少女終末旅行短編集 (チビサイファー)
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部屋着

二十代中盤を過ぎた同棲するユーチトの話


「ちーちゃんただいまー」

「おう、お帰り」

 

 私は仕事を終えていつもよりやや遅めの時間に帰宅した。ドアを開けると、ちょうどお風呂上りであろうスウェット姿のちーちゃんが出迎えてくれた。ほんの少し湿った髪の毛と、火照ったほっぺが可愛い。

 

「疲れた疲れたー。晩御飯ある?」

「ユーの好きな鯖の煮付け作ったよ」

「うほーい! 鯖だ鯖だー!」

 

 ちーちゃん大好き、結婚しよう。私は大喜びで靴を脱ぎ散らかして食卓に飛び込む。「こらユー! 靴くらい揃えろ!」と怒るちーちゃん。いいじゃん、お腹ペコペコだよ。

 

「それにちーちゃんの作ったご飯を一刻も早く胃袋に納めないと死んじゃうの」

「死ぬのかよ」

「ガチ目に」

「ガチなのか」

 

 そう言うと、ちーちゃんは小さくため息。そう、これは「仕方ないな」って許してくれる時のため息だって知ってるよ。次はちゃんと揃えるからね

 

 お茶椀にご飯をついで、ちーちゃんが鯖をさらに盛ってサラダを用意してくれる。お味噌汁のおまけつき。うーん、この香りがたまらない。

 

「それじゃあ、いただきまーす!」

 

 私は早速白いご飯にかぶりつく。続いてお魚、味噌汁にサラダ。ああ、今日頑張ってよかったと心底思う。生きてるって感じ。

 

 むしゃむしゃとあっという間にご飯を食べて、私はけふー、と満足な顔を浮かべる。ちーちゃんが微笑んで私のことを見て「ほんと、美味しそうに食べるな」と言った。そうだもん、ちーちゃんのご飯とってもおいしいからね。

 

「お前のおいしそうに食べる顔を見てると、作ってよかったと思うよ」

「でしょー?」

 

 米粒一つ残さずに食べた終わった私は、食器を丁寧に洗って乾燥機の中に入れた後、軽く歯を磨いてお口のケアをし、部屋着に着替えてリビングに戻る。

 

 すると、ちーちゃんは前かがみになって、コロコロで床を掃除しているようだった。それちょっと楽しいよね。そう思った時、少しばかりだぼっとしたスウェットの襟が垂れさがって、胸元が見えそうになっていた。私は思わずドキッとしてしまう。

 

「っ!」

 

 ごくり、と唾を飲みこむ。残念ながら(?)その中は暗くて良く見えなかったけど、その先に何があるかを想像しただけで喉が渇いてしまう。私は目を反らして呼吸を整える。

 

「テレビでも見よっかな」

「うん。なんか面白いのあったら教えて」

 

 と言うちーちゃんは、カーペットの掃除を継続する。私はまだ少しどきどきしながらテレビを点ける。けど、さっきの光景が頭に残ってテレビの内容が頭に入ってこなかった。

 

 またちらりと私はちーちゃんを見る。ちょうどこちらにお尻を向けて、コロコロのテープを剥がしているところだ。スウェットで浮き上がったちーちゃんのお尻回りがくっきりと浮かび上がっている。

 

 お互いそれなりに歳をとって、お腹やお尻回りの肉付きが良くなったのも原因なのだろう。目の前にあるちーちゃんのお尻は、私が以前見たときよりもまんまると、大きくなっているようだった。前はもっと小さかったのに、意識して見直すとこんなにも違って見えたんだ。

 

 ごくり。私はまた唾を飲み込んでしまう。ちーちゃんが足を曲げる。そのとき、むっちりと美味しそうになった太ももが目に突き刺さる。

 

「……ちーちゃん、ちょっと太った?」

「うっさい。ああそうだよ、夜食とか晩酌してたら2キロくらい太ったよ」

 

やっぱりそうか。決してスレンダー、ナイスバディと言えるような体型ではないと思う。胸は相変わらず小学生に負けそうなレベルだし、背だって低い。けど、足の回りだけやたら肉付きがよくて。

 

 いつもより、ちーちゃんが美味しそうに見えた。

 

 リモコンを放り、ぬるりと私は立ち上がる。ちーちゃんは少ししつこい汚れがあるのか、ごしごしとコロコロを乱暴に押し付けていた。

 

 その度にふりふりと揺れるお尻。えっろ。なにその動き、誘ってるの? 突っ込んじゃうよ? あ、でも私突っ込めるモノなんて持ってなかった。じゃあ揉みしだく? いや、ここはひとつお尻と言えば。

 

「……ていっ」

 

 ぺちん。私はちーちゃんのお尻を軽く叩く。軽くのつもりだったけど、割りといい音がして、ちーちゃんが飛び上がった。

 

「ひゃんっ!?」

 

 可愛すぎかよ。滅多に聞かないちーちゃんの可愛い悲鳴に、私の欲求レベルが一気に不満の域へと達する。

 

「ユー! なにするんだ、変な声だしちゃっただろ」

「ごめんごめん。ちーちゃんのお尻が美味しそうで」

「お前ついに私のことまで食べ物扱いしだしたのか」

「だってちーちゃんのお尻、まんまるで美味しそうだもん」

「またそういうことを言って……っぅ!? こら、揉むな!」

「うーん、私の胸ほどじゃないけど、叩き心地の良さそうなお尻……」

「バカやってないで離れっ……あーもう!」

 

 ちーちゃんは無理矢理体を回転させてお尻を床に向ける。あーあ、もっと触りたかったのに。

 

 はーはーとちーちゃんは両手をお尻に当てて半分私を睨んでいる。もしかしてちょっと気持ちよかったりしたのかな。お風呂上がりではない火照ったほっぺだった。

 

 でも、私は新しい物に目をつけてしまう。ちーちゃんのスウェット、少しサイズが大きいから襟回りが広い。だから首から下の素肌も体制次第では簡単に見えてしまう。そりゃもう、鎖骨まではっきりと。

 

 そう。そのわずかに浮いている、貧相な鎖骨が私を人間と言うカテゴリーから獣へと変えた。

 

「あー。ごめんちーちゃん我慢できない」

 

 私はちーちゃんを壁際に追い込むと、壁に右手を着き、私の両足でちーちゃんの足を動かさないように挟み込む。ちーちゃんはと言えば抵抗しようとしたけど、手をお尻に当てたままだったから抵抗できない。残念でした。

 

「ちょ、ユー落ち着けって! なにがっついているんだ!」

「ちーちゃんのお尻や鎖骨がエロいので、ムラっと来ました」

「着眼点がマニアックすぎだろ、理性はないのか理性は!」

「今だけ獣になるから理性ないね」

「お前そういうのを屁理屈って言うんだぞ、せめてベッドに……」

「やだ」ずい、と私はちーちゃんに顔を近づけ、言う。

「今がいい」

「ユー、ユーほんと、まっ……ーーーーっ!!」

 

 私はちーちゃんの鎖骨にかぶりついた。ああ、可愛い。身を強ばらせてカタカタと震えている。はむ、はむと鎖骨の回りをじっとりとなぶり、右手でちーちゃんの耳に触れる。びくっ、と体が跳ね上がる。

 

「だめっ……ゆー、だめっ」

 

 鎖骨をなぶり、舌を這わせながら首筋へと移動する。ちーちゃんの吐息混じりの声が最高にそそる。首が弱いもんね、よーくしってるよ。

 

 ぬるり、ぬるり、ぺろりと首筋を堪能する。耳に触れていた右手も首に回して、優しく撫で回してあげる。ちーちゃんのからだの強ばりが消えていき、くたりと首が傾く。えへへ、ほんと。

 

 簡単に堕ちちゃうよね。

 

「ちーちゃん」

 

 私は空いた左手で肉付きのよくなった太ももを丹念に撫で回す。時々指を押し込んだり、むにむにと揉んでみたりしてその感触を楽しむ。私が指を動かす度にちーちゃんの吐息が私の首筋に触れてぞくぞくする。

 

「ゆ、う……」

 

 とろんとした目でちーちゃんが私のことを見ていた。はい、出来上がり。こうなったら私の勝ち。無防備に晒された、美味しそうな首筋にかぶりつく。甘い悲鳴、ちーちゃんの匂いとシャンプーの臭いが混ざりあってとってもいい香り。

 

 ぎゅっと左手が握りしめられる。いつの間にかお尻から脱出したちーちゃんの手が、まるで小さな子供のような力で私の手を握りしめていた。それに指を絡めて私は答える。

 

「ふ、っあぁ……ゆー、う……」

「んっ、ちーちゃん、かわいい……」

「ぁあ……ば、か」

 

 最後の抵抗だろうね。バカとは言いつつも、ちーちゃんの唇がはむはむと動いている。チューのおねだり。私は舐めずりすると、ちーちゃんの小さな唇を自分の唇で塞ぎこんだ。

 

 あしたは、朝寝坊しよう。私はちーちゃんのありとあらゆる体の部位を堪能しながら、二人でカーペットの上に倒れこんだ。

 

 

 

 了



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アナタノオト

社会人ユーリ、大学生チトの話


 

 

 私はふんふんと鼻唄を歌いながら鍋のなかを見つめる。たっぷりのジャガイモ、キャベツ、ニンジンに玉ねぎ、ベーコンが入った特性のポトフだ。ユーと私の大好物でもあるそれは、今日もまた数日分食べれるだけの量を作っていた。

 

 きっかけは簡単だ。大学から帰宅途中、ユーからの通知が来ていたからだ。

 

『ちーちゃんのポトフ食べたい』

 

 ああ、仕事がしんどいんだろうな。一緒に暮らして三年目だからわかった。なにも高校を出てすぐ働くこともないだろうと言ったけれど「ちーちゃんと暮らすためにはお金が必要じゃん?」と、あいつは就職した。

 

 就職してからのユーはそれなりに頑張っていた。不馴れな仕事も多かっただろうに、それでも収入は安定して社内の評価も高いらしい。二人の貯金用通帳を毎回チェックしてるけど、桁がどんどん上がっていく。

 

 さて、仕事で頑張る旦那様(女だけど)のために作ったポトフの味加減はいかがかな? お玉ですくって、まず一口。うん、野菜の味もお肉の味もしっかり出ている。ユーの好きな味加減になった。

 

「よっし」

 

 コンロの火を止めて、エプロンを脱ぐ。スマホを確認すると、駅についたと連絡があった。おっと、返事返事。「今、ごはんできたぞ」っと。

 

 送信して数秒で既読がつく。あ、これは返事待ってたな。出れなくてごめんな。

 

 ぴこん、と通知音。「わーい」の返事。おうおう、しっかり喜べ。私渾身のポトフだぞ。

 

 茶碗を取り出してご飯を用意する。ジャガイモごろごろのポトフをお皿にもって食卓に並べる。そのタイミングで、ドアの鍵が開く音。

 

「ただい、まー!」

 

 と、元気よくユーリが部屋に飛び込んできた。かと思えば、そのまま私に抱きついてくる。あー、もう。そのスーツ越しにもわかるバストに顔が埋まる。息ができん。

 

「会いたかったよぉ、ちーちゃん大好きだよぉ!!」

「わかったわかった。わかったからさっさと着替えてご飯にしよう。冷めるぞ」

「む! それは許せん!」

 

 言うが早いとユーは自室に飛び込んで服を脱ぎ散らかし、あっという間に部屋着になるとリビングに戻ってくる。散乱しているスーツに関しては今は目を瞑ってやろう。

 

「ちーちゃん、食べていい? 食べていい?」

「落ち着け、お前は犬かよ」

「わんわん」

「待て」

「わん!」

「お手」

「わふ」

「わたあめ」

「わっ……それできない」

「だろうな」

 

 ふふ、と私は思わず笑みをこぼしてしまう。ユーもえへへとにへら顔。じゃ、そろそろいただこうか。

 

「いただきまーす!」

 

 ユーは真っ先にポトフのジャガイモを口にいれる。モグモグと噛み締め、次第にほっぺが落ちそうな笑顔に変わっていく。ほんと、こういうところ見てると私も作った甲斐があったと思うよ。

 

「ウマイ……」

 

 うん、顔見ればわかる。私もジャガイモとキャベツをまとめて口にいれる。うん、味の染み込み具合は完璧だ。

 

「おかわり」

「早いな」

 

 隙あらば完食。ユーの皿を見てみると、本当に空っぽになっていた。相当お腹が空いているんだろうな。ということは、今日の仕事は激務でお昼ご飯もあまり食べれなかったんだろう。

 

「ゆっくり食えよ。じゃないとお腹ビックリして後で大変な目に遭うぞ」

「もうあったからそれに比べたら平気ー」

 

 けらけらと言うユーリ。それを横目に私は今晩はちょっと大変かもしれないと思う。ポトフをさらに半分ほど盛って、お皿をユーリに手渡した。

 

 

 

 

 夕食を終えて私は食器を洗う。リビングでユーはぼんやりとテレビを見つめていて、今にも眠りそうな雰囲気だった。

 

 二人分の食器を洗うのは簡単で、あっという間に終わって乾燥機の中にいれる。エプロンで手を拭きながらリビングに向かうと、ユーはソファに横になって、目を半分だけ開けていた。

 

「眠いなら寝たらどうだ?」

 

 エプロンを脱ぎながら私は言う。けど、知っている。ユーはまだ眠るつもりなど更々なく、待っているのだと。

 

「……ちーちゃん。だっこ」

 

 だと思ったよ。私は鼻で深呼吸をすると、ユーリに向かい合う形になり、有無を言わさず自分の平たい胸にユーの顔を押し込んだ。

 

「んっ、ぅ……」

「よしよし、おつかれさま」

「ちー、ちゃん……」

 

 ぎゅう、と袖を掴んでユーは鼻を擦り付ける。私の胸のなかでもぞもぞとするこいつはまるで子供のようで、事実まだ子供なんだろうと思う。当たり前だ、まだ遊んでいたりしてもいい年齢なのに、私と暮らすためにこうして働いてくれているんだから。家にいるときくらい、こうさせてやってもなにもバチは当たらない。

 

「チトニウム、補充する……」

「なんの物質だよ」

「ちーちゃんの物質……」

 

 トロンとした目でユーは大きく息を吐く。どれ、そろそろ何があったのかを聞いてやろうか。

 

「で。どうしたんだ?」

「……新しく異動で来た上司が、めんどい人で理不尽」

「あー、めっちゃ嫌なやつ」

「いやなやつだよ」

 

 はぁー、とまた溜め息をする甘えん坊。私はよしよしと頭を撫でてやる。髪の毛がサラサラしていて気持ちいい。

 

「あーだこーだイビってくる」

「上司に報告とかは?」

「した。けど、すぐには動けないって。とりあえず言われたこととか理不尽な扱いはメモしておけって」

「すぐにはなんとかならないのか。大変だな」

「ちゃんと対応する準備はしてくれてるから、いいところだよ」

 

 ならよかった。こいつを不当に扱う人間がいるのは許せないが、関係のない私が文句を言ったところでとうにもならないのはわかっている。だから、こうしてユーを慰めてやるのが私の一番の仕事だ。

 

「よしよし、ユーは頑張ってるよ。一緒に寝ような」

「うん。ちーちゃんすきー」

 

 またぎゅう、としがみついてきてユーリはぐいぐいと顔を埋める。にしてもお前私の胸好きすぎるだろ。何が楽しいんだよ。

 

「えー? 楽しいし気持ちいいよ」

「お前ほど胸もないのにか?」

「まー、確かに固いかなーとかは思ってたけど」

「思ってたのかよ」

「思ってたよ。でも、こっちの方がいい」

「なんで?」

「だってさ」

 

 ユーリは顔の向きを変えて耳を私の胸に当てる。目を閉じて、暫し聞き耳をたてたあと、言った。

 

「ちーちゃんの心臓の音が、よく聞こえるから」

「……あぁ」

 

 私は天を仰ぐ。くそ、突然こう言うことを言われると弱い。こいつ私を口説いてるのかよ。いや、口説いてるんだろうな。

 

「あ、音が早くなった。ちーちゃんドキドキしてる」

「んなっ!? う、うっさい!」

「照れてる照れてる」

「あーもう、うるさいうるさい、さっさと寝ちまえ」

「やだー。まだ寝なーい」

 

 いたずらっぽい顔をこちらに向けるユーリ。その瞳は私にだけ向けてくれるキラキラした宝石のような輝きで、喉まで達した反論の言葉がすっと消えてしまい、その間にユーはまた顔を押し付けてきた。

 

「……ったく」

 

 飽きもせずすんすんと私の臭いを嗅ぐユーリ。そんな犬みたいな仕草がたまらなく好きだから、私はそっとユーの頭を抱えて自分に押し込む。ああ、そうだよ。私の顔を赤くしてくるそんなお前のことが大好きだよ。

 

 私のために自分の時間を削ってまで一緒にいてくれてるお前は本当にかっこいいし素敵だよ。

 

 だから、私もその気持ちに目一杯答えるさ。

 

 今日もお疲れさま。好きなだけ、こうしているといいさ。

 

 おやすみ、ユーリ。

 

 

 

 了

 

 

 



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名残

世界中への旅を生きがいにしたユーリとそれを見送るチトの話


 

 

 

 響くアナウンス。行き交う人々の足音。始まりもあれば終りもあって、世界中の人々が一箇所に集まる特別な場所。

 

 私はこの場所がなんとなく好き。それこそ、旅が始まるって感じがしてワクワクする。

 

 でも、不安に思ったり、寂しく思うところもある。理由は、私の隣りにいる大切な女の子。

 

「ちーちゃん、そろそろ帰らないと電車遅くなっちゃうよ?」

 

 私の隣には、少しでも一緒に居たいと私にくっつくちーちゃんが居た。

 

 大学を卒業した後、ちーちゃんはしっかりと就職を決めて、私は旅に出るという夢をしっかりと叶えた。最初ちーちゃんはちゃんと食べていけるのかとか、危ない目にあったりしないのか、とかたくさん聞いてきた。それはもうしつこいくらいに。

 

 まぁ、それがちーちゃんの優しいところだっているのは知っているから、私は何回でも、やんわりと答えた。大丈夫だよって。

 

 それから何回か、私は日本と海外を行き来した。もうかれこれ行った国は二桁になる。歩いて、テント貼って、焚き火して、現地の人と交流して、そんな感じの旅を幾度となく繰り返した。

 

 そのレポート動画とか、旅で経験したことを本でまとめたりしたら、なんとびっくり、それなりに人気が出た。印税とか広告とかで資金も潤ったし、ちーちゃんも素直に褒めてくれたし、あれこれ大丈夫かどうか聞くこともなくなった。「もうお前はその手のベテランだから、私がとやかくいうことはないだろ」だって。かっこいい。

 

 でも。

 

 私が出発する時のちーちゃんは、いつだって甘えん坊になる。そうだよね、寂しいよね。もちろん私だって寂しいよ。本当なら、一緒に行きたいってすごく思う。

 

「……ちーちゃん、ちょっと歩こうか」

「……うん」

 

 ベンチから立ち上がって、私達はあてもなくフラッと歩きだす。今の時間は夜7時。私の飛行機の出発は夜9時だから、もう少し時間はある。

 

 私はそっとちーちゃんの手を握る。町中だと恥ずかしいからって少し嫌がるけど、今日は素直に指を絡めてくる。ぎゅ、と小さな手で精一杯私のことを握る。うん、わかってるよ。私も同じ気持ちだよ。だからそっと手を握り返す。

 

 エスカレーターを乗り継いで、私達は展望デッキにたどり着く。薄暗いデッキを証明が薄っすらと照らしでしている。その向こうに出発していく飛行機たち。私の乗る飛行機は目の前のだ。

 

「……次、いつだっけ帰るの」

「一ヶ月だね。動き次第ではちょっと遅くなるかも」

「そっか」

 

 きゅう、とちーちゃんの手の力が強くなる。それを握り返して、私は一歩前に出て歩き出す。ちーちゃんはゆっくりついてくる。

 

 デッキの端の方までついた。人の姿はなくて、私たちしかいない。

 

「ちーちゃん」

「なに……んっ!?」

 

 返事を聞く前に、私は自分の唇をちーちゃんに押し付けた。ちーちゃんが抱えている寂しさを受け止めるために。そして私の寂しさを知ってもらうために。

 

 ごお、と飛び立つ飛行機のおとが私たちの耳を包む。その音すら私たちは聞こえない。ただただ熱いその感触を味わうために、私は押し付ける。

 

 漏れる吐息、湿った唇が触れ合って水音が耳に届く。おかしいな、周りはうるさいのによく聞こえる。

 

 きっと、ここには私とちーちゃんしかいないんだ。

 

 ようやく飛び立つ飛行機のエンジン音が消えてから、私たちは唇を離す。人がいそうな場所で突然こんなことしようものなら、ちーちゃんはすぐ怒る。

 でも、今はただしおらしく顔を少し俯かせている。たぶん、顔赤いんだろうなと私は思う。

 

「……私も、寂しいよ」

「…………じゃあ行くなよ」

「んー、そうするのが一番だと思う。でも、どうしても行きたいんだ」

「私より世界の方がいいのかよ」

「違うよ。ちーちゃんが一番だよ。ちーちゃんに色々な世界を知ってもらいたいんだ。私の見た聞いた感じたすべてをちーちゃんに教えたい。そうすれば、ちーちゃんは忙しくても世界中に行けるからさ。私が世界になれば、ちーちゃんはもっと楽しくなれると思うし」

「……なに言ってるんだか。でも」

 

 ありがとう。と、今度はちーちゃんが背伸びをして私の唇を奪う。優しい、精一杯の気持ち。とてもあたたかい。

 

 すとん、とちーちゃんが離れる。さっきより短めのキス背伸びがきつかったかな? そう思っていたらちーちゃんが口を開く。

 

「この国は私とユーが一緒に暮らすには生きづらいんだろうな。お前のいっていた『今しか欲しくない』がよくわかるよ」

「でも、ちーちゃんの言ってた先の事も考えるって言うのも今ならわかる。それはとっても難しくて大変なんだってのも。ちーちゃんはすごいよ、未来が見える達人だよ。私の帰る家を用意してくれたお陰で、私は今をしっかり生きていける」

「お前は今を生きる達人だよ。私は時々未来ばかり見て今を見失いそうになる。でも旅をしているユーから連絡来たり、話を聞いたりすると今を取り戻せるんだ。ユーはいる。繋がってるって。お互いがお互い補えてるって、すごいことだと思うよ」

「じゃあ私たち、離れてもひとつの生き物だね」

「ああ。違いない。でも、本音を言うなら離れすぎていると……寂しいよ」

 

 とん、私の胸にちーちゃんは頭を置く。知ってるよ。全部分かる。爆発しちゃいそうな位寂しい。

 

 私はちーちゃんの頭をそっと撫でる。ちーちゃんが腕を回す。私も抱き返す。ぎゅう。ぎゅーっ。力一杯、痛いくらい体を抱き合わせる。

 

 ふっ、と耳元に息を吹き掛ける。びくっ、とちーちゃんは跳ねる。なにするんだ。そう言いたそうな目を向ける。その唇をまた私は奪う。

 

 ちらりとちーちゃんの顔を見る。目を閉じて、とろんとした目元になっていた。すると、ほんの少しだけ唇が開く。その瞬間を見逃さず、私は舌を滑り込ませる。腕の力が強くなる。かわいい。思わず頭を押さえつけそうになる。でも一応人がいつ来てもおかしくないので我慢我慢。

 

「っはぁ」

 

 唇を離すと、唇の周りが少し湿ってるちーちゃん。それを小さな舌でちろりと舐め回す。それが色っぽくてドキドキが止まらなかった。

 

 ぎゅ、とまたちーちゃんの手を握る。あいてて、力強い。たぶん怒ってる。精一杯のお叱りの言葉かな。

 

「ちーちゃん。ちゃんと戻ってくるよ」

 

 だから私は少しでもちーちゃんが安心するように言葉をかける。

 

「うん」

 

 たぶん、あと十回は言わないといけないかな。

 

 

 

 

 デッキから出て、私はそろそろ時間かなと思ってちーちゃんを送るために電車の改札口まで向かう。ちーちゃんはその間手を離さない。少しでも、少しでも長く私のことを感じていたいんだ。

 

 人の少なくなった改札前に着く。次の電車は10分後に着くみたいだ。

 

「気をつけて帰ってね。今からだと遅すぎないし」

「ああ。わかってるよ」

 

 いつもの口調でちーちゃんは答える。私は少しホッとする。辛そうなちーちゃんを見るのは私も辛いからね。

 

「じゃ、元気でね」

「おう」

「…………ん?」

 

 ちーちゃんの後ろ姿がいつまでも現れない。隣を見ると変わらないちーちゃんの姿。

 

「ちーちゃん?」

「…………やだ」

「え」

「やだ」

「ちーちゃん?」

「……やだよ。帰りたくない」

 

 私を見上げるその顔の目元に、涙が浮かんでいた。

 

「ユー……行かないでよ……」

「ちーちゃん……」

 

 だめだよ、そんな顔しないで。そんなこと言ったら、私我慢できなくなっちゃうよ。ほら、夜は危ないからもう帰ろうよ?

 

 ぎゅう、と手を握られる。ああ、ああ、だめだだめだ。握り返したら、ちーちゃん帰らなくなっちゃう。

 

「でもほら、ちーちゃんあと五分で電車来ちゃうよ」

 

 がばっ。ちーちゃんが私に思い切り抱きつく。声が上がりそうだった。心臓が飛び跳ねた。何もかもが吹き飛びそうだった。

 

 ちーちゃんは何も言わない。顔を挙げない。ただ私に回す腕の力を強めて訴えてくる。顔が見えない。いや、見せるつもりがないんだ。

 

「ちーちゃん……」

「…………ユー」

 

 しばらくじっとして、ちーちゃんは口を開いた。

 

「電車、もう間に合わない」

 

 時計を見る。電車の到着時間が15分伸びていた。

 

 ああ、やられた。

 

 ずるいよ……ちーちゃん。

 

 私はちーちゃんの手首を握ると、足早に歩き出す。目に入ったロッカールームに入ると、一番奥にちーちゃんを押し込む。

 

「ゆー、ぅ」

「ちーちゃん……ずるいよ」

「んんっ!」

 

 私は強引に唇を押し付けた。口の中が涎で溢れていて、それを舌に乗せてちーちゃんの口の中に押し込む。こくん、こくんと喉が鳴っている。私の舌をちーちゃんの下がぬるりと包み込む。

 

 口を開けて、ちーちゃんの唇のすべてを覆い尽くす。もみあげをかき上げて、頭を押さえつける。絶対に離さないように、強く強く押さえつける。

 口を開けて時々酸素を取り込んで、また唇を塞ぐ。ちーちゃんが私の口の中に舌を入れてきた。それを思い切り吸い上げる。

 

 

「んっ、んんっっ、っ、!!」

 

 可愛い声が溢れる。ちゅぱ、と舌を離すと唾液がちーちゃんの口元から溢れる。それを私は唇で吸い上げ、また唇を塞ぐ。

 

 わかってるよ。寂しいよ。私だって寂しいに決まっているよ。

 

 ちーちゃん。

 

 ちーちゃん。

 

 ちーちゃん。

 

 ちーちゃん、ちーちゃん、ちーちゃん、ちーちゃん……!!!

