PSYCHO-PASS 機械仕掛けの託宣 (生野の猫梅酒)
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#01 監視官・天宮緋瑞

あらすじ部分にも書きましたが、全10話予定です。
よろしくお願いします。


【こころの貧しい人たちは、さいわいである、天の国は彼らのものである。

 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう】

 

《マタイによる福音書 五章》

 


 

 東京の夜はいつだって明るい。まるで闇の存在を許さないかのように灯りは煌々と輝き、人は輝きに集って営みを形成する。暖かな闇は人々を安心させるから、どれだけ時代が移ろうと変わることの無い概念だの一つだ

 

 だが明るい闇夜を切り裂くように一台のパトカーが駆けていく。赤いランプを鳴らし大急ぎで走るその背後には、黒く厳めしい護送車が付き従うように存在感を放っていた。どちらの車体にも公安の文字とシビュラを表す独自のマークが刻まれていて、彼らが公安局の者であるとこれ以上なく雄弁に語っている。

 そのパトカーの運転席には一人の女性が座っていた。年の頃はまだ若いだろう。赤みがかった黒髪を二つにまとめ、黒い瞳を隠すように黒縁の眼鏡をかけている。レディーススーツの上には青いジャケットを羽織っていて、それは彼女が『監視官』であることを如実に示していた。

 彼女はパトカーの方をAIに任せた自動運転に切り替えると、手慣れた様子で無線を繋いだ。連絡先は背後を走る黒い護送車、そこに彼女の部下である『執行官』が乗っている。

 

 一つ呼吸をして言葉を紡ぐ。温和そうな顔つきに反した力強い声だった。

 

「各員、状況は知っているでしょうが改めて説明を。対象の名は古倉隆(ふるくらたかし)、二五歳。銀行入口で色相チェックに引っかかり、セラピーを提案されたところドローンを振り切り逃亡したそうです。まあ十中八九銀行強盗でもしようと企て、あえなく呼び止められた具合でしょう」

 

 現代社会はシビュラシステムにより、人間の精神状態は”犯罪係数”という値と”色相”という心の色で視覚化されており、今回の事件でいえば後者の”色相”に対象は引っかかった。これは色が濁っているほど精神が不安定とされ、潜在犯の可能性が高まるとされている。街中には大量の色相チェッカーが存在し、色が極端に濁っていれば最悪任意同行を求められることもあるのだ。

 此度の色相はダークレッド、澄んでいる方が好ましい色相においてあまりにも濁った色合いだ。よほど自らの犯罪に対する想いが強かったのだろう。いや、そもそも犯罪が未然に防がれるこの社会なのだから、それだけ切羽詰まっていたと考えるのが自然か。

 

 しかしどのような事情があれ、シビュラと公安が見逃す理由にはなり得ない。

 

「現在古倉はここから三区画ほど離れた開発中止区画へ侵入、逃走中です。既に該当ブロックはドローンによって封鎖されていますが、中にはまだ幾人かの人間が残っていると推測されています。我々公安三係の目的は速やかに犯人の無力化、または排除を行い民間人への被害を食い止めることです」

『放っておくとサイコハザードや、もっとひどい事にもなりかねないからってことですよね?』

「その通りです。今もエリアストレス警報はジワジワと上昇しています。放置すれば近隣住民のサイコパスにも重大な影響を与えかねません、繰り返しますが早期の解決が求められます」

『了解しました』

 

 途中で口を挟んできた剽軽な態度の女と、最後に話を締めた気真面目そうな男の声に頷いて彼女は通信を切った。状況の伝達及び共有に問題はない。これならば不足の事態で取り逃がすことはまずないだろう。

 隣の助手席に置いてあった古びた本を取る。ペラペラとページを捲り、目的のページを見つけて彼女はクスリと吐息を漏らした。その顔にはなんの表情も浮かんではいないのに。

 

「【健康な者には医者はいらない。必要としているのは病人である。わたしは義人を招くためではなく、罪人を招くためにここに来たのである】……まったくその通り。シビュラの罪人よ、我々が神に代わりあなたの不明を嘆きましょう」

 


 

 問題の区画に到着したとき、周囲一帯は既に公安マスコットのホロを被ったドローン*1により完全に封鎖されていた。遠巻きに事件現場を見つめる人たちを横目にパトカーと護送車がテープの先へと入っていく。これからが公安としての本領だ。

 パトカーから降りた彼女が現場を一望するより先に、自走式の黒いドローンがやって来た。運搬ドローンと呼ばれるそれは厳重にかけられたロックを自動で外していき、中からこれまた黒い異形の銃がせり上がる。今日のドローンは随分とせっかちみたいだから、彼女もすぐに銃把を握った。

 

《携帯型心理診断・鎮圧執行システム・ドミネーター、起動しました。ユーザー認証、天宮緋瑞(あめみやひすい)監視官、公安局刑事課所属。使用許諾確認──適正ユーザーです。現在の執行モードはノン・リーサル、パラライザー。落ち着いて照準を定め、対象を無力化してください》

 

 もう何度聞いたかも覚えていない起動音声が脳内に響く。青白く発行するドミネーターは所持者だけに指向性の音声を直接届けてくるから、本人以外には全く聞こえない。監視官の彼女──天宮緋瑞も最初はこの感覚に慣れなかった。随分と小うるさいんだなと()()()()()だが、気が付けばまったく気にならなくなっていた。

 それはさておいて、今度こそ現場を見渡す。どうやら開発中止となったのは居住区画用のマンションやアパートらしく、完成する前から朽ち果てボロボロになった姿が痛ましい。きっと特定の住居を持たない者やシビュラシステムの目を避けようとする者がここへやって来るのだろう。

 

「天宮監視官」

「緋瑞ちゃん、お疲れさまでーす」

 

 と、護送車の方から二人、緋瑞の下へとやってきた。片やスーツを着真面目に着こなした神経質そうな黒髪の男性であり、片やスーツを軽く着崩しアクセサリーで飾った軽薄そうな金髪の女性だ。どちらも緋瑞の部下である執行官で、犯罪係数でいえばこれから追いかける対象と同じ潜在犯に含まれる。

 毒を以って毒を制し、潜在犯を相手には同じ潜在犯をぶつける。きっとこの社会の中枢、今の日本の全てを支えるシビュラシステムはそう判断したのだろう。緋瑞としてもこの理屈には賛成だった。

 

 ──悪人の心は、悪人こそが最も理解できる。

 

「黒山執行官、白谷執行官、まだ全員の避難が終わったという報告が無い以上は迅速な行動が不可欠です。なので二手に分かれて行動します、よろしいですね?」

「分かりました」

「りょーかーい! 組み分けはどうするの?」

「私は単独で、そちらは二人という形にしましょう。少々公安のセオリーからは外れますが、いつ背中から撃たれるか心配よりはそちらの方が気が楽でしょう?」

 

 執行官も潜在犯であるから常にドミネーターによる執行対象だ。監視官である緋瑞は名の通り執行官が職務を逸脱しないか監視し、場合によっては無力化、殺害することも許されている。それを恐れる執行官も時には存在した。

 故にシニカルに口を歪めた緋瑞へ二人は肩を竦め苦笑してしまう。温和そうな外見の癖に声音も性格もチグハグだが、既に慣れっこだから気にしない。

 

「ご冗談を。むしろあなたに執行されるなら本望ですよ」

「うわっ、キモッ……ま、まあそんな事しないから大丈夫だって! ただでさえ一係や二係より人手足りてないのに、あたしたちまで居なくなったら緋瑞ちゃん困るでしょ?」

「すっごい困りますね。なので仕事は忠実に。良いですね?」

 

 力強く頷いた二人へ「よろしい、では後ほど」と声をかけて緋瑞へ問題の区画へと足を踏み込んだ。それとは別の方向へ執行官二人も向かっていく。

 天宮緋瑞が監視官を務める公安三係は現在、監視官含めたった四人しかいない。監視官も執行官も常に人手不足であり、かつ三係は現状四人で回せているので中々メンバーが増えないのが実情だった。むしろ一人くらいは非番に出来る程度は効率的に回っている。

 とはいえ何処も似たような状況であり、例えば一係も監視官は一人しかいない。そちらは今度新人の女性監視官を迎えると宜野座(ぎのざ)監視官から聞いているが、一係は他より抜きん出て事件に関わる頻度が多いので仕方ない。それだけ優秀な人材が揃っているのだ。

 

「羨ましい、とは別に感じませんけれど」

 

 薄暗く小汚い路地裏を歩きながら呟く。先ほどまでの皮肉っぽい真面目な監視官の顔は既になく、やはり能面のような無表情がそこに張り付いていた。暗がりや潜在犯への恐怖や敵意、他の係への羨望や嫉妬という感情は少しも感じられない。あくまでも自然体でドミネーターを両手で構え、慎重に歩を進めていく。その姿はまるで牙を研ぎ澄ます猟犬の如く。

 そのまましばらくは何も起きず、執行官二人と連絡を取り合いながら犯人を捜すだけだった。中々に奥の方まで逃げ込んだのだろう、先行しているドローンたちからも対象発見の連絡はない。緋瑞の経験上、こういう時はたいてい長丁場になる。運良くすぐに見つかるのを祈るばかりだ。

 

 ゆっくりと、静かに、下手に対象を刺激しないように気配を殺して、一歩一歩に意図を込めて足を前へと運ぶ。地道で意味があるかも分からないが、些細なことを面倒臭がっている者ほど簡単に死んでいく。だから緋瑞は手を抜かない。別に面倒とも感じてはいなかった。

 ジジ……ジ……と耳障りな音が頭上から聞こえてくる。どうやら建設途中のマンションの手前まで来ていたらしい。ホログラムどころか塗装すら剥げ、近寄り難い雰囲気を放っている。照明の白く淡い光が不気味に揺らぎ、点いては消えてを繰り返していた。

 

 常人なら近くにいるだけでも躊躇うような気配である。見ているだけでも恐怖心や不安を喚起し、おそらくサイコパスにも悪影響を及ぼすことだろう。余程の事情が無ければ視界に入れることすら嫌うはずだ。

 しかし生憎と監視官の天宮緋瑞は”余程の事情”を持っている。躊躇うことなくそのマンションへと近づき辺りを観察すれば、開け放たれた玄関口近くに人が倒れているのを発見した。

 身なりはあまり良くなかった。そこそこ年を喰った男性らしく、無精ひげと伸びた髪が印象的だ。壁に寄りかかるように倒れているが、その壁にベッタリと赤い血が付いている。間違いなくただ事ではない。

 

 このまま駆け寄って助けるのが人としては正しいだろう。けれど監視官としては、まず第一に警戒が必要だった。

 

《犯罪係数、アンダー八〇。執行対象ではありません、トリガーをロックします》

「……ま、そうでしょうね」

 

 念のためドミネーターを向けてみたがやはり執行対象では無い。多少犯罪係数が高いのはこのような所を根城にしているからか。第一印象通り今回の執行対象、古倉隆に襲われたただの被害者と考えて間違いないだろう。

 浮浪者らしき男を横に寝かせ、意識があるかを確認した。呼吸はしている。すぐにうめき声と共に意識を取り戻し、焦点の合わない瞳で緋瑞を見た。

 

 その時にはもう、緋瑞の顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。人を安心させるような暖かなものだ。

 

「アンタは……?」

「公安局監視官の天宮緋瑞です。この区画に逃げ込んだ潜在犯を追いかけている途中で倒れているあなたを発見しました。無理をしないで結構ですので、何があったか簡潔に教えてくれませんか?」

「あ、ああ……急に変な男に襲われて、金を出せとか言われたんだ。俺は見ての通りだから金なんざ持ってる訳ないのにさ……」

 

 まだ戸惑いが抜けないまま男はポツポツと語り出す。どうやら切羽詰まった対象がせめて当初の目的を果たそうとしたのだろう。僅かばかりでも金を得て安心し、ついでに目撃者の口封じを考えた。潜在犯の中でもさらに性質の悪いものがやるような手口である。文句なしに執行対象だろう。

 

