遺船を漕ぐ (雨守学)
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1話

妻の愛美が死んで一年。

愛美が可愛がっていた金魚の「ちょすけ」が、今朝、死んでいた。

妻の好きだった彼岸花の傍に埋めてやると、情けないほどに涙が溢れだした。

 

「ちょすけ……」

 

世間では終戦一年を祝うようにして、どこの家も国旗を掲げている。

旗の靡く音と、蝉の大合唱。

それらの音が段々と小さくなってゆき、やがて消えた。

妻が死んだ時と同じ感覚。

無音の世界に取り残される感覚。

そうだ。

あの日も、こんな暑い日であった。

 

「…………」

 

振り向き、一人暮らしには広すぎる家を見た。

いつもは縁側に妻が座っていて、その奥にちょすけの鉢が置いてあった。

 

「今日も暑いわね」

 

そんな妻の声が、何処からか聞こえてくるような気がした。

 

「独りに……なってしまったよ……」

 

俺の声に、誰も応えない。

『咳をしても一人』

自然と、尾崎放哉の俳句が頭に浮かぶ。

 

「愛美……ちょすけ……」

 

俺はこの日、自殺を決意した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これでよし!」

 

何処で買ってきたのか、最上は風鈴を吊るすと、満足げに縁側に座った。

 

「どうしたんだ、それ」

 

「買ってきたんだよ。だって先生の家、クーラーが無いじゃないか。だからさ、せめて雰囲気だけでも涼しくしようと思って」

 

「変わるもんかね」

 

「変わるさ。きっといい小説が書けるようになるよ。もしそうなったら、ボクの事を弟子にしてほしいんだけどなぁ」

 

「弟子を取るほど立派な小説家じゃない。俺の小説はもう売れない。今回脱稿した作品で最後だろう」

 

「そんな寂しいこと言っちゃだめだよ。ボクは先生の作品が大好きで、今の会社を選んだんだよ?」

 

戦後、一部の艦娘は社会に適応するべく、人と同じように働きに出たりしていた。

最上もその一人で、出版社に入り、売れない小説家である俺の担当……の補助をしていた。

尤も、俺に見切りをつけているのか、担当者はここ数か月来ておらず、ずっと最上に任せっきりになっているようであるが……。

 

「俺が書きたくても、会社はそうさせてくれないだろ。売れないものは売らない。お前の会社も、艦娘を受け入れることはしたが、慈善事業をやっているわけじゃ無いんだぜ」

 

「そうかもしれないけれど……。先生が切られたら、ボクが抗議するよ!」

 

「フッ……ありがとう。でも、もういいんだ。次の奴にバトンを渡すよ。お前も小説家になりたいんだろ? だったら、俺の代わりに頑張ってくれよ」

 

そう言って、俺は引き出しから万年筆を取り出し、最上に渡してやった。

 

「これって……」

 

「欲しがっていただろう? やるよ」

 

散々、欲しい欲しいと駄々をこねていたのに、いざ受け取ると、最上は複雑そうな表情を見せた。

 

「でも……やっぱり貰えないよ……。だってこれ、奥さんから貰った大切なものだって……」

 

「使わない奴よりも使う奴に持ってもらった方が、あいつも喜ぶだろうよ」

 

「……ボクは先生に書いて欲しいよ」

 

最上の風鈴が、蝉の声と共に鳴いていた。

 

「綺麗な音するんだな。確かに、涼しくなりそうだよ」

 

「…………」

 

「それは風鈴の礼だと思ってくれていい」

 

「これをもらうほどじゃないよ……」

 

「いや、それにしたって、ここまで支えてくれたのもある。無事に脱稿できたのだって、お前がいてくれたからだ」

 

「先生……」

 

「ありがとう最上。俺の作品を好きだと言ってくれて、本当に嬉しかった」

 

そう言ってやると、最上は喜んだり照れたりすることはせず、むしろ寂しそうに俯いた。

 

「どうした? 要らないか? それ……」

 

「ううん……そうじゃないよ……。ただ……」

 

「ただ?」

 

「ただ……先生がどこかに行ってしまうんじゃないかって……」

 

それを聞いて、感心した。

時折、勘のいいところを見せる奴だとは思っていた。

だが、ここまでとはな。

まるで、これから俺が自殺するのだと知っているかのような――。

 

「売れない小説家に情を抱いたら、売れるものも売れなくなるぜ」

 

「先生は貧乏性だもんね……。貧乏神なのかも……」

 

「嫌味を言えるほどなら、平気だな」

 

隣に座り、最上の頭を撫でてやった。

 

「いつかお前が売れた時、その万年筆を見せびらかせてくれ。これのお陰で売れましたってさ」

 

「……ふふっ、なにそれ。そんな詐欺商品みたいな。奥さんが聞いたら泣くよ?」

 

「お前を笑顔にできたのなら上出来だって、きっと褒めてくれるさ」

 

それを聞いて、最上は顔を真っ赤にした。

 

「そろそろ戻れ。売れない小説家の家に入り浸ってるなんて知れたら、クビになっちまうぜ」

 

「うん。でも、売れなくはないよ。きっと売れる。ボクがそうする。約束さ」

 

「あぁ、頼んだぜ」

 

「それじゃあ先生、またね」

 

またね。

俺はそれに、ただ笑顔で返すだけであった。

 

 

 

これが最後。

そう思うと、無性に鳳翔の店の飯が食いたくなった。

だが……。

 

「マジか……」

 

『定休日』

そう書かれた札を前に、俺は愕然としていた。

店の明かりはついておらず、中に誰かいる気配は無かった。

死ぬのを伸ばすか?

いや……今日でなくては駄目だ……。

今日は愛美の――。

 

「先生?」

 

振り向くと、買い物袋をぶら下げた鳳翔が立っていた。

 

「珍しいですね。いつもは夜にいらっしゃるのに」

 

「あ、あぁ……昼のメニューも気になってな……。だが、定休日であったか……」

 

「水曜日と日曜日は定休日なんです。ごめんなさい……」

 

「いや、そうか……。こちらこそ、何も知らずに申し訳ない……」

 

「いえいえ……」

 

休みは残念であったが、最後に鳳翔に会うことが出来て良かった。

 

「また別の日にでもいらしてください。夜以外でも、今日のようにお昼も来ていただけるよう、腕を磨いておきますので」

 

俺はそれに、最上に見せた笑顔で返すだけであった。

 

「先生? 笑ってごまかすのは駄目です! ちゃんと来るって約束してください」

 

いつもはそう言われると、俺はあたふたして、約束をしてしまうものだった。

鳳翔もそれを分かっていて、少し揶揄うようにして言ったのだろうが、俺の様子がおかしかったのか、どこか心配するようにして近づいてきた。

 

「あ、あれ……? じょ、冗談ですよ……? 困らせるつもりではなくて……。あの……本気になさらないで……?」

 

「い、いや……すまない……。少し暑くて、ぼうっとしてしまっていた……」

 

「だ、大丈夫ですか……?」

 

「あぁ、平気だ……。足止めしてすまなかったな。もう行くよ」

 

「は、はい。お気をつけて」

 

「お前もな。これからも美味い飯を作り続けてくれ。体に気をつけろよ。じゃあ……」

 

鳳翔の飯、食いたかったな……。

あいつの飯は、どこか愛美のものと似ているんだ。

だからこそ……。

 

「先生!」

 

振り向くと、鳳翔が俺の袖を掴んでいた。

 

「どうした?」

 

「あの……食べていきませんか?」

 

「え?」

 

「簡単な物でしたらお作り出来ますので……良かったら……」

 

「しかし……定休日なんだろう? 悪いよ」

 

「そうですけど……。ここで先生を行かせてしまったら……もう……来てくれない気がして……」

 

最上が見せた悲しい顔を鳳翔もしていた。

俺の様子、そこまでおかしかったのだろうか……。

お言葉に甘えてしまうのもいいかもしれない。

だが、無理して作ってもらっても、それはきっと――だからこそ――。

 

「……大丈夫だ。また来るよ」

 

「本当ですか……?」

 

「あぁ。約束する」

 

そう言ってやると、鳳翔は少しほっとした表情を見せた。

 

「では……」

 

小指を出す鳳翔。

今時、こんな約束の仕方をする奴がいたのだなと、少し笑ってしまう。

 

「な、何かおかしいでしょうか……?」

 

「いや……。指切りだな」

 

小指を絡めると、鳳翔は照れた様子で「ゆびきりげんまん~」と歌い始めた。

 

「――指切った。絶対にまたいらしてくださいね?」

 

「あぁ、分かっているよ」

 

「絶対ですよ?」

 

念を押す鳳翔。

だが、この約束が守られることは無い。

いつだって俺は、鳳翔との半強制的な約束に付き合わされてきたんだ。

たまには破って見せても、罰は当たらないだろう。

 

 

 

それからも、会える奴には片っ端から連絡を取り、最後の挨拶を済ませた。

途中、鳳翔の店で知り合った鈴谷にばったり会い、一緒に飯を食ったり、遊んだりした。

そんな事をしている内に、空はすっかり夕焼けに染まり、帰る頃には辺りは真っ暗になっていた。

 

 

 

家に帰り、金庫に保管していた遺書を机の上に並べた。

俺に肉親はいない。

全て、世話になった人たちに向けたものである。

その中には、今日挨拶した奴らも含まれていた。

 

「さて……」

 

首つり用のロープと、目玉が飛び出ない様にするための目隠し布。

畳を汚さないようにと、ブルーシートも用意した。

 

「…………」

 

最後だと思い、庭を眺めた。

ちょすけの墓と彼岸花。

月明りに照らされて、輝いていた。

 

「月が綺麗だな」

 

それは、妻へのプロポーズの言葉であった。

もちろん、答えは――。

 

「……本当に死んじまうんだからな。参ったぜ……」

 

こんな時でも、笑いは起きるものなのだな。

いや、或いは、死の恐怖を和らげるために――だったら、やめてしまえばいいものを――。

 

「愛美、ちょすけ、今行くからな」

 

居間に戻り、ロープを首をかけた。

途端に、心臓の鼓動が大きくなって行き、息遣いも荒くなっていった。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

いざこうしてみると、本当に怖いものなのだな。

 

「あ……目隠し……」

 

忘れたことで、少し安堵している自分がいた。

布は妻の仏壇の近くに落ちていて、拾い上げる時ふと、携帯電話が目に入った。

 

「…………」

 

妻の携帯電話。

未練がましく、解約も出来ていない携帯電話。

いつもは気づかれることも無く、ただ静かに充電されているものであったが、今日は違った。

 

「何だ……この点滅……」

 

緑色のライトが点滅している。

確認しようと、手に取った瞬間であった。

携帯電話は、けたたましい黒電話の音と共に、リズムかるに振動を始めた。

 

「うぉ……え……?」

 

急な事で驚いたのもある。

だが、それ以上に驚いたのは、その着信相手の登録名が「海軍本部」となっていたからであった。

 

 

 

電話に出てみると、やはり海軍であるようで、妻あてにかけたのも間違いなかった。

 

『そうでしたか……亡くなられて……』

 

「えぇ……。あの……妻とはどのような……?」

 

『……ご存知ないのですか?』

 

「え? え、えぇ……。海軍に友人がいるとも聞いたことありませんし……正直驚いているところです」

 

『……そうですよね。すみません……。知っているはずがありませんでした……』

 

沈黙が続く。

 

「あの……それで……妻とは……」

 

『知りたいですか……?』

 

やけに勿体ぶるな……。

 

「えぇ」

 

『……分かりました。ただ、本来であれば機密の情報ですので……もし本当に知りたいのなら、まず貴方の事が知りたいです』

 

「私の事……ですか……」

 

『機密を守ることが出来るかどうか……です……。お手数ですが……一度こちらに来ていただくことは可能でしょうか……?』

 

答えに詰まる。

もし向かうとなると、おそらく今日中という訳にはいかないであろう。

そうなると――。

ぶら下がっているロープを見た。

どうしても今日に――愛美の命日に、死にたかった。

だが……。

 

『どう……いたしますか……?』

 

「……私は――」

 

 

 

急激な光に目が覚める。

本来であれば、そこには天国か地獄が待ち受けているはずであった。

 

「おぉ……」

 

車窓一杯に広がる海。

朝日に照らされて、キラキラと光っていた。

 

「…………」

 

結局、俺は死ねなかった。

厳密に言うと、死を延期した。

妻の秘密を知り、気持ちのいい状態で死のうと、自殺セットはそのままで家を飛び出したのだった。

 

「海軍本部か……」

 

秘密の眠っている場所。

それが海軍本部らしい。

無論、訪れたことなどないし、場所すら把握していなかった。

幾度となく戦争の報道はあったものの、正直な話、関心が無かった。

 

「お目覚めですか」

 

急な問いかけに、俺は思わず息をのんだ。

対面式の向かいの席、そこに細身の女性が座っていた。

 

「雨野勉さん……いえ、先生とお呼びした方が宜しかったでしょうか?」

 

突然話しかけてきたこの女性。

その目は、何もかも見透かしているような、そんな目をしていて、ただ者ではない雰囲気を醸し出していた。

 

「……貴女は?」

 

「昨日、お電話した者です」

 

確かに、声に覚えがあった。

 

「そうでしたか。しかし、良く分かりましたね」

 

「えぇ、貴方の事は色々と調べさせていただきました。尤も、本部行きのこの電車で遭遇したのは偶然でしたが」

 

調べた……。

昨日の今日だぞ。

そんなに早く調べられるものなのだろうか。

 

「先生の事は存じておりました。私、先生のファンですから」

 

そう言うことか。

しかし、最上もそうであるが、あんな売れない小説にもファンが付いているものなのだな。

尤も、この女性はお世辞で言っているのかもしれないが。

 

「……あの」

 

「はい」

 

「私の事……ご存じありませんか?」

 

「え?」

 

俺が分からないでいると、女性は小さく笑って、どこか揶揄うようにして言った。

 

「実は私、こう見えても結構有名人なんですよ?」

 

女性の顔をまじまじと見る。

有名人……。

 

「……すみません。メディアには疎いもので……」

 

「フフ、そうでしょうね。じゃあ、これはどうでしょう?」

 

そう言うと、女性は海軍式の敬礼を見せた。

 

「大ヒントです」

 

海軍の関係者であることは分かっている。

それが大ヒントとは……。

 

「…………」

 

「分かりませんか?」

 

「いや……」

 

海軍の女性。

海軍……。

 

「もしかして……艦娘……?」

 

俺の答えに、女性は満面の笑みで答えた。

 

 

 

本部に着き、静かな敷地を歩いた。

何処に向かっているのかは、良く分からないままだ。

 

「大淀……聞いたことがあるな……。最上や鳳翔が時折その名前を出していた……」

 

「最上さんや鳳翔さんをご存じで?」

 

「えぇ……。あいつらとは、今住んでいる町で出会って……。最上なんかは、俺の担当の補助をしていまして……」

 

「そうでしたか。フフッ、一人称が変わったあたり、彼女たちと仲がいい様子が見てとれますね」

 

本当、何もかもを見透かされているようだ。

 

「雨野先生は、艦娘に対してどこまでご存知ですか?」

 

「どこまで……。知っている事と言えば、艦娘は深海棲艦に唯一立ち向かうことの出来る存在であり、人とは違う存在である……ということくらいでしょうか……」

 

「そうです。ただ、それは表向きの話です」

 

「表向き?」

 

「えぇ。ここです」

 

着いた場所には木造の建物があり、誰も使っていないのか、中はシンと静まり返っていた。

 

「昔、艦娘の寮として使われていた場所です。どうぞお入りください」

 

「お邪魔します」

 

古いのか、床はきしみ、歩く度に少しだけ沈んだ。

 

「先生を信用できる人とお見受けした上で、ここを案内させていただきます。ここでのことは他言無用でお願いします」

 

「分かりました」

 

「では、説明を……。といっても、これを見ていただけたら、ある程度は察していただけるかと思いますが」

 

そう言うと、大淀は一枚の札を手に取って見せた。

 

「これは、艦娘の在室を示す札です。もうお分かりですよね」

 

そこには、結婚する前の妻の名前が書かれていた。

 

 

 

妻の使っていたという部屋に案内され、そこで大淀の話を聞いた。

 

「先ほどの「表向き」というのは、艦娘が深海棲艦に対抗できる唯一の存在であるという部分です。公表されていませんが、艦娘は、深海棲艦を倒すことで生まれる謎の存在なのです。深海棲艦の亡骸から肉体が生まれ、艤装することで魂が宿る……。視点を変えれば、私達は深海棲艦である可能性もあると言うことです」

 

色々とトンデモナイ話を聞かされているが、一番気になるのはやはり……。

 

「妻は人間だ」

 

「えぇ、彼女は人間です。それは事実です。ただ、艦娘でもあった……というよりも、艦娘として戦っていた……という方が正しいでしょうね」

 

「艦娘として……?」

 

「深海棲艦が現れた時、まだ艦娘という存在はありませんでした。人間はあらゆる兵器を使い、深海棲艦に立ち向かいましたが、傷一つつけることはかなわなかった。そんな事が半年続いた頃……ちょうど、世間にも深海棲艦の存在が認知され始めた頃ですね。深海棲艦の攻撃を受けた海軍の人間の中で、数名の女性だけが、とある症状に見舞われたのです」

 

「とある症状……?」

 

「幻覚です。厳密には、後にそうではないと分かったのですが、ここではあえて幻覚とさせてください。艦娘が妖精を見ることが出来るのはご存知ですか?」

 

妖精。

それを聞いて、俺はふと、愛美の事を思い出していた。

愛美は時折、何もない所に向かって、独り言を話すことが多々あった。

独り言を言う癖は俺にもあったし、特に変だとは思っていなかったが、多かったことは事実であった。

 

「……その妖精が見えた……ということですね」

 

「そうです。もちろん、異常者として扱われました。しかし、彼女たちはその妖精の指示で艦娘の艤装を作りだし、それが深海棲艦に対抗する唯一の武器であることを証明したのです」

 

愛美は妖精が見えていた。

そこまでは分かった。

 

「ここからが本題です。その艤装……使いこなせたのは、妖精が見える人間だけでした……。つまり……」

 

「愛美もその一人だった……という訳か……」

 

「えぇ……。しかし、妖精が見えるとは言え、普通の人間ですから、傷つけばすぐに回復なんてことは出来ませんし、艤装を完全に使いこなすことは出来ませんでした。それでも、彼女たちは戦った。そして、新しい道を切り開いた」

 

「艦娘のドロップ……」

 

「そうです。艦娘こそ、妖精の作り出した艤装を使いこなし、深海棲艦に対抗できる力を十分に持った存在だったのです。艦娘と人間。最初こそは合同で戦っていましたが、艦娘の数が増えて行くにつれ、人間は艤装を艦娘に引継ぎ、やがて艦娘だけが残りました」

 

まるでおとぎ話でも聞いているかのような、信じるには努力の必要な話であった。

 

「愛美は……どうして俺にそのことを……」

 

「彼女達は率先して戦いに出ましたが、公表すれば、世間はそう思わないでしょう。ですから、機密としたのです。おそらく、愛美さんもその事を守って、誰にも言わなかったのだと思います。それが、夫である貴方であっても……」

 

それが全ての真相……。

愛美は、ずっと俺に隠し事をしていたのか……。

ショックはでかい。

だがそれは、嘘をつかれたからだとか、そういうものではなく、ただただ、俺の知らない愛美がいたことに対しての事であった。

 

「……実は、この話にはまだ続きがあるのです」

 

「え?」

 

「先生の知りたがっていた真相は以上ですが、今度は……私たちが愛美さんにあった用事の件です……」

 

そうだ。

海軍は、大淀は愛美に用事があったから電話したのだ。

 

「どのような用事ですか……?」

 

「……愛美さんの艤装を引き継いだ艦娘の事です」

 

 

 

寮から出て、敷地内にある学校のような場所に連れてこられた。

 

「見ての通りです。ここは元々、艦娘の育成の為に使われていた施設です。いわば学校ですね」

 

施設の中には数名の女の子が見てとれた。

 

「彼女たちは駆逐艦です。ご存知の通り、社会に出ることの出来る艦娘もいますが、まだ子供の駆逐艦たちにはそれが難しいのです。今はここで訓練を受けて、里親の元で暮らす準備をしています」

 

「里親……」

 

「実は、もうすぐ里親の元に送る予定なのですが……まだ決まっていない子がいるんです……」

 

「それが……愛美の……?」

 

「えぇ……。霞という艦娘なのですが……性格に少々難がありまして……。里親になりたいという人たちを、ことごとく失望させてしまって……」

 

「それで、愛美を頼ろうという訳ですか……」

 

「艤装には魂が宿っています。霞ちゃんが艦娘として生まれた時、その魂の一部に、愛美さんの魂も混ざっていたようで、二人はまるで姉妹のように仲が良かったのを覚えております。本当は、愛美さんには第二の人生を歩んで幸せになって欲しいと思っていましたから、こんな連絡をするつもりは無かったのです。しかし……もう霞ちゃんを理解してあげれるのは……愛美さんしかいなかった……」

 

だが、愛美は死んでしまった。

そうなると――。

俺の考えを読んだかのように、大淀は疲れたようにして笑って見せた。

 

「また探さないといけません……。以上が、愛美さんにあった用事です。ここまで付き合わせてしまって、申し訳ございませんでした」

 

「いえ……真相を知れてよかったです……」

 

これでやっと愛美の元へ行ける。

あの世で会ったら、今日の事を話して驚かせてやるんだ。

 

「あ……」

 

大淀は何かを見つけたかのように、施設の方を見た。

反射的に、俺も同じ方を見る。

そこには、銀色の髪をした、小さな女の子が立っていた。

こちらをじっと見つめるその瞳は、大淀と同じような――だが、少しだけ違う――例えるのなら、何もかもを疑ってかかるような、そんな目をしていた。

 

「彼女が……霞ちゃんです」

 

「あれが……」

 

霞はゆっくりと視線を外すと、そのまま施設の中へと戻っていってしまった。

 

「すみません……。挨拶するようにと教えてはいるのですが……」

 

「いえ……」

 

あの子が愛美の魂を……。

第一印象だけで言えば、そんなことは信じられなかった。

愛美のまの字も感じなかった。

 

「……そろそろ行きましょうか。愛美さんの事、もっと知りたいでしょうから、彼女の残した日記などをお見せいたしますよ」

 

「ありがとうございます」

 

大淀に案内され、愛美の軌跡を辿った。

そこには、今まで一緒に過ごしてきた時間は何だったのかと思うほどに、俺の知らない愛美がたくさんいた。

 

 

 

陽も沈みかけた頃、大淀と共に電車に乗り込み、海軍本部を後にした。

 

「私、この先の――って駅の近くに住んでいるんです」

 

「一人暮らしなのか?」

 

「えぇ、海軍からお給料も貰っていますし、それで」

 

この頃には、もうすっかり大淀と仲良くなっていて、俺は自然とため口になっていった。

大淀も、むしろその方がいいとのことであったので、お言葉に甘えさせてもらっていた。

 

「愛美さんの事、たくさん知れましたか?」

 

「あぁ……。結構ショックだったがな……。俺の知らない愛美が、あそこには多すぎる。まるで他人だ」

 

「先生の口から聞く愛美さんも、また違いますから、私も同じ気持ちですよ」

 

そう言うと、大淀は微笑んで見せた。

俺を慰めてくれたのだろう。

会ってまだ半日も経っていないが、大淀はそう言う気配りが出来る女であろうということは、十分に感じられた。

 

「そろそろ――駅です。先生、今日はありがとうございました」

 

「いや、お礼を言うのはこちらの方だ」

 

「その、良かったら、連絡先を交換しませんか? こうして出会ったのも何かの縁でしょうし……」

 

「――あぁ、そうだな」

 

一瞬躊躇ったのは、そんなことは二度とないだろうと思ったからで、交換に応じたのは、大淀がしてくれたように、俺からもお返しに気遣ったからであった。

 

「これでよし。ありがとございます」

 

「いや」

 

「あと……もし……ご迷惑でなければなんですけど……」

 

大淀は鞄から、ぼろぼろになった本を取り出すと、恐る恐る俺に差し出した。

 

「サイン……いただけないでしょうか……?」

 

その本は、全く売れなかった俺の処女作であった。

 

 

 

大淀と別れ、家に戻って来る頃には、空はすっかり暗くなっていた。

家に差し掛かった時、電灯の元に、小さな人影が在るのに気が付いた。

 

「あ! 先生!」

 

「最上」

 

最上は買い物袋をぶら下げ、何やら嬉しそうに俺の手を取った。

 

「遅いよ先生」

 

「どうしたんだ? そんな荷物を持って……」

 

「えへへ、先生にご飯作ってあげようと思って。脱稿祝い、まだしてなかったでしょ? ほら、お酒も買ってきたんだよ」

 

「そのために待っていたのか? いつから?」

 

「ん~細かいことは気にしちゃ駄目だよ。それより、早くお家に入れてよ。生ものもあるんだよ?」

 

「あ、あぁ……分かったよ……」

 

ずっと俺の帰りを待っていたのか。

来ると知っていれば、もっと早く帰って来たものを……。

 

「お邪魔しまーす。先に冷蔵庫借りるね。お酒、キンキンに冷えていた方が良いでしょ?」

 

そう言うと、最上は靴も揃えずに台所の方へと向かっていった。

 

「やれやれ……」

 

靴を揃えなおし、居間へと向かう。

暗いままの居間に足を踏み入れた時、何かシートのようなものを踏んだ。

その感触に気が付いた時、俺はしまったと思った。

だが、時すでに遅し。

居間に明かりが灯る。

 

「え……」

 

声の方を振り向くと、電灯のスイッチに手をかけた最上が、呆然と立っていた。

 

「なに……これ……」

 

視線の先には、吊るされたロープ。

そして、料理の並ぶはずのちゃぶ台には、数通の遺書が置かれていた。

 

「最上……これは……」

 

瞬間、最上は俺を押し倒し、力のない拳で叩き始めた。

 

「も、最上……! やめ……!」

 

最上は息を切らしながら、ひたすら俺を叩く。

 

「やめろ……!」

 

引きはがしても、再び向かってくる。

時間にしたら数十秒の攻防。

俺が最上の腕を抑え込む形で、それは終わった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

「最上……」

 

「なんで……」

 

顔を上げた最上の頬には、大粒の涙が伝っていた。

 

「なんで……こんなこと……! なんで……!」

 

再び暴れ出す最上。

見た目からは想像も出来ないほどに力強く、俺は振り払われないようにと必死に踏ん張っていた。

 

「最上……!」

 

「この……! この……!」

 

「最上っ!」

 

子供を叱るような、そんな勢いのある声に、最上を含め、俺自身も驚いていた。

こんな声、出したことも無かった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

「最上……」

 

「ふ……うぅぅ……うぁぁぁぁ……」

 

馬乗りのまま、最上は俺の胸の中で泣いた。

そして、俺の服が涙でびしょびしょになった頃、最上はようやく落ち着きを取り戻した。

 

 

 

「ほら、ココア入れて来てやったぞ」

 

「いらない……」

 

「……ここに置いておくから、飲みたい時に飲め」

 

最上が泣き始めてから、かれこれ一時間は経っていた。

冷蔵庫に入れられていなかった生ものはかろうじて無事であったが、酒は生ぬるくなっていた。

 

「……最上、今日はもう帰れ。途中まで送ってやるから」

 

「やだ……!」

 

「やだって……」

 

「だって……ボクが帰ったら自殺するんでしょ……! 先生が自殺をやめないなら、ボクはここから動かないから……!」

 

「……トイレとかどうするんだよ?」

 

「そう言う話をしているんじゃないんだよ……!」

 

そんなことは分かっている。

だが、こればかりは……。

 

「最上……分かってくれとは言わない……。ただ……放っておいてほしいんだ……」

 

「放っておけないよ……! 先生が死ぬのなら、ボクも死んでやる……!」

 

「最上……」

 

「……先生の様子がおかしいとは思ってたよ……もしかしたらって……。でも……そんなこと……先生は絶対にしないと思ってた……」

 

「…………」

 

「どうして……? どうして……こんなこと……」

 

話したところで理解はされないだろう。

愛美が死んで、ちょすけが死んで……。

小説も売れず、ただただ生きるだけ……。

ならいっそ、愛美やちょすけの元に……。

 

「先生……」

 

最上は寄り添うと、再び涙を流した。

 

「死んじゃやだよ……。寂しいよ……。ボク……先生の事が大好きだから……。お願いだよ……。死なないでよ……」

 

その涙に、流石の俺も心を動かされた。

自殺する決意は揺らがないが、今日死ぬことはやめよう、そう思った。

 

「……分かったよ。分かった……。やめる……。だから、今日はもう帰れ……」

 

「本当……?」

 

「あぁ、約束する……」

 

あくまでも、今日の話だけどな……。

 

「分かった……。でも……帰らないから……」

 

「え?」

 

「ほら……」

 

最上の指す方に、大きな荷物があった。

買い物袋に気を取られていたから気が付かなかったが……。

 

「ボク、今日泊まるつもりで来たから……」

 

「はぁ?」

 

「だって……お酒飲むし……。明日は有給貰ってお休みだし……」

 

「だからってお前な……。年頃の女が男の家に泊まりに来るなよ……」

 

「先生なら平気だと思って……」

 

「お前な……」

 

なんだか急に肩の力が抜け、俺は思わず笑ってしまった。

 

「馬鹿らしい……」

 

それは、最上に対してでもあり、死を覚悟した自分の気持ちにも言えた。

 

「駄目……?」

 

「……分かったよ。泊っていけよ」

 

呆れた顔でそう言ってやると、最上はやっと笑顔を見せた。

 

「えへへ……やったー。じゃあ……」

 

「まずは風呂入ってこい。相当暴れ回ったから、汗かいただろ」

 

「うん。あ、でも……先生も一緒に入るんだよ」

 

「入らねぇよ馬鹿」

 

「じゃあ、ボクが入り終わるまで傍にいて。目を離した隙に自殺なんてされたら困るし」

 

「しねぇよ」

 

「一緒に来てくれないなら入らないから」

 

「…………」

 

 

 

「先生、そこにいる~?」

 

「あぁ、居るよ。全く……」

 

最上がシャワーを浴びている間、俺は背を向けて、最上を待った。

 

「もうあがるよ。タオルを取ってくれないかな?」

 

風呂のドアが開き、濡れた腕が顔を出した。

腕なのに顔……か……。

 

「ほらよ」

 

「ありがとう」

 

タオルで体を拭く、生々しい音が聞こえる。

やましい気持ちは無いが、少しだけ緊張するな。

 

風呂のドアが開き、最上が出て来ると、脱衣所に湯気が立ち込めた。

 

「振り向いちゃだめだからね」

 

「分かってるよ」

 

「本当に駄目だからね」

 

「分かってるって」

 

「本当に――」

 

「だから……っ!」

 

思わず息を飲んだのは、最上が背中越しに抱き着いてきたのに驚いたからであった。

柔らかい感触。

おそらく、まだ服を着ていないのだろう。

 

「……おい。どういうつもりだ……?」

 

「先生……あのさ……。もし……もしだよ……? 先生が自殺した原因が……奥さんの事に関係しているのなら……代わりになりそうな人がいたら……自殺をやめる……?」

 

「え?」

 

「ボクは奥さんのようにきれいじゃないし……体も小さいし……先生に迷惑ばかりかけてしまうけれど……。奥さんが先生にしてきたことというか……その……ボクだって女だからさ……そう言うこと……出来るからさ……。もし……先生が望むなら……それで自殺を思いとどまるなら……ボク……いいからね……?」

 

それがどういう意味なのかは分かった。

だからこそ、最上の手を払った。

 

「馬鹿なこと言うな……。そんなんじゃない……」

 

「本当……?」

 

「あぁ……。だから、二度とそういうことするな……。もっと自分を大切にしろ」

 

「……うん。ごめんね」

 

「もういいだろ。居間に戻るぜ」

 

「うん」

 

愛美の代わり……か……。

そんな存在、居るわけがない。

仮に、最上の言うように、俺があいつを抱いたとしても、それは一時の感情に過ぎない。

一人の、一匹の雄の感情。

そんなもので、愛美の気持ちがかき消すことが出来るのなら、金を出して女を抱いているところだ。

 

 

 

それから最上と飯を食い、酒を飲み――気が付くと日付は変わっていた。

 

「そういやお前……」

 

俺の問いかけに、最上は答えなかった。

 

「最上?」

 

「ん……なに……?」

 

「お前、今寝ていただろ」

 

「寝てないよ……。ちょっと横になってただけ……」

 

「酒弱い癖に、無理するからだ。散々泣いたし、疲れているのなら寝床に行け。愛美の部屋に布団用意してあるからよ」

 

「ん~……先生、連れてって……」

 

「自分で行け」

 

「やだ……抱っこして……。お姫様抱っこ……」

 

こいつ、酔うと面倒くさいんだよな……。

普段の日だってそういう時があるのに……。

 

「しょうがないな……。ほら、こっちこい」

 

「わーい」

 

最上は全体重をかけて、勢いよく腕に乗っかった。

 

「ただでさえ腰に気を遣っているのに……よっと……」

 

「えへへ~。れっつごー!」

 

腰に気を遣いながら、最上を愛美の部屋へと運ぶ。

部屋には愛美の使っていたものは何もなく、だからといって何かを置いているわけでも無かった。

あまり訪れたくなかったのだ。

 

「ほら、降ろすぞ」

 

「ありがとう先生」

 

「水、ここに置いておくから、のどが乾いたら飲め。吐くことは無いだろうが、一応エチケット袋も置いておくぞ」

 

「うん」

 

「何かあったら、俺は自室で寝ているから呼べ。じゃあ、お休み」

 

そう言って立ち上がろうとすると、最上はそれを止めた。

 

「どうした?」

 

「先生……死なないでね……」

 

先ほどの陽気さはどこへやら、最上は再び涙を見せた。

 

「……死なないと言っただろう。ほら、もう寝ろ」

 

「寝るまで傍にいてよ……」

 

「分かったよ」

 

「あと、撫でて……」

 

「はいよ」

 

最上が寝付くまで、そんなに時間はかからなかった。

 

「ったく……」

 

やっとの事で解放されたが、自殺を図る気にはならなかった。

何よりも、最上が第一発見者になってしまうのは、とても……。

 

「…………」

 

俺が死んだら、悲しいと思ってくれる人がいる。

その人の為に生きるのも悪くないかもしれない。

ただ、それでもやはり、俺は愛美を忘れることは出来ないだろう。

愛美を想う気持ちに押しつぶされてしまうだろう。

最上は言った。

愛美の代わりになる人が必要なら――と。

愛美を忘れることが出来ない俺に、誰かを想う気持ちを生み出すことが出来るだろうか。

愛美以上の存在を、見つけることが出来るのだろうか……。

 

「……無理だろうな」

 

やはり、俺には――だが、それは今日でなくていい。

最上が帰った後にでも、そっと―― 一人で――。

 

 

 

朝陽と、味噌のいい匂いで目が覚める。

台所に行くと、最上が朝食を作っていた。

 

「おはよう先生」

 

「おはよう。朝食作ってんのか」

 

「うん。昨日はごめんね。ボク、面倒くさかった?」

 

「あぁ、相当な」

 

「ごめんって。もう少しでできるから、顔でも洗ってきたら?」

 

「あぁ、そうさせてもらう」

 

「あ、後さ、さっき携帯電話鳴ってたよ。出ようかと思ったけれど、登録されてない番号だったからそのままにしちゃった」

 

「知ってても勝手に出るな」

 

電話か……。

ここ最近、最上以外からの電話はないしな……。

鈴谷はメッセージアプリで連絡してくるだろうし……。

 

「えーっと……」

 

確かに知らない番号。

だが、見覚えはある。

 

「……0410」

 

下四桁のこの数字。

 

『おおよど……って読めるんですよ』

 

「大淀か……」

 

番号は聞いていたが、登録はしていなかった。

その後自殺するつもりであったしな……。

 

「大淀さん? 大淀さんと知り合いなの?」

 

「あ、あぁ……まぁな……」

 

「へぇ。大淀さん、海軍本部の近くに住んでるんだよね。どこで知り合ったの?」

 

「まあ、ちょっとな……」

 

詳しく話す事は出来ないし、それでいて面倒だったから、そう言った。

だが、それがいけなかったらしい。

 

「ちょっと、なに?」

 

「え?」

 

「ちょっと知り合ったって、どういうこと?」

 

手を止め、最上は乗り出す様に問いかけた。

 

「な、なんだよ?」

 

「先生、大淀さんとどうやって知り合ったの?」

 

「いや……まあ、ちょっと海軍本部に用事があって……その時に知り合ったんだ……」

 

「海軍本部? 先生が? 何をしに?」

 

「……どうでもいいだろう。飯、手を止めていいのか?」

 

「どうでもよくないよ。ご飯は火止めたから大丈夫。ねぇ先生、大淀さんとはどういう関係なの? 大淀さんの番号、どうして登録してないのに分かるのさ? もしかして、わざと登録してなかったの? 関係を隠すためとかさ」

 

質問攻めにする最上は、どこか――。

 

「……お前、なんか怒ってないか?」

 

「怒ってるよ!」

 

「なんで怒って……」

 

その時、電話が鳴りだした。

大淀からだ。

 

「もしもし?」

 

『おはようございます。大淀です。朝早くから申し訳ございません……。今、大丈夫でしょうか?』

 

「あぁ、大丈夫だ。昨日はありがとう」

 

『いえ、こちらこそ。実は、取り急ぎのお話がありまして……』

 

大淀が話し始めた時、最上が電話を奪い取った。

 

「あ、おい!」

 

「もしもし大淀さん? 先生とはどういう関係なの!?」

 

「最上、返せ!」

 

「もしもし!?」

 

 

 

結局、大淀が事情を話してくれたようで、最上は納得したんだかしてないんだか良く分からない表情で、俺に電話を返した。

 

「ごめんね……」

 

「ったく……。もしもし。悪かったな……」

 

『いえ、納得してもらえたかどうかわかりませんが……なんとか……』

 

「……話してよかったのか?」

 

『えぇ……人間が艦娘をやっていたことは、彼女も知っていますし……。先生の奥さんがそうであったとは知りませんでしたが……』

 

「そうか……」

 

『それにしても……フフッ、愛されているんですね』

 

「変に懐かれてしまってな……。それで、話とは?」

 

『えぇ……実は……霞ちゃんの事なんですけど……』

 

霞……。

 

『先生の事を霞ちゃんに話したんです。そうしたら、行ってみたいって……』

 

「行ってみたい……とは……」

 

『先生の……愛美さんのお家です……』

 

 

 

急遽、霞と大淀が家にやってくるとのことで、俺たちは出迎えの準備を急いだ。

 

「今日の今日来ることないのにね」

 

「時間が無いんだろ。忙しそうだったしな」

 

「そうかもしれないけどさ」

 

急ぐ理由は、おそらく他にもあるのだろう。

例えば、霞の里親の件だ。

大淀から聞いている霞の性格を信じるのならば、今日のように霞から何かを望むことは珍しいことなのだろう。

大淀は、里親を見つけるきっかけというか、霞の実態を知るきっかけになればと考えて、事を急いだのだと思う。

或いは、俺に霞を――だとしても俺は――。

 

 

 

急いでいるとはいえ、お昼前に来てしまうのは驚きであった。

 

「随分早かったのだな」

 

「実は……お電話する前から向かっていたのです……。霞ちゃんが早くしたいと……」

 

大淀の視線の先に、霞はいた。

目が合うと、どこか怪訝な表情を見せてそっぽを向いた。

迎える側だからこういうのも何なのだが、歓迎されていないらしい。

 

「急に押しかけてすみません……。これ、つまらないものですが……」

 

「どうも。どうぞ、上がってくれ」

 

「お邪魔しま――」

 

大淀が上がろうとすると、それを押しのけ、霞はずかずかと家に入っていった。

 

「あ、霞ちゃん! すみません……」

 

「いや……」

 

話に聞いていた通りの感じだが、実際に目の当たりにすると強烈だな……。

本当に愛美の魂を受け継いでいるのか疑問に思うほどだ……。

 

 

 

大淀と霞を居間に通し、手土産に貰った菓子と紅茶を出してやった。

 

「貰ったものですまない。今、最上に色々買いに行かせているのだが……」

 

「いえ、こちらこそ急な事で……」

 

俺たちが話している間も、霞は退屈そうにじっと手元を見つめていた。

 

「それで、愛美の事なのだが……わざわざ来てもらったのに申し訳ないが、実は……愛美の私物はこれしか残っていないんだ……」

 

そう言って、クッキーの入るような小さな缶を渡した。

 

「ここに納まるほどのものしか、もう残っていない。全て捨ててしまってな……」

 

霞は真っ先に缶を手に取ると、それを開けた。

中には携帯電話や身分証明書、結婚指輪に小さな小物が入っているのみだった。

その中の小さな破片のようなものを手に取り、霞は何かを思っていた。

 

「愛美はそれを大事にしていた。それが何なのかは教えてくれなかったが……お前は知っているのか……?」

 

霞は答えない。

それどころか、まるで聞こえていないと言うように、目線を変える事すらしなかった。

 

「……あとは、愛美の部屋でも見ていくか? 何も残ってはいないが……」

 

霞は小さく頷いた。

それが、俺と霞の初めてのコミュニケーションだった。

 

 

 

部屋に着くや否や、霞は少しだけ驚いた表情を見せた。

その理由を聞いても答えてくれなそうであったので、俺は黙っていた。

 

「ここが愛美さんのお部屋ですか」

 

「あぁ。元々物を多く持つ奴じゃなかったから、大きな家具が無いだけで、あいつがいた頃と変わらないんだ……」

 

「先生……」

 

よっぽど俺が寂しそうに見えたのか、大淀はそっと俺の背中に手を添え、慰めた。

 

「ねぇ……」

 

初めて聞く声。

それは、霞のものであった。

 

「一人にさせてくれないかしら……」

 

その表情は、どこか悲しそうであった。

そっと一人で泣くつもりなのであろうか。

 

「……あぁ、分かった。少し外す」

 

大淀もそれを察したのか、黙って部屋を後にした。

 

 

 

居間に戻ると、ちょうど最上が帰ってきた。

 

「ありゃ、間に合わなかったみたいだね……」

 

「すみません……。もうちょっとゆっくり来れればよかったのですが……」

 

「ううん。大丈夫だよ。それよりも、久しぶりだね、大淀さん。今朝はごめんね……」

 

「いえ……。ちょっと驚きましたが……」

 

「霞ちゃんは?」

 

「愛美の部屋にいるよ。一人にして欲しいんだとよ」

 

「そっか……」

 

それからしばらく、三人で色々な事を話した。

特に多かったのは戦時中の話で、報道されていないような苦労話の数々に、頭の上がらない気持ちになった。

それと同時に、愛美も同じ苦労をしてきたのだと思い、涙が零れそうになった。

 

「そう言えば、スイカがあったのだった。切ってくる」

 

涙を隠すため、台所に立った。

冷やしていたスイカをまな板の上に乗せた時、異変に気が付いた。

 

「あれ……?」

 

包丁が無かった。

 

「最上、包丁どうした?」

 

「え? 洗っていつもの場所に戻したけど……」

 

「いや……ないんだが……」

 

いくら探しても無かった。

 

「どこに置いて……」

 

ふと、ゴミ箱に捨てられている首つり用のロープに目が行った。

その瞬間、俺は良からぬことを思ってしまった。

それと同時に、霞がずかずかと家に上がっていった時、居間と間違えて台所に入っていたことを思い出した。

 

「…………」

 

 

 

そっと、愛美に部屋の前へと行き、ふすまの隙間から中を覗いた。

窓からこぼれる日差しの中で、霞はただただ項垂れていた。

 

「――……」

 

何かを呟いている。

何を言っているのかは分からないが、誰かに問いかけるような、そんな感じであった。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

やがて、霞の息遣いが荒くなった。

同時に、何かが光を反射した。

それは、台所から無くなった包丁であった。

 

「愛美……」

 

霞は包丁の刃を自分に向けると、先端を首に当てた。

瞬間、俺はふすまを開け、部屋に跳び込んだ。

 

「何をしているんだ!」

 

霞は驚いた表情を見せた後、すぐに包丁を俺に向けた。

 

「来ないで……!」

 

包丁を持つその手は、震えていた。

 

「お前……今……自分を……」

 

「…………」

 

「……愛美の元へ……行こうとしたのか……?」

 

俺の問いに、霞は目を逸らした。

 

「そうなんだな……」

 

「あんたには……関係ないでしょ……!」

 

確かに関係ないかもしれない。

俺に霞の自殺を止める権利も無い。

 

「…………」

 

俺は、どうして霞の自殺を邪魔しようとしたのだろうか。

そのまま見ていればよかったものを……。

自分だって、自殺を邪魔された身だ。

だからこそ、そっとしておいてほしいと分かっていただろう。

なのに――何故――。

……いや、分かっている。

分かっているからこそ――俺は――。

 

「確かに関係は無い……。でも……分かるんだ……。俺も……お前と同じで……自殺しようとした身だから……」

 

「え……?」

 

俺はすべてを霞に話した。

自殺しようとしたこと。

愛美への想い。

ちょすけのことだって――。

 

「だから、分かるんだ。お前の気持ちが……」

 

「私の……気持ち……?」

 

「本当は……怖いんだろう……? 死ぬ勇気なんて……最初からないんだろう……?」

 

そうだ。

俺は、怖かったんだ。

愛美を想うからこそ、愛美の元へ行こうと思った。

だが、出来なかった。

邪魔されたから?

違う。

最上が可哀想だから?

そうじゃない。

邪魔したあの電話も、出なければよかった。

最上の気持ちなんて邪険にしてでも、死ねばよかった。

だが、しなかった。

出来なかった。

適当な理由をつけて、人のせいにして、死を諦めた。

 

「どんなに愛美を想っても……この世界に絶望しても……やはり……死ねなかった……。死のうとすると、体は震えるし……息遣いは荒くなるし……何かやり残したことがあるんじゃないかって、自殺を諦める要因を探してしまう……。そしてそれを見つけると、ほっとする自分がいた……」

 

「…………」

 

「俺は……愛美に会いたいんじゃない……。この世界に絶望しているんじゃない……。今、気が付いたよ……」

 

「……だったら、何があるってのよ?」

 

「ただ……寂しいだけなんだ……。絶望も……自分では解決できないからって、悲観し、自殺を思うことで楽になっているだけだ……」

 

そう認めた瞬間、俺の頬に、大粒の涙が伝った。

 

「死んだところで……愛美には会えない……。死んだところで……絶望した世界は変わらない……。俺の居ない世界がただ回るだけで……俺はそれを見届けることも、思うことも出来ない……」

 

霞の手がより一層震えた。

その表情は、絶望に染まっていた。

 

「違う……」

 

「…………」

 

「私は……違う……! あんたとは違う……! 私は……私は……!」

 

「違わない……。俺とお前は同じだ……。何も生まない死を望み……それでいて死ぬことの出来ない……生きる屍だ……」

 

「違う……! 違うもん……!」

 

「霞……」

 

「違う!」

 

その時、ちょうど最上たちが駆け込んできた。

 

「先生? 何事……」

 

「きゃああああああ!」

 

大淀の悲鳴。

最上は表情を固めたまま、膝から崩れ落ちた。

 

「は……あ……あぁぁ……」

 

血の染まる霞。

だが、それは霞の血ではなかった。

 

「ぐ……うぅ……」

 

俺の腹に、包丁が刺さっていた。

まるでそこに心臓があるかのように、刺された部分が鼓動している。

痛くもあり、熱くもある。

 

「ふ……うぅぅ……」

 

横になり、流れる血を手に取った。

温かく、少しべたついている。

霞は包丁を持っていた時のままの姿勢で、震えている。

 

「霞……」

 

「あ……う……」

 

「はは……死ぬ勇気が無いなら……殺されればよかったんだな……今……気が付い……」

 

 

 

 

 

 

夢を見た。

愛美と初めて出会った頃の夢。

海の見える、サナトリウムに似た病院のベンチ。

そこで俺たちは出会った。

 

「隣、宜しいですか?」

 

「えぇ、どうぞ」

 

「どうも」

 

最初こそは、そんなやり取りしかしていなかった。

ベンチに座っても、お互いの事なんて気にもせず、彼女は海を眺め、俺は本を読んでいた。

そんなことが数日も続くと、やはり少しは意識し出すのか、天気の話やら、気温の話やら、当たり障りのない話題をお互いに振るようになった。

 

「お仕事は何をされているんですか?」

 

「恥ずかしながら、小説家を……。この前、初めて本を出しまして……全く売れませんでしたけど……」

 

「まあ、何というタイトルですか?」

 

俺がタイトルを伝えると、彼女は驚いた表情を見せた。

 

「それって……これですか……?」

 

彼女の鞄から、俺の本が出て来た。

 

「え……?」

 

「もしかして……雨野勉先生……ですか……?」

 

「は、はい……そうですが……」

 

「嘘……。あ……わ……私……! 私っ……この本、とても大好きなんです! あああ、あの、サイン! サインいただけませんか!?」

 

そこからだったな。

俺たちの仲が急激に深まったのは――。

 

 

 

 

 

 

潮風の香りに、目が覚める。

 

「痛……」

 

腹の痛み……。

周りを見渡す限り、ここは病院らしい。

 

「……生きちまったのか」

 

確実に死んだと思っていたのだが、これくらいの痛みであるならば、おそらく内臓まで達していないのだろうな。

 

「幸福なのか……不幸なのか……」

 

「んぅ……」

 

その時、ベッド横で何かがもぞもぞと動き出した。

ギョッとして覗いてみると、寝袋を被った最上が、陽を眩しそうに目を擦っていた。

 

「最上……」

 

「ん……はれ……? 先生……?」

 

「おう……おはよう……。お前、ずっと看ててくれたのか?」

 

「え……?」

 

寝起きの最上は、いつだって頭の回転が遅い。

自分がどこにいるのかすら、分からない時があったしな。

 

「先生……?」

 

「おう」

 

「せ……先生! 先生っ……! 先生っ……!」

 

寝袋入ったまま、最上は芋虫のようにして俺に覆いかぶさった。

 

「お、おい……痛っ……いててて……!」

 

「あ……ごめんね……。ごめんねぇ……うぅぅ……うぁぁぁぁ……」

 

芋虫のまま泣く最上。

悪いとは思ったが、ちょっとおもしろくて笑ってしまった。

 

「心配かけたな……」

 

最上を慰めていると、病室のドアが開き、大淀が入って来た。

 

「雨野先生……! あぁ……良かった……」

 

「大淀。ここはどこだ?」

 

「ここは海軍本部の病院です……。あの後、本部に連絡して、ここに……。一般の病院ではないのは……その……」

 

大淀は言いにくそうにしていた。

その理由は大体分かっていたので、俺はあえてなにも聞かなかった。

 

「霞はどうなった……?」

 

「霞ちゃんは……その……」

 

「連れて来てくれないか……?」

 

「え……? しかし……今霞ちゃんは……その……」

 

「霞が来たくないと言っているなら別にいい。だが、責任を取らされているのなら別だ。解放してやってくれないか?」

 

「……上の者に相談してみます」

 

そう言うと、大淀は部屋を出て行った。

 

 

 

それから鳳翔が着替えを持ってきてくれたり、鈴谷が見舞いに来てくれたりと、艦娘ばかりが部屋を訪れた。

 

「先生、鈴谷達以外に友達いないの? マジウケるんですけど」

 

「あぁ、いない。皆疎遠になっちまった。小説ばっか書いてたからな」

 

「あ……ごめんね……」

 

「いや……別に……」

 

「でもでも、鈴谷は先生とずーっと友達でいてあげるからね」

 

「飯奢ってくれるからだろ?」

 

「そうそう。パパ活って奴?」

 

「パパ活ってお前……」

 

「パパ活って何ですか?」

 

「鳳翔さん知らないの? パパ活って言うのはね~」

 

「そこまでだよ鈴谷」

 

そんなことで騒いでいると、扉のドアが叩かれて、霞と大淀、そして、何名かのお偉いさんが入ってきて、謝罪をした。

色々と言われたが、掻い摘んで説明すると、今回のことは内密にって事であった。

 

「ほら、霞君も何か言ったらどうなのかね」

 

霞はうつむいたまま、黙りこくっていた。

 

「あの……彼女と二人にしてくれませんか……?」

 

「え?」

 

「話したいことがあるんです。いいですか?」

 

「はぁ……まぁ……。霞君、また変な気を起こしてはいけないからね」

 

「最上たちも……すまないが……」

 

「うん、分かった……。行こう、鳳翔さん、鈴谷」

 

霞を残し、他の連中は部屋を出て行った。

静かになった部屋には、波の打ち付ける音と、遠くで鳴く蝉の声しか聞こえなかった。

 

「大丈夫だったか……?」

 

「え……?」

 

「何か言われなかったか……? 今回の件で……」

 

「……別に。ただ……里親の元には出せないって……」

 

「……そうか。そりゃ悪いことしたな……」

 

俺がそう言うと、霞は少し怒った表情を見せた。

 

「なんであんたが謝るのよ……」

 

「俺の所為でそうなったからな……」

 

「あんたの所為じゃないでしょ……? 私が勝手に……その……」

 

「それを邪魔したのは俺だ」

 

そう言って微笑んで見せると、今度は悲しそうな表情を俺に見せた。

 

「……死ねなかった」

 

「え?」

 

「私も……死ねなかった……。怖かった……。愛美の元に行こうと……人間の社会に適応できない自分に絶望しようと……結局死ねなかった……」

 

「…………」

 

「同じなの……。私も……すぐには死ななかった……。あんたの話を聞いて……愛美が死んだことを聞いて……すぐに死ねばよかった……。でも……死ななかった……。愛美の部屋で死のうって……変なこだわりを持って……死を延ばした……」

 

霞は初めて、俺を真っすぐ見た。

 

「今だってそう……! 死ぬチャンスはいくらでもあったのに……! 私はまだ……ここにいる……!」

 

「霞……」

 

「私は……あんたと同じ……。寂しくて……孤独で……絶望してて……。でも……認めたくなくて……逃げようとして……結局死ねなくて……」

 

霞はとうとう泣き出して、まるで救いを求めるように、こう呟いた。

 

「愛美……愛美……。会いたいよぉ……もう一度私を抱きしめてよ……慰めてよ……救ってよ……うぅぅ……」

 

それは、俺が零すはずだった言葉の数々であった。

だからこそ、俺も大粒の涙を流し、そっと霞を抱きしめてやった。

 

「霞……俺たちは……生きなきゃいけないんだ……。寂しさも……絶望も……すべてを克服しなければいけないんだ……。愛美はもう……救ってはくれないんだ……」

 

「うぅぅ……」

 

「霞……共に生きよう……。お前が辛い時は……俺もそれを背負う……」

 

「そんなの……余計なお世話よ……」

 

「あぁ、そうかもな。でも……それを求めて……それが欲しくて……愛美を追ったのだろう……?」

 

「…………」

 

「家に来い、霞……。もし、生きようと思うのならな……」

 

病室にあたたかな風が吹き、大きくカーテンを揺らした。

遠くに沈む夕日が、霞の横顔を明るく照らしていた。

 

 

 

 

 

 

数日もすると、退院できるほどの体になった。

本当に傷は浅くて、気絶したのだって、血を見たからだとかそんな理由であった。

 

「お家までお送りいたします」

 

そう言うと、大淀は厳つい軽自動車を指した。

 

「お前のか?」

 

「えぇ。やっと免許を取れましたので。初運転だったりします」

 

「おいおい……」

 

「フフッ、冗談ですよ」

 

この頃にはもう、大淀もいつもの調子を取り戻していた。

あんなことがあったとはいえ、軽症だしな……。

 

 

 

運転は何も問題なく、むしろ大変上手であった。

 

「霞ちゃんにも声をかけたんですけど……来ませんでしたね……」

 

「あぁ……」

 

結局、あの時霞からどうするか聞くことは出来なかった。

それどころか、あれ以来顔も見せなかった。

 

「もし先生と霞ちゃんが一緒に住むことになったら、私も先生の家に通う口実が出来たのになぁ」

 

「遠慮なく遊びに来たらいいじゃないか」

 

「いいんですか?」

 

「あぁ。だが、残念だが……原稿を見せるわけにはいかないから、遊びに来たところで無駄足だぜ」

 

「なーんだ。じゃあいいです」

 

「やはりそれ目当てだったのか……」

 

「フフッ、冗談ですよ。でも、先生がそう言ってくれるなら、遊びに行っちゃおうかな。ドライブもしたいし」

 

そう言うと、大淀は嬉しそうに笑って見せた。

最初に会った時のあの雰囲気はもう無くて、まるで別人のようであった。

 

「そうだ……。大淀、これから時間あるか?」

 

「え? はい、ありますけど」

 

「寄ってほしいところがあるんだ……」

 

 

 

海の見える丘の上。

そこに小さなお寺がある。

 

「ここって……」

 

「用があるのは、こっちの墓地だ」

 

「墓地……。もしかして……」

 

「あぁ、愛美の墓がある……」

 

墓地はよく管理されているのか、長いこと訪れていないのに、きれいになっていた。

 

「愛美が死んでから、一回も来ていなかったんだ……」

 

「どうして……」

 

「受け入れられなかったんだ……。ここに来ると……愛美と本当にもう会えないんだって、思ってしまう気がして……」

 

「では……」

 

「あぁ……決別に来たんだ……」

 

線香を立て、好きだった夏ミカンを供えてやった。

 

「愛美……ごめんな……。ずっと来れなくて……。これからは……ちゃんと来るからさ……」

 

また会いに来るのに、決別とはな。

だがこれで、ようやく……。

 

「愛美……お前の元に行くのは……もう少し先になりそうだ……。俺は生きるよ……。今日は、それを伝えに来たんだ」

 

その時、海風が、しゃがんでいた俺の体を叩き、バランスを崩さまいと、思わず立ち上がった。

 

「…………」

 

「フフッ」

 

大淀が笑う。

 

「すみません。何だか、愛美さんがそうさせたのかなって」

 

「愛美が?」

 

「そう言う人でしたから。悲しい事が嫌いで、いつだって明るく振る舞っていましたから」

 

そう言えばそうだったな。

 

「悪いな愛美。もう大丈夫だ」

 

微笑んで見せると、風は止んでいった。

 

「そろそろ行くか」

 

「えぇ」

 

俺は生きる。

生きなければならない。

愛美がいなくても、小説が売れなくても。

死ぬことが出来ず、そうすることしかできないのなら、そうするまでなのだ。

 

「またな、愛美」

 

潮風に背中に受けながら、俺たちはあるべき場所へと戻っていった。

 

――続く



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2話

「わぁ! エアコンがある!」

 

家に上がって早々、最上はエアコンに食いついた。

 

「なんだか涼しいと思ったんだ。けど、急にどうしたの? 先生、ボクが散々言っても買わなかったじゃないか」

 

「あぁ、ちょっと事情があってな。買ったのではなくて、買って貰ったんだ」

 

「えー? 誰に?」

 

「大淀だ」

 

そう答えると、最上は頬を膨らませて、俺を小突いた。

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

「ふんふんふふ~ん」

 

陽気な音楽にノり、大淀はハンドルの上で指を躍らせていた。

 

「ご機嫌だな」

 

「当然です。やっと霞ちゃんがその気になってくれたのですから」

 

「また条件を出して来たらどうする? 勉強机にエアコン、ベッドの次はなんだ?」

 

「その時はその時です。お金で解決できることなら、なんだってしますよ」

 

「自分の金ではない事をいいことに……」

 

結局、霞の里親は見つからず、霞を除いた駆逐艦達は社会に出始めた。

取り残された霞は、やはり俺しか頼る者がいなかったのか、条件付きで引き取られることを承諾した。

その条件が、勉強机やらエアコンやら――とにかく、それらを用意しろとのことであった。

 

「我が儘なお嬢様だ」

 

「おそらくですけど、素直に引き取られることが恥ずかしいのだと思います。仕方なく引き取られた。そう言うことにしたいんじゃないですか?」

 

「面倒くさい奴だ」

 

「そこが可愛い所でもあるんですけどね」

 

「そうかね……」

 

海軍本部の敷地に入ると、車は徐行しながら、霞の居る施設へと向かっていった。

 

 

 

海の見える会議室。

そこに、霞はいた。

 

「よう」

 

俺の挨拶に、霞は不機嫌そうな表情を見せた。

 

「では、よろしくお願いします」

 

「あぁ」

 

大淀が出て行き、俺は霞に向かい合うようにして椅子に座った。

 

「エアコン、設置したぜ」

 

「……ベッドは?」

 

「もうじき来る。多分、明日あたりに届くんじゃないかな」

 

「そう……」

 

「次は何を用意したらいい?」

 

冗談交じりにそう言ってやると、霞は大きくため息をついた。

 

「あんた……馬鹿でしょ……? 私がこんなに無茶苦茶言っているのに、嫌にならない訳?」

 

「お前だって、素直に嫌だと言えば良かろう。そう出来ないのは、本当は悪くないと思っているからだ。だが、拒否した手前、恥ずかしいんだろ? 素直に引き取られることがさ」

 

大淀の言っていたことが図星だったのか、霞は少し怒るようにして、そっぽを向いた。

 

「別に……そんな事思ってないし……。それに、あんただって、一緒に生きようだなんて言っちゃったものだから、引くに引けないんでしょ……?」

 

「まあ、それもあるな」

 

「誰も責めないわよ……。だから……別に私の事なんか……」

 

どうしてこいつはこうも……。

 

「俺がお前と暮らしたいと思った。お前の里親になりたいと思った。それが一番だ」

 

「…………」

 

「別に信じてもらわなくてもいいよ。それを信じたいがために、俺を試しているのかもしれないが……」

 

「…………」

 

「それで、次は何をすればいい?」

 

今度は真剣に言ってやると、霞は観念したように、先ほどとは少しだけ違ったため息をついた。

 

「もういいわよ……。分かった……。私も素直になるわよ……。あんたの家で世話になるわ……」

 

「そうか。よし、決まりだな。これからよろしくな」

 

握手しようとした俺の手を、霞は軽くはじいた。

 

「勘違いしないで。あくまでもこれは私が独立できるまでの関係でしかないんだから。仲良しこよしをするつもりはないわ」

 

「……そうかい。まあ、とにかく、決まりだ。大淀を呼ぶぜ」

 

「ふん……」

 

こうして、俺は正式に霞の里親となった。

 

 

 

帰りは大淀に送ってもらい、ついでに鳳翔のところで飯を食うことになった。

 

「鳳翔さんのお店、一度も来たことが無かったので、気にはなっていたんです」

 

「なら都合がいい。今日は客もいないだろうから、伸び伸びと昔話が出来るだろうよ」

 

店の扉を開けると、そこには困った鳳翔の顔があった。

 

「あ……先生……。それに大淀さん……」

 

「おう。どうした? 浮かない顔をして」

 

「え、えぇ……実は……」

 

その時、トイレの扉が激しく開き、そこから最上が飛び出してきた。

 

「最上?」

 

「ん~……はれ……? 先生……?」

 

酒に酔っているのか、最上はヘロヘロであった。

 

「抑えるようには言ったのですが……」

 

それで鳳翔は困った顔をしていたのか。

 

「何やってるんだ馬鹿……。鳳翔、悪いが水をもらえるか?」

 

「あ、はい」

 

「大丈夫ですか? 最上さん……」

 

「大淀さん……? どうしてここに……? あ……もしかして……先生とデートしてたの……!?」

 

「デ、デート?」

 

「何言ってるんだ……。ほら、座れ」

 

「いいよ……大丈夫……。ボクの事は放っておいて……大淀さんと楽しみなよ……」

 

そう言うと、最上はカウンターに伏せ、そっぽを向いた。

 

「お水です」

 

「悪いな。ほら、これ飲んでろ。全く……。悪いな大淀」

 

「い、いえ……」

 

「今日は奢らせてくれ。霞の里親が決まったお祝いだ」

 

「霞ちゃんの里親、決まったのですか?」

 

「あぁ、俺だ」

 

その知らせに鳳翔も喜んでくれて、店内は一気にお祝いムードに包まれた。

酔いつぶれている一人を除いて……。

 

 

 

閉店時間も迫って来たのもあって、俺たちは解散することになった。

 

「いや、悪いよ鳳翔」

 

「いいんですよ。今日は私が持ちます。その代り、霞ちゃんとお昼でも食べに来てください」

 

「それはもちろんそうさせてもらうが……。今日の分は本当……」

 

「しつこい男は嫌われますよ。私が良いと言ったらいいのです。先生にはいつもお世話になっていますから」

 

「お言葉に甘えたらいいじゃないですか。私も先生にここで何度か奢ってもらう予定ですから」

 

「大淀、お前まで……。分かったよ……。ちゃんと元を返せるくらい来てやるから、覚悟しておけよ」

 

「腕を磨いて待っていますよ」

 

そう言うと、鳳翔は嬉しそうに笑って見せた。

 

 

 

酔いつぶれた最上を大淀が自宅まで送ってくれるとのことであったので、任せることにした。

 

「すまない……」

 

「どうして先生が謝るんですか」

 

「いや……そうなんだが……」

 

最上は人の気も知らず、後ろの席でぐっすりと眠っていた。

 

「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」

 

「いや、こちらこそ」

 

「霞ちゃんの件も、本当に感謝しています。私も時折顔を出して、何かお手伝い致しますので。必要とあらば呼んでいただいても結構です」

 

「そうか。助かるよ」

 

「そうじゃなかったとしても、時々でいいので、こうして食事にでも誘っていただけたら嬉しいです。一友人として」

 

一友人、か。

本当、艦娘の友人が増えたものだ。

 

「あぁ」

 

「では、これで。霞ちゃんの件はまた連絡いたします。今日は本当にありがとうございました。おやすみなさい」

 

「おやすみ。気を付けてな。最上を頼んだ」

 

「はい!」

 

大淀はクラクションを短く鳴らすと、最上の家の方へと走っていった。

 

 

 

翌日になると、早速大淀から連絡があり、向こうはいつでも送る準備があるのだと伝えてきた。

 

『先生の予定はいかがでしょうか?』

 

「うちはいつでも歓迎できるぜ。霞に色々用意しろと言われてから、最低限のものは揃えたつもりだ」

 

『そうですか。霞ちゃんの方もいつでもいいとのことです。とは言え、早く先生の家にお世話になりたいのか、なんだかソワソワしていますが』

 

「そうなのか?」

 

『えぇ。荷物ももうまとめ終わっていましたし、いつでもって感じです。ああは言っていますけど、先生の事、嫌いじゃないんだと思いますよ』

 

そんな態度、一ミリも感じなかったが。

 

「とにかく、うちはいつでもいい。霞の好きなタイミングで来てくれていいと、伝えてくれないか?」

 

『いいのですか? 霞ちゃんの事ですから、これから~とかありえますよ』

 

「まさか。まあ、それでも構わんがな」

 

そんな話をしたのが今朝で、お昼を過ぎた頃には、大淀の言っていたことは現実となり、俺の耳へと届いたのであった。

 

 

 

夕方。

シャワーを浴びていたのもあり、出迎えに時間がかかってしまった。

 

「すまない」

 

「遅いわよ……。何呑気にシャワーなんて浴びてるの? しかもこんな時間に……。まだ夕方じゃない……」

 

開口一番にこれか。

しかしまあ、よくしゃべるようになったもんだ。

 

「昨日話しただろ。ベッドが来たんだ。組み立て式で大変だったぜ。おかげで汗まみれでな。そんな状態で良ければ早く出迎えられたのだがな」

 

そう言ってやると、霞は嫌そうな表情を見せた。

 

「先生すみません……。まさか海軍本部まで許可を出すだなんて思ってもいませんでして……」

 

「いや……俺も迎えられると言った手前な……」

 

大淀は申し訳なさそうに、手土産を渡した。

 

「荷物運ぶの手伝うよ」

 

「いえ、大丈夫です。これだけですから」

 

大きなスーツケースが一つ。

その中にあるすべてが、霞の私物であるようであった。

 

 

 

「ここだ。お前が俺を刺した部屋」

 

「愛美の部屋でしょ……。変な言い方しないで……」

 

霞には愛美の部屋をあてがった。

 

「言われたものは全部用意した。何か足りないものがあるなら、随時言ってくれ」

 

「分かった……。とりあえず出て行ってくれる? 荷ほどきするから……」

 

「霞ちゃん! これからお世話になるのにそんな態度は……!」

 

「いいよ、大淀。分かった。壁にかけてある時計あるだろ。それが7時になったら居間に来てくれ。飯を食いに行く」

 

「あんたが作るんじゃないの?」

 

「そうしたいが、急な話であったのでな。鳳翔に店を開けて貰う事にした」

 

「鳳翔さん……?」

 

「店をやってるんだ。この近くでな」

 

「そう……」

 

「じゃあ、あとでな」

 

部屋を出ると、再び大淀が謝って来た。

 

「いいんだ」

 

「しかし……」

 

「会話が長続きしてきただけでも御の字、だろ?」

 

「そうかもしれませんけど……。先生は優しすぎます……」

 

「まあ、周りにも迷惑かけてくる奴がたくさんいるからな。慣れたもんだ」

 

最上とか最上とか、最上とかな。

 

「お前も鳳翔の店で飯を食っていくか?」

 

「いえ……私は本部に戻って今日の報告書を書かなければいけませんので……。手続きもしなければいけませんし……」

 

「お前も大変だな……」

 

大淀は何かに追われるようにして、本部へと戻っていった。

 

 

 

7時までは時間があり、霞の邪魔にならない様にと自室にこもって趣味程度の小説を書いていると、なんと霞は自ら俺の部屋へとやって来た。

 

「入るわ……」

 

「あ、あぁ……どうぞ……」

 

正直、一緒に生活しても、用事がない限り話をすることは難しいと思っていたから、ここに来たのは本当に驚いた。

 

「大淀は?」

 

「帰ったよ。仕事が残ってるんだと」

 

「そう……」

 

霞はベッドに寄り掛かるようにして座ると、部屋を見渡した。

 

「こっちの部屋の方が良いか?」

 

「別に……何処だっていいわ……。施設より何倍もマシだし……」

 

「そんなに酷かったのか?」

 

「毎日毎日、態度が悪いだとか、決められた時間に風呂に入れだ何だってうるさかったわ……。自由に部屋の出入りも出来なかったし……」

 

「そりゃ、お務めご苦労さん。ここじゃあ、風呂も態度も自由にしていいぜ。もちろん、この部屋にも自由に入っていい」

 

「そのつもりよ」

 

どのつもりだ。

しかし、よくしゃべるなこいつ。

仲良しこよしは嫌だとか言っていたはずなのに。

まあ、それを言ったら、きっとこいつは二度と話しかけてこなくなるだろうから、言いはしないが。

 

「今、何してたのよ?」

 

「ん、あぁ……趣味程度の小説を書いていたんだ。暇な時にちょっとな」

 

「ふぅん……。それは見ても大丈夫なやつなの?」

 

「大丈夫なやつ、とは?」

 

「原稿は見せられないんでしょ? 趣味程度のやつは、見てもいい訳?」

 

「構わんが、面白くないぜ。人形遊びみたいなもんだからな」

 

「面白いかどうかは読者が決める事よ。あんたじゃないわ」

 

そう言うと、霞は俺の書いている小説を取り上げ、読み始めた。

立派な考えを持った読者だ。

 

「小説、好きなのか?」

 

「別に……普通よ……。愛美があんたの小説を好きだったから、私も読んでいただけ……」

 

「俺の読んだことがあるのか。愛美と居た時期から考えると、デビュー作くらいか……。アレは全然売れなかった。おもしろくなかっただろ?」

 

「ちょっと黙ってて……。今読んでるんだから……」

 

それから霞は、読むことに夢中になったのか、一言も話さなくなった。

俺はと言うと、取り上げられて続きを書くことも出来ず、だからと言って部屋を離れることも出来ず、ただただ机の模様をなぞることしかできなかった。

 

 

 

「ふぅ……」

 

7時前になると、ようやく読み終わったのか、書きかけの小説を俺に返した。

 

「続きはないの?」

 

「書いている途中だったんだ」

 

「そう……」

 

残念そうにする霞。

 

「……面白かったのか?」

 

そう問いかける俺に、霞は恥ずかしそうに頷いた。

 

 

 

鳳翔の店に向かう途中も、霞は俺に良く話しかけた。

急な好意的な態度。

最初こそは驚いたものの、分かったことが一つだけある。

 

「他に書いた小説は無いの?」

 

「ある。読んでみたいか?」

 

「うん」

 

「じゃあ、帰ったら渡してやる」

 

霞は、俺の書く小説が好きなようであった。

愛美も俺の小説を大変好いてくれていたし、今の霞と同じように、書いたものをなんでも読みたがるところがあった。

霞のつんけつんけした態度に忘れていたが、こいつには愛美の魂が少なからずとも存在しているんだよな。

その影響かも知れない。

 

「ちょっと……近いわ……。暑苦しいったら……。もっと離れて歩きなさいよ……気持ち悪い……」

 

「…………」

 

本当に愛美の魂があるんだよな?

