埃の付いたチョコを食む。 (聖華)
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埃の付いたチョコを食む。

 典型的な豪邸である。半螺旋の巨大な階段を奥に構えたエントランスホールは、パーティの会場としては申し分のない広さで、丸テーブルが割拠する間に人型が立ち並んでいる。いくら上品に話していると言っても、これだけ数が多いとどうにも騒がしく感じられた。

 入口に立つ二人の背後で、巨大な扉が音を立てて閉まる。

 

「なんでも、一番の目玉はあのシャンデリアですとか」

 

 糊のきいたタキシードは、その言葉にゆるりと首を上にやった。オールバックにセットした白髪は、その程度の動作では毛の一本も乱れはしない。

 「はぁ」と、いかにも興味がなさそうに息を吐いた。

 

「金持ちの道楽だな」

 

 パーティホールの広い天井を、煌びやかなシャンデリアが埋め尽くしていた。黄金色を蔓か枝かの如く伸ばして、その先端にガラスを明かりに付けている。絢爛な会場の全てを照らす照明は、その存在感の為だろうか、どこか異形の生き物じみてすら見える。

 大型のトランクを下げた眼鏡の男は、隣の初老に尋ねた。

 

「旦那様はあの手の成金趣味はお嫌いですか」

「それ以上に煙草と酒が好きなだけさ」

 

 自身、自然胸ポケットに伸ばしていた手に、舌打ち。「とにかくだ」と言う。

 

「とっとと終わらせて帰るぞ。こんな甘ったるい空間にいつまでも居られるか」

 

 白いテーブルクロスをかけられた丸いテーブル。そのどれにもチョコレート菓子が並べられている。ガラスの食器に積まれたり、ケーキにされたり、あるいはクッキーであったり。種類は多くあったが、ともあれ全てのテーブルから一様に甘い匂いが香っていた。

 アイアン・フックの深くなった皺を、スミーは穏やかな笑みで窘めている。

 

 *

 

 オイルライターの注入口に、香水を僅かに垂らす。こうすると、香水の柑橘が煙草に混じって、また違った風味を引き出してくれるのだ――警備の合間に隠れて煙草を嗜んでいた部下から聞いた話である。愛用しているラム酒漬けの煙草には使わない手だが、今回は特別だ。

 

 フックの私室は海賊らしからず整っている。酒のボトルに航海図にと、成る程目を凝らせば船長室らしい物はあるのだが、それをクラシカルな家具や毛並みの整った絨毯が覆い隠してしまっているのだ。彼は終わらせた書類を書き物机に残して、来客用の机に灰皿とライターを置いた。皮張りのソファーに腰を深く下ろす。

 年寄りの数少ない楽しみと自称していた。煙草の先を低い温度でじっくりと焙って、少しずつ漏れる煙を口先で味わう。ただそれだけの動作だが、これがどうにも奥が深い。煙の量が少なくてもみみっちいし、量が多くても下品な味になる。もちろん煙草によって、煙の量や質、温度、舌解けは変わってくる訳で――未知は多く、しかし手間のかからない娯楽だった。金は従来溜めるよりも使うことに意義を見出している。

 

 あと数分もすれば、スミーが貿易船から買い上げた煙草を手に現れるはずだ。遠く異国の地で作られたあの煙草は、現地の王族が愛用している一品だと言う。大凡上品な味という物とは相容れない身の上だが、あれだけは例外だった。特別飾り立てていない、シンプルに自前の葉の味だけで魅了するあの一本は、高級品ではあってもゴテゴテとはしていない。

 うるさいガキも、ウェンディに演劇のチケットを握らせてある、まぁすぐには来ないだろう。全く、臭いだの文句を言うならとっとと部屋を出て行けばいいものを……。

 

 ぼんやりと視線を室内に向けていたフックは、慌ただしくこちらに歩いてくる足音にハッと我に返った。開いた扉に声をかける。

 

「なんだ、スミー。たしかに俺は楽しみにしていると言ったが、何もそこまで急がんでも」

「大変です、旦那様!」

 

 細身の剣を携えた執事服は、その手に何も持ってはいなかった。

 

「交易予定だった船が、怪物に襲われたとのことで――」

 

 *

 

 この街で一定の地位を築いた者は、常にフックの動向を伺っていた。街に長く居る者は、彼が何故海賊王足り得たのかを、例外なく知っていたのだ。つまり、彼は金持ちじみて部屋や身なりを飾り立てたりはしないが、人並み以上に強欲なのである。

