先生について僕だけが知っていること (ソノママチョフ)
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前編
紅茶を一口、喉に流し込む。
深紅色の液体は既に冷めきっていて、香気や艶のある味わいなども失われてしまっていた。
時計を見ると、待ち始めてから三十分ちかく経過しているのが分かった。
とは言っても、別に退屈している訳でもない。
僕は顔を上げると、何とはなしに周囲を見回した。
僕のいる部屋には二十畳ほどの広さがある。
ここには試験管やフラスコと言った実験器具や、ハンマーやドライバーなどの工具、そして剥き出しのエンジンなどが至る所に並べられていた。
一角には手術台も設置されているのだ。
そして僕の正面には、それら種々雑多な物品の中でも飛びぬけて珍妙な物が置かれていた。
それは縦横二メートル、奥行きは一メートル半ほどの大きさをした、金属製の箱だ。
箱本体は銀色に鈍く輝いている。
でも本体の光沢よりも、あちこちに貼り付けられている液晶パネルの方が目立っていた。
目まぐるしく色調を変え、目を細めないと見ていられないほどに発光している。
箱の全体的な印象は、大昔の映画に出てくるコンピューターのような感じ、とでも言えばいいだろうか。
箱の前面は両開きのドアになっている。
そのドアが今、金属がこすれる不愉快な音をたてながら、ゆっくりと開いていった。
僕はつばを飲み込み、黙って成り行きを見守る。
ほどなくしてドアは全開となったが、中の様子はまだ分からない。
箱には紫色の煙が充満していたからだ。
やがて煙の中から、薄汚れたズボンを履いた右足が音もなく飛び出してきた。
続いて白衣を着た上半身と、灰色の、使い古しのモップみたいに乱れた頭髪が現れる。
頭髪の下にある顔には、深いしわが幾重にも刻まれていた。
その人物の目は、半ばしわに埋もれているような状態でありながら、鋭い光を放っている。
間違いない。
この老人は、僕の「先生」だ。
先生は僕を見るやいなや、しわがれた声をだした。
「ここはどこだ?」
「見ての通り、先生の研究室です」
僕は正直に答えた。
もっとも、他に返答のしようはないのだけれど。
「時間は?」
「十七時二十六分です」
先生は、骨董品と見まがうような懐中時計を白衣の中から引っ張り出し、盤面を見た。
「わしの時計も同じだ。……ということは、つまり」
「また失敗ですね」
僕は淡々と答えた。
先生の実験は、今回も失敗に終わった。
弟子としては悲しむべきことなんだろうけど、これまで何度も何度も繰り返し目にした光景なので、溜め息をつく気にもなれない。
でも先生は平常心ではいられなかったらしい。
絞め殺されるカラスのような、とでも表現すべき絶叫を上げて走り出したのだ。
そして部屋の片隅に置かれていたスレッジハンマーを持ち上げ、振り回し、箱を滅茶苦茶に殴り始めた。
耳をつんざくような轟音が、部屋中に響き渡る。
僕は慌てて先生の元へ駆け寄り、後ろから羽交い絞めにした。
「やめてください、先生!」
「止めるな
「壊すのはいいんですけど、こういうやり方は近所迷惑ですからやめてください!」
先生は小柄で、寝たきりになっていてもおかしくないほどに老いている。
でも時々、尋常でない力を発揮するので僕も必死だ。
全力で先生を持ち上げ、なだめ続けた。
先生は近所の人たちからは「キ〇ガイ爺」呼ばわりされていて、評判は非常によろしくない。
今みたいに近所迷惑な行動を平気でとるので、自業自得ではあるのだけれど。
だからといって、さらに評判が悪くなるのを見過ごすわけにもいかない。
先生は宙に浮いた足を振り回し、尚も抵抗を続けていた。
でもしばらくすると落ち着いたのか、ハンマーを床に投げ捨ててうなだれてしまった。
僕が手を放すと、力なく床に座り込んでしまう。
見るも哀れなその様子には、僕もかける言葉が見つからなかった。
結果として、先生と僕は共に黙り込んでしまう。
静寂はアラーム音にかき消された。
僕は制服からスマートフォンを取り出し、相手を確認した。
「先生」
「なんじゃね」
「急用ができたので失礼します」
踵を返し、鞄を手に取る。
そのままそそくさと立ち去ろうとしたのだが、先生に呼び止められてしまった。
