で、見る必要が無かったから。

 だが、心の内の全てが消えた今になって見える、今にも手が届きそうな景色は綺麗と言えるもので、それを知ったのはつい最近だ。

 凛が夢を見つけて。玲が凛から離れて。加蓮が玲の近くに常にいるようになった。

 秋葉玲は、秋葉玲の事をようやく見始めて。

 渋谷凛は、秋葉玲から目を放して。

 北条加蓮は、秋葉玲だけを見ていた。

 だから、玲は自分の事をよく知らない。むしろ、加蓮の方が玲の事を知っている。そして、凛は玲の事を何も知らなかった。

 

 

 誰かのために。そんな小綺麗な言葉の先にあるものが、こんなにも自分を苛む虚無であることを知っていたら、玲は凛の為に動いていただろうか。

 

 

 



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軌跡の記録

 いつもと同じパーカーにハーフパンツ、赤いサンダルは同じ色のスニーカーに替えて、玲は始発の電車に乗り込んでいた。土曜日の始発は人が少なく、端の席に陣取った玲はバッグからカメラを取り出す。

 手に取ったそれは中学生の時に初めて買ったカメラだった。祖父母の農業の手伝いをして、貰った小遣いでより遠くへ移動できるようになった玲が、凛に旅先の景色を見せたいと思って買ったカメラ。その役目はすぐに変わってしまったが、それでも3年以上も玲はこのカメラで自分の見た景色を撮り続けてきた。

 別に写真を撮ることが好きだったわけじゃない。ただ、なんとなく、自分が見た景色を、自分が歩いてきた道のりを形にしておきたかった。

 凛に見せたものを確認するため。それもある。

 だけど、いつからかその写真たちは、玲の軌跡になっていた。自分の足跡を知り、何にも夢中になれない自分を唯一証明してくれるものでもある。

 何処かの場所へ。何かの経験を。いつかの出会いを。

 自分が何をしてきたか。

 今は何もなくても、過去に自分がしてきた多くの経験を、その写真たちは教えてくれる。

 自分の軌跡を唯一信じることができるモノ。

 それが、自分が働いて得た金で初めて買った、このカメラだった。

 

 そのカメラを持ってどこに行くのかと言えば、玲にも分からなかった。

 何もない休日に玲は、ふらりと放浪する癖がある。

 今日もそんな放浪癖が出たために、電車に揺られて北へ向かうことにした。目的地は無い。

 両親や誰かに何を言うでもなく家を出て、疲れた表情のサラリーマンを遠めに見ながら出発したばかりの電車内から流れていく風景を見ていると、隣の車両から誰かが歩いてくる。

 「…なんでいるんだよ」

 横目でその人物を確認すると、ため息を吐く。

 いつもは二つ結びにして巻いた髪を、今日は下ろしている。動きやすく、かつ可愛らしさを重視した白いホットパンツに水色のシャツ。赤いショルダーバッグを肩に掛けたその人物は、空いている席に目もくれず玲の隣に腰を下ろした。

 「玲の事ならなんでも知ってるからね。てゆーか、朝早すぎじゃない?めちゃめちゃ眠いんだけど」

 「だったら来るなよ…え、なんで俺が責められてるの?」

 「乗り換えの時に起こしてよね、まったく」

 そう言って、眼を閉じた加蓮は玲の肩に頭を置いた。玲から見れば何故付いてきたのかも、そもそも自分が出かけることを何故知っていたのかも分からない加蓮が、勝手に膨れて自分の肩で眠るという訳が分からない状況だ。

 だが、そんな玲の困惑とは裏腹に、加蓮の内心は舞い上がっていた。

 玲が出かけるのは昨夜の様子から察していた。疲れていた自分を送り届けてくれた後、去り際の玲の表情を見てどこかに出かけると考え、今までの玲から早朝の始発の電車に乗ることまでは容易に想像できた。

 だから、加蓮が玲の傍にいること自体は、加蓮にとっては当然の事だった。

 

 加蓮が舞い上がっているのは、ほとんど二人きりで玲にくっつき、恋人のように玲の肩で眠れるという現状ゆえだ。

 その姿は仲睦まじい恋人そのもので、玲の感触や匂い、体温を直に感じ、その上、今日一日想い人とデートができると思うと、それで舞い上がらない恋する乙女がこの世にいるだろうか。いや、いない。加蓮は内心で断言する。

 疲れて眠る直前に、始発のこの電車に間に合うようアラームをセットした昨夜の自分をほめてやりたいくらいだ。

 眼を閉じても玲の存在を感じることに夢中になっている加蓮は、一向に眠る気配がない。だが玲はそれに気づかず、自分が写らないようにカメラの角度に注意しながら加蓮が寝ている姿を撮影する。

 何気ない日常の一コマ。それだって今の玲にとっては大切にしなければならないものだ。

 悲しいかな、その日常にいるのが加蓮で無かったとしても。

 

 電車に揺られること数十分。

 乗車中にスマホで調べて、帰りの時間なんかを考慮した結果、新潟に行くことにした。新幹線に乗るだけの金は持っているし、最悪加蓮に奢るだけの金もギリギリある。

 「北条、降りるよ」

 「…んぅ?」

 玲を堪能していた加蓮はいつの間にか寝落ちしていた。ゆっくりと瞼を開け、先に降りようとしている玲を慌てて追いかける。

 「ねぇ、結局どこに行くことにしたの?」

 「新潟。まだ行ったことないし」

 「ふーん。私も行ったことないし、お互い初めて、だね…」

 「妙な言い方しないでくれる?」

 最寄り駅と違って人の多い駅構内を並び歩き、新幹線の当日券を購入する。

 玲の行動を玲以上に把握している加蓮も、それなりの金額を持ってきているようで、互いに一枚ずつの購入となった。それを持ってホームへと移動し、到着していた新幹線に乗り込む。

 「手慣れてるね」 

 「慣れてるからな。それより、今日仕事は?」

 「休みだよ。だから昨日もレッスンに夢中になっちゃったんだけど。本当は今日休むつもりだったのにさぁ」

 「じゃあ休めよ。ほんと、なんで付いてきたの?」

 その問に、加蓮は口から出かかった言葉を飲み込む。 

 

 そんなの、玲がいるからに決まってる。今まで一緒に見られなかった、一緒に経験できなかった、玲の一番だった知らない誰かのための光景を、誰よりも先に、玲と一緒に見るために、加蓮はいつでも玲と一緒にいたいと思っている。

 

 その言葉を喉奥に押し込み、それらしい言葉を口にする。

 「なんでって、旅行ってやっぱ楽しいし。それに、昔は行けなかった場所に行けるのは嬉しいからね」

 「……そうか」

 加蓮の過去を知っている玲としては、その言葉を聞く前に察しなければいけなかったかと、内心反省する。

 そのまま口を噤み、話を終わらせた玲はカメラを構えた。窓際に座る加蓮にレンズを向け、声をかける。

 「北条」

 「ん、なに?」

 「いいから、こっち向け」

 玲の言うことに従った加蓮を、玲は撮影する。流石に新幹線の車内でフラッシュは使わず、けれどシャッター音が小さく響く。

 「え、何々、撮ってくれるの?」

 「記念にな」

 「っ!」

 玲のカメラは、出会った時から変わらない。

 あの変化し続けていた頃から唯一変化しなかった、玲を記録し続けたものだ。その記録の中に自分が入ることが、どれだけ加蓮の心に響いたか。

 あまりの喜びに、綻び、緩んだ顔を見られないように顔を背ける様子を見れば、どれほどのものか察しが付く。

 どれだけ力を入れてもにやける頬を手で押さえ、胸の内が熱くなるのを感じる。

 「北条?」

 「…ちょっと待って」

 「別にいいけど…」

 結局、乗車中に加蓮の頬のゆるみが治ることは無く、写真は目的地に着いてからということになった。

 当然、加蓮が悶えている間、窓の外を見ることもままならない玲は暇になり、襲ってきた眠気に身を任せて目を閉じた。

 その結果、揺れたはずみに加蓮の肩に頭を落としたことにより加蓮がさらに悶え、乗車中はアイドルどころか女子として見せてはいけない表情になっていたことは本人を除き、誰も知ってはいけないのだった。

 

 兎にも角にも、目的地にたどり着いた二人は、巨大な駅をいつものように並んで歩く。臆さずに歩く二人はまるで地元を歩くような気軽さで歩いていく。

 その姿の理由は違うものだが。

 玲にとって、行ったことの無い場所などいつもの事だ。いつも行っていることに臆するほど、玲の肝は小さくない。

 加蓮は玲がいる場所なら、玲さえいれば、何かに臆する必要を感じない。何故なら、玲と同じものを感じるために動いているのだ。何かに臆する余裕など、加蓮の心には存在しない。

 

 だから、二人は堂々と歩みを進める。

 思う心は違うけれど、二人はまだ見ぬ光景を探しに行く。

 玲は自分の心を求めて。

 加蓮は玲との思い出を求めて。

 二人の短い放浪の一日が始まる。



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放浪の意味

 駅を出た二人は地図を見ることも無く進んでいく。

 「どこ行くの?」

 「とりあえず海かな。日本海って綺麗らしいし」

 「へー。駅から近いの?」

 「さぁ」

 「さぁ、って」

 駅前から続く大通りを、カメラを首から下げて歩く。隣を歩く加蓮は、なるべく玲と距離を開けないようにしながら、初めて訪れる土地とその風景に目を輝かせていた。

 駅前ということもあって大きいショッピングセンターやビルも少なからずあるが、東京と違って空が広い。広々とした空と、そのおかげか澄んだ空気が加蓮の頭と体にインプットされていく。

 家族旅行も、修学旅行も行ったことが無かった加蓮にとって、自分の知らない世界を知る為には玲が必要だった。写真と玲の体験を聞くことだけが、知らない世界を知る唯一の手段だった。

 だからこそ、こうして実際に知らない土地で、知らないものを見て、初めての空気を知ることの喜びは一入だった。

 「なんか、凄いね…!」

 「…まぁ、東京じゃ味わえないよな」

 目を輝かせる加蓮に、態々その喜びを削ぐようなことを言わずに合わせる玲。正直なところ、玲にとっては凄いと思える要素は欠片もないが、だからと言って同行者の気分を下げるようなことは言わない。玲の優しさの表れだ。

 「あ、あれ食べようよ!」

 そう言って加蓮が指したのは、商店街にあるような揚げ物屋だった。加蓮が駆け寄り、その後ろを玲がついていく。

 その店の前に行ってみれば、店主は50代くらいの鉢巻きを巻いた男性だった。いかにも頑固親父といった風貌の店主に、加蓮は笑顔で声をかける。

 「おじさん、オススメって何かある?」

 「オススメっつったらコロッケだな。うちのコロッケは芋と肉に拘ってるから、他の店にゃあ負けねぇぞ」

 「へー!他にはないの?」

 「お、だったらこのメンチとかはどうだ?良い挽肉使ってるぜ。というか、見ない顔だな。嬢ちゃん観光客か?」

 「うん。東京から来たんだ」

 「ほー?東京と比べて、こっちの空気は美味ぇだろ」

 「うん!息苦しくないというか、澄んでる感じがする」

 「そうだろそうだろ。そんで、どうする?両方買うならサービスするぜ?」

 「そうだなぁ」

 二人の怒濤の掛け合いに、ようやく玲が到着する。相変わらずの無表情だが、その手にはカメラを構えていた。

 無言でカメラを構えると、楽し気に離している加蓮と店主をレンズに収め、シャッターを切る。

 「玲、どっちが食べたい?」 

 「どっちでもいいよ。北条が好きな方買えば?」

 「んー、どっちも美味しそうなんだよね」

 「そんじゃあ、二つとも買って、二人で分けりゃあいいんじゃねぇのか?そっちの彼氏さんよ、どうだ?」

 「か、彼氏!?」

 話を振られた玲ではなく、加蓮が大げさに反応する。ぼっ、と一気に顔が赤く染まり、ようやく収まった顔の緩みが再発しそうになるのをぐっとこらえる。

 それを一瞥もせず、玲が店主に話しかける。

 「そんじゃあコロッケとメンチを一つずつ。あと、彼氏じゃないんで」

 「そうなんか?まぁとりあえず、ほれ」

 「あざっす」

 紙に包んだコロッケとメンチを玲に渡し、片方を加蓮に手渡す。その加蓮がやや落ち込んだ表情をしているのに気づくも、気にしないことにした。それに触れて欲しいような、そうでもないような、複雑な雰囲気を悟ったからだった。

 メンチを一口齧り、美味ぇと呟く玲と、どこか複雑な表情でコロッケを齧り、その美味しさに頬を綻ばせる加蓮を見て、店主は満足そうにうなずく。

 半分ほど食べたメンチを加蓮に押し付けた玲は、カメラを手に取って店主に向ける。

 「あの、写真撮っていいすか?」

 「ああ?別にいいけど、こんなオヤジ撮って楽しいか?」

 「まぁ、思い出なんで、なんでも撮るようにしてるんです」

 「ほー?んじゃ、カッコよく撮ってくれよ?」

 言われなくても。

 言葉を発することも無くカメラを構え、店の外観ごと写るように数歩下がる。

 そして、シャッターを切った。

 

 店を後にした二人は、店主から聞いた海までの道をゆっくりと歩いていく。

 玲は時折街並みを撮影しながら。加蓮はと言えば、未だに玲の食べかけのメンチを持っていた。

 「あのさ、早く食ったら?」

 「だってさー…」

 「なんだよ。間接キス位気にする年じゃねぇだろ」

 「ばっ!なんでそういう事言うの!?気にしてないけど言われたら気になるじゃん!」

 「早く食わないからだろ。俺が食ってやろうか?」

 「だ、ダメ!」

 玲が軽く手を伸ばすと、今までの様子が嘘だったかのように、勢いよく食べ掛けのメンチを口に含む。もごもごと口を動かし、顔を赤くしながら玲を睨む。

 それを見た玲は止めた足を再び進める。

 大きな川を渡り、住宅街を抜け、すれ違う人々を撮影しながら、ようやく潮の香を鼻が捉えた。

 歩いて1時間半ほど。

 目の前に広がる透き通るような海。遠くに見える水平線。その先にはきっと、大きな大陸があるのだろう。

 けれど、見えないその世界よりも、今見える美しい光景を、加蓮はその瞳に映していた。

 

 想い人と初めて一緒に見たこの景色が、二人の思い出になってくれと。

 

 並び立って海を見つめていた加蓮は、前かがみになって玲の顔を覗き見る。

 空っぽの彼は、この素晴らしい光景を見てどう思うのだろう、と。

 何も感じないのか。私と見た、と思い出に残してくれるのか。ただ、彼の軌跡にそっと足跡を残すだけなのか。

 願いが叶うのなら、私と二人だけの思い出として、彼の心に刻んでくれと。そう願いながら。

 

 けれど、やはり心のどこかでそんなことは無いのだろうと確信していた。

 彼の心がこんなことで満足するのなら、加蓮と玲は一緒にいない。

 

 「…?」

 

 だからこそ玲の表情を見て、加蓮は困惑した。

 下から覗き見た玲の表情は、今まで見たことが無いものだった。

 いつもは死んだような濁った瞳が、綺麗な海を反射するように透き通り、目の前に広がる光景を目に焼き付けているよう。手に持ったカメラで撮影するのを忘れたように、呆然と立っていた。

 「玲…?」

 加蓮の呟きに反応すらせず、けれど確実に、今まで加蓮が見てきた玲からは想像もつかない雰囲気を纏っていた。

 

 楽し気に経験を語る玲を見てきた。

 熱が冷めて、その瞳にはこの世界が白黒に映っているようにさえ思える玲を見てきた。

 目的も無く放浪し、夢中になれるものを探し、諦めている玲を見てきた。

 

 だから、美しい光景に呑まれて、感動で動けなくなっている玲を見たことが無かった。

 加蓮のことなど気にも留めず、ただ目の前の光景だけが自分を構成する全てであるかのように、ただただ立ち尽くしている。

 自分の知らない秋葉玲。知ることができなかった玲。そしてきっと、以前玲の中にいた、誰よりも、何よりも優先されていた、一番だった誰かでさえ知らないだろう、秋葉玲の姿。

 

 ああ、一緒に来てよかった。

 二人で来たことがたとえ玲の中に残らなかったとしても、誰も知らない秋葉玲を知ることができた。 

 この瞬間だけは、私と玲は同じものを共有していると、そう思えたから。

 

 加蓮は玲だけを想い、玲と同じものを共有していることに喜んでいた。

 けれど玲は、自分の事だけを考えていた。

 それもそのはず。そもそも玲の放浪癖は自分探しと同義であり、今日だって加蓮が付いてくること自体イレギュラーだったのだ。目の前の景色を見て、誰かの事を思う余裕など、玲の中には無い。

 いつまでも夢中で居続けることはできないけど、こうして一瞬だけの感動で自分の心をほんの少しでも満たせることができる。その事に喜びを感じることができる。

 たったそれだけのことに、自分はまだ捨てたものじゃないと思えるから。

 

 少しだけ潤んだ瞳に美しい海原を映しながら、玲は思う。

 この光景が。

 この一瞬だけの想いが。

 いつか自分の為になってくれ、と。



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初夏の経験

 「……あ」

 海岸に立って数分。

 ようやく我に返った玲が声を上げた。潤んだ瞳を手の甲で軽く拭って、その手でカメラを持つ。

 「北条、波打ち際で撮ってあげる」

 日の光で輝く海を指して、加蓮と向き合う。キラキラと光る海が背景なら、まだ卵とはいえアイドルである加蓮を撮る為の背景としては十分だろう。

 砂浜に足を踏み入れた玲の後を、目を丸くした加蓮が追いかける。

 「ね、ねえ、もう大丈夫なの?」

 「何が?」

 「いや、ずっとぼうっとしてたからさ」

 「ああ、それはいつもの事だから。それより、撮らなくていいのか?」

 「……撮るよ。撮って!」

 先に砂浜へと足を踏み入れる玲に続いて、加蓮が小走りで追いかける。

 

 加蓮が一瞬押し黙ったのは、加蓮が初めて見た玲の姿を、玲自身がいつものことと何でもないことのように言ったからだ。自分の特別は、玲の特別じゃない。

 それならば、玲の特別がいつものことになる前に。玲のいつもの事が、特別だった頃に。

 玲と二人で、その特別を共有したかった。

 そんなことを考えて。これからそんなことができればいいと思った。

 今までチャンスを無駄にしていたという思いと、これからは自分にだけチャンスがあるという希望。

 その一歩目として、今この瞬間をチャンスに変えようと、加蓮は思考を巡らせたのだった。

 

