とあるサキュバスの日記 (とやる)
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1ページ目 『終業式』

 地球に生きる高度知的生命体は人間のみ……だったのは遥か昔の話。

 現代よりもうんと前に何処からともなく彼らが現れ、今地球上にはエルフや獣人、小人やそれらの混血と多種多様な生物が暮らしている。

 その中でも特に女性的魅力に優れ、妖艶であり美しい種族をサキュバスという。

 

 私の種族はサキュバス。

 髪に隠れて目立たないけど頭部にはちんまりとした二本のツノがあり、お尻と肩甲骨の間には蝙蝠のような羽根が、臀部には細い尻尾がふりふりと揺れる。

 例外なく美しい容姿を誇るサキュバスの種族的特徴として、私の外見も十人が十人美しいと答えるほど綺麗である自覚がある。

 風に揺れる絹のような銀の髪は日光を浴びて透き通るように煌めき、低い女性的な身長に、処女雪を思わせるシミひとつない真っ白な肌。出るところは出て引き締まるところは引き締まった瑞々しい肢体は男の情欲を唆る。

 

 これだけでも世の雄が私を放って置かないけれど、更に私にはサキュバスとして魅了の能力……チャームが使える。

 私がチャームを使えば……いや、使わなくても、私に堕とせない雄はいない。

 ちょっと胸を寄せて潤んだ瞳で上目使いでチャームしてやれば、どんなお願いでも喜んで聞いてくれるお猿さんたちなのだから。

 

 同性にはチャームが効かないから中学では笑えるくらい疎まれてたけど。

 それでも、クラスの男はみんな私の虜だったし、別に寂しくはなかった。

 むしろ女の妬み僻みの視線が心地よかったくらい。

 取り巻きの男どもに好意に属する感情はない。出会って一秒で私に気に入られようと尻尾を振る犬に、ペットに向ける以外の気持ちが芽生えまして?少なくとも私にはそれしかなかった。

 

 だから高校に進学しても、これまで通り男を都合のいいように使って、別にいらないけど友だちは出来ずにまた三年を過ごすんだろうなって思っていた。

 

「それはダメだよ」

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 放課後の掃除当番が面倒くさかったから、チャームを使って近くにいた獣人の男に押し付けようとした所に制止の声がかけられた。

 男の声。

 振り向けば、名前も覚えてない人間の男が一人私をみていた。

 

 何だこいつ。

 顔も名も知らない恐らくはクラスメイトに行動を咎められた私は気分を害して、この男にもチャームをかけて辱しめてやろうと思った。

 

「……今日の掃除当番は美上さんでしょ?押し付けるのは良くないよ」

 

 その時の私は心底驚いた顔をしていたと思う。

 胸元を緩めて、きゅっと庇護欲をそそるか弱い力で男の手を握り甘ったるい声で私はお願いをした。

 チャームを使ったそれは男には呼吸と同じぐらい抗い難いものであるはずなのに、あろう事か男は平然と私に流し目を送ってきたのだ。

 

「僕も手伝うから早いとこやってしまおう」

 

 人生初の出来事に動揺していた私は、不覚にも男に促されるまま掃除をしてしまった。

 家に帰り、自分の部屋で着替えてベッドに身を投げしてから私の胸の内からぐつぐつと赤い感情が湧き上がった。

 

 なんだあいつは。男のくせに。エロい事しか考えてないケダモノのくせに!

 あんな真面目くさっててもどうせ頭の中セックスのことしかないくせに!!

 チャームが効かない……サキュバスの女としてのプライドが傷つけられた私は決意をした。

 

 絶対にあいつを堕として高校三年間の学校生活を送れないように辱しめてやる。

 この私に口答えをした事を後悔しても遅い。何もかも全てを私に捧げさせて、日陰者としての人生を歩ませてやる。

 

 

 6月☆日

 

 この悔しさを忘れないために日記をつける事にした。

 絶対にチャームしてやるんだから!見てなさいよ!!

 

 

 6月◻︎日

 

 やはりあの男はクラスメイトだった。

 名前なんてどうでもいいからモブ男と呼ぶ事にする。なんか顔が如何にも脇役って感じだし。

 都合の良いことに今日は体育があった。

 体育は男女別だけれど、授業終わり更衣室に移動する際に少し話す時間くらいはある。

 それだけあれば十分。運動で汗をかいた私の身体は雄を蠱惑するフェロモンを周囲にばら撒く。

 意識して抑える事も出来るけど、あえて私はそれを抑えずに更衣室に入る直前のモブ男の袖をちんまりと掴んだ。

 体操服を着た絶世の美少女が雄の本能を掻き乱す匂いを漂わせ、胸元からちらりと谷間が覗くように姿勢を調整する。

 チャームは対象を性的に興奮させればさせるほどより強力に作用する。

 これでこの男も鼻の下を伸ばして私に従順な犬になる……と思ったのに!

 あの男!!早く着替えたいから手を離してくれないかですって!!?

 私が!この私が!!谷間まで見せて誘惑しているというのに!!!

 呆気にとられて思わず手を離してしまいましたが、後々何をそんなに急いでいたのかと思って適当な男に聞けば、どうやら購買にお昼を買いに行ったとのこと。

 私よりお昼の方が重要だと言いたいのかしら。

 男のくせに……!覚えてなさいよ……!!

 

 

 6月△日

 

 モブ男の前で首の後ろで一括りにしていた髪をかきあげてうなじを見せつけてみた。

 暑いなら制服脱げば?って言われた。

 ビンタしてやろうかしらこいつ。

 

 

 6月♪日

 

 英語の授業で二人一組を作れと言われたのでモブ男とペアになった。

 片方が英文を読み、もう片方がそれを聞いて発音をチェックするというので、唇をモブ男の耳に近づけ甘く囁く。

 擽ったいから普通にしろですって。

 私の匂いと空気を伝って触れる体温。男の理性を溶かす声を耳元で囁かれ、何より私のチャームを受けてなんで平然として入れるのだろう。

 

 

 6月¥日

 

 チャームにかからない。

 

 

 6月%日

 

 なんで。

 どうして。

 

 

 

(一週間と少し短い書き込みが続く)

 

 

 

 7月&日

 

 気付いたことがある。

 そもそもチャームどころか性的な視線すら向けてこない。

 ふざけるな。絶世の美少女だぞ私は。サキュバスの中でも飛び切りにエロい身体をしているんだぞ。

 一体どういう事だろう。

 あと周りは夏服になったけど私はフェロモンの関係で制服のままだ。

 それにしても、夏服になって気がついた。あいつなんであんなに怪我してるのかしら。

 

 

 7月○日

 

 まさかあいつ女だったりして……?

 それならチャームが効かない事も性的な目を向けてこない事も頷ける。

 これ見よがしにボタンを緩めてチャームをかけても胸元すら見てこないし。

 

 

 7月♪日

 

 下校途中にどこかの家の飼猫が足にすり寄ってきたので少し遊んだ。

 私の尻尾を猫じゃらしか何かと勘違いしているのか、ふりふりと振ると捕まえようとしてきてすごく可愛かった。

 やっぱり動物は素直でいいなあ。

 

 

 7月△日

 

 夏服を着た。

 フェロモンを抑えられるといってもそれはゼロにできるわけじゃない。

 男どもにじろじろ不躾に見られるのは不快だから本当は夏服を着るつもりはなかったけど、モブ男をチャームするために私も本気を出す。

 惜しげも無く晒される健康的な白い二の腕に少し汗を吸って透けるシャツ。

 暑さで緩めたボタンから顔を出す柔らかな谷間。

 しかも私は美少女。

 性欲旺盛な高校生の男にはこれだけでも致死量だろう。

 私も夏服にしてんだけどどう?って軽くその場で一回りしてモブ男顔を覗き込むように聞いたら『もうあと一週間で夏休みなのに今夏服にするのはダサい』とか言いやがった。

 感想を!言え!!!

 

 

 7月$日

 

 明日が夏休み前最後の登校日。

 流石の私も業を煮やした。

 今まで私がちょっと相手の目を見て笑いかけてチャームにかからない男はいなかった。

 なのにあいつは手に触れたり囁いたり匂いを嗅がせたりあまつさえ谷間を見せても、とにかく何をやってもチャームにかからなかった。男性機能が生きているのか疑うレベル。

 もうこうなったら正面から抱きついてやる。

 チャームの性質上性的に興奮さればさせるほど、身体的接触部分が多ければ多いほどその効果は強くなる。

 薄い夏服で私が抱きつけば流石のあいつも墜ちるだろう。

 ここまで私にさせたんだ、その分の借りはしっかりと返してもらう。チャームにかかって私に逆らえないあいつにね、ふふふ。

 明日が楽しみだわ。

 

 

 7月#日

 

 失敗したくそまさかあんな事になるなんて男のくせに男のくせに男のくせに。

 もうやだ今日はもう寝る。

 

(この日は殴り書きされている)

 

 

 ☆☆☆

 

 

 式が終わった後の休み時間、教室に居なかったあいつを探して廊下に出たところでこの一ヶ月と少しですっかり顔を覚えた男を見つけた。

 作戦通り不意に抱きついてやろうと足音を忍ばせて近づき、あと二歩というところでぐらりと視界が揺れた。

 雨により濡れた廊下に足を取られ滑ったと認識した時には、階段に身体が吸い込まれるように傾く。

 ヤバい、と硬くなる身体が来たる衝撃に怯えるように縮こまり、数秒後の痛みに恐怖してぎゅっと目を瞑った。

 

「美上さんっ!!」

 

 ぐっと力強い手が腕を握り、引っ張られる。

 どしん、と何かが倒れる音がしたけれど想像していた痛みと階段の冷たさはなくて、代わりに温かくて硬く、でも柔らかな感触を肌が伝えた。

 

「あ、危なかった……美上さん、大丈夫?」

 

 硬く閉じていた瞼を開ければ、ワイシャツの白が視界いっぱいに広がっていて。

 首ごとわずかに目線を持ち上げれば、心配そうに自身を見つめる少年の瞳と視線が交わった。

 

 今も感じる少年の体温に、自身の腰に回された、自分の細い腕とは違う男の子の腕。

 あ、筋肉ってこんな感じなんだ……とぼんやりする頭で考えてから冷静になった思考が現状を弾き出す。

 

 仰向けに倒れた少年にのしかかるように覆いかぶさっている。

 

 階段に落ちかけた所を助けてくれたんだ、と思ったのも束の間。

 守るように、閉じ込めるように身体に回された腕やら、少年の匂いや体温、吐息の触れる距離にあるその顔が。

 散々自分からその距離に踏み込んだというのに、何故か強烈な羞恥心が胸の中を荒れ狂って。

 

「お、おおおお覚えてにゃさいよ!!」

 

 ばっと勢いよく立ち上がって、ひと昔前の捨て台詞を残して逃げるように走った。

 

 顔がとても熱いのは。

 胸がどきどきとしているのは。

 きっと今走っているせいなんだって言い聞かせながら。

 

 

 ☆☆☆

 

 

「おーす親友〜なんかすげー音がおわあ!?お前なんで口から血ぃ出てんの!?病気か!?夏目漱石か!?」

 

「いやちょっともうひとりの自分と戦ってて。……喋るだけで痛い。口の中って縫うのかな?」

 

「縫いはしねえんじゃねえかな……ちゃんと病院行けよ?ただでさえ高校入ってから急に自分で自分を殴ったり内出血するぐれえ抓ったりで生傷絶えないんだから。ついでに頭も診てもらえ」

 

 

 ☆☆☆

 

 

 7月〆日

 

 よく考えたら正面から抱きつくという当初の目的は達せられているわけで。

 なんでチャームされないのあいつ……?

 女の子な訳がない。だってあの時の感触は女の子とは全然違って……やめろ私。

 サキュバスのチャームが効きにくい男ってのは凄く珍しいけどいないわけじゃない。でもそれは効きにくいだけで効果がないわけじゃない。

 私レベルの美少女が抱きついてチャームにかからないなんて有り得ないはずなのに……。

 でも、あの時のあいつは純粋に私を心配してくれてたし、何より男性的な生理現象がなかった。

 密着していたから間違いないしサキュバスの私はその匂いや気配に敏感だからすぐに分かる。

 下心から私を抱きしめていたのならすぐにぶっ飛ばしたけど、そうじゃなかったのはサキュバスである私が一番分かってる。

 ……男のくせに。セックスのことしか考えてないくせに。エロい事以外で私を見てないくせに。

 ……………………お礼も言わずに走って行っちゃったのは悪かったとは思うけど。

 まあそれはいつかちゃんと伝えるとして。具体的には夏休み中にでも。

 この私にここまでさせたのよ。このまま終わらせるもんですか!

 絶対に私にメロメロにしてやるんだから!

 

 ……できるよね?私に魅力がないわけじゃないわよね?

 うん、できるはずよ。私って美少女だし。あいつ以外は直ぐにチャーム出来るし。

 ……なんであいつはチャーム出来ないのかなあ。

 

(二ページにわたる考察と愚痴が記されている)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読まなくてもいい人物紹介。

 

美上さん

主人公。種族はサキュバス。

銀色の長い髪が綺麗。肌も綺麗。顔も綺麗。スタイルも良い。サキュバス全員に言えることだけどとにかく可愛い。

チャームはエロ漫画の催眠をイメージすると分かりやすい。

目があっただけ、声を発しただけでチャーム出来るので実はそういう経験はサキュバスの癖に皆無。恋愛クソ雑魚。

 

モブ男

ヒロイン。種族は人間。名前はまだない。良いのあったら教えてほしい。

美上さん曰く脇役っぽい顔。性格は真面目な方。

入学して直ぐに美上さんに惚れた。でもある日「直ぐに魅了される男なんか都合のいい召使いでしかないわ」と美上さんが言っているのを聞いて必死にチャームに抗うようになる。すると美上さんの傍若無人っぷりが分かったのでやめさせたいと思ってる。

チャーム?んなもん気合いで乗り切るんだよ。

最近の悩みは治療費。




思いついたら投稿するスタイル。
次は夏休み中のことでも書こうかなと思ってます。


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2ページ目 『図書室』

 7月☆日

 

 今日から夏休みだ。

 網戸を貫く蝉の命の音や容赦なく輝く太陽の煩わしい季節。

 根本的に私は夏というものが好きではない。暑くて汗をかけば抑えてもどうしても雄を蠱惑するフェロモンは漏れ出るし、薄着というものはどうしようもなく雄を狂わす。

 わざわざチャームをするまでもなく獣欲を滾らせた男どもが寄ってくるのだから、定番の海水浴は愚か外出すらままならないからだ。

 小学生の頃に家族と海へ行ったときの事は今も覚えている。忘れもしない、あの悍ましい……やめよ。

 まあ普段なら疎ましいこのサキュバスとしての性質も、モブ男をオトすのに有用である事は間違いない。

 見てなさいよ、この夏であいつをメロメロにしてやるんだから! 

 

 

 7月$日

 

 あいつを従順な犬にするための手段が湯水のように思いつくわ。

 夏ってすごい。ふふふ、首を洗って待ってなさい。

 

 

 7月○日

 

 どこにも行かないなら家のこと手伝えって……私の性質の事は知ってるのにお母さんといったら全くもう。

 私はアイツの事を考えるので忙しいんだから! 

 

 

(数日取り留めのない内容が続く)

 

 

 7月〒日

 

 ……よく考えたら夏休みだからモブ男に会えないじゃん!? 

 夏休みが始まり一週間が過ぎて! その間私がやった事と言えば漫画読んで宿題してお母さんとテレビ見てるだけだ!? 家から一歩も出てないよ! 

 え? これどうするの? モブ男の連絡先なんて知ってるわけないしなんならクラスの人のラインとかも誰一人知らない。

 あのちょっと話すエルフの女の子の連絡先ぐらいは聞いておけばよかったなあ……しまったぁ。

 もしかしなくても私が一週間をかけて練り上げたプランは全て白紙に? 

 早く夏休み終わらないかなあ……。

 

 

 7月々日

 

 昨日の日記、読み返したらなんか私がアイツに恋してるみたいじゃない! 

 ちっっっっがうわよばーか! ぶあああああああっか!!! 

 

 

 7月*日

 

 そういえばアイツは図書委員かなんかで夏休みも学校に来るとか言ってたような。

 

 

 7月÷日

 

 学校に行ってみた。

 図書室は開いていて、午後3時までは開放しているらしい。

 モブ男はいなかったけど、委員の女の子から見せて貰った当番表だと明日がそうだった。

 無駄足踏んだなあ……私が来る事ぐらい察して学校来なさいよね全く。

 ……それにしても、あの委員の子。透き通るな淡い水色の髪、多分水妖精の子だと思うけど……なんか若干棘があったような……? 初対面だよね? 

 知らないうちにあの子の想い人かなんかが私にオトされてたのかしら。

 よくある事ね。魅力的すぎる事も大変だわ。いちいち男の顔なんて覚えてもないから分からないんだけれど。

 

 

 7月♪ 日

 

 学校に行く前に書いてる。

 ふふーん、宣言しておくわ! 今日でアイツは私の犬になる! 

 楽しみね! 

 

 

 ☆☆☆

 

 

「あれ、美上さん?」

 

 肌にまとわりつくような生温い湿気と肺を満たす紙の臭い。

 スライド式の扉を開けた瞬間廊下に流れ込んでくるそれに顔を顰めた私に気がついたアイツが意外そうな声を出した。

 

「……なんでこんなに暑いの?」

 

「エアコン壊れたんだってさ。今年中の修理は無理みたい。勉強したり涼みに来る人はみんな帰ったよ」

 

「なにそれ最悪……」

 

「ほんとにな。それより、美上さんが図書室に来るとは思わなかったな。読書感想文?」

 

 首を傾げるモブ男の手元を見れば、閉じられた文庫本が一冊。

 まあ、この暑さじゃ読書をしようという気も失せると思う。

 いやほんっと暑い。学校に来るまでに既に結構汗を掻いちゃってたのに、身体中の水分を出し尽くすのでは? と危惧するレベルで汗が噴き出てくる。

 よく平気な顔しているな……とモブ男をよく見れば、大きなタライに大きな氷、それを満たす水の中に足を突っ込んでいた。なにそれずるい。

 

「ちょっと、私にも貸しなさいそれ」

 

「いいけど、これしかないんだよね……大きな氷はもうないし」

 

「というか、なんで氷あるのよ。わざわざ持ってきたの? 昨日はエアコン壊れてなかったのに?」

 

「えっ、なんで知ってるの? 氷は水澄さんが持ってきてくれたんだ。今は先生に呼ばれていないけど水澄さんが居てくれて助かったよ。めちゃくちゃ暑かったでしょ、一緒に使う?」

 

 常よりも少し上擦った声。

 モブ男は押し隠したつもりだろうけど、サキュバスである私はそこに微かに紛れ込んだ欲の色を見逃さない。

 私に抱きつかれても反応しなかったほぼ断定不能男が精々が隣に座るぐらいで? と不思議に思うも、いい加減暑くて仕方ないので大人しく一緒に使わせてもらうことにした。

 

 モブ男の対面に置いてあった椅子に腰を下ろす。

 靴とハイソックスを脱げば、校則違反の短いスカートからすらりと伸びる処女雪のような脚が曝け出される。

 ちゃぽん、と氷水に脚を沈めれば、よく冷えた水が火照った体温を吸い取っていくようで気持ちよかった。

 

「……なんでアンタ太もも抓ってるの?」

 

「えっ。あ、こ、これは、えっと、あ! 蚊に刺されて! こうすれば痒みがとれるんだよね!」

 

 ふと顔を上げれば、ギリギリと傍目から見て思いっきり力が込められていると分かるぐらい全力で太ももを抓っているモブ男がいた。

 お尻に近いところを咬まれるってこいつ家でパンイチで過ごしてるのかしら? だらし無いわね……。

 にしても、何故か今日のコイツは隙が多いというか何というか。いつもはもうちょっと落ち着いてるのに、今日はどこかふわふわしているように感じる。

 これなら簡単にチャームできるんじゃない? 

 そう思ってボタンを弛めようとして気がついた。汗を吸って白のワイシャツが透けてブラが見えてた。

 

 ……はっはーん。

 全てを察した私が上目遣いで顔を見つめてやれば、モブ男は見ないように横に向けていた顔をさらにそらしてそっぽを向く。

 

 なるほどねえ……。

 モブ男をオトす事が目的な私は勿論フェロモンを抑えるなんて事はしていない。

 今日は特に暑い。窓が開いているとはいえ風がないので図書室内の熱気もなかなかのものだ。

 当然汗をかく。それが生体機能だからだ。

 つまり、ひと嗅ぎすれば理性を犯す私のフェロモンを、コイツは私が図書室のドアを開けた瞬間から身体に取り入れ続けている事になる。

 普通ならもう頭をぐずぐずに溶かされて犬ように舌を突き出し、はあはあと喘いでいてもおかしくない。

 

「今日は暑いわね。暑すぎて、ついつい胸元を緩めてしまいそう」

 

「っ、今年は猛暑らしいよ」

 

 やっぱり。

 私は確信した。

 服をつまんで空気を送り込むようにパタパタしてこんな事を言っても、いつものコイツなら無反応なのに。

 それに、ずっと目をそらし続けているのもおかしい。

 普段は何をやっても目以外一切見ないぐらいなのに。

 つまるところ。

 ──私を意識しているな。

 

「ところでさ。先週買い物にいったんだけど、何を買ったと思う?」

 

「……っ、うーん、夏だから……日焼け止め?」

 

「ハズレ。ヒントはね、身に付けるものよ」

 

 甘く思考をとろとろにする艶のある声。

 ニヤケそうになる顔を必死で取り繕う。

 いける。経験から、チャームをかける事ができる確信がある。

 僅かに朱の差した頰を隠すように腕をあげたモブ男が律儀に考えているのを乱すように、さらに追い討ちのように仕掛けていく。

 

「分からない? そうね、じゃあ大ヒント。……それはね、身体の半分より上にあって……いろんなサイズがあるわ」

 

「はん、ぶんより……うえ……」

 

「そう。半分より上よ……ふふ、そう、その辺り。すごいわ、正解まであと少しよ。……実はね、今日それをしてきてるの」

 

 モブ男の視線が顔から下がっていき、スカートを見ないようにまた上がっていってある一部分で止まる。

 そこには緩められたボタンから覗く真っ白な肌と……夜空を思わせる黒い布地。

 少し背中を前に倒してやれば、膝についている腕にあたってむにゅりと嫋やかに形を歪める。

 ゴクリ、とモブ男の喉が鳴った。

 

 何これ楽しい。

 どれだけ誘惑しようが無反応だったモブ男を手玉に取る感覚。

 これよこれ、これがサキュバスよ。

 全開のチャームに落ち切っていないのは驚愕に値するけど、本来チャームはこうあるべきなのよね。

 今まで何食わぬ顔で平然と振舞ってたコイツがおかしかっただけで、私の暴力的なまでの魅了の力なら本来これが当然。

 

「……もう分かったかしら? そうね、もし正解できたら……ご褒美をあげてもいいわ」

 

「ごほう、び……ぐっ」

 

「そう、ご褒美。正解できたなら……貴方にそれをあげてもいいかもね」

 

 氷水に浸かる足をモブ男の足に重ね、感触を確かめるように撫で、絡める。

 さり気なく椅子を動かしすぐ隣にまで移動していた私は最後のトドメを放つべくモブ男の耳元へ顔を寄せ、囁く。

 

「──今、ここで」

 

 ──まあ、勿論そんなことする訳ないんだけど。

 そんな私の内心など知る由も無いモブ男の身体に電流が走ったようにびくんと大きく痙攣。

 背けられているため表情は伺えないが、吐息の触れた耳は茹で蛸のように真っ赤に染まっていた。

 

 固めた決意。

 それがもう間も無く達せられようとしていて……何故か、私の胸中は満たしたモノは達成感とは程遠い感情だった。

 なんだろう、これは。暗くて、悲しいような、チクリとするこの感情は……。

 

「……ん?」

 

 私が正体不明の感情に一瞬思考を巡らせたのと同時、部活に勤しむ声のみが響いていた室内に甲高い羽音が響き渡った。

 この独特な音は間違いなく蚊だろう。見た目を気にするならば痒み以上に天敵で厄介な生き物だ。

 だから、咬まれるのは嫌だなと僅かに意識が逸れた。

 次の瞬間。

 

「ふんっ!」

 

「ええっ!? 急にどうしたの!?」

 

 ガツン! と何かを思いっきり殴打する音。

 ギョッとする私が見たのは、自分で自分を思いっきり殴るモブ男の奇行だった。

 

「がはっ。いや、蚊がいたから」

 

「だからって自分の顔にグーパンする!? 鼻血でて……ああっ!? 口の中も切れてるじゃない!」

 

「でも、ほら、蚊は仕留めたよ」

 

「オーバーキルにも程があるでしょう!?」

 

 どばどばと血を流すモブ男の鼻にスカートのポケットから取り出したハンカチを押し付ける。瞬く間に赤く染まった。

 ああもうっ! コイツ頭おかしいんじゃないの!? 

 普通、蚊を仕留めるためだけにそこまでする!? 

 

「早く保健室──夏休みか! 〜〜もうっ! 先生たち呼んでくるから動かずにじっとしてなさい!」

 

「あ、待って、美上さん、僕はただ蚊に並々ならぬ感情を持っているだけで別に頭のおかしい奴というわけではっ」

 

「ごめん! 説得力がない!」

 

 靴下を履くのも忘れて靴に足を突っ込んだ私は勢いよく図書室を飛び出した。

 

「ああ、待って美上さん、本当に違うんだー!」

 

 最後に、アイツの何故か切実さが含まれた声を背に受けて。

 

 

 ☆☆☆

 

 

「はー全く、いくら私が軽い怪我なら治せるとはいえひっきりなしに呼び出すのはどうなんですか。──っと、すみませんユキカゼくん、遅くなりま……ええっ!? どうしたんですかその怪我!?」

 

「あっ、水澄さん。おかえり」

 

「はい、ただいまです……じゃなくて! ワイシャツがスプラッタ映画の登場人物みたいになってますよ!? その鼻血……口の中も切ってるのですか!? ってよく見れば手も血だらけじゃないですか! 私がちょっと目を離した隙にいったい何がっ!?」

 

「えっと、蚊を少々」

 

「訳の分からない事を言わないでくださいっ! ほら、治療しますのでじっとしてください。あーん」

 

「えっ。待って待って、治してくれるのは嬉しいんだけど、やっぱりダメだよ。こんな事言うのもあれだけど、他のやり方ってないの? 不衛生だし、流石に口の中は……その、ほら、水澄さんも嫌でしょう?」

 

「いいえ? 全く。さあ、大人しくしてくださいね……はぁはぁ」

 

「うわあ!? ちょっ、まっ、早く来て美上さーん!」

 

 

 ☆☆☆

 

 

 7月♪ 日

 

 家を出る前に書いた日記を読み返してから当初の目的をすっかり忘れていた事に気がついた。

 でもしょうがないでしょ。なんかいっぱい血が出てたし、それを見たら私も作戦とかそういうの全部頭から吹き飛んだし。

 ……職員室に先生がいなかったら医療箱を持って図書室に戻った時に水妖精の子とキスする寸前だったのはブチ切れそうになったけどね!!! 

 私をこのクソ暑い中走らせて自分は他の女とイチャコラですか……いいご身分ですねえ……! 

 アイツは必死に言い訳を並べてたけどその後ろで水妖精が私を睨め付けてたの見てるからね。何を誤解しろってのよ。

 あーもう腹立つ! いつもならこういうときは男の方をサクッと私のモノにするのにモブ男はチャームできないし!! 

 ……そういえば、私はなんでこんなに腹が立っているのだろう。別にモブ男が誰とどうなろうがどうでもいいのに。それに、結局モブ男は私に魅了されなくて、それがわかった時に私はあの時の感情とは真逆の……いや! これはきっとおもちゃを取り上げられたからだ! そうに違いないはずよ! 

 あーもう! とにかく絶対絶対ぜぇったいに! 

 アイツをオトしてやるんだから!! 

 

 ……海、誘われたけどどうしようかなあ。

 

(アンニュイな書き込みが続く)

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい人物紹介

 

 美上さん

 主人公。今回は惜しいところまでいった。敗因は蚊。

 チャームは普通なら抗えるようなものではないので、どうやらモブ男に少なからず関心を寄せているご様子。

 どうやら過去に海で何かあったらしいが……? 

 

 モブ男

 ヒロイン。名前らしきものが判明した。

 今回は割とやばかった。敗因は透けブラと目の前で靴下を脱がれた事。意図しない自然さが琴線に触れたのかな? だいぶレベル高いですね……。

 

 水澄さん

 水妖精の女の子。非常に少ない種族であり、体液には癒しの効果がある。そのため一時期は人攫いが頻発した種族。

 別に量に比例して癒しの効力が上がるわけでもないので、息を吹きかけたり夏なら手を当てるだけでOK。

 清楚な見た目だがこいつが一番レベル高い。




次回海水浴です。


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3ページ目 『水着売り場』

 魅了(チャーム)

 それは種族サキュバスが生来備えている蠱惑の力。

 匂い立つ色香で雄を酔わせ己に心酔させる一種の催眠能力だ。

 

 魅了状態にした雄に対する強制力、また魅了の出力は個人によって違う。

 足の速い人間や手先の器用な人間がいるようなものだ。

 それは個性のようなもので、生まれたときから決まっている。

 

 例えば魅了した雄に自殺をさせる事の出来るサキュバスもいれば、本人が嫌がる事はさせられないサキュバスもいる。

 例えば目で見ただけ、匂いを嗅がせただけで魅了できるサキュバスもいれば、じっくりと肌を重ねなければ魅了できないサキュバスもいる。

 

 男にしか効果がないとはいえ、心に無遠慮に操られる恐ろしい力である事に変わりはない。

 サキュバスの種族特性……性を好む傾向と相待って、サキュバスは遠い昔に大迫害を受けた記録が残っている。

 

 サキュバス達にとってある意味幸運だったのは、本人が忌避する事を強制させるだけの魅了を施せる個体の少なさだった。

 数にしておよそ三千年に一人いるかいないか。大半のサキュバスにとって魅了とは『己に惚れさせる手段のひとつ』でしかない。

 調理実習で好きな男の子に手作り料理を食べてもらったり。

 好きな男の子と一緒の部活に入り接点を増やしたり。

 そういった恋の手札のひとつでしかないのだ。

 

 恐れ、忌避し、排斥するほどのものではない。

 一旦そうと分かって仕舞えば、見目麗しい見た目の性へ寛容な絶世の美女である。社会……特に男性に受け入れられるのに時間はかからなかった。

 多少人を狂わす事ができる個体が存在するとはいえ、好きな子の為に何かがしたいというのは魅了の力がなくても本来自然な感情。

 本人が忌避する事を強制できるサキュバスがいないという事は、多かれ少なかれ魅了にかかる雄はそのサキュバスに好意を抱いている事の証明に他ならないのだから。

 

 では。

 居ないはずの『本人が忌避する事まで強制できる魅了をかける事のできるサキュバス』が存在した場合。

 

 ──いったい、そのサキュバスはどういった末路を辿るのだろうか。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 7月@日

 

 どうしようかなあ。海ねー。いい思い出ないのよねー。

 というか私が誘われた事に驚きが隠せないわね。

 入学初日でクラスメイトの男全員オトしていいように使ってたから女子からかなり嫌われてたはずなんだけど……。

 あ、でも六月ぐらいからかな、なんか段々私に対する嫉妬や嫌悪の視線が少なくなっていって七月入ってからはエルフの子とかと話すようになったけど……なんでだろ? 

 六月、六月……なんかあったかなあ? モブ男がいきなり私に反抗してきたぐらいね。

 ほんとあいつ……! その辺の男に掃除当番や係の仕事を押し付けようとしても購買にパシらせようとしても止めてくるのよね!! 

 女子は私の機嫌を損ねると自分の男を取られるかもしれないって積極的な事は何もしてこなかったから初めての経験だ。ほんっとムカつく! なんでチャーム効かないのよ! 

 ……ちょっと待って、もしかして私六月からずっとモブ男をチャームしようと躍起になってたからその間チャームしたMan/zeroなのでは? 

 どうりで最近宿題自分でやってるなあと思ったよ!! 

 チャームがある以上私の淫魔生に勉強は必要ないから受験終わってからほぼやってないし、今はなんとかなってもこの先は普通にしんどいかもしれない。あと夏休みの宿題がめんどくさい。

 おのれモブ男……! 決めた! 海行く!! 私の水着でぜぇったいにオトしてやるんだから! 

 私の魅力で溺れさせてやるわ! 

 

 

 7月%日

 

 最悪だ。お姉ちゃん帰ってきた。

 

 

 8月☆日

 

 なんで帰ってくるかなー。

 もうほんと嫌だ。大学のn人目の彼氏さんとやる事やってればいいのに。

 そう言ったら『アンタまだ処女なの? え? サキュバスなのに? ぷっ』とか小馬鹿にしてえ! 

 だから嫌なのよ、もう! 

 経験人数でマウント取ってくるとか何? ほんっとあり得ないんですけど! いやサキュバスとしてはある意味正常なのかもしれないけど!! 

 でも私知ってるんだからね、性欲強いお姉ちゃんが実は自分だけを見てくれる王子様を本気で求めてるお姫様思考(笑)なの。

 本棚のむせ返るほどあまっあまな少女漫画の山が全てを物語ってるんだから! 

 ま、まあ私も嫌いではないけれど……。

 次ウザ絡みしてきたらそれでいじり返してやる。

 

 

 8月♪ 日

 

 お姉ちゃんと取っ組み合いの喧嘩をした。

 お母さんのげんこつはすごく痛い。

 

 

 8月¥日

 

 仲直りも兼ねてお姉ちゃんと水着を買いに行く事になった。

 小学生の頃以来海やプールに行くこともなかった私は学校指定のスク水しか持ってないからだ。

 今度海に行くという話をしたら、水着を買ってくれるって。

 ……まあ買ってくれるっていうなら一緒に行ってあげてもいい。別にお姉ちゃんの事本心では嫌ってないとか、実は好きとかそんなんじゃないから。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 私の家から電車に揺られて三十分ほどの場所に全国でもかなり大きい部類に入る大型ショッピングモールがある。

 生活用品からアウトドアグッズまでなんでもござれ。取り敢えずここに来れば必要なものは揃う、と言っても過言ではないほどの規模。

 休日は家族連れで大変賑わっているけど、いくら夏休み中とはいえ平日という事で客足は比較的穏やかだ。

 

「あ、新しいお店入ってる! ちょっと見てかない?」

「お姉ちゃん」

「う。はいはい、分かってますぅー」

 

 隣で口を尖らせて拗ねたポーズを見せるのは私の姉。

 私と同じ銀色の髪を肩に触れるか触れないかの辺りで切り揃え、薄いベージュのショルダーカットトップスから処女雪のように真っ白な健康的な肌が覗いている。

 丈の短いショートパンツからは肉付きの良いむちむちとした生脚が惜しげも無く晒され、ふりふりと楽しげに揺れる尻尾と合わせ周囲の男性の視線を独り占めしていた。

 

 ……煩わしい視線を集めるからやめろと言ったのに。真夏なのに長袖とロングスカートな出で立ちの私との対比も相待って余計目立っているような気がしてならない。

 まさかとは思うけど買い物終わった後にお持ち帰り(意味深)するためにその格好で来たわけじゃないわよね? 流石に違うわよね? どうしよう、心配になってきた。

 いくらサキュバスとはいえ家に帰ってから『今頃お姉ちゃんは励んでるのかなあ』とか考えるの地獄じゃないの。いやよ私は。

 

「おー、シーズンだけあって色んなの置いてあるね」

 

 エレベーターで二階のフロアに上がり少し歩けば程なくして水着売り場に着いた。

 色取り取りの鮮やかな水着たちが所狭しと並んでいる光景には少々圧倒される。

 水着を最後に買ったのだってスクール水着を除けば五年以上前の事だしね。

 

 感嘆の声をあげたお姉ちゃんがズンズンと突撃していくのでその後を追う。

 私の水着選びを張り切っているご様子。

 正直私としては自分で選びたいのだけれど、どうしてもと言われると私も断り辛い。お金出してもらうわけだし。

 まあ美人は何を着ても美人という言葉を体現するような人なのでセンスがあるかと言われれば怪しいところはあるが、私も絶世の美少女なので大概のものは着こなせる。

 とにかくモブ男をオトせればそれでいいので、モブ男を私にメロメロにするためにセクシーな水着が良いと希望だけは伝えておいたのだけれど……。

 

「ね、ね! これなんてどう!?」

「暑さで脳みそ溶けたの?」

 

 お姉ちゃんが持ってきたのはほぼ直角の切り込みが入ったハイレグビキニだった。

 なんと驚く事にトップにも蜘蛛の巣のような切れ込みが入っており、辛うじて乳の先端が隠れるかと言った塩梅。馬鹿なのかしらこの人。

 

「えー。サキュバスらしくてセクシーだと思うんだけどなあ」

「ちょっと動いたらモロじゃない。お姉ちゃんは私に前科をつけたいのかしら」

 

 罪状は猥褻物陳列罪だ。

 ちなみに上だけではない。下もである。

 少しズレただけで乙女の秘密が暴かれてしまうぐらいには際どい。サキュバスがこんな事を言うのもどうかと思うけど。

 

「チャームでオトしてしまえば……」

「ふざけたこと言ってないで次」

「ちぇー。あ、でもこれは使えるかもしれないからキープね。持ってて」

「あ、ちょっと!」

 

 ぐいっと私に水着を押し付けたお姉ちゃんは制止の声を聞かずに行ってしまう。

 それにしても、やけに肌触りが良い水着ね。まるで下着みたい。

 いったい何に使うつもりだ──という言葉はぐっと飲み込んだ。

 サキュバスとエロい衣装。使い道なんてひとつだ。

 

「はあ……」

 

 ちょっと想像してしまったピンクの光景をぶんぶんと頭を振って追い出して、押し付けられた水着を両手にため息。

 改めて見てもデザイナーの頭がイかれてるとしか思えないハイレグビキニは際ど過ぎて最早鋭角な二等辺三角形だった。表面積はかなり小さい。

 

「うわ。これ、食い込んで布が見えなくなりそう」

 

 言わずもがな下半身の事だ。

 どれぐらい頭のおかしい産物かは察して余りあるだろう。

 手持ち無沙汰だったので水着を身体に当てて姿見で確認した私はやっぱりこれはないな、と結論付けてお姉ちゃんの所へ行こうと──

 

「美上さん……?」

 

 ──したところで、聞き慣れた男の声が耳朶を打った。

 

 嫌な予感がする。

 ギギギ、と油が切れたようなブリキのような動きで私の首が回る。

 予感は正しかったみたいだ。

 

 そこには、気まずそうなモブ男がいた。

 

「……あら、こんにちは。奇遇ね」

「うん、こんにちは」

 

 探りのジャブ。

 バッと素早く水着を身体の後ろに隠した。

 見られたか? 見られたのか!? 私があんな脳みそ茹だってる性欲魔人しか着ないような水着を身体に当てているところを見られたのか!? 

 じっと目を見ているとモブ男は申し訳なさそうに目を逸らした。

 えっ。

 

「その……美上さんの趣味に口を出すつもりはないし、美上さんはサキュバスで……もしかしたら美上さんにとっては普通の事なのかもしれないけど……それは公共の場で着るのは色々とダメだと思う……」

「違うからね!?」

 

 見られてるぅ! 

 そして私の趣味だと思われてるぅ! 

 最悪だ! これ変態の烙印押されてない!? 公共の場でほぼ全裸を晒す変態サキュバス認定されてない!? いやそういうサキュバスもいるにはいるんだけど!! 

 

「勘違いしないでよね! これは別に私が着るやつじゃ……!」

「いやでも、それサキュバス用だし……」

 

 いやまあそうなんだけども! 

 そうなんだけども!! 

 でも違うのよ!! 

 

「それに、その、言い辛いんだけどさ、ほら……やっぱりこういう人目のある所で堂々とそういうのは……子どもにも刺激が強いかもだし……」

 

 は? いやここは水着売り場で、これも頭おかしいとはいえ一応水着でしかも私は服の上から当てただけなのでそこまで言われる筋合いは……ん? 子ども? 刺激? 

 

 引っ掛かりを覚えた私は手に持っている水着をよく見てみた。

 具体的には、その値札を。

 

 簡潔に言おう。

 私が今手に持っているそれは水着では無くランジェリーだった。

 それも、特別な日に身につけるようなやつ。

 

「…………………………………………」

 

 成る程。

 あまりにも水着にも触れる機会が無かったのが仇になったわね。自信満々に差し出されたからすっかりこれが水着だと思い込んでいたわ。思い込みって怖い。

 

「おにーちゃん、てぇどけてぇ」

「よーし、ゆっくり後ろ向いて、かげ兄のところ行くんだよ」

「うん!」

 

 よく見ればモブ男の腰のあたりには何処かモブ男の面影を感じさせる小学生ぐらいの少女がいた。

 たったったっと迷いなくとてとてと駆けていく背中はすぐに見えなくなる……いやそうじゃなくて。

 うん。取り敢えず状況を整理しよう。

 

 水着売り場で何故かそういう事用のどエロい勝負下着を身体に当てて姿見で確認していたサキュバス。

 それが今の私だ。

 

(お姉ちゃんんんんんんんんんんんんんっ!!!!!!)

 

 内心で吠えた。

 心の中のお姉ちゃんはてへぺろっと赤い舌をちらりと覗かせる。ふざけんな。

 

「えっと、だから、そういうのは然るべき場所で……」

「……忘れろぉ! いや忘れさせる!!」

「えっ、うわあ!? 美上さん!?」

 

 言いにくそうに口をまごつかせる男の手をぎゅうっと握る。あっ意外と大きくてゴツゴツしてる……ってそうじゃなくて! 

 チャームだ……! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 変態認定されたままなんて私のプライドが許さない。

 そのまま胸に閉じ込めるように腕を抱きしめてやれば目線の少し上にモブ男の耳が来る。

 前に図書室で耳が弱いのは確認済み! 性的に興奮させてチャームがかかり易くなったところをオトす! 私のプライドにかけて! 

 

「えっと、擽ったいよ美上さん」

「〜〜もうっ!! なんでなのよ!? 不能なんじゃないのあんた!?

「なんで僕罵倒されてるの!?」

 

 擽ったいじゃないのよ! せめて少しぐらい赤くなりなさいよ! ほんっとにムカつく!!! 

 美少女に抱きつかれてるのよ!? 耳に息ふぅってされてるのよ!? 私に魅力がないって言いたいわけ!? 

 

 こうなったらおっぱいでも触らせて……は無理だけど! 

 何か、何か……! 

 

「すごいの見つけた! 身体の前半分にしか布がない極小マイクロビキニ! これとかどう!?」

「美上さん……」

「本当に違うからぁ!! もう、いい加減にしてお姉ちゃん!!!」

「え、でもセクシーなの選べって……」

「美上さん……」

「あ〜〜〜、もうッ!!!」

 

 満面の笑みで駆け込んできたお姉ちゃん(下着装備)と居た堪れない表情で私を見てくるモブ男に、ついに私の感情許容量は限界を超えてしまい。

 

「もう私帰るッ!!!」

 

 こうして、多大な誤解を残してしまったような気がしないでもない水着選びは幕を閉じた。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

「あれ、おにーちゃんけがしてゆの?」

 

「ん、大丈夫だよ。行こっか」

 

「てぇいたそう……なでなでしてあげゆ!」

 

「はは、ありがとう。ほら、もう痛くなくなったー! ……突き指は癖になるから咄嗟にやるにしても次は気をつけないとな」

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 8月$日

 

 ほんっと信じられない! お姉ちゃんのバカ! 少女脳! 年中発情期!! 

 絶対変態って思われた! 絶対変態って思われた!! 

 サキュバスは確かにそういうオープンな人も多いけど私は違うのに……!! 

 あんな、大事なところが丸見えになりそうな服とも呼べないようなもの、着るわけないじゃない!! お姉ちゃんじゃないんだから! 

 チラ見せするのは雄を蠱惑する武器だけど全部見せるのは違うじゃないの! それはもう……! 

 ……ちょっと冷静になった。何考えてるんだろう、私。

 私が男とそうなるなんてあり得ないのに。

 モブ男の誤解はおいおい解くとして……そうよ、どうせチャームしてしまえばそれまでなんだし。

 ……下品じゃない可愛い水着探そ。どうせなら、私もやっぱり、可愛い水着着たいし。

 

(どんな水着にするか悩む書き込みが続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読まなくてもいい登場人物紹介。

 

美上さん

主人公。本当にサキュバスですか貴女?

 

モブ男

余裕そうに見えて実は内心かなりのショックを受けている。あの瞬間モブ男の脳内ではそういう下着を選んでいる→そういう相手がいるという図式が成り立ち割とガチで凹んでいた。お姉ちゃんの仕業とわかりめちゃくちゃ安堵したことは内緒だ。

 

お姉ちゃん

エロい。




海水浴は持ち越しになりました。次のお話だから許してクレメンス。
余談ですが男の子の手と女の子の手の大きさも感触も全く違うからどきどきしますけど、意識せずに触って気がつくのと、意図せずそれを知った状態で触れるのとではまた感じ方が違いますよね。
後者はなんかえっちな感じします。


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4ページ目 『海水浴』

 8月⌘日

 

 5……いや、6年ぶりかしら。

 思うところはいろいろあるけど。取り敢えず、明日は海だ。可愛い水着も買ったし、少しだけ……本当に少しだけ、楽しみかもしれない。

 一応、早く寝ておきましょうか。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 休みもせずに殺人的な紫外線を振り撒く太陽。

 陽光を反射して白く輝く砂浜に、濁ってはいないけれどさして透明度が高いわけでもない海水。

 家族連れや友人同士で来たのであろう、人で溢れかえるビーチを見てお家に焦がれる心を抑え込みつつ、一度大きく深呼吸。

 

「帰りたい」

「ええっ!? 来たばっかだよ!?」

 

 だめだ抑え込めなかった。

 

 簡素なパラソルの下に敷いたシートの上に座る私の隣で驚いたように声をあげたのは、耳の先端が尖った少女。

 エルフの女の子でクラス委員長の弓森さんだ。

 星の光を束ねたような金の髪。後頭部で一括りにされたそれは右肩にかけるように流され、羽織られたビーチウェアの下に覗く新緑のワンピースの水着に一筋の光線を入れているようだ。

 

 余談だがガードが甘くちらちらと乙女的危険地帯が見え隠れしている。弓森さんと私が話すようになったキッカケは、弓森さんに絡んでいた男たちを廊下いっぱいに広がってたから邪魔なのでチャームして退けてからなんだけど……そんなんだから貴女『エルフなのにガードが甘い!? これはビッチエルフ!』って男に言い寄られやすいのよ。今も水着ズレてるし。

 

 まあ。それ以来、彼女は何かと私に話しかけてくる。友達だから、と。

 一体いつ友達になったのか私には全く心当たりはない。

 

「えへへ、美上さんもこれて良かったね!」

「……来るつもりはなかったんだけどね」

 

 モブ男に海へ行こうと誘われた。今日がその日である。

 まさかクラス全員来るとは思わなかったけどね! 

 

 少し海から視線を逸らせば、容赦なく輝く太陽の下でクラスメイトたちがビーチバレーに興じている姿を視界に収めることができる。

 私と弓森さんは荷物番というわけだ。

 

「みんな張り切ってるねー」

「貴女は行かなくても良いのかしら」

「人数的に二人余るし、私はほら、運動苦手だから。美上さんは?」

「家族連れやカップルの男をチャームしちゃうと面倒だもの」

 

 普通のサキュバス……例えばお姉ちゃんなら。

 一目惚れされる事はあっても、見られただけでチャームをかけてしまう、なんてことはない。

 私が比類なき美少女であるのは大前提。でも、私のチャームはお姉ちゃんと比べて……いや、多分他のサキュバスと比べてもかなり強力だ。

 なのでほぼすし詰め状態の休日のビーチで陽光の下に水着を晒そうものなら周囲の男を無差別チャームしてしまう……なんて事もあり得る。

 こんな炎天下、ただでさえ体力が削り取られるのにさらに揉め事を起こして疲れるのは御免被りたい。

 

 ハイロウは出来るので私も気を付けてはいるんだけど……オンオフが出来ないのは生物的欠陥じゃないかしらこれ。

 男を惑わし性に溺れさせ貪り尽くすサキュバスとしては正しい生体機能かもしれなくても。

 

「あ、ユキカゼくん」

「ん?」

 

 弓森さんにつられて視線を向ければ、ふらふらと此方に歩いてくるシルエット。

 淡いブルーのシンプルなスイムショーツに、薄い長袖のシャツ。心なしか草臥れているように見えるモブ男だ。

 

「気合い入ってたねー。休憩?」

「ありがとう。うん、ちょっとね」

「おー、いい飲みっぷり」

 

 弓森さんからポカリを受け取ったモブ男は、よほど喉が乾いていたのかゴッキュゴッキュと半分ほど一気に喉へ流し込む。

 

「ぷはっ。ところで、弓森さんたちはビーチバレーいかないの?」

「あれ、人数いっぱいじゃなかったー?」

「そうだったんだけど、さっきので鬼塚くんが無双しちゃったから出禁に……」

「あー……ユキカゼくんも派手に吹っ飛んでたもんねえ……どうする美上さん?」

「私はパス」

「じゃあ、私が鬼塚くんの代わりに入ろうかなー……っと、その前に所用を」

 

 チャーム関連の理由に加え、サキュバスは普通の人間の女の子ほどの身体能力しかないし、何よりこんなクソ暑い中あまり動きたくない。私はインドア派なのよ。

 

 クラスメイトのいるビーチバレーコートではなく、出店の屋台や脱衣所などがあるエリアへ歩いていく弓森さん。所用と言葉を濁していたしまあそういう事だろう。結構水飲んでたし。

 

「っと、隣に失礼」

 

 弓森さんが席を外したことで空いたスペースに、さらに人ひとり分の間隔を取ってモブ男が腰を下ろす。

 数秒の沈黙が場を満たした。そして、我慢しきれなくなって私が口を開いた。

 

「……なんでそんなぼろぼろなの?」

「……もしかして、ビーチバレー見てなかった?」

「ええ、興味ないもの」

「そ、そっか……。は、ははは……くぅ」

 

 服に覆われていない露出した肌……主に脚には至る所に擦り傷のようなものがあり、一応落としてきてはいるようだが、服には砂浜に全身突っ込んだかのように細かな砂が付着している。長袖の袖口から見える手にはテーピングががっちりと巻かれていた。

 海に来たのよね? 泳ぎに来たのよねこいつ? なんで怪我してるの? バレー選手でもそこまでテーピング巻かないんじゃ? 

 その疑問を口に出せば、少し顔を引きつらせながら力なくモブ男は笑った。いや質問に答えろ。

 

 それにしても、思いのほか早く二人きりになれるタイミングが来たわね。

 クラスで遊びに行くと聞いて本気で行くのやめようかと思い、クラスメイトの男どもが目を血走らせて私が更衣室から出てくるのを待っていたのを見て本気で来たことを後悔して、数人の女子から舌打ちされて本気で帰ろうかと思ったが、これもモブ男をチャームするためと思えば許容範囲内。

 

 夏とは魔の季節だ。サキュバスが活発になるとかそういう意味ではない。実際活発にはなるけどね! もうやだこのエロ種族。

 

 夏の魔力に囚われた一夏のアバンチュール。そんな話はそれこそ枚挙に暇がない。

 それはつまり、男女ともいっときの気分に流されてしまいやすくなってしまうということ。滾る情欲を制御できないということ。

 普段からセックスの事しか考えてない男子高校生ならより顕著だろう。

 美少女の私がそんなものに頼らなければならないのは癪だけど。

 

 だが、今この時間。それは攻めのタイミングだ。

 

 夏の海。下半身で物事を考える男と水着の絶世の美少女が二人きり。

 何も起きないはずがない! 

 

「……ねえ、何か感想はないの?」

「感想?」

「そうよ。せっかく美少女が水着を着てるのに何もないわけ?」

「いやでも、美上さんの水着見えないじゃん」

 

 はい、そうでした。

 チャームの対策も兼ねて今の私は水着の上からワンピースタイプのビーチウェアを着ている。当然水着など見えない。

 クラスの男子からは露骨にがっかりされたが、『いつもと違う美上さん……美しい……』と顔にも口にも出していたので溢れんばかりの魅力は健在。

 

 男は普段の装いと違う女の子の姿にドキドキするという。

 一回私服を見られたとはいえ、アレは目立たない地味な私服。対して今の私は透き通るような銀の髪も合わさって真っ白なワンピースを纏った清廉な印象を与える美少女。いつもの制服姿とはまた違った魅力がある。

 その証拠に何人かもう既にチャームしてしまったし。直ぐに解除したけどね。

 しかし、モブ男の態度は普段となんら変わらない。

 

 くっ、隣に清楚な美少女(外面のみ)がいるっていうのに……! 

 でもこれは想定済み。抱きついても反応しなかった不能野郎を今更格好でどうこう出来るとは私も思っていない。ムカつくけど。

 

 でも! 

 この夏休み、ほぼ引きこもり気味だった私はその有り余る時間をモブ男をオトすための研究に費やした! 

 どうすれば性的に興奮させられるのか。図書室のとき、どうしてモブ男は少し反応したのか。

 研究に研究を重ね、資料(ネット記事)を漁り、私はついにその答えにたどり着いた。

 

(モブ男のウィークポイント。それは……シチュエーションッ!!)

 

 図書室のときと、それ以外。

 一見明確な違いなど何もなかったように思われるその二つは、大きな差異を内包していた。

 谷間? いや、既に見せている。

 フェロモン? いや、普通なら中毒になるぐらいだ。

 透けブラ? これも別にあのときが初めてではない。

 身体的接触? もう何回も手を握った。

 あのとき確かに他とは違ったもの。それは……二人きりだったこと!!! 

 

 誰かを好きになり、恋をする。その膨大な感情を解き明かそうとするのは土台無理な話でも、気持ちの上澄み、心の表層を汲み取ることはできる。

 心が動く瞬間。ドラマティックだとか、恋に落ちるときだったり。それらを語るときにシチュエーションは外せない。

 

 テレビや漫画。友達の惚気やSNSで流れてくる匿名の投稿を見て。眠る前に、いつかに想いを馳せて。

 誰にでも、憧れ、焦がれるような場面や状況がある。

 

(なら、私はモブ男にそれを用意してあげる)

 

 今までの経験を推察すれば、自ずとモブ男のそれも分かってくる。

 他の人の目がある場所では反応せず、私とモブ男二人きりのときは反応した。つまり。

 

(こいつかなりの恥ずかしがり屋ね!)

 

 あーこれだから女の子に免疫ない男は! まあ私ほどの美少女にもなるとそれも仕方ないけど!? 

 だから私のチャームがかからないのは私に魅力が無いわけではなくて、単にモブ男が極度の緊張でそれどころじゃなかったってことなんだから! 本当ならその程度チャームにはなんら影響しないけどそう思わないとやってらんない! 

 

 それにしても、二人きり、か。ロマンチスト気質というかなんというか。お姉ちゃんみたい。

 

 何はともあれ、取るべき行動が決まったのならあとは実行するだけ。

 私はこいつをオトすために今日ここに来たのだから。

 

(っと、その前にせっかく海に来てるんだし……)

 

 振り返って、持ってきたバックからお目当てのものをゴソゴソと探す。

 それは楕円形の容器に入った乳白色のクリーム。日焼け止めである。

 

 背中に日焼け止め塗って──なんて。漫画、とくに少年漫画のラブコメでは良くあるシチュエーション。

 良くあるということは、それだけ世の男の求心力が高いということだ。

 試してみる価値はある。

 

「ねえ、ひとつお願いがあるんだけど」

「なに?」

「背中の方、上手く塗れなかったの。日焼けするのは嫌だし……コレ、塗ってくれないかしら」

「え?」

 

 瞠目するモブ男の手を取り、容器を渡す。その際しっかりと上目遣いをした後視線をそらすのも忘れない。

 片腕で胸を隠すようにすれば、ビーチウェアの上からでもわかる大きな胸が少し潰れて形を変えた。

 

 羞恥心の演出である。

 

(まあ、断るでしょうしねー)

 

 チャームはかけようとしているが、いつも通り魅了されないだろう。

 普通の男ならこの時点で日焼け止めクリームで両手をぬめらせて私の柔肌に触れようとしてくるだろうけど。勿論触らせないけどね。触られたくもない。

 

 チャームできればそれで良し。できなくても、恥ずかしがりのモブ男は断る。私にはプラスしかない。まあ、結果は分かってるのだからほんの戯れのようなものだ。

 怯む必要はない。今の私は可愛い水着も着てるしイケイケだ。日焼け止め塗ろうかと言っているのにビーチウェアを脱がないのは安心感の表れでもある。

 

 ふふふ、さながらボーナスステージみたいなものね! 

 スター状態のマリオのような心境で意気揚々と倍プッシュだ。頭の中ではあの特徴的なBGMが鳴り響いている。

 

「私の背中に、その白いクリームをつけて塗り広げるの。シミひとつない真っ白な背中に手のひらを重ねて、吸い付くような柔らかい肌をつつつーって撫でて。どう? まあ、無理には頼ま──」

「──分かった。日焼け止め塗ればいいんだね」

「──えっ」

 

 ピシリ──と。世界が凍ったような気がした。

 は? 今なんて言った? 

 

「じゃあ、ビーチウェア脱いで──」

「──えっ、ちょ、待って、え?」

「どうしたの? 脱がないと塗れないよ?」

「それはそうだけど、そうじゃなくて、え? 塗るの?」

「美上さんが塗ってくれって言ったんじゃん」

 

 なんで!? 

 少し不思議そうに私を見つめてくるいつも通りの黒い瞳に私は動天してしまう。

 そこは断るところでしょう!? 私に日焼け止めを塗るってことは、付き合ってもない女の子の背中をす、好き放題に触るって事と同じよ!? それもほぼ裸同然の!! 

 

 バカな……!? 自分からは私に触れてこないモブ男が……! あ、もしかしてチャームできてるの!? 

 それなら──! 

 

「ちょっとあの辺りの人混みを四つん這いで疾走して来なさい!」

「嫌だよ!? 日焼け止めからどうしてそうなるの!?」

 

 ちぃ! 分かってはいたけども! 

 え、ならこいつ素で言ってるの!? 男が女の子に触れる理由なんて性欲100%に決まっている。冗談じゃないわよ! 

 

(何か、何か言って煙に巻かないと……!)

 

 高速で周囲に視線を配る。たぶんモブ男には私の目が泳いでいるように見えるだろうけど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

 自分から触れるのは、いい。でも、男に触れられるのは──嫌だ。

 

 素早く目を走らせ、ある一点に気がつく。私の視線は容器に──具体的にいえば、容器を持つモブ男の手に止まった。

 テーピングでガチガチに巻かれたその手に。

 これだ!!! 

 

「──よく考えれば、その手じゃ頼めないわね。肌を傷つけてしまうかもしれないもの」

 

 なんか見た目からして強張ってるし、お肌を引っ掻きそうだし。

 自分から持ちかけた事だけど、断る理由としては結構良い線なのではないだろうか。

 ちょっとモブ男から距離を取るようにお尻を引きながらそう言えば、私に触れようと性欲を滾らせていたはずのモブ男はあっさりと引いた。あれ? 

 

「ん、そうだね。どうする? 弓森さん呼んでこようか?」

「……別にいいわよ。更衣室で一応塗ってあるし」

「そっか。……あれ、そういえば弓森さん遅いな」

 

 確かに。

 ふと、話題に上った弓森さんが席を立ってから既に10分は過ぎたか。財布は持って行ってなかったし、トイレにしては遅い。もしかして体調崩してた? 

 

「ちょっと様子を見てくる」

「待ちなさい」

 

 私と同じ考えに至ったのか立ち上がろうとしたモブ男の腕を掴む。

 うわ、筋肉かたい……っじゃなくて! 

 終業式の日の事を思い出して、頭をブンブンと振ってかき消した。

 

「もしかしたら女子更衣室にいるかもしれないし、私が行くわ」

 

 というか、弓森さんも仮に調子崩してぐったりしてるところはあまり男に見られたいものでもないだろう。

 ナチュラルに自分が行くとか言い出したわねコイツ……。家ではパンイチみたいだし私にオトされないし日焼け止め塗ろうとしてくるしやっぱデリカシーないわね(確信)

 

 麦わら帽子を目深に被り、ビーチサンダルに足を通す。

 うーん、陽光を海水が受け止めてキラキラ反射してちょっと眩しい。サングラス持って来ればよかったわね。

 そのまま行こうと一歩踏み出して、立ち止まった。

 日焼け止めでペースを乱されて忘れるところだった。今日、私はこれを狙ってきたのだから。

 

「ねえ、私の水着──みたい?」

 

 くるり、と振り返る身体の動きに合わせて、スカート部分がふわりと柔らかく浮き上がる。その端を摘むように僅かに持ち上げて、覗き込むようにモブ男の顔を見つめた。

 虚をつかれたように固まったモブ男は一瞬顔を朱く染めて──。

 

 ボキッ。

 

「何今の音!?」

 

 突如、弾けるような乾いた音が鼓膜を撫でる。

 まるで小枝が踏みつけられたときのような……でも何故か本能的に危険信号で背筋がぞわぞわするような音だ。うう、耳にへばりつくみたい。

 

「さあ? 変な音だったね……。うん、美上さんの水着はちょっと見てみたいかな。あ、僕は今からテーピングを巻き直すけど気にしないで」

「気にはしないけど……アンタボクサーにでもなるつもり?」

 

 どんだけテーピング巻くのよ。繰り返すけど泳ぎに来たのよね? 

 

 でも、そうか……。『ちょっと』っていうのは腹立つけど、私の水着、見たいのね。

 まあ、当然よね! だって私美少女だし! 超可愛いし!! ナイスバディだし!!! 

 美しいものを見たくなるのは当然の欲求よね! なーんだ! やっぱり私のこと可愛いって思ってるんじゃない! 

 

 にまにまと緩みそうになる顔を意識して抑えて、私はとんっとステップを踏むようにモブ男との距離を一歩、二歩と詰める。

 そうして、「えっ?」っと驚くモブ男の耳元へ精一杯背伸びして口元を寄せて。

 

「──なら、見せてあげる。二人きりになれる場所で、貴方にだけ、ね?」

 

 ボキッ。

 

「だから何この音!?」

「さあ? 不思議だね」

 

 再び弾ける乾いた音。

 ぶるるっと震える背筋。何故か凄まじい痛みを想起した。

 高鳴るような雰囲気が最初からなかったように霧散する。

 くぅ……! 的確にイイところを邪魔するように……!! 誰よこの音だしてるやつ!? チャームしてやるから出て来なさいよ、もうっ!! 

 

 そうして、釈然としないものを抱えつつ、私は弓森さんの様子を見に脱衣所の方へ向かったのだった。

 まあ、私を慕ってくれるような変な人だし。ちょっとくらいなら心配してあげてもいいんだからねっ。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

「くぅ……いってぇ……泣きそう……早く固定しないと……っ」

 

「そういえば確か、バッグに水澄さんがくれた塗り薬が……」

 

「……あ、更衣室に置いてきちゃってた」

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 脱衣所。

 売店。

 女子トイレ。

 

「もう戻ったのかしら?」

 

 順に回ってみても、弓森さんを見つけることは出来なかった。

 すれ違いになったのかしら? 

 いくら露出を抑え、麦わら帽子で顔を半分ほど隠しているとはいえ……それでも男は体型や雰囲気で判断してくる。ナンパされるのも煩わしいので私も戻ろうか、と踵を返したときだった。

 

「や、やめてくださいっ! あの、本当に迷惑なんですっ……!」

「いいじゃんいいじゃん、俺たちとちょっと遊ぼうよ」

「そうだよ〜、絶対楽しいから!」

 

 ん? 

 切羽詰まったような……怯えを滲ませた、耳に馴染み始めている声。

 後ろ髪を引かれるようにその声の方へ足を向ける。

 そうして、トイレの裏側、建物に挟まるように奥まった場所にあるそこで。

 

「やめて、離してください……っ!」

「ちょっとだけだから! ちょっと俺たちと遊んでくれたらいいから!」

 

 弓森さんが二人の男たちに挟まれるようにして腕を引かれていた。

 

「うわぁ……」

 

 うわぁ……。

 思考が口からまろび出るほど呆れてしまう。

 最近は少し忘れかけていたけど。

 

(男なんて、こんなもんよね。──ほんと、昔と変わらない)

 

 すぅっ、と。

 自分の心が冷めていくのが分かった。

 撓みかけていた心に氷の芯が通り、凍てついていく。

 本当に馬鹿みたいだ。いったい、自分は何を期待していたのだろう。

 男はケダモノだ。セックスが出来るならそれだけで我を失う哀れな生き物だ。

 

 ──小学生の女の子にだってどろどろに濁った劣情を吐き出そうとするゴミだ。

 

 それは、モブ男だって。あいつだって、男だ。雄だ。

 何故かチャームにかからないけれど。あの柔和そうな笑みの下で、どんな獣欲を隠しているのかなんて分かったものじゃない。

 

 麦わら帽子を手に持ち、私は小さく息を吐き出した。

 

「ちょっと、そこのお兄さん方」

「あん? 誰──」

 

 ──ピタリ、と。

 私を見た瞬間、弓森さんの腕を引いていた男たちの動きが機械のように静止し、糸の切れた人形のように地面へと倒れた。急に力を抜かれた弓森さんが体制を維持しきれずに尻餅をつく。

 

 サキュバスの種族能力、魅了。

 

 私のチャームは自我まで蕩け犯しつくす。私に全てを捧げる都合の良い人形にするなど造作もない。

 今、男たちには少し眠ってもらっている。

 

「美上ざんっっ!!!」

「ちょっ……あー、もう大丈夫よ」

「こ、怖かったよー……! 本当に、怖かった……!」

「……はいはい。もう大丈夫だから」

 

 張り詰めていた心の糸が切れたのか、大きな瞳に涙を浮かべながら抱きついてきた弓森さんを受け止める。

 正直暑いし、ちょっと強く抱きしめ過ぎなので苦しいけれど。

 

 どうあがいても力で敵わないような男に無理やり押さえ付けられる怖さは私も知っている。

 

 だから、私の胸元に顔を埋め、ありがとうと涙を流す弓森さんの頭を……慣れてないからぎこちなかったとは思うけれど、優しく撫で続けた。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

「……落ち着いたかしら」

「ひぐっ。うん、もう、ひっく、大丈夫……あの時も、今日も、本当に、ありがどう……!」

 

 時間にすれば約1分ぐらいか。

 真夏の炎天下。海水浴シーズン真っ只中。

 いくら日差しが遮られてるとはいえ、風も通り抜けないような此処は抱き合うには少々どころではなく暑い。程なくして弓森さんは名残惜しそうに私から離れた。

 まあ、暑く風通しも悪いからこそ私のフェロモンも最大限に効いたのだけれど。

 

「じゃ、一度顔を洗ってから戻りましょうか」

 

 今更だが、エルフが化粧を嫌う種族性で良かった。流石に涙を布地で擦るといくらウォータープルーフとはいえ崩れるかもしれないし、私のウェアにも色がつくかもしれない。まあ、仮にそうなったとしても同じようにしたけれどね。

 

(べ、別に初めてのと、と、友達だからとかじゃないんだからねっ!)

