お弦さんといっしょ (とりなんこつ)
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1話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この世界において、民法731条は未だ改正に至っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、S.O.N.G.本部発令所にて、風鳴弦十郎は集めた面々の顔を見回す。

 

緒川慎次。

 

藤尭朔也。

 

友里あおい。

 

特異災害対策機動部二課からの肝煎りの部下たち。

エルフナインには席を外してもらっている。

聖遺物や錬金術のスペシャリストたる彼女に対し、聞かせたくない政治的な話だった。

すでに概要は弦十郎が話し終え、皆が手に持った資料に視線を落としている。

 

「…こういう搦め手で来ましたか」

 

呟く緒川。

 

「同時に、激しく疑わしい内容ですね、これ」

 

藤尭がプリントの端を指で弾く。

頷き、その紙面の内容を弦十郎も再び黙読した。

そこにはとある人物の詳細が記されている。

 

 

 

 

マクシミリアン・モリーナ

 

ロンドン在住のイタリア系イギリス人。

 

地元密着型のスーパーを複数持つ経営者で、地元のウェールズではそれなりの資産家で名士だと言う。

 

 

 

 

巷間にいくらでもいる、多少裕福で平凡な人間だろう。

そんな初老の男が英国政府を通じて、こと国連直属組織に訴えかけてきているのが問題だ。

疑問の種を割ってしまえば、彼の持つ姓が答えだった。

 

モリーナ。

 

雪音クリスの母である、ソネット・(モリーナ)・ユキネと同姓なのだ。

 

マクシミリアン自身は、ソネットの血縁だと主張している。

その上で、クリスの活躍を目の当たりにし、親族として彼女を英国に引き取りたいのだと言う。

 

「とりあえず、ミスター・モリーナの身辺情報に関しては疑わしいところは見つかりませんでした」

 

友里はそう報告し、ややうんざりとした顔つきで、

 

「それこそ完璧すぎるほどに」

 

そう付け足した。

 

「そこいらへんは英政府がしっかりとクリーンアップしてるでしょうからねぇ」

 

藤尭の声も苦々しい。

雪音クリスの編入に先立ち、特異災害対策機動部でも彼女の親族の捜索や調査は行っている。

しかし雪音家もモリーナ家も血縁が薄いらしく、ついぞクリスを保護したいという親族は見つけられなかった。

それが今となって突然沸いて出たかのような申し出である。

 

「いや、今となってこそ、か…」

 

シンフォギア装者たちの激闘は、あまりにも大規模なものになりすぎた。

いくら情報統制を敷こうとも、個人が携帯端末などで動画を撮ることまでとても制止できない。

SNSなどにアップされるものは即座に削除され、そのためにも大規模な予算が投じられているが、壮絶なイタチごっこにしかなっていない現状である。

そんな中で動画を目にし、途絶えたと思われたクリスの親族が名乗りを上げたとあれば、それは本来喜ぶべきことなのかも知れぬ。

 

「モリーナ氏の要望としては、ぜひクリスくんと英国で一緒に暮らしたいとある」

 

親族がおり、一緒に暮らしたいというのであれば、それは最大限尊重されるべきだと弦十郎は思う。

ただし、それが本当の親族であるならば。

藤尭の言った通り、このモリーナ氏がクリスの血縁であるという主張は疑わしい。

あるいは英政府が国の威信にかけて探しだしたのかも知れないが、だけに余計に疑わしく思える。

そもそも国の主張というのは、様々な権益が背景に存在するものだ。

遠くの親族の心からの陳情という美談など、とても素直に受け取ることができない。

 

「要は、英政府は雪音さんを自国で囲み込いたいのでは?」

 

緒川の言に、弦十郎は瞑目。

国連直属組織S.O.N.G.といえど、そこで働く人種は日本人が多数を占める。

元は日本国の特務機関からの再編・出向なので、それは当然かも知れないが、装者もまた日本人がほとんどである。

レセプターチルドレンの三人は、マリア・カデンツァヴナ・イヴのみが国連直属のエージェントという背景を設定されているが、月読調、暁切歌の身柄は日本国の預かりであり、名前の字面からも日本人と見做されているだろう。

立花響、風鳴翼は生粋の日本人である。

そういう目線でみれば、なるほど、出自と身元がはっきりとしていながら純粋な日本人ではないのは、雪音クリス一人だけかも知れない。

母方の血筋からのアプローチでクリスを渡英させ、国籍を取らせる。

シンフォギア装者は一歩間違えれば大量破壊兵器となりうる。一国に装者個人が所属するとれば、世界のパワーバランスが大きく揺れるだろう。

もちろんそのような事態を防ぐための国連直属組織という体裁なのであるが。

 

「そんなの、アメリカ様が黙ってないでしょうよ」

 

緒川の発言に対抗したのは藤尭だった。

アメリカが国連に対しもっとも強い影響力を持つのは世界の不文律だ。

そもそも特異災害対策機動部二課がS.O.N.G.に移行した理由も、かの大国の意向が働いた結果である。

となれば藤尭の言うとおり、英国の言い分に対し、米国が横やりを入れないわけがない。

 

「ところが、どうもアメリカが裏で支援しているみたいなのよ」

 

友里が否定した。

 

「ま、マジで…!?」

 

狼狽する藤尭を前に、開眼した弦十郎は唸るように言う。

 

「彼らの懸念はいわゆる愛国者(パトリオット)ということか」

 

その声に、部下三人は一瞬言葉を失う。

 

「むしろ愛国心と言い換えたほうが分かり易いか」

 

部下を見やり、弦十郎は苦笑して訂正した。

国連が様々な人種で構成されているのは周知の通りだ。

彼らは世界平和のために奉職するのが務めであり、国連という組織へ帰属している。

しかし、仮に国連が機能不全、もしくは崩壊した際に彼らの帰属意識はどこへ向かうのか?

それは、自らの生まれ育った国土へ向けられることが殆どであろうと思われる。

同様に、国連の制御を離れたシンフォギア装者たちの動向は、出身国である日本を守ることを第一とすることだろう。

そのような状態にならぬよう国連もアメリカも腐心しているだろうが、内心で苦々しく思っていることは想像に難くない。

そう弦十郎が説明すると、部下三人も納得したように頷き合っている。

 

「まあ、愛国者がいなければ立ち行かぬ場合もあるしな」

 

弦十郎の脳裏に実父の威容が浮かぶ。

しかし、あまりに極端な例だと慌てて掻き消し、次に思い浮かべたのはイギリス国防大臣の姿だ。

非公式の会談の席で彼の人はこう言っていた。

 

『我が国にもシンフォギア装者が一人でもいれば…』

 

錬金術師の胎動が専らとされる欧州一帯において、それは切実すぎる望みだろう。

そのような愛国心に基づく清廉な願いも、後ろ暗い権益塗れの汚濁も、合わせて奔流となるのが政治というものだ。

 

「実際のところ、雪音さんの国籍の移動などはさすがに無理でしょう」

 

友里が言う。

後押しする米国としても、そこまでは看過しないだろう。

 

「となれば、装者に対し英国として紐をつける形、ということでしょうか?」

 

「おそらく落としどころはそこらへんを想定しているだろうな」

 

藤尭の問いに弦十郎は頷く。

現状、国連直属の建前はあれど、その実日本とアメリカの影響を無視できないS.O.N.G.。

そこにイギリスも一枚噛ませろということか。

イギリスは権益を求め、アメリカは日本の力を削ごうとしている。

両者の思惑が一致したわけだ。

はっきりいって不快である。とても子供たちに聞かせられる話ではない。

太い眉を勢いよく跳ね上げ、弦十郎は言った。

 

「そこで打開策だ。諸君には、どうやってこの難題を突っぱねるか知恵を貸してもらおうッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「養子縁組は、どうでしょうかね?」

 

藤尭が言う。

 

「それも有効だったかも知れんが、期を逸してしまった」

 

弦十郎は応じる。

このような事態が持ち上がる前に、純日本人の誰かと養子縁組を結んでおけば、ある程度の対抗措置となったはず。

しかし、親族が名乗り出てしまった以上、今更実行しようとすれば、あからさまな対抗と見做されてしまう。

日本国が制度を使って無理やり自国に引き止めようとしているとの苦言に弁明するのは難しい。

 

「彼女がまだ未成年なのも苦しいですねえ」

 

緒川が唇の前に指を押し当てて考え込んでいる。

雪音クリスはまだ17歳だ。

現状の日本国の民法では、まだ20歳が成人年齢となっており、国籍の選択もその時点で可能となっている。

そしてイギリスでは既に1964年に法改正が行われ、18歳で成人となる。

イギリスの法律を盾に、クリスに国籍の選択を迫ってくる可能性があった。

当然、その時点でクリスは日本国上の成人年齢に達していないから、イギリス国籍を取得しろとの外圧も想定される。

牽強付会もいいところだが、政治が時にして法律すら凌駕することは珍しくない。

 

「加えて、こんな反証もありまして…」

 

そういって友里がモニター上に展開した映像にクリスが映っていた。

ただし、纏っているのはイチイバルではなくネフシュタンの鎧。

過去、二課の装者たちを襲撃した際の映像である

 

「こんなものまで流出していたなんて…」

 

緒川と藤尭が異口同音に(うめ)いた。

元の特異災害対策機動部一課をして、各種データの隠蔽作業には細心の注意を払っていたはず。

それが漏れたとあれば、やはり背後に最大の同盟国の影を見ざるを得ない。

 

「この映像の内容を持って、雪音さんは本来、二課に対立していたのでは、とのことで」

 

引いては意に沿わないままにS.O.N.G.に所属して戦わせているのでは、と友里より渡された書簡には記されていた。

書簡には、血縁の娘が望まぬ戦いに身を沈めているなら、どうにか救ってほしいとのモリーナ氏の署名もある。

モリーナ氏の実在はともかく、さすがの弦十郎も軽い頭痛を覚え、コメカミに指を当てた。

元特異災害対策機動部二課、いや、日本にとってはこれらの映像の流出は元より、ルナアタック事変そのものが痛恨事であった。

フィーネの情報は共有されてたとはいえ、なにせカ・ディンギルが製造されていたのが当初の本部の地下である。

その後、国連直属組織への出向という形で幕引きは図ったものの、一部では未だ国を挙げて行った壮大なマッチポンプだったのではという意見も根強い。

装者の活躍を見てもらえれば、そのような無責任なことは口には出来ないのに、と弦十郎は思う。

だが、世界には自分の都合の良いものしか見えない人間も多いのも事実だ。

 

「…他に、何か妙案はないか?」

 

部下が一斉に(うつむ)くのを見て、弦十郎は急に疲労を覚えた。

この会議に先立つこと先日、弦十郎は兄である風鳴八紘に会っている。

その席で八紘はこれらの懸案を投げかけると同時に、こうも言っていた。

 

『弦―――済まない』

 

意訳すれば、八紘の剛腕を持ってしても、この事態に持ち込まれてしまったということだろう。

兄の政治的手腕など自分の遥か高みにある。

その兄を持ってしても駄目だった懸案を、俺たちで処理できるものかよ。

心の中で(うそぶ)くに留めた。さすがに部下には聞かせられぬ。

そんな中、室内の紅一点である友里が、なぜかそわそわしている姿が目に入った。

 

「どうした友里? 何か意見でもあるのか?」

 

「い、いえ、その…」

 

さらにそわそわし、うつむいて口ごもる友里。

しかし弦十郎がゆったりと構えていると、意を決したように訴えてくる。

 

「そ、その! 雪音さんに結婚してもらうというのはどうでしょうか?」

 

果たして弦十郎は目を剥いて立ち上がった。

 

「なんだとッ! クリスくんは学校に意中の人でもいるのかッ!?」

 

「いや、司令。そこはリディアンは女子高ですし」

 

反射的に突っ込む藤尭。

 

「すると、市井に付き合っている一般人の相手がいるのか?」

 

「それも残念ながら確認されませんけど」

 

と友里。

なるほど、考えてみれば訓練に出撃の繰り返しで、一般人との出会いなどあるまいよ。

過酷な学生生活を押し付けているなと弦十郎は反省。

 

「となれば…偽装結婚という格好か?」

 

そういって太い腕を組む。

雪音クリスの後見人を買って出ている弦十郎であるから、本当に好きあっている人と結婚できるなら手放しで祝福してやりたい。

だが、政治の始末の結果として、彼女に望まぬ結婚を勧めるなど、唾棄したいところだ。

 

「ですが、この形が一番説得力があるのも事実です」

 

養子縁組と違い、結婚は恋愛と自由意志に基づくもの。

日本での女性の婚姻年齢は16歳と法律で定められている。

仮にこれを阻害するようであれば、逆に責められるべきはイギリスの方になるだろう。

最低限の労力で最大限の効果を上げるという意味においては理想であるかも知れない。

 

「…ならば、なるべくクリスくんの嗜好に沿った人選をするか」

 

弦十郎の脳裏で、部下たちの顔がリストアップされた。

幸いといっていいのか、未婚の男性は結構多い。皆、エージェントとしての実力は折り紙つきだ。その中で、なるべく歳が近いほうがいいだろう。

 

「いえいえ、司令。偽装ですから、なにもそんなリストアップせんでも」

 

藤尭が、なぜか慌てて手を振ってくる。

 

「ふむ。そうだな、では緒川、おまえはどうだ?」

 

急にそう振られ、緒川慎次は珍しく飲んでいたお茶でむせた。

 

「…光栄ですが、僕は翼さんのマネージャーの仕事がありますので」

 

そういって眼鏡を装着した涼しい顔に戻っている。

 

「なら、藤尭。おまえは?」

 

「…冗談ですよね? 本気で言っています?」

 

藤尭の顔色は本当に変わっている。

弦十郎にとって、二人とも自慢の部下である。

才気と器量は抜群で、およそ他に替えがたい貴重な人材だ。

彼らなら、クリスと十分に釣り合うし、護ってくれるだろう。

そう思う反面、命令で戸籍を汚させるのには、さすがに忸怩たるものがある。

 

「すまんすまん。しかし、事情を弁えて、かつ才幹を持った男など、他に思い浮かばなくてな」

 

仮にもクリスと結婚となれば、無形有形の様々な圧力や干渉があることが想定される。

それを弾き返すだけの強靭さに加え、S.O.N.G.関係者であればバックアップもしやすい。

これで相手がなまじ市井の人間となれば、個人だけでなくその家族にまで気を配らなけばれならぬ。

 

「そういう意味においては、もっと身近に適材な人間がいると思うのですが…」

 

なぜか不愉快そうな顔つきで友里が言う。

 

「ほう? それは誰だ? 是非紹介してもらいたいのだが」

 

「…それはともかく、この場合、雪音さんの意志を確認するのが先決では?」

 

「ふむ…」

 

弦十郎は考え込む。

解決手段はさておき、英国に身内が発見されたとの情報すら本人には伝えていない。

渡英したいと彼女が望んだとして、弦十郎はそれを安易に認められない。逆に説得しなければならない立場である。

その上でも、やはり本人の意志確認はさすがに必要だろう。

 

「分かった。友里、至急クリスくんを呼んでくれないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

緊張した面持ちで雪音クリスが発令所に現れた。

弦十郎がイギリス政府からの通達と書簡を渡して説明したところ、瞳を輝かせたのも一瞬で、たちまち胡散臭い顔つきになる。

 

「なるほどな、事情は分かった。でもこれって、絶対イギリスの策略だろ?」

 

「ほう、どうしてそう思う?」

 

無意識で頬を綻ばせながら弦十郎はそう問うた。

 

「こんなとってつけたような親戚っていわれてもなー。しかも今さらだし」

 

唇を尖らせるクリスは、どうやら彼女なりに大人たちと同じ結論に達したらしい。

 

「だいたい、見たことも会ったこともないような自称ママの親戚に付き合う義理はねーよ」

 

「なるほど、それがクリスくんの意志ということでいいのだな?」

 

頷くクリス。

 

「でも、雪音さん。ことはそう簡単には収まりそうにはないのよ」

 

友里がやや緊張した面持ちで説明を始めた。

未だ未成年の彼女の保護を訴える道義的な根拠。

国籍の選択を盾にイギリスより身柄を迫られる可能性。

また、かつての二課と対立していたという情報を持って、クリス自身が自意識に反し組織に所属しているのではという疑念。

これらを解決しないことには、政治的な納得と決着に至らないこと。

 

「そんなもんッ…! …全部突っぱねてくれよ」

 

小さな肩がいきり立ち、直後にたちまち消沈した。

個人レベルでどうこう出来る話でないことを悟ったのだろう。

頭のいい子だ、と弦十郎は思う。

そして不憫に思ったのは友里も同じらしく、続きの言葉を言いあぐねているよう。

 

「そこで、一つ解決策がある」

 

見兼ねた弦十郎がそう口を開いた。

 

「…それは?」

 

上目使いで見てくるクリスの眼を真っ直ぐ見つめ、弦十郎は答えた。

 

「クリスくんに結婚してもらうことだ」

 

「はあッ!? 結婚だあッ!?」

 

狼狽も露わにするクリスに、それも当然だなと思いつつ、弦十郎は優しく言葉をつづけた。

 

「とは言っても、偽装的なものになると思う。要は政治的な体裁を整えてもらいたいのだ」

 

「て、体裁って…、でも結婚は結婚だろうがよッ」

 

「確かに戸籍を汚してしまうことになるかも知れん。それでも、これが一番波風が立たない手法なのだ」

 

一転、弦十郎は真摯な態度で頭を下げた。

或いは断られるかも知れないが、それはそれで構わないと思っている。

どだい17の子供に無理を強いているのだから。

クリスの反応はない。

仕方ない、他の方法を探すか。

そう思って顔を上げた弦十郎の目前で、クリスは俯いている。表情は読めない。

 

「…まあ、それが一番冴えたやり方なら、仕方ねーけどよ」

 

ポツリと呟く。

 

「そうか、承知してくれるか」

 

思いのほか肩の荷が下りた気がする。

それでも、済まないな、という気持ちを抱えたまま、弦十郎はクリスに室内を指し示した。

 

「それで、相手だが、緒川や藤尭ではどうだろう?」

 

その声に、ちょうど温かいものを飲んでいた両名が噴き出す。

 

「ちょっ、司令、諦めてなかったんですか!?」

 

「いや、やはりS.O.N.G.関係者が最適だと思ってな」

 

むせかえる藤尭に、なぜか怒りの形相の友里が割って入ってきた。

 

「そうおっしゃるなら、司令自らも入っていなければ不公平でしょうッ!?」

 

「はあッ!? 俺もか?」

 

そういわれ弦十郎も考え込み、ほぼ半瞬で折り合いをつける。

なるほど、男性ならば、確かに自分も結婚対象ではある。

それを忘れて部下たちに責任を押しつける形になっていたのは猛省すべきだろう。

組織のトップであることを嵩に着ていたとの指摘も免れまい。

ならば上司が自ら範を示すべきだ。

 

「…そういうわけで、相手は俺でどうだろう、クリスくん?」

 

「ええッ!? うええええええええええッ!?」

 

顔を真っ赤にして、これ以上もないほど狼狽するクリス。

両腕をだばだばと振り回す姿に、まるで茹蛸(ゆでだこ)みたいだな、などと失礼極まりない感想を持つ弦十郎。

そんな茹蛸は独特な髪型をたなびかせ、発令所を飛び出して行ってしまう。

 

「やれやれ、どうやら怒らせてしまったようだ」

 

弦十郎は苦笑しつつ部下たちを振り返った。

 

「…本当にそう思っています?」

 

友里にジト目で睨まれた。

 

「当然だろう。偽装とはいえ、こんなおっさんと結婚しろと強いたんだ。そりゃあ嫌だろうさ」

 

朗らかに言う弦十郎。

 

「さあ、仕切り直しだ。別のアイディアを期待するッ」

 

しかし、消沈した部下たちからはろくな発案もなく、その日の会議は結局流れることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

明けて翌日。

司令席についた弦十郎のもとに、友里がメッセージを携えて持ってきた。

彼女は、クリスより送られてきたというメールを、司令席の専用ディスプレイに表示させる。

 

「…これを、クリスくんが?」

 

「はい」

 

頷く友里は笑顔なのだが、なぜか背中がうすら寒くなるような印象がある。

そんな部下から務めて顔を逸らし、弦十郎は腕を組む。

宛名は自分宛になっている極め付けの短文を再読。

 

『よろしくお願いします』

 

ふむ。

年頃の娘は、分からん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

官舎に戻ると、向こうの廊下から歩いてきた職員が敬礼をしてくる。

 

「司令、お疲れさまです」

 

「うむ、ご苦労」

 

挨拶を返し、弦十郎は鷹揚に歩く。

組織の幹部たるもの、いかなる場合でも急ぎ早足は厳禁だ。

トップが浮き足立てばそれは部下たちにたちまち伝播し、全体の瓦解に繋がる。

しかし、内心では今すぐ全力疾走で自宅へと戻りたい。

弦十郎は、分厚い胸板の下の包みを大事そうに抱えなおす。

近所の量販店の袋に入ったそれは、本日発売のアクション大作映画のBlu-rayソフトだ。

一刻も早く観たかったが、鉄の意志でどうにか抑え込んでいる。

それでも、気もそぞろになりがちだ。

そういえば、さっきすれ違った職員は何やら怪訝そうな目で見てきたが、きっと気のせいだろう…。

エレベーターの速度すらもどかしく、最上階のフロアに着く。

正面の通路を曲がり、真っ直ぐ進めばそこが弦十郎の自宅だ。

 

「!?」

 

弦十郎は目を見張る。

自宅のドアの前に、大きなキャリーバックと仏壇が置いてあったのだ。

その間に挟まるようにして膝を抱えて座りこんでいるのは。

 

「…クリスくんッ!?」

 

どうしてここに? という言葉をギリギリのところで弦十郎は飲みこむ。

そうだ。そういえば先日、友里と話をしていた。

クリスと結婚するにあたり、『まずはとりあえず一緒に住んでみてください』と言われたのだ。

偽装であるからそれはいいのでは? と弦十郎がいうと、間髪入れず『体裁が大事なのです』とのこと。

弦十郎は即座に納得。

おそらく結婚の情報を聞きつけて、英国のエージェントが確認に来るだろう。

なのにその体裁が整えられていなければ目も当てられぬ。

まさに本末転倒になるところだった。

もっともクリスにも都合があるだろう。いきなり明日から二人で一緒に暮らせと言われても困るはず。

そんなわけでゆったりと構えていた弦十郎だったが、まさか昨日の今日でやってくるとは予想外である。

 

「あ、おかえり…」

 

クリスはぎこちなく顔を上げ、そう言う。

 

「ひょっとして随分と待たせてしまったのではないか?」

 

クリスの格好はリディアンの制服姿のままだ。

学校から直行したのか自宅経由かは分からねど、放課後からはずいぶん時間が経ってしまっている。

 

「いや、そんなに待ってないぜ」

 

「しかし、仏壇まで持ってくるとは大変だったろう」

 

「ここまでカートに乗っけて来て、ここでは職員の人にも手伝ってもらった」

 

「そうか」

 

弦十郎は自宅のドアをカードキーで開けると、クリスを招じ入れる。

 

「どうした? 入ってくれ」

 

「お、お邪魔します…」

 

おずおずと靴をそろえ、クリスは廊下を歩いてきた。

きょろきょろと周囲を見回して、

 

「お、男ヤモメにウジが沸くっていうけど、案外、綺麗にしているんだなッ」

 

などと上擦った声で言う。

 

「そうか?」

 

弦十郎としては苦笑する意外の選択肢がない。

2LDKのマンションは、本音を言えば持て余し気味だ。

なにより作戦行動中などはS.O.N.G.本部で寝泊まりすることが圧倒的に多い。

広さに反して物が少なく片付いて見えることに加え、週に何回かはハウスキーパーに掃除を依頼している。

種を明かしてしまえばどうということはない話だ。

弦十郎は遊ばせてある和室へとクリスを案内する。部屋の隅に抱えたキャリーバックと仏壇を降ろして言った。

 

「取りあえずこの座敷はクリスくんの好きに使ってくれ」

 

「う、うん…」

 

頷くクリスに頷き返し、弦十郎は自宅の案内をすることにした。

 

「こちらがトイレで、ここが脱衣所兼洗面所になっている。風呂もここだな」

 

他にも、色々な性能があるのに全く使いこなせていないシステムキッチンや冷蔵庫の説明をしていると、我がことながら少し可笑しくなってきた。

 

「そしてここがリビングだ」

 

クリスが目を見張るのが分かる。

正面に、50インチ以上ある巨大な液晶テレビ。その脇には、ハイスペックなサラウンドシステムが組まれている。

弦十郎の職責と収入に対し、ささやかな贅沢を注入しているのがこのリビングだった。

それらの機材を見回したあと、クリスは壁一面を埋めるDVD棚の前に立っている。

いくつかのDVDを手に取って見ているのは、コレクションの中にいくらか興味をそそられるタイトルがあったのか。

その様子はとても微笑ましい。

 

「このリビングから続きの部屋が、まあ俺の寝室だな」

 

親指で横を指し示してそう言うと、スルッとクリスの手に持っていたディスクが床に落ちて転がった。

 

「ご、ごめん…ッ」

 

慌てて拾い上げている。

 

「それよりクリスくん。腹は減っていないか?」

 

弦十郎は尋ねた。

 

「あ、晩飯ならもう食べて…」

 

きゅーっとお腹の音が鳴る。

たちまち顔を真っ赤にするクリスに、弦十郎は遠慮なく笑った。

 

「よし、少し待っていてくれ」

 

キッチンへと向かう。

冷蔵庫を開ければ、先日の食べ損じた冷ご飯に、活きの下がった生卵がある。

鉄鍋をカンカンに焼いている間にネギを刻んだ。

油を敷いた鉄なべで三つを混ぜ合わせ、中華だしも入れて炒める。

塩と胡椒で味を調えれば出来上がりだ。男の料理はこれくらい簡単で豪快に作れるもので丁度良い。

大皿に卵チャーハンを盛り付けて、さすがにこれだけでは寂しいのでインスタントのわかめスープをつける。

 

「さあ、出来たぞ、食べよう」

 

「…い、意外と料理出来るんだな…」

 

「こんなもの、料理というのには抵抗があるがな」

 

キッチンのテーブルで差し向かい。

ふと思い至り、弦十郎は席と立つ。

冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出すと二人のグラスに注ぐ。

 

「良かったら飲んでくれ。牛乳が嫌だったらミネラルウォーターも冷蔵庫にある」

 

というか、弦十郎の家の冷蔵庫には、牛乳とミネラルウォーターしか入っていない。職務上酒も飲まないようにしている弦十郎が他に飲むのは生卵くらいだ。

 

「…頂きます」

 

「うむ、頂きます」

 

クリスは大口でチャーハンを頬張ると、

 

「…美味しい」

 

と笑みをこぼす。

 

「口にあってなによりだ」

 

その微笑ましい様子に弦十郎も笑った。

こうやって差し向かいでゆっくりと食事を摂るのは初めてだな、とも思う。

そのまま眺めていると、弦十郎の視線に気づいたクリスは顔を伏せ、凄い勢いで残りのチャーハンを掻き込んでいく。最後にスープも牛乳もほとんど一気飲み。

 

「クリスくん、ほっぺたにご飯粒がついてるぞ」

 

指摘すると慌てて頬っぺたを探っている。赤い顔に恨みがましい目で見られながら、弦十郎も自分の食事を平らげた。

食後にお茶で一服する風習も準備も弦十郎宅にはない。

なんとなくの流れで、二人でリビングへと河岸を変える。

ソファーに座らず、弦十郎が直接カーペットの上に正座すると、向いにクリスも正座をして座った。

 

「クリスくん」

 

弦十郎は声に力を込める。

 

「…はい」

 

クリスも背筋を伸ばして聞いている。

 

「今回の件に関して、これだけは言わせてくれ」

 

「はい」

 

「俺は、おまえの敵になるものがいたら全て倒す。

 おまえに害を成すもの全てから守ろう。

 望むことがあるなら全力で支援するし、おまえが幸せになることを誰よりも望んでいる。

 おまえが幸せになることが、俺の幸せだ」

 

これが今回、望まぬ婚姻を強いたことに対する弦十郎のケジメだった。

晒せるだけの誠意を並べながら、その実、弦十郎は不本意で仕方ない。

組織の、国の不始末なのに、個人でしか報いることを確約できないもどかしさ。

突き詰めれば日本国が不利益を被らないよう、クリス自身に身を呈してもらっている状況なのだ。

なのに国も組織も明確に報いることはできない。

だいの大人が雁首をそろえて、情けない以外の形容のしようがあるものか…!!