 

「っは、すき」

「ゆぅ……むっぅ」

「っはぁ……ちーちゃん……すき」

「すき……ゆー、っ」

「ちーちゃんっ」

 

 我慢してたのに。名残惜しくなるから、我慢してたのに。

 

 ちーちゃんに全部壊された。ばか、ばかばかばか。

 

 それで、それに甘える私も大ばかだ。

 

 ……止まらない……。

 

 責任とってよ。

 

 ちーちゃんの、ばか。

 

 

 

 

 結局それから私たちはもうしばらく二人きりの世界に入り浸っていた。その結果私は出発ギリギリにゲートを通ることになって、ちーちゃんの帰りは日付が変わる前ギリギリになりそうだった。

 

「空港のカプセルホテルにでも泊まるさ。私がわがまま押し通したんだし」

「なら、安心かな。あれ、ってことはちーちゃんまさか最初からこうするつもりだったの?」

「別れはロマンチックな方がいいだろ?」

「うーわ!! うーわずっる!! ちーちゃんずっる!!」

「いつまでもやられてばかりだと思うなよ?」

 

 にひひ、といたずらっぽい笑みを浮かべたちーちゃん。あー、これは私も仕返しを考えないと。負けっぱなしは悔しいからね。

 

「……ほら、時間だろ。今度こそちゃんと見送るから」

「……さっきと立場逆じゃん」

「細かいことは気にすんな」

「ぶーぶー」

 

 口を尖らせる私。それをニヤリと見つめて、ちーちゃんはクスクスと笑って私も笑う。それからどちらともなく私達は抱き合った。

 

 最後に顔を見合わせ、私達は唇をそっと重ねる。次に味わえるのは一月後。きっといろいろ爆発しちゃうんだろうな。

 

 でも、それもいいかもしれない。いつか本に書いてやるのも面白いかもね。

 

 さて。帰ってきたときのロマンチックな再会はどう演出しようかな。そんな事を考えながら私はちーちゃんから唇を離す。ちーちゃんは、踏ん切りがついた顔をしていた。

 

「行ってらっしゃい、ユーリ」

「行ってきます、ちーちゃん」

 

 すぅ、と手が離れる。私はゲートに向けて歩き出す。途中、何度も何度も振り返る。ちーちゃんはそのたびに手を振ってくれる。私も振り返す。

 

 お互いの姿が見えなくなるまで、何度でも私達は手を振り返した。

 

 

 

 

 

 了

 



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食欲

少女終末旅行合同誌「空想」に寄稿した作品です


 

 

 

 ユーの様子がおかしい。その異変に初めて気がついたのは食事の時だった。

 

 いつものようにレーションを手渡し、自分の分を口に入れる。今日はチーズ味だ。運転で体力を消費した体に、高カロリー食品はありがたい。お腹を満たすには少し物足りないけど、体の栄養バランスを考えて作られた物だから、的確に体力を回復させてくれる。

 

 口の中がパサパサしたので水を飲み、再度口に入れる。今日は少し疲れていたから、早めのペースで食が進む。でもユーはもっと早く食べ終わって、二個目をせがむんだろうなと思い、横を見てみる。

 

「……!?」

 

 目を疑った。ユーが、あの三大欲求の食欲をそのまま具現化したかのようなユーリが。レーションを一口も食べていなかったのだ。

 

 そんな馬鹿な。もしかして勝手に二本目を取り出して食べたのか? 私は残り一本が入っていたレーションの袋を取り出して調べる。本数は減っていない。つまりユーは本当に一口も食べていないのだ。

 

「ゆ、ユー?」

「…………」

「ユー聞いてる?」

「あっ。ごめん聞いてなかった」

 

 あっけらかんと返事をするユーはいつも通りに見える。だが、その手に持っているレーションが全く減っていない時点でいつも通りではない。私はこいつがなにか病気にかかったのではないかと危惧して手袋をはずし、額に手を置く。

 

「わ、ぷ。なにちーちゃん」

「……熱はない、か」

「なんのこと?」

「ユー、体のどこか具合悪いか?」

「いや、別に」

「どこか怪我をしたりとかは?」

「頭なら昨日ちーちゃんに叩かれたよ」

「…………」

 

 まさか、私がこいつのことを殴りすぎてしまったのが原因なのだろうか? ってそんなわけがあるか。

 

「ご飯、食べないの?」

「ん、おっとそうだった」

 

 あーむ、とユーはようやくレーションを食べる。私は気づかれないよう、横目で食べている様子をチェックする。食べるペースは……うん、いつも通り。噛む早さ……いつも通り。なんだ、気のせいだったのか?

 そのあとも、ユーリの行動を少しばかり注視していたけど、その後はいつも通りの様子で食事を終え、「もっと食べたいな」とせがんできた。

 

 なんだ、気のせいか。眠たかっただけなのかもしれないな。その日こそ私はそう結論付け、一日を終えた。

 

 けど、その後もユーの異変は私の目に入るようになった。

 

 

 

 

 またある日だった。探索の途中、ユーリの使う銃の弾薬が見つかって暇つぶしに遊ぼうということになった時だ。

 

「じゃあ、ちーちゃん判定よろしくね」

「はいよ」

「一番左のいくよー」

 

 スコープを取りだして、遠くに並べられた空き缶を見る。適当な距離だが、いつもユーが射撃するときと大差ない距離だった。

 隣で弾を込める音、ガチャリと響く心地よい金属音。すっと隣が静かになり、少しばかり緊張の一瞬が流れる。次の瞬間、パンッと乾いた音。直後には空き缶が派手な音を立てて吹き飛……ばない。

 

 待っていた音は来なかった。代わりに、ごす、と鈍い音が聞こえた。スコープの中に写る空き缶は無事で、その代り少し左下のブロックに穴が開いていた。

 

「はずれ」

「ありゃ」

 

 かちゃかちゃとコッキングの音。再び静かになる隣。初弾を外すなんて珍しいな。そう思っているうちに二回目の発砲音。ごすっ、と鈍い音。

 

「またはずれ」

「…………」

 

 ユーリは無言で三発目を装填。ちらりとユーを見てみる。髪の毛に隠れて表情は見えなかった。けど、どことなく身が入っていないような、そんな雰囲気を感じた。

 

 三発目。今度は空き缶に命中する。ただし、狙っていた一番左ではなく、二つほど右隣の空き缶が吹き飛んだ。

 

「まあ、はずれかな」

「そだね」

 

 そのあと、残った二発は狙った空き缶に命中させることに成功した。やっと調子が出てきたのだろうか。けど、ユーは次の弾薬を装填することなく、今日はやめると言って銃を下した。

 

「もういいの?」

「うん。調子悪いときは無駄弾使わない方がいいでしょ」

 

 そう言ってユーは銃を背負い、弾薬を片付ける。どうも違和感を覚える。

 

「ユー」

 

 弾薬をしまい込むユーの肩に手をおき、彼女を呼ぶ。直後、今まで見たことないような勢いでユーは飛び上がる。いやそこまで跳ねるのかよ。私の方がびっくりしたんだが。

 

「なぁに、ちーちゃん」

 

 ユーリは恐る恐ると言った様子で振り返る。しかし声は至って普通な様子だ。でも私は確信する。こいつはなにか大きなことを隠している。私に言えないような、重大ななにかを。

 一瞬このまま問い詰めようと思ったけど、まだ決定的な確信を得ていないし、仮に今問い詰めようとしても話をはぐらかすかもしれない。

 

 病気の可能性ももちろん考えた。けど、身体的な異常は見受けられないし、怪我をしているわけでもない。もちろんとても些細な体の異変があるかもしれない。

 ユーはじっと私の言葉を待っている様だった。その表情はいつも通りに見えて、少しばかり違う。私の胸がぎゅう、と締め付けられる。でも、下手に動いてはいけないのも理解している。だからこそ、もう少し様子見をしようと決める。

 

「……調子悪いときもあるさ」

「そだね」

 

 ユーは、私が深く追求しなかったことにほっとしたように、薄く笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 それから、ユーリの観察が始まった。期間は特に決めていないが、こっちが感付いたことを悟られないように自然体で、かつ段階的に探りを入れるため、長期戦を覚悟した。

 

 最初の観察は移動中だ。ケッテンクラートの荷台で、いつものように昼寝をしているユーリを時々気にかけながら進む。そこで気づいたのは、こいつが好きな謎の石像に遭遇しても反応を示さなかったことだ。

 

「ユー、石像があるよ」

「んー、そだね」

「あっちには変な模様が描かれているよ。写真撮らなくていいのか?」

「今日はいいや」

 

 いつだったか墓で謎の石像を見つけたときは、太陽のみたいな笑顔になっていたのに、今はまるで地面に転がった石ころを見つめているような表情だった。

 

 次は探索時。物が散乱している建物を物色中、ユーリの好きそうな棒が見つかった。いつもなら喜んで手に取り、ぶんぶんと振り回すか、うきうきしながら探索が終わるまで持ち続けるに違いない。

 

 ここは一つユーに「いい感じの棒だな」と話しかけたかったが、ぐっとこらえる。下手に話を振ったら、勘の鋭い相棒は「どうしたの?」と聞いてくるに違いない。

 

「食べ物あるといいな」

「そだね」

 

 そうして、ユーは棒をスルー。やはりか。振り向いてユーの顔を見てみる。なんかこの前よりなにも考えていなさそうな顔になってないか?

 

 私は立ち止まり、ふらふらと付いてくるユーリの目の前で、ぱちんと猫だましをしてみる。無反応、上の空、心ここにあらず。なんのアクションもないなんて不安になるだろう、なんか言えよ。

 

「……………うわっ、びっくりした」

「おっそ」

「もー、ちーちゃんなにするの。びっくりしたじゃん」

「時間差ありすぎだろ」

「今を噛み締めて生きているんだよきっと」

「噛み締めるにしても時間かかりすぎ」

「細かいことは気にしなーい」

 

 私がお前の異変を気にしているんだよ、とは言えない。そんな私の気持ちなんか知る由もなく、ユーはふらふらと探索を続けていた。

 

 その後も、ユーを注意深く観察していると、ユーリの行動が全体的に大人しくなっていることに気がついた。

 

「お。ユー、この鉱物きれいだな」

「うん」

「……持っていかないのか?」

「え。まぁ、うん。いらないかな」

 

 ユーが好きそうながらくたがあっても興味を示さず。

 

「ユー、今日はいい天気だな」

「うん。あたたかいね」

「……今日みたいな日は、ご飯も美味しく食べられそうだね」

「そうだね」

 

 移動中も静かで。

 

「はい、今日のご飯」

「うん」

「…………」

「…………」

 

 ご飯も無言。異変を感じ取らせないつもりなのだろうか? いや、むしろ異変しか感じないのだが。

 

 他にも眠るときもだ。

 

「んっ、くるし……え?」

「むっ……にゅう……」

「ユー、おいユー。ちょっと苦しいよ、そんなに抱き着かないで」

「むにゅ……ちーちゃん」

「……ったく」

 

 私に抱きついていることが多くなった。眠る前はいつも通りなのだが、起きたらユーリが私の胸に頭を埋めている、ということが増えた気がする。いや、幾度となくあったとは思うけど……。

 

 こんなに多かったか?

 

 日に日に増していくユーリの異変に、次第に私はじわじわと恐怖に蝕まれていた。病気を疑う異変もあれば、そうとは思えないようなこともあって振り回されるばかり。どう対処すればいいのか分からない。いくら気にかけても、観察しても、ユーの異変の正体が掴めない。分からないのだ。

 

 知らないというものは恐怖に繋がる。だから私は本を読んだりおじいさの話を聞いたりして知識を蓄えてきた。知らないことに出会ったら、それまで蓄えた知識を総動員して思考し、自分なりの結論を導き出す。私は今までそうやってきた。

 

 でも、今回ばかりは何も結論が出ないのだ。もう、問い詰めた方がいいのだろうか。何がなんでも聞き出すべきだろうか。

 

 そう思っていた矢先だった。

 

 それは、いつものように宿りをできる場所を見付けて火をおこし、レーションをユーに渡した時だった。

 

「……ごめんちーちゃん、今日ご飯いらない」

 

 …………今なんて言った?

 

「その、お腹すいてないから、いらない」

 

 私は耳と目を疑った。ユーが……ユーが。食べ物を、いらないと言った? そんな馬鹿な。私はユーを凝視する。深刻そうな顔をして、レーションに見向きもせず、ただ膝を抱えて焚き火を見つめている。その様子を見て、頭の中をユーの言葉が何十週と回転する。その回転が一瞬で百回を越えたとき、私は居ても立ってもいられなくなった。

 

「どうしたんだユー!?」

「わ、っぷ!」

 

 これはただ事じゃない、緊急事態だ。こいつの身にとてつもない異変が起きている。病気か、怪我か? 今の私はこいつの異変を回復させるだけの術や道具を持っているか? 頭の中を思考が超高速で駆け巡る。だがそれらを行うのも煩わしい。体を先に動かさないと気が済まない。

 

「何が起きたんだ、答えて!」

 

 私はユーの肩を掴んで揺さぶると、肩、腕、足、背中、ありとあらゆる場所に触れ、異変がないかを確かめる。

 

「どこだ、どこを怪我したんだ!?」

「ち、ちーちゃんそうじゃないって!」

「じゃあ病気か!? 熱はあるか、咳は、喉の痛み、鼻のつまりは!?」

「ない、けど……いや、待って、ほんと!」

「お腹は、胸は!? 最近お腹の調子が悪いとか、息苦しいとかは!?」

「ま、まって! まってちーちゃん、ほんとに!」

 

 そう訴えかけるユーの顔を見る。いつもより顔が赤くて、まるで熱を出しているかのようだった。まさかこの一瞬で発熱した? だとしたら早く熱を計らないと。

 

「お前、顔も赤いじゃないか!」

 ヘルメットを外し、逃げようとするユーの手を掴んで逃がさないようにし、自分のおでこを当てる。少しだけ温かい気はするが……熱はなさそうだ。

 

「まって……ちーちゃん、ほんと、ち、かい……」

「え?」

 

 まるで蚊の鳴くような声だった。ユーがそう言うので、私は顔を離してみる。気づくとユーは顔を片手でどうにか覆い隠してしまっている。なんだその反応、こんなユーは見たことないぞ。

 

「顔が……近いよ……」

 

 そう言って、ユーは指の隙間から目を覗かせる。その瞳にひどく取り乱した表情の自分が映りこんでいて、私は気付く。

 不安と、焦り、困惑の表情。なんて顔だ、こんな顔で問い詰めてもユーは困るだけじゃないか。

 さっと冷たい風を当てられたような気分になって、口がパクパクと動く。けど、言葉はでない。どうしようもなくなって、私はゆっくり離れた。

 

「その、ごめん」

「…………うん」

 

 ユーは言葉を吐く。少しだけ呼吸が荒い。ふーふーと息を数回はいた後、ごくりと唾を飲みこむ仕草をした。

 

「……そのさ、ユー」

「…………うん」

「何かあったのなら、話してくれないか? さすがにご飯いらないっていうのは、お前にしたら異常過ぎる。だからせめて、何か原因があるのならどんな形でもいい、教えてくれ」

「……うん」

 

 ユーは膝を抱えて顔を半分埋める。よほど言いづらいのだろうか。こいつがこんな風になるなんて思っても見なかった。

 

「最近ちょっと変なんだよね」

「変?」

「その、上手く口に出来ないんだけど。ちーちゃんを見てると、なんかおかしくなっちゃうんだ」

 私を見るとおかしくなる? それはどういう意味なんだ? 私のせいでユーに異変を起こしてしまったとでもいうのか?

 

 不安で体が冷たくなっていく。心当たり? ない、なにもない。私はユーに何かしてしまった? 私が無意識に彼女を傷つけたりしたのか? だとしたら、どう責任を取ればいいんだ……?

 

 そんな私の不安げな表情を察したのか、ユーはフォローを入れるように言葉を重ねる。

 

「あ。あのね、嫌な感じになるとかそうじゃなくて、むしろ嬉しいって言うかなんと言うか。ちーちゃん見てると、どきどきするんだよね」

「……どきどき?」

「うん。なんか、前よりもちーちゃんのこと考えるようになって、ボーッとしちゃうんだよね。その間も胸がずっとどきどきしてるんだ」

 

 きゅ、とユーリは自分の胸に手を当てる。ユーリはまた少し頬を赤くしながら言う。

 

「ちーちゃんと話したり、ずっと見ていたりする時も胸がきゅう、ってなって、どきどきして、でも痛い訳じゃないんだよね」

 

 ……うん?

 

「ちーちゃんに呼ばれたり話したりすると、ずっと嬉しくて温かいんだ。でも、近すぎたりすると少し恥ずかしくなって、でも嫌じゃくて、自分でもよく分からなくなって……」

 

 まさか? ユーの口にするその異変の原因を理解していくにつれて、私の顔がどんどん熱くなっていく。まて、まてまて。まさか、それって……。

 

「どうしたらいいんだろう。私、おかしくなっちゃったのかな」

 

 ユーは不安げで、切なそうな表情を私に向ける。それを見た私も、似たような表情をしているんだと思う。そして、ユーリが教えてくれた症状で、異変の正体を確信した。

 

 まさかだった。こいつが私にこんな感情を抱いているなんて。何かの間違いじゃないのか?

 でも。それだったらユーの言う、異変とつじつまが合う。食欲低下、集中力の低下、思考力の低下(元から無いけど)。誰かを、私を見たら速くなる心臓の鼓動、体温の上昇。それらを引き起こす、体には無害な病気の正体。

 

 恋愛。

 

 ユーのぼんやりとした目が私に突き刺さる。たぶん、考えても答えがでなくて私に助けてほしいんだ。

 

「それとさ……上手く言葉に出来ないんだけど」

 

 ユーリは視線を逸らして言いにくそうにする。どうした、言ってみろ。

 

「そのね。ちーちゃんを見てると……うまく言葉にできないけど、食べたいって思っちゃう」

「……『食べたい』?」

 

 ポカンと私は口を開けてしまう。ついに私はこいつに食べ物として認識されてしまったのか? いやいやそうじゃないだろ。あくまでユーリはその感情の言語化が出来ないだけで、実際に私を補食しようとは思っていない。

 しかしだ、いざ言われるとちょっとびっくりする。

 

「ちーちゃんの傍にいると、離れてほしくなくて、ずっと見ていたいなって思って、でもそれだけじゃまだ足りない気がして。ぎゅう、ってなってちーちゃんがいるのに寂しい気がして……それで、私の中に入ってくれば、そういうの全部収まるのかなって」

 

 自分の中に宿る感情を、精一杯言葉にしようとする努力が手に取るようにわかった。

 それと同時に、この言語化出来ない感情に彼女は悩まされて続けていたのだと思うと、胸が苦しくなる。食事すら喉を通らなくなってしまったのだ。淡々と言っているように見えるが、その裏では相当な負担だったに違いない。

 

「ユー……」

 

 私は声を漏らし、手を伸ばそうとするが途中で止まり、地面へと落ちる。どうするべきなのだろう。自惚れと受け取られるかもしれないが、ユーは私のことが好きで、意図せずして私に告白をしてしまった。それがどういうものなのか、それをどう伝えるか私は悩む。

 そして、伝えた後に待っているのは。私がユーの気持ちを受け入れるか否かだ。

 

 ユーとは昔からずっと一緒。家族も同然で、互いのことは考えなくてもわかるような、そんな存在だ。その関係性が大きく変わるのだろうか? 二人きりになったこの世界で、この感情はプラスになるかマイナスになるのか。

 怖い? 私は、この関係が壊れるのが怖いのか? すぐに答えがでない。言葉がでない。でも、私がこうして悩んでいるうちにユーの不安は募っていく。私はユーになんて言えばいい?

 

 考えろ、考えろ、考えるんだ。

 

 ユーにこれ以上悩んでほしくない、苦しんでほしくない。そう想うと、私の胸の中がぎゅう、と苦しくなる。ユーは考え込む私の顔を見て、不安げな表情をしているのだぞ。

 けど、急ぎ過ぎてもダメだ。下手したら、私たちの関係に大きな亀裂が入ってしまうかもしれない。ここはひとつ、ユーにはそれは病気ではないということを教えて、時間を稼いで少し……。

 

「ちーちゃん」

 

 その時、ユーが私の手に自分の手を重ねた。無意識のものだったかもしれない。そっと置かれた手袋をしていないその手は、少しだけ震えていて、とても温かくて、こう言っているようだった。

 

 —たすけて—

 

 そうだよな。お前は今、とても辛いんだろうな。自分の気持ちが上手くぶつけられなくて、こんな形でしか伝えることしかできなくて……その気持ち、すごくよくわかるよ。

 

 ……よくわかる? 待って。私はいつそんな経験をした?

 

 

 生まれてこの方、恋愛なんてした覚えはないぞ。異性との交流がおじいさん以外であったのかも怪しいのに、なぜユーの気持ちがわかると思った?

 

 でも、実際わかるのだ。誰かに名前を呼ばれると歓喜し、昂る感情と体温。その温かさ、切なさを私は知っている。

 どこで知ったのだ? 私は誰かに恋愛感情を抱いたことがあるのか? その相手は誰なんだ?

 

 一番大切なユー以外の人間を好きになった事なんて。

 

 …………今、何て思った?

 

 一番『大切』な、ユー?

 

 その瞬間、私の頭の中を電流が突き抜けた。なんてことだ、なぜ気づかなかった。答えはすぐ目の前にあったのか。

 思えば、そうじゃなかったら私はここまで取り乱すことはしなかっただろう。ユーを失ってしまうという、今まで経験したことのないくらい大きな恐怖を抱いていた。高いところにいたり、食料が底をついたりするよりも、私はユーを失うことの方が恐ろしくてたまらないのだ。

 

 なんでそう思うかだって?

 

 私が抱くユーへの『大切』は、もう普通じゃないところまで行っていたということだ。

 

 甦る過去の記憶。もう遠く昔のこと。私は恋をしていた。ずっと、ずっと一緒にいたあいつ。

 

 私よりも運動ができて、私より頼れるところもあって、でも肝心なところで抜けてるところもあって。

 

 食いしん坊で、いつもお腹すいたと言いふらして。

 

 私の隣にいてくれた、あいつのことが。

 

 そう。私が……私の方こそが……。

 

 ずっとずっと前から、ユーリのことが好きだったんじゃないのか?

 

 いつからだった? そんなこともう覚えていない。けど、ずっとずっと、昔から恋い焦がれて、その期間があまりにも長すぎたために、いつしかそれが当たり前になって、日常の中に埋もれてしまっていたのかもしれない。

 だから、ユーリの気持ちを痛いほど理解できるんだ。

 

 それを理解したとき、私は自分のさっきの考えがいかに愚かなことだったのかに気がついた。先を見据えるだって? この終わりつつある、世界で先のことを考える? 私たちは、もしかしたら明日にでも建物の崩落や倒壊に巻き込まれて死ぬかもしれないのに。明日すら確実に手に入るか分からないこの世界で。

 

 どうなるか分からない未来のために、今というユーリを犠牲にして……。

 

 それがなんになるんだ!

 

「ユーリ」

 

 私はユーリの手に指を絡めてぎゅっと握る。ユーリの手の震えが止まる。そう、大丈夫。私が今からお前を助けてみせる。

 

「それは病気じゃないよ」

「病気じゃないの?」

「ああ。いやでも、ある意味病気とも受け取れるかもしれないけど、それは悪い病気じゃなくて、えっと……」

 

 くそ、説明が難しい。今になって緊張してきている。それにユーに口でこのことを説明して理解させるのも難しいんじゃないか?

 ならば具体的に示すしかない。けれどそれが私にできるのか? いや、恐れるな。きっとこれでユーはすべてを理解してくれる。

 

「ユー。さっき、私のこと『食べたい』って思ったって言ってたよね」

「うん。例えだけど」

 

 ユーリが不思議そうな顔をして私を見る。そんな私は緊張で変な顔になっているんだろうなと思う。すっと、空いた方の手でユーのほっぺに触れる。もちもちしていて気持ちいい。

 

「たぶん、ユーリが私に思っていることは、こういうことなんだと思う……」

 

 私はユーに顔を近づける。綺麗な瞳だ。その中に私の顔。ふふっ、やっぱり緊張しているな。でも、思っていたよりは大丈夫そうだ。うん、きっと大丈夫。

 

 ユーはまだ上手いこと理解できていないみたいだ。 何をするの? と言いたそうな唇が目の前にある。それに親指でそっと触れてみる。ぷにぷにして柔らかい。おいしそうだ。

 

 そう。ユーの言う、『食べたい』は間違いではないんだ。

 

 私は自身の唇でユーの唇を塞いだ。ユーは驚いたように目を剥く。嫌がっちゃうかな。嫌われちゃうかな。でも、少ししてユーは私の手を強く握ってきた。それに安心して私は手を握り返す。

 

 ユーリの唇はとても熱かった。それは焚き火のせいか、緊張のせいか。いや、ユーは体温が高いから唇も熱いのかもしれないな。

 

 それは私が今まで触れてきたどんな物質よりも柔らかかった。自分の唇をはむはむとさせてその感触を楽しんでしまう。けど、少し力を入れすぎれば簡単に壊れてしまいそうでちょっと怖い。でも、もっと味わいたい。このままどこまでも、永遠に、もっともっと欲しい。

 

 心臓ががなりたてる。細胞が沸騰し、本能が思考を蝕んでいく。落ち着け、私。暴走するな。今はユーの心を落ち着かせるのが先なんだ。今慌てたらきっと後悔するぞ。

 

 でも、なんて甘いんだろう。砂糖なんて散りばめてないのに、ユーの唇は本当に甘かった。もちろん、実際に甘い訳じゃない。砂糖で味わう甘さとはまったくかけ離れている味だ。

 

 けれども、私の頭はひたすらにその味を「甘い」と表現している。誰かに触れなければ一生経験することのなかった味だ。なんて落ち着くんだろう、なんて切ないんだろう。この甘さは、理性を破壊するには十分すぎる。頭が溶けていきそうだ。一度離れた方がいいのだろうか?

 

 ふと、気がつくとユーリの手が私の肩を掴んでいた。その力はとても強くて、私を逃がさないようにしているかのようだった。いや、実際そうなのだろう。私の手を握るユーリの右手と、肩を掴む左手の強さが尋常じゃない。

 

—ずっとこうしてて—

 

 聞こえた訳じゃない。ユーリがそう言っている気がした。なら、離れるなんて野暮なことはしない方がいいよな。

 

 もう少しだけ……本能に身を任せても、いいよな?

