俺の兄貴は赤井秀一という悪党に殺されました (善吉)
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第1話
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The game
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皮肉なことに、俺が死の淵から這い上がり自由を得たのは、慕っていたアニキの死と引き換えだった。
かけがえのない、この世でただ一人の家族。
年の離れた兄弟。よく俺ら兄弟を知っている人からすると、似ていない兄弟だったと。そりゃあ、そうだ。正確にはどうしようもないクソ親父の無責任な種だけが俺らを遺伝子的に結んでいた。つまり異母兄弟。それでもアニキはアニキであったし、間違いなく俺はアニキの弟だった。
アニキはしきりに「お前はお袋さんの血の方が強くてよかったな」と俺の容姿を褒めてくれたけど、少ない共通点である下がった目尻とか、耳の形とか、アニキを彷彿とさせるようなパーツの方がよっぽど価値があった。俺にとってはアニキが一番で、誰よりも格好良い男なのだ。
そして、アニキは兄であり、母であり、父であった。
アニキが中学を卒業し、夜間学校に通い始めたあたり。ロクでもない親元の暴力と理不尽から逃げるように、まだ小学生であった俺の手を引いて夜中に飛び出し、ふたりで暮らし始めたのだ。今思えば、随分と思い切ったことをしたものだと思う。金もなく、給食の残飯や学校の備品をこそこそと持ち帰るくらいには生活にゆとりはなかったのに、アニキといれば幸せだった。
けれど、幸せは続かない。神様なんて信じたことはないが、やっぱり世の中は不平等で理不尽だらけであった。きっと神様のお気に入りは、生まれた時からキラキラとした毎日や将来を約束されているのだろう。俺らみたいな取りこぼされた人種には、気まぐれに不幸や災厄を振りかけて困っている姿をほくそ笑んでいるのだ。だって、生まれたときから人は不平等だ。もしかしたら、お気に入りの分の不運を、俺らが余計に負担して天秤の均衡を保っているのかもしれない。
ようやく安寧を手に入れた矢先だったのに。アニキと、ふたり。ようやく二人暮らしも落ち着いた頃、俺は病に倒れたのである。せっかくアニキが用意してくれた誰かのお古らしい中学の学ランは、結局入学式くらいいしか袖を通すことはなかった。
健康に生きるためには多額の金が必要だけど、俺らにはそんな大金を手にする手立てもない。完全に治すには莫大な金と適合した臓器が必要とかで、そんなものを用意することは出来るはずない。おしまいか。まあ、しょうがないか。来世に期待しよう。アニキを一人残してしまうのは申し訳ないけど、これ以上お荷物になるのは嫌だった。何もできないばかりか、迷惑をかけてしまう自分が嫌いだった。冷めた心ですべてを諦めた俺は一人前にベッドの上で反抗期を迎えたが、それでもアニキは諦めなかった。俺がなんとかする、と。
ひどいこともたくさん言った。たくさん傷つけた。けれどもアニキは俺のために時間をたくさん使った。俺のために、生きてくれた。「考えたくはねえが、俺が死んだ時にはお前に、俺のをやるからな」「いらねーよ」いらないよ。アニキがいないんじゃ生きてたって、意味がないんだから。アニキの死に顔なんて、絶対見たくない。アニキに置いていかれるなんて、考えたくない。
もしも、もしも叶うのならばふたりで生きるんだよ。声に出せない言葉は、アニキの顔面に投げられた、使い心地のよくない薄っぺらな病院の枕に込められた。たぶん、伝わっている。だって、アニキは笑っていたから。そしてあの大きな手のひらで俺の頭を撫でた。「大丈夫、俺が何とかする」っていつもの言葉と一緒に。
それなのに、それなのに。アニキに置いていかれちゃった。
途絶えた連絡を待ち続けて、数週間。破損車両、残された大量の血液、ヘッドレスト付近の1ミリに満たない血痕。閉ざされた病室には、恐ろしい言葉が溢れかえった。なに、それ。そんなの知らない。真っ白な病棟に突然現れた、警察を名乗る知らない人からの尋問まがいの質問。数枚の写真とともに説明される状況。そこから導きだされた、アニキの最期。
「残念だが、きみのお兄さんの生存は限りなく低い」
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それからの日々は、生きているのに死んでいるみたいだった。静かな真っ白な空間は、命が刻々と削られていくのを待つだけの地獄だった。
神なんて、クソくらえ。アニキに看取られながら死ぬことだけが、俺の夢だったのに。それすらも、許されないというのか。残された、大切な者でさえも奪うというのか。あとは、一人で、死ねってことか。
俺だって馬鹿じゃない。たとえどんなに信じられなくても、突きつけられたものを頭から否定することなどしない。わざわざ俺みたいなクソガキ一人に警察が時間を割いて、騙す理由もない。なによりも、アニキが俺を捨てて行方をくらますことが、ありえないのだ。だって、そうじゃないと、俺は。
「良いお兄さんだったのに、残念ね。心配ね。これからどうするの?そういえば、ご家族は?」黙れよ。アンタ、何もしらねえくせに、うぜえよ。初めて乱暴に吐いた言葉は説得力が無かったようで、白衣のババアはあらあら、と何もかもをわかったように眉を下げて無言で背中をさすった。病気持ちの死にかけのやせっぽっちの言葉は、あまりにも滑稽だったらしい。
アニキが俺を見捨てるはずはない。絶対に。だけど、それでも、もしもどこかで生きていてくれれば、それでも良かった。状況は絶望的ではあったが、俺にとってアニキはすごい人だから、生きている可能性を心の奥底でほんの僅か信じていたのだ。
でも、アニキを失った俺は生きる理由も手段もない。病院のベッドだってタダではないのだ。このままではいずれ追い出され、衰弱し死ぬのだろう。でも、もう、なんでもいい。何もかもがどうでもよくなり、無気力にただ己の死期だけを待っていた。
しかし、突然のことだった。無理やり命を吹き込まれた。起きろ、と乱暴に頭を叩かれたようだった。突然振り込まれた大金。態度を一変させた病院の職員。白衣を着た胡散臭いドクター、と名乗る男。
本人の意思など関係なしに、俺は死の淵から這い上がり、自由を得た。アニキの死と引き換えに、俺は臓器と金を得たのである。そのとき、確信をした。ああ、アニキは本当に死んでしまったのだと。
さて、金も、健康な臓器も手に入れたはいいが、心は死んでいる。何もかも、どうでもよかったのに、アニキについてちらつかされたら、食いつくほかなかった。
自分は何もかもを知っている、というドクター(そもそも本当に病院の人間かどうかも微妙だ)に蹴り出されて行った、リハビリを終え、退院する時。ようやっと、にやけ顔のその人が口を開いたのだ。
今まで、当然のようにアニキのものを埋め込まれていたと思っていたが、この欠けた身体を治すために埋め込まれたのはどこの誰とも知らない臓器だと。まあ、そうか。そういうことも、あるだろう。だけど、ちょっとまて。アニキのは、どこにある?俺のアニキは、どこにいった?混乱する俺をみて、目の前のそいつはニンマリと笑った。
「ハハ、本当はねえ、報告義務があるんだけど、必死になっているアイツを見るのが滑稽でさあ…。属しているけど、そんなに愛着あるわけでもないしね。私の行動理由なんて、楽しいか、そうでないかくらいなんだよ。働き方は人それぞれだし?こわいよね、どこに胡散臭いやつが紛れ込んでいるのか分かったものじゃない」
「……」
「ねずみなんて、どこにでもいるものさ」
「そう……」
何を話しているのかもわからないけど、適当に相槌を打てば満足したようだった。この人の口数が多いのは、今に始まったことではない。普通の人とは、別の時空に生きる人みたいだった。ドクターは愉快気に、病室の明るい色調のチェストを叩いた。手の甲で、コツコツコツ、と。まるでノックするみたいに。
「まー、君もお兄さんに感謝しなよ。これで俺はおっきな借りを返したからね。あー気持ち悪かった。借りたものはすぐに返さないと、落ち着かなくてさあ」
「…アニキは、どうなったの」
目の前の人はゆっくりと口を開く。至極、楽しそうに。愉快そうに。
「早かれ、遅かれ知るだろう。知らない方が幸せだろうけど、君にとっての幸せと世間一般の幸せは違うだろうしね。
兄思いの君には酷なことかもしれないが、覚悟して聞けよ、少年」
「君の兄、楠田陸道は拳銃自殺に追い込まれた。挙句、もう一度、殺されたのさ」
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第2話
ドクターの言葉に抱いた感情は、複雑で難しくて、言葉に表せるものではなかった。それでも、一つ。明確に自覚した。
怒りである。眩暈を感じるほどの、強い怒り。
この思いが。これだけが。生きる屍であった俺を生者へと、叩き起こした。この世に留まらせるだけの理由としては、十分だった。
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自分のからだのなかに、どこの誰かもわからない臓器が存在して、役割を果たしている。気持ち悪い。今すぐにでもこの腹にきょぜつはんのーが、出たらいいのに。
今すぐにでも、腹を裂いて異物を取り除きたい気持ちを抑えて、錠剤を口に含んだ。すっかり慣れてしまって、今では水分がなくても咽喉を通り、落ちていく。
俺の代わりも、アニキの代わりも、いくらだっている。この世にはいくらだって代替品がある。必ずしも、自分じゃなければならないなんてことはない。俺にとってのアニキはアニキだけだと強く思っていたのに。
体の内側が、自分の意思ではどうすることもできない場所で代わりを見つけて正常なはたらきに戻ろうとしているのが、ただただ、気持ちが悪かった。
アニキはやっぱり帰ってこない。そりゃそうだ。生きていない人は帰ってこれない。対価としては大きなものが残った。ドクターの言葉を借りるなら「彼は組織に属する時に、保険を用意していたのさ。馬鹿な男だ」だって。
ドクターは俺に語った。大きな口で明朗に。大げさな身振り手振りはどこか現実味がなかった。締め切った病室は、空気は淀み、白けていた。何が嘘か、何が本当かもわからない。しかし兄貴に大きな借りがあったと、忌々しげに嫌な顔をしながら口を開いたときの表情は真実めいていて、信じてやっても良いと思ったのだ。なにより、もう、なんだって良いのだ。兄貴はいないのだから。
神なんていてたまるか。けど、いるのならきっと性格が悪いに違いない。俺の人生を面白がって、一つの決断をするのを遠くから眺めて、「馬鹿なガキがいるものだ」と笑っているのだろう。
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馬鹿なガキは困ってしまった。
自暴自棄で、なんだってよくたって、先立つ物がなければ野垂れ死ぬだけだ。強い感情でお腹は膨れない。
そう、俺は、稼がなければならない。健康な肉体を得るためのお金は、用意されてたけど、それからの金はなかったのである。
時給850円で始めたアルバイトは続かなかった。3日でバックれた。同じ人間のはずなのに、言葉が通じない。アレは本当に人間だったのか?お金を稼ぐって大変だ。
見かねたドクターはサクラのバイトを紹介してくれた。出会い系サイトで女のフリをしメッセージを送るという、提供された雑なアフターサービスは、数ケ月で飽きてしまった。回数を重ねるごとに料金が発生するシステムのため、女になりきってバカな男を釣るのだ。思わせぶりな言葉で、できるだけ、長く、会話が続くように。興味がなくても質問をすると良いって先輩が教えてくれた。
無機質な文字列で、欲がまみれた言葉を交わす。予測変換機能はアニキには見せられないな。
小難しい内容はあんまりわからなかったけれど、1枚のかみっぺらで渡されたマニュアル通りにこなせば何とかなった。なるほど。大人っていうのはみんな無条件に俺よりも賢いとばかり思っていたが、なんだ、なんてことはない。ばかばっかりじゃないか。
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もっと手っ取り早くお金が欲しい。
サクラの仕事を辞めた俺は、先輩に紹介され都内のとある場所で働くようになった。給料はそこそこ。待遇はまあまあ。チップはたくさん。出勤時間は18時から。昼夜逆転生活をはじめ、まとまったお金を得るようになった。
アニキがいなくなってからの俺は、幸運が続いていた。とくに、他者から与えられるもの。もしかして、アニキが神様をぶん殴って、天秤を奪ったのかも。なんて。
お金を持ったオトナが集まる場所でのボーイの仕事は、質素な暮らしをしていた俺にとっては煌びやかで華やかに映った。一晩にして動くお金の桁は考えられないほど。それと同じくらい汚いものも、醜いものもたくさん見つけたけど。
はじめのうちは人間扱いもされなかったが、仕事が認められればママも優しいし、キャストのおねえちゃんたちはみんなイイ人ばっかりで悪くはなかった。他のボーイは、稀に何の話をしているのかもわからないことがあるけれど、楽しい人たちだ。
たくさんの人が集まる場所で営みをすることは、多くを学んだ。もう、あの真っ白な部屋で一人兄貴を待っていた俺とは違うのだ。お酒の味だって、覚えた。こんなことを知ったら、兄貴は卒倒するかも。なんて。
うぞーむぞーの集団には奇特な人もたくさんいる。キャストのおねえちゃんたち目当てでお店に来ている人が普通なんだけど、いつの間にか俺に会いに来てくれるお客さまもいた。それを知った時のママの目はギラついて、怖かったけど、まあ、俺も商品としての価値があるんだろう。何しろアニキが褒めてくれた容姿なのだ。そこんじょそこいらの石ころと一緒にされては困る。
永嶺(ナガミネ)さまはその奇特なお客さまの一人だ。おじさんと呼ばれる年だと思うけれど、纏う雰囲気は独特の渋みと近寄りがたさがあり、仕立ての良いスーツの中には締まった肉体が隠されているようだった。
理由はわからないが、たぶん、気に入っていただけていると思う。以前「ほら」と、渡された品に理解が追い付かず、何を呆けているんだい、とママに云われるがままに(ジョークじゃないよ)恐る恐る手に取ったのは都内の高層マンションの一室の鍵だったのだから、もう訳が分からなかった。アニキといたころには想像もできなかった部屋だった。
「お前の望むものを渡してやりたい。なにがほしい」
「お店に来てくれたらじゅーぶんだよ。それに、いつも素敵なものをくれるじゃないですか。毎回変わっているから、楽しみにしているんです」
これは毎度の会話だ。赤いショップバックのけしょーすいとか、にゅーえきとを頂いたこともある。ガラス瓶って以外と重たいと思いながらバックヤードに戻れば、お姉ちゃん達が使い方を教えてくれた。必要性はあんまりなかったけど、頂いたものなのできちんと使っている。たまに忘れるけど。あとは、なんだろ。お洋服とか、アクセサリーとか。最初のうちは女性ものが多かったので理由を聞いたら、誰かに用意してもらっているらしかった。用意する誰かが、俺のことを女の子だと勘違いしていたらしい。
今日のお土産に持ってきてくれたのは、なんとかのたまごっていう、ありがたいマンゴー(マンゴーなのにたまごって変なの)だ。せっかくだからとお店の奥で剥いてきてもらい、滴る甘さを指で舐めている時だった。
「そうだ、楠田陸道って男知っているか。ニュースになっていた」
「…知らない、です」
時が止まった。
くすだ、りくみち。知らないわけが、ない。どうしてその名が。普段からあまりおしゃべりではない永嶺さまから発せられた言葉は、いったい何故。お店では隠していたのに。ママも、この店にいる人に話したことなどない。もちろん、今までの働いてた勤め先の人にだって。
「…アレは嫌な仕事だった」
永嶺さまは一かけらだけ持ち込んだマンゴーを手でつかみ食べると、表情も変えず口直しのように煙草を咥えた。ああ、止まっていてはだめだ。だんだんと俺の周りの音も遠のく中で、いつもと変わらずその動作だけはインプットされたロボットのように行うことが出来た。自分の手元でマッチを擦り、嫌なにおいを飛ばす。手を添えて、先端へ灯せば満足そうに頭を撫でられた。もしかしたら、同じ音の、別の誰かかもしれないと、無理やりにでも自分を奮わす。
「お仕事、大変だね。どんなこと、やったのか聞いてもいーい?」
「ああ。普段はしないね、運びをやったんだが、――今思えばありゃ仏さんだったよ」
「ほとけ…」
「死体、ってことだ」
離れた席で、ほかのゲストの大きな笑い声が響いている。潜められた声は、やけにはっきりと大きく聞こえた。ふう、と吐かれた煙は俺らを包んだ。まるで、ほかの席から、切り離すように。
「俺みたいのは細かいことは全部若い衆に任せるんだけどよ。さすがにあのスーツケースは、誰にも触らせられなかった」
ゲストにはビックマウスの人もいる。自分を大きく見せたかったり、俺らの気を惹いて、過剰なサービスを求めたり。でも、俺の目の前にいるその人はそうする必要がないのは、お店のキャストもボーイも全員知っている。俺だって。決してシャツの袖をまくらない理由も、背中に背負っているものも。
「依頼してきた奴は、とにかく用心深かった。顔も見せねえ。どこのナニかも明かさないままだった。普段はそんな胡散臭い仕事はしねえんだが、世話になっている奴からの紹介でな。手順もキッチリ踏んでる」
「うん…」
「まあ、この世界にいりゃ、そんなこと珍しくもねえ。胡散臭い連中なんて、吐いて捨てるほどいる。だが、何も残さない手際の良さといい、……ありゃあ、まっとうな組織の、まっとうじゃない連中の仕業だ」
「まっとうな組織…」
「例えば、サツとかな」
そんなこと、あるのか。まだ、周りの音は遠いままだ。
「それから、程なくしてだ。来葉峠の事件、知っているか」
「ああ、えと、焼死体が発見されたっていう」
「大っぴらにはなっていねえが、外車もろとも外国人が燃やされたって事件でよ。しかも、サツの内部で出た情報が、最終的にその外国人とやらがメリケンのビュロウってんだから界隈では話題になったんだ」
もう、なんでも知っているはずなのに。永嶺さまは俺の知らないことも、知らない世界も知っている。目の前のオトナが何を考えているのかがわからない。細められた眼の色は変わらないまま、くすぐるように顎元を撫でられる。
「ん、…。ビュロウ、ってたしかFBIのことだよね」
「そうだ。…この事件、どうもくせえ。手口が汚ねえ」
その手つきには、嫌な感じはしなくて。猫可愛がりされてよかったわね、といつか他のキャストに褒められたことを思い出した。そう、兄貴と俺が近所の野良猫を撫でる時と同じなのだ。愛玩されている。可愛がられている。弱くて、ちいさくて、すぐにでも死んでしまいそうなちっぽけな存在に向けられる、それだ。
「それは、ずさんってこと?」
「いや、ちげえ。そうじゃねえんだ」
「……」
「仏さんを、死体蹴りするのはあっちゃならねえ」
「ええと…」
何を、言いたいのかはまだわからない。どうして、こんな話をするのだろう。もう馬鹿ではいられないのだ。考えろ。考えろ。この人は、俺に、何を求めている。なにを伝えたいのか。
おみやげのマンゴーは俺一人ですべて食べきってしまった。後を引く甘さが、口の中に広がっている。のども、乾いてきた。
「……そして、もう一件。運びの依頼とは別クチでウチに依頼が来た。これも俺と、技師しか知らないことだ」
「そんなこと、話してもいいの」
「…イカツイ車の改造だ。それも、ガワのじゃねえ。中だ。人一人を判別できないほど燃やしきっちまう火薬を詰め込ませた。ただ一箇所。指定されたわずかな範囲は、燃え尽きないようにと指定があった」
「うん…」
「まどろっこしいこと、説明するのはどうもうまくいかねえな」
「……」
「さっき話した、例のスーツケースはウチに来る前は、別のトコが保存管理していた。狭い業界なもんでな。傷まないように、腐らないように処理をするんだよ。キズモノは匂いだってするから、その管理もだ。最後は一張羅を着せてやってスーツケースに詰め込んだんだと。仏さんをな」
「……」
「そいつがこぼしたんだ。ウチに運びと、車の改造を依頼した奴は、同じなんじゃねえかって。巧妙に、まるでそれぞれの人間が管理と、運びと、改造を依頼したかのように振舞っているが、元をたどれば同じ奴なんじゃねえかってな」
「同じ奴……まっとうな組織の、まっとうじゃない連中って言ってたあの…」
まともな言葉を返すことも忘れてしまっていた。ゆっくりと、ゆっくりと、与えられた情報をかみ砕く。この人が運んだ仏さんって、何。傷まないように、一張羅ってどういうことだ。
「元の仏さんは、病衣を着せられポリネック…むち打ちの患者が首に巻く固定器具を着けていたが、それも着替えさせられた。米神の風穴はそのままだ。黒のニット帽に、ジャケット…葬式で出てくる仏さんだって、もっと良い恰好をする」
「……」
「…来葉峠で外国人が燃やされて死んだ話はしただろう。黒のニット帽に、ジャケット…これがそのビュロウの特徴らしい」
わからない。わからない。脳みそは混線状態だ。与えられた餌に上手にありつくこともできない。それでも、かみ砕き、飲み干す前に、永嶺さまは手っ取り早く調理した言葉を俺にぶら下げたのだ。
「楠田陸道って男は、誰かの代わりにもう一度殺されたんだ。…まあ、これは、推測だ。突拍子もねえカンだがな」
「もういちど、ころされた」
どこかで聞いたことのある言葉だった。挙句、もう一度、殺された。って。そう俺に伝えたのは誰だった?