 

 内心で誰に対してのものか分からない言い訳をしつつ。

 弓森さんの手を引くように歩き出した、その時だった。

 

「──ッ!」

「──きゃあっ!?」

 

 どん、と弓森さんを突き飛ばす。次の瞬間、私は重く、硬いナニカに叩きつけられるように押し倒されていた。

 

「はぁ……はぁ……、女、俺の、俺だけの、極上の……雌ッ!!」

 

 私の両腕を抑えマウントポジションを取るように上乗りになったモノ。それは、金髪の男だった。

 私のチャームにより眠っている男たちではない。グループだったのか、それともたまたまだったのか。

 新しくこの場に来たひとりの男が、私の魅了により堕ち虜になっていた。

 

 だが、此処まで我を忘れるのは尋常ではない。そうならないように私は普段から最低までチャームの出力を抑えていた。

 なのに、何故か。理由は簡単。そんなの直ぐにだって分かった。単純な話だ。

 

 この二ヶ月。毎日のようにモブ男に全力全開でチャームをかけようとしていた私は。

 自分のチャームがどれほど強力なものか身に染みて理解しているにも関わらず、モブ男にするのと同じように、この場でチャームを使ってしまっていたのだ。

 

 チャームによる暴走状態。それは心の底、骨の髄までサキュバスに魅了され、何をしてでもその雌を欲する精神状態のことをいう。

 

 対処方法は、もう一度チャームをして上書きをするか、何か別の命令を下してやればいい。サキュバスにとっては呼吸をするように簡単な事だ。

 なにしろ、サキュバスの中にはワザと暴走状態にして楽しむ者もいるのだから。

 

 でも。

 

「──ひ、ぁ、あぁ……、い、いや……、いやっ、いやぁっ!!」

 

 私には、そんな簡単な事が出来なかった。

 骨が軋むほど強く握られている両腕が。燃え滾るような獣欲を吐き出す荒い息が。のし掛かられ潰れそうになるぐらい圧迫されている下腹部が。全身に叩きつけられる、男の、雄の性欲が。

 私にとって、それは、頭が真っ白になり震え上がるほどに恐ろしいものだった。

 

「美上さんを離し──づ!?」

 

 男を突き飛ばそうとした弓森さんが、無造作に振るわれた男の手に打ち据えられる。それだけで、小柄な弓森さんは地を滑るように倒れた。

 

「──ッ!!」

 

 自由になった片手。それで咄嗟に男を押して、逃れようとした。

 でも、男と私の筋力差は絶望的で微動だにしない。

 お腹のあたりに手をついた感触で分かった。硬い。柔らかな女の子のそれとは違う、男の、それもそれなりに鍛えている男の筋肉の感触。

 

「はぁ、はぁ、あ、俺の、俺だけの……! 女、女ぁ……!!」

「いやぁっ! やめ、やめて、やめてぇ!! いや、いやぁ……」

 

 そんな私の抵抗が気に入らなかったのか。男は私の手の倍はありそうな大きな手で私の両手首を掴むと、片手でそれを地面とサンドするようにして固定した。

 フリーになった片手で私の胸を押し潰すように触る。

 ぐにゅりと片胸の形が歪む。爪が食い込む。吐き気が込み上げた。

 

 何度も、何度も。やめろと、今直ぐ離れろと命令を下している。でも、恐怖に乱れきった精神状態では上手くチャームを扱えない。なのに、オフには出来ない魅了の呪いは私と密着することでより男の興奮を高めていく悪循環。

 

 サキュバスには力がない。人間の女の子となんら変わりのない膂力しかない。

 性的な魅力に溢れ、雄を狂わす蠱惑の力があっても。

 あの時も、今も。こうして雄に筋力で押さえ込まれてしまっては、どうしようもないのだ。

 

 忘れもしない。9歳の時。

 お姉ちゃんと海で遊ぶ小学生の私に欲情した男たちに連れ去られ、私は──。

 

 そうだ。あの時から、ずっと。

 私は、男という生き物が──怖い。

 

「──っ!? やだ、やだやだやだッ、いやだ、それはやめて、手を、手を離してッ、ねえ、いや、やめてぇ!!」

 

 胸を潰していた男の手が私の腰に伸びる。そして、トップスをずり上げるように持ち上げた。地肌が覗く。お腹に男の興奮の熱気を感じた。

 何をしようとしているのか理解した私は必死に抵抗するも、私の力では僅かに身じろぎし足をバタバタと動かすので精一杯。どれも無駄な抵抗だ。それでも。それでも、本当に、それは、嫌だったのだ。

 

「──ぅ」

 

 私の頬を涙が伝う。肘のあたりまで脱がされたビーチウェアのトップスがその涙を拭き取った。

 

 現れたのは、シミひとつない肌に黒橡色のビキニ。トップスには一周するように花をモチーフにしたひらひらとしたフリルがあしらわれていて。

 

「──ぅ、ひ、く」

 

 それは、久し振りに買う水着に、心を弾ませながら、何時間も悩んだもので。

 今日それを着ることを、楽しみにしていたもので。

 

 たったひとりに、どきどきさせたいと、考えながら選んだもので。

 

 男の手が再び私の胸に伸びる。そして、邪魔だというようにフリルを引きちぎった。

 

「──ぅ、あ、あぁ」

 

 そこで、もう、耐えられなかった。

 止めどなく溢れる涙。男の手も、男の体温も、何もかも気持ち悪かったけれど、私の心を折ったのは──。

 

 やがて、鼻息を荒くした男の上体が落ちる。生温いタバコの臭いのする呼気が顔にかかった。

 

「やだ……」

 

 何をするつもりだ、なんて確認するまでもない。

 恋人がそうするように。肌を重ね合わせるときに、唇を合わせるのなんて、高校生なら誰だって知っている。

 

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 

 気持ち悪い。吐き気がする。こんな男にキスされるぐらいなら、いっそ舌を噛みちぎって死んでやるとさえ思った。

 

 でも、私には死ぬ勇気はなくて。せめてもの抵抗と背けた顔は、痛いぐらいに顎を掴まれて強引に固定されて。

 

(誰か……っ、誰か、誰か……っ! 助けて……っ)

 

 舌を入れたら噛みちぎってやる。そう、後ろ向きな決意をした──そのときだった。

 

「何やってんだお前ぇッ!!!」

 

 いつのまにか耳に馴染んでいた声が聞こえた。なのに、今まで聞いたこともないような声音だった。

 

 ぐん、と苦しいほどにのし掛かっていた重量が消える。

 慌てて起こした身体。その、目の前には。

 

 二ヶ月の間。どうやってオトしてやろうかと……ずっと見ていた背中が。私を守るようにそこにあった。

 

「ごめん。──でも、もう大丈夫」

 

 振り返らず。背中越しに告げられた言葉は、いつものような暖かさがあって。

 

「お前、それは、俺の女ぁ、俺のもんだぞ!!!」

「美上さんはモノじゃないッ!!!」

 

 爆発したかのような砲声は、初めて見る激情だった。怒られたことはあった。あったけど、ここまで怒っているのを見るのは、初めてだった。

 

 お互いに啖呵を切った直後、弾かれるように飛び出した両者が雄叫びをあげてぶつかり合う。

 振りかぶられた男の拳をモブ男が受け止め、全筋力を総動員した押し合い。

 迸る気合の咆哮は全身に重く響き、躍動する筋肉により身体が一回り大きくなったような錯覚に陥った。

 

 男と男の本気の喧嘩。

 初めて見るその光景に圧倒される。

 

「美上さんッ!! 大丈夫!? ──ぁ、ごめんね、ごめんね私、美上さんみたいにたずけられなくてぇ!!」

「……ぁ、弓森、さん?」

 

 呆然とする私の側に、モブ男が来た方向から息を切らしながら弓森さんが駆け寄る。

 大丈夫かと声をかけた彼女は、私の上半身を見て涙を流して抱きしめた。

 抱きしめているのも、抱きしめられているのもつい数分前と同じなのに。

 

「──ぁ」

 

 何故か、今度は、私が泣きたくなって。

 弓森さんに身を預けるように、また私も彼女の背に手を回した。

 

「美上さん!! 美上さあああん!!! ごめん、カッコつけたけどちょっとこれ無理かも!! なんかこの人すごい力強いんだけど!? 鬼塚くんクラスだよこれ!? 人間だよねこの人!? ……あ、よく見たら一本ちょこんってツノが……鬼のハーフか!! いやそれにしても力強いな!?」

 

 あの男とは違って、弓森さんの体温は心地よくて。

 とくん、とくんと律動する心臓の音が私を落ち着けていくようだった。

 

「待って待って待って、そこ指の骨折れてる……から……ッ! ぐ、ぐぎぎぎぎぎ!! 美上さん! 美上さああああん! ほんどごめん、お願いだから助けてください!!!」

 

 体温だけじゃない。弓森さんは本気で私の事を心配してくれていて。その気持ちが、何よりも嬉しかったのだ。

 小学生の頃のあのとき以来、男を恐れるあまり男を支配しようとして孤立した私に初めて出来た、大切な友達。

 

「ぐ、お、おおおおおおお!! 頑張れ僕! 負けるな僕! いつもこの倍の痛みとともに生きてるんだ! 今更指の一本や二本、骨の三本や四本なんて……!! 頑張れ頑張れ! 僕が痛みに屈する事は絶対にないッ!!」

 

「──ありがとう、弓森さん。お陰で落ち着いたわ」

「──うん。これぐらいしか私には出来ないから」

 

 そっと弓森さんから離れる。

 もう、大丈夫。恐怖に乱れきっていた心は平静を取り戻している。

 ……いや、弓森さんだけじゃない。

 

「ねえ」

 

 何かを叫びながら男と力をぶつけ合っているモブ男の背中。

 きっと、今。あんな事の直後なのに私がこんなにも安心しきっているのは。

 

「──守ってよね」

「──任せろォ!」

 

 その声に。言葉に。

 その姿に。背中に。

 私の心は……もう。

 

 多分、ほんの少しだけ。本当に本当に本当にほんのすこーしだけ、モブ男の存在を受け入れているんだなって。どうしようもなくそう思った。

 

 サキュバスの種族能力、魅了。

 

 男を蠱惑し、意のままにすることも出来る魔性の力。

 三度行使されたチャームにより男は眠り。

 

「──ふぅ。流石に全身バキバキだ……」

 

 力つきるように地面に座り込んだモブ男は疲れたように空を仰ぎ、私を見てあの柔和な笑みを見せるのだった。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 8月⁂日

 

 疲れた。この一言に尽きる。

 

 あの後、チャームした男たちはそこに寝かしておくことにした。

 モブ男は攻撃を受け止める事に終始していたので実質的に怪我がなかったのと……あの男もある意味被害者だからだ。

 私が弓森さんを見つけられなかった場合どうなっていたか……それを考えるとお腹の奥が熱くなるけど、実際は何もなかったのだからそれでいいと弓森さんが言ったのだから、それ以上私が何かを言うことも無い。

 あの鬼のハーフの男にしても、あそこまで暴走したのは加減を間違えた私の責任でもあるし。かといって許すのとはまた別の話だけどね。

 

 やっぱ海はロクでもないわね。サキュバスが行っていい場所じゃないのよ。お姉ちゃんは肌焼くぞー! って海行くこともあるけど、というか今日もサキュバス見たけど、私はもういいかな……。

 ……まあでも。ま、どうしてもっていうなら? 弓森さんや……ついでに、おまけしてモブ男も。どーしても私に来て欲しいって言うなら、まあ行ってあげなくもないけどね! 

 

 嫌なこともいっぱいあったけど……というか嫌なことしかないような勢いだったけど。

 お昼のバーベキューはまあ、楽しかったし。外で食べるかき氷も美味しかったし。弓森さんとはちゃんと友だちになれたし。……それと、モブ男も……いやこれは違うかな! 

 確かにちょーっと、ちょーっとだけカッコ……いやなんでもない。

 そういえば、私モブ男になんであんな引っ付くようなことばっか出来たんだろ。手を握るぐらいならそりゃ出来るようになってたけど、流石に抱きつくのはかなり心理的抵抗があったはずなのに。あの頃はチャーム出来ない驚愕と対抗心でいっぱいいっぱいでそれに気がつく余裕がなかったのかなあ? 

 今思えば終業式の日に抱きしめられたときも──

 

「──何書いてるの?」

「うひゃあ!? ちょ、何見てるのよ!!」

「この距離でノートの中身見れるわけないじゃん」

 

 駅と併設している大型ショッピングモールのカフェのひとつ。

 そのテーブル席の一角に私とモブ男は向き合うように座っていた。コーヒーを飲んでいるモブ男はどこか嬉しそうだ。あんた本当に見てないんでしょうね?

 お姉ちゃんがちょうど車で来ているというので、じゃあ乗せて帰ってもらおうとここで待つ事にしたのだけれど、どういうわけかモブ男も私と同じ駅で電車を降りた。

 

「あんたこの近くに住んでたの?」

「いや、十駅ぐらい先かな」

「なんでここで降りてるのよ」

「……電車代ってね、ボディブローのように後々響いてくるんだ……」

 

 どうやら電車代節約のために自転車で半分以上稼いだらしい。

 電車代ってそんな高くないと思うけど……ご家庭の事情なのかしら。

 海で疲れているにも関わらずこれから自転車を漕がなければならないと聞くと軽く同情してしまうけど、モブ男はずっと元気いっぱいだ。途中二時間ほど姿を消したがその後は普通にクラスメイトたちと遊んでいた。体力お化けねほんと。

 

「あ、ラインきた。お姉ちゃんもう来るって」

「ん、じゃあ会計しようか」

 

 それぞれ自分が頼んだ分を支払ってお店を出る。

 モブ男は「こういう時は男が……!」なんて言って払おうとしたが普通に断った。

 いや、電車代を節約してるような人に払わせるほど鬼じゃないわよ私は。しかもモブ男が頼んだの一番安いアイスコーヒー一杯だし。申し訳なさすぎる。

 

「じゃあ、僕は帰るね。またね、美上さん」

「ん。──あ、ちょっと待ちなさい」

 

 別れようとして、ふと。

 私に呼び止められたモブ男は不思議そうに首を傾げていた。

 

「あー……、なんていうか」

 

 私の手には最新型のスマートフォン。その画面に映るチャットアプリには、家族と、弓森さんの名前がある。

 まあ、その、なんというか。

 ……なんで、こんなに恥ずかしいんだろ。弓森さんと連絡先交換するときも、どきどきしたけど。そのときは、こんなに……心臓は、痛くなかった。

 

「んっ」

 

 結局、私は『連絡先を交換しよう』という言葉が言えず。

 猫のアイコンの、私のアカウントを写した画面のスマホをモブ男に突き出した。

 

「──ぇ、い、いいの……?」

「……いいからやってるの。それとも、私の連絡先はいらない?」

「い、いる! ちょっと待って……っ」

 

 スマホと私の顔を交互に見たモブ男が恐る恐るといった風に確認するのを、プイッと顔を背けながら肯定した。

 ……別に。そっちに見たいものがあっただけだし。熱くなった顔を見られたくなかったとか、そんなのじゃないし。

 

「〜〜っ!!」

「登録できたわね」

 

 帰ってきたスマホの画面には。新しくモブ男の欄が追加されていて。

 アイコンは家族の集合写真のようだった。いちにいさんしいごおろくしちはちきゅうじゅう………………じゅ、じゅうなな……!? 

 

「あ、お姉さん来たみたいだよ」

「え、ええ」

 

 実はサキュバスの姉妹というのは珍しい部類に入る。子を身籠もるとセックスできない期間がどうしてもできるし、いくらサキュバスといえど体型が崩れやすくなるからなんだけど。人間も大抵子どもは一人か二人、多くて五人とかだったような……流石に多過ぎない……? い、いや親戚一同とかそんな感じよねきっと! 

 

 カルチャーショックのあまりつい生返事をしてしまったけど、確かにお姉ちゃんがこっちに向かって歩いてきて──ん? 

 

「……何やってるのかしら」

「さあ……?」

 

 他人のフリをしたくなるような露出の激しいいつもの服を着たお姉ちゃんだったが、大きく手を振りながらこっちに来ていたのに何かに気づいたようにハッと硬直した後、一目散に踵を返して走って行ってしまった。

 

 これには私もモブ男も首をひねる。

 その十分後。

 

「ごめんね、サキ。お待たせっ」

 

 再び現れたお姉ちゃんは。

 露出はあるが、それはいつものような淫を押し出したようなものではなく、オフショルダーのオシャレの範疇にまで抑えられ。

 股下零センチかと言いたくなるようなショートパンツは膝上から計測できるようなミニスカートになり。

 

「一週間ぶりですね」

「うん! ユキカゼくんも居たんだね。サキから聞いたよ、海どうだった?」

 

 モブ男と話すお姉ちゃんは、髪をくしくしと気にするように触りながら、今まで私が見たこともないような笑顔を浮かべていた。

 

(──んん!?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読まなくてもいい登場人物紹介。

 

美上さん

今回割とひどい目にあった主人公。

男に対して見え隠れしていた攻撃性は恐怖の裏返し。9歳の夏の事件の後、美上さんが歪ながらも立ち直れたのはお姉ちゃんのおかげだったりする。今でも男は恐怖の対象だが、モブ男はその対象外にギリギリカテゴライズされた模様。やったねモブくん!

あと、大切な友達が出来てウッキウキしている。

 

モブ男

今回割とひどい目にあったヒロイン。指の骨コンプしような!

美上さんと連絡先を交換できた嬉しさのあまり自転車で爆走してズッコケた。

 

弓森さん

こいつはガチ。

 

お姉ちゃん

アップを始めました。

 

水澄さんの塗り薬

癒しの力を持つ水妖精の体液が使われた特注物。正確には癒すというわけではないのだがモブ男はそう認識している。骨折も数日で完治する優れもの。え?どこの体液かって?言わせんな恥ずかしい。




どうでもいいですが世界観はエロゲをベースにしています。
次回は、
・夏休みは終わらない(水着アゲイン)
・夏祭り、花火の音(おんぶイベント)
・栞、1枚目(水着売り場で美上さんが帰ったあとの出来事)
のどれかを予定しています。


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5ページ目 『お姉ちゃん』

 日が沈み徐々に夜が降りてくる。ビルや民家の窓から溢れた明かりや街灯の眩い白が一筋の線となって流れていく。

 お姉ちゃんが運転する車の助手席からぼうっと窓を眺めていた私は、おもむろに口を開いた。

 

「溜まってるの?」

「まあね」

 

 やっぱりなあ……。

 お姉ちゃんが家に帰ってきてから一週間と少し。その間お姉ちゃんは少なくとも私の知る限りでは誰ともセックスしてないのでエロエロ大魔神の下半身がむらむらサミットを開始していても不思議じゃない。

 

 サキュバスはエロいことに適性のある種族だ。適性があるということは、身体がエロいことに特化してるということでもある。

 言ってしまえば、サキュバスは……その、えっちな気分になりやすい種族なのだ。

 

 サキュバスとしては異端中の異端である男嫌いな私も根本的な生理欲求から逃れる事は難しい。サキュバスらしく生きるお姉ちゃんなら尚更だろう。

 

 とはいえ。

 

「妹のクラスメイト狙うのはやめてくれるかしら。倫理観とかないの?」

「サキュバスの間では男のレンタルとか普通だよ?」

「倫理観とかないのかしら!?」

 

 これだからサキュバスって種族は……! 

 どいつもこいつも性に奔放すぎるのよね……! お母さん然りお姉ちゃん然り!! 

 

「え? なになに? 珍しく執着するじゃない。男なんてゴミと同じだーってセックスもしないでずっとひとりでオナごふっ」

「下半身に脳味噌を侵されたセックスバーサーカーになるよりよっぽどマシよ」

「げほっ。お姉ちゃん運転中だから横腹に肘鉄はやめて欲しかった」

「信号で止まってたもの」

 

 でも確かに危なかったかも。反省。

 信号が青に変わり、新車特有の澄んだエンジン音と僅かな振動の後、再び車は走り出す。

 わざとらしく咳き込んだお姉ちゃんは、にやにやとイラッとくる笑みを引っ込めることもなく。

 

「ひとりでするのも限界来ちゃった? 大丈夫? お姉ちゃん手伝おうか?」

「……」

「じょ、冗談だって、冗談だからそんな怖い目でお姉ちゃんを見ないで。お姉ちゃん反省」

 

 横目で私をちらりと盗み見みたお姉ちゃんの顔がサッと青褪める。

 ふふ、どんな顔をしているんでしょうね? 自分では分からないけれど、青筋浮かぶぐらいイラッときたのだけは分かるわ。ふふふ。

 

 それから、特に意味のない会話が続き。

 程なくして家に着いた。車庫に車を入れ、ロックの外れた助手席のドアを開けひとつ大きく背伸び。凝った身体が解れていくようで気持ちが良かった。

 今はとにかくお風呂入って寝たい。シャワーは浴びたけど潮風で身体は何となくベタつくし……あ、あと水着のケアとお肌のお手入れも……。

 

「ねえ、サキ」

 

 これからやる事を頭の中で思い浮かべながら玄関のドアに手をかけたとき、お姉ちゃんの声が背中にかかった。

 振り返ると、私の後ろで俯いて佇むお姉ちゃん。数秒の沈黙の後、顔を上げたお姉ちゃんは車の中で見せたにやにやとした笑みで揶揄うように言った。

 

「好きな男のコできた?」

「天地がひっくり返ってもあり得ないわね」

「本当に?」

「本当もなにも知ってるでしょ、私が男のこと嫌いだって。あんな見た目の美醜ひとつでほいほい理性飛ばす獣に抱く情なんてひとつもないわ」

 

 私にとって男とは便利なツールに過ぎない。

 ……そう、そのはず、なんだけど……。

 断言した私の頭にぼんやりと浮かんだのは、誰かさんのモブ顔で。

 ぶんぶんと頭を振ってそれを慌ててかき消した。

 

 私の様子を見ていたお姉ちゃんは一瞬……色んな……それも、とても濃い感情を飲み込んだように唇を噛み締めて、常日頃の能天気そうな明るい笑顔を見せた。

 

「……そっか。そうだよね……うん、ごめんね、変なこと聞いて。さ、早く中入ろっ。今日はお母さんいないからお姉ちゃんがご飯作ったげる」

「私は出前でいいわよ。生憎胃袋が鉄製じゃないもの」

「何年前の話!? お姉ちゃん一人暮らししてるんだよ!? 料理もばっちりだよっ!」

「ないない。お姉ちゃんのことだから料理できる男を適当に捕まえて楽してるはずよ」

「うぐ……それは否定できない……」

「そらみなさい」

「いやだけど料理はできるからっ。作るっ! 私が作るから大人しく待ってなさい!」

 

 毛先ほども信じなかったのがよほど悔しかったのか、まくし立てるように啖呵を切ったお姉ちゃんはずんずんとキッチンへ。

 ……とりあえず胃薬の準備はしておこうかしらね。私は忘れないわよ、昔無理やり食べさせられたポイズンクッキング。

 

「何処にしまってたかしら……」

 

 キッチンから聞こえる鼻歌に戦々恐々としながらも、荷物を置いて胃薬を探し始める。

 その頃にはもう、数分前のお姉ちゃんの表情は何かの間違いだったと、忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 8月⁂日

 

 そんなバカな……お姉ちゃんの料理が美味しかった……ですって……!? 

 

 

 8月Å日

 

 色々あった海から一夜明け。

 最悪。ちょっと日焼けしちゃってた。ヒリヒリする。むう。

 お姉ちゃんのジェルを借りて塗り込んだけどシミになったりしたら嫌だなあ……。

 

 

 8月∂日

 

 お母さんが帰ってきた。

 ……やけに艶々して帰ってきたのでまあそういう事でしょうね。今に始まったことじゃない。流石に三人目は……ないわよね? お母さんももう歳なんだから自重して欲しい……。歳って言っても三十代だけど。

 

 

 8月仝日

 

 昼間は茹だる暑さだけど、朝や夜は少し涼しくなってきたような気がする。

 割れんばかりの蝉の声もどこか元気がない気もするし、そろそろ夏も終わるのかな、なんて。

 ……あ、夏休みの宿題終わってない。

 

 

(数日日付が開く)

 

 

 8月◎日

 

 やッと終わった……。弓森さん本当にありがとう……! 

 ここ数日はお姉ちゃんを家から追い出して弓森さんと勉強漬けだった。とはいえ、弓森さんはもう夏休みの宿題終わってたので主に私の宿題を見てもらってたのだけれど。

 真面目に勉強してこなかったのが祟ったわね……最近宿題を自分でやるようになってなかったらどうなってたことやら……。

 ……いや、そもそもあいつのせいでこんな苦労することに……! 許すまじ! モブ男! 

 ……友達と勉強会ってちょっと楽しかったけど! 楽しかったけど! それはそれ! これはこれよ! 

 いつまでたっても連絡してこないし! 私の連絡先よ!? もっと私に気に入られようと尻尾振って連絡してきなさいよ! 

 

 

 8月⇔日

 

 本当にメッセージ来ないわね……。え? 私と連絡先交換したのよ? 男なら誰もが欲しがる私の連絡先よ? プライベートチャンネルよ? 

 これじゃお姉ちゃんから借りた漫画で見た、私を必死に誘うモブ男をバッサリ一刀両断して「ふ、おもしれー女」ってモブ男が更に私を意識する策が使えないじゃない! 

 もういっそこっちからメッセージ送るか……ってないない、それだと私がモブ男と話したくて話したくてしょうがないみたいじゃない。あり得ないから。

 

 

 8月§日

 

 来ないなあ……。もう夏休み終わっちゃうのに……。図書室行ってみようかな……。

 

 

 8月∫日

 

 そもそもモブ男をオトすために確実に会えるよう交換した連絡先がこれじゃまるっきり意味ないじゃない。でも私から送るのはノー。私って美少女だし? 普通は男の方から欲望下心丸出しで声かけてくるものでしょう? 

 だから早くメッセージ送って来なさいよばか。

 

 

 8月‡日

 

 お姉ちゃんが帰った。大学の方で何かあるらしい。

 こっちでは毎日少なくとも早朝には家に帰って来てたし、というかそれ以前に家でゴロゴロしてる日が多かった。結局セックスもしなかったみたい。あのお姉ちゃんが二週間もセックスしなかったことに驚きを隠しきれない。

 これは彼氏さん……もしくは彼氏になる人は大変だろうなあ……。搾り尽くされて廃人にならないことを祈るばかりだ。

 

 

 8月♪ 日

 

 リビングのソファでゴロゴロしてるとお母さんに呼ばれた。

 浴衣を着てみないかって。特に断る理由もなかったので素直に着てみた。

 淡く色味がかかった白地の布を彩るように白、青、紫の朝顔が散りばめられていて、私の銀の髪とも相まってとても涼しげな趣になり可愛かった。

 ふふん、さすが私。

 これはもともとお姉ちゃんのだったんだけど、お姉ちゃんは自分で新しいの買ったから私にくれるって。

 ……後でお礼のメールぐらいはしてあげる。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「夏祭り?」

 

 ぽけぇっとテレビを見ながらアイスを食べてたら、洗濯物をたたむお母さんからそんなことを言われた。

 時刻はお昼を少し回った頃。九月に差し掛かっているとはいえ、まだまだ溶けるような日差しの猛威は続いている。

 

 この辺りの地域では毎年八月の第四土曜日に夏祭りを開いている。県や企業に募金を募って開催するそこそこ大きいお祭りで、約千発以上上がる打ち上げ花火が有名でわざわざ他県からお祭りに来る人もいるぐらいだ。

 

 壁に掛けられているカレンダーをみれば、確かに今日は八月の第四土曜日。お姉ちゃんの字で花火大会! と書き込まれていた。

 

 夏祭りねー。

 私の家は会場からそこそこ距離があるので電車を使っての移動になる。車はむり。混みすぎて動かないし駐車場はどこもいっぱいで身動きが取れなくなるもの。

 

 つまりそれだけ多くの人が集まるという事だ。美し過ぎるあまり男をチャームしてしまう私が行っては半ばテロに近い。まあ私ぐらいになると慣れてしまってチャームすると同時に即解除なんてお手の物なんだけどね。

 

 ただ……夏祭りとデートは切っても切り離せないもの。

 海のときもそうだが、他人の男が私に惚れると面倒臭いことこの上ない。女の子はチャーム出来ないので本当に面倒臭い事になる。

 私のような美少女を好きになるのは仕方のない事だけど、問題はチャームにかかるとそれが態度に出る事だ。

 見惚れるぐらいならまだマシ。酷い時は直ぐそばにパートナーがいるのに言い寄ってくる。

 

 私にチャームする意思がない……私を見ただけのチャームなら大した強制力はないのだけれど……夏祭りに女ひとりって状況が雄の何かをくすぐるんでしょうね。あーやだやだ。

 

 自分の中で結論を出し、面倒だから行かないと言おうとした──そのとき。

 

 ピコン、と軽い電子音と同時に震えるスマホ。

 表示された画面にはメッセージの差出人のアカウント名と、その内容が記されていた。

 

 

 

 From.モブ男

 >>美上さん、良かったら今日の夏祭り一緒に行きませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくても良い登場人物紹介。

 

 美上さん

 主人公。中々メールできない系サキュバス。

 自分が既に「ふん、おもしれー男」ムーブをかましている事に気が付いていない。

 どれぐらい持て余しやすいかというと高校生男子なんか目じゃないぐらい持て余しやすい。サキュバスだもんね、仕方ないね。

 

 モブ男

 ヒロイン。中々メール出来ない系思春期男子。

 悩みに悩み抜いた末に美上さんをお祭りに誘う。彼も色々考えてたんだろうけど当日に誘うのは辞めような。

 美上さんのチャームが他とは違う事をまだ知らない。

 

 お姉ちゃん

 彼氏もしくは彼氏になった人はとりあえず生きてはいます。




長くなりそうだったので分割。
八月中に6ページ目を投稿したい。夏終わっちゃいますし。

あと、最近のあれこれを見てR-18に移動するかちょっと考えてます。何が変わるかと言えば、今まで我慢してたエグ味のある下ネタが時折入ってくるぐらいです。あと、エンディングで致す場合はキングクリムゾンされないぐらい。


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6ページ目 『夏祭り』

 ふわりと頰を撫でる風が運ぶ匂いに甘みがある気がした。

 離れていても聞こえる喧騒に、空気に乗って波のように広がる高揚感。提灯の赤らんだ光がよりそう思わせているのかもしれない。

 

 昔に何か凄い事をしたらしい人の銅像の周囲には、私と同じように待ち人来ず状態の人々がスマホと周囲を交互に見ていて何処か落ち着きがない。

 銅像の側のベンチに腰掛けた私はスマホに表示された時間を見てひとつ溜息を吐いた。

 

「早く来すぎたわ……」

 

 なんと待ち合わせ一時間半前である。

 

 モブ男から夏祭りの誘いが来たとき、私には断るか断らないかの二つの選択肢があった。

 手間を考えると断る一択だったが、それに待ったをかける私がいたのだ。

 

 夏。それは人が浮き足立つ季節。

 祭り。それは人の理性が緩む催し。

 美少女。それは雄が求めてやまない至高の存在。

 

 夏。祭り。美少女。

 この三つが揃ったときの化学反応はタイフーンの如く! 

 

 あの不能野郎も一夏のアバンチュール三大要素詰め合わせセットには耐えられまい。

 海では色々あって散々だったけど今日こそオトす! モブ男破れたし! 

 

 他にもまあ、夏祭りに来た理由はあるけど。

 

「おい、あの子めちゃくちゃ可愛くないか?」

「ふあぁ……顔にクレオパトラが宿ってる……」

「泣く子も惚れる顔面美……」

 

 スマホで時間を潰していると、気が付けばヒソヒソとした話し声と視線が多くなっている事に気が付いた。

 

 ふふん、まあ当然でしょうね。

 只でさえ美少女の私が、昨日合わせた浴衣を着ているのだから。

 白の布地に咲く色取り取りの朝顔。普段はクセなく腰の辺りで流れているロングの髪は、くるくると巻くように後頭部で纏めてかんざしで止めてある。

 日に焼けて健康的な肌色を覗かせる素足は薄赤色の鼻緒が可愛い下駄に乗せている。

 夏祭りパーフェクトスタイルだ。

 

 ……ちょっと胸がキツいけど。お母さんはこんなものだって言ってたけど緩めたい……暑いし。

 

 可愛い私を網膜と記憶に焼き付けたい気持ちは分かるが、いつまでもジロジロと見られるのはあまり気分が良いものでもない。

 まだ見られるだけなら良いが、近くにいた男グループのひとつが何やら私を見て騒いでいる。

 断片的に聞こえてくる会話からして誰が私に声をかけるか囃し立てあっている、と言ったところだろうか。

 

 チャームしないように限界まで抑えてるとこういうのも面倒くさいのよね。

 制服、ましてや水着と比べるとかなり露出が抑えられている分見ただけで理性飛ばすほどではないが、露出の過多で変じるほど私の可愛さは安くない。露出してようがしてなかろうが美少女は美少女なのだ。

 男のナンパに女が真っ当に付き合ってやるのも馬鹿らしい。適当にチャームして何処かに行って貰おうかしら。

 そう考えて、軽くチャームをかけようとしたとき。

 

 見知った顔が此方へ歩いてくるのが目に入った。

 その人物は私を見つけると驚いたような顔をした後、小走りで駆け寄ってくる。

 

 無地のオフホワイトのTシャツに黒のチノパンと、美少女を誘っておいて正気かお前と言いたくなる服装のモブ男だ。

 

「ごめん、待たせちゃった? まさか一時間も前に来てるとは思ってなくて……早いね、美上さん」

「混む前にお母さんに車で送ってもらったのよ。そ、れ、よ、り……」

 

 正直服装について少し物申してやりたい気持ちは山々だったし、浴衣を褒めろって思ったけどそれをぐっと飲み込んだ。だって私がそれを期待してたみたいに思われたら嫌だし。

 

 だから、モブ男に向かって右手を伸ばして、一言。

 

「今日は私を楽しませてくれるのでしょう? 退屈させないでよね」

「うん、精一杯頑張るよ」

 

 これが、私が夏祭りに来たもうひとつの理由。

 お祭りに誘う最初のメッセージのあと、すぐに二通目が来たのだ。

 

 ──私と行きたい場所があるから、と。

 

 私のスマホを覗き見していたお母さんはきゃーきゃー騒ぎ出したけど無視して話を聞いてみれば、私でも楽しめるお祭りのエリアがあるとかなんとか。

 チャームの関係で基本的に人が多い場所は好まない私が楽しめる場所が、約千発も花火を打ち上げる規模のお祭りであるとは思えなかったけれど、そこまで言うなら行ってやろうじゃないかということである。

 モブ男をオトすって目的もあるしね。

 

「予定より早いけど行こっか。花火まで出店見て回ろう」

「ん」

 

 特に異論はないのでモブ男の後をついていく。

 十秒ほど歩いたところで、不意にモブ男が立ち止まった。

 

「えっと、その浴衣可愛いね。髪も、凄く似合ってる」

「……ナンパはお断りよ」

「違うって。素直な感想」

「そう。まあ、私が可愛いのは当たり前のことだけれどね」

 

 赤らんだ提灯の光に照らされた瞳が私を見つめて、破顔する。

 私が可愛いのはただの事実で、当たり前の事で、今まで何万回も言われてきた事で。

 その筈なのに。

 何故か、胸の奥が甘く疼いた気がした。

 

 ……可愛いって思ったならもっと早く言いなさいよね。気の利かないやつ。

 

 ……ばーか。

 

 

 

 

「ところであんたはなんでこんな早い時間に来たの?」

「あー、早く来ないと自転車止める場所なくなっちゃうからさ」

「……あんたの家って確か」

「……まあ最近は夕方も涼しいしそんなに大変じゃないよ」

「体力お化け……」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 モブ男がなんで私を夏祭りに誘ったのか。

 それが分からないほど私は鈍くはない。

 

 先日の海の一件。あれに責任のようなものを感じているのだろう。

 メールの一文一文から私に楽しんでほしいという意思が読み取れた。

 実際、直後は私が気にせずに振る舞えと言うまでずっとしょぼくれてたし。

 

 ……罪悪感を抱えたままじゃたたでさえ効かないチャームがより効かなくなるかもだし? 

 だから私は仕方なくこうしてモブ男の自己満足に付き合ってやっている。

 なんて健気で麗しい美少女。

 

 そんな訳でモブ男に先導されて屋台が立ち並ぶ道を歩いて約十分。

 

「……一応聞いておくわね。なにここ」

「サキュバスエリア」

「サキュバスエリア!?」

 

 連れてこられたのは怪しげなネオンの光溢れる出店がずらりと並ぶ一角だった。

 毒々しいまでのアダルティックな色合いの外装が施された店の構え。その前では浴衣を着崩したナイスバディのサキュバスたちが客引きをしている。一応屋台だから看板娘になるのかしら。

 ……いやそんな事はどうでもよくて! 

 

「ねえ、お兄さん。ん……ちゅ、ぢゅる……ぢゅ、ちゅっ。あ〜ん、ふ、チョコバナナ……買ってかない?」

「ん……んっ、ん……んくっ、ぷはっ。ちゅる、ほ……あ、ふふ、ラムネ、冷えてるよ」

「あんっ、や、だめ……そこっ、あっ! 型抜きの……ん、楊枝で……あんっ! 弱いとこクリクリしちゃ……んっ、だめっ、出ちゃう! 型番くり抜かれて粉が出ちゃううっ!」

 

 あそこのサキュバスはチョコバナナをじゅぽじゅぽ口の中に出し入れして! 

 そっちのサキュバスは見せつけるように胸の谷間に溢れたラムネを掬って舐めて!! 

 そこのサキュバスに至っては型抜きやってる男の耳元でなんか喘いでるし!!! 

 

「もう一回言うわね──なにここ!!?」

「夏祭りのサキュバスエリアだよ」

イメクラかなんかの間違いでしょう!?」

 

 数えるほどしかお祭りに行った事はないけど、これが普通のお祭りの光景とは違う事ぐらい分かる。

 こいつ正気なの……!? 女の子誘って、右を見てもサキュバス左を見てもサキュバスのエロトラップダンジョンと化した一角に来る!? 

 

「というかそもそもサキュバスエリアって何? このお祭りはいつから公営風俗になったのかしら。……まさか私を連れてきたのも」

「違うよ!? ここは去年一昨年とサキュバスのお店が……えっと、色々あって問題視されて、今年から纏められたんだって。だからちゃんとした公式のだから! 全年齢だから!」

 

 ドン引きしたジト目で睨め付けると、モブ男は慌てて弁解の言葉をまくし立てる。

 

「ほら、ここなら美上さんの他にもサキュバスがいっぱいいるからさ、美上さんも気が楽かなって思って……!」

 

 ……まあ。

 確かにここまでのエロエロ空間なら、いくら私が美少女といえど不躾な視線を向けられる事……ましてやチャームをかけてしまうなんてこともないだろう。

 サキュバスは例外なく美しい容姿を誇る。露出していないサキュバスより露出したサキュバスという事だ。ほんとこれだから雄は……。

 

 ……でも、一応私の事を考えた末のチョイスなのね。

 

「……とはいえ流石にこれはないわね。ドン引きよ。頭おかしいんじゃないの。普通女の子連れて男の獣欲とサキュバスの性欲を煮詰めたような空間には来ないわよ」

「うぐ、やっぱりかあ……」

「やっぱり? 自分でここは無いって判断したのにここに来たの? あんた本当に私を……」

「違う違う! 本当に違うから!? 美上さんもここなら楽しめるってある人に聞いて……!」

 

 ある人? 

 私の趣向を知る人なんて殆どいない。それこそ家族か弓森さんぐらいで……。でも弓森さんがこんなどこまでレーディングを攻められるか選手権みたいな場所を勧めるとは思えないし、他にモブ男と面識のある人といえば──。

 

 ………………。

 

 そこまで考えて、ひとりの人物が思い浮かんだ。

 恐る恐るモブ男に尋ねる。

 

「ねえ、そのある人って」

「美上さんのお姉さん」

 

(お姉ちゃん──ーっ!!!!)

 

 予想通りの人物に思わず内心でシャウト。サムズアップするお姉ちゃんを脳内でぶっ飛ばす。

 だと思ったわよ!!! 消去法でお姉ちゃんしかいないものね! 

 

 よくよく考えてみたらカレンダーには今日の日付にお姉ちゃんが印をつけていた。

 もしかしなくてもこっちに帰ってきたのは今年かららしいサキュバスエリアで何かする予定だったから? 無駄に行動力はあるし十分あり得る。

 

「……前から気になってたんだけど、なんであんたとお姉ちゃんが面識あるのよ」

「美上さんがお姉さんと水着買いにきてたときに少しね。あの時、美上さん先に帰っちゃったから」

 

 あの時か。言われてみればその日はお姉ちゃんの頭のネジが外れた水着選択が私の趣味だと思われたくなくて帰った。お姉ちゃんが家に帰ってきたのは私よりだいぶ後だったので何をしていたのかと思えば、モブ男と関係を持っていたのか。

 

 ……いやちょっと待って。

 いやちょっと待って(一秒ぶり二回目)

 

 海に行った日、お姉ちゃんは欲求不満からモブ男を狙っていた。でも、二人はその一週間前にはすでに出会っていた……? 

 あのお姉ちゃんが一週間も我慢する……? そんなバカな、あり得ない。狙った男は即ぺろりのあのお姉ちゃんが……! 

 

 と、ここまで考えてから気付いた。

 モブ男にはチャームが効かないのでお姉ちゃんもいつものようにオトせなかったのだろう。ふう。

 

 ──ん? 

 

「どうする? 美上さんが嫌なら場所を変えて──」

「──え、あ、そうね、確かにここなら普段の煩わしさはなさそうだから別に良いわよ」

「そっか。じゃああそこからみて回ろう。……一応、全年齢らしいし、うん。全年齢だよね?」

「知らないわよ……」

 

 ぽわっと心に広がった安堵に似た感情。それに疑問を覚えるより前に、モブ男に声を掛けられた事で感じた引っかかりは霧散した。

 

 際どく、されど程よい布面積を確保した浴衣に身を包むサキュバスたちを見渡して自信なさげに呟くモブ男の後ろをついて行く。

 ま、折角のお祭りだし。ちょっとコンセプトが頭狂ってるけど、楽しむとしましょう。

 

 

 

 ──そう思っていたのだけれど。

 

 

 

【輪投げ】

 

「あら、あらあら。お兄さん、お兄さん。そこのお兄さん。輪投げ、やっていかない? このまーるい輪っかをね、えいって投げて引っかかったら景品ゲットよ」

「あれ? でも何も引っかかるものがないような……」

「あらぁ、あるじゃない。お兄さんの目の前に……ほら♡二つ、輪っかを掛けられそうな引っ掛かりが♡」

「次行くわよ」

「わっ、ちょっと美上さん!?」

 

 巨乳(模型)に輪投げさせようとする変態に。

 

【金魚掬い】

 

「おー、夏って感じだね。でも金魚がいないなあ……」

「ふふ、不思議? 金魚なら今から出すのよ……ほら、しーこ♡しーこ♡」

「あ、金魚が水槽から管を通って出てきた」

「次ぃ!」

「え、ちょっ、美上さんっ、引っ張らないでっ」

 

 水槽に取り付けられた管をなめかましく扱き始めたキチガイに。

 

【射的】

 

「よーく狙って……そう、そうよ、しっかり狙って撃つの。ウチが耳元でカウントダウンしてあげる。五……四……三……二……一……零ッ零ッ零ッ!! ほら、撃っちゃえ♡ウチのカウントダウンで情けなく無駄撃ち射的しちゃえ♡」

「ここからだとよく聞こえないけどお店の人が近くでアドバイスしてくれてるのかな?」

「はい次ぃ!!」

「わっ、また!?」

 

 射的カウントダウンをやってる頭がイかれたのと。

 

「ロクな店がない……!!」

 

 一通り見て回った私は、屋台から少し離れた場所に設置されている簡易ベンチに座り頭を抱えていた。

 サキュバスの頭のネジの外れ具合を甘く見ていた……!! 

 

 基本的にえっちな欲求を持て余してる種族である事を失念していた。年中頭ピンクの奴らが年齢制限に引っかからないものをマトモにできるはずもなかったのよ。

 その証拠に、外れたところにある茂みの奥からはセックスの気配を感じる。チャームは対象を性的に興奮させればさせるほど強力に効く。なにが全年齢だ、最初からこれが目的でしょう。なんで去年問題になったのかも薄々わかってきたわね……。

 

 しかもハタから見れば男と連れ歩いているように見えるからか、やたらとサキュバスが寄ってくる。

 サキュバスが気に入った男=精力の良い男の図式が成り立っているのか、どうにもサキュバスは他人の男に食指が動く傾向がある。モブ男も随分と多くのサキュバスに絡まれていた。

 

 ふん、私でもオトせないあいつをオトせるわけないでしょ。

 チャーム出来ないことに驚きながら恨めしそうに去っていく背中を見るのはちょっとだけ気持ちよかったわ。

 

「はい、美上さん」

「ん、ありがと」

 

 休んでいる間にモブ男が買ってきたラムネを受け取り一口だけ口に含む。

 既に蓋は取られていた。

 

「僕の顔に何か付いてる?」

「……なんでもないわよ」

 

 ほんと、なんでこいつはチャーム出来ないのかしらね。

 心臓の動きを自分で止められないように。男である以上チャームに掛からないなんて事はひとつの例外を除いて絶対にあり得ないのに。

 こいつは人間だからその例外って訳でもないし。

 しかも、私がこんなにもこいつの事を考えているのに、当の本人は『ラムネ美味し』なんて言いながら呑気に笑ってるもの。

 あー、なんか、もう。

 

「ほんとムカつく」

「えっ、た、楽しくなかった……? そうだよね、美上さんあんま笑ってなかったし……ごめん」

「違……わなくもないけど。そうね、諸々合計してマイナス十点ってところかしら」

「ごふっ、て、手厳しいっ」

 

 私がそう告げると、モブ男はお腹に良いのをもらったボクサーのようにがくりと頭を落とした。

 

 場所は……まあこの際いいとして。

 まずプランがダメ。屋台見て回るだけで潰せる時間は限られてる。マイナス二点。

 次に服装がダメ。無理をしろってわけじゃないけど努力の跡ぐらいは見せなさい。私に釣り合わないし。マイナス二点。

 仕方のない部分もあるけれど、私が楽しいと思える話をして。そうね、どうやったら私の虜になるのかとかだとグッドだわ。まあ、退屈だったわけじゃないからオマケしてマイナス一点。

 この私が横にいるのに大人のサキュバスに抱きしめられたとき表情が崩れたの見逃してないから。マイナス五点。

 

 他にも細かくあげればキリがないけど、私は寛大なのでこのぐらいで見逃してあげた。

 

 それきり、沈黙が降りた。そんなに離れてるわけでもないのに、お祭りの音がどこか遠く聞こえる。

 自分の身体に意識を向ければ、なんか、思ったより体力がなくなっていた。

 身体を支えるように両腕をお尻の横でベンチにつけてふと、見上げた夜空は真っ黒。

 夜だから当たり前だけど、お祭りの灯りで星も見えなくて。まるで目が眩んだような暗さだった。

 もうそろそろ花火を打ち上げ始める時間だ。この真っ黒のキャンパスに綺麗な光の華が咲く事だろう。

 

「そろそろ、私は帰るわ」

「え、あと少しで花火上がるよ?」

「だからよ。花火終わってからだと電車混むし」

「帰りは電車なんだ。……あー、じゃあ、そろそろ移動した方がいいかな」

 

 花火が終わった後の混みようは尋常ではない。お祭りに来る人はだいたい電車が移動手段だから、一斉に同じ時間帯の電車に人が集まることになってすし詰め状態になるだろう。

 体質的にも心情的にも、流石にそれは嫌だ。

 

 そう言って立ち上がる。

 思ったより疲れてるけど、駅まで歩くのに支障はない。でもちょっと遠いので少しばかり気合を入れて足を踏み出したときだった。

 

 ぶちっ。

 

「あっ」

 

 紐が切れるような音。引っかかるはずだったものが引っかからずに、慣性に従って私の足が滑る。

 当然の帰結として、足を滑らせた形になった私の背中が地面に吸い込まれるように落ちていき──。

 

「っと、大丈夫?」

 

 ──でも、私が倒れる事はなくて。

 モブ男が咄嗟に伸ばした腕が、私の背中を支えるように受け止めていて。必然的に、私はモブ男に全体重を預けるように密着していて。

 

 お祭りの空気とは違う匂いがした。今日、何回かふと感じた、汗と、男の匂い。

 背中に回された腕は私の細くて柔らかいのとは全然違って、同じ腕とは思えないぐらい硬くて、しっかりとしてて。

 触れた肌と肌から、自分のものとは違う熱がじんわりと広がり。

 目の前で心配げに揺れる瞳には、相貌に驚きを浮かべた、でも、顔に血が集まった私が──。

 

「──ありがと。でも、いつまでそうしているつもりかしら」

「あっ。ごめん、えっと……取り敢えず座る?」

 

 頷き、モブ男に背中を向けてベンチに座りなおす。

 下駄の紐が完全に切れていた。これではもう歩く事は出来ない。

 

「これは……履物が売ってないか探してくるから、ここで待ってて」

「え、ええ。分かったわ」

 

 そう言ってモブ男の姿が人混みに消える。

 それを確認して、私は両手で顔を覆った。

 

(嘘でしょ……)

 

 下駄の事ではない。いや、下駄もショックだけど、それ以上に。

 どくん、どくん、と。

 心臓が、甘く律動していた。肺に何かが詰まっているように、息がしにくい。

 今にも叫び出しそうな感情が、私の身体の中を暴れまわっている。

 尻尾が、私の意思とは関係なしにふりふりとまるで内心を吐露するように勝手に揺れていた。

 身体が熱い。でも、顔はもっと熱い。

 

 信じられなかった。信じたくなかった。

 だって、これでは、まるで……! 

 

(ちょっとえっちな気分になってしまった……)

 

 本当に……ッ! これだからサキュバスという種族は……ッ!!! 

 私の意思とは関係なしに身体が反応した。この雄が欲しいと、私の身体の奥底でナニカが疼いたのだ。

 多分、サキュバスエリアの空気にあてられたのだろう。サキュバスがエロい事をする際のフェロモンをサキュバスは感じ取ることができるから。

 

 一度高められた欲は、もんもんと身体に残り続ける。何処かもどかしい感覚がずっと続くのだ。

 これはまずい。電車とは別に早急にこの場から去る必要が出てきた。

 私は見境のないセックスバーサーカーたちとは違うのだから……! 

 

「美上さん」

「ひゃい!?」

 

 突然かけられた声にびくりと肩が震え、いつもより数オクターブ高い声が喉から漏れ。

 振り向くと、困った顔をしたモブ男がいた。

 

「ここには売ってないみたい。ちょっと遠いけど急いでコンビニ行ってくるから、悪いけどもう少しだけここで待っててくれる?」

「え、ええ。それはいいけれど……は、早く帰って来てね?」

「うぐっ……、う、うん。任せて」

 

 あまり長くこの場にはいたくないという気持ちが不安となって現れて、後半は自分でもびっくりするほど細い声音に。

 そして、何故か自分のお腹をものすごい勢いで叩いたモブ男。

 そこは普通胸じゃない? 間違えたのかしら。

 

 そうして、モブ男がコンビニへ行くために踵を返したとき。

 

「あ、みーつっけたっ♡君がチャーム出来ないっていう男の子ね♡」

「やだ、わっかーい♡」

「へ?」

 

 ねっとりとした視線と耳をふやかすような濡れた声音。

 歳の頃は二十より少し上ぐらいだろうか。浴衣に身を包んだ二人のサキュバスが此方を……というよりモブ男を、まるでカエルを狙う蛇のような目で舐め回すように見ていた。

 

「すみません、僕は用事があるのでそこを通して──わぷっ」

「近くで見たら結構しっかりした身体してるじゃん♡わ、筋肉もかたーい♡」

「どれどれ……ぁ、ほんとだ♡」

 

 やけにゆったりと、まるで身体を見せつけるようにしながら近づいてきたサキュバスのひとりは、モブ男の後頭部に手を回し自身の豊か双丘へと顔を押し付ける。

 もうひとりのサキュバスは自分の身体を押し付けるようにモブ男の右腕を抱きすくめ、上半身を撫で回し始めた。

 

 ……なんだこいつら。

 

 それを見た私に、訳の分からない赤い感情がお腹のあたりに溜まっていく。

 普段ならあり得ないはずの、自分でも制御できない灼熱が込み上げてくる。

 

「んぐ、ぷはっ! い、いきなり何してるんですか!?」

「きゃっ、……チャーム出来ないって本当なんだ」

「えー? ボク、人間だよね? 水妖精とのハーフって訳でもなさそうだし……なんでだろ?」

「まあいいじゃない。たまにはこういうのも燃えるわ♡」

 

 身動ぎをして拘束から逃れたモブ男。

 チャーム出来ないことに数秒の思案をしたサキュバスたちは、そんなの関係ないとばかりに瞬く間に距離を詰め、前後から挟むように身体を密着させる。

 

「あら? ボク、口の中怪我してるじゃない。痛いでしょう? お姉さんが舐めて痛いの痛いのとんでけってしてあげる♡」

「サキュバスのちゅーは気持ちいいよ♡唾液が甘くてぇ、舌は蕩けるぐらい柔らかくて♡」

「ねえ、見て? お姉さんのこの舌がぁ……れろ、んちゅ、ぢゅる、ちゅっ、ちゅ♡ちゅる、ちゅうって、ボクの口の中で動き回るの♡絶対気持ちいいよ♡」

「あは、身体びくってした♡期待しちゃったかな♡ちゅう♡」

「うわあ!? いや、あの、ほんと大丈夫ですから! お気持ちだけでほんと十分ですので!!!」

 

 正面から抱きついたサキュバスが下品に開いた口から唾液に濡れた朱い舌が顔を出し、にちゅ、にちゅっと音を立てながら空気を刮ぐ。背後から抱きついたサキュバスは脳を溶かす魔性の声で囁き、ちゅっと小さくリップノイズを響かせた。

 

「……」

 

 赤い波が、押し上がってくる。

 

 なによそれ。やめろっていうなら今すぐそいつら突き飛ばしなさいよ。あんたの力なら簡単にできるでしょう。

 こいつらもこいつらだ。お前たちがそんなんだから同じサキュバスの私が迷惑してるんだ。サキュバスとは簡単にエロい事出来るから、私とも出来るって男に思われるんだ。

 

 赤い感情が、込み上げてくる。

 

 サキュバスは男が興奮しているかどうか本能的に分かる。男はサキュバスの前では性に関する隠し事が出来ない。

 

「でも、ボクも期待してるんでしょう? こ〜ぉこ♡男のコの大事な場所……はまだまだだけど、息、荒いよ♡」

「ひっ!?」

「うーん、チャームかかってもいいはずなんだけど……ま、こっちを準備万端にさせたらいけるでしょ♡」

 

 赤い感情がぐつぐつと煮えたぎる。

 何よりも気に入らなかったのは。

 

 私はちっともそんな目で見ないくせに、今、こいつが私以外のサキュバスに例えほんの少しでも性を感じている事だ。

 

「きゃあ!?」

「わわっ!?」

「うわっ!?」

 

 自分の中で生まれた激情の名前も知らないまま。

 気がつけば私はモブ男の手を掴んで思いっきり引っ張っていた。

 サキュバスの間から無理やり引き抜かれたモブ男がバランスを崩しながら私の方へ。

 謎の衝動のままに間髪入れず、私は叫んでいた。

 

「こいつは私のよ!! 手を出すなッ!」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「あの、美上さん……」

「うるさい」

「さっきは……その……」

「色ボケ見境なし」

「がふっ。ち、違くて……! 余裕なくて、力任せにしたら怪我させちゃうかもしれなかったから……!」

「言い訳は聞きたくない」

「すみませんでした……」

 

 お祭りの喧騒を背に、人もまばらな道を歩く。

 正確には、モブ男ひとりが歩いている。私は、モブ男に背負われていた。

 

 私が叫んだ、あの後。

 

『行くわよッ!!』

『え、うん……あ、行くって言っても美上さん歩け……』

『あんたが背負えばいいでしょうっ!』

『ええっ!?』

 

 勢いに任せてそんな事を言ってしまい、今に至る。

 とにかくあのサキュバスたちからモブ男を離れさせたくて、なんか自分でもよく分からないうちに口が勝手に動いていた。

 

『えー? 私たちにも貸してくれてもいいじゃない』

『まあ、でもこの子童貞(確信)だし? 初モノは譲りたくないって気持ちはわかるわあ』

『あー、ならしょうがないかなあ。終わったら教えてね? そっちの茂み進んだところに休憩所あるから♡』

 

 サキュバスたちは最後まで頭サキュバスだった。

 完全に同類に見られていた。ふざけんな私はお前たちとは違う。

 ……違うから! (一秒ぶり二回目)

 

 ダメだ落ち着け私。クールになれ。

 なんか今日の私はいろんな意味でおかしかった。間違いなくあのサキュバスエリアのせいだ。

 あそこに充満する濁った空気のせいなのよ……! 

 

 だから、私は他のサキュバスとは違う。

 あんな、年がら年中男のことしか考えてないような性欲モンスターとは違あ……背中広いなあ……身体もがっしりしてて、背負われてて安心感があるっていうか……すんすん、それにこの匂いも……嫌いじゃ……。

 

「美上さん?」

「ちっがあああああああうっ!!!」

「美上さん!?」

 

 思考があらぬ方向にっ! 

 今は会話したくない、という意思を表すようにモブ男の左肩に顎を乗せ。

 それを察したのか、それ以上モブ男は何をいうでもなく、ただ歩き続けた。

 

 ……今日の私は、本当におかしい。

 いつもの私なら、男の誘いに応じなかった。

 いつもの私なら、男の事でイライラなんてしなかった。

 いつもの私なら、男の背に乗るなんてあり得なかった。

 

 いつもの私なら、男に背負われたのなら、嫌悪感を抱いていた。

 

 いつもの私なら──。

 

「お、花火」

 

 モブ男の声に顔を上げる。

 直後、どん、と力強い音が空気を叩いた。ひゅうぅ〜と、力尽きていくように一条の光が空を駆け上がり、次の瞬間夜空に光の華を咲かせる。

 形も、色も様々な光の華が次々と咲いて、消えていく。

 

「綺麗だなあ」

「……そうね」

 

 ぱっと刹那に散っていく華が夜の街を照らし、私たちの重なった影を強く、濃く伸ばす。

 打ち上げ花火をこんなに近くで見るのも何年ぶりだろう。

 テレビで見るのよりもずっと力強く、綺麗だった。

 

 チラリ、と視線を落とした。背負われているからモブ男の表情は分からない。

 ああ、でも。きっとあの呑気そうな顔で、花火を見上げているのだろう。それぐらいは簡単に想像できるぐらい、私はこいつを知っている。

 

 ……ああ、いつもの私なら。

 こんなにも花火を綺麗だなんて思うことも。

 きっと、なかったのだろう。

 

 なんとなく、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 八月℃日

 

 控えめに言って散々だったわね! 

 だいたい私に楽しんでもらいたいならお姉ちゃんのアドバイスを真に受けるのがプレミという他ないわ。あの人基本的にえっちのことしか考えてないから。

 まあ、お祭りは散々だったけれど帰りにした自転車の二人乗りはまあまあだったわね。普段自転車乗らないからちょっと怖かったけど、モブ男の運転は安定してたし。

 それに、怖かったら最初の方思わず背中に抱きついちゃったけど、その時……ふふふ、あいつはバレてないと思ってるだろうけどバレてるわよ、私に女を意識したの。

 あのサキュバスたちはエロい事を連想させるような事をしなければダメだったけど、私はちょっと身体が触れただけで! ふふん、これが美少女としての格の違いってやつね。あの二人は少女って年齢でもなかったけど。

 もちろんチャームをかけようとしたけど、私を意識しているにも関わらずチャームにかからなかった。これは水妖精の種族以外あり得ないんだけど……まあこれに関しては今更ね。私を美少女として意識する事がある、それだけで今は十分。ふふん、気分が良い。なによりあのサキュバスたちより私の方が可愛いと主観的にも客観的にも証明できたのが気分が良い。ふふん。

 

 明日から学校始まるし、二学期の間にはモブ男もオトせるでしょう。二学期はイベントが目白押しだもの。友達とやるイベント事もも小学生以来だから楽しみだわ。

 

 今日は早めに寝ておきましょうか。

 ……まあ、なんだかんだ言って。それなりに楽しい夏休みだったかしらね。絶対言わないけど。

 

 

(この日記は夏祭りの一日後に書かれている)

 

 

 

 

 

 

 

 

 補完的な登場人物紹介

 

 美上さん

 主人公。やっぱり君もサキュバスじゃないか(歓喜)

 周囲の雰囲気に当てられてキャラが崩れている。普段のなんちゃってクール系は本来の性格ではなく『私は他のサキュバスとは違う』が行き着いた結果である。言ってしまえば中学生の段階で高二病を発症してしまっていた。現在も発病中。果たして完治するときは来るのか。

 無自覚な独占欲が見え隠れし出した。

 

 モブ男

 ヒロイン。体力を強いられているんだ……! 

 めちゃくちゃ頑張った。彼はめちゃくちゃ頑張った。悪いのは全部見境のないサキュバスってやつなんだ……! 

 なおデートの代償としてお小遣いは治療費に消えた。

 それはそれとしてデートプランはもう少し練ろう。今後の課題だね。

 

 お姉ちゃん

 諸 悪 の 根 源 。

 

 サキュバスたち

 基本的にこんなやつら。これでも体面上は全年齢のお祭りという事で抑えられている方。一応未成年に淫らに手を出してはならないけどばれなきゃいいんだよばれなきゃ。

 これは美上さんがグレるのも分かりますね……。




うん、八月ですね!(強気)

美上さんがちょくちょく毒づくサキュバスって実際どんな種族なんだ?って回でした。
この世界の法律は様々な種族が共生している結果、あれもこれもカバーしようとした名残でかなり曖昧なものになっています。なので奴らは割と好き勝手できます。
大多数の男からしたら役得でしかないので、まあ、そういう事です。えちえちなお姉さんには勝てなかったよ。

次回からは二学期に入り、ようやく学園生活らしく。
入れ忘れた林間学校的なやつは何処かでねじ込みたいですね。お風呂お泊りイベントを逃してたまるものか(鉄の意志)


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7ページ目 『相合傘』

 9月☆日

 

 二学期が始まった。

 久々の学校……ってわけでもないけど、教室の空気がなんだかちょっと懐かしかった。

 二学期は長い。この間にモブ男を絶対にオトしてやるんだから! 

 ……でも、その前にアレをなんとかしないといけないわね。気が重いなあ。

 

 

(一週間ほど取り留めのない書き込みが続く。途中数日はテレビで見たペット番組に影響され猫飼いたい欲が爆発していた模様)

 

 

 9月》日

 

 猫可愛い……すごく可愛い……。お母さんが許してくれればなあ……。

 はあ……ついに体育祭の練習期間が始まってしまった……。

 

 

 9月¥日

 

 中学までは体育祭の練習とかは教師をチャームして見学してたのに、私のクラスの体育教員は女性でしかもチャームはモブ男が止めてくるから参加せざるを得ない……! おのれモブ男……! 

 別に運動が嫌いなわけじゃないけど、身体能力で種目を決めていくと種族差でばらつきがあるとはいえだいたい男女で二分割されるからモテない女子からのやっかみがエゲツないのよね……。嫌いじゃなくても得意ってわけでもないし……。

 普段は怖気付いて何もしてこないくせに、集団のイベントだからかやけに強気になってくる。本当めんどくさい。あーやだなー。

 

 

 9月∟日

 

 私の種目は借り物競走とクラス団体戦になった。

 借り物競走はいいけど、団体戦は見学したい。本当に。

 

 

 9月▱日

 

 今年の一年生のクラス団体戦は騎馬戦みたい。

 よりにもよって騎馬戦。最悪だわ……。

 

 

 9月♯日

 

 9月といっても日中はまだまだ暑い。炎天下の中入場退場の練習とかアホなのかしら。

 お肌のお手入れも楽じゃないのよ。くたばれ教頭。そのままてっぺんから禿げて仕舞えばいいわ。

 

 

 9月∞日

 

 性別による筋力含めた身体能力の差はあるものの、それ以前に種族差が大きい。男女別に分けてオリンピックとかやってたのっていつまでだったっけ……歴史の授業でやってたような……。

 ともかく、クラス団体戦は男女混合だ。男女混合で騎馬戦だ。これ考えたやつ許さないわよ。

 戦略的に体重の軽い女子は騎馬ではなく騎手になる場合が多い。体重の軽い私は当然騎手になった。体重が軽いから。

 逆に、騎馬は男がなる場合が多い。ほんと最悪。休みたい。モブ男が私の騎馬になったのがせめてもの救いだ。まだギリギリ許容範囲内だから。

 

 

 9月≠日

 

 練習がしんどい。

 

 

 9月§日

 

 いやほんとにしんどい。

 

 

 9月♭日

 

 なんでみんなこんなのに入れ込んでるの……? 朝練って嘘でしょう……? ノリについてけない……弓森さんもなんか気合い入ってるし……。

 休みたいいいいい!!! 

 モブ男が居なかったらチャームしてサボってるのにいいいい!! 

 

 

 9月♩日

 

 運動嫌いだったわね私。うん。

 

 

 9月¢日

 

 もう日記書く元気もなくなってきた……。

 私こんなに運動音痴だったっけ……? というか体力が無さすぎる……。考えてみれば基本インドア派だから体力がつくはずもなかったわね。

 モブ男は疲れる様子すら見せずめちゃくちゃ元気だ。あいつの身体どうなってるのかしら。アンドロイドか何かなの? だからチャーム効かないの??? 

 疲れ過ぎてもうモブ男をオトすためにどうこうする気力がないわね……。

 

 

 9月≡日

 

 筋肉痛が辛い。

 

 

 9月∪日

 

 よくよく考えれば私まで真面目に練習する必要ないじゃない。

 やりたい人だけでやってればいいよの。そうよね、うん。

 むしろ私は美少女だから見学で……こう、勝利の女神的な。男のやる気なら確実に出させてあげるわ。私可愛いし。

 よし、決めた! 明日からサボる! 

 

 

 9月∨日

 

 覚えてなさいよ水妖精!!! ぜぇったいコテンパンに負かして泣かしてやるんだから!!! 

 

 

 9月*日

 

 あの水妖精にだけは絶対に負けられない。私に喧嘩を売ったことを後悔させてあげるわよ!! 

 

 

 9月◎日

 

 練習がしんどい。朝練もきつい。でも負けられない。

 

 

 9月∠日

 

 くう……! 水妖精じゃなければ父親をチャームして家庭崩壊させてやったのに……!! 

 ……いや、本当にはやらないけど。バレたら大変な事になるし、流石に分別はある。

 でもあの水妖精、自分の種族にチャームが効かないからって調子に乗ってるのよね……! 同性では初めてよ、私をここまでコケにしてくれたのは……!! 

 

 

 9月&日

 

 寝る前に日課書くのもしんどくなってきた……。

 放課後の練習が……でも水妖精には負けたくないし……。

 家帰ったらお風呂入って、ご飯食べて……お肌の手入れだけして……今も眠いのよね……。

 日記はしばらくお休みしよう。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 空に蓋をするような曇天の空。黒に近い灰色の雲からは突き刺すような雨が地面を叩く。

 

「……はあ」

 

 昇降口で空を見上げた私は力なく肩を落とした。

 傘を忘れたのである。

 

 今朝はカラッと晴れていたというのに、昼を過ぎたあたりから徐々に雲行きが怪しくなり始め放課後の今となってはご覧の有様。

 体育館は上級生と応援団が使用しているので本日の練習は中止となり、眠い目をこすって毎日洗濯している二セット目の体操服は鞄から出ることはなかった。

 

 何時もはお母さんが雨が降るなら降ると言ってくれるけど、昨日の夜に出掛けて今朝は帰ってきてなかったから、登校時の快晴に騙されてしまった。

 家が近いなら職員室でナイロン袋を貰ってそれに鞄を入れて走って帰る事も出来たけど……走るにはそこそこ距離があるのと、ここ最近の疲労が陰鬱な雨に呼応するようにどっと溢れてきて、そんな元気はなかった。

 

 一縷の望みをかけてお母さんに送ったメッセージは最後に確認したLHRのときには未読状態。

 昨夜、すぐ寝てしまって充電を忘れたスマホは既に力つき、私は途方に暮れてしまった。

 

 来るかも分からない迎えを待ち続けるか、雨に濡れて帰るか。

 小雨ならまだしも、流石にこうも土砂降りだと風邪を引きかねない。あのいけ好かない水妖精には死んでも負けたくないので、風邪をひいて練習が出来なくなるのは困る。同じ理由でクラスの男から傘を平和的に譲って貰うのもNGだ。

 なので水妖精のクラスの男から傘を和やかな談笑の結果として譲ってもらおうと思ったのだが、私が行ったときには既に女子しかいなかった。おのれ水妖精。これで勝ったと思うなよ……!! 