「ここには俺以外にも何人かいるんだ。あんまし良い奴ばっかでもないけど、だからって襲われる程でもないんだ。だから頼む、どうか助けてやってくれないか」

「──お任せを。我ら公安三係の名に誓って責務を果たしましょう」

「シビュラの選んだエリートだもんな、信じていいんだよな?」

 

 不安がる男へ緋瑞は今度こそ慈愛の笑みを浮かべてみせた。

 

「【良い木は良い実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ】ものです。あなたの善き心を託されたシビュラは必ずや悪しき木を駆逐し、良い実を結ぶことでしょう」

 

 そこで緊張の糸が切れたのか、男は緩やかに意識を失った。すぐに執行官たちに現在位置と医療ドローンを手配するように伝えてから、緋瑞は眼前のマンションへと向き直る。そこそこの大きさだ。ここからマトモに対象を捜し出すのは骨が折れるだろうが、今回はそう難しくないだろう。

 

「対象は極度の興奮状態で、手当たり次第に人を襲っている状況。となればすぐにでも──」

 

 続きを言うより先に悲鳴が聞こえた。上の方だ。すぐに途切れて代わりに何かが倒れるような重たい音が聞こえてくる。男の言っていた”何人か”の一人に相違ないだろう。また一人犠牲者が出てしまったという訳だ。

 しかしこれで対象の居場所は大まかに把握できた。あと何回かこういう事が起きるだろうから、その度に接近していけばいい。被害者は同時に目印にもなってくれると緋瑞は知っていた。

 

「今回は、運が良かったかな?」

 

 対象がもっと大人しくて攻撃性も低ければこうはならない。だから確かに運が良いと言えばその通りなのだろう。

 しかしそれは先ほどの言葉とはまるで矛盾していて──彼女はやはり善意も悪意も感じられない瞳のままに、単独でマンションへと突入した。

 


 

 内部はやはり薄暗く、廊下の各所が罅割れシミで汚れている。ぴちゃん、ぴちゃんと水の滴る音が遠くから聞こえた。各部屋のドアはちゃんと付いているものがほとんどなく、部屋の中まで簡単に見通せる有様だ。お世辞にも衛生面が良いとは思えない。

 だが生活臭もそこかしこに感じられるから、此処を根城にしていた者も少なくないのだろう。住めば都、雨風を凌げれば人間大抵の場所には適応できる。丸まった毛布や食べかけの保存食に目をやりながら緋瑞は足音を立てずに上階へと昇っていく。 

 

「さて……と」

 

 もう少しで悲鳴の聞こえてきた付近だ。おおよそこの辺りに潜んでいるだろうから、いっそう気を抜かずに周囲の警戒を怠らない。階段入口から廊下の方を覗き込んで──再び倒れている人間を発見した。やはり浮浪者らしき装いの男だ。先ほどの悲鳴の主なのは間違いないだろうが、他に誰も居ない。対象は既に移動しているようだ。

 念のために脈拍があるかを確認するが、こちらは既に息絶えているようだ。仰向けにした顔は瞳孔が開き、恐怖と苦痛で歪んでいる。死因は頭部を思い切り殴られての撲殺と見て間違いない。

 

 下で出会った浮浪者は運が良かった。当たり所が悪ければこうなるし、人の命なんて存外呆気なく散ってしまうものだから。緋瑞とて何度もこの手の被害者は目の当たりにしているし、抱く感想はいつだって同じだ。

 ひとまず被害者遺体の目を閉じ、そのまま寝かせておく。後で公安のドローンが回収して然るべきようにしてくれるだろう。身元がどうだのを考えるのはそれからだ。

 

 その時である。すぐ真上からガタリと物音が聞こえ、ついで何者かが暴れてるような音と、くぐもった声が一緒くたに届いてくる。どうやら対象はすぐそこに潜んでいるらしかった。

 ここまで理解すればもう躊躇はない。すぐに階段から上層へと駆けあがった緋瑞の目に飛び込んできたのは、血糊がべっとり付着したバットを持つ男が、これまた浮浪者の男を殴り倒している場面だった。

 

 そして男、執行対象の古倉隆は人質を取るかのように浮浪者の首に手を回すと、緋瑞の方へと向き直ったのである。

 

「ちっ、もう来たのかよ公安め……! そいつを捨てろよ、コイツがどうなってもいいのか!?」

 

 古倉は人質を取りながらドミネーターを血走った眼で見た。中肉中背のどこにでも居そうな男なのに、言葉には狂気的なまでの迫力がある。もしドミネーターを手放さなければ容易に人質を殺してしまうはずだ。

 仕方なく言われた通りに緋瑞はドミネーターを投げ捨てた。汚れた床を滑って古倉のすぐ傍で止まる。彼はそちらを一瞬確認してから、すぐに自らを追って来た者へと向き直る。

 

「いいぞ……これでお前は無力だ。シビュラの銃なんざなければ公安だってただの人だよなぁ!? まったくふざけやがって、人の心を覗いて「はいあなたは今から犯罪者です」なんざおかしいだろ、なぁなんか言ってみろよ!?」

 

 これ以上なく滅茶苦茶な理屈だ。もし古倉に野心が無ければ色相だって濁るはずは無かったし、シビュラだって彼をマークしなかったはず。こうなった原因はほとんど全て彼にあるのは確かだ。

 しかし色相を見られた時点ではまだ未遂だったのも事実であり、一応その言い分も分からなくはない。何より逆上している者に正論を説いたところで無意味だ、正しいことの痛みに耐えられずいっそう悪化するのは経験則で知っている。

 

「まあ、そうかもしれませんね。世の中はシビュラシステムが全てを管理し、私たち人間は常に人生の最適解を保証されています。でも、最適解から逸れてしまえば待っているのは潜在犯として隔離される未来。窮屈に感じるのも不思議ではないかと」

「な、なんだよ、姉ちゃん話が分かるじゃねぇか……だからさぁ、俺のこと見逃してくれよ? 金に困ってたんだ、これ以外に道なんて無かったんだよ。それにこんな世の中間違ってると思うならさ、シビュラの犬である必要もないだろ?」

「そういう訳にはいきません。例え当初の目的である銀行強盗が未遂で終わったとしても、既にあなたは別の罪を重ねていますから。下であなたが殴った人、死んでいましたよ?」

 

 その言葉に初めて古倉は動揺を見せた。呼吸が早くなり視線が一か所に定まらない。状況から考えて殺意を抱いたうえでの犯行だろうが、やはり実際に殺したと判れば思うところはあるようだ。

 壊れたレコーダーのように哄笑をあげて古倉は愉快そうにバットを床に何度も叩きつける。カンカンとやかましい音が響き、血走った眼はいっそう狂気的に開かれた。

 

「は、ははは、ハハハハハッ……! そっかそっか、俺ついに他人を殺しちまったんだな! あーあ、これでもう後戻り出来ないぜ、なら精々好きなようにやってやるさ」

 

 ひとしきり笑ったあと、彼は開き直ったように笑顔を浮かべた。下卑た視線で緋瑞を見やる。

 

「なあ、笑ってくれていいけどよ、俺この年になっても女と付き合ったことないんだよ。どうせこれから先も同じだろうし、ここは一つ良い思いさせてくれよ?」

「今ここで私に脱げと?」

「やっぱ物分かりいいじゃねぇか。そうだよ、分かってるなら早くしろ!」

 

 犯罪係数の上昇は必ずしも絶望ではない。セラピーによるメンタルケアや薬によって下降させることは十分に可能だし、そうして更生できた元潜在犯だって大勢いる。世の中は決して潜在犯に厳しい訳でも、将来を用意してない訳でもない。

 だが時として居直ってしまう人間もやはり存在した。大抵は彼のように自棄になった人間であり、その犯罪係数も加速度的に上昇していくのが常だった。

 

 もしドミネーターが手元にあれば即座に排除されていただろうが、生憎とそれは古倉の足元だ。人質もある以上、緋瑞は彼の言葉に従うより他にない。

 黒のロングスカートの太もも辺りにあるチャックに手をかける。それを下まで下ろすとちょうどスリットのようになり、黒いタイツに覆われた右足が露わになった。艶めかしい脚線に思わず古倉が生唾を飲む。

 

「これでどうですか?」

「……そ、それで足りる訳ねぇだろ。上もちゃんとやれ!」

「分かりました」

 

 あくまでも淡々と緋瑞は従う。上着のボタンを外し、黒のネクタイも取り払った。白のシャツ一枚挟んだ下はもう下着しか残っていない。 

 これはどうですか? と緋瑞は視線で訊ねた。少しの羞恥心も躊躇いも感じさせない。下劣な要求に対してあまりにも平静を保っているものだから、指示を出した古倉の方が逆に戸惑ってしまった。

 

「お前、恥ずかしくないのかよ? こんなところで男の言いなりになって服を脱いでよ」

「恥ずかしい? それは()()()()()()()()()()()()()?」

「は……?」

「いえ、もちろん知識や観察の上で知ってはいますとも。要は場にそぐわないことをした時に発生する感情であり、特に異性から性的な要求をされた際に顕著な感情だとか。ならこの状況は”恥ずかしい”と感じるべきなのでしょうね」

「なんだ、お前は何を言って……」

 

 まるでプログラムで動くロボットのように不可解な言葉だ。人としてあり得ないことを口走っている。同じ人間から発される応えとは思えない。ついさっきまで従順だった公安の女が、今はこれ以上なく不気味に思えて古倉は口ごもってしまう。

 女が一歩、前に踏み出した。動物的な直感に突き動かされて男が一歩後ずさる。両者の距離は埋まらない。

 

「この状況ならあるいは……なんて考えもしましたが、あまり効果はないみたいです。やっぱり私に残された道は一つしかないようで。ああ、その点はあなたと同類やもしれません」

「やめろ……こっちには人質が居るんだぞ……! 大人しく俺の言う事に従えないってんなら──」

「殺しますか? お好きなようにどうぞ、その瞬間に私はあなたを執行しますので」

 

 公安の刑事とはとても思えない発言だ。しかしそれに愕然とするより前に、古倉はある事実に気が付いてしまった。

 目の前の女は最初からここまで、仮面でも被ってるかのように表情が一つも動いていない。羞恥も、義憤も、怒りも同情も何もかもが抜け落ちている。まるで人としてあるべき重要なモノが欠落しているかのようで……とてもとても理解できない。相手は同じ人間なのかすら疑ってしまう。

 冷や水をかけられたように古倉の思考が冷静になる。さっきまでの興奮やらは既になく、眼前の得たいのしれない存在から一刻も早く逃げて楽になりたかった。もう欲望なんてこれっぽっちも残ってない。

 

「う……ぁ」

 

 今度は無意識の内に古倉が一歩後ろへと下がった。完全な及び腰で逃げるための一歩だ。その隙を監視官は見逃さない。

 ゆらりと緋瑞の姿がブレる。虚を突くような動きに目と思考が追い付かない。眼前に居るはずなのに見失うという珍事を体験した古倉に待っていたのは、右手首への痛みと衝撃だった。蹴りあげられた手首から離れたバットが宙を舞い、さらに痛みで反射的に人質の浮浪者を突き飛ばして手首を庇ってしまう。

 そして、それが命取りとなる。

 床へと落ちたバットがカラカラと音を立てて転がった時にはもう、監視官は勢いのまま拾い上げたドミネーターを執行対象へと突きつけていた。目前に迫る死の塊に古倉は言葉も出ない。 

 

《犯罪係数オーバー三〇〇。執行モード、リーサル、エリミネーター。慎重に照準を定め、対象を排除して下さい》

【こころの貧しい人たちは、さいわいである、天の国は彼らのものである。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう】。死を恐れる必要はありません、あなたの死を私は悼み、忘れませんから。どうぞ安心してください」

 

 果たして彼は、それが聖書の一節だと気が付いたのだろうか。いいや、きっと理解できなかっただろう。既に紙の媒体は世の中からほとんど姿を消し、歴史や宗教すら学ぶ機会が失われているのだから。

 だがそうでなかったとしても。無感動から一変して涙を流しながら引き金を引いた緋瑞の言葉を理解できる余地など、彼には絶対になかったと断言できた。

 

 ドミネーターの銃口付近は大きく変形し、より強くなった青白い光は対象を殺す用意が整った合図である。緋瑞の手で解き放たれた一撃は過たず対象へと着弾し、数瞬後に身体が大きく膨れ内側から弾け飛んだ。