「着替えさせられた服装は、来葉峠で発見されたメリケン野郎と一致している。そいつの代わりに、楠田陸道は業火に包まれたんだ」
「か、わり……」
永嶺さまは、得体の知れない何かがあるよな。誰かが言っていた。その時の俺はわからなかったけれど、今ならわかる。俺を猫かわいがりするこのヒトは、甘い蜜ばかりを垂らす、タダの良いヒトではない。纏うのは、知らないセカイの底知れぬ闇の匂いだ。瞳の奥の感情は読み取れるはずもない。なぜ、こんなにも俺に多くを与えるのか。今更になって、理由のわからない過度な贈り物は、不気味に思えた。
「ああ、これだったんだな。お前が欲しいものを探していたが、どうやら正解か。結構、結構。俺は満足だ。あとは、好きにしなさい」
満足げに俺の頭をなでると、その人は席を立った。
やっぱり、天秤は俺に傾いていたのだろう。俺は、幸運だった。
ドクターはすべてを語らない。海藻のようにつかみどころのないあの人は、敵でもないが味方でもないのだ。
わずかなキーワードから、たどれるモノは少なかった。まるで光のない真っ暗な暗闇の中、一筋の糸を見つけだし、手繰るような感覚だった。「君の兄、楠田陸道は拳銃自殺に追い込まれた。挙句、もう一度、殺されたのさ」この言葉を何万回と脳裏でなぞったことか。
調理した言葉は、俺にとって十分に価値あるものであった。これっきりかと思ったけれど、永嶺さまは変わらず俺を指名する。それでも、こんなのに口を開いたのは後にも先にも、この日だけであった。
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第3話
「私だ」
「…定期報告だ。対象に変化なし。引き続き監視を行う」
「わかった。…みんな、ショックを受けているよ。彼女も気丈に振舞っているが、だいぶ参っている」
「……」
「すまない。作戦は素晴らしいが、少しばかり心が痛んでしまってね。それと、君に忠告がある」
「いつもの通りだろ。大学院生らしく、目立たないように過ごせ、だろう」
「最後まで話を聞きなさい。我々の動きを探る者がいる」
「なんだ、そんなことか」
「大変なことだ。組織ともまた違う。情報屋のような、したたかさもない。我々にとって、脅威にもならない小さな動きだが、今後どう変わるかもわからない。君、何かしたかい?誰か怒らせたりとか」
「怨みを買うことの多い職業だからな。背後は常に警戒しておくよ」
「…こちらでも調べる。ジャパニーズのとある組織ともツテが出来たしね。とにかく、用心しなさい」
「…わかった」
「こら、自分から首を突っ込むようなことだけはしないでくれよ。君はあくまでも、大学院生。阿笠博士の助手を務める、ただの学生なのだから」
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響いたのは、軽快な木琴の着信音。
ディスプレイに表示された名前は予想した人であった。慣れた手つきで、通知の音を切る。拒絶するには、なんだか気まずいのだ。だから、気が付かないフリをするしかない。
「あれ、出ないの」
「いいんです。しつこいんですよね、諦めてくれれば良いのに」
「女の子?」
「んー、秘密です」
正直に答えることも出来なくてうやむやにしてしまった。いつまでも電話を寄越す、馬鹿なひとだ。俺のことなんて構わなくていいのに。先輩は気にした様子もなかったようで、吸殻を空き缶の中に入れていた。
開店数分前。仕事もすっかり慣れた。店舗内の準備も終わったので、先輩と一緒に一服中。(俺はたばこ吸わないけど)
外国人観光客から、恋人、くたびれたスーツを纏ったサラリーマンまで、多くの人間がごった返すように新宿の街を歩いている。夕方だというのに、もう誰かは飲みすぎたようで、高い位置にあるこの非常階段からも吐瀉物が道の端に巻かれているのが見えた。きたねえ。
「ふーん。ま、店に刃物持った女さえ来なければオッケーだよ。喫煙者に肩身の狭い世の中になったよなー。この前もぜーきん上がる前に最後の悪あがきでカートンでため込んだわ」
と、物騒なことを話すのは同じ店で働く黒服の先輩だった。はじめの頃は、とても邪険にされていたけれど今ではちょくちょく休憩も一緒に過ごしたりするのだ。先輩にとって俺は「なまじ顔が良いから、性格悪いと思ってたけど、話してみたらフツーに良いやつでびびったわ」らしい。
ちなみに刃物の下りは、先輩の友人がホストをやっていて起きた修羅場らしい。この業界おっかないね。
「くすだっちは、おやすみの日なにしてるんだっけ?」
「うーん。改めて聞かれると難しいですね…。ああ、料理したりしますよ。あとゲームもやったり。先輩はこの前のオフは何をしました?」
「朝から並んでパチスロ。言えないくらい負けちゃったから、限界感じたわ。俺はもうギャンブルは辞める。あとはお前に任せた」
「あはは、その言葉、何度も聞きましたよ。賭け事はハマったら怖いので、俺はまだいいかな…。それに俺が始めたら、お店がすっからかんになっちゃいますって」
「言うねー!確かにくすだっちって運いいよね。この前なんて、お店の子にライブのチケットの抽選応募お願いされてたっけ」
「あ、あれですね。結局本人と同伴じゃないとライブ自体はいけないらしいので、断っちゃいました。トラブルの元ですし、お店にバレるといろいろまずいので」
「くすだっちはそーゆーとこあるよなー。もったいねえの。絶対あの子くすだっちのこと狙ってたのに。まー、選び放題なのにキッチリしてるとこも、点数高いんだろうね」
くすだっちとはいったい。ろくな学生時代を送ってこなかったため、あだ名らしいものは一切つけられたことはなかった。なんだか間抜けっぽいが、まあ、悪くはないかもしれない。過去の話になるが、アニキが「ミッチー」とクラスメイトに呼ばれていたことには衝撃を受けたものだ。
今でこそなんとか取り繕ってコミュニティに属してはいるが、まだまだアニキには及ばない。俺よりもよっぽど社交的で、上級生からも下級生からも慕われていた、と思う。
俺が入院している間もアニキの対人能力は発揮されていて、静かな病室を賑やかしてくれた。クソガキが不貞腐れて交流を絶っていたにもかかわらず、同じ部屋に入院していた患者やその家族とも上手くやってくれいた。だからか、突然来なくなったアニキを心配する人もいた。
先輩の口からは電子タバコの真っ白な煙が吐き出され、独特のあまったるいにおいを残してかき消えた。
今、俺の周りにいる人たちは、俺が突然消えてしまってもどうでも良いのだろうな。
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本を読むのは好きだ。出来れば、紙の方が好ましい。
病気を患っている間、アニキ以外に会話をする人物なんて、本くらいだった。声を紡ぐことはないが、雄弁に語りかけてくる。ページをめくる乾いた音も好きだ。静かだけど、込められた熱量は確かに俺の心を弾ませた。
入院中に何度も読み返した文庫本達は、段ボールに詰められたままではあるが今の住まいにも持ってきている。1人暮らしには広すぎる部屋はいまだ落ち着かず、荷解きもそこそこだ。そもそも、部屋のキャパシティと俺の持ち物とじゃ、どうしたって持て余してしまう。だからこそ、空いた時間を見つけては行きつけへ向かう。
お酒は飲まない。バイクもない。車も。恋人を作る予定もないし、女遊びも興味がない。貰い物のゲームは会話のために何度かプレイしたけれど、すぐに飽きてしまった。じゃあ、何をして過ごしているのかって?人に話す休日の過ごし方として、俺にとっては恥ずかしかったので先輩に伝えはしなかった。くすだっちのイメージはもうちょっとワルっぽいのである。それはそうと、俺の良く通う場所。たぶん、趣味。行きつけ。
―――それは、図書館である。
知識の塊がたくさん詰まったこの場所には、暇さえあれば足を運んでいる。住んでいる場所からもそう遠くない。数駅離れたところにあるのは、大学図書館であった。
必死に課題に取り組む学生もいれば、暇そうに時間つぶしとして机に突っ伏している学生もいる。学外にも開放しているようで、幅広い年齢層の人々が利用している。静かだけど、人の出入りもあって、活気があるのだ。
もちろん場所を選べば、閑散として静寂を保つところもある。
とにかく俺は、この図書館を気にいっていた。
アニキのことを調べる一方で、知識を得るために通い、小説から学術書まで幅広く手をだしている。勉強は嫌いではないのだ。まともに学校へ通っていないので、世間一般の同年代とのズレを埋めるためでもある。
しかし、今日は違う。目的があって向かったのは、新聞のバックナンバー記事を確認できる区画だ。
「ええと、土曜日の朝刊かな・・・」
棚に積み重なった新聞紙の日付欄を確認していく。
永嶺様が残した「来葉峠で外国人が燃やされて死んだ」という言葉をすぐに調べた。記事を探すために。日付はネットニュースからとうに確認済みだ。
しかしネットニュースの情報では限界がある。そう大したことも書いていないのに、もったいぶって文章を伸ばしてくるタイプの記事は最悪だ。外国人の名前だって、どこにも載っていなかった。また、最初に投稿されてから改変された形跡も残っている。魚拓も丁寧に処理をされていて、追うこともできない。死んだとされるのは外国籍の男。騒ぎ立てる人もいない。事件の多いこの都市で、目立つことも無くひっそりと人々の記憶から消えていくようだった。まるで、誰かがそう望んでいるかのように。
インターネットは脆い。無責任で、どこの誰かもわからない人間の言葉の羅列は信憑性だって保証されないし、いつ消されて改竄されるかもわからないのだ。だからこそ、知識の塊が詰まった図書館で、そこそこ身元のしっかりした機関が発刊した記事を探しに来たのだ。
1枚が軽い用紙であっても、枚数があればそれなりの重さがある。手をインクで黒に汚しながら、少しずつ過去を遡る。11日、12日、ああ。事件が起こったのは13日の金曜日の夜だから、14日の朝刊に載っているだろう。と、順番に新聞の束をめくっていたというのに。
ない。14日の記事が朝刊どころか夕刊もない。地元新聞から、全国区の新聞までないのだ。誰かが、同じタイミングで同じ日付の新聞をかき集めているのか。まさか、こんな大学図書館まで事件のことを隠滅して―――?
「あの…」
控えめなその声でさえ、今の俺には恐怖に感じた。
嫌な想像ばかりが脳裏に浮かぶ。味方などいないのだ。闇に葬られた兄は危険なことに関わっていた?もしかして、それは俺のため?俺も同じように殺される?いつもは心地の良い静寂も、この時ばかりは重苦しく感じた。
振り返れば、新聞の束をいくつか抱えた人物がひとり。俺の、探している日付のものばかり。このひとは、なぜ、同じ日付の新聞ばかりを集めた?