 端的に言えば、『欲しい物は必ず手に入れる』性質なのだ。

 その後のフックの行動は早かった。ここ最近に起こった類似の事件を片っ端から調べ上げ、いくつかの船が交易を断念している事を知れば、これの種類を羊皮紙に一隻一隻書き留めた。生憎と被害のあった船に共通点はなかったが、しかし『被害に遭わなかった船』には手掛かりが残されていた。

 

「砂糖に氷、果物、ガラス、木材……あとは酒は通ってたか」

「どれも需要があるところですからね。まぁ、一見して怪しい箇所はありませんでしたが」

 

 「旦那様」とスミーがテーブルの一つを手で示した。

 

「あのテーブルなんて、どれもリキュールを用いたボンボン・ショコラですよ。あれならお口にも合うのでは」

「悪いが気分じゃないな。調理前の酒の方がまだ幾分か需要がある」

 

 煌びやかな社交場においても、この二人はそう目立ってはいない。スミーは相変わらず帯刀しているが、海賊のお膝元の交易都市である。お付きの者は誰も彼も武装して、菓子を嗜む人々に付き従っている。フックの方も戦闘に用いる大型の義手は外してしまって、人の形をした腕を黒い手袋で隠していた。

 

「まぁ、一番あからさまだったのは金属関連の輸送船だったな」

「武器や貴金属は粗方やられていましたからね。逆に、辿り着いたのは下に出回る鉄や諸々――主に鋏や包丁、あるいは鎚などに加工されるようなところです」

「あれが決め手だった。例え卸す先が一箇所でなくとも、羽振りが良い輩を見つけて逆算すればいいだけの話だ」

 

 前方、二人が並んで歩く先、人が少しずつ横にずれていく。まるでモーゼが海を割るかの如く、彼らの向かいから来る誰かの道を塞がぬように、客は皆一様に散っていく。

 「来たな」と呟く声に「来ましたね」と応える声。

 足をぴたりと止めた時、さて目の前にはふくよかな腹に両手に宝石を巻き付けた人が居た。巻き付けた、というのは紛れもない比喩であったが、しかし大粒の宝石がついた輪を全ての指と手首に付けているのだから、決して過言という訳でもない。

 

「ようこそおいで下さいました、我らが街の支配者殿! いやはや、今日は大人しい腕をして来られたようで」

「何、ドレスコードくらい守ってやろうと思ってな。見ての通り人目もある」

「おやおや、それならばお口の方にも気をつけて頂きたいものですねぇ!」

 

 ひそひそと話しあっている客の間を割って、黒服の男たちが湧いて出た。どれも手にはやれ銃だやれサーベルだと、見るからに物騒な物を手にしている。

 

「先程から会場を歩いて回りながら、物騒な話をぽろぽろと……それでは他のお客様が怖がってしまいます」

「そちらこそ随分物騒な警備員を用意したのだな」

「あなたの手下の皆様が嗅ぎまわっているのは知っていましたから。念には念を、という奴です」

 

 脂肪に引っ張られ細くなった目をさらに細め、男は指を鳴らした。それを合図に黒服が動く。刃物を持った前衛が得物を振り翳し襲い掛かり、銃を持つ後衛が逃げ道に射線を置く。周りの客は巻き込まれては堪らぬと慌てて逃げ出したので、彼らの周りには瞬時に円形に開けた空間が形成された。あるのは無人のパーティテーブルの群れ群れである。

 

 相手の膝元に飛び込んだからには、スミーもフックもこの展開は予測していた。

 つまり、この程度の包囲網は特に問題ではない、と考えていたのである。

 

 まず、スミーは飛びつく一人の剣を右に受け流すと、前に倒れ込んだその人の腹を蹴り飛ばした。『床と垂直に』飛んだ男はその先に居た何人かを巻き込みながら地面に倒れる。続いて味方の悲鳴にたじろいだ一人を目敏く見つけ肉薄すると、これの胸を一閃、地団駄踏んでよろけた腕を掴んで、隣の人間に向けて叩き付けた。

 その背中ではフックがサーベルの刃を右手に掴んで受け止めて、そのまま握り潰すと刃物の破片を周り目掛けて投げつけ牽制。ついでに半分になった得物を前に唖然としている男の金的を蹴り上げると、取り落した武器を奪い、これ幸いとばかりに手頃な黒服に斬り掛かった。刃と刃が鍔競り合った瞬間、義手のタービンを起動。高速に回転する短剣はプロペラじみて相手の得物を弾き飛ばし、弾丸が如き長剣が近場の誰かに当たって悲鳴を生んだ。

 

