ちっぽけな魔術師の斬魔飛哮 (望夢)
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プロローグ

性懲りもなくデモンベインを書き直しています。定期的に無性にデモンベインを書きたくなるんですよね。

ちなみに今回はデモンベインの知識が無くても読める様に頑張ってみようと思います。


 

 如何にしたらこうなるのかと不思議に思う廃墟の中に呆然と立っている少年が居た。

 

 まだ幼さが残る顔つきと、靡かせる黒い長髪は少年を少女の様に魅せる。

 

「どこだ…? ここは」

 

 放つ言葉は悲しく響くだけだった。

 

 黒い太陽と紅い月が昇る澱んだ空。静寂を運び、死の臭いを孕む風。地平の先までも広がる廃墟。それは古代遺跡にも似た光景ではあるが、その廃墟から読み取れる文明度は近世のそれに相違ない。そんな廃墟に人の気配は無い。無くて当たり前――なのか彼にはわからないが、廃墟でも人が住んでいそうなイメージを抱いていた彼には、人の気配を感じない廃墟はまるでゴーストタウンという括りを離れた。死んでしまった土地というイメージを抱かせた。

 

 うず高く、出来の悪いオブジェの様に積まれた瓦礫の上で――墓標のごとく突き出した鉄骨に背中を預けながら彼は静寂を享受していた。静かな場所が好きな彼からすれば、静寂な世界というのは歓迎だ。

 

 しかし空を見上げれば瞳に映る光景は真っ赤な空であった。

 

 赤いペンキをぶちまけ、何重にも重ね塗りをした様な、赤くありながら黒い血の色の様な空だ。夜なのか昼なのかわからないが、逢魔ヶ刻にしては些か物騒な空だ。

 

 ひゅうと風が吹く。まるで何週間も放置した台所のような腐臭染みた臭いと錆び鉄のような鼻に突く臭いを運ぶ風に顔を険しくする。

 

 ポケットのハンカチと服の袖の二重フィルターで防御しながらとりあえず歩き始めた。目指すのはとにかくどこでも良い。動けば何かあるだろうという考えしかなかった。ともかく方向は敢えて風の吹いてきた方向だった。

 

 そして数分か、或いは数十分か、或いは数時間。同じような景色ばかりで時間経過が、体内時計が狂っている様に感じながら歩くと、子供が啜り泣く様な声が聞こえた。空耳かとも思ったが、両手を耳に当てて音を拾おうと耳を澄ませば、やはり聞こえてくるのは子供が泣いている啜り声。放ってはおけない。それに誰か居るのなら情報が得られるかもしれない。

 

 瓦礫を上り歩いて、悪路を歩いて、狭い道を、道なき道を歩き続けた。その先に巨大な影が見えてきた。

 

 薄汚れた廃墟の上に佇む巨大な紅の巨人。その足元に蹲る紅い影。まるで神様に祷りを捧げる巫女の様で、不謹慎だが見とれてしまったのだ。だが、泣き声は今見ている巨人の足元から聞こえてきている。

 

「うわっ!?」

 

 足場の悪い瓦礫の上だ。足を滑らせてしまう。

 

「っ、いづっ!?」

 

 瓦礫は鉄骨も剥き出しだ。こけた時に突き出していた鉄筋で大分深く足を切ってしまったらしい。血が溢れ、痛みは熱に変わっていく。

 

「だれ…?」

 

 振り向いた影は少女だった。第一印象はただ紅い。それに尽きる。靴とドレスや帽子の刺繍以外はすべて紅い。瞳も、髪も、帽子も、ドレスから伸びる紅いレースに隠された下着さえ。

 

 紅い。すべてが紅く、血を彷彿させる程に紅かった。

 

 ゆらり、ふらふらと、まるで亡者の様な足取りで近寄られる様は軽くホラーだが。動きたくても足がしびれてきて動かなかった。

 

「あらあら、不運ねぇ。あなた、あと数分の命よ。動脈をば~っさり。抑えても血は止まらないわぁ」

 

 恍惚とした表情で告げる少女だが、言われるまでもなく、なんかヤバ気なのは自分でもわかっている。足の感覚が消えていって、吐き気が込み上げてくる。頭痛が始まって目眩が起き、視界すら明滅し、眠気も襲って来る。

 

「どうしてもって言うなら、助けてあげないこともないわよ?」

 

 クスクスと笑いながらからかう様に告げてくる少女。しかし余裕なんてものはない。耳で聞いていても頭まで入っていかない。

 

「ほらほらぁ~♪ どうするぅ~? もう3分もないんじゃないかしら?」

 

 人が死にそうになっても面白そうに囃し立ててくる。まるで目の前の死が、死に逝く様を見せ物の様に悦ぶ子の様に。軽い怖気と吐き気がした。

 

 怠く重い腕を伸ばす。伸ばした腕は少女の肩に触れた。弱々しい力で肩に手を置いた。

 

「うふふ。いいわぁ。契約は成立」

 

 紅い唇で口づけをされた。小さくて、柔らかく、それでいて咽かえる程に血の匂いが、生々しい匂いがする口づけだった。

 

 紅い光に包まれて視界が真っ赤に染まる。そこで、意識は途切れてしまうのだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「きしし…。面白い夢だね。黒羽(くろう)くん」

 

「そうかな? 少し薄気味悪いというか、生々しかったというか」

 

 昼休憩。周りでは仲良しグループで席を寄せあったりして昼食を食べていたりする普通の光景。しかし自分は教室の片隅で一つの机でひとりの女の子と向かい合って――ではなく、なぜか膝の上に女の子を乗せて食事をしながら今朝見た夢の事を語っていた。

 

「くすくす。欲求不満なのかなぁ? むげんがお相手仕ろうか?」

 

「なんでそうなる」

 

 いつの間にか背中に抱き着いて首に腕を回すあすなろ抱きをする女の子。背中に感じる柔らかさはDくらいはあるだろうか。確実にCはある。

 

「C寄りのDってところかな? 程よく実ってますぜ旦那ぁ」

 

「だから…」

 

 この幼馴染。寄車(よぐるま)むげん――。

 

 つかみどころのない幼馴染であり、こうして異性に対しても遠慮なく絡んで来る分け隔てのない所が人気の女子。顔も可愛い為に告白とかラブレターまで貰っているとか。それでも本人は面倒だと言って愚痴を聞かされる程度には、彼女の懐に居る自覚はある。

 

「そう。むげんは別に興味なんてない。君さえ居てくれるのならばむげんはそれで良い」

 

 そして巷で言う少し重い系女子でもある。

 

「きしししし。そう邪険にしないでおくれよ。君に嫌われたらむげんは、とてもとても悲しいんだ」

 

「そうは思えないけどね」

 

 基本的に˝ひとつのもの˝に固着するような子でもない事は長い付き合いで分かっている。寧ろ幼馴染だからという理由で自分が彼女の世界に居る事は異例中の異例とも言えるものだった。

 

 それでも友好を続ける辺り、自分も好き物だと黒羽は思っている。

 

「でもさぁ。そういう夢は、案外夢じゃないのかもしれないね」

 

「夢じゃなかったら悪夢だ悪夢」

 

 アレがただの夢でないのならば一体何だというのだ。しかし何故だか引っかかるのだ。あの夢に出てきた女の子も、そして、あの紅い巨人は、見たことがあるはずなのに、どこで観たのかが思い出せない。実際に見たはずというわけでもない。例えばCMの様な一瞬の映像。或いは漫画やアニメの様な、そんな存在。とも少し違うのだろうか。しかし見覚えがあるのは確かだった。

 

「じゃぁ。悪夢はそれこそすぐそこにまで迫っているのかもしれないね」

 

「なにを――」

 

 そう言いながら、いつの間にかむげんに口づけされていた。彼女の綺麗なアメジストの様な色の瞳と、眼帯に包まれた顔が間近にある。重ねられた唇から舌が這い出して来て、歯を舐める。僅かな隙間をこじ開ける様に動く舌が歯を割って入ってくる。口の上顎を舐められてゾクゾクと背筋に快楽が走る。そこで口を大きく開けてしまったが最後。口の中を好き勝手に嬲り始めるむげん。互いの舌が交尾するかのように厭らしく絡みつき、唾液が互いの口を行き来して、とても甘く、蕩けるような粘液に代わり、いつの間にか黒羽も彼女の腰や頭に腕を回して逃がすまいと、この味をもっと味わいっていたいと思う様になっていた。

 

「む、むーちゃん…!?」

 

 いきなりすぎて昔のあだ名が、ふたりでいる時等に未だに使うあだ名が口を突いて飛び出した。互いの口から銀色の橋が伸びていた。

 

「きしし。なにを驚くのかな? むげんと黒羽は˝恋人˝じゃないか」

 

「だ、だからって、ここ学校…!」

 

 学校で、隠れてならまだしも、こんな公衆の面前で口づけを出来る程に図太い神経は持ち合わせてはいない。

 

 そういう図太い神経を持つ様なバカでもない。

 

「そうかな? 黒羽は全然自分を分かっていない。君はこのむげんでも欲してやまない存在。むげんと黒羽は対なんだ。或いは比翼。或いは陰陽。或いはなくてはならないもの。君はすべてに通じる鍵であり、すべてに通じる道標。こうしてむげんとも交わえる存在。黒羽、君はね。そういう存在なんだよ」

 

「なにを――」

 

 彼女の言っている意味がわからない。わかろうとしても頭が理解を拒絶している。いや、わかるはずだ。

 

「今はまだお休み、黒羽。君はいずれ嫌が応にも運命に立ち向かうんだ。だから今はお休み。良い夢を」

 

 そうむげんが黒羽の瞳をひと撫ですると、黒羽は急激な抗えない眠気と共にその意識を落とすのだった。

 

 

 

 

 

to be continued…



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ダンウィッチの怪

内容的にはあまり変わらず、しかしデモベ系の知識を没収している感じで書いています。



 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」

 

 死に物狂いで廊下を走る。本棚の隙間を縫って走り抜ける。

 

 後ろを振り向かずに、ただひたすらに前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前―――――――。

 

 ヰguなヰヰぃぃヰぃぃぃぃぃいいい――。

 

「あっ、ぁぁ、あぁぁぁあああああああああああああああ――――――!!!!!!!!!!!!

 

 いくら走っても追ってくる怪物。図書館の中を駈けずり回っても撒く事が出来ない。

 

 吐き出す息は熱く喉を焼き、脚は鉛のように重く、心臓は破裂しそうな程に脈打ち、それでも命の危機に際して身体の枷を解き放ったかの様に限界を超えて身体を動かす。

 

 気づいたらこの図書館に居た。陰湿で、真っ暗な雰囲気から真っ当な場所じゃないことは考えていた。

 

 でもそれが、あんな化け物に出会すと誰が思うのだろうか。想像力が足りないとは言うが、あんなものを誰が想像出来るのだというのか。

 

 あれはなんなのか。どういうものなのか。そんな事を考える暇もなく、いや、考えてはいけない。あれは人間の認識が理解できるものでも、理解出来ても良いものじゃない。

 

「ひぃ、ハァ…、ひぃ、ひぃ、あぁ、あうっ、あああああああああああああああ!!!!!!」

 

 足が縺れそうになり、転げそうになるのを木綿が裂けるような叫びを上げて、自分の身体を叱咤して、如何にか転ばずに落ち込んだスピードを取り戻す様に足をひたすら動かし続ける。

 

 伊具なヰぃぃいいいいいいいい――――。

 

「ひぃぃぃぃ、あああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 

 僅かな窓から差し込む月の光に照らされた怪物の姿。山羊の様に飛び出した眼球が、くるくると回りながら、此方を見つめていた。

 

「ッ――――――やああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」

 

 精神を容易く打ち破り、原始的な、野生が、生物としての遺伝子に至るまでに冒涜的な恐怖が焼き付けられてしまった。

 

 吐き気を通り越し、身体を流れる血液すら冒す腐臭。

 

「あ、ああ、あ、あ、ぅぅ、ぅ、うあああああああ!!!!」

 

 もう正常な精神状態とも言えず、取り乱し、泣き叫びながら手当たり次第に本棚にある本を投げつける。

 

 手が触れた先から切り刻まれたり、腐ったり、焼けたり、乾いたり、膨れたり、異常を来しても構わずに本を投げつけるという行為を行うだけだった。

 

 ヰぐなヰぃぃぃいイぃぃぃぃ――――。

 

「はっ、はっ、ははっ、はっ、は、は、ぅはっ」

 

 手に当たる物が無くなってしまい、足腰に力が入らないまま、本棚に背中を擦りながらなんとか怪物との距離を開ける。

 

 怪物は1歩、また1歩、近付いてくる。

 

 もうなにがなんだかわからないまま、ただ誰かの助けを求めた。誰がこんな怪物を退けられるのかわからない。誰も居ない図書館の中、あんな怪物から救ってくれる人が現れるはずもない。

 

 ヰぐなヰヰぃぃぃぃい――。

 

「が、あが……っ」

 

 人間と同じ五本の指を持つ手に首を締め上げられる。片手で軽々しく持ち上げられ、すべての荷重が首に集約し、身体から首が抜け落ちそうになる様な感覚を味合わされる。

 

 殺される……っ。

 

 締め上げられる苦しさで浮かぶ涙に霞む視界の向こう。山羊の様に飛び出した眼球が見える。

 

 その目はおれの顔を映し、そして瞳は嘲笑うかの様に細められていた。

 

 人間と同じ四肢を持ちながら、体躯は2mは超す巨漢。だが纏う雰囲気は普通じゃない。

 

 こんな冒涜的な雰囲気を持った存在は生まれてはじめて見た。普通は出逢わずに一生を遂げられる筈の存在が、目の前に存在していた。

 

「ば、け……もの……ぐああああああああああああ!!!!!!」

 

 いぐないいいいいいヰヰ!!!!!

 

 両手を使って首をへし折らんばかりに締め上げてくる怪物。化け物という言葉に腹を立てたらしい。

 

「あっ…かっ……あぐ……」

 

 全身から力が抜け、酸素の行き届かない頭はひどい頭痛を訴え、意識が遠退いていく。

 

 神様でも、悪魔でも、死神でも何でもいい……。

 

 このばけものから、おれをたすけてくれ……。

 

 都合のいい願いだろう。物語でもないのだから、助けを求めたところで誰が助けてくれるというのだろうか。

 

 それでも、そこまま死にたくはないと強く願った。このまま理不尽に死んでたまるものかと。

 

 ―――――――――――。

 

 そんな思いが通じたのだろうか。遠退きかけている意識に誰かが触れた気がした。

 

「ぎっ、がああああああ!!!!!!」

 

 肺に残る酸素を吐き捨てる勢いで雄叫びを上げながら、手を伸ばした。

 

 暗い、冥い、奈落の様な闇の中で、本棚に納められている本が光っていた。

 

 その光は人の形となった。

 

 それが何なのかはわからない。死にかけている脳の見せる幻覚かもしれない。

 

 それでも、この手を伸ばした。救ってほしい。助けてほしい。この冒涜的なナニカを追い払って欲しい。 

 

 人の形をした光が手を差し伸べてくる。その手を取った時、˝ナニ˝かと繋がった。

 

 パラパラパラと、まるで本の頁が捲れる様な音が聞こえ。紙が風に吹き飛ばされたかの様な音も聞こえてくる。

 

 首を掴んでいた手が、なにかによって切り落とされた。

 

「ゲホッ、ゲホッ、ぐぇっ、がはっ」

 

 強烈な吐き気と頭痛を感じながら、身体に酸素を取り込んでいく。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……かっ、はぐっ」

 

 涙で霞む視界の先には、怪物に立ちはだかる姿があった。

 

 黒い髪の毛、黒いドレス、陶器の様に白い肌、小柄の女の子だった。

 

 女の子の影から黒い犬が這い出てくる。痩せて細った。という次元ではなく骨と皮というか骨その物の様な形から辛うじて犬とわかる生物は、飢えているように喉を鳴らした。宇宙の邪悪さが全て痩せて飢えた身体に集約されているような、そんな醜悪な姿と唸り聲だった。

 

 犬が怪物に向かって飛び掛かった。

 

 肉をその牙で喰い千切り、怪物をズタズタに引き裂く爪。ぶちぶちと聞こえるのは肉の繊維が千切れる音だろうか。グシャグシャと聞こえるのは臓物を咀嚼する音だろうか。

 

 まるで助けを求めるように伸ばした腕さえ食い荒らされていく。

 

「うっぷ…」

 

 その悍ましい光景に吐き気を感じながらも、その光景を確と目に焼き付けた。

 

 満足したのか、犬が戻って来た。犬は女の子にじゃれつくと、その影の中に戻って行った。不浄な臭いを伴う煙が発生させて。……何故かニタリと笑う猟犬の姿を幻視した。

 

 犬が去り、気狂いしそうな程に煩く啼く何かの鳴き声が鳴り止まない中。女の子がゆっくりと振り向いた。

 

 その青い瞳に見つめられた自分は、身動きが出来なかった。

 

 吸い込まれそうな程に深い碧眼。魂が囚われてしまいそうな感覚すら覚えた。

 

 呼吸も忘れて、彼女を見つめていた。

 

「ご無事ですか? マスター」

 

 鈴の音色の様な声が、怪物に冒された心を癒してくれる様だった。

 

「き、君は……」

 

 そう呟くと、まるで君主に仕える騎士の様に片膝を着いて彼女は頭を垂れた。

 

「私はナコト写本が精霊。アナタ様の声に応え、御前に参上致しました」

 

 ナコト写本。その名は聞いた事がある。

 

 クトゥルフ神話に登場する架空の魔導書の名だ。

 

 その精霊と名乗った。

 

 魔導書の精霊? そんなものが存在するはずがない。ナコト写本? それは架空の魔導書だ。自分は夢でも見ているのだろうか。

 

 いいや、夢であるはずがない。あの狂気と恐怖と邪悪が夢であって良いはずがない。

 

「お労しや。さぞお辛かったでしょう」

 

 そう言いながら彼女はおれの手を取る。するとその小さな手から感じる温もりに、心の中から安堵が込み上げ、そして底知れぬ恐怖に身を震わせた。

 

「なんだったんだ……。なんだったんだ()()は!!」

 

「……場所を移しましょう、マスター」

 

「あ、あぁ…」

 

 そういう生返事になってしまうのも仕方がない。女の子に支えられながら歩くという無様を晒しながら、おれは一度図書館を後にした。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 アーカムシティ――。

 

 そこは現実には存在しない空想の街。魔術と錬金術により文明を過剰に発展させた街。聖者も愚者も金持ちも貧乏も光も闇も受け入れる摩天楼は、実在する。

 

 此処ではない、極めて近く、限りなく遠い世界にて存在する街だ。

 

 クトゥルフ神話において時々物語の舞台にもなるその場所。その街は。

 

 覇道鋼造というひとりの男が発展させた街となっていた。アメリカ合衆国のマサチューセッツ州の片田舎の町が巨万の富を築いた大富豪によって大改造ビフォーアフターバーナーされた街である。

 

 一先ず落ち着けた自分。未だに助けてもらった女の子に頭を撫でて貰うことでどうにか自分という物を取り戻せた黒羽は新聞からこの街の情勢をくみ取り、そして今が1928年8月3日であることも確認した。

 

 となれば、自分はダンウィッチの怪に遭遇したという極めて不運な事柄に直撃したという事だった。

 

 このダンウィッチの怪が解決するには1月の時間がある。

 

 ダンウィッチの怪。かの有名なH.P.ラヴクラフトの作品として有名だろう。コズミック・ホラーの生みの親であり、その恐怖は読んだもののみぞ知る。

 

 放っておいてもこの事件は解決される。

 

 一月の間を遣り過ごせればすべて終わり世は事もなしである。

 

「ありがとう、助けてくれて」

 

「いいえ。我が(マスター)の危機をお救いするのは我が勤めです。マスターはお気になさらずとも良いのです」

 

 さも当たり前のように言って見せるナコト写本の精霊を名乗る女の子。未だに信じられないものの、信じるしかないのかもしれない。

 

「それにしても、マスターって、おれはいつ君と契約したんだ?」

 

「先程の、あの図書館で。とはいえ狂気に駆られていらっしゃいましたので記憶の混濁があっても仕方がないのかもしれません」

 

 あの時。図書館で何かに縋る様に求めた存在。それが彼女だったのだろう。

 

「君は、ナコト写本の――」

 

「英語版であります」

 

 英語版。確かにミスカトニック大学の図書館に蔵書として保管されている魔導書だった記憶がある、

 

「私もマスターと契約して顕現出来る力を得られました。マスターはとても強い魔力の持ち主なのですね」

 

「そうなのか?」

 

「はい。とてつもなく大きな、力強い魔力を感じます」

 

 そうは言われても今一実感はない。そんなに凄い魔力があるのは有り難い物の、使えなければ意味がない。

 

 今から約1か月。それでダンウィッチの怪は終わる。

 

 自分には、なにも出来ない。する必要もない。何故なら自分は部外者だからだ。

 

 しかしどうやって元の時代に戻ろうかと考える。いや、時代というよりも元の世界か。

 

 何故なら空想上の土地に居る時点でおかしいのだ。サブカルチャーによくある異世界に来てしまったと考えるほうが自然だった。

 

「あー、君の名前は…?」

 

 取り敢えず助けて貰った相手にこれからの方針を相談するのは気が引けるものの、契約したという事はしばらくは彼女と行動を共にするわけであり、名前くらいは互いに知っておこうと考えて訊ねてみたのだが。

 

「申し訳ありません。生まれたばかりの私には名前がありません」

 

「そ、そうなのか…」

 

 そう言った漆黒の彼女は、何かを期待する様にこちらをチラチラと見てくる。言われずともそんなわかりやすい反応をされたら無視するわけにもいかない。

 

 ただ、下手な名前はダメだろう。それこそ名前で人生が変わるという話はよくあることだ。その相手に意味があるものでなければならない。名前とはその存在を定義するものなのだから。

 

「くろ……はね…」

 

 此方を慈しみながら見下ろす彼女の髪が揺れた。光でさえ呑み込みそうなほどに黒い髪が、まるで羽の様に見えた。そして生まれて初めての契約者が自分。そこまで考えて、それ以上の名前が自分には考えられなかった。

 

「黒い羽と書いて黒羽(クロハ)はどうかな?」

 

「イエス、マスター。了承致しました。今宵この瞬間より、私の名は黒羽(クロハ)となりました。素適な名前を授けて下さり、ありがとうございます」

 

「黒い羽はおれの名前でもあってね。クロウ、そう呼ぶんだ」

 

「マスター・クロウ。その名前を魂に刻みました。マスターの魂尽きるまで、お傍を離れません」

 

 両手を胸に当てて、クロハという名前を魂に刻み付ける様に瞑目する彼女は、とても美しく魅力的に映る。まだ10代前半位の女の子相手になにを考えているのやら。下手したら小学生くらいの女の子相手に魅力的だと感想を抱いた自分が恐くなった。

 

「では契の口づけを、その…、よろしいでしょうか…?」

 

 口元に指を当ててもじもじと恥ずかしがるその姿に思わず抱きしめて頭を存分に撫でたくなってしまうのを抑える。――だからロリコンじゃない!

 

「本契約完了…。かな?」

 

「あっ…」

 

 身体を起こして、ほんの少しだけ触れるような口づけ。唇を離すととても残念そうに呟くクロハに、このまま押し倒したくなってしまう衝動に駆られる。――だからペドフィリアでもないって!!

 

「ま、マスター……」

 

 うるうると瞳を滲ませるクロハに何故だかとてつもない罪悪感を感じる。というか胸が痛い。切ない。もっと繋がっていたいという欲求が胸を締め付ける。

 

「な、なにか、した?」

 

 いくらなんでも、可愛いからと言って此処まで自分が制御できないのはおかしいと気付く。

 

 それを確かめる為にクロハに問うものの、彼女は頬を染めるだけで言葉を返してはくれない。

 

「ますたー……もっと…」

 

 クロハの黒真珠の様な瞳が大きくなっていく。重なり合う鼓動。絡み合う指先。身を寄せ合い、もう、逃げ場はなく。その小さな唇が重なった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 クロハと契約を結んだクロウは身の振り方を選択する必要に迫られた。

 

 今居るのはスラムの無人の建物だ。アメリカのスラムと聞くと、治安は最悪そうな印象を受ける。しかも20世紀なら尚更だ。

 

 そんな場所に居を構えたクロウであるが、クロハという相棒(パートナー)のお陰で、同じように貧困窟で暮らす人間とは比べ物にならない程の快適な生活を送っていた。

 

 一般高校生という身分だった自分がひとりで貧困窟に放り出されていたら確実に身ぐるみを剥されていただろう。

 

「よう嬢ちゃんたち。こんなところで何してんだい?」

 

 高校二年生にしては己の身は貧弱だ。故に初見で男扱いされる事は殆どない。

 

 だからだろう。貧困窟を歩けば先ず絡まられる。金銭もあまりなければ身分証も意味を成さないので、自然的に身分が無くてもある程度は自由に住む事が出来る貧困窟に腰を落ち着ける選択肢になる。

 

 見ただけで不良っぽいと分かる少年五人組だった。彼らは徒党を組んで自分たちの前に立ちふざがっている。自分はクロハの魔術のお陰で毎日清潔を保てている。そしてクロハも絶世の美少女だ。服だって黒いゴシックドレスは汚れひとつない。つまりおおよそ貧困窟で暮らしている身形をしていないのだから、彼らからすればカモがネギを背負ってやって来た金蔓に見えるのだろう。

 

「悪いことは言わないから、持ってるカネと着てる服を置いてきな」

 

 錆びついているナイフをチラつかせながら脅迫して来る少年たちに冥福を祈る。

 

「が――っ」

 

「私のマスターに対する不敬。あまつさえマスターの所有物を奪おうなどと烏滸がましい」

 

 ナイフを持っていた少年が、見えない腕で薙ぎ払われた様に吹き飛んだ。それでも死なない様に手加減する様には予め言い聞かせている。

 

 貧困窟で生きている人間は明日をも知れぬ身だ。彼らも必死に生きている。

 

 それが子供ならなおさらだ。他者から奪い、脅し、盗み、そうしなければ生きていけないのだ。

 

 そんな彼らからすれば自分は恵まれている身だ。

 

「光栄に思いなさい。今からあなた達はイヌの餌になるのだから」

 

 クロハの影から骨だけの細々とした生き物が現れる。かの有名なティンダロスの猟犬だ。

 

 時間が生まれる以前の超太古、異常な角度をもつ空間に住む不浄な存在とされる。

 

 絶えず飢えていて、非常に執念深い。四つ足で、獲物を知覚すると、その獲物を捕らえるまで、時間や次元を超えて永久に追い続けてくる。獲物を追う様子から「猟犬」と呼ばれるが、犬とは全く異なる存在である。

 

 それでも姿は犬の様である。

 

 角度のある場所から現れる為、コイツに狙わせたら角度のない空間に逃げるしかない。もちろんそんな空間は物理的に作り出すのは不可能だ。部屋が出来ても扉があればその扉の生み出す角度を使って現れる。調度品に角度のあるものがあってもアウトだ。

 

 そんなティンダロスの猟犬を、クロハは召喚出来るのだ。なんと恐ろしい子だろうか。

 

 とはいえ本物ではなく、クロハの本体である『ナコト写本』に記されているティンダロスの猟犬についての記述を魔力によって実体化させたページモンスターと呼ばれる模造品(フェイク)だ。

 

 それでも、本物と全く同じ習性で行動するらしいので、ある意味本物でも間違いないのだろう。

 

 そんな化け物である事を少年たちは知らないだろうが、異様な臭気と共に、影から現れる異形ともあればもうホラーだろう。

 

「う、う、うわあああああーーっ」

 

 蜘蛛の子を散らすように逃げて行く少年たち。クロハに吹き飛ばされた子は置き去りだ。如何に徒党を組んでいようと足手まといは切り捨てられる。それがこの貧困窟のルールだ。

 

「もう良いぞ、クロハ」

 

「しかしマスター!」

 

 この子はとても過保護、とは少し違う。しかしとても主思いの良い子だ。憤怒の表情で倒れている少年を睨みつけている。今にもティンダロスの猟犬も飛び出して行きそうである。そうなれば少年は犬のエサだ。

 

「良いから。帰るぞ」

 

「…、イエス、マスター」

 

 猟犬を引っ込めて、一歩後ろを着いてくる魔導書の精霊の手を掴む。ご機嫌取っておかないとこの子はあとが恐いのだ。

 

「ま、マスター!?」

 

「ありがとな。今日も守ってくれて」

 

「い、いえ。マスターをお守りするのは私の義務ですから」

 

 並んで歩けば同じような背丈の少女に守られっぱなしというのは、男として情けない。だが、自分は非力な凡人なのだ。

 

 しかしそれに甘んじているのは今だけだ。

 

「ふっ、はっ、せいっ」

 

 強くなるために先ずは自分を鍛える事から始めた。

 

 黒い皮膚に蝙蝠の羽と長い尻尾が特徴の魔物の様な存在――夜鬼(ナイトゴーント)相手のスパーリング。

 

 ナイトゴーントは様々な旧支配者に仕えていて、クロハにもナイトゴーントに関する記述は存在していた。

 

 ともかく先ずは身体を鍛えないと話にならないだろうという見解にクロハとの相談で至ったわけで、こうして己を鍛える為にページモンスターと戦う事になったのだ。

 

 何故そんな事をしているのかと言われれば、やはりこの身に渦巻く悔しさからだろう。

 

 あの図書館で遭遇した存在。それはウィルバー・ウェイトリィに違いないだろう。

 

 人間の母親と、邪神の間に生まれた混血児。

 

 それでも兄の方はまだ人間の側の血が色濃い。それでもあんなに悍ましい存在だった。

 

 ならばその弟はいったいどれほどの悍ましさを持つ存在なのか。

 

 クトゥルフ神話に関しては、少しばかりだが知識を持っているクロウ。

 

 ダンウィッチの怪はクロウも本で読んだことがあるのでどういう内容であるのかは知っている。

 

 そして、あの図書館だけですべては終わっていないのだと知っている。

 

 だからなんだというのだ。放って置けば解決されてしまうというのに。

 

 200年以上遺体が埋葬されている墳墓の塵を3、微塵にした不凋花(アマランス)を2、木蔦の葉の砕いた物1、細粒の塩1を土星の日、土星の刻限に乳鉢で混ぜ合わせる。調合した粉薬の上でヴーアの印を結び、コスの記号を刻み込んだ鉛の小箱に封入する。

 

 出来上がった粉末は、イブン=ガズイの霊薬だ。

 

 この粉末には虚構と現実を結びつける効果がある。

 

 材料はティンダロスの猟犬たちが集めて来てくれた。なんというか便利な子たちであった。

 

 そんな便利な猟犬たちのお陰で、イブン=ガズイの粉薬は用意出来た。

 

 あとは現地調査なのだが、想定されている相手は腐っても邪神の血を引く化け物だ。

 

 出来得るだけの準備を重ね、やれる事はすべて行った。

 

 高度経済成長によって日増しに拡大化する街――アーカムを中心にその開発に取り残されて忘れ去られた村。

 

 そのひとつがダンウィッチ。

 

 暴力と背徳が跋扈し、邪悪な儀式や謎めいた集会、秘められた殺人などが平然と行われているという、堕落と退廃に冒された不浄の土地である。 

 

 風光明媚とは聞こえがいいが、心癒される感じはまったくありはしない。

 

 木々は異様に大きく、葉の色や形は見たこともないものばかり。遺伝子に致命的な欠陥があるのか、あるいは地球の植物ではないように感じる。

 

 村に着いてクロウは聞き込み調査に乗り出した。とはいえ、余所者のクロウにまともに執り合うような人間はいない。見た目が子供なのも悪いのだろう。

 

 仕方がない為、クロウは魔術的な暗示を使い、話を聞き出すことにした。

 

 ダンウィッチの中心から、7km離れた辺鄙な場所にウェイトリー家はある。

 

 ドーム状の小高い丘。センティネル丘へと向かう。途中、何軒もの家や木々が薙ぎ倒されいる光景が眼に入る。

 

 注視すれば、地面をとてつもなく巨大な物体が蠢いた形跡がある。

 

 吐き気を通り越して、血液が毒に変わりそうな程の悪臭が立ち込める。

 

 ここ数日で被害が増え、村一同で恐慌状態に陥っていた。その痛々しい光景は、いくら村の住人が排他的とはいえ、そういう住人が藁をも縋る思いで話してくれる様子に、同情する。

 

 たったひとりの魔術師の実験で、この村は邪悪に冒されているのだ。許せるものでもない。だからこそ、自分は此処にやって来た。

 

 これは個人的な復讐だ。やられっぱなしなのは悔しい。自分の魂にまで恐怖を植え付けた存在が赦せない。

 

 あの日以来、クロウはひとりで眠る事が出来なかった。悪夢に魘され、脳裏に焼き付いた恐怖が夢の中にまで襲って来るのだ。

 

 そんな自分が情けなくて、そんな自分との決別の為に、この舞台に上がる決意をした。

 

 やがてセンティネル丘が見えてきた。その頂には荘厳さが漂う石造りの環状列石の姿を確認できる。

 

 アレは『門』なのだと、一目見て理解する。

 

 不完全――いや、壊れてはいるが、邪悪の世界を垣間見るには充分だろう。

 

 そのセンティネル丘の中腹。姿は確認できないが、草木が踏み潰され、地面に刻まれていく奇妙な跡からそれとわかる。

 

 ウィルバー・ウェイトリー/その弟だ。

 

 足が震える。今でもはっきりと思い出す忌まわしい記憶。

 

 山羊の様な目に見つめられたあの日の夜。まだ一月しか経っていないのだ。忘れられる筈がない。

 

 見つめられたその眼の奥深くに見えたもの。

 

 それは静止した「現在」。

 

 それは流動する「過去」。

 

 それは蓄積された「未来」。

 

 それは「門」。

 

 それは「鍵」。

 

 それは、

 

 それは、

 

 それは――「扉」だ。

 

 やらゆる時間と時空に存在する「門の鍵にして守護者」。旧支配者の棲む外宇宙へと繋がる存在。

 

 外なる神――ヨグ=ソトース。

 

 外なる神の前には、人間の精神など障子の紙同然だ。

 

「ッ――」

 

 狂いかけた精神を、唇を咬み、痛みで引き戻す。

 

「マスター」

 

 そんなクロウを、クロハが寄り添って声を掛ける。その顔は不安に揺れている。ただの意地の様な戦いに彼女を巻き込んでしまった事に罪悪感を感じるものの、彼女がいなければ自身は何もできない唯の人間なのだ。

 

 地を蹴って野を駆ける。赫怒の焔を燃やし、全身全霊をもって復讐する。この魂に、外なる神々の恐怖を植え付けてくれたことを後悔させる。汚泥の血脈はここで断ち切る。なによりも危険な存在なのだ。故にこの場で必ず仕留める。

 

 身体能力を強化し、丘を駆け登り、ウェイトリーの眼前に控える。

 

 イブン=ガズイの粉薬を納めた缶を開け、中身を盛大にぶちまける。虚構と実体を結びつける霊薬が反応して、˝ソレ˝は姿を現した。

 

 十数階建てのビルに相当するだろう巨体。のたうつロープが複雑に絡み合うような毛玉のような形をしていた。躰はゼリー状の皮膜のようなもので覆われており、いくつもの大きな瞳が様々な方向に向けられている。また、三十近い口状の突起物はなにかを求めて蠢いている様は、発狂しても不思議ではない凶悪な姿だった。そして出来の悪いオブジェの様に人の巨大な顔が着いている。

 

『ヰぐなぃぃぃイぃい――』

 

 蠢く触手が、一斉にこちらに向かってくる。 

 

 人の力では及ばない存在。魂を穢れさせる邪悪。

 

 後退りしそうな己の足を気合で押し留める。正直言えば恐怖で今にも逃げ出したい。しかしそれでどうなるというのだ。逃げてどうなる。自分は一生恐怖に苛まれて生きる事になるだろう。ここが自分の分水嶺だ。

 

 だからこそ、退きはしない。必ず勝利する。

 

 その意志を込めて、魔術を発動させる為に己の意識を集中させる。

 

 血こそ我が存在。

 

 我が魔力(ちから)の証明。

 

 我が魔術の源泉。

 

 現れたのは黄金に輝く弓である。魔力をつぎ込み光り輝くその光は、まるで黄金の黄昏の様に周囲を染め上げる。

 

「奏でよう。闘争の管弦楽曲(オーケストラ)を」

 

「聖弓ウィリアム・テル起動――」

 

 その黄金の弓を手に掴み、和弓の姿勢で弦を引き絞る。

 

「アルゲンティウムアストルム。天狼星(シリウス)の弓よ!」

 

 引き絞った弦に光が収束し、一本の矢を作り出す。その弓は更に輝きを増していく。

 

「我は闇、我は蛇、我は弓、我は星――」

 

 更に番える矢に紫電が迸り、ありったけの魔力を注ぎ込んで必殺の一撃を加え、意志も殺意もすべてを魔力と共に込めて行く。過負荷によって弓を握る手や、弦を引き絞り矢を番える指が裂傷し、火傷さえ負うが、この一撃だけは届かせるのだと気合と根性で耐える。

 

「悪神セト、蹂躙せよ。犯せ、冒せ、侵せェェェッ!!!!」

 

 そして放たれた煌く光の一撃は、その輝きの分を反転させるかのように、まるで太陽の黒点に生まれ変わるかのように漆黒の龍となって、その咢を広げて邪悪な落とし仔へと向かうのだった。

 

 

 

 

to be continued…



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機械仕掛けの神

構成上、最初からクロックワーク・ブラッドでの顕現に変更しました。

初見の方に優しく説明したいものの、説明できない自信があるデモンベイン・クロックワーク・ブラッドの造形。カッコいいからいずれゲームでも出て欲しかったりするんだけどなぁアレ。

もうちょいで15周年記念の書籍も発売なので全裸待機しながら待っている所存です。


 

 星すらも砕くだろうと思わせる程の力を秘めた龍の咢。

 

 その黒き閃光は正しくウェイトリイの顔面へと吸い込まれ、直撃した。

 

「くっ――!」

 

 爆風が丘を襲う。閃光と爆炎がすべてを無に帰す。全身全霊を込めている一撃に、いくら相手が邪神との混血児であっても無事では済まないだろう。

 

 油断なく、弓は構えたままで煙が晴れるのを待つ。

 

「マスター!」

 

「っ、くぁっ!!」

 

 爆煙の中から撓る触手が飛び出し、クロウの身体を締め上げて拘束した。

 

「マスター!! きゃあああっ」

 

 慌ててクロウを助けようとするクロハだったが、次いで襲ってきた触手が彼女を強かに打ち払った。

 

「ま、す、たぁ……っ」

 

「っ、クロハ…!」

 

 ウェイトリイは人間と比べ物にならない程に巨体だ。その触手も太く、直撃すれば無事では済まない。魔導書の精霊であるが故に普通の人間よりも頑丈であっても、ダメージの深いクロハは起き上がれずに、苦し気に主の名を呼びながら手を伸ばす。

 

 それを見て憤怒の表情を浮かべながら、クロウはウェイトリイを睨みつける。

 

 その人間の顔は酷く抉れていて、タールの様な黒々とした血を流しているが、生きている。

 

 ここに来て最早ウェイトリィの弟の方は人間の範疇を超えて確実にあちら側の存在であると改めて認識する。顔を半分抉られているのに生きている。その事実だけでも驚愕に値する上にその生命力の強さに厭きれる。

 

 だが厭きればかりもいられない。身体強化に魔力を注ぎ込み、四肢を拘束する触手を力任せに引き千切る。

 

天狼星(シリウス)の弓よ!」

 

 再び弓に矢を番え、今度は手数で勝負する。襲い来る触手を次々に撃ち落とす。――しかし直ぐに追いつかなくなる。

 

「っ、こんのォ!!」

 

 懐から取り出した手榴弾のピンを口で引き抜いて投げつける。

 

 手製の手榴弾で、火の魔術刻印の施されているそれは通常の手榴弾の何倍もの威力があり、火薬にはイブン=ガズイの粉薬も混ぜ込まれていて、物理的にも霊的にも効力を発揮するものだ。

 

 手榴弾の爆発によって触手が吹き飛ばされる。

 

「クロハ!」

 

「ます、たぁ…」

 

 クロハに駆け寄り、抱き起す。

 

「もうし、わけ、ございま、せ、ん…」

 

「喋らなくていい。とにかく撤退を――」

 

 そこまで言った所で、ガクンと、身体が引き寄せられる。

 

「しまっ――!?」

 

 それは触手によって足を掴まれ、クロウは勢い良く振り上げられると、地面に向かって振り下ろすように叩き付けられてしまった。

 

「ぐあああああああっ」

 

「きゃあああっ」

 

 辛うじてクロハを守れたクロウではあるが、叩き付けられた衝撃に身体中に激痛が駆け抜け、内臓の中身が飛び出しそうなほどだった。魔力で身体を強化していなければトマトの様に弾けていただろう。

 

「ぐ、がはっ」

 

 そしてその負荷を受けた内臓が血反吐をクロウに吐き出させた。

 

 そのまま触手はクロウの身体を引き摺って持ち上げた。

 

「っ、ますたー…!!」

 

 その瞬間にクロウはどうにかクロハだけは手放せた。

 

『ヰぐなぃぃぃイぃい――』

 

 人ではない雄たけびを上げ、ウェイトリイはクロウをその抉れた口の中へと放り込んだ。

 

「ま、……マスタぁぁぁぁああああああ――!!!!

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 上も下も。右も左も。上下左右という概念がない空間を、クロウは落ちていた。

 

 真っ暗闇の中で、奈落に向かって堕ち続けていた。

 

 敗北。少しでも勝てると驕った自分の末路としては相応しい。

 

 思い越すのは黒い少女。こんな自分を助け、支え、共に戦ってくれた少女。

 

 自分は敗北したが、本来ならば自分が挑まずとも解決していた事柄だ。自分は邪神の落とし仔の腹の中で諸共に処分されるのだろう。仕方がない。挑んだ結果なのだ。自分の力で復讐すると息巻いた結果がこれである。とんだお笑い物だ。

 

 本当に、このまま終わって良いのか?

 

 終わりで良いのか?

 

 終わりで構わないだろう。自分はどう足掻いたとしても、物語の主人公ではないのだからこの程度でしかなかったのだ。

 

 だから諦めても良いのか? 邪悪に挑む覚悟はその程度の物だったのか? 1度や2度の失敗で萎えてしまう程度の甘い決意に、自分の恩人を巻き込んだ恥知らずのままで終わるのか?