目の前の人物の、レンズ越しの瞳の真意はわかりそうもなかった。
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第4話
休憩スペースといっても、自販機が2台。あとは机といすが等間隔に並べられているだけのそこは、ガラス張りになっていて、開放感があることだけが唯一の取り柄だ。
身勝手な希望的観測の無茶苦茶な口説き方にもかかわらず、その人は付き合ってくれたのだ。缶コーヒーを2つ、購入して1つは目の前に座った人へ渡す。
必要な新聞の資料は、手早くコピーをしてテーブルに並べる。
不思議な偶然からの、答え合わせ。なぜ、俺が求めていた日づけの新聞ばかりを手にしていたのか。
俺が自販機で購入した缶コーヒーを前に、すらりと伸びた脚を組み直したその人は、――ジョディ、と名乗った。
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「わたし、とてもビックリしましたー!振り返ったあなた、とてもコワイ顔をしていたんですからー!でも、気持ちわかります。突然の国際交流は、身構えてしまいますねー!」
「え、ええ。驚かせてしまって本当に申し訳ないです。ジョディさん」
「こちらこそ驚かせてsorryですー!…でも、もっとビックリしたのは、あなたがとっても積極的なhandsomeだった、ってところね」
「えっ、あれ。日本語のイントネーションが…」
「ふふ、この前まで日本の高校で英語の教師をやっていたから、その時の癖が残っているの。ちゃんとした発音の日本語だって出来るわ」
特徴的な眼鏡をかけた彼女は、教師らしく知的にも見えるし、悪戯っぽく笑う姿はとても魅力的だ。自分の知っている女性達は見せない表情で、なんだか胸のあたりがざわざわしてしまった。
近頃は曇りばかりであったが、久しぶりに顔をのぞかせた太陽は、図書館に併設されたガラス張りの休憩スペースにも光が差していた。天井が高いからか、いつもひんやりとした空気が流れているここも、今日は普段よりすこしあたたかい。
「それで、クスダくんだったかしら。こんな美女つかまえて、一体どうする気なのかしら?」
流石、外国人。流れるような動作でスマートなウインクまでされてしまった。
声を掛けられたあの時、振り向いた俺はさぞおかしな顔をしていただろう。内に沈めていた怒りと、不安と、懐疑心と。天気の良い昼下がりの図書館で、声をかけてきた相手に向ける表情ではなかっただろう。
それでも、彼女、ジョディさんは嫌な顔一つせず、切羽詰まった表情の俺についてきてくれたのだ。普通は不審者として、図書館に通報されたっておかしくない状況だったのに。
なんだか遊ばれているような気もするけれど、仕方がない。初手が悪すぎたのだ。「あの、失礼ですけど、日本語わかりますか?」だなんて、あまりにも間抜けな質問だった。日本の新聞を抱えた彼女にすべき質問ではなかったのに。
間を置くために、一口。同じように購入した缶コーヒーを口に含み、彼女を真っすぐ見つめる。
「実は、とある事件を調べているんです。ジョディさんが手にしていた日付の新聞に手掛かりがあるかもしれなくて。もしかしたら、なにかご存じかもしれないと思って…」
「あら、ナンパのお誘いじゃなかったのね…。事件を調べているだなんて、一体どうして?まるで探偵ね」
「大切な人の、ちょっとした、敵討ちです」
そういいながら俺は、同日に起きたひき逃げ事件の新聞記事を指さした。
嘘の中に紛れ込ませた、ほんの少しの真実と結びつく感情は、より一層綺麗に欺いてくれる。意識的にゆっくりと瞬きをしながら、見つめるのは『ひき逃げ 20代男性死亡』という記事。真下にある『車両爆発 炎上事故』には視線は向けなかった。
こちらの手をすべて明かす必要はないのだ。不用意に教えることは、巻き込むことにだってつながる。ただ、妙な胸騒ぎがしただけで無理やり話を聞き出そうとしているのにも関わらず、親切に取り合ってくれたこの優しい女性を巻き込むことなどしたくなかった。彼女がなぜこの日付の新聞記事を抱え込んでいたのか。それさえわかれば、いいのだから。
「……そう」
返答としては、そっけないものではあったけれど、言葉だけの同情や慰めをもらうよりもずっとマシだ。なにより、伏せられた深い青色の瞳に映されたものは、悲しいものであったから。まるで、彼女も大切な人を失ってしまったかのようにも見える。そのことが、不思議と俺の言葉により感情を滲ませた。
「早とちりかもしれないんですけれど、同じように、この事件を調べているのかな、と思って。それだけで、強引に付き合わせてしまって、申し訳ないです。でも、まだ犯人も見つからなくて。どんなことでも良いので情報が欲しくて」
「…ごめんなさい。私が調べていたのは、ひき逃げ事件のことではないの」
「そ、そうですよね。こんな、都合の良い偶然が…」
「私が調べていたのは、こっち」
こんな、都合の良い偶然があるのだろうか。女性らしいほっそりと綺麗に整えられた指先は、あの来葉峠の事件の見出しの上にあったのだ。
「…わたしもね、同じ日に大切な人を失ったの。ごめんなさい。力になれなくて」
「……」
「わたしも同じよ。あの日から、なんだかおかしいの。どうしても彼の死を受け入れられなくて。今でも信じられないわ」
「わかります。あまりにも、突然すぎて。とてもじゃないけど信じられなくて・・・」
「ええ…。それに、この事件も解決していなくて。だから、見落とした事が載っているかもだなんて、こんなところまできて記事を探したの。あなたよりもずっと大人のはずなのに、まだ全然、立ち直れそうになくて……」
「ジョディさん…」
「あら、気が付いていないかもしれなけれど、あなたも相当ひどい顔をしているわ。私たち、おんなじね」
無理をして笑う姿は、涙を流している訳でもないのに、泣いているようにもみえた。大人の女性が、弱っているのだ。
キャストのおねえちゃんが、アルコールに溺れて泣いている姿を見ることもあったし、慰めたことだってある。でも、この人の、ジョディさんは本当に泣きわめいているわけでもないのに、ずっと痛々しい。大人の女性が感情を吐露して、余裕がなくなっている姿は今まで見たこともなかった。
でも、同じではない。この人と俺が同じなんてことあるわけないのだ。この来葉峠で殺されたのは、俺の兄貴なのだから。兄貴を身代わりにしたメリケン野郎は、死んでなどいないのだから。
心の片隅で、この人は無関係であればいいのに、と子供じみた真逆の感情を持ったからだろうか。罰が当たったのだろう。俺は、バカだ。でも、幸運なのだ。そう、思わなければ、ならない。ふつふつと湧き上がってきた理不尽な怒りは無理やりねじ伏せた。幸運であることに、感謝をしなければ。
せっかくの晴れた日差しも、気が付けば雲に覆われてしまったようだった。先ほどまでの日差しの温かさは消えて、いつものように冷たい空気が休憩スペースを流れる。指先もひんやりとしてきた。暖を取るために購入した缶コーヒーの中身もすっかり空で、それすらも冷ややかだ。
「力になれるかはわからないけど、一応、知り合いに警察関係者がいるから、聞いてみるわね。よかったら、これ私の連絡先。話くらいだったら、いくらでも聞くわ」
「ありがとうございます」
「いいのよ。気にしないで。私のためでもあるんだから」
「あなたに会えて本当によかった。俺ばかり話をしてしまって、すみません。…ぜひ、あなたのことも教えてください」
::::
ジョディ・サンテミリオン。元英語教師。
来葉峠の事故で、職場の同僚を失ったと言っていたけれど、あの様子ではただの同僚ではないだろう。元恋人あたりが妥当か。どんな仕事をしているかは教えてくれなかったけれど、同僚という言葉が真実ならは、彼女はFBIということになる。
日本のゲームが好きらしくて、今度ゲームセンターへの約束を取り付けた。デートの経験なんて、そう多くはないのだけれども、年下らしく少しずつ甘えていって、二人で傷の舐めあいのフリでもしよう。
専門として学んだわけではないが、大切な人を失った、と話す彼女は相当参っているようで、入念に化粧で隠された顔色や隈、纏う雰囲気も相まって、話せば話すほど空元気だということが分かった。
曲がりなりにも高度な技術を必要とする接客業で培った経験はこんなところでも役に立つのだから、お店には感謝をしなければ。
相手が弱っているのならば、それを利用しない手などない。雑音を立てる感情は無視すべきだ。多くを語らなかった彼女を慰めて、メリケン野郎の情報でも引き出してやろう。
こんなにも、うまくいくとは思わなかった。彼女がFBIだと気が付いた時点で、変に口の中が乾き顔色にも表れてしまったが、それについても不審がることもなかった。「大丈夫?無理に元気なふりをする必要はないわ」だなんて。
普段の彼女なんて知らないけれど、きっと、平時の彼女なら俺の嘘などすぐに見破ってしまうのだろう。言葉の端ににじみ出てた知性は俺のような付け焼刃のものではなく、プロとして培った磨かれた経験に感じた。
その道のプロを相手に、また会う約束まで取り付けたのだから、俺はつくづく幸運なのだ。
彼女と別れて数時間。
記憶をなぞりながら、一人で参考書を読む。ようやく見つけた手掛かりだ。人に与えられてばかりであった情報も、今回こそは自分で掴めそうだ。にたりと、上がりそうになる口角を分厚いハードカバーで隠している時だった。
「…こんにちは。今日も勉強熱心ですね。なにか、いいことでもあったのですか?」
「…どうも、こんにちは。やっぱりあなたって相当な暇人でしょ。しかも、もしかして、見てました?」
「なにをでしょうか?楠田君がその本を読みながら、急に思い出し笑いをして、口元を隠したことですか?」
「見ているじゃん!」
いつも身にまとっているのはタートルネック。そして、眼鏡。本人には言えないけれど、胡散臭い笑み。
「はあ…。君はいつも難しい顔をしていますからね。どんなことを考えているかは別として、笑っているのであれば、それは良いことです。折角の魅力は、もっと武器にしないと」
「わかったってば。もう。ありがとうございますって。今日もお願いします。それで、これ」
いつものように、俺の隣に座るこの人との出会いはいつだったか。
親切なんだか、暇人なんだかはわからないけれど、参考書の問題とにらめっこをしていた時にさらりと解へ導いてくれたのだ。それ以来、約束をしているわけでもないのに、丁寧に勉強をみてくれる。お人好しって感じではないのでただの暇つぶし。なにより、ここはその人が通う大学院も併設している学校施設の図書館なのだから、いつ現れたっておかしくない。
「勉強熱心なのは、なによりですね。ああ…たしかにその定理は確かに最初は躓いてしまうかもしれませんが、きちんと定義を確認すれば、君なら大丈夫ですよ。ほら、ここをこのようにして…」
はじめのうちは、うっとおしかったけれどいつの間にか慣れてしまった。無理に距離を詰めてくるわけでもなく、恩着せがましいわけでもない。むしろ、まともな学を修めてこなかった俺にとっては、曲がりなりにも日本屈指の大学院に通う人間の気まぐれは、願ってもないものだった。まあ、やっぱり胡散臭さはぬぐえないけれど。
「あっ、そっか。それだ。さすが現役東都大院生だね。――沖矢昴さん」
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第5話
side とあるドクター
「楠田の異母兄弟は数奇な運命をたどる星に生まれたんだろうね」
「生まれも悲惨だ。彼の母親とやらは、一人で生きるどころか、おしめも取れていない幼い彼を置いて夜逃げしたらしい」
「ふうん、名づけは母親ね。ただの偶然にしても、皮肉めいたイイ名前を付けられているじゃないか。もっとも、彼のことを唯一名前で呼んでいた兄は死んでしまったけど」
「これぞロクデナシのお手本という父親は典型的なDV夫で、趣味は競艇にパチンコ…。女を孕ませては愛想をつかされて出ていかれている。父親もいまだ存命…だけど、彼にとっての家族は兄だけだろうから、まあ、どうでもいい」
「あはは。リクミチの母親も、同じように出て行ったから、ここは喜劇的だと笑うべきなのかな」
「リクミチはよくやったよ。血のつながらない弟のことを、ろくでもない父親から守った」
「ふうん。中学生で夜逃げねえ。しかもそれが成功しているのだから、リクミチも相当苦労したんだろうよ」
「一般家庭とは程遠い家庭環境だけど、リクミチと彼にとってはやっと手に入れた安寧だ。気に食わないからと灰皿を投げつけられることもなくなった。冬の寒い日に冷たいシャワーを掛けられることもね」
「けれど、もっと悲惨なのはここからさ。ハンカチの用意は出来ているかい?」
「リクミチが弟くんの中学入学のために制服を用意した矢先さ。弟君はそれはもう重たい病気にかかった。ゆるやかに、若い魂を死へ導く病だ。彼らはただ生きているだけなのに、何の罪があってこんな仕打ちを受けているのだろうかね」
「余命いくばくか。とてもじゃないけれど学校なんて通うこともできない。ふうん、弟くんのこのころのカルテまで用意してるのか。ああ、よかった。電子カルテか。医者の悪筆は万国共通だからね。解読不能の落書きを渡されたらどうしようかと思ったよ。ちょっと前なんて、医者の悪筆が原因で、間違った治療をほどこされて命を落とすものも少なくなかったからね。あはは。僕の字は綺麗だから大丈夫。ああ、話がそれてしまった。それで、そう。徐々にむしばんでいく病を退治するにはどうすればいのか」
「金さ」
「とにかく働いた。リクミチは真面目に働いた。たいせつな弟くんの魂にかけられた天秤が沈み切る前に、遊びたい年頃だろうに、弟くんのベッド代を稼ぐために働いた。ああ、このあたりで弟くんの反抗期か。たしかに、自暴自棄になってしまうだろうね。カワイソウに」
「まあ、あとは知っての通りさ」
「弟くんは年単位のベッド生活。リクミチはお金のために、僕も所属するかの尊い組織に所属することになったんだ。金払いだけはいいからね、ここ」
「リクミチは組織の中でも真面目に働いたよ。地頭がいいんだろうね。それに度胸もある。まさかこの僕が人に借りを作るとは思いもしなかった。
そう、その日は雨だった…おいおい、違うよ。僕がこの話を君にするのはこれで12回目だ。20回も話していないって。あは、それくらい衝撃的なんだって。
まあ、話題を戻そうか。コードネームこそ与えられなかったけど、コードネーム持ちと一緒に仕事するくらいには有能だったんだ。もしもコードネーム持ちになっていたら、どんなものを与えられたんだろうね」
「でも真面目に仕事をしていたリクミチは死んだ。自殺だ」
「仕事を失敗して、責任を取って。君の知っての通り、杯戸中央病院からの逃走中にね。しかもその遺体は裏のルートで保存され、死に装束にしてはナンセンスなものを着せられてしまった、と。ああ…名前は知っている闇医者だ。それにしても、もう一度死ぬだなんて、なかなか不幸なやつだ」
「はーあ。この組織の仕組みも、もう少しまともにならないと、人が死んでばかりで成り立たないねえ。疑われたら死、だなんて中世の魔女狩りじゃないんだから。優秀な奴ばかり脱落していくのだから、上層部も人員不足でヒーヒーいってるだろうね。僕には関係ないけど」
「それからようやく、人形の夢と目覚めさ。借りを返すために、生前リクミチが望んでいたことを僕が叶えてやったのさ。命を吹き込むにしては、刺激が強すぎたけど、そんなの知ったこっちゃない。上手なゼンマイの巻き方が知りたいのなら、幼児からやり直さないとね。
お人形遊びなんてしたことなかったけど、あれはあれで気持ちのいいものだね。外界とのつながりがなかった見目の麗しい彼が、痛い目を見ながら世界の成り立ちを徐々に学習していくのだから。それに、着せ替え遊びも悪くない」
「病院を出た彼は、呆然と立ちすくんでいたよ。最愛のお兄さんがいなくなったと思ったら、怪しげな白衣の男に、お兄さんが自殺したとまで言われたんだから。おお、恐ろしい」
「今じゃああだけど、彼をなんとか人として動かしているのは怒りのエネルギーだろうね。ええ?素行は問題ないし、穏やかな子に見えるって?馬鹿いえ。怒っている人がいつも眉を吊り上げて、荒い息をしているとは限らないだろう。静かに、静かに、小さな火種は消えることなく燃焼しているのさ。腹の中に生まれた魔物は確実に育っているよ」
「そのあとは、僕が紹介してあげたしょうもないサクラのバイトでなんとか食い扶持をつないでいたようだね。そこから職を変えて、新宿の黒服だね。すごいじゃないか。某暴力団の関係者にも気に入られていたのか。そんなこと彼は教えてくれないからなあ。ずいぶんいい部屋も与えられて、まさに愛玩人形だね」
「ああ~永嶺ってやつか。あの子に余計な情報を渡したのは。ズルはいけないけど、これも彼の実力ってことにしてあげよう。この人から来葉峠とFBIと楠田陸道の点をつなげる情報を与えられたのか。これ、そろそろ元凶と結びつくのも時間の問題じゃないか?」
「リクミチが死んでから、よっぽど運がいいんだか、わるいんだか」
「おや、資料はここまでで止まっているのか。優秀な君のことだから、未来の情報まで用意してくれるとばかり。ああ、そうだね。君はあくまでも情報屋さまだものね。未来予知までは仕事じゃないか。ええ?最強のハカーと呼べ?やだよ」
「ありがとう。やっぱり自分が世に送り出したからか、その後の足取りは気になってね。もちろん今でも連絡はとっているよ。先週だって、焼肉を奢ってやったし。恥ずかしがってすべてを話してくれるわけではないから、こうして定期的に観測しているのさ。ふふ。これからが楽しみだねえ」
「ああ、交友関係も洗ってくれたのか。仕事先の従業員に、その客。サクラのバイト先で知り合った先輩。それに警察関係者。先週に話していたんだよ。どこかの図書館で顔見知りを作ったって。勉強を教えてくれるんだと。うんうん、学ぶことは大切だからね。いざというときには武器にもなる。次の資料にはそいつの情報も入れておいてくれよ。どこの馬の骨かもわからないじゃないか。そいつがただの親切な善良な市民ならいいんだけど」
「リクミチのカタキを取るために、毎日地道に努力を続けて偉いじゃないか。いつもさあ、僕に聞きたそうにするんだけど、聞かないんだよ。あくまでも、自分の力でたどり着きたいんだろうね。えらいじゃないか。今の若い子たちはゲームだってすぐにインターネットの攻略サイトで答えを確認してから、最良のキャラクターを調べてからやるんだから。まあ、彼が答えを聞いてきた時点で僕は興味を失ってしまうだろうけど、そういうところもリクミチに似て人を見る目があるんだろう。リクミチに運はなかったけどね」
「彼はいったいどうするつもりなのだろうね。カタキを見つけたときに、許すのか。殺すのか。そもそも、元凶にたどり着けるのか。
腹に飼ってる魔物は何を望むのだろう。魔物はいずれ彼自身をも飲み込んでしまうのか、それとも食い破るのか…とにかく、狂気にのまれたとき、どう変わるのかが楽しみだ。間違っても、時間の解決で今の状況を受け入れて、ツマラナイ道は歩んでほしくないなあ。
復讐劇にトモダチの仲良しごっこはいらないだろう?図書館の善良市民とやらに影響されてフツーになったらやだなあ。あはは」
「さて、最後になってしまったけど、君が送ってくれたオレンジもおいしかったよ。親戚がつくった奴なんだっけ?USPSの面倒な植物検査までごくろうさま。最強のハカー様」
「はいはい、わかったって…。あんまりハメは外さないからさあ…。僕も君も、普通を語るにはちょっとイカれているんだから、苦手なことはやめておこう。君に普通を語られるのは心外だ。あはは、心配のし過ぎは嫌われる?いいんだよ。」
「楽しいか、そうでないかが僕にとっては重要なのだから」
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第6話
Jody≪Jody.XXXX@Zmail.com≫
To:kusuda
Hello!メールありがとう!
