灰色の狼と白い椛 (ごぼう大臣)
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泣き虫のナキ

 日が暮れて久しい丑三つ時。三日月が薄雲に覆われ、薄ぼんやりと黄色い光を放つ。その周りには星も見えず、ただ黒々とした空の下に、人々の住む場所や野山、森林……様々な風景が広がっている。

 夜、それも真夜中となれば大抵の人は眠りを想像するだろう。太陽もなく夜闇に包まれた世界では、一部の夜行性の生物を除いてほとんどの生物が休息の時間に入る。

 

 ただ、そんな時間にしっかりと働く者たちがいる。残業に追われる社会人だとか、そんな類いではない。

 ……例えば、ある小高い山を飛び回る、大剣と盾で武装した山伏のような格好の者。

 

「はぁ……」

 

 そいつが小さくため息をついた。背格好と声からして女性である。ただ機械も使わずに、自在に空を飛んでいる。加えて異様なのは、ショートの白髪(はくはつ)の中から顔を出す、動物のような一対の大きな耳。そして黒地に紅い柄の長いスカート、そのお尻の部分から飛び出した、白くフサフサした大きな尻尾。その二つは彼女が人のような姿をしている分大きく目立ち、白い狼を想像させた。

 彼女の名は犬走(いぬばしり) (もみじ)。飛ぶ力や外見から分かるように、人間ではない。椛は山の中に住む、白狼天狗(はくろうてんぐ)と呼ばれる妖怪である。

 

 妖怪、急にそう言われても大抵の人は吹き出すかもしれない。しかし少なくとも、彼女の周りでは珍しい存在ではなかった。事実彼女が夜の山道を歩き回る間、様々な人外の輩があちこちから顔を出していた。小さな女の子に羽が生えたような妖精や、大きなリュックを背負い水色の服を着た河童、そして背中に黒い羽根を生やした烏天狗……。

 

 椛の住む『妖怪の山』、もといそれを取り囲む『幻想郷』では、そんな現実離れした存在がたくさんいた。むしろ結界で隔離された幻想郷の中では、人間の方がそれ以外に追いやられているようなものだ。

 特に人間の寝静まる時間帯、夜は妖怪たちは活発になる。酒を呑み、踊り、騒ぎ、時には人を食べることすらある。

 その理屈でいえば、椛もこの時分にはしゃぎ回っていておかしくないのだが……。

 

「まったく……幼稚な部下を持つと苦労する……」

 

 椛は悩ましげに呟くと、更に速く飛ぶ。彼女は遊んだりしていられない訳があった。というのも、白狼天狗というのは、妖怪の山で烏天狗や河童などの他の妖怪と共存する、社会的妖怪なのだ。

 それぞれの役割があるがゆえに、他の妖怪のように気ままに遊んでなどはいられない。ちなみに白狼天狗の仕事は山の見回り、及び侵入者の対処である。今こうやって椛が山を走っているのも、仕事の内なのだ。

 

 身につけた大剣と盾をものともせず、すうっと風を切るように長いこと飛んでいた椛は、やっと足を止める。夜目が利く狼の視線の先には、他の二、三人の白狼天狗の姿があった。

 

「おら、行って来いって! 怖くねぇからよ!」

 

「ははは、ほら泣くぞ? もう涙声になってら」

 

「や、やだ……やめて……」

 

 妖怪以外の喧騒が消えている分、白狼たちの声が遠くまで聞こえてくる。人数は三人。二人が意地の悪い笑い声を出し、その中に挟まれた一人が泣きそうになっている。

 椛はキッと眉間にシワをつくり、その三人の背後から声をかける。

 

「ちょっと、何をしているんですか」

 

「ンだよ、うっせえな……おわあぁっ!?」

 

「へ、なに……ぎゃあぁっ!!」

 

「うるさいのはそちらでしょう……」

 

 椛の声に振り向くなり、両端の二人はまるで般若にでも会ったかのような悲鳴をあげる。その姿に椛はあきれ果てた表情を浮かべた。驚いた二人はしばらく無意味に慌てふためいた後、ぎこちない笑みでこう返す。

 

「も、椛さん……奇遇ですね」

 

「隊長とよびなさい、隊長と」

 

「どうしたんですか、こんな場所に……」

 

「とぼけないでください。千里眼できっちり見ていましたよ」

 

 椛は自分の額を指さし、低い声で釘を刺す。彼女にははるか遠くの出来事を視認できる不思議な力があった。

 まっすぐ見つめてくる厳しい視線に、二人はう、と声を詰まらせる。すると椛は、二人に挟まれていた白狼へと視線を移す。

 

「……またナキをいじめていたのですね?」

 

「うぅ……ぐすっ……」

 

 真ん中でずっと肩をすぼめ、すすり泣いていた少年。ナキと名を呼ばれ、彼はやっと顔をあげる。

 

 綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭。その髪の毛の下で、涙をにじませた丸っこい目が瞬きする。首も体格も細いせいか、べそをかき赤らんだ鼻と合わせるとまるで女の子のように見えた。本当の女の子である椛と比べても背が低いため、知らない者が見れば恐らく、八割がた性別を間違える。

 

「ナキ、大丈夫ですか? 今度はどうしたんです」

 

「ひくっ……えぐ……その……」

 

 椛が問いかけても、ナキはしゃくりあげるばかりでまともに答えられない。その間、彼の耳と尻尾はしょんぼりと垂れていた。椛は真面目な顔をしつつも、時おり可愛らしいそれらに目が泳ぐ。

 やがてナキが三回ほど鼻をすすった頃、最初にいたうちの一人がしぶしぶ口を開く。

 

「度胸試しをやってたんスよ……。あの地底へ潜って、土蜘蛛の糸を取ってこいって」

 

 地底、そう聞いて椛の眉がピクリと動く。確かに山の一角には麓どころかそれ以下の深さまでまっすぐに続く穴があった。しかしそれは旧地獄へと通ずる穴で、底にたどり着けば気性の荒い妖怪たちがわんさか待ち受けている。万が一怨みを持つ霊、怨霊などに取りつかれれば、妖怪には致命傷であった。それは山の住人ならば誰もが知っているはずだった。

 

「……ならば安全な場所を選びなさい。もしもの事があればどうするんです」

 

「い、いやぁそれは……スリルが欲しかったっつーか……」

 

「でも、少なくともナキは嫌がっていましたよね?」

 

 苦しい言い訳をする白狼たちだったが、椛に睨まれて冷や汗をかきだした。念のため椛がナキの方を確かめると、ナキは涙目のままコクリとうなずいた。

 

「……ほら、嫌ですって。確かあなた方、以前も同じような事をしていましたよね?」

 

「う……それは、その……」

 

 問い詰める椛の声がどんどん厳しくなる。白狼は思わず目を逸らしたが、その雰囲気は体をすくませるほどの怒気を孕んでいた。とうとう追い詰められた白狼たちはやけくそになってか、わめくようにこう言った。

 

「む、無理矢理でも度胸つけなきゃいけないんスよ! なんたってコイツ、半分は人間の……」

 

「やめなさいッ!!!」

 

「……っ」

 

 言い終わらないうちに、椛が激しく一喝する。その迫力に気圧(けお)されてか、白狼は二人揃って小さく飛び上がった。ナキまで怖がっているのを見て、椛は一瞬ばつが悪そうに押し黙り、咳払いをする。

 

「……とにかく、二度とこのような真似はよして下さい。あなた方の身の安全の為に言っているんです」

 

「はい……すんませんでした」

 

 すっかりしょげ返った白狼たちは情けなく(こうべ)を垂れ、すごすごとその場を去る。後には、心配そうな表情の椛と、ようやく涙が止まったらしいナキが残された。

 

「……災難でしたね。怪我とかは?」

 

「ええ……大丈夫、です」

 

 屈んで目線を合わせる椛に、ナキはしゃっくり混じりに応答する。夜目が慣れてきたのか間近で見たせいか、椛の目にナキの姿がはっきりと映りだす。

 

 おかっぱ頭のてっぺんに生える耳に、お尻からピョコンと生えた尻尾。それは形こそ他の白狼天狗と同じだったが、明らかに違う点が一つあった。 

 昼間に見ればよりはっきりと分かっただろう。彼の耳と尻尾、更には髪の毛まで、全てが灰色だったのだ。椛ふくめ他の白狼なら月明かりまで反射するほどの真っ白な部位が、まるで泥をかぶったように暗かった。

 ちょうど、白狼の白髪と人間の黒髪が混ざったような色だ。

 

「ご迷惑をおかけしました。椛さん」

 

「いえ、私はいいんですが……」

 

 ちょこんと申し訳なさそうに頭を下げるナキに、椛は小さくうなる。本来なら謝る立場ではないし、相手も間違っている。しかし顔をあげたナキの表情があからさまな作り笑いだったので、結局それは指摘しないでおく。

 代わりに、別の事で念を押す。

 

「あんまり酷いようでしたら、抱え込まないで私に言いなさい」

 

「えっ」

 

 ナキは一瞬口を開きかけたが、すぐに押し黙る。そしてぽつりと言った。

 

「……いえ、大丈夫ですよ。ケガした訳じゃありませんし」

 

「でも、ああいうのは容易に殴る蹴るまでいくんですよ。ケガでだけでも本来は大事(おおごと)です」

 

 弱々しい笑みを浮かべて立ち去ろうとするナキを、椛は素早く引き留める。彼女の目は狼らしく黄金(こがね)色に輝き、心配事をうやむやにさせまいという気迫がにじんでいた。

 ナキはその目にたじろぐが、椛は表情を変えずに続ける。

 

「……それに、さっきの度胸試しの話だって、もっと怒っていいんですよ。むしろ怒りなさい。命に関わるんですから」

 

 そう言われて、ナキは悲しそうに目を伏せる。椛はその様子を見てちょっと躊躇してから、「特にあなたは」と小さく付け加えた。

 

 実のところ、ナキの特徴は小さな体格や、灰色の体毛だけではなかった。目の前の椛ふくめ他の白狼たちの装備を見ればそれが分かる。

 他の連中の剣は刃渡り一メートルをゆうに越え、また手のひらほどに刃の幅が広く、細い樹なら一撃で叩き斬れそうな重さがあった。持ち運びは背負ってやらなければ歩くのも大変だ。

 また盾の方は、白く分厚い鋼が胴を丸々覆う大きさに広がり、並の妖怪の攻撃なら弾き返せるほどの堅さがある。大きな紅葉のマークも強靭さによく似合っている。妖怪のはびこる幻想郷で独立した社会を維持する天狗、その中で防衛を担う白狼にはほぼ平等に頼もしい装備が与えられる。

 

 ただ、ナキだけは別であった。剣はせいぜい長さ70センチほど。手のひらに収まる細身な刀身で刃も薄く、腰に差しても差し支えないほどに軽かった。

 更には盾も、材質は同じだが顔を覆える程度の広さで、しかも薄いために、ぶつかると金属の軽い音がした。

 

 面子や威厳にうるさい天狗社会でナキだけがそんな扱いを受けているのは、先天的な非力さゆえに他ならない。種族として軟弱な人間の血がナキに混じっているというのは、外見の特徴も手伝い、山の公然の秘密となっていた。

 椛はそれゆえに心配し、今もこうして言い聞かせていた訳だが、ナキにとってはあまりいい気分ではなかった。

 生まれつきからくる気配りというのは頭では理解しても、気持ちではなかなか素直に受け止められない。

 彼は少しだけ不満そうな顔をしてから、椛にこう言い返した。

 

「で、でもこの前は取れたんですよ。土蜘蛛の糸!」

 

「え? 本当に取ったんですか?」

 

「はい、時間はかかったし、土蜘蛛さんも笑ってた気がしますが、どうにか」

 

 ナキが今度はちょっぴり誇らしげに胸を張る。だが椛の方は一瞬あっけに取られたように目をしばたかせると、ふっと目を逸らした。

 

「? 椛さん?」

 

 首をかしげるナキ。椛はその声にそろそろと向き直ると、言いにくそうにこんな事を尋ねた。

 

「つかぬことをお聞きしますが……蜘蛛の糸を取って戻ってきた時、誰かいました?」

 

「へ? いいえ……みんな仕事に戻っちゃっていましたね。僕、モタモタしちゃってたんで……」

 

「はぁー……」

 

 それがどうしたんだろう、といった様子でポカンとするナキに、椛は深いため息をついた。「な、なに?」と戸惑いだすナキの前で、口を結んでげんなりと額を押さえる。

 

「それ、多分飽きただけだと思いますよ」

 

「……へっ? と言いますと……」

 

「だから、嫌がるあなたを地底に放り込んでゲラゲラ笑ったら、それで連中は満足なんですよ。あなたが真面目に奥まで行く間に、もういいやって帰ったんでしょう」

 

「………………」

 

 椛が呆れた顔で話す間、ナキは間抜けな顔でその場に微動だにせず固まっていた。しばらくしてやっと自らが受けた仕打ちに気づいたのか、目を潤ませてふるふると肩を震わせる。

 

「あ……僕……ボク……」

 

「あ、ちょっと、また泣かないでくださいよ。もう……」

 

 みるみる涙を浮かべて鼻を赤くするナキ。それを見て我に返ったのか、椛はあわてて慰めだす。慣れない手つきで頭をポンポンと撫でてやると、ナキは嗚咽混じりに弱音を吐きだした。

 

「ぐす……そんなのっ、考えても、みなかった……!」

 

「ああはいはい、悪いのはあの連中ですよ。だからもう泣きやみなさい」

 

 子供をあやすように言い聞かせる椛。何度かそうすると辛うじてナキは声を抑えていった。ようやく顔色が戻ってきたところで、椛はため息混じりにこう尋ねる。

 

「……もう帰りますか? 引き継ぎは私がやっておきますから」

 

 もう仕事する気分ではあるまい、と思っての提案だった。さっきのショックの受けようを見るに、『度胸試しと称したいじめかもしれない』とか、『土蜘蛛の糸を取ってどうするんだ』とか、本当に思い当たらなかったらしいのが椛の同情に拍車をかけた。遊ばれたとはっきり伝えて悪かったかなぁ、と彼女は内心後悔する。

 しかし、ナキは一呼吸おいて涙を乱暴に拭うと、ニッと笑って見せる。

 

「……大丈夫、ですよ。ちゃんと仕事します」

 

「そ、そうですか?」

 

 眉をひそめる椛に、ナキはこくりと頷く。その笑顔はやはり無理をしているようだったが、今度の無理は気遣いをやり過ごす為のものではなく、なんだか子供が背伸びするような前向きなものだった。

 椛はしばらく腰に手を当てて考え込んでいたが、やがて「分かりました」と言ってうっすらと笑みをつくる。

 

「ただし。しつこいようですが何かあればちゃんと伝えること。いいですね?」

 

「はいっ!」

 

 ナキは椛の何倍もの笑顔で返事をすると、舞い上がるように一瞬で空へと去っていった。あっという間に見えなくなった部下の事を思い返しながら、椛はふっと月を見上げた。

 

「『ちゃんと仕事します』か……。根は真面目なんですよねぇ」

 

 泣き虫だけど。そう一人で呟いて、椛はクスクスと笑った。

 

 

 

 

「う~ん、う~~ん……」

 

 ……椛のもとを去ってから十分ほどのち。意気揚々と飛び立ったはずのナキだったが、その勢いは早くも衰えていた。

 木々の上から山を見渡して飛んでいたはずが、いつの間にかゆるゆると下降していき、今では人ひとり飛び越せるかという高さでジリジリと飛んでいる。

 その進みはさながら牛歩のごとく。決してわざとという訳でもなく、彼の額には汗が浮かび、四肢の先が糸で釣り下がっているかのように突っ張り震えている。

 

 そうして何やら苦闘する彼の元へ、運悪く音を立てて一陣の風が吹きつける。ナキはその風に煽られ、とうとうバッタリと山道に転がってしまった。

 

「いだっ」

 

 受け身を取る間もなく、全身に泥がつく。何回転かして仰向けになり、木々の隙間から星空を眺めながら、ナキはほうとため息をつく。

 

「あ~、やっぱり歩いた方が早いかな、これ……」

 

 苦笑いをして、そんな事をぼやいた。

 並の妖怪や特殊な力を持つ人間ならば、滅多に風で落ちたり、疲労したりなどしない。だが、ナキの場合は別だ。こんな事故を数え切れないほどやっていた。これも半妖の悲哀である。地底へ続く縦穴を降りる際には、命綱が欲しいと何度思ったか知れない。

 しばらくその場に寝転がり、頬に当たる冷たい風の感触を味わう。そのうちに、風がザワザワとうるさく木々を揺らしだしたかと思うと、みるみるうちにゴウゴウと低い音が山全体に轟きはじめる。

 

 ああ、まただ。ナキは心の中でつぶやく。山に強風が吹き荒れたり、唸るような吹き抜け音が響いたりするのは、大抵風を扱い慣れた烏天狗(からすてんぐ)のしわざである。

 古来より、山の自然が響かせるさまざまな音は、天狗のしわざだと言われてきた。夜にこうして大暴れするのも、天狗が仕事を全うしているだけである。どうせ山の住人も妖怪だらけなので、麓に影響が及ばなければ困る者はほぼいない。

 

 せいぜい、困るのはナキくらいである。

 

「早く終わらないかな、もう」

 

 追い風なのを幸いにナキは立ち上がり、スタスタと足早に去ろうとする。しかしその背中に、風の音に混じって不愉快な声が届いた。

 

「おっ、泣き虫のナキ君じゃ~ん」

 

 語尾を伸ばして呼ぶ誰かへ、ナキは嫌悪の表情をしてしてゆっくりと振り返る。真後ろ上空、ナキの背を見下ろせる位置で浮かんでいる、一人の烏天狗の青年がいた。その細められた目を見た瞬間にナキの体がこわばるが、烏天狗は構わず目の前まできて話しかける。

 

「何してんの? 見回り? 頑張るねぇ~」

 

「は、はあ。どうも」

 

「なんだよ堅くなってよぉ。感じ悪ぃなぁ~」

 

「いえ、別にそんな……」

 

 グイグイと上から見下ろしたまま迫ってくる烏天狗に、ナキは苦笑いしながら後ずさる。目は逸らしたまま。そんな態度が、相手をますます調子づかせる。

 

「そだ、ちょ~っと頼みがあんだけどよさ~……」

 

 烏天狗はいやらしい笑みを浮かべ、周囲の山林の中で頭ひとつ高い木の、てっぺんを指さす。

 

「あの木の一番上に、立ってみてくれねぇかな~?」

 

 それを聞いた瞬間、ナキの顔がキッと険しくなる。彼なりに語気を強め、精いっぱい声を張り上げた。

 

「イヤですっ! また風で振り落とそうとして遊ぶ気でしょう!?」

 

「んな事しねぇって~。いいから立ってくみてくれよぉ」

 

 烏天狗はヘラヘラと笑うが、ナキは対照的に激しく焦燥の色を浮かべ、恐怖さえ感じていた。

 彼の脳裏に、この烏天狗と以前会った時の記憶がよみがえる。木のてっぺんに立てと言われて意味も分からずその通りにすると、烏天狗は途端に目の前で暴風を巻き起こしたのだ。盛大に揺れる幹の先っぽで、ナキは訳も分からず泣くはめになった。『ヤジロベーみたいだ』と烏天狗は笑ったが、当人はたまったものではない。

 

「大体前だって、僕が飛ぶの苦手だって知ってたクセに……酷いですよ」

 

「ん~、ンな事あったっけ。まあどうでもいいからさ、早くしろよ」

 

 ナキが遠慮がちに抗議しても、烏天狗はどこ吹く風……いやむしろ、いらだってすらいる。ただ、ナキを都合よく動かす事にしか興味がないのだ。

 話しても無駄だと悟ったナキは、眉を寄せて一歩下がり、両手のひらをこっそり地面に向ける。烏天狗がそれに全く気づかないうちに、その手のひらを一度握り、また開く。

 

 瞬間、地鳴りのような音が短く響き、ナキの足元の土が盛り上がる。そして烏天狗との間に割って入るように、分厚い土の壁がせり出した。

 

「うおぉう!?」

 

 烏天狗が驚きの声をあげる。その隙にナキは背を向け一目散に逃げ出した。

 しかし、烏天狗はすぐにニヤリと笑うと、土の壁など問題にせず飛行して乗り越え、ナキを追いかける。

 

「相変わらず地面とだけはお友達なんだなあ!! 風も操れねぇクセによぉっ!!」

 

 妖怪の血が混じっているだけあって、ナキも地面を走るスピードはそれなりのものだった。しかし烏天狗はそれに難なくついていくどころか余裕風で、声が届く距離から罵声を浴びせてくる。ナキは何度も走り抜けた場所から壁を出現させたが、その度に容易くかわされ、更に罵声は止む事がない。

 

「普段見てたらよーっ! 皆が風切って飛んでる最中よぉーっ! お前は地面をトボトボトボトボ歩いていたっけなぁー!? エェーっ!?」

 

「……っ」

 

 背を向け走りながら、ナキは唇を噛む。

 『土を操る程度の能力』、そんな山の神様の劣化版のような力がナキにはあった。それは風を操る者が多い天狗社会では、二人として見ない珍しい能力でもある。

 しかし、他の天狗が何不自由なく空を飛び、風に馴染みがあると考えると、ナキは反面、地面に馴染みがあるという事になる。それはいじめられているナキにとっても、いじめる周りにとっても、"地面に這いつくばっているのがお似合いだ"というレッテル貼りに便利なものだった。自身で力を扱いながら、ナキは何度も腹立たしい思いをしていた。

 

 そうして逃げ回っていた時、ふと。

 

「ぐおおっ!?」

 

「!?」

 

 音速すら越えそうな勢いで飛んでいた烏天狗が、突如目を押さえて悶絶する。驚いて振り返ったナキの横を、勢いを止められないままの烏天狗が通りすぎていった。

 

 ――仮に高速で自分が動いた時、空気が勢いよくぶつかるのが想像できるだろう。例えそよ風でも、素早く動く者には突風と化す。カウンターパンチで大ダメージを食うのと同じ理屈である。

 小さく軽い物質などでも、速さいかんでは危険……いやそれどころか、そういうものほど当たらないよう注意しなければならない。

 天狗とて、生物である以上そのリスクからは逃れられない。妖怪の強靭な肉体があればこそ、自由に空を飛び回れるのだ。

 

 ただし、それでも目などの弱い部分に当たれば、それなりの痛みを覚悟しなければならない。例えば不用意な加速などをした時に、チリや木の葉で怪我をする事があるのだ。――

 

「目が、目があぁ~っ!?」

 

 目を覆ったまま喚き、烏天狗は慣性の法則に則りまっすぐすっ飛んでいく。そのうちに山道を外れ、脇の木々を突っ切り、烏天狗は山の斜面から飛び出してしまった。

 

「あっ……!」

 

 ナキが息を呑む。目の痛みに意識を奪われている今、このままでは烏天狗は麓までまっ逆さまに落ちてしまう。

 ……特にナキが何かした訳ではない。直接触れるどころか、ナキが作った壁にも、かすってすらいないのだ。完全に本人の不注意である。

 

 だが。

 

「危ないっ!!」

 

 烏天狗が落ちていきそうなのを見た瞬間、ナキはとっさにまた手を足元に向け、二、三回ほどすばやく開く。

 すると、先ほどの壁より何倍も大きく地面が隆起し、烏天狗へ向けて突きだしていく。一瞬の間だったが、すんでの所で烏天狗の下に盛り上がった地面が滑り込み、受け止める。そしてナキの足元へ続く坂のようになったその上をコロコロと転がり、放心して大の字になって止まった。

 

「うぅ……ん……」

 

「大丈夫?」

 

 寝転がってうめく烏天狗に、ナキが屈んで声をかける。あわてて烏天狗は跳ね起きて後ずさるが、ナキは気弱そうに微笑んでいるだけだった。

 

「な、なんで助けたんだよ……。さっきまで……」

 

「……さあ……なんでだろ」

 

 ばつが悪そうに口ごもる烏天狗に、ナキもほんの少しだけ後味が悪そうな顔をした。しかしすぐに寂しそうな笑顔を浮かべて立ち上がる。

 

「じゃ、ね」

 

 短くそう言って、くるりと背を向けてその場を去るナキ。例も言わずにポカンとする背後の烏天狗をよそに、ナキは歩きながら、ふと自分の手のひらを見る。

 そして、誰にでもなく、こんな事をつぶやいた。

 

「ガッカリされたくないから、かな……」

 

 その時ナキの脳裏には、なぜかあの椛の顔が浮かんでいた。

 



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上司としての椛

 ……山の一部の地面から土の壁がいくつも出現し、大規模に隆起した夜が明けて。

 もう日も高く昇ったころ、天狗たちが住む山の集落の一軒家で、一人の白狼天狗がせっせと駆け回っていた。

 

「ふぅっ……」

 

 灰色をした獣の耳と尻尾を持ち、おかっぱ頭で小柄な一見少女のような少年。名をナキという。

 外では山伏のような制服を着て、剣と盾を携え仕事に勤しんでいるのだが、今は違う。黒く地味な半襦袢*1だけを着て、雑巾を持ち掃除に勤しんでいる。

 もうそれなりに長い時間が経っていた。彼がいる客間だけでも、ナキ一人にとっては広い。八(じょう)ある(たたみ)を拭くと、ホウキをかけた後にも関わらず雑巾は黒くなる。部屋中のゴミを丹念に取ろうとするとなかなか大変だ。

 床だけでなくテーブルの裏、その脚の下、本棚の後ろも忘れず拭く。家具と壁との間には意外にホコリがたまっていた。間近に見ると、物をどける度に白いものがムッと舞う

 

 一息ついて腰を上げ、部屋の隅に置かれた桶の水で、雑巾を洗う。

 すでに水は灰色に濁っていた。中に浸けて雑巾を揉むと更に黒く染まっていく。水から手が覗くと、何度も絞ったのか細い手に似合わずかなり荒れていた。

 

「そろそろ水も換えなきゃなぁ、たまに(こん)詰めると大変だよ……」

 

 額をぬぐい、ナキは部屋を見渡す。その気になれば五、六人入りそうな客間。しかし向かいの隅に置かれた座布団は二枚しかない。あまり使われた形跡もなく、綺麗というより寂しい雰囲気を漂わせている。

 

「あとはー、仏間に寝室に、お風呂と台所……あーもう、急がなきゃ」

 

 きつく雑巾を絞りながら、ナキはそんな事をぼやく。

 実際、彼の家は一軒家の中でも広い部類に見えた。客間の広さはもとより、そこからつながる廊下は長い。玄関から入って反対側の裏口まで、寝室や風呂以外にも出入りしてなさそうながらんとした部屋がいくつもあった。裏口と隣の土間から外に出れば、小さな掘っ建て小屋で出来た厠があり、更に周囲には醤油や米などをしまった大きな倉庫、表へ回れば縁側や井戸が見えてくる。

 見たところ金持ち、といえる部類かもしれない。

 

 しかし、その割には家の中にナキ以外の影が全く見えなかった。客間で掃除をする以外には、どこも物音一つしない。玄関にはナキの草履、よそ行きの下駄、仕事用の靴以外には、靴跡すらも見当たらなかった。脇にある質素な靴箱は薄くホコリを被っている。そのような寂しい雰囲気が、家中にうっすらと漂っていた。

 

「あとは仏間の花も変えて……父さんと母さん、二人分の……」

 

 そう言いかけて、ナキはふと言葉につまる。誰もいない部屋が、しんと静まり返った。

 そんな時、玄関の戸をコンコン、と叩く者がいた。

 

「ん?」

 

 外から聞こえる音が慣れなかったのか、ナキはぴくんと耳を立てる。そして雑巾を桶に戻し、あわててふすまを開け戸口へ急ぐ。

 

「お待たせしました……って、あれ?」

 

 草履をひっかけて引き戸を開けたナキは、キョトンと目を丸くする。そこには白狼天狗の隊長、犬走(いぬばしり) (もみじ)が立っていたのだ。

 

「あ……えーと」

 

「こんにちわ」

 

「こ、こんにちわ」

 

 ペコン、と頭を頭を下げる椛に、ナキはぎこちなく挨拶を返す。普段、ナキと椛は特に接点もなく、せいぜいイジメが見つかった際に気にかけられる程度だった。家への訪問など、言うまでもなく珍しい事である。

 

「少し、お時間よろしいですか?」

 

「え、ええ。構いませんが」

 

 短く答えたナキだったが、その態度はあまり落ち着きがなく、視線をキョロキョロとさまよわせる。

 

「でも、どうしたんですか。今日は僕、非番だった、はずですが」

 

「まあ、いくつかお話がありまして。上がって大丈夫てましょうか?」

 

「は、はい。どうぞ!」

 

 若干上ずった声で答え、椛を招き入れるナキ。しかしそこではたと自身の襦袢姿に気づき、更にあわてた調子でこう叫んだ。

 

「……あ! あーごめんなさい! 僕こんな格好で……。先に着替えてきますね!」

 

「え、はあ分かりました。すみません突然……」

 

「そのすぐ右に客間がありますから、ひとまず待っていてくださいっ!」

 

 ナキは跳び跳ねるように草履を脱ぎ捨て、廊下を一足飛びに走り客間の隣へと飛びこんだ。

 

「……」

 

 椛はナキの巻き起こしたそよ風を浴びながら、どうしたのだろうと首をかしげる。式台に足をかけて靴をそろえ、ついでにナキが放り出した草履も直してから彼女はふと、先ほどのナキの表情を思い出した。

 

(そういえば……さっきちょっと顔赤くしてたような気がするけど、襦袢がそんなに恥ずかしかったのかな……)

 

 

――

 

 

「お待たせしました。あ、座っていてください。今お茶入れますんで」

 

「いえ、お構いなく。あまり長居する気もないですから」

 

 とりあえず浴衣に着替え、ナキは客間で椛と向かい合って座った。椛はきちんと背を伸ばして正座し、尻尾の毛が落ちないようにと尾をくるりと巻く。ナキも倣ってちゃんと座ろうとするが、少し肩肘を張っているように見えた。

 

「まず、連絡事項から済ませますね」

 

「は、はい」

 

「そんな緊張しないで……。とりあえず、これを」

 

 椛は懐から折り畳まれたB5サイズの紙を取り出し、ナキへ手渡す。広げてみるとそこには二、三行の短い文面と小さな図解が印刷されていた。幻想郷で印刷物というのは似つかわしくない気もするが、山ではそういう技術が確立されているのだ。

 

「これは……?」

 

「来月から巡回ルートが一部変更になるんですよ。そのお知らせです」

 

「それくらいなら、仕事場で明日聞けば良かったんじゃ」

 

 わざわざ手を煩わせなくとも、という意味でナキは首をかしげたが、そこで椛は一瞬ん、と口ごもる。

 そしてやや言いにくそうに、小さく唸ってから口を開く。

 

「別に、問題なく連絡が行くなら構わないんですがね」

 

「ああ、確かに……」

 

 山の天狗たちは数も多く、いちいち上司が改めて呼びつけたり、連絡したりなどしていられない。よって不在だったメンバーなどには、後に仲間内で伝えるようにするのが山での習わしであった。

 ところが、いじめられているナキにはなかなか気安く話せる友人もおらず、いつの間にか一人だけ何も知らされずにいる……なんて事例が度々あった。酷いときにはわざと嘘の連絡を伝え、困らせるような輩もいる。

 今回はその点、前もって椛に助けられた訳だが、孤独な現実を暗に突きつけられたナキは少々肩を落とす。その空気を察知してか、椛は小さく咳払いをした。

 

「とにかく、覚えておいてくださいね」

 

「あ、はい。かしこまりました」

 

 ナキはあわてて姿勢を直し、返事をした。しかし、返事を受け取ってなお、椛はその場を動こうとしない。

 ややあって、ナキがきまり悪そうにこう尋ねる。

 

「あの……まだ何か」

 

「……これは私の個人的な質問なんですけど」

 

 椛はそう前置きし、身を乗り出してくる。それに押されるかのようにのけ反るナキに向けて、まっすぐ目を合わせながらこう言った。

 

「昨日、あの能力を使いましたね?」

 

「へ、ああ……」

 

 ナキはばつが悪そうに頷いた。意地悪な烏天狗から逃れるため、自身の『土を操る程度の能力』を使って周囲に土の壁をいくつも作ったのだった。

 

「だと思いましたよ……。あの力はあなたにしかありませんし」

 

「あ、あはは。ごめんなさい迷惑かけちゃって」

 

 ナキは気弱そうに笑う。彼は人間との混血なため非力で、作る力はあっても壊す力はない。そのせいで山の天狗たちの間では『気づいた者が壊せばいい』という事になっていた。ナキを除けば天狗たちはみな何不自由なく空を飛ぶので、よくも悪くもそれで済んできたのだ。

 ところが、椛は存外真剣な顔をして、こう話を続けた。

 

「いえ、それは良いんです。初めてではありませんし。ただ……」

 

「…………」

 

 目の前で戸惑う、いやほんの少し後ろめたい顔をするナキに、椛は言う。

 

「……ケガとか、していませんか?」

 

 椛の表情がふっと気遣わしげなものに変わる。それに反応してか、ナキはん、と押し黙った。互いに嘘をつくタイプではないようで、ナキが素直に答えたくないのが、かえってよく分かった。

 

「大丈夫ですよ。そんな大げさな」

 

「しかし、昨夜に私へ伝えなさいと言ったそばからこれでは、少々心配です」

 

「あの時はもう、夜でしたし……」

 

「私は隊長なんですよ。いつも遅くまで仕上げの仕事しているじゃないですか」

 

 軽く受け流そうとするナキだが、椛は引く様子をみせない。

 

「……むしろ、向こうが成りゆきでケガしちゃったんですよ。告げ口する気になんてなれませんって」

 

「……そう、ですか」

 

 結果的にではあったが、いじめてきた相手の方がケガをした。それを聞いて椛も一旦追求をやめる。

 ナキが小さく息をつくと、椛は肩を軽く回し、しばし脱力する。一時の間のあと、椛が苦笑しながら言った。

 

「やっぱり優しい子ですね、ナキは」

 

「そう思いますか?」

 

「ええ。自業自得でケガした人まで、気にかけるんですから」

 

 そう言い切った椛に、ナキはふと眉をひそめる。

 

「……僕が何かしたとか、疑わないんですね」

 

「そりゃそうでしょう。あなたが加害者側になんて、なる訳ないじゃないですか」

 

 椛はあっけらかんと言ってのける。ナキへの信用あってこその言葉だったが、ナキはかすかに表情を険しくした。

 加害者側になる訳ない。それは聞く者によっては、被害者側にしかなれないと取れなくもなかった。ナキは悪い意味ではないと頭で理解しつつも、いじめられる情けなさを突かれたようで胸を痛めた。

 椛はそれに気づいていないようで、また身を乗り出してテーブルに腕を乗せると、仕切り直すように言う。

 

「すみません。あともう一件だけ、いいですか」

 

「どうしたんです?」

 

 ナキも気を取り直して応じると、椛はこんな事を言った。

 

「もし良かったらなんですけど……ナキは異動してみる気とか、ないですか?」

 

「え、異動!?」

 

 ナキは虚をつかれたように驚きの声をあげた。椛は「あ、いえ、クビとかじゃないですよ」などと前置きしてから、こう述べた。

 

「白狼は基本的に警備担当ですが、絶対という訳ではありません。烏天狗たちのいる事務に回る事もできるんです」

 

 そう言って、ナキの目を見つめる。

 

「それでイジメが止むかは分かりませんが……何かしら変化はあるかもしれません。それにナキは、体力面の問題もありますし」

 