「待て、どこへ行く」
なんと答えようか。
一瞬なやんだけど、でも正直に答えることにした。
「彼女から『会いたい』と連絡が来ました。ちょっと行ってきます」
先生は、三秒ほどの間をおいてから「……は?」とだけ答えた。
振り返って先生の顔を見ると、顎が外れたんじゃないかと思うほど口を大きく開けている。
先生は続いて、今度は数十秒もの間を開けてから大声を上げた。
「君に彼女じゃと!? 初耳じゃぞ!」
「そりゃまあ、今はじめて言いましたし」
肩をすくめつつ答える。
すると先生は、次から次へと質問を浴びせてきた。
「いつから付き合っとるんだ!?」
「二日前です」
「どこで出会った!?」
「同級生なんですよ」
「美人か!?」
「もちろん」
「まさか、もうやったのか!?」
先生は、人差し指と中指の間から親指をのぞかせた拳を突き出してきた。
僕もさすがに辟易する。
「まだに決まってるじゃないですか。なんでそんなこと知りたいんですか」
「む……男女の付き合いというやつは、わしの専門外じゃからな。知識が皆無な分、興味があるんじゃよ」
興味があるという割には、先生はしかめっ面であった。
その、すねた子供のような仕草を見た僕は、内心で苦笑しつつ思い出していた。
先生は科学に人生を捧げて、これまで生きてきた。
そのために「年齢=恋人いない歴」らしいのだ。
これは「僕しか知らない先生の秘密、その一」なのだが、知っていても全然うれしくはない。
「そういう訳ですので、失礼します。また明日きますので」
一方的に別れの挨拶を済ませると、僕は足を止めることなく部屋を後にした。
先生の怨嗟の声が聞こえたような気がしたが、あえて無視する。
薄情な弟子だなあ、と我ながら思わないでもない。
でも先生、人生には学問よりも大事なことがあると思います。
──────
夕暮れ時のファミリーレストランは、ほぼ満席だった。
「時空間転移装置? なにそれ?」
でも彼女は、そんな不機嫌気味の表情ですら可愛いかった。
恋人だから惚気ているんだろう、などと思うなかれ。
繭ちゃんは本当に可愛いのだ。
中学生に誤解されることもある幼げな容姿は、小動物みたいに可愛くて、思わず抱きしめたくなる。
小柄な身体は、でも女の子らしい起伏に富んでいて……。
「日下君?」
繭ちゃんが強い口調で呼びかけてきた。
いつの間にか眉間のしわは深くなり、口も歪んでいた。
僕は我に返って、慌てて説明を始める。
「簡単に言うと、タイムマシンとどこでもドアを合体させたような機械のことだよ」
「あのお爺さん、そんな胡散臭いもの作ってるの?」
繭ちゃんの声は、疑惑どころか敵意すら感じられるようなものとなっていた。
僕はフォークでパスタをかき混ぜつつ、返答する。
「信じられないのも無理はないけど、先生ならいつかは……」
「完成させられる、と思ってる?」
「いや、思ってない」
繭ちゃんの周囲で、空気が固まったような気配があった。
さすがに呆れたらしく、今度は僕を責め立て始めた。
「じゃあなんで、あんなお爺さんに付き合ってるの?」
「なんでと言われると……」
僕はフォークから手を放し、頭髪をかき回した。
繭ちゃんと同じ質問を、以前両親からもされたことがある。
いや、それだけじゃない。
友人から問われたことも、何度もあった。
彼らの気持ちも分からないではない。
先生は多くの人からキ○ガイだの偏屈だのと言われている。
しかもそれを「誤解だ」と言いきれない程度には、変人であった。
おまけに今の住まいに来る前のことは誰一人しらないという、謎の多い人物でもある。
繭ちゃんにしろ両親にしろ、僕が先生と交友を持って喜ぶはずはないだろう。
先生と知り合ったのはもう十年ちかくも昔、僕がまだ小学校の低学年だったころだ。
友達と遊んだ帰り道、財布を拾ったのがきっかけだった。
幼い僕は興味心のおもむくまま財布を開き、持ち主が有名な「キ〇ガイ爺」だと気づいた。
そこで僕は、更なる冒険心に駆られた。
先生の家まで財布を届けに行ったのだ。
玄関先で僕を迎えた先生は、始めは露骨に迷惑そうな様子を見せていた。
でも僕が財布を届けに来たと告げると、一転して目を見開き、驚いた顔になった。
次いでぶっきらぼうな口調ながらも礼を述べてくれて、家の中へ招待してくれたのだ。