 

 

 

少なくとも、今の俺と霞を繋ぐものは、小説しかないと理解したところで、鳳翔の店に着いた。

 

「いらっしゃい、霞ちゃん」

 

霞は会釈すると、席に着いた。

 

「店、開けてもらって悪いな……」

 

「いえ、霞ちゃんが来ること、楽しみにしていましたから」

 

「……休みだったの?」

 

「えぇ。でも、霞ちゃんがくるって聞いて、居てもたってもいられなくなってしまったの」

 

そう笑う鳳翔に、霞はどこか恥ずかしそうに俯いていた。

 

「好きなもの食え。遠慮するなよ」

 

「そのつもりよ」

 

「そうかい」

 

と言いつつも、霞は無難にナポリタンを一品だけ頼んでいた。

遠慮しているのか、はたまた小食なのか。

 

「先生はコロッケ定食でいいですか?」

 

「あぁ」

 

「コロッケ定食って……。あんた、よくそんな組み合わせで食べられるわね……」

 

「愛美にも同じことを言われた。普通に合うだろ。コロッケと米」

 

「ありえないわ……。ナポリタンとご飯を一緒に食べるくらいあり得ない……」

 

「ナポリタンと米は合うだろ」

 

「合わないわよ……。気持ち悪い……」

 

俺たちのやり取りに、鳳翔は目を丸くしていた。

 

「どうした?」

 

「い、いえ……。その……何と言うか……。お二人とも、仲がいいなって……。いつの間に仲が良くなったのですか?」

 

「仲良くないわ……」

 

「話しかけてくれるようになったっちゃなったが、仲は良くないな」

 

「そ、そうですか……」

 

まあ、俺も不思議には思っている。

俺の小説を読みたいってのがあるから、仕方なく話しかけてくれているのかもしれないが、それにしたって、やけに突っかかってくると言うか、無視すればいいものをまあ拾う拾う。

 

「…………」

 

突っかかり方は愛美とは違うが、愛美もよく俺に話しかけて来ていた。

俺があまり話さないもんだから、そうしてくれていたのかもしれないが。

もしかして、霞もそうなのだろうか。

 

 

 

飯を食っている間も、鳳翔は霞に話しかけていた。

だが、霞はどこか居心地の悪そうと言うか、答えるので精いっぱいだという感じであった。

 

「そう言えば、デザートに杏仁豆腐があったはずだわ。ちょっと取ってきますね」

 

鳳翔が暖簾の先に消えると、霞は小さくため息をついた。

疲れたように、肩を落としながら。

 

「……それ食い終わったら、出るか?」

 

霞は小さく頷くと、ナポリタンをモムモムと食い始めた。

啜らないのはマナーなのか、はたまた出来ないのか。

愛美がそばだとかうどんだとかを啜れないと言っていたから、霞も同じなのかもしれない。

 

 

 

デザートの杏仁豆腐は、タッパーに入れて持たせてくれた。

 

「悪いな鳳翔」

 

「いえ、またいらしてくださいね」

 

「あぁ」

 

「霞ちゃんも」

 

「うん……」

 

鳳翔に見守られ、俺たちは店を後にした。

 

 

 

鈴虫の鳴き声のする土手沿いを歩いて帰ることにした。

特に意味は無かったが、霞は文句も言わず、ただ黙って俺の後をついてきた。

 

「…………」

 

「…………」

 

あれから霞は一言も喋ってこないでいる。

鳳翔との会話につかれてしまっているのだろう。

変に気を遣わせてしまったな。

 

「ねぇ……」

 

振り向くと、霞は土手下のベンチに座っていた。

 

「ちょっと……休憩させて……」

 

「疲れたのか?」

 

「色々とね……。分かってるんでしょ……」

 

何が、とは聞かなかった。

少し距離を置いて、ベンチに座る。

空には大きな月が出ていて、霞はそれを、じっと見つめていた。

 

「鳳翔は悪気があった訳じゃないんだぜ。お前に気を遣って……」

 

「分かってるわよ……。だからこそ……疲れるの……」

 

そうだろうな。

霞のようなタイプは、哀れに思われるのを嫌う。

鳳翔にそんなつもりはないだろうが、気を遣われるってのは、そう言うことだと受け取る奴もいる。

鳳翔はそれが分からない。

だが、それが普通だ。

決して悪い事ではない。

霞もそれを分かっている。

分かっているからこそ、尚更疲れるのだ。

 

「悪かったな」

 

「なんであんたが謝るのよ……」

 

「一応な。本当は悪いとは思っていない。そう言うのがお前は嫌いだろう? ただ、一応な。言わなかったら言わなかったで、印象悪いだろ」

 

「……そういう態度が嫌いな奴もいると思うわ」

 

「知ってるよ。だから俺には人間の友達がいないんだ」

 

月が雲に隠れると、冷たい風が吹いた。

 

「……それでも、あんたを好きでいる人はたくさんいるわ」

 

「何だ? 気を遣ってくれてんのか?」

 

「事実を言っただけよ……」

 

「そうかい……」

 

月が再び顔を出す。

その明かりの中で、霞は俺の方に目を向けていた。

よく見ると、綺麗な瞳をしている。

 

「どうした?」

 

「あんたと居ると……なんだか……」

 

「え?」

 

「……何でもない」

 

ベンチから降りると、霞は家の方へと歩き出した。

それから家まで、霞は振り向きはしなかったが、俺が遅れると、少しだけ歩みを緩めてくれていた。

 

 

 

霞が風呂に入っている間に、大淀から連絡があった。

 

『どうですか? 霞ちゃんとの生活……。何かご迷惑をおかけしていませんか?』

 

「いや、今のところは大丈夫だ」

 

今までの経緯を説明してやると、大淀は大変驚いたというような声をあげた。

 

『そんなに喋っていましたかあの子!』

 

「やはり、そんなにってほどなのか」

 

『先生凄いですよ! やっぱり好かれているんじゃないですか?』

 

「どうかな……。好いているのは俺の小説だってことは分かるが……」

 

『それでも凄いです。きっかけなんて、今まで誰もつくれませんでしたから』

 

きっかけ、か。

俺はたまたま運が良かっただけなのだろうと思うがな。

 

「そっちはどうなんだ? 忙しいのか?」

 

『山は越えました。後は、先生にもご協力いただかないといけない書類もありますので、時間がある時にでもお伺いしたいのですが』

 

「構わない。脱稿も済ませているから、暇人だ」

 

『では、明日はいかがでしょうか?』

 

「構わんが、お前は平気なのか? 休まなくて。ここ最近、毎日のように会っているような気がするが」

 

『明日は仕事ではなく、先生の友人として、プライベートとしてお伺いさせていただきます。書類はついでです』

 

そう言うと、大淀は何がおかしいのか、くすくすと笑った。

 

「時間は?」

 

『お昼ごろには』

 

「分かった。では、明日」

 

『はい。おやすみなさい』

 

「あぁ、お休み」

 

電話を切ると、今度は鈴谷から変顔の写真が送られてきた。

次の休日に遊ぼうとの文面と共に。

 

「フッ……何やってんだこいつ」

 

返信してやろうとした時、最上から電話がかかって来た。

渋滞してるな。

 

「もしもし?」

 

『先生。こんばんは』

 

「おう。どうした?」

 

『今、電話してたでしょ? 大淀さん?』

 

「ん、あぁ。そうだ。実は、霞が今日から家に来ていてな。その件だ」

 

『霞ちゃん、今日からなんだね。そっか。じゃあ……いいかな……』

 

「いいかなって、何がだ?」

 

そう言った時、電話の向こうで、トラックの通り過ぎるような、重たい音がした。

その音は、窓の外からも、同じように聞こえていた。

縁側の雨戸をあけてみると、そこには少し困り顔の最上が立っていた。

 

 

 

風呂から出て来た霞に声をかけてから、家を出た。

 

「よう。どうした、こんな時間に」

 

「出てこなくても良かったのに」

 

「そうはいかんだろ。近くまで来ているのに」

 

「ごめんね」

 

「いいよ。で、何か用事か?」

 

「用事って程の事でもないんだけどさ……」

 

最上はどこか、話しにくそうにしていた。

 

「ここではなんだ。家に入ったらどうだ?」

 

「あ、いや……霞ちゃん居るし……」

 

「二人で話した方が良いことなのか?」

 

「まあ……そうかな……。うん……そうかも……」

 

どうも煮え切らんな。

 

「分かった。すぐ近くに公園がある。そこで話そう」

 

「うん」

 

 

 

夜の公園。

と言っても、そこまで大きなものではなく、サラリーマンなどが休憩に使うような、小さなものであった。

 

「よっと」

 

ベンチに腰掛ける。

最上は少しだけ離れて座った。

 

「昨日はごめんね。皆が盛り上がってるのに、あんな態度で……」

 

「いつもの事だ。むしろ、大淀に謝っておけよ」

 

「今度お詫びに行くつもりだよ」

 

「そうか。しかし、一人で飲むなんて、珍しいことしたな」

 

「まあ……ちょっとね……」

 

ちょっと、か。

そのちょっとって所に、今回来た意味も含まれていそうであった。

とにかく、今は最上が話したいように話させてやろう。

 

「その……さ……。先生は……その……あ……霞ちゃんとは……どう? 上手くやっているの?」

 

「まあ……何とかやっている。俺の小説が好きみたいで、ちょっとした趣味で書いている小説も読みたがるんだ。さっき出る時も、読んでいいか聞かれた」

 

「そうなんだ。意外だね」

 

「愛美が俺の作品を好きだって知っていたから、あいつも読んでいたらしい。どうも艦娘にだけは好かれるな。俺の作品」

 

「そこそこは売れてたってきいているよ」

 

「そこそこ……か……」

 

実際は全然売れなかったのだが、担当者が話を盛ってくれたのだろうか。

 

「そっかそっか……。うん……。上手くやっているんだね……。良かった……」

 

そんなことを聞きに来たのではないはずだ。

本題に入ればいいものを、何を渋っているのだろうか。

 

「…………」

 

「…………」

 

静かな時間が流れる。

 

「それで、今日はどうしたんだ? そんな話をするために、ここに来たわけでもあるまい」

 

「あ、うん……そうだね……。そうだよね……うん……」

 

再びの沈黙。

冷たい風が、何処からか空き缶を拾ってきて、カラコロと鳴らしていた。

 

「あの……!」

 

急な大声に、俺は思わず肩を強張らせた。

 

「あの……さ……! せ……先生は……! その……大淀さんと……ボク……どっちが……あの……その……」

 

「お前と大淀……?」

 

「うん……。ボクと大淀さん……」

 

「お前と大淀のどっちが……なんだ……?」

 

「どっちが……その……どっちが~……あぅぅ……」

 

最上は顔を赤くすると、俯いてしまった。

 

「最上?」

 

「ごめん……ちょっと待っててもらっていいかい……?」

 

「あ、あぁ……」

 

何やら落ち着かない様子の最上。

顔が赤く、少し汗ばんでいる。

そして何よりも、勇気を振り絞るような、そんな緊張感がある。

 

「…………」

 

この感じ……俺は知っている……。

あの日……愛美もそうだった。

愛美もこんな感じで、何やら話題を切り出しにくそうに……。

そうなると、俺の思うそれが正しいとなると、最上の言う、大淀と最上のどちらかというのは……つまり……。

 

「よし……!」

 

何かを決意したように、最上は顔を上げ、俺に向いた。

 

「先生……あのね……」

 

間違いない。

最上は……こいつは俺に……。

 

「ボク……先生の事が好きなんだ……!」

 

 

 

月が雲に隠れると、風は次第に冷たくなっていった。

 

「言っちゃった……うぅぅ……」

 

恥ずかしそうにする最上とは対照的に、俺は平生を保っていた。

 

「……何か言ってよ先生。どうして冷静なのさ……」

 

「いや……まぁ……何と言うか……そう言われるだろうと思ってな……」

 

「なんだよそれ……。もう……」

 

蹲る最上。

そう言われるだろうとは予想できたが、対処法が分からない。

どうしたもんかな。

 

「ずっとさ……」

 

「…………」

 

「ずっと……モヤモヤしてたんだ……。大淀さんが来て……なんか……イライラしちゃうと言うか……嫉妬って言うのかな……?」

 

嫉妬。

そういや、大淀の事となると、いつも怒っていた。

そっちの意味だったのか……。

俺はてっきり、最上を疎かにしたってのが……。

いや、或いは同じなのか……。

 

「お酒を飲んでもモヤモヤは晴れなくて……。大淀さんと先生は、毎日のように会っているし……。日に日に仲良くなっているようでさ……」

 

否定はしないが、別に大淀にそう言う気持ちを抱いているわけではない。

だからと言って、最上にそう言う気持ちがあるかと言われれば……。

 

「分かってるよ……。先生にそういう気持ちが無いって……。先生は愛美さんに一途だし……。でも……やっぱり気持ちは伝えたかったんだ……。モヤモヤが晴れるかもって……」

 

「……晴れたのか? モヤモヤ……」

 

最上は首を横に振ると、膝を抱えた。

 

「……俺は別に、大淀とお前を比べてどうこう言うつもりはないし、お前の気持ちに応えるのは……難しいと思っている……」

 

「…………」

 

「ただ……まあ……なんだ……。お前の事は嫌いではないし……お前の気持ちを理解してやりたいとは思っているよ」

 

「本当……?」

 

「あぁ……。だからと言って、何が出来るのかは分からないがな……」

 

最上とは、これからも変わらずに過ごしたいと思っている。

最上はそうではない。

だからと言って、それ以上の関係になるつもりは無いし、どうしたものかな。

 

「先生にとって……ボクってどういう存在?」

 

「どういう……。ビジネスパートナーで、一友人で……」

 

それ以上でも、それ以下でも……。

 

「…………」

 

最上……か……。

 

 

 

初めて最上と出会ったのは、愛美が死んで数日後の事であった。

 

「どちら様だ」

 

まだ悲しみに暮れている俺の家に、見た目が高校生くらいのガキが訪ねて来て、俺に名刺を突き付けて来たのだ。

 

「――出版の最上です! 先生の担当である佐藤……のアシスタントになりました!」

 

「はぁ……そうかい……。で、佐藤さんは? 一人で来たのか?」

 

「あ、はい! 一人でいいだろうって……。あんたが面倒見なさいって……」

 

担当の佐藤。

電話でしか接したことが無いが、やっぱり俺って舐められてるんだな……。

 

「そうか……。ここではなんだ、上がって行けよ」

 

「は、はい!」

 

それから最上との日々が始まった。

 

「先生、来たよ。原稿、どう?」

 

「あぁ……。ちょっとな……」

 

「ここのところずっと缶詰だね……。洗濯物も溜まっているし……」

 

愛美が死んでから、家事なんてロクに出来ていなかった。

 

「よーし、先生の作業が捗るように、ボクが家事、頑張っちゃうぞ!」

 

「出来るのか?」

 

「一人暮らししてるんだよ? 先生よりは出来るさ」

 

「そうか。じゃあ……頼んでいいか?」

 

「任せて!」

 

缶詰の時は、最上は泊りがけで家事をやってくれた。

 

「先生、今日は終わりにして、ご飯でも食べに行かない?」

 

「あぁ……構わん。何を食うんだ?」

 

「鳳翔さんがお店を開いたんだ。そこで食べよう」

 

「鳳翔? この前言っていた艦娘の?」

 

「うん。鳳翔さんのご飯、美味しいんだよ。この近くにお店を構えたんだって。行こうよ」

 

いつだって、俺に気を遣ってくれた。

 

「終わった~……」

 

「お疲れ様、先生」

 

「あぁ、お前もな」

 

「えへへ、本になるの楽しみだね」

 

「そうだな」

 

 

 

思えば、たった一年ではあるが、その一年の間に、いつだって最上がいた気がする。

最上がいるのが、当たり前な気がする。

 

「先生……?」

 

俺にとってのこいつは……少なくとも、この一年間で思ったのは――。

 

「お前は……無くてはならない存在だった……」

 

「へ?」

 

「愛美が死んで、小説を書くことしか出来なかった俺に、お前はいつだって家事をやったりしてくれて、支えになってくれた。あれが無かったら、今頃俺は、普通に死んでいたかもしれん」

 

最上は少し恥ずかしそうに、俺の言葉を待った。

 

「思えば、愛美が死んでしまった時点で、俺は生きる気力を失っていたんだ。けど、お前が来てくれて、それは変わった。まあ、それでも死のうとしてしまったのは……本当に申し訳ないと言うか……」

 

「…………」

 

「とにかく、そう言う存在だ。俺が今あるのも、お前のお陰だと思っている。ありがとう、最上」

 

「先生……」

 

「正直、お前の気持ちには応えられないし、お前がこれから俺をどう思うか……どういう存在になるのか、それは俺には決められない。ただ、俺はこれからも、お前には今のままの大事な関係でいて欲しいと思っている。我が儘なことであるし、お前から嫌われてしまうかもしれない……。それでも、お前が正直に伝えてくれた分、俺も正直でありたいと思っている」

 

俺はじっと、最上の目を見つめた。

こんなにもじっと最上を見たことが無かったから、いろんな発見が俺の中にあった。

 

「これからは、お前が俺にしてくれた分、お返ししていきたいと思っている。足りないかもしれないし、お望み通りの事は出来ないかもしれない。それでも、俺は精一杯頑張るからさ。だから――」

 

その言葉の先は言えなかった。

言わせてもらえなかった。

唇が離れると、最上は小さく笑って見せた。

 

「その気持ちが、ボクは一番うれしいよ。それだけで、全て報われるくらい、嬉しかったよ」

 

「最上……」

 

「先生……」

 

「お前……そうは言っても、キスしてるじゃないか。全然報われてないじゃないか」

 

「これは……おまけだよ。関係ないキス」

 

「関係あり過ぎるだろ……」

 

「えへへ、ごめんね。でも、これで借りが出来たね。キスしちゃった分、先生にお返ししなくちゃ」

 

最上は少し顔を赤くして、微笑んだ。

そう言うことか……。

 

「ね、ボクのキス、どうだった?」

 

「子供みたいだった」

 

「えぇ!? おかしいな……。むぅ……次は絶対大人のキスするから、覚悟してよね」

 

「するな、アホ」

 

俺が笑うと、最上も嬉しそうに笑った。

 

「さて、そろそろ帰るぞ。送ってってやる」

 

「うん。えへへ」

 

寄り添う最上を捌きながら、家まで送ってやった。

 

 

 

されたとはいえ、キスしてしまったことを愛美に懺悔しながら、家に戻った。

 

「ただいま」

 

「お帰り……」

 

霞は少しムッとした表情で俺を迎えた。

というか、迎えてくれるんだな。

 

「何処まで行ってたのよ……遅いわ全く……」

 

「悪い」

 

何をそんなに怒っているのかと思ったら、霞の手には、俺の小説が握られていた。

 

「あんた……これ途中じゃない!」

 

「え?」

 

「未完成なのはさっきの奴だけじゃなかったの!?」

 

突き付けられた小説は、愛美が死んでしまって、書かなくなった未完成のものであった。

 

「信じられない! せっかくいいところだったのに、どうして未完成のまま他の作品に手を付けたのよ!? ありえないったら!」

 

「わ、悪い……。いや……何と言うか……忙しくなってしまってな……。長い間手を付けていなかったから、続きを書く気になれなくてな……」

 

「書いて……」

 

「え?」

 

「今すぐ書いて! 続き!」

 

「今すぐって……。そんなに気になるのか?」

 

「気になる! だって……!」

 

そこまで言うと、霞は閉口して、俯いてしまった。

 

「だって、なんだ?」

 

「……だって……その……お……かったから……」

 

「え?」

 

「……面白かったから! もう……! いいから書きなさいよ!」

 

「わ、分かったよ……。ったく……。久々だから、読む時間をくれ」

 

「さっさとしてよね……ふん……」

 

俺が読んでいる間、霞は部屋を離れず、俺が書き始めるのを待った。

帰ってきてそうそうこれだもんな。

だが、悪い気はしない。

俺の小説を待ってくれている人がいるというのは。

愛美も俺の小説を楽しみにしてくれていたし、まるで――。

 

「……なに?」

 

「いや……。よし、書き始めるぜ」

 

霞と愛美……か……。

 

 

 

霞は俺が書き始めても、黙ってそれを待った。

この感じが、愛美の居た頃と似ていて、気が付くと小説を書くことに夢中になっていた。

 

「ふぅ……」

 

一呼吸おいて時計を見ると、なんと日付が変わっていた。

 

「うぉ!?」

 

霞はというと、俺のベッドで眠っていた。

 

「霞」

 

「んぅ……なに……?」

 

「悪い……。すっかり夢中になっていた……。今日はもう部屋に戻れ……」

 

「うん……」

 

虚ろ虚ろしている霞。

 

「起きられるか?」

 

「大丈夫よ……」

 

そうは言っても、体を起こしては、すぐにまたベッドに伏せてしまっていた。

 

「……連れて行くぜ。よっと」

 

抱きかかえてやると、その体は物凄く軽かった。

いつもは最上を持ち上げているから、そう感じるのかもしれないが。

 

「ほら、着いたぜ」

 

ベッドに寝かせてやると、霞はむにゃむにゃと何か口を動かしていた。

どんな夢を見ているのやら。

 

「…………」

 

しかし、奇妙なもんだ。

こいつといると、何だか愛美との生活を思い出してしまう。

性格は全然違うし、見た目はもちろん、口癖も違う。

仕草や好物は重なるところがあるものの、それを抜きにしても、愛美の姿がチラついてくる。

 

「これも、魂を受け継いだ事と関係があるのだろうか……」

 

そもそも、魂を受け継ぐってどういうことなのだろう。

というか、魂ってものが存在していること自体、驚くべき事実だが……。

 

「んぅ……ん……」

 

穏やかな寝顔の霞。

初めてみるその姿でさえ、どこか愛美を思い出させる。

小説だってそうだ。

あんなに夢中になって書いたのは、愛美がいた頃以来だ。

あの頃も、上手いこと乗せられて、徹夜までして書いたものだった。

 

「ん……早く……書いてぇ……」

 

「……こいつ、夢の中でも要求してやがる」

 

呆れたもんだぜ。

 

「さて……お望み通り続きでも書きに行くとするか……」

 

霞と愛美。

二人は似たところはあるが、別人であることは事実だ。

俺がまだ愛美を忘れられないから、重ねてみてしまうのかもしれないしな。

最上のキスでさえ、怒られるわけもないのに、勝手に罪悪感を持ってしまっている。

 

「ねぇ……続き書いてぇ……」

 

まだ寝言で要求している霞。

 

「分かってるって」

 

霞と愛美は別人だ。

そう、別人なはずなのだ。

 

「続きぃ……私……読みたいのぉ……」

 

別人な、はずなんだ――。

 

「『つーくん』……」

 

「……え?」

 

「つーくん……続き……書いてよぉ……ねぇ……」

 

『つーくん』

それは、愛美が俺に甘える時、小説を書いてくれとせがむ時に出る、俺のあだ名であった。

 

――続く



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3話

「入るわよ」

 

霞が部屋に入ってきたことで、俺は朝が来ていることにようやく気が付いた。

 

「おう……。起きたのか……」

 

「もしかして……ずっと書いていたの?」

 

「あぁ……。夢中になってしまってな……。ちょうど書き終えたところだ……」

 

出来上がったものを、霞に渡してやった。

 

「朝食はパンでいいだろ? 悪いが自分で焼いてくれないか? 俺はお昼まで寝る……」

 

「そう……」

 

ベッドに倒れるようにして寝転がると、すぐに眠気が襲ってきて、霞が小説を読んでいる光景を最後に、意識がなくなった。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

「つーくん」

 

大淀は、まるで恋人に語り掛けるようにして、俺のあだ名を言った。

 

「可愛いです。私も先生の事、つーくんって呼んじゃおうかな」

 

「やめろ。ったく……。人が真剣な話をしているというのに……」

 

お昼過ぎ。

家で目を覚ますと、霞は「出かけてくる」との書置きを残し、消えていた。

大淀は、霞が出かけるのとすれ違いで入って来たようで、俺が起きるのを待ってくれていた。

 

「冗談は置いておいて……。そうですか……。霞ちゃんは知らなかったのですよね? 先生のあだ名」

 

「あぁ、話したことも無いしな。そもそも、霞が最後に愛美に会ったのは、愛美が艦娘を辞めた時だと聞いている。俺と愛美が出会ったのは、その後の事だ」

 

「案外、霞ちゃんが先生の事、つーくんって裏では呼んでいるとか」

 

「それはそれで気味の悪い話だ……。霞の周りで、つーくんと呼ばれている奴はいたか?」

 

「いえ……そもそも、男性の中では、彼女の司令官くらいにしか、まともに会話が出来ていなかったくらいですし……。その司令官ですら、霞ちゃんには……」

 

「そうか……」

 

やはり愛美の魂が関係しているのか……。

それにしたって――。

 

「愛美さんの魂……。先生は、その関係性について考えているのではないですか?」

 

考えを読むように、大淀は俺をじっと見つめた。

 

「実は……魂の影響については、面白いことが分かっているのです……」

 

「面白い事?」

 

「えぇ……。根拠はありませんし、研究もまだ進めている段階ではあるのですが、人間の艤装を継いだ艦娘はある夢を見ることが分かっているのです」

 

「夢……」

 

「私たちは、人間から艤装を受け継ぐことを継承と呼んでいます。その継承元となる魂の一部……つまり、艤装をしていた人間の一部の魂……その魂の記憶を夢に見ることがあるのです。「継承の夢」なんて呼ぶ人もいます」

 

継承の夢……。

 

「だとすると、今回の事もその夢ではないのか?」

 

「私も最初はそう思いました。しかし、あくまでも継承の夢は過去の記憶であり、継承以降の記憶を持ったなんてことは報告されていないのです……。そもそも、艤装からの継承ですから、艤装を外して以降の記憶があること自体、おかしな話になる訳ですが……」

 

確かにそうだ……。

ならば、霞が口走った俺のあだ名は、単なる偶然に過ぎないのだろうか……。

 

「とにかく、まだ結論を出すには早いです。偶然に偶然が重なることも、ありえない話ではないですから」

 

「そうだな……。すまない。動揺して色々考えてしまった」

 

「いえ、気が付くことがあれば、なんでも相談してください。一応、今回の話も、本部に持ち帰ることになりますし、無駄な話ではないですよ」

 

「そうか。そう言ってくれると、救われるよ」

 

「私に遠慮はいりませんよ。そういう仲でも無いですし。ね、つーくん」

 

悪戯に笑う大淀。

初めて愛美にあだ名をつけられた時を思い出して、俺は少しだけ赤面した。

あの時も、こうやってからかわれたっけな。

 

 

 

書類の手続きをしていると、霞が帰って来た。

おまけに最上もついて来ていた。

 

「家をチラチラ見ていたのよ……。不審者かと思ったわ……」

 

「あはは……ごめんね……」

 

「ったく……。私は部屋に戻るから……」

 

「おう」

 

霞は何か買って来たのか、中身の見えないような、色のついた袋を持って自室へと向かっていった。

 

「大淀さん、この前はありがとう。送ってくれて」

 

「いえ。でも、お酒はほどほどになさってくださいね」

 

「はーい」

 

「で? お前は何をしに来たんだ?」

 

「遊びに来たんだよ。先生いるかなって覗いてみたら、大淀さんがいてさ。何してるんだろうって……」

 

俺が何かを書いているのを見て、最上は察したようであった。

 

「あぁ、霞ちゃんの関係か。そうだよね。大淀さんが来るのは、お仕事関係だもんね」

 

どこか嬉しそうにする最上。

気持ちを知った今だからこそ、なんだかそれが、大淀に対する嫌味に聞こえてならない。

それを知ってか知らずか、大淀は否定を始めた。

 

「今日は遊びに来たんです。これはついでです」

 

「へぇ……そっかそっか……。あ、そうだ。先生、今日発売の先生の本、早速買って来たよ!」

 

「あぁ、そうか。今日が発売日であったか」

 

「ボクと先生が頑張って作った本だよ。ほら、前に見せた見本と違って、きれいに仕上がってるよ!」

 

「分かったわかった……。後で見るよ」

 

「えぇ~? 今見て欲しいなー」

 

グイグイ来る最上。

大淀を意識してやってるのだろうが……。

 

「先生の本、今日が発売だったのですね。すみません、気が付きませんでした。帰り際に買います。絶対」

 

それに、最上は得意げな顔を見せた。

こいつ……。

 

「いや、俺も忘れていたしな。別に気を遣わなくてもいい。さっき、そう言う仲だって自分で言ってただろ?」

 

「じゃあ、つーくんって呼ぶのも認めて欲しいな~なんて。つーくんって呼ぶと、何だか凄く仲良くなった感じしますし。ね、つーくん」

 

「それは勘弁してくれ……」

 

「なに……? そのつーくんって……」

 

最上はムッとした顔で、俺を見た。

あぁ……しまったな……。

 

「愛美が俺につけたあだ名だ」

 

「それをなんで大淀さんが……? ねぇ、なんで?」

 

大淀に詰め寄るわけでなく、最上は俺に詰め寄った。

 

「説明するから離れろ!」

 

「ちゃんと説明してくれなきゃチューしちゃうぞ!」

 

「やめろ馬鹿!」

 

 

 

説明し、何とかキスは免れた。

 

「そういうことかー。確かに、ボクもたまに夢を見るよ。といっても、人間の記憶じゃなくて、もっと古い、戦いの記憶だけれど」

 

「戦いの記憶?」

 

「艦娘が見る夢には、人間の艤装を受け継いだ艦娘の見る夢とそうではない艦娘の見る夢があります。最上さんの言った夢は後者の事で、私も時折同じような夢を見ます」

 

「どういう夢なんだ?」

 

「人間同士の戦いに、私達が「艦娘ではない艦」、人の姿をしていない状態で戦う夢です。「船」と言った方が分かりやすいかと思います。歴史上にはない戦いの夢。しかし、何もかもがリアリティーのある「記憶」に感じられて、夢で見たことが事実であるように語る艦娘もいます」

 

体験したことのない記憶というならば、霞の夢も同じようなものだ。

 

「そう言えば、霞ちゃん本人には聞いたの?」

 

「いや……聞いてもいいのだが、本人が認めるかどうか怪しいしな。俺の事をつーくんって呼んだなんて知ったら、全力で否定してきそうな気がするし……」

 

「確かにそうですね……」

 

霞自身、そう言う夢を見るという自覚があるのかも怪しいしな……。

夢を見るかどうか位は聞いてもいいかもしれない。

 

「そっか……。つーくん……かぁ……」

 

「つーくん」

 

「おい」

 

「ボクは先生の方がしっくりくるかな」

 

「私はつーくんの方がいいです」

 

「はぁ……」

 

盛り上がる二人。

俺が考えている以上に、この問題ってのは、あまり深いものではないのであろうか。

というよりも、俺はやはり、未だに愛美の影を追っているのかもしれないな。

だからこそ、深く考えすぎているのかもしれない。

 

 

 

大淀と最上が帰ると、霞は昨日と同じように部屋へとやって来た。

 

「おう、どうした?」

 

「続き……書いているの?」

 

「あぁ。未完成の作品……結構あるからな」

 

「そう……」

 

霞は何をするでもなく、ベッドに寄り掛かるようにして座った。

 

「結構かかるぜ。ここにある小説も、読み切っちまっただろ」

 

「邪魔だって言いたいわけ……?」

 

「そうじゃない。退屈じゃないかと思ってな」

 

「別に……どこに居ようと私の勝手でしょ……。あんたが言ったんじゃない。好きにしていいって」

 

「そうだったな。悪い」

 

小説が書き終わるまで待っているだとか、本当に書いているのか監視しているだとか、そういう感じではなさそうだ。

一体何をしに来たのだろうか……。

 

「ねぇ……」

 

「ん?」

 

「今日……あんたの小説……買ったの……」

 

「え?」

 

「お昼……出かけた時……」

 

そう言えば、さっき袋を持って……。

そうか。

ありゃ――書店の……。

 

「そうなのか。なんだ、言ってくれたら買ったのに」

 

「寝てたから……」

 

「じゃあ、あとで金を渡すよ」

 

「いい……」

 

「でも……」

 

「いいったら……」

 

「……そうか」

 

なんだか霞の様子がおかしい。

いつもの強い口調とは違い、どこかしおらしいと言うか……。

 

「……ねぇ」

 

「なんだ?」

 

「あの作品って……一作品目とつながってたりする……?」

 

「良く分かったな。まあ、つながりがあると言うか、そうにおわせただけだけどな」

 

「そう……」

 

沈黙。

 

「ねぇ……」

 

「ん?」

 

「晩ごはん、何?」

 

「ハンバーグだ。といっても、鳳翔が持たせてくれたタネを焼くだけだけどな」

 

「私、ハンバーグにはケチャップが無いと駄目なんだけど……」

 

愛美と同じだ。

 

「大丈夫だ。ケチャップはあるよ」

 

「そう……」

 

沈黙。

 

「ねぇ……」

 

「なんだ?」

 

沈黙。

 

「霞?」

 

振り向くと、霞は俯き、何か考えているようであった。

 

「どうした? さっきから様子がおかしいぜ。何かあったのか?」

 

「別に……」

 

「じゃあどうした?」

 

再び沈黙する霞。

本当、何を考えて……。

 

「言いにくい事か?」

 

「…………」

 

俺は机から離れ、霞に向かい合うようにして座った。

 

「言いたくないのなら言わなくていい。だが、聞いて欲しいなら聞くぜ」

 

霞は俺の顔を確認すると、再び俯いてしまった。

 

「霞……」

 

「…………」

 

「……分かった。ちょっと買い物に出てくる。その間に、言うかどうか考えておいてくれ」

 

立ち上がろうとする俺の手を、霞はそっとつかんだ。

 

「言う……。言うから……」

 

「…………」

 

俺が座りなおすのを待ってから、霞は口を開いた。

 

「小説……続きを書いてって言ったけど……」

 

「あぁ……」

 

「徹夜までして……書かなくていいから……」

 

「……え?」

 

顔を上げ、俺を見つめるその瞳に、見覚えがあった。

 

「夢を見たの……」

 

「夢……?」

 

「あんたが……倒れる夢……。『私が』あんたに小説を書くように我が儘言って……あんたは寝ずに書き続けて……そして……倒れてしまって……」

 

「……所詮夢だろ? 俺は別に……」

 

首を横に振る霞。

 

「あんたはそうやって『いつも』無理をする……。『あの時』だって……」

 

そこまで言うと、霞はハッとした。

 

「『あの時』……?」

 

「……ごめんなさい。夢と混合しているわ……。あまりにも鮮明な夢だったから……」

 

『あの時』……。

もし、霞のいう夢が、愛美の記憶であったのだとするならば……。

 

「……霞」

 

「なに……?」

 

「『あの時』って言うのは……もしかして……『お前の』誕生日の事じゃないか……?」

 

「え……」

 

驚く霞。

 

「……そうなんだな」

 

「どう……して……」

 

「……厳密にいえば、お前ではなく『愛美の』誕生日だ。お前は愛美の記憶を夢に見たんじゃないのか?」

 

「愛美の……記憶の夢……?」

 

自覚は無いのか……。

 

「まだ愛美が生きている頃の話だ……。あいつの誕生日……俺は仕事に追われてて、まともに愛美の相手をしてやれなかった。プレゼントも用意できていなくて、謝ったのを覚えている。せめてその日に何かしてやりたいと思って、ずっと愛美の望んでいた俺の小説の続きを書いてやったんだ」

 

 

 

「つーくん、まだぁ?」

 

「もう少しだ……」

 

「もう日付変わっちゃうよー。早く~続き書いて~。つーくん」

 

「分かってるって……分かったから、その甘えた声とつーくん呼びはやめてくれ……。あと、酒はほどほどにな……」

 

「んふふ~はーい」

 

「……っと、これでいいかな。愛美、出来……た……ぜ……?」

 

机から立ち上がった時だった。

目の前がモヤモヤに包まれて、俺は意識を失ったんだ。

 

 

 

霞は付け足すようにして、語り始めた。

 

「その後……急いで救急車を呼んだ……。ただの過労だって事で……病院にはいかなかったけれど……」

 

「……あぁ、そう聞いている」

 

「……何なの? どうして……あんたが知っているのよ……?」

 

「こっちが聞きたい……。艦娘は継承の夢を見ると、大淀から聞いていたが……お前のそれは、継承の夢とは違う……」

 

霞は困惑した様子で目を泳がせた。

 

「今までも……凄くリアルな夢を見て来た……。その全てが……愛美の記憶だって言いたいわけ……?」

 

「全てかどうかは分からない。だが、その可能性はあるな……。今のだって、偶然にしては……出来過ぎている……」

 

「…………」

 

「他に……夢を見たことは……?」

 

「……実は」

 

 

 

霞の話は、大変興味深かった。

初めて愛美の部屋を訪れた時、霞が驚いたのは、ずっと夢に出て来ていた部屋と同じであったからだとか、金魚を可愛がる夢をよく見ただとか――とにかく、愛美の記憶と被る部分が多すぎることが分かった。

 

「じゃあ……本当に……」

 

「あぁ……。信じられないが、お前は愛美の記憶を夢に見ていることになるな……」

 

「どういうことなの……」

 

「分からん……。とにかく、この事は大淀に話してみることにする。もしかしたら、何か分かるかもしれない……」

 

愛美のものと分からずに、ずっと夢を見ていたのか。

だが、そうだよな。

霞は知らないのだ。

別れた後の愛美の事を……。

 

「……そういえば、愛美の夢を見ていたと言うことは、俺も夢に出て来ていたのか? だとすると、お前、出会う前から俺の事を知っていたんじゃないのか?」

 

「知っていた……けど、顔は分からなかった……。夢に出てくる人物は、全員顔が分からなくなっているの……」

 

「しかし、お前……さっき俺の事を……」

 

そう問うと、霞は何やら苦い顔をした。

 

「それは……」

 

しばらくの沈黙ののち、霞は決意したようにして、口を開いた。

 

「……私の夢には、いつも顔の分からない男が傍にいた……。優しくて、全てを受け入れてくれて……。その人が特別な存在であることは、何故か夢の中では当たり前になっていた……」

 

「…………」

 

「その人の正体が分かったのは……というよりも、その人の顔がはっきりと見れるようになったのは……」

 

霞の目が、俺を見つめる。

吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳であった。

 

「あんたに出会ったその日からよ……」

 

「俺に……出会った日……?」

 

「大淀と海軍本部に来ていたでしょ……」

 

そういえば、あの時霞と目が合ったっけか。

 

「あの時、確信したの。夢に見る男はあんただって……。そして、それを裏付けるように、夢に出る男の顔は、あんたそのものになっていった……」

 

俺を認識し、初めて夢でも男の正体を知った。

愛美の記憶の夢が鮮明な以上、霞が俺を認識したから、夢の中の男も俺に変わったという訳ではなく、俺を認識できたから、夢の男の正体も認識できた……という訳か……。

なんだか頭の痛い話だ……。

ますます訳の分からない方向に進んでいる。

 

「そっか……。愛美の記憶だったんだ……。だから……あんなに……」

 

「夢の中のお前自身は、姿が愛美だったのか?」

 

「そうみたいね……。だって、夢の中の私は……あんたのこと……」

 

そこまで言うと、霞は閉口した。

 

「霞?」

 

「なんでもない……」

 

何でもなくはないだろうが、悩みという訳ではなさそうだから、ここまでにしておこう。

しつこいのは嫌いだろうしな。

 

「そうか……。それで、ここに来たのは、俺を心配してくれたからなのか?」

 

「……そうだけど、それは……何と言うか……愛美の記憶の影響よ……。私は別に……心配してないけど……愛美が心配しているのよ……きっと……」

 

「そうかもな。でも、それに従ってくれたのはお前だ。お前がそう言ってくれなかったら、また倒れていたかもしれない。言いに来てくれてありがとう。本も、買ってくれたのは嬉しかったぜ」

 

「……そう」

 

「じゃあ……お言葉に甘えて、小説はここまでにするかな。飯、作るよ。出来たら呼ぶから、くつろいでいてくれ」

 

「分かった……」

 

霞を残し、俺は台所へと向かった。

 

 

 

飯を作りながら、霞の夢の事を頭の中で整理していた。

まず、継承の夢と霞の見た夢は、過去のものではあるという点では同じだが、艤装を外して以降の記憶と、艤装を外す以前の記憶という点では相違がある。

霞の夢は、艤装を外して以降の記憶。

ただの偶然であればよいのだが、そうではない事は証明済みだ。

――いや、或いは偶然が重なり過ぎて、奇跡が起きているのかもしれないが、それもなんだか――。

 

「味噌汁……沸騰してるわよ……」

 

霞の声で、我に返った。

 

「おっと……。悪い……」

 

「……考え事?」

 

「まあ、そんなところだ……」

 

「そう……」

 

霞は去るわけでも無く、俺が料理をする様を見ていた。

 

「何かおかしいところはあるか?」

 

「別に……。ただ……やっぱり手際が悪いなって……」

 

「やっぱり?」

 

「これも夢で見たの。あんた、私に……いや……愛美に料理を振る舞ったことあるでしょ。愛美はハラハラしてそれを見ていたわ」

 

そうだったのか……。

こっちは良かれと思ってやっていたが、却って心配させてしまっていたのか……。

 

「それでも、愛美は嬉しかったみたい……。時々でいいから――」

「――料理を作ってくれ……そう言ってくれたな」

 

霞は小さく頷いた。

やはり、偶然ではない。

霞は、本当に――。

 

「……そんな感じの夢……たくさん見て来た……。もちろん、あんたもそこに居て……。夢のあんたは優しくて……『私が』唯一甘えられる存在で……こんな人が本当にいたらって……思ったくらい……」

 

「…………」

 

「でも……そんな人はいないって……分かってたの……。分かっていたけれど……」

 

霞と目が合う。

今まで見たことのないくらい、真剣な目であった。

 

「本当に……いた……。あんたは……夢の人そのものだった……。私の見る夢が愛美の記憶なら……そういうことになる……」

 

「……かもな」

 

「……いえ、そうでなくても……あんたは……いい人だと思う……。私が愛美に抱いた感情を……あんたにも抱いているから……」

 

「愛美に……抱いた感情……」

 

「ねぇ……」

 

霞は俺の袖を掴むと、俯きながら、声をからして呟いた。

 

「あんたを……信じていい……? あんたになら……甘えても……いい……かしら……」

 

お願いというよりも、どこか救いを求めるような、そんな声だった。

 

「それも、愛美の記憶がそうさせているのか?」

 

「そうかもしれない……。でも……それでもいいと思ってる……。私が出来ないものだから……愛美が背中を押してくれているんだって……思えるから……」

 

「霞……」

 

霞は恐る恐る近づくと、俺に寄り添った。

 

「…………」

 

俺も、しゃがみ込んで、霞をそっと抱いてやった。

嫌がることもせず、むしろ、霞は温もりを感じるようにして、顔を埋めた。

 

「温かい……。夢と……同じ……」

 

「そうか……」

 

愛美にしてやったように頭を撫でてやると、それを感じるようにして、霞は目を瞑った。

 

「ずっと……」

 

「…………」

 

「ずっと……愛美のような存在が……欲しかった……」

 

「俺が同じようにできるか不安だ」

 

「あんたは努力してくれた……。今度は……私が頑張る番……」

 

霞は離れると、手を差し伸べた。

 

「この前は出来なかったけど……今度は……してくれる……?」

 

「……あぁ、もちろんだ」

 

握手をすると、霞は微笑んで見せた。

それが、俺に初めて見せてくれた、霞の笑顔であった。

 

 

 

飯を食っている間も、霞は愛美との思い出を話したりしてくれた。

 

「愛美の遺した物の中に、小さな白い破片があったでしょ?」

 

「あぁ、お前が初めてここに来た時、見ていたやつか」

 

「あれ、私が初めて砲撃を当てた的の破片なの。本当、馬鹿みたい。そんなもの、大切に持っていただなんて……」

 

「あいつの事だ。お前以上に喜んだんじゃないか?」

 

「そう。艤装もつけてないのに、私の元へ駆け寄ろうと海に跳び込んじゃって……。かなづちなのにね。ふふっ」

 

「そうか」

 

しかしまあ、良く笑い、よく話してくれるようになった。

まるで別人にでもなったかのように、霞の表情は明るく、声も弾んでいた。

 

「そんな愛美と結婚した人がいるって言うんだから、驚いたわ。愛美を愛せる人がいるって言うことじゃなくて、愛美の一番になれた人がいるんだってね……」

 

「あいつの一番……か……」

 

「愛美は誰にでも優しくて、誰にでも明るくて……愛美を嫌いな人もいなければ、愛美自身も嫌っている人はいなかった。でもそれは、愛美の一番がいないって事。自由で、誰にも束縛されなくて……届きそうで届かない、太陽のような人だったから……」

 

確かに愛美は明るい奴だった。

だが、太陽というよりも、時折見せる月のような静かな姿の方が、俺の中で印象強かった。

それもそのはずだろう。

霞と居た頃の愛美は、おそらく――まだ――。

 

「あんたはその太陽を掴んだ人。愛美が好きになった人だもの。絶対にいい人だって、本当は分かっていたわ……。でも……私は愛美以外の人を信じたことが無かったから……」

 

霞は俯くと、何かを思い出すかのようにして、目を瞑った。

おそらく、言えないようなつらい経験もあったのだろう。

戦時中でさえ、海軍内部でも、艦娘に対する差別があったと聞いている。

今でさえ、艦娘の社会進出に疑問を呈す輩がいると言うのに。

 

「けど、あんたはいい人だって分かった。だから、疑うのは今日までにするわ」

 

そう言うと、霞はハンバーグを口に運んだ。

 

「美味しい」

 

「……そうか」

 

それにしても……なんというか……。

 

「調子が狂うな……」

 

「え?」

 

「あ、いや……」

 

あんなにツンケツンケしてきた霞が、今度はべた褒めだもんな。

霞は俺を優しい人だと言ってはいるが、俺が愛美に対して接してきた態度は、全てがそうだったわけではない。

どちらかというと――もっと――。

 

「どうしたの? ぼうっとして……」

 

もっと――。

 

「……霞、お前、愛美の記憶を夢に見たんだよな?」

 

「多分ね」

 

「夢の中のお前は、愛美そのものだったんだよな?」

 

「そうだけど……」

 

「だったら、愛美がそうだったように、お前も俺の事を好きになったりしないのか?」

 

「へ……?」

 

霞は呆然としたのち、急に顔を赤くして怒り出した。

 

「は……はぁ!? そんな訳ないじゃない! あくまでも夢だし、愛美の記憶なんだから、そう思うのは当然と言うか……」

 

「そう思ったんだな」

 

「そ、そりゃ……そうでしょ……。愛美の記憶なんだから……。っていうか、何が言いたいわけ!?」

 

「いや、愛美の記憶と知らないまま、夢の中の俺が実在したらいいのにと思ってたんだよなって」

 

その意味が分かったのか、霞はますます顔を赤くして、怒りをあらわにした。

 

「もう……! ばっかみたい……! 本当、ばっかみたい……!」

 

「フッ……」

 

「何がおかしいのよ!?」

 

「いや、そうやって感情を爆発させている方が、お前らしくて好きだなって思って」

 

「好……あっそっ! フンッ……本当……少しでも心を許した私が馬鹿だったわ……」

 

霞は飯を平らげると、皿をシンクまで運び、俺を一睨みしてから部屋へと帰っていった。

 

「フフッ……」

 

愛美と全く同じような怒り方、立ち去り方に、俺はしばらく笑っていた。

 

 

 

それから夜中まで、霞が部屋から出てくることはなく、俺は静かに小説を書いていた。

 

「ん……」

 

ふと、携帯電話に目が行った。

そう言えば昨日、鈴谷から次の休日に遊ぼうとメッセージが来ていたな。

まだ返していなかったか。

 

「んぉ!?」

 

アプリを開いてみると、メッセージが20件ほど送られてきていた。

全て鈴谷からのようであるが(というより、鈴谷くらいしかこのアプリでは連絡しないが)、内容のほとんどは返信を促すような「おーい」というようなメッセージであった。

 

「全然気が付かなかったな。電話もかけてきているみたいだし……」

 

確認しているまさにその時、鈴谷からメッセージが入った。

 

『先生、ごめんね……』

 

なんのこっちゃ。

そう思って過去のメッセージを確認すると、新しいものになって行くにつれ、鈴谷が不安がっている様子が見てとれた。

 

『先生ー?』

 

『先生、見てないのー?』

 

『ブロックしてるの?』

 

『先生、もしかして怒ってる?』

 

『鈴谷、何か悪いことしたっけ?』

 

『通話:不在着信』

 

『もしかして、友達いないって言ったこと怒ってる?』

 

『いつも奢ってとか言うから?』

 

『通話:不在着信』

 

『先生、電話出てよ……』

 

『先生、ごめんね……』

 

こりゃマズイと思い、すぐに電話をかけた。

すると、すぐに鈴谷が出た。

 

「もしもし」

 

『先生……!』

 

「悪い……全然気が付かなかったんだ……。無視していた訳じゃないぜ」

 

『本当……? 怒ってないの……?』

 

「お望みなら怒るが」

 

そう言ってやると、鈴谷は電話口で泣き始めた。

 

「お、おいおい……」

 

『だっでぇ……先生……いつも返信早いからぁ……。鈴谷……嫌われたのかと思ってぇ……』

 

「悪かったな……。実は、霞が昨日から来ていてな……。バタバタしていたんだ……」

 

『霞ちゃんが……? 急だね……』

 

「あぁ……本当、急でな……。お前のメッセージには気が付いていたのだが……」

 

ふと、最上の告白を思い出し、俺は思わず閉口してしまった。

 

『先生……?』

 

「いや……。とにかく、悪かったな……。返信遅れてしまって……。お前を追い詰めてしまっているとは思わなかったんだ」

 

『ううん……。鈴谷も……ごめんね……。いつも迷惑かけて……』

 

「急に何だよ」

 

『今までの事……考えちゃって……。鈴谷……先生に迷惑ばかりかけてさ……。嫌われても……当然だと思って……』

 

「迷惑かけるのはお前の仕事みたいなもんだからな」

 

『……やっぱりさ、鈴谷といるの……苦痛に感じる……? 迷惑……?』

 

「迷惑だったら断っているさ。むしろ、俺なんかと仲良くしてくれて、ありがたいと思っている」

 

『本当……?』

 

「あぁ。嫌いになったら、嫌いになったと言ってやるよ。忙しくて返信できない事もあるが、別に嫌いになった訳じゃないから安心してくれ」

 

『うん……分かった……』

 

「次の休日、遊びに行こう。泣かせてしまった詫びに、何か奢ってやるよ」

 

『じゃあ……アイス食べたい……。あとクレープ……』

 

「あぁ、分かった」

 

『約束だよ……?』

 

「分かったわかった。夜中に電話して悪かったな。また、休日にな」

 

『うん……。あ、先生……』

 

「なんだ?」

 

『鈴谷……前に先生と遊ぶこと……パパ活とか言っちゃったけど……鈴谷は先生の事……本当に友達だと思ってるからね……』

 

「あぁ、ありがとう」

 

『……そんだけ。じゃあね、先生。おやすみなさい』

 

「おやすみ」

 

電話を切ると、鈴谷から写真が送られてきた。

目の下を赤くして、小さく笑う鈴谷。

もう泣いていないとでもいう事であろうか。

 

「まだ起きてたの?」

 

その声に、俺は声をあげて驚いてしまった。

 

「か、霞か……。びっくりした……」

 

「携帯電話見て何をニヤニヤしているの? 気持ち悪い……」

 

先ほどの事はもう怒っていないのか、霞はいつもの位置に座り、俺の返事を待った。

 

「そんなにニヤニヤしていたか?」

 

「してたわ……。イヤラシイ目つき」

 

そう言うと、霞は指で目をカッと開いて見せた。

んな大げさな。

 

「まあそんなことはどうでもいいのよ……。それよりも……なに、それ?」

 

霞の指す先に、先ほどから書いていた小説があった。

 

「あぁ……ちょっと暇なんで、書いていたんだ」

 

「私言ったわよね? 無理して書かなくていいって」

 

「いや、無理してはいない。もう終えるところだったんだ」

 

「本当かしら? あんたってすぐ嘘をつくし……」

 

「お前には無いだろ」

 

「愛美にはあるでしょ。あんたは知らないでしょうけど、「貰って来た」とか言ってたキャンプ道具、アレ本当は買ったものだって愛美は知っていたのよ」

 

「え!?」

 

「しかも凄く高いやつ……。無駄遣いはしたらいけないって、言われていたでしょ?」

 

「い、いや……あれは本当に貰ったものでだな……」

 

「嘘よ! 使い古しを貰ったとか言ってたくせに、中身を見たら普通に値札貼ってあったわ! しかも凄く綺麗だったし。どこが使い古しなのか逆に聞きたいわ!」

 

「うぐ……」

 

「愛美は目を瞑ってくれたようだけど、私はそうはいかないから! あんたがちゃんと眠るかどうか、ここで見張るわ!」

 

どこに隠していたのか、霞は枕を取り出し、ベッドに寝転がった。

 

「ちゃんと寝るから安心しろ。っていうか、本当に愛美は知っていたのか?」

 

「16万円」

 

「え?」

 

「テントの値段よ。その他にも、色々な道具買って……。倉庫に眠っているの知ってるんだから……」

 

それには流石に驚いた。

値段まで詳細に覚えているとは。

愛美の記憶を夢見ていると一度は確信はしたものの、やはり信じられない部分はあった。

しかし、こうもはっきり言われると、完全に認めざるを得ない。

 

「……本当に、愛美の記憶を見たんだな」

 

「…………」

 

「分かった。お前は愛美と違って、容赦なさそうだしな。素直に寝るよ。ほら、どいたどいた」

 

「ん……」

 

霞は端に寄った。

 

「いや……ベッドから出て貰わないと困るのだが……」

 

「言ったでしょ……見張るって……」

 

そう言う霞の目は、俺を見ていなかった。

 

「……もしかして、一緒に寝たいのか?」

 

「は、はぁ!? そうじゃないし……。っていうか……見張るって言ったでしょ……」

 

「そうだが……。じゃあ……俺は床で寝るよ」

 

「なんでよ? 床は痛いでしょ……。さっさとベッドに入ったらいいじゃない……」

 

「いや、しかしな……」

 

やけに一緒に寝たがるな。

愛美はそんなことあまり言わなかったから、愛美の影響ではなさそうだが……。

 

「ね、ねぇ……どうなのよ……?」

 

強請るような、そんな声。

甘えるような。

甘え……。

 

「お前、もしかして、愛美と居た時、一緒に寝てもらっていたとかないか?」

 

図星なのか、霞は目を泳がせ、黙り込んだ。

 

「……なるほどな。愛美に持っている気持ちを、俺にも持っているとは言っていたが……」

 

「ち、違っ……別に……そんなことは……なくて……」

 

「別にいいけどな。お前が愛美にしたように甘えたいって言うのなら、それが俺に叶えられるのなら、協力は惜しまないぜ」

 

霞は何も答えなかった。

 

「さっきはからかって悪かった。ただ、俺も愛美にしたように、お前ともっとさっぱりとした関係になりたかったんだ。あんなしおらしい関係じゃなくてさ。お前もそうだったんじゃないのか?」

 

霞は答えない。

 

「お前の好きなように……素直な気持ちで、俺にぶつかって欲しい。俺も素直にぶつかるつもりでいるからさ」

 

霞は俯くと、枕をぎゅっと抱きしめた。

 

「だったら……私の気持ちを察して黙って行動するとか……してほしいものだけど……」

 

「俺がそんな事、愛美にしたことあったか?」

 

「……あまりない」

 

「だったら、分かるだろ?」

 

少し躊躇ったのち、霞は俺の袖を引き、小さく言った。

 

「甘えさせなさいよ……」

 

「最初からそう言ってくれたら良かったんだ」

 

「恥ずかしいのよ……。今度からは察しなさい……ばか……」

 

「努力する」

 

明かりを夕方に変え、ベッドに入った。

 

「狭くないか?」

 

「狭い……。愛美はそうでもなかったけど、あんたはでかいから……」

 

「もうちょっと端に寄ろうか」

 

そう提案すると、霞は俺の傍に寄り添った。

 

「こうすればいいでしょ……」

 

薄暗くてよく見えないが、霞はどこか恥ずかしそうにこちらを見ていた。

 

「そうか」

 

「撫でて……」

 

「え?」

 

「撫でて!」

 

「お、おう……」

 

恐る恐る撫でてやると、霞はそれを感じるかのように、目を瞑った。

 

「愛美にもこうして貰っていたのか?」

 

「……たまにね」

 

一瞬の躊躇。

こりゃ、いつもやってもらっていたんだろうな。

言うと怒りそうだから、言わないが。

 

「そうだ。明日、買い物に行こうと思っているのだが、何か欲しいものあるか?」

 

「買い物……? どこに行くの?」

 

「二駅先の大型の商業施設だ。何でも揃うぞ」

 

「そう……。何が必要か、良く分かっていないし……行ってみてって感じかしら……?」

 

「え?」

 

「え……って、何がよ?」

 

「あぁ……いや……何か買ってこようかっていう意味だったものだから……。ついて来てくれるのか?」

 

「邪魔だって言いたいわけ……?」

 

「そうじゃないが……。むしろ、お前は面倒じゃないのか?」

 

「別に……。むしろ……」

 

「むしろ?」

 

「……何でもないわ。もう撫でなくてもいいし、話しかけなくてもいいから……。明日、早く出るんでしょ? なら、寝ときなさいな……。おやすみ……」

 

そっぽを向くと、霞は丸くなって、やがて寝息を立て始めた。

別に明日、早く出るだなんて言っていないのだがな……。

早く行きたいって事なのだろうか……。

 

「フッ……」

 

再び霞を撫でてやる。

しかしまあ、たった一日二日で、色んなことがあった。

数日前の俺に、「同じベッドで寝ている」だなんて言ったら、驚くだろうな。

 

「…………」

 

愛美の記憶……か……。

一度は決別をしたものの、こうなってくるとな……。

いわば、霞は愛美の分身……。

嬉しい反面、完全に決別しなければ前に進めないとも思う。

ジレンマだ。

 

「ふわぁ……」

 

だが、まあ、まだ始まったばかりであるし、これから考えればいいことだ。

愛美はもういない。

それは事実なのだから、きっと前には進めるはずだ。

そう、きっと――。

 

 

 

翌日になり、霞に急かされ、俺たちは買い物に出かけた。

行ってみると、やはり必要なものはたくさんあることを思い知らされ、あれが無いこれが無いと大騒ぎになった。

 

「あと、下着も少なかったわ。流石にそれは自分で買いたいから、あんたはどっか行ってて頂戴」

 

「分かったよ。んじゃ、お昼くらいにここで待ち合わせでどうだ?」

 

「分かった。じゃあまた……」

 

霞を見送り、俺は大量の荷物を持って、広場のベンチに座った。

 

「ふぅ……」

 

子供の世話なんてしたことなかったものだから――ましてや女の子だ。

案外必要な物ってあるんだな。

霞が本当に必要最小限のものしか用意していなかったのが分かる。

おそらく、今日買った以外にも、また必要なものが増えてゆくだろう。

そうしたらまた――。

 

「まだまだ問題は山積みってことだな……」

 

解決しなければいけないことが多すぎる。

これからの霞の事もそうだし、最上の事もそうだ。

愛美の記憶の夢にしたって、何が起こっているのか確かめる必要があるだろうし……。

 

「あの……」

 

声の方を向く。

知らない女性。

 

「お隣……よろしいであり……ん……よろしい……ですか……」

 

変に思った。

というのも、ベンチは他に空いているし、ましてや、こっちは大量の荷物が置かれているのだ。

お隣よろしいですか?

よろしいはずがない。

 

「あ、あぁ……ちょっと待ってくれ……」

 

変に思ったが、頼まれたらしょうがないよな……。

荷物を退け、隣を空けてやった。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

隣に座る女性。

恐ろしく白い肌に、凛とした姿勢。

それでいて、か細く、触れたら壊れてしまいそうな体。

何処か幼そうなその顔つきと、何を思っているのか分からないその瞳……が、俺を見つめていた。

 

「あの……なにか……?」

 

「あ……すみません……。つい……」

 

つい……なんだ?

その後も、隙あらば俺を見つめてくる女性。

明らかに意識して俺を見ているようであるが……。

 

「……さっきからなんだ? 知り合いか何かだったか……?」

 

「す、すみません……つい……」

 

「ついなんなんだ?」

 

「つい……見つめてしまって……。貴方の事……何だか……夢に見たような気が致しまして……」

 

夢……。

 

「ごめんなさい……。ご迷惑をおかけしたであ……しました……」

 

そう言うと、女性は席を立ち、そそくさとその場を後にした。

 

「何だったんだ?」

 

しばらくすると、霞が戻って来た。

 

「おう。どんなの買ったんだ?」

 

「いう訳ないでしょ、ばか」

 

 

 

その日の夜。

霞が風呂に入っている間、俺はぼうっとテレビを見ていた。

退屈なニュースが流れ、ウトウトしている俺に、まるでトンカチで頭を叩くかのような、目の覚めるニュースが放映された。

 

「お風呂あがったわよ……って、どうしたのよ? そんな食い入るようにテレビを見て……」

 

「いや……こいつ……」

 

「こいつ?」

 

画面を見た霞は、不思議な顔をした。

 

「なんだ、艦娘の話題じゃない」

 

「艦娘……。こいつ、艦娘なのか?」

 

「えぇ、そうよ。なに、見覚えでもあるの?」

 

「あぁ……ちょっとな……」

 

それは昼間見たあの女性だった。

艦娘……。

艦娘だったのか……。

そう言えば、夢がどうとか言っていたが……まさか……。

 

「こいつももしかして……人間の艤装を継承した奴なのか?」

 

「え? そうだけど……なんでそう思ったのよ?」

 

「勘だ……」

 

「勘って……」

 

勘であることは間違いない。

だがなぜだろう。

何故だかわからないが、こいつがそうであるという、証拠のない確信が、俺の中にあった。

 

「こいつの名前、分かるか?」

 

「え、えぇ……分かるけど……」

 

「教えてくれ……」

 

「いいけど……。名前は――」

 

これから先、俺は何度もその名を耳にすることになるだろう。

何故か、そう思った。

 

「あきつ丸……」

 

画面の向こうで、あきつ丸は不気味に微笑んでいた。

 

――続く



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4話

「最上、いい加減機嫌をなおしたらどうなんだ」

 

呆れた口調で言ってやると、最上は顔を背けた。

 

「ボクを放って鈴谷とデートするだなんて……」

 

「デートではないし、お前も来たらいいと言っているだろう」

 

「鈴谷は絶対、先生と二人っきりが良いんだよ。それに、そう言う問題じゃないし……」

 

「参ったな……」

 

あれから数日。

約束通り、鈴谷と遊ぶ日を迎えた。

その事をSNSか何かで知った最上が、朝から押しかけて来たのであった。

 

「最上、あんたいい加減にしたら? 結局どうしたいのよ?」

 

「霞ちゃんまで……。でも、そうだなぁ……。ボクは先生の恋人になりたいんだけど、どうかな?」

 

「ですって。なってあげたら?」

 

「馬鹿言え」

 

何度も遊びに来ている最上に、さすがの霞も慣れたのか、最近では二人での会話も見てとれる。

 

「霞ちゃんはいいの? 置いて行かれてさ」

 

「別に。最近はずっと一緒だったし、色々な手続きとか、私の関係で大忙しだったし、そろそろ羽を伸ばしてもらわないと」

 

「霞ちゃんは優しいね」

 

「たまには一人になりたいだけよ……」

 

それが本心なのかは分からないが、霞は度々、俺の心配をしてくれていた。

 

「ありがとう霞。小説、昨日完成したんだ。俺の部屋にあるからな」

 

「ん、分かったわ」

 

まるでおやつでも取りに行くかのように、霞は小走りで俺の部屋へと向かっていった。

 

「さて、俺はそろそろ出なきゃいけないが、お前はいつまでそこで根を張っているつもりなんだ?」

 

「抜いてくれるまで?」

 

「じゃあ抜いてやる。そら」

 

持ち上げると、最上は全体重をかけて、抵抗した。

 

「重っ」

 

「失礼な! これでも普通の女の子に比べて痩せている方なんだよ!?」

 

「かもな。むしろ痩せすぎなくらいだ。お前はもっと食った方が良い」

 

「……先生はもっとふくよかな方が好き?」

 

「どっちでもいい。お前のように我が儘を言わなければな。そら、立たせるぞ」

 

最上を立たせ、乱れた髪をなおしてやった。

 

「我が儘を言う人は嫌い……?」

 

最上はしおらしくそう聞いた。

 

「別に嫌いではない。面倒くさいなとは思う」

 

「先生は面倒くさそうな人好きでしょ? ボクはどうなのさ?」

 

「お前は面倒くさ過ぎだ。マジで時間ないから、行くぜ」

 

鞄を背負い、玄関へと向かう。

途中、鏡越しに最上の姿を見て、俺は思わず立ち止まった。

 

「何て顔してんだ」

 

「先生、本当に行っちゃうんだね……。酷いや……」

 

「別に、ただ遊びに行くだけだろ。お前、大淀が来た時もそうだったが、ちょっと重いぜ」

 

「体重は軽いけどね……」

 

「フッ、確かにな」

 

今一度、最上に近づき、頭を撫でてやった。

 

「なにさ……。そんなんじゃ機嫌なおらないよ」

 

「知ってるよ。俺はお前の事、誰よりも良く知っているつもりだからな」

 

「だったら、行かないでよ……」

 

「そうしないのは知っているだろ。お前も俺と同じように、俺の事をよく知っている。そうだろ?」

 

最上は俯くと、小さく頷いた。

 

「お前の中の俺がどんな奴かは知らないが、酷い奴でないことを祈るよ。行ってくる」

 

今度は振り向かず、家を出た。

しばらく歩いたところで、最上に袖を引かれた。

 

「途中まで一緒に行くか?」

 

最上は返事をするわけでも無く、ただそっと手を握った。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

途中のバス停で最上と別れると、すぐにメールが入って来た。

『浮気は許さないからね』

恋人になったつもりはないのだがな。

いずれにせよ、鈴谷だろうが最上だろうが、愛美以外の女である限り、それは浮気になってしまうのだろうがな。

 

「浮気……か……」

 

もし、愛美がここに居たのなら、最上と同じように、鈴谷と出かけることに不満を言ったであろうか。

『私の関係で大忙しだったし、そろそろ羽を伸ばしてもらわないと』

ふと、霞の言葉が思い起こされた。

あの一件以来、霞の言葉一つ一つに、愛美の影を見るようになった。

愛美だったら言いそうなことを、霞は全て言ってのけるのだ。

やはり魂を継承しているあいつは、自ずと愛美の行動を模してしまっているのであろうか。

記憶もはっきりしているし、もしかしたら、あいつ自身が愛美に――。

 

 

 

待ち合わせの十五分前と、少し余裕のある時間で考えていたが、鈴谷はすでに到着していたようで、合流した頃にはご立腹であらせられた。

 

「先生、女の子を待たせるとかさいてー」

 

「悪い。いや、待ち合わせ時間にはまだ余裕があるだろ」

 

「それでも鈴谷は待ったんですけど~?」

 

「分かったわかった。なんかで埋め合わせしてやるから、それで勘弁してくれ。何が欲しいんだ?」

 

そう聞いてやると、いつもなら調子よく喜んだものだが、今日は違った。

 

「別になにもいらない。そう言う意味で言ったわけじゃないし……」

 

「じゃあどんなつもりなんだ?」

 

「んー……なんていうか、怒ってみたかっただけ。デートに遅れた男を叱る女って、やってみたかったんだよねー」

 

「なんだそりゃ……」

 

「でも、早めに来てくれたのは、ちょっち嬉しかったよ、先生。えへへ、今日は鈴谷といっぱい遊ぼうね」

 

そう言うと、鈴谷は腕に引っ付いた。

 

「おい」

 

「いいじゃん。今日はちゃーんと大人っぽい服装にしてきたし、どっからどう見ても恋人同士だよ。パパ活には見られないって」

 

「そういう問題じゃないが……」

 

そんなやり取りをしていた時であった。

ふと、誰かの視線を感じた。

 

「先生? どうしたの?」

 

「いや……」

 

見渡すが、俺たちを見ているような奴はいなかった。

最近、こうして誰かの視線を感じることがよくあった。

 

「気のせいか……」

 

「なになに? 誰か見てた? まあ、鈴谷艦娘だし、可愛いし、見られちゃうよねー」

 

「そうだな」

 

「ちょっとはからかってよ。照れるじゃん……」

 

「照れると大人しくなるから楽だなってさ」

 

「何それ!? 酷くない!?」

 

 

 

街を歩くと、多くの者が鈴谷に声をかけたり、写真を求めていたりした。

 

「今日は控えめな服装だったけど、やっぱりバレちったかー」

 

「相変わらず人気者なんだな」

 

珍しい光景ではない。

鈴谷は艦娘の中でも、所謂広報活動を仕事にしている。

メディア露出の多い吹雪たちと比べ、その活動は控えめではあるが、この街ではちょっとしたスターのような存在であった。

 

「そんな人気者と肩を並べて歩く男がいるって言うのに、ちっとも噂にならないんだから不思議だよねー」

 

「マネージャーか何かと思われてるんだろ」

 

「こんなに引っ付いているのに? 腕組んだりして」

 

「テレビではそう言うキャラだろ。お前はさ」

 

「先生、見てくれてるんだ。ローカル番組なのに。うれし!」

 

「たまたま目に入っただけだ」

 

「またまたー。えへへ、でも、テレビよりも実物の鈴谷の方が可愛いっしょ?」

 

「どうかな」

 

それをどう捉えたのかは分からないが、鈴谷は嬉しそうに笑って見せた。

 

 

 

それからはいつものように遊んで回ったが、珍しいことに、鈴谷は何かを強請ることをしなかった。

 

「珍しいじゃないか」

 

「鈴谷だってもう子供じゃないんだし、先生をカモにしているように思われるのは嫌だし……」

 

「散々カモにしてきた口が言うか?」

 

「なんなら返すし。今まで奢ってくれた分」

 

「別にいいよ」

 

あの一件があって、気を遣ってくれているのだろうな。

まあ、そっちの方がありがたいが、気を遣わせ過ぎるのもな。

 

「そう言えばさ……」

 

鈴谷は周りを確認すると、小さな声で言い直した。

 

「そう言えばさ、霞ちゃんの事、もがみんから聞いたよ。奥さんの記憶がどうとか……」

 

「あぁ……まあ、色々あってな。大淀の方でも調べてもらっているが、上の方が相手にしてくれないらしくてな」

 

大淀によると、やはり信じられていない様子で、ただの偶然か、はたまた俺の頭がおかしいと思われているようであった。

まあ、そうだよな……。

 

「奥さんの記憶って、そんなにはっきりしてるの?」

 

「最近だと、愛美の言いそうなことを自然に言いやがるくらいだ。本当、愛美を見ているようで……」

 

そこまで言って、俺は閉口した。

鈴谷は察したのか、話題を変えてくれた。

 

「あとさ、先生、奥さんにつーくんって呼ばれてたのマジ?」

 

「あ、あぁ……マジだ」

 

「ヤバくない? つーくんって、可愛すぎなんですけど!」

 

ケタケタ笑う鈴谷に、再び閉口する。

 

「あ、ごめんね。つい笑っちゃった。でも、そっかぁ。鈴谷も先生の事、つーくんって呼んじゃダメ?」

 

「駄目だ」

 

「まあ、そうだよねー。めんごめんごー」

 

「あぁ……」

 

変な空気が流れる。

 

「先生、怒ってる?」

 

「え? いや、別に怒ってないが」

 

「本当? なんか鈴谷、イヤなこと言っちゃったかなって……」

 

「大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけだ。怒っているわけじゃない」

 

そうは言っても、鈴谷は不安な表情のままであった。

 

「この前の事、まだ気にしてるのか?」

 

「うん……」

 

「あれは俺が悪かったって」

 

「そうじゃなくてさ……。やっぱり鈴谷は、先生に迷惑かけてばかりなんじゃないかって思っちゃって……」

 

「最上ほどじゃないだろ」

 

「でも、もがみんと居る時の先生の方が、鈴谷と居る時よりも楽しそうだから……」

 

「そうか?」

 

「もがみん、いつも先生の話をするんだよね……。その話の中の先生は、とっても楽しそうで……もがみんも楽しそうだし……」

 

「最上が勝手に着色しているだけだろ」

 

見えている世界は、人によってそれぞれだしな。

最上には俺がどう映っているのかは知らんが、少なくとも鈴谷には――。

 

「お前は俺といてつまらないか?」

 

「え……?」

 

「昔、母親に「自分が他人に対して思っていることは、他人も自分に対して思っている」と言われたことがある。俺は未だに、その言葉を信じているんだ。だから、他人に対して思ってほしいことは、自分でも思うようにしているんだ」

 

その意味が分かったのか、鈴谷は俯いてしまった。

 

「お前はどう思っているんだ?」

 

「鈴谷は先生といて楽しいよ。でも、先生が楽しいかは……やっぱり分からない……」

 

「俺がどんな反応をしたら、お前は満足なんだ?」

 

冷たい言い方だった。

流石の鈴谷も、少しムッとしていた。

 

「やっぱり先生は鈴谷と居て楽しくないんじゃん……」

 

「そんなことはない」

 

「そんなことあるよ。いつまでたっても鈴谷の事子ども扱いするし……。もがみんには大人の扱いする癖に」

 

「俺がいつ最上に大人の扱いをしたんだ」

 

「鈴谷だってお酒飲めるようになれば、もがみんみたいに……」

 

最上みたいに、か……。

 

「お前は俺に、最上に接するように、自分に接してほしいと言っているのか?」

 

鈴谷は答えなかった。

ただ、それは近いが正解ではないというような感じであった。

 

「大人として接してほしいのか?」

 

鈴谷は答えない。

が、今度は拗ねるようにして唇を尖らせた。

正解……というよりも、認めたくなかった正解、という感じか。

 

「多分、最上の言っていることは、結構盛られていると思うぜ。あいつは酒弱いし、むしろ子守りをするように接しているからな」

 

「じゃあ、お姫様抱っことか、お泊りとか、全部盛られてる話ってこと?」

 

「お姫様抱っこにお泊りか……。間違っちゃいないが、普通に酔ったあいつを介抱したのと、押しかけて勝手に泊まり込まれただけだ」

 

「でも事実なんしょ?」

 

詰めてくる鈴谷。

最上と同じくらい面倒くさいことになって来た。

 

「お前もしてほしいのか?」

 

「そうは言ってないし……」

 

「なら、来たらいい」

 

「え?」

 

「泊りに来たらいいだろ」

 

「いいの?」

 

「構わん。最上よか、迷惑は掛からんだろうしな」

 

そう言ってやると、鈴谷は一瞬喜んだような表情を見せた後、一気に赤面した。

 

「って! 駄目っしょ! 男の一人暮らしに女の子ってさ! っていうか、もがみんも同じように……!? いくらなんでもフランクすぎるよ!?」

 

慌てふためく鈴谷。

いつもは男を手玉に取ったように振る舞ってるくせに、いざとなるとこうも……。

 

「落ち着け。霞がいる。それに、俺は別に最上やお前に手を出したりしないよ」

 

「あ、そっか……。っていうか、手出さないの?」

 

「出すかアホ」

 

「出してもいいのに」

 

「出したら出したで、お前はきっと慌てふためいて、結局何も出来ずじまいで終わりそうだぜ」

 

「試してみる?」

 

悪戯に笑う鈴谷。

テレビだか漫画だか雑誌だか――それはともかく、何かの真似事なのか、鈴谷は太ももをチラつかせた。

悪戯な笑いが恥じらいに変わるのを見計らい、こっちも仕掛けてやった。

 

「ああ、いいぜ。家に来いよ。今日、あいついないからさ。朝まで二人っきりだ」

 

「え、マジ……? 朝までって……何する気?」

 

「男女が二人、屋根の下。やることは一つだろ」

 

横目で見た鈴谷の表情は、固まっていた。

 

「フッ……訂正する。慌てふためくんじゃなく、固まる、だな」

 

そう言ってやると、鈴谷は冗談だと理解したのか、ほっとした後、少しムッとした表情で俺を小突き、ついでにクレープを奢らせた。

 

 

 

結局、鈴谷に奢らされる日となってしまった。

空は夕焼けに染まっていて、俺たちは家路を急いでいた。

 

「結局、いつもと変わらん日だったな。お前がピーピー泣いていたのは、一体何だったのか」

 

「先生がそう仕掛けたんじゃん。案外奢らされるの好きとか? ドM~」

 

「可愛い奴に何かを奢るってのは、男の性分であり、喜びでもあるんだ」

 

「かわっ……。性分じゃなくて、養分っしょ……」

 

「フッ、上手いこと言うじゃないか」

 

「どうも……」

 

可愛いと言われると、露骨に照れて、口数が少なくなる。

鈴谷を静かにさせる算段は、徐々に形になっていた。

 

「ね、先生。今日、先生の家、行ってもいい?」

 

「構わないが。泊るのか?」

 

「ううん。夕食、作ってあげようと思って。たくさん奢って貰ったし、お礼」

 

「料理できるのか?」

 

「出来るし! 鳳翔さんに教えて貰ったもん」

 

「鳳翔に? そりゃまた珍しいな」

 

「花嫁修業ってやつ? 鈴谷だって、ただ遊んでるだけじゃないんだよ?」

 

「そうだったのか」

 

花嫁修業か。

そう言えば、艦娘が結婚したっていう報道は、まだ聞いたことが無いな。

恋人になったってのは聞いたことがあるが。

 

「男はまず胃袋から掴むんだって」

 

「なるほどな。掴まれない様に注意しないといけんな」

 

「どうかな~? 鈴谷の虜になっちゃうかもよ~?」

 

「それも一興か」

 

そんなことを言い合いながら、途中のスーパーで買い物を済ませ、再び家路についた。

 

 

 

家の明かりは消えていて、誰もいない様に思われたが、霞の靴は玄関に置かれたままであった。

 

「お邪魔しまーす。早速台所借りちゃうねー」

 

「おう」

 

霞の部屋には……いない。

居間にもいない。

俺の部屋……に居た。

ベッドで眠る霞。

小説を読んでいる内に、寝落ちでもしたのだろうな。

 

「霞。起きろ、霞」

 

「んぅ……」

 

「ただいま」

 

「ん……お帰り。寝ちゃっていたわ……」

 

「そのようだな。俺の小説、退屈だったか?」

 

「そうじゃないわ。昨日、夜更かししたから……。小説はすごく面白かった」

 

「そうか。ありがとう」

 

時計を一瞥する霞。

 

