Fate/Crossing Peak (甘風)
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序章
始まりの■■


初めまして。甘風(あまふう)と申します。
お目汚しの作品かもしれませんが、一層「Fateシリーズ」を面白く思ってもらえるよう、「異世界魔法は遅れてる!」を既読の方を楽しませ、未読の方には興味を持ってもらえるよう、頑張りたいと思います。

なにより、自分が楽しんで書くことができればと。


それでは、よろしくお願い致します。



 

 ――――始まりに、黄金を見た。

 

 

 物心がつくか、つかないか。まだその境をやっと越えたばかりの、古い古い記憶。それでも鮮やかに思い出すことのできる、始まりの記憶。

 

 ある春。桜が蕾にいよいよ濃い色を蓄え始めていた頃。

 その日は珍しく、父が朝から何かと忙しなさそうにしていた。

 朝食を終えた俺は親父――八鍵(やかぎ)風光(かざみつ)に手を引かれ、書斎に連れてこられた。屋敷に落ちる影が自分と父親の二つしかないのは常のことで、敷地には普段から、ふとした時に耳が痛くなるほどの静寂が満ちていたことを覚えている。

 尤も、当時はそんな小難しい感想ではなく、「なんかいつも寂しいな」程度の感覚しか持ち合わせてはいなかったが。

 

 父はどんな男だったかと問われれば、『寡黙な男だった』という形容が思い浮かぶ。

 感情はあっても、表情を忘れてしまった、そんな石像のような人間。車椅子に乗るか、杖を突くかして、ただ穏やかに時を過ごす魔術師。時間があれば家のベランダに置いたロッキングチェアに座って、どこともしれない茫洋とした空の向こう側を眺めているような人だった。

 まだ俺が幼い頃は何を言うことなく膝の上に己を抱え、あやすでもなしにただ時間を過ごすことも多く。それが自分にとっては当然でのことであったからこそ、その日の彼は強く記憶に残っていたのだ。

 

 思い返せば動き回る父の顔に浮かんでいたのは、或る種の笑みであったように思う。それは酷く歪で、そして過分に密やかなもの。

 そこに含まれていたのは、時間の経つことの速さへの焦燥と、息子を魔道に引き込むことを諦めきれない己の業の深さへの諦念と、力及ばず喪った妻への祈りと――俺に魔術を教えられる、確かな喜びだったのだろう。

 

 

水明(すいめい)。来なさい」

 

 

 そう、親父が俺を呼んだ。生まれて初めて聞いた、親の厳しい声。

 その響きの強さに怯み、掠れた声で返事をして。やがては恐る恐る書斎に踏み込んだ。

 這入ってすぐに感じたのは、そこかしこから漂ってくる、古い紙とインクの匂い。

 

 

 そして、どこか暖かいような、不思議な気配。

 

 

 俯いていた顔を上げてしかと前を見れば、脚が悪いはずの風光が何の支えもなしに立ち上がっていた。右の手の平を上向きに広げ、何かを見せてくる。

 興味を擽られて覗き込もうとしたが、背が届かない。背伸びをするが、まだ足りなかった。それに気付いた彼が苦笑を漏らすと、遊んでいた左手で後頭部を掻いてから屈み込む。

 その仕草の妙な子供っぽさに、知らず知らずの間に強張っていた心が緩まされた。

 

 

「見てごらん」

 

 

 そう、穏やかに言った父親の掌に在ったのは――金色(こんじき)の魔法陣。

 それは初めて見るもの。しかし、どこか懐かしい気さえするもの。この雰囲気を感じたのは、いつだったか。到底思い出せないような、ありえないくらい昔のお話のような。

 

 瞼を刺す光を受けて、意識を現実に返す。そうすれば、組まれた形の精緻さに、放つ色の美しさに、纏う空気の清冽さに、感じられる力の温かさと、確かさに、何故か、目を奪われた。

 金の円陣がひときわ強く輝く。

 

 すると。

 

 

 

 黄金色(こがねいろ)の火が、灯った。

 

 

 

 掌の上で皺に陰影を作り、そよ風を招いては辺りを煌めかせながらゆらゆらと踊っている。

 そんな舞踏はそこそこに、炎は緩やかな螺旋を描くようにゆっくりと逆巻き始め、一点に凝縮していく。収束するに比例して光量はだんだんと増していき、それも頂点に達しようとしたところで、ふっと、熾火がかき消えるように輝くのを止めた。