 

「………」

 

対して、クリスはというと顔が真っ赤だった。

それこそ燃えるほど赤く見える顔を伏せ、ゆっくりと三つ指をつくと、弦十郎へ向かって頭を下げてくる。

 

不束者(ふつつかもの)ですが、末永くよろしくお願いします…」

 

その挨拶に、弦十郎は僅かに面食らう。そして内心で苦笑した。

学校の成績も優秀で、難しい日本語の言い回しも駆使する彼女だが、やはりさすがに海外暮らしが長かったからだろう。間違っている。

丁寧なあいさつを返そうとした努力は認めるが、それではまるで嫁入りしようとする娘の台詞ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、とりあえず風呂にでも入るか」

 

「はい……って、うぇええええっ!?」

 

「どうしたクリスくん。俺より先に入るか?」

 

「…お先にどうぞ」

 

クリスはどうも感情の起伏が激しいよう。

まあ、こんな男といきなり一緒に暮らせといわれたのだから戸惑うのも無理ないか。

一人納得し、弦十郎は抜かりなく着換えを持って浴室へと向かう。

今までは下着一つで室内をうろついたものだが、今日からは配慮が必要だろう。

全身にボディソープを泡立て、ついでに髪も洗い、シャワーで流すのに十五分もかからない。

その途中でふと思いつき、浴槽にお湯を溜める。

弦十郎自身は滅多に自宅の浴槽に浸かることはないので、これは次に入るクリスのためだ。

脱衣場で身体を拭き、髪を軽く乾かして手櫛で髪型は完璧に決まる。

使ったタオルを籠に放り込んで脱衣所を出る寸前、クリスのために新品のタオル一式を引っ張り出して目立つところに置いた。

このくらい気遣えるほどの甲斐性はあるのだ。

 

「お風呂は空いたぞ、クリスくん」

 

「は、はひッ!」

 

リビングのソファーでぼーっとしていたらしいクリスに声をかけると、そんな素っ頓狂な返事をした。

立ち上がり、パタパタとリビングを飛び出していく様に弦十郎は首を傾げてしまう。

そんなに風呂に入りたかったのか? だったら先を譲るべきだったか。

弦十郎自身、ソファーに腰を降ろし一休み。

キッチンに立ち寄って持ってきたペットボトルの冷たいミネラルウォーターが、火照った身体に心地よい。

テレビのリモコンを手にスイッチオン。そのままザッピング。

本当は、今日購入したアクション作品が一刻も早く観たかった。

だが、せっかくクリスもいるのだから、風呂を上がってきたら一緒に見るために待つことにする。

見るともなしにニュース番組を眺めながら30分が経過した。

…女性は長風呂というからな。弦十郎にして、それくらいの俗説的な知識はある。

それでも一時間が過ぎれば、我慢の限界だった。

パッケージを破り、新品のディスクを再生機へと放り込む。

防音仕様にしたリビングでは、多少音を高くしても隣室からの抗議はない。

この仕事に就いてから様々な不利益を被ってきたが、弦十郎が一番不満に思うのは映画館に行けないことだろう。

いつ緊急の呼び出しがかかるかも知れない状況で、連絡機器の電源を切ることを義務付けられた映画館は利用できない。

だからといって電源を入れっぱなしでは、他の利用者への迷惑や、いつ呼び出しがかかるかも知れないと気が気でなく集中できぬ。

ゆえに弦十郎は、学生時代からはや十数年、映画館で鑑賞した記憶がなかった。

その反動がこのリビングに集約されているわけだが、およそ個人で鑑賞する分には、これほど整った環境は存在しないほど拘っている。

そのせいだろうか。

すぐそばにほっこりとした感触。

仄かに香る甘い匂い。

視覚以外に訴えてきたものが、弦十郎を映像の世界から引き戻す。

横を見れば風呂上りらしく、頬を上気させたクリスがちょこんとソファーの隣に腰を降ろしている。

 

「す、すまん。クリスくんが風呂から上がってくるまで待とうと思ったのだが、結局待ちきれず…」

 

「え? あ、ああ、うん」

 

どうにも精彩を欠いて見える。

弦十郎は素早く壁の時計に視線を走らせた。

映画が始まってから早30分以上が経過している。

つまり、クリスは一時間半以上風呂に入っていたということか?

するとこの反応。もしかしてのぼせたのか。

 

「大丈夫か? 冷たい水でも飲んだほうがいいのでは」

 

気遣う弦十郎にクリスは首を振って、

 

「ううん、大丈夫」

 

ソファーの上で膝を抱えた。甘い匂いが一層香る。

今さらながら彼女がストライプ柄のトレーナーのようなパジャマを着ていることに弦十郎は気づいた。

なかなかに可愛い格好だ。

心の中の感想に留め、弦十郎は大型画面に向き直る。

映画が終わると、NG集の流れるエンドロールを眺めながら、隣のクリスに声をかけた。

 

「どうだった、クリスくん?」

 

「…え? あ、うん、なかなか面白かったよ」

 

そうは答えるものの、表情はどこかぼんやりとしている。

弦十郎もして、鑑賞中、ちらちらと横顔に視線が当たってきたのを思い出した。

どうやら映画はクリスの嗜好に合わなかったよう。こちらを見てきたのは無言の抗議だったか。

弦十郎は一人満足して鑑賞していたことを恥じる。

嗜好は人それぞれと言えど、今後しばらくは一緒に生活するのだ。一度、テレビのチャンネル権や使用権について話しあった方がいいかも知れないな。

もちろんクリスの部屋にテレビを設置するのも(やぶさ)かではないが。

 

「おっと、もうこんな時間か」

 

いつの間にか時刻は日付が変わる寸前になっている。

 

「明日も学校があるだろう? もう寝るとしよう」

 

弦十郎はソファーから立ち上がり、クリス用とした和室へと向かう。

クリスはぎこちなく付いてくる。

座敷の押入れを開け、来客用の布団一式を引っ張り出す。

それを部屋の真ん中あたりに丁寧に敷き、弦十郎はクリスに声をかけた。

 

「寒いと思ったら、押入れに予備の毛布も入れてあるからな」

 

「………」

 

クリスは無言で立っている。

 

「それじゃあ、おやすみ」

 

言い置いて、さっさと弦十郎は部屋を出た。

寝る前に何をするかは知らねど、むさい男に見守られては、はいそうですか、とクリスも布団には入りづらいだろう

廊下の電気は点けたままリビングへと戻る。

リビングの電気を落とし、隣の寝室へと入った。

弦十郎の寝室は10畳ほどとかなり広い。

しかし、そこにある家具はキングサイズのベッドが一つきり。

文字通りの寝室としか使っていない弦十郎である。

室内の電気を消し、枕元の常夜灯をつけ、ベッドに横になる。

仰臥し、胸の前で手を組むと、間もなく眠気がやってきた。

平常心を保ち、無念無想に徹することによって、どこでも、どんな状況でも睡眠がとれる。

大人になって身に着けた術の一つだった。

どれくらい眠っただろうか。

ふと気配を感じ、弦十郎は覚醒した。

次いで、暖かいぬくもりが身体の横に滑り込んでくるのを感じる。

殺気はなかった。もっとも危険な気配を察した瞬間には跳ね起きるよう肉体が出来ている。

ふわりと嗅いだ事がある甘い匂いに、そうかクリスくんがいたのだな、と弦十郎は思い出す。

常夜灯の明りでみれば、やはりベッドにもぐりこんできたのはクリスだった。

 

「おい、クリスくん」

 

小声で声をかける。反応はない。目は閉じたまま。

よくよく見れば、顔を真っ赤にし唇を噛みしめている。心なしか全身がぴくぴくと震えているよう。

…眠っているのだろうか?

再度声をかけるも反応なし。

すると、やはり眠っているのだろう。

肩を揺すって起こそうと思い、弦十郎は考え直す。

そっとクリスを横抱きにし、ベッドから持ち上げた。

そのまま振動を与えないような歩法で、クリスを座敷まで運ぶ。

もぬけの布団にクリスを横たえると、丁寧に毛布をかけ、弦十郎は自室へと引き上げた。

何事もなかったかのようにベッドに横たわり目を閉じる。

間もなく眠りに落ちた。

そして、覚醒。

隣のぬくもりを見やれば、やはりクリスがいる。

 

「おいおい、クリスくん…」

 

少しだけ声を高ぶらせようとして、弦十郎はとあることに気づく。

続いて、うんうんと一人納得したように頷いてベッドから出た。

やはり目と口を固く閉ざしプルプルと震えるクリスに、自分の使っていた毛布を丁寧にかけると、弦十郎は寝室を出た。

入れ替わりにクリス用の座敷へ戻り、その布団で眠る。

予想通り、もうクリスは潜りこんでこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弦十郎は朝6時には覚醒するクセがついている。

今日も目を覚ました直後、自分の寝ている場所に戸惑ったが、一瞬で状況を理解した。

そうだ、クリスくんはもう起きているだろうか。

布団で寝たのは久しぶりだな、などと思いながら和室を出ると、キッチンで人の気配がする。

行くと、制服にエプロン姿のクリスが、コンロの鍋に向かいあっていた。

 

「おう、クリスくん、おはよう」

 

「…ああ、おはようさん」

 

そういうクリスは酷く精彩を欠いていた。どんよりとした顔つきでこちらを一瞥しただけで、また鍋に戻ってしまう。

おそらく良く眠れなかったのだろうな。

そう分析しつつ、弦十郎はテーブルの上を見た。

二組の食器とフォークが用意してある。どうやらクリスは朝食の準備の真っ最中のよう。

昨日の夕食は俺が作ったから、お返しのつもりか? 全く義理堅い娘だ。

苦笑しながら弦十郎は洗面所で顔を洗う。

かるく髭もあたってキッチンへ戻ると、座るよう促された。

メニューはトーストに目玉焼き、それとコーンスープ。

熱々のスープを小鉢に入れ、盆に載せたクリスがやってくる。

 

「それにしても、ずいぶん早起きだな」

 

リディアンは、ともあれば以前にクリスが住んでいたマンションより近いくらいだ。

 

「ああ、ちょっとばかし眠れなくてなッ」

 

小鉢を置きながらクリスは言った。なぜか声が刺々しく感じる。

 

「そうか…。やはりベッドが変わると眠れないのだろう?」

 

「…ッ。そ、そんなことはないよッ」

 

お盆で顔の下半分を覆うようにしてクリス。

 

「無理するな。今日の放課後、さっそく新しいものを見繕いに行こう。なんならクリスくんの以前に使っていたベッドを運んできても良い」

 

「………」

 

心の底から気遣ったつもりだが、お盆の上から覗くクリスの目はどうにも濁っていた。むしろ咎めるような色さえある。

ああ、これはあれだ。

まるで楽しみにしていた映画が全く期待外れだったかのような目だ。

もちろんそう感じただけで、何も根拠はないが。

ともあれ、そんな目をする理由は、寝不足に由来するウエイトが大きいだろう。

人間誰しも睡眠不足だと機嫌が悪くなるものだ。

 

「しかし、夕べのクリスくんは、寝ぼけて二回も俺のベッドに転がりこんできたぞ。やはり、まだまだ子供だな」

 

多少でもささくれだった神経を宥めようと、敢えて冗談めかして弦十郎は口にした。

 

「~~~~ッ!!!!」

 

お盆の角で思い切り頭を殴られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3話

 

 

 

 

 

 

 

 

額に絆創膏を張り付けて出勤すると、行き交う職員たちにジロジロと見られた。

 

「うわ、司令、どうしたんですか、それ」

 

指令室へ入るなり、さっそく藤尭にもそう言われる。

 

「出がけに階段で転んだと言っているのだが、誰も信用せん」

 

ぶっきらぼうに弦十郎は答える。

 

「そりゃそうでしょうよ。そんなの階段の方を心配しなきゃいけない話でしょ?」

 

「おい、それはどういう意味だ?」

 

「どうもこうも、そのまんまの意味ですが…」

 

藤尭と不毛なやりとりをしていると、肩を怒らせた友里が入室してきた。

 

「司令ッ! 早朝に雪音さんが泣きながら司令のマンションから飛び出していったとの報告が上がってますが、いったいどういうことですッ!?」

 

「お、さっそく夫婦喧嘩ですか」

 

茶化した藤尭は、友里の一睨みで沈黙。ついでアゴで外へ行くよう指示され、広げていた書類をまとめて慌てて退室して行く。

 

「そうか、クリスくんは泣いていたのか…」

 

「何をやらかしたんですかッ!?」

 

友里は完全に詰問口調。

 

「心外だな。お盆で額を殴られたのは俺の方だぞ?」

 

額を指さして見せる。傷は決して深くないのだが、出血があった。

自宅に小さな絆創膏がなかったので、大は小を兼ねるとばかりに少し大きめなものを貼っているため、大袈裟な見た目になってしまっている。

 

「だったら、何がどうなってお盆で殴られる羽目になったんです!?」

 

「別に何もしてやせん」

 

正直に弦十郎は話す。

 

「ただ、夕べは二回も寝ぼけて俺のベッドに入ってきたからな。やはり子供だと…」

 

ずおおおおおおおっと、物凄い排気音がした。

空調の故障かと思ったら友里の溜息だった。

 

「司令……」

 

コメカミと肩がぴくぴくと痙攣している。

よくわからないが、友里は怒っている様子。

 

「雪音さんと結婚したんでしょう!? いったい何をしているんですかッ!」

 

「そうはいうが偽装だろう? それにまだ籍は入れてないぞ」

 

未成年は婚姻届を出すには父母の承諾が必要になる。

両親が鬼籍入りしているクリスは、後見人は弦十郎である。

単純に婚姻届に名前を書いて出すことに、なんら問題はない。

だが、今回の案件は、国益の絡むデリケートな問題に発展する可能性がある。

なので弦十郎は兄である八紘に婚姻届に関わる諸々の手続きと判断を委ねていた。

クリスと結婚するとの発案に、珍しく兄は驚いた顔をしたが、『悪いようにはしない』と確約してくれた。

その反応を見るに、決して拙い対策ではなかったと思う。

 

「それに体裁を繕えといったのは友里ではないか。夫婦ということで一緒に住んでいる形にすれば、一応外聞は立つと思うのだが…」

 

「…本気でそう思ってます?」

 

「ああ」

 

また凄まじい排気音が響く。

居住まいをただして、友里が聞いてきた。

 

「司令は雪音さんのことをどう思っていらっしゃるのですか?」

 

「うん? 可愛らしい良い娘だと思っているが」

 

同時に激しく不憫な子で、ずっと見守ってやらねばならぬと心に決めているが、それは友里には伝えるつもりはない。

 

「だったら…ッ!!」

 

勢い込んで友里は何か言いかけて、中断。

 

「おい、言いかけて止められると気になるのだが…」

 

物凄い目つきで睨まれた。

 

「司令。雪音さんは子供ではありません。結婚したからには、きちんと一人前の大人として接して上げて下さい」

 

「だが、実際クリスくんは17歳の子供だろう?」

 

そう返すと、友里が満面の笑みを浮かべた。背筋が凍りつくような肉食獣の笑みだった。

 

「では、 淑女(レディ)として扱って上げて下さい」

 

淑女(レディ)とな」

 

正直、娘と淑女の意味の区別がつかなかったが、曖昧に頷く。

 

「いいですか、司令。今日中に、雪音さんに謝って関係を修復すること。そして少なくとも、夫婦らしく常日頃から振る舞うように努力をして下さい」

 

「だから、結婚といえど、いわゆる偽装で…」

 

「敵を欺くにはまず味方からっていうでしょッッ!」

 

「…良くわからんが、分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の夕方、弦十郎は私立リディアン音学院の前の道路に居た。

目的は、クリスとの和解。

友里の迫力の押されたわけではないが、司令に着任して以来、初めて有給を使わされてしまった。

放課後になったらしく、校門からぞろぞろと女生徒たちが出てくる。

クリスはまだかと眺めていると、小走りで近づいてきた女生徒から声をかけられた。

 

「なにやってんですか、師匠」

 

「響くんか」

 

立花響だった。隣にいる小日向未来もぺこりと頭を下げてくる。

 

「なんかサングラスをかけた厳つい大男がいるって、学校の中で騒ぎになってますよ?」

 

「む…」

 

響に指摘され、弦十郎はかけていたサングラスを外して仕舞った。

自分的には変装のつもりだったが、あまり意味はなかったようだ。

 

「ちょいとクリスくんに用があってな」

 

「あれ? でも今日は特に訓練の予定とかないですよね?」

 

「うむ。いわゆるプライベートな用事というヤツだな」

 

「ッ! もしかしてデートですかッ!?」

 

瞬時に前のめりになる響に苦笑した。

ふむ。

夫婦でもデートはするものなのかな?

友里のやりとりが頭に残っていた弦十郎はそんなことを考えている。

 

「あ、でも、今日のクリスちゃん、なんかものすごーく落ち込んでたから、デートに誘ってもどうかなー」

 

「そうじゃないよ、響」

 

響の制服の袖をひっぱりながら未来。

 

「弦十郎さん。どうかクリスを慰めてあげて下さい」

 

未来の言葉に弦十郎は括目する。

そうだ、そのために俺は来たのだ。

 

ふと、視界の端で何かが動いた。

急いで視点をフォーカスすると、見慣れて、かつ特異な髪型が、くるりと回れ右して校舎の中へと戻って行くところ。

 

「クリスくん、待ってくれッ!」

 

いうなり弦十郎は疾駆する。

颶風が走り、響たちを始めとした女生徒たちが「きゃッ!」といいながら一斉にスカートの裾を押さえたが、頓着している暇はない。

巨体に似合わぬ俊敏さを発揮し、女生徒たちの間をすり抜け、リディアンの校舎内に至る弦十郎。

見回せば、クリスの長い髪の先端が階段を駆け上っていくところ。

急いで階段の下に向かえば、吹き抜けに揺れるクリスの髪は既に三階分は上にある。

さすが装者、良く鍛えているッ。

感嘆を漏らしたのもつかの間、弦十郎は跳び上がり、階段の手すりに手をかけた。

そのまま吹き抜け部分を通り、一階分を一足で垂直跳躍。

上でクリスが、

 

「そんなの反則だろッ!?」

 

と叫ぶ声が聞こえたが、一気に弦十郎は階段を跳び昇る。

最上階に達すると、クリスはちょうど屋上へと飛び出して行く。

転落防止用のフェンスが設置されている屋上に、もはや逃げ場はない。

それでもフェンス際まで逃げるクリスに、一気に弦十郎は肉薄。

細い両腕を掴まえる。

 

「クリスくんッ!」

 

「離せッ! 離せよッ、痛いってッ!」

 

「す、すまん」

 

腕を離し少し距離を取ると、クリスが涙目で睨んできた。

 

「…そんなに痛かったか?」

 

「ちげーよッ!」

 

「では、泣き止んでくれ。俺の心が痛い」

 

「あたしの心の方がずっと痛いよッ!」

 

「もしかして、朝からずっと泣きっぱなしか?」

 

「…うるさいッ! あたしを子供扱いするなッ!!」

 

クリスがフェンスを蹴り上げる。

 

そうか。やはり子供扱いしてしまったことに怒っているのか。

ならば、態度を改めて、今後は友里の言うところの淑女扱いを徹底せねばなるまい。

 

そう心に定めたあと、弦十郎は覚悟を決めた。

クリスを前に、コンクリートの床に正座。

続けて額を強く床へと打ち据える。

鈍い音が鳴り響き、さすがにクリスも驚いた顔でこちらを見た。

 

「すまん。クリスくん、この通りだ」

 

「な、なんだよ、おっさん。なんのつもりなんだよ…」

 

弦十郎は顔を上げた。額の傷からまだ血が出たらしく、視界の半分を赤に染める。なに、構うものか。

 

「俺はこの通り無骨な男だ。おまえを怒らせてしまったことに対し、どう慰めていいかわからない。だからこうやって謝意を示すしかないのだ」

 

「そんなの…止めてくれよ」

 

「いいや。止めない。おまえが許してくれるまで。おまえがまた俺の家に戻ってくれるまで」

 

同情を求める言い回しの裏には、政治的な打算が存在する。

クリスくん。

俺はおまえの立場をただ弄んでいるだけかも知れない。

それが悟られるのが嫌で、弦十郎はまた頭を下げて見せた。

 

「わかったよ、おっさん。顔を上げてくれ。あたしが聞きたいことに答えてくれたら…許すかどうか考えるから」

 

「そうか。なんでも聞いてくれ」

 

弦十郎がそう答えると、クリスがスッと息を飲んだ気配。

少しだけ静かな、それでいて緊張した時間を挟み、クリスは問うてきた。

 

「じゃあ…おっさんはあたしのことどう思っているんだ?」

 

いつの間にか夕日を背負い、クリスは赤く染まっている。

 

「心より大切だと思うし、(いとお)しく思っているぞ」

 

弦十郎は迷わず即答した。

クリスの不憫な過去に対し、弦十郎は責任を負っている。少なくともそう自負している。

そんな一度は手が届かなかった不幸な子が、こうやって幸福な学生生活へ立ち返っている。

そのことを弦十郎は心より大事であり大切に思っている。

また、そんな過去を抱えたまま強く生きて行こうとするクリスの心根こそ(いとお)しく、本当に可愛らしい娘だと思う。

 

逆光になってその顔の表情は窺えない。

しかし、クリスの声は薄闇の降りつつある屋上に静かに響いた。

 

「…ならいい。許す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスを伴い、階段を降りる。

額の傷はクリスのハンカチを借りて左手で押さえていた。

空いた右腕のシャツの裾を、クリスが抓んでいる。

多少歩きづらいが、まあ問題はない。

リディアンの校舎の一階には、なぜか響を先頭に女生徒がたむろしていた。よくよく見れば月読調と暁切歌の姿もある。

 

「あ、師匠ーッ! クリスちゃんもッ!」

 

響が駆け寄ってきた。

 

「不肖、立花響、二人の邪魔をしないよう、ここで防衛戦を構築していましたッ!」

 

背筋を伸ばし、敬礼してくる。

苦笑して、弦十郎も「うむ、ご苦労」と言葉を返す。

 

「それでそれで!? 屋上で二人は一体何をしてきたんですかッ!?」

 

興味津々の瞳。それが無数の女生徒たちのものとなると、弦十郎をしてたじろいでしまう。

それでもどうにか体勢を維持したまま、袖を握り続けるクリスを見る。

顔を伏せ、ずっと俯いている格好からして、彼女からコメントを得るのは難しそうだ。

そう判断し、

 

「少しばかり仲直りをしてきただけだ」

 

と答える寸前、弦十郎は思い直す。

外部に対し虚偽を示すためとはいえ、必要なのは確かに体裁だ。

であれば、やはり身内にこそ、その体裁を周知させていた方がいいのではないか。

敵を欺くにはまず味方から。

友里の助言は、まさに至言なのだろう。

だから弦十郎はこう答える。

 

「実は、クリスくんと結婚してな」

 

一瞬の沈黙。

直後、私立リディアン音学院の校舎は揺れに揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下は完全に蛇足になる。

弦十郎の土下座を敢行した屋上は、亀裂が修復されたにも関わらず、ずっと歪みが残った。

その不可思議さと共に、一種の伝説として、長くリディアン女子の間で語り継がれることになったという。

 

 

「でさ、屋上のその窪みのとこで土下座して告白したカップルは、永遠に結ばれるんだって~」

 

「へえ~、ロマンティックだね☆」

 

「ロマンティック、うん……うん?」

 

「ってゆーか、ここ、女子高だよね? ね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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4話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弦十郎のマンションに帰りつくなり、クリスはソファーへと倒れ込んだ。

そのままクッションを抱いてジタバタと足を動かしている。

 

「…明日から、どんな顔して学校に行けばいいんだよ…ッ!!」

 

「別に普段通りに行けばいいのではないか?」

 

弦十郎が素直にそう言うと、凄い目つきで睨まれた。

まあ気持ちは分からなくもない。

しかし、いつまでも周囲に黙っておくわけにも行かないことも確かだった。

結婚したのに周囲の誰も知りませんでした、では、さすがに一発で偽装と看破されしまう。

英国から突かれても胸を張れるだけの体裁は整えておきたいものだ。

そんな弦十郎の内心をよそに、クリスはクッションを振り回して悶えていた。

 

「心構えの問題だッ! あんな場所で、いきなり…ッ!」

 

「ひょっとして迷惑だったか? こんなおっさんが結婚を宣言してしまったのは」

 

「迷惑千万だッ! あ、い、いや、そ、そっちの方は別に迷惑ってわけじゃないけれど…」

 

「なるほど」

 

よく分からん。

適当に相槌を打ちつつ、弦十郎はジャケットに袖を通す。

普段の赤シャツ一枚姿に見慣れてるためか、不思議そうな顔をするクリスに、

 

「どれ、クリスくん、出かける支度をしてくれ」

 

「え? ど、どっか行くのか?」

 

「夕食は外に食べに行こう。なんでも、夫婦でもデートはするそうだからな」

 

ソファーに座っていたクリスの顔がみるみる赤くなる。

続いてバネ仕掛けの人形のように立ち上がったクリスは、自室の和室へ向けて全力疾走。

むう、これは今回も逃げられたか? 

などと弦十郎が思案していると、部屋からクリスが上半身だけを覗かせて、

 

「悪いッ! あと十分! いや、あと十五分だけ待ってくれッ!」

 

どうやら大慌ててで支度をしている模様。

 

「急がなくてもいいぞ」

 

弦十郎はそう苦笑で応じた。

どうやらよほど腹が減っていたと見える。

まだ色気より食い気といった年頃なのだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

弦十郎は愛車を走らせる。

助手席のクリスはやたらヒラヒラとした服を着ていた。

よく分からないが、こういうのを『こけてぃっしゅ』とかいうのだろうか。

とりあえず、

 

「似合っている。可愛いぞ」

 

と褒めると、一瞬だけ嬉しそうな顔をしたがすぐ顔を伏せてしまう。

どこか褒めるポイントを間違えてしまっただろうか。

結局、それ以上どう言葉をかければいいのか分からず、弦十郎は無言でハンドルを操るしかない。

妙な沈黙が続き、不安な気持ちが鎌首をもたげたころ、クリスはようやく口を開く。

 

「…ところで、何を食べに連れてってくれるんだ…?」

 

「美味いものだぞ」

 

「………」

 

また会話が止まる。

 

「そ、そういえば、クリスくんは苦手な食べ物はあるのか?」

 

弦十郎がそう言うと、今度のクリスはしみじみと溜息をついた。

 

「普通、そーゆーのは先に訊くもんじゃねぇのか?」

 

「あ、むう、そうだな、すまん」

 

謝ると、クリスは窓の方へ顔を向け、なにやらぶつぶつと呟いている。

辛うじて『野暮天』『唐変木』とかいった単語が聞き取れた。

まあ、これくらいの悪口には甘んじよう。半ば無理やりの結婚という酷いことを強いている自覚はある。

駅前のビルの駐車場に車を止めた。

 

「ここから少し歩くぞ」

 

「上のレストランじゃないのかよ?」

 

ビルの最上階には有名なレストランがある。

小首を傾げるクリスは、車から降りる段になってよろけた。原因は厚底のブーツ。

隣で手を取り支えながら、今度は弦十郎が首を傾げる番だった。

 

「なんでそんなに丈の高い靴を履くんだ?」

 

素朴な疑問のつもりだったが、頬を膨らませた挙句、脛を蹴られた。

大して痛くはなかったが、今朝、額をかち割られた件を思い出し、弦十郎はそれ以上言葉を重ねるのを止めた。

きっと男が思いも及ばない深遠な理由があるのだろう。

 

「で、どこに連れてってくれるんだ? 言っとくが、あたしはテーブルマナーなんてさっぱりだぞ」

 

決して威張れることではないことを胸を張って言うクリスに、弦十郎は苦笑する。

クリスがなかなかユニークな食事の食べ方をすると、調査部より報告は上がってきている。

 

「仮にも嫁さんに恥を掻かせるつもりはないさ」

 

「…!!」

 

その言葉にクリスは顔を真っ赤にし、直後思い出したようにまた脛を蹴ってくる。

まったくなんなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駅のすぐ裏路地を入ったところに、その店はあった。

 

「ここは…」

 

クリスをして一目で高級そうな佇まい。

委細構わず、気軽に弦十郎は引き戸を開ける。

 

「へいらっしゃい」

 

大将の張りのある声が出迎えてくれた。

 

「二名ですが」

 

「はいよ、こっちにどうぞ」

 

大将の前のカウンター席に案内される。

カウンターの上には新鮮な魚の切り身がケースに並べられていた。

 

「風鳴さん、ずいぶんと久しぶりですね」

 

丸顔の初老の大将は、テーブルの上に二つの湯呑を置きながら話しかけてきた。

 

「ああ、御無沙汰してました」

 

弦十郎はお手拭で手を拭いながら答えた。

年長者には敬意を持った言葉づかいを心掛けている。

 

「こちらの方は?」

 

声をかけられペコリと頭を下げるクリスがいる。

 

「クリスくんだ。一応、俺の妻ということになっている」

 

そう答えると、クリスがあからさまに狼狽えた。そして、さすがに大将も動揺したようだ。

 

「ははは、ここに通ってしばらくになるが、大将が驚くのは初めて見たぞ」

 

カウンターテーブルの下でクリスにゲシゲシと足を蹴られながらも、朗らかに笑う弦十郎。

 

「そりゃあ驚くなって方が無理なことですよ。しかも、こんな可愛らしい、いや綺麗なお嬢さんと」

 

そういわれ、クリスは顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。

 

「しかし、風鳴さんが結婚ねえ…」

 

大将がその件に関して感想らしきものを漏らしたのは、その一言が最後だった。

 

「さて、今日も美味いものをお願いします」

 

「あいよ、お任せでいいですかね? …おっと、お嬢さん。いやさ、奥さん。苦手なネタとかありますかい?」

 

「い、いいえ」

 

クリスが首を振ると、大将は満面の笑みを浮かべて手酢をつけた手を打ち鳴らした。

 

「はいよ、先ずはコハダからね」

 

大将の寿司を握る流れるような手つきに、クリスは息を呑んでいる。

まずは一貫ずつ載せられた皿が二人の前に来た。

 

「箸で食べてもいいが、難しいなら手掴みでOKだ。それに、ここは大将の気遣いで、女性でも食べやすく半分になるよう隠し包丁が…」

 

解説する弦十郎の横で、クリスは寿司を一口で頬張り、目を輝かせている。

 

「…まあ、好きに食べればいいか」

 

その後も、次々と素晴らしい手際で寿司が握られてくる。

弦十郎もクリスもいちいちそれらを楽しんだ。

一通り握り終えると大将が話しかけてた。

 

「さて、何か気に入ったネタはあったかい? 別に握るよ?」

 

「え…」

 

「遠慮は無用だ、クリスくん。好きなだけ食べると良い」

 

そういわれ、クリスはぐっと言葉に詰まる。

なにやら葛藤しているらしいが、その時間は決して長くはなかった。

 

「そ、それじゃ、ウニと大トロをお願いしますッ」

 

「あいよ」

 

湯呑を傾けながら、弦十郎はクリスの健啖ぶりを温かく見守る。

まだ17歳だからな。たくさん栄養を取れば、少しは背も伸びるだろう。

とにかく、機嫌も直ったようでなによりだ。

 

「…ちょいと風鳴さん。手持ちは大丈夫かい?」

 

「はは、大丈夫ですよ」

 

「そうはいうけれど…」

 

大将がこっそりと伝票を渡してくる。

数字を確認し、弦十郎は目を剥く。

ついで、何個目かも知れぬ大トロを頬張るクリスと目があった。

 

「本当に物凄く美味いなッ!」

 

その姿に、もうこれくらいで止めておけと言うのは流石に(はばか)られた。

 

「…この店、カードは使えましたか?」

 

「すんません、うちはちょっと扱ってなくて」

 

「……申し訳ないが、ツケといて下さい……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやあ、喰った喰った♪」

 

上機嫌のクリスに、弦十郎は己の顔が若干引き攣っているのを自覚していた。

すっかり財布の大減量に成功してしまった。

まあ、それでクリスの機嫌が回復してくれたのなら安い出費か…。

ともあれ、今度は店を選ぼう。

さすがに時価の店で好きなだけ食べさせるのは無謀だった。

食べ過ぎたわけでもないのに、胃のあたりがチリリと痛む。

 

「さあて、お次はどこに連れていってくれるんだ? デートは終わりじゃないだろ?」

 

完全にいつもの調子のクリスに、弦十郎は考え込む。

小洒落たバーでグラスを傾けたい流れだが、相手が未成年ではそれもままなるまい。

結局、車に乗って再移動。

ついた先は、夜景の見えるちょっとした高台だ。

穴場のデートスポットではあるが、既に幾つかのカップルも散見された。

 

「へえ、いい眺めじゃん」

 

展望台の手すりから身を乗り出してクリスが言う。

続いて振り返った瞳には強気の色が浮かんでいた。

まるで、あたしはこんなもんじゃ満足してやらないぜ? と言っているかのよう。

苦笑して、弦十郎は上を指さす。

釣られて空を見上げ、クリスははっきりとした感嘆の声を上げた。

 

「わあ……ッ!!」

 

このスポットが人気なのは、何も眼下に望める夜景だけではない。

都会特有のスモッグなどで星が見られないことはしばしばだが、なぜかこの場所ではくっきりと星空が望めるのだ。

両腕を広げ、クリスはその場でクルクルと回っている。

その小さく細い肩を眺め、弦十郎は守ってやらねば、という決意を新たにする。

不意にクリスが尋ねてきた。

 

「それで? なんでおっさんはこんなスポットを知ってるんだ?」

 

その質問に弦十郎はギクリとした。そしてギクリとしてしまったことに驚きつつ答える。

 

「昔の仕事の一環でな。対象の尾行中に、こんな場所に来ることも珍しくない。おかげで詳しくなってしまった」

 

「ふ~ん…?」

 

クリスはたっぷりと疑わしげな目つきをしたあと、言った。

 

「あたしはてっきり、彼女と来たとばっかり思ってたぜ」

 

「公安時代、ハニートラップ対策で色々と先輩たちに手管を教えてもらったことがある。相手によってはデートもどきに付き合うこともあった。情報や信用を得るためにな」

 

半分は真実だった。そして、彼女とのことを否定していないことに、クリスは気づいただろうか。

弦十郎は空を見上げる。

確かに以前、彼女と一緒に来たことがある。しかし、彼女はもういない。

だからこれは浮気とかではなく―――いやいやそもそもが偽装結婚だ。何を考えているんだ俺は。

空を見上げたままでいると、クリスがじっとこちらを見ているのを感じる。

やがて、ぽつりとクリスが言う。

 

「そっか」

 

やれやれ、どうやら納得してくれたようだ。

決して外に漏れないよう、内心で胸を撫で下ろす弦十郎の前で、クリスは笑った。

不敵な笑みだ。

 

「あたしは、過去に囚われない女だッ!」

 

いきなりそう言われて面食らってしまう。

だが、思い返せば、これは弦十郎に向けた言葉ではあったけれど、同時に彼女なりの自身に対する宣言だったのではないだろうか?