「夕食の準備、しないといけないでしょ……。手伝うわ」

 

「あぁ、その事なんだが」

 

「ん」

 

抱き上げてくれと言うようにして、霞は両腕を伸ばした。

 

「どうした?」

 

「分かってるんでしょ……」

 

霞は時折、こうして甘えることがあった。

本当、時折だが。

 

「分かったよ。よっと」

 

今朝の最上と違い、やはり軽いもんだ。

 

「降ろすぜ」

 

「台所まで」

 

「はいよ」

 

部屋を出て、台所へ入った時、霞はやっと異変に気が付いた。

降りようとしたところで、鈴谷に気が付かれた。

手遅れであった。

 

「霞ちゃん……へぇ、ふぅん、そうなんだ。二人だと、そうなんだぁ~。ふぅ~ん」

 

霞をからかうというよりも、鈴谷は俺をからかっているようであった。

だが、霞はそうは思わないだろうな。

その予感は的中して、俺は霞に思いっきりひっぱかれた。

最上もそうであったが、何故怒りの矛先が俺なんだ。

 

 

 

霞の機嫌がなおった頃、鈴谷の飯も完成した。

 

「じゃーん! 鈴谷特製のオムライスと手作りコロッケだよ!」

 

「コロッケとオムライスって……どういう組み合わせよ……」

 

「え、変かな?」

 

「オムライスとハンバーグなら、まあ分かるけれど……」

 

鈴谷は俺を見る。

 

「俺は好きだけどな。この組み合わせ」

 

「知ってる。先生の好きなもの作ったんだもん」

 

今度は霞が俺に目を向ける。

そういうこと……とでも言いたげに。

 

「……とにかく頂こう。いただきます」

 

鳳翔に習ったというその料理は、鳳翔のものと違い、形こそは褒められたものではないが、味付けは完璧であった。

 

「どう?」

 

「美味い! 鳳翔のと違って、味つけを濃くしたのか」

 

「うん。そっちの方が好きっしょ? 鈴谷知ってるんだ~」

 

「こりゃ美味い」

 

「へへ~ん、良かった。んじゃ、鈴谷も食べよ。えへへ」

 

霞も美味いと感じたのか、ただひたすら黙々と食べ続けていた。

確かにこりゃ、魅力的だ。

 

 

 

飯も食い終わり、俺たちは居間でテレビを見ながらくつろいでいた。

 

「しかし、美味かった。正直侮っていた」

 

「鈴谷だってやるときはやるっしょ。先生と一番遊んでるのは鈴谷だもん。何が好きで、どんなのが喜ぶか、ぜーんぶ知ってるし」

 

得意げに笑う鈴谷。

霞はそれに、どこか不満げに見えた。

愛美の記憶があるというのなら、やはり思うところがあるのだろうか。

今の今まで、霞が嫉妬するようなことは無かったように思うが。

 

「霞ちゃんも美味しかったっしょ。鈴谷が先生の奥さんになったら、毎日食べられるよ」

 

「そうね。それでもいいんじゃない?」

 

呆れたような、まるで娘がパパと結婚するのだと言い出したのを聞いた母親のような、そんな言い方であった。

それでも鈴谷は――

 

「だって~先生。この際だし、鈴谷と結婚しちゃう?」

 

――と、呑気であった。

霞はそれにも呆れ、どこか苛ついていた。

そして、俺を睨んだ。

また殴られそうだから、機嫌を取っておくか。

 

「お、ほら霞。ここ、記憶にあるか?」

 

テレビには、愛美との初デートで訪れた大きな海浜公園が映っていた。

 

「――海浜公園? 初めてデートで行ったところよね」

 

「そうだ。ほら、あの橋の上で、好きな作家について語り合っただろ」

 

「え? あんな橋だったかしら? もっとつり橋みたいな橋じゃなかった?」

 

「いや、あんな橋だ。つり橋って、そんなところ行った覚えはないぜ」

 

「いや、でも……。確かに、好きな作家について話したことは夢に見たことあるけれど、あんな橋だったかしら……」

 

それからも、テレビに映る公園の風景に、霞はまるで初めてみるかのような反応を見せた。

一番の思い出の場所だと愛美も言っていたし、記憶に強い風景だと思うのだがな……。

 

「多分、曖昧なのは、愛美があんたとの会話に夢中で、風景なんてあまり見ていなかったからなのかもしれないわね」

 

「そうだと嬉しいものだがな」

 

確かに会話に夢中で、風景などはじっくり見なかったものだが。

愛美も俺も、初めてのデートで緊張して、ずっと下ばかり見ていたしな。

 

「懐かしいな」

 

「うん……」

 

あの頃はまだ、愛美も元気であった。

あの眩しい笑顔は、今でも――。

 

「ちょっとちょっと~。鈴谷の前でイチャイチャしないでくれませんかね~?」

 

「イチャイチャなんてしてないわ……。あんただって、先生先生って……。最上といいあんたといい、こいつの事好き過ぎでしょ」

 

「好っ……きだけど……。好き過ぎってほどじゃないし……。それを言うなら、霞ちゃんだって抱っこされちゃってさー」

 

「あれは別に……」

 

「先生、鈴谷も抱っこ~」

 

「おい」

 

「してあげたら? 大きい赤ちゃんの為に」

 

「赤ちゃんじゃないし!」

 

霞と鈴谷。

あまり接点が無かったが、何とか仲良くやれそうで良かった。

こうして真っ向からからかい合えるってのは、霞と仲良くできる奴の特徴なのかもしれないな。

 

 

 

時間も遅くなってしまったので、鈴谷を送ることになった。

 

「今日はありがとうな。霞もどこか楽しそうであった」

 

「ううん。鈴谷こそ、ありがとう。楽しかった。先生は……どうかな?」

 

「俺も楽しかったよ」

 

「そっか……。えへへ、そっかぁ」

 

最初こそは疑っていたが、それは鈴谷自身、どこか楽しめていないのがあったからなのだろうな。

今は純粋に楽しんでくれているからこそ、俺が楽しんでいることを実感できているのだろう。

 

「鈴谷、鳳翔さんに比べてまだまだだけど、もっと上手になるからさ、また先生に食べてほしいな」

 

「あぁ、楽しみにしている。その分、俺も稼がないとな」

 

「別に奢って貰う為にしてるんじゃないよ!?」

 

「そうか?」

 

「そうだし……。だって鈴谷、ただ先生と……」

 

鈴谷は閉口すると、足を止めた。

 

「どうした?」

 

「先生、鈴谷ね、花嫁修業してるじゃん」

 

「あ、あぁ……今のところ、料理を鳳翔から教わっているという以外、知らないけどな」

 

「料理以外はこれから頑張るつもり。でさ、先生、今奥さんいなくて、霞ちゃんもいて、それでいて仕事もしなくちゃいけなくて、大変じゃん? もし鈴谷がさ、なんでもできる様になったら、手伝えるじゃん? 助かるじゃん?」

 

「そうだな」

 

「でさ、鈴谷は先生と遊びたいし、一緒に居て楽しいと思えるじゃん? お互いにメリットがあって、文句ないじゃん? 霞ちゃんも、それでいいって言ってたじゃん?」

 

鈴谷は俯いたまま、「じゃん?」という語尾に強弱をつけながら、まるでクイズのヒントを出しているかのように、察しろとでも言うように、何かを待っていた。

 

「何が言いたい?」

 

「……ここまで言っても、分からないの?」

 

顔を上げたその瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。

それは悲しいとか悔しいとか、そういう涙ではなく、勇気を出した結果、溢れてしまったというような感じの、涙であった。

 

「す、鈴谷がっ……先生のお嫁さんになったらさ……いいんじゃないかって……い、言ってるんだけど……」

 

そう言うことか。

最上の時と違って、特に赤面することも無く、ただただ言うものだから気が付かなかった。

 

「俺にプロポーズしてるのか?」

 

「そ、そうじゃな……くはないかもだけど……。その……先生がそうしたいなら、そうしてもいいよって話で……。別に鈴谷は……鈴谷は……」

 

鈴谷は胸にあてた手をぎゅっと握った。

 

「鈴谷は……そうした方が良いんじゃないかって……思う……」

 

その握られた手の力が抜けた時、鈴谷はぽろぽろと涙を流した。

 

「何を泣いてるんだ」

 

「分からないよぉ……」

 

涙を拭いてやる。

白く、柔らかい頬に触れた時、若いなと思ってしまった。

 

「泣き虫な嫁は募集してないぜ」

 

「泣き虫じゃないし……。ただ……胸がきゅって……そしたら……泣いちゃって……」

 

分からなくもない。

愛美も俺に告白をした時、言い終えてから、涙していたしな。

 

「こんな事、初めて……。鈴谷……どうしちゃったんだろう……」

 

それが恋だとか、誰かを強く想う気持ちなのだと、鈴谷自身、気が付いていないのかもしれないな。

一緒に居たいだとか、友達以上でありたいと願うその気持ちが、こうして昇華することも珍しくは無い。

ましてや艦娘だ。

経験が浅い部分も多いだろうしな。

 

「その気持ちを別の誰かに持てた時、同じように泣いてやれ」

 

「先生は?」

 

「気持ちは嬉しいが、俺に嫁は必要ない。生涯、愛美だけだ」

 

「……そっか」

 

長い沈黙が続く。

それをかき消したのは、聞き覚えのある陽気な歌声であった。

 

「フフ~ン、歌詞が~分からない~。歌詞が~分からないよ~」

 

「あれ、もがみんじゃない?」

 

「本当だ……」

 

その横。

困った顔で最上に肩を抱かれている女。

そいつにも、見覚えがあった。

 

「あれ、先生に鈴谷だ!」

 

「最上、お前酔ってるな?」

 

「うん。鳳翔さんのところで飲んできたんだ。いやぁ、盛り上がっちゃって。ね、あきつ丸」

 

月明りに照らされた白い肌。

澄んだ瞳が、俺を見つめていた。

 

「あ……この前の……」

 

「あきつ丸……」

 

「え~? 何々? 知り合いだった? 先生、また艦娘捕まえたんだ……。浮気だよ!? っていうか、鈴谷とこんな時間まで何してたのさ!?」

 

突っかかる最上。

それを抑えようとする鈴谷に反し、あきつ丸は俺を見つめ続けていた。

吸い込まれそうな瞳。

 

「もう、もがみん酔い過ぎだよー」

 

「鈴谷! 先生と何してたのさ!?」

 

「え~? うーん……内緒! でも、先生がね?『鈴谷(の作ったご飯)、美味しいよ』って」

 

「えぇ!? 先生、鈴谷とヤったの!?」

 

「おい。下品なこと言うな」

 

「どうなのさー!?」

 

最上の奴、最上級の面倒くさいモードになっているな。

まだゲボ吐かれていた方が面倒がない。

いい感じに酔っぱらうと、いつもこうだからな……。

 

「最上殿、そのくらいにしておくであります」

 

「むぅ……」

 

「申し訳ございませんでした。ささ、最上殿、帰るでありますよ」

 

「うん……。先生、ちゃんと言い訳用意しててよね……」

 

まだまだ吠える最上を連れて、あきつ丸は最上の家の方へと消えていった。

 

「何だったんだ……」

 

「ね。って言うか、いつの間にあきつ丸と仲良くなったんだ」

 

「元々仲が良かったわけじゃないのか?」

 

「まぁね。あきつ丸って、陸軍の出だから、あまり海軍とは仲が良くないっていうか、同じ艦娘でも、関わることが少なかったからさ」

 

「そうなのか」

 

海軍以外にも艦娘がいたことの方が驚きだ。

 

「っていうか、もがみん凄い酔ってたね。先生が浮気してるんじゃないかーって。もがみん、絶対先生の事好きだよ」

 

「どうかな」

 

最上が俺に告白したことは知らないのか。

まあ、言わんよな。

 

「どうする? 鈴谷と浮気、しちゃう?」

 

「するかアホ」

 

「だよねー。でもさ、先生」

 

「なんだ?」

 

「鈴谷、先生の事は諦めないから。気が付いちゃったんだ。先生にお嫁さんが必要なんじゃなくて、鈴谷に先生が必要なんだって」

 

笑顔を見せる鈴谷に、俺は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

自分の気持ちにすら名前を付けられなかったような奴が、急に成長したように思えたからであった。

 

「鈴谷のご飯、美味しかったでしょ? 鈴谷は先生の事、なんでも知ってるんだから。だから……」

 

鈴谷は近づくと、耳元で囁いた。

 

「鈴谷みたいなのが食べごろだって思ってること、知ってるんだからね? 鈴谷、と~っても美味しい自信あるよ?」

 

俺は全身に鳥肌が立つのを感じ、鈴谷から離れた。

 

「アハハ! 先生焦り過ぎ~」

 

「馬鹿なこと言うな」

 

「めんごめんごー。でも、先生がその気なら、いつでも言ってね? 待ってるからー!」

 

そう言うと、鈴谷は駆け出した。

 

「あ、おい!」

 

「大丈夫、もう家近いからー。またね、先生!」

 

確かに近いようで、二三軒先のマンションへと消えていった。

 

「ったく……」

 

鈴谷の吐息の残っていそうな左耳に触れた。

 

「ったく……クソ……」

 

少しでも心をかき乱されたことに、俺は男として、情けなく思った。

そう、男として。

 

 

 

家に帰ると、霞が俺の部屋でアルバムを見ていた。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま。アルバムを見ていたのか?」

 

「うん。あんたと愛美のアルバムをね」

 

写真には、在りし日の俺が写っていた。

 

「夢に見た記憶ばかりだろ」

 

「そのはずなんだけど……」

 

「何かおかしい所でもあったのか?」

 

「うん……。写真を見ても、ピンとこないのよ。なんというか、この写真に写っている場所に行ったのは確かなんだけど、写真の風景に見覚えが無いのよね」

 

「見覚えが無い? 行ったのは確かなんだろ?」

 

「私の夢に見た風景と若干違うのよね……。ほら、この大きな銅像。私の夢に見たものと形が違うのよ」

 

「かなり印象深い銅像であったが、そんなことあるのか?」

 

「うーん……」

 

まあ、愛美の記憶を継承しているとはいえ、夢だしな。

愛美自身も記憶があいまいなところもあったであろうし、ピンとこないのもあるだろう。

しかし、やはり不思議なもんだ。

何故霞が継承後の記憶を持っているのだろうか。

まさか、死んだ愛美の魂が憑依した……とか?

 

「はぁ、やめやめ。何だか頭が痛くなってきちゃった」

 

「大丈夫か?」

 

「ずっと家で寝ていたし、そのせいもあるから心配しなくていいわ」

 

「そうか」

 

いずれにせよ、分からないことだらけであるし、あの大淀ですら分からないでいるのだ。

俺に分かるわけがない。

 

「そう言えば、あんた、鈴谷と最上から好かれているけど、結局どっちが好きなのよ?」

 

「俺は愛美一筋だ」

 

「そう。でも、愛美もそろそろ相手を見つけて欲しいと思っているんじゃないかしら? 私が思っているんだから、きっと愛美もそう思っているわよ」

 

「お前もそう思っているのか」

 

「愛美がそうしているのかもしれないけどね」

 

「しかしお前、さっき鈴谷が嫁にくるどうたらこうたら言っていた時、苛ついていなかったか?」

 

「それは……なんというか……。私にも良く分からないと言うか……」

 

良く分からない、か。

霞も愛美の魂があるとはいえ、一個人であることに変わりはないんだよな。

本人は否定するだろうが、愛美の意志とは別に、俺に対して思うところがあるのかもしれない。

それがいいものなのか悪いものなのかは置いとくとしても。

 

「そうか」

 

「っていうか、鈴谷が来てるなら言いなさいよね。あんなの見られちゃって……本当……恥ずかしいったら……」

 

「恥ずかしいならしなければよかったろうに」

 

「うるさい! そう出来ないのは知ってるでしょ! もう寝るわ! お休み!」

 

「歯磨いて寝ろよ」

 

「もう磨いてあるわよ!」

 

扉を思いっきり閉じると、わざとらしく足踏みをして、霞は部屋へと戻っていった。

 

「愛美の記憶……か」

 

携帯を見る。

あれから大淀とは会っていない。

電話も、俺の頭がおかしいと思われているという事を言われてから、入ってきてはいなかった。

 

「海軍が唯一の頼りなんだがな……」

 

大淀の方も忙しいし、この問題に注力している暇が無いのかもしれない。

 

「寝るか……」

 

携帯を置こうとしたとき、メッセージがアプリの通知音が鳴った。

鈴谷からのメッセージで、今日のお礼が書かれていた。

 

「えーっと、かきくけ「こ」……た「ち」……「ら」……」

 

未だにフリック入力とかいうのに馴れず、ガラケーと同じような入力をしてしまっている。

 

「こちらこそありがとう……っと」

 

送信すると、すぐにメッセージが入った。

打つの早いな。

そんなことで感心していると、一枚の写真が送られてきた。

使っていいよー……とのメッセージと共に。

 

「あのバカ……」

 

胸元を開けた写真だった。

間髪入れず、メッセージが入る。

 

『もっと過激なのが欲しい?』

 

『いるかばか』

 

『そうだよね。実際に見た方が早いしねー』

 

「えっち~」と呟いた謎のスタンプが送られてきて、俺は携帯を置いた。

 

「はぁ……」

 

最上と違って、鈴谷は何と言うか、そういう目で見てはいけない感じがしていた。

だからこそ、こうも積極的に来られると、男としては――。

 

「とんでもない奴に火がついてしまったな……」

 

開かれたままのアルバム。

その中に写っている愛美が、俺を見ていた。

 

「……違うからな?」

 

俺はアルバムをそっと閉じて、瞑想するが如く、心を落ち着かせてからベッドに入った。

 

 

 

翌朝。

まだ陽も登り切っていないような、そんな朝だった。

携帯電話がけたたましく鳴り響き、俺を起こした。

 

「なんだこんな時間から……。もしもし……?」

 

『先生、おはようございます』

 

「おはようってお前……何時だと思ってるんだ……?」

 

『すみません……。失礼かとは思ったのですが……。早めに知らせた方がよいと思いまして……』

 

「何かあったのか……?」

 

『えぇ、実は――』

 

それを聞いて、俺はベッドから飛び起きた。

 

「それは……本当なのか……?」

 

『おそらく……。確かに海軍に来る前の愛美さんは、何をしていたのか情報が無いのも事実です。隠蔽されていたのかもしれません……』

 

「マジか……」

 

あきつ丸のあの目が、思い起こされる。

 

『確かではないですが、可能性は高いです……。陸軍がもし、本当に海軍よりも先に艦娘の存在に気が付いていたのなら、そこに愛美さんがいたのなら――』

 

信じられなかった。

だが、あきつ丸のあの不思議な感じ。

初対面の俺に対し、あいつは確かに何かを感じ取っていた。

俺も、あいつに目を奪われたのも確かだ。

 

『情報が本当ならば、愛美さんは元陸軍の人間であり、あきつ丸さんは――』

 

あきつ丸――お前は――。

 

『――愛美さんの魂を継承している可能性があります』

 

――続く



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5話

ウミネコと、ガキどものはしゃぐ声。

この季節の海だというのに、これほどの「静寂」であるのは、ここが海軍本部の敷地内であるからだ。

 

「先生は泳がないのですか?」

 

大淀は冷えたラムネを手渡すと、隣に座った。

 

「俺は保護者だからな。それに、泳がないのではなく、泳げないんだ」

 

「へぇ、いい体つきなのに、案外かわいいところがあるんですね」

 

「お前こそ、せっかく水着に着替えたのに、さっきから陸をうろちょろして」

 

「私も保護者ですから。それに、この水着は見せる用です」

 

そう言うと、大淀は俺をじっと見つめた。

 

「似合ってる」

 

「うーん、70点かなぁ。似合ってる、じゃなくて、可愛いって言うんですよ」

 

悪戯に笑う大淀。

 

「はしゃいでるな。泳いでもないくせに」

 

「長期休暇をいただきましたから。これで、いつでも先生に会えますよ。ふふっ」

 

「本当、はしゃいでるぜ。あのガキども以上にな」

 

再び海を眺める。

霞に最上に鈴谷にウミネコ。

それ以外は、広い空と、広い海が広がるだけであった。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

「海軍本部で海水浴?」

 

庭で水を撒いている霞も、そんな馬鹿みたいな言葉に手を止めた。

 

『はい。本部が是非遊びにいらしてと。一泊二日のチョットしたバカンスですよ』

 

「何故その話が俺たちに? というか、敷地の一角とは言え、海軍本部でワイワイ騒いでいいものなのか」

 

『本部でワイワイなんてしょっちゅうですよ。昨日はバーベキューしてましたし』

 

「案外暇なんだな……」

 

『平和ですからね、今の海は。まあ、冗談はさておき……本部は先生に興味があるみたいですよ』

 

「俺に?」

 

『確認できている範囲で、多くの艦娘と交流を持っているのは、先生を措いて他に居ません。何処に艦娘を引き付ける魅力があるのか……もっというならば、艦娘が人間に興味を持つ共通点があるのか、というところですね』

 

なるほどな。

しかしながら、そんなに好かれているという感じは――。

 

「いや、あるな……」

 

『先生?』

 

「なんでもない。それで、いつものメンバーを呼ぼうって腹か」

 

『えぇ。鳳翔さんはお店があるから来れないそうですが、それ以外のメンバーは来れるとのことでした』

 

「アポは取ってあるのか。是非、というよりも、強制だな」

 

『外堀を埋めるのも戦略の一つですよ。何においても』

 

大淀の悪戯に笑う顔が、見てとれるようであった。

 

 

 

そんなこんなで、俺は大淀と共にガキどもを見守っているわけであった。

本部の人間とは少しばかり話したが、本当に俺に興味があるのか疑問を抱かせる様子であった。

 

「先生、さっきから鈴谷さんばかり見てませんか?」

 

「いや、デカいと思ってな」

 

「ふぅん……。先生、案外お元気なんですね。私はてっきり、枯れているものかと」

 

「そんなに歳は食っちゃいない。こう見えても、まだ30代だぜ」

 

「もう30代とも言えますけど」

 

「そうかよ」

 

鈴谷と目が合う。

いつもなら元気よく手を振って見せたものだが、今日の鈴谷は少し控えめに、小さく手を振って見せた。

その様子に、大淀は何かを察したようだった。

 

「罪な男ですね。最近の鈴谷さん、確かに色っぽくなりましたもんね」

 

「そうかもな」

 

「否定しないんですね。でもまあ、目で追っているくらいだし、愛美さんも大きかったですものね」

 

「嫉妬か?」

 

視線を下げて見せると、大淀はムッとした表情を見せた。

珍しい表情だ。

 

「歳を取るとデリカシーがなくなっていけませんね。枯れた部分を潤すが如く、口を滑らせるのはいただけません」

 

「悪かったよ」

 

口を尖らせる大淀。

最初に出会った頃と違い、子供っぽい仕草を見せる大淀に、俺はつい笑ってしまった。

 

「悪い」

 

「可愛いと思った。そうでしょう?」

 

「エスパーか?」

 

「……その返しは、ちょっとズルいかも」

 

照れた振りをした後、大淀は零す様に微笑んで見せた。

 

 

 

気が付くと永遠に遊んでいそうだったので、水分補給をさせるために三人を呼び戻した。

 

「喉カラカラだったんだよね~。これ、貰うね」

 

「あ、おい。そりゃ俺のラムネだぜ」

 

「そうだったんだ~。鈴谷、知らなかったな~」

 

「嘘つけ」

 

白けた瞳でその光景を見つめるのは、最上と霞であった。

 

「なんだよ」

 

「別に? 最近、鈴谷と先生の距離が近いなーって思っただけ。それだけだよ。ね、霞ちゃん」

 

「あんたと一緒にしないでくれる? 私はただ、よく他人が口につけたものを飲めるなって思っただけよ」

 

「霞ちゃん、案外潔癖症なところあるよね~。そんなんじゃ、キス出来ないゾ」

 

「したこともない人に言われてもね……」

 

「あ、あるし!」

 

「どうせ、猫とか子犬とか、そういうオチでしょ……。ったく……」

 

ぐぬぬと悔しがる鈴谷に、最上はフフンと余裕そうな表情を見せた。

ボクはしたことあるけどネ、とでも言っているのだろうな。

心の中で。

 

「で? あんたは?」

 

「なにがだ?」

 

「あんたは遊ばないの? 泳げないのは知っているけれど、浅瀬で遊ぶくらいはできるでしょ?」

 

「俺と遊びたいのか?」

 

「そうじゃないけど……。別にいいならいいのよ……」

 

ここぞとばかりに、鈴谷が割って入って来た。

 

「霞ちゃん、本当は先生と遊びたいんだもんねー。ずっと見てたしー」

 

「別に……」

 

「悪いが、水着を持ってきていないんだ。今日はずっとここで見ていようと思っていたしな」

 

「鈴谷さんの水着姿をイヤラシイ目でね~」

 

「え……」

 

「おい」

 

霞と最上は、再び白い目を向けた。

 

「最っ低……」

 

「見損なったよ先生……」

 

一方の鈴谷はと言うと、顔を真っ赤にして、俯いていた。

 

「そ、そうなんだ……。先生、鈴谷の事、えっちな目で見てたんだね……。えへへ……なんか、悪い気はしないかも……」

 

「いや、まあ……ううむ……」

 

照れる鈴谷。

俺も何だか照れてしまって、互いの間に変な空気が流れた。

 

「はぁ……まあどうでもいいけど……。遊んでくるわ。行くわよ最上、鈴谷」

 

「あ、うん。鈴谷、行こう?」

 

「あ、鈴谷はちょっち休んでから行こうかな……」

 

そう言うと、鈴谷は俺をチラリと見た。

流石にマズイと思い、鈴谷を立たせ、最上に押し付けた。

最上も察してくれたのか、はたまたムッとしたのか、鈴谷を引きずり海へと戻っていった。

 

「焦り過ぎですよ、先生」

 

「どうもな……。今まであいつのこと、ただのガキだと思っていたもんだから……」

 

「それは意識していると言っているようなものですよ。愛美さん、怒るだろうなぁ」

 

「否定できないのが辛い所だぜ……」

 

いつだったか、愛美に「私以外に劣情を抱かないのもどうなのかしら」と冗談を言われたことがある。

俺もそうだと思ったが、やはり愛美以外にその感情を抱くことは無かった。

しかしそれは、愛美が居たからこその話であって、今の俺には――やはり男であるのだろうなと実感できた。

 

「愛美さんと言えば……この前お話した件ですが……」

 

言わずも、あきつ丸の事であるのは分かった。

 

「何か分かったのか?」

 

「いえ、まだなにも……。ただ、裏付けになりそうな事は一つだけ……」

 

「裏付け……」

 

「海軍が深海棲艦に攻撃を受ける前の事です。陸軍のとある基地が、突然爆撃のようなものを受けたことがあるのです。しかし、敵は見当たらず、当時は隕石落下やガス爆発だったのではないか、なんて情報が飛び交っていました。陸軍はその原因を何かしら掴んではいたのでしょうが、公表することをしませんでした」

 

「まさか、それが深海棲艦の攻撃だった……ということか?」

 

「あくまでも憶測です。ただ、そうだった場合、陸軍が海軍よりも先に、艦娘の存在に気が付いていた可能性は否定できません。そして、そこに愛美さんが居たのだとすれば……」

 

大淀は言った。

海軍に来る前の愛美の情報が無いと。

もし、海軍に来る前、愛美が陸軍にいたのだとしたら――。

 

「陸軍と海軍は犬猿の仲のようなものです。お互いに公表していない情報は山ほどあります。現に、あきつ丸さんですら、継承の艦娘だとは知られていませんでしたから……」

 

あくまでも憶測。

ただ、霞の時と同じように、どこか信じられるような気がしていた。

あきつ丸に感じた、懐かしい雰囲気。

それが愛美かどうかはさておき、霞に感じた何かを、俺はあいつにも感じていた。

 

「最上さんがあきつ丸さんと仲良くなっていることは聞いています。その関連で、先生に近づいてきたことはありますか?」

 

「二回ほど、偶然ではあるが、会ったことはある。一回目は、霞と――へ出かけている時、隣にベンチに座ってきた。一言二言話して、去っていったよ」

 

「その時、何か言われましたか?」

 

「そう言えば……夢で俺を見たようなとか言っていたな……」

 

「それって……」

 

「もしそれが継承の夢……霞の見ているものと同じなのだとしたら……」

 

「ますます……ですね……。二回目はどんな時に?」

 

「鈴谷を家まで送っている途中だった。最上と二人で飲みにでも行っていたのだろうな。そこに、偶然。特に何か話したわけではないのだが……」

 

「そうですか……」

 

大淀はきっと、それが偶然なのかどうかを考えているのだろう。

確かに、鈴谷と出かけている時、何者かの視線を感じている。

もしあれがあきつ丸のものであり、俺の事を見ていたのだとしたら……。

 

「しかしながら、まだ継承しているのか、それ自体が確かではないのだろう?」

 

「えぇ、まあ……。ただ、情報源は青葉さんという艦娘からのものですし……。彼女にはいつも情報を集めるのに協力してもらっていて、私も信頼を置いているのです」

 

「だからこそ、疑えないという訳か……」

 

全てはぼんやりしている。

だが、おかしくはないレベルには至っている。

実際にあきつ丸に会って、感じているものもあるしな……。

 

「頭が茹りそうだぜ……」

 

お手上げだと言うように、俺はシートに寝転がった。

パラソルの陰の中にあったせいか、少しばかりひんやりしている。

 

「今は情報を待ちましょう。私も協力しますから」

 

「あぁ、ありがとう」

 

俺は目を瞑り、考えるのをやめた。

ここで何を言おうとも、どうしようもないことだしな。

今はこのちょいとしたバカンスを楽しもう。

最近あまり寝ていなかったし、寝ちまうのもありだな。

大淀もいるし。

そう思って寝る準備に入っていると、大淀が距離を詰めて来るのが分かり、思わず目を開けた。

 

「どうした?」

 

「私も寝てしまおうかと思いまして」

 

そう言うと、大淀は寝転がり、こちらを見つめた。

 

「もうちょっと端に行ったらどうなんだ」

 

「影が動いちゃうんです。こっちにいないと。日焼けしたくありませんから」

 

「移動するか? パラソル」

 

「いえ、ここなら安全ですから、こうさせていただきます」

 

大淀は動かないとでも言いたげに、目を瞑ってしまった。

少しでも体勢を崩してしまったら、触れてしまいそうな距離。

白い肌が、やけに輝いて見えた。

鈴谷の事もあってか、なんだか意識していけないな。

 

「触ってもいいですよ?」

 

俺の気持ちを知ってか知らずか、大淀はそう言った。

 

「今の私は眠っていますから、何をされても、それは夢現の出来事です」

 

「……何言ってんだ馬鹿」

 

「意気地なしですね。でも、意識したでしょう? 私だって、鈴谷さんみたいに見られたいって、思ってみたりしているんですからね」

 

そう言うと、大淀は舌をぺろりと出した。

からかっているんですよーとでも言いたげに。

 

「まあいいです。それは次の機会で。おやすみなさい、つーくん」

 

「おう、いつかてめぇのその舌を引きちぎってやるぜ」

 

「楽しみにしてますよ。フフッ」

 

大淀のからかいは、何だか嫌な感じはしない。

愛美とも同じようにからかい合っていたものであるしな。

それを知っていてやっているのだとしたら、俺はまんまとその術中にはまっていることになる。

まあ、大淀は単純にからかうのが好きな奴なのかもしれんがな。

 

 

 

目を覚ますと、大淀が隣で寝息を立てていた。

こいつも疲れていたんだな。

起きようと手を突いた時、柔らかい何かを掴んでしまい、俺は思わず手を引いた。

見ると、鈴谷が眠っていた。

掴んだのは、鈴谷の――。

 

「って……」

 

よく見ると、霞も眠っている。

疲れて寝ちまったのだろうか。

 

「最上は……」

 

眠気眼を擦って、浜辺に出る。

空は少しばかり夕焼けがかっていて、眠ってから大分時間が経っている事を物語っていた。

 

「ん……」

 

奥の堤防。

そこで、最上は黄昏ていた。

 

 

 

「よう。黄昏てんな」

 

「先生。起きたんだ」

 

「大分寝ちまったみたいだな。隣、いいか?」

 

「うん。どうぞ」

 

足を迫り出す形で、堤防に座った。

近くに居たフナ虫の大群は、そそくさとどこかへ散っていった。

 

「皆、疲れて寝ちゃったみたい」

 

「そのようだな。お前は寝なかったのか」

 

「うん。先生の隣、鈴谷に取られちゃったしね」

 

「そりゃ残念だったな」

 

最上はだいぶ前から黄昏ているのか、体はすっかり渇いていた。

 

「見ていいものでもないでしょ」

 

視線に気が付いたのか、最上はそう言った。

 

「別にそういう目で見ていた訳じゃねぇよ。いつから黄昏てんのかと思ってな」

 

「普通に聞けばいいじゃないか」

 

「それもそうだったな。悪い」

 

静かな時間が流れる。

昼間鳴いていたウミネコも、今はどこにいるのやら。

 

「今日さ、ずっと見られていたの、気が付いた?」

 

「え?」

 

「ほら、あそこ」

 

最上は遠くにある施設を指した。

 

「あそこから双眼鏡でこっちを見ていたみたい。先生の事」

 

「俺の事?」

 

「うん。先生は艦娘にとって、何か好かれるものを持っているであろうから、観察したいんだって」

 

そう言えばそんなことで呼ばれたんだったな。

 

「直接聞けばいいのにな」

 

「フフッ、どの口が言うのさ」

 

「フッ」

 

とは言え、俺だってその好かれる何かの正体を知りたいと思っている。

少し前まで自殺しようとしていた人間のどこに、魅力があるのだろうか。

いや、或いはそういうところにあるのかもしれないが。

 

「先生の魅力かぁ。なんだろうね」

 

「俺の事が好きなんだろ? 一つくらい言ったらどうなんだ?」

 

「うーん……。分かんないや。でも、好きなんだ。恋ってそう言うものなんでしょ?」

 

突き詰めると、そうなのかもしれない。

理由だとか動機だとか、そう言うものは人間の言葉遊びに過ぎない。

結局は本能が全てなのだ。

 

「ね、先生」

 

「なんだ?」

 

「ボクとセックスしてみない?」

 

最上は膝を抱えると、言葉とは裏腹に、さわやかな笑顔を見せた。

 

「するかアホ」

 

「でも、ご無沙汰なんじゃないの? 鈴谷をずっと見ていたんでしょ? ボクじゃ満足できない?」

 

「そういう問題じゃねぇよ。って言うか、自分でとんでもないこと言っているの、分かってんのか?」

 

「分かってるよ。でも、ボクが先生を振りむかせるために出来ることは、これくらいしかないからさ」

 

冷たい風が吹く。

すっかり渇いた最上の髪が、小さく揺れていた。

 

「ボクは大淀さんみたいに難しい話は出来ないし、鈴谷みたいにナイスバディーでもない。ボクはただ先生の傍にいたってだけで、何か特別な事はないからさ……。ほら、触れない体より、触れる方がいいっていうし、先生もそう思うでしょ?」

 

「どうかな……」

 

「きっとそうさ。ボク、初めてだけど、きっと――」

「――最上」

 

言葉を遮り、最上をじっと見つめた。

その意味が分かったのか、最上は俯き、膝に顔を埋めた。

 

「先生はさ、ボクの事、無くてはならない存在だって言ってくれたでしょ……?」

 

「あぁ……」

 

「それに全てが報われたって言ったけれど、やっぱり、ボクは先生の事が好きみたいなんだ……。ボクの気持ちに応えてもらいたいって……思ってしまうんだ……」

 

最上が言わんとしていることは分かる。

鈴谷や大淀が魅力的になって行く中で、自分だけがいつも通りであることへ焦燥しているのだろう。

何か一つでも特別であること、最上にしか、最上であることでしかないものが、形として欲しい。

そう思っているのだろう。

 

「一回ヤッたところで、俺にとってお前が全てになるとは限らんぜ」

 

「……だよね。分かってはいたんだ。でも……あーあ、駄目だね……。どうしたらいいんだろう……。本当……」

 

「俺もどうしたらお前が納得するのか分からん」

 

「恋人にしてくれたら……かな」

 

「恋人か……」

 

「それが駄目なら、せめてキスしてくれないかな?」

 

「キス?」

 

「大人のキス。ボクのは子供っぽいんでしょ? 教えてよ、大人のキス」

 

キスか……。

 

「…………」

 

キス……。

 

「なーんて、ごめんね。もう大丈夫だよ」

 

「最上」

 

「ん? なに?」

 

「俺は少し寝る」

 

そう言って、俺は寝ころび、目を瞑った。

 

「先生?」

 

「少しだけ、な。俺は寝つきはいい方でな。鈴谷たちが隣で寝ていても、気が付かなかったくらいだ」

 

顔は見なかったが、何を言っているのか、最上は分からないようであった。

 

「だから、寝ている間に何をされようとも、気が付くことはないだろうよ」

 

まさか、大淀のからかいが役に立つとはな。

最上は察したのか、息を飲み、静かになった。

長い沈黙が続く。

 

「……そこまでしてくれるのなら、普通にして欲しいものだけど」

 

「大淀曰く、俺は意気地なしなんでな。それに、愛美に出来る言い訳が欲しいんだ。自分からしましたなんて、いえねぇだろ」

 

「だったら、無理してしなくてもいいよ……」

 

「しなかったらしなかったで、お前はまた黄昏るんだろ。絵にはなるが、お前が思い詰めている表情はらしくないし、俺の好きな表情ではないんだ」

 

「…………」

 

「これが精いっぱいだ。ごめんな、最上……」

 

「先生……。ううん……。ボクの方こそ、ごめんね……」

 

「もう寝るぜ」

 

目を瞑り、黙り込んだ。

最上はそっと近づくと、俺の顔を覗き込んだ。

最上の匂い。

最上の吐息。

それを感じたのと同時に、最上は俺に口づけをした。

前にされた時と違い、長く、そして、深い口づけであった。

 

 

 

その日の夜は、本部の何々此れ此れ誰誰ソレソレと、訳の分からん役職や堅苦しい名前の奴らに囲まれ、飯をごちそうになった。

皆酔っ払っていて、やれあの艦娘が美人だとか、やれ――と、ここには書けないほどのデリカシーのない話題が飛び交っていた。

最上や鈴谷、霞もいるのにも関わらずだ。

大淀は流石に慣れた感じではあるが。

 

「先生、飲まれないのですか?」

 

「あぁ……」

 

「すみません……。居心地が悪いですよね。ちょっと待っててください」

 

大淀は何やら一言二言を「何々」に話すと、それを聞いていた近くの「此れ此れ」に、「誰誰」と「ソレソレ」を連れてくるよう言い、皆でどこかへ消えていった。

 

「どんな魔法を使ったんだ?」

 

「この近くで、話題に上がっていた艦娘が働いていると嘘を言いました」

 

「大丈夫なのか?」

 

「明日には忘れてますよ。そういう人たちなんです」

 

「流石に手慣れているな」

 

そう言うと、大淀は苦笑いを見せた。

 

「お前も大変だな。労ってやるよ。飲めるんだっけか?」

 

「私、結構強いですよ? 付き合ってくれますか?」

 

「あぁ、もちろんだ」

 

大淀と小さく乾杯をすると、それを見ていた最上も、ちょちょいと酒に手を伸ばした。

が、その手を霞がぴしゃりと叩き、何とか面倒事は回避された。

 

 

 

「それでは先生、おやすみなさい」

 

「おう……」

 

大淀は顔色一つ変えず、部屋へと戻っていった。

 

「あいつ……つえーな……」

 

千鳥足のまま部屋へと戻ると、霞がいた。

 

「あれ……間違えたか……?」

 

「あってるわよ。ここがあんたの部屋」

 

「なんだ、何か用か?」

 

「用が無きゃいちゃいけないの?」

 

「いや……」

 

霞はベッドに座り、見ていたテレビの電源を消した。

 

「大分酔ってるみたいね」

 

「あぁ、大淀の奴、マジで強くてな……。潰してやろうと思っていたが、逆にやられちまった……」

 

「あんた、そんなに飲める方じゃないでしょ……。全く、大人げないったら……」

 

そう言うと、霞は小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、手渡した。

 

「ありがとう」

 

「ん……」

 

水を飲みながら、窓の外の景色に目をやる。

何に使うのか分からないクレーンに、何を伝えているのか分からない赤い光が点滅しているのが見えるのみだった。

 

「静かなところだな」

 

「今はね。戦時中は、そりゃうるさかったわ」

 

「家からも砲撃の音が聞こえるほどだったから、相当だろうな」

 

「フフッ、そんなうるさい中でもね、愛美はぐっすり眠れる人だったのよ。本当、危機感が無いったら」

 

確かに、そう言う奴だった。

酔って、家の鍵を忘れて帰った時、何度チャイムを鳴らしても、気が付かれなかったことがある。

愛美曰く、「寝ていた」とのことであるが、あれは本当だったのか。

 

「愛美はね、「私に乗って眠る」のが好きだったみたいで、お昼休憩の時によく……」

 

そこまで言って、霞は言葉を切った。

 

「「私に乗って寝る」ってなんだよ」

 

そう言って笑って見せたが、霞は何やら呆然としていた。

 

「どうした?」

 

「いえ……何でもないわ……。疲れているのかしら……。なんだか記憶が……」

 

「あれだけはしゃいだからな。疲れもするだろうよ」

 

「そうね……。疲れもするわよね……」

 

そう言うと、霞はベッドに寝転がった。

 

「ここ、座って」

 

「ん、おう」

 

言われた通りベッドに座ると、霞はそのまま俺の膝を枕にした。

 

「疲れちゃった……」

 

「部屋で寝たらどうなんだ」

 

「邪魔だって言いたいわけ?」

 

「そうは言ってないだろ」

 

「なら、癒しなさいよ……」

 

霞は俺の手を取ると、それを自分の頭の上に乗せた。

撫でろってか。

 

「今日はやけに甘えるじゃないか」

 

「だってあんた……」

 

少し躊躇った後、霞は小さい声で言った。

 

「今日、ずっと構ってくれてなかったじゃない……。水着も持ってきてないし……」

 

「そうだったな。悪い。というか、やっぱり遊びたかったのか。俺と」

 

小さく頷く。

虚ろなその瞳が、寂しさを演出していた。

 

「愛美にはそう言うところ、あまりなかったように思うけどな」

 

「私は愛美であり愛美じゃないのよ……。あんたがどう思っているのか知らないけどね……」

 

そう言われ、ハッとした。

そうだよな。

俺は霞に、愛美の影ばかり重ねてきたが、霞は霞なんだ。

ただ愛美の記憶を持っているだけで……。

 

「どうも愛美と比較していけないな。お前はお前だよな。ごめん」

 

「いいのよ……。それより、お願いがあるんだけど……」

 

「なんだ?」

 

「愛美がしてくれたこと、あんたに求めていいのよね?」

 

「俺が出来ることなら、な」

 

「じゃあ……」

 

霞は膝立ちすると、そのまま俺の胸に顔を埋めた。

 

「ぎゅって抱きしめて……。それで、背中を優しく叩いて欲しいの……。ぽんぽんって……」

 

「赤子を寝かしつける様に、か?」

 

「……言い方って言うものがあるでしょ? 黙ってしなさい……」

 

「分かったよ」

 

言われた通りにしてやる。

霞は愛美にこういうこともしてもらっていたのか。

でも、そうだよな。

愛美と霞が出会った時、きっと霞はまだ――。

 

「酒臭いわ……」

 

「離れるか?」

 

そう聞いても、霞は離れることをしなかった。

そしてしばらくすると、寝てしまった。

 

「本当に赤子のようだ」

 

こうしてみると、最上がまだ大人に見えてくる。

いつもはツンケツンケしているが、本当はまだまだ甘えたい年頃なのだろうな。

部屋に連れてゆくのもなんだと思い、そのままベッドに寝かせてやった。

 

「んぅ……愛美ぃ……」

 

「愛美の夢を見てんのか?」

 

「貴女の話……もっと……聞かせてぇ……」

 

愛美は話し上手だったからな。

どんなにくだらない話だろうが、愛美が話すと、途端に面白くなっちまう。

 

「あの話……また……してぇ……」

 

しかしまあ、こいつの寝言癖、かなりひどいよな。

継承の夢とか色々と影響しているのだろうが、気が付くと寝言言ってるし。

 

「私……喋れないけど……ちゃんと聞いてるから……。だから……もっと……話しかけて……」

 

霞の頬に、涙が伝う。

やっぱり愛美がいなくなって、寂しいと思っているのだろうか。

頭をなでてやると、霞の表情は段々と朗らかなものになっていった。

 

「落ち着いたか……」

 

そういや、初めて「つーくん」と寝言で言った時は驚いたが、最近の寝言はあまり深い意味を持たなそうなものばかりだ。

記憶もこんがらがっているようであるし、愛美の魂以上に、霞が霞としての個を持ちつつあるのかもしれないな。

 

「…………」

 

愛美が本当の本当にいなくなってしまうのは寂しいが、霞が愛美から解放されることはいい事なのだろうと思う。

もしそうなった時、俺はちゃんと霞を受け入れることが出来るのだろうか。

逆もまた然りだ。

霞と俺の関係は、愛美があってこそのものであるし、その小さな魂ですら無くなった時、俺と霞は果たして――。

 

「ん……」

 

霞の手が、俺の手を握っていた。

寝ぼけて握ったのか。

 

「小さいな……」

 

霞は言った。

「私が自立するまでの関係」と。

少なくとも、それまでは一緒に居られるよな。

 

「俺が失いたくないのは、愛美の魂なのか、それともお前なのかな……」

 

その答えが分かるのは、きっと――。

 

 

 

翌日のお昼には本部を出た。

昨日とは打って変わり大雨となったので、大淀が例の厳つい車で送ってくれることとなった。

 

「悪いな」

 

「いえ」

 

にしても大淀の奴、やっぱり元気だな。

俺はまだ、体調が万全とは言えないのだが。

 

「そういや鈴谷、お前昨日からなんだか大人しくないか?」

 

「え? そ、そうかな……」

 

「そう言えばそうだね。昨日の夕食会、やっぱり不快だった?」

 

「そう言う訳じゃないんだけど……」

 

鈴谷はミラー越しに俺を見つめた。

どうやら黙っている原因が俺にあるようであった。

 

「何かしたっけか、俺」

 

鈴谷はしばらく躊躇った後、決意したように言った。

 

「先生さ……その……鈴谷が海で寝てる時さ……おっぱい……揉んだよね……?」

 

「「「「え!?」」」」

 

車内が静まる。

 

「鈴谷ね……実は……起きてたんだ……。先生が起きた時……驚かせようと思って……寝たふりしていたんだけど……」

 

そういや、起き上がる時……。

 

「いや、あれは揉んだわけじゃなくて、起きようとしたときたまたま……」

 

「揉んだことは認めるんですね」

 

「最っ低……」

 

「いや、だから事故であってだな?」

 

大淀と霞の白い目が、俺を見ていた。

 

「まあまあ、たまたま触っちゃっただけでしょ? 先生がそんなことするわけないよ」

 

庇ってくれたのは最上だった。

 

「最上……」

 

「先生、とりあえず鈴谷に謝って?」

 

「あ、あぁ……そうだな。鈴谷、悪かった。この通りだ」

 

鈴谷は顔を真っ赤にして、俺が謝る姿を見ていた。

そして、零す様に言った。

 

「別に怒ってるわけじゃないよ……。むしろ……触って欲しかったっていうか……。事故で無かった方が……鈴谷にとって嬉しかったって言うか……」

 

再び車内が静まる。

そして最上はもう、俺の味方ではなくなっていた。

 

 

 

「先生は反省して、ここから歩いて帰ること! いいね!?」

 

「あ、あぁ……」

 

制裁とでも言うように、俺は最寄りの駅に傘を一つだけ持たされ、降ろされた。

そして、申し訳なさそうにする鈴谷を乗せて、車は去って行った。

 

「はぁ……結構あるんだよな……」

 

財布も車に置きっぱなしのままだ。

あそこで鈴谷があんなことを言わなければ……。

 

「いや……」

 

揉んじまったのは俺だ。

そうなっちまえば、どう転んでも男が悪いことになるのは当然だ。

尤も、最上がここに俺を置いたのは、別の理由だろうがな。

 

「ま、これで済んだんだから、喜ぶべきだよな……」

 

自宅の方へ歩みを進めた時であった。

 

「勉さん……?」

 

その声を聞いた時、俺は思わず足を止めた。

――いや、止めたのではない、動けなくなった、というのが正しい。

呼ばれたのは俺の名だ。

雨野勉。

ありふれた平凡な名だ。

皆は俺の事を「先生」だとか、「雨野先生」「雨野さん」「雨野君」と上の名で呼んだ。

下の名で俺を呼ぶのは、今は亡き家族や、今は亡き小学校の担任。

そして、今は亡き愛美だけであった。

恐る恐る振り向く。

そこに誰がいるのか、俺は知っていた。

だからこそ、怖かったのだ。

 

「あきつ丸……」

 

紅色の派手な傘の中で、あきつ丸は何とも言えない表情で、俺を見つめていた。

 

――続く



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6話

雨が傘を打つ。

あきつ丸の傘は新品なのか、綺麗に水を滑らせていた。

 

「あきつ丸……」

 

振り向いた俺を見て、あきつ丸は固まった。

 

「貴方は……」

 

俺の事を呼んでおいて、あきつ丸はまるで予想外であったかのような表情をしていた。

その様子を見て、俺の中で一つの仮説が立った。

あきつ丸はおそらく、「勉さん」という別の人物を呼んだのだ、と。

きっとそうだと思い、俺は肩に入っていた力をそっと抜いた。

 

「その様子だと、人違いだったみたいだな」

 

そう言ってやると、あきつ丸は返事をするわけでも無く、ただただ、俺の目をじっと見つめていた。

白い肌の中に突如と現れるその瞳の色に、俺も思わず見とれてしまっていた。

それはつまり、互いに目が合っていることであるのだが、俺はそんな事にすら気が付いていなかった。

思ってもいなかった。

それほどに、見とれていた。

自分の世界に入り込んでいた。

人で非ざる存在ではあるが、あえてこう表現したい。

とても人の目とは思えないほど、美しい瞳であると。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

海軍本部でのバカンスから数日。

俺は霞と共に、――動物園へ来ていた。

 

「どうだ、覚えているか?」

 

「いえ……。この動物も初めて見るわ……。でも、名前は知ってる。私が夢で見たものと違うけれど……」

 

「そうか……」

 

俺たちは今、霞と共に、俺と愛美との思い出の場所を巡っている。

というのも、アルバムの事もそうであったが、霞の記憶と実際の光景が違うことに気が付いたのだ。

あの時はたまたまであると思っていたが、最近になって、その事が際立って目立つようになっていた。

名称など、耳で聞くようなものに齟齬は無いのだが、目で見るものに関しては、夢で見たものと違うようであった。

 

「愛美の部屋は、夢で見た通りだったのだけれど……」

 

霞の持つ愛美の記憶や体験が確かなものであるからこそ、奇妙な事だと思える。

 

「にしても……」

 

遠くに目をやる。

 

「先生ー! こっちにサーバルキャットいるよー! 可愛いよー!」

 

叫んでいるのは最上で、隣で恥ずかしそうにしているのがあきつ丸だ。

 

「なんであいつらまで……」

 

二人を誘ってはいない。

霞と二人、もしくは大淀でも誘って記憶を辿ろうと思っていた矢先、何処で仕入れたのか、俺たちがここにいることを嗅ぎ付け、やって来たらしかった。

 

「先生ってばー!」

 

「うるせぇぞ最上。そっちはそっちで勝手にやってろ。アホ」

 

「アホって言ったー!? 聞こえたからねー!?」

 

「ったく……。悪いな霞」

 

「あんたは悪くないわよ。無視しましょう。無視」

 

「そうだな」

 

「あ、ねぇってばー!?」

 

 

 

最上たちとは距離を置いていたが、結局向こうから無理やりこっちに合流してきた。

 

「酷いや先生。ボクを置いて動物園なんてさ」

 

愛美の記憶をたどっていることは言っていない。

言う必要も無かったし、言ったら言ったで、協力するだとかなんだとか言ってくるだろうと思ったから、あえて言わないのもあった。

霞的には、静かに記憶をたどりたいだろうしな。

 

「はぁ……ったく……」

 

最上だけならまだしも……。

 

「…………」

 

あきつ丸は目が合うと、俯いてしまった。

結局あの日、俺が見つめ合っていることに気が付いたのと同時に、あきつ丸は「失礼します」と言葉を残して、足早に去って行ってしまった。

引っかかるものはあったものの、呼び止めるほどの事でも無かったので、今日まで接点を持つことはなかったのだが……。

 

「あんた、いくらこいつが好きだからって……ストーカーなんじゃないの?」

 

「失礼な! 先生はそういう積極的な女性、好きだもんね」

 

「どうかな」

 

「ほら、否定はしない」

 

最上は嬉しそうに笑うと、あきつ丸の背を押して、俺に向かせた。

 

「まあ冗談はさておき……実は、あきつ丸がどうしても先生を紹介してほしいって言うからさ」

 

「俺を?」

 

「うん。あきつ丸は凄いんだよ。先生の作品、ぜーんぶ読んでるんだ。しかも、なんと先生がイベントで出したことのある同人誌まで持っててさー。話には聞いていたけれど、まさか持ってる人が実在するとはね」

 

同人誌。

確かに学生の頃、作ったことはあるが……。

あれは全く売れなかったし、俺ですら取っておいてはいないのだが……。

 

「本当なのか?」

 

あきつ丸は小さく頷くと、鞄から一冊の本を取り出した。

いや、本というにはあまりにもお粗末な作りの、まるで修学旅行の冊子のような、薄く、どうしようもないものであった。

だがそれは確かに、俺の――いや、「俺たち」の作ったものであった。

 

「どこでこれを……」

 

「陸軍に居た時、頂いたもので……す……」

 

陸軍。

もしこれを持っている者がいるとすれば、それを作った仲間たちか、もしくは、数少ない購入者か。

いずれにせよ、陸軍に居るような奴が身内や購入者にはいなかったように思うが。

 

「先生のファンなんだよね? 酔っ払った時に会ったけど、まさかあきつ丸がそんなにファンだとは思ってなくてさー。ちゃんと説明できてなかったんだよねー」

 

ちゃんと説明できていなかった、か。

ちゃんとした説明をしたのがいつかは知らないが、あきつ丸が一度、あの雨の日に一度、俺と出会ったことを最上に説明していないのが引っかかった。

まるで、初めて会うかのような、そんな態度で臨んでいる。

 

「――という感じでさ、ボクの特権で先生に会わせてあげようと思って。ただ、特権とは言え、会社の力を使うのはいかがなものかということで、偶然を装って連れて来た訳さ」

 

「どういう訳だ……」

 

「あんた、絶対こいつに会いに来ただけでしょ……」

 

「どうかな」

 

俺の真似をすると、最上は嬉しそうに笑って見せた。

さっきから思っていたが、なんだか機嫌良いな、今日のこいつ。

 

「さて、後は若いお二人に任せて、ボク達は動物ふれあいコーナーにでも行こうか」

 

そう言うと、最上は霞の手を引いた。

 

「ちょ……放しなさいよ!」

 

「先生の同人誌、見たくない?」

 

最上がそう言うと、霞は大人しくふれあいコーナーへと向かっていった。

 

「行っちまったな」

 

「そうであ……ですね……」

 

「無理しなくていい。最上にするように話したらどうなんだ」

 

そう言ってやると、あきつ丸は少し驚いた後、肩の力を抜いた。

 

「では、お言葉に甘えさせていただくであります……」

 

緊張をほぐしてやったつもりであったが、あきつ丸から何か語り掛けてくるわけでも無く、沈黙が続いた。

聞きたいことは山ほどある。

だが、確証のないものばかりであったため、聞くのは失礼だと思い、俺も何も言えずにいた。

思えば、ほぼ初対面だ。

急に二人っきりにされて、何か話せという方が無理があるだろう。

共通の話題があれば……。

いや、あるか。

 

「俺の同人誌を持っていた奴って、どんな奴なんだ?」

 

「どんな奴……とは……」

 

「いや、あれを持っているのは限られるから、身内なのかと思ってな。ただ、陸軍にそんな奴いたかどうか……」

 

「自分も持ち主までは……。倉庫を掃除した時に出て来たものを頂いただけなので……」

 

「そうか……」

 

再び沈黙。

倉庫にあったもの、か。

何故陸軍の倉庫にあったのだろうか……。

 

「しかし、お前も物好きだな。俺の小説が好きだなんて」

 

そう言ってやると、あきつ丸は申し訳なさそうな表情を見せた。

 

「嘘であります……」

 

「え?」

 

「貴方の小説が好きだということ……嘘なのであります……」

 

俺がショックを受ける前に、あきつ丸は慌てて訂正した。

 

「い、いえ、決して小説が嫌いだとかそう言う意味ではなくて、好きな事は本当なのでありますが……なんというか……好きだから……ファンであるから貴方に会いたいと言ったのが嘘でありまして……。いや……うぅむ……どう説明したら良いものか……」

 

悩むあきつ丸。

だが、何を言いたいのか、俺には何となく伝わっていた。

 

「つまるところ、俺に会う口実にしたという訳だろう。最上を騙して」

 

「騙す……。いえ、そうでありますな……。騙してしまいました……。貴方に会う口実に、たまたま持っていたこの本を使ってしまったのであります……。申し訳ない……」

 

たまたま持っていた、か。

 

「そこまでして、俺に会おうとしたのは何故だ?」

 

あきつ丸は何か話そうとした後、躊躇い、閉口してしまった。

 

「話しにくい事なのか」

 

「いえ……というよりも、信じていただけるかどうか……」

 

普通は信じられないもの。

 

「「夢」の事か?」

 

あきつ丸は先ほど以上に驚いた表情を見せた。

 

「――そうなんだな」

 

「何故……それを……」

 

「実は――」

 

確証を持てたからこそ、何もかも包み隠さず、あきつ丸に話した。

継承の夢の事、霞の事、愛美の事――愛美のところであきつ丸が反応を見せたため、あきつ丸にかかっている疑惑の事も話した。

 

「――以上だ。お前が俺に会おうとしたのも、それが関係しているのではないか?」

 

「そう……かもしれません……。自分が貴方に会おうと思ったのは、夢が原因なので……」

 

「どんな……夢なんだ……?」

 

「貴方と夫婦でいる夢であります……。最初こそは、誰の夢なのか、一緒に居るのが誰なのか分からず、不思議な夢を見るものだなと思っていただけでありました……。しかし、貴方をお見かけしたあの日から、ぼんやりとではありますが、一緒に居る人の顔が見えて来たのであります……」

 

霞と同じだ。

霞も、俺を見たその日から、俺を夢に見るようになったと聞く。

 

「ある日、その人が「雨野勉」という名前であることが夢で分かって、その名に聞き覚えがあって、この同人誌を引っ張って来たのであります。夢の中の人は実在するかもしれない……。不思議な事でありますが、そう思いました。そして、貴方の事を調べました。小説家であることはすぐに分かりました……」

 

「最上が酔っ払った時に会っただろう。気が付かなかったのか?」

 

「似ている……とは思いました。しかし、夢の中ではぼんやりとであったので……確証はなかったのであります……。先生と呼ばれている貴方が、雨野勉であることは、まだ知りませんでしたし……」

 

確かにあの時、あきつ丸は俺の目をじっと見つめていた。

あれはそういう意味だったのか。

 

「雨の降ったあの日、貴方の後ろ姿に「雨野勉」を見ました……。自分は思わず、夢と同じように名前を呼んでしまいました。しかし、貴方は振り向いた。そして、その顔をみた瞬間、貴方が「雨野勉」であることを、直感したのであります……」

 

「それを確かめるために、俺に会いに来たのか……?」

 

「小説家であるのなら、最上殿が知っているかと思いまして……。聞くと、担当であるとの事でしたので……」

 

そこで知った、という訳か。

 

「最上には話していないのか」

 

「話して信じてもらう自信が無かったのであります……。それに、最上殿は貴方に好意を抱いているようですし……。自分が貴方と夢で夫婦であったから、気になるから会ってみたいだなんて、言えません……」

 

確かにな。

何も知らずに聞いただけでは、変に思われそうな内容ではあるし。

それにしても、最上はあきつ丸に霞の事を話していなかったのか。

酔った勢いで言いそうなものだが、そこはしっかりしているのだな。

 

「…………」

 

話の区切りがついたのか、あきつ丸は黙ってしまった。

だが、本題はここからだ。

 

「お前、継承の艦娘なのか……?」

 

あきつ丸は一点を見つめたままで、答えることはしなかった。

 

「愛美の事を知っているな……?」

 

同じく、答えない。

 

「あきつ丸……」

 

あきつ丸は立ち上がると、遠くから歩いて来る最上たちに手を振りながら、俺にしか聞こえないような声で言った。

 

「いずれお話いたします。今はまだ、その時ではないのであります」

 

あきつ丸の目が、俺を見つめる。

そして、微笑んで見せると、まるでそれが今応えられる精一杯の答えであるとでも言うようにして、小さく言った。

 

「その時まで、待っててほしいの。「まーちゃん」からのお願い」

 

まーちゃん。

「つーくん」に対して、愛美自身が勝手に名乗っている、おねだりの時に出る、一人称であった。

 

 

 

その後は四人で園内を回ったが、あきつ丸は以前と同じように、俺の前では少し恥ずかしそうにしているのみであった。

あれが演技であるのだとしたら、相当な役者だと思うほどに、違和感も何もなかった。

だが、少し変わったことがある。

それは――。

 

「霞殿は勉さんのどの小説が好きなのでありますか?」

 

「『銀座のマー坊』かしら」

 

「あれは勉さんの自信作でありますからな。同人誌にその原型である『トウケイ都物語』という作品がありまして――。後でお貸しいたします」

 

「本当? だったら、私もこいつの落書きを持っているから、交換しましょう?」

 

「落書きでありますか? 興味あるのであります」

 

霞とあきつ丸が、いつの間にか意気投合していた。

俺の小説が好きであるという共通点がそうさせたのか、はたまた愛美の魂がそうさせているのかは分からないが、とにかく急接近であった。

 

「二人とも仲良くなって良かったね。ボクたちも負けてられないよ」

 

そう言うと、最上は俺の腕に引っ付いた。

 

「おい」

 

「いいじゃないか。キスした仲だし。あれから冷静になって考えたんだけど、ボクと先生、とんでもないことしたよねって。一線を越えたって感じかな?」

 

あぁ、だから今日、こんなに機嫌がいいのか。

 

「キスしたくらいで恋人気取りか? おめでたい奴だな」

 

「な……!? 女の子にとってキスは重要な事なんだよ!? それも、一回目と違って、あんな濃厚な……」

 

そこまで言って、最上は顔を真っ赤に染めた。

 

「初心だな」

 

「先生にだってそういう時期があったでしょ……。というか、愛美さんが最初で最後の人なのに、経験豊富なプロ気取りなのもどうかと思うけれど……」

 

「まあ、それもそうだな」

 

「ほら。それってどうなのさ? 童貞捨てたての男が粋がっているようで、何だかなぁ」

 

「キスくらいで舞い上がっている奴に言われたくはないな」

 

「じゃあいいよ。次の段階行くかい? ボクは構わないけど?」

 

「次ってお前……」

 

その時、遠くの方で若者の笑い声が聞こえた。

見ると、サイが交尾をしていて、その様子に若者が盛り上がっているようであった。

 

「ああいう事か?」

 

「間違ってはいないけど……。むぅ、もういいよ……。なにさ……。嬉しかったのに……」

 

拗ねる最上。

放っておこうかと思ったが、あまりにも悲しそうな顔をするものだから、俺は思わず笑ってしまった。

 

「なにさ……」

 

「悪い。そんなに落ち込むことないだろうと思ってな」

 

「だって……先生がボクの気持ちを受け入れてくれたって思ったら、嬉しくなっちゃってさ……。なのに、先生はそんな事無かったって言うか、ボクじゃなくてもそうしたみたいな態度だし……」

 

「お前だからこそ、そうしたんだけどな。感謝してるし」

 

「……そこはもうちょっと揶揄うとかさ」

 

「揶揄ったら揶揄ったで、落ち込むだろ。未だにどうすりゃ正解なのか、俺には分からん。プロじゃないし」

 

「最後の一言みたいにさ、嫌味みたいなこと言っちゃうから、ボクが落ち込むんじゃなくて?」

 

「そうかもな」

 

最上は頬を膨らますと、再び拗ねてしまった。

尤も、今度は悲しいというよりも、怒っているようであるが。

 

「ん、霞とあきつ丸は同人誌に夢中だな。最上、俺はホワイトタイガー見たりして回ってくるが、お前も一緒に回るか?」

 

最上は俺を一瞥した。

白けたその目が、差し伸べられた俺の手を見て、少し不満そうな目に変わった。

 

「……うん」

 

そして、不貞腐れた子供のような返事の後、絡めるようにして、手を握った。

 

「しっかり握るもんだな」

 

「恋人つなぎって言うんだよ。覚えておいたら?」

 

「そうか。俺からも教えたいことがあったのだが、なんだったっけか。何とかヒロインって奴……。お前のような奴の事を言うのだが……。あぁそうだ。チョロインだ」

 

「そういうのが余計だって言うんだよ」

 

そう言うと、最上はより一層手を強く握り、嫌がらせするように引っ付いて見せた。

 

 

 

結局、ただ単に動物園を楽しむだけになってしまった。

最上とあきつ丸は車で来ているようで、帰るのに便乗させてもらおうかと思ったが、どうやらスポーツカーらしく、乗ることが出来ないとのことであった。

 

「じゃあボクたちはここで。またね、先生」

 

「おう」

 

「勉さん、霞殿、今日はありがとうございました」

 

「こちらこそ、霞の面倒見てくれてありがとな」

 

「あきつ丸、今度は家に来なさいよ。約束通り、こいつの落書き見せてあげるから」

 

それを聞いて、あきつ丸は俺をチラリと見た。

 

「俺は構わないぜ」

 

そう言ってやると、ホッとした様子で微笑んで見せた。

 

「では、お言葉に甘えさせていただくのであります。お伺いさせていただく時の連絡は……」

 

「こいつの携帯電話に掛けたらいいわ。ほら、ボケっとしてないで連絡先交換しなさいよ」

 

「あ、あぁ……」

 

あきつ丸と連絡先を交換する。

ただでさえ登録者の少ない連絡帳に、艦娘の名前ばかり登録されてゆく。

本当、不思議なもんだ。

 

「ありがとうございます。また連絡致します。では、今日はここで失礼いたします」

 

霞は珍しく、あきつ丸に手を振り、送った。

 

「俺たちも帰るか」

 

 

 

帰りの電車内で、霞はこれでもかってくらいに、俺に話しかけた。

 

「――でね、同人誌を正史とするならば、マー坊が言っていたあの言葉の意味が、ちゃんと繋がるのよ。描写の中では分からないみたいな感じだったのだけれど、やっぱり主人公の事が好きだったってことよね」

 

「あぁ、それは……」

「言わないで! あんたが言っちゃったらそうなるから! 考察するのが楽しいのであって、答えはいらないわ!」

 

霞の奴、珍しく興奮しているな。

興味のある話題の時だけ、早口になる奴みたいだ。

こっちはあきつ丸の謎だったり、最上の相手だったり、霞の記憶祖語だったりでぐったりしているのに。

だが……。

 

「それで?」

 

「ここからが面白いのよ。私はね、ずっとタイターが――って思っていたのだけれど、あきつ丸はね?」

 

霞が楽しそうで、何だか嬉しい気持ちになる。

俺と居る時ですら、こんな笑顔を見せることは少なく思える。

良き友人が出来たと言えば聞こえはいいが――。

 

『いずれお話いたします。今はまだ、その時ではないのであります』

 

その時とは、一体いつなのだろうか。

何故今、それを言うことが出来ないのであろうか。

霞と仲良くなることはいい事なのだろうが、それが何だか、俺を追い詰めてきているように思えて、少し怖くなった。

 

「ちょっと、聞いてるの?」

 

「ん、あぁ……すまない……」

 

「でね?」

 

 

 

夕飯を作る気力もなく、少し癒しが欲しくなった俺は、久々に鳳翔の店を訪れた。

 

「あら先生、丁度いいところに」

 

「あっ!」

 

客のいない時間帯を選んだつもりが、一人だけ、中学生だか高校生くらいだかの女の子が座っていた。

 

「あ、きょ、今日はもう帰ります! こここ、これ! おつりはいりませんから! では!」

 

そいつはお金を置くと、逃げるようにして去って行ってしまった。

 

「まずかったか?」

 

「いえ、どうしちゃったのでしょう……。ちょうど、先生のお話をしていたところなんですよ。ファンで、先生がここに通っているのを聞いて、私から話を聞きたくて来たと……」

 

俺のファン……か。

 

「一応聞いておくが、そいつは艦娘か?」

 

「良く分かりましたね。艦娘の青葉さんですよ」

 

やはりそうか。

もはや俺の小説を読んでいるのは艦娘しかいないのではなかろうか。

しかし、青葉か……。

どこかで聞いた名だが……。

 

「あぁ、そうか。思い出した。大淀のところで情報を集めているっていう……」

 

確か、あきつ丸が愛美と関係している可能性があると突き止めた奴だったか。

 

「青葉さん、本当に先生が来たものだから、びっくりしちゃったのかもしれませんね」

 

「そりゃ悪いことしたな……。今度来たら、俺のつけで何か奢ってやってくれないか?」

 

「フフ、分かりました」

 

席に座ると、鳳翔はおしぼりと卵焼きを出してくれた。

 

「頼んでないぜ」

 

「サービスです。青葉さんが注文していたのですけど、帰ってしまったので」

 

「俺はだし巻き卵派だぜ」

 

「知っています。青葉さんもそうなんですって」

 

「なら、気が合うな」

 

おしぼりで手を拭き、いつものセットを頼んだ。

 

「改めて……先生、お久しぶりです」

 

鳳翔なりの嫌味だ。

 

「悪かったな。来れなくて」

 

「今日はお一人ですか?」

 

「あぁ。霞の奴、帰って早々小説を読み直すって聞かなくてな。置いてきたんだ」

 

「霞ちゃん、先生の小説、本当に好きなんですね。でも、読み直すって、何かきっかけでもあったのですか?」

 

「あぁ、それがな――」

 

今日あったことを、全て鳳翔に話した。

鳳翔は最上と違い、事情を全て知っている。

口の堅い奴であるから、大淀も話しているようであるし、大体の事は知ってくれていた。

 

「じゃあ――という事ですか?」

 

「そうなんだ。それで――」

 

しかしまあ、本当に聞き上手というか、話していて苦が無い。

一人で抱え込もうと思っていた事も、鳳翔の手にかかれば、全て吐き出してしまう。

いつもは聞き役であるから、話を聞いてくれる存在ってのは大事だ。

他には大淀くらいしかいないし、酒を飲みながら気楽に話せるこの場所は、本当に貴重だった。

 

「なるほど、だからここに来たのですね」

 

「癒されに来たんだ」

 

「こういう時にしか来てくれないだなんて、拗ねちゃいますよ?」

 

「悪かったって」

 

何度も行こうとは思っていた。

しかし、霞はあまりここが好きではないようであったし、控えていたのだ。

そんなことを鳳翔には言えないし、俺は罪を背負うことにした。

 

「なんて……。本当は霞ちゃんの為なのでしょう?」

 

「え?」

 

「この前の様子で、なんとなく分かりました。私のようなお節介は、あまり好きじゃないみたいですね」

 

なるほど。

鳳翔の方が、役者が上だったようだ。

 

「霞は別に、お前を嫌っているわけじゃない。ただ、社交的になれない自分に嫌気がさして、避けてしまってるんだ」

 

「分かっています。だから、今はただ待とうと思います。私が受け入れようとするんじゃなくて、霞ちゃんから私を受け入れてもらえるように」

 

「悪いな……」

 

「いえ。でも、先生が来なくて寂しかったのは、本当なんですよ?」

 

そう言うと、鳳翔は冷酒を持って、両手で掲げた。

 

「付き合ってくれますよね?」

 

「いいのか? 飲んでしまって」

 

「今日はもう先生でおしまいです。なんなら、暖簾を仕舞ってきましょうか?」

 

そう言い、悪戯に笑う。

鳳翔から子供っぽい笑顔が零れると、俺はどうも弱っていけなかった。

 

「店の酒、全部飲んでやるよ」

 

「それは大淀さんがやってくれるそうですよ。お酒の強い大淀さんが」

 

「参ったぜ全く」

 

だが、悪くない。

むしろ心地よいくらいだ。

 

 

 

酔いも回り切り、互いに心地よくなる頃、鳳翔はカウンターを離れて、隣に座っていた。

 

「たまにはこっちに来たくなる時もあります。癒してばかりでは、私も疲れてしまいますし……」

 

そう言って、伏せる鳳翔。

酔うと弱気になる癖があるのは前々から気が付いてはいたが、今日はかなりキているな。

 

「お疲れさんだな」

 

「お店を持つことが夢ではあったのですけれど、どうも私は、女なんだなと思うことがあるんです」

 

「皆がお前に相談するから、か?」

 

「そうなんですよ……。別に私、恋愛なんてしたことないのに……。殿方と手を繋いだのだって、まだ……」

 

そこまで言って、鳳翔は顔を伏せた。

ほんのりと赤く染まった小さな耳が、全てを物語っている。

 

「恋愛か……。最近、そんな話ばかり聞くように思う」

 

「先生が聞いていると言うことは、私も聞いているという事なんですよ?」

 

「最上と鈴谷だろ。あの二人は隠さないからすごいよな」

 

「私がそう仕向けたんですよ。積極的な方が先生は喜ぶ作戦です」

 

「いい作戦だな。それを考えた奴は、俺の事を良く知っている」

 

「お得意様らしいですよ。その人の」

 

鳳翔は顔をあげると、ため息交じりに言った。

 

「私も恋愛と言うものを知ってみたいものです」

 

「お前からそんな言葉が出るとはな」

 

「どういう意味ですか? それ……」

 

子供のように、頬を膨らませる鳳翔。

多分、怒り方をよく知らないのだろうな。

 

「どういう意味でもないさ。ただ、お前の場合、知りに行くよりも、勝手に知りそうなもんだと思ってな」

 

ますます分からないというような顔の鳳翔。

 

「いい女だから、すぐに言い寄られるだろうって事だよ」

 

そう言ってやると、鳳翔は赤面するわけでも無く、平生のまま、小さく返した。

 

「でも、先生に言い寄られたことないです……」

 

「え?」

 

「え? あ……」

 

時間にして、数秒の沈黙。

俺たちはお互いに目をぱちくりしながら、見つめ合っていた。

 

「……それも作戦の内か?」

 

その意味に、その深い方の意味に鳳翔は気が付いたのか、はたまた単純に恥ずかしかったのか、今日一番の赤面をそこで見せてくれた。

 

 

 

鳳翔が色んな意味で限界になったので、会計を済ませ、そそくさと店を出た。

 

「暑い……」

 

それは、今日が熱帯夜だからという訳ではなく、俺も鳳翔と同じで、限界であったからだった。

 

「俺って、マジで押しに弱いのかもな……」

 

最上の「童貞捨てて粋がっている」感というのは、案外間違っていないのかもしれない。

その内、コロッと心変わりして、誰かの手に落ちてしまいそうだ。

いや、或いはもう――。

 

 

 

「ただいま」

 

帰ると、霞は自室のベッドで眠っていた。

ただ、散乱している小説を見る限り、寝落ちしたらしい。

 

「しょうがないな」

 

本を片付け、ベッドにしっかりと寝かせてやった。

 

「夢中になってくれてんのは嬉しいが、風邪とか引かれたらと思うと、ヒヤヒヤするぜ」

 

眠っている霞をみて、俺は急に愛おしく感じた。

俺と愛美の間に子供はいなかったが、居たらきっと、こんな気持ちになるのかな。

 

「鳳翔と変な感じになって、意識しちまってるのかな……」

 

今日は色んな事があったのにも関わらず、最後の最後で鳳翔に全て上書きされたように思う。

あきつ丸の件があったのにも関わらずだ。

 

「…………」

 

そう言う意味で言えば、さきほどの鳳翔の事もそうだが、俺の中で愛美に対しての気持ちというのが、薄れて行ってしまっているのかもしれない。

愛美を好きな気持ちはまだ健在であると思ってはいる。

それでも、死を決意したあの時や、最上に言い寄られた時に断れたあの時と違い、気持ちは揺らぎつつある。

 

「愛美……」

 

愛美を愛している。

だが、このままでいいのかと思うこともある。

いつまでも愛美を追い続けても、いくら魂を持っている存在がいたとしても、愛美は帰っては来ないのだ。

 

「本当の決別の為には、やっぱり……それに代わる存在が必要なのかな……」

 

ベッドに伏せ、霞の寝顔を眺めた。

 

「俺はどうすりゃいいかな……愛美……」

 

誰かが答えてくれるはずもなく、俺はそのまま目を瞑り、眠ってしまった。

 

 

 

その日、俺は夢を見た。

それは、学生の頃の記憶であった。

同人誌を制作した仲間たちと、打ち上げをしているところであった。

 

「全然売れなかったな」

 

誰かが言う。

声に覚えはあるが、誰だったか、顔すら覚えていない。

 

「そういや雨野、お前の小説、佐々木先輩が凄い批判してたぜ」

 

佐々木先輩。

そういえば、そんなOB居たっけ。

 

「俺もそれ聞いた。雨野の小説で全体のバランスが崩れてるって。まあ、確かに、ちょっと異質だもんな。今回のテーマ「恋愛小説」ってのには、ちょっと無理があったと言うか、お前の世界観が出過ぎててなぁ」

 

実際にそういう批判があったか、今では思い出せない。

ただ、評判が良くなかったのは事実であった。

 

「あの……」

 

俺を呼ぶ誰か。

女の声であるが、とても小さく、オドオドとしている。

 

「私は……好きです……。この作品……」

 

「――。そうか、お前は優しいな」

 

名前をはっきりと思い出せない。

顔も、ぼんやりとしている。

だが確かに、俺はこいつを知っている。

後輩で、消極的な奴で、いつもオドオドしていて……。

いつだったか、俺の夢をそいつに話したこともあった。

 

「小説家になりたいんだ。評判は良くないけれど、俺は俺の小説を書きたいと思っている。誰のものでもない、俺の小説だ。」

 

「カッコいいです……。もしデビューしたら、私がファン一号を名乗ってもいいですか?」

 

「もちろんだ。お前だけだもんな。俺の小説をよく言ってくれるのは」

 

「そんなことは……。きっと、ここには居ないだけで、世界にはもっと居るはずです」

 

「だといいな。その為には、もっともっと書かなきゃな。いつか、お前が俺のファン一号であることを誇れるくらいの小説家になってやる。約束だ」

 

小指を差し出し、古典的な約束をするものだと、自分でも笑ってしまったのをよく覚えている。

 

「はい、約束です」

 

小指を絡めると、そいつは微笑み、そして、俺の名を呼んだ。

 

「勉さん」

 

 

 

翌朝になると、そんな夢も「懐かしい夢を見た気がする」程度に忘れていた。

 

「あんたの小説、昨日で半分くらい読み返しちゃったわ」

 

「その結果、寝落ちしてたけどな。俺に徹夜するなとか言っておいて、お前もそう言う傾向あるぜ」

 

「別に私は丈夫だし」

 

「それでも心配だ」

 

そう言ってやると、霞は何やら小さくなった。

 

「心配してくれるのね……」

 

「そりゃな。朝食の準備をするから、お前はテレビでも見てろよ」

 

「私も手伝うわ」

 

「そうか? じゃあ、卵かき混ぜてくれないか? 卵焼きにする」

 

「分かった」

 

素直に従う霞。

そういや最近の霞、やけに話しかけてくれるようになったな。

手伝いも積極的にするようになったし。

あきつ丸ともああして交流できていたところを見ると、結構成長したのかもしれないな。

 

「ねぇ、聞いていい?」

 

卵をかき混ぜながら、霞は聞いた。

 

「ん、なんだ?」

 

「あんたにとっての私ってさ、どういう存在なわけ?」

 

「どういう存在?」

 

「なんか、あるでしょ。友達とか、そういうの……」

 

「友達であって欲しいのか?」

 

「そうは言ってないでしょ。ただ……気になって……」

 

どういう存在、か。

それを考える以前に、俺は霞が何故そんなことを聞いてくるのか気になっていた。

今まで俺という存在は、愛美の代わりであり、霞が独立できるまでのお世話係みたいなものだと思われていただろうから、俺にとっての霞という存在に、特別名前を付けてこなかった。

霞にとっての俺であり、俺にとっての霞は無くて良いはずであった。

 

「何故そんな事を聞くんだ?」

 

「別に……気になっただけっていってるでしょ……」

 

ここでなんて答えるのが正解なのか、俺は考えた。

その正解の先に、霞は何かを求めている。

 

「逆にお前はどう思っているんだ?」

 

「私はいいの。あんたの答えを聞きたい」

 

そう言うと、霞は溶いた卵を置き、俺をじっと見つめた。

真剣な目であった。

 

「あんたは私に愛美を見ている。でも、私は愛美じゃないし、本当にそうなのか、最近では怪しくなってすらいる……」

 

それを聞いて、何となくではあるが、霞が何を言わんとしているのか分かった。

 

「もし……もし私の中に愛美がいなかったら……勘違いや間違いであったのなら……あんたは私を……霞という存在を……どう受け止めてくれるの……?」

 

それは単なる疑問ではなかった。

それは救いを求める声であった。

 

「……そういや最近、俺はずっと、お前に愛美の記憶がはっきりと存在しているのか、確かめるような事ばかりしてたな」

 

霞は俯き、視線を逸らした。

 

「何故お前がそんなことを言うのか、何となくではあるが、分かるよ。だからこそ謝りたい。ごめんな」

 

「……あんたが私の事、心配してくれたでしょ? それで思ったのよ……。心配しているのは、私なのか、それとも、愛美なのかって……」

 

「無論、お前だ」

 

「うん……分かってる……。でも……」

 

その続きは言わなかった。

 

「霞」

 

目線を合わせ、手を取った。

 

「まさかお前がそんな風に思っているなんて、知らなかった。そうだよな。お前はお前だって、俺はずっと言われてきたもんな」

 

「うん……」

 

「俺にとってお前は、かけがえのない存在だよ。愛美抜きにしても、俺はお前を愛おしく思っている。こう言っちゃ、お前は怒るかもしれないが、俺はお前を自分の子供のように思っている。それが正直な、俺がお前に思っていることだ」

 

「それってつまり、どういうことなのよ……?」

 

つまりどういう事。

つまりってなんだ?