 手に残るは、琥珀よりも貴い、黄金に透き通った結晶――。

 

 

 どうしようもなくその輝きに惹かれて、気がつけばそれを手に取っていた。

 

「父さん、これは……?」

 

 思わず飛び出た疑問。それに彼は何も読みとれない無表情のまま、静かに答えた。

 

 

「これは()()と呼ばれるもの。この金色の炎は、星気と呼ばれる大源(マナ)を使った魔術炎だ」

 

 

 結局は分からず仕舞い。初めて聞いた言葉ばかりで、応答は要領を得なかった。それに、現象については説明されていても、手に取った宝石のような結晶については、何ひとつとて教えてもらえていない。

 

 首を傾げたままの俺をじっと見つめ、親父は更に言葉を紡いだ。

 

 

「――私は、お前に問わなくてはならない」

 

 

 目に浮かぶ色は複雑で、まだ幼い俺にはよく分からなかった。思い出すこともできないが、たぶん悲哀や忍耐、覚悟といったものであったのだと思う。

 それでも、分からないなりに真剣さを感じ取り、居住まいを正した。

 そんな俺の様子を見て、父は息子が一語一句聞き違えることのないように、丁寧に語を継ぐ。

 

 それは連綿と血をもって紡がれ、継がれてきたもの。

 

 

 

「――お前は、魔術を学ぶか? ……私の跡を継ぎ、道を歩んでくれるか?」

 

 

 

 そう、問われた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 季節を二巡りした、そのまた先の初夏。ドイツ、ハルツ山地の奥深くの森。

 山は例年より早くに青い新緑を越え、黒く見えるほどの万緑を映えさせ始めている。

 最低限の修練を経た俺は、父の風光と共に結社の本拠地である古城の前に立っていた。

 

 

 

 あの時の、魔術を志すかを問うた父親への返事は「是」であった。

 あの魔術行使を見て、俺は確かに神秘に惹き込まれた。――魔道に堕ちたのだ。

 

 そんな息子の答えを聞いて、最初に浮かべようとしていた表情は、たぶん痛ましげなものだったのだろう。感情をほとんど表に出せないというのに、悲しそうな色を見せた親父。それでも結局は安心からか、笑ったような雰囲気を見せた。漏らした息の色は楽しげで、例え顔色を読み取れなくとも分かること。

 終いにはたどたどしい手付きで頭を撫でてくる。気が回っていないからか、それともただ慣れていないだけなのか、その手は首がもげそうなほどに荒っぽかったけれど。それでも、俺は親の様子に釣られて、嬉しさだけを感じていた。

 

 反面、それからの修業は過酷だった。我ながら幼い体と心で、よく耐え切ったと思う。

 

 手始めに「良い魔術師とは身体が出来ているものだ」と言われ、隣に開かれていた剣術道場に叩き込まれた。営んでいたのは朽葉鏡四郎と言う、父の義弟である人。彼の妻の雪緒が俺の母の妹にあたる人であり、つまり道場主は多少遠くはあるが、叔父にあたる親戚であった。

 折よく転居先を探していた彼らに、霊脈を管理する魔術師であり、一帯の大地主でもある風光が土地と建物を用意したのだ。それを恩に感じてか、それはもう扱かれた。ほんとにもう扱かれ尽くした。

 とはいえ、剣の技量そのものを身につけることは求められることはなく。叔父も俺があくまで魔術師――神秘学者になるのが目的であるとは聞いていたし、なにより自分は幼すぎたから、多少の無茶はあっても無理はさせられなかった。

 それらはあくまで普通の小さい子供にさせることではないだけで、基本的には単純な素振りを中心とした体力と足腰作りに収まるもの。

 

 修練の日々、その途中からは朽葉家の長女の初美も加わるようになった。

 ふわふわと柔らかでありながら、一度櫛を通せば艶をもって流れる、先祖返りの蜂蜜色の長い髪。強い意思を感じさせる、翡翠の玉のように綺麗な瞳。そうした日本人離れした容貌を持つ色白のその少女は、とても勝ち気で、負けず嫌いで、そして世話焼きな女の子。

 目を閉じないように、心を強く持って苦難を耐えるような女の子だった。

 

