いのち短し忍べよニンジャガール (欠落したオートメーション)
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居候少女
或いは、そうだねぇ。
普通の大学生が住むアパートに炊飯器を持った少女が現れましてねぇ。
あの娘って誰?
そう、それがたとえばニンジャガール。
大学生というのはそう良いものでも無い。自分で交友関係を作らなければならないし、予定も全て自分で作って自分で管理する。
誰が言ったか人生の夏休み。
夏休みには宿題がつきものだ。僕にとって、大学生活というのは宿題であり、夏休みというのは上部だけの話なのだ。
人生初の一人暮らしを始めてから1年が経過した。
彼女を我が家に招き入れたこともあった。
そこで一夜を共にしたこともあった。
そこで別れ話を切り出されたこともあった。
そこで目を腫らしながら、友達に愚痴ったこともあった。
たった1年だけど、濃厚な思い出と情が詰まったこの1Kの我が家。
学生生活が終わっても、ずっとここに住んでいたいなんて思ってしまうほどに、この一部屋には情が詰まりに詰まってしまっている。
でもやっぱり、独りは寂しい。
過去の恋人を招き入れて一緒に寝たことはあっても、同棲をしたことはない。ホームシックだなんて言わないが、元来、人間というのは群れる生き物。人肌恋しくなるのは無理もないのだ。
サンタクロースが仕事を終えて過去の人になった日。
朝8時に温もり残る布団から起き上がり、眠気抜けないあほ面に冷水を打ち付けて、辛めの歯磨き粉で歯を磨いて。
僕のこの冷え切ってしまった肌を温めて、そして慰めてくれる存在(ヒト動物関係なし)が現れてくれないだろうか。
芝居掛かったいい加減なモノローグに、ベートーヴェンの第5交響曲「運命」を雰囲気的にBGMとして流して、歯ブラシを口から取り出し、冷水で濯いだ時だ。
ピンポーン、と荘厳なあの調べを萎縮させてしまうほどの軽快かつ気の抜ける電子音が響く。
––––––朝から誰だ。
小首を傾げながら、まだパジャマであることなんて気にかけず、鍵を解除し、寒い世界へと繋がる扉を開けた。
「はい、どちら様でしょう––––––か…?」
宅配便を想定していたが、そこにモスグリーンの制服と帽子を身に纏った好青年はいなかった。
ただ、冬場によく聞く、鼻をすする音が、僕のお腹の方から聞こえた。
頭を下げる。視線を下ろす。
そこにあったのは旋毛。
黒色の海に、白い砂浜。
旧劇のエヴァンゲリオンのラストシーンを上空から見下ろしたようなその光景は僕の視線から外れて、水晶のような大きくて綺麗な目が現れた。
正しくは、その人物は僕を見上げた。
「ドーモ」
「…どーも」
左手をシュタッ、と敬礼するように挙げる。
2歩後退して、改めて玄関前に立ち尽くす人物––––––少女を見る。
肩までかかった深い黒色のストレートの右部分だけを、さくらんぼのようなピンク色の髪留めゴムで結んでいる、謂わばサイドテール。前髪は左に分けられていて、露わになっているおでこがとてもチャーミングだ。
大きくて丸い目に、長めだが程よい細さのの眉毛。
顔立ちだけなら普通の少女だ。古き良き、日本人少女を体現したような感じ。
だが、そこから視線を落とせば、話は別。
黒とグレーを合わしたブレザーに、赤色のチェック柄のスカート。そこから下は素肌丸出し。真冬であるこの時期にはスパッツやらタイツやらを履いている筈だが––––––。
「あの、なんで裸足なの?」
「む」
何故か裸足なのだ。それも布類とか何も付けてない。純粋かつ清々しいほどの裸足。裸の足と書いての裸足だ。
裸足の女神というのは傷を隠しているらしいが、彼女は隠している様子もない。傷なんて無いけど。
「それはだな……」
ニヒルに口角を上げる。
10秒くらい間を置いた。寒いから扉を閉めてしまおうかと本気で思ったけど、聞いたのはこっちだし、答えは聞こうと耐えた。
「特にない」
「サヨナラ」
「あっ、待って!ちょっと待って!」
閉めようと扉を引くが、何かが挟まって動かない。
足元を見ると、そこには炊飯器が。8時16分、とデジタル時計で記されていた。
さすがは日本製の炊飯器なだけはあり、力付くで引こうにもビクともしない。諦めて、隙間から顔だけを外に出す。
「なに、こんな朝から。家出?」
「上京!」
「上京?西から来たの?」
「大阪」
制服で、それも裸足で大阪から東京へ来た理由はわからないが、それよりももっとわからないのは、何故うちに来たかということだ。
「ウチ、市役所じゃないよ」
「そんなのわかってる。トチジ、がいないじゃないか」
「その人がいるのは都庁だよ」
「知ってた!」
多分この娘は頭が悪い。
「じゃあ、なんで」
「お姉ちゃんに、ここに来れば大丈夫って言われた」
「……お姉ちゃん?」
突然、宙を舞ったその言葉に首をかしげる。
その″お姉ちゃん″が彼女に僕の家を紹介したということは、その″お姉ちゃん″は僕の知り合いということになる。
「お姉ちゃんの名前教えてくれる?」
「ゆり」
「牛込?」
「うむ」
「アイツかぁ…」
思わず額を抑える。キリキリと骨の軋む音が聞こえる気がする。
牛込ゆりというのは僕の昔の彼女だ。夏休みが終わって暫くの頃、「私とあなたじゃ性格合ってない気がする」とだけ言い残して去っていった女傑だ。
前述した通り、僕はその一件で泣いた。友達を道連れにして愚痴った。今では軽くトラウマだ。
「えっ、なに。新手の嫌がらせ?」
「手紙を預かってる」
因みに、彼女はその豪傑さに似合わず、割と用意周到、かつ古風だ。
