『ナイショの話』 やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 (てにもつ)
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だから、比企谷八幡は彼らに一目置かれている。

 「納得いかない。なんであいつなんだ」

 

 「ちょっと滝野。落ち着こう。とりあえず座る」

 

 同じ二年の加部に言われて、思わず立ち上がった俺は椅子に座った。

 だがさっきのことを思い出すと、興奮のあまりまた立ち上がりそうだ。足がぷるぷると震えている。

 

 『比企谷君。今日一緒に帰ろうよ?』

 

 それは吹奏楽部の、いやあながち冗談ではなく北宇治高校のマドンナと言われる香織先輩が発した言葉だった。

 それを聞いた瞬間、俺は思わず比企谷を睨み付ける。

 香織先輩に一緒に帰ろう、だなんて誘われたこと自体許せない。しかも、最近では昼も吉川と香織先輩の三人で食べることも多いし。

 だがもっと許せないのはその後。あいつ、一瞬嬉しそうにした後何かに気が付いたようで嫌そうな顔をしていやがった…!

 

 「くっそ…。俺も問題児になればいいのか…。そしたら俺も香織先輩と…」

 

 俺は入学して吹部の勧誘演奏の時に、香織先輩を見たときから人知れず香織先輩の事が好きだ。香織先輩がいたからトランペットパートに入ったし、同学年の奴らが辞めていったときも残ろうと思った。……本当は入部したのは吹部って女子が多いから、モテるんじゃないかと思ったっていうのも理由の半分くらいではあるんだけど。

 香織先輩のファンは多い。ファンクラブと親衛隊。この二つの組織が同じ学校内で結成されているのは、この広い京都の中で香織先輩だけではなかろうか。

 片方の勢力であるファンクラブの方は、部外の男子が主な構成員だ。香織先輩の可愛さを共有して楽しんでいる連中。それに対して親衛隊は同じくトランペットパートの同級生である吉川優子がリーダーを務めている。今俺をたしなめた加部も入っていて吹部や所謂レズっぽい女子が多い。香織先輩を守り、讃え、愛する組織である。

 二つのグループは互いに仲が険悪で、何でも香織先輩を『好き』か『愛するか』。その違いで争っているからだとか。そこら辺のことは置いておいて、とにかくファンの多い香織先輩と距離を縮めることなんて一年間、俺には出来なかった。それこそ吉川なんて、大したことない男が香織先輩に告白したら蹴り殺すんじゃなかろうか。

 それなのに、それなのに!あの男は!

 

 「くっそぉ…」

 

 「滝野ー。顔がすごいことになってるよ。って言うか問題児って」

 

 「だって比企谷が問題児なのは事実だろ?」

 

 「うーん。まあ確かにそうだけど」

 

 「つーか、やっぱりおかしい。こないだなんて、合奏練で集められたとき全員の前で香織先輩の事めっちゃ悪く言ってたぜ。上手い人が吹くべきだ、とか言って実質香織先輩が高坂より下手って言ったようなもんだっただろ?」

 

 あの再オーディションの要因となった音楽室での一件ははっきり言って比企谷八幡という人間は本当にクズ野郎だという印象を部員全員に与えたと思う。パートに関係なく数日間あいつへの陰口は止まらずに、音楽室の話題は高坂の父親や滝先生の贔屓についての話題から、比企谷の悪口や香織先輩が居たたまれないという話題に移り変わっていった。

 だがもっとパートのことも考えて欲しかった。香織先輩もオーディションを再び受けることにしたためしばらく練習で外すことが多くなり、同じ二年なのに俺と加部の二人に比べて影響力が圧倒的にある吉川も機嫌の悪さマックス。いや。あれは機嫌が悪いとは違っていたのかも入れないけれど。とにかく再オーディションまでのパートの雰囲気の悪さは入部当初よりも、そして去年よりもずっと悪かった。

 あいつはソロの再オーディションを公開処刑だと言ったが違うと思う。あれは比企谷八幡の処刑だった。

 

 比企谷の問題児エピソードはまだ続く。

 例えば俺たちとパート練習しているときだって、高坂と比企谷は一人で練習することが多い。入部当初から変わらず、窓際の席に座りトランペットを吹いている。少しくらい先輩や同級生の吉沢と話をしろ。あいつや高坂のお陰でまだ四月の頃はトランペットパートの雰囲気は悪かった。高坂は別に周りの空気も読まず一人で練習しようが許すけどな。美人だから。

 低音のコンバスの小さい子と話すときはにやにやしててキモいし、合奏練の時は一人で何を考えているのかたまににやっと笑うし。たまに香織先輩の方をこの世の不幸を背負っているみたいな目で見つめているし。しかもたまに気が付いた香織先輩が微笑み返すし。

 男子が少ない吹部で同じパートなのに、俺がしばらく比企谷の名前覚えられなかったのもあいつの影が妙に薄いせいだ。決して男子だから覚えなくて良いかななんて思っていたからではない……はず!

 俺の愚痴を加部は笑って聞いているだけだったが、近くにいた沙菜先輩が反応した。

 

 「駄目よ。滝野君言い過ぎ」

 

 「うっ…」

 

 「折角最近、ソロの問題が片付いたから香織も元気になってきて、パートも何とか落ち着いてきたのに」

 

 沙菜先輩に言われて話すのを辞めた。

 沙菜先輩はトランペットパートの三年生の二人のうち、そのうちの一人が香織先輩のため気付かれにくいかもしれないが、中々の美人である。黒髪を二つ結びにしているのが幼そうに見せるが、性格はかなりしっかりとしており、いつもキャラの強いパート内を上手く纏める役を買って出てくれている。あと、おっぱいが大きい。

 植物を育てるのが好きとか、おっとりとした雰囲気にどこか先輩らしさや大人の魅力を感じ、去年一度、遊びに誘ったが断られたのは余談である。

 

 「笠野先輩は比企谷のことどう思いますか?」

 

 加部の質問にツインテールを弄りながら沙菜先輩は少し悩んだ。

 

 「んー。やっぱり未だにどう接していいのか分からないかな。比企谷君と高坂さんは」

 

 「ですよねですよね!」

 

 沙菜先輩の同意に更新した俺は思わず立ち上がる。そうだそうだ。もっと言ってやれ!

 

 「吉沢は!?吉沢は同じ一年として比企谷のことどう思う!?」

 

 「え、私ですか?」

 

 吉沢は今年入部した一年のトランペットパートのメンバーの中で唯一話しやすい。とは言え、吉沢は吉沢で高坂や比企谷とはまた違ったベクトルのマイペースなやつで、今も俺の勢いを置いてけぼりにして、譜面からゆっくりと顔を上げて空返事で答えた。

 

 「うーん。比企谷君。うーん」

 

 考えている様子で首を曲げると、サイドテールの髪が一緒に垂れる。

 

 「…頭いいですよね」

 

 「……だけかよ!?」

 

 「あはは。確かにー!比企谷は頭いいなって思うとき良くある!」

 

 同調した加部に、笑いながら頷く沙菜先輩。確かにあいつの頭がいいというのは、俺も否定できない。

 

 「比企谷君も高坂さんも進学クラスじゃないですか。なんか別のパートの進学クラスの友達に聞いたんですけど、比企谷君、教室ではよく小説読んでるみたいですよ」

 

 「へえ。そうなんだ」

 

 「はい。あと、どっかのクラスの先生が言ってたらしいんですけど、一年生で一番国語の成績良かったんですって」

 

 「マジかよ、すげえな」

 

 「高坂さんもすっごい成績いいんだよね?部活忙しいのに、総合成績が一年の中で三番以内に入ってるって香織に聞いたよ」

 

 「マジかよ、すげえな」

 

 「でも、私低音の夏紀に聞いたんだけど、比企谷は数学は赤点なんだって。低音の一年の二人が言ってたらしい」

 

 「マジかよ、すげえな」

 

 「滝野君、さっきからそれしか言ってないよ」

 

 だって、本当に色々凄いよ。成績がいいのは勿論純粋に凄いけど、よくマンガとかで見る赤点って、現実じゃ中々見なくないか?

 

 「さ、沙菜先輩。なんですか?」

 

 「ふふ。ううん。秋子ちゃんも勉強頑張ってね」

 

 「は、はい…」

 

 「友恵もね?」

 

 「はい……」

 

 沙菜先輩の笑顔の前でがっしりと肩を組む二人。俺はと言うとそんなに成績は悪くないのだ。特別いい訳でもないけど。

 勉強は頑張って損はない。たまに女子に宿題でわからなかったところとか聞かれると教えてあげられる。その女の子が可愛ければ、恩を売りまくった結果、遊ぶ約束をこぎつけて付き合うきっかけになるかもしれない。ちなみに、そうなったことは一度もないし、こないだクラスで女子が『宿題忘れちゃったぁ。誰かやってきてないかな…』と言ってたときに、『滝野なら見せてくれるよ。あいつ使えるから』と言っていた気がするがきっと勘違いだ!