 

 

 

 

 一体どれだけの時間唇を重ねていたのだろうか。私たちはどちらともなく離れ、ほうと息を吐いた。ちょっと息苦しくてお互い肩で呼吸している。正直危なかった。もう少ししていたら完全に理性が暴走するところだった。ユーが離してくれないからだぞ、まったく。

 

「…………どう? ユーの『食べたい』って、これで合ってた?」

「……うん」

 

 頬を少しばかり赤くしてユーリは答えた。まだぼうっとしていて、何が起きたか理解できてない様子だ。でも、さっきまでの不安に取りつかれた表情はすっかり消えてなくなっていた。

 

「こうさ。色々複雑で言いにくいし説明もしづらいんだけど……ユーは、私のことが好きってことだと思うよ」

「……す、き?」

「そう。友達とか家族とかとしてじゃなくて、その……恋人としての、好きだと思う。それで、さ」

 

 私は覚悟する。そうだ、私の方が先にユーリが好きだったんだ。こいつに告白をして、そしてユーにも告白をしてもらって、私たちの関係を新しい段階にするんだ。そうすればきっと、新しい世界が待っているに違いない。

 

「わた、私は……私も……ユーのことが……」

「ちーちゃん」

「ユーのことが、す、しゅ……」

「ちーちゃんっ」

 

 あーもう、なんだよ。今から大事な話をするのに……ってうわっ!?

 

 突然私の体が地面に倒れ、何が起きたのか分からなくて一瞬目がぐるぐるする。直後、ぬっとユーリの顔が現れる。それを見てから私がユーリに押し倒されたのだと気づくのに、もう少しばかり時間が必要だった。

 

「ゆ、ユー?」

 

 動転して言葉がでない。目の前のユーは、さっきとはまったく違う顔つきで私のことを見下ろしていた。ぎゅう、と私の手首をつかみ、足を挟み込んでいる。まるで私の身動きを封じているかのようだった。

 

 いや、違う。ユーリは本当に私のことを逃がさないようにしているんだ。

 ギラギラした目が私を見る。ふーふーと荒い呼吸、その吐息が私に触れる。本当に……本当に私を捕食対象としているような目じゃないか。

 

「……ちーちゃん」

 

 ユーが口を開く。さっきの私の話をまるで聞いていないかのような口調だった。事実、聞いていなかったのだろう。それよりももっとしたいことが、こいつの中で暴れまわっているんだ。

 

「もっかいして」

 

 何を、と私は聞き返さない。なんてことだ。もうちょっと考えればすぐわかるだろうに。

 

 こいつは、私より本能に忠実な人間だった。なにか味を占めれば、どこまでも求めていく人間だ。そんな奴に口づけの味を教えてしまい、その甘さを刻み込もうものならどうなるか。

 

 本当は、知っていたのに。

 

「…………いいよ」

 

 私に拒否権はなかった。いや、拒否するつもりもなかった。まったく、こんなにがっつきやがって。あれだけ気を使った自分がバカみたいじゃないか。

 

 でも、その考えもあっという間に霧散するだろう。私を捕食対象と認定したユーリの顔がどこまでも色っぽく、妖しく、艶やかで。

 

 今すぐにでも、欲しかった。

 

 迫る唇。来て。来て。早く、早くっ!

 

 長い間心の奥底に沈んだ自分のきもちが爆発する。そのせいで私は捕食対象にされることを望んでしまう。ああ、なんて哀れなんだろう。

 

 哀れで……ぞくぞくする。

 

 そんな自分に酔いしれていると、私の唇はユーに「捕食」されてしまった。必死に私に食らいつくユーリ。貪られる私の唇。それによって粉々に砕かれていく理性。それすらも、きもちよく感じてしまう。その一方で、私は乏しくなった理性で最後の思考をする。

 

 これ、終わった後どうしよう。

 

 気まずくなったりしない? なんか、恥ずかしすぎて死にたいとか思ってそうなきがするんだけど。

 

「っゆー、りっ……!」

 

 あー、でも面倒くさいな。今考えても分からないし。

 

「っはぁ……ちーちゃん……ちー、ちゃんっ……!」

 

 終わってから考えればいいか。

 

 そうして私の最後の理性が散りとなって消える。ユーリの首に手を回し、はなれないように思いきり抱きしめ、彼女の抱えていた感情を真正面から受け止める。

 

 私たちは壊れていく。お互いを貪り、触れ合う私たちの吐息すらも心地よい。

 

 耳を満たす甘い悲鳴。この世界に私たちを邪魔するものは誰一人としていない。

 

 ぱちり、と焚火の音。めらめらと揺れる私たちの影は、ずっと一つだった。

 

 

 

 了

 



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バースデイ・イヴ

ちーちゃんがユーリのためにちょっと頑張りすぎる話


 

 

 私は悩んでいた。恐らく、人生で最も悩んでいるに違いない。それもいくら考えてもいい答えでないような、大問題にぶち当たっている。なんども飛び越えたり突き破ろうと、己の蓄えた知識すべてを総動員して立ち向かおうとした。

 

 しかし、無惨なことに私の思考と言う努力は、その全てが無に帰すという苦行をかれこれ数十回繰り返す羽目になっていた。

 

 もう時間がないのに。急がなきゃいけないのに。私は悩み、焦り、頭を抱える。

 

 こうなってしまった原因は、まぁこのてのSSを読んでいる人ならすぐに思い当たるし、それは私の中でも同じなことで。ほぼほぼ人生を共に過ごした女、ユーリが原因であった。

 

 

 

 

 遡ること数か月前だった。

 

「ちーちゃん、誕生日おめでとう!」

 

 そう言って、ユーは大学生になってはじめて迎えた私の誕生日を祝福してくれた。ああ、ありがとう。私は毎日の挨拶のように返事をする。お互いの誕生日の時は、学校帰りケーキ屋さんとか行ったりして、それなりにおしゃべりして、遊んでから帰宅するのがいつもの私たちだった。

 

「じゃ、いつものケーキ屋さん行く?」

「ううん。今日はちーちゃんの家で祝おう! ケーキはお持ち帰りだ!」

 

 なんだ珍しいな。いつもならふにゃりと承諾して外に出るのに。そう思いながらも、私はたまにはこんなのもいいかと考えて、二人で学校を出た。

 

 しかし、途中ユーはケーキ屋さんに立ち寄ることはなかった。おい、買わないのか? そういうと「いいからいいから」と、ユーは私の手をやや強引に引っ張って私の家に向かう。

 

「よし、間に合った」

 

 私の家につくなり、ユーは郵便受けをチェックする。いやまて私の家だぞ、なにしてんだ。

 

「いいからいいから、ちーちゃんドア開けて」

「なんなんだよ全く……」

 

 渋々私はドアを開けて中に入る。ユーもぬるりと入り込む。結局手ぶらの帰宅だけど、何がしたいんだこいつは?

 

「ちー、ちゃん!」

 

 と、ユーがご機嫌で私を呼ぶ。はいはいなんだよと私は振り替える。

 

「はいこれ。誕生日おめでとう」

 

 そう言ってユーは私に小さな小箱を差し出した。思わず私は目を剥き、ユーをみる。へへ、とユーは笑みを浮かべている。

 

「今まではケーキ屋さん行くくらいしかできなかったけど、もう大学生だし、バイトも始めたからね。ちーちゃんにプレゼントをどうしてもあげたいって思ってたんだ」

 

 驚いた。それはもう驚いた。今までこんなことユーにされたことなかったし、こいつが考えていたなんて思いもよらなかったからだ。胸の奥から沸々と沸き上がる嬉しさ。気づけば私は口を押さえている。

 

「開けてみてよ」

 

 緊張しながら、私はその小箱を手に取り、開けてみる。中には可愛らしいネックレス。しかも何やら宝石のようなものがくっついてる。

 

「ちーちゃんの誕生石だよ。悪いものが憑かないようになるんだって」

「おま……でもこれ、こういうのって、結構高いんじゃ……!」

「高かったけど、ちーちゃんのためなら全然平気だよ」

 

 またにへら、とユーは笑って見せた。悔しい。こいつにこんなに感動させられるなんて。

 

 すると、今度はインターホンが鳴る。ユーは「お、きたきた」と言ってドアを開ける。来たのは宅配業者。ユーはさっさと受け取りのサインをして荷物を受け取り、リビングに来るように促す。

 

「それでもって、これもプレゼント!」

 

 そう言ってユーが荷物を開けると、中から丸々大きなケーキが出てきた。しかもプレートには「ちーちゃん、誕生日おめでとう!」と書かれている。

 

「お前……だから家に……」

「さぁ! 今晩はちーちゃんとのパーティだ!」

「……ったく、おまえ、人の家で、なに勝手に計画してるんだよ……!」

「あれ、ちーちゃん泣いてる?」

「泣いてねぇよバカ!! 全部食うぞ!」

「わ、それは困る。でも食べる前に乾杯しようよ!」

 

 と、そんな感じでユーは盛大に私の誕生日を祝ってくれたのだ。それが数か月前のことであった。

 

 

 

 

 そして現在。私はある意味、その誕生日のサプライズで大いに悩まされていた。なぜなのか。

 

 ユーの誕生日プレゼントを、何も考えられていなかったのだ。

 

 もちろんこの数ヵ月なにもしなかったわけではない。毎日どうやったらユーが喜ぶか、何を渡したら喜ぶか、色々なものを徹底的に考えた。

 

 それでだ。何も浮かばなかったのだ。

 

 これほど苦しいことはない。あいつとは長い付き合いだが、いざプレゼントを渡すことを考えると何も浮かばないのだ。高校まではケーキ食べて、プリクラ撮ってとか、まぁささやかながらの手作りのプレゼントとかお菓子とかは渡していた。

 

 でもだ。私は毎日首にぶら下げている、ユーからもらったネックレスに触れる。

 

 こんな素敵なものを渡されたり、渡したこともなかったのだ。少しばかり意地悪なことをいってしまうが、私はユーよりも成績はいいし、知識もある人間だと思っていた。

 

 だが、今回ばかりは私が蓄えた今までの知識すべてを使っても、頭が冴えることがなかった。ユーの好きなものは? それを渡せばいいじゃないか。どっきり? よし、同じようなことをしてやろう最初こそそう思った。

 

 けど、それだと何か違う。私も、ユーにされたみたいなサプライズを、ユーにしてやりたい。それだと同じだったり、予想できるものだとつまらないのではないか? そう思ってネット、本、テレビ、色々なメディアの情報を仕入れまくった。ああそうだ、その手の知識は大いに頭に叩き込んだ。

 

 にも拘わらず、私はユーに何をあげたらいいのかすら決まってなかったのだ。聞いて驚け、ユーの誕生日は明後日。明後日なんだぞ!? なのになぜ私は何もできていないんだ! ユーにできて、なんで私にはできないんだ!?

 

 そんな葛藤が、数ヵ月前から続いているのだ。最近はついに眠れなくなったし、このままだといつかノイローゼを起こしそうだ。

 

「ちー、ちゃん! おまたせ!」

 

 学内の正門前、遅れてきたユーが満面の笑みで現れる。

 

「ああ。遅かったな」

「ちょっと教授に捕まっててね。このままだと単位ヤバイぞーって言われた」

「授業サボるからだろ」

「授業なんて、生きる邪魔だぜ」

 

 ちょいちょい、とユーは私のお下げで遊ぶ。

 

「邪魔なら大学なんて入らなくてよかったろ……」

「ちーちゃんと一緒じゃなきゃつまんないもん」

「あ、そ」

「阿蘇山」

「座布団ゼロな」

「つらい」

 

 表向き平静を保ちつつ、私はユーに探りを入れる。一応これでも入れているつもりだが、こいつに渡すプレゼントの候補なんかこれぽっちも浮かんでいなかった。ユーの前以外では自分でも分かるくらい落ち着きを失い、焦っている。いつユーの前でぼろが出るのか、正直緊張しっぱなしだった。

 

「――それでねー、イシイがちくわ大明神だったってわけ」

「そうか。それは驚きだ」

「ちーちゃん信じてないでしょ?」

「もっと説得力ある話をしろ」

「本当なんだもん!」

 

 ええい、こんな会話をしたいんじゃないんだ。いや、楽しいけど、私が一番欲しいのはユーの情報なんだ。ユーが喜ぶもの、驚くこと。私はそれをこいつに与えたい。

 

 ユーがくれた、あの幸せを。

 

 

 *

 

 

 翌日。名案、浮かばず。私は一睡もできずに布団から起き上がる。ああ、自分でもよくわかる。ひどい顔をしているに違いない。よろよろしながら洗面所に行く。鏡に写る自分の顔。何人かの人間を殺してきたような死んだ目をしている。

 

「……っあぁ」

 

 蛇口を捻って水をだし、頭から被る。紙が濡れてもシャツが濡れてもなにも関係ない。ただ自分の不甲斐なさと記憶を消したくて仕方がない。

 

「っっぁあああ、ああああ……」

 

 なんでなんでだ。ああもう、なんだこれ、ワケわかんない。なんで私こんなに悩んでるんだっけ。なにもかも分からない。忘れたい。逃げたい、帰りたい。

 

 頭は混乱しているのに、それでも私は律儀に学校へ行く準備を進める。気づけば軽いメイクも終えていた。でも、やっぱり目は死んでいる。もういいや、どうでも。ユーのとなりにいればあいつのルックスの方が目立って私の方にはなにもいかないだろう。

 

部屋のドアを開けて、鍵を閉める。家の敷地からでると、ユーが待っていた。

 

「ちーちゃん、おっはよー」

「……うん」

「ちーちゃん、顔やばくない? 何人か殺してるよそれ」

「昨日カナザワを殺った」

「マジで!?」

「うそ」

「マジか」

 

 るんるんと陽気に歩くユー。会話が一段落して私の頭の中はまた自己嫌悪へと沈んでいく。ああ、今日は日差しも強いから頭が全くまとまらない。

 

「あ、ちーちゃん。明日私の誕生日だけどさ。どうする、ケーキ食べに行く?」

 

 その言葉は、まるで口の中に腐りきった生魚を口に押し込まれたかのような衝撃だった。

 

 誕生日。

 

 なにもできてない。

 

 ユーが、先に言って私は何も言えない。考えられてすらいない。

 

 もしかして、ユーが気を使ってそういったのか?

 

 あ。

 

 あ、あああ

 

「ちーちゃん?」

 

 やめて。

 

 やめて。

 

 ごめんなさい。

 

「ちーちゃん、どしたの? 調子悪い?」

 

 ごめん、ごめんごめん。

 

 なにも、できなくて

 

 ごめん、ユー。私は、私は何もできない、お前の誕生日一つ祝うことができない。

 

 やくたたずだ。

 

「うっ……っお、えぇええええ!」

「ち、ちーちゃん!!?」

「っぐ、おぇっっぁあ、あああ」

「ちーちゃん、ちーちゃんしっかりして!」

 

 目がぐるぐるする。ユーの声がする。ごめんなさい、ごめんなさい。

 

「ちーちゃん動ける? ほら、捕まって」

 

 眼の前に広がるユーの顔。何かを言う彼女の声。それはもう、私の中では言葉として認識できないものとなっていた。

 

「家に戻ろう、歩ける? ちーちゃん、聞こえる?」

 

 遠く、遠くに消えていく。

 

「ごめんね、鍵開けるよ。ほらしっかり!」

 

 でも一番消えたいのは

 

「ちーちゃん」

 

 消えたいのは私だ。

 

 もう、このまま。

 

 消えて、なくなってしまいたい。

 

 

 

 

 次に目が覚めたとき、私は自分の部屋のベッドにいた。一瞬、さっきのは夢だったのかと思ったけど、枕元に居たユーが私を覗き込んだことで夢じゃなかったということを実感させられた。

 

「ちーちゃん、起きた?」

「……ゆー」

「具合どう? あれからしばらく寝てたんだよ。眠れてなかったの?」

「…………」

 

 情けない。情けない。情けなさ過ぎて涙が出そうだ。私は布団を頭までかぶる。ユーは気にしていないように言葉を続けた。

 

「とりあえず勝手に部屋の鍵借りちゃったけど、ごめんね。飲み物とかここにあるけど、食べたいものとかある?」

「……いらない」

「最近調子悪かったりした?」

「…………」

「もしかして、私の誕生日のこと考えてくれてたの?」

 

 本当に鋭いやつで嫌になる。いや、でも冷静に考えたら、ユーが誕生日のことを口にした瞬間ああなったのだから、子供でもわかることだろう。

 

「…………」

「そっかー。つまり、考えていたはいいけど何も浮かばなかったから、こう、いろいろドバッてきた感じかな」

 

 私は布団からほんの少し顔を出してユーを見る。優しい笑みを浮かべた碧い瞳が私を見下ろしていた。

 

「…………うん」

「へへ。もぉ、そんなに深く考えなくてよかったのに」

 

 ユーは私の額に手を置いて、優しく撫で回す。なんだよ、なんでそんな優しいんだよ。

 

 私はお前の誕生日一つ祝ってやれないバカだっていうのに。

 

「そんなことないよ。ちーちゃんは私のために毎日毎日頑張ってくれてたんだよね。ほら、机の上のメモとか」

「うっ……見たのか」

「ごめんね、見るつもりはなかったんだ。でも、こんなにちーちゃんが私のために考えてくれてたんだってすごくよくわかって、すごく嬉しかった」

 

 くしゃり、とユーは私の頭を撫でる。その手の仕草が今までにないくらい優しくて、私はまた少し惨めになった気分になる。

 

「……いくら頑張っても、何もできなかったら意味もないよ」

 

 ユーは何も答えなかった。そのかわり、頭に置いていた手を頬にそっと滑らせてきた。

 

「じゃあ、私が欲しい誕生日プレゼント教えてあげるね」

 

 するとユーは私の頬を両手で添え、あっという間に顔を近づけてきて私に口づけをする。一瞬何が起きたか分からなかった私は、少しの間ユーのされるがままとなってしまい、自分がさっき嘔吐したことに気がついてユーを突き放そうとしたのは、ユーが唇を離した直後だった。

 

「ユ、ユー! だめだ、そんな、私さっき吐いて……、んむぅ!」

 

 言わせないと言わんばかりに、ユーは続けて私の唇を奪う。しかも今度は舌をねじこんできた。やめろ、だめだ、汚いぞ。変な臭いだって残っているかも知れないだろ。やめろよ、ユー!

 

 私はユーの手首を掴んで必死に引き離そうとする。そんなことは関係ないと、彼女は押し込んだ舌で私の上歯を、下歯を、奥歯を、舌をねっとりとなぶる。それがたまらなく気持ちよくて、私は押し返す力が小さくなっていく。

 

 やがて私の手は枕元に力なく落ちる。その落ちた手を、ユーがそっと握りしめて指を絡める。

 

 っ、あぁ。

 

 ほんと、ずるいやつだ。

 

 ぬるり、と口の中から舌が抜けて、ユーが顔を離す。いつの間にか離れていくことが寂しくなってしまった私は、その様子を悟られまいと、目をそらした。

 

「……臭い、きついかも知れないのに」

「全然そんなことなかったよ」

「いつも、不意打ちばかりしやがって……」

「ああしないとちーちゃん落ち着かないでしょ?」

「今まで大真面目に考えてきた自分が……馬鹿みたいじゃないか」

「え、ちーちゃんバカじゃなかったの?」

 

 てめぇこのやろう。抗議の目を向けて一つ拳を振り上げる。しかしユーは腰に手を回し、頬に手を添えたと思ったらあっという間に私の唇を奪っていった。つー、と混ざった唾液が離れた唇と一緒に糸を伸ばす。またやられた、悔しい。このまま何もできないのは不満でしかなかったから、私は小さな文句を一つ投げつける。

 

「…………ずるい」

「へへへ」

「褒めてねぇよ」

 

 にへら、と笑いながらユーは額をくっつける。あ、ちょっとひんやりして気持ちいい。

 

「じゃ、改めて私の欲しいもの教えてあげるね」

 

 すりすり、とユーは額をこする。子猫のように。

 

「私は、いつもどおりの元気なちーちゃんが欲しいな。だから、早く元気になってね」

「…………ありきたりの甘々ベターなプレゼントだな」

「だってほしいもん。ゲロ吐き散らかすちーちゃんは見てても心臓に悪いよ」

「ぐ…………わかったよ」

「えへへ、嬉しい」

 

 ユーは体を起こすと満足そうな笑みを浮かべる。あーもう、笑顔が満点なのがちょっとムカつく。

 

「今日はしっかり休んでね。私もずっといるから」

 

 碧い瞳が私をじっと見下ろす。その中に映る私はどんな顔をしていたのかよく見えない。いや、認識していないのほうが正しいかも知れない。

 

 ただ、気づけば私はその瞳に吸い込まれるように体を起こしていて。

 

 でもちょっと力が入らなくて、体が倒れそうになって。

 

 ユーがそっと私を抱きとめて、見つめ合って。

 

 もう一度だけ、唇を重ねた。

 

 

 

 

 了

 



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委託

純粋な戦闘物が書きたくて、かっこいいをなるたけ目指しました


 

 

 

 じ、っと静寂が辺りを包み込んでいた。真っ白な雪原の上に、ユーリはうつ伏せになって目と耳、そして指先の感覚に全神経を集中させていた。目はその先にあるスコープを捉え、そのまた向こうにある景色を観察する。耳は周囲のわずかな変化にも気づけるよう、今まで自分の鼓膜に届いた音の識別を完了させている。風の音、チトの足跡、古びた建物から破片が落下する音、様々な音を覚えた。

 

 もし、それらに該当するものがなかった場合はすぐに場所を察知し、指先に信号が伝達するように構える。その指に触れるのは鈍く、黒く光る金属の引き金。

 

 三八式歩兵銃を構えてからのユーリは、普段の落ち着きのなさが嘘のように鳴りを潜めていた。まるで機械のようだとチトは物陰に体を潜め、ユーリの姿を伺いながら思う。知らない人間が近くを歩いても、ユーリの存在にはまず気づけないだろう。普段のジャケットの上に、町から旅立つときに持ってきていたローブの切れ端を被っているのも間違いなく要因の一つだ。

 

 だが、それを差し引いたとしても、ユーリから気配を感じなかった。いや、正確に言えばビリビリと極限に達した緊張感が伝わってくる。じっと、ただじっとその場にうつ伏せになり続けている。時間が経過していくにつれてチトの不安はじりじりと増していく。早く終われ、終わってくれ。今にも痺れを切らしそうだ。

 

 冷静なチトが焦るのも無理はなかった。この状態が続いて、かれこれ一日が経過しようとしていたのだから。

 

 

 

 

 それはいつものように、のらりくらりと階層都市を旅していたときのことだった。

 

「ひまだ」

 

 ケッテンクラートの荷台の上で、ユーリはそういった。一日に10回は聞く単語なので、チトは適当に「そうだな」と返事をして運転に意識を集中させる。

 

「ちーちゃん、ひまだから遊ぼう」

「ひとりで遊んでろ」

「じゃあしりとりしよう」

「……いいよ」

「しりとりだから、り……り……りぃえーしょん」

「レーションはレだから却下。そして「ん」で終わってるからお前の負け」

「ちーちゃんすげぇ、戦わずして勝った」

「褒め称えろ」

「つるぺたちーちゃん」

 

 ぎゅぎゅ、とケッテンクラートが急停車し、ユーリは「ぐえ」と声を漏らす。何事かと思った次の瞬間には、石像みたいな目をしたチトがユーリの頭の上に拳を叩き落とした後だった。

 

「いたい」

「私は心が痛いよ」

「ちーちゃんの心結構頑丈なのに」

「お前がなにもいわければ、もっと頑丈になれただろうよ」

 

 そう言ってチトはケッテンクラートを再発進させる。しばらく走っていると、上部の階層が存在しないエリアに出てきた。建てかけのビルや支柱があちこちあることから、ここにも上層が作られる予定だったのだろう。今は真っ白な雪が絨毯のように周囲を覆っていた。

 

「おー、久々の太陽、そして青空」

「ああ。気持ちいいな」

 

 顔を出している太陽の光を、二人は存分に浴びる。ケッテンクラートのスピードを緩め、チトもユーリも顔に紫外線を浴びる。太陽と遠く離れているこの都市において、日光は非常に重要なものだ。

 

「んー、こう気持ちいいと雪の上でごろごろしたくなるねー」

「そうだな。今日は天気もいいし……この辺りでご飯を食べてもいいかもな」

「わーい! ちーちゃんだいすき!」

「わっ、これ急に抱きつくな! 危ないだろ!」

「いーじゃんいーじゃん、ご飯が楽しみなんだか……」

 

 チトに抱きつき、ユーリの目線が前方に行った瞬間だった。真正面よりやや右方向にある、朽ちかけているビル。そのどこかがキラリと光って消えた。普通の人間なら特に気に止めない光の反射。だがユーリはその光を見て全身で感じた。

 

「ちーちゃんアクセル!」

 

 明確な殺意を。

 

 ユーリがケッテンクラートのアクセルを捻るのと、銃声が響いたのはほぼ同時だった。ケッテンクラートの増設された荷台に穴が開く。もしユーリがアクセルを捻っていなかったら、チトに命中していた場所だ。何が起きたか分からないチトは頭と目が回りそうだった。だがユーリが叫ぶ。

 

「止めないで、誰か撃ってきてる!」

「な、なにをだよ!」

「わかんない、でも銃で撃たれてる!」

 

 ぞわ。なにかがユーリを撫でる。とっさにハンドルを右に引っ張る。チトは身構える間もなく煽られて首がゴキリと言う。だが、その視線の先にあった雪に穴が開いた。そうだ、理解した。これは銃撃だ。自分達は、銃撃を受けているのだ。

 

「あそこの建物の影に!」

 

 ユーリが指差した方向をチトは見る。少し背の高い建物だ。とにかく隠れなければならないと自身を奮い立たせ、アクセルを捻る。ユーリは既に三八式を構え、なにかが光ったビルに照準を合わせる。しかし、原始的な金属の照準器では正確な位置まで見えなかった。威嚇で発砲。乾いた銃声が響くが、これといった手応えを感じない。

 

 その隙にケッテンクラートがビルの影に滑り込む。ユーリが同時に飛び降りて影になってない背後に銃口を向ける。もう一人居たときの事を考えての行動だ。しかし待てども銃撃は来ない。ケッテンクラートの方見ると、ぜーぜーと荒い呼吸を繰り返すチトがいて目が合う。二人はひとまず安堵した。

 

「な、なんだったんだ……」

 

 チトがハンドルに突っ伏して言う。ユーリは銃弾を装填しながら「さぁね」と答える。

 

「姿なんて見えなかったからなー。わかるのはあそこのビルにいるってことだけ」

「間違いないのか?」

「スコープが反射したんだと思う。なにか光ったあと、撃たれたから」

「そうか……まぁ影に隠れてからはなにもないし」

 

 チトが荷台を確認する。水用タンクの少し横に出来たばかりの穴。確かに銃弾で撃ち抜かれていた。

 

「ああ……傷物にしちゃった」

「また塞げばいいじゃん」

「直すのは私なんだぞ」

 

 とぼやきながらも、チトは余った合板と接着剤を用意する。ユーリはそっと影から顔をだし、ビルを見つめる。流石に目だけ外に出す程度では見えないのか、発砲はなかった。

 