 断末魔すら残らぬ無慈悲な執行。血飛沫や肉片が辺りに撒き散らされ、緋瑞や人質を赤く彩り容赦しない。あまりにも凄惨な排除方法は公安の刑事なら避けては通れない光景だった。

 これで心を乱されるようなら公安勤めは務まらない。だから今も涙を流して対象の死を悲しんでいる緋瑞は間違いなく異端であり、また本人もそれを省みて改善しようとする意志は欠片も無いようだった。

 

「あぁ……とても悲しいです。恐ろしいです。誰かの命をこの手で奪ってやっと生きていける私は、どこまでも罪深い存在でしょう」

 

 誰も聞く者などいないというのに、滔々(とうとう)と懺悔でもするかのように彼女は呟く。その姿はあたかも神に祈る聖女のようで、血なまぐさいこの場にはそぐわないのに不思議と似合っている。彼女は本心から自らの行いを恐れ、そして命を奪われた者を偲んで静かに泣いている。もし他に誰かいれば、間違いなく「お前に監視官は向いていない」と言い放ったはずだ。

 

「天宮監視官! 無事でしたか!?」

「緋瑞ちゃん、遅れてごめん!」

 

 だが当の第三者がドローンを連れてやって来たとき、彼女は既に自然体を取り戻していた。口元には微笑を浮かべ、ついで今更現場に到着した執行官二人を皮肉るような顔に変わる。今は亡き古倉が怯えた無表情は影も形も見当たらない。

 

「遅いですよ、二人とも。既に対象は私が片付けてしまいました。犯罪係数は文句なしの三〇〇超え、今はアレです」

 

 言いながら血の海に浮かぶ肉塊を指さした。執行官はどちらも慣れた顔で観察している。

 

「お見事です、天宮監視官。間に合わなかったのは痛恨の極みですが、あなたならこれくらいはやると信じてました」

「黒山さんホントにキモイよー……でもまあ、緋瑞ちゃんが無事で良かった良かった。それじゃ、退屈なデスクワークのために帰りましょ?」

「ええ、そうですね」

 

 一つ頷いて緋瑞は執行官共々現場を後にした。残りはドローンたちが上手い事やってくれるだろうから、彼女たちの出番はない。あるとすれば上役に提出すべき報告書の執筆程度だ。この程度の事件は日常茶飯事だから対応も慣れたもの。

 さっき投げ捨てたネクタイを拾い、ロングスカートのチャックを閉めてしまえばもはや事件前と何も変わらない緋瑞の姿がそこにはあった。泣いていたとはとても思えない平然とした表情を疑う者は誰もいないだろう。

 

「ああ、そういえば。私の犯罪係数と色相はどうなっていますか? 黒山執行官、後で履歴は消すのでちょっとドミネーターで見てくれませんか?」

「ええ、構いませんよ」

 

 潜在犯を追い詰め、手を下し、その死を悲しんだ緋瑞のサイコパスは多少なりとも乱れてなければおかしい。何も悪いことだけでサイコパスは曇らない。精神の動揺やストレスで容易に値も色も変わってしまうのが人間という生物だから。

 なのだが、しかし。ドミネーターは淡々と道理に合わない結果を示す。

 

《犯罪係数、ゼロ。刑事課、登録監視官。警告、執行官による反逆行為は記録の上──》

「犯罪係数は()()。色相は変わらず澄んだ赤色(クリアレッド)ですね。いつも通り素晴らしい”精神の証明書(サイコパス)”ですよ、天宮緋瑞監視官」

「そう、ありがとう」

 

 ──事実、彼女の擬態は人間どころかシビュラにだって見抜かれていないのだから。

 

 


 

 時は二一一二年の日本。

 

 周辺諸国は限られた富を奪い合って戦争を続ける中で、日本だけは完全自給自足を成し遂げ、人間のより良い在り方を提示できるシビュラシステムの恩恵により法治国家として成り立っている。だがそれは薄氷の上で成り立つ平和であり、一皮剥けば今回のような犯罪は後を絶たない。

 故に彼女たち公安は存在する。悪を裁き、世の平和を守るために日夜活躍する刑事たちは紛れもない功労者と呼んで差し支えないだろう。真っ当な正義感と強さを胸に犯罪と戦う姿は紛れもなく羨望に値し、市民たちが安定した精神を保てる大きな一助だ。

 

 けれど、その中には。天宮緋瑞というどうしようもない”精神の異端者(サイコパス)”が確かに存在するのだ。

*1
コミッサちゃんと呼ばれている。男の子が「太郎」で女の子が「花子」と名付けられている。対象にストレスを与えない外見。



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#02 精神(こころ)の在り方

【神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか】

 

《マルコによる福音書 十五章》

 


 

 厚生省公安局刑事課に存在する三つの係は、基本的には仕事に大きな差はない。

 公安一係、公安二係、公安三係。どれも人員は同じで監視官二人と執行官四人がスタンダードとなる。執行官はあくまで潜在犯に変わりはないため、公安局と特定の区域以外は外出すら許されない。唯一監視官の目があるときのみ、外へ出ることが許されているのだ。

 だがそれだけに執行官の力は侮れず、それを取りまとめる監視官もまた優秀だ。少数精鋭となる彼らに与えられる仕事は主に二つとなる。

 

 一つ、エリアストレス値の上昇原因を無力化すること。ある区画内に犯罪係数の高い潜在犯がいると、エリアストレスと呼ばれる値も比例して上昇し、他の関係ない者まで潜在犯化する危険性がある。これを一般にサイコハザードと称すのだが、一度こうなれば収集がつかなくなってしまう。故に公安には迅速な対応が求められる。

 二つ、実際に行われた犯罪の調査及び犯人へ適切な対処を施すこと。今の社会は常にシビュラシステムが目を光らせている監視社会であり、よって犯罪も大部分は未然に防がれる。だが時としてシビュラの目を掻い潜って犯罪に走るか、あるいは衝動的に犯罪を犯してしまう者も時にはいる。そのような対象の起こした事件を追跡、分析したうえで無力化ないし排除するのが公安に求められる仕事だ。

 

 シビュラによって管理、監視されているこの日本は紛れもなく平和といえよう。一世紀前よりも確実に犯罪は淘汰され、海を隔てた海外よりも目に見えて安全で落ち着いている。どれもシビュラという巨大かつ有益な演算装置が無ければ成り立たないことだった。

 よって一般市民のほとんどは現状の社会に満足して適応している。特にシビュラが本格導入された三〇年前より以降に生まれた世代に至っては、『シビュラ世代』などと呼ばれ防犯意識すら希薄である。監視されていることに疑問を持たず、また自宅に鍵はかけず往来での危機意識は薄い。それだけ今の世に齎す影響は大きく、その有用性が実証されているのだ。

 

 かつての日本なら、たった十八人の刑事だけで犯罪を取り締まるなど絶対に不可能だった。それが今では犯罪自体の総数が減っていて、また手間のかかる現場調査も全部ドローンが代行してくれる。シビュラのデータベースを用いれば映像や写真から犯人を割り込むことだって容易だ。良くも悪くも人間の刑事は時代と共に減ったのだ。

 

 取り分け公安の中でも引っ張りだこなのは刑事課一係の面々である。監視官、執行官ともに非常に優秀な人物が揃っているから事件の際はまず彼らが招集された。推察と直感を駆使して犯罪に立ち向かう彼らは正しく刑事の鑑といえるだろう。まさしく公安の花形と呼んで相違ない。

 二係、三係も職務は基本的に一係と同じだが、一係に比べると派手な活躍は多くない。どちらかといえばサイコハザードを未然に防ぐため潜在犯を確保することが主だし、大きく動くのは一係の手が空いていない時くらいのものだろう。これもまた今の世では大切な仕事であり使命だ。何もドミネーターで対象を排除するだけが公安ではない。

 

 監視官の天宮緋瑞は、そんな刑事課三係の所属である。

 

 


 

 昨夜の潜在犯追跡から一夜明けた朝、既に緋瑞は三係の職場でモニターと向き合っていた。自らの手で古倉隆へドミネーターを向けた以上、報告書も自分で書き上げる必要がある。どちらかと言えば監視官は執行官の書いた報告書に目を通すのが仕事なのだが、三係では割と頻繁に緋瑞が自ら手掛ける。それだけ執行官の前に出ているという証左だ。

 

 時刻は朝の八時、まだほとんどの刑事たちは出勤してこないだろう。だから緋瑞は淡々と、人目を憚ることなく機械のように文書を作成していく。夜中から続けていたこともあり、既に半分くらいは報告書も完成していた。

 

「お疲れ様です、天宮監視官。今日も泊りで作成ですか?」

「おはようございます、黒山さん。今日は随分と早いですね」

 

 黒のスーツをピシリと着こなし出勤したのは、三係所属の執行官こと黒山(あきら)だった。成人男性の平均を優に超える巨躯を持つ彼は自分の椅子へと窮屈そうに腰かける。メキメキと悲鳴をあげた椅子はいつもの事だから誰も気にしない。

 黒山が入ってきた途端に緋瑞は口元に微笑を浮かべいた。いったん書き途中の報告書から目を上げると、なじるような視線と共に揶揄ってみせる。

 

「また椅子を壊したりしないでくださいよ。もういくつ経費で買い直したことやら」

「あなたが監視官になってから今日までの三年間で、五つの椅子が壊れましたね。ただこれを自分のせいにはしないでいただきたい。生まれつきの身体と、なにより耐えられない椅子が悪いんです」

 

 理屈っぽい言い訳は神経質な彼らしい。威圧感すら与える巨体は刑事としてかなり有効だが、こうして日常生活で揶揄われるのには辟易していた。もちろん、だからといって緋瑞を含め他の者が冗談を止めることはないのだが。

 ともあれ険悪な雰囲気になることもなく両者は和気藹々としていた。どちらも早い内から三係にやって来るだけあり、このやり取りも半ば恒例行事である。

 

「でももし次に壊れたら、今度こそ大きい椅子を買ってはもらえませんかね? やはり窮屈なのはいけない、仕事にも支障が出ます」

「あなたの働き次第で考えておきますよ。そうですね、私よりも多くの潜在犯を捕まえたらとか」

「これは手厳しい。誰よりも前に出たがる天宮監視官を超えるのは難題だ」

 

 本来なら潜在犯を追う執行官を後ろから監視するのが監視官たる緋瑞の役目だ。それが三係では監視官が積極的に潜在犯を追い詰め、執行官がその補佐をしてばかり。無論職務を怠慢していることもなく、単に彼女が行動的すぎるだけである。

 他の誰よりも潜在犯捕獲に燃え、監視官としての仕事に熱を入れている──黒山はそう考えているから彼女に敬意を払っている。他の執行官もおおよそ同じで、皆が緋瑞の刑事としての仕事ぶりには感心していた。時にはセオリーから外れる行為も平気でするが、全ては刑事としての熱意と正義感あってこその信頼だ。

 

「ええ、なので頑張ってくださいね。【正しい者は七たび倒れても、また起き上がる】ように、あなたが成果を出してくれると()()()()()ですから」

「……そう、ですか。是非とも励ませていただきます」

 

 黒山は天宮緋瑞という監視官を疑うつもりはない。故に、稀に彼女に覚える違和感について訊ねたことは一度もなかった。どこか実感の伴わない言葉があるとしても気のせいだと断じて憚らない。

 だってそんなことをせずともシビュラによってサイコパスも、人間性も、全て保証されているから。『それは()()()()()()()()()()()ですか?』などと酔狂な質問は必要性がないのだ。問うたところで無意味でしかない。

 

「まだ人も揃わない内ですが、今日も一日元気を出していきましょう。私たち公安の使命とは、無辜の市民をストレスから守りサイコパスを健全に保てるようにすることですからね」

「仰る通りで。微力ながら全力を尽くしましょう」

 

 力強く応えた黒山に緋瑞は微笑を零す。違和感など微塵も覚えさせないそれは先の疑問を軽く一蹴してあまりある説得力だ。執行官へと向ける穏和で柔らかな態度も監視官としては異例だが、ギスギスしてしまうよりずっと良い。上司が話の分かる職場は居心地が良いものだ。