 小走りのまま玲を追い抜き、途中で持っていたバッグを投げ捨て、履いていたサンダルを脱ぎ、波打ち際で立ち止まる。

 裸足で海に向かって立つ加蓮は毅然としていて、水面の輝きが加蓮の髪を美しく照らしていた。

 直後、波紋の輝きで照らされた髪が弧を描きながら、加蓮がくるりと振り返った。

 アイドルとして相応しい笑顔を纏い、すらりと伸びる健康的な白い手足が見る人の目を奪う。小さく蹴り上げたことによって舞う水飛沫がより一層自然の輝きを映し出し、それさえも加蓮を美しい景色の中でさらに際立たせるパーツでしかなかった。

 波打ち際で舞う加蓮を、美しさをそのままに玲が記録していく。

 いつかの自分の為と、歩いてきた軌跡を記録してきた玲のカメラに加蓮が映る。その意味を今の玲は深く考えず、考えたとしても何に繋がるかは分からないだろう。

 けれど、近い将来、玲は思い出す。

 この美しい光景に、共に居てくれた少女の存在が、どれだけ貴重だったのかを。

 

 「ねー!玲も一緒に撮ろうよ!」

 「いや、誰が撮るんだよ」

 「えーっと…あ、すみませーん!」

 数枚の写真を撮ったことを確認した加蓮は、玲に問いかける。

 そもそも、玲のカメラに玲自身が写った写真は一枚も無い。それもそのはず。どれだけ大切なものであったとしても、所詮は記録。玲にとっては自分が映らなくても、自分が何処に行って、何をして、何を見たかさえ記録されていればいいのだ。

 だからこそ、加蓮の問いに真正面から疑問を浮かべたし、その必要が何処にあるのかも分からなかった。

 けれど、そんな玲を無視して、加蓮は近くを通りがかったカップルに声をかけ、自分のスマホを手渡していた。さらに玲の手からカメラを強奪し、それもカップルに渡してしまう。

 「えー…」

 「いいから、ほら!」

 「うわ、おい…うぉっ」

 玲の腕を引っ張り、海を背に向ける。

 加蓮のスマホと玲のカメラをそれぞれ構えた男女が、それぞれスマホのディスプレイとカメラのモニタを見て微笑む。

 そこには、満面の笑みを浮かべた加蓮と、よろけて少しだけ驚いた表情の玲。

 その姿は仲睦まじいカップルそのもので、きっと加蓮が求めている景色だ。

 初々しく、暖かいその光景に微笑みながらも、どこか目を奪われる。

 卵とはいえアイドルである加蓮はともかく、一般人の中でも輪をかけて普通な玲にすら視線がいってしまう。太陽のような加蓮と、その輝きに隠れて見えない玲。そんな例えが思い浮かぶほどに、対照的で、儚く、何よりも自然。

 今まで玲が撮ってきた写真が加蓮の心を動かしたように、二人の姿が二人の男女の目に焼き付いて離れない。

 輝く海。美しい空。笑顔の加蓮と、無表情の玲。

 写真に収められたそれらは、玲が撮ってきた美しく、楽しげで、儚く、荒々しい、神秘的で、日常的な写真たちと比べても遜色無い程に、玲の軌跡たりうる光景だった。

 「…あのー?」

 「あ、ああ、ごめん。はいどうぞ」

 「ありがとうございます!うわっ、玲表情無さすぎじゃない?」

 「うるせ。すいません、ありがとうございました」

 お礼を言う二人にカップルは手を振り、その場を去っていく。地元民なのか、玲たちと同じように旅行に来たのかは分からないが、少なくとも出会った二人は優しい人だと思った。

 砂浜を去っていくカップルの後ろ姿を、返してもらったカメラで撮る。

 「帰ったら現像して渡すよ」

 「お、ありがと。それじゃ、そろそろ行こっか」

 放り投げたバッグと脱ぎ捨てたサンダルを回収した加蓮が玲を伴って砂浜を後にする。

 去り際に、玲は静かに音を立てる海を振り返る。

 最初に見た時の感動はもう無いが、それでも自分に初めての経験をさせてくれたことに感謝した。記憶に残るかどうかは分からないが、記録に残ったこの景色が、自分に与えてくれた初めての経験に。

 

 

 

 海を後にした二人は、歩いて駅に戻れる範囲を歩き回る。

 夏前の昼ともなればそこそこの気温を醸し、薄着とはいえ暑さは防げるものではない。前日の疲労が取り切れていない加蓮は勿論の事、普段から歩き回っている玲でさえ若干の嫌気がさしていた。

 「ねー、どっか入らない?めちゃめちゃ暑いんだけど…」

 「だな。この時期の散策は海より森のが良かったな…」

 先ほどまでの感動をぶち壊すような発言が無意識に出るほどに、玲と加蓮はうなだれていた。額から出る汗を拭い、それでも止まらない水分を補給するようにスポーツドリンクを、喉を鳴らして飲む。隣の玲も同じようにペットボトルを傾け、足りなくなる水分を補給していく。

 「森かぁ。マイナスイオン出てそう」

 「実際に出てるかは分かんないけど、少なくともここよりは絶対涼しい」

 兎にも角にも、避暑地を探し求めて歩く二人の前に、小さなカフェが現れる。交差点の角に陣取り、立地は最高。店構えもオシャレ且つ、社会人も学生も気軽に入れそうな外観。外に出ている看板にはおすすめのメニューが書かれていて、居心地の良さを優先しているのか、ガラス張りの窓はカーテンがかけられている。

 何よりも玲と加蓮の目を引いたのは、看板の真ん中にでかでかと書かれている、ジェラートの文字だった。

 「…ここに」

 「…決まりだな」

 顔を見合わせることも、迷うことも無く、店の扉を開けた。

 カランカランと扉につけられたベルが鳴り、ひんやりとした冷気が熱された二人の肌を撫でていく。急激に冷やされた汗がさらに体を冷やし、すぐにでも拭かないと風邪をひいてしまいそうだ。

 だが、そんな冷たさが、今の二人にとっては救い以外の何物でもなかった。

 「ふわぁ…」

 声が漏れる加蓮を連れて、店内奥の二人席に着く。

 「疲れたぁ」

 「北条は昨日から動き回ってるからな」

 「うん。でも、楽しいからいいの」

 「なんも言ってねぇよ。北条がやりたいと思ったことなら好きにやればいい。俺に邪魔する権利はないし」

 ようやく一息ついた二人は、コーヒーと一目ぼれしたジェラートを頼む。待っている間に始まった他愛もない話は、すでに二人の間で何度もされた話で、けれど飽きない話だった。というよりは、飽きてはいけない話だ。

 それなりに丈夫になったとはいえ、加蓮は未だ定期的な検診を受けている。過去を知り、今の加蓮も知っている玲としては、一緒にいる以上、加蓮の体調にも気を配らなければならない。加蓮からすれば考えすぎかもしれないが、それでも想い人が多少なりとも自分の事を考えてくれるのは嬉しいし、体調に気をつける必要があるのも確かなので、有難く甘受していた。

 そうこうしているうちに注文していたコーヒーとジェラートが運ばれてきて、二人は同時にジェラートに口をつけた。

 「ん、美味しい!」

 「生き返るわぁ」

 「じじくさ。もっとオシャレに生きようよ」

 「無理」

 軽口を叩き合いながらフルーティな味に舌鼓をうつ玲と加蓮。

 

 そこに一人の影が近づいてくる。

 二人は気付かない。

 

 「久しぶりね、玲ちゃん?」



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川島瑞樹との邂逅

 唐突に上から降ってきた声に、二人が振り返る。

 加蓮は、玲ちゃんという言葉に反応して。玲は聞き覚えのある声に。

 「デート?羨ましいわね」

 「なんでいるの、瑞樹さん」

 ベージュのパンツにピンクのシャツ、グレーのジャケット。テレビを見る者であればすぐに誰だかわかるであろうその女性は、以前までは朝の顔。今ではアイドルとして様々な活動を行う元アナウンサーのお姉さんアイドル。

 「か、川島瑞樹!?…さん!」

 「はーい。貴女は玲ちゃんのガールフレンドかしら?それにしては見たことがあるような…?」

 「わ、私、北条加蓮と言います!まだデビューはしてないけど、美城プロに所属してます!」

 「あら、後輩だったのね。どうりで見たことあると思ったわぁ」

 よろしく、と瑞樹に差し出された手を元気に握り返す加蓮。その光景を見ることもせずにジェラートを食べる玲は、握られた手を振られて苦笑している瑞樹にもう一度問うた。

 「で、なんでここに?」

 「瑞樹のイチオシのロケでね。玲ちゃんはいつもの放浪癖?」 

 「まぁね」

 「そうだ、楓ちゃんがこないだのお店美味しかったって言ってたわよ」

 「そう。なら良かったよ」

 まるで姉弟のように話す二人に、置いて行かれた加蓮が不思議そうに聞く。

 「あの、二人はどんな関係なんですか?」

 今やテレビで見ない日は無い程の有名アイドルと親しげに話す想い人、という構図は疑問を抱くには十分だ。それでも、出会った瞬間を除いて、すでに落ち着きを取り戻した加蓮は流石の精神力と言える。

 その姿に感心したのか、ほんの少しだけ目を丸くした瑞樹が微笑みながら答えた。

 「私と玲ちゃんははとこなのよ。私のおばあちゃんと、玲ちゃんのおじいちゃんが兄妹でね。二人とも兄妹も従弟もいなかったから、親戚が集まるときは二人で遊んでたの」

 「年の近い人が瑞樹さんしかいなかったからね」

 

 玲の父方の祖父と、瑞樹の母方の祖母は兄妹だ。だが、両夫婦の間の子は一人っ子で、結婚相手もそれは同じだった。だから親戚で集まるときには、10歳以上離れているとはいえ二人しかいない子供故に仲良くしていたし、瑞樹はコミュニケーションが上手く、当時の玲は何にでも興味を持つようにしていたために、大人たちが安心して酔えるほどには信頼されていた。けれど、玲は東京、瑞樹は大阪に住んでいるということもあり、二人が顔を合わせるのは年に一、二回だった。

 けれど、瑞樹がアナウンサーとなり、その後アイドルデビューと同時に上京したことで、二人は割と何度も会うようになった。

 その主な理由は二人ではなく、瑞樹の友人でトップアイドルである高垣楓が関係してくるのだが、それはさておき。

  

 「それより、玲ちゃんの放浪に人が付いてきてるなんて珍しいわね。それも女の子なんて」

 「別に、俺が連れてきたわけじゃないよ」

 「私が勝手に付いてきたんです」

 「それでもよ。私、玲ちゃんが遠出するのに誰かと一緒だったところを見たことないもの。付いていこうとして断られたこともあるし」

 「え?」

 隣の席に座った瑞樹の話を聞いて驚いた加蓮は、目の前の男に目を向ける。いつの間にかジェラートを食べ終えていた彼は、コーヒーを啜りながらも目を明後日の方向へと向けていた。

 それは玲にしては珍しい反応で、加蓮の興味を引くには十分だった。

 「…そうだったの?」

 「…瑞樹さんが付いてこようとしたのは中学の時だから」

 その言葉ですべてを察するくらいには、加蓮は玲の事を知っている。

 玲の中で一番だった誰かのために、玲は日本中を歩き回ったのだ。その自己満足の旅に誰かをつき合わせたくなかったし、何よりも優先されるべき少女の為の経験を誰かとともにするなんて以ての外だった。

 「そっか。それなら納得だ」

 「そりゃよかった」

 「何々?お姉さん蚊帳の外?」

 「あ、す、すみません。そういえば、川島さんはロケで来たんですよね?もう終わったんですか?」

 玲と同じようにコーヒーを啜りつつ、意味深な二人の会話を聞いていた瑞樹が話しかける。

 足を組むその姿は、流石元アナウンサーといった体で、そのまま撮影すればモデル雑誌の表紙を飾れそうだった。

 「ううん、これからよ。撮影班が渋滞にはまっちゃってね。新幹線で来た私は先に観光してるってわけ」

 ずず、とブラックコーヒーを口に含む。

 溶けかけたジェラートを食べ切った加蓮もミルクを加えたコーヒーを飲む。

 玲は空になったマグカップを机の端に置き、頬杖をついて店内の内装を見渡していた。

 

 無言で、けれど決して重苦しくない沈黙を破ったのは瑞樹の零した、あ、という声だった。

 「そういえば、玲ちゃんって夏休み暇?」

 「暇」

 即答で断言する玲に引くことも無く満足そうに頷くと、スマホを操作してとあるホームページを玲に見せた。

 「加蓮ちゃんは知ってると思うけど、美城プロでサマーアイドルフェスをやるのよ。そのスタッフが足りないらしくてね。バイト代も結構出るみたいだし、玲ちゃんどうかなって」

 「やる」

 「はやっ。決めるの早すぎない?」

 「じいちゃんちのバイトも限度があるし、瑞樹さんの勧めるとこなら安心だし」

 実際、玲は何度か瑞樹の勧めでイベントや撮影のアルバイトをしたことがある。ライブ会場の設営や、カメラマンのアシスタント、撮影道具の荷物運びや、ライブの物販と、専門の派遣社員と同じ程には経験豊富だ。そのせいか、美城のイベントで裏方と言われる人たちの間ではそれなりに顔が知れていたりする。毎週のようにあるイベントに顔を出していればそうなるのも当然だが、しかし玲はアイドルと顔見知りという訳ではない。

 玲が関わりを持っているアイドルと言えば、親戚の瑞樹に、その友人として知り合った、玲の放浪癖のおこぼれを笑顔で受け取る高垣楓、中学時代の知り合いである渋谷凛と、卵の加蓮くらいだ。それでもかなりの数だが、半年近く様々なアイドル達のライブや撮影に関わっておきながら、元々の知り合い以外で会話をしたのは楓だけだ。それさえも瑞樹の紹介という、アイドルとは関係のない場での関わりだった。そのせいか、玲は楓の事を呑んだくれの残念美人と思っているが、それはさておき。

 

 「それじゃ、うちのプロデューサーを通して伝えておくわ。場所の希望はある?」

 「特にないから何でもいいよ」

 「了解。あ、撮影班が到着したみたいだから行くわね。加蓮ちゃんもまた。フェスには来てくれると嬉しいわ」

 「は、はい!絶対行きます!」

 それじゃあ、と軽く手を振って瑞樹はカフェを出ていった。 

 その姿を輝くような瞳で見送る加蓮とは対照的に、玲は横目で見送り、すぐにバッグからスケジュール帳を出して予定の記入を始める。

 カランカランという音とともに瑞樹の姿が見えなくなると、加蓮は机に座り直し、玲のスケジュール帳を見て目を見開く。

 「うわっ、何それ全然暇じゃないじゃん」

 「暇だから予定入れてんの」

 バイトに何かしらのツアーへの参加予定に、と毎週何かしらの予定が入っているスケジュール帳に、新たな予定が追記される。

 美城プロ、サマーアイドルフェス、スタッフ。

 そこで玲の頭に何かが引っかかる。

 

 ああ、そういえば、昨日の夜に渋谷が言っていたのも、このフェスか。

 

 客として参加するか、スタッフとして参加するか。

 それだけの違いで、問いへの答えが変わる。

 昨日は別に何とも思っていないから断った。今日はバイトだから受け入れた。

 

 渋谷凛に対して僅かに罪悪感が芽生えたが、その本当の理由は一体なんだろうか。

 別の人間からの誘いを受け入れたからか。

 本当に理由は無いと思っていたけれど、それでも理由をつけて断ればよかったからか。

 

 それとも、渋谷凛からの誘いだから断ったからか。

 

 玲の思考はそこで止まり、眼を閉じる。

 次に視界の中に加蓮を捉えた時、一瞬前までの思考は消え去っていた。



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夢を追う者、夢を与える者

 瑞樹と別れた二人は、日が傾くまで散策して駅まで戻ってきていた。加蓮の手には家族や友人に渡す用のお土産が入った紙袋が握られ、反対に玲は来た時と変わらない様相だった。

 「つっかれたぁ!重いよー」

 新幹線の当日券を買い、停車している新幹線に乗り込んで出発するのを待つ。小さな窓から見える太陽は真っ赤に染まり、もうすぐ完全に姿を隠すだろう。

 「買い過ぎだよ。お菓子はともかく、化粧品だけでいくつ買ってんだよ」

 「別にいいでしょ。東京じゃ売ってないものばっかなんだから」

 「別にいいけど、持たないからね、それ」

 「えー、向こう着いたら持ってってよー」

 「嫌」

 ユックリと動き始めた新幹線は速度を上げ、それに合わせて二人の間の会話が減っていく。そして互いの間に流れる音が寝息に変わり始めた頃、玲は昔の夢を見た。

 

 

 

 

 それは、中学生の頃の夢。

 一人の少女の為に躍起になっていた。その少女は夢中になれるものを持っていなくて、その少女が夢中になれる何かを探していた。

 そして、アルバイトでの経験か、何かしらの広告で見たのか。とにかく、何かしらのきっかけがあって、玲は少女が夢中になれる何かを見つけることができた。他の誰でもない、秋葉玲が少女に夢を与えたのだ。

 苦難の道のりだった。何度も諦めかけた。けれど、その少女の笑顔を見るためならばと、諦めずに動き続けた結果が報われたことが、二人にとって何よりも嬉しかった。

 少女はアイドルに。

 秋葉玲は新しい何かを探しに。

 それぞれの道を進み続ける二人は、いつまでも笑顔だった。

 

 「ありがとう、玲!」

 

 美しい黒いドレスを身に纏った少女は、秋葉玲に向かって感謝を口にした。その表情はトップアイドルらしく、輝かしいもので、その笑顔を見て玲もまた笑顔になる。

 

 ああ、頑張ってよかった、と。

 

 誰だって努力が報われれば嬉しいものだ。それが、求めた最高の結果であるなら、なおさら。

 

 ステージ袖から出て、スポットライトが射すステージ中央の光の円に少女が入っていく。

 肩甲骨辺りまで伸びた明るい茶髪に、猫のような大きい黄金の瞳。

 たった一人でステージに立つトップアイドルになったその少女は。

 

 

 

 「……ぁ」

 薄く目を開いて、ぼんやりした視界で隣で眠る少女を見る。

 自分の肩で寝息をたてているアイドルの卵の少女。

 「………北条、加蓮」

 呟いたその名は、心が冷めたその時からずっと隣にいてくれた少女の名前。

 あの夢は過去の出来事ではない。何故なら、隣で眠る少女は、夢に出てきたその時には隣にいなかった。

 夢は過去の追体験をする。また、時にはその人の欲求を映し出すこともある。

 ならばあの夢は、玲の欲求だったのだろうか。

 