「敵……て言うのかな。あいつなんで私たちを狙うんだよ」

「わかんない。食べ物がほしいとか?」

「なるほど、全うな理由だ。いっそ渡した方が安全に進めるんじゃないか?」

「死んでも渡さん」

「言うと思った」

 

 冗談を言い合ってはいるが、チトはユーリから発せられるぴりぴりとした空気を感じ取っていた。滅多に見ない本気の警戒モード。相当な集中力を使うのに、その傍らで自分といつも通りのやり取りができるその精神は、並大抵のものではないと言うのがよくわかった。

 

「ちーちゃん、スコープ出して」

「ん、うん」

 

 ユーリはチトからいつも単眼鏡代わりに使っているスコープを受けとると、出来るだけ顔を出さないようにうつ伏せになって向かいのビルを見つめる。あちこちひび割れて、ガラスもなくなったビルだ。似たような建物をこの旅路の中で幾度となく見てきた。

 

 その窓を、一つ一つ確認していく。どれもこれも空洞ばかりで人影は見当たらない。

 

「……なんか、気持ち悪い」

「気持ち悪い? どこか具合悪いのか?」

「あ、ううん。違うよ。気持ち悪いってのは撃って来た奴のこと」

「どうして?」

「何て言うか……気配が無さすぎて気持ち悪い。まるで誰も居ないみたい」

「……もしかして、ビルから降りたとか?」

 

 可能性はある。狙撃主と言うものは、完璧な奇襲による一方的な攻撃、及び支援を行う兵士だ。完璧にそれをこなすには敵に位置を悟られないようにしなければならない。よってある程度狙撃をしたあと、移動するのが定石だ。

 

 もちろん、完全に擬態し、悟られず敵を殲滅させれば移動する必要もないだろう。しかしユーリは狙撃ポイントの絞り混みには成功し、その方向へ威嚇で発砲した。つまりビルの中にいると言うことはもう見破っているぞと、相手に警告を撃ち込んだのだ。ならば見つかるのも問題になると判断すれば、そのためにビルから降り、別の場所に向かってる可能性がある。

 

「その間に全速力でここから逃げ出せばいいんじゃないか?」

「確かに、それならチャンスは今だけだかも。でも、ちょっとまって」

 

 ユーリはエンジンをかけようとするチトを止める。早く逃げ出したかったチトはやや怪訝そうな顔でユーリを見る。対するユーリはと言うと、地面から起き上がったかと思えば、突然影から飛び出した。

 

「ゆっ!!?」

 

 名前を呼ぶ暇もなかった。とんでもない俊敏さで、ユーリは飛び出した、その時だ。

 

-ッターン!-

 

 銃声。チトの心臓が跳ねる。銃声、チトは一瞬ユーリに鮮血が走る瞬間を想像してしまう。しかしユーリは銃声が響くほんの一瞬前に反対方向へ足を曲げ、ステップとジャンプを混ぜた形で影に再び飛び込んだ。

 

「まだあそこにいる!」

 

 ジャコッ、とコッキングレバーを引く。ユーリの殺気が増し、ビリビリと撒き散らされる。ユーリはスコープを三八式に固定し、ケッテンクラートの荷台に目を向ける。

 

「ちーちゃん、私たちが昔着ていたローブある? 白いやつ」

「え、あるけど……なんに使うんだ」

「雪の上だから、たぶんそれ着た方が目立たない。おじいさんから教えてもらった」

 

 チトからローブを受け取ったユーリはそれを被ってみる。すっかり体が成長して手足が出るようになっていたが、雪原に緑色の服を晒すよりはましだ。もう一着の方も受け取り、それは無理矢理三八式に巻き付ける。即席だが、雪原迷彩の完成だ。

 

 「ど、どうするんだよ。それを着たって出ていったところを狙われたどうしようもないじゃないか」

「なんとか考える。どのみちあいつをどうにかしないと、私たちが危ないし。見てよ、思わず飛び込んじゃったけど、ここ引き返そうとしたら隠れる場所がない。まっすぐ逃げても必ずビルから丸見えになる。たぶん、もう戻れない」

 

 ユーリは驚くほど冷静に状況を分析していた。あの食べ物のことしか脳にないユーリが、全身から殺気を放って冷静に物事を言う姿はあまりにも異質で、少し調子が狂いそうだ。

 

 だが、そうだからといって思考を止めるほどチトは弱くはない。ユーリが出来るだけ危ない目に遭わないように、作戦を考える。

 

「……よし、なら夜まで待とう。夜まで待って、火を起こしてそれを囮にするんだ。私があっちに投げるから、ユーリは反対方向にいく。どう?」

「さすがちーちゃん、頭いいね。それじゃあ夜まで一旦お休みかな」

 

 ユーリの殺気が弱まった。チトはひと安心する。何で安心したかは分からないが、それについては考えないことにした。

 

 

 

 

 夜が更け、普段なら寝静まる頃。今夜の天気は曇り。月明かりも星明かりもない、真っ暗な世界が広がっている。暗闇は人にとって恐ろしく感じるものではあるが、今夜に限っては姿を隠すには打って付けで、とてもありがたい存在だった。

 

 ランタンを手に持ち、ユーリは暗闇を見つめる。このあと、チトが反対方向に、ガソリンを含ませて火を点けた廃材を放り込む手はずだ。

 

「ユー、準備はいい?」

「うん。はい、ランタン返すね」

 

 ランタンをチトに返し、ユーリはローブを着込む。目指すのは10メートルほど先にある錆びた配管。あそこを影にして潜み、夜が明けて敵がどこにいるのかを探すのだ。

 

「ユー……大丈夫か?」

「まぁ、なんとかなるよ。ちーちゃんはそこにいていいからね」

 

 既にユーリからは、ぴりぴりとした殺気が放たれていた。チトはその緊張感に呑まれそうで、思わず唾を飲み込む。

 

「じゃ、行くよ」

「うん……ユー」

「なぁに?」

「……死なないで、ね」

「あいよ」

 

 チトは廃材にガソリンをかけて、バーナーで点火。あっという間に燃え上がった廃材に驚きながらも、チトはそれを力一杯投げた。

 

 廃材が雪に突き刺さるのと、銃声がするのはほぼ同じだった。ユーリは一気に飛び出す。さっきランタンで確認した配管を目指し、うっすらとその影が見えた。

 

 スライディングで滑り込むことに成功したユーリは、すぐさま三八式を配管の上に乗せ、寝そべって暗闇に包まれるビルを見つめる。もう、敵は撃ってきそうになかった。炎が囮だと気づいたのだろうか。どちらにしても、気配がない。きっとこれは長くなるだろう。

 

 ユーリは瞬時に夜が明けるまで待つことを選択する。その間に自分の周囲で起きる音を収集するため、聴覚に神経を張り巡らせる。気温がぐっと下がり、雪が深々と降り注ぎ始めた。

 

 チトは、まるで動かなくなったユーリをみて少し不安だったが、時折ほんの少し上下する方を見て一安心する。なにか手伝えることはないだろうかと模索するが、後も暗くては自分では同しようもないとすぐ結論に至る。

 

 今できることは、見守ることだ。チトは自分にそう言い聞かせ、ユーリと同じく息を潜めることにした。

 

 

 

 

 そうして、冒頭へと戻る。夜が明けて既に数時間。その間ユーリは微動だにしていない様子だった。敵もユーリの出方を伺っているのか、何をしてくる様子もない。ユーリの体には既に雪がいくつか積もっていて、このまま放って置くと体温を奪われ続けるのではないかとチトは危惧する。

 

「ゆ、ゆー……」

 

 チトは一瞬声をかけようとしたが、口を閉じる。もし自分の声でユーリの位置がバレたら一巻の終わりだ。不安ではあるが、ユーリを信じて待つしかなかった。幸い、ほんの少しだけユーリが体勢を変えたので、生きていることがわかった。

 

(にしても……)

 

 チトは意識をユーリから、敵が居るビルへと向ける。一体誰が、なんのために私達を狙うのだろうか。よく考えてみれば、食料を狙ったりしているのなら、チトとユーリが離れた瞬間の夜に接近して奇襲を仕掛けることも可能だったはずだ。

 

 しかし、囮の炎を撃ったということは、敵はまだビルに居るということだ。何か他に目的があるとでも言うのだろうか?

 

(それに、ユーリの言葉が気になる……ユーリの言っていた『気持ち悪い』ってなんだ?)

 

 チトは些細なヒントも見逃さないように思考を巡らせる。そうだ、なにかおかしいぞこれは。要求もなにもない、一方的な攻撃。弾薬を消費してまでなんの意味があるというのだ?

 もちろん、世界にはただ単に殺戮を楽しむ人間も居るということもチトは聞いたことがある。しかし、それならやはり近づいてきて攻撃をしてきそうなものだ。

 

(なんだ、なにか引っかかる……なにかおかしい)

 

 歪なピースがバラバラにチトの頭の中に転がる。それをどうにかはめ込みたいが、何かが足りない。何かがおかしい。

 

 チトは影からビルをもう一度覗く。何も反応がない。人がいる気配も、何もない。それだけ敵は完璧に姿を隠しているのだろうか。

 

 チトはもう一度、ユーリとの会話を思い浮かべる。

 

『……なんか、気持ち悪い』

『気持ち悪い? どこか具合悪いのか?』

『あ、ううん。違うよ。気持ち悪いってのは撃って来た奴のこと』

『どうして?』

『何て言うか……気配が無さすぎて気持ち悪い。まるで誰も居ないみたい』

 

 誰も、居ない……。

 

 もしかして……。本当に誰も居ないんじゃないのか?

 

 誰も居ないけど、攻撃してくる。そんなことができる存在はあるのか。

 

「……いや、ある! まさか、敵の正体って!?」

 

 その瞬間、歪なピースの形が整えられた。それが一気に組み上がる。だがあと一つ、決定的な何かが欲しい。

 チトは急いで廃材に火をつける。昼の今だからこそ試せることだ。自分たちが敵の目欺くために行っていたことが裏目に出てしまったのかもしれない。しかし、いまならそうはいかない。

 

 火のついた廃材を、チトは思い切り投げる。弧を描いて飛ぶそれは、雪に突き刺さる。直後。

 

―ッターンッ!―

 

 来た、やはり! 燃える廃材が銃弾で吹き飛ぶ。明るい時間帯で、投げたものが人間じゃないのは明らかなのに狙ってきた。それが一体何を意味するのか。

 

 敵は、熱を持ったものへと攻撃している。もちろん普通の人間がそんなことできるわけがない。だが、それができる存在に思い当たる節があった。

 

 最後のピースがついにはまった。敵は、自分たちの相手をしている敵は。

 

「ユー! 敵は機械だぞ!」

 

チトは危惧した。ユーリは敵が人間だと仮定して戦っている。戦闘経験がないチトでも、人間と機械相手では戦い方が違うことくらい理解できた。

 だから、このままではユーリが危ない。精一杯の声でチトは呼びかけた。

 

 だが、その声はユーリの三八式から放たれる、6.5mm弾頭の爆音でかき消され、届くことはなかった。

 

 

 

 

 銃声がしたのと同時に、ユーリは体を起こした。ユーリが待っていたのはこの瞬間だった。ユーリは、敵が一度銃を撃てば次弾を装填するためのタイムラグが発生する確証を持っていた。強烈な連射ができる機関銃なら、自分たちはケッテンクラートの上で蜂の巣にされていたに違いない。

 しかしそれをされなかったということは、敵もユーリが持っている物と同じ、一発一発装填を行わなければならないライフルだということを意味していた。

 

 スコープを覗き、ビルを睨む。見つけた、僅かなガラス面を反射する場所。ユーリは迷わず引き金を引く。甲高い銃声が鼓膜を突き抜け、肩に衝撃が走る。だが、撃った瞬間に悟る。思考と体の動きが一致していない。外した! その証拠に窓枠弾痕が一つ増えたのがスコープ越しに見える。

 

(っ、手が、うまく……!)

 

 長時間身を潜めていた影響だった。体の奥深くまで冷え切ってしまったユーリの体は、本人の意志とは裏腹にうまく動いてくれなかった。

 

「ユー!」

 

 チトの叫びが聞こえる。早く終わらせなければ、チトが危ない。ユーリはとにかく敵を仕留めることを最優先とした。スコープを覗き、今度こそ敵の姿を見ようとする。だが、姿が見えない。人がいない。おかしい、間違いなくあそこから撃って来たのに。想定外の事態に、ユーリの頭は少しずつ混乱していく。

 

 戦闘技術に長けているユーリとはいえ、実戦経験は皆無に等しいのが現状だった。加えて一晩中冷たい雪の中でうずくまっていたために、体温も奪われて自身の思考能力が低下していた。

 

 故に、イレギュラーが傘なると、思考が失われていく。それはユーリの体の上に被さり、体温を隠していた雪が体から落ちていくには十分すぎる時間だった。

 

「っぅああああ!!」

 

 銃声。左腕に激痛が走る。ユーリはとっさに理解した。やられた、撃たれた。そのまま雪の上に倒れ込む。しかし思考をどうにか奮い立たせてパイプの影に転がろうとする。だがダメだ、間に合わないかもしれない。ユーリの体を、死の恐怖が包む。生きなければ、なんとしても。生きなければならない!

 

 チトを一人にするわけには、絶対いかない!

 

「ユー、伏せろ!」

 

 チトが叫んだ。ユーリはとっさに頭を低くする。直後、真上で爆発が起こり、辺りを煙が包み込む。いったい何が? その考えに至る間もなく、二度目の起爆。今度は雪煙が舞い上がる。

 

「ユー、ユー!」

 

 顔を上げるとチトが居た。そんな、撃たれるかもしれないのにどうして。混乱するユーリをよそに、チトはユーリに駆け寄る。

 

 チトは、敵の正体を掴んだと同時に爆薬を用意した。直後、ユーリが被弾したことでとっさに少量の爆薬を用意。それをユーリからできるだけ離れた前方の、中空で起爆させた。撒き散らされる高熱の爆煙で敵の目を欺くには完璧すぎる代物だった。これは間違いなく成功し、二度目の射撃が来ることはなかった。

 

 続けてユーリに駆け寄る進路を確保すべく、今度は雪の中に爆薬を投げつけ、起爆。雪煙を起こして上下に熱源を作り、一気にユーリにまで駆け寄ったのだ。

 

 が、そんなチトの作戦など知らず、ユーリは思わず声を上げる。

 

「ダメだよちーちゃん、危ないよ!」

「うるせぇ! お前だって食らってるだろ、それよりどこをやられた!」

「っう……左腕。たぶんかすっただけだけど、めっちゃいたい。持ち上がらないかも」

「そうか……いいかユー、よく聞け」

 

 チトはすべてを説明したかったが、雪煙が晴れるまで時間がなかったため、要点だけ伝える。敵は人間じゃない。だがチャンスはある。次で仕留めろ。

 

「ちーちゃん……でも、腕が上がらない……片手じゃさすがに狙えない……」

 

 だが、チトはユーリの頬に両手を置き、美しいブルーの瞳に向かって叫んだ。

 

「信じて!」

「…………わかった」

 

 

 

 

 雪煙が晴れる。物言わぬ狙撃手は、この地に訪れた数百年ぶりの熱源に向けて黒光りする銃口を向ける。残った爆煙と雪煙の向こう、目標はそこにいると予測している。

 

 狙撃手が最後に命令を受けたのはもう数百年も前になる。劣化により、性能が著しく低下したメモリーに残された最後の任務。

 

 この場を通過する、すべての生物を狙撃し、我々の陣地に侵入させるな。

 

 狙撃手は忠実にその命令を守った。この場を通過する生物は、何者でも狙撃してきた。

 

 しかし、百年過ぎた辺りでカメラの精度が著しく低下した。そこで狙撃手は、サーモカメラを使用し、熱源のあるものを狙うことにした。

 

 そうして、この場をずっと守ってきた。もう、守る人間が居なくなったとしても。

 

 その行為になんの意味をなさなくなったとしても。

 

 狙撃手は、戦い続けるしかなかった。

 

 雪煙が徐々に消えていく。敵の予測位置が晴れるまでもう少し。と、その直後だ。人の形をした熱源が煙から現れる。ターゲット補足、それを迷いなく撃ち抜く。その熱源はふらふらと不規則な動きをし、雪の上に倒れる、熱が消える。ターゲット排除完了。

 

 その瞬間だった。雪煙に大きな穴が開いた。それは煙をぶち抜き、一直線に向かってくる。音速を突破した6.5mm弾頭。それは完璧な進路で狙撃手の目に等しい照準器を撃ち抜いた。

 

-緊急修正、本体カメラを熱源モードで起動。損傷多数、稼働率42パーセント。望遠レンズの併用開始。目標へズーム-

 

 狙撃主は、弾丸が飛んできた箇所へと目を向ける。雪煙がゆっくりと晴れていく。すると、突風が吹いて残っていた煙すべてを吹き飛ばした。

 

 その目に写ったのは。

 

 右手で三八式を構えたユーリと、左肩に三八式の銃身を乗せたチトだった。

 

 

 

 

 チトが考案した作戦は成功した。三八式に巻きつけていたローブを剥がし、燃やして放り投げたのだ。敵が熱源を頼りに攻撃していることを掴んでいたチトは、ユーリにこう告げた。

 

「敵のスコープが絶対に光る、それを撃て!」

 

 そうして、敵が囮を狙った瞬間、チトの目論見があたった。真上にまで上がった太陽の光が、レンズに反射したのだ。その光は、薄くなった雪煙の中を突き進み、チトとユーリの目に届いた。

 

 ユーリはそれを見逃さなかった。すべてのからくりを理解し、冷静さを取り戻したユーリにとってそれを撃ち抜くのは七面鳥撃ちのように容易いことだった。

 

 発砲。ズドンと肩に走る衝撃。左腕に被弾こそしていたが、チトが左肩で依託射撃を請け負ってくれたことで正確な射撃を可能にしてくれた。

 

「次!」

 

 その声と同時にチトが銃身を掴む。これでユーリは左手の支えがなくても、右手のみでコッキングレバーを引くことができた。薬室から熱を帯びた薬莢が飛び出し、地面に落下して雪をほんの少し溶かす。

 

 再度レバーを押し込み、装填完了。照準合わせ。直後突風が吹く。雪煙が消し飛び、視界が広がる。ユーリはもう人間が居るとは思わない。人間ではない、何かを撃つことだけに意識を集中させる。

 

「見えた!」

 

 ついに見つけた。ビルの中にいる、その「なにか」を。今度は見逃さないし、外さない。二人なら、絶対に大丈夫だから。

 

「すぅー……」

 

 ユーリが思い切り息を吸い込む。敵がこちらに狙いを定めようとしているのが見えた。だがもう遅い。私が……私達のほうが、早い!

 

「っ!」

 

 息を止めた瞬間、引き金を引く。撃針が雷管を叩き、薬莢内の火薬が起爆。弾頭が銃身を疾走し、放たれた鉛が世界に解き放たれる。

 大気を切り裂き、それは真っ直ぐに飛翔する。やがて音の壁を突き破った鉛玉は、音を鎧として身に纏い、その凶悪さ完全なものにした。

 

 そしてその一発は。

 

 寸分の狂いもなく、「敵」の脳天を撃ち抜いた。

 

 

 

 

 ユーリの手当てを行った後、二人は狙撃手が潜んでいたビルの中に入った。左腕を怪我したユーリに代わり、チトが三八式を構えて敵が潜んでいた部屋の前まで到達し、二人は頷いて中に飛び込む。

 

 そこにはスコープが砕け散った、機械用に改造された狙撃銃。そして、四角い人型をした機械が床に転がっていた。頭部にあるレンズは粉々に砕け散り、頭に搭載されていたメモリーは粉砕され、床に散らばっていた。

 

「…………これが、敵の正体か」

 

 もう動かないことを確認したチトは、ユーリに三八式を返して機械を観察する。原理などはさっぱりだったが、これだけ複雑な機構をしているということは、より高度な技術が使われているということだ。熱源による識別行えるものだったとしても何らおかしくはなかった。

 

「こいつは熱があるものに対してだけ攻撃していたんだ。最初から昼に火を囮に使っていたらすぐ気づけたかもしれないけど、暗い時にそれをしたから気づけなかったんだ。もし、夜に囮を使わずにユーリだけ外に出ていたら、お前は撃たれていただろうな」

「じゃあ、私が飛び出した後、火が消えても撃たれなかったのは?」

「お前の体温が下がっていたのと、雪が積もっていたから。だから雪が体から落ちたときに撃たれたんだ。腕はまだ痛いか?」

「ん、大丈夫。今はそこそこに動くよ」

「かすっただけで本当に良かった」

 

 今になってチトは腰が抜けそうになる。アドレナリンで感覚が麻痺していたが、考えてみれば自分たちも相当無茶な作戦をしたなと思う。

 

「なんで私達のこと狙ったんだろうね」

 

 銃身で敵が本当に動かないことを確認しながらユーリは周囲を見回す。チトが床に転がった薬莢を拾い上げた。

 

「それはあれだろうよ。命令されていたから。たぶん、この場に来る敵を撃て、とか」

「もう誰も居ないのに?」

「魚のところの機械が言っていた。『関係ない、維持していくだけだ』って。こいつも一緒なんだろうよ。人間が居なくなっても、ただ、命令どおりにここに来る敵を攻撃することを全うしたんだ」

「おかげで苦労したなぁ。おのれ人間め」

「お前もだよ人間」

「おお、人間だったか私」

 

 ユーリは地べたに座り込み、鉄屑と化した狙撃手を見る。機械の表情なんてわかりやしなかったが、どこか開放されたような、そんな表情をしている気がした。

 

「こいつさ。実のところ誰かに止めてほしかったのかな」

「なんで?」

「私だったら、長いこと同じことしてたら嫌になるもん」

「機械だから関係ないだろう」

「機械だからだよ。やめたくてもやめることができないじゃん。ほら、言ってたじゃん。ばぐ、だっけ? そういうのが起きたら進化するみたいなの」

「言ってたな」

「それが起きて、こいつの中に『もうやめたい』って気持ちが生まれて、でもやめることができなかったらさ。誰かに止めてもらうしかないじゃん」

 

 だから、ここを通り抜ける存在に攻撃をしたのかもしれない。反撃して、自分を壊してもらうために。

 

 チトは、そんなまさかと思ったが、自分たちはいくつもの不思議なものを見てきたし、進化に通ずるものも見てきたし、終わりに通ずるものも見てきた。

 

 そして、自分たちだって成長という進化を遂げ、そして終わりに向かっているのだ。故にユーリが言っていることは、あながち外れだとも言えないだろう。

 

 ただ、機械が鉄屑になった以上、それを確かめる手立てはない。今考えている物はすべて自分たちの中の妄想にしか過ぎないのだ。

 

 チトはユーリの隣に座り込み、機械に向けて手を合わせる。

 

「なにしてるの?」

「弔い。死んだ人に対しては、手を合わせてちゃんとあの世に行けるようにお祈りするんだってさ」

「ふーん」

 

 ユーリは見よう見まねでチトと同じように手を合わせる。

 

「あの世で楽しく暮らしてますよーに」

「お祈りは頭の中でするものだよ」

「そうなの」

「そうだよ」

 

 チトは立ち上がり腰を伸ばす。旅に使えそうなものは無かったから、長居は無用と判断した。転がっている予備の銃弾も、7.62と記載されていたため、ユーリの銃には使えそうになかった。

 

「行くよ。もう少し離れて、今日は早めに休もう」

「あーい」

 

 階段を降りながらチトはユーリの姿をちらりと確認する。ふんふんと鼻歌を歌いながら、いつものユーリに戻っていて安心する。もう戦いは懲り懲りだなとチトは思いつつ、ユーリに言い忘れたことがあったのに気づいた。

 

「そうだ、ユー」

「なぁに?」

「……ありがとな。助けてくれて」

 

 危険を犯してまで自分を守ってくれた相棒に、チトは感謝する。ユーリはというと、少しだけ面食らったような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔を向けて答えた。

 

「へへ、当たり前じゃん。でも」

 

 ユーリはチトの手を掴む。手袋越しに伝わるユーリの鼓動は、確かにそこに存在していて、自分が生きていることを実感させてくれた。

 

「私がこうやってちーちゃんの手を握れるのは、ちーちゃんのおかげなんだよ。だから、こっちこそありがとうね」

「……へへ、当たり前、だろ?」

 

 チトは少しばかり顔を赤くしながらも、しっかりとユーリの目を見て答える。そんな彼女を、ユーリの瞳がじっと見つめる。しかし次第にこっ恥ずかしくなって、どちらからともなく笑い声が上がった。

 

 

 

 

 了

 



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食べなくても、食べられる・R

記念すべき一作目のチトユーSSを、アニメ放送一周年に合わせてリメイクしたものです


食べなくても、食べられる・R

 

 

 一体どうしてこうなった。ユーリは柔らかいベッドの上に押し込まれた状態で、めったに使わない頭脳をフル回転させて思考した。

 普段なら思考することを好まないユーリが、こうまでする理由。それは自分の唯一無二の友達であり、相棒であり、頭脳でもあり、家族であるチトが、目に涙を浮かべてユーリを押し倒していたからだ。

 

 チトその黒い瞳に涙を浮かべ、ユーリの両手首をがっしりと掴み、まるでその場から逃がさないようにするが如く睨みつける。

 

 普段ならまずしないチトの行為は、ユーリを混乱させた。いつものじゃれあいとも違う、彼女の切実な訴えが華奢な体に現れている。そんな彼女の気持ちをスルーするようなユーリではない。

 

「考えたことあるか……お前と私が一緒に居れる日が、あと何回あるのか」

 

 チトは、ユーリの手首を強く握りしめて己の気持ちを投げかけた。

 

 

 

 

 時は遡り、数時間前のことである。

 

―ッターンッ!―

 

 火薬が炸裂し、弾頭が飛び出る音が周辺に響き渡る。撃ち出された弾頭は、百メートルほど先に置かれた空き缶を撃ち抜く。

 

「ヒット」

 

 隣でチトが単眼境を覗きこみながら呟く。ユーリはボルトレバーを引いて廃莢。次弾を装填する。

 

「今日は調子いいなぁ」

「そうなのか」

「うん。撃ったときの手応えと命中したときの手応えがはっきりしてる」

 

 ユーリは再び三八式を構え、発砲。銃声と気持ちいい金属の弾ける音。満足そうな笑みを浮かべて、再びボルトレバーを引く。

 

「私には分からないよ」

「下手だもんね」

「うるさいな」

 

 ユーリはポケットに入れていた弾が無くなったことに気づき、ケッテンクラートに戻ってもう少し撃とうと、弾薬が入っている袋に手を伸ばす。が、中から一発だけ銃弾が転がる。あとはペラペラの紙切れだけが残ってしまった。

 