 

 「でも話は戻るけど、比企谷君と接しにくいとは言ったけど、あの子ずっと入部した時から一人で練習頑張ってたよね」

 

 「あ、それは思ってました。高坂さんも比企谷君も凄いなあって」

 

 「そんなことない。練習すんの、普通のことだから」

 

 「そういう滝野は、その間も他のパートの男子と遊んでたけどね」

 

 それは先輩に呼ばれたら行くしかないだろ。それに話してる内容が同じパートに彼女がいる現三年、トロンボーンパトリの千円先輩の『千円でできるモテ秘講座』だったら尚のことだ。

 

 「ほら、入部してからずっとあの窓際のところで吹いててさ。その姿見てると、一年生の頃の香織を思い出しちゃうんだ」

 

 「ああ。香織先輩、一年生の時から上の代が練習してなくても吹いてたって言ってましたもんね」

 

 「うん。比企谷君と違って、先輩に話し掛けられたら笑って話してたし、もっと上手くやってたところはあったけど。なんかそういうちょっと香織に似てるところがある気がするんだ。だから香織も比企谷君の事が気になっちゃうんじゃないかな?」

 

 「そういうところあるんですかね?」

 

 「きっとね。だからかなんだろうけど、私は香織だって強豪校に負けないくらい上手いって思ってるけど、比企谷君もそのくらい吹けるよね」

 

 「香織先輩ほどは大げさな気もしますけど」

 

 「そうですよ。香織先輩の方が絶対上です」

 

 沙菜先輩に俺と加部が反対意見を出す。その間も吉沢はぽーっと何もない三人の真ん中を眺めている。

 

 「秋子ちゃんはどう思う?」

 

 「え、難しい。うーん」

 

 また長い吉沢のうーんが始まった。待つこと数十秒。吉沢の出した答えは。

 

 「優子先輩くらいじゃないですかね?」

 

 「じゃあ私たち派だね」

 

 「よっしゃ!流石吉沢!」

 

 ハイタッチのつもりで吉沢の方に掌を出す。吉沢は俺の手を見て、そっと目線を下げた。それに合わせて俺もそっと腕を降ろす。何もなかった。いいね?

 

 「でも優子ちゃんくらい吹けるって十分に凄いよね?」

 

 「優子は南中出身ですしね。二年の中では間違いなく一番上手いよね?」

 

 「まあ、正直な」

 

 否定はしない。吉川は二年では一番上手い。だが考えて見れば、吉川と同じくらいと言うことは比企谷は俺より上手いと言うことだ。悔しい。もっと練習しよう。

 

 「…って俺今気が付いたわ」

 

 「はいはい。今度は何?」

 

 「比企谷、加部のことは加部って呼ぶけど吉川のことは優子先輩って呼ぶよな?なんで?」

 

 「そりゃ、優子はみんなから優子って呼ばれてるし」

 

 「でも同じパートの一つ上の俺が吉川って呼んでるんだぜ?そこは空気読むだろー?」

 

 「私、前から思ってたんですけど、逆にどうして滝野先輩って優子先輩の事吉川って呼んでるんですか?」

 

 「そ、それは…」

 

 ぱっと顔を伏せる。そんな俺とは対照的にニヤニヤしている加部と沙菜先輩。当事者の加部はともかく沙菜先輩もやっぱり知ってるのか。まあそりゃそうか。噂の広まりが早いのが吹部だし。

 

 「教えてあげようか?」

 

 「はい。教えて下さい、友恵先輩」

 

 「あのね、私達が一年の時の夏くらいまでは私も優子も滝野に下の名前で呼ばれてたの。でもある日ね、滝野が同じ代の女子だけで話してるときに急に入ってきて、その時に優子が『なんか滝野って、下心が見え見えっていうか…キモいんだけど。私と友恵のこと下の名前で呼ぶのやめてくれない?』って。あの時の滝野の顔……あはは」

 

 「優子ちゃんらしいよね。はっきりしてて。その話聞いたとき、すっごい香織と笑っちゃった」

 

 「やめて…。傷口抉らないで…」

 

 「あー。私もそれ分かります」

 

 「おい」

 

 「あははは。秋子ちゃんは滝野に下の名前で呼ばれてなくて良かったね?」

 

 「はい」

 

 はい、じゃねえよ。はっきり言うな。

 

 「そう考えると比企谷君は下心がないからいいのかな?」

 

 「うーん。下心は男子だし、ありそうじゃないですか?」

 

 「そうだそうだ。吉沢の言う通りですよ。あいつめっちゃエロい目してますもん。あれは昔、やったことがある目ですよ…」

 

 「どんな目なのよ…」

 

 加部は呆れた様な顔をしてるけど、俺はわかるぞ。ドン・キ○ーテの十八禁コーナーに恒常的にいる人と同じ目だ、あれは。

 

 「さっきまでずっと香織先輩が比企谷お気に入りって話でしたけど、普段優子と良く一緒にいる私的には、優子も結構、というかめちゃくちゃ比企谷と仲いいと思うんですよ」

 

 「パート練の時も優子ちゃんが絡みに言って比企谷君がなだめてるみたいな光景よくあるよね」

 

 「そうですそうです。比企谷は優子の扱いが上手いと思うんですよ。ほら、優子って結構熱くなりやすいところがあるけど、比企谷が冷めてるというか冷静だから上手く対処できるというか」

 

 「適材適所みたいな感じですかね?」

 

 「そそ。秋子ちゃんの言う通りそんな感じ」

 

 じゃあ香織先輩じゃなくて、吉川の方行ってくれよなあ。吉川は同学年の吹部以外の奴からは人気も高くてルックス凄い良いのは認めるんだけど、同じパートの俺的には同い年なのにずけずけ色々言ってきて怖いから…。うまく手なずけられているならそのまま手なずけて欲しい。

 ほんと、黙ってたら人形みたいで可愛いんだけどなあ。あんなに香織先輩が絡むと暴走し出したり、自分と意見が食い違うと戦おうとする戦闘民族みたいなところがあるのに、それでも尚男子から告られたりしてモテるんだからもったいないと思わざるを得ない。

 

 「最近じゃ帰りも私とかオーボエのみぞれと一緒じゃなくて、二人で帰ることもあるし」

 

 「え、そうなんだ」

 

 「はい。優子が校門で待ってるみたいですよ。気になって何回か隠れて見てたんですけど、比企谷の方も満更ではなさそうに、部活終わった後、なんか自転車を取りに行くのがゆっくりなんですよね。私は優子に合わせてるんじゃないかなって」

 

 「ほ、本当ですか?」

 

 「うん。それにね。優子が校門で待ってるのが見えると、自転車の籠に入れてた鞄をずらしてもう一つ鞄を入れられるように空けるんだよ。それで優子と合流すると、鞄受け取って入れてあげるの」

 

 「う、嘘!もしかしてもしかしてあるんじゃない!?」

 

 沙菜先輩と吉沢の目がキラキラと輝き出す。これは女子あるあるのあれだ。あれが始まる。比企谷もご愁傷様だな。女子のこれに捕まると面倒だぞ。多分自分の知らないところで話が進むやつだ。

 だけどこういう話、意外と男子も好きなもんなんだよな。喜んで盗み聞く。

 

 「うーん、どうなんだろう。潜在的には恋愛感情ありそうだから、可能性はゼロじゃないですよね」

 

 「きゃー!!確かに二人とも、パート練の教室で話してるとき凄い楽しそうだし。友恵ちゃん的には、優子ちゃんが比企谷君好き度どのくらいだと思う?」

 

 「二人、なんだかんだ私が知らないところで色々ありそうなんですよね。優子に鎌をかけてみると反応が昔と違うし、何か最近満更でもなさそうだから……五十八くらい!」

 

 何だそのピンポイントな数字!どうやって算定してるんだ!

 

 「五十八ですか。比企谷君にはもっと頑張って欲しいですね」

 

 「ああ。そうだな」

 

 「あれ?滝野君。優子ちゃんだったら別に比企谷君がそういう感じでもいいの?」

 

 「香織先輩だからあいつの憎さが八万ウザポイントなんですよ。吉川だったら五百ウザポイント位に下がります」

 

 「それ、八万と八幡かけたんですよね?滝野先輩、そういうところですよ?」

 

 「ごめ……吉沢、そういう冷静なだめ出しはやめてくれ。とにかく比企谷が吉川の手綱を握っていてくれるなら俺は何となく助かる。それで少しでも吉川が、俺に優しくなってくれたらもはや感謝」

 

 「別に滝野にそんな当たり厳しくないと思うけど…」

 

 「いやー、比企谷君も隅に置けないね」

 

 俺、あいつより一年多く高校生活送ってるけど、まだ一回も校門で女子と待ち合わせとかしたことないし。

 

 「納得いかない。なんであいつなんだ」

 

 「あ。最初に戻った。……でもさ滝野も覚えてると思うけど、比企谷、オーディションの時二年生に声かけてくれたよね。頑張って下さいって」

 

 「あー、忘れてたわ」

 

 「忘れんなよ。そういうところじゃない?」

 

 「……」

 