僕は案内された研究室の、秘密基地みたいな光景を見て、大興奮してしまった。
さらに先生が淹れてくれた紅茶の、予想外の美味しさにも驚かされていた。
そうして先生と研究室がすっかり気に入った僕は、翌日も遊びに来る、と強引に約束を取り付けてからようやく帰宅した。
その後、両親に帰りが遅くなった理由を話したら、こっぴどく怒られてしまったけど。
でもそれから僕は、両親の目を盗んで先生の家を訪れるようになった。
そうして小学校の高学年になる頃には、先生の研究を手伝うようにもなっていた。
先生の「弟子」になったのだ。
先生との出会いは、以上のようなものだ。
思い返すと初対面以降、先生と僕は常に仲が良かったような気がする。
でもその理由はというと、自分でもよく分からない。
馬が合ったと言えばそれまでだけど、そんな理由で繭ちゃんが納得してくれるとも思えない。
それでも僕は、なんとか繭ちゃんを納得させるべく、先生と会っている理由を探し出した。
「先生の淹れてくれる紅茶、美味しいんだよ」
残念ながらというか当たり前というか、繭ちゃんは納得してくれなかった。
「……なにそれ」
「いや、本当なんだよ。先生、紅茶を淹れる名人なんだ」
この話は本当だ。
そして「僕しか知らない先生の秘密、その二」でもあった。
つまり僕からすると切り札を使ったようなものだったんだけど、繭ちゃんの反応は微妙なままだった。
怒りと呆れが相半ばした顔で、頬をひくつかせている。
しばらくすると繭ちゃんは溜め息をつき、可愛らしい口を開いた。
「じゃあ、私が紅茶をうまく淹れられるようになれば、もう会う必要はないんだよね?」
「え?」
「これから練習するから」
まさか、そう来るとは。
僕は返答に窮してしまった。
繭ちゃんは嬉々とした顔で、さらに念を押してくる。
「明日もお爺さんと会うんでしょ? 私も一緒に行く」
「へ?」
「お爺さんがどんな紅茶を淹れるのか確かめたいの。いいよね?」
繭ちゃんの笑顔には、有無を言わせないような迫力があった。
僕は圧力に屈し、黙って顔を上下に動かした。
参ったなあ。
二人とも、いきなり喧嘩を始めたりはしないだろうけど。
先生が繭ちゃんに失礼なことを言う可能性はあるしなあ、どうしたものやら。
考えつつ、僕は今更ながら頭を抱えていた。
繭ちゃんを家まで送ってから、帰宅した。
着替えて食事や風呂、その他もろもろの雑事も済ませると、ベッドに寝転んで一息ついた。
すると、またスマートフォンにメッセージが届いた。
今度の送り主は、先生だった。
『大至急こられたし。研究が完成した』
文面を確かめて、僕は眉をひそめた。
時計を見ると、時刻は二十三時八分となっていた。
先生の研究室を出てからは、まだ六時間ほどしか経過していない。
そんな短時間では、新しい時空間転移装置ができるはずもないだろう。
『先生、大丈夫ですか。ショックでボケちゃったんじゃないでしょうね』
怒られるかな、と思いつつ僕は返信した。
ほとんど間を置かず、先生からメッセージが返ってくる。
『いいから早くこんかい。宿泊の用意もしてくるように』
僕は苦笑しつつ、肩をすくめた。
先生がここまで強引に誘ってくるのは珍しい。
弟子としては、断るわけにはいかないだろう。
繭ちゃんにも連絡すべきだろうか?
繭ちゃんは僕が先生と会うのを快く思ってないし、次の機会には自分も同席すると言っていたのだ。
とは言っても、もう夜中だしなあ……約束したのも明日のことだし……。
やっぱり、連絡するのはやめておこう。
着替えを済ませ、両親に置手紙をしてから出発する。
表に出ると、周囲には人っ子一人いなかった。
空には綺麗な満月が浮かんでいる。
静寂の中、僕の足音だけが響いていく。
どことなく非現実的にも感じられるその雰囲気は、割と好きだった。
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後編
今夜の紅茶は褐色で樹木の香りが強く、味も苦み走っていた。
僕はわずかに唇を歪め、そして意外に思っていた。
先生が紅茶を淹れそこなうなど、僕の記憶にある限り、これまでただの一度もなかったのだから。
となると先生は今、何らかの理由で気持ちを乱しているのかもしれない。
まさか、本当に時空間転移装置が完成したのだろうか?