「ありゃ、一袋使いきっちゃった」

「最近よく撃っていたからな。そろそろ節約を考えろよ」

「自決用の弾は残しておくぜ」

「縁起でもないこと言うのやめろ」

「でもさー、どうせ残してもいつか使えなくなるんだからさ。それなら使いきっちゃった方が、銃弾も幸せなんじゃない?」

「弾がどうやったら幸せを感じるんだか」

「命を吹き込む」

「吹き込むのか」

「吹き込んだ方が楽しくない?」

「できたとして、名前とかどうするんだよ」

「えーっと、1号、2号とか?」

「百以上はあるって言うのに」

「まぁでも多い方が賑やかだよ」

 

 ごん、とチトがケッテンクラートに足をかける。その動作が誤差の範囲で意図的に乱暴だったことに、ユーリが気づかない。

 

「……命を吹き込んでも、楽しくても、いずれ終わりが来るだろ」

 

 そう言うとチトはケッテンクラートに乗り込む。もう行くぞ。彼女の背中からそんな声が聞こえた。

 

「終わりが来るにしても、それまでは楽しそうじゃん? おしゃべりしてー、遊んでー、ご飯食べてー……銃弾ってご飯食べるの?」

「……命が吹き込まれるなら、食べものが必要なんじゃないか?」

「何食べるんだろう。火薬? ちーちゃん、どこから食べると思う?」

「くだらないこと言ってないで早く乗れ。置いていくぞ」

「あん、冷たい」

 

 ひょいと荷台に乗る。何気なくドラム缶をノックすると、音がよく響く。なるほどこれが中空構造と言うやつか。

 

「そろそろ燃料も減ってきたね」

「……ここのとこ見つかってないしな」

「お腹空いたなー。ご飯もあまりないしなー」

「早いところ見つけないと。あと何回見つけられるんだか」

 

 チトがエンジンを始動させる。心地よい一定のリズムのエンジン音。例えるなら母親に抱かれているような居心地のよさ。ユーリは早速うとうと眠りへの船をこぎ始める。

 

「まぁ……なんとかなるよぉ」

 

 うつらうつらと眠りこけるユーリ。お腹が空いたら寝るのが一番だ。

 

「……ほんと。あと何回――――」

 

 だから、チトが運転席で言い放ったその言葉を聞くことはできなかった。

 

 

 

 

 その後チトとユーリは猛烈な吹雪に見舞われていた。あのあと当てもなく車両を運転していたチトは、たまたま屋根のないエリアを見つけた。天気は悪くないし、あそこを突っ切れば建物が多いエリアにショートカットできるだろうとハンドルを切った。

 

 しかし、まるで二人がそこへ来ることを待っていたかのように急激に鉛色の雲が空を覆い、可愛らしい雪がひらひらと舞い落ちる。

 

 それはあっという間に凶悪な吹雪となり、チトとユーリを襲った。

 

「っっ、なんだよ、この吹雪……ユー、おいユー、まだ起きてるか?」

「お、起きてる……さっぶ……」

「くっそ、なんたってここに入ってきた瞬間に……」

 

 チトは階層都市の屋根がある部分に戻ろうかと思ったが、視界が悪くてどちらに行けばいいのか検討がつかなくなっていた。

 一瞬Uターンすることを考えたが、猛烈な吹雪はあっという間に履帯跡を消してしまい、ほんの少し見える範囲でしか自分たちの進路を確認することができなかった。

 

 なら進むしかない。チトはハンドルを切らないように徹底し、ユーリを叩き起こして雪に刻まれる車両の履帯跡の監視を指示。進路がずれていないことを確認してもらい、確実に直進して目的地を目指すことにした。

 

(くそ……早く屋根のあるところに行かないと、私もユーも氷漬けだぞ)

 

 凍りそうになっているまつげを鬱陶しく思いながらチトは頭を振り、思考を止めないよう自分に言い聞かせながらアクセルを捻る。

 

(このままだと……二人一緒に力尽き兼ねない……そうなったら、どうなるんだろう)

 

 吹雪の音が耳を包み込む。あまりにもその音が大きいから、ケッテンクラートのエンジン音が聞こえなくなりそうだった。まったくうるさい。そうだ、他の事を考えよう。

 

 チトは考える。命の危機は幾度となくあったが、その先は一体どうなっているのだろうか。痛いのかな? 怖いのかな? そんな考えがチトの中をぐるぐる回る。

 

 死ぬ。死ぬってなんだろう。死後の世界ってなんだろう。神様が居るのかな。そうだな。寺院の神様の世界みたいな明るい場所に行けるのかもしれない。

 

 暖かくて、植物がいっぱいあって、ご飯もあって、本もたくさんあるかもしれない。そうだ、きっと、きっとおじいさんも。

 

 チトの世界が広がっていく。温かい。明るい。寺院みたいな世界だ。

 

(すごいきれい……そうだ、ユーも……)

 

 チトはその時に気づいた。ユーリが居ない。今自分が居る温かい世界にユーリが居ない。そんな、なんで。

 

 一人にしないで。ユー、ユーリどこ、どこにいるの?

 

―……ちゃん、ちー……―

 

 ユー? どこ、ユー?

 

「ちーちゃん、ちーちゃん!」

「っ、ぁあ?」

 

 チトが意識を戻すと、目の前に猛烈な吹雪の壁が立ちふさがっていた。今のは……夢?

 

「ちーちゃん、ちょっと、ねぇ起きてる? ち、い、ちゃん!」

 

 吹雪の音に混じってユーリの声が耳に届く。ヘルメットを何回も、それも力強く叩かれるおまけ付きだ。それからすぐ、自分が眠りそうになっていたことに気づく。危なかった。ユーリが起こしてくれなかったらどうなっていたか。

 

 しかし、その間にもユーリの拳の力強くなる。これ、半分楽しんでるな。そう思いながらチトは声をやや荒くしながら返事をする。

 

「なんだ! なんだよ」

「あそこ、ほら見える? 大きい建物!」

 

 ユーリが指差す方向を見ると、吹雪の厚い壁の向こうに薄っすらと大きな建物が見えた。吹雪の中でも見える大きさということは、それなりに巨大で頑丈な建物であることは明白だ。チトは迷わずハンドルを切る。

 

「あそこに行こう、もう吹雪は懲り懲りだ」

「あーい」

 

 建物に近づくとやはり頑丈そうな作りだった。見上げると窓枠の多くが頑丈そうな板で打ち付けられている。続いて根本を見ると、ポッカリと開いた大きな入り口。ケッテンクラートがまるごと入りそうな大きさだった。

 

 チトはもうひと踏ん張りとアクセルを捻り、速度を上げる。外気温で少しばかり回転数が落ちたエンジンがここぞと唸りを上げる。そのおかげもあって、建物はあっという間に近づき、その中へと滑り込んだ。

 

「んあぁあ……ついたぁ」

 

 ユーリがヘロヘロしながら荷台から降り立ち、地面に尻もちをつく。チトは運転席で肩の力を抜き、エンジンカバーの上に降り積もった雪を払いのけると、温かいその上に突っ伏す。

 

「大きい建物があってよかったね」

「ああ……あのままだと私もユーも氷漬けだよ」

「腐りはしなさそうだね」

「保存してどうするんだよ」

 

 チトは固まりそうだった体を起こし、ケッテンクラートをもう少し奥に止め、エンジンを切る。吹雪が止むまでもう外には出られないだろう。いや、むしろ出ないほうがいいに決まっている。ひょうひょうと入り込む雪を見ながらチトは軽く息をつく。

 

「この建物を探索しよう。もう今日はここで寝るぞ」

「あーい」

 

 

 

 

「わぁい、お風呂だ、お湯だー!」

 

 全裸になったユーリは、波々と湯船に蓄えられたお湯に飛び込む。ざばー、とユーリの体重分のお湯が溢れ出し、床に広がる。

 

「こら、もったいないだろ! 水は大事にしろ!」

 

 ユーリより一歩遅れて浴室に入ったチトが声を上げるが、もうお湯は流れてしまっている。湯船にはそのまま溶けていきそうな表情で湯船に体を沈める相棒。まったく聞く耳もたずな奴だなとチトは口に出さず毒づいた。

 

「だって、寒かったしお湯たくさんあるし。最高じゃん」

 

 当たり前でしょ。と言いたそうなユーリ。これはもうなに言っても無駄だなと判断したチトは、体に巻いていたタオルを外す。

 

 二人が探索に入った建物は、もともと宿泊施設だったものを吹雪に耐えられるように改造したものらしく、窓は完全に密閉されて保温性は比較的によかった。

 

 その後探索をすると、ボイラー室と少しの電源が生きていることが判明し、早速状態のいい部屋を探す。いくつかのドアを開けると、二人でもゆったり入れそうな大きな湯船を備えた部屋が見つかった。

 

 祈る気持ちで蛇口を捻ると水が、そしてそれはお湯へと変わり、温かいお風呂が出来上がる。

 

 そうなるとすることはただ一つ。湯船に入り、一刻も早くこの冷え切った体を温めることだ。

 

「お前が今無駄にした分の水で生死が決まるかもしれないんだぞ」

「でも持っていける水の量なんて決まってるじゃん」

「そうだけど、常に意識しないと別の場所で油断して痛い目見るぞ」

「はぁい」

 

 チトがそっと右足を湯船に入れると、じわりと温かい刺激が足を包み込む。その感覚だけで思わず声を漏らしてしまう。

 

「んっ、はぁぁっ……」

 

 そのまま左足を入れ、腰をゆっくり落とす。人肌よりもほのかに温かいお湯はゆっくりとチトの体を抱きしめる。肩まだ浸かる頃になると、チトの顔はすっかり蕩けていた。

 

「あっ、ん、ぁああ、はっ、ぁああああ……」

 

 この心地よさ、声と吐息が我慢できずに漏れる。一瞬だらしないかなと思ったが、湯船の暖かさに包まれてしまったら誰だってこうなるだろうと結論づけ、考えないことにした。

 

「ちーちゃん顔がとろとろしてるよ」

「気持ちいいからな、そりゃ……」

「んー、いい顔」

 

 むにむに、とユーリはチトの頬を突く。いつもならさっさとやめさせるチトであるが、今回ばかりはすべてがどうでもよく、されるがままであった。

 

「なんていうかさー。こういう場所見つけるとやっぱり住みたいって思っちゃうよね」

「食料はすぐなくなるからできないけど」

「でも水なら出るよね」

「いつまで出てくれるかわからないけどな」

「ここの場所覚えて、ご飯探しに行って、何日かに一回帰ってくる、とかはどう?」

「それでも限界はあるだろ。それに私達は上に行けって言われてるんだし。ここに住むことはできないよ」

「上、ねぇ」

 

 と、ユーリは上を見上げる。上と言っても白い天井があるだけだから何もないのだが、湯気で集まった水滴がじっと二人のことを見下ろしていた。

 

「でもさー、そもそも上に辿り着く前に食料も燃料もなくなるかもしれないんじゃない?」

「それは……そうだけど……でも、動き続けたほうが食料や水が見つかるかもしれないだろ。じっとしていたら、死ぬのを待つだけだよ」

「そっかー。やっぱり動いたほうがいいかー」

「そうだよ」

「まぁ、ちーちゃんと一緒なら多分大丈夫だよ」

「その自信はどこから来るんだか」

「ちーちゃんから来ると思う」

「……そうか」

 

 ユーリの言葉に、チトの心はほんの少し揺れる。チトは思った。確かに、一人じゃできないようなことは、二人ならなんとかなる。今まで二人一緒だからこそ乗り越えた事は多々あった。だからこれからも大丈夫だ。

 

(二人なら……な)

 

 ぽちゃん、と天井にたまった水滴が落ちてくる。締め切っているから吹雪の音も聞こえてこず、とても静かだった。油断するとこのまま眠ってしまうに違いない。だがまぁ、うとうとするくらいはいいだろう。二人は何をするでも、何か話をするでもなく、冷えきった体を温める事に専念し続けた。

 

 

 

 

「ちーちゃん。これ、見た目やばいね」

「ああ……やばい」

 

 二人が見つめるそれは、ガラス容器に入った液体だった。一体何がやばいのかと言うと、何よりもその色である。おどろおどろしい、赤黒い色をしているのだ。

 

 事の発端は、お風呂から上がったあと、ご飯を食べようとチトがリュックを探っていたときだった。いつもならユーリが後ろでせがみに来るのだが、それがない。ふと気になってユーリをみてみると、何やら箱を覗き込んでいた。

 

「ユー? 何してんだ?」

「いや、この中になにか入ってるなーと思って」

 

 そう言われ、チトもその箱を覗き込んで見る。ガラス張りで何やら機械が動く音が聞こえる。その中に何やら容器のようなものが見えた。

 

「飲み物かな。これも多分保存するため箱だと思う」

「開けてみよっか」

 

 ユーリが箱を開けると、中にはガラス容器が二つ。取り出してみると未開封のようで、栓のところにはラベルが貼られたままだった。

 

「なんだろうこれ。なんか『びう』と少し雰囲気似てる気がする」

「見たことないな。ちょっと開けてみようか」

 

 びうの栓とは違う柔らかいタイプの栓を少し苦戦しながらも、二人は開封に成功する。匂いを嗅いでみると、どうやら腐っている様子はなく、むしろ嗅いだことのない心地よい匂いがした。

 

「ガラスの容器に入れてみようよ」

 

 ユーリはびう、で見た黄金の水を期待してチトを急かす。おそらくそう言うだろうと思っていたチトは、容器を取り出してユーリに手渡すと、ボトルを傾けた。

 

「うっわ」

「えぇ……」

 

 そうして、出てきた飲み物の色に二人は唖然としたのである。

 

「これさ、人間の血だったりしないよね」

「いやそれはないだろ。人間の血は こんなに黒くはないし、匂いも違う」

「なんの飲み物なんだろうね」

「一応、裏見たらぶどうって食べ物が使われてるらしいけど」

「なにそれ」

「大昔の果物っていう食べ物の一種だよ。甘いんだって」

「それがこれに入ってるの?」

「書いてるからたぶん」

 

 ユーリはチトから視線を容器に下ろし、ほんの少しだけぺろりと舐めてみる。

 

「……お。いける」

「いけるのか」

「不思議な味。びうとぜんぜん違う。でも面白いかも」

 

 飲む? とグラスを差し出すユーリ。チトはまだ少し抵抗はあったが、容器を受け取ってちろり、と小さな舌を伸ばす。

 

「……ほんとだ。いける。香りとか、なんかこう、すごい長い年月をかけたような、そんな感じ?」

「よくわかんないけど、でもまぁ美味しいからいいよね。飲もう飲もう」

 

 ユーリはカップを取り出し、もう一杯を注ぎ込んでチトに渡す。それで宿りの場所を見つけた事に乾杯。しっかりした天井や壁がある建物なんていつぶりだろうか。

 

 おまけに二人の視線の先には大きなベッドがある。風呂にベッド、そして飲み物。まさに至れり尽くせりな部屋と来れば少しばかりハイになるのも無理なかった。今夜はたっぷり疲れを癒そうと、食事にありつく。

 

「んー、うまい。癖になるね」

「レーションと妙に合うな。気を付けないと手が止まらなくなる」

 

 未知の飲み物、『わいん』の味をしめた二人はするするとそれを口に運ぶ。飲めば飲むほど体がぽかぽかしてきて気持ちがいい。吹雪に襲われ、疲労と空腹で満たされた二人の体は、その未知の飲み物を必死に求めた。

 

 結果、ユーリの思う『月の魔力』がチトを支配するのに、さほど時間は必要なかった。

 

 

 

 

「んっ、んっ……ぷはぁ、美味しい。いくらでも飲めるね」

 

 ユーリは満足げな顔でもう一杯を注ごうとボトルを傾ける。しかしちょろちょろとほんの少しだけ容器に注がれただけ終わってしまう。あれだけ入っていたボトルはすっかり空になって軽くなっていた。それも二本目。

 

「あーあ、無くなっちゃったね。もうちょっと飲みたかったなー」

「ああ」

「あと何回こんな事できるんだろう。またこんなの見つかるといいね」

「……そうだな」

 

 チトは残っていた最後の一杯を一機に飲み干し、机の上にカップを置くとそのまま立ち上がってベッドに倒れ込む。何気なくその後姿を見ていたユーリだったが、少し気になって自分の分を飲み干し、チトの後に続く。

 

「ちーちゃん? どしたの?」

 

 うつ伏せになっているチトの顔をユーリは覗き込む。チトはちらりとユーリの顔を見て、布団に声を埋めながら言った。

 

「……お前の言うとおりなんだよ」

「何が?」

「あと何回できるか、わからないんだよ」

 

 ぬるり、とチトが上体を起こす。その表情は 前髪に隠れて伺えない。

 

「あと何回お風呂に入れるか。あと何回こんな風に屋根や壁のある場所で眠れるか」

 

 その声が徐々に震えてくるのをユーリは聞き逃さなかった。チトはなにかに苦しんでる。そのなにかを今吐き出しているのだ。

 

「水も、ご飯も燃料も、あと何回手に入るのか」

 

 チトは顔を上げる。その目元には涙が浮かべて。

 

「私達が、あと何回一緒に居れるのかも、わかんないんだよ!」

 

 直後、ユーリは肩を掴まれ、ひっくり返される。不意を突かれたユーリは何が起きたか理解できず、思わず目を閉じる。しばらくしてから目を開けると、眼の前いっぱいにチトの顔が広がっていて、その両手首はがっしりと掴まれていた。そこまで確認して、自分はチトに押し倒されているのだと理解できた。

 

 普段ならまずしないチトの行為は、ユーリを混乱させた。いつものじゃれあいとも違う、彼女の切実な訴えが華奢な体に現れている。そんな彼女の気持ちをスルーするほど、ユーリは思考をやめる人間ではなかった。

 

「考えたことあるか……お前と私が一緒に眠れる日が、あと何回あるのか」

 

 チトは、ユーリの手首を強く握りしめて己の気持ちを投げかけた。

 

「当たり前のように私達は毎日を過ごしているよな。移動して、ご飯食べて水飲んで。でも、それっていつか終わるかもしれないものだって、ユーは気づいてるのか?」

 

 チトの涙がユーリの頬に落ちる。それは少しだけ暖かくて、そして悲しかった。

 

「食料も、水も、どんどん無くなってる。もしかしたらもう手に入らないかもしれない。移動するための燃料だって、銃弾だって。なぁ、私達が旅に出た時、今よりもっとたくさんの荷物を積んでいたよな。あれ今どれくらい残ってる?」

 

 ぽた、ぽたと涙がユーリに降り注ぐ。

 

「ほとんど……無くなってるよな。そうやって私達は毎日毎日、少しずつ何かを失っているんだ。お前は気づいていないだろうけど……私達だっていつか……いつか、お互いを失うかもしれないんだぞ……!」

 

 チトの声がいっそう荒くなる。彼女が一番に抱いていた不安がその一言に込められていた。

 

「賑やかだと楽しいってお前は言って、確かにそうかもと思った。カナザワやイシイと居たのも少し賑やかで楽しかったよ。でもな、終わりは必ずやって来るんだ。明日にも、ユーリが、私が、離ればなれになってしまうかもしれない……お前はそれをわかってるのか?」

 

 歯を食い縛りながらチトはユーリを見下ろす。その姿を見てユーリはようやく一つの理解をすることができた。

 

「……ちーちゃん、怖いの?」

「そうだよ!」

 

 首を振りながら、チトは全身でその感情を訴えた。

 

「何度も私たちは危ない目に遭ってきた。今まで生き残ってこれたのは、運が良かっただけなんだ。だから明日にでも死んじゃうかもしれない。離ればなれになるかもしれない。お前はそういうことを少しでも考えたことあるのか? もし私が先に死んだりしたらって、お前は考えたことがあるのかよ!」

 

 彼女の悲痛な叫びは部屋に響き渡り、壁に数回ほど跳ね返って溶けていく。ぎり、と歯を食い縛り、ほんの少しだけ残った理性で嗚咽をこらえようとするチト。そんな彼女を見つめながら、ユーリはもし明日チトが居なくなってしまったら? と考えてみる。隣に誰も居ない朝。自分で運転する車両。返事のない会話。たしかに、寂しいなと思った。

 

 だが。それを現実的に捉えることはユーリにはできなかった。自分のした想像は想像にすぎず、フィクションである。それが本当になるかならないか、なったところでどうなるのか、考えたところでユーリは「わからない」と答えるしかなかった。

 

 しかし。ユーリは考えることが難しくても応用は利く人間であった。おそらく自分が唯一経験した孤独、ランタンが消えて、真っ暗になったあの寺院。チトに呼びかけてきても返事が来なかったあの瞬間。

 

 ユーリは無意識の内に口にしていた。『私、どうなるんだろう』と。そうか、これがそうなのか。自分があの時口にした疑問。それこそチトの抱いている不安に近いものだったのだ。

 

 しかも、その不安は自分が感じたものよりも長く、重いものに違いない。あのチトがここまで感情を露わにするのは初めて見たと言っても過言ではないからだ。

 

 ユーリは考える。どうすればチトが落ち着くか。どうすれば安心するか。果たして自分の頭でそれが思いつくかどうかわからなかったが、やるしかないのだ。

 

 そして、ユーリは一つの結論にたどり着く。

 

「ごめんね、ちーちゃん。もし、離ればなれになったら、って聞かれても、今の私にはどうなるかわからないんだ。でも」

 

 ユーリはできるだけ、自分が出せる一番やさしい声で呼びかける。チトの表情が少しだけ柔らかくなり、手首を掴む力が弱くなった。その瞬間ユーリは左手を抜き、そっとチトの頬に手を置く。

 

「大丈夫だよ」

 

 その一言で、チトの表情がみるみる変わっていった。よし、届いている。私の言葉は届いている。ユーリは本能的に察知する。チトは、大丈夫と言ってほしいのだ。もう一押しが欲しい。こういう時どうすれば?

 

 その時ユーリはチトの言葉を思い出す。『頭が足りないやつは体を動かすんだよ』。そうだ、これだ。

 

 ユーリは上体を起こし、顔をぐっと近づける。不安に満ちた黒い瞳に、自分の姿が写っている。よし、笑おう。瞳の中のユーリがニッコリと笑みを浮かべるのを確認して、そっと小さい体を抱きしめた。

 

「私はちーちゃんから離れたりしないよ」

 

 ぽんぽんと、ユーリはチトの頭を撫でる。抱きしめてみてユーリは驚いた。チトの体が、自分が想像していたよりもずっとずっと小さかったのだ。

 

 思えば、薄着でチトの体を抱きしめたことが無かった。コート越しに抱き合ったり、くっついて眠ったことは多々あったが、素肌に近い体でこうしたことはなかった。

 

(ちーちゃん、こんなに小さかったんだ。こんなに小さいのに、怖いことずっと自分で考えてたんだ。すごいなぁ)

 

 ユーリは慰める一方で感心もする。相当辛かったに違いない。

 

「嘘だ……お前は、いつも何も考えないで、食べ物のことばかりで……どうせ、私より食べ物のほうが大事なんだろ」

 

 ユーリの首筋に顔を埋め、チトは噛みしめるように言う。なかなか痛いことを言われた。しかし、ユーリはいくらなんでもそこまで薄情な人間ではない。

 

「そんなことないよ。私はいつだってちーちゃんが一番だよ」

「うそだ、しんじないぞ……」

 

 ぎゅう、とチトはユーリの服の裾を強く掴む。どうしよう、少しいじけてしまっている。ユーリはより一層チトを強く抱きしめる。両手をチトの腰に回し、強く、ずっとずっと強く抱きしめる。

 

「私はね、ちーちゃんが本当に一番だよ。ほら、覚えてる? 神様のところで真っ暗になった時、ちーちゃん返事しなかったでしょ? あの時私、すごく怖かったんだ。今ならはっきりわかるよ。私はちーちゃんが一番大事で、大好きなんだって」

 

 ユーリの喉から、不思議と言葉が溢れてくる。そのすべてが自分の伝えたい紛れもない本音。彼女に届けたい。その気持ちがユーリを後押しする。

 

「だからさ。そんな事言わないでよ。私はちーちゃんが一番大事だし、絶対ちーちゃんから離れたり、居なくなったりしないよ」

 

 ユーリはチトの手をそっと握り、指を絡める。自分の気持ちが本物であると伝える。

 

「……ほんと?」

「うん。ほんと」

 

 チトがゆっくりとユーリから離れ、顔を向ける。目がまた少し潤んでいたが、これは不安のための物ではない理解できた。きっと嬉しいのだ。自分の言葉はチトにしっかり届いて、彼女は安心しきったのだ。今のユーリは、チトの気持ちが手に取るようにわかる。

 

「……じゃあ。私に、勇気をちょうだい」

「え?」

 

 だが。知識の乏しいユーリでは、その後の行動までは予測できなかった。

 

 チトの顔が、すっと近づいて柔らかい何かが唇に触れた。ユーリはそれがなんなのか理解できなかった。それは知識が足りない故の誤算であった。

 

 す、とチトが離れる。少しだけ湿っている、自分の唇に指を当てる。柔らかくて、温かくて、壊れそうな何かが自分の唇に触れた。ユーリはそれがなんなのか理解に時間がかかる。だが、顔が少しだけ遠くなったチトの唇が動いているのを見て、自分が何をされたのかようやく理解した。

 

「ちー、ちゃん?」

 

 自分が何をされたのか、それがどういう行為なのかユーリは知らないに等しかった。だが、自分の体がさっきよりも火照っていて、ぞくぞくと体が不思議な感覚を訴えてる。

 

「ユーと……もっと近くに、居たい」

 

 とろりとした目でチトはそう言う。甘えたい。そこにいてほしい。そう訴えかけるような彼女の瞳は、ユーリの心臓の脈拍を一気に上昇させる。

 

「どう、そればいいの?」

 

 ユーリは緊張しながら返事をする。緊張? 自分が? こんな気持ちは初めてだ。チトの唇が自分の唇に触れてから、自分の体がおかしくなってしまった。

 

 でもどういうわけか、嫌ではない。今はひたすらに喉が乾くような、唇が寂しいような、そんな感覚がユーリを包んでいる。その視線は、無意識の内にチトの唇を追いかけてしまう。

 

「わかってるだろ?」

 

 見透かされた。チトは艶のある笑みを浮かべる。胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられる。苦しい気がして大きく息を吐く。吐きすぎて苦しいので、もう一度吸い込む。吐き出す、その繰り返し。

 

 どっどっどっ、と自身の心臓ががなり立てていることに気がつく。いけ。わかっているんだろう。そう、誰かに言われた気がした。

 

 ユーリはチトの両頬に手を置く。ふわりとしたチトの頬は、自分と同じく火照りを持っていてとても温かかった。

 

 故に、そんなチトの表情をこう表現した。

 

「……ちーちゃん、おいしそう」

「たべていいよ」

 

 その言葉が耳に届いた直後、ユーリはなりふり構っていられなくなった。今度は自らチトの唇を塞ぎ、もう一度体がおかしくなるあの感覚を求めにいく。そうだ、これだ。さっき自分に押し付けられた、小さくて柔らかくて温かくて、今にも壊れてしまいそうなもの。

 

 その繊細さがとてつもなくほしかった。ユーリはまだこの気持ちを「愛しい」と表現することはできない。ただほしい、自分の側にほしい。それだけだ。

 

 チトの唇をもっと味わいたくて、自分の顔を強く押し付ける。こつん、と歯がぶつかってしまい、一度離れようとしたが、チトの両手がユーリの頭を押さえつけ、離れないようにする。

 

 チトがじぶんを求めている。この行動はユーリの理性を破壊し始めた。本能で生きてきたつもりだった自分が、我を見失いつつある感覚をユーリは初めて経験した。このまま壊れていったらどうなるのだろうと不安がほんの少し募る。

 

 だがそれ以上に、壊れてしまいたいと言う好奇心が勝っていた。背徳感と言うものだろうか。だが、ユーリにはその気持ちを表現する語彙は存在しない。

 

『頭が足りないやつは体を動かすんだよ』

 

 そうだよね、ちーちゃん。言えないなら、こうすればいいんだよね。ユーリはチトの唇をむさぼる。何度も口を開き、自分の唇でチトの唇を挟もうとする。だが足りない。全然足りない。もっともっと、もっとほしい。

 

 ユーリはチトにもっと近づきたかった。いや、ひとつになりたかった。どうすればいいのかわからない。いや、考えない、もういい。自分ができることをすべて彼女に押し付けてしまえ。

 

 その時、チトの唇がふっ、と開く。ユーリの体が叫ぶ。「いまだ」と。

 

 ユーリは舌を伸ばし、チトのなかに自分のそれを押し込んだ。小さな歯を抜け、その先はぬるぬると唾液で湿っていて、そこでチトの舌は待っていた。

 

 ユーリのそれが入ってくるのと同時に、チトは自身の舌をくねらせ、まるで誘うかのように振る舞う。うごめくチトのそれを、ユーリの舌が押さえつけ、からめとり、それを味わおうと自分の顔をさらに押し込む

 

「ん、ふっんむっ、ちー、ひゃ……」

 

 思わず、舌を入れながらチトの名を呼んでしまう。自分の口の中が唾液でいっぱいになっていることにユーリは気づく。どうしたらいいんだろう。そう思っていた矢先、チトの舌がユーリの唇をこじ開け、侵入してくる。

 

「むっ、んっぐ!?」

 

 驚いたユーリだったが、チトは構わず舌を這わせ、ユーリの中に溜まった唾液を一つ残らず舐め取っていく。その小刻みな動きが、ねっとりと動くチトのそれが、ユーリの体を更に火照らせ、脳を溶かしていく。

 

 その瞬間を待っていたかのように、チトは少しばかり身を乗り出し、口づけをしたまま唇を少し開く。チトの舌伝いに、温かいものが流れてくる。チトが自分の唾液をユーリの中に流しこんでいるのだ。

 

(あまい……なに、これ……)

 

 あの砂糖をまぶしたお手製のレーションよりも甘かった。美味しい。甘い。もっと、ちょうだい。ユーリはねだるように、舌をくねらせる。

 

 もっと欲しい。もっとちょうだい。おねがい、ちーちゃん。

 

 しかし。ユーリの願いとは反対に、チトは唇を離してしまう。混ざりあった二人の唾液が糸を引いて、ぷつりと切れる。

 

「ちーちゃん……」

 

 もう一度して。してよ。私じゃわからないよ。ユーリは目でそう訴えかける。

 

「なぁに?」

 

 チトは意地悪な笑みを浮かべる。まるで、戸惑っているユーリの反応を楽しむかのように。

 

「どうした、ん?」

「ひあっ……!?」

 

 チトはユーリの耳元で囁く。ぞわぞわと空気が触れて、チトの声がいっそう近くてユーリの体が緊張する。ずるい、こんなの。ちーちゃんばかりなんで知ってるの。

 

 ずるい。

 

 ずるい。

 

 ずるい!!