 渋谷凛ではなく、北条加蓮の為だったのなら。

 

 過ぎ去った過去に、どうすることもできない思考を巡らせて、玲は加蓮の向こう側にある窓の外を見る。高速で流れていく景色は、まるで玲が走ってきた過去のようで、視界に留めることすらできない。

 ほとんど空しか分からないような景色を見ながら、玲は思う。

 もし、あの夢のように、渋谷凛ではなく北条加蓮の為に動いていて、夢のように何もかもが成功していたとしても、それでも渋谷凛の為にあらゆることに挑戦した過去を後悔しない、と。

 それは意地を張っているからではない。

 秋葉玲は渋谷凛が好きだった。玲の夢中になれる何かは、渋谷凛が夢中になれる何かを探すことだった。

 やりたいことをやって、やれるだけやった。

 その結果が、自分の求めた最善の結果ではなかったとしても、それでも全身全霊をかけて追い求めた。

 だから、秋葉玲は後悔しない。

 

 「……あ」

 窓の外についた水滴を見て、玲は思考を打ち切る。

 後悔しようがしまいが、結局、今の玲を表す言葉があるとすれば、ただ一つ。

 

 燃え尽き症候群。

 

 それだけだ。

 それが分かっているから、今の自分が情けなくてしょうがない。

 だから、只管に何かを追い求める。

 

 それが今の玲の行動理由だ。

 

 「東京は雨か」

 スマホで天気予報を確認した玲は、降車の準備を始める。隣で眠る加蓮を放置し、彼女の荷物を荷物置きから降ろして足元に置いた。

 ガサガサと音を立てるお土産たちから目を放し、新幹線が止まるのを待つ。

 東京の天気は大雨だった。

 

 

 

 

 

 改札を抜けた玲は、外の天気と現状にウンザリとしたしかめっ面を溢した。

 外は大雨、傘は無く、背には加蓮、両手には一杯の加蓮のお土産。

 

 新幹線が停車しても、加蓮は起きなかった。新幹線の停車時間は短く、起きるのを待っていては降り損ねると確信した玲は、加蓮を含めた荷物を全て持ち、刺さる人目に耐えながら改札を出た。

 その状態のまま壁際で黄昏る姿は苦労性に見えたし、それ以上に滑稽だった。

 それを自覚して、さらに嫌気がさしている玲のポケットが震える。最初は無視していたが、絶えず震え続けるスマホが鬱陶しくてポケットから取り出してみれば、画面に映っていたのは受話器のマークと川島瑞樹の文字。

 「…秋葉ですが?」

 強めの語気になってしまったのは許してほしい、と思う。

 「あら、ご機嫌斜めね?もう帰ったの?」

 「まだ。駅で足止め食ってるよ」

 「やっぱり?」

 少し楽し気な瑞樹の声に、玲の苛立ちが増す。

 「……」

 「あぁん、怒らないで!お迎え向かわせてあげたから!」

 「迎え?なんで?つーか帰りの時間がよくわかったね?」

 「ああ、帰りは加蓮ちゃんから連絡貰ったからね。こっちで急に雨降ったから帰れなくなるかもしれないと思って」

 いつのまに連絡先を交換してたんだ、という疑問は抱かなかった。どうせカフェで玲が上の空になっているときだろう。

 それより。

 「迎えって?瑞樹さん車持ってたっけ?」

 「私は仕事だから行かないわよ。代わりに…」

 電話口の声が聞こえるよりも先に、視界が真っ暗になる。

 同時に、美しい声がスマホを当てている耳とは逆の耳から入ってくる。

 「だーれだ?うふふ」

 その声を聞いて、玲は眉を寄せた。しかめっ面をさらに歪ませて、ここ最近出したことも無いような大きなため息を吐く。

 「あの、プロデューサーとか連れて来てますよね?」

 「ちゃんと答えてくれるまで離れい、ませんよ?」

 うざ。

 大人の、ましてや女性との会話に対する感想としては最悪に近いものだったが、それもそのはず。会うたびダジャレを放ち、子供のような振る舞いで大酒を呑む人が相手では仕方が無いだろう。

 「分かったから早く離してください、高垣さん」

 「はーい」

 パッと開かれた視界には、先ほどの光景の中に一人の女性と、スーツ姿の大男がいた。

 萌黄色のボブカットに泣き黒子、玲よりも高い身長の彼女は、瑞樹経由で知り合ったアイドルのトップ、高垣楓だ。ファンにとっては歌もダンスも、その容姿すら神聖視されるようなアイドル界のトップに君臨する彼女だが、玲にとってはただの呑んだくれでしかない。そもそも出会いの場が赤ちょうちんの居酒屋という、大人と未成年の学生が出会うには相応しくないものだった、という理由もあるにあるが、それ以上に出会った当日に酔った楓の介抱をさせられるという、紹介した瑞樹でさえ同情を抱くものだったのだ。

 それでも、仕事中は人が変わったようにアイドルとしての楓になる為に敬ってはいるのだが、プライベートの楓と会う際にはどうしても面倒くさい気持ちが勝ってしまうのが現状だった。

 

 しかし、そんな楓を差し置いて、玲には気になる人物がいた。

 「そっちの人は?高垣さんのプロデューサー、じゃないですよね?」

 中学生の頃、瑞樹の親戚として仕事現場にお手伝いと称してバイトに行った際に見た楓のプロデューサーは、別の人物だったはず。

 記憶に違いがあるのかと思って聞いてみれば、答えたのは楓ではなく大男の方だった。

 「初めまして、秋葉玲さん。私は美城プロダクションのアイドル部署で、シンデレラプロジェクトのプロデューサーをしている武内と申します」

 「はぁ、どうも…?」

 

 

 

 「ずっと、貴方に謝罪したいと思っていました。貴方の友人の、渋谷凛さんについて」



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怒り

 エンジン音だけが響く美城プロの社用車に、四人の男女が乗っていた。

 運転席にはシンデレラプロジェクトのプロデューサーである武内。助手席には玲が。運転席の後ろには眠っている加蓮、助手席の後ろには楓が、それぞれ座っている。

 沈黙を破ったのは玲だった。

 「それで、謝罪っていうのは?渋谷の事、って言われても何かをされた覚えはないんですが」

 武内の方を見ることも無く、先ほどの武内の言葉について聞く。

 玲と武内は面識がなく、たとえ一方的に武内が玲の事を知っていたとしても、玲にとって謝られるようなことは一切無いはずだ。それも、共通の知り合いだという渋谷凛の事での謝罪なんて、心当たりどころか、そもそもお門違いが過ぎる。

 「…いえ、私は、貴方の夢を奪ってしまった。貴方の努力を、無駄にしてしまったんです」

 前を向いてハンドルを握る武内は、苦しそうに表情を歪めた。

 対して玲は、その言葉だけで全てを理解した。

 「あぁ、貴方だったんですね」

 

 心当たりは、一つだけあった。

 シンデレラプロジェクトは、美城プロダクションのアイドル部署で創設された新規プロジェクト。その先駆けとしてデビューした三人組ユニットであるnew generations。そのメンバーは、本田未央、島村卯月、そして渋谷凛。

 玲自身、高校に上がってすぐに凛のデビューライブを見ているのだから当然知っている。

 ただ、玲の記憶で武内の言葉に反応したのは、デビューライブ後の凛の言葉だ。

 曰く、シンデレラプロジェクトのメンバーは、プロデューサー自ら選考し、スカウトして集めたという。

 新規プロジェクトの選考会では自ら面接し、街に出てプロジェクトの説明から勧誘までもプロデューサーが行う。その上、プロジェクト全体の進行やイベント等の取り決めやスケジュール管理も全て行っているらしい。

 コミュニケーションによる齟齬があって多少の問題もあったらしいが、今となっては良好な関係を築いている。

 だからこそ、武内は凛から玲の事を聞いたのだろう。

 過去に、自分が夢中になれる何かを探してくれた少年がいたことを。その努力が報われなかったことを。

 凛としては、自分の為に尽くしてくれた人がいたこと。その人の努力に報いることができなかったけれど、その努力が凛をステージに立たせて、アイドルとして輝く自分を見てほしくて頑張れるのだと、ただプロデューサーに知っていてほしかった。

 けれど、武内にとっては被害者にしか見えなかった。

 自分に積み上げてきたものを壊された被害者。それは、長蛇の列に横入りするモラルの無い人間のように、美味しいところだけを奪っていく卑怯な人間のように、武内に努力の全てを奪われた被害者だった。

 凛が夢中になれる何かを探していた玲。いきなり現れた武内が、正確には島村卯月という少女の笑顔というファクターがあったけれど、それでもきっかけになったのは武内のスカウトで、凛は夢中になれる何かがあると思い、アイドルという道に進んだ。 

 その事実は、玲から大事なものを奪ったことと同義だと、武内は思っている。

 

 けれど、玲にとっては違う。

 「別に気にしなくていいですよ。確かに恨んだこともあったけど、今となっては感謝してますし」

 確かに恨んだこともあった。憎みすらした。

 けれどそれは一時の感情で、玲にとっての武内は、努力を水の泡にした存在で、凛に夢を与えてくれた存在で、自分の夢を叶えてくれた存在で、自分が空っぽな人間だと教えてくれた存在だ。

 「俺の夢は、渋谷が夢中になれる何かを探すことでした。確かに俺以外がそれを叶えるなんて当時は嫌でしたけど、結果的には俺の夢を叶えてくれたんですから」

 「ですが、貴方が為してきた努力を、私は壊してしまいました。渋谷さんから聞きました。貴方は、多くの事を学び、多くを経験して、伝えてくれた、と。私なんかが壊し、奪い去っていいものではなかったはずです!」

 確かに、玲の経験を、ただ多くを経験して伝えた、というだけなら簡単だ。

 けれど、そこには多くの時間を費やし、多くの金を使い、多くのものを犠牲にしてきた。

 武内はそれを理解しているから謝罪し、責任を感じているのだろう。

 「……そうですね。俺は渋谷の為に色んな経験をして、そのために色んなものを捨ててきました。だけどそれは俺の選択で、貴方には関係のないことです」

 「それでも…!」

 「ではお聞きしますが、貴方は渋谷をスカウトしたことを後悔していますか?」

 「…いいえ」

 「でしょうね。なら、貴方は俺に謝罪をするべきじゃない。少なくとも、貴方が責任を感じていることについては、絶対に謝ってはいけないはずです」

 「っ」

 玲の経験を水泡に帰した責任。それについて謝罪することは、つまり凛へのスカウトを否定することと同義だ。

 凛にアイドルという道を示さなければ、玲は今も凛の為に動き続けていただろう。そうすれば玲の努力を無駄にすることも無かった。同時に、凛が夢中になれる何かが見つかるかは分からない。

 だからこそ、武内は玲に謝罪することは許されない。

 それは、凛をアイドルの世界に連れ込んだ責任を放棄することになるからだ。

 

 再度流れる無言の空気。

 武内は苦しそうに顔を歪め、玲は涼しい顔で流れる景色を見て、後ろに座る楓はそんな二人を微笑んで見ている。加蓮は寝ていた。

 それから数分、玲は加蓮の家が近くになってきたのを確認して、武内に車を止めてもらう。シートベルトを外して助手席を降りると、運転手側の後部座席に回って加蓮を背負う。

 「…武内さん。さっきの話は気にしなくていいです。貴方が責任を感じているのなら、俺にそれをどうこうする権利はありませんから」

 「………」

 「結果だけを見れば、俺の夢を貴方が奪ったように見えるかもしれない。けど、それだけです」

 「それだけ、ではありません。私は、秋葉さんが為してきたものを…」

 「武内さん」

 有無を言わさないような、決して強くはないけれど、それでも武内の言葉を強制的に封じる様な、そんな迫力のある声が車内に響いて消える。

 玲は加蓮の荷物を全て持ち、後は立ち去るだけだというように、車に背を向けて言い放つ。

 

 「俺の為してきたものは、消えてない。俺の経験は誰にも奪わせない。貴方が俺の積み上げてきたものを崩したなんて、思い上がるのも大概にしてください。渋谷の件と、貴方が俺に対して責任を感じている件は全くの別物です。渋谷の事について謝りたければいくらでも謝ればいい。けど、大して知りもしない俺の過去を、赤の他人である貴方が嘆き、責任を感じるなんて、腹立たしいにも程がある」

 

 怒り。

 今の自分を構成する唯一のものである過去の経験を、どんな言葉であれ侮辱されたと思った玲の、心からの怒りだ。

 玲の経験は、玲だけの責任で為してきたものだ。それを、今日初めて会っただけの人間に、自分がその経験を無為にしてしまった、すまない、なんて謝られて冷静でいられるほど、玲は大人じゃない。

 普段ののらりくらりとした、老成したような玲からは感じられない、子供のような感情。

 けれどそれは、武内の心に傷をつけるには十分すぎる言葉だった。

 「…今日はありがとうございました。失礼なことを言ってすみません。もう会うことも無いでしょうし、さっきの話は忘れてください。それじゃ」

 着ていたパーカーを加蓮にかけて、玲は住宅街に消えてゆく。

 その後ろ姿には、すでに怒りの感情は無く、感情をすぐに切り離せてしまう少年に、二人の大人は言い知れぬ不安を感じるのだった。



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擦れ違う

 木製の扉を軽くノックして、キィと音を立ててその部屋に入る。

 「プロデューサー、レッスン終わったけど…プロデューサー?」

 入ってすぐ左側には応接用のソファとテーブル。部屋の奥には大きなデスクとデスクトップのパソコンが置かれ、いくつかのファイルが散乱していた。

 いつもならそこに座って、何かしらに悩み、首に手を回しながらキーボードを叩いている大男の姿が無いことに気づき、凛は誰もいない部屋でその男を呼んだ。

 「どこか行ったのかな」

 部屋の中に入り、デスクの上が珍しく散乱しているのを見て呟く。

 体躯に似合わず、凛たちのプロデューサーは几帳面で繊細だ。出歩くにしても、ある程度整頓してから外出するだろう。それほどまでに急いでいたのか、凛は思考を巡らせるが、心当たりは思いつきそうにない。

 とにかく、レッスンが終わったことを報告に来たが、いないのであれば言伝を頼むか、置手紙でも残した方がいいだろうと、一度部屋を出る。

 「あら、凛ちゃん。プロデューサーさんに何か用事ですか?」

 そこにいたのは若草色の制服を着た、シンデレラプロジェクトのアシスタントである千川ちひろだった。小さなバッグを肘に掛け、数冊のファイルと書類を腕に抱えている。

 「ちひろさん。レッスンが終わったから報告に来たんだけど。プロデューサー、どこか行ったの?」

 「ああ、プロデューサーさんなら急いで外に出ていきましたよ。なんでも、会って謝らなくてはいけない方がいるんだとか」

 「ふーん?」

 「帰ってきたら伝えておきますから、凛ちゃんたちは帰っても大丈夫ですよ。休日なのに、お疲れさまでした」

 「ありがとう。それじゃ、お先に失礼します」

 朗らかな笑みを浮かべたちひろの優しさに甘えることにして、凛は事務所を後にする。一緒にレッスンをしていた本田未央や島村卯月は、何かしらの用事があるということで先に帰っていた。

 一人、夜風が涼しい初夏の夜を歩く。

 足は自然と、とある少年の住むマンションに向かっていた。

 

 家に帰るには少し遠回りな住宅街を歩く。一軒家が立ち並ぶ通りを抜けたところに、玲の住むマンションはある。

 昨夜はそのマンションの目の前で玲に話しかけられたのだが、今日は違った。

 凛が歩く先には誰かを背負い、特徴的な赤いスニーカーを履いた玲が歩いている。民家の塀の上を歩く猫を見ながら、時折背中の人物を背負い直しつつ進んでいく。

 その自分と同じくらいの背丈の玲に声をかける。

 「玲」

 ぴたりと足を止め、ゆるりと振り返る玲の顔には、凛の記憶にある笑顔は無い。

 

 

 凛が玲を好きだと自覚したのは、中学3年の春だ。

 仲の良い幼馴染。なんでも知っている友人。なんでもできる同級生。

 中学時代の玲は友人こそ少なかったが、それ以上に校内で有名だった。成績優秀で、運動も部活に加入している生徒と同等以上の実力を持ち、体育祭や学園祭などのイベントでは活躍することの多い生徒だった。それでも友人が少なかったのは、人付き合いの悪さゆえだ。

 放課後も休日も、玲は一人で何かをして、もしくは凛と二人で何かをすることが多かった。

 だからだろう。

 街中で二人の姿を見かけた同級生の一人が、凛に言った。

 「ねぇ、凛って秋葉君と付き合ってるの?」

 人付き合いの悪さを除けば、玲は優良物件過ぎる。同年代の男子と比べて、多少身長も低いが、特別気にするほどの差でもない。人付き合いの悪さだって、思春期の多感な少女達にはクールでかっこいいと思われるかもしれない。

 そんな玲が、休日に二人っきりで女子と歩いているところを見れば、誰もがそういう関係であることを一考するだろう。

 その時は一蹴したものの、一度気にしてしまえばもう後には戻れない。

 快活な笑顔も、真剣にスポーツをする姿も、校内のイベントで活躍する姿も、自分の為に何かをしてくれる姿も、何もかもが以前と違って見えた。

 ただ漫然と受け取るだけではなくなっていた。

 玲が勧めてくれる何事にも興味は持てなかったけど、凛は次第に玲本人に興味を持つようになった。

 決して言葉にはしなかったけれど、中学生として3度目の春を迎えるころには、玲と一緒にいるだけで幸せだと感じるようになっていた。何をするのもつまらないけれど、玲と一緒なら。

 その気持ちは、好きという言葉以外では表せなくて。気恥ずかしくて言葉にできなかったけど。

 それでもいつかは、彼に伝わるのだと思っていた。

 

 

 だからこそ、現状は想定外で。

 玲の事を思うたび、凛の心は締め付けられる。

 後悔と自己嫌悪が留まることを知らず、それでもなお玲を求め続ける。

 それはまるで、神に救いを求める信者のようだ。

 

 

 「…ああ、渋谷。良いところで会った」

 口をついて出た彼の名前で呼び止めたはいいが、特に話すことを考えていなかった凛は、玲の言葉に内心で安堵する。ここで何か用か、なんて聞かれていれば、普段の凛からは考えられない程に動揺していただろう。

 「え、私に何か用だった?」

 「うん。昨日の夜に誘われたサマーフェスなんだけどさ」

 その前振りに、心が浮足立つ。

 まさか、来てくれるのだろうか。特に理由は無いと言っていたし、後から考えて行く気になったのかもしれない。それなら誰にも渡していないチケットをもう一度渡して、その時に一緒に出掛ける条件でも出してみようか。