妹さんから渡された封筒を受け取る。可愛らしいマスキングテープでデコられたその封筒をていねいに開けて、手紙を取り出す。
″背景、元カレ様。
元気にしてるかしら。私は元気。今はブルーハーツを聞きながらこの手紙を書いてます。
さて、この手紙を読んでるということは、あなたの元に私の妹の″牛込りみ″がいると思うわ。
単刀直入に言う。というか頼みます。
これから2年間、うちのりみをあなたの家で居候させてください。
話せば長くなる経緯があるのだけど、行数足りないから一言で済ますわ。この手紙を書く1週間前、りみが住んでいたアパートの部屋のガスが打ち止められたの。
16歳の女子高生が、道端で寝たり公園の水道水を命の水と呼んだりするのは、人としても姉としても居た堪れないと思ったの。あなたも、人の心を持っているのならそう思うはずよ。
2年間。生活の足しが必要なら、私の元に請求してきても構わないわ。
虫のいい話だし、元カノからの頼みなんて…って思うのも無理もないし、仕方のないことだわ。
でもどうか、お願いします。
これを頼めるのは、あなたしかいないの。
どうか、りみをお願いします。
親愛なるあなたの元カノ牛込ゆりより。″
″P.S ラインのブロック解除しておいてください。″
「…………」
「どうした黙り込んで。何か良いことでもあったのか?」
「起きればよかったんだけどな、良いこと」
ああ、もう。
なんの因果だ。もうアイツとは縁を切った。アイツの言う通り、ラインもブロックしてる。なのに、クリスマスを終えたこの日に、なんでメッセージと一緒に妹をよこしてくるのだろう。
「……如何だろうか」
俯く僕の顔を、彼女は覗き込む。
確かに、言われてみると少し痩せ気味かもしれない。日々の食事が滞っているのだろうか。
早朝の、乾ききった冷風が肌を切った。
「……とりあえず、入りなよ。寒いでしょ」
「感謝!」
明るい声で手を挙げる。
軽やかな足取りで我が家へとお邪魔する。無論、炊飯器を片手に持ってだ。
暖房の温度を2度上げて、彼女を畳というの名のリビングに案内する。
炊飯器と、背丈に見合わぬ大きなギターケース、その他諸々を詰め込まれてるのであろうボストンバッグを置かせて、ダイニングテーブルのイスへと座らせる。
「まあ、だいたい事情はわかった」
対面する形で、もっというならアルバイトの面接をするような感じで自分自身に言い聞かせるように言う。
「君……りみちゃん、の方はどうなの。こんな一介の、ましてや収入なんてバイトの賃金でギリギリやりくりしてる男の家でこれから暫く過ごすことになるのって。抵抗とかないの?」
「白米食べれるならどこでも良い!」
「もう農家に嫁ぎなよ」
その心意気とメンタルがあるなら確実に農家の嫁としてやっていけるだろう。
「……とは言ったものの。ウチにも事情というのがあって」
「事情?」
よかった、ようやく女子高生らしい内容を話してくれそうだ。正直、この娘が「私は未来人で、超能力を操れます」って告白されても「なるほど」と即答できるほどに、彼女は10代の思春期真っ只中の少女には見えないのだ。
本日2度目のシリアスな顔。1回目よりも少し信憑性がある。
「ウチはニンジャで……」
「里に帰りなさい」
「抜け忍なの!」
「抜け忍でも物語のツートップにはなれるから。今からでも遅くはないよ、大阪の里に帰ってやり直しなさい」
たぶん写輪眼も使えるようになるから。
「それと、同級生とバンドやってるの!」
「時代設定ちゃんとして」
1600年代から突然1960年代へと跳ね上がった。デヴィッド・ボウイもびっくりな二足の草鞋だ。
「ウチはベースで、そのバンドには絶対に必要な存在なの!」
自分で言わなければいくらか信用はできた話だ。
「ウチは今通ってる学校から離れられないし、離れたくない。別に農家に嫁ごうが、ウチは生きていける。けど、あの4人とバンドを続けたい……」
興奮からか、顔が赤く染まる。
まあ、つまりは彼女は友達を大切にする良い娘ということか。
キャラが濃すぎるし設定はガバガバだけど、根はちゃんとしてる。そういうところは、どうやら姉とそっくりなようだ。
「……じゃあ確認…というより契約」
「まほー少女になるのか?」
「ボストンバッグ実家に送り返すよ」
「印鑑の準備は出来ている」
ハナからここに居候する気だったのだろうか、それとも別の思惑があるのか定かではないが、ブレザーのポケットから判子を取り出す。そんなところに入れておいて、落としたらどうする気なのだろう。
「まず1つ。一応若い男と同棲するワケになるけど…それで変な噂立っても責任持てません」
「立っても気にしない」
「次。僕とは色々と生活スタイルが噛み合わないところもあるだろうから、家事とかはやっておいて」
「働かざる者食うべからず」
「そうそれ」
伊達に農家に嫁ぐ覚悟は持っていないらしく、自分の立場や居候としての振る舞いは認識しているようだ。
「最後に」
「うむ」
「……まあ、言いにくいけどさ」
寝癖で左側にハネた前髪を上げる。
「僕は君を受け入れる気だよ。でも、迷惑がかかって、面倒を見きれないってなったら、君の意思に関係無く出てってもらう」
最後の一言に、りみちゃんは息を飲んだ。出来る限り声を低くした効果が出たのだろうか。
「いいね?」
「うん」
やけに素直な返事が返ってきた。ニンジャガールはJKに進化したようだ。
「その3つの要項からなる契約、承った」
「よかった」
ケースを開けて、印鑑を取り出して朱肉に押し当てる。どこに押す気なのだろう。彼女はカタチから入るタイプなのだろうか。
「これからよろしく」
と、伸ばす手とすれ違う形で彼女の右手が閃光を描いた。
え––––––?