 

 ユーリはチトをそのまま押し倒した。体格と力ではユーリのほうが上だから、チトは簡単にベッドに押し込まれる。

 

 だが、その目に抵抗の意志はない。むしろ、その蕩けた目は自分の企みが成功したのを喜ぶようであった。

 

 ようであった。が、そんなチトの表情の変化に気づけるほど、今のユーリに余裕はなかった。

 

「ちーちゃん、ずるいよ」

 

 ユーリはチトがそうしたように、チトの耳元で囁く。びく、と体が少し跳ねる。そうだ、チトがさっきしたことを、こっちで仕返してやろう。

 

 ちろり、とユーリはチトの耳たぶを舐める。チトが甘い悲鳴をあげる。そうだ、こうしてやればいい。ユーリはたっぷりと舌を湿らせてチトの耳をなぶる。

 

「っ、んっ、ゆっ、ゆー……!」

 

 ふるふるとチトが震え、ユーリの手を握りしめる。ユーリもそれを強く握り返す。もっと私と近づきたい? わたしはここにいるよ。ほら、聞こえる? ユーリは自らの舌をチトの耳の中に入れる。

 

「っあ、ひっ……んんん!!」

 

 甘い声を出すチトの表情を見たくなったユーリは、顔を上げてチトの表情を見る。息を荒くし、顔を真っ赤にしたチトが薄目でユーリを見つめている。その姿に思わず体が跳ねる。

 

「……ゆー。きて」

 

 チトが手を伸ばす。ユーリはそれを受け入れて、チトを再び抱きしめる。思い切り息を吸い込むと、ユーリの鼻孔をチトの香りが突く。いい匂い。安心する匂い。大切な人の存在証明。

 

 ユーリはチトの髪の毛に鼻を押し付けて精一杯吸い込む。チトの匂いがいっそう近くなる。湯船に包まれたときよりも、ずっとずっと安心するそれはたまらなく気持ちよかった。

 

「ユー……」

「ちーちゃん……」

「ユーリ……」

「ちーちゃんっ……」

 

 耳元を行き交う互いの名前。ユーリはチトの顔が見たくて体を起こす。嬉しそうな笑みを浮かべ、その目尻には涙が浮かんでいる。それは寂しさか、嬉しさか。だが、ユーリはその涙を指で拭き取り、顔を寄せる。

 

「ちーちゃん。ずっと、一緒だよ」

「やくそく……だぞ」

 

 微笑むチト。彼女の不安げな体の強張りは消えていた。ユーリはその首筋に指をそっと這わせ、溶けてしまいそうなチトの吐息を唇で感じ、そのままもう一度唇を重ねた。

 

 

 

 

「あ、たま、が……」

 

 翌朝。布団の中でチトは強烈な頭痛に襲われて目を覚ました。昨日の飲み物を飲んでからの記憶がない。びうを飲んだときよりも圧倒的で強烈な頭痛は、ベッドから動けないほどだった。

 

「っっ、あぁあー……ユー、ユー居るか?」

「んん……なぁに、ちーちゃん」

 

 もぞもぞと隣でユーリが体を動かす音。よかった、隣にいたか。チトはひと安心して、昨日何が起きたのかを聞いてみる。

 

「あたまが、すごく痛い……私昨日何してた?」

 

 しばしぼんやりとしていたユーリだったが、少しして意識がはっきりしたのか、目を擦って「なにも覚えてないんだ」と言いたそうな顔になり、実際その通りの言葉を口にした。

 

「ちーちゃんなにも覚えてないんだ」

「え、なに。私なんかしたの?」

「あー、えーっと」

 

 なんて説明しよう。そんなユーリの表情を見ていると、ユーリの首筋になにかの痕があることにチトは気がつく。

 

「ユー、首のそれどうした? なんか赤いぞ」

「え。これちーちゃんがやったんだよ」

「私が?」

「まぁ、私もしたんだけど」

 

 一体なんのことだ。私がして、ユーリもした? チトはふと自分の体を見てみる。おかしい、来ていたシャツを着ていない。全裸だ。というか、なんだこれ!?

 

「え、な、なにこれ。何で私の体に赤い痕が!?」

「えーっとそれは」

 

 説明しようとするユーリをよそに、チトの脳内はパニックに包まれていく。まさかあの飲み物のせいでこんな模様ができてしまったのだろうか。まずい、病気になったかもしれない。しかも身体中にこの痕はある。全身やられてしまったのかもしれない。

 

「ヤバイぞユーリ、あの飲み物でなにか病気になったかもしれないぞ! 体に異常は、どこか調子悪いところは!」

 

 と聞いて、チトははっとする。今自分が襲われている強烈な頭痛。まさかこの原因があの赤黒い飲み物のせいなのか? だとしたらこの先自分はどうなるんだ?

 

「あ、ああ……まずい、まずい……どうしたら……!」

「あのー、ちーちゃん」

「のんきしてる場合じゃないぞユーリ、急いで治療法を探さないと!」

「いや、だからちーちゃんこの赤い痕は」

「もたもたするな、早く!」

 

 だーめだこりゃ。ユーリはチトが聞く耳持たなくなっていることを察する。ではやり方を変えよう。その日のユーリは少し冴えていた。

 

「ちーちゃん、私治療法知ってるよ」

「なっ……そんな、お前が知ってるのか?」

「うん。まず私に向かい合って」

 

 ぽんぽん、とユーリはこちらに来るように促す。チトは半信半疑だったが、やたら落ち着いてるユーリの表情を見て、信じてみようと座る。

 

「じゃあ目を閉じて」

「な、なにするんだよ」

「いーから。ね?」

「……ん」

 

 渋々チトは目を閉じる。次は一体どうすればいいんだ。そう聞こうと思った瞬間、チトの唇をなにかが塞いだ。

 

「んんっ??!」

 

 思わずチトは目を見開く。目の前いっぱいにユーリの顔。なんで、なんで、お前何してるんだ!? チトがそう叫ぼうとしたら、口のなかにぬろりとしたものが入り込む。なんで、なんでなんで!!?

 

 チトの理解が追い付かないまま、ユーリはチトの口の中で舌を暴れさせる。昨日チトがそうしたように、ねっとりと、彼女の口のなかを支配していくように、自分の唾液を注ぎ込む。

 

 チトはその動作を受けて驚愕した。これは、自分の想いがユーリと繋がった時にしようと、彼女が寝ている間にこっそりと練習していた秘密の技。結局その練習は、やはり踏ん切りがつかないと諦め、墓場まで持っていこうと決意したはず。

 なのになんでこいつがこれを知っている? ていうか、ユーリの唇の感触が明らかに初めてな気がしない。その瞬間、フラッシュバックする記憶。

 

 自らユーリの唇を求める自分。自分の唇を塞ぐユーリ。抱き合い、求めあい、お互いの存在を確かめあうために寄せ合った体。この行為は初めてではないと体が物語っている。まさか、まさか!?

 

 ユーリがそっと離れる。チトは湿りきった自分の唇を押さえ、わなわなと震える。跳ねる心臓。それは緊張だけではなく、昂ぶりも薄っすらと混じっていた。

 

「そ、んな……まさ、か?? うそ、え、え……あああああ!!」

 

 チトの顔がゆでダコのように真っ赤になる。響く絶叫と絶叫。顔を押さえてチトはベッドを転がり回る。うほー、うける。ユーリはそんなチトを見て、ひとまず病気ではないことを伝えることに成功した(というか忘れさせられた)ので安堵する。

 

「ほら、病気じゃないでしょ? これちーちゃんが私に付けたんだよ」

「ああああーーーー! 殺せ、いっそ殺せぇ!!」

 

 チトはうつ伏せて絶叫する。

 

「死んだら私が寂しいんだけどなぁ」

「じゃあお前を殺して私も死ぬ!」

「それはそれで困るよ。まぁ死ぬなら二人一緒がいいとは思うけど」

「私のバカァ! あー、あーーーー!! うーあぁあああ!!!」

 

 耳まで真っ赤になったチトは、これでもかと声を上げる。あまりうるさすぎてもあれだと思っているのか、声はベッドに押し込んで、最小限にとどめている。

 

 そろそろ止めないと、ちーちゃんの喉壊れちゃいそう。そう思ったユーリは、チトの背中に伸し掛かると、ぺろりと耳たぶを舐める。

 

「うひゃぁ!? ゆ、ユーリお前何して――――!?」

 

 チトが抗議のために体を向けたのを狙って、ユーリはチトの手首を掴んでベッドに押し込む。昨日と逆の立場だった。

 

「ちーちゃん。私は絶対に離れたりしないからね」

 

 ユーリのその笑顔は、チトが今まで見たことないような優しい笑みだった。どきりと跳ね上がる心臓。緊張とは違う胸の鼓動。チトは自覚させられる。

 

 私は、ユーリに、本気で落とされた。

 

 くしゃりとユーリが髪の毛を撫でる。美しい指がうなじに触れる。喉が乾く。唇がふっと開く。それはユーリにだけわかる、チトの「おねだり」の合図。だからユーリは何も臆することなく、もう一度、その小さな小さな唇に、自分のすべての気持ちをそっと重ねた。

 

 

 

 

 了

 



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思考拒否

ちょっと変化球を投げてみたくなりました


 

 

 

 チトとユーリは驚愕していた。幾度となく不思議な物、現象に遭遇してきた二人だったが、今回ばかりは各が違った。

 

 二人が唖然と見るその先に、一人の少女がいた。ついさっきまで、そこに人間はいなかった。代わりに、ラジオを介して自分達とコミュニケーションのできる不思議な生き物、『ヌコ』がそこにいたはずだった。

 

 そのヌコがいた場所から、白くてもちもちした不思議な生き物は消えていた。しかし、代わりに少女がそこにいた。つまりそれから考えられることといえば? ユーリの単純な思考回路が、結論を簡単に導きだした。

 

「ヌコが人間になっちゃった!」

 

 

 

 

 事の発端は数十分前。いつものようにケッテンクラートで旅をしていたチトとユーリ、そしてヌコは電源の生きていた施設を発見し、その中へと探索に向かった。

 

「なんか、変なところだね。謎の石像がいっぱいある」

 

 ユーリが辺りを見回すと、大小様々のあの石像が並んでいた。立体物から絵に描かれたものまで多種多様。あるものはその石像の絵の回りに、様々な文字が書かれて設計図のようになっているものまであった。

 

「不気味だな。寺院とはなんか違う感じがする。まるでこの神様を調べてるみたいだ」

 

 机の上に置かれていた石像をちらりと見て、次に壁に張られた石像の絵を見てチトは言う。どれもこれも古代の文字ばかりで、解読するのは難しそうだった。

 

『ココ……ソンナニスキジャナイ』

 

 と、ラジオから声。ユーリのリュックからヌコが顔を出していた。

 

「ヌコにも嫌いなんて物あるんだね」

『アマリスキジャナイ。イレナイコトハナイ』

「へんなのー。なかに入っててもいいよ?」

『ヌーイー』

 

 と、ヌコはリュックからにゅるりと出てくると、ユーリの首に巻き付く。こちらの方がいいらしい。ユーリがよしよしと頭を撫でてやる。

 

「ん?」

 

 そうしているうちに、二人はやや広目の部屋に到着する。ランタンで辺りを照らしてみると、何やら透明なカプセルなようなものが並んでいた。

 いずれもガラスは割れ、使えなくなっていたが、人一人が入るには結構大きいものだった。

 

「なんだろうね、ここ」

「どうも見た感じ、研究所って言うやつかもしれないな」

「なにそれ?」

「色々な物事を調べたり実験したりするところだって、本に書いてあった。そうして人類は発展してきたんだって」

「へー。イモ研究でもしてたのかな」

 

 くんくんと周囲を嗅ぎ回るユーリ。そんなわけ無いだろうとチトは嘆息する。

 

「だったら今までとおってきた道にはイモの絵くらい置いてあったろう」

「石像型のイモかもしれない」

「なんの意味があるんだよ、それ」

「面白そう」

「面白そうか」

 

 終わりが見えそうになかったので、チトは追求をやめる。相変わらずユーリはくんくんと嗅ぎ回っており、食べ物の気配を探る。

 

「まぁ、見たところ燃やせる紙がいっぱいあるから、それを回収しよう。焚き火に困らなくて済む」

「はーい」

 

 二人は手分けして机や床に散乱している書類を集める。よほど必死に研究していたのだろう、紙に関してはしばらく困らない量が散らばっていた。

 

 そのいずれも読めない古代文字が書かれている。そして添えられるように描かれたあの謎の石像。これは一体なんなのだろうかとチトが思考をしようとしたときだった。

 

「お、なんだこれ」

 

 ユーリが机の上でなにかを見つけた。チトがつられて声のした方を見ると、ユーリが瓶に入った液体を眺めていた。

 

「ちーちゃんなんか見つけた」

「瓶、か。開けてないな」

「もしかして飲み物かな。この前のびうだったりして」

「いや、それにしたって飲み物を入れるような見た目じゃないだろう」

 

 チトはランタンを近づけて液体を見てみる。緑色で、どう見ても人体には有害そうな物質だった。

 

「だめだだめだ。こんな色の飲み物なんて飲んだらお腹壊して死んじゃうよ」

「えー、飲んじゃダメ?」

「命の保証はしかねる」

「ちぇー。まぁいっか」

 

 ユーリも対して興味はないようだったので、あっさりと瓶を机の上に置こうとしてしかし。薄暗い手元のせいで机の位置を見誤り、瓶を落としてしまう。

 

「うわっと」

 

 パリンと音を立てて、ガラス瓶は割れる。中から緑色の液体が流れ出て床に広がってしまった。

 

「わ、おいユー大丈夫か?」

「あ、うん大丈夫。落としちゃった」

 

 相違って二人は地面に落ちた液体を眺める。やはり見たことの無いような緑色で、体にはいるものとは思えなかった。

 

「まぁ、飲めないんじゃ仕方ないし、割れちゃったものはもう仕方ないだろう」

「そだね」

「とりあえず次の部屋に行こう」

 

 と、チトが提案したときだった。

 

『ヌーイー』

「あ、ヌコ!」

 

 ユーリの首に巻き付いていたヌコがするりと地面に降り、とてとてと歩いてこぼれた液体に近づく。

 

『ペロペロ』

「あ。ダメだよヌコ、いくらヌコでもそんな色のもの飲んだらお腹壊すよ?」

 

 ユーリがそう忠告した、直後だった。

 

 ぼんっ! と音を立てて白い煙が立ち上がり、二人が驚嘆する間もなく煙は周囲を包み込む。煙特有の息苦しさが二人を襲いけほけほと咳き込む。煙は思いの外早く消えていった。

 

「けほっ、ちーちゃん大丈夫?」

「あ、ああなんとか……一体何が起きたんだ?」

 

 二人が煙の発生源である、ヌコがいた方を見たときだった。

 

「……だれ?」

 

 目の前に、真っ白なロングヘアーの小さな女の子がちょこんと座っていた。

 

 

 

 

 そうして冒頭へと戻る。目の前のヌコ(?)は目をぱちくりとさせながら辺りを見回す。まだ自分の身に何が起きたかいまいち理解できていないようだった。いや、それはチトとユーリも同じことで、チトは思考をやめたがっている脳をどうにか再起動させて、ユーリに答える。

 

「いや、待てユー。確かにヌコがいなくなって、代わりに小さな女の子が現れたからといって、この子がヌコだとは限らないし、第一人間以外の生き物が人間になるなんて聞いたことがないぞ……」

「じゃあヌコに聞いてみようよ。おいヌコ! お前はヌコなのか!」

「……ヌコ」

「ヌコだって」

「いやいやお前の言葉を繰り返しているだけかもしれないだろ」

「ヌコ、ダッテ」

「なんかこのやり取り前もしたような気がするぞ」

 

 チトはユーリからヌコへ目線を移す。自分達よりも小さく、くりくりした目。チトも見たこと無いような美しく、長い銀髪。雪のように白い肌。確かにヌコっぽいかと言われればそうだとは思うが、にわかには信じられないのが本音だ。

 

 が。現に自分達が知っているヌコがその場から消え、同じ場所にそんな感じの人間が現れたら、その仮説を信じるしかないのもまた事実。

 

「……へくちっ」

「……とりあえず、服を着てもらおうか。裸じゃ寒いだろうし」

 

 チトは自分のコートを脱ぎ、目の前に現れたヌコに袖を通してやる。その際肌に何度か触れたが、はりのいい、もちもちした肌だった。それに体温もある。少なくともこの少女は生きている人間であることは間違いないだろうと結論付けた。

 

 

 

 

 しばしの探索の後、火が焚ける広目の部屋を見つけ三人。道中小さな子供向けらしい衣服を見つけたのでヌコに着せてやる。これとチトのコート、それに燃やせそうな紙や布を見つけたから、ここで休もうと言うことになった。

 

「私の名前は?」

「ユー」

「こいつは?」

「チト」

「じゃあこれは?」

「たま。ろくてんご。にじゅうたべてぇ」

「ちーちゃんやっぱりこいつヌコだね」

「そう、らしいな」

 

 焚き火をし、食事をとったあと改めてヌコの体を確認してみた。五感あり、呼吸あり。空腹もあり。喋ってみるとラジオは必要なく、ちゃんと声帯から声が発せられていた。やはり間違いなく人間である。加えて行った質疑応答。自分達が交わした会話に全て返答し、間違いなくヌコであることが立証された。

 

「不思議な事もあるもんだねー。ヌコ人間になったらこんな感じになるのか、おーよしよし」

 

 ユーリに後ろから抱き締められ、頭を撫でられるヌコ。目を細めて心地良さそうにしている。その仕草、確かに荷台で撫でられて喜んでいるヌコそのものだった。

 

「しかしまったく理解できない……ヌコが人間になるなんて」

「もともと隠されていた能力だったのでは?」

「いや、どう考えてもあの変な液体のせいだろう……どういう仕組みでこうなったのか……」

「まぁほら、私たちの回りよくわからないものだらけだし、あんまり考えても意味ないんじゃない?」

「いや、まぁそうかもしれないけど……」

 

 どうにかこの不思議な現象を信じるに至れたチトであったが、この先をどう過ごしていくかまではまだ思考できそうになかった。目の前の現実だけで頭がいっぱいいっぱいである。そんなチトを知ってか知らずか、ユーリはヌコのほっぺに頬擦りする。

 

「んはー、やわらけぇ。小さい子供ってこんなにほっぺもちもちなんだね」

「ぬーいー」

「あんまいじめんなよ。って、またこんなことしてたな……」

「じゃあついでに歌っておく?」

「やだ」

 

 どうせ下手だって言われるのが落ちだろうにとチトは日記を取り出す。ひとまず今日起きたことを文でまとめてみたらなにか新しい目線になるかもしれないと思ったからだ。頭の整理は重要である。

 

「んー、ヌコあったかいなぁ」

「ユーもあったかい」

「おおそうかそうか、嬉しいぞぉ! 抱き締めると柔らかいし、今日は一緒に寝ようなー」

「ぬー」

 

 よしよしと撫でられて目を細めるヌコ。どさくさに紛れてユーリの胸にほっぺを埋めている。それはもう、とても幸せそうな表情だった。

 

「…………」

 

 それを横目に見るチト。なんだろう、人間になる前のヌコとは普通に行っていたスキンシップだったが、今はなんだか胸がモヤモヤする。なにかつまらない感じ。しかし上手いこと感情の表現ができなくて、日記を書こうと筆を走らせる。

 

『今日は不思議な建物を見つけた。寺院の神様たちがたくさんある。でも、寺院とは全然違う。まるで調べているみたいなところだ』

 

 と、チトが日記を書き連ねている間にも、ヌコとユーリが楽しそうにじゃれあう声が耳に入る。

 

「ぬーいー」

「ヌコっていい匂いするね。疲れきった心が癒されそうだよー」

 

 ったく、人の気も知らないでなにが癒しだ。荷台に座って寝ているだけのくせに。チトは話を聞き流そうと再び日記に意識を向ける。

 

『幸い紙や布がたくさん見つかって、火をおこすのにはしばらく困らなさそうだ。でもその途中でヌコが変なのを飲んで人間になってしまった』

 

「ゆー、つかれてるの?」

「あはは。例えだよ例え。でもまぁ疲れてなくても癒されるのはいいことだしね。ほっぺもっちもちー、やわらかーい」

 

『ヌコが人間になってからユーとずっとくっついてる。私たちよりも小さい子供の姿になったから、ユーが面倒を見ている。ヌコがすごく甘えている。ほっぺ触ったり触られたり、ユーの胸に顔を突っ込んだり匂いを嗅ぎあったりしている』

 

「もしヌコがこのまま人間だったら、成長とかするのかな。私みたいに背が高くなるといいね!」

「なにごとも、ほどほどがいちばん」

「おおー、ちーちゃんみたいなこと言うね! きっと賢くなるんだろうなぁ」

 

『なーにが賢くなるだ。脳みそ空っぽで頭のネジ何本か外れてるお前が言えたことかよ。て言うかお前ら距離近いんだよ、なにユーリのコートにくるまっているんだ』

 

「今日は一緒にねようなー。すごくよく眠れそうだ」

 

『ああそうかよ、好きにしろ、私は一人寂しく隅っこで寝ていてやるよ』

 

「ゆー。ちゅっ」

「おお、ほっぺにチューされちゃった。ヌコったら大人だなぁ」

 

『はぁ? 本当に何してるんだよお前ら。ほっぺにチューなんて誰だってできるだろ。て言うかなにまんざらでもない表情になってんだよユー。ああもう、本当に------』

 

 ぱきっ。筆の新がおれる音がして、チトははっと我に帰る。自分は何を? 手元を見れば、いつの間にか異常なまでにペンを強く握っている自分の手があった。

 

 その次に日記に目を落とす。そこには日記とは言いがたい自分の感情が殴り書きされたなにかがそこにあった。

 

 それを見てチトは理解した。

 

 自分は、ヌコに嫉妬しているのだと。

 

「……な、なんだよ。ばかみたい」

 

 急に頭が冷やされて、チトは日記を閉じてリュックに入れようとする。いやまて、中身を消した方がいいか? しかし、どうせユーリは文字が読めないから気にしなくていいだろうと思い直し、そのままリュックに放った。

 

 水を飲んで頭を冷やそう水筒を取り出し、一口。ひんやりと冷たい液体が喉を通り、胃袋へと落ちる。ちょっとだけ思考がまとまったような気がした。が、水が紙を濡らしていくかのようにもやもやとした感情がチトを再び包み込む。

 

「チト」

 

 そろそろ聞き覚えた幼い女の子の声。チトが顔を上げると、ヌコがじっとチトの事を見下ろしていた。

 

「ヌコ……なんだ、どうした? ユーは?」

「ねた」

 

 ヌコが指差し、その方向に目を向けるさっきまであんなにはしゃいでいたのに、ユーリは大口を開けてぐーすかと眠っていた。まるで燃料切れだな。チトがそう思っている間に、ヌコが隣に座る。

 

「ったく、散々騒いであっさり寝やがった。ヌコ、お前もそろそろ寝るんだぞ」

 

 荷台に置いてある毛布を取り出そうとチトが立ち上がろうとする。しかし、ヌコが次に発した言葉でチトの行動は強制的に停止させられることになった。

 

「チト、しっとしてる」

「なぁっ!?」

 

 チトは声がひっくり返るのを押さえられなかった。見てくれは自分達よりも一回り以上小さい子供に自分の心境を言い当てられたのだ。すぐに「違う!」と言葉を口に出そうとしたチトだったが、「ユーリをとられたくない」と叫ぶ自分がそれを遮り、否定の言葉を口にすることはできなかった。

 

「いや、別にそんなつもりは……それに誰が誰の物かなんて、決まってないし……」

「ヌコは、ユーといっしょにいたい」

 

 ずしっ。なにかが重く刺さってくる感覚。ああ、そうだろうよ。ヌコに言葉とか教えたり、ご飯あげているのは全部ユーだもんな。チトは口には出さない。出さないが、頭のなかで精一杯ユーリを取られないようにと抵抗する。いつヌコがユーリがほしいとか言い出してもいいように、どう答えるのかを頭のなかでシミュレートする。

 

「でも。私は、チトが一番欲しい」

 

 だから、ヌコが次に発した言葉に対応する準備はまったく整っていなかった。

 

「へぇあっ!? な、え、それってどういう……?」

 

 思わずチトは腰を抜かし、上体が倒れそうになるのをどうにか腕で踏ん張った。

 

「そのままの意味。私は、チトが欲しい」

 

 チトはヌコの発する言葉が流暢になっていくのに気がつき、ヌコの顔を見る。邪念も何もない無垢な黒い瞳が、チトのことを真っ直ぐ捉える。人間と同じものであるはずの瞳なのに、目が離せなかった。まるで、逃がさないように頭を誰かに押さえつけられているような感じだ。

 

「そ、そうか……いやでもまて、言っただろ。誰かの物になるとかどうとかじゃないって!」

 

 思考回路が働かないチトは、どうにかして言葉を発する。今の彼女にはこの言葉を投げ掛けることしかできず、そしてヌコがそれを想定内に納めていた事に気づくわけがなかった。

 

「チトが私を連れていこうって言ってくれたとき、嬉しかった。抱っこしてくれて嬉しかった。チトの頭の上が好き。でも、ヌコはヌコだからユーみたいに一緒にいれない。だから嬉しい」

 

 ヌコがゆっくりと近づき、チトの目の前にまで顔が迫る。顔立ちは幼いのに、表情はまるで全てを包み込む聖母のように柔らかく、暖かい笑み。チトは唾を飲み込んでしまう。声が出せない。自分の変なテンポの呼吸音しか聞こえない。

 

「チトはいっぱい考える。いっぱい頑張ってる。私をつれていくこともいっぱいいっぱい考えてくれた」

 

 その『欲しい』って一体どういう意味なんだ? 所有される? 持ち歩かれる? いや、ヌコはそう言いたいわけではなさそうだった。目の前にいる少女は、どう考えてもチトの思考に当てはまらないであろう表情をしていた。何か纏っているものが自分を包み込もうとする感覚。知らない、わからない。考えても考えても何も浮かんでこない。

 

「チト。ビックリしてる?」

 

 チトは答えられない。それを全て見透かしているかのように、ヌコが言葉を重ねる。

 

「チト、すごく考えてくれる。ヌコのために。それがすごく嬉しい。ヌコのためにもっと考えて欲しい」

 

 その変化に気づくのにすら時間がかかった。さっきよりもヌコの瞳が近い。瞳の奥に、言葉に出来ない表情を浮かべている自分がいる。そこまできてようやく気づいた。ヌコの顔がゆっくりと近づいてくることに。

 

 す、と頬に手を置かれる暖かく、小さな手。なぜだかわからない。心臓が跳ねる。暴れる。燃えそうなほどに。

 

 その瞬間、チトはヌコの意味を理解する。それがいけなかった。その理解こそが、彼女の取り柄である『思考』を放棄させる物だったから。

 

「チト。――――」

 

 故に、ヌコの言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。

 

 チトの無防備な口許に。それが、触れ――――

 

 

 

 

 はっと目を覚まし、チトは体を跳ね起こす。窓の隙間から太陽の光が入ってきているのか、うっすらと部屋は明るくなっていた。眠っていた? いつの間に?

