じわりと、影が滲む匂いがする。
それは苦くて、でもどこかやさしくて。昏いけれど、恐ろしいけれど、確かに輝いている漆黒の炎。
それがちらつくのを感じた。ベッドの中で、うっすらと目を開ける。黒い光が視界に入る。アヴェンジャーだ。
「やあ、巌窟王。今夜も来てくれたの?」
毛布に包まりながら声をかける。煙草の苦い香りが鼻をくすぐった。
「音を立ててしまったか? 俺を気にかけることなく、ゆっくりと眠るがいいマスター」
静かにアヴェンジャーが返答する。いつもより優しい声色だった。そういえば、何か暗い夢を見ていた気がする。もしかすると、魘されていたのを起こしてくれたのかもしれない。
アヴェンジャーはナイチンゲールの目を掻い潜って偶に夜中のマイルームに訪れることがある。最初は気づかなかったが、大体私が寝苦しいタイミングで彼の気配がする。コーヒーと煙草の匂い。だんだんその気配を感じると、落ち着くようになってきた。静かに会話を交わすと、よく眠れるようになったのだ。
─ひとり、毛布の中で震える回数がぐっと減った。
巌窟王には、何かお礼をしたい。
「ねえ、巌窟王。このまま朝までいてくれる?」
「マスター、幼子のような願いを口にするのだな。無論、その必要は無いだろう。俺のようなものと朝を迎えるのはよした方がいい」
巌窟王は目を閉じたまま首を横に振る。あまり甘えてしまうのも申し訳ないのだが、こればっかりは聞いて欲しい。
「巌窟王、よくコーヒーを淹れてくれるでしょ? 私にもコツを教えて欲しいんだ。君にも私からのコーヒーを飲んで欲しい」
巌窟王は目を開けて数度瞬きをする。それこそ俺のようなものにすることではないと笑うように。しかし彼は愉快そうだった。
「復讐鬼と夜明けを越したいとのたまった次は、コーヒーのプレゼントか。マスター、何度も言うが、俺に気遣いは不要だ。これは俺の仕事であり、オレの定めた在り方の成り行きでしかないただの気まぐれだ。そこに何かを配慮するなど……。いや、それは命令か? マスター?」
「これはお願いです、アヴェンジャー」
"左手"でアヴェンジャーの外套の裾を掴んで、正面から向き直った。
「もっと言うと、巌窟王と朝のコーヒーを一緒に飲みたいの。明日は珍しく晴れるって聞いたから、暖かな朝日を浴びながら、君と一緒に青空が見たい。これで最後かもしれないから」
彼の帽子の下から鋭く覗く星を宿した瞳を見据える。
「…………お前と空を拝むべき者は他に相応しい者がいるだろう」
「そうだけど、その中に君も入ってるよ」
ハァと溜息を吐くアヴェンジャー。裾を掴む左手に一層力を込める。
「君さ、大体私が寝入ってから夜明けが来るまでここに居てくれてるでしょ。それ、実を言うと結構助かってるんだ。君には色々と助けてもらいっぱなしだから、そのお礼がしたい。ちゃんと感謝を伝えたい。君は私を導いてくれる。夜の先に。でも、その先の朝には一緒に居られないのが、私は─」
一拍、呼吸を深くする。
「声が届くうちは、手が伸ばせるうちは、その手を取って、一緒に晴れた青空を見たい。助けてくれた分まで、今度は私が君たちを先に連れていく。たとえそれがお別れでも……一瞬だっていい。私たちが辿り着いた夜の先に、一緒に立とうよ」
暫くして、静寂を破る高らかな笑い声が返ってきた。それに嘲りの色はなく、突き抜けるような、くすぐったいような爽快さだった。
「お前は本当にこの俺とその先に至りたいと、俺の手を取り連れて往けると、本気で可能だと思っているのか。そんなことをすれば、忽ちお前は焼き尽くされてしまうかもしれんぞ。この復讐の化身と青空を拝みたいなどと……」
そう口にする彼は楽しげな色を隠そうともしなかった。実際応えを聞く必要もないのであろう。彼の目には炎がきらきらと力強く燃えているように見えた。今目の前にしているひとりのマスターの有り様が、心底愉快だと。その星が宿った瞳がそう告げていた。
「今まで散々無茶をやってきたんだし、青空を見るくらいなんてことないよ。たとえ灰になっても私は諦めないよ?」
マスターはあえて、その“疑問”の答えを微笑みながら口にした。
─その瞬間、バーン!と、扉が無理矢理開閉される音が鳴り響いた。開閉どころか、破壊と言っていい豪快さだった。そこには、鉄の表情を纏ったナイチンゲールが立っていた。
