去り行く暁美ほむらのその末路 (曇天紫苑)
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暁美ほむらの終わり方とはじまり方
「なんだかさあ」
杏子が話しかけてきて、彼女の顔に視線を移す。どうにも納得の行かない面持ちで、彼女が私を捉えていた。
ラーメン屋さんの座席は少し硬くて、あまり座り心地は良くない。けれど、お店の雰囲気のせいか不思議と不満はない。
私が奢ると言うと、彼女は迷わずこのお店を選んだ。きっと彼女のオススメだろう。
「……?」
「こういう所にあんたが居ると、なんだか違和感があるんだよね」
油か何かの美味しそうな香りが充満していた。新しめの厨房からは湯気や香りが漂ってきて、嗅いでいるとお腹が減ってくる気がした。
カウンターの席には沢山の人が座って、狭いお店の中で誰もが麺を食していた。
私達以外に中学生らしき人はいない。よほど珍しいのか、視線を感じる。
杏子は見知った私服姿で、全く自然に足を開いて座り込んでいる。ラーメンを前にしたその顔は、いかにも空腹そうに目を輝かせていた。
「このお店を紹介したのはあなたよ」
「そうだけどさ、連れてきてみるとビックリするぐらい似合わないよな。こう、あんたって高級店とか行ってそうなイメージだし」
「私が? そういう高そうなお店に入った事なんて無いけれど」
「知ってる。あんた意外と貧乏だもんな……」
「……自分で稼いでいる訳じゃないもの。文句なんてないわ」
一緒にラーメンを食べに来るのはこれが初ではない。繰り返す中で何度か情報共有がてら誘われている。
けれど、こういう場所には慣れなかった。まどかが誘ってくれた時は別にして、普段はそこまで食事にこだわってはいない。お金に余裕があるわけでもない。
杏子を誘わなければ来る事も無かっただろう。彼女は覚えていないだろうが、ラーメンを奢るという約束はきちんと果たすつもりだった。
「奢ってくれるのは嬉しいけど、大丈夫かよ。金は大事に使えよ」
「……あなたの境遇で言われると、洒落にはならないわね」
「そりゃ、金は沸いて降ってくる訳じゃないからね」
「忠告は胸に留めておくわ。ただ、あなた一人に奢ったくらいならまだ平気よ」
そういえば、まどかはクリームシチューが好きだった。それもレストランの物ではなくて、お父様の作った手料理の。一度食べたけれど、驚くほどに優しい味だったのはよく覚えている。
また、一緒に食べたかったな。
「どうした? 急に黙って」
「……何でもないわ。それよりも、早く食べましょう」
「そうか? じゃあ、さっさと食うぞ」
自分のラーメンが目の前に着て、受け取ってみると想像より重い。
運ばれてきたラーメンは色の濃い豚骨スープに、太めの麺がどっさり入っていた。杏子も同じ物を注文しているが、トッピングが少ない。
底の見えない肌色のスープが麺に絡んで、その全容を隠している。写真で想像しているより二回り以上の存在感があった。
杏子は既にずるずる啜りながら、でも横目で私を視界に入れている。
相変わらず。美味しそうな食べ方だ。夢中で口に入れていき、一秒ごとに笑顔が増していった。ペースがとても早い。
「ん。やっぱりうまい。早く食えよ。あんたの金なんだから」
「ええ」
お箸を片手に皿を持ち、少し顔を寄せる。
空いた片手で髪を押さえた。汁が飛んでしまってはいけない。
そっと啜って口にすると、かなり濃いスープの絡まった麺が喉へ届く。
「どうよ」
「……いいわね」
杏子が薦めたお店だけあって、美味しい。
味玉が幾つも入っていて、分厚いチャーシューに至っては麺を覆い隠すほど大きく、しかも三枚も入っている。やけにトッピングの値段が高いと思ったら、そういう事だったらしい。 こんなに沢山のラーメンを食べるのは初めてかもしれない。次々に啜って、味玉も口にしてみても、中々減っている気がしなかった。
杏子を見てみれば、私の三倍くらいの速さで食べている。何やらこちらを意識している。
「行儀良く食ってると思っただけだ……ラーメンは味が濃くないとな。うん、やっぱこうでなきゃ。お、旨い」
杏子の食べ方は豪快だったけど、その実は丁寧だった。きちんとラーメンを味わって、スープと一緒に口へ流し込んでいるのだ。
対して私はこつが掴めず、啜っていても音が立たない。何度か試行錯誤しても、他の人達の様には行かなかった。
「……」
「あんた、麺類食うの下手だったのか」
「……ええまあ、そうね」
杏子の真似して力を入れて吸ってみると、気管に入った。
「ごほっ!」
「おいおい、大丈夫かよ」
「だ、だいじょう、ごほっ、急ぎすぎただけ、ごほっ!」
「自分のペースで食えよ」
「……そ、そうよね」
落ち着いて、大人しく自分のやり方でラーメンに口をつけた。
想定以上に味が濃く、麺は大きくお腹に残る。体力に響く美味しさだ。
麺と一緒にチャーシューの破片が混ざっている。こんなにお肉を意識して食べるのも中々ない経験だ。
周りの客達は、もちろん色々な人が居るけれど、概ねあまり表情を変えずにラーメンを啜っている。時間を気にしている人、隣の席を気にしている人、私達の事を見ている人、俯いて憂鬱そうな顔をしている人、一心不乱で周りを全く気にかけず、大きな音を立てる人も居た。
どの人も、名前も知らない他人だった。ただ、この人達もまた私が書き換えた世界を、そうとは全く知らないままに生きている。
何人かが食べ終えて、席を立った。次の客が入ってきて、食券機に向かう。珍しいのか、私達をちらと見て通り過ぎていった。その人達がどうやって今まで生きていたのかも私は知らない。世界の理をねじ曲げた悪魔の癖に、何も知らないのだ。
「はー旨かった……」
杏子は当然のようにスープまで飲み干していた。全く躊躇がなく、まだまだ余裕そうだ。
自分の器に視線を落とすと、まだまだ残っている。考えながらも食べていたつもりだけれど、減った気は全くしなかった。
もう少し箸を通し、口へ流し込んでみたが、長くは続かなかった。
「……」
「食わねえのか? 麺が伸びるぞ」
「……残り、食べて貰えるかしら」
半分ほど食べた所で、完全に限界を迎えてしまった。
何とか食べきれる計算だったけれど、最後だからってトッピングを付けすぎたらしい。
「ったく、珍しく色々食うと思ったらこれだよ。美味しく貰うけどさ、あたしはあんたの食べ残しを処理しに来た訳じゃないぞ」
「分かっているわ。ちょっと、調子に乗ってしまったみたい」
「珍しいな」
「浮かれているのよ、きっと」
杏子にお願いしてみると、渡した器を遠慮せず受け取ってくれた。