 

 刑事課三係の朝は、いつもこのようにして始まる。

 


 

 その後は残る二人の執行官も出勤し、普段通りに業務へと励む。とはいえエリアストレス警報が響くこともなく、また前日のように派手な大捕りモノが起きる訳でもなく、いたって平和に刑事課三係の時間は過ぎていた。

 キーボードから手を話時計をチラッと見た緋瑞は大きく伸びをする。気が付けば既に十時を超え、十一時をやや回ったところである。ようやく上への報告書も書き上げ一段落付いたのだが、身体の方がガチガチだった。

 

 猫のように身体を伸ばし、首や肩を回して身体をほぐしていると、金髪を後ろで括った女性がデスク越しに身を乗り出していた。これも良くあることなので「仕事はどうしたのか」とは敢えて聞かない。女性というより少女の方が近い外見の彼女は、緋瑞を一瞥して悪戯っぽく笑った。

 

「あ、緋瑞ちゃん報告書の作成終わったのー?」

「ええ、まあ何とか。白谷執行官、あなたはちゃんと仕事をさぼってませんよね?」

 

 その追及に白谷由井執行官は「うぐっ……」っと情けない声を漏らした。おおかたモニターの前で座っていることに耐えられず、緋瑞の業務が一段落したのをダシに絡みにきたのだろう。スーツを着崩し、ピアスなどを付けて洒落た彼女はデスクワークよりも体を動かす方が得意な人物である。

 彼女は緋瑞よりも二つ年下の二十一歳であり、ここに配属されてから一年少しが経過している。三係では一番の若輩だけにエネルギッシュで感性も若い。緋瑞のことを気軽に『緋瑞ちゃん』と呼ぶように関係も良好だ。

 逆に三十を少し超えてる程度の黒山と、その少し手前にいる灰森執行官はやや苦手意識を持っているらしい。特に後者は非常に寡黙かつ控えめなので自己主張も少なく、すぐ近くに居るというのに影が薄い。むしろ人との関わりを極力避ける彼が意図的に気配を消している有様だった。

 

 はぁ、と緋瑞は溜息をついた。腰に手を当てて叱責するようなポーズを取る。

 こういう場面ではそれが効果的だと、今までの()()()から学んでいた。

 

「まったく、それではいつまで経っても執行官として成長できませんよ。苦手なことにも全力で取り組んでみなさい、失敗を恐れてはいけません。誰だって最初は必ず失敗するのですから」

「はーい……あ、でもまた昨日みたいなことが有ったら任せてね! 今度はちゃんと緋瑞ちゃんの前に立ってみせるからさ!」

「期待してますよ。黒山さんといい三係はやる気があって何よりです。灰森さんも負けてられませんよね?」

「…………ええ、そうですね」

 

 控えめで消え入りそうな返事にうんうんと頷いてから、緋瑞は勢いよく席を立った。低めのヒールを足音高く響かせながらスタスタと出入口へ向かっていく。

 

「あ、ずるーい。一人でもう休憩取るのー?」

「私はあなたと違って早い時間からここに居ますから、軽い息抜きくらいさせてくださいよ。あ、その間にサボったりしたらダメですからね」

「分かってますって! もー、緋瑞ちゃんは心配性なんだから」

 

 そんなやり取りをしてから、三係唯一の監視官はひとまず職場から離れたのである。

 


 

 ガコン、と音を立てて缶コーヒーが落ちてきた。砂糖多めで甘いタイプだ。それを自販機から取り出した緋瑞は、まずは一口飲んで喉を潤す。苦いのが口に合わない彼女にも優しい味だった。

 ほう、と一息ついて休憩用の椅子に腰かける。こういうとき、緋瑞は観葉植物を眺めながら何も考えずにボーっと座ってることが多い。頭を酷使した後は頭を空っぽにするのが一番の休息となるからだ。

 

 ちびちびと缶コーヒーに口をつけることしばらく、不意に後ろから声が掛けられた。自分の世界に籠っていた緋瑞も強制的に現実へと引き戻される。

 

「相変わらず甘いコーヒーばかり飲んでいるようだね、天宮監視官」

「……ああ、宜野座(ぎのざ)さん。これはどうも」

 

 宜野座と呼ばれたやや長めの黒髪に眼鏡をかけた細身の男は、やはり自販機に金を投入するとコーヒーを購入した。緋瑞と違って無糖のブラックだ。大昔に飲んでみて吐き出した覚えのある彼女からすれば、どうしてそんな苦くて癖のある液体を飲めるのか疑問で仕方ない。

 男は緋瑞の隣に腰かけると一気に缶コーヒーを(あお)った。よほど疲れていたのか、緋瑞よりも長く重たい溜息を吐きだす。背もたれによりかかる様に身体を投げ出して楽にする姿は普段の気真面目さからは想像も出来ない姿である。

 

「随分とお疲れのようで。刑事課一係はかなりの修羅場とお見受けしますが?」

「半分正解だ。しばらく追っていた事件の犯人を捕まえたまでは良かったんだが、そのまますぐにエリアストレスの抑制に駆り出されてな。そのせいで一昨日からほぼ休みなしだった」

 

 刑事課一係所属の監視官、宜野座(ぎのざ)伸元(のぶちか)。それがこの男の肩書と名前だった。緋瑞よりもキャリアも年齢も上ではあるが、互いにその手腕は認め合っている。よって同じ監視官としての共感もあり、それなりに気の置けない仲だった。

 一係は三係と同じく一人しか監視官がおらず、よって執行官を連れ出す時は必ず宜野座の同行が必要となる。しかも一係の執行官は優秀なのでよく仕事が回ってくるとなれば、彼の負担は推して知るべしというところか。

 

「それはまたご愁傷様ですね。こちらも昨日は久々に現場へ出たので疲れてしまいましたよ」

「君は相変わらずだ、少しくらい労ってくれても良いだろうに……いや、同情を求めているようじゃ監視官は務まらないか」

 

 だが、緋瑞にとっては推して知るべき内容でもなかった。

 他の誰も知らないことだが。上辺より先の()()()()()、彼女に求めてはならないから。

 

 自己解決して宜野座はさらにコーヒーを喉へと流し込む。たった二度口を付けただけで中身が空っぽになったらしく、中身のなくなった缶はゴミ箱へと捨てられた。よく見れば目元には色濃い隈が浮き出ている。本当に寝る間も惜しんで働いていたようだ。

 その勤勉さは彼の美徳だが、同時にそれだけ公安の仕事が増えていることに疑念を覚えなくもない。通常ならシビュラの監視を掻い潜って事件を起こすなど不可能である。せいぜいが未遂のところを咎められて逃げ出し、自棄になって犯罪を起こす程度か。犯罪の手段を考えた時点でサイコパスは曇るし、一般人がそう都合よく事件を起こせるはずがない。

 

「最近は何かと物騒な気がしますね。前よりもさらに危険な事件が増えている気がしますよ」

「同感だな。どいつもこいつも実際に事を起こしてからようやくシビュラの目に留まる始末だ。潜在犯の時点で大人しく隔離施設に連行されてくれれば良いものを……特に『銃剣事件』は酷い捜査状況だ」

「あなただって、大概相変わらずですね」

 

 宜野座は苦虫を嚙み潰したような口調で吐き捨て、そんな彼へと緋瑞はシニカルに唇を歪ませた。彼にとってシビュラは絶対の存在だし、またある事情から潜在犯に対しても嫌悪や忌避が先立ちすぎている。それは自分の部下である執行官に対するスタンスにも影響されていた。

 執行官に対して、同じ人間である以上の感慨を持たない緋瑞とは真逆だ。どちらの方がより正しいかはここで論じることでもないだろう。上司が部下に感情移入してしまえば、時に悲劇へと繋がるのだから。一概に括れる話でない。

 

「近い内にやってくる新人監視官に期待したいな。出来るだけ早く使い物になってくれると助かるが」

「あなたの睡眠時間が、ですか?」

「……否定はしないが、単に世間の平穏だよ。潜在犯をのさばらせておけば碌なことにならない、一人でも多く減らしていくのが俺たちの仕事だからな」

「ごもっともで。良い刑事さんですよ、あなたは」

「止せ、君に褒められても座りが悪い」

 

 照れたように苦笑し、宜野座はそのまま緋瑞へと背を向けた。もう休憩は終わりということなのだろう。若干足元のふらつきを隠せていないのに大した根性である。

 緋瑞もちょっと休みすぎたかと自省して残っているコーヒーに口を付けていると、最後に宜野座の方から声をかけてきた。

 

「話には聞いているだろうが、今度の新人監視官は二十歳の女性だ。年齢も近いからたぶん君とも上手くやれるはずだろう、係は違うが先輩としてたまに構ってくれると助かる」

「……それ、先輩としての職務放棄というのでは?」

「俺なりの気遣いだ。君にしても新人にしても、同年代の執行官を相手するよりよほど良いだろう。下手に関われば最悪、犯罪係数を上昇させて執行官になりかねない」

「ご忠告どうも。ですが私、かなり犯罪係数の上がり辛さに自信があるので大丈夫です」

 

 言葉に反して全くありがたい様子はなく、だが怒っている風もない事務的な口調だった。彼女はたまにこういった姿を見せると宜野座は知っているから驚かない。優秀だが不思議な奴といった認識こそしているが、()()()()()()()()()()()()()()以上は嫌ったり本性を疑ったりしない。シビュラはそれだけ絶対的な指針なのだから。

 

 そして二人はそれ以上会話を交わすこともなく、自らの座るべき椅子へと戻っていったのである。

 

 


 

 心理的無痛症──緋瑞は自らの症状をそう呼び表している。実際にそのような症例があるかなど知らないし、そもそも医者に直接診断されたわけでもないのだが、この名称が一番自分の中でしっくりくるのだ。

 

 無痛症とは、簡潔にいえば字の通り痛覚を感じられない病気のことを指す。例えば転んだとしても痛みを感じないし、もし殴られたとしてもやはり頬は痛まない。あらゆる痛覚から遮断される訳だが、これは全く良いことではなかった。

 まず、痛みを感じないということは自分の危険に対して鈍感になることを意味する。もし正面から車が突っ込んで来ようとも、痛みによる未来予測が出来ないと躱そうとすら思えないのだ。あるいは単純に病気になったり怪我をしても発見が遅れてしまい、結果として命に関わるケースにもなりかねない。

 だがこれのより恐ろしいところは、自分だけでなく他人に対する共感性すら失われてしまうところだ。痛みを理解できないから、当然相手の痛みだって理解できない。想像は出来ても実感が伴わず、そのせいで社会に馴染めくなる。もちろん全員がそうとは限らないのだが、”他人にとって当然の感覚”を理解できない人間の心は、当人以外の誰にだって理解も否定もしようがないのだから。

 

 ──天宮緋瑞という女は、生まれつき感情というものが備わっていなかった。

 

 喜怒哀楽を欠片も感じられない。どころか驚きや恐怖、嫉妬という負の感情さえ判然としない。何をしてもされても無感動であり、楽しんだり怒ったりという振れ幅がまるで無いのだ。まるで機械のように淡々と凪いだ心は何物にも干渉されず、また動かすことすら不可能という有様。人としてあまりに致命的な欠陥を備え、彼女はこの世に生を受けてしまったのである。

 幼少時の彼女にとって幸運(ふこう)だったのは、一般常識への理解は正確に持ち得たことだろうか。実感がないから共感こそ出来ないものの、他人に喜怒哀楽があることは弁えていた。人を助けることは正しい行為で、誰かを騙したり傷つけることは悪い行為という真っ当な倫理観すら備えており、努めて善い人間であろうと心掛けもした。決して『他人の心を理解できないから』と好き勝手に行動したりはしなかったのだ。

 

 しかし、やはりと言うべきか一般から見た彼女はあまりに異質だった。何があっても笑わないし怒りもせずに無表情で、感情表現がないから考えていることがちっとも見えてこない。なまじ表面上は良い子なだけにアンバランスさはいっそう浮き彫りとなる。他人に対して敏感な子供たちはすぐ彼女から距離を取ったし、大人たちもまた可愛げのない不気味な少女に対して辛辣だった。