声を上げるよりも先に、先ほど髪をかきあげたことで露わになった額に小さな衝撃が走った。
額に手を当てて摩る。すると、指先には微かな赤が滲んでいた。
「ヘッショッ」
右の人差し指と中指で印鑑を挟んで、左手で見事にV字を作って笑み浮かべる。
「迷惑をかけぬようにベストを尽くす」
僕の日常は騒がしいことになりそうだ。
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聖夜のホットコーヒー
お久しぶりでございやす。
この物語の主役は人呼んでニンジャガール。
手に持っているスマートフォンからは目覚ましのメロディーが鳴り響き続けている。脳のネジをもう一捻りすれば画面をタッチして止めれるのだろうけど、生憎と起床したてホヤホヤの僕にそんな気力は無い。
外側にハネた髪を掻いてさらにボサボサにする。目やにが酷いのか、瞼を開けようとすると痛みが生じる。
冷たいつま先をを動かして温める。微々たるものだけど、幾らかは温まった気がした。
昨晩に予約をしていたコーヒーメーカーのポットを取り、水切り場に置かれていた我が家に1つしかないカップを手に取り、それに如何にも舌と脳を刺激しそうな真っ黒なコーヒーを入れる。
温かいを通り越して熱いそれを飲む。冬の日のホットコーヒーというのは、冷え切った脳のネジを強引に動かしてくれる。
鳴り続けていた目覚ましを止める。ピタリ、と止まったのを機に、冷えた空気が肌を襲った。いや、正しくはようやく実感したというべきかもしれない。
ともかく、僕はこうして真っ黒なホットコーヒーを飲んだことで、朝を迎えたということを初めて認識したのだ。
居間の引き戸を開ける。
玄関の方を見る。
「はぁぁぁぁっ……!」
指先で、箒を立てている美少女が、そこにはいた。
「……おはよう」
「くっ……!」
結構精神を統一しているらしい。僕の声は全く耳に届いてないとみた。
「朝ごはん作るよ」
「おはよう!」
とまあ、こんな調子だ。
りみが来てからというもの、朝起きたらとりあえずこの部屋のどこかに回って、彼女の姿を確認するようになった。
彼女は何をしでかすかわからないのだ。何かをしでかしたわけではないが、目を離せば何かをするに決まっている。だって現に箒を指先に立てて精神統一をしているのだ。何かするだろう。きっと。
丁寧に箒を元にあった場所に戻して、裸足でパタパタと音を立てずに居間へと戻る。
「……卵どんぐらいあったっけ」
見慣れた光景を目にすると、食材の在庫を思い出すようになったのが、最近の細やかな変化だ。
真っ白な丸皿に白に包囲された黄色、目玉焼きを盛り付ける。今日はいつもよりも半熟気味だ。
焼き加減は日によって違う。正確には気にしてないのだけど。
所詮は男飯だ。焼き加減や煮込み加減やらは大幅に狂ってない限りは気にかけない。まあ、その点は元カノことゆりに苦言を漏らされていたけど。
ああ、でも。
「白っ、米っ」
茶碗を片手に、DJの様に右手をスクラッチしているりみ。
彼女が来てから、1つだけ均一となったものがある。
「良いか、優しく混ぜるんだ」
「了解しましたよ、料理長殿」
「白米長だ」
「了解しました、ゆめぴりか殿」
米の炊き方は、厳しく精査されている。どうやらりみ……否、牛込家は米に相当肥えているらしく、代々続く伝統(秘伝では無いらしい)の炊き方を伝授してもらった。
足りない語彙力を擬音語でカバーしながら、やや食い気味に頭に叩き込んだ。
スクラッチする彼女をスルーしながら、杓文字で白米を茶碗に粧う。「おおっ」、と声を上げた後、ダイニングテーブルへと足を走らせた。
僕も彼女の後を追ってダイニングテーブルへと席を付ける。
「いただきます」
「いただきますっ」
箸を運ばせ、炊きたてほやほやの白米を口に入れる。
悔しいことに、死ぬほど美味しいのだ。
噛めば噛むほど生じる甘み。固すぎず、しかし柔らか過ぎでもない、絶妙な食感。炊きたてなことにより喉から胃へと通ずる間に感じる温かさ。
正直、今まで食べた白米の中でも、ダントツで美味しい。
「ふふんっ」
そんな僕の様子を、渾身のドヤ顔で見返すりみ。
「ほら、醤油」
目玉焼き用の醤油を差し出す。
すると、腹立つほど上がっていた口角は、一瞬でへの字に曲がる。
「……醤油、だと」
「ん、醤油」
2枚くっ付いていた白身を切り、手前にあった目玉焼きを引き寄せる。満月のような黄身に穴を開ける。半熟な黄身からは、卵黄が少量ながらも艶やかしく溢れる。
黄色の海に、黒色の雨を降らせる。
黒と黄色が混ざり、歪で不細工な色ながらも、食欲をそそる香りが引き立つ。
4分の1を切り分けて取り、茶碗でワントラップ置いた後に、口へと運び込む。
塩っぱさと甘さが混ざった、早朝の舌には刺激的だが、胃には丁度いい味が広がる。
そんな僕の美味しんぼを、こいつマジかよって顔を全力で表した表情で見つめる目の前の彼女。
「…食べないの?」
「醤油……ソースは無いのか?」
「あー、確か切らしてる」
普段ソースを使うような料理なんて作らないから、残量などは確認しない。
「まあ、醤油どうぞ」
「ソース」
「無いって」
「ウチはソース派なの!」
「そんな変わんないでしょ、ソースも醤油も」
目玉焼きにかける調味料への謎の拘りは理解できないが、要はタンパク質の塊である目玉焼きにかけるものなんて、強いて言って味が付くか付かないかの違いだろう。
「なんなら、今ならマヨも付いてくるよ」
「むっ、マヨネーズと目玉焼きって合うものなのか?」
「割と?」
試したことないけど。
「今すぐ買ってきて、ソース」
「やだよ。なんで朝ごはんに、それも他人のものの為に」
「ウチはソースが無いと何も手を付けないぞ」
「たくわんで塩分補給しなよ」
「味の問題なのっ」