 ――なによりこの()について特筆すべきは、その才能。その天禀。

 同い年であるのに、刃を振るえば既にその剣閃に理が宿り、剣を握るまでもなく自然と理想的な呼吸を作る武の才を持っていた。

 おかげで「自分の方が先に始めたから」という意識を持ち、追いつかれないように努力を惜しむことはなかった。今では良い切磋琢磨をできたのだと思えること。

 

 家では魔術と、それに付随する語学の勉強が待っていた。魔力の扱いや魔術回路の開き方などの実技的なことより、神秘に関する知識や各魔術基盤の術式構築の考え方などについてなどの座学的な内容のほうが多く。望んでも肝心な魔術回路を介しての術の編み方は教えてもらえず、不満を言っても暖簾に腕押しで。その度に違うことを頑張りなさいと諭されるばかり。

 目に見える神秘は、掌から赤い炎を生み出す魔術のみしか学べなかった。

 

 ほとんど褒められることはなく、不備があれば淡々と指摘されるだけの日々。

 

 それでも頑張り、時に鏡四朗さんや初美に励ましてもながら努力を続け、しかしいよいよ(こら)えるのも辛くなったある日。父に呼び出された。

 

 

 曰く。よく頑張った。ようやく盟主に紹介できる、と。

 

 

 唐突な言葉に呆けている頭をひと撫でされ、準備は済んでいるから行くぞ、と声を掛けられる。

 

 我に返った時には既に機上の人。気が付いた時にはフランクフルト近郊のホテルにいた。そこで目に映ったのは、表情がないのにも関わらず今にも笑い出しそうな雰囲気を醸す父の姿。

 どうも俺はずっと鳩が豆鉄砲を食らったような様子のままでいたらしく、それが可笑しかったとのこと。幼いながらに羞恥心のままに落ち込んだが、それも僅かな時間。国を跨ぐ大移動は確かに体力に消耗させたようで。部屋を別れて一人になれば、然程も経たないうちに眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 ――夢を、見ていた。酷く遠く、朧気な景色。

 

 それは亡き母の遺した、ルートヴィヒの呪い。

 救われない未来を教える、人を物語に誘う呪縛(エピックカース)

 それに染まって命を落とした、己の母が見せるもの。

 これから幾度となく見せられるもの。その初めての記憶。

 

 

 ――(いざな)いの群青、アル・ケルン。

 

 

 そんな名前の、悲しい呪いだ。

 

 上げられぬ瞼の裏に、父の話でしか知らない母の姿が映る。

 黒ずんだ書物を片手に、幼子の苦しみに満ちた旅路を嘆いて。幻影の彼女は、えもいわれぬ心寂(うらさび)しい悲哀の子守唄を口ずさむのだ。

 

 

 そして、ただ眠れと。来る困難の前に、今だけは心休まる時をと。

 

 そう告げて。

 

 どこまでも深い慈愛をもって、願うのだ。

 

 

 ――その感情、その源泉は、同時に彼女の救われない過去をも示すもので。

 

 

 思わず声を上げようとして、でも、間に合わなかった。

 

 

 

 

 ――人好きのする笑顔を浮かべる、青薔薇を胸に彩った黒衣の男性がこちらを見下ろしていた。

 

 ――巨大な赤い竜が、口に炎を湛えた顎門(あぎと)を開いている。

 

 ――黄金の輝きをその身に宿す、赤毛の少年が目を丸くしてこちらを見ていた。

 

 ――ぬいぐるみに囲まれて、人形のような容貌の少女が安らかに眠っている。

 

 ――蜂蜜色の髪の少女が、泣き腫らした目でこちらに微笑んでいた。

 

 ――蟲が蠢き、少女の嗚咽が聞こえる薄暗い無数の洞穴がある。

 

 ――狂ったように哄笑を上げ、街を切り裂く魔術師が見える。

 

 ――雪空の下、暗い青い髪の男が滂沱の涙を流していた。

 

 ――赤い外套を着た、髪を二つに分けて結んでいる少女が呆然としている。

 

 ――神父服を着た背の高い男が、厭らしい笑みを浮かべて対峙している。

 

 

 ――――()()()()が、天に浮かんでいた――――。

 

 

 

 