私も先週のゲームセンターでの対決、とってもexcitingで楽しかったわ。XD
あなたが話していた新宿のVRもぜひ行きましょうね。
先日話した、知り合いの警察関係者の件についての連絡もするわね。
先方は事件解決に繋がるかもしれないから、あなたと話したいと快諾してくれたわ。
今週末の金曜日に、新宿東口の改札近くで待ち合わせしたいそうよ。
彼はとても親切よ。きっとあなたも気に入ると思うわ。
詳しいことは二人で決めてね。連絡先は(W.XXXX@Zmail.com)です。(ちゃんと本人からの了承は取っています)
あなたの幸運を願っています。:)
::::
金曜日の新宿、しかも東口だなんて待ち合わせ場所としては最悪だ。
仕事終わりのビジネスマンから、これから遊びに行くのであろう派手な格好をした女の子たち、ずいぶん年の離れたカップルに団体観光客のチャイニーズ。歩くスピードも、進む方向もみんなばらばらでごちゃごちゃで、飛び交う言語もバラバラ。みんな人と人の隙間を縫うように歩き、ぶつからないのだから、器用だ。
地下特有の閉塞感は、これから起こるであろうやりとりを考えれば、より一層重たく息苦しく感じるばかりである。
あんな嘘っぱちの言葉が、本当にジョディさんを動かすとは思わなかった。メールのやり取りを数回。警察関係者だというその人は俺に会ってくれるという。
彼女の知り合いは相当暇人なのだろうか。それともよっぽどの馬鹿なのか。警察関係者っていったいどこまでの範囲なのだろう。親戚や家族が警察でさ~、なんて人が現れたら時間の無駄すぎる。
嘘なんだから、ひき逃げ事件のことなどどうでもいいのだ。自分で蒔いた種ではあるが、ホンモノの警察関係者ならば嘘もすぐにバレてしまうだろう。それなのに、なぜ俺がここにいるのかというと、ひとえに「警察関係者」という肩書に惹かれたからだ。実は、知り合い…というには一方的に避けている刑事もいるがその人には頼りたくなかった。人が良すぎて、苦手だから。とにかく、釣れる魚の大きさはまだわからない。兄貴の手掛かりになるのならば、どんなことでもしてやる。
嘘をつくのはもう慣れてしまった。自分が何者かなんて、自分が決めるのだ。安っぽい偽善なんて腹の足しにもならない。
適当な理由を並べたあとに(ジョディさんにどうしても近づきたかったからとか)、親密になって、来葉峠の事件について聞けばいいのだ。どんな人が来たとしても、くさっても警察関係者。そこからの人脈をたどればよい。
さて、これから来るのは、どんな奴だろうか。
仕事終わりに来るとのことなので、スーツとのこと。本人曰く目立つような特徴もないらしいので、会うのも一苦労しそうだ。ジョディさんの紹介ということもあって、特に用心もせずに来たけれどあんまりにもヤバそうなやつだったら逃げよう。木を隠すのならなんとやら。幸い吐いて捨てるほどの人間が集っている。
電話番号くらい教えてもらえばよかった、と後悔してももう遅い。今どき珍しく、やり取りはすべてメールなのだ。俺が送信した『到着しました。今着ている服装は黒のセーターに、カーキーのブルゾン。パンツはチェック柄です。クラッチバッグを持っています』と、待ち合わせ場所から送った内容の返信はまだ来ない。
時計を見れば(そういえばこれも貰い物だ)待ち合わせ時間まではまだ余裕がある。雑踏は変わらずごちゃごちゃで、眺めるだけで目が回りそうだったのでぼんやりと人々の群れに目線を向けることを放棄して、持ち歩いている文庫を片手で広げる。そうして、スマートホンの確認も忘れて読みふけてどれくらいの時間がたっただろうか。目の前の視界に、スーツ姿の誰かが向かい合うように現れた。
顔をあげれば、スーツ姿の男性が一人。何度か見た、正義感の強そうな顔。あ、やばい。思わず逃げ出しそうになったが、相手の方が早かった。
「あ!たのむから、逃げないでくれよ!」
「うわっ…!げえッ」
金曜日の新宿をなめていた。先ほどよりも格段に人口密度が上がっている。この場で突然駆け出したところで、人が邪魔になりそう早く進めないだろう。
とっさにその人から逃げ出そうと駆けだそうとすれば、先手必勝とばかりに腕をつかまれてしまった。
「お、おまわりさ…」
「わーっ!僕がそのおまわりさんじゃないか!久しぶりだね、楠田くん」
「……腕、放してください」
「あっごめん。大丈夫かい」
「別に……」
別に、大げさなことではない。掴まれたといっても、こちらを気遣うような力具合で逆にイラついてしまった。
ひき逃げ事件を追っているだなんてジョディさんへ嘘をついたことも、きっとバレている。最悪だ。しかも、今まで勝手に音信不通にしていた俺を怒るばかりか、その人は心配そうな目で見てくる。やめろ、そんな目で俺をみるな。むしろこの場で殴られた方がましと思えるくらいに、その人の真っすぐさは慣れないものなんだ。
黒髪黒目で精悍な顔立ち。いつものようにブラウン系の色味をしたスーツを纏っていて、その体系はほっそりとしているけれど、決して頼りないわけではない。締まっているのだろう。刑事なのだから。
「待たせちゃってごめんね。いろいろ話さなければならないことがたくさんあるね。ジョディ先生から話をされたときに、まさかとは思ったけど、ここにきて確信が持てたよ。さあ、場所を変えようか」
「うんと高くて、おいしいお肉が食べられるところなら付き合います」
「ごめん、給料日はまだ先だから…あ、クーポン持っているから牛角にしようか」
「まあ、それで手を打ちます…」
俺には、苦手な人がいる。
その人は担当刑事だったからというだけで、なんども俺に電話を寄越してきた。しかも、事件のための情報収集というよりは、被害者の家族として気遣うように、俺のいまの状況まで聞こうとしてくるのだ。
気にかけてもらうことに理解ができず、電話も無視ばかりしてしまった。わからないものは、不気味だ。優しくしてもらっているのだと思うのだけど、この人に優しくしてもらう理由もない。
人が好さそうな顔をして、俺に親切にする。そして、音信不通にしても、嘘をついても、俺に対して怒ることはない。
高木渉刑事のことが、俺は苦手だ。
::::
「…別に、アルコール飲んでもらっても構わないですよ」
「いや、今日はやめておくよ。気を使ってくれてありがとうね」
そういって笑う姿はやっぱりむかつく。この人は俺を殴ったり、蹴ったり、暴力に訴えた行動をしたことなど、もちろんないけれどどうしても腹の虫がおさまらないのだ。べつに、腹が減っているとかではなくて。
金曜の夜の活気あふれた店内とは打って変わって、このテーブルだけはやけに静かだった。一番初めに運ばれたタンからにじみ出た油が滴って落ちればワントーン高い音と主に白い煙も上がる。ジュウジュウ、と肉の焼ける音だけで何とか間を持たせているけれど、どうしようか。本能ばかりはしかたなくて、胃を刺激する脂の匂いに反応してしまう。くう、と腹がなってしなったけど、たぶんバレていない。
「ええと…あらためて…久しぶりだね、楠田くん。元気にしていたかい?」
「…別に、変わらないです」
ああ、自分でもガキっぽくてダサいと思ってしまうのだが、この人の前だとどうしてもそっけない態度をとってしまう。
「責めるわけではないんだ。でも、ずっと連絡がとれなかったから心配だったよ。まさか、ジョディさん経由で再会できるとは思わなかった」
「俺も、いろいろあるんで…」
「うん。そうだよね。もちろん、君の事情も承知している。一人で働いて、生計を立てているのも偉いと思うよ。でも、そうだな…嘘をつくのはよくないよ」
まるで子供の失敗をたしなめるような調子の言葉だった。ジョディさんにひき逃げの犯人を追っていると嘘をついたことも、メールのやり取りでぺろりと吐いた嘘も、とっくに気が付いているのだろう。
高木刑事は鍋奉行よろしく焼肉奉行なのか、並べられたお肉の焼き具合を確認しながら順番にひっくり返していく。どうせ生焼けだろうが胃袋も気が付かないからへーき、という考えは甘いらしい。肝炎になってしまうからしっかり焼かないと、と注意されてしまった。甲斐甲斐しく、焼けた肉から俺の取り皿に並べられる。
「ひき逃げ犯を追っているだなんて、嘘をついた理由もわかるよ。本当はお兄さんのことを、調べたかったんだろう」
並べられたカルビから滴った脂が燃焼材になったのか、ボゥ、と勢いよく火柱が立った。高木さんがウーロン茶から氷を取り出し網の上で転がしても、火柱は変わりなく燃え続けている。
「だったら、いいじゃないですか。兄貴のことを知られたくなかった。立派な理由です。あ、これ、もう食べられますか」
「まだちょっと赤いからダメだよ。こっちならいいよ。…すまない。君に早くお兄さんの行方を知らせることができたら、こんなことしなくても済むのに」
高木刑事が用意した氷1つでは到底火柱は収まらない。見かねて、俺のウーロン茶が入ったグラスからも氷を取り出し、無理やり沈下させる。折角のカルビは焼かれすぎたみたいで、ところどころ真っ黒に焦げてしまっていた。
俺だって肉の世話くらい、出来るように成長した。気を取り直して、ネギ塩カルビを並べる。黒焦げの目立つ網の上で、肉は脂が浮き出て艶めいている。
「高木さんの前で言う言葉でもないですけど、もうあきらめがついたんで、気にしないでください。兄貴の生存も、警察の捜査にも」
「……だから、君は危ないことをしようとしているのか?」
「…あ、ネギが」
高木刑事の真似をして、肉をひっくり返せばカルビに載っていたネギはあっけなく網の隙間をくぐりジュウ、と落ちてしまった。いずれ炭になってしまうのだろう。
「君は、何をしようとしているんだ」
「……。高木刑事。お肉、焼けましたよ。冷めないうちに、どうぞ。ほかに何を注文しますか」
「一人で抱え込まないでくれ。僕だって、ほかの刑事だって、ジョディさんだって、君の周りには君のことを心配している人はたくさんいるよ。君はまだ、周りに人に頼っても…」
「うるさい」
「楠田くん…」
「うるさい、うるさいんですよ。折角の焼肉もまずくなります。その話はしたくない。あなたのそれは善意から、そんな言葉が出るんでしょうけど、迷惑です」
「……」
「あなたと、俺は違う。生きてきた環境も、取り巻く周囲も。同じにしないでください。あなたの善意は、俺にとっては――」
俺にとっては、なんだ?高木刑事の言葉ひとつひとつにが心を揺さぶり、真っすぐ刺さるのはひどく居心地が悪かった。それに対してグツグツと、体中の血液が脳天にあつまり沸騰しそうになったが、続く言葉が音として紡がれる前にサア、と血の気が引いたのが自分でもわかった。あまりにも考えなし過ぎたから。
高木刑事の目が嫌だった。まっすぐと俺のことを射抜くその瞳は、正義感にあふれていた。自分をよく見せたいとか、世間体とか、自分に酔った瞳ではないのだ。目の前の俺に対して、誠実でありたい。力になりたい、という意思が伝わってくるのだから。
言葉の節からも本当に心から心配し、だからこそ真剣に俺の行いを問いただしていることが伝わってくる。似ても、似つかないけれど、俺に元気を与えるように病室に通い詰めた兄貴を、思い出した。だから、嫌だった。
「…何でもないです。ジョディさんを通して、呼び出してすみません。でも、高木さんだって人が悪いですよ。最初から、わかってたら…」
「最初からわかっていたら、君は来なかっただろう?電話も、いつも無視されちゃったからね。僕のことを苦手にしているのはわかってたから、強引に進めちゃったね。これは僕が悪いと思う。偽るようなことをして、ごめんね。でも、どうしても君に会いたかった」
知らない人が聞いたらまるで告白でもされているような言葉を、高木刑事はなんということもなくさらりと口に出した。もちろん、彼が真剣なのはわかっている。だから、俺にはダメだった。
「あは、なんだか熱烈な告白みたいですね」
「こっ…!?」
「あなたにそんな気がないことくらい、わかってますよ。ねえ、高木刑事。ほんとうに、大丈夫なんです。もう一人暮らしも始めて数か月たってだいぶ慣れましたし、極まれにですけど自炊だってします。職場の人はいい人ばっかりで、この前なんてスキーに誘われちゃいました。結局、いかなかったですけど。それに、友人…みたいな人も出来ました。働いて、自分のお金で必要なものを買って。それに、俺みたいな人、多くはないでしょうけど、世の中にたくさんいますよ」
「そうだね、本当に君は頑張った」
「ジョディさんに嘘ついて近づこうとしてごめんなさい。でも、もう…やめます。飽きちゃいました。疲れるし。自分で調べるのも限界があって、八方ふさがりだったんです。新聞も毎日読んでたんですよ。えらいでしょ。だから警察関係者の紹介だって、ダメ元だったんですけど、どうしてもつながりが欲しくて。でも、高木刑事じゃなあ。あなたなら、回りくどいことしなくても捜査に進展があれば教えてくれそうだし」
「……」
「あと、ジョディさんに嘘ついたのは自分から謝っておきます。出来れば嫌われたくないので、高木刑事からは言っちゃだめですよ。こういうのは、自分でけじめつけないと。あんな綺麗な人、たぶん、俺みたいなガキは眼中にないでしょうけど…」
「え、それって」
「秘密です。…すみません。俺、すごい高木刑事にひどい態度ばっかりとっちゃって。兄貴への手掛かりがなくて、焦って周りが見えていなかったんです。そうですよね、あなたの言う通りもう少し大人を頼ればよかった」
「うん、」
「本当にごめんなさい。心配してくれてありがとうございます。目が覚めました。もう、こういうことはやめようと思います。」
「楠田くん…!僕も焦ってしまった。本当にごめんよ。僕、高木渉はいつでも力になるから、何かあったらまた連絡してくれ。電話が苦手だったら、メールでもいいしね」
「もう、高木さんは謝らなくていいんですよ。仕切り直しましょう。あ、網も替えちゃいましょうか。まだまだ食べれますよね?せっかくの焼肉なんで、食べまくりましょう」
:::::
高木刑事は謝らなくても、いいのだ。
だって、嘘なのだから。
もう駄目だった。こんな、おわりも見えないような途方もないものを追いかけることは不毛だろう。でも、この怒りが、やり場のない強い怒りこそが今の俺を生かしているのだ。自殺に追い込まれて、もう一度殺されたという兄貴の思いはどうなってしまう。きっと、兄貴は俺のことを待っているのだ。俺が、敵を討つことも望んでいるだろう。それを取り上げるなんてこと、しないでくれ。
真っすぐ向けられた、善良な人間の気遣いはやはり居心地が悪かった。煮えたぎる怒りには不要のものだから。
その後は、食べ放題のラストオーダーギリギリまでひたすら焼肉を食べ続けた。お店を出るころには、高木刑事もだいぶリラックスした様子で嬉しそうに匂い消しのガムを渡してきた。ガムを噛みながら、たわいもない会話をしてホームで別れて、今日のミッションはおしまい。あの人、満足そうにしていたな。多分、お腹が満たされたとかじゃなくて、俺があの人の思い通りに諦めたから肩の荷も下りたんだろうな。
口にのこる、たいしておいしくもないガムを包み紙に吐き捨てて、電話を掛ける。
相手は、先輩だ。
「こんばんは、夜分にすみません。え、夜分じゃないって?たしかに昼夜逆転している先輩にはまだ朝くらいですもんね…あは。はい。そうです。その件です。あのお話、お受けしようと思って。お金がたくさん必要なんですよ。まあ、理由なんて大したものじゃないんで、そういうことにしておいてください。はい…。だから、野菜の手押し…ちょっと危ない裏のお仕事に俺も一枚かませてください」
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第7話
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地獄と踊る
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ある人は言った。君のそれは、まるで恋じゃないか、と。
俺は「恋」とはもっと輝いて、みずみずしくて美しい尊いものだと思っていたから否、と答えた。
恋ではない。でも、一方的な思い込みと、感情の押し付けという点においては似ているナニカだったのだろう。
地獄のようなヒトだったから。
はじめての出会いは、俺が死ぬまで忘れることはないだろう。
指定された、コンテナターミナルの一角。時間は真夜中の25時キッカリ。
世界を旅しているのであろうコンテナの塗装の色は褪せて、無駄なスペースもなくがみっちりと積み重なっている。海に面しているだけあって、底冷えするような風は寒いというよりも痛いとすら感じた。
ネーム持ちと会うのはこれで2人目。ネームを頂く、というのはトクベツな名誉あることらしいが、1人目に会うまでは都市伝説か、組織に心酔している連中の空想物語かとばかり思っていた。俺にとっての組織はそんな程度。
ネームド様に会う下っ端らしく、待ち合わせ時間の30分前から待機。極寒の真夜中で眠くなるという最悪の状態の中、待ち合わせ時間丁度のことだった。
ザァ、と身体を煽るような一層強い風が港を抜けていった。飛びそうになる帽子を押さえ、落としていた目線を戻せば待ち人はいた。
そこにあったのは、地獄の底を映したような冷たい瞳だった。冷たくて、恐ろしくて、畏怖すべきもの。絶え間なく奈落の果てで揺らめく炎のような熱をもっているのに、それを無理やり青の眼球に抑え込めたような。
俺を値踏みするように、頭の先からつま先まで目を細めて眺めている。まるで肉食動物が、これから狩る獲物にどこまでの価値があるのかと。お前はなにをもたらすことが出来るのかと。値踏みというには視線に殺気がこもっていた。
粗野なモノばかりが多い組織では、珍しいほどマトモ。ナマリ玉を出会い頭にぶち込もうとするジャンキーだって少なくない。焦点が合わないヤク中だって。まあ、ほかの構成員同様、彼もまたヒトとして何かが欠けているか、多く持ちすぎているが価値を見出さない人種なのだろう。数口の会話は次の仕事内容と、俺の役割の説明。ただ話しているだけなのに、全身静電気を浴びたようにピリピリする。
地獄のように恐ろしいけど、おなじくらい地獄のように美しい人だ。俺は他人の醜美には興味を持たないが、美しいカタチをした人だとトクベツに思った。けれど、『バーボン』は人間の形をした別のモノなんだろう。風にたなびく金糸の髪も、甘やかな顔立ちも、魅力に溢れているがそれ目の前の人にとっては、道具のようだった。
誰かに命を明け渡してしまったのだろうか。はたまた、悪魔に魂を売ってしまったのか。
だから、俺はこの人に近づくことを選んだ。バーボンに興味惹かれたのだ。
灯篭に群がる蛾のように近付きすぎて炎に焼かれて破滅なんて、ありえない。絶対にきっと俺の怒りも共感してくれる。
―――赤井秀一という男に対する恨みというのは、同じはずなのだから。
「バーボン、俺、あなたが好きだよ。俺は役に立つ。それに、なんでもやるよ。だから、あなたのそばにいてもいい?」
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地獄と踊る
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昼夜逆転の生活もすっかり慣れてしまった。
夕方頃に起きて、身支度をして、黒服として働く。そして日が昇る前に就寝。休みの日だったり、気まぐれに昼間に起きることもあるけど、たまに太陽の光を浴びるとまぶしくて仕方なかった。
夜の街のネオンが俺にとっての太陽みたいなものさ、なんて気障な言葉を先輩はこぼしていたけれど、あながちこの街にいる似たような界隈の住人はみんな同じものかもしれない。
そして、いつものように非常階段で、開店前の一服を済ます。
俺はお店のおねえちゃんからもらったカラフルなマカロンと体のメンテナンス用の錠剤を。先輩は電子タバコを。やっぱり普通のタバコ吸いてぇ~!吸ってる気がしねえ、と愚痴りだしてしまった。聞けば、付き合い始めた彼女さんが嫌煙家で極力匂いを残さないために始めたとのこと。喫煙者であることも黙っているのだから、バレたときがこわいですね、と苦笑交じりに話せば仕事のせいにするらしい。職場の人間に無理やり勧められた、と。人としてどうなんだろうか。そもそもこんな仕事しているんだから、吸わないとやってられねえよ、といつの間にか一人で怒りだしてしまった。
「くすだっち~!紙煙草持っていない?持っていないよな~~。お前煙草も吸わねえし、酒も全然だもんな。あー、いつもそれ飲んでるね?もしかして危ないやつ?嗜好品ぜんぜん嗜まないくすだっちは、もしかしてソッチ系?ガンキメしながらホール回していたりする?」
「すみません、煙草はもっていないです。ええと、ガン…?」
「知り合いに手売りしている奴いるから、ひいきのお店蒸発したらいつでも紹介するよ」
「いえ、へんな薬とかではなく、普通の錠剤なんで。ビタミン剤みたいなものって言われてますけど…とにかく所持していて捕まるとか、そういうのではないです」
「のんだら元気になっちゃう的な?」
「薬ですからね。それなりに元気にはなります」
「あ~~ほんと今どきこんな奴いるの?ってくらいのボケかますよね。それは作ったキャラなの?なんでこんなところいるのに、その手の知識は純正培養なの?よくおっさん連中相手にしているけど、そういうこと教育されないの?」
「確かに、永嶺さまとか贔屓にしてくださっている方々は、皆さん多くのことを教えてくれますよ。俺、あんまり学がないんでとても勉強になります」
「そうだけど、そうじゃないんだよな~~~お前はこのままでいてくれよ」
「は、はあ」
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このままの俺って何だろうか。
高木刑事の言葉を受け取り、先輩に紹介を頼んだあの日は、確実に俺にとってのなにかを変化させた。
あのやり取りがあったのは数週間前。非常階段での、いつもの出来事。
今の俺はそれに加えて、日常生活に新たなルーティーンが加わった。
今日の待ち合わせ場所は某百貨店3階階段の踊り場。防犯カメラの死角の場所はすでに把握済み。
ヒトの気配はいない。いるのは、なじみの客と俺だけ。カモフラージュとして百貨店で買い物をした紙袋に、ブツも紛れ込ませたものを渡して、代わりに現金の入った紙袋を受け取る。取引はこれで完了だ。
取引の場所のイロハを教えてくれたのは黒服の先輩の知り合い。界隈では有名らしい緑田(ミドリダ)さんという。なぜこんなことをしているのか。大金が欲しいとか、そんな理由ではない。
ただ、兄貴の手掛かりになりそうだったから、である。
幸運に与えられた情報だけが集められた手札ではない。兄貴は俺に心配をかけまいと隠してばかりだったけど、俺は兄貴がどんなふうに生きて、誰と知り合って、どんなことを考えて、死んでしまったのかを知りたかった。それが解へ導くと思ったから。
そこで俺は、今のお店で働き始めたころに兄貴の足跡を辿ることを始めた。それがどうして、巡り巡って薬の売人になったかって?