 

 因みに、弓森さんは自転車通学なのでもうカッパを着て帰って行った。家から傘を持ってくるって言ってくれたけど、連日の練習で弓森さんも疲れてるのにそれは申し訳ないと断った。

 

「……はあ」

 

 二回目のため息。

 濡れて帰るわけにはいかないと行っても、流石にお母さんがメッセージに気付いて迎えに来てくれるのをずっと待つわけにもいかない。

 もしかしたら気付いてくれるかもしれないと思って、こうやって車が来たかどうか分かる昇降口で待ってはいるものの、いつものやつなら今日家に帰ってくるかも怪しいし……。

 

 もうこれは濡れて帰るしかないかしら。

 後ろ向きな覚悟を決めて、三度目のため息と共に職員室にナイロン袋を貰いに行こうとしたときだった。

 

「あれ、美上さん?」

「……あら?」

 

 呼びかけらた声の方に首を向ければ、傘を手にしたモブ男が目を丸くして立っていた。

 

「直ぐに教室を出て行ったからもう帰ったと思ってた。どうしたの?」

「なんでもいいじゃない。あんたこそなんでまだいるのよ」

「リレーのやつで集めれられたんだ。なんかルール変更があるとかで」

「……ああ、そういえばあんたリレー出るんだったわね」

「鬼塚くんが綱引きの方に行っちゃったからその代わりだけどね。でも、選ばれたからには頑張るよ、人間代表みたいな所あるし。それに……」

「それに?」

「……や、なんでもない。それより……もしかして、美上さん傘忘れた?」

 

 不自然に言葉を濁したモブ男が私が手に何も持っていないことを確認して言う。

 そして、素直に認めるのは何となく嫌で口をつぐむ私に、提案するように。

 

「良かったら入っていく?」

 

 傘を軽く持ち上げて、なんて事ないように言った。

 

 ……正直、モブ男に声をかけられたとき、私もそれを考えた。

 考えたけれど。

 

「あなた自転車通学でしょう」

 

 なんでカッパじゃなくて傘なのから分からないけど、モブ男は確か自転車通学だったはず。

 帰る方向は同じだったと思うが、モブ男の家は私の家よりもかなり遠い。

 自転車を押しながら二人で傘に入るのは流石に無理だし、二人乗りはもっと無理だ。

 けれど、モブ男は杞憂だと笑った。

 

「うん、いつもは自転車なんだけど……先週色々あって壊れてね……ははは。くぅ。……まあ、とにかくそんな訳で今は徒歩なんだ。だから大丈夫だよ」

「……え? 電車じゃなくて徒歩? ……あんた、何時に家出てるの? 朝練いつもいるわよね?」

「六時過ぎぐらいかなあ。ってそれは別にどうでも良くてっ」

 

 言いつつ、昇降口から外へ一歩踏み出したモブ男は傘を開いて振り向く。

 

「本当は傘を貸してあげられたら良かったんだけど、この傘かげ兄……あー、僕の兄のだから。その……だから、相合傘……になっちゃうけど、美上さんが良かったら、その……」

 

 後半はだんだん尻すぼみになっていき、俯きがちに。

 断られる可能性に思い至って怖くなったってところかしら。

 

 相合傘。ひとつの傘に二人で入るため、必然的に二人の距離は近い。体温を感じられるなんてレベルではない。それこそ肩と肩が触れ合うレベルの距離感。

 どうやってもパーソナルスペースを踏み越えるそれは……多少、いや、それ以上に相手に好意がなければ簡単には出来ない行為。

 つまり、相合傘を持ち掛けて断られるという事は言外に『お前無理』と言われるのに近く、逆にOKされれば少なくともパーソナルスペースに入る事を許されるだけの好意の証明にもなる。

 同性相手でもそうなのだから、それが異性ならなおさら。

 

 ……私がその距離感を許したと思われるのも癪ね……。

 おんぶはあくまで例外。例外だから。例外なんだからねっ! 

 確かに一学期のときは自分からモブ男に触れに行ったりしたけど、あれはチャームをするためであって……! 

 

 ……そう、だからこれもチャームのため。

 チャームのためだから、相合傘も仕方ない。うん。仕方ないんだ。

 

「……お願いするわ」

「ん、どうぞ」

 

 そう自分に言い聞かせて、私はモブ男の隣に並んだ。

 大粒の雨が力強く傘を叩いて、弾かれた雨粒がまた小さく傘を叩く。地面に落ちた雨の音と合わさって、それはまるでひとつの演奏のようだった。

 

 だから。

 

 この胸の音も、きっとモブ男には聞こえない。

 初めての相合傘に緊張してる、それだけだから。

 本当に、それだけなんだから。

 

 横目で盗み見たモブ男の耳は、ほんのり赤くなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一向に止む気配のない雨。

 縦に白黒の線を何本も引いたように不明瞭な視界のなかを二人肩を並べて歩く。

 

 水たまりを避けようとする度にどちらに避けようかと顔を見合わせ。

 側を車が通る度に水飛沫から私を守るように前に出るのが。

 濡れる事がないようにと無言で傾けられている傘の角度が。

 

 こそばゆかった。

 息が詰まった。やり場のない感情の逃げ場を探すように尻尾がふるふると揺れた。

 

 ……なんというか、近い。

 相合傘なめてた。距離感がエグい。

 雨で気温が下がってるからか、モブ男の体温が分かる。肩は触れてないけど、隣り合ってる方の肩だけ、少し、熱い。

 それに、体温だけじゃなくてモブ男の息遣いまで分かって。

 頭がふわふわして、距離を取りたくて、でも傘の中は狭くて、どうしたらいいか分からなくなって、ずっと同じ距離。

 

 あと、私はモブ男の肩ぐらいまでしか身長がないから、傘を持つモブ男の腕がちょうど目の高さにくる。

 

 腕めっちゃ太い。私の二倍はありそう。半袖だからよく分かる。包帯巻いてるけどその上からでもあ、筋肉だって分かるぐらい。

 私なら傘をずっと持ってるとすぐに疲れて肩に担ぐように傘を差してしまうけど、担ぐどころか一向にブレる気配がない。

 男ってみんなこうなの……? なんだか、女とは違う生き物なんだって見せつけられているみたいだった。

 何気にガッシリとした身体なのは知ってたけど……背負われたときも思ったけど、男と女じゃ身体のつくりが根本から違うってことが実感としてわかる。

 漫画だと見た目は女の子とそう変わらないのに……。

 

 とはいえ、その身体のつくりすら覆す種族の差ってどうなってるのかしらね……鬼族の女の子なんか一見細くても物凄く力強いって言うし。文字通り細胞レベルで身体のつくりが違うんでしょうね。

 

 でも、私はサキュバスだ。サキュバスの前では男がいくら力が強くても無意味。

 男を手玉に取り意のままに弄ぶのがサキュバス。私は他のサキュバスとは違う(強弁)けど。違うけど! (念押し)

 

 つまるところ、サキュバス>男という力関係。

 具体的に何が言いたいかって言うと。

 

「でさ、そのときに親友が〜〜」

 

 私だけこんなに悶々としてこいつが余裕そうなのが納得いかない──! 

 

 耳が赤くなってたから美少女との相合傘に緊張してるのかと思えば、何の淀みもなく会話を振ってきた。

 そこは緊張して無言になるところでしょう!? 美少女を何だと思ってるのよ。もっとときめけ。

 

 モブ男の親友とやらの話などどうでも良いので、適当に相槌を打ちつつ切りのいいところを狙って仕掛ける。

 そもそもチャームするために相合傘を許容したのだから。逃げ場がないのは向こうも同じ。守勢に入れば攻め込まれるのみ。ここはひたすらに攻めの姿勢が最良!! 

 

「そういえば、前々から思ってたけどあんたって結構身体鍛えてるわよね」

「えっ!? あ、え? 美上さん?」

 

 手首から肘までつぅと人差し指でなぞるように。

 包帯のざらっとした感触と皮膚の滑らかな感触。二の腕のあたりを手のひらで包むように撫でる。

 

 びくりと身震いしたモブ男。傘が揺れて雨粒が散った。

 やや間があって。

 

「……別に、鍛えてるってわけじゃないんだ。日常生活がちょっとしたトレーニングみたいになってるところはあるけど……」

「なら、鍛えてるんじゃないの?」

「うーん、そういうわけじゃなくて……別にトレーニングしなくてもこうなるというか」

「ならないわよ。運動無くして体型の維持はできないわ。私がどれだけスクワットをやっていると思ってるのよ……!」

「美上さん……?」

「……なんでもないわ」

 

 思わず熱くなってしまった。

 例外なく美しい容姿を誇るサキュバスといえど、それはあくまでポテンシャルの話であって。

 睡眠不足に運動不足、おまけに暴飲暴食なんてやってたらニキビ出まくりの脂ギトギトのデブに普通になる。

 

 美しさとは努力なのだ。セックスがあれで結構な運動量らしいが、セックスをしない私はもちろん、セックスしまくりのお姉ちゃんやお母さんも日々のスクワットは欠かさない。

 美しさを誇るからこそ、美しくなるための努力を怠らないのよ。

 それをトレーニングしなくてもですって……!? 寝言は寝て言いなさい。

 

 そんなチートが許されるのは極少数の種族だけよ。

 ……連想で思い出してムカついてきたわね。本当にあの水妖精覚えてなさいよ……っ!! 

 

「絶対に泣かす」

「どうしたの急に!?」

 

 敵意が溢れてしまった。

 そこで、ふと思い出した。

 

「そういえば、あなたも水妖精も同じ図書委員だったわよね」

「ああ、水澄さんのこと? うん、そうだよ」

「友達かしら」

「うん」

「そう、良かったわ。弱点とか知らないかしら?

「ちょっと待って、何でそうなるの?」

「嫌いなものや苦手なものでもいいわよ。友達なら知ってるでしょう?」

「仮に知ってても初手でそれを聞いてくる人にはちょっと教えられないかな……

 

 ぽりぽりと指で頬をかくモブ男に口を破る気配は一個にない。

 それが、少し面白くなかった。

 他の男なら私が教えてって言うと何でも言うのに。

 ……私のお願いより水妖精の方が大事なの? 

 

「ねえ……私、どうしても知りたいの……ダメ?」

 

 半袖の袖をちょこんと摘むように。くいっとか弱い力で。

 身長差で自然となる上目遣いで、震える唇から熱い吐息を零す。

 尻尾がしゅるりと傘の持ち手を持つモブ男の手へと絡まり、優しく撫でた。

 

 雨を弾く傘の中。二人だけの世界。

 吐息すら交わりそうな距離で視線が絡まり合う。頤が上下しゴクリと生唾を飲み込む音。何かを堪えるようにモブ男がぐっと力を入れたのが分かった。数秒後。

 

「ダメです」

「……イ○ポ野郎」

「今日の美上さんなんか毒強くない!?」

 

 うるさいばーか! 

 ふんっ! 

 

 モブ男が素気無い態度を取るのはいつもの事だけど。

 その日は、いつもよりムカついた。

 ……なんでか、ムカついたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 程なくして、私の家に着いて。

 

「……ありがと。助かったわ」

「どういたしまして」

 

 玄関の前。隣ではなく、向き合った私が一応お礼を言うと、モブ男は屈託無く笑った。その半身は雨に濡れていた。

 

「……それ」

 

 対して、私はどこも濡れていない。せいぜい、靴下程度。

 モブ男はシャツの色が変わるほど濡れていて、腕に巻いている包帯だって気持ち悪いはずだ。なにより、風邪を引いてしまうかもしれない。

 私が何を言いたいのか分かったのか、モブ男は心配ないと笑う。

 

「大丈夫だよ、僕は絶対に風邪引かないから」

「そう……」

「……あー、でもそうだな、包帯はちょっと気持ち悪いから取っちゃいたいかも。もう治ってると思うし。でも、タオルは忘れちゃったから、貸してくれると嬉しいな」

「……少し待ってなさい」

 

 ……嘘だ。今朝の練習の時にタオルで汗を拭いていた。

 でも、ここでその気遣いを断る事はしない。私が少しもやもやとした気持ちを抱えていたのは事実だし、これで双方憂いなく終わるのならそれが一番。

 

 ……私、こんなキャラじゃなかったはずなんだけどなあ。

 夏からの自分の変化に戸惑いながら玄関の鍵を開けようと、鞄から鍵を取り出したときだった。

 

「あたっ……く、ぅ……!」

「も〜、サキったら迎えに来てって言っておきながらぜんっぜん返信しないじゃない。お母さん困る……うん?」

「わ、美上さん大丈夫……?」

 

 ゴツン、と。

 突然開いた玄関がちょうど私の側頭部を強打。

 あまりの痛みに鍵を取り落として蹲る。

 

 ツノに……! ツノにゴチンってした……! 吐きそうなぐらい痛い……!! 

 

「あら、帰ってきてたの? 傘立てに傘あるのにどうやって……って、それならそうと連絡ぐらいして欲しかったわよ……ふぅん」

 

 頭を抑えて蹲り痛みに悶える私を見たお母さんは、直ぐにモブ男に気づき、私とモブ男を交互に見た後得心がいったと艶やかに口を歪めた。

 

「あなたがモブ男くんね。娘を送ってくれてありがとう。随分と濡れてるみたいだし、良ければ家で休んでいかないかしら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介

 

 美上さん

 主人公。割と負けず嫌い。

 水澄さんとバチバチしてる。

 美しさは努力とか言ってるが元が良すぎるのでガチで努力してる人たちには秒でしばかれる。

 

 モブ男

 ヒロイン。イ○ポ野郎(疑惑)

 最初は純粋に心配して声をかけたが途中から相合傘をしたい欲が出た。美上さんと相合傘が出来て内心小躍りしている。内出血ぐらい軽い軽い。

 腕の包帯? 騎馬戦って結構密着するんですよこれが。

 

 お母さん

『高校一年生とアラフォーっておねショタになるのかしら』などと供述しており。




やめて!美上ママの人妻の色気で理性を焼き払われたら、好きな子の前でおぎゃってしまってモブ男の精神まで焼き払われちゃう!

お願い、死なないでモブ男!あんたがいまここで倒れたら、出会いの日の約束はどうなっちゃうの?理性はまだ残ってる、ここを耐えれば美上さんとのドキドキ体育祭が待ってるんだから!

次回、「モブ男死す」 デュエルスタンバイ!


❇︎予告は実際の本編とは異なる可能性があります。


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8ページ目 『お母さん』

日記要素/zero




 遮蔽物越しのシャワーの音が微かに聞こえる。

 シャワーを浴びているのは私ではないし、乾燥機を動かしているお母さんでもない。

 ましてや大学に帰ったお姉ちゃんでもない。

 

「何考えてるのお母さん」

「あら、だってずぶ濡れで可哀想だったもの」

 

 今シャワーを浴びているのは家族じゃない人。

 クラスメイトで何故かチャームに掛からない男のモブ男だ。

 

『──良ければ家で休んでいかないかしら』

 

 唐突なお母さんの提案。お互い面識はなく初対面で、更にそれが高校生男子とアラフォーサキュバスともなると余りにも絵面がアウト。

 当然というかなんというか、モブ男は断りの言葉を口にしたが、娘を送ってくれたお礼がしたいとお母さんが強引に押し切った。

 

 気が付けば玄関にはモブ男が居て、瞬く間に服を脱がされ風呂場に叩き込まれていた。我が母親ながらあまりにも鮮やかな手並みだったわね。きっとこうやって数多の男がペロリと食べられてきたに違いない。

 

 ……………………いやいやいやいや。

 

 まさか……ね? 流石にそれは……ないわよね? 

 高校生の娘のクラスメイトを狙う母親とかいう犯罪者は何処にも居ないわよね? 

 

 必死で考えないようにしてきた事実に直面しそうで悪寒が走る。どうしよう、震えてきたわ。

 

「それにしても……サキ」

「……何?」

 

 服を乾燥機にかけ終えたお母さんが何処か神妙な面持ちで言う。

 

「いい男を見つけたわね。体格も良いし、きっとアソコも良い感じよ」

「居たわよ犯罪者!!!」

 

 あまりに残酷過ぎる現実に膝から崩れ落ちる。

 なんと言うことだ。身内から犯罪者が出てしまった。

 

「ちょっと、なんて酷いこと言うの。お母さん悲しい」

「一番悲しいのは間違いなく私よ」

 

 考えても見て欲しい。ある日突然母親が自分のクラスメイトを性的に見ているとカミングアウトされた娘の気持ちを。

 これ以上の地獄はこの世にないんじゃないの? 

 

「お母さんは嬉しいのよ。あんな事があった手前サキが男嫌いになるのも仕方ないと思ってた……。でも、こうして男の子を家に連れてくるようになって……あらやだ、お母さん涙出てきたわ」

「お母さんよく見て。娘も泣きそうよ」

「大丈夫、家に連れてきた目的は分かってるわ。──どすけべセックスよね? サキは初めてで不安だろうから、お母さんがちゃんと教えてあげるわ。モブ男くんも童貞の匂いがするし」

「不思議ね、今なら母親をぶん殴っても許される気がしてきたわ」

 

 片手を頰に当てきゃっきゃっする母親に張り手をかましてやりたい気持ちをグッと堪え。

 しかし、私の内心など露知らずお母さんのボルテージは上がり続ける。

 

「え? お母さんのテク知りたくないって事? お姉ちゃんも重宝しているのよ? 男の子……ましてや童貞なんて一擦りでフィニッシュよ?」

「だからねお母さん、私とあいつは別に──」

「あ、最初は自分だけで気持ちよくしてあげたいって事? きゃー! いいわねいいわね、お母さんそういうの好きよ! で、でも娘の初体験を側で見るのは初めてだからお母さん柄にもなく緊張してきちゃったわ。どうしましょう」

「だから違うって言ってるでしょう!?」

「え!? 違うの!? まさか──親子丼?  最初からそれはちょっとレベルが高いんじゃないかしら。でもお母さん娘のためなら頑張っちゃう」

「え? なにこれ? この世の地獄か何か?」

 

 これ以上ないと思った地獄をあっさりと超えてきた。これが現世だと言うのなら、生きるにはあまりにも重いカルマがそこにあった。

 白目剥きそう。美少女的にNGなので意地で堪えた。

 

「……あのねお母さん、何回も言うけど私とあいつはただのクラスメイト。断じてどすけべセックスをする様な間柄じゃないの。分かる?」

「サキュバスは誰とでもどすけべセックスするわよ?」

「私は違うのよ!!! 分かった!?」

「もう、本当に頑固ね。サキだって私とお父さんがどすけべセックスして生まれて来てくれた子なのよ? あの時の事は今もよく覚えているわ、まだ小さかったお姉ちゃんが隣で寝てたのに、辛抱たまらなくなったあの人がね、あ、実は私がこっそりチャーム掛けてたんだけど──」

「やめてくれないかしら!!? お願いお母さん!!! 生まれた瞬間ならまだしも仕込んだ瞬間を実の親の口から聞く私の気持ちにもなって!?」

 

 更新し続ける地獄の最高値。精神がゴリゴリと削れて行くのが分かる。

 今すぐこの場を離れたい。離れたいけど離れたら離れたでお母さんが何をするか分からないようで分かるのが怖い。

 もう本当に張り倒してやろうかと思ったとき、いきなりお母さんが「しっ! 静かにっ!」と人差し指を立て唇に。

 

 途端に場に満ちる静寂。コウン、コウン、と稼働する乾燥機の音だけが響く。

 一体なんだとお母さんの方を見れば、ぱちっと片目を瞑り。

 

「シャワーの音が単調なものになったわ。固定してるのね。つまりモブ男くんは今フリーハンド状態。男の子がクラスメイトの女の子のお風呂場でやる事と言えばひとつよ」

「お母さん今日絶好調ね」

「ありがとう。ストレスを溜めないのが秘訣よ。きっと今頃『ここが美上さんが毎日入ってるお風呂……この椅子に美上さんや美上さんのお母さんのお尻が毎日……このボディタオルは美上さんや美上さんのお母さんの身体に隅々まで擦り付けられて……はぁはぁ』って一心不乱に青い欲望を発散しているに違いないわ」

「さり気なく自分を捩じ込むの恥ずかしくないの?」

「全く恥ずかしくないわ。私まだサキのお姉ちゃんと間違われる事あるんだもの。そしてボディタオルを顔に押し付けながら一心不乱に勤しんでいるところに私が入るの。『あら……イケナイ子。そこ、そんなに大きくしちゃって……いったいナニしてたのかな?』『ああ……違うんです……! これは……!』『何も違わないでしょ? こぉんなにガチガチにしちゃって……娘に手を出されても困るし……仕方ないから、私がすっきりさせてあ・げ・る』そして辛抱堪らなくなったモブ男くんは若さゆえに自分をコントロール出来なくなって──」

「ねえ、何? 私いったい何を聞かされてるの?」

 

 声真似までして小芝居を始めた姿に頭痛が止まらない。

 信じられる? これ実の母親なのよ? 

 あと私もお母さんも手洗い派なので家にボディタオルはない。

 

 でも、一度そう言われてしまえば気になるのがサキュバス心というもの。

 まさか本当に……いやいや、他所の家のお風呂場で励むなんて非常識極まり無いことをモブ男がやるとは思えない。シャワーで温まるだけだし。

 

「なんだ、やっぱり気になるんじゃないの」

「うるさい。お母さんは静かにしてて」

 

 お風呂場にじっと意識を向ける。

 サキュバスは男が興奮しているかどうか本能的に感じ取る事ができる。性において男はサキュバスに対し隠し事は不可能だ。

 

 ぴりぴりと、脳の真ん中に痺れが走るような感覚。本能の知覚。微かに伝わってくるこの気配。

 これは──! 

 

「なぁんだ、白か。つまらないわね」

「当たり前じゃない。お母さんみたいな変態がそう何人もいるわけないわよ」

「パンツは黒だったけどね」

「その情報いる?」

 

 程なくしてシャワーが止まり、カチャリとお風呂場の扉が開く音が聞こえたので慌ててリビングへ避難。

 数分後、どこにあったのか男物のジャージを着たモブ男がリビングへと現れた。

 

「えっと、すみません、何から何までありがとうございます。どうお礼をしたらいいか……」

「あら、いいのよ別に。これは私のお礼なんだから。……うーん、やっぱりジャージのサイズ合わなかったわね。一応Mサイズだったのだけれど」

「すみません、多分伸びてしまうと思うので後日新しいモノをお持ちします」

「ふふ、律儀なのね。でも大丈夫よ、それ誰のか分からないやつだから

「いえ、そういう訳にも……うん? え? あ……え?」

「深く考えるのはやめなさい」

 

 まるで宇宙をバックにした猫のような顔をしたモブ男だが、早々に思考を放棄してソファに座る私の近くへ。

 それでいい。世の中には知らない方が良いこともある。

 

「そこ、座ってもいい?」

「……いいわよ」

「ん、ありがとう」

 

 ソファーに座る私の対面。机を挟み、ちょこんとインテリア扱いで置かれている丸いクッションにモブ男が腰掛ける。

 ちょうどそのタイミングで紅茶を淹れたお母さんがクッキーと一緒に持ってきた。

 

「はい、どうぞ。もうちょっとで服の乾燥終わるから、時間とか大丈夫なら悪いけどそれまで待ってくれるかしら」

「あ、はい、時間は大丈夫です。分かりました」

「ふふ、ありがとう。ほんといい子ね」

 

 そして、お母さんはモブ男の隣にストンと腰を下ろす。

 おい。

 

「ねえ、私気になってるのだけれど、娘とはどんな関係なのかしら」

「あ、はい。クラスメイトの友達です。それと、遅くなりましたが僕の名前は──」

「ちょっと、いつから私とあんたは友達になったのよ」

「え!? 僕たち友達じゃなかったの!?」

 

 まさかまさかとでも言うように目を見開くモブ男。

 何をそんなに驚いているのだろう。私の記憶が正しければ友達になろうといった旨の言葉はどちらも言ってないと思うのだけれど。

 

「じゃ、じゃあ……僕と友達になってください」

「嫌よ」

「えっ」

「もぉ〜サキ、あまり意地悪しないの。モブ男くん顔真っ青になってるわよ」

「ふんっ」

 

 お母さんのキテレツな言動で忘れかけてたけど、私はモブ男が私よりあの水妖精を取ったことを忘れていない。

 ふんっ。

 

 そっぽを向いてクッキーを食べる私をよそにやれやれと溜息をついたお母さんはピシリ、と固まるモブ男の耳に顔を寄せ。

 

「この素直じゃないとこ誰に似たのかしら……ん、はぁむ、ぢゅ、ぢゅるるる」

「うひゃあ!?」

「何してるのお母さん!?」

「耳舐めだけど」

「頭沸いてるんじゃない!?」

 

 母親が、娘の目の前でいきなり放心するクラスメイトの男の子の耳を口に含み音を立てて啜る。

 頭がどうにかなりそうだった。常識人としても娘としても生涯において一度も見たくなかった光景がそこにはあった。

 

「それにしても、本当にチャームに掛からないのね……不思議なものね」

「あの、やめて……」

「怯えちゃって可愛い……♡どうしようサキ、お母さん燃えてきちゃった」

「いい加減にしてくれるかしら!?」

 

 お尻を付けながら後ずさるモブ男をみて怪しく舌なめずり。

 帰宅してから三十分の間に畳み掛けられた怒涛の母親の痴態に遂にはキレた私が叫んだタイミングで、乾燥完了を知らせるタイマーの音がリビングに響く。

 

「あら、良いところだったのに」

「いいからお母さんは早く向こう行って!」

「そんなに怒ってるとシワ増えるわよ」

「うるさい早くいけ!」

「はいはい」

 

 手をひらひらさせてお母さんが脱衣所へ向かうのを見届けた後、私は疲れからソファに深く座り込んだ。弛緩する身体。本当にしんどい……。今日練習なかったのにこの疲労感はおかしいわよ……。

 モブ男も気が抜けたかのか、珍しく疲れた様子で肩を落とした。そして顔を上げて、視線が止まる。

 

「──ぁ」

「……ああ、それか」

 

 その視線の先にはひとつの写真立てがあった。

 二十歳に行くか行かないかぐらいの若い男女と、その男女の間で自信なさげに肩を小さくする三歳ほどの女の子。そして、女性の腕の中で呑気な顔をして眠る赤ん坊。

 何の変哲もないただの写真だ。唯一特徴的なことを挙げるとすれば、女性と女の子には細長い尻尾が生えているぐらいか。

 

「──そんな面白いものじゃないわよ」

 

 思わず口をついて出た言葉は自分でも驚くほど色がなかった。

 何かを聞こうと口を開いたモブ男は、私の雰囲気を感じ取ってか、何も言わずに口を閉じた。

 

 ……別に、この写真に対して何か思うところがあるわけじゃない。

 ただ……私が知らない、知らなかった頃の家族の写真。それだけの意味しかない。

 

「サキー! お姉ちゃんの部屋に紙袋いっぱいあるでしょー? それ一個取ってきてくれるかしらー!」

 

 一転して何処か重くなった空気を吹き飛ばすようにお母さんの声がリビングを突き抜ける。

 やれやれと腰を上げた私は立ち上がると、ひとつ伸びをしてお姉ちゃんの部屋へと足を向けた。

 

「美上さん」

「……なにかしら」

 

 呼び止められる。モブ男は一拍の間を置いて。

 いつも通りの声で、いつも通りの顔で笑った。

 

「また明日ね」

「……ええ、また明日」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「……サキは行ったみたいね。ふぅ……ねえ、モブ男くん」

 

「はい……は、え? モブ男?」

 

「ふふ、私、実はあなたの事よく知ってるのよ。前に部屋を掃除したときにちょっとだけ見ちゃってね。サキには内緒よ?」

 

「は、はい……?」

 

「私ね、あなたにお礼が言いたかったの。ずーっと全てがつまらないって言いたげにちっとも笑わなかったサキが、最近はよく笑って、あんなに感情を前面に出して……本当にね、今でも信じられないぐらい……。私たちじゃ出来なかったから……。だからね、ありがとう……本当に……ぅ、ありがとう」

 

「いえ、そんな……。僕の方こそ……」

 

 

 

「…………だって、美上さんに救われたのは僕の方だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介

 

 美上さん

 主人公。ツッコミ役が板に付いてきた。

 何だかんだお母さんやお姉ちゃんとのやり取りを楽しんでいる。

 

 モブ男

 ヒロイン。ぱつぱつジャージ。

 何気に一番の謎を持つ登場人物。

 

 お母さん

 指輪は大事に取ってある。




一日二話投稿目です。

当初予定していた伏線は形が変わったやつもありますが全て入れ終えました。一番変化したのは水澄さん関連。まだ少し残ってたりする。


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9ページ目 『水澄さん』

日記要素無し。ある意味過去回。




 九月といえど日中の気温は二十八度を超える日も珍しくない。

 容赦なく照り付ける日差しは体力を奪い、降り注ぐ紫外線や大量にかく汗は思春期の学生にとっては大敵だろう。

 

 それでも彼ら彼女らはやめない。

 毎日体操服を洗濯して、日焼け対策に苦労して、お風呂で寝そうになって、休み時間にマジ最悪〜とクラスメイトと言い合っても。

 不満はいっぱいある。それでも、今日も制服から体操服に着替えグラウンドへ駆け出すのだ。

 

 なぜなら。

 

 そこに青春のきらめきがあるからだ。掛け替えのない思い出があるからだ。

 やがて大人へと成長したとき、『あの時は楽しかったね』と級友と語り合える未来がある事を知っているからだ。

 

 学生の一大イベントのひとつ、体育祭。

 

 もちろん、そうではない者も一定数いるが。

 ここはそんな学生のひとりだった、とあるサキュバスの転機ともなるこのイベントまでの日常をほんの少し追ってみるとしよう。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

【種目決め】

 

「では、今から私たちのクラスの体育祭の出場種目を決めたいと思いまーす」

 

 二学期が始まって数日。今日のLHRは委員長の弓森さんのこんな一言で始まった。

 

 全三学年の計十五クラス。

 それぞれ一学年ずつの合計五チームで競い合うのがウチの学校の体育祭だ。

 こういった催しで同学年のクラスと共同することは少なく、その校風ゆえにクラス間の結束が少々強いかもしれない。

 

 黒板には出場種目一覧がずらっと並んでいる。

 同学年で競う団体戦と、あと何かひとつは必ず出場しなければならないのがネックだ。

 つまり、私も何か出場するものを選ばなければならない。

 といっても、私はチャームを使って適当にサボるので何になろうがどうでもいいんだけどね。

 

「まずは一番重要なブロック対抗リレーから。えーっと、この中で一番速いのは……言うまでもなく鬼塚くんなのでどうでしょうか」

 

 コツン、と一番右端に書かれたリレーの文字の下にチョークを当てながら弓森さんが問う。

 みんな異論はないのかうんうんと頷く中、ひとり異を唱えるものがいた。

 推薦された本人だ。

 

「悪ぃけど俺はリレーには出ねえぞ。綱引きで勝負するって約束しちまった」

 

 クラス中がどよめく。

 最も速い者が出る、とみんなどこか当たり前のように思っていたからだ。

 

「え、絶対に無理ー?」

「無理だ。約束は破れねえ」

 

 クラスの総意を代表した弓森さんの問いはにべもなく断られる。

 その屹然とした受け答えからこれは無理だと判断した弓森さんが目を向けたのは、藍の混じった灰色の髪にぴょこんと耳が出た狼の獣人。確かモブ男の親友だったかしら。

 

「じゃあ、白狼(しらかみ)くんはー?」

「あー、すまん」

 

 最も速い者が断った時点で二番目に速い者である自分に話が振られるのは分かっていたのか、申し訳なそうにモブ男の親友は断った。

 しかし、その代わりとばかりに。

 

「俺の代わりというか、多分今の親友は俺と変わらないぐらい速えと思う」

「えっ、僕?」

 

 まさか自分に振られるとは思ってもなかったのか、素っ頓狂な声を上げるモブ男。

 その声にクラスメイトの視線がモブ男に集まる。

 

「ユキカゼってそんな速かったか?」

「四月の体力測定だと人間の平均よりは……って感じだったと思う」

「え、リレーに人間が出るの? 無理臭くない?」

「でもでも、確かに四月と比べてユキカゼくんの身体すごく変わったよねっ」

「いや確かにそうだけど、でもユキカゼは人間でしょ? リレーは速い種族の独壇場だよ?」

 

 当然と言うべきか、人間は平均的な身体能力は低い部類に入る。

 人より力の強い種族、人より脚の速い種族なんて幾らでもいる。

 極限まで身体を練り上げたアスリートレベルならまだしも、特に部活動をやっているわけでもないモブ男の推薦に疑問を持つのも無理はない。

 そのざわめきを吹き飛ばすように。

 

「大丈夫だ。親友は速い。俺が保証する」

「ちょっと待って親友。僕の意思を無視しないで。他のクラスには風妖精も水妖精も居るんだよ? 無茶だって」

 

 その力強い断言に皆が押し黙るなか、むりむりと全力で首と手を振るモブ男。

 

「僕じゃなくて自分で走った方がいいって。めちゃくちゃ速いじゃん」

「親友と違ってあの時の怪我がまだ残っててなあ」

「うぐ、それを言われると……」

「それにな、よく聞けよ親友。──リレーを走ればモテるぞ」

「別に僕はモテたいわけでは……」

「ひょっとしたらリレーを走る親友を好きになる子もいるかもな? 例えば……な?」

「走ります」

 

 興味がないのでスマホを見てたから会話のほとんどを聞いてなかったが、どうやら後日走力を見てから決定するものの、リレーはモブ男でほぼ決定になったらしい。

 あ、この猫かわいい。癒されるなあ。

 

 それからどんどんとそれぞれの種目が決定していくなか。

 

「えーっと、次は……あ、二人三脚。誰か出たい人いるー?」

 

「「「はい! はいはいはいはい!!!」」」

 

 うわ、びっくりしたわね。

 何事かと顔を上げればクラス中の男子が他の男子を牽制しつつ手を挙げていた。

 意気込む男子とは裏腹に女子からは「またかよ……」というため息があちこちから聞こえ、私に視線が突き刺さる。は? 

 

「ウチの高校の二人三脚は男女混合……! 男女混合……! きゃっほい!!」

「女子でまだ種目が決まってないのは布蛇さんに弓森さんに……そして美上さん!!」

「美上さんと密着……えっちなサキュバスと二人三脚……! 耳元でいっち、にっ♡ってカウントダウンしてもらいながら走るんだ……!!」

「美上さんと触れ合える美上さんと触れ合える美上さんと触れ合える……!!」

「美上さんのいい匂いを肺に溜めてもう一生呼吸しない

「俺は美上さんと肩を組んだ半身は二度と洗わない」

「肩を組まなきゃだからいろいろ触れても事故だよね? ね? ね?」

「落ち着け親友っ! ステイ、ステイだ!! その手に持った包帯でどうするつもりだ!?」

 

 うわあ……。

 喧々囂々と口に出される欲望に耳が腐りそう……。濁った性欲が私の肢体に叩きつけられているのをありありと感じる。

 ほんっっっと、これだから男は……。

 

「美上さんと合法的に触れ合えるこの機会を逃すわけにはいかワタクシハ男ト肩ヲ組ンデ走リマス」

「俺モデス」

「俺モ」

「俺モ男ト走リマス」

 

 煩わしかったので全員チャームした。

 男子の熱狂で騒がしかった教室がシン、と静まる。ふん、これで快適になったわね。

 

「こら、美上さん」

「あたっ」

 

 これで落ち着いて猫の画像を漁れるとスマホに視線を落とした瞬間、ぴっと指で軽くおでこを弾かれた。

 一体どこのどいつだとおでこをさすりながら顔を上げれば、困った顔をしたモブ男が正面に立っていた。

 

「気持ちは分かるけど本人の意思を無視しちゃダメだよ」

「発情した犬と走れって言うのかしら」

「それを言われると弱い。でも……ね?」

「私からもお願いするよー、美上さん」

「……ふんっ」

 

 まあ、弓森さんがそう言うなら? 

 仕方なくチャームを解いたあと、男子は結局男子同士で組むことになった。男女混合とはいえ、必ずしも男女がペアになる必要はないのだ。

 

 そして、私の種目は借り物競走になった。別にサボるからなんでもよかったのだけれど、弓森さんや私にそこまで悪感情を抱いていない女子たちの同情の視線が少しだけ気になった。

 

 

 

 

 

【vs.水澄さん】

 

 毎年体育祭の練習はサボってきた。だから今年もサボろうとそう決めていた。

 しかし、私のクラスを担当する体育教師が女性である事を完全に失念していた私は、単位のために参加せざるを得なくなったのだ。授業でやらないでよ……! 特に何の意味があるか分からない全体の進行練習……!! 

 

 しかも、朝、放課後と団体種目の練習まで始める始末。

 私のクラスだけじゃない、全クラスでだ。信じられない。高校生のこの体育祭にかける熱量がどこから生まれてくるのかしら……。

 

 その熱量に流されて眠い目をこすって朝練に参加し、疲れた身体に鞭を打って放課後も学校に残っていたけど、もう限界。

 別に私まで頑張る必要はないのよ。頑張りたい人だけで頑張ればいい。

 

 そんなわけで放課後練習の準備を始めるクラスメイトたちを尻目に意気揚々と帰宅のために上靴を履き替えていたその時だった。

 

「へえ、もう帰るんですね」

 

 放課後、人通りの多い騒がしい昇降口でなおはっきりと聞き取れるほどその声は澄んでいた。

 透き通るような声音。でも、そこに乗った感情にははっきりと色が付いている。

 

 誰に言ったのか、など考えるまでもない。だって、さっきから背中に私を見下した視線が突き刺さっているから──! 

 

「悪いかしら。別に貴女には関係ないでしょう」

「いいえ、関係あります。淫魔が居なくなるのなら私は嬉しいですから」

「はあ?」

 

 振り返った先に立っていたのは、何処か見覚えのある女子。百七十はあろうかという身長にスラリと伸びた肢体が体操服から惜しげも無く覗き、その肌は遠目からでも分かるほどに白くきめ細かい。

 水妖精の種族特有の透き通るような水色の髪はポニーテールに纏められている。

 常ならば凛とした顔立ちなのだろう。しかし、今はその薄い唇は歪み僅かに口角が上がっている。

 

 カチン、と自分の頭の中で音がなった気がした。

 私に喧嘩を売ってくる女なんて久し振りね……! いいでしょう、ここ最近練習漬けでストレス溜まってたし買ってやるわよその喧嘩っ!! 

 

「……随分なもの言いね。私、貴女に恨まれるような事したかしら。あ、もしかして貴女が想いを寄せる男を取っちゃったかしら? ごめんなさいね、私が可愛い過ぎて。それに……ぷ、胸は何処に落としてきたのかしら?」

「はあああああ!? はああああああああああっ!!? ちゃんとありますぅ!! あるんだから!!! 淫魔のように下品なおっぱいじゃなくて気品のあるおっぱいなんですぅ!!」

「え……? ごめんなさい、私には地平線しか見えないのだけれど」

「ブッコロ」

 

 数秒前の冷徹な雰囲気を吹き飛ばし肩を怒らせる水妖精。気分が良い。

 むきーっと地団駄を踏んだ水妖精は、仕切り直すようにはんっと鼻を鳴らし。

 

「この際です、淫魔。私は前々から言ってやりたかったんですよ。貴女は自分の事を可愛いって言ってますがぶっちゃけ男ウケしかしてないそれは可愛いというよりは都合のいいが正しいですよ。ぷ、男に都合のいい淫魔(笑)。お似合いですね」

「はあああああああ!? はあああああああああ!!? 言うに事欠いて私が男に都合のいいですって!?」

「男嫌いって噂ですけど……あれ? それにしては男にだけ都合のいい容姿を随分とご自慢なさっているようで(笑)」

「ブッコロ」

 

 一瞬で沸点に到達した。こいつは今超えてはならない一線を超えた……! 

 

「わあ、怖い顔。そんなに自分が可愛いと思うのなら文化祭でミスコンに出てみたらどうですか?」

「ふざけんじゃないわよ、なんで私がそんな……!!」

「怖いんですか? ですよね、だって今年は女性審査員が多数と決まってますからね。男子の需要だけを集めてその中で鼻を伸ばす……淫魔ってオタサーの姫みたいですね」

「はあああああああああっ!!?」

 

 オタサーの姫ですって……!? 

 どんな男でも虜にできる私が人生でモテない男の集まりで自尊心を慰める(偏見)オタサーの姫ですってぇ……!? 

 

「私も自分の容姿が整っていると客観的に思いますけど。淫魔と違ってカッコいい、綺麗と形容されるタイプなのでミスコンでも男性票も女性票も狙えます。それにもともと男子の好みなんて数え切れないほど細分化されるものですから、規則で魅了の使えない淫魔では……あれ? 井の中の蛙?」

「……水妖精、話は変わるのだけれど貴女に兄か弟はいるかしら」

「え、怖い急になんですか、弟はいますけど……あ、なるほど。無駄ですよ、水妖精にお得意の魅了は効きません」

「……水妖精の種族特性、癒しの体液ッ!」

「正確には恒常性の活性化、つまりは身体に取って最適な状態を保つ、ですけどね」

 

 サキュバスがチャーム出来ない数少ない種族のうちのひとつ。

 水妖精がそうである事を怒りで忘れていたわね……! 

 

 今からほんの三十年ほど前。水妖精はその稀有な種族特性から人攫いが横行し、重罪の人身売買も法の目の届かない場所で頻繁に行われていた。教科書にだって載っている。

 今は元締めを担っていた犯罪シンジゲートが崩壊して安寧を取り戻しているが、その影響は計り知れず水妖精はいっとき絶滅しかけるほどその数を減らした。

 今もその影響は根深く、水妖精の種族は驚くほど少ない。

 

 だから私も水妖精の男にチャームをかけた事はないのだけれど、お母さん曰く大岩を押しているような感覚らしい。

 

「なので当然私は運動も得意です。淫魔は……そのだらしない身体じゃ無理そうですね。ぷっ」

「だらしなくないわよ!? 私がどれだけ体型の維持に気を使ってると思って……!」

「え? それで気を使ってるんですか? どこもかしかもむちむちむちむちと……ひょっとしてボンレスハムにでもなるつもりです?」

「はああああっ!? 勝手につくお肉の苦労も知らずに……!! 何もしなくてもいくら食べても痩せるチート種族は黙ってなさい……! ふんっ、水妖精もなにそれ、どこもかしかも筋肉で硬そうね!! 男見たい!!!」

「はああああっ!? 今どこ見て言いました!? 今どこ見て言いました!!? 人が気にしてる事を一度ならず二度までも……!!」

「一生保たれる身体に最適な状態(塗り壁)」

「ブチ切れました」

 

 ワナワナと肩を震わせる水妖精。側から見ただけでも怒りが内心渦巻いているのがよく分かる。

 ……それは多分、今の私も。

 人通りの多い場所でこんな言い合いをしていれば嫌でも人目につく。私たちの周囲には取り囲むように人だかりが出来ていた。

 ただ、いつもなら鬱陶しく思うそれも気にならないほどに今、私はブチ切れていた。

 頭に来ているのが自分だけだと思わないことね……! 

 

「ふふ、ふふふふ、初めてよ、ここまで私をコケにした女は……!」

「こちらのセリフです、淫魔。貴女は禁忌を口にした……!」

 

 一触即発の空気。私たちから溢れる、瞬きした次の瞬間には掴み合いになりそうなほどの敵意と殺気に野次馬をしていた周囲がざわつき出す。

 

 如何に身体能力に優れた水妖精といえど、数年前までお姉ちゃんと取っ組み合いの喧嘩をしていた私を甘くみないことね……! 絶対に泣かしてやる……! 

 

 じり、じりと間合いを測るような張り詰めた緊張感。視線がぶつかる。誰かが生唾を飲み込んだ音がやけに響いた。次の瞬間、私たちは利き足に力を込め──。

 

「ちょ──ーっと待ったぁ!! ステイステイ! 君ら何やってんの!?」

「邪魔しないでモブ男の親友!」

「離してハクローそいつしばけない!!!」

「モブ男の親友!? なんだそれ!?」

 

 あわや肉体言語を用いた喧嘩勃発、といったところで私たちの間に飛び込んできた灰色。

 私に背中を見せるように間に立った狼の獣人、モブ男の親友は暴れ出しそうな水妖精の肩を抑えている。

 

「なんでこんな事になってっか知らねえけどお前その身体でそれはダメだって!」

「この淫魔には一度私が分からせてやる必要があるのです……!」

「それがダメだって言ってんのよ!?」

 

 二人のやり取りの意味は分からないが、モブ男の親友が水妖精を抑えているこの状況は都合が良い。

 モブ男の親友をチャームしてこのまま拘束させても良いし、何より今水妖精の注意が私から外れている事がグッドだ。

 

「どうして私の邪魔をするのですかハクロー! 貴方は私の味方のはずあいたぁ!? 淫魔……! 今その尻尾で私をはたきましたね……!?」

「さあ? 知らないわね。気のせいじゃないかしら?」

「むっきいいいいっ!!!」

「あれえ!? 美上さんってこんなキャラだっけ!? 二人とも頼むから一旦冷静になってくれ!!?」

 

 悲鳴のような声を上げるモブ男の親友。水妖精は依然抑えられたまま顔を赤くしている。……びっくりするくらいキメ細い肌ね……正真正銘何のお手入れもなくアレなんだから本物のチート種族ね。余計腹たってきた。もう一発いっとこうかしら。

 

「はーなーしーてーくーだーさーいー! ハクロー! 貴方もしかしてこのいやらしい淫魔に魅了されてるんですか!? 正気に戻ってください趣味が悪いですよ!! 絶対えっちな方のパパ活とかやってる見た目ですよ!! 処女厨のプライドを見せてください!!」

「お前こんな人目のあるところで何言ってくれちゃってんの!!?」

「いやらしくないしやってないわよ!!? 散々な物言いといいいきなり喧嘩は吹っかけきた事といいほんとこいつ……!!」

 

 そうよ、頭に血が上って忘れかけてたけど水妖精が帰ろうとする私に喧嘩売ってくるからこんな事になってるのよ。

 同じクラスでもないしなんなら面識も……いや、何処かで見た気が……。単純に水妖精って珍しいから見かけたのが記憶に残ってただけかしら……? 

 

 記憶に引っ掛かりを覚え思案する私をよそに、ため息を吐いたモブ男の親友は諭すように言う。

 

「水澄、お前に理由があるならまずは謝らなきゃだめだ。今は納得出来なくても、そうやって区切りを付けないと話し合いにすらならな──」

「嫌です私こいつ嫌いです」

「あら、奇遇ね。私も大嫌いよ」

「助けてくれ親友……」

 

 天を仰ぐモブ男の親友。抑えられつつもその脇から顔だけをすぽんっと出した水妖精が私を睨む。

 自分から喧嘩売っておいてこの言い分……ろくな性格してないわね。間違いなく気に入らない事があったら無理やり従わせようとするタイプね(特大ブーメラン)

 

 というより、正直もう謝まる謝らないのラインはお互いとっくに超えている。泣かすかどうかだ。

 後はそれをどうするかで──。

 

「あー、なんか引っ込みが付かなそうだから、じゃあこういうのはどうだ? 体育祭の団体戦で負けた方が勝った方の言う事を聞く、とか。それで一言謝れば気も晴れるだろうし──」

「──なんでも」

「──言う事を聞く?」

「お、おう。……え? なんで急にガチトーンになってんだ? 怖い」

 

 その言葉に。

 私と水妖精の目の色が変わった。

 見る人が見ればこう例えただろう。

 

 ──転生した子ブタがレンガの家でお湯を沸かして狼を待っている時のような目みたいだ、と。

 

「私はそれでいいです」

「私もよ」

「おや、逃げないのですか? そのだらし無い身体では騎馬も大変ですね」

「あら残念、私の騎馬は体力自慢なの……だからだらしなく無いわよはっ倒すわよ」

「……だから嫌なんだ」

 

 最後、呑み込もうとして呑み込めきれなかった言葉の意味は分からなかったが、お互い敵意とやる気が十分。

 バチバチと視線の火花が散る。

 

 ……と見せかけて、私の内心は『まだだ……まだ笑うな……しかし……!』状態でにやけそうな顔を堪えるのに必死だった。

 抜かったわね水妖精。自分たちには効果がないからって、私がサキュバスだという事を甘く見たのが貴女の敗因よ……!! 

 

「うわ、これなんの騒ぎ? 凄い人だかりでここまで来るの大変だったよ」

「お、親友。もっと早く来て欲しかった」

「ぁ、ユキカゼくん」

「……こんな所で油売ってないで練習行くわよ!!!」

「え、昨日からは信じられないぐらいやる気に満ち溢れてる……というか、美上さんが帰っちゃったと思ってたから僕たちの騎馬は練習出来な……いえなんでもないです。わ、あ、親友! 先行ってる! 水澄さんもまた委員で!」

 

 思ったより騒ぎが大きくなったのか、新たに人垣から現れたモブ男の腕を掴み練習場所へ。

 

 死ぬほどやる気のなかった体育祭だったけれど、絶対に負けられない理由ができた以上、ほぼ勝ちが決定しているとはいえ万が一に備えて練習は欠かせない。

 

 首を洗って待ってなさいよ水妖精!! 絶対に負かしてやるんだから!!! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……俺も騎馬なの忘れてそうだなあ美上さん」

「……ハクロー」

「怖い怖い怖い。美人に凄まれるとすげえ怖い。……でもまあ、驚いたよ。事の良し悪しはともかくお前が親友以外であんなに感情豊かなところ、初めて見た」

「私にも感情はあります。好き嫌いだって」

「四月とはえらい違いだって言ってんの。……人集まってきてるし、自分のクラスんとこ戻った方がいいぜ」

「……そうですね。では」

 

 

 

「……淫魔。貴女は先に喧嘩を売ったのは私だと言った。それは正しい。でも……先に奪ったのは貴女です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介

 

 美上さん

 主人公。激おこぷんぷん丸。

 姉妹喧嘩以外は全く経験がないので煽り耐性はほぼゼロ。

 乗るな美上! 戻れ! 

 

 モブ男

 ヒロイン。四月から身体が結構変わったらしい。

 

 水澄さん

 彼女は美上さんから何かを奪われたと思ってるけど厳密な順番を付けると……。

 容姿に自信ネキ。一言で言えば口を開かなければ……タイプ。

 

 親友

 実は各ページでちょこちょこ存在は確認できる。




長くなりそうだったので分割。ダイジェストでサクッとやるはずがどうしてこうなった。

オリジナル作品の原作設定が変わりましたね。ふと他の作者様の作品を読んでいて、こんなのが現代-恋愛の顔で並んでいていいのか……?ってちょっと思いました。
もうすぐ恋愛し始めるから……!多分……!


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10ページ目 『練習』

誤字報告ありがとうございます。




【練習(騎馬戦)】

 

 騎馬戦。

 一般的には三人が騎馬となりひとりの騎手を乗せ、騎手のハチマキを取り合う戦い。

 激しい接触にブレない騎馬の堅牢さ、軽やかに駆ける俊敏さも大事だが、騎馬戦において何よりも重要なのは騎手。

 結局のところ騎手がハチマキを取れなければ意味がないからだ。それからすると、あまり運動が得意ではない私が騎手なのはあまり良い策とは言えない。

 

 なのになんで私が騎手になっているかといえば、単純に騎馬になるのは嫌過ぎたのと、男子のみでは組めないルールがあるからだ。

 性差以前に種族差。身体能力的に男女に分ける意味は薄れたといえど、何故こんなルールがあるのかといえば、校長の趣味の一言に尽きる。禿げろ。

 

 そんなわけで恐らくどのクラスも騎馬を男子で組み女子が騎手になるパターンが多いだろう。

 タフな種族の女子なら騎馬になっているかも知れないけど、少なくとも私のクラスはほぼそうなった。

 

「じゃ、持ち上げっぞ」

「うん」

 

 私の下で声がする。二人の男の声だ。

 上からモブ男の親友、モブ男。メジャーなのは騎馬三人騎手ひとりの四人でやる騎馬戦だが、うちの高校は騎馬二人騎手ひとりの三人の騎馬戦を採用している。ユニットの頭数を増やした方が見栄えが良いのと、あとは校長の趣味だ。結石になれ。

 

 先頭はモブ男。手のひらを空に向けるように腰の後ろに突き出したモブ男の手と、モブ男の親友の手ががっしりと組み合った土台の上に靴を脱いだ私の足が乗っている。

 体勢を安定させるためにモブ男の両肩に手をついて、中腰になれば完成だ。

 普通、騎馬二人というのは安定感がない場合が多いらしいが、私に限っていえばそれとは無縁だった。全くブレない。なんか、岩かなんかに跨っているような気分。

 

「親友……!!」

「はいはい……」

 

 不思議げに肩周りをぺたぺたしていると、唐突に切羽詰まった声を出すモブ男。

 直後、ドゴッ、という鈍い音が響き一瞬騎馬がグラつく。

 

「きゃっ。ちょっと、どうしたのよ」

「あはは、ごめん、ちょっとね。小石に足ひっかけそうになった」

「……絶対に躓かないでよ?」

「うん、もちろん」

 

 騎馬のモブ男が転ければ、当然騎手の私も地面へ投げ出される。

 冗談ではない、普段よりだいぶ視点が高いのだ。そんなところから身を投げ出された場合を想像してひっ、と小さく喉がなった。

 大丈夫よね……? 本当に大丈夫よね……!? 

 

「なあ、流石に俺の心が痛いんだが」

「ごめん。でも口内出血してたら出場できなくなるかもだし……!」

「いやでもよぉ……それにそんな必至になんなくても今美上さん抑えてるみたいだから頭が軽〜くふわふわするだけだぞ?」

「僕は絶対にチャームされる訳にはいかない」

「つってもなあ……人目のある本番だと蹴るのは厳しいし……そもそもなんで騎馬組んだだけで限界きてるんだよ」

「僕にはいつもと変わらないチャームが来てるからだよ……!!」

 

 私が不安と戦っている間、騎馬の二人は何やら首を曲げてコソコソ話していた。私の太ももの横で話すな。

 

 それにしても……副産物であり想定していなかったとはいえこの状況は都合が良い。

 チャームは身体的接触が増えれば増えるほど強力に作用する。それはその方が性的に興奮しやすいという理由もあるが、水は火にかけるとお湯になる、と同じレベルで原理的なものでもある。

 

 今、モブ男は私の足を握り、私の両手を肩に置き。でも、完全には密着しない言わば焦れるような距離感。だが、確かに触れ合っている。

 しかも今の私は半袖だ。下は流石に長ズボンだけど。

 体操服の半袖の布は薄い。それに加えて燦々と太陽が照るこの気温、どうしたって汗はかく。

 

 ふふふ……甘くていい匂いでしょう? 触れ合っているところ、柔らかくて気持ちいいわよね? もっと欲しく……なっちゃうわよね? 

 

 チャームの出力自体は抑えているが、その分チャームの指向性を全てモブ男に向けている。直接触れているから出来る事だけど、恐らくモブ男には普段と変わらない強さのチャームがかかっているはず。

 

「ふふ、ねえ、気分はどう?」

「……? いや、気分悪くとかはなってないよ、今日は暑いけどね。心配ありがとう。美上さんは?」

「……大丈夫よ」

「そっか、良かった」

 

 違うそうじゃない。

 普段と違うシチュ+薄着でそこそこ密着+フェロモン全力でなんでこの反応なの……? やっぱり不能なの……?? 

 

「……はっ。っと、俺たちも行くぜ」

「おーけー」

 

 チャームにかかったモブ男の親友を解除しつつ、実践練習をしているクラスメイトに加わる。

 この日はハチマキは取れなかったが、取られることもなかった。

 なんで騎馬組んでる状態であんなに早く動けるのかしら……? 

 

 

 

 

 

【練習(借り物競争)】

 

 授業では一度か二度、個人戦に分類される種目の練習もある。

 その目的は選手側には入退場に集約されているが、体育祭を運営する側にとってはコーンの配置換えや種目に応じた物の用意とか、意味のある練習なのだろう。

 

 借り物競争とは読んで字のごとく物を借りて走る競技だ。

 走った先にあるくじを引き、それに書かれていた物を借りて走る。

 選手だけでなく観客の力も必要な、一体型とでも呼べばいいのだろうか。何はともあれ盛り上がる部類の競技である。

 

 チラリと待機列からコースを覗く。正確に呼称するなら障害物競走の方が正しそうな塩梅。

 メインの借りる物を決定するくじは後半で、前半には行く手を阻む障害物が並べられている。

 

 この時点で私は一位を諦めた。もともとなる気もなかったけどね。

 

 パン、と軽快な破裂音。空砲を合図に一斉にスタートした最前列が最初の障害物であるネットを潜って進んでいく。……いやだなあ、あれ。ツノとか尻尾とか引っかからないかしら? 

 

 本番では放送部の実況? がつくらしいが、練習だとなんともまあ静かなことだ。観客もいないし、当然といえば当然かしらね。

 だからか、選手側の士気も低い。入場のときから三分の一ぐらいは絶望したような顔をしている。空を見つめて鳥はいいよな……自由で。みたいな呟きも聞こえた。いや絶望しすぎじゃないかしら。

 

 幾ら何でも様子がおかし過ぎる。

 どうしたわけかと隣にいた女子に聞けば、『本番になったら分かるよ……』と力なく笑うだけだった。

 

 物凄く嫌な予感がした。

 私の危機管理センサーが全力で警告を発していた。

 ただまあ、練習で走った際はネットにツノも尻尾も引っかからなかったし、くじも『教員』と当たり障りのないものだったので、私はそれを気のせいと片付けた。

 

 後日、全力で後悔した。仮病を使うべきだったと。

 

 

 

 

 

【親子水入らず口入る】

 

 浴槽に張ったお湯からはもくもくと浴室を白く染め上げる勢いで湯気が立ち上る。

 常なら透明なお湯は乳白色に色づいている。温泉の素ってほんとに便利。お風呂洗うのめんどくさくなるけど。

 

 髪も身体も洗ってお湯に浸かる。身体から疲労がお湯に溶け出していくようで、思わずくぽぇー、なんて声が漏れた。

 

「疲れた身体に染み渡る……」

 

 ぐぅ〜っと身体を伸ばす。凝り固まった筋肉が解れていき、温かい熱に包まれる。言葉にし難い幸福感。

 この瞬間のために頑張った……なんて思っちゃいそうなほどに、私はこのひとときが好きだった。

 

「あとはサウナがあればなあ……」

 

 ポツリと願望を漏らしたその時。

 

「さっきからおっさん臭いわよ」

 

 ガラッと開かれる引戸。

 堂々たる振る舞いでどかっと洗面椅子に腰を下ろす全裸のお母さん。

 ちょっと待て。

 

「ちょっと、なんで入って来てるのよ」

「あらサキ、そんなに食い入るように見つめて……えっちね」

「死ぬほど興味ないしなんで入って来たのかって聞いてるんだけど」

「晩御飯作ってたらかなり汗かいちゃって。この時期に油はだめね」

 

 言いつつ、器用に尻尾でシャワーのノズルを捻ったお母さんは髪を濡らす。

 いやいやいやいや。高校生にもなって母親と一緒にお風呂って。

 

「……浴槽には私が出てから入ってよね」

「えー? 二人で入れるぐらい広いんだからいいじゃない。親子の心温まる裸のコミニュケーションをしましょう」

「それをやって温まるのは娘の嫌悪感よ」

「ふふ、大丈夫よ。ちゃぁんと身体の方もあっためてあげるから」

「ひゃあぁぁぁあっ!? お、お母さんっ!! 何するのよ!?」

「お、おお……まさかちょっと胸触っただけでそんな反応するとは思わなかったわ……あ、そういえば最近は夜直ぐ寝てたわね。なるほど」

「今すぐそのムカつく顔をやめろぉ!!」

 

 片腕で胸を守るように自分を抱きしめながら、にんまりと口元を歪めたお母さんに叩きつける勢いで手酌で掬ったお湯をぶつける。

 浴槽に鼻先まで体を沈めてお母さんを睨みつける私。けらけらと笑ったお母さんは「ごめんってば」と微塵も誠意を感じさせない軽い口調で謝罪を口にして、鼻歌交じりに頭を洗い始めた。

 

 濡れて身体に張り付いた私やお姉ちゃんと同じ銀色の髪。水分を含むことで濡れ羽根のように、光を吸収しているかのような鮮烈な印象を受ける。

 手のひらに程よくシャンプーを乗せ、すりすりと濡れた両手を使って擦り合わせて薄める。泡立ったそれをぽん、ぽんと髪に乗せて馴染ませ、小刻みにしゃかしゃかと、指の腹を頭皮に押しつけてマッサージするように上から下へ流れるように手が動く。

 

 その間、私は猛る内心のままお母さんを睨んでいた。

 

 この万年発情期アラフォー未亡人め……!! 

 自分の母親に対してこの言い草はどうかと思わないでもないけど、それも仕方ない。

 普通いきなり娘の胸の、それも敏感なところ触る!? 

 しかも異様に上手かったのが腹立つ……!! なんであんな一瞬で、こんな……も〜〜ッ!! 

 

「気持ちよかったでしょ♡」

「うるさいッ!!!」

 

 私の目線が下を向いた瞬間、隠しきれない笑みを溢したお母さんの声。

 可憐な笑顔とかそんな綺麗なものでは断じてない。例えるならニヤァ……って効果音が付きそうな、そんないやらしい笑みだ。

 それでいて、悪戯に成功した子どものような無邪気さもあるのだから頭が痛い。

 

 それに、私が下を向いた瞬間を捉えられたということは、頭を洗いながらこっちに注意を払っていたということだ。

 つまり、私の行動を予測していたという事……っ! 

 

「……もうしないわよ。しないからそんな犯罪者を警戒するような目でお母さんを見ないで。お母さん反省」

「犯罪者はみんなそう言うのよ……!」

「母と娘、女と女、サキュバスとサキュバス。一般的なコミュニケーションじゃない」

「唐突に胸を触る一般的なコミュニケーションがあったらたまらないわよ!!」

「はっ。確かにそうね。サキュバスはこねくり回すぐらいはしてるわ」

「そういう意味じゃないわよっ!!!」

 

 なんでサキュバスってこう……! こう……っ!! 

 

 それから、特に会話はなかった。私がそっぽを向いたからだ。

 トリートメントを終えたお母さんが身体を洗い始めたのを見て浴槽から立ち上がる。

 もう十分温まったし、頭を洗ってるときと違って口が自由になったお母さんは何かと私に構うだろうし。

 

「あ、ご飯はお風呂から出たらすぐだから待っててね」

「分かった」

「さっきのじゃ物足りないからってひとりでシちゃだめよ? ご飯冷めちゃうから」

 

 イラっときた。

 なので、間髪入れず私は行動で内心を表明することにした。

 

「ふんっ!」

「おっと。母親においたする尻尾はこうしてあげましょう」

「ひゃんっ!? ……ぅ、あ〜〜っ!!」

 

 お母さんのおでこめがけて飛んだ尻尾がむんずっと直前で掴まれる。

 同時に、泡でぬるっとしたお母さんの細い指が尻尾に絡まって……っ! 

 

「何するのよ!!」

「サキ、尻尾弱かったのに何ともないの? ほら、ほら」

「……っ、普段から外に出してるものに……ぁ、特別意味があるわけじゃない。……ふ、ぅ、サキュバスの尻尾が性感帯なんて……はっ、は、浅ましい男の妄想の中だけよ。ぅ、だからその無駄に艶めかしく動かしている手を今すぐ止めなさい……っ」

「震えちゃって、我慢してるだけなの丸分かりよ。まあ、それもそうよね、だってサキが小さい頃にお母さんが開発したもの」

「お前のせいかァッ!!!」

 

 尻尾にだって神経があって触覚だってある。

 全身性感帯とまでは行かないが、それに近い身体のポテンシャルがあるのがサキュバスだ。

 ある日の夜、トイレに起きたときにお姉ちゃんの部屋から聞こえる苦しげな声に心配をして部屋を覗き見てしまった私は、後日好奇心と身体の欲求に負けて……。

 

 道理で自分でした記憶もないのに……!! 初めてしたときの私の困惑と絶望が分かる!? 

 怨敵はここに居た……!! これは中学生の私の怒りと悲しみと崩れ去った純情の恨みよっ!!! 

 

「お母さんにお前だなんて、そんな悪い子にはこうしちゃう。はむっ」

「あふんっ」

 

 怒りに任せて詰め寄った私はそのまま流れるように膝から崩れ落ちた。

 泡でぬめった、どころではない。何か恐ろしいほどに柔らかく、熱いものが尻尾の先端、ハートと錨が混ざったような形状の部分に絡みついてる。

 シャワーが浴室の床を叩く音に紛れて、隠微な水音が混ざる。

 半ば確信しつつも息も絶え絶えになんとか顔を上げれば。

 

「ん、ふ、ちゅぱっ。……自分でしておいてあれだけど……これは流石に……」

「んっ、ぁっ、やだ、だめっ……ぁん、やめ、やめて……っ、ふぁっ、ぁ、はぁ……はぁ……んっ!」

「サキュバスは与えられる刺激にはかなり強いはずなんだけど……私の唾液の催淫ありきとはいえ……サキ、大丈夫? そんなに溜まってたの?」

「しんぱっ、ぁ、はぁ、するなら……んっ! ぁ、……そのっ、動かしてるぅ! ん、やぁ……っ、んっ、手を……はぁ……っ、はぁ……っ、止めて……っ」

「あらやだ、つい癖で」

 

 私の尻尾からぱっと手を離すお母さん。

 荒い呼吸。両肘両膝を床につけ、お母さんに顔だけは見せまいと、実際には重力で垂れた胸で見えないが足の方を覗き込むように首を曲げている私。

 

 シャワーの音と、乱れる呼吸を何とか落ち着けようとする私の声だけが浴室に響く。

 その甲斐もあってか、徐々に心も身体の方も落ち着いて……いくわけがないっ!!! 

 

「お母さん」

「えっ怖い。え? サキ? 声がガチトーンなんだけど……」

 

 微動だにせず。そのままの体勢で。

 傍目から見れば何かの特殊なプレイだと思われるような状況かもしれなかったけど、そんな事はどうでもよかった。

 

 二週間だ。

 体育祭の練習が始まってから約二週間だ。

 その間、朝練や放課後の練習、お肌や体操服などの手入れと私はこの二週間疲労と準備でいっぱいいっぱいだった。

 朝早く起き、学校に行って、放課後まで練習をして、遅くても二十一時には寝る。

 

 その生活を私は約二週間も頑張った。サキュバスがだ。普通なら波のある性欲の増減が年中ストップ高のサキュバスがだ。

 辛くなかったといえば嘘になる。美少女でも溜まるものは溜まる。忙しくてそんな暇がないとその感覚自体が遠のくというが、じっと座って落ち着くことの出来る授業中は眠気とムラムラの戦いだったし、何よりサキュバスがそれを感じなくなるなどあり得ない。

 

 ようするに。私はめちゃくちゃ頑張ったのだ。なのに……!! 

 

 火照る身体。お湯に浸かってたから……だけではないのは、自分が一番よく分かっている。

 お腹の奥がじくじくと甘く疼いている。ずっとお預けをされていた身体が。乾ききったスポンジが一滴の水では足りないと悲鳴をあげるように、もっと、もっと、と切なさを訴えている。

 

 今すぐにでも耽ってしまいそうな程の欲求を強固な自我とプライドでギリギリ押さえつけている状態だ。

 いや、いつもの私ならもう負けていたかもしれない。今、私が私を保っていられるのは。

 

「お母さん」

「……ごめんね? お母さんやり過ぎちゃたかも……なんて」

 

 純粋な憤怒とでもいうべき混じりっけのない本物の激情が私の中で荒れ狂っているからだ。

 怒髪天を突く。当たり前だ。私は怒ったぞ、お母さん──!! 

 

「え、やだ、急にお母さんの尻尾握っても……お母さんはサキみたいにはならな痛い痛い痛いっ!?」

「ふんっ!!!!!!」

「え、まってまって、やだこれもしかして固結び!? お母さんの尻尾とシャワーの管をあの一瞬で……!? って痛い痛い痛いっ! これすごく痛いのだけど!?」

「しばらくそこで反省してなさいっ!! ばぁ──ーかっ!!」

「ちょっと待って、待ってサキ! お願いだから待っていったぁ!」

 

 結んだ尻尾に引っ張られて、私を引き止めようとしたお母さんが足をずるんっと滑らせ、そのままびたーんと顔から転ける。

 いい音がしたので一応振り返ったが、元気そうだったので無視した。

 

 騒ぐお母さんを完全にスルーして髪を手早く乾かし、ショーツに手を伸ばし──。

 

 ………………。

 

 走り出した車は簡単には止まれない。同じように、一度目覚めさせられた身体も直ぐには収まらない。

 どれほどの時間をそうしていただろうか。

 ショーツを摘んだまま固まっていた私は、しかし、そのままショーツを穿いた。

 キャミソールを着て髪をタオルでまとめて。まるで凱旋門を通るような気持ちで自分の部屋へ。

 

 ベッドに腰を下ろした。ぶるぶると震える身体。

 勝利の余韻だ。私は勝ったのだ。悪辣なるどすけべ変態お母さんからも、内なる私の悪魔の囁きからも……!! 