 彼らはこの手の戦いに慣れていた。最初に有利な状態に置かれた人間は、それが崩れると後が脆い。大群に対してタイムアタックをしてみせるなら、それ以上の人数を用意して轢き殺すか、規格外に強い少数精鋭で穴を空けるのが一番なのだ。

 

 前衛部隊は二人の初撃で完全に出鼻を挫かれ、また二人が距離を取るなりするだろうと待ち構えていた後衛は真っ向から千切っては投げする様を見て戦意を少なからず持っていかれていた。そんな状態でいざ引き金を引いても、二人が手頃な机をそちらに向かって蹴り飛ばす方が早いのだ。テーブルが床を跳ねる鈍い音と共に机に置かれた食器が割れ、辺りに降り注いだ。

 そうして、ここまで来てしまうと、弾避けついでの視線誘導に蹴られたテーブルに対して、思いの他注目が集まる。つまり、常軌を逸した人々の出した一手であるので、『これにも何か細工がされているのではないか』と無意味に警戒してしまう。実力差がある以上、やぶれかぶれにでも動いて痛み分けにでも持ち込むしかないのだが、さて誰が烏合の衆にそこまでの勝ちへの執念を求められるだろうか?

 二人が後衛に強襲をかけるまでにあった妨害は、数発の弾と三人の前衛のみであった。細身の剣は銃を構え直せぬように腕を切り、片手に下げていた大型トランクを鈍器にして数人を勢いよく横殴りにする。義手はストレートに腹を殴りあげ、今回も又得物を奪い取ると、長い銃身を鉄の棒に成り下がらせて振り回した。重火器はこうなると弱い。ゼロ距離で的は大きくとも、こうも動かれると味方への誤射と銃の反動が怖いのだ。だって、そうだろう。いくら訓練をされ反動に慣れているといって、誰がこの二人の前でコンマ数秒の動けない時間を作りたがるのか。

 ここまでされた烏合の衆(モブ)に残る道は二つに一つだ。つまり、武器を捨てて――武器を持っていると後ろから追い掛けられる可能性があるので――逃げ出すか、「ひぃ!」と間抜けた悲鳴と共に攻撃をし、かわされるかトランクや義手に弾かれるなりしてパーティフロアのタイル床に沈むかである。

 

 二人が手袋をした腕の埃を払ったのは、まったく同じタイミングだった。片方は燕尾服の皺を伸ばして、片方はここにない海賊帽を直す仕草をする。

 

「申し訳ありません、旦那様。私一人で露払いをするべきところだったのですが」

「気にするな。ここに長居したくないと言ったのは俺だろう」

「恐縮にございます」

 

 僅かなインクに濡れた剣と義手が、「さて」とばかりに一人ぽつんと残ったふくよか富豪に視線をやった。彼らの足元には死屍累々が新調された絨毯のようになって広がっている。足元付近で呻いた一人を、海賊王はうるさいとばかりに脇腹を蹴飛ばし他所にやった。

 丸い卵型のシルエットはこの惨状を見ても笑みを絶やさなかった。「おやおや!」と演技じみて言う。

 

「これは残念、実に残念! あれだけ数が居ればいくらかは傷もつくだろうと思っていたのに、嗚呼、嗚呼、金を生み出す脳のないバカ共の癖に肉体労働すらまともに出来ないとは!」

「ゴム毬だけあって、良い音を弾ませる。とっとと観念して落とし前をつけるって言うんなら、多少は融通してやるが?」

「まさか、まさかまさか! そもそもとして、私は誰の下にも下る予定はありませんとも! 私は元より、失敗してはいけない仕事は常に自分で成功させてきた男でございます故に!」

 

 この時点で二人は察した。つまり、ここまで追い詰めてもまだ顔を出さぬ怪物と、眼前の細目の余裕はイコールだ。

 輪郭が歪み、溶ける。ふくよかをそのままに、しかし人間としての形態を失っていく。膨らむ体をどす黒い瘴気がヴェールじみて覆い、時として足りぬ部位に入り込み、形成する。前に出た腹は向きが変わって下を向き、直立歩行は失われ四足に地面を這うようになる。宝石を巻き付けた腕は前足だ、煌びやかな金属の甲殻が丸太のような足と鉤爪を覆う。丸く鼻の低い人相が、やはり丸く鼻が低いままに頬と目の上にヒゲを生やし、人肌を毛皮に変えた。瞳孔が裂け、針になって二人を見下ろす。下敷きになったテーブルが二、三、木屑になって床に散らばった。