 

「もっとたくさん笑って、泣いて、怒ったりもしてみよう? いつもそんな顔じゃ可愛い顔が台無しだぞ」

 

 緋瑞の父親は頻繁にそう言っていた。彼女が生まれてすぐに母親は死別していたから、親心として強く娘のことを心配していたのは想像に難くない。多分に彼女のことを想っての発言だったろう。

 なのに緋瑞にはその感情が理解できないのだ。状況や口調から父が困っている()()()とは推測できるのものの、共感は不可能で真の意味での理解など以ての外。そもそも、どうして心配してくれているかすら把握していたかといえば怪しいだろう。親心など察する余地すらないのだから。

 

 ただし先にも述べたように、彼女は一般常識への理解と真っ当な倫理観は持ち得ていた。同年代の子供の中で取り分け利発だったのも幸いしたのだろう。自分が異常者であることは周囲との比較で自覚したし、親を困らせるのが良いことでないと知っていた。

 ある日を境に緋瑞は擬態を始めるようになる。他人の一挙手一投足を観察して、どのタイミングでどう行動すれば良いかを学びだしたのだ。共感は出来ずとも学習は出来る、そんな人間らしくない極めて合理的な結論から導かれた処世術だった。

 笑みを浮かべ、時には怒り、泣いて見せたり、良いことがあれば喜んでみる。穏やかな口調で皮肉っぽい発言をしてみたり、かと思えば子供らしく振舞ってみたり。非人間らしい言動や雰囲気はすっかり鳴りを潜め、数年も経過した頃にはすっかり普通の人間のように装えていた。

 

「お前がちゃんと笑うようになって父さんは嬉しいよ。それでこそ、母さんの娘だ」

 

 父が大きな手で頭を撫でてくれたのは七歳の時だったろうか。その時の記憶を彼女は今でも鮮明に覚えている。父はとても喜んでいるんだなと、他人事のように感じたのが印象的だった。

 それから先は順風満帆といって差し支えない生活を送ることになる。元から容姿端麗で頭脳明晰、身体能力も高いとスペックだけなら非の打ち所がない人物だったから、そこにごく普通の人間らしい上辺を取り繕うだけで簡単に周囲からの態度は反転した。良くできた人間と持て囃され、シビュラすら彼女のサイコパスは一点も曇りが無いと判定した程に。

 

「でも、それはおかしい。だって私は、感情を模倣するために悪意だって学んだのに。どうしてシビュラすら私を善い人間と判断するの?」

 

 故に緋瑞はいっそう孤独だった。

 誰も理解者はいないし、話したところでどうにもならない。唯一社会全体を公平に取り仕切るシビュラすら、何故か彼女の心を透き通った赤色だと判定してしまう。最初は何かの間違いだと思って気にも留めないが、万引き程度の軽犯罪に手を染めてもまだ変わらない時点で疑念を持った。自分は、機械にすら相手にされていないのかと大真面目に考えたりもした。

 

「シビュラよ、シビュラよ、何故あなたまで私を見捨ててしまったのですか?」

 

 重ねて言うが、緋瑞は感情をよく分かっていない。一見すれば普通に他者とコミュニケーションが取れているように見えても、それは推測と経験から導かれた形だけの振る舞いである。心から他人に同意できず、また自分の感情すらどこか俯瞰するように()()してしまう。いわばスピーカーのように録音した感情(おんせい)を再生しているだけなのだ。

 それでも、この時ばかりはおそらく失望してしまったはずだ。自分が人として異常なのはもう良いが、この社会における”神”の如き存在ならばきっと理解してくれるだろうと。勝手にそう信じて、気が付けば裏切られていた。

 

 シビュラの目を持ってしても彼女の精神(サイコパス)を見抜けないとなれば、もはや誰一人彼女を理解できる人間など存在しない。日々に何の楽しみも見いだせず、かといって後ろ暗いことを考えても備えた倫理観が邪魔をする。人生の八方塞がりであり、周囲のあらゆるものが空虚に見えてしょうがないのだ。

 監視官になった理由も大した意味はなかった。ただシビュラによる職業適性検査で監視官を勧められたから、その道に進んだだけのこと。何かを期待してはいないし、一般的な倫理以上の大義があった訳でもない。他に何もないからやってみようという、どこまでも消極的で受け身な選択に他ならない。

 

 この時点で、天宮緋瑞という女性は瀬戸際ながらも真っ当だった。

 精神的な異常者だが社会に溶け込むことを可能とし、また自らのサイコパスの特異性を知っても悪用するつもりが欠片もない、正真正銘の善人だった。もし何事もなければどうしようもない破綻者として、だが周囲から尊敬も集める監視官として順調なキャリアを積んでいったことだろう。

 

 しかし運命の車輪はそう容易くは止まらない。

 

「──君は、紙の本を読んだことはあるかい?」

 

 果たしてそれはいつ、誰に言われたことだったか。名前を聞いた訳ではないし、何処で出会ったかも定かではない。ほんの数年前の記憶なのにフワフワとした夢のように現実感が無いのだ。

 夕暮れによく映える、白い髪が印象的な細身の男だったと思う。周囲に人影はなく、また緋瑞も一人だった。その時にふと男が話しかけてきたのだ。普通なら不審者を疑うところだが、彼の超然とした態度に緋瑞は引き込まれた。

 

 あるいは、自分と似たような雰囲気を肌で感じたからかもしれない。

 

「あまり、読んだことはありません。電子書籍で十分でしょう」

「いや、電子書籍だと味気ないものでね。紙の本は良い、ページを捲るごとに心が調律されるんだ。実際に文章に触れている実感を得られる、これは中々の快感だよ」

「はぁ……」

 

 珍しい人間だった。科学の発展したこのご時世、紙の本はほとんど存在しない。今やあらゆる書籍はシビュラによって管理されたうえで電子化されており、皆が携帯端末で文章を追うのが常態化している。それに違和感を覚える者は緋瑞の周りにいなかったし、本人もまた気にしたことがない。

 なのにこの白い男は、いきなり初対面の女に紙の本の良さを説いてきたのだ。理由が一切不明だし怪しすぎる。だがすぐ傍にあるサイマスティックスキャンは反応を見せず、ドローンはやって来ない。

 

「何故、私にそのような話を?」

「そういう気分だったから、としか言いようがない。たまたま君と僕がここに居て、顔を合わせた。そしてふと紙の本を読んだことがあるか聞いてみたくなったんだ。我ながらおかしなことを告げてる自覚はあるが、真実それしかないのだよ」

 

 まるで雪のように掴みどころのない男である。たぶん嘘ではないだろう、虚偽をする人間にしては瞳が真っすぐだった。

 彼はふっ、と笑うと懐から一冊の本を取り出した。

 

「困らせてしまってすまなかったね。これはせめてもの詫びだ、受け取ってくれ」

「……聖書、ですか」

 

 かつて、世界で最も普及したとされる本を緋瑞へと手渡す。文庫本程度の大きさであり、厚さもそうはない。だがペラペラと捲ってみると細かい字がビッシリと書かれていた。英語による原文と、日本語に訳したものの二つだ。

 宗教はこの日本において既に過去のものとされ、海外から鎖国されてるのもあってか興味を持つ人間は極僅かだ。それこそ物好きが調べる程度のことであり、故にこの男が紙の聖書を持っていること自体がとんでもなく珍しい。

 

「偉大なる先人ダンテの格言にはこうある。【自分の起源をよく考えるのだ。あなたはけだもののように生きるために創られたのではない。美徳と知識に従うためだ】、と。無論その本が全てではないが、今の世を考え直すきっかけにはなるかもしれない。重ね重ね、迷惑をかけたね」

 

 好き勝手に告げて、聖書を緋瑞に手渡して、男は背を向けて去って行った。後に残された彼女はしらばく呆然としてから、本を鞄の中へと仕舞う。見知らぬ人間から渡された本など捨てても良いはずだが、生憎と緋瑞はそのような恐怖とか嫌悪の感情を持ち得ない。だから微かな好奇心に身を任せて、中身を軽く読んでみようと考えたのだ。

 

 結果として、これが緋瑞にとっての第一の転機となる。

 

 聖書は非常に読み辛い。登場人物が多く、また名前も同名が多くて紛らわしい。宗教的な説話ばかりで寓意もあるから意味を取り辛い。そこらの人間に聖書を読めといったところですぐに投げ出してしまうだろう。

 最初は緋瑞もそうだった。ただなんとなく読み進め、そして順当に飽きた。時間の無駄だと考えて放り出そうとしたところで、折よくあるページが目に留まったのである。

 

【神よ、神よ、何故私をお見捨てになるのですか】、か……」

 

 救世主は磔刑に処される直前、そのように呟いたという。まるでいつか緋瑞がシビュラに問うた言葉のようで、改めて興味が湧いたのだ。彼はどのような経緯で、この言葉を放つに至ったのだろうかと。

 そこからはもう早かった。ページを一枚一枚捲り、読んで、難解な文章を咀嚼していく。確かに紙の本はよかった。電子化された文章を追うより、すんなりと文章が頭に入って来る。

 

 読み終えたとき、彼女は初めて心の中に”熱”が灯ったのを感じた。

 

「もし神が本当に居るのなら、どうして私が産まれてきたのか。例え悪人だろうと清らかな心を持てるのならば、どうして私には何一つないのか。その意義を私は知ってみたい」

 

 文字通り神にも縋る思いだった。人工的な全能者(シビュラシステム)はかつて緋瑞の内面を暴けないと証明されている。限界は既に見えていたし、この社会に何らかの思い入れがあるかと言えばそれも無い。端的に、彼女はシビュラに何の興味もなかった。

 翻って聖書の神は中々面白い。全能で、何もかもを可能とし、完璧に崇拝されているのに、嫉妬深くまた細々とした陰湿さも感じられる。その様はシビュラの機械的な全能よりも余程人間に分かりやすく、同時に理解も出来ない上位者としての在り方だ。

 

 古き唯一絶対の神と、機械仕掛けの人工神。

 宗教にのめり込むつもりはないが、どちらを新たに信じてみるかはもはや明白だった。

 

「私は私の存在する意味と価値を証明してみたい。もし神がいるのなら、その存在を信じてみたい」

 

 これまでは空虚で意味のない人生を送ってきた。自分の中に何の情熱も気概も存在しないから、ただ流されるままに生きてきた。希望も絶望もなく、また目標や願いなども存在しなかった。

 だけどこのとき、ついに緋瑞は見つけたのだ。客観的に考えてあまりにおかしい自分にもこの世界で生きる意義があるのか、またそうあれかしと定めた神は実在するのか。もし実在するというなら、きっと異常な我が身にも定められた価値はあるのだと信じられるから。

 

 この日から彼女は聖書を持ち歩くようになった。もしこれを渡してくれた相手とバッタリ再会したら、その時は読みこんだ本を見せて礼を言うために。そしていつか、自分の存在意義を証明するのだ。

 

 ──さらに二一〇九年、緋瑞が監視官になった時、二度目の転機は訪れた。




それは、出会ってはいけない2人。


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#03 『公安局広域重要指定事件 104』

【恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから】

 

『イザヤ書41章』

 


 

 そこは暗く殺風景な部屋だった。机とベッド、それにテーブルといった基本的な家具がいくつかと、大量の紙の本が詰まった本棚があるだけの質素な佇まいである。よく片付いていることから家主は几帳面な性格なのだろうが、それが逆に生活感を不思議なほど消し去ってしまっている。

 なにより殺風景に思わせるのは、ホログラム技術が発達し、内装を自在に変えられる現代にしては珍しくそのままの壁が剥き出しになっている点だ。かつての時代を偲ばせる素材のままの外見、といえば聞こえは良いが、このご時世では些か以上に寂しい印象を与えさせてしょうがない。

 

「ん……」

 

 ベッド上で丸まっていた白いシーツ、それがモゾりと動いた。中から白く細い腕が飛び出し、手さぐりするように周辺をバタバタと彷徨う。数秒の格闘の末にようやくお目当ての眼鏡を見つけると、女はシーツの中から姿を現したのである。