話は長くなるけど本当に知りたい?ああ、やだな。こういうしゃべり方ドクターに似てきたかもしれない。最悪だ。それは気にしないことにして。
―――兄貴の出身校へ訪問し、特定の同級生の連絡先を入手したことからはじまる。
とても手間と時間がかかる作業だった。運よく、当時の様子を知る教職員が在職していたのは幸運だったけど、もちろん個人情報なんてすぐに渡すような教職員なんていない。兄貴の担任だったという老年の男性教師へ精一杯善良なコドモを意識して、こう話したのだ。
「唯一の家族である兄貴が行方不明で、警察からは生存も絶望的だと。病気がちな自分は兄貴の交友関係は知らない。だから、仲の良かった友人がいればその人の連絡先を、教えてほしい」と。
俺と兄貴の家庭環境のことは知っていたらしい。すぐに教えることはできないけど本人に確認をとってあげるから、と話す瞳はすこし濡られていた。年寄りらしい乾燥してかさついた手を出しててきたので、握手をし、冷めた心で、精一杯のお礼を述べ手をしておしまい。俺の冷たい手に老年の男性教師はびっくりしたようで、体温を分け与えるように一生懸命に握手をしたけれど、なんら変わりはなかった。
その数日後に老年の教師から連絡はきた。兄貴と仲の良かったという友人の電話番号が。直接会って話すことになり、俺は知ったのだ。病室に通い詰めていた、やけに疲れた顔をした兄貴が何をやっていたのかを。
―――お金のために、犯罪に手を染めていたらしい。
「君が、ミッチーの…楠田の弟くん?似てないねえ」と現れたのはなんてことはない、普通のおじさんだった。眼鏡をかけて、こぎれいな格好をして、お酒をたくさん飲むんだろうすこしポッコリとしたお腹。その人とはそれっきりだから名前は憶えていないけど、たしか加藤さん…楠田の姓と同じカ行の名字だった。
加藤(仮)さんは、当時を思い出すように遠くを見ながら話してくれた。
思い出話は割愛。とにかく、当時いろんな職を掛け持ちしていた兄貴が、いつしかそのどれもをやめてしまっていたこと。その人とも、それくらいのタイミングで連絡を取らなくなってしまったということ。うわさ程度しか聞いていないらしいが、高校を卒業した後は半グレ集団みたいな連中とつるんで詐欺まがいの悪事を働いていたということ。
加藤(仮)さんから聞けた情報はこんなもので、この人もどうしてか自分のことのように俺のことを哀れんだ。口先だけの哀れみは苛立たしいだけだった。自分に酔うな。さむい、寒すぎる。どうでもいい情報ももらった。今度結婚するらしいという。その幸せそうな顔は俺にとって不快であったことも追記しておく。
そうして、俺は半グレ集団の活動拠点を自分の足と言葉で調べ上げた。ただ、喧嘩を売っていると勘違いされて暴力を振るわれることもしばしばあったので効率が悪かった。いよいよ、おかしなところに足を踏み入れている自覚はあったけど小さな問題だ。
「楠田は詐欺グループの一員として働く傍ら、薬物の売人ともつながりがあった。その薬物の売人グループには大きな組織がバックについていて、気に入られた楠田はバックのグループの人間とつるむようになった」と。
前歯がかけた半グレ集団の一員だという男はこうも言った。「とにかく薬物を取り扱う集団のバッグはたいていヤクザが絡んでいる。楠田がつるんでいたのは、そのなかでもとりわけ幅を利かせていた連中で、表立った組織の名前すらない。しいて言うなら、一昔前のカラーギャングのように黒を好んでいるらしい」とも。
指先は冷たくなるばかりで、寒さはとまらない。心も引き裂かれるようだった。俺のせいで、兄貴になんてことをさせてしまったんだ。
そして俺は決めかねていた心を、奇しくも善良で真っすぐな刑事に倫理を守るという心をぽっきりと折られてしまった。はっきりと、彼と俺は違ったから。俺はあの刑事のようには成れない。
兄貴がやったように。兄貴の足跡をなぞろう。それが、きっと導いてくれるだろう。そして、底辺からのスタートだった。
黒服の先輩から紹介された緑田さんは、妙に甘ったるいにおいをしている売人で売り上げの数十パーセントのバックを彼に渡すことを契約して始めた裏取引。
お金が目的ではない、兄貴に目を付けた組織に見つけてもらいたいからこその行動だったから、中抜きとして金をとられるのもなんら問題なかった。
そうして、人目をはばかるようにコソコソとした取引のみだったのが、次第に動かすカネの量も増えて、クラブやバーで派手な格好をしては同業のコミュニティを広げ、売り手を何人も探し、果てはお金を払えなくなった客を別の人に紹介するようになったころ、ついに現れたのだ。
「ずいぶんと派手に捌いたねぇ。君をそうさせるのは、やはりリクミチの敵討ちかい?」
「え、なんで…」
「おかえり。いや、やっと君はスタートラインに立ったというべきなのかな。僕は研究職の内勤だから、本当はこんなことしないんだよ?でも他のメンバーは別件に取り掛かっていて人手不足だからって、僕が来たのさ。光栄に思えよ?」
「…ああ、そうか。兄貴とアンタのつながりもようやく見えてきた」
「そう、リクミチは僕も所属する尊い組織…人によっては黒ずくめの組織だなんて呼ばれるココにいたのさ。そうして、命を落とした。
ある意味では組織にリクミチを殺されたと恨んでもいいところだけど…君のその様子だと、組織に対する感情は…正直、興味なんてなさそうだね。ああ、ああ。そうか君は辿り着いてしまったか。
黒くて、無愛想で、人の心なんざ持ったふりをしているだけの、あの男に。名前も知っているのかな。あは。優秀じゃないか。たしかに、あのサイコ野郎の脳天に風穴を開けるには、この組織こそがぴったりだろう。
では、名もない組織だから、便宜上黒の組織とでも呼ぼうか。ようこそ、黒の組織へ。僕は君を歓迎するよ。さあ、とびっきりの復讐劇を見せてくれよ」
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第8話
「楠田くん、今日の勉強はここまでにしましょうか」
思いもしなかった言葉に、顔をパ、と上げれば笑っているんだか、怒っているんだか、真顔なんだかよくわからない整った配置の糸目の眼鏡がいた。
多分、今は真剣な顔をしている沖矢昴の顔だ。
俺の勉強は順調で、そしてこの人と会った回数は両手で数えられないくらい。大学院生様はいつも気まぐれに現れては俺に勉強を教えてくれて、最近はそれ以外の会話もずいぶん楽しい。そう思っているのは、俺だけじゃないといいのだけれど、この人の感情はどうにも読み取り難いのだ。いつも浮かべている微笑は、それだけの意味を持つものではないのだろうけど。
組織での活動も増えて、お店との両立も難しくなってきた。昨日だって、夜遅くまで何のためにやっているかもわからない作業をやらされていたのだ。血を見ることも増えた。流す血が自分以外のこともあれば、自分の時だって。だけど図書館に通うというこの時間を切り捨てるのは、まだ早いと思っている。勉強だって続けたいし。それに穏やかなこの場所は、真夜中の街でうっとおしく照り輝くちかちかしたネオンも、金も、暴力からも遠いから。
だから、途中で打ち切られるような事は、今までなかったぶん余計に驚いた。
「え。俺、なんかやっちゃった?」
「はい、とても。これは大ごとですよ」
「え、すみません。ええ、なんだろう。全然わからないです。今日もいつものように勉強して、わからないとこ教えてもらって…」
大きな窓ガラスがついているため、いつものように外からのやわらかな日差しが降り注ぐ。休憩スペース…もとい、どちらかが約束したわけではないけれど、いつの間にか「いつもの場所」として利用しているそこは、時間帯もあるのだろう。天井が高いので、いつもひんやりとしており(最近知ったが、ここだけ空調が壊れているらしい。そりゃ寒いわけだ)利用者は俺と沖矢さんだけであった。多くの利用者は他の階にある、空調がしっかりとした場所を利用するのだ。
「本当に気が付いていないんですか?…最近ずっとお疲れのようでしたが、今日は特に疲れているように見えます。勉強に対する姿勢は変わらないようですが、顔色も良くない」
突然の勉強会のお開きに何か失礼をしてしまったかと聞けば、体調を気遣う返答が返ってきた。ああ、よかった。俺はまだ失敗をしていないらしい。そして、シルバーの折り畳み式の小さな手鏡まで渡されてしまった。
「あー。確かに、ちょっと白っぽい?かも…?」
「ちょっとどころではないですよ。だいぶです。不調はないですか?」
「……最近ずっと頭痛がありましたけど、いつものことですし…。あと、昨日夜更かししたから、それが原因かもしれないです。それにしても、沖矢さんって手鏡を持ち歩いているんですね」
「今日は、早く寝た方がいいですね。…僕が鏡を持ち歩いているのは、意外ですか?」
「意外、っていうか…。男の人で手鏡を持ち歩いている人は多いイメージがなかったので、ちょっとびっくりしました。そういうものなんですかね」
「楠田くんは魅力的だから必要ないかもしれませんが、やっぱり女性にはよく思われたいですからね…」
モテるために手鏡を常備していると、のたまっているけれどこの人だって大概だ。この前、ブレザーを着た可愛らしい女の子に告白されたのを偶然にも見てしまったばかりだから。まあ、エチケットとして持ち歩いているんだろう。
「熱は……」
「う、わ」
伸びてきた手に、思わずのけぞってしまった。
目線よりも高い位置に翳される腕。脳裏ではそのまま振り落とされ、俺の頬を強く叩く記憶が流れる。ああ、嫌だ。どんなに自分は変わったと思っても、根本の記憶は変えることができないのだから。
「ああ、驚かせてしまいましたか。すみません。でも、ちょっとですので我慢してくださいね」
「……」
そ、と気遣うよう額に当てられた手は、心地の良いひんやりとした温度だった。思わず目を閉じて、成り行きを任せる。
「ふむ…熱もあるかもしれない。本当に大丈夫ですか?」
「うん…」
そのまま大きな手のひらは、頬を撫でてするりと首元へ降りてきた。ああ、気持ちがいい。心配ばかりされると、なんだか本当に体調が悪くなったような気がした。
「……はじめて会った時よりも、髪が伸びましたね」
「ん……。願掛け、みたいなことしているんです。コドモっぽいでしょ」
「いいえ、そんなことはありませんよ。僕の知り合いにもいます。そいつは結局恋人に振られてしまって、バッサリ切っちゃいましたけどね」
「へえ…よっぽどショックだったんだろうね」
「ええ、ハラワタが煮えくり返るとは、こういうことを言うんだろうな、と」
「よっぽどひどい振られ方をしたんだね、その子。あーあ。俺も早く切りたいけど、まだ見通しは立っていないな…」
「……ふふ。真っ黒で…烏の濡れ羽色の黒髪ってこういうものなんですかね。
まっすぐで…艶があって、うらやましいです」
「あはは、沖矢さんだって綺麗な髪をしているじゃないですか。なんか…距離が近くないですかね」
「ええ。僕は楠田くんと仲良くしたいんです。最初から言っているでしょう?それに、」
髪をすいていた指は、いつの間にか首筋に戻っていた。
「日を追うごとに、くたびれて…やつれている友人を心配しているんですよ」
「……。沖矢さん、袖口からいい匂いしますね」
「え?」
首元に添えられた手首を軽くつかみ、袖口に顔を寄せる。
やっぱり体型ががっちりしているだけあって腕回りもしっかりしている。腕まくりなんてしている姿はみたことないけれど、青くてぷっくりした血管がのぞいていた。
沖矢昴という大学院生は、読書が趣味で勉強も得意だというインテリ院生さまらしいが、背格好はどうみてもストイックに鍛えているであろう筋肉質な厚みがあった。何度も会う中で、1度聞いてみたことがあったけど普通のこと以外は特にしていないとも。俺はどんなに鍛えようとしても身体が細るばかりで筋肉にならないので、うらやましいばかりである。
「醤油の…香ばしいにおいがします。いつも気になっていたんですけど、今日は特にいい匂いで。なんか全体的に…肉じゃがみたいな匂いがするなって、思ってたんです。煮物、よくします?」
「…まあ、楠田くんが平気ならあまり追及はしませんが、ゆっくり休んでくださいね。君は十分に努力をしているのだから、焦らなくてもしっかり結果は付いてきますよ。それで、ええ、煮物ですよね。よくしますよ」
「すごい!するんですか。ちょっと、驚きです。勝手なイメージなんですけど、あんまり食には頓着しないように見えて…」
「楠田くんこそ、自炊はあまりしなさそうですね。毎食つくるのは大変ですが、たまにキッチンへ立つことはいいことですよ。食費は安く上がりますし、良い気分転換にもなりますからね。さて、お話はここまでにして、そろそろ本当にお開きにしましょう。早く休んだ方が良い」
「あは、りょーかい、です」
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早く休んだ方がいいのはわかるけど、やらなければならないことがある。風邪でも、絶対に休めないあなたへ、なんてキャッチコピーの薬を鼻で笑ったこともあるけれど、そうもいっていられないのだ。俺の代わりはきっと掃いて捨てるほどいて、一度でも弱みを見せたらおしまいなのだから。
「あら、今日はあなたが監視、ってわけね。もうそろそろ、私の疑いも晴れてほしいものだわ…」
「……。すみません、俺の力ではなんとも」
「わかっているわ。まだ、あなたってだけマシよ」
組織の命令は唐突だ。指令は誰が出しているのかもわからない。所属するときには、ドクターから雑に渡された名刺に載っている、都内のとある場所にあるビルへ行き、電話と机と椅子しかない部屋でよくわからない書類にサインした。ちなみに、ネームド持ちになるとカッコいいデザイン名刺を支給されるらしいので、励みなよ~とのこと。
昨晩は深夜までヘロヘロになるまでバーボンから指示をされたことをやっていたというのに、朝日が昇るころに「ギン」という人物からやけに短文のメールが届いた。会ったことはないけれど、こいつはきっとろくでもないやつだ。でもギンは組織のボスにたいそう可愛がられているらしく、逆らえるものもいないらしい。いつも持ってくる仕事は、超ド級に面倒なものが多い。まるでこちらを試すかのような。性格だってねちっこそうだ。
今回ギンに指示されたのは、簡単な任務。「キール」の脚になること。
運び屋の仕事は楽なんだろうけど、好きではない。マトモな場所で運転の仕方を教えてもらったわけでもないし、所有してる免許も合法なものではない。自分の運転技術に自信がないのだ。
とくに都内の運転は慣れない。若葉マークを貼り付けて金髪で派手な女性幹部を迎えに行ったら、美しくないから外しなさい、と捨てられてしまった。
キールは大きな失態を犯したばかりらしい。だからか、回される仕事も危険なモノばかりなのだ。あてがわれる人材も、俺みたいにまだ組織の内部的にとっては、その他大勢の有象無象ばかり。
前回呼ばれたときは、俺のほかにもう1人いたけれど今回はいない。キールにそれとなく聞いてみたら、ほかの仕事で失態をして「ジン」に殺されてしまったらしい。ギンもジンも、組織にはやはりろくでもないやつばかりである。
「ずいぶんと山奥ですけど…こんなところにあるんですかね。」
「まあ、後ろめたいことをやっている製薬会社の研究棟だもの。人目をはばかるように建てているんでしょうね。ナビなんてもう役に立たないんだから消してしまいなさい」
たしかに、ざっくりと入力した住所にはもう到着している。高速道路を降り、民家なんてほとんど見ないまま、どんどん山中へ向かうのだ。太陽はずいぶん前に沈んでいて、人間よりも先に動物が現れそうな場所である。
街灯もないような鬱蒼とした山道を進んで、1時間ちょっと。舗装された道路ではないものの、あきらかに車一台分が出入りできそうな脇道があった。出来ている轍も最近のものだ。躊躇なく車を進めれば、木々ばかりであった道が開けて、真っ白な無機質の建物が現れた。窓も異様に少ない。こんな山中には不自然すぎるほどの施設。みつけた、今回の仕事場所である。
「ご苦労様。じゃあ、あなたはこれを着けて。あと、このパソコン。コードは私のものを使っていいわ」
「あの、キール。これはヘッドセットですよね」
「何も聞いていないまま、ここまで車を走らせたの?まさかだけど、私が渡したヘッドセットで、Skypeでもしなさい、なんていうと思う?ああ、最近の子だとインターネットにゲームの実況もアップロードするんだっけ。時代よね…」
そういいながら、彼女はかるいタッチでパソコンを立ち上げる。もちろんだけど、手元は見せてもらえなかった。そして、起動したデスクトップにあるアイコンの一つをクリックすれば、1つの画面を分割するようにたくさんの映像が現れた。そのうちの一つは、ここからもみえる場所にある。まるで、たった今の映像のような。
「監視映像…」
「そう。これはいま私たちがいる研究所の監視映像よ。夜間のここは研究職の人間は出払っていてほとんどいない。いるのは民間企業の雇われた警備員。それに、怪しげな団体の職員ね。今夜のシフトだと今いるのは合計して、30人ほど。はっきり言ってこの広さの研究棟には異常な人数よ。私に与えられた仕事は、ここへ忍び込んであるデータのサンプルを持ち出すこと」
「もしかして、俺って…」
「そのもしかしてよ。しっかりその監視映像を確認して、最短ルートで私を安全に道案内しなさい。それを含めての脚よ。せいぜいしっかり、正確な情報を寄越しなさい。私も、あなたも試されているのよ。組織にね」
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第9話
兄貴が所属していた組織とやらは、やはりとんでもない場所だった。
やったことなんて、ない。は理由にならない。一歩間違えれば、死のみ。巷のブラック企業ですら裸足で逃げ出したくなるだろう。そのせいもあってか、金払いは弾んでいる。もちろん完全歩合制であるけど。
俺もキールも、無事に仕事を成功させた。
極度の緊張と、体調も良好ではない中でやり遂げたのだ。施設内を実際に動いていたキールよりも、ただ車内に残ってオペレーションをしていた俺の方が疲労困憊で、汗もびっしょりかいていたのだから情けない。
キールはあの施設内で誰とも会うことなく、データとサンプルを入手した。用意していた物騒な武器の出番もなく。車に戻ってきたキールとともに、もと来た山道を戻っている途中もずっとモニターはつなげたままにして、様子をうかがっていたが、研究所サイドの人間は内部の異常に気付いた様子もなく、間抜けにも大あくびをして、うつらうつらと舟をこいでいた。せいぜい朝になって慌てふためけばいい。