 パーティ会場に突如として現れたのは、はてさて巨大なデブネコであった。立てばちょっとした小屋程の大きさになる、グレーの毛並みの怪物である。口を開くと牙が見えた。

 

「あまり激しい運動は趣味ではないのですがねぇ。こうしてあなたに対抗できる力を手に入れた以上は、まぁ――その体右腕だけとは言わず、全身機械にでも変えてやろうかなと」

「抜かすな。その毛皮、鱗にしてから出直してこい」

「いやはや、その減らず口がいつまで聞けるか。まったくこれは見ものですねぇ!」

 

 ネコが跳ねた。シャンデリアの光を背負い地面に張り付く黒い影に、二人は咄嗟に横に跳ぶ。着地の超重量に屋敷全体が揺れ、足元にあったテーブルと横になっていた数人が破片となって辺りを汚した。スミーは着地際を狙って剣で斬り掛かるが、甲高い金属音と共に前足の甲殻に阻まれる。フックもまた脇腹目掛けて拳を振るった。

 ぽよん、と。脂肪と毛皮とに打撃が吸われる感覚。チッと舌打ち、転がっていた誰かの剣を足で蹴り上げ手に取ると、今度はこれを義手で握り斬りつける。力任せの斬撃に床のタイルは割れたが、毛皮は精々軽く乱れた程度である。カウンターに風切りの音、ネコは尻尾を大きく振ると、鞭のように打ちつけた。2mの大男の体がいともたやすく宙を舞い、テーブルクロスと乗っていた菓子諸共に遠く弾かれる。

 鈍痛、不服と肺の空気が漏れるのとで、くぐもった呻き声を吐いた。

 

「っ、旦那様!」

 

 甲殻と鍔競りあったところから、剣を勢いよく打ちつける反動で距離を取り、フックの傍へと駆け寄る。主人の隣で改めて剣を構え、眼鏡越しに猫の一挙手一投足を伺った。

 フックはひしゃげたテーブルの残骸の中から起き上がると、服についた食器の破片とチョコを払う。

 曰く。

 

「この汚れ、クリーニングでどうにかなるか? スミー。俺は煙草の匂い以外、服につけたくないんだ」

「相変わらずのタフさ、流石でございます」

 

 ヴィランは再び襲いくる。ゴム毬が転がるような勢いで、肉薄してくる。フックは咄嗟に自らの義手を取り外した。スミーは次の一手を察して、自らの主人を肩に担ぎ上げるようにして、飛び掛かるネコの前足を受け流しながら懐に踏み込んだ。

 射出された小型のフックが――鎖の先に鉤の付いただけのモノだ。作り物の腕の中に隠しておけるような――二階の手摺りに引っかかり、二人の体を勢いよく巻き上げた。巨大階段の頂上から始まって、ぐるりとパーティホールを囲うように張り出した、細い通路のところである。フックは鎖が巻ききる直前でタービンを止めると、迫る壁を蹴り緩めた鎖を振り子にして、ぐるり一回転を決めながらここに降り立った。彼を抱えていたスミーは途中でその手を離し、着地の邪魔にならぬよう、トランクを抱え一人で床に立つ。

 

「いざとなりゃあ、アレをヴィランの肉盾にして戦おうかと思ったんだが。まさか本人がヴィランとはなぁ。余程自分以外を信用してないと見える」

「なにせ裏の稼業にもかなり手広いようですよ。ここの地下にもカジノがあるという話で……嗜好品を乗せた船を襲ったのは、娯楽の選択肢を狭める為でもあるかと」

「アレが跳ねても床は抜けないわ、手摺りもあの重量で軋まないわ、やけに頑丈に作ってあると思えば。まぁ、そういうことなら自分を強くするのが一番手っ取り早いわな」

 

 「刃向かった奴は、自分でしばくのが確実だ」と顎をさすって頷くフックに、スミーは「説得力しかありませんね」と微笑みを浮かべた。

 自分の腹の下を覗き込んでいたネコが、話し声に耳をひくりとさせて二人を見た。

 

「ともあれ、この腕じゃ何をするにも馬力が足りない。スミー、セッティングには何秒かかる?」

「逆にお聞きします。何秒で仕度すれば?」

「8秒だ」

「かしこまりました。そのように」

 

 出来た主人に仕えた従者は、その行動に口煩く指図はしない。何が本当に止めなくてはならない行動で、何がプライドや信念の都合での非効率か、心得ている。執事らしく一礼だけした。