しかし、前述したとおり、弦十郎がそのことに気づくのはしばらく後のことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、本部に出勤すると、友里がにこやかに司令席までやってきた。

 

「お疲れさまです。どうやら上手くやれているようですね」

 

「ん、ああ…」

 

弦十郎の返事は冴えない。

なぜなら、今朝、クリスを学院まで車で送っていったからだ。

「夫婦だから当然だろ?」という台詞に抗えず、学院前に車を止めると、無数の好奇の視線に晒される。

しかもそれが女子高生ばかりで、何やら黄色い歓声まで上げられるとなると、さすがに弦十郎をしても堪える。

「あたしの気持ちの万分の一でも味わいやがれ」と冷たい声を残してクリスは下車。

さすがに勤務時間上、迎えまでは要求されなかったが、毎朝これが続くかと思うと胃のあたりがチリチリしてくる。

今までにない経験に弦十郎が戸惑っていると、藤尭も朝の挨拶と一緒に声をかけてきた。

 

「司令、あの寿司屋さん、オレもまだ一回しか連れてってもらってないんですけど…」

 

やはり昨晩の行動は全て筒抜けか。

まあ、対英国への偽装工作みたいなものだからな。味方もモニターするのは当然だろう。

 

「分かった分かった。またそのうち連れていってやるから…」

 

「御馳走さまです、司令」

 

ちゃっかり友里もそう言って笑っている。

部下たちを見やり、しみじみと弦十郎は思う。

まったく、結婚生活は金がかかると言うのは本当なのだな。

しかし、これは仕事というよりやはりプライベートの領分に属する話だろう。

いい加減、本来の仕事に立ち返るべきだ。

気分を引き締め、弦十郎は背筋を伸ばす。

 

「では、友里、先日の首都防衛案の修正の件だが…」

 

次の瞬間。

今まで経験したことのないような痛みが腹の奥底から突き上げてくる。

同時に弦十郎の意識も暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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5話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二課に所属する前から、彼女の噂は聞いていた。

若くして独自の聖遺物制御理論を確立した才媛。

天才特有の気難しさを兼ね備えている人物かと思った。

しかし実物は至ってフランクな気質の所有者で驚く。

天衣無縫とも思える振る舞いと無謬性に弦十郎は強く惹かれた。

同じ組織で働くようになってからは、立場的に頻繁に会話を交わすようになる。

二人きりで残業もこなすことも稀ではなく―――果たしてどちらから先に食事に誘ったのか、良く覚えていない。

それからプライベートでも顔を合わせるようになり、やがて同じ日に休日を取るようになった。

自分の抱いていた感情は、きっと彼女も共有してくれていたと思う。

でなければ、無骨一辺倒の朴念仁の前で、あれほどコロコロと笑うことはなかったはずだ。

いずれは気持ちを打ち明け、ケジメをつけ、一緒になろうと考えていた。

しかし、あの日の出来事が全てを変えてしまった。

 

ライブ会場の惨劇。

死者、行方不明者の総数、12874人。

ツヴァイウイングは片翼を失い、立花響はその後の人生を大きく捻じれさせてしまう。

 

その陰に、二課の指揮によるネフシュタンの起動実験があったことを、弦十郎は司令として重く受け止めていた。

フィーネの干渉が存在したことが判明したのちも、その悔悟は弦十郎を苦しめた。

膨大な残務処理と並行に、弦十郎は己も強くなりたいと願う。

組織の長なのに何もできず、不甲斐ない思いをするのは二度と御免だ。

事件後、彼女もより研究へと邁進するようになった。

おそらく、彼女も同じ気持ちだったのだろう。

互いに己の職務に邁進し、会えず、すれ違う日々が募る。

そうやって開いた距離は、決定的な断絶には至らないものの、曖昧に過ぎていく。

その果てに、彼女―――櫻井了子はフィーネへと覚醒した。

薄々彼女の暗躍に気づいていたが、信じたくなかった。

だが、真実が現実となったとき、弦十郎は彼女の前に立ち塞がった。

己の手で引導を渡すつもりだった。しかし―――。

 

 

その挙句が、この様か。

 

 

腹部に熱い痛みを感じながら、弦十郎は思う。

フィーネと化したはずの彼女が一瞬見せた表情。

躊躇いがそのまま隙となり、返り討ちに会ってしまった。

 

本来の彼女の人格は、フィーネが内々で覚醒すると同時に十数年かけて喰らい尽くされたという。

それは本当だったのだろうか。

俺が惚れて惹かれた彼女は、櫻井了子ではなくフィーネだったのだろうか。

 

弦十郎は手を伸ばす。

暗闇に浮かぶ彼女の手を取り、問い質したかった。

しかし、彼女の幻影は儚く消える去るのみ。

守るために鍛えたその手も、ただ空しく宙を掴む。

幾度も繰り返す、悲しい夢。

そう、これはいつもの夢だ。

そう自覚し、弦十郎は更なる眠りの深みへと―――。

 

 

ッ!?

 

 

手を掴まれた。

確かな力を込めて。

だが、違う。これは彼女の手ではない。

では、この手は誰の―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで弦十郎は目を覚ました。

白い光が瞼を刺す。

規則的な機械音と、消毒液の匂いにうっすらと悟った。

どうやら俺は病室に寝かせられているらしい。

はて、何か病気を患うようなことがあったろうか?

記憶を辿ろうとする寸前、まず右手の温もりに気づく。

小さな手だ。

それが自分の手をしっかりと握っている。

そして手の持ち主は、ベッド脇に突っ伏すようにして眠っていた。

 

「クリスくん…?」

 

思わず呟くと、クリスは身じろぎした。

ぼんやりと顔を上げ、大きな瞳が焦点を結んだ瞬間、表情が一変。

 

「目ぇ覚めたのかッ!?」

 

「あ、ああ。たったいま」

 

弦十郎がそう答えた途端、クリスの眼から涙が迸る。

 

「あたしを未亡人にする気かバカ野郎ッ! この馬鹿ッ! バカッ! ばか…ッ!!」

 

ぽかぽかと胸板を叩かれる。

半ば小さな身体を受け止めるようにして、弦十郎は茫然とするしかない。

なんなんだ、一体。

困惑しつつ首を持ち上げれば、はだけた病院着の間から腹部へ巻かれた包帯が目に入る。

そうだ。俺は急な腹痛に襲われて…。

 

「司令! ご無事ですかッ!」

 

緒川を筆頭に、部下の面々が病室へと駆けこんできた。最後に、顔を青白くした風鳴翼が続く。

翼の姿を見たとたんに身体を離し、ぷいっと顔を背けるクリスが居る。

そんな彼女の態度も気になったが、とりあえず事情の説明を求める。

 

「急に倒れられたんですよ。覚えていませんか?」

 

「ああ、そういえば、いきなり腹が痛くなったな」

 

弦十郎が思い出していると、友里が目尻の涙を拭った。

 

「司令は盲腸だったそうで、一時は命も危ぶまれてたんですよ!?」

 

ここぞとばかりに力説されて、弦十郎は大袈裟なと苦笑する。

確かに盲腸も破裂して癒着したりすると命に係わる重篤になることは知っている。

しかし、自分が倒れたのは、現代科学の粋を集めたといっても過言ではないS.O.N.G.本部だ。

かの融合症例第一号であった立花響から、愚者の石を除去するほどの医療スタッフを揃えた人類の砦でもある。

それがたかが盲腸など…。

すると部下たちが一斉に顔を見合わせ、代表するように藤尭が前に出てくる。

 

「つーか、司令、メスの刃が立たない筋肉ってなんなんですか」

 

呆れ顔で言われてしまった。

 

「…ふむ。無意識で硬気功を使ってしまっていたやも知れん」

 

「そんな漫画みたいな超人技をデフォルトで使わないでくださいよ」

 

「おかげで、開腹しようにも医師たちもお手上げで」

 

「そこで、急遽、翼さんに帰国して頂きました」

 

部下たちが三人並んで口々に言ってくる。

 

「…翼が?」

 

手術出来ないことと、翼に何の関係があるというのだ?

察しが悪い弦十郎に嫌気がさしたのか、藤尭がぶっちゃける。

 

「メスが役に立たないから、翼さんの天羽々斬で司令の腹を切ってもらったんですよ!」

 

「なんだとッ!?」

 

「…よもや、叔父上の切腹をする羽目になるとは思いませんでした…」

 

疲労困憊といった体に、それでも笑顔を浮かべる翼が居る。

 

「だけじゃありません。猛スピードで帰国する間も、手術に対するレクチャーを受けて、翼さんはろくろく休んでないんですよ?」

 

「そ、そうか。すまん。ありがとう。どうかゆっくり休んでくれ」

 

弦十郎の声にゆっくりと微笑むと、翼はそのままふらふらと身体を翻そうとした。

だが、ふとその視線が弦十郎のベッドの脇に止まる。

 

「…どうして雪音がいるのだ? 他の立花たちはどうしたんだ?」

 

そういえば、身内である翼にはまだ伝えていなかったことを思い出す。

 

「それは…」

 

言い返そうとするクリスの機先を制するように弦十郎は言った。

 

「実は、俺はクリスくんと結婚してな」

 

「…え?」

 

翼の両目が見開かれ、視線がクリスと弦十郎を往復する。

それから、彼女はゆっくりとその場へと昏倒した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…そんなに衝撃的なことだったのだろうか?」

 

クリスと病室に二人きり。

弦十郎は思い出したようにそう訊いてみた。

 

「そりゃそうだろうよ」

 

と、見舞いのリンゴの皮を剥きながらクリスが応じる。

 

「おっさんにとって先輩は姪御だろ? ってことは、け、結婚したあたしにとっても姪御ってことだッ!」

 

「そういうものか」

 

正直、よく分からん。

弦十郎は枕へと頭を預ける。

すると、さっきまでの喧騒が嘘のように思えてきた。

 

どうにか容態が落ち着き、まず見舞いに訪れたのは意外といっては何だが、レセプターチルドレンの三人だった。

弦十郎の病室に当然のように居座るクリスに、暁切歌も月読調も好奇心剥き出しの視線を送ってきたが、そこは年長者であるマリアが大人しく捌いてくれた。

見舞いの言葉とお土産を置いての去り際に、何事かをクリスに耳打ちしてマリアたちが辞していったあと。

何をいわれたのか? と顔を赤くしたクリスに尋ねたら「うるせぇ!」と怒鳴られてしまった。

まあ、マリアも結婚の話を二人から聞いていないわけはなく、大方結婚したことに対する祝いの言葉だったのでは、と弦十郎は見当をつけている。

 

次にやってきたのは立花響と小日向未来で、見舞いの品は花束だった。

マリアたちの持参した見舞いの果物を散々食い散らかした挙句、「愛しの旦那さまにクリスちゃんはやっぱり付きっ切りで看病するの~?」と明らかに揶揄する表情を浮かべた響は、冗談抜きで果物ナイフを持ったクリスに追い立てられ、這う這うの体で逃げ帰っている。

 

「ところでクリスくん。本当に病室へ泊まり込むつもりか?」

 

「…だめか?」

 

「いや、別に構わないが、学校に差し支えやしないか?」

 

そう答えると、弦十郎の口元まで持って来ようとしていたリンゴを自らの口で頬張ってしまうクリスがいる。

何やら急に機嫌が悪くなったようだぞ。

ごく短い同居生活から経験則を得た弦十郎だが、相変わらず理由はさっぱり分からない。

その時、病室のドアが開く。

不機嫌そのままにクリスは背中越しに叫んだ。

 

「もう見舞いの果物は弾切れだぞッ!」

 

おそらく響が意地汚く戻ってきたものと思ったのだろう。

すると、新たな見舞い客は、わずかに面食らったあと、眼鏡を中指でずり上げた。

 

「…邪魔をする」

 

「ッ!!」

 

振り向くクリスの視線の先には、風鳴八紘が立っていた。

 

「兄貴…」

 

そういえば、クリスは初対面であることを弦十郎は思い出す。

 

「クリスくん。こちらは風鳴情報官だ。そして俺の兄でもある」

 

「…ッ! は、初めましてッ! 雪音クリスですッ!」

 

ちらりと八紘はクリスを見て、

 

「丁寧な挨拶痛み入る。…苦労をかけるな」

 

それからベッドの上に書類袋を置いてくる。

 

「これは…?」

 

「おまえたちの婚姻届は受理された。そのことの証明書だ。他にやるべきことは追々伝えていく」

 

「病床でも暇だからな。やれることならやっておけるぞ?」

 

「…今はしっかり身体を休めろ。仮初にも死にかけたのだからな」

 

その兄の台詞に弦十郎は天啓を受ける。

クリスとの偽装結婚は成立した。

そしてその後、相手である俺の死も偽装したらどうなる?

さきほど怒鳴られたようにクリスは未亡人となるかも知れないが、今のような不自由かつ偽りの結婚生活を送る必然性もなくなるのではないか。

 

「兄貴、俺が死んだことに出来ないか? その方が良い。そうすれば…」

 

クリスは日本に所属する立場を維持したまま、自由に振る舞えるようになる。

そう続けようとする寸前、当のクリスから鳩尾にエルボーを落とされた。

一瞬呼吸を止められた弦十郎の胸倉を掴んで、クリスは噛みつくような勢い。

 

「ふっざけんなッ! 一回死にかけたのに、死んだ方が良いとか阿呆なこと言ってるんじゃねえッ!」

 

「…いや、だから、俺はお前のためを思って」

 

「やかましいッ! これ以上ガタガタ馬鹿なこと抜かすと、傷口に指突っ込んでこねくりまわすぞッ!?」

 

クリスの呼吸は盛大に乱れている。目尻には大粒の涙が浮かんでいた。

本気の、本心からの怒りだった。

さしもの弦十郎もその迫力に飲まれて口を噤んでしまう。

 

「返事はッ!?」

 

「わ、分かった」

 

「ならば良しッ!」

 

クリスと二人睨みあうというか見つめ合っていると、くっくっくと笑い声が聞こえる。

笑い声を上げていたのは八紘だった。

いつの間にかクリスは弦十郎に馬乗りになっていた。

ようやくそのことに気づき、顔を真っ赤にしながらベッドより飛び降りるクリス。

 

「弦。似合いの相手を見つけたかも知れんな」

 

そういってくる兄の顔は、久しく弦十郎が見ていなかった屈託の無い笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6話

 

 

 

 

 

 

 

結局、わずか三日で弦十郎は退院し、現場へと復職した。

もともと手術の翌日には平気で歩き回る回復力をすれば、当然の結果だった。

弦十郎自身、フィーネに腹に風穴を開けられたときに比べれば大したことはないと思っている。

この異様な快復の影には、雪音クリスの献身的な看護があったのだ―――と主張するのは極少数派に留まる。

大多数が、風鳴弦十郎の規格外の肉体にさらなる畏怖を抱いたに過ぎなかった。

弦十郎が発令所へと足を踏み入れると、藤尭などは遠慮なく呟いたほどである。

 

「いやあ、本当に司令も化け物染みてきましたねー」

 

「なにを言っている。俺は至って普通の人間だぞ? ただ少々鍛えているだけだ」

 

弦十郎は笑いながら藤尭の背中をバンバンと叩く。

実はこの時、藤尭朔也の肩甲骨に亀裂骨折が生じている。

ただし、直ちに影響はない。

 

「それもこれも、雪音さんがつきっきりで看病してくれた結果ですね」

 

少数派を公言するように友里がそう声をかけてきた。

弦十郎は苦笑するに留めた。真面目な話、看病されたというのは大袈裟ではと思っている。

そもそもの弦十郎が術後に既に快濶だ。

だからクリスがしたことといえば、一緒に病室で病院食を食べ、オプションのDVDプレイヤーをテレビにつないで共に映画を見たくらいである。

色々と細かいことに心を砕いて世話をしてくれたのは感謝しているが、俺は大丈夫だから外で気晴らしでもしてこい! と告げても、学校へ行く以外は、ほぼ三日間頑なに病室から動こうとしなかった。

S.O.N.G.本部である次世代潜水艦の中には娯楽施設も設置されているというのに、遊び方も知らないのか、と弦十郎は不憫に思う。

一方で、病室のソファーで寝起きするクリスは、執拗に弦十郎の昔話を聞きたがった。

せがまれ、寝物語にするには他愛もない話をいくつか披露し、眠る。

病室で過ごした晩、彼女の夢を見なかったのは不思議だった。自分でも思いもよらぬほど良く眠れたことも。

そういう意味においては、心身の回復にクリスが一役買ってくれたであろうことは否定できないかも知れない。

 

「さあて、仕事だ、仕事をするぞッ!」

 

自らに気合を入れるよう、弦十郎は声を張り上げた。

病休中に仕事が幾つも溜まってしまっている。

組織の長であれば、全体の業務に常に目を配らねばならない。

上がってきた報告に疑問があれば、部下へ尋ね、時にはただし、明確に処理しなければならぬ。

そんな弦十郎は、保安部と調査部から提出された書類に違和感を覚えた。

多くのエージェントを抱えるS.O.N.G.に置いて、二つはいわば花形の部署だ。

直接的な戦闘力はシンフォギア装者たちに大きく譲るも、皆若く、歴戦の猛者たちばかりで構成されていた。

装者たちをバックアップし、日本の平和を守るため陰日向に奔走する彼らは、はっきりとした職業意識と誇りを胸に秘めている。

そんな防人たちが、どことなく精彩を欠いているように思われた。

弦十郎が書面からその違和感を読み取れるほど彼らが消沈しているとすれば、それは組織としても由々しき問題である。

さっそく弦十郎は直属の部下三人を呼び集めた。

己の抱いた違和感を説明すると、三人とも微妙な顔つきになる。

何か理由を知っているな。

そう察し、弦十郎は回答するよう厳命。

部下たちは顔を見合わせ、言いにくそうに友里が口を開く。

 

「…司令。実はシンフォギア装者たちは、職員たちに絶大な人気があるんですよ?」

 

幾多の奇蹟を起こし世界を救ってきた正真正銘のヒロインたち。

さもありなんと弦十郎は大きく頷いたが、友里は何とも言えない表情。

 

「すみません、たぶん司令が思っているのとはちょっと違って…」

 

友里の語るところによれば、それは英雄に対する崇敬のものではなく、むしろ偶像(アイドル)に対する声援に近いものがあるという。

 

「…どういうことだ?」

 

首を捻る弦十郎。

現在のS.O.N.G.の若い男性職員たちが抱く装者たちに対する感情を、イメージ化すると以下のようになる。

 

 

 

 

「やっぱりオレは響ちゃん推しだね。あの未完の大器のまま一点突破する爆発力がたまらん」

「何いってんだ? 翼さんの抜群の安定性と切れ味こそ至高だろうが」

「待て待て、そういう意味ではマリアさんが攻守ともに完成しているとは思えないか?」

「まだ将来の可能性を秘めていると言えば調ちゃん一択だろう常識的に考えて」

「僕は暁切歌ちゃん!」

「ちくわ大明神」

「誰だ今の」

 

 

※あくまでイメージです。

 

 

 

 

 

 

 

ふむ、と弦十郎は考え込む。

話を聞くに、連中がなぜ精彩を欠いているかは良く分からない。

が、装者たちをアイドルとして崇拝しているなら、至極簡単な解決法があるではないか。

 

「よし、クリスくんに頼んで、慰労会ということで歌でも唄ってもらうかッ!」

 

クリスがかつて学園祭のステージで見事な歌を唄い上げたことは聞き及んでいた。

それを若手職員の前で披露してもらえば、これ以上ないカンフル剤となるだろう。

装者と職員の交流時間を設け、相互理解を深めることもなかなかに妙案に思える。

どうだ、とばかりに周囲を見回すと、友里が「正気かよ」という眼差しでこちらを見ていた。

 

「あの…とりわけ雪音さんも人気があるのですが…?」

 

「そうなのか? うむ、ならばますますもって適任ではないか」

 

弦十郎がそう答えると、もわっと室内の空気が動く。

見れば、部下たち三人が同時に大きなため息をついていた。

藤尭が困惑しきった表情を浮かべながら言ってくる。

 

「ですからね、司令。若い衆の装者に対する感情は、いわゆるアイドルグループの推しメンに近いものがありまして…」

 

「推しメン? 何味のラーメンのことだ?」

 

弦十郎は首を傾げて見せると、藤尭は半ば泣きそうな表情になりながらも必死で食い下がってくる。

 

「つまり、連中の認識では、○○ちゃんはオレの嫁! みたいな感じで愛でるスタンスなんですよ。そこに、雪音さんをリアル嫁にしちゃった司令がそんなことを提案したらどうなると思います?」

 

正直、藤尭の喋っていることは半分も理解できなかった。

よって理解できる部分だけを咀嚼して弦十郎は答える。

 

「ははは、嫁といっても偽装だろう? だいたい、そんな気概がある人間がいるとは初めてきいたぞ。事前に申請してくれれば、クリスくんの結婚相手候補に推挙してやったのに」

 

部下たち三人は揃ってこちらに背を向けた。

額を寄せ合ってのひそひそ話が聞こえてくる。

 

「どうしてくれましょう? 個人的には処してやりたいくらいなんですけど」

「いっそ司令の好きにさせてやるか? そこで痛い目にでも会ってもらわにゃ」

「リアルで刺されそうですけどね」

「メスも立たない相手じゃ、全員返り討ちでしょ」

「下手をすれば組織が崩壊しますよ、これは」

「そんなことより、このことを雪音さんが知ったらどうなると思う?」

「…マジでS.O.N.G.は終わるかも知れないな……」

 

誰が誰の声だか分からぬが、なにやら物騒な内容である。

 

「おいおい、何を話しこんでいるんだ? そろそろ業務に戻ってくれ」

 

ぱんぱんと手を叩くと、振り返った三人全員から睨まれてしまった。

最近の友里はともかく、藤尭、緒川まで睨んでくるとは予想外である。

急に部下が反抗的な様子を示す理由も思いつかない。

やはり、病休などで三日も不在にしてしまった俺の不甲斐なさからくる不徳の故か…。

思考を明後日の方向に飛ばす弦十郎を、藤尭は呆れ顔で眺めていたが、自席のランプの明滅を見て一瞬で表情を引き締める。

 

「司令ッ!」

 

「どうしたッ?」

 

「通信要請が入っていますッ!」

 

「どこからだッ!」

 

「鎌倉の御前からですッ!」

 

発令所全体に緊張が走る。

旧風鳴機関の直系にして、S.O.N.G.にも多大な影響力を持つ日本の影の首魁である攘夷主義者。

言動の端々から国粋主義の片鱗すら伺わせる鎌倉の怪物、風鳴赴堂。

同時に弦十郎の実父でもある。

 

「…つなげ」

 

さしもの弦十郎も若干の緊張をせずにはいられない。

正面の大型モニターに映る威容が口を開く。

 

『八紘より患ったと聞いたが、息災そうではないか』

 

「はッ。どうにか復職しております」

 

ここまでがいわば時候の挨拶のようなものだったのだろう。

 

『時に、雪音の娘を娶ったらしいな?』

 

赴堂が斬り込んでくる。

 

「…ええ。諸外国の思惑に対抗するため、止むを得ず」

 

不本意そのものの声を出す弦十郎だったが、モニターの向こうの怪物は満足げに頷いた。

 

『よくやった』

 

「…は?」

 

『防人たる風鳴の器に新たな血が混じるのも悪くない。それが(つわもの)であれば申し分なかろう』

 

この場合の兵とは、シンフォギア装者たるクリスのことを指しているのだろう。

そう理解しつつ、弦十郎の拳は相手に見えない影で強く握られている。

 

『精々励み、早く子を成せ。もし、おまえの役が立たぬとならば、八紘に下げ渡して…』

 

言いかけたまま、モニターはその映像を消失する。

 

「…どうやら通信システムが故障したようだ。早急に修理してくれ」

 

素手で大量に引き千切ったケーブル類を握りしめながら弦十郎は言った。

 

「は、はいッ!」

 

大穴の空いた通信機をちらりと眺め、友里は弾かれたように背筋を伸ばしている。

ゴミ箱にそれらを投げ捨て、弦十郎は司令席に腰を降ろして腕を組んだ。

正直、怒りはいまだ冷めやらぬ。

 

…全く、クリスくんのこと何だと思っているのだッ!