 柔らかに微笑み提案してくる椛。ナキは相づちも打たずじっとそれを聞いていた。白狼には滅多にない事務への異動。今までかなりの手をかけさせてしまったのだと痛感する。

 

「別に、新入りだからといって給料が低かったりはしません。ちゃんと生活できるだけは出ますよ」

 

「いえ、それは心配していません……。両親の遺産がまだちょっとあるので。けど……」

 

 言い淀み、ナキはふと下に目を落とす。椛が返事を待つこと数秒、彼は顔を上げて、こんな事を問う。

 

「その事務仕事の方は……やっぱり烏天狗の方が上司なんですよね?」

 

「? ええ。白狼の隊長が私なように、烏天狗も同じ組織系統です」

 

 それがどうしたのだろう、という風に椛は首をかしげる。しかし、ナキはそれを聞いて意を決したかのように目を光らせ、こう言った。

 

「僕……このままでいたいです。警備の仕事を、続けたいです」

 

「え……」

 

 その返事を聞いた椛は、意外そうに目を丸くする。しかしナキは迷う様子もなく、椛の方を強く見返す。

 

「ダメ、ですか?」

 

「いいえ。そりゃ無理には勧めませんが……」

 

 真剣な表情に戸惑ってか椛はこくこくと頷いて答える。しかしそのポカンとした顔は、ナキの真意をはかりかねているのがありありと見て取れた。

 

 

――

 

 

「……それでは、お邪魔しました。また仕事場で」

 

「ええ。お気をつけて」

 

 用事が済み、椛はまた仕事へ戻らなければならない。彼女が玄関で靴を履いている間、見送りに出たナキはどこか寂しそうに笑っていた。

 「失礼します」。そう言って戸を開けて出ていこうとする椛に、ナキは不意に口を開く。

 

「あのっ……!」

 

「?」

 

 椛がきょとんとして振り返ると、ナキはとたんに口ごもってしまった。しばしモゴモゴとしながら視線を逸らし、小さく言った。

 

「その……今日はありがとうございます。わざわざ来ていただいて……」

 

「ああ、気にしないでください。こんなのなんて事ないですよ」

 

 そう答えて快活に笑う椛。つられて微笑んだナキに向けて、最後にこんな事を言った。

 

「私は隊長なんですから。部下は皆、平等に大事にします」

 

 その台詞に、ナキの表情が固くなる。椛はそれに気づく事なく、くるりと背を向けて出ていった。

 再び一人になり、玄関の式台にたたずむナキ。ゆっくりと目を伏せながら、やはり寂しそうな笑顔で、小さくつぶやいた。

 

「平等に、か……」

 

 そっと押さえたナキの胸が、トゲがささったようにチクチクと痛んだ。

 

*1
和服の下に着る肌着、中でも丈の短いタイプ。襦袢だけを着る事もある



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新聞記者の烏天狗 前編

「おら、逃げてんじゃねえぞコラ!」

 

「待てっつってんだよ! イライラすんなぁ!!」

 

「や、やだってば、やめてよ!」

 

 時間は朝方、八時頃。妖怪の山の本拠地である屋敷へ一旦集まった天狗たちが、それぞれの仕事を始める時分である。

 屋敷は烏天狗と白狼天狗が入り雑じって喧騒に満ち、高い木の柵で囲まれた門を足早にくぐっていく者や、天狗社会の戸籍管理、土地管理、財政管理など十数もの部門に分かれて書類仕事を始める者など、その気になれば何百人も入る場所で誰も彼もが波に流されるように激しく出入りする。

 

 ゆえに小さな喧騒、一人の少年が数人にいじめられるような騒ぎは、かき消されてしまうのも仕方がない。

 

 屋敷の裏にぽつんと、竹で仕切りを組んでかわぶき屋根で覆った小さな建物がある。(かわや)……つまりトイレである。その片方、扉に「男子用」と書かれた部屋の中で、弱々しく抵抗する少年と、しつこく絡む何人かの少年の声が響いていた。

 

「おいナキ。そんな顔のくせに男子便所入ってんじゃねーぞ!」

 

「つかお前本当に男かぁ?」

 

「あ、当たり前じゃない、いいから離れてよ……」

 

 山を流れる川の水を一部引いて作った、小用のための水洗式便器。白くてツルリとした不思議な材質で作られたそれは、配管の構造含め山の技術の結晶であり、同時に小用専用の場所が必要な男子便所にしかない。

 その便器のすぐ手前で数人の悪童に囲まれながら、小柄な白狼天狗が困りきった表情を浮かべていた。彼は灰色の耳と尻尾を持ち、綺麗に整えたおかっぱで、背丈も合わせて女子のように見えた。いや、男子便所にいる事や着ている制服からみて性別は明らかなのだが、つぶらな瞳を光らせ泣きそうになっている様は、言ってはなんだが乙女である。

 もっとも、その外見ゆえに彼――ナキは今現在やっかいな目にあっている訳だが。

 

「へっ! 男だってんなら証拠を見せやがれ!」

 

「そうだそうだ、今からションベンすんだろ。チ◯コ見せろチン◯!」

 

「ばっ、バカ言わないで!」

 

 なおも続く横暴に耐えかねたナキは、背後にいた悪童を押しのけてドアのついた個室へと飛び込む。すぐさま鍵をかけると、とたんにドアがドンドンと叩かれはじめた。

 

「てめえコラ! 逃げてんじゃねえぞ!」

 

「クソッタレ、開かねえじゃんかよ!」

 

 怒声が響き、ドアに蹴りまで入れられながら、ナキは急いで履いていた袴をまくり上げる。その時、戸口で何かがきしむ音がした。

 

「……うわっ!?」

 

 嫌な予感を感じて振り向いたナキが、仰天する。悪童がドアによじ登って顔を出し、ニヤニヤと見下ろしていたのだ。

 

「ほらどうしたんだよ。早くぬげや」

 

「ああもう、いい加減にしてよ! 出てって!」

 

「うわ、キレやがった!」

 

 とうとう怒りだしたナキを見て、悪童たちはゲラゲラ笑いながらトイレを飛び出していった。あわただしい足音が止み、ようやくドアの向こうが静かになってから、ナキはこっそりため息をついた。

 

「トイレに来ただけなのに、なんでこうなるかな……」

 

 用を足しながら、ナキは一人ごちる。もはやイジメ自体は彼にとって日常茶飯事だったが、せめて生理現象くらいは気兼ねなくさせて欲しかった。

 足元の木で組んだ便器の下から、つんとした臭いが漂ってくる。何でも河童のキュウリ栽培に活用するとかで、個室はあえて汲み取り式になったのだ。これから小用まで個室に逃げ込んでするハメになったら、と考えてナキは憂鬱になる。

 

 同時に、先ほどの出来事のせいだろうか。ナキは昔のある嫌な事件を思い出した。

 

 忘れもしない。ナキが白狼天狗として働きだして間もない頃である。ある日どうにも大きい用が我慢できなくなり、今いるのと同じトイレに飛び込んだ事があった。

 特に変わった事をした訳でもない。個室で目的にかなった用をしている最中に……これまた先ほどの悪童のように、ドアの上から覗いてくる者がいた。

 その時のナキは驚きながらも、何故そんな事をするかまでは分からなかった。トイレなど男女関係なく覗くものではないと思っていたし、覗きたいとも思わなかった。

 しかし、悪童はその直後に意地の悪い笑みをたたえたかと思うと、外へ飛び出して仲間の白狼天狗たちにこう叫んだのだ。

 

『おい皆! ナキの奴がウ◯コしてるぞ!』

 

 ……かくしてナキは、それからしばらくの間“ウ◯コマン”などという不名誉なあだ名で呼ばれる事となった。仕事場でトイレへ行く度にからかわれ、しかし無理に我慢する訳にもいかず、ナキにとっては不愉快な記憶でしかない。(なお、これが意外にもポピュラーなあだ名? であると、彼は後に知る)

 

 苦々しい思い出に顔をしかめながら、ナキはふらりと個室を出る。すると、またもやトイレの中に他人の大声が響いた。

 

「うおぉっ!」

 

「へっ?」

 

 驚いてナキが我に返ると、そこには同じ年頃の白狼天狗の少年が、目を見開いてのけ反っている。鉢合わせしただけで何がそんなに? と戸惑っていると、少年は顔をしかめてナキをまじまじと見つめてから、「あー……」と大げさに頷いた。

 

「なんだナキかよ……。女かと思った」

 

「……ごめん」

 

 おどかしやがってという口調でぼやかれ、謝ってみたもののナキは釈然としない。

 だが、実際のところ容姿のために性別を間違えられるのはよくある事だった。ナキは今さら文句をいう気にもなれず、そそくさと少年の脇をすり抜けていった。

 

「……もう行かなきゃ」

 

 厠を出て空を見上げ、ナキは沈んだ声でつぶやいた。空が青く澄みきっているのに比べて胸中のなんと暗い事か。

 重苦しい気持ちを抱えながら、見回りの為にナキはふわりと外に浮かび上がる。途中で逆光でも目に入ったのか、ふらついて落ちそうになっていた。

 

 

――

 

 

「え……っと、この川をくだればいいのかな……」

 

 妖怪の山の中腹、木々が開けて幅広い川が流れるのを横目に、砂利が一面に広がる岸辺をナキは歩いていた。

 川の幅は五メートルほど、深さは大人の膝まで程度だった。上流からの澄んだ水が穏やかに流れ、遊ぶにはうってつけの爽やかな場所だ。実際夏になれば若い天狗や河童たちが涼みにきたりしているのだが、悲しいかな孤独なナキには縁のない場所だった。今日この場所に来たのも、先日に告げられた巡回ルート変更の為である。

 

「はあ……」

 

 ため息をついて猫背になりながら、ナキはとぼとぼと川辺に歩み寄り、屈んで水面を覗いた。

 灰色のおかっぱ髪の、中性的な顔が映し出される。見慣れた自分の顔だったが、ナキはそれが好きではなかった。見つめていると、自然に表情が曇る。

 

「なんでこんな、女の子みたいな顔に生まれちゃったんだろう……」

 

 悲しげにそうこぼした。その時、ナキはふと顔を上げた。そして辺りの空気にすんすんと鼻を鳴らす。

 白狼天狗は狼の妖怪だけに、かなり鋭い嗅覚を持っている。その気になれば百人を百人とも、全て匂いだけで識別できる程だ。ナキは半妖なので能力は数段落ちるが、それでも人間の数十倍は利く鼻を持っていた。

 

 素早く立ち上がり振り返る。すると、茂みの陰からナキを窺う一人の烏天狗が「あっ!」と声をあげた。

 

(あや)さん……」

 

「あやや、見つかっちゃいましたか~」

 

 気安く笑って走り寄ってくる烏天狗、文を、ナキはやや警戒した目で見る。

 

 彼女の名は射命丸(しゃめいまる) (あや)。すらりとした細身の体型でワイシャツに黒のミニスカート、足には高下駄、頭には赤い頭巾(ときん)というファッションで、人間で言うなら十七歳くらいの見かけをした烏天狗の女の子である。

 立場的には特に権限もない普通の烏天狗。だが、彼女には一つ、他と違う趣味と仕事があった。

 

「ナキ君の見回り場所、変わったんですか? こんな場所にいるとは珍しい」

 

「ええ、僕はルートの変更で……。文さんはどうしたんですか、あんな場所に隠れて」

 

 ナキが聞き返すと、文はふふんと鼻を鳴らしてこう言った。

 

「私は写真の撮影ですよ~。新聞で今度『妖怪の山の自然が似合う男子・白狼編』を特集しようと思いまして」

 

「はあ……似合う男子」

 

 表面的な笑みをつくりながら、文は手に持ったある道具を掲げてみせる。両手で包めるくらいの大きさの黒い箱形で、前面から丸いレンズが筒の形に突きだしている。今となっては懐かしい、しかし幻想郷においては先進的なフィルムカメラである。

 文の仕事とはそのカメラを活用し、新聞を作る事であった。取材、執筆、発行、配達を全て個人でやっており、その情熱は称賛に値する。しかし一方で記事は些末な内容も多く、個人のスキャンダルやゴシップなども容赦なく書き立てられ広がっていくため、面と向かっては話しづらいという者も多かった。

 

「その……さっき隠れていたのも、記事に関係あるんですか?」

 

「もちろん! ナキ君の写真を撮ってたに決まってるじゃないですか~」

 

「あ、ちょ、ちょっと……」

 

 文は悪びれもせず答えるなり、目の前のナキへ向けて無遠慮にカメラのシャッターを切りはじめる。あわてて顔をかばい照れを浮かべるナキに、続けて文はこう言った。

 

「中性的な子も人気あるんですよ。特にマニアな方には」

 

「そっ、そうなんですか?」

 

「ええ、山は閉鎖的なんて言われますが、異性の好みなど意外と幅広くって」

 

「僕みたいのにも、ファンがいるのかな……」

 

「実際いますよ! 中には『女の子の服着せたーい!』なんて方も……」

 

 文が言いかけた瞬間、ナキは笑みを一瞬で崩し、悔しそうに唇を噛む。そしてかくりとうなだれると、相変わらず写真を取りまくっている文をよそに、猫背になった背を向けてフラフラと歩き出す。

 

「普段通りでいいじゃんって人もいるんですが、女装派とナチュラル派の溝は深いらしく……あれ?」

 

 ペラペラと喋りまくっていた文は遠ざかっていくナキに気づき、砂利を蹴飛ばして後を追う。

 

「待ってくださいよぉ! まだ二、三枚撮りたいんですから!」

 

「いやそもそも、人を勝手に撮らないでくださいよ」

 

 ナキも今朝のトイレでの出来事からこっち、さすがに機嫌が悪くなったのか、振り返りもせずにズカズカと大股で川沿いを下る。文が憐れっぽい声を出して追いすがるも、つっけんどんに引き離すのみ。

 

「もー、ちょっとからかっただけじゃないですか。おヘソを曲げないでくださいよ」

 

「……怒ってませんよ。ただ仕事があるんで」

 

 口ではそう言ったものの、ナキは正直イラついた気持ちをくすぶらせていた。今朝のトイレでの一件が思い起こされ、黒いシミが広がるかのごとく胸に憤懣が湧き上がってくる。

 文にそれをぶつけまいとしてか、ナキは別れの挨拶もなしに飛んで去ろうとするが、その時、文がふとこう漏らした。

 

「あーもしかして……気にしていました? イジメとかで」

 

 イジメ、その言葉にナキの足がピタリと止まる。こわばったナキの表情には気づくよしもなく、後ろ姿に向けて文はさらりとこう続けた

 

「いやなんか、チラチラ聞くんですよ。ナキ君が長いこと、ひどい事されてるって」

 

「だっ……誰に聞いたんですか!? まさか椛さんが……」

 

 ナキはとたんに青い顔になって文へ詰め寄る。その表情は普段いじめられる時とは違う、何かに思いもよらない裏切りを受けたとでもいうような顔だった。

 

「い、いえ違いますよ。私がたまたま見聞きしたんです。単なるうわさで」

 

「……そうですか……」

 

「ええ、椛に聞けば知っているかもしれませんが、別にそこまで興味なくて」

 

 興味がない。戸惑いながらも文が言ったその答えに、ナキはホッと胸を撫で下ろす。見方によっては酷いセリフだが、ナキはかえって安心する。

 イジメというのは、被害者が相談せず抱え込んでしまうパターンがままある。理由は人それぞれだが、よくある一つはプライドの問題だ。自分の情けない姿を知られたくないが為、一人で無理をして耐えるのだ。

 ナキも同じような心境であった。椛に気遣われ、目の前で泣いてしまうだけでも恥ずかしいのに、預かり知らぬ場所で他人にばらされるなど、考えたくもない悪夢だった。他人から見れば一人で大丈夫だなどと言っている場合ではないのだが、そこは内心の事。むしろ文にこうして事情を知られ、話題に出されるだけでも苦い気分だった。

 

「そういえば先日見ましたねぇ。椛と大天狗(だいてんぐ)様が話しているの。ナキ君がらみかな」

 

「大天狗様に……?」

 

「はい。知っているでしょう? 私たち天狗のナンバー2ですよ」

 

 文が肩をすくめる。大天狗というのは妖怪の山の天狗を取りまとめている、事実上のナキたちの最高の上司だった。天衣無縫の鼻高天狗だとか言われているが、地位もプライドも高いため自分から会おうとする者は少ない。ナキなど朝の朝礼で遠目に見る程度しか目撃の機会がなかった。

 

「よくやりますよ。機嫌を損ねたらどうなるか分からないのに、一生懸命食ってかかるんですから」

 

「椛さん、そこまで……」

 

 隊長という地位にあるとはいえ、いやむしろその地位も顧みずナキの事を訴える椛。それを聞いて、ナキの胸が急にいっぱいになる。

 

「……あれ……」

 

 無意識的にすすった鼻から、涙まじりの鼻水の音がした。目頭が熱くなり、あとはもう止められずに、涙が頬を伝う。

 どうして、自分はこんな顔の上に泣き虫なのだろう。そう自分に呆れながら、ナキは文の目の前にも関わらずポロポロと泣き出してしまう。

 しかし文の方はといえば、感激しはじめたナキをつまらなそうに見つめてから、やれやれと空をあおいだ。

 

「ま、聞く耳なさそうでしたけどねぇ。椛も頑固ですよ。部下一人のためにああだこうだと」

 

「え……」

 

 すかした笑みを浮かべる文を、ナキはしゃくりあげながら涙を溜めた瞳で見る。そこで文は向き直り視線を合わせると、少しだけ険の混じった口調で言った。

 

「あなたもあなたですよ。泣くほどお辛いのでしょうが、それが椛から大天狗様の所まで波及してくると……」

  

 途中まで言ってふうと息をつき、こう言い捨てる。

 

「今度はこっちが困るんですよねぇ、大天狗様の機嫌が悪くって、気まずいったら」

 

 文は途中から河原の岩に腰掛け、膝を組んで頬杖をついていた。目線は斜め下に逸らし、かったるそうに目を細めている。

 

 そのおかげで、ナキの表情が悲しみに変わったのには気づいていないようだった。

 なにも、文は彼を悲しませようとしているのではなかった。純然たる愚痴だというのは、その不機嫌そうな横顔を見れば分かる。それだけに、本心から自身が迷惑がられているのを知って、ナキは胸中が一気に寒々しくなるのを感じた。

 

「……うっ、う……」

 

 嗚咽が漏れる。今度は一転、悲壮なものであった。望んであんな目にあったのではない、そう言いたくても言葉にならなかった。文は涙に濡れた視界の中で、ナキをぼおっと眺めている。

 かくなる上はこれ以上醜態をさらすまいと、ナキはくるりと背を向けて去ろうとする。

 その時、背後の文が「あ」と声をあげた。

 

 それに反応して思わずナキが顔を上げると、空を飛んで自分に向かってくる四、五人の白狼天狗がいた。

 ナキは涙をとっさに拭い、その姿を見て眉を歪ませる。向かってくる連中は、まさに今朝彼に絡んできた悪童たちだったのだ。それぞれ仕事は割り振られているが、見つからなければいいとサボりつるむ者たちが、どうしても居るのだった。

 

 悪童たちは心なしか意地悪く口許を歪めながら、ナキと文の前へ降り立つ。そして一番前にいたリーダー格の少年が二人を交互に見て、声を張り上げた。

 

「よぉナキ! 珍しい組み合わせだな。二人して何やってんの?」

 

「べ、別に……何も……」

 

 ナキはとっさに目を伏せてモゴモゴと答える。文は無言で、岩に座ったままじっと悪童を眺めていた。

 答えないその様子が気にさわったのか、少年はナキを無視してツカツカと歩み寄り、文に尋ねる。

 

「ちわっす。文さんでしたっけ。はねっ返りの烏天狗」

 

「射命丸 文ですよ。新聞記者と呼んでください」

 

 ヘラヘラとした問いかけに、文は立ちあがり笑顔で答える。しかしその表情はどこか硬く、作り笑いだという事がありありと見てとれた。

 

「なんでナキなんかと一緒にいるの? 知り合い?」

 

「いえいえまさか~、たまたま会っただけですよ~」

 

(う、嘘だ……。写真撮ってるって言ったじゃないか……)

 

 文のあまりの態度の変わりように、ナキは一言も口を挟まず離れて突っ立っているばかりだった。おまけに文も悪童も笑いながら彼をのけ者扱いするので、ナキは誰にも気にかけられないまま肩を落とし、まるでしおれた花のようになっていた。

 そんな様子を文と悪童たちは相変わらず無視し、世間話に興じていたが、ある時文がそれを切り上げる。

 

「じゃ、私そろそろ行きますね。次の仕事があるので」

 

 そう言って、文は飛び立とうとする。しかしその時、悪童の一人が声をあげた。

 

「あ、それ!」

 

「へ?」

 

 つられて振り返った文。悪童はそのそばに飛びつくと、文が手に持っていた機械、カメラを間近に見つめながらうるさくはしゃぎだす。

 

「これカメラってやつッスよね!? うわー初めて見た! ひょえー!」

 

「あ、ちょっ、やめ……!」

 

「いいじゃないッスか!! ちょっと見せてくださいよ!」

 

 その場で振り払えなかったのが運の尽きであった。悪童は文から素早くカメラを奪い取ると、止めようとするのも無視して好き勝手にいじくりはじめる。ついには他の連中も集まり、持ち主を尻目に全員で観察会をしだした。

 

「えーと、こっちが前かな? んで、ここを押すのか」

 

「返してくださいよ! ねぇ!!」

 

「まあまあもうちょっと……。あ、そのままそのまま、はいポーズ!」

 

 大切なカメラを奪われてか文はおろおろと狼狽えだす。しかし悪童たちは知ったこっちゃないという風で、仲間を並べて写真まで撮り始めた。フィルムに限りがあるのも知らないようで面白半分にシャッターを切りまくる。

 ナキはといえば、その様子を遠くから無言で眺めていた。止めに入れば良かったのだろうが、普段悪童たちに抵抗できずにいるせいか、体を張る勇気が湧いてこない。文に対してざまあみろという気持ちもあったかもしれない。

 

「うーんもうちょっとみんな真ん中に寄って! そうそう、そのまま……」

 

 そのうち、気づけば悪童たちもアングルや構図に気を使うようになり、森林をバックに撮ろうとカメラを持った者が立ち位置を調整しているところだった。

 カメラのファインダーを覗きながら、撮影者は河原を少しずつ後ずさりし……。

 

 そこで、アクシデントが起こった。

 

「うわっ!?」

 

 撮影者が後ろを見ていなかったために、川に足をとられそうになる。すんでの所でバランスを取り直し転落は免れたが、カメラが手を滑り、あっという間に落下した。

 

「あ――」

 

 ナキと文が同時に声をあげる。その瞬間に、とぷんと音をたててカメラが川の中に沈む。

 

「あぁーーッ!」

 

 文が悲痛な声をあげる。機械にとって水濡れは大敵だ。ましてや水中をや、である。しかし叫んだところでカメラは浮かび上がってこない。何度も川底にひっかかりながらも、下流へとみるみる流されていく。

 文も悪童たちも、カメラが壊れたかも、という恐れのせいかとっさに動けず固まっていた。ただ視線だけが、焦燥した様子で流れていくカメラを追っている。

 

 そこで、ナキが素早く地面に手のひらを向け、握り、開く。自身の『土を操る程度の能力』を、カメラの元へと行き渡らせる。

 直後に川底の地面の一部がカメラを押し上げるように隆起し、踏み台程度の塊が水面から顔を出す。平らな上面には、ずぶ濡れになったカメラが乗っていた。

 

「あ……あ……」

 

 大切なカメラが引き上げられた安心感と元に戻らないかもしれないという不安で、文はすぐに言葉を発せなかった。目に涙を浮かべながらフラフラと歩みより、二、三歩歩いてヘナヘナと膝を屈する。

 悪童たちは罪悪感からか、文がへたり込んだのを見て、気まずそうな顔を見合わせる。そんな彼らを、しばらくして文がギロリと睨み付けた。

 

「ひっ」

 

 悪童たちは一様にすくみ上がった。ナキからは視線が窺えないが、その怯えようと何より醸し出すどす黒いオーラから、無言の怒りがひしひしと伝わってくる。

 悪童たちは一拍置いて我に返ったのか、ひきつった笑みを浮かべながら口々にこう言った。

 

「お、俺は悪くないよな」

 

「僕も知らねっ!」

 

「あ、もう昼飯食わなきゃ」

 

「彼女と約束あるんで」

 

 その場かぎりの言い逃れをし、連中は蜘蛛の子を散らすようにその場から去っていった。気づけばその場にはへたり込んだ文と、ぼんやりと青空を見上げるナキだけとなる。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

「……」

 

 さすがに見かねたナキが声をかける。文は弱々しく浮かび上がると、川の水面ギリギリを飛んでカメラを取り、ナキの隣に降り立つ。そのあいだ文は終始無言だった。

 

「……文さーん?」

 

 心ここにあらずといった表情の文に、ナキが手を振ってみせる。すると、ひゅう、と冷たい風が吹いて文の髪を舞った。

 それに一瞬、ナキが見とれた直後。

 

「あンの……ボケエェェーーッ!」

 

「わ、うわわわっ!?」

 

 文が天に向かって怒声をあげ、彼女を中心につむじ風が巻き起こる。その威力はスネまで覆うナキの袴をまくり上げ、岩山が崩れるような音を周囲まで響かせた。はるか遠くにいた鳥たちが舞い上がる砂のごとく一斉に飛び立つ。烏天狗の一人である文の本気がかいま見えた一瞬であった。

 

「ぜー……ぜー……」

 

 すっかり乱れた髪も気にせず、肩で息をする文。ナキが呆気にとられていると、彼女はぽつんと言った。

 

「乾かせば……大丈夫そうです……」

 

「へ?」

 

「カメラ……」

 

「あ、そ、それは良かった」

 

 底冷えするような声に一瞬戸惑いながらも、ナキは笑顔で相づちを打つ。しかし文はその瞬間、キッと顔を上げてナキを見た。

 

「よくありませんっ!!」

 

「え、な、なにが?」

 

 目を見開いて眉間にシワをつくる文。驚いてナキが口をパクパクさせる間に、こんな事をまくし立てる。

 

「あいつら私の相棒をこんな目に合わせて! あなただってイジメを受けているんでしょう、悔しくないんですかっ!?」

 

「そりゃ……私本人は悔しいですが……」

 

 つい先ほどイジメに興味がないと言った人間が、自分が被害にあった瞬間に憤慨しだすのを見て、ナキもやや白けた顔で文を見ていた。しかし文は相手が呆れているのも構わないという様子で、ニッコリと笑う。

 

「安心してください。ここは被害者どうし、手を組みましょう」

 

「はい?」

 

 唐突に言われ、目を丸くするナキ。文はそんな彼に、声をひそめてこう言った。

 

「私にいい考えがあります」

 

 

――

 

 

「……あ、ナキ。聞きましたよ。今朝は色々あったって……」

 

「あ、いえ。気にしないでください。どうにか追い返したので」

 

 夕暮れ。見張りをしていた白狼天狗がめいめい交代する時間である。退勤して着替える為に寄った詰め所で、偶然会ったナキと椛がこんな会話をしていた。

 

「知っていたら止めに行ったのに……」

 

「いやぁ、場所が男子トイレでしたし、今回はちょっと」

 

「そんなの関係ありませんよ。イジメの現場は現場です」

 

 廊下を並んで歩きながら、相変わらず真面目な顔で答える椛。真摯に向き合ってくれる事に感謝しながらも、この人ならやりかねないとナキは苦笑する。

 脇に抱えていた私物のマントを羽織り、ナキはぺこりと頭を下げる。戸口で去り際に、こう聞いた。

 

「椛さん、明日は早いんでしたっけ」

 

「ええ、帰ってすぐ寝て、夜明け前にまた出ます」

 

「うひゃ……無理しないでくださいね」

 

 ナキの労いの言葉に椛が手を振って答え、二人は別れた。

 詰め所を出て、暗くなった山の中を急ぎながら、ナキはふとこうつぶやく。

 

「隊長の仕事に僕の心配まで、いつまでもさせられないよね……」

 

 ナキはふと足を止め、上を見上げる。狭い道の両脇に立った木々から伸びる、頭上を覆い隠す枝と葉に紛れて、何かの影が動いた。

 それは、木々に隠れてナキの様子を伺う烏天狗、射命丸 文の姿であった。



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新聞記者の烏天狗 中編

遅くなりましてすみません


「えー、最近は肌寒さも増してきておる。皆油断せず防寒対策もしっかりして……」

 

 朝八時ごろ。始業前の天狗たち、白狼と烏問わず何百人とが集まった、天狗の集会場。

 50平方メートルほどの広さで天井も高く、その気になれば外と同じように飛び回れるんじゃないかと思う天狗も少なくない。

 その広い屋内は窓から差し込む日光だけでは到底明るさが足りず、山の不思議な技術でもたらされた電気がこうこうと彼らの頭上を照らしている。

 

 その集会場の一番奥、数えきれない天狗たちに一様に注目され、いっそう照明でまぶしく照らされながら高い台に立って挨拶をする大柄な天狗の姿があった。

 その名は大天狗。その背丈はゆうに五メートルほどに及び、肩幅は盛り上がり広く、まるで巨大な熊のように鍛えられた体躯を持っている。鼻高天狗ならではの大きな鼻も彼は別格で、大人の手で包んでもまだ余るほどの太さを持っている。その下には二股に分かれ、フサフサと重みすら感じる白髭があったが、年老いた印象よりむしろ年季と貫禄を感じさせるものだった。

 

 天狗たちを実質とりまとめている大天狗が話す間、部下はほぼ一人残らず直立不動になり沈黙し、じっと話に耳を傾けている。普段は仲間内でおちゃらけているような輩も、緊張した面持ちでくしゃみ一つしなかった。ただ健康管理を促すだけの場面でさえ、会場全体が厳粛とした雰囲気に覆われている。

 

「……ともあれ、今日も一日頑張るように。では業務はじめ!」

 

 大天狗が高らかに号令を出し、脇の舞台用の出入り口からその場を後にする。直後、集会場の全員が誰からでもなしに一斉に脱力した。

 

「あぁ~、疲れたぁ~」

 

「ほんとマジで怖いよねあの爺さん」

 

「もう出で立ちがね、アレなんだよ」

 

 体と表情が弛緩し、口々に先ほどまでの疲労を愚痴りあう。そして仕事に出るため、気を取り直した面々がぞろぞろと後ろの出口へ歩きだし、波が引くように集会場が空になっていく。

 その中で、壁際によけて一人ぽつねんと立っている者がいた。灰色のおかっぱと狼の尻尾。ナキである。

 彼は談笑しつつ外へ消えていく同僚たちを見送りながら、時おり天井などを見上げてため息をついていた。

 

「ナキ」

 

 そんな彼に声をかけてきたのは、白狼部隊の隊長にしてナキを気にかけてくれる数少ない人物、椛であった。ナキはあわてて姿勢を正し、愛想笑いをする。

 

「どうしたんですか。ボンヤリして」

 

「……いえ、何も。僕はいつもこうですよ」

 

 相変わらず生真面目な表情で尋ねる椛に、ナキは笑みを貼りつけながら内心苦笑する。フッとさりげなくナキが目を逸らすと、椛は気遣わしげにこうも尋ねる。

 

「なんだか、文さんと会ったなんて聞きましたが、まさかその事で……」

 

「へっ? ああいえ、あの人は関係ないですよ。本当にいつも通りです」

 

 新聞記者をやる烏天狗、文の名を出された途端、ナキは両の手のひらをブンブンと振って否定する。実をいうと一つ、彼女から持ちかけられた話があったのだが、椛を巻き込みたくはなかった。

 ーーちなみに、椛は文の事をもっぱら文"さん"と呼ぶ。これは別にちゃんと年長者扱いしようとかそういうのではなく、単に『ちゃん付けや呼び捨てをするほど親しみが湧かないから』……だと、本人は言っていた。ーー

 

「そう……ですか。ならいいんですけど」

 

 大げさにいつも通りと強調するナキに少々眉をひそめた椛だったが、結局はそれを信じ、安堵の笑みを浮かべる。

 ナキは話題を変えようとしてか、今度は椛にこう聞いた。

 

「あの、椛さんは大丈夫ですか……?」

 

「ふふ、分かっちゃいます?」

 

 ナキの言葉に、椛が珍しくおどけて笑う。よく見れば目が微かにどんよりとし、肌の張りや髪のツヤが落ちているようだった。ナキが心配そうにそれらを見つめていると、椛は眉間をつまんでやや覇気のない声で言う。

 

「正直に言いますと、少し疲れちゃって……。夜明け前に出勤してそのまま朝礼ですからね。はは」

 

「本当に大丈夫なんですか? いくら仕事だからって……」

 

「まあ……平気ですよ。今日は昼前からまた眠れますから」

 

 我が事のように気を揉むナキを見て、椛は目を擦りつつ声の調子を戻す。集会場から人がいなくなったせいか彼女は大きく伸びをして、ついでに出たあくびを噛み殺す。

 

「ま、もしトラブルがあれば呼んでください。半分寝ながらでも、とりあえず行くので」

 

「え、えぇっ……。そんな、悪いですよ。お疲れの時に」

 

「あんまり難しく考えないでください。これも仕事です」

 

 あたふたしだすナキを見てまた少し笑ってから、椛は背を向けてその場を出ていく。途中で片手を上げて挨拶をしていった。

 一方で、ナキは無言。また一人になり、見回りにも行かずにグズグズと天井を見つめたりしていた。それはボンヤリしているというより、ただ外の、上空に何か気にかかるものがある、という風のしぐさに見えた。

 

 

ーー

 

 

「えーと、この辺も異常なし……と」

 

 その後、ナキは特に何事もなく見回りの仕事をこなしていた。木々の間に気を配りつつ山道を進み、茂みの中をかき分けて隠れた者がいないか確かめる。空を飛んで回る時もあるが、配分として地上を念入りに監視せよ、というのが山の方針であった。草木が生い茂る地上の方が得てして隠れやすいからである。

 もっとも、ナキは今まで幸運というか、リスやらタヌキやらしか見かけなかったが。

 

 しかし、今日はちょっといつもと様子が違っていた。見知らぬ足跡や、木への爪痕がついてないかなどを探しつつも、ナキは時々木々に覆われた空を見上げ、浮かない表情をしていたのだ。

 

 ーーその仕草の真相は何か。それは昨日にナキと文が立てた作戦を明かす必要がある。白狼部隊の悪童どもによって、文のカメラが水没の憂き目にあった直後の話である。

 

『私にいい考えがあります』

 

 ナキと自分、お互い被害者どうし、手を組もうと持ちかけ、文はそう言った。戸惑い無言でいるナキを構わず、文は声をひそめて続ける。

 

『椛が大天狗様へ、再三イジメを訴えても対応してくれそうにない……と話しましたね?』

 

『ええ……それで?』

 

『相手の方が権力は上ですから、誠意に訴えるにも限界があります。そこで……』

 

 そこで文は、川に落ちてしまったカメラを見せる。見たところ、乾かせば使えるらしい。

 

『決定的な証拠を見せて動かすんです。すなわち、イジメの現場を写真に撮ればいいんですよ』

 

 文はさぞ名案、という風に口角をつり上げる。ナキは不安そうな顔で口を挟んだ。

 

『つまり、僕は一度いじめられなきゃいけない訳ですか……?』

 

『ええ。撮影は私がタイミングを窺いますから、変わった事はしなくていいですよ』

 

『…………』

 

 事もなげに答える文だったが、ナキは気が進まない様子で口をきゅっと結ぶ。文が鼻白んだ顔をすると、彼は恐る恐る口を開いた。

 