「わかったよ。次からはちゃんと補給しとく、だから今日のところはほら、食べて食べて」
そう勧めるが、彼女は宣言通り、1ミリも手を動かさない。30秒待った。テレビ番組のお天気コーナーは降水確率の場面に入った。
「……」
「……」
睨み合い。
いや、別に誰も睨んでるわけでは無いけど。隙を探り合っている。
まるで一騎打ち。命のやりとり。一瞬の気の緩みは負けを意味し、死を意味する。
息を吐くのにも気を張る。
「……醤油、白米と目玉焼きにぶちまけるよ」
「くっ……!」
その一言が決め手になったらしい。急いで白米をかき込んで、リスのように膨らんだ口の中に目玉焼きを突っ込む。
ジブリのような豪快な食べ方だ。カスが1つも飛んでないことには最早感動を覚える。
「ベース練習してくるっ」
「エレキはやめてね」
「わかってるっ!」
と、皿も何も片付けずに、わざと大きく足音を立てて居間へと去って行く。
朝から臍を曲げてしまったそうだ。目玉焼きにソースをかけなかっただけで。
残った目玉焼きの白身を口に放り込み、噛みながら皿を重ねる。
「あ」
りみの皿に手を付けようとして声を上げる。
そういえば、この皿ってゆりが使ってたやつだ。
彼女がウチに入り浸っていた頃、彼女が自宅から余っていたから、とマイ皿として持ってきてウチに勝手に置いていった。結局、別れた後もこうして置き土産と言わんばかりに残っているのだけど。
見れば、箸だってゆりの元マイ箸だし、カップだって彼女に誕生日プレゼントとして僕が買ってあげたものだ。
こうも元カノの私物が揃っていると、まだ彼女に未練があるみたいになる。ましてや、それを今使っているのがその彼女の妹ともなると、事態は複雑化する。
カレンダーに目を向ける。年も暮れを迎えている。3日も経てば、静かに年を越すことになる。
28日。そう記された数字から少し左に視線を動かす。ピタリ、と止まったのは、25日。
クリスマス・イヴと大晦日は1週間しか違わない。だけど、その1週間だけで、人々はプレゼントやら何やらの和気藹々とした雰囲気から、年越しに向けての忙しさにシフトチェンジする。
3日ぐらい。
3日遅れのクリスマスがあったって、バチは当たらないだろう。
それでも当たるなら、それは個人的でささやかなプレゼントだ。
そう、口実は、入居祝いがいいな。
「え?」
コードを抑えた手のまま、りみは口を半開きにして僕の方を見る。
「買い物だよ」
「何を買いに」
「ソースとか、その他諸々」
「怪しい卵でも食べたのか」
「ちゃんと火を通して目玉焼きにしたから大丈夫」
実際、あの目玉焼きは美味しく作れた。
「とりあえず準備して」
「むぅ、急すぎるな…」
などとこぼしつつも、ハンガーにかけられていたダウンジャケットを手にかけている。
駐車場にポツリと置かれた軽自動車に乗る。運転席に僕、助手席にりみといった並びだ。
向かうは近場にあるデパート。年末のこの時期は人で溢れているだろうけど、僕らがこれから買おうとしてるのはそう人がごった返しになっているコーナーに置かれていないだろう。
最近ようやく慣れてきた駐車を終えて、デパートへといざ入場。
駐車場の車の数からなんとなく予想していたが、とんでもない人数だった。
老若男女問わずとはまさにこのことだろう。はしゃぐ子供を連れている夫婦がいれば、通路に備え付けられたソファに腰を下ろす老婆、高校生ぐらいの若い男子のグループ。
デパートって、こんなに人が入るんだな。
そんな間抜けな感想しか出てこない。
「すごい人混みだな」
「まあ、年末だし」
「年越しは人を狂わす」
「一理あるかも」
たかだか年を越すだけなのにこうもお祭り気分になれるのだ。ある意味狂わせているのだろう。
「さて、ソース買うか」
「ソースだけか?」
「それとコーヒー粉」
「さすがコーヒー王子」
「青汁王子みたいに呼ばないで」
そんなやりとりをしながら、彼女は僕の前をテクテクと歩く。
普段は猫のような気まぐれさを放っているが、後ろ姿は小型犬だ。ポメラニアンあたりだろうか。
「スーパー、スーパー」
「ああ違う違う、ここ」
左に曲がろうとする彼女を呼び止める。僕が指差すのは、逆に目立つほどに人がいない、ひっそりと佇んだ輸入販売店だ。
「ゆにゅー」
「海外から取り寄せた物を扱ってる店」
「知ってた!」
どうやら、そこまで頭は悪くないらしい。
唯一の境界線であるニスが塗られた床に足を踏み入れる。
「なぜここに?」
「ここの方が品質が僕好みだから」
「国産舐めるな!」
「外国かぶれで悪かったね」
というかソースはともかく、コーヒーの国産とか玄米コーヒー以外にあまり聞かないけど。
やっぱり彼女は頭が悪いのかもしれない。
小洒落たツリーボックスに並べられたコーヒー粉の袋を手に取る。
「これこれ、このコーヒー」
「拘りがあるのか?」
「いや、まあ、なんとなく初めて手にして味が気に入ったから、それ以来ずっとこれ」
「一途なのだな」
「何事にもそのつもりだよ」
恋の方は上手くいかなかったけど。
と、何処からともなく取ってきたソースを僕に差し出す。見たことのないラベルが貼られてたけど、まあソースにそんな大きな変わりはないだろう。
気にせずにレジで会計を済ませる。
店から出ると、人々の雑踏から生まれる雑多音が僕らを迎えた。
「用は済んだか」
「いいや、まだ」
「む?」
はてなマークを頭に浮かべて小首を傾げる。
そんな彼女に、僕は得意げな笑みを浮かべた。
「何か欲しいものはある?」
「む、どうした。気持ちが悪いぞ」
「出口はあっちか」
「っていうのはニンジャジャーク!」
力いっぱいに僕の裾を引っ張る。
「何よ、ニンジャジャークって」
「ニンジャジャーク!略してニンジョ!」
流行らないと思うから略すのは今日限りにしてほしいところだ。