 ヴィランが二人目掛けて再び走った。テーブルを真横に弾き飛ばし、あるいは踏み潰しながら、壁際に寄って、ジャンプの為に足を畳んで縮こまる。フックは剥き出しになった動力部に先程外した腕を押し付けると、機械機構を起動させた。金属が擦れる嫌な音を伴って、火花を散らしながら腕が高熱に砕けひしゃげていく。

 スミーがトランクから鈍い金色に輝くアンカーを取り出した時、巨大な獣は跳躍し、大口を開けながら手摺りにその前足をかけた。上半身が廊下に入り込み、生温かい吐息が黒い瘴気を伴い二人の顔にかかる。

 

「その口を閉じろ、魚の匂いが移る」

 

 瞬間、フックが牙を光らせる口に義手を放り投げた。男一人呑み込めそうな口が、反射的にぱくりと閉じる。

 融解した鉄が舌に染み入り、肉を焼き焦がす臭い。ネコの唇から瘴気の代わりに灰色の煙が噴き出た。

 スミーの腰元から剣を拝借、目を見開き固まるネコのその顔面に肉薄すると、フックは瞳に刃を突き立てた。水晶体にぶちゅり、剣が半ばまで沈む。耳を劈く獣の慟哭。もんどりうったヴィランがパーティホールに落ちるその前に、フックは剣を引き抜いた。刃に付いたインクを雑に振って落とす。

 

「すまん、抜く時に眼孔に引っかけた気がする」

「後で研ぎ直しておきますよ」

 

 フックがスミーに向き合い鞘に剣を戻すと共に、スミーはフックの右肩にコンパス型の圧力計及び蒸気の噴出口、メインの武器となるアンカーなどを装着させる。床に落ちたネコが叫び、どったんばったんと地震のように屋敷を揺らす中で、手慣れた様子でパーツを嵌め込み、歯車や魔法陣、蒸気タービンとの接続状態をレンズ越しにチェックした。フックはこの間、シャンデリアの飾りが揺れて幾つか地面に落ちていくのを、黄色の虹彩に見ていた。

 スミーの手が離れると、男は手摺りに片足をかけながら義手を噴かした。圧力計のコンパス針がくるりと回り、肩口から蒸気が白い煙となって排出される。タービンの回転から来る振動に、「完璧だ」と笑った。

 

 インクをだくだくと流すネコが、自らを見下すシルエットに向けて叫んだ。

 

「この、っ……舐めやがって……」

「舐める? はて、何を指して言ってるのやら。攻撃が効く部位にどうにか(・・・・)検討をつけたのに、武器の準備にその手を使っちまったんだ。結構必死だぞ、今の俺たちは」

「っ、最初からその腕で来ればいいだけの話だろうがァ!」

 

 黒目を針に、牙を剥き出し叫ぶヴィランの様は、野生の殺気をありありと感じさせた。テーブルの群れ群れは悉く半壊させられ、潰れたモブのインクに彩られた床や壁には恐ろしい爪痕が残っていた。その腕が一回飛ぶだけで、何人の首が飛ぶことだろう。

 傷を負って毛を逆立てる猛獣を前にして、可哀想だと思えるのは底抜けの強者かあるいは底抜けのバカであろう。この時、海賊王は「だってよ、スミー」と鼻で笑っていた。

 

「親玉がそう大袈裟に得物を晒すもんじゃないさ。出すなら、目撃者が居なくなってからだ」

「ええ、つくづく同意致しますよ、旦那様。この騒ぎを聞きつけて来る輩は、『隠しても意味がない奴』でしょう」

 

 手摺りにつく足が、増える。そのまま、大男の体が一瞬中に浮いて、そのまま重力に従って落下した。シャンデリアの明かりを逆光に黒塗りの陰になる。

 ヴィランの髭がひくりと反応する。猫じゃらしに飛びつくネコと同じ動きで、しかし比較にならない破壊力を持って、空中で身動きのとれぬであろう体に迫る。前腕を覆う金属の甲殻が、こちらは照明を乱反射させ光った。

 詠唱。魔法陣が発光し、タービンの回転数が上がる。

 

「『海の藻屑となれ!』」

 

 角度60°ほどの鋭角の噴出。即座にアンカーの先をヴィランの腕に向けたフックは、白い煙を宙に置き去りにしながら、直線に飛んだ。

 『俺様の前に立つなぁ!』は蒸気タービンの副産物である蒸気の噴出を推進力に変え、これをもって移動を行うスキルである。その移動距離は短く、故にこの魔法は移動スキルではなく――

 

「ぎ、にゃッ――ぁ!?」

 