すっかり空っぽになった器と交換すると、即座に食べ始めている。彼女の食べっぷりは、何より美味しそうだ。人間などより、食べ物に心を開いているのではないか。
本当の彼女はとても強くて優しい人だから、人間相手でも同じくらい良い顔をするけれど。
「水よ」
「ああ、ありがと」
空になった二人分のコップに水を注いで、片方を杏子に手渡した。
「佐倉さん」
「なんだよ、急にかしこまって」
「貴女……学校では上手く行っているの?」
食べる手は止めないまま、杏子が答えた。
「上手く? って、あんたも知ってるだろ、普通だよ普通。いい加減、他人の家以外に住む場所が必要かもしれないけどさ」
「……風見野には帰らないのね」
「まあね」
それがどうした、と杏子の顔が言っている。
誰も私達の会話を気に掛けていない。だけど、私は声を落とした。
「いえ、大した事では無いの。ただ、今のあなたがどんな気持ちで見滝原に居るかを聞きたかっただけ」
「ふーん」
残ったチャーシューを口へ放り込むと、杏子が椅子ごと寄ってきた。
「しばらく戻る気はないよ。ま、もう少しの間はマミの家かさやかの家を行ったり来たりだ。居心地も悪くないし、ソウルジェムの浄化にも困ってないしね。楽しくやってる」
「そう」
良かった。
端的に言えば、そう思った。私の成した事の余波を、彼女は深く受けている。本来なら学校へ行っていたかも怪しい彼女が、今では見滝原中学に通っているのだ。
その方が良い、と殆どの人は言うかもしれない。ただ、彼女が彼女の意思で選んだ道を、別な方向に変えてしまったのは紛れもない私の仕業だった。
「杏子」
「……なんだよ」
「呼んだだけ」
「っおい、あんた本当に大丈夫か? さっきから変だぞ」
杏子がラーメンから完全に意識を外した。
こちらを窺う様子は、ちゃんと真剣だった。いつもそうだ。彼女は、ふざけていても適当であっても、常に話を聞いて、辛い事だって受け止めてくれる。
「あなたは、強い人だわ。信頼してる」
「だから、何の話だ?」
だが答えない。答えを言う為に誘った訳ではないからだ。
「あなたが見滝原に居るのが幸せなら、それでいい」
ただ確認し、伝えたい事だけを伝える。それだけの為に、連れてきたのだから。
「ごめんなさい、私、用事があるの」席を立って、振り返る。「代金はもう払っているし、約束は確かに果たしたわ」
「待て待て、わけわかんねえ。説明しろよ」
「いいえ、待たない。杏子、あなたには本当に……本当に沢山頼らせて貰ったわね」
杏子が一瞬口を噤んだ。何か言いたそうに腰を浮かせたが、私は全く構わなかった。
厨房内の従業員さんが私を一瞥して、後は誰も気にしない。杏子は立ち上がって私を追いかけてきているが、既に私はそこに居なかった。
「私の話を聞いてくれて、本当に嬉しかった」
手を叩き、無理矢理笑い声を漏らした。
+
次は、巴マミだ。
私が最後に会うべき人達を思い浮かべた時、まどかの次に彼女を思い出した。
それはきっと、私が初めて出会った魔法少女だったからだ。
かつての私は、巴マミやまどかに守って貰う弱い人間に過ぎなかった。そんな私を、彼女は見捨てずに育ててくれた。
私はレイケツだから、まどかを助ける為ならと彼女の未来を諦めた。それでも、巴マミは私にとって、かつてお世話になった人というのは変わらない。きちんと挨拶すべきだと、そう思った。
インターフォンを押し、返事を待つ。
彼女の家はよく知っている。かつてはまどかと一緒に何度も通って、何度もケーキや紅茶をいただいた。深い関わり合いをしていた訳ではないけれど、私が最初に出会った魔法少女の一人で、彼女には沢山の思い入れもあった。
今ではすっかり関わりも少ない。杏子を通じて時折お茶を飲むくらいの関係だった。
「こんにちは、巴さん」
「暁美さん?」
一瞬だけ顔を出すと、巴マミはすぐに玄関のチェーンロックを外した。扉が開き、私服姿の彼女が姿を見せた。首を傾げ、私に問いかけてくる。
玄関先の靴は彼女の物しか置かれていない。先客はいない様だ。
「どうしたの? あなた一人?」
「ええ。杏子は連れてきていませんが、入っても大丈夫ですか?」
「もちろんよ、どうぞ上がって」
快く私を迎え入れ、巴マミはどこか楽しそうにリビングへ向かう。ラーメンの臭いが染みついていないか心配だったが、特に言及される事はなかった。
何度見ても、小綺麗な部屋だった。真ん中には見慣れた三角形のテーブルがあり、クッションが敷かれている。棚には紅茶の入れ方の本と、チーズ料理の解説書が挟まっていた。
「お茶を用意するから、少し座って待っていてね」
「はい」
柔らかなクッションに身を預け、部屋を軽く見回した。
ずっと昔、最初に彼女の部屋へお邪魔した時に比べて、ここには確かな明るさがあった。
どこが違うのかといえば、人が出入りした雰囲気が残っているのだ。
昔の彼女の部屋はお洒落であっても、どこか寂しい空気が漂っていた。クッションの数も、家具の数も、今よりずっと少なかった筈だ。今は、巴マミが一人で居ても華やかな騒がしさがあった。
巴マミが紅茶を煎れてきてくれる。部屋の明るさもあって、彼女は楽しげに見えた。
「はい、どうぞ。あとお茶菓子はチーズケーキだけど、暁美さんは食べられる?」
「大丈夫です。いただけますか」少し、食べ過ぎかもしれないけれど。何せ最後だ構わない。
「ええ、じゃあケーキも持ってくるわね」
手慣れた仕草でキッチンからケーキを持ってくると、彼女は片方を私の前に置いた。
美味しそうなチーズケーキだ。上は茶色に焼き上がっていて、底には少しだけレーズンが敷かれている。きめ細やかなスポンジからは、チーズの自己主張をあまり感じなかった。
「お土産で貰ったのよ。食べてみて」
「いただきます」
フォークを刺してみると想像以上にふんわりとした感触が返ってきた。
軽く力を入れればあっさりと切れて、口へ運んだ。期待以上に柔らかで、チーズはほのかに存在感を覚えるくらいだった。レーズンの甘さがふわふわとしたスポンジの食感と混ざって、優しい甘味を作り上げていた。
ラーメンでお腹いっぱいになっていた筈なのに、入ってしまう。
「……美味しい」
「良かった。それ、私も好きなの」
「ん……ありがとうございます。巴さん」
「ふふ、お礼なんて良いわ。それより、お茶も飲んでみて欲しいの、新しい茶葉よ」
言われるままに紅茶を味わうと、良い香りと一緒に少し熱めの渋みが口腔内へ流れ込んできた。
口の中に残った甘さと混ざり合って気持ちを落ち着かせてくれる。この紅茶は癖が無く、何にでも会う味わいだった。
「飲みやすいんですね」
「ええ、そうなの」
楽しそうに頷いて、巴マミもまたケーキと紅茶を楽しんでいた。