 脳裡に流れ込むのは、思い出すことを許されない記憶。

 母親の手にする物語が見せたのは『これから』の光景。つまり――未来のこと。

 なれど全ては幻に。群青に溶けて何も残らない。

 

 これは、或る幸薄き女が残したもの。

 ただ一人の子の為に、愛した夫の為に、その幸福を一心に祈ったが故に成し得た、一夜の奇跡。

 

 

 それは世界を何も変えられないけれど、しかし確かに在った母の愛――。

 

 

 

 

 

    ◇   ◇   ◇

 

 

 

    Fate/Crossing Peak

 

 

 

    ◇   ◇   ◇

 

 

 

 

 

 世界が赤い。いや黒い。

 

 

 空が焼け爛れてしまったようだ。目に痛いほど赤い。

 

 

 雲が全ての色を大地に落としてしまったようだ。吸い込まれそうなほど黒い。

 

 

 地を走り人を舐る炎が厭に赤い。焔が渦巻いて映るビルの影が怖いほど黒い。

 

 

 赤い、黒い。分からない。

 

 

 気がつけば、悲鳴と怒号が消えていた。よく分からないけれど、耳にナニカが当たっている。

 

 

 

 ――違う。それは、俺の手だ。

 

 

 

 ――耳を塞いでいた。目もできるなら瞑りたかった。でも、生きたいから。

 

 だから、閉じる訳にはいかない。

 

 だから、死から目を逸らす。

 

 

 

 父さんは母さんを助けに戻った。

 

 母さんはいいから逃げてと叫んだ。

 

 その音が届くよりも前に、家は崩れてしまった。

 

 

 結局、一人。

 

 

 ある人は体が半分以上建物の下敷きになって潰れているのに、助けて助けてと泣いていた。

 

 ある人はこの子だけでも生かしてと、黒焦げになった赤ちゃんを差し出した。

 

 ある人はどうにか息をしていて、瓦礫の隙間から腕を伸ばして俺の足首を掴み縋り付いた。

 

 

 

 全部、全部、振り払う。

 

 

 

 嗚咽が聞こえる。叫声が聞こえる。嘆きが聞こえる。恨みが聞こえる。

 

 

 真っ黒な音が、脳を犯した。

 

 

 

 ――――。

 

 

 ――うん、聞こえない。聞いてはいけない。生きなきゃ、だって、母さんが。

 

 

 

 歩く。気付けば、目前に炎の壁。行き先を変える。宛はない。でも生きなきゃ。

 

 

 

 既に炎に手足は焼かれている。

 

 灼けた空気が喉を焦がす。

 

 降り落ちる灰が肺を潰す。

 

 回る煙が目を鼻を、これでもかと痛めつける。

 

 

 

 ――後悔するのは全部後。

 

 ――償うとしても全部後。

 

 ――まずは生きてから。全部それから。生きているのは自分だけ。

 

 今この地獄に見送られたのは自分だけ。

 

 

 歯を食いしばって、歩いていく(生きていく)

 

 

 

 

 ――重い空気を感じる。それは、上から。

 

 気になって、空を仰ぎ見た。

 

 

 

 

 ――すると、

 

 そこに、()()()

 

 

 

 

 

 それとも、あれは

 

 

 ――黒い、太陽……?

 

 

 

 

 何故か靄がかったように、はっきりと見ることができない。

 

 (しか)りと見ようとすると、焦点が合わなくなる。

 

 理解しようとすると、ノイズの如く不規則な像の崩壊が起きた。

 

 それでも見通そうとしたら、頭に走り抜けるような激痛が。

 

 

 

 ……眩暈がする。

 

 

 

 

 ――そのせいで。

 

 

 

 すぐ側で崩れて行く建物の残骸に、気付くことができなくて――。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 

「誰か! 誰でもいいっ! 誰もいないのか! 生きていてくれ――誰かっ!」

 

 

 必死な男の人の声。悲痛さすら感じさせる絶叫。

 それを、流れ込んできた瓦礫の下から聞いていた。

 助けを求めようと、声を上げようとする。――出なかった。喉が潰れてる。

 どうにか建材の破片の隙間から右腕を突き出した。弱々しいが、男の声のした方向に手を振る。

 

「――――!」

 

 息を飲む音。それが聞こえた気がするのは、男の驚愕と喜色が伝わるよう。続いて、全力で走っていることの分かる大きな足音。すぐ近くで止まった。

 