 

 短い時間の関係でも、彼女だけが、彼女だけは、自分の味方でいてくれた。

 

 冒涜的な悍ましい化け物からも、魘される悪夢からも、彼女は自分を守ってくれた。救ってくれた。

 

 そんな彼女を残して、何故自分はこんなところで手を拱いているのだ。諦めようとしているのか。

 

 その事実にこそ、その思いにこそ、果てしない怒りを抱かずにはいられなかった。

 

 奈落の深淵。光すらもなく、時間さえ動きを止めてしまいそうな虚無。

 

 その中でクロウはもがき始めた。

 

 コメカミはズキズキする、うなじはジリジリする、胸はムカムカする、心臓はバクバクする、胃はシクシクするという散々な状態だ。

 

 視界が灼ける。耳鳴りがする。鼻の奥がきな臭い。舌が乾く。咽喉が渇く。胸の奥が熱くて、腹の底が冷たい。

 

 こんなのは嫌だ。大嫌いだ。まったくもって不愉快だ。

 

 よろしくない。これだけは大変よろしくない。こんな感覚が――。

 

 邪悪を赦せない感情も本物だ。だからわかる。このままで終われない後味の悪さ。

 

 何より格好がつかない。故にもう一度立ち上がる。自分だって面子を気にする程度には男なのだから。

 

 無様でも構いやしない。最後に˝勝つ˝。それのみを完遂する。故に諦めるものか。諦めて堪るか。

 

 確かに打つ手が現状ではない。どうしようもない悪足掻きをしようにも、相手は自分よりも上位の存在で、人間の悪足掻きを容易く砕ける存在だ。

 

 なにも出来ないのか。打つ手がないからこのまま終わるしかないのか。そんなのが許されるのか。打つ手がない、なにも出来ない。

 

 否、そんなはずはない。探せばあるはずた。たとえなにもなくとも、何かか出来るはずだ。

 

 なんだって、出来るはずだ。

 

 きしし――。それがキミの選択か。良いよ、キミの選んだ道を■■■は祝福するよ。黒羽(クロウ)

 

 祝福の華に誓って、汝は世界を紡ぐ者なり。

 

 その旅路が清らかなエーテルで満たされているように――。

 

 カチッ――。

 

 何かが填まるような音と共に頭の中を術式が駆け巡る。それと同時に舞い込むのは――。

 

「ッ――――――!!」

 

 雑念が紛れ込んだ。

 

 自我の防壁をいとも容易く擦り抜け、怒涛の如く流れ込んでくる大質量の思念。

 

 灼けるように熱く。壊れそうなほどに烈しく。

 

 苛烈で壮絶な魂の衝動/燃焼/激動/疾走/爆発/嵐――。

 

 強く/優しく/陽気に/愛しく――。

 

 その正体を、まだ知らない。

 

 光。

 

 眩い光。全てを照らさんとするどこまでも眩い白き闇。激しい闇。

 

 まるで泡沫のように滲む景色に、彼らの背中はあった。

 

 強く/優しく/陽気に/愛しく、包み込んでくれるかのような温かい背中だ。

 

 だがその背中は、多くの傷を刻み、血を流した背中だ。血で染まりきり、溺れてしまいそうな血を流した背中だ。

 

 その背中を支えるのはなんなのか。その背中を突き動かすのはなんなのか。

 

 赤の他人でしかない自分には計り知れない。でも――。

 

 明日を求めた彼らのその気持ちは、わかるような気がする。

 

 背中が振り向いた。陽光に照らされて、その顔はわからない。なにかを呟いているようにも見えても、その言葉は届かない。だから、

 

 ――手を伸ばした。

 

 理不尽な邪悪を、どうにも出来ない大理不尽の神を、どうすれば良いのか、自分はどうしたら良いのか。そんな問いを願いと込めて手を伸ばした。

 

 どんな絶望にも、どんな理不尽の前にも、何度も何度も傷つき、倒れても。傷だらけになって、たくさんの血をながして、でも、それでも諦めない。

 

 何度も何度も立ち上がって、涙を堪えて、歯を食い縛り、剣を手に、何度も何度も挑み続けるその姿に。

 

 いつの間にか背後に聳え立つ、物言わぬ、血濡れの刃を見上げる。その意志と、心を、想いを託し、彼は堕ちた。堕とされた。そして無垢なる刃は罪に濡れようとも、己の戦友の仔を守り続けた。己の使命に反してまで。己の存在意義に反してまで。使命か、無垢なる願いか。刃金の巨人は涙を流し、そして使命ではなく仔を選んだ。それが理不尽に流れ落ちる涙を赦せなかった彼の精一杯の答えだったのだろう。

 

 彼の様に強くもない。立派でもければ無様も晒せない。ちっぽけで無力なニンゲンでしかない。

 

 物言わぬ、血濡れの刃を見上げる。その意志と、心を、想いを託し、堕ちた刃を見上げる。

 

 頭の中に響く術式。それを自分が解放しても良いのだろうか。全く接点のない自分が、この力を振るう資格があるのだろうか。

 

 しかしこの力に頼らなければ、この邪悪を滅する事は出来ない。

 

 咎は受けよう。この力を分不相応に振るうことの罪も受けよう。だから今は、この力を振るわせて欲しい。

 

 印を結び、剣指を作り、クロウは中空に指を走らせる。

 

「……刃よ。血濡れし刃よ。たとえ汝が罪に錆びゆくとも、我は汝の同胞なり」

 

 互いに罪に穢れようとも、その心はひとつ。ただ赦せない、赦しては置けない邪悪を滅する為。

 

 物言わぬ刃金よ……。まだ、覚悟が足りいのかもしれない。純粋に、正義の路を歩めないかもしれない。それででも――。

 

「無垢なる怒りでも、切なる願いでもない。単なるわがままだとしても、コイツだけは赦しておけないんだ」

 

 思考が加速する。世界の法則に接続し、演算し、導きだした式に、自らの理論を書き加え、自分の世界を創造する。

 

 それがこの世界の魔術。真実の眼を以て、世界と繋がり外道の知識で世界を創造する秘術。

 

 世界に意識を張り巡らせ、己に都合の良い世界を産み出す。字祷子(アザトース)を伝い、繋がっている刃金の巨人を呼び醒ます。

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 それは大地を砕きながら膝を着き着地した後、ゆっくりと立ち上がる。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

 虚空の空より来たりて、切なる叫びを聴き、我は明日への路を切り開く。

 

 それでは御伽噺を始めよう。

 

 すべての始まり、暗黒神話を打ち破る荒唐無稽な生命の唄。

 

 血の夢を編む、血の薫り高き薔薇/血の誇り高き騎士、血闘のアンビバレンス。

 

 気高き血塗れの刃を彩る光。

 

 悪鬼羅刹魑魅魍魎、遍く邪悪を討つ。

 

 たとえ傷ついても、その傷の数だけ、魂に刻む闘志は誰にも消せはしない。

 

 あの仔/娘が静かに眠れる日まで、すべてを懸けて戦う。

 

 本当に陳腐でこどもみたいな御伽噺ばかりだ。だが、そんな純粋で無垢な御伽噺が、誰にも消せない生命の(うた)になるのだ。

 

 希望を紡いで、明日を紡いで、未来を紡いで、勝利を紡いで、その紡ぎ手は光りに約束された勝利の剣となる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 赤い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)

 

 紅く、血の色に染まる鋼鉄の巨人。機械仕掛けのその(むくろ)を、闇が覆い尽くしている。

 

 その姿をクロハは見たことはない。だが、見たことはないその機械神(デウスマキナ)が何であるかを彼女は魂で理解していた。

 

 汝は憎悪に燃える空より生まれ落ちた涙――。

 

 汝は、流された血を舐める炎に宿りし、正しき怒り――。

 

 汝は、無垢なる刃――。

 

 汝は『魔を断つ者』――。

 

 汝は、汝は…、汝は――。

 

デモン…、ベインッ!!

 

 親の仇、宿敵、怨念すら込めそうなほどの聲で、魂からその名を絞り出す。

 

 血に濡れ、闇に堕ちた無垢なる刃(デモンベイン・クロックワーク・ブラッド)が動き出す。その拳を、ウェイトリイの腹部へと突き差した。

 

『ヰアアァアえギィやアアァアァァアアァア――!!!!』

 

 腹部を裂かれた痛みに暴れるウェイトリイ。触腕と、胎内の触手が不規則な軌道で振るわれる。

 

 だが紅い結界に阻まれて、デモンベイン・クロックには全くダメージを与えることなく無意味な抵抗になっている。

 

 肉を引き千切る音と共に、鋼の腕が引き抜かれる。

 

 その拳が開かれると、手の中にはクロウの姿があった。

 

「マスター!!」

 

 主の無事を喜ぶクロハの身体が頁に解けて、風に乗ってその頁はクロウのもとに運ばれ、再び人の姿を取る。

 

「マスター、マスター! マスター!!」

 

 主に大事はないか身体を触りながら縋りつく様に泣き崩れてしまうクロハを、申し訳なく思いながらクロウはその髪を撫でた。指通りの良い、いつまでも梳いていたい手触りの髪を撫でながら、その頭をポンポンと軽く叩くと、涙を流すクロハが顔を上げたのを見計らって声を掛けた。

 

「立てるか? クロハ」

 

「――イエス、マイ・マスター」

 

 魔導書と魔術師は魂で繋がっている。意識すれば互いの心すら互いに理解できるのだ。

 

 主は戦おうとしている。その闘志をクロハも感じ取っていた。

 

 互いの心が、互いの魂が、互いを守り、励まし、慈しみ、奮い立たせる。

 

 そしてその想いと血が、機神の魂を動かすのだ。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 眼を開ければ、目の前には光り輝く文字の羅列。直接網膜へと()きつくかのような文字。

 

 汝は憎悪に燃える空より生まれ落ちた涙――。

 

 汝は、流された血を舐める炎に宿りし、正しき怒り――。

 

 汝は、無垢なる刃――。

 

 汝は『魔を断つ者』(デモンベイン)――。

 

 淡く光る球体の中で、その文字をクロウは眺めていた。

 

 360度を囲う魔法陣の向こう側、計器類に囲まれたバイクのシートの様な座席にクロハは座っている。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

「システム掌握。銀鍵守護神機関、及び獅子の心臓(コル・レオニス)正常稼働確認。全ステータス、オールグリーン。マスター、ご指示を」

 

 魂の怨恨。それを未だにクロハは感じていた。だが、宿敵であるが故、魂の怨敵であるが故。その機能を掌握するのは容易かった。

 

 そして操作に関するマニュアルを脳内にインプットしていたクロウも同時に意識を戦闘に向けた。

 

 ウェイトリイは目の前の巨人に怯えにも似た感情を抱いていた。この巨人は同類だ。しかし何かが決定的に違うのだ。そして、歯向かえば死ぬという明確な恐怖が身体を硬直させていたのだ。

 

「いくぞ、クロハ――」

 

「イエス、マスター――」

 

 操縦桿を動かせばデモンベイン・クロックが動き、その様子にウェイトリイが怯む。

 

 巨大ロボットなどで戦ったことなどない。しかし、どう動かせばいいのかは既に頭に入っている。全ての機能(システム)はクロハが掌握している。そのお陰もあって自分はどうこの巨人を動かせば良いのかハッキリと認識している。

 

 巨体を動かすには動きが鈍いというクロウの思考をクロハが拾い上げる。

 

「ティマイオス、クリティアス!!」

 

「断鎖術式解放。壱号ティマイオス、弐号クリティアス・爆裂(エクスプロージョン)――!」

 

 脚部の足首から太腿までの高さはあるだろう巨大なパーツから紫電が迸り、空間を眼に見えて歪ませた。エネルギーによって砕かれた岩が、テープの再生と巻き戻しを繰り返すかのように、一瞬、昇ったり落ちたりを繰り返した。

 

 デモンベイン・クロックの足元で、莫大なエネルギーが爆裂した。刹那――。

 

 デモンベイン・クロックはウェイトリイに向かって爆発的な速度で猛進する。

 

 断鎖術式を解放する事によって、時空間を捻じ曲げ、それが戻ろうとする作用。その時空間歪曲エネルギーと重力操作で高機動性を獲得するデモンベインの機動システム。

 

 50m級のスーパーロボットが軽々しく動けるのも、この術式があればこそだ。でなければ機動性は4割も行かない程に。重要な役割を果たしているのだ。

 

『ヰぐなぃぃぃいィいい』

 

 巨大な触手を振りまわし、しならせて襲ってくるウェイトリイ。それはさながら鞭の様で、達人が振るえば音速を超える。その理屈をその神の仔である出鱈目な肉体だけで再現する。

 

 見えないのならば諸共に粉砕するのみだ。

 

 精神を集中させ、研ぎ澄ませる。

 

 冷たく澄んだ思考が脳裏を何よりも速く、疾走する。光となった思考が、その意志を燃やしだす。

 

 そして熱せられた血液が、身体中に行き渡り、力を漲らせる。

 

 その感覚を、クロウは意識ではなく本能から理解する。

 

 これが魔術の本懐。荒ぶる魂を理性で制御するという感覚。

 

 魔術師としての覚醒――。

 

 それを喜ぶ暇はなく、疾走した意識は体感時間を引き延ばしながら、されども思考速度は無限の加速を続けて行く。

 

 己の内で精製した魔力を、意識という名の術式を乗せて、外側へ――刃金の巨人へと広げていく。

 

 デモンベイン・クロックの脚を庇う様に備え付けられた巨大なユニット。その表面で魔術文字が走り、エネルギーのうねりを発生させる。魔術回路が発光し、ただならぬ力が込められていくのを外見からでも理解できるだろう。

 

 脚部から時空間歪曲エネルギーが紫電となって漏れ出すが、それを更に集束する。逃げ場のない紫電は閃光を灯し、デモンベイン・クロックの振り上げられた脚部は死神の鎌の様な半月の軌跡を描く。

 

 今、デモンベイン・クロックは正しく魔を断つ剣として、目の前の邪悪を断ち切る死神としての刃を、渾身の回し蹴りをその刃として振り抜いた。

 

「アトランティス・ストライク――!!」

 

 デモンベイン・クロックの近接粉砕呪法。面倒な手順(プロセス)を踏むことなく放てる最強武装。

 

 時空間歪曲エネルギーを直接打ち込む必殺技。

 

 その爆発力を湛えるデモンベイン・クロックは飛び蹴りの姿勢のまま時空間歪曲エネルギーの奔流で触手を粉砕し、邪神とも言えるウェイトリイの胴体に、その超重量・超破壊力を備えた一撃を打ち込んだ。

 

 迸るエネルギーが空間ごとウェイトリイの身体を粉砕し、爆裂し、炸裂した破壊力でその巨体を吹き飛ばした。

 

 手応えはあった。しかしそれ以上に、直感的にトドメは刺せていないと感じる。土煙が晴れ、そこには汚穢な体液を撒き散らしながら、体組織の半分近くを吹き飛ばしても生きているウェイトリイが悶えている様子が見える。

 

「大分、しぶとい様ですね」

 

「半分人間でも、半分は神――だからな」

 

 そう。これは邪悪を断つだけではない。今から自分は神殺しをしようというのだ。

 

 神を模した人の造りし神。機械仕掛けの神――鬼械神(デウス・エクス・マキナ)

 

 その更に模造品。粗悪な紛い物。だが人間が生み出した人間の為の機械仕掛けの神――機械神(デウスマキナ)

 

 未来(あす)の光をその手に掴む想いがあれば応えてくれる。人間の切なる叫びを聞き届けてくれる。

 

 人間の為に力を振るってくれるご都合主義の神様。

 

 それでもこの身は血と罪に穢れしもの。魔を断つ剣なれども、栄光には程遠く、また光を目指すには最早この身は不浄なれば。

 

「ならばその罪も何もかも一緒に背負ってやる。どんな姿であっても、どんな存在であっても、その意志を貫く限り、魔を断つ剣として存在し続ける!」

 

 誓いを胸に、クロウはウェイトリィを睨みつける。

 

 破損した身体からブクブクと醜く醜悪な光景と共に再生を始めている存在。最早人間でもなにものでもなく邪悪そのものだ。

 

 故に必ず倒さなければならない。

 

 無数の触手があらゆる角度、ありえざる角度から襲って来る。

 

「エレクトリック・ブラスト!!」

 

 デモンベイン・クロックがその両手から電撃の嵐を撃ち出し、ウェイトリイの触手を焼き払った。

 

 稲妻に触れた触手の群れが一斉に泡立ち、蒸発する。

 

 頭部から鬣状に発生しているビームに術式が迸り、捕縛ワイヤーとなってウェイトリイを締め上げた。

 

 これで締め上げている限り消えることも逃げる事も叶わない。逃がしはしない。必ずこの場で滅する。

 

 だが――。

 

「ッ、これでも消えられるのか!?」

 

 雁字搦めにした筈のワイヤーから手応えが消えた。クロウが見ている前で、醜悪な姿が霞の様に消えたのだあれほどの巨体が跡形も無く、消滅した。その場には化け物が居たという痕跡だけを残して。

 

「アレは本来、不可視の怪物です。加えて次元を超える能力。厄介ですね」

 

 次元を超える力は、その父親がなんであるか知っているから驚きもしない。しかしそれ程に浸食は進んでいるというわけでもある。

 

 もう一度イブン=ガズイの粉薬を使おうかと思った時だった。

 

 ウェイトリイが消えた辺りで魔法陣が浮かび上がり、魔力の爆発が起こる。

 

 旧き印と共に空間に広がる魔力の波動は呪文を描き、事象として顕現する。

 

 光の粒子が溢れ、空間に満ちて行く。

 

 淡い光の霧の中に、巨大な影が浮かび上がって行く。

 

 空間を破壊する様な音と共にウェイトリイが再び姿を現した。苦し気にのたうち回る姿は無理やり実体化させられたことによるものだろうか。

 

 今のは間違いなく霊質と物質を結びつける術式だった。それを行うイブン=ガズイの粉薬。自分以外にこの場にそのアーティファクトを持ち込み、さらにウェイトリイの性質も知っている人間は限られている。

 

 村の方に視線を向ければ、初老の男性と壮年の男性と青年とも見れる若々しい男性の三人組が見える。

 

「デモンベインの第一近接昇華呪法の解凍が完了しました。マスター、これでトドメをっ」

 

 クロハが振り向いて叫ぶ。

 

 頭の中に術式が廻る。必要な術式の手順がダウンロードされた。

 

「やるぞ、クロハ!」

 

「イエス、マスター!」

 

 剣指を作るデモンベイン・クロック。その合わせられた剣指の手の内には超高密度の魔力の塊が産まれている。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 クロウが吠え、重ね合わせた両腕を天に掲げ、左右に広げながら降り下ろす。

 

 後光の如く輝く五芒星の印――旧き印(エルダー・サイン)が、邪悪を討ち祓う結印が一際輝きを増し、結界を作り出した。

 

 そして紡がれるのは、未来永劫過去永劫現在永劫変わることなく語り継がれ紡がれる破邪の祝詞。

 

「光射す世界に、汝ら暗黒、棲まう場所なし!」

 

 天高く掲げられたデモンベイン・クロックの右の掌に超高密度の魔力が収束する。高密度の術式と魔力が駆け抜け、必滅の威力を封じ込めた術式が覚醒する。

 

「渇かず、飢えず、無に還れ!」

 

 デモンベイン・クロックが地を蹴り、疾駆する。掌から溢れ出す閃光が邪悪を、白い闇で染め上げる。

 

 邪神の落とし仔が、巨人の右手に宿る輝きを見た瞬間、怯えた。その破滅の光を、魂が識っていた。だがもう、逃れるには致命的な距離だった。

 

 神をも滅する第一近接昇華呪法――その名は!!

 

「レムリア・インパクト――!!」

 

 必殺の一撃を乗せて、デモンベイン・クロックの右の掌は吸い込まれるようにウェイトリイのボディに叩き込まれ、必滅の術式がその内部へと浸透していく。

 

「昇華!」

 

 必滅の呪文が世界に響き渡り、デモンベイン・クロックの掌から放たれた光が、世界を白い闇で埋め尽くし、塗り潰し、染め上げ、閉じ込めた。

 

『エエ・ヤ・ヤァ・ヤハアアア――エ・ヤヤヤアアアア……ング・アアアアア……ング・アアア……フユウ……フユウ……助けッ、助けて! チ――チ――、ちち、父上ぇ! 父上ぇぇぇぇぇぇ! ヨグ=ソトぉぉぉス――ッ』

 

 暴虐の光の中。魂を冒さんばかりの断末魔。だがその断末魔は結界に封ぜられた無限熱量の暴虐によって、邪悪な者の実体も、魂も、その悉くを滅却し、昇華させた。

 

 断末魔の余韻の様に、何処からともなく夜鷹(ウィップアーウィル)の嬌声が無数に重なり轟いた。

 

 夜鷹が啼いた。即ちウェイトリイの魂は連れていかれたのだろう――。

 

 

 

 

to be continued…



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盲目の賢者

ここから取り敢えず進むルートは機神咆哮√って感じに行きたいと思います。

しかしデモンベインに関する知識が無い代わりに私自身の頭にあるクトゥルフ神話関連の知識を使って説明とかしてますけど、需要あるんでしょうかね?

ランキングに乗ってるの見つけるとちょっぴり嬉しくなったり、ハーメルン民はデモンベイン好きが昔から多いなぁって実感できますね。


 

 人は無知であるからこそ守られている。

 

 クトゥルフ神話体系にて唯一にして絶対の、人間に許された絶対不可侵の身を守る方法。

 

 つまり全く知らなければ問題はない。その点に尽きる。好奇心は猫をも殺すとはよく言ったものだろう。

 

 自分から首を突っ込む者。運悪く巻き込まれてしまう者。クトゥルフ神話体系に登場する人々を大まかに分ければ両者に大抵は当てはまるだろう。そしてそのどちらにも『知る』という要因がある。

 

 知ってしまえば逃れ得ることはほぼ不可能だ。人外のものを精神的にも物理的にも退けるられる者など稀だろう。

 

 最初のきっかけは突然過ぎた。しかし『知って』しまったからこそ、クロウは選択肢を迫られる。

 

 抗うか、逃げるか。

 

 つまり進むべきか、退くべきかという選択肢だ。

 

 それこそクロウは知らぬフリをしても良かったのだ。己が関わらずとも解決されるダンウィッチの怪。関わる必要が何処にあるというのか。超常的な存在と、外宇宙の悪意を前にして立ち向かえと強要する人間は先ずいない。

 

 しかしクロウは逃げるのではなく、抗うという選択肢を選んだ。何故かと問われれば返答は出来ない。しかし逃げてしまえば、これから先同じようなものを前にした時に立ち向かえなくなるという確信があった。

 

 一度逃げてしまえば、それこそ最後まで逃げ続けてしまうだろう。何故ならその方が楽だからだ。恐怖から逃げ、辛いことから逃げれば誰かが解決してくれる。しかしその代わりに自らの居場所を無くす。人間社会とはそういう物だ。

 

 だからというわけではないが、クロウは抗う道を選んだ。なにより、やらっれっぱなしで居るのは我慢ならなかったからだ。そして、女の子に情けない姿を見せっぱなしなのが嫌だという男としての意地もあったからだ。

 

 故に逃げずに踏みとどまり抗った。

 

 朝の微睡みから目覚めるかのように、ふと意識が覚醒してくる。瞼を透して眸を灼く光がより意識の覚醒を促す。

 

「……知らない天井だ」

 

 お約束ごとを口にしつつ、クロウは目覚めた。

 

「お目覚めですか? マスター」

 

「くろ、は……」

 

「はいマスター。御前に」

 

 横になっている自分を抱いている少女の声。顔を上げれば人形の様に整った彼女の顔が見え、その紺碧の瞳には自分の顔が映っている。

 

「ここは…?」

 

「ミスカトニック大学の医学部です」

 

「ミスカトニック大学?」

 

 という事は、自分はアーカムに戻ってきているという事になる。

 

 クロハが話してくれたところによると、自分はウェイトリーを倒した後、気を失ってしまったそうだ。

 

 そしてデモンベインは消えてしまい、クロウと同じようにウェイトリー退治に来ていた、ヘンリー・アーミティッジ博士に保護されたそうだ。

 

 しかしそうなると事情が少し厄介だ。

 

 何しろクロウがクロハと出会った場所はミスカトニック大学の図書館であり、クロハの本体である『ナコト写本』はそこの蔵書だ。つまり勝手に持ち出してしまった手前、後ろめたさがある。

 

「何も心配は要りません。私はマスターの従僕(しもべ)。マスター無くして私の存在はありえません。そしてマスター以外に仕える気もありません。私の遍くすべてはマスターの所有物です」

 

「それはありがたいんだけど」

 

 本人の希望と、しかし明確に『ナコト写本』はミスカトニック大学付属図書館の蔵書という事実はイコールにはならない。

 

 そもそも魔導書の精霊という存在を信じて貰えるかという点だ。もし信じて貰えたとして、危険な存在として退治されないとも限らない。

 

 もしそうなったときは、精一杯の抵抗はさせて貰う。何故ならクロウにとってクロハは既に掛け替えのない存在となっているからだ。

 

 身体を起こして、具合を確かめる。あれだけ強かに打ちつけた身体はやはり少々引き攣る。しかし日常生活には問題ないだろう。

 

「クロハ。おれはどれくらい寝てたんだ?」

 

「一週間程です。初めての機神召還。そして機械神(デウスマキナ)での戦闘。デモンベインは他の鬼械神(デウスマキナ)と比べてパイロットに掛かる負担は少ないものですが、それでも操縦には強い精神力を必要とします。疲労で倒れてしまったのも致し方ない事です」

 

機械仕掛けの神(デウスマキナ)、か…」

 

 それは収拾のつかなくなった舞台を終わらせる神として現れる存在で、古代ギリシャの演劇手法の名だ。

 

 しかしそれも納得のいく強さを秘めているのは、実際に神の落とし仔であるウェイトリーを倒せた事で証明されている。正しく幕引きの神と呼ぶに相応しい力だ。

 

 だからこそ、自分は保護されたのだろうとクロウは予想を立てた。あの様な力さえあればどんなことでも大抵は解決してしまえるだろう。噂に聞くアーミティッジ博士がその様な悪人でないことを祈るばかりだ。

 

「おや、目が覚めた様ですね」

 

 そんなクロウに声をかけて来た人物が居た。白衣を纏った若年の男性だ。アーミティッジ博士は初老の老人として描かれる事が多い人物だ。そして、その男性の姿をクロウはデモンベインのコックピットの中から見ていた。

 

「あなたは…」

 

「フランシス・モーガンと言います。ミスカトニック大学で医学部で教鞭を振るう者です」

 

 フランシス・モーガン。クロウはその名を知っている。アーミティッジ博士と共にダンウィッチの怪に登場する人物である。アーミティッジ博士の助手としてライフルを武器にウェイトリーに立ち向かう人物だ。

 

「クロウと言います」

 

 名乗られたからには名乗り返すのが礼儀だ。名前を告げて、頭を下げる。まだ敵とは限らない相手なのだから礼を尽くしてこちらには害がないことを示す。

 

「ご丁寧にどうも。目が覚めたばかりで申し訳ないのですが、あなたに会っていただきたい人が居ます。そちらのお嬢さんの処遇も含めてお話があると思います」

 

「クロハを、どうする気ですか?」

 

「マスター…」

 

 クロハの肩を抱いて、モーガン教授に問う。しかし彼はクロウに笑いかけて、「それを含めて、一度お話されることをお勧めしますよ」と言った。

 

 状況としては図書館の蔵書を勝手に持ち出して所持しているクロウの方に非がある。下手な抵抗はせず、大人しく従う事が今は最前だと判断して、クロウはモーガン教授に案内され、あの忌々しい記憶の図書館へと足を運ぶことになった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 モーガン教授の案内で図書館へ足を踏み入れたクロウを出迎えったのは初老の男性だった。

 

「はじめまして、私はヘンリー・アーミティッジ。このミスカトニック大学秘密図書館の館長を務めるものだ」

 

「はじめまして。クロウと言います」

 

「ほぅ」

 

 クロウの名を聞いたアーミティッジ博士は少々驚いた様子で声を漏らした。

 

「あの、なにか?」

 

「いいや。教え子に君と同じ名を持つ生徒が居てね。まぁ、気にせんでくれ」

 

 まぁ、偶然の一致もあるものだと思いながらクロウは気を引き締める。これからの自分の振る舞いでクロハの処遇が決まるのだ。クロハを手放す気のないクロウからすれば、気の抜けない状況であるのは間違いない。

 

「まぁ、そう気を張らずとも良い。我々としてはキミの様に鬼械神(デウスマキナ)を招喚できる魔術師を相手にする事の方が割に合わんよ」

 

「どういうことです?」

 

 あいにく魔術師としては駆け出しも良い所のクロウとしては、アーミティッジ博士の言葉の意味がわからなかった。

 

「マスター。鬼械神(デウスマキナ)を招喚できる魔術師というのはとても限られている存在です。そして鬼械神(デウスマキナ)を招喚できる魔導書もまた限られています」

 

「そういう事だ。キミは、邪悪と戦う我々にとって貴重な存在であり、また太刀打つのは少々骨の折れる相手でもあるのだよ」

 

 クロハとアーミティッジ博士の説明を受けて、自身ではそんな自覚は皆無だが有利なアドバンテージは呑み込んで損はない。

 

「本来ならばこの不完全な英語版である『ナコト写本』に鬼械神(デウスマキナ)を召喚するほどの力はない。さらに言えば、今こうして存在しているように、精霊化する力もなかったのだよ」

 

「そうなのか?」

 

「はい。私はマスターとの契約をもって自身という形を得る事が出来ました。…鬼械神(デウスマキナ)についても同様です。マスターは未だ魔術師としては未熟ではあります。それでも、それほどの資質を秘めたお方です」

 

 どうもそうであるらしいが、一点だけクロハはウソを吐いている。しかしそれを態々口にしたという事は意味があるという事だろう。故に態々口にする事はしないとクロウは判断した。

 

「ふむ。となれば、キミが彼との契約を破棄した場合は」

 

「私はただの本に戻るだけです。この身も、魂も、すべてマスターへ捧げた身。マスターと共に居られないのならば、私は自らの身を無へと帰すだけです」

 

 クロウに身を寄せながらクロハは言い放つ。さすがに人前でその様に告白めいたことを言われると恥ずかしいのだが、ここはクロハの為に我慢する。

 

「なるほど。して、キミはこれからどうするつもりかな?」

 

 クロハの意思を聞いたアーミティッジ博士はクロウに問う。

 

 しかしそこで返答にクロウは困った。

 

 何故ならクロウ自身は21世紀で生活していた人間だ。当然20世紀初頭のこの時代では存在していない人間だ。そもそもクトゥルフ神話の化け物が存在している時点で自分が生きていた世界と時系列の続いている世界であるとも思えなかった。

 

 つまり身寄りがない根無し草なのだ。

 

 ウェイトリーと戦ったのは個人的な逆襲だ。だからその後のことなど全く考えていなかったのだ。

 

 それこそあとは適当に過ごしながら自分の世界に帰る方法を探す気でいた。

 

「どうやら行く宛がないようだ」

 

「お恥ずかしながら…」

 

 返答に詰まっていると、それをアーミティッジ博士に看破される。どうにも言い繕えないクロウは事実を返すしかなかった。

 

 この光と闇の渦巻く混沌の街において身寄りのない子供というのは、悲しいかな、珍しくはないのだ。

 

 覇道財閥の膝元であるお陰で他の大都市に比べればマシではあるし、福祉関係の施設も充実しているが、それでも貧困窟(スラム)は存在し、そこに生きる子供たちが居るのもまた事実だ。

 

 魔術師として、鬼械神(デウスマキナ)を招喚できる程の力はあってもまだまだ子供なのだと、アーミティッジ博士はそうクロウを分析した。

 

「行くアテがないというのならば、どうかな? 私の所に来てみるかね」

 

 アーミティッジ博士とは別の男性の声がクロウを誘った。

 

 渋みのある男性の声。黒いコートを羽織ながら曝け出された胸筋や腹筋の強靭さは見事なものだ。陽に焼けたような褐色の肌。金髪の顎髭を生やした初老の顔。だが全く衰えを感じさせぬ生命力に溢れている。

 

「おや、シュリュズベリイ博士。ご苦労じゃったな」

 

「なに。これも仕事だよ博士」

 

 ラバン・シュリュズベリイ。これまた大物が出て来たとクロウは思った。もしここにクトゥルフ神話の大ファンの人間が居たら壮観な顔ぶれに狂喜乱舞して倒れるのではないかと思った。

 

 シュリュズベリイ博士もクトゥルフ神話に登場する人物であり、プレアデス星団に存在するセラエノの大図書館にて『外なる神』やその敵対者に関する秘密の知識が刻まれていた石板を英語に訳した魔導書『セラエノ断章』の著者として有名だ。6人の弟子を従えてクトゥルーの復活を阻止するなどと言った活躍をする邪神狩人でもある。

 

「アーミティッジ博士から大凡の事は聞いている。鬼械神(デウスマキナ)を操り、強大な邪悪を亡ぼしたと」

 

「いえ、そんな。ただ自分は必死だっただけです」

 

「だがキミの奮闘があったからこそ、世界は今も、そんな邪悪が存在していたという事実を知らずに平穏を謳歌出来ている。それはキミの功績だ。胸を張りたまえ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 そこに含む物はなく、ただ真っ直ぐな称讃があり、故にクロウも満更ではなく受け取ってしまう。人間なのだから褒められることで嬉しいと思う事は自然の理だ。

 

「だがキミはまだ未熟だ。そして身寄りもないのだろう。我々は絶えずウェイトリーの様な外なるものやその眷属邪神群の奉仕種族と戦っている。あの様な邪悪に、この美しい世界を侵させぬ為に。この図書館で邪悪に相対しながらも、ダンウィッチ村でより強大な邪悪に立ち向かったキミになら、私のいう事が理解できるだろう」

 

「…自分はただ。逃げたくなかっただけです」

 

 世界の為にだとか、そんな英雄めいた動機ではない。

 

「逃げてしまえば、同じようなものを前にした時に、また逃げてしまうから。だから逃げる事を選ばなかっただけです。そして、自分に拭えない恐怖を植え付けた存在が赦せないから、戦ったまでで。個人的な逆襲でしかありませんでした」

 

 そう自らが戦った理由を述べるクロウだったが、それを聞いたシュリュズベリイ博士は笑っていた。

 

「それもまた、邪悪に抗う立派な理由だ。私も同じだ。視てはならぬものを視てしまった」

 

 そう言いながらサングラスを外すシュリュズベリイ博士。そのサングラスの奥には空洞があるだけだ。

 

「脳裡に灼きついてしまった忌まわしい邪悪。あんなものがこの世界を侵そうというのが赦せんというのが私の戦う理由だ。これは義務でもない。使命でもない。しかし知ってしまったからには放って置く事も出来ず、人間の尊厳を土足で踏み躙るのが赦せんという私個人の怒りから端を発している動機だ」

 

 ラバン・シュリュズベリイは思う。目の前の少年もまた自らと同じであると。怒りによって立ち上がった者であると。

 

 誰に言われたわけでもない。それこそすべてに知らぬフリをして逃げても誰も文句は言わないのだ。

 

 しかし抗った。人が挑むには無謀過ぎる外宇宙の脅威。外なるものの邪悪と。その理由が個人的なものではあったとしても、邪悪に対する怒りによって立ち上がった少年を正しく導く事こそ教育者としての自らの仕事だとシュリュズベリイは思っていた。

 

 行く宛のないクロウとしては、誰かの庇護を受けられるのは有り難い事だ。それが邪神狩人であり、クトゥルフ神話における重要人物である事は幸運な事だろう。

 

 自分には機械神(デウスマキナ)もある。並大抵の存在であれば先ず負けるようなことはないだろう。

 

 生きて行くために、邪悪を狩る狩人になる。そういう道も悪くはないかもしれない。なによりクロハと共に居る為には自分の有用性を示す必要があるだろう。

 

「よろしくお願いします。シュリュズベリイ博士」

 

「ああ。よろしく頼むよ、若き魔術師(ヤング・メイガス)君」

 

 クロウは手を差し伸ばし、その大きくゴツゴツした手と握手を交わした。その手は自分の細くて軟らかい手とは比べ物にならない程の人生を歩んでいる手だと感じた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 邪神狩人であり、ミスカトニック大学で教鞭を振るうラバン・シュリュズベリイの庇護下に置かれる事になったクロウ。

 

 魔術師でもあり、鬼械神(デウスマキナ)を操れる資質を持つ少年であるが、彼は元々一般人。高い潜在能力を持っていようとも、使い方がわからなければ宝の持ち腐れ。

 

 しかし一月という間、自己流で付け焼刃ながら修練を積み、ウェイトリーという邪悪なる存在を打ち倒している。

 

 鬼械神(デウスマキナ)が必要になった程の相手ともなれば、そんじょそこらの雑魚とは比べ物にならない程の脅威だったはずだ。

 

 そんな相手に勝利し、生還したのだから秘めたる素質は充分だ。後はそれを磨き上げてやれば良い。

 

 「魔術という物は、それを使う術師の属性(タイプ)位階(レヴェル)能力(アビリティ)によって、変化するものだ。同じ魔術であろうとも、結果は十人十色だ。高位の魔術になればなるほど、その傾向は顕著に表れる」

 

 クロウが得意とする属性は「火」と「風」だった。特に「火」は日常生活にも存在する身近な存在である。どの様にして扱うかというイメージを形にし易い属性でもある。

 

 位階に関しては駆け出しも良い所。そして能力だが、どの能力も平均的である。良い意味では安定しているという意味に見えるだろうが、その分、その方向に特化している能力を持つ相手には負けてしまうという事だ。

 

 とはいえ、邪神狩人といのは様々な状況に対して臨機応変に対処する必要がある。

 

 決まって苦手な事や得意な事がないのならばすべてを伸ばして高水準にしていけば良いと、シュリュズベリイは判断した。

 

 先ずは身体を鍛える事は当然として、自らの体験と魔導書の記述を例に上げて邪神奉仕種族に対する対処方の講義。

 

 能力に秀でたものはまだないが、精神力に関しては陰秘学科の生徒と比べても飛び抜けたものを持っていた。鬼械神(デウスマキナ)を駆る事が出来る強靭な精神力は、魔導書を閲覧する上で最も重要な要素だ。

 

 そうした魔術師として、邪神狩人として必要な知識を蓄えながら。本人はクロハのサポートなしで英語を覚えたり、更にはドイツ語、フランス語、ラテン語までの習得を目標に日々勉学に励む事となった。何しろ生粋の日本育ちであった為、簡単な英語くらいしか出来ないのが現状だった。しかし態々翻訳魔術に余計なリソースを割くのならばこの際覚えてしまえとシュリュズベリイ博士からの課題を出されてしまうクロウは苦労しながらそれらの言語を覚えて行った。

 

 そして数週間が過ぎる頃。

 

 このクトゥルフ神話の物語が実際に起きる世界において、クロウは次なる事件に遭遇しようとしていた。

 

 インスマウス――。

 

 アーカムシティを片田舎の港町だったのを世界有数の大都市に育て上げた覇道財閥が開発に乗り出している漁村。

 

 その名前もクロウには覚えがあった。

 

 そこの調査に向かうという事で、クロウも現地研修という事で赴くことになったのだ。

 

 

 

 

to be continued… 



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君の温もりを感じて

度々思う事。ハーメルンのR-15の設定ってさ、機神飛翔みたいにギリギリのエロさというか下ネタというか、紅朔ぐらいまでのエロスならおkなのかな?