それより先があると言うのか?

 

「それに名前を付けると、どうなるっていうのよ……?」

 

そう言われて、俺は初めて気が付いた。

だが、信じられず、思わず聞いてしまった。

 

「お前、俺に家族だって言ってほしいのか?」

 

そうは言っていない、と言いたげに、視線を逸らす霞。

珍しく顔を赤面させ、握られた手をぎゅっと握り返した。

 

「そうか……。いや、むしろ、俺が家族でいいのかって、思ってしまったよ」

 

「別に……勝手にすればいいとおもうけど……」

 

「恥ずかしがるくらいなら、いっそ下手な誘導なんかせず、ストレートにそう言ってほしいと、言えば良かろうに」

 

「あんたが鈍感過ぎて、もっと早くに察してくれれば良かったのよ……」

 

「それもそうだな。悪い」

 

静かな時が流れる。

 

「霞」

 

呼びかけると、霞はゆっくりと視線を合わせてくれた。

 

「『これからも』俺にとっての家族であってくれるか?」

 

霞は答えることをせず、そっと俺を抱きしめた。

 

「霞……」

 

「やっと私を見てくれた……」

 

「俺はずっと、お前を見ていたよ。それをしっかりと伝えられなかったな。悪い」

 

優しく抱きしめてやる。

話しかけてくれるようになったのも、手伝いをしてくれるようになったのも、全ては俺との距離を縮めようと頑張ってくれた証拠だったんだな。

気が付いてやれなかった。

霞の事を理解しているつもりであったが、それはあくまでも、俺の知っている「愛美の魂を持った霞」であって、霞自身ではなかったのだ。

 

「…………」

 

愛美。

俺はお前を愛している。

だが、それ以上に、俺は霞という存在を愛さなければならない。

今までずっと、お前の影を追い続けて来た。

けど、本当の本当に、俺はお前と決別しなければいけない。

霞の為に生きたいと思ったのだ。

家族の為に生きたいと思ったのだ。

 

「霞、俺は決意したよ。もう、愛美の影は追わない」

 

「え?」

 

「これからは、お前と共に生きて行く。お前をお前自身として……一人の家族として受け入れるためにな」

 

霞がそれをどう受け取ったのかは分からない。

ただ、小さく「うん」と言ったのみであった。

 

 

 

そんな決意をした後、俺は頭を悩ませていた。

愛美の影を追わないということは、忘れることと同意なのかもしれない。

つまるところ、今まで浮気になるだなんだと言って自制していたが、それがなくなるという事。

愛美を愛しているからだとか、そう言った理由は使えなくなる。

好きか嫌いか、それが全てになるのだ。

ならば、それを判断すればよいのでは? と思うだろう。

俺も思う。

だからこそ、悩んでいる。

 

「うぅむ……」

 

つまるところ、俺は好きなのだ。

最上も、鈴谷も、あろうことか大淀や鳳翔の事も。

最低だが、愛美が居るからドライでいれたのであって、男としては、粋った野郎以前に、初心な男ですらあるのかもしれないのだ。

それは鳳翔の押しに動揺しているのを見れば納得いくであろうと思う。

もし今、少しでも強いアプローチがあったのなら、俺は何を支えに耐え忍べばよいのか。

そもそも、そんな必要があるのだろうか。

 

「何を考えているのだ俺は……」

 

なんだか情けなくなってくる。

愛美がいなくなった途端、駄目になってしまうのはいかがなものか。

 

「心を強く持て勉……。乗り越えるんだ……」

 

そんなことで心持を強くしようとした矢先、鈴谷からメッセージが届いた。

 

『先生、もがみんとデートしたってマ?』

 

『次は鈴谷とデートしてもらうからね!』

 

「デート……」

 

途端に、今までしてきた最上との数々が恥ずかしく感じられた。

キスくらいで~みたいなこと言っていたが、今からすると、本当、とんでもないことしてたんだなと思う。

 

「いつものように振る舞う自信すら無くなって来たぜ……」

 

いつもなら『今度な』と気軽に返信したものだが、何だかどう思われるのか考えてしまって、しばらく返信ができなかった。

 

――続く



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7話

「そうですか……」

 

大淀は肩を落とすと、俺の言葉を繰り返した。

 

「霞ちゃんの為に愛美さんを忘れる、ですか……」

 

「あぁ……。あきつ丸の事は気になるが、これ以上は深く詮索しないことにした」

 

「しかし、それでいいのですか? せっかく分かってきたところなのに……。本部内でも協力者が増えてきたというのに」

 

「結局何が分かったとしても、愛美が帰ってくることはないんだ。だったらいっそのこと、今いる霞のことに一生懸命になろうと思う」

 

俺の決意が固いと見るや、大淀は諦めたように微笑んで見せた。

 

「分かりました。しかし、先生とは別に、私たちは継承の記憶について調べようと思っています。それに協力していただけるくらいは、いいですよね?」

 

「もちろんだ。あきつ丸も最近家に来るようになったし、何か分かったら連絡するつもりだ」

 

「ありがとうございます」

 

そう言うと、大淀は寂しそうに俯いた。

 

「どうした?」

 

「いえ、その……」

 

大淀は少し躊躇った後、小さな声で言った。

 

「愛美さんのことがなくても、仕事の関係だけじゃなくても、先生は私と居てくれるのかなって……。これで終わり……って訳じゃないですよね?」

 

大淀は何かに気がついたかのようにして、一友人として、と付け加えた。

いつもなら冗談の一つでも返してやるものだが、なんとも愛らしいその姿に、俺は終始目を奪われ、返事するのを忘れてしまった。

 

「先生……?」

 

「い、いや、もちろんだ。そうだな。一友人として……これからも……」

 

大淀が嬉しそうに微笑むと、二人の間に変な空気が流れた。

いや、或いは俺だけがそう感じているだけなのかもしれない。

とにもかくにも、大淀の考えていることはさておき、俺は変に大淀を意識していけなかった。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

――に行った帰りの電車で、霞は買ってもらった万華鏡をいつまでも覗いていた。

 

「よく飽きないな」

 

「だって、見るたびに形が変わるのよ。不思議だし、とても綺麗。ほら、見て」

 

「どれ。おぉ、確かに綺麗だな」

 

「でしょ? 万華鏡なんて、話には聞いていたのだけれど、こんなにいいものだとは思わなかったわ。買ってくれてありがとう」

 

そう言うと、霞は飛び切りの笑顔を見せてくれた。

愛美との本当の意味での決別を決意してから数日。

霞が「愛美とは関係のない思い出が欲しい」というような事を言ってきたので、俺たちは、俺たちにとっての「初めて」を求め、こうして出かける日々を送っていた。

 

「ねぇ、次回はどこに連れて行ってくれるのよ?」

 

「そうだな。逆にどこに行ってみたい?」

 

「あんたが行きたいところ。っていうか、そう言うのは男が決めるものでしょ? しっかりしなさいよ」

 

「デートでもあるまいし」

 

「デートでも結構よ。それで、次回はどこに行くの?」

 

デート、という単語が出ても、霞は恥ずかしがったりしなかった。

以前なら、全力で否定してきたものだが、そんなこともお構いなしに、この時間を楽しんでくれているという事なのだろうか。

 

「分かった分かった。考えておくよ。とりあえず、明日からはあきつ丸と遊びに行くんだろ?」

 

「そうだけど、あんたも一緒じゃないの?」

 

「あぁ、俺の方は最上鈴谷と約束があるものでな」

 

「ふぅん。よく三人で了解取れたわね。二人っきりの方を望みそうなものだけれど」

 

「まあ、そうだな……」

 

実際には、二人とも別々にお誘いがあった。

だが、どっちと先に遊ぶかで俺が日和ってしまい、最終的に三人で遊ぶことになったのであった。

 

「そういえばあんた、なんだかあきつ丸の事を避けてない?」

 

「そうか?」

 

「あきつ丸が遊びに来ると出かけだしたり、どこか行こうってなると、予定入れたり」

 

「偶然だろ。別に避けてはいない。というよりも、あきつ丸はお前と遊びに来ているのだろう? だったら俺がいなくてもいいだろうに」

 

「まあ、そうなんだけど……」

 

そうは言ったものの、これまた実際に霞の言う通りであった。

俺はあきつ丸を避けている。

ここ数日で気が付いたことなのだが、あきつ丸は、霞以上に愛美っぽいのだ。

仕草や価値観、ふと出る口癖でさえ、愛美と重なる。

それが日に日に強くなってゆくものだから、俺はとうとうあきつ丸を避けるようになってしまった。

 

「あきつ丸も避けられていると思っているみたいだし、たまには三人で遊びましょうよ。そこに最上が居てもいいから」

 

「あぁ、そうだな」

 

「じゃあ、そう言うことで。次回行くところ、考えておいてよね」

 

そう言うと、霞は再び万華鏡を覗き始めた。

本当、好きだな、それ。

 

 

 

翌日は朝からあきつ丸が来ると言うので、俺は早々に家を出た。

二人との約束は11時からであったが、家を出たのは9時。

二時間もの間、どのように時間を潰そうか、駅に向かいながら考えていた。

 

「しかしまあ、なんだって朝からくるのかね……」

 

思えば、あきつ丸が訪問してくる時間は、日に日に早くなっているような。

霞と早く遊びたいというよりも、なんだか俺と会う時間帯を探っていると言うか、そんな感じがして――まあ、思い違いなのだろうがな。

しかしまあ、どうも愛美を忘れようとしてから、そういう思い違いが多くていけない。

最上や鈴谷は好意を抱いてくれていると知っているからいいものの、大淀や鳳翔というのは、なんとも――。

そんな事を考えている内に、駅前の広場に出た。

 

「さて……」

 

どこで時間を潰そうか。

カフェなんてのは、10時くらいにならないと開いて無いしな。

本屋は……似たようなもんか。

 

「仕方ない……」

 

木陰にあるベンチに座る。

カフェの開く10時まではまだ少しあるし、適当に人の流れでも眺めることにした。

仕事に詰まった時なんかに、よくやることであった。

 

「しかし暑いな……」

 

それは、気温もさることながら、流れて行く人々に対して言ったものであった。

平日のこの時間は、通勤も落ち着き、営業だか何だかで駅を利用する人々で溢れている。

こんな暑い日にも関わらず、奴らは上着を抱え、忙しなく電車へと乗り込んでゆく。

スーツなんて着なきゃいいものを、何故律儀に奴らは――。

 

『あれは元々軍服だったんだ』

 

どこかで誰かに聞いた話だ。

そいつ曰く、『習慣や規律なんてものは、共存共栄において不可欠なものなんだ。我々は他者の心は読めないが、「スーツを着る事は習慣」だという共通の認識を視覚的に、また着ることによることで表現することが出来る。つまるところ、スーツを着るというのは、心を読み、さらけ出すことと同義なのだろうと思う。故に、営業にスーツなんてのは、最も適していると思わないかね』

まあ、尤もらしいこと。

しかしながら、共通の認識という点で言うのなら、辞書でも持ってきた方が賢いのだと思うのは俺だけだろうか。

スーツでなくとも、「ラフな格好でいることが習慣」であれば、もっと快適だと思うのだけれど。

 

「ん……」

 

我に返ったのは、木製のベンチが少しだけ沈んだからであった。

決して、俺が急に重くなったからだとか、ベンチが腐っていた訳ではない。

隣に誰かが座ったのだ。

広場にあるいくつかの、それも木陰に潜む空きベンチがあるのにも関わらず。

ふと、あきつ丸と初めて会った時の事を思い出し、汗ばんだ背中の筋が凍る思いに駆られた。

 

「あの……」

 

恐る恐る声の方を見る。

そこには、一人の少女が座っていた。

 

「青葉……?」

 

名前を呼ばれた青葉は、少し驚いた後、小さく息を漏らして、微笑んで見せた。

 

 

 

いつの間にか、スーツ集団は主婦集団にかわっていた。

 

「名前、覚えてくれたのですね……。恐縮です。えへへ」

 

「大淀から聞いていたんだ。この前は驚かせて悪かったな」

 

「い、いえ……こちらこそ……。あ……その、ご馳走様でした! 昨日鳳翔さんのお店に行ったら、し……貴方のツケで食べていいって言われまして……。お言葉に甘えさせていただきました……」

 

「せめてもの償いだ」

 

「ありがとうございます」

 

数秒の沈黙が続く。

お礼を言う為に隣に座った、というには、居座るように深く腰掛けている。

それが気になった。

 

「待ち合わせか?」

 

「いえ……」

 

ハズレか。

だとすると……。

 

「たまたまです。たまたま、朝焼けの写真を撮った帰りに、貴方を見かけまして……」

 

俺の心を読んだかのように、青葉は言った。

 

「写真、好きなので……」

 

細長いバッグから立派なカメラを取り出すと、何やら操作して、一枚の写真を見せてくれた。

 

「これです。――川の土手で撮影しました」

 

そこには、なんとも鮮やかな朝焼けが写っていた。

 

「綺麗だな」

 

「はい、とても綺麗でした」

 

写真を見せんと近づく青葉は、ほんのりと甘い匂いを漂わせていた。

 

「本当に綺麗だ」

 

そう言って、ふと視線を青葉に移すと、青葉は俺をじっと見つめていた。

目が合うと互いに驚き、咄嗟に視線を逸らした。

 

「あ……ごめんなさい……」

 

「い、いや……俺の顔に何かついていたか?」

 

「い、いえ……その……」

 

何かを言おうとして、青葉は閉口した。

俺は顔に何もついていない事を確認して、深くベンチに深く腰掛けた。

再び沈黙が続く。

 

「あ、あの!」

 

青葉は急に立ち上がると、俺に向いた。

 

「これから……お暇ですか……? その……御馳走になったお礼がしたいのですが……良かったら……これから……」

 

しどろもどろに話す青葉。

その顔は赤面し、バッグの紐を力いっぱい、不安そうに握りしめていた。

 

「気持ちはありがたいが、これから人と会うのでな。すまない」

 

「あ……。そう……ですか……。そうですよね……。待ち合わせ、しているんですよね……。ここで……」

 

「あぁ、すまない。それに、お礼なんて、俺が脅かしてしまったのだし、悪いよ」

 

「そ……」

 

そ?

青葉は少し躊躇った後、まるで諦めるかのように力を抜いて、再び隣に座った。

 

「青葉?」

 

「正直に言います……」

 

再び目が合う。

眉がきりっと吊り上がっていて、普段はもっと活発な子なのだろうと想像たやすいほどに、お似合いの表情であった。

 

「青葉は、貴方のファンです! お礼なんて二の次……っていうのは失礼ですけど、貴方と接点を持ちたいと思って、言っているんです!」

 

全てを言い終え、青葉は疲れ切ったと言うようにして、深く腰掛けた。

 

「すみません……。驚きましたよね……」

 

「いや……まあ、俺のファン……であることは鳳翔から聞いていたしな……。それでも、正直すぎるのには驚いたが」

 

そう笑ってやると、青葉も嬉しそうに笑った。

 

「といっても、青葉の場合は、貴方のファン、という意味なんですけどね……」

 

ん?

 

「どういう意味だ?」

 

「その、貴方のファンというのは、普通は小説家として、ですけど……。青葉の場合は、貴方自身のファンでして……。あ、小説家としての貴方も大好きですよ!? 本も全部持っていますし、同人誌だって読んだことが……」

 

俺はますます分からなかった。

俺のファン。

小説家として、ではなく、俺自身の。

一体全体、どうしてそうなったのだろうか。

青葉との直接的な接点はなかったし、大淀から聞かされていたのだとしても、ファンになるほどの事を聞かされたわけでもなかろう。

 

「気持ち悪いと思うかもしれませんが……実は……貴方の事はずっと見ていました……。悪いとは思いましたが、写真も撮ってしまったり……」

 

青葉は再びカメラを取り出すと、俺に写真を見せた。

俺の写真だった。

 

「大淀さんから貴方の事は聞いていましたし、写真も見せてもらいました。その時から、一目惚れしまして……。貴方の事を……その……悪い言い方をすれば、ストーキングしたこともあるくらいです……」

 

それを聞いて、俺はいつだったか、何度か視線を感じたことを思い出した。

撮ったという写真を見ても、確かにあの時の――あれは鈴谷と出かけた時の事である――その場所で鈴谷と話し込んでいる写真であった。

 

「鳳翔さんのお店で会った時、青葉は貴方の事を取材していたんです……。こうして話しかけるつもりはなかったのですが、出会ったのも運命なのかなって……思ってしまって……。それで……話しかけちゃいました……。えへへ……」

 

本当にそうなのだろう。

青葉は恥ずかしそうに手を揉んだ。

 

「そうだったか……」

 

「気持ち悪いですよね……。自分でも分かっているんです……。でも、貴方を見ていると……」

 

そこまで言って、閉口した。

 

「ごめんなさい……」

 

「いや……」

 

話を聞いていても、やはりというか、どういう経緯があったにしろ、俺にはその一目惚れと言うものが分からなかった。

 

「そういう気持ちは、素直に嬉しいよ。一目惚れされるなんてのは、初めての経験ではあるが……」

 

「え? そうなんですか? でも……」

 

そこまで言うと、青葉はなにやら焦りを見せて、とっさに話題を変えた。

 

「あ、もうこんな時間ですね。待ち合わせしているんですよね。お時間とってしまって申し訳ございませんでした。あの、良かったら連絡先交換してくれませんか!?」

 

「ん、あ、あぁ……」

 

流れるようにして、連絡先を交換した。

焦っているとはいえ、急に大胆な行動をする辺り、本来の姿がこうなんだろうと想像できる。

 

「ありがとうございます。えへへ。たまに連絡しちゃってもいいですか?」

 

「あ、あぁ……構わない」

 

「恐縮です! では、青葉はこれで……」

 

そう言ってベンチを離れた直後、思い出したかのようにして、再び俺に向き合った。

 

「あ、あの! 一つだけ、いいですか?」

 

「なんだ?」

 

「その……変に思うかもしれませんが、聞いて欲しいことがあると言うか、お願いがあるのですけど……」

 

もじもじする青葉。

緩急のあるその態度に、俺は風邪を引きそうな思いであった。

 

「笑わないでくださいね?」

 

何を笑う必要があるのだろうか。

逆にどう笑わせてくれるのだと期待してしまう。

 

「貴方が先生だとか勉さんだとか、いろんな呼ばれ方をしているのは知っています。だからこそ、念押しさせてください」

 

ますます笑いのハードルが上がる。

 

「大丈夫だ。言ってみろよ」

 

溜めに溜める青葉。

俺の期待がピークに達した頃、青葉はふり絞るようにして言った。

 

「貴方の事を……「司令官」って……呼ばせてほしいんです……」

 

 

 

「あ、先生!」

 

先に着いたのは、鈴谷であった。

 

「おう」

 

「早いじゃん。まだ三十分前だよ?」

 

「お前より早く来ないと怒られるからな」

 

「ふぅん、分かってんじゃん。今日はもがみんも一緒なんでしょ? 鈴谷、二人っきりが良かったんだけどなー?」

 

俺が日和ったのだと知っているのか、鈴谷はからかうようにしてそう言った。

 

「まあでも、今だけは二人っきりだし? イチャイチャしてくれたら許すけど?」

 

「勘弁してくれ」

 

「照れちゃってー。にひひ。ねぇ先生、もがみんは来なかったって事でさ、二人でどっか行こうよ」

 

「誰が来なかったって?」

 

最上が顔をひきつかせ、鈴谷の肩を叩いた。

 

「あれ、来ちゃったんだー。残念」

 

「本気で怒るよ? 全く……」

 

そう言うと、最上は俺をじろりと睨んだ。

 

「先生、なんで家に居ないのさ?」

 

「え?」

 

「せっかく一緒に駅まで行こうと思って迎えに行ったのに……。朝早くから出たって聞いてさ……」

 

「あぁ、それは……」

 

「鈴谷に早く会いたかったから、だよねー。先生」

 

そう言うと、鈴谷は俺の腕を抱いた。

いつもならなんとも思わない(それはそれで問題だが)筈なのに、俺はクラっと来てしまった。

それにしてもこいつ、本当にデカくて――。

 

「鈴谷はいつも来るの早いから、それに合わせてくれたんだよねー、先生」

 

「そうなの……?」

 

最上の目が、冷たく俺を見つめる。

 

「いや、そう言う訳じゃ……」

 

「別にいいけどね……」

 

ふん、とそっぽを向くと、最上は小さく「たらし」と言った。

振り回されているだけなんだがな。

 

 

 

それからは終始、鈴谷のペースで事は進んでゆき、若さというか、グイグイ来る感じに圧倒されていった。

振り回され、満更でもなさそうな俺を見て、最上は退屈そうにため息をつくだけであった。

 

「もがみんテンション低くない? 帰るぅ?」

 

「そうしようかな……」

 

「ちょ、冗談だって! 拗ねるくらいなら、もがみんも先生にグイグイいったらいいじゃん」

 

「ボクは別に……」

 

最上の奴、一度そういう態度に出てしまった手前、引くに引けなくなってる感じだな。

俺に怒っているのもあるのだろうけど。

 

「ふぅん、じゃあ鈴谷が先生貰っちゃうからね」

 

「いいんじゃない……」

 

「いいんだ」

 

「いいってば……」

 

「だって先生」

 

引っ付く鈴谷。

決め手だな。

最上はもう、今日はずっとこのテンションを外せないだろう。

 

「鈴谷、そのくらいにしておけ。それと、あんまりベタベタするのは良くないと思うぜ。色々と」

 

「色々って?」

 

「色々ってのは……まあ、世間体とか……。お前、広報を仕事にしているし、最近よくテレビにも出てるし、見られたらまずいだろ」

 

「別に鈴谷はいいよ。テレビで、この人が恋人ですって、先生紹介しても」

 

「いや、まずいだろ」

 

「まずくないよ。実際、恋人がいる艦娘もいるし、応援してくれる声の方が多いんだよ?」

 

にしたって、広報が恋人ってのはまずい気がするものだが。

人間に置き換えれば、アナウンサーに恋人報道があるようなものだしな。

いや、逆にそう考えると、ありなのだろうか。

 

「鈴谷は、先生の恋人になりたいと思ってるよ? もがみんはそうじゃないみたいだけど」

 

最上は反論しようとして、閉口した。

 

「それに、先生の言う色々ってさ……先生自身の事も含まれてるんでしょ……?」

 

鈴谷のトーンが、あの日、海に行った時のものへと変わりつつある。

謎の緊張感が三人の間に走った。

 

「今日、ずっと鈴谷の体が触れる度に、先生、意識してたっしょ。分かるんだ」

 

なんだかいけない事をして咎められているように思えて、俺は委縮してしまった。

 

「鈴谷、先生になら全部あげてもいいと思ってるよ。恋人になったら、鈴谷のこと、好きにしていいよ……」

 

その意味を鈴谷はしっかりと理解しているようであった。

俺がどう反応していいのか分からずにいると、最上が口を開いた。

 

「鈴谷、本気なの……?」

 

「うん、本気だよ。もがみんは違うんでしょ?」

 

「いや……ボクは……」

 

「違うの?」

 

鈴谷の圧に、最上も委縮したようであった。

 

「もし先生の事が好きじゃないなら、鈴谷が今からすること、何も言わずに見ててね……」

 

鈴谷は向き合うと、俺の目をじっと見つめた。

そして、そっと俺の首に手を回すと――。

俺も最上も、その行動の意味に気が付いた時には、もう既にどうしようも出来ないでいた。

鈴谷は今まで見たこともないほどに赤面し、それでいて涙していた。

精一杯の、勇気を振りしぼっての行動だったのだろう。

鈴谷の震える唇が離れる。

優しく、そして、どこか官能的なキスであった。

 

「鈴谷、お前……」

 

俺の問いかけをそっちのけで、鈴谷は最上を見つめた。

 

「もがみん……」

 

鈴谷が何を言わんとしているのか、最上には分かっているようであった。

 

「先生……」

 

「最上……」

 

「ボク……ボクは……」

 

最上は力いっぱい拳を握ると、そっぽを向いて、走り出してしまった。

 

「最上!」

 

追おうとした俺の手を、鈴谷は強く取った。

 

「先生……!」

 

「鈴谷、離せ!」

 

「離さない!」

 

鈴谷はさらに俺の腕を抱くと、これまた強く引っ張った。

 

「行かせない……。離さないから……」

 

最上の走った方向を向く。

もうそこに、姿はなかった。

 

「先生……」

 

「鈴谷……」

 

「もがみんは……引いたんだよ……。先生の事、諦めたんだよ……?」

 

「そんなことは……」

 

「そうじゃなかったら……逃げ出したりしないよ……。もがみんがどう思ったかは知らないけど……鈴谷がもがみんだったら、こんなことで逃げ出すなんて……絶対にしない……」

 

それは最上の立場でなければ分からない事だ。

それでも、鈴谷は譲らない。

 

「もがみんと先生が深い仲だって知ってる……。お泊りもしょっちゅうだって聞いてるし……もしかしたら……もう鈴谷の想像以上の事、しているのかもしれない……」

 

「…………」

 

「それでも……鈴谷は先生の事が好き……。好きでい続けた……」

 

それ以上は言わなかったが、鈴谷が主張したいことは分かった。

最上と自分は違う。

そう言いたいのだろう。

 

「先生……」

 

鈴谷の目が、俺をじっと見つめた。

そして、何かを決意したようにして俺の手を引っ張り、歩き出した。

 

「お、おい……どこに……」

 

「鈴谷のお家……」

 

「え……?」

 

足を止め、振り向いた鈴谷の表情は、赤く、そして、今にも泣き出しそうなものであった。

 

「い、言ったでしょ……。鈴谷の全部、先生に……あ、あげる……って……」

 

その様子に、俺は抵抗するのをやめた。

きっとこいつは――こいつには――。

 

 

 

鈴谷の家はセキュリティーの強いマンションの七階に位置していた。

部屋の中は、俺の若いころに住んでいたアパートとは比べ物にならないくらい広く、立派なものであった。

 

「立派な部屋だな」

 

俺の問いも、今の鈴谷には届かないようであった。

荷物を置くと、やっと手を離して、俺を座らせた。

 

「…………」

 

鈴谷は何をするわけでも無く、ただ俯いていた。

やはりな。

俺が抵抗もせずにここに来たのは、この為であった。

 

「頭は冷えたか?」

 

そう言ってやると、鈴谷は小さく頷いた。

 

「先生が抵抗したら……冷えなかったかもしれない……」

 

「抵抗したら逃げ出せていただろうよ」

 

「先生非力じゃん……。鈴谷の方が強いし……」

 

それを否定できなくて、俺は閉口した。

 

「……どうして来てくれたの?」

 

「何もないって分かっていたからだ」

 

正直に言ってやると、鈴谷は小さく笑った。

 

「じゃあ、今からするっていったら……抵抗するの……?」

 

「抵抗しても負けそうだ。けど、決め手はあるぜ」

 

「なに?」

 

「ゴム、ないだろ」

 

鈴谷は目を大きくして、ハッとした。

 

「で、でも……家にあったら……どうすんの……?」

 

「そう言うことに関して、お前はあまりフランクには考えてないと思う。だから、きっとないだろうって」

 

要するに信頼していると言いたかったのだが、鈴谷はあまりいい方に捉えなかったようで、色々と例えを出してきた。

 

「分かんないじゃん! 鈴谷、結構言い寄られたりするし! そういう準備だって……するかもしれないじゃん……」

 

「でも、してなかったんだろ?」

 

「それは結果論じゃん!」

 

それからああでもないこうでもないと言い合って、議論が平行線を辿ったあたりで、俺はその話題を切ろうと、言った。

 

「あぁ、分かったよ。そういうことにしておこう。この話題は終わりだ」

 

鈴谷も落ちどころを探していたのか、それに乗っかった。

 

「うん……終わり……」

 

息を整えるようにして、互いに大きくため息をついた。

窓の外は夕焼けに染まっていて、西へと陽が沈んでゆくのがよく見えた。

日照権を侵害するものが無く洗濯物がよく乾くのだろうな、なんて思った。

 

「男の人をさ……」

 

「…………」

 

「男の人を部屋に入れたの……初めてなんだよね……。っていうか、男の人と手を繋いだのだって……ビジネス以外では……先生だけなんだ……」

 

意外には思わなかった。

だが、あえて伝えることはしなかった。

 

「先生、鈴谷が……その……プロポーズ的な事言った時さ、言ってくれたじゃん?『その気持ちを別の誰かに持てた時、同じように泣いてやれ』って……」

 

「あぁ」

 

「あれから仕事とかで、たくさんの人と会ったけど……いい人も中には居たけれど……やっぱりあの時の、あの涙を流せるほどの人は……先生以外に居なかったよ……?」

 

膝を抱え、俺の顔を覗き込むようにして問いかけるその姿は、なんとも愛らしいものであった。

 

「だから、やっぱり鈴谷は先生の事が好き……。先生は……鈴谷の事、好き……?」

 

力ずくて連れてこられ、力ずくで襲われる。

そんな事よりも、よっぽど俺を苦しめる問いかけであった。

鈴谷の事は好きだ。

でも、それと同じくらいに、俺は皆を好きでいる。

鈴谷の好きと俺の好きは、きっと同じ質というか、同じ種類のものであると思う。

けど、鈴谷は俺だけに、俺は皆に、それを持っている。

 

「お前の事は好きだ。でも、それと同じくらいに、俺は……」

 

誰とは言わなかった。

それでも、鈴谷は分かってくれた。

 

「……そっか。そうだよね。でも、奥さんの事、言わなくなったね……。何かあったの……?」

 

俺は少し躊躇った後、鈴谷に全てを話した。

愛美を忘れようとしたことだけではなく、それ故に抱えている悩みも全て。

 

「――そう言う訳だ。お前の気持ちは嬉しい。だが、俺は揺らいでいる。最低だって、自分でも分かっているし、だからこそ、お前を……最上を苦しめてしまうってのも……」

 

「先生……」

 

「ごめんな、鈴谷……俺は――」

 

その時、鈴谷は唐突に、俺の唇を奪った。

 

「す……鈴谷……?」

 

「だったら……苦しめるのが嫌なら……早く鈴谷のものになっちゃいなよ……」

 

「え……?」

 

「鈴谷が誰よりも先生の一番になったら……先生も悩まずに済むでしょ……? 鈴谷、そうなれるように……頑張るから……」

 

再び唇を奪う鈴谷。

今度は軽いものではなく、深く、探るようなキスであった。

 

「す、鈴谷……!」

 

抵抗しても、なるほど、力が強い。

そのまま押し倒すと、馬乗りになり、俺の手を押さえつけた。

 

「先生……」

 

「お前、自分で何をしているのか分かっているのか……?」

 

「分かってるよ……」

 

「お前……」

 

「先生だって、期待してなかったかと言ったら嘘になるでしょ……? ゴムがないって言っても、鈴谷が無しでも構わないって……言ったらどうするつもりだったの……?」

 

「……お前はそんなこと」

「言うよ……。鈴谷は……先生が思っているほど……子供じゃないんだよ……」

 

服を脱ぐ鈴谷。

目を逸らしても、俺の男の部分は、情けなくも反応してしまった。

 

「なんやかんや言っても、先生も男じゃん……」

 

「鈴谷……こういうのは良くない……。もう一度考え直せないのか……?」

 

「先生が恋人になってくれたらやめてもいいよ……」

 

だが、俺に考える余地を与える事なく、鈴谷は――。

 

 

 

家に帰ると、玄関に見覚えのある靴が置いてあった。

そして、その靴の持ち主は、笑顔で俺を迎えてくれた。

 

「お帰り先生」

 

「最上……!」

 

驚いている俺の横を、霞がすり抜けていった。

 

「霞、何処へ行くんだ?」

 

「鳳翔さんのところ。ご飯食べてくる」

 

「そうか。ちょっと待ってろ。俺も今準備を……」

 

「一人で行く」

 

「え? しかしお前……」

 

「いつまでもあんたに頼りっぱなしって訳にも行かないわ。それに、最上があんたに話があるそうだし」

 

そう言うと、霞はそそくさと家を出て行った。

 

「先生」

 

最上は驚くほど、平生であった。

 

「とりあえず、あがったら?」

 

 

 

最上は俺のベッドに座ると、適当な俺の本を手に取って、パラパラとめくり始めた。

 

「昼間はごめんね。気が動転しちゃってさ」

 

「いや……」

 

冷静を装っているわけではない。

何かが吹っ切れたのだと、すぐに分かった。

 

「帰り、遅かったね。鈴谷とどこか行ってたの?」

 

「……あぁ、あいつの家に連れていかれてな」

 

「シたの?」

 

俺が答えないでいると、最上は小さく笑った。

 

「凄いや。鈴谷、出来たんだね」

 

感心する最上。

だが、違うんだ。

 

「……出来なかったんだ」

 

「え?」

 

そう、出来なかった。

しなかったとか、抵抗したとか、そういう事ではない。

出来なかったのだ。

 

「どういう事? 先生か鈴谷、日和った?」

 

「いや……その……。お前、鈴谷の為にも、黙っていられるか?」

 

「え? う、うん……」

 

「絶対だぞ……」

 

「分かったよ。やけに勿体付けるね」

 

まあ、それだけ恥ずかしい事というか……なんというか……。

俺は一呼吸おいてから、最上に順を追って説明をした。

そして、クライマックスに差し掛かった所で、言った。

 

「それで、あいつが腰を降ろそうってところで、気が付いたんだよ……」

 

最上は唾をのみ込んで、オチに備えた。

 

「あいつさ……」

 

「う、うん……」

 

「生理中だったんだよ……」

 

「……え?」

 

静寂が、俺たちを包んだ。

どう反応したらいいのか、最上は分からないと言った感じであった。

笑っていいものなのか、悲しんだものなのか。

 

「そ……そうなんだ……。それは……大変だったね……」

 

「それから、恥ずかしくなったのか知らんが、追い出されてな。俺も……その……それで冷めてくれればよかったんだが……そう言う訳にいかなくてな……」

 

「どこかで……この時間まで熱を冷やしていた……とか……?」

 

「あぁ……」

 

再びの静寂。

俺も最上も、どう終わらせていいのか、どう返したらいいのか分からなかった。

 

「そっかそっか……。でも、凄いね。そこまで行ったんだからさ」

 

それにもどう反応していいのか分からず、また静寂が続いた。

 

「……お前はどうしたんだ? あの後……」

 

「え? あ、うん……家に帰ったよ。色々考えようと思ってさ」

 

「色々?」

 

「先生の事とか、これからの事とか……。あ、今日はその事を話したくて来たんだ」

 

何とか軌道修正できた。

似たような軌道ではあるけれど。

 

「ボク、あれから色々考えたんだけど、先生の事、諦めようって思うんだ」

 

何となく、そう言われるような気がしていた。

 

「鈴谷が先生にキスした時、この押しには勝てないなって、思ったんだ。先生は押しに弱いからさ」

 

そこは否定できない。

 

「それに、さっき霞ちゃんに聞いたんだけど、奥さんの事、忘れようとしてるんだって?」

 

「あぁ……」

 

「それって、奥さん以外の誰かを受け入れることと同義だと思うんだ。先生はそう考える人だから」

 

全く持ってその通りであった。

こいつは本当、俺の事をよく知っている。

 

「そうなると、ますます鈴谷には勝てないんだよね。それどころかさ、もし先生がボクを好きでいてくれて、本当に奥さんが理由で気持ちに応えられなかったのだとしたら、奥さんを忘れる決意した段階で、ボクに気持ちを伝えてくれていたと思うんだ。それが無いって事は、つまりそう言うことだよね」

 

それは違う。

俺はただ皆を――いや、最上にとっては、同じことなのかも知れない。

 

「ボクを好きになってもらうのに、ボクが出来る事はもう何もない。これ以上の関係は、ボクには作れない。そう思ったんだ」

 

きっと、諦めることが前提にある理由なのだろうと思う。

これ以上傷つかないために、最上は引くことを選んだのだ。

鈴谷は進むことで、最上は引くことで、傷つくことを避けたのだ。

そうさせたのは、まぎれもない俺で、傷を作ったのも俺であった。

 

「最上……ごめんな……」

 

「先生が謝ることはないよ。ボクが勝手に恋をして、諦めたってだけだから」

 

俺は謝ることしかできなかった。

慰めだろうが何だろうが、今の俺がしてしまっては、また傷つけることになるだろうと思ったからだ。

最上が諦めるというのなら、俺がそれを止めるのは酷だと思ったのだ。

 

「安心して。関係を崩すつもりはないからさ。今ままで通り、平気な顔して遊びに来てやるから」

 

そう言って、最上は笑って見せた。

 

「……ほどほどに頼むぜ」

 

そう笑って返してやることが、今の俺に出来る精一杯の事であった。

 

 

 

最上を送ってやり家に帰ると、霞は帰宅していて、テレビを見ていた。

 

「お帰り」

 

「ただいま。鳳翔の店、どうだった?」

 

「どうだったって、何が?」

 

「いや、苦手だって言ってたから、大丈夫なのかと思ってさ」

 

「平気よ。世間話だってしたし。心配性ね」

 

「そりゃ、な……」

 

ふと携帯を見ると、鈴谷からメッセージが送られてきていた。

アッカンベーをしている絵文字が一つ。

何を意味しているのかは分からないが、とりあえず平気そうで安心した。

 

「ふぅ……」

 

ソファーに腰掛けると、霞も隣に座った。

 

「なんか疲れてるわね」

 

「まあ、色々あってな……」

 

「そう」

 

「お前の方は、今日あきつ丸と何して遊んだんだ?」

 

「別に、いつも通りだけど。普通に遊んだだけ」

 

その遊んだ内容が気になるのだがな。

深く聞き出そうと思ったが、霞の視線がテレビにくぎ付けになっていることに気が付き、何を聞いても空返事になりそうだったので、やめた。

 

「何観てたんだ?」

 

「見て分かるでしょ。テレビよ」

 

だから内容を……。

テレビは、艦娘の都市伝説を特集していた。

 

「艦娘の都市伝説って、随分限定的な都市伝説なんだな」

 

「しっ! 静かにして! 聞こえないでしょ!」

 

霞の奴、夢中になってんな。

都市伝説とか鼻で笑いそうなものだが、案外こういうの好きなんだな。

俺は霞とのコミュニケーションを諦めて、同じようにテレビを見ることにした。

 

『――海軍は艦娘の本当の姿を隠蔽しています。その目的について話すには、艦娘のとある記憶について話さなければなりません』

 

艦娘の記憶……。

それから番組は、艦娘が持つ記憶について話し始めた。

流石に継承の話は出なかったものの、最上が言っていた「知らない戦いの記憶」の事は出てきていた。

ある事ない事いうような他の都市伝説番組と違って、割と裏が取れているものもあるのだなと思った。

だからこそ、霞も熱心に見ているのかもしれないな。

 

『つまり艦娘は、「歴史にない戦争」の記憶を持っている。それも、我々人間が船になった彼女らに乗り、人間同士で争っている記憶だというのです』

 

『海軍はその記憶を本当の事だと認識しています。そして、隠蔽しているのです。では、何故隠蔽しているのか』

 

『それは、艦娘が並行世界の住人であるからなのです!』

 

都市伝説番組特有の飛躍した説。

結局、これも同じようなものであったか。

 

『とある海峡に並行世界への入り口があると、海軍関係者からリークがありました』

 

だったら、その海軍関係者から全てを聞き、それを伝えればいいのではなかろうか。

そもそも、本当にそんな奴がいるのだろうか。

 

『その入口の先には、艦娘の記憶にある「歴史にない戦争」の起こった世界があったそうです』

 

『そして、その世界で戦っていた船が、ある日突然、全て消息を絶ったそうです』

 

「~そうです」と、急にあいまいな感じになったな。

 

『つまり、その消息を絶った船というのが、艦娘だという訳なんです! 信じるか信じないかは、貴方が決めることです』

 

スタジオが湧く。

結局、海軍が何故隠蔽しているのかは、語られないままであった。

 

「こんなのが面白いのか?」

 

そう問いかけると、霞はいつの間にか、眠ってしまっていた。

霞からしても、途中からの謎説は、やはり退屈に見えたようであった。

 

 

 

霞をベッドに寝かせ、俺は自室へと戻った。

 

「ふぅ……」

 

今日も今日とて、色んなことがあった。

青葉の件、鈴谷の件、最上の件……。

色々あるが、やはりインパクトが強いのは、鈴谷の件だ。

シなかったとはいえ、その直前まで行ったってのは……。

 

「クソ……思い出しちまった……」

 

あいつの裸をモロ見てしまった。

経験がない訳ではないとはいえ、久々であったってのもあるし、愛美以外ってのもあるし……。

 

「……一人でする訳にもいかないし、このモヤモヤを創作にぶつけるか」

 

そう思い、筆を取った時であった。

携帯電話が鳴った。

青葉からの着信だった。

 

「もしもし?」

 

『あ……こんばんは。青葉です。夜遅くにすみません……。えへへ、早速連絡しちゃいました』

 

そういや、気軽に連絡していいことになっていたな……。

まあでも、今の俺には気晴らしになってちょうど良かったのかもしれない。

 

「何か用事か?」

 

『あ、いえ、まあ、はい』

 

どっちだ。

 

『司令官とお話したかったのもありますけど――』

 

司令官……か……。

あの時、そう呼んでいいか聞かれ、俺は流されるまま許可を出した。

しかし、なんだ司令官って……。

改めて考えると、そう呼ぶ意味が分からない。

あいつの司令官が俺に似ていたとか、そういう事であろうか……。

青葉は俺を司令官と呼ぶことが普通だと言う様にして、淡々と話をつづけた。

 

『やっぱり今度、司令官にお礼がしたいんです! いつなら予定、空いていますか?』

 

強制だというようにして、詰めてくる青葉。

やはりあの時想像した青葉本来の姿ってのは、案外あっていたのかもしれない。

ここで断っても良かったが、大淀の為に、延いては俺の為に働いてくれていた青葉に対して、労いの意味も込めて、誘いに乗ることにした。

お礼をするとは言っているが、無論、奢らせるつもりはない。

 

『では、その日で。楽しみにしていますね! 司令官』

 

「あ、あぁ……」

 

しかし慣れないな。

司令官……。

どういう意味でそう呼ぶのか、次回会った時にでも聞いてやろう。

 

『あ、そうだ……。あの……一つお願いがありまして……。聞いて貰ってもいいですか?』

 

またお願いか。

 

「なんだ?」

 

『青葉って、呼んで貰ってもいいですか?』

 

「あ、あぁ……分かった……。青葉」

 

『はい、司令官』

 

電話口の向こうで、青葉は嬉しそうに笑った。

ほぼ初対面で、ここまでべったりされると、少し気味が悪くなるのは俺だけだろうか。

こうなってくると、青葉の言っていた「ストーキング」が、本当に悪い意味に聞こえてならない。

 

「じゃあ……また……」

 

『あ、はい! ありがとうございました。おやすみなさい』

 

「あぁ、おやすみ」

 

俺が言い切る前に、青葉は電話を切った。

そこは聞かないのか……。

 

「変な奴……」

 

すっかり男の熱も冷めてくれていて、俺は急激な眠気に襲われた。

まあ、あれだけ慌てふためいたんだ。

眠くもなるだろう。

風呂に入っていない事に気が付いたが、なんだかそれも面倒になって、俺はそのままベッドに横になった。

色々と考えなきゃいけない事はあるが、まあ明日からでいいだろう。

そう思い、目を瞑った。

 

 

 

この日を境に、俺の人生は大きく動き出すこととなる。

艦娘と俺、そして愛美。

噛み合う様で噛み合わないその三つの歯車が、回転を合わせるようにして、回り始めていた。

 

――続く



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8話

「夢を見るの」

 

愛美は唐突に、そう言った。

 

「夢? どんな夢?」

 

「戦う夢。私は船で、たくさんの飛行機が飛んでて、撃ったり撃たれたり……。あれはきっと戦争なんだわ」

 

「誰と誰が戦争しているんだ?」

 

「分からない。人間同士ではあるのだけれど……。面白いのはね、その船に、私が乗っているのよ」

 

「愛美が? 変な夢だね」

 

「私に乗る私がね、たくさんお話してくれるの。勉さんの話よ。私はその私が好きだったし、その私も私の事が好きだったみたい」

 

「俺はそのどっちを愛していたのだろうね」

 

「私に乗る私でしょ? だって、私は船なんだもの」

 

「そんな筈はない。夢とは言え、心外だ」

 

俺が拗ねる真似をして見せると、愛美はとても嬉しそうに笑った。

 

「ふふ、ごめんなさい。でも、とっても不思議な夢でね? この前なんか、私に乗る私から聞いた勉さんの事が、正夢だったことがあるの」

 

「例えば?」

 

「例えば……この前貰って来たって言うキャンプの……ふふっ、いえ、やっぱりやめておきましょう」

 

「なんだよそれ。気になるじゃないか」

 

「ふふ、言ってもいいけれど、勉さんの弱みを握ったのだと思って、まだ言わないでおくわ」

 

「そんなの握ってどうするんだ?」

 

「いざという時に使わせてもらうわ。我が儘を通すときとか」

 

「いつも言っているし、叶えてやっているだろう」

 

「そうでした。ウフフ、もうこの話は終わりにしましょう。ね、つーくん」

 

「だからお前、その呼び方は……。ったく、都合のいい時だけ……参ったぜ」

 

嬉しそうに笑う愛美。

こんな小さな日常も、その時の俺にはとても、大切に思えていた。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

「ん……」

 

目を覚ますと、そこには顔があった。

 

「うぉ……!?」

 

驚き、寝ぼけ眼を擦ってみると、その顔の正体が分かった。

 

「あきつ丸……?」

 

あきつ丸はニコリと笑うと、カーテンを開けて、朝日を部屋に取り込んだ。

ふと時計を見ると、早朝も早朝、朝の七時であった。

 

「お前、なんで俺の部屋に……」

 

「霞殿に起こすよう言われてきたのであります」

 

「その霞はどこに?」

 

「朝食の準備をするため、台所に。なんでも、鳳翔殿に料理を教わったので、振る舞うとのことであります」

 

なるほど、それであきつ丸も呼ばれたという訳か。

 

「分かった。着替えるから、部屋を出てくれないか?」

 

そう言って立ち上がっても、あきつ丸は動かないでいた。

 

「その前に、一つだけお尋ねしたいことがあります」

 

「なんだ?」

 

「自分を避けているのは……何故でありますか……?」

 

その目は、俺を責めるというよりも、悲しみに暮れていた。

 

「避けているつもりはないがな」

 

「嘘であります……。ここ最近、ずっと会えない日が続いているのは、避けているからでありましょう……?」

 

俺が答えないでいると、あきつ丸は続けた。

 

「愛美さんの事、忘れようとしていると聞きました……。自分はその為に……避けられているのでしょうか……?」

 

「…………」

 

「だとしたら――」

「――何の関係がある?」

 

「え?」

 

俺は厳しい目を、あきつ丸に向けた。

 

「確かに俺は愛美を忘れようとしている。だが、それがお前と何の関係があると言うんだ?」

 

「それは……」

 

あきつ丸は閉口した。

 

「言えないよな。何故かは知らないが、お前は愛美や継承の艦娘の事について話せないようだ。その辺りの確認が取れない以上、お前と愛美は何の関係もないと言える。違うか?」

 

あきつ丸を避け続けても、いずれはこうなることは分かっていた。

だからこそ、あきつ丸を真の意味で避けるには、愛美の記憶そのものを否定せざるを得なかったのだ。

あきつ丸が真実を言えない以上、それは成立するのであった。

 

「避けていると思うのは勝手だ。だがな、元々俺は、お前と仲良しこよしするつもりはないんだ。俺のファンであることは嬉しく思う。ただ、それだけで、それ以上はない。これだけははっきりさせておこう」

 

あきつ丸は何か言いたげであったが、それ以上は言わなかった。

 

「霞と仲良くしてくれて感謝している。これからも仲良くしてくれると嬉しい。だがそこに、俺はいなくていい」

 

「…………」

 

「着替えたいんだ。出て行ってくれるか」

 

背を向け、あきつ丸が去るのを待った。

その間、俺はとても気分が悪かった。

自分のエゴで、あきつ丸を傷つけてしまった。

愛美を忘れようとしている俺に反し、記憶を強めるあきつ丸を――機密を知ることの出来ない苛立ちを――それらすべてをぶつけてしまった。

あきつ丸は何も悪くない。

ただ、一友人として関係を案じてくれただけなのだ。

それを俺は――だが、今はそれが――。

そんなことを考えている内に、あきつ丸はいつの間にか、部屋を出て行っていた。

 

 

 

今日は青葉と会う約束になっている。

お礼をしたいのだと、軽く食事にでも行くものだと思っていたが、動きやすい服装で来てほしいと言われたものだから、只事では済まなそうであった。

 

「あ」

 

部屋を出たところで、霞と鉢合わせた。

何処で手に入れたのか、見慣れないエプロンと三角頭巾をしていた。

ベタだな。

 

「おはよう。あきつ丸が起こせなかったって聞いて、私が直々に起こしに行こうと思っていたのよ」

 

その手には、フライパンとお玉が握られていた。

どうやって起こそうとしたのか、容易に想像できる。

しかしあきつ丸の奴、変な嘘をつきやがって……。

 

「そうだったのか。しかしお前、どうしてそんな格好しているんだ?」

 

お陰で知らない体でいなくちゃいけない。

 

「これ? ふふん、それは見てのお楽しみよ! こっち来なさいよ!」

 

俺の手を引く霞。

だが、あきつ丸がいることを思い、俺は立ち止まってしまった。

 

「ちょ、どうしたのよ?」

 

「いや……」

 

あきつ丸を避けているということもあるが、あんなことを言ってしまった手前、膝を合わせて飯を食うなど、していいものなのかと思った。

 

「どうしたって言うのよ? なんだか顔色が……」

 

俺が答えないでいると、霞は俺の顔を覗き込んだ。

 

「もしかして、体調悪いの……? ご飯、食べれない……?」

 

心配そうな表情の中に、少しの悲しみが混ざっていた。

 

「いや……大丈夫だ」

 

「本当? 大丈夫?」

 

「あぁ、寝起きなもんで、ぼうっとしてしまっただけだ」

 

「そう。良かった。ねぇ来て、朝食作ったの。鳳翔さんに教わったのよ?」

 

見るまでのお楽しみ、なんて言っていたのにも関わらず、早くもネタバレをしたところを見ると、本当に食べて欲しい一心で作ったのだろう。

そんな霞に負けて、俺は居間へと足を踏み入れた。

 

 

 

朝食は、小振りのおにぎりがいくつかと、豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭に卵焼きに酢の物にひじきの煮物に――朝食にしては豪華なメニューであった。

気合の入りっぷりが見てとれる。

 

「全部手作りよ。凄いでしょ? これはね――」

 

興奮気味に説明する霞。

料理の完成っぷりも然ることながら、ウキウキなのかノリノリなのか、とにかくテンションの高い霞に、俺はほっこりした気持ちになった。

 

「本当に美味しそうでありますな」

 

「しかし、急にどうしたんだ? 朝食を振る舞おうだなんて」

 

「私も何か貢献したいと思って。ただあんたに世話になるのもね」

 

「気を遣わせたか」

 

「そんなことはないわ。私のエゴよ。それに、最初の頃、鳳翔さんにあんな態度取っちゃったし、なんとか接点を持ちたかったのよ」

 

だからこの前、一人で……。

何と言うか、成長したな、本当……。

まだ出会って浅いけれど、お父さん感動しちゃうぜ。

 

「まあいいのよそんなことは。とにかく、食べちゃってよ。冷めないうちに」

 

「そうだな。いただきます」

 

「いただきます」

 

手始めに卵焼きを食った。

なるほど、こりゃこの前食った鳳翔の店の味とよく似ている。

 

「ど、どう……?」

 

「美味いよ」

 

「美味しいであります」

 

「本当? 良かった……。あ、他のも食べて。美味しいと思うから……」

 

恥ずかしそうに、それでいて不安そうに、俺たちの食事を見つめる霞。

 

『勉さん……美味しい……? 味付け、少しだけ失敗しちゃったのだけれど……』

 

あきつ丸が居るからか、余計に愛美の記憶がチラつく。

考えれば、中々に凄い状況だ。

愛美の記憶を持った奴が、ここに二人もいるのだから。

あぁ、駄目だ……。

愛美を忘れようとしているのに、どうしてこんなにも……。

 

「本当に美味しいよ霞。これはどんな味付けをしたのかな」

 

「それはね?」

 

今は「霞の」作ってくれた料理に集中しよう。

そう思い、味噌汁を一口含んだ時であった。

その味が、愛美の作ってくれるものと同じで、俺はとうとう参ってしまった。

 

 

 

食後、飯を作ってくれたお礼と言っては何だが、後片付けを俺とあきつ丸で担当することになった。

相当苦戦したのか、食材が細かくシンクに散らばっていたり、家の中にある皿を全て使っていたりしていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

二人に会話はない。

それどころか、あの一件以来、目も合わせていなかった。

 

「ん……」

 

あきつ丸が声を漏らす。

何やら皿を持ってうろちょろしている。

仕舞う場所が分からないのだろうか。

 

「……その皿は棚の二番目だ」

 

背中越しに、そう言った。

 

「あ……ありがとうございます……」

 

「いや……」

 

沈黙が続く。

 

「あの……」

 

「なんだ……?」

 

「お皿、拭きます……」

 

「……じゃあ、頼む」

 

あきつ丸が隣に立つと、二人の間に緊張感が生まれた。

皿を洗うのも、皿を拭くのも、何だかぎこちなくなっていた。

長い長い沈黙が続く。

やがて、最後の皿に差し掛かった時、俺は小さく、それでいて精一杯の力を込めて言った。

 

「さっきは……悪かった……」

 

最後の皿を、あきつ丸に渡す。

それを受け取り、拭き始めたその表情を、俺は確認することが出来なかった。

 

「その……お前に当たっちまったんだ……。色々考えることがあって……。傷つけるつもりはなかったんだ……」

 

あきつ丸は何も言わない。

 

「避けているのは……本当だ……。霞の為に愛美を忘れなきゃいけないと思っていてな。お前は……その……愛美の影が濃いと言うか……。お前を見ていると、あいつを思い出していけないと言うか……」

 

何も応えない。

 

「ごめんな……」

 

初めてあきつ丸に向く。

その表情は、今にも泣きだしそうなものであった。

 

「あきつ丸……」

 

「良かった……」

 

「え……?」

 

「自分……てっきり嫌われたのかと……」

 

そう言うと、とうとうあきつ丸は泣き出してしまった。

 

「き、嫌いという訳ではない……。ただ……」

 

そこまで言って、俺は肩を落とした。

 

「ただ……怖いんだ……。お前という存在が……」

 

「自分が……?」

 

「あぁ……。愛美はもう帰ってこない、あいつの事は忘れよう。そう思っていても、お前の中に……愛美を見つけてしまって……。あいつが帰ってくるんじゃないかって……思ってしまうんだ……」

 

「勉さん……」

 

「俺は今を、霞と共に生きなければいけない。あいつもあいつ自身として、今を生きようとしている。俺はそれを全力でサポートしたいと思っている。だから……」

 

あきつ丸は少し複雑そうな表情で、俺を見つめていた。

 

「理解してくれとは言わない。恨んでくれてもいい」

 

「いえ……そんな……」

 

沈黙が続く。

 

「ねぇ、片付け終わった?」

 

霞が外行きの恰好をして、台所に現れた。

 

「お、おう……。今終わったところだ。お出かけか?」

 

「うん。買い物よ。あきつ丸とね。あんたも来る? あ、予定あるんだっけ?」

 

「あ、あぁ……」

 

「聞いてよあきつ丸。誰と会うのか教えてくれないのよ? デートなのかしら?」

 

あきつ丸は少し困ったような表情で、笑って見せた。

 

「まあどうでもいいけど。行きましょうあきつ丸」

 

そう言って手を取ると、あきつ丸と霞はそそくさと家を出て行った。

仲いいな、本当。

 

「…………」

 

 

 

青葉とは、十駅先の――駅で待ち合わせをしている。

住んでいるのは俺の家の近くだと聞いているが、何故わざわざこの駅で待ち合わせるのか。

それと、今日青葉と会うことは、本人の意向で、誰にも言っていない。

その意向というのも謎で、良く分からないまま、今日を迎えている。

 

「しかし、広い駅だ」

 

中心都市の駅であるため、様々な目的を持った人々でごった返している。

待ち合わせ場所を決めているとはいえ、これだけの人だかりで青葉を見つけられるものだろうか。

 

「隙あり!」

 

声と共に、腕を掴まれる。

帽子で顔は見えないが、青葉であることはすぐに分かった。

 

「おはようございます、司令官!」

 

「おう、おはよう。良く分かったな」

 

「えへへ、実は、家を出るところからずっと見ていたんですよ。気が付きませんでしたか?」

 

笑顔で言う青葉。

まるで悪意のないその笑顔に、俺はゾッとした。

 

「そ、そうなのか……。声をかけてくれればよかったものを……」

 

「それは駄目です。司令官と青葉が会っていることは、誰にも内緒なんですから」

 

「前にも聞いたが、何故内緒なんだ?」

 

「それは秘密です。とにかく、駄目なんです……」

 

急に声のトーンが低くなった。

何か隠しているかのように、青葉は目を逸らした。

 

「……まあいい。それで、どこに行くんだ?」

 

「あ、はい! えーっとですね……」

 

青葉はバッグを開けると、ガイドブックを取り出した。

付箋がしてあるページを捲ると、俺に見せた。

 

「ここです! ――島!」

 

――島、聞いたことがある。

首都圏近郊最大の無人自然島である場所だ。

 

「行けるものなのか。そんな簡単に」

 

「えぇ、船も一時間おきに出ていますし、海水浴も出来るくらい、人気のスポットなんですよ」

 

それは果たして、無人島と言えるのだろうか。

 

「そこに連れて行ってくれるのがお礼なのか」

 

「まあ正直言うと、青葉の為です。司令官と過ごしたい青葉の為」

 

正直すぎるな。

だが、好感が持てる。

 

「あ、でも、船代は出しますよ? お昼だって、ほら、作ってきましたし。ご馳走とまではいきませんけど……駄目ですか……?」

 

「いや、十分だ。十分すぎるくらいだ」

 

「あは、良かった。じゃあ、早速行きましょう!」

 

そう言って手を取る青葉。

強引なところは鈴谷と似てはいるものの、何と言うか、親戚の子供に懐かれたような、そんな感じがして、悪い気はしない。

 

 

 

移動の電車で、青葉はこれでもかってくらい、話をし続けた。

 

「それでですね?」

 

「あ、青葉……そろそろ静かにしないか? 乗客も増えて来たし、声もデカいからさ……」

 

「あ、すみません……。えへへ、司令官とお話出来るのがうれしくて、つい……」

 

俺と話せるのが嬉しい……か……。

そう言ってくれるのは嬉しい。

嬉しいのだけれどな……。

何と言うか、時折見せる狂気というか、俺は青葉をあまり知らないのに、青葉は俺の事をよく知っていて……それが恐怖というか……。

 

「島に着いたら、お昼にしましょうね。司令官の大好きなコロッケ、サンドイッチにしてきましたから。えへへ」

 

鳳翔から聞いていたのだろうが、やっぱりゾッとするぜ……。

 

 

 

――島へのチケットを買い、船に乗り込んだ。

海水浴のシーズンではないためか、乗客はそんなに多くは無かった。

 

「デッキに出ましょう」

 

青葉に連れられ、二階のデッキに出る。

 

「あれが――島です!」

 

「あれか。結構近いな」

 

「船で十分弱で着いちゃうみたいです」

 

船の形状を見て、もっと航海距離が長いように思っていたが、遊覧船であったか。

 

「司令官」

 

「ん?」

 

向くと、写真を撮られた。

 

「かっこいいのが撮れました! 次は手すりに寄り掛かって、海を眺めてくれませんか?」

 

「あ、あぁ……こうか?」

 

「あぁ、そうです!」

 

連写する青葉。

そんなに撮っても、同じように思うが……。

 

「はぁ、かっこいいです……。やっぱり司令官は司令官ですねぇ……」

 

「どういう意味だ……」

 

「青葉、司令官がそうやって海を眺めて、青葉に話しかけてくれる姿がとっても好きでした……」

 

ん?

 

「そりゃどういうことだ?」

 

そう聞き返すと、青葉はハッとして慌てだした。

 

「あ……い、今のは忘れてください! その……妄想です! 妄想! そういう妄想をしたことがあるって事です!」

 

「妄想って……。そ、そうか……ハハハ……」

 

現実と妄想の区別が出来なくなるほど、自分の世界に浸ってしまっているという事だろうか……。

こりゃ、いよいよもって怖くなって来たぞ……。

 

 

 

島に上陸すると、青葉は子供のようにはしゃぎだした。

まあ、ずっとはしゃいではいるのだが、特にな。

 

「あは、いいところですね! あ、砂浜! 司令官、こっち来てください!」

 

「お、おう……」

 

青葉を追うところで、一枚撮られる。

 

「砂浜を走る司令官……かっこいいです!」

 

「そ、そうか……」

 

「次は島の探索をする司令官の写真を撮りましょう! 自然豊かなところが、この島の魅力の一つなんです! さあ、行きますよ~!」

 

「ちょ、走ったら危ないぜ」

 

「大丈夫です! こう見えて、運動神経抜群ですから!」

 

「そうかもしれないが……」

 

まるではしゃぐ犬に引っ張られている気分だ。

悪い気はしないけれども。

俺も十五年くらい若かったら、あんだけ一緒にはしゃげるのだろうけどな。

若さ、か……。

 

「司令官、早く早く~」

 

「こちとら三十路のオッサンだぜ。気を遣ってくれよ」

 

「何言ってるんですか、全然若いですよ! 海軍の三十路は、そんなこと言いませんでしたし! 負けてますよ?」

 

海軍と比べられてもな。

だが。

 

「俺を煽ってるのか?」

 

「司令官、意外と負けず嫌いでしょう? 青葉、知っているんですからね」

 

誰からの情報だ。

 

「よく知ってるな。よし、その挑発、乗ってやるよ」

 

そう言って、俺は駆け出した。

そして、青葉を抜くと同時に言った。

 

「島の展望台まで競争だ。勝った方が売店のアイスクリームを奢るんだぜー!」

 

「あ! なんですかそれ! ずるいです!」

 

青葉は急いで俺を追いかけた。

 

「挑発したお前が悪いんだぜ!」

 

我ながら、何をはしゃいるのだろうと思う。

だが、なんだろう。

青葉に対しての恐怖心みたいなものよりも、青葉に振り回される楽しさが、今は勝っているように思える。

この感じは、なんだろう。

 

「待て~司令官~!」

 

「お!? もう距離を詰めてきやがった! やっぱ若いなぁ……」

 

あぁ、分かった。

久しく感じていなかったこの感じ。

こりゃ、あれだ。

 

「はい! 司令官確保です!」

 

「はぁ、はぁ……捕まっちまった……。って、そういう……はぁ、はぁ……競技じゃなかっただろ……」

 

「あ、そうでした。でも、捕まえましたし、追いついたって事で、アイスは奢ってもらいますからね!」

 

「なんだそりゃ……。まあ、いいけどさ」

 

「やったー! えへへ」

 

恋愛感情だとか、損得勘定をなしにして付き合える関係。

友達って奴だ。

俺は青葉に対して、友達のような感情を抱いているのだ。

 

 

 

それからは写真を撮られながら、島を巡った。

とても小さな島であるのか、一時間もあれば全て回ることが出来た。

 

「一通り回りましたね。そろそろお昼にしませんか? ちょうど高台に来たことですし」

 

「そうだな。あそこの机が空いてるな。そこで飯にしよう」

 

高台は開けていて、昔に使われていた展望台が、ひっそりと佇んでいるのみであった。

 

「はぁ~、歩きましたね」

 

「流石のおてんば娘もお疲れのようだな」

 

「いえ、全然! 今のは、堪能したなぁ~っていうため息です!」

 

本当、若いぜ。

 

「じゃあ、お昼にしましょう。じゃーん! 青葉特製、司令官が大好きな物ばかりを詰め込んだスペシャル弁当です!」

 

随分名前の長い弁当だ。

しかし、名に負けぬスペシャル感が、確かに見てとれた。

 

「本当に俺が好きなものばかりだ」

 

「えへへ、青葉のリサーチ力をなめては困りますよ!」

 

いや、なめてはいない。

何故なら、鳳翔や他の奴らに言っていない俺の好物が、弁当の中に入っていたからだ。

 

「どうぞ召し上がってください」

 

「あぁ、いただきます」

 

とりあえず、メインのコロッケサンドを食ってみる。

 

「うぉ! 何だこりゃ!?」

 

「え……ま、不味かったですか……?」

 

「その逆だ! 滅茶苦茶美味い! こりゃ、コロッケは手作りだろう? しかも、まさかとは思うが、ソースも自分で作ったのか!?」

 

「良く分かりましたね。流石です!」

 

「流石なのはお前の方だ。いや、これは大変だったろう?」

 

「そんなことないです! 司令官の為と思えば、何のそのです!」

 

俺の為……。

 

「…………」

 

「司令官?」

 

「ずっと思っていたのだが、お前、どうしてここまで俺の為に出来るんだ?」

 

「え?」

 

「俺に……その……俺のファンだってのは知っているが、そこまで熱心になれるのはなぜだろうと思ってな」

 

「重い……ですか?」

 

「いや、そういう事ではなくて……。ただの疑問というか……。出会って間もない奴に、そこまで熱心になったことが無くて……その……なんだろう……」

 

言葉を選びながら話すのは苦手なものだから、俺はとうとう黙ってしまった。

 

「……そうですよね。そう思いますよね」

 

青葉は立ち上がると、俺の隣に座り、海を眺めた。

 

「でも、青葉、誰でもこうやって熱心になれるわけじゃないんです。貴方だから、司令官だから、ここまで熱心になれるんです」

 

「俺だから……。何故、俺なんだ?」

 

確か、一目惚れだと言っていた。

それが理由なのだろう。

だが、青葉はそう言わずに、黙り込んでしまった。

 

「青葉?」

 

そして、何か決意したような目を向けると、小さな声で語り始めた。

 

「海を……」

 

「え?」

 

「海を眺める貴方が、好きでした……」

 

先ほどの妄想の話か?

 

「その瞳も、その声も――貴方の全てが好きでした……。何よりも……」

 

海風が青葉の髪を揺らす。

俺を見つめるその瞳は、とても澄んでいた。

 

「青葉に乗ってくれる貴方が――青葉に話しかけてくれる貴方が、とっても好きでした……」

 

「お前に……乗る俺?」

 

その時、ふと、霞の言葉を思い出した。

『愛美はね、「私に乗って眠る」のが好きだったみたいで、お昼休憩の時によく……』

遠くの船が、汽笛を鳴らす。

青空には飛行機が、雲を作りながら飛んでいた。

船、飛行機。

『私は船で、たくさんの飛行機が飛んでて、撃ったり撃たれたり……。あれはきっと戦争なんだわ』

戦争の夢。

『艦娘が見る夢には、人間の艤装を受け継いだ艦娘の見る夢とそうではない艦娘の見る夢があります』

戦いの夢。

『夢を見るの』

 

「夢……」

 

青葉を見る。

その瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。

 

「青葉にとって貴方は、とても特別な存在なんです……。それが何故なのか、今は言えませんけど……」

 

妄想。

その言葉で片付くほどの話ではなさそうだ。

青葉は何かを隠している。

おそらく、隠させているのは海軍だろう。

だとすると、その隠し事に、俺を想う気持ちが絡むのは何故だ?