 梅雨明けの青空のような清々しさだった。

 

 お腹の奥の方は相変わらずじくじくと甘く疼いているが、私の意思の強さは並大抵ではない。諸悪の根源たるお母さんは浴室に拘束してきたのだから、私の平穏を脅かす存在は今この場にいないのだから。

 

 そこまで考えて、ふと思った。

 

 ……お母さんはしばらく動けないのよね……。

 

 かなりキツく結んだので、そう簡単には解けないだろう。なんとか解けたとしても、浴室から出てくるのはそれから身体を洗ったりなんなりを済ませた後。時間にすれば一時間は堅い。

 

 一時間、お母さんはお風呂から出てこない。

 

「…………」

 

 ぽふっと気の抜けるような音。僅かに軋んだスプリングス。

 倒した身体をベッドが優しく受け止めた。

 そして、私の手は──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたたた……痛覚が薄い場所とはいえああもガッチリやられると流石に堪えたわね……あら、サキ? ごめんなさいね、お母さんちょっと調子に乗りすぎて……って、またお風呂はいるの?」

「……うん」

「……朝起こしてあげるわね」

「……ありがとう。お願い」

 

「……限界振り切って弾けちゃう前に何とかしてあげようって思ってたけど……もう少しやり方があったわね……お母さん反省」

 

 

 

 

 

【サキュバスは見ていた】

 

 放課後の練習は十八時までだと決められている。

 完全下校時刻は十九時半だけど、暗くなる前に帰れという学校側の配慮だろう。

 

 普段なら練習が終わった瞬間家に帰っていたけど、この日私は十九時前だというのに学校にいた。

 

「あった……良かった……」

 

 誰もいない教室。差し込む夕陽に茜色に染まるその中で、ロッカーに忘れた体操服を見つけた私はほっと安堵した。

 

 朝練用と放課後の練習用。体育がある日は、体育の授業用。

 勢いの衰えない猛暑の中身体を動かすので汗だけはどうやっても対策できない。

 私の汗はフェロモンの関係で匂いの良し悪しを超えて神経に直接左右する。けれど、だから私が汗の匂いを気にしないかといえばまた話は別。女子に「美上って臭いらしいよー(笑)」とか言われたらムカつくし。

 

 着替えるときにきちんと汗は拭いているが、体操服やインナーが吸ってしまったものはどうしようもない。

 しかも谷間や胸の下に汗が溜まるのよね……ボディクリームを塗ったりブラと胸の間に汗吸収シートを入れたりして対策はしてるんだけど、サキュバスって汗かきやすい種族なのよね……。汗をかきやすいというよりはいろんな液体の分泌が多いの方が正しいけど。

 

 なのでこの教室に忘れた体操服入れには、体操服と一緒に下着も入ってたりする。

 自分がどう見られているか、ということを把握している私は最悪紛失している可能性も考慮していたけど、ぱっと確認した感じ特に何かをされた形跡もなく。

 普段はこんなミスはしないし下着の方は体操服入れには入れないんだけど、うっかりしていた。疲れてたのかしら。

 

 体操服を回収して教室を出る。

 完全下校時刻三十分前の学校は日中の騒がしさが嘘のように閑散としていた。

 グラウンドから運動部の声は聞こえるが、それだけ。吹奏楽部もこの時間だともう楽器を片付けているのか、それとも帰ったのか、楽器の音色は聞こえてこなかった。

 

 普段何処を向いても誰かの声が聞こえるような空間がこうも静けさを保っていると、まるで世界でひとりぼっちになったかのような気さえしてくる。

 中学までの私は望んでそうなっていたのに、何故か今の私はそれを少し寂しいと感じた。

 

 自分の中に芽生えた小さな変化に戸惑いつつ、校舎と校舎を繋ぐそこそこ長い渡り廊下を歩いていたとき。

 

「まだやるのか?」

「もちろん……!」

 

 ふわりと一陣の風が明け放れていた窓から舞い込んだ。聞き覚えのある声が風に乗って運ばれる。反射的に屈んで身を隠した。

 窓の淵に指をかけ、恐る恐る顔を出す。

 想像通り、そこに居たのはモブ男だった。

 

 四十メートルほどの距離を全力で走る。一回走るごとに、それをスマホで撮っていたモブ男の親友から調整が入り、また走る。

 ときにはモブ男の親友がお手本を見せるように走って、またモブ男が走って、その繰り返し。

 休む事なく、ただ愚直に、直向きにモブ男は駆けていた。

 

「体育祭は明々後日。今身体壊したらシャレにならねえぞ」

「僕の身体は頑丈だから大丈夫。カッコ悪いところは見せられないからね」

「その身体をそんな使い方してるって知ったら、水澄はどう思うだろうな」

「……水澄さんには申し訳ないと思ってる。でも、僕は……」

「……悪りぃ。意地悪な言葉だったな。推薦したのは俺だし。つっても、もう下校時刻だから……いつもの河川敷か?」

「うん。毎日ありがとう、親友」

「おう。いいってことよ、親友」

 

 距離があるため殆ど聞き取れなかったけど、断片的に聞こえた内容と、未だにモブ男が学校に残っていて、しかも着ている体操服がひと目見て分かるほど汗を吸っているとなれば。

 

「あいつ毎日こんな時間まで練習してたの……?」

 

 しかも、学校が終わったらまた場所を移して。

 今モブ男がしていたのはリレーの方の練習だろう。

 種目決めの日に一度だけ、モブ男が全力で走っているところを見た。踏み込みは重く力強く、なのにその身体はあっという間に目の前を駆け抜けていって。

 想像を凌駕する結果に歓声をあげるクラスメイトの外で、私も、驚いていた。

 

 海のとき。お祭りのとき。それから、これまでの時間で。

 モブ男が男だって事は分かってたけど、でも、あんなにも真剣に何かに臨む男の子の顔を見たのは、その時が初めてだった。

 

 リレーの練習は騎馬戦の練習場所とは離れてるから、それ以降私はモブ男が走っているところを見たことがないけど。

 リレーの練習が終わった後に騎馬戦の練習に参加して。でも、いつもいつも余裕そうに笑っていた。

 騎手の私でも連日の練習で疲労困憊なのに。騎馬のモブ男は私以上の運動量で、しかも、こうやってみんなが帰った後も残って練習をしていて。

 

 モブ男の事を、私は体力お化けだなんて言ったけど。

 確かに私よりはずっとずっと体力があるのだろう。でも、それは疲労がたまらない訳ではないはずだ。だって、モブ男は正真正銘人間なのだから。

 

 太陽が姿を隠しつつある。薄暗くなり始めた。

 その場からモブ男が立ち去った事を確認した私は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 頑張るためには理由がいる。

 私が団体種目の練習を頑張っているのは、負けたくない理由があるからだ。あの水妖精に負けたくない気持ちが、私の原動力になっているからだ。

 

 なら。

 モブ男がこんなにも真剣に取り組んでいるのにも理由があるはずだ。

 六時前に家を出てまで朝練に参加して、十九時半まで学校に残って練習をして、更に場所を変えてまた練習をする。

 モブ男がここまで頑張れる、その理由が必ずあるはずだ。

 どうして、モブ男はそこまで──。

 

「さては、私と一緒で喧嘩でもしたのかしら」

 

 性格は温厚だけど曲げないところは曲げないものね。六月、初めて私がモブ男を認識した日のように。

 

 聖人君子という訳ではないのは知っているが、良くない行いを見過ごせない性格なのも知っている。あれでは誰かと衝突する事もあるだろう。

 

 なんて不器用な生き方かしら。もっと器用に生きればいいのに。

 

 モブ男たちとは反対側の校門へ歩く。なんとなく鉢合わせになるのは気まずかった。

 日中と違って夜は冷えた風が肌を撫でるのに、不思議と気にならない。

 きっと、いっぱい歩いたから体温が上がったのだろう。

 

 絶対そうだ。一生懸命頑張るところを見たらちょっときゅんときたとか、そんな理由では断じてない。断じて。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 9月⊿日

 

 明日は体育祭だ。

 やっと……というべきかしら。それとも、もう体育祭……なのかしら。

 矛盾してるけど、今まで一番長くて短い体育祭までの毎日だった。

 思えば、ここまで真剣に頑張ったのは初めてかもしれない。

 勝負はほぼ私の勝ちで決まっているとはいえ、水妖精に舐められたままなのはムカつくからと意地で続けた練習……。頑張ったのだから、普通に騎馬戦やりたい気持ちすら出てきた。ハチマキも取れるようになったし。

 ……別に、私は団体戦以外の勝ち負けはどうでもいいのだけれど。どうでもいいのだけれど、モブ男も、あんなにいっぱいいっぱい頑張ってたから。一回だけ気になって何かと理由をつけて河川敷の側をお母さんの車で通ったけど、本当に一生懸命だったから。頑張る事の大変さも、しんどさも、今の私は分かる。遺憾なことに知らない仲でもないし。……リレーも、まあ、負けるよりは、一番になってほしいって思わないでもない。ほんの少しだけね。あくまで団体戦のついでにね!! 

 

 ……まあ、頑張ろ。ちょっとだけ、体育祭が楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介

 

 美上さん

 主人公。強固な意志(笑)

 何にとは言わないが負けた。はぁ……はぁ……敗北者……? 

 オカズを用意して、十分体の準備が整って、さあおっぱじめるぞ! って状態が一日中続いてるのを想像して頂ければだいたい近い。

 サキュバスが尻尾を隠すと「私は尻尾がクソザコです」という宣言になるので、それはプライドが許さなかった模様。

 

 モブ男

 ヒロイン。練習量……ですかね。

 体育祭編のモブ男の一日は以下の通り。

 3:50 起床。バイトへ。

 5:40 登校。

 6:50 到着。朝練へ参加。

 18:00 団体戦の放課後練習終了。

 19:30 完全下校時刻。リレーの練習終了。

 22:00 河川敷での個人練習終了。

 23:00 帰宅。

 0:00 就寝。

 家族の協力がなければ死んでいた。

 

 お母さん

 サキュバス界でも有名なゴッドハンド。人の倫理観はおいおい……でもサキュバスの倫理観なら当たり前の親子の触れ合いだからセーフ。

 美上型なるアレのやり方が存在し数多の男が絞り尽くされたとの噂。お姉ちゃんに受け継がれている。

 

 親友

 上のスケジュール、午後はこいつも付き合ってるんだなこれが。




体育祭前半終了。次回から後半戦です。
これは投稿しても大丈夫なのかと小一時間悩みました。本作は健全な恋愛作品です。
体育祭編は一種のお祭り回なので今まで名前だけだったり存在だけしていたクラスメイトや教師、先輩たちが出てきますが、メインは美上さんの誘惑大作戦だから(震え声)


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11ページ目 『体育祭・上』

日記要素……あいつはいいやつだったよ。




 秋の天気は気まぐれだ。

 晴れると思わせておいて雨を降らせ、はたまた雨かと思い傘を持っていけば開かずじまいなんて事もよくある。

 一週間前にニュースキャスターが真面目くさって雨の確率が高いと言っていた今日も、そんな事知るかとばかりに抜けるような青空が広がっていた。

 

 広いグラウンドを囲うように色んなところからの寄付や支援と印字されたテントが立ち並ぶ。

 その下ではブルーシートを敷いた学生や、保護者席の張り札がされたテントでは普段見る事もない老若男女種族津々浦々が会話に花を咲かせている。共通しているのは、今か今かと開始を待ち構えているような緊張感と高揚感がある事だろうか。

 

『間も無く時間になります。生徒の皆さんは入場の準備をお願いします』

 

 僅かなハウリングを伴ったアナウンス。

 待ってましたとばかりに勇み足で向かう者、始まったね、と友人と語らいながら気負いなく行く者、決意を瞳に宿し力強く進む者、全身から面倒くさい空気を発して足取り重く行く者と、抱く思いは人それぞれ。選手一同なんて開会式の定番の挨拶も、その実態は感情のサラダボウル。皆んなが真摯に臨むことなんて土台できっこない。

 

 それでも、始まる。

 交錯する思い、懸ける情熱。ひとりひとり違うそれを全部引っくるめて、幕は上がるのだ。

 

『えー、只今より、第四七回体育祭を始めます』

 

 気持ちを新たに額に巻いた青いハチマキをキュッと固く結び直す。

 覇気にかける校長の宣言を持って。

 私にとって忘れらない体育祭が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤、青、黄、緑、紫。

 この五組で競技をこなし、ポイントの合計を競うのが体育祭の主な流れだ。

 一組は赤組、二組は青組……といった具合に分かれ、二組の私は青組ということになる。

 

 私の出場種目は午前のラスト前、十一時二十分からの『団体種目(一年)』と午後の中頃、十三時半からの『障害物競走(借り物競走)』の二種目だ。

 私にとっての大本命、絶対に負けられない大勝負は全体の勝ち負けではなく、午前の団体種目。そこであの水妖精を負かして命令権を勝ち取り、私に喧嘩を売った事を後悔させることが私の体育祭の目的になる。

 

 つまり、午前中はほぼ暇ということになったりする。

 

 生徒用にあてられたテントの下では、同じチームの人たちを応援する姿を見ることができる。

 テントの前の方に集まり熱心に声を出しているが、あまりやる気のない私のような人たちはテントの後ろの方で思い思いに過ごしていた。

 友人と談笑する者もいれば、特に何をするでもなく座っている者、はたまたテントの外で緊張からか落ち着きなく動いている者も。

 中には、保護者ように割り当てられたテントに行っている者も、大学生らしき人たちと話しているのもいたり。

 

「どうしたのー?」

「ちょっとね」

 

 突然目を皿にして保護者テントを睨み始めた私に弓森さんが首を傾げる。

 本当にちょっとした事だ。ただ、身内の恥が漏れてないかと心配になっただけだから。

 

 今日はお母さんには来ないでと言ってあるし、お姉ちゃんは遠い大学に通う大学生。私の家族はこの空間には居ないのだから、安心して体育祭に臨めるというもの。

 お母さん……ついでにお姉ちゃんも、体育祭なんて来てしまえば逆ナンし始める事必至。

 その結果、私は『体育祭で父兄を手当たり次第に食ったサキュバスの身内』として後ろ指を指される高校生活を送ることになりかねない。そんなの無理、プライド的に耐えられないわよ。

 

 途轍もなくエロいサキュバスが居るって小耳に挟んだのでかなり本気で探したが、観客にサキュバスはちらほら居るもののお母さんの姿は見えない。ひとまず安心だ。

 

『続きまして、綱引きを行いますっ!! 全学年混成編成の五チーム総当たり戦っ!! 己が最も強いとその腕力を持って示せ!! 選手入場ですっ!!』

 

「あ、もう綱引きなんだぁ」

 

 十分ほど弓森さんと話していると、アナウンス役が変わったのかやけに熱の入った声が。

 打ち上がる歓声。顔を上げた弓森の視線を辿れば、遠目からでも分かる筋肉たちが入場しているところだった。

 

「私応援してくるよー」

「そう。いってらっしゃい」

「美上さんも前で一緒に応援しようよっ」

「私は別にいいわよ。興味もないし」

「ユキカゼくんも出るよー?」

「……なんでそれで私が心変わりすると思ったのか問い詰めたいのだけれど……あいつはリレーに出るんじゃないのかしら」

「ユキカゼくんは人間だからねー、人数が足りないところに出場してもらったんだ」

 

 鬼や妖精族といった、とにかく身体能力の高い種族や能力的に突出したところがある種族は基本的に複数の競技に出ることは出来ない。

 全部あいつでよくね? となるのを防ぐのがその大目的だ。その点、平均能力は低い人間が複数の競技に出場することに違和感はない。

 違和感はないけれど……。

 

「……もしかしてあいつが出るのって」

「全部で七種目かなー? 二年生が転校で複数出れる人いないらしくてねー、その分もユキカゼくんが出てくれてるから」

「……それは」

「美上さん?」

 

 それを聞いたとき、ほんの微かに、でも確かに、もやっとした何かが私の胸中を燻った。

 

 モブ男は引き受けたのなら精一杯力を尽くそうとする性格だ。

 何事にも真面目と言えば聞こえはいいが、それは手の抜き方を知らないということ。

 きっと……いや、確実に、モブ男はその八種目全ての練習をしたはずだ。河川敷で何時までモブ男が練習をしていたのかは知らないけど、お母さんの車から覗いた二十時よりも遅いのは間違いない。モブ男のあの異常なまでの練習時間の背景には、少なからず穴埋めで出場する五種目の影響がある。

 

 体力あるから大丈夫、なんて笑って引き受けたのだろう。その光景がありありと目に浮かぶ。

 断ってしまえばいいのに、自業自得だ。

 ……でも、なんで私は今、それを面白くないと感じているのだろうか。

 

 そんな内心が顔に出ていたのか、弓森さんは心配いらないと笑う。

 

「ユキカゼくんリレー頑張ってるからね、あんまり負担ないのをお願いしてるんだー。ほら、綱引きも多分──」

 

 そして、グラウンドに指を向け。

 

『おおぉぉぉおっ!!? あ、青組vs緑組、青組の勝利! 開始二秒のスピード決着……! 青組のあまりのパワーに緑組の選手たちが宙を飛んだように見えました……!!!』

 

「──こうなるから」

「……綱引きって人が宙に投げ出されるものだったかしら」

 

 クラスメイトの頭の上。本来なら空とテントの屋根しか見えないはずのそこに一瞬荒縄を握った人たちが見えたんだけど……。

 

「鬼が二人いるからねー、そうそう負けないよ」

「綱引きの人数って九人じゃなかったからしら」

 

 各学年三人ずつの計九人。

 今の弓森さんの言い方ではその二人以外数の勘定に入っていないように聞こえるのだけれど。

 鬼ってほんとデタラメな種族ね……。

 

 とはいえ、赤組も猪人を筆頭にパワー自慢を揃えていたようで苦戦しないわけではなかった。

 白熱した接戦というのは観客まで手に汗を握らせ、どうか勝ってほしいと願いを声援として叫ばせる。

 弓森さんも、普段のほわほわした雰囲気からは信じられないほどの大きな声を出して応援していた。

 

 縄の中央に近い部分。相手と直接相対するそこには、全体重を後ろに倒し、顔中に汗を浮かべ歯を食いしばって縄を引くモブ男の姿がある。

 そして、なんの脈絡もなく、糸が切れるようにその身体が傾く。

 思わず浮かび上がりかけた腰。引き止めるように私の手を握ったのは弓森さんだった。

 

 中央ライン、やや西より。

 爆発したかのような歓声。そこで勝ったのだと気付いた。

 両手を広げて喜びを爆発させているモブ男。一緒に綱引きを戦ったチームメイトと抱き合って。

 汗臭いだろうなあ、とか。この後団体戦で私を乗せるのに最悪、とか。まあ、いろいろ思ったけど。

 

「……良かったわね」

 

 きっと、いっぱい、いっぱい頑張ってたから。

 一番は、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──各チーム一歩も譲らない激戦を繰り広げてきました。あっという間に午前中もあと二種目。続きまして、一年生全五組による団体戦『騎馬戦』。騎馬を操る騎手のハチマキを奪い合う攻防入り乱れる乱戦になりますッ!! 間も無く選手入場です! 今しばらくお待ちください……ッ!!』

 

「さっきからこのテンションなんなの?」

「結構有名だよ、放送部の鴉丸先輩。アナウンサー志望らしいよ」

 

 声を聞いただけでマイクスタンド握りしめながらやってるんだろうなあ、とイメージできるぐらいにはずっとエンジンがかかりっ放しだ。ここまで来ると耳が疲れる。

 

 特に大きな問題もなくプログラムは消化されていき、現在時刻は午前十一時。団体戦まで三十分を切った。つまり。

 

 ──私の決戦が始まる。

 

「ふ、ふふ、ふふふ、どれほどこの日を待ちわびていたか……! 水妖精……ッ!」

「す、すごいやる気だ……僕も頑張らないと」

 

 勝負に燃える私の隣で、気持ちを改めるようにモブ男が拳をぎゅっと握った。

 それはいいし、頑張ってもらわないと困るのだけれど。

 それはともかく。

 

「あんたは早く着替えて来なさい。まさかとは思うけどその汗だくの身体に私を乗せるつもりじゃないでしょうね?」

 

 今のモブ男の体操服は水を被ったように濡れ。まるでサウナにいるかのように汗だくの状態。

 体操服の下のインナーを着替えたり、汗を小まめにタオルで拭いていたのは見てたけど、午前中にモブ男が消化した種目は綱引きを入れて五種目。暑い時に激しい運動をすれば一時間で二リットルの汗をかくこともあるという。今日の気温は二十九度を超えてるので、あれだけ動き回ればこうなるだろう。

 

 体操服に触ったら絶対ぐしょって洗濯物の感触がする。触ってないけど絶対する。

 でも、不思議なのはこれだけ汗をかいているのにも関わらず殆ど臭いがしない事だ。

 体温調節のための汗なのでエクリン汗腺からの分泌が殆どで、臭いの元になるアポクリン汗腺からの発汗が少ないとしても、汗からのフェロモンを嗅ぎとるサキュバスの私がすんすんと意識して嗅がないと感じ取れないのはおかしい。

 そんなに毛穴の状態を気にするタイプにも見えなかったのだけれど……。

 

「まさか。ちゃんと着替えるつもりだよ。でも、朝に洗濯間に合わなかったから家族が持って来てくれるはずなんだけど見当たらないんだよね……」

 

 そう言ってモブ男は困ったように笑って、きょろきょろと辺りを見回す。

 体操服を持って来てくれるという家族を探しているのだろう。

 ……ん? ちょっと待って、ということは、今モブ男は替えの体操服を持っていない……? 家族が見つからなければ私は体操服を絞れそうなほど汗をかいてるモブ男の両肩に手を置かなければならない……? 

 

 ……ゴム手袋を貰って来なければ! 

 

 嫌かどうかというところを超越して、他人の汗でぐっしょりの服に触るのは普通にちょっとキモい。

 保険のために保健室からトイレ掃除用の使い捨てゴム手袋を貰ってこようと家族を探すモブ男を置いて行こうとした、そのとき。

 

「おにぃぃぃいちゃぁぁあんっ!!!」

 

 幼い少女特有の甲高い声が人々の間をすり抜ける。様々な音が入り乱れるこの空間にあっても、可愛らしさすら感じる精一杯の大きな声はやけに深く鼓膜に染み込んだ。

 周囲の人たちと同じように、その声の方に振り向く。

 そこには、ぶんぶんぶんぶんっ! と千切れんばかりに此方に大きく手を振る小学生ぐらいの女の子が──ん? 何処かで見たことあるような。

 

「あ、マイカゼっ! 良かった、探してたよ!」

 

 モブ男が場所を教えるように大きく手を振る。少女のもとにモブ男が行こうとする前に、モブ男に気がついた少女がくわっと目を開き満面の笑みでたたたーっと走り。

 

「おにぃちゃぁーん! 体操服持って来たよー!」

「わっと、こら、急に飛びついたら危ないだろ。でも、持って来てくれてありがとう。ひとり? 母さんたちは?」

「うぇぇ……おにーちゃんべちょってする……」

「それはごめん。ほら、服に汗ついちゃうといけないから」

 

 飛びついて来た少女を受け止めたモブ男が、一転してテンションの下がった少女を優しく地面に降ろす。まるで酸っぱいものを食べたような表情をしていた少女だったが、ありがとうと頭を撫でられれば途端にニコニコと表情がころころと変わっていた。

 

 そこで、完全に足を止めてその光景を眺めているだけだった私に気がついたのか、モブ男があっと声を漏らし。

 

「えっと、一番下の妹だよ。来年から小学生」

「……ああ、あの時の」

「あ、覚えててくれたんだ。うん、水着売り場で一回会ってると思う」

 

 よく観察すればその少女には見覚えがあった。くりくりとした大きな目に、どことなくモブ男の面影がある顔立ち。夏休み、水着売り場でモブ男と一緒にいた少女だ。モブ男の妹だったのね。

 

 過去の記憶を掘り返しながら話していると、私の顔をじーっと穴が開きそうなほど見つめているモブ男の妹に気がついた。

 その視線がすっと下がり、ぴっと指を指して。

 

「おにーちゃん、この人お家にあった本のおねーさんよりおっぱい大きい!」

「ちょっ!? 何言って……!? 失礼だからやめなさ……いや待って今聞き捨てならないことがッ!!」

「ふわぁ……すっごくかわいい……テレビの人みたい……あれ? おにーちゃんのせーとてちょーで見たことある気がする」

「ちょおおおおっ!? ストップ、お口チャック! お口チャックして!!」

「お口チャックー! んっ!」

「よーしよし、良い子良い子」

「えへへ、良い子!」

 

 ……なんだこれ。

 目の前の会話に圧倒される。嵐のようだった。

 両手で口を押さえて「んーっ!」ときちんとチャックしている事を笑顔でアピールする妹の頭を撫でながら、モブ男は言う。

 

「は、ははは。ごめんね美上さん、急に失礼な事しちゃって」

 

 表情は若干引きつっていた。

 

「……別に良いわよ、小学生でもない子どものする事をいちいち気にしないもの。それに失礼度ならあんたも大概失礼だし」

「ええっ!?」

「今までの行動をよく振り返って見なさい。……それより、早く着替えて来たら? もうそんなに時間ないわよ」

「……あっ、ほんとだ。っと、すぐ着替えてくる! ……あ、マイカゼ……母さんたちは?」

「はぐれたー!」

「まじか……っ」

 

 焦った様子で時計と妹を交互に見比べ。早く着替えなければ間に合わないので一緒に男子更衣室に連れて行くか、それとも流石に更衣室外に放置するのも心配だから先に運営席に預けるか迷っているのだろう。方向逆だし。

 はぁ。仕方ないわね……。

 

「その子は私が運営テントまで連れて行くわ。アナウンスしてもらえれば母親とも合流できるでしょうし」

「え、いいの……?」

「そうしないと時間ないでしょう。だからさっさと着替えて来なさい。あんたが居ないと私の不戦敗になるんだから」

「……ごめん、ありがとう美上さんっ! ……マイカゼ、このお姉さんの言うことちゃんと聞くんだよ、できる?」

「できるーっ!」

 

 片手を上げて元気よく答えたのを見て、モブ男は体操服を受け取って更衣室の方へ走っていった。

 直ぐにその背中が人混みに隠れて見えなくなる。

 さて、と。

 

「じゃあ、私たちも行きましょうか。えっと……マイカゼちゃん?」

「はーい!」

「ひゃっ」

「ぅゆ?」

「……いえ、なんでもないわ」

 

 いきなり手を握られた事に驚いたけれど、小さい女の子だしまあ、いいでしょう。

 これが男ならチャームして放置してたけど。

 

 子ども特有の高い体温とぷにぷにとした手の感触。小さい、とても小さい手がぎゅ〜っと私の手を握っている。

 大きさに差があるためか、手を握るというよりは中指から小指を精一杯掴んでいる、と言ったほうが近いかもしれない。

 

 そのまま五歩ほど歩いて、歩幅を半分ほど小さくした。

 繋いだ手から引っ張るような手ごたえを感じたから。視線を落とせば、私と目があったモブ男の妹はにぱぁっと満開の笑顔。きゅん。

 

(いやきゅんじゃないわよ!!)

 

 すかさずセルフツッコミ。

 危ない……。これは人間これは人間これは人間……ふう、落ち着いた。

 純粋な子どもがこんなに愛らしいなんて……侮っていてわね……それに笑った顔が何処と無くモブ男と似てるような気もして……落ち着いてないじゃない私ッ!! 

 

「おねーさん?」

「なんでもないわ」

 

 モブ男の妹が不思議そうに首を傾げたので、何事もなかったかのように微笑んだ。

 

「ふわあ……写真よりすごくかわいい……」

 

 モブ男の妹の目がとろん、とふやける。おっと、いけないわね、私の可愛さのあまり幼気な少女の将来を歪めてしまいかねない。ほら、私って絶世の美少女だから。

 

「ねえ、お姉さん聞きたいことがあるんだけど、いいかしら」

「なーに?」

 

 ちょうど良かったので、歩きながら気になっていた事を聞くことにした。

 何も純粋な親切心からモブ男の妹を送り届けると言ったわけじゃない。モブ男が着替えてくれないと私も困るし、それに何よりこの子が気になることを言ったからだ。

 

「生徒手帳で私を見たってどういうことかしら」

 

 生徒手帳。校舎の見取り図や校則などがまとめられた手のひらサイズの冊子。全校生徒に同じものが配布されるが、当然そこに一生徒の顔を判別できるような何かはない。

 つまり、生徒手帳で私を見たという事は、その持ち主が後から私を私と判別できる何かを付け加えたという事に他ならない。

 例えば……そう、私の写真を挟むとか、ね。

 

 生徒手帳に好きな人の写真を挟む。漫画ではありがちなそれも、一年生は入学してからこのかた修学旅行写真のように学校側が販売した写真はなく、尚且つ私はスマホでの写真も弓森さん以外とは取ってないとなると話は変わってくる。

 必然的に弓森さん以外が持っている私の写真は盗撮。モブ男の生徒手帳にあるものが私の写真だった場合、モブ男は私を盗撮し、あまつさえそれを現像して生徒手帳に挟み肌身離さず持っていたということになる。

 

 文句なしのアウトだろう。言い訳すらできない。

 盗撮自体は何度も経験しているけど……三百六十度どの角度から見ても美少女の私といえど気の抜ける瞬間はある。それに、私を盗撮する目的といえば欲望のはけ口にするか、売るかの二択だったので盗撮に気付き次第即チャーム消去が基本だった。

 

 厄介なのは女子が盗撮してる場合なのよね……あいつらはお金にするか弱みを握るかしか考えてないのでやり口が下衆い。チャームが使えて、ただ私の写真を撮れれば良かった男と比べて対処がしんどかった……。

 

 それはそれとして。

 原点に立ち返ってみれば、私がモブ男をチャームしたいのは、私に歯向かった生意気なモブ男をけちょんけちょんにして後悔させてやりたいからに他ならない。

 言ってしまえば、私の言うことを何でも聞く奴隷にしたいからだ。

 

 そして、それは盗撮写真を持っていることをネタにした脅迫でも概ね達成されるだろう。

 

 なら、ここでモブ男の妹から真実を聞き出すのは目的達成の為に必要な──。

 

(──いや、ちょっと待って)

 

 そこまで考えて、ふと。

 私はとんでもないことに気が付いた。

 

 チャームを諦めて、盗撮写真をネタに脅迫する。

 それは。それは、つまり。つまり……!! 

 

(私ではあいつをオトせないって自分から認めたことになるじゃない……!!)

 

 事実上の敗北。私には魅力がありませんでしたと自ら宣言するようなもの……! 

 それは認められない。断じて認めるわけにはいかない。だって私美少女だから!!! 

 

 とはいえ、盗撮写真を保持されるのも普通に気持ち悪いのでそのまま聞いた。結論から言えば、私の予想は外れていた。

 

「おにーちゃんのせーとてちょーにね、人がいっぱい写ってる写真があってね、そこにおねーさんがいたの!」

「人がいっぱい……? あ、入学式のかしら」

 

 よくよく思い返してみれば、私の家にも入学式のときのクラス全体写真はある。多分、お母さんが保管しているはずだ。

 あまり数はいないだろうけど、入学式の全体写真程度ならまあ、そういう人もいるだろうの範囲内。

 盗撮写真を懐に仕舞われるのもキモいけど、それはそれでどこか残念なような……いや何考えてるんだ私。

 

「じゃあ、この子はちゃんと預かるね」

「ばいばいおねーさん! ありがとーっ!!」

 

 かわいい。……はっ! 

 モブ男の妹を運営テントにいる教師に預けて、入場待機列へ。

 途中で着替え終わって戻って来ていたモブ男と合流した。

 

「本当にありがとう。このお礼は必ずするよ」

「……こんな事ぐらいで別にいいわよ。……それより」

 

 たんっと弾むようなステップ。

 モブ男の隣から二歩前に進んで、振り返って。

 モブ男の顔を正面から見つめた。

 

「絶対勝つわよ」

「ああ、もちろん」

 

 お互いに口の端を吊り上げて、挑戦的な笑みを刻む。

 頂点に達した太陽が白く燃えていた。

 決戦まで、後五分──。

 

 

 

「何をしてやろうかしらねえ……!! 生まれて来たことを後悔させてあげるわ水妖精……!!」

「……これ勝ってもいいのかなあ」

 

 いいのよ。手を抜いたら承知しないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 堅く組まれた手に足を乗せ。

 練習のときとは違い靴は脱いでいない。怪我防止のためらしい。でも、大きく力強い手は靴で膨らんだ体積を物ともせずがっしりと掴んでいた。

 掛け声の瞬間、一気に高くなる視点。小さな子どもが親の肩車を好むのは、視点が高くなることで広がる世界に新鮮さを感じるからだそうだ。

 その気持ちも分かる。だって、普段よりずっと高いこの視点は、今まで見えなかったものまで見渡せるような気さえしてくるのだから。教頭の頭頂部は持ってあと三年ね。

 

『お待たせ致しました。只今より一年生による団体戦……騎馬戦を行います。選手入場三秒前……二、一……っ! 始めぇっ!!』

 

 開戦のゴング代わりと高らかな空砲が空気を震わせる。弾けるような音とマイクのハウリングが重なり合い、刹那、雪崩のような雄叫びがグラウンドを折檻した。

 

 楕円形のグラウンド、それを囲むように均等に配置された五つの入場門から五色のハチマキをつけた騎馬が邁進する。

 騎馬の数はそれぞれ十。ひとつ騎手のハチマキを奪えば一ポイント入り、ハチマキを奪われた騎馬はその場で討死、脱落になる。また、騎手が地面と接触しても落馬となり失格。

 そして、各チームにはハチマキの色に合わせたビブスを着た大将が存在し、その大将のハチマキは十ポイント入る。

 

 つまり、勝つためには。

 

「とにかく全部のハチマキを取りゃいいってことだよなぁ!!」

「きゃあああぁぁぁぁっ!!」

「吐くぅぅぅぅぅぅ!!!!」

 

 荒々しい砲声と悲鳴で軌跡を描き飛び出す騎馬が一騎。

 青組の大将、弓森さんたちの騎馬だ。

 

『開始数秒で凄まじい速さで走る騎馬が一騎!! これは青組か!? とんでもない速さで大将が乗り込んできたあっ!! ……いやこれはありなのか!?』

 

 実況をしている放送部の先輩とやらの躊躇いの声。

 まあ、無理もないだろう。なんせ。

 

「ねえ、やっぱりあれダメなんじゃ……」

「問題ないわ。何ひとつルールに抵触してないもの」

「ルール的に問題なくても委員長たちが気の毒だけどな……」

 

 一番近いところから出てきた黄組に突撃する、前を走るシルエットはひとりの大男。

 そう、ひとりだ。騎馬を組んでいるわけではない。

 二メートル近い巨躯の鬼が、弓森さんともうひとり、小柄な女子を背負って爆走しているのだ。

 

 騎手が地面に接触したら落馬と見なされ失格する。一応騎手の弓森さんは地面と接触してないのだから何も問題ないでしょう? 

 

『えー、校長から『ルール的には問題ないし面白いからOK』との言葉を頂きました! っと、青組大将、黄組と間も無く接触……あぁっ!? ……今、私の目には青組大将が十五メートル近く跳躍したように見えたのですが……? そのまますれ違いざまにハチマキを奪った模様です……! 青組、早くも一ポイントだーっ!!』

 

「うわあ……完全に別ゲー状態だなあ……」

「あの騎馬、何があったか分からないって感じできょとんとしてるね……気持ちはよく分かる」

 

 そのまま開戦後間もないためばらけ切れておらず固まっている黄組に突撃する大将騎馬。よし、五ポイントは堅いだろう。向こうにも運動能力に優れた騎馬があるからそうそう上手くはいかないでしょうけど。

 

 あくまで開始直後の不意を突いただけ。鬼のデタラメな運動能力あっての離れ業。だが、刻んだインパクトは特大だろう。

 このアクションの目的は二つある。

 ひとつは、周囲の視線を引きつけること。

 開戦後三十秒もすれば敵味方の区別すら危うくなるほどの混戦状態になる可能性がある。なら、圧倒的な大将騎馬に敵の注目を集めて、その隙を狙おうという作戦。これが表向き、というか青組としての目的。

 

 そして、もうひとつ。これは、私だけの目的。

 

「随分と派手な事をしますね淫魔」

「ええ、直接辛酸を舐めさせてあげたかったもの」

 

 五色のハチマキが入り乱れる戦場。その中心でまみえる騎馬が二騎。

 

 陽の光を浴びて透き通る幻想的な水色の髪を靡かせる因縁の相手。

 猪人の男の騎馬を従え、肩に手を置いて重心を安定させていないにも関わらず、脅威のバランス感覚で立っている。

 額に真一文字に線を引いた真っ赤なハチマキは燃える闘志を映し出しているようだ。

 

「私が瞬殺してあげます。衆目の中で恥を晒す心の準備はしてきましたか?」

「こちらのセリフよ。絶対泣かしてやる」

「ふっ、水妖精の私に淫魔ごときが何をできるというのですか」

「その余裕がいつまで続くか見ものね。後でこんなはずじゃなかったのにと後悔しても遅いわよ」

 

 ぶつかる視線に乗った殺意が弾け火花を散らす。

 この私を見下し切った態度が本当に気に入らない……!! けちょんけちょんにしてやるわ……!! そのために練習してきたし、奥の手だってある!! 

 

「……お互い大変だな」

「……あー、其方も苦労された感じで?」

「……正直、水澄のイメージが崩壊したよ。無口クールなカッコいい女子のイメージが」

「……水澄さんは素は元気な女の子だから」

「……そうだったのか。なら俺は体育祭を通じて水澄と打ち解け……てないのは分かり切ってんだよなあ。はぁ」

 

 睨み合って口撃しあっていても拉致があかない。怒りが募るだけだ。

 ならば、もう後は殴り合うより他にない。

 重心を低くして身体を安定させ、何やら相手の騎馬と話していたモブ男の肩に勢いよく両手を置き。

 

「行くわよ。練習の成果を見せてやるわ」

「うん、任せて」

「へいへい」

 

 対して、仁王立ちする水妖精は腕を組んで胸を張り。

 

「行きますよ。あの淫魔を黙らせます」

「りょーかい」

「なあ、俺空気じゃね?」

 

 思えばこの二週間、普段の私からは考えられないほど熱心に何かに打ち込んだものだ。

 練習はしんどかったし、汗もいっぱいかいたし、真っ白だった肌は少し日焼けしてぴりぴりする。

 それでも私が頑張ったのは、今日この日に目の前の水妖精に勝つため。

 がむしゃらに走った私の二週間が、結実の時を迎えようとしている。

 

『五組入り乱れる乱戦っ! あちこちで激戦が繰り広げられる中──グラウンド中央! 戦場の中心で赤組の大将騎と相対する騎馬が一騎! これは……一騎打ちか──ぁっ!?』

 

 張り詰める空気。緊張感が肌を舐めなような気がした。

 調子のいい実況の声ににキン、と僅かなハウリングが混ざった。

 それが開戦の狼煙だった。

 

「く、ぅ!!」

 

 急激に身体にかかるG。

 私の身体能力では到底実現できないほどの急加速を行なったのは私の騎馬、モブ男とその親友だ。

 二人三脚程の動き難さはないが、騎馬を組んで私を乗せているとは思えないほどのスピード。その動きに乱れがなくシンクロしているのはお互いを親友と呼ぶ絆の為せる技か。

 瞬きの間に彼我の距離を食い殺し水妖精へ迫る。手を伸ばせば獲れる距離。出来る限り身体を小さくして加速に耐えていた私がハチマキへと腕を伸ばす。

 

「甘いですね」

 

 が、相手も一筋縄ではいかない難敵。

 蹴り足で地面が爆ぜた。そう錯覚させるほどの猪人の強烈な踏み込みが水妖精の身体を彼方へと運ぶ。取り残されたように一瞬宙を泳いだポニーテールに指を掠めた。

 

 それだけの急加速、身体にかかる負荷は尋常ではない。にも関わらず、以前腕を組み仁王立ちの姿勢を崩さない水妖精に驚愕する。

 反則じみた平衡感覚ね……。身体能力に優れた種族を挙げればトップ十位以内には入る水妖精のポテンシャルは伊達ではないということか。

 

 あらゆる意味でチート種族だ。油断せず水妖精を睨む。

 次の瞬間、水妖精の姿がかき消えた。

 

「しっかり掴まってッ!!」

「んっ!!」

 

 間髪入れず叫んだモブ男の声を頼りに肩に置いた手で体操服を握りしめる。今、こうやって私が付いていけているのは一重に練習の成果だ。

 爆発的な加速。振りほどかれそうな程の力の奔流に流されそうだ。堪らず、私はモブ男の胸元まで両腕を回し背後からしがみ付くようにして身体を固定させた。

 

「ごふっ、ぅ、んんんんっ!! 気合いと根性ぉっ!!」

「こんな時にまでっ、淫魔ぁぁぁあああっ!!!」

「親友ぅー!? 絶対足もつれさせるなよ!?」

 

 騎馬戦で勝負するとなったときに、この状況の予想はしていた。

 水妖精のクラスには、水妖精を含めて運動能力に優れた種族がいる。その種族で固まった場合私の動体視力では捉えきれないだろうと。

 なので、その場合はモブ男に全てを任せることにしていた。私はただ、必死に振り落とされない事に注力するのみ。

 

 大シケの海をイカダで進んでいるような感覚だ。必死に力を入れていないと今にも飛んで行ってしまいそうだ。目すらも開けられない神速の攻防。私にとっては遥か別次元の激戦。でも、ハチマキを獲れるのは私だけだ。いつでも動けるように気持ちだけは前を見ている。千載一遇のチャンスを掴むために。

 

 モブ男の合図、その瞬間を。

 

「美上さんッ!!」

 

 数秒か、数分か。いや、きっと一分もないだろう。

 時間感覚が狂うほど必死な私の鼓膜に届く、暗闇を引き裂くようなモブ男の声。

 

 ──来た。

 

 それは即ち、チェックメイトの合図。

 左腕でモブ男の首元を抱きしめるようにして身体を安定させ、私の中にある全筋力を総動員して瞬時に身体を起こす。

 目の前。バイクに乗っているかのような風圧の中、狭い視界が捉えたのは不意を突かれたのか此方に反転しようとする水妖精。その距離、僅か五十センチ。

 

(獲った──っ!!)

 

 手を伸ばす。ハチマキを取っても、取れなくてもこのまま押し込めば騎馬が崩れて落馬して失格、私の勝ちだ。未だ身体が向き直らない水妖精、その赤いハチマキに指が触れ──。

 

「──な、ぁ!?」

 

 ──触れた瞬間。

 水妖精が消えた。

 否、消えたのではなく。

 

「これだからチート種族は……!!」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

 私の王手を躱し距離をとった水妖精。その姿は最初から変わらず仁王立ち──ではない。

 本来頭があるべきところに脚があり。脚があるべきところに腕がある。

 つまり、つまり──! 

 

「あー、分かってたけどよぉ、やっぱまともにやったら勝ち目ねえぞこれは」

「純粋な水妖精はホントすごいね……」

 

 私の眼前。その目の前では。

 猪人の肩の上で片腕で倒立をした水妖精が勝ち誇った顔をしていた。

 

「間抜けな絵面なのに……!!」

「間抜けとはなんですか間抜けとは!!」

 

 そう言って、よっと腕の力だけで軽く身体を弾ませた水妖精はそのまま空中で器用に体をたたみ、前宙の要領で元の仁王立ちへと。

 簡単そうにやっているが、それがどれだけとんでもない事かは流石に私でもわかる。

 

 あの瞬間だってそうだ。

 私がハチマキに触れた瞬間、水妖精はわざと騎馬の手から足を外した。

 重力によって身体が落ちる前に、猪人の肩に片腕をつき、そのまま腹筋と背筋を駆使して倒立の姿勢まで持っていった。

 もう意味がわからない。

 

「これで分かりましたか淫魔。貴女は私に絶対に勝てないのです」

「……そうね、私は貴女と違って動き難いハンデがあるから無理そうね」

「ぶち転がしますよ。でも、今はそれも負け惜しみにしか聞こえないですね。気分が良いです」

 

 ドヤ顔をする水妖精。くぅ、腹立つ……!! 

 思わず、モブ男の首元に回したままだった左腕に力が入った。

 

「色即是空空即是色、色即是空空即是色……ッ!!」

「……訂正します。やっぱり気分は最悪です!」

 

 まるで痺れを切らしたように。しかし、それは静止からの電光石火。

 瞬時に反応したモブ男とその親友が後退する中、私は──。

 

「出来れば使いたくなかったんだけど……」

 

 短く息を吸って、吐く。イメージは解放だ。

 ダムの水を放水するように、抑えていたものを、堰き止めていたものを解放する。

 

 何をって? そんなもの、ひとつしかないでしょう。

 

「──な、危なっ!? 急にどうしたのですか!? ……まさか──っ!?」

 

 ピタリ、と静止する水妖精の騎馬。

 突然の急停止にその場で踏み止まれたのは驚愕に値するが、それももう意味がない。

 だって、その騎馬の男はもう水妖精とともに戦う仲間ではなく。

 

「私の人形になってもらったのだから」

「魅了しましたね、淫魔……!!」

 

 いかに水妖精がチート種族といえど、これは騎馬戦。騎馬が動かなければ騎手の水妖精は動けないし、なんなら今すぐ騎馬を地面に寝転がせても良い。

 今の水妖精は正しくまな板の鯉。ふふふ、だから言ったじゃない。自分に魅了が効かないからって、サキュバスを甘く見たのが敗因よ……!! 

 

「これ本当に大丈夫なの?」

「……特にチャームに関する規定ないし良いんじゃないか? うちの学校サキュバス少ないからないだけかもしれねえけど」

「美上さんと後、生徒会の人だっけ。まあルール的に問題なら良いんだけど……ちょっと可哀想というか、なんというか」

「まあ技量とか運動能力とか練習の成果とかそういうの全部無に帰す決着のつけ方だしな」

 

 うるさいわね、勝てば良いのよ勝てば。

 

 ……本音を言えば、私も勝てるのら普通に勝ちたかった。あれだけ練習したんだから、普通に勝ちたかった。

 でもこんな規格外相手に正攻法では勝てないし。頭数増やして叩くのも、そもそもこの一騎打ちが実現してるのが他のクラスメイトが他の騎馬の乱入を抑えてくれてる結果だし……。

 

 うん、仕方ないと自分を納得させ。腑に落ちてなさそうなモブ男を無視して、うんともすんとも言わない騎馬の上でこちらを睨んでいる水妖精に目を向けた。

 

「そういえば、何か言ったわね。なんだっかしら……私には勝てないとかなんとか……忘れちゃったからもう一度言ってもらってもいいかしら?」

「ぐぬぬぬ……! おのれ淫魔……!! ちょっと審判さんっ!! これ反則なんじゃないですか!?」

 

 ふふ、悔しかろう悔しかろう! 

 抗議の声を上げても無駄よ、事前にルールは確認している。この騎馬戦にチャーム禁止のルールはない……!! 

 

『──はっ! あまりにレベルの高い攻防に見入ってしまっていました。突然動きの止まった赤組の大将ですが……これはいったい……?』

『──あれはチャームだね。どうやら青組の騎手の子が赤組の騎馬の男の子をチャームしたみたいだよ。うん、羨ましいな。触れてもない、ただ自分を見ただけの相手にチャームをかけられるサキュバスなんて早々いない』

『何処から湧いてきたんですか副会長!? 会長にまた怒られますよ。でも解説ありがとうございます! しかしどうやら抗議が入っているみたいですね。どうなるのでしょうか──』

 

 ……チャームがだめなルールはない! 

 でも、不穏な実況が聞こえた。何か嫌な予感がする。猛烈に嫌な予感がするので、今のうちに決着をつける!! 

 背筋にひたひたと這い寄るような悪寒を振り切るように、私は静止させていた水妖精の騎馬に──。

 

『校長から確認を取れました。『勝負にならないからだめ』だそうです!! ってあぁ!? 赤組大将騎馬が騎手を宙に放り出したぁ!?』

『遅かったみたいだね。さてどうなるのか……落ちてから復活でも良さそうだけどそれは少し横暴だとボクは思うな』

『運営側の不手際になりますからね……しかし失格になれば赤組は手痛い被害を……!』

『なに? 落ちなければいいのかしら』

『え、誰──』

 

 その時の感覚を例えるのなら、断絶という表現が一番近い。

 確かに私にあったはずの支配権。私がチャームして手元に置いていたそれを、横から無理やり強奪される。いや、奪われるのではなく塗りつぶされた。そして、私から主導権を取り上げたのだ。

 

 チャームの上書き。私に魅了されていた雄を、それ以上に魅了してみせた。

 

「ほ、本気で焦りました……。でもどうして……?」

「わ、分かんねえ……なんか急に意識がはっきりして、そしたら水澄が空飛んでたから……」

「貴方に投げられたんですよ!!」

「知らねえよ!?」

 

 水妖精を騎馬に放り投げさせた。

 地面に叩きつけても余裕で受け身をとってピンピンしてそうな奴なので、放物線を描く軌道なら怪我もしないだろうというある種の信頼もあっての選択だけど、それで水妖精は落馬して失格になるはずだった。

 しかし、現実は水妖精が地面に接触する前にチャームの解けた騎馬が追いつき回収された。

 

 水妖精を脱落させる目論見は消え去った。でも、そんな瑣末な事など頭の片隅に放り投げてしまえるほどの屈辱があった。

 

 自分が魅了した雄を、魅了される。

 それはお前より美しく魅力があるのだという宣言に他ならない。なにより、美を誇るサキュバスにとっては何よりも雄弁な宣戦布告。

 初めてだった。故に、腹わたが煮えくりかえりそうなほど激情が生まれた。

 

「美上さん……?」

「ばっ! おまっ、これ今明らかに触るな危険状態だぞっ」

 

 屈辱に震える身体を怒りで抑えつけ、サキュバスとしての直感で下手人を視界に収めんと其処を睨みつけた。

 運営テント、様々な機材で窮屈そうなスペース。そこには実況の人と私をコケにしたサキュバスが──。

 

『初めまして。チャーム判定のために臨時でお手伝いすることになったサキュバスよ。サキュバスマスクと呼んでちょうだい』

『あの、なんで覆面被ってるんですか? 暑くないですか?』

『フェラ穴が空いてるから大丈夫よ』

『えっ!? この人ここに置いて大丈夫なの!?』

『うん、口を大きく開けられるように考えられたデザインだね。製作者のフェラに対する探究心を感じられるよ』

『会長ぉ──!! これ早く引き取りに着てくださぁぁああいっ!!』

 

「──は?」

 

 そこに居たのは、腰部がコルセット状になったハイウエストのスカートに、これでもかと乳袋を強調する白いブラウスと格好だけは清楚さを感じさせる出で立ちに、口周りが大きく開かれたどこか卑猥なマスクを被ったサキュバスがひとり。

 

 あまりのアンバラスさに頭が回りそうだった。

 一瞬これは現実なのかと疑った。

 いや、言い訳はよそう。現実を見よう。

 どれだけ顔を隠しても、声でわかる。

 

 

 

 ──お母さんが、そこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介

 

 美上さん

 主人公。日焼けを気にしている。

 割と本気で正攻法で勝ちたかったけど相手が悪かった。勝てればいいのでチャームに躊躇いはない。

 普段ならチャームが他人に上書きされるなんて事は起こらないけど、今回はモブ男の親友をチャームしないように抑えてたのと、サキュバスマスクが事前に手垢を付けてたので無事奪われた。

 

 モブ男

 ヒロイン。周りがバトル空間に突入する中こいつだけ精神との戦いやってた。

 色々と余裕のない美上さんの無自覚なあれこれに叩きのめされている。演技っぽさのない自然さが性癖だ。業が深いですね。

 

 水澄さん

 チート種族その①

 スポーツによって使う筋肉が違うので最適な身体の状態は種目毎に違うのが普通だが、ここでいう最適な状態は全てにおいて超一流のポテンシャルを発揮できる状態。

 

 弓森さんたち

 今回のどんまいその①

 鬼塚くんは元気に動いてるけど背中の彼女たちは結構いっぱいいっぱい。もう一人は夜になったらはちゃめちゃ元気になる。一応身体能力は高いのでこの配役になった。

 

 水澄さんの騎馬

 今回のどんまいその②

 騎馬戦前にサキュバスマスクとエンカウント。味見された。

 

 親友

 膝蹴りに大忙し。

 

 サキュバスマスク

 童貞を殺す服を着て童貞を殺していた。その正体は美上ママ。娘にバレないようにマスクを被っているがモロバレである。

 因みに、美上さん親子のチャームの強さは、

 美上さん>>>(超えられない壁)>>>お母さん>>>>(一般的なサキュバスの壁)>>>>お姉ちゃん




体育祭後半その一。
次で終わらせたい。日記詐欺が過ぎる……!!


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12ページ目 『体育祭・下』

『さあ! みんなも一緒にぃー!』

 

『『スケベが大好き──ッ!!』』

 

『本当に出禁にしなくていいんですかこの二人!?』

 

『じゃあ真面目な話をするとしよう。なぜサキュバスはエロい格好をするのか。遺伝子に刻み込まれた趣味みたいなところはあるが、その本質はチャームをかけるためだね。なぜなら、チャームは男を性的に興奮させるほど強力になる』

 

『そうそう。例えば毒を持ってる生き物は一目で分かるように体色が鮮やかでしょう? それが《毒を持っていることを視覚情報に訴えて身の安全を守るため》なら、サキュバスのエロい格好は《エロい格好で男を興奮させてチャームして身の安全を守るため》とも言えるのよ。サキュバスの身体能力は人間の女性と変わらないかそれより低いもの』

 

『種族として雌しかいないサキュバスが身の安全を守るため、種として生き残るために備わったのがチャームと性的趣向だと言われてるね。エロいことに忌避がないって言うのは、それだけ繁殖に優れているという見方もできる。実際はサキュバスの妊娠確率は低いが、旺盛な性欲はだからこそというわけだ』

 

『そういうわけだから、サキュバスに取ってエロいことは生きるために必要なものなの。種族として仕方ないことなの。だから許してね♡』

 

『まあ、法に反してない以上は何も言えないだろう。もし道徳や倫理を盾に何か言われたらボクたちはこう言うのさ。じゃあ、貴方はサキュバスに誘惑されて抗えたのかってね!』

 

『あんたら本当そういうところですよ!?』

 

 

 マイクが拾った声も、グランドを氾濫する生徒たちの声も、好き勝手に応援やヤジを飛ばす保護者たちの声も聞こえない。

 私の目が、私の意識が向けられているのは運営テントの一角のみ。

 

 落ち着いた色のハイウエストのロングスカートに、清潔感のある白いブラウス。

 そして、口元が大きく開いた品のない覆面。

 いつもの痴女った服装とは系統が違うし覆面で顔も分からないけど、私はそれが誰かを知っている。

 

 マスクから溢れる銀の髪が。聴き慣れた艶のある声が。

 何より、私のチャームを横から塗り潰せる可能性のあるサキュバスを、私は一人しか知らない。

 

 抑えきれない怒気と確信を持って、私は怒りのままに下手人の名を叫ぼうとして──。

 

「……ん? あれ。あれって美上さんのお母さぐふっ! なんで僕は今叩かれた!?」

 

「人違いよ。あれは全く私と関わりのない野良サキュバスよ。いいわね?」

 

「いやでもあの髪と声は」

 

「い い わ ね ?」

 

「はい」

 

 ──モブ男の呟きで一瞬で冷静になった。

 

 水妖精の方を見る。

 猪人の男の肩で直立していた水妖精は、今のうちにと騎馬を組み直していた。

 試しに騎馬の男をチャームしようとしてみても手応えがない。私に関心が向いていない。まるでお祭りでサキュバスエリアに行ったときのようだ。

 つまり、私に性的関心を向けないほどに既に性的関心を向けているものが今この場にあるという事。

 

 

『ん〜、やっぱ若い子は違うわねえ。なんか漲ってくるわ』

 

『しかし、サキュバスマスクさんのチャームもかなりのモノだ。あの青組の子といい、羨ましい限りだよ』

 

 

 改めてお母さ……サキュバスマスクを見る。

 なんかツヤツヤしているようにも見えた。

 

「……」

 

 状況を整理してみて。

 確実に水妖精の騎馬の男はサキュバスマスクにエロい事をされている。間違いない。

 一度はチャームできたが、明確にサキュバスマスクにされた事を思い出させられ、尚且つ現在進行形で煽られている今チャームする事は難しいだろう。よく見たらなんか顔赤いし息も荒いし。

 

 私がお母さんに体育祭に来て欲しくなかったのは、お母さんが父兄を逆ナンして悪い意味で注目を浴び、後日私を指差して『あのサキュバスの娘』と言われることが我慢ならなかったら。

 それが何ということでしょう。

 

 父兄どころか生徒に手を出しやがった。ふざけんな。

 

 未来の嫌悪感が怒りを凌駕し、私は一瞬で他人のフリを貫き通す事を決めた。

 

「チャームが反則になった以上、もう恐れるものはありません。年貢の納め時です」

 

「くっ……!」

 

「あー……水澄、俺たちに固執するより多くのハチマキを取ってポイントにするの方がいいんじゃないか? 赤組は劣勢みたいだぞ」

 

「……? おかしな事を言いますねハクロー。そこの淫魔からハチマキを取るのにこれ以上時間は取らせません。淫魔のハチマキを奪ってから他の騎馬のハチマキを奪い逆転すればいいんです」

 

「やべえこいつ目がガチだ」

 

 競技は止まらない。

 態勢を立て直した水妖精が私を見据え不適に笑う。

 大言壮語を大言だと一笑出来ないポテンシャルが水妖精にはあった。

 

 騎馬の差は少なくても、騎手の差が絶望的過ぎる。

 チャームの応用でモブ男たちをドーピングしてもこの差は埋まらないだろう。

 どれだけ速く動いても。どれだけ意表をついても。どれだけ策を弄しても。

 水妖精は真正面からそれを叩き潰してくる確信があった。

 

「……私自らの手で負かしてやりたかったのだけれど」

 

「無理ですね。ユキカゼくんたちがどれだけ頑張っても、騎手が淫魔では私のハチマキは取れない」

 

「……でしょうね、認めたくはないけれど。正直にいえば、貴方の運動能力を完全に舐めてたわ」

 

 水妖精は数が極端に少ない種族。

 身体能力に優れている事は知識として知っていても、実際に目にするのはこれが初めて。

 感想は出鱈目すぎるふざけるなって感じ。

 お姉ちゃんと喧嘩してたから荒ごとだっていけるとかそんなレベルではなかった。

 

 私では勝てない。

 これは覆せない真実。

 でも、それがそのまま勝負を決める事実ではない。

 

「でもね。別に、貴方に固執する必要はないのよね」

 

「……はぁ? 何を言って」

 

「回れ右! 逃げるわよ!」

 

「「了解っ!」」

 

「なぁ!?」

 

 簡単な話。

 私が勝てないのなら私以外に勝って貰えばいいし、なんならそもそも水妖精を狙う必要すらない。

 

 だって、あくまで私たちの取り決めは『騎馬戦で勝った方』が勝者だから! 

 っていうかムカつくから直接倒したかっただけだから! 

 必ずしもハチマキを取る必要はない! 

 

 背を向け一目散に走る私たちを、一瞬遅れた水妖精が追いかけてくる。

 ちぃ! 判断が早い! 

 

 素早く周囲に目を走らせる。

 五組入り乱れる騎馬戦だけど、現状を簡単に整理すると赤組VS青組、残り三組の乱戦といった様相を呈していた。

 赤組の大将騎馬である水妖精を叩きのめすために青組の騎馬をクラスメイトたちが抑えていたのでそれも当然だけど、それが長くは持たないのは最初から分かっていた。

 

 弓森さんたちの騎馬が単騎で他の三クラス全て抑えるのは流石に無理がある。この作戦で稼げる時間はせいぜいが数分。

 その後は、流れ込んできた他のクラスとぶつかり合う本当の混戦が始まってしまう。

 そうなる前に水妖精のハチマキを取ってしまいたかったけど、もうこれは仕方がない。

 チャームが反則になってしまうのならどう足掻いても不可能だ。

 

 作戦失敗。

 つまり、そういうこと。

 

「待ちなさいっ! 勝負から逃げるつもりですか!?」

 

 水妖精の声に振り返ろうとして出来なかった。

 ただでさえ不安定な二人で作る騎馬、さらに全力で走っているともなればバランスを取るだけでも至難の技。

 平然としている水妖精が異常なのであって、本来は私のようにしがみつく勢いで体を固定させなければ振り落とされてしまう。

 

 広いグラウンドといっても、所詮は学校のグラウンド。しかも、モブ男とその親友はリレーの選手に抜擢されるほどの走力を持つ。

 走り始めてから十秒ほどで風圧から眼球を守るため薄く開けられた目は、騎馬の集団に肉薄したのを捉えた。

 

「しっかり捕まってっ! 突っ込む!」

 

 モブ男の声に腕にぎゅっと力を込め直し──直後、私たちは騎馬ひしめき合う密集地帯に飛び込んだ。

 

 

『あら、よく見えなくなっちゃったわね』

 

『サキュバスマスクさん、これではチャームの使用の有無が分からなくなるんじゃ……』

 

『それは問題ない。ボクたちには感覚で分かるからね。理屈じゃないのさ』

 

 

 四方八方から声が聞こえる。

 騎馬戦に臨む生徒たちの声、それを応援する声、無機質なマイクの声、いちいち判別ができないぐらいに混ざり合っている。

 進むために、避けるために、モブ男たちが鋭く動いているのが振り落とされそうな慣性となって体を伝う。

 喉から空気だけが漏れ、汗と土の匂いが鼻腔を通り抜け、いつの間にか頬を伝っていた滴が宙を舞った。

 

 人の判別すら危うくなるような密集地帯。

 誰かの声すら聞こえなくなるような音の洪水の中、それでも必死に前を見ていた私は見つけた。聞こえたんだ。

 

 星々の光を束ねたような美しい金髪は土埃を被り少しだけ白っぽくなっている。それでも、私はその後ろ姿を、友達の背中を絶対に間違えない。

 青色のビブスを来たその騎馬は──! 

 

「弓森さん!!」

 

「美上さん!?」

 

「ごめんなさいっ、作戦失敗! 後は任せたわっ!!」

 

「分かった! 鬼塚くん、聞いてた!? 私たちが抑えにいくよ!」

 

 伝わるように声を張り上げて。信じるように見つめあって。託すようにすれ違う。

 直後、水妖精の驚愕の声と鬼の雄叫びが聞こえた。

 

「危ないっ!? ……もうっ!! ハクローといい貴方といい、邪魔しないでくださいよっ!!」

 

「そうは言っても負けたくはねえからなあ。まァ、いっぺんお前とはガチでやってみたかったんだ。簡単にやられないでくれよぉおおっ!!」

 

「くっ! 返り討ちにしてやりますっ!!」

 

 後方で声の爆弾が弾けたのかと思うほどの大歓声。

 恐らくこの騎馬戦で最も運動能力に優れた騎馬同士がぶつかり合ってるだろうから、盛り上がるのも分かる。

 水妖精という脅威から逃げ切った私は、酷使しすぎてぷるぷるしてきた腕を揉みながら一息ついた。

 

「水妖精の性格なら一騎打ちに拘ると思っていたわ。でもね、もう一度言うけれど、何も私が水妖精に勝つ必要はないのよ。『赤組』が負ければ、この団体種目は『青組』である私の勝ちになるんだから」

 

 強い相手には強い味方をぶつければいい。

 至極単純で明快な解決策だ。

 作戦その二、上手く決まったわね! 

 

「水妖精が手をこまねいているうちにポイントを集めるわよっ!」

 

「……勝ちに拘ってるのはどっちも同じだけどこっちは手段を選ばねえな……赤組集中狙いも赤組のポイントを減らすためだし……水澄、正々堂々と正面から来たのに哀れな……」

 

「まあ、僕たちのほうは正々堂々とやったらほぼ勝ち目がないからね……」

 

「昔の偉い人は言ったわ。勝てば官軍、負ければ賊軍」

 

「それは使い方違うと思う」

 

 水妖精のときにはレベルが違いすぎてあまり活かされなかった練習の成果を存分に発揮し、ハチマキを取っていく。

 ふふん、もう三ポイントもゲットした。

 頑張った日々に結果が付いてくると、胸を満たすものがあった。

 脳裏に浮かぶのは筋肉痛に耐え、眠い目を擦って早起きをして、疲れた体に鞭打って練習をした二週間。

 努力が報われるっていうのは、こういう事なのかしらね。

 うん。それなら、しんどかったあの日々も悪くないって思えるかもしれない。

 

「っと、いけない」

 

 小さく頭を振る。それでほわほわした感慨に似た何かは胸の内からすぅっと消えた。

 弓森さんたちのことを信じていないわけではないが、完璧に抑え込めると確信するには水妖精は強すぎるのよね。

 いつ突破してくるとも限らないし、もっとポイント集めておかないと。

 

 しかし、他の組も簡単にハチマキを取らせてくれるわけではない。

 密集地隊に突っ込んだのもあって、今の私たちは孤軍奮闘状態。

 戦況はすぐに苦しくなった。

 いくらモブ男たちが機敏に動いても、乗ってる騎手が私では限界がある。

 何が言いたいかというと。

 

「そろそろっ、体力が限界……っ!」

 

「美上さん大丈夫!?」

 

「大丈夫なら限界って言わないわよっ!」

 

 手と手を重ね合わせただけの不安定な足場、それに加えての激しい運動量。

 バランス取るためにどうしても力が入っちゃうし、そのせいか太もものあたりがすごく痛い。明日絶対筋肉痛ねこれは……っ。

 体を支えるためにモブ男の肩を力いっぱい掴んでた腕は震えてきてるし、このままだと確実に落ちる気がする。

 あ、今もほら指の間をスルッてっ! 