 

 アーカムシティは、東京、パリ、ニューヨークに続く世界有数の魔が跳梁跋扈する都市だが、なにもそれが日常茶飯事というわけではない。

 

 青空が広がる。一点の雲すら見かけない空だ。気温は35℃前後。夏が目前に迫っているちょっと暑い気温だ。

 

 燦々と輝き照りつける初夏の陽光は、服で紫外線を防備する身体に容赦なく熱を浴びせる。まだ午前10時前。しかしクロウはバス停のベンチに腰掛けていた。紫外線から肌を守る為に長袖で居るが、本人は汗の一つも掻いていない。風の魔術で温度調節をしているからだ。

 

 バス停は全米でチェーン展開する薬局の脇にあるのだが、バス停とは名ばかりの廃れたトタン板の小屋と時刻表があるだけだ。利用者は――居ない。皆鉄道での快適な移動が主流であり、態々乗り付けが悪いバスに乗るような好き物の観光客も居ないからだ。

 

 何故ここでバスを待っているのかと言えば、今回の実地講義の舞台であるインスマウスへと向かう為である。

 

 インスマウスについては、覇道財閥がレジャー開発に乗り出している記事が散見されている。

 

 しかし地元住人との衝突も起こっているらしい。何を思ってインスマウスをリゾート地にしようなどと言う事になったのだろうかという興味は尽きない。何故ならあの場所は呪われた町であるからだ。

 

 インスマウスについてはダンウィッチの怪よりも多くの情報をクロウは持っている。クトゥルフ神話において度々物語の舞台となる町であるからだ。

 

 クロウが言い渡されている課題は、インスマウスの現状調査だ。そして無事に帰って来ることである。

 

 そう言われた時点で厄介事である事をクロウは察したが、シュリュズベリイ博士は調べ物があって手が離せないという事なので、クロウは単身インスマウスへ向かう事となったのだ。

 

「ん、ぅ…ますたぁ……」

 

 膝の上に頭を置いて眠っている愛らしい少女の髪を撫でる。驚天動地の連続で荒みそうな心を癒してくれる存在。

 

 クロハの梳き通りの良い髪を手慰みに、クロウはバスを待った。

 

 そしてクロハが目を覚ますと、同時にバスのエンジン音が聞こえてきた。バスと言ってもワンボックスのワゴンの様な小さなバスだ。地域密着型とは聞こえが良いが、錆汚れていて、さらにくたびれ加減を増長する様に揺れの激しいバスだ。その行き先の表札も『アーカム――インスマウス――ニューベリーポート』と、半ば読みとれない行き先標示版は不気味な味が出ている。

 

 青白い蛙に似た独特の容貌を持つ男たちが数人バスから降りるのを見送り、クロウはクロハを連れてバスの一番後ろの席に座った。若干埃っぽいイスも、クロハがひと撫ですると新品同様に変わった。と言うより限定的に空間を弄って時空間に干渉。自分たちの居場所だけを新品同様の物に逆行させたらしい。

 

 ナコト写本には時間に干渉できる魔術もある。不完全であるクロハはその効果は限定的だが、こうして役立てる事もある。

 

 料金として1ドルと20セントを置いておく。それで二人分はあるはずだ。子供料金があるかはわからないが。

 

 クロハを膝に乗せて、クロハの頭が肩に寄りかかる。こういう恰好の方が互いに安心できるとわかって来てからは、座るときはほぼこういう姿勢になる。こう甘えられていて、こちらも甘える事の出来る絶妙な体制だった。クロハの吐息を首筋に感じながら、彼女の、女の子特有の甘い香りを清涼剤代わりに取り込む。決して匂いフェチではない。

 

 外から戻って来た運転手がこちらを一目見るが、それだけだった。

 

 ガタンと、一つ大きな揺れと共にいよいよバスは動き出す。排気口から黒い煙を吐きながら動き出す。

 

 サスがイカレているのではないかと思う程にガタガタのバスに揺られながら窓の外を視る。都市部を離れ、景色は海に移ろう。

 

 州道を走るバス。煉瓦造りの古い建物の並ぶ景色を見ると、まだここが20世紀初頭という時代であるのを嫌でも実感する。実際アーカムシティの生活に馴れると時代背景の感覚がズレる。あの街は20世紀後半から21世紀初頭の生活空間と遜色ない生活を送れるという異様な街だ。テレビどころかネット回線にPCまで完備しているのだからもう訳が分からない。

 

 がたがた、がたがた揺れるものの、その揺れを足と腰で吸収し、クロハはなるべく揺れない様に頑張ってみる。無駄な修練とは思わない。効率の良い衝撃の逃し方というものも学べる。

 

 バスは国道に抜けるとスピードを上げた。威厳ありそうな昔の屋敷や、さらに昔の植民地時代からありそうな家屋を横目に、長く単調な視界の開けた海岸地方へと入って行く。

 

 車窓からは青い海が見える。その風景は進むにつれて荒涼したものに変わり、インスマウスへと続く道は幹線国道からは外れているために、車は海岸のすぐそばの道を走り出す。家は一軒も見当たらず、感じる揺れからしてあまり手入れもされていないだろう事がわかる程に道が悪い。いよいよ重力制御魔術まで使って身体に掛かる重力を減らして揺れを軽減する。

 

 外の景色はこの辺りに人が来ていない事を察するには十分すぎる程に荒れている。

 

 電信柱には二本の電線。しかしその木製の電信柱は年季の入っているような黒々しい色だ。さらに丸太橋も年季が入っていて、メンテナンスもクソもない様な様子だ。

 

 遠くに注視すれば朽ちた家屋の残骸などが見える。これが昔は肥沃で人の多い町だったとは思えない程の荒廃加減の原因は、1846年に蔓延した疫病が原因であると言われている。そういう意味で周囲の人間も近寄らない一因なのだろうが、それ以上に並の人間なら近寄りたくないと思う陰の気が充満して、ある種の結界の様になっている。

 

 試しに一瞬だが風の魔術を薄めて――。

 

「うっ――!?」

 

 後悔した。鼻がひん曲がりそうだった。

 

 即時浄化。換気と新しく新鮮な空気を生成。古く穢れた空気と入れ替える。

 

 この研修が終わったら核爆弾で丸ごと吹き飛ばしてやりたくなった。その方が更地になって開発し易くなるだろう。

 

 バスの進んでいる狭い道が険しい登り坂になり、そうして車は頂上に向かって前進する。

 

 その坂の頂上からはマニュ―ゼット河が見え、断崖から川の水が流れているのが見える。そこから断崖を辿ればキングスポート岬が見える。その手前。家屋の集中する地帯が見える。そこが目的地のインスマウス。

 

「かなり、酷いものですね」

 

「わかるのか?」

 

「酷い邪気です。進んでは近寄りたくありませんね」

 

 顔を顰めるクロハ。そうでなくてもクロウの視界にもインスマウスが良くはない気を放っているのは感じ取れた。

 

 輝く海に太陽溢れる砂浜では大勢の海水浴を楽しむ人間で溢れている。

 

 しかしクロウが向かうのは華やかなレジャー施設や綺麗な海岸ではなく、その影とも言える部分。

 

 昔からのインスマウスの住人が住む荒廃した居住地だった。

 

 華やかさなど欠片もなく、多くの人間の放つ陽の気によって祓われたはずの呪われた地獄じみた雰囲気を色濃く漂わせていた。それもそのはず、ここは忌まわしき怪物との混血達が潜む陰の気を発する場所なのだから。

 

 広い地域に、しかし密集する様にぎっしりと立ち並ぶ家屋。それだけ多くの家があって、しかし人の住む気配がないという不気味な町だ。時間的に昼は過ぎているとはいえ、煙突から煙の一つも上っていないというのはどう考えても異常だった。

 

 だが坂を降り始めた車が近付くと見えてくる景色になるほどと思う。空き家が多いのだろう。見えてくる家々の屋根は損傷があるものが殆どだ。ゴーストタウンという言葉がしっくりと来るだろう。だがそれでも人が居る気配があるのが却って不気味さを増長させる。

 

 廃止になって久しいだろう鉄道の駅、雑草の生い茂る路線が見え、電線を通していただろう電信柱も今に倒れそうになっていた。辛うじて道、とわかる程度の線が路線に伝って伸びていた。

 

 そうした廃れた様子の家屋は仕方がないが、波風の一番影響を受ける海辺に近しいところに広がっているが、比較的町の中心に近い家屋はまだ充分に住めそうなものが多かった。人の気配も一番多い。

 

 一面砂で埋まっている港には石の防波堤が取り囲んでいた。その防波堤の上に腰かける漁師が見える。その防波堤の内側には砂州があり、その上に小屋と繋留されている小舟が見える。

 

 海岸のあちこちには防波堤の残骸の様なものも見える。その海上の遥か彼方には、波が高いのにも関わらずに見える海面に突き出た岩礁が見える。

 

「うっ――!?」

 

「見てはいけません――」

 

 咄嗟にクロハが視界を手で遮ってくれた。だが一瞬見ただけなのに脳髄にウジ虫が湧いて見境なく頭の中を這うような不快感が襲ってきた。

 

「悪魔の岩礁。あそこに神殿がありますが、近づかない方がよろしいでしょう。今のマスターでは魂が汚染されてしまいます」

 

 そう注意深く、忠告するクロハの言葉には大人しく従う方が良さそうだ。というより見ただけで影響を受けるのだ。触らぬ神になんとやらである。

 

 やがてバス停にたどり着き。そこは四つ辻に分かれていた。

 

 四つ辻の左側の町は海岸へと続いていて、道も舗装はされていない。そして荒廃具合も酷い。また右側は昔はそれなりに華麗であっただろう町の名残があった。

 

 バスは町の中央の広場に差し掛かり、その両側には教会が並んでいた。時の中で荒廃した教会の切妻屋根のところに、黒と金で書かれている文字はそれもまた時の風化によって読み難い物だったが『ダゴン秘密教団』と書かれていた。

 

 そこまで見てクロウは深く椅子に腰を据えた。車の揺れがダイレクトに伝わるが、それはもうどうでもよかった。

 

 古ぼけた高い円屋根のついた建物の前でバスは漸く止まった。

 

 降りたバス停から見えるのは傾斜屋根のついた煉瓦つくりの建物が半円状に広がっている。数件の店が開いているが、入ろうという気になるのは一軒だけだった。

 

 それはチェーン店でありそうな、今風で言うコンビニだ。この時代ならスーパーマーケットの個人店版とでも言えば良いのだろう。

 

 中に入って適当につまめるものを買い漁る。会計のついでに活発で愛想の良さそうな青年と軽く世間話ついでに情報を仕入れる。

 

 十中八九インスマウス――深き者ども(ディープ・ワンズ)の血を引く穢れた住人とダゴン秘密教団の呪祭の情報が得られた。

 

 その後も、気配を探って家々を訪ね歩き、他所から移り住んだ。元々この土地の者でなく、まだ血に汚染されていない人間の居る家を訪ねて、情報を収集する。

 

 しかし陰の気が強いからだろうか、段々と陰鬱な気分になりそうになる。リゾート地がからりとした清々しい空気に満ちていたのならば、此方はじめりとした重苦しい空気に満ちていた。

 

 真っ昼間だと言うのに、家の窓は締め切られ、中からは呪詛めいたおぞましい交配が執り行われているのだろう。吐き気を催す陰気が、居住地に犇めいて埋めずいていた。

 

 そして、一つの建物の前に立ち止まる。そこは廃れた錬鉄所だった。鉄を打つ鎚の音も、鉄を焦がす業火の気もない錆びれた錬鉄所だった。

 

「これは…」

 

 そこは何か奇妙な雰囲気、そう、まるで何かを崇め奉っているような雰囲気が感じ取る。

 

 だが、それはまっとうな神ではあるまい。

 

 まっとうな神の崇め奉る場所ならばこんなに穢れ果てて汚れ果てた雰囲気などはない。

 

 鉄を打つ鎚の音に代わり呪詛が、鉄を焦がす業火の気に代わり陰気をも冒す邪気が垂れ流しで溢れ、一種の結界になっていた。

 

「マスター」

 

「どうかしたのか?」

 

尾行()けられています」

 

 そういうクロハのお陰で、クロウも気付けた。物陰からこちらを窺う視線を。

 

 その視線に気づいていないフリをして、クロウは歩を進めた。

 

 居住地の中頃の錬鉄所からさらに奥。教会が見えて来たが、そこは笑いものにならない程に致命的な場所だった。教会は屋敷と連結しているような造りだった。屋敷側の窓の殆どは締め切られているが、開いている窓からは、醜悪な交配をわざと見せつけられた。カエル面同士のそんな窓際プレイなんて誰得だと、激しい吐き気と共に胃の中をぶちまけた。

 

 いよいよもって気が滅入ってしまったため、クロウは覇道財閥が経営しているリゾートホテル『ギルマンハウス』に部屋を取った。尾行はリゾート地に足を踏み入れたところで引き返していった。

 

 このホテルの名付け親は外宇宙の電波でも受信したのだろうか。不吉感全開の名前のホテルは、覇道経営として当然とでも言わんばかりにインスマウスで最大級の大きさと部屋数を誇る巨大なホテルである。

 

 お手頃価格から口から魂が飛び出る程にぶっ飛んだ高額スウィートルームまで、幅広い客層に対応したこのホテルは、旅行客の大半が利用する名所である。レストランやバー、各種アミューズメント施設にコンビニまで。

 

 金に糸目をつけなければ生活一つが完結する施設レパートリーであり、まるで陸の孤島と思ったのは気のせいでもないだろう。

 

 部屋に入ったクロウは備え付けの湯船にお湯を張って、まだ日が高いもののその身体を熱湯に沈めた。

 

 風呂は生命の洗濯とは上手いセリフもある。湯船に浸かると身体の疲れも解れる。それこそ頭から魂が抜けて行くようなあの感覚は日本人が風呂好きと言われる一つの本能に刻まれた感覚なのだろう。

 

 お陰で身体に纏わりついて来る様な重い感覚も晴れて行った。

 

「んーーっ、ごくらくごくらく」

 

 湯船に浸かり、完全にリラックスしているクロウはこの時だけは何もかもを忘れて頭を空っぽに出来る心のオアシスを堪能していた。それほど身体の大きくないクロウでも膝を曲げる程度には狭い一人用の風呂でも構わなかった。湯船に浸かるという行為が大事なのだ。

 

 良い塩梅に蕩けていたクロウの耳に、お風呂場の扉を開ける音が聞こえた。サッと視線だけは向けるものの、この部屋に入れるのは自分とクロハだけである為に、警戒はしていなかった。

 

「あの、マスター」

 

「ん――?」

 

 顔だけを覗かせて声を掛けてくるクロハに、しかしクロウは特に気にもかけずに応対した。

 

「ご一緒、しても、よろしい…でしょうか……?」

 

 途切れ途切れで、それでいて声も小さなクロハの言葉はそれこそ近くに居なければ聞こえない程だが、バスルームは狭く、音も反響しやすい。故にクロウの耳にもしかと聞こえてはいた。

 

 今まで食事や就寝は共にしても風呂場までは入ってこなかったクロハの接近に、どういう風の吹き回しなのかと思いつつも、断る理由もない為に了承する旨を伝える。

 

「そ、それでは、しし、失礼…、します…」

 

 消え入りそうな声で断りを入れて入って来たクロハは――水着姿だった。

 

「――――――」

 

 未成熟で未発達の華奢な身体だが、人としての黄金比にも見える程に均衡の取れているバランスの身体は、衣服というものを脱ぎ捨てたことでその身体のラインという者がはっきりと認識できる。

 

 白のセパレートタイプの水着に身を包んだクロハは、その闇色の髪と、深い青の瞳も相まって寒色系の落ち着いた服が似合うのは普段からの服も黒が基調としてある為にわかっていたが、その対向色である白というのも中々に似合っていた。腰のフリルも女の子らしさを演出している。クールな印象を受け、硬い感じの彼女を今は白という色をメインにすることで、何処にでもいる普通の女の子に雰囲気を落ち着けていたのだ。

 

「あ、あの、どう、でしょう…」

 

 そう言ってくるりと回って全身を魅せるクロハに、クロウは思わず口元を抑えた。そうでもしなければ間抜けな顔を見せてしまっただろう。しかし彼女もとても勇気を振り絞って自分に普段とは違う姿を見せてくれているというのを感じる。でなかったら彼女の耳とか頬のほてりが何なのか説明してほしい。

 

「一緒に入るか?」

 

「っ――、は、はい…」

 

 風呂に入る前は身体を洗うものというマナーなど知った事かと言わんばかりに、クロハの手を手繰り寄せて、湯船に誘い、膝の上に彼女を乗せて寛ぐ姿勢にクロウは移行した。言ってしまえば対面座位にになる格好だ。

 

「お、おもく、ありません、か?」

 

「や。というより軽すぎる」

 

「ま、ますたー、あの…、そのぉ……」

 

 湯船に横たえた自分の身体に添わせる様にクロハを横たえさせる。自分は何も身に着けていない為、直接肌でクロハの感触を感じている。思えばここまで身体を許しているのも初めてだとクロウは思いながら、意外と柔らかいクロハのお尻の感触を太腿で感じていた。

 

 気分としては歳の近い妹と入っているようなものだ。妹など居ないから本当の所は良くはわからない。だが性欲が鎌首を擡げないようにするにはそう思う他なかった。でなかったらもうペドフィリアでも良いやと降参しそうだ。

 

 そもそもからしてクロハの見かけは、クロウの好みにドストライクの女の子だったのだ。

 

 黒髪長髪系の女の子が好きなのは日本人として同じ髪の色が好きなのは良いとして、長い髪の毛が好きなのは事実だ。それでいてクロハは完成されている美少女だ。外見年齢的には10代前半の女の子だ。だがその年頃の女の子というのは漸く二次性徴という女の子から女になる時期であって、身体は子供なのか大人なのか微妙な時期だ。だが魔導書の精霊であるクロハはそんな時期の女の子の美しさを完成した芸術の様に見事なバランスで構成された肉体を持っている。正直街中でひとりでいたら最悪ハイエース案件が余裕で発生するだろう。

 

「んっ、ますたぁ…」

 

 クロハの肩に顎を乗せて、首筋に頬を当てる。頬でも感じるクロハの肌の気持ちよさ。普通此処までさせてくれる異性というものも中々居ないだろう。離れない様にお腹に回している両腕の内、片方の手で、彼女のお腹を撫でる。

 

「んぅ…、ぁ、あん…、ふぅ、んんっ――」

 

 気持ちがいいのか、声を漏らしてぴくぴく震えながらも声を我慢する姿に、背筋がぞくりとする。

 

 こう、誰かを腕の中に抱いて過ごすというものがこんなに多幸感があるものなのかと今更に思い始めていた。

 

 ある意味で何も気張っていない、オープンな状態でクロハを受け入れているからなのだろうか。

 

 腕に籠る力が自然と増した。

 

「ま、すたぁ…?」

 

 彼女の熱が自分にも移ったのだろうか、少しだけ、耳が熱くなっているのが自分でもわかる。動きの無くなった湯船で、重なり合った肌を通して、クロハの鼓動を感じていた。同じリズムで、少し早い鼓動をふたりで鳴らしていた。

 

 クロハがクロウの胸に、愛情表現の様に頬を擦り寄せる。

 

 ちゃぷんと、身動きしただけ湯船の水が揺れた。

 

 そしてどちらからともなく、唇を重ねた。触れる程度の、子供のようなキス。

 

 契約した時以来のキス。こんな小さな女の子相手にキスをしてしまう自分はどうかしているのかもしれない。

 

「んっ…、や、…ま、ますたー?」

 

 クロハの胸元に口づけをする。そして痕が残る様に強く吸い付いて、証を残す。

 

「ますたー…」

 

 陰気の所為でおかしくなってしまたのだろうか。

 

 蕩けた表情で自分を見てくる彼女を押し倒してしまいたくなる。その顔が快楽で喘いで、涙を流しながら自分の名を喜びながら叫ぶ様子を夢想してしまう。昂り出した肉欲で犯して汚してしまいたい。

 

「ふぅー、はぁー、ふぅー…」

 

「ますたー…?」

 

 すっかり昂ってしまった自分を悟られない様に、彼女を抱きしめて深呼吸をする。

 

 いつも眠っている時に感じている甘い彼女の香りで精神の均衡を保つ。いくら献身的な彼女であっても、無理やり襲えば嫌われてしまう。

 

 自制を最大限に働かせて、どうにか踏みとどまる。しかしいったい何故急にこんな気分になってしまったのだろうか。

 

「…ますたー、どこかお加減でも?」

 

「いや。うん…。少し…」

 

 自分でもどうかしていると思いながらも、冷静に考えても少し違和感を感じたクロウはクロハにありのままを伝えた。

 

「おそらく儀式などに使う香の類による影響でしょう。先程の住宅街でその様なものの香りを感じました。理性を消し、本能をむき出しにする麻薬に近いものです」

 

「そうか…」

 

 どうやら自分がおかしくなったわけではないらしい。いやある意味おかしくなったが、自分は決してペドフィリアじゃない。

 

 少々手遅れ感がないとも言わなない。クロハがかわいいから仕方がないのだ。

 

「あの、その…。ますたーがお望みというのなら、わたしは…」

 

 もじもじと顔に恥ずかしさを浮かべて、それでも言葉を紡ぐクロハに、なんとか復活させた理性が吹き飛びそうになる。控えめに言って、かわいすぎて襲いたくなった。でもがんばってがまんした。だれかほめて。

 

 

 

 

 

 

to be continued…



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インスマウスの影

またまた久し振りに頭の中がクトゥルフって来たので更新します。

あと今更ながら永劫の探求を買いました。

今年はデモンベインの新作小説も出るそうなので楽しみですよねぇ。

ちなみにこの小説、以前からデモンベインを知らなくても読める様にを目指してますが、さらにクトゥルフ神話があまりわからなくても読める様にも目指して少し細かい解説なんかも入れてみましたけども如何でしたでしょうか?

もっとデモベの小説増えろ、増えろッ、増えろ!!


 

 

 一夜明け、正気度も回復したクロウは再びインスマウスの街に足を踏み入れた。

 

 立ち寄ったのは前日にも訪れたコンビニだ。

 

 普通の身形をしている客の来訪に店を任されている青年は歓喜と安堵の表情を浮かべていた。

 

 聞けばまぁまぁ長くこの街に勤務の為に来ている青年はインスマウスの事を話してくれた。

 

 どう言葉にして説明したら良いものかと言葉を探すようにして青年は語ってくれた。

 

 インスマウスの住民はそこそこ人目を忍んでいて、まるで洞窟の中に住んでいる動物の様に滅多に姿を現さないらしい。

 

 彼らが漁業をしている時以外には何をしているのかはわからないが、彼らが飲んでいる密造酒の膨大な量から判断して――昼間はほとんど酔っ払って寝ているのではないだろうかということ。

 

 彼ら同士は、無愛想ながらもある種の友情や思いやりで団結し――自分達は世間とは別の、もっとマシな実在の世界の近くに居るのだとでもいう様に、並みの世間を軽蔑していた。

 

 彼らの風貌――特にじっと人を見つめたまままばたきをしない、その開けっ放しの二つ目は、成る程人を驚かす、或いは嫌悪感を感じさせるには充分な代物だ。

 

 夜には教会にて特に年に二度ある彼らの一番大事な祭日ないしは復活祭には彼らが聖歌を歌うらしいが、その光景は恐ろしいものであるとか。

 

 他には水辺が好きで河や港では思う存分に泳いでいる様子を見れることや、沖の『悪魔の岩礁』までの競泳も珍しくはないという。また、そうした競泳をする若者はよりインスマウス面の特色が色濃いなど。 

 

 街に姿を現せない程醜いインスマウス面をした連中が、街のドコかに閉じ込められていて、川の北側の岸に沿った街路に立ち並ぶ倒れかかったあばら家は、噂によるとそれぞれ秘密の抜け穴で繋がっていて、そこがいままで人目に触れたことの無い異様な連中を飼っている本拠だと言われているなど。

 

 客が来ない事を良い事に彼は様々な事を話してくれた。或いは話すことで言い知れぬ恐怖感を発散させたかったのだろう。

 

 最後に青年はこれ以上の詳しい話を知りたければ、街の北側のあばら家に住む白髪の老人を訪ねてみてはと教えてくれた。

 

 老人の名はザドック・アレンといって96歳の高齢の老人だという。街でも有名な飲兵衛で、いささか頭がイカれているらしい。消防署の辺りをぶらついて時間を潰しているらしいから行けば会えるかもしれないということだった。

 

 妙にこそこそしたところのある男で、何かに怯える様に、いつも後ろを振り返るクセがあり、素面の時には土地以外の事はどうしても口を聞こうとしないのだが、大好物の麻薬や酒が入ると蔭ながら有名なその思い出話の、実に驚くべき話の一端を喋ってくれるというのだ。

 

 とはいえ、その老人の話は狂人の戯言のようで、とうていあり得ない驚異的な恐ろしい現象を、それとなく不完全に仄めかすだけの話に過ぎず、この老人自らの狂った幻想以外にはなんら根拠のない物語であるらしい。

 

 話のお礼に少々大量に菓子や飲み物を買ってコンビニを辞した。

 

「どう見る? クロハ」

 

 買ったばかりの棒付きキャンディーをくわえながらクロウは己の魔導書に問う。

 

深きものども(ディープ・ワンズ)が関わっているのは確実でしょう。この街に満ちる邪気は海のもの。そして広場にあった『ダゴン秘密教団』。あれは海神ダゴンを崇め奉る一団なのでしょう。『悪魔の岩礁』も深きものどもの都のひとつ。ここまで情報が出揃えば確実でしょう」

 

 初期調査としては充分な情報は出揃っているが確実な証拠を押さえておいて損はないだろう。

 

 より詳しい実態を知るために街の北側に向けて足を運んだ。

 

 身形の良い少女ふたりに見えるクロウとクロハではあるが、そんなふたりに近寄ろうとする輩は居ない。何故ならクロハの影から猟犬たちが周囲に睨みを利かせているからだ。

 

 唯人よりも本能的な感覚が研ぎ澄まされているらしいインスマウスの住民たちはそういった闇の気配に敏感だ。なにしろ自らもそういった系統の血を継いでいるが故に、自らよりも強大にして凶悪な邪悪に近寄る事はない。

 

 それでも遠巻きに見られている感覚だけはあとを絶たない。

 

 歩みを止めず、口の中の寂しさを紛らわす為にビスケットをかじる。時折自らの影に向かって落としてやれば、ビスケットは地面に当たる事はなく影の中に沈み、バリバリと咀嚼する音が聞こえてくる。

 

 自分の影の中にも猟犬が居るという余り生きた心地がしないのだが、猟犬たちの手綱はクロハが確りと握っているから大丈夫――だと思いたい。思わせてくれ。

 

 歩きながらクロウは青年の言葉を思い返していた。

 

 青年はマーシュ家についても言及していた。

 

 曰くあの家は呪われていると。

 

 マーシュ家は古くから精錬所を始めた一族で実質的なインスマウスの支配者一族だということだ。

 

 青年はマーシュ家の人間を何度か見たことがあるという。マーシュ家の人間はまったく奇妙な姿に変わり果てているらしい。

 

 取り分け長男の変わり方は酷く、皆健康を損ねているらしい。

 

 マーシュ家の娘の一人は、見るからに不愉快な爬虫類の様な風貌をして奇妙な冠や不気味な宝石類を身に付けているそうだ。それは祖父にあたるマーシュ老人も同じ様な装飾品を身に付けているという。

 

 

 そうした類の装飾品はこの街の牧師――ないし僧侶、司祭などの教会関係者も身につけていて、一目でダゴン秘密教団の人間だと分かるのだとか。

 

 街名標識が大部分無くなってしまっているからと、青年はクロウたちに大変わかりやすい地図を描いて渡してくれた。

 

 その地図に従って歩みを進め、壊れかかった消防署にやって来た。

 

 まだ昼間だというのに赤い顔をした顎髭を生やし、目もとろんとした老人が、なんとも言い様のない酷い襤褸を身に纏って、消防署の前のベンチに腰を下ろしたまま、これもあまり身嗜みは良くない、しかし別におかしな顔はしていない二人の消防夫と話し合っているのを見つけた。

 

 件のザドック老人に間違いないだろう。

 

 このザドック老人は、ここ九十年間にインスマウスに起こったあらゆる出来事を見てきたに違いない。話を訊くにはうってつけの人物だ。

 

 しかし普通に話し掛けた所で、余所の子供にそうした話をしてくれるのかというものだ。

 

 それも抜かりはない。先程のコンビニでウィスキーを買っておいたからだ。

 

 ザドック老人はじっと落ち着いていない性分で、消防署の辺りに一時間以上もじっとして居ることはないそうだ。

 

 だがバカ正直に待つ必要はない。

 

 魔術で軽い暗示を掛ければザドック老人はベンチを立ち上がってふらふらと歩き出した。

 

 そして先回りをしてザドック老人に接触する。人払いの魔術を掛けておけば人目を気にして人気のない場所まで老人を連れて歩くということもしなくて良い。

 

 酒と暗示を使ってしまえばザドック老人は意図も簡単に様々な事を話し始めた。

 

 要約すると、南の島で深きものども、或いはそれに連なる血筋の民族ど出合い、海神との契約の方法を持ち帰ったという話だ。

 

 そして栄華を極め始めた所に役人が来て儀式を行っていたマーシュ一派を捉えてしまった。

 

 儀式が中断され、恩恵に対する見返りがなくなりそれに怒った深きものどもがインスマウスの街を襲った。

 

 クトゥルフ神話として知っている知識と、こちら側に来てから身につけた知識。

 

 その両方と照らし合わせて見てもこのインスマウスは呪われた地である事を理解できる。

 

 ザドック老人からあらかた話を聞き終えた所で老人を解放する。 

 

 話を聞き終えた頃にはもうすっかり夜になっていた。

 

 影の中の猟犬たちが唸り声をあげているので速くホテルに帰って食事をしよう。

 

 ザドック老人の話を聞いていた路地から表通りに出ると、異様な程に人の視線を感じる様になった。

 

 瞬きもせず、ねめつける様な不愉快な視線。

 

「マスター…」

 

「あぁ…」

 

 クロハの言葉に返事を返す。インスマウスの街から出ようとした所で、路地からひとり、またひとりと人影が現れた。

 

 それはあまりに異様な人間の姿だった。

 

 瞳は飛び出し、鼻は平べったく、耳はほとんどない何処となく両生類を思わす容貌。

 

 彼らは、その瞳に明らかな敵意を宿しながらクロウとクロハを睨み付けつつ少しづつ輪を狭めていく。

 

 その雰囲気には最早敵意と害意以外ありえない。

 

 彼らの手にはナイフやらよくよく見ると鉤爪のようなモノが生えているようにも見える。

 

 そんな者達が普通の人間であるはずはない。

 

 既に深きものどもと同質の域にまで変貌しているインスマウスの住人たちだ。

 

 徒党を組むことでクロウとクロハを襲う事にした様だ。

 

 ただ彼らの過ちは如何に自らよりも強大にして凶悪な闇の気配を携えていても所詮は子供だと侮り、数を揃えれば狩れると思ったところだっただろう。

 

 クロウとクロハの影の中から這い出てくる猟犬たち。数は僅に二体。風の魔術を行使しているクロウにはわからないが、辺りにはこの世のものとは思えない悪臭を猟犬たちは放っているだろう。

 

「許すわ。狩り尽くしなさい…!」

 

 そのクロハの声が合図となって猟犬たちが駆け出し、インスマウスの住人たちに襲い掛かる。お腹を空かせている猟犬たちは嬉々としてインスマウスの住人たちを食い千切ってはその肉を咀嚼していく。

 

 ダンウィッチの怪を思い出す光景に自然と顔をしかめてしまうのは仕方がない。あの光景は今でも己の心の傷として刻まれているのだから。

 

天狼星(シリウス)の弓よ!」

 

 よってその光景を打ち払う為に呪法兵装――黄金に輝く光で編まれた天狼星(シリウス)の弓を構える。

 

 魔力によって編まれた黄金の弓の弦を引けば、同じ様に黄金に輝く矢が装填される。

 

 それをインスマウスの住人に向けて放つ。

 

 放たれた矢は寸分違わずひとりの住人の額に中ると、強烈な稲光を発して住人を黒焦げにした。

 

 人体の弱点である電気。

 

 それは深きものどもに変貌を遂げていてもまだ陸上生活をする人間的な部分を残すインスマウスの住人たちにとっては十二分に脅威だった。

 

 風と火の属性を併せ持つ雷という性質はクロウにとってはこの上なく相性の良い魔術でもあることも手伝い、驚異的な生命力を持つ深きものどもとの混血児であるインスマウスの住人たちでも一撃で葬る程の威力を発揮した。

 

 猟犬の働きもありその場を制圧出来たクロウはクロハを伴って覇道財閥の経営するギルマンハウスへと戻る事が出来た。

 

 流石に警戒厳重なホテルにまではカチコミをかけて来ないだろうとは思うものの用心する事は無意味ではない。

 

 取り敢えず夕食をきっちり取り、消費した魔力を回復させる。

 

 おまけに広い露天風呂に使って身体の疲れを癒す。

 

 その合間にもこのあとインスマウスの連中はどう動く気なのかと思考を巡らせる。

 

 1928年ともなれば海軍の特殊部隊がこのインスマウスで密造酒の大規模な取り締まりという名の、深きものどもと同質になってしまったインスマウスの住人たちの殲滅作戦が実行に移された年でもある。しかしそういった気配は今のところはないという事はこれからその作戦が起こるのだろう、

 

 だとすれば自分達の調査はその前段階でもあるのではないかと推察する。

 

 ともすれば充分な情報は出揃っているとも言えるが、出来ることならば行方不明になっている観光客の行方を掴む事が出来れば大手を掛けることも可能だ。

 

 幸いな事に探し物をする事に関しては大得意な下僕(しもべ)も居る。

 

「クロハ」

 

「イエス、マスター。御前に」

 

 呼べば何処からともなく現れるクロハ。ちゃっかりタオルを巻いて湯に浸かる自身の前で片膝を着いた姿勢で(こうべ)を垂れている。

 

「探せるか?」

 

「問題ありません。直ぐにでも」

 

「なら頼む。それによってこの先の身動きも変わると思う」

 

「イエス、マスター」

 

 返事を返すクロハが腕を振るえば、自身の影の中から気配が消える。

 

 猟犬たちの大捜査線だ。程なくして行方不明者の所在を掴む事が出来るだろう。

 

 それまではゆっくりとしていられる。

 

クロハと肩を寄せあって温泉を堪能したあとは部屋に戻って晩酌だ。

 

 シュリュズベリィ博士から製法を教わった黄金の蜂蜜酒。

 

 それをちびちびと飲み、試験管一本分を空ければ程よい眠気が訪れる。

 

 そこ眠気に誘われる様にしてベッドに横になればブレーカーが落ちるように意識は眠りへと就いた。

 

 そして夢を見た。

 

 そこは神殿か。或いは祭壇か。

 

 巨大なフナムシの様なモノを象った彫刻のある場所だった。

 

 そこでは人の形をした両生類が聞くに堪えない聲で呪詛を吐きながら人間の女を犯していた。

 

 それはまるで何かの儀式の様だった。

 

 いや、正しくそれは儀式なのだ。

 

 インスマウスの住人たち。いや、深きものどもの神であるダゴンを復活させるための儀式なのだ。

 

「はっ……!」

 

 目を覚ませば辺りは日の出が近いのか、白み出していた。

 

「マスター…」

 

 クロハがまるで自分が起きるのを見越していたかの様に淹れたての紅茶を差し出した。

 

 それを受け取ってクロウは一息吐く。

 

 あの夢は夢ではない。黄金の蜂蜜酒によって鋭敏になったクロウの霊感が捉えた実際の光景だったのだ。

 

「奴らの根拠地がわかったな」

 

「イエス、マスター。悪魔の岩礁の神殿に集まっています」

 

 あの光景を信じるのならば一刻を争う。

 

 この事をシュリュズベリィ博士に連絡をして彼の助けを待つという選択肢は確実だが、その間にも彼らの神が復活してしまうだろう。

 

「クロハ」

 

「イエス、マスター」

 

 クロハの名を呼べば此方の意思を汲み取ってくれる。

 

 奇妙な石笛の様な物をクロハが取り出すと、次の瞬間、呪文と笛の音が周囲に木霊する。

 

「イア! イア! ハスター! ハスター、クフアヤク、ブルグトン、ブルクトム、ブグトラグルン、ブルグトム、アイ! アイ! ハスター!」

 

 その呪文を唱えた瞬間、再び、轟と猛烈な霊風が吹き荒れる。

 

 ホバリングしながら、垂直にゆっくりと風を撒き散らしながら着陸する『ソレ』は異様な物体だった。

 

 それは魔と機械との融合体、まるで戦闘機のような鋭角なデザインの天翔る物体。

 

 魔翼機――バイアクヘー。

 

 邪神ハスターに仕える下級眷族であり、星間宇宙すらも飛び越える能力を持つ存在である。

 

 部屋の外に待機するバイアクヘーに飛び乗り、向かう先は悪魔の岩礁。

 

 光となって加速したバイアクヘーは一瞬でクロウとクロハを悪魔の岩礁まで運んでくれた。

 

 しかしその悪魔の岩礁は様変わりしていた。

 

 まるでひとつの島となっていたのだ。

 

 普段海から突き出ていた岩礁は、島の中心に位置する神殿とでも言わんばかりの荘厳な建物のごく一部でしかなかった。

 

 その神殿の膝元に広がる古代の都市部。

 

 それこそ深きものどもの海底都市――イハ・ントレイである。

 

「う…っ」

 

 そこから発せられる古来よりの闇の気配に、クロウは己の脳裏の何かがガリガリと削り取られて行くような、まるで蛆虫が脳内を貪り喰う様な不愉快さを感じた。

 

「直視してはいけません。今のマスターでは正気を失います」

 

 クロハの手がそっと視界を遮る様に添えられ、古来の海底都市を視界から消し去る。

 

 その細く小さな手から香る甘い香りが削られた正気を癒してくれる。

 

 バイアクヘーはそんな邪悪な島の中央の天辺。神殿の入り口の前に着陸した。

 

 バイアクヘーから降り立つとふらりと身体がよろめく。

 

「マスター…!」

 

 その身体をクロハが慌てて支えた。

 

「大丈夫。少しフラついただけだから」

 

「ですが…」

 

 心配するクロハに支えられながらも、クロウは目の前の神殿の入り口を睨み付ける。

 

 そこから溢れ出す邪気程度でこの体たらく。

 

 本能で理解できる。

 

 ウェイトリーとは比べ物にならない邪悪がこの奥に存在する。

 

 見るからに異様な文様や見ただけで狂ってしまうような刻印。

 

 そして、駆け出し魔術師でも解る強大な水妖の気。

 

 出来るだけ床を見て、壁に刻まれた異質な壁画は目に入れないように、神殿を道に沿って進む。

 

 空気自体に強力な水の妖気が漂ってくる。風の魔術すら透過して漂う強烈な潮の香り。吐き気を誘う程の生臭さに顔をしかめる。

 

「イア、イア、ハスター!」

 

 懐から取り出した手記を人差し指と中指で挟み、ハスターへの祈祷を口にする。

 

 セラエノ断章の記述を暗記し、丸写しした手記の名は『手記:セラエノ断章』。

 

 手記ではあっても魔術師の記したもの。内容もシュリュズベリィ博士の書したセラエノ断章の丸写しともなればこの手記も立派な魔導書であった。

 

 バイアクヘーを招喚し、風の魔術を操れるのはこの手記セラエノ断章の力であった。

 

 増した風の魔力によって水妖の気を打ち払う。

 

 神殿の奥地にまで進めば巨大な大空洞に突き当たる。

 

 そこは巨大な祭壇だった。

 

 巨大な祭壇に捧げられるようにする人間の死体。

 

 そして、祭壇に祈りを捧げる無数の深きものたち。

 

 彼らの祈りの先、祭壇の前には、巨大な石の像が存在した。

 

 おおよそ50mにも渡るほどの巨大な石の像。

 

 それはまるで巨大フナムシのような姿をした異形にして異質な神の姿。

 

 ―――海神ダゴン。

 

 クトゥルーに仕える眷属であり、深きものどもが崇める存在。

 

 下級とはいえ、歴とした神そのものである。

 

 今は岩に変えられて封印されているが、その漏れ出す神気はやはり並のものではない。

 

 そのダゴンの神像に向って一斉に祝詞を唱え始める深きものども。

 

 それに呼応するように、ダゴンの石像は僅に震えている。

 

 完全な状態で復活したダゴンならば、少なくともインスマウスを壊滅状態になるだろう。彼処にはなにも知らない観光客も大勢居るのだ。

 

 それこそ生け贄に捧げられた観光客の数の比ではない数の人間が犠牲になる。

 

 それを許せるわけがない。

 

 あのような邪悪を世に解き放つわけにはいかない。

 

天狼星(シリウス)の弓よ!」

 

 先手必勝、一撃必殺。

 

 黄金の弓の弦に何十本もの光の矢を装填し、一気に放つ。

 

 「――――!?!?」

 

 神の復活のための神聖な儀式に乱入してきた不遜な人間に、深きものどもはパニックに陥る。

 

 同胞を焼き殺され、憎悪の視線を向けてくる。

 

 侵入者を認めてすぐに冷静さを取り戻し、祭壇に近づけないように彼ら自身が壁になり、クロウの行く手を妨害する。

 

「黄金の宝剣よ!」

 

 黄金の弓に代わる新たな呪法兵装を解き放つ。

 

 黄金の十字架を手に、クロウは行く手を阻む深きものどもを一閃する。

 

 緑色の血液を噴出させ、深きものどもの身体がずれていく。

 

 その技後の隙を突く深きものどもも居るのだが。

 

「はァ…っ」

 

 それをカバーする様にクロハが魔術防壁や魔力波を打ち込む。

 

「吹き荒べ! 険悪にして究極なる風よ!」

 

 手記セラエノ断章から練り上げた魔力を十字架に乗せて一閃。

 

 遥かヒヤデス星団よりハスターの呪力を乗せた真空刃を放ち、深きものどもを纏めて凪ぎ払う。

 

「ソノ魔力…、キサマ、ハスターノ眷属カ!?」

 

 まるで人間ではない発声器官で無理やり人間の言葉を喋っている様なしゃがれて掠れた声が響く。

 

 神官か僧侶か。その姿は異形の神父のような冒涜的な刺繍が縫われた衣服に、黄金のような三重冠を頭に被り、一冊の書を携えた一人の深きものだった。

 

 その異形の忌まわしい神父に対して油断なく構えながら鋭い言葉で言う。

 

「答える義理はないな!」

 

 クロウは確かにハスターの魔力を使うが、ハスターに魂を売ったわけではない。ハスターの魔力は自らに相性の良いただの武器として使っているだけだ。

 

「グ、グググ……。忌マワシイ陸ノ人間ゴトキガ……。我ラニ逆ラウトウノカ……!」

 

「半魚人は大人しく海の中で過ごしていれば良いのさ。態々陸に上がってくるな!」

 

「黙レ! 神聖ナ土地ヲ汚ス邪悪ナ人間メ!」

 

 話は平行線だ。根底の価値観が違うのだ。神父とクロウはいくら言葉を並べ立ててもその意見が交わる事はない。

 

 そもそもからしてクトゥルーの系列に連なる者とハスターの魔力を使う魔術師。敵対する相反する神の力を使う者同士。相性は最悪である。

 

「我ラノ悲願ヲ邪魔スルノナラバ、排除スルマデ! 我ガ魔導書、ポナペ島教典ヨ!」

 

 神父はその手の書物を聲高らかに掲げる。

 

 ポナペ島経典とは、A・E・ホーエイグという船長が1734年頃に南太平洋の探検中。ポナペ島で発見し、アーカムに持ち帰った経典である。

 

 ヤシの葉でできたパーチメントに書かれている書物で、ムー大陸に関する秘密が多く書かれているという。

 

 これも歴とした魔導書である。

 

 ポナペ島と深きものどもとは密接な関係があるが故に、この魔導書がダゴン秘密教団の手にあってもおかしくはない。

 

 神父の足下から大量の水が湧き出て、それは水の形をした大蛇となる。

 

「クロハ!」

 

「イエス、マスター!」

 

 一声掛けるだけだが、契約によって魂の領域で繋がっている両者に余計な言葉は不要だった。

 

 主の意思を承け、クロハは黄金の弓を構える。その速さは術者であるクロウの数倍速い。

 

 魔導書であるクロハ。己の存在の一部である呪法兵装の展開の素早さはまだ未熟なクロウのそれよりも速くて当たり前だった。

 

 光の矢を装填し、放つその先は力を誇示する様にバカ正直に掲げられた神父のポナペ島教典。

 

「ナンダト!?」

 

 驚いても遅い。

 

 光の矢は寸分違わず神父の魔導書に突き刺さり、宿された呪力によって瞬く間に燃え上がり灰となった。

 

 魔導書を失っては魔術師もただのヒトだ。

 

 簡単な魔術であれば魔導書がなくとも魔術師は己の脳の演算によって魔術を行使できるが。同じ魔術師同士の闘争において魔導書を持たない魔術師が、魔導書を持つ魔術師に勝つこと等不可能だ。

 

「ナ、ナントイウ事ヲ!」

 

 魔導書を失った神父は恐怖に戦いた。しかしそれは魔導書を失い勝ち目が無くなったというものとは別の意味に聞こえるものだった。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 神殿全域を揺らす様な地震が襲う。立っていられず、黄金の十字架を杖代わりにして踏み留まる。

 

「な、なんだ!?」

 

「この島を浮上させていたのはあの魔導書の力に他なりません。それが失われた今」

 

 つまりこの振動は、この悪魔の島が海に沈んでいるという事の証拠である。

 

「ソレダケデハナイ!!」

 

 クロハの言葉に被せるように神父が喚き散らした。

 

「アノ魔導書ガ無ケレバ我等ノ神ハ――」

 

 そう神父が続けようとした所で、身体から急激に力が抜けていく感覚を味わう。

 

「こ、今度は…っ、なんだ…!?」 

 

 捻り出す様に言葉を紡ぐ。

 

「制御を失ったダゴンが手当たり次第に生命力を吸い上げているのです。マスター、一時退避を」

 

 そういうことは早く言って欲しい。

 

 地面を蹴って祭壇から離れれば一応倦怠感は感じるものの先程よりは随分マシにはなった。

 

「オオオオ、ダゴンヨ、父ナル神ヨォョ! 何故、ナニユエェェェ!!!!」

 

 そう叫びながら神父は他の深きものどもと共に生命力を吸い上げられて干からびたミイラと成り果てて行った。

 

 そして祭壇の頂上。

 

 石像を内側から破壊し、まるで羽化する様に姿を現す存在。

 

 膨れ上がるプレッシャーに押し潰されそうだった。

 

「マスター!」

 

 クロハに支えられ、海神と相対する。神というよりもはや怪獣だ。

 

 身震いし、暴れながら神殿を粉砕する海神ダゴン。落ちてくる瓦礫を避けつつ。クロハが浮遊魔術でクロウを連れ、ダゴンが粉砕した神殿の天井の裂け目から外へと飛び出る。

 

 眼下に広がる沈み行く悪魔の島。その上に現れる偉容。

 

 巨大なフナムシ怪獣――海神ダゴン。

 

 その巨体は真っ直ぐとインスマウスを見詰めていた。

 

「いけません。復活したばかりで足りない生命力を補う為に街を襲うつもりです」

 

「そんなこと。許すもんかよ!」

 

 剣指を作り、虚空に描くは招喚陣。

 

 真紅に輝く魔法陣を描き、クロウはその手に刃金の剣を執る為の聖句を口にする。

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

「虚空の空より来たりて、切なる願いを胸に、我は明日への路を切り開く――!!」

 

 聲高らかに紡がれし聖句は世界を超えてその剣を顕界させる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 紅い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)

 

 紅く、血の色に染まる鋼鉄の巨人。機械仕掛けのその(むくろ)を、闇が覆い尽くしている。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

 深きものどもの海底都市。直径数キロはあるだろう小さな陸地にデモンベイン・クロックは足元の地面を粉砕しながら着地する。

 

 機体を通して、海魔のプレッシャーがのし掛かる。無秩序だった重圧が指向性を得て、そのすべてが己の身に降りかかる。

 

「くっ……! ううぅぅうっ!」

 

 その重圧を耐えながら、クロウは拳を握り絞る。唇を咬み切り、その痛みで正気を保つ。血が溢れ、服を濡らす。

 

 正気を保つので精一杯の中。怒りに燃える眼がデモンベイン・クロックに向けられていた。暗雲が空を覆い始める。風は吹き荒び、稲光が奔り、豪雨が装甲を打つ。

 

 稲妻に照らされる擬神と海神。

 

 海神が、吼える。それは怒りを孕む声無き聲だ。

 

 しかしデモンベイン・クロックは威風堂々と、不遜にも身動きせずにそれを受ける。

 

 腰を入れ、脚を踏ん張る。海魔の神殿を砕き、デモンベイン・クロックが駆ける。様子見は要らない、先手必勝、一撃必殺あるのみ。

 

「断鎖術式解放。壱号ティマイオス、弐号クリティアス! 爆裂《エクスプロージョン》――!」

 

 脚部の足首から太腿までの高さはあるだろう巨大なパーツから紫電が迸り、空間を眼に見えて歪ませた。エネルギーによって砕かれた岩が、テープの再生と巻き戻しを繰り返すかのように、一瞬、昇ったり落ちたりを繰り返した。

 

 デモンベイン・クロックの脚を庇う様に備え付けられた巨大なユニット。その表面で魔術文字が走り、エネルギーのうねりを発生させる。魔術回路が発光し、ただならぬ力が込められていくのを外見からでも理解できるだろう。

 

 脚部から時空間歪曲エネルギーが紫電となって漏れ出すが、それを更に集束する。逃げ場のない紫電は閃光を灯し、デモンベイン・クロックの振り上げられた脚部は死神の鎌の様な半月の軌跡を描く。

 

 今、デモンベイン・クロックは正しく魔を断つ剣として、目の前の邪悪を断ち切る死神としての刃を、渾身の回し蹴りをその刃として振り抜いた。

 

「アトランティス・ストライク――!!」

 

 デモンベイン・クロックの近接粉砕呪法。時空間歪曲エネルギーを直接打ち込む必殺技。

 

 その爆発力を湛えるデモンベイン・クロックは飛び蹴りの姿勢のまま時空間歪曲エネルギーの奔流を、その超重量・超破壊力を備えた一撃を打ち込んだ。

 

「んなっ!?」

 

 空振った。盛大なまでの空振りに、デモンベイン・クロックがたたらを踏む。

 

 ダゴンは見た目の鈍重さを裏切る俊敏な動きで、まるでエビが跳ねるように跳んだのだ。

 

 デモンベイン・クロックの頭上を軽々しく跳んでいくダゴン。空の敵に追撃は不可能だ――。

 

「断鎖術式連続解放!!」

 

 空振りによって不発に終わった時空間歪曲エネルギーを瞬時に再び集束させ、頭上を過ぎるダゴンに向かってオーバーヘッドキックよろしく脚を振り上げた。

 

 脚を発条(バネ)に、デモンベイン・クロックは跳躍しつつ、身体に回転をかけながら遠心力の乗った蹴りを放つ。

 

「アトランティス・ストライク・ヴォーテックス――ッ」

 

 鋼鉄の蹴りは強かに海魔の巨体を蹴り抜き、打ち上げた。緑色の汚液と肉片が飛び散る。

 

 打ち上げられたダゴンは、背中から地面に激突した。悶えながら起き上がろうともがくダゴン。柔肌を晒している今が勝機!