余裕のある雰囲気には安定感があって、安心できた。私にも敵意を示す事は無く、あくまで穏やかに私をもてなしてくれている。
「暁美さんって、家で紅茶を飲んだりするの?」
「少しは」
「なら、お茶を少し貰ってくれる? 少し多めに買ったから誰かにあげようと思っていたの」
ウインクしながらの提案に、思わず頷いてしまった。
すると巴マミはすぐさま紅茶の袋を持ってきて、こちらに渡してくれた。
お礼を告げると彼女は微笑み、気にしないでと手を振った。
「それにしても、暁美さんが一人でなんて本当に珍しいわね」
「すみません。急に押しかけてしまって」
「いいえ! いいのよ、むしろ嬉しいわ。こういう風に、二人だけで飲むお茶も楽しいもの」
「……そう、ですか」
巴さんは友好的にお茶を飲み、私に微笑みかけてくれる。隙だらけで、攻撃を仕掛けても防がれそうにない。
ふと、戦うつもりもないのに彼女の隙を探っている自分に気づいた。
苦笑して、巴さんと向き合った。今の彼女と敵対はしていない。それだけが現実だ。
「ところで巴さん、高校はどこへ?」
「え? 近場にしようと思っているの。魔獣との戦いもあるから、あまり遠くに行くのはね」
「そうですか。魔法少女だから、勉強も大変ですよね」
「あら、暁美さんだってよく頑張っていると思うわよ? 佐倉さんにも見習って欲しいくらいにね」
「彼女は、あまり必要を感じていない様ですから」
「ふふ、教えるのも大変よね。あ、だからって宿題とかテストとか、答えを見せちゃダメよ?」
実は何度か見せている、と言える雰囲気ではなかった。
そうやって巴マミに先輩ぶって貰えるのも、長らく無かった。
「暁美さんは、高校の事はもう考えているの?」
「……いいえ、実はあまり」
「そう。焦る事は無いと思うけれど、少しくらいは考えておいても損は無いわ」
「はい。だけど」
私の末路はもう決まっている。
「だけど?」
「いえ……」
私の未来の話をしに来た訳ではないのだ。もちろん杏子の学力を改善するつもりもない。つい話し込んでしまった。
紅茶はすっかり飲みきっていて、ケーキも綺麗に食べ終えている。
巴マミがおかわりを注いでくれた。
「ありがとうございます」
「ふふ、美味しく飲んでくれて嬉しいわ」
紅茶を口に注ぐと、お腹の奥まで温かくなってくる。
気持ちを落ち着かせてくれる効果があるのだろう。もう少し飲んで、時間を使っても良い気さえした。
しかし、それはいけない。今の私は足を止められる人間ではないのだから。
「巴さん、少し良いですか」
「え、ええ」
巴マミへと向き合い、私は最後の一滴まで紅茶を飲み込んだ。
カップを置き、出来る限り静かに語りかける。
「私が今から言う事を、黙って聞いていてくれるかしら」
「え、ええ……?」
急に無礼な物言いをした私を、巴さんが訝しみだす。
だけど、彼女は頼んだ通りに口を閉ざし、静かにこちらを見つめてくれる。
私に対して真剣に向かい合ってくれる。そんな今の巴さんに感謝の言葉を述べ、頭を軽く下げてから、胸の内で用意していた言葉を告げた。
「……私は、あなたが苦手だったわ」
「えっ」巴マミが顔色を変えた。
「いえ、勘違いしないで。昔の事よ。あなたは繊細で、本当はとても寂しがりな人なのに、私達の為に頑張ってくれて、助けてくれて。沢山感謝しなければいけないのに、私はあなたに何一つ返していない。私はあなたを助ける事を諦めたし、あなたの気持ちを沢山踏みにじってきた」
「?」
「分からないかもしれないけれど、黙ったまま聞いて」
意図は一切伝わらない。それで良かった。
理解されたくてこんな事を言っている訳ではないのだ。
「ただ……一つだけ」
深く頭を下げた。巴さんは困惑しているが、無視した。
「ありがとう。そして、ごめんなさい。あなたは私を育ててくれたのに、私は、あなたを助けられなかった」
一方的で無意味な言葉だ。何も知らない巴さんに、こんな事を言っても何にもならない。
けれど、最後に言っておきたかったのだ。もう言えなくなるだろうから。
「ただ、それだけよ」
「暁美さん、何を……?」
「話を聞いてくれてありがとう」
立ち上がって、改めてお礼を告げた。
視界の端にある壁に、杏子やさやかの写真が飾られていた。薄らと覚えている限りでは、あんな写真に見覚えはない。中には、あのベベと名乗っていた子の写真もあった。真新しい額縁で飾られた写真達は、巴さんの人生を誇らしそうに彩っている。
そこにいる巴さんはいつも幸せそうだった。強くてか弱い、寂しい人はどこにも居なかった。
胸が温かくなる。巴さんはちゃんと、笑っている。この世界で生きて沢山の人と出会い、絆を育んでいるのだ。
「それじゃあ、私はこれで」
身を翻し、別れを口にする。紅茶の袋は小脇に抱え、受け取っておく事にした。
急な挨拶に巴さんが戸惑って、こちらに手を伸ばしてきた。
魔法で拘束してこない。その敵意の無い対応に、胸が痛んだ。
「えっ、暁美さん?」
「ああ、そうそう」
振り返り、ただ微笑んだ。
「私の事は忘れてください。巴さん」
目を合わせ、手を叩いた。
すると、巴さんは上の空になる。そして、自分の手元とテーブルの上のケーキ皿を、不思議そうに眺めた。
「……私、誰とお茶を飲んでいたのかしら?」
そんな呟きを背にして、私は静かに立ち去った。
巴さんの記憶から、私の記憶が消えた。これで私を知っている人が減った。
「今まで、ありがとうございます」
廊下を歩みながら、紅茶の袋を握りしめた。
まだ紅茶の味が口に残っている。ケーキの美味しさも記憶の中でしっかり思い返せた。その味わいの幸福感を噛みしめていると、心が多少なりとも軽くなった。
「みんなと、お幸せに」
+
通学路として使われる道も、学校がお休みなら学生服の集団はどこにも見当たらない。
それにしたって、人通りが全くなかった。
もちろん私の仕業だ。通学路の一本道を少しだけ歪め、誰にも認識できない場所にしていた。私を除けば、ただ一人以外には。
そのただ一人は、いかにも腹立たしそうに立っている。
鮮やかな青い髪から水が溢れて、いつもは失われている力が戻ってきていた。私が戻したのだ。
「美樹さやか。記憶は戻っているの?」
「誰かさんのお陰でね」
「そう、なら良かった」
美樹さやかに睨まれる。これも私には慣れた物だ。
昔はとてもショックだった。まどかの友達で、私とも友達として振る舞ってくれた彼女と対立する事に痛みを感じなかったとは言えない。
けれど、全ては私が弱く、言葉が上手くなかったからだ。誰かのせいではない。
「どうしてあたしの記憶を戻す様な事をしたの?」
「さあ?」
とぼけた返しに、美樹さやかが苛立ちを現した。視線は真っ直ぐ私に向かっていた。