 

「きゃあっ!? すべっ、すべったわ今!? すべったわよ今っ!?」

 

「うおっ!? 落ち着け美上さん! 自分から手ぇ離したぞ今!?」

 

「もしかして握力が……!? 美上さん、あとどのくらい持ちそう!?」

 

「無理! もう無理!」

 

「まじか!」

 

 練習ではこんなに激しく動かず、尚且つこんなに長い間競技をしなかったから分からなかった限界が迫っている。もしかしたら連日の疲労の影響かもしれない。

 首だけで振り返り私の様子を確認したモブ男が少し焦ったように周囲を見渡す。

 同じように私も首を左右に振るも、見えるのは騎馬、騎馬、騎馬。

 いつの間にかとんでもない混戦状態になっていた。この密集空間で落馬したら……。

 その先を想像して、私の顔からさっと血の気が引いた気がした。

 サキュバスは丈夫な種族ではない。こんな、こんなところで地面に投げ出されたら、踏まれて、踏まれて、揉みくちゃにされて、しかも、騎馬になっているのは力の強い男がほとんどで、そしたら、私は──。

 

「大丈夫! 僕たちが絶対に美上さんに怪我はさせないっ!」

 

 ──っ。

 海に行った日のことを、あの背中を一瞬思い出して、少し下にある背中に重ね合わせた。

 少しだけ冷静になれた。

 

「つってもどうすんだこれ!? 騎馬崩して落馬して失格になってもそっちのが危ねえかもしれねえぞ!?」

 

 私たちは弓森さんとスイッチするために、鬼の運動能力で駆けずり回っていた敵の三クラスが固まっている場所へと突っ込んだ。

 必然的に孤立するので集中的に狙われる。今も多くの騎馬が私のハチマキを取ろうと躍起になっているのを、モブ男とその親友が水妖精との一戦でも垣間見せた凄まじい回避能力で躱しているけど、それが加速度的に私の体力を消耗させる悪循環。

 走ってるときのような息が切れる苦しさはない。でも、体の芯から響く重い疲労感が鉛のように沈殿していく。

 疲労に顔を歪める私に、モブ男が話しかける。

 

「とにかく抜けるしかない! ……美上さん、ハチマキは気にしなくていいから、出来るだけ自分が楽な姿勢でいて」

 

 少しだけ息が詰まった。

 ……それはだめよ。だって。

 

 あんなに練習したのに、負けてもいいだなんて認められない。

 

 ここで負けたら、私が今日まで頑張ってきた日々はどうなるのか。

 いろんな要因が重なった。心の底からムカつく相手に負けたくない気持ちがあった。

 そういう頑張る理由があって、生まれて初めて途中で投げ出さずに最後まで頑張り続けたあの時間はどうなるのか。

 

 なにより、ここまできたのだから私は最後まで頑張りたい。

 生まれて初めて頑張り続けたこの騎馬戦を、最後まで頑張りたい。

 

「美上さん……?」

 

 モブ男の肩を掴む手に力が籠る。

 不審に思ったのか、モブ男が気遣わしげな声と視線を向けた──そのとき。

 

「取った──っ!!」

 

 ──それは、一瞬の出来事だった。

 

 注意が薄れた背後から伸びてきた細く長い手。

 視界の隅で水色の髪が宙に線を引く。

 私は反応できない。まずいと警鐘を鳴らす脳に身体が追いつかない。

 一瞬で反応したモブ男とその親友が避けようと反射的に体が動く。

 次の瞬間には走り出せるように膝が深く沈みこんだ。回避のあとに直ぐに動けるようにする基本の動作。

 モブ男たちに合わせて私の体も動く。膝を沈み込ませた分だけ騎手である私の頭の高さも下がり、一瞬前まで私の頭があった空間を白い手が空ぶった。

 

 直後。

 

「っ!!?」

 

「おわぁっ!?」

 

「きゃあっ!?」

 

 例えるなら、突然地面がなくなるような感覚があった。

 確かにあった支えが、心の何処かで頼りにしていた背中が急に視界から消える。

 ふわりと、体の中の内臓が浮いたような気がした。

 同時に、ずしんと下に向かって引っ張られるような圧迫感を知覚する。

 

(──うそ)

 

 宙に、投げ出された。

 咄嗟に前に伸ばした手は何も掴むことはない。

 だって、そこにあの背中はないから。

 時間にして一秒もない刹那の中で、危機に瀕した生存本能が、自分が騎馬から落ちようとしていることを正確に認識させる。

 

 何も出来ることはない。

 私自身は運動は苦手な方ではないとはいっても、私の体は丈夫な体ではなく、類稀なセンスがあるわけでもない。

 私に出来る事は、瞬きの間に訪れるであろう地面と激突したときの衝撃に怯え、恐怖に体を縮こまらせる事だけだった。

 

「──っ、だぁ!!」

 

 ずどん、と何か硬いものにぶつかった。

 胸から背中に突き抜けた衝撃は肺の空気を全て吐き出させ、競り上がった空気の塊が喉につっかえて咳き込んでしまう。

 

「えぅっ、うぉぇえっ」

 

 苦しくてちょっとだけ涙が出て、痛いって思って、痛いで済んでいることに驚いた。

 驚いて、何処か覚えのある感触を感じて、人の体温のような熱に心が安堵して、

 

「美上さんッ!!」

 

 クルリと世界が反転する。

 背中に地面の硬い感触。

 モブ男が押し倒すように私の上に覆い被さっていた。

 

(待って)

 

 強く抑え付けられる。まるで庇うように。

 

(何してるの)

 

 モブ男の全身が強張ったのが分かった。まるで守るように。

 

(そんなことしたら──!)

 

 そして、次の瞬間。

 モブ男の上に、転倒した私たちの上に、止まりきれなかった騎馬が雪崩れ込んで──。

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 真上で輝いていた太陽が傾き始めて、そろそろ空が朱く染まっていくんだろうなって感慨があった。

 長かったこのイベントも……いや本当に長かった。

 物理的な時間もさることながら体感時間的に。

 なんなのよあの借り物借り競争!! 

 誰よサキュバスを障害物にキャスティングしたやつ!! 頭おかしいんじゃないの!? 

 走者の半分以上が完走できない障害物競走なんか初めて見たわよ。

 

 しかも私が引いた借り物が……ああああああああ! 

 やめよう。この思考はよくない。忘れよう。うん、忘れよう。

 まあ、水妖精にぎゃふんと言わせてやったのは心地よかったけど。

 

「ふう……」

 

「どうしたの?」

 

「なんでもないわよ。……それより、なんであんたがここにいるのよ。どっか行きなさい」

 

「後から来て躊躇いなくそれ言うの美上さんらしいね……」

 

 ははは、と曖昧に笑うモブ男だが、座って壁に背を預けたまま立ち上がる気配はない。

 テコでも動かない気かしら。こいつ素直そうな顔してるくせに思いの外頑固なところあるのよね。

 仕方がないので、ちょっと間隔を開けて私も座った。

 

 ここはグラウンドとは真反対に位置する校舎裏だ。

 目の前には自転車通学生たちの自転車が所狭しと並んでいる。

 グラウンドの騒がしさも距離と校舎に遮られて、マイクの音さえどこか遠い山彦のように聞こえる。

 まだ体育祭の途中だというのに、なんでわざわざこんなグラウンドから離れたところに来たのかと言えば……。

 

「美上さんはどうしてこんな所に……って、水澄さんから逃げてるんだっけ」

 

「逃げてるんじゃないわよ。姿を眩ませて例のアレを踏み倒そうとしてるの」

 

「いやー……水澄さんからは逃げ切れないと思うけどなあ」

 

「逃げてない。立ち向かってるのよ」

 

「どんだけ自分を下にしたくないんだ」

 

「私は最初からもし負けたら約束ごと踏み倒そうと考えていたわ」

 

「勝ったら?」

 

「水妖精のあの性格なら、約束を破ることはあり得ない。そうでしょう?」

 

「それはそうだけど分かってやってるあたり最低だ……」

 

「なんとでも言えばいいわ。ふん、嫌なものは嫌」

 

「何だかんだ律儀なところある美上さんは、結局最後には水澄さんのところ行きそうだけどね」

 

 なに私の理解者気取ってるのよ。行かないわよ。

 だってあの水妖精の顔見た!? 

 清らかな水の乙女にあるまじき邪悪な笑みをしていたのよ!? 

 何をやらされるかたまったものじゃないわよ……! 

 

「……ごめんね」

 

「……しつこい」

 

「でも」

 

「私は気にしてない。もうこれ以上謝るなら無視するわ」

 

 今日何度目かの謝罪の言葉を口にしたモブ男は、それきり地面を見つめて黙りこくった。

 

 そう。

 私たちは、騎馬戦に負けた。

 それはもう完膚なきまでに負けた。

 

 弓森さんたちの騎馬を抜けた水妖精が不意打ちで私のハチマキを取ろうとしたあのとき、反応できない私とは違いモブ男たちは咄嗟に回避行動を取った。

 そのとき、足を滑らせたモブ男が転倒。

 騎馬は崩れ私たちは失格となり、主将のハチマキを手にした水妖精の赤組はそこから怒涛の追い上げを見せ、一位で騎馬戦を終えた。

 このモブ顔は、騎馬戦が終わってからずっとその事を気にしているらしい。

 

 落馬した直後は本当に凄かった。

 私はあんなに取り乱したこいつを初めて見た。

 

 ……別にいいって言ってるのに。

 あそこでモブ男が転けなくても、私たちが勝つことが難しかったのは流石にわかる。

 転けようとして転けたんじゃないことも分かってる。

 あのとき、雪崩れ込んできた騎馬から私を守ってくれたことに感謝すらしてる。

 水妖精に負けたことは腹に据えかねてはいるけど、それをこいつのせいだなんてちっとも思ってないのに。

 本当に、こいつ気にしすぎるところあるわよね。

 

「ま、あれよ」

 

 気にするなって言ってるのに永遠に気にしそうなこいつの顔を見てるのはイライラするのよ。

 

「あんた言ってたわよね。私に怪我させないって。ほら、何処にも怪我はないわよ。あんたは世紀の美少女に傷一つ付けずに守り切ったの。勲章物よ」

 

 だから、いつまでもそんな落ち込むなっつーの。

 あんたが謝ることなんて一つもないんだから。

 

「あんたのミスで失格になったのがマイナス百だとしたら、私に怪我させなかったことはプラス千百だわ。よってあんたの働きは百点満点飛んで九百。分かったらいい加減その辛気臭い顔やめなさい」

 

「────」

 

「……ちょっと、なんか言いなさいよ」

 

「……いや、美上さんは美上さんだなあって思って」

 

「私はいつも私よ」

 

「うん。本当に……あの時から、ずっと。美上さんは美上さんだ」

 

 そう言って、小さく笑う。憑物が落ちたような、そんな笑みだった。

 ……ほんと、ここまで言わなきゃ分からないなんて、鈍いやつ。

 

「人格的にどうかと思うところ結構あるけど」

 

「喧嘩売ってるの?」

 

 買うわよ? 

 

 それから程なくして、くぐもったアナウンスの声が次の種目を告げる。

 それを聞いて、深く息を吐いたモブ男が立ち上がった。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

 

「ん」

 

「……応援とかしてくれないのかなーって」

 

「水妖精に負けたら許さない」

 

「それは応援じゃなくて脅迫だ」

 

 頬を人差し指で軽くかいたモブ男が、仕方ないか、とでもいうように肩を落として背を向ける。

 騎馬戦で私を守ったとき凄い音がしたけど、その後の競技も普通にこなしてたのよね。本当にあいつの体はどうなってるのかしら。

 

 さて……次の種目は最終種目の対抗リレー、か。

 水妖精は走者だから私に絡んでくることはできないだろうし、自分のクラスのテントに戻ってもいいけど、もう面倒だからここで時間つぶしちゃおうかなー……。

 

(……あれ?)

 

 そこで、私の頭を過ったのは小さな違和感。

 

(なんであいつはこんな所にいたの……?)

 

 ここはグラウンドから最も遠い校舎裏。

 まだ体育祭が終わってない以上、学生達の自転車置き場に人が来ることは滅多にない。

 だから私は保険委員なんてやってる水妖精が来そうにない場所を選んでここに来た。

 じゃあ、水妖精と会いたくない理由もなく、クラスで孤立もしてないあいつが人が滅多に来ない場所にいた理由はなに? 

 理由は──。

 

「……え、なに、これ」

 

 予感に突き動かされてモブ男が座っていた場所に視線を向けた。

 そこには、ポケットに入れていたそれが、立ち上がった拍子に落ちたかのように。

 

「これ、血の滲んだ……包帯……」

 

 それを認識した瞬間、弾かれたように私は駆け出していた。

 歩いているモブ男との距離はそう遠くない。

 十秒もしないうちにその背中を眼前に捉える。

 そして、私に気がついて振り返る直前のあいつの体操服の裾を一気にめくり上げた。

 

「あれ? 美上さん? そんなに慌ててどうし──うひゃああぁ!?」

 

「────」

 

 顕になった背中の肌には、凄惨な青痣や皮膚が張り裂けたのを無理やり縫ったような血の痕が、一面に広がるように出来ていた。

 

「なにするの!? え!? なにしてるの!? 

 

「あんた……それ……」

 

「……あー、これ? 前からだよ前から。治りかけだから気にしないで」

 

「嘘よ。じゃあこれは何!? あんたもしかして、ずっとその体で……!」

 

 血の滲んだ包帯を突きつける。

 モブ男は一瞬、しまった、とでも言うよに顔を歪めた。

 

「どう見ても動いていい体じゃない! 早く保健室に、いや、救急車を──!」

 

「いや、ちょっと見た目がアレなだけで、本当に大丈夫だから! ほら、こんなに動ける!」

 

「バッカじゃないの!? 動くなって言ってるのよ!」

 

 専門的なことは分からない。

 分からないけど、素人目にもヤバいと判断できるだけの外傷があった。

 傷の深さ、出血量、見た目の凄惨さ。それぐらいでしか判断できない素人が、それだけで動いたらヤバいと断言できる外傷があった。

 それがほぼ確実に騎馬戦のときの怪我だと分かって、心が悲鳴を上げた。

 私の剣幕に、軽くその場でジャンプをして大丈夫だとアピールしていたモブ男の動きが止まる。

 

「今から携帯で救急車呼んで先生たち……水妖精も連れてくるから、そこで休んでなさい。いいわね? 絶対に動くんじゃないわよ」

 

「美上さん、気持ちは嬉しいけど僕は大丈夫だから。ほら、僕が丈夫なのは知ってるでしょ? 大袈裟だって」

 

「そんなわけないでしょう!? その傷で、その怪我で大袈裟なわけがないでしょう!? いいから大人しくして──」

 

「──本当に大丈夫なんだ!!!」

 

「──っ!」

 

 突然の大声に、びくりと体が跳ねた。

 何処かにいたのか、今ので驚いたのだろう鳥の羽ばたく音がやけに大きく聞こえた。

 染みるようなグラウンドからの喧騒が、やけに遠くに聞こえた。

 真剣な表情のモブ男が私を見つめていた。

 私は、その姿に何故か痛ましさを覚えた。

 

「大きな声を出してごめん。でも、僕は大丈夫だから。だから、心配しないで」

 

「大丈夫なわけ──」

 

「ううん。大丈夫。ほら、これがあるから」

 

 そう言ってモブ男がポケットから取り出したのは、手のひらサイズのアルミ製の容れ物。

 ピンクの縁取りが施された蓋には、丸っこい綺麗な文字で『イズミ特製♡』と書かれていた。

 

「それは……」

 

「水澄さんからもらった塗り薬。これ凄くてね、怪我がすぐ治るし、痛みど……まあ、だからさ、こうやって塗るとね」

 

 不自然に言葉を切ったモブ男が蓋を開けて、透明度の高い固体と液体の中間のクリームのようなものを人差し指につける。

 それを体操服をめくった脇腹に、皮膚が裂け血が滲み出ていた箇所に塗ると、まるで逆生成を見ているかのように血が止まり、じわじわと皮膚が繋がっていき……三分ほどで、傷口が塞がった。

 

「嘘でしょ……」

 

「あの、そんなに顔を近づけられると、その」

 

 モブ男の声が聞こえないほどに、私は混乱の極地にあった。

 

 どういうこと? 

 水妖精の種族特性はその体液だ。水妖精の体液には癒しの力が備わっている。当然、その特性を活かした医薬品なども販売されたりしている。

 でも、この再生速度は異常だ。あまりにも常軌を逸している。

 それはあくまでも治癒に一週間かかるような傷を四日で治癒させる、といった自然治癒の促進のようなもので、ゲームの回復魔法のようにどんな怪我も治してしまうようなものではない。

 傷を縫うことすら検討するような怪我を数分で直すような、そんな埒外のものでは決してない。

 水妖精の体液に含まれる癒しの力は、体外に出た瞬間に著しく劣化するからだ。

 

「あんた、本当に人間なの……?」

 

 私の口をついて出たのは、そんな言葉だった。

 人間のように見えるけど、実は回復能力の高い他の種族で。

 そうじゃないと、とてもじゃないけど説明がつかない。

 

「人間の父と母から生まれた、正真正銘の人間だよ」

 

「そんなはずはないわ。サキュバスも人間も回復力は変わらない。サキュバスに、ここまでの自然治癒力はない」

 

「……それでも、僕が人間であることは間違いないよ。それは信じてとしか言えない」

 

 信じられないと、私の理性は言っていた。

 信じられるって、私の感情は言っていた。

 

 張り詰めた空気を切り替えるように、モブ男はパンと手を叩いてから、明るい声音で言った。

 

「ま、そんなわけでさ、これが僕が大丈夫って言った理由。えっと、これ塗りたいから、僕はもう行くね」

 

 軽く手を振って背を向けたモブ男の手を、気づけば私は掴んでいた。

 

「美上さん……? 入場準備があるから、離してくれたら嬉しいなって」

 

「嘘をつかないで」

 

「いや、嘘では……アナウンス美上さんも聞いてるはず」

 

「本当にその塗り薬で怪我が治るのなら、なんであんたは傷だらけなの」

 

 また一瞬、モブ男の眉が歪む。

 

「……まだ、使ってなかったから」

 

「包帯を巻くときに何も処置をしなかったって言うのかしら。包帯を巻くときに、それを使わなかったって言うのかしら」

 

 そうだ。

 あの塗り薬で傷が瞬く間に治るのなら。

 

 血の滲んだ包帯が存在しているのはおかしい。

 

 だって、直ぐに傷が癒えるのだから、包帯を巻く必要がない。

 考えてみれば、こいつはよく怪我をして体に包帯を巻くことが多かった。包帯やテーピングを巻いたこいつの姿を、私はこの数ヶ月で何度も見ている。

 それは、こいつの怪我が直ぐに治らない何よりの証明だ。

 

「その塗り薬で治る傷と治らない傷があるのかは知らない。でも、あんたのその傷は直ぐに治るわけじゃない。間違いないわね?」

 

「……」

 

「沈黙は肯定とみなすわ」

 

 モブ男は無言で地面を見つめていた。

 でも、その目は、微塵も諦めてはいなかった。

 ため息が溢れる。

 ……そんな、悔しそうな顔されたらさ。

 

「……どうしても出るの?」

 

「……どうしても出たい」

 

 ほら。

 こうやって、私らしくない言葉が心から飛び出してきてしまう。

 

 だって。

 私は頑張ることの難しさを知っている。

 今まで生きてきた中で何度も途中で投げ出してきた私だから、頑張ることがどれだけ難しいかを知っている。

 しんどい。辛い。苦しい。もうやめたい。楽になりたい。

 その気持ちに抗って頑張ることの難しさを知っている。

 

 そして。

 最後まで頑張り続けた先のあの感情を、あの胸を満たす感情を、今日知った。

 

 この体育祭で一番頑張ったのは誰か。

 私も超頑張ったけど、というか美少女の私が睡眠時間削って朝練や放課後まで練習してただけで有象無象の百倍ぐらい頑張りに価値があると思うけど。

 この体育祭で一番頑張ってたのは、間違い無くモブ男だ。

 

 一番頑張ってた奴が、最後の最後でその頑張りを棒に振るような結末は、嫌だなと思ったから。

 

 私はぐっと一歩を踏み込んで、モブ男の頬を両手で挟んだ。

 そのままぐいっと引き寄せる。いつも高いところにある頭が、少し低いところに来た。

 モブ男の瞳の中に、モブ男の瞳を見つめる私がいた。

 

「その怪我はどこでしたのか、とは訊かないわ」

 

 きっとこいつは、私がそれを訊くことを嫌がるから。

 カッコつけすぎよバカ。

 

「どうしてそんなに出たいのかとも、訊かないわ」

 

 きっとこいつは、私がそれを訊くことを嫌がるから。

 こいつがずっと誰よりも練習していたことを知っている私は、こいつがそれに懸ける想いを少しは想像できるから。

 

 でも、私の中に罪悪感がないわけじゃない。

 まあ、こいつが怪我したのは私を守ったからだし? じゃあまあ、まあね? 私にだって恩返しというかなんというか、その、色々あるわけ。

 

 だから。

 私は、私にできることでこいつに協力してあげたくなった。

 こいつの頑張りを、無為にさせたくなかった。

 

「え? え? え?」

 

 私はサキュバス。

 美しい容姿で、妖しい美で、男を惑わす淫魔。

 私にできることは、今も昔もずっと一つだけ。

 

「あんたをチャームする」

 

 テンパっていたモブ男が、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

「僕にチャームは」

 

「効かないわけじゃないんでしょう」

 

「っ!」

 

 モブ男が私の家に来たことはかなり大きな収穫だった。

 お母さんはモブ男をチャームしようとして、出来ないことに驚いていた。

 

 水妖精をチャームしようとしたことのあるお母さんが、チャーム出来ないことに驚いていた。

 

 つまり。

 図書室での事も踏まえて。

 

 モブ男はチャームが効かないのではなく、何らかの方法で防いでいる。

 

 水妖精みたいに完全に効かないのではないのなら、出来ることがある。

 

「チャームは一種の催眠。脳に強力に作用する力。私以外を見させない蠱惑の色香。それを応用して、あんたの痛覚を麻痺させる」

 

「そんなことができるの……?」

 

「出来る。……まあ、あんたがいつも見たいにチャームを防がなければ、だけど。本当なんでチャームできないのよ。ふざけないで」

 

「防いでるわけでは……」

 

「でも、それにはあんたに私を受け入れてもらう必要があるわ。……こんな事を言ってて、私はあんたを完全にチャームしてやりたい放題する可能性もあるわけだし。……あんたは、今まで男を魅了して好き勝手にやってきた私を信じられるかしら」

 

 モブ男は私の目を見つめて、迷いなく言った。

 

「信じる」

 

 その言葉に、こみ上げるものがあった。

 それが何なのかには気づかないフリをして、それに気付いてしまったら、自覚してしまったら、今までの私ではあれないような、そんな気がして。

 

 一人の男をチャームしようと躍起になって、数ヶ月。

 この日、私は初めてその男を魅了した。

 

 

 

 

 

「……気分はどう」

 

 チャームが完了して、モブ男は不思議そうに自分の体を見て、ほけっと私を見つめた。

 

「美上さんが凄く綺麗に見える。めちゃくちゃ可愛い。どうしよう」

 

「当たり前よ。体は?」

 

「嘘みたいに痛くない。どうなってるの?」

 

「魅了するためのチャームを、脳に痛覚を誤認させる方向にしか使ってないから。といっても、多少チャームされた影響は出るんだけど……なによ、やっぱり痛かったんじゃない」

 

「あっ」

 

「その状態で私に隠し事は出来ないわよ……ってちょっとちょっと、チャーム解こうとしないで! 分かったわよ、変なこと聞かないわよ!」

 

「油断も隙もない。でも、そういうところも可愛い。あっ」

 

「私が可愛いのは当たり前だってば」

 

 当たり前のことを何度も言うのは馬鹿のすることね。

 でも気分がいいので特別に何度も言っていい。ふふん。

 

「これなら全力で走れると思う。美上さん、本当にありがとう!」

 

 ……本当にお礼を言わなきゃいけないのはこっちなのに、そんなに嬉しそうに言わないでよ。

 

「感謝してるなら、水妖精に負けるんじゃないわよ。それと、走り終わったら直ぐに病院に行くこと。それまでは私があんたを魅了し続けるから」

 

「分かった、約束する。それじゃ、行ってくるね」

 

 時間も押している。

 背を向けてモブ男は駆け出した。

 その背中が見る見るうちに小さくなっていく。

 

 言わなきゃ、と思った。

 言わなくてもいい、と考えた。

 言ってあげたい、と心が動いた。

 

 呼び止めるように片手が上がって、下がって、また上がって、下がりかけた手が止まって、勢いよく振り下ろしながら叫んだ。

 

「ユキカゼ──!」

 

「──えっ」

 

 止まったモブ男が、夢なのか確かめるように頬をつねりながら、信じられないとでも言うように振り返る。

 

 私は、半ばヤケクソに近い気持ちで、でもそれは心から溢れ出した、私が本当に伝えたい気持ちで。

 

「──ありがとう、頑張れ!!」

 

 呆けたようにぽかんと口を開けていたモブ男は、ぶるぶる震えて、勢いよく拳を突き上げた。

 

「──ありがとう、頑張る!!」

 

 そして、今度こそモブ男の姿が見えなくなる。

 

(ああああああああああああああ!!!)

 

 私はその場に蹲った。

 

 キャラじゃないとか、何やってんだ私とか、なんというか、チャームかけたあたりからの反動が一気にきて、主に羞恥心で色々と限界だった。

 

 いつまでもそうしていてもしょうがないので、立ち上がった私はふと思いついて来賓の休憩室用に解放されている校舎に入って階段を登っていく。

 閉まっている屋上の扉を用務員をチャームして手に入れた鍵で開けた。

 僅かに朱みがかかり始めた空には薄く伸びよるような雲が呑気そうに揺蕩っていた。

 

 爆発したかのような歓声が下から聞こえる。リレーが始まったのだろう。

 落下防止のために貼られている金網の側まで寄ると、思った通りグラウンドが一望できた。

 楕円形のグランドを取り囲むように配置されているテントに、無数の生徒や保護者の姿。

 

 そして、アンカーとしてバトンを受け取ったあいつを見つけた。

 

「頑張れ、頑張れ、あんたが頑張ってたの、私ちゃんと知ってるから」

 

 ここには誰もいないから。

 誰もいないから、いいかなって思って。

 さっき伝えはしたけど、本当は伝えたい頑張れなんて、一言じゃ足りないほどあるから。

 

 私以外誰もいない空間で、心からのエールを。

 あいつには届かない、私の自己満足でしかない、精一杯のエールを。

 誰よりも頑張ったあいつには報われて欲しいと思う、そんな私のわがままなエールを。

 

 金網を握り締めるほど前のめりになって、私は送り続けた。

 

 そして──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 9月^^日

 

 はい負けたー。負けたー。

 体育祭が終わって久しぶりに書く日記が敗戦なんて……。おのれ水妖精……! 

 騎馬戦といい対抗リレーといいことごとく邪魔してきて……! 

 ……例のあれどうしよう。体育祭中は逃げ切ったけど。教室まで来るかな……? 来るわよね……? 逃げ切れるかしら……? チャームして肉壁を作りまくればあるいは……。

 簡単なのならいいんだけど……そんなわけないし……え? 嫌だ。普通に嫌だ。なんで水妖精の命令を聞かなきゃいけないの? え? 嫌だ。

 なんでこんな事に……! おのれモブ男の親友! 

 

 モブ男といえば、怪我は大したことなくて良かったわね。

 大したことないというか、大したことはあったけど回復力的にちゃんと処置すれば大丈夫というか。

 骨とかも折れてたみたいだし。いや軽そうにメールしてきたけど骨折って大事じゃないかしら。なんか文面から日常茶飯事みたいな雰囲気出てたけど気のせいよね? 

 

 ……モブ男が行った病院、というかモブ男の行きつけの病院、水妖精のところなのよね。

 あの場では追求しなかったけど、やっぱりあの回復力はおかしい。借り物借り競争のときにみた水妖精並みの回復力だった。人間であれはあり得ない。

 一体どうなって……もしかしてそれがチャームできない理由? え? あいつ水妖精なの? でもチャームが出来たからそれはあり得ないのよね……。

 ……ま、いいか。あいつはあいつ、それでいいわよね。チャームが出来るなら、私の目標は変わらない。この日記の一ページから何も変わらない。

 

 絶対にあいつをチャームしてやるんだから! 

 

 ……なんか、心がざわざわする。なんだろう、これ。

 心臓が痛い。痛いけど、悪くないというか……。

 なにこれ? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介。

 

 美上さん。

 主人公。ほほう? 

 借り物借り競争は文字数が膨らみまくったので番外編『しおり』でそのうちそのっち。

 引いた借り物は『最も仲の良い異性』

 彼女がこれを引いたおかげで助かった人も多分いた。

 

 モブ男。

 ヒロイン。ほほう? 

 種族は人間。ただ、四月の終わりに何かが混ざった。

 

 水澄さん。

 体育祭編のサイクロン。

 鬼を秒でブチのめし美上さんのハチマキを奪い、そのあとお前実は鬼だろというレベルの活躍で一位に、リレーでもアンカーのモブ男とデッドヒートの末一位に。なんだこいつ。

 父親は医者でモブ男も四月の終わり頃からよく診てもらっている。

 

 サキュバスマスク。

 天国に連れて行ってあげるわよ? 

 とかやってたら途中で天国(事務員室)に連れて行かれた。




遅くなりました。
1月19日……これは!更新せねば!と急いで推敲しました。


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13ページ目 罰ゲーム

 朝、本日も晴天なり。

 

「フレンチキスとフルチンキスって語感が似てるわよね。どちらも激しく求め合う。あれ? でもフルチンキスって男同士でやるのかしら? フルチンだし。気になってお母さん洗い物に集中できないわ、サキ、どうしよう」

 

「一生喋らなければいいと思う」

 

 そもそもないわよフルチンキスなんて言葉。何その造語どっから持ってきた。

 そんなこんなで体育祭が終わっていつもの日常が帰ってきた。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 9月×日

 

 筋肉痛がああああああ。

 

 

 9月♩日

 

 昨日一日中ゴロゴロして何とか動けるようになった。

 はあ……。はあ……。

 ため息をわざわざ書き込むのバカらしいけどそれだけ憂鬱だなあ……。

 体育祭の振替休日も終わって明日から学校行かなきゃ……朝早起きしなくてもいいのは嬉しいけどそれ以上に水妖精に会うのが嫌すぎるわね……。

 何で私あんな事を……迂闊だった……。どうにかして有耶無耶にしないと何されるか分からない……! 

 嫌だなあ、憂鬱だなあ……。

 

 

 9月ヾ日

 

 おのれモブ男……! あんたは私の味方しなさいよ……! 

 なーにが「二人の約束だったなら仕方ないよ」よっ!! 仕方なくないわよ! だって私負ける事考えてなかったもの!! 

 モブ男の親友……確か白狼だっけ……? も何も言わないし! いや言ってたけど水妖精に押し負けるし! 

 悔しい……! はらわたが煮え繰り返るってこういう事を言うのね……! 

 よりにもよって……よって……! 

 

 私に水妖精のメイドになれですってぇ……!? 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 ざわざわと騒がしい昼休みの教室。

 ただ騒がしいだけならいつもの事で、特に気にするような事でもない。

 だが、その騒がしさが自分に起因していて、しかもその教室が他のクラスであるなら話は別よ。

 

「紅茶のおかわりを頂けますか?」

 

「……はい、ただいま」

 

 わざわざ今日のためだけに持参したらしいティーカップを手に取り、魔法瓶に入っているお湯をティーポットに注いでいく。

 出来上がった紅茶を小憎たらしいドヤ顔を浮かべる水妖精に手渡して、メイド服を着た私は優雅に一礼した。

 

「くたばれど貧乳」

 

「口が過ぎるメイドですね」

 

「あいたぁ!?」

 

 なんっでコイツのデコピンこんなに痛いのよ!? 

 涙目でおでこを抑える私を見て、水妖精が呆れたように鼻から息を吐き出した。

 

「いい加減観念したらどうです? というか、その無駄な反骨心はどこから来るんですか」

 

「私、お前、嫌い」

 

「主人に対する態度じゃないですね」

 

 バチコン! 

 額が弾ける。

 

「いったあっ!!?」

 

 こ、こいつ……! またデコピンしたな……!? 

 速すぎて避けられないし凄まじく痛いのに……! この……! お母さんにもぶたれたことのないこの私を……! 顔に傷ついたらどうしてくれるのよ! 

 

「……このやり取り朝から何度目だ親友」

 

「……今ので丁度十九回目だよ親友」

 

「……美上さんってあんなに負けず嫌いだったか?」

 

「いや……多分今まで傍若無人そのものだったから、真っ向から自分に向かってくる水澄さんがひたすら気に入らないだけだと思う。弓森さんとかはそんなタイプじゃないし、多分初めてなんだと思うよ、同年代の同性と喧嘩するの」

 

「なるほどな……道理で。何だかんだ言いつつメイド服も着たし内心楽しんでるのかもな」

 

「楽しんでないわよちょっと黙ってなさい!」

 

「………………」

 

「親友? おーい親友ー? ダメだチャームされてる……」

 

 好き勝手に言ってくれるものね……! 

 メイド服は体育の後に服がご丁寧にすり替えられてたからだし、この状況だって私がどれだけ逃げても水妖精から逃げられないから仕方なくなのに……! 

 し・か・も! 

 モブ男のやつは教室の後ろの方で見てるだけで助けてもくれないし! 

 あーもうほんっと! ほんっっと!! 

 

「あら、もうこんな時間ですか。予鈴がなってしまいました」

 

「ふん! じゃあ私戻るから! てか制服返しなさいよ」

 

「心配しなくてもしっかり返しますよ、今日が終わったら」

 

 こ、こいつ……! 

 

「あら? 拳を握ってワナワナ震えてとても悔しそうですね。……どうしますか? 手頃な男性を捕まえて取り返して欲しいとお願いしますか? いいんですよ、私が水妖精としてのポテンシャルを存分に発揮しているように、あなたも淫魔としての特性を利用しても。でも……あらあら? あなたは男性の庇護を必要としないサキュバスだったのでは? でもしょうがないですよね、口ではどうこう言おうとあなたはサキュバス……男性を誘惑すること以外何もできないのです。意地を張らずにいつものように私なら羞恥で絶対に言わないような言葉を聞く方が恥ずかしい甘ったるい声で言ったらどうですか? あ、グラビアアイドルかと見間違えるような性的なポーズもしていましたね(笑)」

 

「したことないわよほんっとにムカつくぅ!!!」

 

 くそぉ……! 今すぐ周囲の男全員チャームしてこいつを泣かしてやりたい……! 

 それをやっても無意味なのとモブ男が絶対に止めるだろうからやらないけど……! やらないけど、くそぉ……! 

 

 私も何か言い返してやりたい……! 言い返してやりたいけど私こいつのこと何も知らないのよね……! 

 くぅ……! 弱みを……弱みを握れさえすれば……! 

 

「では、放課後にまたお願いしますね。分かっているとは思いますけど、私からは逃れられませんよ」

 

「分かってるわよ! ふん! ほら、行くわよよ二人とも!」

 

「違いますよ淫魔。教えましたよね?」

 

「申し訳ございませんがしばらく離れさせていただきますお嬢様! これでいいでしょ!?」

 

「大変気分がいいです」

 

 メイド服のスカートの裾を摘んで一礼すれば、機嫌よさそうに水妖精はうんうんと何度が頷く。くっそぉ……! 

 このメイド服も胸のところ一切露出がない代わりにぎゅうぎゅうでキツいし、その代わりとばかりに超ミニスカでパンツ見えそうなぐらいなの悪意しか感じないのよね……! くっそぉ……! 

 

 自分たちの教室に戻って午後の授業を受けている間も、私の頭の中はどうやって水妖精にこの屈辱をやり返すかで頭がいっぱいだった。

 

 そして放課後。

 

「というわけでなんかあいつが嫌がる事を教えなさい」

 

「だから無理だってば」

 

 詰め寄れば、モブ男はいつかの雨の日と同じように否定の言葉を放った。

 

「無理じゃない。私の味方をしなさい」

 

「教えたら美上さん嬉々としてそれを実行するじゃん……」

 

「……お願いっ。私の味方をして」

 

「うっ。いや、そんなうるうるした瞳で上目遣いで頼んできてもダメだよ。あとさり気なくチャームしようとするのやめて欲しいかな」

 

「ちっ」

 

「舌打ち隠す努力ぐらいはしよう、美少女」

 

「美少女に頼られたんだから喜び勇んで力になりなさいよ」

 

「いつも思うんだけど美上さんのその自信本当に凄いよね」

 

 美しいものを美しいということになんの抵抗があるっていうのよ。

 

「ああもう本当に嫌だ……というか、白狼はどこに行ったのよ。元はと言えばあいつが原因でしょう。最後まで付き合わせるわよ。絶対に逃さない。どこ?」

 

「目が怖い上に責任転換も甚だしい事を言い出した! 親友は部活だよ。ほら、体育祭で部活止まってたから」

 

「ふーん。じゃああいつを拾ってから行くわよ。出来る限り時間をかけましょう。具体的には二時間ぐらい」

 

「僕の話を聞いた上でこの発想は最低すぎる……」

 

 あいつがあの時勝負とか言い出さなければこんな事にならなかったんだから当たり前でしょう。ちょっと恨んでるわよ私は。

 自業自得? 私の辞書にそんな言葉はないの。

 

 ちらりと時計を見る。

 水妖精に言われていた時間まで少しだけ余裕があった。

 だから、私は前々から少し気になっていた事を聞いてみた。

 

「ねえ、あんた達ってなんでお互いのことを『親友』って呼んでるの? 正直ややこしい時あるわよ」

 

 モブ男も、白狼も、『親友』という名前ではない。

 だからこの『親友』も親しい友という意味での親友であることは間違いないんだけど……。

 お互いのことを親友って呼び合うのが仲の良さアピールならちょっと痛いというかなんというか……。

 私の方がちょっともにょっちゃうときあるのよね……。

 

 いやだって、私が弓森さんのことを親友って呼ぶようなものでしょう? 

 

 

『ねえ親友さん。さっきの授業のここが分からなかったのだけれど』

 

『どれどれ……うん、ここはね親友さん、こうやって解くんだよ』

 

『なるほど……出来た! ありがとう親友さん、助かったわ』

 

『いえいえ〜。あ、親友さん、先週オープンしたカラオケが半額クーポン配ってたんだ。今日の放課後とかどうかな〜』

 

『ん、いいわよ。行きましょうか親友さん』

 

 

 ……ないわね。

 ちょっと想像してみたけどこれはないわね。

 

 だからこそ、お互いを『親友』と呼び合う二人のことが少しだけ気になった。

 それはきっと、私にも友達と呼べるような存在が出来たから。

 

 この事を聞かれるのは初めてじゃないのか、モブ男は苦笑をしながら口を開いた。

 

「それは──」

 

「──俺のことを『シンユウ』って呼んだからだよな、親友」

 

 しかし、それはモブ男の口からではなく、その後ろからあらわれた獣人によって答えられた。

 

「あれ? 部活は?」

 

「ジャージ忘れてたから取りに来た」

 

 そう言って、白狼は自分の机の横に引っ掛けておいたナップサックを指にかけ、これだこれだ、と軽く持ち上げる。

 さっきの『親友』の言葉の、その発音が違うような気がして、私は首を傾げた。

 

「『親友』って名前じゃないでしょう? 勘違いする要素もない」

 

「違うぜ美上さん。『親友』じゃなくて『シンユウ』だ。……ま、色々あってな。でも、これもいいだろう? なんか特別感があって。なっ、親友」

 

「……まあ、そうだね」

 

「いや結構割とかなりダサいと思うわよ」

 

「辛辣だなあ!?」

 

 逆にイケてると思ってやってたのかしら……? ええ……? 

 

「っといけねえ、部活もう始まっちまってるから俺はもう行くわ」

 

「うん。夏休み前以来の復帰だし無理しないようにね」

 

 時計を確認した白狼は軽く手を振って教室を後にする。

 当然逃すわけがない。サクッとチャームして着席させた。

 よし! 気分はヘルメットを被ったネコだ。

 

「よし。適当に時間潰すわよ」

 

「いやよしじゃないよ美上さん……」

 

 モブ男が若干引き気味の目で私を見ていた。

 

「もう時間だし親友のチャーム解いて行くよ」

 

「嫌よ。行かなかったらどうせ捕まえにくるから白狼を盾にして私は逃げるわ」

 

「クラスメイトを特攻させることに全く迷いがない……。水澄さんから逃げるのは無理だって」

 

「あんたが私に協力したら逃げられるでしょう」

 

「幾ら不本意でも約束をしたのは美上さんなんだから腹を括らなきゃ。今回は僕は水澄さんの味方だ」

 

「……今回もでしょ」

 

「え?」

 

「……ふん」

 

 午後の授業中に、水妖精について一つ思い出した事がある。

 そういえば、夏休みに図書室に行ったときにあいつはいた。

 そう。水妖精はモブ男と同じ図書委員だった。

 通りで何かとモブ男と接点があるはずだ。違うクラスなのに、明らかに仲が良すぎたから。

 それこそ、キスしてしまいそうなぐらいの距離感になる事があるぐらいには。

 

 ……何故だか分からないけれど。

 私はその時のことを思い出すとお腹の奥の方が熱くなってしまって。

 水妖精の味方をするモブ男を見ると、どうして私の味方をしてくれないのと、叫んでしまいそうになる。

 私を守るって言ったじゃないのよ。ふん。

 

 嫌な沈黙が流れる。

 心をジクジクと刺激するような沈黙だ。

 私がそっぽを向いて黙ってしまったから。

 モブ男はその理由が分からないようで、空気を払拭する言葉を探していた。

 ……やっぱりこいつ、あんまりコミュ力ないわね。レスポンスが遅すぎる時がある。

 私が黙ったときは特に。いっそ不自然なくらいまでに言葉を探す癖がある。

 

 そのモブ男が口を開く前に。

 

「さーて! わざわざご主人様が迎えに来てあげましたよ! 逃げてませんよね淫魔! 逃げてたなら百メートル四秒のペースで地の果てまで追いかけます!!」

 

「物理的な破壊力がある分ホラーよりタチが悪いのよこの妖怪ゴリラ女」

 

「ゴリラを超える握力でその胸ネジ切ってやりますよ変態スケベ女。間違えました淫乱ドスケベ女。何ですかそのメイド服、パンツ見せびらかしてるんですか? 誰もケバいパッションピンクの下着なんて見たくありませんよ。臭そうです」

 

「あんたが着せたんでしょうがあああああああっ!!!」

 

「美上さん落ち着いて! 落ち着いて!? 親友けしかけるのやめてあげて!? あと水澄さんも流石に言い過ぎだってば! 水と油かこの二人!?」

 

 こんっっにゃろう……!! 

 ほんっとにムカつくわねほんっとにほんっとに!!! 

 

 でも。

 陰鬱とし出した空気をぶち壊す水妖精の存在が、この時ばかりは少しだけありがたかった。

 ほんの少しだけ。

 

 一悶着終わり図書室に移動する。

 モブ男の親友は解放済みだ。モブ男も、水妖精もなんだか白狼を部活に行かせたがっていたように思う。はあ、いい子ちゃんはこれだから……。私としてはあいつのせい(確定)なので絶対に逃したくなかったのだけれど。

 でも、去り際に面白いことを言っていた。

 

 

『ごめんな美上さん。まあ、なんだ、水澄も悪い奴じゃないんだ。だからさ、もうちょっと……な?』

 

『目が腐ってるの? それとも脳味噌?』

 

『気持ちは分かるけど俺はいたって健康だ。もう体も大丈夫。ってそうじゃなくて……いや、無理か。……怖いからそんなに睨まないでくれあとチャームはやめてね?』

 

『ふん。本当に悪いと思ってるなら何か私に貢献しなさい。水妖精をどっか遠いところに連れて行くぐらいでいいわよ』

 

『無理だって。あいつ根っこが真面目でバカだけど身体能力は本物だからな。正面から抑えるのは鬼塚ぐらいじゃないと出来ないし心情的にやりたくない。……まあ、その代わりと言っちゃなんだが。親友はメイド服結構好きだぞ。じゃあな、心の中でエール送っとく』

 

 

 ……メイド服、ねえ。

 今私が着ているメイド服はクラシックスタイルが一番近い。露出を限りなく減らしたメイド服といえば想像しやすいわね。

 なんで近いかと言うと、お姉ちゃんが着るようなミニスカよりマシ程度までスカート部分がばっさり切られているからだ。

 上は布地によって完全に肌が覆われている(でも胸はきついからギチギチしてる)のに、下は布どこ? 状態。ニーソックスが全部見えて余りある肌色だ。なんで私がこんなサービスしなきゃいけないのよ……! 

 そんなアンバランスさだから、メイドではなくコスプレメイド。奇異の目で見られること請け合いだし、エロい目でも見られる。

 極力チャームしないように気をつけてもしてしまうぐらいにはエロい目で見られている。

 そう考えれば、私が意識してチャームしようとしなければなかなかチャームされなかったモブ男の親友は相当頑張っていたと言えるだろう。

 もしかしてホモなのかな。ありえる。

 

 って、そんなことはどうでも良くて。

 大事なのはそう。

 

「ねえ、あんたメイド服好きなの?」

 

「えっ、急になに?」

 

 モブ男がメイド服を好きということである。

 ほんとさー、男は好きよねメイド服。

 こんなのの何がいいのか。

 まあでも、少しだけ引っかかってはいたのよね。

 

 

『うっ。いや、そんなうるうるした瞳で上目遣いで頼んできてもダメだよ。あとさり気なくチャームしようとするのやめて欲しいかな』

 

 

 チャームをやめて欲しい。

 モブ男がこんなこと言うのは初めてだ。

 モブ男はチャームが効かないのではなく出来ない。

 それは先日の体育祭が証明している。

 

 ……………………。

 

 いやっ! いやいや! 今はそれは置いておいて! 

 あの時のこと思い出したらなんか熱くなるから出来るだけ思い出さないようにしてたのにうっかりしてた……! 

 深呼吸……、深呼吸……。

 

「えっ? 今度はいきなり深呼吸……? え?」

 

 困惑しているモブ男を無視して息を整える。

 すぅーはぁー。よし。

 

「……ねえ、ご主人様って呼んであげようか?」

 

 男はこういうの好きでしょ? 

 なんでチャーム出来ないのかは分からないけれど、絶対に出来ないわけじゃない。少なくとも、モブ男がなんらかの方法で抵抗さえしなければ出来る。

 なら、私がしてやるのはモブ男を私の魅力で堕としてチャームを受け入れさせてやることだ。

 

 原初の想いは褪せない。やる事は変わらない。

 私は、こいつを絶対に私のものにする。

 

 ……私のものにして、それで、私はどうしたいんだっけ。

 あれ? 確か……。

 まあいいか、帰って日記を読めば分かる。こういう時のために日記をつけてたんだもの。ふふん、さすが私ね。

 

 手を握る。

 口元が弧を描き、挑発的に目尻が下がる。

 ねえ、あんたも言われたいでしょう? 

 私の口から、私の声で、あんただけを見つめて言ってあげるわ。

 

 だから……ね? 

 他の女のことなんか見てないで。他の女を気にしないで。

 私だけを──。

 

「貴方のご主人様は私なのです淫魔」

 

「あいったぁっ!?」

 

「全くこれだから淫魔は……油断も隙もない……」

 

 うああああああ! 

 額が弾けるように痛いっ! 

 さっきまでのデコピンは一瞬痛くて後には引かない感じだったのにこれは今も猛烈に痛いわね!? 

 しかも胸元から嫌な音聞こえたけどこれもしかして今痛みで大きくのけ反ったせいでブラのホック壊れた!? 

 でも気にする余裕が……! 声を出さないように歯を食いしばることで精一杯だわ……! 

 

「水澄さん、流石にやりすぎだ」

 

「……いいじゃないですか、これぐらい。だって、淫魔は……」

 

「水澄さん」

 

「……分かりましたよー」

 

 物凄く痛くて何話してるか全く頭に入ってこない! 

 

 額を抑えて蹲って痛みに悶えていると、私と同じように膝を折った水妖精が私の額に手を伸ばす。

 またデコピンか!? と身構えたけど、予想した痛みはなく、代わりに冷たい掌が優しく私の額に当てられた。

 

 そして、水妖精の手に吸い取られるように急速に痛みが引いて行く。

 

「……力を入れすぎました。すみません」

 

「……ふん! いたぁいっ!!?」

 

「あたっ!? このっ、淫魔ぁ! せっかく痛みを治してあげたのに頭突きとはどういう了見ですか!?」

 

「マッチポンプにも程があるのよ! 私は……! 水妖精と違って……! 普通の女の子なんだから……! もっと丁重に扱いなさいよ……!」

 

「今言外に私を普通の女の子じゃないと言いましたね!?」

 

 あったりまえでしょ素手で鉄を凹ませられる普通の女の子がいてたまるもんですか! 

 

 お互いの胸ぐらを掴む。ぐえっ。力強い……! 

 が、直ぐに水妖精が怯んだ。

 

「え……なに、え……この感触……え? え? 私にはこんなもの……え? え? え?」

 

 握力が緩んだ隙に体を大きく振って何とか脱出する事が出来た。

 水妖精は私の服を掴んでいた自分の手のひらを見つめてから小刻みに震え、恐る恐る自分の胸ぐらに同じ手を持って行く。

 

 そして崩れ落ちた。

 

「う……うう……っ! うううぅ……っ!!」

 

「は?」

 

「淫魔……! 淫魔……!!」

 

 理由は分からないけれど、心底悔しそうな顔が心地良かったのでそのまま勝ち誇ることにした。

 

「わかったかしら。これが私との差よ。文字通り天と地ほどね」

 

「淫魔ぁ!!!」

 

「美上さん! それはあまりにも残酷だ! 残酷過ぎる!」

 

 知らないわよばーかばーか! ふん! 気分が良いわね!! (最低)

 

 案の定ブラは壊れてたけど、メイド服がキツ過ぎるのもあって応急処置で何とかなった。

 でもやっぱり多少揺れてしまうのが難点だけど……ま、そこは我慢するしかないか。

 図書室で委員の仕事を手伝う傍らメイドの真似事をさせられたが、何故か水妖精が私の腰から上を見ようとしないので心情的には勝ったも同然だった。

 ふん。また勝ってしまったわね。敗北が知りたいわ。

 

 そして、やけに長かった一日が終わる。

 これで私のバカみたいなメイドの真似事もお終いだ。

 そして、それはあの忌々しい勝負の約束が終わったことを意味する。

 どっと肩から疲れが押し寄せてきた。本当に疲れたわね。主に屈辱的な仕打ちの精神的疲労で。

 

「跳ねた……ぽよんって……歩くたびに……ゆさゆさって……え……? なんで……? え……? あれは何……?」

 

「ねえ、これどうしたの?」

 

「今はそっとしてあげて……」

 

 小声でぶつぶつうわ言を呟く水妖精を見る私の疑問に、モブ男は目を閉じて首を振るだけだった。

 なんなのよ。

 

 完全下校時間が迫っている。

 制服は無事に返してもらえた。

 

「……制服です。早く着替えてきてください。その服はあげます。要らなければ焼却炉にでも入れておいてください」

 

「目を合わせて言いなさいよ」

 

「……すみませんもうそれは着ないでください」

 

「目を合わせて言いなさいよ」

 

「おのれ淫魔……!」

 

「なんなのこいつ!?」

 

 返却された本を本棚に戻して、さあ帰ろうかというところで、水妖精がある本棚の前で一冊の本を手に取って立ち止まっていた。

 随分と大きい本だ。

 水妖精が立ち止まった事に気が付いたモブ男がどうしたのかと近づいて行く。

 そして、その本を見て懐かしげな声を漏らした。

 

「あれ、その本がなんで?」

 

「……多分、先生が新しく入荷したんだと思います。新書の管理は先輩方がやってるので、気付きませんでした」

 

「そっか……。懐かしいね」

 

「そうですね……とても、懐かしいです」

 

 いや二人して感傷に浸ってないで。

 帰るって言ってんのよ。もう私先帰るわよ。

 でも本気になるわね……いやあんな思わせぶりな態度取られたら……ねえ? 

 タイトルぐらいは見ていこうかしら。えっと、なになに……。

 

「『ウンディーネの涙』……? 絵本じゃない。しかも水妖精の。なに、あんた自分の種族の絵本に興味あるの?」

 

 水妖精が持っていたのは世間的にも有名な童話の一つを絵本にしたものだった。

 話の大筋は確か……そうそう、水妖精の女の子と人間の男の子がいて、その男の子が色々あって命に関わる大怪我しちゃって、それを悲しんだ水妖精の女の子の涙で男の子の怪我が治って、二人は結ばれて幸せになりました……って感じだったはず。

 

 でも、これ作り話なのよね。

 だって水妖精の体液にそこまでの力はないし、ましてや涙なんて少量の体液で命に関わるような大怪我が治るわけない。

 だからこれは創作話だって言われてる。荒唐無稽の夢のようなお話だって。

 

 ちなみにサキュバスの絵本もあったりする。

 内容は何処からかやってきたサキュバスが男をみんな虜にしてサキュバスの国を作って、サキュバスの国から愛する夫や恋人を取り戻すために力を合わせた女たちって内容だ。

 最後は皆んな愛した人のところへ戻って大団円。真実の愛を見つけた男女は末長く幸せに暮らしましたとさ。

 遠い昔の文献だとナチュラルにこういう扱い受けるのよねサキュバス。多分やりたい放題犯し放題だったのだろう。容易に想像できる。

 

「……自分の種族の童話なら、多少は気になりますよ。でもそれだけです。こんな御伽話なんて、本当はないんですから」

 

 それだけ言って、水妖精は絵本を本棚に戻した。

 その声は、夜道を照らす電灯に向かって飛んで焼け死ぬ蛾のような、そんな悲痛さを感じた。

 癪だけど透き通るな透明さを持つ水妖精とは似ても似つかないそれを、私は幻視した。

 心の奥の奥で粘つくように燻る感情の奔流、その切っ先に触れたような、そんな気がした。

 

 モブ男は、何か言葉を探すように口を閉じて。

 それ以降、口を開くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくても良い登場人物紹介

 

 美上さん。

 主人公。コスプレメイド。

 メイドとしてマイナスである。家事炊事掃除スキルマイナスである。お母さんがやってくれてるからね、仕方ないね。

 

 モブ男。

 ヒロイン。メイド服が好きらしい。

 実際は「チャームされるわけにはいかない」と気を張ってたから漏れた一言だった。え? メイド服が好きかどうかには関係ない? いや好きな子が可愛い格好してたら嬉しいと思う。

 

 水澄さん。

 なんでもできるバカ。

 喧嘩できるような同性は美上さんが初めてだったりする。

 

 親友。

 白狼ハクロウ。シンユウと呼ばれていたらしい。

 

 お母さん。

 運動会のこと娘が許してくれなくて態度が氷点下で寂しい。





この学校はクリスマスと文化祭がセットです。
日記日記してクリスマスに入りたいですね。
美上さんの誘惑大作戦パート。


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14ページ目 『性癖』

『未だ人気の衰えないサキュチューブ』

 

『今朝はそんなサキュチューブの魅力について迫っていこうと思います』

 

 朝ごはんを食べながら見ていたテレビでは、女性アナウンサーが真面目な顔をしてそんなことを言っていた。

 

 サキュチューブ。

 それは大手動画配信サイトの名前だ。

 

 元々は別の名前だったんだけれど……サービス開始しばらくしてサキュバスに目をつけられて実質無料エロ配信サイトになってしまい、健全な運営をしたかった企業側は徹底したエロアカウントの削除を行ったけど、それでエロ目的の利用者が消え、しかもその頃には世間的な認識が完全にエロ配信コンテンツだったので必死の再アピールをしても利用者が増えず……。

 最終的にサービスを一新することになり、そうしてできたのがサキュチューブなのよね。

 

 完全会員制の年齢制限あり。

 その代わり他サイトと比べてやれることの幅が段違いに広い。

 どれぐらい広いかというと、サキュバスの間でアカBANRTAが流行ったぐらいにはいろいろできる。

 伝説のサキュチューバーBeautifulOne通称BOの三時間半は未だ誰にも破られていない。違反行為をしていないのにエロすぎるから即BANされたサキュチューバーは後にも先にも多分この人だけでしょう。まあ、私はその動画見たことないしあまり興味もないけどね。

 

「あら、そういえば」

 

 私の対面で同じように朝ごはんを食べていたお母さんは言った。

 

「お姉ちゃんがサキュチューブで配信始めたって言ってたわね」

 

「………………」

 

「あの子、昔から色んなことやりたがるのよね〜」

 

 インドア気質のある私と違い、お姉ちゃんは結構活発的だ。

 体質の差……というわけではなく、インドア気質の私が相当に珍しいだけで、だいたいのサキュバスは活動的なのよね。

 休日に繁華街のほうに行けばナンパとかナンパとかナンパとかしてるサキュバスをかなり見かける。

 

「あ、今の色んなことやりたがるっていうのは、色んな子とヤりたがるっていうのとかかっててー」

 

「その上手いこと言ったみたいな顔イラッとくるからやめてくれる?」

 

 体育祭のことまだ許してないから。

 

「娘が冷たくてお母さん寂しい……」

 

 反抗期かしら……と小声で言いながらスマホを操作したお母さんは「あった、これよこれ」と私にスマホを差し出した。

 その画面に表示されていたのは……。

 

 

【露出縛りRTA! 現役JDサキュバスの音だけでイかせる音声part3】

 

 

 真顔になった。

 お母さんが再生ボタンをタップする。

 

 

『ズゾッ! ずぢゅぞぞぞぞゾッ!!』

 

 

 堪らず動画を消した。

 

「何やってんの!?」

 

 本当に何やってるの!? 

 

「何って……蕎麦を食べてるだけよ?」

 

 お母さんが動画を再生する。

 

 

『んっ、ぢゅる、ぢゅるるるるっ! ん、ふぅ、あっ、かたぁい……んっ』

 

 

「硬いとか言ってるけど?」

 

「お箸噛んじゃったのかしら」

 

「とぼけないでくれるかしら!?」

 

 これ絶対あれ……いやあれでしょう!? 

 画面に映ってるのはお姉ちゃんの借りてる部屋だけでお姉ちゃんは尻尾しか映ってないけど……いやでもこれアレでしょう!? 

 

「もうサキってば、蕎麦食べてるだけなのに大袈裟ねえ」

 

「仮にそうだとしたら食べ方が汚すぎてそれはそれで嫌なのよ!」

 

「ふぅー、サキ、蕎麦は音を立てて啜ってもいいのよ? 股間の棒と同じよね」

 

「例えが最低過ぎる!!」

 

 というかそれほぼ認めたのと同じじゃない! 

 やっぱりこれアレじゃない!! 

 

 確信を得ようともう一度画面を見てみる。

 目が止まる。

 気づく。

 あれ。

 いや。

 この配信者名。

 えっ。

 

 

【投稿者 パーペキ美少女サキるん】

 

 

 あんのクソ姉えええええええぇっ!!! 

 

「お母さんね、家族としてお姉ちゃんのことは応援してあげたい……どうしたの? 急に電話なんかして。何処にかけてるのかしら」

 

「エロ配信に妹の名前を使うバカのところによ!!」

 

 六回目のコール音で電話がつながる。

 

『ふあぁ……もしもし……どしたのサキ……こんな朝早くに……』

 

 今は七時五十分。

 早いには早いだろうけど、健全な学生が言うにはやや不健全な言葉だ。

 さっきからゴソゴソ衣擦れのような音が聞こえるし、多分まだベッドの中なのだろう。

 なんでこんなに眠そうなのかとかは意識的に頭から追い出した。サキュバスの姉の夜更かしの理由なんか考えないに限る。

 

 その後、怒った私の小言でお姉ちゃんはアカウント名を【えろえろ娘】に変えた。センスが一昔前のそれね。

 因みに、本当に蕎麦を食べてるだけだった。

 

 

『あはは、それはまだやらないよー』

 

 

 とはお姉ちゃんの談。

 私は思考を放棄した。

 

 それから一週間後。

 昼休みに何となくサキュチューブを開く。

 ブクマしていたお姉ちゃんのアカウントページに飛ぶと……。

 

「あ、消されてる」

 

 削除理由は度を過ぎた投稿。

 何やったか知らないけど、規約違反で消されなかったのなら一応RTAは完走ね。

 記録は九日。まあまあ速い方じゃないのかしら。

 

 ブクマを解除してスマホを仕舞う。

 サキュチューブの事はすっかり頭からなくなっていた。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 10月∇日

 

 モブ男どうやったら堕ちるのかしらねー。

 手を握ってもダメ、見つめてもダメ、抱きついてみてもダメ。

 二人っきりのときはいけそうな感覚あるんだけど、あるだけでいけた試しはないのよね。

 男を誘惑する方法……性癖を抑えるっていうのは常套手段の一つね。

 私レベルの美少女だとそれ自体が好みって枠組みをぶっ飛ばして惚れさせる要素になるけど、そうじゃなければ相手を好きになるっていうのは一つ一つ好きになるポイントを積んでいくものだってお姉ちゃんが言ってた。

 性癖っていうのは特別これが好きだって趣味思考。それを抑えるのはそのまま好意に転じる。

 あいつの性癖なんだろ……メイド服? でもウチにメイド服なんてないしな……。

 …………………………いや、着ないけど。前は無理やり着せられてたから、あのままだと着た損だったから有効活用しようとしただけだから。

 だいたいメイドってキャラじゃないのよね私。

 私がメイドになるよりもモブ男が私の執事になった方が……うん、そっちの方がぽいわね。これがあるべき姿よ。

 となると……あいつがよくやってる事……。

 そういえば、あいつ、いっつも怪我してるのよね。そんな毎回毎回怪我する? しかもたまに自分で自分を痛めつけたりするし……あれ間近で見るとちょっと怖いのよね……。

 ……ん? もしかしてあいつ痛いの好きなのかしら。

 だって、そうじゃないと普通は怪我を避けようとするはずだし自傷なんて絶対やらないし……。

 ええ……? あいつそんな趣味があったの……? 

 

 10月◎日

 

 今日は学校が休みなので「痛いの好きなの?」とメールで聞くと「嫌いだよ」と返ってきた。

 あれー? 

 痛みは嫌いだけど痛い事はするの……? 

 え? なんで? 

 分からない……お姉ちゃんに訊けば分かるかなと思ってお姉ちゃんに「痛い事を自分にする人ってどんな人?」って訊いてみた。「それはドMね」って返ってきた。

 モブ男ドMだったんだ……。

 

 

 10月‰日

 

 家に手錠と鞭があったので(何であるかは考えない)ので学校に持っていった。

 誰かにバレないように布袋に入れて鞄の底に沈めて。

 全く……モブ男も度し難い性癖を持ったものね……。それを満たしてあげようとする私に平伏して感謝しなさい。靴なら舐めさせてあげてもいいわよ。ドMってこういうの喜ぶのよね? たぶん。

 そこで気がついた。

 どうやって手錠すればいいの……? 

 

 

 10月◇日

 

 手錠を探してたお母さんに借りてる事を伝えると「じゃあそれもってていわよ〜」と。なんで探してたのかは全力で思考放棄した。

 でもそうね……目隠しはいいアイデアだわ。

 

 

 10月*日

 

 でもやっぱり手錠をするタイミングが……。

 男はどうにでもなる。チャームすれば記憶はどうにでもなるし、なんなら見せないようにもできる。問題は女だ。流石に私もモブ男に手錠かけて目隠しして鞭でぺちぺちするところを見られるのは困る。

 写真なんて撮られたらもう戦争だ。中学のときの二の舞は流石にごめん被るのよね。

 理想は誰もいない場所。それでいて、そこにモブ男が絶対にいること。次点で男はいるけど女は絶対に居ないし来ない場所かな……。

 そうなると候補は限られてくる。

 ……そういえば、明日、体育があったわね。

 ……使えるわね、これ。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 まず鼻腔に飛び込んできたのはムワッと鼻につく汗の臭い。

 遅れて、制汗剤混じりの淀んだ空気が肌を撫でる。

 頭がくらっとして頭の中の何かが理性を一瞬外しそうになった。それを過去の記憶が雁字搦めに押し込んで、私はチャームを使った。

 

 私が現れたことに驚いていた男たちが一斉に口を閉じ、手早く制服を着て立ち去っていく。

 後には、お互い体操服のままの私とモブ男だけがそこに残った。

 

 ここは男子更衣室。

 モブ男が目を丸くして私を見ていた。

 

「え、なに? どうしたの……? というか、ここ男子更衣室……え? 美上さん? なんで?」

 

 だいぶ混乱している様子。

 まあ、それも仕方ない。私だって女子更衣室にいきなり男が現れたら即チャームして記憶消す。

 でも、今はその混乱が都合が良い。

 

「目を閉じて」

 

「えっ?」

 

「目を閉じて」

 

「なんで……」

 

「いいから」

 

 訳も分からないままモブ男は目を閉じた。

 ……ふふ。こいつのこういうやけに素直なところは、正直嫌いじゃない。

 布袋から細長い布地を取り出しながら、モブ男の背後に。

 ……無駄に背高いのよね、こいつ。手が届かないわ。

 

「しゃがんで」

 

「待って待って、状況が分からない。一回説明してほしい」

 

「全部終わったらしてあげるから、しゃがんで」

 

「……これでいい?」

 

「ん。いいわよ。目、開けたら許さないから」

 

 手ごろな高さに来たモブ男の頭に取り出した布を、目隠しする様に巻いていく。

 これでモブ男の視界は完全に覆われた。今目を開けても布の裏地しか見えないだろう。

 

「これ目隠し……?」

 

 モブ男の独り言を無視して今度は正面に。

 布袋から手錠を取り出し、手首につける。

 

「冷たっ。あれ、これ、え? 手錠……? え?」

 

 面白いぐらい動揺してるわね。

 珍しい姿にちょっとクスッとなった、次の瞬間。

 

「ふっ! …………っ! は、ふぅ。最悪力づくで取れそう」

 

 ギチギチギチギチ! と、悲鳴のような音を上げて手錠が軋んだ。

 ええ……。

 

「それステンレス製なんだけど……」

 

 錆防止で合金とはいえドン引きよ……。

 

「あ、ごめん、壊したらダメだよね。いきなり手錠されたから驚いちゃって……ってそうじゃなくて! なんで僕目隠しされておまけに手錠までされてるの!? 僕何されるの? ちょっと冷静になってきたけど何この状況!」

 

 まあ、終わったら説明してあげるって言ったし、説明してあげましょうか。

 素直に従ってもくれたわけだしね。

 

「ほら、あんたドMじゃない」

 

「………………え? それだけ? 説明それだけ? 前提が大暴投してる上にそれだけの理由で僕は今こんなことになってるの?」

 

「嬉しいでしょう?」

 

「あらぬ勘違いからのめちゃくちゃな押し付けが来た! 気付いて! それ殆どいじめの理論だよ美上さん!」

 

 失礼ね、私はあんたを思ってやってるのに(自分のため)

 持参した鞭でペチっとモブ男の足を叩く。

 

「うわっ! 何これなんか今足のところぬめってした! 何これ!? 何これ美上さん!?」

 

「鞭よ」

 

「鞭!? なんで!?」

 

「ほら、あんたドMじゃない」

 

「それで全ての説明ができると思ったら大間違いだよ!? あと違う!」

 

 いやそんなこと言われてもねえ……。

 あんたの常日頃の様子がねえ……? ネタは割れてるのよ、素直に認めたらどうなの? 

 

「ドMのあんたの性癖を満足させてあげるわ。だから、安心してチャームされなさい」

 

「ぐっ、うう……! んんんっ!! いきなり人を目隠して手錠して鞭で打ってくるサキュバスにチャームされて安心できるわけがない……! というか、これ、僕をチャームするための……!」

 

 うるさい。

 私はペチっと鞭を振るう。

 

「ぬわっ! なんだろう、この、なんとも言えない絶妙な力加減は……! 痛くないから鞭の感触だけがダイレクトに伝わってきてなんか気持ち悪い……!」

 

「いや、だって、あんまり思い切りやると痛そうじゃない」

 

「その気遣いがあってなんでこんなことになってるのか気になるかな……!」

 

 気遣ってるからこうしてるのよ。

 ほら、ぺちぺち。

 

「やばい、なんかぞわぞわする……!」

 

「語るに落ちるとはこの事ね。やっぱりドMじゃない」

 

「これは違うからね!?」

 

 モブ男の声には若干の焦りが見える。普段より少し声が上ずってる……のかしら。

 焦るって事は、やっぱりそういうことよね? 

 

 でも、なんだろうこれ。

 目隠しして、手錠を壊さないように力抜いて、口は出すけど動かずにじっとしてるモブ男を鞭でぺちぺちすると、私もなんか変な気分になってくるというか……。

 なんかイケナイ気持ちになるというか……新しい扉が開くというか……。

 

「はぁ……はぁ……、なんで、今日はこんなに……、チャームが強い……流石におかしい……! ぐっ……! あああっ! 目隠しとりたい!」

 

 モブ男が頭をぶんぶん振って目隠しを振り落とそうとする。

 ちょっとちょっと。

 

「取ったらダメよ」

 

「!?」

 

 なので、動けないように頭を押さえ込んでやった。

 後頭部に手を回して、そのまま胸元に抱き込んでやると、モブ男はすぐに大人しくなった。

 ん、ちょっと擽ったいわね。

 

「──はっ! ちょっと待って、待って美上さん、これダメだ、本当にダメだから! なんか今日本当におかしい! なんかした!?」

 

 が、直ぐにサッと振り解いて距離を取ってしまう。

 その際に目隠しをしてるがためか、躓いて尻餅をついてしまうが、モブ男はそんな事には気付いてすらいない様子で、手錠をされた両腕を前に突き出して。

 それは私に近づくなと言っているようで。そう懇願しているようで。

 普段は見上げているその顔を見下ろしている私の嗜虐心が疼く。

 

 ああ、なんだろう、この気持ち。

 なんで、こんな、こんな──。

 

 ────もっと、イジワルしてみたい、だなんて。

 

「──何が、ダメなの?」

 

「うぁ!?」

 

 ゆっくりと足音を立てないように側に回り込んで、耳元で囁く。

 びくりと体を大きく震わせたモブ男が弾けるように後ずさって、衝突したロッカーが大きな音を立てて揺れた。

 その姿が可笑しくて、可愛くて、愉しくて、心が震える。

 頭に霞がかかっていく。頭の奥の方で何かが弾けようとしている。押さえ込もうとする理性を振り切って、ずっと縛り付けていたナニカが待ち侘びたとばかりに咆哮をあげようとしている。

 でも、私にももう、それを気にする余裕もなくて。

 

 私は、焦りのあまり手錠を引き千切って逃げようとし始めたモブ男に手を伸ばし──。

 

 

『非力な僕に力仕事だなんて……これが支持率ぶっち切りの一位で会長になった男のする事かい? 悪逆非道にも程があるってものだよ。再選を要求しよう』

 

『再選しても全校フリーセックスの馬鹿げた指針で当選するわけないだろう支持率最下位の副会長。いつまでも文句言ってないでやる事ちゃっちゃっとやるぞ』

 

『フっ、セックスって言うときに照れて顔を背けるの、情けなくて僕は好きだよ。キスしたくなる。──まだ、慣れないのかい?』

 

『うるせえよ。お前たちがおかしいんだからな? お前たちがおかしいんだからな? 二回言ったぞ。三回目も言うな。お前たちがおかしいんだからな?』

 

『僕から全力で距離を取って吐く強い言葉、あまりの滑稽さに流石の僕も失笑を禁じ得ないね。フッ、そんなに僕にキスされたくないのかい? 少し傷ついてしまうよ』

 

『そうしねえとお前俺をチャームして逃げるだろうが。前科何犯だと思ってんだとぼけんな』

 

『フッ』

 

『言葉に詰まったら意味深に笑って誤魔化すのウケるよな』

 

『……』

 

『おっと! チャームはされないぜ。お前に触れなきゃ大丈夫だからな! 俺が何のためにボクシング齧ったと思ってやがる。俺は絶対にお前に負けないからな』

 

『……本当に、彼女たちが羨ましい限りだよ。ユキさんの気持ちが今ならよく分かる』

 

 

 ──ドアの外で、声が聞こえた。

 

 それはどんどん大きくなって……って、もしかしてここに来る!? 