 浮つく心を見せないように、冷静を取り繕って聞き返す。

 「それがどうしたの?」

 「バイトを薦めてもらったから、スタッフとして参加するから。断った手前、一応報告した方がいいと思って」

 「あ、そう、なんだ…」

 ぎこちない返答だな、と自覚しながら、それでも玲にアイドルとしての自分の成果を見せられることができると思い嬉しくなる。

 自分の誘いじゃダメだったのに、他の誰かの誘いなら、たとえバイトだったとしても来るのか。私の何がダメだったんだろう。

 でも、来てくれるなら、アイドルとしての自分を見せられる。誰かを笑顔に出来るアイドルである渋谷凛を。成長した渋谷凛の姿を、玲に見せることができる。

 相反する気持ちを抱きながらも、どうにかよろしく、と伝える。

 「当日は、よろしくね。私の事、見ててくれると嬉しい」

 

 タイミングが合えばね、と言って去る玲を見送り、凛も帰路に就く。

 望んでいた形とは違うけれど、それでもチャンスが訪れたのは確かだ。

 玲が今の凛に興味が無いことはすぐにわかった。

 思い返してみれば、凛の誘いを断り始めたのはつい最近だけではない。

 だからこそ、もう一度振り向いてほしい。

 アイドルになって。彼が探して、求めたものに成って。それで彼の熱が冷めてしまったのなら、もう一度。

 凛は自分の力を信じている。

 自分の歌で、自分のダンスで、自分のライブで、自分の魅力で、彼を振り向かせることができると信じている。

 

 だからこそ、渋谷凛は気付かない。

 玲にとって、渋谷凛に夢中になる時間は終わっていること。

 再燃するための火種は、とうに消え去っていること。

 何より、玲の事を本当の意味で見れていないことを。

 

 一人で歩く凛は、玲の背中にいた人物を思い出す。

 男物のパーカーを羽織り、肩からズレ落ちそうなほどに垂れた頭にかぶるフード。玲が抱えているせいで見づらかったが、細い足と体の大きさを見るに、年下の少年だろう。親戚か何かだと思い込み、凛は目先のフェスに思いを馳せる。

 凛が玲の背中にいた加蓮にもう少し興味を持っていれば。

 加蓮が起きていれば。

 交錯しかけた三人の運命は、けれど次第に近づいていく。

 

 同時に、凛が自らの思い違いに気づく日も遠くない。

 

 玲の事を想っているようで、自分の事しか考えていないということ。

 凛の持つ才能は、玲が夢中になれる何かには、決して成り得ないということを。



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見守る二人の大人

 店先に吊るされた赤ちょうちんを尻目に引き戸を開ける。大きくない店内には、十個に満たないカウンター席と片手で数えられるほどの数の座敷席があり、目当ての人物は一番奥のカウンター席にいた。

 「おまたせ、楓ちゃん」

 「お疲れ様です、瑞樹さん」

 同じ事務所のアイドル友達で、週に一度は必ず飲みに行く呑み仲間。

 高垣楓と川島瑞樹が贔屓にしている居酒屋で、二人は待ち合わせをしていた。いつもなら成人している他のアイドルも誘ったりするが、今日だけは二人で会う約束をしていた。

 「お任せしちゃってごめんね」

 「いえ、久しぶりに玲くんにも会いたかったですし」

 「そう言ってくれると助かるわ」

 その理由は、一人の少年にある。

 瑞樹の親戚で、楓がある意味お世話になっている男子高校生。

 「お昼に向こうで会った時、いつもとちょっと違う様子だったから心配だったのよね。家族の事もあるし」

 「確かに、事情があっての事ではありましたけど、あの子が怒っている姿は初めて見ました」

 「怒る!?玲ちゃんが!?」

 「はい。最近デビューした渋谷凛ちゃんの関係で」

 「…なるほどねぇ」

 上着と荷物を隣の椅子に置きながら自分も楓の隣に座り、今日の出来事を聞く。

 新潟でのロケを終え、東京で対談形式の撮影を行っていた瑞樹。東京に着いた途端に振り始めた雨に、新潟で会った玲と加蓮の事が頭に過ぎり、認めたくはないが老婆心的な心配をしてしまった。

 そこで駆り出したのが、以前お世話になったことのある武内プロデューサーだった。楓とも親交があり、かつその楓も時間があったために、一緒に玲の迎えに行ってもらった。

 

 そうして玲が怒ったという事実を知ったのだが、瑞樹にとっては衝撃的すぎる事実だった。それはもう、美城プロのアイドル部署が無くなる位の衝撃だ。

 それもそのはず。

 瑞樹と玲は年に数回しか会わないとはいえ、それなりの付き合いだ。

 その間、玲が何かに怒っている瞬間を、瑞樹は一度も見たことが無い。文字通り、一度もだ。

 それは、玲が凛に夢中になっていたこともそうだが、それ以上に玲の家庭環境に起因する。

 「玲ちゃんはね、小さい頃から甘えることができない子だったのよね」

 

 瑞樹は秋葉家の事情を深くは知らないが、それでも玲と両親の仲が良くないのを知っていた。

 昔から仕事ばかりの両親と、それでも問題なく一人で何でもこなしてしまう玲。

 両者のスペックが悪い方向へと嵌ってしまったために、玲は誰かに甘える必要性を感じないし、人への甘え方を知らない。両親が玲を愛しているのかいないのか、それは定かじゃない。けれど、瑞樹は知っていた。親戚が集まる年の節目に。一年の内に、たった数回しか会わない玲の心の内にあるその気持ちを、親族の中で唯一、瑞樹だけが知っていた。

 

 「というか、甘える相手がいなかったの。玲ちゃんにとって、親は産んで育ててくれたというだけで、感謝すべき相手というだけで、血がつながっているというだけで、赤の他人なんだもの」

 「それは…」

 親の心子知らず。

 玲の両親がどれだけの愛情を玲に注いでいたのか、その本心を聞いたことがなく、母親でもない瑞樹には分からないが、それでも瑞樹の両親が自分を愛してくれたのは知っている。

 けれどそれは、我儘を聞いてくれたり、一緒にご飯を食べたり、テレビを見て笑ったり、進路について一緒に悩んでくれたり。自分の為に何かをしてくれるという、わかりやすい愛情があったからだ。

 けれど玲は違う。

 幼い頃から、一緒に何かをしてくれる親はいつも仕事でいなかった。

 我儘を言う相手はいない。

 一緒にご飯を食べる相手はいない。

 テレビを見て笑うのは自分一人。

 進路は自分一人で決めて。

 

 普通なら耐えられないような孤独。親から受けるべき愛情を、玲は欠片も感じることができなかった。それが玲のせいなのか、両親のせいなのかはともかく。

 それでも玲は、一人で全てをこなしてきた。

 我儘を言えない分、自分だけの判断で生きてきた。

 一緒にご飯を食べる相手はいないけど、その分好きなように料理を作り、食べてきた。

 テレビを見て笑うのは一人だけど、好きな番組を見て笑った。

 進路は担任と相談して、なるべく自由にできる高校を選んだ。

 

 最初は苦しかった。辛かった。泣きたかった。両親に自分を見てほしかった。

 でも、仕事という、とにかく大変そうなことを頑張る両親に向かってそれを言うことをできなかった幼き日の玲は、次第に自分一人で生きていく術を身に付けた。

 そうした中で、渋谷凛という少女に出会った玲の自己研鑽は加速度的に増していく。

 伸ばせる範囲の全てに手を伸ばし、両親から受け取れなかった愛を力にするかのように、あらゆる物事を吸収していった。

 その結果が、今の自己完結してしまった秋葉玲の姿だった。

 「ん、おいし」

 「それじゃあ今日、玲くんが怒ったのは…」

 「玲ちゃんが生きるために必死で積み上げてきたものを、今日初めて会った人に無駄にしちゃったー、なんて言われれば、そりゃ怒るわよねぇ。それって、今までの自分が否定されてるようなものだもの」

 店員が注いだお猪口を口に当て、ほんのりと香るアルコールと、口の中に広がる酸味を味わう。ほう、と自然に出てくる息を吐き、赤と白の刺身に手を付ける。

 

 日本酒とつまみに舌鼓をうつ瑞樹の姿を、楓はじっと見つめていた。

 「…ん。どうかした?」

 「いえ。玲くんのこと、よく見てるんですね」

 女性でも見惚れる様な微笑み。その笑みに見惚れたのか、単に照れただけなのか、それとも酔ったのか。なんにせよ、瑞樹は楓の言葉に頬を染め、手に持った箸が止まる。

 「ま、まぁ弟みたいなものだし、私たちがお世話になることも多いから。ここだって、玲ちゃんが教えてくれたお店なわけだし」

 ちなみに、玲と楓が出会ったのも、この居酒屋だったりする。

 「というか、楓ちゃんだってよく見てるじゃない。連絡してる量だけなら私よりも多いでしょ?」

 「私は趣味が似通っていますから」

 トップアイドルとして多忙な楓だが、美城プロはブラック企業ではない。それ故に、しっかりと休日が設けられている。

 その休日に楓が何をしているかと言えば、玲と同じ日帰り放浪旅だった。

 と言っても、その目的は異なり、玲が自分探しの旅と形容するなら、楓は美味しい酒探しの旅だ。一人で地方に行って、その土地の地酒やそれに合うつまみや料理を食べ歩く。酒好きの趣味としてはこれ以上ないくらいの贅沢だ。

 そこに、玲の放浪旅で得た食事処の知識を足すことで、楓はこれ以上ないくらい満足する休日を送っている。

 それ故の連絡量だった。

 「そうだったわね…。ま、玲ちゃんなら大丈夫でしょ。今までがしっかりしすぎてたんだから、年相応に感情を出すことも大事よ」

 「まるで先生みたいです。…宣誓、瑞樹先生、私さかみずきが呑みたいでーす」

 「あら、いつものが出たわね」

 僅かに徳利に残った酒を呑みほした楓と瑞樹は、新たな酒とつまみを注文する。

 

 玲にとって、今一番大事なのは自分自身だ。

 何もない自分が誰かに、何かをするなんて烏滸がましいと思っているから。

 けれど、そんな玲を心配する大人がいる。親でもなく、友達でもない。けれど、恋情でもなく、同情でもなく、まるで姉弟を想う愛情のようなまなざしで、玲を見守ってくれる大人がいる。

 玲の心を全て理解している訳じゃない。理解しようとしている訳でもない。

 ただ、困ったときに、迷った時に、そっと手を差し出してくれる大人がいることは、玲にとっての何よりの幸福なのかもしれない。



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夏休み直前の閑話

 梅雨も明けた7月初旬。夏休みを間近に控えた学生たちは、それよりも目先に迫った一学期末テストに苦しんでいた。中学の復習を兼ねた中間テストは、特別勉強しなくても相応の点数を取れた。が、それにかまけて勉強をサボりがちになるタイプの人間にとって、中間テストとは趣がまったく異なる期末テストはまさに地獄。加えて、ここで赤点を取れば勉強も部活も周囲から後れを取るということが分かっているからこそ、睡眠時間を削ってまで、必死になって勉強する人が多い。

 北条加蓮も、前日になって一夜漬けをするタイプの人間だった。

 「れーい!ここがわからん教えてくれー!」

 「ふざけろ。ついさっき教えたとこですけど」

 「なぁ加蓮、あたしいらなくないか?やってる範囲違うし、そもそも学年違うし」

 「あ、先輩そこの答え間違ってます。道隆がいまふたたび延べさせ給へ、って言ったのは道長に勝たせるためじゃなく、伊周を負けさせないようにするためです。人物名が頭の中ではっきり分けられてないっぽいので、そのあたりの復習をしとけば、大鏡は楽勝っすよ。あとは誰から誰へのセリフなのかに注意すれば大丈夫だと思います」

 「お、おお、さんきゅ」

 「あれ~?本当に来なくて良かったのかなぁ?」

 「うっ…!いや、てかなんで秋葉は二年の範囲がわかるんだよ!」

 「国語は学年上がってもほとんどやること変わらないじゃないですか。だから数学とか理系は分かんないっすよ」

 欠伸をしながらしれっと言い放つ玲は、プリントの脇に置かれたマグカップを持つ。湯気が立つその中には甘い色合いのコーヒーが注がれていて、ミルクや砂糖がたっぷり入っているのは間違いない。その甘いコーヒーを口に含むと、玲は机の上に置かれた時計を見る。

 「…もう寝ていい?」

 「あたしも帰りたい。つーか、あたしの学校のテスト、今日終わったし」

 「ダメ!何のためにわざわざ集まったと思ってんの。私の夏休みがかかってるんだから、ちゃんとやってよ」

 「普段のお前に言ってやりたいセリフだな」

 

 場所は玲が住むマンションの一室。玲の自室に、加蓮と奈緒が集まっていた。理由は言わずもがな、普段から勉強をサボりがちな加蓮のテスト対策の為だ。

 同じ学校の、同じ学年の玲は、趣味の放浪旅の移動時間や、普段の授業から真面目に受けるタイプなので、テスト前に気合を入れて勉強しなくても優秀と呼べるレベルで点数を取れる。奈緒も真面目なタイプなので、平均以上の点数を取るし、なんならテストは終わっている。

 そんな三人はここ数日、深夜0時を迎えてもなお一つのテーブルを囲って、各々の勉強道具を広げていた。ちなみに、玲の両親は仕事で家に居らず、いるのはこの三人だけ。けれど、加蓮の親も奈緒の親も、玲の家ならと外泊の許可が出ている。その光景に玲が疑問を浮かべていたのは完全な余談だが。

 兎にも角にも、高校生男女の外泊だが、一切の色気もなく、何より勉強の必要性の無い玲と奈緒は既に睡魔との格闘に入っていた。

 「…てか、明日って数学と英語じゃん。英語はともかく、数学って一朝一夕じゃ無理じゃね」

 「英語はできるからいいの!それよりここは?」

 「因数分解はわかるだろ。平方根の方も、ルートの中が負の数でもやることは一緒だよ」 

 「そこ躓いたらマズいぞ加蓮」

 「躓かないためにやってるんじゃん」

 テスト前に担当教師から出された練習問題を解く加蓮に、瞼をこすりながら質問に答える玲と奈緒。

 奈緒は高校二年で、すでにテストも終わっている身だからいいが、玲は加蓮と同じで明日もテストがある。それも、加蓮のように一夜漬けで詰め込まなくてもある程度の点数は取れる為、むしろ早く寝てテストに備えるべきだろう。

 だが、加蓮はそうはいかない。

 この期末テストで赤点を取れば、夏休みの半分は補習と追試で潰れる。それは同時に、アイドルとしてのレッスンの時間が奪われることで、加蓮にとっては絶対に避けたい事案だ。

 自身も眠いだろうに、気合を入れて問題を向き合う加蓮を見て、玲が立ち上がる。

 「どこ行くの?」

 「便所」

 そう言い残して部屋を出た玲を見送り、加蓮はプリントに目を落とす。玲のように時間があればすでに終わっているはずのプリントだが、放課後のほとんどをレッスンに当てている加蓮はやっている暇も気力も無かった。

 それでもテスト対策に有効だと玲が言ったために、こうして日付が変わっても勉強している。

 ふと隣を見てみれば、睡魔に負けた奈緒が額を机につけていた。テスト期間の終了日が一日違いなので無理やり連れてきたが、テスト用の勉強をする必要はないし、寝かせてあげようと、奈緒から視線を逸らす。

 それから数分後、玲が部屋に戻ってきた。

 「遅かったね」

 「ん」

 返事とも言えない返事をしながらテーブルに着く玲は、その手に持った二つのマグカップのうちの一つを加蓮の前に置く。

 「コーヒー…ありがと」

 「おう」

 玲は眠ってしまった奈緒を見ると、脇から両腕を入れてベッドまで運ぶ。

 「玲も眠かったら寝ていいよ」

 「北条はまだやるんだろ。付き合うよ」

 「でも…」

 「レッスンと勉強の両立、大変なんだろ。どうせやることもねぇし、いつもみたいに図太く頼ればいいじゃん」

 

 それは玲なりの鼓舞だった。

 やりたいことはなく、夢中になれる何かを持っていない人の為に必死になるわけでもなく、むしろ何かに夢中になっている人に力を貸すこと。何かを疎かにして、それでも夢中になっているものを追う人に、足りない部分で力を貸すことは玲にとって初めての経験だった。

 無条件で自分を犠牲にして、正解も見えない何かの為に、ただひたすらに進むことは嫌になるほど経験した。

 けれど、すでに正解を持っている人間に、その正解を得るために必要で、その人に足りない部分を与えるように力を貸すことは、今まで一度も経験したことが無い。

 だからこそ新鮮で。

 どうしてか協力してみようと思った。

 勉強を教えるという些細なことだけど。

 必死の一夜漬けに付き合うというだけだけど。

 友人なら普通の事かもしれないけれど。

 そこには確かに、秋葉玲という一度燃え尽きてしまった人間の優しさがあった。

 「へへ、ありがと!それじゃあここなんだけどさ…」

 「それはさっきと同じ、てかまずは公式を覚えろよ。俺は点数危ない英語やってるから」

 「なんでよ!」

 コーヒーを啜って眠気を追い払う玲と、深夜テンションで元気な加蓮。

 二人の勉強会は朝まで続き、結局一睡もすることは無かった。

 

 それでも加蓮は赤点を回避するどころか高得点をたたき出し、玲に至っては学年3位に順位を上げるという快挙を見せた。そのうち数学は94点、国語と英語に関しては100点の大快挙。それ以外の理科系科目と社会系の科目は平均点より少し高いといった程度で、偏りはあるものの、優秀と言って余りある成績になったのだった。

 「いやぁ、寝ちゃって悪かったな」

 「本当だよー。後でポテト奢ってよ。私と玲の分」

 「なんでだよ!…ってあれ、秋葉は?」

 「え、さっきまでここに…あ」

 テスト最終日から数日経ち、レッスンも休みだった奈緒と加蓮は、玲を含めて三人で放課後の町を歩いていた。話題は先日のテストと勉強合宿。

 だが、少し目を離した瞬間に消えてしまった玲を探すために辺りを見回すと、歩いてきた道を少し戻ったところにいた。その目の前には、金髪の少年が立っている。

 