『何か……他に方法はないでしょうか? それだと罠にはめるみたいで……』

 

『何言ってるんですか。そんな仏心(ほとけごころ)無用ですよ。いつもひどい事されてるんでしょう?』

 

 ナキのためらいを一蹴する文だったが、ナキは表情の陰ったままでなおもこう言う。

 

『でも、例えば撮り方しだいでは無理やり悪者に仕立てあげたりも……できませんか?』

 

『あーもー煮え切らない人ですねぇ。でっち上げでもキッカケになれば結構じゃありませんか。普段の行いが悪いからいけないんですよ』

 

『いや、さすがにそれは詭弁(きべん)ーー』

 

『と・も・か・く!!』

 

 納得しそうにないナキの抗弁を強引にさえぎり、文は人さし指をその鼻先に突きつける。滲み出る圧力にナキが黙り込んだ隙に、文は早口に言ってのけた。

 

『今は奴らに仕返しする事だけを考えればいいんです。しっかりバッチリいじめられて下さいね。それでは!』

 

『そんなぁ……』

 

 文が満面の作り笑いで背中を叩くと、ナキはしぶしぶ黙りこんでしまった。つくづく、毅然とした態度が苦手な少年である。

 

 ーー……大体そんな訳で、ナキは今も文に撮影のチャンスを狙われているのであった。ナキがしきりに気にしている上方、木の上にはイジメの現場を見逃すまいとカメラを構える文が潜んでいる。

 

『……ただ、あの連中がフィルムを使いまくったんで、チャンスは少ないと思ってください。一、二発殴られるくらいの気持ちで』

 

 脳裏に、文の最後の忠告が浮かぶ。ナキは山中を歩きながら、ずっと浮かない顔をしていた。

 

(悪い事じゃない……よね? どうも釈然としないなぁ、なんでだろ……)

 

 モヤモヤした思いを抱えながら、右へ左へ道を辿る。ただ、内心はどうであれ、嫌な出来事というのは寄ってくるものだ。

 

「ぃようナキ、おはよう!」

 

 噂をすればなんとやら、ナキの前にいつもの悪童たちが現れた。山道をふさぐようにゾロゾロと、横に広がって歩いてくる。

 ナキがげんなりした表情をする間に、一団は彼を取り囲み、ニヤニヤと笑う。

 

「なあナキ~、今ヒマ?」

 

「ひ、ヒマじゃないよ……仕事中だもん」

 

 後ずさりしつつ応答する。「みんなだって仕事じゃないの?」と言いかけて、やめた。今こうして退屈そうに連れだって歩いているのを見るに、何を言っても無駄である。

 

「ちょっと頼みがあるんだけどさぁ、聞いてくれない?」

 

「いや……今仕事中だって……」

 

「いいから、聞いてくれって」

 

 頼みがある、そう言って悪童たちはナキが抗議するのも構わず間近まで詰め寄る。それは頼むというより強要だ。ナキにとって、今さらではあったが。

 

「……なにさ、頼みって」

 

 ナキは表情を険しくして警戒しながらも、一応そう尋ねる。これがまた彼の律儀なところであった。

 そろって卑劣な笑みを浮かべる、いつものメンバー。加えて逃がすまいとする包囲に、内容を明かさない頼みもとい、強要……。こんな状況になれば、はっきり言って一目散に逃げ出した方が利口(りこう)である。

 ところが、ナキはそれができなかった。いや、頭では馬鹿正直だと思いつつも、まず頼みを聞こうとしてしまうのである。十中八九ろくな事ではないにしても、話も聞かずに逃げるのは失礼だという、彼なりの礼儀であった。

 

 ともあれ、ナキが応じてくれた事に気をよくしたのか、悪童の一人が横手の、木が密集して少々薄暗くなっている場所を指さした。

 

「あそこにちょっとした沼があるんだけどさ、そこに厄神様(やくがみさま)がいるらしいんだよ」

 

「厄神、様」

 

 悪童の言った名を復唱するナキ。厄神というのは、山に住む神様の一人である。人々の厄、つまり不運を吸収して紙人形にくっつけ、人知れず川に流して循環させるという役目を担っている。女の子の不幸を代わりに受ける雛人形というものがあるが、それをルーツに持つ神様だ。外見は十代半ばくらいの女の子で、噂では案外気さくで明るい子だと言われている。

 しかし、だからといって気兼ねせず仲良くできるかと言われれば、そうもいかない。常日頃から厄に触れ続けている存在ゆえに、彼女に近づいた者は不幸になるといわれている。

 家にカマドウマが繁殖する、恋人にフラれた、タンスの角に小指をぶつける……大小さまざま、不幸の噂は枚挙にいとまがない。

 

 そんな厄神の名を出し、悪童は続けてこう言った。

 

「で、ちょっとその厄神を……沼に突き落としてくれないかなー、なんて」

 

「なっ!?」

 

 ナキは耳を疑った。女の子を沼に突き落とすという蛮行もさる事ながら、近づけば不幸になると分かりきっている相手へやらせるなどと。

 当然、彼も反発する。

 

「何それ! 出来る訳ないじゃん!」

 

「いやちょっと押すだけだって! 大丈夫、一回やったら逃げていいから!」

 

 理屈で考えれば無意味な行為きわまりないが、悪童たちは意気込んで無理強いを続ける。続けて別の悪童は、背の低いナキの頭を掴んで揺らしながらこう言った。

 

「俺らも近くで見てるから! やってこい、ホラ!」

 

 語るに落ちるとはこの事だ。近くだの遠くだの、全く口にしてやいないのにわざわざ言及するというのは、『俺らは逃げてるから、お前の後の事は知らん』と白状しているようなものである。

 とかく、こういうイジメには確たる目的など存在しない。ただ他人が危害をこうむり、あるいはリスクを負うように仕向ければ、それが楽しいのである。ナキも度重なる仕打ちに、うすうす感づいていた事実であった。

 

「早くしろや! ついでにおっぱいぐらいなら触ってきていいから!」

 

「イヤだってば! いい加減にしてよ!!」

 

 とうとうナキもたまりかね、悪童の手を振り払う。その態度に悪童がかぁっと目をむいた、その時。

 悪童たちの頭上から、手のひらに収まる程度の黒くて丸いものが、いくつもボトボトと音を立てて落ちてきたのだ。

 

「あっ、いてェッ!?」

 

「あつ、つっ、あっ!」

 

 それにぶつかった悪童たちは、そろって悲鳴をあげた。ナキは少し遠巻きだったので当たらず、突然の事に目を丸くする。

 

「な、なんだこれ。栗?」

 

「なんで急にこんなに落ちてくんだよ……」

 

 悪童たちにぶつかったのは、トゲだらけのイガに包まれた栗であった。木にぶつかってもいないのに、と悪童たちは頭や首を押さえながら足元に散らばった栗を不思議そうに眺める。

 この隙に、とナキは悪童の間をすり抜けて山道を駆けていく。

 

「あっ! テメェ待ちやがれ!!」

 

「逃げてんじゃねえよ、この野郎!!」

 

 その後を追いかけ、悪童たちもどやどやとその場を去っていった。地面にはいきなり落ちてきた大量の栗が残る。

 その出所、悪童から上手く風上にあたる場所に生えた栗の木のてっぺんに、カメラを持った文が座っていた。先程もイジメの現場を捉えるシャッターチャンスを狙っていた訳だが、今は枝に手をついて、不満げに口をとがらせている。

 

(あのままじゃ正直いい()は撮れなさそうですからねぇ。殴ったりでもしなきゃ、どうにも……)

 

 心の中で一人ごちながら、文は手をついている枝をふと見る。先ほど揺すったせいで、実っていた栗が見事にみんな落ちている。

 後で拾いに来よう、なんて呑気な事を考えながら、文はナキたちの走った方向へ飛んでいった。

 



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新聞記者の烏天狗 後編

「あークッソォ、何だったんだよさっきのは……」

 

「ナキ~、お前なにか仕組んだんじゃないだろな」

 

「……知らないよ。あと仕事中だって言ったじゃん……」

 

 数分後、結局ナキは追いつかれてまた絡まれていた。正直もう見回りなどしていられなかったが、それでも規定のルートは回ろうと、言葉すくなに早足で歩く。

 

「ちっ、まだチクチクする……。おいナキ、本当に何も知らねえんだろうな?」

 

「それともアレか? 実はお前まで厄神だったりすんのか。近くにいるとろくな事がないとか」

 

「そんな訳ないじゃない。大体、そう思うのなら離れてよ。仕事にならないよ」

 

 振り向いて文句を言っても悪童たちは離れない。前なり後ろなりについてきて、「謝れ」だの「一発なぐらせろ」だの難癖をつけてくる。

 

(ろくな事がないのはこっちの方だい)

 

 ナキは心の中で愚痴った。やがて、目の前に続く道が開け、こぢんまりとした木造の建物が見えてきた。

 三十坪程度の伐採された土地で、すっぽりと木々に囲まれて建つ家。平屋建てで、屋根も重々しい瓦ではなく、木板を張って明るい青色に塗っていた。

 それ以外は引戸の入り口から壁まで塗装は一切なく、窓には白い障子紙が張られている。ほとんどが木そのままの色をした地味な、よく言えば落ち着いた色合いの家だった。

 ナキはその家を見て、あれ、と小さくつぶやいた。

 

(この家……椛さんの)

 

 そう、その小さな平屋は犬走 椛が一人で住む家だった。以前に一度だけ、「何かあれば訪ねてきなさい」と案内された事があったのだ。

 しかし、なぜ今日に限って目の前に……と彼は首をかしげて、周囲に視線を巡らせてすぐに納得する。

 ナキを取り囲み、さっきからやいのやいの言ってくる悪童たち。彼らが騒ぐのをやり過ごすうちに道を逸れ、いつの間にか椛宅の前まで来てしまったのだ。

 こりゃいけない、早く戻らなきゃ。そう考えてナキがやれやれと頭をかいていると。

 

「……い、ナキ」

 

「ん?」

 

「おいナキ!! 聞いてるのか!?」

 

 ふと気づいた声にナキが振り向くと、目の前で響く怒声。耳鳴りをこらえて我に返ると、口をへの字に結んだ悪童の姿があった。

 

「ご、ごめん。なに?」

 

「……テメェ、あの家がどうかしたか? もう一回だけ言うぜ。よく聞けよ」

 

 ナキが愛想笑いをして聞き返すと、悪童はあからさまに舌打ちし、口を開く。

 

「俺らのために弁当買ってこい。全員分だぞ」

 

「お、お金は?」

 

「んなもんお前持ちに決まってんだろが! 早くしろ!」

 

「…………」

 

 ナキはげんなりと肩を落とす。昼に出会うと時々、こんな風にパシリをやらされるのだ。それも山から出て里の弁当屋まで、である。時には『◯○時までに』と時間制限が課される事もあり、飛ぶのが苦手なナキは度々つらい思いをしたものだった。

 

「海苔弁なんざ買ったら許さねえぞ!」

 

「俺、焼き肉弁当!」

 

「幕の内ビッグサイズー」

 

「あと、酢豚のパイナップル抜き!」

 

 さっさと行け、とばかりに目の前で口々にわめく悪童たち。その姿を見て、ナキの頭にある考えが浮かんだ。例の写真を頼んでいる文の事である。

 いつもなら言われるがままに里へ向かうところだが、今ならば文がイジメの現場を押さえようと目を光らせている。ここでもし悪童たちをわざと怒らせれば、もしかしたら暴力に及ぶ場面が撮れるかもしれない。

 

「…………」

 

「あん? どうしたんだよ突っ立って。なんか文句あんのか?」

 

「じ、自分で……行けば?」

 

「んだとおっ?」

 

 弱々しく言ったナキの抗弁に、悪童は目を剥き怒りだす。ナキはそっぽを向きながらも微かに脚を震わせていたが、機嫌をそこねた周りの連中は気づいていないらしい。

 

「なぁに急に生意気な口きいてんだ? あ?」

 

「…………」

 

「なんか言えや、ゴラァ!」

 

 悪童の一人は肩をいからせてナキへ詰めより、どなり声をあげる。しかしナキはそれでも視線を合わせず、気をつけの姿勢で直立していた。

 まだ、足りない。写真を証拠にするなら、少なくとも手を出す瞬間を撮らねばならないだろう。もう少し、相手がイラついてくるまでの辛抱……とナキは気づかれないように唇を引き結ぶ。

 悪童の怒りはじわじわと溜まり、ついに拳を振り上げそうになる。

 

 しかし、そこで別の悪童が気がついたように言った。

 

「あ! お前もしかして……」

 

「え?」

 

「まーた椛さんに泣きつこうとか思ってんだろ~?」

 

「へっ?」

 

 キョトンとするナキを指さし、その悪童はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。

 

「とぼけんなよ~。いつも助けてもらってるじゃねえか」

 

 そう言いながら悪童はナキの肩をつかみ、にじり寄る。ナキがとっさに顔を背けると、周りの奴らも同じように笑みを浮かべていた。ナキの表情が反射的に嫌悪に歪む。

 ほどなくして、悪童たちは次々とナキをはやし立てはじめた。

 

「なーるほど、俺らの事を口実にお近づきになろうって訳か!」

 

「へえぇ、意外にセコい野郎だな。いっつもグズグズ泣きながら、心の中では笑ってたのか」

 

「なっ! 何言ってるのさ!?」

 

 ナキは意気込んで悪童たちを見据える。存外大きな声が出た。歯を食い縛りながら荒い息を吐いたが、悪童たちは意に介さずナキをからかい続ける。

 

「今さら言い訳すんなって! ほら今すぐ走っていけよ。『モミえもーん、アイツらが僕をいじめるよ~!』って」

 

「あっはっは、男のクセに情けねえなぁ」

 

「いいんじゃね? ナキなんてほぼ女みたいなもんだろ」

 

「むっ……」

 

 次々と続く侮辱の言葉に、ナキも少々顔に怒りがにじむ。しかし悪童は相変わらず気にも留めずに、今度は陰口まで叩きだした。

 

「しかし、椛さんもなんでまたこんな奴の世話を焼くんだろうな」

 

「そりゃアレだろ~。『イジメを許さないアタシ格好いい!』てなもんよ」

 

「へっ、迷惑なもんだよなぁ。こっちにとっちゃウザいだけだってのに」

 

「いい加減にして欲しいよね~。あの石頭のペッタンコの仕切り屋の……」

 

 いつしか悪童たちはナキをそっちのけにして愚痴を垂れ流す。それを横で聞きながら、ナキは何故だか今朝会った椛の様子を思い出していた。

 隊長としての職に追われながら、弱音も吐かずにナキを気遣ってくれた彼女。今までも、自分の事でもないのにめげずに上司への訴えを続けている。

 思い出すうちに、ナキの胸中にかあっと熱い衝動がかけ上る。険しい表情をしながら見据えるのは、いつも良いようにされている悪童たち。

 

「そのうち隊長やめさせられるんじゃねーの?」

 

「あ、それ良い! もうどっかに行ってほしいよな。大体、女のくせに――」

 

「ねえ」

 

 ナキが突如、横から口を挟む。普段とはうって変わった、低い声だった。悪童たちが一斉にナキへと振り向く。

 その視線にややひるみながらも、ナキは口を開く。

 

「僕は、いいけどさ……。椛さんをバカにするのは……やめてよ」

 

「はぁ?」

 

 絞り出すようなナキの声に、悪童の一人が嘲るような笑みを浮かべて近寄る。背の低いナキは、必然的に見下ろされる形になった。

 

「そんなの俺らの勝手だろうが。それともなにか? お前の許可がいるってのか?」

 

 悪童は威圧するように詰めよってくる。それでもナキは目を逸らさなかった。逸らしたら負けだという思いが、何故かあった。

 こわばる口を必死に動かし、ナキは言葉をつむぐ。

 

「……椛さん……あの人は、毎日遅くまで働いてる。なのに、僕なんかに時間を割いてるんだよ……。今だって、疲れて寝てるんだ。なのに……!」

 

「へえぇ~。普段もさぞかしモタモタしてたんだろうなあ。部下として恥ずかしいぜ、その上職場恋愛か? おめでたいネーチャンだなぁ!!」

 

「……ぐっ……」

 

 なめきった態度で更になじられ、ナキは知らず知らず拳を握りしめていた。悪童は更に続けて、ナキを目つけながらつぶやく

 

「つー事はだ……」

 

 もったいぶった口調で言って、悪童は直後に、ナキに向けて拳を振り上げた。

 

「テメェをぶん殴っても、アイツもすぐには飛んで来ねえって事だよなぁ!?」

 

 喜悦に満ちた表情で、悪童はナキに殴りかかる。体格も違い、すぐに吹き飛ばされそうに見えた。

 しかし、悪童の拳がナキに届く寸前、一瞬早く悪童のアゴに、素早く硬いものがぶつかる。それは油断していた悪童へ見事に突き刺さり、痛みと衝撃をいっぺんに脳みそへ届ける。

 

「ぐああっ!!?」

 

「……あ」

 

 悪童が目を丸くし、すっとんきょうな悲鳴をあげながら後ろへ吹っ飛ぶ。一方ナキは、右腕をまっすぐ振り上げた状態で、悪童をポカンと見つめたまま突っ立っていた。

 周囲に立っていた連中も、目の前の光景をにわかに信じられなかった。悪童が殴りかかった瞬間、下から繰り出されたナキのアッパーカットが、相手のアゴに見事命中したのだ。

 

「え、ええと……」

 

「……いっ、い……てぇっ……!」

 

 無意識に殴ってしまったのか、途端にうろたえ出すナキ。対して悪童は思いがけず殴られたアゴを押さえたまま、ずっと尻餅をついている。

 他の悪童たちが一斉に、我に返ってすくみ上がるナキをにらみつけた。人数は一対多。今にも報復が始まるかと思われた。

 が、その時……。

 

「何をしているんです!?」

 

 遠くから、凛とした女性の声が響いた。ナキが振り向くと、白い襦袢姿の椛が家の方角からパタパタと駆けてくる。悪童たちが身構える中、椛は輪の中に割って入り、荒い息を吐きながら全員を見回す。

 

「……何があったんですか」

 

 場にいる面々やその表情を見て、平常ではないと察したのだろう。眉間にシワを寄せて真剣な表情をしている。目の合ったナキがおずおずと口を開きかけるが、一瞬早く殴られた悪童が叫んだ。

 

「椛さん! そいつです! いきなりナキが俺を殴ってきたんすよー!」

 

「なっ、で、でもそれは……」

 

 ナキは抗弁しようとしたが、焦って口が上手く回らない。椛が怪訝な顔をするのを見て、首筋に嫌な汗がにじんだ。悪童が椛に見えないように、小さくほくそ笑んだ。

 しかし、今度は上空から別の女性の声が降ってくる。

 

「すいませーん、ちょっといいですか?」

 

「わっ!?」

 

 それは、ずっとナキの様子を窺っていた文だった。悪童たちと椛が突然の乱入者に驚いている間に、文はニコニコと笑いながら椛にこう申し出た。

 

「先ほどの件ですが、ナキ君には十分に酌量の余地があります」

 

「いや、その前に文さん、どこから出てきたんです?」

 

「偶然目撃したんですよ」

 

 相変わらずさらりと出任せを言う人だ、とナキは内心で呆れる。それを知ってか知らずか、文は悪童たちをわざとらしく横目に見ながらこう続けた。

 

「そういえばさっきも取り囲んで、厄神を沼に突き落とせ~なんて無理強いしてた気がぁ~……」

 

「おい待て! あれは未遂に……!」

 

「ばっ馬鹿!! しゃべるな!!」

 

「あっ……」

 

 口を滑らせた悪童が、仲間に止められてあわてて手で口をふさぐ。しかし時すでに遅く、椛は鋭いまなざしで悪童たちを見据えていた。

 

「……とりあえず、私の家に来てください。この場にいる全員です」

 

「いぃっ!? 家って……」

 

「なに言ってんですか、あそこですよ。」

 

「知らなかった……」

 

(……ほっ……)

 

 椛が言い放った瞬間、悪童たちは一様に顔をしかめ、ナキは安堵のため息を漏らした。その隣では、文が愉快そうにクスクスと小さく笑っていた。

 

 

――

 

 

「……もういい加減にしてくださいよ。山に住む天狗はみんな仲間なんですから」

 

「へいへい、分かりましたよ」

 

「ったく、無駄な時間を……」

 

 時刻は夕方。椛宅からうんざりした表情の悪童たちが次々と出ていく。それを厳しい表情で戸口から見送るのは、制服に着替えた椛。先ほどの殴打事件の事情を聞き、たっぷりと説教をしたのだった。

 やがて悪童たちは空に飛び去り、見えなくなる。椛はそれを見ながら小さく息をつき、後ろを振り返る。

 

「ナキと文さんもすみません。時間をとらせて」

 

「いえ、私は全然かまいませんよー」

 

「……おかまいなく」

 

 茶の間に正座する二人。文は調子よく笑って手を振り、ナキは遠慮がちに首を横に振る。それに笑い返して正面に座ろうとする椛に、ナキが顔を上げて言った。

 

「あの……こちらこそすみません。貴重な休みを……その……」

 

 気まずそうに再び顔を伏せるナキ。襦袢、もとい部屋着で出てきた事からしても、寝ていたかくつろいでいたのは間違いない。しかも始めに見た記憶だと、微かに寝癖らしきものまであったのだ。

 椛はきょとんとして、直後にひどく笑いだした。

 

「へ? あーあーあー、気にしないでくださいよ。私が勝手に出てきたんですから」

 

「本当に仕事熱心ですねぇ、椛ちゃんは」

 

「文さんも少しは見習って欲しいんですがね」

 

「へへん、善処しますよ」

 

 椛にじろりと見つめられ、文はヘラヘラと肩をすくめる。ナキはそのやりとりを見て、しばし安らぎを覚えた。

 そんなナキに、「それと」と椛が声をかける。

 

「はい?」

 

 あわてて振り向いたナキの正面には、なんだか呆れと慈しみが入り交じったような椛の表情があった。一瞬見つめ合った後、椛はこう言った。

 

「ナキ、あなたが恩を感じてくれるのは嬉しいですが、無理してケンカする事はないですよ」

 

「え……恩?」

 

「他人優先もいいですが、ほどほどにしないと。私は別に平気ですから」

 

 からりとした笑顔でそう述べる椛。ナキは聞きながら、ふっと表情を曇らせた。隣で見ていた文は「あちゃー」と微かな声でつぶやいている。

 

「……僕、そろそろ帰ります」

 

「あれ、あの、どうかしたんですか」

 

「私も帰りますね~っ」

 

 ナキはフラフラと立ち上がり、うなだれて出口へ向かう。椛はその様子に戸惑いの色を浮かべたが、文が素早く立ち上がり、ナキを出口へ押し出していった。

 

「では椛さん、また明日!」

 

「あの、ちょっと……」

 

 文はやけに大きな声で別れを告げ、ナキを引っ張って出口へ飛び出し、一瞬で扉を閉めた。

 その後には、茶の間で座ったまま不思議そうに首をかしげる椛だけが残った。

 

「……やれやれ、これは難しそうですね~」

 

 外はもう夕暮れ。椛宅からしばらく離れた場所で、文は天を仰いでつぶやいた。地面すれすれで飛んでいる彼女の隣には、トボトボと相変わらずうなだれたまま歩いているナキがいる。

 

「……なんの話ですか」

 

「とぼけないで下さいよ~。珍しく怒ったのを見れば、さすがに分かりますって」

 

 文はナキを見たまま歯を見せて笑う。ナキは頬を膨らませ、ぷいっと顔を逸らす。それは心なしか拗ねているように見えた。

 

「それよか参りましたね」

 

「何がですか?」

 

「いえ、カウンターパンチの瞬間ではいまいち証拠として弱いです」

 

「ああ、写真ですか」

 

 カメラを見つめて額を押さえる文に、ナキは思い出したように頷く。そういえば、一方的に殴られた場面などは結局つくれなかった。

 

「まあ仕方ないですよ。椛さんを信じましょう」

 

「あなたは本当に椛、椛って……ああそうだ」

 

 文は落ち着いた風のナキを半笑いで見つめていたが、ふと眉を動かして体ごとナキへと振り向いた。

 

「そういえば、あのシーン以外にも写真がありましてね」

 

「そう、なんですか?」

 

「ええ、それが……」

 

 文は何やら怪しい笑みを浮かべ、目を細める。それを見て後ずさるナキへ、彼女は小さな声で言った。

 

「椛の……寝巻き姿」

 

「えーっ!?」

 

「ふふ、めったにプライベートは見れませんから、撮りまくっちゃいました」

 

 文はウキウキと体を(おど)らせる。そして驚いた後になぜか恥ずかしそうにしているナキに向けて、こう詰め寄る。

 

「現像したら買いません? 一枚二千円!」

 

「え、いいいやいいですよ!」

 

「またまた~、あなたは買いたいハズだ! 間違いない! 正直に言いなさい!!」

 

「もぉーっ、よして下さい!」

 

 ナキは顔を赤くして逃げ出し、文が追いかける。

 今日、少しだけ距離が縮まった二人を、オレンジ色の夕陽が照らしていた。

 



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ナキの決意

「うぅ~……さっむ」

 

 ある日の昼すぎ、今日も今日とて山伏の姿で見回りをしながら、ナキがつぶやいた。

 季節はすでに秋へ突入しようとしていた。紅葉や楓の葉がちらほらと色づきはじめ、風は乾いた冷たいものになりつつある。

 そんな中で、ナキは着物の袖で指を覆い、首を縮めながら山道を進んでいた。

 

「そろそろ上着出そうかなあ、山って麓に比べてどうも寒いんだよね……」

 

 なるべく動きは最小限に、周囲への警戒は視線を巡らせるだけで済ませる。耳は時折立てて音を拾っては、すぐにぺたんと丸めてしまう。寒さというものは体温だけではなく、根気や注意力まで奪ってしまう。

 そんな風に、寒さに気を取られながらちょこちょこと歩いていた時。

 

「わっ!」

 

 ふと足元に目が行ったナキは、あるものに気づきあわてて踏み出しかけた足を戻す。直前に踏みしめようとした地面の上には、パチンコ玉程度の大きさの丸くて茶色いものが、いくつも密集して落ちていた。

 ナキは前屈みになってその物体をしげしげと凝視し、顔をしかめる。

 

「あっぶな~、これ鹿のフンじゃん」

 

 ほっ、と安堵するナキ。妖怪の居場所らしく自然を残している山には、当然妖怪や動物の痕跡があちこちに残っている。時には動物の死骸などが転がっていたりもするのだ。

 ナキもそれらに遭遇した時こそギョっとしてしまうが、長らく同じ場所で生活していれば慣れていくものだ。今では触れたくないものはなるべく避け、死骸は拝んで放っておくようにしていた。

 よくある事、そう割りきれば大抵の事は平気になる。しかし、中には割りきれないような事もある。

 

「いよっす、ナキ!」

 

 前方から声がし、ナキはふっと我に返る。聞きなれた声。しかし快く返事は出来なかった。

 

「……やあ」

 

 一拍おいて顔を上げ、ナキはようやく返事をする。しかしその声は暗く沈み、表情は苦笑いだった。

 目前にいたのはいつもの悪童たちであった。四、五人がそろって、相変わらずニヤニヤとした笑みを浮かべている。

 そのうちの一人がポケットに手を突っ込み肩をゆすりながら、ナキへ近づいてきた。

 

「そう暗い顔するなよ~、まるで俺らに会いたくないみたいじゃ~ん」

 

「い、いや別に、そんな……」

 

 首だけをペンギンのように突きだし、その悪童は卑劣な顔を近づけてくる。ナキは苦笑いしながら顔を逸らし、そろそろと後ずさっていたのだが、ふと悪童の足元にあるものを発見し、あわてて声をあげた。

 

「あ、待って! 来ちゃダメっ!」

 

「あ? なんだ急に……」

 

 突然さけびだしたナキに悪童が怪訝な顔をした瞬間、悪童の足裏にグニュ、とした微妙な弾力ある感触がした。

 

「んぁっ!?」

 

 その感触に直感的に危険なものを感じ、悪童は踏み出した足を引っ込める。そして地面をジッと凝視し、途端にひきつった表情になった。そこにあったのは踏まれて形を変えた、ナキが見つけていた鹿のフンである。

 

「うわ、うわうわうわ! きったねー!!」

 

「……ぶっ、あははは! ウンコじゃんそれー」

 

「ばっかでー、思いっきり踏んでやんの!」

 

 フンを踏んだ悪童は血相変えてあわてだし、靴をそこらの木にすりつけたりして必死に汚れを落とそうとしている。その姿を見て周りの友人たちはそろって大笑いし、ナキは気の毒そうな顔をして黙って様子を眺めていた。

 笑われた悪童は悔しそうにムカムカと歯噛みをし、踏ん張って屈辱に耐えていたが、やがてそれも限界にきたのか、目をつり上げてナキの方を向く。

 

「ナキ! どうしてくれんだ、お前のせいだぞ!!」

 

「え、なんで!?」

 

 遠巻きに見守っていたナキは突如向けられた怒りに戸惑いの声をあげる。だが悪童は知った事かとばかりに八つ当たりの台詞をまくし立てた。

 

「テメェがそんな場所に立ってるからだ! お前が踏んでそのままにしとけば、こんな事にならなかったんだよボケ!!」

 

「そんな無茶な……!」

 

 悪童の気迫に押されながらも弱々しく抗議しようとするナキ。しかし言い終わらない内から悪童はナキに向かってイラ立った形相で駆け出した。他の連中も遊びに加わるような浮かれた顔をして一斉についてくる。

 こうなってしまえば理屈は通じない。ナキは急いで背を向け逃げ出した。

 

「待ちやがれテメェこらぁ!」

 

「おお、はえーはえー!」

 

「ひゃひゃ、災難だ」

 

 後ろで怒声やはやし立てる声が聞こえる。ナキは後先も考えず来た道を逆走し、急な勾配を下っていく。

 実にくだらない言いがかりだと思いつつも、ナキは喉を枯らしながら走った。いじめっ子集団はきっかけさえあれば瞬く間に加害精神を発揮する。

 ナキが足を動かすのに合わせて、背後では複数人の足音がひっきりなしに続いてくる。一向に距離が開く気配がない。

 もういっそ土を操って撒こうか、とナキがちらと考えた時。

 

「あうっ!?」

 

 足元から注意が逸れ、ナキは下っていた勢いそのままに地面に倒れ込んでしまった。膝や肘の痛みにうめいている間に、悪童が次々と追いつき、ナキを押さえつけていく。そして誰からでもなく一斉に、転んだ拍子に汚れた上着へと手をかけた。

 

「へっ! 泥だらけでやんの」

 

「こんなん着ちゃいられねーよなあ?」

 

「お? これにも土がついてんじゃねえの」

 

「それ靴だよぉ!?」

 

 あれよあれよという間にナキは上着と靴を剥ぎ取られる。もがいて後ろを振り返り、「返して」と言おうとした時には、悪童たちはすでに遠くへ離れていた。ナキが涙目で見つめるのを面白がるように、上着や靴を掲げて大はしゃぎしている。

 

「ほーれ、ここだぞ~?」

 

「早くこいよ!」

 

「悔しけりゃ取ってみろ~?」

 

「う、うぅっ……!」

 

 坂道の上から口々に煽られ、ナキはよろよろと立ち上がろうとする。しかし悪童たちがそれを待つわけもなく、ナキの上着と靴を持ったまま空へと浮かび上がってしまう。

 

「あっ……」

 

「ざんねーん、時間切れー」

 

「罰としてこれは俺らが貰いまぁ~っす」

 

「じゃあね~~」

 

 未だ四つん這いになった格好のナキを嘲笑うかのように、悪童たちは空の彼方へ飛び去っていってしまった。枝葉を突き抜けるかすかな音を残して、ナキ一人だけを山道に置き去りにする。

 

「ぐすっ……あうぅ……」

 

 涙と嗚咽が出るのを必死にこらえながら、やっとナキは立ち上がる。足袋(たび)の裏から湿って生暖かい土の感触が伝わり、肌着だけになった上半身には冷たい風が容赦なく当たって全身を震わせる。目の端から流れ出る涙が頬を伝い、なおのこと風を冷たく感じさせる。

 しかし泣いていても物が返ってくる訳がない。ナキは涙を袖で乱暴にぬぐい、不得意な飛行でふらふらと上空へ向かった。

 

「……もう行っちゃったかなぁ……」

 

 山の形が分かる上空に出て、ナキはキョロキョロと辺りを見渡す。しかし悪童たちはすでに別の場所に降りてしまったのか、周りに見えるのは見回り中の同僚たちや飛ぶ鳥だけである。

 

「……すみません、今さっき、着物と靴を持った人たちが通りませんでしたか?」

 

「は? 知らねぇな~。探してみれば~?」

 

「ははは、かわいそーに。寒そう~」

 

 とりあえず手近な烏天狗たちに聞いてみるも、ふざけた顔と口調で知らないと言われるのみ。今まで白狼と烏の両方にいじめられてきたナキのこと、知っていて黙っているのか、本当に知らずにただ困る様子を面白がっているのか……今さら判断はつかなかった。もっとも、嘘じゃないかなどと問い詰める度胸は、はなからナキには無かったが。

 

「もう~……これからすぐ冷えてくるのに~」

 

 ナキはまた半泣きになりながら、山を見下ろしつつ周囲を飛び回って連中の姿を探した。

 山中に入ってしまえば木に隠れて見えなくなってしまう。そして天狗にかかれば、隠れるのは数秒で済む……。上空の強い風に煽られ飛ばされそうになりながら、ナキは『どうかまだ隠れないでいてくれ』と祈って頂上から麓まで何度も探し続けた。

 

 結果は……やはりというか、一人も見つからない。

 

「はぁ……」

 

 ナキは空中でがっくりとうなだれ、風に揺られてしまう。これから靴もなしに、山道を探さねばならないのだ。茂みか、土か水の中か……どこにあるのか見当もつかない。下手をすれば夜になっても見つからないかもしれない。

 ふと空を見上げると、灰色の曇天が広がっていた。空気も湿っぽくなり、肌着がますますヒンヤリしだす。

 そのホコリのかたまりのような雲を見ながら、しばしナキがぼーっとしていた時。

 

「あれ、ナキ君?」

 

「あ……」

 

 不意に女性が声をかけてきた。ナキが振り向くと、そこにはカメラを携えた烏天狗の新聞記者、文がいた。彼女は怪訝そうに眉をくねらせ、ナキの肌着と裸足の姿を見つめている。

 

「文さん……何故ここに?」

 

「私はまあ、サボりです。それより……何かあったんですか?」

 

「それは……その……」

 

 さすがは新聞記者、疑問があれば遠慮せずにまっすぐ問い詰める。ナキは言いにくそうに俯き、絞り出すような声でこれまでの出来事を伝える。

 

「あちゃあ、そりゃ災難ですね。足袋なんかもう泥だらけ……」

 

「とりあえず靴だけでも見つけたいんですが……」

 

 ナキは肌着のたゆみを気弱くいじりながら窮状を訴える。妖怪がうようよいる山のこと、下手をすれば死ぬまで行方不明だ。

 文は困り果てた彼の様子をしばらく同情した目つきで眺めていたが、やがて一つ頷くと、ナキに向けてこう問いかける。

 

「ナキ君、匂いで追えませんか?」

 

「え……? 匂いですか?」

 

 ナキが見返すと、文はかすかな笑みを浮かべて小首をかしげる。ナキは戸惑いながらも首を横に振る。

 

「……無理……です。なぜか僕の匂いが途絶えちゃって……」

 