 会長!? 副会長!? ってことは、ここに来るの生徒会の人!? 

 男だけならチャームで何とかなった。でも、声からして男女の二人……女はまずい! チャームできないから、男子更衣室にいる所を見られたら誤魔化しようがない! 

 しかも、私は以前水妖精に言われたように女受けは最悪だ。それは自覚がある。だから、これは本気で不味い。

 このネタを理由に何をされるか分かったものじゃない。

 

 見つかったらやばい! 

 

 ここの出入り口は一つだけ、あそこは使えない、窓は小さすぎて無理、後はあとは……! 

 

 冷や水を浴びせられたように謎の高揚感から正気に戻ってきた理性がとっさに私を動かした。

 手近なロッカーを開けて、そこに飛び込む。

 

 ──誤算があったのは。

 

「──え、ちょ、きゃあっ!」

 

「つっ」

 

 モブ男も、音を頼りにしたのか私と同じロッカーに飛び込んできたこと。

 

 そして、ロッカーが閉まるのと更衣室のドアが開くのは全くの同時だった。

 

「ん? なんか音しなかったか?」

 

「気のせいじゃないかい? 今は昼休みだしここを使う生徒はいないさ」

 

 ばくんばくんと心臓が早鐘を打つ。

 早鐘どころじゃない。爆発しているようだった。

 

 狭いロッカーの中に。

 薄手の体操服のまま、互いの体を押し付け合うように。

 

 私の顔の正面に、目隠しをしたままのモブ男の、顔が。

 

「──んぁ、ちょっと、どうして、あんたはあのままいれば良かったじゃない!」

 

 ここ男子更衣室なんだからあんたがいるのは可笑しくもなんともないでしょう!? 

 弾けそうだった頭の中のナニカを必死に縛り付けて小声で問い詰めれば、同じく小声でモブ男が言う。

 

「いや無理だよ! 僕今手錠に目隠ししてるんだよ。変態じゃないか!」

 

「変態でしょ!」

 

「理不尽すぎる!」

 

「ゃっ、ちょっと、あまり、動かないで、擽ったいのよっ」

 

 モブ男の吐息が首筋にかかって、背筋がゾクゾクするような擽ったさを感じる。

 それに、ロッカーの中狭いから、しかもこんなに近いから、私の匂いに混じってこいつの臭いが、して、体の感触とかも、これ、これ……。

 

 

 

 ──────あ、これやばい。

 

 

 

 心臓が、爆発し続けているようだった。

 頭の奥の方で、止まれと叫ぶ私がいた。

 ずっとソレを抑え続けていた、封印していた鎖に、ヒビが入るような音がした。

 そんな音が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介。

 

 Q.美上さんなんでサキュバスらしくないの? 

 

 A.サキュバスらしくはある。小学生の頃のトラウマが在り方をねじ曲げただけです。

 

 Q.それがなければ普通のサキュバスと一緒なの? 

 

 A.一緒です。

 

 Q.じゃあ、今までひたすら抑え付けられてた普通のサキュバスらしさってどうなってるの? 

 

 A.勘のいいガキは嫌いだよ。




堕ちれば終わりを迎える関係がある。
実れば潰える想いがある。

なぜなら、二人の繋がりは。

あんた(君)が振り向かないから始まったーー。


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15ページ目 『ロッカー』

 ひらひらと桜の花が風に乗って踊る。

 陽気な気温は体の中をじんわりと温めて、髪をくすぐる芽吹きの匂いに心まで弾んでしまいそうになるような、そんな始まりの春があった。

 

 四月、入学式。

 

 真新しい制服に身を包む少年少女たちが、新生活に期待と不安を入り混じれさせながら、それでも誰もが未来を見つめていた。

 

 そして、過去を見つめる一人の少年がいた。

 

「ユキカゼ、こんな所に居たのか」

 

 人に忘れられたように隅っこに転がっているベンチに、人に忘れられたいと願っているように身を小さくして座っている少年に、獣人の少年が話しかける。

 

「……えっと、君は」

 

「……『親友』だよ、俺は。ほら、これ、お前の母さんから預かってる」

 

「ああ、そうなんだね。ごめんね、『シンユウ』くん」

 

「──っ」

 

 獣人の少年──シンユウがポケットから取り出した木彫りのメダルを見て、ユキカゼが微笑む。

 微笑みはこういう風に顔の筋肉を動かすのだと学習したロボットがそうするような、生気のない微笑みだった。

 シンユウの顔が、痛みを堪えるように一瞬歪んだ。

 

 このやり取りも、もう、何度目になるのか。

 シンユウは、二十から先を数えるのをやめていた。

 

 ぶつけ先のないやるせ無さを呑み下して、シンユウは務めて明るい声を意識する。

 

「記念撮影撮るらしいから行こうぜ。場所は担任の先生が立ってる……って、わかんねーよな。ほら、一緒に行こう」

 

「うん。ごめんね」

 

「気にすんなよ。なんせ、俺はお前の親友だからな」

 

「うん。たぶん、今まで何度もこうやって助けてくれてたんだよね。ごめ──ありがとう、シンユウくん」

 

「……ああ、どういたしまして」

 

 その言葉を口にするたびに胸の傷口が抉られる。

 それでも、シンユウは言い続けた。

 それは、過去で時間の止まったユキカゼを無理やり未来に連れて行こうとするような、シンユウなりの足掻きだった。

 

 例え、その未来が絶対に訪れないものだと分かっていても。

 

(俺が諦めたら、誰がユキカゼの手を引いて未来にいくんだ──!)

 

 それでも、シンユウは、放っておけば死んでしまいそうな無二の親友を、変わり果ててしまった大切な友達を、過去に置き去りにしたまま進むことをよしとしなかった。

 

 シンユウは、本当の意味での『親友』に戻れることを、諦めながら信じていた。

 

 

 

 

 

 そして、そんな少年たちのことなど心底どうでも良い傍若無人を絵に描いたようなサキュバスがいた。

 

 

 

 

 

「ちょっとあんた」

 

 僅かに苛立ちを含んだ声。

 

「……いやこっち向きなさいよ。あんたよあんた!」

 

 明確に苛立ちをを含んだ声。

 

「私を無視するとは良い度胸ね……! 男のくせに……!」

 

 頭の中に杭を撃ち込まれるような、そんな感覚があった。

 

「ふん、これで……あれ? チャーム出来てない? いやそんなはずは……ちょっと弱めにし過ぎたかな……お母さんが口煩く言うせいで……今度は本気で、えいっ!」

 

 それは、奇跡のような一瞬だった。

 

 同じ時代に二人といないような、それこそ御伽噺で語られるような規格外のチャームを持って生まれたサキュバスがいた。

 

 そのサキュバスのチャームが。

 私のことを好きになれという魅了の力が。

 

 死んでいたシナプスを、止まっていた脳の伝達回路を、二度と動くはずがなかった脳機能を、あらゆる医学を真正面からぶっ飛ばして動かしたのだ。

 

「よし、出来た。やっぱり気のせいだったわね……ほらこっち向きなさい……そう、その顔よその顔。死ぬタイミングあったら迷わず死にそうな鬱屈した顔で隣いられるとこっちまで気が滅入るのよ。ウジウジした空気が伝染してくるの。わかる? だからせめて無表情……はちょっと怖いわね、良い感じに笑ってなさい。私の隣の席にいる間はね」

 

 その時の感情をなんと呼べば良いのだろう。

 

「──ふん、それでいいのよそれで」

 

 これが、嬉しいという感情なのかと、胸に広がった暖かさに戸惑った。

 

「……ってあれ、ん? あ、もしかして今のでクラスの男全員チャームしちゃった……?」

 

 嬉しいという感情を得られたことに、涙が出た。

 

「あ──もうっ! うるっさいわね!? 知るか! 勝手にコイツらが私に興奮してたからでしょ! ふん、まあ私美少女だから仕方ないけれどね! あんたたちとは違うのよ!」

 

 陽の光を反射しているのかと錯覚するような銀色の長い髪が春風に泳ぐ。

 感情と連動するように細長い尻尾がピンと天を衝く。

 自信満々の整った美貌が怒りによって少し歪み、でも、それでもやっぱり美しかった。

 

 キレ散らかすサキュバスの少女を見て、もう絶対に感じることのないと医者から言われ、自分でもそう思っていた甘く切ない想いが湧き上がってくるのを感じた。

 

「なんか凄いのと一緒のクラスになったなユキカゼ……あのサキュバス、めちゃくちゃ綺麗だったけど……」

 

「──えっと、君は」

 

「……もう、そんな時間だったか。親友だよ、親友。ほら、お前の母さんからこれも預かってる」

 

「シンユウくん、だね。うん、すごく綺麗な子だった」

 

「ああ、綺麗なんだけど俺サキュバスはちょっと苦手──は? え、今、なんて言った……?」

 

「名前、なんて言うんだろう。でも、同じクラスだからすぐに分かるよね。分かるといいなあ……」

 

「──ユキカゼ、お前、覚え、てる……のか?」

 

「──あ、れ、ほんとだ、なんで、僕、あの子のことを、まだ覚えて……」

 

 それは、奇跡のような一瞬だった。

 

 そして、全てが始まる、未来への一歩だった。

 

 止まっていたはずの時間が、軋みを上げながら動き出した。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 ああああああああああぁっ!! 

 

「自分の頬をいきなりつねり出した! え、めっちゃ伸びる……じゃなくて! どうしたの!?」

 

 はぁーっ! はぁーっ! 

 くぅ痛い! でもその痛みのおかげで少しだけ正気に戻ってこれた。

 

 頭の奥で火花が弾けるような感覚があった。

 体の奥で産声を上げるような感覚があった。

 

 私はそれを、その正体をよく知っている。

 

 性欲だ。

 

 ……これだからサキュバスの体はもおおおおおおっ!!! 

 

 ロッカーの中の籠もった空気、いや空気というか、モブ男の臭い。

 

 正直めちゃくちゃ興奮する。

 

 ロッカーの中って狭いから、もう色んなところに触れたり触れられちゃったりしてて、私とは違うしっかりとした骨格とか筋肉とか感じて。

 

 正直めちゃくちゃ興奮する。

 

「ひぅ、は、あ、ちょっと、手が……んっ」

 

「んぐ、はぁ、はぁ、ごめん、美上さ、今、退ける、から」

 

 目隠しして、手錠して、堪えるような余裕のない声と少し荒くなった呼吸が可愛いって思う。

 

 正直めちゃくちゃ興奮する。

 

 ああ、私の下腹部に当たってたモブ男の手が離れていく……。

 はぅ、お腹をなぞりながら上に……止まった……? 

 あ、上に持ち上げたら胸に触っちゃうから……ふふ、バカね、もうこんな、形が歪むくらい押し付けちゃってるのに。

 自分の腰横のところに持っていって、手錠してるからそれもしんどいはずなのに……なにより、そんなに息荒くしてるのに我慢なんかしたりして。

 可愛い。ふふ、触ってもいいのに。

 

「違ああああああああうっ!!!」

 

「美上さん!?」

 

 あっぶない! 違う! やめろ! 私の思考をピンクに染めるな! 溢れるな本能! 繋ぎとめてよ理性! 

 

 これやばい! 本当にやばい! 

 正気と理性を反復横跳びしてる気がする! なんで!? なんでこんなことになってるの!? 

 私こんなにえっちじゃないのに! 他のサキュバスとは違うのに! 

 ……あ、モブ男の首筋、傷がある。

 こいつ、また怪我したのね。もう、本当にドジなんだから。

 いくつ体に傷作るつもりよ。体育祭のときだって本当に心配したんだからね。

 あのときの怪我はもう治ったのかしら。普段服に隠れてるところだから、見せて、なんて言えなかったけど……気にしてないってわけじゃないのよ。

 だって、あんなにひどい怪我だったんだから……。

 

「はぅあゎっ!? ちょ、美上さん、どこ触、て……!」

 

 あ、ちゃんと治ってたのね……良かった……傷跡も触った感じないみたいね……。

 ん……汗で滑りが悪くなって撫でにくいわね……。でもこれ……やっぱり私のお腹と全然違う……硬い……ん……ずっと撫でてたいな……。

 ………………舐めたら、どんな味がするんだろう。

 

「くたばれ煩悩ッ!!!!!」

 

「美上さぁん!?」

 

 はぁー! はぁー! 

 舐めたって汗の味以外するわけないでしょイカれてるの!? 

 

 ああああああ頬が痛い! さっきより強く抓っちゃったわね……! でもそうしないと止まれなかったかもしれない……! 

 

 だめだ、これは本当にだめだ、一回落ち着かないと、そうだ、数を、数をを数えるのよ。

 

 

『ち○こが一本、ち○こが二本、ち○こが三本……きゃー! 4Pだよサキ! 熱い夜になるね!』

 

 

 あああああっもおおおおおお!!! 

 お姉ちゃんはさあああああああ!!! 

 消えろ! 二度と出てくるな!!! 

 

 

『三本で足りるかしら。この三倍は欲しいわね』

 

 

 お前もよサキュバスマスク!!! 

 私の思考に割り込んでこないでよ!!! 

 

 

『あら? ユキ、複数プレイ好きだったかしら?』

 

『んやー? 一対一でじっくりやるのが好きだけど……たまにはいいじゃない? 気持ちいいし』

 

『ふふ、さすが私の娘ね。そうよ、気持ちいい事が一番大切。セックスは気持ち良くないと』

 

『そうそう! さすがお母さん! サキュバスは気持ちいいことが大好きだからね!』

 

『そうね、だからしょうがないの』

 

『うん、だからしょうがないの』

 

 『『だから我慢しなくていいの』』

 

 

 んなわけあるか!! 

 いつまで頭ピンクなのよいい加減にして!! 

 

 はぁ……! はぁ……! 

 深呼吸よ、こういう時は深呼吸を……。

 ……ああ、男の子の臭いだなあ。私からは絶対にしない臭い……でも、嫌じゃない……もっと嗅いでたい……そんな匂い。胸元に頭を預けて……そのまま目を閉じて全身を委ねてしまいたい……きっと気持ちいいわよね……何度か抱きしめられかけたことはあるけど……力強い腕でぎゅうってされると、安心するのよね……。ふふ、変なの。私、その力強い腕が大嫌いだったはずなのに。でも、この腕は、この腕だけは、あんなのと違って……最初からずっと私のことを守ってくれた腕だから……。

 

「え、ちょ、美上さ、待って、なんか今日はおかしくて、僕も色々限界が、って、え、あ、え?」

 

 不思議ね……こうやって胸元に頭を預けて体の力を抜くだけで心に安心感が広がるのに……体は、もっと、もっとって求めてしまう。私を閉じ込めて欲しくなる。逃げられないように抱きしめて欲しくなる。

 ……ねえ、なんで抱きしめてくれないの? あの日は、終業式の日は、私のこと、守るようにそうしてくれたのに。

 ……あ、手錠してるからか。なんで手錠してるんだっけ、だめだ、頭がぼうっとして……まあ、いいや。じゃあ、私が中に入ればいいだけよね。

 一回屈んで、腕の中にはいるように……。

 ん、色々、擦れ、あ、狭い、から、でも、もっと、もっと近くで、近くで感じたい……。

 

「正気に戻って美上さん! 待って待って本当に! お願いだから!」

 

「──はっ!?」

 

 何やってるのよ私のばかああああっ! 

 え、あ、え、これ、え!? 

 モブ男の胸元に顔埋めてるの私!? なんで!? いつの間に!? 

 

「つぅ!?」

 

 咄嗟に勢いよく顔を離す。

 反射的な行動だった。何も考えていなかった。

 だから、勢いよく離した頭はロッカーと激突。

 言い訳のしようもない大きな音が響く。

 

 

『ん、なんだ今の音?』

 

『……ふーん?』

 

『確かこっちの方からだよな』

 

 

 ──ッ! 

 ま、まずい! 

 今の音で外の二人に気付かれた!? 

 

「美上さん、これ、もしかして!?」

 

「だ、黙ってて! 息を潜めるのよ!」

 

 冷や汗がドッと吹き出し、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

 コツ、コツ、コツと靴音が近づいてくる。

 それがカウントダウンのように思えて、緊張で口の中が一瞬で干上がった。

 

 ぎゅうっ、と。

 覚悟を決めるように、拳を握る音が近くから聞こえた気がした。

 

 

『この辺から──』

 

 

 声はすぐ近くから聞こえる。もう猶予はない。

 この男をチャームして女の方を抑え込ませるしかない。

 この学校にサキュバスがほぼいないなのもあってすぐに私だとバレるけど、今この瞬間を見られるよりはいくらでも言い逃れようがある! 

 問題は私に性的魅力を感じてるかだけど──この学校で、私を見たことない男がいるわけないのよね。

 ──絶対に、いける。

 

 そして、私が男をチャームしようとした、モブ男が不自然に腕に力を込めた、その瞬間。

 

 

『待ってくれ、会長』

 

『あん?』

 

『フッ。今日は暑くないかい?』

 

『まあ、十月の割にはな』

 

『そういうわけだ。汗をかいてしまったから着替えたい。だから、会長には更衣室の外に出ていて欲しいんだよ。僕だって乙女だ、異性に着替えを見られるのは少々堪えるものがあってね』

 

『息を吐くように嘘をつくなよ。お前嬉々として生徒会室で脱ぎだすだろうが』

 

『フッ。そんなに僕の着替えが見たいのかい? 会長もスケベだな。いいよ、見せてあげようじゃないか』

 

『待て待て待て待て本当に脱ぐな! おい! 分かったよ俺は外に出てればいいんだな!? ……ったく、まだ探さなきゃいけないんだから早くしろよ。放課後残りたくはないだろ』

 

『会長と二人きりなら、僕はそれでも構わないのだけどね』

 

『おーおー。チャームはされねーからな。……ま、その間に飲み物でも買ってくるよ。今日は暑いからな』

 

『フッ。すまないね。よろしく頼むよ』

 

 

 ドアを開く男。

 足音が一つ、遠くなっていく。

 

「これは……たす、かった……?」

 

「違う、最悪になったわ……!」

 

 せめて女の方が出て行ってくれれば……! 

 チャームできる男が消え、チャームできない女が残る。

 考えうる限り最悪のパターンだ。誤魔化しようがない。取れる手段がない。

 今見つかれば詰む。男が帰ってくるまで見つからないことを祈るしかない。

 

 

『ここ、かな』

 

 

 でも、女は迷いのない足取りで私たちが隠れているロッカーの目の前で止まった。

 私とモブ男が息を飲む。

 やばい。

 まずい。

 見つかる。

 見つかる──! 

 

 

『おっと、変な気を起こさないでくれよ。僕は君にお願いをしに来たんだ。一年二組、美上サキさん』

 

 

 ……。

 ……どういう、こと? 

 

「なんか呼ばれてるよ美上さん」

 

「分かってるわよ。でも、なんで私だって分かって……私たちの姿は見られてないはずよ」

 

 ロッカーを開けられなかった安心。

 正体が既にバレているという恐怖。

 相手の意図が何もわからない困惑。

 

 三つの感情が入り混じり、私に行動を選ばせない。

 黙り込む私たちに何かを察したのか、外の声はくつくつと笑いを堪えながら続けた。

 

 

『フッ。驚いているのかい? おいおい、忘れたのかい? 僕たちサキュバスがエロの気配に敏感な事を。最初から気付いていたとも』

 

 

 なっ。

 なああああっ!!? 

 

 目を見開く。

 顔が熱くなっているのが嫌でも分かった。

 

「え……?」

 

「何も考えるな! 考えるな! 分かった!?」

 

「わ、分かった」

 

 そうだった! そうだったわ!! 

 ああああああってことはつまり。

 最初から全部気付いていた上で、泳がされていた──! 

 

 いやエロいことはしてないけど! 

 ……してないけど! してないから! 

 だから気まずそうに顔を逸らすな! モブ男! 

 

 

『……ん、なんで? って思ってそうだね。それはまあ、僕が君にするお願いと合致するだろう。まあ……つまり、だ』

 

 

 そこで、少しの間があって。

 

 

『美上サキさん。どうか……どうか、会長をチャームするのは、やめてほしい。僕からのお願いだ』

 

 

 ロッカー越しに頭を下げる気配があった。

 サキュバスの女は、頭を下げて、そう言った。

 

「……あなた、自分が何言ってるか分かってるの?」

 

 堪らず、私は口を開く。

 それほどまでに、この女はバカげた事を言っていた。

 

 チャームするのをやめてほしい? 

 サキュバスに男を魅了するな? 

 

 誰もチャームしていない雄を誘惑するのをやめろ? 

 

 そんなバカな話があるわけがない。

 私なら口が裂けても絶対に言わない。

 だってそれは、その言葉は。

 

 

『ああ、分かっているとも。分かった上で僕は言っている。だからこれは、お願いなのさ』

 

 

 自分では魅了出来ない雄を魅了しないでくださいという、サキュバスとしての存在意義を否定する言葉でもあるからだ。

 

「私がそのお願いを聞く理由がない」

 

『この場を見逃す、というのでどうだろう。これでも僕は生徒会の副会長だ』

 

「会長をチャームすればどうにでもなる。だからあなたもお願いと言ったんじゃないかしら」

 

『手厳しいね。いやはや、その通りだ。君が会長をチャームすれば、僕のやろうとする事全てを会長が潰すだろう。君のことが好きになった会長は、君が不利になる事をする僕をきっと止める』

 

「そこまで分かってるなら話は簡単でしょう? 悪いけど、私、基本的に女は信用してないの。このまま会長が戻ってくるまで待ってチャームする安全策を取らせてもらうわ。……その理由は、あなたもサキュバスなら分かるわよね?」

 

『ああ、分かるとも。僕らは雄から好かれ雌から嫌われる、そんな種族だからね。特にサキュバス同士で男の取り合いなんて起きた日には大変なことになる。君にその気がなくても……僕のことを信用できないのは、分かるつもりだ』

 

 でもね、と。

 女は、血を吐き出すように。

 

 

『それでも、僕はお願いをするしかない。君のようにチャームを使えない僕は、自分の魅力に自信のない僕はお願いをするしかない。お願いだ、美上サキさん。お願いします。どうか、会長をチャームしないでください。僕から、会長を取らないでください』

 

 

 そう、言った。

 

 ずぐりと、心の傷が疼いた気がした。

 似たようなことを昔に言われたから。

 

 

『触らないで! やめて! やめてよ!!』

 

『サキには……サキには私の気持ちなんて絶対に分からないっ!!』

 

『そんな強いチャームがあって……! 誰でも魅了できて……! 自分だけを想い続けてくれる人を簡単に見つけられるサキには、私の気持ちなんて絶対に分からないっ!!!』

 

『なんで……なんでよ……お母さんとサキにはそんなに強いチャームがあるのに……なんで私には……』

 

『盗らないで……盗らないでよ……私から盗らないでよ……』

 

 

 ……やめろ。考えるな。

 もう、終わった話だ。

 

「美上さん」

 

「……」

 

 私の内心が伝わったのか、モブ男が気遣いの色を滲ませた声音で私を呼ぶ。

 目隠しで隠れているけど、その目もきっと、心配そうに私を見つめているのだろう。

 全く、余計なお世話よ。だけど、確かに、心は少し軽くなった。

 

「……一つだけ訊かせて」

 

『何でも答えよう』

 

「……その男のこと……好きなの?」

 

『ああ、大好きだ。愛してる。他のどの男よりも』

 

「……そんな恥ずかしいこと堂々と言わないでよ」

 

『恥ずかしくなんてないさ。僕の気持ちを表すには、千の言葉を尽くしても足りないぐらいなんだから。……それに、会長は此処にはいないしね。聞いてるのも、実質僕と君で二人だけだ。女に秘密は付き物だろう?』

 

「あれ? 僕は?」

 

「多分、私にチャームされてるから聞こえてないと思ってるのよ」

 

 でも……そっか。

 好き、なんだ。

 愛してるんだ。

 なら、仕方ないわよね。うん、仕方ない。

 

 好きな人が自分以外を見る気持ちは、私にも分かるから。

 

「目隠しでいまいち状況が……」

 

 ……いや別にこいつの事が好きなわけじゃないけど。違うけど。共感力が高いから分かるだけだし。

 ……誰に言い訳してるんだろう、私。

 

「……分かったわよ。会長はチャームしない。でも、あっちが勝手にチャームされるのまでは知らないわよ」

 

『ああ、それでいい。そうなる前に、会長を僕なしでは生きていけなくしてやるさ』

 

 依存させ性癖のサキュバスだったかあ……。

 なんかこのサキュバスクセが強そうだし、あの会長さんも苦労してそうね(他人事)

 ま、興味ないけど。

 

『……ふぅ。まあ、君ならそう言ってくれるとは思ってたけど……正直、緊張したかな』

 

「……ふーん? 私もサキュバスだけど。サキュバスに男を魅了するなって言っても聞くやつなんてほぼいないわよ」

 

『それでも、君なら大丈夫だと思った。……だって、君は彼女やパートナーがいる相手は極力チャームしないようにわざわざ気を使っていただろう?』

 

「……何のことか分からないわね」

 

『フッ。そういうことにしておこう』

 

 じゃあ、僕はドアの外でソワソワしながら待ってる会長を連れてデートしてくるよ、君も早く此処を出たほうがいいよ、と副会長のサキュバスは更衣室を出て行った。

 小気味で、それでいてどこか二人の絆を感じさせるような楽しげな会話。

 それらが遠くなっていって、聞こえなくなってから私たちはロッカーを出た。

 更衣室の中だって暑いはずなのに、ロッカーの中が異様に暑かったせいで随分と涼しく感じた。

 

「うわ、これ、汗すごい……」

 

 そして、とんでもなく汗をかいていた。

 当たり前だけど。生態機能だから当たり前だけど。

 下着もびしょ濡れである。

 ……いや汗だから。汗だから! 汗、だよね……? 

 というか、こんなに汗だくでモブ男とあんなに密着してたんだ私。

 だ、大丈夫だったかな、臭いとか。

 臭いって思われるのは心外というか、傷つくというか……サキュバスの汗は男にとっては媚薬みたいなモノだから大丈夫だと思うけど……。

 

 少し心配になって、ちらりとモブ男の方を見る。

 

「あれ?」

 

 そこには、誰もいなかった。

 

「え?」

 

 強引に外されたような結び目がそのままの目隠しが、力尽きたように入り口付近に落ちていた。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「あ、危なかった……!」

 

「やばかった、やばかった、頑張った、めちゃくちゃ頑張ったよ僕……! 親友……! めちゃくちゃ頑張ったよ僕……!! 頑張ったんだよ……!!」

 

「……あ、手錠どうしよ」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 10月≠日

 

 なんか、最近抑えが効かなくなる事が増えた気がする。なんでだろう。

 ちゃんと自分で解消してるはずなのに。

 昨日とか、自分が自分じゃなくなるみたいで、少し怖かった。

 ……でも、嫌だとは思わなかったな。

 

 

 10月∞日

 

 昨日の私が書いたことは全部なかったことになった。

 そういうことでよろしく。

 

 

 10月◯日

 

 弓森さんから言われて気がついた。

 テストあるの忘れてた……。

 

 

 10月∂日

 

 モブ男勉強できたの!? 

 なんで!? あんた私と一緒で勉強できない枠でしょう!? 

 勉強する以外することなかったからって言ってたけど、いやあんたどうみても体育会系でしょ。嘘つくな。

 

 

 10月§日

 

 白狼、あんたはちゃんとバカで私は安心したわよ。

 ふん、これで私の最下位はなくなりそうね! 

 

 

 10月⇒日

 

 テスト勉強の毎日だ。

 

 

《しばらくテスト勉強》

 

 

 11月◉日

 

 テスト終わったー! 

 弓森さんと勉強会やったおかげで過去最高に出来た気がする! ありがとう弓森さん! 夏休みからお世話になりっぱなしね! 

 何かお礼したいな……何がいいかしら……。

 妖精って水妖精ほどじゃないけど数少なくていまいち分かんないのよね……。

 ま、それは後でしっかり考えるとして。

 テストも終わったし、そろそろクリスマスにもなるし。

 此処らでいい加減、モブ男を落としに行きましょうか。

 日記見返したら最初に書いたのが6月。もう半年近くやってることになるのね。

 モブ男をオトして、気持ちよく新年を迎えるわよ! 

 

 ……ま、ほら。

 初日の出とかさ、一緒に見にいってあげてもいいけどね。

 ご褒美よご褒美。ここまで私の誘惑に耐えたご褒美。

 ……なんで耐えんのよ。ムカつく。ふん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場人物紹介。

 

 美上さん。

 主人公。

 会長たちが来なかった場合、新たな扉が開いていた。→ルート分岐《あんたは私の可愛い奴隷》CG回収。

 

 モブ男。

 ヒロイン。ヤバかった。

 本当にヤバかった。

 

 シンユウ。

 目を離したすきに親友が地雷臭しかしない女に惚れていた。

 

 会長と副会長。

 チャームがクソ雑魚すぎてアイデンティティがへし折れドン底に叩き落とされて引き篭もっていたサキュバスのところに突撃して、

「やめてくれ! 僕に関わらないでくれ! どうせお前だって……! お前だって……!」

「……あのなあ、ちゃんと自分を見たことあんのか?」

 そう言って自信のなさから顔を隠すように伸ばしていた前髪をかき上げて、

「ほら、お前はこんなに綺麗だ──ぁ」

 と引き篭りクソ雑魚サキュバスに一発でチャームされた雑魚がいるらしい。

 それから、カチューシャで前髪を上げてるサキュバスがいるとかなんとか。

「フッ。どうだい? 僕は綺麗かな」

「しつけえよ本当に!? 綺麗だよ綺麗! 何回言わせんだ!?」

 

 お姉ちゃん。

 引き篭もらなかったクソ雑魚サキュバス。

 

 お母さん。

 私を満足させたかったらこの三倍は持ってこい! いくぞ! 10Pだ!





着々と文化祭が近づいている。
前チラッと書きましたが、これエロゲをベースにしてるのでルート分岐の概念があります。
一番最初のルート分岐は四月第四週。ヒロイン選択ですね。


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別紙 『そのチョコの味は』 

ありうべからず未来。
バレンタイン番外編です。






 

 誰かを好きになるなんて考えたこともなかった。

 恋ってこんなに胸が苦しいものだなんて知りたくなかった。

 

 でも。

 

 この気持ちに気づけた事は、きっと幸せだったのだろう。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 二月十三日。

 日が沈みすっかり夜も更けた頃、水澄イズミはキッチンで唸っていた。

 台の上には固まった小ぶりのチョコが並んでいる。それを一つ摘んで口の中に放り込んで、やっぱり唸り顔。

 

「美味しいには美味しいんですが今ひとつパッとしないんですよね……」

 

 作ったのはボンボン・ショコラと呼ばれるチョコ菓子だ。

 一般的にはチョコレートボンボンと呼ばれ、中に詰め物をしたチョコレートである。洋酒が最もポピュラーであり、キッチンの棚には水澄が使ったであろう洋酒の瓶が四本ほど並んでいた。

 チョコレートボンボンは普段からお菓子作りをしていないと少々難易度の高いチョイスになる。

 テンパリングと呼ばれるチョコレートに含まれるカカオバターを分解し、安定した細かい粒子に結晶させて融点を同じにするための温度調整が難しく、見た目はガタガタ口当たりもまろやかから程遠い出来上がりになり易い。

 

 水澄の作ったチョコレートボンボンは細かくジッと見れば多少のガタツキはあるものの、中の洋酒が出てくる事もなく見た目も整っている。

 普段から料理をしているから……というわけではなく、これは一重に明日のために彼女が積んできた努力の成果だった。

 

 明日は二月十四日。

 愛しい人にチョコと共に想いを渡す一年で一回の日。

 

 作ったものの難易度、かけた時間がそのまま気待ちを推し量る物差しになるわけではない。

 それでも、水澄は一手間加えたものを渡したくなったから。想像したのは、喜んでチョコを食べる好きな人の顔。

 する必要のない手間を惜しまず注ぐその行為を、人は愛と呼ぶ。

 

「でも、だからといって完成しなかったら意味がないんですよね」

 

 チョコを渡すという行為自体に意味が生まれる日だ。

 当然、チョコを渡すという行程を踏まなければ意味がないと水澄は考える。

 水澄は正々堂々という言葉が好きだ。もし誰かと勝負をするのなら、真正面から行って真っ正面に叩き潰すほどには。

 バレンタインという日に想いを渡すのなら、チョコがあってこそなのだ。

 そのため、前日になっても納得のいくチョコが完成しないことに、水澄は少し焦っていた。

 

「あれ、イズミ? まだ作ってたの」

 

「お母さん」

 

 ガチャリとリビングのドアが開き、灰色の髪の女性が入ってくる。

 彼女は水澄の母親であり、高校生の娘がいるとは思えないほどの若々しさを感じさせる……はずの顔には、刻まれたような深いシワがあり、それが彼女の見た目の年齢を少し引き上げていた。

 

「だいぶ上手に出来てるね。食べてみてもいい?」

 

「いいですよ。また作りますから」

 

「じゃあ、一つ頂くね」

 

 母親がチョコを一つ摘み、上品に口元に手を持っていく。

 小さく咀嚼して飲み込むのを待って、水澄が訪ねる。

 

「どうですか? 美味しく作れてるとは思うんですけど……」

 

「うん、十分美味しいよ」

 

「お母さんも美味しいと思うなら味は大丈夫みたいですね」

 

 水澄はほっと息をついた。

 お菓子作りという慣れない事で、他者から美味しいという成功の言葉を貰うのは自信につながる。

 水澄が重ねてきた努力の方向は正しく、着実な成果となって表れていた。

 味は問題ない。

 じゃあ、何が問題なのかといえば。

 

「地味なんですよね……」

 

「イズミは派手なチョコレートにしたいの?」

 

「派手にしたい、というわけではなくてですね。チョコを渡して、開けたときにも喜んでくれると嬉しいじゃないですか」

 

 そのためには、一見普通の丸っこいこのチョコだと力不足かな、と水澄は考えていた。

 相手の喜ぶことを考えて頭を悩ませる。

 そんな娘の姿を見た母親の口角が柔らかく上がり、眼差しが暖かさを持つ。

 

「……イズミは健気だねえ。よしよし」

 

「わぷっ。もう、やめてくださいお母さん。私ももう高校生なんですから」

 

「私にとっては、いつまで経っても可愛い大切な娘だよ」

 

 口ではそんな事を言いつつも、水澄は母親のなすがままにその胸に頭を預け撫でられる。

 母親の愛情が心地よかったという理由が大きくて、母親が自分の水色の髪の毛を撫でる手が特別優しい意味を知っているという小さい理由があった。

 

 娘の頭を愛おしそうに優しくして抱きしめたまま、母親は語りかける。

 

「ユキカゼくんは良い子だから、どんなチョコでも大喜びすると思うよ」

 

「知ってます。私の方がお母さんよりユキカゼ君のこと知ってるんですから」

 

「そうだった。もう、イズミの方が知ってるんだったね。懐かしいな……まさか、あの子と自分の娘がこんな関係になるだなんて考えてすらなかったよ」

 

 母親の目が過去を見つめるようにふっと細まる。

 その脳裏に蘇るのは、病室のベッドに座り一日中窓の外を見続ける少年の姿だ。

 精神的なショックと不慮の事故が重なり、ほぼ全ての感情機能が死に絶え、追い討ちのように『人を覚えられなくなった』少年が入院していた時のことは今でもよく覚えている。

『悲しい』という感情だけを感じ取れる少年が、周りを悲しませないために笑顔の仕方を聞きに来た事を覚えている。

 十四歳の少年が入院して初めて自発的に行った事がそれだったことも。

 

 しかし。

 当時の感傷も、感じた心の痛みも、今となっては過去のことだ。

 現在は現在。過去は過去。

 だから、未来の話をしよう。

 

「お母さんはどういうチョコをお父さんに渡してたんですか?」

 

 例えば、娘のいじましい恋の話とか。

 

「そうだね……おっきいハートのチョコとか作ってたよ」

 

「お、おっきいハートのチョコですか!? そ、それは、なんというか、は、恥ずかしくなかったですか……?」

 

 頬を赤くして声が尻すぼみになっていくのが可愛くて、母親はついぎゅうっと娘を抱きしめた。

 

「うん、恥ずかしかったよ。でも、お父さんは凄く喜んでくれてね。恥ずかしいより、嬉しいが大きくなったんだ。それに……」

 

「それに?」

 

「私の気持ちは、おっきいハートのチョコで表しても表しきれないぐらい大きかったから。私の気持ち、ちょっとでもいっぱい届いて欲しかったから。だから、恥ずかしかったけどそうしたんだよ。……お父さんにも、喜んで欲しかったからね。ふふ、私もイズミと一緒だね」

 

「……両親の惚気を聞いた私が間違いでした! 他人のコイバナはノーセンキューです!」

 

「イズミは可愛いねえ」

 

「わぷっ」

 

 恥ずかしくなったのか、ばっと離れて背を向けた水澄をくるっと回してまた抱きしめる母親。

 当たり前の子を想う親の愛がそこにあった。

 

『あまり夜更かししたらだめだよ』と母親として当たり前のことを言って、『油断してたら直ぐに赤ちゃん出来るから気をつけるんだよ』とサキュバスみたいな事も言って母親は寝室に向かった。

 その際に娘が『何言ってるんですかお母さんっ!!』と真っ赤になって否定したのは言うまでもない。

 

「もう、お母さんは……サキのお母様の影響ですよねやっぱり。むー……」

 

 自分の母親が若干染まってきていることに友達の母親に対して軽く恨み言を漏らしつつ、水澄はチョコ作りを再開する。

 その手には、ハートの型取りがあった。

 

「……ハート型のチョコ、なんて。恥ずかしいですけど……」

 

 チョコを渡すのと、そのチョコの形がハート、つまりはLOVEの形なのと。

 水澄の中ではこの二つは別種のものとしてカウントされている。

 例えるなら、直接告白するのが前者で、ラブレターを書くのが後者だろうか。

 想いを明確な形にすることに対する羞恥心というものは、誰にでも少なからず存在する。

 

 でも、だからこそ、それを形にして伝えられる愛おしさ、伝える愛がある。

 

「喜んでくれるかな……」

 

 小さなハート。

 

「喜んでくれると、いいな……」

 

 それが何個も、何個も。

 母のような大きいハートはまだちょっと恥ずかしくて。

 でも、小さなハートじゃ収まり切らないとばかりに何個も、何個もハートを作っていく。

 これが自分の気持ちだよと。このハートの数が自分の気持ちだよって言いたくて。

 

「……よし」

 

 翌朝、水色のリボンで可愛くラッピングしたそれに直接自分の気持ちを込めるようにぎゅうっと抱きしめてから、水澄は家を出た。

 家を出て数分走ればいつもの待ち合わせ場所。

 一緒に登校しようって約束してからずっと続いている、二人の約束の場所。

 そこには、いつものように一人の男の子が白い息を吐きながら空を見つめていた。

 自然と、進む足が速くなる。

 

「ユキカゼ君っ!」

 

 そして、そのまま水澄はユキカゼに後ろから抱き着いた。

 

「わっ。イズミさん? おはよう」

 

「うん。おはようです」

 

「えっと……どうしたの?」

 

「準備中です」

 

「準備中?」

 

「直前になって凄くドキドキしてきたので落ち着くまで待ってください」

 

「……落ち着いてきた?」

 

「……余計ドキドキしてきました」

 

 でも、ぎゅうっと、回した腕に力を込める。

 

「僕もドキドキしてきたから、おあいこじゃダメかな」

 

「なんでユキカゼくんまでドキドキしてるんですか?」

 

「……いや、だって、好きな子に抱きつかれてそんなこと言われたら、僕もドキドキしちゃうよ」

 

 水澄のドキドキがより強くなる。

 かあああっと、頬が朱に染まる。

 

「……ユキカゼ君のせいでしばらく離れられないです。無理です」

 

「僕のせいなのかなこれ。イズミさんが可愛いのが悪いと思う」

 

「ユキカゼ君のせいですっ」

 

 一度深呼吸。

 ばっくんばっくんとうるさい心臓をなんとか鎮めようとして、出来なくて、この心臓の音が伝わってるんじゃないかと思って、自分のものじゃない心臓の音を聞いた。

 チラリと見てみれば、ユキカゼの耳が赤く染まっている。二月の寒さのせいではないだろう。

 それがなんだかおかしくて、嬉しくて、水澄はついくすくすと笑みを溢した。

 

「さーてとっ!」

 

 ドキドキは収まらず、体の芯から滲み出てくるような熱もそのまま。

 これは緊張感なのだろうか。

 それとも、羞恥心なのだろうか。

 わからないけれど、一つだけ言えることは、嫌な熱ではないということだ。

 ユキカゼからパッと離れた水澄はたん、たんっと踊るように二歩後ろにステップ。

 自由になったことで振り向いたユキカゼが振り向いて、すっと視線を逸らす。

 その頬は夕焼けに照らされたようになっていた。

 

「私に抱きつかれて何考えてたんですか? ユキカゼ君のえっち」

 

「え、なっ!? へ、変なこと考えてたわけじゃないよっ!」

 

「怪しいですね〜。ユキカゼ君、意外とむっつりなところありますから」

 

「!? 僕はむっつりでは……!」

 

「遊園地」

 

「……」

 

「プール」

 

「……」

 

「文化祭」

 

「……」

 

「まだありますけど?」

 

「すみません許してください」

 

「よろしい」

 

「敵わないなあ……」

 

 ははは、と力なく人差し指で頬をかくユキカゼ。

 それが、赤い頬を隠すためだということを水澄は知っている。

 分かってますよ、という瞳で見つめれば、ユキカゼはぷいっと視線を逸らした。

 それが子どもっぽくて、ユキカゼの素が一番出ているようで、水澄はそういうところも好きだった。

 

(ああ、幸せです。夢見たい)

 

 掛け値なしにそう思う。

 

(こんな日がずっと続けばいいな)

 

 心の底からそう思う。

 

(私は今、世界の誰よりも幸せだ)

 

 だって、好きな人に想いを告げて、こうして一緒に居られるのだから。

 

 バツの悪そうにしているユキカゼに、水澄は微笑む。

 

「ふふ、ごめんなさいです。お母さんの事をあまり強く言えませんね。私もサキの影響を受けてるのかもしれません」

 

 そして。

 

「──サキって、誰のこと?」

 

「──」

 

 水澄は、ここが夢の世界だと気付いた。

 

「……そっか。そう、ですよね。そうだった……」

 

 ジェットコースターのようだった。

 ついさっきまで幸せの頂にいたはずなのに、それが嘘みたいにぼろぼろと剥がれて落ちていく。

 不思議そうに首を傾けていたユキカゼが心配気に水澄の肩に手を置く。

 水澄を気遣った、水澄のための優しい手だった。

 それを、水澄は振り払った。

 

「イズミ、さん……?」

 

「……ごめんなさい。でも、もう、いいです。もう、大丈夫です。こんな夢がなくても、私は大丈夫なんです」

 

 俯いたまま譫言のように紡がれるその言葉は、ユキカゼにとっては要領を得ない意味のわからない言葉の羅列だ。

 困惑を表情に出すユキカゼに気付きもせず、水澄は自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。

 

「ありがとう。幸せでした。私は間違いなく幸せでした。本当に、ここにずっと浸っていたいと思えるほどに幸せでした。ユキカゼ君が私の恋人で、私とユキカゼ君はずっと一緒で……きっとこの先もそう」

 

 それは、かつて水澄が望んだ幸せな未来予想図。

 

「でも、サキの事を忘れたユキカゼ君は……そんなユキカゼ君は、ユキカゼ君じゃない。あの人は、きっと何があっても、どんなことがあっても、サキの事だけは忘れない。だから……サキを忘れた貴方は違う人。私が作った幻なんです」

 

 そして、水澄が望んで願わなかったあったかもしれない未来。

 

「幸せだったなら……ずっとここに居ようよ」

 

 ユキカゼが手を差し伸べる。

 その目には一貫して水澄を想う優しさがある。

 水澄だけを想う気持ちがある。

 でも、それは水澄が本当に欲しかったものじゃなくて。

 だから、水澄は──。

 

「──ありがとう。恋は辛くて、苦しくて、痛いことの方が多かったですけど……。それでも、あの日、ユキカゼ君を好きなって本当に良かった」

 

 その手を、拒絶した。

 

「……行くんだね」

 

 ユキカゼの目が痛ましげに歪む。

 

「ええ。もうとっくに自分の中で結論は出てますから」

 

「……ごめんね」

 

「謝らないでください。少なくとも、私が決めたことなんですから」

 

 それが合図だったかのように、パキン、と空がひび割れる。

 そこから派生するように世界が崩れていく。

 夢から醒めるのだと、水澄は直感的に理解した。

 

「あ、その前に」

 

 水澄は、鞄から水色のリボンと箱で綺麗に包んだそれを取り出して。

 

「ハッピーバレンタイン、ユキカゼ君!」

 

 そう言って、グッとユキカゼの胸にそれを押し付けた。

 

「……信じられないって言いたそうな顔ですね。今日はバレンタインデーですよ。恋人にチョコぐらい用意しますよ」

 

「……でも、僕は」

 

「一応貴方のためだけに想いを込めて作ったチョコですよ。食べてくれなきゃ頭グリグリの刑です」

 

「……それは、受け取らないわけにはいかないね。頭が潰れちゃいそうだし」

 

「そこまではしませんよ! もうっ!」

 

 ぷんぷんと怒ったフリをする水澄に、ユキカゼは苦笑を漏らした。

 お礼を言ってガラスを扱うように慎重にそれを受け取る。

 世界の崩壊が加速していく。

 もう、残っているのは二人の周囲のわずかな範囲のみ。

 

「これ、今食べてみてもいいかな」

 

「え、今ですか!?」

 

「うん。ダメかな」

 

「……恥ずかしいですけど、特別にいいですよ」

 

「やった」

 

 しゅるっと心地良い音を立ててリボンが解ける。

 ユキカゼはそれを大切にポケットにしまった。

 包装を解いて箱を開けると出てくるのは小さなハートのチョコ。

 喜んで欲しいと水澄が昨夜一生懸命に作った、水澄の想いのカケラ。

 その願いが叶ったかどうかなんて、顔を見れば聞かなくても分かった。

 水澄の胸に満ちるものがあった。

 もう、空も街も道路も木もなくなって、形としてあるものは二人だけになっていた。

 

「……食べないんですか?」

 

「食べたいよ。食べたいけど……ちょっと、勿体ないって思っちゃった。だって、これ、僕は貰えない、僕だけのチョコなんだもん」

 

 そう言って、チョコを一つ摘んだユキカゼは、それを愛おしいものを見るような目で見つめた。

 ハートのチョコを見つめるその目がなんだか無性に恥ずかしくて。

 

「チョコなんですから、食べないと仕方ないですよ」

 

 水澄は、急かすようにちょっとだけ催促をして。

 

「うん、そうだね。勿体ないけど……溶けちゃうのは、もっと勿体ない。いただきます」

 

 ユキカゼはチョコを口に運び。

 

 

 

 

 

 

「──ここで目が覚めますか、普通」

 

 幸せだった夢が、終わった。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 二月十四日。

 バレンタインデーである。

 

 水澄は、公園のベンチに隣り合って座る男女を見ていた。

 

「──って事があって、今お姉ちゃんが家にいるのよね」

 

「え、前新しい彼氏見つけたって言ってたの二週間前じゃ……」

 

「お姉ちゃん、自分だけを好きになってくれる人が好きだけど、自分を好きになるような人は自分より他のサキュバスを好きになるって面倒くさい事考えてるから長続きしないのよね。私が言うのもアレだけど本当に面倒くさい」

 

「本当にサキさんが言うのもだね……」

 

「うるさい。その面倒くさいサキュバスを好きになった物好きが何言ってんのよ」

 

「それを言われると弱いかな……」

 

「ま、そんなあんたにオトされた私が一番の物好きなんだけどね……」

 

「サキさんは可愛いなあ」

 

「っ!? ここは聞き逃すところでしょ! 小声で言ったのになんでバッチリ聞いてるのよ!」

 

「これだけ近いと流石にね」

 

「……離れてると寒いでしょ」

 

「うん。だから仕方ない」

 

「そうね。仕方ないわね」

 

 こてん、と女の頭が男に預けられる。

 その手は、男のポケットの中で繋がれていた。

 

「イチャイチャしてくれますね……」

 

 二人を見ていて何も思わない、と言う事はない。

 今も胸をちくりと刺す痛みはずっとあるし、黒い感情や後悔がないと言えば嘘になる。

 でも、割り切りが出来ていないわけではない。

 もう、水澄の中で区切りはついてる。

 

 でも、割り切れない数字があるように、割っても割り切れない想いはある。

 

 だから、まあ、仕方ないのだ。

 ちょっと妬んでしまうのも。

 ちょっとちょっかいを出してしまうのも。

 例えばほら、体育祭のときのように、恨み言のような事を言ってしまうのも。

 

「ごめんなさい。でも、それぐらいは許してくださいよね、サキ」

 

 だって、彼女の恋は、始まった瞬間に終わっていた恋だったのだから。

 終わらせてしまった恋だったのだから。

 

 視線の先では、男女が熱っぽい瞳で見つめあっていた。

 

「……今日がなんの日か、知ってるかしら」

 

「……うん。バレンタイン。正直、朝からずっとソワソワしてた」

 

「……ずーっと気にしてるあんた、少しおかしかったわよ。そんなに私からチョコ欲しかったの?」

 

「欲しいよ、そりゃ。だって、サキさんからのチョコなんだから。めちゃくちゃ欲しい」

 

「……へえ。へぇー。そうなんだ。そんなに欲しいんだ……まあ、私美少女だから、そりゃ欲しいわよね」

 

「違うよ。サキさんは美少女だけど、美少女だから欲しいわけじゃない。サキさんだから欲しいんだ」

 

「ふ、ふーん……。ふーん……。へぇ……。ふーん……。なら、しょうがないわね……しょうがないから、この私がわざわざ用意してあげたわよ。……だから、その、あれよ。……ハッピーバレンタイン……ユキカゼ」

 

「……どうしよう、サキさん、僕、死にそうなぐらい嬉しい」

 

「……死んだら許さないからね。……でも、あんまり自信はないの。私、料理とか全然だから……だからね、その、目、つぶって欲しい」

 

「もっとちゃんとサキさんのチョコ見たい」

 

「見なくていいの! ……私が食べさせてあげるから。だから、目、閉じて……ほら、早く……ふふ、そう……ほら、口開けて……あーん」

 

 女が唇でチョコを挟んで男の頬に手を添える。

 そのチョコはボコボコで、いかにも料理に慣れてない子が頑張って作りました! 感満載のものだった。

 確実に味は市販品のものよりも落ちるだろう。

 でも、きっとあの男の子にとっては世界で一番美味しいチョコに違いない。

 だって、それは世界で一番好きな女の子が自分のためだけに作ってくれたチョコなのだから。

 愛とは、魔法の隠し味なのだ。

 

 水澄が食べても分からない、そのチョコの味は。

 きっと、どんなものよりも。

 

 チョコを介した、とても甘い、甘いキス。

 濡れた瞳で見つめ合う男女の距離がゼロになって、今度は長めのキス。

 女がまたチョコを加えて、男が目を閉じた。

 

 水妖精の優れた視力でばっちりそれを見ていた水澄は、水妖精の優れた脚力で一気に走り出した。

 そして──。

 

「──はい、あーんですユキカゼくん! ハッピーバレンタイン!」

 

「もごぁ!?」

 

「なっ!? イズミ!? なんでここに居るのよ!」

 

 さっきコンビニで買った板チョコを男の口の中に突っ込んで、水澄は小さく舌を出す。

 

「白昼堂々……今は夕方ですけど。不純異性交遊の気配を察知したので現れたんですよ! 私生徒会ですからね!」

 

「成り立てほやほやで何言ってるのよ! 得意げに腕章突き出すな! そもそも私たちにしか言ってないしあんたの独断ルールでしょうがそれぇ!!」

 

「そのうち校則にします〜目の前でいちゃつかれると殺意湧くので何がなんでも校則にします〜」

 

「もおおおおおおっ! ほんっとに変わんないわねこの脳筋水妖精は……!」

 

「……貴方は変わりましたね、淫乱淫魔。ほら、さっきのキス顔撮ってますよ。待ち受けにしよっと」

 

「いつの間に撮ったの!? ちょっ、消しなさいそれ! イズミ!」

 

「待ってくれ水澄さん、それ僕も欲しい」

 

「あんたも何言ってんのよぉ!!」

 

 夕焼けの空に三人の声が吸い込まれていく。

 胸を刺す痛みはあるけれど、これも時が経つにつれ小さくなっていくのだろう。

 だから、それまでは。

 こうしてくだらない事をしてしまうのを許してくださいね、と。

 水澄は、三人と笑い合いながら、一人心の中で謝っていた。

 





バレンタイン番外編。
時系列としては美上さんルートエンド後のアフター。本編とは少し違う結末を迎えた二人の話。
本編完結してないのに何やってんだ?はいその通りです。
しかし!仮にも恋愛ジャンルを名乗る以上筆を取らないわけにも……!

美上さんの一人称しかないので、本編で色々隠れてる部分は多いです。例えば、お姉ちゃんが何を考えてるのかとか。
水澄さんが何考えてたか有る程度書けて満足でした。
それでは皆さんも良きバレンタインを!
ハッピーバレンタイン!


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16ページ目『準備期間』

 ぴゅうっと吹く木枯しに冬の臭いを感じるようになってきた。

 突き刺すような寒さとはまでは言わないけれど、肌を這ってくるような冷たい空気が立ち込めているような気がする。

 防寒具を着込むとちょっと暑くて、でも着ないと少し身震いしてしまうような、そんな絶妙な気温だ。

 こういう時はお家でゴロゴロするに限る。

 そんなわけで私はリビングのソファーに寝っ転がってぐでーっとしていた。

 

「テスト終わってからずっとそれね……。休みの日ぐらいナンパしたらどうなの」

 

「娘にナンパを勧める方がどうなのよ」

 

 ナンパされるのを心配しろ。

 

「そういうお母さんも最近はずっと家にいるじゃない。その雑誌……ファッション紙? ずっと読んでるみたいだけど」

 

「いや、これエロ本よ」

 

「ああ、エロ本なのね……そんなものリビングで読まないでくれるかしら!?」

 

「親子丼って一回くらいやってみたいと思わない?」

 

「しかもそれ母娘ジャンルなの!? 娘の目の前で何んてもん読んでるのよ!!」

 

「あ、そうだサキ、私、娘が生まれたらやりたいことがあったのよ」

 

「親子丼って言ったら絶縁するわよ」

 

「親子ど……うしの触れ合いの時間をね?」

 

「…………………………ぺっ」

 

「娘に唾を吐かれた!?」

 

 よよよ、と泣き崩れたお母さんはしばらくメソメソした後、飽きたのかクッションに腰を下ろした。

 

「ねえ、まだ怒ってるの? 体育祭の時のこと」

 

「当たり前でしょ」

 

 思い返すのは二ヶ月ほど前のこと。

 あの体育祭のとき、お母さんは私のチャームの影響下にあった男の支配権を強引に奪い取った。

 サキュバスにとってそれは所有物を横から掻っ攫われるのに等しく、ゲームに例えるのなら端末を奪われ、集めたアイテムを目の前で捨てられていく行為。

 要はサキュバス界の屈伸煽りレベルでイラつくものだった。

 

「ごめんなさいって謝ったでしょ」

 

「謝って済むなら警察は必要ないわ」

 

「そうね、お母さんが間違ってたわ。じゃあ今からセックスしましょう」

 

「それで済む警察は間違いなく要らないわよ!?」

 

「あ、因みにお母さんこの街の署長さんとメル友よ」

 

 この街の治安は腐っていた。

 

「もう……これが反抗期かしら……お姉ちゃんは無かったから分からないわ」

 

「お姉ちゃんは年中発情期だからでしょ」

 

「人型は全員そうなんだけど……もう、そんなにつっけどんしないの。理由は説明したでしょう?」

 

「その理由に納得いかないって言ってるの!」

 

「あのね、サキ。昔から口を酸っぱくして言ってるけど、本気でチャームを使っちゃダメだって約束したでしょう? その約束を破ろうとしたのは誰?」

 

「娘を襲って足腰立たなくさせた状態で無理やりした約束を盾にお説教って親として恥ずかしくないの?」

 

「そんなこと言ってても律儀に守ろうとする姿勢はあるサキがお母さんは好きよ。優しい子に育ってくれてありがとうね」

 

「む、むかつく! 普段あんなんなのにここぞとばかりに親面してきた!」

 

 怒りのあまり思わず体を起こしてしまった。

 お母さんの顔が視界に入る。

 頬を窄ませて唇を突き出していた。

 

「じゅるじゅぼぼぼぼぼぼ」

 

「おらぁ!!!」

 

「おっと」

 

 やばいつい手が出た。

 躱されたけどこれは仕方ないと思う。

 ダメだ全然気持ちが治らない。もう一発いっとこう。

 

「このっ、逃げるな!」

 

「遅い遅い、そんなスローペースじゃ出るものも出ないわよ! 焦らしてるつもり?」

 

 だめっ! 当たらない! 

 

 暫くソファーの周りをぐるぐると周りながらお母さんを追いかけて、体力の尽きた私はそのままソファーに倒れ込んだ。

 くそう……なんでこの中年こんなにエネルギッシュなのよ……。

 

「ふぅ、良い汗かいたわ」

 

「ぜぇ……ぜぇ……いつか絶対理解せてやる……」

 

「どっちかというとサキは理解せられる側だと思うわよ」

 

 息も絶え絶えな私と違い、お母さんはまだまだ余裕そうで呼吸も落ち着いていた。

 疲れた分だけ溜飲は下がったけど納得はしていない。だけどもう動けない。

 息を落ち着けながら、愚痴るように私は溢した。

 

「いつもいつもお母さんはそればかり……。何よ本気で使っちゃいけないって……それなら、理由ぐらい教えてよ……」

 

 私が本当に小さな頃からずっと言われ続けていた。

 ただ、本気で使っちゃいけないって。

 サキュバスにとってこれは生まれ持ってあるものだ。呼吸と同じくらい自然な体機能の一部としてあるものだ。

 私にとってそれは、健康な脚のある人間に絶対に走るなと言われているようなもので。

 頭ごなしに言われただけでは、到底納得できるものでは無かった。

 

「……これも、もう、何度も言ってる事だけどね」

 

 だけど、お母さんは絶対にその理由については教えてくれなくて。

 

「サキは本気でチャームを使っちゃダメ。少なくとも……大勢の前では、絶対に」

 

 そうして、決まって最後にこう言うのだ。

 

「納得できなくても良い。私を恨んでも良い。でも、これだけは信じて。お母さんは、娘に幸せになって欲しいのよ」

 

 押し付けでもなく。無理やり言い聞かせてようとしているわけでもなく。

 その声が、その目が、どうしても娘の先行きを案じているようにしか見えなくて。

 

「……頭の片隅に置いておくぐらいはするわよ」

 

 その"お母さん"の言葉に、私はいつも根負けしてしまうのだ。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 11月¥日

 

 

 本格的に寒くなってきた。

 制服をすっかり衣替えをして冬服だ。露出が減った事で男たちは残念がっていたけど、私としてはこっちの方がやっぱり落ち着くのよね。

 最近はみんな文化祭の話題で持ちきりだけど、正直あんまり気乗りしない。

 体育祭のときもそうだったけど、学校外から人が来るイベントのときって声かけられまくって鬱陶しいことこの上ないのよねぇ……。

 

 ……と、いつもの私なら言ってるんだけど。

 うちの学校の文化祭は12月24日、つまりクリスマスイブにある。

 一年で最もセックスされてるらしい性の6時間が直前に控えた文化祭ってわけで、文化祭前から告り告られと学校中がピンク色になっていき、当日にはお相手が出来ている場合が殆どなのよね。

 文化祭直後の高揚した雰囲気のままそのままホテルに……っていう黄金パターンがあるので、お姉ちゃんが三年生のときに遊びにいったときもあまり私に声をかけてくる男もいなかった。

 

 それに、体育祭のときのように体をはってしんどい練習があるわけでもないし、クラスの出し物ってやる気のある人たちが毎回勝手に張り切ってやるものだし。

 気ままにお祭りを楽しめる機会なんて滅多にないから、私にしては珍しく、少し楽しみだ。

 でもどうしよう、友達と文化祭を周るのなんて初めてだから不安だ。お姉ちゃんの漫画で文化祭の予習をしておこう。

 

 

 11月+日

 

 

 さて、文化祭というのは実に都合がいい。

 今の時点で学校は恋人ブームが来てるってレベルで、至るところで誰と誰が付き合ったとかどうだかの噂が耳に入る。

 私が告白される回数も激増してるけど、大事なのはこの雰囲気。

 恋したい空気が学校に蔓延しているのなら、モブ男だってきっと……! 

 ……と、期待するほど私も学習能力がないわけじゃない。

 あいつは何もしないでしょ。空気に当てられて私に告白してくる事もなければ、チャームにかかるわけでもない。もう、それぐらいはあいつの事を分かってる。

 

 やっぱり私から仕掛ける必要があるのよねぇ……。

 でもなんだろう、この、もう私から何かをやって成功する未来が見えないというか、なんというか……。

 6月から半年何やってもダメだったし、もうダメなんじゃないかって思う時は正直あるのよね……。

 

 ……ああ、だめだ。

 この事を考えると、胸の辺りがずきずきする。

 上手く考えがまとまらない。今日はここまでにしとこう。

 

 

 11月%日

 

 

 弱気になるな私。

 私はサキュバス。誰もが振り返る美少女。

 私にオトせない男はいない。そうでしょう。

 絶対にモブ男だって振り向かせて見せるんだから。

 

 

 11月〒日

 

 

 私が知ってるあいつの事を纏めよう。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからずと昔の人は言った。

 私は、もっとモブ男の事を知らないといけない。

 

 モブ男まとめ。

 

 ・チャームが効きにくい(効かないわけではない)

 ・人間ではあり得ない回復力(見た目は人間)

 ・人間にしては異様な運動能力(特に昔から運動してるわけでは無いって言ってた)

 ・交友関係は広い(特に白狼と仲が良い)

 ・透けブラが好き(チラリズムに弱い?)

 ・体つきはガッチリしてる(抱き付くと安心感がある。特に腕が良い)

 ・バイトをしてるので何か学校行事が無いと放課後は捕まえにくい(これのせいで何回か機会をふいにしたのよね)

 ・いつもニコニコしてる(何がそんなに楽しいか知らないけど、思い出すあいつの顔は笑顔が多い……気がする)

 ・特殊な性癖は無さそう(暫定)

 ・服がダサい(ファッションセンスはないというよりは、無難を選び過ぎて逆に野暮ったくなってるのよねあいつ)

 ・失礼だし気が利かないことも多いけど何だかんだ私を気遣ってくれる(……まあ、優しいのよね。誰にでもだけど。ふん、あんなに人の顔色を伺って楽しいのかしら)

 ・何かと水妖精の味方をする(……ふん!)

 ・モブ男と出会ってから、私が困ってるときはいつも助けてくれる(……ふん!!!)

 ・度が過ぎるほど物事に入れ込む(努力家、というには病的過ぎる気もする。普通の人間なら絶対に壊れてる)

 ・好きな食べ物は特にない(まあ、あっても私料理できないから意味ないけど)

 ・好きな女の子のタイプは私! (絶対そう!!!!!!!!!!!)

 

 

 11月○日

 

 

 先日の日記を読んだ。

 やっぱり、おかしいと思った。

 

 すなわち、モブ男は本当に人間なのか。

 

 考えなかったわけじゃない。でも、おかしいのだ。

 種族性は絶対に外見に出る。ここに例外は存在しない。

 私ならツノと尻尾、妖精なら髪色と細長い耳、獣人なら獣耳に各部位の特性といったように。

 モブ男の外見は人間のそれだ。それは間違いない。間違いないけど、私が見てきたモブ男は人間に出来る事を逸脱していた。

 何度も何度も確認してるけど、そもそも人間の男が私のチャームに抗える事が絶対的におかしい。

 何かが致命的に狂っている、そんな気がする。

 まるで、外側だけが人間で、中身が別の何かになってる、そんな気がする。

 

 あいつは自分を人間だと言った。信じて欲しいと言った。

 私はそれを信じる。信じる、けど。

 人間に許される範疇を超えているのはモブ男だって分かってるはずだ。

 ……あいつは自分の事を、どう思ってるんだろう。

 

 

 11月$日

 

 

 何日も何日も考えても埒が明かない。知恵熱が出そうだからもう考えるのやめた。

 ま、結局あいつが男だって事に変わりはないんだし。

 人間だろうがそうでなかろうが私には関係なかったわね。ふん。

 ちょっとぐらい変な人間がいたからって何よ、性別が雄ならサキュバスの掌の上よ。

 私とした事が、らしくない事を考えてたわね。

 あいつは自分を人間だと言った。私はそれを信じると決めた。

 じゃあもうそれで良いのよ。はいもうこの事で悩むのやめやめ。

 

 

 11月*日

 

 

 近々文化祭の出し物決めがあるらしい。

 まあ、私は文化祭を弓森さんと周りたいので積極的に関わるつもりはないかな。

 でも弓森さんは多分クラスの中心で頑張るだろうから、手伝うくらいなら、まあ。

 どうせモブ男も頑張っちゃうんだろうし。

 ……文化祭準備を頑張るモブ男を労う後輩系で行ってみるか? 

 

 

 11月〆日

 

 

 劇の主役にされた……。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 昔々あるところに一人のサキュバスがいました。

 

 サキュバスが生まれたのは深い森の中。豊かな自然だけがサキュバスの友達でしたが、サキュバスはいつも寂しい思いを抱えていました。

 

 そんなある日、サキュバスのもとに一人の男の子がやってきました。どうやら、迷子になってしまったようでした。

 サキュバスはその男の子を森の出口にまで連れて行ってあげました。

 そうして、二人は友達になったのです。

 

 それからの毎日はとても楽しいものでした。

 男の子はあれから頻繁に森に訪れては、サキュバスと日が暮れるまで遊んでいました。

 二人はとっても仲良しでした。

 サキュバスは、男の子といる時間だけは寂しさを感じることもありませんでした。

 

 出会ってから暫くして、二人は街に出ました。

 男の子はずっと森で暮らしてきたサキュバスに、人の街を見せてあげたかったのです。

 

 どんっ。

 初めての人の街にはしゃいでいたサキュバスが大人の男性とぶつかってしまいました。

 男の子がすみませんと頭を下げます。どうか許してください、と。

 けれど、待てども待てども返事は来ません。

 男の子が恐る恐る目を開けると、男性はサキュバスに跪いていました。

 

 まあ、何という事でしょう。

 サキュバスには、男性を思いのままに従える力があったのです。

 

 サキュバスは次々と男性を従えて行きました。

 幸せな家庭の父親を。

 明日結婚式を控えた新郎を。

 仲睦まじい恋人の彼氏を。

 沢山の男性を従えたサキュバスは男の子に言いました。

 

「私が貴方の願いを叶えてあげる」

 

 男の子は言いました。

 

「貴方の役に立てる事が僕の願いです」

 

 あれ? 