私が一人で座ってテーブルに肘をついているのも、怪しげに見えているだろう。無理もない。彼女は私がどんな恐ろしい罪を犯したかをよく知っている。
眉をしかめるだけで済ませ、即座に殺しに掛かってこないだけ彼女は善良だった。
「さあ、って……あんたのおふざけに付き合う暇は無いんだけど。今日は仁美と約束があるの、約束が。わかる?」
「時間は余り取らないわ。本当の所は、少し話をしたかっただけよ」
空けてある丸椅子を指さした。さっき、ラーメンを食べたお店の物とそっくりだった。
どうにも影響を受けたらしい。
座り心地はさほど良くなかったが、美樹さやかなら大丈夫だろう。
「さ、座って」
「……何の話よ」
「詳しい所は、あなたが座ってからよ」
何度か促すと、美樹さやかはジトリと私を睨みつつも、小さな息を吐いた。
人魚の魔女は姿を消し、私服の彼女が戻ってくる。
「……わかった。言っておくけど、変な真似しないでよね! 何かやろうとしたら抵抗するから」
「しないわ。今更あなたと戦う理由がどこにあるの?」
美樹さやかが腰掛けて、テーブル越しに目を合わせた。青い瞳が揺らめいて、私の悪魔的な面持ちを映している。
彼女と私は対面する形となっている。彼女が身を乗り出してきているので、様子がよく見えた。
ところで、と私が尋ねる。
「ラーメンの臭いが私に染みついていないかしら」
「ん? しないけど……むしろ良い匂い」
「なら良いわ」
ニンニクや油の良い香りがするのは良くないのだが、美樹さやかの様子を見る限り、そういった物は無いらしい。
巴マミも何か反応した様子はなかったし、本当に大丈夫なのだろう。
「杏子と食べに行ったんだ?」
「正解よ。よく分かったわね」
「聞かなくたって目に浮かぶわ。あんた一人じゃ行かないし、あんたって、ご飯を食べに行く様な友達は一人しかいないでしょ」
「……ええ、ごもっとも」重々しく頷いた。全くその通りだ。
私には友達が居ない。悪魔になってからは、協力者くらいの存在すら必要ではなかった。
そして、作る気も無かった。まどかがここに在る事さえ見ていられるだけで、私は幸せだったから。
元々から友達が居なかったのは、そうだけれど。
「美樹さやか。あなたって人の事をよく見ているのね」
「?」
何やら首を傾げている。
杏子にもそういう顔をされた。聞かれる事も、察しがついた。
「あんた、どうしたの?」
「杏子にも言われたけれど、私は何も変わっていないわ」
「絶対嘘。前に見た時のあんたは、あたしと戦う気満々だった癖に、どういう心境の変化よ」
「いいえ、特に変わっていないわ。ただ必要がないから戦う気が無いだけよ」
「本当に?」
「本当よ」
そうだ。何の必要性もない。私が彼女と戦ったところで、まどかの未来には何の足しにもならない。
彼女は、クラスメイトと一緒に笑って、学校に通う姿がとても似合う。口を出す気は全く起きなかった。むしろ彼女には生きていて貰わないといけない。
まどかの為にも、もう、美樹さやかに死なれては困るのだ。
「何だったら、今から戦ってみる? ……冗談よ。本気にしないで」
「もうっ! なんなのよ、身構えたでしょうが」
「つまり、私はあなたとは戦わない。もう戦いをする事にもならないという事よ」
そうは言っても美樹さやかは信じていない。
証拠に、彼女はいつの間にか剣を握りしめている。
「……」
「じろじろこっち見て、何が言いたいの?」
「やっぱり、あなたはそういう風な方が似合うわね」
油断なく私を見つめてきて、元気そうだった。弱っているよりよほど彼女らしい。
用意していたお茶を無言で差し出したが、首を振られる。
「巴マミに貰った紅茶だけれど、要らないのなら仕方ないわね」
さも残念そうに言って見せると、美樹さやかは私からカップを奪い取る様にして飲み干した。
「どうやら、現世を楽しんでいる様ね。友達が多いようで何よりだわ」
美樹さやかがカップを置き、顔をしかめた。嫌味と思われただろうか。
「あんたと違って記憶がないからだよ。覚えてたらノンキに遊んでないっつーの」
「でも、楽しいでしょう? どう? お別れした人達とまた会えて、話せて、同じ場所に居られる気分は」
「……」
「ふふ、答えにくい質問だったかしら? 別に良いわ。答えなくても普段のあなたの態度を見ていれば、誰だって分かるもの」
「単純って言いたいの?」
「ちょっと違う。あなたは、不器用なくらい真っ直ぐだから絶望する人だった。昔はそういう所が少し羨ましかったわ。特に、まどかに頼られる所とか」
見る見るうちに目を見開いていく美樹さやか。笑ってしまいそうになる。堪えるのが大変だった。
どうして、そんなに驚くのだろう。私は本音を言っているだけなのに。
……ああ、そう、私が他人と真摯に向き合ってこなかったからだ。
美樹さやかにとって、私とはどんな人間だっただろう。悪魔、嫌味な奴、一緒に居て気分が悪い子、邪魔な人、そういう所だろうか。そう思われても仕方ないだけの仕打ちを私はやっている。
「待って。あんた本当にどうしたの?」
「別に良いでしょう。昔の私にとっては、あなたみたいに活発で人に好かれるような在り方は輝いて見えた。別にあなたを嫌ってる訳じゃないし、不幸になって欲しいなんて思った事は無いわ。本当よ」
「……なのに、昔はあたしの事を色々と言ってくれたよね?」
「ええ。でも、あなたはただ、魔法少女になるのが向いていなかっただけで、何も悪くないでしょう? 私が不誠実な事をしていたから、あなたと私の関係は良くなかった。それだけの事。あなた自身が悪い人間ではない事くらい、最初から知ってるわ」
彼女は座ったまま、まるで身動きを取らなかった。
分かりやすく固まって、私の姿を見つめている。私も見つけ返すと、なぜか逸らされてしまった。
ふふ、と笑い声が漏れた。
「色々と、迷惑をかけたわね」
「……」
「ごめんなさい。そして、一つ教えて。生きた人間に戻った生活は、どう?」
頭を引いて目を見開き、美樹さやかは低い声で尋ねてきた。
「それを聞いてどうするの」
「どう? ただ、聞きたかっただけよ。特に理由はないけれど、ただ、聞きたいの」
もう一杯飲む? とティーポットを差し出すと、美樹さやかは溢れるほどカップに注いで一気に飲んだ。
じっと待っていると、彼女は思い切り立ち上がった。そして剣を私に振りかぶり、首の寸前で止めた。
「反撃しなさいよ」
「必要ないわ。それで? 答えないの?」
「……本当に、何かやらかす気はないんだね」
美樹さやかは剣を引き、ふっと息を吐いた。
「認めるのは正直癪だけど……何も知らずにあんたを野放しにしてる自分が許せないけど、それを抜きにすれば、まあ、幸せ」