 『家族はどうしたの?』

 『わかんない。ママとはぐれちゃった…』

 『そっか。そこに警察官のお兄さんがいるから相談しに行こう?日本の警察は凄い優秀だから、すぐにママも見つかるよ』

 『本当?』

 『本当だよ。もしかしたら、もうママが待ってるかもしれない』

 少年の目線に合わせるように座っていた玲は立ち上がり、加蓮と奈緒に向かって言い放つ。

 「この子交番に届けてくるんで、先行っててください」

 「うん…」

 「お、おう」

 少年と手をつないで駅前の交番に向かう玲の背中を見て、加蓮は呟いた。

 

 

 「…英語の勉強いらないじゃん!」

 

 

 ちなみに玲は、ロシア語も話せる。



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虚言

 「秋葉くーん!ここはもういいから、指揮執ってるプロデューサーさんの方に行ってくれる?」

 「了解です」

 

 7月下旬。無事に夏休みを迎えた玲は、明後日開催される美城プロサマーアイドルフェスの会場設営に勤しんでいた。巨大なステージに、物販を行う仮設テント、控室への搬入等々、多くの人と業者が出入りする屋外会場で、玲は最も年齢が低いながらも、その経験から機敏に動き回っている。その顔には大量の汗が浮かんでおり、真夏の暑さが見て取れる。

 

 「すいません。こっちに行けって言われたんですけど」

 玲は物販用のテントの組み立て班から離れて、ステージ近くで指揮を執るプロデューサー、武内の元へと近づく。この炎天下の中、シャツだけとはいえスーツ姿の武内は見ているだけで蒸し暑いが、それを臆面にも出さず声をかける。

 が。

 

 「あ、秋葉、さん…」

 

 以前、玲の怒りを買ってしまった負い目がある武内からすれば、なるべくなら会いたくない相手だっただろう。

 けれど玲からすれば、すでに割り切ったことで、特別気にすることも無い、ただの見知った顔だ。故に普通に声をかけ、狼狽える武内をダルそうな目で射貫く。

 「…はぁ」

 「っ」

 玲のため息に対し、びくっと体を硬直させる武内。

 その姿は、教師に怒られる生徒のようで、体格差の著しい二人が醸し出すにはあまりに不釣り合いな雰囲気だった。

 「武内さん、この間の事は忘れてください」

 「ですが…」

 再度ため息を吐く玲。その体内の熱を含んだ溜息には、一切の淀みなくうんざりとした感情だけが混在していた。

 「前回といい、大人に対して失礼なことは重々承知で言わせてもらいますけど、いい加減しつこいですよ」

 武内の顔が青ざめていく。

 それでも玲は止まらない。

 「大体、貴方が責任を持つべき相手は俺じゃないでしょう」

 そう。

 武内が、玲の夢を奪ったという責に報いる術があるとすれば、それは渋谷凛に関することだけだろう。 

 どれだけ罪悪感を感じようとも、どれだけ謝罪しようとも、結局は渋谷凛という少女に行きつく。玲が夢中になっていたのは、凛が夢中になれる何かを探すことで、武内は玲の努力を知らずに渋谷凛が夢中になれる何かを差し出した。であれば、武内が玲への罪悪感や、玲の積み上げてきたものに対する謝罪をするには、玲から奪ったとも言える渋谷凛に対する責任を持つことでしかありえない。

 「最終的に決めたのは渋谷本人だとは言え、その道に引き込んだのは貴方です。なら、最低限の責任を持ってください。俺が夢中だったものを奪ったことは、それでお相子にしましょう」

 「秋葉さんは、それでいいんですか?それだけの、当然の事だけで…」 

 玲の提案は、武内からすれば当然の事で、そしてそれは、玲にも言えることだった。

 渋谷凛という一人の人間に、最終的な選択権はその人にあるとはいえ、選択肢を与えること。

 その事実に対して最も必要なのは責任を負うことで、それは当時の玲もわかっていたし、プロデューサーという仕事をしている武内にとっても当たり前の事だった。

 だからこそ武内は、そんな当然の事を条件にする玲に問う。

 そんなことでいいのかと。

 「もう一つ」

 だが、武内の思いを遮るように、玲は言葉を重ねる。

 「その結果を俺に見せてください」

 「結果…?」

 「そうです。貴方が渋谷凛に示した道が間違っていなかったと、渋谷がアイドルとして輝く姿を俺に見せて証明してください」

 「!」

 

 結局のところ、玲が凛の為に努力していた理由と、武内が凛に手を差し伸べた理由は同じで。

 その道筋が変わっただけの事。

 ならば、その道筋を変えた武内が、その道を作った玲に結果を見せるのは当然の責任だった。

 「…わかりました。渋谷さんをスカウトしたときにも思いましたが、今一度、誓います。渋谷さんを、必ずトップアイドルとして輝かせてみせると」

 そう断言する武内の顔は決意に満ちていて、玲に対する後ろめたさは無くなったように思える。

 それはきっと、人として当然の感情で、誰もが意識的にしろ無意識にしろ持っている思いだ。罪悪感を覚える相手、謝罪したい相手。そういった引け目を感じる相手から、自分の中で決めたある程度の線引きに相当する罰と許しを求めている。

 武内は、玲から罰と許しを得る術を得た。

 前を向く理由を少年から貰い、同時に後悔して後ろを向くことを許されなくなった。だからもう、前に進むしかない。

 「…よろしくお願いしますよ。手始めに、この後の指示を出してくれれば助かります」

 

 少し焦ったように、けれど今までの悲痛さを感じさせない武内から指示を受けた玲は、一人舞台裏へと歩いていく。

 こうしたステージ設営の手伝いを何度もこなし、ベテランともいえる玲に与えられたのは、アイドル達の楽屋のセットだった。出演するアイドル達の楽屋に、ステージ衣装や協賛する企業から贈られた花束を運び入れたり、その他にも必要なものをセットする。各アイドルによってはルーティンの為に必要なもの等もある為、担当プロデューサーから必要なものを聞いて、事務所から持ってきたものを社用車から持ってきたりもする。

 何度もセットや片づけを手伝っていた玲だからこそ、一人でもできるがセンスのいる仕事を任されていた。

 「瑞樹さんとこのプロデューサーから聞いたのかな…?」

 面識のなかった筈の武内が玲のベテランぶりを知っている理由に当たりをつけ、一つ一つは重くない荷物を運び入れる。

 無心で、無表情で作業を続ける玲は、心の中で自虐する。

 

 よくもまぁ、あんな戯言を言えたものだ、と。

 

 渋谷凛に対して責任を持ってくれ。

 渋谷凛が輝く姿を見せてくれ。

 

 欠片も思っていないことを、よくもスラスラと言えたものだ。

 玲が武内に言った言葉の真意は、武内に同情したからでも、ましてや凛をアイドルの世界に引き込んだことに対する最低限の責任を取ってほしいからでもない。

 単に鬱陶しいから。

 この場で武内に会うということは、今後も会う可能性があるという事。そうして顔を合わせる度に悲痛そうな表情をされていてはたまったものじゃない。別にそれはそれでいいが、精神衛生上、無駄な軋轢は無い方がいい。

 そのための虚言。

 そのための嘘。

 結局は、自分の為だった。

 武内の罪悪感の程度を適切に推し量り、彼が求める適量の責任を押し付ける。

 玲がしたことは、それだけだ。

 自分のことで一杯一杯の玲が、誰かを見る余裕なんて無い。ましてや、興味が消え失せた相手をもう一度見るなんて、そんな時間の無駄をするなんてことはあり得ない。

 だからきっと、凛が今以上に輝こうが、有名になろうが、玲にとっては些事にもならない。

 「…重い」

 ステージ衣装の入った移動式ロッカーを押して楽屋に入る。ドアの脇にはシンデレラプロジェクト様と書かれた紙が貼られていた。

 

 そうして玲が仕事を終えた頃には日が傾いていて、外に出てみればステージや売店用のテントなんかの設営もほとんど終わっていた。

 最後に責任者が作業に参加していた全員を集め、一言と謝辞を述べて解散する。

 赤い太陽が沈んでいく様子を横目に家路についた玲は、夏休み中のスケジュールを思い浮かべる。脳内のスケジュールにはアルバイトの日付や一人旅の予定、学校から出された宿題を終わらせる時間までもが決めてあり、変更も可能なようにある程度のバッファを持たせている。本人に自覚は無いが、人から見れば病気に近い几帳面さが故だ。

 そんな玲の明日の予定は、とある運動場に向かうことだった。



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子供を想う大人

 天気は快晴。気温も比較的低く、夏に運動をするには最適すぎる日のとある運動場に玲の姿があった。

 美城プロサマーアイドルフェス本番の前日である今日は、アイドルの予行演習や音合わせの為に、アイドル本人とそのプロデューサー、音響機材を扱う美城プロの社員であるスタッフを除いて、玲たちのようなアルバイトは休みとなっていた。瑞樹の親戚であり、アルバイトとしてもベテランの玲は本日の参加も勧められたが、以前より予定が入っていたために丁重に断った。

 その予定というのが、この運動場で行われるサッカークラブの練習だった。

 

 赤いシャツに同色のスパイクを履いた玲は、グラウンドの端に一人の男性と並んで立っていた。

 「いやー、秋葉が来てくれて助かるよ。俺一人じゃ見きれないこともあるし、体力も落ちるばっかりだし」

 「それはこっちのセリフですよ。バイト代貰えるし、いい運動になるし。途中棄権の俺なんかを呼んでくれてありがとうございます」

 「バカだなぁ。うちの元エースに何回も来てもらえて、あいつらも喜んでんだ。礼を言うくらいなら、本気であいつらの相手してくれよ。昔のことだって、たとえ自分勝手な事情だったとしても何かを言うつもりは無いし、掘り返すつもり無いよ」

 「…ほんとに、色々助かります」 

 コートの中を走り回る子供たちを見ながら、玲の所属していたサッカーチームのコーチだった男が微笑む。

 玲にとってそのコーチはたった数か月間だけの関わりだった。凛の為の経験の内の一つだったサッカーは、運動神経のいい玲が上手くなるまでにかかった時間が最も少ない球技でもある。その才能は所謂天才と呼ぶにふさわしいものだったと、当時を知るコーチは思う。

 「さて、そんじゃあ働いてもらおうかな」

 「ミニゲームですか?審判やればいいんですかね」

 「いいや…」

 一対一を繰り返していた子供たちを呼び集め、コーチは声を張り上げる。

 集まった子供たちはそのほとんどが男子だったが、男子の集団に一人交じる女子が玲を見て笑う。茶髪で勝気で、何より小学生女子にして同性を虜にしそうなイケメンな少女の名前は結城晴。何度か練習に参加している玲に、一番懐いている子でもある。

 「よし。お前らミニゲームしたいか?」

 十数人の子供の集団に問いかけると、疲れているだろうに元気のあり余った返事が返ってくる。

 「してぇ!」

 「玲兄ちゃんも入るの?」

 「じゃんけんで勝った方のチームに入って!」

 「コーチはいいや!」

 「よーしお前ら後で憶えとけよー。だが、そんなお前らにもチャンスをやろう」

 わらわらと集る小学生を制している玲は、演技がかったセリフとともにニヤリと笑いながら玲に視線をやるコーチに気づかなかった。

 「お前ら対秋葉で試合して、勝てばさっきの俺をいらねぇと言ったことは許してやろう!ついでに、勝った方には焼肉も奢ってやる!」

 きっぱりと言い放つコーチに、一瞬子供たちのざわめきが消える。

 次の瞬間、餌に群がる動物のように、玲の周囲にいた子供たちがコーチの周囲に集まった。

 「マジで!?」

 「玲兄ちゃん一人でしょ!」

 「やーきーにーくー!」

 雄叫びを上げながら盛り上がる小学生を見て、俺もあんなんだったっけ、いやもうちょい大人しかったと思うけどな、なんて考えている玲に、唯一の少女である晴が声をかけてくる。

 「玲兄、今日こそ勝ってやるからな」

 「いや、一人で全員相手はヤバいんだけど…」

 「秋葉なら大丈夫だろ!ほら、水分補給してコート入れー」

 はーい、と返事をしてそれぞれの水筒に口をつける少年たちを横目に、玲と晴は会話を続ける。

 「玲兄なら問題ないだろ。サッカー始めて一か月でトレセンに選ばれたって聞いたけど?」

 「その時は偶々試合でゴール決めたからだよ。毎日頑張ってる晴の方が上手いと思う」

 「よく言うぜ。この間なんて、コーチと一対一やってボールに触らせなかったじゃん。コーチだって下手なわけじゃないんだし」

 「あれは…」

 

 玲と晴の出会いは、今日と同じグラウンドだった。

 そもそも玲がコーチのアシスタントのバイトを始めたのは、コーチ本人から連絡があったからだ。

 曰く、相当な才能を持つ少女がいるから、玲の技術を教えてあげてくれないか、と。当初の玲は教えられることなど無いと断っていたが、コーチの熱意の籠ったラブコールを受け、自分でいいのならと依頼を引き受けることにした。決してバイト代が出ることに惹かれたわけではない。

 そうして練習に参加した玲は、練習の後で件の少女である晴から勝負を持ちかけられた。

 一対一で、先に三点決めたほうが勝ちという、シンプルでわかりやすい勝負。性差と体格差のハンデとして、玲はボールを浮かすことと、単純な走力で勝負を決めることを禁止して始めた一対一。

 チームのエースストライカーで、唯一トレセンメンバーにも選ばれている晴ならば、ハンデをつけた高校生でも十分通用するレベルの筈だった。

 しかし結果を見てみれば玲の圧勝。

 晴がオフェンスの時には、フェイントに一切かからず、シュートコースを見切って小学生にしては強烈なシュートを軽くトラップして止め。

 玲がオフェンスの時には、多種多様なフェイントで晴を完全に置き去りにした。

 圧倒的なまでの力の差を見せつけられた晴が落ち込むかと思い、玲が肩で息をしながら座り込む晴に近寄り声を掛けようとしたところ、晴は笑顔で顔を上げた。

 「すっげーな!めちゃめちゃ強ぇじゃん!なぁ、オレにもさっきのフェイント教えてくれよ!」

 前向きに、ひたむきに、敗北さえも自分の糧にしようとする晴に一瞬戸惑うも、そもそも彼女を中心とした子供たちが強くなるためにバイトを引き受けたのだと思い出し、ぎこちなく返事をした。

 「あ、ああ、そのために来たんだし、いくらでも教えるよ」

 「やった!」

 その日、午前中で終わるはずだった練習は一日に延び、最後に至っては玲と晴の個人練習となった。

 

 「あれから何回やっても勝てなかったからな。今日こそ玲兄に勝つぜ」

 「…ま、頑張れよ。今日はハンデも無しだから、簡単に負ける気も無いしな」

 焼肉も食いたいし。

 口には出さず、玲もスポーツドリンクを口にする。

 半分ほど残ったそれをコート脇に置くと、玲は子供たちとは逆側のコートに一人で立つ。

 ハンデという訳ではないが、流石にゴールキーパーとしてコーチが立ってくれているが、それでも総勢17人の子供たちを相手にするのは玲一人だ。

 「俺なんかでも役に立つなら、いくらでも糧にしてほしいとこだな…」

 玲が持っているものと言えば、唯一経験だけだ。それ以外は何も持たず、目指すべきものも無い。

 けれど、その唯一の経験が誰かの役に立つのなら。子供たちがこの経験を経て何かを得るのなら。

 それは自分の事ではないけれど、自分自身が何かを得る程に喜ばしいことだと思う。

 「よーっし、そんじゃあ始めー!」

 小学生チームがセンターサークルからボールを出した瞬間。高校生とはいえ一人だと思って油断したのか、味方に出した緩いボールをすぐさまカットする。

 「げっ」

 「甘すぎだぞ恵太。焼肉はいらないのか?」

 ボールを出した男子に向かって言うと、ドリブルでコートの中央に切り込んでいく。

 群がる子供たちを細かいフェイントで躱し、時には股の下を抜き、時には頭上を通り越し、それでも怪我をさせないように機敏に体を動かしてゴールに迫っていく。

 勝負を挑んできたエースの晴でさえ、他の子たちと同じように扱われてしまう光景に、昔の玲を知るコーチはゴール下で微笑んだ。

 

 昔の玲は必死だった。 

 何が彼をそうさせるのかは知らないが、チームに加入したその日から、優秀な身体能力を十全に活かしてサッカーの技術を取り込み、一週間も経たないうちにチームに溶け込んだ玲。

 けれどそれはチームの為ではなく、それゆえか玲は人と合わせるプレーが苦手ではあった。 

 ドリブル、シュート、パスカットにオフェンスにつなげるトラップは上手かったが、チームメイトに出すパスは雑だったし、センタリングに合わせるのも苦手なきらいがあった。

 完璧超人のような玲にも弱点があること、それを克服しようとする姿を見ていたからこそチームに溶け込めたのだと思うが、玲本人からすれば溶け込めていたとは思えない。

 だからこそチームを辞める時には特別な感傷を抱くことは無かった。そしてチームメイトも心のどこかで、玲がチームに愛着を持っていないことを察していたのか、玲が去った後も変に意識することは無かった。

 その両方の考えを知っているコーチは、それ故に今の玲を見て嬉しく思う。

 たった数か月。チームに愛着を抱いていなくても、その数か月で学んだことは玲の中で生きているとわかるから。

 玲のプレーは昔から変わらない。

 相手をよく見て、躱せるまで躱す。抜けるまでフェイントをかける。ひたすらに相手を出し抜く一手を模索し続ける。

 どんなスポーツでも、それだけは変わらない玲のプレー。

 目の前で糸で吊っているのではと疑ってしまうほどに、ボールを自在に操る姿は以前とまったく遜色ない。

 つまるところそれは、たった数か月の経験が、未だ玲の中で生き続けているということ。

 ルーレットという、身体を回転させて相手を躱すフェイントを仕掛け、スピンの途中でヒールでのシュートでゴールを決める玲と、ゴールを決められたのに盛り上がる子供たちを見てコーチは思う。

 この時間が、この光景が、昔から燻ぶり続ける秋葉玲の何かを、ほんの少しでも埋められればいいと。

 

 



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アルバイトとアシスタント

 真夏の太陽が照り付ける7月下旬。美城プロダクション主催、美城プロサマーアイドルフェスティバルは開催された。

 トップアイドルから新進気鋭の新米アイドルまで、多くのアイドル達が参加している。そして、そのアイドル一人一人に夢を見る多くのファンが、数万人を収容する屋外会場へと足を運んでいた。

 そんな会場の入り口からほど近い場所に設置された物販用仮設テントの中で、玲は最年少ながらにバイトスタッフの指揮を執っていた。

 「城ヶ崎さんのグッズ終了でーす」

 「了解です!そろそろ客足減ってきたので、後は任せます。帰りにまた増えると思うので、その時にまた来ます」 

 「お願いします。それまではステージ側にいるんですよね?」

 「はい。何かあったら連絡してください」

 自分よりも年上の男性に指示を出す姿に、周囲の同年代のバイトスタッフたちも舌を巻く。的確な指示と、若くしてバイトリーダーのような存在に選ばれた玲の働く姿に、今まで疑問を感じていた人たちも納得したような雰囲気だった。