「しかし、本当にどうしたのだ。そんなこと聞くなんて」
「入居祝い。兼任してクリスマスプレゼントっていったところ」
「ソースじゃなくていいのか?」
「君がそれでいいならそれにするけど」
「ニンジョ!」
流行るはずのない言葉を連呼しても廃るだけなのを彼女は知らないようだ。
「真面目な話、その、資金の方は大丈夫なのか?」
「まあ、君の選ぶもの次第だけど。多少なら問題無いよ」
「なら木刀を」
修学旅行気分のニンジャを無視して僕は先へと行く。
「待って!せめてツッコみを!」
律儀にツッコミを要求するあたり、腐っても関西人だ。
彼女の誘導に為すがまま、辿り着いたのは雑貨店。デパートの中では、先程の輸入点のような異質感がある。入ると小鳥の囀りが僕らの来訪を店員たちに知らせる。
「いらっしゃいませー」という当たり障りのない挨拶を受け流して、僕はりみの背中を押して促す。
「……本当になんでもいいのか?」
「この店の中で馬鹿みたいに高いものなんて無いだろうから、どうぞ」
僕の言葉を最後まで聞いた彼女は、小さな身体で小走りに店の奥へと消えて行った。
僕はというと、インテリアのコーナーでドアプレートを見ていた。青色のステンレス製の、アーミーちっくなデザインのプレートもあれば、ウッドデザインのものまである。
どれが家の扉のデザインに合うだろうか。なんてことを悶々と考えながら5分少々。
「ん」
と、小さな声が僕の背中にノックを打った。振り向くと、そこには選んできたのであろう物を背後に隠した、りみの姿が。
「決まったのかい?」
そう尋ねると、彼女は小さく肯く。
「そうか。じゃあ、これと一緒に会計を済ましちゃおうか」
「え、これ?」
僕は風変わりな畳をモチーフにしたと思われるドアプレートを片手に、彼女の背中を押しながら進む。
「それ、どうしたの?」
そう聞く彼女の顔は頬を赤めていて、戸惑い気味だ。僕の元に来てから、初めて見せる顔だ。
「んー?個人的なモノ」
会計のカウンターにドアプレートを置く。彼女は恥ずかしそうに、そろりと貴重品を扱う引越し業者のようにそのものを置いた。
それは黒猫が鍵尻尾を水平に悠々と歩く姿がデザインされたコーヒーカップだった。そしてもう1つ、同じポージングの白猫がデザインされたコーヒーカップも置かれた。
「カップ?」
「……カップ、1つしかなかったから」
いつの間に食器の数なんて把握していたのか。彼女がカップを選んだことより、その観察眼の鋭さと抜け目のなさに驚く。いや、カップを選んだことにも驚いたけど。
「ウチとお主の、1個ずつ」
耳を真っ赤に、今日初めて見せる女の子の表情と、柔らかな優しさに頬が緩みそうになるのを耐えながら、僕らはその3つを買い、デパートを後にした。
家に辿り着いてから、僕はドアプレートをりみに渡した。
「自分の名前のアルファベットを選んで」
「ウチの名前の?」
「そ。ほら」
ドアプレートに付いてきたアルファベットのブロックからりみのアルファベットを選び取る。
「できた!!」
ドアプレートに、″LIMI″とはめ込まれる。
「いや違う。Rでしょ」
「……ニンジョ」
「ジョークに求められるのものの1つは、自分を覆い隠すほどの頭の良さだよ」
「……R取って」
どうやらニンジョには限界があるらしい。
そうして完成したドアプレートを、りみの部屋の扉に付けた突起に掛ける。
その光景をりみは目を輝かせて見上げた。
「改めて、ようこそ、我が家へ」
「これが、ウチの部屋」
わけもなく、りみはドアノブを捻り、扉を開けては閉めてを繰り返す。初めておもちゃを与えられた子供のようなはしゃぎ方だ。
「さてと、寒いからコーヒーでも飲もうかな」
新しく補充した、いつものコーヒーをコーヒーメーカーを使ってドリップする。するとりみはテーブルに乗り出して「ホットミルクがいい!」と声を上げる。
会議の席のような立ち振る舞いに苦笑いしつつも返事をする。
りみが買ってきた黒猫のカップにミルクを入れて、電子レンジで温める。数分待って温まったミルクに砂糖を入れて混ぜる。
タイミングを図ったように完成したと音を鳴らすコーヒーメーカー。白猫のカップにコーヒーを入れる。
取っ手を持っても微かに肌を触る温かさ。2人でその温かさに身を委ねる。
「遅めのクリスマスプレゼント、だったな」
りみは珍しく落ち着いた声でそう呟いた。僕もそれに肯いて、「メリークリスマス」だなんて戯けてみせる。
するとりみも「メリークリスマス。これから世話になる」と返してくれた。
……ああ、久しぶりに人と飲むコーヒーだ。
熱い瞼と震える喉。そんな感情を誤魔かすように、涙の蛇口を塞ぐように、僕はカップに口をつけてコーヒーを啜る。
今までも、そしてこれからも。
このコーヒーを超える温かさには、出会うことはないだろう。
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ドライ・フラワー
青いセダンが警察に取り調べされてるのを遠巻きに見る。ガラス越しではあるが、セダンの運転手と警察官たちのやりとりは手に取るようにわかる。
一体、何について調べているのだろうか。名も知らない運転手に対してご愁傷様と心の中で手を合わせて、僕はガラス越しの外形から視線を逸らす。
「お待たせしました、アイスコーヒーになります」
若い女性店員の、人の心の突起に当たらない、滑らかで柔な声に、目の前に座る彼女は「ありがとう」と微笑む。
結露によって水滴が撫でるコリンズグラス。そのグラスに挿さったストローを使って上品にアイスコーヒーを飲む。
「どう、りみは。迷惑かけてない?」
ある日唐突に僕の前に現れたニンジャガール、もとい同居人の名前を口にした彼女の名前は牛込ゆり。りみの姉であり、僕の元カノだ。