県を越えたあたりで、キールに顔色の悪さを指摘されてひとまずサービスエリアで休憩をはさんだ。過度なストレスからか嘔吐してしまい、結局帰路はキールに運転してもらったことは、出来れば組織側には知られたくないことだった。弱さは、悪だから。といっても、キールはそうぺらぺらと吹聴するようなタイプではない。
「…正直、無事にこの仕事が終わるとは思わなかったわ。普通なら、研究所側の人間をじっくりと時間をかけて観察して、行動パターンを洗ってから取り組むような任務だもの。人数だって、本来はもう少し用意すべきだったのよ。けど、組織はそれを許さなかった。私たちに時間なんて与えてくれなかったわ」
「はい」
「あなたはよくやったわ。まだ組織に入って間もないと聞いているけど、1年くらいなら生き残れそうね。せいぜい、身の丈を弁えて自分の出来ること、出来ないことの区別をしなさい。まだ若いのに、こんなところに来ちゃって…無駄死にだけは、やめなさいよ」
「…やさしいですね。キールって」
「やめて。違うわ。この組織は人間の入れ替わりが激しいから、少しでも使えそうな人材のキープをしておきたいだけよ」
平坦な音と突き放すような言葉ではあるが、組織の中にいる構成員ではめずらしく心配してくれるような物言いだった。
もともと、面倒見の良いタイプなのだろう。俺が手洗い場で嘔吐したこともすぐに察知して、水分を取るようにスポーツドリンクを飲ませてきたし、特徴的な釣り目は体調を気遣うように俺を観察していた。
「……寝ていても、いいわよ」
「いえ、キールに運転をさせておいてそんなこと…」
「そういう気遣いこそが迷惑よ。さっさと眠って、早く治しなさい」
この会話を最後に、記憶はふつりと消えている。組織の人間、しかもネームドの前で居眠りだなんて、愚の骨頂だ。でも、キールからは悪い気配はしないし、組織内での俺には大した価値もなければ、命を狙われるような理由はない…とこの時のことを思い出すたびに、言い訳のような言葉ばかりが浮かんでくる。誰に言うわけではないけれど。
だからこそ、この後に続いたキールの言葉は聞き取れなかった。
「―――あなたが選んだいばらの道は、きっと辛くて、苦しいモノだろうから」
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「楠田くん、おつかれさま。お店もだいぶ落ち着いたし、まかないを食べておいで」
「はい!ありがとうございます。行ってきますね。たのしみだなあ…」
「今日は楠田くんの好きなカツ丼だよ」
「やった、シェフのカツ丼おいしくて大好きです。もちろん、カツ丼以外もですけどね」
黒服の仕事のときの制服に似てはいるけれど、違う。今日は真っ黒な蝶ネクタイを襟元に着けて、イタリアンレストランの店内でくるくると接客をしていた。
キールと2人での製薬会社へもぐりこんで、データとサンプルを盗み出す仕事をこなしてから、少しずつだけれど俺の立場もそこそこ認められてきたらしいようで、組織からの連絡も増えた。
組織から与えられる仕事は本当に千差万別で、いかにも、な仕事を与えられることばかりではなく、ただ指定された場所で数時間待機しているだけとか、何に使用するのかもわからない精密機械の組み立ても任されることもあった。
そんななかで、待ちに待った相手からの、バーボンからのメールが届いたのだ。
『米花周辺、30人規模の貸し切りパーティーが出来る駐車場付きのレストランを見つけ、バイトとして潜り込め』と。
そうして俺はアルバイターとして、イタリアンの小綺麗なお店のホールとして働くようになったのだ。派手な金が動くこともない、個人経営のお店は店長の人柄も良いし、ほかのアルバイトのメンバーも親切な人ばかり。素人レベルではあるが、従業員の過去を洗ってみても、あの組織に縁のありそうな人はいなかった。うーん。意味不明である。
バーボンはとりわけ俺に興味がないようで、そばにいるどころか、初めて会ってからは直接会うことすら許されなかった。そりゃあ訳の分からない組織の人間から好意を打ち明けられたら、俺だって距離を置きたくもなる。でも、俺が選んだのはバーボンだ。
だから、今はまだその他大勢の中のひとりでいても良い。まさか本当に恋仲になりたいわけではないのだから、存在の認知さえしてくれればよかった。出来れば、強烈に記憶に残ってくれれば。
「楠田くーん、休憩中にごめんね。ちょっといいかな?」
「はい、なんでしょうか?」
「今ね、30人規模の貸し切りパーティーをしたいっていう予約が入ったんだけど、人手が足りなくて困っちゃってね…。だから、楠田くんのお友達とかで、飲食のホール経験している子、最悪未経験でもいいから…その日だけ来れそうな子とかいないかなあ?」
「ああ、…いますよ。これから、本人に連絡を取ってみますね」
ピースはカチリとハマった。褒めてくれるかな。お気に召してくれるかな。
スマートフォンを取り出して、メールアプリを起動させる。もちろん、送信先はバーボンだった。
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バーボン。表立った場所では「安室透」。
ここにきて、ようやく俺は今までの活動で楠田姓を名乗ってきたことに、頭を抱えてしまった。こんな犯罪の温床の組織にいて、本名とは馬鹿だ。でも、慣れない名前をよばれて反応できないよりはよっぽどマシだし、兄貴も楠田の姓で活動を続けてきたらしいので前向きに考えよう。
さて、気を取り直して。俺が調べることができたバーボンのことをいくつか挙げよう。
組織内では『探り屋バーボン』の通り名があるように、情報を取ってくる任務を多く行っているらしい。組織の中で知り合ったゴロツキからはあんな優男、どうせマクラで情報を取ってきているに決まっている、弱っちい奴だ、と主観マシマシのアリガタイ情報をもらったけど、俺は彼の評価を地獄のような人という認識から変えるつもりはなかった。
そして、バーボンはずいぶんな自信家。そして、俺以上の嘘つき。あと、演出家だ。
自分の見せ方を熟知していて、それは有象無象のどうでも良い構成員に安売りするようなものではなく、使いどころもきちんと見極めているから効果は抜群。ネーム持ちの例にもれず、もちろんの秘密主義で組織に入る前の過去はもちろんまだわからない。
なぜ、こんなわかりきったことを脳裏で整理しているかというと、クールダウンだ。暴力なんて遠い世界であったレストランで起きた惨状に少しばかり動転していたからである。
「誰か別人の髪を仕込み、俺に罪を着せるつもりだったかもしれねーしよ!」
「あ、いや…。僕にそんなスパイのような真似は…」
バーボンは一体どこまで計算をしていたのだろう。
結婚式の前夜祭で、多くの人が新郎新婦になる二人の門出を祝って和気あいあいとしたパーティーが開かれていたというのに、新婦が黒焦げの遺体になってしまったのだ。まるで、どこかの誰かと同じように。
先日、バーボンの思惑を汲み取って、臨時バイトの話を持ち掛ければ「よくできました」とまるで犬を褒めるような言葉を向けられたたまではよかった。気分も良かったし。店長に渡していた履歴書もこっそり複製したのは、本人にはバレているだろうけど。
結局目的は明かされないままだったけど、久しぶりの対面をし、店長にも紹介をして無事採用。だというのに、こんな事件が起こってしまったのだ。
呼ばれた警察の中に、高木刑事がいたのは不幸中の災厄だけど、あの人も仕事のようで簡単な挨拶と、「久しぶり、ここでバイトしていたんだね」の一言で終わった。妙に気を使われるかと身構えてしまったけれど、高木刑事は兄貴の2度目の死は知らないのだ。
俺は疑われる要素もない。だから安心して、店長と一緒に遠巻きに眺めていればいいのだけど、胃の中はぐるぐる、ぐつぐつと渦巻いている。吐き気までせりあがってきた。我ながらこんなにか細かっただろうか。あーあ、もしもここまでバーボンが計算していたら最悪だ。最低だ。笑えて来る。そもそも、バーボンはどこまで俺のことを知っているんだろう。
とにかく、不調は無視。こんなこと、よくある。まるでパフォーマンスのように立ち回る探偵と刑事、そして新婦の愛人として疑われているバーボンに視線を戻して、ぼんやり見守っていた。彼はこの状況をどうするんだろう。あは、バーボンが本当にあの新婦を殺したくて、手を下すのならもっと上手にやるだろう。こんなに人間の目のある場ではやらないさ、という妙な信頼から、観客の気分で状況を楽観視していたのだけれど。
「ねえ、お兄さん。なんで笑っているの?」
「え?」
「むしろ、なんだか楽しんでいる…?」
背後からかけられた声に振り返れば、コドモが一人。
お祝いの日のお呼ばれだからだろうか。やけにかしこまった格好で、赤い蝶ネクタイまでした、眼鏡をかけた利発そうなコドモが不思議そうに立っていた。まだ幼いのに、端正な顔立ちをしていて肌艶も健康的。栄養がきちんと行き届き、周囲への関心が強いコドモ。俺と兄貴にはなかったものを、たくさん持っている。
たしか、毛利小五郎さんという探偵の連れだったと思う。こんな事件が起きたのにもかかわらず、ちょろちょろと探偵のまねごとをしているのは、毛利さんの影響なんだろうか。
「そんなことないよ。楽しいなんてこと、ぜったに、そんなことない。こんな死に方、最悪だなあって思ってたところだよ。坊や」
「……そうだね」
「車の中で、たった一人きり。炎は熱くて、誰も助けてくれない。身体が焦げていくんだよ。同じように生きていたのに、まるでモノみたいに。自殺だろうと、他殺だろうと、許されることではないよね…。痛くて、苦しくて…本当に、許せない…可哀想…」
「うん…」
うっかり感情的になってしまった。コドモをみれば、表情を曇らせて、黙り込んでしまっていた。小さい子にヒトの生死についての生々しい言葉は、まだ早い発言だったかったかもしれない。
今まで小さな子の相手などしたことはなかったが、とりあえず俺の発言で元気がなくなってしまったことは確かなので、慰めなくては。しゃがんで、子供らしいまあるい頭の上に手をのせる。
「大丈夫。きっと、刑事さんが解決してくれるよ。そしたら、悪いヤツはしなきゃならない償いをするだろうし、ね。亡くなった加門初音さんは、こんなに多くの知り合いが、結婚を祝いに集まってくれるような人だから…大丈夫。もしも、今すぐに犯人が見つからなくても、協力してくれる人はたくさんいるよ。それに優秀な探偵さんだって、ついているからね」
「うん、そうだね。小五郎のおじさんが、すぐに解決してくれる」
まるでコドモは自分に言い聞かせるようにぽつりと言葉をこぼすと、頭をなでる俺の手からするりと逃げていなくなってしまった。なんだったんだろ、彼は。
俺が言いたかったのは、バーボンがこの場にいて探偵役として推理まがいなこと(もしかしたら、ただ自分に降りかかった火の粉を払うだけかもしれないけど)をしているから、どんな形であれ決着はつくだろうという楽観的な考えだったのだけど。まあ、あのコドモは自分の家の毛利小五郎を信じているのだろう。
「彼女に探偵として雇われていた僕を、愛人だと勘違いしたあなたが…そこからくる嫉妬心から殺意が芽生え…彼女がこの店に来るまで、戻ってくるのを駐車場で待ち伏せ、車に押し込んで焼殺したと考えざるを得ませんね…」
バーボンの探偵パフォーマンスも絶好調のようで、状況証拠的にもうまいことこの場は収まりそうだった。彼の発言は自信にあふれていて、妙な説得力があるから、その場にいる刑事たちも従うように、聞き入っている。
それにしても、物騒な世の中だ。だれが結婚式の前日に新郎に殺されると想像しただろうか。
「楠田くん…なんだかすごいことになっちゃったね」
「はい…。これであの新郎が犯人だったら、そんがいばいしょーを請求しましょうよ店長。損失ですよ、損失」
「こらこら抑えて…まだ一応そうと決まったわけではないし、人が亡くなっているからね。でもこれからのお店が心配だなあ…」
店長と二人で、まるでドラマみたいだったねえ、とありきたりな感想を述べながら、さて犯人も捕まったことだし、お店の片づけをはじめようと動こうとしたときに、空気が変わった。
「いいのか?伴場!本当に…『この店から出ちまってもいいのか?』って聞いてんだ!!」
「しゃーねえだろ?こーなったら警察で無実なのをわかってもらうしか…」
「そうか…だったらお前は…犯人じゃねえよ!!」
毛利さんのこの一言から、事件の絡まりあった人間の思惑と真実はするりとほどけて、残ったのは悲しい事実だけだった。新郎新婦は生き別れの血のつながった双子だった、というのだから招かれた客たちも悲劇に涙を流し、悲しい道を選んでしまった新婦の初音さんの死を悼んだ。
警察からの事情聴取は、店長に任せて俺と臨時バイトの安室透くんは、予定よりも早くお店を出ることになった。
「おや…組織内でも、仕事となれば人間の心を捨てている、とまで言われている君ですら、加門初音の自殺は衝撃的でしたか。まあ、僕もさすがに驚いてしまいましたよ。追い詰められた人間は何をするかわからないから、恐ろしいですよね」
「…あなたが仕組んだわけではないんだ?」
「はは、依頼でのやり取りで、彼女の繊細さから危うい人だとは思っていましたが、死を願っていたわけではありませんよ。僕は探り屋であって、自殺させ屋ではない」
自殺させ屋。暴力の世界にはいろんな職業があるらしい。どうやらこの調子だと、俺への嫌がらせのために兄貴と同じような死を辿らせたわけではないようだった。ただの偶然。確かに、推理中もとくにこちらの様子をうかがうこともなかった。俺はちょっぴり自意識過剰になっていたようだ。
「バーボンはこわいからね。でも、そんなところも魅力的だと思うよ。俺は好きだな。どう?愛人さんもいなくなったみたいだし、これからは本命一本に絞らない?」
「ええ、そうですね。俄然興味が沸いた人物も現れたところですし、早めに行動をしなくては。楠田、ご苦労。こうなってしまった以上、このイタリアンレストランに居続ける必要はない。今週中には辞めろ。次の指示は、また連絡する」
簡単にいなされてしまった。そうして俺は、惜しまれながらも早々にイタリアンのホールバイトをやめることになる。
実はもう黒服の仕事もたまに顔を出す程度なので、ようやく本来の目的に時間を使うことが出来るようになるだろう。
複製したバーボンの履歴書も洗わなければならないし、たくさんのデートを重ねて、仲良くなったジョディがこの前べろべろに酔っぱらった時に漏らしていた『シューイチ』という名前の人物についても調べなくてはならないのだ。
バーボンからの指示は珍しく、早々に来た。さて、次はどんな意味不明な無茶ぶりを振られるだろうとメールボックスを開く。
『米花町。毛利探偵事務所が入っている雑居ビル1階。喫茶ポアロ。バイト』
送られてきた単語の羅列に頭を抱えてしまった。どんな馬鹿にだって、要求されていることはわかる。忙しいと聞いていたが、雑すぎ。無理やり期待されているんだろう、と前向きに思考を持っていく。今度は喫茶店か。
そして俺はイタリアンレストランをやめた2日後、喫茶ポアロの店員として働くことになる。主に、同時期に入った安室透さんの、突然バイトを休んだときの穴埋め要因…もとい、ピンチヒッターとして、である。
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第10話
ベルモッドは愉快そうに笑っていた。あなたがバーボンに愛をささやいているの、下手なビジネスライクだと思っていたけれど、意外と相性いいんじゃない?お似合いよ、あなたたち、と。
鏡に映る自分は滑稽だった。
種類の増えた薬を雑に口に放り込んで、水で流し込む。
もしかして、自分はあの病室で死んでいて、これは長い悪夢なのかもしれないと思うこともあったけれど、体の不調はいつも通りだったし、手の甲に爪を立てれば痛い。
どんな顔をすればよいのかはわからない。何が正解かも。そして、時間だって有限だ。
キライなことばかりを数えてきた人生だった。そして、諦めて受け入れることは自分の心をまもる必要なことだとも。
そのせいからか、好きなものはなかなか増えなかった。他人なんてどうでも良かった。だれがどうなっても、どうでも良い。大切なのは兄貴だけ。兄貴だけがいればよかった、はずだったのだけど。
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米花の街には幽霊がふたりいる。
一人は火傷を負った男。炎に包まれ死んだ男は、醜くただれた火傷の跡を顔面に残している。
そして、もう一人は女。
その表情をみれば、彼女のことを知る人物たちは驚くだろう。
暗く、冷たく。幽霊然としたその佇まいは、生前と同じようでいて全く異なる。死人らしい、魔の気すら纏っていた。
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ほろ苦くて、ちょっぴり澄ました香りは、心をほぐして優しい気持ちにさせるものだと俺は知ってしまった。
教えてもらった通りの手順はもうすっかり身に沁みついていた。
ペーパーフィルターを丁寧に折ったら、あらかじめ温めておいた真っ白で重みのある陶器のドリッパーにセットする。
ボトルから、中細挽きされたコーヒー粉を計量スプーンで測りながら三杯。
そして、ドリッパーの真ん中に小さな円を描いて全体に行きわたるように少量のお湯を注ぐ。コーヒーの粉がポッコリと膨らんできたのを確認したら、おおよそ三十秒強蒸らすのだ。それが終わったら、いよいよコーヒーを抽出する。真ん中から外側へ円を描くように、注ぎ口がスマートなドリップポットから少しずつ、細くゆっくり、と。ドリッパー内で洪水が起こらないように。
そうして必要な量が無事に落ちたことを確認したら、早々にドリッパーをサーバーから外すのだ。紅茶と違い、コーヒーは最初の一滴こそが至高の雫で、後になればなるほど雑味や苦みが増えるのである。
黒服の仕事時代に、雑にコーヒーをドリップしていたころには知りえなかったことだった。丁寧に入れたコーヒーを飲み続ければ、いつの間にかブラックコーヒーだって得意になっていた。
「うん、楠田くんもずいぶんコーヒー淹れるの上手になったねえ。もう私よりも上手かもしれない…」
「教えてくれる先輩の指導が分かりやすいからですよ、梓さん」
「もー!楠田くん。先輩をおだてても、残り物のケーキくらいしか出てこないわよ」
「わーい!梓さんありがとうございます~!しかもこれ、俺の好きなシフォンケーキ!」
「今日のシフトは十七時までだったよね、それ食べたら上がっちゃっても大丈夫よ。お疲れ様」
榎本梓さん。ポアロの大先輩。
ピンチヒッターとして喫茶ポアロに出入りしていた俺にも、丁寧に業務を教えてくれた親切な人。夕方の時間帯に、お店前の掃き掃除をするときに夕日に当たるとその髪の毛は綺麗な焦げ茶色に見える。天然っぽい発言もあるけれど、人を傷つけるようなものはない。従業員の中で最年少の俺を年下の弟のように思っているのか、甘やかしてくれる。たぶん。