「……そう、良かった。あなたも、ちゃんと幸せなのね……良かった」
私もまた立ち上がり、手を叩く。
椅子とテーブルは消し去り、歪んだ空間も解けた。鳥の鳴き声、川の流れ、道を通る人々、お休みの日に遊びに来た子供達。そういった物は元へ戻り、私服の美樹さやかと私が見つめ合っている。
「私から言いたい事は終わったわ。約束があるのでしょう? 早く行きなさい」
「あんたが呼び止めたのに、その言い草はひどくない?」
「あら? 早く行かないと約束に間に合わないわよ?」
無茶苦茶な事を言っているのは分かっている。
美樹さやかもそう思ったらしく、口を開けっぱなしだ。
「私は傲慢な恐ろしい悪魔よ? 美樹さやか、あなたはよく知っているでしょう? 私が、己の目的の為に、どれほどの事をしてしまえるか」
「……いや、そこまで言うのは大げさでしょ。さっきから言ってる事が無茶苦茶じゃん」
「あら? あなたはこういう風に言わないと分かってくれない人だと思っていたわ」
「むしろ今みたいな風に言われる方がやりにくいわ」
髪をこれ見よがしにかき上げる。私の用事はもう済んでいる。話した所で、何も出てこない。
しかし、美樹さやかは去ろうとしなかった。私を睨み付けたままだ。
「教えて」
「あら」
「あたしは答えたんだから、次はあんたの番だよ」
大きめのボールが私達の間を弾んでいった。遠くから聞こえていた子供達の声が近づいてくる。
七歳くらいの男の子達が拾いに来て、こちらを見るなり足を止めた。何やら怖がる風に私達を避け、迂回して拾いに行っている。
美樹さやかも、私も、どちらともなく彼らに手を振った。作り笑いまで浮かべ、誤魔化した。
彼らが離れていくと、私達の目がまた合った。
「どうしてあんな話をしたの。まるで、あんたが消えるみたい」
「……鋭いわね。ええ、そうかも」
「ふーん。引っ越しの挨拶か何か? ……冗談だよ。じゃあ、なんでこんな話になるの。答えて」
笑みを消して尋ねてきた。
逆に、私は笑い声をあげる。作り笑いのまま通り過ぎ、数歩ほど行った所で顔を傾けて振り返る。
「ねえ美樹さやか。人間、最期が近くなると身辺整理をしたくなるものなのかもしれないわ」
美樹さやかが息を呑んだ。
瞬時に私へ飛びかかってきた。
「あんた……一体、何をするつもり!」
「そうね、自殺?」
「なっ……!?」
「美樹さん、素直に隙を作ってしまう所は改善しなさい」
襟を掴まれた瞬間、美樹さやかに魔法をかけた。
「私みたいな悪魔に、隙を見せてはいけないわ」
心の隙へ干渉し、その記憶を再度操作。共に彼女へ残された円環の理も回収しておく。こうなれば、もう私が私だった事は思い出すまい。
これでもう、私を知っていてくれる人は殆ど居ない。
服に掴みかかったまま、美樹さやかはぼうっとした様子だった。
「離して貰えるかしら」
咎める風に声をかけると、美樹さやかの目に正気が戻る。
「え……え? あ、ごめんなさい……?」
「いいの。むしろ、こちらこそ引き留めてしまってごめんなさい」
「は、はあ。あなたは?」
すっかり忘れているのを確認してから、薄く微笑む所を見せる。
「私の事は気にしないで。さあ、急ぎでしょう?」
時間を確認すると、美樹さやかが青ざめた。
「えっ、あ、本当だ! やっば、ごめんなさい!」
「あの子と仲良くね」
「は。はい? じゃ、すいません、あたし急いでるんで!」
走り去っていく美樹さやかを、笑顔のまま見送った。姿が見えなくなった所で目を逸らし、近場の木陰へ座り込んだ。作り笑いは、疲れてしまう。
これで、事前に挨拶をしておくべき人は残り二人だけだ。
端末を取りだした。
ズキリと胸が痛む気がする。でも、その苦痛は無視して、端末の名前欄から「パパ」「ママ」と書かれた部分に触れた。
+
見滝原の外れにある、寂しい場所。かつてここには、私が寝かされていた。
インキュベーターの陰謀によって捕らえられた私は、ただこの場で魔女になるのを待つだけの存在となっていた。
そして、私がまどかを裏切り引き裂いて、連れ去ったのもここだった。
「ええ、じゃあ……うん、私は大丈夫だよ。またね、お父さん」
端末の電源を切って、ポケットにしまい込む。指先で目元を拭うと、もう涙は止まっていた。
時計を見ると、まだ夕方にもなっていない。
知人友人への最後の挨拶なのだから、数日くらいは時間が必要だと思っていた。
けど、私には友達が居なくて、結局はこんなに短時間で終わってしまった。深く関わった知り合いは、片手の指で数える程しか居なかったのだ。
「……またね、なんて」
残酷すぎる嘘だった。
「そんな事、よく言えたわね……とんでもない嘘つき」
両親とは久しぶりに話をした。その前が何時だったか、忘れるくらいだった。
「お母さん、お父さん……ごめんなさい」
変わり果てた私の雰囲気に驚いて、心配してくれた。極力隠し通すつもりだったのに、やっぱり家族には分かってしまうものだ。
どれほど聞かれたって理由は説明できない。沢山心配をかけさせてしまって、泣きそうになったけれど、それでも詳しい事は何も言えなかった。
もう私への通話は届かない。また通話してしまったら、何を言い出すか自分でも分からないから。
出来ることなら全てを話して、その上でお別れが言いたかった。
けど、素直に話しても信じて貰えないだろうし、申し訳なさで足が動かなくなっていただろう。
病気になった私の為にお父さんもお母さんも沢山働いて、私の未来を守ろうとしてくれたのに、私は友達の為に己の魂を捧げた。魔法少女となり、産んでくれた身体も、一四歳まで育ててくれて、今でも私を養う為に頑張っているという大きな恩も放って、勝手に自分の未来を投げ捨てた。
思うところが一つもないなんて誤魔化せはしない。私が魔法少女になろうと魔女になろうと悪魔になろうと、いずれにせよ、親に胸を張って自分を見せられる事はない。
「何にせよ、ひどい親不孝者だわ」
髪をかき上げ、意識を切り替える。
これで、話をしておくべき人達には全て会った。聞きたかった事も何もかも聞き終えている。未練、と呼ぶべき物は絶ってきた。
つまり、私がこの世から消えても誰も困りはしない、という事だ。
それに気づいたのは、いつだっただろう。まどかが何の事も無く過ごす、その輝かしい日々を、一秒一秒噛みしめていた瞬間だったか、はたまた彼女の声や姿を五感で捉える幸福を、改めて胸の中で爆発させていた時か。
この世界に、私は要らない。
単純明快な事実だった。
私さえ居なければ、誰も真実には気づかない。かつて異常だった事は正常となり、誰も気に留めなくなる。私が人として存在するより、かつてのまどかの様になる方が、よほど世界は安定するのだ。