 

「これでトドメだッ!!」 

 

 鋼鉄の鉄塊が重力を味方に、連続発動している断鎖術式の時空間歪曲エネルギーを纏う蹴りを海神に向ける。だが、ギリギリのところでダゴンは身を転がして事なきを得る。

 

 デモンベイン・クロックの蹴りが炸裂した魔境全体に亀裂が生じる。決まれば間違いなく一撃必殺だった。

 

 バランスを崩して転がったダゴンが、憎悪に溢れた眼でこちらを睨んでくる。早々に決着を着ける為に地を蹴ろうとした瞬間だった。

 

「(――――――っっっ!?)」

 

 言い表せない程のプレッシャーが襲い掛かった。途方もない質量が、身体にのし掛かる感覚。その感覚に気圧されて、デモンベイン・クロックは駆けることが出来なかった。クロウの中で厭な予感が頂点を振り切る。

 

 地鳴りが響く。圧倒的で、途方もない質量が迫ってきた。

 

「な、なんじゃそりゃあああああ!?!?」

 

 それは巨大な津波。 広大な大海の、荒れ狂う海の、その水平線を全て埋め尽くすほどの巨大な大津波が押し寄せてきたのだ。デモンベイン・クロックの全長を容易く超えるその波は、ダゴンごとこちらを飲み込もうする。

 

「うわああああああぁぁぁぁああっ!!!!」

 

 成す術もなく、デモンベイン・クロックは津波に呑まれた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「ぅっ、くっ、…ここは」

 

 気を失っていたのは一瞬だっただろう。デモンベイン・クロックは海中に没していた。深淵の海は、漆黒の宇宙のように冥かった。

 

「クソッ! してやられた」

 

 深淵の海を、注意深く見渡す。360度、全天周囲、どこからでも向こうは襲えるからだ。

 

 そして向こうは海の神。相手の得意とするだろうフィールドで戦う事の不利をクロウは悟っていた。

 

 下の方に僅かに揺らぐ途方もない巨大な魚影の気配。

 

 攻撃に備えて意識を集中する。

 

「―――!? ぐああああっ!!」

 

「きゃあっ」

 

 背後から強烈な衝撃。体当たりをして遠ざかる巨大な魚影。ダゴンだ。

 

 軽やかに泳ぎながら旋回。こちらに正面から向かってくる。

 

「こなクソッ!!」

 

 機体を捻り、横を空振りして通り過ぎるダゴン。掻き分けられた水流に煽られながら無理矢理に拳を振るう。

 

「ぐあっ!?」

 

 しかし横合いから衝撃。振るった拳は空振り。そして交差する()()の魚影。

 

「なっ、ダゴンが2匹も!?」

 

「いえ。片方はダゴンの(つがい)のヒュドラです。父なるダゴン、そして母なるヒュドラ。共に深きものどもに崇拝されているのです」

 

「だからって、2対1なんて反則でしょうがっ」

 

 寄り添うように泳ぐ二匹の海魔に呪詛を吐く。

 

 明らかにこちらが相手に出来る範疇を超えている戦力差だ。だが、デモンベイン・クロックがこの海から脱け出すには、この二体の神を、討ち滅ぼさなければならない。

 

「ふむ。では片方は我々に任せて貰おうか」

 

「え?」

 

 異次元の魔風によって海が粉微塵に『切り裂かれた』。

 

 舞い散る水飛沫と共に天空から光速にも匹敵するスピードで飛び込んできたのは、魔翼機バイアクヘー。

 

 その背に跨るのは、サングラスをかけた威風堂々たる老賢者。

 

 我は勝利を誓う刃金(はがね)。我は禍風に挑む翼――。

 

 無窮の空を超え、霊子(アヱテュル)の海を渡り、翔けよ、刃金の翼!

 

  舞い降りよ―――アンブロシウス!!

 

 紡がれた聖句と共に、瞬間、空が爆砕した。

 

 それは巨大な空間の歪み。そしてそこから姿を現すのはヒト型を模した鋼鉄の巨人。

 

 それは最高位の魔導書のみに許された奥義。

 

 それは巨大な痩せた猛禽の様であり、鋼鉄のフレームからなる骸骨の様であり、姿こそは人間に似ているが、二本ではなく四本の腕に鋭い鋼鉄の翼。

 

 これが魔導書『セラエノ断章』から招喚される鬼械神(デウス・エクス・マギナ)――アンブロシウスである。

 

 両手に握られた一振りの巨大な鎌。四本腕のその機体は、どこか禍々しく。例えて言うなれば、死神の鎌を持つ巨大な凶鳥、あるいは死神にも見える姿をした機械仕掛けの神。

 

 シュリュズベリィ博士の乗るバイアクヘーはその頭部と合体する。

 

 魔術師と魔導書と鬼械神。

 

 この三位一体が構築される事により、彼らは神すらも滅ぼす刃となるのだ。

 

「これて2対2だ。存分に戦うとしよう」

 

「楽しそうだね。ダディ」

 

 アンブロシウスの中で不敵に笑うシュリュズベリィ博士に、セラエノ断章の精霊――ハヅキは言った。

 

「まぁ。年甲斐なく少々はしゃいでいるのは確かさ」

 

 その言葉にシュリュズベリィ博士は誤魔化す事なく率直な気持ちを言葉にした。

 

 多くの弟子や仲間を持つ彼ではあるが、鬼械神を操れる程の同士を得た事まではない。

 

 まだ未熟な、しかし将来有望な戦友を得られた事で口許に自然と笑みが浮かんで来るのだ。

 

 自分は決して独りではないと実感出来る。

 

 その為にも目の前の悪神を断たねばなるまい。

 

 ダゴン、あるいはヒュドラ、姿形は瓜二つである為にクロウには区別がつかなかったが。

 

 ヒュドラがデモンベイン・クロックに向かって突進する。

 

 水の中なら素早くとも、今はシュリュズベリィ博士の放った魔風によって小さな血戦場と化した海のど真ん中の陸地。

 

 鈍重な突進はクロウでも見切る事が出来た。

 

 その突進を受け止め、ヒュドラの甲殻の縁に手を掛けて、突進の勢いも利用した巴投げで、海魔の巨体を投げ飛ばした。

 

「今だよダディ!」

 

「うむ。お淑やかに頼むぞ、レディ」

 

 その隙を逃す程、邪神狩人は甘くはない。

 

蜂蜜酒(ミード)、セット!」

 

戦闘機形態(モード・エーテルライダー)!」

 

 一瞬の内に滑らかに『変形』するアンブロシウス。

 

 ―――そこに現れたのは、巨大な戦闘機だった。

 

 鋭いイメージの機能美を誇る機体。大気を切り裂くための鋭角な機体。

 

 空中での格闘戦で無類の強さを発揮する研ぎ澄まされたイメージの前進翼。

 

 これこそが、アンブロシウスの戦闘機形態、モード・エーテルライダーである。

 

 戦闘機と化したアンブロシウスはさらに上空へと舞い上がり、一瞬の内に音速の壁を突き破り、超音速の世界へと突入する。

 

 そして、くるりと方向転換をし、機体の先を下に向けると、一気に地面に向かって急降下する。

 

「フーン機関オーバードライブ!」

 

「このままぶつけるぞ!」

 

 戦闘機形態のアンブロシウスは更に急加速。

 

 霊子の吸引→魔術的定義の圧縮→魔力燃焼→排気/爆発=物理的/概念的に―――加速。

 

 速度と魔力の結界を纏い、アンブロシウスは光と化した。

 

 デモンベイン・クロックの投げ飛ばしたヒュドラに対して、超音速をも突破した超速度でそのまま真正面から突っ込んでいく。

 

 光となったアンブロシウスは物理法則を無視した異常極まる機動でヒュドラに迫る。

 

 吹き荒れる爆風。乱れ狂う字祷子(アザトース)咆哮(ソニックムーブ)

 

 物質と霊質の軋みが断絶魔の軋みを上げる。

 

 破城槌と化したアンブロシウス飛行形態の突撃。

 

 超速で振り下ろされる巨大質量の鉄塊、超高密度の魔素の塊。

 

 触れるもの全てを跡形も無く粉砕する必壊の一撃。 破光が邪神の眷属を貫く。

 

 胴体を穿たれ、泣き別れになるヒュドラ。断末魔を上げる暇もなく遅れてやって来た衝撃波と、激突した衝撃、そして光と化していた魔力の奔流は荒れ狂う激流となってヒュドラを蹂躙し、跡形もなく爆砕した。

 

 その眼下。

 

 ダゴンと対峙するデモンベイン・クロック。

 

 大技を決めようにもまた逃げられてしまっては敵わない。

 

「極彩の夢を編む――捕らえよ!」

 

 デモンベイン・クロックの腰のユニットの内側から夥しい数のワイヤーが放たれ、ダゴンに殺到する。

 

 その巨体をがんじがらめにしてしまうワイヤーの群れ。

 

 もがく事でその拘束から逃れようとするダゴン。

 

 しかしワイヤーは引き千切れるものもあれば余計に絡み付いてダゴンの動きを縛り上げていく。

 

 その大きな隙を逃す程、クロウも甘くはない。

 

「やるぞ、クロハ!」

 

「イエス、マスター!」

 

 剣指を作るデモンベイン・クロック。その合わせられた剣指の手の内には超高密度の魔力の塊が産まれている。

 

「ヒラニプラ・システム、接続(アクセス)!!」

 

「ヒラニプラ・システム発動。ナアカル・コード構成、術式解凍!」

 

「うぉぉぉぉぉ!!」

 

 クロウが吠え、デモンベイン・クロックが、剣指を重ね合わせた両腕を天に掲げ、左右に広げながら降り下ろす。

 

 後光の如く輝く五芒星の印――旧き印(エルダー・サイン)が、邪悪を討ち祓う結印が一際輝きを増し、結界を作り出した。

 

 そして紡がれるのは、未来永劫過去永劫現在永劫変わることなく語り継がれ紡がれる破邪の祝詞。

 

「光射す世界に、汝ら暗黒、棲まう場所なし!」

 

 天高く掲げられたデモンベイン・クロックの右の掌に超高密度の魔力が収束する。高密度の術式と魔力が駆け抜け、必滅の威力を封じ込めた術式が覚醒する。

 

「渇かず、飢えず、無に還れ!」

 

 デモンベイン・クロックが地を蹴り、疾駆する。掌から溢れ出す閃光が邪悪を、白い闇で染め上げる。

 

 邪神が、巨人の右手に宿る輝きを見た瞬間、怯えた。その破滅の光を、魂が識っていた。だがもう、逃れるには致命的な距離だった。

 

 神をも滅する第一近接昇華呪法――その名も!!

 

「レムリア・インパクト――!!」

 

 必殺の一撃を乗せて、デモンベイン・クロックの右の掌は吸い込まれるようにダゴンに叩き込まれ、必滅の術式がその内部へと浸透していく。

 

「昇華!」

 

 必滅の呪文が世界に響き渡り、デモンベイン・クロックの掌から放たれた光が、世界を白い闇で埋め尽くし、塗り潰し、染め上げ、閉じ込めた。

 

 暴虐の光の中。魂を冒さんばかりの断末魔。だがその断末魔は結界に封ぜられた無限熱量の暴虐によって、邪悪な神気も、魂も、その悉くを滅却し、昇華させた。

 

 腰のユニットの電磁推進機構と脚部ユニットの時空間歪曲エネルギーによって空に飛び上がったデモンベイン・クロックはアンブロシウスに並び立つ。

 

「ふむ。中々の鬼械神の様だ」

 

「混ざり物も多いみたいだけどね。単純な鬼械神とはちょっと違う感じ」

 

 実際、デモンベインがどういうものなのかクロウにはわからない。しかしアンブロシウスの様な純粋な魔術によって産み出されている鬼械神ではなく、工業品――まさしく機械仕掛けの神という印象を受ける。

 

「さて。邪神は倒したが、まだまだやることは多い。あとは海軍の特殊部隊に任せるとして我々は一旦休息としよう」

 

 鬼械神を操ることは魔術の奥義。魔術とは外道の知識であり、人の正気度を削るものだ。

 

 次も人として邪悪に抗うために、人としての尊厳を失わない為にも休息は必要だった。

 

「はい。博士」

 

 ダゴンによってもたらされた暗雲も晴れ、陽光に照らされながらコックピットでクロウは肩の力を抜いた。

 

 邪神の落とし仔の次は下級とはいえ正真正銘の神殺し。

 

 とんでもない人生になりそうだと思いながら、不思議と嫌ではなかたった。恐怖ではなく心地好い達成感すら感じていた。

 

 その後の事は海軍の特殊部隊によってインスマウスの街では大規模な作戦が展開されたそうだが詳しくは機密である為に語ることは出来ない。

 

 だが少なくとも深きものどもの地上における活動拠点のひとつを壊滅させられた事は確かな事だった。

 

 

 

 

to be continued…



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正義の守護者――我等は威風堂々覇道を往く

久し振りに適当にデモンベインやってたら姫さんルートに突入。丁度良いから色々とブチ込んでおいた。


 

 インスマウスの一件を片付けたあとはアーカムシティに帰還した。

 

 正式にミスカトニック大学秘密図書館特殊資料室に所属する事となったクロウは時間の許す限り、秘密図書館の蔵書を読み漁った。

 

 魔術師にとって知識とは武器である。

 

 経験が圧倒的に不足しているのならば、それを補う為に知識を身につける必要がある。

 

 魔導書を読み解く中でクロウは気付いた事がある。

 

 それはネクロノミコンに類する魔導書との相性の良さであった。

 

 クロハの本体――ナコト写本はクロハが自身に合わせてくれているから高い親和性を獲得しているに過ぎない。

 

 しかしなんの制御も受けていないネクロノミコン系列の魔導書との相性の良さは、この魔導書郡が己と真に相性の良い魔導書なのだと理解する。それはまるで遠い昔に引き裂かれた自分自身の一部の様な。

 

 そんな、言葉では言い表せない感覚だった。

 

 故にであろう。あるいは鬼械神を招喚する程の魔術師だからか。

 

 ミスカトニック大学秘密図書館の中でも最も貴重であり、邪悪であり、力を持つ魔導書の閲覧が叶った。

 

 あのウェイトリーが閲覧しようとしていた魔導書。

 

 ある意味で自身の運命に転換をもたらした魔導書と言えるだろう。

 

 ネクロノミコン・ラテン語版。

 

 未だラテン語の完全習得には至っていない。

 

 クロハに頼めば翻訳は朝飯前であるがこれも修練。

 

 辞書を片手に拙い翻訳を試みながら読み解いていく。

 

 時を忘れて読み耽る。

 

 修行を積んだ魔術師でさえ精神に異常を来す程の時間。

 

 ネクロノミコンという世界最高峰の魔導書(とはいえ機神招喚の記述はなく、ランクとしては幾分か落ちる)と向き合っても、特にこれといって異常が起きないのはやはりネクロノミコンとの親和性故か。あるいはそれほどまでに強靭な精神力があるのか。

 

 まるで魅了されたかの様に本の虫となって視線は記述を追い。手は手記に読み解いた端から記述を記載していく。

 

 読み解くに連れて感じる生臭い錆び鉄の香り。それは血の匂いだ。

 

 甘く、芳醇な、鼻腔を突く匂い。なのに何故か不思議と安心感を感じさせた。

 

「――――っ!?!?」

 

 訪れたのは膨大な思念。精神防壁を意図も容易く素通りして、それは容赦なく脳裡を灼く。

 

 それは術理(きおく)だった。

 

 それはまるでとって付けたような地獄だった。

 

 ガハッ! グゥゥ――ッ! ギィィィ……アアアアアアアアアア……! ヒィアアアアアアア!

 

 イタイイタイヤメテウゴカサナイデクルシイ。

 

 アグ……グゥア……アァァ……アアアア……ギャアアァアアアアアア――――――――ッ!

 

 イタイ……イタイ……ヤメテ……ヒドイコトシナイデ……アアア――ッ……。

 

 ガアアア……アガア……ヒィィ……ヒィヤアア……ヒギィィィアアア……アアアア……ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――。

 

 ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイユルシテクダサイユルシテユルシテェ――ッヒィィィィッ。

 

 ヒュ――ッ……ヒュルルルゥ……ゼェ――――ッ……ゥグゥア……ァァァァ……。

 

 それは意味もなく繰り返されている拷問だった。ただ苦痛を与えるために、ただ尊厳を否定する為に、ただ絶望を与えるために。

 

 それを止めようとしても脚はまるで凍ってしまった様に動かない。声も、発した傍から掻き消されるように無音になる。

 

 なにも出来ない悔しさと怒りだけが募っていく。

 

「タスケ、テ……」

 

 奥歯を噛み砕かんばかりに噛み合わせ、募る憎悪と無力感に流れ落ちる血涙。

 

 身体が自由になった事で振り向けば、そこには真紅の機械仕掛けの神の姿があった。

 

「お前がアレをおれに見せたのか?」

 

 しかし刃金の骸は答えない。答える為の器官が存在しないからだ。

 

 しかし機械仕掛けの神はその意志を伝える。その仮面の奥から滴り落ちる血の涙によって。

 

 何故あのようなものを見せたのか理解は出来ない。しかしそれはとても大切でいて重大な事なのだと伝わってくる。

 

 そして感じる。機械仕掛けの神に、それこそ魔術回路の隅々、構成素材の至るところまでも染み渡っているネクロノミコンの気配。

 

 それの意味する事は、目の前の神は元々ネクロノミコンの鬼械神だったのだろうかという憶測を呼び起こす。

 

 しかし考えた所で答えはない。

 

 ただわかっていることは、自らに敗北は許されないということだ。

 

 救いたければ、勝利し続けなければならないこと。

 

 ただの一度の敗北は許されない。それが血濡れし刃との、魔を断つ誓いだった。

 

 それを、魂にまで刻み込む。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「これ。もう閉館時間は過ぎておるぞ」

 

 魔導書を読み耽るクロウに、孫を咎める様に声を掛けたのはこの図書館の司書長も勤めているアーミティッジ博士であった。

 

「……あ、はい。今終わる所です」

 

 手記に最後の文字を書き留め、クロウはネクロノミコンを閉じる。

 

 それを見てアーミティッジは驚きを隠せなかった。

 

 ネクロノミコンを読み解くだけでもかなりの精神力を使うというのに、目の前の少年は同時に写本すら書き上げていたのだ。

 

 ただの文字だと侮る事なかれ。

 

 それは正しく外道の知識。人の正気を冒す禁断の知識の集大成。

 

 それを書き記すだけでも相当の精神力を必要とされる。一歩間違えれば発狂死しても不思議ではないほどの事をクロウは果たしたのだ。それも僅か半日足らずである。

 

 これが鬼械神を操る魔術師であるが故の精神耐久力なのか。

 

 いや、そうは思わない。

 

 鬼械神を操る魔術師をアーミティッジ博士は二人ほど知っているが、そんな彼らでもこのような暴挙はしないだろう。

 

 では若さ故の精神構造の未熟さからくる鈍さが働いたのか。

 

 それも少し説得力に欠ける。そうだとしても目の前の少年は正しく魔導書の内容を理解できるだけの知識と認識力を持ち合わせているのだ。

 

「クロウくん。今回は何事もなかった様だが、人としての尊厳を失わない為にも、今回の様な事は止めなさい」

 

「え、ええ。わかりました…」

 

 魔導書の閲覧と同時に写本の作成という暴挙を咎められても自覚がない様に生返事のクロウ。何故いけないことなのかを理解できていない様子だった。

 

 元々己の影の中にティンダロスの猟犬という宇宙的脅威の存在を飼っているからか、その図太い精神力は並外れているのだろう。

 

 クロウからすればこの方が効率が良く、しかも次に何時閲覧が叶うかわからない魔導書を熟読する暇を確保する為の術として、閲覧と同時進行の手記への記述の写本であった。

 

 その危険性をアーミティッジ博士は口酸っぱく説き。クロウはそれに従う他はない。何故なら秘密図書館への立ち入りを制限されてしまってはクロウも敵わないからだ。

 

 閉館時間を過ぎている為、そくさくと帰り支度を済ませて図書館を辞するクロウ。その姿が通り過ぎたあとに微かであるが血の匂いがしている事に気づけた者は、居なかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 鬼械神での戦闘を終えたあとは消費した魔力や精神力を養う必要がある。それは機神招喚は最高位の魔導書が行使できる魔術の奥義であるからだ。

 

 これを怠れば術者は忽ち精神力を使い果たし、正気を失って外道の知識の影響によって化け物へと変貌する。魔力が切れてしまえば死だ。

 

 従って充分な休息を必要とする。しかし休息の間に出来ることも多い。

 

 邪神狩人は少しでもクトゥルー邪神勢力を討ち減らさなければならないからだ。

 

 休息の合間、次なる標的の情報を集める事が邪神狩人の仕事でもある。

 

 そんな生活は邪神狩人見習いであるクロウにも適応される。

 

 人類の未開の地へ赴いた冒険家の恐怖体験。或いは小説家の描いた怪奇談。或いは画家の描いた奇妙な絵。或いは詩人の記した奇怪な唄。

 

 そういった様々な資料からクトゥルー邪神崇拝勢力の活動地域を割り出すのだ。

 

 そんなクロウはとある日のこと呼び出しを受けた。

 

 このアーカムシティの実質的な支配者。田舎の港町を世界有数の大都市へと変貌させた大富豪――即ち覇道財閥にである。

 

 ミスカトニック大学から覇道邸までは迎えの車による送迎。

 

 門から玄関までとても歩いて行こうという距離ではない広大な敷地。

 

 覇道邸に着いたクロウを出迎えたのは長身の執事を従えた一人の少女だった。

 

「クロウリードさんですね? 私の名は覇道瑠璃と申します。お爺様――覇道総帥に代わり、お出迎えに参りました。こちらは執事のウィンフィールドです」

 

「以後お見知り置きを」

 

 優雅な礼を披露する両者に、お金持ちは住む世界が違うなと率直に思うクロウだった。

 

 ちなみに名前は自分の名前と合わせた呪術対策の偽名である。

 

「初めまして。隣のは妹のクロハと言います」

 

 こちらの紹介にクロハはスカートの端を摘まんで会釈をする。

 

 一般ピープルなのはおれだけなのかな?

 

 挨拶もそこそこにクロウは瑠璃に案内されて地下へと降りる。

 

 覇道邸の地下には地上の邸宅とは比べ物にならない規模の地下施設が広がっている。それはさながら地下要塞である。

 

 この地下要塞こそ、ミスカトニック大学秘密図書館特殊資料室に並ぶ人類の対邪神勢力に対する最前線基地でもあるのだ。

 

 その地下格納庫では50m級の鋼の巨人が並び立っていた。

 

 片方は白を基調としたトリコロール。片方はクロウも勝手知ったる紅の巨人だ。

 

 並び立てば両者が共通の基本シルエットを持っていることを垣間見る事が出来るだろう。

 

 先のインスマウスでの戦闘後。

 

 デモンベイン・クロックは覇道財閥の地下格納庫へと収容された。それは実体化したままデモンベイン・クロックが消えることなく存在し続けたからだ。

 

 一度目のダンウィッチの怪――ダンウィッチ村での戦闘のあとは何処かへと消えてしまったデモンベイン・クロックではあるが、今回はそうはならずにいる所をミスカトニック大学特殊資料室によって回収され、格納されたのがこの覇道の地下格納庫だったのだ。

 

「待っていたよ。若き魔術師(ヤング・メイガス)くん」

 

 そう言ってクロウを出迎えたのはこの街では知らぬものなど居ないだろう人物であった。

 

「お初にお目に掛かります。ミスター・覇道」

 

 覇道財閥総帥――覇道鋼造であった。

 

「待っておったぞ。クロウくん」

 

 他にもアーミティッジ博士がやって来たクロウを出迎えた。

 

 50m級のスーパーロボットが並び立つ絵というものは壮観の一言に尽きる。

 

 何故この場にアーミティッジ博士が居るのかと言えば、それはクロウの機械神デモンベイン・クロックワーク・ブラッドの解析の為である。

 

「全体の2割程度はヒヒイロガネではなくオリハルコンが使われておるが、間違いなくこの機体もデモンベインである事は疑いようもない事実じゃ」 

 

 覇道財閥の地下格納庫にデモンベイン・クロックが収容されたのは、収容する空間の問題はさておき、それが最も適切であるというアーミティッジ博士の判断からである。

 

 デモンベインはアリゾナで覇道鋼造が発見した残骸が大元となっている。

 

 一体誰が、どの様にして造り上げたのか。その成り立ちは不明のものだった。

 

 しかし機械工業品として実空間に永久的に存在する鬼械神構想。

 

 長年邪悪な知識の番人として、その知識を狙う者たち。或いはシュリュズベリィ博士や覇道鋼造の様な邪悪と戦う人々を補佐し、時には自らも前線に立つ身としては、より強大な邪悪に抗う術というものの必要性は人一倍理解している人間のひとりとして、人類が更なる力を手に入れられるかもしれない機会を逃す理由はなかった。

 

「しかも覇道のデモンベインにはない独自の機能を幾つか有しておる。単独での飛行能力等は大いに参考になるものだ」

 

 デモンベイン・クロックはデモンベインと比較しても追加装甲の様なパーツが数多く散見される。

 

 そして脚部シールドの時空間歪曲エネルギーと、スラスターによる推進力で跳ぶデモンベインに対して。

 

 デモンベイン・クロックはその腰のパーツの機能として存在する電磁力推進機構によって浮遊から飛行を可能としていた。

 

 即ち覇道のデモンベインよりも幾分か進んでいる技術が散見されたのだ。

 

 それらを覇道のデモンベインに応用出来れば、デモンベインは更なる力を有する事になるが。

 

「しかしこれらの機能は今の人類の科学力に再現出来る技術力はない」

 

「どういうことです?」

 

 アーミティッジ博士の言葉にクロウは疑問を挟む。同じデモンベインという存在であるのならばそう難しい事ではないのではないかという理由だった。

 

「君のデモンベインの約2割は我々人類の科学力ではなく、魔術による物なのじゃよ」

 

「つまり君のデモンベインはデモンベインと何れかの鬼械神が融合している姿だというわけだ」

 

 アーミティッジ博士の言葉に覇道が続けた。

 

 そんなことが有り得るのだろうか。いや、有り得ているからこそ、デモンベイン・クロックは目の前に存在しているのだ。

 

「有り得るのですか? そんなことが…」

 

 その疑問を口にしたのは覇道瑠璃だった。覇道財閥の人間として。覇道家の人間として、ある程度の事情を知っている彼女であるが、最高位の魔導書と魔術師が揃うことで初めて鬼械神は現界する事も知っている。それが術者なしで、現実の物質として存在するデモンベインと融合して存在する事が出来るのかという疑問だった。

 

「お嬢さん。それを可能とするものがデモンベインには備わっておる」

 

 そうアーミティッジ博士に言われて瑠璃が思い当たるデモンベインの機能は、ただひとつ。

 

 獅子の心臓。

 

 銀鍵守護神機関によって平行世界から無尽蔵にエネルギーを引き出す動力機関。

 

「そして魔術である鬼械神と、工業品であるデモンベインの融合も決して有り得ない事でもないのだよ、瑠璃」

 

「お爺様……?」

 

 覇道はそう言いながら、自らの手掛けたデモンベインを見上げた。

 

 そこには哀悼と哀愁の色がある事をクロウは読み取った。

 

 そしてその鷹のように鋭い瞳を携えて、覇道はクロウに向き直った。

 

「君にこれを預けておこう」

 

 そう言って手渡されたものはパンチカードを束ねた書だった。

 

 しかし魔術師であるからわかった。これは魔導書だ。そして――。

 

「魔導書――しかもネクロノミコンの気配を感じる」

 

「ほう。わかるのか」

 

 クロウの言葉に思わず感嘆の息を覇道は漏らした。

 

「『ネクロノミコン・機械語写本』だ。見ての通り、ネクロノミコンの記述を解析機関にかけて出力した物だ」

 

 そんなものまで魔導書になるのかとクロウは驚いた。となればワープロで記述を記して印刷すればそれも魔導書になるのかと思考が逸れる。

 

 パンチカードであるからその手の知識の無いクロウでは読み解く事は叶わないが。感じる気配の質はシュリュズベリィ博士の持つ魔導書セラエノ断章に匹敵する。しかし魔力の波動が弱々しい。

 

「弱っている?」

 

「うむ。数年前のブラックロッジとの闘争において深傷を負ってしまってな。以来手頃な魔術師もなく回復も遅れている状況だ」

 

 魔力はともかく、この質ならばデモンベインを動かすには事足りる魔導書なのはクロウにも理解できる。

 

「君に預ける。この魔導書の復活が私から君に依頼する仕事だ。報酬は君のデモンベインの整備でどうかな?」

 

 デモンベイン・クロックも工業品であるが故に整備は必要だ。

 

 それを出来るのは覇道財閥を置いて他には存在しない。

 

 何しろデモンベインを維持するだけでも小国の国家予算では足りない程だ。それをもう一機揃えて維持出来るのもまた覇道財閥しかない。ミスカトニック大学という手もあるが、どのみち機械神の整備に関しては覇道財閥でなければ出来ない一代事業だ。

 

 ならば最初から覇道財閥に丸投げする方が面倒が少なくて済む。

 

 デモンベイン・クロックを維持する為には嫌とは言えないため、クロウは覇道の依頼を引き受ける事にした。

 

 そしてクロウはこの日から覇道の人間として過ごす事となったのだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 覇道鋼造の依頼を引き受けた日。

 

 クロウに身寄りがないことも知っていた覇道によってクロウは覇道財閥に引き取られる事になった。

 

 シュリュズベリィ博士の弟子でもあるクロウではあるが、その辺りに関しても覇道とシュリュズベリィ博士、アーミティッジ博士の間で既に話が通してあった。

 

 つまり既に外堀は埋められたいたのだ。

 

 日本語にすると覇道(はどう)黒羽(くろう)という事になる。

 

 一般人から世界有数の大富豪一家の人間になる。まるでシンデレラの気分だった。

 

 それこそテーブルマナーなんてのを一から学ばなければならなかったし。覇道の人間としての心構えというか、帝王学を学ばされるとまでは思わなかった。

 

 ナコト写本、セラエノ断章に、ネクロノミコンを有する魔術師としてクロウは瑠璃に対する魔術の師として、彼女の魔術の研鑽に付き合う事にもなった。

 

 表向きは世界の大富豪。しかし裏では長年邪悪との闘争に明け暮れる家の人間である為か、まだ未熟なクロウから見ても彼女のセンスには光るものがあった。

 

 少なくともそういった血筋ではない自分よりも素養があった。

 

 特に相性が良いのはネクロノミコン系統の魔術だった。

 

 まだ魔導書としては若すぎて力も神秘性も弱い『手記:ネクロノミコン・ラテン語版』を教科書にして、瑠璃は魔術に対する理解を深めていった。

 

 何より瑠璃自身が熱心に魔術に対する勉学を積んでいるからだろう。

 

「余り良い事とは言い難いがね」

 

「何故ですか?」

 

 デモンベインの格納庫にて、デモンベイン・クロックに使われている、しかし覇道のデモンベインには使われていない。だが人類の科学力にて再現可能な最新素材や機器への換装を見届ける覇道の傍らに立つクロウが問う。

 

「あの娘は両親をブラックロッジに殺された。下手に力をつけてしまえばあの娘は復讐者となってしまう可能性もある。私人としてはそれもまた邪悪に抗う力ともなるだろうが。それではダメだ。いずれ覇道を背負う身としては」

 

 そこにあるのは巨匠覇道鋼造ではなく、孫娘を想うひとりの老人の姿だった。

 

「かつて復讐を胸に闘い。壮絶な最後を遂げた魔術師が居た。彼のお陰でこの街や世界は救われたが、貴重な才能を持つ魔術師を失うことは人類の損失だ。復讐に駆られて過去に囚われてはならない。あの娘には未来を見て貰いたいのだ」

 

 それは子の明日を奪われた母の嘆き。

 

 それは子の明日を守れなかった父の怒り。

 

「それに。あの娘は純粋で、真っ直ぐだ。真剣であるほど、正しくあろうとするほど、魔術の闇黒に堪えられなくなる」

 

「確かに無知であることは、邪悪から身を守る唯一無二の方法でしょう。しかしそれで彼女は納得はしなかった。なら、的確で正しい知識を身につけさせる方が彼女を守る事になるのではないでしょうか?」

 

「だから君に任せたのさ。あの娘が道を違えぬ様に導いてやって来れ」

 

 この老人がただ者ではない事をクロウは短い付き合いながらも感じ取る事が出来たが。その絞り出す様な切実なる願いを込めた言葉に、一体どれ程の想いが込められているのかは、クロウにはまだ計り知る事が出来なかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 クロウリード。

 

 その存在は覇道瑠璃にとっては衝撃と言っても過言ではなかった。

 

 祖父である鋼造に招かれたミスカトニック大学の魔術師。

 

 アーミティッジ博士やシュリュズベリィ博士を知る瑠璃からすれば、ミスカトニック大学の魔術師と聞いて想像したのはやはり彼等のような大人の人間だった。

 

 しかしいざ実際会って見て驚いた。

 

 見掛けは自分よりも幼い少女であり。同い年程度のこれまた少女を連れていた。

 

 そして、ある日突然として地下格納庫に現れた紅いデモンベインのパイロットでもあるということだった。

 

 年齢を聞けば自分よりも歳上である事も驚いたが、それよりも、デモンベインのパイロットである事の方が瑠璃には衝撃的だった。

 

 そしてクロウが覇道財閥の人間となったのはある意味で想像の範疇だった。

 

 デモンベインを操縦出来る魔術師を祖父が囲う事は予想できた。

 

 デモンベインを前にしてまるで昔からその隣に居る様に祖父の隣に着いて回るクロウに些かの嫉妬を抱かなかったと言えば嘘になる。

 

 祖父の隣に立ち、祖父と同じ視線で語り合うその博識さに羨望を抱いた。

 

 自分とそう変わらない年齢のクロウに出来るのだ。覇道財閥の一人娘の自分が出来ない筈はない。

 

 瑠璃はクロウに頭を下げた。

 

 嫉妬を抱いても、祖父の会話に着いていける博識さは別の話だ。

 

 聞けばクロウはあのシュリュズベリィ博士の弟子でもあるという。

 

 多忙を極め、さらには魔術理論を学ぶことを良しとしなかった祖父よりも手透きでありその事情を知らぬクロウならばと。一縷の望みを掛けて瑠璃はクロウに魔術の師事を頼み込んだ。

 

 己もまだ修行中の身であるものの、それでも良ければと快諾してくれた。

 

 それから瑠璃は貪欲に魔術の知識を学び始めた。

 

 そして修行中とはいえ、ナコト写本と契約し。セラエノ断章、ネクロノミコンの知識を持ち、さらにはあらゆる伝承神話に詳しいクロウの講義は瑠璃をして嫉妬を抱くのはお門違いにも程がある程の知識量だった。

 

 元々そういった伝承神話に興味があったというクロウの話は、次はどの様な話が飛び出すのかと心を踊らせる物だった。

 

 もちろん魔術の研鑽においても抜かりはない。

 

 魔術において魔術師は世辞を言わない。何故ならその誇張が命取りになるからだ。故に魔術の師匠は正当な評価を弟子に下す。

 

 それはクロウも変わることはない。故に瑠璃の才能を正当に評価し、その内に眠る可能性を指摘し、餞別として手記ネクロノミコンを授けられた時は、尊敬する祖父に近付けた事に小躍りしそうな程の喜びを感じた程だった。

 

 いずれはデモンベインを操れる程の魔術師になってみせよう。

 

 そして祖父と共に邪悪と戦ってみせよう。

 

 瑠璃の貪欲なまでに魔術の研鑽に打ち込む原動力はまさにそれであった。

 

 しかし耳に聞く経験談と、実際の邪悪との闘争はまったく別物であり。その宇宙的な恐怖と絶望を、この時の瑠璃はまだ知る由もなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 覇道財閥の人間となっても、邪神狩人見習いである事に変わりはない。

 

 ただ私生活は大いに変わった。というより今まで一般人だった生活が一夜にして大革命を起こして大確変。

 

 世界的大富豪の家族に名を列ねる事になったが、それで浪費癖や価値観が変わって贅沢三昧になる訳はなく。というより誰かに世話をされるという事に慣れない生活が続く。

 

 一般人が急に大富豪の生活を手に入れても困ってしまう典型をクロウは味わっていた。

 

 加えて変わったのは大学に通うことになったのも大きい。

 

 ミスカトニック大学の考古学科――表向きはそうだが、実際には陰秘学科に通うことになった。

 

 それも瑠璃を伴ってである。

 

「それにしても。魔術に対しては初歩的な事しか教えていませんのね。講師によっては解釈が少々怪しいものもありましたし」

 

 初日の講義を終えた瑠璃の評価は辛かった。

 

 それは前もって魔術について勉学に励んでいた瑠璃をして拍子抜けでもあったからだろう。

 

「仕方ないですよ。ここは魔術師を教育するというより、魔術の扱いに困って、それを身につける為にやって来る人間が大半ですから」

 

 魔術師の才能を持って生まれる人間がなにも魔術師の家系だけとは限らない。

 

 時として一般家庭に、そうした才能を持って産まれてしまう子供も居る。

 

 そうした子供は魔術の扱いすら知らずに、自身の持つ魔力で時として怪奇現象を引き起こしてしまう。

 

 そうした子供は親が過保護に匿うか、執拗に拒絶するかである。

 

 そういった子供の為に、魔術を学ぶ場としてミスカトニック大学陰秘学科は存在する。

 

 しかし瑠璃の学んだ魔術は、そうした学ぶ為の物ではなく、邪悪と対峙し、抗うための術だ。

 

 神話生物や邪神と相対する事など想定していない陰秘学科の講義に拍子抜けしてしまうのも無理はなかった。

 

 基礎を復習するにしても、講師によっては解釈がまちまちの内容は却って自身の学んだ理論に混乱を生む。

 

 そうした邪悪との対峙する術を学ぶ為には月日を掛けて魔術理論を学び、優秀な成績を修めている生徒の中からアーミティッジ博士や、時としてシュリュズベリィ博士の様な邪神狩人がチョイスして声を掛け、本人の承諾を得てより実践的な魔術を学ぶのだ。

 

 既にそうした域に居るクロウの師事を受けている瑠璃からして、独学ではなく体系化された基礎を学ぶ価値はあるのだが。クロウに学ぶ以前から独学でも牛歩の様な歩みでも学び続けていた瑠璃からすれば、基礎の基礎の学び直しは拍子抜けと退屈を感じるのは無理はなかった。

 

 逆にクロウからすれば物語でも現実的にも有名なミスカトニック大学で学べる事は有意義な時間だった。

 

 そして何気無く、感覚的に処理している魔術の基礎を改めて学べるのも必要と言える時間だった。

 

 確かに瑠璃の気分もわかる立場にあるクロウだが、それらの基礎を自身の知識に落とし込み応用する事も魔術師の位階を上げるのには必要な事だった。

 

 それでも口を突いて出てしまう言葉を聞いて、覇道財閥の娘だとしても瑠璃もまだ年相応の子供なのだと感じ取る。飛び級で大学に通うのだから無理はないか。それでいて本人の知識量もそれを裏付けるものがある。

 

 何故覇道鋼造は彼女をミスカトニック大学に通わせる事にしたのだろうか。

 

 勉学に関してはそれこそ優秀な家庭教師に事欠く事はない。

 

 しかしそれでは社会性は育たない。

 

 いずれは覇道財閥を継ぐ人間が社会性ゼロは頂けない。しかし社交会等もあるだろうし、そうした場に出ている事だろう彼女の社交性は問題なく思える。

 