 眠そうな瞳を茫洋と彷徨わせ、壁に掛けられた時計を見た。うっすらと差し込む月明かりに照らされた針が示した時刻は午後十一時三十分、目覚めるにはあまりにも中途半端な時間である。だが彼女は安堵したように胸を撫で下ろすとそのままベッドから這い出して洋服を手に取った。

 

 手早く着替えた服装はどこか男っぽい印象を与える私服だった。黒いシャツに青のジーンズ、灰色の上着というシンプルな装いである。赤みがかった黒髪を後ろで一つにまとめ、さらに大きめの黒いコートを羽織れば服装は完璧だ。女性にしては高めらしい身長も相まって、遠目からではあたかも少年に見えた。

 さらに女は部屋の隅に置かれた金庫の前に膝をつくと、ダイヤルを回し手早く暗証番号を入れていく。きょうびデジタルでなくアナログの金庫など流行らないし、そもそも家に鍵をかけず出かけるのが当たり前になり始めている時代なのだが、彼女のこれは明らかに厳重な守りと秘匿性を考慮してのものだった。

 

 もし公安の者がこれを見れば即座に違和感を覚えることだろう。こうまでして、一体何を守っているのかと。

 

 カチリと開錠された音がなり、ついで重たい音を立てながら金庫の扉が開いていく。その中にあったのは鈍く銀色の輝く拳銃と、よく使いこまれた刃渡りの長いナイフであった。奥の方には拳銃の弾丸と予備のナイフが一緒に収められており、手早くコートの中に入れる女の手際は何度も使い慣れていると言わんばかりのものだった。

 言うまでもないがどちらも私的に所持するのはおかしい代物だ。百歩譲ってナイフは別の用途があると誤魔化せても、拳銃は絶対に言い逃れできない。当然これらを収集する段階でサイコパスも濁るだろうからやはり潜在犯として追及される末路だろう。

 

 しかし、この女は紛れもない例外である。彼女は先天的な体質なのか犯罪係数がほとんど上がらず、また精神状態に左右されない。故にこうして明白な危険行為を犯したところで何ら問題は起きないのだ。

 

「それじゃあ、いきましょうか」

 

 誰ともなく呟き、女は懺悔するように手を組んだ。神へ祈りを捧げる敬虔なシスターのように瞑目すること数秒、元の様子に戻った彼女は静かに部屋を後にした。

 そして誰もいなくなった室内を、柔らかな月光はただ穏やかに照らしている。この後のことなど知らぬ存ぜぬとばかりに、無慈悲な緋色の女王の如く。

 


 

 翌日、定時の午前九時に三係に現れた緋瑞を待っていたのは、普段の落ち着いた雰囲気とは真逆の慌ただしい状況だった。執行官は既に三人とも揃っており、深刻そうな顔つきで何やら話し込んでいる。いつもノリの軽い白谷も同様だから相当だろう。

 いや、三係だけの話ではない。公安局全体がどことなく浮足立っていて、いつもと明らかに空気が違うのを彼女も肌で感じ取っていた。それくらい今朝の様子は違う。

 

「おはようございます。今日は何やら慌ただしいですね」

「あ、緋瑞ちゃん。おはよう……」

 

 いつもより気持ちテンションの落ちた女性執行官を皮切りに全員と軽く挨拶して、監視官はデスクへと座った。こういうとき、大抵はかなり面倒な事件が起きている証拠だ。比較的暇な三係も引っ張り出されることが多い。

 とはいえ、緋瑞からすれば何を感じるわけでもないのだが。呑気に欠伸をして眠そうな目を擦ってしまう。()()()()()()()()()あまりよく眠れてはいないのだ。監視官としてサボる訳にはいかないのが辛いところだった。

 

「眠そうですね、天宮監視官。ですがそうも言ってられない状況になりました」

「……予想はつきますが聞きましょう。何か大きな事件がありましたね?」

「大きな事件も何も、『銃剣事件』だよ『銃剣事件』! 二か月ぶりにまた被害者が出ちゃったの!」

「なるほど……それはまた、大変なことですね」

 

 白谷の言葉にさらに場の緊張感が高まったように感じた。緋瑞もまた真剣な顔つきで黙り込む。一般市民どころか刑事課の間でも半ば都市伝説になりかけている、凶悪連続殺人事件が起きたとなればこの空気も無理はない。

 『銃剣事件』。正式名称は『公安局広域重要指定事件 104』というのだが、通称のように被害者は常に銃殺、または鋭利な刃物による斬殺をされており、彼らの間に共通点は一切ない。数は少なければ二人で多ければ四人、凶器の類似性から快楽殺人の線が濃厚とされていた。

 

 だが、この事件には不審な点が三つある。

 

「今回もいつも通り、『銃剣事件』らしい特徴がありましたか?」

「まだドローンから送られてきた資料だけですが、遺体の姿は非常に綺麗でしたよ」

「犯行現場も二か月前とは全く違うし、そもそも規則性も何もあったもんじゃない。いつ起きるか分からないんじゃ私たちにも防ぎようがないってー」

「……周辺のサイマスティックスキャンにも……怪しい人物は検知されなかったようです。監視カメラも調べてはいますが、おそらくまた巧妙に避けられていることかと」

 

 一つ目は、被害者の遺体が不自然なまでに綺麗なことだ。しっかりと衣服が整えられ、目も閉じられて傍目には眠っているようにしか見えない。まるで殺した相手を悼んでいるかのように丁寧な行為は快楽殺人犯とは結び付け難い。

 二つ目は、事件の発生周期も場所も全てバラバラで一つも共通点が無い点だ。この事件は二年前に初犯が起きて公安に認知されて以来、既に十回は犯行が起きている。しかし事件が起きてから次の事件まで半年も間が空いたこともあれば、ほんの一週間でまた事件が起きたこともあり、なんの規則性もメッセージ性も見受けられないのである。

 三つ目、これが一番の問題だった。シビュラシステムによって管理・監視されているこの社会において、犯罪を隠し通すのは容易でない。悪事を働けば犯罪係数は上昇し、色相もまた濁るからだ。故に突発的な犯罪ならともかく連続殺人を犯しておいてなおサイコパスがクリアなど、常識的にあり得るはずがない。なのにこの事件では周辺にサイコパスが怪しい人物は一人もいないし、監視カメラをしっかり避けて物的証拠も残されていない。端的にいってお手上げだった。

 

 二年前から及ぶ連続的な犯行だというのに手がかりは一切なく、シビュラの目すら届かない。犯行時期も被害者もバラバラで、あたかも気分によって決めたかのような杜撰さを感じる程だ。なのに殺害方法や被害者への態度は一貫しているから余計に意味が分からない。

 今もこうして犯行が増えているというのに公安局では半ば迷宮入り事件と化しつつあるこの事件。しかし正義と法の守り手たる刑事たちにとって、そのような敗北は絶対に許されないことだった。

 

「……この事件、執行官の皆さんはどう考えますか? 改めて意見を聞かせてください」

 

 監視官の言葉に、一人ずつ自分の考えを開陳していく。

 

「自分としては、犯人に一貫性を感じられません。快楽殺人と考えるには正体の隠蔽が巧妙で、しかし計画性のあるものと考えるには些か突発的犯行なキライがあります。どちらにせよ、同じ人間とは思えません」

 

 真面目な黒山はこのような事件自体許せないのだろう。かつて一係を震撼させた『標本事件』の際にも義憤を燃やし、三係ながら暇さえあれば手伝おうとしていたくらいの正義感の持ち主である。またも犯行を重ねるこの事件の主犯はとうてい許せるものではない。

 

「私としては、なんだかすっごい不気味なんだよねー。執行官は同じ潜在犯として悪の匂いが分かる、そう言われてるから執行官やってるのにこの事件の犯人はちっとも理解できない。だって殺した相手をしっかり身綺麗にしてあげるなんておかしいもの! そんなことするくらいなら、殺しなんて絶対しないよ……」

 

 根が純粋で快活な白谷からすれば、この事件の犯人はあまりにも不可解で理解しがたい。昔から”好きだだから殺す”などという理屈も存在はするが、現実に似たような状況と出会えば納得などできるはずもない。何よりこれまでの現場状況からして()()()()に満ちているとはとても考えられず、いっそう犯人の心を読み取れはしなかった。

 

「僕としては…………明らかにこの犯人は、特殊だと思います。犯人の思想はどうあれ、シビュラの監視網を掻い潜る手腕は並大抵じゃ……ない。もしかしたらサイマスティックスキャンを誤魔化せる、特殊な技術を持った人物が犯人なのかも……しれません」

 

 ボソボソと自信なさげに灰森は言う。自己主張の薄い彼ではあるが、技術的な面ではかなり知識は深いし勘も鋭い。その彼の目は犯人がシビュラの監視を避けられる可能性を提示したのだから、あり得ないことと一笑に付してしまう訳にはいかなかった。例えそれが、今の世の中で()()()()()()()()事だとしても。

 

「なるほど、各執行官の意見はそのような形ですか……非常に参考になります」

 

 最後に緋瑞がその場を締めたところで、彼女の所持する端末が音を鳴らした。このタイミングとなれば上層部からのメール以外に考えられない。一言断ってから送信されたメールを彼女は読み、一つ二つ頷いてから、何があったかと見守っていた執行官たちを見渡した。

 

「ひとまず意見も出揃ったところで、朗報です。私たち三係に今回の『銃剣事件』の現場検証が回ってきました。これから直接現場へと乗り込みますよ」

「それはまた、久々に刑事としての手腕を発揮するときですね」

 

 どうあれ全員が刑事なのだから、デスクワークを続けるよりも現場に出張って調査や推理をする方が性に合っている。普段の三係は実際の事件が回ってくることが少ないだけになおさらだ。

 やる気も露わに立ち上がって早速準備を始めた執行官たちへ、監視官として緋瑞はしっかり釘を刺す。

 

「あまりはしゃぎ過ぎないでくださいよ。犯人は現場に戻って来る、そんな名言も存在するのだから気を抜いたりしないように」

 

 などと真面目な顔で彼女は窘め、自身もまた外出用の準備を始めたのである。

 


 

 事件現場は街の中心から少しばかり外れた公園だった。緑生い茂る草むらと昔ながらの砂場があり、中央にはホログラムで投影された噴水が派手に水飛沫を上げている。きっと普段なら子供連れの親子で賑わっていそうな、暖かな風情を感じさせた。

 だが生憎と人死にの後ではそんな風情など感じられず、吹き抜ける風は生暖かくて気味悪く感じてしまう。舗装された道の脇、木々のそびえる中がより詳細な現場だった。樹皮や落ち葉に飛び散った血痕は明らかに一人分のものではなく、この事件の犠牲者が三人だという情報の確かな裏付けとなっている。

 

「これはまた酷いですね……やはり今回も銃と刃物による殺傷と見て間違いないでしょう」

「私も同感です。なにより、現場に残された遺体の有様こそ、これが一連の『銃剣事件』と同じ犯人だと如実に物語っていますから」

 

 緋瑞の手元にある端末から映し出されたのは、今回の被害者遺体たちの現場画像だった。人によってはショッキングな画像だろうが、刑事課の人間がその程度で気分を害するはずもない。むしろ全員が興味深げに画像を検分する。

 画像の中では年齢も性別もバラバラな三人の遺体が、あたかも埋葬される直前であるかのように綺麗に整えられていた。さすがに死に化粧はないものの、例えあっても何ら疑わないくらいの丁寧さと几帳面さを感じられる。なのに胸元には血の滲む無残な穴が空いていたり、首元を大きく切り裂かれているから死因は一目瞭然だ。

 

「うわぁ……ここまではっきり殺しといて手厚く葬るみたいに整えるなんて、意味わかんない。相変わらずこの事件の犯人は狂ってるよ」

「僕も、その、同感です……人へ親愛を示す方法なんて世の中にはたくさんあるのに、よりにもよって殺した後で示すなんて……現在どころか、昔だってあり得ません」

 

 今よりも犯罪が多かったとされるシビュラ導入前でも、ここまで感情の因果関係が狂った事件など類を見ないだろう。一係にはベテランの刑事が一人いるが、もし彼が見てもこれには「犯人の頭はどうかしてるぜ」なんて言って眉をひそめるのは想像に難くない。