 …別に本当は忘れてなんていないけど。

 少し恥ずかしそうにそっぽを向きながら、普段あまり話さない俺を含めて、二年全員に頑張れと声をかけた比企谷。頑張れって言うけどこれでもかってくらい頑張ってるよ、なんて内心では思わなくもなかったが、それでも本番前の緊張しているときに後輩に声をかけてもらえたのは少し、いや正直めちゃくちゃ嬉しかった。吉川も加部も、本当に嬉しそうにしていたし。

 だから高坂が吹いている間、もしかしたら別格の実力を耳にして駄目かもしれないと弱気になりそうなところで踏ん張れたのは、きっと少しはあいつのお陰でもあるのだ。

 

 「くっそ…。もうちょっと練習して帰ろう」

 

 「偉いね、滝野君。私ももうちょっと練習しようかな」

 

 「あ、じゃあ私も」

 

 返事をしなかった吉沢も、私は最初から残るつもりだったみたいな感じで譜面をめくっている。

 それぞれが何となく定位置になっている椅子に座ってトランペットを構えたのを見て、俺は一度息を吐く。

 負けてたまるか。後輩の比企谷に。香織先輩だって、トランペットだって絶対に。どちらも俺の方が一年早かったのだから。先輩としても男としてもプライドってもんがある。

 

 譜面をめくりながら、何となく思った。あ、そう言えば高坂の話はあんまり今しなかったな。

 高坂については俺、実はかなり思うところがある。でもこれは今日のここにいるメンバーでは話せなかったか。

 どこかミステリアスでかっこいい。クールで無表情で冷たげな印象。だが、そんなことは全て置いといて何よりも目がいくのは。

 三人が吹くトランペットの音の下に隠すように、俺は静かに呟いた。

 

 「やっぱりあの一年とは思えないバストとヒップだよなあ」



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吉川優子が酔っ払うと、とにもかくにも可愛いからズルい。

 俺が大学に入学して、時はすでに十月。少し夜に家を出ては肌寒くなってきたかなと言うくらいの時期に、その電話は掛かってきた。

 

 「…もしもし」

 

 「あ、もしもし。ごめんね、比企谷君。今大丈夫?」

 

 「はい。大丈夫ですけど…。傘木先輩ですよね?」

 

 「うん。そうそう。こんばんは」

 

 「あ、はい。こんばんは。優子先輩のことですか?」

 

 「うん。よく分かったね?」

 

 「そりゃ優子先輩から掛かってきてて、出たのが傘木先輩だったら結論それしかないでしょう?」

 

 「そっか。うん。そうだ」

 

 「あの人、結構酔っ払ってます?」

 

 「酔っ払っててテンションが高い。夏紀とどっちが多く飲めるか勝負するんだー、とか言い出してからかなり飲んでたからね」

 

 やっぱりかあ。今日のバイトが終わった後に、優子先輩と同じく絶賛大学生活満喫中である傘木先輩と夏紀先輩の二人と飲むから帰るのが遅くなると聞いた時からこうなることは想像できていた。

 傘木先輩は中々真面目だから、まだ十九歳で酒を飲まない。よって、飲むのが二十歳をすでに迎えているあの二人であればどうなるか。こうなる。

 酔っ払うと色々な人がいるというが、総じて二段階右折だと俺は思う。例えばめっちゃテンションが上がって、落ち着いたらトイレにこもるやつ。こいつは一番厄介。もしくはべらべらしゃべり出して、しばらくしたら泣き出すやつ。それが女だった場合は私の心の隙間空いてるから、誰か貰ってーっていうタイプもいるから簡単に騙されてはいけない。そういう女ほど軽くて、キャパシティどんだけ広いのってくらい、色んなやつに心の隙間空けまくってる。

 それが吉川優子の場合、妙にテンションが高いのは第一段階なのだ。第二段階はまだこれから。

 深くため息を吐いた。おそらく今日書くことにしていたレポートを終わらせることはもうできないだろう。

 

 「夏紀先輩は大丈夫ですか?」

 

 「うん。夏紀も顔赤くていつもより……うるさい」

 

 「そっすか。……なんか優子先輩と夏紀先輩がご迷惑かけてすいません」

 

 傘木先輩には本当に申し訳ない。程々のところでやめればいいものの、特にあの二人が飲んで酔うとどちらもダルいのだ。夏紀先輩はうるさいし、優子先輩はやたらテンションが上がる。

 

 「ううん。三人で飲むの、楽しかったし。むしろ私こそ電話かけちゃってごめんね。いや、私がかけたんじゃないんだけど…」

 

 「分かってます」

 

 「優子が比企谷君に電話して迎え来て貰いたいっていうからさ」

 

 「あの人、俺のこと奴隷か付き人かだと思ってるんですかね?」

 

 「いや、普通に彼氏だと思ってるんじゃない。さっきまで散々惚気られてたし」

 

 「……」

 

 「なんかあんまり学校――」

 

 「希美!スマホ返してよ!出たんでしょ!」

 

 通話をしているスマホ越しに聞き慣れた甲高い声が聞こえてきて、思わず耳から離した。

 

 「あ、うん。今代わる」

 

 「ちょっと夏紀!私のこと離しなさいよ!」

 

 「やだねー」

 

 「何でよ!?キモいし、暑いし、キモいんですけど!」

 

 「あんたが嫌がることをしたいから」

 

 「はあぁー!性格わっる!しかも酒臭いのよ!離して!」

 

 「酒臭いのはあんたもでしょ!」

 

 「このっ!離して!私は八幡と――」

 

 こめかみを押さえた。これをどこかの道ばたでやってると考えると本当に恥ずかしい。

 

 「って現状かな。うん」

 

 「……大学の近くの居酒屋で飲んでたんですよね?」

 

 「今は駅にいるんだけど」

 

 「わかりました」

 

 「来てくれるの?」

 

 「はい。五分もあれば着くのでそこで待ってて貰っていいですか?」

 

 「ありがとう。……優子ー。今から比企谷君来るってさー」

 

 「やったあ!帰りコンビニ寄ってプリン買ってもらおっと」

 

 「違う違う。比企谷は今から私と希美と一緒にもう一軒行くから」

 

 「行くわけないでしょ。二人ともまだ未成年ですー」

 

 「そんなもんわかんないって。二人とも大人っぽいし。比企谷なんて、会社帰りの上司にこき使われたサラリーマンみたいな目してるし」

 

 「飲ませるのは本当にやめてよね。大体、なんであんたと希美と三人で私がいないのよ?」

 

 「そりゃ優子ちゃんはさっき私より飲めなかったでしょ?敗者は一人で帰って?」

 

 「な!?夏紀は全部ちょっと残してたじゃない。ちょい残しよ、ちょい残し!」

 

 ギャーギャーギャーギャー続くやり取りに傘木先輩の困り顔が頭をよぎった。

 

 「あの、すぐに行きます」

 

 「…うん。お願い」

 

 幸いにも、三人が飲んでいた場所はここから近い。やれやれと重たい腰を上げて、きちんと整理された、やたら可愛らしいグッズで溢れる玄関を出た。

 

 

 

 

 

「……さむ」

 

 タクシー代払ってでもタクシーで帰ってきて貰うべきだったと後悔したが、もう遅い。早く行かなければ、傘木先輩があんまりにも不憫だ。酔っ払い二人を相手にする素面の辛さは、優子先輩と夏紀先輩が飲めるようになってから嫌と言うほどに痛感した。

 せめてあともう一人いれば。そう思って真っ先に思い浮かぶのは、鎧塚先輩だった。しかし鎧塚先輩だけは、何だかんだでよく一緒にいた彼女ら四人の中で唯一音楽大学に進学した。音楽系の大学というのは、俺たちが通う適当に過ごしてりゃ卒業できるような普通の大学よりもどうも大変らしく、都合を合わせるのは中々難しいそうだ。

 

 「大体、なんで大学生にもなってそんなふわふわした服着てるわけ?恥ずかしいよー?」

 

 「あんたこそ、何も分かってないわね。こういうの今、流行ってるから」

 

 「それはチャオに載ってるんでしょ?そんなんじゃ、比企谷にも捨てられるんじゃない?服もダサいし、うっさいし」

 

 「んなわけないでしょ!可愛いって言ってくれますー」

 

 「もうやめようよ。二人とも……」

 

 三人とも紛うことなく美人なはずだ。高校の時から化粧なんてほとんどせずとも元がいいから可愛かったのに、大学に入ったら化粧という武器も身につけて行くところ注目の的。現に三人とも男に誘われたことは一度や二度ではないことを俺は知っている。それでも今、男どころか通行人が一切近付かないのはやはり、あの二人のハイパーボイスの効果以外の何物でもない。

 まあ男が寄らずにいるのは、彼氏としては不安がなくて良いのだが、この光景を見ると別の意味で不安になる。

 もう今から二年前になるのか。優子先輩が部長、夏紀先輩が副部長をしていた夏を終えてから。二人と一緒に部の運営に携わっていたからこそ、あの一年間ですっごく大人になって遠い存在になった気さえしていた時もあったのに、やはり人は退化していく生き物である。

 だから、俺も高校の時は朝練行ってたのに、大学は寝坊しまくって授業を休むのも、それを小町と母さんに嘘吐いて誤魔化すのも仕方がない。仕方がないのよ…。

 