 だから余計に態々大学に通わせる意味を考えてしまう。それも学ばせる事に難色を示していた魔術理論を学ぶ陰秘学科にである。

 

 しかし考えたところで答えは出ない。無意味である事をする様な人物でもないはずだ。

 

 そうして時間は過ぎて放課後。

 

 やはり覇道財閥の一人娘として知れ渡っている瑠璃を遠巻きに見ようと人が集まってくる。彼女自身が美少女なのもそれに拍車を掛けているのだろう。

 

 そんな人波をまるでモーゼの様に割って歩いていく先はミスカトニック大学の――アーカムシティのひとつのシンボルでもある巨大な時計塔だ。

 

 陰秘学科の校舎も兼ねているが、ホームルームは一般学生も居る普通の校舎で行われる。

 

 ホームルームが終わればクロウはその時計塔に戻る必要がある。

 

 クロウに師事している瑠璃も、クロウの後に着いて時計塔に向かう。その様子を他の生徒は不思議がって見送った。

 

 あの覇道財閥の人間と普通に親しくしている人間が物珍しく感じられてしまうのも無理はなかった。それこそ街の外から来たばかりの人間でも、このアーカムシティに少しでも滞在すれば覇道財閥の名は耳にするのだ。

 

 覇道財閥には逆らうな。が、この街の暗黙のルールだ。

 

 憧れと畏敬を集める覇道財閥の人間と普通に接する事の出来る人間は極僅かだ。

 

 まだ正式に覇道財閥の人間として発表していないクロウが、覇道財閥と関係のある人間として見られない事も仕方がなかった。

 

 ミスカトニック大学陰秘学科の生徒でもおいそれと足を踏み入れる事の出来ない闇の裏側。

 

 秘密図書館に立ち入り、クロウは様々な資料を引っ張り出しては目を皿のようにして資料とにらめっこをする。

 

 資料のなかには水夫のフェルナンデスという人物の体験した恐怖奇談について記した物もあった。

 

 それらの資料から導きだされる事象、或いは怪奇現象を書き出していく。それがクロウの仕事、邪神狩人としての仕事である。

 

 まとめ上げた資料から、或いはクトゥルフ神話の物語りを基準にして次なる目標に定められた場所はペルーはマチュピチュの近く。今は放棄されているというサラブンコ要塞近くの古代遺跡だ。

 

 一から証拠をかき集めるよりも、クロウにはクトゥルフ神話というひとつの指標がある。

 

 先入観は時として真実を曇らせてしまうが、初めから疑いを持ってアタリをつけられるアドバンテージは確かに存在している。

 

 資料を纏め上げたのを見計らった様に、図書館に風が吹き抜ける。

 

 閉めきった図書館に風が吹くのは有り得ないことだが。それこそ風を纏う賢者の登場を示していた。

 

「やあ。元気そうでなによりだクロウくん。そして久し振りだね、お嬢さん」

 

「シュリュズベリィ博士!」

 

「ご無沙汰しておりますわ。博士」

 

 シュリュズベリィ博士に優雅に挨拶する瑠璃。

 

 祖父である鋼造を通して瑠璃はシュリュズベリィ博士と面識があった。

 

「ふむ。風の噂に聞いたが、良い弟子を迎えた様だな。クロウくん」

 

 不敵に笑うシュリュズベリィ博士。しかし当の本人は少し肩を潜める。

 

「いえ。その。まだ未熟な自分がちゃんと教えてあげられているか心配で」

 

「謙遜する事はありませんわ。クロウリードさんの講義は実に有意義で理解もし易いものですもの」

 

「そう言って貰えるなら頑張った甲斐もありますよ」

 

 という和やかな空気になりつつも、クロウは纏め上げた資料をシュリュズベリィ博士に渡した。

 

「いくつかの断片的な資料と、現地住民の証言を照らし合わせた結果。最も最有力なのはペルーの奥地。マチュピチュの近くにある放棄されて久しいサラブンコ要塞近くの古代遺跡が該当します。あとは直接現地に赴いてみなければわかりかねますが」

 

「うむ。これだけの結果であれば充分だ。既に現地ではフェラン君たちも更なる調査を進めている。早速準備を整えて我々も向かうとしよう」

 

「はい!」

 

 話が纏まったところで広げていた資料を片付けるクロウを横目に、瑠璃が口を開いた。

 

「シュリュズベリィ博士。その調査に私も同行させてください」

 

「ダメだ」

 

 間髪入れずにそう言ったのは、シュリュズベリィ博士ではなくクロウだった。

 

「ふむ。瑠璃嬢、これは探検家や普通の調査団の探索とは違う。宇宙的邪悪との闘争は君が考えているほど甘くはないのだよ」

 

 クロウの後に続けて、その道の専門家であるシュリュズベリィ博士が言って聞かせる様に、優しくありながらも固く注意する様な声色で言った。

 

「ですが私は覇道の人間です。いずれは覇道を継ぐ身として、自らの立ち向かう邪悪を知らずに覇道を継ぐ事が出来ましょうか? いいえ、出来ませんとも。決して邪魔は致しません。自分の身は自分で守ります。ですからどうかお願いします」

 

 シュリュズベリィ博士から見て、瑠璃はようやく魔術師となれたばかり。ミスカトニック大学の基準で言えばようやく魔導書の閲覧が許されたといったところか。

 

 位階に当て嵌めるなら0=0新参入者(ニオファイト)といったところか。

 

 初歩的な魔術の行使ならば問題はないだろう事は見てとれる。

 

 その瞳に宿した覚悟は成る程。あの覇道に名を列ねる人間だ。

 

「実際、彼女はどうなのかね?」

 

 しかし見てとれる部分だけでは判断はつかない。故に彼女の師にシュリュズベリィ博士は問い掛けた。

 

「自衛…という意味でなら問題はないでしょう。しかし……」

 

 クロウが懸念しているのは精神的な方だ。まだ彼女には邪悪を前にして正気を保てる程の精神強度を持ち合わせている様にはどうしても思えなかったのだ。

 

 そんな心配をするクロウを、瑠璃は覚悟を秘めた表情で見つめる。了承するまで梃子でも動かないといった表情だった。

 

「よろしい。では軽く講義を始めようではないか」

 

 そう切り出したのはシュリュズベリィ博士であった。

 

 付け焼き刃になるが、瑠璃の精神強度を補強しようということだろう。

 

 旧支配者の存在を、ネクロノミコンをはじめ。ダレット伯爵の『屍食教典義』、『ナコト写本』、『エイボンの書』、フォン・ユンツトの『無名祭祀書』などの引用を利用し言及した。

 

 それらはきわめて異界的で恐ろしい意味(イメージ)を瑠璃の脳裏に焼きつけた。

 

 そして一字一句違えぬまでに覚えさせたのはネクロノミコンの177頁の一文であった。

 

 古代ムナールの石から刻み抜かれし五芒星形には、魔女、妖魔、深きものども、ドール、ヴーアミス、トゥチョ=トゥチョ人、忌まわしきミ=ゴ、ショゴス、ヴァルーシアの蛇人間等の旧支配者及びその末裔に仕える者たちに対抗しうる効能あるも、旧支配者自身には対抗しきれぬゆえなり。五芒星形の石を所有せし者は、忍び寄り、泳ぎ、這い、歩き、戻る道なき源にまで飛ぶすべての存在の支配が可能となることを知らん。

 

 イヘ、ルルイエ、イハ=ントレイ、ヨス、ユゴス、ゾティーク、ン・カイ、クン=ヤン、凍てつく荒野のカダス、ハリ湖、カルコサ、イブにて、五芒星形はその力を発揮したり。しかれども星が欠け、太陽が消え、星間宇宙が広がるにつれ、すべての力も減少したり。かくして五芒星形、旧神による旧支配者の封印はそれぞれ力を失い、過去が再現され、次の連句が立証されん。

 

 そは永久に横たわる死者にあらねど、測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの。

 

 その一文を暗記し一字一句違えぬまでに覚えた頃に。と言っても覇道財閥の跡取りとして英才教育を受けている瑠璃には覚えるだけなら一時間掛かることはなかった。

 

 その頃に隣で何やら石灰石に彫刻刀で彫り物をしていたクロウの作業も完了し、出来た代物をシュリュズベリィ博士は検分し、満足気に頷くと、その石を瑠璃に渡したのだった。

 

「見てとれる様に旧き印(エルダー・サイン)を施してある。これを持っていれば大抵の怪異は君に近寄れないだろうが、過信は禁物だぞ?」

 

「…はい!」

 

 準備は整った。

 

「瑠璃さん。これを飲んでください」

 

 クロウがそうして渡したのは黄金に輝く液体の入った試験管だった。

 

 それは黄金の蜂蜜酒という魔術的に作られたドラッグだ。

 

 意を決してその蜂蜜酒を口にする。

 

 どのような美酒も年代物のいかなるワインも及ばぬほどの素晴らしい味だった。それは舌の肥えている瑠璃をしても唸らせるものだった。

 

 焼けるような辛い味と極めて芳醇な香り。

 

 だが、それを楽しんでいる余裕はない。

 

 瞬間、世界の全てが変貌する。

五感が激しく研ぎ澄まされ、普段は感じられないはずの霊気までもがしっかりと感じられる。

 

 それだけではなく、自分の肉体が霊的な空間、アストラル界へと移行した事を知る。

 

 この効果こそ『黄金の蜂蜜酒』のもたらすもの。

 

 バイアクヘーに搭乗する際に必須な魔術的ドラッグである。

 

 そして、シュリュズベリィ博士とクロウは揃って奇妙な石の笛らしき物を取り出すと、次の瞬間、呪文と笛の音が周囲に木霊する。

 

 ふたりの持つ魔導書から紙が溢れて二重螺旋を描き、光を伴って顕現するのは鋼の翼である魔翼機バイアクヘー。

 

 各々のバイアクヘーに乗るふたりの魔術師たち。

 

「お嬢様のエスコートは頼むぞ、クロウくん」

 

「わかりました」

 

 シュリュズベリィ博士の言葉に答え、クロウは瑠璃に手を伸ばした。

 

 その手を取って恐る恐る魔翼機に乗る。

 

 瑠璃が乗り込むとクロウのバイアクヘーはゆっくりと垂直に飛翔する。

 

 そして充分な高度に到達すると、光となって加速した。

 

 背景など望める事など出来はしない速度で、文字通りの光速でバイアクヘーは空を駆ける。

 

 しかし蜂蜜酒によって身体は守られ、霊視能力も高くなっている瑠璃は見た。

 

 水平線の彼方までも続き、地球は丸いという言葉を裏付ける程に弧を描く彼方を望む程の高度から流れ行く世界を望んだ。

 

 そしてあっという間に南米はペルー南部のとある峡谷に降り立った。

 

 そこでは既にシュリュズベリィ博士が助手たちと話し合いをしていた。

 

 目的の秘されし古代遺跡の所在は、サラプンコ要塞より1マイル半といった辺りが濃厚である事は、クロウが纏めていた資料を横で見ていた瑠璃も知っている。

 

 そして先行調査をしていたシュリュズベリィ博士の助手たちによる報告を照らし合わせ、より正確な位置を割り出して向かうことになる。

 

 覇道財閥のご令嬢の登場に博士の助手たちは危険性を説いたが。彼らよりも既に魔術師として位階を高めている瑠璃の能力を博士が説明すると異を唱える者は居なくなった。

 

 さらには鬼械神を操るシュリュズベリィ博士と同格扱いされているクロウがボディーガードを務めるとなれば万が一の心配もないだろうと助手たちは安堵する。

 

 準備を整えて一行は出発する。

 

 サラプンコ要塞より1マイルを徒歩で移動する頃には周りの雰囲気がまるで異界染みた様なものを瑠璃は感じていた。

 

 原始的な意匠ながら宗教的畏怖を演出するべく荘厳に造られた建築物の数々が散見される。

 

 近郊のインカ時代の遺跡とは明らかに違う様式を持つこれ等の建物はある種の神殿であると瑠璃の直感は告げる。

 

 奇怪な彫刻と壁画に囲まれながらもさらに先に進む。

 

 前へ、右へ、左へ、下へ、上へ。

 

 斜めへ、真下へ、螺旋へ、異常な角度へ。

 

 非ユークリット的な異界の方式で構成されたその建造物は、人間の感覚などいとも容易く捻じ曲げる。

 

 まるでミスカトニック大学の時計塔の内部。闇の裏側――秘密図書館に続く路の様だと、いや。まったく同じものだと瑠璃は見抜いた。

 

 今回の調査にウィンフィールドを連れて来なくて正解だと瑠璃は歩きながら思った。

 

 幼い頃から自分に仕えてくれている執事の能力を疑うところは何一つないのだが、魔術という領域の話になってしまうと如何に強靭な精神力と超人的な身体能力を持っていても畑が違う。

 

 魔術を体得していないウィンフィールドではミスカトニック大学秘密図書館に立ち入る事が出来ないように、このように空間の捩れ曲がった場所では抜けることの出来ない永久の迷子になってしまっていただろう。

 

 ウィンフィールドが居ない今は自分で自分の身を守るしかない。

 

 その不安がないわけではないが、我が儘を言って着いてきたのだ。それくらいはしなければこの先邪悪との戦いも乗り越える事は出来ないだろう。

 

 神殿の内部を進むに連れて、周囲の様子も変わってくる。

 

 建築物というより天然の洞窟を利用した地下洞窟。明らかに人の手が入っている様子が見てとれる。

 

 博士の助手たちが持つランプや懐中電灯の明かりが照らす僅かな範囲より向こうは、闇の深淵の様に(くら)い。

 

 石造りの壁の隙間から染み出し、湿った空気にはどういうわけか潮の香りを感じた。

 

 地下水脈かなにかが海と通じているのだとしても、こんな山奥で潮の香りを感じるのは有り得ないことだ。

 

 やがて足元が水苔とも泥ともつかないものでぬかるんできた。足元の不安定さに思わず前を歩くクロウの服を掴んでしまう程足場は悪かった。

 

 明かりに照らされて足元には何やら大きな生物の足跡が見えた。

 

 それらをスケッチする様にシュリュズベリィ博士は助手たちに告げる。

 

 それは大きさとしては人間のものに近いが、靴を履いている様な足跡ではなかった。

 

 極端に長い足指の間には水掻きがある様な形をしている。

 

 歩幅から見て、両足を揃えて蛙のように跳ねているようだ。

 

 人間サイズの巨大蛙。

 

 そんなものの存在に瑠璃は生理的な嫌悪感を抱かずにはいれなかった。

 

 スケッチを終えて迷路じみた洞窟を進む。幸にして道標は足元に大量に残されていた。

 

 程なく暗闇の奥から、微かな水音が聞こえてきた。

 

 それに混じって聞こえるのは人の言葉とも蛙の鳴き声ともつかない、低く潰れた音。

 

 シュリュズベリィ博士が手を上げて一同の進行を制する。

 

 その傍らでクロウの纏う空気が変わったのを瑠璃は感じ取っていた。

 

 冷たく暗い。しかし熱い闘志をその瞳に宿していた。

 

 ふんぐるい むぐるうなふ くするふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん――。

 

 奇妙な掠れた言語の祈りが奥から響き渡ってきた。まるで魂を鷲掴みにされたような原初の原始的な恐怖を感じ、知らずの内に呼吸が荒くなる。

 

 それは邪神クトゥルーに祈る際の言葉。

 

 意味は『ルルイエの館にて死せるクトゥルー夢見るままに待ちいたり』。

 

 クロウやシュリュズベリィ博士から教えを受けた瑠璃は、その言葉の内容が理解できた。

 

 そっとシュリュズベリィ博士は奥を覗き込む。

 

 そこに広がるのは異様極まりない光景だった。

 

 緑色に光る地底湖に半島状に突き出した岬――いや、段のついた四角い形状から見て人工的なものである事は明らかだった。

 

 島の頂きには杭状のものが何かの法則性を持っているのだろう幾何学的な配置で刺さっている。

 

 それは祭壇である。

 

 それを見た瑠璃は声を出さずに、しかし息を呑んだ。

 

 杭に固定された人間の死体。老若男女問わず。

 

 それはただの祭壇ではなく生け贄の祭壇なのだ。

 

 その周囲には蛙と魚を混ぜた様な醜悪な顔が数十程湖面より顔を覗かせている。

 

 首から下の筋骨の構造は人間に酷似しているが、姿は明らかに人間に分類して良いものではない半魚人という言葉が当てはまる様相をしていた。

 

 即ちそれは深きものどもの特徴と合致していた。

 

 そんな彼らは祭壇の小島の彼方に向けられていた。

 

 緑色の光に照らされて、何本かの石柱が立っていた。

 

 高さはまちまちだが、概ね10m前後。環状に配置されているが、恐らくは人工のものではない。

 

 地下水の侵食によって偶然作り上げられた天然の環状列石だ。

 

 深きものどもは皆、その石柱群を注視している。

 

 まるで発情期の蛙の合唱の様に祈祷の詩を口にする深きものども。

 

 それは祭りの始まりを待ち望む声だ。

 

 ぞくりと、冷たい何かが瑠璃の背筋を駆け抜けた。

 

 反射的に一歩下がりそうになる足を気合いで踏みとどまらせる。

 

 シュリュズベリィ博士の助手たちも頬や額に冷や汗か、または脂汗を吹き出している。

 

 皆、瑠璃の感じたものを感じているのだ。

 

 この空間に急速に高まりつつある、得たいの知れない気配を。

 

 祭りの始まりと共に何かが起こる。

 

 その中でも涼しい顔をしているのはシュリュズベリィ博士と、目の前に居るクロウの二人だった。

 

 しかし他の者とは別の意味で険しい顔を浮かべていた。

 

「不味いですね」

 

「うむ。残されている時間は限られているが。猶予は残されている」

 

 そして振り向いたシュリュズベリィ博士は不敵に笑って口を開いた。

 

「――では諸君、これより講義を始める!」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 神聖な儀式に乱入した闖入者に対し、深きものどもたちはじりじりと集まり、包囲の輪を作りつつあった。

 

 シュリュズベリィ博士は深きものどもらに注意を向けると、生徒たちに向かって話し始めた。

 

「見たまえ――ここが、『深きものども』の拠点である事はもはや明らかだ」

 

 生徒たちが一様に頷く。深きものどもの群れを前にしながら、その様子に緊張はあれ、恐怖の色はない。――若干1名は本日が初実地講義の為にカウント外とする。

 

 シュリュズベリィ博士は言葉を続けた。

 

「彼ら深きものどもはクトゥルー眷属邪神群――通称CCDの奉仕種族の中でも特に勢力の大きいものだが、それ故に情報が多く、対処法が確立していると言える。例えば――キーン君、彼らとの接触が予想される場合、君ならばどう行動するかね?」

 

 シュリュズベリィ博士の問い掛けに、彼の助手のひとり――エイベル・キーンが答えた。

 

「はい、ええと――深きものどもは旧き印(エルダー・サイン)を模した護符や対立神性の讃歌を苦手としていますので、これらの手段で相手を怯ませ、逃走を図ります。その際、海や河川などを避けつつ、出来る限り高速の手段で移動し、ミスカトニック大や覇道財閥などの管理下にある対CCD組織の支部に庇護を求めます」

 

 その回答にシュリュズベリィ博士は頷いた。

 

「うむ。模範的な回答だ。彼らはその一体一体が人間より強力な肉体を持つ。能う限り戦闘は避けるべきだろう。――しかし同時に、彼らは下水道網を通じ、あるいは不器用ながらある程度の変装をして、驚くほど深く人間の生活領域に侵入する。また我々の側が、調査や移動などのやむを得ない事情から、彼らのテリトリーである水辺の空間に侵入しなければならない場合もある。最悪の場合、正面から彼らと戦わざる得ない状況もあり得るのだ」

 

 今回の状況もまさしくそれにあたるものだ。

 

 一心に聞き入る生徒たちに、シュリュズベリィ博士は言った。

 

「そこで――本日の課題は『深きものどもとの近接戦闘について』だ」

 

 シュリュズベリィ博士は深きものどもを指し示した。

 

「見ての通り、彼らの肉体は強靭な筋肉と皮膚、そして鱗に覆われ、通常の手段では傷つける事は困難だ。たとえ拳銃を使用しても致命傷を与えるのは難しい。そこで、急所を狙う必要があるわけだが――フェラン君、彼らの急所とはどこだと思う?」

 

 次に博士に指名されたのはアンドルー・フェランという体格の良い青年だった。その身体つきと足運びから瑠璃は自らの執事を思い浮かべた。

 

 フェランは逡巡しながら口を開いた。

 

「はっ、ええ……たとえば、目でしょうか」

 

「うむ。彼らの突出した眼球は重要な弱点だ。他には?」

 

「……生殖器は、どうでしょう?」

 

 年頃の少女が居るからだろう。言い淀みながらフェランは答えるが、その答えはシュリュズベリィ博士の期待したものではなかったらしい。かぶりを振って博士は続けた。

 

「それは違うな。繁殖期を終え、身体的な『大変容』を迎えた後の深きものどもは、不死に近い生命力と引き替えに生殖能力を失う。その際に生殖器は退化してしまうのだ」

 

「では、心臓や腎臓など――」

 

「うむ。それらの重要な臓器を損傷することは、彼らにとっても致命傷になるだろう。しかし、それらは筋骨に鎧われた体内にあって、容易には傷つけられない」

 

「それでは……ううむ……」

 

 次なる答えが出ず、フェランは唸り詰まってしまう。

 

「降参かね?」

 

 考え込んだフェランに言い置き、シュリュズベリィ博士の視線がこの場で一番体格の細いクロウに向いた。

 

「先日クロウくんには講義したばかりだったな。覚えているか復習だ。実践してみたまえ」

 

「わかりました」

 

 呼ばれたクロウは一団から歩み出す。

 

 そして深きものどもの中の一体、クロウよりも一回り以上大きな――それでも深きものどもの中では平均的な体格をした個体が、その動きに反応して近づいてきた。人類猿の様に前傾姿勢のため、背はやや低く見える。

 

「クロウリードさん…!」

 

「心配は要らないさレディ。彼もああ見えて魔術師であり邪神狩人のひとりだ。あの程度に遅れを取る程ではないよ」

 

 心配する瑠璃をシュリュズベリィ博士が宥める。そして再び言葉を続けた。

 

「先ず前提として、彼ら深きものどもは、一応陸上での活動能力を持ってはいるものの、基本的には海棲生物であり、肉体の構造も水中生活に適応したものとなっている。つまり、彼らの弱点とは――」

 

 シュリュズベリィ博士の言葉に合わせるように、クロウは突然距離を詰め、深きものどもに肉薄する。

 

 深きものどもは蛙じみた掠れた叫び聲を上げて腕を振り上げた。鋭い鉤爪は、一撃で人間に致命傷を与えるだろう。

 

「っ、はッ!」

 

 クロウは臆する事なく、肘打ちを深きものどもの右脇腹に叩き込んだ。

 

 蛙の呻き声の様な音が深きものどもの喉から漏れ、苦し気に動きを鈍らせた所に回し蹴りを反対の左脇腹に叩き込めば、さらに呻き声を喉から発し、ついには両脇からおびただしい量の泡混じりの血が流れ始めた。

 

 深きものどもは反撃の鉤爪を振り下ろしたが、その勢いは明らかに弱まっている。

 

 バックステップでその爪をかわすと、充分な間合いのある事で放てる後ろ回し蹴りを放った。

 

 クロウの踵に横面を張り飛ばされた深きものどもは、その場に横様に倒れると、脇腹から血の泡を吐き出して、動かなくなった。

 

「………!」

 

 一連の動きに魔力は一切感じなかった。純粋な素手による打撃で、怪物じみた生命力を持つ深きものどもに致命傷を与えたのだ。

 

 その事実に生徒たちは息を呑んだ。

 

「見たかね?」

 

 シュリュズベリィ博士は満足気に頷いて不敵に笑って生徒たちに言った。

 

「彼らの弱点とは()()()、すなわち、体外に露出している(エラ)だ。ここばかりは筋肉や鱗で覆う事が出来ないため、徒手による破壊が可能なのだ。鰓に打撃を加える事によって、彼らは容易に()()()する」

 

 今度はシュリュズベリィ博士自ら前に出た。長身の博士よりもさらに一回り大きい個体。前傾姿勢ながらも2mは超える体高の大物だ。

 

「――そして、この基本はより大型の個体にも適応し得る」

 

「そんな……博士、無茶です!」

 

 生徒のひとり、クレイボーン・ボイドが叫ぶのと同時に、その深きものどもは、威嚇の聲を上げながらシュリュズベリィ博士に飛び掛かった。

 

「ふんッ!」

 

 シュリュズベリィ博士はかわし様、身体を半回転させて中段回し蹴りを放った。

 

 彼の太い脚は、全身のバネを一点集中の打撃力に変えながら、半魚人の怪物の脇腹に突き刺さった。とても老人の動きとは思えない軽々しく見事な一撃だ。

 

 深きものどもの脇腹がぐしゃりと重い音を立て、次の瞬間、血の飛沫を上げた。

 

「恐れることはない!」

 

 シュリュズベリィ博士は朗々と言い放った。

 

「彼ら深きものどもは年齢を重ねる毎に際限なく成長していくが、我々にとって幸いな事に、それは()()()()()()()()()()だ。陸上で活動が出来るのは『大変容』からせいぜい数年の間であり、その末期には――この個体がそうである様に――もはや陸上への適応を外れかけている。彼らは大気中では常に呼吸不全の状態にあり、また、その動作は陸に上がった海獣さながら、本来の素早さの一割も発揮出来てはいない」

 

 片腹から血を流しながら、深きものどもが咆哮する。蛙じみた口元からも、喉に回った血潮がごぼごぼと溢れる。

 

 深きものどもは低く身を屈めて、シュリュズベリィ博士に飛び掛かった。さながら相撲の力士の様な突撃を彷彿させる恐ろしい勢いの跳躍だ。

 

 だが、シュリュズベリィ博士は先程とは反対側に身をかわすと、もう片方の鰓にも回し蹴りを叩き込む。

 

 両脇の鰓を完全に破壊された深きものどもは、なおも両手で空中を無茶苦茶に掻きむしりながら突進するが、シュリュズベリィ博士はその直線的な動きを的確に避け、背後に退いた。

 

 ほんの十秒ほどで、深きものどもは地面に倒れ伏した。二度、三度と断末魔の痙攣をし、やがて動かなくなる。

 

 もちろん一連の動きに魔力は一切使われていない。

 

「見ての通り、如何に巨大であり、獰猛であろうとも、陸に上げられた鮫は恐るるに足りん。彼らは強力かつ危険な生物だが、陸上においては我々に地の利がある。的確な観察と判断によって、彼らとの格闘に勝利する事は充分に可能だ。――理解したかね?」

 

「はいッ!」

 

 生徒たちは声を揃えて答えた。

 

「よろしい――では、実習に移る!」

 

「はッ!」

 

「はいッ!」

 

 生徒たちは、手に棍棒や槍を持って深きものどもに向かっていく。ボクシングの心得のあるフェランは素手で向かっていく。

 

 助手の数は五人。

 

 アンドルー・フェラン。

 

 エイベル・キーン。

 

 クレイボーン・ボイド。

 

 ネイランド・コラム。

 

 ホーヴァス・ブレイン。

 

 永劫の探究者たちに対する深きものどもの数は数十はくだらない。一見して圧倒的数的不利の状況だが、彼らは臆する事なく戦闘に挑んでいる。

 

 背後で彼らを見守り監督する師に、絶対的な信頼を置いているからだ。

 

「彼らの動きは直線的だ。挙動の出鼻を読めば避けられる!――爪に気をつけろ! 毒を持っている! ――掴み合いでは勝てんぞ! 常に距離を取り、カウンターを狙っていけ!」

 

 檄を飛ばしながら乱闘の中を闊歩するシュリュズベリィ博士は、深きものどもに(つか)まりかけた生徒がいれば敵に蹴りを入れて脱出させ、反対に攻めあぐねている学生がいれば自らが注意を引き付け攻撃の機会を作る。さらには突出しすぎた生徒を下がらせるなどして、場の全体をコントロールし、生徒たちの安全を確保する。

 

 これが邪神狩人――ラバン・シュリュズベリィ博士による邪神狩人の邪神狩人による邪神狩人の為の講義風景だった。

 

「凄い…」

 

 その光景に瑠璃は圧巻させられた。

 

 大して魔力を使わずに深きものどもと渡り合うシュリュズベリィ博士の助手たち。

 

 この様に的確な教育があれば人類は邪悪に大して抗うことが出来るという証明は何よりも瑠璃に戦うことの活力を沸き起こさせた。

 

「ヴーアの無敵の印に於いて、力を与えよ。力を与えよ。力を、与えよ!!」

 

 緑色に照らされた地底湖を照らす程の灼熱が生まれる。

 

 それはクロウの手の中から生まれ、焔の中に浮かび上がる魔術模様――業火によって刃金を鍛え上げ、幾つもの三日月が折り重なった一振りの刀が実体を結ぶ。

 

「バルザイの偃月刀!」

 

 賢人バルザイがハテグ=クラの山頂にて鍛え上げた刀と言われる青銅の剣であり、魔術行使を補助する魔法使いの杖としても知られているネクロノミコンに記された呪法兵装である。

 

 パンチカードであるがゆえに読み取れはしないが、バルザイの偃月刀に関する記述は既にネクロノミコン・ラテン語版を読み解いた時に理解している。

 

 ネクロノミコン機械語版の術式から該当する記述を選択して偃月刀を招喚したのだ。

 

「バルザイの偃月刀、多重詠唱」

 

 魔導書から人の姿になったクロハが術式を複式。さらに四本の偃月刀が鍛え上げられ、クロウの周囲に滞空する。

 

「いけっ!」

 

 クロウの号令と共に射出されるバルザイの偃月刀。

 

 ソードビットという架空の自立機動型の兵器が存在する。

 

 それらの動きをイメージする事で偃月刀はそのイメージのままに飛び回り、深きものどもを切り裂いていく。

 

 人間としての闘争力の傍らで、魔術師らしいやり方で深きものどもを殲滅していくクロウ。

 

 半数程の深きものどもを殲滅すると、このままでは全滅するのは自分たちと見たか。深きものどもは水辺に撤退し始めた。

 

 深きものどもは十体程の死体を残して潮が引くように水中に消えていった。

 

「我々の勝利ですね」

 

 フェランがシュリュズベリィ博士に呼び掛けた。が――

 

「いえ。まだです」

 

 蜂蜜酒の影響か。鋭敏になっている瑠璃はむしろこれからが始まりなのだという予知じみた予感がしてならなかった。

 

 そしてその予感が的中する様に、地響きと共に、環状列石の中心に巨大な水柱が立った。底部から巨大な水圧を掛けられ、噴水の様に噴き出したのだ。

 

「これは……間欠泉!?」

 

「いや、この辺りに火山はなかったはずだが……!?」

 

 コラムとブレインが地響きを伴って噴出する水柱を見てそう溢すが、確かにこの辺りに火山等はない。それに熱気ではなくまるで海底に沈んでしまったかの様な強い冷気を瑠璃は肌で感じていた。

 

「まさか…。博士!」

 

「うむ。おそらくそうだろう」

 

 しかし魔術師であるシュリュズベリィ博士とクロウのふたりはこの現象について何かに行き着いた様だった。

 

「なにが起こっているのですか!?」

 

 瑠璃の疑問に答えたのはクロウだった。

 

「あの環状列石は『門』の役割を果たしていて、おそらく何処かの海底と繋がっている」

 

「マスターの仰る通りです。あれは海底都市ルルイエと繋がる門のひとつです」

 

 クロウの言葉に続け、詳細を語ったのはクロハだった。それにシュリュズベリィ博士がより詳しく現状を語り出す。

 

「つまりこの洞窟は今、太平洋の深海と超次元的に連結しているのだ! 水圧差によって海水が流入している! すぐにここは海底になるぞ!」

 

 地底湖は噴出する海水によって瞬く間に水かさを増し、一行の足元にも海水が押し寄せる。

 

「撤収だ!」

 

 シュリュズベリィ博士の号令一下、一行は海水を跳ね散らしながら、地下神殿の出口へと向かう。

 

 その時だった。

 

 一際大きな轟音と共になにかとてつもない気配が背後から現れた。

 

 それは十数階建てのビルに相当しよう程の巨大な人影。

 

「……デカい!」

 

 フェランが思わず叫んだ。

 

「博士、あ、あれも深きものどもなのですか!?」

 

 その巨体にキーンの声が上擦った。

 

「うむ」

 

 シュリュズベリィ博士も険しい顔を浮かべる。

 

 身体的特徴は確かに深きものどものそれに一致するが、ひたすらに巨大なのだ。目測で30m後半から40mはあるだろうか。

 

 地下神殿が狭いお陰でより巨体に見えるのかもしれない。

 

「年経て水中生活に完全適応した深きものどもの古老(エルダー)だとは思うが。しかしこれ程までに成長を遂げた個体は初めてだ。おそらくは太古の海より悠久の時を経て成長を続けた個体であるのだろうな」

 

 セラエノの大賢者すらも初めて目にする巨大な深きものどもの姿に圧倒されていた。

 

 しかもその巨大な深きものどもがまた一体、『門』を潜って現れようとしている。

 

「急げ! このままでは生き埋めになってしまうぞ!」

 

 数十mの巨体が複数収まる程、この地下神殿は広くはない。その内側からの圧力に何時神殿全体が崩れるか等わかるものではない。

 

 増水に追われながら、一行は神殿を脱出し、峡谷の底に走り出た。

 

 余裕は殆どなかった。

 

 一行が神殿から数十m離れ、岸壁の登攀(とうはん)ルートを登り始めた時、海水の噴出と共に神殿が崩れ、鉄砲水の様な濁流となって眼下を流れていく。

 

「みんな、落ちるなよ!」

 

 フェランが叫んだ。

 

 しかし濁流の勢いと神殿から噴き出す海水の勢いの生む振動は凄まじい。

 

「きゃあああ!!」

 

 それによって、濡れてしまっていた手でロープを掴んでいた瑠璃が、手を滑らせて落ちてしまう。

 

 直ぐ様追うように飛び降りたのはクロウだった。

 

「バイアクヘー!!」

 

 詠唱破棄。瞬時に脳内でバイアクヘー招喚の為の術式を構築し、名称に乗せて石笛の音色を声に乗せて放つ。

 

 一瞬で手記セラエノ断章が光となって魔翼機バイアクヘーへと変形し、その上に瑠璃とクロウは落ちた。

 

「大丈夫ですか、瑠璃さん」

 

「はい。ご迷惑をお掛けしました」

 

 安否を気遣うクロウに、瑠璃は謝罪を込めた礼を言う。

 

「大丈夫かね!」

 

「はい! 大丈夫です!!」

 

 声を掛けるシュリュズベリィ博士に返事を返しながら、ふたりを乗せたバイアクヘーは上昇する。

 

 しかしそのバイアクヘーを下から何者かが掴んだ。

 

「きゃあああっ」

 

「な、なんだ!?」

 

「いかん!」

 

 クロウのバイアクヘーを掴んだのはあの巨大な深きものどもの一体だっだ。

 

 濁流に呑まれず、その大木のような脚で地に立ち、挟み込む様にバイアクヘーを掴んでいたのだ。

 

「くっ」

 

 目の前には巨大な深きものどもの醜悪な顔がある。噎せかえる程の潮の香り、そしてギョロリとクロウと瑠璃を見つめる飛び出した巨大な眼球。

 

「い、い、いやぁぁぁあぁぁぁぁっっ」

 

 瑠璃が悲鳴を上げた。無理もないことだ。普通の人間ならば悲鳴を上げる前に気絶している。ある意味そちらの方が幸せだろう。

 

「第四の結印は旧き印(エルダー・サイン)。脅威と敵意を祓い、邪悪を討ち滅ぼすもの也!」

 

 シュリュズベリィ博士が五芒星を描き、旧き印の防御魔術を展開する。

 

 強烈な破邪の光に目を眩ませた深きものどもの拘束が一瞬緩む。

 

「クロウくん!」

 

 返事をする間もなくクロウはバイアクヘーを離脱させる。

 

 蜂蜜酒の効果が続いているかはわからなかった為、風圧やGから守るために瑠璃の身体を抱きすくめた。

 

 上空に逃れたクロウは眼下を睨み付ける。

 

 巨大な深きものどもは二体存在している。

 

「瑠璃さん。しっかりして、瑠璃さん」

 

「いや、いやいや、いやああああっっ」

 

 身体を話そうとしても、怯えきった子供の様に瑠璃はクロウにしがみついて離れなかった。

 

 こんな状態の瑠璃を連れていては戦えない。

 

 どうするか思案するクロウの耳に清らかな詩と共に、爽やかな風が頬を撫でた。

 

 我は勝利を誓う刃金(はがね)――。我は禍風に挑む翼――。

 

 無窮の空を超え、霊子(アヱテュル)の海を渡り、翔けよ、刃金の翼!

 

  舞い降りよ―――アンブロシウス!!

 

 紡がれた聖句と共に、瞬間、空が爆砕した。

 

 それは巨大な空間の歪み。そしてそこから姿を現すのはヒト型を模した鋼鉄の巨人。

 

 それは最高位の魔導書のみに許された奥義。

 

 それは巨大な痩せた猛禽の様であり、鋼鉄のフレームからなる骸骨の様であり、姿こそは人間に似ているが、二本ではなく四本の腕に鋭い鋼鉄の翼。

 

 これが魔導書『セラエノ断章』から招喚される鬼械神(デウス・エクス・マギナ)――アンブロシウスである。

 

 両手に握られた一振りの巨大な鎌。四本腕のその機体は、どこか禍々しく。例えて言うなれば、死神の鎌を持つ巨大な凶鳥、あるいは死神にも見える姿をした機械仕掛けの神。

 

 シュリュズベリィ博士の乗るバイアクヘーはその頭部と合体する。

 

 魔術師と魔導書と鬼械神。

 

 この三位一体が構築される事により、彼らは神すらも滅ぼす刃となるのだ。

 

 舞い降りたアンブロシウスは賢者の鎌を構えた。

 

 その一閃を深きものどもは腕の鱗で受け止めてしまう。

 

「硬い!?」

 

 アンブロシウスからセラエノ断章の精霊であるハヅキの驚愕が響き渡る。

 

 生半可な鋼鉄をバターの様に両断してしまうはずの賢者の鎌が受け止められた事は十二分にハヅキを驚かせるのには事足りる事象だったのだ。

 

「ふうむ。おそらくは旧支配者期からの、それこそ何千何億という時の悠久を生きてきた個体なのだろう。いやはや、敵ながら生命の神秘と言うものを垣間見たな」

 

「感心してる場合じゃないよダディ!」

 

「おっといかんいかん。では参るとしようか、レディ!」

 

「イエス! ダディ!」

 

 アンブロシウスは賢者の鎌では鱗を立ち切れないと見て急速離脱する。

 

 その背中からエーテルの光を爆裂させて高速機動で深きものどもを翻弄する。

 

「講義は聞いていたかな? レディ」

 

「ばっちり」

 

 後ろに後ろに、背後に背後に、回り込み続けて目を回したか。ふらついた深きものどもの横っ腹に、切るのではなく叩きつける様に賢者の鎌を振るったアンブロシウス。

 

 生々しいごきゃりという破砕音と共に深きものどもは噎せる。口から血が混ざる唾液を滴らせながら吼える。

 

「良いぞレディ! もう一撃だ」

 

「っ、動体反応! 後方7時!!」

 

「くおっ」

 

 しかしもう一体の巨大な深きものどもがアンブロシウスを襲う。

 

 二体一では充分な隙を伺うのに時間が掛かってしまう。

 

 そしてアンブロシウスは強力無比の鬼械神である代わりに弱点が存在している。

 

 それは戦闘時間。

 

 アンブロシウスのメイン動力であるフーン機関は魔術師の魔力と、黄金の蜂蜜酒によって駆動する魔術機関である。

 

 大賢者であるシュリュズベリィ博士が操る為、魔力は問題ないのだが、蜂蜜酒はそうではなく一度の戦闘時間に限りがあるのだ。

 

 故に悠長に隙を伺っている時間すら惜しいのだ。

 

 クロウは選択する。

 

「いくぞクロハ!」

 

「よろしいのですか?」

 

「こうなったら最後まで付き合ってもらうよ」

 

 剣指を作り、虚空に描くは招喚陣。

 

 真紅に輝く魔法陣を描き、クロウはその手に刃金の剣を執る為の聖句を口にする。

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 それは大地を砕きながら膝を着き着地した後、ゆっくりと立ち上がる。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

「虚空の空より来たりて、切なる願いを胸に、我は明日への路を切り開く――!!」

 

 聲高らかに紡がれし聖句は世界を超えてその剣を顕界させる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 赤い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)

 

 紅く、血の色に染まる鋼鉄の巨人。機械仕掛けのその(むくろ)を、闇が覆い尽くしている。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

 コックピットに瑠璃まで連れ込んで、クロウはデモンベイン・クロックで戦うことを選んだ。

 

 大地を粉砕しながら着地し、立ち上がるデモンベイン・クロック。

 

「しっかり掴まってて、瑠璃さん!」

 

「…え、あ、……ここ、は…?」

 

 瑠璃の身体を片腕で確りと抱きながら、術式を走らせる。

 

「ティマイオス、クリティアス!!」

 

「断鎖術式解放! 爆裂(エクスプロージョン)――!!」

 

「あっ…、きゃあああっ!?!?」

 

 瑠璃の悲鳴が鼓膜を叩くが、クロウは目の前に集中した。

 

 時空間歪曲エネルギーの爆裂によって飛び出したデモンベイン・クロックは重力を無視して飛び上がる。

 

 そのまま重力を味方につけた降下。飛び蹴りの姿勢に移行する。

 

「アトランティス・ストライク!!」

 

「いやああああああ!!」

 

 時空間歪曲エネルギーを纏った必殺の蹴りが巨大な深きものどもの背中に突き刺さる。

 

 その鱗を粉砕するが、内部までにダメージは届いていない様子だった。

 

 蹴りの衝撃がコックピットに激震をもたらし、瑠璃の悲鳴が木霊する。

 

 アトランティス・ストライクでも鱗を破壊する程度となればその強固さにシュリュズベリィ博士が感心を抱いても無理はなかった。

 

 しかし生命の神秘の追究よりもやらなければならないのはこの目の前の邪悪の尖兵の殲滅だ。

 

 鬼械神と戦える個体が人里に降りてしまえば街どころか国単位で滅びを撒き散らすだろう。

 

 それを許すわけにはいかないのだ。

 

 デモンベイン・クロックの左腕を前に突き出す。

 

 手のひらの前に輝く逆三角形の光。それは術式が発光しているのだ。

 

「汝の雷を死に浴びせよ!」

 

 そして迸る紫電。雷鳴を伴い、閃光と共に放つ。

 

「死に雷の洗礼を!!」

 

「ABRAHADABRA――!!」

 

 解き放たれた雷の閃光は深きものどもを直撃し、その身体を超高熱の紫電が灼いていく。

 

 所々が炭化して煙を上げるものの、その巨体に見合う生命力で深きものどもはまだ生きていた。

 

「ヒラニプラ・システム、接続(アクセス)――!!」

 

「術式解凍、ナアカル・コード形成。マスター!」

 

 剣指を作るデモンベイン・クロック。その合わせられた剣指の手の内には超高密度の魔力の塊が産まれている。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 クロウが吠え、重ね合わせた両腕を天に掲げ、左右に広げながら降り下ろす。

 

 後光の如く輝く五芒星の印――旧き印(エルダー・サイン)が、邪悪を討ち祓う結印が一際輝きを増し、結界を作り出した。

 

 そして紡がれるのは、未来永劫過去永劫現在永劫変わることなく語り継がれ紡がれる破邪の祝詞。

 

「光射す世界に、汝ら暗黒、棲まう場所なし!」

 

 天高く掲げられたデモンベイン・クロックの右の掌に超高密度の魔力が収束する。高密度の術式と魔力が駆け抜け、必滅の威力を封じ込めた術式が覚醒する。

 

「渇かず、飢えず、無に還れ!」

 

 デモンベイン・クロックが地を蹴り、疾駆する。掌から溢れ出す閃光が邪悪を、白い闇で染め上げる。

 

 巨人の右手に宿る輝きを見た瞬間、深きものどもは怯えた。その破滅の光を、魂が識っていた。だがもう、逃れるには致命的な距離だった。

 

 神をも滅する第一近接昇華呪法――その名も!!