 サキュバスはおかしいなと思いました。

 けれど、そんな疑問も直ぐになくなります。

 男性は自分のために存在しているのだと、信じて疑っていませんでした。

 

 サキュバスは沢山の男性を支配してサキュバスの国を作りました。

 そこには、何処からやってきたのかサキュバスが他にもいっぱいいました。

 サキュバスの国では男性は休む間もなく働かなければなりません。

 体はみるみるやつれ、死んでしまう人もいました。

 

 世界中をサキュバスが支配しようとしていました。

 けれど、女性たちは立ち上がりました。

 

 サキュバスの国と戦い、愛する人を取り戻したのです。

 サキュバスに負けない真実の愛を取り戻した彼らは、いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。

 

 めでたしめでたし。

 

 

「──というのが、私たちの文化祭での出し物である創作劇の原作『愛染めの誓い』の内容だよー」

 

 教卓で絵本を広げている弓森さん。

 私はそれを、ぶすっとした顔で見ていた。

 

「嫌だって言ったのに……」

 

 劇をやるのはいい。文化祭で何をやるかは自由だ。

 劇の原作がサキュバスの絵本なのもまだいい。童話でかなり有名な絵本でもあるし、何を題材に劇をやるかもある程度自由であるべきだ。私がサキュバスだからって目くじらを立てるほどの事でもない。

 

 でも、そのサキュバス役に私をキャスティングするのはどうかと思う。

 

「原作だと捕まったサキュバス殺されるの知ってるのかしら……これ虐めじゃない? そっちが多数決を盾に押し通すなら男を全員チャームして覆しても許されるわよね? 民意は私にある」

 

「独裁者みたいな事言い出した」

 

「数の暴力でいたいけな女の子に嫌がる事を無理やりやらせるのといい勝負だと思うわよ」

 

「まあまあ……気持ちは分かるけど、これ創作劇だからそのまんまってわけじゃないし、弓森さん脚本を任されたからにはハッピーエンドにするって張り切ってたよ」

 

 私の隣で困り顔のモブ男が苦笑する。

 

「ハッピーエンドね。絵本だって一応悪いサキュバスをやっつけてハッピーエンドなんだけど?」

 

「弓森さんはそんな結末にしないと思うけど……」

 

「は? あんたに弓森さんの何が分かるわけ? 知ったかしないでくれるかしら。弓森さんならサキュバスも誰も幸せになる最高のハッピーエンドにしてくれるに決まってるでしょ」

 

「うわ面倒くさい」

 

「というか、あんたが私をサキュバス役に推してたの知ってるわよ。嫌がる女の子を? 無理やり?」

 

「人聞きが悪い言い方はやめて。でも美上さん、よく考えてみてよ。他の誰かが最も美しいサキュバス役やってもよかったの?」

 

「私より美しいサキュバスがいるわけないでしょ」

 

「え、ああうん、僕は美上さんのそういうところ嫌いじゃないよ」

 

 決まった経緯、というほどの物でもないけど。私が主役をやることになった理由は種族の一致というのもあるだろう。

 そして、その愛染のサキュバスの触れ込みが世界で最も美しい女。

 まあ、確かに。私じゃないとこの役は出来ないでしょうね。

 だって私美少女だし! 

 

 そんなわけで、渋々私は劇の主役をやることになったのだった。

 

「……まあ、でも。美上さんの気持ちも分かるんだよね。これ、原本はとても悲しいお話だから」

 

 ポツリと、モブ男が溢した。

 

「……なに、あんた知ってるの?」

 

「まあね。……終わるしかなかった一つの恋の話。誰にも証明出来なかった想いの話。染めることでしか愛を確認できなかったサキュバスの物語。色褪せるわけじゃない。風化して行ったわけじゃない。ただ、ある瞬間を境に失くなってしまう思い出の残骸に縋り付く、そんな話だ」

 

「……そうね。ま、でも関係ないわよ。だってこれハッピーエンドにしてくれるんでしょう? それに童話は所詮童話よ。現実じゃないし、何より童話のサキュバスと現実の私は別人なんだから」

 

 そもそも。

 

「童話のサキュバスより私の方が絶対美少女だから」

 

「うわぁ、すごい自信だ。でも、僕もそう思うよ、美上さん」

 

 そう言って、モブ男はふにゃりと笑って。

 

「童話のようにはならない。させない。絶対に……」

 

 瞳の奥に決意を滾らせ、己の掌を見つめていた。

 

 ……え、あんたそんなにこの劇に入れ込んでるの? 

 "ガチ"度が高すぎないかしら……何事も真面目に取り組もうとするやつは加減を知らないのよね……。

 

 ……あれ? 

 そういえばクラスのみんなもやる気になってる気がする。

 それはいい。それはいいんだけど。

 これ、もしかして、主役の私は劇での出番も多いだろうから、練習にずっと出ずっぱりで……ひょっとしたら体育祭のときレベルで居残り練習に小物製作とめちゃくちゃ忙しいのでは……。

 当日も劇なら公演回数を分けるだろうし、そうなると私が弓森さんと文化祭を回る時間はいったいどうなってしまうのか……。

 

 ………………………………。

 

 やっぱりなし! ちょっと待って! 劇は嫌! やめよう!!! 

 ねえってば!!! 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 12月☆日

 

 

 却下された。ぴえん。

 

 

 12月♪ 日

 

 

 練習が始まった。

 体育祭を乗り越えた私の体力なら余裕だろうと思ってたのに、きつい。

 セリフ覚える量多すぎるのよ……一冊の本を丸暗記しろって言われてるようなもんよこれ……。

 

 でも、弓森さんの脚本は良かったわね。

 ちゃーんとみんな幸せになる、そんなハッピーエンドだ。

 粗を探せば多少の強引さは目立つけど、それで救いのある話になるのならそっちの方が断然良い。私好みのお話だ。

 というか弓森さんの脚本にケチ付ける奴がいたらチャームしてぶっ倒れるまで校庭を走らせてやるわ。

 

 まあ、でも。

 最後の……はちょっと……なんというか、ねえ? 

 胸のあたりがむずむずする……こそばゆいというか、恥ずかしいというか……。

 私これ演じるの……? ううん……。

 現実にはこんな事あるわけないから逆に創作の虚構だって分かるんだけどそれでも……うーん。

 愛が魅了の支配を乗り越えるなんてこと、絶対ないのに。

 

 

 12月→日

 

 

 ……なんだろう、これ。

 サキュバスと出会う少年役がモブ男。それはいい。

 脚本が脚本だから、モブ男と……その……恋人みたいに、演じるのギリギリいい。

 でも、どうして私の胸はこんなに痛くなるの? 

 病気なのかもしれない。今度病院に行こう。

 

 

 12月¥日

 

 

 あんのヤブ医者め!!!!!! 

 此処らで一番大きな病院だからって調子に乗ってるわねぇ!? 

 しかもネームプレートが水澄って絶対水妖精のお父さんじゃないのこれ!!!!!!! 

 髪色が燻んだというよりは痛んだ灰色だったから最後まで気付かなかったじゃない!!!!!!!! 

 やっぱり水妖精はだめね! 面の皮が厚い恥知らずの一族だわ!!!!!!!! 

 

 

 12月$日

 

 

 劇の練習もしんどいけど、何より劇で使う衣装や小物作りが面倒くさい。

 美術班が人手不足って言われても、私そんなに手先器用じゃないし、裁縫なんて出来ないんだけど……。

 

 

 12月€日

 

 

 モブ男……お前その見た目で裁縫できるのか……。

 お姉さんから教わっていたらしい。

 うちのお姉ちゃんは裁縫したら布を血塗れにするから不思議な感じだった。

 裁縫が出来るお姉ちゃんもいるんだ。

 

 

 12月%日

 

 

 戦力外通告をもらってしまった。

 何よ……ちょっとほつれてるところ直そうとして全部の糸引っこ抜いちゃったりミシンでミミズがのたくったりしただけじゃない……! 

 ……一から作り直しになったので申し訳ない気持ちはあった。

 他のこと手伝おう。

 

 

 12月°日

 

 

 あれだけあったセリフも空で言えるようになってきた。

 何事も慣れね。反復すれば大抵は出来るようになるとはモブ男の談。面倒くさいからやるのは嫌だけど、出来る様になればそれはそれで嬉しいものね……。

 

 劇自体は順調に進んでるのだけど、美術関連の進みがどうにも遅い。振り分けられてるクラスメイトたちが悲鳴を上げていた。

 手伝える人たちが居残りしてほぼクラス総出で取りかかってるけど、これ間に合うのかしら……? 

 

 

 12月#日

 

 

 文化祭までもう日がない。緊張してきた。

 何かを演じるというのは初めての経験だから、流石の私も緊張する。

 私が私であれればたとえどんな場面でも大丈夫なのに。

 

 

 12月○日

 

 

 小道具はどうにかなったけど、衣装がこのままだと間に合わないらしい。

 特に、私の衣装はほぼ確実に。

 純粋に他の人より数が多かったのと、ちょっと凝ったのが原因だった。

 実際に合わせながら作った方がいいらしいけど、家に持ち帰っても私は裁縫できないし、お母さんもアップリケ着けるぐらいしか出来ないんだけど……。

 そんなに衣装に拘らなくても私が最高に可愛いから大丈夫って言ったんだけど、拘りだから譲れないらしい。

 間に合わなかったら意味ないと思うんだけどなあ……。

 

 

 12月*日

 

 

 どうしよう。

 明日、モブ男の家に行く事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読まなくてもいい登場>人物紹介。

 

>サキュバス

>悪。かつてこの世界を支配しようとした。

 

>男の子

>被害者。かつてサキュバスに惑わされ、使役された最初の人間。

 

>人間の女性

>主人公。かつて愛を弄ばれ愛する人を奪われた。しかし、サキュバスを倒して真実の愛を見つけた。

 

>めでたし、めでたし。





へいKetsu。

サキュバス 対義語 検索。

検索結果は以下のとおりです。

インキュバス。
雄。
人間(女)。
貞操。
清楚。
恋。
真実の愛。


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17ページ目『take1.私の気持ち』

 ゆっくり息を吐いて、ベッドに座った。

 充電していたスマホを手にとってさっと操作。

 数秒後には、プルルルル、と無機質な着信音が流れる。

 そして、四回ほど繰り返したコール音が途切れ──。

 

『もしもし美上さんー? どうし──』

 

「助けて弓森さん!!!」

 

『うわびっくりした』

 

 着信相手の弓森さんは驚いているようだったが、それを気にかける余裕は私にはなかった。

 

「ヤバいの! ヤバいのよ弓森さん!!」

 

『どうどうだよー。どうしたの? 来週のジャンプをフラゲしたネタバレなら電話を切るよー』

 

「違うの、そうじゃないの! もう、私、どうしたらいいか分かんなくて……!」

 

『情緒を破壊されたときは美味しいものを食べてよく眠るのが効くよ』

 

「だから違うってば! 確かに来週のジャンプは読者を打ちのめしに来てたけど──」

 

『おやすみー』

 

「待って! 待って弓森さん! ネタバレはしないから!!」

 

『お願いだよ美上さん。私の地域だとまだ売ってないんだから。……で、どうしたの? お話聞くよ』

 

 弓森さんの柔らかい声音がすぅっと体に染み入り、心を落ち着けてくれる。

 そうよ、相談と言うならば正確に伝えないと何も始まらない。

 幾分か冷静さを取り戻した私は、ゴクリと唾を飲み深刻な面持ちで声を絞り出した。

 

「実はね、明日ね、あいつの家に行くことになったの」

 

『あいつ……? ああ、ユキカゼくんだね。うん、美上さんの分の衣装、ユキカゼくんとユキカゼくんのお姉さんが持って帰って作ってくれるって事だったからお願いしたもんね。美上さんは採寸の関係で行くんだったよね』

 

「ええ、なんか大きくなってて……ってそれはどうでも良くて、それでね、私、どうすれば良いか分からなくて……」

 

『……え? お家に行けばいいんじゃないかな?』

 

「違うの! それは分かってるの! でもね、制服で行ったらいやらしい女だって御家族に思われたりしないかしら!?」

 

『はい?』

 

 困惑の声が聞こえた。

 うまく伝わってない……? 

 

「だってそうでしょう!? 制服ってえっちな衣装だもの!」

 

『は?』

 

「サキュバスが制服着て男の家に行ってやることなんて一つでしょう!? そんなはしたない女だと思われたくないわ!」

 

『……じゃあ着替えてから行けば?』

 

「着替えを用意してたら完全に"ヤる気"満々じゃないっ! 『着替えあるからかけてもいいよ♡』ってやつじゃないの! それに私服だって何を着ていけばいいか……! 夏ならともかく、冬場って着込んでるのが逆にえっちだってお母さんが言ってたわ!」

 

『美上さん疲れてるの? 一回寝てスッキリした方がいいと思うよ』

 

「一度寝てスッキリさせる!? そ、そんなこと出来るわけないじゃない! 何言ってるのよ! も、モブ男の家でそんなことっ、御家族だっているのに……! お姉ちゃんじゃあるまいし! た、確かにお姉ちゃんはバレそうな方が燃えるって言ってたけど……」

 

『完全にはしたない女の考え方なんだよね』

 

「ちょっと、私を他のサキュバスと一緒にしないで。私は良識ある唯一のサキュバスなんだから。いつもの弓森さんならこんな事言わないのに……どうしたの? 今日は疲れてるのかしら。嫌なことがあったのなら力になるから、なんでも言っていいから」

 

『強いて言えばこの電話かなー』

 

 はぁー、とため息の音が聞こえる。

 やっぱり疲れていたようね。弓森さんには悪いことしちゃったな……。

 

『なんというか、ねー。いつもの美上さんなら「どこの家に行こうが私ぐらいの美少女になると相手の方が緊張するものよ。モテなされる側がどうして緊張する必要があるの?」ぐらい言いそうだけどー』

 

 む。

 言われてみれば、それもそうだ。

 ぶっちゃけ私は初対面で悪印象を持たれることがあんまりない。顔がいいというのは最強のコミニュケーションツールだから。

 それもあって、普段の私が緊張することはそうそうない、のに。

 

『美上さんはさー、ユキカゼくんの家族に悪い印象を持たれるのが嫌なんだよね』

 

「そういうわけじゃないわよ。ただ単純に私は一般常識として……」

 

『ああうん、女子高生みんなふしだらな女になっちゃうからそれはもういいから。うーん、分かんないかな。じゃあ質問を変えるよ。美上さんは、自分の服装を気にしたことがある?』

 

「当然でしょう……? だって私は他のサキュバスとは違うし、服でマウントを取られるのもムカつくからファッションだってそれなりに気を使って……」

 

『んー、そうじゃなくてさ。その服を着た自分がどう見られるか、だよ。多分、いつもの美上さんならこう言うんじゃないかな。「美少女なんだから何着ても美少女なのは変わらないわ。服はおまけよ、おまけ」って』

 

「……言うわね」

 

『あはは、うん、だよね。だからさ、ここで考えるべきなのはねー。当日に何を着ればいいのか、じゃなくてさ。どうして美上さんは着る服を悩んでいるのか、だよ』

 

「それ、は……私は、えっと、サキュバスだから……えっと、サキュバスに付随するイメージを私に持って欲しくなくて……」

 

『それもあるだろうね。ふふふ、まあ、言っちゃうけどさ。美上さんはユキカゼくんの家族に良く思われたいんだと思うよ』

 

「──ぁ」

 

 つっかえていた何かがストンと落ちるような感覚があった。

 

『サキュバスとしての自分としてはともかく。美上サキとしての自分にはあんなに自信満々だった美上さんがさ、こんなに一生懸命"私"がどう見られるかで悩んでるんだもん』

 

 それは、今までの私にはなかった心の動きで。

 

『ユキカゼくんの家族に悪く思われたくない。それがどんな感情から生まれる理由か、なんて。きっともう、美上さんも分かってるはずだよ。だって私たち、漫画友達でもあるもんねー』

 

 それは、漫画の中の女の子たちがみんな持っていた、甘酸っぱくて切ない、心の動きで。

 

『私からすればやっと自覚したかーって感じだけどさー。美上さん気付いてなかっただろうけど、ずっと前からユキカゼくんは美上さんの中で特別扱いだったの、周囲にはバレバレだったよ』

 

 あいつを魅了してやりたい、なんて。

 そこに至るまでの理由が変わってることなんて。

 ずっと前に、本当は気付いていた。

 

『頑張ってきなよ。なーに、もし、万が一、億が一だめだったら、ケーキバイキングにでもネタバレトークにでも何にでも付き合うよー』

 

「……太るわよ」

 

『それは困るから、成功を信じてるよ。──行ってこい、親友!』

 

「ええ。……ありがとう、親友」

 

『……えへへ、実は私、これちょっとやってみたかったんだ』

 

「……ふふ、実は私もよ」

 

 想いは形に。

 決意は願いに。

 

 認めたくなくても。悔しくても。それすらも、バカになった頭が甘いときめきに誤認してしまうのだから、もうしょうがない。

 ああ、もう無理だ。もう誤魔化せない。一度気付いてしまったこの疼きは、知らんぷりも出来そうにない。

 

『あ、最後に一ついいかな。いつから?』

 

「……さあ、分かんないわね。多分、気付いたときからよ」

 

 スマホの通話を切る。

 ぽすん、と倒れ込んだベットに髪が広がった。

 通話の切れたスマホには連作先一覧が表示されていて、その一つに目が止まる。

 

 モブ男。

 

 その表示を見て、明日のことを想像して、息が出来ないほどに胸が高鳴った。

 

「──はぁ」

 

 腕で目を隠す。

 顔が熱い。

 だけど、閉ざされた視界にはあいつの顔が浮かんで、体温が上がった。

 ゆっくり開けた目には白い天井と、白い蛍光灯が鈍く光っていた。

 

「……私がオトされてどうするのよ」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 12月・日

 

 

 ばーか。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 自分の気持ちを自覚したらしたで、余計に緊張した。

 普段は大してやらないメイクをやってみたり。

 いつもより早く起きて時間をかけて身嗜みを整えてみたり。

 休み時間になるたびに何度も鏡で確認してみたり。

 授業中でも、お昼休みでも、あいつの背中をずっと目で追ってしまったり。

 

 よく恋をすれば世界が変わると言うけれど。

 それが、好きな人をずっと目で追ってしまうから、今まで気付かなかったことに気付くことなんだって知った。

 

 どうにかオトしてやろうと観察していたときには見えなかった、気付かなかったことを知っていく。

 オトすのには必要ないからと知ろうともしなかったどうでも良いことをひとつ知るたびに、無性に嬉しくなる。

 自分の中にこんなにも大きな感情が眠っていたなんて思いもしなかった。

 

「ふー! ふー!」

 

「……どうした? 親友?」

 

「いや……! なんか今日……! 最近はかなり慣れてきてたのにやばいこれ頭飛びそう! ふん!!」

 

「躊躇いなく足の指折ったな……見てる方が痛いんだが」

 

「数日で完治するなら実質突き指かなって。いやでもこのレベルの痛みがないと耐えられない……なんで急にこんな……触れられてもないのに……今まで手加減してたのか……?」

 

「怪我直すのもノーリスクってわけじゃないんだからスナック感覚でやってるの絶対良くないぞ親友。にしても妙だな、俺はいつものあの強烈に惹かれる感覚はないけど……」

 

 近くにいたかった。

 誘惑するため……も、あるけど。私のことを好きになって欲しいから、そのためでもあるけど。

 ただ、なんでもいいから側にいたい気持ちがあった。

 思えば、以前の私が何かと理由を付けてモブ男に触れようとしていたのは、そういう理由もあったのかもしれない。

 

「……あの、美上さん?」

 

「何よ」

 

「その、近くないですか?」

 

「……いいでしょ、別に。あんたおっきいんだから、風除けになりなさい」

 

「それはいいんだけどさ……横に並んでたら意味ないような……?」

 

 近くにいると胸が弾む。

 声を聞くと体がぽかぽかする。

 その顔を見ると、きゅうって苦しくなる。

 でも、もっと触れ合いたくて、もっと声が聞きたくて、私の中の欲張りな部分が、もっと、もっとってモブ男を求めて仕方なくて。

 

「けしかけたの私だけど想像以上だった……美上さんが限度を知らない可能性を失念していたよ……!」

 

「うわあ……親友すごい顔してるな……思わせぶりな美上さんの態度がいつもと違って裏が無いから困惑してるけどそれが嬉しくて、そこにキツいチャームに抗ってるのが混ざってる顔だ」

 

「な……なん……ですか、あれ……? 誰……?」

 

「お、水澄」

 

 冬の自転車はとても寒そうだったけど、寒くはなかった。

 腰に回した両手から心地よい熱が伝わってきたし、何より私の心臓がとても煩くて、熱かった。

 何度か経験して慣れたはずの二人乗りがとても恥ずかしくて、こそばゆくて、なんの理由もなく抱きつけることに喜んだ。

 

 満たされている感覚があった。

 幸せな感情で溢れていく感覚があった。

 夢見心地で、ふわふわしていて、何でも出来てしまいそうな高揚感があって。

 

「着いたよ、ここが僕の家」

 

「──こふっ」

 

「美上さん!?」

 

 その高揚感は一瞬で終わった。

 

「だい……だい、じょぶ……」

 

「全然大丈夫そうに見えないんだけど……三ラウンド目のボクサーぐらい足震えてるよ……?」

 

 正直に言えば、古い木造建築の家を想像していた。

 モブ男の言動の端々からあまり裕福でない事は知っていたし、家族が多いことも何となく察している。

 だから、こう、こじんまりとした年季の入ったものを想像していたんだけど……。

 

「広くない……? 私の家が六つぐらい入りそうなんだけど……え? 何人家族?」

 

「今は全部合わせて十六かな」

 

 思考がバグった。

 

「……り、立派な武家屋敷ね?」

 

「ちょっと古いけどね。といっても、建物はおじいちゃんが建てたやつだし、土地も貰い物みたいなもんなんだ」

 

「庭に池がある……」

 

「うん。小さいけど。今は生き物はいないかな」

 

「あの、立派な離れは……?」

 

「あれは結婚したくろ姉の家。といっても、今義兄さんが単身赴任中だからだいたいこっちにいるけど」

 

「今日は何人の御家族が家にいるの……?」

 

「え? えーっと、お母さんとかげ兄とぬい姉とくろ姉……はどうだっけな、やっちゃんとうい姉は大学で一人暮らし中だし、後は部活で遅い弟妹たちはいないだろうから……五人?」

 

「そう……」

 

 お腹痛くなってきた……。

 

 でも、泣き言ばかりも言ってられない。

 今日の目的は了承こそ貰っているとはいえ、手伝ってもらうのだから私から直接モブ男のお姉さんにお願いとお礼を言うこと。

 そして、これからも良き付き合いをしていくためにモブ男の家族相手に好印象で私を覚えてもらうこと──! 

 

 そうよ、そう考えれば家族が揃っている場は好都合だわ。

 頑張るのよ私。

 先にオトされたとはいえ、いずれモブ男は絶対に私がオトすし他の誰にも渡さない。

 なら、今後の将来を見据えてここでの失敗は許されない──! 

 

 そうして、気合を入れて、意気込んで、私は敷居を跨いだ。

 ……だけれど。

 

「よく来たねえ、ユキカゼから話は聞いてるよ。美上サキさん、大したおもてなしも出来ないが、どうかゆっくりしていっておくれ」

 

「い、いえ、お構いなく……」

 

「お茶請けをどうぞ。羊羹は食べられるか?」

 

「あ、はい、大丈夫です」

 

「む。カゲロウ! もっといい羊羹があっただろう。それを持ってきな!」

 

「知らねえよ俺……おーいシラヌイー、母さんがもっといい羊羹持って来いって言ってるんだけど知ってるかー?」

 

「はぁ? 私が知ってるわけないだろ。カゲ、あんたニートなんだから家のことは誰よりも把握してるだろ?」

 

「てめぇ……お客さんの前で言ってくれやがったなこの野郎……!!」

 

「いえっ! あの! 本当にお構いなく!!」

 

「あ、その羊羹私知ってるよ。確かこの辺に……あった。ノイちゃん達が楽しみにしてたんだけど……明日買って来ますか」

 

「お、サンキューなクロシオ。さすが私の妹だ」

 

「あ、じゃあこの羊羹はあたしが貰うね。いーかなサキちゃん? ありがと! あーん、んぐんぐ」

 

「……なんでうい姉ここにいるの?」

 

「大学は今週から冬休みなのだよユキカゼくん」

 

「綺麗なおねーちゃん! 私のこと覚えてる!?」

 

「ええ、覚えてるわよ。マイカゼちゃんよね?」

 

「うん! ねーねーサキちゃん! サキちゃんって呼んでいーい!?」

 

「え、いいわよ……?」

 

「わーい! ありがとーサキちゃん! ぎゅー!」

 

「ひゃぁ!?」

 

「こらこらマイカゼお客様を困らせたらダメだろう」

 

「むぅー。タニちゃんのいじわゆ」

 

「すまないね、美上さん。妹が迷惑を……」

 

「いえいえ……お構いなく……」

 

「ウイカゼ──! ユキの彼女来てるってまじ!?」

 

「ちょっと違うよー。ほらあれだよやっちゃん、例の美上さんだよ」

 

「おお、そうだったのね。それはそれは……お母さん! ぬい姉! これは浅海家総出でおもてなしするべき案件だよ!」

 

「もうやってるよ。お前声でかいんだからもうちょっと考えて喋らないと美上さんに迷惑だろう」

 

「ニートが視界に映るよりはマシでしょ」

 

「お前もかオヤシオ……!! 表出ろや……!」

 

「っと、君が美上さんか。ユキカゼから話は聞いてると思うが、あたしがシラヌイだ。これでも服飾の仕事に就いている。微力ながら力になろう」

 

「あっ、挨拶が遅くなってすみません。美上サキです、本日はどうかよろしくお願いします!」

 

「ふっ、楽にしてくれていいぞ。君はお客様だからな。いや……」

 

「そうだよ、美上サキさん。私たち浅海の家の者は、貴方が此処に来てくれる事をずっと待っていたんだ。どうぞ楽にしておくれ」

 

 なんか、私の心配がバカみたいに騒がしくて、私の不安が嘘みたいに歓迎された。

 

「騒がしくてごめんね……」

 

 私の隣で、モブ男が両手で顔を覆っていた。

 

 まあ……正直圧倒されてるけど……。

 緊張するとかそういう次元じゃなくて……なんというか、テレビでよく見る祖父母のところに遊びにいった孫みたいな歓迎のされ方して思考追いついてないけど……。

 

「楽しそうでいいんじゃない……?」

 

 純粋に、そう思った。

 

「そういえば、美上さん敬語使えたんだね」

 

「私をなんだと思ってるのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。

 用がある、という事でモブ男のお母さんとクロシオさんが出かけていき、兄弟姉妹たちも皆自分たちのやる事に戻っていった。

 どうも私が来るのを待っていてくれたらしい。

 ……なんか、初対面のはずなのに謎の好感度の高さがあるわね。私が美少女だからかしら……。

 

 シラヌイさんも仕事から帰って来たばかりだったようで、準備が終わるまで待っていてくれと。

 なので、私は今モブ男の部屋で正座をしている。

 やばいドキドキする。

 

「よっと」

 

 とりあえずベッドの下を覗いた。

 

「何もないから……」

 

「五分待ってって急いで片付けてたみたいだからてっきり」

 

 ぐるりと部屋を見渡してまず目につくのは本棚。そしてベッドと机。

 というか、それ以外がない。引越し初期の殺風景な部屋が、そのまま再現されているようだった。

 この部屋で辛うじてモブ男の個性を表すものが、本棚の本しかない。

 言いようのない違和感を覚えた。

 これ、本当に片付ける必要があったのかしら? 散らかるものがそもそもないような気がする。

 

「女の子が自分の部屋に入るの初めてだから、なんかね」

 

「え? 水妖精はここ来たことないの?」

 

「水澄さん? ないけど」

 

「……ふ、ふーん。ふ──ん。そうなんだ……」

 

 私が初めてなんだ……。

 へ、へえー。

 なんだか途端に気恥ずかしくなって、誤魔化すようにお茶を飲んだ。

 

「それにしても……あんたも漫画読んだりするのね。知らないやつしかないけど」

 

「あー、此処にあるの殆ど2000年前の作品だから。かげ兄が好きなんだ、古典漫画。布教された結果がこの本棚かな。殆どかげ兄が置いて行ったやつだけど……あっ、でもこれは知ってるんじゃんない? チェンソーマン」

 

「道徳の授業でやったわね」

 

「そうそう、人の心について。……何か気になるのがあるのなら、好きに持っていっていいよ」

 

「ん……あんたのお勧めはないの?」

 

「僕の? そうだな……HUNTER×HUNTERとか面白かったけど、これ完結してないしなぁ……」

 

「あ、これも知ってるわよ。ジョジョの奇妙な冒険。私が知ってるのは93部からだけど」

 

「そうなんだ。僕の部屋の本棚には6部までしかないけど、かげ兄は全部持ってるよ。借りてく?」

 

「んー、いいわ、私の好みのジャンルじゃないし。そういえば、シラヌイさんは服飾の仕事って言ってたけれど、お兄さんは何をやってる人なの?」

 

「……コンビニ戦士、かな」

 

「……アルバイト?」

 

「いや……立ち読み……」

 

 そういえばニートって言われてた……。

 完全な藪蛇だった。どうするのよこの空気。なんとかしないと、せっかく部屋に二人きりなのに。

 えっと、えっと、あれ? 私普段こいつとどんなこと喋ってたっけ!? 

 助けてお姉ちゃん! はっ、そうだ!! 

 

「蕎麦を啜る音ってフェラ音に似てるらしいわよ!」

 

「なんて???」

 

 だめだ頭が回らない……! 

 

「と、とりあえずぬい姉の準備が終わるまで衣装作り進めよっか!」

 

 テンパっていると、モブ男も居心地が悪かったのか助け舟を出してくれた。

 重くなった空気を入れ替えるようにそう提案したモブ男が立ち上がろうとして、

 

「あっ」

 

 くらりと、その体がよろけた。

 踏ん張りが効かなかったような体制の崩し方だった。

 しまった、と表情を変えたのは一瞬。直ぐに受け身を取ろうとして、倒れ込む方向に私がいる事に気付いたモブ男が目を見開く。

 私の直ぐ近くには、沢山の本が詰まった本棚があった。

 

 断続的な落下音。

 転がったコップからお茶が溢れて畳を濡らしていた。

 けれど、もう、私には、そんな事に気を遣える余裕もなくて。

 

「っつつ……ごめん美上さん、大丈夫だっ……、た……」

 

 ばさりと、最後の本が滑り落ちる。

 それはモブ男の背中に当たって、私の直ぐそばに落ちた。

 モブ男の両腕の中に私の体があった。

 私の上にモブ男がいた。

 目と鼻の先に、その顔があった。

 押し倒されていた。

 

「ぁ」

 

 熱が集まるのが分かった。

 心臓がバカみたいに騒ぐから呼吸すらもまともにできない。

 モブ男の瞳の中に、茹で蛸のようになった私がいた。

 モブ男は、魅入られるように私を見つめていた。

 

「(今……)」

 

 思い浮かんだのは、終業式の日。

 あの日も、こんなに近い距離で見つめ合った。

 その時に感じたのは羞恥心。

 初めて感じた男の子の体が、触れられた箇所が熱くて、恥ずかしくて、私は直ぐに逃げてしまった。

 

 でも、今私が感じているのは羞恥心じゃなくて。

 恥ずかしさもあるけど、あるけど、それよりも強い感情が私の中で荒れ狂っている。

 もっと、もっと、その先を感じたい。その先に触れてみたい。

 この熱を、その存在を、もっと近くで、もっと深くで感じたい。

 体の芯が熱くなって、頭が溶けていくような気がして、気が付けば私はモブ男の首に両腕を回していた。

 

 止まれない。止められない。もう、自分が何をしているのかさえ分からない。

 散々相手に言わせようとした事を自分の口から言うことさえ、躊躇わなかった。

 ただ、もっと、もっと、深く繋がりたかった。

 

「……貴方が好き」

 

 サキュバスとしての私が告げている。

 女の子としての私が言っている。

 ああ、この人(私)は、今。

 目の前の雌(雄)に、欲情していると。

 

「(目を閉じたら、どうなるんだろう)」

 

 浮かれるような熱に導かれるまま。

 私は、目を閉じた。

 

 

 

 

 

「怪我がないなら良かった。ホントごめんね、気をつけるよ」

 

 

 

 

 

 身動ぐ気配。

 直ぐ近くにあった熱が遠ざかっていく。

 

「──ぇ」

 

 目を開ける。

 いつもと変わらない苦笑を浮かべたモブ男が、そこに居た。

 

「あー、だいぶ落ちちゃったな……これは後が大変だ。わ、お茶も溢してる! って当然か。コップ破れてないだけラッキーだったな。雑巾持ってこないと……」

 

 一瞬、夢を見たのかと思った。

 

「濡れた本もあるな……あ、気にしないでね美上さん、これ殆どコピー本だから。新しいのいくらでも作れるんだ」

 

 何が起こったか分からなかった。

 

「濡れた本を避けて、と。じゃあ、ちょっと雑巾取ってくるね。何もしなくていいから、ゆっくりしてて」

 

「ま、待って……、待って、よ……」

 

 何事もなく行こうとするモブ男の腕を咄嗟に掴んで引き留めた。

 モブ男は振り返らなかった。

 

「どう、して……?」

 

 それだけしか言えなかった。

 

 私はモブ男の事が好きだ。

 モブ男だって、私のことが好きなはずだ。

 今までだってそうだ。私はモブ男が私に気があることを確信していた。サキュバスとしての私が断言していた。だからこそ、チャームにかからない事が許せなかったし、私の感覚がおかしくなったのかと迷ったときもあった。

 でも、今日は違う。仮に今日までを私が間違えていたのだとしても、今日だけは絶対に違う。

 

 重なったはずだ。私とモブ男の気持ちは重なり合ったはずだ。

 私は想いを口にした。その先を期待した。

 モブ男だってそうだったはずだ。

 だって、モブ男はあんなにも私を意識していた。

 

 性に関する事なら男はサキュバスを絶対に欺けない。

 モブ男は私を女の子として意識して、雌を求めていた。

 

 なのに、どうして? 

 どうして、そんなにいつも通りなの? 

 貴方は私が好きなんじゃないの? 

 私と同じ気持ちじゃないの? 

 なのに、どうしてなのよ。

 どうして、私を見てくれないの……? 

 

「……」

 

 長い長い沈黙。

 ずっと背中を向けていたモブ男は、浅く息を吸って、

 

「美上さんが何を言ってるか、分からない」

 

 突き放すように、そう言った。

 

「じゃあ、僕は雑巾を取ってくるから」

 

「……そ、そんなはずない! あんたは私を……っ! サキュバスだから、私っ、分かってるのよ!?」

 

「……だったら、命令すればいい。美上さんが言うことが本当なら、僕はチャームされているはずだよ。違うかな」

 

 普通なら、そうだ。

 あの至近距離なのだ。私を好きだというのなら、私に女を求めたのなら、その時点で私にチャームされる。

 でも、でも! 

 

「それは屁理屈よ。だってあんたは違うでしょう!? 理由は知らないけど、あんたはチャームが効かないから……!」

 

「……体育祭のときに確認したよね。僕はチャームが効かないわけじゃない」

 

「それ、は……!」

 

 じゃあ。

 じゃあ、そうだっていうの? 

 ……いいえ、そんなはずない。あるわけない。だって私は美少女で、サキュバスで! 私に惚れない男なんてこの世にいるわけないんだから! 

 今までそうだったんだから……!! 

 

「っ!」

 

 その背中に飛び込む。

 力一杯密着して、抱きしめた。全力全開の、本気のチャームの行使。

 惚れろ。惚れろ惚れろ惚れろっ!! 

 お願いだから。

 伝わって。伝わってよ。

 私、こんなにどきどきしてるのに。

 こんなにも貴方のことが好きなのに。

 貴方が私のこと好きなのもわかってるはずなのに! 

 なのに、どうして。

 どうして……。

 

「どうして……」

 

 お腹に回していた手が緩む。

 ぷらんと力なく垂れた腕。

 俯いた視界が不意にぼやけた。

 目頭と鼻の奥に、さっきまでとは違う熱が込み上がってくる。

 

「……美上さんの事が嫌いなわけじゃ、ないんだ」

 

 モブ男の声音は、ゾッとするぐらいいつも通りだった。

 

「……うん、嫌いじゃない。むしろ、とても大切な人だ。美上さんに覚えはないだろうけど、あの日から僕は美上さんを凄く特別に想ってる。……僕も男だからね。美上さんとそういう関係になれたらなあって、考えた事、あるよ。夢にだってみた」

 

「……なら、どうしてなのよ……」

 

「……うん、そうだね。そうだなあ。うーん……」

 

 言うかどうか迷う、そんな逡巡だった。

 そして、

 

「美上さんはさ、僕たちが初めて会ったときのこと、覚えてる?」

 

 溢れそうだった涙を拭って顔を上げた。

 忘れるわけがない。

 だって、それは私に取って始まりの日だったのだから。

 絶対にこいつをオトしてやると躍起になって、その気持ちを忘れまいと日記をつけ始めて、何度も何度も思い返した日なのだから。

 

「6月19日……あんたが、私に声をかけた来た日よ」

 

「……うん、そうだよね。そうだよな。そっか……はは、だよなあ……」

 

 自嘲する気配。

 深呼吸をするように息を吐いたモブ男が、振り返る。

 もう何度も見た人差し指で頰をかくクセ。そして、目に焼き付いた困ったような笑顔で、聞いたことのない悲しい声で、言った。

 

「美上さんはさ、僕が"チャーム出来ない人間"じゃなかったら、こうやって今の関係になれたと思う?」

 

 このとき、私は初めてモブ男の最も深い部分に指を触れた気がした。

 

 何も言えなかった。

 私は、何も答える事ができなかった。

 私自身のことだから、分かってしまったから。

 

 私は、チャームが出来る人間の男に恋をすることは、絶対になかった。

 

「……ま、そういうことだよ。さてと、うわ、お茶蒸発し始めてる! 畳をひっぺがさないと不味いかなこれ……悪いんだけど美上さん、僕雑巾取ってくるから本を避けておいてくれると嬉しい!」

 

 それが分かっていたか、モブ男は空気を変えようと努めて明るい声を出して言った。

 今あったことはお互い忘れようと言外に言っていた。

 それが気遣いなのだと分かった。

 だけれど、その気遣いが、とても、痛かった。

 

 最後まで、私は何も、言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モブ男の姿が消えてから、私は放心していた。

 受け止め切れる感情の量はとっくに超えていて、そのままずっと棒立ちしていてもおかしくはなかった。

 

「……あ、本、片付けないと……」

 

 条件反射に近い動きだった。

 さっきのことがぐるぐると頭を回り続けて、何をすればいいのか、何を言えばいいのか、これからどうすればいいのかも分からなくなって、ショートした頭が直前に頼まれたことを実行させただけに過ぎない。

 

 一冊、一冊、本を手に取っては本棚に戻していく。

 その動きはとても緩慢で、とても作業と呼べるようなものではなかった。

 

 

『美上さんはさ、僕が"チャーム出来ない人間"じゃなかったら、こうやって今の関係になれたと思う?』

 

 

 その言葉が頭から離れない。

 6月からの半年間。今までの人生で一番忙しくて、一番感情が乱されて、そして一番楽しい時間だった。

 その時間で私はモブ男を知って、恋をした。

 だけど、それはモブ男はチャーム出来ないという前提に成り立つもので。

 それが、すべての起点だったから。

 その前提がなければ、私の人生の中でもっともキラキラしている半年は、最初からなかっただろう。

 

「私、は……」

 

 なら、この気持ちは? 

 それなら、この気持ちはどうなるの? 

 焦がれるように熱くて、締め付けられるように痛くて、射抜かれるように甘く疼くこの気持ちは、一体どうなるの? 

 私はモブ男が好きだと自覚した。でも、本当は。

 

 "チャームが出来ない人間を好きになった"だけで、"モブ男という男の子を好きになったわけじゃない"っていうの? 

 

 モブ男じゃなくても良かったなんて思わない。私が好きなのは間違いなくモブ男なのだから。

 でも、モブ男じゃなきゃいけなかったとは、言えなかった。

 

 もう、分からない。

 

 私はどうすればいいの。

 どうすることが正解だったの? 

 一人でいれば良かった? 興味を持たなければ良かった? 初めて私に逆らってきた男をオトしてやるなんて思わなければ良かったの? 

 こんなに苦しいのなら。

 出会ったことが、この半年間が、全部全部、間違いだったの……? 

 

 サキュバスが恋をしたことがいけなかったの? 

 

「分かんないよ……おねーちゃん……」

 

 心が潰れそうだった。

 

「あっ……」

 

 うず高く詰まった本を持ち上げた瞬間、繊細なバランスで積まれていたのか本の山が崩れる。

 集中していれば気付けただろうに、笑えてくる。そんな事にも気付かないほど、今の私は──。

 

「──ぇ。こ、れ、は……?」

 

 ──それは、一冊のノートだった。

 

 崩れた山から飛び出して、私の目の前まで滑ってきたそれは、その拍子に開いた状態になっていて。

 

 見慣れた余白。

 見慣れたページ。

 見慣れた荘重。

 そして、見慣れない文字。

 

「私の、日記帳……?」

 

 違う。私の日記帳は自分の部屋にある。昨日の夜書いて、そのままにしてあるのだから。

 だから、これは、私のではなく。

 この部屋の主の、もの。

 

 弾かれたように私はその日記を手に取った。

 開かれたページ。そこには、モブ男の字が書かれていて。

 そこには、それは、その日記は──! 

 

 

 4月10日

 

 

 この世界に奇跡と呼べるものがあるのなら、今日がそれだと僕は思う。

 美上サキさん。

 種族はサキュバス。日の光が透き通るような銀色の髪がとても綺麗なクラスメイト。

 その時の僕の気持ちはとても言葉に仕切れない。

 驚きがあった。感動があった。感謝があった。その情景がまだ僕の中に残っていることが、僕が彼女を想う全てだ。

 一言で纏めるのなら、今日、僕は彼女に恋をしたんだ。

 

 日記をつけよう。

 彼女を忘れないように。この気持ちを忘れないように。

 僕は誰かの記憶を覚えておけないから。感情を留めておくことが出来ないから。

 誰のことを忘れても。嬉しいことも楽しいことも感じることが出来なくても。

 彼女のことを、彼女に感じたこの気持ちだけは、忘れたくないから。

 

 だから、日記をつける。

 僕が忘れてしまっても、思い出せるように。

 もし、彼女のことを忘れてしまった僕が読んでいるのなら、どうか思い出してほしい。

 難しいのはわかってる。だけど、感じてほしい。この胸を打つ感情を。涙が出るぐらいに痛くて切ない、この気持ちを。

 それは死んでいた僕が唯一感じられた、生きている証だから。

 だから、お願いだ。忘れてしまったのなら、これから僕が書いていく日記を読んでほしい。この──

 

 

 ──とあるサキュバスの日記を。

 

「とあるサキュバスの日記……?」

 

 

 私の知らないモブ男の軌跡が、そこにあった。




登場人物紹介。

美上さん。
主人公。

モブ男。
ヒロイン。


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18ページ目『サキュバスらしく』

 

 雷に打たれたような。

 頭に浮かんだのはそんなありふれた比喩だった。

 

「とある、サキュバスの日記……」

 

 一冊のノート。

 そこに記されてあるのは、私の知らないモブ男の軌跡。

 モブ男が見ていた"美上サキ"の姿。

 

 心理的抵抗感がなかったわけじゃない。

 罪悪感がなかったわけじゃない。

 だけど、私の手はページをめくろうとしていて。

 それを止めることは、できなかった。

 

 何かが分かる気がした。

 あの、モブ男の言動の理由が分かる気がした。

 間違いなく、ここにはあいつが隠していた、私に知られたくなかったであろうモブ男がいたから。

 

 ページを、めくった。

 

 

 4月11日

 

 

 一睡もできなかった。眠ってしまうことで忘れてしまうことが怖ったから。

 まだ覚えている。僕の胸の中に、あのときの情景が、感情が残っている。

 不思議な気分だ。疲労で頭がぼうっとしているからか、昨日よりは自分の状態を正確に把握できている気がする。

 

 相変わらず僕は誰のことも思い出せない。そのことについて何も思うことはない。

 ただ、彼女のことだけははっきりと覚えている。

 ……本当に、不思議な気分だ。

 

 

 4月12日

 

 

 眠らない。眠るな。

 明日学校に行けば、また会える。だって、僕と彼女は同じ学校で、隣の席だから。

 なんて声をかけよう。声をかけてもいいのかな。分からない。でも、クラスメイトってそういうものらしい。いつの間にか増えている漫画にはそう書いてある。だから声をかけても大丈夫だ、きっと。

 楽しい話をしたい。彼女に喜んでもらいたい。綺麗な彼女の、自信満々の笑みがまた見たい。

 でも、まずはお礼を言わないとな。

 忘れるな。絶対に忘れるな。僕は忘れたくない。眠るな。

 

 

 4月13日

 

 

 気付いたら保健室で寝ていた。

 前後の記憶が全くない。おかしい。人物のことは覚えていられなくても、自分が何をしたかは覚えてるはずなのに。

 僕はえっと、誰か……と一緒に教室に行って、それで……だめだ、思い出せない。

 でも、自力で保健室に来たのは間違いないそうだ。……あれ、これは誰に聞いたんだっけ。起きたとき誰かが横にいたような……考える意味はないか。どうせ思い出せない。

 

 でも、彼女のことは覚えていた。眠っても、覚えていた。

 その事に心底安堵して、胸を撫で下ろした。ほっとするって、こういう感情だったんだ。

 泣いてしまったから、どうも目が腫れぼったい。今日はもう寝よう。

 

 きっと、明日も僕は忘れない。

 

 

「……出会ってたのね」

 

 考えるまでもない。同じクラスなのだから、それが当たり前。

 なのに、私の主観においてモブ男が存在するのは6月から。

 "ほらね"と言われているような気がして、ページをめくる手を重くした。

 

 ページを、めくる。

 

 

 4月17日

 

 

 おかしい。彼女に話しかけられない。

 記憶の前後が繋がらない。なんでだ……? 

 これじゃあ、ありがとうも言えない。なんとかしないと。きっと僕のせいだ。

 

 

 4月19日

 

 

 彼女と話そうとすれば、その前後の記憶が飛ぶ。

 症状が進行したのかと思って病院で検査したけれど、そうではないらしい。むしろ、死んでいるはずの脳機能が微弱に活動し始めているとか何とか。メモに僕の主治医の方から書き置きがあったのでこの認識で間違いはなさそうだ。

 そのメモには、相手がサキュバスならチャームされている可能性が高いとも書いてあった。

 聞いたことはある。確か男性を誘惑する力のはずだ。つまり、僕は彼女にチャームをされていて、それで話しかける事が出来なくなっているということになる。

 そういうことなら、明日からはチャームされないように頑張ろう。彼女はとっても綺麗で、僕はもう彼女に恋をしてるから、難しいだろうけど。でも頑張ろう。……サキュバスについて調べておこう。

 

 

 4月20日

 

 

 心構えをしていたはずなのに、耐えるとか耐えないとかそういう認識すらなかった。

 サキュバスのチャームってこんなに強力なんだ。でも本にも個人差あるって書いてあったし……。

 でも、どうしよう。僕はこのままずっと彼女と話すことすら出来ないのだろうか。

 それは嫌だな。うん、頑張ろう。

 

 

 4月21日

 

 

 明日こそは。

 

 

 4月22日

 

 

 諦めない。

 

 

 4月23日

 

 

 痛みで意識を強く持つ作戦失敗。

 

 

 4月24日

 

 

 彼女の姿を認識して、彼女の方へ一歩足を踏み出した瞬間、一気に記憶が飛ぶ。

 授業中の記憶もないのに、何故かその日にやったノートはしっかりとってあるし、授業の内容も頭に入っている。

 ……もしかしたら、耐えるとか、耐えないとか、そういう次元の話じゃないのかもしれない。本にも淫魔の魅了には抗えないって書いてあった。

 でも、嫌だ。もう一度彼女を見たい。話してみたい。僕の中の彼女は、未だにあの日のままだ。このまま思い出にしたくない。諦めるな、僕。

 

 メモ。

 図書委員で一緒になった、水妖精の女の子。彼女の雰囲気が気になったと僕の字でメモ書きしてある。

 死ぬタイミングがあれば死にそうだと。ああ、多分僕は共感したんだろう。それは確かに、以前の僕と同じだった。

 

 

「水妖精……?」

 

 唐突に出てきた私以外の存在に目が止まる。

 日記のモブ男は私に話しかけようとして尽く失敗していた。

 この頃の私は、近寄る男がフリーならほぼ例外なくチャームしていたので、おそらくそのせいだろう。

 

 でも、それなら疑問が残る。

 モブ男をチャームすることが出来ているからだ。

 それは、矛盾。

 現在のモブ男と過去のモブ男が矛盾していた。

 

「……」

 

 ごくり、と唾を飲み込む音がした。

 緊張からか、手汗がじっとりと染み出してくる。

 

 この先に答えがある確信がある。

 なぜ、モブ男はチャーム出来ないのか。

 なぜ、モブ男はチャームされることをあんなにも拒むのか。

 

 日記の内容からも両想いだって分かるのに。

 どうして、私を振り払ったのか。

 

 今での全ての答えが、ここにある。

 

 震える手で、私はページをめくろうとして──。

 

「入るぞ。ユキカゼ、美上さん、準備が──え? 何この部屋」

 

「うひゃあわぁ!? し、シラヌイさん!?」

 

 開くドア。

 私は慌てて、隠すように日記を自分の鞄の中に突っ込んでしまった。

 

「あ、ああ。美上さんだけか? ユキカゼのやつは……いやそれにしてもこの部屋はいったい……」

 

「……ちょっとね。転んだ拍子に本棚にぶつかっちゃた」

 

「おお、ユキカゼ。それは……雑巾か。そうか、二人とも怪我はないか……? ないのか、ならよかった。……まあ、丁度いいかな。美上さん、ちょっといいか?」

 

「は、はい!」

 

「ちょっと私の部屋まで来てくれないか? ユキカゼが部屋を片付けている間にやってしまおう」

 

「……あ、採寸ですね。分かりました」

 

「ありがとう、それじゃあ付いてきてくれ。……お、そうだ。ユキカゼ、部屋にカゲがいるから手伝わせてやれ。居ないよりはマシだろう」

 

「ん、分かった」

 

 慌てて荷物を掴んで、シラヌイさんの後を追う。

 部屋から出た瞬間、入り口に立っていたモブ男と目があった。

 

「……」

 

「……」

 

 上手く、言葉が見つからない。

 ただ気まずさが募るだけの沈黙。

 一度深く息を吸ったモブ男が、笑顔を作った。

 

「……採寸、終わったら帰るよね。送るよ」

 

 取り繕った、いつも通りだった。

 

「……いえ、大丈夫。お母さんが家にいるはずだから、車でこっちに来てもらうわ」

 

「そっか。じゃあ、次に会うのは文化祭当日だね」

 

「そうなるわね」

 

「衣装はばっちり用意するから安心してね。当日、楽しみにしてるから」

 

「……あんたが作るんだから、どんなのかは知ってるでしょ」

 

「それでも、実際に着てるかどうかって違うよ」

 

 装っていた。言葉の一つ一つに、言外の意味が込められていた。

 "無かったことにしよう"。繰り返すように、そう言っていた。

 震えそうな声をぐっと堪えて、私が口を開くたびに、ほっとしたような顔を浮かべている。

 

 それが無性に、腹が立った。

 

「……何してるの、美上さん」

 

 手を握った。モブ男の困惑と怯えが入り混じったような瞳を睨み付ける。

 掴んだ手から流れてくるのは確信。

 サキュバスとして。そして、女の子として。やっぱり、この感覚だけは、絶対に間違えない。

 

 手を離す。

 無言で、背を向けた。背中でモブ男の呟きを聞いた気がした。

 

「……今まで通りは、もう無理なのかな」

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 モブ男の家で私がやるべきことが終わったあと、近くまでお母さんに迎えに来てもらい私は自分の家へと帰った。

 浅海家の人たちはお母さんにも会いたい雰囲気がひしひしと感じられたけど、丁重に断った。

 お母さんがどんな失礼なことをするか分かったもんじゃないのよね……。

 本当によく分からないけれど、浅海の家の人たちからの好感度がちょっとびっくりするぐらい高い。

 

「……」

 

 結局、日記は持ち帰ってしまっていた。

 そこに罪悪感はあれど、一度中身を見てしまっている。続きを読むのに抵抗感を感じたのは一瞬だった。

 それ以上に、私は知りたかった。

 

「……」

 

 ベッドに座って、もう一時間以上も日記を読んでいる。

 その日記には、色んなことが書かれていた。

 

 私とモブ男が出会った4月。

 "チャームに対する抵抗権"を得たモブ男の苦心が書かれていた5月。

 初めて会話するようになった6月。

 関わりが薄いまま夏休みに入った7月。

 初めて一緒に遊ぶようになった8月。

 一緒にいることが多くなった9月。

 お互いのことを少し知れた10月。

 いつの間にか普通の学生生活を送っていた11月。

 そして、12月。

 

 私の知らない2ヶ月があった。

 私の知らない6ヶ月があった。

 そして、私の知っている6ヶ月があった。

 

「……」

 

 私がモブ男に興味を持ったのは。

 私がモブ男に話しかけたのには。

 チャームが出来なかったらという理由があった。

 私の日記には、チャームが出来ないモブ男をなんとかチャームしてやろうとしていて、そして、惹かれていった私の軌跡がある。

 

 そうだ。私の半年間には理由があった。その理由が、今日の私の行動につながっている。

 だから、モブ男の半年間にも理由があったのは当たり前だった。その理由が、今日のモブ男の行動につながっている。

 

 そして、その理由が分かった。

 

「……」

 

 最後まで読み終えて、私は日記を閉じた。

 そのまま机の上に置いて、リビングへ。

 鼻歌を歌いながらお皿を洗っているお母さんの背中へ、問いかけた。

 

「お母さんは、どうしてお父さんを好きになったの?」

 

 お母さんは驚いた顔で振り返って、私の顔を見て笑みを引っ込めた。

 

「そうねえ……」

 

 流水がお皿に当たって飛び散る音がやけに大きく聞こえた。

 お母さんは、懐かしむように目を細めた。

 

「股間が大きかったの」

 

「真面目に」

 

「はい」

 

 ごめんごめんと笑いながら、お母さんは洗い物を再開した。

 そして、何でもないように、

 

「理由なんかないわよ。だって私、気付いたらあの人のこと大好きだったんだもの」

 

 幸せを綻ばせるような、そんな声音だった。

 

「それが聞きたかったの? サキがお父さんのこと聞きたがるなんて珍しいこともあるものだわ。……あ! そういうことか……安心しなさい。サキはちゃんと愛のあるセックスで生まれた子どもだから!」

 

「……別にそんなこと心配してないわよ。ていうか、娘にそういうこと言うな。どんな顔すればいいのよ」

 

「お母さん今ゴミを見る顔で見られてるんだけど。既にこういうときの顔が完成してるんだけど。これ以上を目指すの? お母さん怖い」

 

 食器を洗い終えたお母さんは水を止め、エプロンを脱いで私を抱きしめた。

 そのまま、慈しむように私の頭を撫でる。

 擽ったくて、気恥ずかしかったけれど、何となくそのままにさせた。

 あったかい。そう思った。

 

「……大きくなったわねえ。あっという間だったわ」

 

「……なによ、急に」

 

「母はね、娘の成長を感じたくなるときがあるのよ」

 

「いつも一緒にいるじゃない」

 

「それでもよ。それに、いつもはこうやって抱きしめさせてくれないじゃない。本当に大きく……大きくなったわね」

 

「胸を見て言うのやめてくれないかしら?」

 

 揉もうと手を伸ばしてきたのではたき落とした。

 

「いたた……。まあ、お母さんの惚気を聞きにきたわけじゃないでしょう。サキがなんでこんな事してるかも、お母さんだいたい分かってるわよ」

 

「……嘘ばっかり。お母さんは私の気持ち全然考えてくれない」

 

「分かってる事とそれを踏まえた上で行動するかは別じゃない?」

 

「親失格でしょうが」

 

「そうねえ……サキにとっていい母親であれたかどうかは、わかんないわねぇ……。でも、サキや……ユキの母親であれたとは、胸を張って言えるわよ」

 

 ……それは、まあ。

 なんでこんな母親なんだって悪態をつく事はあっても。

 こんな母親じゃなければよかったって思ったことは、一度もない。

 

「……ま、私から娘に言えることは、一つだけね。私も大概失敗ばかりの人生を生きてきたけれど、それでも言えることがある」

 

 お母さんの声は、とっても優しかった。

 大切なものに触れるように……けれど、その存在を確かめるようにぎゅうっと力強く。

 その微笑みには、確かな愛があった。

 

「キッカケなんて何でもいいのよ。"もし"の過程なんて全て無意味よ。私たちが生きているのは"現在"。セックスできるのも、気持ちを通じ合わせられるのも、恋ができるのも、愛する誰かがいるのも、全部。悩んでもいいわ。立ち止まってもいいわ。でも、忘れないで。私たちはサキュバスよ。……サキュバスがやる事なんて、一つでしょう?」

 

 胸の奥が、熱くなる感覚があった。

 

 ええ。

 そうね。

 

 ……そうだったわ。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 文化祭当日の朝はとても冷えていた。

 氷そうなほど冷たい空気が肌を刺してきて、防寒着なしではとても出歩けない。

 特に、日が昇ってまもない早朝ともなると尚更だ。

 

 そんな早朝の学校に私はいた。

 外気温によって冷え切った校舎の中はまるで冷蔵庫のようで、凍えながら廊下を歩く。

 

 ああもう、寒い。

 ほんと寒い。

 カイロを何枚も張ってきているのに震えが止まらないじゃない。

 

 文化祭直前ということもあり、装飾の施された校舎には数は少ないが人の気配があった。

 朝早くだというのに、校舎が開放されているのだ。

 

 なら、当然、あの人も校舎にいるはず。

 

 私の目的地。

 本校舎からすこし離れたその場所には、生徒会室というネームプレートが掲げられていた。

 

「つべたっ」

 

 金属のドアノブは洒落にならないぐらい冷たかった。

 さっと手を引っ込めて、制服の裾でドアノブを覆ってから力を込めた。

 ガチャリと、ドアが開く──。

 

「──待て待て待て待て!! お前何するつもりだ!? 何するつもりだ!?」

 

「何って……先輩を縛ろうとしただけだが?」

 

「頭おかしいんじゃないのか!? くそっ元からだった! 俺もう生徒会じゃないのにお前に頼まれて手伝いに来てんのに! ていうか頼むからその頭のおかしい服なんとかしてくれ!! なんだそのコスプレは! ハロウィンはとっくの昔に終わってんだよ!」

 

「僕の服がおかしいって……露出少なすぎってことだよね?」

 

「多すぎって言ってるんだよ!!! なんだよそれビキニアーマーか!?」

 

「ビキニサンタだよ。クリスマスだから」

 

「ドヤ顔するなぁ!! お前まさかそれで開会の挨拶をやるつもりじゃないだろうな……?」

 

「それはしないよ。寒いからね。全く、先輩は僕を何だと思ってるんだ」

 

「よ、良かった……! 我が校の風紀は守られた……! 頭のおかしいドスケベモンスターに侵略されずに済んだ……!!」

 

「だから代わりに、この全身ピチピチタイツにしようと思うんだ」

 

「もうやだこいつぅ!!」

 

「ふふ……なら僕を止めてみるかい? ほーらほーらどうした先輩、さっきから口だけでちっとも動かないじゃないか。本当は僕に拘束されたいし、僕に人前でこの格好をしてほしいんじゃないのかい? 全く、こんなスケベが前生徒会長だったなんてね。生徒たちが知ったら幻滅するだろうなあ?」

 

「お前がチャームしてるからだろうがあ!!! ぐっ……体動かねえ……!!」

 

「ふっ、無理だよ。いくら僕のチャームが埒外に弱くても、こうやって余すことなく密着した状態では逃げられない。体を動かしたくなくなってしまう。この状態を維持していたくなる。僕を膝の上に乗せたのが先輩の敗因さ。……このまま、その元気な口も塞いでしまおうか……」

 

「!? 待て、待て麗華!」

 

「……名前で呼んでくれるって約束破ったから、だめ。ん……」

 

「んーッ!?」

 

 ──ドアを開くと、発情したサキュバスと人間の痴話喧嘩を見せられた……。

 

「あのー」

 

「ん……んちゅ、ちゅる」

 

「〜〜〜〜ッ!!」

 

「あのー!」

 

「ちゅ、ぢゅるっ、れろ、んちゅ、んちゅ、んちゅう、れろ、れろ、んれろ、ちゅぅ、ちゅう、んちゅ、ちゅう、ちゅう、ちゅっ、ちゅう、ちゅう、ちゅう……」

 

「……っ、……ふぁ……」

 

「ふっ……先輩……力抜けて……可愛い……。なのに、ここはこんなに……ふふっ」

 

「ぁっ……あ、ぅ……」

 

「大丈夫……一緒に気持ちよくなろうね……せん、ぱい」

 

 ウッソでしょ!? 

 こいつらこのまま私の事ガン無視しておっ始めるつもりなの!? 

 ここ学校よ!? 今日文化祭よ!? この後この人たち大勢の前に出るのよ!? あったまおかしいんじゃないの!? 

 

「させるかぁ!!!」

 

 やるなとは言わないけど時と場合は選べ! 

 

「ん、んんんんっ!? ぷはっ、しっ、尻尾を握……っ! んぁっ!」

 

「あんたも弱かったのね……」

 

「……くっ、ふっ、なな、何を言ってんんぅ! ふ、ふふ、その手を……離しっぅぁん! ……離してくれないかい?」

 

「いいけど。生徒会長が生徒を無視して盛ってることに関して何もないの? ねえ、先輩」

 

「ふっ。正直気付いてはいたが、僕は見せつけることで興奮するタチでいひゃん! 悪かったからっ! し、尻尾はやめてくれ……!」

 

 本当でしょうね? 

 しぶしぶ離すけども。

 

「これが生徒会長になるんだから世も末ね……。どうすんのよ、前生徒会長、完全にキマってるわよ。あんたこれ中毒にしてない……?」

 

「……ふぁ……ぁ……ぅ……?」

 

「ふふ、いいだろう? もう先輩は僕なしでは生きていけないのさ」

 

「こわ……。束縛強そうだとは思ってたけど恋人になった途端これとは……サキュバスとヤンデレって最悪の組み合わせね」

 

「なに、一応先輩だって同意の上さ。僕が不安なら、それでもいいと言ってくれたんだ。……ふっ、優しくて、カッコいい人だろう? ……というより、知っていたんだね。僕と先輩が付き合い始めたの」

 

「日記でちょっとね。……ま、それより。ちょっと聞きたいことあるのよ。いいかしら」

 

「ああ、いいとも。生徒の悩みを聞くのも、生徒会の仕事だからね」

 

 くるりと体を反転させた麗華生徒会長が胸を張る。

 どうでもいいけど前生徒会長の膝の上からは動かないの? あ、動きたくないのね。

 めちゃくちゃ気になるけど意識的に無視した。目の前でいちゃつかれるとイラッとくるのはどうやら本当だったみたい。

 

「先輩は、どうして恋をしたのかしら」

 

「どうして?」

 

 麗華生徒会長が目を丸くする。

 答えは、あっけらかんとしたものだった。

 

「先輩が僕の好きな人だったから。それ以外の理由はちょっと分からないな」

 

 それは、予想していた答えでもあった。

 

「それが例え、チャームできる男でも」

 

「うん?」

 

「いつか、チャームできない男が目の前に現れても」

 

「はい?」

 

「きっと、また同じ恋をするのね」

 

「……何を言ってるかよく分からないが。先輩がチャームできてもできなくても。先輩より良い人が現れても。僕が好きになったのは先輩だ。それ以上の問いが必要だとは思わないね」

 

 最後に、当たり前の通りを説くように、麗華生徒会長は言った。

 

「だから僕は先輩をオトしにいったのさ。僕が好きになった、大好きな男だったから。気に入った雄は必ずオトす。サキュバスなら当たり前だろう、そんなこと」

 

「ええ。そうね。……ありがと。また暇なときに来るわ」

 

 胸の奥で、火の灯る感覚がした。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 日が昇り切り、時計の短針が7を過ぎる頃になるとぽつぽつと生徒の数が増え始める。

 普段よりも多いのは文化祭準備に追われているからだろう。

 昇降口で登校してくる生徒を眺めていた私は、見知った水色の髪を見つけて歩き出した。

 

「随分と早いわね、水妖精」

 

「そういう貴方もですね、淫魔」

 

 無言で憮然として視線が絡み合う。

 未だにこいつに対する苦手意識も、敵意もある。

 けれど、それ以外の感情だって。

 そして、私はこいつに……水妖精にだけは、言っておかなければならないことがあった。

 

「……何のようですか? 私、クラスの準備に行かないといけないのですけど」

 

「……大した手間は取らせないわ。ただ、貴方に言わないのは……筋が通っていないと思ったのよ」

 

「何のことですか……?」

 

 怪訝そうに首を傾げる水妖精。

 ……覚悟は、してきた。

 もう、私はどうするかを決めてある。

 だから、一息に。

 

「私は、ユキカゼが好きよ。好きになってた。それを伝えておこうと思ったのよ。……貴方にはね」

 

 水妖精は何も言わなかった。

 吸い込まれそうな淡い藍色の瞳が、じっと私を見つめていた。

 どれぐらいの時間そうしていたのだろうか。

 目を閉じた水妖精は、大きなため息をついた。

 

「……知っていましたよ、そんな事。……それより。私にわざわざ報告に来たってことは、あの事を知ったんですね。ユキカゼくんが話すとは思えませんし……ハクローですか?」

 

「違うわ。白狼は関係ない」

 

「そうですか。……まあ、いいです。……そっかあ……」

 

「……謝りはしないわよ」

 

「謝られたらぶん殴ってますよ。どれだけ私を惨めにさせたら気が済むんだって。……でも、そうですね。ユキカゼくんには、もう伝えたんですか?」

 

「……ええ。それで、振られたわ」

 

「でしょうね。でも、もう分かってるのでしょう?」

 

「もちろん。だから今日、貴方にそれを伝えに来た」

 

「うっわあ……。やっぱり淫魔、貴方性格悪いですよ」

 

 ……それは否定しないわ。

 自分がやってる事がどんな事かは、分かってるつもり。

 それでも、私は言うべきだと思ったから。

 

「ありがとう、水澄イズミ。それが、どんな形だったのであれ。貴方のおかげで、私は恋を知った」

 

「どういたしましてとは言わないですよ、美上サキ。私が貴方に送るのは恨み言です。それがどんな形だったのであれ。貴方のおかげで私の恋は始まって、その瞬間に終わった」

 

 別れ際に、水妖精は微笑みを浮かべて言った。

 冬の湖のような寂しさのある微笑みだった。

 

「私から恋を横取りして行ったんです。しっかりしないと殴りに行きますからね、淫魔」

 

「あんたに殴られると死にそうだから遠慮しとくわね、水妖精」

 

 胸の奥に灯った火が、勢いを増した気がした。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 5月8日

 

 

 どうやら僕は一週間近く眠り続けていたらしい。目が覚めたときにシンユウくんが教えてくれた。

 覚えている。覚えている! 

 シンユウくんの事も、水澄さんのことも、鬼塚くんのことだって! 

 今まで美上さんのことしか覚えていられなかったのに、覚えている!! 