 「お待たせしました」

 

 「あ。比企谷君!」

 

 傘木先輩の声で二人が俺を見た。

 

 「八幡!やっと……ってちょっとあんた!いい加減離せってば!」

 

 「むりー」

 

 「何でよ!」

 

 「むりー」

 

 「だからなんで!」

 

 「むりー」

 

 「聞いてよ!?」

 

 騒がしい二人は置いといて、俺が来て本当に安心したような顔をしている傘木先輩に謝らないと。

 

 「傘木先輩。ご迷惑かけていたみたいで申し訳ないです…」

 

 「ううん。本当に楽しかったんだ!」

 

 「それなら良かったですけど」

 

 「うん。…途中から、面倒くさかったけど…」

 

 「わかりますよ。たまに夏紀先輩が来るときそうですもん。

 最初コンビニで買ってきたつまみを焼いたりしたりして、アレンジしてるときは楽しいんですよね。ただ缶を結構空け出すと、ダル絡み凄いし、うるさいし。それも優子先輩も夏紀先輩もお互いがいると加速度的に酔っ払うから…。ついこないだなんて、ちょっと二人の相手疲れたからベランダ行ってたら何故か鍵絞められてて、しかも二人とも疲れて寝てて。だからたまたま優子先輩が起きるまで、一人で外に…」

 

 「…比企谷君。今度、優子に内緒でご飯奢るよ。慰め合おう」

 

 「…なんか俺の方がすいません。気を遣って貰っちゃって」

 

 傘木先輩の優しさがしみる。あの日、本当に辛かったな…。夜三時にスマホもなしでベランダに…。

 『ベランダに一人』って歌詞とか、小説とかでよく目にしたり聞いたりするけど、あれはダメだ。そんな軽々しく使ってはいけない。少なくともあれを経験するまで使わないで、お願い。

 

 「でもさ、吹部の時から私はずっと思ってたけど、やっぱり優子と比企谷君はいいね。上手くやってるじゃん!」

 

 「……ちなみに何を聞きました?」

 

 「優子酔っ払うと元から明るいのにもっと元気になるから、楽しそうに色々話してたよ!

 優子の一人暮らしの家に最近はほとんど毎日いるとか、でもそれも申し訳ないからって逆に二人で休みの日は比企谷君の家によく行って比企谷君の妹と三人で遊んでるーとか。家から中々出ようとしないで面倒くさいけど、結局最後は映画でもショッピングでも遊びに行ってくれるって喜んでたし。

 あ。でも逆に優子の実家には中々行こうとしないっていじけてたよ」

 

 「いや、行きにくいもんなんですよ。男からしたら彼女の実家はラスボス前の城みたいなもんですからね?」

 

 「それは大げさなんじゃ…」

 

 「八幡!」

 

 「うおっ!」

 

 話していると目の前から亜麻色の髪の二十歳が飛びついてきた。ふわりと香る嗅ぎ慣れた女の子の臭いはいまだにドキドキとしてしまう。一緒に酒の臭いも香ってくるから、また別の意味でもドキドキしてしまう。

 

 「良かった。八幡がいる」

 

 「死んじゃったみたいなあれじゃないん……」

 

 「ねえねえ。聞いてよ聞いてよ」

 

 「いや、むしろ俺の話も最後まで聞いてよ。まあいいですけど。何ですか?」

 

 「夏紀がズルしたの」

 

 「は?」

 

 「私より多くお酒飲もうとして、絶対全部ちょっと残すの。ズルいでしょ?」

 

 「……」

 

 「……ズルいよね…?」

 

 「……」

 

 「……んぅーっ!」

 

 「はは。ほら優子。比企谷別に狡くないってさー」

 

 ケタケタと笑う夏紀先輩に、優子先輩は悔しそうに目に涙を溜めた。可愛い。この顔が見たかったから、何も言わなかったみたいなところがちょっとある。最低?ほっとけ。可愛いの前では何でも許される。萌え豚の暗黙の了解だ。

 

 「比企谷もご苦労なことで。わざわざ迎えになんて来なくてもいいのに」

 

 「じゃあ迎えに来させるくらいに飲まないでくださいよ」

 

 「はは。ごめんごめん。あ、そうだこないだのことも謝っとかないと」

 

 「こないだの事って?ベランダに閉じ込めたことですか?」

 

 「それもだけど、比企谷の気に入って飾ってた何かのフィギュアみたいなやつ、落として壊しちゃったんだよね?」

 

 「え?」

 

 「え?」

 

 沈黙が場を支配した。そのフィギュアってまさか、俺がゲーセンで一目惚れして三千円かけて取ったおっぱいタイツ師匠じゃないよな!?

 

 「ねえ、もう帰ろうよー」

 

 「そ、そうだね。帰ろう」

 

 「待って下さい夏紀先輩。こういう時だけ優子先輩に乗っからないで!」

 

 「私は希美に送ってって貰うから。優子のことは頼んだよ」

 

 「え?私?まあ別にいいけど」

 

 「じゃあまた次は比企谷も一緒に飲み行こう!って言っても比企谷はソフドリしか飲めないけど」

 

 「次があるかは帰った後にフィギュアの状態を確認してからによりますね…」

 

 「そ、それじゃあね。比企谷君、優子」

 

 「うん。ばいばーい。また飲み行こう」

 

 「うん。わかったー」

 

 「傘木先輩、ありがとうござました」

 

 二人は颯爽と俺たちに手を振って駅に向かっていった。逃げ足だけは速い。

 だがこうして割とあっさりした解散でなければ、また優子先輩と夏紀先輩が喧嘩をおっぱじめる可能性があった。そう考えると、あそこで夏紀先輩を逃すのはそんなに悪い選択ではなかったのだろう。

 

 「優子先輩、歩けますか?」

 

 「歩ける」

 

 歩けるなら、答えながら繋いできたこの手は何なんですかね?

 

 「楽しかったですか?」

 

 「うん。楽しかった。特に希美とは合うの、久しぶりだったから。久しぶりって言っても、大学ではちょくちょく合うし、一緒にご飯行ったのも二ヶ月ぶりくらいだけどね」

 

 「それ久しぶりって言わないですよ?」

 

 「言うもん。だって高校の時は毎日会ってたんだよ?」

 

 「二年以上も前の話ですけどね」

 

 「去年ももうちょっと頻繁に合ってた。八幡が部活で忙しかったし、引退しても受験勉強あったし」

 

 「その言い方だと、まるで傘木先輩と会わなくなったのが俺のせいみたいになってませんかね?」

 

 「ふふふ」

 

 優子先輩の頬は酔っ払っているせいで赤い。これはわざとなのだろうが、ふらふらと歩くことで俺と繋いでいる手に引っ張られるのを楽しんでいる。

 くっついては離れて、くっついては離れて。しばらくしてそれも飽きてきたのか、繋いだ手はそのままに俺の腕に身体を預けてきて、上目使いで俺に甘えるように問いかけた。

 

 「今日は私のことお持ち帰り?」

 

 「むしろ俺が優子先輩の一人暮らしの部屋に行くんだからお持ち帰りされてる側ですよね?」

 

 「確かに。じゃあ送り狼」

 

 「狼…。悪い響きじゃないですね」

 

 「全然似合わないけど」

 

 「いやめっちゃ似合うでしょ?大学でも一切友達を作らない。一匹狼と言えばまさに俺じゃないですか?」

 

 「同じ大学に塚本いるでしょ?それに一匹じゃないじゃん。今だって、送り狼じゃん」

 

 「送り一匹狼です」

 

 「意味わかんないんですけどー」

 

 「でも今日は送ってくだけです」

 

 「えー!?泊まってってくれないの!?」

 

 「レポートやんなくちゃいけないんですよ」

 

 「そんなの明後日でいいじゃん!私も教えてあげるし」

 

 「俺たち学部全然違うじゃないですか」

 

 「いーじゃんいーじゃーん」

 

 「それに酔っ払いの相手面倒くさいんですもん」

 

 「二年以上付き合ってる彼女に対して冷たい…。あ、そうだ。私が今日は比企谷家にお邪魔させてもらえば――」

 

 「やっぱり今日は行かせてもらいますね」

 

 「なんで!?」

 

 「だって酔っ払った優子先輩が小町にいらないこと色々と話すと、後からボロボロに言われた挙げ句に家で居場所がなくなるんですもん。

 ボッチにおいて一番手放しちゃ行けないもの、それは家族との絆です。大学とか言う時間が有り余ってそれを謳歌できる最高の環境に身を置かせてくれているにも関わらず、それを本分だやら、今はそれでいいんだやら言って甘やかしてくれて、その上に三食に自由に使える部屋を貸してくれるサービス付き。これは今の若者が社会に出ないで親の脛を囓り続けるのもわかりますね。

 だからこそ、そんな立場を危うくする優子先輩を近付かせるわけには行きません」

 

 「さっき自分のこと一匹狼とか言ってたくせに。一匹どころか依存しまくってるじゃん。それに、そもそも私そんな酔っ払ってないんだけど」

 