 

戦国時代ならいざ知らず、婚姻を血統の維持のための道具としか見做していない。

実の父であれ、その主義には弦十郎は真向に反対の立場を取る。

個人的にもクリスには幸せな人生を送って欲しい。

本当に好きな人と契り、子を育み、安穏な生活を全うしてくれることを心より祈る。

そのためならば、俺は鬼にも修羅にもなろう。

 

「だいたい兄貴も親父に何と伝えたのだ?」

 

婚姻届は元から関係各省に対する周知も丸投げにした格好であるから、兄を責める筋合いは違うかも知れない。

しかし、良かれと思ってしたことが、こうも不快に跳ね返ってくると弦十郎の気分も穏やかではいられなかった。

いや、俺が不快だというなら、当事者であるクリスくんはもっと不快なことだろう。

彼女を差し置いて、怒りのままに振る舞うわけにはいかぬ。

自戒する弦十郎だったが、過日の兄にクリスと『似合いの相手』と言われたのもあまり愉快に思っていなかった。

まあ、あれは兄一流の諧謔なのだろうと無理やり納得はしていたが…。

 

「で、でも、鎌倉の御前、機嫌が良さそうでしたね…」

 

張りつめた空気を入れかえようとしたのだろう。藤尭が軽口を叩く。

ジロリと一瞥し、藤尭を震え上がらせておいてから、弦十郎は口を開いた。

 

「あんな老人の戯言など斟酌するな。誰にもクリスくんの自由と幸せは邪魔させんぞ。誰にもな」

 

弦十郎の宣言に、友里は何やら言いかけたが、制するような格好で緒川が前に出てくる。

 

「この際ですからはっきりさせておきたいのですが、司令は雪音さんにどうなって頂きたいと思っているのですか?」

 

「ん? 無論幸せになって欲しいぞ」

 

「具体的には」

 

「そうさなあ、自由に恋愛し、結ばれ、幸福で平凡な市井の生活を送って欲しいと俺は思う」

 

言葉と裏腹に弦十郎の顔は自虐に歪む。

装者として激戦に身を投じさせるだけではなく、無理やり結婚を強いてその自由を阻害している現状。

言っていることとやっていることの真逆の恥ずかしさに、許されるなら穴を掘って埋まりたいほどだ。

そうは言っても掛け替えのない適合者である彼女は戦いの宿命から逃れられない。

ならばせめて他の部分で補いたいと考えるのは偽善だろか。償いだろうか。

そう答えると、緒川はややたじろいだ様子。

 

「…では、現状の結婚はどうするおつもりですか?」

 

「しょせん偽装だからな。(ほとぼ)りが冷めたら解消せねばなるまいよ。その際、クリスくんの経歴に出来るだけ傷をつけないように配慮しなければならんだろうが…」

 

部下三人の浮かべた微妙な表情が完全に一致していたことを、弦十郎は正しく誤解する。

 

「そんな顔をするな。そうだな、何もそんな長期間付きあわせるような予定はない。クリスくんが本当に好きな相手を連れてきて、相手も了承してくれれば、いつでも離婚する心構えだ」

 

「へー、司令は雪音さんの相手にはどんな方をご所望ですかー?」

 

棒読みの口調で友里が尋ねてくる。

彼女の眼がまるで剥製の鳥のようなのが気になったが、弦十郎は答えた。

 

「それはもちろん、クリスくんを愛してくれていることが第一条件だな」

 

当然の如くそういって大真面目に付け足す。

 

「そして、クリスくんを守れるよう、俺より強いのも条件に上げておこう」

 

「まるで司令はお父さんみたいですねー」

 

そう言った緒川だったが、表情が完璧に死んでいた。

同じく棒読みの口調で、焼き魚のような目をした藤尭がぼやく。

 

「それって人間ですかー?」

 

弦十郎は笑う。

 

「ははは、冗談にしても面白くないぞ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜、弦十郎は自宅のソファーで寛ぐ。

 

「三日ぶりの家だが、やはり自宅は落ち着くな」

 

これは別に今に始まったことではない。作戦行動で本部に詰めると、一週間単位で帰らないことなどザラにあった。

それでも、やはり自宅という完璧なプライベート空間は必要だと思い知る。

どんな人間にも自由気ままに羽を伸ばせる時間は必要だろう。

そこまで考えて、弦十郎の眉が歪む。

ちょうどクリスがお盆を抱えてリビングへ入ってくるところ。

 

「インスタントだけど、いいだろ?」

 

「ああ。ありがとう」

 

渡されたのは何とも可愛らしいティーカップだった。

うっかり握りつぶさないように苦心し、一口啜って弦十郎は顔を顰めた。

たっぷりと入った砂糖が舌の上で転がりまわっている。

 

「ま、不味かったか?」

 

「いや、そういうわけではない。ちょっと熱かっただけだ」

 

心配するクリスに、大丈夫だとばかりに一気飲みして見せた。

それからクリスを優しく見やる。

俺がプライベートを満喫出来てないと思うなら、彼女の方が尚更だろう。

結婚を宣言し、まだ一週間と経っていない。

慣れない家に住み、おまけに相手は間もなく入院という体たらく。

クリスの自由を阻害しているという意味においては、全く言い訳が出来ない。

もっとも、結婚するということはそういうこと、という認識もあった。

元々が生まれも育ちも違う男女が一つ屋根の下で暮らす。

そこでトラブルが起きないわけがない。それが例え偽装と言えど。

ただ、その責任を等分に受け取ることこそが夫婦としての成り立ちであると、物の本で読んだことがある。

翻って、始まったばかりの結婚生活に関わらず、クリスに対する負担のウェイトが大きいことは自明だった。

そのバランスを取るためにも、弦十郎はどうにかクリスに報いたいと考えている。

 

「時に、クリスくん。また美味いものでも食べに行こうか?」

 

ソファーの隣に腰を降ろしたクリスに尋ねた。

さすがに以前と同じ時価の店は勘弁……いや、彼女のためを思えば、あの程度の出費などいかほどのことがあろうか。

 

「美味いもの…?」

 

「ああ、ここしばらく、クリスくんには色々と苦労をかけたからな。その御礼といってはなんだが…」

 

クリスは手に持ったコーヒーカップの湯気をアゴに当てるようにして考え込む。

 

「…それって、食事だけ、か?」

 

「ふむ?」

 

「た、例えばだぞッ? あれ買って欲しいとか、どっかに遊びに連れていって欲しいとか、そ、その、一緒にあんなことして欲しいとか…」

 

「ああ、なんでも構わないぞ」

 

言下に弦十郎は答える。

望むなら、クリスの部屋にリビングと同じくらいのシアターシステムを組んでやったって良い。

デートをご所望なら、もっと気の利いた場所を知らないわけでもなかった。

 

「な、なら…」

 

クリスは顔を伏せる。

どういうわけか、耳の先まで真っ赤に染まっていた。

弦十郎は答えを待つ。

しかし、それからが長かった。

言いかけ、躊躇い、口を噤む。

それをループしたかのように繰り返した果て。

それこそ、手に持ったコーヒーが完全に冷めきるほどの時間を置いてから、おずおずとクリスは言ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…そ、その……一緒に風呂に入りてぇってのは……ダメか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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7話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうか、ちょうど俺もそんな気分だった」

 

そういって弦十郎が立ち上がると、途端にクリスは慌てた。

両手を前に突き出して振り回して、

 

「ま、待ってくれ! いきなりは勘弁してくれッ! あ、あたしにも心の準備が…ッ!」

 

そんなクリスの様子に首を捻りつつ、弦十郎は懐に手を入れる。

取り出したのは携帯端末だ。そして掛ける相手は友里である。

 

「もしもし、俺だ。夜分に済まん。実は、以前から聞いていたあの施設のことだが…」

 

通話を終え、弦十郎は会心の笑みを浮かべてみせる。

 

「喜んでくれ。急だったが、どうにか予約が取れるようだぞ」

 

「…は?」

 

二課(うち)の福利厚生施設の一つに源泉かけ流しの露天風呂のあるホテルがあってな。一度利用してみたいと思っていたところだ。ああ、ご希望通り混浴もあるぞ?」

 

「………」

 

(ひな)びたところにあるが、昔、温泉百選にも選ばれたことのある名湯で、打ち身や創傷に効くと専らの評判だ。俺もこの通り病み上がりのことだし……どうしたクリスくん?」

 

いまやはっきりと部屋の室温が下がっていた。

顔を伏せ、肩を震わせるクリスから、ふつふつと湧き立つものがある。

これは―――殺気だ。

自分がまたしても下手を打ってしまったことを瞬時に悟る弦十郎。

だが、訳は分からぬままに具体的な回避策は何も思いつかぬ。

なので反射的に弦十郎の口から飛び出した台詞は、火事場のクソ力に類する生存本能が促した奇跡だろう。

 

「し、新婚旅行のつもりでどうだろう?」

 

途端に、クリスから漂う殺気が霧散した。

顔を上げ両頬は染めるクリスに、先ほどまでの剣呑な気配はまるで感じない。

 

「そ、それなら、まあ、うん。…悪くないな」

 

「そうか。良かった」

 

冗談抜きで弦十郎は大きく胸を撫で下ろす。

どうにか怒りは収まったようだが、相変わらず原因が良く分からん。

やはり、湯治などというのは爺臭いからだろうか?

ともあれ若者向けらしいイベントの一つでも考えておかんとな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後の本部にて。

週末の連休を申請すると、すこぶる機嫌の良さそうな顔で友里が承ってくれた。

つい先日まで病休していたのに、と忸怩たる気持ちを抱く弦十郎だったが、

 

「もともと来週の頭までは、司令は休む予定になってましたから」

 

と藤尭。

嘘でも気遣いが嬉しいものだ。

組織の福利厚生施設を使わせてもらうことと、クリスに新婚旅行として行こうと告げたことに触れると、部下たち三人は一斉に顔を輝かせた。

 

「仕事のことはどうぞ気にせず満喫して来て下さい」

 

普段から穏健な緒川が、珍しく勢い込んで確約してくる。

だけでなく、藤尭や友里の表情まであからさまな活気に満ちていた。

まるで万歳三唱までしそうな部下たちに見送られ、定時で退勤。

帰り道、部下たちの様子を思い出し、少しだけ不安になる弦十郎がいる。

病休に続き、俺が不在の方が部下たちにとって気も楽なのだろうか。

珍しく気分を落ち込ませつつ帰宅すれば、玄関先に並ぶ複数のローファーに面食らう。

おそるおそる廊下へ足を踏み入れると、

 

「あ、お帰りなさい、師匠ーッ!」

 

立花響がキッチンから顔を出す。

 

「お邪魔しています」

 

続いてぺこりと頭を下げてくるのは小日向未来だった。

 

「あ、お帰りッ」

 

クリスがパタパタと歩いてきてから、拝むように手を合わせてくる。

 

「悪ぃッ! こいつらが、どうしても新居に来たいってきかなくって…!」

 

新居か。まあ、クリス目線で見れば確かにそうとも言えるかも知れぬ。

 

「大丈夫だ、問題ないぞ」

 

そう答えると、クリスはあからさまにホッとした様子。

キッチンを通ると、実用性第一だった無味乾燥のテーブルに、やたらピラピラしたテーブルクロスが掛けてある。

そしてテーブルの上には、大皿に乗った料理が湯気を上げていた。

 

「今日は師匠の快気祝いなんですよッ!」

 

響がえへへと笑う。

 

「クリスちゃんったら、学校にいるうちから張り切っちゃって…」

 

「それは言うなってんだろ、てめー!」

 

クリスにぐいぐいと首を絞められる響を横に、未来は苦笑していた。

 

「はい、弦十郎さんは早く手を洗ってきて下さい」

 

「う、うむ」

 

洗面所で手を洗う。ふと赤いコップと歯ブラシが目につく。

おそらくクリスのものだろう。

手を拭くタオルも、やたらキッチュなキャラクターが描かれているものになっていた。

可愛らしいと思う反面、こうやって自分の家が浸食されていくのだろうかと軽い戦慄を覚えた。

いや、臆するに能わず。

どうせ偽装結婚なのだ。その間、せめて好きに振る舞わせるくらいの甲斐性を見せなければ申し訳ない。

キッチンへ赴くと、さっそく席へと案内される。

 

「これは御馳走だな!」

 

弦十郎は思わず賞賛の声を上げた。

ヒジキの煮物にホウレンソウのゴマ汚し。大皿では肉じゃがとブリ大根が湯気を立てている。

さっそくブリの荒汁を啜れば、芳醇な旨味に思わず声が出た。

 

「…美味い!」

 

「そうかッ! 良かった…」

 

目に見えるほど肩の力を抜くクリスがいる。

 

「もしかして全部クリスくんが作ったのか!?」

 

「うん、まあ…、色々と手伝ってもらったけどさ」

 

その様子を眺めて、くすくすと笑う未来。

 

「クリスったら、弦十郎さんは和食が好きだろうから、わたしに作り方教えてくれって…」

 

「お、おいッ! そいつは言わない約束だろッ!?」

 

「わたしは試食を頑張りましたッ!」

 

「おめーは単純に喰いすぎだっつーの!」

 

またもや響を締め上げるクリスに、仲裁に入る未来。

そんな三人の様子を眺め、弦十郎は自然と頬が緩むのを感じる。

こんな家庭的な雰囲気など久しぶりだ。そして、悪くない。

箸を置き、弦十郎は響と未来に向かって頭を下げた。

 

「二人とも、今日はありがとう。どうかこれからも、うちのクリスくんと仲良くしてやってくれ」

 

俺との偽装結婚が終わっても変わらぬ友情を続けてくれることを願う。

そっと横を見れば、クリスが下唇を噛んで軽く睨んでくる。でもそれは決して怒っている風ではなかった。

なるほど、こういう言い方をすれば逆鱗に触れないのだな。

一つ学習する弦十郎の前で、響は盛大に食事を始めている。

未来も食べたが、クリスはほんの少し箸をつけただけだった。

さすがに後輩たちに食べ方が汚いところを見せるのは躊躇われるようだった。

…あとで夜食でも作ってやるか。

夕食を終え、若い娘三人が肩を並べて後片付けをする姿は、文字通り(かしま)しい。

微笑ましく眺めていると、緑茶の入った湯呑が前に置かれた。

未来が急須で他の二人の分も注いでいる。どちらもかつて弦十郎の家にはなかったものだ。

これまた見たこともない菓子鉢から煎餅を取り出し、くわえてパリンと割りながら響がぼやく。

 

「いいなあ~、クリスちゃん、明日から新婚旅行か~」

 

「ッ!?」

 

ちょうど口に含んだお茶を吹きだすクリス。

 

「お、おまえ、それをどこから聞いた!?」

 

次いで、キッ! と弦十郎を睨んでくる。

 

「いや、俺ではないぞ?」

 

本部で新婚旅行と告げたのは部下だけだ。そもそも公言することのほどでもないと思っている。

 

「えへへ~、それは機密情報、ってことで!」

 

響は笑う。

 

「てめえ、何が機密情報だッ! いいから誰から聞いたか教えろッ!」

 

「落ち着け、クリスくん。別段知られたからといってどうとなる話でもあるまい」

 

「だけどよ…ッ!」

 

なお納得しないクリスを見兼ねたのか、未来が口を挟んできた。

 

「響は切歌ちゃんと調ちゃんから聞いたんでしょ?」

 

「なんでアイツらが…」

 

頭を抱えるクリスだったが、切歌と調はおそらくマリアを経由して聞いたに違いない。

そしてマリアは、装者たちの中でとりわけ発令所の三人との繋がりが深い。

これは一時期、彼女だけが国外でエージェントとして活動していたことに拠る。

種を明かせば、何も不思議はない話だった。

そして先ほど弦十郎も明言したとおり、知られたからといってどうということはない。

むしろ結婚したのだから、新婚旅行に行くのは当然とさえ言えるだろう。

結局、寮の門限ギリギリまで粘って、響と未来は帰っていった。

 

「まったく、アイツらと来たら…」

 

見送って、クリスの頬は赤い。

クリスちゃんは師匠のこと二人っきりのときはなんて呼んでるの? などと響に散々からかわれた結果である。

その余波は弦十郎も被り、なんとも背中がむず痒くて仕方ない。

躊躇なく背中をぼりぼりと掻きながら弦十郎は言った。

 

「さて、明日から旅行だ。楽しみだな」

 

「お、おう」

 

頷いた途端に、きゅーっとクリスの腹が鳴る。

顔を真っ赤にするクリスに、弦十郎は笑わない。

学習の成果を発揮し、むしろ優しくいたわるように声をかけた。

 

「やはり腹が減っただろう。残った料理を食べよう。それとも何か作ろうか?」

 

顔は赤いまま、クリスはぶっきらぼうに答える。

 

「…チャーハン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金曜日のお昼前。

弦十郎は愛車とともに、私立リディアン音学院の前に居た。

本日はクリスは午前中だけで早退する予定。

さすがに土日の一泊二日では(せわ)しないので、今日の半日を休むことにより、金土日の二泊三日の旅行にしている。

午前中の終業ベルが鳴ると同時に、クリスが昇降口から飛び出してきた。

よほど他の生徒から見られたくないと見える。

弦十郎は苦笑したが、よくよく見ればクリスの背後を見事なスイング走法で追いかける女生徒が居た。

立花響だった。

 

「…おまえッ、なんで追っかけてくるんだよ…ッ!」

 

振りきれず、弦十郎の車に到着するなり、息も絶え絶えにクリスが恨み節を吐く。

 

「えー? そんなの見送りに決まってるじゃん」

 

ケロリとした顔で響は答えた。

そのまま彼女は伸びをして、背後を気にしている。

 

「あれー? 調ちゃんや切歌ちゃんにも声をかけたんだけどなー?」

 

「見送りなんてお前ひとりでたくさんだッ!」

 

そう言い捨てて、クリスは助手席に飛び乗る。

目で早く出してくれと急かされたが、弦十郎としては無碍には出来ない。

 

「それじゃあ響くん。あとはよろしくな」

 

「はいッ! 二人とも気をつけてッ! あと、お土産は忘れずにねッ!?」

 

「さては土産が目的だろうが、お前はッ!」

 

車は走り出し、クリスの捨て台詞が後を引く。

そのまま車は駅ビルの駐車場へと停車。

後部座席に積んだ荷物を持ったクリスは女子トイレへと駆けこんで行き、弦十郎は買い物をしつつ時間を潰す。

 

「お待たせ」

 

制服から着換えたクリスは、黒タイツにチェックのスカート。上に着込んだスタンドカラーコートの中は、弦十郎とお揃いのような赤いブラウスだ。

 

「うむ。それじゃあ行こうか」

 

予め買っておいたクリス分の切符を渡す。

目的地は新幹線で1時間半。到着駅からバスで20分ほどの場所にある。

別に車で行けない距離ではないが、クリスが電車での旅行を希望していた。

平日の車内は空いていた。

クリスと二人、指定席へと座る。

 

「クリスくんはサンドイッチ弁当で良かったか?」

 

「上等上等」

 

電車が走り出し、お互いの弁当を開ける。

飛ぶように流れていく車窓の景色を眺めながら、こうやって電車に揺られるのは実に久しぶりなことだと弦十郎は思う。

のんびりと弁当をつつくなど、ひょっとしたら修学旅行以来かも知れない。

かつての青春時代に思いを馳せていると、ひょいと目の前に黄色いものが差し出される。

クリスの剥いた冷凍ミカンだった。

 

「前にクラスメートと旅行に行ったとき、食べて美味かったんだよな、これ」

 

「ほう! クラスメートと旅行とな」

 

「まあな。あんときゃローカル線だったけど」

 

シャリシャリとミカンを咀嚼しながらクリス。

弦十郎も渡されたミカンを齧ってみた。なんとも懐かしい味がする。

 

「確かに電車旅もいいものだな」

 

「だろ? 車じゃあ、おっさんが忙しくて大変だろうし」

 

はしゃぎ声のクリスに、弦十郎は少し驚く。

なんと。俺を気遣ってくれたのか?

そのままのじっと見下ろしていると、クリスの頬が赤くなった。ぷいっと窓の外を向き、手をひらひらさせながら言う。

 

「ま、まあ、他に、万が一ノイズとか出たら、ヘリコプターが迎えが来るだろ? そうなると向こうに車を置き去りにしなきゃなんないから、後が面倒じゃん」

 

「なるほど。そんな事態も想定してくれていたのだな。さすがクリスくんだ」

 

「や、やめろよ、そんなことないって」

 

「そうは言うが、俺もそこまでは思い及ばなかったんだぞ」

 

素直に褒めたつもりだが、ますますクリスは顔を背けてしまう。

 

「どうした? こっちを向いてくれ」

 

「…おっさん、ひょっとしてわざとやってねぇか?」

 

「どういう意味だ?」

 

首を捻っていると、車内販売がやってきた。

アイスクリームでも食べるか? と尋ねると、食べるッ! とそっぽを向いたまま言われた。

売り子からアイスクリームを受け取る。手渡すと、クリスは俯いたまま食べ始める。

もそもそと食べるその姿は、ハムスターといった小動物みたいで愛らしい。

車内販売のカートが隣の車両へと移動していく。

その時、弦十郎の耳がピクリと動いた。

 

「―――クリスくん。今、聞こえなかったか?」

 

「…? 何か聞こえたのか?」

 

唇の端にクリームをつけたままのクリスを置いて、弦十郎は席を立つ。

 

「ちょっとトイレに行ってくる」

 

そのまま連結部へと向かう。

そこにあるトイレを通り過ぎて、弦十郎が向かったのは隣の車両だ。

指定席ではあるが、誰も乗客はいない。

車内販売のカートも通り過ぎ、さらに次の車両へと行ってしまう。

無人の車両で、弦十郎は軽く溜息をついた。

そして次の瞬間、弦十郎の両腕が神速で動く。

 

「きゃッ!?」

 

「で、デェスッ!?」

 

左右の先頭座席の後ろから引っ張り出される二つの影。

 

「…何をやっているんだ、切歌くん、調くん」

 

「ち、違うのデース! アタシは謎の美少女エージェント、キリーなのデース!」

 

サングラスをかけた切歌が、黒いスーツの襟首を掴まれたままもがく。

 

「わたしは謎の美少女エージェントB、シラーなの」

 

同じくサングラスに黒スーツの調が、ぶらんと吊られながら片手を上げた。

 

「二人とも、新しい遊びか何かか?」

 

半ばあきれ、弦十郎が宙に浮いたままの二人の襟首を離した途端、

 

「今デス!」

 

「緒川さん直伝なの!」

 

ぱんぱんという破裂音と白煙が上がった。

視界を奪われ、思わずたじろいだ間に、自称美少女エージェントの二人は姿を消していた。

 

「…なんなんだ、まったく」

 

後を追おうかと思ったが、特に敵意は感じなかった。

同じ新幹線に乗っている理由は分からねど、まあ、さっきも言及した通り、新しい遊びにでも興じていると思っておけばいいか。

問題は、クリスにこの件を報告するかどうかだった。

せっかくの旅行に水を差されたと、また機嫌を悪くする可能性がすこぶる高い。

少し迷った末に、弦十郎は自席へと戻る。

 

「おかえり。遅かったな?」

 

「ん? 先客がいてな」

 

結局、弦十郎は黙っていることに決めた。

だが、駅に到着し、バスに乗り変えた時点でその思惑は破綻する。

バスの最後尾の座席の隅に、身を寄せ合うようにして黒服の二人が乗っていた。

結果として、弦十郎の気遣いも空しく、コメカミに♯のような青筋を浮かべるクリス。

背後を振り返ろうとする弦十郎の耳をひっぱり、鋭く耳打ちをしてくる。

 

「見るな、おっさん! 気づいたら負けだッ…!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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8話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バスで山道を登ると、続々と建物が見えてきた。

その中央にある一際大きな建築物が、今日宿泊するホテルだった。

 

「へえ~…結構店とかあるんだな」

 

バスを降りて、クリスは興味津々の様子で周囲を見回している。

さすがにコンビニのようなうるさい外見の店はない。

しかし、クリスにとっては、古風な土産屋や個人商店などが返って珍しく見えるようだ。

 

「さて、とりあえずチェックインするかッ!」

 

クリスの分の荷物も持って弦十郎はそう促した。

いつの間にか切歌と調の姿は見えなくなっている。

クリスが無視すると決めた以上、弦十郎もあとは詮索しないことに決めた。

 

「ところで、ホテルと旅館の違いってなんなんだ?」

 

道すがら、クリスが尋ねてくる。

 

「洋風か和風かの建築の違いと聞いたことはあるが」

 

弦十郎がそう答えると、「まんまかよ」とクリスは笑う。

そんなクリスは、ホテルの前まで来ると、口をあんぐりと開けて固まった。

 

「…でっかいホテルだな。ここが丸ごとS.O.N.G.の持ち物なのかよ?」

 

「ああ、それは違うぞ、クリスくん」

 

企業が固有資産として保養施設などを持っていたのは今は昔。

そもそも独自の施設など、頻繁に使用されない割に、維持や税金で莫大な出費となる。

なので、現在は、別会社にアウトソーシングを行い、その会社の運営するホテルなどを福利厚生施設として指定するのが主流となっている。

企業が福利厚生費を支給することにより社員は安く利用でき、本業のホテルであれば常にサービスが行き届いているというわけだ。

 

「へえ、そういうもんなのか…」

 

感心するクリス。

もっとも山奥のホテルということで、都会のようにベルボーイが待機しているわけでもない。

喫茶コーナーはあるにはあったが、セルフのお茶のポットが縁台に載せられているなど長閑(のどか)なものだ。

 

「風鳴さまで、二名様ですね。承っております」

 

受付で記帳し、部屋の鍵を受け取る。

係りのものが部屋まで荷物をもって案内してくれた。

部屋に着くなり、クリスは靴を脱ぎ散らかして窓まで走っていく。

 

「うわあ、すげえ眺め…ッ!」

 

大きな窓に、遠く青い稜線が幾つも連なっているのが見える。

 

「なかなか良い部屋だろう?」

 

「…ひょっとして高いんじゃねえのか?」

 

「新婚旅行だ。気にするな」

 

弦十郎がそう答えると、クリスはポッと頬を赤らめた。

その姿に弦十郎は敢えて何も言わず、自身でも部屋を見回す。

十畳ほどの座敷の他に、ベッドと六畳間が連なる寝室があった。

クリスが言った通り値段は張るが、口にする必要はないだろう。

 

「さて、一息ついてさっそく風呂と行きたいが――」

 

「…ッ!」

 

身体を強張らせているクリス越しに時計を見た。まだ時刻は15時を回ったばかり。

 

「さすがにまだ少し早いな。荷物を置いて散策と洒落込もうか?」

 

「そ、そうだなッ。……あたしも心の準備が必要だし…ッ」

 

「ん? 何かいったか?」

 

「な、なんでもねえッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連れだってホテルを出る。

それなりに観光客はいるものの、まだ日も高いせいか浴衣を着て歩いているものは少ない。

そんな中、二人で適当な店を冷かしていく。

 

「あ、おっさん、アレは何の店なんだ?」

 

「あれは温泉卵を売る店だな。食べてみるか?」

 

「うんッ」

 

他にもクリスが興味を示したのは、ご当地サイダーや蒸かしたての温泉まんじゅう。

 

「あまり食べすぎると夕食が入らなくなるぞ?」

 

そうは言ったものの、弦十郎も財布の紐を緩めるのに躊躇はなかった。

実に幸せそうにまんじゅうを頬張るクリスを眺めていると、こっちも穏やかな気分になれる。

ただ、この平和な時間に唯一不満があるとすれば―――。

 

「すまん、クリスくん。ちょっとここで待っていてもらえるか?」

 

そう言ってクリスを店先に置き、弦十郎は裏路地へと入り込む。

全く人の気配はないように思えるが、それは素人判断だ。

 

「そおいッ!」

 

いかにもな形で並んでいる段ボールを引っ繰り返せば、中から黒服を着た二人の少女が転がり出てくる。

 

「な、なんでバレたデスッ!?」

 

弦十郎は溜息をつく。

互いの手を取り合う格好でこちらを見てくる切歌と調は、クリスに(なら)って無視するつもりだった。

しかしクリスは気づかなくても、公安警察として働いてきた弦十郎としては、監視の視線が鬱陶しくてたまらない。

 

「一体何のつもりなんだ、二人とも」

 

「くッ! アタシたちはマ、じゃなくてレディMの指令を受けたスペシャルなエージェントなので全てシークレットデス! たとえどんな拷問を受けても決して屈しないのデース!」

 

「なんかもう既にボロボロこぼれてるよキリーちゃん!」

 

「…ところで、ここに蒸かしたてのまんじゅうが入った袋があるのだが」

 

「クリス先輩と司令さんの護衛をするように、特別にお願いされたんデス!」

 

「一瞬で屈しちゃったッ!?」

 

弦十郎から袋を受け取り、さっそく中身を開ける切歌。

はい、調とはんぶんこデース! じゃなくてシラーだよ、キリーちゃん!

律儀に設定を守ろうとする調が健気に見えたが、弦十郎は別のことに驚いている。

本来、護衛任務は保安部が負うもの。

なのに装者二人に委ねられた意味を考えずにはいられない。

つまり、保安部でも対応しかねる、それこそ装者でなければ対処できない案件があるということか…?

もっともその逡巡も長くは続かない。

 

「おーい、おっさん、どこ行ったんだー?」

 

クリスが探している声がする。

今は旅行中であり、様々な意味で最優先すべきはクリス本人。

何より、護衛二人がここにいるのに、対象である彼女を一人放っておくなど失態もいいところだ。

すかさず路地裏を出れば、クリスが足早に近づいてくる。

 

「どうしたんだ? いったい何をやってたんだよ?」

 

「いや、なんでもない。ちょっと可愛らしい猫が入っていくのを見かけたので、追いかけたが逃げられてしまった」

 

口から出まかせを言いながら、弦十郎は周囲へ鋭い視線を飛ばす。

それから、庇うようにクリスの身体を抱き寄せた。

 

「ちょッ…!?」

 

華奢な肩は抗うように暴れたが、間もなく大人しくなる。

よし、良い子だ。

なお周囲に油断なく視線を飛ばしつつ、クリスの耳元に囁くように言う。

 

「そろそろいい時間だ。ホテルへ戻ろう」

 

嫌がられるかと思ったが、素直にクリスはコクンと頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスの気配を背中に感じ、弦十郎は一瞬で携帯電話を浴衣の袂に仕舞い込む。

 

「…お待たせ」

 

予想通り半瞬遅れてクリスの声がした。

 

「うむ、そんなに待っていないぞ」

 

本音を言えば、もっと待たされると思っていた。

まだ始まって短い同居生活の中で、クリスは長湯であることは十分弁えている。

夕食前のひとっ風呂ということでやってきたのは、普通の男女湯。

さすがに他人の多い時間帯に混浴は避けたいとのクリスの希望に沿った格好だった。

肌を桜色にし、クリスは湯上りの牛乳を飲んでいる。

とりあえずは温泉を堪能してくれているようだ。

一方で、弦十郎の不安は晴れていない。

先ほどから幾度も本部へ問い合わせをしているのだが、対応する友里の返事は「心配ありません。どうぞ旅行を楽しんでください」の一点ばり。

出来うるなら今すぐ本部へ飛んで帰り、問いただしたい。

だが、仮にそんなことをしようものなら、今度こそクリスに愛想を尽かされてしまうだろう。

何かを知っているかもしれない切歌や調も、この時ばかりは見当たらぬ。

気がかりを残しつつ部屋に戻れば、既に夕食の準備がしてあった。

 

「凄いご馳走…」

 

十畳の和室のテーブルの上に、これでもかと料理が並べられている。

 

「せっかくだから特別メニューにしてもらったぞ」

 

悶々とする気持ちを振り払うように、弦十郎は明るく言った。

 

「あれ? おっさんは飲まないのかよ?」

 

クリスの前にはオレンジジュースの瓶とコップ。

弦十郎の前にはウーロン茶とコップ。

 

「…そうだな。せっかくだから一本だけ飲むか」

 

普段であれば、不測の事態に備える意味も込めて、弦十郎は酒を飲まない。

だからといって飲めないわけではない。海外のパーティなどでは飲まざるを得ないこともある。

 

「そうこなくっちゃ」

 

嬉々として冷蔵庫から瓶ビールを引っ張りだしてくるクリスに苦笑する。

まあ、今回はクリスくんの気持ちを無碍にしないことが一番か。

それに、誓ってビールの一本程度では酔いはしない。

クリスの酌でコップにビールを注いでもらう。

逆に弦十郎はクリスのコップにジュースを注いでやり、乾杯。

 

「美味いな、この山菜鍋はッ」

 

クリスと同様に鍋に舌鼓を打ちつつ、弦十郎は何気なく今後の予定を口にした。

 

「食事が済んだらのんびりして、そうだな、11時半も過ぎれば、露天風呂も空いているだろう」

 

「…ッッ!!」

 

「どうした、クリスくん? 箸が止まっているぞ?」

 

「…悪い、なんか急に胸がいっぱいになっちまって」

 

「ははは、やはり昼間に買い食いしすぎたか」

 

「…ごめん」

 

「いや、別に謝る必要はないが…」

 

結局、クリスは食事を半分ほど残した。

その様子を気遣い、弦十郎が夜食におにぎりでも用意してもらうか?と尋ねても、上の空の生返事。

 

「顔も赤いし、どこか具合でも悪いのか…?」

 

弦十郎が額に手を伸ばすと、さっと身を引くクリスがいる。

 

「だ、大丈夫だッ。そ、そう、もしかしたら湯あたりでもしたのかなッ、はははッ」

 

「ならば露天風呂は中止にした方が」

 

「いやだッ、露天風呂には絶対に行くッ!」

 

なんだか良く分からないが、クリスは頑なになっている様子。

彼女の具合は心配ではあるが、混浴で一緒に湯に浸かるのだ。仮に具合が悪くなっても対処できるだろう。

わかった、と頷き、見るとでもなしにテレビをつけた。

クリスはどこかそわそわしながらローカル番組を眺めている。

その横で、一緒にテレビを眺めるフリをしながら弦十郎は本部へ幾度かメールを送信するが、返信内容は変化なし。

さすがに10時を過ぎるころ、弦十郎もメールを諦めた。

部屋に備え付けの新聞なぞを読みながら、時刻はそろそろ11時半。

 