 結論、誰の目から見てもやはりこの犯人は狂っているしどうしようもない。これで十一件目という途方もない犯行回数だというのに、なにがそこまで駆り立てるのか。犯人像も目的も一貫して霧の中で不明瞭だ。

 

 けれどこの場で必要なのは犯人の動機に対する理解ではない。これまであまりにも周到かつ不可解なくらい尻尾を残さなかった犯人が、今度こそ僅かな手がかりでも残していないか目を皿にして探す必要があった。

 現場検証用のドローンたちが忙しなく動く間を縫い、監視官と執行官で怪しそうな箇所はどんな些細な特徴だろうと見つけようと躍起になる。だが状況は芳しくないようで、しばらく経ってから緋瑞が疲れたようにため息をついた。

 

「……結局空振りですね。まさか髪の毛一本たりとも見つからないとは」

「よほど慎重な犯人のようですね。靴跡だって残ってはいませんし、当然ながら体液の類もなし。考えられる快楽殺人犯のケースとは共通点がこれっぽっちも見当たらない。正直に言ってお手上げですよ」

 

 やれやれ、と言わんばかりに黒山は肩を竦めた。公安の刑事としてはあまりに悔しいが、それくらいこの犯人は意地でもボロを出そうとはしない。その手腕はいっそ尊敬に値するくらいだ。

 もしかしたら──と彼の脳裏にある仮説が過った。しかしそれはありえない。もし認めてしまえば公安どころかシビュラシステムの万全性すら脅かすことになる。

 

 だから口を噤んだ黒山なのだが、一方で彼女は()()()()()恐れ知らずだった。

 

「公安局の中に、この犯人と繋がっている人物がいる可能性もありますね……私たちの捜査方法をある程度提供できる立場なら、例えば監視カメラの死角や証拠隠滅の方法くらいは容易に入手できるはず」

「天宮監視官、それは……!」

 

 思わず執行官の方がその言を咎めてしまった。しかし緋瑞の考えはそれくらい今の社会にとってはあり得ないものである。

 大前提として、公安局に勤める人間はシビュラシステムによって“適正有り”と判断された者たちだ。つまり人格、サイコパス共になんら問題のない優秀な人物なのは間違いなく、悪事を働く可能性は限りなく低い。

 もちろん執行官という例外はあるが、それとて潜在犯の一種として厳重に監視化に置かれている。仮に他の一般職員が潜在犯となればすぐにシビュラの目は暴くだろう。ましてやこの猟奇的事件の犯人と繋がりがあるというのなら、サイコパスが曇ってなければ道理が通らない。

 

 もし内通者の存在を疑うのなら。すなわち、この社会における絶対者たるシビュラの判定基準を疑問視しなければいけないのだ。それがどれだけ危険かつ恐ろしいことか、分からないなら刑事などやっているはずがない。

 

「今朝のブリーフィングで灰森執行官も『シビュラの目を誤魔化す方法があるかもしれない』と発言していました。私としてもこの考えに賛同です。シビュラによって犯罪が抑止されている現代において、この考えは劇物じみている。ですが、あり得ないことをこそ疑わなければ私たちは先に進めませんよ?」

「それはそうかもしれませんが……しかし、どうにも自分には信じられません」

 

 黒山の生まれはギリギリのところでシビュラが普及し始めた頃である。よって彼は生まれた頃からシビュラの監視がある世界が当たり前だったし、その判断基準に従って人生を進めることになんら疑問を持っていない。潜在犯と認定されて執行官になったことすら、とりわけ理不尽と考えていない筋金入りの男である。

 その真面目な気質と潔さは美徳だが、いささか融通も利かないきらいはある。だから緋瑞は指を一本立てると、それを左右に振ってみせた。まるで幼子に常識を説く親のように。

 

【剣を執る人間は、剣によって滅びる】という言葉があるように、シビュラに依存してしまえばそれが原因で滅びを迎えることになるやもしれません。私たちにとっての友は、また誰かにとっては武器となる恐れもあるのです」

 

 もちろん、私たちにとっての全能者は過激な武器ではありませんが。

 片目をつぶって茶目っ気を出しながら付け足した言葉に、黒山は反論する術を持たなかった。古い格言を引用しながらの発言はそこに説得力を持たせる。自身の思想とまるで正反対であろうと、何某かの引力を帯びるようになるのだ。

 

 当の緋瑞はといえば、パンパンと手を叩いて執行官たちの注目を集めていた。思索に耽っていた黒山も、意見を交わしながら現場調査を続けていた白谷と灰森も作業を中断して彼女を見る。

 

「今回も犯人の特定及び痕跡の発見は限りなく難しいようです。ですが、我々公安局刑事課の人間が諦めてしまえば誰もこの凶行を止めることは叶いません。どれだけ無様に這いまわろうと絶対に犯人を逮捕する、その気概を強く持ちましょう」

 

 執行官全員が力強く頷いた。天宮緋瑞という監視官は、不思議なところはあれど紛れもない正義感を持った刑事に相応しい人間だ。まだ若いながらもその身と言葉から溢れる自信は強力な倫理観に裏打ちされたもので間違いない。

 

 そして改めて現場検証を始めた執行官たちを見て──緋瑞は、昨夜と違って何も感じることは無かった。

 

 


 

 月明りの綺麗な夜だった。大きめの黒いコートを着てフードを被る女は、足取りも軽く踊るように歩いていく。影を踏み、風の音を聞いて、静けさの支配する街を進む。暗がりに立つ街灯はどこか幻想的で、まるで彼女を照らすスポットライトのように穏やかな光を放っていた。

 ゆっくり、のんびり、慌てずに、何かを探すように周囲へ視線をやりながら、ふわふわとして止まらない。まるでこれから起こる()()を心待ちにしているような、子供みたいな無邪気さすら感じられる。

 

「あー……」

 

 気が付けば彼女は公園に居た。夜中の公園は既に人気(ひとけ)はどこにも無く、街路の脇にある木々の方へと進めばもう別世界だ。皆の憩いの場は日が落ちるだけで簡単に装いを一転させ、非日常じみた感覚を見る者へと訴えかけてくる。

 常人なら怖がるか、あるいは普段と違う景色に興奮するのかもしれない。けれど彼女は何も思わないし感じない。ただ『公園に着いた』という事実に初めて気が付き、なんとなく声を出しただけである。

 

 公園の隅にさりげなく備え付けられたサイマティックスキャンが彼女を捉えた。

 だが何も起きず、スキャンは”異常なし”とだけシビュラへと送信する。もちろん彼女にそれを知る由はない。

 しばらくその場で佇んでいると、前方から一人の男性がやって来た。身なりはあまりよろしくないが、かといって浮浪者のようにも感じられない。大方、どこかで遊んで騒ぎ疲れた帰りといった具合だろう。

 

「兄ちゃん、こんなところでどうしたんだ? まさか公園のど真ん中で迷子なんざ言わねぇよな?」

「……迷子、ではありませんよ」

 

 そこで初めて男は、話しかけた相手が女性だったことに気が付いたらしい。ギョッとしたように体を跳ねさせ、ついでフードに隠れた顔をしげしげと覗き込む。体格や顔を隠し、背丈だけみれば少年のようにも思えるから無理もなかった。

 最初に断っておくと、決してこの男は悪人ではない。彼女に声をかけたのは好奇心と親切が半々だったし、こうしている今もそれは変わっていない。いや、ちょっとくらいは”あわよくば自宅まで送って……”という男性らしい欲望も皆無ではなかったが、決して責め立てるべき欠点でもないはずだ。

 

「一つ、聞いても良いですか?」

「ん、なんだよ? あ、オレのこと? オレはな、こう見えても結構偉い奴で──」

 

 相手がまだ若い女性ということもあってか、すっかり気を良くして饒舌になった男へと。

 フードの女、天宮緋瑞は懐から取り出したナイフを無言で突きつけた。気が付けば冷たい刃は首元、すぐそばまで迫っている。あまりの出来事に男は理解が追い付かない。

 

「ある書物には、【自由とは欲望の解放でない】との言葉があります。やりたい時に、やりたいことをやるようでは駄目だと。人の社会では確かにその通りと言えましょう」

「え、ちょっと……なに言ってるんだよ」

「しかし、ただ抑圧されるだけが人間なのでしょうか? 自由であるのなら、自らの欲を追求することが自然な姿なのでは? これはさる神の言葉に背く行いかもしれませんが、人間の本質なのではと私は思います」

 

 いきなり人にナイフを突き当てながら、まるで世間話でもしているように穏やかな語り口だった。あまりにもおかしい。不幸なことにこの男性はシビュラの庇護下に生まれた男性だから、このような不意にやってくる害意に対する抵抗力が低かった。

 訳が分からないまま緋瑞の言葉を聞くよりない男へ、彼女は滔々と語り続ける。それは誰に問いを投げているというのか、少なくとも眼前の男でないのは確かだった。

 

「では、このような行いをする私は”神”に裁かれるのでしょうか? それもまた一興かもしれませんね。もし私の悪逆が裁かれたというのなら、すなわち神の実在が示されたということ。翻って私の存在価値も必ずやあるという証明になるのですから」

 

 男を通して存在()もしない誰かに問いかけているような。夢見心地な口調を前にようやく男は状況を正しく呑み込んだ。つまり、このまま黙っていれば確実に自分は死ぬ運命にあるのだと。かつてない恐怖に身体を振るわせ、咄嗟に女を突き飛ばそうと足掻いて暴れ出す。

 だが、その試みは虚しく徒労に終わった。バタバタと動く手足へするりと緋瑞の左手が絡みついた。女の細腕は信じられないような剛力で男を締め上げ抵抗を許さない。一瞬だけ意識が遠のき、次の瞬間には視界が一回転して地面に寝転がされていた。相変わらず首元にはナイフが突きつけられている。

 

 無慈悲なほどに力の差は歴然だった。監視官として格闘術を高い次元で修めている緋瑞とただの一般人、どちらが勝つかは火を見るよりも明らかだ。

 震える男を見下ろす緋瑞の目元は、静謐な悲しみを湛えて涙を流している。

 

「私は今から、あなたを殺します。罪もない他人を殺すなんて、とてもとても()()()()()()()仕方ないのです。でも、私にはこれしかない。これしか、生きていることを実感出来ないのです。どうか恨んでください。呪ってくださって結構です、だから殺されてください」

 

 その言葉に嘘偽りなど欠片もなかった。どこまでも真摯に、誠実に、今ここであなたを殺すと宣言している。

 だってそうだろう、これは緋瑞にとって唯一実感することのできる感情なのだから。ただ一つの救いを求めて人間がひた走るなど自然の摂理であり、彼女にとってはたまたま”他者の殺害”に付随する感情(すくい)というだけのこと。悪意も害意も一切なく、自らの行いと相手の死を悲しみ恐れて悲嘆しながら、それでも振り下ろした腕は止まらない。

 

 だが彼女の事情など知る由もない被害者からすれば気が触れているとしか思えないし、実際狂っていると称して良い。だから男は天にも縋る想いで視界の端にあるサイマティックスキャンを見た。ここまで現行犯をやっているのだ、きっとシビュラは見逃さずに男を救ってくれる、はず、なのに──

 

「なんで……」

 

 反応、無し。この場での出来事にシビュラは気が付いていない。

 どこまでもどこまでも、緋瑞のサイコパスは綺麗だから。シビュラは絶対の彼女の行いを知ることはなく。

 残酷な現実に心を折られた彼は、乾いた笑いを上げるしかなかった。

 

 そうして『銃剣事件』の監視官(しんはんにん)は、泣きながら笑って男の命を摘み取ったのである。

 


 

 ──天宮緋瑞が初めてドミネーターで他者を殺したのは、監視官になって一ヶ月が経過した頃だった。

 

 前の監視官が不慮の事故で亡くなり、その入れ替わりとして配置された当初の緋瑞はとても淡々と仕事に励んでいた。表向きこそ人当りもよく正義感に燃える新米監視官として振舞っていたものの、その実内面はどこまでも冷え切っている。仕事に楽しみを見出すことなんて不可能だったし、例えば潜在犯を目の当たりにしても怒りや憎しみなんて感情とは無縁な日々である。