 

「レムリア・インパクト――!!」

 

 必殺の一撃を乗せて、デモンベイン・クロックの右の掌は吸い込まれるように深きものどもへ叩き込まれ、必滅の術式がその内部へと浸透していく。

 

「第一近接昇華呪法、複式!!」

 

「銀鍵守護神機関第7層まで解放! 出力180%!!」

 

 普段ならば右手だけに収束する魔力が左手にも集まっていく。

 

 一体目の巨大な深きものどもへのトドメを差した勢いを乗せて、もう一度必滅の必殺技をデモンベイン・クロックは発動させる。

 

「レムリア・デュアル・インパクト!!」

 

 もう一体の巨大な深きものどもにもペテルギウスの浄化の炎を携えた巨人の左手が吸い込まれる様に叩き込まれた。

 

「双撃昇華!!」

 

 必滅の呪文が世界に響き渡り、デモンベイン・クロックの掌から放たれた光が、世界を白い闇で埋め尽くし、塗り潰し、染め上げ、閉じ込めた。

 

 暴虐の光の中。魂を冒さんばかりの断末魔。だがその断末魔は結界に封ぜられた無限熱量の暴虐によって、悠久を生きた生命の悉くを滅却し、昇華させた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「あーあ。せっかくの出番だったのにヒドイんだから」

 

「まぁ、今回は仕方がなかっただろう。多目に見てやってはくれないか? レディ」

 

「人間って不便だよね」

 

「そう言うな、レディ」

 

 デモンベイン・クロックの胸の上。陽射しを浴びる鋼鉄の巨人の上で泣き崩れる少女をどうにか泣き止まそうとする少年を見ながら、出番を根こそぎ持って行かれたハヅキは愚痴る。

 

 しかし盲目の老賢者はその光景に満足している様だった。へそを曲げる娘に声を掛けながら、その鋼鉄の巨人の在り方を想う。

 

 人の為に存在し、人の為にその大理不尽を振り撒く機械仕掛けのご都合主義の神様。

 

「あれが、魔を断つ者(デモンベイン)か――」

 

 その戦い振りを束の間とはいえじっくり見ることが出来た。

 

 人類は確かに邪悪に抗う為の力をつけてきている。

 

 そう実感を抱くシュリュズベリィ博士は、バイアクヘーで弟子たちの前に降り立った。

 

「博士。あれが覇道財閥の切り札ですか」

 

 アンブロシウスにも劣らぬ破壊力を目にして、フェランは畏怖の目を刃金の巨人へと向けていた。

 

「うむ。人類の手にする最後の切り札だ」

 

 そう言い閉めて、シュリュズベリィ博士は背後を振り返った。

 

「諸君、これより神殿跡の実地検分を行う! 谷底に集合!」

 

「はッ!」

 

「はいッ!」

 

 シュリュズベリィ博士に続き、五人の弟子たちは谷底に降り立つ。

 

 陽光を浴びる鋼鉄の巨人が静かにその弟子たちや、己の胸の上で泣き叫ぶ少女と、それを慰める少年を見守っていた。

 

 

 

 

to be continued…

 



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TAKE ME HIGHER

また新たにクトゥルフな本を買いまして。多少強引なんですが引っ付けてみました。

元ネタはラヴクラフト&ダーレス著『破風の窓』からです。

ヒーロー物ハッピーエンドとしてはアルルートは好きなんですが、なんとなくそれよりも人として出来ることを精一杯やり通す姫さんルートが好きだったりする。カッス的な人間讃歌を喉が枯れ果てる程に歌いたくなるんですよ。




 

 

 認識が甘かった。

 

 魔術という特別な力。世界の真理を暴き、自らの宇宙法則に置き換え、世界を再構築する。

 

 そんな神様の様な力に触れて、自分も魔術師の一人として、邪悪に立ち向かい、魔を断つ剣として戦うこと。

 

 しかしそれは世界を知らない小娘が抱いた幻想だった。

 

 巨大な深きものどもに睨まれた時、私に出来たことは、恐怖に砕けてしまいそうな心を守る為に泣き叫ぶだけだった。

 

 お爺様がクロウリードさんを覇道財閥に迎えた本当の意味を理解できた。

 

 あのような理不尽な恐怖を前にしても、勇敢に立ち向かえる人間こそを必要としていた。

 

 そして何故、お爺様が私に魔術を学ばせなかったのかを知る。

 

 お爺様はわかっていたのだ。

 

 宇宙的な邪悪を前にして、私が恐怖に打ち負けてしまう事をわかっていたのだ。

 

 世界の真理を暴く魔術師であるからこそ、お爺様は私の真理を見抜けたのかもしれない。

 

 我が儘を言ってもただの足手まとい。

 

 何も出来ない自分が悔しい。

 

 悔しい。

 

 悔しい。

 

 悔しい。

 

 悔しい。

 

 悔しい。

 

 悔しいと思うことすら悔しい。

 

 情けない。

 

 情けない。

 

 情けない。

 

 情けない。

 

 情けない。

 

 情けないと思うことすら情けない。

 

 だからすべてが終わったあとで。

 

 恐怖から解放された心は堰を切った様に感情を爆裂させた。

 

 悔しくて、情けなくて。

 

 何も出来なかった自分にはそう思う権利すらないのに。

 

 ならば何故、嗚咽は止まってくれないのだろう。

 

 止めなく溢れる涙は止まってくれないのだろう。

 

「あ、え…っと……瑠璃、さん?」

 

 私が泣いてばかりいるからクロウリードさんも困ってしまっている。

 

 どうして涙は止まらないのか。どうしてすがり着く手を離す事が出来ないのか。

 

 それをしてしまったらダメだ。

 

 泣き止まなければならない――ダメだ。今泣き止んでしまっては。

 

 すがり着く手を離さなければ――ダメだ。今手を離してしまっては。

 

 そうしてしまったら、耐えられない。

 

「あっ……」

 

 服を掴んでいた手から生地が引っ張られる。

 

 いや。ダメ。今はまだダメ。

 

 もう少し。もう少しだけ。そうしたらもう――。

 

「大丈夫だから――」

 

「え…。あ……」

 

 ふわりと、軟らかくて甘い香りが鼻孔を突く。

 

 そして背中と肩に回された腕。

 

 助ける為に、庇うために抱きすくめるのではない。

 

 まるで母親が子どもをあやす様に優しく包み込んでくれるように抱き締めてくれた。

 

「もう。何も怖くないから」

 

 子どもを安心させる手つきで叩かれる背中。

 

 まるで父親が子どもを安心させる様に、優しく不器用に、でも力強い手つきで、頭を撫でてくれた。

 

 それが、悔しいとか、情けないとか。

 

 そう誤魔化していたすべてを取り払ってしまった。

 

 ああ。いけない。これはダメだ。

 

 我が儘を言って着いてきて、足手纏いだったのに。何も出来なかった自分にはそんな権利はないのに――。

 

「ああぁぁぁ……! うわあああぁぁ! うわああああぁぁぁぁ!」

 

 悔しくて、憎くて、情けなくて。

 

 そうした涙は幾度となく流してきた。

 

 でも――。

 

「怖かった……、恐かったよぉ……っ」

 

 みっともなく、子供の様に、無防備に、泣き叫んだ。

 

 覇道財閥の一人娘としての鎧は取り払われ、剥き出しの、生身の心――ただの『瑠璃』がいるだけだった。

 

「大丈夫。もう大丈夫だから」

 

 安心できる様に、もう怖がらせるものはなくなったと言い聞かせる様に、クロウは彼女が泣き止むまで、ずっと頭を撫でながら抱き締めていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 泣き止みはした。それこそ泣き声を絶やさなかった喉は痛い。

 

 枯れることなく流し続けた涙でただでさえ色素の赤い母譲りの瞳はこれ以上ない程真っ赤だろう。

 

 鼻水こそなんとか堪えたものの、垂れ流した涙でクロウのシャツの胸元はびしょ濡れだ。

 

 子供の様に泣き散らして、落ち着いてくれば襲ってくる羞恥心でとても顔を上げられなかったし。離れてしまえば真っ赤に泣き腫らした顔を見られてしまうから身動きも出来ない。

 

 それがまだ恐怖が抜けきっていないのかと思ったクロウは絶えず背中をゆっくり、子どもを安心させる、寝かしつける様なリズム感で叩いてくる。

 

 それが心地好くて、離れることを躊躇ってしまう。

 

 こんな風に誰かにしがみついて泣いたのは、それこそ両親がブラックロッジによって殺された時だ。

 

 悔しくて、憎くて、理不尽に対して子どもだった瑠璃が出来る現実に対する精一杯の反抗だった。

 

 でも、恐怖から泣きじゃくったのはいつ以来だろうか?

 

 思い出せない。

 

 なにしろ怖いものなんてなかったからだ。

 

「(ああ…。わたくしはなんて)」

 

 幸せ者だったのだろう。

 

 無知であるからこそ、恐怖を感じるものなどなかった。

 

 常に護られていたからだ。

 

 今自らその中から抜け出したことで世界の恐怖を知ったのだ。

 

「もう、大丈夫ですわ」

 

「そう」

 

 そう一言添えて身体を離したクロウ。その顔には申し訳なさの色が見えた。

 

「あの、瑠璃さん…むぐ」

 

 なにかを言おうとするクロウの唇に、瑠璃は人差し指を当ててその言葉を封じる。

 

「今回のことで、クロウリードさんが責任を感じることなどありませんわ」

 

 世界の真理を知る魔術師である覇道鋼造がそうである様に、クロウもまた魔術師であり世界の真理を知る者だ。

 

 自分が調査に同行する事を申し出た時に真っ先に間髪入れずクロウは反対したのは、こうなる事がわかっていたからかもしれない。

 

 それでも我が儘を通して着いてきて、結果は情けない足手纏い。

 

 そう。すべて人の話を聞かずに我を通した自分の責任であって、クロウが責任を感じることなどなにもないのだ。

 

「今回の事はわたくしの認識の甘さが招いたことです。むしろ足手纏いになってしまったわたくしこそ、あなたに謝らなければなりません」

 

「そんなこと。それに、その、……家族、ですから。一応。瑠璃さんを守る事は当然でしょう?」

 

「まぁ――!」

 

 少々探るように、その自信はまだないのか。途切れ途切れに、確認する様にクロウは瑠璃にそう言った。

 

 瑠璃はその言葉を受け取って、花が咲いた様に笑った。

 

 それでも、家族でも迷惑をかけてしまったのならば謝るのは人としての常識だ。

 

 でも謝罪の言葉が欲しいわけではない。

 

 本人がそう思っているのならば、言葉に出すのではなく、心の内で謝りながら、瑠璃は口を開いた。

 

「では家族として、この事は内密にお願いしますね」

 

「それは、もちろん」

 

 というより態々女の子が恐怖から泣き喚いたなどと触れて回るような悪趣味は持ち合わせていない。

 

「お爺様にも内緒ですからね?」

 

「わかってます」

 

「ウィンフィールドにもですよ?」

 

「はいはい」

 

「『はい』は1度で充分です」

 

「心配性ですね」

 

「だって…」

 

 あんな風にわんわん泣いたことなどなかったのだ。それも成人はしていなくとも、もう幼子とは言えない歳になっている自分が、恐怖に打ち負けて子供の様に泣き散らしてしまったのだ。

 

 覇道瑠璃の人生で封印してしまいたい恥部ベストスリーには確実にランクインする。

 

「そんなにお兄さんが信じられませんか?」

 

 大袈裟に、心外だと言うようにジェスチャーをするクロウ。

 

「そうですわね。なら、家族となった証として、先ずはその言葉を信じることにしますわ。()()()

 

「お兄様……?」

 

 まるで鳩が豆鉄砲を受けたような呆けた顔をするクロウに、瑠璃は吹き出した。

 

「ええ。家族なんですもの。いつまでもクロウリードさん、なんて他人行事な呼び方は相応しくありませんわ」

 

「いや、まぁ。そう? なのかなぁ…?」

 

 しかしいきなりお兄様呼びは驚くし、くすぐったいものをクロウは感じてしまう。

 

 だが瑠璃のような美少女にそう呼ばれるのは悪くない。むしろ役得でもある。

 

「もう大丈夫そうなら、おれ達も下に降りようか」

 

「そ、そうですね」

 

 差し出された手を取って、瑠璃は立ち上がる。

 

 自分の手よりも小さな手。細い指。背丈も小柄な目の前のその小さな身体の何処に、いったいどうして、あの様な邪悪を前にして臆する事なく立ち向かえる強い心が宿っているのだろうか。

 

「どうして…」

 

「え…?」

 

 口を突いて出る疑問。

 

 しかしそれは自分で探さなければならないような気がした。

 

「いいえ。なんでもありませんわ」

 

 だから誤魔化すように笑顔を浮かべた。

 

 それが魔術師であるクロウに何れ程意味があるのかはわからないが。

 

「そう」

 

 優しく微笑んで、それ以上はなにも言うことはなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 本格的な遺跡調査はミスカトニック大学秘密図書館特殊資料室に任せ、一週間振りにアーカムシティの地を踏んだ。

 

 そして瑠璃は気付く事があった。

 

 普段何気無く住んでいるこの街は、大規模な魔術的な意味を持っているのだと見抜く事が出来た。

 

 上空から、黄金の蜂蜜酒によって高められた霊視能力がそれを読み取っていく。

 

 この大都市の中心部は、地理的な中心部ではなく、その都心部よりやや東の地にある。

 

 すなわち覇道邸がアーカムシティの真の中心部。

 

 放射状の市街鉄道、環状の大通り、その他、市営の諸設備のすべてが、覇道邸への接続を念頭に造られているのだ。

 

 覇道邸は単なる大富豪の私邸に留まらず、世界経済をも支配する覇道財閥の中枢としての機能を負っていることは周知の事実。

 

 そして対邪神勢力に対する最前線基地であり、()()()()――。

 

 人類の背水の陣を支える強固にして最後の砦なのだと。不思議と瑠璃は確信した。

 

 最前線基地が最後の砦等とは。自分の理解力が及んでいないのかと自らの知識を疑ったが、しかし幾度も街を見直しても、やはりそうとしか思えなかったのだ。

 

 アーカムシティのすべての道は、覇道邸に通じている。つまり、地球上の有形無形の活力のすべてが覇道邸に流れ込む仕組みになっている。

 

 その活力が、陽の気が、覇道邸を強力かつ大規模な結界を敷き、魔術的に、霊的に、強固な要塞と化していた。

 

 デモンベイン・クロックのコックピット。

 

 瑠璃はそこに居た。

 

 一時的な狂気に囚われてしまった瑠璃の体調を鑑みて、デモンベイン・クロックの回収に合わせ、アーカムシティへと帰還したのだった。

 

 バイアクヘーが文字通りの光速なら、デモンベイン・クロックの飛高速度はゆったりとしたものだった。

 

 それもそうだ。戦闘でもないのだから急ぐ必要もない。しかし人の目には触れないように高高度。地上からでは米粒よりも小さく見えるだろう黒点。

 

 そんな高さから見下ろすアーカムシティだからこそ、この街の機能を見ることが出来たのだろう。

 

「改めて見ると、スゴいんだな。この街……」

 

 戦っている時にはなかった。まるで戦闘機の操縦席の様なシートに座っているクロウが呟き漏らす。

 

「霊的に、魔術的に、人の陽の気を運ぶ気脈。この街がまるごとそうした霊脈的に整えられています。しかし陽の気を集めると言うことは」

 

「比例して陰の気も集めてしまう。か――」

 

「イエス、マスター」

 

 故にこそ、この街は 大黄金時代にして大混乱時代にして大暗黒時代。

 

 富豪も貧民も愚者も聖人も悪人も分け隔てなく受け入れ生かし殺す。

 

 それがこの街、アーカムシティなのだ。

 

 デモンベイン・クロックは地下格納庫に収容され、覇道財閥の誇る自動修復機械トイ・リアニメーターによるメンテナンスを受ける。工業兵器として存在する機械神であるデモンベイン・クロックが覇道財閥に置かれるのもこうした設備があるが故だ。

 

「戻ったか。クロウ」

 

 そしてデモンベイン・クロックを出迎えたのは覇道鋼造だった。

 

 汚れてこそいるが、特に損傷という損傷のないデモンベイン・クロックを見て満足気だが、覇道が瑠璃へと視線を向けた時にはその顔は険しいものになっていた。

 

「どうだった、瑠璃。宇宙的な脅威を前にした気分は」

 

 その言葉を受けて、瑠璃は一度瞳を閉じた。

 

「確かに。わたくし自身の認識の甘さと脆弱さを痛感いたしました。ですが――」

 

 閉じていた瞳を再度開いたその内には、確かな覚悟があった。

 

「敵を知り、己を知ればこそ、わたくしは邪悪に抗うことの凄絶さと尊さを垣間見る事が出来たように思えます」

 

 そうして瑠璃は背後を振り向いた。

 

 並び立つ鋼鉄の巨人たち。その金属の体躯を剣として邪悪を打ち滅ぼす刃金の巨人たち。

 

「怖くないと言えば嘘でしょう。再び邪悪を前にした時、恐怖に戦慄(おのの)く事なく立ち向かえるのかという保証はどこにもありません。しかし決めました。わたくしも抗うと。覇道財閥の人間というからではなく、一人の人間として、この脳裡に焼き付いてしまった邪悪から、この世界を守るために」

 

 その決意は尊く。しかし、それを見る覇道の表情は誇らしくも悲痛だった。

 

 それを瑠璃は読み取れなかった。まだそれを察せる程ではなかった。

 

 確かに1度は恐怖に打ち据えられてしまった。

 

 しかしそれでもなお抗おうと決意する彼女は邪悪に抗う一人の人間だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 知識は力だというが、()っているということは何も便利なことばかりではない。

 

 識っているのだから気になってしまう事も山ほどある。

 

 たとえばウィルバー・ウェイトリー。

 

 人間のラヴィニア・ウェイトリーと旧支配者ヨグ=ソトースとの混血児。

 

 ウィルバー・ウェイトリーはセンチネル丘の壊れた『門』から異界を覗き見ていたというが、果してそれだけだったのか。

 

 それを別の方面から示唆する物語が存在している。

 

 それを確かめる為にあの呪われた村に再び足を踏み入れる事となった。

 

 高度経済成長によって日増しに拡大化する街――アーカムシティを中心にその開発に取り残されて忘れ去られた村。

 

 暴力と背徳が跋扈し、邪悪な儀式や謎めいた集会、秘められた殺人などが平然と行われているという、堕落と退廃に冒された不浄の土地。

 

 ダンウィッチへと――。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 兄となったクロウがダンウィッチ村に行くと言い出したのはペルーから戻ってきて一週間経つか経たないかといった頃だった。

 

 一時的な狂気に囚われてしまった瑠璃は、それでも邪悪に対する反抗を誓うものの、精神力の回復のために数日は魔術の修業を休まなければならなかった時でもあった。

 

 ダンウィッチの怪についての巻末は瑠璃も報告書で読んでいる。

 

 その様な宇宙的邪悪が自分の住む直ぐ近くで存在していようとは思わなかった。

 

 その邪悪も既に打ち倒されている。クロウとデモンベイン・クロックによって。

 

 しかし。ならば何故、今さらダンウィッチに用があるのか。

 

「ちょっと確かめたい事があるんだ。2、3日で戻ってくるから」

 

「でしたらわたくしも参ります」

 

 クロウが無意味に動くというのは考えられない。

 

 それは尊敬する祖父と同じで何処かまるで未来が見えている様に感じることがあるからだ。

 

 鬼械神を操る程の高位の魔術師なのだ。未来視が出来ても不思。議ではないと瑠璃は思っている。

 

「ダメだ」

 

「何故ですか?」

 

 また間髪入れずに同行を拒否されてしまった。

 

 故にこそ確実になにかがあると言われている様なものだ。

 

「この間狂気に囚われたばかりだからですよ。今は心を休めないと」

 

「それはお兄様も同じことです」

 

 ここ最近立て続けに、一月も開けないで機械神での戦闘をしているクロウ。

 

 デモンベインは魔導書の招喚する鬼械神とは違って術者の負担を極限まで軽くする措置が至るところにされているが、それでも精神力を消費するという鬼械神の根底、魔術の負担を無くすことは出来ない。

 

 鬼械神を操るより軽くとも確実に消耗はしているのだ。

 

 しばらくは休むようにシュリュズベリィ博士からも言われているのは瑠璃の知るところにある。

 

 それを無視しているのだから内密に動く気なのだろう。

 

 お爺様もそうだ。自分の身を省みる暇があれば少しでも邪悪に抗う為に邁進する。

 

 同じ様に、兄となった少年は自分の身を案じる暇があれば少しでも邪悪に対する行動に走る。

 

 しかしそれは寿命を削り磨り潰すのと同義。年老いている祖父は残された時間を無駄にしないように奔走している節がある。

 

 自分も戦いたい。しかし未熟であるから何も出来ない。ならばせめて少しでも良い。休めるときに休んで欲しい。それが叶わないのならば、自分が代わりにできることをさせて欲しい。少しでも負担を無くす為に自分にも頼って欲しい。

 

 だから――。

 

「同行を許して貰えないのなら、シュリュズベリィ博士に言いつけますからね?」

 

「それは――ズルいですって」

 

 その答えを聞けば、今回の行動は師であるシュリュズベリィ博士には無断である事は疑うまでもなく確定だった。

 

 しかしそうまでしても確かめなければならないなにかがある。

 

「話してください。いったい何をしようとしているのか」

 

「うむむむむ……」

 

 悩んでいる。それを口にすればどうなるかを考えている。

 

「お兄様――?」

 

「うっ」

 

 少し睨めば言葉に詰まる。そして降参と言わんばかりに手を上げて口を開いた。

 

「……ウィルバー・ウェイトリーについては知ってますか?」

 

 まるで忌まわしい記憶を掘り起こす様に、険しい顔つきでその名を口にしたクロウ。

 

 ウィルバー・ウェイトリー――。

 

 ダンウィッチの怪の始まり。

 

 ミスカトニック大学秘密図書館に侵入した怪異にして邪悪な血を引いた怪物にして魔術師であった。

 

 幼少の頃から知能、体格の両面で異常な発達を見せ、生後7ヶ月で歩き、11ヶ月には喋り始め、そして15歳になった頃には身長が2mを超えていたという。

 

 髪と目は黒く、身体も浅黒く貧弱な顎が羊を思わせる風貌をしており、いつも全身を覆う装いで、決して他人に顔と手以外の部分を見せなかったという。

 

「アレは自宅の近くにあるセンチネル丘の『門』から異界を覗いて知識を得ていた。そして、祖父から受け継いだ不完全なネクロノミコンでは至れない門を開くためにミスカトニック大学のラテン語版を狙った。その目的はアレの父親の解放。そんな事をされたらクトゥルーの復活なんて細事だ」

 

「クトゥルーよりも強力なのですか……?」

 

 それほど深刻な事柄だったのか。言葉で聞くだけでも、つい数ヵ月前に世界は滅びを迎えようとしていた事に瑠璃は背筋に凍るものを感じた。

 

「旧支配者の中でも特大に最悪の存在。一にして全、全にして一。時空の隔たりなど関係がない。あらゆる大地、あらゆる宇宙、あらゆる物質を超越する、最極の空虚。つまり掛け値なしに最強格の神性。旧支配者ヨグ=ソトースの復活がウェイトリーの目的だった。弟の化け物が虚無に姿を消せるのも、そういった血筋を引いていたからだ」

 

 口を開く先から飛び出す驚異の知識量。あのシュリュズベリィ博士をして、旧支配者に関する知識量の多さは舌を巻く程だと言わしめるだけはある。

 

「でもそれだけじゃない気がする。それを確かめる為に、もう一度、あの呪われた村の陰鬱で、忌まわしい家に赴く必要がある」

 

 それは予想が外れていて欲しいと切実に願いながら、邪悪の進撃に対する憂慮を憂い、手遅れでないことを思う声だった。

 

「では道中は車で向かいましょう」

 

「え…?」

 

「今回は前回のような遺跡探索ではありませんし。ウィンフィールドに送ってもらいましょう」

 

「いや。でも…」

 

 確かに前回の遺跡探索では普通の人間であるウィンフィールドは連れていけなかったが、今回ダンウィッチ村に行くのならば送迎させても問題はないだろうし、魔術師でなくともウィンフィールドの腕はそこらの二流、三流魔術師や深きものども程度なら粉砕してしまうだろう。

 

 魔術師であるはずの自分が、彼を相手にしても勝てる光景(ヴィジョン)が思い浮かばない辺り、その実力は疑い様はない。

 

「バイアクヘーの招喚もまた魔術です。なるべく消耗は避けるべきです。良いですね?」

 

「い、イエス、マム」

 

 完全に主導権を握られていた。

 

 車でなければバイアクヘーを招喚して向かうことだろう。

 

 却下である。少しでも負担を減らす為にはダンウィッチまでは車で向かうべきだろう。

 

 だからウィンフィールドに話を通してダンウィッチ村まで車を出して貰うことになる。

 

 余り良い噂を聞かない場所に赴く事に、しかしウィンフィールドは深く理由を聞く事はなく車を出してくれた。

 

 車には運転手のウィンフィールド、そして後部座席にはクロウと瑠璃が座っている。

 

 その手には手記ネクロノミコン・ラテン語版が広げられていた。

 

「瑠璃さんの相性の良いのは火の系統と属性的には剣の方向だ。盾の属性も悪くはないけれど、丁度良い魔術がネクロノミコンには記述されている」

 

 そう言ってクロウはその魔術を瑠璃に教えた。

 

 小さな炎が指先に顕れ、果物ナイフ程度の小さな三日月を重ねた刀が錬金された。

 

「バルザイの偃月刀――。賢人バルザイが鍛え上げた青銅の刀にして火の属性を持ち、魔法使いの杖として魔術を補助する効果もある呪法兵装だ」

 

 我に傅き、我に仕え、我が秘術に力を与え、火の秘文字の刻まれし刃が霊験灼かに、我が命に背く諸々の霊を悉く恐怖せしめると共に、魔術の実践に必要な円、図、記号を描く助けとなれ。

 

 ヴーアの無敵の印に於いて、力を与えよ。力を与えよ。力を――与えよ。

 

 その魔刃鍛造の記述を一字一句違える事なく覚える。そうなればペルーでクロウの使っていた刀が招喚出来る様になる。

 

 瑠璃の魔術適性はバルザイの偃月刀との相性が良い。そして魔術を補助する魔術導具(アーティファクト)が扱えれば自分の身を守る程度ならどうにかなるだろう。

 

 旧き印(エルダー・サイン)も合わされば邪神奉仕眷属程度退ける事も容易いだろう。

 

 だから必死になって覚える。

 

 理解を深める。イメージは――大丈夫だ。この間の遺跡探索で見ている。

 

 火が手から湧き水のように溢れ出し、それが青く輝く三日月を重ねた刀になった。

 

 今も一連の術構成は見させて貰った。

 

「わっ! わっ! わっ!」

 

「お嬢様!?」

 

「気負いすぎだよ。まったく」

 

 無意識で魔術を使ってしまっていたらしい。手の内から溢れる炎に驚いてしまう。

 

 そんな炎を出す手に小さな手が添えられた。すると直ぐに炎は収まった。

 

 イメージして魔術を暴発させてしまう程度にまだ自分は未熟だ。

 

 車に揺られながら数時間。

 

 見えてくる景色は異常に感じる様になった。

 

 木々は異様に大きく、葉の色や形は見たこともないものばかり。遺伝子に致命的な欠陥があるのか、あるいは地球の植物ではないように感じる。

 

 そう。車はダンウィッチの村に到着した。

 

「さて。先ずは聞き込みだけれど。クロハ」

 

「イエス、マスター」

 

 パラパラと、紙がクロウの背中から脇出す。学生服の上着とワイシャツの間。腰のブックホルダーから溢れ出す紙吹雪は魔導書の頁。

 

 それが二重螺旋を描いてクロウの隣で人型の形を作って結晶化する。

 

 実体を得て顕れたのはクロウと同じく黒い髪の毛を靡かせる少女。

 

 魔導書の精霊等と言われても初めは信じられなかった。

 

 膨大な月日を経た。或いは強い魔力の傍に居ればこの様に魂と実体を獲得するのだという。

 

 黒い少女の場合は後者だという。

 

 ナコト写本の精霊――クロハ。

 

 彼女が実体を結んだ。

 

「広範囲暗示展開。――これでよろしいですか?」

 

「パーフェクトだ、クロハ」

 

「感謝の極み」

 

 自身の従者の様に、クロハはクロウの前で胸に手を当てて一礼する。

 

「ここの住人は警戒心が強い上に怪異に対して過剰な怯えと忌避感を示すから軽い暗示を掛けたんだ」

 

 それほどの忌まわしき邪悪がのさばっていたのだ。

 

 聞き込みに対する資料も瑠璃は目を通していた。

 

 呪われた一族。ウェイトリー家によって狂気に支配された村。邪悪な村の住人ですら怯えて口を紡ぐ程の忌まわしい邪悪な存在が在ったのだ。

 

 クロウはいくつかの家を訪ねて帰ってきた。

 

 その顔は、答えを得られた確信と、深刻な事態へとなっていないことを切実に願っていた。

 

「なにかわかったのですか?」

 

「ええ。求めていた答えを得ましたよ。最悪の場合を想定して、急いだ方が良いかもしれない」

 

 クロウの周囲に風が吹く。その風の気配は瑠璃も知っている。

 

「バイアクヘー!」

 

 再びクロウの後ろ腰から魔導書の頁が溢れて、それが集まり実体を結ぶ。

 

 魔翼機バイアクヘー。

 

 ハスターに仕える眷属であり、星間宇宙を渡る力を持ち、術者を運ぶ存在だ。

 

 バイアクヘーを招喚して、その背にクロハと共にクロウは飛び乗る。

 

「ここから先はおれたちだけで行く。瑠璃さんたちはここで待っててくれ。万が一の時は覇道鋼造に連絡を。『C』が顕れたと言えば伝わるはずだ」

 

「ちょっと、お兄様!」

 

 『C』が顕れた? いったい何を示唆した言葉なのだろうか。

 

「あとは頼みます、ウィンフィールド!」

 

「お嬢様!」

 

 お爺様もお兄様――クロウリードさんも、何時もそうだ。自分には多くを告げずに、自分だけで背負い込んでしまう。

 

 それだけ自分が未熟で力不足で足手纏いなのはわかっている。

 

 それでも自分は知らなければならない。

 

 護られているばかりではいけない。自分だって、護りたいのだから。

 

 黄金の蜂蜜酒から作られた丸薬を飲み込んで、今にも空に飛び立つバイアクヘーへと飛び乗る。

 

「瑠璃さん!?」

 

 それに驚くクロウ。しかし既にバイアクヘーは光となって加速した。

 

 一瞬で辿り着いたのは、ダンウィッチの中心部から7km程離れた辺鄙な場所だ。

 

 そこには呪われた家が存在する。

 

 魔術師によって運命を汚染された一家が住んだ家。ウェイトリー家が。

 

「なんで…!」

 

「わたくしだけ除け者にするつもりですか?」

 

「今回はそんなことを言ってる場合じゃ」

 

「ならキチンと、わたくしが納得できる理由を説明してくださいな。ただ危険だからというふざけた理由では許しませんわよ!」

 

 鋭い眼光を放つ。

 

 それに睨まれて。そして置いていこうとした理由の核心を突かれて、クロウは言葉を詰まらせた。

 

 瑠璃を置いていこうとしたのは彼女の指摘の通りに危険だからという理由だ。

 

 しかしその危険度が最悪の場合、旧支配者を相手にしなければならない可能性すらあるからに他ならなかった。

 

「クロウリードさん。『C』とはいったい何を示した言葉なのですか?」

 

 瑠璃は敢えてクロウを兄ではなく名前で呼び追及する。それははぐらかすことなど許さないという意味だった。

 

「『C』の意味は大いなる『C』。大いなるクトゥルーを表している。旧神によって地球の海に幽閉された旧支配者。世界各所に対クトゥルー組織が多いのも、クトゥルーの奉仕種族が多いだけじゃない。この星にクトゥルーが封印されているからだ」

 

「ですがクトゥルーは未だ封印されているはず。なのに何故こんなところに顕れるのですか?」

 

 そう。ダンウィッチは周りに海など存在してはいない土地だ。ペルーの様に遺跡であるわけでもない。

 

「それを確かめる為に、ここに来たんだ」

 

 着陸したバイアクヘーから降り、クロウは家の玄関には向かわずに、家の周りをくるりと一回りした。

 

 瑠璃はその様子を見守った。というより、クロウの様に容易く家に近寄ることが出来なかった。

 

 まるで空気が質量を持っているような。粘りつく様に重い雰囲気が、家の南側から発せられているのだ。

 

「なんなのですか。この家は――」

 

 そう溢した瑠璃の言葉を聞いて、クロウは口許に弧を描いた。それは彼の師と同じ、生徒が何かに気付いたり確信に迫った時に見せる笑みだった。

 

「この家こそ、呪われた家系ウェイトリー家の家さ。今はその従兄が住んでいるらしいけど」

 

 ウェイトリー家。魔術師であった父によって邪神との間に子を成したラヴィニア・ウェイトリーの双子の兄弟が引き起こす事件の始まる一族の名だ。

 

「此処には生前、ウィルバー・ウェイトリーが手に入れたと思われる『レンのガラス』がある」

 

「『レンのガラス』――?」

 

 疑問符を浮かべる瑠璃に対して、その疑問に答えたのはクロハだった。

 

「ヒアデスで作られたとされる異世界へ通じる門を開くことの出来る魔導具の一種です」

 

「『門』を開く。では――」

 

 そうして理解が及んだらしい。

 

「早く破壊しないと」

 

「まぁ。焦ったら事を仕損じるかもしれない。取り敢えず人の家に入るからには呼び鈴を押すところからだ」

 

「そんな悠長な事を言ってる場合じゃ」

 

「まだ出てくるとは限らないけれど、焦ったところで旧支配者はどうにかなる相手じゃない。冷静に分析して対処するしか方法はない。それほど桁違いの相手だと思った方が良い」

 

 そう言われてしまっては、瑠璃も努めて冷静になるしかない。

 

 なにしろ自身よりも魔術師としての位階は上であるクロウの言うことだ。

 

 まだ魔術師となったばかりの自分の知識ではどうあっても敵わないのだから。

 

 玄関の戸口に近づき、クロウは戸を叩いた。

 

 瑠璃もそんなクロウのあとに続いて家に近寄れたが、次第に異音が聞こえてきた。

 

 それは猫が爪で戸を引っ掻く様な音であれば、まるで巨大な蛇が戸に身を擦り付けながら這う様な音であり、馬の(ひずめ)の様な音、鳥の(くちばし)が窓をつつく様な音、そして巨大ななにかが足を踏み鳴らす様な音、吸盤が吸い付く様な音――。

 

 余りに不気味で超常的な現象に思わず瑠璃はクロウの背中に隠れる。

 

 流石にこうもホラー的な現象になると怖いものは怖い。まだ姿形のある深きものどもの方が恐いと感じるが怖さの種類が違う。

 

 玄関の戸が開かれると、中から猫が飛び出してきて、クロウの顔にしがみついた。

 

「痛ッ!? な、なに!?」

 

 その猫を引き剥がすと、猫は暴れてクロウの手から逃れて走って何処かへと行ってしまう。

 

「あぁ、すみません。大丈夫ですか?」

 

 現れたのは少し顎の細めの青年だった。

 

「ええ。平気ですよ。貴方はエイクリイさんでよろしいですか?」

 

「え、ええ、そうですが。君たちは?」

 

 エイクリイ青年は不思議そうにクロウとクロハ、そしてクロウの背に隠れる瑠璃を見る。

 

 もう陽が沈もうとしている時間に見掛けは少女が3人も訪ねてくればそれは不思議に思われても仕方がないだろう。

 

「失礼。申し遅れました。私はミスカトニック大学附属図書館の司書長補佐のクロウリードと申します」

 

「ミスカトニック大学の附属図書館…。あぁ、従兄の蔵書を受け取りに?」

 

「ええ。それと、私は考古学を専攻していまして。こちらに珍しいガラスがあると聞き及んだものでして」

 

 スラスラと話が進んでいく。あらかじめある程度の調査はしていたらしいものの、常日頃殆どの時間を共にしている瑠璃からして、いつそんな暇がクロウにあったのかと不思議に思う。ここ最近は秘密図書館にも立ち入っていないというのにだ。

 

 もしかしたら以前から調べていたのかもしれない。

 

 そこはさておき、エイクリイ青年に事情を話し、邸宅に上がることになった一行。

 

 既に怪音は止んでいたが、それでも感じる不気味さは依然として残っていた。

 

「従兄のウィルバーの蔵書は此方になります」

 

 案内された部屋は、秘密図書館に近い闇の気配が漂っていた。間違いなく魔導書の気配だ。

 

 ナコト写本、ルルイエ異本、怪蛆の秘密、屍食教典儀、ネクロノミコン――程度は低いが間違いなく魔導書だ。

 

「パリの国立図書館の印。ナコト写本か――」

 

 魔導書を流し読みして、その魔導書たちを黄色い布に包んでいく。そしてその上で五芒星の印を切る。封印処置が施された。

 

「エイクリイさんは、この本を読んだことは?」

 

 そう、クロウはエイクリイ青年に確認した。

 

「え、ええ。少しは…。ですけど私には内容は何がなんだか」

 

「それで構わないのですよ。理解できない事を無理に理解することもない」

 

 そう言い閉めて、クロウは次の質問を切り出した。

 

「他に、例えばウィルバー氏が処分して欲しいと言った物はありませんか?」

 

「ええ。ありますが」

 

「お見せしていただいても?」

 

「ええ。でも、内容も書いてあることも奇怪で気味が悪いと言いますか」

 

「ご心配なく。考古学の中にはそうした奇天烈怪奇(きてれつかいき)な事も珍しくありませんから」

 

「は、はぁ…」

 

 暗示のお陰か、もっともらしい事を言っているからか。特に怪しまれる様な事もなくクロウはウィルバー・ウェイトリーが遺したとされる資料を閲覧できた。

 

 それを瑠璃も隣で目を通していく。

 

 そこには確かに奇怪で、心をざわつかせる異界の光景や生物の絵が描かれていた。

 

 人間と同じくらいの大きさの翼を持つ蝙蝠の様な生物。

 

 一見八腕類に見えるが、蛸よりも遥かに知性を持っていることは明らかな、触腕を垂らす広大な無定形の体。

 

 半人半魚の鉤爪を備えた生物。

 

 直立して歩き、鱗のついた手と怖ろしい両棲類の顔を持つ海水の様に青い生物。

 

「これは――」

 

 他の絵には見覚えはないが、最後の絵の特徴に当て嵌まる存在を瑠璃は知っていた。

 

「深きものども、ですか」

 

「加えておそらく、シャンタク鳥、ショゴスか古のものか、そして――クトゥルーだ」

 

「クトゥルー……」

 

 その他にも日記の様なものまで見つけ、それらの絵を描いただろう理由も見えてきた。

 

 ウェイトリーはレンのガラスを通して異界を覗き見ていたのだ。

 

 その時だ。

 

 部屋が――家全体が揺れたのだ。

 

「なっ、なんなのですか、一体!?」

 

 立っていられない、程でもないが、激しい揺れは地震とは様子が違う。まるでなにかが家にぶつかっている様な、そんな感覚だった。

 

「まさか――!」

 

「あ、お兄様!?」

 

 部屋を出て、階段を駆け上がるクロウのあとを慌てて瑠璃も追う。

 

 クロウが入った場所は絨毯が敷かれた部屋だった。部屋に唯一ある窓からはもう夜だというのに昼間の太陽の様な眩い光が放たれていた。

 

 そして絨毯の下からも、星の形をした光が立ち昇っていた。

 

「儀式もしていないのに扉が繋がるのか!?」

 

 その様子にクロウは驚いていた。

 

 資料を読む限り、決まった手順をしなければ扉は開くことはないと瑠璃も思っていた。

 

「おそらく、向こう側から此方に干渉しているのでしょう。儀式魔方陣も完全に消し去れていないことで不完全ながら路が続いているのでしょう。テレビのチャンネルの様にあらかじめ繋がる場所をある程度固定する意味もあったのかもしれませんが、それを管理する者が居なくなれば危険です」

 

 現状を説明するクロハの言で、瑠璃は現状を正しく理解できた。

 

「それは――」

 

 一際、部屋で輝きを放つガラス窓が何処かと繋がった。

 

 そこから溢れ出して来るのは大木の様に太い物体だった。

 

 余りに太すぎてそれが触手なのだと気付くのに一瞬の時間を必要とした。

 

「第四の結印よ!」

 

 素早く防禦陣を展開するクロウだったが、薄紙を引き裂く様にあっさりと結界は突破された。

 

「ぐああああああっ」

 

「マスター!」

 

 太い触手によって凪ぎ払われたクロウは壁を突き破って家の外に放り出されてしまった。

 

 獲物を求めて蠢く触手は次に瑠璃に襲い掛かった。

 

 蜂蜜酒によって過敏になっている瑠璃の闘争本能がそれを察知し、床を転げる様にして回避した。

 

「う、う、うわああああっ」

 

 しかし別の悲鳴が上がった。

 

 瑠璃に続いて様子を見に来たエイクリイ青年が触手に捕まってしまったのだ。

 

「あ、待っ――」

 

 止める暇もなく、エイクリイ青年を絡め取った触手は窓の向こう側へ引き込んだ。

 

 誰かの断末魔と骨を粉砕する音、肉を咀嚼する音が耳に響く。

 

 そして新たな獲物を求めて再び触手が窓から這い出てくる。

 

 それは今度は確実に瑠璃を狙っている。

 

「くっ!?」

 

 それをまた床を転がって避ける。

 

 無様だ。はっきり言うまでもなく無様だ。

 

 自身が居ながら犠牲者を出してしまった。

 

 それが赦せない。

 

「我に傅き、我に仕え、我が秘術に力を与え、火の秘文字の刻まれし刃が霊験灼かに、我が命に背く諸々の霊を悉く恐怖せしめると共に、魔術の実践に必要な円、図、記号を描く助けとなれ!」

 

 脳裏を駆け巡る術式。魂を奮わせ、それを結晶化する。

 

「ヴーアの無敵の印に於いて、力を与えよ! 力を与えよ! 力を――与えよ!!」

 

 手の内から溢れ出す炎が厚みを得、質量を得て、実体を結び、冷たく青銅の青に光る三日月を重ねた刀を鍛造する。

 

「バルザイの偃月刀!」

 

 賢人バルザイが鍛え上げた青銅の刀を手にして、瑠璃は触手を迎え撃つ。

 

「くっ、きゃあっ」

 

 だが刃が立たずに弾かれてしまう。

 

「レンのガラスの窓を!!」

 

 触手を避けながらクロハが叫んだ。

 

「っ、やあああっ!!」

 

 偃月刀を振りかぶって全力投擲。

 

 回転する刃は真っ直ぐに触手の出入口であるレンのガラスの窓へと向かっていく。

 

 しかし触手は窓枠いっぱいに這い出している。

 

 瑠璃の投げた偃月刀はその触手に弾かれてレンのガラスまでは届かない。

 

「届かない!?」

 

「充分だ!」

 

 粉砕された壁の穴から黒い影が躍り出る。

 

 弾かれた偃月刀を手に、迸る魔力が偃月刀の表面に魔術文字を浮かび上がらせる。

 

「破ァァァァァっっ」

 

 火炎を纏った偃月刀を触手と壁の隙間にクロウは捩じ込んだ。

 

 ガラスが砕け散る音と共に、触手が断ち切られる。

 

 レンのガラスが砕けたことで空間的に断絶された為だ。

 

「やった…?」

 

「……そういうのは、フラグなんだけどね」

 

「え? 旗…ですか?」

 

「ヤックデカルチャー。伝わらないか…」

 

「???」

 

 21世紀の言葉が20世紀初頭の人間に伝わるべくもなく、瑠璃はクロウの言葉に疑問符を浮かべる。

 

「……わたくしが居ながら、犠牲者を出してしまいました」

 

「いや。おれも無様を晒してしまった。瑠璃さんだけの責任じゃない」

 

 エイクリイ青年を犠牲にしてしまった事に胸を痛める瑠璃。

 

 師としてその責任を負うべき自身が居ながら真っ先に打ち据えられてしまったのだ。そうでなければ犠牲者を出すこともなかったかもしれない。

 

「っ、マスター!!」

 

「ちぃっ!!」

 

 クロハが気付き、言葉にするよりも先に思考が届いて身体が動いた。

 

「え? きゃあっ!?」

 

 瑠璃の身体を抱え、さらにクロハの魔力を受けて術衣を纏う。

 

 術衣となった制服の上着が瑠璃ごと身体を包み込む。

 

「ぐはあっっ」

 

「きゃあああっ」

 

 強かに打ち据えられ、また壁を突き破って家の外に放り出され、地面を転がる。

 

「くそ……っ」

 

 全身の骨身に染みる様な痛みを感じながら起き上がろうとして、手が何が軟らかい物を掴んだ。

 

「んん――?」

 

 異変に気付いて起き上がろうとして着いた腕を、下を見る。

 

「あっ――」

 

 まるでお約束の様に地面に瑠璃を押し倒す様な体勢だった。

 

 そして手に感じる軟らかい物は、これまたお約束の如く、小さな手でも余りある大きさのたわわなものがそこにあった。

 

「うわっ、いや、えっと、ごっ」

 

「っっっ――――!!!!」

 

 ようやく理解が追い付いたらしい彼女も、瞬間一瞬で真っ赤になって、羞恥心から潤み出す瞳。

 

 悪気はなくとも一切言い逃れは出来なかった。

 

「マスター!!」

 

「こなクソっ」

 

「っ、きゃあっ」

 

 再び瑠璃を抱きすくめながら地面を転がった。

 

 今度はヘマをしないように考えて腕を着いて、未だ動く敵を見る。

 

 切り離された筈の触手が蠢いて、しかも触手から植物が芽を出す様に細い触手を生やしていく。

 

 自分達を襲っていたのはその枝分かれをした触手だった。

 

「どうなっているのです? 倒したのではないのですか!?」

 

「あれはクトゥルーの一部。切り離された事で独自の意思で動き始めた。あれはもうクトゥルーの落とし仔です」

 

「落とし仔か。また厄介な」

 

 落とし仔とはいえ、邪神の一部。

 

 並大抵の事では倒せないだろう。

 

 しかも落とし仔はその身体を巨大化させていく。破壊音を立てて、呪われた家を粉砕し、巨大化を続けていく。

 

 並大抵の手段で倒せないのならば、並大抵ではない手段で倒せば良いだけのことだ。

 

「クロハ!」

 

「イエス、マスター」

 

 剣指を作り、虚空に描くは招喚陣。

 

 真紅に輝く魔法陣を描き、クロウはその手に刃金の剣を執る為の聖句を口にする。しようとして、止められた。

 

「ダメです、お兄様! また鬼械神で戦ったら――」

 

 鬼械神で戦うことは多大な精神力を必要とする。

 

 師であるシュリュズベリィ博士から休息を取る様に言われているのならば、それはそれほどクロウは消耗しているということだ。

 

 ともすれば、ここで無理をさせてしまうわけにはいかない。

 

 万が一はクロウは覇道鋼造に頼ろうとしていた。

 

 なら今回くらい、祖父に頼っても罰はないはずだ。

 

「それは万が一の時の事だし。それに、目の前に倒すべき邪悪が居るのに放って置く事なんて出来ない」

 

「どうして――」

 

「それは…」

 

 どうしてなんて考えたこともない。それが当たり前になりつつある生活を送っているからかもしれない。

 

 でも、きっと、それだけじゃない。

 

「契約だから……かな」

 

「契約?」

 

 それは魔を断つ剣を執る人間として、血濡れの刃との契約だからだろう。

 

「討つべき邪悪がそこに在る限り、退きはしない。負けはしない。必ず勝つ。勝ち続けなければ救えない。それが聖約だから」

 

 だから戦う。戦い続ける。この世界を護る為、邪悪を尽く討ち滅ぼす為。

 

 斬魔の意思を込め、獅子の咆哮の如く、高らかに聖句を読み上げる! 