 

「ふぁ、ちーちゃんおはよう」

 

 すぐ近くを見ると、髪の毛をくしゃくしゃにしたユーリが大あくびをして目を覚ましたところだった。おはよう、とチトはやや困惑しながら周囲を見回す。いない。さっきまで自分のいっぱいに広がっていた、銀髪の少女の姿が。

 

「あれ、ヌコ?」

 

 心臓が度きりと跳ね、チトはユーリの方に向き直る。そうしてユーリの目線をたどっていくと……。

 

「ヌイ」

 

 いつもの、白くてもちもちした四足歩行のヌコがいた。

 

「あー、その弾どこから拾ったの? 拾い食いはよくないぞー」

『チャレンジセイシン……ダイジ』

「なるほど……私もチャレンジしてみようかな」

 

 大真面目に拾い食いを考えるユーリ。本当なら一言二言突っ込みをいれたいチトであったが、寝起きかつ衝撃的な光景が脳裏に焼き付いた今の状態では何も言葉を発することができなかった。

 

 いや、それよりもだ。

 

 あれは夢だったのだろうか。人の姿になっていたヌコに詰め寄られ、『チトが欲しい』と言われた。それは一体何を意味しているのか、真意を聞く前に目が覚めた今となっては、何もわからない。

 

 いくらか深呼吸をして、チトは脳に酸素を送り込む。よしいいぞ、落ち着いてきた。ユーリがもとに戻ったヌコを見て何も反応しないと言うことは、ヌコが人間になったことそのものが夢だったのだろう。面白いことがあればうるさくなるユーリが静かならば、それが何よりの証明なのだ。

 

 だから。

 

「あれ。てかヌコさ、もとに戻ってるじゃん」

 

 証明であってほしかった。

 

『イチヤカギリノ……ユメダッタ』

「夢は覚めてこそなんぼだよー、おいで」

『ヌイー』

 

 よしよしと撫でてやるユーリ。ヌコは心地良さそうに目を細める。そんなじゃれあう二人を、チトは見ることが出来ない。

 

 指を唇に当てる。自分の指が当たる感触がした。だがなんだろう。

 

 指以外の何かが、唇に触れたこの感触は。

 

 チトの疑問は、解決されることはなかった。

 

 正確に言えば。

 

 解決したくない。考えたくなかった。というのが正解だった。

 

 

 

 

 



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年越しの約束

年末に一時間位で書きました


 

 

 

 大晦日。日付で言えば12月31日。このひになると世間のほとんどが大事な家族や恋人、友人たちと一つ屋根の下で過ごす日。私とユーリももちろんその中の一組で、一緒に生活をはじめて最初の年越しを迎えることになった。

 

「今年の紅白すごいね」

「ああ。なんか演出が凝ってる」

「噂のボーカルロボット出てたね。あれが出たのって私たちが小学校くらいの時だっけ」

「そうだな。小説とかめっちゃブームだった」

「ちーちゃんもはまってたよね。なんか言ってたよね、『さぁ膝間付きなさい!』って」

「やめろ」

「あとなんだっけ、やたらめったらフード付きのパーカーとか被ってたよね」

「ファッションだ。いいだろ別に」

「まだその時の写メあるよ」

「今すぐ消せ。そして一年の振り返りをしろ」

「えー、なんでもいいじゃん」

 

 そういいながらユーリはビールを手に取り、ごくごくと喉をならす。私は適当な摘まみを口に入れる。どこからか除夜の鐘の音が聞こえてきた。

 

「まず単位の取り方をしっかり理解してなかったのが問題だ。お前私が指摘しなかったら必修科目とれずに留年確定するところだったぞ」

「いやー、競技の方が楽しくて」

「実力があるのは認めるが、勉学を補ってこその世界選手だろうが」

「あれはあれ、それはそれ。あ、これ面白そうな映画のやつじゃん。ほら、眼鏡かけて記憶を失った男が崩壊した世界を旅していくやつ」

「話をそらして逃げようたってそうはいかないぞ」

「ちぇ、だめかー。過去のこと振り替えったって何にもならによー」

「過去を間なんで未来にいかすって言葉をお前に教えてやるから100万よこせ」

「分割でお願い」

「一括のみだ」

「あーん」

 

 いいじゃんいいじゃん、今日くらい許してよー。そういいながらユーは私の肩にこつんと頭を乗せる。犬めが。そう思いながら私は無防備な頭をよしよしと撫でてやり、ついでにうなじに人差し指を押し込んでやった。

 

「いやんお腹壊す」

「大食いのお前にはぴったりだろうよ」

「でもそんなに太ってないし」

「その胸の脂肪、いくら増えた?」

「ワンカップ上がりました」

 

 えっへん、どうだと胸を張るユーリ。セーター越しのその胸元の膨らみは、確かに去年より大きくなったように見える。実際昨日たっぷり揉んだけど、なんかいつもより深く指が入った気がした。

 

「……ふんぬっ!」

「いだだだだ!!!」

 

 でも、なんか腹が立ったので、思いきり握ってやった。

 

「ひぃー、ちーちゃんいつもはもっと優しく揉んでくれるのに」

「今は許さん。私にも寄越せ」

「ちーちゃんのは今くらいがちょうどいいよー。ちっぱいちっぱい」

 

 ぐりぐりと私の胸板に顔を押し込むユーリ。このやろう殴るぞと思ったけど、心底嬉しそうな顔で私の胸に顔を埋めてくるのだからそんな気も失せてしまう。仕方がないから今度は親指でうなじを押し込んでやった。

 

「ひぎぃ!」

「これで勘弁してやる」

「お腹壊してお節食べれなかったら恨んでやる」

「恨めるもんなら恨んでみろ」

「無理! ちーちゃんすき!」

 

 ぎゅう、と抱きつくユーリ。あーもう、わかったわかった。かわいい大型犬は構うのが大変だ。私にすりすりと頬擦りしながら、ふりふりと振っているユーリのお尻に何となく犬の尻尾を乗せてみる。うん、似合う。

 

「ねー、ちーちゃんは今年どんな一年だった?」

「んー、私かぁ」

 

 少し考えてみて、ちょっと色々ありすぎたから整理も兼ねて甘いチューハイを飲む。糖分を補給して再度思考。ああ、本当に今年一年は色々あった。

 

「色々だな。新しい出会いとかたくさん増えたし、新しい世界も見えるようになった。ユーと一緒に生活する上で必要なことをまなんで、時には距離が必要なことも覚えて、頑張ろうとして、それでも喧嘩とかすることはあった。意地っ張りなのは私の悪いところだな」

「おー、ちーちゃんが真面目な話してる」

「いつだって真面目だ、ばか。まぁそれで私の悪いところも見えてくるようになったわけで嫌気が指すこともあったけど、お前はそれを受け入れてくれた。なら私にもできるはずだと思って、一歩一歩進むようにしたかな」

 

 私はそこで一区切りつけてチューハイを口に入れる。ん? なんかユーが静かだな。そう思いながら見てみると、お酒のせいか暑いのか、ちょっと頬を赤くしたユーがアホ毛をみょんみょん動かしていた。

 

「へ、えへへ……やっぱちーちゃんすごいね。何だかんだで私のこと考えてくれてる」

「当たり前だろ。じゃなきゃ同棲なんてとっくにやめてる」

「頑張って色々考えるちーちゃんほんとすき」

「ああ。私も大好きだよ。だから卒業したらお前と結婚するって決めたから」

「おお、そっか! それはいいね!」

 

 飲むぞー! とユーは新しくビールの缶を開ける。ったく、結構な数買ったのにもう6本めだ。そのアルコールと水分が一向に腹に蓄積されていかないのが不思議でならない。

 

 ぐいぐいぐいと結構な勢いでビールを煽るユー。テレビではそろそろカウントダウンが始まろうとしていて、除夜の鐘もいよいよ佳境を迎えていた。

 

「……あれ」

 

 そこでようやくユーリははっとしたように聞いてきた。

 

「ちーちゃん、今さっき結婚って言った?」

「おせぇよ。言ったよ。スルーされたかと思って傷ついたぞ」

「うえうえうえ!?」

「吐くなよ」

「吐かないよ! え、でも、ちーちゃん、まじ?」

「まじだよ。嘘でこんなこと言えるか」

「え、でも、ほら! 私たちまだ学生だし、日本じゃ同姓の結婚ってできないし!」

 

 わたわたとするユー。なんだすごい珍しいものを見ているな、私。どうせなら動画を撮っておきたかった。

 

「卒業してからって言っただろ。どんだけ人の話聞いてないんだ」

「いやでも、ほら、ビックリするじゃん!?」

「ビックリさせたかった。もちろん、本気で言ってる」

 

 私はじっとユーの青い瞳を見つめる。驚きに満ちた瞳が珍しく全開で開かれてる。私しか見れない、ユーの本当の瞳。宇宙のように、広く、海のように深い深い碧瞳には私しか映っていない。

 

「その……えっと、私で、いいの?」

「お前じゃなきゃ嫌だ」

「ほら、私いつもちーちゃんに迷惑かければかりで、がさつだし、ヘラヘラしてるし危機感ないし、単位だって危なかったし」

「何回でも助ける」

「でも同姓で結婚するなら、カナダとか、台湾とかにいかないと!」

「英語の授業習得してる。お前より話せる自信ある」

「ほらでも、子供とかほしくないの? 私女だし」

「ユー」

 

 私の何気ないその声は、今のユーを黙らせるには完璧なトーンだったらしい。ユーはそのまま時間が止まったように停止し、ポカンと開いた口をゆっくりと閉じる。

 

「言っただろ。今年一年を振り返ったって。いや、今年だけじゃない。今の今まで、お前といた時間すべてを振り返った上でお前に言ってる。私はお前がいい、ユーリ、お前と一緒にいたい。ずっとずっと。だから約束してくれ。卒業したら引っ越そう。そこで結婚しよう」

 

 除夜の鐘が部屋に響く。時計の針の音とテレビの音が部屋を包む。でも、私たちにそれは聞こえない。同じ空間にある意識がまるで一つになっていくような気分だ。実際、私たちの付き合いはそれに近しいだろう。

 でも、当たり前になりつつあるこの関係が尊く、儚いものだと言うことを忘れないためにも、なにかしらの証は必要だ。私がこの一年考え、行き着いた答え。いずれどんな道をたどってもたどり着いたであろうその答え。ようやく口にすることができた。

 

 まぁ、ちょっと早い気もしたけど。まぁいいだろう。

 

「……いい、の?」

「何度も言わないからな。指輪はその時改めてお前に渡す。だから約束してくれ」

 

 時計の針が0を示す。年が明けたその瞬間、私はこの言葉で私たちの時を止める。

 

「ユーリ。私と結婚してくれ」

 

 ユーリは固まったままだった。やがてじわじわと目元に涙を浮かべ、鼻を啜る。それでぐしゃぐしゃになりそうな笑顔で意地を張ったように言った。

 

「へ、へへ……私だって、同じこと言おうと思ってたし」

「そっか。嬉しい」

 

 私はにこりと笑みを浮かべる。ユーリがどうにか笑おうと唇をつり上げるが、震えてそれすらもままならないようだった。何回か息継ぎして、言葉を出そうとして、しかしそれが出てこない。嗚咽がよりいっそう大きくなってきていた。あーあ、きれいな顔が台無しだよ。

 

「ちーちゃんのっ……せいじゃん」

「そっか。じゃあ責任とるさ」

 

 そう言って私はユーリが爆発する前にそっと抱き寄せ、私の胸に押し込んでやる。ユーはぎゅう、と私の服の裾を掴み、さっきよりも力強く私に顔を擦り付けてくる。まったく、ばかなやつめ。

 

 私は知っている。ユーは、私に迷惑をかけていることを自覚している。それを少なくしようと努力しようとしていることも知っている。でもどうしても粗が出る。だからこの先ずっと一緒にはいれないのかもしれないと、そう思っていたのだろう。

 

 なんだよ。過去を振り返ることできてるじゃないか。私は下手な笑い声よりも、嗚咽の方が大きくなってしまった片割れの頭を、そっと優しく、ずっとずっと撫でてやった。

 

 

 

 

 了



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初恋

少女終末旅行合同誌②「軌跡」にて寄稿した作品です


 夜。耳と頭のなかをいっぱいに包んでいたユーの声が収まっていく。シーツがくしゃくしゃになったベッドの上、大雑把に体を覆う布団。枕を並べている私達は、少し虚ろな目でお互いを見つめて汗ばむ手を握り、口づけを交わす。じっとりと汗が額を覆っていたが、荒かった息が収まっていき、それと同時に私たちの体は心地よい疲労感に、頭は幸せで満たされていた。

「ユー……愛してるよ」

「私も……ちーちゃんのこと、だいすき」

 空いていた右手でユーの頬を撫でると、甘える大型犬のようにユーは目を細める。

 窓の隙間から柔らかい月明かり差し込み、彼女の美しい金髪を照らす。光が透き通ったユーの髪の毛が美しくて、つい触れてしまう。少し手が耳に当たったのか、ユーは小さく声を漏らす。

「かわいいよ」

「ん、ちーちゃんったら……」

 そう言ってユーは物欲しそうに唇を閉じる。欲しがりだな。私はもう一度その柔らかい唇を塞ぎ、手を後ろに回す。ぎゅう、と抱き締めて、目一杯近い愛しい人の顔を堪能する。

「ユーの全部、私のものだぞ」

「へへ……ちーちゃんのものにされちゃった」

「お前のはじめて全部私のものにしてやった。本当に幸せだよ」

 額をこつん、と当てて私はそう言う。しかし、ユーの体がほんの一瞬凍りつくのを私は見逃さなかった。顔を離して愛しい人の顔を見てみると、私が感づいたことを察知したのか、ユーの目が泳いで声が漏れる。

「っあ……」

「どうした、何かあった?」

「な、なんでも……ないけど……」

 ささやかな抵抗だろう。自分がもう誤魔化せないくらいにボロを出したことは、ユーが一番理解しているはず。そして私がそれを見逃さないこともだ。

「無理なら言わなくていいぞ」

 これは本音。恋人同士でもあまり知られたくないことだってあるし、それなら触れないほうが良い。多少の隠し事があっても、ユーの愛情が本物だということを私は理解している。だからここで彼女が言わなかったとしても、明日からはいつもどおりな日常が始まるのだ。

「…………その、私さ。初めて恋した人って」

 だが、私の予想に反してユーは語りだした。少し意外だったので、私はそのまま黙って聞いてみる。

「……私、ちーちゃんが初恋じゃ、ないんだよね」

 と、さらに意外なことを言われた。

「私じゃなかったのか。いつのときだ?」

「小学校の、本当に小さい時くらい。ちーちゃんと出会う直前だったかな」

「なんだ、そのくらいの歳なら誰だって恋みたいなものはするだろ」

「恋だけじゃなくて……その、きす、も……」

 ぎゅう、とユーが私の手を握りしめる。怒らないで、離さないで。そんな彼女の怯えが伝わってくる。

「黙ってて……ごめん」

 目に涙を浮かべ、ユーは言った。たぶん、いつ言うべきか、ずっと悩んでいたんだ。言ってしまえば私達の関係に亀裂が入ってしまうのではないかと、そう思っていたに違いない。

 

 可哀想に、そんな思いを常日頃抱いて私と過ごしていたのかと思うと、少しばかり胸が痛くなる。その一方でお前はバカか、と私は言いたくなる。いや言っておこう。

 

「バカ。そんな程度で私がお前のこと嫌いになるなんて、あるわけないだろ」

 そっと私はユーの目元に溜まっていた涙を拭き取る。彼女の表情が柔らかくなった気がした。

「子供のときの初恋もそりゃ結構だ。でも私たちは今繋がってるんだ。刹那主義のお前が昔のことを気にするなんて、似合わないぞ」

「ちーちゃん……」

「私はいつのお前も愛してるぞ。よく正直に話してくれたな、偉いぞ」

 ユーリの頭をそっと撫でる。またこいつは目を細め、安心しきった顔で身を委ねる。ああもう、かわいいな。我慢できなくて私はその額にそっと口づけをする。

「なぁ、ユー。せっかくだからさ、お前の初恋の話聞かせてくれよ」

「え、いいけど……あんまり覚えてないところもあるよ」

「お前の記憶力なんて最初から当てにしてないさ。ちょっと興味あるから、大雑把でも良いから聞かせてくれよ」

「さり気なく酷いこと言われた気がするけど……ちーちゃんがそういうなら」

 ユーはゆっくりと語り始めてくれた。

 

 それは、ユーが夏休みの初日に日本に引っ越してきた時だったそうだ。

 

 

 

 

 故郷を離れ、日本にやって来た最初の日。引っ越しをしていた。といってもお金持ちの家のお嬢様なユーの一家だったから、引っ越しは業者や使用人がやっていたので、一人でつまらなくなり、ふらふらと公園へとやってきたそうだ。

「あつい……」

 不慣れな湿度、そして高温。日本特有の暑さは、比較的温度の低い地域で育ったユーにはひたすら過酷だった。一応親御さんの考慮で薄めのワンピースを着ていたが、それでも暑いものは暑かった。

 

 いつものユーだったら、あちこち探検に出かけるなりしただろう。でも、この日は猛暑日で、ユーリはあっという間にヘロヘロになり、持ち前の冒険心はあっという間に溶けて消え、木陰に座り込んでしまった。

 

 湿度を含んだ暑さは容赦なくユーを蝕んでいく。加えて、全く知らない異国の地でひとりぼっちになれば、恐怖の格好の餌食だった。早くもユーは生まれ故郷に帰りたいと強く思い、うずくまってしまう。

「どうしたの?」

 そんな時にだ。ユーにとっての運命の人が、声をかけてきたのだ。

 

 

 

 

「わー、すごい。お姫さまみたいだ。お前どこから来たんだ?」

「え、っと」

 

 ユーは少しばかり困惑しながらも、自分の母国語で答える。しかし向こうは日本語以外の言葉で、はてなと表情が曇る。ユーは失敗してしまっただろうかと不安になる。

 

 しかし、向こうは異国の地から来たお人形さんという更にファンタジーな存在にさらに興味が湧いたようだった。

「外国の人なんだ! どこから来たんだ、言葉はわかる?」

「えっと……えっと……」

「あー、言葉わからないかな。わ、お前汗びっしょりじゃないか」

 ハンカチを取り出して、ピッタリくっついた前髪をゴシゴシと拭いてやる。最初ユーは驚いた顔をしていたが、自分は少なくとも親切を受けているのだと理解はできたのか、少しずつ不安は和らいでいった。

 

 

 

 

 ユーは小川に連れて行かれて、橋の下で足だけ川に浸かって涼んでいた。日陰の存在はありがたく、水辺もあるからずっと外にいるよりかはマシだった。連れてきた子は、手で「待ってて」のサインを取ると、一旦その場から離れた。ユーはとりあえず涼むことに専念していた。

 

 しかし、ユーにとってここは異国の地。親切にしてくれる人と出会ったとしても、一人にされればそうなるのも無理はない。

 

 探しに行くか、留まるか迷った。けど、バイバイという雰囲気でもなかったし、異国の子供を信じて待つことにした。

「おまたせ! ちょっと探すの苦労して……わ、ちょっと!」

 だから、戻ってきてくれたことが心底嬉しくて思わず抱きついてしまう。

 

 ただ、抱きつかれた方は戸惑うのが当然だ。ただ、えぐえぐと泣いているお姫様を見て、きっと寂しかったのだろうと子供ながらに察した。

「ひっく、うっぐ……」

「あー……ごめん。寂しかったのか?」

 と聞かれるも、ユーは言葉が出せなかった。それ以前に言葉が理解できなかったのだから同しようもないのだが、ひとまずよしよしと頭を撫でてやることにする。その甲斐あってか、ユーの嗚咽は少しずつ減っていった。

 

「そのー、とりあえずさ。お茶いる?」

 あまり泣いてばかりいられても困るので、水筒を差し出すことにした。

 

 

 

 

「んー、あの麦茶は格別だった」

「暑い日の麦茶は格別だからな。お前は本当に美味しそうに飲むもんな」

「事実美味いので」

「それで、そのあとは何したんだ?」

「人生初の川遊びを経験した」

「田舎の町で男子に混じって橋から川に飛び込んでいるであろう女ランキング殿堂入りのお前に初めてがあったとはな」

「誰だって初めてなんてあるよー」

 ぷすー、と頬をふくらませるユー。私はそのほっぺを指で押し込み、口から空気を抜く。

「まったく、わんぱくユーリの始まりを見てしまった気分だ」

「今の私があるのはきっとその子のおかげかも知れないんだ。殻にヒビを入れてくれたっていうのかな。でも引きずり出してくれたのはちーちゃん、って感じ。だからか、どうかはわからないけど」

 

 少しだけ目をそらし、ユーは少し重そうに口を開く。

 

「その、いろいろと嬉しくて……そのときにはもう、好きだったのかもしれない」

 ぎゅ、とユーリが手を握る。たぶん「今好きなのは本当にちーちゃんだよ」って言いたいんだと思う。私は手を強めに握り返して、微笑む。ユーリの顔の緊張がほぐれるのが分かった。

 

「ほら。気にしないでお前の初恋の続きを教えてくれよ」

「ん……っと。そう、その日はそれで終わりってことになって……」

 

 

 

 

 日もすっかり傾き、涼しくなった川辺を歩いて出会った公園に二人は戻った。はじめての事づくしで楽しかったユーリは、ニコニコと釣ったザリガニを見つめていた。と。

「そろそろ5時になるなー」

「?」

 ユーリは何を言ってるのか理解できなかった。しかし、近くにあった時計を指さされ、手をバイバイと振られてすぐに理解する。帰らないといけないのだと。

「え……で、も……」

 また一人になるのかもしれないという寂しさから、ユーリは思わず手を握ってしまう。そんな彼女の寂しさは、手の震えと表情で簡単に汲み取れた。今にも泣き叫びそうなユーリの顔。しかしうろたえはしない。

「大丈夫だよ、また明日ここで会おうよ」

「あ……シタ?」

 えーっと、どう説明しようと考え、近くにあった棒を手に取る。それから地面に今日の日付を書いて、その次の日の日付を書く。

「これが、『今日』だよ」

「キョ……う?」

「そうそう。で、こっちが『明日』ね」

「ア……した」

「明日、ここで会おうよ」

 明日の日付を指差し、次に公園の地面を指差す。その動作でユーリはまた明日遊ぼうという意味を理解した。

「あ……した!」

「そう、明日ここで!」

「あした! あした、ココ!」

「うんそう!」

「うん、うん!」

 ユーリはまた会えることが嬉しくて笑顔で飛び跳ねる。明日、また楽しいことが待っている。それを思うだけで二人は楽しくて仕方なかった。

「また明日ね」

「マた、アシタ!」

 大きく手を振って二人は公園を後にする。ユーリは少しだけ寂しかったが、もう一度「またあした」という言葉を呟いてニッコリと笑みを浮かべる。今日は早く帰ってご飯を食べて、すぐに寝よう。そう決めるとユーリは大急ぎで家に帰っていった。

 

 

 

 

 そこまでで話を終えたユーはほうと息をつくと、少しばかり切なそうな顔で目を泳がせる。カチコチと時計の針の音が耳に届いて、次にもぞりとユーが布団の中で動く音。そのまま私の胸板に頭を押し込む。私は何も言わず、月と同じ色をした美しい髪の毛を撫でる。