 言われて気がついた、ナキ自身の並外れた嗅覚。しかし辺りをあわてて嗅いでみても、自分の靴と着物の匂いは掴めない。

 

「ふむ……こちらから見て風上は里の方角……。風向きのせいでもなさそうですね」

 

 文は顎に指を当てちらりと山の外へ視線をめぐらす。閉鎖的な山の天狗が、里の方角へわざわざ飛んでいくとは考えにくい。ならば匂いが掴めないのは風のせいではない……。元来風に鋭い烏天狗の文は、素早く推理をはじめる。ややあって、彼女は眼前でしゅんとしているナキに視線を合わせた。

 

「ちょっとついて来てください」

 

「へ、は……はい」

 

 言うなり文はナキを置き去りにしかねない勢いで、山のある地点へ向けて降下しだした。ナキがあわてて後を追うと、ほどなくして地上に近づくにつれぶつかるような激しい水流の音が耳に飛び込んできた。

 

「わあ……」

 

 小さなしぶきが顔にかかり、ナキはとっさに目をつぶる。地に降りた二人の前に表れたのは、何十メートルもある崖の上から流れ落ちる、数人を難なく呑み込める幅を持った滝であった。その水を受け止める滝壺はちょっとした池ほどの広さとなり、底が見えないほど深い。滝が落ちた際のしぶきは雪のように白く、猛々しく輝き、絶え間なく細かく揺らぐ波紋をつくっている。

 常時雷が落ちるような音を轟かせる龍のごときその滝の名は、九天の滝。妖怪の山でも随一の大きさを誇る滝であった。

 周囲にはナキよりも一回り背の低い、大きな緑色のリュックを背負った者たちが岩蔭や木々に隠れて顔を出している。水色のコートに緑色の帽子というお決まりのファッションで固めた彼ら彼女らが、山の水辺によく出没する妖怪『河童』である。

 文は用心深そうに睨んでくる河童たちを無視し、ナキを一目ちらりと確認して言った。

 

「有名な水場ですからね。もしかしたらここにあるかもしれません」

 

 文は辺りをキョロキョロと見渡しつつ滝壺へ向かって歩く。滝のしぶきに濡れた岩場を高下駄で器用に進む文と、裸足で今にも転びそうなナキ。周りでは河童たちが相変わらず黙って遠巻きに見つめている。

 ほどなくして、滝壺のほとりに白い布と、小さな二つのものが浮かんでいるのを二人は見つけた。ナキが「あっ」と声をあげて文を追い抜き、そばへと駆け寄る。

 

「……見つかりましたね」

 

 ナキが屈んで浮遊物を確かめるのを見つめながら、文がつぶやく。そこにあるのは明らかに白狼天狗の上着と靴だった。

 

「名前は書いてあります?」

 

「……はい、やっぱり僕のです」

 

 上着の襟の裏と、靴のかかとをそれぞれ見て、ナキはしょげた様子で答える。文はそれを聞くとナキの肩へ手を伸ばし、軽く押し退けた。

 

「ナキ君、ちょっとどいてください」

 

「え、はい」

 

 ナキが怪訝な顔で後ろに下がると、文はすぐさまカメラを取り出し、水の中の服と靴へ向けてシャッターを切り始めた。何枚も色んな角度から撮るのを見て、ナキは遠慮がちに問いかけた。

 

「文さん、なんで写真を……」

 

「なんでって。いじめの証拠にするんですよ。忘れたんですか?」

 

 振り向いて呆れたように鼻を鳴らす文。その直後にナキは思い出したように「ああ」手のひらを打った。いつぞやの、文のカメラが川に落ちた事に端を発する事件である。あの時は結局『大天狗に写真という物的証拠をつきつける』という目論みは頓挫した訳だが、ナキはてっきりもう忘れているものと思っていたのだ。

 

「覚えていたんですね。あの事」

 

「……そりゃ私も、カメラを粗末に扱われましたからね~」

 

 文は写真を撮りながら一拍置いて、事もなげに答える。やがて彼女がふぅ、と息をつきその場から後ずさると、入れ替わりにナキが水中から服を拾い上げる。

 

「うわ、びしょびしょ……」

 

 苦笑いしながら着物を絞るナキ。そんな彼に「ねぇナキ君」とやや無愛想な声がかけられる。ナキがえ、と振り向くと、どうにも歯がゆい様子で頭をかいて文が言った。

 

「はい?」

 

「私も写真なんか撮っておいてなんですが……怒らないんですか?」

 

「……怒らない、とは?」

 

「もういっそぶん殴ってやりたいとか、そう思わないのかって事ですよ」

 

 その台詞を聞いて、ナキがふと押し黙る。実際、今こうして言葉少なに着物を絞っている間にも、胸中に怒りが渦巻いていた。しかしとうとう、腕力などに訴える事はしなかった。我慢強いと言えば聞こえはいいが、他人から見れば煮え切らないと言われても仕方ない態度であった。

 

「以前、一度殴ったでしょう? ああすればいいんです。他人の善意なんて当てにできませんよ。ここの河童たちだって見てみぬ振りをしたじゃないですか」

 

 文は周りに見え隠れする河童たちを指さして言い放つ。何人かが不快そうに眉をしかめたが、彼女は気にせずにナキをじっと見つめる。

 ナキはしばらく悲しそうに目を伏せていたが、まぶたを閉じて首を横に振り、寂しく笑う。

 

「……僕は、いやです」

 

 一旦言葉を切り、自分の手のひらを見つめながらナキは静かに語りだした。

 

「あの時……思わず仲間を殴っちゃった時……正直怖かったんです。仕返しにじゃなくて、相手を痛め付けちゃったのが。こう、ハッとなって気づいたら、手が震えていて……」

 

 そこまで言って顔をあげて笑みをつくると、少しだけ元気な声で言った。

 

「だから、できれば殴ったりしないで解決したいんです。その方が……いいんです」

 

「…………」

 

 辛そうに眉尻をさげて、それでも笑顔で言い切るナキ。文はそこまで聞いて黙って頷くと、つくづく呆れたという風に肩をすくめる。

 

「分かりました……。でも私が手を貸すのはこれっきりですから、あとは頼らないでくださいよ」

 

「……すみません」

 

 ナキは小さく頭を下げ、水浸しの靴を履く。やはり冷たいのか小さく表情を歪めるナキを尻目に、文はふわりと空へ浮かび上がる。

 

「私はこの写真を現像しますが……ナキ君はどうします?」

 

「ああ、えーと仕事場に上着の替えがあったので、それ着て見回りの続きをします。流石にもう寒いし」

 

 太陽ももう西側へとうに傾いている時分、すでに山には冷たい夕暮れの風が吹きはじめていた。濡れた上着を小脇に抱えてプルプル震えながら気丈に笑うナキを見ながら、文はクスリと笑う。

 

「分かりました。ではお気をつけて!」

 

「はい!」

 

 片手を上げ、文はあっという間にその場から飛び去っていく。木の葉が舞い、その場には変わらぬ威容で流れ続ける滝に、素知らぬ顔で水汲みなどしている河童。あとは微笑みながらもわずかに涙を溜めているナキがいた。

 

「……さて、急がないと日が暮れちゃう」

 

 一人でそう呟いて、ナキは大急ぎで天狗の本拠地へと駆け出した。

 

 

――

 

 

「ふぅー、やっと着いた……」

 

 何百足も入る靴箱に濡れた外靴を突っ込みながら、ナキはため息をつく。玄関の式台に座って泥だらけの足袋を脱ぎ、それでも汚さないようにとわずかに浮いて長い屋敷の廊下を進んでいく。あちこちで、規定ルートの見回りを終えたらしい白狼天狗たちが談笑する姿が目に入った。

 ふと、ナキの中にサボってしまおうかという邪念が頭をもたげるが、あわてて頬を叩いてそれを打ち消す。そして白狼天狗の控え室に向かい、自分のロッカーを開ける。

 

「よし……っと」

 

 中にあった替えの上着を羽織る。濡れた方は置いていく訳にもいかないので、そのまま持っていく事にした。

 さてまた出陣だ、と沈む気持ちをこらえて再び出口へ向かう。迷惑は被ったが、仕事はせねばなるまい。そんな事を考えながら控え室を出た時。

 

「あ、ナキ」

 

「あ……椛さん」

 

 見知った女性の声。振り向くと廊下の向こうから椛が駆け寄ってくる。書類仕事の途中だろうか、両手には数えきれないほどの紙の束がずっしりと抱えられている。

 

「まだ仕事ですか?」

 

「え、ええ……ちょっとトラブルがあって」

 

「ふむ……ん?」

 

 見回りの途中にあった出来事を思い出し、ナキは言いにくそうに答える。その時、椛の視線がふとナキの濡れた上着に移った。

 

「……どうしたのです? これ」

 

 途端に椛は真面目な顔になって聞いてくる。ナキはぎくりと体をすくませ、苦笑しつつ顔を逸らす。

 

「えーと……川に間違って落ちちゃって。着替えを取りにきたんです」

 

「…………」

 

 椛に厳しい顔で見つめられながら、ナキはしどろもどろに返答する。今まで受けた仕打ちを知られている故、そんな態度ではごまかせるはずもない。しかし、この時にもナキの中にある妙なプライドが正直に打ち明ける事を拒んでいた。

 

「で、ではまだ仕事があるので!」

 

「あっ、ちょっと……!」

 

 追求の視線に耐えられなくなったナキは、あわてて話を切り上げると一目散に廊下を飛んでいった。椛は一瞬あっけにとられ、遠ざかっていく背中へ声を張り上げる。

 

「烏天狗が言ってましたがー! これから多分雨、だって……行っちゃった」

 

 言い切る暇もなくナキは見えなくなり、椛は思わず額を押さえる。確かにナキは、傘を持っていなかった。

 

「…………あー……今日は水に縁があるなぁ」

 

 数十分後、しとしとと降り注ぐ雨の中、ナキはまたもやずぶ濡れになって山道を歩いていた。ちょうど見回りの交代時間なのか、周りに同僚の姿はとんと見当たらない。上着が張りつき、耳に水が入り、地面はぬかるむ。帰ったら急いでお風呂に入って洗濯をしなきゃいけない。憂鬱な頭の片隅でそんな事を考えながら、ナキはため息をつく。

 

「……頑張ろう。もうすぐこんな日々も終わるんだ」

 

 地面を踏みしめ、絞り出すように言う。脳裏に浮かぶのは文が撮った写真の事。新しい証拠があれば変わるかもしれない。

 今まで、椛に何度も手をかけさせていた。それが終わるかもしれないのだ。間違いなく力強い事だった。ただ……。

 

「……椛さん、そうしたら僕の事を……」

 

 ……以前、椛はそう言った。もしナキがイジメを受けなくなれば、彼女との関係は薄くなるかもしれない。ナキにとって、それは並々ならぬ苦痛であった。

 

 『私は隊長なんですから。部下は皆、平等に大事にします』

 

 いつか椛の言った言葉が、ナキの頭によみがえる。自分は単なる部下。そんな意識が、ナキの足取りを重くさせた。

 すると、上空から、雨音にまじって明るい声が降り注ぐ。

 

「ナキー!」

 

「……椛さん?」

 

 見上げると、番傘を差した椛が飛んでくるところだった。彼女が来るなど予想だにしなかったナキは、ポカンと口を開けて突っ立っている。

 

「やっと見つけた~、ずぶ濡れじゃないですか」

 

「なんでここに……」

 

「なんでって、あなたが傘もなしに出ていくからですよ。はいこれ」

 

 椛は事もなげに答え、自分の傘を差し出す。それを見て、ナキは頬をうっすらと染めた。

 

「は、入れと?」

 

「ええ、なにか?」

 

「か、傘だけ貸してもらう訳には……」

 

「それじゃ私が濡れちゃうじゃないですか。ほら早く」

 

 椛はにこりともせず急かすように傘を突きつけてくる。この人は鈍いのか天然なのか、と戸惑いながらナキは傘に入った。そして二人で一緒の見回りが始まる。

 

「あの……すみません。わざわざ」

 

「もう謝るのはなしですよ。私が勝手にやったんです」

 

 へりくだった言葉を口にするナキに、椛は相変わらず真面目な顔で答える。目はまっすぐ前を向いていた。

 ナキは横をついていく間、罪悪感がぬぐえなかった。着替えた時に見た椛の書類は、相当な重さがあったように見えた。ナキは、それを中断させたのだ。

 何度も、何度も何をしているのだろう。つくづく自分は手をかけさせて……とナキが内心で自己嫌悪に浸っていた頃。

 

「普段、頼りない分のお詫びですよ」

 

「お詫び?」

 

 突如、そう言った椛にナキは素早く顔をあげる。頼りない、それは助けられてばかりだったナキには信じがたい言葉だった。

 

「何度も大天狗様に話して……未だに進展がないんです。ごめんなさい、ダメな上司で」

 

「いや、そんなまさか……!」

 

「……多分、今日もやられたのでしょう?」

 

 申し訳なさそうな笑顔を向けられて、ナキはつい答えに窮してしまう。濡れた上着を見られた時に、既にバレていたのだ。ナキは姑息に隠し事をしていたのが恥ずかしくなり、首を縮めて目を伏せた。

 

「……いつもナキは真面目に仕事しているのに、恥ずかしい」

 

「椛さん……」

 

 今まで卑屈な態度で接してきてしまった上司。しかし今となっては、ナキは自己嫌悪していたのを恥ずかしく思った。椛は純粋に気にかけてくれている。それを目の当たりにすると、悩んでいたのがバカらしくなった。

 さっさとイジメを解決しよう。ナキはふとそう思った。椛に加えて、今回は文も協力してくれる。彼女らを素直に頼ろうという気持ちが、彼にようやく芽生えだしたのだ。

 

「椛さん」

 

「ん?」

 

「大天狗様と話す段取りを、お願いできませんか」

 

 椛をまっすぐ見てナキが頼むと、椛は意外そうに目を丸くする。

 

「できますが……なんです? 改まって」

 

「僕も、直接話します」

 

「ええっ?」

 

 ナキの宣言に椛は思わず聞き返した。泣き虫の彼が、天狗全員から恐れられている大天狗に会いたがるなんて、誰でも面食らうに違いない。

 しかしナキは視線を逸らさず、決意を強調するように続ける。

 

「文さんに聞いてみてください。一つ策があります……。もう、お世話はかけさせません!」

 

「……は、はぁ……」

 

 椛は別人を見るかのように面食らった顔をしていた。ナキの顔は見たことが無いほど強い意志があふれ……少しだけ、成長が感じられるものだった。



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腐った大天狗

今まで名字を出していなかった事に、今さら気づきました


「……も、もうすぐ来るんですよね……」

 

「ナキ、とりあえず落ち着きなさい。唇が紫ですよ」

 

 ある日、天狗の屋敷の奥の奥、普段は末端など立ち寄らない上層部の集まる棟。

 その中のこぢんまりとした和室に、ナキと椛は並んで座っていた。障子戸から入った先には重たく艶の入ったテーブルが置かれ、壁には掛け軸、その手前には慎ましやかな平たい焼き物に、色とりどりの花が活けてある。

 白く塗られた壁は染み一つなく、畳も本物のイグサが日に焼けず荒れずに整えられている。

 そんないかにも行儀よさを求めてくるような雰囲気の部屋で、ナキは椛と同じく座布団に正座し、背中をピンと伸ばした格好で固まっていた。

 

「そんなに怯える事ありませんってば。殺しに来る訳じゃないんですから」

 

「椛さんは平気なんですね……」

 

「私はまあ、何度も会っていますから」

 

 ナキのイジメの事で、と言い出しかけて椛は口をつぐみ、出されたお茶に手をつける。ナキは脚の上で握った手の中に汗を浮かべながら、じっとテーブルに目を落としていた。微かに震えているせいで、ナキの目の前の湯呑みのお茶が水面に波紋をつくっている。

 二人はナキがイジメを受けている事を訴えるために、今の和室に待たされているところであった。今度は直接会いたいと申し出たナキ本人を連れて。

 しかし、いよいよ会う段階になって、大天狗と初めて話す事になるナキは緊張と恐怖でブルブル震えてしまっていた。

 

「うー……いつも見ているだけでもおっかないんですよ、大天狗様」

 

「だったら誰に話すんですか。言っときますけど、天魔(てんま)様は会えそうにありませんよ。見た事ないし」

 

 椛は半分呆れながら言った。天魔というのは大天狗よりも更に上の立場にいる、天狗の頭領である。その権力は天狗たちのみならず河童たちにまで及び、一部を除いて妖怪の山を仕切っているような存在だ。女性らしいという噂だが、天狗の中でさえ姿を見た者はほとんどいない。

 ナキは椛の言葉にキュッと口を結び、真っ青ながらも真剣な表情になる。

 

「そ、そうですね……。勇気出さないと、進展しないし……」

 

「その意気です。ほら、ちゃんと証拠品もあります」

 

 椛は懐から写真を何枚か出してみせる。それは文が撮った、ナキの着物が滝壺に沈められた現場の写真だった。水面に浮かんでいる様子と、それに書かれているナキの名前をきっちりと納めている。

 

「そういえば、文さんは?」

 

「ああ、『深入りしたくないから』って、コレだけ渡してどっか行っちゃいましたよ」

 

「はは……」

 

 ため息まじりに言い捨てる椛に、ナキは苦笑する。彼も本音を言えば二人では心細かったのだが、文は元々あまり同情している風ではなかった。手助けしてくれるだけでも感謝しなければ、とナキは考え直す。隣では椛がしかめっ面で髪をかきあげていた。

 

「……せっかくナキが決心してくれたのに……」

 

「だ、大丈夫ですよ。僕は椛さんがいてくれるだけでも十分です」

 

 そうだ。結局一番がんばらなければいけないのは自分なのだ。自分がされた事を正直に訴えて対応を求めなければ、いじめられる日々はずっと続く。ナキはそう考えて自らを納得させ、奮い立たせた。

 ちょうどその時、廊下の向こうからドスドスと重たい足音が近づいてくるのが耳に入った。ナキはとっさに姿勢を直し、身構える。

 ガラリと乱暴にふすまが開け放たれ、髭を生やした大柄な男がちょっと屈んで入ってきた。大天狗である。前に張り出した太く大きな鼻の下に、二つに分かれた白い髭が蓄えられている。目つきは間近に見ると鋭く、小さい目の横にシワをつくりながらも身がすくむような恐怖を感じさせる。黒の着物に深草色の袴はそれぞれナキを覆うほどの大きさで、動きに沿ってなびくだけでもちょっとした迫力があった。

 大天狗は二人を一瞬ギロリと上から睨むと、向かいの座布団へ乱暴に腰を下ろす。そしてあぐらをかき、椛とナキを正面から見据える。

 ナキはその視線だけでまた怯えだし、ヒッと小さな声をあげる。椛はそれを横目に見て、頭を下げて最初の挨拶を述べた。

 

「忙しい中、面談の機会をいただきありがとうございます、大天狗様。今回は本人も来てくれましたので、是非とも話を聞いてあげてください」

 

「よ、よろしくお願いします!」

 

 あわててナキも同じように礼をする。大天狗は返事をせずに「ふむ」と太い声でつぶやき、ナキの方へ問いかける。

 

「ナキ……山吹(やまぶき)ナキ、だったな。イジメを受けているそうだな」

 

「は、はい……数人の同僚や、烏天狗さんの一部から……」

 

「具体的にはどのような?」

 

 「う……」と思わずナキは言い淀む。自身が受けたイジメ、心身ともに傷を受けたそれらを話すのは、やはり勇気が要った。

 すかさず、椛が口を挟む。

 

「大天狗様、それは今までにいくつかお伝えしたはずです。わざわざ細かく聞かなくとも……」

 

「いいや、やはり本人に確かめねばならん。ひょっとしたら『勘違いだった』可能性もある」

 

 大天狗は横柄な口調で椛の言葉をさえぎる。続けて、さも独り言かのように天井を見て、しかし二人に聞こえる声でこう言った。

 

「犯人は聞くところ、(ひのき)(くぬぎ)弟切(おとぎり)敦盛(あつもり)木瓜(ぼけ)……計五人が主か」

 

「……へ?」

 

 急に出てきたイジメっ子の名前に、ナキはキョトンとして顔を上げる。しかし大天狗はその直後に衝撃的な一言を放った。

 

「後で本人たちにも確認を取らねばならんのう」

 

「……っ!」

 

 ナキは背筋に寒気を覚えた。大天狗がイジメっ子たちに事情を聞く。それは裏を返せば今の告げ口を彼らに知られる事を意味する。以前は椛が訴えていたが、ナキ本人が動いたとなればあの悪童たちも危機感を覚えるだろう。完全に下に見ていた相手が間接的とはいえ反抗しだした……そう考えて仕返しに躍起になりかねない。

 すなわち、イジメの劇化がありうる。

 

「ま、待ってください、それは……」

 

「何か問題でも? お前の言い分一つで裁きを下す訳にはいくまい」

 

「でも……」

 

 ナキは絞り出すような声で異を唱えるが、大天狗は彼の懸念に気づいているのかいないのか、ぞんざいに問い返しただけだった。ただ、その口調にはいささか白々しさが混じっていた。

 ナキは言い返せず下を向いてしまう。代わりに今度は椛が口を開いた。

 

「大天狗様、確認をしたいのですが」

 

「なんじゃ?」

 

「その……犯人の五人に詳細を聞く時には、私たちも同席してよろしいですか?」

 

「ふむ……それは分からん。(わし)も暇ではないからな。事実確認が一度にできるとは限らん」

 

 大天狗は素知らぬ顔で首を横に振る。一度にできるとは限らない、つまり長くかかる可能性がある。罪が確定するまでの間、悪童たちはおそらく野放しだ。ナキがその間に何をされるか、分かったものではない。

 

「……で、最初の質問に答えてもらえるかな? 具体的には何をされたんだ?」

 

「…………」

 

 先ほどより威圧感をもって、話を戻す大天狗。ナキは相変わらず下を向き、答えにくそうに口ごもる。ここでイジメの内容を話せば、悪童たちの報復が待っている。かといってそれを恐れて『勘違いでした』とでも答えれば、それこそイジメ自体をなかった事にされるだろう。ナキもいよいよ大天狗の意図に気づき、俯いて唇を噛む。

 顔を上げると、隣で怒りの雰囲気を醸し出す椛が目に入る。眉間にきつくシワをつくり、口を引き結んで、今にも声をあげそうになるのを抑えているようであった。瞳は敵を見すえる狼がごとく、黄金色に鋭く刺すような光を放っていた。

 その目がふと横に流れると、ナキと視線が合う。今にも泣き出しそうなナキの顔を見て、椛がふっと我に返る。

 瞬間、椛の目が見守るようなそれに変わった。そして表情を引き締め、一つ頷く。それを見て、ナキもわずかに緊張が解けた。少なくとも椛は味方だ、と思い直す余裕ができる。

 

「僕は……色んな事を、されました」

 

 たどたどしくだが、どうにか言葉を紡ぎだす。そして苦い気分をこらえながら、今までの仕打ちをいくつか打ち明けた。

 

「地下への縦穴に追い立てられたり、パシりをやらされたり、着物と、靴を……取られて……」

 

 喋るうちにだんだんと涙声になっていく。セリフが途切れかけた頃、今度は椛が身を乗り出す。懐から素早く、例の写真を取り出した。

 

「証拠はここにあります。見てください」

 

「……ふむ」

 

 机に広げられた数枚の写真を、大天狗は順番に手にとって眺める。滝壺に浮かぶ着物と靴、それらに刻まれたナキの名前……。しばらくそれをジロジロと見つめた後、大天狗は持っていた写真を机に放り出し、低いため息をついた。

 

「なるほどな、嘘ではないようだ……」

 

「分かっていただけましたか?」

 

 畳み掛けるように念を押す椛。先ほどからいまいち誠意のない態度を見せられ、顔色は険しいままだ。ナキはかろうじて顔を上げているが、明らかに萎縮している。

 ところが大天狗はそんな二人をにらみつけ、こんな質問を返す。

 

「この写真を撮ったのは誰だ?」

 

「……答えられません。イジメの犯人たちにからまれた経験があって、名前を出して欲しくないそうです」

 

 つらつらと返した椛のセリフに嘘はない。しかし実際、文はそこまで厳密に気にしてはいなかった。

 見るからにイジメの対応に乗り気でない大天狗。彼になるべく協力者の名は知らせずにおこうという、椛なりの言い逃れである。

 

「ふん、そうか」

 

 大天狗はいら立ち混じりにそうつぶやく。椛とナキはそこから続く言葉をじっと待つ。事実を確かめ写真の出所も一応は答えた。あとはどう対応するかの段階だ。

 しかし。

 

「……あっ……?」

 

 突如、大天狗は答える代わりに机に散らばっていた写真を素早くかき集めだした。そして二人が口を開く間もなく、早口にこう言い放つ。

 

「この写真は儂があずかっておく。折りを見て天魔様に渡しておこう」

 

 言うが早いか写真を懐にしまい込み、大天狗はすっくと立ち上がる。とっさに椛が腰をあげ、大天狗を引き留めた。

 

「お待ちください! まだ話は……」

 

「あいにく儂らは忙しいのでな。ここらで切り上げねばならん」

 

「せ、せめてこれからどうするおつもりなのか、教えてくださいっ!!」

 

 ナキも机から必死に身を乗り出し、今後の対応を聞き出そうとする。しかしそんなナキを鬱陶しそうに見下ろして睨みながら、大天狗は吐き捨てるように言った。

 

「それは後日に改めて伝える……。まずは天魔様にも話を通さねばな」

 

「それは……どれくらいかかるんです?」

 

「知らん! 天魔様はお忙しい身だ。くれぐれも貴様らで勝手に相談しようなどと考えるなよ」

 

「なあっ……!?」

 

 あまりに横柄な物言いに、椛は思わず怒気を露にする。上司だというのも構わず、勢いよく大天狗に詰め寄った。

 

「そんな言い方はないでしょう? 一番早く解決したいのはナキ本人なんですよ?」

 

 大天狗の腹ていどの背丈しかない椛が、下から食らいつくような目つきで言い募る。しかし、大天狗から飛び出したのは、冷酷な一言だった。

 

「……半妖の末端一人に、そこまで手をかけられるか」

 

「……ぐっ……!」

 

「……あ……ぁ」

 

 その言葉に、椛は怒りに顔をゆがめ、ナキは目に涙をにじませた。大天狗はそんな様子には一切構わずに背を向け、障子を開け放して出ていってしまった。

 

「…………」

 

「……そんな……」

 

 二人は全開になったままの障子をそのままに呆然としていた。乱暴な足音が遠ざかっていく。そんな中で、いまだ信じられないといった表情のナキが、ぽつんと悲壮な言葉を吐いた。

 

 

――

 

 

「あややや~、それはまた不誠実ですね~」

 

 ……その面談から一夜明けて。椛から詳細を聞いた文は、わざとらしくすっとんきょうな声をあげた。九天の滝のそば、高い樹の枝に並んで座りながら、文は幹に寄りかかり、椛は背筋を伸ばして文を困った表情で見ている。

 

「……やっぱり、真面目に解決する気はないのでしょうか」

 

「まあそうでしょうねー。聞いといてよかった。予想外の無責任さ」

 

 文は頭をがしがしとかきながら、呆れ顔で大天狗を酷評する。深入りしたくないと言いながら、やはり多少は気にしているようだった。

 

「報復をちらつかせて口封じを謀り、それがダメとなるや私の名を聞き出そうとして……」

 

 そこでぐっと背筋を伸ばし、わずかに真剣な顔になる。

 

「いつまでに見せる、と明言してない以上、写真はもみ消されると見ていいでしょう。『天魔様は忙しい、勝手に相談するな』というのは、大天狗が上に話を通さず握りつぶすという意味……」

 

「そんな……そこまで……」

 

「最後のセリフで本音が分かるでしょう。『半妖の末端一人に、そこまで手をかけられるか』とね」

 

「…………」

 

 文の冷静な一言に、椛はついに押し黙る。大天狗はイジメを解決する気はない。それどころか隠蔽しようとしている。その事実は、今まで何度も相談してきた椛にとって認めたくない残酷な現実であった。

 

「写真を全て渡さなくてよかった。今頃、多分捨てられています」

 

 文はやれやれと肩をすくめ、地上へと目を落とす。椛はやはりショックを受けたのか、俯いたまま黙りこんでしまった。

 眼下にはちょうど、滝壺から流れる川の水で顔を洗っているナキの姿があった。やはり不安は解消された様子もなく、しきりにあちこちを見回している。

 

「……そこまで上層部(うえ)が腐っているとなると、私も身の振り方を考えねばなりませんね」

 

 ふと、ナキを目で追いながら文がつぶやく。椛がへ、と振り向くと、文はいつもの胡散臭い笑みを浮かべ、ピッと人差し指を突きつける。

 

「椛。このままじゃ私たち三人はつま弾きにあってしまいます。山での生活は苦しくなるでしょう」

 

「……それにしては気楽そうですが」

 

「なぁに、手はまだまだありますよ」

 

 文は勝ち気な口調で言って、今度は下の滝を指さした。何があるのかと椛が屈んで目をこらしていると、文は指し示す正体は教えずに、こう胸を張る。

 

「まずは、味方を増やしましょう!」

 

 自信満々にそう言った文の真下では、ちょうどナキと入れ替わりに滝の裏側から姿をあらわす、たくさんの河童たちの姿があった。



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水と機械に強い傍観者 前編

※序盤から中盤に出てくる河童社会の描写は、完全に私の想像です


「ちょ、ちょっと文さん。どこまで連れていくんですか?」

 

「まあまあ、それは見てからのお楽しみ!」

 

 ある日の夕方。仕事を終えたナキは椛と文に連れられて山の上空を飛んでいた。

 ナキは仕事あがりに急に文に引っ張られてきたので、未だに怪訝な顔をしている。椛は非番だったらしく紅葉色の着物と紺の袴という普段着を着ていたが、別に不満という風ではなく無口なままナキの隣を飛ぶ。すでに冷ややかな風が吹いていたが、文は全く意に介さずに一人でニコニコと先頭をきっていた。

 

「……椛さん、これって一体……」

 

「うーん、まあ秘密……というか、悪い事は起こりませんから」

 

 椛は珍しく歯切れの悪い笑顔を見せ、あいまいな言葉を並べる。ナキはそれを見てかえって悪い予感がし、飛びながら周囲をキョロキョロと見渡した。

 山の木々はすでに秋の装いになっていた。一面を覆っていた緑が紅や黄色に塗り変わり、日暮れ前の薄い水色に照らされて鮮やかな景色をつくっている。

 

 その紅葉に、一筋の切れ目が現れる。目を凝らせば光を受けてきらめく水の流れが見えた。その川の流れをたどっていくと、やがて切り立った崖から流れる大きな滝が見えてきた。かつてナキが河童の集団と顔合わせした山の名所、九天の滝である。

 文はその近くの一点に目を留めるなり、手を勢いよく振りながら大きな声を張り上げた。

 

「おぉ~い、にとり~~っ!!」

 

「へ……いっ!?」

 

 その瞬間、滝壺の近くでぽつんと座っていた一人の河童の少女が素早く文へと振り向く。そして三人に気がつくなり逃げ出しそうに身構えたが、文は落ちるより速い勢いでその河童の元へと飛んでいく。

 

「久々ですねぇ、元気してます?」

 

「な、なんか用? 私いま忙しいんだけど……」

 

 文が目の前に降り立ちにこやかに挨拶するのに対して、にとりと呼ばれた少女は警戒しながらじりじりと後ずさる。釣りをしていたのか、そばには釣り竿と空の魚籠(びく)が置いてあった。

 にとりは河童なだけあって小柄であった。背丈は文の胸元程度しかなく、水色のコートと長靴が妙にぴったりと似合う。背中には背負えるのが不思議なくらい大きな緑色のリュックサックを背負い、頭には白の柄が入った緑色のキャップが乗っている。水色の髪はピンクの髪留めでツインテールにされ、丸っこい子供のような目とよく似合っていた。

 

「そう嫌な顔しないでくださいよ。実はちょっと、カメラを見てもらいたくて」

 

 文は相変わらず笑みを顔に張りつけながら、愛用のフィルムカメラを差し出す。にとりはそれに目を落として眉をしかめ、顔を上げてこう言った。

 

「それはまあいいけどさぁ……椛と、その子は誰だい?」

 

 にとりは問いながら文の背後を覗き込む。文が振り向くと、ちょうど他の二人が追い付いたところだった。

 「ああ」と文は肩をすくめ、またにとりに振り向く。

 

「椛はまあ……私が誘ったんです。そして彼、ナキ君がカメラに興味があるらしくて。修理する所を見せてあげてくれませんかね」

 

「へ?」

 

 文が突如として言い放ったデタラメに、ナキはつい面食らう。文がまた振り返り『話を合わせろ』と言いたげに人差し指を口元に当てる。椛の方を見れば、お辞儀などをしてから苦笑いを向けてきた。ナキは仕方なく愛想笑いを浮かべる。

 

「え、ええ。そうなんです。お願いできませんか」

 

「お仕事の邪魔はいたしませんので~」

 

「…………」

 

 若干、自分の声が上ずったようにナキは思った。そのせいかにとりは下から見上げるように、ナキへ疑惑の視線を向けてくる。河童は機械いじりが得意だというが、自分より背の低いにとりを見てそんなに頼りになるのかとナキは少々いぶかしんだ。

 

「……まあいいか、どうせ釣れないし。ついておいでよ」

 

 にとりはトゲのある言い方をしながら釣り竿と魚籠を拾うと、背を向けて歩き出す。文、椛がその後を続き、ナキが最後尾となった。

 どこか作業のできる場所があるのかな、とナキが思っているうちに、にとりはどんどん滝の方へ近づいていく。

 

「あの、あんまり近づいたら危ないんじゃ……」

 

「心配無用さ。ただちょっと濡れるよ」

 

「え……わ、ちょっと!?」

 

 にとりはボソリとそう言うなり、岩を蹴ってひとっ跳びに滝の中へと飛び込んでしまった。ナキが呆気に取られている間に、文も飛び込んでいく。

 

「ナキ、つかまって」

 

「椛さ……ひゃあっ!」

 

 椛がナキの手を掴んだかと思うと、彼女もまた滝へと突っ込んでいく。大量の水が一瞬だけ全身にぶつかり、ぱちゃ、と音を立てて固い岩の上に足が着く。

 

「ぷはっ! は、はぁっ」

 

 ナキは思わずかぶりを振り、顔にかかった水滴を振り落とす。中からポタポタと水を漏らし、耳がプルプルと震えた。

 

「ったく、毎度毎度ぬれなきゃいけないの、どうにかなりませんかね」

 

「これくらいの水がなんだってのさ。大体ここは河童以外、滅多に来ないの」

 

 前方で文とにとりの話し声が聞こえる。周りに反響してか、やけに声が響いていた。ナキは目にしたたる滴をぬぐい、何度もまばたきした。ぼやけていた視界が鮮明になっていく。薄暗い。どうやら岩に囲まれた、洞穴のような場所にいるらしいとナキは気づく。

 その次に見えたのは、手を繋いだままナキを見ている椛の姿だった。同じようにずぶ濡れとなり、襟元まである髪から滴が落ちる。暗闇の中で光る黄金色の目が合うと同時に、ナキの目には別のものが飛び込んできた。

 水を吸い、肌に張り付いた着物。水滴が滑る冷たそうな肌と合わせて見ると、少々背徳的なものがあった。

 

「あ……あぅ」

 