 「まあ確かに。前に一回あったときみたいにべろんべろんではないですね」

 

 「ちょっと。その話はしないで」

 

 「ああ。もうそんな気にしてないんで俺はいいっすよ。

 酒飲めるようになったばっかりの時だったから仕方ないですよね。トイレから出てこれなくなっても」

 

 「本当にやめてよ。次の日死にたくなったんだから」

 

 「でも俺が介抱して良かったじゃないですか?」

 

 「むしろ介抱してくれたのがあんただから嫌だったの!一人とか、まあまだ夏紀なら良かったけど。よりによって八幡の前で吐くなんて…」

 

 おっと。本当に俯いて泣きそうになっているからこの話はやめないと。

 

 「あの時の話蒸し返すとか信じられない。そういうところ、本当に大嫌い」

 

 「真顔で大嫌いはやめてください。このまま目の前の赤信号に飛び出しそうになるんで」

 

 「嘘よ。大好き」

 

 「……はいはい」

 

 「あー。照れてる照れてるー。あはは!」

 

 「本当に酔っ払い面倒くさい……」

 

 

 

 

 

 「ただいまー!」

 

 「たでーま」

 

 『お帰り』の返事はない。むしろ、あったら怖い。何だかんだで同棲みたいになりつつある、この部屋の家主と俺が揃って帰ってきたんだから。ポケットの中に入っている、この部屋の鍵は俺と優子先輩しか持っていない。

 見慣れた可愛らしい玄関に靴をそろえて脱いだ優子先輩は、ぱたぱたとリビングに向かっていった。一応酔っ払っていても整理整頓をきちんとする辺り、これは習性みたいなものなのだろう。大変素晴らしいことです。

 

 「あ、ねえ八幡」

 

 リビングの電気をつけた優子先輩がニヤニヤと笑いながら俺を手招きした。

 

 「なんすか?」

 

 「さっき送ったら帰るつもりなんて言ってたくせに、パソコンうちに持ってきてるじゃん。迎えに来てくれるまでうちでレポート書いてたって事でしょ?最初から泊まって行く気だったんだ、この捻デレさんめー」

 

 「…まあ。絶対今日は迎えに来てって言われるって思ってましたから。そんでその後は泊まってく流れになりそうだなって。うん」

 

 「もう。だったら最初から素直に泊まるつもりでしたって言いなさいよー」

 

 ぽすぽすと胸を叩かれる。

 それを手で抑えて、俺は使い慣れた水色のクッションに腰を降ろした。ドーナッツのように真ん中が空洞になって座りやすいクッションはピンク色の優子先輩のクッションとお揃いだ。

 座って、落ち着いて部屋を見渡してみると小っ恥ずかしいお揃いの物も増えてきたのだと実感する。キッチンに置いてあるマグカップや普段使いの箸や、折角行ったんだから買おうよとノリで買ってしまったディスティニーランドの人形。

 棚の上に並べられた吹部時代の表彰状と、数々の写真。一番大きな写真は優子先輩が部長だった俺が二年次の時の全体写真だ。優子先輩の隣に写る夏紀先輩を含めて制服を着ていることに懐かしさを覚える。当然だがもう二年間、制服姿の一つ上の先輩を見ていない。

 他にも香織先輩と俺たち二人で写っているものや、一年の時はまさかこんな写真撮るなんて考えもしなかった、高坂と三人で撮った写真もあった。

 そんな写真の隣に置かれている置き時計は、俺が優子先輩が一人暮らしを始めると聞いた時にプレゼントしたものだった。悩みに悩んで送ったその時計は、正直そこまで高価な物ではなかったのに、今でも頑張って働き続けて優子先輩の生活を見守ってくれている。

 

 「ねえ。何する?録画してたドラマの続き見る?それかせっかくスイッチ買ったし、マリカ?」

 

 「優子先輩がやりたいのでいいですよ」

 

 「うーん。マリカは八幡に負けるとムカつくし、夏紀をぼこぼこにするためのものだから辞めましょう」

 

 「なんか夏紀先輩、優子先輩に負けるの悔しすぎて買おうか検討してるみたいですよ?」

 

 「そうなの?バカだねー。オンラインで私と勝負したら、夏紀、家で一人で悔しがることになるのに」

 

 「意外とすぐ抜かされそうな気がしますけどね」

 

 だって優子先輩、ドリフトしないし。アイテムゲーと言われているこのゲームだが、そのアイテムでのラッキー勝利が異常に多い優子先輩は、ドリフトを練習してミスって負けている夏紀先輩に抜かされる日は近いのではなかろうか。

 でもそうなったらそうなったらで、今度は優子先輩もドリフトするんだとか言い出して、練習に付き合わされそうな気がする。徹夜で。

 

 「こないだ途中で見るのやめた映画見よー」

 

 「うっす」

 

 「ってわけでつけるのは任せたわ」

 

 どうせ今回も途中で見るのを中断するんだろうなーなんて思いながらも、リモコンを押して録画リストの中からお目当ての映画を選ぶ。こてこての胃もたれしそうな恋愛映画は俺の嫌いな物ではあったのだが、意外と見てみれば面白い。『こんなのあるわけねえだろ』とか、『こんな男、俳優だから顔がいいだけで実際にいたら最低のクズ野郎だぞ』とか一人でツッコミを入れるのが。

 意外でもないが、優子先輩もこの手の映画はそんなに好きではないはずなのに、それでもこうして録画して見るのは話のネタで、会話をするための半ば義務感のようなものらしい。

 大学生はドラマを卒業しても俳優は卒業できない。多分、高校の時のアニメオタクが大学でやたら声優のイベントに参加をし始めるのと同じ現象なのだろう。

 

 「俺、飲み物飲みますけど、なんかいれましょうか?」

 

 「ううん。いらない」

 

 「分かりました」

 

 「うん」

 

 「……」

 

 「……」

 

 「…いや、あの。うんじゃなくてどいてもらっていいですか?」

 

 「えー」

 

 優子先輩は映画を再生して、早一分と経たずに見ていなかった。何かしようと言いだしたのって、あなたでしたよね?

 

 「抱っこー」

 

 「……」

 

 「抱っこー」

 

 「……」

 

 なるほど。これはもう来てしまったか。第二段階が。

 吉川優子の習性。お酒を飲むといつもより元気になる。しばらくして状態変化。やたら甘えん坊になる。

 酒は人の隠している部分をさらけ出すだけだと言うが、もし本当にそうであるのならば納得かもしれない。部活やってたときはまだしも、今は高校の時ほどエネルギーを発散する物がないから元気になるじゃん。そんで普段は隠そうとしてるけど、独占欲強いし甘えたがりだから、しばらくしたら元気から一変してこの第二形態に切り替わる。

 優子先輩を見てると、つくづく思うことは自分が酒を飲んだらどうなるのだろうという恐怖だけである。世に漠然と存在するつまんないやつらは青い鳥のマークのSNSでつまんないことを呟いてはハートを貰って承認欲求を満たされた気になっているが、俺には百四十文字なんかじゃこの世界を呟く事なんてできない。足りなすぎる。だから、酒の効果でそれを全て発散しそうだ。

 そんなことを考えている間にも、優子先輩はピンクのクッションから腰を上げて、俺の足の上に腰を降ろした。

 

 「抱っこー」

 

 「……はぁ」

 

 ふんわりと香る優子先輩の臭いは狡いと思うんだ。だってこれ、もはや人の神経を操る効果があるんだぜ。小町も比企谷家に優子先輩が泊まり来て、同じベッドで寝るときはついつい布団の中で抱きしめちゃうって言ってたもん。

 さらさらの亜麻色の髪が俺の胸にすっぽりと収まる。

 

 「あ、優子先輩。リボン取らないと」

 

 「取って」

 

 言われるが儘に大学に入っても変わることのない優子先輩のトレンドマークであるリボンを解く。この瞬間が、俺はたまらなく好きだ。

 高校の時の付き合う前から、優子先輩が頭にリボンを巻いていたがそれを取っている姿を見たことがなかった。合宿の時さえ、風呂と寝るとき以外はヘアバンドを巻いていたし。

 だからこそ、俺は未だに初めて見たときの優子先輩の髪がストレートに下ろしてある姿を思い出せと言われたら思い出せる。リボンがお気に入りだという優子先輩は勿論リボンが似合っているし、ついていないといないで違和感があるけれど、それもあってか髪を下ろした優子先輩の破壊力は地球が破壊されてもおかしくないレベル。

 

 「やん。くすぐったいよ」

 

 髪を下ろした優子先輩の顔を見たくて首に触れた。そうすれば、くすぐったがって俺の方を向くことも知っているし、それが嫌いでないこともわかっている。

 この髪を下ろした優子先輩を知っている男は、きっと俺しかいないから。

 そんなことを考えているのは、もしかしたら優子先輩と一緒にいる時間が長くて、考え方が移ったしまったのかもしれない。でもそれに、俺の心は嫌悪感を示すことはなかった。

 酔っていることもあって、頬を染めた優子先輩は俺に問いかけた。

 甘い囁きが耳朶に溶けていく。

 