 

「いつか、全てをお話出来る日が来ると思います。今は、青葉が妄想で暴走しているってことで……手を打ってほしいです……」

 

隠していることは確かだと言っているようなものだ。

言いたくても言えないとも言っている。

 

「……あぁ、分かった。だが、一つだけ聞いてもいいか?」

 

「はい……何でしょう……?」

 

「何故俺を、司令官と呼ぶんだ?」

 

青葉は少し考えた後、真剣な表情で答えた。

 

「貴方が、青葉の司令官であるからです」

 

その瞳に、嘘偽りはなかった。

 

 

 

それからは島を離れて、近くの観光名所を巡ったりした。

 

「司令官、撮りますよー!」

 

「おう」

 

「はい、チーズ! あは、いい笑顔です!」

 

結局、青葉はあれ以上を語ることはしなかった。

いや、或いは語れないのかもしれない。

それでも、青葉は俺に何かを伝えようとしていた。

おそらく、今回俺と青葉が会うことを秘密にして欲しいと言ったのも、この為なのだろうと思う。

だとするならば、青葉の知っている秘密を知っている人物……延いては秘密を俺に隠している人物が、俺の近くにいると言うことだ。

ここまでくれば、バカでもわかる。

そいつの正体は――。

 

「青葉」

 

「はい、なんですか?」

 

「俺ばかり撮ってても仕方がないだろう。お前も撮ってやるよ」

 

「えー? 青葉はいいです。自分の写真持ってても、それこそ仕方がないですし」

 

「じゃあ、一緒に撮らないか?」

 

「え?」

 

「誰かに撮って貰うか、自撮り? で撮ってみるか」

 

そう言ってやると、青葉は急に慌てだした。

 

「そ、そんな! いいですよ! 青葉は……その……司令官と一緒になんて……」

 

「嫌なのか?」

 

「そうじゃなくて! 青葉なんかが……司令官と写真を撮っていいものかと……。だって司令官は、司令官ですし……。青葉なんかとは立場が……」

 

司令官司令官と聞いてきたが、一体何の司令官なのだろうか。

青葉の司令官ってのは、比喩とかそう言うのではなくて、本当の――とにかく、偉い立場の人間であるのは、今の様子から見てとれる。

 

「立場の違う奴と遊んでいる時点で、今更な気もするがな」

 

「そうかもしれませんけど……」

 

青葉は、近くのガラスをチラチラと見だした。

なるほど、そういう事か。

 

「自分に自信が無いのか?」

 

図星なのか、青葉は俯き、小さく肩を落とした。

 

「青葉、撮っても、撮られることはなくて……。可愛くないし……」

 

「俺だってかっこよくはないぜ」

 

「司令官はかっこいいです! とても!」

 

そこまで熱を持って言われると、恥ずかしいものだな。

 

「嫌ならいいんだ。ただ、せっかくだと思ってな」

 

「せっかく……?」

 

「せっかく友人になったんだしってさ。俺とお前が……その……妄想ではどんな関係だったのかは知らないが、今こうしている俺とお前は、一友人であるのだと、俺は勝手に思っているからさ」

 

「友人……。青葉と司令官が、ですか?」

 

「嫌か?」

 

「い、いえ……! 逆に……いいんですか? 青葉と司令官が友人で!」

 

「そう言うつもりで、そういう接点が欲しくて、俺を誘ってくれたんじゃないのか?」

 

そう言ってやると、青葉はぽろぽろと涙を流し始めた。

 

「お、おいおい……」

 

「ごめんなさい……。青葉、嬉しくて……」

 

「だからって泣くやつがあるか……。ほら、ハンカチ……」

 

「ありがとうございます……」

 

青葉は俺のハンカチで涙を拭き、鼻をかんだ。

鼻をかむあたりが、なんとも青葉らしいと、出会って短い期間ではあるが、そう思った。

 

「司令官の言う通りです……。そういう接点が欲しくて誘いました……。でも、司令官から言ってくれるなんて思ってなくてぇ……」

 

再びビービー泣く青葉。

しかしまあ、どんな理由であれ、よく艦娘を泣かせてしまうものだな、俺は。

 

「写真、一緒に撮ってくれるか?」

 

青葉は涙を拭くと、鼻を垂らしながら、満面の笑みを見せて「はい!」と答えた。

 

 

 

駅に着く頃には、もうすっかり夕方であった。

青葉とは、会ったことを誰にも見られたくないとのことであったので、現地解散となった。

 

「ん……メッセージか……」

 

青葉からであり、そこには今日のお礼と、一緒に撮った写真が添付されていた。

目の下を赤くした青葉と、それをからかうようにして笑う俺が写っていた。

何枚か撮ったが、青葉的にはこの一枚が良かったという事だろうか。

 

「フッ……」

 

色々思うことはあったが、純粋に楽しかったな。

鈴谷や最上と遊ぶのとは違って、変に意識しなくていいと言うか、本当に親戚の子供と遊んでいる気持ちであった。

 

「あれ、先生?」

 

噂をすれば何とやら。

振り向くと、最上と鈴谷がいた。

買い物をしてきたのか、ショッピングモールの袋を手に下げていた。

 

「どこか行ってたの?」

 

「あぁ、まあちょっとな……」

 

「ふぅん、まさか、女じゃないよね?」

 

女ではあるが、最上の言う女とは、違う意味を持つのだろうな。

 

「駄目だよ先生。先生には、鈴谷がいるんだからさー」

 

そう言うと、最上は鈴谷の背中を押して、俺に寄らせた。

 

「ちょ、もがみん……」

 

「送ってあげてよ。ボクは一人で帰るからさ。じゃあ!」

 

「あ、おい」

 

最上は振り向くこともせず、駅を飛び出していった。

あいつ……。

 

「先生……」

 

「よう」

 

あの件から、鈴谷とは会っていない。

メッセージでやり取りはしていたものの、いつものテンションとは違い、どこかぎこちなくなっていた。

 

「買い物、していたのか?」

 

「う、うん……。洋服とか……色々……」

 

「そうか」

 

沈黙が続く。

 

「荷物、持つよ。重いだろ」

 

「い、いいよ……。悪いし……」

 

「今更何を遠慮してんだ。ほら」

 

手を差し出すと、鈴谷はその手を握った。

 

「鈴谷?」

 

「荷物は大丈夫……。その代り、手……握って欲しい……です……」

 

顔を真っ赤にする鈴谷。

 

「フッ、何故敬語なんだ?」

 

「……うっさいし。いいから……送ってくれるんでしょ……?」

 

「あぁ」

 

手を握り返してやると、鈴谷はそっと、俺に寄り添った。

 

 

 

陽が沈みかけていて、空は徐々に夜に飲み込まれつつあった。

 

「あれから体調はどうだ?」

 

「平気。生理も終わったし」

 

「そうか」

 

今の時間を楽しむように、鈴谷はゆっくりゆっくり、歩いていた。

手を取られている俺も、また然りであった。

 

「この前はごめんね……」

 

「何が?」

 

「追い出しちゃって……。鈴谷、恥ずかしくなっちゃって……気が付いたら……」

 

「まあ、仕方ないだろ。とは言え、その事を忘れるほど、テンパっていたんだな」

 

「そりゃ……そうっしょ……。先生だって興奮してたじゃん……」

 

「生理現象だ。あんな事されて、何も起きない奴の方が男として疑うぜ」

 

「素直じゃないんだ」

 

「そう言うもんだ。男って奴は」

 

「あっそ……」

 

鈴谷はつまらなそうにそっぽを向いた。

繋いだ手は、固く握られたままだ。

 

「ね、先生……」

 

「なんだ?」

 

「あのさ……あの時さ……鈴谷が生理じゃなかったら……ぶっちゃけシてた……?」

 

そっぽは向いているが、耳は真っ赤に染まっていた。

 

「……かもな。襲われたようなもんだし」

 

「そうじゃなくて……」

 

鈴谷は立ち止まると、ゆっくりと視線を合わせた。

 

「先生は……鈴谷とシたいと思ってる……? 鈴谷と……恋人になりたいって……思ってる……?」

 

その質問に、俺はすぐに答えることが出来なかった。

 

「もがみんがさ、言ってたんだよね……。自分はフラれたって……。先生が奥さんを忘れて、それでももがみんの告白に応えなくて……。だから……諦めたんだって……」

 

確かに、俺もそう言われた。

だが、あいつはきっと――。

 

「鈴谷も……同じ……?」

 

「いや……」

 

「じゃあ、違う……?」

 

俺が答えに困っていると、鈴谷はそっと俺を抱きしめた。

 

「もがみんが諦めたのなら……先生を好きな人は……もう鈴谷だけだよ……?」

 

「鈴谷……」

 

「諦めたもがみんの為にも……鈴谷のものになった方がいいじゃん……。そうしたら、誰も苦しまないじゃん……」

 

「それは……」

 

「ダメ……?」

 

答えられないでいると、鈴谷は表情を崩していった。

 

「鈴谷も……もがみんと同じなんだね……」

 

とうとう、涙が頬を伝う。

俺は慌てて弁解した。

 

「そうじゃない! ただ、そんな理由でお前と恋人になってはと思ってだな!?」

 

「へ……?」

 

「最上の為だとか、誰かの為だとかじゃなくて……単純に……お前を好きだから恋人になるのではないと……いけないと思うんだ……」

 

数秒の沈黙。

日は完全に沈み、夜の幕が半分以上、空を覆っていた。

 

「……ブフッ」

 

鈴谷は吹き出すようにして、笑い出した。

 

「な……!?」

 

「アハハハハ! いやぁ、先生、マジメすぎっしょ!」

 

「いや、俺は真剣にだな!?」

 

「分かってる。でも、まさかそんなことで悩んでるとは思わなくって」

 

「そんな事ではないだろ。重要な事だ」

 

「そうだけど。だって鈴谷、先生に振られたと思ったんだもん」

 

鈴谷は涙を拭くと、息を整えた。

 

「はぁ~、分かった。じゃあ、こうしよう? 鈴谷、想うよりも想われたい人でもあるし、先生が告白してくれるその時まで、待っててあげる」

 

「え……?」

 

「もがみんと違うのなら、鈴谷にチャンスはあるって事っしょ? 先生が鈴谷の想いにはっきり応えられないのは、鈴谷に、他を忘れさせるほどの魅力がないからだと思うんだ。だから、その魅力を培う為にも、今は待っててあげる」

 

そう言うと、鈴谷はニコッと笑って見せた。

 

「あ、でも、ただ待ってる訳じゃないよ? 鈴谷の魅力を培うって言うのは……」

 

鈴谷は俺に近づくと、首に腕を回し、口づけをした。

 

「先生の中にある、鈴谷の魅力の事だから。鈴谷はもがみんと違って、諦めが悪いからね?」

 

そう言う鈴谷の表情は、決意と自信に満ち溢れていた。

最上が手を引いた理由が、少しだけ分かるような気がした。

 

「先生?」

 

俺は頭を抱えていた。

 

「どうしたの? それも嫌とか?」

 

「いや、そうではない……。なんというか……情けなくなってな……」

 

「え?」

 

そうだ。

情けない話だと思わないか?

鈴谷はこんなにも俺を想ってくれているのに、俺は何を迷っているのだ。

おそらく、俺は最上の事を気にかけてしまっているのだと思う。

あいつの想いに応えられなかったと。

あいつに申し訳ないと。

あんなに尽くしてくれたのに、俺は――と。

けど……。

 

「先生?」

 

ここで止まってしまうと、また同じことを繰り返してしまう。

愛美の事や最上の事、それを忘れなければ――好き嫌い、単純な気持ちで臨まなければ、きっと――だから――。

 

「鈴谷」

 

「は、はい……」

 

「やはり待たなくていい。今、ここでお前の気持ちに応える」

 

「え……それって……」

 

もう迷わない。

誰も傷つけない為に――。

俺を想ってくれる人の為に――。

 

「鈴谷、俺は――」

 

 

 

 

 

 

家に帰ると、何故かあきつ丸が出迎えてくれた。

 

「お帰りなさい、であります」

 

「おう。霞は?」

 

「眠ってしまったのであります。だいぶはしゃいでおられましたので、疲れてしまったのでありましょう」

 

朝も早かったしな。

 

「それで、お前は? 帰らなくてもいいのか?」

 

「勉さんを待っていたのであります」

 

「俺を?」

 

「はい。今朝のお話の続きをと思いまして……」

 

今朝の話……。

 

「俺からすることはもう無いぜ」

 

「自分からはあります」

 

そう言うあきつ丸の目は、今朝のものと違い、決意に満ちたものとなっていた。

 

「なんだ……?」

 

「勉さんに聞きたいことがあります。もし、自分が全てをお話したら、自分を避けるようなことは出来なくなりますか……?」

 

「全て……ってのは……?」

 

「全ては全てです……。自分が継承の艦娘なのか……そして……そこに愛美殿が関わっているのか……であります……」

 

「……どうだろうな。どっちにしろ、話せないのだろう?」

 

そう言ってやると、あきつ丸は表情一つ変えず、淡々と答えた。

 

「もし避けることが出来なくなるのなら、自分は陸軍を裏切ってでも、勉さんにお話しする所存です」

 

その瞳に、嘘偽りはなく見えた。

 

「本気なのか……?」

 

「本気であります……」

 

「どうしてそこまでして、俺が避けることを嫌う……?」

 

「それを言ったら、答えを言ったようなものになってしまうのであります」

 

正直、もうそんなことはどうでも良かった。

あきつ丸が愛美の魂を継承していようがいまいが、俺にはもう関係のない事であった。

俺にはもう――。

だからこそ、逆に、スッキリしてしまおうと思い、俺は言った。

 

「分かった。言ってみろよ」

 

だが、それが良くなかった。

あきつ丸は、真剣な表情で言った。

 

「……自分は確かに、継承の艦娘です。そして、継承元は愛美殿であります……」

 

そこまでは良かった。

問題は、次であった。

 

「本題はここからであります……。勉さんから避けられるのが、何故嫌なのか……」

 

愛美の魂を継承しているから、そう思ってしまう。

そんな単純な答えだと思っていた。

 

「自分が唯一……いや、本当に魂を継承している艦娘であるから……であります……」

 

「え?」

 

言っている意味が分からなかった。

本当に魂を継承している艦娘?

 

「それなのに、勉さんは霞殿にご執心であります……。そんなのは……耐えられません……」

 

「どういう……ことだ……?」

 

そう聞き返すと、あきつ丸は閉口した。

 

「あきつ丸……?」

 

そして、言いにくそうに、目線を伏せながら、かすれた声で言った。

 

「海軍は、勉さんに嘘をついているのであります……」

 

俺が頭を真っ白にしていると、あきつ丸は畳みかける様に続けた。

そしてそれが、ターニングポイントとなった。

 

「霞殿は……愛美殿の魂を継承していません……」

 

――続く



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9話

長い夏休みが明け、久々にサークルに顔を出すと、皆肌がこんがりと焼けていた。

そう言えば、サークルメンバーで海だか山だかに行くだ何だと騒いでいたような。

 

「よう、雨野。お前、夏休み中、一回も顔を出さなかったな」

 

「缶詰だったからな。前回の作品が不評だったから、有名どころを読んで、それを参考に手直ししていたんだ」

 

「相変わらずマジメだな。どれ、読んでやるよ。持ってきているんだろう?」

 

「まあな……。でもその前に、読ませたい奴がいるんだ。――は今日、来ていないのか?」

 

俺がそう聞くと、高橋は深刻そうな表情で答えた。

 

「あぁ……雨野は知らないのか……。――ちゃん、事故にあったらしくてさ。大学辞めちゃったんだよ」

 

「え?」

 

「無事であることは確かなのだが、誰も連絡を取ることが出来ないみたいでな。何の事故なのかも分からなければ、辞めた理由も分からないままだ」

 

「そうなのか……」

 

その時は、「俺の小説を好きでいてくれた奴であったから、残念だな」という程度にしか思わなかった。

 

「――ちゃん、お前に惚の字だったんだぜ」

 

「そうなのか?」

 

「鈍感だな。ま、お前はそう言う奴だよな。小説とでも結婚してろよな」

 

「そうするかな」

 

一年弱ほどの付き合いであった為か、今では名前も曖昧だ。

顔も、声も、はっきりとは思い出せない。

ただ、何故だか、今になってはっきりと、最後に交わした言葉を思い出した。

特別な言葉ではない。

印象に残っている方が不思議なくらい、何の変哲もない、些細な言葉である。

 

「大切にしますね」

 

微かな記憶の中で、俺のサインが小さく書かれた同人誌を持って、そいつは微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

俺の心とは裏腹に、部屋は静寂に包まれていた。

 

「霞が……魂を継承していない……? 愛美の魂を……か……?」

 

「はい……。しかし、霞殿は本当に継承していると思い込んでいるようであります……」

 

突拍子もない事に、頭が混乱する。

だが、そんな俺に考える余地を与えず、あきつ丸は淡々と続けた。

 

「深海棲艦の攻撃が初めて観測されたのはいつか、ご存知でありますか?」

 

「深海棲艦の攻撃……」

 

今度は考える時間を与える様に、あきつ丸は静かに待った。

俺の方も、一旦落ち着こうと、ただ質問に答えるように頭を切り替えた。

 

「確か……――年前の12月頃だったように記憶している。大ニュースになったから、よく覚えているよ」

 

「そう……。しかしそれは、事実ではありません。正確には、その年の8月……陸軍基地が攻撃されたのが始まりなのであります」

 

俺はとうとう、頭を抱えた。

色んな情報が、それも、初めての情報であり、不可解な情報であるから、尚更だった。

 

「大丈夫でありますか?」

 

「あぁ……すまない……。続けてくれ……」

 

あきつ丸は俺の様子を確認してから、続けた。

 

「攻撃による被害者は多数。何が起こったか、勉さんならお分かりでしょう」

 

「あぁ……。妖精が見えるようになった人間が出て来た……だろ……?」

 

「そうであります。海軍は12月の攻撃でその事実を知ったようでありますが、陸軍は8月の時点でその事に気が付いていました。相手が深海棲艦であること、そして、それに対抗する力の存在を……」

 

俺は大淀の言葉を思い出していた。

 

『陸軍のとある基地が、突然爆撃のようなものを受けたことがあるのです』

 

『陸軍が海軍よりも先に、艦娘の存在に気が付いていた可能性は否定できません。そして、そこに愛美さんが居たのだとすれば……』

 

「その攻撃を受けたのが、愛美という訳か……」

 

「……話が早くて助かります。愛美殿は……元々陸軍の人間であります……」

 

それに、俺はたいして驚かなかった。

 

「深海棲艦は海から現れます。しかし、陸軍が受けた攻撃は、山に囲まれた場所から行われたものでありました。陸軍はその拠点を特定し、艤装した愛美殿と共に、極秘で討伐に向かいました。そして勝利し、艦娘をドロップした……。そう……自分がその艦娘であります……。そして、愛美殿の艤装を継承しました」

 

その事実に思考の全てを持っていかれそうになり、俺は踏みとどまるよう、別口の疑問をぶつけた。

 

「何故……深海棲艦が山中に……」

 

「深海棲艦が海からやってくるのは知られておりますが、具体的にどの場所で、どのように現れるのかまでは、はっきりと分かっておりません。ただ、海という共通点だけをみるのなら、山も元々は海から地が盛り上がって出来たものでありますから、おかしいことは無いのかもしれません」

 

「海……」

 

「討伐後、深海棲艦の調査を続けた結果、海が拠点なのだと分かりました。海上での戦闘となると、陸軍では太刀打ちできず、海軍に力関係のすべて持っていかれる。それを恐れた陸軍は、海軍の動きを探るべく、愛美殿をスパイとして、海軍へと送り込みました」

 

驚きはしない。

元艦娘?

陸軍のスパイ?

そんな事どころか、俺は過去の愛美を一切知らずにいたのだ。

だから、驚きはしない。

 

「12月の事であります。海軍が深海棲艦からの攻撃を受けました。現場に愛美殿はいませんでしたが、海軍に居る幾人かの陸軍のスパイによって、愛美殿を被害者へでっちあげる事に成功しました――」

 

それからも、あきつ丸は愛美の事をスラスラと語った。

正直、愛美がどんな過去を背負って生きて来たかなんてものは、どうでも良かった。

いや、言い方が悪かったか。

愛美がどんな過去を背負っていようとも、俺は愛美に対しての見方を変えることはない。

愛美は愛美。

俺の知っている、愛美なのだ。

 

「――霞殿と愛美殿が出会ったのは、その時期でありました。霞殿は戦いの記憶に影響を受けやすく、情緒不安定で、自分の事を忘れることもあったそうであります」

 

あの霞にそんなことが……。

いや、そう言う場面は確かにあったように思う。

寝ている時の言動や、記憶の曖昧さ。

特に、目で見るものは、愛美の記憶とは――。

 

「そんな霞殿が唯一、情緒不安定にならずにいれたのは、愛美殿の前だけでありました。愛美殿の前では、彼女は普通の女の子と変わりなかったようでした。海軍は愛美殿に、霞殿の世話をするようにと、艤装を捨てさせ、専属で霞殿の世話をさせました。やがて霞殿は、愛美殿が傍にいなくても、戦場に立つことが出来るほどに成長しました。この頃になると、人間が艦娘をやることはなくなっておりましたから、愛美殿は機密を守るために、海軍を辞め、一般人として、新しい人生を歩むことになったのであります。陸軍との関係を断ち切ったのも、同じ理由でした。尤も、愛美殿が、というよりも、陸軍が一方的に切ったようなものでありますが……」

 

その頃だろう。

俺と愛美が出会ったのは。

 

「ここからが本題であります。戦後、霞殿は再び情緒不安定となりました。記憶も曖昧で、やはり自分の事が分からなくなるほどでした。愛美殿が必要でした。しかし……愛美殿は……もう……」

 

あきつ丸は本当に残念だというようにして、目を伏せた。

 

「……海軍は、愛美殿が海軍を去った後も、ずっと監視していました。故に、勉さんの事も知っていました。愛美殿の愛した男。海軍は、そんな男ならば、或いは霞殿を救えるのではないか、と考えたのであります。安易な考えではありますが、いずれにせよ、霞殿を早々に手放したかったのであります。勉さんに押し付けたかったのであります。海軍はまず、勉さんと霞殿の関係性を持たせるため、霞殿に愛美殿の艤装を継承しているのだと、嘘の記憶を刷り込ませることにしました。霞殿は、すぐにその事を信じました。霞殿は、愛美殿の魂が自分の中に存在しているのだと、洗脳されたのであります」

 

にわかに信じがたい。

だが、霞の記憶が曖昧なのは確かだ。

 

「…………」

 

――いや、そういう事か。

海軍は愛美と俺を監視していた。

だからこそ、愛美がどんな人間であるのか、良く分かっているはずなのだ。

仕草、記憶、思い出――全てを知っていたのだ。

それを霞は、口頭か何かで吹き込まれたのだ。

故に、風景や光景――目で見るようなものの記憶が曖昧なのだ。

 

「以上が、全ての真相であります。自分は……自分だけが……愛美殿の魂を継承しております……。ずっと、陸軍を裏切ることは出来ないと思い、言えずにいました……。しかし、察してほしくて……勉さんに近づきました……。自分の行動のすべては、この為であったのであります……」

 

そう言い終えると、あきつ丸はじっと、俺を見つめた。

その目には、うっすらと涙が溜まっている。

 

「ずっと……言いたかったのであります……。全てを打ち明けて、『私』の事を知って欲しかった……。『私』は……ここにいるのよ……って……」

 

白く、華奢な手が、俺の頬をさする。

 

「……動揺しているのね。無理もないわ……」

 

その口調、その仕草。

やはりどれを取っても、愛美そのものであった。

その吸い込まれそうな瞳ですら、もはや――。

その時、時計が鳴った。

信じられないほどの時間が過ぎていた。

 

「……そろそろ帰らないと」

 

去ろうと立ち上がるその手を、俺は思わず取ってしまった。

そして、呼んでしまった。

 

「愛美……」

 

『愛美』は悲しそうに、だが、少し嬉しそうに微笑んだ。

 

「名前、呼んでくれて嬉しいわ……。ありがとう……つーくん……」

 

するりと、手が離れる。

立ち去って行く『愛美』を、俺はただ茫然と見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

その日、昔の夢を見た。

戦争が激化した、夏の頃の夢だ。

夜中に明かりをつけていると、狙われる恐れがあるという噂が流れ、世間体の事もあり、俺は押し入れに電気を引いて、薄暗い明りの中で小説を書いていた。

 

「ふぅ……ダメだ……。暑い……」

 

原稿に汗が垂れる。

流石に無理があったかと、諦めて押し入れを出た時であった。

月明りの中で、フードを被った小柄な人影が、押し入れから這い出る俺を見つめていた。

 

「誰だ……!?」

 

泥棒かと思い身構えていると、そいつはしばらく俺を見つめた後、小走りで去って行った。

 

「何だったんだ……」

 

恐る恐る、そいつがいた窓際に近づく。

そこには、月明りに照らされて、季節外れの勿忘草が置かれていた。

 

「勿忘草……」

 

子供の頃、花言葉の本を読まされたことを思い出す。

勿忘草。

名前から、その花言葉をよく覚えていた。

 

『私を忘れないで』

 

 

 

 

 

 

翌日。

目の下に隈を作った俺を見て、霞はギョッとした。

 

「ど、どうしたってのよ……?」

 

「いや……ちょっとな……」

 

「ちょっとって……。大丈夫なの……?」

 

「あぁ、問題ない……」

 

結局、あの後色々考えて、眠ることが出来なかった。

あきつ丸の言ったことが事実であるかどうかは分からないが、もし事実だとして、どうして霞と接すればいいのか、寝ずに考えていたのだ。

 

「今日、お前の方の予定はどうなっている?」

 

「え? 何もないけれど……」

 

「そうか。だったら、少し出かけないか? ほら、この前、俺が行きたいところに行こうって、言っていただろう?」

 

「そうだけど……。そんな調子で大丈夫なの?」

 

「あぁ、徹夜には慣れている。コーヒーでも飲めば、目が覚めるさ」

 

「そう……。分かった。入れてあげるから、顔でも洗ってきたら?」

 

「悪いな」

 

今まで通り接する。

それが、考え抜いた結論であった。

当然と言えば当然の結論なのだが、愛美を忘れようとした矢先の事であったので、気持ちが揺らいでしまったのだ。

愛美の魂があきつ丸に存在している。

それも、あんなにもはっきりと。

そりゃ揺らぐだろ。

 

「はぁ……駄目だな……。よし、顔洗ってリセットだ……!」

 

色々気になることも、確かめなくてはいけない事もたくさんある。

だが、今は冷静になる時だ。

鏡に映る自分の姿にギョッとしつつ、顔を洗った。

汚れと共に、モヤモヤした気持ちも、小さな排水溝へと吸い込まれていった。

 

 

 

「それで、どこに行くのよ?」

 

「――東照宮だ」

 

「――東照宮?」

 

「紅葉で有名なところだ。そろそろだと思ってな」

 

「まだ時期的に早いように思うけれど」

 

「そこは寒い地域で、紅葉が早いんだよ」

 

「ふぅん。だから上着持たせた訳」

 

「お前が想像している数倍は寒いぜ」

 

そう言ってやると、霞は得意げに鼻で笑った。

 

「大丈夫よ。海の方が寒いし」

 

「海?」

 

何故海の話題が出たのか、一瞬分からなかった。

が、そうだよな。

艦娘なんだもんな。

当たり前の事をふと忘れてしまっていた。

 

 

 

電車を降りる頃にはお昼になっていて、俺たちは近くにあった蕎麦屋で飯を食うことになった。

 

「あんた、本当に大丈夫なわけ? 電車でがっつり寝ていたけれど……」

 

「すまない……。でも、寝たから大丈夫だ。さて、何を食うかな」

 

「蕎麦屋なんだから、蕎麦じゃないの?」

 

「別にそんなことは決まっていない。蕎麦屋のカツ丼は美味いと聞くし、なんでもありだろ」

 

「カツ丼って……蕎麦屋なんだから、蕎麦を食べなさいよ」

 

蕎麦屋なんだから、蕎麦を食え。

そういや、以前もこんなこと――。

あぁ、そうか。

愛美だ。

愛美に言われたんだ。

三回目のデートで、――に行った時、確か――。

 

「…………」

 

ふと、霞の顔を見る。

霞は、愛美の事は知っていても、愛美ではないのだ。

分かってはいた。

分かってはいたが、昨日の事を思うと、妙な喪失感があると言うか……。

 

「なに?」

 

「いや……。やっぱ、蕎麦にしようかな。鴨蕎麦」

 

「じゃあ、私もそれにするわ」

 

しかし、やはり愛美と同じなんだよな。

こういう店では、俺が頼むのを待って、同じものを食う。

偶然なのだろうけれど、どうも――。

 

 

 

「ほら、色づいている」

 

「本当だわ。綺麗ね」

 

――東照宮の紅葉は、見事な物であった。

 

「こんなにも色づくものなのね。海から紅葉を見たことはあるけれど、こんなに鮮やかではなかったわ」

 

「そうか」

 

霞の目が、キラキラと輝いていた。

愛美もこういうのが好きだったもんな。

 

「…………」

 

また愛美の事を思い出してしまった。

忘れようとして忘れられるものであったと思っていたのに……。

やはり昨日の事はあまりにもインパクトの強いものであったか……。

それにしたって、霞が継承していないと分かったのに、何故霞に愛美の影を見るのであろうか。

――いや、或いは認めたくないのかもしれない。

霞に愛美の魂が存在しなければ、先ほどの喪失感の事もそうだが、霞への愛が薄くなってしまうかもしれない恐怖があるのだ。

 

「え……あれ……!? 先生に霞ちゃん……!? え!?」

 

聞き覚えのある声。

それと同時に「カット!」の声。

 

声の方を向くと、鈴谷と最上がいた。

大きなカメラとスタッフ、そして、ギャラリーを連れて。

 

「最上さん、どうかされましたか?」

 

「ごめんなさい……。知り合いがいまして……」

 

「もがみん、そう言うのは休憩中にしないと」

 

「ごめん鈴谷……」

 

どうやら撮影をしているようで、NGになってしまったようであった。

 

「スタッフさーん、丁度いいし、ちょっち休憩入れない? 疲れてきちゃったー」

 

「そうっすね。バッテリーもそろそろだし。うし、休憩! アシ、バッテリー持って来い! 次の動きを予測して行動しろ!」

 

ドタバタするスタッフを見送り、二人はこちらへやって来た。

 

「先生、霞ちゃん、どうしたの? 偶然じゃん」

 

「あぁ、紅葉を見ようと思ってな。そっちは撮影だったか? 邪魔して悪かったな」

 

「ううん。大丈夫。こっちはロケ。紅葉が見ごろだって聞いたから。もがみんがゲストなんだー」

 

「そうなのか。出世したな、最上」

 

「そんなんじゃないよ。ただ、鈴谷の友達って枠で、今回きりだよ」

 

撮影用にメイクをしてもらったのか、二人ともいつもより綺麗に見えた。

 

「ふぅん……撮影してるのね……」

 

霞は興味ありげにスタッフの仕事を見ていた。

 

「霞ちゃんも出る?」

 

「いや……別にいいわよ……。ただ、どうやって撮影しているのか気になって……」

 

「見学していく?」

 

最上の提案に、霞は興味ないというそぶりを見せつつ「まぁ、ちょっとだけ……」と返した。

本当は興味津々なのを、俺は知っている。

霞は鈴谷の出ている番組を欠かさず見ているのだ。

鈴谷本人には言えないだろうが、番組の相当なファンであることは間違いない。

 

「じゃあ、ボクが案内するよ。鈴谷は先生と休憩しててよ」

 

そう言うと、最上は何やらウィンクをして、霞をスタッフの方へと連れて行った。

 

「ん……」

 

袖を掴まれる。

掴んだのは、鈴谷であった。

その顔は、耳まで赤くなっていた。

 

「こっち……」

 

鈴谷に連れられるまま、人の気の少ない所へ向かう。

誰もいない小さな手水舎の中で、鈴谷はギュッと抱き着いた。

 

「鈴谷……」

 

「まさか先生が来てるなんて……。鈴谷、ロケ中もずっと先生の事考えてて……だから嬉しくて……」

 

そう言うと、鈴谷はキスを求めた。

誰も見ていないのを確認して、そっと口づけを交わす。

 

「鈴谷、これくらいにしておけ。見られたらまずいだろ」

 

「う、うん……。ごめんね……。でも……えへへ、嬉しくて。先生と恋人になれたんだって……」

 

そう。

昨日、俺は鈴谷の気持ちに応えたのだ。

最上と同じような事が起きない様、何の壁も作らず、純粋な気持ちで応えたのだ。

 

「そういや、最上は知っているのか?」

 

「うん。移動中に……。だから二人っきりにしてくれたんじゃないのかな?」

 

あのウィンクはそういう事か……。

最上の事を考えると複雑な気持ちではあるが、ここでぶれては同じことをしてしまう。

鈴谷と恋仲になったのであれば、もう気持ちをブレさせてはいけない。

それこそが、あいつを苦しめてしまう要因になるのだから……。

 

「先生は日帰り?」

 

「あぁ。お前は?」

 

「旅館のレポートもあるから、お泊りだよ。明日の夕方には帰れると思うけど……」

 

そう言うと、鈴谷は俺をチラリと見た。

そして、駄目押しするように「その後は暇なんだけど……」と言った。

 

「何が言いたいんだ?」

 

そう返してやると、鈴谷はムッとした。

 

「分かってるくせに……。いじわる……」

 

「フッ、悪かった。じゃあその日の夕方、飯でも行くか?」

 

「うん! 高いところ、連れて行ってくれるんでしょ?」

 

「考えておくよ」

 

「やったー! えへへ」

 

それから俺と鈴谷は、近くにあったベンチに座り、なんでもない時間を過ごした。

恋人らしいことは一つもしなかったが、まるで付き合い始めの学生カップルのように、一緒に居る時間を楽しんだ。

 

「そういえばさ――」

「鈴谷さーん! どこっすかー?」

 

話題の変わり目を図ったかのように、鈴谷を探す声が重なった。

 

「ヤバ……そろそろ行かなきゃ……」

 

「そのようだな」

 

「あっという間だったねー。鈴谷、もっと話していたかったんだけどなー」

 

「あぁ、俺もだ」

 

「先生もそう思ってくれてんの? へー、珍しいこと言うじゃん」

 

「お前との会話は、いつだって楽しいと思っていたよ。口に出さないだけで」

 

「何それヤバ! かっこよすぎっしょ!」

 

「惚れ直したか?」

 

「ずっと惚れてるし!」

 

そう言うと、鈴谷はベーっと舌を出して見せた。

 

「っと、そろそろマジで行った方がいいんじゃないか?」

 

「うん。あ、先生、耳貸して?」

 

「ん?」

 

近づく俺に、鈴谷はキスをした。

 

「えへへ、じゃあ明日ね~!」

 

鈴谷は手を振りながら、スタッフの方へと走っていった。

何と言うか、若いよな、本当。

 

「さて……うぉ!?」

 

振り向くと、ニヤニヤした霞が立っていた。

 

「なぁんだ、あんた、ちゃんと愛美以外も愛せるんじゃない」

 

そう言うと、俺を小突いた。

今まで霞がそんなからかうようなことをしてこなかったから、俺は普通に驚いた。

――いや、大層驚いた。

それが焦っているように見えたのか、霞は楽しそうに続けた。

 

「しかしいい趣味してるわ。最上じゃなく、鈴谷ねぇ……。やっぱりあれな訳? 大きい方が好きな訳? 愛美も大きかったし」

 

からかいの内容よりも、俺は霞の態度が気になった。

悪い意味ではなく、いい意味で。

 

「って、どうしたのよ? 何か言い返したら?」

 

「いや……なんだ、畳みかけてくると言うか……。お前、そんな奴だったか?」

 

「何よ急に……。私は私よ。私以外の誰に見えるわけ? 愛美?」

 

ふと、霞の持っているバッグに、見知らぬ缶バッチがついているのに気が付く。

そこに描かれている絵を見て、俺は全てを理解した。

 

「お前、モンチョくんの缶バッチ貰ってテンション上がってんのか……」

 

モンチョくんとは、鈴谷の出ているテレビのマスコットキャラクターだ。

鈴谷の番組の途中に、そのキャラクターのショートアニメが放映されていて、霞はこっそりグッズも買うほど好きなようであった。

 

「あ、気が付いた? これ、スタッフから貰っちゃったのよ。非売品なんですって。しかも、スタッフにしか配られない奴! ほら!」

 

そう言うと、霞は缶バッチを取り外し、俺に見せた。

 

「そ、そうなのか……。良かったな……」

 

「あげないからね」

 

いらない、なんて言ったら怒るだろうから、俺は少しだけ残念な表情をして見せた。

少し露骨であったように思ったが、今の霞はご満悦そうにそれを見送った。

 

 

 

それから付近の観光名所をいくつか回ったが、モンチョくん非売品缶バッチには勝てそうになかった。

楽しんではいるようであるが、花より団子とはまさにこの事である。

 

「お前、本当に好きだなそれ」

 

「このぶっさいくなところがいいんじゃない」

 

確かに不細工ではあるが、可愛いとは……。

そういや、キモカワイイとかいう言葉が流行った時があったな。

 

「さて、次は……」

 

俺がガイドブックを眺めている間も、霞は缶バッチを見ていた。

レンチキュラーと呼ばれる、角度によって絵が変わる印刷が施されているようで、缶バッチの中でモンチョくんがわちゃわちゃ動いていた。

そんなに長いこと見て面白いもんかね。

 

「…………」

 

モンチョくんに勝てそうなのは、もう無いかもな。

 

「……帰るか」

 

「え?」

 

「ある程度回ったしな。お前もそれ貰って、もうお腹いっぱいだろ?」

 

「もう帰るの? まだ夕方にもなってないけれど……」

 

「流石にその缶バッチに勝てる場所がもう無い。それに、帰ったらちょうど日が暮れる距離だ」

 

そう言ってやると、霞は缶バッチを見つめた後、それをバッグに仕舞った。

 

「缶バッチはもういいわ。十分見たし。それより、いいじゃない。帰りが遅くなっても。まだ遊べるわ」

 

霞はガイドブックを手にすると、何処かないか探し始めた。

 

「えーっと……。ここなんかどうかしら?」

 

「寺か。寺なんか興味あんのか?」

 

「な……いけど……。あ、じゃあここは? ここなんかいいじゃない」

 

「――ミュージアムか。しかし、休館日だってよ」

 

「うぅ……じゃあ……」

 

必死に探す霞。

缶バッチを眺めていた時と打って変わり、何やら焦っているように見える。

 

「どうした急に? 花より団子、観光より缶バッチじゃなかったのか?」

 

揶揄うように言ってやると、霞は悲しそうな顔をした。

 

「確かに缶バッチは嬉しかったけれど……。その……ごめんなさい……。怒ったでしょ……?」

 

「へ?」

 

話が見えず、思わず間抜けな声が出る。

霞は続けた。

 

「私が缶バッチばかり見ているものだから……。あんたが行きたいところ、興味なさそうにしちゃったから……怒っているんでしょ……?」

 

「怒っている? 別にそんなことは……」

 

「絶対怒ってる……! だって、愛美の時もそうだったじゃない……。あんた、愛美に怒りを感じた時……いつも悟られない様に悲しい顔をして……すぐに帰りたがって……。愛美はごめんって謝るけど……あんたは「怒ってない」の一点張りで……」

 

確かにそうだったように思う。

ムッとしてしまった時、俺は愛美にぶつけるよりも、一人で抱え込み、ふさぎ込む癖がある。

 

「愛美は……そうなってしまったあんたにどうすれば良かったのか、未だに分からないって『言っていた』わ」

 

愛美は気が付いていたのか……。

だが、少し違うんだ。

俺は本当に怒っていた訳じゃない。

 

「そう見えたか?」

 

「見えた……」

 

「俺はまだ何も言っていないんだけどな」

 

「……やけに缶バッチの事言ってるから……そうなのかもって……」

 

言われてみれば、そうかもしれないな。

 

「俺は怒ってないよ」

 

「絶対怒ってる……」

 

「違う。怒っているんじゃない。ただ……」

 

「ただ……?」

 

「ただ、拗ねているだけだ」

 

「へ?」

 

今度は霞が、間抜けな声を出して、キョトンとした表情で俺を見つめた。

 

「愛美の時もそうだ。俺と居るのに、なんだって別のものばかりに目が行くんだってさ。怒っているというよりも、拗ねていただけだ」

 

「え……でも……それって怒っているのと同じなんじゃなくて……?」

 

「まあ……そう捉えることもできるだろうが……。とにかく、拗ねているだけだ。怒っていたら、謝ってくれれば許すし」

 

「そうかもしれないけれど……。じゃあ……どうしたら拗ねなくなるのよ……?」

 

霞は悲しそうな表情でそう聞いた。

俺がおかしいと思っているのは、キョトンとしたのは、何も話が見えなかったからだけではない。

霞の様子に対しても、言える事であった。

 

「どうしたんだ霞。やけにご機嫌取りじゃないか」

 

「だって……」

 

霞はそう切った後、少しの間を作ってから続けた。

 

「だって、私は……その……あんたが……っていうか……あんたに……その……」

 

ぼそぼそと話す霞。

俺によく聞こえていないのを承知しているのか、意を決したように、顔を赤くして言った。

 

「あんたに……笑っていてほしいの……。楽しんでいてほしいの……。なのに、台無しにしちゃったから……」

 

笑っていてほしい。

楽しんでいてほしい。

霞がそんなことを俺に?

 

「そりゃまた……どういう風の吹き回しなのだろうか……」

 

そう聞いてやると、霞はそっと、俺の手を取った。

 

「霞?」

 

「あ……わ……わた……私は……その……あの……」

 

赤かった顔は、真っ赤になっていた。

 

「あ……変な意味じゃないからね!? それだけは分かってよね!? 別に今から言うことは、告白とかそう言うんじゃないから! 純粋な気持ちというか……うぅ、とにかく! そう言うのだからね!?」

 

「ん!? あ、あぁ……分かった……」

 

何一つ分かっていないけれど。

 

「いい……? だからね……? 私が……あんたに笑っていてほしいとか……楽しんでほしいとか……一緒に居て欲しいとかいうのはね……?」

 

一緒に居て欲しいってのは初耳だが、まあ野暮な突っ込みはしないでおこう。

 

「あんたの事が……き……だから……」

 

「え?」

 

「だから……す……だから……?」

 

「す……なんだ?」

 

「だから! 好きっ!」

 

「へ?」

 

「あんたの事が好きなの! 愛美と同じくらい……じゃなくて……その……愛美以上に……好き……だからぁ……あああぁぁぁ……」

 

恥ずかしさが限界に達したのか、霞はその場に蹲った。

そして、小さい声で「変な意味じゃないからね……?」と念押しした。

 

「俺の事が好き……?」

 

「そう言ってるの……」

 

「そりゃまた……何と言ったらいいのか……」

 

「何も言わなくていいわよ……。ばか……」

 

好き。

霞が俺の事を、好き。

変な意味じゃない……ってのはいいとして、霞が、俺を、好き?

俺は今までの事を、霞とのことを思い出していた。

確かに、甘えてくることは多くなったように思うが、それはあくまでも愛美の代わりであったからだ。

 

「なによ……? 笑いたいなら笑いなさいよ……」

 

「いや……」

 

大げさに驚いているように見えるかもしれないが、それほどに、霞から好意を伝えられることに驚いているのだ。

霞をよく知っている。

だからこそ、驚いている。

俺の気持ちを察したのか、霞は続けた。

 

「驚くのも無理無いと思うわ……。確かに、私らしくないし……。一緒に暮らすって決めた時だって、私が自立するまでの関係だって思っていたし、それは変わらないって思ってたし……。あんたは愛美の代わりで……でも家族で……。けど、それは利益的な関係であって……深いものでなくて……」

 

霞は立ち上がると、じっと俺を見つめた。

まだほんのりと赤くなったその顔を見せながら。

 

「一方的だったのよ……。あんたは私を愛すけれど、私は愛さなかった……。それで十分だし、あんたもそれでいいと言ってくれた。でもね……最近ね……そう思えなくなってきたの……。自分でも良く分からないんだけど……気が付くと、あんたが喜びそうなことを探していたり、あんたに喜んでもらおうと、行動したりしていた……。鳳翔さんに料理を教えて貰ったのも……その一環よ……」

 

鳳翔との接点を持ちたい。

霞はそう言っていた。

だが、それは照れ隠しであったという訳か。

 

「あんたからだけじゃなく、私からもあんたを愛したいと思った……。あんたに笑っていてほしい……楽しんでいてほしいって……。その気持ちが「好き」なんだって……」

 

そう言い終えると、霞は俯き、俺の言葉を待った。

 

「霞……」

 

「…………」

 

「……まさか、お前からそんな言葉が出るなんて、お前から愛される日が来るなんて、思ってなかった。俺とお前の関係は、お前の言う通り、一方的で無条件なものであったはずだし、そうでなければいけないものだと思っていた……」

 

俺はしゃがみ込み、霞の目線を合わせて、手をとった。

 

「嬉しいよ……。本当に嬉しい。俺もお前が好きだ。もちろん、変な意味じゃなくてな」

 

そう言ってやると、霞は俺に抱き着いた。

 

「私も嬉しい……。受け入れてくれて……ありがとう……」

 

「ずっと受け入れていただろう」

 

「素直な私を……よ……」

 

そこには色んな意味が含まれていたが、それが何なのか、説明するのは野暮だろう。

 

「抱っこしてもいいか?」

 

俺の提案に、霞は少し驚いた後、恥ずかしそうに頷いた。

 

「よっと。相変わらず軽いな。もっと食った方がいいぜ」

 

「じゃあ……食べさせてよ……」

 

「よし、じゃあ、晩飯はいいもん食っていくか。それまでは時間あるし、さっき言ってた寺、行ってみるか?」

 

「寺に興味あるの?」

 

「別に寺じゃなくてもいい。お前と居れれば、どこでもいいよ」

 

「……ばっかみたい」

 

それから俺たちは、何をするでもなく、夕食まで時間を潰した。

会話は少なかったが、一緒に居ることを楽しんでいると言うように、繋がれた手が放されることはなかった。

 

 

 

結局、家に着くころにはすっかり夜中で、俺も霞もヘトヘトであった。

 

「あんた、大丈夫? 昨日も寝れなかったんでしょ?」

 

「まぁな……。でも、今日はゆっくり眠れそうだ。お前も今日はもう寝とけ」

 

「うん……」

 

そう言っても、霞は自室へと戻らなかった。

 

「どうした? もう居間の明かり消すぜ」

 

「……ねぇ、一つ……頼み事……いいかしら……」

 

「ん、なんだ?」

 

「その……あの……だから……」

 

霞は、先ほど見せた赤い顔を、再び見せた。

 

「なんだ、言ってみろよ。笑わないから」

 

「な、なんで笑えることだって前提なのよ!?」

 

「顔が赤いから、恥ずかしい事でも言うのだろうなってさ」

 

図星だったのか、霞は少し不機嫌そうな表情を見せた。

 

「それで? なんだ? 一緒に寝て欲しいとかか?」

 

「へぅ!?」

 

変な声。

動揺した瞳。

図星らしい。

 

「また急だな」

 

「……急じゃない」

 

「え?」

 

「ずっと……一緒に寝たいって……思ってた……」

 

そういや、愛美と一緒に寝ていただなんだと聞いたことがあったな。

 

「お前の素直ってのは、甘えん坊さんなところなんだな」

 

「……っ……そうよ! 悪い!? それに、今更でしょ!? 甘えん坊なところ、いっぱい見て来たじゃない!」

 

「いや、そうなんだが。案外裏表がないのかもしれないと思ってさ」

 

「どういう意味よ……」

 

「裏も表も、どっちも甘えん坊なのは変わりないんだなって事だ」

 

霞はそれに何か言おうと口を開いたが、何も言わないまま、口を噤んだ。

 

「言わないのか」

 

「自分でも分かってる事だし……」

 

「素直だな」

 

「……いいから。それで……どうなのよ……? 寝てくれるの……?」

 

「俺が駄目だって言わないのを知っていて聞くか」

 

「あんたは愛美と違って、察しが悪いから……」

 

「愛美はその辺り、気を遣える奴だったもんな。俺もお前が許可を取らなくていいよう、努力するよ」

 

「その姿勢はいいと思うけれど、別にいいわ……そのままで……。あんたはあんたなんだし……」

 

そう言うと、霞は「枕を持ってくる」と、自室へと向かっていった。

俺は俺でいい……か……。

何気ない言葉であったが、それは、俺という存在が、霞の中で「愛美の代わり」ではなくなったことを意味していた。

 

 

 

枕を持ってきた霞は、一緒に布団に入るや否や、すぐに眠ってしまった。

 

「ま、そうなるよな」

 

しかし、今日も今日とで色々あったな。

昨日も昨日だし……。

なんだか、ここに来て色んなことが押し寄せて来たと言うか……。

青葉の事、鈴谷の事、あきつ丸の事、霞の事……。

少し前まで最上の事であたふたしていたのが可愛いくらい、今は色んなことが起き過ぎている。

頭の整理が追い付かない。

 

「だがまあ……」

 

とにかく、とりあえず今考えなきゃいけない事は、明日の鈴谷とのディナーをどこで取るかということだな。

高い店がいいと言っていたが、俺自身、そんな店に世話になったことは無いしな……。

 

「いや……」

 

そう言えば、一回だけ、愛美といい店に行ったことがあったな。

「背伸びしなくても良かったのに」と、慣れないことをしてあたふたする俺を笑っていたっけか。

 

「愛美か……」

 

霞の寝顔を見つめる。

あきつ丸の話を聞き、今日一日接してみたが、やはりと言うか、霞の中に愛美の魂が無いだなんて、信じられなかった。

目で見た記憶は曖昧でも、俺との思い出だけは、ああもハッキリとしているものだから――。

 

「…………」

 

ハッキリと……。

 

『愛美は……そうなってしまったあんたにどうすれば良かったのか、未だに分からないって『言っていた』わ』

 

言っていた。

言っていた……って、なんだ?

言っていたということは、『聞いた』と言うことだ

愛美から聞いていた。

俺と愛美が出会ったのは、愛美が海軍を離れた後の事だ。

愛美から聞いた?

どういうことだ……?

 

「…………」

 

いや……『聞いた』は正しいのかもしれない。

間違っているのは『愛美から』という部分だ。

あきつ丸の言う通り、霞が愛美の魂を継承していると思い込まされ、俺と愛美との思い出を『聞かされた』のだとしたら――記憶を刷り込まされたのだとしたら……。

もしそうなのだとしたら、あきつ丸の言っていたことは……やはり……。

 

「だとしても……俺は……」

 

ふと、青葉の顔が浮かんだ。

あいつも、海軍が俺に何かを隠していると言っていた。

もしかしたら、あきつ丸の言っていたことの話であったのかもしれない。

青葉の妄想との関連は分からないけれども……。

 

「…………」

 

霞が愛美の魂を継承していようがしていまいが、どっちでもいい。

だが……やはり、はっきりさせておいた方がいいのかもしれない。

霧の中を進むよりも、俺は霞とはっきりとした未来を目指したい。

そう思った。

そう思ったからこそ、俺は全てを知っているであろう人物にメッセージを送って、その日は眠りについた。

 

 

 

翌朝。

目が覚めると、俺は霞の抱き枕になっていた。

起こしてやると、最初こそは飛び上がって驚いていたが、やがて目が覚めたのか、再び俺を抱き枕にした。

 

「普通、逆じゃないのか。目が覚めたのなら、さっさと起きてやるものだろう」

 

「甘えん坊なのよ、私は……」

 

「本当に素直になったんだな」

 

揶揄ったつもりであったが、霞は小さく頷き、しばらく離そうとはしなかった。

 

 

 

朝食を済ませると、携帯にメッセージが入った。

昨日送った相手からの返信で、昼頃に駅前のカフェで待ち合わせをすることとなった。

 

「さて……どうしたものか……」

 

というのも、霞は完全に甘えん坊モードが抜けていないようで、あれからべったりと引っ付いて離れずにいるのであった。

夕方は鈴谷とディナーだし、どうしたもんかな。

鈴谷との約束をした時は、まさかこんな事になるなんて、夢にも思わなかったしな……。

そんな事を考えていると、最上が家を訪ねて来た。

 

「おはよう先生。霞ちゃん」

 

「最上。お前、鈴谷と一緒じゃなかったのか?」

 

「ううん。旅館のレポートは鈴谷だけだから、ボクは先に帰って来たんだ」

 

「そうだったのか。それで、どうした?」

 

「どうしたっていうか……そっちこそどうしたのさ?」

 

俺にべったりしている霞を見て、最上は不思議そうにそう聞いた。

 

「そんなに甘えん坊な子だったっけ?」

 

最上がそう言っても、霞は構わないと言うようにして、さらに引っ付いて見せた。

 

「この通りだ。俺も不思議に思ってる」

 

「なんだか大変そうだね。先生、困ってるでしょ。鈴谷とのディナーがあるのに、霞ちゃんに引っ付かれてさ」

 

「知っていたのか」

 

「うん、鈴谷から聞いたんだ。先生の恋人の鈴谷からね」

 

そう言うと、最上は笑って見せた。

 

「そうか……」

 

「ちょっとなにさ、そんな顔して。ボクの事、可哀そうだと思ってる? 申し訳ないって」

 

俺が何も言えないでいると、最上は腕を組んで、怒っていると言うようにして、頬を膨らませて見せた。

そして、俺がさらに申し訳なさそうにしているのを見て、吹き出した。

 

「冗談だよ。ボクは鈴谷ほど魅力が無かった。ただそれだけさ。失恋しちゃったけど、辛くはないよ。なんてったって、ボクの好きな二人が結ばれたんだからさ」

 

「最上……」

 

「だから、そんな顔しないでよ。ボクは先生の友達であり、そして、先生の担当で、先生の弟子なんだからさ」

 

「フッ……弟子にした覚えはないがな」

 

「その意気だよ、先生」

 

最上の笑顔に、俺は救われる気持ちであった。

 

「さて、ボクがここに来た目的は、鈴谷とのディナーの予定がある先生に引っ付いている、そこのお嬢さんを連れ出すことさ」

 

「霞を?」

 

「だって、せっかくのディナーなんだし、二人っきりの方がいいでしょ? その間、霞ちゃんの面倒はボクが見ようってさ」

 

「そりゃありがたいが、やけに協力的だな」

 

そう言ってやると、最上は悪い笑い方をして見せた。

 

「言ったでしょ? ボクは先生の弟子だよ? 弟子は師匠の為に尽くすものさ」

 

それが何を意味しているのか、俺は理解した。

 

「脅しか? 卑怯だな」

 

「何も言ってないじゃないか」

 

「いや、卑怯だ。だったら、ここで俺が弟子にしないと言ったらどうするつもりだったんだ? 言ってみろよ」

 

「泣いてやるつもりだけど?」

 

「何故泣く?」

 

「何故だと思う?」

 

不毛なやり取りに、流石の霞も呆れたように俺から離れ、自室へと戻っていった。

 

「ボクは本気だよ、先生。卑怯だと言われても、ボクを恋人にしなかったことを盾にしてでも、先生に弟子入りするから」

 

最上の目は、本気であることを一切隠さなかった。

 

「……何故俺なんだ?」

 

「先生の作品が好きだからさ」

 

「全く売れない作品がか?」

 

「売れるのが全てじゃないさ」

 

それを言ったら、担当者失格な気もするがな。

 

「辛いぞ」

 

「知ってるよ。誰よりも先生を見て来たんだから」

 

「だったら分かるだろ」

 

「それでも、先生は止めなかったじゃないか」

 

「それは……」

 

俺は「お前が居たから」と言ってしまいそうになって、口を噤んだ。

 

「お願いします! ボクを弟子にしてください!」

 

そう言うと、最上は土下座して見せた。

 

「お、おい……」

 

「弟子にしてあげたら?」

 

声の方を向くと、外行きの格好をした霞が立っていた。

呆れて戻ったと思っていたが、着替えにいっていたのか。

 

「女の子がこんなに頼んでるのよ? あんた、それを突き返せる大人じゃないでしょ?」

 

そう言われ、確かにその通りだと思った。

そういや、土下座なんてもんは、初めて見たかもしれない。

 

「お願いします……」

 

……あまり気持ちのいいものではないな。

特に、最上は――。

 

「……顔を上げろ、最上」

 

最上はゆっくり顔を上げると、不安そうな目で俺を見た。

 

「もう一度言う。辛いぞ」

 

「うん……」

 

「俺よりももっといい先生は、世の中にたくさんいる」

 

「うん……」

 

「俺の元では、売れるものも売れないかもしれない」

 

「うん……」

 

「……それでも、俺の元でいいのか?」

 

返事はなかった。

だが、目が全てを物語っていた。

 

「……分かった。お前には負けたよ」

 

「じゃあ……!」

 

「あぁ。だが、弟子ってのは、やっぱり駄目だ」

 

「え……?」

 

「共に、売れる小説家を目指すパートナーとしてなら、一緒にやってやる」

 

「ど、どうして……? それだと、ボクと先生の立場が……」

 

「今までだってそうしてきたようなもんだ。お前は俺を支えてくれた。今度は俺がお前を支える番だ。師匠が弟子を支えるなんて、おかしいだろ。だから、平等だ」

 

そう笑ってやると、最上も小さく笑って見せた。

 

「優しいんだ、先生ってば……」

 

「知っていたことだろう?」

 

「ふふ、そうだったね」

 

二人して笑っていると、霞がムスッとした表情で、間に入って来た。

 

「おっと、妬いちゃったかな?」

 

「って言うか……あんたが最上を支えるなら、あんたが弟子って事になるんじゃないかしら?」

 

「あ、そうだね。じゃあ、先生が弟子って事で!」

 

「いや……まあ……それでも構わないが……」

 

困っている俺を見て、最上は嬉しそうに笑った。

 

「冗談だよ。先生ってば、そう言うところあるよね。まあ、そこが好きなんだけど。霞ちゃんもそうなんでしょ?」

 

霞はそれに返事をしなかった。

だが、否定もしなかった。

 

「でも、先生は鈴谷のものだから、そうでないボクたちはお出かけしましょうかね~」

 

そう言うと、最上は霞を連れて、外に出た。

霞が素直についてきたのは、気を遣ってくれたからなのだろう。

というか、外行きに着替えているという事は、そういう事なのだろう。

 

「じゃあね、先生。鈴谷と楽しんできて! あと、パートナーになったんだから、これからはちゃんとボクを支えてね!」

 

「あぁ、分かったよ。霞を頼む」

 

「うん! じゃあ!」

 

どこに行くのかは知らないが、二人で歩きだすと、何やら楽しそうに会話をしながら、駅の方へと向かっていった。

 

 

 

最上の気遣いもあり、少し早めにカフェに向かうと、そいつは既に座っていて、冷めたコーヒーを飲んでいた。

 

「待たせたようだな」

 

「いえ、早く着いてしまっただけです」

 

そう言うと、大淀は俺にメニューを渡した。

 

「奢りますよ」

 

「いいよ。俺が呼び出した訳だし」

 

「いえ、奢らせてください。まさか先生の方から連絡が来るなんて思ってなかったので、舞い上がっているんです。こんな私、今だけですよ?」

 

「そんなことで舞い上がるような奴だったっけかな」

 

「では、鈴谷さんと恋人になったお祝いって事でどうでしょう?」

 

「……流石、情報が早いな」

 

そう言ってやると、大淀は嬉しそうに笑って見せた。

 

 

 

しばらく雑談し、話題も尽きたところで、大淀は言った。

 

「それで、今日のご用件は何です? 直接会って話したい、だなんて。ドキドキしちゃいました」

 

「告白でもされるんじゃないかってか?」

 

「告白は私の方からするって決めているので」

 

「お前の場合、言わせるように仕向けそうなものだがな」

 

「場合によってはそうするかもしれません。もしかしたら、その術中にハマって、私を呼び出してしまったのかもしれませんよ?」

 

「だと良いがな」

 

冗談はない。

そう感じたのか、大淀は座りなおし、俺の言葉を待った。

 

「大淀」

 

「はい」

 

大淀の目が、俺を真剣に見つめた。

だが、俺の次の言葉で、その目は少しだけ、ほんの少しだけ変わったのを、俺は見逃さなかった。

 

「お前……いや……海軍は……俺に何か隠しているだろ?」

 

大淀はカップを手に取り、口に運んだ。

だがその中身は、ほんの数分前から、空であった。

 

 

 

 

 

 

大淀と会った後、鈴谷とのディナーまではまだ時間があったので自宅へと戻ってみると、家の前であきつ丸が立っていた。

 

「あ……勉さん。良かった。誰もいないから、これを置いて帰ろうと思っていたところなの」

 

そう言うと、あきつ丸は袋いっぱいの野菜を俺に持たせた。

 

「たくさんいただいちゃって……。勉さん、自分から進んで野菜食べる事、少なかったでしょう? だから、ちょうどいいかなって」

 

もはや、あきつ丸と呼んでいいのか、愛美と呼んでいいのか、今の俺には分からなかった。

それほどに、愛美がそこに立っているかのような錯覚に陥っていた。

大淀の件も、それを後押ししている。

結局、何もないとはぐらかされたが、やはりあれは――あの態度は――。

 

「……それだけ。じゃあ、行くわね……」

 

去ろうとする手を、俺は再び、昨日のように、掴んでしまった。

そして、同じく昨日のように、呼んでしまった。

 

「愛美……」

 

愛美は振り向き、俺の目をじっと見つめた。

吸い込まれそうな瞳。

今ではそれも、愛美の物にすら思えてくる。

 

「お前……本当に愛美なのか……?」

 

愛美は頷いて見せた。

だが、そっと俺の手を退けると、悲しい顔で言った。

 

「でも、勉さんが前に進むには、私が愛美でない方がいいのかもしれないわ……。愛美はもうこの世に居ない……。今の私は、立ち直ろうとしている勉さんの邪魔になってしまう存在……」

 

「そんなことは……」

 

長い沈黙が続く。

 

「……そろそろ行かないと」

 

「ま、待ってくれ……!」

 

「ごめんなさい……」

 

俺の呼びかけにも応じず、愛美は走って駅の方へと消えていった。

 

「愛美……!」

 

もはや、俺に疑う心は無かった。

 

「愛美……」

 

あきつ丸は、愛美だ。

 

――続く



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10話

神様、どうか、

生まれ変わりがあるのだとすれば、

またあの人の傍に居させてください。

そして出来ることならば、

あの人と同じ『人間』で居させてください。

 

『司令官』

 

と、自分の口で呼ばせてください。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

待ち合わせ場所に、青葉は――神社という、小さな神社を指定した。

着いてみると、青葉は先に着いていたようで、願い事をしている最中であった。

声をかけるのもなんだと思い、待つことにしたのだが……。

 

「どんだけ願っているんだ……」

 

かれこれ五分以上、青葉は願いっぱなしなのである。

俺が確認してから五分であるから、もっと前から願っているのかもしれないと思うと、やはり只者ではないのだと、少し戦慄する。

 

「よし……」

 

願い事を終えた青葉が振り向く。

俺を見て驚くだろうなと、この五分の間で予想していたが、青葉は知っていたと言うようにして「お待たせしました!」と言うだけであった。

 

「随分長い願い事だったのだな」

 

「いえ、あれは感謝していたのです」

 

「感謝?」

 

「以前、青葉の願い事を叶えてくださって……。ここの神様ではないかもしれないのですが、見かけた神社には必ずこうしてお礼をしているんです」

 

「どんな願い事なんだ?」

 

「内緒です。ふふ」

 

そう言うと、何が嬉しいのか、青葉は満面の笑みを見せた。

 

「それよりも、司令官から青葉に会いたいだなんて。何か情報が欲しい、とかではないのですか?」

 

大淀と違い、察しがいいな。

 

「あぁ、まあ……。実は……」

 

「あきつ丸さんの事、じゃないですか?」

 

「え?」

 

「この前……恋人の鈴谷さんとデートする前に、大淀さんと会いましたね? その帰り、家の前であきつ丸さんと会って、彼女に愛美さんの記憶が本当に存在していると確信した……。そうですよね?」

 

そう。

あきつ丸は愛美なのだと知ったあの日から、俺はあきつ丸――延いては愛美の事が気になって仕方がなくなったのだ。

だが、あれから愛美は家へ来なくなった。

霞とは会っているものの、俺とは会いたくないのだと漏らしているようで、その理由を霞には話していないようであった。

霞もそれ以上の事を聞くのは野暮なのだろうと、理由を問い詰めることはしなかったようだ。

 

「あ、あぁ……そう……なのだが……」

 

そんな事よりも、俺はゾッとしていた。

いや、見られていることは……まあ、良くはないのだけれど、それはいいとして……。

青葉が、俺と鈴谷が付き合っているのだと知っていることに驚いた。

――いや、知っていて平然としていることに驚いたのだ。

俺はてっきり、青葉は俺に――だからこそ、平然としていることが驚きというか……なんて言ったらいいのか……。

 

「というよりも、司令官、鈴谷さんと恋人になったのですね」

 

俺はドキッとした。

 

「青葉はてっきり、もがみんを選ぶのだと思っていましたよ」

 

そう言うと、当てが外れたと言うようにして、青葉はがっくり肩を落とした。

その様子に、俺は安堵するわけでなく、ただただ不思議に思っていた。

妄想だとか、一目惚れだとか、いろいろ言われたからこその気持ちであった。

 

「まあ、それは置いておいて。あきつ丸さんの事ですよね。青葉、資料も持ってきましたので、なんでも聞いてください」

 

青葉はバッグから、おおよそ50枚ほどにも渡るA4の資料を俺に渡した。

インデックスもついていて、なるほど分かりやすい。

 

「ご存知の通り、青葉、大淀さんの依頼であきつ丸さんを調べていました。継承の艦娘である可能性があったからです。接触し、彼女の言動から、継承の艦娘であることはすぐに分かりました。継承元が愛美さんである可能性が出て来たのは、彼女自身が記憶の話の中で『愛美』という名前を出したからです。資料の10ページにその事が書いてあります」

 

まるで講義でも受けているかのようにして、俺は言われた通り10ページを捲った。

なるほど、確かにその事が書いてある。

愛美という名前もそうだが、愛美の特徴、愛美の過去に関する情報が無い事が、愛美の魂を継承している可能性があると言う根拠になっているようであった。

 

「資料、見てもいいか?」

 

「はい、どうぞ」

 

ページをぱらぱらとめくる。

海軍への報告書として作られたであろう資料は、(仮)とされてはいたものの、それはそれは立派なものであった。

 

「…………」

 

だが、俺の知っている以上の事は、何も書かれていなかった。

 

「……ありがとう。参考になった」

 

そう言って、資料を返してやる。

本当は知っていたんだ。

何も得ることは無いと。

ただ、愛美の事が気になって、居てもたってもいられなくて、とりあえず、愛美を調べていたという青葉にコンタクトを取ったのだ。

 

「悪かったな、わざわざ。これから時間あるか? 良かったら何かご馳走させてくれ」

 

そう言って微笑んで見せてやると、青葉は俯き、何やら悲しそうな顔を見せた。

 

「青葉?」

 

「青葉……司令官のお役に立てませんでしたか……?」

 

「え?」

 

「司令官の表情……青葉に気を遣っている表情です……。何か分かると思って呼んでいただいたのに、何も得ることはなかった……。違いますか……?」

 

間違ってはいないが、青葉が気に病むことではない。

 

「そんなことはない。収穫はあった」

 

「例えばなんです……?」

 

「……俺の知っていることと、お前が掴んでいる情報に相違はないか確認できた」

 

「それはつまり、司令官の知っていること以上の事は知れなかったと言うことですよね……? 司令官は、何か自分の知らない事を知るために、青葉を呼んだのではないのですか……?」

 

俺は何も返せず、思わず視線をそらしてしまった。

 

「……やっぱり。青葉……司令官のお役に立ちたいのに……ごめんなさい……」

 

そう言うと、青葉は目に涙を浮かべた。

 

「お、おいおい……。どうしてお前が気に病むんだ……」

 

「だって……青葉は司令官のお力になりたくて……でも……なれなくて……」

 

「役には立ったといっているだろう。それに、俺の役に立とうなどとしなくとも、別に――」

「――駄目なんです!」

 

青葉の声が、杜に響き渡る。

一瞬の静寂。

冷たい風が、俺たちの間を横切っていった。

 

「駄目なんです……」

 

青葉は顔を上げると、潤んだ瞳で俺を見つめた。

 

「青葉は……貴方に出会った時から……いえ、この命を授かった時から……貴方の為に生きると決めていたのです……。貴方のお役に立つこと……それが青葉の成すべきことなんです……」

 

まただ。

何故俺の為にそこまでできるのか。

妄想だとか、一目惚れだとか、そう言う次元ではない。

もっと、何か重大な何かが、青葉を動かしているのだ。

俺の知らない、何か――。

 

「……仕方がありません」

 

青葉は鞄から、もう一冊の資料を取り出した。

表題には『雨野勉に関する調査書』と書かれていた。

 

「これは、ある人に依頼されて作ったものです……。青葉、依頼された仕事は、誰の仕事でも受けますし、依頼人の秘密は厳守します。それが例え、海軍を敵にするような情報であっても、秘密は守り通すつもりです……」

 

青葉は涙を拭うと、真剣な目で俺を見つめた。

 

「しかし、貴方は別です……。『貴方の為になること』であれば、裏切りでもなんでもしましょう……!」

 

これがその決意だと言うようにして、資料を俺に手渡した。

資料の中身は、なんてことない(訳ではないのだろうが……)俺の事がびっしりと書かれているのみであった。

 

「これを依頼したのは……」

 

「はい……あきつ丸さんです……」

 

青葉は、依頼を受けた経緯について話し始めた。

 

 

 

きっかけは、大淀さんから依頼を受けたことに始まります。

 

「あきつ丸さんを調査してほしい……ですか……?」

 

「えぇ。あきつ丸さん……というよりも、彼女と接触して、陸軍の情報を得る事が目的です」

 

「依頼を受けることは吝かではないのですが、あきつ丸さんから情報を抜くと言うのは、具体的にどういった情報でしょうか?」

 

「基本的には何でもいいのですが、出来ることならば、彼女が継承の艦娘であるかどうか……それを見極める情報が欲しいです」

 

「継承の艦娘……ですか……」

 

「実は――」

 

説明されたのは、司令官もご存知の通り、陸軍が開戦以前に、深海棲艦からの攻撃を受けた可能性があると言う件でした。

もしそれが事実ならば、陸軍は何もかも知っていて、あきつ丸さんを海軍に寄越したのではないか、と疑っていたのです。

 

「とにかく、なんでもいいので、何か分かり次第、情報を流してほしいのです」

 

随分ふんわりとした依頼でしたが、難しい依頼でも無かったので、受けました。

 

あきつ丸さんに接触するのは難しくありませんでした。

偶然を装って、彼女に話しかけただけですから。

 

「あれ……? あきつ丸さん……?」

 

彼女がいつも通っているという――霊園の入口でのことです。

 

「青葉殿……」

 

「偶然ですね。お墓参りですか?」

 

「えぇ……まあ……。知り合いの軍人が、ここに眠っているのであります」

 

「そうでしたか……。青葉は……そのお知り合いの方には失礼かもしれませんが、――霊園には幽霊の目撃情報が多数あると聞きまして、取材を――」

 

もちろん、嘘でした。

今思えば、バレバレな嘘だったかもしれません。

それでも、あきつ丸さんは傷心していたのか、無理して作った笑顔で「そうでありましたか」と返すだけでした。

 

「もしかしたら、今日、そのお知り合いに会えるかもしれません。何か伝えておくことはありますか?」

 

青葉の冗談に、あきつ丸さんは初めて、心からの笑顔を見せてくれました。

それがきっかけで、何度か会うことになりました。

 

そんなある日の事です。

いつもは青葉からあきつ丸さんへ連絡を取っていたのですが、初めてあきつ丸さんの方から、会いたいのだと連絡がありました。

待ち合わせ場所のカフェに着くと、指定された時間の一時間前だと言うのに、あきつ丸さんはもう座っていました。

 

「お待たせしました。待ち合わせ時間、14時であってましたよね?」

 

「えぇ。いつも青葉殿が先に来られていましたので、今日は早く来てみたのであります。それにしても、一時間前に来るとは思いませんでしたが……」

 

「逆によく一時間以上前に待とうと思いましたね」

 

「それでも、青葉殿はこの時間に来られたではありませんか」

 

「まあ、そうなんですが……」

 

いつもと違い――いつもは、少し暗い感じなのです、あきつ丸さん。

その日に限っては……というよりも、その日を境に、明るくなったのです。

もがみんと遊ぶようになったと聞いていましたから、そのせいかもしれません。

まあ、そんなことはどうでもいいのです。

本題はここからです。

 

「青葉殿に依頼をしたいのであります」

 

「依頼、ですか……」

 

「とある方を調べて欲しいのであります。本人に気が付かれず、こっそりと」

 

そう言って、あきつ丸さんは一枚の写真を見せてくれました。

若い人たちの集合写真で、その中の一人を指していました。

それが司令官、貴方です。

 

「雨野勉という人であります。今は小説家で、最上殿が担当している先生がこの人にあたります」

 

「はぁ……。して、この人とあきつ丸さんはどういった関係で?」

 

そう聞くと、あきつ丸さんはわざとらしく照れたふりを見せました。

 

「お恥ずかしながら、一目惚れなのであります。この前、お見かけいたしまして……。この写真よりはもっと大人になっておられましたが」

 

「へぇ、確かにかっこいい人ですよね」

 

それだけだったら良かったのですが、ここからです。

 

「それに……実は……これはもっと恥ずかしい事なのでありますが……」

 

今度は本当の赤面でした。

 

「自分はこの人を、夢に見ることがあるのです……。自分は人間で、名前は雨野愛美……。雨野勉は、雨野愛美の旦那さんにあたる人なのであります」

 

夢、と聞いて、継承の艦娘を思いました。

しかし――。

 

 

 

そこまで言って、青葉は閉口した。

 

「どうした?」

 

「……いえ、すみません。続けますね」

 

 

 

大淀さんにその事を連絡すると、大層驚かれていました。

そこで青葉は、霞ちゃんの事を聞きました。

なるほど、あきつ丸さんが継承の艦娘である可能性が、そして、愛美さんが継承元である可能性があることが分かりました。

 

それからは、あきつ丸さんの依頼通り、司令官を監視していました。

そして――。

 

 

 

「そして……司令官に一目惚れしました……」

 

それは嘘だ。

だが、青葉もそのことが分かっているのか、申し訳なさそうにしていた。

 

「……以上が、青葉の知っているあきつ丸さんに関する全てです」

 

そう言い終えると、青葉は様子を伺うようにして、俺を見つめた。

 

「そうか……。それは、知らなかったことだ」

 

「お役に……立てましたか?」

 

「あぁ。自分の信念を曲げてまで……いや、或いは曲げていないのかもしれないな……。とにかく、俺の為にありがとう、青葉」

 

そう言ってやると、青葉は再び目を潤ませた。

 

「……一つ質問なのだが」

 

「は、はい! 何でも聞いてください!」

 

「一目惚れだと言ったな。あきつ丸が持っていたという写真を見た時は、何故一目惚れしなかったんだ?」

 

「写真の司令官が若くて、その時はピンと来なかったのです」

 

「そんなに古い写真だったのか」

 

「古い……のかもしれません。多分、大学生……くらいではないかと思います……」

 

「大学生の頃の写真……だとして、何故あきつ丸はそんな写真を持っていたのだろうか……」

 

「それは……同人誌に挟まっていたとか……」

 

「同人誌?」

 

「えぇ、司令官の同人誌です。大学時代に書かれた。確か、陸軍の処分品の中にあったとかなんとか……」

 

陸軍……。

確かに、あきつ丸は俺の同人誌を見つけたと言っていたが、写真のことまでは言っていなかった。

あくまでも、俺に近づくきっかけとして利用しただけだ……と、たまたま発見しただけだと言っていたが……。

 

「司令官の知り合いに、陸軍関係者がいるのではありませんか?」

 

「え?」

 

「司令官の同人誌を持っていて、おそらくその写真に写った人物です……。心当たりはありませんか?」

 

「いや……。尤も、卒業後は交流が無かったものだから……」

 

「あ……」

 

青葉は何か気が付いたかのように、零した。

 

「そう言えば、同人誌の最後の方に……名前が書いてあって……」

 

「何て名前だ?」

 

「それが……『雨野勉』と……。草書体……というより、あれはサインのような……」

 

「サイン……俺の……?」

 

それを聞いた時、記憶の奥底にあった一つの思い出が、目を覚ました。

 

 

 

 

 

 

「サイン?」

 

「はい。いただけませんか……?」

 

「俺のサインか? して、何故?」

 

「今の内貰っておかないと……勉さんには会えませんから……」

 

「どういうことだ?」

 

「……案外鈍いですね。人気小説家になってしまうから、今の内にサインをもらっておこう……って、言っているんです……」

 

そう言うと、自分でも臭い事を言ったのだと分かって恥ずかしくなったのか、『佐伯』は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

「フッ……がめついな」

 

「私は……勉さんのファン第一号です……。それくらいの事は……してもらって当然かと思います……」

 

普段のオドオドした態度からは想像できない、らしくない我が儘だと思った。

 

「分かったよ。俺ので良ければ」

 