火薬の爆発によって加わる馬力ないし破壊力のみを考慮して、攻撃スキルに分類される。誰だって分かることだろう。効果的な突進に必要なのは速度と重量と硬度であり、彼はそれら条件を網羅している。

 高速を伴ったアンカーがヴィランの甲殻にぶち当たった瞬間、互いの体を衝撃が襲った。生憎と甲殻を砕くまでは至らなかったが、しかし腕の骨の方はそこまで固く出来ていなかったらしい。甲殻に覆われていない二の腕のところが、捻じ曲がる。丸太のような腕が柱には使えない形に歪む。

 甲殻に弾かれたフックの体はその勢いのまま壁に飛んだが、これはスミーが受け止めた。といっても完全に抑え込める訳もなく、自らが壁とフックとの間に割って入って、クッションになった形である。背中から上がる呻き声に、フックは横目に後ろを見た。乱れた白髪が目に入る。

 

「また眼鏡のフレームが歪むぞ」

「私が健全であるより、旦那様が戦闘を続行された方が効率が良いですので」

「お前はつくづく良い部下だなぁ。もう何人か居れば完璧なんだが」

 

 フックが起き上がれば、スミーはさっとその隣に立って、主人のタキシードを軽く整えてから斜め後ろに下がる。視界確保の為に眼鏡の位置だけは直したが、よれた服はそのままにして武器を持つことに専念した。

 折れた部位を庇い、三本足で立ったヴィランが、雄たけびと共に瘴気をその体から放出する。黒い霧がパーティホールを覆い隠していく最中、きらりと光る物が走った。

 

「「っ!」」

 

 二人、身を屈め、そのまま前転。今まで立っていた床と背後の壁に、鋭利に尖った欠片がマシンガンの弾が如く降り注いだ。色とりどりに光る石は一見宝石のようにも見えるが、射線にあった石の柱に細い穴がいくつも開いたのを見ると、これは当たっていいものでないのは間違いない。何せ『固い物に穴が開く』という事象はその一点に破壊力が集中していて、なおかつ穴の開いた物より硬度があればこそ起こるのだ。一発当たれば致命傷待ったなしである。

 

 黒煙に視界が煙る中、床が軋む音と無数の風切り。

 

「劣勢になった途端に搦め手を使いおって」

 

 舌打ち、追ってくる石片をすんでで躱し、あるいは近場の何かしらの残骸で僅かに射線をずらしながら、足音を辿る。スミーはフックと同じ方向に逃げていて、自らと主人に向けられた攻撃を剣で払い、眼前の障害物を斬り捨てる。どむどむと自分から遠ざかっていく足音。

 逃がしてなるかとフックがそれを追おうとした瞬間、軋む音が一瞬途絶えた。同時、飛来する攻撃が一層の激しさを増し、その音の意味するところを考えるのが遅れる。黒塗りの中、飛来し近付き認識出来るようになった横殴りの極彩色の情報量がうるさい。

 

「消え失せいッ!」

 

 アンカーがドローショットの軌跡を描く。海賊王が瞳の中に描いた線の通りに動き、回転し、攻撃に対する壁となって凶弾の悉くを弾く。金属に石の当たって鳴る耳障りの良い音。スミーはフックがこういった時にどういった魔法線を書くか、当然把握しており、この死角に刃を滑らせた。弾かれるか、あるいは元から当たらない位置に飛んだ欠片が、落ちたり刺さったりするのが響く響く。

 

 だから、気付くのが遅れた。横からの攻撃に目を向けていたからこそ、上空から迫る脅威にすぐには対処できなかった。

 

 巨大な鉤爪が煙を切り裂き視認できるようになった時には、飛びついてきたヴィランと二人の距離は肉薄と言っても過言ではなくなっていた。黒塗りを背景にして、ぎらつく獣の虹彩輪郭がチェシャー猫の如く歪む。

 これだけの超重量となれば落下の速度は著しい。落ちるギロチンの刃のように、爪が、初老の首筋に、加速度的に近付いて――

 

「バカめ」

 

 ヴィランの視界に映ったのは、それ以上の半弧を描く蛍光の黄色だった。そう、蛍光だ。あと数ミリ爪が入り込めば首を刈れるという距離なのに、何故かそのドギツイ色ばかりが目について、相対的に他の箇所に視線が向かない。

 煙に巻かれた背景の中、更に黒いシルエットが、瞳だけを浮かべてそこにある。

 

「『我こそ王! 海賊王よ!』」

 