「……たまにマジで頭おかしいって思うこともあるけど、まあ、根はいい子なんだなっていうのはわかる」
「ならよかった」
安心したように一息ついて、再びストローをくわえる。
「……なんで僕のところにしたわけ?」
「ん?」
僕の問いに、ゆりは長い睫毛を揺らして目蓋を開く。宝石のような、けれどどこか憂いを感じる瞳はあの頃のままだ。
「あなたの顔が、真っ先に思い浮かんだから」
いたずらに髪を弄りながら、店員に最初のドリンクを注文するかのような声で言う。
そんな字面だけならロマンチックな、その実中身は皮肉に小さじ一杯分の回顧を混ぜた言葉に、僕は冷静に「はあ?」と返す。とても男女2人きりの席から汲み取れる冷たさではない。
「なに、未練でもあるの?」
「いいえ、まさか」
世界記録を狙えそうな即答に思わず髪をぐしゃり、と掻く。ワックスが手につき、少しベトベトした。
「それ、悪い癖よ」
「え?」
僕を見ることなく彼女はそう呟いてみせた。
「なにか嫌なこととか、心が揺さぶられるようなこと。そういうのがあると、髪をグシャーってするの」
そう言われながら、僕は僕の手が頭に届いていることに気付いた。
「昔からそういうのがある。せっかくセットした髪が台無しよ」
完全なる図星だ。気を紛らわせるように、そして言い訳を述べるように布巾でワックスのついた手を拭う。やけに冷たく感じて、気持ちの悪い感触の拭えなさが肌に残った。
昔から。
そんな何気ない前置詞が脳にこびり付く。自転車のチェーンに生まれた錆のようなその言葉は、僕の全ての歯車を狂わしてるように思えた。
「そんな、昔話をするために呼んだの?」
「まさか」
わざとらしく驚いた表情をする。僕の口元にストローがあったら、子供のように強く噛んでいただろう。
「まさかってわけじゃないだろう。こんな所に呼び出して、さっきも言ったように、まるで未練が残ってるみたいじゃないか」
「未練?それを言うのは私じゃなくて、あなたじゃないの?」
ストローを強く噛みたかった。噛みちぎってしまうほどに、強く。
「未練?まさか」
まるでギャング同士の銃の撃ち合いだ。似たもの同士、けれど質の違う弾を放ち合う。誰に当たれど止むことのない雨だ。
「まさかなわけじゃないと思う」
アイスコーヒーはまだ残っていた。氷の溶ける音がやけに耳に残る。
「現にあなた、ラインのブロック解除してないじゃない」
髪を乱暴に掻きむしりたい手はどこにも行けず、ようやく見つけた口元を強く摩った。
「ブロック解除をしてないことと未練、何の関係が?」
「ありまくりよ。あなたが私に対して何も思ってないなら、ブロックの解除なんて簡単でしょ?」
「そんなことはない」
「そのあなたが無意識のうちにとっている行動は、まだ未練が溜まっている証拠よ」
ゆりは僕の反論なんか聞きたくないと言わんばかりに言葉を放ち続ける。僕も負けじと反論しようとするけど、言葉が見つからない。心のうちには言葉の輪郭も見えない。見つからなかった。
まるで、あの時みたいだ。
「まあ、あなたに未練が溜まっているならそれでいいし、ブロックを解除しないっていうならこうして定期的に会うだけだからいいけど」
その言葉を聞き届けた時にはもう、僕は立ち上がっていた。
「久しぶりに会ってこんな会話だなんて、したくなかったな」
そんな僕のことを、ゆりは意にも介してないといわんばかりに、アイスコーヒーを飲んでいた。
「りみと違って、君は性根が腐ってるみたいだな」
そんな残酷なことを言えてしまえるぐらいに、僕の心は冷え切っていて、どうしようもなく絶望していた。
そしてそんな後悔に似た感情を腹の中で煮やしてしまうほどに、僕はまだ今日に希望を持ってしまっていた。
「また手紙を出すわ。次に会うのは、まあ、来年になるわね」
「さようなら」
あの時の君みたいに、僕は吐き捨ててみせた。
「またね」
あの時の僕みたいに、君は応えてくれた。
帰り道の途中、年越しまで1日しかないことにようやく気がついた。
街中は活気に溢れていたが、どこか遠慮めいたものも感じた。
厳かを美とする日本らしい帰り道だった。
ポケモンGOを開きながら歩いていると、玄関前でナエトルが出たので捕まえた。と、りみもちょうど帰ってきたらしく、可愛らしい赤のセーターを着込んだ姿で僕に「おかえりなさいませ」だなんて鳥肌が立つほど気持ちの悪い、改まった言葉を投げかけてくる。
「アニメ見た?」
「くらべんけーの家でメイドがギャングを倒すアニメを見た」
「なにそれヤバい」
「あのメイドの動き、どうなっているのか気になった」
よくわからないが、その動きを模倣するなら家の中じゃなくて公園にしてほしいものだ。
「む……どうした?」
「え?」
怪訝な表情を浮かべて、僕の顔を覗き込む。
「顔色が悪い。何か拾って食べたのか?」
「そんな食べるわけないじゃん。君じゃないんだから」
「栗か?それとも椎の実か?」
彼女の行動パターンがわかってしまった。
「まあ、アイスコーヒーを飲みに行ってた」
「冬なのにホットじゃなくて?」
「ホットだと熱すぎるからね」
よく理解してないりみに頷いて、玄関を開けた。
理解してなくていいし、理解しなくてもいい。
ゆりみたいに変に心配をするぐらいなら、理解せずにアイスとホットの違いを考え続けてくれてた方が2人を重ねて見ずに済むから。
家の中に入っていのいちに暖房を点ける。温風が部屋を包むまで時間がかかるので、その間にお風呂の湯を沸かす。りみは僕の背後で手を洗って3分ぐらいうがいをしていた。潤いを通り越してもはや水一杯になってそうで解剖したくなる。
「年末はどうするのだ?」
湯が張るまで、にわかに温まり始めたリビングのソファの上でバイトの給与明細を吟味していた僕に声をかける。
「特に何も。昨日で仕事納めだったし、家にいるかな」