 日常はデスクワークを基本として、たまにエリアストレス警報が鳴れば現場に急行して潜在犯を抑えるだけ。中にはドミネーターを抜くことも二、三回あったが、どれもノン・リーサルモードによる対象の確保で終わっている。

 

 色褪せたなんの刺激も感じられない毎日が続く。

 そんな彼女にとって二度目の転機は、まさしく青天の霹靂のように突然と訪れた。

 

 結論に至るまでの詳細は省いて良いだろう。ある事件を調査した末に犯罪係数三〇〇オーバーの潜在犯を、偶然が重なり緋瑞一人で追い詰めてしまったのだ。監視官と執行対象が一対一になる可能性はかなり低いが、決してないとは言い切れない。このときもそのような状況だった。

 

《犯罪係数三一五、執行対象です。執行モード、リーサル、エリミネーター。慎重に照準を定め、対象を排除して下さい》

 

 シビュラシステムの読み上げる無機質な音声ガイドに従い、緋瑞は対象へとドミネーターを突きつけた。これからあなたを排除する──その意思と共に監視官としての職務に則り粛々と引き金を引けばそれで終わりだったのだ。

 なのに、彼女は()()()()()のだ。目の前の、同じ生きている人間をこの世から消してしまうのが恐ろしかった。強烈に悲しくなって、社会から不要と判断された者を惜しむ心でいっぱいになった。

 

「わ、私……わたし、は……こんな、どうして……」

 

 でも、それは道理が通らない。だって緋瑞は感情が分からない。他人の気持ちも、自分の想いも、すべて他人事でしか分からず共感も理解もできないのに。どうしてだろう、この時ばかりはあまりに鮮烈で生々しい負の感情に襲われたのだ。

 初めての事象に直面したとき、人は戸惑う。慌て、混乱して、それでも状況を乗り越えようと理解に努め、自分にとって有益なのかそうでないかを判定する。もし後者であるなら二度と同じようにならないと考えるし、あるいは前者であるというのなら……もう一度、今度は意図的に同じ事象を再現しようとするだろう。

 

「私、は……あなたを、排除しなければなりません……」

 

 結局彼女は、躊躇いながらも刑事としてドミネーターの引き金を引いた。エリミネーターモードによる一撃は対象の息の根を確実に止めて、血と肉の海を辺り一面へとばら撒いてみせる。地面に広がるおぞましいまだら模様は人間だったはずのもので、いっそう緋瑞の罪悪感を駆り立ててしょうがない。

 仕方ないのだ、今の世の中は人間の排除が許される時もある。他の誰もこの行為を咎めはしないだろう。緋瑞ほど心を痛めることもなく、あくまで仕事の一環としてドミネーターを構えたはずだ。

 

 もし、これだけならば緋瑞は良心の強い一監視官で終われたろう。たとえ排除すべき潜在犯だろうと慈悲を忘れず、その死を(いた)める貴重な人間となれたはずだ。彼女の持つ倫理観は極めて真っ当で模範的である。

 しかし当人にとっても周囲にとっても不幸だったのは、天宮緋瑞という女が普通では無かったことだ。感情を理解できない人間が、人を殺すことで初めて”生の感情”を手に入れる。情動を持ちえない緋瑞にとってそれは悪魔の誘惑にも等しい、おそるべき対価と快楽だった。

 

 これまで得られなかった人並みをようやく手に入れるチャンスが降って湧いたのだ。すぐにでも飛びつきたい緋瑞だったが、それをすんでのところで我慢できたのは奇跡に等しい。これまで培った正義感と倫理観の二つに思考を矯正され、『監視官として対象を撃ち殺す』という方へと昇華できたのは紛れもない幸運である。

 けれど繰り返しになるが、シビュラシステムに管理された社会は極端なまでに犯罪者が誕生し辛い。潜在犯だってそう簡単には表れないし、さらに排除が必要とされる者となれば滅多なことでは生まれえない。

 故にこそ、緋瑞は悲嘆の感情に飢えた。他のあらゆることでは駄目なのに、なぜか殺人だけは怖いし悲しいし恐ろしく感じてしまう。彼女にとってはそれがすべての感情だったから、もう一度味わいたくてたまらなくなってしまった。例えるなら麻薬の味を知った中毒者のように、底なしの沼へと。

   

 半年の間は我慢した。自らの倫理観と常に葛藤し、紙一重で勝利を収めた。

 でも、一年が経過する頃にはもう駄目だった。

 渇いた心が耐えられない。悲嘆という水を欲しがってどうしようもない。いつしか肥大した欲求は自分でも制御できなくなって──自らの手で狂気と凶器を揃えたとき、『銃剣事件』の怪物は解き放たれてしまったのだ。

 

 後は語るまでもないだろう。監視官として誰より世の平穏を守る傍ら、誰よりも世の平穏を乱す者として無差別かつ無軌道に、()()()()()()()()()()()()()他者の命を糧にする最悪の人殺しと化したのである。

 


 

【どうせ種を蒔くなら、惜しみながらではなく、惜しげもなく蒔け】。私はその言葉に則り、自らの業を惜しんで躊躇うような真似はしません。ですがどうか安らかな眠りを。あなた方のことを、私は絶対に忘れませんから」

 

 森の中に遺体が三つ。その傍らには屈みこんで厳かに何事かを呟く女が一人。言うまでもなく緋瑞と、そして今宵彼女の手にかかった哀れで運の悪い被害者たちのことである。

 彼女は悪辣な人間ではない。破綻者だが情を知っていて、常識も持ち合わせている。だから自らのエゴの為に死ぬ事となった人間を無為に打ち捨てることはしないし、それ以上尊厳を奪う気は欠片もなかった。

 目を見開き瞳孔が開いたままの被害者たちの瞳をそっと閉じた。服装を綺麗に整え、腕を組ませ、三人並んで横たわせる。あくまでも静粛に身辺を整えさせてやる行為の裏には、真実相手への悲しみと罪悪感を覚えてのものだから彼女の病理はあまりに根深い。

 

 悪を知り、悪を嗅ぎ分ける執行官たちでもこればかりは一生理解できないだろう。

 悲嘆を得るために人を殺し、罪悪感と悲しみに暮れながら死体を綺麗にする者の心など。殺した相手の尊厳を守るという矛盾を観測はできても、どうしたって想像できるはずもないのだ。彼女の内面を汲み取れる者など、二十二世紀の精神異常者(サイコパス)をおいて他にいまい。

 

 せめてもの敬意と罪滅ぼしを終え、緋瑞は毅然と立ち上がった。この状況を誰かに見られれば自らの破滅を招く。あるいはそれも一興だろうが、感情を手に入れるこの儀式を失うのは耐え難い苦痛だ。そのために監視官としての知識を最大限に活かし、刑事どころかシビュラ相手にすら気取られない隠密性を発揮してきた。

 

 後はここから立ち去るだけ。足早に移動を開始したとき、それはやって来た。

 

「随分と臆面もなくやっているようだね。とある聖典には【刹那的な快楽に支配されて身を任せるなら、それと引き換えに悔いの残る人生を生きろ】という言葉があったはずだが、君はそれを知らないのかな?」

 

 男の声だった。背後を取られている。

 どこかで聞き覚えのある声なのだが、咄嗟の緊張は数年前の記憶を蘇らせる妨げをしてしまう。だが重要なのはそこではない。

 犯行現場を見られてしまった。もはや後ろの男は殺すしかない。銃は既に胸元へと仕舞っている。すぐに取り出せるのは腰の後ろに隠したナイフの方だ。

 ごくりと喉を鳴らして、取り繕ったシニカルさで緋瑞は言葉を返した。

 

「──……無論、知っていますとも。悔いなんて山ほどありますよ。聖書に曰く、【赦される罪と、許されない罪がある】とあるように、この私の罪は絶対に許されるはずもない。でも、それがこの身が望む全てですから」

 

 偶然なのか、はたまた意図的に目撃されたのか、どちらでも良いが今は過程を考えない。大事なのは切り抜け方だ。

 相手は刑事ではないだろう。面白半分に声をかけてくる程度には肝が据わっているようだが、緋瑞を相手に些か以上不用心といえた。声と気配からして彼我の距離は五メートルもない、瞬時に詰められる程度だった。

 

 なのに、殺人現場を見たはずの男は拍子抜けするくらい自然体を維持している。

 

「面白い理論だ。【ユーモアの源泉は歓びにあるのではなく、悲しみにある。天国にはユーモアはない】と残したのはマーク・トウェインだったか。その背中を見ていれば、君の心が悲しみばかりであるのは一目瞭然だよ」

 

 笑いながらも肩を竦めるような脱力した気配が来た、そのタイミングで緋瑞は仕掛けた。

 即座に反転、腰のナイフを引き抜いて踏み込む。つい先ほど被害者たちの血を吸ったナイフを構え、ほんの一足で男の懐へと入る。雪のように白い髪が印象に残るが、今はつとめて考えない。

 だが男もさるもので、すぐに一歩距離を取って緋瑞のナイフを避けた。反応が早い、身のこなしは間違いなく武術を嗜んでいる者のそれだ。分析の時間もつかの間、伸ばした右腕の手首を掴まれた。振り解こうとするも細身に反したすさまじい力に対抗できない。残った左腕と両足の蹴りで応酬するが、男も負けじと防いでくる。やはり相当な手練れだ。

 

「強いな。争いは同レベルの者同士でしか発生しないなど、ふざけているようで真理を突いた言葉だ」

「そちらこそ……!」

 

 互いに感嘆しながら腕を絡め、足を交わらせ、一進一退の攻防を続ける。ほんの数秒の間に十は超える駆け引きを繰り返し、掴み掴まれている腕すら計算に入れて相手を無力化しようと先手を競い続けた。

 その最中にふと、至近距離で顔を見合わせた。端正な顔立ちはどうしても記憶を疼かせ、緋瑞の集中を妨げてしまう。だからだろうか、先に押し込まれたのは緋瑞の方だった。

 あっ、と声を漏らす暇もない。左足を絡めとられ、互いに横倒しとなる形で草むらに倒れ込んだ。けれど狙ってやった男の方が立ち直りが早く、ハッとした時にはもう男が緋瑞の上に馬乗りとなっていた。いつの間に取り出したのだろう、彼の右手には月明りに鈍く輝く剃刀が握られている。

 

 互いに息を切らしていた。腕を抑えられ、押し倒されるような姿勢の緋瑞は扇情的だがピンチでもある。

 これは、間違いなく死ぬ。事実として緋瑞は状況を認めた。こうまでマウントを取られてしまえばどうしようもない。

 だからこれは走馬燈だろうか。瞬間的に記憶が過去へとフラッシュバックして──ようやく彼女は男の正体に思い至ったのである。

 

「……あなた、昔に聖書をくれた人」

「ようやく気が付いてくれたか。いきなり襲われたからつい本気で迎撃してしまったが……思い出してくれて何よりだよ」

 

 いつかの夕暮れに緋瑞へ聖書を渡してくれた男こそ、眼前の白い人物だった。

 どんな時でも彼のくれた聖書は持ち歩いているし、今だってコートのポケットに収まっている。これを持って彼に礼を言うのが彼女の目標の一つだった。

 期せずしてその願いは叶う目前であり、もはや緋瑞に敵意はない。男もそれを理解したのか緋瑞から離れると剃刀を懐へと仕舞い込む。彼の方にも敵意は無いようだった。

 

 男はパンパンと服についた汚れを落とすと、未だに倒れ込んだままの緋瑞へと手を差し伸べる。

 

「僕は、槙島(まきしま)聖護(しょうご)という。よければ君の名を教えてはくれないだろうか、改めて話をしてみたいんだ」

「私、は……」

 

 一瞬だけ躊躇して、今度はしっかりと伸ばされた手を掴む。男らしいガッシリとした手のひらだ。握りしめた途端に力強く緋瑞を引っ張り上げ、紳士的なまでのエスコートで彼女を立たせてくれた。

 

「……天宮緋瑞といいます。お久しぶりですね、そしてありがとうございます」

「礼を言うことはない。だが敢えて言わせてもらうなら……【恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから】と言い切る方が君の好みかな?」

 

 白い容姿の男──槙島聖護は薄く笑った。



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