「さて、そろそろ行こうか?」

 

「…はい」

 

なんともしおらしい返事をするクリスを連れだって、露天風呂へと向かう。

男女の大浴場は本館にあるが、露天風呂は別館にあるとのこと。

長い渡り廊下を歩いている中、クリスはずっと弦十郎の浴衣の裾を掴んでいた。

 

「それじゃあ、中で落ち合おう」

 

入口でクリスと別れる。混浴といえど、さすがに脱衣所は別々だ。

すっぱりと浴衣を脱ぎ捨て、露天風呂へ。

引き戸を開けた光景に、さすがの弦十郎も感嘆の声をもらしてしまう。

屋外で屋根はあるものの壁はなく、滔々とお湯を湛えた巨大な湯船の縁は水平線のようになっている。

その向こうには広大な山々の連なりが望めた。

まるで山の中に浮かんでいる風呂のようだ。

洗い場でさっさと身体を洗い、弦十郎は湯船へと足を踏み入れた。

もうもうと立ち込める湯気を掻き分け、湯船の端まで向かう。

予想通り、眼下に絶景が広がっていた。

頭にタオルを乗せ、肩までつかる。

湯の熱さに反し、吹き付けてくる山の夜風の冷たさが何ともいえず気持ちが良い。

 

「…おっさん?」

 

洗い場から声。

見れば、バスタオルを身体に巻いたクリスがいる。

ずいぶん時間がかかったな、とは思ったが、それは口には出さない。

 

「先に入っていたぞ。絶景だから、クリスくんも早く来るといい」

 

「う、うん」

 

頷き、クリスが洗い場で座った。

露わになる白い背中に、弦十郎も紳士らしく背を向ける。

しばらく待つと、すぐ隣で湯がさざめいた。

見れば、クリスがとっぷりと肩までお湯につかっていた。

髪の毛は浴槽に浸からないようタオルで覆われている。

 

「………」

 

「な、なんだよ、おっさん。何見てるんだよ…」

 

「いや、その頭を覆うタオルの巻き方はどうなっているんだと思ってな」

 

指で弾いたお湯を顔にかけられた。

そのまま並んで湯船につかり、空を見上げる。

綺麗に切り取られた屋根の形のおかげで、高い星空が望める。

無数に煌めく星の中心に、月が出ていた。

 

「…綺麗な月だな」

 

なんとはなしに弦十郎は呟く。

月を周回するリングもあいまり、本当に美しく思えたのだ。

そして直後に後悔した。

月が今の形になったことに、自分は元よりクリスたち装者も関わっている。

それは決して愉快な記憶ではない。

なにより―――どうしても彼女のことを思い出してしまう。

 

「お、おっさん、背中を流してやろうかッ!?」

 

突然クリスは言った。

 

「いや、先ほど洗って入ったばかりだが…」

 

「いいから、ほらッ」

 

半ば強引に促され、弦十郎は洗い場へと追いやられた。

もちろん腰にタオルをしっかりと巻いた格好で、洗い椅子へと腰を降ろす。

背後にそろそろとクリスがやってくる気配。

 

「そ、それじゃあ、洗うぜッ」

 

「うむ。頼むぞ」

 

弱々しい感触が背筋を往復した。正直、むず痒い。

 

「もっと力を込めても大丈夫だぞ?」

 

「そ、そうか」

 

ゴシゴシといった擦り方が、やがてはガシガシへと変わる。

 

「…おっさんの背中、予想以上に広いんだなッ」

 

「なあに、無駄に歳を重ねた結果さ」

 

弦十郎は自嘲した。幾ら背中が広くても、この少女へ果たすべき責任すら背負いきれてないではないか。

 

「…これは」

 

優しい感触が、腰の上をなぞる。

 

「ああ、それか」

 

「フィーネにやられたときの傷、なんだろ?」

 

クリスの言葉に弦十郎は顔をしかめた。痛むのは古傷ではなく過去の記憶だ。

 

「一生の不覚傷だ。この傷を負わなければ、或いは」

 

或いは、月への一撃を防げただろうか。

或いは、フィーネを、櫻井了子を救えただろうか。

 

分厚い背中の中心に、そっと押し付けられたものがある。

クリスの額だった。額の下からくぐもった声がする。

 

「…良かった」

 

「ん?」

 

「おっさんが死ななくて、本当に良かった…」

 

それは、フィーネに腹を突かれた時か、はたまた先日、盲腸で腹を切った時のことか。

一体どちらを指しているのだろう?

 

「おい、クリスくん…」

 

そう尋ねようとして、弦十郎は固まる。

背中に例えようもない柔らかな感触。続いて、心臓の鼓動が伝わってくる。

これは…。

 

まるで時が止まったかに思えた瞬間、ガラガラと勢いよく引き戸の音が鳴り響いた。

続いて、

 

「初めての露天風呂デース!」

 

パタパタという足音を、

 

「駄目だよ、切ちゃん、まずは身体を洗わないと!」

 

という声が追いかけてくる。

 

「わかってるデスよ、調!」

 

足音の主は振り返る途中で、洗い場にいる弦十郎とクリスに気づく。

そしてなぜか置かれていた石鹸を踏んだのは、まったく同時だった。

 

「デェェェェスッ!?」

 

見事な片足滑走を披露して、切歌は湯船の中へダイビング。

盛大な飛沫を上げたあと、浮上。お湯の中で仁王立ちになって叫ぶ。

 

「な、なんでクリス先輩と司令さんがいるんデスかッ!?」

 

「それはこっちの台詞だッ!」

 

タオルで前を覆いながらクリスは怒鳴り返す。

 

「切ちゃん、前、前ッ!」

 

そのうしろで叫ぶ調に、自分を見下ろして切歌は悲鳴を上げる。

 

「ア、アタシのタオルは何処にいったデース!?」

 

前を押さえて湯船の中にしゃがみこむ切歌。

色々と混沌を増す露天風呂に、更に新たな第三者の声が木霊する。

 

「狼狽えるなッ!」

 

たたたたッ、と軽やかな足取りで脱衣所から走り込んできた影は、そのまま洗い場も駆け抜け、空中で綺麗に錐揉み三回転を披露しつつ湯船に着水。

すかさず自身の纏っていたタオルで切歌を包む。

 

「何者だッ!?」

 

思わず弦十郎が誰何の声を上げれば、謎の人物は湯気の中で顔を上げる。

長い髪を翻し、顔にはバタフライの仮面をつけていた。

 

「ふふふ、謎の美女、レディMとはわたしのことよッ!」

 

自信満々に胸を張るレディMに、クリスは背後から弦十郎の眼を手で覆いつつ怒鳴る。

 

「つーかお前もなんて格好してやがるッ!?」

 

「…なにッ!?」

 

指摘され、レディMは自分を見下ろした。

自分の使っていたタオルで切歌を巻いた以上、彼女の裸身を隠すものは何もない。

 

「ううううう狼狽えないッ!」

 

「思い切り狼狽えてるじゃねえかッ!」

 

「問題ないッ。レディMはクールに去るわッ」

 

声を震わせつつ、切歌を抱えたレディMとやらは、湯船の外へと飛び降りて姿を消した。

あとに残された調と、クリスの視線がゆっくりと絡み合う。

 

「…ごゆるりと」

 

そう言ってペコリと頭を下げて調は脱衣所へと戻って行く。

そこでようやくクリスの手から視界を解放された弦十郎は、茫洋と呟くしかない。

 

「レディM…いったい何者なんだ…」

 

「おっさんの眼は節穴かッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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9話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスを伴い、部屋へと戻る。

さすがに色々と空気がとっ散らかされてしまった結果に、クリスはげんなりとしていた。

その様子を苦笑しつつ、弦十郎は内心ではホッとしている。

弦十郎とて木石ではないから、クリスがとある方向へ踏み出そうとしていることを察していた。

それが有耶無耶になったことは正直ありがたい。

 

「さて、そろそろ寝るとするか」

 

部屋の照明をしぼり、クリスにそう声をかけるも返事はない。

 

「クリスくん…?」

 

訝しげな声を出した振り向きざまに、熱く柔らかい塊が胸へと飛び込んでくる。

正面からクリスが抱きついてきた。

とっさに受け止め、身長差で旋毛あたりを見下ろすことになり、彼女の髪が結わえられずそのまま背中に流れていることにドキリとする。

上目使いで見上げてきたクリスの胸元は、帯が解かれ、大きく開かれていた。

落とされた照明の陰影に、押し付けられた白い肌が(なま)めかしく浮かび上がっている。

 

「………」

 

言葉もなくクリスは見つめてくるのみ。

その瞳は、何事かを期待し、何事かを覚悟していた。

それが分かるだけに、弦十郎は膝を曲げ、クリスと視線を合わせた。

丹念に開いた浴衣の胸元を閉じ、帯を締めてやる。

それから静かに視線を切り、弦十郎は言った。

 

「―――すまない」

 

「…ッッッ!!!」

 

クリスが部屋を飛び出していく。

堰を切ったような嗚咽が、開いた扉から遠く響いてくる。

しかし、呼び止めることも追いかけることも出来ずに、弦十郎はただ項垂れるしかなかった。

自失の時間は決して長くはなかっただろう。

クリスを一人にしてはならない、探さなくては、という当たり前の意識が戻ってきて、弦十郎は腰を上げる。

その時、部屋の扉がコンコンとノックされる音。

すわクリスくんか? と視線を向けた先に、浴衣を着たマリア・カデンツァヴナ・イヴが立っていた。

 

「あの子のことなら、調と切歌が見ていてくれてるわ」

 

「!! そうか、良かった…」

 

「またずいぶんと派手に泣かせたみたいね?」

 

「…面目ない」

 

年下であるマリアに対等の口の利き方をされていたが、それに気づけるほどの余裕はなかった。

一つ肩を竦めたマリアは、ずかずかと室内へと入ってくる。

そして窓際に設えられたチェアーセットの前に陣取り、冷蔵庫から氷や酒のボトル、そしてグラスを手際よく並べていく。

 

「取りあえず、こちらに来て座ったらどう?」

 

「しかし」

 

「今の司令に必要なのは話し相手ね。そしてわたしも愚痴くらいなら聞いてあげられるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そもそもどうしておまえたち三人がここにいるんだ…?」

 

そう問いかけ、弦十郎はマリアの入れてくれたウィスキーをストレートで呷る。

強い酒精が胃の腑を焼いたが、それだけだ。酔いが冷えた頭を温めてくれることはない。

 

「まあ、それも今更の質問よね。本部の保安部が機能不全を起こしているから、わたしたちが代わりに護衛を頼まれた。それだけの話」

 

自分のぶんの水割りを作りながら、マリア。

弦十郎の空けたグラスに、わざとらしくグラスをカチンと合わせてから笑う。

 

「翼もずっと寝込んでるから暇だったしね。切歌と調と三人で、ちょっとした旅行みたいな形で堪能させてもらっているわ」

 

「保安部が機能不全だと? なぜだ?」

 

「そんなの、他ならぬ貴方たちが原因じゃない」

 

マリアに呆れ顔で言われてしまった。

そう言われても、弦十郎は釈然としない。

 

「俺とクリスくんと、保安部の不調に、どんな因果関係が存在するというのだ?」

 

「あっきれた。少し前まで組織ぐるみでアイドルをプロデュースしていたのは貴方たちでしょ?」

 

話の流れが良く見えないが、マリアの言うところのアイドルとは、かつてのツヴァイウイングであることは理解できる。

 

「熱狂するファンがいるからこそのアイドルよ。そんなアイドルが急に結婚しました、ってなったら、ファンの心理はどうなると思う?」

 

そういえば、つい先日、友里たちから似たような話を聞いたことがあった。

確かシンフォギア装者は職員にとってのアイドルで、絶大な人気があるとか。

ゆえに、同じように苦笑を返す。

 

「だから結婚とはいえ偽装なのだ。それを真に受けたとしても俺とクリスくんの取り合わせそのものが…」

 

マリアの返答は大きなため息と共に。

 

「聞きしに勝る朴念仁ね。友里さんたちの苦労も分かるわ」

 

「確かにそれは否定できないな。俺自身も不器用だと思う」

 

一転、マリアは不思議そうな顔つきになる。

 

「どうかしたか?」

 

「いえ、貴方がそこまで自己評価が低いなんて思ってなかったから…」

 

「結局のところ、俺は親父の後釜でスライドしてきた世襲に過ぎんよ。ノイズや錬金術師への打倒はおまえたち装者に頼るしかないし、かといっておまえたちの立場を守るための政治的手腕は、遠く兄貴には及ばない」

 

―――そして、惚れた女一人守ることも、救うことも出来なかった。

 

最後に心の中で付け足し、自嘲する。

 

「こんな司令の本音が聞けるなんて、本当、珍しいこと」

 

マリアはにっこりとする

 

「すまんな。益体もない話を」

 

「安心して。わたしはお酒を飲むと、聞いた話は全て忘れちゃう体質だから」

 

マリアは二つのグラスに再度ウイスキーを注いでいく。

 

「だから、胸のうちに溜まったものは、全て吐き出しちゃいなさいよ」

 

一回りは年下のマリアの台詞に、かつての彼女の姿を重ねてしまったのは錯覚だったろうか。

幻影を振り切るように弦十郎は二杯目のウイスキーを呷る。

苦い。酒の味がしない。

だけど、傷痕が疼いた。かつてフィーネに傷つけられた箇所が。ついさっきクリスに指でなぞられたところが。

 

「…良かれと思ってしていることが、あそこまでクリスくんを追い詰めてしまうとはな」

 

「だいたいは察しがつくけれど、あの子に迫られたけれど、拒否したんでしょ?」

 

「無論だ」

 

弦十郎は大真面目に頷く。

 

「今回の発端は聞いているか? 英国の揺さぶりに対する偽装工作なのだぞ? なのに、俺に身体を(ひさ)ぐなど…」

 

結婚しているという体裁を整えるだけで良かったのだ。何も正真正銘の夫婦のように結ばれる必要はない。

しかし、新婚旅行ということで連れ出したことが、おそらくクリスの思考を短絡させたのだろう。

結果として、実際に身体も結ばれなければならないと錯覚させてしまった。

いかに米英といえど、中世の頃ならいざ知らず、初夜の確認まではしないだろうに…。

 

そう自説を述べると、マリアが軽く視線と人差し指を中空に彷徨わせてから言った。

 

「でも、日本には、据え膳喰わぬは男の恥って言葉もあるでしょう?」

 

弦十郎は声を荒げる。

 

「結婚したとはいえ、嫁入り前の娘を傷物に出来るものかよッ!」

 

「………」

 

グラス片手でマリアが固まっている。

 

「…どうした?」

 

「ううん、わたしの日本語のヒアリング能力がおかしくなったかと思ったけど、そんなことはなかったわ」

 

「何を言っているのかさっぱり分からん」

 

弦十郎は手酌でウイスキーを注ぐ。

マリアは自分のグラスを両手の平で転がしている。

 

「司令があの子のこと大事にしている気持ちはわかったわ。けれど…」

 

「けれど、なんだ?」

 

「そこにあの子の気持ちは斟酌されているのかしら?」

 

「…クリスくんの気持ち、だと?」

 

グラスを空け、弦十郎はハッと笑い飛ばす。三杯目にしてようやく酒臭い呼気が出た。

 

「こんなおっさんが相手なんだ。内心では辟易していることだろうよ」

 

マリアは深く溜息をつき、

 

「意外と面倒臭い人。でも嫌いじゃないわ」

 

たん、と空のグラスが卓上へと置き、立ち上がっている。

 

「そして、あの子の気持ちを、わたしが代弁するのも筋が違うしね」

 

「…行くのか」

 

「ええ。でも最後にアドバイス。どちらにしろ、あの子の女としてのプライドはボロボロよ? 今晩は面倒を見てあげるけど、フォローするなら出来るだけ早くした方がいいわね。色々と手遅れになる前に―――」

 

そう言い置いて、マリアは風のような足取りで姿を消した。

からん、と空のグラスの氷が音を立てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めたら朝だった。

身体を起こすとミリミリと音が出る。

珍しく軽い頭痛がする。

目の前のテーブルにはウイスキーの空き瓶。

どうやら窓際の椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。

室内を見回す。

クリスはやはり戻ってきていないようだった。

とりあえず、あの三人が様子を見てくれているようだから、身柄は安全だろう。

そこまで考えて、マリアたちがどこの部屋に泊まっているかを聞くのを忘れていたことを思い出す。

失態だった。

それでも調べる手はいくらでもある。早くクリスを迎えにいかねば。

しかし、迎えに行ったとて、なんと声をかければいいのだろう?

早くしなければと焦燥感が募る一方、まるで頭は働いてくれない。

 

「風呂でも入るか…」

 

せっかく温泉に来たのだ。熱い湯に入ればいい考えが浮かぶかも知れぬ。

湯を浴びて目を覚まし、残った酒精を抜く。

さっぱりして暖簾をくぐれば、ちょうど女湯の暖簾も開き、なんとクリスと切歌に調も出てくるところ。

 

「あ…」

 

切歌が気づき声を上げた。

つられてクリスは弦十郎と視線を合わせ、すぐにぷいと横を向いてしまう。

 

「さあて、朝飯でも食おうぜッ」

 

そう言って切歌と調を引き連れて歩いて行く彼女に、まったく取りつく島もない。

弦十郎は黙って見送った。

追いかけて引き留める気が、なぜか沸いてこなかった。

それは果たしてどのような後ろめたさによるものなのか。

自分でも良く分からぬ。食欲もまるでない。

とぼとぼと部屋に戻り、浴衣から着替える。

気づいたときは、温泉街をそぞろ歩くクリスら三人を尾行していた。

過去の職歴から尾行術は心得ている。生半な素人には気づかれないはずだった。

 

「…こんなとこで何やっているのかしら?」

 

背後から声をかけられ振り返ると、バタフライマスクをつけた女性が立っている。

 

「…レディM」

 

「あ、ごめんなさい、マスク付けっぱなしだったわ」

 

「なんと!? マリアくんだったのかッ!」

 

「…本気で言っているの、この人?」

 

ごほん、とマリアは咳払い。

 

「ひょっとして護衛のつもり? それならわたしがしているから、司令は早くあの子と話をつけてきたら?」

 

「う、うむ」

 

頷きはしたものの、弦十郎はふん切れない。

むしろ調たちと楽しそうに買い物や食事をしているクリスを見ると、そのまま放っておいて方がいいのではと思う。

いや、ダメだ。

やはりきちんと話をしなければなるまい。

だが、しかし…。

どうにも考えがまとまってくれない。

こんな思考がままならぬことなど初めてだ。

 

いつの間にか時刻は早くもお昼過ぎ。

さすがに空腹を覚え、弦十郎も食事を摂ることにした。

財布を探しジャケットの内ポケットへと手を入れたとき、指先に固い感触。

ポケットからそれを取り出し、掌の上に置いた。

この小箱を購入したときにまつわる記憶が、どういうわけか弦十郎を落ち着かせてくれた。

 

…そうだな。大人らしくケジメをつけなければなるまい。

 

そう決めたものの、なかなかクリスは一人にならず、時間が無駄に過ぎていく。

結局弦十郎が声をかけられたのは、空が橙色に染まる頃。

切歌と調が隣にいたままだが、もはや頓着している余裕はなかった。

 

「クリスくん、大事な話があるのだが」

 

「………」

 

「クリスくんッ!」

 

完全無視を決め込むクリスに、弦十郎は強硬策に打って出る。

 

「すまんッ!」

 

言うが早いが、強引にクリスの身体を掬い上げる。

 

「ッ! 何すんだよ、離せッ!」

 

手足を振り回し、引っ掻き、噛みつき、まるで猫のようにクリスは盛大に暴れた。

しかし弦十郎は決して逃さず、クリスを抱えたまま跳躍。

それを繰り返し、人気のない高台まで運んだところで、ようやくクリスを解放する。

 

「くッ!」

 

解放するなり、距離を取られた。

警戒も露わに、クリスはきつい眼差しのまま睨んでくる。

 

「…なんだよ。また土下座でもするつもりか?」

 

皮肉たっぷりに言って、ふんと鼻を鳴らすクリス。

(なじ)られるのも罵倒されるのも覚悟はしていたが、それでも弦十郎は謝るしかなかった。

 

「クリスくん、昨晩は済まなかった。おまえの覚悟は理解していて、その上で受け止められなかったのは本当に申し訳なく思う」

 

クリスの睨んでくる目つきはそのままに、瞳が涙で潤む。

マリアが言うところの女のプライドを傷つけたのは、他ならぬ弦十郎自身だ。

とっさに慰めの言葉を放とうとして思いとどまり、心の中で噛み殺す。

ここからが正念場だ。本当に言うべきことを前に、余計な言葉を重ねてはならない。

軽く息を吸い込み、丹田へと力を込める。

 

「俺は、心の底からおまえを大切に思っている。これは天地神明にかけて本当だ」

 

「………」

 

「その上で頼みたい。おまえはまだ17歳だ。だからせめて18歳まで、出来れば学院を卒業するまで、時間をもらえないだろうか?」

 

いかにも相手を思いやっているような言葉の裏で、18歳になったらクリスの覚悟を受け入れるという言質は与えていない。

むしろ画策しているのは、クリスが18になるまでの猶予を経て、その間に諸々の事情にケリとつけるというもの。

真実、欺瞞、展望、願望。

いかな気持ちを込め、並べるだけ並べたところで、つまるところは詭弁だ。問題を先送りしているだけに過ぎない。

そのことを承知して口したからこそ、弦十郎自身の良心が音を立てて軋んでいる。

そもそも本来なら逆で、猶予を乞うべきはクリスの方だろうに。

 

「…そんなの、大人の都合じゃねえかッ!!」

 

クリスに一言で切って捨てられる。

まさしくその通りなだけに、言葉に詰まる。

 

「だいたいそんな約束をしたってな、反故にしないって保証はどこにあるんだよッ!?」

 

涙声で叫ぶその背中にクリスの過去を見た。

かつて、大人に裏切られ続けた彼女。大人を信用できず、差し伸べられた手を取れなくなった少女――。

彼女の激情に、言葉では抗えない。

ゆえに、あの時と同じく、弦十郎は行動で示すしかなかった。

 

「ならば、これをその約束の証しとしよう」

 

「なんだよ、それはッ」

 

差し出された箱をひったくるように受け取り、蓋を開けて―――クリスは固まった。

 

「…これは」

 

「一応、俺の給料三か月分になっている」

 

箱の中身は輝く指輪。

台座には、やや大振りのサファイヤが青い光を投げかけている。

 

「おっさん…」

 

クリスの唇が戦慄(わなな)く。

 

「まあ、本来なら結婚する前に渡すべきものだったが…」

 

ぽりぽりと頬を掻いていると、青ざめたクリスの視線が忙しく自分の顔と指輪を往復しているのが分かる。

 

「でも、なんで、こんなの…」

 

「もともと、この旅行中に渡すつもりで用意していたんだぞ?」

 

「………」

 

クリスから放たれていた猛々しい感情が霧散していく。

束の間の自失の空隙を埋めるように流れこんできたものは、きっと戸惑いだろう。

それら様々な感情が嵐のように過ぎ去ったあとに残ったのは、喜びを必死で抑え込もうとする全く年頃の少女が一人きり。

 

ともあれば綻びそうな頬を無理やり引き締め、しばらく指輪を見つめたあと。

クリスはこちらに向けて箱ごと渡してきた。

突き返されたと思い慌てる弦十郎に、すっと左手を突きだしてくる。

 

「ん」

 

「? なんだ?」

 

「いや、だから…嵌めてくれよ」

 

「あ、ああ、そうか」

 

箱を受け取り、指輪を摘まむ。

伸ばされたクリスの左手を掴み、薬指にゆっくりと指輪を通して―――。

 

「なんだよ、これ。緩いじゃねぇかッ!」

 

クリスが声を荒げる。

だがそれは、決して怒っている風ではなかった。

むしろ彼女の表情は笑っていた。

涙を浮かべて笑っていた。

 

「す、すまないッ。調整するので一旦返してくれ」

 

だが、クリスはサイズの合わない指輪ごと右手で左手を包み込む。

 

「いいよ。このままで」

 

「そうか?」

 

「うん、これでいいよ…」

 

いつの間にか日は沈み、冷たい夜風が周囲を漂っている。

薄闇に浮かぶクリスの顔はこの上なく柔和で、今まで見たことがないほど大人びていた。

そんな彼女に弦十郎は何か声をかけようとして―――結局何も言えなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どういうわけか、その晩もクリスはマリアたちの部屋に泊まったらしい。

指輪を渡したときの感触は悪くなかっただけに不安に思う弦十郎だったが、翌日の早朝からクリスは上機嫌だった。

 

「おら、起きろ、おっさん! 飯に行くぞッ!」

 

朝食バイキングは動けなくなるほどまでたらふく食べ、

 

「せっかくだから全部の温泉を制覇するぜッ!」

 

「しかし、あれは子宝の湯だが」

 

「…構うもんかッ! ついでだッ、ついでッ!」

 

チェックアウトギリギリまで温泉を堪能。

そしてホテルを出た後は、帰りの電車時間までお土産選びに余念がない。

 

「あのバカには饅頭でいいとして、あの子にはキーホルダーかなー。これ、どっちがいいと思う?」

 

いちいち引っ張りまわされる弦十郎だったが、決して不快ではなかった。

はしゃぎ疲れたのか、帰りの新幹線に乗り込んで席に座った途端、クリスは爆睡。

隣の弦十郎の腕を掴んだまま、寝顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

彼女の左手には、昨夜贈った指輪が輝いていた。

 

「あらあら、全く気持ちよさそうに寝こけちゃって…」

 

後ろの座席からひょいとマリアが顔を出す。

ついでに、つんつんと眠るクリスの頬を突いた。

通路からは切歌と調がやってきて、同じようにクリスの寝顔を覗き込んでいる。

 

「一晩中ノロケ話を聞かされる方の身にもなって欲しいデース…」

 

厚ぼったい目で恨みがましそうに睨みながら切歌。

 

「一昨日はアンチLiNKERを打たれたみたいだったのに、夕べはまるでXD(エクスドライブ)モード…」

 

トロンとした目をしきりに擦りながら調。

 

「よ、よく分からんが、ありがとう三人とも。おかげで色々と助かったぞ」

 

弦十郎が礼を述べると、三人組は欠伸をしながら隣の車両へと戻っていく。

静かになった車内で、弦十郎は傍らのクリスを優しく見やった。

それから贈った指輪が嵌められた薬指を見る。

サイズの不適合を、絆創膏を巻いて補っているところが可愛らしい。

 

弦十郎は座席にもたれた。

この二泊三日の旅行に対しての思いを馳せる。

何はともあれ、夫婦としての危機は乗り越えられたようだ。

最後の切り札となったのは、やはりあの指輪だろう。

 

…俗に、サファイアの宝石言葉は「慈愛」「誠実」「忠実」「真実」「徳望」だという。

今回は、いずれの霊験が作用した結果だろうか?

 

不確かな神秘へと感謝を捧げると同時に、弦十郎は、自分の中の過去へも目を細めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本来、君に贈るはずだったものだが、こうやって再び日の目を見たんだ。

これでいいだろう? なあ、了子くん―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この弦さんは自分から爆弾を仕込みに行くタイプ。



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10話

夫婦の決め事その1

 

「無闇やたらにあたしの頭を撫でるのは禁止だッ!」

 

「ふむ。ではどこを撫でればいいのだ?」

 

「~~ッ!! そーゆーコトじゃねえッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「~♪ ~♪」

 

鼻歌を唄いながらクリスがリビングのカーペットにクリーナーを転がしている。

先日ハウスキーパーに掃除してもらったのだから、そんなに念入りに掃除しなくていいのにと弦十郎は思う。

率直にそう言ってみたところ、

 

「そんなんわかっているよ。でも、そういう心構えが大事だろ?」

 

などと言う。

それがクリスの言うところの『おもてなしの心』らしい。

まあ、正論ではあるかも知れぬ。

沈黙する弦十郎を、クリスはしっしと手で払う。

 

「おっさんは邪魔だからあっちで待っててくれ」

 

せっせと掃除するクリスの姿は実に甲斐甲斐しい。

しかし、そんな邪険にせんでも。一応、俺が家主なのだがな。

そんな風に弦十郎が考えていると、クリスはくるりと振り向いた。

 

「あー、そういや例のハウスキーパーだけど、もう来てもらわなくてもいいんじゃ?」

 

「なぜだ?」

 

「なぜって、あたしが掃除しているんだから、人を雇うのは無駄だろ?」

 

偽装結婚なのに、そんなおさんどんの真似はしなくていいぞ。

そう言いかけて弦十郎は止めた。

どうせクリスのことだ。そう告げたところで、同居の恩義だなんだといって主張を譲ることはないだろう。

 

「さあて、これで終わりっと」

 

掃除を終えてクリスは額の汗を拭った。

腕まくりした袖を降ろし、それからなんとも困惑したような声音でぼやく。

 

「しっかし、先輩が折り入って挨拶に来たいってなあ…」

 

風鳴翼が、弦十郎宅に結婚祝いに行きたいと先触れの連絡を寄越したのが三日前。

 

「まあ身内だからな」

 

結果として、翼に対する結婚の報告が一番最後になってしまった。

ゆえに彼女が卒倒し寝込んでしまったわけだが、その理由は弦十郎も良く分からない。

 

「そうだよな、先輩とも身内になったんだよなあ…」

 

しみじみ言うクリス。

いわば親族の関係となってしまったことに、弦十郎は特に何も心配していない。

翼とクリスは共に戦ってきた仲間である。

その紐帯は、そこいらの家族などより、よほど深いだろう。

しかし今、一つ懸念があるとすれば、翼の訪問を予告する連絡の直後、マリアより送られてきたメールである。

 

『翼はようやく復調したのだから、くれぐれも強いショックを与えないように』

 

長ったらしい文面の内容を要約するとこれだった。

 

「ショックを与えるなっても、何をどうすりゃいいんだ?」

 

クリスはバリバリと頭を掻いている。

意味が良く分からないのは弦十郎も同じだった。

それでもクリスが持て成しのお茶や菓子を用意して、時刻はちょうど来訪予告の五分前。

訪問を告げるインタホーンが鳴る。

 

「…お、お邪魔しますッ」

 

「おう、翼。良く来たな」

 

弦十郎は鷹揚に手を挙げてみせるが、翼の反応は鈍い。

普段の風鳴翼を知る人間にとっては珍しいことに、彼女は緊張しているよう。

 

「よう。先輩、久しぶり」

 

クリスも軽く頭を下げて挨拶。

 

「う、うむ。雪音も息災そうだなッ!」

 

語尾が甲高く上がっている。

 

「まあ、立ち話もなんだ。さっそく中に入ってくれ」

 

弦十郎が促すと、大きな包みを抱えた翼はおっかなびっくり室内へと入ってきた。

リビングへ案内し、座布団を勧める。

座った翼は、周囲を見回して言う。

 

「こ、ここが叔父上と雪音の愛の巣か…」

 

豪快にサマーソルトキックのように足を滑らせるクリスを、弦十郎が受け止める。

 

「何口走ってんだよ、アンタは!?」

 

「…すまない。私も叔父上の自宅を訪ねるのは初めてで…」

 

まるで答えになっていない。

クリスは肩を竦めると、キッチンへと消えた。

弦十郎は翼の前に胡坐をかいて座り込む。

 

「そういえば、おまえを家に呼ぶのは初めてだな」

 

「ええ…」

 

「普段は歌手活動も忙しいからな」

 

弦十郎は破顔した。

我が姪ながら、彼女の活躍は見事の一言に尽きる。

防人の活動に加え、芸能活動こそ風鳴一族としては表立って誇れないが、弦十郎としては自慢の身内だ。

実はこっそりと彼女名義のCDはコンプリートしていたりする。

かちゃかちゃと音を立て、クリスがお茶セットをお盆に載せてやってくる。

急須から湯呑に注がれるのは緑茶で、淹れるクリスの手並みも見事である。

なのにどうして食事はあれだけ下手なのだろう?