 断頭台の刃が、砕ける。深い海の色の結界が半球状に展開されて、鉤爪を三本全て弾き飛ばす。結界から漏れ出たアルファベットの記述文が、黒い瘴気を切り裂いていく。

 だって、そうだろう。『黒い霧の中』は幽霊船の舞台であって、彼の舞台ではない。主役が勝ち口上をあげるのは、主役が一番引き立つ舞台の上でなくてはならない。

 

「『逆らうならば、皆沈めェ!』」

 

 背景は今、散らかり戦いの跡の残るパーティホールへと再び移り変わった。抉り取られた壁の近く、何かのインクがこびりつく床の上で、大胆不敵に燕尾服が笑うのだ。

 ワンダースキル。全てのキャストに等しく与えられた絶対の権能。この発動は誰にも止めることは出来ず、発動したその瞬間キャストはその場において『全ての事象を差し置いて主役に成り上がる』。海賊王が主役であることを疑問に思う人もあるかもしれないが、よく考えても見て欲しい。

 きらきら輝く夢と希望に溢れた少年は、絶対にピカレスク小説の主人公にはなれないのだ。

 

「なぁ、お前。一瞬でも俺に勝てると思ったんだろう?」

 

 その台詞に走った悪寒の指示するままに、咄嗟にヴィランは距離を取る。けれども逃げるより先に、健全な前足に鎖が巻き付いた。

 

「残念だったなぁ。お前と俺じゃ、悪役(ヴィラン)としての格が違うんだよ」

 

 スキル『狙った獲物は逃さねぇ!』。言うならば、この文字の通りなのだ。

 彼に目を付けられた時点で、この街で穏やかに暮らしていける訳がない。

 

 獲物の前足を咥えこんだフックアンカーが、重量差を完全に無視して主の元へと引き摺り込む。肩の圧力計と鎖を巻き取るタービンが唸りを上げる。折れた前足だけでは体は支えられず、ネコは床に倒れ込みながら、海賊王の足元まで無理矢理手繰り寄せられた。

 真ん丸の顔の輪郭に、巨大なアンカーが真横から食い込んだ。牙が何本か折れ、床に散らかる。舌を噛んだらしい、インクが床に散る。

 

「嗚呼、やはり心臓じゃないといかんか」

 

 アンカーの軌跡(ドローショット)が、今度はその脂肪と肉とに覆われた胸元を抉る。ネコはくぐもった声で鳴くが、しかしアンカーに貫かれることはない。描かれた線に従って、アンカーがその体から離れ、ぐるりと回って勢いつけてから再び肉にめり込んで悲鳴を叫ばせた。毛皮に覆われて見えないが、その地肌は酷い色合いになっていること請負である。

 当然、ヴィランもやられてばかりにはいかない。どうにか起き上がろうとするのだが。

 

「いやはや、実に丈夫だなぁ。お前は」

 

 身動ぎをした瞬間、絡まる鎖がたっぷりの肉を絞りながら、思いきり足を引っ張る。そう、鎖は転ばせやすい先端ではなく、敢えて足の付け根の辺りを狙って巻き付けられていた。海賊王の脳裏に『もしかしたら引き寄せる時に抵抗があるかもしれない』なんて考えは欠片もなかった。

 ヴィランは再び床に転がり、無防備になった体に再び金色の得物が襲いかかる。ネコはいやいやと首を振り、後ろ足で床を押すのだが、鎖はうんともすんともだ。

 

「幾ら大層な武器を持っても、根本を縛っちまえばこうだからなぁ。俺も根本から持っていかれたからよぉく分かる」

 

 海賊王は歯を見せて笑った。脅すような口調ではなく、世間話の声音だった。

 この時、ヴィランは初めてその耳をぺたんと前に倒すことをした。尻尾を後ろ足の間に挟むことをした。まだ牙は何本か残っていたし、甲殻も爪も健在で、相手の攻撃で致命傷を負うこともないと認識していた。それでも、思うところは一つだったのだ。

 『何故自分はこいつと戦うことを選んでしまったのだろう』と。

 

 スミーは懐中時計を取り出すと、「失礼します、旦那様」と声を掛けた。

 

「今から二時間後に商談のご予定が入っています。そろそろ区切りをつけて、お召し物を着替えた方がよいかと」

「あー、それもそうだな。さてと、どうやって片付けるか」

 

 蒸気タービンの回る駆動音を聞きながら、フックはぼんやりと天井を仰いだ。

 嗚呼、そういえばさっき床が軋む音がしたな、と考えた。嗚呼、そういえばここには地下カジノがあるんだったな、と考えた。やることは決まった。

 

「スミー、頼んだ」

 