先生は僕の正面、テーブルを挟んだ位置に座り、肘をつき両手を額に当ててうつむいていた。
僕に紅茶を勧めて以降は無言で、ずっと今の姿勢を保ったままだった。
沈黙の時間は、もう五分以上も続いただろうか?
僕は居心地の悪さを感じ始め、口を開いた。
「先生、研究が完成したという話ですが」
「うむ」
先生は顔を上げ、立ち上がった。
試験管やフラスコといった器具が並んでいる棚に向かうと、オレンジ色の液体で満たされているビーカーを手にする。
再び元の場所に座ると、ビーカーをテーブルに置いて重々しく告げてきた。
「これじゃよ」
「……え?」
僕は、すっとんきょうな声を上げてしまっていた。
先生は、何を言っているんだろう?
そう思って先生を見返すと、いつになく真剣で、思いつめたようにも見える視線とぶつかった。
驚き、改めてビーカーを眺める。
その器は市販されている、五百ミリリットルサイズのありふれたものだ。
中にある液体も、一見するとオレンジジュースにしか見えない。
僕は訳が分からないまま、改めて問いかけた。
「……これが、時空間転移装置なんですか?」
「違う」
その返答によって、僕はさらに混乱してしまった。
言うべき言葉が見つからない。
代わりに先生が話はじめた。
「わしには時空間転移装置の他にもう一つ、君にも内緒で研究していたものがあった。これは、その完成品じゃよ」
「先生が他にも研究を? 僕に内緒で?」
呟きつつ、僕は自分がショックを受けているのに気が付いた。
まさか、先生に隠し事をされていたとは。
「うむ。黙っていて悪かったとは思っている」
先生はビーカーを手に取り、立ち上がった。
気持ちが高ぶっているのか、オレンジ色の液体を見つめる目は異様なまでに血走っていた。
「さらに言えば、この薬はもうずっと前から……そう、少なくとも二年前の段階でほぼ完成していたんじゃよ」
「え?」
「だが、あえて完成させずに放置していた」
今夜、先生が話すことは理解できないことばかりだ。
僕は途方に暮れたような心境になりながら、それでも問いかけた。
「なぜ、そうしたんですか?」
「時空間転移装置と同時に完成させるつもりじゃった」
……?
ということはこの液体は、少なからず時空間転移装置に関係しているものなのだろうか。
数瞬の間が空いた後、先生のしわがれた声が通る。
「だが、そういう訳にもいかない……完成を急がなければならなくなるような事態が、発生した」
「何が起きたんですか?」
先生は液体を見つめたままで、質問には答えてくれなかった。
やがて顔を上げ、僕を正面から見据えてくる。
その眼に鬼気迫る、あるいは怒気のような色合いの光が見えて、僕は息を呑んだ。
「君が悪いのだ」
先生は宣告すると、液体を一気に飲み干した。
甲高い音が響きわたる。
ビーカーが先生の手からこぼれ落ち、床に衝突して粉々に砕け散ったのだ。
先生は頭を抱えると、ガラス片も気にかけず床にうずくまってしまった。
「先生、大丈夫ですか!」
僕は慌てて立ち上がり、先生の傍にひざまずいた。
先生の背中をさすって励まし、声をかける。
その時、奇妙なことに気が付いた。
手に振れる感触が、段々と変わっていったのだ。
ついさっきまでは痩せて緩んだ質感の、老人の肌触りだったのに、今は弾力に富み、滑らかさすら感じられるようになっていた。
いや、変化しているのは肌触りだけではなかった。
使い古しのモップのように乱れて灰色だった髪も、変貌していた。
あっという間に漆黒に染まり、艶のあるものとなっていたのだ。
そして、先生の口から放たれた声は……。
「君が悪いのだ」
それは怒気によって割れてこそいたものの、楽器を奏でているかのように華やかで、美しいものだった。
その、まぎれもない少女の声を聞いて、僕は思い出す。
僕しか知らない先生の秘密、その三を。
先生の顔は老いて皺だらけで、そこだけ見ても性別判断は不可能になっていた。
着ているものも、白衣に男物のズボンがほとんどだった。
そして「爺」呼ばわりされても、面倒くさがって否定したりはしなかった。
だから、誰もが先生のことを男性と誤解していたけれど──先生は、女性だったのだ。
「君が、君が、君が! 彼女など作るから! だから完成させねばならなかった! 君を連れて遥か昔の、遠い場所に行く準備が整うまでは待つつもりだった。だが、それでは間に合わない……君の心と身体が他の女のものになるなど、耐えられるものか!」
絶叫し、先生は顔を上げる。
顔中にあった深い皺は、一本のこらず無くなっていた。
そこにいるのは、もはや老人ではない。
妙齢──いや、僕よりも幼くすら見える、少女へ変わっていた。
漆黒の髪は今や腰まで届き、鏡のように輝いていた。
目は切れ長で、ハッとさせられるほどに鋭く、美しい。
肌は雪のように白く透き通っている。
そして唇は、紅を差したかのように赤く、幼い外見に似合わぬ妖艶さを感じさせた。
少女は膝立ちになって手のひらを眺めた。
次に手を頬から身体に滑り落として、全身を撫でまわした。
やがて満足したようにうなずくと、僕に向き直った。
「成功したようじゃな。どうだ日下君、美人であろう?」
「……はい」
……今、返事をしたのは僕なのか?