 「ねえ、えっちする?」

 

 「いや、優子先輩疲れてるでしょ?」

 

 「ううん。そんなことない」

 

 「それにもう時間も結構遅いし」

 

 「別にいいでしょ?今日くらい」

 

 「何で今日はそんな乗り気なんですか?」

 

 「んー。別に。でも迎え来てくれたのは嬉しかったし、今日は一日楽しかったし」

 

 「それがそういう気分に繋がるもんなんすか?」

 

 「うん。だからちゅーして?」

 

 この酔っ払い第二形態の何が面倒くさいって。

 甘えん坊で上目使いで真っ白い肌が紅潮してて髪も下ろしてて酒臭さよりもいい臭いが優ってて積極的で可愛くて目もいつもより濡れていてあざとくて。結果として、いつも誘われても誘われなくてもやるところまでやってしまうところなんだよな。

 面倒くさいと心の中で考えるのは、ある意味自分へのリミッターだ。本当は面倒くさくなんてちっともなくて、嬉しいし気持ちがいいし幸せだけれども、それでも自分を客観視して面倒くさいと一線引かなければ、優子先輩に溺れてしまって墜ちるところまで墜ちてしまう。それはダメだ。怖い。

 だから俺は自分の気持ちに嘘を吐く、面倒くさいなんて、かっこつけて。愛しくて可愛い先輩の柔らかい唇に、俺はゆっくりと自分の唇を重ねた。

 

 

 

 

 

 翌朝はベッドの中で目を覚ます。裸の俺の隣には、真っ白の肌をあられもなく晒している優子先輩。髪で少しは隠れているものの、ほぼ丸見えのうなじ。胸は布団で隠れているが、隠れていない。言うなれば週刊誌のグラビアくらい際どいギリギリライン。布団さえめくれば一瞬でアウトだ。可愛い女の子は何着たって可愛いけど、こうして何も着ていなくたって可愛い。素材の味が活きる的なやつ。

 こんな朝を迎えるのは別に珍しいことではない。一週間に一回くらいはある。だからさほど驚くことはないけれど。

 

 「げ。やっちまった」

 

 俺が上げた置き時計は朝の十時を示していた。一限はとっくに始まっている時間である。

 俺が起きたことを敏感に感じ取って、もぞもぞと動いた先輩を、さて起こそうか起こすまいか。このベッドで陽の光が差し込んで、綺麗な髪がキラキラと光っているように見える優子先輩は安らかに眠っている顔も相まって、川島と小町に負けず劣らずの天使っぷりである。よし決めた。起こさない。

 多分優子先輩なら、『まだ起きない。ダルいし』とかいって布団から出ようとはしないだろう。

 

 「……」

 

 静かに身体は起こさないで部屋を見渡してみれば、昨日買ってきて冷蔵庫にしまい忘れたコンビニで買ったプリンや、行為で使ったものを全て放り込んだ治安の悪いゴミ箱。服は脱ぎっぱなし。落ちているベージュのリボンに、『あれ。いつから優子先輩、そんな際どいの履くようになってたっけ』って冷静に考えると泥沼にはまりそうな下着も散乱している。

 本当に怠惰で、誰かから見ればしょうもない大学生活。

 だからこそ、俺はまた目を瞑った。この幸せな生活を享受するために。

 



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吉川優子は告らせたい(上)

 「はぁ。いいなあ、お兄ちゃん。優子さんみたいな彼女がいて。優子さんって、彼氏に凄い優しくて寛容そうですよね。束縛とかしないでしょ?」

 

 すっかり寒くなり、雪が降る日もあるくらいもうすっかり冬を迎えた。だが季節は巡れど、滝先生の粘着指導が変わることはない。今日も水で濡らされた雑巾のようにこってり絞られた練習終わりの放課後に、一緒に帰った優子先輩がうちへと遊びに来ていた。風呂を上がってリビングに向かうと、制服姿のままの優子先輩が小町とキッチンに立って料理を作りながら雑談をしている。

 小町の気になる会話に、俺は思わずリビングの扉を開く手を止めた。

 

 「ううん。むしろ、私って結構束縛気質だと思うんだよね。抱き枕がないと眠れないんだけど、その抱き枕ももう何年も前からずーっと同じの使ってるし」

 

 「うわ。なんですか、それ。あざとい。ズルい」

 

 「そ、そうかな?でも気に入ったものを手放せない性格って言うの?そういう部分があるから。

 だから八幡が数人で誰かと話したりしてるのはあんまり気にしないけど、女子と二人で仲良さそうに話してたり、遊んでたりするのは普通に嫌だよ」

 

 「ほーほーほー。まあでも兄の場合、一人と話すので手一杯ですから。あんまり心配ないんじゃないですか?」

 

 「いやー。それがそうでもないんだよね」

 

 「ななななんですと!

 中学の時、強制参加の打ち上げに誘ってもらって何だかんだで嬉しそうに家を出てったのに、帰ってきたら『人がゴミのようだって言うけど、大人数の中にいると本当に自分はゴミだとしか思えない…』とか言って、打ち上げで皆と話すことはおろかディスられるだけディスられて帰ってきて泣いてたような兄と話す人がいると!小町、気になりますねー」

 

 思わず扉の取っ手に力を込める。

 お前、そうやって俺の黒歴史晒してくのやめろよ!いつどこで誰が聞いてて、それを知った誰かがその話を広めた結果、クラスの笑いものにされるかわかんねんだから!

 

 「…自分の彼氏ながら、八幡の中学時代って本当に残酷よね…」

 

 「はい。妹ながら、フィクションじゃないっていうリアルが突き刺さります…ま、まあそれは置いといて。兄に話してくれるなんてそんな物好きな女の子、優子さんの他にいますか?」

 

 「むしろ、最近の八幡はやたら吹部女子との接触が多い気がするの」

 

 「え、そうなんですか?小町、初耳です」

 

 小町の瞳が怪しく光る。

 俺にとってはあまりにもタイムリーな話題である。優子先輩の言葉に、俺は思わず唾を飲み込んだ。

 

 「うん。例えば、川島とか」

 

 「あー、みどりさんはね。確かにお兄ちゃん大好きだし。でも、みどりさんへの好きは優子さんの好きとは絶対違うじゃないですか。ラブとライクの差が目に見えるかなって。これ、ちょっと小町的にポイント高いかも」

 

 「そうなんだけど、そのライクが強すぎるんだよ。帰りもずっと川島の話しかしないときあるし、昨日なんて話聞いてなかったら、ねえ聞いてるのって言ったら『あー、聞いてました聞いてました。川島が天使って話ですよね。いやー、今日もしゃちほこの話をしてるときの川島は可愛かったんですよ』なんて言い出して」

 

 「クズですね」

 

 シンプルにぐさり。八幡に八十のダメージ。

 言い訳すると、その時は別の考え事してたんですよ。少し優子先輩にも関係していることで。

 

 「あとは、何と言っても高坂よ」

 

 「高坂さんですか?北高祭で会って、お兄ちゃんと三人でお茶しましたけど、そこまで仲良さそうには…」

 

 「いや高坂は凄いの。端からみてると、意外と高坂と八幡の二人って気が合うところあるんだよね。クラスも一緒だしさ。

 でもそれをいいことにあいつ、よくパート練の時とか八幡と一緒に練習してることも多くて、こないだなんていつもなら黄前とお昼一緒に食べるのに、なぜか八幡と食べてたし。私が部長の仕事で一緒にいられないからって…!

 しかもちゃっかり、部活以外の時とか仲がいい黄前と高坂が二人で一緒にいないときは、八幡の隣キープしてることあるんだよ。さらにムカつくのが八幡も満更でもなさそうなところ!

 どうしたらあの女を近寄らせないように…あ、ごめん」

 

 「い、いえ。……おぉ。小町、優子さんの怖いところの片鱗を見ちゃった気がする。全然、寛容なんかじゃなかったや」

 

 そう。優子先輩が束縛しないなんてとんでもない。むしろ明らかに束縛気質である。

 珍しく誰かから連絡が来れば、『誰から誰からー』なんてさり気なく覗いてくるし、遊びに行くと言えば、塚本だけのときと、そこに稀に入ってくる加藤や川島がいたときでは『行ってきなよ』の声が沖縄と北海道の寒暖差くらい違う。最近では、小町経由の情報や俺からの聞き出し、さらに三年が引退して部長という立場についたことを利用し、俺のスケジュール管理さえ行われている節さえある。

 ただ、恋とは盲目なものでね。いやね、意外と嬉しいんだよね。うん。

 俺、そういう重たい恋愛感情が嫌いじゃない。俺なんかのことで嫉妬してくれていると思うと無性に可愛くて、夜にベッドで勝手に悶える。これまで俺は人から感情を、特に恋愛的な面だと尚更向けられることが極端に少なかったことの反動なのかもしれない。

 それに重たい女というのは、何もただ一方的に感情を押しつけてくるわけではない。与えられる分だけ、与えさせてくれる。変な言い方だが、意外とお互いに向けているベクトルの大きさがかみ合っているのだ。付き合って一年も経っていなくて、倦怠期なるものを迎えていないからこんなことを言えるのかも知れないが。