消え去った私を覚えている人など居ない。だからキュゥべえも気づかない。私にとって最も良い世界を得る為に、私の命が必要だった。
私が持っている力がこの世界に存在する限り、それは、いずれまどかを破滅させる道になりうる。だから私は消えなきゃいかない。人という殻を失って、この力を現世から連れて行く。
まどかを守る為。それ以外の何もかもを捨てて、私という存在も最後に捨てて。そうすれば、私はただ、まどかを守るためだけの概念となる。
肉体を捨てて、ただ彼女に尽くすだけの存在になろうと考えた。そして、私はそうなれるだけの力があった。この胸の中に、あったのだ。
「ねえ、まどか」
「……」
傍らで、まどかが身じろぎした。震えていると言っても良い。
彼女もまた、かわいらしい私服に身を包んでいて、素敵な髪をリボンで結んでいる。私が返したリボンを使ってくれている。
ほとんど夢遊病のようにふらふらと近づくその身を支え、肩を掴んで座らせた。
まどかを連れ出したのは私だ。出来れば顔を合わせたくなかったけど、必要だった。
彼女と円環の理を完全に切り離す以上は、まどかへの接触も不可欠だった。だから、連れてこなくてはいけなかったのだ。
彼女の首筋に薄らと、魔女の、いや悪魔の口づけがあった。こんな風にまどかを連れてきたという事実だけで何度も吐きそうになった。
だが、解除する事は絶対にできない。寂しさに耐えかねた私がまどかと話して、万が一にも私が踏み留まってしまったら、彼女の未来を誰も保証できなくなる。一線を越えた先へ行く為にはまどかと話すわけには行かない。
カタカタと、まどかの身が震えた。眠っている様な状態なのに動き出すなんて、よほど私からの接触が恐ろしかったのだ。逃げたい一心なのだろう。
「動かないで。終わったら、ちゃんと解放してあげるから」
「……」まどかは何も言わない。私の声も聞こえていない。ただ身を震わせている。
「……ごめんね」
瞳に光すらない無意識状態のまどかを己の意のままにするだなんて、嫌悪感で倒れそうだった。何度も何度も謝りながら、ここまで連れてきたんだ。
「ごめん、ごめんね……まどか……ごめんね……」
「……」
「だけど、私は、私はやるわ……恨んでね」
そっとまどかの肩に触れる。指先が彼女の身体に染みこんだ。
瞬く間に、まどかの中から円環の理だったという記録を完全に抜き取った。
本人の魂はそのまま、人としての記憶も一切変えない。ピンポイントに必要な部分だけ切った。もう二度と、まどかはその身を逸脱した存在にはならない。
「まどか。貴女は、貴女の人生を幸せに生きるの」
奪い取った記録と、私が持っていた力。二つを混ぜ合わせ、己の中に取り込んだ。
私が世界に溶けていく。
まず身体が溶け始めた。肉体が存在を否定されているのだ。
完全に私がなくなれば、現世から暁美ほむらという存在の全てが消える。誰の記憶からも、私は居なくなるのだ。
ただ瞬時に消えていくのではなく、恐怖を煽る様にゆっくり身体が壊れていく所を、ただただ見せつけられている。
だが、だから何だというのだろう。私は、沢山の人達に沢山の迷惑をかけてしまった人間だ。今更に私が消えるくらい代償にもならない。恐れる事など何一つ無い。
「はッ……はぁっ、は、はっ……はっ、はっ……」
……いや、嘘。嘘だ。呼吸がおかしい。息ができない。胸が異常に鼓動を打っている。
えずき混じりに口元を押さえてうずくまった。泥のような何かが身体から流れ出した。それは私の肉体だった。
「ゴホッ……! んうっ……あ、ふふ……ねえ、まどか……あなたにあえて、私、良かった……」
口の中まで溶けていく。私の感情の塊が漏れ出して、世界に充満するべく広がっていった
怖い。怖い。もうまどかに微笑みかけて貰う事もできなくなる。永遠にまどかの声も聞けずに世界の一部に成り果てると思うと、のたうち回るくらいに怖い。魔女になる時だって怖かったけど、もっと怖かった。
震える右の腕を掴んで、握りしめた。そうしたら腕が溶けてしまった。
「ぁ……ア゛っ……! で、も……!」
この苦しみが、まどかの未来のためならば。
次に両足が溶けた。地面へ身体が落ちる。顔から土にぶつかった。
残った腕も、お腹も。一つの物に集約されていく。世界に溶けていく。
見えなくても分かってしまう。まどかが褒めてくれた髪が、キレイだと言ってくれた肌が一緒くたにかき混ぜられていく。それはやがて世界の一部となり、私という存在の限界を超え、人ではなく、存在する物ですら無いなにかへ変貌させていった。
己の存在が消えていく感覚は、思った以上に恐ろしい。
全てが一つの目的に昇華されていった。想像を遙かに超える光景。覚悟まで乱れていく。これは罰なのかもしれない。
けれど構わない。まどかだって、世界の一部として人間の自分を失った。あの子は最後まで己の願いに胸を張り、笑って消えていった。なのに私が泣くわけにはいかない。最後まで、堂々と、堂々と。
「ごめん、ね、まど……か。私、あなたに、ひどいことばかり……」
目は瞑らない。意識も閉じない。無理矢理に顔を上げ、そこにいるまどかの存在を捉えた
まどかの顔を目に焼き付けておきたかった。目なんてもうとっくに消えていたけれど、魂がこの子の顔を見ていた。
まどかはこちらをじっと見つめていた。瞳に感情はなかった。
ただ、彼女は動いた。私の願望が伝わったのかもしれない。
そして、まどかは私の頭を撫でてくれたのだ。何度も、優しく、慈しむように。
この子の為なら、私はどんなに苦しくても構わなかった。
「さよ、なら」
まどかの返事が欲しいわけじゃない。きっと、聞こえてもいないだろう。
「ありがとう」も「ごめんね」も、届かせる事はできなかった。
ゆっくり、暁美ほむらという意識を閉じる。
その時だった。もう存在しない筈の耳に、声が聞こえてきたのは。
「…………ほむらちゃん!」
これは。
違う。私の声なんかじゃ無い、この優しくて、人を包み込む慈悲深い声は。
「まどかっ!?」
「やっと動けたっ! ……ダメだよ、こんなの!」
まどかが私の残骸を抱きしめた。瞳の輝きが爆発した。
反応する隙を与えずに私を腕の中に包み込み、私の中にある円環の理の力を利用して私に人の形を与えてきた。
崩れ去った肉体がもう一度作り直され、まどかの力強い視線が私の瞳に飛び込んでくる。
「ほむらちゃんを、ひとりになんか、させない……!」
渾身の魔力が吹き上がって、まどかの身が輝き出す。
ダメだ。ダメ、だめ! そんな事をさせちゃいけない! まどかはこの世界で、誰かの為じゃなくて、自分の為に幸せになる! 私の為にまどかの未来を閉じさせるなんて絶対に許せない!