「急にアルバイトの人を増やすって聞いたときはどうなるかと思ったけど、楠田くんが入ってくれて本当に良かった」
「あはは、俺も最初はピンチヒッターのはずだったのに、いつの間にかガッツリ働くようになっててビックリしちゃいました」
「安室さん、探偵業が本業だしね…。この前も、当日の朝に欠勤の連絡が来たときはどうしようかと思ったわ!でも安室さんは欠勤したらその分絶対に駅前のデパートの焼き菓子とかケーキを持ってきてくれて、謝ってくれるから強くは怒れないのよね~」
ピンチヒッターはずだったのに、いつの間にか成り行きでシフト希望を提出するようになったのはバーボンの多すぎる欠勤が原因だった。
それでも、バーボンの人気は確実に売り上げに結び付くからクビになることはないだろうけど。今ではバーボンよりもシフトが入っているのは、ネームドの彼と下っ端の俺とでは仕方のないことだろう。一応二人とも新人扱いだからか、ちなみにバーボンとシフトが被ったことはまだない。
ふわふわしたシフォンケーキは、口の中でほどけるように上品な甘さがある。おいしいケーキに、丁寧にドリップされたコーヒー。常連さんにも名前を憶えられて、よく菓子や飴をもらうようになった。ささやかな贈り物であっても、黒服時代に身の丈に合わないようなブランド品や宝飾品を与えられるよりずっと嬉しかった。
いよいよ永嶺様に与えられていた部屋から俺は出た。
喫茶ポアロのバイトをするには、不便だったのもある。自分のお金で米花にある築十年くらいの単身者用マンションを賃貸で借りた。難しいものは作れないが、最近は料理にも挑戦してカレーだって作った。
黒服として夜な夜なお客様の無茶な要望に応えて、ママの機嫌をうかがって、先輩の愚痴を聞かされていたあのころより、ずっと健康的で人間らしい。喫茶ポアロにいるとき、図書館で勉強しているとき、欠けていた何かが満たされた気がするのだ。
麻痺しそうだった。忘れてしまいそうになった。自分は何のために生きていて、命を燃やしているのか。けれど、そんな時は決まって夢に出てくるのだ。一人、苦しみながら燃えていく。まるで、自分ではない誰かとして死んでいく兄貴の恨みが。
ポアロのバイトを済ませて、店外に出てからメールチェックをすれば組織からの仕事のメールが数件。急激に冷え込んだのは体だけではないだろう。
俺は、兄貴のために生きて、そして復讐をしなくてはならない。
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「それでね、結局それはジョディの早とちりだったんだ。二人して笑っちゃった。ジョディって凄く面白くて芯の強い女性なんだけど、ところどころで抜けているからそこがまた素敵なんだ」
「はは、夏子さん…ですっけ。話を聞く限りでは、楠田くんとずいぶん親密なようですが…」
「うん、仲はいいよ。でもそれだけ。夏子さんのところは年の離れた弟さんがいるから、恋人に選ぶなら年上が良いって。だから俺はハナから守備範囲外なんだって。そういえば頭のいい人が好み、って言ってたな…沖矢さんいくつだっけ?紹介してもいい?」
「実はまだ恋人に振られた傷心を引きずっていまして…今は年下の男の子と、勉強をするくらいがちょうどいいです」
「俺も優秀な教師を取られちゃったら困るからなあ。もうちょっと引きずっていてね」
「そうですね。手のかかるかわいい生徒がいれば、今は十分ですよ」
缶コーヒーが二つ。対面するのも二人。開かれている本と参考書も二冊。だけど、四つの瞳は机に落ちることなく真っすぐと正面に向いている。沖矢さんも俺も図書館の休憩スペースのいつもの席で、すっかり休憩していた。
「最近の楠田くんは、とても良い香りがしますね。少し前までは夜の悪い匂いが、移り香でよく漂っていましたけれど、今の方がずっといいです」
「夜の悪い匂い?」
「ハイブランドの香水は特徴的ですからね。君のような男の子が漂わせていると、遊び人と勘違いされてしまいますよ」
「あー、なるほど」
むしろ移り香を嗅いだだけで、どんなメーカーの香水なのかを把握してしまう沖矢さんの方がよっぽどワルだと思うのだけれども、俺がこの人に弁で勝った試しはないので聞くこともしなかった。
「少し前までは缶コーヒーのブラックを無理して飲み干していたのに、最近は顔をしかめることもなくなりましたし。よっぽどおいしい珈琲に出会えたか、珈琲そのものを好きになったのか」
「うわ、沖矢さん見ているね。ブラックコーヒーは、…ある人を真似して飲んでいただけ。ただの背伸び。そう、それでなんだけどさ。実は、喫茶店でアルバイトを始めたんだ。俺が入れた珈琲を飲みに来てよ。いつもご馳走してもらっているお礼にご馳走するからさ」
「おや、それは楽しみだ。最近は大学院の研究も教授に振り回されてしまってなかなか忙しいのですが。…今度、息抜きに立ち寄らせていただきますね」
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第11話
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赤井秀一という悪党
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「ああ、君か」
「定期報告。ミステリートレイン内で起こった爆発事故先日、組織が対象に接触を図ってきた。どうやらベルモッド以外は彼女のことは知らないようだ。あの女は漏洩を恐れている。彼女の存在が明るみになる前に、強引にコトを済ませようと強硬手段をとってきた」
「ええっ…。赤井君、困るよ。そういうのはもうちょっと早く教えてくれないと…。それに、物騒なモノも使ったでしょう。悪い噂なんてすぐに回ってくるんだからね。武器調達にジャパニーズマフィアを利用するのもいいけど、そろそろ関係も切っておいてね。君のことだから痕跡は残っていないだろうけど…」
「それと、もう一点知らさなければならないことが」
「ええ、まだあるのかい…」
「バーボンに接触しました。沖矢昴としてではなく、赤井秀一として」
「……。君は興味があるものには、とことんまっしぐらだからね。バーボンも可哀想だよ。きっと血眼になって君のことを探すだろう。君はバーボンのことが大好きなんだろうけど、もうすこし追いかける立場の人間になってあげなさい。正直、楽しんでいるだろう、こういうの。悪い癖を出してはいけないよ。スクールでも習っただろう。相手の立場になって、考えることを少しは心がけるべきだ。務武くんだって…」
「ジェイムズ、あなたには感謝をしている。あなたが俺を信頼して、任せてくれるからこそ俺は自由に動ける。最良の結果を残せるように、引き続き任務にあたります」
「君が僕に感謝をするのは、話を続けたくない時だね。まだ僕は、君と話をしたいから続けるよ。沖矢昴は大学院生だけど、本当に大学院に通う必要はない。なぜならそれは、作られた設定で、偽装した学籍なのだから。それなのに君はよく足を運んでいるね。そして、特定の人物と会っている。――あれは誰だ?」
「あなたも人が悪いな、ジェイムズ。あなたのことだから、もう知っているんでしょう?わかりきっている答え合わせはナンセンスだ」
「様式美だよ。…もう、あの子と会うのはやめなさい。君は自分の欲望に従って、我慢が出来てきない。そんなことをしなくても、FBIの赤井秀一は優秀な人物だし、多くの人から求められている。悪戯に、自分の快楽で他人の人生を乱すのは良くないことなのは、もうわかっているだろう?」
赤井秀一は、きわめて優秀なFBI捜査官だ。しかし、彼の体内に巡り流れている血はきっと、青か、黒か。常人と同じように、赤い血が流れているかは誰もわからない。
そして、ある意味では責任感の強い男であった。一度、己の懐にいれたのなら、大事に、大事に。人並み以上に、それを大切にする。
赤井秀一は、愛の深い男なのだ。
だからこそ、それ以外は彼にとっては些細な問題だった。それが生きていようが、死んでいようが。どのように生きようと、何を考えていようとも。どうでもよい。
だけど、稀に些細な問題たちは予想もしないような行動をするのだ。それはまるで、何度も読み込んで答えのわかりきったはずの推理小説内で、突然化学反応が起きたかのような。まるで予想もしなかったところで、秀一を楽しませる。
赤井秀一もまた、地獄のような男だから。
「次に会ったら大学院も除籍させるよ。可哀想に。彼に必要なのは、全てを知りながら近づいてくる凶悪なFBIではなく、心の傷を癒してくれる友人だ。君が永嶺のトコの男に頼んで、世話を焼いていたのも知っているけど、もう必要ないだろう。中途半端な罪滅ぼしは多くの人を傷つける。バーボンをくすぶらせたんだ。あんな子供を振り回すくらいなら、大人同士で仲良く喧嘩をしていなさい」
「…わかりました。そろそろ、バーボンも動き出して忙しくなりますし、これくらいにしますよ。それと、永嶺が動いていたのは初めこそ俺がきっかけですが、今じゃ彼の味方ですよ。いつの間にか肩入れして、かわいがっているんだか、面白がっているんだか。きっと情報が漏れたのも永嶺からです。どうにも私は昔から人心掌握というものが、あまり上手くいきませんね。ジンにもひどい振られ方をしたものですし。……彼は優秀ですよ。永嶺を引き入れたのも、彼自身の功績です。たしかに世話はほんの少し焼きましたが、あとは彼自身の力だ。それは、訂正させていただきます」
「いいや、君の場合は…。いや、やめておこう。この話は、今、すべきでない。とにかく、取り返しのつかなくなる前に会うことをやめなさい」
上司は気が付いていた。スピーカーから聴こえてくる声色が、存外に楽しそうなことを。
赤井秀一は、強欲なのだ。気に入ってしまえば、それが針の筵であろうが、己に噛みつく存在であろうが、抱えてしまいたくなってしまう。
だから、そうなる前に二人の関係を終わらせたかった。
::::
風見裕也は、上司である降谷零の多くの顔を見てきた一人である。
国家を背負う公安警察として、悪を許さない顔も。喫茶店で働く善良な市民の顔も。弱きものを守ろうとする姿を見たこともあれば、取り調べ相手を自殺に追い込んだときの顔だって見たことがある。
多重人格ではない。どれもが公安警察の降谷零で、喫茶ポアロの安室透で、黒の組織のバーボンなのだ。
隠し方が人並み以上に上手なのだろう。だから、多少の残虐性があったとしても驚くことはない。その場に必要な顔の演じ分けが出来ればそれでよいのだ。
しかし、風見裕也はそうではない。志高く警察官に志願した者としては、耐え難い状況だった。
廃倉庫の裏側。聴こえてくる音は、とてもじゃないけれど聞き続けるには不快なものだった。複数の人間の音。誰かが、誰かを殴る音。怒声。骨を打ち、荒い息がもれ、苦しそうなうめき声と、たまに聞こえる絶叫。
「…自分に、こんなものを聞かせてどうしたいのでしょうか」
「珍しいな、君ならすぐにでも倉庫の中に乱入して、この狼藉を止めるとでも思ったのだけど」
「…あなたがお望みならば、そうしますが。そんなことをしては、どこかの捜査局の二の舞になってしまうのは望まないでしょう。わたしを試すだけなら、こんな手の込んだことはしないとの判断です。いったいどうしたんです?……降谷さん」
庁舎でみるスーツ姿とはまるで正反対。真っ黒なパーカーとスキニージーンズ。キャップまで真っ黒なものを選び、暗闇にいればそのまま飲まれてしまいそうな格好をしているのだから「バーボン」としてこの場にいるのだろう。
「君に直接渡したいものがあってね。これ、調べておいて」
「は。たしかに、受け取りました。…あなたは、これを止めないんでしょうか」
受け取ったUSBメモリを胸ポケットにしまい、一度、二度、手のひらを抑えて、その存在を確かめる。翳した手のひらから、心臓の動きまで拾ってしまったが情けないことに、ずいぶんと早いものだった。
「止めるよ。でも、まだだ。叫び声を挙げる余裕もあるみたいだし、もう少し消耗してからだ」
「……前に話していた少年でしょう。気の毒です」
「はは。確かに、こんな男に目を付けられた彼は気の毒だよ。ほんと。……風見、お前にとって迷惑なものとはなんだ?」
「迷惑なものですか…。年を重ねると、煩わしいと思うことは増えました。それが悪意からくるものであれば、はっきりと断れますが、好意からくるものは苦手ですね。とくに、自分はあまりサプライズが得意ではないです。我々の立場を知らない方からの、食品類の差し入れは結局捨ててしまいますし…。日本ではあまり聞いたことはないですが、フラッシュモブなんて最悪ですね。胃が痛みます。押しつけの善意は、ときには暴力的ですから」
公安警察は他人から渡された食事には手を付けない。自らが望んで購入した、金銭が発生するものならまだしも、他人が心を込めたという手作りのものなら絶対に、だ。心以外にも、どんなものが込められたか分かったものではない。
「そう、そうだよ。サプライズ。君の喜ぶ驚いた顔がみたい、あなたのためを思って、だなんて言われた日は最悪だ。そういう輩は、いつか絶対にこちらの手を噛む」
「……」
「そして、行き着く先は責任転嫁さ。なんで、どうして。あなたのことを思ってやったのに、だなんて怒りの矛先をこちらに向けてくるのだから始末が付かない。」
上司の表情はとても苦いものであった。どうやら、すでに手ひどい経験を犯したことがあるらしい。風見裕也は優秀な部下であるので、深く踏み込むことはしなかった。
「そうならないための調教をしているんだよ。アレはどうやら僕に興味があるらしい。一目ぼれだなんて、手っ取り早い小賢しい真似を使って近づいてきたから、こき使ってやろうと思ってね。テストがてらいろいろ試してやっているんだよ」
「窮地に陥った時に現れるヒーローだなんて、最高だろう?」
::::
その日の仕事は、爆薬の調達だった。
ギンからの指令ではない。女幹部のベルモッドからだった。
とある廃倉庫に、待ち人がいるので指定された金額を渡して取引成立。
濃艶な声で告げられた仕事は簡潔なものではあったが、待ち人自体に難があった。
待ち人は複数人。その誰もが、数週間前に見た顔だ。ただ、数週間前より人数が数人減っているが。その時点で、俺がこの仕事に選ばれた理由を悟った。帰りたくなったけれど、今から別のルートで爆薬を用意することも難しい。木箱に詰められた爆薬をワゴン車に丁寧に収納(輸送の時点で事故でも起こしたら周囲一帯が吹き飛ぶ)し、現金を渡すまでは口数も少なく、穏やかだったが、そこまでだった。
「…よくも、まあ、俺らの前に顔を出せる気になったな。あの女狐の手下が。あの女の手のひらで転がされるのも、ムカつくが、やっぱり腹の虫がおさまらねえ」
「……」
取引はつつがなく。報告すべきはそれだけだ。
数人減っているのは、完全に彼らの落ち度だ。組織が責任を取る必要もない。互いに納得するだけの金銭のやり取りはあったのだから。
たとえ数人が塀の中に送り込まれたとしても。それが、ベルモッドが仕組んだことであったとしても、組織が彼らに対して誠意をみせることはない。
それを理解しているのだろう。だから、忖度として俺が送り込まれた。手を切るのは簡単だが、どこかでガスを抜かなければいつどこで爆発するのかもわからない。
彼らの仲間内が、ムショ送りにされる一件に噛んでいる中で、一番序列の低いのは俺だ。そして、兄貴と二人だけの世界だったころには知るはずもなかった、金と暴力と権力の世界で生きる彼らにとって俺は体よく提供されたサンドバッグというわけである。もちろん、今回渡した金額は相場よりずいぶん多かったのもそういうことなのだろうが、それで手を打つかどうかは彼らが決めるのだ。
だから、黙って身を差し出すことしかできない。そのように、言葉のない支持をされたのだから、受け入れるしかない。私刑については、自分の中で消化するほかない。俺が選んだ道だ。あにきはいない。守ってくれる人は、もういない。だれも、おれをたすけてくれないのだから。
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第12話
たすけてくれない。まもってくれない。
でも、そんなこと慣れているじゃないか。
どれぐらいの時間がたったのかは、もうわからなかった。嵐がおちつくのを、ただ耐えれば良い。このひとたちだって、また組織を怒らせたら痛い目を見ると理解しているだろう。荷物の運びをしなければならないのは俺だ。だから、命までは奪わないはず。
体中がもえるようにあつい。打たれた体は、痛みを訴えるよりも、籠った熱の方が不快だった。息を吸って、はくことすらおっくうに感じた。ああ、いやだ。いやだなあ。あついのは嫌い。痛いのもきらい。つらいのも、きらい。
ヒリつくのどからは、ヒュー、ヒューと、空気が抜ける音ばかりで、うるさくて仕方ない。目を閉じることだけはしないようにしていたけれど、それもいつのまにか頭部からの流血で視界も悪くなってしまった。黒く、暗く、深い闇。
おわりの見えない、嵐のような一方的な暴力は、終わり方も突然だった。
白だった。まっしろな光。
暴力的なまでの、眩いひかり。薄暗い廃倉庫に雷が落ちたのかと思った。
雷ではない。閃光弾だった。突然、高音がしたと思ったらあたり一面は白いものに覆われ、視界すらも奪われた。そして、鈍い音と醜いうめき声が俺以外の人数分。
いつか思った通りだった。嫌な予感もしていた。
「……とってこい、に含まれた意味を正しく理解していたことは評価しましょう。けれど、意外と真面目過ぎるのも考えものですね」
「あ…、」
「タスクの優先順位を正しく学びましょう。ああ、可哀想に。こんなにボロボロになって。立ち上がれますか?」
「……」
俺をいたぶっていた男たちは、もう見えなかった。たぶん、同じように床に伏せているのだとおもう。
強いヒカリを突然浴びたからか、視界はもっと悪くなっていたけれど、それでもその人だけ見えた。差し出された手は何のために出されたのか、わからなかった。ただぼんやりと、眺めれば突然の浮遊感が襲った。
「まったくこんなになるまで……。おや、身長のわりにずいぶんと軽いことで。体力と一緒に体重もつけないと、このままですよ、君。ああ、もしかして、もう聞こえていませんか?いいですよ。そのまま寝てしまいなさい。……よくがんばりました」
世界が揺れている。朦朧と、ゆっくりと閉じようとしているのを、強制的にかぶせられた手のひらで遮断された。ひんやりしてる。あつくて、あつくてたまらなかったから、気持ちが良い。
手放した意識は反芻するように、刷り込みのように最後に見た映像を脳裏に流し続けた。