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

「虚空の空より来たりて、切なる願いを胸に、我は明日への路を切り開く――!!」

 

 聲高らかに紡がれし聖句は世界を超えてその剣を顕界させる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 赤い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)

 

 紅く、血の色に染まる鋼鉄の巨人。機械仕掛けのその(むくろ)を、闇が覆い尽くしている。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 デモンベイン・クロックのコックピットの中で、クロウはクトゥルーの落とし仔と対峙する。

 

 感じる気配はダゴンとは比較にならない。

 

 神気の質はより純度が高く、水妖の気も桁違いだ。

 

 落とし仔とはいえ旧支配者の身体の一部だったものだ。

 

 身を襲うプレッシャーも相当なものだ。膝を着きそうになるのを堪えているので精一杯だ。

 

「くぅ……、あ、ぁぁ……」

 

 それはコックピットに連れてきた瑠璃も同じだった。

 

「切り離された落とし仔とはいえ。元々はクトゥルーそのもの。不完全だっなダゴン等とは比べ物になりません。神気に呑み込まれない様に注意してください」

 

「あぁ…っ」

 

 下唇を咬み切った痛みで己の意識を保つ。

 

 既に巨大化と変異を終えたクトゥルーの落とし仔がモニターに映る。

 

 小さな触手が今では50mを超える程の肉塊になっている。

 

 肉塊から伸びる夥しい数の細い触手がまるで体毛の様に生えてその身体を覆っている。触手の先端はまるで蛇の口のように割れて牙を生やしている。

 

 そして肉塊の中腹に一つ目が生まれる。

 

 クトゥルーの落とし仔――。

 

 クトゥルーに仕える奉仕眷族の中でも強大な力を誇る存在である。

 

 その名の通り、クトゥルーから産み落とされた仔であり、いわば小さなクトゥルーそのものといえる存在である。

 

 その力は、他のダゴンやヒュドラといった奉仕眷属などとは比較にならない存在なのだ。

 

 その妖しく黄色に光る一つ目が、デモンベイン・クロックを見据える。

 

 一瞬後退りしそうになるのを気合いで耐え抜く。

 

 凄まじい危機感が心臓を締め上げる。

 

「か、はぐっ、ぁぁ……」

 

「ぐぅぅぅっ」

 

「っ、なんと禍々しい邪気――」

 

 ただ対峙しているだけで魂が磨り潰されてしまいそうな程だった。

 

「っ、第四の結印は『旧き印(エルダー・サイン)』。脅威と敵意を祓い、我を守護するもの也!」

 

 神気に冒されるコックピットの中、五芒星が神気を幾分か和らげた。

 

「瑠璃さん!?」

 

「わたくしにも、意地がありますっ」

 

 旧き印によって幾分か持ち直した瑠璃は、震える足で立ち上がりながらも真っ直ぐ無の前の邪悪を見据える。

 

 それを見れば自分も這いつくばっているわけには行かない。

 

 今度はしっかりと目の前の邪悪と対峙する。

 

「クロハ!」

 

「イエス、マスター」

 

 周囲の景色にノイズが走る。

 

 脚部から紫電が迸る。それの意味する所はもつ語るべくものはない。

 

 時空間歪曲エネルギーを爆裂させ、デモンベイン・クロックは飛び上がる。

 

 その眼下を触手が通り過ぎる。

 

 そのまま空中で宙返りしつつ、上昇のベクトルを降下へ変える。

 

 そのまま飛び蹴りの体勢になって重力を味方につける。

 

「ティマイオス、クリティアス、解放!」

 

「アトランティス・ストライク!」

 

 時空間歪曲エネルギーを纏った必殺の蹴りを落とし仔に叩き込む。

 

 しかし、クトゥルーの落とし仔は時空間歪曲エネルギーが炸裂する瞬間、緑色の霧となって消えてしまった。

 

「消えた!?」

 

「また厄介なっ」

 

 クトゥルーはその身を霧に変えることも出来る。その能力が仔である落とし仔に備わっていても不思議ではない。

 

 イブン=ガズイの粉薬があれば、その実体を固定化出来るだろうが。あいにくと手持ちにはなかった。

 

「負担が掛かりますが、それでも良ければ」

 

「任せる」

 

「で、でもっ」

 

 負担など眼中にないと言わんばかりに即断するクロウに、瑠璃は口を挟む。しかしクロウを止める言葉を持ち合わせていない。

 

「大丈夫だ。これくらいでヘコたれてなんかいられない」

 

 そう、この程度で膝を着いている様では真の邪神には到底太刀打ち出来ない。旧支配者は更に強大な存在なのだから。

 

「っ、後方6時!!」

 

「なにっ!?」

 

 クロハの警告に慌てて振り向けば、実体化した落とし仔がその触手をデモンベイン・クロックに向けて伸ばしていた。

 

「があああああっっ」

 

「きゃあああっ」

 

「っぐ」

 

 夥しい数の触手を束ね、太くなった触手はさながら竜の顎の様に大きな口を開けてデモンベイン・クロックの胴体に噛みついた。

 

 ミシミシと異音が装甲越しに響いてくる。

 

「術式構成完了、マスター!」

 

 頭を駆け巡る術式。それはこの状況を打破するには最も効率的で効果も大きい物だと理解が及ぶ前には既に術式に魔力を通して発動させる。自らの魔導書の選択に疑う余地はない。

 

「――力を、与えよ!」

 

 猛る光が邪悪を退ける。

 

 汚穢なる濃霧を、落とし仔の竜の顎を蒸発させながら生じた光は、急速に膨張。

 

 光度を増し、地上に小型の太陽を爆誕させた。

 

 それは、大気を震わせ白く染めていく白い闇。

 

 退いた『霧』は光に触れるのを恐れる様に、その周囲を漂う。

 

 ネクロノミコンに記された焼滅呪法によって空間ごと、『霧』となった落とし仔を灼き祓う。

 

 そして何処からともなく現れた、高層ビルに匹敵する程の巨大な偃月刀。

 

 その数は六。

 

 地面に突き刺さった偃月刀は互いに内包する呪力で星を描く。

 

 それは旧き印。五芒星の輝き。

 

 デモンベイン・クロックの周囲一帯の『霧』ごとすべてを包み込む。

 

 結界内の『霧』は激しく荒れ狂う。

 

 逃げられないとわかって、『霧』は再び実体を結んだ。

 

 しかし焼滅呪法を受けてその身体は幾分か熔けだしていた。

 

 光が収まり、デモンベイン・クロックは落とし仔と再び対峙する。

 

 その手にバルザイの偃月刀を構える。

 

 襲い来る触手を断ち切る。

 

 しかし夥しい数の触手をいくら斬った所で埒が明かない。

 

 一振りで対処が追いつかなければ二振りに増やした。

 

 二刀流で切り払い。剣閃は煌めきとなって五芒星を描き、破邪の印が触手の猛攻を受け止める。

 

「魔刃鍛造――連続詠唱!」

 

「力を与えよ、力を与えよ、力を与えよ、力を与えよ、力を――与えよ!」

 

 デモンベイン・クロックの周りに浮かび上がる炎の中から偃月刀が顕れる。

 

「超攻勢防御結界!!」

 

 デモンベイン・クロックを取り囲み、十の魔刃が顕現する。

 

「霊験灼かなる刃よ! 我に仇なす諸悪を尽く殺戮せしめん……()け!」

 

 デモンベイン・クロックを取り囲む十の魔刃は、自らの意思を持つかの如く跳ね上がり、襲い来る触手を斬り棄てていく。

 

 そして四方八方から落とし仔の身体を貫き、その身を固定する。

 

「久遠の虚無へと還れ!」

 

 その固定された落とし仔に向かって、渾身の呪力を込めた二刀の魔刃を振り抜く。

 

 十字に断ち斬られた落とし仔は、しかし二重の魔刃の結界によって逃れることは叶わず、呪力を込められた斬撃を浴びた身はその呪力によって焼滅していった。

 

 必滅奥義:魔刃結界――。

 

 対象を固定化する為とはいえ、レムリア・インパクトの様に機械的な必滅兵装ではなく、魔術的な奥義の負担は無視できる程ではなかった。

 

 堪らずクロウは膝を着いてしまう。

 

「お兄様!」

 

 その身体を瑠璃が支えた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ。これが、鬼械神の、奥義…、か」

 

 息も絶え絶え。魔力も大半を使い果たしてしまうほどの大技。

 

 今までに無い負担は抗い難い疲労感をクロウに感じさせた。

 

「お兄様?」

 

 気付けばクロウは寝息を立てていた。

 

「大分魔力を消耗しましたから、疲れて眠ってしまった様です」

 

「そうですか」

 

 少しは役に立てたのだろうか。

 

 それでも、戦っているクロウを見るのは2度目であり、しかし戦った後に場所も気にしないで眠ってしまうのは初めてで、それほど無理をしたのだろうと考えてしまう。

 

「取り敢えずミスカトニック大学に連絡をしてください。魔導書の回収と、破壊したとはいえ、レンのガラスの処分もしなければなりません」

 

「そうですわね。わかりました」

 

 戦えない自分に出来ることは、戦い以外の事の雑事の処理だ。今はまだ。

 

 クロハの提言に沿って瑠璃は的確に事後処理を消化した。

 

 気付けば朝を迎えていた。

 

 朝日に照らされる真紅の機械神。

 

 その胸の上で横たわる兄を想う。

 

 邪悪は常に世界を冒そうとしている。

 

 そんな邪悪を前にして戦える人間は数多くない。何故ならそれは彼等は宇宙的な邪悪であり、人が抗える存在ではないからだ。

 

 しかしそんな邪悪を確かに憎む正義も存在する。

 

 自分がそうである様に、祖父がそうである様に、兄がそうである様に。

 

 今はまだ、戦うには、抗うには未熟者であるのならばせめて彼等を支える者となろう。

 

 自らの想いを彼等に託そう。

 

 彼等が静かに眠れる様に戦うのが今の自分の戦いなのだと瑠璃は自らに言い聞かせた。

 

 

 

 

to be continued…



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ハスターの帰還、ダゴン撃滅

タイトル通りハスター帰還を題材に取り込みました。




 

「暑い……」

 

 燦々と輝く太陽の照りつける熱は、20世紀初頭であるのにも関わらず、此方の柔肌をジリジリと灼熱の光で焼いていく。

 

 帽子を被っていても、砂浜から照り返す光がその意味を薄れさせていく。額は汗に濡れて、滴り落ちる雫が蒸発して身体にべったりとした不快感を生む。

 

「暑い……」

 

「マスター、こちらを」

 

 そう言って黒のスポーツビキニという健康的な少女の魅力を放つクロハがいちごのシロップがかかったかき氷を差し出してくる。

 

「あぁ。ありがと、クロハ」

 

「いえ。では、お隣失礼します」

 

 それを浮け取って、スプーン型のストローを持ち上げて冷たい氷を口に運び込む。

 

 ビーチチェアに小柄であっても人間二人は狭い。しかしクロハの身体はひんやりとしていて、正直くっついていると気持ちがいい。

 

「マスターのお身体、とても、熱いです…」

 

「クロハはひんやりしてて気持ちいいなぁ」

 

 クロハに腕枕をしながらしゃくしゃくかき氷を咀嚼する。

 

 まるで等身大の水枕を抱いてるように気持ちがいいのだが、あまりこの体勢を続けていられないのが惜しいところだ。

 

「もう…。いつまで爛れた光景をひけらかすつもりですかお兄様!」

 

「だって暑いんだもん」

 

 そんな子供のような事を言いながらかき氷を食べて、上着をだらしなくはだけさせた身体に艶かしく手足を絡めるクロハを好きなようにさせながらその頭を撫でるクロウにやや呆れ気味で瑠璃は言った。

 

 とてもではないが公衆の面前で披露して良いものではない光景が広がっていた。

 

 ダンウィッチ村での戦闘後、クトゥルーの落とし仔を倒したという戦果と差し引きでクロウへのお咎めは免除された。

 

 いや、落とし仔とはいえ、クトゥルーそのものが現れたも同義。

 

 それを討ち倒せた事は人類にとって大きな勝利とも言えた。それほどに危機極まりない状況を早期に解決出来たことは賞賛されるべきである。

 

 最悪の場合、アーカムシティの第十三封鎖区画の様に永久的な呪われた死の土地が生まれていた可能性すらある。

 

 だがしかし、間を置けず度重なる機械神による戦闘で精神的に消耗したクロウは戦闘後に気絶して倒れてしまった。

 

 よって暫く魔術禁止令が覇道瑠璃の名のもとに発令された。

 

 そして問答無用で監視と療養を兼ねて連れてきたのはインスマウスだった。

 

 アーカムシティから程よく離れ、羽を休めるのにはうってつけだろうと瑠璃が選んだ土地だ。

 

 しかし時期は丁度真夏真っ盛り。

 

 照りつける太陽は身体に毒だ。魔術を使えないので空気循環や温度調整も出来ない。

 

 となると、暑さに堕落するしかクロウに残された路はなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「ふむ……」

 

 ミスカトニック大学秘密図書館。

 

 その司書長室でアーミティッジ博士は険しい顔を浮かべていた。

 

 このミスカトニック大学秘密図書館は強固な結界によって護られている。

 

 しかし時として、その守護を突破し、異界の叡智を求める者が現れる。

 

 そして今回、ダンウィッチ村での事後処理の合間に事件は起きた。

 

 ミスカトニック大学秘密図書館が秘蔵する魔導書の中でも特に力のある書の一冊。

 

 ネクロノミコンが盗まれるという事件が発生してしまった。

 

 アーミティッジ博士が留守の間、図書館を守っていた図書館長ランファー博士には心当たりがあるという。

 

 それはエイモス・タトルという老人が図書館を訪ね、ネクロノミコンの閲覧を願い出たものの、ネクロノミコン程の魔導書の閲覧はおいそれと許可は降りない上、秘密図書館を管理するアーミティッジ博士が不在ともなれば尚更である。

 

 それでも根気強く閲覧許可を願い出るエイモス老人ではあるが、ランファー博士は首を縦に振る事はなかった。

 

 事の発覚は、アーミティッジ博士が秘密図書館に戻った時だった。

 

 ネクロノミコンが偽物と入れ替わっていた。

 

 外観は本物と瓜二つ。扉と本文の第一頁さえ忠実に再現された見事な贋物。しかし携えた魔力は誤魔化しようがない。

 

 この非常事態。

 

 しかしそれを解決出来そうな人材は、残念ながら今のミスカトニック大学には居なかった。

 

 シュリュズベリィ博士はペルーの遺跡調査の真っ最中。

 

 覇道鋼造にしても、此方の不手際で協力を仰ぐのは憚られる。

 

 そして、今最もフットワークの軽いクロウは強制連行されて休養中だ。

 

 それにシュリュズベリィ博士は異を唱えない。というよりクロウの場合はオーバーワークが祟っている。

 

 一度腰を据えて休むべきだと、クロウの休養はアーミティッジ博士も賛成だった。

 

 故にクロウの復帰か、或いは一度遺跡調査に目処をつけられたシュリュズベリィ博士が帰還するまでは身動きが出来ない。

 

 現状を維持し、更なる賊の侵入を防ぎ、禁断の知識を護ることがアーミティッジ博士の戦いだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 午後になってより一際強くなる陽射しから逃れる為に覇道財閥の経営するホテル――ギルマン・ハウスへ避難したクロウは、カフェでアイスコーヒーを啜りながら事件の話を耳にした。

 

「ネクロノミコンが盗まれたですって!?」

 

「はい。硬度としては確かな情報です」

 

 それはクロウを監視する為に四六時中行動を共にする瑠璃の耳にも入る事になる。

 

 クロハが口にしたその言葉には瑠璃も衝撃を受けた。

 

 ネクロノミコンはミスカトニック大学が保有する魔導書の中でも最高位に該当する魔導書であり、その閲覧も簡単には叶わない。

 

 その内容を完璧に記した手記の写本があるゆえに内容を知る瑠璃ではあるが、それは例外中の例外と言える。

 

「犯人はわかるか?」

 

「特殊資料室ではエイモス・タトルという老人が今のところ最有力であると」

 

「なるほど…」

 

「知っているのですか?」

 

 犯人らしい人物の名を聞いて、しかしクロウには何処か納得が行ったような表情をしていた。

 

 それを見た瑠璃はクロウがまるで犯人を知っている様子に見えた。

 

「知っている事には知ってる。けれど、もしそうだとするとまた厄介な事になりそうだ」

 

「厄介な事?」

 

 この兄をして厄介な事と言わしめる。すると瑠璃では対処出来る程度が限られてしまうという事に他ならない。魔術師としての修練は怠ってはいないが、それでも隔絶した差が瑠璃に歯痒さを感じさせる。背中は見えているのに追い付けない。そんな気分だった。

 

「最悪の場合、またクトゥルーと戦う事になるかもしれない」

 

「……クトゥルーはルルイエに封印されているのですよね? なのに何故前回や今回の様にクトゥルーが関わってくるのですか?」

 

「言ってしまえば今のクトゥルーは眠った状態で辺りを徘徊している病人の様な物だ。それが完全に目覚めない様にするためにおれたちは戦っているんだ」

 

 クトゥルーがその身を外界に現した有名な事件としてはアラート号事件が有名だろう。

 

 1925年3月23日。

 

 南緯47度9分、西経126度43分。

 

 それは遭難した船員が書き記した怪異体験。その手記の内容。海難事故にまつわる新聞記事。

 

 それらは覇道鋼造も熱心に調べていた事件だった。

 

 その時既にクトゥルーは最早眠り続けたまま墓所で待ち続けるだけの存在ではないとされている。つまりは封印が解けかかっているという危機を知ることが出来るのだ。

 

「ネクロノミコンにはクトゥルーに関する言及も多い。それを態々盗んだのならクトゥルーに関する事柄が動くはずだ」

 

 最悪の場合、クトゥルーと対峙するという意味はそういうことなのか。しかしどうにも腑に落ちない。

 

 それ以外にも何かあるのではないかと、クロウの言葉から瑠璃は読み取る。何かを知っているから、エイモス老人がネクロノミコンを盗んだ事にも驚かずに納得が行ったような表情をしたのだろうと思っている。

 

 しかしそれがなんなのかはわからない。もしかすれば先の『レンのガラス』の様にあらかじめ調べていた案件の1つなのかもしれない。

 

「でしたら、調査はわたくしにお任せくださいな」

 

「本気?」

 

 クロウの懸念が当たったらのならば、再びクトゥルーと戦わなければならない。そうなった時はどうしても鬼械神が必要となる。

 

 ならばなるべくクロウには休んでいてもらいたい。そしてその間に動くことが出来るのは自分だけだ。

 

「調査くらいなら、わたくしでも役には立てます。それに、ネクロノミコンを探すのならばわたくしが適任だとも思います」

 

 ネクロノミコンに関しては瑠璃も相性の良い魔導書である。そして、扱っている魔導書も盗まれたラテン語版の写本だ。

 

 ネクロノミコンを探し出すという目的に関して、其処らの魔術師よりも自分の方がネクロノミコンに対する理解はあると自負している。

 

 そう考えた瑠璃はクロウの視線を受け止めて発言した。

 

 向けられた険しい視線に、瑠璃は目を逸らさず覚悟を秘めた瞳を向ける。言葉よりも態度で示されてしまっては、この覚悟が決まっているお姫様は言葉では簡単には動かないとクロウは悟る。

 

「クロハ」

 

「イエス、マスター」

 

「瑠璃さん。クロハを付けるからやれるだけやってみて。でも無茶はしても無理はしないで」

 

「わかりましたわ」

 

 クロハが居れば大抵の問題を退く事は出来るだろ。魔術というものは実践の中で魂を磨く事で身につけ、位階を上げられる。何時までも温室育ちでは実力が伴わない。

 

 そうした意味では少しずつでも彼女にも実地を任せる事も必要になってくる。

 

 妹となったお姫さまが心配ないわけではないが、更なる心配をするのならば敢えて今の危険を買う必要もある。

 

 魂の領域で繋がっているクロハが居れば万が一があっても直ぐ様駆け付ける事も可能だ。今は彼女の覚悟を見守る時である。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 クロウを一人インスマウスに残して、瑠璃はアーカムシティへと戻った。

 

 覇道財閥という肩書きを一番有用に使えるのはやはり覇道の膝元のアーカムシティである。

 

 盗み出されたネクロノミコンの所在を突き止める為に、先ずは現場検分から取り掛かる。

 

 件の窃盗犯の名はわかっているが、いくらアーミティッジ博士が不在だとはいえ、ミスカトニック大学の秘密図書館に忍び込む魔術師なのだ。

 

 調べられる下調べを怠って返り討ちにされましたでは済まされない。

 

「お忙しいところ時間を下さり、ありがとうございます。アーミティッジ博士」

 

「なに、此方の不手際で足労願っているこちらこそ、感謝せねばなるまい立場だ。覇道瑠璃嬢」

 

 覇道財閥は対クトゥルー邪神群に対する人類の砦にして最前線。一代でその財閥を築き上げた魔術師、覇道鋼造の邪悪に対する怒りは人並みのそれではない。

 

 魂の奥底、深淵から立ち上るその激しい気炎を理性で制御する様は、同じ魔術師として感嘆を覚える程だ。

 

 その孫娘がこうして魔術の道に進むのも、そうした祖父の存在と人類の刃金を鍛えた母親が居ればこそか。

 

 未だに修行中の身ではあっても、調査程度ならば任せられるお墨付きを貰える程の腕を持ったのか。或いはこれこそがその為の試験になったのか。

 

 目付け役としてナコト写本の精霊が同行しているのならば万が一の保険も掛けられているのだろう。

 

 その万が一があってはアーミティッジは覇道に顔向けが出来ないのだが、現状で彼女以外にネクロノミコンを追跡できる手透きの魔術師が居ないのも確かだった。

 

「これがすり替えられた偽物ですのね」

 

「うむ。程度としてはお粗末に過ぎるのだが、これがちと厄介でな」

 

「厄介とは?」

 

 そう難しげに言うアーミティッジに、瑠璃は首を傾げた。確かに魔力は感じるものの、魔導書などとは呼べないお粗末な魔力しか感じられないこの偽物が、ミスカトニック大学秘密図書館を守る老賢者を困らせる品物には思えなかったからだ。

 

「追跡調査の為に霊視を行った霊媒師が死んだのだ。全身に魚の鱗の様な物を生やし、顔も魚の様に青白く細くなり、目玉も両棲類の様に飛び出すという変貌を遂げてな」

 

「それは……」

 

 その言葉だけで特徴がわかる姿は深きものども(ディープ・ワンズ)のそれだ。

 

「この偽物からは確かに水妖の気を感じます。ですが……」

 

 偽物の魔導書を手に取ったクロハが、瑠璃の想像を肯定する様に呟く。しかしそれだけではない事も暗示していた。

 

「なにかわかるのですか?」

 

「微かにですが、風の気も感じます」

 

「ふむ。エイモス・タトルがクトゥルーの属性に連なる者だとして、その風の気配とやらは土地柄の物やもしれんな」

 

 一先ず判った事は、件のエイモス老人が水の属性を持つ魔術を行使する魔術師であるかもしれないと言うことだ。

 

 火と風を得意とする瑠璃にとっては相性的には戦えないという事もない相手だ。しかし相手がミスカトニック大学秘密図書館に忍び込む程の魔術師であることを忘れてはならない。

 

 幾重もの時空間結界に守られている秘密図書館に侵入する。それほどまでの実力を持つ魔術師ともなれば相当の実力者だ。

 

 ミスカトニック大学を出る時は調査に留める様にと再三アーミティッジ博士に念を押される。

 

 瑠璃からすればそれは自身の身を案じての事だとわかっているのだが、もう少し自分を信用して貰いたかった。

 

 次に瑠璃がしたことはエイモス老人の所在を調べる事だった。

 

 これは予想に反してあっさりと辿り着いた。

 

 彼の在宅している住所はインスマウス有料道路近くのアイルズベリ街道に建つ屋敷だった。

 

 その所在を調べる最中、瑠璃は件の屋敷についての不気味な噂を耳にする。それはアイルズベリ街道近くを通る通行人達が耳にする怪しげな音の噂だった。

 

 それはまるで足音の様なものなのだが、その大きさたるや人間の足音とは比べ物にならないという。興味を抱いてその足音のもとを明かそうとした者も居るそうだが、近づくにつれて激震を伴うその足音に恐れてその正体はわからず。とある若者はその音がまるで泥や水の中を歩く湿り気のある足音だと証言した。

 

 その足音の出所は件のエイモス老人の屋敷だ。

 

 1度、黄金の蜂蜜酒を使った霊視を行うか迷った瑠璃は、結局自分の足で向かうことにした。それはやはり追跡調査を行った霊媒師の奇怪な死を聞いてしまったが為の、引け腰の判断だった。

 

 誰かに笑われても構わなかった。何故なら自分はこんなところでは簡単に死ぬわけにはいかないのだから。

 

 しかしまたインスマウスかと、瑠璃は思わずにいられなかった。

 

 彼の呪われた土地の事は瑠璃も知っている。ダゴン秘密教団の壊滅と、呪われた血統の駆逐作戦。

 

 全貌こそ知ることは今の瑠璃には出来ないが、それでも彼の地に巣食う旧き穢れた血は、海軍の特殊部隊によって文字通り駆逐された。

 

 しかしその旧き呪いは今も蠢く闇に関わっていても不思議ではない。

 

 今回は魔術絡みとあって万が一を考えて、ウィンフィールドの送迎ではなく、バイアクヘーを使って現地に飛んだ。

 

 それこそ車で迎える距離ならばバイアクヘーなら一瞬だった。

 

 調べた住所から辿り着いたのは一軒の古びた屋敷だった。しかし普通の屋敷には到底思えない陰湿な気に覆われている。

 

「な、なんなのですの、ここは?」

 

 瑠璃が思い出したのは彼のウェイトリー家と同じく近寄り難い雰囲気だった。

 

 自身では到底立ち向かえない闇の気配とでも言えば良いのか。

 

 闇の気配が瑠璃の脚を釘付けにする。

 

「水妖の気を強く感じる。しかしこの風の気はやはりこの土地のもの? それも古い」

 

「判るのですか?」

 

「はい。この風の気はハスターの風気。しかしハスターの気とクトゥルーの気と合わないはず。もし何らかの意図があるにせよ互いに性質がぶつかって効力が落ちるはず」

 

 つまりは魔術の行使や実践に影響を及ぼす組み合わせがこの館にはあるのだった。

 

 どうするべきか。

 

 いや、答えなどはじめから出ているのだが。

 

 身の程知らずではないと思っているが、しかしこのまま帰るには実入りが無さすぎる。

 

 それでも本能が告げる、この先に脚を踏み入れてはならないと。

 

 その本能を信じるならば今すぐ退くべきだ。

 

「それでも!」

 

 気合いひとつで瑠璃はその釘付けの脚を踏み出した。

 

 本能を理性で制御するのは魔術師の基礎の基礎だ。

 

「何処へ行くのです?」

 

「このまま帰っても何もわからず仕舞いです。ならばせめて何か手掛かりを」

 

 固唾を飲み込んでひとつ深呼吸。自身の魔導書として与えられた手記ネクロノミコンと意識をリンクさせる。

 

 身体に魔力を循環させて活性化させる。身体の固さはそれで解れた。

 

 先ずは一当てと言わんばかりに瑠璃は屋敷の敷地に入り、呼び鈴を鳴らした。

 

「はい、どちら様でしょうか?」

 

 聞こえた声は若い男性の声だった。

 

「もし。こちらはエイモス・タトルさんの御自宅でよろしかったでしょうか?」

 

「はい。エイモスは私の叔父ですが。叔父に何か用でも?」

 

「わたくし、ミスカトニック大学附属図書館から来た者です。こちらのエイモス・タトルさんが貸し出し表の記入を忘れて蔵書を持ち帰ってしまったようで本日はお訪ね致しました」

 

「それはそうでしたか。どうぞお入り下さい」

 

「失礼致します」

 

 瑠璃を出迎えたのはごく普通の気の良さそうな青年だった。

 

「私はポール・タトルと申します。今、叔父の遺品整理をしているところでした。だいぶ散らかっていますがご容赦ください」

 

「あ、いえ。お構い無く。して遺品整理とおっしゃいましたが、エイモス氏はお亡くなりになられていると?」

 

「ええ。冬に。それで私がこの屋敷と財産を相続しました」

 

 ポール・タトルが嘘を吐いている様には瑠璃には見えなかった。では秘密図書館に現れたエイモス・タトルは何者なのか。いや、相手はミスカトニック秘密図書館に入ってこれた魔術師だ。自分の死の偽装も出来るだろう。問題はなんのためにそんなことをしたかだ。

 

「それで、叔父が持ち帰ってしまった本とやらはどう言ったタイトルの本で?」

 

「『ネクロノミコン』、そう聞いています」

 

「……さて、そんなタイトルの本、ウチにありましたかなぁ」

 

 僅かにポールの語気が固くなるのを瑠璃は感じた。

 

 はぐらかそうというのか。ただ瑠璃の任務はあくまでも調査であってネクロノミコンの回収ではない。

 

「そうですか。ではもし見つかりましたらミスカトニック大学附属図書館のアーミティッジ博士までご連絡をよろしくお願いいたします」

 

「わかりました」

 

 あまり深く追求はせずに伝言を残してタトル邸を辞する瑠璃。その耳には湿り気を帯びた足音の様なものが響いていた。

 

「一刻の猶予もありそうではありませんね」

 

 ネクロノミコンは行方知れず手掛かりも果たしてそれと言って良いものか。

 

 しかし一先ずの帰還を決断するには頃合いだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「ふーん。エイモス・タトルは既に死んでいるのに秘密図書館に現れたと」

 

「はい。ポール・タトル氏の言葉を信じるのならば」

 

 一度アーカムシティに戻った瑠璃は秘密図書館で待っていたアーミティッジ博士やクロウに報告をした。

 

 何故その様な摩訶不思議な事が起きているのかはわからない。

 

「あの家にはネクロノミコンの気配を感じました。おそらく何処かにはあるのだと思います」

 

「なっ、なんでそれを先に教えてくれませんの!?」

 

「お気づきかと思い。それにあの場で私が発言するのは不適切かと思いましたので」

 

「そうと判れば家探しなどしましたのに」

 

「や、下手に刺激するよりは良いと思う」

 

 ネクロノミコンがあるのにそれをはぐらかしたとならば理由があるはずだ。

 

「しかしならばどうやってネクロノミコンを取り戻す? あれはおいそれと野に放つには危険すぎる」

 

 アーミティッジ博士の言うこともそうだが、クロウの中では死んだエイモス・タトルが秘密図書館にやって来たというところに疑問を持っていた。

 

 それは本当にエイモス・タトルだったのか──?

 

 それを確かめる術は今はない。エイモスの写真でもあれば話は別だが。

 

 そもそもエイモスは本当に死んでいるのか?

 

 魔術には死後、死霊として甦ることも可能でもある魔術も存在する。それがあれば死後であろうと関係はない。

 

 考えても進展は無いためにその日は解散となったが、ネクロノミコンがエイモス邸にある確実な証拠さえあればと思わずにはいられない。

 

 クロハを疑うわけではないが、それだけでは警察でも家捜しは出来まい。

 

 翌日。

 

 瑠璃を伴ってクロウはエイモス邸を訪ねた。

 

「おや、そちらのお嬢さん方は昨日の」

 

「突然ですみません。彼がどうしてもポールさんに会いたいとおっしゃいまして」

 

「連日の訪問、失礼します。私はミスカトニック大学附属図書館勤めをしておりますクロウと申します。こちらにネクロノミコンがあると伺って回収しに参りました」

 

「そうでしたか。あれから私も探しましたがどんな本か判らず探しきれなかったもので」

 

「そうですか。良ければこちらで探させては貰えませんか? こう見えて本探しは得意な方なので」

 

「…そうですか。ではお上がりください」

 

 最後にポールの語気が固くなったが、クロウの申し出は受け入れられた様だ。

 

「我が家の本はすべて叔父の自室にあります。もしかしたらそのなかに紛れているやもしれません」

 

「そうですか。その部屋にご案内頂けますか?」

 

「わかりました。こちらです」

 

 案内された部屋には蔵書の山が築かれていてそれは人間が寝るべきスペースさえ埋めていた。

 

「クロハ、見つけ出せるか?」

 

「イエス、マスター」

 

 クロハが返事をしてパラパラとその身体から頁が溢れて螺旋を描く。

 

「こ、これは!?」

 

 ポールは驚いているが、この程度なんでもないただの検索に過ぎない。

 

「ありました」

 

 螺旋を描く頁から紙束が伸びて、1冊の本を手繰り寄せた。

 

 間違いなくネクロノミコンのラテン語版であった。

 

「さて。少しお話をよろしいでしょうか? ポール・タトルさん」

 

「くっ、ルルイエ異本よ!」

 

 そう叫んだポールの足元から、大量の水が噴出する。

 

「クトゥグア!!」

 

 手記セラエノ断章からクトゥグアの焔を喚び出してその水を蒸発させる。

 

「くするふ、ルルイエ、うなふなぐる、ふたぐん!!」

 

「吹き荒べ、ハスターの風!!」

 

 再び噴出する水を今度は極寒の風を当てて氷漬けにする。

 

「な、なんでぼくの魔術が通じない!?」

 

「実践的な差だ」

 

「お止めくださいまし、ポールさん、どうして急に攻撃を?」

 

「その魔導書を今持っていかれるわけにはいかないんだ。持っていかれたら最後、人類の危機となるかもしれないんだ」

 

 ポールに邪気が無いことを見抜いた瑠璃が問いを投げれば、余裕の無い様子で言葉を返された。

 

「人類の危機となれば互いに協力できるはずだ。一旦話を聞かせて欲しい」

 

 もとより人類の為に戦っているクロウとしても余計な消耗は避けたかった。

 

「わ、わかった。ぼくも余裕がなくてすまなかった」

 

 それからポールは語った。

 

 叔父のエイモスの遺言と、貯め込んだ蔵書から導き出した人類の危機。

 

 それは大いなるクトゥルーの接近と、風神ハスターの為の安息所の建築。

 

 叔父は力を求めるあまりハスターとクトゥルー、両者と契約を交わしてしまったこと。

 

 ネクロノミコンの閲覧はポールがエイモスに変装して向かったのだということも話してくれた。

 

 互いに攻撃したのは不幸な擦れ違いだ。話を聞けば充分協同することが可能なのが判った。

 

 こちらもミスカトニック秘密図書館特殊資料室に所属する者だと答える。言わばこの様に魔術絡みで困っている人を助ける専門家であると。

 

 瑠璃を見て、クロハを見て、クロウを見て、本当なのかと疑問符を浮かべるポールだったが、先手を取ったのにそのことごとくを無力化された事からクロウの魔術の腕は疑いようもなかった。

 

 ポールは叔父のエイモスの蔵書から得た知識からクトゥルーとハスターの危険性を察し、その両者をどうにかする為にネクロノミコンを求めたと言う。

 

 邪神のブッキングなど考えたくもないが、相手取るとしたらまだ弱点のハッキリしているクトゥルーだろう。

 

 ならばハスターはどうするのかと言われたら、安息所に入って貰うしか穏便に済ます方法はないだろう。

 

「しかし相手は超常な神の存在だ。そんなのを相手に出来る手段など」

 

「いいや、あるさ。神にも匹敵し得る人類の剣は」

 

 そう。それが魔を断つ刃──デモンベインだ。

 

「ヒヤデスが昇り、アルデバランが現れる今夜、ハスターがやって来る。他の存在も原初の水棲種族と共にやって来るだろう」

 

 それまでに安息所を完成させ、クトゥルーを抑え込む備えをしなければならない。

 

 ポールは忙し気に安息所を作る作業に戻った。

 

 そちらはポールに任せるとして、クロウは時間まで眠る事にされた。瑠璃が監視役である。

 

 戦えないのならばせめて戦えるクロウには時間ギリギリまで回復に努めて欲しかったのだ。

 

 そして時は過ぎて夜も深くなる時間に湿り気を帯びた足音が家の外から聞こえてくるのを感じながらクロウは剣指を頭上へと掲げた。

 

 剣指を作り、虚空に描くは招喚陣。

 

 真紅に輝く魔法陣を描き、クロウはその手に刃金の剣を執る為の聖句を口にする。

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 それは大地を砕きながら膝を着き着地した後、ゆっくりと立ち上がる。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

「虚空の空より来たりて、切なる願いを胸に、我は明日への路を切り開く――!!」

 

 聲高らかに紡がれし聖句は世界を超えてその剣を顕界させる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 赤い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)

 

 紅く、血の色に染まる鋼鉄の巨人。機械仕掛けのその(むくろ)を、闇が覆い尽くしている。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

 デモンベインの出現を目にする瑠璃はバイアクヘーに乗り上空で待機していた。

 

 それは兄であるクロウの戦いを眼に焼き付ける為でもあった。

 

 電磁力推進で宙に浮くデモンベイン・クロックは海へと向かう。

 

 海に広がる霧は何者をも隠してしまうだろう濃さがあった。その霧の奥からやって来る影は人型に見えたが明らかに人ではないパーツをしていた。

 

 蛸の頭に、鉤爪の腕は蟹を思わせる右腕と、蛸の脚を束ねた触腕の左腕。背中には一対の翼も見受けられた。巨大なその影は真っ直ぐ向かってきた。

 

「あれは、海神ダゴン!」

 

「ダゴンって、この前戦ったのと違うけど」

 

 前回戦ったのは巨大なフナムシの様な姿をしていた。

 

「あれとは違いより上級(ハイクラス)の個体です。主の寝所として相応しいかどうか確かめに来たのでしょう」

 

 クロハの解説を聞いて身を引き締める。

 

 ダゴンのその眼がギョロリとデモンベイン・クロックを捉える。それだけで背筋がざわついた。その神気に呑み込まれまいと気を張る。

 

 ダゴンが左腕の触腕を振るう。魔法障壁で防御。

 

 結果受け止めることに成功するが、それが気に入らなかったのか、ダゴンはジャンプして此方との間合いを詰めてきた。そして右腕の鉤爪を振るってくる。

 

「アトランティス・ストライク!!」

 

 デモンベインの近接粉砕呪法を放つが、鉤爪を跳ね返すだけで蹴り砕く事は叶わなかった。なんという頑丈さか。

 

「もう一発ッ」

 

 鉤爪を蹴られたことで跳ね上がるダゴンの右腕の、甘くなった脇を蹴り飛ばす。

 

 大きく後退はしたが、大して効いていないように見える。

 

「くそっ。これだから軟体動物は嫌いだ」

 

「近接武装を展開します。ヴーアの無敵の印に於いて、力を与えよ──!!」

 

 クロハの言葉と共にクロハのシートに置かれているネクロノミコン機械語版が淡く発光し活性化すると、デモンベイン・クロックの前に火柱が立ち上る。

 

 その中から現れた柄を手に取り握り、炎を払うように引き抜くはバルザイの偃月刀。

 

 態々ネクロノミコンの記述から呪法兵装を呼び出すのにはワケがあった。クロハの持つ呪法兵装よりも、ネクロノミコンの記述から引用した方が通りが良かったからだ。つまりデモンベインはネクロノミコンとの相性の良い機械神(デウスマキナ)とも言えた。

 

「でぇぇぇぇいっ」

 

 バルザイの偃月刀を振るい狙うは鉤爪以外の場所。脳天に振り下ろすが、その一撃は鉤爪でガードされてしまう。ならばとそのままタックルを喰らわせて、ダゴンの姿勢を崩した。そして返す刃で狙うは左の触腕だ。

 

 体勢を崩されたダゴンはその攻撃に反応しきれずに触手の左腕が宙を舞った。

 

 ギシャアァァァァアアアア!!!!