何が起きているんだ?
現実感がまるでない。
訳が分からない。
驚きのあまり、意識が半ば飛んでしまっているようで……。
「ふふふ……。若い頃は『科学界にあるまじき美貌』ともてはやされたものじゃよ」
先生は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、語り始めた。
絶世の美女。
その評価は、しかし先生にとっては嬉しくもなんともなかったらしい。
科学に人生を捧げるつもりだった先生からすると、美貌など邪魔なだけだったのだ。
下心まるだしの顔ですり寄ってくる男性たちも、鬱陶しくてしょうがなかった。
だから先生は、美しさを保とうとはしなかった。
いやそれどころか、積極的に醜くなるよう努力を続けたのだ。
「それでも、後悔などなかった」
美貌を捨て、色恋沙汰などに目もくれず、科学に殉じる。
それは先生にとって、理想的な人生だった。
「君に会うまではな」
先生は断言した。
僕はびっくりして、先生の顔を見直す。
先生の顔は無表情で、とても冷たいもののように見えた。
だけれども僕に向けられた双眼だけは、まるで炎が燃え盛っているかのように、激しく情熱的に輝いている。
「まさかこの歳になって、こんな気持ちになるとはな。我ながら思わなんだ」
「……どういうことですか?」
「分からぬのか?」
「はい」
「……わしは、君に恋している」
……は?
え?
今、先生は何と言った?
先生が、僕に恋……!?
「いつから君に恋焦がれるようになったのか。それはわしも覚えていない」
先生の頬が、本当にごくわずかだけ桜色に染まっていた。
麗しい唇を開き、先生は告白を続ける。
先生は、恋愛経験皆無だった。
だから僕と出会い、共に過ごすようになってから生じた心身の変化についても、理解できなかった。
僕と話せば胸が熱くなり、目が合えば心が湧き踊る。
僕が帰ってしまえば、苦しさを感じるほどに胸が痛む。
やがて先生は、それら心身の動きについて、真実を知る。
だがそれは、喜ぶべきことではなかった。
「君に恋していると知った時、わしは自分の身と人生を呪った」
先生は既に老いていた。
この恋を成就させるのは、どう考えても無理だろう。
だから先生は、科学者らしく理にかなった結論として、僕をあきらめようと思った。
「だが君と会うたびに、わしの気持ちは膨れ上がっていった」
そうして先生の心は、無情にも僕のことだけで埋め尽くされた。
その影響は強烈だった。
人生を捧げたはずの科学さえ、僕と比べれば石ころ程度の価値しかないものとなってしまったのだ。
先生は苦悩し、絶望した。
思いつめたあまり、一時期は本気で自殺も考えたらしい。
でもある日、先生は一つの光明を見出す。
糸口となったのは、もはや無価値になったはずの科学だった。
「石ころにも使い道がある、それを思い出したのだ」
先生は気づき、そして決意した。
これまでの人生、様々な研究の成果をすべてつぎ込み、若返りの方法を見つけてみせる、と。
「成功した暁には、新たな人生を君に捧げよう。そう誓ったのだ」
先生は話を終えた。
そして娼婦のように妖艶な笑みと眼差しを、僕に向けてくる。
その表情を見て、僕は興奮よりも戦慄を強く感じてしまっていた。
でもそのおかげで、気を取り直せた。
「っていうか、先生!」
「なんじゃね?」
「先生が内緒にしていた研究って、若返りの薬だったんですか!?」
「そうじゃよ」
先生の返事は、ごくアッサリとしたものだった。
でもそれを聞かされて、僕はこれまで経験したことがないぐらいに、大喜びしていた。
若返る。
それはある程度の年輪を重ねた人なら、自然に持つ願望だろう。
ケガや病気さえしなければ、不老不死にもなれるはずだ。
人類の悲願と言っても良いかもしれない。
若返りの方法を見つけたとなれば、先生の名も歴史に残る。
弟子として、こんなに喜ばしいことはない。