このまま、まどかのされるがままであってしまったら、何のためにこの世界から消えようとしたのかも分からない。絶対に、認めない!
「っ、ううっ……! やめて! その力は、あなたが持ってはいけないわっ!」
迷わずまどかの身を強く抱き、円環の理を私の元へ奪い戻した。
「ああっ! だめっ! 返して!」
「絶対に、嫌! あなたは鹿目まどかのままでいるべきなの!」
「お願い!」
強い意思の現れた声だった。
ずき、と失った胸に激痛が走る。魂が悲鳴をあげている。
まどかは、瞬間的に衝撃を受けた様な顔になると、すぐに決心した様子へ変わった。
「……わたしも行くよ! ほむらちゃんの所へ連れて行って!」
「あなた……!?」
「ずっと一緒だよって、言ったじゃない!」
円環の理の痕跡すら私に奪われても、まどかはそれでも私から離れない。記憶すら怪しい筈なのに、まどかは私を守ろうとしてくれた。
こんな私に、まどかは寄り添おうとした。
「助けたいの! みんなを……ほむらちゃんを!」
「っ!」
「だからお願い! わたしに、ほむらちゃんを守らせて!」
そう、手酷く裏切った私にすら、この子は救いの手を伸ばそうとしてくれたんだ。
ごめんね、と口の中だけで呟いた。まどかのお願いなら叶えたいけれど、これだけは譲れない。
めいっぱいに明るく笑って、まどかを突き飛ばした。
「あああっ!?」
「ありがとうっ、まどかっ!」
全身全霊で私と暁美ほむらを切り離し、悪魔と私の肉体が分かれる。
まどかは、私の肉体を抱いて倒れ込んだ。
「待っ……!」
「さよなら! どうか幸せに!」
悪魔の私は瞬く間に溶けきり、世界の改変が再び始まった。今度は、まどかの未来が明るくなる為だけに世界が変わる。
暁美ほむらは世界に残るが、私という悪魔は、もう二度と形を取らない。
私が最期に見たのは、お互いを守る様にして絡まる、私とまどかの姿だった。
「ほむらちゃん? ほむらちゃーん……起きてー?」
目を覚ましてみると、鹿目さんがわたしを覗き込んでいた。
膝枕で、頭を撫で回されている。そう自覚したら、すぐに心地よさがやってきた。
どうしてこんな状況になっているのかは全く分からない。
「鹿目さん? どうして?」
「どうしてって、ほむらちゃんと一緒にここまで来たの、覚えてない?」
「え……?」
言われてみれば、そうだ。わたしは、鹿目さんを連れてここに来た。どうして鹿目さんを?
ああ、そうだ。わたし、鹿目さんとお別れを。お別れ? なんで?
「どんな話をしたか、鹿目さんは覚えてますか?」
「え? もちろん……あれ、なんだっけ? ……なんだか、ほむらちゃんが凄く大変で、困ってて……そうじゃなかったような」
「でも、わたしは特に困ってるっていう事なんかないから、多分違うと思います」
「そうかな? ……かもね。二人とも忘れちゃったなんて、夢でも見てたみたい」
二人で一緒に首を傾げた。
ここは見滝原の外れで、ちょっとした荒れ地だ。草木が目立って、人気はない。
こんな場所に来る理由は一つも思い浮かばない。少し前の記憶の筈なのに、目が覚めた後の夢みたいに、霞がかって思い出せなかった。
対面している鹿目さんも、やっぱり何もわからない様子だった。誰かが私達をここへ連れ込んだのかもしれない。でも、誰が? 私達しかここにはいない。
「あれ? ほむらちゃん、髪がほどけちゃってる」
「え、あ、本当だ。どうして……?」
指摘されて触ると、確かに三つ編みではなかった。違和感があると思ったら、そういう事だったらしい。
落ち着かずに髪を撫でてしまう。自分でも驚くほど慣れた手つきだった。
結び直したいけれど、どこにもヘアゴムがない。いつも使っている筈なのに、落としてしまったのだろうか。
「んー……」
「ほむらちゃん、ストレートも凄く似合うよ」
「そ、そうですか? だけど、なんだか落ち着かないので……」
「そっか。じゃあ、わたしが結んでみても良い? 髪留めは、私のリボンでやってみよっか」
「あ、ありがとう」
「ううん、前にも結んだし、思ったよりずっと簡単だったよ。ほむらちゃんの髪が素直だからかな?」
鹿目さんがリボンを外すと、髪がふわりと広がった。いつもの鹿目さんも素敵な人だけど、髪を解いた鹿目さんは、あまり見れないからか新鮮で、普段よりどこか大人っぽく見えた。
こちらに回り込んで、私の背中をそっと撫でた。
「ひゃっ」
「えへへ、ちょっと悪戯しちゃった。さ、じっとしててねー、ほむらちゃんの髪、結んじゃうから」
鹿目さんが私の髪に指を絡めた。髪の一本一本を伝って彼女の優しい手つきが流れ込んで、思わず小さな声をあげてしまう。
そんな私を鹿目さんは朗らかな笑い声で受け止めてくれた。そして髪をゆっくり回し、編み、昔の、いつもの髪型に戻していった。どういう風になっているかは見えないけれど、私がやるより綺麗になっていると思う。
「ほむらちゃんの髪、やっぱり触ってて幸せな気持ちになれるよね。いいなぁ……わたしもこういう、綺麗な髪に整えてみたいなぁ」
「鹿目さんの髪の方がわたしは、その、好きです」
「えへへ、ありがとう。でもやっぱり、わたしはほむらちゃんの髪が好きだよ」
ゆっくり編み終えると、鹿目さんがリボンをきちんと結んで留めてくれた。
人に髪を整えて貰うのなんて滅多に無い。
心地よい時間だった。うっとりとしていると、突然鹿目さんが頭に顔をうずめた。
「ひゃぁぁっ……!?」
「うん、やっぱり良い香り」
「か、かなめしゃん!!」
「あはは、ごめんね。ほむらちゃんがあんまり良い香りだから。どういう風にしたら、こんな綺麗な髪と香りになるのかなって」
「い、良い香りですか」
そうだろうか。思わず自分の腕の臭いを嗅いでみたけれど、特に良いとも悪いとも思えなかった。