 

 ダゴンが叫ぶ。痛覚はあるらしい。

 

「よし。効いてるぞ」

 

「っ、マスター、アレを!」

 

 クロハが示す先ではダゴンが斬り飛ばされた左腕をブクブクと再生させていた。

 

「マスター、一気に倒さなければ意味がない様です」

 

「ああ。見て解ったよ」

 

 つまりはデモンベインの第一近接昇華呪法──レムリア・インパクトでなければ意味がないという事だ。

 

 そういう事ならば話は簡単だ。

 

「ヒラニプラ・システム、接続(アクセス)――!!」

 

「術式解凍、ナアカル・コード形成。マスター!」

 

 剣指を作るデモンベイン・クロック。その合わせられた剣指の手の内には超高密度の魔力の塊が産まれている。

 

「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 クロウが吠え、重ね合わせた両腕を天に掲げ、左右に広げながら降り下ろす。

 

 後光の如く輝く五芒星の印――旧き印(エルダー・サイン)が、邪悪を討ち祓う結印が一際輝きを増し、結界を作り出した。

 

 そして紡がれるのは、未来永劫過去永劫現在永劫変わることなく語り継がれ紡がれる破邪の祝詞。

 

「光射す世界に、汝ら暗黒、棲まう場所なし!」

 

 天高く掲げられたデモンベイン・クロックの右の掌に超高密度の魔力が収束する。高密度の術式と魔力が駆け抜け、必滅の威力を封じ込めた術式が覚醒する。

 

「渇かず、飢えず、無に還れ!」

 

 デモンベイン・クロックが宙を蹴り、疾駆する。掌から溢れ出す閃光が邪悪を、白い闇で染め上げる。

 

 巨人の右手に宿る輝きを見た瞬間、ダゴンは怯えた。その破滅の光を、魂が識っていた。だがもう、逃れるには致命的な距離だった。

 

 神をも滅する第一近接昇華呪法――その名も!!

 

「レムリア・インパクト――!!」

 

 必殺の一撃を乗せて、デモンベイン・クロックの右の掌は吸い込まれるようにダゴンへ叩き込まれ、必滅の術式がその内部へと浸透していく。

 

「昇華!!」

 

 必滅の呪文が世界に響き渡り、デモンベイン・クロックの掌から放たれた光が、世界を白い闇で埋め尽くし、塗り潰し、染め上げ、閉じ込めた。

 

 ギシャアァァァァアアアア────!!!!

 

 暴虐の光の中。魂を冒さんばかりの断末魔。だがその断末魔は結界に封ぜられた無限熱量の暴虐によって、邪悪な者の実体も、魂も、その悉くを滅却し、昇華させた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ダゴンを倒し、肩の力を抜いたクロウ。その視線の先には倒壊したタトル邸が映し出された。

 

 そこに佇むのはポールだった者。今は黄衣の王、風の神、ハスター。ダゴンとの決着が着いたと見るや、光の稲妻となって何処かへと消えていった。ハスターの帰還は成ったと見て良いだろう。

 

 安息所はただの場所ではなく、契約した者の肉体と魂を指しているのだ。

 

 エイモス・タトルは既に死亡しているので、その血筋のポール・タトルを拠り所と選んだのだろう。

 

 その後ポールがどうなったのかは誰も知ることは出来なかった。

 

 

 

 

to be continued…



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永劫の開演

短いですがどうぞ


 

 それはあまりにも突然過ぎた出来事だった。

 

 巨人没す。

 

 覇道財閥総帥──覇道鋼造の死。

 

 遺体は残らず、死因はブラック・ロッジとの抗争の果てだということしか判っていない。

 

 遺体の無い棺を埋める葬式は家族葬で粛々と行われた。

 

 瑠璃は涙を流さなかった。ただ毅然とした態度で葬式を見守っていた。

 

 愛する家族を失った瑠璃の心情を計り知る事は出来ない。

 

 ただ覇道財閥の跡取りとして新総帥の座に収まってからは多忙の日々を送る姿が何処か痛々しかった。

 

 まるで覇道鋼造の死から逃げているように仕事に埋もれていく瑠璃をクロウは見ていられなかった。

 

「瑠璃さん、たまには少し休もう」

 

「いいえ、休んでなどいられません。この書類を片付けたら魔術の稽古をお願いします」

 

「いや。休んで貰うよ。今日までまともに休めてないでしょ?」

 

「お兄様、今は休むよりもやらなければならないことが山積みなのです」

 

 正式な引き継ぎなどもなく逝ってしまった祖父の抱えていた仕事を処理するだけでも手が足りない。それに加えて覇道財閥の運営を維持しなければならない。それらを片付けてようやく出来る自分の時間の使い方は魔術の研鑽に当てるのは瑠璃の意地だった。

 

「それでも瑠璃さんが倒れでもしたらあの人は悲しむよ」

 

 孫娘をどれ程可愛がってたかなどクロウも知っている。

 

 故に自らを追い詰めるような働き方をする瑠璃を放っては置けなかったのだ。

 

「瑠璃さんが譲れないという気持ちも解らないわけじゃない。でも自分を追い詰めても魔術は身に付かないし、危険なものなんだよ」

 

 忘れてはならない。魔術とは闇の知識なのだ。

 

 心に隙を抱いて挑んでしまえばたちまち蝕んでくるものであるのだと。

 

「だから焦ったりしたらダメなんだ。万全な状態でないと、心に余裕がないと付け込まれてしまうものなんだから」

 

「お兄様…」

 

 不器用な手がそっと伸びてきて頭を胸に誘われる。

 

「溜め込まなくて良いんだ。辛いなら辛いって、言って良いんだ。家族なんだから」

 

「わ、わたくしは、そんな……」

 

 辛くはないと、言えなかった。

 

 辛くはないはずなど無かった。

 

 愛し、尊敬する祖父を奪ったブラック・ロッジに対する恨みが無いはずもなかった。

 

 忙殺される事で考えないでいた事が溢れてくる。

 

 何故なのだ。何故、両親に続いて祖父までも奪われなければならないのか。そんなに罪深い事を両親や祖父がしていたとでもいうのか。ただ邪悪に世界を冒させない様に戦っていただけだというのに。

 

「何故なのですか…、何故、お爺様が死ななければならないのですか……っ」

 

 瑠璃の悲しみは計り知れない。出来ることはその悲しみを受け入れて共感してあげる事だけだった。

 

 そうしてようやく瑠璃は、家族の前だからこそ涙を流す事が出来るのだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 覇道鋼造の死の他にもクロウには寝耳に水の出来事が起こっていた。

 

「シュリュズベリイ博士が行方不明ですって?」

 

「うむ。ペルーの遺跡調査の最中に何者かの襲撃を受けたという報せの後にな」

 

 アーミティッジ博士の言うように、以前調査したペルーの遺跡調査の最中の出来事だったらしい。

 

 助手兼生徒達を逃がすために奮戦したところで、以後の消息が判っていないのだ。

 

 覇道鋼造の死といい、良くはない流れが起きているのではないかと思わずにはいられなかった。

 

 その帰り道だった。

 

「貴公か。ミスカトニック大学秘密図書館に在籍する魔術師とやらは」

 

 夕焼けに照らされる金色の髪。美しく映える美貌はしかしそれを台無しにする闇の気配に包まれている男がそう訊ねて来た。

 

「此度は少し楽しめそうだな」

 

 右手に魔力を集中させる男が続けて名乗りを口にした。

 

「余はマスターテリオン。ブラック・ロッジを束ねし者。以後お見知り置きを」

 

「ブラック・ロッジだって!?」

 

 ブラック・ロッジの首魁と名乗ったマスターテリオンという男は、挨拶代わりと言わんばかりに、溜めていた魔力を打ち放った。

 

 咄嗟に障壁を展開したが、その障壁ごと吹き飛ばされてしまった。

 

「ふむ。少し強すぎたか」

 

 此方を値踏みする視線を送るマスターテリオン。

 

 対するクロウは冷や汗を掻いていた。

 

 レベルが違いすぎる。力量の差を纏う空気だけでそう思わせてくる。

 

「マスター、ここは全力で撤退を」

 

「そう易々と行けばね」

 

 実体化したクロハの言葉にそう返した。魔術結社の頭目がどの程度の実力なのか今の一撃で凡その目星は付けられた。最低でもシュリュズベリイ博士と同等かそれ以上だ。自分が逆立ちしても勝ち目はないだろう。

 

 しかし逃げるとしても、それをした後のマスターテリオンがどうするのか見当がつかない。

 

「ごめんクロハ。付き合って」

 

「イエス、マスター。全てはマスターの御心のままに」

 

「ほう」

 

 逃げるでもなく、立ち向かう姿勢を見せる主従に、マスターテリオンは声を漏らした。

 

「彼我の差を感じながらも立ち向かう姿勢を見せるとは。覇道め。中々の後継者を育てた。これなら退屈しのぎには丁度良い」

 

「その退屈しのぎ相手に手を噛まれると思え!」

 

 黄金の法剣を手に駆けるクロウに対するマスターテリオンは無手で対峙した。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 時同じくしてアーカムシティでも問題が発生した。

 

『ぬぁっはっはっはっ~!! さぁ恐れ戦くが良い! これが、この威容、この勇姿こそ我輩の作品の姿! スーパーウェスト無敵ロボ28號なのであーる!! 我輩の偉業と、そしてブラック・ロッジの力の前に平伏すのである!!』

 

 ブラック・ロッジを名乗る者の襲来だ。

 

 それはまるで巨大なドラム缶だった。自重を支えきれるのかと思わんばかりの小さな足で、しかしちゃんと歩いていた。

 

 進行方向のビルを備え付けられた両腕のドリルで破壊しながら進むのは安っぽい映画の様だった。

 

 だが逃げ惑う人々の悲鳴が、それが現実のものであると突きつける。

 

「お兄様とは連絡は取れないのですか?」

 

「はいです。先ほど大学からは出たという所までしか確認が取れませんです」

 

 瑠璃の言葉に向き合うコンソールから振り向いてメイドのソーニャが答えた。

 

 ブラック・ロッジを名乗る奇妙なロボットが暴れだしたのを知り、瑠璃は直ぐ様クロウと連絡を取ろうとしたが、それは未だ叶っていなかった。

 

 デモンベインを出動させることが出来るのならば、あの様なロボットに遅れは取らぬというのにと、瑠璃は歯痒く思わずにはいられなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 マスターテリオンと対峙するクロウは息も絶え絶えの様相だった。

 

「どうした? その程度では余を傷つける事もままならぬぞ」

 

「くっ」

 

「これならあの盲目の賢者の方が相当歯応えがあったぞ」

 

「盲目の賢者? まさかシュリュズベリイ博士か!?」

 

「そうだ。鬼械神(デウスマキナ)を召還できる魔導書は数が少ない。よって彼の賢者の持つセラエノ断章が必要だったというわけだ」

 

「貴様ァ!!」

 

 黄金の法剣を振り上げ、叩き付けるクロウだが、マスターテリオンはその斬撃を障壁で受け止める。

 

「馬鹿の一つ覚えでは余の障壁は突破出来ぬぞ」

 

「クトゥグアァァァ!!」

 

 自滅覚悟でクトゥグアの焔を纏った斬撃を叩き付けた。瞬間爆発を引き起こし、クロウは爆風に吹き飛ばされた。

 

「ほう。よくもやるものだ」

 

 マスターテリオンは変わらず佇んでいたが、その右手からは煙が上がって焼け爛れていた。

 

「マスター!」

 

 マスターテリオンの傍らに本の頁が集まり、クロハと瓜二つの女の子が姿を顕した。それはクロハと同じ魔導書の精霊だろう。

 

「マスターによくもっ」

 

 恨みこもった声を上げる女の子をマスターテリオンは手で制した。

 

「よい、エセルドレーダ」

 

「マスター、しかし」

 

「余の障壁を破った事は褒めてやろうではないか」

 

 障壁を破られてもあくまでも絶対者として在るマスターテリオン。マスターがよいと言うならば従う他はない。

 

「帰るぞエセルドレーダ。次はもっと余を楽しませてみせよ、覇道黒羽よ」

 

 その言葉と共に姿を闇のなかに消していくマスターテリオン。

 

 完全に気配が無くなっても張った気を弛めることは出来なかった。見逃されたという事実がクロウの肩に重くのしかかる。あんな化け物を敵にして勝ち目を見出だせなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ブラック・ロッジのロボットは、結果から言えば突如として現れた白い天使と覇道財閥のデモンベインが退けた。

 

 白いボティアーマーに身を包み、機械の翼を携えた白き天使。人の身でありながら巨大なドラム缶に挑む様はまさに正義のヒーローだった。

 

 その存在を瑠璃から聞き及んだクロウだったが、心当たりは無かった。

 

 マスターテリオンと対峙した事実の方が瑠璃には驚かれた。

 

 ブラック・ロッジの大導師(グランド・マスター)マスターテリオンの存在は一部では架空の人物ではないかと言われていたからだ。

 

 そのマスターテリオンとの戦いに精一杯であったクロウは、ブラック・ロッジのロボットの件に関われなかった。

 

 機械神(デウスマキナ)が必要な案件に関われなかった己の力不足を実感させられた。

 

 それだけではない。デモンベインを動かした人物はミスカトニック大学の隠秘学科の生徒だという。

 

 本人も巻き込まれた口でなにがなんだかという戸惑う雰囲気だったが、魔導書ネクロノミコンのオリジナルのアル・アジフの精霊は得意気に胸を張っていた。

 

 今回の件、非常事態にデモンベインを動かしてアーカムシティの危機を救ってくれた功績は大きなものだった。 故にクロウはアル・アジフのマスターとなってしまった大十字九郎に同情するし、好感が持てた。

 

「勝手にデモンベインを動かした件については不問としましょう。もちろん貴方がたが今後、我が覇道財閥の指揮下に入るのならばという条件が付きますが」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。それって今後もあんなロボット相手に戦えって事か?」

 

「そうだね。待遇は応相談だけど決して悪いようにはならないよ。機械神(デウスマキナ)を操れる魔導書と術者は貴重だ。喉から手が出る程君という人材は欲しいんだ」

 

「ちょ、ちょっとタンマ。1度ちゃんと考えさせてくれ」

 

「わかりました。色好い返事を期待していますわ」

 

 瑠璃の一声でその場は一先ずの解散と相成った。

 

「やっぱり、瑠璃さんは彼らが許せない?」

 

 大十字九郎とアル・アジフを見送った後、クロウは敢えて瑠璃が抱えている物に触れた。

 

「本心で言えばそうなります。何故何も知らぬ彼らにお爺様の形見であるデモンベインを託さなければならぬのかと。わたくしがまだ未熟者だからですか?」

 

 瑠璃は悔しげにそう語った。その震える肩を見るしか、クロウには出来なかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 託せるかどうかの判断を下す前に、再びデモンベインは召喚された。召喚したのは昨日と同じく大十字九郎とアル・アジフの二人だった。無断でデモンベインを召喚した二人に対する印象が瑠璃の中で悪い方に傾くのを感じた。その結果は惨敗の一言だったのも拍車をかける。

 

 何があったのか大十字九郎に訊ねてみれば、あのマスターテリオンと戦ったのだということだ。

 

 アル・アジフは大十字九郎と契約を結ぶ直前の戦いでマスターテリオンと対峙して構成する頁をいくつか失っており、今は完全な状態ではないという。

 

 頁の抜け落ちがなければ遅れは取らぬとアル・アジフは言うが、それは言い訳に聞こえるだけだ。

 

 傍目から見ても瑠璃さんの機嫌の悪さは一目瞭然だった。

 

「何故なのですか、お爺様。いったい何故」

 

 ボロボロのデモンベインを見上げる瑠璃の姿は痛々しいものだった。

 

 

 

 

 

 

 

to be continued…



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覇道邸強襲

 

 デモンベインの無断使用。

 

 機械神(デウスマキナ)が制御を離れて動いているというのは、デモンベインを管理する覇道財閥としてはいただけない話だ。しかもデモンベインを動かしているのはまだ立場も宙ぶらりんな魔術師であるならば尚更だと言えるだろう。

 

 こればかりはクロウも大十字九郎とアル・アジフの二人を庇えない事実だった。

 

 確かに二人はブラック・ロッジの破壊ロボを倒す戦果を上げているが、かといって無断使用が帳消しにはならないのも事実だ。

 

「俺、決めたよ。あんな連中、のさばらせちゃダメなんだって判るんだ」

 

「それじゃ、今後ともよろしく大十字九郎。おれは君を歓迎するよ、戦友として」

 

 大十字九郎もまた邪悪を見て見ぬふりが出来ない人間なのだとクロウは見抜く。ならば戦友として迎い入れる事に異は無かった。

 

 しかしかといって無断でデモンベインを召喚するのは止めて欲しかった。主に瑠璃の機嫌を損ないかねないからだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ページモンスター。

 

 アル・アジフから抜け落ちた頁の記述が実体化した物を言う。

 

 それが事件を起こして、それを制圧するのが目下全力で取り組む問題だった。

 

 最初に問題を起こしたのはアトラック・ナチャに関する記述だった。蜘蛛の神で知られる名の通り糸を扱う、ピンク色の髪と黒に白色の蜘蛛の巣の様な模様の入ったレオタードの女の姿を取っていた。

 

「こんのぉ!」

 

 その糸に九郎は捕まってしまった。

 

「クトゥグア!!」

 

 糸には炎だと言わんばかりにクトゥグアの焔を呼び出し払うのはクロウだった。

 

 その焔は九郎を捕らえていた糸も焼き払った。

 

「マギウス・ウィング!!」

 

 九郎が腰に重なる魔導書の頁を刃として伸ばし、アトラック・ナチャを一刀両断に処す。

 

接続(アクセス)! アユテュル表による暗号解読! 術式置換! 正しき姿へ還れ、我が断章!!」

 

 こうしてページモンスターを倒して回収するのが今優先される戦いだった。

 

 しかし敵はページモンスターだけでは無かった。

 

 ドクターウェストの破壊ロボが姿を現したのだったが。

 

 此方は2体のデモンベインで危なげなく迎え撃つ事が出来た。

 

 だが状況は良いものばかりではなく、時として悪いことは起きるというものだ。

 

 デモンベインそっくりのパチモンをドクターウェストは造り上げ、さらにアル・アジフの頁の力を取り込んで襲い掛かってきたのだ。

 

 現実と虚像を操るニトクリスの鏡の記述を有したデモンベインの偽物──デモンペインはこれまたドクターウェストの作品らしい人造人間のエルザと相まって、今までの破壊ロボとは文字通り毛色が違った。

 

 まさかアトランティス・ストライクまでコピーされるとは思わなかった。

 

 1対1なら確実に苦戦はしていただろう相手だが、此方は二体のデモンベインだ。

 

 虚像で翻弄しようと数の差は覆せない。

 

 バルザイの偃月刀を多重詠唱して虚像を破壊して本体に九郎の駆るデモンベインがレムリア・インパクトを叩き込んだ。

 

 デモンベインの偽物は破壊され、頁も回収した。

 

 アル・アジフは着実に本来の姿を取り戻しつつあった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 そこは祭壇にして玉座。

 

 マスターテリオンは気だる気な表情で遠くを見つめていた。手慰みに自らの膝に顔を預けるエセルドレーダの髪を撫でていた。その顔は恍惚を浮かべ微睡んでいた。

 

「マスター。大十字九郎とアル・アジフ、今回も順調のようですね」

 

「それは、そうであろうな。そうでなくてはつまらぬ」

 

 マスターテリオンは嫣然とした笑みを浮かべると、エセルドレーダの頭を撫でた。

 

「そろそろ彼らを動かしても良い頃合いかもしれぬ。大十字九郎。彼を目覚めさせるには生死の狭間に立たせるのが一番だ」

 

「マスター、愉しそう」

 

「そうさな。余は愉しいぞ。あやつの存在だけはこの無限の退廃の中にあって、唯一、余を愉しませてくれる。それに今回はあちらにはゲストも居ることだ。より多く愉しみがいがありそうだ」

 

 マスターテリオンは愉悦の表情を浮かべ、また遠くへと想いを馳せた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「っ!?」

 

 背筋がひやりとして、思わず身震いを起こす。

 

「いかがなさいましたか? マスター」

 

「い、いや。なんでもない」

 

 背筋を走った悪寒を振り払う様に言うクロウだったが、その悪寒が示す様に屋敷が突如として激震に苛まれた。地震ではないのは爆音と共に爆弾でも放り込まれたかの様に邸内が激しく振動したからだ。

 

「なんだってんだいったい」

 

「マスター、お気をつけください。冥い闇の気配がします。魔術師やもしれません」

 

「確かに、普通の襲撃じゃないかもね」

 

 揺れはすぐに収まったが、代わりに響いてくる銃声からただ事ではないのは明らかだった。

 

 そして感じるただならぬ気配にクロウの内が引き締まる。

 

 マスターテリオンが発する絶望的な気配とは異なるが、同種の気配を感じ取ったからだ。

 

 クロウが目配せすると、クロハは既に魔導書となって頁がクロウの身体に収まった。

 

「瑠璃さんと合流するのが先決か」

 

 内線が不通で状況の把握も儘ならない今、優先するのは財閥総帥である瑠璃の身柄の安全だ。

 

 廊下に飛び出たクロウはその足でさほど離れてはいない瑠璃の私室へと急いだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 瑠璃は困惑しながらも状況の把握に追われていた。

 

 屋敷の中は騒然となっており、ただ事ではないのは疑いようもない。聞こえる銃声がよりその事を物語る。

 

 内線は不通、頼りのウィンフィールドも姿を現さない。

 

 ドレスを脱ぎ、司令服へと着替えて、手記を手に取ると、油断なく身構えた。

 

 銃声と爆音が近づいてくる。警備員の悲鳴、呻き、断末魔の叫びが瑠璃の鼓膜を叩いていく。その音は確実に部屋へと迫り、その前でピタリと止んだ。

 

 部屋の扉が音もなく開かれた。その途端、むせ返る程の血の臭いが押し寄せてくる。

 

 水溜まりの上を歩く様な音が聞こえてくる。

 

「うふふっ。おこんばんは~、瑠璃お嬢ちゃま~ん♪」

 

 部屋の入り口に現れたのは滴る程の返り血を浴びている道化師だった。

 

「な、何者ですっ!」

 

 いつでも魔術で対抗できる様に魔力を練り上げながら瑠璃は道化師に問う。

 

「イイわねぇ、イイわぁぁぁ。瑠璃ちゃんたら、ホント健気なんだからぁ☆」

 

 道化師は恍惚に言葉を紡ぐが、口を開く度に、汚物の様な臭気が放たれ、瑠璃は吐き気をもよおした。

 

「はじめまして♪ アタシはティベリウス。ブラックロッジのアンチクロス、ティベリウスちゃんよん。ヨロシクねん☆」

 

「アンチクロス!」

 

 その名を聞いて、瑠璃に驚愕が走る。

 

 ブラックロッジの中でもマスターテリオンに従う幹部に当たる者たちのことを指す名称だったからである。

 

「今日は大導師サマのご命令で瑠璃ちゃんの命を貰いに来たんだけどぉ……こんな可愛い子を殺すだなんてもったいないじゃない? だからね、大導師サマにお願いしたのよん。そしたらね、なぁんと、お許しが出たの。瑠璃ちゃんをアタシの玩具にしてもいいって! 嬉しいわぁ。こぉんなに可愛い娘を好きにしちゃってもいいなんて!」

 

 瑠璃はティベリウスの向けてきた嘗める様な視線に身を固くする。慰みものにしようとしているのは明らかだった。瑠璃の無垢な心はティベリウスの視線に嬲られ、犯されていた。

 

 瑠璃は未知の感覚に呻き声を漏らしながらも、魔術を行使する。

 

「ヴーアの無敵の印に於いて、力を──与えよ!」

 

 手記から術式が走り、その術式が炎となって中よりバルザイの偃月刀が顕現する。

 

 その柄を握り締めて、切っ先をティベリウスへと向けた。

 

「へぇ。さすがは覇道財閥総帥。魔術のひとつは使えるようね。それで、その後どうするの? その震えた手でアタシを斬れるの?」

 

「ば、馬鹿にして……」

 

 バルザイの偃月刀を召喚したは良いが。それはティベリウスを止める抑止力にはならなかった。

 

「どうしたのぉ? 殺るの?殺らないの? 殺らないとアタシに犯されちゃうわよ?」

 

「う……くっ、たあああああっ!!」

 

 覚悟を決めて瑠璃はバルザイの偃月刀を振り下ろした。

 

「目をつむってどうするのよ。殺せるときに殺さないなんて、甘ちゃんなんだからぁ☆」

 

 瑠璃の必死の一撃はしかしティベリウスの皺枯れた手に受け止められていた。

 

「あ、ああ、ぁ……」

 

 瑠璃の脳裏に絶望と共に自分が惨めに犯される光景が沸き起こる。

 

「まぁいいわ。これからたっぷりと時間をかけて、いろんなことを教えてあげる♪」

 

 バルザイの偃月刀を奪い取り、放り捨てたティベリウスが瑠璃の胸ぐらに手を掛けた時だった。

 

 横から蹴りを受けてティベリウスの身体が吹き飛ぶ。

 

「な、何者!?」

 

「てめぇ、なに人の妹に手出してやがる。殺すぞ」

 

「お、お兄様……!」

 

 静かにだが激しい怒りを携えてクロウは瑠璃の前に立っていた。

 

「あ~ら、誰かと思えばお兄ちゃまの方のクロウちゃんじゃない☆」

 

「黙れ。何者なのかもどうでもいい。今からお前を殺す」

 

「気をつけてください、相手はブラックロッジのアンチクロスです!」

 

「アンチクロス、ブラックロッジの幹部か」

 

「そうよぉ。アタシはティベリウス。ヨロシクね、クロウお兄ちゃま☆」

 

 アンチクロスだろうと関係がないと、クロウは魔力を高めながらティベリウスと対峙した。

 

「瑠璃お嬢ちゃんを女にしてあげるところだったのに、とんだオジャマ虫さんねっ!」

 

 ティベリウスの両手にかぎ爪が出現する。それの威力はこの部屋までの廊下で見た肉片となった警備員だった者たちから伺い知れる。

 

「クロウ! 姫さん!」

 

「大十字さん…」

 

「九郎!」

 

「あらあら、もう一人の九郎ちゃんまで来ちゃうなんて。ティトゥスは何をしてるのかしら?」

 

 やれやれと言った風の道化師を前にクロウたちは油断なく構えた。

 

「アタシ、むさい野郎とガチンコなんてやる趣味は無いのよねぇ」

 

「そちらにはなくてもこちらにはある! バルザイの偃月刀!」

 

 バルザイの偃月刀を喚び出して構えるクロウ。

 

「九郎、これを使え」

 

 何をと問う前に九郎の手の内にもバルザイの偃月刀が握られていた。

 

「これは…、クロウと同じ奴か!」

 

「左様。賢人バルザイが鍛えし刀にして魔法使いの杖だ。汝の発する魔術を何倍にも増幅出来るぞ」

 

「よくわかんねぇけど、やってやらーっ!」

 

 同じ得物を手に、二人の魔術師は同時に道化師に斬りかかった。

 

 ティベリウスも長く伸びた鋭いかぎ爪を見せつけると独楽の様に身体を回転させ始める。

 

 まるでバターの様に二刀のバルザイの偃月刀はかぎ爪を両断した。

 

「なんですって!?」

 

 両手のかぎ爪を断たれたティベリウスは堪らず後退する、だが誰よりも先に九郎が動いた。

 

 開いた間合いを詰める様に前に出て無防備なティベリウスの懐目掛けてバルザイの偃月刀を横一文字に(はし)らせた。

 

「悪ィな。てめえらのボスと戦った時に学習したんだよ。てめぇら魔術師相手に躊躇しちゃいけねえって」

 

 ティベリウスの身体は横にスライドし、立ち尽くしたままの下半身を残し、上半身は床に転がった。

 

「油断しやがって。意外にあっけなかったな」

 

 床に沈むティベリウスの亡骸を眺めながら九郎はホッと息を吐いた。

 

「瑠璃さん、怪我はない?」

 

「え、あ、はい…えぇ…」

 

「そう。なら良かった」

 

 瑠璃の安否を確認したところでクロウも一息吐いた。

 

「っ────! 大十字さん!」

 

 瑠璃の目が驚愕の色に染まる。

 

 それと同時に九郎の全身に悪寒が駆け抜ける。身体の芯まで凍えそうな、死の気配。その理由を悟り、振り向こうとしたが、既に手遅れだった。

 

「ガハッ!」

 

「九郎!!」

 

 いち早く異変に気づいたクロウが叫ぶ。

 

「やってくれるじゃな~い、九郎ちゃん」

 

 床に倒れる九郎の背中に刺さっていたのは骨だった。

 

 言いながらティベリウスは分断された下半身に上半身を載せている最中だった。

 

「そうか、汝、最初から死んでおったのだな」

 

 ティベリウスの仮面の奥に隠されていた素顔。それは人間のそれではなかった。

 

 腐敗し、半ば白骨化したそこには何十匹もの蛆が残された肉を求めて蠢いていた。

 

「そのとーりヨ。アタシはね、不死を手に入れたの。この『妖蛆の秘密(デ・ウエルミス・ミステリイス)の力でね』」

 

 ティベリウスは身体の中に手を突っ込むと、そこに隠していた一冊の本を誇らしげに掲げた。鉄の表装がついた黒い大冊だ。表面はびっしりと蛆虫にまみれている。

 

「アバラ骨返して貰うわよ? こいつが入ってないとどうも身が引き締まらなくてね」

 

 九郎の背中から骨が乱暴に引き抜かれる。九郎の身体が大きく跳ねて、さらに多くの血が溢れ出した。

 

「この……! 汝! よくも九郎を!」

 

 アル・アジフが元の姿に戻って術式を構成するが、それを阻むようにティベリウスの腸が触手となってアル・アジフを締め上げた。

 

「おれも居ることを忘れるな!」

 

 バルザイの偃月刀でアル・アジフを締め上げる触手を切り裂き、解放する。

 

「アル・アジフ、お前は九郎の治療に専念しろ。奴はおれが殺る」

 

「クッ、覇道黒羽!!」

 

「イア、ハスター!!」

 

「ハスターの魔力ですって!?」

 

「その不死身ッぷり、見届けてやるから見せてみろ!」

 

 手記セラエノ断章から魔力を汲み上げ、全てを速度に回す。バルザイの偃月刀を手にティベリウスとの間合いを一気に詰める。

 

 ティベリウスがかぎ爪を振るうが、既にトップスピードに乗っていたクロウを捉える事は叶わなかった。

 

 一陣の風となったクロウは必殺の一撃の乗った斬撃を高速で駆け抜けながら浴びせていく。

 

「うぅぅるぁぁぁああああっ!!」

 

 何度も何度も、ティベリウスの身体が分断される前に次の一撃を、一太刀を。その勢いは止まることを知らず、既に瑠璃には音すら置き去りに加速するクロウの姿が目で追えなかった。

 

 何十、何百と斬撃を浴びせられたティベリウスの身体は意味のない細切れ(ミンチ)へと変わっていく。

 

「が、があああああああああっっっ! 嘗メルナァァァァァァ餓鬼ィィィィィィィ!」

 

 断末魔とも取れるティベリウスの叫びが響いたかと思えば、途端、巨大な質量を持った何かが部屋の一部を押し潰した。

 

 それが鋼鉄の腕であると気づくのにそう時間はかからなかった。

 

鬼械神(デウスマキナ)・ベルゼビュート! 暴食せよ!」

 

 鬼械神(デウスマキナ)の上、ティベリウスだった肉塊がとぐろを巻いて立ち昇る。肉塊の竜巻は徐々に人のカタチを造り始めた。

 

 内臓が組み上がり、骨がその外枠を構築し、筋肉を纏ってゆく。数瞬の後には、また元の人型に再生していた。

 

「めちゃくちゃな再生力だな」

 

 どうも不死を手に入れていると言うのは嘘ではないらしい。そんな死なない相手を倒すにはどうすれば良いのかすぐに答えは出なかった。

 

「痛かったワ。痛かったわよ、覇道黒羽! アナタにはおしおきが必要ね! ベルゼビュート!」

 

 ティベリウスはその腐敗した顔に憤怒の表情を浮かべると、鬼械神(デウスマキナ)・ベルゼビュートへと吸い込まれていった。

 

「やるぞクロハ!」

 

「イエス、マスター」

 

 敵が鬼械神(デウスマキナ)を出してきたというのならば、こちらも機械神(デウスマキナ)を喚ぶまでだった。

 

 剣指を作り、虚空に描くは招喚陣。

 

 真紅に輝く魔法陣を描き、クロウはその手に刃金の剣を執る為の聖句を口にする。

 

戦友(とも)よ。我が戦友よ。我は汝が名を高らかに謳う。世界最強の聖句と共に!」

 

 光がクロウを包み込み、天上に向かってその光は打ち上げられた。

 

 打ち上げられた光は、虚空の空に巨大な魔方陣を描きあげた。

 

 何も無いはずの虚空に、たった今、途方も無い質量の気配が生じた。

 

 そこに有り得べかざる物質が、存在する無限小の可能性。限りなく『0』に近い確率が集約され、完全なる『1』を実現する。

 

 巨大な何かが、強大な力を秘めた何かが、今、顕現しようとしていた。

 

 空間が圧倒的質量に弾き飛ばされ、粉砕した。

 

 急激な気圧の変動が、疾風となり稲妻を伴って吹き荒れる。

 

 虚空に飛翔する、圧倒的なその威容。

 

 刃金を纏い、人間の為にその力を振るう巨人。

 

 それは大地を砕きながら膝を着き着地した後、ゆっくりと立ち上がる。

 

 罪と血で穢れようと、正しき怒りを失わぬ無垢なる剣よ。

 

「虚空の空より来たりて、切なる願いを胸に、我は明日への路を切り開く――!!」

 

 聲高らかに紡がれし聖句は世界を超えてその剣を顕界させる。

 

「汝、血濡れし刃――()()()()()()!!」

 

 赤い招喚陣が虚空に現れ、その中より出でし機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)

 

 紅く、血の色に染まる鋼鉄の巨人。機械仕掛けのその(むくろ)を、闇が覆い尽くしている。

 

 魔導書の肩を抱く魔術師。

 

 魔術師の身体を抱く魔導書。

 

 主従の身体が紅い光に包み込まれてコックピットへと昇って行く。

 

 その胸が開き、操縦席が現れ、術者と本は互いの席に収まった。

 

 紅の機神の眼に光が灯る。血に濡れ、罪に濡れようとも、その心は邪悪を滅する魔を断つ剣。

 

 魔の属性に堕ちようとも、その本質は変わらない。その魂に刻まれた魔を断つ荒唐無稽の暗黒神話を打ち倒す御伽噺は確かに存在しているのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

『出てきたわね、デモンベイン! くふふふふ……本物の鬼械神(デウスマキナ)の力、とくと思い知らせてあげるわよ!』

 

「相手は魔導書から招喚された本物の鬼械神(デウスマキナ)です。マスター、油断なさらぬように」

 

「解ってる。いくぞ、クロハ」

 

「イエス、マスター」

 

 対峙しただけで感じる。鬼械神(デウスマキナ)の存在感は強敵だと。しかも相手はブラックロッジのアンチクロス。そんじょそこらの魔術師ではない。

 

 それでも負けるわけにはいかない。自分が負けたらあとは深手を負っている九郎しか鬼械神(デウスマキナ)に対抗できる魔術師はいないのだから。まさに背水の陣である。

 

 地面を滑るように突撃してきたベルゼビュートが腕を振るう。

 

 それをデモンベイン・クロックは軽やかに躱す。

 

『このっ、ちょこまかと!』

 

 ベルゼビュートの口から何かの液体が発射された。

 

 それすらも余裕を持って回避するが、回避した地面が煙をあげて溶けていた。

 

「酸です!」

 

「当たらなきゃどうとでもなる!」

 

 今度はこちらの番とでも言うようにデモンベイン・クロックが駆ける。

 

「断鎖術式、壱號ティマイオス──! 弐號クリティアス──! 解放!!」

 

 断鎖術式の解放によりデモンベインはより速くベルゼビュートの懐へと入った。

 

「アトランティス・ストライク!!」

 

 デモンベイン・クロックの近接粉砕呪法を放つが、1歩の離脱がベルゼビュートの方が早かった。

 

 必殺の一撃はベルゼビュートの纏う襤褸を掠めるに留まった。だがまだ終わりではなかった。

 

「いいや、まだだっ、バルザイの偃月刀!!」

 

 ネクロノミコン機械語版の記述からバルザイの偃月刀を招喚する。

 

 全力でバルザイの偃月刀を振るい、虚空を切り裂く斬撃波が一直線に伸びる。

 

『クトゥグアァァァァァァ!』

 

 ベルゼビュートが光球を放った。

 

 バルザイの偃月刀が放つ斬撃波と光球が中間地点で衝突する。

 

 空間が爆砕する。2つのエネルギーの衝突は、周囲を灼き払い粉砕し尽くす。

 

「今の気配、ネクロノミコンのもの…」

 

「なんだって? じゃあさっきのクトゥグアは」

 

『そうよぉ。つまりそう言うことよ』

 

 ベルゼビュートがぱんと手を叩く動作をすると、それを合図にしたかのようにベルゼビュートの周囲を紙吹雪が取り囲んだ。その気配は紛れもなくネクロノミコンのものだった。

 

「あるとは思ったけどやっぱりか」

 

 ドクターウェストのデモンベインのパチモンの時もそうだったが、頁の幾つかはやはりブラックロッジの手に渡っていた。

 

 再び光球を造り出すベルゼビュート。

 

 先程よりも大きな光球だ。

 

 苛烈さを増し、兇暴さを増し、猛り、吼える。

 

『今度は本体をぶつけるわよん? 覚悟は良いかしらん?』

 

 ティベリウスの言葉にクロウは身構える。

 

 残された選択肢はほぼ無い。

 

 逃げる? 威力が想定出来ないため却下。最悪覇道の地下基地に災が及ぶかもしれない。同じく避けるのも却下だ。

 

 防ぐ? それも威力が不明のため却下。最悪大破でもしたら目も当てられない。

 

『ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅぐあ、ふぉまるはうと、んがあ・ぐあ、なふるたぐん。いあ! くとぅぐあ!』

 

 逃げるも避けるも防ぐもダメならば道はひとつだ。

 

「マスター!」

 

 極限まで集中力を高めて、クロウは放たれたクトゥグアを見つめる。

 

 研ぎ澄ませ。そして知覚する。世界の動きを。森羅万象を形作る情報(コード)を。

 

 その全てを把握し、掌握する。それは魔術の源流。

 

 認識せよ。

 

 魔術を。

 

 理論を。

 

 力を。

 

 世界を。

 

 迸れ──。

 

 世界を、宇宙を疾走しろ。

 

 呪縛から放たれ、世界の法則に足を踏み入れろ。

 

「きしし。やっぱり君は君だ。あらゆる扉を開けることの叶う君。じゃあ、今開けるべき扉を開こうじゃないか」

 

 だれかの声に導かれるまま、クロウはクトゥグアの構成する術式の核を探し当てた。

 

「我は世界を紡ぐ者なり」

 

 バルザイの偃月刀をクトゥグアの光球に突き刺すと、鍵を回す様に捻ればクトゥグアの術式が効力を失って頁となって解ける。

 

『ば、バカな!?』

 

 術式を無効化させられるとは思わなかったのか、ベルゼビュートは動かない。

 

 解呪の際に散った魔力を纏わせた魔力で絢爛に輝くバルザイの偃月刀をデモンベイン・クロックは振り下ろした。

 

 クトゥグアの魔力まで乗せた斬撃波はベルゼビュートの左半身を切り裂いて吹き飛ばした。

 

『ギャバァァァァァァァ!!!!』

 

 ティベリウスの断末魔が響く。本人は不死身でも、鬼械神(デウスマキナ)まではどうもそうはいかないらしい。自己修復機能は備わっているが、1度に大きなダメージを受けては修復が間に合わないのだろう。

 

『大導師様!? ふざけないでよ! ここまでされて黙って引き下がれと……! この餓鬼はアタシがこの手で……』

 

 怒気をはらんだティベリウスの声。だが、それも長くは続かない。

 

『ははははははハイィィィィィ! も、申し訳ございませんっ! お許しを! お許しをっ!』

 

 

 ティベリウスの声は懇願へと変わる。ベルゼビュートの足元に影が広がり、その中に機体が吸い込まれ、姿を消し去った。

 

 急展開に敵が去ったのだと理解するのに時間を要した。

 

 ブラックロッジの覇道邸襲撃はどうにか退けられたのだった。

 

 聞けばウィンフィールドもティトゥスというサムライを相手にしていたという。アンチクロスが二人。そのティトゥスが鬼械神(デウスマキナ)を出さなかった事に胸を撫で下ろした。さすがに2対1をどうにか出来る実力はなかった。

 

 重傷を負った九郎は直ぐ様病院に担ぎ込まれた。

 

 瑠璃が止めていなければデモンベインで戦おうとしていたらしいのだからガッツのあるヤツだとクロウは思うのだった。

 

 そんな九郎に何か思うところがあったのか、退院した九郎に対する瑠璃の態度は軟化していた。デモンベインも託すということになったのだった。

 

 

 

 

 

to be continued…

 

 

 



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