「ほ、本当ですか……?」

 

「嘘を言ってどうする」

 

「あ、ありがとうございます! じゃあ……ここに……!」

 

同人誌の端に、いつか書いてやるのだと練習したサインを書いてやる。

 

「ほら」

 

「わぁ……ありがとうございます……! やけに手慣れてましたけど……練習しました?」

 

「……どうかな」

 

「ふふっ……」

 

「笑うな……」

 

普段は見せない彼女の微笑みは、珍しいものであったのだろうが、今ではあまり思い出せない。

ただ、最後に言われたこの言葉だけは、引き出しの中に大切に――それこそ、思い出せないほど深い場所に、仕舞ってあったらしい。

何気ない、一言だ。

 

「大切にしますね」

 

 

 

 

 

 

我に返る。

青葉が心配そうに、こちらを覗き込んでいた。

 

「し、司令官……?」

 

「佐伯……『佐伯ゆうみ』だ……」

 

「え?」

 

「その同人誌の持ち主だ。どうして今まで忘れていたのだろうか。そうだ。佐伯ゆうみだ……!」

 

「佐伯……ゆうみ……?」

 

「確か、事故にあったとかで……大学を辞めたんだ……。どうしてそいつの同人誌が陸軍に……」

 

「陸軍に入られたとかですかね……?」

 

「そんな奴ではない。いつもオドオドしていて、体もあまり強くなかったんだ」

 

ここに来て佐伯か……。

どうして今まで忘れていたのだろうか。

俺のファン第一号は、まぎれもない佐伯だったはずなのに。

 

「一応、その佐伯さんについて調べてみましょうか? あきつ丸さんに関する何かが分かるかもしれません。それこそ、継承の事とか……」

 

「そうだな……。そうしてもらえるか? 俺も大学の奴らに連絡を取ってみる」

 

「分かりました! 青葉、この命に代えてもその依頼を完遂して見せます!」

 

「いや、その命は大切にして欲しいものだが」

 

「そんな、青葉の命を大事に思ってくれるなんて……」

 

「そりゃそうだろ。せっかく友人になったのだしな」

 

「司令官……」

 

「とりあえず、色々分かってよかったよ。分かり過ぎて、頭ん中ぐるぐるしているくらいだ。今日のところはこれくらいにしておいて、どうだ? 飯でも行かないか?」

 

「あ、はい!」

 

社に一礼し、俺たちは神社を後にした。

 

 

 

飯屋へ向かう途中、ふと、気になったことを青葉に問いかけた。

 

「そう言えば、俺の為になるなら、裏切りでもなんでもしましょうって言っていたが……」

 

「はい、その言葉に嘘偽りはないです! 司令官に隠し事はしません。なんなら、青葉のスリーサイズでもお教えしましょうか?」

 

「いや、それは別に……」

 

「えー!? 青葉、割と自信あるんですけどねぇ……」

 

冗談を言う青葉。

悪いと思いつつ、水を差した。

 

「だったら、海軍が俺に隠している『何か』の事も、言えるか?」

 

少しでも動揺を見せるかと思ったが、青葉は何食わぬ顔で、こうはっきりと答えた。

 

「言えません」

 

「……それはなぜだ?」

 

「言ったはずです。『貴方の為になることであれば』と」

 

「それは俺の為にならない事なのか?」

 

「はい」

 

青葉の真っすぐな目が、俺を見つめていた。

 

「青葉、司令官に嫌われてもいいです」

 

それは、決意を意味していた。

俺の為になるのなら、嫌われてでも、その事を秘密のままにしておきましょう。

そう言いたかったのだろう。

そう言いたかったのだろうが……。

 

「うぅぅ……」

 

精一杯だったのだろう。

青葉はまた泣き出してしまった。

本当、俺はよく艦娘を泣かせてしまうな。

 

「分かった分かった。悪かったよ。意地悪したな」

 

「本当は嫌われたくないけど……貴方の事を……青葉は……青葉わぁ……うぅぅ……」

 

どんな秘密なのかは分からないが、今は青葉の優しさに守られておこう。

そう思った。

 

「ごめんな」

 

「ぐすっ……撫でてくれたら元気出ます……」

 

「本当かよ……」

 

試しに撫でてやると、まるで嘘のようにけろっとして、青葉はいつもの調子に戻った。

……嘘泣きだったんじゃあ、ねぇだろうな。

 

 

 

飯を食った後、いち早く情報を掴むのだと、青葉は店を出るなり飛び出して行ってしまった。

 

「フッ……忙しない奴だな」

 

しかし、思わぬ収穫を得たな。

まさか、佐伯が関わっている可能性があるとは……。

 

「『収穫』……か」

 

あきつ丸が愛美であることは分かってはいるのだが、やはりより確かなものにしたいと、心の奥底では思っているのだろうな。

まあ、分かったところで、どうするわけでも無いのだが……。

愛美は会ってくれないし……。

結局のところ、俺はそれを知って、どうしたいのだろうな……。

 

 

 

帰ると、割烹着姿の鳳翔が出迎えてくれた。

 

「鳳翔?」

 

「あら先生、お邪魔しております。あ、お帰りなさいませ、と言ったほうがよろしかったでしょうか?」

 

「どちらでも構わない。しかし、どうした? 今日来るなんてのは、一言も聞いていないが」

 

「はい、実は先生の為に来たのです」

 

「俺の為?」

 

「いえ、最上先生ですよ」

 

「最上先生だぁ!?」

 

 

 

居間に向かうと、そこには鈴谷がルポライターみたいな恰好をして座っていた。

 

「あ、先生。おかえりー」

 

「おう。なんだその恰好は……」

 

「あ、これ? これね、鈴谷、原稿を取りに来た担当者なんだー」

 

「はぁ?」

 

「私が、最上先生の奥様役なのです」

 

何を言っているのか分からないでいると、台所の方から霞が出て来た。

 

「霞、こりゃなんだ?」

 

「なんか、最上が……」

 

そこまで言うと、霞は大きくため息をついた。

 

「最上が……締め切りに追われる先生ごっこをしたいって言って……」

 

「なんだそりゃ……」

 

「私に聞かないでよ……」

 

そういう霞は、昭和の子供のような格好であった。

 

「私は鳳翔さんと最上の子供なんだって……」

 

何もかも諦めた顔で、霞は言った。

抵抗はしたのだろうが、無駄だったのだろうなと推測できる。

 

「で、この有様か……。鈴谷はともかく、鳳翔、どうしてお前までノリノリなんだ……」

 

「鈴谷はともかくってどういう事!?」

 

「奥様役が欲しいと言われたので……」

 

「だからと言って付き合うことなかったんだぜ」

 

「そうかもしれませんが、私自身、先生のお宅にお邪魔してみたかったのもありまして……。割烹着姿で殿方のお家にいるって……なんだか……」

 

そう言うと、鳳翔は恥ずかしそうに、頬に手をあてた。

 

「そ、そうか……」

 

「あ、そろそろ!」

 

鈴谷は立ち上がると、俺の部屋へと向かった。

扉には『入室禁止』の張り紙。

 

「先生ー! まーだーでーすーかー?」

 

鈴谷の問いかけに、中から最上が叫ぶ。

 

「もうちょっと待ってくださーい! あと少ーしなんです!」

 

「あと少しあと少しって、何分待たせる気ですかー!?」

 

「あと数行!」

 

わちゃわちゃやっていると、鳳翔と霞がやって来た。

 

「まあまあ、もうちょっとだけ待ってあげてくださいな。そうだ、カステラがありますの。是非食べて行ってくださいまし」

 

「奥さん、そうは言いますがね、時間がですねー?」

 

「まあまあ」

 

次は霞の台詞なのか、鳳翔と鈴谷が霞を見た。

 

「ほら、霞ちゃん。台詞台詞」

 

小さなため息の後、霞は棒読みも棒読み、いやいやそうに台詞を口にし出した。

 

「えーん、えーん、おっかちゃんをいじめんでー。えーん、えーん」

 

「べ、別にイジメてるわけじゃねーでやんすよ?」

 

鈴谷のキャラ設定が全く固まってないのが気になる。

 

「うるさいぞ! 集中できないじゃないか!」

 

扉が開き、付け髭の立派な最上が、俺の着物を着て出て来た。

 

「ごめんなさい貴方……」

 

「全く……」

 

「先生、原稿は!?」

 

「えーん、えーん」

 

ここからどう納めようとしたのかは分からないが、とりあえず俺のげんこつが最上の頭にヒットし、クランクアップとなった。

 

 

 

「これも必要な経験だと思ったんだ」

 

氷水の入った袋を頭にあてられながら、最上はそう言い訳した。

 

「そんな経験は必要ない。全く……。弟子だからと言って、家の出入りを自由にしたのが間違いだった……」

 

弟子になったのだから、師匠の世話もするのだと息巻くものだから、合鍵を渡してやったのだった。

 

「悪かったな、鳳翔、霞」

 

「いえ、楽しかったですし」

 

「別にいつもの事だし……」

 

「ねぇ、鈴谷は? 鈴谷には無いの?」

 

「お前だろ。最上を焚きつけたのは」

 

「違うし!」

 

「どうだか。服屋でその服を見つけて、この演劇を思いついたかなんかだろ」

 

「へぇ~、流石鈴谷の恋人。正解! はい、拍手~!」

 

「……お前も殴られたいのか?」

 

そう言った後、俺は思わず笑ってしまった。

緊張ばかりの日々であったからこその笑いであった。

だがな――。

 

「最上、プロットとそれに沿った短編を書いて来いと言っただろう。あれはどうしたんだ?」

 

「プロットは出来たんだ。けど、何だか物語が完成したって感じで、イマイチ筆がのらないんだよね」

 

「書かなきゃ意味ないんだぜ。お前のそれは、どんなによくできていたとしても、ただの妄想に過ぎん。こんな茶番やってる暇があるくらいなら、さっさと書いてこい」

 

真剣な口調でそう言ってやると、最上はしゅんとしてしまった。

そんな空気を悪く思ったのか、鈴谷が茶々を入れた。

 

「やーい、怒られてやんの~」

 

それに最上は、苦笑いで返した。

いつもならそんな返しはしないのをここにいる全員が知っていた。

だからこそ、鈴谷はそれ以上の事を言わなかった。

一気に空気が重くなる。

 

「遊びや妄想をしたいのなら、別に弟子入りなんてしなくていい。小説家なんて目指さない方がいい」

 

「……ごめんなさい」

 

「何故謝る?」

 

最上は閉口してしまった。

意地悪な事を言っていることは百も承知だ。

 

「書く気が無いなら書かなくていい。無理に目指す道でもない」

 

「いえ……書きます……」

 

「いいよ。書かなくて」

 

「書きます……!」

 

言い合いが続く。

鈴谷と霞は、何を言ったらいいのか分からないと言うようにして、俺たちの様子を遠目に見ていた。

 

「真剣にやります……! だから……!」

 

最上が頭を下げたところで、鳳翔がそっと、俺の体に手を添えた。

それくらいに……とでも言いたかったのだろう。

 

「……勝手にしろ」

 

俺はソファーに座り、テレビの電源を入れた。

画面の向こうで、艦娘の吹雪が、美味そうに焼き蛤を頬張っていた。

一方のお茶の間は、重苦しい空気に包まれたままだった。

静寂を切ったのは、最上であった。

 

「……皆、今日はごめんね。ボク……書かなきゃいけないから……戻るよ……」

 

「あ……うん……。鈴谷こそ……ごめんね……」

 

「最上さん……」

 

俺はテレビから視線を外さなかった。

 

「じゃあ……お邪魔しました……」

 

空気に耐えられなかったのか、全員が最上を玄関まで見送った。

小さい声であまりよく聞こえなかったが、鳳翔が励ますような言葉をかけてやったようであった。

戸が開き、そして閉まった。

皆が恐る恐る居間に戻って来てやっと、俺は大きくため息をついた。

 

「クソ……」

 

その様子に、霞と鳳翔は気持ちを察してくれたのか、慰めるように寄り添ってくれた。

 

「先生、お疲れ様です。心中お察しいたします」

 

「あぁ……つらいもんだな……」

 

「……そう言うもんでしょ。師弟関係なんて……」

 

鈴谷だけは状況が呑み込めないのか、オロオロとその様子を遠目に見ていた。

 

「鈴谷、驚かせて悪かったな。別に喧嘩しただとか、俺の機嫌が悪いだとか、そういう訳じゃないんだ」

 

「ど、どういうこと……?」

 

「最上さんに、あえて厳しい言葉をかけたのですよね? 厳しい道だって、教えるために」

 

「え……?」

 

「……あいつだって、厳しい道なのは分かっていると思う。だが、俺と師弟関係になったとはいえ、俺とあいつの仲だ。今日みたいに、真剣ではない瞬間というか、楽観的に物事を考えて、本来やらなきゃいけない事もやらなくなってしまうのではないかと思ってな」

 

「現にやってないし……」

 

「まあ、そうなのだが……。とにかく、厳しい事を言ってやらない事には、あいつの意識も変わらないと言うか、それが本来の師弟関係なのだろうと思ったんだ。小説に関して教えられることも、売れない作家にはないだろうからな……」

 

それに、先ほど最上に言ったことは、本心であった。

小説家なんてものは、目指すべきものではない。

特に、俺を目標になどと――。

 

「うぅぅ……」

 

呻き声。

それは、鈴谷のものであった。

 

「ど、どうした?」

 

「こ、怖かったよぉ……」

 

そう言うと、鈴谷はぽろぽろと涙を零した。

鳳翔が慌てて慰めに行く。

 

「あらあら……。そうですよね……怖かったですよね……」

 

「おいおい……。泣くほどだったか……?」

 

「だってぇ……あんなに怒った先生……見たことなくてぇ……」

 

そうだっただろうか。

いつも鈴谷に振り回されて――いや、無いかもしれないな。

振り回されっぱなしで終わるか。

 

「悪かったよ、鈴谷」

 

「先生~……」

 

抱き着く鈴谷。

よく見ると、涙はすでに出ていなかった。

 

「よしよししてぇ~」

 

「……分かったよ」

 

鈴谷の頭を撫でてやっていると、ふと、霞の視線に気が付いた。

なんとも言えない表情で見つめる霞。

何を考えているのかは、すぐに分かった。

 

「驚かせて悪かったな」

 

空いた片方の手で、霞の頭を撫でてやる。

素直に頭を撫でられるところを見ると、分かってはいたのだろうが、霞も少し怖いと思っていたらしかった。

 

「先生」

 

鳳翔が、頭を突き出す。

 

「なんだ?」

 

「私にはないのですか?」

 

それは、鳳翔なりの場の納め方であった。

 

「フッ……分かったよ。けど、悪かった、というよりも、ありがとう、が正しいかもな。ありがとう、鳳翔」

 

撫でてやると、鳳翔は「思いのほか恥ずかしいですね」と頬を赤く染めた。

その様子に、鈴谷もいつもの調子を取り戻したようであった。

 

 

 

店の準備があるのだと、鳳翔は夕方前に帰っていった。

 

「店、休みじゃなかったのに来たのか……」

 

「どうしても先生の家に来てみたかったんだってー」

 

「そこまでか……?」

 

「そりゃそうでしょ。鳳翔さん、あんたの事好きだったみたいだし」

 

「「え!?」」

 

驚く俺と鈴谷に、逆に霞が驚いたようであった。

 

「な、なによ? 知らなかったの?」

 

「なにそれ!? 聞いたことないし!」

 

「あ、あぁ……。その……好き……ってのは、異性として……なのか……?」

 

「そうだって聞いてるわ。料理を教えてもらった時、実は……って。あんたの胃袋を掴むんだって、息巻いてたわ」

 

そうだったのか……。

あの鳳翔が……。

俺が思い耽ていると、鈴谷がムッとした表情で俺の頬をつねった。

 

「痛っ! なんだよ?」

 

「先生、鳳翔さんがそういう気持ちを持ってくれたことに対して、何か言いたげじゃん……」

 

「何かって?」

 

「……そうだったのなら、鈴谷じゃなくて、鳳翔さんの方がよかった……とか……」

 

「何を馬鹿な……。ただ、そうだったのか……って思ってるだけだ。そう言う節もあったかなって……」

 

「どーだか……」

 

何を怒っているんだ……。

霞に助けを求めると、施しようがないと言うようにして、手をひらひらさせて見せた。

 

「……確かに、鳳翔がそう言う気持ちを持ってくれたことは嬉しい。けど、お前への気持ちは変わらん」

 

「……心の底からそう言える?」

 

「あぁ、言える」

 

「じゃあさ、鳳翔さんが、鈴谷が居ても構わないって言ったら? 裸で迫ってきたら?」

 

「なんだその例え……。そんなことする奴じゃないだろ」

 

「例えばの話! っていうか、やけに鳳翔さんの肩持つじゃん……」

 

「やけにって言うほどでもないだろ……。何をそんなに怒っているんだ……。そんなに俺が信用無いのか?」

 

「……だって先生、鈴谷が押し倒した時も、反応していたし……。どうせ、誰にだって反応するんっしょ……?」

 

そこまで言って、鈴谷はハッとした。

だが、時すでに遅し。

霞はニヤニヤしながら「へぇ、そこまで行ったんだぁ」と言った。

 

「……っ! 鈴谷帰る!」

 

「あ、おい鈴谷! 霞、留守番頼む!」

 

「えぇ、そのまま朝までコースでもいいわよ~」

 

「馬鹿言うな!」

 

鈴谷のバッグを持って、家を飛び出した。

 

 

 

「おい待てよ!」

 

公園に差し掛かり、やっとの事で鈴谷に追いついた。

 

「着いてこないでよ!」

 

「いや、バッグ! バッグ忘れてる!」

 

そう言ってやると、鈴谷は気が付いていなかったようで、顔を真っ赤にしてバッグを奪った。

 

「鈴谷……」

 

力の入った鈴谷の手が、徐々に弱まって行き、だらんと垂れた。

どうやら、少しばかり頭が冷えたようだ。

 

「……ごめん。つい……カッとなっちゃった……」

 

「……俺はお前の恋人だぜ」

 

「分かってる……。分かってるけど……不安になって……」

 

「不安?」

 

「鳳翔さんと先生は……お似合いだって思ってたし……。もし鳳翔さんが先生を好きだったら……勝てないだろうなって……」

 

なるほどな……。

それで当たってしまったという訳か……。

 

「信用無いんだな。俺は」

 

「そんなことない……」

 

「あるだろ。……確かに、お前が言う通り、裸なんかで迫られたら、反応してしまうかもしれん」

 

鈴谷はそれに、複雑そうな表情を見せた。

 

「けど、あの時だって、俺はお前に抵抗しただろ。同じことをするはずだ」

 

「反応はするんだ……」

 

「男だからな」

 

そう言って微笑んで見せると、鈴谷も少しだけ、表情を崩した。

 

「……どうすれば、信用してくれる」

 

「どうすればいいと思う……?」

 

鈴谷の目が、俺を見つめていた。

その表情は赤く、少し汗ばんでいた。

 

「先生……」

 

沈黙に耐えられなかったのか、鈴谷はそっと寄り添い、俺の胸の中で小さく言った。

 

「これから……時間……ある……? 鈴谷の家で……どうすればいいのか……一緒に……考えない……?」

 

その意味を、俺は理解していた。

理解していたからこそ――。

 

「先生……心臓……早くなってる……」

 

「……男だからな」

 

「鈴谷も……同じだよ……。ドキドキし過ぎて……心臓が破裂するんじゃないかって……」

 

「……グロいな。それは」

 

「……比喩! 小説家なんだから……そんくらいわかるっしょ……」

 

そう言うと、鈴谷は顔を上げて、俺を見つめた。

そして、お互い何も言わず、そっと口づけを交わした。

長い長い、口づけであった。

 

「――……はぁ、先生……」

 

汗で乱れた髪をそっと戻してやると、鈴谷は目にうっすらと涙を溜めた。

 

「どうしよう先生……。鈴谷……ドキドキとまらないよ……」

 

鈴谷は胸に手をあて、何かをこらえるようにして、小さくなった。

その瞬間だった。

つまり、鈴谷が小さくなった瞬間であった。

 

「――っ!」

 

俺の心臓は、止まりそうになった。

小さくなった鈴谷の後ろ――公園の入り口に、愛美が――あきつ丸が立っていたのだ。

それも、ただ立っているわけではない。

今まで見たこともないほどに、力強く――憎しみを持った目で、こちらを見つめていたのである。

 

「……っ」

 

思わず息を飲む。

怒り、憎しみ――それら全てを含んだあきつ丸の表情は、今まで見たどんな表情よりも、恐ろしく見えたのだ。

 

「先生……」

 

鈴谷が再び、俺を抱きしめる。

 

「鈴谷……初めてだから……。その……優しく……してください……」

 

「あ、あぁ……」

 

次に俺が顔をあげた時、そこに、あきつ丸の姿はなかった。

 

 

 

結局、霞の言う通り、家に帰ったのは翌朝になってしまった。

 

「ただいま」

 

「ふわぁ……お帰り……」

 

霞は何やら居間の方から、眠たそうに出て来た。

 

「スマン、お前の言う通りになってしまった」

 

「別にいいのよ……。私も楽しんだし……」

 

「え?」

 

ふと、居間を見てみると、そこにはお菓子やらジュースやら俺の小説やらが散乱していた。

 

「お前、まさか徹夜したのか?」

 

「一人だと思ったら、なんだかテンション上がっちゃって……。気が付いたら朝になっちゃった……」

 

そう言うと、霞は大きく欠伸をした。

 

「という訳だから、私は少し寝るわ……。お昼には起きるつもりだから、安心しなさい。じゃあ……ふわぁ……」

 

自室に戻る霞を横目に、俺は居間の片づけを始めた。

なんやかんや言って、あいつもこういうところは子供っぽいよな。

深夜に一人でテンションあがっちゃう……か。

まるで愛美だな。

あいつも前に、一人にしてやった時――。

 

「…………」

 

そういや、鈴谷に夢中になって忘れていたが、昨日のあきつ丸の表情……ありゃ一体……。

そんな事を考えながら掃除をしていると、携帯が鳴った。

青葉からであった。

 

「もしもし?」

 

『あ、司令官! おはようございます!』

 

「おはよう。どうした? こんな朝早くから……」

 

『はい。実は、佐伯ゆうみさんに関して、いくつか分かったことがありまして……。これから会う事ってできますか?』

 

「もう分かったのか。流石だな。会うのは構わない。どこで待ち合わせようか」

 

『――霊園です』

 

「――霊園? ――霊園って……あきつ丸が通っているとか言っていた……」

 

『はい。その――霊園です』

 

何故そんなところを指定したのか。

その理由は、少し考えればわかることであったが、俺の頭が回り切る前に、青葉の口から伝えられることになった。

 

『佐伯ゆうみさんのお墓が、――霊園で見つかりました』

 

――続く



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11話

怯え、震える体を、あなたは優しく抱きしめてくれた。

 

「大丈夫。大丈夫だよ」と。

 

どれだけ救われたか。

どれだけ安心したか。

 

 

 

「これは運命だったの……。きっと私は……この為に……あなたに出会う為に……生まれて来たのだと思う……」

 

何故、あなただったのだろう。

 

「だから、泣かないで……。あなたと出会えて、私はとっても幸せだった……」

 

何故、あなたではなかったのだろう。

 

「私を……忘れないでね……」

 

何故――。

 

「あきつ丸……」

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

今にも、雨の降りだしそうな天気であった。

 

「あ、司令官!」

 

青葉は昨日と同じ格好で、――霊園の入口に立っていた。

 

「おう……って、お前……どうした、その頭……」

 

青葉の髪は乱れていた。

目元も擦ったように赤くなっていたし、こりゃ……。

 

「お前、まさか寝てないのか……?」

 

「はい!」

 

元気よく返事はしているが……。

若いとはいえ、このテンションを維持できるのは本当にすごいものだ。

 

「そんなに大変だったのか。佐伯の事を調べるのは……」

 

「はい。何しろ、想像以上……というよりも、想定外の事がありまして……足取りを掴むのに苦労しました……」

 

「想定外?」

 

「はい……。実は、司令官の通っていた大学に連絡を取ってみたのですが……その……在学していなかったとされていまして……」

 

在学していない……?

 

「馬鹿な。そんなはずはない」

 

「えぇ、おかしいと思いまして、『佐伯ゆうみ』という人物の痕跡を探しては見たのですが……どうにも『佐伯ゆうみ』という人物が、そもそもこの国に居たと言う記録もなくて……」

 

「存在しない……ということか……?」

 

「あくまでも、そういう事になっている……ようです……」

 

「いや、まさか。何かの間違いだろう」

 

そうは言っても、青葉は顔色一つ変えなかった。

 

「……佐伯ゆうみ……であってるよな?」

 

「はい、あってます」

 

「マジで在学記録が無かったのか?」

 

「住民票どころか、戸籍も、何もありませんでした」

 

何もない……。

 

「どういうことだ……? まさか、偽名だった……とか……?」

 

「いえ……それはありません。現に、佐伯さんを古くから知っている、同級生とされる人物とコンタクトが取れたのですが、『佐伯ゆうみ』という名で間違いはなさそうでした」

 

存在はしていた。

だが、情報が無い。

 

「一体全体……何がどうなっているんだ……」

 

「……これはつまり、『佐伯ゆうみ』という人物は、何者かによって、その存在を消された……ということです」

 

「存在を……。そんな事、出来るのか?」

 

「個人レベルではまず無理でしょう。国が大きくかかわるのなら別ですが……」

 

国……。

そんな大規模な話になるのか。

 

「……問題はここからです。確かに、『佐伯ゆうみ』は存在しないこととされていました。しかし、『佐伯ゆうみ』らしき人物の記録は見つかったのです」

 

「佐伯らしき人物……?」

 

「これは……その……『司令官の為になること』ではないので、詳しいことは話せませんが……とにかく、『佐伯ゆうみ』がその存在を抹消され、新しい人生を歩んでいる可能性があるという情報を掴みまして……」

 

また、俺の為にはならない事か……。

俺個人と何の関りもないように思うが……。

青葉は慎重に、言葉を選びながら続けた。

 

「何と言ったらいいのか……その……あ、戦後初めて青葉とあきつ丸さんが出会ったのがこの――霊園でして……って言うのは説明しましたよね……。えーっと……その時、あきつ丸さんが……知り合いの軍人が眠っていると……だから……調べていた情報も行き詰っていて……」

 

イマイチ言葉がつながらない青葉。

眠くて頭が回らないのか、それとも……。

 

「……すみません。ちょっと……整理しますね……」

 

そう言うと、青葉は目を瞑り、考えを巡らせた。

そうしている間にも、雲はより一層厚くなり、風も冷たくなっていった。

 

「青葉」

 

「は、はい」

 

上着を脱ぎ、青葉に着せてやった。

 

「寒かろう」

 

「い、いえ……! そんな……! 司令官こそ、お体を大事にしてください! 青葉は平気ですから!」

 

そう言う青葉の格好は、昨日が暖かかったのもあって、薄着であったのだ。

 

「俺も平気だ。それよりも、お前の格好を見ているだけで、こっちまで寒くなってしまう」

 

そう言ってやると、青葉は俯き、上着で顔を隠した。

耳まで赤くなっているところを見ると――いや、無粋か。

 

「……ありがとうございます」

 

青葉はしばらくそうした後、考えがまとまったのか、顔を上げた。

 

「……情報が行き詰って、青葉は原点に戻ることにしました。司令官の同人誌が陸軍にあったこと、そして、その持ち主が『佐伯ゆうみ』であり、現在はあきつ丸さんが所有していること……。あきつ丸さんは司令官の同人誌を『処分品の中にあった』と言っていましたが、本当にそうなのか……。もし、あきつ丸さんが何かしらの嘘をついていて、本当は『佐伯ゆうみ』からこの同人誌を貰っていたのだとしたら……」

 

確かにその可能性はある。

特に、あきつ丸が嘘をついている可能性に関しては、大いに。

同人誌に挟んであったという写真を俺に隠していたし、そもそも、処分品の中にあった、どうでもよい同人誌に挟んであった写真を、何故大事そうに持っていたのか。

俺の小説にそこまで興味が無かったように思えるのに、夢で見た雨野勉という名が、同人誌にあったのを覚えていたし……。

 

「戦友が眠っているというあきつ丸さんの証言を元に、――霊園に来ました。もしかしたら、その戦友こそが、『佐伯ゆうみ』なのではないかと。しかし、墓標に刻まれていた名は『柊木紫』という全くの別人でした……。そう……『別人』……だったんです」

 

まるでなにかあると言うようにして、青葉は強調した。

別人……か。

別人……。

 

「……佐伯は存在しなかった。『佐伯ゆうみ』「は」存在しなかった……。だが、『佐伯ゆうみ』らしき人物は存在している……!」

 

「そうです。『柊木紫』こそ、『佐伯ゆうみ』だったんです。彼女は、『柊木紫』という名に……言うならば別人に成り代わっていたのです!」

 

 

 

俺たちは、その『柊木紫』の墓の前に行き、青葉の持ってきた線香を供えた。

 

「『柊木紫』は、ちょうど『佐伯ゆうみ』の消息が不明になった頃、陸軍へ入った記録があります。家族構成や出身地などは、偽装されたものを国に登録されているようで、追うことは出来ませんでした……」

 

「では何故、佐伯とそいつが同一人物だと分かったんだ?」

 

「写真です。――病院という場所で撮られたという」

 

「写真……?」

 

「こちらです」

 

青葉の見せてくれた写真には、小さな女の子が病院のベッドの上でピースをしている姿が写っていた。

 

「ここです」

 

その写真の隅。

そこに小さく写っていたのは――。

 

「佐伯か……!?」

 

「そうです。実は、戦時中に『柊木紫』は、この――病院に入院していたのです。亡くなったのも、この――病院とのことです」

 

写真に写る佐伯の表情は、なんとも言えないものであった。

 

「『柊木紫』がここに入院していたことは、すぐに分かりました。病院に問い合わせたところ、この写真一枚だけが残っていたようで……。念のため、先ほど話に出ました、佐伯さんの古くからの友人に見せたところ、間違いなさそうでした」

 

「あぁ……そうだろうな……」

 

写真を見て思い出す。

そうだ。

こんな顔をしていたのだ。

 

「戦後になると、お見舞いにあきつ丸さんが来ていたそうです。それも、頻繁に……」

 

「では、やはり……」

 

「はい……。『佐伯ゆうみ』はあきつ丸さんと繋がりがあり、同人誌も、『佐伯ゆうみ』から貰ったものの可能性が高いです……」

 

全てが繋がった。

あきつ丸と佐伯の関係。

だが、当の本人は……。

 

「一足遅かったという訳か……。もし生きていたのなら、あきつ丸の継承と、愛美のことが分かったかもしれないのに……」

 

そう呟く俺に、青葉は何やら言いたげにしていた。

 

「青葉?」

 

青葉は口を開かない。

言いたいのだが、言えない。

それは、俺の為にならないから。

というところか。

 

「分かったよ。言えないのだろう?」

 

そう笑ってやっても、青葉は安心しなかった。

それどころか、何か伝えたいという意思が、目に宿ったままであった。

 

「…………」

 

青葉の言いたいこと。

その正体を俺はきっと知っている。

だからこそ、青葉は何も言わないのだ。

だからこそ、訴えて来ているのだ。

 

「青葉……」

 

もし、それが分かるのだとしたら、きっと、この瞬間なのだろうと思う。

青葉の話を聞いた、この瞬間なのだろうと思う。

なにか、青葉の情報の中に、ヒントがある。

だが、それが何なのか……俺には……。

 

「……愛美さんは」

 

青葉はたまらず口を開いた。

 

「青葉の調べた中に、愛美さんは、一切出てきませんでしたね……」

 

確かに愛美は出てこなかった。

それどころか、佐伯の話ばかりで……。

 

「佐伯……」

 

ハッとした。

だが、もしそれが正しいのだとしたら、あきつ丸の行動の意味が分からなかった。

 

「理由は分かりません」

 

俺の考えを読んだかのように、青葉はそう言った。

 

「しかし、そう考えれば、辻褄があうのです」

 

「どの辻褄があうんだ?」

 

「それは……」

 

青葉は閉口した。

そこに、俺の為にならない何かがあることだけは分かった。

 

「青葉」

 

「はい……」

 

「お前は何かを隠そうとしている。だが、何かを伝えようともしている。俺の為にならなくとも、気が付いて欲しいことがあるのだと、お前は思っている」

 

青葉は答えない。

 

「だから、そんなお前だからこそ、俺はただ、お前に問う。ただ問うだけだ。答えなくてもいい」

 

一呼吸を置いて、俺は問うた。

 

「あきつ丸は嘘をついている。本当の継承は愛美ではなく、佐伯ゆうみだ」

 

青葉は静かに、首を縦に振った。

その事実は、俺の中に多数の疑問を――或いは疑いを生んだが、青葉の力いっぱい握られた拳と、涙をこらえる姿に、それ以上の事を聞くことは出来なかった。

 

「……ありがとう」

 

顔を覗き込むのは野暮だと思い、俺は青葉の乱れた髪を優しく撫でてやりながら、――霊園を後にした。

 

 

 

青葉を家に送ってやった後、俺は考えをまとめるために、家路の途中にある公園へと足を運んだ。

いつもの――煮詰まった時、よくここに来ていたのだ――人気の少ないベンチに向かうと、そこには最上が座っていた。

 

「あ……」

 

俺を発見すると、すぐに目を逸らし、俯いてしまった。

 

「よう。隣、いいか?」

 

「……うん」

 

最上の隣に座る。

ベンチは古く、二人も座ると、流石に少しだけきしむような音がした。

 

「これも必要な経験か? 煮詰まった時の練習にってさ」

 

「…………」

 

「今のは煽ったんだぜ。怒ってるわけじゃないよ」

 

そう言ってやっても、最上は委縮しているようであった。

静かな時が流れる。

 

「謝って欲しいか」

 

「え?」

 

「仲直りしてほしいか」

 

最上は何も答えず、再び俯いた。

 

「師弟関係、か……」

 

ベンチに腰掛け、雲に覆われた空を眺めた。

どんよりとしていて、まるで最上の気持ちを表しているようであった。

 

「お前は、どうして俺に弟子入りしたんだ?」

 

何十回とした質問だった。

いつも答えは曖昧であって、未だにどうして、本当に分からないでいる。

 

「ボクは……先生の作品が好きで……」

 

そう言った後、最上は閉口した。

そして、膝を抱えると、本音を零した。

 

「……本当は、先生の事が大好きだったから。師弟関係だったら……ずっと一緒に居られると思ったから……」

 

最上らしからぬ、弱弱しい声であった。

隠してきたのか、気が付いていかなかったのか――とにかく、本音であることは間違いなさそうであった。

 

「不純だな」

 

「不純だよ……」

 

ある意味では、純粋なのかもしれない。

最上の気持ちは、今もなお、変わっていないのだから。

 

「師弟関係などではなくとも、俺はどこにもいかない」

 

「でも、人のものにはなってしまったじゃない……」

 

「鈴谷の事か?」

 

最上は小さく頷いた。

 

「そんなこと言ったら、俺は元々愛美のものだ。ずっとそうだった。お前がよく知っていることだ」

 

「屁理屈だよ……」

 

「かもな」

 

最上は膝を解くと、俺をじっと見つめた。

少しムッとしているところを見ると、いつもの調子を取り戻したらしい。

 

「先生の作品が好きなのは本当さ……。先生のような小説も書きたいし、弟子入りは本当に嬉しかったし、やめるつもりもない。けどね……」

 

最上の表情が崩れて行く。

あぁ、これは――。

気が付いた時には、もう既に遅く、大粒の涙が零れ始めていた。

 

「あんなに怒ることないじゃないかぁ……うぅ……」

 

あまりにも予想外な事に、俺は思わず笑ってしまった。

 

「スマンスマン。いや、その……」

 

「分かってるよ……。先生は……ボクの事を思って怒ってくれたんでしょ……? 厳しい道だって……教えるために……」

 

やはり分かっていたか。

 

「けど……それ以上にボクは先生の事が好きなんだよ……。小説家の道が厳しくても耐えられるさ……苦労する覚悟だってできてる……。でも……先生に突き放されるのは……耐えがたいよ……」

 

それを聞いて、俺はハッとした。

突き放される。

それが、怒られたからだとか、絶縁だとか、そういう友情ごっこ的なものではない事に気が付いたからだ。

裏付けるように、最上は続ける。

 

「小説家を諦めろだとか……厳しい道だとか……そんなことはどうでもいいんだよ……。ただ……ボクが唯一先生と繋がれる道を……断ち切らないで欲しいんだ……」

 

最上にとって小説とは、俺と繋がる唯一の道。

本人の意思以上に大切なものが、最上にはあるのだ。

そりゃ分からないはずだ。

 

「どこまでも不純で、どこまでも純粋だな……」

 

「…………」

 

「けど、この前のは怒って当然だ。それは分かるだろ?」

 

最上は何も言えずに、俯いた。

 

「それでも……お前の道を断ち切ろうとしてしまったのは、悪いと思っているよ。ごめんな、最上……」

 

「先生……。うぅぅ……ボクも……ごめんねぇ……うぁぁぁ……うぅぅぅ……」

 

「フッ……泣くな。鼻出てるぜ」

 

ハンカチを取り出した時、ふと、青葉の涙を拭いたものだと思い出す。

最近、よく泣かせてしまうと思ってはいたが、今日だけでもう二回、それも、二人目だ。

 

「俺が泣かせてしまうのか、お前たちがよく泣くのか」

 

「うぅっ……何の話……?」

 

「いや、なんでも」

 

 

 

結局、最上を泣き止ますのに時間を費やし、考えをまとめるという当初の目的を果たすことが出来なかった。

 

「送ってくれなくても良かったのに」

 

「女が一人泣いて歩いていたら、変な目で見られるだろう」

 

「先生が泣かせたみたいに思われちゃうんじゃない?」

 

「実際にそんなものだろうよ」

 

そんな事を話しながら、最上の家に差し掛かった時であった。

 

「――っ!」

 

思わず足を止める。

向こうさんも、同じように。

 

「先生?」

 

最上は、俺の視線の先に居る奴を発見すると、そいつの方へと駆け寄っていった。

 

「あきつ丸、どうしたのさ? こんな所で」

 

あきつ丸は俺をじっと見つめたまま、動かずにいた。

無論、俺も同じだった。

 

「あ、ふふ、そっかそっか。先生、あきつ丸が先生に用事だって!」

 

「「え?」」

 

俺もあきつ丸も、最上の謎の気遣いに、思わず声を漏らした。

 

「じゃあね、あきつ丸、先生!」

 

何を勘違いしたのか、最上はそそくさと、俺たちを残して家へと入っていった。

 

「…………」

 

気まずい時間が流れる。

 

「……よう。久しぶり、という体でいいのか?」

 

「……どうでありましょうな」

 

あきつ丸の、いつもの謙虚な感じは無く、ただただ冷たい態度であった。

珍しい。

だが、昨日のアレを見てしまっては、そんなこともかすんでしまう。

 

「最上殿が見ておいでです。とりあえず、ここを離れましょう」

 

そう言って歩き出すあきつ丸。

なるほど、確かに最上がカーテンの隙間からこちらを見ていた。

角を曲がり、最上の視線が外れてから、あきつ丸は言った。

 

「自分に、話があるのではないですか?」

 

 

 

寒空の下で話すのもなんだと、適当にカフェでもと提案すると、あきつ丸は個室の居酒屋を指定した。

行きつけなのだと、話をするにはもってこいの場所なのだとのことらしい。

 

「立派な店だな」

 

確かに、話をするにはもってこいだ。

厨房やトイレまでは遠く、襖のある個室。

時間も時間であるから、俺達以外に客もいないようであった。

 

「何を飲まれますか?」

 

「おすすめは?」

 

「日本酒でありますな。銘柄はいかがいたしますか?」

 

「てんで疎いんだ。お前のと同じものを貰おう」

 

「では」

 

あきつ丸は聞いたことのない銘柄と、それに合うつまみを注文した。

酒とつまみはすぐに出て来て、あきつ丸がお酌をしてくれた。

 

「乾杯は無しでお願いできますか? 縁起が良くないと、教えられましたゆえ」

 

「あぁ、分かった」

 

俺たちは視線を合わせると、何も言わず、猪口の酒を一気に飲み干した。

 

「飲みやすいな」

 

「からすみと一緒にどうぞ。良く合うのであります」

 

「どれ……。うん、美味いな」

 

「お気に召したようで」

 

そう言うと、あきつ丸は嬉しそうに笑った。

美味い酒。

美味いつまみ。

美人の女。

男にとって、これほどの娯楽はないだろう。

だが、それ以上に俺は、違和感を感じざるを得なかった。

今日のあきつ丸は、「あきつ丸」なのだ。

最近見せていた「愛美」ではなく、「あきつ丸」であったのだ。

 

 

 

しばらくすると、酔いが回ってきた。

どのタイミングで話を切り出そうかと考えていると、それを読み取ってか、あきつ丸の方から問いかけて来た。

 

「今日……」

 

顔をあげ、あきつ丸を見た。

同じくらい酔っているはずなのに、あきつ丸の顔は白く美しいままであった。

 

「亡くなった、知り合いの軍人の墓参りに行って来ました……」

 

まぎれもない、柊木の――いや、佐伯の墓だ。

 

「墓には既に、線香が供えられてました。命日でも無いし、友人や親族もいなかった人でありますから、大層驚いたものであります」

 

俺は何も言わなかった。

 

「線香の火は新しく、供えた者がまだ近くにいるのだと、自分は周りを見渡してみました。すると、霊園の出口の方で、二人の男女を見たのであります。片方は青葉殿でありました。もう片方は……」

 

そう言うと、あきつ丸は俺を見つめた。

その目に、感情は無かった。

 

「どうやら青葉殿は、自分を裏切ったようでありますな……」

 

あきつ丸は淡々と語り、時折酒に口をつけた。

 

「あきつ丸」

 

「はい」

 

「お前は、一体何者なんだ? 何が目的なんだ?」

 

「……それを聞く前に、勉さん、貴方が何を知っているのか、お聞かせ願います」

 

「……分かった」

 

俺はあきつ丸に全てを話した。

青葉から聞いたこと、佐伯との関係、そして――。

 

「お前が愛美でなく、佐伯の魂を継承しているのではないか……そう疑っている……」

 

話の区切りだというようにして、俺は酒を飲み干した。

 

「……なるほど」

 

再びあきつ丸の目が、俺を見つめた。

 

「……先ほどから、勉さんは、自分の事を「愛美」とは呼びませんでした。二人っきりであるのにも関わらず。それは、自分が愛美殿の魂を継承していないと、心の奥底で確信しているからではありませんか? 疑いではない。これは、確信から来る追及なのであります」

 

「それはお前も同じだろう。あれだけ見せていた愛美の影を、一度も出さなかった。――霊園での俺たちを見て、自分の正体がばれたのだと確信したんだ」

 

「気まぐれかもしれません。それとも、愛美殿にご執心の勉さんに、あきつ丸が嫉妬している、とか」

 

「そうでないことは分かる。自分では気が付かないのだろうが、顔に出てるぜ」

 

あきつ丸は咄嗟に顔をさすった。

だが、すぐに気が付いたらしく、退屈そうな表情を見せた。

 

「……もういいだろ。これ以上は、お互いの粗探し大会になってしまう」

 

「それはそれで興が乗りそうでありますが」

 

「顔がそうは言っていない」

 

今度は確認もせず、あきつ丸は大きくため息をついた。

 

「あきつ丸……」

 

「……確かに自分は、愛美殿の魂を継承しておりません」

 

「……何故、嘘をついた。何故、俺に近づいてきた」

 

あきつ丸は、昨日見せたような鋭い目で、俺を睨み付けた。

 

「貴方の人生を……滅茶苦茶にする為であります……」

 

そして、深く目を瞑ると、何かを思い出すようにして語り始めた。

 

 

 

目が覚めた時――この世に生を受けた時、目の前にあったのは、女性の悲しそうな顔でありました。

汚れ、顔のいたるところに傷があり、血が流れておりました。

鼻腔に広がる火薬の臭い。

焼けた木々からの輻射熱。

刺す様な多くの視線。

殺意。

自分はただ、怯えることしかできませんでした。

何が起きているのか、ここはどこなのか、自分は誰なのか……。

呼吸は乱れ、体は震え、命を乞うように、天を仰ぎました。

その手を掴み、震える体を包み込んでくれたのが、佐伯ゆうみでありました。

 

「大丈夫。大丈夫だよ」

 

その言葉、そのぬくもりに、自分はどれだけ救われたか、言葉で表すことが出来ないほどであります。

 

 

 

以前、貴方にお話ししたことは、ほとんどが事実であります。

陸軍は、深海棲艦の存在を海軍より先に知っておりました。

攻撃を受けた為です。

陸軍の救護班であった父を持つ佐伯ゆうみは、攻撃があった日、父親との面会の為に、――陸軍基地に訪れておりました。

そこで不幸にも、攻撃を受けてしまったのであります。

被害は残酷なものであったと聞きます。

その中でただ一人、無傷の女性が、爆心地に裸で眠っているのが確認されました。

それが、佐伯ゆうみだったのであります。

 

 

 

佐伯ゆうみは意識を取り戻すや否や、深海棲艦の存在、居場所、それに対抗する力の事を話したそうです。

誰もが妄言だと思ったそうですが、実際に証言通り、深海棲艦は指定した場所に居ました。

演習という目的で攻撃しましたが、歯が立ちません。

陸軍は半ばやけくそで、佐伯ゆうみを向かわせました。

彼女の造った艤装と共に――。

 

 

 

深海棲艦に勝利し、あきつ丸をドロップした陸軍は、情報漏洩を恐れ、『佐伯ゆうみ』の存在事実を抹消しました。

そして彼女には、『柊木紫』という新たな人生が与えられたのであります。

 

 

 

柊木紫は、拘束されたあきつ丸の様子を、毎日のように見に来てくれました。

 

「貴女を見ていると、自分を見ているみたい。不思議」

 

彼女は決まってそう言いました。

返事がなくとも、彼女は話し続け、陸軍にあきつ丸の拘束を解くよう、交渉していたそうです。

 

 

 

12月の事です。

海軍が深海棲艦の攻撃を受けました。

そして、それに対抗する力を発見し、艦娘をドロップしました。

その艦娘が艤装を使いこなせる事を知った陸軍は、ようやくあきつ丸の拘束を解き、艤装を継承させ、海軍にスパイとして送る計画を立てました。

 

「今日から一緒だね」

 

そう笑う彼女の顔は、どこか悲しそうだったのを覚えております。

自分は、そんな彼女の為になりたいと、彼女の支えになりたいと、心から思ったものであります。

 

 

 

そんな大切に想える人が陸軍を去ったと聞いたのは、自分が海軍に馴染んできた頃でありました。

陸軍曰く、原因不明の病に倒れた、とのことでした。

すぐにでも駆けつけたかった。

しかし、時代がそれを許してはくれませんでした。

 

 

 

再会したのは、戦後すぐの事であります。

――病院、――号室の窓際。

久々に会った彼女は、少しやつれておりました。

それでも、いつも見せていた、変わらぬ笑顔で自分を迎えてくれました。

自分はその日から、毎日彼女の元へと通い詰めました。

何か力になりたい。

彼女の励みになることをしたい。

その想いからでした。

 

 

 

ある日、彼女はとある一冊の本を見せてくれました。

 

「私の宝物なの」

 

薄く、ぼろぼろになった本でありました。

そう、貴方が学生時代に作成した、同人誌であります。

彼女はその本に挟まっている一枚の写真を見せて、自分にこういいました。

 

「ここに写っている人が、私の初恋の人なの」

 

若い、大学生くらいの貴方が、そこには写っておりました。

それから彼女は、貴方の事を嬉しそうに語り始めました。

貴方の作品が素晴らしいこと。

小説家としてデビューしていること。

そんな貴方のファン第一号であること。

殊に、ファン第一号であることは、彼女の最大の自慢であるようでした。

 

「こんな状況でも無ければ、会いに行きたいものだけれど」

 

これだと思いました。

その彼を見つけ、会わせてやろう。

そうしたらきっと、彼女も喜ぶであろう。

自分は早速、貴方を探しました。

 

 

 

貴方の事はすぐに見つけることが出来ました。

しかし、貴方は既に誰かのものでありました。

その事実も然ることながら、自分が最大のショックを受けたのは、その誰かが『笹沼愛美』であったことであります。

笹沼愛美とは、海軍に配属になった頃、何度かお話をさせていただいたことがありましたので、面識はありました。

艦娘として活躍していたのも知っております。

ショックだったのは、彼女と笹沼愛美が、同じような境遇であったからでありました。

元艦娘であり、原因不明の病に侵されている。

尤も、笹沼愛美は亡くなっておりましたが……。

これが一般の女性であったのなら良かったのであります。

同じ境遇だからこそ、比較してしまうのです。

何故、彼女ではなかったのか、と。

ファン第一号であり、こんなにも貴方の事を想っているのに、何故彼女は孤独なのか、と。

 

 

 

貴方の現状を彼女に隠さなければいけないと思いました。

知らない方が幸せな事もある。

しかし、彼女は知ってしまったのであります。

自分に内緒で、貴方の事を調べたようでありました。

 

 

 

彼女の容体が悪化したのは、それから三日後の事でありました。

 

「あきつ丸……」

 

喋るのもやっとだという様子でありました。

 

「私……もう駄目みたい……。結局……貴女だけだったね……。私の傍にいてくれたのは……。私を忘れないでいてくれたのは……」

 

握った手は、とても冷たくて、細かったのを覚えております。

 

「でもね……本当はね……私、あの時……攻撃を受けたあの時に、死んでいるはずだったの……。だから……少しの間だけでも……こうして生きられただけでも……神様に感謝しなくちゃいけないの……」

 

その考え方が、彼女の不幸を表していると思いました。

そう考えなければ、彼女の孤独は埋まらない。

彼女は救われないのであります。

 

「それでもね……私の最大の幸福は……生きられたことじゃないの……。貴女がいてくれたこと……。貴女が私を忘れないでいてくれたことが……私の最大の幸福だった……。今もそうよ……」

 

彼女は体を起こすと、私の頬に流れた涙をなぞりました。

 

「これは運命だったの……。きっと私は……この為に……あなたに出会う為に……生まれて来たのだと思う……」

 

大げさだと、笑ってやることもできませんでした。

 

「だから、泣かないで……。あなたと出会えて、私はとっても幸せだった……」

 

そういう彼女の頬にも、一筋の涙が零れておりました。

 

「私を……忘れないでね……」

 

 

 

 

 

 

あきつ丸は話し終えると、ゆっくりと目を開け、俺を睨んだ。

 

「彼女は貴方に覚えていてほしかったのであります……。なのに……貴方は……」

 

「……それが、俺に近づいた理由か? 佐伯を忘れ、愛美に現を抜かしている俺を許せなかった……。人生を滅茶苦茶苦にしてやろうと企てた……」

 

「……彼女の墓参りをする度に、貴方の事がチラつきました。貴方が彼女を忘れて居なければ、結果も変わっていたかもしれないとも思いました。貴方が殺したとさえ……。そんなある日、貴方が霞殿を引き取ったと聞き、この復讐を思いついたのであります。霞殿に笹沼愛美の魂が継承されているから、貴方は引き取った。貴方は亡くなった雨野愛美を忘れられないでいる。これを利用する手は無いと思いました」

 

「では、霞にはやはり――」

 

言葉が終わる前に、あきつ丸は俺に刃を向けた。

 

「今はそんな話をしているのではないのでありますよ……!」

 

「……佐伯そっちのけで、愛美の話をしている俺にムカついたのか?」

 

瞬間、刃が俺の頬を軽く切った。

 

「話しているのは自分であります……。貴方は黙って聞いていればよいのでありますよ……」

 

「……分かった」

 

あきつ丸は刃を向けたまま、再び話し始めた。

 

「最上殿に近づいたのは、貴方の事を知る為でありました。貴方に好意を持っているようで、なんでも話してくれましたよ。恋愛相談なんかもされたりして……。次に、貴方も知っている通り、青葉殿に貴方を調べるよう依頼しました。青葉殿が海軍に依頼され、自分に近づいてきた事は、何度か一緒に過ごす内に分かりましたから、それも利用しようと考えたのであります」

 

俺はそれを聞いて、ハッとした。

あきつ丸が小さく頷く。

 

「そう。自分に笹沼愛美の魂が継承されているのではないかと、疑いを持って貰う為であります。大淀殿はきっと、その事を貴方に言うのだと思ったのであります」

 

自ら情報を海軍に流し、俺の視線をあきつ丸に向けさせたって訳か……。

 

「そこからは貴方の知る通りであります。貴方に接触し、正体を明かした。貴方惑わせ、雨野愛美の事を……あきつ丸の事ばかりを考えさせ、貴方を好きでいてくれる全てを捨てさせ、貴方を孤立させるために……!」

 

そのロジックがうまくいかなかったことは明白だった。

その理由をあきつ丸は語り始めた。

 

「しかし……思いのほか、貴方が霞殿に対する気持ちは強く、自分は幾度もなく振り回されました……。雨野愛美を忘れるのだと聞いたときは、大層驚いたものでありますよ……。自分の計画では、あきつ丸に雨野愛美の魂が継承されているものだと、貴方が貴方自身に思い込ませ、勝手に洗脳されてゆくようにロジックを組んでいたのでありますが、変更を余儀なくされ、貴方に直接継承していることをはっきりと伝える形になってしまいました……」

 

だが、そこに今回の失敗の原因はない。

 

「しかし、それも失敗に終わりました。まさか青葉殿が、貴方と直接つながっているとは、思ってもいませんでした。いや……つながっていたとしても、何故自分を裏切ったのか……そして……何故貴方に情報を伝えたのか……。これだけは未だに分からない事であります……」

 

それに関しては俺も同じ意見であった。

あきつ丸ほどの奴が信頼を置いていたのだ。

青葉は本当に、あいつ自身の言う通り『依頼された仕事は、誰の仕事でも受け、依頼人の秘密は厳守する』という事を信念に持っているのだろう。

現に、『あきつ丸が愛美の魂を継承している可能性』はリークしても、あきつ丸が【依頼】した『雨野勉の調査』は、大淀にリークされていないようであるし。

 

「いずれにせよ、もう終わりなのであります。計画は失敗に終わった」

 

刃から反射した光が、俺の目をくらませる。

 

「最初からこうしておけば良かったのかもしれません……」

 

「あきつ丸……」

 

「死ぬ前に彼女に謝れ……!」

 

「……分かった。だが、その前に約束してほしい……」

 

「聞くとお思いか?」

 

俺は構わず続けた。

 

「命だけは取らないでくれ……。代わりに……俺の目をくれてやる……」

 

「この期に及んで命乞いでありますか……? 誰がそんな事を聞くものか……!」

 

「頼む……。俺には……守らなければいけないものがたくさんあるんだ……」

 

「その中に何故、彼女を入れてあげなかった……! どうして忘れてしまったのでありますか……!」

 

それに、俺は何も言うことが出来なかった。

 

「潔く、死んで償え……!」

 

「頼む……あきつ丸……」

 

「もういい……!死ね……!」

 

あきつ丸が刃を振りかぶり、俺は咄嗟に体を縮めた。

世界が静寂に包まれる。

無音の世界に取り残される感覚。

妻が死んだ時と同じ感覚。

あぁ、これはそうだ。

 

これは、死の感覚――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ではなかった。

 

 

 

俺は恐る恐る顔をあげ、あきつ丸を見た。

今まさに振り下ろされようとされている手が、止まっていた。

あきつ丸も予想外だと言うようにして、手を見つめている。

俺は――俺は何故、その時そう言ったのか、未だに分からないでいる。

ただ、何かを感じたのは確かだった。

 

「佐伯……?」

 

――続く



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12話

「聞いて」

 

なに?

 

「今日ね、あの人が、キャンプ道具をたくさん貰って来たの。同僚の使い古しを……って。戦争が終わったら、一緒に行こうって」

 

キャンプ?

 

「でもね、ふふっ、どうみても新品でね? よーく見てみると、テントに値札が貼ってあったの。16万円って。16万円よ? 無駄遣いはいけないって、言ったのだけれどね」

 

最低ね、あんたの夫。

 

「けど、目を瞑ってあげたわ。だって、こんな状況なのに、わざわざそんなものを買ってくるって事は、きっと、私を安心させるためだと思ったから」

 

安心させるため?

 

「『戦争が終わったら、一緒に行こう』。それはつまり、無事に帰ってくるつもりだって事でしょ?」

 

そう言えばあんたの夫、死にに行くんだって言ってたらしいものね。

 

「だから、目を瞑った。あの人が無事なら、16万円だろうが何だろうが、どうだって良かったから」

 

あんたもそうだけど、あんたの夫も不器用よね。

そんなことでしか、気持ちを伝えられないなんて。

 

「まあでも、本音を言うとね? あの人とのキャンプが、ちょっと楽しみな自分がいたのよ。私達って、戦時中に知り合ったものだから、そういう事、したことなくて……。だから、目を瞑ったりして……」

 

やっぱり寂しい?

 

「今頃何してるのかな……。昨日ね、次はいつ会える? って聞いたらね――」

 

「おーい、そろそろ休憩終わるぞー!」

 

「あ、はーい! 呼ばれちゃった。じゃあ、行くね。また来るね、霞」

 

うん。

またね――

 

 

 

――愛美。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

「佐伯……?」

 

あきつ丸の腕は呼びかけに応じることなく、空中で止まっている。

――いや、止まってはいない。

小さく、ほんの小さくではあるが、震えていた。

 

「佐――」

 

もう一度呼びかけようとしたとき、静かな個室の中で、ぽたりと、何か雫のようなものが落ちた音がした。

重さのあるような――そう、謂うなら大粒の――。

大粒の――それは、あきつ丸の頬を伝い、次々と床を叩きつけていた。

 

「どうして……」

 

震える手に語り掛ける様にして、あきつ丸はそう零した。

手を止めている者――佐伯に対しての言葉かと思われたが、どうやらそうでなさそうだった。

あきつ丸が俺を見つめる。

 

「どうして……こうなってしまったのでしょう……?」

 

まるで癇癪から我に返ったかのようであった。

或いはその通りなのかもしれないが、とにかく、この数秒の間に、あきつ丸の心に何か変化があったようだ。

 

「……とりあえず、それを降ろしたらどうなんだ」

 

そう言ってやると、あきつ丸は手を降ろし、刃をテーブルの上に置いた。

 

「自分は……うぅぅ……どうして……どうして……」

 

情緒不安定。

そんな言葉が頭をよぎる。

だが、あきつ丸ほどの者が――ここまで考えてくるような者が、そんなものに陥る訳がない。

 

「あきつ丸……」

 

泣き崩れるあきつ丸をどうしていいか分からず、俺はただ、いつも泣かせてしまっている奴らにやるようにして、背中をさすってやった。

それにすがるかのようにして、あきつ丸も身をゆだね、泣き続けた。

そして、こんな言葉を頻りに言った。

 

「自分が彼女を殺したのであります……。ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 

 

あきつ丸が泣き止むのに時間はかからなかった。

以前見せた涙とは違い、鼻水は垂れるは涙は大粒だ――まるで子供のそれではあったが……。

 

「大丈夫か?」

 

「はい……」

 

怒りの心はすっかり消え去ったのか、あきつ丸はいつもの様子を見せていた。

 

「……思いとどまってくれてありがとう。いや……謝るべきか……」

 

「いいえ……。貴方は悪くありません……。悪いのは……全部自分なのであります……」

 

悪いのは自分。

それは、俺に刃を向けたという意味における言葉ではない。

 

「自分が彼女を殺した……というのは……」

 

「言葉の通りであります……。彼女を殺したのは……自分なのであります……。それを認められなくて……認めたくなくて……貴方に罪を……擦り付けてしまったのであります……」

 

状況が全くつかめない俺に、あきつ丸は丁寧に説明をしてくれた。

 

 

 

それを知ったのは、彼女が死んで数日後の事でありました。

 

『彼女の死の原因が分かったよ』

 

陸軍からの連絡でありました。

正直、彼女の死因など、今更聞いても仕方がないと思いましたが……。

 

「して」

 

『彼女の症状が、所謂癌のようなものに蝕まれているのは分かっているね?』

 

「はぁ。しかし、癌とは違い、治療方法がないのだと聞いてはいますが……」

 

『そうだ。癌は原因となる細胞が存在するが、彼女の症状は、正体不明の――いや、目に見えない何かに体を蝕まれている状態であり、それを見つけることはかなわなかった』

 

何万回と聞いたことでありましたから、自分は「またか」と思い、小さくため息をつきました。

 

『だがね、見つかったのだよ。見つけたのは誰だと思う?』

 

「勿体ぶりますね。自分は上官から、まずは結論から話すよう教育されたものでありますが」

 

『勿体ぶるほどの話だということだ。いいか。盗聴対策は取れているね』

 

「もちろん」

 

『では話そう。見つけたのは艦娘だ。彼女の体を蝕んでいたもの……それは、君達艦娘にも存在している、艦娘にしか認識できない細菌のようなものであったのだ』

 

「細菌……でありますか……」

 

『その艦娘が、絵で可視化してくれたものを見ると、確かに細菌のような見た目をしているのだ。実際にそれが何なのかは不明だが、艦娘の細胞を移植したラットの実験で、彼女と同じ症状を再現できた』

 

「しかし、自分は何とも……」

 

『それも謎ではあるが、今のところ言えるのは、所謂純粋な艦娘にはそう言った事例が無いということだ』

 

「それ以外であれば拒絶反応が起きる……という事でありますか?」

 

『言い換えるとそうなる。彼女が深海棲艦の攻撃を受けた時、深海棲艦の細胞が一部一体化していたことは確認していたが……』

 

「公表は」

 

『出来るわけがなかろう。人間が艦娘をやっていたという事実そのものが、公表は出来ないのだから』

 

正直、この時は「その程度か」と思っておりました。

彼女は死んだ。

艦娘となったが故に。

いや、彼女に言わせれば、最初から死んでいたのであります。

 

『本題はここからだ』

 

「本題?」

 

『継承の事は覚えているかね』

 

「えぇ、当然であります」

 

『知っての通り、人間である彼女たちが艤装を操るのには、体に『針』を打ち込む必要があった。艦娘と違い、直感的な操縦が出来なかったのだ』

 

難しい話でありますが、簡単に言いますと、人間である彼女達は、確かに艦娘とほぼ同じ能力を持っていたのではありますが、一つだけ違う点があったのであります。

それが「艤装を直感的に扱えない」ということなのであります。

彼女たちが艤装を扱うには、体内に艤装から伸びる『針』を刺す必要があったのです。

当時はそのプロセスはよく分かっておらず、とにかく艤装から伸びる注射器のような『針』を皮膚に刺すことによって、艤装扱うことが出来たのであります。

艦娘はそんなことを必要とせず、単純に体に搭載するだけで扱えました。

 

『その『針』が何故必要であったのか、それは艤装を扱う為だ。艤装を調べてみると、とあることが分かった。それは、先ほど言った『細菌のようなもの』が大量に付着しているということだ。それは艤装本体が持っているものではなく、外部から付着したものであり、艤装を動かすエネルギーにもなっていた。つまり、艤装を動かしていたのはこの『細菌のようなもの』であったのだ』

 

「つまり『針』とは、細菌を艤装へ送るためのものであった……という訳でありますか。しかし、純粋な艦娘はどうして……」

 

『そこが今回の肝でね。彼女たちの持つ細菌は、艦娘のものと比べて不完全なものだった……というより、完全なものにするだけの能力を持ち合わせていなかった』

 

「不完全?」

 

『艤装の『針』から細菌を送っていたのは確かだ。だが、実は送るだけではなく、艤装側からも何か体内に送られてきていたようなのだ。それが体内を循環し、細菌を完全な形に変え、再び艤装へと送っていたようだ。純粋な艦娘は、そのプロセスは不要であり、かつ細菌が皮膚からの伝達により行われていたため、『針』が無くとも操れた……というのが今の見解だ』

 

「感染するのでありますか?」

 

『いや、艤装だけだ。例えるなら、細菌とは鉄であり、艤装とは磁石なのだ。細菌が艤装に感染した、というよりも、艤装自体が細菌を引き寄せたというのが正しいだろう。ただ、先ほどのラットと同じように、細胞自体を移植するのなら別の話ではあるが……』

 

「彼女は攻撃を受けた時、深海棲艦の細胞……つまり、細菌を移植する形になってしまったという訳でありますか……」

 

『そうだ。深海棲艦の細胞にも、その細菌は付着していた。細菌自体は、艤装を動かすためのものだけではなく、君たちの超回復にも一役買っていたのだ。だがそれは、完全な細菌を完全なものとして体内にとどめておける君たちだけの話であり、その他は変わってくる。ラットの実験で分かったことは、細菌を完全なものとして取り込んだのにもかかわらず、時間が経つにつれて、不完全な物へと変貌してしまう事だったのだ』

 

「拒絶反応……」

 

『そうだ。艦娘がどうやって、完全なものとして細菌を維持できているのかは解明されていないが、とにかく、人間……彼女たちはそれが出来ず、不完全な細菌を持つこととなった。その不完全な細菌こそ、癌のような症状を起こしている犯人であったのだ』

 

自分はここまでの話を聞いて、ハッとしました。

それを察してか、電話口の向こうで上官が静かに言いました。

 

『分かったかね。そうだ。継承だよ。艤装は細菌を完全なものとして循環させるものであった。それを失った彼女たちは、細菌を不完全なもののまま体内に宿し、蝕まれてしまったのだ』

 

 

 

「そこからの事はよく覚えていません。気が付けば、電話を切っておりました……」

 

あきつ丸の言いたいことは分かっていた。

もしあきつ丸が継承しなければ、佐伯は死ななかったのだ。

謂うならば、艤装とはワクチンの役割も持っていた。

それを奪ってしまったということなのだ。

継承によって。

そう、継承によって……。

 

『司令官の為にならない事』

 

青葉の言葉が、脳裏に響いた。

そうか。

そういうことだったのか。

これで全てがつながった。

青葉が隠していること、大淀が隠していること。

その全てが――。

 

「自分が殺した……。その事実を受け入れることが出来ませんでした……」

 

「だから俺を……」

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

自分の罪悪感から逃げる為、俺を恨んだ。

俺に全てをぶつけようとしたのだ。

 

「しかし、思いとどまってくれた。俺は確かに佐伯の事を忘れていた。どんな理由であれ、刃を向けられてもおかしくなかった……。だから、思いとどまってくれてありがとう、あきつ丸……」

 

あきつ丸は首を横に振った。

 

「自分を止めてくれたのは……彼女です……」

 

「彼女……。佐伯か……?」

 

「刃を振りかざした時、確かに誰かに手を止められました。そして、聞いたのです……彼女の声を……」

 

それがどんな声であったのかは説明してくれなかった。

いや、説明せずとも分かっていた。

きっと、あいつは――あいつなら――。

 

「あきつ丸……」

 

あきつ丸の手を取る。

冷たく、華奢な手であった。

 

「お前のせいではない。忘れていて言うのもなんだが……あいつもきっと、それを分かっているはずだ。少なくとも、俺の知るあいつは、そういう奴だと思う」

 

あきつ丸の中の佐伯も、きっとそうなのだろう。

だが、あきつ丸は、それをその通りに認めていいとは思っていない。

思ってはいけないと、思っているのだ。

 

「ずっと一人で抱え込んできたんだな……」

 

華奢な手が、小さく震えていた。

 

「俺がもっと早く、佐伯のことを思い出していれば……お前を苦しませずに済んだのかもしれない……」

 

あきつ丸は首を横に振った。

 

「ごめんな……」

 

そう言ってやると、あきつ丸は再び涙を流した。

どうしようもなくて、一人で抱え込んで――孤独だったのだろう。

最初こそ、青葉と交流を持ったのだって、きっと――。

 

 

 

「痛っ……」

 

「我慢するのであります」

 

店を出た後、裂かれた頬を手当して貰う為、近くにあるというあきつ丸の家まで来た。

 

「これで大丈夫であります」

 

「悪いな」

 

「いえ、悪いのは自分でありますから……」

 

先ほどの泣きっ面とは打って変わり、あきつ丸はいつもの様子を取り戻していた。

 

「立派なところに住んでいるのだな」

 

「一人暮らしには広すぎます。本当は、彼女と一緒に住もうと思い、ここを借りたのであります」

 

ふと、フォトフレームの中に、あきつ丸と佐伯がほほえんでいる写真を見つけた。

 

「戦後、再会してすぐの写真であります」

 

病室での写真。

再会してすぐということは、8月~のはずだが、花瓶には勿忘草が生けられていた。

 

「造花であります。彼女は、この花が好きだと言っておりましたので……」

 

勿忘草か……。

俺はふと、財布に忍ばせてあった栞を思い出し、取り出した。

 

「それは?」

 

「勿忘草の栞だ。すっかり忘れていた。もう駄目になりかけているな」

 

そう言った時、ハッとした。

この勿忘草を栞にした経緯を――勿忘草を手にした経緯を思い出したのだ。

 

「……そうか」

 

あの時――戦争が激化した、夏の頃。

押し入れに電気を引いて、薄暗い明りの中で小説を書いていた頃に見た、フードを被った小柄な人影。

勿忘草を置いていった、あの人影は――。

 

「そうか……。お前だったんだな……」

 

『私を忘れないで』

 

その花言葉が、俺の胸を締め付けた。

止めどなくあふれ出る涙。

 

「ごめんな……佐伯……」

 

そんな俺を、あきつ丸は理由も聞かず、ただただ傍で慰めてくれた。

 

 

 

あきつ丸と別れ、俺は家路についていた。

結局、あいつは許してくれたらしい。

ずっと孤独であった自分を救ってくれたのだと、感謝もされたくらいだ。

ただ、俺たち二人にとって、許す許さぬということは、さほど重要ではなかったのだ。

 

「霞殿も……この事を知ってしまったら、きっと……」

 

「あぁ、だから、黙っていてほしいんだ。お前が苦しいのは分かっている。誰かを頼らなくてはいけない事も……。だが……」

 

「えぇ、大丈夫であります……。ずっと、一人で戦ってきましたから。それに、今は貴方がいる。何かあったら、頼りにしても宜しいでしょうか?」

 

「あぁ、俺で良ければ」

 

「ありがとうございます。その……勉さん……って、これからも呼んでも……?」

 

「好きに呼んでくれ」

 

「はい。では、勉さん。ありがとうございました」

 

「あぁ」

 

その時見せてくれたあきつ丸の顔は、今まで見たどんな笑顔よりも、純粋で、美しかった。

 

 

 

長い一日を終え、家に帰ると、霞が出迎えてくれた。

 

「お帰り……」

 

不機嫌だ、というようにして、霞は腕を組んでいた。

 

「ただいま。どうした? 不機嫌そうにして」

 

「実際不機嫌なの……。ったく……こんな時間までどこ行ってたのよ……」

 

時計を見ると、すっかり日が暮れている時間であった。

 

「色々な。お前の方は、昨日夜更かしして、寝ていたんじゃないのか?」

 

「流石に起きるわよ……。起きてもあんたいないし……。帰ってこないし……」

 

「何か不都合でもあったか?」

 

そう聞いてやると、霞は俺に蹴りを入れた。

 

「痛っ。何すんだよ」

 

「フンッ……」

 

霞はそそくさと居間へと戻っていった。

なんなんだ一体……。

 

 

 

「いてて……」

 

自室であきつ丸に貼って貰ったデカい絆創膏を外すと、傷口はすでにふさがっていて、血は止まっていた。

痛々しい傷だけは残ってしまってはいるが……。

 

「さて……」

 

居間に戻ろうとしたとき、ふと、愛美の写真に目が行った。

 

「…………」

 

あきつ丸の話を聞いて、一番に考えた事。

佐伯には悪いが、愛美の事であった。

愛美も佐伯と同じで、原因不明の病と闘っていた。

それはつまり、あいつも同じように――。

もし、継承をしなければ、愛美は今も――。

 

「違う……」

 

佐伯の言うように、きっと攻撃を受けた時、愛美は死んでいたのだ。

たまたま奇跡が起こっただけで、霞が悪い訳ではない。

そう、違うのだ。

違う。

……違うと分かってはいる。

それでも、思ってしまうのだ。

あの元気な愛美の姿を。

そして、もっと早く解明されていれば、愛美を救えたのではないのだろうかと……。

 

 

 

居間に行くと、霞は相変わらず機嫌が悪そうであった。

ソファーに座ると、霞も隣に座り、仏頂面でテレビを見始めた。

 

「どうして不機嫌なんだ?」

 

「どうしてって、そりゃあんた……」

 

霞は俺の顔を見ると、青ざめた。

 

「あんた……その傷なによ……?」

 

「え?」

 

「そこの傷よ……」

 

頬の傷か。

絆創膏で隠れていて見えていなかったのか。

 

「あぁ、ちょっとな」

 

「ちょっとじゃないでしょ……。見せて……」

 

霞が顔を近づけるものだから、俺は少しドキッとしてしまった。

こんな至近距離で顔を見たのは、初めてかもしれない。

 

「深くはないわね……。ちゃんと消毒はしたの……?」

 

「あぁ、まあ……」

 

「切ったような傷だけど……本当にどうしたのよ?」

 

「何でもない。ちょっと転んだだけだ」

 

「あんたがそう言う時って、嘘って事でしょ……? あんた、そうやっていつも愛美に言って……」

 

愛美に言って……か。

色々と分かったことは多いが、やはり霞が愛美の記憶を持っていることは謎のままだ。

継承はされている。

だが、それは戦時中の記憶であり、戦後の記憶があるのは、どうも――。

結局はふりだしに戻っただけで、最初に知りたかった重要な事は、なにも分かっていない……。

 

「俺の傷の事はどうでもいいだろう。それより、機嫌はなおったのか?」

 

そう言ってやると、思い出したかのようにして、ムッとした顔を取り戻した。

 

「霞」

 

頭をなでてやると、霞は少し悲しい表情を見せ、俺の胸に顔を埋めた。

 

「おっと。どうした?」

 

「別に……。ただ……」

 

「ただ?」

 

「ただ……不安になっただけよ……。起きたらあんたがいなくて……帰ってこなくて……。連絡だってしたのに……出なくて……」

 

携帯電話を見ると、確かに連絡が入っていた。

全く気が付かなかった。

 

「それで不機嫌だったのか」

 

「別にあんたがどこに行こうと勝手だし……誰のものになったっていいけれど……」

 

あげた顔は、ほんの少しの怒りと、ほんの少しの悲しさが混じっていた。

 

「私を疎かにするのは……違うでしょ……」

 

その表情に、俺はつい笑ってしまった。

 

「案外、寂しがり屋なんだな」

 

「分かってたことでしょ……」

 

「素直だな」

 

「あんたの前では素直でいたいのよ……」

 

そう言って、霞は撫でるよう促した。

赤子のように撫でてやると、恥ずかしそうにしながらも、身を委ね始めた。

 

「私……これ好きなのよね……」

 

「赤ちゃんごっこがか?」

 

「言い方……」

 

「甘える事がか?」

 

「うん……。私たちは生まれてから、こういう温かい事……されて来なかったから……」

 

「愛美にはしてもらっていたんだろう?」

 

「そうだけど……。他の目もあったから……中々ね……」

 

「そうか」

 

こういう性格だから、そう言うの気にしちゃうんだろうな。

甘えるにしたって、恥ずかしい事をしているという認識はあるようだし、中々心を許せる環境ではなかったのだろう。

 

「ねぇ……背中も撫でて……」

 

「背中? 構わないが……」

 

背中をさすってやると、霞は何かのスイッチが入ったかのようにして、完全な甘えん坊モードに入った。

 

「ぎゅってしていい……?」

 

「あぁ」

 

「もっと撫でて……。時々名前で呼んで……霞って……」

 

要望する声は、完全に甘いものであった。

 

「あと、褒めて……。いい子いい子って……して……」

 

「はいよ」

 

こりゃ完全にスイッチ入ったみたいだな。

甘えてくることはしばしばあったが、ここまでなのは初めてだ。

きっと、ずっとこうしてほしかったのだろうな。

後で我に返った時が大変そうだが。

 

 

 

「あぁぁぁぁぁ……!」

 

風呂から出てくると、霞がソファーの上で悶絶していた。

 

「ははっ、我に返ったようだな。どうだ、今の感想は?」

 

「うっさいわね! あぁぁぁ……死にたい……」

 

「俺が風呂入る時、『やだ……もっと撫でて……』って言っていたが」

 

「言うなぁ……うぅ……」

 

「続き、しなくていいのか?」

 

揶揄うように言ってやったつもりだが、霞は一瞬、固まった。

 

「悩んだな」

 

「悩んでないし……」

 

「しかしまあ、あまりあのモード入ると癖になりそうだし、自重した方がいいかもな」

 

「……やっぱりそう思う?」

 

「フッ、ってことは、良くはあったんだな」

 

罵声が飛んでくるものだと思っていたが、霞は耳を赤くして小さく頷くのみであった。

 

 

 

それから数日後。

俺は再び大淀をカフェに呼び出した。

めかしこんで来た大淀の表情を凍らせたのは、共に来た青葉とあきつ丸であった。

 

「どういうことですか……?」

 

「どういう事も無い。ただ、話をしに来たんだ」

 

青葉とあきつ丸の顔合わせは、ここに来る前に済ませた。

二人っきりで話したいとのことで、遠目に様子を見ていたのだが、険悪な様子はなく、むしろどこか楽しそうであった。

 

「青葉さん……貴女、何を話したのですか……?」

 

「青葉は何も話してません。司令官がたどり着いたのです」

 

「たどり着いた……」

 

「とりあえず座れよ。こうなった経緯を説明する。その後、俺の質問に答えて欲しいんだ」

 

警戒するようにゆっくり座る大淀に、いつも飲んでいるコーヒーを注文してから、俺は今までの事を大淀に話した。

途中、あきつ丸や青葉が補足してくれたことで、話はスムーズに進んでいった。

 

「――なるほど、良く分かりました。つまり、あきつ丸さんは先生を恨んで嘘をついていたという訳ですね……。罪悪感から逃げるために……」

 

あきつ丸は小さく頷いた。

 

「申し訳ございませんでした……。大淀殿にも……ご迷惑を……」

 

「本当ですよ……」

 

大淀はムッとした表情を見せた後、小さく笑って見せた。

 

「でも、もういいです。正直に話してくれましたし、それだけで十分です。それに、私もあきつ丸さんの事、秘密裏に調べていましたし……。利用して、陸軍の情報を抜こうとしたのも事実です。ごめんなさい……」

 

「大淀殿……」

 

二人は和解の意味も込めて、握手を交わした。

その様子に一番安堵していたのは、他でもない青葉であった。

 

「良かったです……。本当に……」

 

思えば、一番板挟みにあっていたのは青葉だ。

安堵する気持ちも分かる。

 

「仲良くなったのはいいことだ。だが、本題はここからだぜ」

 

大淀は分かっているのか、目を伏せがちに俺の言葉を待っていた。

 

「話にもあった通り、佐伯は死んだ。原因不明の病でな。それは愛美も同じことだ。俺の言いたいこと、分かるよな?」

 

大淀は小さく「はい」と答えた。

 

「いつから知っていた。愛美の死の原因を……」

 

「……私が知ったのは、戦後すぐの事です」

 

「では、俺と会った時には、もう……」

 

「ごめんなさい……」

 

「だとしたら、愛美の携帯電話に連絡してきたのは何故だ……!?」

 

静寂が店内を包み込む。

それを切るようにして、大淀は言った。

 

「先生に……霞ちゃんを引き取って貰う為です……」

 

 

 

いつだったか、あきつ丸が言っていたことは正しかったのだ。

霞を洗脳しているわけではなさそうであるが……。

 

「愛美さんが亡くなっていたことは知っていました……。もちろん、夫である貴方の事も……。海軍も陸軍と同じ考えでした。継承の事……もとより、人間が艦娘をやっていたという事実を隠さなければいけませんでした……」

 

大淀は一呼吸おいてから続けた。

 

「愛美さんの携帯電話が解約されていないのを知った時、先生が愛美さんの事を忘れられないでいるのだと察しました。これを利用する手は無いと思いました……」

 

そこからの事は聞くまでも無かった。

俺はまんまと大淀に乗せられ、霞を引き取ったのだ。

 

「全部嘘だったって訳かよ……。俺のファンだって事も……」

 

「ごめんなさい……。あの本も……先生に信用されるため、探し、ボロボロに加工したのです……」

 

思えば大淀は、最上や霞ほど、熱心に俺の本を追っていなかった。

 

「最低だよ……。お前……」

 

「仕方がなかったんです……! 私だって……好きでこんなことをしているわけじゃないの……! いつもいつも、面倒ごとは私に押し付けられて……。そもそも……私は……嫌だったんです……。誰かに、あの子たちを押し付けることは……。もっと自然に……ゆっくりと……育んでほしかったんです……」

 

大淀は今にも泣きだしそうな顔で、俺を見つめた。

 

「私だって……一人の女性なんです……。友達と遊んだり……恋をしたり……そんな普通の事がしたかった……。私は好きで貴方を裏切った訳じゃないんです……。むしろ……貴方の事が好きだった……。味方をしたかった……。仕事や利害関係だけじゃなく……私を受け入れてくれる貴方を……裏切りたくなかった……」

 

そこまで言うと、大淀はぽろぽろと涙を流した。

 

「何度、貴方に打ち明けようかと考えたか……。でも……出来なかった……。もう遅かったんです……。裏切ったことが知れて……貴方に嫌われるのが怖かったんです……」

 

そこから、大淀は「ごめんなさい」としか言わなくなった。

演技なら大したものだ……なんて、嫌味を言っても良かった。

だが、色々な涙を見て来たからこそ分かる。

大淀の涙は本物であった。

それが、裏切ったことによる罪悪感だとか、そういう意味合いの涙ではない事も、分かっていた。

 

「大淀殿も……自分と同じであります……。誰にも相談できず、一人で戦ってきたのであります……」

 

「司令官……」

 

大淀を責めても意味がないことは分かっている。

 

「――分かっているんだ。ただ……俺だって我慢してるんだぜ……。俺の気持ちも……分かるだろ……?」

 

俺の言葉に、皆俯き、黙り込んだ。

皆知っていたからだ。

この全ての顛末を。

知らなければ、きっと俺に何か言ってやれただろうに。

 

「お前を恨んじゃいない。お前を非難しない。ただ、俺には気持ちの整理をする時間が必要だと思う……」

 

席を立ち、金を机の上に置いた。

 

「話してくれてありがとう……。また連絡する……」

 

立ち去ろうとした時であった。

 

「待……って、ください……」

 

しゃっくり混じりの泣き声。

震える手。

俺の手を掴んでいたのは、大淀であった。

 

「もう一つだけ……お話したいことがあります……」

 

「……なんだ?」

 

「それは……青葉さん……貴女から……言っていただけませんか……?」

 

「え……」

 

皆が青葉を見る。

何のことだが、青葉は良く分かっていないようであった。

 

「貴女がどうして……どうして先生に協力していたのか……私には分かっています……。貴女は……先生を乗せた『船』だったのでしょう……?」

 

船……?