 しかし、そんな俺も今回ばかりはそうは言っていられない。さっきの話が一区切りした優子と小町は仲良さそうに別の話題で談笑を続けているが、それこそが今俺が直面している問題の半分だからだ。

 

 

 

 

 恋愛とは頭脳戦である。

 俺が今、どはまりしているアニメの名言に激しく首を縦に振ったのは、優子先輩と付き合って『恋の駆け引き』なるものを知ったからと言っても過言ではない。

 誰かと付き合うとは時に『恋愛とは告白した方が負けである!』という前提の元、相手に告白させるために天才達が様々な策略を講じたり、浮気するために出張先で出会う予定の相手とのやり取りを妻から隠したり、新卒が上司付き合いでキャバクラや風俗に連れて行かれたのを同棲している彼女に言わずに如何にばれないようにするか、証拠の隠滅方法に四苦八苦しながら墓まで持って行ったり。

 恋愛や夫婦生活にいて、駆け引きとはあらゆる場面で存在するものなのだ。

 

 故に、彼女が恋愛でもさばさばしているように見えて、実は中々嫉妬も独占欲もあるものだから、たまたま先輩達へのプレゼントを同級生と二人で買いに行くことになった、ここにいる俺自身も頭脳戦を強いることになっているのだ。

 それは高坂の一言がきっかけだった。

 

 『ねえ。引退する三年生の先輩達に、私たちからプレゼントあげない?』

 

 二年生が来年度の部活の運営会議を行っているため、一年の高坂と吉沢と俺の三人しかいないパート練習。俺は素直に驚いた。

 珍しい。高坂がこんなことを言うなんて。常に楽器吹いて練習しとけば、後のことなんてどうでもいい。そんな筋肉至上主義に似通った考え方の持ち主のはずなのに。

 だが俺とは違って、吉沢は妙に納得した顔をしている。

 

 『確かに、二年生の先輩達は皆でなんかあげるって言ってたよね』

 

 『うん。私もそれ聞いたからあげた方がいいのかなって』

 

 なるほど。だがそれなら、二年の先輩達があげるものも三人で割るのだろうから、その頭数に入れて貰えばいいのではないだろうか。

 余計な事を言って、こいつまた訳わかんないこと言ってる…、という目で見られるのも辛い。ここは押し黙っておくのが正解か。

 

 『そのついでに、二年生の先輩達にもお世話になってるから小物でもあげようかなって思ってるんだけど』

 

 『おー、いいね。ついでにメッセージカードも付けて!私たちから一言ずつ何か書いて送るの』

 

 大きく頷いている吉沢に対して、メッセージカードに関しては高坂も思うところがあるようであまりいい顔はしていなかった。

 

 『ごめん。私そういうの作るの、あんまり得意じゃないんだけど』

 

 『俺も』

 

 『いいよ。担当分けてやれば。

 とりあえずプレゼントは私たちから贈るってことでいいよね?』

 

 『ああ。まあ』

 

 『それじゃあ、メッセージカードの作成は私が担当をするから、高坂さんと比企谷君がプレゼント選びでいいかな?』

 

 効率厨であり、合理性を求める高坂と俺。そして、変わり者の吉沢。ここでオッケーをしたが、今思えばここの選択が一番のミスだったかもしれない。こういう時は俗物のJK達と同じように、手間をかけてでも三人で行くべきだったのだ。決して効率重視とは言えない、思い出作り(笑)もたまには捨てたもんではない。

 後々になって、これでは高坂と二人で買い出しに行くことになったことは、理由はどうあれ優子先輩にばれたらまずいのではと思った。当たり前だがその時にはすでに遅い。

 

 『私はそれでもいいけど、比企谷は?』

 

 『うーん。まあ、別に』

 

 

 

 こうして結果的に俺と高坂はクリスマス当日の数日前の放課後に、二人でプレゼントを選びに行くこととなった。

 部活終わりの放課後に、男と女が二人で買い物に行く。これではまるで普通のデー……。俺には優子先輩がいるのに……。

 いや、待て。

 そもそも、これは浮気ではないはずだ。女と男が二人で出かけるだけ。その二人はと言うと、片方は可愛くて自慢の彼女がいて、片方は教師に恋する、夢見るドリーミングガール。つまりお互いにその気は全くない。

 しかも内容はと言えば、部で使うものの買い出しに行っている、言わば部活動の延長のようなものだ。優子先輩に言えない理由だって、やましさを感じているからではなくて、あくまで優子先輩にもこっそりプレゼントがあるから黙っていたいだけ。

 だからもし優子先輩もそう思うのであれば、俺が気にしている浮気疑惑は完全に杞憂。

 優子先輩は目の前で俺のベッドに腰掛け、制服からすらっと伸びる浮かせた足をぱたぱたさせなが、少年誌での連載が終わった忍者の漫画を読んでいる。タイミング的には悪くないが、もっとリラックスをさせてからか。

 

 「外が寒いから、暖房が効くまでは部屋も寒いですね?大丈夫ですか?」

 

 「うーん。ちょっとだけ寒い。そこにかけてある八幡の制服の上着貸して?」

 

 いつもなら帰ってきて、今と同じように適当な部屋着を着ると脱ぎっ散らかしたままの制服だが、優子先輩が来るから部屋のハンガーにかけていた。パッと目に入ったのであろう指定された冬服の黒の制服を、特に断る理由はないから渡す。

 優子先輩が袖を通せば、当たり前だが俺がいつも着ている制服は少しだけ大きかった。手元は隠れているし、優子先輩が細いのもあって、胸元から下は特にダボダボとしている。

 けれど、優子先輩は何故だか妙に嬉しそうに、ニコニコと笑っていた。

 

 「あったかーい!それになんか落ち着く臭いかも。えへへ」

 

 はい可愛い。もう、高坂と買い物行くのやーめた。解決解決ー。

 じゃないじゃない。今は優子先輩にほだされている場合ではない!俺がほっこりリラックスさせられてどうするんだ!

 

 「ところで話変わるんですけど、浮気の線引きってどこなんでしょうね?」

 

 自然な流れでは聞けたと思う。声も裏返ってはいない。

 

 「は?急に何?」

 

 「いや一昨日、たまたまテレビ付けてやってたドラマで似たようなこと言ってて」

 

 「………へー。浮気のラインねー。うーん」

 

 「やっぱり肉体関係ですかね?」

 

 「いやいや。それは物理的に殺すか、慰謝料とかで社会的に殺すかレベルでしょ?」

 

 「ころっ…!」

 

 こっわ!ていうか重い!

 ただ冷静に考えてみる。あまり想像はしたくないが、目の前の臭いを付けてマーキングしたいんじゃないかと勘ぐるくらい、袖を通した俺の制服をぎゅっと抱いている先輩が、俺の知らない誰かと浮気をしている光景を……ダメだ。考えだけでそいつ殺しそう。

 確かに優子先輩の言うことは間違っていないな。

 

 「私的には彼女に黙って、相手とこっそり密会とか。ご飯とかでも浮気だね」

 

 「………」

 

 だ、ダメでしたー!ばっちり浮気認定されてたー!

 

 「だってさ、隠してるってことはそこに下心があるんでしょう?」

 

 「で、でも一応法律では浮気って、結婚している二人がその配偶者とは別の相手と行為をしたときに……」

 

 「法律なんて関係ないの」

 

 「すっげえ。断言した。優子先輩は絶対に弁護士にはなれない」

 

 「相手を異性との関係で傷つける。不安にさせる。それ自体が浮気よ。

 だから内緒でカラオケとか、ゲーセンとかも当然アウト。他にも二人で教室の端の席で、授業で習ったことの復習してたりとかもね」

 

 優子先輩のじとっとした目を真に受ける。数学の授業の後に、高坂に宿題の部分だけ聞いた時のことだ。思い当たる節はある。

 俺もしかして身辺調査されてるの?学年が違うこの先輩が、なんでそんなことを知っているのか。そっちに関しては全く思い当たる節がない。果たして誰を経由して情報が…。

 視線を逸らして、俺は考えた。やっぱり何とかして優子先輩に隠し通そう。ばれたら殺される。逆に今回の質問でそれがわかってしまいました。藪蛇だったんだ。

 

 

 

 

 目を逸らして机を眺めていた比企谷八幡を見つめる吉川優子の視線は、未だにジト目のまま変わっていない。

 このときの比企谷八幡の失敗は一つであった。それは、女性ならではの勘の良さを侮ったことに尽きる。

 浮気ってどこからか。この質問をされた時点で優子ははっきりと気が付いていて、そして思ったのだ。

 

 

 吉川優子は(浮気の真実を)告らせたい。

 

 

 

 

 

 突拍子もなく、普段なら絶対にしないような彼氏からの質問に、私はすぐに気が付いた。

 こいつ、浮気をするつもりだ。胸の中に黒くて、モヤモヤとしたものが渦巻いてくる。

 さっきから話していたが、浮気と言っても範囲は広く、今回のそれがどの程度のものなのかはまだ分かっていない。少なくとも私は八幡との関係は良好だと思っているからフラれるなんてことはないと思っているし、浮気も浮気、がっつり浮気で二股などをかける人ではないことは理解している。