 「あと、大丈夫だとは思うんですが、万が一にも天気が崩れた時は、入れる人数は限られますがここを避難所にします。グッズを車にしまう班と、観客を誘導する班の二手に分かれてください」

 「天気、ですか?」

 「はい。山が近いので、万が一ですが」

 「わ、かりました。人数は適当でいいですか?」

 「そうですね。グッズの在庫次第で、松山さんが決めてください。連絡してくだされば指示出しますので」

 「了解です」

 では、とライブ会場の脇にある細道を通ってステージへと向かう。

 その後ろでは、残ったスタッフたちがそれぞれの仕事に精を出していた。

 

 ステージ裏に辿り着いた玲は、足早に舞台袖へと向かう。

 玲に任された仕事は、舞台裏でのアイドルやスタッフたちの写真を撮ることだ。どこから知ったのか、玲がプロ顔負けのカメラ技術を持っていると聞きつけた武内が、部署内での反省会や後に発売予定の写真集等に載せる舞台の裏側の写真を撮るよう指示したのだ。

 微妙そうな表情で引き受けた玲だったが、実際に仕事を始めてみれば、今まで撮ったことの無い光景を写真に収めることができて、それなりにやりがいを感じている。

 「それじゃあ、行ってくるねー!」

 舞台裏のスタッフや担当プロデューサー、今までステージにいたアイドルとすれ違う瞬間にハイタッチをして笑顔で出ていくピンク髪のアイドルをカメラに収める。続けて、ステージから戻ってきた明るい茶髪で満面の笑みを浮かべているアイドルを撮って、その脇でドリンクやタオルを渡すスタッフたちの写真も撮る。基本的には気付かれないように、普通に働いている自然な姿を撮っているが、カメラを向けられていることに気づいたアイドルやスタッフは、ピースや決めポーズなどをしてくれるのだ。カメラマンとは言えないが、それなりに写真を撮ってきた者としては、撮りがいがあると言わざるを得ないだろう。

 「こんにちは」

 カメラを構える玲の肩越しに、優しい声色の挨拶が掛けられる。

 少なくとも、玲の知り合いの声ではない。

 「…どうも、こんにちは」 

 スタッフに配られるシャツを着ているが、不審者に間違われているのだとしたらマズイ、そう思い、首から下げているスタッフ証を見えるようにしながら振り返ると、そこには緑のジャケットを着た女性が立っていた。ゆったりとした三つ編みを肩から垂らし、柔和な笑みを浮かべている女性は、やっぱり知らない人物だ。

 「秋葉玲くん、ですよね?」

 「そうですけど…」 

 「初めまして。美城プロダクション、アイドル部でアシスタントをしています、千川ちひろと申します」

 「はぁ…。えっと、何か用ですか?一応、武内プロデューサーから受けた仕事をしているんですが」

 「ふふ、すみません。お邪魔したい訳ではないんですが、一度お話してみたくて」

 ほにゃっと笑うちひろに、何故か寒気を感じる玲。背筋を伝う汗を感じながらも、それ以外は普段通りに接する。

 「話、ですか。瑞樹さんか高垣さんからでも俺の事を聞いたんですか?」

 「いえ。一年ほど前から貴方の事は知っていましたよ?」

 ちひろの言葉に、玲は首を傾げた。

 「一年前から?」

 一年前と言えば、瑞樹からお手伝いと称して美城事務所主導のイベントの手伝いを始めた頃だ。今のように一か月で何度も行くわけではなく、瑞樹から依頼のあった時に予定が無ければ行く程度。当時の玲のスケジュールは、今とは比較にならない程に過密で、スケジュール帳だけを見れば学校に行っているかも怪しい程だった。

 だからなのか、今ほど顔も覚えられていない一年前から知っているというちひろの言葉に疑問を浮かべる。

 しかしちひろは、眉を顰める玲を見ても、変わらずニコニコと笑みを浮かべていた。

 「はい。小さい男の子がお手伝いしてくれているなぁ、と。川島さんと仲良く話しているのが印象的で、流石にお給料は出せませんでしたが、それが残念なくらい頑張って働いてくれていましたから」

 ちひろの言葉に納得する。

 確かに、大人ばかりの空間に、背の低い中学生が交じっていれば否が応でも目立つ。当時はお手伝いや社会科見学という名目でバイトをしていたため給料は貰っていなかったが、玲としては給料よりも、その仕事をして得た経験が何よりも欲しかったのだ。 凛の為に得た経験が給料に等しいのだった。

 それはさておき。

 ちひろは雇い主側の人間として玲の事を知っていたようだが、玲からすれば初対面の女性だ。彼女が一度話してみたいというのは分かったが、玲としては話題になるようなもの等ない。

 どうしようか。適当に切り上げるか。

 頭の中で決め、玲が声に出すよりも先に、ちひろが二人の名前を言い放った。

 

 「渋谷凛ちゃんと、北条加蓮ちゃん」

 

 僅かに、玲の表情が強張る。だがそれも一瞬の事で、目の前にいるちひろでさえその変化を感じ取ることはできなかった。

 「秋葉さんは、お二人と仲がいいんですよね。よく耳にしますよ」

 「仲がいいって程でもないです。高校入ってからは渋谷とはあまり話さないですし、北条は学校が同じってだけですから」

 「そうなんですか?でも、加蓮ちゃんの口からはよく秋葉さんのお名前をお聞きしますし、プロデューサーさんから渋谷さんと仲が良かったと聞きましたよ」

 「…北条は知らないっすけど、渋谷に関してはそのプロデューサーさんの言う通りっすよ。仲が良かった、まぁ昔の話です」

 玲はちひろが察しの良い人物だと当たりをつけ、暗にこの話は終わりだというような言い回しをする。

 それも多くの経験と同時に、経験と同じだけ人と接してきた玲が持つ勘だったが、その精度はすさまじいものだ。実際、ちひろは玲の言葉と表情から何かを察したのか、それ以上彼女達との関係について言及することは無かった。

 そして別の話題へと転向する。

 「そうでしたか。そういえば、今日は舞台裏の撮影をしてくれるんですよね?よろしくお願いします」

 「いえ、仕事ですから。……あの、なんで俺がこの仕事任されたか知ってますか?確かに写真撮るのはそれなりに上手い方だと思いますが、それでも一介のバイトにこんな仕事って普通任せますかね?」

 ちひろの言葉で、ふと思った疑問を口にする。

 この場で玲が撮影した写真は、後々発売する予定の写真集にも載るのだ。スタッフたちの働きぶりを社内で評価したり、スタッフないし社員たちの意欲向上に使うだけならまだしも、美城プロダクションという大企業の売り上げに直結する商品に、たかがアルバイトの撮影した写真を載せてしまってもいいのだろうか、と。

 大体、瑞樹か楓か凛か、アイドルの卵の加蓮か。誰かは知らないが、身内の言葉一つでアルバイトの素人カメラマンを起用するなど、大企業のプロデューサーとしてそれでいいのかと聞きたいところだ。

 だがしかし、起用の裏側には独断ではない理由があった。

 

 「任せられるほどの技量があるからお任せしているんですよ。私も見ましたが、何より美城専属のカメラマンさんが絶賛していましたよ、海辺の加蓮ちゃんの写真」

 



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変化

 海辺ではしゃぐ、笑顔の加蓮。

 その写真を現像して加蓮に渡したのは、新潟での日帰り放浪旅を終えた二日後だ。馴染みの写真屋へと朝一で赴き、その日の夜には写真が出来上がっている。普段から急ぐ必要はないと言っているのだが、デジタル化の進む社会で写真屋を懇意にしてくれる客は貴重なようで、数年の付き合いのある玲からの依頼は最速でやってくれるのだった。

 加蓮の写真以外にも、近所の夜景や旅先の風景、普段から一緒に居ることの多い奈緒や、加蓮と奈緒のツーショット等、多数の写真を欲しがる加蓮に渡した。玲としては現像とともに依頼したデータがあれば問題ないので素直に渡したが、本人が写っていない写真を欲しがった理由が分からなかった。

 

 「お友達の撮った写真がプロにも勝る、と嬉しそうにおっしゃっていましたから」

 

 ちひろの言葉を聞いて、加蓮が写真を欲しがった理由がようやくわかった。

 女子にとっては友人関係までもが自身のステータスになるという。ならば、プロに勝るとも劣らない写真技術を持つ玲は、それなりの高ステータスになるだろう。その上、アイドルの卵が、トップアイドル並みの写真を撮ってもらえたとあれば自慢したくなる気持ちも分からなくはない。実際は、単に想い人に綺麗に撮ってもらった写真を見せびらかしたいだけだったのだが、それをともかくとして。

 だが、それがまさかプロのカメラマンの目に付くとは。

 趣味が高じて仕事にまで影響するとは、流石の玲も思いもしなかった。

 「とても素敵な写真でしたよ!本当に、写真集に載っていても不思議じゃない位でしたし、アイドル部の中でも、加蓮ちゃんと奈緒ちゃんのユニットでデビューはどうかって話が出るくらいなんですから!」

 そうなんすか。

 ちひろの言葉に適当に返して、玲は手に持ったカメラを見る。

 武内から渡されたそれは最新型のもので、玲がもつカメラよりも値段も性能も段違いに良い物だ。けれど、やはりどこかしっくりこない。

 普段の写真より綺麗に撮れているはずなのに。それなりにやりがいを感じる仕事なのに。

 小さな窓枠に映る世界が、いつもと違う事に違和感を覚える。

 

 その違和感の正体を、玲は知っていた。

 

 「…千川さん、一枚撮っていいですか?」

 ちひろの話を聞き流していた玲がカメラを向けた。唐突にレンズを向けられたちひろは少しだけ眼を見開き、一歩足を下げる。

 「え。い、いえ、私は大丈夫です。それよりも、他のスタッフさんたちを撮ってあげてください」

 どうやら写真を撮られることに抵抗があるのか、冷や汗を掻いている。

 それでも玲は珍しいことに一歩も引かず、カメラを構え続ける。

 「お願いします。一枚だけでいいので」

 「えぇ…」

 「おっ、写真ですか!?」

 「ちひろさんと一緒に撮ったことないですよね?」

 そんな玲の後ろから、二人の女子が顔を出し、ちひろの脇に付いた。

 燃える様な笑顔が特徴的な少女と、健気に楽し気な笑顔を浮かべる少女。アイドルの知識に乏しい玲は名前を知らないどころか顔も知らない彼女達だったが、世間一般ではトップアイドルとして活動している少女たちだ。

 明るい少女は日野茜。淑やかな少女は小日向美穂。

 たった今ライブを終えた二人は、単純に事務所でお世話になっているちひろと写真を撮りたがっているだけなのだが、写真を好まないちひろにとってはあまり嬉しくないことだ。

 「茜ちゃんに美穂ちゃん!?あの、私は写真はちょっと…!」

 「カメラマンさん!お願いしますっ!」

 「…それじゃ、撮りまーす」

 満面の笑みを浮かべたアイドルと、引き攣った笑みのアシスタント。

 一枚の写真に収められた舞台裏での光景に、玲はどこか納得した表情で礼を言う。二人のアイドルは次の出番があるのか控室へと戻っていき、残されたちひろは恨めしそうに玲を見ていた。

 「あの、秋葉君?」

 「……あ。ありがとうございました」

 「へ?いえ、それよりもですね、その写真をプロデューサーさんに見せるのはちょっと…」

 「でもこれ、アイドルの方が写ってますけど、消しちゃっていいんですか?」

 「うぅ、それもそうですね…」

 写真に関しては諦めたのか、これ以上撮られまいと、ちひろはそそくさと去っていった。どうやら、アイドルの卵達の話によく上がる人物の顔を見に来ただけらしい。

 気落ちした表情のちひろを見送った玲は、手に持ったカメラを見る。

 「…これかぁ」

 そう呟いた玲は、その言葉とは裏腹に憑き物が落ちたような、安堵の表情を浮かべていた。

 その理由は本人にしか分からないが、それでも北条加蓮がここにいれば玲の変化に気づいただろう。

 

 思えばたった数か月。半年にも満たない期間。

 玲が挫折を味わい、自分を探し始めて、たった数か月。迷いに迷い、自分を見失って、凛の為の放浪旅は自分の為になった。

 空虚な自分を見つめなおして、どうにか穴を埋めようとしていた玲が覚えた既視感は、玲が熱を失うよりも、凛の為に経験するよりも前のこと。

 玲にとっての原点。

 自分の為の経験が、初めて実を結んだ時の事。

 空っぽだった自分が満たされていく。誰にも見てもらえなかった時間を取り戻すような。何より、自分の経験値が増えていく、沸き上がるような高揚感。

 玲から好意を向けられていた凛も。玲に恋慕を向ける加蓮も。親戚中で最も親しい瑞樹も。ましてや両親さえ知らない玲の行動原理。

 玲が感じたのは、久しく覚えのなかったそれだった。

 

 「カメラ、新調すっかな…」

 

 放浪旅では知らない何かを探していた。知らない景色を見て感動し、知らない経験をして何かを知る。その度に心に嵌らないそれらに落胆し、熱意を持てない自分に絶望する。

 つい先日行った新潟への放浪旅を思い出し、玲はなるほどと頷く。

 あの日は加蓮が付いてきたというイレギュラーから始まり、今までの旅行ではあり得なかった知り合いの写真を撮るイベントが発生した。その後に偶然、親戚の瑞樹と遭遇し、帰り際には知り合いの楓と会い、凛のプロデューサーである武内に怒りを示した。 

 その全てが偶然だとしても、それまでの旅とは明らかに印象の異なる旅として心に残っている。

 だからこそ気が付いた。

 玲自身が夢中になれる何かは、誰かがいないと見つからないのではないか。少なくとも、玲一人で探せる範囲には恐らく無い。

 ならば、どういう関係であれ他人が関わる場面で探すしかないのだろうと。

 

 346プロから支給されたカメラを使って、真剣だが楽しそうに仕事をする人たちの写真を撮る。初めて任された仕事で、いつもやっていることをするだけだったが、これがどうして心を波立たせる。

 「あら、玲ちゃん。今日はカメラマンなのね」

 「カメラのシャッターを押しちゃったー?」

 「…楓ちゃん、それは分かりづらいわ」

 「スランプかもしれません」

 くだらない掛け合いをしながら現れた瑞樹と楓を写真に収める。

 「二人はこの後出番なの?」

 「ええ。玲ちゃんもよく見ておきなさい?」

 「皆で楽しまなきゃ勿体無いですからね」

 白と青の衣装をはためかせ、眩しい程に照らされたステージへと向かう瑞樹と楓を見送る。

 逆光に消えていく二人の背を撮っていると、ポケットのスマホが震える。

 周囲を確認して壁際に移動し、取り出したスマホを確認してみれば、連絡してきたのは加蓮だった。

 「一緒に帰ろ、か」

 少しだけ考え、時計を見て返信する。

 玲にしては早すぎる返信に加蓮は驚くだろうが、その内容に驚き以上に喜ぶだろう。

 単独行動を好む玲が、仕事が終わるまで待っててくれ、と返したのだから。

 



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自覚

 シンデレラプロジェクトの新田美波が倒れた。

 スタッフ間で共有されたその情報に、多くのスタッフ達が慌ただしく動き始めた。

 ライブの曲順の変更。それに合わせた照明や音響機材担当への通達と対応。アイドル達の衣装変更に伴う担当スタッフ達とのミーティング。その他諸々の対応をライブの運営と同時並行で行わなければならない。

 慌ただしく駆け回り、撮影担当だった玲もベテランとして各スタッフ達のフォローを兼任しなければならない程だった。

 二人一組で動き、連絡と実務をこなしていくスタッフ達を撮影しつつ、自身もまた手が回り切らないスタッフのフォローをする。

 アルバイトの仕事量としては膨大過ぎるそれらを確実にこなしていく姿は学生のそれではない。だからこそ大人でも彼を頼ってしまうのだろうが。

 そんな玲のポケットが震える。すでに曲順はシンデレラプロジェクトまで回ってきており、現在ステージに立っているアスタリスクというユニットを除けば、残りは10曲にも満たない。新田美波の代わりに、アナスタシアと組んだ神崎蘭子の二人組ユニットであるラブライカ。本田未央、島村卯月、渋谷凛の三人組ユニット、ニュージェネレーション。その後数人のアイドルを挟み、最後の曲に選ばれたシンデレラプロジェクトの全体曲。

 残り1時間弱のライブで、これ以上の問題は起きないだろうと、振動の原因であるスマホを取り出す。

 受信したメッセージの相手は、会場の出入り口近くに設置された物販用仮設テントで玲の代わりにリーダーを務めている松山という青年だ。

 玲と松山は以前から既知の間柄で、年齢こそ松山の方が上だが、仕事場では玲が先輩にあたる為、互いに敬語で話す仲でもある。

 そんな松山からの連絡は、玲の眉根を寄せさせるような、嫌な知らせだった。

 「…追加報酬でんのかな」

 外からは、纏わりつくような湿った空気が流れ込んでいた。

 

 

 「プロデューサー!」

 玲が松山からの連絡を確認している頃、歌い終えたアナスタシアと神崎蘭子の二人が切羽詰まった表情でステージを降りてきた。水色のドレスは濡れ、セットした髪もぐしゃぐしゃになっている。

 原因は雨。 

 快晴だった空は黒い雲に覆われ、大粒の雨が会場を襲っている。

 「そんな…」

 ラブライカの次に出る予定だったニュージェネレーションズは待機。忙しく動いていたスタッフ達も、ライブの進行そのものが停止したために休憩を取っている。

 この調子で雨が降り続ければライブの中止もありうる。それは一度挫折を味わっているニュージェネレーションズの三人には堪えるものだろう。

 どうすることもできない状況で、アイドルも機材スタッフもプロデューサーたちも、不安な気持ちを誤魔化そうと談笑したり、イメージトレーニングをしたりしている。

 そんな中、ステージ脇を駆けていく少年を、ニュージェネレーションズの渋谷凛が視界に捉えた。

 「玲…?」

 玲はスマホを耳に当てながら、小走りでステージの外へと向かっている。その姿を視線で追うだけでなく、追いかけた。玲を追う凛に気づいた武内も、無意識に追いかけてしまう。