僕は歓喜し、先生に提案した。
「凄いじゃないですか! 明日にでも大々的に発表しましょうよ! そうすれば……」
「いやじゃ」
先生の声は、これ以上ないぐらい冷淡なものだった。
おかげで僕の熱狂も、冷水を浴びせられたように急速に静まってしまう。
先生は両手を腰に当て、不機嫌さを露わにしていた。
「そんなことをしてみろ、わしはもてはやされ、崇められ、富と名声で埋め尽くされて呼吸もできなくなってしまうではないか」
「それでいいじゃないですか」
いや、先生が窒息したら困るけど。
でもそれは比喩表現なはずだ。
世間から称賛されて、お金持ちになるのが、悪いことだとは思わない。
でも先生は、予想もできなかった理由でそれを拒否してきた。
「そうなったら、君とも気軽に会えなくなる」
僕と一緒にいる時間が減るなど、耐えられない。
と、先生は断言した。
僕の気持ちは、なんというか、砂糖と塩を間違えた紅茶を飲んだように微妙なものとなってしまった。
先生は、さらにもう一つの理由を告げてくる。
「それに、だ。今の君には、彼女きどりの雌犬もたかり始めている。そいつらを排除するためにも、君の傍から離れる訳にはいかん」
雌犬とは、繭ちゃんのことだろう。
彼女きどりというか、正式な彼女なんだけど。
先生は、学生に講義をするような調子で説明をつづけた。
「だからこの薬は、世の中に知られるわけにはいかない。だが……」
若返りの薬は、世間から隠さなくてはならない。
だけど僕への恋をかなえるためには、若返る必要がある。
でも若返ってしまえば、いずれ薬の存在も知られてしまうだろう。
若い先生は人目を惹かざるを得ない美少女だし、それに老人の先生という存在も消えてしまうのだから。
どうあがいても注目は浴びてしまう。
この問題を解決するには、どうすれば良いだろうか?
先生は考え、一つの結論を導き出した。
「そのために考え付いたのが、時空間転移装置だった」
若返ったら僕を連れて大昔の、遠い国に行くつもりだった。
と、先生は告白した。
そこで新しい、僕に捧げるための人生を始めるのだ、とも。
僕の気持ちは微妙を通り越して、神妙なものになっていた。
先生が、そんなにも僕を想ってくれていたというのは、悪い気はしない。
老人だった頃の姿を知ってはいるけれども、気色悪いなんてこれっぽっちも思わない。
それだけ、僕は先生を尊敬している。
でも、
「先生」
「なんじゃね?」
「そのご提案は、お断りします」
思い切って、僕は先生に告げた。
これは単に、恋人になるのをお断りした、というだけではない。
先生を止めるには、こうするしかないと思ったのだ。
恋のために若返りを成功させる、というのは正直すごいとしかいいようがない。
だけれども、僕を拉致して遠い世界へ旅立つ、というのはいくらなんでもやりすぎだ。
僕にだって生活がある。
この世界で生きていきたい。
それらすべてを捨てて先生と二人で暮らしていくなど、さすがにごめんこうむりたい。
先生は、そんな僕の意志を考慮に入れず計画し行動していた訳だ。
恋に狂って、理性的な判断ができなくなっているのではないだろうか。
つまり先生は今、暴走している。
となれば弟子としては、止めなければならない。
若返ってしまったので手遅れかもしれないけど、でも先生は大事な人だ。
それに放っておけば、僕も巻き込まれてしまう。
僕は説得を始めた。
「先生、お気持ちは嬉しいです。でも僕には、ここでの生活があります。両親もいる、友人もいる。離れたくはありません」
「それに、雌犬も居るからな」
先生の口調は、吐き捨てるようなものだった。
眉も吊り上がっている。
「それは許さん。というか日下君は誤解しているぞ」
「誤解?」
「そうだ。わしは君に提案をしているわけではない」
「じゃあ……」
「これは決定事項だ。たとえ不本意だとしても、君はわしと共に行くのだ」
ゾッとした。