そんなことを考えている間に、クリスは淹れたお茶を翼に勧めている。

 

「…粗茶ですが」

 

「お気遣いありがたく」

 

「よければお菓子もどうぞ」

 

「ありがとうございます、頂きます…」

 

なんともぎこちないやりとりをする二人を眺め、弦十郎は無責任に思った。

なんか見合いみたいだな。

 

「御馳走様でした」

 

お茶を飲み干し、翼は居住まいをただす。

それから手をついて頭を下げてきた。

 

「このたびは、ご結婚おめでとうございます」

 

「ご、ご丁寧な挨拶、痛み入ります…」

 

弦十郎そっちのけで応じるクリス。

 

「これは、つまらない品ですが…」

 

翼が例の大きな包みを押し出してくる。

 

「わざわざ、御心遣い、ありがとうございます」

 

そう言って受け取ったものの、クリスが困惑した眼差しで見てくる。

今開けていいものかどうか迷っているようだ。

弦十郎が頷くと、クリスは丁寧に包み紙を開けた。

そして、中から出てきた分厚い板のようなものを見て歓声を―――上げずに戸惑っている。

 

「ほう。これは見事な将棋盤だなッ!」

 

「国産本榧製の逸品です」

 

翼が慎ましやかに胸を張る。

 

「併せて駒も用意しました。将棋は戦略勘を鍛える上でも実に興味深い遊戯ですので…」

 

弦十郎は嬉しそうに頷いて見せた。

我が姪ながら、実に良い趣味をしている。

横でクリスがなんとも微妙すぎる表情を浮かべているように見えたが、きっと気のせいだろう。

 

「素晴らしい祝いをもらってしまったな。是非使わせてもらおう」

 

「実はマリアもなかなかの指し手でして」

 

話が盛り上がりかけたところに、クリスが割って入ってきた。

 

「先輩、これ、この間の旅行の土産だッ!」

 

「あ、ありがとう、雪音…」

 

渡された温泉饅頭の箱を、どこかぼんやりと抱えていた翼だったが、やがて思いついたように顔を上げる。

 

「しかし…叔父上と結婚して身内となったというのに、雪音と呼ぶのはおかしいのではないかな?」

 

「それを言うなら…あたしも先輩を先輩って呼ぶのは、おかしいのか…?」

 

二人して、どういうわけか弦十郎を見てきた。

 

「む?」

 

弦十郎が微動だにしないと、二人は再び視線を絡めあい、そして、

 

「…そ、その、クリス?」

 

「え、と…翼、さん…?」

 

「…………」

 

「…………」

 

顔を見合わせての沈黙。

だが、間もなくクリスの方から爆発。

 

「だーッ! ダメだ! 背中が痒い! 痒すぎるッ!」

 

「…実は私もおも歯がゆくてたまらないぞ」

 

「止めよう! 先輩!」

 

「そうだな、やはり雪音と呼んだ方が座りが良い」

 

互いにコクコクと頷きあう様子を見て、弦十郎は朗らかに言った。

 

「二人とも死線を潜り抜けてきた真の仲間だからな。きっと魂の深い所でお互いを理解しているのだろう。しょせん名前の呼び方など些末なものだということだッ!」

 

「いや、おっさん、綺麗にまとめようとしてるけど、これはそーゆーコトじゃねーから」

 

クリスが呆れ顔で言い返してくる。

 

「しかし、雪音。結婚した伴侶を、おっさん呼ばわりというのもどうかと思うぞ?」

 

「やべえ、藪蛇だったか」

 

クリスは舌を出したあと、腕を組む。

 

「でも、おっさんはおっさんだしなー。他に呼び方なんて…」

 

「あなた、とか呼ぶのが普通ではないのか?」

 

翼の指摘に、クリスはちらりと弦十郎を見た。

頬を染め、唇を震わせながら、

 

「あ、あ、あな…………が~ッ! やっぱりダメだッ!」

 

頭を抱えて悶絶している。

まるで海老のように反っているクリスは、見た目としては面白い。

そんな風に当座の自分の伴侶を見ていた弦十郎だが、翼が膝を変えて向き合ってきた。

 

「叔父上、その、大変口幅ったいのですが、お爺様からは今回の結婚に関してはなんと…?」

 

「…一応、祝福されているぞ」

 

弦十郎は答えつつ、自分でも機嫌が急激に悪化していることが分かる。

翼は更に探るように問うて来た。

 

「よもや、早く子供を作れなどと言われませんでしたか?」

 

「………」

 

弦十郎は沈黙する。

その表情から察したのだろう。翼は溜息をついて俯いた。

しかし毅然と顔を上げると、

 

「叔父上。雪音は、私にとっては信に足る仲間であり、可愛い後輩であり、親しい友人でもあります。その上で、どうか彼女の心を無碍にして下さいますな」

 

「む?」

 

「我ら防人は国防の要です。次世代を育むも、なるほど防人の務めと相成りましょう。しかしながら雪音はまだ学生の身。学び舎で友と過ごす時間は、何物にも代えがたい貴重なもの…」

 

なんとも持って回った言い回しに、弦十郎は眉顰めて耳を傾ける。

ちらりと傍らの温泉饅頭の箱を見てから、翼は意を決したような表情で続けた。

 

「このたびは、新婚旅行に行っていたと伺いました。…そ、その、夫婦という係りであれば、そ、その、情交を交わすのは当然でしょう。しかし…!!」

 

ようやく、弦十郎は翼が言わんとすることを理解する。

彼女の心を砕くところは、クリスが身籠ることに対する懸念に違いない。

風鳴赴堂の思惑や、確かに夫婦間の情動もあろう。

だが、まだ若いクリスの意志を汲んでやってくれ。彼女に青春を謳歌させてやってくれ。

仲間として、先輩として、友人として、風鳴翼なりに不器用にそう訴えているのだ。

…なるほど、この不器用さ、俺とお前は間違いなく血縁だな。

翼を見やり、弦十郎は率直に答えることにする。

 

「安心しろ。クリスくんはまだ生娘だぞ」

 

分厚い将棋盤で頭を殴られた。

 

「はっはっは、クリスくん、痛い痛い」

 

「夫婦間の秘密をペラペラ語ってんじゃねぇええええッ!!」

 

「なるほど、これは夫婦間の秘密に属するものか。うむ、覚えたぞ」

 

「…いいからもう黙ってろ、この唐変木ッ!」

 

弦十郎を睨み倒して、クリスは翼に向かいあう。双方とも顔は真っ赤だ。

 

「せ、先輩、勘違いすんなよッ? あたしが18になって学校を卒業するまで、お預けを喰わせてるだけなんだからなッ!」

 

お預けを喰わせたのはむしろこっちなんだが。弦十郎はそう思ったが、言われたとおり黙っていることにする。

 

「う、うむ。しかし、この間読んだティーン雑誌では、高校生の実に4割近くが体験済みだと…」

 

顔を赤く染めたままごにょごにょという翼に、クリスは大きなため息をついた。

 

「あんな無責任な雑誌の統計なんか信用するなよ。だいたい、それなら先輩もそうだったのか?」

 

「ぐっ」

 

「それに、先輩は来年には二十歳だろ? ティーン雑誌なんか卒業しろよ」

 

「むぐっ」

 

「そもそも余所様の夫婦生活に首を突っ込もうってのがおかしかねえ?」

 

「むぐぐぐ…ッ!」

 

まさしくぐうの音も出ず黙り込む翼に、最後にクリスが口にした台詞は、決して悪意に基づくものではない。

 

「…つーか先輩って、あんがいむっつり助平ってヤツな」

 

「ぐはッ!?」

 

正座のまま、翼は床に突っ伏した。

しばらくそうしていたが、やおら立ち上がると、

 

「…帰ります。お邪魔いたしました」

 

ふらふらと玄関へと向かう。

 

「お、おう。先輩、またな」

 

クリスの声に返事すらせず、翼は辞して行く。

 

「どこか具合でも悪くなったのかも知れんな」

 

弦十郎は首を捻りながら姪の後ろ姿を見送った。

まるでその背中が幽鬼じみて見えたのは事実である。

 

 

 

 

 

そしてその日の夜。

マリアから怒りの電話が着信。

 

 

 

 

『翼ったらまた寝込んじゃったんだけど! あなたたち、一体何をしたのッ!?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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11話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒塗りのリムジンを降り、弦十郎はその建物を見上げた。

左右相称(シンメトリー)のルネッサンス建築。

優雅な庭に囲まれたここは、半蔵門にある、駐日英国大使館である。

軽く溜息をついて振り返れば、車からクリスが降りてくるところ。

今日の彼女は赤いアンサンブルに同色の膝丈のスカート。ベージュのストッキングに、7cmもヒールのあるパンプスを履いていた。髪型もいつものリボンはなく、シンプルにストレートに背中へ流している。

 

「大丈夫か、クリスくん」

 

手を貸しながら弦十郎は尋ねる。

 

「へっ、その台詞はまだ早いだろ?」

 

不敵にクリスは口紅の引かれた唇を歪めて見せた。

なるほど、まったくその通りだと弦十郎も同意する。

これから一緒に赴く先では、二人きりの孤立無援。

銃弾こそ飛び交わないが、一つの戦場であると心得ている。

翼ではないが、弦十郎も防人として常在戦場の心構えであるから、臆することはない。

ただ、懸念があるとすれば、やはり同伴しているクリスのことに尽きる。

 

「…なんだよ、入る前から景気の悪い顔しなさんなって」

 

心配が顔に出ていたらしい。クリスに二の腕あたりを軽く叩かれる。

そうだな、俺が不安がっていてどうする。

気を取り直し、弦十郎は腕を曲げて腰に付ける。

 

「よし、行くかッ」

 

クリスはニコリとしたあと、弦十郎の腕に己の腕をからめてきた。

体格差から、まるでクリスがぶらさがっているように見えたかも知れぬ。

傍目には凸凹のような様相を呈する二人の前に、古風な鉄門が音を立てて開いて行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話は数日前にさかのぼる。

 

 

 

 

 

 

「駐日英国大使館でレセプション・パーティーだとッ!?」

 

叫ぶ弦十郎に、モニター向こうの風鳴八紘は煩わしげに眉を顰めて見せた。

 

『予め想定されていたことだろう。そう声を荒げるな』

 

「う、うむ。しかし…」

 

弦十郎は呻く。

英国大使の誕生日を祝う内輪のパーティーに、S.O.N.G.司令を招く。

過日のパヴァリア光明結社との戦いにおいて、国際組織S.O.N.G.に尽力してもらったと英政府に称されている以上、招待されても何も不自然ではないだろう。

だが、その招待の一文に、夫婦同伴と記されていたことに、その意味を勘繰らずにはいられない。

 

『要は、英国(むこう)もおまえたちが夫婦になったとの情報の真贋を見極めたいのだろう。もしくは…』

 

「ただの嫌がらせか」

 

兄の言葉を弦十郎は引き継いだ。

英国は知的(アカデミック)かつ大胆に嫌がらせをしてくるイメージがある。

そんな偏見はさておき、弦十郎の内心を真っ先に曇らせたのは、やはりクリスのことだった。

夫婦同伴だというのにクリスを伴わなければ、英国の思惑を肯定することになる。

かといって断る適当な理由も見当たらぬ。

 

「あたしのことなら大丈夫だぜッ」

 

傍らから、声。

すぐそばで一緒にモニターを見ていたクリスが快活に応じた。

 

「こういう事態になるかもって覚悟を決めてたし、そもそもあたしの親戚が発端だしなッ」

 

「だが…」

 

「水臭いぜ、おっさん。これは()()()()()の問題なんだろう?」

 

そういってこちらの胸板を叩いてくるクリスは非常に頼もしい。

頼もしい反面、負担を強いているという忸怩たる気分が弦十郎を侵している。

ゆえに、続きの言葉を言いあぐねてしまったが、結局、意を決して言った。

 

「レセプションの件なのだが、まずディナーで間違いないだろう。そうなると、テーブルマナーは必須なのだが…?」

 

「あ…」

 

クリスは硬直する。

 

「それと、雪音さんも英語は話せるでしょうけど、少しクセを直した方がいいでしょうね」

 

横から友里も言ってくる。

 

「ぐ…」

 

あからさまにクリスの顔が引きつる。

弦十郎も心配そうに見守る中、あくまで彼女は胸を張って言った。

 

「へッ、それくらいなんとでもして見せるぜッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから一週間後の今日。

学校も休まず、秘密特訓へと邁進したクリスであったが、その顔色は窺えない。

なぜなら、弦十郎もかつて見たこともないほど、クリスの顔には優雅な化粧が施してあるからだ。

口紅も去ることながら、軽く入れられたアイシャドーなども相まって、実年齢よりはるかに大人びて見える。

 

「いやはや、女は化けるとは本当なのだな…」

 

「ん? なんかいったか?」

 

それでいて口調はいつも通りなことに、ある意味救われていた。

本日のコーディネートは、S.O.N.G.女性陣と外部から秘密裏に召喚したコーディネーターの産物である。

弦十郎はいつもの格好にジャケットを纏っただけだが、クリスに関しては女性職員全員で『傑作』と太鼓判を押してくれていた。

 

「とりあえず、受け答えは極力俺が引き受けるからな。何も心配しないで良い」

 

今日のパーティへ向けてのクリスの努力を否定するわけではないが、出来るだけ矢面には立たせるつもりはない。

 

「頼りにしてるぜ」

 

そう微笑むクリスに心が痛む。

テーブルマナーもともかく、一度身に着いた英語の発音を矯正するのはなかなか難儀なことだ。

加えて、ある程度のお上品な語彙や言い回しも覚える必要もある。

ここ数日、クリスがヘッドホンを着けっぱなしで発音の練習と単語の習得に邁進している姿を見ているだけに、弦十郎は申し訳なさに胸がいっぱいになる。

反して、今日の招待に対して怒りを覚えずにはいられなかった。

もっともいくら腹だたしくても、政治という実体のないものに対し拳をぶつけるわけにはいかなかったが。

 

「これはこれは、ようこそいらっしゃいました」

 

現駐日本国英国大使が直々に弦十郎らを出迎えた。

 

「本日はお招き頂き光栄です」

 

意識したクイーンズ・イングリッシュを用い、弦十郎は握手を交わす。

それからすぐ隣のクリスを紹介。

 

「こちらが(ワイフ)です」

 

「クリスです。初めまして」

 

クリスも大使と握手を交わしている。

 

「いや、結婚されたとは伺っていましたが、何とも可愛らしい(キュートな)奥さんですね」

 

「恐縮です」

 

この場合の可愛らしいという表現には、多少の揶揄が込められている。

それを理解しているからこそクリスは取り合わずに微笑んで見せた。

この程度の応酬は挨拶とばかりに、大使は手を打ち鳴らす。

 

「では、会場にご案内しましょう」

 

 

 

 

 

 

 

「…おい、おっさん。テーブルマナーがどうしたって?」

 

ノンアルコールのドリンクが入ったグラスを片手にクリスが言う。

穏やかな笑顔と口調に反し、目は全く笑っていない。

 

「あ、うむ。これはこれで…」

 

案内された会場の大きなテーブルには、大小様々な料理が供されていた。

いわゆる立食式のビュッフェ・ディナーである。

笑顔のままのクリスに、パンプスの踵で靴の甲を踏まれた。

痛みを表情に出さないまま弦十郎は思う。

この程度なら、夫婦がじゃれているように見られるか…?

そんな風に弦十郎が周囲に気を払っていると、大使が壇上へと登っている。

お決まりの挨拶に、祝賀の乾杯。

大使に祝いを述べようと人々が取り巻く。

あとは招待客は三々五々に散り、それぞれが料理に舌鼓を打ったり、会話に華を咲かせている。

さっさと儀礼的に挨拶を済ませた弦十郎とクリスも、他の客の動向に準じた。

とりあえず適当に料理を取ってきて手渡すと、クリスは手際よくフォークを操り、小さく唇を動かしてなんとも上品に食べて見せた。

その様子に、やはりテーブルマナーを習った甲斐があったではないか、と声をかけるほど、弦十郎は命知らずではない。

ともあれ、二人して会場内を漂っていると、

 

「あらあらお若いレディがいらっしゃること」

 

恰幅の良いご婦人たちが集団でクリスの元へとやって来た。

皆、本日の招待客の奥方だという。

 

「俺の(ワイフ)です」

 

繰り返し弦十郎がそう説明したあとは、あらあらまあまあというご婦人方に囲まれ、クリスの傍から追い出されてしまった。

クリスが助けを求めるような目で見てきたが、礼儀上、弦十郎もさすがに割って入るわけには行かぬ。

自身が矢面に立つと宣言した手前、朝令暮改も甚だしいがどうしようもなかった。

許せ、クリスくん。

心の中でそう詫びて、弦十郎は男性の招待客へと向き合う。

いちいち握手を交わしながらの自己紹介。

全員がそれなりの肩書を持っているようだが、大半が偽装だろう。

これはS.O.N.G.の調査部の仕事の成果で、皆が皆一般人の招待客を装っているが、ほとんどが英政府の関係者だ。

そして大使館内は治外法権であり、S.O.N.G.の工作員の手も及ばない。

車から降り立ったときに思った通り、この場では弦十郎とクリスに対し味方は存在しないことになる。

 

「しかし、まあ、なんとも急なご結婚だったようで」

 

「話に聞けば、奥方はまだハイスクール生だとか」

 

「なんと! 日本の規制は色々と緩いようですなあ」

 

馴れ馴れしくも口ぐちに言ってくる英国紳士たち。

時として、政治的な意図を秘めた会話は笑劇じみたものになる。芝居がかった物言いなど、まさに典型だろう。

ゆえに弦十郎は笑顔のまま応じる。

この程度の軽口で動ずるような胆力を持ち合わせていない。

むしろ彼らの会話の内容が嫌味に傾倒していることを感じてほくそ笑む。

英政府として打つ手がない証拠だ。

 

「まあ、惚れた弱みということで」

 

「結婚したまま学校に通わせて、苦労をかけていると思っています」

 

「そろそろ日本でも民法を改正するという議論が行われるようですよ」

 

いちいち丁寧に弦十郎が応じると、相手は鼻白んだ。

それでも向こうも表情を崩すことはない。

なるほど、これも一種のスティッフ・アッパー・リップというやつだろうか?

弦十郎がそんなことを考えていると、英国紳士たちは口髭をこよりながら唇を斜めに歪めた。

 

「しかし、身よりのない子供にどこまで自己判断が出来たか、疑問が残りますなあ。いや、何の話かは分かりませんが」

 

「幼い子供を自分好みに育て、無理やりに摘み取る。ある意味男子の本懐ではあるかも知れませんが、いささか不謹慎ではないかと愚考する次第です」

 

「そういえば、日本の古典にもありましたなあ。いやはや太古から、かの島国にはそのような文化が存在するとは恐れ入る」

 

お互いに何気ない会話を装っているが、舌鉾というにはその鋭さはやや常軌を逸していた。

嫌味にしても度が過ぎているし、もしかして喧嘩を売っているつもりか?

笑顔を崩さず弦十郎は思う。

ここでこちらの激発を誘おうとしているなら浅い策だ。

かといって抗弁するにしても、弦十郎が口にしては説得力に欠ける。

なにせ、弦十郎の内心は彼らの意見に概ね等しいのだから。

それでも何か言い返さねばならぬ。

そう意を決し、口を開きかけた弦十郎の右腕に、しゃなりと手が添えられた。

思わず見下ろせば、奥方の輪から脱出してきたらしいクリスが頬を赤く上気させている。

仄かに薫る香水が、妙に彼女を色っぽく見せていた。

 

「みなさん、色々と勘繰られてるようですが、私の方から彼に求婚したのですよ?」

 

穏やかな笑みを浮かべてそうクリスが言うと、紳士たちは憮然とした。

 

「な、なるほど。ですが、貴女はまだお若い。何もこれほど歳の離れた相手に…」

 

形振り構わない台詞に、紳士の仮面が剥がれかけている。

全く動じることなくクリスは微笑みかえし、それから弦十郎のネクタイを引っ張った。

そのまま自分の目線まで弦十郎の顔を下げる。

 

「お、おい、クリスくん…」

 

小声で慌てる弦十郎の頬に、クリスはその唇を押し当てた。

くっきりとルージュのあとをつけ、クリスは艶然と笑う。

 

私が彼にぞっこんなの(I think about him all the time.)

 

さすがに紳士たちも面食らったようだ。

 

「だから――えーと、馬に蹴られて死にたくなかったら、出直してきなクソガキども(ペーパーボーイ)ッ!」

 

笑顔のまま凄みのある声を出す。

面向かってスラングを浴びせられ目を白黒させる紳士たちに、クリスは弦十郎の腕を取って回れ右。

その小さな身体から立ち昇る、憤然やるせなしといった強烈なオーラよ。

 

「なんだよ、おっさん。言われっぱなしじゃねーか」

 

「う、うむ。そうはいうが、俺にも立場というものが…」

 

しどろもどろになる弦十郎。

あの対応は良かったのか? いや、まあ、クリスくんの機転で助かったことは否定できないし…。

 

「というか、馬に蹴られての(くだり)は日本の慣用句だろう? 連中に通じたかどうか」

 

「突っ込むところはそこかよッ!?」

 

とにかく、頬に口紅のあとをつけたままで会場を歩きまわるわけには行かぬ。

早足でトイレへ駆け込み、どうにか洗面所で拭い取った。

出るとクリスが廊下で待っていてくれた。腕を組んだまま怒りのオーラはまだ薄れていない。

 

「…すまん。クリスくん」

 

弦十郎は謝罪した。

 

「あ? なんで謝るんだよ?」

 

「おまえに、余計な嘘をつかせてしまった」

 

そもそもが窮余の策で取りまとめた偽装結婚だ。クリスの方から求婚したなど出鱈目もいいところである。英語とはいえ、実に散々な台詞まで口にさせてしまったと弦十郎は思う。

 

「いや、それは別にいいよ」

 

クリスは鬱陶しそうに手を振って、それから小声で付け足す。

 

「それに…あながち嘘ってわけでもねーし」

 

「ん? 何かいったか?」

 

「んーにゃ、なんにもッ!」

 

何故か憤慨するクリスに引っ張られ、会場に戻れば、目敏く大使が近づいてくる。

 

「お二人とも、どこにいらしてたんですか? スペシャルなゲストを用意していたのに」

 

「ゲスト…?」

 

訝しげな声を出す弦十郎たちの前に、初老の男性が歩いてきた。

その顔を、弦十郎は資料で見たことがある。

 

「まさか…」

 

「初めまして、クリスさん。マクシミリアン・モリーナです」

 

クリスの母親の同姓であるモリーナを名乗った男性の瞳が、俄かに潤み始めた。

彼の視線の先には、硬直したクリスが居る。

 

「ああ、こんな小さい身体で、貴女は戦っているのですね」

 

大柄な身体で包み込むようにハグされたが、クリスも邪険に振り払うわけにはいかないようだ。

涙ながらのマクシミリアンの声は続いている。

 

「こんな子供が…。ああ、神よ。あなたはなぜ、この子に試練をお与えになるのですか?」

 

熱の入った台詞と涙を流すその表情は真に迫っている。

クリスも感化されたのか、なすがままだ。

 

「でも、もう安心してください。わたしが来ました。わたしと一緒に英国へ行きましょう」

 

涙を拭い、マクシミリアンは優しい笑みを浮かべて、

 

「わたしと家族になりましょう、クリスさん」

 

「…え?」

 

ぐらり、とクリスが身体と精神的に揺れたことが弦十郎には分かる。

 

「貴女の母親であるソネットは、わたしにとっての再従姉の娘になるのです。少しだけ遠い親戚ですね。本当にちょっとだけ」

 

マクシミリアンの言い回しは、陽気かつ洒脱だ。

 

「今まで貴女のことを知らなかったことは心からお詫びします。ですから、そのことの謝罪も込めて、どうか親戚としての、一族としての義務を果たさせて下さい。償いをさせて下さい」

 

クリスの手を取って、真向から見つめてくる。

 

「……」

 

「どうしました? なにか不安ですか? 確かに、戦いは大変でしょう。ですから、これからはわたしたちが貴女を支えるのです」

 

細い喉が動き、クリスが息を呑む。

そして彼女は瞳を閉じた。

まるで己の内側と対話しているように弦十郎は思う。

目を開けた彼女は、弦十郎の方へ顔を向けてくるかと思ったが、違った。

クリスはあくまでマクシミリアンを真っ直ぐ見つめたまま言った。

 

「ありがとう。貴方の気持ちは確かに受け取りました」

 

「では…!」

 

マクシミリアンの顔が歓喜に染まる。

 

「ですが、私は貴方とは行けません」

 

「そ、そんな。わたしとクリスさんは正真正銘の血族なのですよ。それなのに、なぜ?」

 

「なぜなら」

 

そこでクリスはマクシミリアンの手をほどき、弦十郎の方を見た。

 

「私が本当に迷い、苦しんでいる時に、手を差し伸べてくれたのが彼だったからです」

 

そうしてから、茫然とするマクシミリアンに向き直り、にこりと笑う。

そこでようやくマクシミリアンは弦十郎を見たような気がする。

 

「…貴方が、彼女の夫なのですか?」

 

「ええ」

 

一応、と付け足してしまうところを辛うじて呑みこむ。

マクシミリアンの目が細められる。

さて、罵倒されるか、殴られるか。

鷹揚に、それでも油断なく身構える弦十郎の前で、マクシミリアンはその両手とって強く握ってきた。

 

「ありがとうございます、クリスを救って下さって。そして、これからもどうか守ってあげてください…!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

大使館を辞したあと、迎えのリムジンの後部座席にて。

 

「…あの人は、本当にママの親戚だったのかな?」

 

茫洋とクリスが呟いた。

 

「わからんな」

 

化粧を落とし、年相応の顔つきに戻ったクリスの横顔に、弦十郎は答える。

マクシミリアン・モリーナを名乗ったあの男。

クリスに対する感情も態度も、真に迫っていた。

あれが演技だとしたら、凄まじい役者である。

しかし、仮に役者ではなく、本当に正真正銘の縁者であったとしても―――。

クリスとの対面を果たし、彼女に英国行きを拒否されたあと。

マクシミリアンは弦十郎に後を託す格好で、至極あっさりと申し出を引っ込めている。

英国大使からもその後は言及されることもなく、二人はパーティーから解放。

クリスに対する揺さぶりではないか、と弦十郎は分析しているものの、色々と解せない。

そうなってくると、パーティーそのものすら懐疑的に見えてきて困惑するしかなかった。

よもや嫌味を言うためだけにあれだけの人数を動員したとすれば大仰すぎる。

かといって感動的な親族の再会を目論んだだけ? それこそまさかだ。

 

「…埒が開かないな。あとは調査部に頼もう」

 

乱れる思考を追い払うように弦十郎が提案すると、存外クリスも素直に頷いてくれた。

 

「しっかし、足がくたびれたぜ、全く…」

 

そういって、パンプスを脱ぎ捨てて、爪先から足をぶらぶらさせている。

運転手は緒川が務め、ご丁寧に運転席との間の仕切りを起動させてくれているので、気兼ねする必要はない。

それでも行儀の悪い格好に、弦十郎は苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「なんだよ、おっさん、何笑ってんだよ」

 

クリスの柄も態度も悪い。よほどパーティーで猫を被っていたのがストレスだったと見える。

 

「すまんすまん。いや、やはりそういう年相応の格好をしている方がクリスくんらしいと思ってな」

 

「どういう意味だ? …もしかして、さっきまでのあたしの格好は、だぶだぶの七五三みてぇだったとか言いたいのかよ?」

 

クリスの表情が剣呑なものに変わっている。

どうもクリスくんの機嫌を損ねることにかけては、俺は何かしらの才能を持っているようだ。

最近、ようやくその自覚を得た弦十郎。

だからといって、何度も激昂させるわけにも行かぬ。

 

「いいや。そんなつもりは毛頭ない。さっきまでのクリスくんは綺麗だったぞ。むしろ、そうだな―――」

 

弦十郎はクリスの頭髪へと手を伸ばし、髪をすくように指を滑らす。

 

「クリスくんは、ストレートに伸ばしたままの髪型のほうが、俺は好きだぞ」

 

クリスは豆鉄砲を喰らったような顔つきになる。

 

「そ、そうなのかッ? 本当にそう思っているのかッ?」

 

「ああ、そっちの方が魅力的だ」

 

「~~ッ」

 

クリスの顔が見る見る赤くなった。

そのまま弦十郎が眺めていると、ぼそりと言う。

 

「そんじゃ、おっさんが家にいるときは、こっちの髪型にするッ」

 

「そうか」

 

「特別だぞッ? 特別だかんなッ!?」

 

「わかったわかった」

 

どうにか機嫌を直してくれたらしいクリスに、ふと弦十郎は思い出す。

 

「しかし、いきなり頬にキスをしてきたのには驚かされたぞ」

 

そういうと、クリスは一瞬硬直。

 

「ま、まあ、なんとなく流れで…」

 

「ともあれ、今度は事前に相談してくれ。頬に口紅のあとをつけたままではさすがに困るからな」

 

「………」

 

ぴしり、とクリスの顔がまた一瞬凍ったような気がした。

む? それに、なんだかまた雰囲気が変わったか?