 そうして二人が追いかける玲が立ち止まったのは、土砂降りの雨が目の前に広がる出入口の前だった。耳に当てたスマホを降ろし、ため息を吐く玲に話しかける。

 「なにかあったの、玲?」

 急に話しかけられた玲は、驚いた様子も見せずに振り返る。

 「渋谷に、武内さん。待機してなくていいんすか?」

 「はい。どのみち、今は誰も動けませんから。それより、秋葉さんはどこへ?」

 「物販のリーダーから連絡が来まして。観客が適当に散り過ぎたみたいで、立ち入り禁止区域まで広がってるそうなんで、ちょっと助っ人に」

 「な…っ!」

 「他にも誰か連れて行った方がいいんじゃない?スタッフさんとか、足りないなら私も行くよ」

 状況を聞いた武内は絶句し、凛は自分も手伝うと言い出す。けれど、武内はプロデューサーにしかできない仕事があるだろうし、凛に至っては以ての外だ。これから出演するだろうアイドルに会場の整備をさせる奴がどこにいる。

 玲は不必要な申し出を断り、傘も差さずに土砂降りの中に踏み出す。

 「向こうにいるスタッフだけで充分ですよ。それと…」

 数秒と経たずに全身ずぶ濡れになった玲は、振り返って凛に言った。

 「これは俺でもできる仕事だ。でも、渋谷にはアイドルにしかできない仕事があるだろ」

 適材適所でいこう、と玲は土砂降りの中を走り出した。

 その後ろ姿を見送った凛は、静かに拳を握る。

 

 フェスが始まってから、凛は玲がスタッフ達の写真を撮っていることを知っていた。スタッフとして参加することは知っていても、何処で何をするかまでは知らなかったため、意外と近くにいることに驚いた。

 昔から色んな事を吸収し、なんでもこなせる器用さはあった玲だが、それらの経験という景色をカメラに映す技術はずば抜けていた。玲の写真を、玲以外の人物の中で一番見ているのは凛なのだ。その技術の高さは誰よりも知っている。

 だから、適材適所な役割を与えられていることに納得したし、ほとんど無表情ではあったけれど楽し気に仕事をしている姿には、どこかほっとした。

 このまま何事も無くフェスが進み、ニュージェネレーションズの出番になったら。

 玲は見てくれるだろうか。

 笑ってくれるだろうか。

 もう一度、振り向いてくれるだろうか。

 そんな事ばかりを考えていた。

 シンデレラプロジェクトのリーダーである新田美波が倒れた時は、流石に玲のことを考えている暇はなかったけれど、それでも今日は誰よりも気合を入れて臨んでいる。それは、ニュージェネ初ライブで失態を犯し、その失態を乗り越えようとしている本田未央よりも。

 だからこそ、この土砂降りの雨は憎たらしく。

 その中で自身の仕事を全うしようとする玲に、自分との差を見せつけられた気がした。

 

 「渋谷さん、私たちは戻りましょう。秋葉さんの言う通り、私たちには私たちにすべきことがあります」

 「…うん。そうだね」

 新米とはいえプロのアイドルと、大人であるプロデューサーよりも仕事に対しての責任感が強く、判断も早い。自分の役割と能力を理解し、即行動に起こせる。

 盲目的になっていた私とは大違いだ、と自嘲する。

 確かに意識の差はあったかもしれない。

 玲にとって凛は意識する必要もなく、凛にとって玲は意識せざるを得ない存在だ。

 それでも、プロとしてこの場に立つのなら、何よりも優先すべきなのは目の前のファンたちで。このイベントを支えるスタッフの一人である玲のことは二の次にすべきだった。

 「ねぇ、プロデューサー」

 「はい、何でしょうか?」

 雨に濡れることも無く、既に見えない玲の背を見るようにして呟く。

 「玲、私達のこと、見てくれるかな?」

 それは、玲よりもファンを優先するという宣言。

 そしてその答えを、武内は持っていた。

 「ええ、必ず」

 武内は、本人から言われたのだ。

 渋谷凛がアイドルとして輝く姿を見せてくれと、そう言われたのだ。

 ならば、今日のライブはその成果を見ることができる最大のチャンスだ。その機会を彼がみすみす逃すわけがないと、武内は凛の言葉に首肯した。

 

 雷が鳴り、土砂降りだった雨は勢いを劣らせている。

 屋外会場とはいえ、アイドル達が立つステージには屋根があり、入り込んだ雨水を掃けばフェスも再開できるだろう。

 たとえ観客が少なくとも、待ってくれる人が一人でもいるのなら、彼女たちはその人へ笑顔を贈らなければならない。

 笑顔にしたい人が、その中に居なくとも。



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仕事の虫

 土砂降りの中へ飛び出した玲が最初に向かったのは、会場入り口近くの物販用仮設テントだった。

 数万人を収容する観客席は相応の広さがあり、当然、ステージ側から出入り口までの距離は遠い。その距離を大雨の中で走れば、ただでさえ夏の暑さとアイドルの体調不良というアクシデントのフォローで疲労が蓄積されている体に、さらに負担を掛けることになる。

 しかし、テントに到着した玲は息切れこそしているものの、すぐに息を整えて状況の把握を始める。

 「松山さん、状況は?」

 「秋葉さん!現在観客たちが散り散りになって雨宿りを始めています。ただ、人数も人数ですし、ほとんどの観客がまだ避難できておらず、スタッフに雨具の配布を指示しています」

 「グッズの在庫は?」

 「先ほど積み込みが終わったところです」

 「そうですか…」

 「すでに立ち入り禁止の区域に入った方々には説明して移動してもらっていますが、またすぐに入ってしまう人が出てくると思いますけど」

 玲の代わりに指揮を執っていた松山から状況を聞き、すぐに考え込む。

 

 現状、346プロが用意していた雨具を物販組のスタッフが配布しているとのことだが、終わるまではかなりの時間を要するだろう。つまり、観客たちの誘導はこのテント内にいる二十人ほどで行わなければならない。一応、避難場所は準備段階から想定され決めてあるが、観客全員を収容できるかと言えばそうではない。必然的に、ライブ会場外にも避難してもらう必要がある。

 玲は歯噛みする。

 最悪、雨だけならば避難させる人数は最小限で済んだ。しかし、雷が鳴り、一時的とはいえステージが停電している状況を鑑みるに、仮設テントでも屋内に避難させなければマズいだろう。

 避難できる場所は十数か所。入り口付近には大きな木が立ち並び、完全にとはいかないが、それなりに雨は凌げるだろう。しかし、入り口付近ではライブが再開した際の音が聞き取れない可能性がある。完全に晴れてから再開するのなら音は届くだろうが、ライブが再開できそうなレベルで始まるのならば、雨音で耳に届かず、最後まで見れずに帰宅する観客が出てくるかもしれない。

 

 必要なのは、避難場所へ最小限の人数で誘導すること。そして、ライブ再開時に、観客全員に、平等に、ライブ再開が伝わるようにすること。

 正直に言って無理難題。出来るかどうかで言えば、出来ないと言っていいなら即断するほど。

 「……在庫の中に、サイリウムはありましたか?」

 「え、ええ。グッズ自体の売り切れは何人かいましたが、別売のサイリウムは各アイドル数十本はあったかと」

 そんな中で玲が尋ねたのは、ライブでファンが持つ光る棒の在庫だった。

 ファンの多くは充電や電池で動く、様々な色に発光するものを持参しているのだが、ライブ初参加や持ってくるのを忘れたファンの為に、会場の物販でも買えるようにしてある。そのため、シャツやフェス限定グッズとは別に売り上げを計上しているのだ。

 「すみませんが、各アイドルのカラーを十本、シンデレラプロジェクトはユニット単位で十本ずつ用意してもらえますか?」

 「サイリウムをですか?用意はできますけど、一体何に…?」

 「避難誘導です。皆さん、お手伝いをお願いします」

 

  

 玲が考えたのは、避難場所をわかりやすく明示すること。そして、最小限のスタッフで、観客を避難場所へと誘導することだった。

 そのための鍵となるのが、大量のサイリウムだった。

 避難場所に各アイドルのイメージカラーとなるサイリウムを大量に配置し、比較的近くにいる観客たちから見えるようにする。そして、避難場所には観客席の警備をしていたスタッフと物販スタッフを一人ずつ配置し、テントないし屋根の下から呼びかけを行う。避難場所は合計15か所。20人の物販スタッフと、10人ほどの警備スタッフをそこに配置すると、残るのは物販スタッフ5名。

 その残りの5人が何をするのかと言えば、避難場所への誘導と、その流れを作ることだった。

 

 「東側の皆さんは高垣楓、小日向美穂、城ヶ崎美嘉、十時愛梨、凸レーションのいずれかへ移動してください!各避難場所にはアイドルのイメージカラーが掲げてありますので、目印にしつつ流れに乗って避難してください!」 

 各避難場所の近くから、拡声器を使って呼び掛けていく。

 最初は端にいる観客から、移動の流れに逆らって客席の中央にいる観客へと。 

 「焦らず、横入りしなよう移動してください!比較的遠い場所でも、ライブ再開が分かるよう対応していますので、安心して移動してください」

 玲を含めたスタッフ達の呼びかけに気づいた観客たちが、徐々に移動を始める。松山の指示で動いていたスタッフから受け取ったであろう雨具を着用した観客が多いことから、雨具の配布をしていたスタッフ達も直に手が空くだろう。

 それを確認した玲は、防水の為にビニールに包まれたトランシーバーを口元に当てる。これはスタッフ間で連絡を取るために、346プロから支給されたもので、物販班やステージでの作業班等、各班ごとに数台が割り当てられている。現在、物販班で持っているのは、玲と松山、避難場所で待機している数人のスタッフ達だ。

 「雨具の配布を終えたスタッフが戻ってきたら、会場入り口近くで雨宿りが出来そうな場所を探すよう指示してください。必要であればサイリウム等、目立つものを持って行っても構いません」

 小さなノイズ音の後に聞こえた了解の返事を聞き届けた玲は、再度呼びかけを続ける。

 そして、避難場所へと流れる列ができたところで、再度トランシーバーを操作し、松山にだけ声が聞こえるよう調整する。

 「松山さん、観客の移動状況はどうですか?」

 「凡その流れは出来て、皆さん避難場所に向かっています。他のスタッフの方も同じ感じですね」

 「了解しました。それじゃあ、松山さんには申し訳ないんですが、ステージ側で合流してもらってもいいですか?」

 「いいですけど、スタッフの補充ですか?」

 「いえ、必要なものを借りに行くんです。その手伝いをお願いしたくて」

 「必要なもの…」

 ライブ会場外でも、ライブの再開が分かるようにしなければならない。スタッフを派遣すれば問題ないだろうが、それでは時間がかかる。

 ならば、一度に、多くの人に伝わる方法を取ればいい。

 「スピーカーを借りに行きます。アイドルの声が聞こえれば、帰る人も減るでしょう?」

 

 流石に二度も走って移動するとなると、普段から長距離移動をしている玲でも疲労が見えてくる。

 「だ、大丈夫ですか?」

 「はぁ、はぁ、大丈夫です。それより、スピーカーは借りられそうですか?」

 「ええ、一台予備のスピーカーがあるそうなので、事情を説明して貸してもらえることになっています」

 「そう、ですか。ありがとうございます」

 「それより、秋葉さんも雨具を着たほうがいいですよ!長時間濡れた上にこれだけ走り回っていれば風邪をひきますよ!」

 先にステージ裏へ到着した松山が音響スタッフに話を通し、あとはスピーカーを待つだけとなっている。その数分後に到着した、水の中に入ったかのような姿の玲に、驚きとともに心配してしまう。仕事上は先輩とはいえ、実際の年齢は松山の方が上だ。その松山が雨具を着こみ、年下の玲がずぶ濡れになっている現状は心が痛むのだろう。

 しかし、当の本人は気にしておらず、仕事のことしか頭にない様子だった。

 「これだけ濡れていたら変わらないですよ」

 「それは、そうですが…」

 「とにかく、今は人手よりも動ける人間が必要です。物販組のスタッフには悪いですが、こういった事態で観客の動きに対応できるのは彼らだけです。必要な備品代等は自分の給料から引いてもらいますので、何よりも観客の満足度を維持できるように最善を尽くしましょう」

 その姿は、まるで高校生とは思えない姿で。

 必死に、夢中に、熱中できるよう何かを探している人間には、到底見えなかっただろう。



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進歩/コンテニュー・トライアングル

 結局のところ。

 玲たちの働きは実を結び、雨の勢いが落ちてきたところで、ニュージェネレーションズの曲からライブは再開。避難場所に入れず、会場入り口近くで雨宿りをしていた観客たちは、玲と松山が設置したスピーカーによって、ほとんどの人が帰らずに最後までフェスに参加できたのだった。

 その功労者である物販組、および助っ人として参集した警備組のスタッフ達には特別報酬として、346のアイドルのライブの優待券が配布されることとなった。

 避難誘導のために使われた大量のサイリウムについては、玲から武内に説明し、玲の給料から差っ引くよう願い出たが、玲の機転とスタッフ達の活躍によってフェスが続行できたと、むしろ感謝されるほどだった。おかげで、給料の減額どころか、物販スタッフの給料が僅かにだが増額までされた。物販組のスタッフ達も、珍しい事態に興奮したのか、笑い合いながら最後の観客を見送って、自分達より年下の玲に感謝して帰宅していく。

 アクシデントこそあったものの、346プロアイドルサマーフェスは大成功を収めた。

 

 巨大な屋外ステージの解体は、安全性の観点から翌日行われることになり、346のプロデューサーやアイドルを除いたアルバイト等のスタッフたちの大半は帰宅していた。

 最寄りの駅へと歩いていく人の流れの中に、とある三人の姿があった。

 「いやぁ、凄かったな」

 「ねー!ライブもだけど、玲の仕事っぷりもね!」

 「…別に、普通に仕事してただけだろ」

 「いやいや!秋葉があんな大声出して走り回ってるのなんて見たことないぞ」

 「そりゃ、そうする機会がないっすから。それよか、最後まで見ててよかったんですか?」

 「ああ。親にも連絡済みだしな」

 「玲はうちのお父さんが送ってくってさ」

 「ええ…。悪いな」

 観客としてフェスに参加していた加蓮と奈緒は興奮冷めやらぬといったように、フェスを思い出して語り合う。その隣を歩く玲は、フェスのスタッフとしての仕事を普通にこなしただけなのに、珍獣でも見たような反応をされて小首を傾げていた。

 加蓮の両脇に奈緒と玲が並び歩く三人は、会場近くの駅からほど近いコンビニへと向かっている。そこで奈緒は母親が、加蓮と玲は加蓮の父親が迎えに来てくれる手筈になっているのだ。本来の予定なら三人そろって電車で帰るはずだった。しかし、玲が奔走する羽目になった原因の大雨によってフェスの終了が遅くなったために、高校生とはいえまだ子供の彼らの安全を考えた上での判断であった。

 

 それはさておき。

 

 「そういえば、今日のフェスに出てたニュージェネレーションズの渋谷凛って子、私達と同じ中学なんだよね」

 思い出したように話し始めた加蓮の言葉に、玲の耳がピクリと動く。ただそれだけであり、それ以外の変化はない。

 「玲は知ってる?」

 加蓮の問いに、玲はいつもの調子で答える。

 「知ってるよ」

 「へぇー」

 「ほーん…」

 自然と出た玲の答えを、二人の脳が処理したのは数秒後のことだった。

 間抜けな返事をしながら歩く奈緒が、バッと加蓮越しに玲を見て。隣を歩く加蓮が玲の肩を掴んだ。

 「…今、なんて?」

 「あの秋葉が、中学の同級生を知ってる、だと?」

 「え、なに。なんすか、その反応」

 驚きと困惑が交じり合った表情で失礼なセリフを吐く奈緒。しかし、それ以上に動揺した様子なのが、玲の肩を万力のように掴む加蓮だ。

 「あと北条痛い。肩痛い」

 「…玲が知ってるってことは、それなりに仲が良かったってことだよね?」

 「いや、普通にクラスメイトくらい覚えてるわ。体育祭の話とかしてやったろ」

 「クラスメイトの名前なんて聞いたことない」

 「学校のイベントくらいしか、クラスメイトの思い出なんてねーし。北条、イベントの話しても俺の事ばっか聞いてくるじゃん」

 「それは玲の…」

 「俺の?」

 「…なんでもない」

 「そうか」

 言いかけた言葉を飲み込む。

 確かに加蓮は、中学時代の玲からクラスメイト達の名前を聞いたことは一度も無い。けれどそれは、玲が一度も口にしたことが無い訳じゃない。

 入院中だった加蓮に学校での出来事を度々伝えていた玲は、当然クラスメイトの名前だって口にしていた。体育祭も文化祭も、どうあろうと多人数で行われるもの。放課後は単独行動ばかりの玲だが、学校にいればクラスメイトと話すことも多々あった。

 それもそのはず。

 成績優秀、運動神経抜群。お手伝いと称した社会活動に、一人旅による雑学や、現地での聞き込み等による高いコミュニケーション能力。完璧超人に見えるが、片思いの相手の為に突っ走り、そのためにバカもできる。そんな玲がクラスでボッチになるなど、ドブと下水を煮込んだような性格でもない限り、この上なく難しい話だろう。

 だからこそ、クラスメイトの名前を憶えている玲が、態々はぐらかすような話をする筈も無く。

 そのうえで加蓮が、玲の口からクラスメイトの名前を聞いたことが無いと言うのなら、その答えはたった一つ。

 「…お前、秋葉の活躍しか聞いてなかったんだろ」

 「うぐっ」

 「秋葉の事、昔から大好きだったんだな…」

 「…うるさいな」

 「何話してんの?」

 「うるさいっ!」

 「いてっ」

 掴まれた肩を押され、軽く頭を叩かれる。その勢いのまま大股で進んでいく加蓮を、玲と奈緒がゆっくりと追いかける。

 「なんの話してたんすか?」

 「ん、あたしの口からは話せないことだな」

 「そっすか」

 「ああ。それより、秋葉って夏休みバイト漬けか?暇な日はあるか?」

 「明日はフェスの片付けがありますけど、それ以外だったら暇っす。前日までだったらずらせる予定ばっかですし」

 「いや、別にそこまでしなくていいけど…。加蓮と遊びに行く予定立ててるんだけど、うちの家族と加蓮ちの両親とキャンプでも行かないかって話になってんだ。後で日程の連絡するから、予定が無かったら一緒にどうだ?」