 ナキはとたんに真っ赤になり、手を振り払って椛に背を向けてしまった。当の椛は恥ずかしがる理由に心明かりがないらしく、ただ首をかしげる。洞穴の先では文がニマニマと笑い、にとりが呆れたように薄目で視線を向けていた。

 

「とにかく行くよ。時間を無駄にしたくない」

 

 背中を向け、ズンズン先を行くにとり。洞穴はずいぶん遠くへ続いているらしく、水たまりの跳ねる音が小さくなっていく。

 

「私たちも急ぎましょう」

 

「ナキ、走っちゃダメですよ」

 

「は……はい」

 

 高下駄にも関わらず走り出す文。椛は真似しないように、と子供に言い聞かせるように言って、前を慎重に歩く。ナキは「この先なんですか」と聞こうとした口を閉ざし、黙ってついて行く事にした。道幅は二人がやっと横に並べるかどうかという所。初めて歩く河童の通り道に戸惑いながら、壁に手をついて、足元をチラチラと窺いながら椛の後ろを歩き出した。

 何分かの間、曲がり角も突き当たりも見えない暗がりの道が続いた。足元も平坦ならば楽だったろうが、あいにく岩場を削ったような地面は細かな凹凸や石ころが至る場所にあり、何度か足をすくわれそうになった。ナキは人間の血が混じっているために夜目も弱く、自然と地面に注意をはらう。

 地面には川の水が滲み出してきているのか、水たまりと湿気で靴は水浸し、壁を触る手も全面が冷たく塗れ、上からは水滴が不意に落ち、首筋をひやりとさせてくる。

 

「のわっ!」

 

「あーもう、大丈夫かい?」

 

 突然、ナキの前方で文の叫び声がした。見るとどうやら躓いたらしく、壁に手をつき片足立ちで下駄に足をはめ直している。勝手知ったるという風に一人で遠くに行っていたにとりは、ため息まじりに文を眺めている。

 

「失礼、鳥目だとどうも困ります……。この道あいかわらず暗いんですねぇ」

 

「明かりつけたら目立つだろ。金も手間もかかるしさ」

 

 文がやれやれと文句を言って近づくのをにとりは一蹴し、また歩き出す。少しして、今度は無言で歩いていた椛が振り向いた。

 

「ナキ、あなたは真ん中歩いてください。この先は階段ですから」

 

 有無を言わさず背中を押し、椛の前に立たされる。ナキが見ると文とにとりはすでに下り階段を進み、頭が低くなっているところだった。斜め下に目を凝らすと確かに鉄製の大きな扉があり、隙間から明かりが漏れている。その明かりに照らされ、それまでの通路と違いコンクリートで綺麗に整えられた灰色の階段が見えた。

 てくてくと階段を降りていく間、先を行っていた二人は扉の前でずっと待っていた。後ろの椛は一度もせかさない。しばらくしてようやく全員が扉にたどり着くと、文が期待を煽るような口調で言う。

 

「ふふ、ナキ君は河童の街を見るのは初めてですよね~。驚きますよ、きっと」

 

「は……はぁ」

 

 ナキは生返事を返す。実際、こんな地下まで本当に河童の手が及んでいるとは、すぐには信じられなかった。妖怪の山の地下には別世界がある、なんて噂は幾度となく聞いていたが、彼は一度も確かめた事はなかったのだ。

 にとりの方を見ると笑みのかけらもなく迷惑そうな顔をしていた。ナキからはそっけなく目をそらし、扉の半分を無造作に引く。

 重い金属音とともに扉が開かれ、久しぶりの光が飛び込んでくる。思わず顔をしかめ、そしてナキは中に広がっていた光景に目を見張った。

 

「わぁっ……」

 

 そこには、ナキの見てきた幻想郷とは違う世界が広がっていた。

 眼前にはまず赤や茶色のレンガで建てられた工場がいくつも広がり、一つ一つがちょっとした丘のような大きさに見えた。三角形の金属製の屋根が連なる様は遠目に見るとノコギリの歯のようで、そこから生えたたくさんの灰色の煙突が遠慮なく煙を吐いている。

 その煙が太陽を覆い隠しているかのように、工場の影が並んだ視界は薄暗い。ただ、ナキは煙につられて上を見上げ、その理由に気づいた。

 

 煙の向かう先には赤褐色の不毛な土の天井がでんと広がり、空気を取り入れるためか所々につけられた巨大なエアコンのような機械から煙を吸っていた。天井には他にも黒い線のようなものが幾らかたるみをもって張り巡らされ、点在する丸く巨大な電灯に繋がっている。亀の甲羅のような形の電灯は太陽や星とは違った無機質な明かりを提供していた。

 

「これが山の内部につくられた、河童の敷地ですよ。驚いたでしょう?」

 

「はい、すごいや……」

 

 文が何故か自慢げに言うと、ナキは感嘆した表情で辺りを見渡す。山のような緑は見当たらず、工場をはじめ図形のような人工的な建物ばかりが目に入るのが、彼には新鮮だった。

 そんな二人に、後ろから椛が声をかける。

 

「あの、にとりが先に行っちゃいますよ」

 

「え? だぁっ、ちょっとー! 待ってくださいよーもぉー!」

 

 ふと視線を移すとにとりはすでにスタスタと先を歩いていた。雨も降らない地中を長靴で歩く彼女に、三人はやかましく騒ぐ文を先頭にして追いすがる。

 

「なんで先に行くんです。冷たいなぁ」

 

「うるさいよアンタは。私は観光案内する気はないの。ほら、早くついて来て」

 

 にとりは鬱陶しげに言い放って、また歩き出す。三人はぞろぞろと不機嫌なにとりの後をついていった。

 一行は一キロ四方もありそうな工場地帯を横目に喧騒の少ない区画へと向かっていく。途中で文がうるさいと言われたそばから「相変わらずキュウリばっかし作ってますよ。ホラホラ」などと言って後ろへ話しかける。ただ一人高下駄でアスファルトを蹴る音が、またうるさい。

 言われてナキが横を見ると、街路樹と一画を覆う高いフェンス。その向こうには畑だろうか、柔らかく小さい起伏がついた黒土が一面に広がり、そこにビニールで作ったかまぼこ形の建物がいくつもあるのが見える。

 

「……地底の熱を利用して、年中夏野菜をつくるらしいです。今は研究中ですって」

 

 しんがりで黙っていた椛が口を開いた。ナキが振り向くと、ふと目が合う。

 気づいた椛が目を合わせたまま、ナキをジッと見つめた。ナキがキョトンとして目をしばたかせていると、椛はふとこんな事を聞いた。

 

「ナキ、寒くないですか? 替えの服があれば良かったですね」

 

「へ、ああ」

 

 気遣うように言われ、ナキは最初に滝に塗れた事を思い出す。先ほど聞いた地底の熱とやらのおかげか、辺りには少し熱気がある。自身を見返すと、服はほとんど乾いていた。

 

「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

 

 ナキは微笑んでそう答え、無意識のうちに椛の着物へと視線をすべらせていた。椛も同じように乾いている。

 また同じくキョトンと戸惑う椛。ナキは内心でがっかりする自分の頬を両手ではたき、早足に二人を追いかけていった。

 

 そうこうしているうちに、一行の前に一つ、大きな木造の建物が見えてくる。木造といっても天狗たちの出入りする屋敷のようなものではない。高さは二階建てほどで、所々古い木材で組んだ建物のてっぺんには金属の薄い屋根が乗っかっている。さらにナキが驚いたのは、入り口らしきものがいくつも等間隔で並んでいる事だった。木製の洋式ドアが八つあり、二階へ伸びる階段が外側から備え付けられている。

 辺りを見れば、おなじような長方形の建物がドミノのようにズラリと建っている。

 

「……これ、家、でしょうか?」

 

「集合住宅。つっても分かんないか……。ま、長屋みたいなものさ」

 

 顔も合わさずに言ってのけて、にとりは階段を登りだす。後ろをついていくと、カンカンとくぐもった金属の音がした。ふと手すりをみると点々と赤茶けたサビがついている。

 ちょうど一階の軒先の屋根みたいに張り出した二階の廊下を通りすぎ、にとりは一番奥で立ち止まる。そしてリュックサックの背負い紐が×字に交差する部分についた胸元の鍵を手に取り、それをドアの簡素な鍵穴に差し込んだ。

 鍵を回すと、カチリと小さい音がした。続けてノブを回してドアを開けると、機械油の臭いがつんとナキの鼻をついてくる。

 

「おっ邪魔しま~す!」

 

 一足先に文は家主の脇をすり抜け、部屋に上がり込む。パタパタと中を走っていく音がして、三人はやれやれと顔を見合わせた。

 ぞろぞろと中に入り、靴を脱ぐ。土間は猫の額のようで、にとりの長靴にサンダル、文の高下駄にナキと椛の靴が並ぶと簡単にいっぱいになってしまった。周りも狭く、靴箱を置くスペースもない。椛が靴を揃えるのを見て、ナキもそれに倣う。窮屈で前後を入れかえるだけでも一苦労だった。

 

 玄関をまたぎ、部屋の畳に足を着ける。広さは四畳半ほどでナキには狭く感じられたが、代わりに辺りを見渡すとナキの知らないものが次々と目に飛び込んできた。

 まず、玄関から右側にはナキの背丈ほどもある謎の白い箱。先ほど窮屈に感じた原因の一つはこれである。先ほど後ろ側からかすかに生暖かい風が流れてきたのを思い出したが、彼にはそれが冷蔵庫という機械だとまでは分からなかった。

 その隣には流し台およびキッチン。今度はなんとなく雰囲気を感じたが、さすがに金属製の管、水道の蛇口まではピンとこない。そのすぐ上の壁に設置された換気扇からは、工作に使う油とはまた違う臭いがうっすら漂ってくる。

 他にはタンス、本棚、トイレや風呂に繋がるであろうドア。押し入れそして一番目立つのが入り口の向かい……窓に面して置かれた机と、その周りに積み重なった物の数々であった。

 

 木で作られた武骨な机椅子。机の上には大きめの電気スタンド、そして小さい工具箱がフタを開けたまま置かれ、スパナ、ニッパー、ドライバーなどの工具がのぞいている。それらを日常的に使うのか、机上には保護のためのカッターマットが敷かれていた。更に机の下には、工具箱一つでは足りないのか大型のプラスチックケースが。そして同じく足元、机の脇にまで未完成らしき機械類が雑多なコードや基盤をさらした姿で積まれていた。

 四畳半という狭さのためか、その機械のテリトリーは机の周囲一帯に広がっており、更に隣には"ネジ◯ミリメートル"、"銅線◯ミリメートル"などとそれぞれ引き出しに張り紙された棚が壁の半分以上の高さでそびえ立っている。机の前に面した窓などは、もうほとんど隠れてしまっていた。

 

「相変わらず散らかっていますね~」

 

「悪かったね。いいからカメラよこしなよ」

 

 無遠慮に感想を述べる文をあしらい、にとりは差し出されたカメラを引ったくる。そしてリュックを置いて帽子を脱ぎ椅子に座ると、コートも脱いで背もたれにかけ、黒のタンクトップ一枚になる。

 

「あの、僕らはどうしていれば……」

 

「……カメラに興味あるんだろ? ならこっち来れば」

 

「あ、そうですね……」

 

 ぶっきらぼうに言われ、ナキは静かににとりのそばに寄り手元を覗き込む。椛もその隣に立った。文だけは三人に近寄らず、作りかけの機械などを鼻唄混じりに手に取り眺めている。

 文の姿を一瞥し、にとりはカメラに向き直ると無言で凝視しだした。ナキは所在なさげにぽつんと立っていたが、気にする様子はない。

 

 しばらく様々な角度から観察した後、にとりは文の方に顔だけ向き直り、苛立った声で言った。

 

「ちょっとー、コレどんな使い方したのさ? 細かい所が汚れまくってんだけど」

 

「ああすいません。訳あって以前、水に落としちゃったんです」

 

「じゃあすぐに見せに来なよ。カビが固まってるじゃないか」

 

「いやー、動くからいいかなって……」

 

「良くない! 細かく手入れしないと、後で泣きを見るよ?」

 

 「全く……」とぶつくさを言いながら、にとりはドライバーを取り出しカメラを分解しはじめる。カチャカチャと細かくいじり回す横で、ナキがおずおずと口を開いた。

 

「あの……そのカメラ、にとりさんが作ったんですか?」

 

「いんや、元々は外から流れてきたモンなんだけど……私が時々メンテナンスしてるのさ。他にできる奴が少ないし」

 

「いや~、毎度毎度ありがとうございます」

 

「ったく、大事に使いなよ。こちとらタダでやってんだからさ」

 

 調子よく笑いながら礼を言う文に、にとりが呆れたように言い返す。口調は剣呑だったが、その表情はそれほど怒っているようには見えなかった。

 にとりが引き続きカメラを弄くる間、部屋の中はほとんど無言であった。時折文がラジコンとカメラの組み合わさったような機械を見つけて感嘆の声をあげたり、椛がナキにカメラの使い方について教えたりなどする他は、滅多に言葉は発せられなかった。

 特に、ナキとにとりのやりとりは皆無である。それは元から関わりが薄いせいもあるだろうが、にとりが喋るどころかカメラから視線を逸らす気配すらない事が大きい。その目移りしない熱意を前に、話しかけるような勇気はナキにはなかった。

 河童の文明のおかげか、地中の町にはやがて夕暮れのオレンジ色が降り注ぎ、にとりの部屋の窓からも差し込んでくる。隠されがちな窓からの鋭い光に照らされ、にとりの体に濃い影ができる。

 

「ふぅー……」

 

 ふと、にとりが作業を中断し、額を押さえる。そしてナキの方を回って体ごと振り向き、文に苦言を呈した。

 

「文ー、ダメだわ。部品の換装とかやったらこれ三日くらいかかるよ」

 

「あや、そんなに酷いんですか? まあ、どっぷり川に沈みましたからね」

 

 文は部屋の中央にあぐらをかき、他人事のように答えた。視線はいつの間にか手に取っていた本へと注がれている。ちなみにタイトルは"東方鈴◯庵"。

 

「川ぁ?」

 

「そうそう、そこのナキ君が引き上げてくれなきゃ、今ごろ行方不明ですよ」

 

「へ?」

 

 文に突如指をさされ、ナキはポカンと目をしばたかせる。視線を移してきたにとりと目が合った。ナキがしどろもどろになっていると、今度は隣にいた椛が言った。

 

「ナキは、地面の形を変えたり不思議な事が出来るんですよ。見たことありませんか? 時々山に壁が出来ていたりするの」

 

「あー……」

 

 にとりはしばし顎に手を当て、天井をにらむ。そして目の前のナキに向けて、多少は興味ありげに話しかけた。

 

「ふーん、あの遺跡の残骸みたいになってるの、アンタだったのかい」

 

「え、ええ。まあ……」

 

 ナキをぼんやり見つめながら、にとりが感想を述べる。すると、そこで間髪を入れず、椛の口が回り出す。

 

「確か、河童は水を操れましたよね。ナキの能力とも相性がいいと思うんですよ。それで、お近づきになったらお互いこれから役に立つのではないかと……」

 

 まるでナキの能力をアピールするかのような椛の台詞を聞いて、ナキはいよいよある事に感づく。そもそも文と椛の二人が、彼をにとりに引き合わせた理由。

 恐らく、ナキのイジメが大天狗に訴えかけても何も変わらない状況にあって、新たに味方をつくるべきだと考えたのだろう。そこで普段見てみぬふりをしている河童たち、その中で交流のあるにとりに白羽の矢が立ったのだ。

 ナキからすれば、友達づくりをお世話された……といっても間違いではない。彼もさすがに恥ずかしさを覚えたが、自身のふがいなさのせいだと思い直し、黙っておく。

 

「むー……」

 

 一方にとりは、気難しい顔で値踏みするようにナキを見つめている。ナキはなんだか別の意味で恥ずかしくなり、ふっと目を逸らした。

 しかし、にとりは不意に寂しげなため息をつくと、椅子にどっかりと背を預けた。そして、ぽつりと言う。

 

「……ナキ、アンタさ」

 

「は、はいっ」

 

「カメラに興味があるっての、嘘でしょ?」

 

 静かに放たれた言葉に、ナキはピクッと体を震わせた。その場の空気に合わせてついた嘘だったが、椛と文の狙いが分かった今では、どうにかして接点をつくろうとしていたのを見透かされたか、とつい考えてしまう。

 

「目を見りゃ分かるよ。どう見ても機械好きって目じゃない」

 

「それは……その……」

 

 かくして、その予想はずばり的中していた。続けてにとりは居心地悪そうに口を結び、小さな声でこう言った。

 

「……アンタ、あのイジメられてた子でしょ? 顔見て分かってたんだよ」

 

「……え」

 

「文も何を企んだかと思えば……」

 

 今度は椛の方をちらと見て、肩を鳴らしながら言う。

 

「前々から、遠回しに相談は受けてたんだよねぇ。部下が困ってるってさ」

 

 やはり、イジメがらみだというのは見抜いていたらしい。椛が悩んでいるという事前情報があればなおさらだ。

 雲行きが怪しくなってきたと感じて、椛が割って入る。

 

「……嘘をつかせた事は謝ります。でも、事態は深刻なんです。相手は複数で、死の危険を伴うような悪戯まで……」

 

 身を乗りだし、ナキ本人も置いてきぼりにする勢いでにとりに窮状を訴えかける椛。しかしにとりは煮え切らない顔で頭をかき、こう答える。

 

「いや、別にその子の事は嫌いじゃないけどさ、私が何かしたって……」

 

「大天狗様が、なかなか事実を認めようとしてくれないんですよ」

 

 鈴◯庵の三巻を読み進めていた文が立ち上がり、にとりへ歩み寄る。その表情は珍しく真面目で、座ったまま間に挟まれたにとりは気まずそうに左右に視線を巡らせた。

 

「今のところ上層部(うえ)を動かす決め手はありませんが、証言者が増えるだけでも無駄ではないはずです」

 

「…………」

 

 文の言葉に、にとりは鬱陶しげに顔を伏せる。それはどこか、ふて腐れたようでもあった。

 

「……にとり、これは友人としての頼みです。何かあった時に、協力してもらえませんか」

 

「……けど、今さら……」

 

 椛が膝をつき、にとりの顔のすぐ横からなおも頼み込む。にとりは肘をつき顔をそむけて、かすかにつぶやいただけだった。続けてまた椛が口を開こうとした時、突如ナキが手でさえぎる。

 

「あの、もう……いいです。よしてください」

 

 気弱そうに、しかし椛の前へと割って入って彼女を静止する。「でも……」と椛が食い下がろうとするのを、ナキは言葉で制した。

 

「無理を言っちゃダメですよ……。元々、にとりさんは関係なかったんですから」

 

 ナキは得意のつくり笑いを浮かべ、椛と文をなだめる。椛は納得いかない様子で眉をひそめていたが、文の方は「ふむ」といって髪をかきあげ、からりと明るい笑顔になって言う。

 

「とりあえず、今日は帰りますか。もう夜ですしね」

 

 その言葉にナキが窓を見ると、もう外には藍色の闇が充満していた。河童の技術に心の片隅で感心するナキ。そして三人はぞろぞろと戸口へ向かう。最後尾の椛だけが、いまだ釈然としない面持ちだった。

 

「じゃ、にとり。三日後にカメラ取りに来ますので」

 

「お邪魔しました、にとりさん」

 

「……失礼します」

 

 それぞれの挨拶を残し、ドアが閉まる音が部屋に響く。とうとう部屋にはにとり一人だけになった。彼女はしばらく黙って机に向かっていたが、やがて立ち上がると部屋中央に垂れ下がる紐を引き、電灯の明かりをつけた。

 室内が瞬く間に明るくなる。机ばかり見ていたせいかまぶしそうに顔をしかめ、にとりはしばらくボーッとその電灯を眺めていた。

 

「仕方ないじゃん……。今さら味方ヅラなんてさぁ」

 

 そうつぶやいた表情は一層ふて腐れたようで、また、ほんの少し悲しげだった。



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水と機械に強い傍観者 中編

 ……そろそろ真上に昇る太陽が、灰色の雲に隠される。晴れの日ならば空は今ごろ爽やかに輝き、肌寒い秋にも明るさと暖かみを届けてくれるのだが、その日はまるで空全体に薄墨を撒いたような鬱々とした天気で、どうにもそんなものは望めない雲行きだった。

 

 気候というものは、とりわけ山の上ではせわしく変化する。幻想郷の妖怪の山も、すでに山頂付近にはどんよりとした雨雲が間近に迫ってくるのが見えた。

 そこから少し下った場所に、九天の滝がある。上流から下る川の水が高い崖から滑り落ち、あたかも大きな銀色の布のように美しく光る。水流が太陽に照り返してきらめく様は、夏などには絶景であると評判であった。

 ところが、こう曇天の中にあっては、その魅力も半減する。雲に覆われた空を写して滝の水は総じて鉛色に染まり、滝壺に流れ込む音も心なしか重たく、水底はほの暗い。

 周りを囲む木々はただですら少ない日光をさえぎり、そこだけ夕闇に包まれたような鬱蒼とした空間を作り出している。赤や黄に染まった木の葉もそろって鮮やかさを陰にひそめ、風に揺られる様子は丑三つ時の柳のようだった。

 

 そんな、一人で佇んでいると幽霊と間違われそうな滝壺の岩辺に、一人の河童が座っていた。傍らには魚籠(びく)を置き、木で作った簡素な釣竿の糸を滝壺の水中に垂らしている。

 大人の半分くらいの背丈、背中のリュックサックや水色のコートに長靴という河童のお馴染みの姿だが、一つだけ目立ったチャームポイントがある。

 緑の帽子の下、ピンクの髪留めで二つに結んだ水色の髪。それは文からカメラを渡されていた河童の女の子、にとりのものであった。

 

「…………」

 

 にとりは何やら沈んだ表情をし、黙りこくって釣り糸の垂れた水面を眺めている。獲物がかからず機嫌が悪いのだろうか。

 天気が優れないせいか、彼女の周りに仲間の姿は見当たらない。滝の音が静かに空気を揺らし続け、時おり、薄闇に立ち並ぶ樹木が風に吹かれてざわめく。

 そんな滝壺のそばで、にとりはずっと、身じろぎもせず座り込んでいる。

 

 その時不意に、風のせいではなく、誰かが茂みをかき分けた時に発せられる荒っぽい葉音がにとりの耳に届いた。彼女はその途端、弾かれたように音の方角へ振り返る。その時の表情は一変、眉をしかめた剣呑(けんどん)なものに変わっていた。

 

「……あ……」

 

 視線は、林の中から出てきた少年にぶつかった。山伏のような制服を着て小さめの剣と盾を携えた白狼天狗、ナキである。彼はその場で気まずそうな笑みを浮かべて、険しい面相のにとりと見つめあっていたが、やがておずおずとこう尋ねた。

 

「あの……この辺に、何か変わった事はありませんでしたか?」

 

「ないよ。いつも通りさ」

 

「そうですか……。ありがとうございます」

 

 見回りの最中だったのだろう。ナキは道を教えてもらったよそ者のような腰の低さで笑みを張りつけて、深くお辞儀をし、また森林の中へ戻っていった。にとりは姿が見えなくなるとふぅーっと深いため息をつき、また視線を釣り糸の方に戻す。その表情はまた険しさを失い、代わりに先ほどより一層悲壮感を増していた。眉尻を下げ、口を重たく閉ざした顔が水面に映り、釣り糸から細かく伝わる波紋に合わせて儚げに震えた。

 

 辺りは滝の音を残して静まりかえる。すると今度は、空の上からその静寂を破る能天気な声が降り注いだ。

 

「お~~い、にとり~~っ!!」

 

 にとりはその声にふっと上を見上げる。聞こえた声と目に映った姿は見知った妖怪のものだった。

 烏天狗の文である。彼女は上空から手を振るや黒の短いスカートを押さえながら急降下し、にとりの隣の岩に足をつける。高下駄の歯がぶつかってカツンと固い音がした。

 

「……文」

 

「三日ぶりですね。元気でした?」

 

「まあね、いつも通りさ」

 

 文の問いににとりはそっけなく答えて釣り竿を放りだし、うんと伸びをする。文は立ったまま手を後ろに回し、笑みをたたえて相手を見つめていた。

 その視線に数秒おいて気付き、にとりは怪訝そうに振り向く。

 

「……なに?」

 

「忘れたんですか? アレですよ。アレから三日」

 

「ああ、アレね……」

 

 アレという言葉ににとりは思い当たるものがあったらしく、一つ頷いてリュックサックを下ろし、中身を探る。手でごそごそと取り出したのは、先日みてほしいと言われていた文のカメラであった。

 

「ありがとうございます~! これでいつも通り取材ができる!」

 

「そう、よかったね」

 

 カメラを手に取り、文は喜色満面で接眼レンズをのぞき周囲を見回りまくる。にとりはそんな彼女を興味なさげに一瞥して、そのまま岩に仰向けに寝転がってしまった。

 にとりの視界には、ねずみ色の曇天がいっぱいに広がる。鳥の一羽すら飛ばずに、白と黒の中間のグラデーションがかかった雲だけが風に流されるでもなく、夏の入道雲のように迫ってくるでもなく、ただただまんべんなく浮かんでいる。

 にとりは目を細め、味気ないコンクリートのような空を眺めていた。その目の前に突如、カメラをかまえた文が割り込んでくる。

 

「……なに撮ろうとしてんの」

 

「なにって、写真ですよ? ほら、そんなしょげた顔してないで、スマイルスマイル」

 

「別に、しょげてやしないって」

 

 にとりは半身を起こし、カメラを手で押しのける。文は諦めてカメラをしまうと、隣に腰かけた。

 

「それにしては暗い面持ちでしたよ?」

 

「……本当だってば。けど、イラつく出来事ならあったね」

 

「ほほう、何ですそりゃ?」

 

 文が尋ねると、にとりは隣に座る友人に振り向き、眉を寄せて答えた。

 

「ほら、以前連れてきた男の子がいたろ。あの……誰だっけ」

 

「ああ、ナキ君ですか?」

 

「そいつそいつ。そのナキがね……」

 

 にとりは途中まで言ってうんざりした様子でうつむき背を丸め、帽子の隙間から頭をかく。そして、早口にこう続けた。

 

「あれから毎日、会うたびに気まずそうな顔してくるんだよ。何か言いたい事あるなら言えばいいのに、はっきりしないんだから」

 

「気にしすぎじゃないですか?」

 

「んな事ないよ! 遠慮してるの丸分かりの顔だよあれは。かえってウザいっての」

 

「はあ……」

 

 にとりがまくし立てる間、文はずっと控えめに頷いてその主張を聞いていた。ひとりしきり言葉がやむと、文は笑いかける。

 

「まあ、許してあげてください。言いたくてもなかなか言えない子なんですよ」

 

「……ずいぶんお節介なこと言うんだね。私まで優しくしてやれっての?」

 

「そうは言いませんよ? ムカつくなら避けても無視しても自由でしょう。どうせ彼は仕事で、決まった場所しか通らないんですから」

 

 文はにとりのイラだちを受け流すように弁を述べて肩をすくめる。そして立ち上がるとスタスタとにとりの背中を回り、傍らに置いてある魚籠(びく)を覗き込む。中には一匹の獲物も入っていなかった。

 

「……あなた、毎日釣りするほど好きでしたっけ」

 

「…………」

 

 にとりは居心地が悪そうに目を逸らした。文の言う通り、ナキの態度が気に入らなければ会わないようにすればいい。部屋にこもって機械いじりをしようが、仲間内で遊んでいようが非難する者はいない。大体、釣りの最中に顔を合わせたからといって、それがなんだと言うのだろう。名指しで文句を言われたでもなし、素知らぬ顔で日々の生活に戻ればいい。

 面倒な事には関わらない。これまでも散々やってきたはずだった。しかしにとりはナキと会ってから、わざわざ顔を合わせそうな場所に毎日出かけて、しかもイラつきまで覚えている。はたから見れば益のない行為だった。

 

「口では色々言っても心配なんじゃないですか? ナキ君の事」

 

「バカ言うなよ。私に何か得があるかい? 何もないだろ」

 

 にとりはぶっきらぼうな口調で即座に否定したが、その表情はどこか気が咎めているようだった。文は手を後ろで組んでそっぽを向き、妙に白々しい口調でこう言った。

 

「まあ良いんですけどねぇ。にとりがどうしようが」

 

「当たり前だい。もういいよ。仕事に戻りなよ」

 

 鬱陶しげに長靴の底を岩にぶつけ、にとりは置いてあるリュックサックにもたれかかる。そんな彼女を、文は目を細めてチラチラと見る。

 

「……なにさ」

 

 思わせぶりな文の態度に、にとりは怪訝な目を向ける。目が合った文は珍しく穏やかな微笑を浮かべて、少しだけ腰を屈めて言った。

 

「もし、なんの得もないのに放っておけないなら、それは善意ってやつですよ。多分」

 

「……へぇ、アンタもそうだっていうの?」

 

「さぁ、どうでしょうねぇ」

 

 とぼけながら文はにとりを見下ろす。にとりはそのしぐさに、なんとも言えないむず痒いものを感じた。

 それを振り払うように頭をがしがしとかき、なげやりな調子で叫ぶ。

 

「ああもう、釣れない! 場所変える!」

 

「あら」

 

 にとりは弾かれたように立ちあがり、リュックサックを背負って釣り竿と魚籠(びく)をひっつかむや、文には目もくれずズンズンと川下へ降りていってしまった。

 残された文は遠くなっていく背中を見ながら「あやや、怒らせちゃいましたかね」などと言ってため息をつく。そして、ふと何かに気づいたように空を見上げ、じぃっと目つきを鋭くした。

 いつの間にか灰色から、どす黒いねずみ色に変わった空。風はまるで獣のうなり声のように低く、おびえるように草木がざわめく。

 

「こりゃ降ってきますかね……」

 

 文は空をにらんだまま呟いた。風に敏感な烏天狗である文は、恐ろしげな風の中に生暖かい湿り気があるのを、確かに感じていた。

 

 

――

 

 

「これで全員ー!? 誰かいないとかありませんかー!!」

 

「うわー! ひでぇ、嵐だよこれ」

 

「もぉー、びしょ濡れーっ!!」

 

 一時間ほど経った頃、天狗の本拠地の門前で椛が懸命に仲間の天狗たちを屋敷に誘導していた。すでに幻想郷全体を重たい雨雲が覆い尽くし、バケツをひっくり返したような大量の雨が、屋敷に入ろうとする長蛇の列に容赦なく降りかかる。

 空の方では年長の天狗たちが、豪雨や突風をいとわず避難を呼びかけていた。

 

 最初はポツリポツリと小雨が降る程度だったが、瞬く間に雨は勢いを増し、風は枝を折り家の戸を引き剥がすほどにまで荒れ狂いだした為、天狗たちは仕事を中止して屋敷に一斉に避難せざるを得なくなったのだ。

 

「雨が止むまで絶対に外に出ないでください!! 特に川のそばには絶対に近寄らないで!!」

 

 屋敷の門前で、椛は番傘を手に指先や肩が震えるのをこらえつつ、喉が枯れんばかりに注意を促した。彼女からすれば注意するまでもない事だったが、いつでも危ない行動を取ろうとする輩はいる。椛は隊長として、その抑止に努めねばならなかった。

 しかし、部下たちに声を張り上げる一方、胸の内ではある不安が渦巻いていた。

 

(ナキ……無事かな……)

 

 ナキの灰色の髪と尻尾は、他の白狼天狗と並べるとそれなりに目立つ。気のせいだとしたら何よりだが、椛は避難する人々の中に、ナキの姿が見当たらないような気がしていたのだ。

 泣き虫な彼のこと、どこかで恐怖にすくんで動けなくなってしまうかもしれない。そう考えると、仲間を誘導する間にも表情は悲しげになっていく。

 

「おい椛。その辺にしておけ」

 

「……あ、大天狗様……」

 

 背後からの太い声に振り返ると、椛を見下ろす大天狗の姿があった。両脇にお付きの烏天狗を置き、少し飛んで上から傘を差させている。

 

「そこまで必死にならんでいい。多少の混雑など大したことではない」

 

「しかし万が一という事もあります。全員の収容を確認するまで……」

 

「やめいと言うのに!」

 

 食い下がろうとする椛を一喝する大天狗。椛含め周囲が一瞬体をこわばらせる。続けて大天狗は言った。

 

「まるで儂が仕事してないみたいじゃないか……」

 

 ぼそりとした呟きだったので、椛と付き人の烏天狗だけがげんなりと体を弛緩させる。その反応に気づいていないのか、大天狗はブツブツと当てつけのような事まで言い出した。

 

「白狼天狗が何人か戻ってきていないらしいぞ。点数稼ぎをしておる場合か?」

 

「……!」

 

 その言葉に椛は思わず唇を噛むが、しかし怒りより恐れが上回った。

 白狼天狗が足りない。やはり順当に避難出来なかった者たちがいる。だとしたら一刻も早く見つけ出さなければ……!