「寂しっ」
「僕には友達がいるんだ。やあ、友達のトニーだよ」
人差し指を動かして裏声でトニーとして挨拶をする。「やあ、元気かい?」と満面の笑みを浮かべていると伝わるように人差し指の躍動感を最大限に出す。
「……」
「……」
「……」
「…黙んないでよ」
ニンジャにドン引きされるのは結構くるものがある。
風呂から出て、タオルで濡れた髪を拭きながらリビングでテレビをつける。年末特有の、大型特別番組のオンパレードでちょっとうんざりした。1番マシなこの年の報道特集という番組にして、ソファに腰掛けたところで、テレビの脇にあるスーパーファミコンの姿が目に入った。
このスーファミはゆりが持ってきたもので、僕の傷心モノリストに入っているものの1つだ。彼女は意外にもゲーム好きで、それも最近流行りのスマホゲーだったり綺麗な映像流れる壮大なゲームとかではなくて、レトロなドット絵ゲームを好む。1番好きなタイトルはスーパーボンバーマン3らしい。
少し横に目をやると、花の生けてない透明なガラスの花瓶。これもまた、ゆりからの贈り物。確か半年記念日のものだ。お互いに何も考えずに、とりあえず綺麗な花だということで黄色いバラを選んで生けた記憶がある。
花瓶に連なって、家の玄関に置かれた鉢も思い出した。あれは僕が元々持っていたもので、ある日鉢に気づいたゆりがチョコレートコスモスの種を植えて世話を始めた。
––––––チョコレートコスモスって名前、良いじゃん
マグカップで水を注ぎながら、白い歯を見せて彼女は笑った。
花言葉とかあるの?確か僕はそう聞いた。
––––––あるよ。知らないけど
陽が沈んで月が顔を出すみたいに、彼女はサラリと言った。
––––––今の時代、知ろうと思えば何でも知ることができるじゃん。例えば花言葉。例えば料理のレシピ。例えば記念日のプレゼントの選び方
まだ芽の出ない鉢に目をやりながら語る。
––––––なんでも知ることができるなら、知ろうとしないって選択もアリなんだと思うんだよな
彼女はいつだってそうだった。世の中の常識を疑って、舐め回すように眺めた挙句に、頬をつねるような反抗を起こす。
有益も実害もない、無意味が服を着たような細やかな反抗。どうしようとなく子供っぽいが、抗いようがないほどに彼女をより魅力的にしていた。
––––––だから花言葉は知らない。ただチョコレートコスモスって名前が気に入ったからってだけ。なんか美味しそうじゃん
そう言って実際に咲いたチョコレートコスモスを目にして「思ってたより凛々しい色だね」って笑った彼女の横顔は忘れようにも忘れられない。
この世の全ての出来事に笑って、時に冷静な目で見て、そして中指を立てて笑う。牛込ゆりという女性の笑顔は、こうも記憶にこびりつくのか。
「もう、全部大嫌いなのにな」
記憶は人の手から逃れている。
彼女の横顔、睫毛の長さ、唇の柔らかさ、手の大きさ、髪の艶やかさ、鼻腔を優しく撫でる匂い、全てが僕の感情を無視して身体に焼き付いてしまっている。
このスーファミを、花瓶を、鉢を、この部屋から近所の誰かの家の庭に向けて投げて壊してしまえば、いくらかは薄らいでくれるだろうか。
「…ただの近所迷惑じゃん」
そんな頭のおかしな行動を起こさないほどには、僕はまだ冷静さを保てていた。でも、この記憶は忘れ去りたい。できれば今年のうちに。
「何を浸ってる」
背後から風呂から出たらしいりみが声をかける。僕は前をスーファミを見たまま「んー」と答える。
「浸ってはないね。どちらかというと、はらわたを煮やしてた」
「バイトのミスでも思い出していたのか」
「もっと個人的なこと」
「中二の頃の記憶か」
「残念。正解はスーファミです」
スーファミに指をさして答え合わせをする。りみはスーファミを興味深そうに持って、「蔵にありそう」と訳のわからないことを呟く。
「ゲームだよ。もうやらないけど。やってみる?」
「カービィはあるか?」
「ボンバーマンとドラクエぐらいしかない」
「じゃあいい」
好きなタイトルがないことで興味を失ったのか、スーファミを元あった所に置いて洗面台に戻っていった。
使命を終えたスーファミと2人きりになる。食器棚を開ける。中には彼女が持ってきた皿やカップが綺麗に整頓されて置かれているが、そのどれもに愛着が湧かない。いや、湧かなくなった。
愛着のないものなんて、ただの置物だ。壊す以外になんの用途があるというのだろう。
「売るか」
決めた。
彼女との記憶を薄れさせてみよう。成功率は、きっと高い。
翌日、寝る前に段ボールに詰めた皿やカップやスーファミやチョコレートコスモスが咲いていた鉢をリサイクルショップに持って行った。何故かりみも付いてきて、ニンジョをBGMに鑑定結果を待っていた。
「何故あんなに大量のものを売ろうなどと思ったのだ?」
リサイクルショップの自転車コーナーで、試乗可能な自転車に跨った彼女が聞く。スタンドで後輪だけ上がっていて、ペダルを漕いで後輪を動かしてはブレーキで止めるを繰り返している。
「断捨離」
「今年最後の日にか」
「そ。あれぐらい捨てても困らないしさ」
事実皿やカップはまだある。彼女が修行と称する不規則な動きをして大量に割らない限りは生活をするに困らないほどある。
「どれが1番高く売れるのだろうか」
「スーファミじゃない?」
「10万ぐらい?」
「わお、今年最後にすごい臨時収入」
「その時はアンプ買って!」
「ニンジョ?」
「マジニン」
ニンジョってことにしておこう。
「逆に売れないと思うものはなんだと思う?」
「売れないとかあるのか?」
「あるよ。価値がつけられないって言って」
「じゃああの黄色い皿」
黄色い皿とは、ゆりがパンのキャンペーンで手に入れた熊のキャラクターが描かれた黄色い皿で、ごく稀に焼くパンはこの皿に乗せてる。