「あの、ごめん、嫌だった……かな?」
「ち、ちがっ、そんな事ないです。鹿目さんが褒めてくれて、嬉しくて」
鹿目さんはとっても素敵で可愛い人なのに、わたしなんかを何も疑わずに褒めてくれる。
「リボンは、後で返しますね」
「もし良かったら、ほむらちゃんに使って欲しいな」
「そ、そうですか? でも、鹿目さんの方がやっぱり似合うんじゃ……」
「ううん、ほむらちゃんの方が似合うよ、絶対」
鹿目さんがわたしの手を引いて、シームレスに寝転がった。
一緒に草の上で背を預けて、お互いの顔を見合わせると、深く深い幸福感がこみ上げてくる。
鹿目さんは、わたしなんかとは全く比べものにならないくらいに魅力的で、素敵な人だった。ただこの人と一緒に笑い合える。そう自覚したら身体から重さの全てが消え去った。
ふわ、とわたしの心が浮かび上がって、鹿目さんが嬉しそうに微笑んでくれた。
「鹿目さんが聞きたいなら、今度、その、良かったら髪の洗い方とか、シャンプーとか、教えましょうか?」
「ほんとっ!? わぁ……嬉しいっ。大丈夫な日を教えてくれたらいつでも行くから、よろしくね」
「はい。私なんかで良ければ」
「わたしは、ほむらちゃんがいいの」
まどかが浮かべていたのは、真剣で柔らかな面持ちだった。
「そ……そうですか?」
「ふふ。だって、ほむらちゃんの髪はとっても綺麗だもん。わたしが会ってきた人の中で一番綺麗。秘訣を聞けるなら誰だって聞きたがるよ、きっと。いつにする?」
「鹿目さんが良ければ、今日だって」
「わぁっ、いいの? じゃあ、お願いしちゃおっかな……」
「はいっ! 頑張って教えますね?」
「ふふ、よろしくね、ほむらちゃん」
まどかはきらきらとした瞳をより輝かせた。眩しすぎて、わたしも一緒に明るくなってくる。彼女自身こそが光り輝く存在で、私達はそれに照らされる存在でしかないのだ。そうやって私の心を温めてくれる存在感が、途方も無く愛おしい。
そうだ。この優しさが彼女を滅ぼしてしまう。だからこそ、彼女が、ここに居てくれて良かった。優しい人達に囲まれて、誰かに羨まれるでもない、まどか個人の幸せを掴んで欲しい。
……あれ? 鹿目さん、引っ越しちゃう予定なんか無いはずだけど……
「じゃあ、そうと決まったら早く帰らないとね」
「あ、はいっ」
鹿目さんが思いきるようにして立ち上がった。
そうすると、なぜか足の力が抜けたらしく、急に姿勢を崩してしまう。
「きゃっ」
「まどかっ!」
とっさに鹿目さんの腕を掴むと、勢いに流されてわたしの身体も一緒に倒れていった。
一瞬の衝撃と、鈍い痛みが足に走った。
「いたた……鹿目さん、大丈夫?」
「うん、ちょっと、うっかりで……ほむらちゃんも怪我は無い?」
「大丈夫です」
肩を多少打ち付けたかもしれない。でも、鹿目さんを心配させたくなくて、嘘を吐いた。
ごく不自然に、鹿目さんの転けた部分が草と花で覆われていた。
それは鹿目さんの膝や足を守って、身体の衝撃をほとんど消し去っていた。
まどかに降りかかる何もかもは、それが形になる前に消え去るのだ。
例えるならそう、魔女が世界から消えるのと同じ様に。
「ありがとう。さよなら、私」
もう二度と会えないだろうけど、しかし私はまどかの為だけに存在できる。
そんな私に感謝しよう。わたしはまどかと一緒に居るけど、私はもう居ないから。
「?」
「えっ? あ、今、わたし何か言ってたのかな……?」
「なんだか……ううん、なんでもない」
何だったかは覚えていない。不思議と、もう思い出す気も起きなかった。
鹿目さんが手を握ってくれている。その心地よい手が包み込んでくれるだけで、心配が吹き飛ぶようだった。
「それより、わたしの事、まどかって呼んでくれたね」
「あっ、鹿目さん、ごめんなさい」
「謝ることなんかないよ。まどかって呼んで?」
「う、うん。なら、ま、まど……まどか」
なんて素敵な響きなんだろう。
まどかがとっても喜んでくれる。名前を呼んでもらえる事は、まどかの幸せの一つなんだ。彼女が望んでくれるなら、呼び方くらいなんてことない。
「うん、ほむらちゃん」
「まどか……まどか」
「ふふ、うん、そう呼んで貰った方が嬉しいな」
手を繋ぎ、時に身を寄せ合いながら、わたし達は見滝原の町中に向かって歩き出した。
まどかには、その帰りを待っているご家族がいる。心配をかけてしまわないように、少し早足気味だった。
わたしも時間があったら久しぶりにパパとママへ電話をかけよう。そして、もしも会って話せるのなら、学校の事やまどかの話を沢山しよう。
わたしは元気で、まどかと同じ学校に通えてすごく幸せなんだって伝えたい。
今日は満月だった。雲一つ無い空に気分良く輝いて、月明かりはわたし達を照らしてくれる。
よく見える。眼鏡も着けていないのに。
その時、何も着けてない左手の中指が、なぜかとても気になった。
暁美ほむらという人は、それが鹿目さんを救う方法なら、どれほど辛くても選べてしまう勇気があるんです。
あの人は、鹿目さんを生きて幸せにできると知った時、どこまでも優しくて、強くて。
そんな彼女が見せてくれた勇気も、悲しみも、私は、忘れたくないのです。
蛇足
このあと、悪魔の方の暁美さんが目を覚ますと暁美さんがいっぱい居る居酒屋に居て、他の暁美さん(実年齢は三十代)にお酒を勧められて未成年だからと断ったり、鹿目さんの話をしたり、成人済み暁美さんの集団に抱きしめられたり、飲んでもいないのに酔って泣き出すのですが
ただ暁美さんを認めて欲しい私のワガママだと気づいたので載せていません
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