 そうとだけ告げると、ヴィランの前足に巻き付けていた鎖を自分の手元に戻した。ネコはこの降って湧いたチャンスに飛びついた。即座に自由になった前足で床を蹴ると、男の反対方向へと踵を返し跳ねる。

 

「それでいいのか?」

 

 低音が尋ねる声と、何かがガゴンッと外れる音。ヴィランの走り去る道はおろかその本体にまで、黒い影が覆いかぶさる。

 

「俺を叩いてりゃ、少しは勝機もあったんだがなぁ。そっちだと詰み(・・)だ」

 

 海賊王の鎖が、今度はネコの代わりにシャンデリアを捕まえて、固定している器具も何もかもを無視し、自らの方へ、パーティホールの床へ手繰り寄せる。スミーは再びフックの体を担ぎ上げると、部屋の隅へと跳んだ。

 馬車の前に飛び出たネコの運命は、一旦止まり撥ねられるものであると相場が決まっている。シャンデリアの豪華絢爛を瞳に映したまま、ヴィランはパーティホールの中央で静止した。

 

 接触、破砕の大音声。鼓膜を物理的に殴る衝撃。何百のガラス飾りが砕け散りながら床を突き崩し、そのまま下に落ちていく。瓦礫が煙を吹いて周囲を舐め取る。地鳴りに屋敷全体が揺れて、窓がいくつか割れ、差し込む日の光にきらり輝いた。

 

 ――破壊行為が一頻り落ち着いた後、パーティホールの床はほとんどなくなって、壁に僅かな足場が張り付いているだけになっていた。穴の底ではまだ灰色の土煙が吹いていて、下の状態は分からないが、地下は何も一階だけではなかったらしい。崩れた何枚かの床の残骸と、階層ごとに色の違う壁紙が残っている。

 

「すぐに腕を外しますので、少しだけお時間をくださいませ」

 

 スミーは主人のスーツについた砂埃や細かい瓦礫を急ぎ払うと、腕のパーツを外しておいて、それから遠く二階の手摺りに引っかかるトランクを取りに向かった。階段は根本から崩れていたので、剣を壁に入った亀裂に差し込み、そこを踏み台にして登ることをしている。

 フックはみすぼらしくなった右腕を眺めて、腕の形の義手を作り直すのにかかる費用をぼんやりと計算していたが、ふと足元にガラスの食器が転がっていることに気付いた。見れば奇跡的にチョコレートが入ったままになっている。正方形の一面に穴が開いたような形をした深い皿なので、横倒しになってもチョコレートが外に出ずに済んだのだった。ボンボン・ショコラだった。

 

 彼は食器を左の手でひょいっと拾い上げると、大口を開けた上に皿を傾けチョコレートを落とした。じゃり、と皿に入り込んでいた砂を奥歯に噛む。口内の熱に溶けたチョコレートが舌の上で広がって、中からリキュールの後味が漏れ出した。噛む為に口を開いたその時に漏れた息が、酷く甘い気がする。

 

「……旦那様?」

 

 義手のパーツを全てトランクに入れてしまったスミーが、その様子を見て声を掛けた。

 語尾についたクエスチョンマークにフックは答える。

 

「アイツが俺に刃向かった理由の一つだ、てっきり美味いと思ったんだが」

 

 スミーに手を差し出す。コンマ数秒も待たずに差し出された鉄のボトルの中身を、口直しに仰いだ。片腕しか使えないと分かっているので、渡された時には既に蓋が開いていた。

 

「なんだ。アイツ、こんなモノの為に何もかも失ったのか」

 

 ポイっと投げ捨てたボトルが、宙で回収された。

 白髪のオールバックの後ろ、一本結いした白髪が、付き従って歩いていく。パーティホールの両開きの扉が閉じれば、そこにあるのは略奪の跡ばかりだ。

 

 

 

【埃の付いたチョコを食む。】

 

 

 

「ん。これは中々美味いな」

「リキュールを効かせたボンボン・ショコラですよ」

「初めて食ったが、悪くない。次から甘い物が欲しい時にゃこれでいいな」

「……ええ、ええ。旦那様もこれならお気に召されると思っておりました。また、いくつか見繕っておきますので」

「ああ、頼んだ」




お題の『チョコを食べる船長』のシーンを書く為に一万字くらい使いました。
チョコレートの匂いがついて云々かんぬんみたいな描写を入れようとしたのですが、まとまりがなくなったのでボツに。
スミーが自前の武器のみで戦うのに対してフックはその場で略奪して手に入れたりとか、あと情報量がうるさいの文の情報量を多くしたところとか頑張りました。


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