 それ故に、誰かと遊びに行くとかそんなところなのだと言うのは推測できる。

 だけど。

 嫌なのだ。嫌なものは嫌。私が思う、ドラマとかで見るようないい女はこういう事にだって寛容であるはずだけど、それでも嫌。

 八幡が私以外の他の女の子と遊んで、あまり見せることのない自然な笑顔を見せているところを想像すると、それだけで胃がムカムカしてくる。自他共に認める捻くれている部分があるからこそわかりにくい優しさを、私以外の誰かに振りまいている姿を見ると、それを独り占めしたくもなる。

 

 だからこそ、私はこれまでもできるだけそうはさせるまいと、ちょーっとだけ小賢しい手を使ってきた。

 可愛くて、これでもかと八幡の情報を提供してくれる小町ちゃんや、さりげなく八幡本人から聞き出す。あるいは、交流関係が広い友恵や、やたら吹部内の噂話に強いホルンの一年生のララちゃんを懐柔して、八幡が誰かと遊びに行きそうな日を把握してそこに先に部活の予定を部長権限でぶち込んだりしていることもある。

 そんな、人並みかそれ以上に嫉妬深い自分を理解している。面倒くさい女でごめんなさい。その部分は心の中で謝りつつ、私はわかりやすく垂らされた釣り糸に食いついて、追求することに決めた。

 

 「……ところでさ、そのドラマってなんてやつ?もしかしたら私も見てたかもー」

 

 読み途中だった漫画はかなりキリの悪いところだが、今はそれどころではない。漫画を閉じて、本棚に戻す。会話を続けますよアピール。

 比企谷八幡は頭の回転がとにかく速い。そして上手に嘘をつく。それは香織先輩の再オーディションの件や、みぞれの件を通じて付き合う前から知っていたが、付き合ってからもあすか先輩の件で少しだけ行動しているのを見たり、付き合う前よりも話すことが増えたために改めてそう感じた。

 そんな八幡に時間を与えないこと。それが最良の選択!今ここで逃せば考える時間を与えてしまう。

 

 「…えーと、なんてやつだったかなー。適当に見てたから忘れちゃいましたね」

 

 「じゃあさ、どんな俳優とか女優出てた?」

 

 「あーほら。あの人あの人。あーここまで出かかってるんだけど、出てこねー」

 

 ふんっ。嘘だ。

 考えてるフリして、別のこと考えてる。付き合ってから、そんなに経っている訳ではないけれど、付き合う前の時間も合わせればそのくらいのことなら分かるくらいの時間は過ごしてきた。

 そもそも、八幡がテレビ付ける時は録画してた深夜アニメを見るときか、日曜日の朝にプリキュアを見るときだけだと小町ちゃんに聞いている。

 私の中で嘘を吐いている判定が依然として揺るがないものとなったところで、この追求はおしまい。問題は如何にして浮気をさせないか。ドラマのことなんかどうでもいい。

 

 「浮気をする心理ってなんなんだろうね」

 

 「……し、知りません。したことないですから」

 

 「男の人が多いらしいよ。ねえ?」

 

 「怖い怖い怖い怖い!あ、近付くとちょっといい臭い…」

 

 「やっぱり背徳感が甘美なのかな?ムーディーな雰囲気にあてられたいみたいな」

 

 「大人っぽい台詞ですね。それよりムーディーとカービィーって響きが似てません?」

 

 「話を逸らすのが下手すぎる…」

 

 八幡は私からぱっと身体を離した。意味もなくペンを手にとって、くるくると回している。

 

 「もう浮気の話はやめませんか?ほら、浮気って主婦達の憩いのお茶の間の時間に影をさすような暗い話題だし」

 

 「わかった。でも最後に確認させて。八幡は、浮気なんてしないよね…?」

 

 「す、するわけないじゃないですか」

 

 「本当に?」

 

 両手で八幡の手を握る。それに、上目使いも忘れない。小町ちゃんから聞いた、八幡へのお願い事の必勝法。何だかんだで私の彼氏はこれに一番弱い。

 付き合ってから、すでに何度も重ねてきた手だけれど、キスと同じで手を重ねることだって、タイミングやシチュエーションで大きく意味を変える行為だ。こうして彼の心の隙間を少しずつ空けていく。

 

 「ほほほ本当です」

 

 言質を取った。これより吉川優子は、これ以上追求しても比企谷八幡の口を割れないと判断して作戦Bに移行しまーす。

 作戦Bはいつ誰とどこで。それを周りから収集し、浮気をした、もしくはこれからしようとしている事実を突きつける作戦だ。言質を取った以上、これで万が一浮気をした暁には、それをネタに攻めて一生浮気をさせないように、厳重に優しく注意することができるでしょう?

 パッと手を離して、少し寂しそうにしている八幡を可愛いなと思いながら、私はスマホを手に取る。ラインを開いて、基本的に連絡事項以外で使われることのない吹部のグループラインを開いて選定を始める。

 

 さて。今回は誰に探りを入れさせようかしら。

 同じパートと言うこともあって仲も良く、尚且つ私たちが付き合っていることを知っている情報通の友恵。友恵を選ぶデメリットは後で私がからかわれること。うーん。今回は違うかな。

 滝野。こいつはパート内の男子である八幡をちゃっかり気にかけてくれてるみたいだから使えそうだけど、キモいからなしね。キモいから。

 高坂。秋子。この二人は友好関係が狭い八幡にとって、同じパートの同級生として渦中の相手の可能性が高い。特に高坂は怪しいわね。

 であると、ペットパート以外でいくかー。

 そう思っていたところで、スクロールしていた手が止まる。

 

 「…香織先輩」

 

 私にとっては正に神様で、全国を終えた一区切りで部活に来なくなったときは絶望した。いなくなってからの一週間は正直、八幡がいなければ部活に行く意味を見失っていたんじゃというほど。

 けれど、今回このスクロールの手を止めたのは、親愛なる香織先輩がいなくなった寂寥感に駆られたからではない。もしかして、今回の相手が香織先輩なのではないかという疑念に駆られたからだ。

 全国大会前に発覚した香織先輩がまだ付き合う前に八幡と自転車で二人乗りをしながら放課後に遊んだという事実を聞いた時は本当に衝撃が走った。ビリビリーって!

 二人は仲がいい。八幡が早いうちから心を開いていた数少ない相手でもあるが、逆に意外と男子とは接点を持ちたがらない香織先輩からしても、珍しくかなりお気に入りの後輩なのが私の彼氏である。

 流石、マジエンジェル香織先輩。可愛くて優しいだけでなく、人を見る目も備わっている。神は二物を与えないと言うが、その神イコール香織先輩だから、それは二物どころか十物くらい持っている。

 だからこそ、こういう時は怖いなぁ。意外なことするところあるしな、香織先輩…。

 ここは探りを入れてみよう。

 

 「話変わるんだけどさ、久しぶりに香織先輩と遊びたい」

 

 八幡はほっとした顔をした。浮気の話が終わったからだ。こういうときだからこそ、八幡の表情の変化を見逃さない。

 

 「え?でも今受験勉強で一番大事な時期だから声掛けづらいってこないだ自分で言ってたじゃないですか?」

 

 「そうなんだけどさー」

 

 「しかも『吹部は他の部活よりも引退が遅かった分、取り返さないとまずいだろうから少なくとも香織先輩から声掛けてくれるまでは私、待つの!』って」

 

 「その私の真似、全然似てないからやめてくんない?」

 

 「す、すんません」

 

 「言ったよ。言ったけど、会いたいもんは会いたいじゃん?

 なんか八幡、香織先輩に会う機会とか理由ないの?」

 

 「え?ないでしょ?逆に何で俺が会うんですか?」

 

 「……」

 

 「優子先輩?そんなじっと見られても…」

 

 「…うん。そうだよね」

 

 香織先輩の確率は極めて低そうね。ざっと九十五%ってところかしら。香織先輩は関係してなさそう。良かった。

 気を取り直して、他の候補を探す。

 他に私たちが付き合ってることを知ってる二年はみぞれ、希美、夏紀。ここら辺はなしね。全員、問題がある。

 であれば…。

 

 「…優子先輩、なんですか。その笑い方。怖いですよ?」

 

 「ああ。ごめん。なんでもないなんでもない」

 

 はぁ。嫌だ嫌だ。こうして身辺調査を依頼するというのも中々恥ずかしいし、万が一のことを考えると勇気がいるものなのだ。でもこれも仕方ないわよね。信じてるのに信じられない。そんな彼を信じるためだもの。

 私たちの関係を知っていて、且つ探らせるに当たって問題のなさそうな人。いるじゃない。私の身近ではなくて、八幡の身近に。

 それに気が付いて、思わずくふふと笑う私のことを八幡が少しだけ引いた目で見ていた。




ちなみに早坂推しです。早坂がメインのSSが増えますように。

(後半は現在執筆中です。ほとんど完成しているので、できるだけ早く投稿できるようにします)


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