「理由は?」
「この前ゴキがそこに乗ってた」
「ニンジョ?」
「マジニン」
本当でもニンジョって言ってほしかった。
と、鑑定完了を知らせるアナウンスが流れる。レジ横に設けられているカウンターの椅子に座る。
眼鏡をかけた少し太った中年の男性が僕が渡した段ボールの中に詰め込まれた物たちを1つずつ手に取って値段を言う。スーファミは2000円だった。
「じゅ、10万…」
「まあこんなもんでしょ」
買取価格なんてどうでもいい。売るのはただの媒介であって、目的は処分なのだから。
黄色い皿は限定品ということも手伝ってから1000円の価値がついた。
「そしてこちらなのですが」
店員の男性が最後に鉢を差し出す。
「こちら状態が少々悪くてお値段の方をつけられなくて」
チョコレートコスモスが咲いていた鉢だ。
価値がつけられないのか。
あんなに凛々しい色で半径40センチごと彩っていたのに、この鉢には価値が無いのか。
「処分をされるのであればこちらで引き取りますが」
「はい、そちらにお任せします」
そう答えると、りみが「待った」と手を挙げた。
「それ、ウチがもらう」
「なら」と店員が鉢をりみに手渡す。鉢の中を見下ろすと確かに状態は悪かった。
「なんで?」
自然と言い方が厳しくなってしまう。声音だけでも優しくしようとするが、変に震えた虫の羽音みたいな声になってしまう。
「ウチの部屋に彩りを加えたい」
鉢を持った彼女はそう宣言する。確かに彼女の部屋はベースとアンプと布団とカラーボックス以外に何もなくて、年頃の少女の部屋にしては彩がなさすぎる。
彼女もニンジャとはいえ1人の16歳の少女だ。部屋に彩りを加えたいという彼女の要望も感情も理解できる。
「……わかった。すいません、これは持って帰ります」
店員からお金を貰って店を後にする。
帰りにタネを買いに行きたいと彼女の要請に応じてホームセンターに立ち寄る。彼女にお金を渡して、僕は車の中で待つ。
本当に、これでよかったのだろうか。
りみに鉢を渡したのは、僕のゆりへの諦念を妥協した、中途半端な関係の完結になってしまっているのではないか。いいや、もうなっている。どんな形であれ、ゆりの所有物があの家に存在するのは、まだゆらがあの家の中で凄んで揺れているのと同じことだ。
こんなんじゃ、記憶は薄らぐどころか根を張り続けて、切っても切っても生え続ける雑草のようにずっと残り続ける。
ルームミラーで背後のここから少し離れたところに停まっているシルバーのワゴンに目をやる。段ボールで梱包された人の肩ぐらいまである大きな物を積もうと2人が手順を確認しあっている。
僕とゆりが別れた時、あんなに話し合っていたっけな。
覚えているのは短いやりとり。
またねとさようなら。
熱帯夜の空気のような生温くて苦しい言葉と、冬の朝の霜のように冷くもどこかソフトな言葉がホットコーヒーの入ったマグカップの上で交差した。
かつてチョコレートコスモスを咲かしてホットコーヒーを飲み合っていた僕らは、気がつけば仕事で飛び交う最低限の会話よりも口数が少なくなっていたのだ。その真実が痛快なようだったけど、鳩尾に入ったようにジワジワと後味が残る。
と、買い物を終えたらしいりみが窓をコンコンとノックする。オープンセサミの意だ。
「何買ったの?」
「スズラン」
種が入っている袋を出して見せる。
「彩って言ったのに白なの?」
「白だって立派な色だ」
確かに白だって立派な色だ。りみの言っていることはもっともで、何も言えなくなる。
「じゃあ、なんでスズランにしたの。時季じゃないでしょ、確か」
スズランは春の到来を知らせる花だ。今はまだ冬で、それも年が明けてもいない。咲くとしたらずっと先だ。
「なんとなく。なんだか名前の響きが良いから」
シートベルトを締めたりみは沈みかけている夕陽を見て言う。「ランで終わるところとか」と付け加える。
––––––チョコレートコスモスって名前、良いじゃん
夕陽を眺めるりみの横顔は、ゆりに似ていた。ゆりと違ってまだ幼いし、ゆりに比べて目が大きい。けれど睫毛はゆりの方が長くて、鼻筋もゆりの方がハッキリしているし、声だってゆりの方が低くて紡ぐ言葉全てに説得力を持たせる。
パーツも声も違うのに、こんなにも牛込ゆりに似ている。
「花言葉とかは、あるの?」
あの時よりも、少し弱々しい声でそう聞く。夕陽は見れない。りみは夕陽を見ている。
「知らない」
夕陽から目を背けずに、りみはそう答える。不思議と、いつもよりも凛々しくて通った声に聞こえた。
「あ、あとこれにした理由もう1つある。なんか美味しそうだから!」
その言葉を聞いて、僕はようやく夕陽を見ることができた。
そうだ。あの鉢に植えられるのはあの時のチョコレートコスモスでもないし、植える人間は牛込ゆりでもない。
牛込りみが、スズランを植えるだけだ。
スズランの種を植えた瞬間から、あの鉢は置物じゃなくてスズランが植えてある鉢になる。壊す理由なんてどこにも無い。
エンジンをかけて帰路に着く。もう立ち寄る場所は無い。家に着くだけだ。
「年越し蕎麦はあるのか?」
「無いよ。ラーメンならあるけど」
「年越しラーメン!味噌?」
「残念醤油」
夕日は沈みきって、今年最後の夜が訪れた。
あいにくと星の見えない中途半端な夜だったけど、肩は軽かった。
「それと、スズランって毒あるんだよ」
「えっ。デンプンは!?」
「そこ?」
「見た目お米だから炊けるんじゃないのか?」
「どうだろう。食べたら感想教えてね」
「お主にもお裾分けする!」
「ニンジョ?」
「マジニン!」
今年最後のニンジョは本当に起こったら洒落にならなそうだった。
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