またもや何かしら機嫌を損ねることをしてしまったのだろうか。

戦慄する弦十郎を、しかし、クリスは笑みを浮かべたまま、くいくいと指を動かして手招き。

 

「ちょいとおっさん、顔を貸してくれや」

 

パーティー会場と同じく、笑顔はそのままで全く目が笑っていない。

彼女が何を考えているか知らねど、弦十郎も逆らうことが出来ぬ。

 

「う、うむ…」

 

そろそろと正面から顔を近づけると、ぐいと首を横に向けられる。

それからクリスに耳元に囁かれた。

 

「もっと困らせてやんよ」

 

「…おい? それはどういう…」

 

頬に温かい感触。そして。

 

「痛ッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

間もなくリムジンは官舎であるマンションへと到着。

ぷりぷりと肩を怒らせ、クリスはさっさと車を降りていってしまう。

その後を、困惑気味に追いかける弦十郎。

その頬には、くっきりと大きな歯形が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

部下たちに夕食をご馳走したあと、弦十郎一行はS.O.N.G.本部内の高級士官用のガンルームに河岸を変えていた。

 

「今回は皆に苦労をかけたな」

 

ウイスキーグラス片手に部下たちを労う。

普段は酒を飲まない弦十郎だったが、部下たちに合わせている。

加えて本部内なのだから、いざという時にはすぐ対応できるとの安心もあった。

 

「全く、苦労のし通しでしたよ」

 

遠慮なく弦十郎のボトルから自分のグラスに注いで藤尭はぼやく。

緒川もウーロンハイを片手に苦笑し、友里は自作したカクテルの入ったショートグラスを細い指で持ち上げ、薄い笑みを浮かべていた。

現在、このガンルームには弦十郎たちしかいないので、忌憚のない会話をするには十分すぎる。

オンザロックのウイスキーを舐めながら、弦十郎はしみじみと考える。

 

英国の揺さぶりに対する、クリスとの結婚という対策の実施。

結婚して間もなく自分が盲腸で昏倒するという失態。

新婚旅行に赴けば、保安部は謎の機能不全を起こし、先日の駐日英国大使のパーティに招かれるにあたって、調査部はほぼ不休で働いている。

 

それらを差配する自分はともかく、部下たちの苦労を偲べば頭が下がる思いだった。

なぜなら、こんな激務の最中でも、弦十郎はほぼ定時に退勤させられていたのだから。

 

「とりあえず、これでこの件は一応の落着ということでいいのではないでしょうか?」

 

オリーブを摘まみながら友里が言った。

過日のパーティの結末を見るに、英国としても引き下がったような格好だった。

もちろんまだしばらくは気を抜けないが、これ以上の積極的な干渉はないと思われる。

 

「それでも、いま一つ決め手が欲しいな」

 

そう返すと、部下たちから揃って怪訝な目で見られた。

 

「司令のいう決め手とは、何を指しているんですか?」

 

緒川が尋ねてくる。

 

「決まっているだろう。マクシミリアン・モリーナ氏が、クリスくんの血縁ではないという決定的な証拠だ。それがあれば、クリスくんとの結婚の解消もスムーズに出来るんだがなあ」

 

弦十郎がグラスを煽ると、部下たちの呆れた視線が突き刺さってくる。

 

「ってゆーか、司令は何が不満なんですかッ!?」

 

「不満? 何を不満というんだ?」

 

「もちろん雪音さんとの結婚生活ですよ!」

 

声を荒げる友里に、弦十郎は困惑する。

 

「不満はない。が、不満がないことが不満ではあるな」

 

「はあッ?」

 

「家に帰れば風呂は沸いているし、飯も出来ている。掃除もしっかりしていてくれてなあ…」

 

友里が何か珍妙なものを見るような目つきになっていたが、弦十郎は敢えて無視して溜息をついてみせた。

 

「せめて一緒に洗濯だけでもしてやろうと思ったら、無茶苦茶怒られてしまったし」

 

「そんなの当り前でしょうッ!?」

 

友里と藤尭が異口同音に激昂。

 

「あの年頃の娘さんの衣類を男性が洗うのは、世間一般的にもどうかと…」

 

穏やかに言ってくる緒川に一縷の良心を見たが、翼の身の周りの世話をこなす彼が口にしては、説得力に欠けることおびただしい。

だからといって、年頃の娘の心理や、世間一般のことなど、弦十郎にはさっぱり分からない。

 

「雪音さん自身は可愛い上に甲斐甲斐しくて、口調はぶっきらぼうでも気立てがいい子でしょう?」

 

友里の言には完全に同意できた。

 

「傍目には、皆が羨む幼妻ってやつでしょうに」

 

だが藤尭の言には、改めて反論する。

 

「だから偽装結婚だと言っているだろうが」

 

果たして部下たち三人は揃って特大の溜息をついてくれた。

 

「…私から見ても、司令と雪音さんは似合いのカップルだと思いますけど?」

 

目を座らせた友里がグラスを空にしていた。

 

「はっ、冗談だろう? 俺はこんなおっさんだぞ?」

 

自嘲して見せると、藤尭の目も座っている。

 

「司令はなんでそんなに自己評価が低いんですか?」

 

新婚旅行先でマリアにもそう指摘されたことを思い出し、弦十郎は苦笑い。

 

「そういわれてもそれが性分だからな。年齢の差もあるが、クリスくんはやはり俺なんぞには勿体ない」

 

歯を剥く寸前の表情になる友里と藤尭の横で、ただ一人、緒川のみが優しい眼差しで尋ねてくる。

 

「よもやと思いますが、そんな風に雪音さん本人にも言ったり接したりしていないでしょうね?」

 

「無論しているに決まっているだろう? 現実的にも、真実的にも、偽装結婚ということに変わりはあるまい」

 

不思議そうに言い返すと、部下三人は全く同じ動作で天井を仰いでいる。

 

「…そりゃあ雪音さんがブチ切れるのも分かりますわ…」

 

藤尭はバーテーブルに突っ伏す。

 

「『真実でさえ、時と方法を選ばずに用いられてよいということはない』って言葉を、司令は御存じですか?」

 

友里が目を三角にして詰め寄ってきた。

 

「ミシェル・ド・モンテーニュだろう? 懐かしいな」

 

弦十郎は学生の頃の記憶に目を細める。あの頃は、手当たり次第に乱読したものだ。

 

「モンテーニュのおっさんも、結婚に対してはロクな格言残してないんだよなあ…」

 

くだを巻くようにしてそう口にした藤尭は、友里にキッと睨まれている。

 

「格言なら、俺は『正直ほど富める遺産はない』を座右の銘にしてもいいくらいだ」

 

「シェイクスピアですか」

 

緒川の言に、弦十郎は首肯する。

嘘を一つつけば、その嘘を隠すために更に嘘をつき続けなければならない。

これは精神的にもストレスになる上に、遠からず破綻する。

そして重ねた嘘の分だけ、そのしっぺ返しも増大するものだ。

ゆえに常日頃から正直であれ。

弦十郎はそう自説を展開。

 

「だとしてもッ!」

 

友里が食い下がってくる。顔は赤く染まり、吐息は既に酒臭い。

 

「時には残酷な真実より、優しい嘘の方が大切なときもあるんですよッ!?」

 

「なんだその格言は? 友里謹製か?」

 

「一般論ですッ!」

 

叫ぶようにそういって、友里は弦十郎の手に持っていたグラスをひったくる。

そのままストレートのウイスキーを一気呑み。タンッ、とテーブルの上で空になったグラスが跳ねる。

 

「いいですか、司令。世の中には良い嘘と悪い嘘ってのもあるんですッ!」

 

「ふむ。嘘も方便というやつか?」

 

「バレなきゃ嘘にはならないってのもありますね」

 

混ぜっ返した藤尭は、やはり友里の一睨みで沈黙。

 

「相手を思いやっての嘘なんて許されるんです! そんな嘘をついたことなんて、一生黙っていればいいんですよッ! 墓場まで持っていけば、あとに残るのは真実だけでしょッ!?」

 

なんとも強引というか強烈な言葉だが一理あると思う。

しかし、俺の性分にはやはり反する。

 

「だがな、友里…」

 

言いさして振り向けば、友里あおいはテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。

 

「やれやれ」

 

苦笑しつつ、弦十郎はもう一人の部下を見やる。

 

「なあ、緒川」

 

「はい?」

 

「…いや、なんでもない」

 

間もなく、明日も仕事があるし解散ということになった。

弦十郎も本部に泊まるつもりだったが、部下たちの強い勧めで帰宅することに。

仕事でもないのに結婚したばかりの新妻を放っておいて外泊はおかしいでしょう? と言われれば、弦十郎も反論出来なかった。

タクシーを乗り継ぎ帰宅すれば、時刻はとっくに日付を回っていた。

さすがにクリスくんも寝ているだろう。

そう思って、そっと自宅のドアを開けた途端、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。

 

「おかえり」

 

「まだ起きていたのか?」

 

驚く弦十郎に、パジャマ姿でストレートヘアーのクリスは屈託なく笑う。

 

「ちっと面白い深夜ドラマを見てたからなッ」

 

そうは言っているものの、リビングにテレビの点いていた気配はない。代わりにキッチンには煌々と明かりが灯り、テーブルの上には読みかけらしい雑誌が置かれていた。

クリスはさり気なくその雑誌を椅子の上に移動しながら訊いてくる。

 

「今日は友里さんたちと飲み会だったんだろ?」

 

「あ、ああ」

 

「呑んでばっかで腹減ってねぇか?」

 

「…言われてみれば、小腹が空いたな」

 

「そっか。なら丁度良かった」

 

嬉しそうに言って、クリスはコンロにかけてる土鍋の蓋を開ける。途端に芳醇な匂いがあふれ出す。

 

「今日の夕飯の米が残ってたからな。夜食がてら雑炊を作ってみたんだぜ」

 

小鉢によそってテーブルの上に出してくる。

レンゲで熱々のそれを一口啜りこみ、弦十郎は感嘆の声を上げた。

 

「美味いッ!」

 

「だろ? だろッ? 我ながら美味く出来たと思ったんだ」

 

自画自賛して食卓に肘をつき、両手で頬を支えながら弦十郎を見てくる。

何が楽しいのか、笑顔を浮かべっぱなしだ。

そんな彼女は、夜食に作ったと言う割には、自分で食べようとはしない。

弦十郎はいまさらながら気づく。

ひょっとして俺のために…?

今日は本部に泊まるかも知れないといったのにも関わらず。

食べ進めるうちに、弦十郎は腹でなく胸がいっぱいになってしまう。

健気だ。そして本当にいい娘だと思う。

 

「…こういう風に家で誰かを待っているってのは、いいなッ」

 

にししと笑いながらの呟きも、また泣けてくるではないか。

 

…やはり、例の話を進めよう。

今日の飲んでる最中に緒川に声をかけかけて止めたこと。

内容は、緒川のイギリスへの派遣だ。

彼に捜査に専念してもらい、完全にイギリスの思惑を退ける証拠を見つけてもらうのが弦十郎の目論見である。もっとも今回の件は一応の落着を見ている以上、S.O.N.G.のエージェントのエースである緒川慎次の投入は難しいと思われた。

だが、その無理を通してでもクリスを自由にしてやらねば。

こんな良い娘を早く解放してやり、より相応しい相手に添わせてやらねばなるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日も定時で発令所を出て、本部の廊下を歩く。

辺塞寧日なしということだが、ここしばらくは平和で、基本的に結構なことだ。

ふと視線を上げると、廊下の向こうからリディアンの制服姿が駆けてくる。見覚えのあるリボンが激しく跳ねていた。

 

「…クリスくん?」

 

息を咳き切らせ、弦十郎の3メートルほど手前で足を止めたクリスの顔は青ざめていた。

おまけに涙目で半笑いのような表情になっている。

昨日の今日で急転直下の彼女の様相に、弦十郎は嫌な予感を覚えた。そして最悪なことに、この予感は外れたことがない。

 

「…なあ、おっさん。あたしは、別にアンタが昔、誰と付き合ってたって構いやしないんだ。あたしと違って大人だからなッ」

 

拗ねているような声音が震えている。

 

「なんだ、藪から棒に?」

 

そうは言ったものの、彼女が左手に持った書類袋が小刻みに震えているのが見て取れて、弦十郎の不安を煽る。

 

「じゃあ訊くけど、これは一体、どういうつもりだ?」

 

クリスは右手に小箱を取り出す。新婚旅行の時に、弦十郎が贈った結婚指輪だった。

 

「…どういうつもりだもなにも、何の話だ?」

 

未だによく事態を呑み込めない弦十郎に、クリスはハッと笑う。

 

「この指輪の宝石はサファイアだろ? だけど、なんでサファイアなんだ?」

 

「……」

 

「あたしだってバカじゃない。あたしの誕生石じゃないことくらい知ってるよ。なら、誰の誕生石なんだって話だ。おまけに指のサイズも合っていない」

 

 

―――それは、彼女のために用意した指輪だからだ。

 

素直に答えるには、クリスの声音が必死すぎた。

我知らず、額に脂汗が滲んむ。

口中が急速に乾いていく。

正直であれ。

弦十郎が己の胸に秘めた指針だ。

その先端が、まるで胸に刺さってくるよう。

 

ふと、天啓のように昨晩の友里の声が蘇る。

残酷な真実より、優しい嘘を。

しかし―――。

 

「当てて見せようか? これは、櫻井了子に贈るつもりの指輪だったんだろ?」

 

クリスの口調。縋るような表情。

全身で彼女は訴える。どうか否定してくれ。あたしの予想を裏切ってくれ。

ぎりりと弦十郎は歯噛みする。

なぜに真実を口にするのがこれほど苦しいのか、自分でもよく分からぬ。

それでも、毅然と顔を上げる。

やはり性分は曲げられない。

 

「…そうだ」

 

頷くと、途端にクリスの全身から力が抜けた。

天を仰いだクリスから、短くも絶望的な笑い声が一つ虚空へ放たれた。直後、何かが勢いをつけて飛んでくる。

咄嗟に受け止めてみれば、指輪の入った箱だった。

 

「クリスくん…!」

 

顔を上げた弦十郎の先で、乾いた表情のまま、クリスは冷たく言い放つ。

 

「―――離婚だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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13話

エルフナイン「ボクもずっと発令所にいましたからねッ!」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、待ってくれ、クリスくんッ!」

 

追いすがろうとする弦十郎。

振り向かずクリスは背中越しに怒鳴る

 

「あたしは櫻井了子の替わりじゃねえッ!」

 

その一喝が、影縫いのごとく足を縫いとめる。

しかし気合で無理やり足を動かし、一気にクリスとの距離を詰めた。

 

「頼む、聞いてくれ、クリスくん。俺は別におまえを彼女の替わりなどと…!」

 

肩に手をかけた途端、腕ごと弾かれる。

響く聖詠。

イチイバルを纏ったクリスが、凍りついた眼差しと表情を浮かべていた。

 

「しつこいぞ、おっさん。これ以上何かいってきたら容赦しねえ」

 

アームドギアの銃口を弦十郎の顎先に押し付け、言い放つ。

まるで氷壁のように冷たく分厚い拒絶。

あとは振り向かず、クリスは歩き去ってしまう。

さらに無理に追いすがれば、何かが決定的に破断する分水嶺。

弦十郎も本能でそのことを察していた。

結果、悄然とクリスを見送るしかない。

寒々しい廊下に残されたのは、彼女が持っていた書類袋。

拾い上げ、その中身を見て、眩暈にも似た感覚に襲われる。

 

…その後、ふらふらと発令所に戻ったらしいが、正直記憶は曖昧だ。

怪訝そうに駆け寄ってきた部下に、どうしたのか尋ねられたが、なんと答えたのかも良く覚えていない。

ただ、手にもっていた書類は、部下たちの目にも晒されることになった。

 

「これは…!」

 

書類の中身は、十数枚にも及ぶ写真。

弦十郎と櫻井了子のツーショットが大半を占めていた。

かつての本部で撮影されたものから、弦十郎自身、撮られた覚えのないプライベートなものまで。

さらに日付入りで、例の指輪を物色している場面まで添えられていた。

 

「もしかして、これが英国政府の隠し玉…?」

 

青ざめた顔で藤尭が呟く。

部下たち三人は、写真と状況を瞬時に結びつけてくれたらしい。

 

「そんなことより、雪音さんのことですよ!」

 

騒ぐ友里に、弦十郎もどうにか意志を取り戻す。

 

「そうだ、こんな時に離婚だとなってしまえば、英政府の思うツボに…!」

 

途端に左頬を殴られる。

衝撃から目の焦点を合わせると、涙目の友里が傷めた右手首をさすっている。

 

「この期に及んで何バカなことを言っているんですか司令ッ!?」

 

呆気にとられていると、激しい足音が発令所に飛び込んできた。

 

「司令、貴方…ッ!」

 

マリアも言うが早いが、弦十郎の右頬に強烈な平手打ち。

 

「いくら朴念仁だとしても、こんなの害悪よッ!」

 

同じく涙目で左手首をさするマリアに、同意するように頷く友里。

この女性陣の反応に、弦十郎は面食らう。

怒られている意味も分からず、助けを求めるように藤尭の方を見れば、

 

「さすがにオレも弁護しかねますよ」

 

諸手を上げていた。

同じく諸手を上げている緒川が顔をしかめた。

 

「しかし、どうします? 少しばかり洒落にならない事態ですが…」

 

「マジでS.O.N.G.崩壊の危機だろ、これは」

 

組織の崩壊など大袈裟な、と藤尭の発言を笑い飛ばそうとして、弦十郎は出来なかった。

現状は理解している。

これからの問題だって把握できている。

なのに、心のどこかがぽっかりと抜け落ちたようで活力が沸いてこない。

こんな体験は初めてだ。

…いや、過去に覚えがある。ルナアタック事変が終息した直後、こんな気持ちになったことを思い出す。

櫻井了子の死亡が完全に確認されたそのときに。

 

「…これだけ茫然自失となっているのなら、まだ脈ありかしら?」

 

マリアの視線に気づき、ほぼ反射で顔を向ける。我ながら覇気のない瞳をしていたと思う。

 

「そうみたいね。…マリアさん、雪音さんの方は――」

 

「いま、切歌と調が必死で宥めて足止め中よ。おっつけ、剣とあの子たちも来るでしょうし」

 

「助かるわ。私たちも、急いでどうにか収拾できるようにセッティングするから」

 

「OK。連絡は密にしましょう」

 

言い置いて、マリアは発令所を出て行く。

いったい二人とも何を喋っているいるのだ…?

その光景をただぼんやりと眺めていると、友里たちが近づいてきた。

 

「いいですか、司令。これから私たちが動くのは、組織の崩壊を防ぐための職責もありますけれど、もちろんそれだけではありませんからね?」

 

「あ、ああ…」

 

訳も分からず曖昧に頷く弦十郎に、友里は辞表を叩きつけるように宣言する。

 

「これが最後の機会です。これで駄目だったら、私たちは司令の元では働けません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その結果がこれなのか…?」

 

茫然と弦十郎は呟く。

場所は、S.O.N.G.本部内の多目的戦闘シミュレーションルーム。

結構な広さのその場所で、向かい側にクリスがいる。

だけではない。およそ考えられる限りの職員たちが、部屋の外に鈴なりになって集まっていた。

向こうからマリアが歩いてくる。まるでクリスのセコンドのようだ。

 

「いい、司令? 私たちに出来るお膳立てはここまでよ」

 

友里と同じようなことを言う。

 

「しかし、お膳立てといっても…」

 

正直、何がなんだが理解が追い付いていない。

見るからに、クリスと再び話し合う機会をセッティングしてもらったことは理解できる。

よくあの状況のクリスに同意させることが出来たと感心はしたが、だけにこんな場所で、衆目の視線を浴びながらにはどんな意味があるのか?

更に、どう考えても話し合う雰囲気ではなかった。

 

「貴方は、お互いに全力で殴り合ってそのあとに和解するとかってシチュエーションは好きでしょう?」

 

「う、うむ。確かに嫌いではないが…」

 

「この際だから、色々とお互いに全力でぶつけ合えばいいんじゃない?」

 

「それがこんな場所である理由か?」

 

なんとも乱暴というか、大雑把というか。

 

「もう一つの理由は、肝腎なことを口にしていないあの子にも非があるってことよ。貴方みたいな野暮天の極地が相手じゃ尚更よね」

 

訳の分からぬこと言い残してマリアは部屋の外へ。

室内に残されたのは、腕を組んで仁王立ちするクリスと弦十郎の正真正銘の二人きり。

マリアの背中を恨むように睨んでいたクリスだったが、ようやくこちらに焦点を合わせた。

 

「…おっさん。この期に及んで言い訳なら聞かねえぞ」

 

聖詠が響き、クリスがイチイバルを纏う。

構えた銃口がこちらを捉えている。

本当に殴り合うつもりか?

いつの間にか、周囲の風景もコロッセオのような闘技場へ変化していた。

ゆっくりと弦十郎も拳を構える。

…別に構わないか。それでクリスくんの気が晴れるのならば。

 

「いいだろう。来い、クリスくん。たとえどんなことを言われても、どんな攻撃をされても、俺は一切反撃しないことを約束する」

 

「ッ! そんな風に余裕ぶってるのが腹立たしいんだよッ!」

 

いきなりのガトリングガンの斉射。横っ飛びでかわす弦十郎のあとに土埃が立つ。

 

「大人がそんなに偉いのかッ! 大人だったら、そんなに自儘に振る舞っていいのかよッ!」

 

着地点を狙い澄まし、すかさず幾つもの小型ミサイルが誘導。

弦十郎は、先頭を飛来する一つのミサイルを拳で横に小突く。弾かれたミサイルは、まるでビリヤードのショットのように他のミサイルも次々と弾き飛ばした。

結果、ミサイルの小群は弦十郎の身体を素通りして後方で着弾。爆発。

呆気にとられるクリスに弦十郎は頭を下げる。

 

「俺は大人だからと自儘に振る舞ったつもりはない。だが、おまえが傲慢に思えたのなら、真摯に謝罪しよう」

 

「…いっつもそうだ。そうやって、あたしを子供扱いしているッ」

 

言うが早いが、クリスは間合いを詰めてきた。

銃を使った近接格闘。映画に登場する架空の格闘術を、クリスは完全に自分のものにしている。

振り回される手足に、思いもよらぬ方向から飛んでくる銃弾。

さすがに弦十郎も捌くのに気を取られている間に、クリスの絶叫に似た声は続く。

 

「あたしは子供じゃないッ!」

 

「無論だ、クリスくんはもう立派な」

 

淑女だ、と続けようとした弦十郎を、クリスの叫びが弾丸となり貫いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

その言葉に、頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。

確かに自分は子供がいてもおかしくない歳だ。

ゆえに、無意識で、クリスのことを娘のように思って…?

動揺がそのまま肉体に直結したよう。

クリスの前蹴りをかわしきれず、弦十郎は真正面から受け止めてしまう。

強制的に広がる間合い。

ただし、負ったダメージは、肉体より精神の方がはるかに大きい。

 

「…俺は、そんな、クリスくんを娘扱いなど…」

 

「この期に及んでしらばっくれてんじゃねえッ!」

 

再開されるクリスの攻撃。

 

「違うってんなら、なんでッ! どうして…ッ!」

 

そして、攻撃すると同時に、クリスの目から涙が迸っている。

その痛々しさに気づいたとき、振りかぶられた彼女の拳を弦十郎は受け止めていた。

反撃しないとの禁を破り、クリスのもう片方の腕も握って動きを拘束する。

一瞬暴れるかに思えたクリスは、そのまま項垂れた。そして繰り返す。

 

「…あたしは、櫻井了子の替わりじゃない」

 

「無論だ。クリスくんはクリスくん以外の何者でもない」

 

「じゃあ、なんであの人に贈る指輪をあたしに贈った?」

 

「それは…俺にとって、おまえは彼女と同じくらい大切な存在だという意味だ」

 

顔を伏せたまま、クリスのフッと笑った気配。

 

「…おっさんは嘘が下手だな」

 

嘘じゃないッ!と叫ぼうとする寸前、掴んでいたはずの両腕が振りほどかれた。

シンフォギアは装者の心象によって変化する。

そして今、イチイバルはクリスの心に呼応したのか、勇ましく、それでいてこちらを拒絶するような鋭角な形状へと変化していた。

クリスの両手が合わさり、アームドギアがさらに姿を変えていく。まるでグレネードランチャーのように変化したその筒先に弦十郎を据え、クリスは叫ぶ。

 

「ストレートの髪型が好きだとか! 可愛いとか! 全部、櫻井了子の髪型だったからだろうよッ!」

 

「!!」

 

放たれる擲弾。炸裂する爆炎。

常人なら消し飛ぶであろうその火力の前に、弦十郎はなお健在。

硬気功と発剄の合わせ技である。

 

「…それは否定できないかも知れない」

 

それでいて、今度は弦十郎が項垂れる番だった。

まだ櫻井了子と時間を過ごしていたころ。

彼女とて、いつもあのうず高く巻き上げた突飛な髪型をしているわけではなかった。

特にシャワーを使ったあとは、そのままストレートでいることが多かった。

あの時の櫻井了子は、本当に美しかったと思う。

それは弦十郎の心の中で、幸福な時間の象徴として焼き付いていた。

翻って、そんな鮮烈な過去の幸せを、クリスに重ねてしまっていたことは否定できない。

 

「すまない、クリスくん。俺の中には、まだ彼女がいたようだ…」

 

もう彼女は死んだ。

その肉体すらこの世界に存在しない。

しかし、あの輝かしい記憶までは失われるはずもなかった。

たとえどんな結末に汚されようとも。

 

「…そんなの、知ってたさ。ああ、あたしは知っていたんだッ!」

 

大声を出すクリスに、弦十郎はおそるおそる顔を上げる。

 

「アンタが、誰かを想っていることも! それが櫻井了子だってことも!」

 

ドンと胸元に衝撃。

闇雲に殴りつけてくるクリスの手に、アームドギアは握られていない。

 

「アンタは本当に無茶苦茶でッ、そのくせ大真面目でッ」

 

「野暮天のッ、唐変木でッ」

 

「鈍感なロバみたいなくせにッ」

 

「それでもやっぱり優しくてッ、暖かくてッ」

 

泣きながらクリスは拳を弦十郎の胸元へぶつけ続けた。

まるで駄々っ子のように。

もしくは、見えない何かを壊そうとするかのように。

 

「アンタがあたしを救ってくれたんだッ! こんな大人ならいいって憧れたんだッ!」

 

もはや握られた手は拳の体裁を取っていない。それでもクリスは腕を動かすのを止めない。

 

「…だから、あたしはッ! あたしにとってはッ!」

 

クリスの心が訴える。悲鳴のように訴える。

心の深奥からの叫びは、そして絶唱のように響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あたしは、そんなアンタが好きなんだよッッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…俺も、クリスくんのことは好きだぞ…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

一転、場に満ちた空気が凍りつく。

 

だが、

 

「はいはいはいッ!」

 

颯爽とマリアが二人の間に降り立った。

 

「いい、司令? この子が言っている好きってのはLIKEじゃなくてLOVEの方なのよ。OK?」

 

「つまり…愛だとッ!?」

 

「なぜそこで愛ッ!? って間違っちゃいないけど…」

 

お約束の突っ込みを披露し、マリアは退場。

 

後に残された二人に、空気が再び熱を取り戻す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…そうだったのか?」

 

恨みがましい上目使いで無言のままコクンと頷いてくるクリスに、弦十郎の精神は後ずさったが、肉体の方は前へと進んでいた。

いつの間にかイチイバルを解除した涙目のクリスを、腕の中に抱きしめている。

その小さな温もりを感じながら、過去の出来事を省みたとき、色々と腑に落ちた。

が、腑に落ちたことと納得できたことは別問題。

内心はまるで嵐の海のように荒れ狂っている。

しかし、その動揺を露わにし狼狽することを、弦十郎が自身に許すこともなく。

 

「…すまなかった」

 

クリスをしばらく抱きとめたまま、ようやく声を絞り出す。

 

「正直、俺も驚いている。それでも改めて言わせてくれ。おまえは俺にとって本当に大切な存在なんだ」

 

自分で言っておいて、突然の沸いて出てきたかのような台詞だった。

しかし、不思議と違和感はない。

この健気な娘を心より大切だと既に公言しているのだから、当然と言えば当然だ。

だが今は、そこに自分で疑問を投げかけている。

彼女と同様に? 彼女以上に?

分からない。自分でも判然としない。

だから、ただ本能のままに言葉を重ねる。

 

「俺も…おまえの気持ちに応えたい。応える努力をしてみたい。そのために、少し時間をくれないか…?」

 

抱きしめていると、コクンと腕の中のクリスが頷いた感触。

それがそのまま自分の胸に温かく染み込んで行く。

 

「今度、新しい指輪を買いに行こう」

 

そう囁くように告げれば、クリスの両腕が腰に回ってくる。

抱き返してきた少女が咽び泣く姿を包んだまま、弦十郎は周囲を見回した。

いつの間にかシミュレーションは解除され、職員たちが安堵の視線を、あるいは生暖かい視線、もしくはやっかみの視線を注いでくる。

 

「…ひょっとして、みんな、クリスくんの気持ちを知っていたのか?」

 

明確な返答こそないが、友里はウンウンとばかりに激しく頷いていた。

エルフナインは顔を真っ赤に染め、その隣の女性職員に加えて装者たちも黄色い歓声を上げている。

なので、おもわず弦十郎は呟いてしまった。

 

「みんなして人が悪いな。そうならそうと教えてくれれば…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぶちんッ! 