 

「どうしてそれを……」

 

「貴女に見せた『時代錯誤遺物』の『日記』は、全てではありません……。貴女の事も……そこに……」

 

俺とあきつ丸は、大淀が何を言わんとしているのかさっぱりであった。

時代錯誤遺物?

日記?

船?

 

「……そういう事ですか。しかし……その事を話したら、きっと司令官は……」

 

「そんなことで二人の関係は崩れないでしょう……。現に、今だって先生は――。それよりも、霞ちゃんが全てを知ってしまう方が問題です……。彼女に一番近い先生だからこそ……全てを知った先生だからこそ、話さなければいけないと思います……。彼女に気づかせないためにも……」

 

「けど……この事こそ知られたら……。海軍を……裏切ることになるんですよ……」

 

「いいんです……。これが、私の償いです……。私の覚悟です……」

 

そして、こう続けた。

 

「……けど、本当は……本当は、きっと、貴女と同じ理由です。もっと早く言うべきことで……もっと早くにするべきであったこと……」

 

大淀の目が、俺を見つめた。

潤んだ瞳の奥に、呆然と佇む俺が写っていた。

 

「いつからか……貴方をお慕いしておりました……。そんな貴方の為になることを……私にさせてほしいのです……」

 

そう言うと、大淀は微笑んで見せた。

どこか安心したような、そんな微笑みであった。

 

「……司令官」

 

今度は、青葉が俺の手を掴んだ。

それに合わせて、大淀は名残惜しそうに、手を放した。

 

「場所を変えましょう……。二人で話がしたいです……」

 

状況を飲み込むことが出来ない。

ただ、青葉の目は真剣であった。

青葉は何か重要な事を知っている。

『司令官の為にならない事』というのは、この顛末ではなかったのか……?

 

「……分かった」

 

見送る大淀とあきつ丸を背に、俺たちは店を出た。

 

 

 

青葉が指定したのは、海の見える丘の上であった。

そこにはサビたベンチが一つあり、俺たちはそこに座り、しばらく潮風にあたっていた。

 

「貴方と海を見るのは……あの――島に行った以来ですね……」

 

「そうだな……」

 

沈黙が続く。

まだ夕方にもなっていないのに、太陽は海の向こうを目指し、何処までも伸びる雲を赤く染め始めていた。

 

「懐かしいです……」

 

懐かしい……か。

俺はこの時、青葉は昔に見た――戦時中に見た景色の事を言っているのだと思っていた。

だが、そうではないようで、青葉はこう続けた。

 

「貴方と見た光景です」

 

思わぬ言葉に、俺は青葉を向いた。

その表情は――俺を見つめるその表情は、今まで見たどんな表情よりも、なんというか、青葉らしいものだと思った。

 

「貴方とお話することが……青葉の夢でした……。青葉の願いでした……」

 

そう言うと、青葉は事の顛末を話し始めた。

そして、全てを話し終わった後、青葉は言った。

 

「やっと、本当の意味で、貴方をこう呼べます」

 

いつも言っている言葉を言おうとしているのに、青葉はまるで、初めていうかのようにして、緊張の面持ちで『呼んだ』。

 

 

 

 

 

 

「『司令官』」

 

 

 

 

 

 

――続く



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13話

あれは、暑い夏の日の事でした。

大破し、放置されていた青葉に話しかけてくる人がいました。

 

「よう、青葉。元気か? って、元気なわけないよな」

 

驚きました。

だって、今まで青葉に話しかけてくる人なんて、ただの一人もいませんでしたから。

――いえ、おかしい事なんです。

普通は、そんな事をしません。

だって、青葉は――青葉たちは――。

 

「――はぁ……何をやっているんだ俺は……」

 

無論、彼もそのことを分かっていました。

それでも、何か理由があるのか、彼はずっと青葉に話しかけました。

 

「それから――」

 

「雨野指令! 雨野指令! どちらにいらっしゃいますか!?」

 

「おっと、呼ばれてしまった。あー……話を聞いてくれてありがとう。また来る。では」

 

雨野勉。

若くして、――艦隊の司令官となった男。

普通、青葉なんかには『乗らない』、目上の人でした。

 

 

 

それから雨野司令官は、暇を見つけては青葉に乗り、話しかけました。

 

「俺には、愛美という妻がいる。こいつが中々のいい女でな。この前なんか――」

 

最初こそは、変な人だと、何かの戯れなのだと思っていました。

けれど、彼の話はとても面白くて、とても引き込まれて――日が経つに連れ、青葉にとって彼との時間は、かけがえのないものとなっていました。

なにより――

 

「――ということがあってな。あの時の光景をお前にも見せてやりたかったよ」

 

青葉に話しかけ、青葉に微笑んでくれる『貴方』に、青葉は――。

 

 

 

ある日、貴方は青葉に告げました。

 

「明日、俺は死ぬ」

 

聞くと、――作戦の指揮を取るというのです。

青葉は、その作戦を知っていました。

敵を混乱させるための囮作戦であることを――。

そして、帰ることが無い作戦であることも――。

 

「妻には言わなかったのだが、何かを感じ取ったのか、不安がっていたよ。だが、まあ何とか丸め込んだ」

 

そう言うと、貴方は微笑んだ後、悲しそうな表情を見せました。

 

「お前にだけは言うが、本当はまだ生きていたいんだ……」

 

だったら逃げてしまえばいい。

そう言いたかった。

――いえ、本当は言っていたんです。

けど、伝わるはずがありません。

 

「さて……そろそろ行かないとな……。お前とこうするのも、今日で最後だな」

 

そんなこと言わないでください!

――もちろん、届くはずがありません。

 

「俺の話、退屈であっただろう」

 

退屈などではありません!

 

「もしお前が口を聞けたのなら、話を聞いてやれたのだがな」

 

青葉の話なんかどうでもいいです!

ずっと、貴方の――司令官のお話を聞いていたいのです!

だから――!

 

「……なんてな。青葉。もし俺もお前も死んで、人も『船』も同じ場所にたどり着くというのなら、その時はまたお前に乗せてくれ」

 

やめてください……。

行かないでください……。

 

「じゃあな」

 

去って行く貴方の背中に、青葉はずっと、言葉を投げかけていたんです。

聞こえるはずのない、言葉を――。

 

『司令官……! 司令官!』

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

「『司令官』」

 

その言葉で締めくくると、青葉は恐る恐る俺に近づき、その身を寄せた。

 

「温かいです……。司令官……。青葉は……また貴方に出会えて……本当に……嬉しくて……」

 

震え、涙を流す青葉。

慰めるようにしてそっと抱きしめてやったものの、俺の心にあったのは、憐憫の情であった。

彼女の言う『司令官』は、俺ではないからだ。

そして、それは夢の話であったからだ。

艦娘の見る夢。

戦いの『夢』であったからだ。

 

「分かっています……」

 

俺の思っていることを読んだかのようにして、青葉は言った。

 

「所詮は『夢』の話だと思っているんですよね……。現実ではないと……」

 

俺は何も言わなかった。

いや、何と言ったらいいのか分からなかったのだ。

 

「確かに『夢』で見る事ではあるのです……。しかし、青葉たち『艦娘』にとっては、確かに『体験』した『事実』なんです。確かな『記憶』なんです」

 

真に迫る青葉。

それに反し、俺の心にはまだ、憐憫の情が残っていた。

だが、次の言葉で、それは覆されることとなる。

 

「今からお話しすることは、霞ちゃんが持っている愛美さんの記憶にも関わることです。どうか、そんな顔なさらずに、聞いてください……」

 

俺の目の色が変わったのを確認すると、青葉は語り始めた。

 

 

 

艦娘が見る夢が二つあることは、ご存知かと思います。

存在するはずのない『戦いの記憶』。

そして、継承元の記憶を引き継ぐ『継承の夢』。

青葉のお話した司令官との記憶は、前者の『戦いの記憶』にあたります。

『戦いの夢』

それは、存在するはずのない戦争の夢。

全艦娘が共通して、同じ『世界』として見る夢。

この夢の中に存在する『世界』では、艦娘は『船』であり、人と人の戦争の為に戦っています。

謂わば、『兵器』なのです。

そして、その指揮を取っていた一人が、『雨野勉』――貴方です。

――いえ、正確には貴方ではないのですが……何と言ったらいいのか……とにかく、貴方と同じ顔で……名前も……好みも……妻にしている人も……全部が貴方とあてはまるのです。

青葉が貴方の事に詳しいのは、その人との記憶があったからなんです。

 

 

 

そこまで言い切ると、青葉は一呼吸置いた。

そして、俺の様子を見ると、続けた。

 

 

 

分かります。

所詮は夢です。

記憶違いかもしれないし、夢なんてものは曖昧だし、貴方の事を知ってから、あれはそうなんだって思い込む事もあります。

青葉も最初はそう思っていました。

大淀さんから、あの話が挙がってくるまでは……。

 

 

貴方の事を『思い出した』のは、戦後の事でした。

ただ、ぼんやりとした記憶で、所詮は夢なのだと思っていました。

所謂、『戦いの記憶』なのだと……。

 

 

あきつ丸さんから貴方を監視するように頼まれ、貴方を一目見た時、夢で見た人は貴方だと確信しました。

名前も、見た目も、全てが一致したんです。

――はい、仰る通り、後からそう思いました。

夢で見たことだと、勝手に思い込んでいるだけだって。

確かに一目惚れでしたから、夢で見た人物と思い、重ね、都合よく考えていただけなのかもしれない……と。

 

 

監視してゆくにつれ、ますます夢で見た人物と重なって行く。

夢で『聞いた』好みも、何もかも……。

違うのは、貴方が小説家であることだけ……。

違うとは分かっていても、貴方の事が気になって気になって仕方がなかった。

あきつ丸さんの依頼が完了しても、青葉は貴方をずっと見ていました。

 

 

ある日――ちょうど司令官が、大淀さんに「愛美を忘れる」と伝えた後の事です。

実は、大淀さんから一件の依頼を受けたのです。

「雨野勉を監視してほしい」と。

どうやら、貴方が愛美さんを忘れると聞いて、今後接触が難しくなると考えたのでしょう。

大淀さんは、貴方の事をずっと観察していたようですから……。

 

 

 

青葉は唐突に、「あ……」と、何か思い出したかのような声を漏らした。

 

「すみません……。この話をするには、別の話をする必要がありました」

 

どの話からしても構わない。

何故なら、今の俺には、青葉が何を言わんとしているのか、さっぱりわからないからだ。

 

 

 

まず、司令官、貴方は海軍から監視されていました。

その監視している人物こそ、大淀さんだったのです。

監視されている理由は――これから話す事は、とりあえず聞いてください。

後で全てがわかりますから――。

監視されている理由は、貴方が『司令官』であるからです。

所謂、『戦いの記憶』での『司令官』――『雨野勉司令官』であるからです。

青葉が大淀さんから、貴方の監視を頼まれた時、その話を聞かされました。

簡単に言うと、『戦いの記憶』は実際にあった出来事の記憶であり、その記憶に存在する『雨野勉』と貴方は同一人物である可能性があるという事でした。

――もちろん、青葉も信じられませんでした。

しかし、大淀さんの見せてくれた『時代錯誤遺物』の『日記』を見て、確信したんです。

貴方が、青葉の知る『司令官』であると……。

 

 

『時代錯誤遺物』

英語で『Out of Place Artifacts』――つまり『オーパーツ』です。

存在しえない人工物を指します。

その一つが、『日記』です。

正確には、『雨野愛美の日記』と呼ばれています。

そうです。

愛美さんの日記です。

しかし、司令官の知る愛美さんとは違い、こちらは『雨野勉司令官』の妻にあたる『雨野愛美』です。

『戦いの記憶』の方です。

そして、その『日記』には、『戦いの記憶』と一致するようなことが書かれておりました。

 

 

そもそも、そんな『日記』がどこから出て来たのか。

実は、深海棲艦の発生場所では、毎回奇妙な『人工物』が発生していたんです。

拾い上げてみると、何かの残骸のようなものだったり、本のようなものだったり――。

尤も、本のようなものは損傷が激しく、そのほとんどが読み取ることが出来ないものでした。

戦時中だったのもあり、その正体を突き止めることはなかったのですが、戦後になり、流れは変わりました。

所謂、『細菌』の発見です。

あきつ丸さんから聞いた通りです。

戦後、艦娘にしか認識できない『細菌』のようなものが発見されました。

そして、その『細菌』が大量に付着していたのが、この『人工物』だったのです。

 

 

 

「司令官、大丈夫ですか?」

 

項垂れる俺に、青葉は心配そうに寄り添った。

 

「いや……うぅん……。考えをまとめようとしているんだが……どうもな……」

 

「……分からなくて当然です。青葉も、理解するのに時間がかかりましたから……。何も知らないのなら、当然です……」

 

「つまり……簡単に言うと、お前たちの言う『戦いの記憶』は本当であり、そこに存在するのは、俺にそっくりな『雨野勉司令官』と、その妻の『雨野愛美』である。そして、『戦いの記憶』の『世界』の存在を裏付けるのが、『雨野愛美の日記』だということか……」

 

「はい、そうです」

 

なるほど……と言いたいところだが、整理するので精いっぱいだ……。

 

「話を切ってしまってすまない。とりあえず続けてくれ」

 

「あ、はい!」

 

 

 

えーっと……そう、『人工物』ですね。

戦後、『人工物』に大量の『細菌』が付着していることが分かりました。

続けて、本のようなものの解析も行われ、『日記』であることも分かりました。

一年以上をかけ、内容の解析を行い、ついに『雨野愛美』という人物が書いた日記であることが分かりました。

さらに、日記と一緒に挟んであった、損傷の激しい写真を復元することに成功しました。

そこに写っていたのは、男女二人。

青葉の知る『雨野勉司令官』であり、『雨野愛美』でした。

 

 

大淀さんからその写真を見せられた時、驚きました。

貴方と同じ顔をしているものですから。

あきつ丸さんからの依頼を受けていることを大淀さんに悟られないよう、初めて見る顔だと言うように振る舞っていましたが、青葉は泣いてしまいそうでした。

貴方が青葉の知る『司令官』であると確信したから――願いが叶ったと思ったからです。

貴方の傍に居たいという、願いが――。

 

 

長々とお話しましたが、本題はここからなんです。

『日記』が正しければ、『戦いの記憶』の『世界』は存在することになる。

では、どこにそんな『世界』が存在していたのか。

過去?

異世界?

別惑星?

別宇宙?

未だに、その事については分かっていません。

異世界であることが有力ですが……。

――とにかく、『戦いの記憶』にせよ、『時代錯誤遺物』にせよ、どこから来たのか分かりません。

しかしそれは、深海棲艦や艦娘なども同じなんです。

――分かりますか?

共通しているんですよ。

どこから来たのか分からないという点が。

そしてもう一つ、共通していることがあります。

それは……『細菌』を持っているかどうか、です……。

 

 

『細菌』は、『戦いの記憶』に関連するものしか有していません。

逆を言えば、『細菌』自体が、『戦いの記憶』の『世界』に存在するものなのではないか、という事なんです。

もっと言い方を変えれば、『細菌』を持ったものは、『戦いの記憶』の『世界』から来たものなのです。

深海棲艦も、艦娘も、その『世界』から来た可能性があるのです。

そういう事であれば、青葉たちが『戦いの記憶』を持っている辻褄が合います。

最近では、その『細菌』が記憶に関連しているのではないかと言われております。

各艦娘が使用する艤装に付着している『細菌』は、その形が不規則に見えて、実は法則があると分かったからです。

DNAのような、遺伝情報の継承に関係しているのではないかと言われております。

 

 

 

そこまで聞いて、俺はハッとした。

今までの、全ての記憶がフラッシュバックしてきて、ある一つの答えにたどり着いたのだ。

 

「愛美は……」

 

「え……?」

 

「愛美は時折……戦争の夢をみるのだと言っていた……」

 

「それって……」

 

「もし……『細菌』が記憶に関係しているのだとしたら……愛美は艤装から、その記憶を継承した可能性がある訳だ……」

 

「……そうなります」

 

「その記憶をさらに継承したのが、霞だ……。霞は愛美の記憶を持っていた。俺と出会った後の記憶を……。継承されるはずのない記憶を……。そして……『戦いの記憶』には、俺と同一人物かのような奴がいる。それは愛美も同じだ……」

 

青葉は、俺が何を言いたいのか分かったようで、目を細め、俺の言葉を待った。

 

「つまり……霞の記憶にある愛美の記憶は、愛美の記憶ではない。『雨野愛美』の記憶の可能性がある……違うか……?」

 

青葉は小さく頷くと、先ほどの続きだと言うようにして、語り始めた。

 

 

 

青葉が大淀さんに見せてもらった『日記』には、『雨野勉司令官』や『雨野愛美』自身の事だけではなく、とある『船』についても書かれていたのです……。

その『船』の名は……『霞』です。

『日記』によると、『雨野愛美』は、海軍の『造船部』という、船体の造修を行う部に配属されていたようです。

そこで彼女が担当していた『船』が『霞』でした。

『雨野愛美』は、『霞』に愛着があったのか、よく『話しかけていた』そうです。

また、造船部にいる女性が彼女一人であった為、寂しさから話しかけたのだろうと、『日記』からは推測できます。

『雨野愛美』は、『霞』になんでも話したそうです。

自分の事、夫の事――毎日の出来事まで――。

そう、青葉と同じです。

『霞』は、青葉と同じように、お話を聞かされていたんです。

――もう分かりますよね。

霞ちゃんが持っている記憶は、先ほど貴方の言っていた、「『雨野愛美』の記憶」なのではなく、「『雨野愛美』から聞いた、『雨野愛美』の記憶」なのです!

 

 

 

言い終えると、青葉は安心したというようにして、肩を落とした。

そして、心配そうに俺を見つめた。

なるほど……そういう事か……。

 

「お前が心配しているのは、それを聞いて――霞が愛美の記憶を継承していないと聞いて、俺が霞との関係にひびが入ると思っているからか」

 

恐る恐る、小さく頷く青葉。

どうやら、『司令官の為にならない事』というのは、この事だったらしい。

 

「……確かに、驚いたし、急な事で頭が追い付かない」

 

「司令官……」

 

「だが……大丈夫だ。俺たちは、愛美を忘れるために、生きる為に共にいるんだ。あいつも俺を好きだと言ってくれたし、あいつが望む限りは、一緒に居るつもりだ」

 

それを聞いて、青葉は心の底から安心したと言うようにして、表情を崩した。

そうだよな。

 

「……本当にずっと、一人で抱え込んできたんだな。辛かっただろうに……」

 

「いえ……。司令官の気持ちを考えれば……」

 

「ありがとう、青葉」

 

その言葉に、青葉は複雑そうな表情を見せた。

そのコロコロと変わる表情の変化の原因を、俺は知っていた。

 

「青葉……」

 

「はい……」

 

「お前も……向き合わなきゃいけない事があるんじゃないのか……?」

 

全てを知った今だからこそ、問うべきこと。

青葉自身が、向き合わなきゃいけない事。

 

「全てを知った今だからこそ、お前に改めて問わせてもらう……」

 

青葉は覚悟しているというようにして、俺を見つめた。

 

「お前にとって、『俺』とはなんなんだ……?」

 

 

 

遠くで、大きな貨物船が警笛を鳴らしていた。

 

「俺は……お前の言う『司令官』ではないんだ。お前だって、本当は分かっているんじゃないのか……? 分かっているからこそ……向き合えないでいたのではないか?」

 

青葉は分かっているのだ。

その答えを――霞の持っている記憶がそうだったように、青葉の知る『雨野勉司令官』が、俺の中に居ないことを。

 

「今回の件、本当にお前が俺の為にならないと思っていれば、接触なんてせず、継承の事をほのめかす事もしなかっただろう。あきつ丸や佐伯の事だって、知っていても、話す必要はなかっただろう」

 

青葉は俯き、俺の言葉を待った。

 

「お前は向き合えなかったんだ。『雨野勉司令官』の居ない世界と……。だからこそ、俺に接触し、『演じた』。俺が『雨野勉司令官』で、お前が『青葉』。取り戻すことの出来ない『願い』を再現し、閉じこもったんだ……」

 

酷いことを言っているのは百も承知であった。

だが、これ以上、青葉を『独り』にするわけにはいかなかったのだ。

 

「青葉……」

 

今にも泣きだしそうな青葉。

握られた拳が、小さく震えていた。

 

「俺じゃ……駄目か……?」

 

「え……?」

 

「俺じゃ……お前の孤独を埋められないか……?」

 

「司令――」

「――違う」

 

冷たい海風が、二人の間を吹いていった。

気が付けば、太陽はとうに沈んでいた。

 

「俺は……雨野勉だ……。司令官ではない……」

 

遠くでもう一度、貨物船が警笛を鳴らした。

先ほどよりも小さく見えていている貨物船は、どこか遠く、俺たちの知らない国へと、旅立ってゆくようであった。

 

「お前も、そうだろう……。お前は『船』じゃない。言葉を――気持ちを伝えることの出来る存在だ。青葉という名の、他にない、唯一無二の存在だ」

 

青葉の手を取り、拳を解いてやる。

他の連中と比べ、苦労をしているような手であった。

 

「青葉」

 

名前を呼ばれた青葉は、顔をあげ、俺を見つめた。

その表情は――いや、或いはこんな気持ちだからなのかもしれない――いずれにせよ、俺はその表情を、初めて見るものであるように感じたのだ。

それは、青葉も同じだったのだと思う。

だからこそ――

 

「青葉……」

 

何処までも響き渡るような大声で、青葉は泣いた。

それは、『雨野勉司令官』を――『青葉』を――大切にしていた全てが無くなったことを――取り戻せない過去であるということを、青葉自身が認めた証拠でもあった。

向き合った証拠であった。

 

 

 

藍色すらも黒に飲まれ、オリオン座が顔を出した頃、青葉はやっと泣き止んだ。

 

「平気か?」

 

「はい……。すみません……」

 

子供の様に泣いたことが恥ずかしいのか、青葉は顔を赤くした。

 

「こんなに泣いたのは……初めてです……」

 

「まるで生まれたばかりの赤子のようであったぜ」

 

「ある意味ではそうなのかもしれません……。青葉は……初めて青葉に向き合ったのですから……。『船』でない、青葉に……」

 

生まれ変わった、という訳か。

 

「青葉は……ずっと、貴方の事を『司令官』として見てきました……。でも……貴方は青葉を……青葉として見てくれていたんですね……」

 

「こんなこと言っちゃなんだが、そもそも『船』の青葉を知らんから、そうなるよな」

 

そう言って微笑んでやると、青葉も小さく笑った。

 

「それもそうですね」

 

数秒の沈黙。

 

「そんな青葉ですよ……。そんな青葉でも……貴方は……受け入れてくれるというのですか……?」

 

「俺は最初から受け入れている。お前が俺を受け入れてくれるかどうかだ。さっき聞いただろ。まだ返事をもらってないぜ」

 

そう言って、俺は返事を待つようにして、青葉に向き合った。

その時丁度、月が雲の合間から顔を出し、俺たちを照らしてくれた。

 

「青葉は……青葉を受け入れます。貴方を受け入れます。前に……進みます……!」

 

「青葉……」

 

遠くで、先ほどの貨物船が警笛を鳴らした。

どうやら遠くに行ったわけではないようであった。

 

「あの……こう言っては失礼ですが……貴方の事……司令官って……これからも呼ばせてもらっていいですか……?」

 

「好きに呼んでもらっていいさ。お前が俺の事をどう呼ぼうとも、それは俺の事だって、誰でもない俺のことでだって、もう分かったからな」

 

「司令官……」

 

「青葉」

 

安心した時、俺のお腹がぐぅと鳴いた。

幸い、青葉には聞こえないほど小さなものであった。

飯時か。

そう思い、時計を見た時であった。

 

「――……」

 

両手に俺の頬を包み、青葉は精一杯の背伸びをして、俺に口づけをした。

そして、徐々に顔を真っ赤に染めながら、ゆっくりと唇をはがした。

 

「あ……青葉……?」

 

呆然とする俺を見て、青葉は何やら困惑しているようであった。

 

「あ、あれ……? し、司令官? あの……え……あれ……?」

 

「ど、どうしたんだ急に……お前……キスって……」

 

「え……あ……だ、だって! あの……司令官……青葉を受け入れてくれるって……それで……青葉も受け入れるって……返事が欲しいって……司令官が言ってたから……あの……」

 

青葉は身振り手振りで何かを説明しようとしている。

受け入れる……返事が欲しい……。

突然のキス……。

……あぁ、そういうことか。

 

「お前、もしかして……受け入れるって……その……告白されていると思ったのか?」

 

「え……?」

 

「受け入れるって、そのままの意味だぜ。今のお前を、友達として……」

 

それを聞いて、青葉は先ほど以上に顔を真っ赤に染めた。

 

「あ……あ……あぁぁぁぁ……! あ、青葉……トンデモナイ勘違いを……。ごごご、ごめんなさい! あの……その……!」

 

「あぁ、いや……。俺も思わせぶりだったかもしれんしな……。悪い……」

 

「い、いえ! 青葉が悪いんです! あぁ、どうしよう……。司令官の唇を奪って……あぁぁ……鈴谷さんに悪いことを……」

 

頭を抱える青葉。

その様子に、俺はつい笑ってしまった。

 

「わ、笑い事じゃないですよぉ……」

 

「悪い。まあ、してしまったもんは仕方がない。お互いに忘れるって事で、手を打とうじゃないか」

 

「し、司令官がそれでいいなら……」

 

「じゃあ、そういうことだ。今のは無し。改めて、俺を受け入れてくれるか? 友達として」

 

青葉は両手で頬を冷ました後、やはり恥ずかしそうに「はい」と答えた。

 

「よし、じゃあ、この話は終わりだ。あー、腹減ったよ。鳳翔のところで飯でもどうだ? 奢るぜ」

 

「いいんですか?」

 

「あぁ、お前がお前を受け入れられたお祝いだ」

 

「司令官……。ありがとうございます!」

 

「あぁ」

 

ふと、遠くの海を望んだ。

海面に月明りが反射して、線状に伸びていた。

どこまでもどこまでも、遠くに続く道のように――。

 

「司令官?」

 

「あぁ、今行くよ。それにしてもお前、俺が告白したらOKするんだな」

 

「そ、それは……忘れる約束ですから……お答えしません……」

 

「忘れるのはキスしたって事だけだ。お前の勘違いはずっと残ってるぜ」

 

「な、なんですかそれは!? ズルいです! いいでしょう! だったら青葉にも考えがありますよ!?」

 

「なんだ?」

 

「青葉は司令官の事、なんでも知っていますから、司令官の知られたくない秘密を鈴谷さんにばらして、別れさせます!」

 

「そんな秘密、一つだって……」

 

青葉は何やら小さな手帳を取り出し、読み始めた。

 

「えーっと、これは司令官が海軍本部に海水浴に来た時の記録で、鈴谷さん達が眠っている時、もがみんと二人っきりになり、そこでこっそりキスをしましたね?」

 

「いや、あれは……」

 

「もがみんが一方的にした……とでも? でも、青葉は知っています。あれは、司令官が「していい」と言ったようなもので――鈴谷さんと付き合う前にもがみんとそんなことになっていたなんて知ったら、鈴谷さん、傷つくでしょうね~」

 

青葉はニヤニヤして見せると、俺をじっと見つめた。

 

「……流石だな」

 

「何か言うことは?」

 

「……参りました」

 

そう言ってやると、青葉が満面の笑みを浮かべた。

 

「青葉がその気になれば、鈴谷さんから司令官を奪う事なんて簡単な事だって、覚えておいてくださいね?」

 

「あぁ、覚えておくよ。全く……こんなことなら、『司令官』と呼ばれていた方が良かったかもしれんな」

 

「呼んでいるじゃないですか。司令官。えへへ」

 

そう言うと、青葉は俺の腕に引っ付いて、そのまま歩き始めた。

拒むと何を言われるか分からないものだから、俺は成すがまま、その場を後にした。

 

 

 

電車に乗ると、青葉は疲れ切っていたのか、ウトウトし始めた。

 

「寝ててもいいぞ。最寄りまでだいぶあるからな」

 

「でも……」

 

「いいから。ほら、寝てろ」

 

上着を着せてやり、身を寄せてやると、青葉は遠慮がちに頭を俺の肩に乗せた。

 

「えへへ……。温かいです……。それに、司令官の匂いがします……」

 

「臭いか?」

 

「いえ、とっても安心する匂いです……。『船』の時には嗅ぐことの出来なかった匂いです……」

 

そう言い残して、青葉はスゥスゥと寝息を立て始めた。

 

「…………」

 

『船』か……。

 

「あ……霞……」

 

青葉の事ですっかり忘れていた。

飯、鳳翔のところで食うなら、霞も……。

 

「…………」

 

霞……。

今日の事で、霞が愛美の――俺の知る愛美の記憶を継承していない事を知った。

青葉にはあんなことを言ったが、実際のところ、ショックを隠せないのは事実だ。

関係が崩れることはない。

崩れることはないが、確実に何かは変わってくる。

不思議な事に、霞の話す『雨野愛美の記憶』は、愛美にも当てはまることだ。

それが尚更――。

 

「ん……」

 

携帯に一通のメールが入る。

あきつ丸からだ。

 

『霞殿はお預かりいたします。色々考える時間が必要でしょうから。明日の夕方、帰します』

 

「あきつ丸……」

 

お礼の返事を返し、携帯をポケットに仕舞った。

 

「考える時間……か……」

 

考えたところで、結論は決まっている。

先ほど青葉に言ったように、「忘れる」だ……。

霞に悟られないよう、俺たちはいつも通り振る舞う必要がある。

そう、いつも通り――。

 

「…………」

 

電車はトンネルに入り、車窓から海が消えた。

そして、トンネルを抜けた先に、もう海の姿はなかった。

都会の光が近づいてゆく。

明るく、安心できる光のはずなのに、俺の心には不安が残っていた。

 

「愛美……」

 

目を瞑ると、車内で見た蛍光灯の光が、あの海で見た月の光のように、瞼の裏に焼き付き、ゆらゆらと揺らめいてた。

 

 

 

 

 

 

あれから数か月が経った。

季節は春。

桜の咲く中で、俺たちは花見をしていた。

 

「すみません、電車が混んでいまして……」

 

「おう、やっと来たか大淀。もう始めちまってるぜ」

 

酔っぱらい、はしゃいでいるあきつ丸と最上を見て、大淀は「そのようですね」と言って、シートに座った。

 

あれから俺たちは、何事も無かったかのように過ごしている。

変わったことと言えば、今まであまり関りが無かった連中が、全員仲良くこうして集まることが出来ているという点だろうか。

 

「しかし、よくもまあこんなに艦娘を集められるようになったわよね……」

 

霞はどこか不機嫌そうに、そう言った。

 

「不満なのか?」

 

「別に……」

 

「霞ちゃん、先生と過ごせる時間が少なくなったことに怒っているんですよ。ほら、最近だと、色々連れ回されているじゃないですか。最上さんの小説もみてあげなきゃいけないし」

 

「そうなのか?」

 

「そんな事無いし……」

 

「そんなことないんだったら、青葉が司令官の事、取っちゃいますよ~?」

 

「勝手にすれば……?」

 

そう言うと、霞は立ち上がった。

 

「どこ行くんだ?」

 

「トイレよ……」

 

ふん、と鼻を鳴らすと、霞は不機嫌そうにトイレへと向かっていった。

 

「青葉ぁ……」

 

「青葉の所為ですか!?」

 

「今のは青葉殿が悪いでありますな」

 

「あきつ丸まで……酷いよ~」

 

あきつ丸と青葉は前よりも仲良くなったようで、よく二人で出かけているらしい。

本当、全てが丸く収まったな。

そう、全て……。

 

「…………」

 

「先生? どうされました? 顔色が悪いようですけど……」

 

「……あぁ、大丈夫だ。それより鳳翔、大淀に何か酒を」

 

「はい。大淀さん、色々持ってきましたよ。どれにしましょうか?」

 

「え~? どうしよう~」

 

大淀が酒を選びに席を立つと、隙を見つけたというようにして、最上が鈴谷を連れてやって来た。

 

「先生~飲んでる?」

 

「おう。お前は……聞くまでも無いな」

 

「んふふ~。結構飲んじゃった。そんなことより、ほら!」

 

最上は鈴谷を俺に寄越した。

 

「鈴谷の奴さぁ、拗ねているんだよ~。誰かさんが構ってくれなくて~」

 

「ちょ……もがみん……」

 

「そうなのか?」

 

「そうだよ! だってさ~先生、最近は皆に囲まれてさ、鈴谷との時間が取れてなかったじゃない?」

 

そう言えばそうだったかもしれない。

 

「だから今日、鈴谷はずっとこんな調子。せっかくのお花見だって言うのに、一人はじっこでジュース飲んでたんだよ?」

 

そういや今日、鈴谷と話していなかったな。

最近も、二人っきりなんてことはなかったし……。

 

「そうだったのか。無神経であった。すまない……」

 

「司令官は女心が分かりませんからねぇ」

 

青葉はそう言うと、意味ありげに笑って見せた。

 

「という訳だからさ、構ってあげてよ」

 

「べ、別にいいよ……。鈴谷は……」

 

そうは言っても、鈴谷はどこか寂しそうであった。

 

「そうだな。よし、鈴谷。ちょっと二人で歩こうか」

 

「え?」

 

「いい場所を知っているんだ。さ、行こう」

 

「え、ちょ……!」

 

ヒューヒューと囃し立てる酔っぱらいを後に、俺は鈴谷の手を取り、その場所を目指した。

 

 

 

花見客の気配も消え、少し歩いたところに、その丘はあった。

 

「わぁ……凄い……。一面桜色……」

 

「いい景色だろう。ここまでの道が入り組んでいるから、花見客が来ることも無いんだ」

 

桜の見渡せるその場所は、愛美との最後の春に花見をした場所であった。

 

「悪かったな……」

 

「え?」

 

「最近構ってやれなくて。寂しい思いをさせて……」

 

「……ううん。別に……鈴谷は大丈夫だよ。先生はもがみんの師匠だし、自分の小説も書かなきゃいけないし、霞ちゃんの面倒も見なきゃいけないし……たくさんやることがあるから、しょうがないよ。鈴谷も仕事で忙しかったしさ」

 

「人気出たもんな。今度、全国放送の――って番組に出るんだって? 凄いじゃないか」

 

「うん。ちょっちプレッシャーだけどね」

 

「何か困ったことがあったら言ってくれ。力になりたいんだ」

 

「うん。ありがとう。その時は頼りにさせてもらうね」

 

「あぁ」

 

二人の間に、暖かな春の風が吹いてゆく。

 

「ん……」

 

鈴谷がそっと、俺に寄り添っていた。

 

「鈴谷ね……」

 

「…………」

 

「もうちっと大人にならなきゃいけないのかなぁって……思ってたんだ……。ほら、鈴谷はずっと、先生に我が儘ばかり言って来たから……迷惑ばかりかけて来たから……」

 

「別に俺は気にしていないけどな」

 

「だからだよ。先生はそう言うけど、実際問題、邪魔なこともあるっしょ……」

 

「まあ、否定はしない」

 

「やっぱそうじゃん……」

 

「でも、お前がお前らしくないと、それ以上に心配になってしまうよ」

 

「鈴谷の事は構ってなかったくせに……?」

 

「なんだ、やっぱり気にしてたんじゃないか」

 

そう言ってやると、鈴谷はムッとした顔を見せた。

 

「いいんだよ。別にお前はお前らしくて。いつもの甘え上手な顔を見せてくれれば」

 

「でも……鈴谷が先生のお嫁さんになったら、ふさわしい振る舞いをみせなきゃいけないわけじゃん……。いつまでもこういう感じじゃいけないわけじゃん……」

 

そう言った後、鈴谷はハッとして俺の顔を見た。

そして、俺の唖然とする表情を見て、顔を赤く染めた。

 

「鈴谷、お前……」

 

「い、今の無し! そうじゃないから!」

 

「フッ……ハハハ! 斬新なプロポーズだな」

 

「だから……!」

 

「そのままでいいと言っているだろう。嫁に来ても、今のままのお前でいて欲しいって、俺はずっと思ってたよ」

 

「え……それって……」

 

「さて、そろそろ戻るか。お前の機嫌もなおったようだしな」

 

「あ、ちょっと! 先生! 今のどういう意味!? 嫁に来てもって……ずっと思ってたって!?」

 

「さぁ、どういう意味だろうな」

 

「もう、先生ってば!」

 

 

 

戻る途中、霞と会った。

 

「おう」

 

「…………」

 

鈴谷と一緒に居るところを見て、霞は道を引き返そうとしていた。

それを鈴谷が引き留める。

 

「ちょいちょいちょーい! どこ行くの霞ちゃん?」

 

「邪魔して悪かったわね……」

 

「邪魔なんかじゃないし! ほら、一緒にもどろうよ!」

 

「いい……。二人の邪魔したくないし……」

 

「だからぁ……もう……」

 

鈴谷は困ったように俺を見た。

 

「霞」

 

「…………」

 

「構ってやれなくて悪かったな。ほら、来いよ」

 

そう言ってしゃがみ、手をひらげてやったが、霞はいつものように飛び込んでくることはしなかった。

 

「どうした?」

 

霞は分の悪そうに鈴谷をチラリと見た。

あぁ、そういう事か。

 

「霞――」

「霞ちゃん、いつもやってるみたいに飛び込んでいいんだよ? 鈴谷、知ってるから、大丈夫だよ? 恥ずかしくないよ?」

 

その言葉に、霞は一気に顔を赤くした。

 

「ちょ……! な……!? なんで知って……!?」

 

「あー、やっぱりそうなんだ~。そっかそっか~」

 

「――っ!」

 

霞は更に顔を赤くした。

 

「まんまとはめられたな、霞」

 

「うっさい! あー! もう! 鈴谷だけには知られたくなかったのに……うぅ……」

 

「別に恥ずかしい事じゃないよ。ほら、鈴谷だって先生に甘えるしー」

 

鈴谷が抱き着くのを見て、霞は俺を睨み付けた。

なんで俺なんだ。

 

「だから、ほーら、意地張ってないで、先生に甘えたらいいじゃん! ね?」

 

そう言って、鈴谷は霞を俺の前に押し付けた。

 

「ちょっと……!」

 

「ほーら」

 

「…………」

 

霞は不服そうに俺を見つめた。

 

「抱き上げるぜ」

 

「勝手にすれば……」

 

「じゃあ勝手にする。よっと!」

 

抱き上げてやると、鈴谷は満足そうな顔を見せ、一人で皆の方へと戻っていった。

 

「行ったぜ」

 

そう言ってやると、霞は俺の背中を指でつねって見せた。

 

「いてててて!」

 

そして、小さく――

 

「ばか……」

 

――と言った。

それが、霞の言いたかった全てであった。

全てが、そこに含まれていた。

 

「このまま少しだけ歩くか。二人で」

 

霞は何も言わず、ただ小さく頷くのみであった。

 

 

 

色々あったが、全ては丸く収まった。

皆、一歩一歩確実に、前へと進んでいる。

もう、過去に振り回される必要はないのだ。

そう、無いはずなのだ――。

 

「どうしたの……?」

 

「……いや、なんでもない。もうちょっと歩いたら、皆のところに戻ろうか」

 

「うん」

 

桜舞い散る道を、俺たちは目的もなく、ただ時間を潰すようにして、歩き続けた。

 

――続く



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14話

それはまるで、動かなくなった船――『遺船』を漕ぐようなものであった。

そんな船では、海を渡れない。

何処にも辿り着けない。

 

「それでも、漕ぎ続けるしかないのだ」

 

そう言うと、彼は再び遺船を漕いだ。

私はそれ以上、何も言うことが出来なかった。

彼は彼の言う通り、遺船を漕ぎ続けるしかないのだと、悟ったからだ。

海を渡ることが――何処かに辿り着くことが、目的ではないと悟ったからだ。

ただ、漕ぐこと。

遺船を漕ぐことだけが、彼の全てであるのだと、悟ったからだ――。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

『そんな最上先生の大ヒットを支えたのは、かつての同僚たちでした。友人の鈴谷さんとあきつ丸さんは、最上さんの作品にアドバイスをし、作品をよりよいものとさせました。青葉さんは、皆さんご存知の通り『青葉のブログ』で最上さんの作品を宣伝し、大ヒットに繋げました。鳳翔さんは、お得意の料理で、最上さんを支えたとか。作品にも、鳳翔さんの料理が登場していますね』

 

『は、はい! そうですね。鳳翔さんには、だいぶお世話になりました。色々と……』

 

最上がそう答えると、場面は最上の艦娘時代の写真に切り替わった。

 

「あー! カットされてるー! ここ! この後、雨野勉先生に一番感謝したいです! って言ったんだよ!?」

 

「仕方ないだろ。メディアは、艦娘が出版した本って事をアピールしたいんだ。売れない作家の名前なんか出しても、誰だよってなるだろ」

 

「そんなことないよ! うー……もうあの局には出てやんない! ふんっ! だ」

 

むくれる最上の頬を、鈴谷はからかうようにしてつつき、反撃を食らっていた。

 

 

 

五月の初め。

最上が修行の一環として、青葉の運営するブログに短編をいくつか掲載したところ、艦娘が書いたものだとして話題になった。

そのチャンスを最上の出版社が逃す訳なく、すぐに書籍化に漕ぎつけ、今に至るのだった。

 

「発売前から重版決定だったらしいじゃないか。大したもんだ」

 

「艦娘が書いたから話題になっただけだよ……。出来れば、作品の評価だけで売れたかったのに……」

 

「人目に触れるだけよかったじゃないか。どんなにいい作品でも、見られなきゃただの紙切れだ」

 

「そうかもしれないけど……」

 

「そうだよ。素直に喜んだらいいじゃん。鈴谷は正直、もがみんの作品良く分からないけど……みんないい作品だって言ってたし!」

 

「鈴谷はどの作品だって分からんだろうに」

 

「そんなことないし! 鈴谷だって、好きな作品はあるよ? 先生の作品とか、先生の作品とか~」

 

それを聞き、真っ先に突っ込んだのは霞であった。

 

「どれが好きなのよ?」

 

「へ?」

 

「どの作品が好きなのよ」

 

「どの作品って言うか、全部! 先生の書くものだったら、全部好きだよ。だって、鈴谷は先生の事好きだしね~」

 

「全部って……。どこからどこまでよ? 同人誌も含まれる?」

 

それに、鈴谷は少し面倒くさそうな表情を見せた。

俺の作品の話になると、霞はこうだからな。

俺は嬉しいが、鈴谷たちにとっては面倒な話だろう。

 

「まあとにかく、これで最上の小説家デビューって事になるんだ。素直にお祝いするし、お前も素直に喜べよ」

 

「うん……」

 

最上は不服そうに頷いた。

気持ちは分からなくはないが、俺の思っている以上に複雑な気持ちなのだろうな。

慰めてやりたいが、言うほど立派な作品でないことも確かだ。

仮にも弟子だ。

そこは厳しくしなきゃいけないよな。

 

 

 

午後になると、鳳翔と大淀がお祝いに駆けつけてくれた。

 

「最上先生、おめでとうございます」

 

「おめでとうございます」

 

「い、いえいえ、そんな……大したことじゃ……」

 

謙遜する最上を鈴谷はニヤニヤしながら動画に収めていた。

 

「悪いな、二人とも。買い出しまでしてくれて」

 

「いえ、お祝いですから。台所、お借りいたしますね」

 

「鳳翔さん、鈴谷も手伝う~」

 

鳳翔は持ってきた割烹着に着替えると、鈴谷と共に台所へと向かっていった。

 

「青葉さんとあきつ丸さんも誘ったのですが、二人とも今、旅行で海外にいるみたいなんですよ」

 

「あの二人、そんなに仲良かったっけ?」

 

「みたいですよ」

 

そう言うと、大淀は複雑そうな表情で俺を見た。

最上はその辺りの事情、あまり知らないからな。

 

「そう言えば、霞ちゃん、今日はどこかへお出かけですか?」

 

言われて気付く。

霞が居ない。

 

「そう言えば、さっき居間を出て行ったけれど……。トイレ……にしては長いような……」

 

「仕方ない。様子を見てくるか。大淀も最上と一緒にくつろいでいてくれ。ただでさえ仕事が忙しいのに、運転までして疲れているだろう」

 

「お気遣い感謝いたします。では、少しばかり……」

 

そう言うと、大淀は寝転がり、一瞬で眠りについた。

 

「相当疲れていたみたいだね」

 

「それでもお祝いに来てくれたんだぜ。人望あるな、最上先生」

 

それに、最上は不貞腐れた顔を見せた。

 

「なんだよ?」

 

「……先生に「先生」って言われるの……なんかヤダな……」

 

「どうして?」

 

「分かんない……けど、なんかヤなんだ……。ボクの事は、「最上」って、呼び捨てで呼んでほしい……」

 

「フッ、なんだよそれ。恋人でもあるまいし」

 

「恋人が良かったんだけどなぁ……。ね、今からでも乗り換えられるけど、どうかな? ボク、鈴谷がシてくれないような事、先生になら、シてもいいと思ってるんだけど。例えば、先生が隠しているえっちな本に載ってるような事とか」

 

「そんなもの隠してないし、ほら、あまり焚きつけてやるなよ。殺されるぜ」

 

俺の指す方を見て、最上はギョッとした。

鈴谷は台所から最上を睨み付けると、チラチラと暖簾の隙間から包丁を見せた。

 

「まあ、まだ先生って程の器でないことも確かだし、お前の言う通り、いつも通り呼んでやるよ。最上」

 

頭をぐしゃぐしゃに撫でられた最上は、恥ずかしそうに「うん」と答えるだけであった。

そして、霞を探しに出た俺の後ろで、鈴谷にも髪をぐしゃぐしゃにされたようであった。

 

 

 

トイレに霞はおらず、ならば自室かと思って訪ねてみたが、やはりいなかった。

玄関に靴はあるから、出かけているという訳でもなさそうだ。

 

「となると……」

 

残る部屋の扉を開けると、そこに霞はいた。

 

「俺の部屋で何やっているんだ?」

 

霞は驚くこともせず、だるそうに俺を見た。

ベッドに横たわる霞は、何度も読み返したであろう俺の本を、再び何冊も積み上げ、読んでいた。

 

「大淀と鳳翔が来たぜ」

 

「知ってる。聞こえたし」

 

「じゃあ、こんなところで何を?」

 

「見て分かるでしょ。あんたの本を読んでんの」

 

「そりゃ分かる。俺も馬鹿じゃない」

 

「じゃあちゃんと聞きなさいよ。「何故、居間にいかず、俺の本を読んでいるんだ」って」

 

そう言うと、霞はフンッとそっぽを向いた。

それは霞が何か不満を抱えているサインであった。

 

「やけに突っかかるじゃないか」

 

そう言って、ベッドに座る。

俺のこの行動も、霞と同じサインであった。

心配している、というサイン。

そして、俺が霞のサインを知るように、霞も俺のサインを知っていた。

だからこそ、霞は起き上がり、俺の隣に座ったのだ。

 

「何か気に食わない事でもあったのか?」

 

「別に……。そういう訳じゃないわ……」

 

「じゃあ、どういう訳なんだ?」

 

そう聞いても、霞は答えなかった。

手を揉み、俯くだけの霞。

 

「最上を祝おうってのに、俺の本なんか読んで」

 

「別にいいでしょ……」

 

そう言うと、霞は再び本を手に取り、今度は大事そうに抱え込んだ。

俺の本……か。

 

「…………」

 

あぁ、そういう事か。

 

「最上の本が売れて、俺の本が売れないのが気に食わない、とかか?」

 

霞は答えない。

だが、本を抱える力が、一瞬だけ強まったのを、俺は見逃さなかった。

 

「……そうなんだな」

 

俺は霞と同じように、自分の本を手に取った。

 

「俺の作品を好きでいてくれるのは嬉しいが、それって同情しているって事だろ? 正直、傷つくぜ」

 

「あ……」

 

露骨に落ち込んで見せる。

こういう時、霞は決まって、やってしまったというようにして、焦る顔を見せるんだ。

案の定、今日もそうであった。

 

「そ、その……そういうつもりはなくて……ただ……その……」

 

「最上が大ヒットして、俺がぞんざいに扱われるのを見て、居てもたっても居られなくなったって、そんなところか?」

 

図星なのか、霞は目を逸らして見せた。

 

「なるほどな……」

 

「ど、同情とかそういうのじゃないの……。私は……ただ……」

 

「ただ、なんだよ?」

 

俺の言い方に少し棘があったのか、霞は更に焦りの表情を見せた。

 

「怒ってる……?」

 

「どうして?」

 

「怒ってる感じだから……」

 

「俺は理由を聞いたんだぜ。何を怒っていると、思っているのかって」

 

「……私が同情したから?」

 

「それには落ち込んでいるだけだ」

 

「……だったらなんで怒ってるのよ?」

 

俺はあえて黙って見せた。

霞の焦りはピークに達したようだ。

 

「ねぇ……ねぇってば……。怒らないでよ……。私が悪かったから……」

 

「悪いと思う心当たりがないのに、謝るのか。それは感心しないぜ」

 

「だって……」

 

霞の声が、少し震えていた。

ちょっと遊び過ぎたか。

 

「なんてな。怒ってなんかないよ。お前の反応が面白かったものだから、つい意地悪を――」

 

霞を見て、今度は俺が焦りに駆られた。

俯き、震える霞は、大粒の涙を俺の本に垂らしていたのだった。

 

「ちょ……お前……何を泣いて……」

 

「し……知らないっ……。あんたなんかっ……ひっ……嫌いっ……う……うぅぅ……」

 

「霞……。わ、悪かった……。やり過ぎた……。まさか……あぁ……クソ……やっちまった……」

 

俺の脳裏には、愛美の泣き顔が浮かんでいた。

そうだ。

こんなこと、昔にもあった。

あまりにも突っかかる愛美に、俺はまるでキレているかのように振る舞って――それで――。

 

「…………」

 

愛美……か……。

俺の知る愛美と霞は関係ないのに、どうしてこうも――。

あの事実から数か月たっているはずなのに、俺は今でもたまに、霞に愛美を重ねてしまっている。

違う筈なのに――どうして――。

 

「って、今はそれどころじゃないだろ……」

 

俺はあの手この手で霞を慰めようと、そこから二十分に渡る格闘を強いられるのであった。

 

 

 

「あ、お帰り~……って、何があったのさ?」

 

俺に抱きかかえられている霞を見て、最上は何やらニヤニヤしながらそう聞いた。

 

「まあ……ちょっとな……」

 

格闘の結果、俺が霞を抱きかかえ、赤子のようにあやすことで落ち着いたのだった。

俺の意地悪よりも、俺を怒らせた訳ではないという安堵感に泣いてしまったようで、泣き止んだ後の霞が怒ることはなかった。

 

「それで? 霞ちゃんは何してたの?」

 

「俺の本を読んでたんだ」

 

「ふぅん……。先生の本をねぇ……」

 

最上は何かを察したのか、俺と霞の顔を交互に見た。

 

「霞ちゃん、先生がぞんざいに扱われるのが気に食わなかったって所でしょ? 居てもたっても居られなくて、でもどうしたらいいかわからなくて、とりあえず先生の本に向き合うことにした。違う?」

 

霞は答えなかったが、最上は微笑み「やっぱり」と言った。

 

「気持ちは分かるよ。ボクも、ここに来る前に、先生の本をもう一度読んだからさ。ボクがどんなに先生の本をよく思っていても、どんなにテレビで発言しても、誰も振り向いてはくれなかった……。それが悔しくて……でも何も出来なくて……。気が付いたら先生の本を読んでいた。ボクが今先生の為に出来ることと言ったら、先生の作品に向き合い続ける事だけなんだって、そう思ったから」

 

「最上……」

 

「なんて、先生はそういうの、嫌うよね。同情みたいなの。決してそう言うつもりはないんだけど、そう捉えちゃうよね。ごめんね」

 

何か答えようと悩んでいると、霞が降ろすようせがんできた。

降ろしてやると、霞は最上に頭を下げ、「ごめんなさい」と謝ったのだった。

 

「え……霞ちゃん?」

 

「ごめんなさい……。私……あんたを素直にお祝いできなかった……」

 

それに、最上はどう返したらいいのか分からないというような様子であった。

それはおそらく、最上自身も、霞の気持ちが良く分かっているからなのだろうと思う。

 

「でもね……」

 

だが、次の霞の発言で、その気持ちも一気に晴れたのだろうと思う。

 

「あんたの作品が立派でない事も確かだわ……。この人への同情を無しにしても、あんたの作品が評価されるものであるとは思わないし、この人の――雨野勉の作品と比較するなんて、私が間違っていたとすら、思っているから」

 

俺の作品云々なしにしても、俺が最上に言えなかったことを、こうもはっきり言うとは。

 

「あんたも分かっているでしょ……。本当はこの人に同情している訳じゃない。この人に同情することで、自分を慰めていただけなのよ」

 

図星なのか、最上はどこか悔しそうに俯いた。

はたから見れば、霞が最上に喝を入れているように見える。

だが、俺の見解は違った。

霞は、俺に対する同情を崩してくれているのだ。

俺を慰めているのだ。

 

「……霞ちゃんいう通りかもしれない。ボクは……正当に評価されない事に、どうしようもなくて……逃げていただけなんだ……。本当に謝らなきゃいけないのは、ボクの方だ……。ごめんね……先生……」

 

霞は俺を見ると、微笑んで見せた。

だが、俺はどちらかというと、情けない気持ちでいっぱいであった。

 

「いや……俺も目覚めたよ……。もとより、そんな気持ちにさせてしまったのは、俺が売れないからだ」

 

「そ、そんなことは……」

 

「いや、情けない。非常に情けない。仮にもお前の師匠だ。霞に慰められ、お前の気持ちを沈ませた……。小説家として……男として、情けない限りだ」

 

そうだ。

最上の事ばかり気に取られていたが、そうじゃないだろ。

俺も小説家なんだ。

俺が最上の師匠なのだ。

どんなことであれ、弟子を実力でねじ伏せられぬ師匠がどこにいたものか。

自身のファンに慰められる小説家がどこにいたものか。

 

「謝らなきゃいけないのは俺の方だ。霞、最上。すまなかった。もう二度とお前たちをそんな気持ちにさせないよう、俺は精一杯努力する。お前の売り上げなんか、実力でねじ伏せる作家になってやる……!」

 

「先生……」

 

「もう一度、作品を世に送り出す。今度は、隠れられないぜ」

 

そう言ってやると、最上と霞は嬉しそうに笑う反面、目に涙を溜めて見せた。

だが、二人の涙の意味は、おそらく少しだけ違う。

霞は俺の同情について。

最上は、きっと――。

だからこそなのか、最上は顔を背け、何もない庭を見つめた。

 

「……霞、鳳翔と鈴谷が料理してるから、ちょっと行ってやってくれないか?」

 

霞は俺が最上を見ているのに気が付き、気を遣うように「分かったわ」と優しく微笑んで、台所の方へと消えていった。

 

「最上」

 

最上は視線を変えないまま、小さく零した。

 

「本当に……また書いてくれるかい……?」

 

「あぁ、書くよ」

 

「書き終わっても――」

「――書き続けるよ。この身が灰になるまではな」

 

そう言ってやると、最上はやっとこっちを見た。

その涙は、今まで見たどの涙よりも、きれいに見えた。

 

「もう……死ぬなんて……言わないよね……? 生きて……くれるよね……?」

 

「――あぁ、生きる。精一杯生きてやる。ごめんな、最上……。ずっと、怖かったよな……」

 

「先生……」

 

そうだ。

俺の死を一番感じていたのは、他でもない最上なんだ。

小説家としての俺を見て来たこいつにとって、書かなくなった俺を見るのは、相当辛いものがあっただろうし、実際に自殺未遂を見てしまって――。

再び書くことを決意し――生きようと前向きになった俺を見た最上の安堵感は、俺の想像を絶するものだろうと思う。

 

「あの時、俺の自殺を止めてくれてありがとう。こうしてあるのも、お前のお陰だ」

 

「……だったら、もっと大切にして欲しいものだけれどね」

 

「フッ……弟子にしてやっただろう」

 

「フフッ、それもそうだね。ボクにとって、それが一番の目標だったからね……。うん、そうだったね……」

 

その言葉には、たくさんの意味が込められていた。

最上にしか――或いは俺たちにしか分からない意味――。

 

「ぐすっ……」

 

どこからか、すすり泣くような声がした。

最上でも俺でもないそのすすり泣きは、足元からで――。

 

「……どうしてここでお前が泣くんだ? 大淀」

 

大淀は静かに泣いていた。

 

「だって……私……そんな先生の懐を利用して……」

 

「……まだ気にしていたのか」

 

最上は何が何だか分からないというような表情を俺にして見せた。

大淀が泣く理由について話す訳にもいかないし、どうしたものかな。

ふと、愛美の仏壇に目が行く。

そこに置かれていた携帯電話を見て、ハッとした。

 

「……そういや、最上が俺の自殺を止めた日、その前日に俺は死のうとしていたんだ。けど、それを止めたのが大淀だったな」

 

「え……?」

 

「愛美の携帯に電話しただろう。あの時、俺は自殺しようと、縄に首をかけていたところだったんだ……」

 

それを聞き、最上は再び泣きそうになった。

慰めるように頭を撫でてやりながら、俺は続けた。

 

「もしあの時、電話が無かったら、俺は死んでいた。お前たちと出会うことも無かったし、霞と暮らしてもいなかった。俺は今幸せだし、生きていてよかったと思っている。だから、お前にも感謝しなきゃな。ありがとう、大淀」

 

「先生……」

 

「けど、ごめんな。そんなお前の気持ちに、俺は答えられなかったな」

 

「へ?」

 

俺がニヤリと笑うと、大淀は意味が分かったのか、顔を赤くした。

 

「え? なに? 大淀さんの気持ちって?」

 

不穏な空気を感じたのか、最上の涙は一気に引っ込んだ。

 

「実はこいつさ――」

「――な、なんでもないです! 何でもないですから! もう、先生っ!」

 

焦る大淀。

そんな大淀を見たことが無いのか、最上の目線は徐々に疑いのものに変わっていった。

 

「……もしかして大淀さんさぁ」

 

「ち、違います! 私は別に……先生の事なんて……」

 

「先生の事なんて、なにさ?」

 

「その……」

 

「鈴谷ー! ちょっと来てよ! なんか大淀さんが先生に告白したっぽいよー!?」

 

「ちょ、最上さん!」

 

そんなドタバタを演じられたものだから、笑わせようとした俺が逆に笑ってしまった。

そうだ。

あの時、死ななくてよかったと、俺は素直に言えるようになったのだ。

今が幸せだと、素直に言えるようになったのだ。

そう……言えるように……。

 

「…………」

 

突如、背後に悪寒を感じた。

まただ。

なんだこの不安は……。

幸福であることを否定するような――いや、幸福であることが、まるで慰めだと言わんばかりのこの不安はなんだ……?