一瞬唖然とするアヴェンジャーと立香。ナイチンゲールはズカズカと容赦のない足取りで部屋に入ってくる。
「真夜中にマスターの部屋から酷く大きい男の笑い声が聞こえました。あなたはこんな時間に何をしているのですか? マスターには充分な睡眠が必要不可欠であり、それを害する行為は誰であろうと許されません」
ジャキッと銃を掴むナイチンゲール。確実にアヴェンジャーを力尽くで追い出すどころか殺しかねない気迫だ。下手したらマスターに睡眠を取らせるために〝殺してくる〟かもしれない。立香の顔は完全に引き攣っている。
アヴェンジャーは苦い顔で事の経緯を説明しようとするが、全く聞く耳を持ってくれず、それどころか彼ごと治療しようと迫る勢いのナイチンゲールだった。慌てた仲介に入り、なんとか銃だけは降ろしてくれたナイチンゲール。しかし鋭い殺気は毛程も収まっていない。それに立香は気圧されないように落ち着いて言葉を捻り出す。
「ちょっと待って! アヴェンジャーは私が眠れないから相手をしてくれてただけで、私のわがままに付き合ってくれてただけなんだ。盛り上がってつい声が大きくなってしまったのはごめんなさい。明日、隣の人達に謝っておきます」
「眠れない、と言いましたが、それはストレスによるものですか?」
一瞬、僅かに言葉を詰まらせる立香。「ならば適切なケアが必要です。あなたは日々過酷な任務に奔走していますから、その分充分な休息が必要ですし、精神力のケアも不可欠です。また、日々の生活による何らかの要因もあるのならばその根を速やかに排除し、迅速な対応が必要でしょう。マスター、あなたには治療(ケア)が必要です。眠れないのであれば、私が治療(話し相手)します」
ナイチンゲールの強い瞳が立香を包む。しかし立香は。
「──ありがとう、ナイチンゲール。でも私は、アヴェンジャーと朝日を迎えたいの。今夜だけでいい。私は……私を助けてくれた人たちと一緒に朝を迎えたい。だから私、一度だけ、一瞬だけでもいいの。私は彼を夜の中にひとり置いていきたくない。許してくれますか?ナイチンゲール」
「…………わかりました。マスター、今夜だけは、あなたの願いを優先します。ですが、今夜はこれ以上会話をするのは禁止です。もう夜も深いですから、静かに過ごしてください」
「うん、分かった。ありがとう、私の我儘を聴いてくれて」
「我儘? いいえ、これは治療の一環です」
そうしてナイチンゲールは、少しだけアヴェンジャーを一瞥し、踵を返して巡回を再開した。
立香はアヴェンジャーに向き直って、事の次第を謝った。何故お前が謝る必要があると彼は言ったが、これは自分の我儘にあなたを付き合わせてしまったことだからとマスターは言う。そしてあらためて、
「私が目を覚ました時、一緒に朝日を見てくれる?」
彼はため息を吐き間を置いて、渋々承諾した。マスター、お前が望むのならと。立香は少し申し訳なさそうに、でも嬉しそうにありがとうと微笑んだ。
「……マスター」
「何?」
「……いや、これ以上の会話は禁止だったな。それに……ああ、口にする必要も無いことだった」
「どういうこと?」
「おまえはおまえだという話だ。確認するまでもなく」
「え? う、う〜ん? そうなの?」
アヴェンジャーはそれ以上何も言わなくなり、椅子に座り直した。
立香は全く腑に落ちなかったが、彼の煙に巻き癖には慣れていたので、大人しくベッドに入り、最後にアヴェンジャーがいる方を向きながらおやすみと一言口にし、ランプを消した。
独特な苦味を帯びた香りがするのを感じ、立香は目を覚ました。ベッドのサイドテーブルには、淹れたてのコーヒーが置かれていた。
視線を上げると、椅子に彼が昨夜と同じく座っていた。目を閉じてはいるが、眠ってる様子はない。
「おはよう、アヴェンジャー」
立香は身を起こし声をかける。彼もまた目を開き、挨拶を返した。
「コーヒー、淹れてくれたんだね、ありがとう」
立香はカップを手に取り、ホットコーヒーを啜った。
カップをゆっくりと口から離し、膝に置く。そしてすぅーっと大きく深呼吸をした。アヴェンジャーは目だけを向けてその様子を眺めている。
立香は体内に取り込んだそれを噛み締めていた。苦いがあたたかくカラダを満たすもの。それをゆっくりと、大切に呑み込んだ。