 椛が次々と思い浮かぶ悪い想像を振り払っていると、今度は上空から呼ぶ声がした。

 

「椛~~っ!!」

 

 一帯に響く大声に振り返ると、猛スピードで文が飛び降りてくる最中だった。椛の目の前にぶつかりそうになりながら、文は泥を跳ねさせながら着地する。なにやらぜいぜいと荒い呼吸をし、顔は焦りに満ちていた。

 

「……どうしたんです」

 

 滅多に見ないほどの焦燥に、椛は真剣な顔で問う。文は苦しそうに数回せきをした後、つっかえながらこう話した。

 

「にとり、を……見ませんでしたか……? さっき河童が……釣りから……戻らないって……」

 

「ええっ!?」

 

 椛は驚愕の声をあげる。立て続けに明らかになる行方知れずな者たち。文の微塵もふざけていない目を見つめながら、椛はなかなか状況を理解しきれずにいた。

 そして直後、無意識に脳内である予想が組み上がる。姿の見えないナキ。戻らない何人かの白狼天狗。

 その予想が完成した瞬間、椛は大天狗へと振り返り、食い入るように叫んだ。

 

「大天狗様! ちょっとこっちをお願いします!!」

 

「は? お、おいどこに行く!?」

 

「文さんはにとりを探してください!」

 

「へ? 椛!?」

 

 椛は周りがいぶかしむのも構わず、雨の降る山道を駆け出した。探す連中がどこにいるのか、確証などありはしない。ただ、どうしようもなく気がかりなのだ。

 

 いつでも危ない行動を取ろうとする輩はいるのだから。

 



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水と機械に強い傍観者 後編

 止む気配のない豪雨のせいで、山中の川はどこも凄惨な状況となっていた。

 いつも穏やかに川面をきらめかせている水の流れも、今は地を這う龍がごとく。その身で地を穿ち、岩をえぐり、呑み込んでいった。

 川はたちまち土色に染まり、水量のためにその幅を普段より一回り二回りも膨れ上がらせていた。生き物のように波打ち、しぶきをあげる川の水面からは、途中でさらわれたらしい小さな流木やボロの手袋、さびた鉄クズなどが、たびたび顔を出していた。

 その急流の勢いは、雨と同じく収まる気配がない。片足の先でもちょいと入れれば、たちまち流されてしまうだろう。

 そんな荒れ狂う川の中流の一角。水からほんの一、二メートルしか離れていない岸辺に、数人の白狼天狗の影があった。数人といっても一人だけが輪から弾かれて、一対多で向き合っている構図である。一人の方は一見女の子のようで、数人の少年たちとずぶ濡れになりながらなにやら口論を繰り広げている。

 その女の子のような白狼天狗は――想像がつくであろう――ナキである。彼は容赦なく降りかかる雨に震えながら、必死に声を張り上げているようだった。

 

「だから! 早く避難しようってば! 間に合わなくなったら死んじゃうよ!?」

 

 ナキはすぐ近くで地鳴りのような音を出す川を横目に見ていった。目の前にいるのはいつもの悪童たち。本来ならば川のそばなど一刻も早く離れなければいけなかったが、悪童たちはまるで関係ないとでもいう風に顔をニヤつかせ、ヘラヘラと答える。

 

「ったくお前は臆病だな~。実際に飛び込んだりしなきゃ平気だろ。川が手ぇ伸ばして引っ張ってくるのかよ?」

 

「滅多に見れないだろ? こんな風景。だからちょっと見物して行こうってんだ」

 

「そうそう、特にナキは特等席でな!」

 

 悪童たちは次々と能天気な台詞を吐きながら、あろう事かナキを川へ追い詰めるように歩いてくる。その表情はそろって下劣な喜びに満ちていた。

 ナキは思わず後ずさる。耳に届く濁流の音が、少しずつ大きくなっていく。うっかり足を滑らせかけ、彼は小さく息を呑んだ。しかし飛び出しそうになる怯えをグッと呑みこみ、悪童たちを見据えると、ナキは絞り出すような声で言った。

 

「いや、本当にダメだって……。逃げる時に道が崩れてるかもしれないじゃない」

 

「はぁ~? ンなもん飛んで帰ればいいだけじゃねーか! あったま悪ぃな~」

 

「そういやお前、飛ぶの苦手だっけ? ダイジョーブだよ。髪でも掴んで、吊るして持って行ってやるから」

 

 悪童たちは相変わらず緊張の欠片もなく笑いあっている。そこには自分たちが死ぬかもしれないという危機感など皆無だった。らちが開かないとナキが頭を抱えたくなっているところで、悪童の一人が詰め寄ってくる。

 

「という訳でさぁ、遠慮しないでもっと近くで見ろよ。ほら押してやるから! うぇ~~い!」

 

「ちょ、やっ、危ない……!」

 

「いえぇ~~い! うぉおええ~~~いっ!!」

 

 悪童は奇声を発しながら、両手を前に出して突き落とす真似をしてくる。ナキは体をかばってその場に固まっていたが、一歩間違えばあの世送りな悪ふざけに半ば呆れ、しかし恐怖していた。

 そのうちに、他の悪童たちまで面白がって蹴落とす真似をしたり、落ちろ落ちろとはやし立てたりと行為はエスカレートしていく。

 ナキは悲しい思いで、絶えず送られるプレッシャーから次第に目に涙を溜めはじめた。ただ、それを見られると更に相手がはしゃぎだしそうで、ふっと脇に目を逸らす。

 

 すると、目を逸らした先に、下流の方から誰かが歩いて来るのが見えた。

 4頭身ほどの小さな体躯、緑の帽子に青いコートと長靴。背には大きなリュックサックを背負い、水色の髪をツインテールにまとめている。

 にとりだった。手に魚籠と釣り竿を持ちながら、雨の中を大急ぎで泥を飛ばして走っている。

 その姿がナキの目にはっきりと映る距離まで来た時、にとりが顔を上げる。彼女はその目に、悪童に絡まれるナキの姿を認めるや、はっと立ち止まった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ナキも間が悪そうに、一瞬口をつぐむ。見られたくない場面であった。三日前に、いかにもイジメに関わりたくないという様子だったにとりを思い出し、この場でも見過ごされるだろうと、ナキは頭の隅で暗い想像をした。

 一方にとりはばつが悪そうに目を泳がせ、俯いてしまった。さすがに相手が見ている中で逃げ出すのは気が引けるのだろうか。

 

 ナキはその態度に一瞬、止めに入ってくれるかと期待したが、すぐに打ち消した。元はといえば、無理強いはよくないと言ったのは自分なのだ。今さら他人の善意を期待するなど、虫がよすぎると思った。

 ナキが地面に目を落とし、なんとか諦めようとしているところで、急に悪童がその胸ぐらをつかむ。

 

「おら、何ぼーっとしてんだ! あの河童がどうかしたのかよ!?」

 

「あ……ち、違う! その……」

 

 ナキはがくがくと揺さぶられながら、とっさに首を横に振った。ただでさえ避難しなきゃいけない状況なのに、にとりを巻き込めないと思った。

 そして幸か不幸か、悪童たちは思惑通りに一斉にナキを取り囲む。

 

「ったく本当につまんねー奴だなオメーは。川の中で芸でもすりゃいいのによ! いつかのラッコのまねとかよ!」

 

「あ、でもコイツ泳げたっけ?」

 

「あっちゃ~~! そうだったそうだった。ゴメンねカナヅチの半妖君」

 

「お前の出来そこないぶりは水中にまで及ぶんだよな! スッゲェよ!!」

 

 悪童たちは口々に罵声を浴びせてくる。ナキはとうとう黙りこんで下を向き、俯いた目からはとうとう涙がこぼれだした。その様子がおかしいのか、悪童たちは笑いだし、あろう事か殴りかかった。その時だ。

 

「ちょ、ちょっと! もう止しなよ!」

 

 下流の方から、上ずった怒声が飛んできた。ナキと悪童が一斉に振り返ると、ずっと見ていたらしいにとりが、微かに震えながら険しい表情で走ってくるところだった。肩を不自然なほどにいからせ大股で、無理をしているのがありありと見てとれた。

 

「あ~? なんだよ文句あんのか?」

 

 悪童の一人がにとりを睨みながら近づく。背の低いにとりは見下ろされて一瞬ひるんだが、負けじと声を張り上げた。

 

「もっ、もう止しなって言ってるの! 嫌がってるじゃないか!」

 

「はぁ~ん? なに? 聞こえないなぁ~。ところでこの帽子ダサいね。亀の甲羅みたい」

 

 悪童はてんで聞く耳を持たず、にとりの帽子を取り上げて眺めていた。にとりはあわてて頭を隠し、帽子を取り返そうとする。

 

「あっこら! 返せ、返せよーっ!」

 

「あっれ、帽子の下に皿がない! こりゃ意外だわ!」

 

 にとりは必死で帽子へ腕を伸ばすが、悪童は持っている帽子を高々と掲げて笑うばかり。身長差があるのでとび跳ねようがどうにも届かず、悪童は次第にその様子を面白がりはじめた。

 

「かーえーせー!! もぉーっ!」

 

「おー頑張れ頑張れ。もうちょっと、あと一息!」

 

「おら、代わりにこれでも被ってろ!」

 

 悪童の一人がにとりの魚籠を取り上げ、頭からすっぽりと被せた。にとりは顔から肩まで被われて身動きがとれず、小突き回されながら前も見えずに抗議の声をあげる。

 

「このっ! 卑怯だぞ、これ取れよぉーっ!!」

 

「あははは! 虚無僧だ、虚無僧……おっ?」

 

 そこでようやく、意を決したナキが悪童たちをかき分けてにとりの前に躍り出る。にとりの周りにいた悪童たちが離れると、にとりはフラフラとその場にへたり込んだ。

 ナキは屈んでその体を支え、魚籠を取ると、悪童たちを睨みつける。

 

「なんだ、その目? まだ痛い目に会いたいか?」

 

「……もういい加減にして。やるなら、僕だけをやってよ」

 

 あざけるように笑う悪童に、ナキは静かな声で答える。自らを差し出すという言葉に、にとりは目を丸くする。

 悪童たちはそろってゲタゲタと笑った。

 

「ぶははは! バッカじゃねえの! お前の頼みなんか誰が聞くかよ」

 

「どうしてもっていうなら、土下座くらいしてもらわないとなぁ」

 

 まるで聞く耳を持たない悪童たち。ナキは苦々しく歯噛みして、悪童を見据える。にとりはその姿をひどく意外に思った。いじめられている場面を見るたび逃げ出していた彼女は、ナキがここまで勇気を振るう瞬間を見た事がなかった。

 一方、そんな気持ちなど露知らぬ悪童は、にとりをチラリと見て、こんな侮蔑の言葉を吐いた。

 

「あ、でも放っておけば勝手に逃げるんじゃないの? 相手がナキだもん、ねぇ」

 

「確かに! かわいそうになー、せっかく体はったのに」

 

「……っ!」

 

 その言葉に、にとりは思わず唇を噛む。今まで何度も逃げてきた。見ない振りをしてきた。いざとなればここまでする人間が苦しんでいたというのに。

 にとりは胸中に湧きだした罪悪感に、思わずうずくまり、無言で下を向く。その様子をナキが気遣わしげに見た。

 その時、今度は上流の方角から。

 

「こらぁー! 何やってるんですかあなた達は!!」

 

 高く響く女性の声。悪童たちがギョッとして振り向くと、目をつり上げた椛がまっすぐ走ってくるのが見えた。

 悪童たちはいっせいに飛びはねて仰天し、口々に悲鳴をあげた。

 

「やっべ、椛だ!」

 

「うわ、逃げろ! ああもう、どけ!」

 

「すべるっ、たったった……!」

 

 悪童たちは互いに押し退けあい、ぬかるむ地面に転びそうになりながらその場を逃げ出していく。そうなると先ほどまで散々遊び道具にしていたナキやにとりも邪魔でしかなく、彼らは目もくれない。

 そのせいで、周りへの注意がおろそかになった。悪童の一人が去り際に、にとりにぶつかってしまったのだ。

 

「わあっ!!」

 

「あっ!」

 

 不意に横から衝撃を受けたにとりは、平静ではなかったのもあって大きくよろめく。小柄なその体は大きめのリュックサックに引っ張られて濡れた地面を後ろに歩いていき、ついに川岸で足を踏み外す。

 

「にとりさん!」

 

 ナキが叫んだ時にはもう遅かった。長靴が片方脱げ、にとりは濁流の中へと音を立てて転落する。流木やガラクタと共に矢のように流されながら、にとりは必死に手や顔を出して悲鳴をあげる。

 

「にとりぃーっ!!」

 

 遠くから事態に気づいた椛が走ってくる。しかし隣にいたナキでさえあっという間に置き去りにされる急流の前では、元から離れていた椛が追いつくすべはない。一歩足を踏み出す間にも、にとりは水の中で小さくなっていく。

 椛が悔しそうに顔を歪めた、その時。

 

「くっ!」

 

 ナキが川岸に駆け寄ったかと思うと、突然地面にべしゃりとうつ伏せに寝そべり、水面に顔が着きそうな姿勢になる。そして両手を川の中に突っ込み、水中の岸壁に両手をつくような格好になった。

 何をする気かと一瞬いぶかしむ椛。

 ナキはといえば、視線は流れ行くにとりのみに注がれている。そして、その視線の先で、突如驚くような変化が怒った。

 

 にとりがかれこれ五十メートルは流されたかというところで、彼女の横数メートル、ナキが手をついている側の岸壁の一部がぼこりと乾いた粘土のように崩れ、水に沈む。そしてその分の質量が移動したかのように川の中からずるずると泥の塊が盛り上がって顔を出し、にとりを受け止めたのだ。にとりの小さな体躯が泥のクッションに沈み、体に自由が戻る。

 

「へ……?」

 

 にとりは理解が追い付かない様子で一瞬辺りを見回したが、すぐに岸へ泥だらけになって這い出る。顔を上げると、同じように泥だらけのナキと深刻な顔をした椛がバタバタと駆け寄ってくるところだった。

 

「にとりさん!!」

 

「大丈夫ですか!?」

 

 二人が心配そうに顔を覗き込んでくる間も、にとりは未だにポカンとしていた。さっきまで沈んでいた川をみると、やはり実在する泥の塊が、水流で少しずつ崩れていく。

 にとりはナキへと向き直り、呆けたような声で尋ねた。

 

「さっきの……あんたがやったのかい?」

 

「え? ええ、とっさに体が動いて……。無事でよかった……」

 

 ナキは顔を赤らめ、照れくさそうに頬笑む。にとりはその顔をぼんやりと見つめ、表情を曇らせた。

 椛が手を差しのべ、にとりを助け起こす。にとりは小さく礼を言って、またナキに向き直ると、ぺこりと頭を下げた。

 

「……ごめんな。私、今まで一度も助けてなかったのに、こんな事してもらって……」

 

 苦笑いをして謝るにとり。ナキはその言葉に一瞬とまどいの表情を浮かべた後、にこりと微笑んだ。

 

「ついさっき、現にかばってくれたじゃないですか。そんなに謝らないでください」

 

「へっ……?」

 

 にとりは驚いた様子で顔を上げる。そこには、屈託のない笑顔があった。隣を見ると、椛も頷き、頬笑む。にとりは両者の表情を見て、ようやく心の中のモヤモヤが解けていく感覚がした。

 

「そういえば、どこ行っちゃいましたかね」

 

「なにが?」

 

「帽子ですよ、帽子」

 

 椛が自分の頭を指さしながら答える。にとりも頭に手をやると、自分があの緑の帽子を被っていなかった事を思い出した。悪童が取り上げ、そのまま放り出してしまったのだ。

 

「この風で飛んでいったんでしょうか……」

 

 ナキは我がことのように真面目な顔で辺りを見回す。しかし、どこにもそれらしき物は見当たらない。空を見れば暴風に乗って剥がれた板堀のようなものが舞っている。帽子一つ、あっけなくさらわれてしまうだろう。

 にとりは、肩をすくめて言った。

 

「いいってあんなもの。いくらでも代わりがあるよ」

 

「でも……」

 

 気がかりな様子で口を挟むナキに、にとりは更に言った。

 

「気にしないでって。高いものじゃあるまいし、構いやしないさ」

 

「そうですね~。確かに安っぽいですよ、コレ」

 

「そうそう、こんな帽子しま◯らの……ん?」

 

 背後で相づちを打つ声ににとりは笑い、直後にその声の主へ振り返る。先ほどまで影も形もなく、いきなり現れて話に混ざる何者かを見て、にとりは悲鳴をあげた。

 

「ひゅいっ!? 文ぁ!?」

 

「ああどうも、これ落とし物ですよ」

 

 そこにはいつの間に来たのか、烏天狗の文がいた。目を見張るにとり達に表情一つ変えず、緑の帽子を人差し指でクルクルと回している。

 

「……文さん、いつからここに?」

 

「いえ、ついさっきですよ。この帽子がふわ~っと飛んできたので、何かあったのかと思って」

 

 文はにとりに帽子を被せ、にとりやナキが泥だらけなのを不思議そうに眺めていた。さっきまでの喧騒など露知らずといった文の様子に、他の三人は苦笑して顔を見合わせる。

 

「とにかく、屋敷へ急ぎましょう。みんな待っています」

 

「……どうかしたんですか?」

 

「ま、いいでしょう。ね?」

 

 椛が先頭になり、ナキは文の背中を押して後をついて、一行は上流の方角へと歩き出す。悪童や水難の危機が去り、ほんのわずかに緊張の糸がゆるむ。

 その時、魚籠や釣り竿を拾って最後尾になっていたにとりだけが、前方に微かな音を聞き取った。

 直後、一際強い風が吹き、木の葉やチリを巻き上げる。椛やナキ、文の三人は風にあおられ、思わず体をかばった。

 そのせいで、注意が一瞬遅れる。

 同じように強風を受けた木々の中で、一行の目の前にあった細い木が、めきめきと音を立てて中途からへし折れる。重力に引かれるままになった折れ目から上の幹は、一行を押し潰さんばかりに頭上すれすれまで急激に迫る。

 

「きゃあぁ!」

 

「わあー!」

 

「ひゃあぁっ!」

 

 三者三様の悲鳴をあげ、にとり以外の者たちがその場に立ちすくむ。その間にも木は一切の邪魔なく倒れ、もう刹那でナキたちにぶつかってしまうというところまできた。

 しかし、救いは思わぬとこれから現れる。

 ちょうどナキたちの足元にあたる部分を流れていた、下流に向かう水の一部。その一部の水が突然意思を持ったかのように不自然にうねり、丸太ほどに太い蛇のように伸び上がったのだ。その蛇は茶色い体をくねらせ、獲物にかみつくかのように素早く、ナキたちの頭上の木を直撃した。

 木は強引に吹っ飛び真横へと方向転換する。そして重い音を立てながら他の木々に激突し、止まった。

 

 ナキたちは頭を押さえてしゃがみこみ、吹っ飛ばされた木と、嘘のような動きを一時だけした川とを交互に眺めていた。

 そんな彼らを、腰に手を当てたにとりが自慢げに見下ろしている。

 

「あ……にとりさん」

 

「へへ、驚いた? あんたが土なら、私は水を操れるのさ。これで貸し借りは無しだね」

 

 ナキたちが立ち上がるより先に、にとりは三人を追い越しスタスタ先を歩いていく。あわてて追いすがる一行。その先頭になっていたナキが、遠慮がちににとりに話しかけた。

 

「あの……にとりさん、ありが」

 

 ありがとうございます、そう言おうとしたところで。

 にとりが、つぶやくようにそれを遮る。

 

河城(かわしろ)、だよ」

 

「え?」

 

「河城にとり。私のフルネームさ」

 

 言われて、ナキは今まで名字を知らず、名前で読んでいた事を思い出した。続いて段々と失礼だったかな、と不安が頭をもたげ、気弱そうに言い直す。

 

「え、えーと。河城、さん?」

 

「…………好きに呼びなよ」

 

 にとりは振り返り、クスリと笑う。その顔を見て、ナキも笑い返す。

 

 雨は、少しずつ止みはじめていた。



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歪んだ奮起

 太陽が稜線から顔を出し、しばらくしてさんさんと輝きだすと、空が水色一色に晴れ渡る。

 幻想郷では、夜半まで続いた豪雨が止んで数時間が経っていた。見渡す限りに垂れ込めていた雨雲は溜め込んでいた水分をすっかり出しきって、ぽつりぽつりと千切れた白い綿に姿を変えていた。

 ただ、その下では災難の跡がしっかりと残っており、里では雨漏りに遭った者があわてて屋根を直し、小作人が畑を浸す水をひたすらにかき出し、川沿いに住む者は床下からの浸水を掃除していた。

 

 妖怪の山でもそれは例外ではなく、天狗や河童は後始末に総動員されていた。ある者は川の氾濫を防ぐために積んだ土嚢(どのう)を片付け、川に浮かんだままの流木やガラクタをさらっている。

 

「おい、この木運ぶの手伝ってくれよ!」

 

「他の奴に頼め! 土嚢だってクソ重たいんだよ!」

 

 皆がせかせかと辺りを動き回る中で、一人だけ木陰にしゃがみこみ、なにやらゴソゴソやっている者がいた。

 小柄な体に灰色の髪と尻尾が木々の作る陰に溶け込む。ナキであった。彼は傍らに一抱えもある麻袋を置き、地面に落ちた葉をせっせと集めては袋に詰めていた。

 なにしろ、秋も深まりじきに葉が散るという時期に豪雨に見舞われてはひとたまりもない。せっかく鮮やかに色づいていた紅葉や楓もあっけなく落とされ、雨に濡れたまま地面を埋め尽くしている。分厚く敷かれた赤と黄の絨毯は雨上がりの湿気と日光のせいで、生暖かく甘ったるい独特な匂いを醸し出していた。

 

「よいっ……しょ。うわ、下泥だらけ……」

 

 集めた葉を抱えあげた瞬間、ぬかるんだ土の固まりがくっついてきて、ナキはぼやいた。素早く泥をふるい落として麻袋に放り込んだが、それでも袋の内側に茶色い筋が走る。よく見ると外側からでも、詰めた落ち葉から滲み出る水分のせいであちこちにシミが出来ているのが見て取れた。

 先ほどの地面に目を移せば、落ち葉に隠れていた地表が、水溜まりに半分浸ったようにドロドロになっている。

 

「やっぱり危ないよね、コレ」

 

 ナキは一人でそう言って苦笑すると、地面に手をかざして握り、開く。そうすると30センチ四方から落ち葉をかいくぐるかのように比較的かわいた土が動きだし、泥状の部分と混ざり合う。数秒後、水浸しだった地面はいくらか歩きやすそうなものへと変わっていた。

 それを見て、ナキの表情はわずかに満足げに変わった。

 水気のある地面を落ち葉が覆っているというのは、意外に危険なものである。雨上がりの山道というものはそれだけでも危ないものだが、落ち葉が足元を覆っていれば小さな段差や斜面に気づきにくくなり、足を取られての転倒、運が悪ければ事故を起こす可能性も高くなる。わずかな事でも油断はできないのだ。

 なので、彼がチマチマと落ち葉をかき集めたり、地面を歩きやすくするのはれっきとした環境整備の一環である。先ほど見事にスッ転んで濡れてしまった尻をさすりながら、ナキは自らにそう言い聞かせた。

 

 そんな風に地味かつ地道な作業を続けているところで、周りの同僚がおしゃべりをしているのが聞こえてきた。偶然聞こえただけ話し声だったが、女の子二人が機嫌よくはしゃいでいたために嫌でもその内容が頭に入ってくる。

 

「でもさー、あの山の神様って本当すごいよねー!」

 

「そうそう! こういう時にメチャクチャ頼りになるもんねー!」

 

 山の神様、その言葉を聞いてナキは山頂の方角をひょいと見る。木々に隠されて直接には見えないが、山のてっぺんには大きな神社があり、数年前からある神様が祀られているのだ。その神様はいつかの厄神とは段違いの力があり、天狗の上層部と揉め事を起こした過去もあるのだが……。

 このような災害時には、もっぱら別の特徴に注目される事が多かった。なおも女子たちの会話に耳を傾けると、ちょうどこんな内容が流れてくる。

 

「グチャグチャになった道が、こう、バーッと元通りになっちゃったもんねー」

 

「そうそう! あと、昨日は土砂崩れがないようにって、何時間もお祈りしてくれたらしいよ」

 

「神様さまさまだよねー、天魔様の次に格好いいかも」

 

 山の神社が祀る神は、『乾を操る程度の能力』を持っていて、手っ取り早く言えば地面を操る力を持っている。それも地形を変えるなど、神様らしく大がかりなものだった。元は雨風の神様だったらしいのだが、安易に恵みともなる雨を操作する訳にもいかず、結果的に大雨などの災害が毎度起きるも被害は押さえられ、神様が感謝されるというのが山の常であった。

 

「…………」

 

 誰に聞かせるでもない会話だったが、ナキはいつの間にか聞き入ってしまっていた。乾を操る、自分と似たような能力でありながら、その扱いは雲泥の差だった。片や山の頂上で多大なる信仰を集め、片やナキは皆の輪から外れて落ち葉を集めているだけ。皆それぞれ忙しいとはいえ、ナキを手伝おうとする者もいない。神様に罪はないが、ナキが落ち込んでしまうのも無理はなかった。

 そんな時、不意に背後から声が聞こえてきた。しかし、その声色から手を貸してくれるつもりがないのは明らかだった。

 

「ナキ~! な~にしゃがみこんでんだ?」

 

「へ……うわっ!?」

 

 その何者かは、ナキが振り向く前に尻を蹴りつけた。ナキは突然の衝撃によろめいたが、木に手をついて相手を見る。そこにはやはりというか、いつもの悪童連中がニタニタとナキを見下ろしていた。

 

「虫でも見てたか? 落ち葉なんぞ引っ掻き回してよぉ」

 

「ち、違うよ……。散らかってて危ないから、片付けてたの」

 

 ナキは悪童たちに一瞬渋い顔を向け、すぐに地面へと目を逸らす。目を合わせていたくなくて、無言で落ち葉集めを再開する。

 

「んなもん放っておきゃ良いだろうが! 爆発する訳じゃあるまいし」

 

「すべって転ぶかもしれないの。というか、転んだ。僕が……」

 

 ふてくされるように言って、ナキは自分の尻を指さす。間の抜けた印象を与えるのは分かっていたが、イジメられるより道化として笑われる方が、いくぶんマシな気がしていた。

 その想いが通じたかは分からないが、悪童たちはそろってゲラゲラと笑いだす。

 

「はっははは! 相変わらずバカだね~お前は」

 

「あーあ、袴が台無し」

 

「あはは……バカでいいからさ。ちょっと、集中させてよ」

 

 適当に苦笑いして話を切り上げ、ナキは手近な落ち葉へと手を伸ばす。すると、寸前で何かがナキの指先をよぎった。

 

「おぉーっと足がすべったあーっ!!」

 

 わざとらしい叫び声とともに、悪童の足がナキの目の前にあった落ち葉を蹴散らした。ナキがちらと驚いた顔を向けると、悪童はヘラヘラと笑う。

 

「いやぁー、お前のいう通りだわ。つるっつるに滑るよ、コレ」

 

「う、うん。だから気をつけ……」

 

「うわーっと俺も足がすべったぁあーっ!!」

 

「ぎゃー俺もすべったぁーっ!!」

 

「ぶわっ、ちょ……」

 

 だんだんと棒読みになる大声をあげて、悪童たちは次々と足元の落ち葉を蹴散らし続ける。巻き上げられたその落ち葉が、バサバサと音をたててナキの全身に降りかかる。

 

「も、もうっやめて……!」

 

 ナキは全身にへばりつく落ち葉を払い、必死に抗議しようとする。しかし悪童たちは欠片も聞く様子をみせず輪になって、果ては泥などもまとめて蹴りあげる。

 しかし、そこで輪の外から一人の女性の声が響いた。

 

「そこ! 何を騒いでるんです!?」

 

「あ、椛さん……」

 

「はっ? お、おわあっ!」

 

 高く響いたその声に振り向いたナキの視界には、厳しい顔をして駆けてくる椛の姿があった。彼女に気づくやナキは顔色を太陽のように明るくさせ、また悪童たちは驚きと焦りのためか暗雲がたちこめたような表情となる。

 今まさに落ち葉を蹴ろうとしていた悪童は、椛に気を取られた瞬間に音をたてて足を滑らせ、盛大な尻餅をついた。

 

「いっちち……」

 

「……だ、大丈夫?」

 

「貴方たち、仕事もせずに何をしていたんですか?」

 

 椛は連中の前に仁王立ちし、泥だらけになっているナキとその周囲を囲んでいた悪童たちを見回して鋭い声で問いかけた。悪童たちはそろって弱ったように目を泳がせる。直接聞いても無駄だとさとった椛は、隣で転んだ悪童を助け起こすナキへ視線を移す。

 

「あ……」

 

 ナキはその視線に気づくと唇を噛み、ふっと目を逸らす。その複雑な表情には、恥ずかしいような、椛に頼りたいような、はたまた悪童たちを庇いたいような、色んな感情が入り交じっていた。

 やがて、ナキは打って変わった明るい表情になって、椛に言った。

 

「な、なんでもないですよ。ちょっと遊んでただけです。ね?」

 

「へ……お、おう」

 

「……そ、そうなんスよ! 落ち葉があるとつい蹴っ飛ばしたくなって!」

 

「んでもっとやろうって事になったんですが、いかんせんやり過ぎちゃって!」

 

 悪童たちはナキの言葉に多少とまどったものの、すぐにけろりとして同調しだした。椛はその様子をしばらく怪訝な顔で見つめていたが、ナキがよく見る気弱な笑顔を向けてくるのを見て、観念したように肩を落とした。

 

「……分かりました。じゃ、ナキ。ちょっと仕事をお願いしたいのですが」

 

「あ、はい」

 

「あのリヤカー、一回倉庫に持っていってもらえません?」

 

 椛が指さした方角には、木の荷台に金属の取手と車輪をつけた、大型のリヤカーが置いてあった。川の氾濫を止めていた土嚢を持っていくためのものらしく、白狼天狗が重そうな袋をドサドサと積み込んでいる。椛は手でメガホンをつくり、その部下に向かって叫んだ。

 

「すみませーん! そのリヤカー一旦持っていくんで、そのままにしてくださーい!」

 

「えー、でも隊長、これまだ積めますよ?」

 

「大丈夫です。あんまり重いと効率悪いので! ……ほら、ナキ」

 

 今度はナキに振り向いて目でうながしてくる。ナキがおずおずとリヤカーの方へ駆け出すと、その背中に椛とげんなりした悪童たちの声が聞こえてきた。

 

「さて、あなた方も暇そうですし、仕事をお願いしましょうかね」

 

「えぇ~マジですか~」

 

「だるぅ~」

 

「文句言わないでください。あなたは川のゴミさらい、あなたは崩れた道を片付けて……。皆で固まってちゃダメですよ。絶対サボりますから」

 

 テキパキと指示を出す椛の声を聞いて、ナキは気を入れ直し、リヤカーを引いていった。

 

 

――

 

 

「ふんっ……くっ……」

 

 川沿いから少し離れた狭い山道を、ナキは額に汗を浮かべながら、土嚢を積んだリヤカーを引いて一生懸命登っていた。

 たくさん積まれた袋は非力な彼にとってなかなか骨だったが、それでもリヤカーいっぱいの量ではないのが幸いだった。土嚢を積むのを、椛が途中で止めてくれたおかげである。

 そうこうしているうちに、どこからかサラサラと水の流れる音が聞こえてくる。ナキが辺りを見回すと、左手の低い崖の上から聞こえてきている。しかも、水の音に混じってざわざわと、人のざわめきのようなものも伝わってきた。ナキは崖の上から覗く林の一角を見上げながら、近くに人が集まるような場所などあったかな、と眉をしかめる。

 すると、崖道を連れだってブラブラと歩く二人の人影が見えた。シルエットはどうやら女の子で、背丈に違いのある凸凹コンビである。ナキの耳に、その二人の聞き覚えのある話し声が届く。

 

「ったく、文もなんだってこんな場所まで追いかけ回すかなー」

 

「そう言わないでくださいよーにとりさん。ボランティアしてくれる巫女なんて、格好のネタじゃありませんか」

 

「だからって、私らが仕事してる現場まで乗り込んで……ん?」

 

 言いかけたところで、背の低い方が崖の下のナキに気付き、もう片方の肩を叩く。そして二人で顔を見合わせると、彼女らはリヤカーと一緒にぼんやりと立っているナキに向けて、まっすぐ降りてきた。

 

「お疲れ様です! ナキ君!」

 

「……やぁ」

 

「こ、こんにちわ」

 

 降り立ったのは、文とにとりだった。文は快活に、にとりは無愛想にそれぞれあいさつを口にする。ナキが小さく頭を下げて間もないうちに、ナキの隣のリヤカーへ視線を移した文が口を開いた。

 

「何してたんです? 一人で」

 

「ああ、僕は土嚢を倉庫に運ぶ途中で……。お二人は?」

 

 ナキが聞き返すと、にとりが文を指さして意地悪そうにこう言った。

 

「それがさぁ、聞いてよ。文の奴、ずっとあの巫女さんと話してたんだよ」

 

「巫女さんと?」

 

「なっ! ただ話していたんじゃありませんよ。取材です取材!」

 

「それにしたって限度があるよー。仕事サボるし、仕事の邪魔だし」

 

「仕方ないでしょう。あの方の記事は幻想郷中のファンに広く受けるんですから」

 

 文がむきになって反論し、言い合いが始まるのをナキはぼんやりと眺めていた。

 二人が言う巫女というのは、先ほど出てきた山の神様に仕える少女のことである。正確には風祝(かぜはふり)というらしい。

 件の神様のような大それた力はないが、十代そこそこの若さながら布教やさまざまな問題解決に熱心であり、山の連中のみならず人里やその他幅広い層に支持者が存在する。

 なにより、今日のように災害が起きた日には自ら天狗や河童のもとに出向き、ボランティアにいそしんでくれるのだ。

 

「というかにとりだって、しつこく追いかけてたじゃありませんか。たかが饅頭(まんじゅう)一つで」

 

「し、仕方ないだろ……。あの巫女さんが来たら途端に人だかりができるんだから。私だけもらえないなんて冗談じゃない」

 

 巫女が配っていたのだろう饅頭をモグモグとほおばりながら、文はにとりをからかう。ナキはそれを聞いて、胸の内で一つ納得した。

 

(そっか。さっき聞こえたのは巫女さんのファンの声だったんだ……)

 

 すると、彼の表情にふっと影がさす。それを抑えて作り笑いを浮かべ、ナキは目の前の二人に言った。

 

「すみません、僕もう行きますね」

 

「あやっ、ごめんなさい引き留めちゃって」

 

「手伝おうか?」

 

「いえ、一人で大丈夫です。それでは」

 

 にとりの親切を笑顔で断り、ナキは再びリヤカーを引いていく。一度も振り返らずにゆっくり、ゆっくりと重たくきしむリヤカーを引き、やがて角を曲がって二人から姿が見えなくなった頃。

 

「……ふー……」

 

 ナキはうなだれ、長いため息をついた。

 頭の中に浮かんでくるのは、災害から山を守り、あるいは山の住人たちを励まして皆から慕われる、神様や巫女のこと。そしてその陰でイジメを受け、一人でわびしく仕事をしている自分の姿だった。

 神様たちが悪い訳ではない。土砂崩れを防ぎ、住人のために祈り、直に顔を見せて回る。そうして人々の希望を守るのは、誰にでも出来る訳ではないのだ。神様も、せせこましい作業ばかりしている自分も、相応の評価を受けているだけなのだ。

 

 だからこそ、どうしても卑屈な気持ちになってしまう。自分に大きな力も、飛び抜けた特技もないのを思い知る度に、周りとの評判の落差に落ち込む。

 せめて、自分の『地面を操る程度の能力』がもう少し強かったら、と思う。混血である事を恨みはしない。今はもう会う事も叶わないが、自分を生んでくれた人を恨むのは間違いだと、ナキは思っていた。

 

 そんな風に憂鬱な気持ちを抱えて進むうちに、いつしかちょっとした峠道へ差し掛かった。片側には急ではないがそれなりに高い斜面があり、鬱蒼とした林が日光を遮るために地面は苔むしていた。

 反対側も木々に覆われており、嫌がおうにも道幅は狭く感じられる。ナキはリヤカーにつられて重心を崩してしまわないようにと、慎重に肩をすぼめて歩いていく。

 その時、細心の注意をはらっているナキの頭上で、呑気な青年の声が降ってきた。

 

「おっ、弱虫のナキ君じゃ~ん」

 

 軽薄な、見下しの入った声。この非常時にそんな調子で声をかけてくる者は、たいていろくな奴ではない。それでもナキは人の良さからか律儀に振り向いてしまう。

 そこには、三人の烏天狗の青年たちが浮かんで空からナキを見下ろしていた。ナキが逃げる間もなく、烏天狗たちは目の前に道をふさぐようにして降り立つ。

 

「久しぶり~。元気してたかぁ?」

 

「は、はい……。あの、何か?」

 

「そう震えるなって~。ちょっとだけ君に頼みがあるんだよ」

 

「頼み……?」

 

「そうそう。す~ぐ済むからさぁ」

 

 烏天狗たちはニヤニヤしながらナキたちを取り囲む。ナキはその様子に一瞬体をこわばらせたが、頼みというのを無視できず、怪訝そうな目をしながら周囲に視線を配る。

 

「ナキ君さ、こう、小さな壁を作れたじゃん? あれをちょっとやって欲しいんだよね」

 

「ここで……? どうして?」

 

「いや、少ーしだけ見せて欲しいのよ。本当に、一回だけでいいから」

 

「はぁ……」

 

 ナキの能力は、今までたいていの白狼天狗や烏天狗ならば目にした事があるはずだった。奇妙な頼みに首をかしげながらも、ナキはリヤカーを離れ、道の端に寄る。

 そして通行の邪魔にならなさそうな場所を見つけて屈み、地面に向けて手を何度か握る。すると、ナキのすぐ手前にちょうど姿見ほどの大きさの薄い壁が出現した。薄いといっても十センチはあり、ひび一つ見当たらない硬いものだった。

 ナキは立ちあがり、ちょっぴり自慢げに振り返って烏天狗たちに言う。

 

「普通の壁ならこんな感じだけど、どんな風に使うの……」

 

 ナキがそう言いかけた、その時。

 唐突に、烏天狗の一人がナキの後頭部を髪ごとガッシとつかむ。そしてそのまま振りかぶり、無理やり目の前に向かってつかんだ頭を突きだした。

 

「そおおおぉいっ!!」

 

 そう……。ナキがついさっき作り出した、硬い壁へと。

 

「ぐぅっ!?」

 

 くぐもった声と音が響く。頭の中が真っ白になりそうな衝撃が顔全体に広がり、ナキの思考が一瞬途切れる。間もなくして壁と接した鼻や口、至るところからジワジワと痛みが噴き出し広がって、目に涙が浮かんだ。

 つかんでいた手が離され、ナキはその場にズルズルと崩れ落ちる。ごろんと仰向けになった彼は放心し、鼻に熱いものが流れるのを感じながらぼんやりと青空を眺めていた。ふと先ほどぶつかった壁を見ると細く赤い血の筋が、短く走っていた。

 

「あっはっはっはっは!」

 

 烏天狗たちは満足したのか、動かないナキを放っておいてゲラゲラと連れだって帰っていく。ナキはそれには何も言わず、ただしばらく土の上に寝転がっていた。熱いものが鼻から口に流れ、辛い味が口内に広がる。それを思わず飲み込むと、唇がひりひりと痛んだ。

 二、三分、そうしていただろうか。

 

「うー……」

 

 低くうめいて、ナキは立ち上がる。まだ痛みは引かず、よろよろと前のめりになる。鼻血が出たせいかガンガンと痛む頭を押さえ、ナキはリヤカーの方へと歩いた。

 気分はひどくうちひしがれていたが、時間は待ってはくれない。今頃リヤカーが足りないと皆が困っているかもしれない。そう痺れる頭で考えながら、ナキはリヤカーに触れる。

 しかし、そこでバランスを崩し、押されたリヤカーがあらぬ方向へと傾いた。道の片側、斜面になっている方へ。

 

「あー!」

 

 ナキが叫んだ時には遅かった。車輪が斜面に滑り出し、リヤカーは土嚢の重みに引きずられてあれよあれよという間に斜面を後ろ向きに下っていく。辺りに密集する木々にぶつかり進路を変えながら、その姿はどんどん小さくなっていった。

 そして斜面がようやくなだらかになりはじめた頃、リヤカーは一本の木にぶつかって横転し、ついに止まる。中に積んでいた土嚢が溢れだし、無惨にも大量にその場に転がってしまう。

 

「……あー……もう……」

 

 ナキははるか眼下で起きた惨事にしばし呆然としていたが、やがてやれやれとため息をつくと、リヤカーを追いかけて斜面を下っていく。苔に足を取られないようにしてどうにかたどり着くと、散らばった土嚢を見てナキは思わず顔をしかめた。

 

「うそ、破けてる……!」

 

 こぼれた土嚢のいくつかが、白い袋の裂け目から砂を漏らしている。おそらく落ちた衝撃で裂けてしまったのだろう。荷物が軽くなる、などと呑気に喜べるナキではない。落ち込んだ気分に追い討ちがかかり、ナキは膝を折ってうなだれた。

 すると、落ちている土嚢の袋に、ポタポタという音とともに赤い点がいくつもできる。ナキがハッとなって鼻に手を当てると、みるみるうちに鼻血がこぼれだす。ナキはイライラする気持ちを抑えながら、鼻血を袖でぬぐった。

 

 この時、彼が度重なる不運や鼻血に気を取られていたのが、それこそ最大の不幸だといえよう。もし、彼の気分が乱れていなければ、あるいは鼻血のせいで自慢の嗅覚が鈍っていなければ……その身に迫る大きな危機に、気づけたかもしれないのだ。

 

「どうしよう……。とりあえず残った分を運んで……ん!?」

 

 不意に、他の生き物の息づかいのようなものが聞こえ、ナキは弾かれたように顔を上げる。そして目の前の何者かに気づくと、瞬時に顔を蒼白にし、その場に凍りついた。

 

「あ……あっ……」

 

 そこには、大きな体躯と牙と爪を持つ猛獣、熊がいた。体はナキを二、三人まとめて抑え込めそうなほどに大きく、立ち上がれば二メートルを越えそうであった。そばにある木が竹のように細く感じられ、四つ足で相手を見すえる姿はまるで大岩のようだった。

 熊はどこかで妖怪の死体でも食べたのか、黒い体毛に銀色の筋が所々に混じっている。爪は数が増え、鉄の鉤爪のように長くなり、食い縛りむき出しにしている牙は吸血鬼のように鋭くなっていた。

 猛獣、もとい妖獣と化した熊はすでに鋭い眼光をナキに向け、敵意を露にしている。距離はもう十メートルほどしか開いていない。もう相手が身じろぎする度に、ナキの頭には引き裂かれ、食いちぎられる映像がまざまざと浮かんだ。

 

(に……逃げなきゃ……!)