僕は、先生に初めて恐怖を覚えた。
先生は顎を上げ、腰に手を当てた姿勢で僕を見ている。
微笑は冷たく、両眼は暗く濁って、しかし奥底に炎を渦巻かせている。
外見は絶世の美少女の、だけど傲然としたその姿に、僕は圧倒されていた。
怖い、怖い、怖い。
先生が、この女の子が心底怖い。
暴走を止めるどころじゃない。
早く逃げ出さないと、僕は一生、この子に束縛されるだろう。
逃げ道を見つけるため、部屋の中を素早く見渡す。
幸い、出入口は背後にあった。
僕は頭を抱え、悩むふりをしながら、先生に気づかれないように後ずさりを始めた。
一方、先生は嬉々とした様子を見せている。
「日下君はわしの弟子だろう? であれば、師匠を見習う必要があるはずだ。わしの心が君で満たされているのだから、君の心も、わしで満たさなければならないぞ」
扉まで、残り二メートル。
ここまでくれば、間違いなく逃げ出せるだろう。
扉を開ける時間を考慮しても、女の子に脚力で負けるはずはない。
「先生、失礼します」
僕は宣言すると、その場で踵を返した。
扉に向かって強く足を踏み出し、全力で駆け出した……はずだった。
「……しまった!」
足がもつれ、僕は転倒してしまった。
焦り、立ち上がるために床に手をつく。
「え?」
愕然とした。
何が起きたのだろうか、手に力が入らなくなっていた。
床を押しても、立ち上がるどころか、体を起こすこともできない。
それどころか全身からも力が抜け、僕は床へ腹ばいになってしまった。
「ふむ。ちょうどよい時間だったようじゃな」
先生の足音が床を伝わってくる。
音は次第に大きくなり、僕のすぐそばまで来た。
まずい、このままじゃあ……!
「先ほどの紅茶は、出来が良くなかったであろう?」
あの紅茶には、普段とは異なる材料が入れられていた。
僕の動きを封じるための、特殊な薬が。
先生はネタ晴らしをすると、さらに恐ろしい言葉を告げてきた。
「そのおかげで、こうして君が手に入るわけだ」
月光に照らされて、先生の影が床に広がっていた。
影は僕をまたぐような形をとり、停止する。
「急がねばならんな。今夜中に、君を虜にしなければならない。初の契りが手術台というのはムードがないが、止むを得まい」
先生は、僕の背に腰を下ろしたらしい。
柔らかい感触が、肌に押し付けられてきた。
「心身ともにわしのものとなったら、ここで暮らすと良い。だが、そう長い時間ではないぞ」
先生は指を進め、自分の額を指し示した。
「若返ったおかげで、これ以上ないほど脳が冴えている。今のわしなら、時空間転移装置はすぐにでも完成させられるだろう」
逃げられない!
考えると同時に、全身から冷や汗がどっと噴き出した。
猛烈な寒気に襲われ、歯が震え始める。
両頬に、柔らかく滑らかな感触があった。
先生が両手で、僕の頬を愛おしそうに撫でまわしてきたのだ。
その動きは深い情愛と、性的興奮を感じさせるものではあったが、今の僕にしてみればおぞましい以外の何物でもない。
先生はさらに、多量の糖分を含ませた声でささやきかけてきた。
「時空間転移装置が完成したら、すぐに旅立とう。どんな大昔であっても、どれほど遠い世界でも構わない。君といられるならな」
目が……。
目がぼんやりして、景色が薄れ始めている。
床の冷たさも、なくなってきた。
薬の効果で、五感が薄れ始めたのだろうか?
暗く染まっていく世界の中、先生の声だけが通っている。
「再び老いて、新たな人生も終わりを迎える時になったら、二人でまた若返り、別の時代に旅立とう。それをずっと続けよう。ずっとずっと、永遠に、永遠に……。ふふ、比喩ではなく、君は永遠にわしのものだ」
誰か、助けてくれ!
……。
ダメだ、もう舌も動かなくなっ……。
──────完──────
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