 

「ちょっと、先生からも何か言ってくださいよ!」

 

「ん、あぁ……。なんだっけ、大淀が俺に告白した件か?」

 

「そ……うですけど……。そうじゃなくてですね!?」

 

「まあまあ、別に鈴谷は怒ってないし。もがみんだって告白したじゃん、先生に」

 

「そ……うだけどさぁ……。なんか……やだなぁ……」

 

「どういう意味ですか……」

 

「分からないけど……なんかなぁって……」

 

そう言うと、最上は俺を一瞥した後、蹴りを入れてそっぽを向いてしまった。

 

「なんなんだ……」

 

気が付けば、背中の悪寒はどこかへ消えていた。

 

 

 

鳳翔の料理が完成し、最上を祝う会は幕を開けた。

会場である我が家の居間は、ものの数十分で大いに盛り上がりを見せ、酒が次々と空けられていった。

 

「鳳翔さんも! ほら! 洗い物は先生がやってくれるから、今日くらいは羽目を外そうよ!」

 

「で、でも……悪いですよ……」

 

そう言うと、鳳翔は俺をチラリと見た。

 

「いいんじゃないか? 主役がそう言っているんだし」

 

「そうだそうだ! ボクは主役だぞ! 主役のボクの酒が飲めないのかー!」

 

酒に酔っている最上を霞は冷ややかな目で見つめていた。

 

「そ、そうですよね……。分かりました。では……!」

 

鳳翔は升に入った日本酒を豪快に飲み干した。

 

「おぉ! いい飲みっぷり!」

 

鳳翔とは何度か酒を飲んでいるが、それは全てあの店でのことであるし、プライベートでも世話役を買って出るため、気負いなしに酒を飲む姿を見るのは、誰もが初めての事であった。

結構豪快に飲むものだと、最初こそは感心していたし、最上も「負けてられない!」と対抗していた。

だが、数十分後――その状況は一変する――。

 

「お酒無いですよっ!? お酒っ!」

 

空になった瓶を片手で振りまわす鳳翔。

残った腕の中で、最上がヘッドロックを食らい、ぐったりとしていた。

 

「どうしてこうなったんだ……」

 

鈴谷は腹を抱えて笑い転げ、霞は絶句していた。

 

「大淀、お前は知っていたのか? こうなることを……」

 

「い、いえ……私のデータにも、このような事は……」

 

大淀すら知らないとなると、きっと鳳翔自身も……。

 

「先生っ! お酒がありませんよ!? 買ってきてください!」

 

「え?」

 

「買ってき~てっ! ほら、主役も言ってますよ!」

 

鳳翔は最上の顎を掴むと、腹話術だと言わんばかりに上下させた。

そして小声で「先生、買ってきてよ。ボク、主役だよ」と言った。

……鳳翔が。

 

「わ、分かった分かった……。買ってくる。だから、最上は放してやれ」

 

「むぅ……しょうがないですね……。霞ちゃ~ん、代わりにママと遊びまちょうね~」

 

霞に抱き着く鳳翔。

一方の霞は――目を瞑り、心を閉ざした人形のように、成すがままになった。

すまない……霞……。

 

「わ、私も行きますよ。車、あった方がいいでしょうし……」

 

逃げたい一心なのだろう。

大淀は立ち上がり、そそくさと玄関へ向かっていった。

 

「いいよ先生。行って来て。ここは鈴谷にお任せ~ってね」

 

そう言うと、鈴谷は携帯で動画を撮り始めた。

楽しんでるな……。

 

「……分かった。頼んだぜ」

 

「はいよ~。ほら、鳳翔さん、こっち向いて~」

 

「は~い! アイドル鳳翔ちゃんで~す!」

 

「…………」

 

 

 

車に乗り込むと、大淀はすぐに車を走らせた。

 

「ありゃ、素面に戻ったら死にたくなるやつだな」

 

「鈴谷さんの動画、本人に見せない訳が無いですからね……」

 

「本当、ご愁傷様だぜ……」

 

車はコンビニを通り過ぎ、少し先のスーパーをも通り過ぎていった。

 

「おい、どこまで行くんだよ? この先はもう、店は無いぜ」

 

「鳳翔さんの酔いがさめるまでの時間つぶしですよ。本当に買ってくるわけないじゃないですか。火に油、鳳翔に酒ですよ。鎮火するのを待ちましょう」

 

「なるほど、そういうことか……」

 

海軍のクソオヤジ共を相手にしてきただけあって、流石に慣れたもんだな。

 

「それに、たまにはドライブデートに付き合ってくれてもいいのでは? 買い出しまでして、お酒も我慢したんです。それくらいの事はさせて欲しいものですけれど」

 

「断りにくい言い方だな」

 

「断らなきゃいけないですよ。「俺には鈴谷がいるんだ」って」

 

「俺には鈴谷がいるんだが?」

 

「今ここには居ませんけど?」

 

「そうかよ……」

 

「同意とみていいですね?」

 

「よくない。こりゃ軟禁だ」

 

「じゃあ、それで手を打ちましょう」

 

大淀はベタ踏みすると、夜の深い場所へと車を走らせた。

 

「おい」

 

「大丈夫ですよ。この時間、この辺りに警察はいません」

 

「そういう問題じゃ……」

 

ふと、大淀の方を見ると、なんともまあ楽しそうな、嬉しそうな顔をしているんで、俺は小さく「勝手にしたらいい」と言って、シートに深く腰掛けたのだった。

 

 

 

「こりゃまた随分遠くまで……」

 

着いたのは、街を見下ろせるほどの山にある、小さな駐車場であった。

 

「夜景がきれいで、ロマンチックでしょう? この辺りの穴場なんですよ。地元の人でも知らないんじゃないかしら」

 

確かに、山があることは知っていたが、こんなところがあるとはな。

 

「この景色を見ながら、鎮火するのを待ちましょう。ほら、ここ座れますよ」

 

大淀は子供のように座ると、隣に座れと言わんばかりに、俺に目線を向けた。

 

「しょうがないな」

 

少し距離を空けて座る。

夜景に目を向けると、なるほど、確かに綺麗であった。

昔、愛美と――で見た夜景に、少しばかり似ている。

 

「ここの夜景、――の夜景にそっくりだって思いました?」

 

「え?」

 

「愛美さんと行った、――の夜景です」

 

「どうしてそれを……」

 

俺が驚いた顔で聞き返すと、大淀はそれ以上の驚いた顔を見せた。

そして、「やっぱり……そうなんですね……」と言った。

 

「どういうことだ?」

 

「書いてあったんです……」

 

「書いてあった?」

 

「愛美さんの――いえ、『雨野愛美の日記』に……」

 

雨野愛美の日記……。

俺は思わず黙り込み、視線を落とした。

 

「……先生、結局あの時以来、日記の事を聞きませんね。確かに、日記自体を見せることは出来ませんけど、書いてあることは教えられますよ」

 

「教えられる……というよりも、漏洩させることが出来る、だろ。禁止されてるんじゃないのか。日記が存在すること自体もよ」

 

そう言うと、大淀は黙り込み、俺と同じように俯いて見せた。

 

「教えることで、罪滅ぼしになるとでも、思っているのか?」

 

言い方が悪かったと思い、俺は慌てて訂正した。

 

「あ、いや、あれだぞ? 別に怒っているとかそういう意味ではなくて、罪滅ぼしになる訳ねぇだろとか、そういう意味でも無くて……」

 

「えぇ、大丈夫です。分かっていますよ」

 

そう言う大淀の表情は、どこか悲しげであった。

 

「……別に、日記の事はどうでもいいと思っている。というよりむしろ……避けなければいけないものだとも思っている」

 

「避けなければいけない……?」

 

「あぁ……。なんというか……この件は、この前の事で全部丸く収まっただろう。だから、これ以上知る必要はないというか……」

 

俺は一呼吸おいて、続けた。

 

「怖いんだ。新しいことが分かって、今の環境が壊れてしまうのが……」

 

「今が幸せだから……ですか?」

 

「あぁ……」

 

大淀は複雑そうな表情を見せた。

 

「逆に聞くが、どうしてこだわる? 俺は別に知りたいことも無いし……。何か俺に伝えたいことでもあるのか? 知っておいて欲しいことがあるのか?」

 

大淀は答えない。

だが、つまりそれは――。

 

「そりゃ、なんだ?」

 

数十秒の沈黙が続く。

大淀は深く目を瞑り、言葉を選んでいるようであった。

そして、答えが出たのか、俺に目を向けた。

 

「先生は、不思議に思わないのですか?」

 

「なにが?」

 

「霞ちゃんが持っている愛美さんの記憶、そして、日記に書かれていること、ですよ」

 

大淀が何を言わんとしているのか、俺には良く分からなかった。

それを察してか、大淀は詳しく説明を始めた。

 

「霞ちゃんが持っている、先生と愛美さんとの記憶。それは確かに、先生が愛美さんと経験した記憶と一致していますよね?」

 

「あぁ。だが、見た景色には少しだけ齟齬があると言うか、記憶違いのような事を言っていたがな。だがそれは、『霞』という船が『雨野愛美』から聞いた『雨野勉司令官』との記憶であるからだった……という訳だろう?」

 

そこまで言って、ハッとした。

あの時――青葉からこの話を聞いたあの時は、色々な事を聞いていたものだから、混乱していて気に留めなかったが――。

 

「どうして俺と愛美の記憶と、『雨野愛美』と『雨野勉司令官』の記憶が一致するんだ……?」

 

その事だと言うように、大淀は深く頷いて見せた。

俺は再び夜景に目を向けた。

 

「そうです。――の夜景というのは、『雨野愛美の日記』にも登場しています。つまり、少なくとも、『雨野愛美』の居た世界というのは、この世界と同じ形をした世界ということになります。そして、先生と同じ顔をした『雨野勉司令官』と、愛美さんと同じ顔をした『雨野愛美』が存在していることを考えると、『戦いの記憶』の世界というのは、人間同士の戦争が起きた、所謂『別世界線』の可能性があるのです。向こうからしたら、こちらは『深海棲艦と戦争する世界線』になるのでしょうが……」

 

別世界線。

 

「パラレルワールド、という訳か」

 

「そうです。パラレルワールドというのは、基本的に異世界的なものではなくて、どこかで分岐した世界線であると考えられます。つまり、『戦いの記憶』とこちらの世界は、分岐する以前は同じ世界であったと考えられます。それでも、『人間同士の戦争が起こる世界』と『深海棲艦との戦争が起こる世界』ですから、相当なバタフライエフェクトが無ければいけません。先生と愛美さん、お二人と同じ顔の人間がいることを考えると、大昔の事ではなく、少なくとも深海棲艦が発見されるまでに、バタフライエフェクトは起きているんです」

 

人間同士の戦争が、まるまるなくなるほどのバタフライエフェクトか……。

 

「心当たりがあるとすれば、それはただ一つです。人類の敵……深海棲艦の存在です。もし、深海棲艦が居なかったら――もっというなら、国境も何もない『人類共通の敵』がいたとするならば、きっと人間同士で争うどころではないはずです。力を合わせて戦う筈です。そう、この世界のように。」

 

次に大淀が何を言おうとしているのか、俺には何となくわかった気がした。

 

「おそらくですが、深海棲艦が居なかったら、人間同士の戦争が起きていたのではないでしょうか? つまり、『こっちの世界』というのは、きっと――そして、『あっちの世界』は――」

 

大淀の言葉にかぶさるように、俺の携帯電話が鳴った。

 

「鈴谷からだ」

 

電話に出る。

「もしもし」と言う間もなく、鈴谷は電話の向こうで叫んだ。

 

『先生! 霞ちゃんが!』

 

 

 

家に帰り、すぐさま霞の部屋へと向かった。

 

「あ、先生!」

 

霞はベッドの上で、鳳翔に抱きしめられていた。

その息遣いは、過呼吸のように、荒れていた。

 

「霞……」

 

声を聞くと、霞は俺に目を向けた。

苦しそうな表情で、涙を流している。

 

「はっ……はっ……はっ……」

 

息遣いが荒れて行く。

 

「ご……ごめんなさい……ごめんなさい……。私……私……」

 

状況が分からず、皆に目を向けた。

鳳翔は酔いが醒めているのか、心配そうに霞を見つめている。

最上、鈴谷は、何がどうなっているのか分からないという様子だ。

 

「テレビを見ていたら、急に霞ちゃんの様子がおかしくなって……」

 

テレビ……。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

頻りに謝る霞。

その謝罪は、どうやら俺に向けられているようだ。

 

「霞……一体どうしたって言うんだよ……? 何があった……?」

 

話そうとしない霞。

それどころか、涙と震え、そして呼吸は、ますます酷くなってゆくばかりだ。

 

「……悪い、皆。ちょっと二人っきりにしてくれないか……?」

 

「え?」

 

「頼む」

 

皆が戸惑う中、声をあげてくれたのは鈴谷であった。

 

「うん、分かった。ほら、みんな行こっ!」

 

去り際、鈴谷は俺にウィンクをして見せた。

後で礼を言わなきゃな。

 

「さて……」

 

隣に座り、霞を抱きしめてやる。

 

「大丈夫か? 霞」

 

大丈夫なわけがなかった。

こんなにも荒れている霞を見るのは、初めての事であった。

俺を刺した時ですら、こんなには――。

 

「どこか痛いとか、苦しいとかあるか?」

 

俺の問いかけに、霞は答えない。

ただ、謝るばかりだ。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……。私……貴方の大切な人を……うぅぅ……」

 

「俺の……大切な人?」

 

「愛美……」

 

「え?」

 

「私は……愛美を……死なせてしまった……。ごめんなさい……ごめんなさい……うぅぅ……」

 

 

 

居間に戻ると、そこには大淀と鈴谷しかいなかった。

 

「鳳翔さん、具合が悪くなってしまったようで……。先ほど、最上さんと一緒に帰っていきました」

 

「そうか……」

 

まあ、あんだけ飲めばな……。

 

「先生、霞ちゃんは?」

 

「今は眠ってるよ。落ち着いたというよりも、泣き疲れて眠ってしまったという感じだ」

 

「そっか……」

 

そう言うと、鈴谷は肩の力を抜いて、ソファーに深く座った。

 

「一体、何があったんだ? 過呼吸になるほどの事があったのか?」

 

「分からない……。ただ、皆でテレビを見ていて……。ほら、この番組」

 

鈴谷が携帯で、その番組のホームページを見せてくれた。

それは、霞がいつも見ている、あのうさん臭い都市伝説番組であった。

 

「ちょうど、艦娘の事を番組で話していて……。艦娘は異世界の存在だとか、元人間だとかやっていて……」

 

元人間……。

 

「どんな内容か、もっと詳しく聞かせてくれないか?」

 

「え……うん……」

 

鈴谷は詳しく話し始めた。

その中で引っかかったのが――。

 

「――それで、元人間は艦娘が現れたことによって引退したのだけれど、その代償は大きくて、みんな亡くなっているんだっていっていて……。案外あってる事もあって、やるじゃんって話をしてて……」

 

そういう事か……。

霞はあの番組に熱心だったものだから、それを信じてしまったのだろう。

実際に、愛美は死んでいるし……。

しかし、うさん臭い番組だと思っていたが、中々に確信をついている。

実際、愛美が死んだのは、継承をしたせいであって――。

 

「…………」

 

あぁ、そうか……。

そういう事か……。

あの日から今日まで、俺を襲っていたこの不安の正体――幸福を壊しかねないその正体――。

それは――コレだ……。

この事実だ。

あきつ丸は言っていた。

『自分が佐伯を殺した』と。

同じだ。

それと同じことを、俺はあの日からずっと、霞に当てはめてしまっていたのだ。

そしてそれは、いずれ現実になるものだと、心の奥底で思ってしまっていたのだ。

俺は大淀に目を向けた。

大淀も、なんとなく事情を察してくれたようで、小さく頷いた。

 

「……分かった。いずれにせよ、霞はあんな状態だ。何が引っかかったのか、落ち着かせて聞く必要があるだろう。鈴谷、悪かったな。今日はもう御開きにしよう。途中まで送るよ」

 

俺が立ち上がっても、鈴谷はソファーに座ったままであった。

 

「どうした?」

 

「……先生、また鈴谷を邪魔者扱いするの?」

 

「え?」

 

「先生、何か鈴谷に隠し事してるでしょ……」

 

大淀が俺を見つめる。

それを鈴谷は見逃さなかった。

 

「……ずっと思ってた。先生と大淀さんが一緒に居る時、鈴谷とは……なんだか距離があるなって……」

 

「距離……?」

 

「うん……。上手くは言い表せないけど……先生と大淀さんは……鈴谷の知らない何かを知っていて……。言葉は無くても、お互いに分かっているような……」

 

鈴谷は身振り手振りで表そうとしたが、意味のない事だと分かったのか、だらりと腕を降ろした。

 

「先生が困るようなことがあると、それを助けるのは必ず大淀さんで……先生もそれを頼った……。今日も、鈴谷が言い出さなかったら、そうするつもりだったんでしょ……?」

 

俺は何も言えなかった。

確かに、鈴谷を帰らせた後、大淀に相談するつもりであったのだ。

 

「確かに鈴谷は先生の役に立てないかもしれない……。大淀さんの方が頼れるかもしれない……。でも……鈴谷に秘密にする意味って何……? なんで鈴谷は……いつも……邪魔者扱いなの……?」

 

「鈴谷……そんなつもりは――」

「――じゃあ、どんなつもりなの?」

 

鈴谷の潤んだ目が、俺を見つめる。

 

「鈴谷だって力になりたい……。邪魔者扱い……しないでよ……。鈴谷……先生の恋人なのに……寂しいじゃん……」

 

とうとう涙を流す鈴谷。

慰めようと立ち上がる大淀を、俺は止めた。

 

「そんな事を思っていたのか……。そうとは……知らなかった……。悪い……」

 

鈴谷は俯いたまま、俺の言葉を待った。

 

「確かに、俺と大淀にしか分からない事はある。……いや、正確には、俺と大淀、そして、青葉とあきつ丸だ」

 

「先生、それ以上は……」

 

隠さなきゃいけない事だと言うように、大淀は俺を止めた。

 

「鈴谷さん……分かってください……。別に貴女が邪魔だとか、先生を貴女から引き離そうとしているわけではないのです。これは海軍の……いえ、国の機密情報なのです……。出来るだけ、情報を持つ者を制限したい……。その思いからなのです。先生は……霞ちゃんや愛美さんの関係で、その事を知っているだけで――」

「――大淀」

 

今度は俺が大淀を止めた。

 

「先生……」

 

「鈴谷だって、分かっている。そんなことだろうって。そうだろ?」

 

鈴谷は小さく頷いた。

 

「だったら……!」

 

「だからこそ、踏み込みたいと思っているんだろう。だって俺たちは、そういう関係だからな……」

 

それには流石の大淀も、閉口した。

 

「大淀、頼む。鈴谷にも教えてやって欲しいんだ」

 

「しかし……」

 

「頼む……。俺は……こいつと生涯を共に歩んでいきたいと思っているんだ。その為には、知っておいてもらわないといけない。すべてを……」

 

それが何を意味しているのか、大淀含め、鈴谷も理解したようで、どちらも豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていた。

――そんなものは実際に見たことは無いのだが、とにかく、キョトンとした顔だ。

 

「頼む……」

 

俺が頭を下げると、鈴谷もハッとして、俺の隣に飛んできた。

そして、一緒に頭を下げた。

 

「……困りましたね」

 

そう零す大淀は、本当に困ったというよりも、呆れたような口調を使った。

 

「頭をあげてください」

 

顔をあげる。

大淀の表情は、どこか、寂しそうなものであった。

 

「……分かりましたよ。全て教えます。その代り、これっきりにしてください。これ以上の事は、何か分かっても教えません。そしてもう一つ……。これ以上に、あまり首を突っ込まないでください。邪魔だとは言いませんが、動きにくくなります。それでいいですか?」

 

「鈴谷」

 

鈴谷は何度も頭を縦に振った。

 

「宜しい。では、何からお話ししましょうか……」

 

それから大淀は、これまでの事を簡潔に話し始めた。

所謂「大体あっている」という具合の内容ではあったが、今回の件に関連するところはちゃんと押さえている。

そして、全ての説明を終えた後、大淀はやはり寂しそうな表情で、こういったのだった。

 

「先生と私だけの秘密、無くなっちゃったな……。あーあ……本当に失恋しちゃったんだなぁ……私……」

 

 

 

 

 

 

「じゃあ先生、またね」

 

「あぁ。大淀、鈴谷を頼んだ」

 

「えぇ、先生の大事な奥様は、失恋中の大淀が、大切に大切にお送りいたします」

 

そう言うと、大淀は厭味ったらしく敬礼して見せた。

そしてその後、何やら楽しそうに笑って、鈴谷と共に車に乗りこみ、夜の街へと走り去っていった。

 

「ったく……」

 

結局、鈴谷が全てを知る頃には、夜もすっかり深くなっていて、とりあえずお開きすることとなったのだ。

霞の件に関しては、「テレビの戯言だ」と言い聞かせ、落ち着かせるしかないという結論になった。

 

「…………」

 

テレビの戯言……か。

霞があの番組に熱心だったのは確かだが、まさかあんなになるほどに信じていたとはな……。

今になって考えると、ちょっと信じられないというか、別の理由がありそうだというか……。

とにかく、何を思ったのか、本人に聞くしか手は無いか……。

 

 

 

毛布を持って、霞の部屋へと向かった。

霞がまたパニックになったら、すぐに対応できるよう、一緒の部屋で寝ようと思ったのだ。

 

「よしよし、ぐっすり寝ているな……」

 

霞はベッドでスゥスゥと寝息を立てていた。

こうしていると、何らおかしいことは無いのだがな。

 

『私は愛美を死なせてしまった』

 

霞は確かにそう言った。

鈴谷の話を聞く限り、テレビではぼんやりとしたことしか伝えていないようであったが……。

テレビは直接、継承だとか、艦娘が死なせたという事は言っていない。

俺たちは真実を知っているからそう聞こえたものだが、霞はどうだろう……?

何が霞を――。

 

「ふわぁ……」

 

さっきも出たろ。

それは本人に聞かないと分からない。

今はただ、霞を落ち着かせるしかない。

落ち着いた頃、本人がどう思ったのか、何を感じたのか聞けばいい。

今は――ただ――。

 

 

 

 

 

 

強い光に目が覚める。

 

「ん……朝か……」

 

いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。

 

「霞……?」

 

ベッドに、霞の姿はない。

代わりに、紙のようなものが置かれている。

寝ぼけ眼を擦りながら、その紙を手に取った時、俺は一気に目が覚めた。

 

『ありがとう。ごめんなさい』

 

霞の字であった。

 

「霞!」

 

部屋を飛び出し、居間へ向かう。

霞はいない。

外に出たのかと玄関に向かうも、霞の靴は置かれている。

 

「霞、どこだ!?」

 

居間を抜けて台所へ。

霞はいない。

俺の部屋――いない。

 

「霞! 返事をしろ!」

 

探している間にも、俺の心臓は鼓動を速めて行く。

嫌な予感が――不安が徐々に足音を強め、迫ってくる――。

 

「はっ……はっ……はっ……」

 

『ありがとう』

『ごめんなさい』

 

「お前……! そんなの……! まるで……!」

 

最後――風呂場の扉を開けた時だった――。

目の前に広がる光景――。

嫌な予感も――不安も――絶望も――何もかもが――そこにあった。

 

「――……」

 

こういう時、俺は叫ぶものだと思っていた。

頭が真っ白になり、ただひたすら霞の名を叫ぶものだと思っていた。

だが、おかしくなっていたのだろう。

俺がその光景を目にした時、初めて心に去来したものは、驚愕や悲観とは程遠い、なんてことない、些細な気付きであった。

 

 

 

――艦娘の血は、人と同じく、赤い色をしている――

 

 

 

――続く



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「愛美……!」

 

目が覚めると、私は自室のベッドに寝ていた。

 

「…………」

 

そっか……。

あの時……あの番組を見た時、私は――。

それにしても、あれは『夢』な筈なのに、自分でもびっくりするくらい取り乱してしまった……。

あたかも本当に愛美が死んでしまったかのような――いや、それくらいリアルな『夢』というか、実感というか……。

 

「夢……か……」

 

最近見る夢は、いつも物騒なものばかり。

愛美の記憶と同じように、最初こそはぼんやりとしたものだったけれど、段々と鮮明になっていって……。

 

『霞、聞いて。今日ね――』

 

今まで、私は『愛美』のはずだった。

あいつ……勉が夫で、私が愛美で……。

愛美の記憶を夢に見ていたはずだった。

けど、最近は違う夢を見る。

私は『船』で、愛美は別人で――。

確かに愛美の顔はしているけれど、いつも『船』である私を――『霞』って呼ばれている『船』を整備してくれていて――。

 

『霞……ごめんね……。汚してしまって……ごめんね……』

 

「愛美……」

 

また涙が零れそうになった。

知らない『夢』。

けど、どこか懐かしいような――心を締め付けるような――。

涙を拭い、ベッドから降りた。

居間の方から、皆の話し声が聞こえる。

どうやら私の事を話しているようだ。

 

「心配掛けちゃったかしら……」

 

ふと、あいつの前で取り乱してしまったことを思い出した。

抱きしめられ、「大丈夫だよ」と慰められたことを――。

 

「んんっ……」

 

心がむず痒い。

最近の私は、何と言うか……駄目だ。

特に、あいつ……勉関連の事になると……駄目だ……。

 

「これが思春期ってやつなのかしら……」

 

心にモヤモヤを抱えながら、私は居間へと向かった。

扉に手をかけた時、大淀の声がした。

 

「では、何からお話ししましょうか……」

 

何やら緊迫した雰囲気に、私は居間に入れず、しばらく耳を澄ませていた。

そして、知った。

全ての事を――。

『夢』の秘密を――。

そして――私が――私が愛美を殺してしまったことを――。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

硝子の向こうで、霞はスヤスヤと眠っていた。

 

「霞……」

 

「自分で首を切ったようです……。普通の人間であれば、出血多量で死んでいたでしょう……」

 

何故「普通の人間であれば」なんて言葉を使ったのか、大淀は説明しなかった。

 

「今回の件、海軍には「事故」として報告しています。尤も、「自殺」と説明したところで、「事故」として処理されてしまうのでしょうが……」

 

自殺……。

 

「霞は……何故自殺を……」

 

「分かりません……。本人の意識が戻らない事には……。ただ、昨日の錯乱となにか関係があるのかもしれません……」

 

「『私が愛美を殺した』……か」

 

テレビの事を真に受けて、ここまで追い込まれるとは思えないが……。

何か本人に思うところがあったのかもしれない。

 

「大淀」

 

知らない声が、大淀を呼んだ。

 

「明石」

 

向くと、そこには白衣を着た女が立っていた。

 

「先生、紹介します。工作艦の明石です」

 

明石は俺を見るなり、驚いた表情を見せた。

 

「あ、明石です……。雨野……勉……さん、ですよね? 大淀から聞いています。よろしくお願いいたします」

 

「あ、あぁ……よろしく……」

 

「明石は艦娘の応急修理を担当していて、霞ちゃんの治療も彼女が」

 

修理、か……。

先ほどの大淀の言葉と言い、やはり霞は艦娘であるのだと実感させられる。

 

「実は、霞ちゃんの「自殺」を「事故」として報告したのは、彼女に治療させるためだったのです」

 

「え?」

 

「明石、説明してあげて」

 

「え? あ、うん……じゃあ……こほん……」

 

明石は呼吸を整えると、説明を始めた。

 

「今回の件、霞ちゃんは心に傷を負っていると考えられます。その傷の治療に必要なのは、おそらく貴方の存在かと……」

 

「俺?」

 

「大淀から全て聞いています。愛美さんや、霞ちゃんの記憶の事……。そして、貴方がどんな存在なのかも……」

 

それはきっと、雨野勉司令官と関連がある可能性の事を指しているのだろうと思った。

 

「原因は分かりませんが、霞ちゃんの「私が愛美を殺した」という発言を信じれば、きっと記憶に関することが原因なんだと思います。そこに強く関わることが出来るのは、きっと貴方かと……」

 

確かにそうなのかもしれない。

もし、霞が愛美の――『雨野愛美』の記憶のことで自殺を決意する何かを得たのなら、直接でなくとも、何か関わりを持つことは出来そうだ。

俺の持っている愛美との記憶と、霞の持っている『雨野愛美』の記憶には、多少なりとも共通点はあるのだから。

 

「本来、記憶などの情報は機密ですから、霞ちゃんの「自殺」が記憶に関するものであった場合、貴方が関わることは出来なくなります。だからこその「事故」なのです」

 

「「事故」であれば、「自殺」よりも海軍の干渉は抑えられます。「事故」であれば、明石単独の治療も許されますから」

 

大淀は明石を相当信頼しているらしい。

そうでなければ、こんなことは出来ない。

 

「しかし、いいのか? こんなことは、海軍を裏切るようなものだ……」

 

「いいんです。大淀には借りがあるし、霞ちゃんの事は助けたいですし……。それに……」

 

明石は俺をもう一度見つめた。

 

「それに……?」

 

「……ううん。なんでもありません。霞ちゃん、明日には目を覚ますかと思います。もしお泊りになられるようなら、仮眠室が空いてますので、自由にお使いください」

 

「あぁ、そうさせてもらおう」

 

明石に案内され、仮眠室へと向かった。

 

 

 

夕方になると、鈴谷が一人でやって来た。

 

「着替え、持ってきたよ」

 

「ありがとう。皆はどんな様子だ?」

 

「うん。一応、心配かけないように、怪我したことは伏せておいたよ。昨日の錯乱を調べるために、しばらく海軍にお世話になるってことになってる」

 

事情を知っている鈴谷以外には、今日の事を話していない。

変に心配させるのもなんだし、特に最上なんかは今が一番忙しい時期だったからだ。

あいつの事だから、話を聞きつけて、仕事をほっぽりだしかねないからな……。

 

「先生、しばらくここにいるの……?」

 

「あぁ、そのつもりだ。ただ、最上なんかが心配になって家を訪ねてくるだろうから、何度か行き来しようとは思っている。寝泊まりは基本的にこっちでするつもり……かな」

 

「鈴谷もここで寝泊まりする!」

 

「お前も仕事があるだろう。時々顔を出してくれるだけでいいよ。それより、最上たちの事を頼む」

 

「でも……」

 

鈴谷は何やら不満そうに俺の顔を見つめた。

 

「せっかく先生の事が色々と分かったのに……。先生に寄り添える関係になれたって思ったのに……」

 

「だったら、今するべきことは分かるだろ?」

 

「うん……」

 

不満そうにする鈴谷に、俺はそっとキスをした。

 

「これで許してくれ」

 

「……もう一回してくれたらいいよ」

 

「分かったよ」

 

もう一度のキスは、少し大人なものであった。

 

「わっ!?」

 

声の主は、俺でも鈴谷でもなかった。

 

「あ、明石さん!?」

 

「び、びっくりした……。あ、そ……そっか、そうでしたね……。鈴谷さんとお付き合いされているんですよね……」

 

「す、すまない……。こんな場所で……」

 

「い、いえ……。その……お夕食の準備が出来ましたので、お迎えにと……。えと……しょ、食堂で待っていますね! では……」

 

明石は気まずそうに、食堂の方へと向かっていった。

 

「悪いことをしたな……。軽率だった……」

 

「なんで明石さんが?」

 

「霞の治療をしてくれるそうだ。心のケアも兼ねて」

 

「ふぅん……」

 

鈴谷の疑いの目が、俺を見た。

 

「浮気の心配か? 心外だな」

 

「そうじゃないけど……。ただ、何と言うか……明石さんのあの感じ……多分、あまり男の人とさ……」

 

「何が言いたい?」

 

「……先生、明石さんに恋させちゃ駄目だからね? 何故か知らないけど、先生モテるんだから……艦娘に……」

 

「最後のは余計だ」

 

「とにかく……ちょいちょい様子見に来るからね。明石さんに恋させるようなことはしない事!」

 

「分かったよ」

 

「じゃあ、もう一回……キスして……」

 

「あぁ」

 

見送るその瞬間に、もう一度キスをして、鈴谷は帰っていった。

 

 

 

食堂に行くと、明石一人がぽつんと座っていた。

食事に手を付けずに。

 

「遅くなってすまない。待たせてしまったか」

 

「い、いえ! 私が勝手に待っていただけなので……。あ、ご飯、どれくらい食べます? お味噌汁は?」

 

「少しで大丈夫だ。ありがとう」

 

 

 

メニューは、大学の食堂で出てきそうな、簡単な物であった。

 

「いつも夕食は、お昼に開かれている食堂のメニューの残り物なんです……。ごめんなさい……」

 

「いや、頂けるだけありがたいし、十分立派な食事じゃないか。それに、美味いと来ている」

 

健康面も気遣われているのか、肉野菜魚がしっかりとれるメニューとなっていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

食器を叩く音と、時計の分針の音。

それだけが食堂を包んでいる。

まあ、食事なんてものは、ペラペラしゃべるものではないと思ってはいるが、こうも静かだと落ち着かないな。

それに、明石は気を遣って俺を待っていてくれていた訳だし、何か話題を振った方がいいのだろうか。

 

「ここに住んでいるのか?」

 

「うぇ!? あ、ははは、はい! 一応……工廠があって……そこに……」

 

「工廠?」

 

「えーっと……工場みたいなものです……。私、こんな格好してますけど、修理専門なので……」

 

「そうなのか」

 

「えぇ……そうなんです……」

 

会話終了。

まあ、初対面だしな。

こんなものだろう。

そう思い、再び食事に手を付けた時であった。

 

「来ますか……?」

 

「え?」

 

「工廠……。どんなところか……」

 

 

 

飯を済ませた後、工廠へと向かった。

 

「ここが工廠か」

 

確かに、工場と言われれば工場だが、どちらかというと、だだっ広い作業場のようであった。

 

「戦時中に使われていたものを改装したんです。こちらにどうぞ。今、コーヒーをお入れしますね。砂糖は二個ですよね」

 

「え? あ、あぁ……ありがとう」

 

砂糖は二個。

確かにそうだが、何故知っているのだろうか。

――あぁ、大淀か。

そんなことまで話しているのか。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう」

 

コーヒーは、特別美味しいものではなかった。

だが、俺はこういうありきたりな物が好きであった。

 

「すまない。住まいを見せてもらった上に、コーヒーまで頂いてしまって……」

 

「い、いえ! 私が誘った訳ですし……。それに……その……貴方とは、少しお話したかったというか……」

 

「俺と?」

 

「はい……。実は私……貴方の事……というか、『雨野勉司令官』の事をよく知っていまして……」

 

「え?」

 

「『雨野愛美の日記』の解読をしたの、実は私なんです……。だから、日記の内容に書かれている『雨野勉司令官』の事に関しては、全て知っていて……」

 

「それと俺との会話に、何の関連が?」

 

「貴方は、日記の『雨野勉司令官』と同一人物だから……。あ、違うことは分かっているんですよ? でも、凄くそっくりというか……お顔も、大淀から聞かされていた性格も、何もかもが似ていて……」

 

あぁ、そういう事か。

明石も、青葉と同じように――。

 

「お恥ずかしい話なんですけど、私、日記に凄く感情移入しちゃって……。勝手に頭の中で、貴方の事を想像していて……。実際にお会いして、私の想像通りの人で……日記の通りの人で……」

 

言葉がしどろもどろになるにつれて、明石の顔が赤くなっていった。

 

「い、いやぁ~……本当、恥ずかしいんですけど……その……恋? しちゃったと言うか、その……ね? 分かりますよね……?」

 

「いや……まあ、理解できなくはないが……。凄いというか……。その……少ない情報で、恋にまで発展するなんてのは……中々……」

 

「少なくないですよ! あんなに想い人の事を書いている日記なんて、他にないですよ! 貴方のコーヒーの好みまで書いてあるんですよ! 一番安い――のインスタントコーヒーで、砂糖は二個!」

 

なるほど、それで……。

って、驚くところはそこではない。

 

「俺はその日記を見たことが無いのだが、そんなに書かれているのか?」

 

「そりゃもう! 貴方がどんなに素敵な人で、どんなにかっこいい人間かがびっしり書かれているんです! 写真だって、復元できていないものを合わせても、何十枚もあってですね!?」

 

そこまで言って、明石はハッとした。

 

「す、すみません……。つい……熱くなってしまいました……」

 

「い、いや……」

 

逆に見たくなって来たな……その日記……。

 

「そうか……。だとしたら、あまり夢を壊す様な事は出来ないな」

 

そう笑って見せると、明石は驚いた表情を見せた。

 

「それ~! その笑顔! 想像通りです! わぁ~本物~!」

 

まるで芸能人にでもあったかのようなリアクションに、俺は思わず吹き出してしまった。

 

 

 

それから明石は、先ほどのような余所余所しさがなくなり、まるで昔からの友人のように話しかけてくれるようになった。

 

「それで、大淀が言う訳です。「合コンを開いてあげましょうか?」って。もちろん、私はフリーですけど、恋しちゃってるわけじゃないですか。でも、そんなこと言えないし……。だから私、普通に断るのもなんだと思って、冗談のつもりでこう言ったんですよ。「フリーの人に合コン開いてもらってもね~?」って。そしたら大淀が大激怒しちゃって! そこから大喧嘩ですよ!」

 

何とも楽しそうに語る明石。

きっと、こうしている彼女が、本当の彼女なのだろうと思った。

 

「あ、そう言えば、こんな話もありまして――」

 

その時、工廠の隅にあった時計が鳴った。

 

「え、あれ!? もうこんな時間……。ごめんなさい……。時間に気が回っていませんでした……。こんな時間まで長話に付き合わせてしまって……」

 

「いや、楽しかったよ。気が楽になった」

 

そう聞いて、明石は表情を曇らせた。

 

「……すみません」

 

「え?」

 

「その……霞ちゃんがこういう時なのに、私、自分の事ばかりで……」

 

今までのテンションはどこへやら。

 

「いや、却って良かった。沈んだ空気では、霞の不安を煽ってしまう。それに、お前の事も知れて良かった。大淀が信頼しているとはいえ、よく分からない奴に霞は任せられないからな」

 

そう笑って見せると、明石は安心したような表情を見せた。

 

「霞ちゃんの事、本当に大切に想っているんですね……」

 

「当然だ。あいつは俺の家族だ」

 

「家族……か……」

 

遠くに見える何かの施設。

そこの明かりが、一斉に消えた。

 

「消灯か。明日の事もあるし、そろそろ戻るよ」

 

「あ、はい!」

 

「楽しかった。明日からよろしくな、明石」

 

手を差し出すと、明石もおずおずと手を差し伸べて、握った。

 

「じゃあ、明日」

 

工廠を出ようとした時であった。

 

「あ、あの……!」

 

「なんだ?」

 

「一つ……お願いが……」

 

「お願い?」

 

「はい……」

 

明石はもじもじと手を揉んだ後、かすれそうになるほど小さい声で、願いを言った。

 

「貴方の事……『提督』って……お呼びしてもいいでしょうか……?」

 

 

 

翌日は早めに起きることが出来た。

昨日の事があって疲れていたのか、ぐっすり眠れていたようだ。

 

「さて……」

 

霞の様子を見に行こうと部屋を出ると、明石と鉢合わせた。

 

「おはよう。早いな」

 

「おはようございます。霞ちゃんの事が気になって……。その……て、提督……も、そうですか?」

 

「ん……あ、あぁ……そんなところだ」

 

提督……か。

青葉の『司令官』というのは慣れたものだが、『提督』ってのはな……。

昨日の別れ際、「構わない」なんて返事をしてしまったが、一体どういう理由で『提督』なのだろうか。

聞いても、明石は「何となく、そう呼びたいんです……」というだけだったが……。

 

「じゃあ……一緒に行きましょう。提督」

 

 

 

病室に入ると、霞は目を覚ましていた。

 

「霞」

 

首を固定されている霞は、俺を一瞥すると、すぐに視線をそらしてしまった。

 

「霞ちゃん、ここがどこか分かる?」

 

霞は返事をしない。

 

「喋れない? もし喋れないのなら、ゆっくり目を閉じて」

 

特に反応を見せることなく、霞はただじっと、天井を見つめていた。

明石が困ったように俺を見る。

 

「話したい気分でなければ、出直すぜ」

 

そう言って、病室を出ようとした時であった。

 

「勉」

 

勉。

一瞬、俺の事だとは思わなかった。

霞は一度だって、俺をそうは――いや、寝言では呼んでいたが、面と向かっては――。

 

「話があるの。出来れば、二人で……」

 

二人で……。

 

「あ、じゃあ……私は……。終わったら声かけてください」

 

「悪いな……」

 

「いえ……。またね、霞ちゃん」

 

明石はそそくさと病室を出て行った。

俺は近くにあった丸椅子に座り、霞の言葉を待った。

 

「…………」

 

「…………」

 

沈黙が続く。

病室内は驚くほど静寂に包まれていて、耳鳴りがうるさいほどであった。

数分が経過し、俺から仕掛けてやろうかと思った時、霞が口を開いた。

 

「全部……知っていたのね……」

 

「え?」

 

「知っていて……私と一緒に居てくれたんだ……」

 

何のことかわからずにいると、霞は何かを思い出すかのように、目を瞑った。

 

「あの日……私が錯乱したあの日……。私は、あんたたちが私の話をしているのを聞いてしまった……」

 

霞の話をしている『俺たち』。

 

「まさか……大淀の話を……?」

 

大淀が鈴谷に説明したこと。

それを全て、霞は聞いていたと言うのか。

 

「そうよ……。目を覚ましたら、私はベッドに居て、居間から声が聞こえたものだから――そこで、聞いてしまったわ……。全ての事を――私が、愛美を殺してしまったということも――」

 

それを聞いて、何故霞がここにいるのか、やっと分かった気がした。

分かった気がしたからこそ、俺は言葉を失った。

霞は続ける。

 

「私は……『愛美を殺してしまった』と、あの時に言ったけれど、それはあんたたちの語るようなものとは違うの……。あれは『夢』の話……。いえ……『戦いの記憶』って言った方がいいのかしら……?」

 

俺の答えを待つことなく、霞はあの日見た『夢』の事について話し始めた。

 

 

 

私は時々、夢を見た。

以前、あんたにも話した通り、所謂『愛美の記憶』だと『思っていた』ものよ。

最初こそは、あんたとの思い出ばかりだったのだけれど、ある時から、様子がおかしくなってきたの。

『船』。

そう、『船』だわ。

私は『船』で、そこに『愛美』が乗っていた。

『愛美』は、いつも楽しそうに、私に話しかけているの。

でも、私は『船』だから、会話は出来なくて――それでも、『愛美』は――。

『愛美』は、あんたの話ばかりしていた。

私が『夢』にみた、あんたとの思い出ばかりを――。

 

 

 

あの日、テレビを見ていて、私はついウトウトしてしまった。

テレビから流れる音声が、まるで子守歌のように私の眠りを助長するようだった。

そこでまた『夢』を見た。

けれど、それはいつものような平和な夢ではなかった。

夢の中で『愛美』は泣いていた。

あんたが死んでしまったって。

戦死してしまったって。

急遽、あんたの遺体があるという――に向かう為、私は『愛美』を乗せて海に出た。

その途中で――。

 

 

 

言葉を切ると、霞は思い出したくないと言うようにして、表情をゆがめた。

 

「助けることが出来なかった……。送り届けることが出来なかった……。守らなきゃいけなかったのに……私が……殺したようなものだって……」

 

例えそれが『夢』であっても、霞にとってのそれは、きっと違うものに写っていたのだろう。

そうでなければ、あんなには――。

 

「あんな取り乱して、馬鹿みたいだったでしょ……? 今では自分でもそう思う。でも、あれは確かに存在した記憶なんだって、あんたたちの話を聞く前から、なんとなくだけれど、心の奥底では思っていたの……。だから……」

 

「霞……」

 

「でも、そんなことはどうでも良かった。私はもっと大きな罪を犯してしまった。あんたの大切な人を――私の大切な人を――」

 

「それは……違うだろ……」

 

「何が違うのよ……?」

 

「お前が殺した訳ではない……」

 

「でも、私が居なければ、愛美は今もあんたと居たわ」

 

「そんなことは……」

 

「私が居なければ、愛美は死ななかった。それは事実よ……」

 

どう返していいのか分からなかった。

霞の言うように、それは事実なのだ。

「殺した」という表現が間違っているだけで、事実なのだ。

 

「あんたがこの件をどう思おうが勝手なように、私がこの事実をどう受け止めようかも勝手だわ」

 

「だからって、自殺する奴が……。戒めのつもりか……?」

 

「そうよ……」

 

「そんなことをしても愛美は帰ってこない……。愛美の分をお前が生きようとは思わないのか……?」

 

「奪った命で生きるなんて、私には出来ないわ……。罪を背負うことも……」

 

霞は俺をじっと見つめた。

悲しそうな表情であった。

 

「あんたには分からないでしょ……? 自分が……大切な人の命を奪ってまで、生きてしまった気持ちを……」

 

俺は何も言えなかった。

何ていったらいいのか分からなかった。

 

「……もういいでしょ。今まで、付き合わせて悪かったわ……」

 

それはまるで、お別れのあいさつであった。

――いや、そのものだった。

 

「あんたとはこれっきりよ……。これ以上、迷惑はかけられない……」

 

「迷惑かどうかを決めるのかは俺だ……。俺は……お前と居たいよ……」

 

「私は違う」

 

「!」

 

「私は……あんたと居たくない……。あんたと居ると、自分が嫌になる……。自分でなくなっていくようだし、私はあんたの事を――。だから……お願い……。あんたが私を恨んでいない内に――そう言ってくれる内に……お別れしてほしいの……」

 

「霞……」

 

「出て行って……」

 

「しかし……」

 

「出て行って……!」

 

霞は近くにあった花瓶を俺に投げつけた。

すかさず明石がとんできた。

 

「霞ちゃん!?」

 

「出て行ってよ……! 出ていけ……!」

 

「提督……ここは一旦……」

 

「あ、あぁ……」

 

 

 

しばらくして、明石は工廠へとやって来た。

 

「提督……」

 

「悪い、お邪魔してるぜ」

 

「いえ、いいんです。むしろ、嬉しいくらいで……」

 

「そうか……」

 

明石は隣に座ると、買って来た缶コーヒーを俺に渡した。

 

「ありがとう。霞の様子は……どうだ……?」

 

「今は眠っています。提督が出て行ってから、大人しくなって……。あの……私、聞いていたんです……。二人の会話……」

 

「……どう思った?」

 

「霞ちゃん……本当は心の奥底で……提督の救いを求めているように思いました……。。そうでなければ、そもそも二人で会話なんて……。でも、それを許すことが出来ないから、無理やり自分の気持ちを押し通す様に、提督にあんなことをしたのかと……」

 

それは明石なりの慰めのように、俺には思えた。

 

「あいつに……悪い事をした……。知らなくていいことを……聞かせてしまった……」

 

「いずれは知ることだと思います……。それが今回だっただけで……」

 

「だが……今でなくてよかった……。少なくとも、今ではない……。あいつは向き合えなかった……。きっと……もっと知るのが遅ければ……」

 

「提督……」

 

項垂れる俺の背中を明石は優しくさすってくれた。

 

「……とにかく今は、時間を置いた方がいいかもしれません。霞ちゃんにも、気持ちを整理する時間は必要かと……」

 

「……そうだな」

 

「……朝ごはん、まだでしたね。今日は、私が作りますから、温かいですよ」

 

「あぁ……ありがとう……」

 

結局その日は、霞に会うことは出来なかった。

 

 

 

翌日、診察の為に明石が病室に入ったが、相変わらず俺と会うことは拒んでいる様子で、会う事はかなわなかった。

明石曰く、「説得している」とのことではあったが……。

 

 

 

また翌日。

明石が、少しでも霞の心を開かせるためか、同型(?)だという朝潮を連れて来た。

霞は相変わらず俺とは会ってくれないが、朝潮の事は良く思っているのか、再会に笑顔が見られたという。

 

「それじゃあね、霞」

 

病室から出てくる朝潮に、礼を言おうと声をかけると、俺の姿を見るや否や、驚愕の表情を見せた。

 

「すまない。驚かせたか。霞を引き取った雨野勉という者だ」

 

「あ……そ、そうでしたか……。貴方が……」

 

「霞の様子はどうだったか……聞かせてはくれないか? 俺とは会ってくれないのだ……」

 

朝潮はどこか動揺を見せながらも、「私でよければ……」と、承諾してくれた。

 

 

 

朝潮から聞いて取れたのは、どうもいつもの霞であった。

霞が自殺未遂を起こしたのだとは知らない様で、怪我のお見舞い程度に思っているようであった。

 

「そうか。ありがとう。悪かったな、呼び止めてしまって」

 

「い、いえ……。その……し……あ、貴方の事は、聞いていましたから……。一度、お話したいと思っていたので……」

 

明石と同じような事を言うのだな。

 

「聞いていたって、霞からか?」

 

「はい。何度か電話で話したことがあって……。男の人に引き取られて、生活していると……。貴方の事、いい人だって……」

 

いい人……か。

 

「そうか……」

 

「あの……雨野勉って……『あの』雨野勉さんですよね……」

 

「『あの』とは?」

 

「『雨野勉司令官』です。私、『夢』で何度か……貴方の事を……」

 

「『戦いの記憶』の事か……?」

 

「はい……」

 

朝潮曰く、短い期間ではあるが、自分の艦隊の指揮を取っていたのが、『雨野勉司令官』だったらしい。

 

「『夢』はよく見ますが、『雨野勉司令官』指揮の下での『夢』がとても多いのです。だから……」

 

朝潮は俺の顔をじっと見つめた。

 

「瓜二つ……というより、司令官そのものです……」

 

見つめるその瞳は、青葉から向けられたものと同じであった。

 

「あの……時々こうして……お話できませんか……? 貴方が司令官でないことは分かっているのですが……私は……」

 

こういう時の返事には、もう慣れていた。

 

「あぁ、構わない」

 

その次のお願いに対しても、同じだ。

 

「司令官と……お呼びして宜しいでしょうか……?」

 

 

 

翌日。

鈴谷から連絡があり、俺は急いで帰宅することとなった。

どうやら最上が、俺が家に居ない事を怪しんでいるとのことであった。

 

「ただいま」

 

「やっと帰って来た! 先生、どこに行っていたのさ!?」

 

「悪い、ちょっとな」

 

「ちょっとなんだい!? 鈴谷を置いて朝帰りなんてさ!?」

 

その鈴谷は、申し訳ない、というような顔をしていた。

 

「浮気でもしていると?」

 

「そうだよ! 霞ちゃんが『検査』で居ない事をいいことにさ!」

 

検査、ね。

 

「誰と浮気すると言うんだ」

 

「例えば……大淀さんとかさ……。鳳翔さんかも……」

 

「引きずるなぁ、お前は」

 

「だってさ……」

 

どう納めようか考えていると、鈴谷が最上を指さした。

あぁ、なるほどな……。

 

「俺が浮気するとしたら、そりゃお前だろ」

 

「え?」

 

「浮気するなら、お前を選ぶよ」

 

唖然とした最上の表情は、怒っているのか、はたまたにやけているのか、よく分からない表情へと変化した。

 

「は、はぁ!? そ、そういう話じゃ無くて……。うぅ~……! も、もういい! ボク、ちょっとお手洗い!」

 

そう言うと、最上は洗面所の方へと駆けこんでいった。

 

「痛っ!」

 

頬の痛み。

それは、鈴谷のつねりによるものであった。

 

「なんだよ。お前がそうしろと……」

 

「そうだけど……。なんか……ムカつく……」

 

鈴谷はむくれた顔を見せると、すぐに表情を戻した。

 

「で、霞ちゃんは……? どう……?」

 

「相変わらず会ってはくれない。明石は、時間が経てば……と言っていたが……」

 

「そっか……」

 

「だが、昨日なんかは朝潮が来てくれて、普通に再会を喜んでいたようなんだ。俺と会わないってだけで、病んでいるわけではないらしい」

 

それを聞いて、鈴谷はほっとした表情を見せた。

 

「今日、青葉とあきつ丸が帰ってくるって。あの二人なら霞ちゃんの気持ちを理解できると思って、話しちゃった。そしたら、霞ちゃんに会いたいって」

 

「そうか。確かに、あの二人なら……」

 

特に、あきつ丸なら――。

 

「二人に連絡してみるよ。ありがとう、鈴谷」

 

「ううん。元と言えば、鈴谷が悪いんだし……これくらいしかできないし……。鈴谷が知ろうとしなければ……話を聞かなければ……こんなことには……」

 

「お前が気に病むことはない。俺がもっと早く、お前に打ち明けていれば良かったんだ……」

 

「先生……」

 

「苦しませてしまったようだな。ごめんな」

 

そう言ってやると、鈴谷はそっと寄り添い、俺の胸に顔を埋めた。

 

「こほん……」

 

わざとらしい咳払い。

最上は、退屈そうに壁に寄り掛かり、腕を組みながら俺たちを睨んでいた。

 

「そういうのは余所でやって欲しいものだけれど……」

 

「ここは俺んちだ」

 

「ボクの修行場でもあるんだ!」

 

相当イラついているのか、最上の機嫌はしばらく良くならなかった。

 

 

 

結局、最上の機嫌がなおったのが夕方で、時間も時間であったので、本部へ帰ることを断念した。

 

「もがみん、仕事は?」

 

「うん、明日の午後に取材があるんだ。それまではここで過ごそうかなって」

 

「泊まる気か?」

 

「だって、久々の休日なんだ。お酒でも飲もうよ」

 

「じゃあ、必然的に鈴谷もお泊りじゃん」

 

「なんでさ?」

 

「なんでって……。もがみんと先生、二人っきりとか……」

 

「あ~、そうだよね~。ボクと先生が二人っきりだったら、何も起きないはずないしね」

 

鈴谷が俺を睨む。

だからなんでいつも俺を睨むんだ。

 

「そう言えば、先生、小説は? 書いてるの?」

 

「え?」

 

「書くって言ってたじゃないか。構想はあるの?」

 

「あぁ……そうだったな。まだそこまでは……」

 

「小説……」

 

そう零すと、鈴谷は何やら考え込んだ。

 

「どうした?」

 

「小説……そっか! 小説だよ! 霞ちゃん、先生の小説好きじゃん!」

 

急に何を言い出すのかと思ったら。

そんな事――。

――いや、そうか。

そういう事か。

 

「なるほど、その手があったか」

 

「そうだよ! もがみん、その手だよ!」

 

最上の手を握り、ぴょんぴょん跳ねる鈴谷。

最上は何が起こったのか分からず、困惑の表情を浮かべていた。

 

 

 

翌日の夕方。

戻って来た俺を迎えた明石は、ギョッとした表情を見せた。

 

「提督!? 大丈夫ですか!? 凄い隈……」

 

「あぁ……なんとかな……。これ、霞に渡してくれないか?」

 

束になった原稿用紙を明石に渡してやる。

 

「これは……小説……?」

 

「とりあえず一話……。どうも筆が遅くて駄目だ……」

 

それを聞いて、明石も気が付いたようであった。

 

「なるほど! これなら霞ちゃんと!」

 

そう。

俺の小説なら、霞は読んでくれる。

小説に込めた俺の気持ちに、気が付いてくれるだろう。

思えば、あいつが家に来た時、仲を繋いでくれたのが、小説だった。

 

「これならあいつと会話できる。……といっても、一方的だがな。それでも、きっとあいつは気が付いてくれるだろう……。俺の気持ちに……。そして、初めてあいつの心が分かった時のように――小説で心が繋がった時のように、もう一度……」

 

「提督……。分かりました。届けてきますね! 今、青葉さんとあきつ丸さんが来ているんです。そろそろ話しも終わる頃だと思いますので、そのタイミングで……」

 

明石がそう言った時、ちょうど部屋からあきつ丸と青葉が出て来た。

 

「ナイスタイミング! じゃあ、渡してきますね」

 

明石は俺の小説を大事そうに抱えながら、霞の部屋へと入っていった。

 

「勉さん!」

 

「司令官!」

 

「おう、二人とも。お帰り。来ていたんだな」

 

「はい。本当はもっと早く来れたらと思っていたのですが、中々海軍本部から許可が出なくて……」

 

青葉がそう言うと、何故かあきつ丸の表情が暗くなった。

――あぁ、そういう事か。

どうやら、陸軍と海軍の間にある溝は、未だに――。

 

「それで、どうだった? 霞の様子は……」

 

二人は、お互いの目を見て頷くと、青葉が一歩引き、あきつ丸が話し始めた。

 

「霞殿に、全てお話いたしました。自分と霞殿は、同じ境遇なのだと……」

 

「それで……」

 

「……駄目でありました。共感はしてくれましたが、やはり勉さんに合わせる顔は無いと……」

 

「そうか……」

 

あきつ丸となら――同じ境遇を持った者同士でもあるから、気持ちの変化があるものだと考えていたが……。

 

「それほどに、霞殿が持っている罪悪感は大きいもののようであります……」

 

「司令官……」

 

「罪悪感……か……。罪ってものは、法律などで定められていても、結局は自分が『感じる』ものだ。誰かの許しや共感などで、その罪が消えないのなら……あとはあいつが向き合えるかどうかにかかっている……」

 

その為の鍵となるのが、おそらく俺の気持ち――俺の小説になるのだろう。

あいつなら――誰よりも俺の小説が好きなあいつなら、きっと――。

売れない、大した実力も無い俺の小説で、どこまであいつの気持ちに近づけるのか……。

 

「小説家としての腕の見せ所……か……」

 

こうして、霞の為の小説を書く日々が始まった。

 

 

 

小説を書き始めてから、三日目の朝。

 

「よし……二話完成だ……」

 

「お疲れ様です、提督」

 

「明石、起こしてしまったか」

 

「いえ、いつもこの時間に起きてますから。それよりも、流石にお休みした方がいいのでは?」

 

「あぁ、そうさせてもらう……」

 

「では、私は霞ちゃんのところに」

 

「頼む」

 

 

 

五日目。

 

「先生、やってる? 着替え持ってきたよ。あと、差し入れ」

 

「鈴谷。ありがとう。悪いな」

 

「ううん。順調?」

 

「何とかな。だが、普通に小説を書くより難しいものだ。小説に自分の気持ちを全力でぶつけるなんて、今までしてこなかったからな……」

 

「大丈夫。先生になら出来るよ! 鈴谷も応援してるんだし!」

 

「あぁ、ありがとう」

 

「それとさ……」

 

鈴谷が退くと、そこに最上が立っていた。

 

「最上!?」

 

「ごめん……先生……。もがみんがどうしてもって……それで……」

 

「話したのか……」

 

怒るだろうなと思い、恐る恐る最上の顔を見てみると、何とも悲しい表情をしていた。

 

「酷いじゃないか……先生……。どうして黙っていたのさ……」

 

「最上……。いや、その……」

 

「分かってるよ……。ボクの為なんだよね……? 話したら、こうなるって分かってて……。忙しいボクを気遣ってくれたんだよね……?」

 

俺は何も言えなかった。

 

「でも……ボクは先生の弟子なんだよ!? 師匠がこんな状況なのに、何もしない弟子がいるもんか!」

 

「最上……」

 

「だから……もっとボクを頼ってよ……。ボクは……先生の弟子で……担当じゃないか……」

 

鈴谷が心配そうに俺を見つめた。

――あぁ、そうか。

鈴谷、お前も俺が心配だったんだな。

黙っていられなかったんだな。

 

「最上……」

 

「…………」

 

「――確かに、俺が苦しい時、お前はいつでも力になってくれたよな」

 

「そうさ……。締め切りの厳しい時だって……ボクは……」

 

「……そうだな。悪かったな、最上……。そうだ。俺の小説家人生において、お前は無くてはならない存在だった。むしろ、お前が居てこそ、俺は初めて小説家と名乗れるのかもしれないな」

 

そう笑って見せると、鈴谷も最上も安心した表情を見せた。

 

「もう一度、あの頃と同じように、力になってくれるか?」

 

「もちろんだよ! よーし、そうと決まれば、全力で先生をサポートだ! 鈴谷、栄養のある物、作るよ!」

 

「もがみん……。うん! 分かった!」

 

そうだ。

一人前になったつもりでいたが、俺はいつだって、誰かに支えられてきたんだ。

 

「半人前が調子に乗っていたな」

 

 

 

七日目。

とうとう鳳翔がやって来た。

霞は相変わらず俺とは話してくれないが、鳳翔には心を開いているのか、自分から話すことが多くなったという。

小説は、五話目に突入していた。

 

 

 

十日目。

霞の病室が、集中治療室のような場所から、一般の病室へと移った。

この頃になると、毎日、霞の元に誰かしら訪ねていたものであるから、目を離した隙に……なんて心配がなくなっていたようだ。

小説はまだ、五話の中盤だ。

 

 

 

十一日目。

朝潮が、たくさんの艦娘を連れて来た。

駆逐艦や重巡洋艦――とにかく、たくさんだ。

今まで気が付かなかったが、案外、霞には人望があるらしい。

気になったのは、数名の艦娘が、朝潮と同じように、俺を見て驚いていたことだ。

理由は聞かなかったが、おそらくは――。

大潮という艦娘なんかは、俺を見て「司令官!?」と言ってしまっていたしな。

小説は、今夜にも五話を霞に渡せるだろう。

 

 

 

――それからも、たくさんの艦娘が訪ねて来たり、俺が体調を崩したりと、色々な事が起こった。

そうした日々の出来事も、俺は小説に書き起こし、時には面白おかしく着色したりした。

霞は俺に対して相変わらずだが、怪我も完治し、精神状態も以前と変わり映え無いくらいに戻ったようで、得意の悪態もつくようになったという。

そして、小説はというと、あと一話で完結というところまで来ていた。

書き始めてから一か月強。

俺は、最終話の締めくくりをするために、ここ数日は『筆を置いていた』。

小説の更新がない事に、霞もそろそろ気が付く頃だろう。

 

「先生……」

 

鈴谷が皆を連れ、やって来た。

 

「そろそろかと思って……」

 

「あぁ、頃合いだろう。きっと霞も、しびれを切らしているんじゃないかな」

 

「きっとそうさ。ボクだって気になっているくらいだ。霞ちゃんは、もっとじゃないかな?」

 

「霞ちゃん、なんだかソワソワしていましたから、きっと待ち遠しいのだと思いますよ」

 

「青葉、霞ちゃんが司令官の小説をチラチラ見ているの、見ちゃいました!」

 

「あれは相当来ているでありますな」

 

皆、思い当たる節があるようだな。

 

「先生」

 

「大淀」

 

「私がこんな事いうのは違うかもしれませんが……。霞ちゃんの事……お願いいたしますね……」

 

そう言うと、大淀は頭を深く下げた。

思えば、大淀は、霞の将来を誰よりも心配し、苦労してきたもんな。

 

「あぁ、任せろ」

 

俺は一呼吸おいて、明石に伝えた。

 

「『艦娘寮の――号室』。そこで待っている。そう霞に伝えてくれ」

 

艦娘寮の――号室。

そこは以前、大淀に案内された、愛美が艦娘時代に使っていたという、寮の部屋であった。

 

 

 

艦娘寮。

相変わらず古いままで、床はきしみ、歩く度に少しだけ沈む。

加えて、季節のせいもあってか、少しだけかび臭かった。

 

「えーっと……。そうだ、ここだ」

 

愛美の使っていた部屋。

扉を開けると、むわっとした空気と、暖かな夕日が俺を包んだ。

 

「邪魔するぜ」

 

六畳ほどの小さな部屋。

押し入れと、外を眺める窓があるのみの、殺風景な部屋だ。

 

「だがまあ、景色はいいものだな」

 

窓を開けると、気持ちのいい潮風が入って来た。

ふと、窓際に座り、風を楽しむ愛美の姿が思い浮かんだ。

家にいる時も、あいつはいつだって、風を楽しめる場所に座っていたな。

きっと、ここでも同じように――。

 

 

 

霞が来るまで(尤も、来てくれるとは限らないのだが……)、俺はじっとしている事にも飽きて、部屋を探索することにした。

 

「といっても、押し入れくらいしか見るところは無いのだがな」

 

押入れを開ける。

しかし、そこには何もなく、俺は再びじっとすることを強いられ――。

 

「ん……?」

 

押し入れの下の段。

そこに、何やら写真のようなものが一枚だけ落ちていた。

拾い上げてみると、やはり写真のようで、そこに写っていたのは――。

――その時、部屋に強い風が入って来た。

こんなにも風が入ってくるということは、部屋のどこかに風の通り道が出来たということで――俺は扉の方を見た。

 

「……よう」

 

霞が、俺が書いて渡した小説を持って、そこに立っていた。

 

 

 

霞は夕日に背を向け、壁に寄り掛かり、小さく座った。

久々に見る霞の顔。

思い詰めている様子はなく、平生であった。

 

「怪我はもういいのか?」

 

霞は目を合わせることなく、小さく頷いた。

 

「そうか……」

 

長い沈黙が続く。

 

「……この部屋、何もないけどさ、これが一枚だけ、ここにあったんだ。ほら」

 

見つけた写真を渡してやる。

写真を見た霞は、一瞬、何かを思い出したかのような顔を見せた。

 

「お前と愛美、二人の写真だな。この部屋で撮った写真のようだが」

 

写真の中の二人は、満面の笑みを見せていた。

背景に、この部屋の窓から見える景色が映っている。

 

「…………」

 

霞は相変わらず何も言わない。

このまま話題を振り続けても良かったが、俺はあえて何も言わずにいることにした。

それが、言葉を待っているというサインだと、霞も分かってくれていると思ったからだった。

永遠のように長い沈黙が続く。

時間にして数分のはずなのに――きっと霞も、同じように思っているのかもしれない。

なんだかそれが、同じ気持ちを共有できているようで、俺はなんだか嬉しくなった。

――あぁ、そうだ。

この気持ちは、霞と初めて心が通じたあの時と同じ――。

 

「……な……で……?」

 

突如、沈黙を切った霞。

まるで初めて言葉を発するかのように、恐る恐る出たものであった。

 

「なんで……一話だけ……最終話だけ……残したままなのよ……?」

 

霞は目を合わせることなく、俺に小説を渡した。

 

「……なんでだと思う?」

 

霞は答えない。

 

「お前なら、分かってくれると思っていたのだがな。分からないか……?」

 

再び沈黙。

だが、俺が何も言わないものだから、霞は膝を抱えて、そこに顔を埋めながら、小さく答えた。

 

「この物語は……私とあんたの事を書いている……。そうでしょ……?」

 

今度は俺が何も言わなかった。

 

「子供を産んだことによって、母親が死んでしまって……。その事を子供に悟られない様、奮闘する父親の話……なんて……。私とあんたの話、そのものじゃない……」

 

「ちょっと安直だったかな」

 

「あんたにしてはね……」

 

顔を上げる霞は、どこか悲しそうな表情をしていた。

 

「主人公は……子供の事を本当に大切に思っていて……。母親が居ない事を子供に責められても、子供を恨むことはしなかった……」

 

「それほどに、主人公にとって子供は大切な存在だったんだろうな」

 

「私は……主人公の気持ちが分からなかった。どうしてそこまでして、子供を大切に思うのか……。でも……話が進むにつれて、その気持ちが理解できるようになっていって……。だからこそ、辛く思えて……」

 

「辛いってのは?」

 

「私が、よ……。この子供は……私そのもの……。話の中の子供は、いつまでも主人公の気持ちが理解できずにいるけれど……その事が私と重なって……。今となっては……この小説を通して、あんたの気持ちが理解できて……」

 

「それでも、自分を許すことが出来なくて……ってなところか?」

 

霞は小さく頷いた。

 

「この小説は……主人公と子供が、今後どう向き合っていくのか……というところで終わってるわ……。子供がこの真実に対して、どう向き合っていくのか……。主人公がどう受け入れてゆくのか……」

 

霞は初めて、俺に目を向けた。

 

「この物語の最後は……私たちがどう向き合うのかで……決まってくる……。そうでしょう……?」

 

「――あぁ、その通りだ」

 

夕日が、沈みかけている。

どこかで鳴らされた船の汽笛が、古びた窓を小さく揺らした。

 

 

 

先ほどとは違い、窓からは少しだけ冷たい潮風が吹いて来ていた。

 

「こんな手の込んだこと……」

 

「こうでもしなければ、お前は俺と向き合ってくれないと思ってな」

 

「ずるいわ……」

 

「でも、お前は来た。お前が知りたいのは、この小説の結末か? それとも――」

 

「どちらにせよ、同じことでしょ……」

 

「それもそうだな」

 

長い沈黙が続く。

 

「俺の答えは、もう決まっている。この小説の主人公と同じだ。本当は分かっているんだろう? あとは、お前だけだって」

 

「……分かってるわよ。分かっているけれど……やっぱり……私は……」

 

「だったら、この子供はどうだ?」

 

「え……?」

 

「主人公の気持ちが分かった今、お前はこの小説の子供をどうしたい?」

 

霞の事でなく、小説の中の子供の事。

霞が自分に向き合えないのは、真の意味で俺の気持ちに寄り添えていないからだ。

 

「主人公の気持ちが分かったというのなら、お前がこの子供をどうしたいのか――お前がどうすればいいのか、分かるだろ? 分かったから、ここに来たんじゃないのか?」

 

「…………」

 

「霞」

 

「……全ての物語が、ハッピーエンドという訳にはいかないわ」

 

夕日が、水平線の向こうに消えた。

冷たい風が、俺たちの間を抜ける。

 

「……そうかよ。それが、結末かよ……」

 

「現実は……小説とは違う……。あんたはこの小説の主人公じゃないし、私は子供じゃないわ……」

 

現実と小説は違う……か……。

そうだ。

そうだよな。

 

「ちょ……!」

 

俺が小説をびりびりに破くものだから、霞はとっさに立ち上がった。

 

「何してんのよ!? やめなさいよ!」

 

「こんなものは現実じゃない。その通りだ。俺は主人公じゃないし、お前は俺の子供でもない。主人公の気持ちは俺の気持ちじゃないし、子供の境遇もお前とは違う」

 

俺は、破いた小説を窓の外に放った。

 

「…………」

 

霞は、風に舞う『紙切れ』を呆然と見つめていた。

 

「なに……やってんのよ……」

 

「俺は馬鹿だ。あんなもの、ただの作り話だ。俺の気持ちを全力でぶつけた……なんて思って書いていたが、そうじゃない。本当は、お前にぶつけなきゃいけないんだ。小説なんかでなく、物語の子供なんかでなく、お前に」

 

次いで、俺は愛美と霞の写真をも破り、窓の外に放った。

 

「愛美はもういない……。お前もいい加減受け入れろ……。罪を償おうとしているだとか、俺に申し訳ない気持ちがあって自殺するのは勝手だ。だが、そんなことで愛美は帰ってこない。お前は……ただ愛美が忘れられないだけだ……。愛美を忘れることが出来ないから、償おうなどと口実をつくって、自分を愛美の幻影に縛り付けているだけなんだ……」

 

それが、小説なんて『優しい言葉』を使わない、『隠さない』、俺の本当の気持ちであった。

 

「違う……」

 

「違うものか……」

 

「違う! 私は、大切な人の命を奪ってまで生きるなんて……!」

 

「その大切な人はお前に生きて欲しいと願っているはずだ……!」

 

「――っ!」

 

「お前が奪ったんじゃない……。あいつが、お前に託したんだ……。自分の命を……」

 

「そんな……こと……」

 

「否定できるのかよ……。愛美をよく知っているお前が……」

 

霞は何か言いかけたが、結局何も言えず、閉口した。

 

「……もう一度言う。愛美はもういない。帰ってこない。忘れなければ……いけないんだ……」

 

「……やだ」

 

「霞……!」

 

「やだ……! 忘れたくないもん……!」

 

霞の叫びが、部屋を抜け、本部の広い敷地に響き渡った。

 

「やだ……やだよぉ……。愛美……愛美ぃ……」

 

霞は大粒の涙を流した。

まるで子供のように――。

ここまでの涙は、無かったように思う。

 

「慰めはしない……。お前が乗り越えるんだぜ……。お前を慰める小説も、優しい言葉も、もうここにはない……」

 

「う……うぅぅ……」

 

「そして……愛美もだ……」

 

今度は、俺の頬に涙が伝う。

 

「俺も忘れるよ……。乗り越えるよ……。だから……お前も……生きろ……! 精一杯……生きろよ……!」

 

「うぅぅ……うあぁぁぁぁ……。うあぁぁぁぁ……」

 

それは、今まで見せたどんな泣き声よりも、大きく、素直なものであった。

まるで、赤子が初めて産声を上げるような、力強く、精一杯の泣き声であった。

 

 

 

どれほどの時間が経ったかは分からない。

霞が泣き止む頃、空はすっかり暗くなっていて、星空と、クレーンの赤い光だけが、俺たちを照らしていた。

俺は、霞の言葉を待っていた。

このまま何十時間過ぎたって、俺から話しかけることはしないと、心に誓った。

全力の気持ちをぶつけた。

これ以上の言葉はない。

これで止めることが出来ないなら、俺はこの先、霞と居ることは出来ないだろう。

だから――。

 

「本当に慰めてくれないのね……」

 

想定外の言葉に、俺は唖然とした。

急に霞が話しかけて来たのもあるが、もっとこう……重い言葉が口から出てくるものだと思っていたから……。

 

「私……泣いているのだけれど……」

 

「え?」

 

「私が泣いていたら……あんたはどうするのよ……? ほら……いつも……してるじゃない……」

 

「あ……あ、あぁ……」

 

霞を抱き寄せ、座らせてから、抱きしめてやった。

 

「こうで……良かったか……?」

 

「背中とか……頭とか……撫でてるでしょ……」

 

「あぁ……そうだったな……」

 

困惑しながらも、オーダー通りにしてやる。

こう、スッと切り替えられると、どうも……。

さっきまで……というより、ここ一か月強、どうすればよいものかと試行錯誤していたものだから、こうも急に甘えられると……。

 

「お前、もう……」

 

「何が……?」

 

「何がって……。愛美の事……」

 

「知らないわ……。そんな人なんて……」

 

「!」

 

それが、霞の出した答えであった。

 

「……何よ、あんたが忘れろって言ったんじゃない」

 

「いや……別にそこまで忘れろとは、言って無いのだがな。それじゃ、記憶喪失みたいで……」

 

俺がそう笑って見せると、霞はそっぽを向いてしまった。

 

「悪い。緊張の糸が切れてしまってな」

 

そう言うと、霞はそっぽを向いたまま、俺の胸に体を預ける様に座った。

 

「あんたの気持ち……よく分かったわ……。愛美を忘れられなかったのは本当よ……。あんたに言われて、やっと私はその事実を受け入れることが出来た……。愛美の死を……受け入れることが出来た……」

 

「霞……」

 

「あんたにさ、私は愛美とは違うだなんて言っていたのに、私は、あんたに愛美の影を見ていた……。あんたが優しいものだから……愛美のように思っていたから、今日まで愛美の死を受け入れることが出来なかったのかもしれないって……気が付いたの……」

 

霞が甘えてくることが多かったのは、そういう意味もあったのか。

 

「愛美はもういない……。罪の償いをしたって帰ってこないし、死んだって、愛美には会えない……。私に生きる意味はないけれど、私に生きて欲しい人はたくさんいるって、あの小説が教えてくれた……」

 

そう言うと、霞は部屋に落ちている紙切れの一枚を、大事そうに胸に当てた。

 

「あんたは私に、本音でぶつかってくれた。私に愛美を忘れさせてくれた。そして、あんたの小説は、空っぽになった私に、生きる意味を教えてくれた……」

 

霞は俺に向き合うと、きれいな瞳で俺を見つめた。

 

「私……本当に生きていいの……? 愛美を……あんたの大切な人を忘れて……生きてしまっていいの……? 教えて……。教えてよ……勉……」

 

助けを求めるような、そんな問いかけであった。

最初からこうしていれば、本当はすぐにでも終わっていたことなんだ。

こんなに長い時間をかけずとも、きっと――。

俺たちはいつだって、紆余曲折を経て、当たり前の事、単純な事に辿り着く。

まるで、小説のように――。

 

「当たり前だ……。俺にはお前が必要だ……。小説に書いてあっただろう……」

 

「……そうだったわね」

 

そう言うと、霞は小さく笑った。

そして、手に持っていた紙切れを手放すと、潮風に乗せ、どこかに飛ばしてしまった。

 

「結末はもういいわ……。小説は終わっても、私たちの話は、ここからでしょう……?」

 

「フッ……さっきまでピーピー泣いてたやつが、何を臭い事言ってるんだ」

 

「……あんたのそういうところ、本当に嫌い」

 

風がやむと、雲に隠れた月が、顔を出した。

月明りに照らされながら、俺たちは艦娘寮を――思い出をそこに置いて、新しい物語の舞台へと、歩き出した。

 

「勉……」

 

「なんだ?」

 

「……ただいま」

 

「……あぁ、お帰り」

 

遠くで、俺たちを待つように、皆が手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『エピローグ』

 

 

 

何かが影になり、光を遮った。

目を開けてみると、そこには明石の顔があった。

 

「あ、起きちゃった。おはようございます、提督」

 

「明石……。なんだ……お前、俺の顔に何かしたのか……?」

 

「キスしようと思って」

 

「するな、馬鹿」

 

目を擦り、昇ってくる朝日に向かって、伸びをした。

 

「昨日はすみません。色々と手伝ってもらって……」

 

「いや、お前一人ではしんどいと思ってな。少しでも力になれたらと」

 

「大助かりです! まあ、不器用ではありましたけど、提督と一緒にお仕事できたってだけで、私のやる気はもうマックス! 明日の分の仕事も終わらせるほどです!」

 

「そりゃ良かったな……」

 

そんな事を話していると、鈴谷がやって来た。

 

「あー! 帰ってこないと思ったら! 二人で何してんの!?」

 

「何って。男と女、二人で夜を明かしただなんて、することは決まってますよ。ね、提督?」

 

「手伝いをしていただけだ。今日、朝潮がやってくると聞いたものだから、その調整だよ」

 

そう言っても、鈴谷は疑いの目を明石に向けていた。

 

「冗談ですって! 提督が愛しているのは、鈴谷さんだけです。そうですよね?」

 

「あぁ、もちろんだ。鈴谷、悪かった。けど、連絡はしたんだ。愛花から聞いて無いのか?」

 

「え? 聞いて無いけど……」

 

「愛花ちゃん、わざと鈴谷さんを心配させたのでは? 愛花ちゃん、提督の事好きですからね~。ママからパパを奪うんだって、息巻いていましたし」

 

「あ、あの子は……もう……!」

 

「娘に愛されるなんて、羨ましいですね、提督」

 

「照れるなぁ」

 

「照れるな!」

 

怒る鈴谷を宥めるため、明石は話題を変えた。

 

「ところで、鈴谷さんは何をしに?」

 

「あ、そうだ! 先生、朝潮ちゃんが来てるの」

 

「もう!? 来るのは午後と聞いていたけれど……」

 

「早く司令官に会いたくて……だって。一緒に来て」

 

「あぁ、分かった。明石、またな」

 

「はい!」

 

工廠を後にし、朝潮の待つ部屋へと向かった。

 

 

 

「司令官!」

 

部屋に入るなり、朝潮は敬礼して見せた。

 

「ご無沙汰しております!」

 

「おう。久しいな。大きくなったな。まあ、座れ」

 

「失礼します!」

 

「鈴谷、お茶でも入れてくれ」

 

「オッケー」

 

俺が座るのを待ってから、朝潮は座った。

 

「来るのは午後と聞いていたがな」

 

「はい、一刻も早く司令官の下で働きたくて……。ご迷惑でしたでしょうか……?」

 

「いや、構わんよ」

 

「はい、お茶。朝潮ちゃん、どうしても先生の下で働きたいからって、わざわざここを指名したんだって。相変わらず艦娘にはモテるよね~」

 

「そうなのか」

 

「は、はい……」

 

顔を赤くする朝潮に、鈴谷は俺の足を踏んで見せた。

 

「……っ! 俺よりも優秀な『適合者』がいると聞いているが、本当にここでよかったのか?」

 

「ここが良かったのです! 司令官の……貴方の居るここが……良かったのです……」

 

再び鈴谷の踏み付け。

 

「……っ。そ、そうか……。お前は優秀だったと聞いているから、期待しているぞ」

 

「は、はい! 全力で頑張ります!」

 

「よし。部屋を用意してある。鈴谷、案内してやれ」

 

「りょーかい……」

 

部屋を出る際、鈴谷に睨まれた。

こりゃ、後が大変だろうな。

 

「失礼します」

 

すれ違いで、大淀が入って来た。

 

「また鈴谷さんを怒らせてる。凝りませんね」

 

「最近、構ってやれてないからな。フラストレーションが溜まっているんだろう」

 

「フラストレーションと言えば、最上さんも同じような感じで、毎日連絡がきますよ。そろそろ声くらい聞かせてあげたらいかがですか?」

 

「ダメだ。あいつにはあいつの仕事がある。俺が話しでもしてしまったら、あいつは我慢できなくなって、ここに押しかけてくるかもしれん」

 

「逆の発想はないのですか? 話せないから押しかけてくるだとか」

 

「そこまで迷惑をかけるような奴じゃない。俺が忙しいと思わせておかないとダメだ。電話に出れるほど暇だと分かったら、それこそ押しかけてくるぜ」

 

「なるほど……」

 

「あいつは今や、超売れっ子の作家だ。あの時は許したが、今回ばかりは本職に専念してもらいたい」

 

「先生の代わりに、ですね」

 

「……俺だって出来ることなら、小説家でありたかったさ」

 

「売れない小説家に、ですね」

 

大淀がくすくす笑う。

 

「……それよりも、例の件はどうした? 青葉にフェイクニュースを流してもらうことと、あきつ丸に陸軍経由で圧力をかけてもらうこと、頼んでおいたよな?」

 

「もうとっくに終わってます。報告したはずですよ」

 

「そうだったか?」

 

「……鳳翔さんのお店で」

 

「飲んでいる時じゃないか。そんな重要な事、飲みの席で報告するな。忘れてしまうだろう」

 

「すみません」

 

大淀はどこか嬉しそうに、謝って見せた。

同時に、時計が鳴る。

 

「そろそろ朝会の時間ですね。参りましょう。皆さんお待ちですよ」

 

「あぁ」

 

 

 

中庭に向かう途中、大淀は何かを発見し、「お先に失礼します」と、先に走り去ってしまった。

 

「お、おい……」

 

大淀が向いていた場所を見てみると、そこには――。

 

「霞」

 

「おはよう……」

 

なるほど、大淀に気を遣われたか。

 

「おはよう。大淀から聞いたぜ。随分な我が儘を言ったそうだな」

 

「……私の方が、あんたの事、よく知ってるから……言ってみただけよ」

 

「気持ちは嬉しいが、秘書は大淀で決まりだ。俺を知っているだとかそういう事じゃない。あいつの方が、仕事を回すのが上手いんだ」

 

「……言ってみただけだって」

 

「じゃあなんでそんなに拗ねているんだ?」

 

そう言ってやると、霞は少しムッとした後、周りを確認して、小さく言った。

 

「最近……構って貰ってない……。時間が出来ても、鈴谷とか愛花ばかりで……」

 

「霞……お前……」

 

霞は恥ずかしそうに、手を揉んだ。

 

「もういい年なんだから、そういうのは卒業した方がいいぜ……」

 

「な……!?」

 

「冗談はさておき……。いつまでも甘えん坊では困るぜ。これから戦いが待っている。お前には期待しているんだぜ」

 

「……分かってるわよ」

 

つまらなそうにする霞。

 

「……だがまあ、そうさせたのは俺だしな」

 

そう言って撫でてやると、霞はそっと俺に寄り添った。

 

「デカくなったな」

 

「身長、小さいほうが撫でやすかった……? 可愛かった……?」

 

「いや、胸の話だぜ」

 

そう笑ってやると、霞は「最低!」と叫びながら、俺を突き飛ばし、中庭の方へと向かっていった。

 

 

 

中庭に出ると、大淀が迎えてくれた。

 

「全員います」

 

「ご苦労」

 

朝礼台に上がると、ざわつきが一気に消え、皆が俺に注目した。

 

「敬礼!」

 

大淀の掛け声で、全員が一斉に敬礼をした。

 

「おう、皆おはよう」

 

キリっとした雰囲気の中、俺の情けない挨拶に、皆緊張の糸が切れたように、笑い始めた。

 

「せ、先生!」

 

「スマン、大淀。どうも堅苦しいのは駄目なんだ」

 

「まったく……」

 

「冗談はさておき……。いよいよ今週末、我々の『艦』が海へ出ることとなる。ここにいるものは、この戦争の意味を理解し、それでもなお、戦うことを選んだ勇敢な艦娘たちだ」

 

皆の目が、真剣なものに変わって行く。

 

「人類は同じ過ちを繰り返す。この戦争が終わっても、きっと、また同じような時代が来るだろう。だからこそ、俺たちがいる。『あいつら』がいる」

 

ふと、霞と目があう。

先ほどの事はもう怒っていないのか、頼もしい顔つきで、小さく頷いて見せた。

人類は過ちを繰り返す。

故に、この戦争は繰り返される。

誰が用意した舞台なのか、或いは誰もいないのか。

それはまだ分からない。

もしかしたら、永遠に――。

それでも、俺たちは戦い続ける。

何度でも。

何度でも。

 

「俺から言えることはただ一つだ」

 

何度でも――。

あいつが――愛美が、守ってくれたように――。

 

 

 

「人類を――守れ――」

 

 

 

-終-




以上で『遺船を漕ぐ』は終了です。
ありがとうございました。
次回作も、どうぞよろしくお願いいたします。


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