 今はだいぶ落ち着いたけど、目が覚めたときは無茶苦茶に取り乱して、泣いてしまった。

 まさか、こんな奇跡があるなんて思わなかった。

 銃で心臓を撃ち抜かれたのに生きてたことも含めて、水澄さんにはもう何と感謝をすればいいのか分からない。彼女を助けにいったのに、逆に命を救われてしまった。

 お医者さんが言うには、僕の体はこれから徐々に水妖精に近づいて行くそうだ。原因は分かっているけど、前例が記録に残ってないからどこまでその水妖精化が進むかは分からないらしい。けれど、僕にとってはそんな事どうでもよかった。

 

 水妖精。その種族特性は癒しの体液。言い換えれば、常軌を逸したレベルの恒常性の活性化。

 あらゆる状態を常に最適に保つ水妖精は、サキュバスにチャームされない数少ない種族の一つ。

 だから、水妖精化が進めば。

 もしかしたら、サキュバスのチャームが効かなくなるかもしれない。効きにくくなるだけだったとしても、一瞬も抗えずにチャームされることはなくなるかもしれない! 

 それなら、美上さんとお話しできる! 美上さんと一緒にいられるかもしれない! 彼女に、僕を認識してもらえるかもしれない! 

 こんなに嬉しいことってない。本当の本当に、涙が出るぐらい、それが嬉しい。

 水澄さんには頭が上がらない思いだ。これがお礼になるなんて思わないけど、水澄さんが困ってたら絶対に力になろう。それを僕はこの日記に誓う。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 文化祭当日ということで、前日に机や椅子を全て運び出した教室は広いけれどどこか物悲しい。

 広い部屋に薄く伸ばされた冬の空気がより冷たくて、コートの首元に顔を埋めるようにして、私は窓際に寄りかかっていた。

 背中に忍び寄る冷気に震えながら待っていると、ガラッと教室のドアが開く。

 思ったより早く来た。まあ、このぐらいに来ることは分かってたのだけれど。

 

「あれ、美上さん? 珍しいな、まだHRまで一時間あるのに。もしかして遠足前は眠れないタイプだったか?」

 

「……そんな可愛らしい子どもじゃなかったわよ私は。……白狼は、陸上の練習はいいのかしら」

 

「今日はないよ。でもいっつもこの時間に来るからかな、癖で起きちまうんだよな……だから、早く来てみんなの分も準備進めちまおうと思って」

 

 そうね。あんたはそういうやつだわ。

 

「……ユキカゼは?」

 

「あいつは今日は遅いだろ、昨日……いや今日の深夜に衣装完成したって言ってたし……仮眠とってギリじゃねえかなあ。……聞いてないのか?」

 

「まあ、ね。そんなところよ」

 

「ふーん。まあ、親友もだいぶ疲れてるみたいだったしなあ。あんまり誰かと話す余裕がなかったのかもな」

 

 劇で使う小道具などのチェックに、教室の前の廊下の飾り付け。

 私たちの教室はフリーの休憩室になるから、その準備を二人で進めていく。

 手を動かしながら、背後で作業をしている白狼に問いかけた。

 

「白狼。あんた、知ってたでしょ」

 

「え、何を? ……あ、そっち終わったか?」

 

「もうちょっと。……ユキカゼが私のこと好きな事よ」

 

「オッケー、それおわったらこっち手伝っ……はい!?」

 

「とぼけなくてもいいわ、ネタは上がってんのよ。思い返せばやけに協力的だったのよね、あんた」

 

 私とモブ男が二人になれるようにしたり。

 何かと私にモブ男の好みを教えてきたり。

 思い返せば、私とモブ男をくっ付けるように動いていた節がある。

 

「それも、モブ男の恋が実るように……って感じじゃないわよね。どちらかと言えば、私がモブ男をオトす手助け。……理由、聞いてもいいかしら」

 

「……あー……ばれてんのか……」

 

「ちょっと露骨だったわよ、あんた」

 

「……はは。慣れないことはするもんじゃねえなあ……」

 

 一度頭を振った白狼は、ぽつぽつと話し始める。

 申し訳なさと願いが同居したような声音だった。

 

「親友が美上さんのこと好きなのは知ってたんだ。……正直、最初はあいつが恋をする事、反対だったよ。俺だけじゃない。カゲさんやシラヌイさん……親友の家族だってそうだ。それでも。親友がまた、前を向いて歩き出せた事が嬉しくて……誰も、それを止められなかった。その頃はさ、その、美上さん、やさぐれてたっていうか、孤高って感じで……ちょっと怖かったのもあったしさ。あ、怒んないでくれよ?」

 

「……それで?」

 

「夏休み前からかな。美上さんの雰囲気が変わったのは。……というより、俺たちが無闇矢鱈にチャームされなくなった。そしたら、今まで分からなかった美上さんの人柄が見えてくる。……なんて言ったらいいのかな……そのとき、俺は初めて、美上さんを知ったんだ」

 

「……ふぅん。それで、あんたは私をどう思ったの?」

 

「すっごく馬鹿だなあって思った」

 

 はっ倒すわよお前。

 

「待て待てチャームはやめてくれ。……まあ、なんつーのかな。普段の態度が王様のそれで、正直反発感はあったんだ。でも、よく見てみれば変に気を使いまくってるのも分かった。……実際、うちのクラスでも付き合ってるやつは殆どチャームされた事なかったしな。思いのままに……それこそ自分の国だって作れそうなのに、チャームでやってる事がセコくて、小物臭くて、それでいて変に周囲を気にしていたりする。思ったよ、あ、この人はただ感性が傲慢不遜の小者なだけだなって」

 

「もしかして喧嘩売られてるの?」

 

「違うっつの。まあ、それから俺は親友の恋を応援していた。色々理由はあるけど……大きい理由は、それだ。でも、夏休みの後半を境にスタンスを変えた」

 

「どうして?」

 

「……怒んないでくれよ?」

 

「怒らないわよ」

 

 私、そんなに怒りっぽくないと思うのだけれど。

 じゃあ話すけど……と前置きをした白狼は、多くの生徒が続々と投稿し始めている窓の外を見ていた。

 

「親友が美上さんを攻略したら危ないと思った。たぶん、それは親友にとって良くないことだと俺の勘が確信した」

 

「……サキュバスが人間にオトされるって?」

 

「うわこわ。めっちゃ睨んでくるじゃん。怒らないって約束忘れないでくれよ……あとチャームはやめてくれ。……でもまあ、実際、美上さん結構絆されてるところあったんじゃないのか?」

 

 なかなか鋭いわねこいつ……。

 まさか馬鹿正直にオトされましたというのも私のプライドが許さなかったので、黙って続きを促す。

 

「親友には歪みがある。親友が美上さんをオトしきれば、きっとそれはずっとそのままだ。だから、俺は美上さんに親友を完璧にオトして欲しかった。歪みを正して欲しいって。……美上さんには、悪いけどな。俺は、親友に……ユキカゼに、幸せになって欲しかったんだ」

 

「そう。……自分勝手な願いね」

 

「それを言われると弱ぇなあ……ぐうの音も出ないほどその通りだ。結局、これは俺のわがままでしかない」

 

 だけど、と。

 白狼は、私を真正面から見つめて。

 

「辛いことがあったやつが、ずっと辛いままだなんて嘘だろ。俺は親友の幸せを願う。それに対して誰にも文句は言わせない。……だから、さ。もし、美上さんが……あいつのこと、想ってるなら。……ユキカゼのこと……俺の、親友のこと。よろしく頼む」

 

 下げた頭には、申し訳なさと、願いと、そして、託すしかない歯痒さが詰まっていた。

 私の答えは、決まっている。

 

「ええ。サキュバスに目をつけられたんだもの。頼まれたって逃しはしないわ」

 

「……はは、そいつは頼もしいな」

 

 胸の奥で燃えている火が、激しさを増した。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 8月10日

 

 

 美上さんを誘って海に行けた。クラスみんなで……正確にはみんなではないけれど、とにかく美上さんと海に行けたことが嬉しかった、のに。

 あんな事があったから、素直には喜べない。美上さんはずっと気にするなって言ってくれたけど、僕が誘ったことが原因の一端でもあるし、もっと早くに助けにいけなかったのかと責めずにはいられない。

 美上さんはサキュバスだから男に組み敷かれているなんて想像もしなかったけど、それは言い訳にもならないだろう。かげ兄だって好きな女の子を泣かせないようにしろって言っていた。僕もあのとき、初めて頭に血が上った。

 反省点は多くある。もう、絶対にこんな事は起こらないようにする。好きな女の子に泣いて欲しくないって思う気持ちは、きっと正しいから。

 

 もちろん、良いこともあった。

 美上さんの水着見れたし水澄さんの塗り薬の効果が確実に出てきてるし美上さんの水着見れたし美上さんも日記書いててお揃いみたいで嬉しかったし美上さんの水着見れたしあと美上さんの水着見れたし! 

 今日は危なかった。一瞬でも気を抜いたらたぶんチャームされてたと思う。だいぶ水妖精化が進んだのと、チャームの抵抗の仕方を覚えたから前ほど自傷しなくてよくなったのに、今日は骨を折りに行かないとやばかった。

 

 気を引き締めよう。

 絶対にチャームされたらいけない。

 僕が今美上さんと一緒にいられるのは……自惚れでなければ、美上さんが僕を他の人よりずっと意識してくれてるのは、僕が美上さんにとってチャームできない特別だからだ。

 忘れるな。一度でもチャームをされてしまえば、僕は美上さんの特別じゃなくなる。特別じゃなくなれば、また美上さんは僕から興味を失って、存在しないものとして認識される日々が戻ってくる。

 それは嫌だ。絶対に嫌だ。また、好きな人に無視され続けるなんて、恐ろしくて、怖くて、きっと耐えられない。

 絶対に忘れるな。絶対に勘違いをするな。僕が今美上さんの近くにいられるのは、覚えてもらえているのは、僕がチャームできない特別だからだ。

 チャームができる僕に価値はない。それは僕の日記が、6月19日が証明している。

 絶対に、忘れるな。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「うわー、すっごいいっぱいいるよー」

 

 体育館には、溢れんばかりの人が集まっていた。

 午前中の、劇の一発目。文化祭の本番は午後からだっていうのに、なんでこんなに人が集まってるんだか。

 文化祭が開始されてから早数時間。

 体育館での出し物はローテーションが組まれていて、出入り自由だというのにこの人だかりはちょっと引きそうだった。

 

「めちゃくちゃ美人なサキュバスが出るそうだぞ」

「サキュバスだいたい美人じゃないか?」

「ばっか、その中でも格別にそうなんだって話だ!」

「マジかよ。おいおい、しかもサキュバスってことはそれもうエロエロってことだよな? ってことは文化祭終わりの性の6時間には……」

「やめろよ鼻息荒くするな。……ま、それを狙って集まってきてるやつが多いのは確かだけどな。思いの外多かったが」

「男どもが集まってきすぎなんだよな……つられてサキュバスも集まってきてるが」

「サキュバスからは離れとくぞ……本命前に搾り取られたら敵わん」

 

 客席からそんな会話が聞こえた気がした。

 あ、これもしかしなくても私のせいだったわ。

 

 さて。

 もう間も無く劇が始まる。

 

 原題は『愛染のサキュバス』。

 己色に染め上げることでしか、愛を信じられなかった一人のサキュバスのお話。

 けれど、私たちの劇では結末がすこし変わって、そんなサキュバスが最後にはチャームに打ち勝った男の子と結ばれて、真実の愛を見つけて幸せになる。

 

 良い話だと思う。

 誰も不幸にならず、みんな幸せになって、適度にロマンチック。

 最後に愛が勝つなんて、素敵だと思わない? 

 

「美上さん、そろそろだよ」

 

「……ん。衣装、ありがと」

 

「うん。まだ着るのは先だけどね。でも、頑張ったかいはあったよ。楽しみにしてる」

 

「期待してなさい」

 

 でもね。

 それって結局、サキュバスが男の子にオトされてるのよね。

 

 冗談じゃない。

 種族サキュバス。

 男を惑わし、蠱惑し、思いのまま操る淫美な女たち。

 

 男にオトされるのがサキュバス(私たち)じゃない。

 男をオトすのが私たち(サキュバス)だ。

 

『昔々、あるところに──』

 

 弓森さんのナレーションに合わせてステージ中央へと歩んでいく。

 湧き起こるのは盛大な拍手、歓声。

 息を飲む音が聞こえる。

 

 悪くないステージだ。

 観客は多い方が盛り上がるってものよね。

 ステージ裏で待機しているモブ男に目を向けて、不適に笑う。

 

 ──さあ、覚悟しなさい。

 これは人の愛が勝つお話ではない。

 淫魔の支配を乗り越えた男の愛の話でもない。

 

 サキュバスの誘惑に、男が負ける物語だ。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 12月24日

 

 

 絶対にオトしてやるんだから! 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 人物紹介。

 

 美上サキ。

 主人公。

 好きなものは動物とサブカルチャー。サブカルチャー好きは姉の影響が強く、その後弓森さんに伝播した。弓森さんの成績はすこし落ちた。

 苦手なものは男とホラー。お化けなんかいないから! が通らない世界観なので、結構洒落にならない怖さがあるとは本人の談。

 恋愛属性は攻め。受け身に回った瞬間負ける。

 

 浅海ユキカゼ。

 ヒロイン。

 好きなものは特になし。漫画は読むが、あまりの無趣味っぷりを見兼ねた兄に渡されたものを読むスタンスなので、2000年後の漫画の話を振られても答えられないことが多い。最近は美上さんと話すために色々読み始めた。

 苦手なものは女の子。過去が原因で女性が苦手になっていたが、記憶障害で女性が苦手ということも忘却してしまうため実質あってないようなものだった。水妖精化に際して記憶障害が治り苦手という感情も取り戻すが、その頃には美上さんの傍若無人っぷりを目の当たりにしていたため、ある種の悟りに至っている。

 自分に嘘をつかない人が彼にとっての救いとなれる。自分に嘘をつきまくってる彼がそう思うことが皮肉だった。

 恋愛属性はオールラウンダー。攻めにまわっても守りに入っても戦える。どっちかといえば守りが得意。

 

 水澄イズミ

 好きなものは冷たいものとアクション、スプラッタ映画。ちょくちょく見せてた喧嘩っぱやさはこの辺が影響してる。基本思考が殴れば勝ちなのでだいぶ脳筋。暇な時はゴミをプレスする動画やいろんなものを壊しまくる動画を見ている。最新の検索履歴は 鉄 潰す力

 苦手なものは幽霊とゲーム。ホラーがダメというわけではないしホラー映画も見れはするが、殴れば勝てる系脳筋なのでホラー映画見た後に一人で真っ暗な部屋に放り込んだら十秒で部屋ぶっ壊して出てくる。殴れないと怖いそうだ。ゲームは普通にコントローラー壊すのでそもそも話にならない。

 恋愛属性は攻め。守りにまわると決めた瞬間に彼女の恋の結末は決まっていた。実は結構性癖がエグい。

 

 白狼ハクロウ

 好きなものは走ることと速いもの。結構ロボットも好きな普通の男の子。4月の水澄さん誘拐事件、8月の水澄さん拉致事件で怪我してるので走れなかった時期はそれなりにある。多分一番苦労してる人。どんまい! 

 苦手なものは辛いものと人の話を聞かない人。美上さん、ユキカゼ、水澄さんの三人とも白狼にとって苦手な人間なはずだが、ちゃんと大切な友達として認識している。もしかしたら、彼が言う苦手なものとは照れ隠しの部分もあるのかもしれない。

 恋愛属性は守り。攻めることは苦手だが、守りに入ると持ち前の忍耐力と観察力からなかなか厄介。

 

 弓森コノハ

 好きなものは冒険小説と勉強。美上さんの影響でそこに漫画が加わりちょっと成績が落ちた。やめ時が難しかったようだ。

 苦手なものは騒音と運動。弓森さんは妖精だが、正確には風妖精となる。かなり運動能力はある種族だが、本人に運動神経がないので持て余しているのが現状。おまけにドジっ子属性がすこしある。

 風妖精の種族特性は風読み。ある一定の条件さえそろえば、風を辿って何かを追跡できる。

 恋愛属性はオールラウンダー。こいつはやばい。実は作中で一人こいつにやられてる。





完結見えてきましたね。
別紙のバレンタインは美上さんがオトされたルートです。分岐はもう分かりますよね。日記を見つけられなかった場合です。
あのルートは色々歪みがあるので上手くいきません。見えてる破滅にゆっくり進んでいくエンド。

やっとモブ男くんの設定出せた。


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19ページ目『take2.私の気持ちとあんたの気持ち』

 

 願いがあった。

 

 夜天に輝く月に良き明日を願うような、そんなありふれた願いがあった。

 特別でも劇的でもない当たり前の、けれど、当人たちにとってはとてもとても大切な、願いがあった。

 

『君が幸せでいられますように』

 

『貴方がもう泣かなくてもいいように』

 

 愛した者が愛した者を想って星に祈る、そんな願いがあった。

 

 結局叶わなかった、願いがあった。

 

 ステージの幕が上がる。

 天井に吊るされた照明が暗闇を切り裂き肌を光の熱が炙る。

 一斉に突き刺さる好機の視線。

 慣れ親しんだ情欲の目。

 灰色の民族衣装を思わせる簡素な布を纏った私を、この体育館に集まった数百の目が見ている。

 

 注目されるなんて慣れたものだ。

 だって、私は美少女だから。

 

 そう、私は美少女。

 誰もが振り向き、誰もが陶酔する美少女女子高生。

 私にオトせない男はこの世にいない。

 だから。

 

『孤独なサキュバスは願いました。誰かと一緒にいたい。独りは寂しい。くる日もくる日も、願いました。そんなある日、サキュバスが住んでいた深い森の中に、一人の少年が迷い込みます』

 

 ステージの反対側から歩いてくるモブ男を見定めて、唇を舐める。

 

 あんたの考えは分かった。あんたの理由も分かった。

 あんたがどうして私を受け入れないのか、分かった。

 

 だから、オトす。

 覚悟しなさい。ばかユキカゼ。

 サキュバスがどういう種族なのか、教えてあげるから。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 本当につまらない結末を迎えるのが『愛染のサキュバス』という絵本の物語だ。

 

 固っ苦しい文字がつらつらと書かれているそれはどこか抽象的な物語で、かと思えば何年何月に何が起きたと、まるで歴史の年表のように起こった出来事だけはきっちり載っていたりする。

 物語、というよりは歴史の資料じみた雰囲気すらある。

 一部では、これは実際に起こった事件をお伽話として先人が残したのではないか? と言われているが、真実は誰も知らない。

 

 ともかく、ぶっちゃけその結末は私は好きではない。

 

 サキュバスの少女は何でもできた。思いのままに男をチャームして、挙げ句の果てには国を乗っ取り、世界すら手中に納めかけた。

 男を完全な支配下に置くことが世界を征服することとイコールになる時代があったのだという。

 

 なぜ少女はそんな事をしたのか。

 深い森で独りきりで生きていた少女はある日、森に迷い込んだ少年に恋をする。

 初めて少女に温かさをくれたその少年に、愛した少年に『泣いて欲しくない』と思った少女は、少年が幸せになれる国を、世界を作ろうとした。

 

 結局、その目論見は愛する者を奪われた女たちの反旗によって潰えたわけだけど。

 

 少年も少年で、美しいサキュバスの少女に、初めて優しさと安らぎをくれた少女に惹かれていく。

 少年は何もできなかった。

 非力で、無力で、何の力もなかった少年に出来ることはたかが知れていた。

 けれど、好きな女の子の夢を叶えてあげたいという気持ちがあった。

 

 お互いがお互いを想いあっていた。

 問題は、お互いがお互いの気持ちに確信を抱けなかったことだ。

 

 少女は思った。

 チャームがなければ、少年はこんな自分のことを愛してくれないのではないかと。

 少年が泣くことがない世界を作る過程で、少女はとてもじゃないけれど、"善良"と呼べる存在ではとっくになくなっていた。

 

 少年は思った。

 チャームがなければ、自分は少女のことを愛していなかったのではないかと。

 少女が幸せになれるのならと、少年はとっくに"優しさ"を捨ててしまっていた。

 

 愛していると抱きしめ合う夫婦から夫を奪い取る。

 真実の愛だ、淫魔の誘惑には屈しないだ言っていた口から己への忠誠を誓う言葉が出るたび、夫を奪い取られた女から怨嗟の叫びが絞り出されるたび、少女は"愛"というものの不確かさをせせら笑っていた。

 

 けれど、だからこそ、少女は少年のチャームを解除することがどうしても出来なかった。

 チャームなんてなくても繋がっている男女を嘲笑う心に、一抹の情景が混ざった。

 

 少女をずっと見てきた少年は、自分の恋心が"自分のものなのか分からなくなった"。

 少年は確かに少女を愛していた。けれど、少女は変わった。少年も、変わった。

 かつての恋心と今の恋心が同じものなのか、少年に確認する術は存在しなかった。

 少年は、どこまで行っても、少女に魅了され続けるしかなかった。

 

 自分という存在へ魅了させ続け、自由意志を剥奪し、己へ都合の良いように染め上げることしか出来ないサキュバスは、こうやって生まれた。

 

 サキュバスへ縛りつけられ、行動を共にし、その人生を無理やり捧げられた被害者は、こうやって生まれた。

 

 それはまるで、燃える蝋燭の上にある天秤のような、歪な関係性だった。

 

 そんな関係は、少年の自殺という形で呆気なく終わりを迎える。

 

 少年がなぜ自殺をしたのか、どうして自殺が出来たのかは誰にも分からない。

 少女を咎めることのできない、罪の意識に耐えかねたのか。

 それとも、生きる意味がなくなったのか。

 はたまた、死ぬことで自分の愛を証明したかったのか。

 

 真偽はさておき、少年は死んだ。

 タイミングが良かったのか、悪かったのか。

 ちょうどその時に女たちは一斉に立ち上がり、戦い、そして愛を勝ち取った。

 目的の意味を失った少女はあっさりと負け、捕まり、殺意と害意、人々の怒りによって無残に処刑された。

 女たちによる拷問の後が全身に残るその死体は、とくにその顔は、文字にすることすら憚れるものだったという。

 

 これが『愛染のサキュバス』の結末。

 愛を信じることの出来なかったサキュバスと男の子の辿った道筋だ。

 

 陳腐な終わり方よね。

 ああいや、別に結末の是非を問うているわけじゃない。

 女の子として悲恋とすら言えない、ねじ曲がった恋の終着点に思うことはあるけれど、私が引っかかっているのはもっと別のところ。

 

 少女は胸を張れば良かったのだ。

 "自分は美少女なのだから、惚れるのが当たり前"なのだと。

 チャームのある無しに拘った時点で、それはもうサキュバスとして生き方を間違えている。

 

 私はそうじゃない。

 

 胸を張ってやる。高らかに叫んでやる。

 

 それが私だと。

 

「どうして、か。それは僕にも分からない。だけど、ここに僕がいる事が全てだ。──やっと、また君に逢えた」

 

 劇はクライマックス。

 物語において、もう二度と元の場所へは引き返せない、そのきっかけとなる大きな過ちを犯す事を決めた少女が、少年を引き離した。

 そんな自分を、見られたくなかったから。

 

 弓森さんの改変版では、引き離された少年がチャームを地力で打ち破り、少女を止めにくる。

 求めてやまなかった"真実の愛"を手にした少年と少女が幸せになっていくための、そんなハッピーエンドへの登り道。

 

 ここで私は、差し出されたその手を取ることで劇は終わる。

 信じられない、とか。夢みたいだ、とか。そんな事を言って、そして涙を流して、その腕の中に飛び込むのだ。

 良い脚本だと思う。みんなが幸せになれる、素敵な結末だ。

 

「だから、戻ろう。二人で一緒にいよう。僕にとっての"幸せな世界"は、君がいる場所だから」

 

 チャームがあるから本当の愛がないのなら。

 チャームのないそれは、きっと本当の愛だから。

 

 でも、だからこそ。

 

「──いいえ。私は、その手を取らない」

 

 その手を、拒絶した。

 

「──!?」

 

 台本と違う私の行動にモブ男が小さく動揺したのが分かった。

 ステージの舞台裏では、クラスメイトたちの困惑の空気が伝播してくる。

 弓森さんの動揺が、マイクに乗って僅かに波打った。

 脚本を知らない観客は、これから始まるクライマックスに息を呑んだ。

 期待を孕んだ空気。いい感じだ。その期待に応えてあげる。

 

 きっと、最高のクライマックスになるわ。

 

「……それでも。このまま君を行かせられない。帰ろう。またあの森で、二人で生きよう。今ならまだ引き返せる」

 

「いいえ。もう引き返せない。既に賽は投げられた。もう、結末は決まってる」

 

「……いいや。決まってない。僕はここから退かない。だから、決まってない」

 

「断言してあげる。あんたは退くわ。必ず」

 

「……僕にはもう、チャームは効かない。チャームがなくてなお、君のことが好きだった。君が欲しかったものは、この気持ちだったんじゃなかった?」

 

 確かに、それはサキュバスの少女が望んだものだ。

 そして、私の求めた答えでもある。

 

 

『美上さんはさ、僕が"チャーム出来ない人間"じゃなかったら、こうやって今の関係になれたと思う?』

 

 

 あのとき、私は何も答えられなかった。

 正確には、自分の中に答えはあったけど、それを口にすることが出来なかった。

 だって、それはモブ男の問いかけを肯定するものだったから。

 私は、チャーム出来る人間の男に恋慕することは間違いなくなかった。

 だから、何も言えなかった。

 それを肯定してしまえば、私とモブ男の6ヶ月が陳腐なモノになってしまう気がしたんだ。

 私のこの気持ちを"それはまやかしだ"と言われているような気がして、嫌だった。

 

 けれど。

 

 今の私なら、言える。

 それでよかったんだと。

 

「私が欲しかったのは本当の愛じゃない。そんなあやふやで、定義すら定かじゃない形ないものなんかじゃない。私が欲しかったのは、私が求めて抱きしめたくて独り占めしたくて、焦がれてるものは。最初からずっと一つだった。それは──」

 

 真実の気持ち? 本当の愛? 

 そんなものより、私にはもっともっと欲しいものがあるのよ。

 

「──あんたよ、ユキカゼ」

 

 人差し指を突きつけ、大胆不敵に笑ってやる。

 あいつが作った衣装の、可愛らしいスカートがはらりと揺れた。

 モブ男は、一秒、二秒、と目を閉じて、ゆっくり息を吐き出した。

 

「……それは違う。美上さんが求めてるものは、僕であって僕じゃない。……美上さんだって、分かってるはずだ」

 

 モブ男は私から視線を逸らし、俯いた。

 指先の震えを抑え込むように硬く拳を握りしめていた。

 

「僕じゃなくてよかったんだ。美上さんが言う好きになった人は"チャーム出来ない誰か"であって、"浅海ユキカゼ"じゃない」

 

「その誰かがあんただって言ってる」

 

「そうだよ。僕は、たまたま……本当に奇跡のような偶然で、その"誰か"になれた。でも、それはあくまで"誰か"でしかないんだ」

 

 だから、と。

 俯いたまま、モブ男は。

 

「美上さんと今よりも深い仲になれば、僕はきっと抗えなくなる。分かるんだ。そうなれば、そう遠くない未来で僕は君に"魅了"される。……そしたらさ、僕はその"誰か"ですらなくなってしまうんだよ」

 

 張り裂けそうなほど痛酷で、指先で触れると粉々に砕けてしまいそうな脆く弱々しい声だった。

 それは、モブ男をモブ男たらしめる、心の深く深く、根っこの方の、剥き出しの本音だった。

 そして、ありふれた恋心だった。

 

 好きな人の特別でいたいという、当たり前の想い。

 

 それだけでしかない。

 ないのに。

 私がサキュバスだから。チャームなんて力があるから。

 モブ男が人間だから。チャームが効きにくい体になったから。

 こんなにも、ねじ曲がってしまった。

 

「僕はそれが怖い。また、美上さんに認識すらしてもらえない日々が戻って来るなら、僕は一生"誰か"のままでいい。それが僕じゃなくて、この世界に何人、何十人いるうちの1人だったとしても、僕は……。僕は、君の……その特別の枠の中にいたいんだ……」

 

「……それ、普通女の子に言ったらドン引きものよ」

 

「分かってる。でも、美上さんはもう、知ってるんでしょ。……僕の部屋から、日記が無くなってた」

 

「……ええ。知ってるわ。全部ね」

 

「……だから、隠しててももう意味がないから。……それに、そんな僕でも、美上さんは"誰か"として特別な枠の中に置いてくれている。……隠す理由も、なくなった」

 

「……馬鹿ね」

 

「うん。それでも、僕はこの恋を失いたくないんだ」

 

 そう言って、モブ男は笑った。

 袖で脱ぐった目元は僅かに赤みがさしている。

 

 ……はあ。

 ため息が出てしまう。

 分かってたけど。日記で知ってたけど、実際に本人の口から聞くと、なんともまあ。

 馬鹿よ、本当に。

 

 私たち、2人ともね。

 

「"チャームできないから特別"。確かに、それが始まりだった」

 

「うん。そして、これからもだよ」

 

 違う。

 

「チャームできない男に興味をもった。……もっと言うなら、ムカついた。正直、私は最初、あんたを魅了して散々辱めてやろうと思ってたわ。そうやって躍起になってたら気付いたら半年経ってて、最初の気持ちも変わってた」

 

「うん。それも全部、君が僕を特別な誰かの枠に置いてくれたからだ」

 

 違う。

 

「告白して振られたとき、足元が抜け落ちるようだったわ。まさか、私が男に告白するなんて思いもしなかったし、振られるなんて天地がひっくり返ってもあり得ないと思ってた」

 

「嬉しかったのは本当だよ。でも、そうなれば僕は君の特別じゃなくなるから」

 

 違う。

 

 根本を勘違いしている。

 さっきから特別、特別って。

 ああ、もう。

 本当に。

 なんで。

 なんで……! 

 

「──好きだから! 特別なんでしょうが!!!」

 

 なんでそんな簡単なことが分からないのよ! 

 

「もう一回言うわよ。私が好きになったのは顔も名前も知らない、チャームが効かないだけの"誰か"じゃない!」

 

 この半年間、色んなことがあった。

 

 腹立たしいことがあった。

 楽しいことがあった。

 辛いことがあった。

 そして、ドキドキすることがあった。

 

 私がモブ男を知ったきっかけは、確かにチャームが出来ないという一点のみだ。

 その特別がなければ今のようになっていないというのは、確かにそうだろう。

 

 でも、私がモブ男を好きになったのは。

 私が浅海ユキカゼを好きになったのは。

 

 たった半年だと言う人もいるだろう。

 なんてことない、何処にでも転がってるような極々普通の半年だと言う人もいるだろう。

 

 でも、それは私にとって、とてもとても大切な半年だった。

 

 その半年で、私はユキカゼに恋をした。

 

「チャームが出来ないから特別? 安く見ないでくれるかしら。私の特別の枠の中にはね、馬鹿みたいな面倒くさい気持ち押し殺して、半年かけて私の特別の枠の中に入ってきた男しかいないわよ!」

 

 きっかけが全てじゃない。

 きっかけは、あくまできっかけでしかない。

 

「一緒に過ごした時間があるから! 積もった気持ちがあるから! 私のこの想いは、たかが"チャームできない"なんてだけで溢れ出すようなものなんかじゃ決してない!! あんたが私に声をかけたあの日から今日までの、あんたが私に注ぎ続けたモノがあるから"現在"のこの気持ちがあるのよ!!」

 

 それぐらい気付け、ばか。

 

 あー、喉がひりひりする。

 大きな声を出したせいだ。

 ふと周囲の気配に気を配れば、観客席がどよめいていることに気が付いた。

 今までの劇の流れと変わったことをやっている事に気が付いたのだろう。

 まあ、急に流れ無視した個人的なやりとりを始めれば困惑もするでしょうね。

 

 劇を無茶苦茶にしている自覚は、ある。正直、みんなには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 それでも、ここで言うしかなかった。

 モブ男が絶対に逃げられない、この場所で言うしかなかった。

 

 あんたは本当にどうしようもなくなると、答えを出さずにその場から離れることを選ぶ。

 モブ男の家に行ったあの日、私から離れたように。

 まるで"答え"を聞きたくないとでも言うように、あんたは答えを出さないことを選ぶ。

 

 でも。

 

 責任感の強いあんたは、自分から劇を放り出したりなんてできないでしょ? 

 

 分かるわよ。

 この半年、ずっとあんたを見てきたんだから。

 好きな人のことだもの。よく知ってるし、もっと知りたいって思うわよ、私だって。

 

「……っ」

 

 モブ男は唇を噛み締めていた。

 その心の内側でどんな葛藤が行われているのか。

 

 息が詰まりそうな時間だった。

 いいえ、ちょっと違うわね。

 胸が飛び出してしまいそうなぐらいドキドキして、息が詰まってしまうような、時間だった。

 

 唇を噛み締めていたモブ男は、片手で自分の胸に触れ、息を吐き出す。

 そして、ポツリと。

 

「美上さんは、凄いね。あんなに強く誓ってたことなのに……こんなにも、揺さぶられた」

 

 そう、言って、

 

「……でも、ごめん。僕は、どうしようもないぐらいに……臆病だったみたいだ」

 

 今にも泣き出してしまいそうな笑みを浮かべていた。

 

 あっ、と、観客席から小さな声が聞こえた。

 女の子が告白して、振られたように見えたからだろう。

 

 実際、私は振られてるわけだし。

 

 ……痛い。

 覚悟は出来てた。こうなるのは、分かってた。

 でも、面と向かって言われると、胸の中の、奥の方が痛かった。

 

 私はただ、こみ上げてきそうになる熱い何かを無言で飲み下していた。

 大丈夫。

 そうよ、なんて事はない。

 

 だって、ここがスタートラインだもの。

 

「やっぱり、こうなるのね」

 

「……僕は」

 

 モブ男は自分の足元を見ていた。

 まるで、私から目を逸らすように。

 

 私を、見ないように。

 

 それは罪悪感や……もっともっと、別の何かがそうさせたのだろう。

 客観的に見ても、振った相手をまじまじと見ることができなくても普通の反応だし、そもそも女の子をそんな風に凝視するなんて万死に値する。

 当たり前の、普通の反応。

 

 それが、無性に腹立たしかったから。

 

 ふつふつと込み上がってくる熱いナニカ。

 さっきまでの痛みを伴うそれとは違う、もっともっと熱いそのナニカが、今にも吹き出そうと私の中を暴れまわっている。

 

 そうだ。

 それは、私が私であるが故のもの。

 

 私がサキュバスだから。

 私が、美上サキだから。

 

 (サキュバス)が、(美上サキ)が、私に叫んでるんだ。

 

「ねえ。一個、思い違いをしてるわ」

 

「思い違い……?」

 

「私は、私の答えを出した。私の気持ちを、想いを伝えたわ」

 

「……うん」

 

「あんたの答えを聞いた。あんたは答えた。普通ならこの話はここでおしまいよ。でも──どうしてあんたは、自分に主導権があると思ってるの?」

 

「……え?」

 

 え? じゃないわよ。

 あんたの目の前にいるのが誰だと思ってるのよ。

 私がこの半年であんたを知ったように、あんただってこの半年で私を知っていったのでしょう。

 なら、分かるわよね? 

 

 自分が、誰に目をつけられたのか。

 

「──サキュバスが、気に入った雄をみすみす逃すわけないでしょう」

 

 瞬間、今まで限界まで抑えていた"魅了"の力を解き放つ。

 会場の隅から隅まで走り抜けたチャームが次々と男を支配下にしていく。

 たった一人の雄を除いて。

 

「美上さん!? 何を……!」

 

「サキュバスが男を誘惑する。当たり前のことをしているだけよ。あんただって知ってるでしょう」

 

「知ってるけど! いやでもこんな無差別にチャームなんかしたらだめだ!」

 

「だめだから、どうなの?」

 

「……止めるよ、あの時のように。僕が美上さんを想う気持ちと、これは別のことだ」

 

 意志のこもった瞳が、私を見つめていた。

 

 ……ああ。

 そういえば、最初もこんな感じだったかしら。

 私のことが好きで、私に気に入られたいくせに、自分の中の善性は絶対に曲げられない。

 笑っちゃうぐらい不器用な生き方ね。

 あんたのそういうところも、まあ、好きだけど。

 

「いつもの美上さんならこんな、他人の気持ちを踏みにじるようなチャームはしなかった」

 

「女の子の告白を袖にしたあんたが言うの? ……まあ、さっきチャームした中には恋人や夫婦もいたみたいだけど。……けど、いいのかしら、そんな余裕ぶってて」

 

「え?」

 

「忘れてるみたいだから教えてあげるわ。チャームは己に惚れさせるサキュバスの種族特性。チャームした対象の強制力は突き詰めれば"好きな人のために何かがしたい"という好意の欲求よ。募らせる想いが強ければ強いほど、強制力はより強くなる」

 

「それは知って……」

 

「私ぐらいになると本人が拒絶することも実行させられるんだけど。それはともかく……さっき、私がチャームに乗せた"お願い"は1つ。──私の恋を応援して、ってね」

 

「……?」

 

 分かってない顔ね。しょうがないから、教えてあげる。

 

「あんた、言ったわよね。私と"そういう関係になったらきっと抗えなくなる"って。……ねえ、あんた、私とどんな事する想像してそう言ったの?」

 

「な、あっ!? いやっ、別に僕はそんなこと考えてたわけじゃっ!!」

 

「隠さなくてもいいわよ。男ってそういう生き物だし……あんたがむっつりなのも知ってるし……」

 

 胸とか脚とか、たまに視線感じてたし……。

 

「それに……私だってあんたとそういうこと、したいって思うし。まあ、ともかく。今からやることはとてもシンプルよ」

 

「待って!? 僕はむっつりじゃ……っ!?」

 

 モブ男が抗議の言葉を言い切る、その前に。

 ステージ下から飛び上がってきた男が勢いをそのままにモブ男に突っ込んだ。

 すぐさま反応したモブ男が男の背に片手をつき、そこを視点に体を浮かせ飛び越えるように躱す。

 

「急に何……が……え?」

 

 着地し、辺りを見回したモブ男の表情が凍りついた。

 

 なぜかと言うと。

 

「うおおおおおお! 美上ちゃんの恋を応援するぞおおおおおおお!!!」

 

「「「おおおおおおおおお!!!!!!」」」

 

 百人に迫る男たちが我先にとステージに押し寄せてたから。

 

「何が起こってるの!?」

 

「言ったでしょ、シンプルだって。私はあんたを魅了したい。そして、魅了する方法はあるけど、私一人だとそれが出来ない。だからチャームに乗せてお願いしたのよ。私の恋を応援して、と」

 

「それでなんでこうなるっ、のっ、と!! あれ!? なんか僕を取り押さえようとしてない!?」

 

「してるわよ」

 

「だからなんで!?」

 

 次々と飛びかかる男たち相手に乱取りみたいになってるモブ男に、私は自信満々に──告げるつもりだったけど、実際は多分、真っ赤な顔をして言ってたと思う。

 

「わ、私があんたにキスするからよ! 覚悟することねっ、ばーか! サキュバスを、私を本気にさせたことを後悔しても遅いんだから!」

 

 だってあんた、"そういうこと"をされたら、チャームに抗えないんでしょ? 

 

「……でも、私のファーストキス、こ、後悔なんてしたら許さないから」

 

「横暴すぎない!?」

 

 ええ。

 でも、それが私なのよ。

 

 好きな男を魅了する。

 

 それが、サキュバスの恋の仕方。

 

「観念なさい! 今から私は、あんたに……大好きな男の子に(ユキカゼを)キス(チャーム)するんだから!」




 登場人物紹介。

 美上ユキ。
 お姉ちゃん。好きなことは気持ちいいこと。嫌いなことは気持ちいいこと。
 サキュバスを疎みつつサキュバスである事を受け入れていたサキと違って、ユキはサキュバスである自分を嫌悪している。なのに、サキュバスとしての欲求に抗えない美上ユキを憎んでいる。
 極度のストレスに晒された心は防衛本能として、理想のユキを作り出してーー。
 サブカルチャーに傾倒したのは、物語の女の子が綺麗だったから。ユキのロマンチスト嗜好の本質は、夜空の星の雲を眺めるような、絶対に手に入らないと思い込んでるものに対する羨望。
 恋人関係が長続きしないのにも、ある理由がある。
 水着売り場でサキが帰らなかった場合、ユキのルートに入る。

 美上サユリ。
 お母さん。好きな人はお父さんと娘たち。週一のお墓参りを欠かしたことはない。
 高2のときにユキを妊娠して中退。相応に苦労もあったが、専業主婦として幸せに暮らしていたところに、お父さんに病気が発覚。
 チャームの応用でお父さんの病の進行を抑えていたが、二歳のサキが初めて行使した、文字通り規格外のチャームでお母さんのチャームが上書きされてしまい、お父さんの病状が一気に悪化。そのまま亡くなった。
 サキはこの事を覚えていないし、ユキは何となく察してはいるが絶対に口には出さない。
 お母さんの日記はもう何処にもない。

 あと1話か2話で終わり、かな。
 いつかの感想返信でお姉ちゃんルートが一番キツいと思うって言った理由です。
 美上さん家の家族問題がメインになります。


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20ページ目『告白』

 

「あんた私のこと大好きなんでしょ? 大人しく言うこと聞きなさい!!」

 

「そういうわけにはいかないっ! って! 話をしたんだよ!!」

 

「ほんっっっと面倒くさいわね! あんた本当面倒くさいわ!」

 

「ごめんよ! でも、それでも僕は僕を曲げるつもりはない! 僕が、君の特別でいるために!!」

 

「このっ、聞かん坊!! あんたがそうやって意地張ってても、私は全部奪っていくわよ!! 好きな男は必ず魅了する。それがサキュバスだもの!!」

 

「そういうサキュバスみたいなやり方、美上さんは好きじゃなかったんじゃなかったっけ!? それに、魅了して無理やり手に入れた気持ちに何の意味があるんだ!」

 

「いや、無理やりも何もあんた私のこと死ぬほど好きじゃない」

 

「〜〜ッ! それは! そうだけど!!」

 

「両想いの二人が結ばれてハッピーエンド。物語はそれで終わりよ。だから、いい加減に、その捻じ曲がった頑固な意地張ってないで、私に魅了されろ!!」

 

「それは出来かねる相談かなッ!!」

 

 ステージで想いがぶつかる。

 少女の……そして、少年の恋を応援したいという気持ちでサキュバスの使役下に置かれた男たちが、少年を抑えようとしては躱されて、投げられていた。

 それも当然だろう。

 少年は混ざり者であるとはいえ、その混ざったモノは水妖精の性質。

 数多の種族の中でも、フィジカルで水妖精に勝る種族などそうはいない。

 

 少女の魅了があくまで"お願い"に留められている以上、自身の負傷を度外視した特攻を行う男はおらず、それが少年に対処の余裕を与えていた。

 明らかな千日手。

 何かが起きない限り、この状況は動かないだろう。

 

 もはやお互いのことしか見えていない少年と少女。

 魅了によって限定的に思考回路が舗装されている男たち。

 

 この会場で、何かを起こせるほど冷静なのは、サキュバスに魅了されていない女たちだった。

 

 水澄イズミも、その一人だ。

 

「ぷっ……くはっ、あははは!」

 

 水澄は笑っていた。

 それはもう愉快だと言うように、笑っていた。

 笑いながら、泣いていた。

 

「覚悟決めてやることがこれって、馬鹿なんじゃないですか! あはははは! ほんとに、ぷっ、もう、今どきこんな、公開告白って……! くふっ、見てる方が恥ずかしいですよ!」

 

 多感な高校生に、惚れた腫れたの話は共感性羞恥を煽る。

 その気持ちが大きければ大きいほど、恥ずかしくなる。

 他の何よりもあんたが欲しい、だなんて、よくもまあ真剣に言えたものだ。

 ずっと君の特別でいたい、も中々いい線をいっている。

 本当に本当に、なんて恥ずかしい二人なんだろう。

 そして、

 

「ほんとに、もう、ぷふっ、……はあー、もう……眩しいですね」

 

 夜空の星を見上げるように、水澄は二人を見ていた。

 

「そんなの見せられたら、もう、諦めるしかないじゃないですか」

 

 いいや、違う。

 最初から諦めていた。

 ただ、区切りがついた。

 今日、この日。

 水澄イズミの中で、ひとつの区切りがついた。

 

 思い出と感情と、あと、甘くて苦い心を。

 大切に箱にしまいこんで、鍵をかけた。

 

 きっと、もうこの箱が開くことはない。

 箱は空かない。そして、開かないのだ。

 

「よし!」

 

 こぼれ落ちた涙を拭って、水澄は立ち上がった。

 

「あまりにも小っ恥ずかしくて見てられません。しょーがないから、手を貸してあげますよ、淫魔。……いいえ、サキ」

 

 あのステージに立っているサキュバスは、かつて水澄が言えなかったことを、馬鹿みたいに真っ正直に叫んでいるから。

 

 応援のひとつぐらい、してやりたくなったのだ。

 

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

 決着がつかないことを早々に確信していた。

 

 私の支配下にある男たちが飛びかかっては往なされていく。

 分かってはいたが、やっぱり水妖精の性質の影響を受けているあいつを拘束するのはかなり難しいみたい。

 それでもこのまま続ければいつかは捕まえられるかもしれないけど、そういうわけにもいかなかった。

 

「くっ……あったまいたい……!」

 

 ふらつきそうになる脚を、唇を噛んで踏ん張る。

 自由意志を奪わず、あくまで"私のためにこうしたい"と思ったその背中を押してやる程度の出力に留めたチャーム、それが百数十人分。

 いつもの出力に任せた完全支配下に置くそれならともかく、慣れない繊細な調整を要求され私の頭は鈍く曇りかかってきていた。

 

 例えるなら、息を止めている感覚。

 肺に溜め込んでいる空気を少しずつ、少しずつ出すのはとても苦しい。

 楽になるためには一気に空気を吐き出してしまうほかない。

 それをグッと堪えて、私は少しずつ空気を吐き出していた。

 

「だいたい! こんな美少女に好きだって言われてるんだから、その幸せをありがたく噛み締めて言うこと聞きなさいよ!」

 

「幸せは噛み締めてる! 正直今なら空だって飛べそうだ! だけど、それは"現在"だからなんだ!!」

 

「わっからない奴ね! 気付いてるの? あんたがそうやって拒絶するってことは、私のことを信じてないって言ってるも同義なんだけど!?」

 

「信じられるわけ! ないじゃないか!! だって僕は、一度君に忘れられているんだ!!」

 

「その時は私はあんたのこと路傍の石ころほどにも思ってなかっただけよ!! 今は違うって何回言わせるのかしら!? ああッもう!! 私だって恥ずかしいのよこれ!?」

 

「正直に言えばもっと聞きたい」

 

「キスする前に絶対殴る!!」

 

 声を張り上げているのは、気持ちで負けないためと、弱気になりそうな自分を蹴っ飛ばすため。

 何かに本気で打ち込んだことが少ない私だ。

 言い換えれば、本気になるまえに辞めてしまうことが多かった。

 諦め癖があることくらい、自分がよく分かっている。

 でも、これだけは、これだけはどうしても諦めたくないから。

 負けるなと、自分を鼓舞するように。

 叫んで、叫んで、声を高らかに。

 この叫びに負けないぐらい、私の気持ちは大きいんだ。

 本気の恋は、大きいんだ。

 

 それでも、その気持ちだけで全てがうまくいくほど現実は優しくない。

 

「──っ! ここ、だ!!!」

 

 刺すような頭痛に反射的に瞼を閉じる。

 チャームが鈍った。

 いや、違う。

 いっぺんにモブ男に群がって同士討ちにならないように統率していた支配が乱れ、我先にと男たちが飛びかかったのだ。

 

「──ぁ、まず──ッ」

 

 思考が声として出力された時には、もう遅い。

 飛びかかる男たちを高く、高く跳躍することで躱したモブ男が、包囲網の抜け目に向けてスタートを切った。

 あいつの足の速さは知っている。ずっと目で追ってたんだ、よく知ってるわよ。

 だから。

 分かる。

 わかってしまう。

 止められない。

 今、ここで、モブ男を走らせれば。

 

 止められる人なんていな──。

 

「待っ──」

 

 まるで、縋るように。

 女が、男に"行かないで"と泣きつくように。

 届くわけなんかないのに、咄嗟に伸ばした手に振り返ることすらなく。

 モブ男は、床面を踏み砕くほどの加速をして、

 

「──ここ、妖精さん通行注意ですよ、ユキカゼくん」

 

「──ぇ? 水澄さ、んんぅっ!!?」

 

 刹那、周りの男たちを吹き飛ばしながら突進してきた水妖精にぶん殴られ、モブ男がぶっ跳んだ。

 

「──だいぶ私の性質を使いこなせているようですが、まだまだですね。私ならあれぐらい軽く交わしてカウンターを叩き込んでいますよ。精進が足りません」

 

 肩に掛かる水色の長髪を片手で払いながら、傲慢不遜なほどに堂々と胸を張って立つその女は、唖然としている私を一瞥する。

 

 そして、憎たらしい……本当に本当に、憎たらしい透かした笑みを浮かべた。

 

「ここでも、私の助けが必要ですか?」

 

 その、一言に。

 カッと頭が熱くなるのを感じた。

 

 それが望むものであったかはともかく。

 確かに、アンタの存在が欠けていれば、この恋は初めから成立すらしていなかった。

 だけど。

 今は違う。

 今は違うんだ。

 アンタの助けなんかなくたって、私は! 

 自分の恋は、自分で守るのが女の子でしょう! 

 

「要らないわよ! 黙って見てなさい!!」

 

 決意を言葉に、チャームを乗せた言霊を。

 アイツの助けなんかいらない。

 助けてもらうわけにはいかない。

 好きな男は、自分の手で手に入れる。

 頼まれたって手伝わせてやるもんか!! 

 

 モブ男は、ユキカゼは、私の男だ!! 

 

「……ふふっ。そうですか。じゃあ、私はこれで失礼します。文化祭、まだ回ってないところありますし! こんな馬も食べないような痴話喧嘩に付き合うのも疲れるんですから。……ばいばい」

 

 ひしめき合う男たちを軽々と越え、水妖精は体育館の外へ姿を消した。

 

「いっつ……、思いっきりやったな、水澄さん……!!」

 

 視界の隅で、モブ男が起き上がる。

 派手にぶっ飛ばされてたけど、しっかりと立っているその様子にダメージは見受けられない。

 いや、回復してるのかしら。

 どっちでもいい。

 やる事は変わらない。

 

「くっ……また逆戻りか。でも、何度やっても変わらない!」

 

 その通りね。

 このまま同じことを続けても、きっと同じ結果になる。

 水妖精がいなくなった今、今度こそモブ男は走り去ってしまう。

 

「でも、だから同じことはしない。焼き直しにはさせない」

 

「……今度は、この人たちを完全支配するの? 確かに、そうすれば僕は遠からず捕まるかもね」

 

「……やってもいいけどね。でも、それをやる私が、アンタは好きなの?」

 

「美上さんを好きだって気持ちは、きっと何があっても揺らがない。僕の倫理観が見咎めることとそれとは、また別の話だ」

 

「ばーか、違うわよ。アンタが私のこと好きなのは当たり前よ。私が言ってるのはね──」

 

 そこで、大きく息を吸って、

 

「それをしない私を、アンタはもっと好きになるってことよ!」

 

 好きな人をもっともっと自分に夢中にさせたい。

 そう思うのって、きっと普通のことよね。

 そして、好きな人を夢中にさせるために頑張れるのも。

 女の子なら、きっと当たり前のことなんだ。

 

「──っ!?」

 

 がくん、とモブ男が膝をつく。

 その隙を逃さず一人の男が飛びかかるが、簡単に片手で往なされてしまう。

 逃すものか。

 

 息をしろ。

 空気を肺に取り込め。

 想いを言葉に込めろ。

 もっと、もっと、もっともっともーっと!! 

 いい、よーく聞いてなさい。

 私は! アンタのことが! 

 

「大好きよ、ユキカゼ!!」

 

「うぐぁ、ぁっ!? ま、まさか、これだけの人数のチャームを調整しながら、僕だけに本気のチャームを……!?」

 

 正解。

 流石にわかるわよね、アンタなら。

 何回も何回も、魅了してやろうってアンタにチャームし続けてたわけだし。

 でも、分かったからって対処できるものでもないでしょう? 

 

「好き。大好き。夜寝る前に、もし付き合ったらって妄想して、ドキドキして寝れなくなっちゃうぐらい好きよ!!」

 

「──ちょ、まっ、嬉しい! 嬉しい、けど! 〜〜ッ!! これ、まず──ふん!!」

 

「ユキカゼの手が好き。私よりも大っきくて、ざらざらしてて、でも優しく私の手を握ってくれた手が好き! ユキカゼの目が好き。しょうがないなあって笑ってるときの優しい目が好き。真剣なときの瞳がカッコよくて好き。見ないように見ないようにしてるけど、チラッて私の体見ちゃうときのえっちな目も可愛くて好き!!」

 

「っ、ぅ〜〜ッ!! やば、これ、なんで、今まで1番、気を抜いたら持っていかれ──うわぁ!? やめ、男の人たちに対処する余裕、が!!」

 

 あら、忘れたの? 

 チャームについて勉強したんだから、覚えてなさいよ。それを抜きにしても、好きな女の子の種族の一番の特性なんだから。

 

 種族、サキュバス。

 その種族特性であるチャームには、生まれ持っての素質とは別に、より強力にするための方法がある。

 

 それは、性的に興奮させること。

 チャームする対象が自身に性的な関心を向けていればいるほど、チャームは強力に作用する。

 肌の接触面積が大きければ大きいほど強くなるのも、そういう理由だ。

 

 じゃあ、今の状況はどうなのだろう。

 

 私の格好は劇の衣装。

 しっかりとした生地のそれは丈の長い質素なドレスのようなもので、私が美少女である事を加味してもとてもじゃないが扇情的な見た目とは言い難い。

 そして、私はモブ男を取り押さえたくてこんな事をしているわけだから、肌の接触面積なんてゼロだ。

 

 それなのに、どうしてか。

 ……ふふ。どうしてでしょうね。

 ねえ、どうしてだと思う? 

 どうしてアンタは、今の私のチャームがこんなにも強烈に効いてるんだと思う? 

 

 理由はもちろんある。

 まあ、なんというか。

 一言にまとめてしまうのなら……アンタ、私のことどんだけ好きなのよってとこかしらね。

 

 チャームに抗っているのだろう。

 男たちを躱しながら、しかし意識を保つために歯を食いしばるモブ男からはそれ以上の余裕が消え失せている。

 このままいけば、そう時間もかからず取り押さえられる。

 

「──ぁ、頭、いた、ぃ」

 

 問題は、私が保つかどうか。

 モブ男に全力全開のチャームをかけつつ、他の男たちをチャームしすぎないようにコントロールするそれは、想像を絶するほどの負担があった。

 ホースから思いっきり水を出して的に当てて、その水飛沫を全て狙った場所に当てているような、そんな馬鹿げたイメージが頭に浮かぶ。

 熱を出したときのように頭が茹だり、脳が溶けてしまいそうな感覚。

 いや、もう溶けてるかもしれないわね。

 だって、頭が馬鹿になってないと、こんな恥ずかしいこと……言えないもの。

 

「頑張り屋さんのあんたが好き! 誰かのために一生懸命になってるあんたが好き! 頑張り過ぎちゃうのは心配だけど、正直馬鹿じゃないって思ったけど! それでも、そうやって頑張り過ぎちゃうところも大好きなの!」

 

「くっ……るっ、っ!!」

 

「好き。大好き。きっと、世界で一番……ううん、私が生きている限り、ずっと! 私はあんたを愛してる!」

 

 ねえ。

 私は、私の気持ちを伝えてるよ。

 心の奥の奥の、本当の気持ち。

 本当は、誰にも聞かせたくない、そんな気持ち。

 だって、恥ずかしいだもん。

 それに、独り占めしたいんだもん。

 私があんたを大好きだって気持ちを、私があんたを愛してるって気持ちを、ホントは他の誰にも、爪の先ほどでも渡したくないんだよ。

 あんただけに聞いてほしい、そう思ってるんだよ。

 

 あんたはさ、どうなの? 

 

 私の告白を聞いて、あんたはどう思ったの? 

 

 あんたが言った、私の特別じゃなくなるのが怖いっていうの、分かるとは言えない。

 あんたがなんでそんなに怯えてるのかも、本当の意味では私は分からない。

 私はきっと生まれた時から特別なサキュバスだったから。

 この世界に生きる男全ての"特別"に、私は無条件で成れてしまったから。

 あんたが泣きそうな顔で言った、私の特別で居続けたいって願いも、心の奥底の本音なのは間違いないんでしょう。

 

 でもさ、本当はそれだけじゃないわよね。

 

 分かってるんだよ。

 伝わってるんだよ。

 

 だって、私はサキュバス。

 男を惑わし、男を魅了する淫魔。

 

 男の心を手玉に取る、そういう女だ。

 

 口ではどんなに否定したって。

 どんなに受け入れられないと私を遠ざけたって。

 

 私みたいに、胸の奥が、今にも張り裂けそうなほどドキドキしてるって。

 私と同じぐらい、心臓が口から飛び出そうなほどきゅうぅて苦しいんだって。

 

 バレバレなんだから。

 

 こういうの、口と違って体は正直だなって言うのかしら。

 

 まあ、なんでもいいや。

 とにかく、私が言いたいのはさ。

 私はこんなにもあんたが好きで、あんたも私のこと、こんなに想ってくれてるんだから。

 だから、いい加減──

 

「──観念しろっ! ばかユキカゼぇ!!」

 

 叫んで、走った。

 息を切らして、全速力で前へ。

 それと同時に、男たちがモブ男の逃げ場を塞ぐように人の壁を作り上げる。

 モブ男まで、一直線の道が出来た。

 私は走るのが遅いけど、体育館のステージなんだから端から端まで一瞬だ。

 モブ男の背中目掛けて、私は着地のことなんか全く考えずに飛び込んだ。

 

 完璧に統率された男たちが、逃げようとするモブ男の動きを油断なく抑え込んで、その場から一歩も動かさない。

 飛び込んでくる私に気付いたモブ男が振り返っても、もう遅い。

 私たちは抱き合ってもつれあうようにして、ステージ裏へ転がった。

 

「あ、危な! 何考えてるんだ! 僕が受け止めなかったらどうするつもりで……!?」

 

「絶対に受け止めてくれるって、信じてた」

 

「そ、そんな理由で──ぃい!?」

 

 モブ男の体がビクン、と跳ねる。

 

「こ、これ……まさ、か……!?」

 

 あ、気付いた? 

 まあ、気付くわよねそりゃ。

 

「あ、待って動かないでよ。あんたの腰に尻尾巻きつけてるから、今急に動いたら、多分私は思いっきり引っ張られてごつんって頭を床に打ち付けるわよ」

 

「捨て身じゃないか……!」

 

「尻尾を握って取り外そうとするのもダメよ。それやられると、私、止まらなくなるから」

 

「いやそんなこと言われても……!」

 

「いいの? 私、ぐっずぐずに惚けちゃうけど。きっと、無自覚に此処にいる男たちを誘惑して、色々と卒業しちゃうかも」

 

「……それは、ずるいよ美上さん」

 

「あ、辞めちゃうんだ。ふふ、可愛い」

 

 ぱたん、とモブ男の腕が力なく垂れる。

 私は、背中に回した両腕にぎゅうっと力を込めた。

 

「ねえ、聞こえるかしら。私、こんなにドキドキしてる。こんなにもドキドキするぐらい、あんたのことが好きなのよ」

 

「……自分の心臓の音がうるさすぎて、分からないかな」

 

「嘘ばっかり。だって、私に聞こえてるもの。あんたのドキドキ」

 

 仰向けになっているモブ男の上に重なるように、私の体がある。

 重なった胸と胸から溢れる心臓の律動が、共鳴するように早鐘を打っていた。

 

 ステージ裏は薄暗くて、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだ。

 さっきまでチャームしていた男たちがステージ裏まで入ってくることはない。

 今頃は、体育館の外へ全員出ているだろう。

 今此処には、私とモブ男の、2人だけ。

 

「……僕はさ」

 

 ポツリと、モブ男が小さく息を吐いた。

 

「……怖いんだ。どうしようもないぐらい、怖い。美上さんの気持ちが変わって、僕から関心がなくなってしまうのが怖い」

 

 ええ、知ってるわ。

 

「……日記を見られてるから言うけどね。僕は、この学校に入学したときは脳が壊れてた。脳の人を記憶する部分が壊れてて、誰かを覚える事が出来なかったんだ。……家族は、事故の影響だって言ってるけど、水澄さんに助けられた時に……昔のことも全部、思い出してる」

 

 穏やかな声音だった。

 凪の海のような、静かな声。

 けれど、そこに込められていたのは、モブ男のドロリとした重い感情。

 

「つまらない話だけどね。告白されて女の子と付き合い始めた男は、馬鹿だったから、舞い上がった。男は女の子を助けるものだって、この子は絶対に僕が守るんだって。笑っちゃうでしょ。きっと、疲れるし、ウザかっただろうね。だって、女の子が何をするにしても、それを助けたがってた。それが相手を大切にすることなんだって、思い込んでたんだよ」

 

「……とんでもない自己中ね、そいつ」

 

「うん。とんでもない自己中だ。だから、愛想を尽かされるのも、当然だったんだ。……気付いたら、女の子は先輩の男の人と付き合ってたよ」

 

「……別れたの?」

 

「ううん。別れてはなかった。男は疲れるウザいやつだったけど、それでも、周囲の目には彼女を大切にする人に映ってたから。そんな男を一方的に振ったら、周囲の目がどうなるか……。他人からの評価を気にする、そんな子だったからね。そうでなくても、男が女の子を責めることなんて、できやしないんだよ。原因を作ったのは、男の方なんだから」

 

「……そう」

 

「でも、馬鹿な男はそれが分からなくてさ。先輩と女の子がキスしてるのを見たとき……裏切られたって、そう思ったんだ」

 

 笑っちゃうでしょ? とモブ男は自嘲する。

 私は、黙って話を聞いていた。

 

「好きだったんだ。うん、好きだった。だから、胸が張り裂けそうなぐらい苦しくなって、頭の中には女の子を責める言葉ばかり浮かんでは消えて、心がぐちゃぐちゃになりそうだった。自分に原因があるかも、なんて、ちっとも考えずにね」

 

「……」

 

「苦しくて吐いて、胸が痛くて泣いて、女の子との思い出が辛くて……こんなにも傷付くのなら、忘れてしまいたいって、そう思ったんだ。そうやって、俯いて歩いてたとき……先輩と女の子が、車に跳ねられそうになっているのを見た」

 

「……ああ、事故って、そういうことね」

 

「うん、そういうこと」

 

「あんたらしいわね」

 

「どうかな。そのときの男が何を考えてたなんて、僕にも分からないよ。ただ、その時……女の子を助けなきゃって、そう思ったときには、体が動いてた」

 

 その後の結末は、本当に呆気ないものだ。

 先輩と女の子を突き飛ばした男が代わりに車に跳ねられて、その時、脳が壊れた。

 きっと、直前に女の子のことを忘れたいと……"人との記憶"を残したくないと強く思っていたことも、無関係ではないんでしょうね。

 

「その後は、美上さんも知っての通り。生きていれば、人の記憶の大部分は誰かとの記憶になる。それが全部抜け落ちた僕は、生きているけど死んでるようなものだった。……そんな僕が、美上さんに出会って、また、恋をした」

 

「……当たり前よ。私だもの」

 

「うん、そうだね。美上さんじゃなかったら有り得なかったんだから。……でもさ、美上さん。だからこそ……記憶を取り戻した僕が、どれだけ"好きな人から好意を失う"ことを恐れたのか……分かるでしょ?」

 

 ふぅ、と息を吐く。

 長いようで短い独白。

 モブ男があんなにも私の気持ちを拒んだ理由の、その根っこの部分。

 恋愛に対してトラウマを抱えてもおかしくなかったモブ男が、それでもまた胸に抱えた大好きの気持ちを、大切に大切に、しまい込んでいた理由。

 

「……なんで、今になってそんな話を?」

 

「うーん……そうだね。なんというか……まあ、同情を誘おうとしました。だって今の僕、もう美上さんに見逃してもらうしかないし」

 

 ……まあ、うん。

 下の方とか、ちょっと反応してきてるもんね、あんた。

 体が重なり合ってるんだから、サキュバスじゃなくてもそんなの分かる。

 モブ男が落ちるのは、正直もう時間の問題。

 キスしてもしなくても、最終的にはモブ男が私に魅了されておしまいになる。

 

「だから……お願いします、美上さん。僕を……僕を、まだ、貴方の特別で居させてくれませんか」

 

 でも、それじゃあ意味がないのよね。

 

「嫌よ」

 

 私は、きっぱりと断言した。

 

「……それは、どうして?」

 

「嫌なものは嫌だからよ」

 

「……好きな人のお願いの一つぐらい、叶えてほしいなあ」

 

「あんたがそれ言うの?」

 

「もうなりふり構ってられないし」

 

「嘘」

 

「嘘じゃない」

 

「嘘よ。だって、だったらあんたは私を振り解いて逃げればいいんだもの」

 

「逃げられないようにしておいてどの口が言うんだ……」

 

 だーかーらー。

 

 私が怪我をすることが逃げられない理由になる。

 そうなってしまう時点で、あんたはもうどうしようもないくらい……。

 

「だいたい、同情を誘うつもりでさっきの話をしたのなら、あんたは致命的に間違ってるわ。あれで湧き上がるのは同情じゃなくて怒りよ」

 

「え」

 

「え、じゃないわよ。当たり前でしょう? なんで好きな人の口から私じゃない女の初恋の話を聞かされなきゃ何ないのよ。ふざけないで」

 

「お、鬼だ……」

 

「サキュバスよ。それに、それだけじゃない」

 

 私は、大きく息を吸って、

 

「私は美上サキだ! 名前も知らないあんたの過去の女じゃない! 私の気持ちを、私の恋を、私の愛を! 何よりもこの私を! 他の女と一緒にすんなっ!! ばか!!!」

 

「──ー」

 

 だん、と強くモブ男の顔の横の床に手をつく。

 思ったより勢いよくやりすぎた。

 手がヒリヒリする。

 いいや。

 力加減間違えるぐらい腹立ってるもの。

 

「あんたの前にいるのは誰?」

 

「美上、さん」

 

「あんたが好きな女の子は誰?」

 

「美、上……さん」

 

「そうよ。あんたの前にいるのは、あんたが好きなのは、この私よ。サキュバスの美上サキ。好きな人の好意が失われる? 離れていく? 馬鹿言わないで。万に一つどころか星が滅んでも有り得ないけど……もし、あんたが私の事を嫌いになったって、私が絶対にあんたを離さない。分かってるの? あんたは、そういう女(サキュバス)に目を付けられたのよ」

 

「──ぁ」

 

「よりにもよって過去の女と比べられてたのが、はらわたが煮えくりかえる思いだけど……丁度いいわ。その女のことなんか二度と思い出せないぐらいに、私であんたを染め上げてあげる」

 

 モブ男の瞳に、私が映っている。

 鼻先が触れ合う。

 吐息が交わる。

 モブ男の両目から、涙がこぼれ落ちる。

 

「それに……最初から、言いたかったんだけどね。サキュバスにとって、好きな男をチャームするのは当たり前のことなの。そうね……好きな人にキスしたくなっちゃうような感じって言えば、分かるかしら。だからね、チャームされたからあんたを好きじゃなくなるなんてことは……ないのよ。サキュバスを好きになったんだから、それぐらい知っとけ、ばーか」

 

「──ぅ、ぁっ」

 

「いい、これが最後よ。私だって恥ずかしいんだからねっ」

 

 この半年間、色々なことがあった。

 最初は、生意気なやつなんて思ってたけど。

 絶対チャームしてやるんだって、躍起になってたりもしたっけ。

 一緒の時間を過ごすうちに、いろんなモブ男が見えてきて、気づいたら私の方がモブ男にチャームされてたんだから、サキュバスとしては落第点だ。

 でもね、そんな時間があったから。

 私は──。

 

「──浅海ユキカゼくん。貴方のことが好きです。私と、付き合ってくれませんか?」

 

「──美上サキさん。貴方の、ことが……大好きです。僕、と……僕と、ずっと一緒にいてください……っ」

 

 そうして、お互いの顔が近づいて行き。

 

「当たり前よ。あんたは、私のなんだから」

 

 この日、私はモブ男を、魅了した。





大変お待たせしました。
次回最終話になります。

全く関係ないですが、ユキカゼくんの初恋の女の子はお姉ちゃんです。


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