「ありがとう、巌窟王。私の願いに応えてくれて」
「今更礼を言うべき事柄でもない。俺(巌窟王)が俺(アヴェンジャー)である限り、オレはお前の声に応えるだけの事だ」
「君が君でいる限り、か……。おかげでよく眠れたよ、アヴェンジャー」
「それはそうと、早く身支度をしろ。悠長に俺と話している時間はないだろう。朝はすぐに過ぎてしまうぞ」
「わかったよ、それじゃあ、またあとでね」
時計を見ると起床してから5分程経っていた。まだそれほど急ぐような時間ではないのだが、彼なりの配慮か早く解放されたいのか、その両方か、彼は椅子から立ち上がり部屋から去っていった。
──数日後。
「あ、おはようマシュ。ちょうどいいところに!」
「おはようございます、先輩。どうしたんですか?コーヒーを二つ持って……」
「今日は早く起きれたから、マシュと一緒にコーヒーでも飲みたいなぁって思って。良かったらどう?」
「先輩が淹れてくれたんですか…? あっ、ぜひご一緒したいです!ありがとうございます!」
二人は通路の横長の窓枠に腰掛け、朝の雪景色を眺めた。
「ブラックは平気?」
温かいブラックコーヒーを、マシュはゆっくりと口にした。
「はい。ブラックだと豆の独特な風味がより味わい深くて……。このコーヒー、とてもおいしいです!」
「よかったぁ。豆から淹れるの初めてだったからドキドキしたよ」
立香はマシュの幸せそうな笑顔を見て安堵した。
「えっ、初めてだったんですか!? 全然そんな感じしませんでした。誰かに教わってもらったんですか?」
「うん。練習は結構してたんだけどねぇ。なかなかその人の味に近付けなくて」
「でも、こんなにもおいしいです。身も心も暖まるというか、苦いのに優しい味で。」
「……本当?」
「はい!なんだか、特別な感じがするんです……」
「特別、か。……そっか。だからあんなにおいしかったんだ」
「先輩?」
「あ、いやさ。誰かと一緒にその日の始まりを迎えて、一緒に温かいものを飲み合うその一瞬は“特別”なんだなぁって……。って、口にすると照れくさいな…!」
「いいえ、先輩。私もそう思います。そしてその“特別”を誰かから……大切な人からもらう“特別(コーヒー)”は、きっと元気も含まれているんです。まるで燃料のような……だから、先輩。ありがとうございます。私にこのコーヒーを淹れてくださって。私、今日もがんばれます!」
「……また何度でも、一緒に朝を迎えよう、マシュ」
「はい。何度でも。今度は私が先輩にコーヒーを淹れてきます!」
「うん、楽しみにしてる」
コンコン。ノックの音が響くが返事はない。立香は構わず扉越しにおはようと挨拶をした。少し間が開き、扉が開いた。アヴェンジャーが何も言わずそこに立っている。立香の手元を見やる。トレイに淹れ立てのコーヒーが載せられていた。
「やっと君に飲んでもらいたいものができたんだ。君のとはすこし違うかもしれないけど、自信作だから飲んで!」
本当に淹れてきたと苦い表情を浮かべたアヴェンジャーに、立香は笑顔でトレイを差し出す。
「冷めないうちに飲んでねー。それじゃ!」
拒否の問答が始まる前に、立香はコーヒーを彼に押し付けて素早く去っていった。
「あっ、先輩。何処に行ってたんですか?そろそろ管制室に向かわないと遅刻してしまいますよ」
「ごめん、マシュ!お待たせ!ちょっと朝のうちにやっておきたいことがあって……」
「…そうですか。間に合ってよかったですね、先輩」
「うん」
「それじゃ、行きましょうか」
「……うん。今日で、最後なんだよね」
「……はい。ですから、今日は思いっきり、えーと、“打ち上げ”、をしましょう。皆さん張り切っておられますから、きっと楽しい夜になると思いますよ」
「うん。そうだね。今日はうんと楽しい日にしよう」
「(私がマスターである、最後の夜。)」「(いつか来るとは思ってた。でも、やっぱり、寂しいな。)」
立香はマシュと歩きながら、道行く景色をひとつひとつ視界に収めていった。そして上を見上げ、今朝のマシュとの会話、アヴェンジャーと迎えたあの朝のことを、ひとつひとつ。
「(この先どうなっても、私は何度でも)」
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