 

 ナキは必死にパニックを抑え、いうことを聞かない体でどうにか後ずさろうとする。熊はいつでも仕留められると思っているのか、じっとにらんだまま動かない。このまま逃げられるだろうか。ナキがふっとそう考えた時、頭のどこかで反発する感情がよぎった。

 

 今まで、今日だけでも自分はどんな目で見られていたか。

 悪童たちにもてあそばれ、毅然として怒ることもできず。

 能力に対する信頼も功績も、神様や巫女さんに比べれば足元にも及ばない。

 あげくに与えられた仕事すら満足にできず、妖獣からも逃げるというのか……!

 

 そんな事できない。そう思った。少し考えれば馬鹿げているのだが、今この時はナキの中の意地のようなものがそれを頑なに譲らなかった。

 一度決めれば、考え直す暇はない。敵の目の前でナキは剣と盾をとり、戦闘体勢に入る。その雰囲気が伝わったのか、熊の目がいっそう鋭くなった。

 

「はっ……はっ……」

 

 ナキの手は震えていた。汗ばんでもいる。しかし、まるで強迫観念のように、さまざまな言葉が頭の中でナキを追いたてる。

 

 僕は弱い。弱虫だ、泣き虫だ。何の役にも立たない。このままじゃダメなんだ。

 

「やれるさ……。僕でもやれる!」

 

 言い聞かせるようにつぶやいたナキと、様子をうかがっていた熊が動いたのは、同時だった。



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弱く飛べない、小さな自分

「うわああぁっ!!」

 

 ナキは叫び声をあげながら、目の前の妖獣と化した熊へと向かっていく。地を蹴り一足飛びに相手に向かいながら剣を振り上げた。

 すると、熊の口からそれを押し返すかのような大音量の雄叫びが響いた。低く濁り、それでいて重みさえあるかのような狂暴な咆哮が大気を震わせる。

 そして突如、向かい合っていた熊の体が、むくむくと膨れ上がる。

 

「わっ……!」

 

 ナキが短い悲鳴をあげ、とっさに足を止める。口をポカンと開けたまま表情が固まり、その視線は徐々に上へと向いていく。

 熊が後ろ足を踏ん張り、まっすぐ立ち上がったのだ。ナキの倍以上もある体長が視界を塞ぐような勢いで立ちはだかり、ギョロリと光る獣の目で見下ろしてくる。

 立ち上がるのは、自分を大きく見せるための有名な熊の威嚇だった。ナキも知識として知ってはいたが、いざ目の当たりにしてみると丸で鬼に相対した小人のような心境だった。直立して両手を広げた熊の影にすっぽりと呑まれながら、ナキは上を向いたまま呆然としてその場に立ちすくむ。

 

「グオアァ!」

 

 熊がまた短く吠え、右腕を振り上げた。ナキがその吠え声でハッと我に返った刹那、振り上げられた右腕が頭上に迫ってきていた。

 ナキは間一髪で飛びのき、それを回避する。直後、鉤爪の生えた手が熊の体ごとのしかかるように振り下ろされ、鈍重な衝撃音を辺りに響かせた。地面は鉤爪が食い込み深くえぐり取られ、粉々になった苔や土が宙を舞う。

 ナキがその威力に驚く暇もなく、熊はもう片方の腕を振り下ろす。今度も四肢を砕かれそうな重い一撃。一瞬、首を両断すべく迫りくるギロチンを連想した。しかし、本能的にすんでのところでそれを回避する。

 

「…………っ!」

 

 かすめた鼻先がヒリヒリと痛む。避けたそばから足が震えてよろけそうになる。それでもナキはまだ立ち向かう意思を失わずにいた。

 

 曲がりなりにも、敵の攻撃を二度も避けた事。それがもしかしたらという希望に繋がっていた。たとえ半妖であっても、自分も天狗の一員なのだ。このまま粘り続けていれば、もしかしたら勝てるかもしれない。

 そんな事を焦燥する頭の隅で考えていた矢先、反撃のチャンスがめぐってきた。両腕を振り下ろして四つ足の姿勢に戻った熊。突進力は立ち上がった状態よりはるかに強いが、体高が低い今なら頭上からの攻撃には弱いはず。ナキは熊の姿を一目見て、そう踏んだ。

 

「やあっ!」

 

 ナキは覚悟の一声をあげ、高く跳躍する。熊の背中が見える位置まで飛び、そのまま垂直に近い角度で落ちながら剣を振り下ろす。狙うは熊の首。元々軽いナキの剣は一瞬で素早く首筋に向かっていく。

 しかし、獲物に触れる寸前で、その刃は突然ピタリと止まる。獲物が抵抗した訳ではない。熊は自分に向けられた剣に警戒心を露にしながら、鋭くナキをにらみつけ、あわてたように身構えている。

 問題はナキであった。あと十数センチ腕を動かせば刃が食い込むという状況で、彼は剣を途中まで振るった姿勢のまま、何故か熊のかたわらに浮かんで固まっていたのだ。

 

 ナキの視線は、ある一点から離れない。目を見開いて、まばたきもせずに見つめている先は、ついさっき斬ろうとした熊の目があった。警戒し、今にも飛びかかりそうなほど凶暴な視線とぶつかったまま、ナキは言葉を失っていた。

 ふっ、とナキの視線が動き、熊の直前で止まっている剣へと向く。

 ぎらり、と光る銀色の刃。ナキはその光に見覚えがあった。包丁だ。いつも台所で肉や魚を切るのに使っていたもの。

 しかし、生きているものに使った事はなかった。食べ物は天狗社会で取引するもので間に合わせていた。少なくとも死ぬ瞬間を見た覚えも、殺した覚えもない。

 

 ただ、死骸ならば見た覚えがある。時々山道に転がり、肉を漁られ虫にたかられ、腐って干からびるにまかせる、動かなくなった獣。

 ――もし自分が剣を振るえば、この熊もそうなるのだろうか。このたくましい体から血が噴き出し、獰猛な光をたたえていた瞳はほの暗く宙を見つめて動かない。あの死骸の目と同じになるのだろうか。

 ナキはそんな思考にかられ、息を呑み、細かく震えだした。生きたものを殺す。その重圧を前にして、彼は踏ん切りをつけられなかった。そしてその瞬間、相手が自分を敵視している妖獣だという事を、同時に忘れてしまっていた。

 

 熊の片腕が、ナキを払いのけるようにして振り回された。上の空だったナキは反応が間に合わず、その一撃をまともに食らう。

 バキィッ、と金属を叩いた音がして、剣と盾が弾き飛ばされる。いかに戦闘用といっても、非力な半妖のための軽い装備ではひとたまりもない。武器と防具が紙くずのように宙を舞い、ナキは丸腰となってしまう。そこでもう一撃が飛び、ナキは受け身すら取れず、数メートル後方の木に背を打ちつけた。

 

「かっ……はっ……」

 

 ナキの喉から、声にならない声が絞り出される。背骨に脳を揺らすかのような衝撃が走り、あえなく地面にうつ伏せに倒れ伏してしまう。頭がズキズキと痛み、思考がまとまらない。四肢は力を失い、立ち上がろうとしても手のひらが雑草を撫でるばかり。

 地べたに顔をつけ、ぜぇぜぇと荒い息を吐くナキの、半分が地面に埋まった視界が暗くなる。ぼんやりと霞む目を凝らすと、あの妖獣の足と鋭い爪が見える。

 

 ああ、熊が近づいてきているのだ。ナキは朦朧とした意識の中でそう思った。このまま動かない体を押さえ込まれ、あの爪と牙で刻まれて肉にされてしまう。そんな末路を想像する間、視界の映像がスローモーションになる。一歩、また一歩と熊が迫るのを眺めながら、やがてナキは諦め、目をゆっくり閉じた。

 しかし、目の前が暗転した、次の瞬間。

 

 突如、ズドオォッ、と圧迫感のある轟音が鼓膜を揺らした。ナキが驚いて目を開けると、さっきまで自分に迫っていた熊が何故かよろめいている。

 

「グオオォ!」

 

 熊は腹立たしげに()き、よろけながらもバランスを取った。同時に、目を丸くするナキの顔に、痛いほどの突風が届く。とても晴れた日に吹くような風ではなかった。

 ナキがその風に戸惑っていると、続けざまに矢のように素早い何者かが、ナキの視界に飛び込むや熊へとぶつかった。両者の間に目のくらむような光が一瞬走る。

 ナキはぶつかった誰かを凝視する。それは椛だった。彼女が背負っていた大剣を抜き、熊に斬りかかっている。大剣は妖気が流れているのか白く淡い光を発しながら、熊の爪とせり合い火花を散らしている。

 

「ガアァッ!!」

 

 やがて熊の方が押し負け、妖気をまとった剣が振り下ろされた。熊は悲痛な声をあげ、背中を何度も打ちつけて地面を転がる。背中が土についた分だけ、血の跡が点々と続いた。

 熊はもつれながらも立ち上がると、突然の横やりに驚いたのか、一目散に逃げていった。胸のあたりから、ボタボタと血が垂れていた。

 

「あ……」

 

 ナキがうつ伏せの状態のまま、小さな声をあげた。地面についた血の跡と、その跡が続く先を地に立って見つめている椛との間で、視線をさ迷わせていた。

 椛の白い服には、飛び散った鮮血が赤い斑点となってにじんでいた。手に持つ剣からはつたった血が滴となって落ち、足元に小さく血だまりができる。

 しかし、椛は動揺する様子を見せず、じっと熊が逃げる様子を見送っていた。

 

 ナキは、目の前の光景にしばし言葉を失っていた。知り合いが妖獣と命のやりとりをする、張り詰めた緊張感が周囲に残る。にも関わらず、取り乱さずに敵が去るのを見届けている椛。その姿がナキには少し怖く見えた。

 

「ナキ!」

 

 椛がナキの方へ振り向き、駆け寄ってくる。ナキは見慣れたはずの椛の姿を見て、一瞬だけ肩を震わせた。彼女の手や頬にも血がついている。

 今さっき妖獣に傷を負わせたのを、なんとも思っていないのだろうか。自身に手を差しのべてくる椛をぼんやりと見ながら、寝そべったナキはそんな事を考えた。椛の表情は、頬についた血液など意中にないかのように心配一色だった。

 

「…………」

 

「…………ナキ? どうしたんです? まさかケガでも……」

 

 ナキは疑念が解けぬまま、じっと押し黙っていた。その様子を見た椛は眉をひそめ、手を取って助け起こしてくる。

 その時、触れあった手の感触から、ナキはふとある事に気づいた。

 

(椛さん……震えてる?)

 

 熊に果敢に斬りかかり、退散させた椛。しかし握ったその手からは、かすかな震えが感じられた。顔へと視線を向けると、椛は口をきつく結び、こわばった表情をしている。

 

「椛さん?」

 

 立ち上がったナキが、そう口に出した直後。

 

「ナキ君! 大丈夫ですか!?」

 

「へっ?」

 

 不意に横から新たな誰かの声が聞こえ、ナキはあわてて振り向く。途端に、目をしばたかせて上空から急接近してきた文と目が合った。

 

「文さん……なんでここに?」

 

「なんでって、あなたが遅いから探してたんですよ。椛に引っ張られて」

 

「……あ」

 

 口をとがらせてそう言われ、ナキはようやく土嚢を運ぶ途中だった事を思い出す。同時に、椛が斬りかかる直前の突風が文の攻撃だったのだと思い当たった。

 

「す、すみません! 運んでる途中でリヤカー倒しちゃって……」

 

「今はいいんですよ、そんな事。それより傷を気にしなさい」

 

 ナキが慌てるのをさえぎり、椛は彼の前に屈みこんで殴られた腹の辺りをじっと見ていた。爪のおかげで着物は派手にやぶれていたが、勢いよく吹っ飛んだせいか、幸い浅い傷にとどまっていた。

 

「……お腹は大丈夫なようですね。あとその鼻血は……」

 

「ああいえ、これは熊とは関係ないんです」

 

 いまだ鉄臭さの残る鼻をぬぐいながら、ナキは作り笑いを浮かべる。「烏天狗さんたちに絡まれて」とはちょっと言い出しかねた。

 

「にしても、熊に一人で立ち向かうなんて無茶ですよー。金太郎じゃないんですから」

 

 その時、文がからうように言った。暗い気持ちを押し隠すナキやしつこくケガを気にかける椛の内心に気づいていないのか、口調はきわめて軽かった。あるいは気づいたからこその冗談なのかもしれないが。

 

「戦うにしても狐とか……いっそリスあたりどうです? いくらナキ君でも、剣でスパァーッと……」

 

「! だ、ダメですよそんなの!!」

 

 文が笑いながらそう言いかけた時、ナキは突然はじかれたように大声を張り上げた。文が驚いて目をぱちくりしだすと、ナキは自分が叫んだ事に気づき、気まずそうに首をちぢめた。

 二人がしばし黙りこんだところで、椛が小さく咳払いをする。ちらとナキの方へ視線を送るその目つきは、何かを察しているようだった。

 

「……とにかく、ここを離れましょう。文さん、一足先に大天狗様に報告をお願いします。この付近に近寄らないようにと」

 

「えーと、分かりました。それじゃ」

 

 結局ナキが顔色を変えた理由の分からないまま、文は飛び立っていった。途中で一度だけ、振り返って不思議そうな顔をしていた。

 

「ナキ、肩貸しますよ。歩けますか」

 

「い、いいですよ……。おかまいなく」

 

「遠慮しないで。なにせ死にそうだったんですから」

 

 躊躇するナキにかまわず、椛はするりと肩を組んで歩き出す。ナキはすぐ隣に椛がいる事にしばし顔を赤くしていたが、ある事に気づいて後ろを振り返り、こう尋ねた。

 

「あ、あの。運んだ荷物そのままですよ。あと剣とか……」

 

「いいですから。気にしちゃダメです。とにかく今は離れないと」

 

 彼の問いを素早くさえぎり、椛はナキを引っ張るように歩いていく。熊は好奇心や執着心が強く、一度興味を持ったものはしつこく追いかけ回す習性がある。そのため、熊が一旦姿を消しても、なるべく何も拾わずに逃げた方がいい、というのが基本的な対処法である。椛は、その事をよく知っていた。

 ナキもそれを知ってはいたが、与えられた仕事をさんざんにし、熊からも敗走しかできない自分の姿に、情けなさがこみ上げていた。

 

 いつ戻るか分からない熊を警戒して緊張した面持ちの椛。仕事を置き去りにして引かれるまま、晴れやかでない面持ちのナキ。しかし、いくら危険を知っていても、空へと飛ぶことはしなかった。それが飛行が苦手なナキへの配慮ゆえだと、彼は口で言われなくともよく知っていた。

 両者が無言で歩いていくうちに、また滝の音が聞こえてきた。椛はそこまで来てようやく少し離れられたと安心したのか、いくぶん表情をやわらげる。そして、隣でうつむいているナキにこう言った。

 

「……落ち込む事はありませんよ」

 

「え?」

 

「動物を殺すのは、そう軽い事ではありません」

 

 椛の口から出た言葉が唐突だったので、ナキはきょとんとした顔で戸惑っていた。そんな彼を横目に見て、椛はおだやかな口調で言う。

 

「熊でも生きていますからね……。狐や、リスも。平気な顔では戦えません」

 

「あの、その。椛さん?」

 

「私の顔、怖かったでしょう?」

 

 やや怪訝そうに口を挟んでいたナキだったが、いざ振り向いて正面から目を合わせられると、つい言葉に詰まってしまった。

 椛の顔が怖かった――。それは実際、図星だった。自分を助けてくれたのだ、そのために巨大な妖獣に立ち向かってくれたのだ……と、頭では理解していても、あの鮮血を浴びながら熊と冷徹に向かい合っていた姿を、忘れる事はできない。

 ナキはその時の映像を思い出し、ついに問いには答えずに目をそむけた。椛は切なげに笑みを浮かべ、山道に目を落として言った。

 

「あの熊、どうも妖獣になりかけてましたよね」

 

「そう、ですね」

 

「……あのまま放っておけば知恵をつけていくでしょう。早めに駆除しなければなりません」

 

「……駆除……」

 

 ナキはハッと顔を上げ、すがるような目で椛を見る。椛は視線を交わすと首を横に振り、目を合わせながら言った。

 

「野生の熊からして脅威なうえ、万が一天狗や河童の味をおぼえてしまえば、更に厄介な敵となるでしょう。やるしかないんです」

 

「…………」

 

 ナキはその冷静な理屈を聞いて動揺をあらわにしたが、反論はできずにまた目を逸らした。

 自分だって最初は熊を殺そうとした。放置してはおけないのは十分わかっている。それでも、感情ではどうしても認めたくなかった。

 それを見ていた椛は、態度は責めずに今度は努めて明るく笑って言う。

 

「ナキにやれなんて言ってませんよ」

 

「それは、でも」

 

「いいんですよ。無理しなくていい。そういうのは出来る者がやればいいんです」

 

 抗弁しようとするナキに、椛は力強く頷いてみせる。その目には虚偽の色が全く見えなかった。彼女の服に残る血の跡が、今は覚悟を象徴するかのように見えた。

 

「あなたは優しすぎるくらいに優しい。それも良いことなんですよ。自信を持ちなさい」

 

 励ましの言葉を聞くうちに、ナキの表情からもだんだんと卑屈さが抜けていく。

 同時に、滝の音がする方角から、見知った者の大声が聞こえてきた。

 

「こらーっ! そこサボるなっての! 機械は家に帰ってからいじれ!」

 

「拾ったジャンクは独り占めしない! 誰が捨てたか分からないからね、山の共有財産にするよ」

 

「喉かわいた? 水飲みたい? 私も! でも我慢して!」

 

 続けざまに響いてくる激の声に、二人はポカンと木々の向こうを眺めていた。

 

「この声……」

 

「にとりですね。意外とリーダーシップあるんですよ、あの子」

 

 椛は表情をやわらげて言った。ナキがまた卑屈な笑みで頭をかく。

 

「見習わなきゃな……」

 

「またそんな事言って。ナキにだって向いている役割がありますよ。まだハッキリと分かっていないだけです」

 

「そんなものですかね」

 

 肩を落とすナキの背中を、椛はパシパシと叩いた。やれやれ、とわざとらしく口に出しながら椛がなんとなく辺りを見回した時、彼女は不意に、まるで子猫のように飛びのいた。

 

「きゃああっ!!」

 

「いてっ!?」

 

 甲高い悲鳴とともにナキは派手にその場に放り出され、尻もちをつく。目をしばたかせながらキョロキョロと視線を巡らせると、まるで熊に立ち向かった姿が嘘のような、顔面蒼白にしてかち合う牙も指し示す指も全身を余すところなく震わせている椛が目に入った。

 ナキは素早く跳ね起き、尻についた泥もそのままに拳を握った。いざとなれば自分が身一つで彼女を守らねばと、彼は緊張しつつ身構える。

 しかし、椛の指さす方向にいくら目をこらしても、異様なものは見当たらない。茂みを切り開き、木々の中に線を書いたように細い、いつも通りの山道があるだけだ。

 とうとうナキは痺れを切らして「何がいるんです」と問いかけた。椛は何度もつかえながら言った。

 

「あ、あ……あれ、です。あれ。ホラ」

 

「あれ……? って……」

 

 注意深くその様子を観察するうち、どうやら椛の指さす先は、地面の、茂みの中あたりらしいと、ナキは気づいた。そして改めてその場所へ目をこらす。

 そして、ついに小さい動く生き物を見つけた。大人の腕くらいの長さで、太さは親指程度。手足はなく、地べたをにょろにょろと這う……。そう、蛇である。

 

「あれって……」

 

「ち、近寄ったら危ないですよ! 毒を持っていたらどうするんですか! 戻ってきてください!!」

 

 そろそろと近寄っていくナキの後ろで、涙まじりの声になりながら椛が引き止めるのが聞こえる。毒を警戒するのは一理あるが、大蛇じゃあるまいし遠目に見ただけであれだけ怖がるのは内心ほかの理由があるのだろう、とナキは思った。

 

 一歩、二歩と進み、ナキは蛇を見下ろしながらしゃがみこんだ。人に慣れているのか、蛇は牙を剥く様子もなく、みょーんと音がしそうな呑気さで茂みを行ったり来たりしている。

 体は青緑色で、そばで見るとけっこうな大型だった。それを確かめるとナキは立ちあがり、いまだ一歩も近づこうとせず立ちすくんでいる椛へ向き直ると、笑いながら言った。

 

「大丈夫ですよ! この子ただのアオダイショウです! 滅多に噛みません!」

 

 それを聞いて、ようやく椛は肩をすぼめつつ忍び足で近づいてきた。ナキはその間、一応チラチラと足元に注意を払っていたが、椛が隣に来るまでの間にアオダイショウは十メートルほど遠くの木の根本に隠れてしまっていた。

 

「ほ、本当に大丈夫でしょうか……」

 

「平気ですって。あの種は大人しいし、毒もありません。弱い、とまで言えます」

 

「へぇ……」

 

 ナキはそう言って肩をすくめ、椛の方を見た。恐怖が抜けきらない椛の表情にクスリと笑ってから、彼はアオダイショウが去っていった方角を見る。

 

「あんな子でも、詳しく知ればすごい部分もありますよ。慣れればカッコよく見えてきますし」

 

「…………」

 

 ナキがおだやかにそう話すのを聞いて、椛は次第にキョトンとした顔になった。しばらくしてその視線に気づき振り向いたナキの顔には、なぜか若干照れが浮かんでいた。

 椛はその顔を見て珍しくニヤリとした笑みを浮かべる。

 

「な、なんです?」

 

「ナキ……それもしかして、自分に言ってます?」

 

「み、見習おうってだけですよ。まずは先にアオダイショウをと」

 

「ええ、それがいいです」

 

 椛が屈託なく微笑むと、ナキはむず痒そうな顔をして一人で歩き出した。途中で、石につまづいて転びそうになり、椛に助けられていた。



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熊との決戦 前編

「しっかし、本当によく生きて帰れたよなぁ~。ナキ」

 

「俺だったらすぐ捕まって食われる自信あるわ」

 

「まあ、ラッキーだった……かな」

 

 ある日の朝の集会場。いつもの始業前の挨拶が始まる少し前、十分ほどの空き時間があった。

 広々とした集会場の一角で、ナキは何人もの同僚に囲まれながら、珍しく感心の意味で注目を浴びていた。つい昨日に熊に遭遇して、九死に一生を得た生還者として。

 

「椛さんが来てくれなかったら、絶対死んでたよ……。実際に会ったら僕、怖くて怖くて」

 

「いやー無理しなくていいと思うぜ? お前見るからに意気地ねーもん」

 

「ま、何にせよ葬式する羽目にならなくてよかったよ。堅苦しいの苦手なんだよなぁ」

 

 事件が元で話しかけてきた同僚らはいつもの悪童たちと違い、見下す事もなく、ナキの気弱な口調も気にせず受け答えをしてくれた。そんな状況にいざ置かれてみると、ナキはどうにも照れ臭くあがってしまう。当たり障りのない答えをぽつぽつ返しながら、こんな話し相手がたくさんいてくれたら、と彼は心の中で切ないつぶやきをこぼした。

 そんな風にナキが半ば上の空で愛想笑いを浮かべていると、同僚の一人がふと参ったような笑みを浮かべ、小さくため息をついた。そして、こう言う。

 

「また山狩りしなきゃいけねぇのかな……」

 

「忘れた頃に出るんだよね。二年に一回くらい」

 

「討伐隊に選ばれるって正直、名誉じゃないよな、怖ぇよ……」

 

 やれやれといった同僚のつぶやきをキッカケに、話題は熊の討伐へと移っていく。熊などの害獣が出た場合、白狼部隊の隊長(現在では椛)を中心として白狼天狗から討伐隊を選出するのがならわしとなっていた。

 身体能力に劣るナキが選ばれる可能性はゼロといってよかったが、彼はだからこそ目の前の同僚たちに引け目を感じていた。見知った仲間、たとえそれが普段うとんでいる悪童たちだったとしても、命の危険がともなう現場に送られるのは辛いのだ。自分がなまじ安全であるために負い目を感じてやまない。実際に会ってその怖さを知った今となってはなおさらだった。

 同僚はそんなナキの胸中を知ってか知らずか、気安く笑って肩を叩く。

 

「なーに暗い顔してんだよ。心配すんな、お前はどうせ選ばれねーよ」

 

「また行ったら今度こそ死んじまうぞ?」

 

「は、はは……」

 

 あっけらかんと自身の弱さを指摘されてナキは返す言葉もなく、苦笑いするしかなかった。

 そこで、集会場の最奥に用意された舞台の横、関係者用の出入り口から板戸を叩くような大きな音が響いた。皆が振り向くとやや屈みながら長身の大天狗が入ってきた。それを見たナキたちはあわててその場に整列し、背を伸ばして気をつけの姿勢で固まった。

 それを当然の事のように、大天狗は悠然と大股で歩き、舞台に上がって部下たちを仰ぎ見る。その時、ナキは大天狗の両脇に誰かが立っているのに気づいた。片方は腕の中に何かを抱えている。

 

(あれは……椛さんに、にとりさん?)

 

 ナキの背が低いので確かめるのに苦労したが、二人とも見知った人物であった。両方とも警備兵のような厳粛な表情でまっすぐに立ち、嫌が応にも大天狗のそばで緊張しているのが見てとれた。特ににとりは大天狗の膝上ていどの背丈しかないので恐怖しているようにすら見えた。

 その印象はあながち間違いでもないらしく、にとりは伏し目がちにぎゅうっと自分の体を抱いて縮こまっていた。その時、腕の中にある一抱えほどの器具が、重たく硬いものなのだと分かった。ナキの目からは細かい形状は分からないが、円形の環のついた大きい金具が茶色く塗られ、心なしかものものしい物に見えた。

 

「うおっほん」

 

 ナキが謎の器具を見て首をかしげていると、大天狗が大きく咳払いをする。そして場内の部下たちを改めて眺め回し、低い声で話し始める。

 

「知っている者もおると思うが、昨日山中に熊が出現した。よってこの犬走 椛を隊長とし、討伐隊を組織する。名前を呼ばれた者、前へ」

 

 熊の話題が出たとたん、場内にすぅっと緊張が走る。いよいよ命をかける討伐隊のメンバーが発表されるのだ。部下の何人かが震えだし、表情を引きつらせるのもかまわず大天狗は冷徹な調子で名前を呼び出した。

 

「まず、紫陽花(あじさい)

 

「……はっ」

 

「アネ」

 

「は、はいっ」

 

「モネ」

 

「はっ!」

 

 一人一人が呼ばれる度に壇上に上がっていく。緊張している者、怖がっている者、使命感に燃える者……。顔色と佇まいでさまざまな心境がかいま見える。そうして男女混合の二十名ほどの名が読み上げられた。やはり、ナキはその中に入っていない。

 「以上だ」そう大天狗が告げてから、安堵と諦めのため息が入り交じってこだました。これでメンバーは決まった。あとは椛との作戦会議に入るだけ……。

 と思われたのだが。

 

「加えて、今回はもう一つ言っておく事がある」

 

 大天狗の一言で、気を抜きかけた者たちが緊張を取り戻す。大天狗が隣に目で合図すると、にとりは抱えていた重そうな器具を高々とかかげる。しかし結局支えられずに、よろけたところを椛があわてて横から手を添えた。

 

「これはトラバサミという罠だ」

 

 トラバサミ、その聞きなれない言葉に部下たちがざわつく。それを上回る大声で、大天狗は更に続けた。

 

「これが最近になって大量に幻想入りしてきてな……。現在使っている仕掛け弓の罠などと比べて、段違いの威力が期待できる。どれ」

 

 大天狗は隣の二人組に命じてトラバサミを壇上に置かせる。円形の環が上を向く形だ。場内の皆が固唾を呑んで見守る中、大天狗は前もって用意していた角材を懐から出すと、勢いよくトラバサミの環の中心へ突き入れた。

 その瞬間、環が半分ずつ弾かれたように持ち上がり、獣の口のように中心の角材へ噛みついた。硬いものがぶつかり合う強烈な音が場内に反響し、大天狗以外がとっさに耳をふさぐ。

 一方、大天狗は平然として挟まれた角材を引き抜きにかかる。トラバサミを足で押さえつけ、根が張ったかのように動かない角材を引っ張った。しばらく左右にひねったりして、しまいには軋むような音を立てて挟まれた部分から先が引きちぎられる。角材の断面は本当に牙で噛み裂かれたような形になっており、環に刃の類いがついているのが容易に想像できた。

 大天狗はあわれな姿となった角材をかかげ、断面を自慢げに見せつける。場内の天狗が何人か感嘆の声をあげた。

 

「と、いう訳だ。今回は河童のアドバイスを聞いて試験的に取り入れようと思う」

 

 そう言って角材をポイと放り出し、大天狗は最後に大きな声を張り上げた。

 

「では、討伐隊のメンバーはこの後、会議室へ集合すること! 残りは仕事に戻れ! ただし、縄の張ってある場所には熊が出るから近づくなよ! では、解散!!」

 

 矢継ぎ早の指示の後、大天狗は椛とにとり、他の討伐隊のメンバーを引き連れ、舞台わきの出口から大股に退場する。それを見届けた部下たちは、いまだ緊張が残る面持ちでぎこちなく集会場を後にする。その中で、ナキがただ一人、仲間たちの間をすり抜けて早足に外へ飛び出した。

 

(椛さん……!)