「お前も結構甘酸っぱい恋してたんだな」

「まぁね。ていうか、ちーちゃん結構冷静だね」

「ルックスのいいお前のことだ、そういうことが一つ二つあってもおかしくないだろうよ。それに」

 ユーの顎に指を乗せ、くいと顔を持ち上げると額をくっつける。眼の前に驚いたユーの目、かわいいな。

「私はな、『今しか欲しくない』んだよ」

 

 あっ。といいそうなユーの口元。その返事を待たずに私は彼女の唇を塞ぐ。暖かくて、ふわりとした唇は、私よりもずっと大きくて強そうなイメージとは裏腹に、子犬のように繊細だった。

「ちーちゃん……」

「だからお前の過去に何があろうと私は気にしないよ。だからこそ知りたい。お前が隠していたもの全部」

 するりとユーの首筋に手を伸ばし、髪の毛をかきあげる。親指で耳をつー、と撫でて、甘い息が漏れる。ほーら、早く聞かせろよ。指で唇をなぞり、その中に侵入する。ユーはそれを受け入れて、ぬろりと指を舐める。少しくすぐったいけど、面白い。もう少しだけ遊んでみたかったが、続きを聞くために指を抜く

「……いじわる」

 まんざらでもない顔で、ユーはそういった。

 

 

 

 

 次の日。昨日と同じく暑い日だったが、その日のユーは一味違っていた。

 

 友だちができたと親に話したユーは、それはもう喜ばれた。異国の地で友だちができるかと心配していた娘からそんな報告を聞かされたら嬉しいに決まっている。

 なら暑い日でも大丈夫なようにと麦わら帽子と更に薄めのワンピース、水筒と暑さ対策に必要なものを用意され、「少ないが持っておきなさいと」お小遣いも渡された。

 

 そうして意気揚々と公園にたどり着くユー。時間はお昼を過ぎた頃。ワクワクとしながらユーは公園で待ち合わせる。

 

「おーい」

 と、こちらに向かってくる声。入口を見ると昨日の子が手を振りながらこっちに来ていた。

 

 よかった、来てくれた! ユーは満面の笑みを浮かべ、手を大きく振って駆け寄ると、覚えたばかりの言葉で挨拶をする。

「こ、コンにちは」

「おおー、日本語。上手じゃん。えーっと、ぐっどぐっど」

「ほ、ほんと?」

「えーっと、いえすいえす。あいむ、いんぐりっしゅ、りとる、すたでぃ」

 

 と、子どもがどうにか覚えられる範囲の英語で意思疎通を図る。幸いユーもほんの少しだけ英語がわかったから、お互いどうにか気持ちや言葉が伝えられるようになった。

「あ、これもあるぞ!」

 取り出したのはポケットに入るくらいの英単語辞書。小学生でもわかりやすく書かれているタイプだ。辞書を開き、伝えたい単語を探して

意思疎通を図る。

「きょうは、おかし、いくよ」

「おかし? たべる?」

「そうそう。いこう」

 

 

 

 

「ほらおぼえてる? イシイ商店」

「ああ、私達の小学校の憩いの場だな。その日の気分次第で閉まるやつ」

「結構適当な頻度で休んでたよねー。あ、思い出した。いしーってわざと間違えて呼ぶと」

「『いしじゃなくてイシイだ』が合言葉だね」

「そうそう、懐かしいな。まだあるかな」

「今度向こうに戻ったら行ってみようか」

 

 

 

 

「おーい、いしー!」

「いしじゃなくてイシイだ」

 と、店の奥からメガネを掛けた女性、イシイ商店店長のイシイが現れる。

「お、なんだ綺麗な子を連れているじゃないか。友達か?」

「うん。昨日あったよ。でもことばはあまりはなせないんだ」

「そうか。英語とかか?」

「えいご、も話せないかな」

「英語圏以外の子か……ないすてゅーみーてゅー」

「それでもえいごなんだ」

 何やら会話しているようだが、ユーには理解はできなかったようだ。ただ、歓迎はされているようだったので、ペコリと頭を下げて片言の日本語で返事。

「こ、こにちワ」

「おおー。利口じゃないか」

「この子に日本のおかしを食べさせようと思って」

「なるほど。ちょうど再入荷したのもある。好きなのを買うといい」

「イシイがしごとしてる。いつもさぼってるのに」

「お前……本当に小学生か。ふてぶてしさが大人のそれなんだが」

「ならほめるから全部まけて」

「おバカ」

 ケチ。と言い返すが、店主イシイは店の椅子にどっしりと座り込んで気にもとめない素振りで言葉を続ける。

「ま、お友達にいいものを買ってあげるんだな」

「はーい。ねぇねぇ、どれがいいかな?」

 ユーはキョロキョロと店の中を見て回る。自分の住んでいた街には無かった、ごちゃごちゃとした店内はなぜかワクワクしたようで、とりあえず何があるのかを聞いてみることした。

「これは?」

「これは、ちょこ」

「ちょこ! これは?」

「あー……イシイこれなんて言ったらいいんだ?」

「スナックでいいんじゃないか?」

「それだ! これは、すなっく」

「すなっく!」

 どうにかやり取りして、ユーリは欲しいものを決めていく。ユーリの食いしん坊はこの頃から片鱗を見せており、いつの間にか買い物かごがいっぱいになっていた。

「それ全部食べられるのか?」

「すキ、これ! ぜンぶ!」

 満面の笑みを浮かべて言うユーリだが、流石にこの数をごちそうするのは気が引けたのだろう。ひいふうみと財布の中を数えてみる。その様子を見て、ユーリはもしかして結構高いのだろうかと危惧した。

 

 ので、自分が持っていたお金を見せてみた。

 

「これ、おかネ」

「ん? いくら持って……ってええ!?」

 驚愕の声。ユーリはこのお金でも足りないのだろうかと不安に思ったが、どうも反応から察するに違うらしい。友達の持ってる硬貨と、自分の紙幣を見比べる。

 

 0の桁が二つほど多かった。その紙幣が、5枚ほど

「おおいよこれ! こんなにもらったことないのに! イシイこれすごいおかねだよね!?」

「いや子どもが持っていい金額じゃないな。下手なカメラのレンズが買えるぞ」

 と、やり取りする二人。ユーリはなんとなくお金は足りていることが分かったのでひと安心するが、疑問も浮かぶ。

「ぱぱ、これ、すくない、いってた」

「めちゃくちゃおおいぞ、これ……」

「おおい?」

 うんうんと、商店店長と常連チャイルドは揃って頷いた。

 

 

 

 

「そうだ。明日近所でまつりがあるんだけど、一緒に来る?」

 

 駄菓子屋でそこそこにお菓子を買い込んだ二人は、いつもの公園に戻って駄菓子を堪能していた最中だった。

「まツり?」

「えー、えっと、何て言うかな」

 急いで辞書をめくり、お祭りの英単語を探す。

「えっと、まつり、まつり……あった、ふぇすてぃばる、あした、ある。いく?」

「まつり? いく、いく!」

「なら、あした。ゆうがた。6じにここで」

「うん! うれしい、たのしい!」

 また「明日」という言葉が嬉しくて、ユーは覚えたばかりの単語を並べまくって表現する。誰かがはしゃげば伝染するのが子どもなので、二人で飛び跳ねてハイタッチ。

 

 それからは少しでも単語を覚えようとユーは奮闘した。木漏れ日を浴びながらの勉強は、ユーの中で一番楽しかった勉強だと記憶しているそうだ。

 

 そうして迎えた次の日。その日は夜に備えて、ユーはたっぷり昼寝をしての出発だった。お祭りに行くと聞いた親御さんは、やっぱり大金を渡そうとしたが、ユーリは勉強の成果を出し、ゼロを一桁減らした金額を言ってそれだけを貰ってやってきた。

 

 約束の夕方6時。ユーはそわそわしながら公園で待つ。道路を見てみると、祭りだけあってか多くの人が行き交っていた。既に風船や綿菓子を持ってる人も居て、気になっていたようだった。

「おーい、おまたせ!」

 公園の入口から、いつもの黒髪のあの子。ユーリはぱっと笑顔になり、大きく手を振る。

「こに、ちわ!」

「おう。こんにちは。早くいこう、もう始まってるぞ。はぐれるなよ!」

「わ、わ!」

 と、有無を言わさず手を掴まれて、ユーは思わず息を止める。息をしたら、驚いた声が漏れそうだったからだ。

 

 もし、その声を出したら気を使って向こうはてを離してしまうかもしれない。そう思ったユーはぐっと、念入りに唇を塞ぐ。気づくと胸がドキドキしていた。それは息を止めたせいか、それとも手を握られているせいなのか。幼いユーでも、どちらなのかは理解できた。

 

 人混みをかき分け、歩くこと数分。人の数は多くなり、ユーは手を強く握る。すると、ユーの不安を感じ取ったのか、ぎゅ、と握り返される。

 

 すると、ユーの鼻になにやら美味しそうな匂いが届く。お腹が空き始める夕方ぐらいに来たものだから、あっという間にお腹の虫が鳴き始める。

「ほら、ついたぞ」

 周囲を見回すと、広い場所に出たのか人混みが一気に晴れていく。その先にはずらりと立ち並ぶ屋台。食べ物の屋台、くじ引き、スーパーボール。お祭りには欠かせない出店が二人を迎えた。

「どれからやる?」

 と聞かれるが、ユーの頭にその言葉は入ってこなかった。当然だろう。目に飛び込むのは屋台で作られている食べ物の数々。鉄板の上で踊るように作られる焼きそば、くるくると手際よくひっくり返され、美味しそうな焦げ目を見せるたこ焼き。揚げたてほやほやのフライドポテト、唐揚げ。

 

 ユーの食いしん坊スイッチが全開になるに、そう時間はかからなかった。

「どうしたんだ? おなか空いたのか?」

「あれ、たべたい」

 ユーは指差す。その先には焼きそば。

「あそこがいいのか?」

「ううん」

 首を振ったユーリは、片端から食べたいものを指差す。一つ二つでは足りない、というか食べ物の屋台ほぼ全てに指さした。

「えっと……良いんだけどさ、おかねたりる?」

「あ」

 財布を指さすと、ユーは顔色を変える。持ってきた金額は以前よりも桁の少ない青っぽい紙幣。残念ながら全てを堪能することはできそうにない。

「一個か二個にしたほうが良いぞ」

「うぅ……」

 その後のことは簡単に想像できるだろう。子供ながらもユーは食に対して徹底的に悩み、空腹を訴える胃袋との相談は長期に渡って繰り広げられた。そうして選びぬいた焼きそばと唐揚げの味は格別だった。

 

「おまえ、けっこう食いしん坊だな」

「もぐもぐ、もぐもぐ。いい、いい!」

「そういうときは、『うまい』って言うんだぞ」

「うまい? ウマイ、うまい! ウマイので、もっとたべたい!」

「どっから覚えたんだ……?」

 と、食べながら歩くユーは、あるものを見て立ち止まる。その視線の先には射的屋。そのなかで並べられている景品を見つめていた。

「どうした?」

「あれ」

 ユーが指差す先には白くて細長い、よくわからない生き物を模したぬいぐるみが置かれていた。

「あれがほしいのか?」

 こくり、とユーは頷く。見たところ、ぬいぐるみ本体ではなく、横にある小さい箱を落とせばいいらしい。

「よし、やってみるか!」

 言うが早いと、二人で店主に数百円ほど払い、コルクの弾と小さなライフル銃をもらう。ユーが見守る中、弾を込めて狙いを定める。

「見てろよー、おりゃ!」

 ぱんっ! と音を立ててコルクの弾が飛ぶ。しかしその狙いは右に逸れてはずれ。なんだまっすぐ飛ばないじゃないか。ムッとしながら二発目を装填する。またはずれ。

「なんだよこれー、あたんないぞ」

 ムカムカしながら一発、また一発と撃ってみるも全てはずれ。最後の一発になってしまう。

「あー……むりだよこれ」

 引き金を引く直前の期待から、一気に絶望へ。子供特有の無力感を祖のみで体感するはめになった。そんな様子を見て、ユーはちょいちょいと指で突く。

「え、やりたいの?」

「うん!」

「むずかしいぞ?」

「うん!」

 大丈夫かなぁ。そんな風に思いながら銃を渡す。ユーはにこにこしながら手を伸ばし、引き金を引く。ぱんっ、と空気の音。ぱたりと箱が倒れる小さな音。

「やった!」

「あ、あたった!?」

 ユーの放ったコルク弾は、見事ぬいぐるみ用の的を撃ち抜いた。店主が鐘を鳴らし、おめでとうと言いながら謎の白い生き物のぬいぐるみをユーに渡す。

「やった、やった! もちもち、もちもち!」

「おまえすごいな……でも取れてよかったな」

「うん!」

 ユーは、心底嬉しそうに白くて長い、謎の生き物のぬいぐるみを抱きしめ続けた。

 

 

 

 

「お前の射撃の才能はそんなところから来ていたのか」

「きっとあれが開花の瞬間だったのかもしれない……」

「今じゃクレー射撃オリンピック候補だもんな」

「世界記録塗り替えてやるぜ」

「っていうか、そのぬいぐるみお前の部屋のベッドに置いているあれか」

「うん。大事な思い出だからね。あれ抱っこしてると気持ちよく寝れる」

「私とどっちが良いんだ?」

「うー……ちー、ちゃん」

「いい子だ」

 

 

 

 

 屋台を一周、二週と歩いた二人は、少しばかり祭りの会場から離れた茂みの中のベンチで一休みしていた。ユーの胃袋には、徹底的に吟味した屋台の食べ物が詰め込まれ、加えて最後のお小遣いでりんご飴、そしてぬいぐるみを抱え込み、これでもかというくらい祭りを堪能していた。

「楽しかったなー。それにお腹もいっぱいだし、そいつも取れたし」

「もちもち!」

「ほんと、触り心地良いな」

 ユーがぬいぐるみを抱きしめ、えへへと笑った。ちょうどその時だ。

 

 どん! と大きな音。ユーリは思わず体が飛び跳ねたが、目の前が突然眩しくなって夜空を見上げる。その先に、光り輝く一瞬の花。

「わぁ……」

 そう、お祭り恒例の花火大会だ。

「きれい……」

 ユーは、その時初めて花火を見たそうだ。笛のような音が聞こえたと思ったら、次の瞬間空いっぱいに美しい花が広がる。ずっとずっと見ていたいと心底思う。だが、それは一瞬で消えてしまい、そのたびにユーリの心はちょっとだけ寂しくなる。

「どした?」

「えっ」

 気づけば、ユーリは手を握ってきていた。あまりにも自然で、あまりにも無意識で、ユーリ自身も気づかないその動作。思わず恥ずかしくなって手をどけようとしたが。

「手、あったかいね」

 そう言われながら、ユーの指に初恋の人の指が絡まる。今思えば相当ませていたと思う。でも、初恋というものは意外と早くやって来るものである。少なくとも、ユーの中で恋心はすでに形になっていた。

「たのしかった?」

「う、うん」

 どくん、どくん。ドキドキする。自分を見つめる、黒い瞳に花火が映る。まるで夜空のようにきれいな瞳だ。

「またさ、遊びに行こうな」

「うん……えと、その」

「どうした?」

「あ、りがとう」

「どういたしまして」

 満面の笑みで、その人は答える。ユーは胸がいっぱいだった。この人のおかげで、色々なものに触れたし、知れた。そして何よりも一人で怖かった自分に光をくれたその人が、愛しい気がしてならなかった。

 

 いくらありがとうと言っても足りない。なら何で表現すれば良いのだろう。何かをあげる、ごちそうする。しかし子供であるユーにそれはできなかった。

 

 なら。自分があげられるものは唯一つ。

 

 ゴクリと喉を鳴らす。申し訳程度の知識ではあるが、ユーは精一杯の気持ちを込めて。

 

 小さな唇を、そっと差し出した。

 

 

 

 

「ここまで、かな」

「ここまで? 続きはないのか?」

「……まぁ、あれだよ。その日を境に、その子は居なくなっちゃった。用事があったのか、実は夏の間だけ来ていた子なのか、わかんないけど……お互い名前も言わなかったしで、また会うことはなかったよ」

「そうか」

「でも、今はもうちーちゃんしか欲しくないの。これは本当。だから……ちーちゃんが、一番だから」

「信じてるよ、安心しろ。お前は本当に怖がりだな」

 私はユーの額に軽く口付け、頭を更に優しく撫でてやる。それが心地いいのか、ユーは目をとろりとさせて蚊の鳴くような声で私を呼ぶ。

「ちーちゃん……」

「愛してる」

 そう言って私はいっそう強く抱きしめる。ユーの体の強張りが消えていく。そう、それでいい。お前はよく吐き出してくれたな。

 私はユーの寝息が聞こえるまで、精一杯彼女のことを思いつつ、その丸っこい頭を撫で回してやろうと決意する。疲れもあったのか、ユーの頭をしばし撫でていると、すーすーと寝息が聞こえてきた。撫でたら安心する、まるで『あの時』と同じで思わず苦笑いしてしまった。

 

 そう、『あの時』。私が小さい頃の夏休み。髪の毛をバッサリ切ってもらった私は、公園にでかけてうずくまっているお姫様に出会ったんだ。その子は不安げな表情で私を見つめ、驚いて、汗びっしょりで。私は今まで出会ったことのないそいつに興味を持ったんだ。

 

 思えば、あれは一目惚れだったのかも知れない。確信はないけど、でも間違いなく要素の一つであることは確かだ。

 

 疲れはててしまったお姫様はとてもかわいそうだった。私は急いで川に連れて行って、美味しいお茶でおもてなしをしてあげた。

 

 怖いこと、寂しいことがあると見せるその不安げな表情はどの時から変わっていない。

 

 そんな顔よりも、笑顔の方がいいに決まっている。だから私はあのとき『また明日』という言葉を教えたのだ。

 

 楽しかったよ。たどたどしい言葉でも、お互いの意志が通じ合うのは。

 

 楽しかったよ。二人であちこちいって、身ぶり手振りでお互いを知るのは。

 

 まぁ、お祭りの次の日にお盆休みに入って家族で出かけなきゃいけなかったのは不運だったけど。でもあの辺りに住んでいれば小学校は同じだろうと察しはしていた。

 

 そうして迎えた新学期。伸びた髪の毛をお下げにしながら教室に座っていると、そのお姫様は私のクラスに現れた。

 

 一人ぼっちで公園にうずくまっていた、あのときと同じ表情で。

 

 私は思わず声をかけたさ。

 

 でも、「おまえ」はキョトンとしていた。どうして覚えてくれなかったんだろうとがっかりもした。

 

 今思えば子供の頃の記憶力なんて、まぁそんな物なのだろう。ましてや忘却の達人のユーリならば尚更だ。あんなに教えた言葉もすっかり忘れていて、何もかもがリセットされてしまっていた。

 

 また、一人ぼっちになってしまったがために、寂しさに押しつぶされそうな自分を守るためだけに頭を使ったのだろう。

 

 なら最初からやり直そう。まずは改めて友達になればいい。だから私はお前とずっと一緒にいることを目指した。

 

 あの素敵なお姫様の一番近くに居たいから。誰よりも誰よりもお前のことを気にかけた。

 

 私自身の、初恋を実らせるために。

 

 そして、それは実った。今腕の中で幸せそうに眠っているユーリと言うお姫様が確かな証なのだ。

 

 私の初恋を告げたとき、お姫様はどんな顔をするんだろうか。実を言うと、今から楽しみで仕方がない。本当なら今言いたいくらいだ。でも、それはもう少し。初恋の人から、『家族』になるときに私の全てを明かそう。

 

 そうとも知らずに私の胸のなかで眠るお姫様を見つめながら、私は驚いた顔をする愛しいユーリを想像し、ゆっくりと睡魔の海に身を投じていった。

 

 

 

 

 了



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最高の味付け

バレンタインに投稿しようと思ってたのに4月に放り投げた、ただベロチューをしたかっただけの作品


「ちーちゃんチョコちょーだい!」

「ほらよ」

「早い」

 

 さて、今年もついにやってきた2月14日。本当ならセント・バレンタインが惨殺された日だけれども、日本のお菓子企業がチョコを好きな人にあげて告白すると言う陰謀に変えられてしまった日(チトペディアより)、つまりはバレンタインだ。

 うきうきしながらバイトから帰って、家で待っていてくれたちーちゃんに秒でチョコのおねだりすると、これまた秒で返された。たぶん、史上最速。

 

 きっと気合いを入れて作ったに違いない。なぜなら去年もらったチョコは包装こそ丁寧でまるでお店に売っているかのようなものだったけど、中身はまるで爆撃されたかのようなチョコレートが出てきて大爆笑した。もちろんちーちゃんは怒っちゃった。

 

 で、今年はすごい頑張って作ると言っていたので、期待に胸を膨らませながらちーちゃんの家へとやってきた。受け取って中を開けてみると、なんと梱包の出来に負けないクオリティのチョコレート。ちーちゃんの成長が嬉しくて思わず泣きそうになっちゃう。

 

「泣くほどでもないだろ」

「ちーちゃん……こんなに上手くなっちゃって、お母さん嬉しい!」

「いつお前はお母さんになったんだか」

「食べていい食べていい? てか貰ったんだから食べていいよね!」

 

 そう言って私は一粒一粒丁寧に包装されたチョコを手に取る。おお、これ生チョコだ……こっちは小洒落たハート型に、何やらキラキラしたチョコをまぶしている。もう最高、最の高。これぞ私の嫁ちーちゃん。愛してるぜベイベー。

 

「だめ。まだ食べるな」

 

 するとちーちゃんは私が手に持って今まさに口に入れようとしていた一粒をひょいと取り上げ、私は危うく自分の指を食べそうになってしまう。

 

「えー! ちーちゃん何するの、こんなに美味しそうなのに!」

「こいつは未完成なんだよ」

「え、どこが? めっちゃ完璧に作ってるじゃん。ちーちゃんの涙ぐましい努力が手に取るように分かるよ、愛がたっぷりだよ! だから食べたい!」

「いいから待て。最後の味付けだ」

「味付け?」

 

 なんの? と思った瞬間、ちーちゃんはチョコを自分の口の中に入れる。そんな馬鹿な、私は今目の前でとんでもなく残酷な光景を見せつけられた。例えるなら、巨人を阻むために作った壁が破られ、中に入り込んだ巨人が目の前で家族を食べるような感じ。ひどい、ひどすぎるよちーちゃん。私に対してその行為はもはや宣戦布告に等しい行為だよ。事と場合によっては開戦もあり得るよ?

 

 そう思った瞬間だった。

 

「ユー」

 

 チョコを口に含んだちーちゃんが私を呼んだ、次の瞬間。

 

「ん!?」

 

 突然ちーちゃんが私に体を密着させてきたと思えば、そのまま私の頬を掴んでやや強引に引き寄せて唇を押し付けてきた。

 

 かと思えば、ちーちゃんは私の口の中にチョコを塗りたくった舌を入れてくる。まずは私の舌先に、次に上歯に、次は下歯に。ころころと私の口の中でチョコレートを転がす。転がされる度に、ちーちゃんの唾液が私の口の中に混じっていく。

 突然の出来事に私の頭の中は真っ白だった。いや、いっぱいいっぱいといったほうが正しいのかもしれない。

 そんな私のことなんかお構いなしに、ちーちゃんは私の口の中でチョコを溶かす。溶かして溶かして、私の頭もとろとろに溶かしていくように。

 

 そうして溶け切ったチョコを、私はちーちゃんの唾液と一緒に飲み込む。それを確認してから、ちーちゃんはゆっくりと唇を離す。頭が溶け切った私はぼう、っとちーちゃんを見つめることしか出来なかった。

 

「ユー、付いてるよ」

 

 そう言いながらちーちゃんは自分の口元に指を当てる。ついてる、なにが? ……ああ、涎か。

 

「えっと、うん」

 

 自分の指で漏れた涎を拭おうと手をあげた、その時。ちーちゃんは私の手を握ると、また顔を近づけてぺろりと私の涎を舐め取る。予想外の連続攻撃に、私は変な声を上げる。

 

「ひゃ……!?」

 

 そして、そのまま這った舌が私の唇をなめずりし、軽く唇が触れ合う。かと思えばちーちゃんは口を離し、またチョコレートを口に入れると私をベッドの上に押し込む。

 ちょっと強めな勢いでベッドに放られて、私は少しだけ目を回す。めがぐるぐるして頭もぐるぐるして、ちーちゃんでいっぱいになる。

 

 そうこうしてる間に、ちーちゃんの味に染まったチョコが私の口の中に押し込まれる。私の口の中でトロトロに溶かされていくチョコを飲み込む。まるでちーちゃんが私の中に入ってくるようで、胸の奥がきゅぅうとしてくる。

 

 チョコレートが溶け切って、ちーちゃんはまた私から離れる。それがちょっとさみしくて私は切ない顔をしたんだと思った。ちーちゃんが少し意地悪な顔をしたからだ。

 

「ユー。おいしい?」

 

 いつとぜんぜん違う声で聞いてくるちーちゃんはすごく意地悪そうな顔をしていた。

 

「う、ん……」

「味付け、気に入った?」

「あじつ、け……?」

「そ。これが最後の仕上げ」

 

 ちーちゃんが一体何を言っているのか、今の私には理解できなかった。でも、なんだか続々してゴクリと喉を鳴らす。もごもごと唇が動いて、声を出そうとして出せなかった。

 

「気に入ったか?」

 

 真っ白で何も考えられない私のことを全部知っているかのようにちーちゃんはわざと私に問いかける。私はどうにか言葉を作ろうとして出ていく息を声に変えようとして、持てる限りのちからをつかって、私は答えた。

 

「……う、ん」

 

 私の言葉に、ちーちゃんは答える。

 

「そっか」

 

 今までに見たこと無い、悪いことを考える子供のような笑みで。

 

 ちーちゃんがまた一つ、チョコレートを口に咥える。ああ、きちゃう。胸がどきどきして私はこれからされる意地悪に期待していることに気がついた。

 

 チョコが私に触れる。ちーちゃんがわざと口の中に落とさないようにしている。唇でチョコを溶かして、ちーちゃんの唇に触れようとする。少しだけお互いの唇の端が触れ合う。早くちーちゃんのキスが欲しくて、チョコを少しでも早くとかそうとする。さっさと飲み込めばいいのに、それすらも忘れて唇を押し付ける。

 

 とろとろ、ころころ。チョコが溶けていくに連れて、私の最後の思考も溶けて消えていく。もうだめだなぁ、これ。今日は、私の負けだ。

 ちーちゃんの腰に腕を回して、もっと近くで居てほしくてぎゅっと抱きしめる。ちーちゃんの小さな手が私の頬に優しく触れる。箚し良からこうするつもりだったんだ。

 

 今年のバレンタインの味付けは最高だよ、ちーちゃん。全部全部最高。もう、それだけだよ。最後に出来た思考はそのままちーちゃんの口づけに吸い込まれて消える。ここまで来たら、もうチョコレートなんてどうでもよくなっていた。

 

 

 

 



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