 

 

 

 

 

何かが切れる音が、盛大に木霊した。

寸前までの祝福ムードも一転、周囲は怒りにも似た瘴気に満ちていく。

 

「な、なにがどうなって…?」

 

戸惑う弦十郎の耳に、朗々と複数の聖詠が響き渡る。

続いて、幾つもの人影が室内へと飛び込んで来た。

 

「…確か、反撃はしないって言っていたわよね?」

 

マリアを筆頭に臨戦態勢のシンフォギア装者たち。

全員が揃って顔に青筋を立てている。

 

「せいぜいあたしの分も派手にやってくれや…」

 

いつの間にか弦十郎の腕を脱したクリスが、マリアの肩をポンと叩き、疲れたような声を置いて背を向けた。

 

「お、おい、おまえたち、一体これは…」

 

「さすがにあれは酷いですよ、師匠ッ!」

 

「叔父上、問答無用!」

 

「ギルティなの!」

 

「デース!」

 

クリスを除く全てのシンフォギアとその装者が、一斉に弦十郎に襲いかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…今日はこのへんで勘弁してあげるわ」

 

まるで悪の組織の女幹部のような台詞を言うマリアは肩で息をしている。

他の装者たちも同様に激しく肩を上下させ、疲労困憊の様子。

そんな彼女たちの成果は、足もとに転がっていた。

 

「むう…動けん……」

 

いかに風鳴弦十郎とて、反撃もせず一方的にシンフォギアの波状攻撃に晒されてはたまったものではない。

それでもどうにか凌ぎきった代償に、体力を完全に枯渇させてしまっていた。

結果として、無様にぶっ倒れてしまった次第である。

この場合、弦十郎と装者たちのどちらに軍配を上げればいいのか。

 

「…ったく、本当に空気が読めないよな、アンタは」

 

呆れ顔のクリスが、頭の方に立ってこちらを見下ろしていた。

仰向けのままの身体が動かなかったので、弦十郎は目だけを動かして言う。

 

「…クリスくん、下着が見えているぞ……」

 

「~ッ!!」

 

トドメとばかりに思いきり顔面を踏まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桜の花弁が、暖かい風に舞っている。

今年は例年より開花が早いようだ。

 

「ただいまッ」

 

「おかえり」

 

自宅で出迎えた弦十郎の先には、制服姿のクリスがいる。

彼女の左手には赤い花束。右手には卒業証書の入ったらしい円筒。

目が赤いのは、おそらく卒業式で泣き腫らしてきたからに違いない。

本日のリディアン音楽院の卒業式に、弦十郎は呼ばれていなかった。

 

『アンタはあたしの保護者じゃないだろ?』

 

とクリスは言っていたが、おそらく泣き顔を見られたくなかったのだろう。

 

「…どうした?」

 

クリスが小首を傾げた。ストレートヘアがサラサラと流れて、春の陽光を反射している。

どうやら軽く見蕩れてしまっていたらしい。誤魔化すように弦十郎は咳払い。

にんまりとして、クリスが身体を預けてきた。

ごく自然な格好で、弦十郎が抱き止める形となる。

彼女の纏う香りとその身の柔らかさに慄く。

そんな弦十郎に委細構わず、クリスは腕の中から上目使い。

これは何かを言って欲しいときのアクションだ。

 

「…綺麗だぞ」

 

ややそっぽを向きながら言うと、クリスは満足げに笑った。

 

「ん、合格だッ」

 

その採点はさて置き、歌詞の文句ではないが、春が来てクリスは本当に綺麗になった。

二人並んで街中を歩けば、そのミスマッチ感はあるにせよ、振り向いてくる男のなんと多いことよ。

「女性は愛されて美しくなるんですよ!」と友里が力説していた。

もっとも、俺はまだこの子を本当に愛してはいないのだが…。

そんなことを考えていると、クリスに額で胸を小突かれる。

 

「…色々あったな」

 

「ああ、色々と大変だった」

 

今日という日に至るまでも、本当に様々なことが起こっていた。

さりとて、偽装の結婚生活は破綻なく経過している。

いや、もはや偽装ではなくなった。

法律上でも、世間的にも、二人は間違いなく夫婦であると周知されている。

しかし―――。

 

「約束の件、覚えているだろうな?」

 

クリスが長いまつげを伏せ、小声で言ってくる。その頬は赤い。

 

「…ああ」

 

返答したものの、自分がどんな表情を浮かべているかよく分からない弦十郎。

かつての約束。

クリスが18歳になるまで、もしくは彼女がリディアンを卒業するまで、男女の関係は待って欲しいと約束を交わしていた。

その条件が二つとも満たされた以上、弦十郎は約束を果たさなければならぬ。

同時に今日は、己に対するクリスの想いに応えるつもりでもあった。

ゆえに、弦十郎なりに、今日という日へ向けて幾つもの台詞を考えている。

 

 

―――俺にとって、今はおまえが誰よりも愛しく思える。

 

―――おまえとなら、これから一緒に生きていけるかも知れない。

 

―――これからは、おまえが俺の一番の存在だ。

 

 

だが、この日のために用意したはずの言葉は、喉の奥に貼り付いて出てきてくれない。

…なぜだ。そこから派生する行動も念頭にあったのに。

一人苦悶する弦十郎。

それでもしばらくクリスは待ってくれていたが、再びこちらの胸の中に顔を埋めてしまう。

 

…呆れられたか?

 

弦十郎がそう懸念する中、クリスの華奢な肩が小刻みに上下。

やがてくっくっくという笑い声が立ち昇ってくる。

 

「いいんだよ。変に言葉を取り繕わなくたって」

 

「そ、そうか?」

 

「正直に、無骨に、力強く言い切る方がアンタらしいさ」

 

ならば、と弦十郎は思案する。

この胸の内と、この身の昂ぶりを、素直にクリスへと届けよう。

小さな身体を抱き上げて、耳元へ囁く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛してるぞ。そしておまえに欲情した」

 

「…火の玉ストレートすぎるだろ、おいッ!?」

 

 

 

 

 

クリスに持っていた花束で頭を叩かれたが、弦十郎は存分に欲求を果たすことが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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番外編 お爺ちゃんもいっしょ

優しい世界です。


 

 

 

 

 

 

 

元旦の早朝。

風鳴弦十郎の姿は、都内の風鳴家所有の屋敷にあった。

かつて装者たちに様々なトレーニングを課した広大な敷地は、普段住まいには広すぎる。

なので官舎へ居を定めている弦十郎なのであるが、先日の大晦日から大規模な煤払いに訪れていた。

ほぼ丸一日かけて綺麗に掃除を済ませた屋敷で迎える新年は実に清々しい。

さっそく紋付袴を身に着けた弦十郎の横には、実に艶やかな晴れ着姿の小柄な影が付き添う。

赤い振袖も目に鮮やかな雪音クリスである。

 

「どうした、おっさん?」

 

そんな彼女は、(かんざし)の刺された結い上げた頭を弦十郎へ向けて傾げて見せた。

 

「いや、実に綺麗だと思ってな」

 

「ッ!! …ありがと」

 

たちまち茹蛸のように顔を真っ赤にするも、それからぼそりと礼をいうクリスがいる。

その姿を認め、弦十郎もなんとも面映(おもは)ゆい。

世間的に、弦十郎とクリスは夫婦ということになっていた。

二人が入籍に至るまでは、多分に政治的な背景と事情が存在している。

いわば偽装であり、仮初であった夫婦関係も、いまや様々な紆余曲折をへて、ぎこちなく、それでも完全な夫婦という形に昇華する途上にあった。

なのでこれらのやりとりは、当事者たちにはともかく、傍目には初々しい新婚カップルに見えたかも知れない。

 

「さあて、連中が来るまで仕上げねえとなッ!」

 

振袖に襷をかけて腕まくりをするクリスがいる。

元旦なので、さっそく装者や職員たちが年始の挨拶に来る予定だ。

弦十郎は組織の長で挨拶を受ける立場にあるわけだが、官舎では狭すぎる。

その点、この屋敷は多勢の来訪にもってこいだ。

ついでに、餅つきをして餅を振る舞う予定で、クリスは先日からその準備に余念がない。

 

「…それにしても、この量は尋常ではなくはないか?」

 

思わず呟く弦十郎の視線の先は、まるで特大のタライのような鍋がぐつぐつと煮えていた。全て雑煮用の汁である。

 

「へッ、どうせあのバカがバカみたいに喰うに決まってるだろッ?」

 

彼女の言うところのバカは立花響のことに他ならない。

『好きなものはごはん&ごはん!』と公言して憚らない彼女は、かなりの健啖家である。

おせち料理もかなりの量を用意してあるのは、響の来訪に備えてのことだろう。

 

…口では何のかんのいっても、クリスくんにとって響くんは掛け替えのない友人なのだろうな。

我が嫁ながら、実に友情に厚い娘だ。

 

そう微笑ましく弦十郎が思っている視線の先で、クリスの横顔は邪悪そうに歪む。

 

「へっへ、あのバカも晴れ着で来るっていってたからな。しこたま餅を喰らわせて腹を膨らませて、精々苦しませてやるぜ…ッ!」

 

「…う゛~む」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「師匠ッ! 明けましておめでーとーございま~すッ!」

 

「うむ。あけましておめでとう、響くん」

 

「明けましておめでとうございます、弦十郎さん」

 

「未来くんも、今年もよろしく頼むぞ」

 

立花響、小日向未来のペアを皮切りに、次々と装者たちがやってくる。

玄関先で弦十郎とクリスの挨拶を受けると、招待客は次々と中庭へと回された。

開け放しの縁側には既に縁台などが設えてあり、中央には臼と杵が準備されている。

 

「あけましておめでとうございます! 招待して頂きありがとうございますッ!」

 

友里と藤尭に付き添われた晴れ着姿のエルフナインの来訪で、当座の来客は全員集合。

 

「それではそろそろ始めるかッ!」

 

「あいよッ!」

 

弦十郎の襷がけを手伝ったあと、クリスは厨房から蒸したてのもち米を持ってくる。

それを臼の中へと放り込み、弦十郎が杵を持つ。

 

「よし、いくぞ、クリスくんッ!」

 

「よっしゃ!」

 

弦十郎が杵を突き、クリスは突かれたもち米を濡れ手で引っ繰り返す。

実にリズミカルな挙動でたちまち一臼目が突きあがり、響が感嘆の声を上げた。

 

「うわ~、さすが夫婦だね、息がピッタリ!」

 

そんな響をクリスは真っ赤な顔で睨んだが、結局何も言わなかった。

突き立ての餅は小分けにされ、さっそく来客へと振る舞われる。

雑煮だけでなく、納豆、餡子、黄粉に海苔と醤油まで準備されていた。

 

「突き立てのお餅ってこんなに美味しいんデスか!」

 

「スーパーで売ってる切り餅を焼いたのと全然違うね切ちゃん!」

 

感激の声を上げながら餅をパクつく暁切歌と月読調に、

 

「こらこら、美味しいからって慌てて食べて喉に詰まらせちゃ駄目よ?」

 

とマリア・カデンツァヴナ・イヴは新年早々甲斐甲斐しい。

 

「確かに美味だが、なかなかにカロリーが高い上に腹で膨らむのはな…」

 

苦笑する風鳴翼の発言は、トップアーティストとして節制を課している彼女ならではとも言える。

無論、そんな外野の声を一切合財気にしない例外も存在した。

 

「う~! 美味しい! 美味しすぎる! お替り!」

 

「…バカなッ! 餅は飲み物じゃねえぞ!?」

 

唸り声を上げるクリスの前で爆食する響。

 

「はい、響。こっちのバターを海苔で巻いて醤油を垂らしたのも美味しいよ!」

 

唯一彼女に直言できる未来が、わんこそばよろしくせっせと食べさせる餅の準備をしているのだから、その消費量は言わずもがな。

実に突き立て餅の半分量を胃の腑に納め、響は声高に宣言する。

 

「クリスちゃん! お餅お替り!」

 

「わーったよ、いま新しいもち米が蒸し上がるから」

 

もっとも、この勢いはクリスにとっての想定内。

さっそく新しいもち米を持って来て臼へ放り込み、自身は杵を持って響へと声をかける。

 

「おら! おめーが一番喰ったんだから、手伝いやがれッ!」

 

「あ、はいはい、了解ですッ」

 

クリスが突き手で、響が返し手。

 

「それじゃいくぜッ!」

 

「はい、どうぞッ!」

 

「ちょっせえッ!」

 

「うわッ! クリスちゃん、いま、わたしの手を狙ってなかった!?」

 

「あん? 気のせいだろ?」

 

「…そうかなあ? まあ、いいや、はいッ」

 

「ちょっせえッ!!」

 

「やっぱりわたしの手を狙っているでしょー!?」

 

「うるせえな、いいから早く引っ繰り返しやがれッ」

 

などと小規模な争いが勃発するも、二臼目もどうにか突き上がる。

一臼目は遠慮していた弦十郎ら大人組も餅を口にする中、まるで勢いを衰えさせることなく餅を平らげていく響。

そんな彼女にお替りを所望され、三臼目は大人組が杵を握る。

 

「緒川さんの一人分身餅つき! お見事ですッ!」

 

翼が激賞して突きあがった三臼目の餅を頬張り、とうとう響にその時が訪れた。

 

「…うッ、未来。少し苦しいかも…!」

 

「だ、大丈夫!? 帯を緩めるよッ!」

 

「駄目だ、それくらいじゃ追い付かないよ…ッ!」

 

「響…ッ!」

 

「ううっ、未来…ッ!」

 

妙な愁嘆場が発生。

その光景を横目で見やり、ようやく自分の目論見が図に当たったとほくそ笑むクリスがいる。

…これであのバカも大人しくなって、他の連中もゆっくり食えるだろうよ。

ところが、事態は彼女の予想の斜め上を行く。

 

「未来…ッ! こうなったら奥の手を使うよッ!」

 

「ええ!? でも、響! それは…ッ!」

 

「いくよッ! …アーマーパージだッ!」

 

「ッ!?」

 

クリスたちが目を見張る中、帯と晴れ着が宙に舞う。

元旦の晴れ渡った寒空のもと、中庭に降り立つはスポーツブラとスパッツ姿の立花響。

実に清々しい笑顔で彼女は再び箸を取ると、

 

「ふーッ! 楽になったー! これでもっと食べられるよ~ッ!」

 

なお盛大に餅を頬張る響に他の参加者は絶句。

寒風吹きすさぶ中、クリスは鼻水を啜りあげてどうにか声を絞り出す。

 

「まさかバカは風邪引かないってのを逆手に取るとは…ッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どれ。それではそろそろお開きとするか」

 

宣言し弦十郎が腰を上げたのは、お昼も少し過ぎたところ。

 

「いや~、食べた食べた。ご馳走さまでしたッ!」

 

屋敷に置きっぱなしだったジャージを着て響がそうのたもう。

 

「ご馳走様でしたデス!」

 

「ご馳走さまでした」

 

丁寧に頭を下げてくる切歌と調を、クリスは呼び止めている。

 

「おい、待て、おまえら」

 

「? どうしたんデス?」

 

「ほれ、お年玉だッ」

 

「なななななんデスとぉ!?」

 

「貰っていいんですか!?」

 

驚きの声を上げる後輩二人に、クリスはふふんと胸を張る。

 

「目上の者が目下の者にお年玉をあげるのは当然だろ? なにせあたしは大人で人妻だからなッ」

 

そんな様子を見てマリアは苦笑い。

 

「あなたにそんなことされちゃ、私の立つ瀬がないんだけど…」

 

「いいじゃねえか、二人も喜んでるみたいだしよ」

 

「つ、月読に暁! 剥き身で悪いが私からもお年玉を…ッ!」

 

「先輩も無理しなくていーから」

 

年長者二人を軽くいなすクリスの前に、揉み手をする響の姿が。

 

「えへへ、クリスちゃん? あの、わたしには~…?」

 

「おお? 欲しいか? 欲しいのか?」

 

ほれほれ、とクリスが振るぽち袋に合わせ響が頭を左右に動かす様は、さながら犬のごとし。

 

「もう、クリス、イジワルしないで」

 

「ん? ああ、そうだな」

 

未来の言に苦笑しつつ、クリスは響へとぽち袋を渡す。

 

「ありがとう、クリスちゃ~ん!」

 

受け取って満面の笑みを浮かべる響。

さっそく中を開けて、彼女の笑顔は凍りつく。

 

「あの、クリスちゃん、これは…?」

 

「図書カードさ。どうせおまえに現金渡しても買い食いするだけだろ?」

 

「うぐっ」

 

図星を突かれて言葉に詰まる響を横目に、クリスは未来へもぽち袋を渡している。

 

「ま、それで本でも買って勉強しろよ、バカ」

 

「…新年そうそう、わたしって呪われてるかも~」

 

「貰っておいて呪いとか抜かしてんじゃねえッ!」

 

バシッと響の頭を叩くクリス。

これには周囲からも失笑が漏れた。

 

「ほれ、おまえにもだッ!」

 

「ボ、ボクもよろしいんですかッ!?」

 

感激するエルフナインを後目に、今度は弦十郎が総司令として改めて装者たちへとお年玉を渡していく。

もっとも受け取った面子はクリスと同様の年少者組に留まり、マリアや翼は謹んで辞退している。

 

「それでは諸君、今年もよろしく頼むぞ」

 

「はいッ!」

 

挨拶を返し、三々五々装者たちと部下も帰って行く。

 

「どうやら一仕事終わったなあ」

 

そう呟いて、我ながら声が冴えていない自覚はあった。

なぜなら、これからより気が重くなる仕事が控えている。

他の装者たちが帰ったのち、一人だけ残った翼と目が合う。

なぜに彼女が残っているのかと言えば、風鳴という同姓を冠するがゆえ。

これから鎌倉への本邸へと向かい、毎年恒例の風鳴宗家の年賀会へと参加せねばならぬ。

浮かぬ顔の姪を見やり、しみじみと弦十郎は独りごちた。

 

あの威圧感の権化ともいうべき親父と席を同じくするのだ。これは、気を重くするなという方が無理な相談かも知れないな…。

 

「おら、とっとと行こうぜ」

 

だが、片付けを終えて発破をかけてくるクリスがいる。

その雄姿に、弦十郎の頬は我知らず綻ぶ。

一応でも夫婦であれば、クリスも風鳴一族と見做されるは自明。なので彼女も年賀会へと招待されていた。

クリスが弦十郎の嫁となった事情などは、兄である八紘によって風鳴の親族にも周知されているはずだが、若すぎる彼女に対し口さがない連中もいることだろう。

 

―――であれば、自分などより余程クリスくんにとっては試練ではないか。

 

努めて明るい顔を作り、弦十郎は頷いてみせる。

 

「そうだな。クヨクヨしていても始まらんし覚悟を決めるかッ」

 

すると、不思議そうにクリスは首を捻って、

 

「なんでクヨクヨする必要があるんだ?」

 

「それは…なあ」

 

翼と顔を見合わせ、互いに苦笑するしかない。

厳粛で格式ばった古式ゆかしい年賀会である。

そこに面白みを見出すのは難しい。

ましてやあの風鳴赴堂と同じ空間で対峙するのだ。

しかし、次にクリスが口にした台詞は、弦十郎と翼、二人の度胆を抜く。

 

「あたしは結構楽しみにしてたんだけど…?」

 

「なんだとッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉の風鳴本邸の有する広大な敷地。

その駐車場には、いまや黒塗りの高級車が回遊魚の群れのごとき様相で詰めかけていた。

 

「…すげえなあ。いったい、どれくらいの人数が来ているんだ?」

 

「さてなあ」

 

クリスの質問に、弦十郎も明確な返答が出来ない。

経済界の大物は言うに及ばず、保守系の政治家の姿も散見された。

加えて彼らのSPなども含めた人数は膨大。日本国における赴堂の多大な影響力の証左であろう。

しかも年々増えていることに戦慄を禁じ得ない弦十郎である。

 

駐車場に車を停める。

車を降りれば、使用人たちがやってきた。

恭しい仕草で案内されたのは呆れるほど広い大広間。

そこにずらりと端座する背広や紋付袴姿の招待客たちにクリスは目を剥く。

もっとも風鳴一族の直系である弦十郎らは、そんな彼らを横目に上座へと誘導。

最奥に坐する赴堂の両脇に縦に並んだ形で腰を降ろせば、ちょうど正面に風鳴八紘が座っている。

弦十郎と翼にとっては毎年の光景なのだが、赴堂の威圧感はもとよりその背後に設えられた甲冑の迫力にクリスは息を飲んでいる。

 

 

「これより、風鳴本家、年賀の会を執り行います」

 

家令の落ち着いた声に、大広間の客たちは一斉に居住まいをただす。

一人一人名前を呼びあげられ、風鳴一族が見守る中、当主である赴堂の前へ罷り出てくる。

各々がご機嫌伺いのような年始の挨拶を施していく様を、まるで惣登城だな、と弦十郎は眺めている。

国の象徴であるやんごとなき方を朝廷とすれば、まさに赴堂は現代の征夷大将軍といったところか。

実父であれど、誇らしさより畏怖が勝るのは、やはり彼の人の尋常でないカリスマ性に由来する。

数々の政敵から怪物と揶揄されているのは、まさに正鵠なのだろう。

 

一通り来客の目通りが済むと、一族の挨拶が始まった。

直前の八紘と翼親子の挨拶に赴堂はさして表情を変えず受け、次は弦十郎とクリスの夫婦ということになる。

坦々たる新年の挨拶をする弦十郎と黙って頭を下げるクリスをじろりと一瞥し、赴堂は矍鑠(かくしゃく)と言い放った。

 

「未だ子を成さぬのか?」

 

「…彼女は学生の身でして」

 

唇を噛みしめて辛うじてそう口にする弦十郎は、隣で頬をパッと赤くするクリスを見る。この回答に至るまでの詳細など説明するつもりは毛頭ない。

 

「ふん」

 

さして面白くなさそうに風鳴家の現当主は鼻を鳴らし、弦十郎夫妻の挨拶はそれで終了。

その後は招待客を含めた全員に膳が配され、新年を祝う宴と続く。

まずは、翼とクリスの前に朱塗りの盃台を持った使用人がやってきた。

渡された朱塗りの盃を持つ翼にならい、クリスも盃を持ち上げると、酒器から液体が注がれる。

 

「…なんだこれ?」

 

小声で尋ねてくるクリスに弦十郎は答える。

 

「屠蘇だ」

 

漢方の生薬を酒やみりんに漬け込んで作る縁起物で、名が表す通り悪鬼などを屠る効果があるとか。

市井では出来あいのものも流通しているが、風鳴家では古式に則り、厳選した薬草と赤酒を用いて作られている。

また、飲む順番も若年から老年という順番で、これは若者の活発な生気を年長者が飲み取るという意味があると言われていた。

 

「一人これ飲めば一家苦しみなく、一家これ飲めば一里病なし」

 

一息に飲み下し、翼がそう唱える。

その横で匂いに顔を歪めるクリスに、弦十郎はこっそり耳打ち。

 

「無理して飲まなくても」

 

構わないぞ、と続けようとする寸前、クリスは一気に盃を煽っていた。

んべ、と舌を出して不味そうな表情を見せたのも一瞬のことで、翼と同じく、

 

「ひ、一人これ飲めば一家苦しみなく、一家これ飲めば一里病なし」

 

と唱える。

それから年少の順に盃が回され、弦十郎自身は車を運転しなければならないので形ばかりの口をつけた。

最後に赴堂が盃を飲み欲し、屠蘇の儀式は終了となる。

あとは無礼講の宴会が始まった。

 

「なあ、おっさん。無礼講ってなんだ?」

 

豪華な山海の珍味で構成されたおせち料理をつつきながら首を捻るクリスがいる。

 

「一般には、地位や身分の上下を取り払い楽しむということになっているが…」

 

説明しつつ、弦十郎は頬に苦笑を刻む。

来客の宴は互いに酒を酌み交わしそれなりに盛り上がっているも、風鳴一族の上座へと好んで足を向けるものは少ない。

主催で、かつ同じ大広間という空間にも関わらず隔絶されているような雰囲気は、風鳴という血統は敬われているのと同等、もしくはそれ以上に畏怖されている存在であることの証明だ。

 

「まあ、それも建前だな」

 

弦十郎がそう述懐すると、クリスは「タテマエ?」とまたもや首を捻っている。

 

「雪音、酌をしに行こうか」

 

翼が立ち上がっている。

この場において、彼女は一番の目下である。目上の者へ酒を注ぎに行かねばならないのは毎年のことだが、今年からクリスという道連れが出来たことは彼女にとって喜ばしいことかも知れぬ。

 

「うん、分かった」

 

そういってクリスも立ち上がったが、その足がフラついた。

 

「だ、大丈夫か、クリスくん?」

 

「ん、へーきへーき」

 

陽気に答える彼女に弦十郎は微かな違和感を覚えたが、ちょうど口に含んでいた昆布巻きと一緒に飲み込んだ。

赴堂の席まで歩いて行った二人はその前に正座。

 

「新春を寿ぎ謹んでご祝詞を申し上げます…」

 

格式ばった挨拶を口にする翼に続き、クリスも赴堂の大きな盃へと酒を注ぐ。

一気に酒杯を煽った赴堂は、まったく酔いを感じさせない視線で二人を睥睨。

 

「楽にせよ」

 

そう口にされて、背筋をピンと伸ばす翼がいる。

無論この発言も建前であり、実際は赴堂直々の言葉を賜わる前段階。

元旦だからといって赴堂が口にするのは慶賀ではなく、内容は半ば説教に近い。

縁者の殆どが一々耳に痛い直言を受ける形となり、新年早々翼の気が滅入っていた原因はこれであった。

 

「んじゃ、お言葉に甘えて」

 

ところが、いきなり膝ごと相好を崩すクリスがいる。

 

「ゆ、雪音ッ!?」

 

思わず翼が諌めるも、

 

「先輩、無礼講だろ、ブレーコー♪」

 

まったく取り合わないクリス。

 

「まさか…」

 

弦十郎の背筋を冷たい汗が流れる。

時折怖いもの無しの言動を取る彼女であるが、今の状態は常軌を逸していた。

考えられる原因は、先ほどの屠蘇だ。まさか、あの程度で酔っぱらっているのか…?

一気に場の空気が張りつめる中、晴れ着にも関わらず胡坐を掻くクリスに向けて、赴堂の眉が蠢いた。

 

「…何か言いたいことでもあるのか?」

 

すると、我が意を得たりとばかりにクリスは声を張り上げて、

 

「そうだよッ! さっきの早く子供を作れみたいなアレはなんだッ? まるっきりセクハラじゃねえかッ!」

 

その声を聞いた参列者が揃って目を剥いたのは、クリスの口の利き方かその内容ゆえかは判断がつかない。

 

「…ほう。儂の物言いが不躾と申すか」

 

赴堂の言に、クリスは勢いよく頷く。

尋常でない彼女の様子に、さすがに弦十郎も腰を浮かしかけたが、赴堂に目線で制された。

歯噛みする弦十郎の目前で、クリスの声は続く。

 

「子供なんかそのうちポンポン産んでやるよ。でもな、それは夫婦間の問題で、爺さんが口を挟んでくるもんじゃねえだろッ?」

 

この物言いに、さすがに翼も弦十郎も絶句するしかない。

静まり返った場の雰囲気に全く頓着しないクリスの瞳は、弦十郎には見えなかったが完全に座っていた。

 

「だいたいさ、古いしきたりとか礼儀とか重視する割に、あたしはまだ貰ってないもんがあるんだけど?」

 

「ふむ?」

 

訝しげに眉根を寄せる鎌倉の怪物と呼ばれた老人に、クリスは堂々と言い放つ。

 

「お年玉さ。目上のものが目下のものにくれるのは当然だろ、お爺ちゃん?」

 

室内の空気は完全に凍りついた。

赴堂に対してこのような大それた言葉を口にした人間は、空前にして絶後だろう。

ましてやそれが直系の息子の嫁となれば、どのような仕儀と相成るのか?

誰もが息を飲むのも躊躇うような沈黙は、きっと針が落ちた音さえ聞こえたに違いない。

赴堂の唇が震えた。

徐々にその振動は大きくなり、深い皺が刻まれた唇から溢れ出たものは、哄笑。

弦十郎は信じられないものを目にした表情で、その光景を見守るしかない。

 

まさか。あの親父が、愉快そうに笑っているだと…ッ!?

 

怪物と呼ばれた眉雪の哄笑が響き渡る。

驚愕と戸惑いが混合された人々のざわめきの中、肝心のクリスはきょとんとした表情で周囲を見回していた。

 

 

 

―――かくして今年の風鳴家の年賀会は例年にない展開を見せ、参列者の記憶に長く刻まれることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道の車のハンドルを握った弦十郎は、やや茫然とした眼差しを正面に向けていた。

 

年賀会はどうにか終了したものの、何を食べたか全く覚えていない。

赴堂の滅多に見られない態度が披露されたとて、場の空気が好転したわけでは決してなかった。

むしろその後は、他の親族から無言の詰問の視線に晒された弦十郎である。

クリスと夫婦となった以上、それは仕方のない仕儀ではあったが、正直針のむしろだった。

それらもどうにかやり過ごし、久々に親子水入らずで過ごすことにした八紘と翼と別れ、足もとも覚束ないクリスを車に誘導して乗せた後。

追い付いてきた家令に呼び止められ、「御前からです」と差し出された袱紗の中には分厚い封筒。

 

「…なんだ、これは?」

 

受け取って訝しげな声を出してしまう弦十郎に、

 

「んなもんお年玉に決まってんだろッ!」

 

陽気に断言したクリスが中身を確かめると、封も切られていない一万円の束が丁度百枚。

まさか、と弦十郎が家令を見やれば、恭しく首肯された。

 

「もしかして、クリスくんは親父に気に入られたのか…?」

 

呻く弦十郎だったが、嫁はケラケラと笑って屈託がない

 

「よっしゃ、将来のために貯金しとこうぜ♪」

 

その言に、弦十郎は厳つい頬に血を昇らせてしまう。

将来的に子供なんてポンポン産んでやるとクリスは放言してしまっていた。

無論、子供は女一人だけで作れるはずもなく―――。

 

 

 

 

「なあ、クリスくん」

 

ハンドルを操りながら弦十郎は助手席へと声をかける。

返事はない。

横目で見れば、袱紗を胸に抱くようにして、クリスはすいよすいよと寝息を立てていた。

そのあどけなくさえ見える寝顔を眺め、弦十郎は思いを巡らしている。

いかに酔っていたとはいえ、あそこまで正面切って親父に苦言を呈することが出来る人間がいるだろうか?

夢想だにしていなかったそれは現実に存在した。しかも自分の嫁とはな。

 

弦十郎の口元に笑みが浮かぶ。

我知らず、思いが口から飛び出していた。

それは、昔日の桜井了子にすら贈ったことのない言葉だ。

 

「―――まったく、大した女だよ、おまえは」

 

 

 

 

 

 

 

 



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