 

 廊下をバタバタと音を立てて走る。足は自然と大天狗の言った会議室へと向かっていた。自分でもよく分からない焦りを感じながら、息を切らして駆けつける。

 彼が会議室を目にした時、ちょうど椛が障子戸に手をかけて閉めようとしているところだった。ナキは反射的に椛へ声をかける。

 

「椛さん!」

 

「ん? ……ナキ、どうしたんです?」

 

 椛はナキの姿を見て、驚いたようであった。息を弾ませていたナキは、尋ねられてふと答えに窮した。言われてみれば特段用がある訳でもない。

 

「え……その」

 

 口ごもり、目を伏せた。はて、自分は何を気にしたのだろう、と考えて、思い当たったのは先ほど見たトラバサミの事であった。協力な威力を目の当たりにして、何故だか危ない予感がしていた。しかし、今ここであやふやな予感など話しても何になろう。

 椛はナキが何も言わないので、戸を開けたまま眉をしかめている。お気をつけて、とでも言っておこうとナキが顔を上げて口を開いた、その時。

 

「おい椛、何をしている。お前がいないと始まらな……」

 

 椛の背後から、大天狗がのっそりと顔を出した。顔を上げた直後に目が合い、ナキは思わず固まってしまう。

 思い出すのはいつぞやの、イジメを訴えた日の態度。お前ごとき半妖に手はかけられんと面と向かって言われた記憶が蘇り、自然と険しい表情になってしまう。

 しかし、その顔を見た大天狗は、意外にも口角を上げ、気安い口調でこう言った。

 

「なんだ、お前か。隊長が心配で来たのかな?」

 

「なっ!?」

 

「へ?」

 

 いとも簡単に本心を見抜かれ、冷酷なイメージとのギャップと合わせて二重に驚いてしまうナキ。やはり何度もイジメを気にかけている者を見れば何かしら感ずるのだろうか。一方で椛は全く思い当たらなかったのか、キョトンと首をかしげていた。

 そんな二人の反応が面白かったのか、大天狗はワハハと大げさに笑う。

 

「なぁに、気にする事はない。椛は何度も熊を相手にしてきた歴戦の勇士だ。なあ?」

 

「あ、はい……まあ」

 

 背中を強く叩いてくる大天狗に、椛は怪訝な顔をしながら少し遠ざかる。彼女も急に陽気になった大天狗を妙に思ったのだろう。椛は苦笑いをしながらナキに目で合図し、戸を閉めようとする。そこで大天狗はナキを見ながら三日月のような笑みを浮かべ、最後にこう言った。

 

「まあ大丈夫さ。なんならこれから、椛の仕事も減っていくだろう」

 

「? それってどういう……」

 

 意味深な台詞を吐く大天狗の顔に一瞬、ずる賢いような影がにじんだ。ナキが口を挟もうとしたが、一瞬早く障子戸は閉められる。

 

「あ……」

 

 後には、釈然としない表情で廊下に立ち尽くすナキが残った。

 

 

――

 

 

「……今日も誰も来ないな……」

 

 それから数日後、ナキは今までのような見回りは行わず、ふもとの山道の入り口に立ち、気をつけをしたまま突っ立っていた。上空ではスズメが呑気そうに鳴いている。

 討伐隊が組まれてから、椛たちは例のトラバサミを設置し、山中を丹念に捜索して危険な妖獣を探しだそうとしていた。しかし敵もさながら用心深いもので、なかなか姿を見せない。他の天狗たちも熊が最初に目撃された、縄の張られた場所を避けて見回りをしていたのだが、せいぜい足跡が見つかる程度だった。

 

 そうなってくると、やはり人手がいる……のだが、ナキはここ数日間、ずっと今のように山道を見張っていた。理由は椛曰く『顔や臭いを覚えられているかもしれないから(熊の嗅覚は犬以上に鋭い)』だそうだが、実際はやはり弱いからである。

 

「ふぅ……」

 

 耐えきれずにナキはとうとうため息をついた。妖怪の山は元々閉鎖的で来客も少なく、ナキの傍らには

 

『熊の目撃情報あり。立ち入りを禁ず』

 

 と書かれた看板があり、背後には縄が張られている。

 つまりナキに課された仕事とは元々少ない来客の中で、立ち入り禁止を命じられてもなお山に入りたがるような者を追い返す……というえらく限定的な、早い話が退屈なものであった。

 

 皆が熊の事でピリピリとしているのに不謹慎だと思いつつも、ナキはソワソワと空を見上げた。すると、あちこちを見渡していた彼の目に、近づいてくる二人の人影が見えた。

 

「ナキく~ん!」

 

 一人がよく通る声で名前を呼びながらナキの目前に降り立つ。カメラを携えた烏天狗の少女、射命丸 文である。その少し後ろに降り立った小柄な河童は、河城 にとり。熊の騒ぎで緊張している山の社会にあって、文はいつも通り気安い笑みを浮かべている。にとりはそれを全く真似せずに相変わらず無愛想な顔をしていた。

 

「こんにちは」

 

「ちょっとお久しぶりですね。元気でした?」

 

「ええまあ、変わりありません」

 

 遠慮せずに軽いステップで距離を詰めてくる文に、ナキは社交辞令の笑みを返す。かれこれ入り口での見張りを数日間、一人で続けたせいで、笑顔が若干ぎこちなくなっていた。すると、にとりが文の背後から顔を出し、言った。

 

「あれから何事もなかったかい?」

 

「へ? ええ。なにせ、ほとんどここには誰も来ませんから」

 

 たはは、と笑いながら答えるナキ。しかし、バツが悪そうに曇っているにとりの表情にふと気付き、首をかしげる。にとりは一瞬口ごもり、ツインテールの片方を言いにくそうに弄りながら口を開いた。

 

「いや……悪かったね。できればすぐ行きたかったんだけど、なんせ忙しくてさ」

 

「……あ、気にしないでいいですよ。大事件ですもん」

 

 にとりが不義理を恥じているのだと気付き、ナキは首をブンブンと横に振る。彼はそんな事を気にするどころか、珍しく同僚に騒がれただけで頭がいっぱいになっていたのだ。普段は大体一人でいるので、感覚が少しズレているのかもしれない。

 

「私もできればすぐインタビューしたかったんですけどねー。さすがに呑気に新聞を作る雰囲気ではなく……」

 

 一方で自分の都合を恥ずかしげもなく語る文。にとりが横で呆れた目をしていた。

 

「や、やっぱり皆さん大変ですよね! 毎回、山総出で騒ぎになっちゃって」

 

 落差のある表情をしている二人に、ナキがあわててねぎらいの言葉をかける。当のナキの仕事は退屈極まりなかったのだがそれは横に置き、彼は続ける。

 

「あの……トラバサミでしたっけ? あれの調整もしなきゃいけないでしょうし」

 

 そう言って、ナキはにとりへと視線を向けた。なんてことない世間話のつもりだった。が、どういう訳かにとりはトラバサミの名を聞いた瞬間、どこか苦い表情をした。眉を寄せて視線をそらすにとりに、ナキはふと言葉を切る。

 

「……あ、すみません。何かまずい事言っちゃいました?」

 

「ん? ああいや……そうじゃないんだけどさ」

 

 焦って謝るナキに苦笑いし、にとりは歯切れ悪く手を振る。そして一瞬沈黙し、ぽつりとこう口にした。

 

「トラバサミ……あの罠は幻想入りした物だって、大天狗が言ったろ」

 

「? ええ、言ってましたね」

 

「あれ、なんで幻想入りしたんだか知ってるかい」

 

 にとりの声が存外低く深刻だったので、ナキは思わずたじろいだ。視線を左右に何度か泳がせて、「さあ……?」と答えると、にとりは険しい顔で言った。

 

「狩りに使うのが禁止されたんだよ。外の世界でね」

 

「禁止?」

 

「色々問題が多くてね」

 

 ナキの眉がやにわにくねる。へらへら笑っていた文もいつの間にか、神妙な顔をしていた。

 ナキの目を見上げながら、にとりは続ける。

 

「あの威力を見たろ? 獲物がかかるとちょっとやそっとでは外れない。罠の主が来るまで、ずっと足をギリギリ締め付けるんだ」

 

「……!」

 

 以前の、あの角材を掴まえた姿を思いだし、ナキは唾をごくりと呑み込んだ。

 

「仕掛けた奴が忘れたりしたら、下手すりゃ獲物はそのまま死んじゃう。もっと酷いのは、人がかかった時だ」

 

「人が……!?」

 

「あるんだよ。そんな話がゴロゴロ。目印をつけても、うっかりってものがある。なんせ踏んだだけで発動するんだから」

 

 実際に戦争でも使われたんだぜ、などと吐き捨てて笑うにとり。ナキはもう顔面蒼白であった。今まで入り口を見張るばかりで意識しなかったが、改めて危険性を教えられると悪い想像がそぞろに浮かんでくる。

 もし椛が怪我で膝から下を無くしたりしたら……。

 たまらずに、ナキはすがるような声で言った。

 

「で、でも! 大天狗様はあんな自信満々に発表して……。椛さんも、忙しくなくなるかもって……!」

 

「さあ、それはよく知らない。なにしろ急だったんだよ。危ないって言っても導入するの一点張りで、改造もさせてくれなかった」

 

 ナキの必死さとは対照的に、にとりは静かにいきさつを打ち明ける。いつしか悔しそうに唇をかみ、苛立ち混じりに首を横に振った。

 

「本当に、何をあんなに急いだんだか……」

 

 ため息と共ににとりがそう溢したところで、不意に文が彼女の肩をトン、と叩く。

 

「ん?」

 

「にとり、そろそろ行かないと。休憩が終わっちゃいます」

 

 振り向いたにとりの目には、いつものふざけた態度と大違いの、真面目な文の顔があった。にとりが戸惑っていると文はその手を引いて、空へと飛び上がった。

 

「私たちそろそろ行きますね! ふもととはいえ、油断しないでください!」

 

「あ、はい! そちらこそお気をつけて!」

 

 空高く上がりながら、文は普段の笑顔に戻って手を振った。ナキもその姿を見上げながら挨拶を返す。にとりは引っ張られるような格好になりながら、文の表情をなんとか見ようとしていた。

 二人はその格好のまま、長いことまっすぐ山頂が間近に迫ってくるところまで飛んでいた。にとりは手を離して、眉をしかめながらこう尋ねた。

 

「どうしたんだい。急に離れちゃって」

 

 文は厳しい顔で見返し、叱るように言った。

 

「仕方ないでしょう。あなた、ナキ君の真っ青になった顔を見なかったんですか」

 

「……あ……」

 

 それを聞いて、にとりはやっと、はたと気づいたように目を伏せた。罠の危険性を知れば知るほど、ナキが椛や仲間を心配するようになるという図式に気づいたのだ。

 

「機械に詳しいのはいいですけど、無駄に不安がらせてどうするんです」

 

「……ん、ごめん」

 

 素っ気ない返事をしながら、にとりはしょんぼりと肩を落とす。文はため息をついて前に向き直り、しばらく無言でいた。

 二人とも何もしゃべらずノロノロと飛び、山頂の神社を素通りした辺りで、ぼそり、と文が独り言のようにつぶやいた。

 

「……でも、妙ですね」

 

「は?」

 

「あの新しい罠に関する、色々な動きですよ」

 

 ポカンとするにとりの前で急に止まり、文は思案深げな顔で振り返る。その目には疑惑を追求する記者らしい、鋭い光が宿っていた。一方で、要領がつかめずにいるにとりはその視線に気圧(けお)され、ぼんやりその場に浮かんでいた。

 文は、そんなにとりに一つ、こう尋ねる。

 

「にとり。トラバサミは大天狗が急に導入したと、確か言いましたね」

 

「うん。それが?」

 

「当然、諸々(もろもろ)の危険性も知っていた?」

 

「ああもちろん。なんだったら椛と一緒に会議した時も、最低限には聞いてるよ。……反対する奴も出たけど、結局押し切られちゃった」

 

 急に念押しするように問いただしてくる文に戸惑いつつ、にとりは記憶をたどり答えていく。文は顎に手を当て、ちらと宙をにらんだ。

 

「それはいわばゴリ押しですよね……。一体、あの禁止された罠を何故そこまで……」

 

「相手が妖獣だからじゃないの? 『新しい武器が必要だ』って言ってたよ」

 

「それにしたって性急すぎますよ。危険性にわざわざ目をつぶってまでトラバサミを使うのが分からないんです」

 

 文は納得しない様子で返した。そうされるとにとりも考えない訳にいかなくなってくるが、その目にひらめきの光は見えない。

 

「んー、そう言われると怪しい気もするけどさぁ、逆に大天狗様がなんか企む理由とかあるのかな?」

 

 にとりは肩をすくめて問い返した。内心では、さしずめ記者の性分で勘ぐりすぎているだけだろう、と深く考えずにいた。

 一方で文は腕組みをして、新聞のネタに困った時のようにじっと考え込んでいる。頭の中ではすでに様々な推測が浮かぶ。大天狗が罠マニアでリスキーなトラップを愛好している……という発想を却下した直後、彼女はある事を思い出した。

 

「そうだ。にとり、ナキ君の台詞を覚えてます?」

 

「は? ……台詞って」

 

「『椛さんも忙しくなくなるかも』って」

 

 文は鋭い目をしてにとりに詰めより、強い調子で確認する。「それがどうかしたの?」といぶかしむにとりへ、苦い顔をして言った。

 

「……もしかしたら、彼は椛の権威を削ろうとしているのでは、と思うんです。『忙しくなくなる』というのはそんな意味かと」

 

「はぁ?」

 

 にとりは眉をはね上げ、文の目を凝視する。しかし突拍子もない事を言い出した記者の目は真剣だった。

 

「待って待って。なんだってそんな話になるのさ」

 

「以前に話しましたよね。大天狗はナキ君のイジメに無関心でいると。椛は前々から大天狗にイジメを訴え、その度に無視していた……。鬱陶しく思うのも無理はありません。動機は十分です」

 

「いやそうじゃなくて、なんで罠が椛の権威に繋がるの」

 

 にとりは今一つ呑み込めないという風に額を押さえながら尋ねる。文は人差し指を立てて、心なしか声をひそめて話し出した。

 

「考えてもみてください。今まで白狼部隊が伝統的に害獣を仕留めてきたのを、幻想入りした現代の罠で戦果をあげられれば……」

 

「……みんな、現代の道具に惹かれだす、かい?」

 

「それだけとは限りません。宣伝次第では、『椛たちは頼りない』と印象操作もできるでしょう。新しい技術ってのはセンセーショナルですから」

 

 文の真に迫った語り口を聞くうちに、にとりもそんな気がしてくる。新しい機械を作っても、最初の印象次第で扱いが全く違ってくるなんて経験は何度かあった。

 

「第一、わざわざ『忙しくなくなるかも』なんて気遣いだすのも不自然な気がするんですよね。椛の話す印象からして」

 

「ふーむ……」

 

 にとりもだんだんと神妙な顔つきになり、アゴを撫でつつ考え出した。文の話も説得力がない訳ではない。しかし、だとしたらずいぶんと横暴な真似をしてくれたものだ。熊の騒ぎにかこつけ、さもしい計略のためにリスキーな道具を無理に使わせる。使い方をていねいに教える暇もなかった。

 雑な扱い方をして事故が起きる……。日頃機械をいじっているにとりからすれば、決して縁遠い事ではなかった。

 

「まあ、今のところは私の勝手な推測ですけどね。大天狗に聞いた訳でもなし」

 

 文は気まずい雰囲気を打ち消すようにそう言った。しかし、笑顔にはいまだ不安そうな色が残っている。

 

「結局、今一番気にすべきは……」

 

「……椛たちの無事?」

 

「ええ、熊もそうですが……事故の方も」

 

 文はさびしい笑みを浮かべながら下に目をやった。視線の先には、妖怪の山がふもとに向けて形作るなだらかな裾野があった。

 

「なんにせよ早く決着してほしいですよ。一体、山のどこにいるのやら」

 

 

――

 

 

「血の臭いが続いています。こっちに間違いありません」

 

「分かりました。皆さん、気を抜かずについて来てください」

 

 ちょうどその頃。くしくも文が見つめていた裾野の辺りで、列をなして獣道を歩く椛と討伐隊メンバーの姿があった。何日もかけてようやく目標の熊らしき痕跡を見つけ、椛の顔は緊迫し、いつもに増して厳しい目つきをしていた。

 

「ようやく見つけたか……。今度こそ確かなんですよね?」

 

「もう私、あちこちに罠しかけまくるの飽きたよぉ~」

 

 後ろを歩く部下の何名かが疲労といら立ちの混じった声をあげた。椛は振り返り、きつく叱りつける。

 

「余計な私語はやめなさい! 熊をしとめるまで安心はできないんですよ」

 

 そして、腰に手を当ててこう付け加えた。

 

「そうやって気を抜いて、罠にかかっても知らないですからね」

 

「トラバサミでしょ? それなら目印があるじゃないですか」

 

「木に赤い布が巻いてあるんですよね。ちゃんと覚えてますよ!」

 

「……はぁ……」

 

 他の隊員にたしなめられ、ようやくお喋りはなくなった。椛は改めて部下たちに合図をし、道を進んでいく。草が踏みならされただけの道を歩いていると、やがて視界に赤い布が巻かれた木が映った。根本に罠があるという目印である。しかし、そこに獲物の姿はない。

 

「……熊がいない?」

 

「おかしいですね。確かに足跡も血の臭いも続いていたのですが」

 

 隊員の一人が眉をしかめる。椛は部下たちに武器をかまえておくように言い、ゆっくり罠へと近づいていった。周りを取り囲む茂みをかき分ける音を、極力おさえながら。

 やがて間近に来て、椛はそろそろと屈んで目を凝らす。木の根を隠すように生い茂る雑草の隙間に、あのトラバサミの金具が見えた。しかし、罠は仕掛けた時の姿とは違って見えた。

 

「これは……」

 

 椛はごくりと唾を呑む。トラバサミの環が閉じている。誰かが罠を踏んだ証拠。そして、その閉じた環の中には、もう一つの証拠が残っていた。

 

 長く鋭い爪を持つ、毛むくじゃらのたくましい手。あの忘れもしない妖獣の手が、手首から先だけの状態になって環に挟まれていた。閉じた環がしめつけている部分の少し上で、赤黒い生々しい傷口が乾いた状態でさらされている。

 

(……自分で片腕を引きちぎったんだ……。罠から逃れるために、わざと)

 

 椛は直感的に推察し、同時に冷や汗をかいた。罠にかかり、そして逃れた他ならぬあの熊が、まだどこかにいる。

 そして、熊ほどの――妖獣化したならなおのこと――知恵があれば、感づいてもおかしくないだろう。この見慣れぬ罠をしかけて自分を傷つけた連中、あるいはその同類が、この辺りに現れると。

 

「皆さん、気をつけて!」

 

 椛は部下たちへと振り向き、めいっぱいの声を張り上げた。しかし、椛の見たものを知らない二十名ほどの隊員は、その焦りに一瞬だけ、戸惑いの色を浮かべた。

 

 その一瞬、最後尾にいた隊員は気づいていなかった。すぐそばの背の高い茂みの中から、二つの目が覗いたのを。

 その目は残忍に光り、目の前の隊員を見据えていた。刹那、その目が茂みの陰の中で踊った。続いて草木をなぎ倒すやかましい音がいくつも響き、驚いて振り向いた隊員に、地鳴りのような恐ろしい咆哮と、覆い被さるような巨大な影が降りかかった。

 

「ぎゃあああぁぁあーーーっ!!!」

 

 目に映るものを理解する前に放たれた隊員の悲鳴は、山全体に響き渡った。

 熊が、出たのだ。



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熊との決戦 後編

「ぎゃあああぁぁあーーーっ!!!」

 

 山中に響く悲鳴。その絶望のこもった叫び声は山の全体に緊張を走らせ、前方に固まっていた討伐隊の全員が即座に振り返ったほどだった。

 そして彼らの目に映ったのは、最後尾にいた隊員の目の前でまさに襲いかかろうと牙をむいた熊の姿だった。

 

「あ、危――」

 

 驚いたある隊員はそう言いかけ、口をパクパクと震わせた。いかに訓練を積んだ妖怪でも、予想だにしない襲撃に際しとっさに動けるとは限らない。仲間の目前に敵がいる。叫んでも遅い。走り出しても間に合わないかもしれない。そんな微かな迷いが何倍もの焦りを生み、判断を鈍らせる。

 何人もの隊員が同じように、熊の姿を前に体を硬直させていた。嫌が応にも見開かれる両目だけが、踊りかかる熊と呆然と立ち尽くす隊員の姿をスローモーションに追っていた。

 

 その視界に一閃。矢のような光が走り、熊の鼻先にぶつかって弾けた。固まっていた白狼天狗たちがハッと我に返り、辺りを見回す。

 すると、屈んだ状態で熊に手のひらを突きだす椛の姿があった。妖力を込めた弾を間一髪、熊にぶつけたのだ。

 

「グオォッ!」

 

 熊は横からの不意打ちに怯み、うなって両手で鼻先を押さえた。忌々しげに頭を振り回す熊を見ながら、やっと呼吸を思い出す部下たちに向けて、椛は間髪入れずに叫んだ。

 

「何をぼさっとしているんです! さっさと構えて! 奴を囲みなさい!!」

 

「は、はいっ!」

 

 椛の一喝に隊員たちは一斉に熊をにらみ、剣を向けて取り囲む。彼らの顔には一様に汗がにじんでいた。

 一方、熊はそんな二十そこらのやせ狼たちを敵意たっぷりの目でにらみ返し、身体中に力をみなぎらせる。低く濁ったうなり声が、椛以外の討伐隊のメンバーには死神が忍び寄る音に聞こえていた。

 

 

 

 その頃、上空にいた文とにとりも山中であがった悲鳴を聞きつけていた。二人は素早く顔を見合せ、次にその悲鳴の出所……すぐ真下のなだらかな裾野を見る。にとりが眉にシワを寄せて目をしばたかせる隣で、文がじっとオレンジ色になった木々の、その隙間を針に糸を通す時のように凝視していた

 するとだしぬけに文はにとりへ振り向き、微笑みながら言った。

 

「私、ちょっと行ってきますね。にとりは念のため来ないでおいてください」

 

「え、ちょ……」

 

 にとりが止める間もなく、文はほとんど落ちるような角度で悲鳴があがった

場所へ飛んでいった。にとりは内心で熊が出たのだと直感して身をすくませていたが、やがて意を決したような顔になると、すでに小さくなった文の姿を追いかけだした。

 

「ま、待ってよ文! 私も行くよ、行くったら!!」

 

 

 

 そして別の場所でも同じ頃、悲鳴を聞きつけて動揺している者がいた。山のふもとで見張りをしていたナキである。彼も白狼の人間離れした聴力でもって、はるか遠くの悲鳴を聞き取っていた。

 

「……まさか、熊が……」

 

 ナキはかすれた声をあげながら背後の山を振り返る。自分が一瞬けし粒か何かのように思えてしまうほど巨大な山のどこかで、何かが起きているのだ。

 すぐに熊と討伐隊の事が思い浮かんだ。熊を探して不意打ちを食らい、やられたのかもしれない。そうでなくとも深刻な事態に……。

 

 ナキの頭の中では、先ほどにとりから聞いた話のせいか、熊に加えてトラバサミで事故にあう想像まで、そぞろに浮かんできてしまっていた。討伐隊の誰かが罠にかかってしまったのかもしれない。それによって足止めを食らい、熊に出くわしてしまうかもしれない。

 もしかしたら、椛本人が……。

 

 悪い想像が次々と膨らみ、いても立ってもいられなくなる。そもそも見張りの仕事がある、飛べない自分では駆けつけるまで時間がかかる、行っても何ができるか分からない……。踏みとどまる理由はいくつもあったが、ナキはどうしても、今見過ごせば激しく後悔するような、そんな予感がしていた。

 ついにナキはくるりと山へ向き直って目の前の登山道をにらむと、一直線に駆け出した。走るその先に、凄惨な光景が広がってない事を祈りながら。

 

 

――

 

 

「せやあーーっ!」

 

「んにゃろうがぁっ!!」

 

 二人の白狼天狗が、左右から熊へと斬りかかる。天狗の使う大振りな刀を振り下ろし、熊の横腹と肩に傷をつける。

 

「ガアウッ!!」

 

 鮮血がほとばしり、熊が吠える。しかしすぐさま腕を振り回し、天狗へと反撃する。

 

「うわっ!」

 

 左右にいた二人はとっさに飛び退き、熊の攻撃範囲から逃れる。その動きはほとんど反射的で、余裕がないものだった。熊の片腕が木にぶつかり、幹の方を真っ二つにする。

 

「くっ……まだ倒れないか……」

 

 椛は剣を構えて遠巻きに熊を見ながらつぶやいた。その剣にはすでに血がまんべんなく付いていたが、熊は身体中に大小さまざまな傷を負いつつ、まだ怒りを目に宿しながら椛を見据えた。

 

 最初に隊員が悲鳴をあげてから三十分あまり。討伐隊のメンバーはいまだに戦闘を続けていた。死者こそ出ていないものの、皆めいめい服が破け、肌にいくつも爪痕が残り、今にも膝から崩れ落ちそうになっている。彼らを奮い立たせているのは白狼天狗としてのプライドと、倒れればたちまち殺されてしまうという恐怖だけであった。

 

「……文さん、すみませんがもう一度援護を!」

 

「了解です、皆さん離れて!!」

 

 そんな過酷な状況にあって、椛はどこからかやって来た二人の乱入者にまで協力を求めざるを得なくなった。文とにとりである。椛も最初は追い返そうとしたのだが、熊のしぶとさに苦戦するうち、手助けしたいという二人の申し出をなし崩しに受けたのだった。

 

「せいやあっ!!」

 

 文がかけ声と共に、右手の紅葉型の扇を一振りした。その瞬間、一陣の風が吹き荒れ熊を直撃する。熊がわずかにひるみ、顔を逸らした瞬間に、文が叫んだ。

 

「今です、撃って!!」

 

 その声に呼応して、熊の周囲を囲んでいた白狼天狗たちが一斉に妖力の弾幕を張る。色とりどりの光の弾が横向きの(あられ) のように襲いかかり、熊の体に当たるや花火のごとく音を立てて弾け飛ぶ。

 四方八方から襲い来る弾幕に熊は身を縮め、怒りに顔をゆがめた。逃げ場もなく、腕で顔をかばう。

 相手が動かなくなった隙に、続けて椛が大剣を構えて走り出した。飛び交う弾幕をジャンプで飛び越え、十メートル以上離れた熊へと、空高くから剣を振り上げ一気に迫る。

 

「はあぁっ!!」

 

 かけ声と共に、真上から頭に向けて、両手で剣を振り下ろす。しかし、熊は素早く振り向くと、腕を突き上げ、向かってくる刃を手の甲で受け止めた。

 

「ぐ……うぅ!」

 

 刃を伝って手に重い衝撃が伝わる。椛は眼下の熊とにらみ合いながら必死に剣を食い込ませようとしたが、いかんせん飛んでいた状態のため踏みしめる足場がなく、思うように力が入らない。ギシギシと生々しい音を立てながら膠着状態を続けていると、熊が突然立ちあがり、もう片方の腕を椛へと振り回した。

 シュリッ、と刃が爪を滑る音がした瞬間、がら空きだった椛の腹にフルスイングの熊の腕が食い込む。

 

「ぐあっ!」

 

 椛は剣を手放してあえなく吹っ飛んでしまった。文とにとりが駆け出し、とっさに受け止めたが、椛は二人の腕の中で力なくうなだれる。

 

「椛!」

 

「だ、大丈夫かい!?」

 

「な……なんとか」

 

 絞り出すような声で答えながら、椛は立ち上がる。膝が笑い、殴られた腹は鈍く痛む。

 しかし、幸いな事に血は出ていなかった。殴った手は、あの罠にかかって爪先を引きちぎった方だったのだ。

 椛がかすんだ目で前を見ると、部下たちが熊を必死に弾幕で足止めしているところだった。熊も片手を失っているせいか二十人分の弾幕をかいくぐれはしなかった。文とにとりもその輪に加わり、少しずつ相手は動きを鈍らせていく。

 

 椛は、手放してしまった剣を拾おうと必死に体を引きずった。

 いま熊と戦っているこの場所は、ふもとにほど近い裾野である。仮に熊が逃げ出してしまえば、山の外へ向かって被害を拡大させる恐れがある。したがって確実にとどめを刺さなければならない。

 戦っているうちに、もう最初に見つかった場所からずいぶんと移動してしまっていた。戦闘が長引けばそれだけ部下は疲弊していくのだ。

 

「けほっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

「にとり! 大丈夫!?」

 

「くそっ……水さえあれば……」

 

 ついににとりが力尽き、その場にしゃがみこんでしまう。逃がす訳にいかない分、ただ攻撃するよりさらに体力を消耗する。

 そんな現状に業を煮やしてか、隊員の一人が仲間の輪から外れ、剣を構えて飛び出した。

 

「ええい、奴は右手を怪我してんだ! そっちから仕留めてやる!!」

 

「っバカ! やめなさい!」

 

 森林沿いを大きく回り込んで熊へと走る部下を、椛はあわてて止める。彼女は見ていたのだ。部下が走るすぐ先の木の一本に(トラバサミ)の目印である、赤い布が巻かれてあるのを……。

 部下は全く気づかずに、熊ばかりを見ている。そして瞬く間に、あと一歩で罠を踏むというギリギリのところまで来た。間に合わないと知りながらも椛が駆け出す。その時熊が、自分に向かいつつある白狼天狗と、遠くで走り出した椛に気づいた。そして次の瞬間。

 

「うわっ!?」

 

 熊へと向かっていた隊員が、驚きの声をあげる。

 変化は思わぬ所から現れた。今まさに罠を踏もうとしていた隊員の足元が、急に柱が生えたかのように罠と一緒に飛び出したのだ。隊員はだしぬけに膝元に浮かんできた罠に目を丸くし、つんのめって尻餅をついた。

 椛は突然の出来事に一瞬眉をしかめ、ハッとして後ろを振り向いた。あの土が変形する現象には覚えがあった。

 

「げほっ、けほ……うぅ……」

 

 案の定――獣道の向こうには、咳き込んでよろめきながら近づいてくるナキの姿があった。見張っていた山のふもとから一直線に向かってきたのだろうか。遠くから見ても分かるほど疲労困憊の状態であった。

 

「ナキ!?」

 

 椛は驚きと焦りが入り交じった表情で彼を見ながら叫ぶ。まさか戦いについていけないだろうと置いていかれたナキが、熊に殺されかねないこの場に出て来るとは思わなかったのだろう。

 しかし、反射的に駆け寄ろうとした椛に、次の危険が襲いかかる。

 

「ゴアアァッ!!」

 

 熊がうなり、白狼天狗の包囲を破って猛然と椛に向かって駆け出した。多数で一斉にしかけてくる敵を厄介だと考えた熊は、ただ一人背を向けた椛を隙ありとばかりに狙ったのだ。

 

「くっ!」

 

 椛はとっさに剣を取ったが、熊はもう目前まで来てしまっていた。二倍以上もある体格、弾丸のような速さ。このまま臨戦態勢を取っても間に合わない。椛が脳裏でそう考えた時。

 今度は、何かが頭上を飛来し、熊へと向かう。そしてそれが熊の肩に突き刺さった時、椛はそれが何であるか理解した。

 それは長く薄い、きらめく刃を持つ剣だった。ナキだけが使っていた、細身の軽い剣。突然刃物が刺さった熊は、動揺して立ち上がり、肩口の目障りな武器を抜こうとする。

 

 その隙に椛が飛び出した。大剣を前へと突きだし、体ごと飛び込むようにして、立ち上がった熊の胴体に突き刺した。

 重い感触がして、剣先が腹を突き抜ける。熊が喉まで血を昇らせながら、悲痛な怒りの声をあげた。

 椛は微動だにせず地面を踏みしめ、熊の体を押し続けた。それに反発する力が、だんだんと弱くなってくる。腹から大剣を伝い、椛の手と袖、そして胸から下は血で真っ赤に染まっていた。

 やがて、熊の体がぐらりと揺れる。引っ張られるような、力ない動きだった。そして岩が崩れるような音を立てて、熊はその場に体を横たえた。

 しばらく、静寂がその場を支配する。次第に一人、また一人が緊張の糸を緩ませ、顔を見合わせる。そして、一人がぎこちない笑みを浮かべて言った。

 

「終わったの……かな」

 

「うん! やったんだよ俺たち!」

 

「よっしゃー! 生きてるぞ僕ら!!」

 

「よかったぁ~! 怖かったよぉ~」

 

 隊員たちは次々に安堵の息をつき、そして笑い合う。椛はそんな部下たちを一瞥し、正反対の方向へと歩いていく。その先には、座り込んで肩で息をしているナキがいた。

 

「ナキ、怪我はありませんか?」

 

「……はい、椛さ……は……?」

 

「私は平気です。それより……」

 

 何故ここに、と聞こうとして椛は口をつぐんだ。文とにとりが横から割り込んできたのだ。

 

「お疲れ様ですー椛! いやぁ危ないところでしたねー」

 

「……まあ、今回は礼を言います」

 

「私はあまり役に立ってないけどね……」

 

 白い歯を見せ、椛へと肩を組む文と、その横で卑屈な笑みを浮かべるにとり。椛はそんな二人を見ながら、呆れたような笑みを見せる。

 そして、少し顔を曇らせ、今度はナキの方を見た。文とにとりもつられて振り向き、はたと目をしばたかせる。

 ナキは膝を抱え、伏し目がちになって黙りこんでいた。腕の中からわずかに見える目が、微かにきらめいている。

 

「な、ナキ君?」

 

「ど、どうした? 泣いてんの?」

 

 二人はあわててナキに声をかける。ナキはふるふると首を横に振り、ゆっくりと立ち上がって熊へと歩いていった。

 すぐ近くではたくさんの同僚たちが健闘をたたえ、勝利の余韻を分かち合っている。ナキはその喧騒をよそに、仰向けに倒れて動かない熊を見つめていた。自身と椛、二つの剣が突き刺さった死体を。

 うつむいて、ただその場にじっとたたずむナキ。椛が静かにその横に立ち、背中をポンポンと叩く。

 

「ナキのおかげで、私たちは助かったんですよ。あなたは良いことをしたんです」

 

「でも……」

 

「誰かがやらなきゃいけなかったんです。たとえ責める者がいても、私は許します。ほら、胸を張りなさい」

 

「……うっ……ひぐ……」

 

 静かに、しかし堂々とした声ではげまされ、ナキは肩を震わせて涙を流し始めた。狂暴な妖獣とはいえ、生き物を傷つけ殺してしまうのは、彼にとって荷が重く、悲しいものだった。

 にとりは二人の背中をしんみりした表情でながめていた。すると文が早足で二人の横から回り込み、熊をじっと見る。そしてカメラを取り出すと、平然とした顔でシャッターを押す。

 

「おい文、何してんだい……」

 

 その雰囲気も何も気にしない行動ににとりが駆け寄りあきれ返る。しかし、文は素知らぬ風に笑みを浮かべると、唐突にこんな事を言い出した。

 

「にとり。私まだ撮りたいものがあるんで、行ってきますね」

 

「は、はぁ? ちょっと!?」

 

 にとりが止める間もなく、文は風を吹き上げ飛び去っていった。もう夕暮れに近い空を飛びながら文はカメラを手に、一人でこうつぶやいた。

 

「大天狗の事……今はまだ話さない方がいいですかね。変に企みとか疑うほど、あの二人は融通が利かなさそうですし」

 

 そんな事を考えて文がクスクス笑っている頃、椛はちょうどこんな説教をしているところだった。

 

「ナキ、あなた、入り口の見張りを放り出してきましたね?」

 

「ごめんなさい……。でも……皆が心配で」

 

「三日間、謹慎を命じます。……少し、心を休めなさい」

 

「……はい」

 

 

――

 

 

 次の日、文が発行する文々。(ぶんぶんまる)新聞の号外が幻想郷中に配られた。

 それを拾った大天狗は、目を見張り、記事を食い入るように見た。そこには他ならぬ自分の事が書かれていたのだ。

 

『妖怪の山の新型罠で、あわや事故!? 急な導入の弊害』

 

 そんな見出しで、あの(トラバサミ)がいかに危険かという事、また、動物に対してもどれほど非人道的なものであるかという事、更には大天狗が性能を強くアピールし、強引に使用させた経緯……それらを細かくこれでもかと非難する記事が載っていた。写真には片腕を失った熊の死体と、罠にかかったまま千切れた手が、それぞれむごたらしさを伝えている。

 

「ちぃ……っ!」

 

 大天狗は果たしてどういう心境からか、読んでいた新聞をグシャグシャと丸め、畳に叩きつけた。

 彼に山頂の神社などから苦言が届いたのは、また後の話である。



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