冷たい手のひらに、やさしい、いたわるような言葉。遠くで、騙されてはいけないよ、と道化師が笑っている。でも、少しだけ疲れてしまった。身を、預けてしまった。
残像のように、チカチカと光が溢れるなかにその人はいる。
地獄のような笑みを浮かべて、バーボンはいた。
::::
「楠田くん、髪の毛伸びたねえ…。まっすぐで、艶があってうらやましいなあ…何かお手入れしている?何使っているの?」
「……はい」
「そういえばこの前、園子ちゃんに女装してみないかって迫られてたねえ…」
「そうでしたね……」
「……今日も、待っている人は来なさそう?」
「…はい、…えっ⁉」
ガチャ、と手に持っていたカップを滑らせソーサーの上に音を鳴らして落としてしまった。割れていない、よかった。
「ふふ、ようやく帰ってきた。楠田くん、最近よく上の空というか…心ここにあらず、って感じよね、大丈夫?」
「す、すみません……。あと、どうしてそれを知っているんですか…?」
「いいのよ。怪我の具合がまだ良くないのかなあって思ってたんだけど、どうやら違うようだし…。それで、今日気が付いたわ。楠田くんって、よくお店のそとの様子を気にしているのよね…。だから、誰かがお店に来るのを待っているのかなあって思って」
「あ、その節はお世話になりました…。怪我はもう大丈夫です。梓さんってよく見ていますね…。うわ、無意識でした。恥ずかしい…」
「恥ずかしがっている楠田くんかわいーっ!だれだれ?お友達?もしや…思い人⁉」
お客さんがいないからと言って、仕事がないわけではない。互いに仕込みであったり、在庫の確認や昼時間に使用した食器類の片づけを行う時間はもくもくと行う日もあれば、会話で弾むこともある。
どちらかといえば、梓さんは話したがりなので、会話をしない方が少ない。そして、この人はやっぱり構いたがりだ。
「ちょ、ちが。あの、本当に恥ずかしいんでやめてください…。あの、友達です。たぶん。最近なかなか会えない人がいて、でも一応バイト先のここは教えてて。前に、いつか来てくれるって言ってたから、そのうち来るかなあ、って気になっているだけです」
へえ、お友達…お友達かあ~!と、納得しているのだか邪心しているのだかわからない様子だったので、さっさと逃げてしまおうと買い物に出かけようとすれば梓さんが病み上がりなんだから、私が行くよ!と引き受け、お店から出て行ってしまった。
珍しく、安室透が俺の代打として欠勤の穴埋めをしたのは、廃倉庫の一件から、一週間ほどである。
ボロボロに痛めつけられたあの日、バーボンが運転する車に揺れて自宅へ戻された。なんとそれだけではなく、そのままバーボンは俺のことを看病してくれたのである。
あついと思っていた体中は、張り詰めていた緊張の糸が切れてようやく『イタイ』を訴えるようになったけど、あついのは変わらないままだった。それもそうだ。あんなに殴られたのだから。バーボンが見せてくれた体温計(これはもともとあったわけではなく、いろいろと用意してくれた)の度数は、高いんだかよくわからなかったけど難しそうな顔をしていたので、それなりだったのだろう。
二日間は熱にうなされ朦朧とし、食事もとった覚えがなかったけれど、三日目にようやく起き上がれば、当たり前のように口元に粥を運ばれたのだから慌てた。どうやら、二日間はひな鳥のように食事をとっていたらしい。
しかも、着ているスウェットまで変わっているのだから、体調不良とは違うめまいを感じた。無理やり脱がされて、あたたかいタオルで体中を拭かれた話は割愛する。
一週間は安静にしていなさい、と言われたとおりにベッドで良い子にして、昨日から久しぶりの出勤だった。ちなみにバーボンは俺と入れ替わるようにして、体調不良のための欠勤である。
カラン、カラン。
外から差し込む光は、穏やかな橙で、お店に伸びた影は光の具合もあってか現れた人物以上に、不思議と長かった。
「あ、コナン君。いらっしゃい」
「…こんにちは、楠田のお兄さん。お兄さんは、まだ…ポアロにいるんだね」
「……?今日のシフトは夜までだからね。閉店の時間までいるよ」
コナン君とは、この喫茶ポアロで再会をしたのだ。出会いが最悪だったので、嫌われてしまったかと不安になったが、そんなことはなく店員と客の関係も良好に築けている。
毛利さんの娘さんと一緒に来るときはオレンジジュース。いないときは、珈琲。まるで無理やりコドモぶっている大人みたいだなあ、と思ったことは何度もあるけれどそんなこが起こるのはフィクションの世界だけだ。どうやら様子がおかしい。
「ねえ、お兄さんってさ……ええと。最近ちょっと女の子っぽいね!」
「ああ、ちょっと長く風邪をひいたときに体重も落ちちゃって。髪の毛も伸ばしているしね」
「そうなんだ!じゃなくて…ええと、」
どうやら話したいことは違うらしい。
「……?」
「いや、その。安室さんと仲、いい?」
なんだか歯切れが悪いこの子供を見るのは、珍しいことだった。それに、聞きたいことも、これではないような気がしてならない。
「うん。もちろん。安室さんとも、梓さんとも仲がいいよ。これは内緒だけど…ふたりとも、あともちろん店長もだけど大好き。俺、この喫茶店で過ごす時間が好きなんだ…。コナン君にはもしかしたらまだわからないかもしれないけれど、何も起こらないって、退屈かもしれないけれど、俺は特別なことだと思うんだ」
「へえ…」
「だから、いつかもっと年を取ったら…おじさんになったら、喫茶店を開くものアリかなあって、じんせいせっけープランに加筆修正中。コナン君は、大人になったら何になりたいの?」
いつ会っても、聡明で、知識どころかいろんなものを持っている子供はとても口が達者だ。彼が何を知りたかったのかはわからずじまいだけど、俺が出した答えは意味があるものだったようでそれ以上の追及はなかった。彼は、何を知ったのだろう。
「僕は…探偵だよ。探偵に、なりたい」
「……いいね、コナン君なら探偵になれるさ」
まさか、こんな子供が組織に関わるはずもない。昔の自分が聞いたら驚いてしまうだろうが、穏やかな暮らしは心にも余裕を作った。
どうかこの子は、明るい道を歩んでほしい、という他人の幸せを願うくらいには。
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けれど、腹に飼っている魔物が欲しているものは違う。
真っ暗な闇の中で行う組織の仕事と、喫茶ポアロでの仕事。
命がけのやり取りをしながら、人を人と思わない奴らと、たぶん俺のことを心配しているだろう人たち。その両極端の世界に身を置きながらの生活は確実に俺の心と体を摩耗した。
金と、暴力と、血と。強い怒り。何もかもを拒否して、一切合切を破壊したくなる衝動。バーボンと過ごす時間はその飢えを満たしてくれた。無茶はさせるけれど、こちらの力量を見誤ることはないのも妙に居心地がよかった。
魅せることが上手な彼は、飴と鞭の使い方も絶妙で、飼い主としても優秀。組織という閉鎖的な状況下で、ネームドの言うことは絶対だから罪悪感を抱かせることもなく、非人道的なことだって己の中で割り切って行うことができた。
高木渉刑事にも善良な顔をして会い続けているし、ジョディのやさしさに付け込んだ。まるで年の離れた弟のように親切にしてくれた夏子のことだって、ろくな目に合わないとわかっていながらもストーカーを焚きつけるようなこともしたし、バーボンに提供した。
バーボンとは上手くやれている。俺と同じだろうと安心しきっていた。スコッチとやらを殺されたのだ。いくらスコッチがスパイで裏切り者だったとは言え、そのあとの行動が彼の心情を裏付けている。ベルモッドもこぼしていた。あんな男に執着して――、と。
しかし、地獄のような男はずっとずっと、俺の先を歩いていた。
バーボンだけが、知っていた。
あの爆薬、用意したのは俺だったのになあ。俺を置いてミステリートレインに乗車したバーボンは、あれと再会した。俺が知らない間に。
バーボンだけが、たどり着いた。
ご丁寧に県外まで飛ばねばならない無茶苦茶な任務を配置されたのは、俺を遠ざけるためだったのだろう。工藤邸、もしくは来葉峠に寄せ付けないために。
そうして、俺が知らない間に勝手に蘇っていた赤井秀一とバーボンは再会を果たした。
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俺はというと、燃え盛る怒りの炎は、ついには身体の内側から俺を蝕んでいたらしい。
やっぱり神様なんて信じたことはないが、世の中は不平等で理不尽だらけだ。ギリギリのところで保っていた天秤の均衡はついに傾いてしまった。奇しくも、あの男の復活の日。ドクターから告げられた。
――残りの命の日数について、である。
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第13話[最終話]
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バイツァ・ダスト
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それから、時は立った。
もしかしたら、例の組織は壊滅したかもしれないし、していないかもしれない。長年の因縁を乗り越えて、FBIと公安警察が手を組んでいるかもしれないし、いまだに組織の悪行に振り回されて、犠牲者の数を止められていないかもしれない。
しかし、もう、そんなことどうでも良かった。
曇天から舞うのは、真っ白な冷たい粒。
雪の降る日に、その女は佇む。
真冬だというのに、コートの一つも羽織らないでいる女の姿は誰も気に留めない。記録的な寒波は、米花の街に人を寄せ付けなかった。
背後から続く、わかりやすい気配を読み取った彼女が選んだのは、コンテナヤードだった。
ふらり、ふらり。時折苦しそうに咳き込むのは、再発した病のせい。生前の溌剌とした明るさは、彼女が死んでしまってからは二度とこの世では見られない。
悪天候のためか、ヤード内は閑散として人の気配もない。
彼女と、もう一人以外は。
「……、おい。いるんだろ」
「……」
「それとも、…姿を見せる価値もないと…言いたいのか⁉」
姿かたちこそ、年若い女のものであったが、響き渡る声と言葉は全く違った。
少年だ。知らない人が聞けば、女の声にも聞こえたかもしれない。けれど、背後からついて回った『もう一人』は知っていた。年若い女の本当の声も、この声の主のことも。女はとうにこの世を去っていて、もうその前に現れることがないことも。
突然、視界を覆わなければならない程の突風が、その周囲を襲った。降りしきる雪と一緒に、風は女の長く美しい人工的な髪の毛を乱して、散らす。
背後から足跡。女が振り返れば、もう一人の姿がようやく表れた。
それは、赤井秀一。幽霊に変装してまで、焦がれた仇の姿だった。
「……見事な、変装だ。彼女にそっくりだ…」
「……っ、赤井…秀一…!」
タン、タン、タタン。ハンドバッグから取り出されたものは、武骨な[[rb:拳銃 > グロツグ17]]。憎くて、殺したくて、死ぬべきカタキに向けられ、即座に射撃音が響く。
しかし、連続した発砲音はコンテナや地面に跳ね返るばかりで、赤井秀一にはかすりもしない。――まるで、この場で死ぬべきではないと、大いなるナニカから告げられているようだった。
「慣れない武器は、使うべきではない。ましてや、そんな状態で君は…」
「うるさい、うるさい。――死ね、お前なんて、死んでしまえ‼お前にそんなことを言われたくない。知っていたよ。こんな玩具で、あんたを殺せるのなら…、う、ぐ、……ッ」
そう、銃口を向ける前から知っていた。もしも、こんな簡単に殺せるのなら、楠田陸道は、自決という手段であの世へ逃げる必要はなかった。
肩で大きく息をしながらも、咳き込んだソレに血が混じり、口元を汚そうとも、その眼光だけはギラギラと輝いている。
赤井秀一を睨んでいるのは、忘れもしない、かつての恋人だった。
宮野明美。
―――いや、違う。
姿かたちこそ、宮野明美ではあるが中身は違う。
そこにいるのは復讐者だ。
かつて、赤井秀一に二度殺された男の弟。楠田陸道の弟が、今すぐにでも殺してやりたいと鋭い視線でカタキの姿を見つめていた。
「お前……」
赤井秀一は知っていた。その少年のことを。
あの図書館での逢瀬は、悪いものではなかった。それどころか、楽しんでいたことは上司にバレていたのだろう。
最後に会ってから、月日がたっているが、女物のスーツの袖口からのぞく腕の細さが不自然であることも、もともと白い顔色は生気を感じられないほどに、蒼ざめていることも気が付いた。そして、先が長くないことも知っていた。
だから、誘いに乗った。
もう足元も、おぼつかない。もともと街中を彷徨う姿は、ゆらゆらと、本当の幽霊のようであった。先ほどの銃撃の反動は、死に体の体に相当の負担を強いたようで、ゼイ、と息を吐く音の中に細い喘鳴も混じっている
「!おい…くそ、クソ…チクチョウッ……。お前なんて、じごく、地獄に堕ちちまえ‼何が、FBIだ…お前がやったことなんて…ッ!やっていることなんて…。
――大悪党と同じじゃねえか‼なんの正義だ……。俺にとっての正義は、アニキだったのに…楠田陸道、ただ一人だ。それなのに、それなのに…」
精一杯の悪態をついている様子は、もうどこも、宮野明美ではなかった。
楠田の弟は助からないのだろう。そして、救われることもない。
絞り出すように言葉を発した少年は、ぐしゃりとつぶれるように倒れてしまう。しずかに降り続ける雪は、すぐに彼を真っ白く染めた。
赤井秀一は、静かに近づいた。ゆらり、ゆらりと紫煙もそのあとを辿るように続く。
地に這い蹲り、血反吐を吐きながら、苦しそうにゼイゼイと体全体で息をしている。目の前が霞んでいるのか、焦点はあっていない。けれど、瞳の輝きこそ死んではいない。憎くて、殺してやりたい。強い感情が込められ輝いている。
見下ろす赤井の足首を掴んでも、もう力すらこめられないのか、皮膚の一枚すら傷つくことはない。
そのさまは見苦しいとも、みっともないとも思えなかった。
そこにあったのは、一人の男の生き様だ。
激しいほど燃え盛っている感情を向けられるのは、それが悪意で、怒りで、負の感情であったとしても、強い感情を向けられることで赤井秀一にとっては今まで知らなかった、不思議な高揚感を覚えた。
「くそ…くそ…。どうして、こうなんだ。どうして、俺たちなんだよッ‼ 他にも、いたはずなのにッ。どうして、奪った……。ほかに、死んでもいい奴なんて、たくさんいた、のに‼地獄に堕ちてしまえ。地獄へ、落ちろ。落ちてしまえ。そして、ずっと苦しめ……ッ」
「ああ……」
雪はやまない。赤井がこの少年にしてやれることは、もうない。その呪いの言葉を静かに受け止めることしか出来ないのだ。
そうして、もしもその言葉が弾丸であれば、とっくに赤井の体が穴だらけになってしまっているだろう頃。少年は自らを蝕む病で朦朧としながらも、慈愛に満ちたその声で赤井が殺してしまった男へ最期の懺悔を呟いた。
「……、あにき、おにいちゃん 。ごめんね…、きっと、おにいちゃんと同じところには、いけないだろうけど、地獄で、あいつのこと、きっとこらしめるから、ゆるしてね。おにいちゃん…」
苦しげに息をしていたすがたから、やがて呼吸の音も小さくなる。虫の息だった。うっとおしそうな、散らばる長い髪を払ってやりたくなったが、それは赤井の役割ではない。
瞼を開ける気力もないのだろう。ギラギラと輝くその瞳は、徐々に瞼に覆われてゆく。ああ、もったいない。もう少し、それを、俺に向けてくれれば。
うすく開けられた瞳には、もう、なにが映っているのか、わかっていないようで、ゆめとうつつのはざまをただよっている。
それでも、ずっと唇だけは小さく動いている。呪いの言葉と、祈りの言葉。赤井は聞き続けた。雪の音と一緒に、その言葉を。
そして、赤井秀一が、そうさせたのは、故意だったのか。それとも、少年がさいごの最期で赤井より秀でていたのかは、誰も知ることはない。
「じごくで、くるしめ、あかいしゅういち」
どこにそんな力が残っていたのかはわからない。けれども、確かに銃声が響いた。
そして軽い発砲音は、最後の最期で獲物を無事にとらえることが出来た。
あたりに飛び散るのは赤だった。
真っ白に染まっていた周囲を、飛沫状に真っ赤に染め上げる。
先ほどまでは、呪詛を吐いていたとは思えない。眠るように、穏やかな顔をして満足そうに少年は笑っていた。
自らの、脳天を打ち抜くということで、その短い生に自ら幕を下ろした。
楠田陸道の弟は、大悪党の恋人であったひとの姿で、自らの脳天を打ち抜くことで、赤井秀一に復讐を果たしたのだ。
宮野明美の、二度目の死という方法で――。
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「それからのことは、語るに及ばないだろう?」
「君たちは、知らなくてもいい。あの少年がどうなったのかも、残された、たくさんの有象無象のことも。このあと、赤井秀一がどんなことをするのかも、何を考えたのかも」
「少年は振り返ることすらしなかったんだ。他にも逃げる道はいくらでもあったのに、選ばなかったのは彼。リクミチが喜ぶか、悲しむかだなんてそれこそ不毛な討論だよ。死人は永遠に死んでいる」
「そういう生き方もある。はーあ。折角のお人形遊びもここまでさ。誰かの正義のために、振り回された人生だっただろうけど、彼が不幸だったかは、残された人間でどれだけ語っても答えなんて出やしない」
「僕が、楽しかったかだって?ああ、もちろん。楠田の異母兄弟は楽しい奴らだった。だから、僕にしては珍しく死後の安寧とやらも、願ってやろう。どうか、安らかであれ」
「さて、君たちとも別れの時間だ」
「赤井秀一という悪党を追いかけた少年の話は」
「これで、おしまいさ」
昨今、赤井秀一はスーパーダーリンとして万能で、頼りがいのある家事も、料理も、頑張っちゃう善人赤井秀一を多くの二次創作を拝見してもちろん大好きなのですが、初期の何者かもよくわからない、研ぎ澄まされたナイフのような男シューイチアカイも大好きでして…
自分の懐にいれた対象には深い愛を捧げるのに、それ以外はどうなっても興味がないようにも見えませんか?
私には見えるのでこのお話が生まれました。コワイ男、手の届かない男、赤井秀一大好きです。
長い間お付き合いいただきありがとうございました!
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本当にありがとうございました!(感想をいただけると…うれしいです…)
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