 「ああ、まぁ、俺が行っていいなら行きますけど…」

 「よっしゃ。決まったら連絡するよ」

 夏休みの予定が着々と埋まっていく。それを見越してスケジュールを組んでいた玲だったが、それなりに予定の変更とキャンセルをしなければならいかと考えていた。

 今まで通りであれば、自分一人で行動可能な予定のみでよかったが、今後はそうもいかない。

 最終的には自分の為の研鑽ではあるが、それでも誰かがいなくては進めないのだ。既に組んでしまった予定では、先に進めないのだ。ならば、多少の迷惑は承知の上で、誰かと何かをしなければ。

 今日見た、見てしまった輝きが、振り切ったはずの玲の心を少しずつ蝕むのだ。

 「玲ー、奈緒ー、早く行こうよ。お父さんたち、もう来てるってさ」

 「おーう」

 

 前を歩く加蓮と奈緒の背中を見る。

 今日出会った346のアシスタント、千川ちひろが言った通りならば、目の前の二人がアイドルとしてデビューする日もそう遠くない。そうなれば、今のような付き合いは無くならないにしても、明らかに少なくなることは確かだ。

 別に、そのことに寂しくなるとか、二人がデビューすることに嬉しくなるとか、そんな気持ちは湧かない。

 身近にいた人間が離れるくらいで揺れ動くような心を持っていれば、渋谷凛がアイドルになった時に泣いているだろう。

 それでも、ほんの少しだけ、この時間が減ってしまうことを惜しんでしまうのは、玲が前に進んでいる証拠だろうか。

 誰かを追いかけ続けて、只管に研鑽する。あの笑顔を見たくて、けれど自分も楽しくて。

 燃え続けた過去は、玲の中で最も大切な記憶として残っている。

 それでも燃やし続ければ、いつかは燃え尽きる。

 燃え尽きた先にも、日々は続いていく。

 これからを歩くための種火を、玲は探している。

 

 北条加蓮と神谷奈緒。

 二人の背中を追う秋葉玲。

 自らが燃えるための種火を探し続ける彼らが、輝かしく燃え上がる日々は、もう目の前だった。



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日常/コンスタント・トライアングル

 「あ、すみません。次のコンビニで降ろしてもらってもいいですか?」

 加蓮の父親が運転する車の後部座席から、玲が運転席に声を掛ける。北条家に向かう途中にある玲のマンションへの最短ルートを選ぶ加蓮の父は聞き返した。

 「次のコンビニ?何か買うのかい?」

 「いえ、親戚が近くで飯食ってるみたいで。そこにちょっと呼ばれたんですよ」

 「親戚?それって瑞樹さんのこと?」

 「そ。今日の打ち上げがてら、二人で飯食ってるから来いってさ」

 「へぇ、いいなぁ」

 玲のスマホには、瑞樹からの連絡が入っていた。フェスの打ち上げとして、出演していた成人組アイドルと夕飯を取っている写真と、その後二軒目と思われる店で瑞樹と楓がお猪口を持っている写真が送られている。

 時刻は10時。高校生が外出するには遅い時間帯だが、親戚と知り合いの大人が一緒なら外食するくらい問題ないだろう。その上、疲労があるとはいえ今日の予定は消化している。基本的に誘われた事には二つ返事で了承する玲が、瑞樹からの誘いを断る理由は一切なかった。

 問題があるとすれば、ただ一つ。

 「こんな時間にかい?もう遅いし、帰った方がいいんじゃないか?」

 実の親より玲の身を心配する加蓮の父。

 元々、加蓮に対して過保護だったのは知っていた。娘が病気がちだったことを考えれば不思議なことでもない。けれど、その加蓮が毎日のように話す玲の事まで過保護になることに、玲は首を傾げる。

 血の繋がりは無い。親戚でもない。友人の父という関係。

 たかがそれだけの関係で、こんなにも心配されることなど、今までならありえなかった。実の両親からでさえ、心配されている言動もされたことがないのだ。

 だからこそ、玲は知らない。

 加蓮の父、どころか北条家が加蓮を通じて玲の現状を知っていることを。そして、ほぼ一人暮らしで苦学生のような生活をしている、娘と同じ年の子供を応援したいと思っていることを。

 ちなみに、神谷家も同じ状態である。

 

 それはさておき。

 どうにか加蓮の父を納得させた玲は、コンビニの駐車場に降りる。

 「送ってくれてありがとうございます」

 「気にしないでくれ。それより、時間も遅いし気を付けるんだよ」

 「はい」

 運転席の窓を挟んでお礼を言う。心配そうな顔をする加蓮の父を安心させるように、何度も大丈夫だと言って聞かせる。その光景を見ていた加蓮が、運転席側の後部座席の窓を開けて身を乗り出してきた。

 「いいなぁ。瑞樹さんだけじゃなくて高垣楓さんもいるんでしょ?私も行きたーい」

 「それは俺じゃなくておじさんに言ってくれ」

 「ダメだぞ、加蓮。流石に玲君や親戚の人たちにまで迷惑はかけられないだろう。パパだって迎えに行けないし、今日はもう帰るよ」

 「ぶー、わかったよー。それじゃ玲、またね」

 「ああ、またな」

 テールランプの赤い光を見送った玲は、コンビニの駐車場を出て真っすぐに目的地へ向かう。

 瑞樹と楓が現在いるのは、居酒屋しんでれらという、玲が楓に紹介した店だ。その後、瑞樹が偶然店に訪れ、346に所属する成人組アイドルの溜まり場になっていることを玲は知らない。

 

 兎にも角にも、以前と変わらぬ外観のしんでれらに辿り着いた玲は、臆することも無く引き戸を開ける。

 そもそも、玲がこの店を知った経緯は、財布を落とした店主が乗った車を走って追いかけ、店内に入る店主に玲が声をかけた事が発端なのだ。酒さえ呑まなければ少し高い程度のお店だが、それでも高校生が居酒屋に入るのは、大人が同伴するか玲のようなイレギュラーが無ければ入りにくいことに違いはない。

 ともかく、ガラガラと鳴る扉をくぐれば、店内にはカウンター席に座る二人の女性しかいなかった。

 「相変わらずギリギリの経営してますね」

 「入店早々失礼よ、玲ちゃん」

 以前来た時と変わらない、空席の目立つ店内。その中でお猪口を傾ける二人のアイドル。

 川島瑞樹と高垣楓。346プロが誇るアイドルの頂点。

 そして、秋葉玲の保護者的存在でもある。

 「未成年をこんな時間に居酒屋に呼ぶ姉に言われたかないよ」

 「あら、これは一本取られましたね、瑞樹さん」

 「楓ちゃんが玲ちゃんを呼べって言ったんじゃない。今日のフェスで、玲ちゃんも頑張ってたからって」

 「そうでしたっけ?」

 いつもの漫才を始める二人をよそ眼に、玲はカウンターに着き、お茶と適当なつまみを注文する。会場でスタッフの為に簡単な夕食は出されたが、成長期の高校生には物足りないだろう。こうして呼び出されたときは二人が奢ってくれることが常になっているので、そこまで高くなく、それでいて腹が膨れるものをと、たこ焼きを選んだ。

 「そういえば、今日は店長だけなんですね?」

 すっと手渡されたおしぼりで手を拭きながら、カウンターの向こう側で調理する店長に話しかける。

 「まぁな。それより、お前の姉ちゃんら大丈夫か?うちが二軒目なんだろ?」

 「あー、まぁ最悪うちか瑞樹さんちに連れてくから大丈夫。二人ともザルだし」

 二人のやり取りの横では、右手にお猪口、左手に焼き鳥を持つ楓を諫める瑞樹が、大人とは思えない騒ぎ方をしている。

 ぎゃあぎゃあとアイドルの声が響く中、焼き上がったたこ焼きをカウンターに出す店長。割り箸を手に持って、熱々のそれに手を付けようとする玲に話しかける。

 「今日は何のバイトだったんだ?」

 「346のフェスのお手伝いさんよ。今日の玲ちゃんは大活躍だったんだから」

 「誰よりも走り回ってましたからねぇ」

 「普通に仕事しただけでしょ。…あつっ」

 「その仕事量が普通じゃないのよ。出演してたアイドルより忙しそうだったわ」

 頬を赤らめた瑞樹が、まるで息子を自慢するかのように、今日の玲の働きぶりを語る。普段から楓のお世話係をすることが多い瑞樹だが、大きなライブの成功と弟のように可愛がっている玲の活躍、そこに飲酒による酔いも相まって、今夜の瑞樹はいつにも増して饒舌だった。

 「でもねー、うちの正規スタッフ以上にしっかりしててねー!今日の成功は玲ちゃんなくしてあり得ない、って感じ!」

 ぺらぺらと誰も聞いていないことを喋り出す瑞樹。楽しそうに話すその傍らで、楓はお猪口を手に頷き、玲はたこ焼きを冷ましながら口に入れ、店長は瑞樹の話をラジオ代わりに、二人のアイドルが食べ終えた皿を洗っている。

 ゆっくりと流れる時間。

 穏やかな空気。

 静寂も、喧噪も、この空間に溶けていく。

 

 これまでと同じだ。

 玲と瑞樹と楓。大人と子供。アイドルとお手伝い。

 三人の関係を示す言葉は様々だが、一つ確かに言えることは、三人でいるこの時間が三人にとって居心地のいい時間であること。

 玲が凛の為に奔走し、楓がトップアイドルと言われるようになり、瑞樹が仕事に忙殺されるようになった頃。

 周囲から見れば、自分の好きなことをしている三人は幸せそうで、その忙しさだって望んでその立場にいるのだから当然だと言うだろう。

 しかし、好きなことをしていても、そこには責任と重圧が存在し、楽しさと同時に同じだけの苦しさを抱えている。

 玲は凛の為。楓はトップアイドルとして。瑞樹はアナウンサー時代からメディアに出続けている者として。

 失敗が許されない立場にいる。自分の事を考えているだけではいられない。誰かの人生に関わる覚悟と責任を抱えて、三人は歌い、踊り、話し、体験してきた。

 だからこそ、その責任を一時的にも放棄できるこの時間と場所は、居心地の良さ以上に必要なものであった。

 「…あら?」

 いつの間にか眠ってしまった瑞樹に気づいた楓が声を上げる。346プロでの成人組アイドルで呑むときは、酔いつぶれることなど無い瑞樹がこうなるのは、玲と楓がいる時だけだ。

 「はぁ…。店長、会計は…」

 「付けといてやるよ。姉ちゃん連れて帰りな」

 「いえ、私が払います。瑞樹さんと玲君にはいつもお世話になっていますから」

 「すいません、助かりますけど、いいんですか?」

 「はい。いつものお礼です」

 「…んじゃ、これ伝票な」

 瑞樹の荷物と本人を背負った玲が店を出て、会計を終えた楓が遅れて温い気温の夜空の下に出てくる。

 「楓さん、終電あるんですか?」

 「どうでしょう…」

 「じゃあ瑞樹さんちに泊まっていってください。ここから近いですし」

 「そうですね、そうさせてもらいます。玲君も泊まっていきましょう?」

 二人は歩き出す。

 馴れ合いではなく、家族でもなく、ただ責任を背負い込んだ三人の関係は、なにも特別なものではない。

 暖かく、穏やかで、けれど変化することの無い不変の三角形。

 踏み込まず、踏み込ませず、遠目から見守り、支え合うだけのそんな関係に、秋葉玲も、川島瑞樹も、高垣楓も満足している。

 帰る場所ではない。進むべき場所でもない。ただ、休憩するためだけの場所は、これからも在り続ける。



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決意/ディストート・トライアングル

 観客のいなくなったライブ会場。スタッフのほとんどが帰宅し、明日も仕事がある一部のアイドル達もすでに会場を後にしている。

 スイッチ一つで消灯できるだけのライトを残して、会場に設置されたライトは全て消されている。

 その唯一の光源で照らされているステージ上に、シンデレラプロジェクトとそのプロデューサーの姿があった。

 「渋谷さん」

 「…プロデューサー」

 ライブシャツに短パン、裸足というラフな格好をした凛に声をかける。

 真っ暗な観客席を見つめていた凛がゆっくりと振り返り、またすぐに視線を外した。

 「今日のライブは、どうでしたか?」

 綺麗な翡翠色の瞳が見つめる先は暗闇で、けれど凛には違う景色が見えているのだろう。

 ずっと助けられ、支えられ、追いかけても手が届かない少年の背中。ゆっくりと歩くその背中は、凛がどれだけ走ろうと追いつけない、あまりに遠い存在だ。

 瞼を閉じて、その姿をかき消す。

 「…楽しかった」

 「…!」

 瞼の裏にあるのは、ニュージェネレーションズとして、卯月と美央と、多くの観客たちとともに笑顔になったこと。シンデレラプロジェクトの14人で成功させた全体曲。

 努力が実り、過去の失敗を乗り越えた今回のライブは、成功以外の何物でも無かった。

 努力が報われれば嬉しいし、望んだ結果になれば尚嬉しい。その結果を得るために仲間たちと臨んだライブは、自分を含めた誰もが笑顔で。

 楽しかったという感想は、これ以上ないくらいに凛の感情を表していた。

 「私も、みんなも、笑顔でさ。アイドルって、まだよくわかんなくて、がむしゃらにやってたけど…今日、なんとなくわかった気がするよ」

 「そう、ですか」

 「でも」

 

 楽しかった。嬉しかった。

 けれど、それ以上に。

 「今のままじゃダメだって思った」

 このまま、流されてアイドルをやっているだけでは前に進めない。

 もっと、自分の意志で道を決めなければ。

 もっともっと、アイドルとしての力をつけなければ。

 「今日、玲は会場にいる誰よりも頑張ってた。アイドルみたいに輝くわけでも、プロデューサーみたいに支えるわけでもない。大勢いるうちのスタッフの一人の事なんて誰も覚えてないと思う。それでも玲がいなきゃ、今日の成功は無かったよ」

 昔から知っているはずの少年は、少し目を離した隙に大人になっていた。

 凛が何事にも興味を持たずに歩いていれば、忠犬のように多くを持ってきてくれた玲。その経験値の差は考えるまでも無く、ただ与えられるだけの人間に成長なんて在りはしない。

 片や自ら動いて、実際に経験した少年。

 片や人から伝えられ、ただ見ただけの少女。

 今まで考えることも無かった玲との差が、今日のフェスで否が応にも理解させられた。

 「流されるだけの私じゃダメなんだ。今の私が玲をもう一回振り向かせるなんて出来るわけがない」

 「…渋谷さん」

 既に自立している玲に追いつき、振り向かせるためには、まだまだ足りない。

 「今日のステージはキラキラしていて、今まで感じたことの無い何かが見えた気がした。普通のアイドルならそれでいいのかもしれない。けど私は、私が胸を張ってアイドルだって言い張れるようになる為には、玲に見てもらうことが必要なんだ」

 それは、凛の覚悟だった。

 今まで凛は与えられる立場にいた。玲に多くの知識や景色を与えられ、アイドルという立場をプロデューサーに与えてもらった。誰かと笑顔になれる楽しさをシンデレラプロジェクトの仲間に教えられ。

 けれど、アイドルとしてステージに立つ以上、もう与えられる立場ではいられない。

 アイドルとは、ファンに、観客に笑顔を与える者のことだ。一時の夢を与える者のことだ。

 それならば、凛は進まなければならない。

 与えられることで生きてきて、与えられた立場に立つのなら、せめてその場での役割を果たそうと思っていた。だが、それだけじゃ足りない。

 与えられた立場に立つだけでなく、与えられた立場に相応しい人間になるために。

 「アイドルになったことが間違いだなんて思わない。でも、今までの私を支えてくれた、生かしてくれた玲を振り向かせなきゃ、皆にも、プロデューサーにも、ファンにも、何より自分に胸を張れない」

 

 瞼を開けて、夜空を見上げる。

 昼に大雨が降ったからか澄んだ空気の空には、多くの星々が輝いていた。その中でも、一際明るく輝き、誰もが知っているだろう三つの星が、翡翠の瞳に映る。

 「…ここから、始めましょう」

 「プロデューサー?」

 「今日の皆さんは、とても素晴らしい笑顔でした。アイドルとして輝く姿が見たいと仰っていた秋葉さんも、きっとその笑顔を見ています。ですが、私が秋葉さんと約束したのは、トップアイドルとして渋谷さんが輝く姿を見せることです」

 「っ!」

 「今日のライブは、渋谷さんがトップアイドルになるための第一歩です。ここから、経験や知識、色々なものを積み上げて、渋谷さんが胸を張って誇れるように、一緒に頑張っていきましょう」

 いつも変わらない無表情が僅かに綻ぶ。

 与えられた者が期待に応えなければいけないように、与えた者にもかけた期待に見合うだけの責任が伴う。

 武内の場合、それは渋谷凛が知らない何かを見られるようにすること。そして、秋葉玲に渋谷凛の笑顔を見せること。それが武内の責任だ。

 「…うん」

 夏の大三角をその眼に映して、凛は思う。

 アイドルになって、その苦しさを知って、それでもめげずに努力して、ようやくその成果が実った。

 けれど、自分の成長を一番見せたかった人は、自分よりもずっと前に進んでいて、後ろを振り向いてもくれない。

 背中を追っているだけではダメだ。流されているだけではダメだ。普通のアイドルではダメなのだ。

 光り輝くアイドルになって、夜空に輝く星のようになれば。どこからでも見えるような存在になれば、後ろを振り向かなくても、彼に見てもらえる。

 だからこそ、そのために。

 「玲に見てもらうために、玲を目標にするのはもう止める」

 背中を追うのではなく、玲が進むその先を目指して。玲が歩く道の上を目指して。

 「今日、玲が雨の中に飛び出すのを見て、その背中がどれだけ遠いのかが分かった。それでも、私は玲を超えなきゃいけない。玲が夢中になってくれてた私が、今度は自分の力で玲を夢中にさせるために。玲がいたから今の私があって、アイドルの渋谷凛を作ってくれたのは玲なんだって、誇ってほしいから」

 

 玲にとって、凛は過去の存在だ。それは両者が自覚している変えようのない事実。

 けれど、玲が凛を置いて先に進んだ理由を、凛は知らない。

 だからこそ凛は勘違う。勘違いしたまま、進む道を選ぶ。

 玲が先に進んだのは、凛の成長が無かったことに絶望したからだと。玲の努力が、実らなかったからだと認識して。

 だから、玲は間違っていなかったと、玲の努力は無駄じゃなかったことを知ってほしいと願って、凛は歩き始める。

 いつか対等に向き合えるようになって、自分の心の内を知ってもらうために、今の玲から目を離すことを決めた。

 その努力は間違いではなく、その想いは尊いものだ。

 ただそれを向ける相手の事を、進む人間と支える人間が知らないだけ。

 見当違いな方向へまっすぐに進む二人と、ようやく進む道に見当をつけた一人。

 三人の描く三角形は、歪に広がっていく。



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