「――死ぬなよ! 頼むから死なないでくれっ! 生きていてくれっっ――!!」

 

 痛いぐらいの力で手首を掴まれた。間を置かずに聞こえる、積もった残骸を取り除く音。それが近づくにつれ、白い光が増してくる。

 

 空が見えた。髭の生えた、草臥れたおじさんの顔が目に映る。

 

 

「あぁ……生きてる! 生きてた! ――本当に、良かった……!」

 

 

 俺の右手を押し抱いて、心の底から嬉しそうに呟いた。そのまま完全に瓦礫から救い出す。

 人を助けたというのに止めどなく涙を流すその様は一種異様で、どこか()()()()()()()()()安堵を灯すその表情は、酷く印象的だった。

 

 

「ありがとう――! ――生きていてくれて、本当にありがとう……!」

 

 

 そう繰り返す彼は本当に嬉しそうに、感謝の言葉だけを言っていた。

 そう、「よく頑張った」でも、「よく生きていた」でもなく。

 

 ただ、「ありがとう」と――。

 

 

 その言葉の理由は分からないけれど、そう言ってもらえるなら、自分が生き延びた価値があるのだと思えた。己が生きていて良いのだと、信じることができた。

 

 顔がぐしょぐしょのおじさんは、取り繕うこともなく、手放しに俺の生存を喜んでいる。伸ばしたままの手を額に押し当て、滂沱と涙を流している。

 

 

 

 ……その、誰かのことを純粋に喜ぶ姿がとても美しいものに見えて。

 

 

 

 

 

  悲鳴すら枯れた心に、深く、深く、刻まれた。

 

 

 

 

 

 ――――あぁ、きれいだ。

 

 

 

 

 

 そんな感慨の果てに、掴まれていた自分の腕が彼の手をすり抜けて。地面に、ずり落ちる。

 

 

 

 

 瞬間、絶望に染まる顔。

 

 

 慌てて脈をとった男の人は、俺が生きていたことに安堵し、それから何かを決意したように頷いて手を胸に当てた。

 

 

 

 ――なにか、暖かい、気配……?

 

 

 

 疑問を口にする気力はもはやなく。その温度を分け与えるように己の腹に手を当てる男の様子を、ただぼんやりと見つめていた。

 

 

 

 

 ――嗚呼、己が死んでいく。

 

 ――許されないのに、許されたつもりになってしまった。

 

 ――俺の心が、俺の心の生存を許さない。

 

 ――自分で自分を殺す。

 

 

 

 

 

 

 間違いなく、その日に自分――どこかの家の、士郎は死んだ。

 

 

 しかし、やがて生き返る――衛宮、士郎として。

 

 

 

 その始まりに――――黄金を見た。

 

 

 




お読み頂きありがとうございます。
序章終了、本編開始までしばしありますが、お付き合いいただければ幸いです。


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月下にて誓うは

誓いでもあり、呪いでもあるというお話。
よろしくお願いします。


 

 白い月が、穏やかに眼前を照らしていた。

 その光は優しい陰影を落とし、清浄な空気さえ感じさせるもの。

 

 ある冬の日。時期を考えれば、相当に寒さの緩んでいる日だった。

 雲ひとつ無い空に無数の星々が冴え冴えと輝き、どこかからともなく虫の鳴く声が絶え間なく聞こえる、そんな心凪ぐ夜。

 俺と爺さん――衛宮切嗣は、屋敷の縁側に並んで腰掛け、高く昇った月を眺めていた。

 

 夜気を運ぶ涼風が頬を撫でる。浴衣からはみ出た手足が、その清涼な肌触りに喜んでいた。

 月を仰ぐ養父の醸す空気は枯れた老人のようであり、己が呼ぶ名の通りに、間違っても本来の年齢である三十路過ぎなどには見えない。

 苦労と、悲哀とを感じさせる皺。そして、柔和な目つきであってもどこか空虚に濁ったその瞳は、決して中年に差し掛かる男が持っていて良いようなものではなかった。

 

 虫の音を聞くばかりの縁側に、一条の強い風。その冷たさに目を細め、ちらと右を一瞥した。

 

 

「――僕はね、士郎。子供の頃――『正義の味方』に憧れていた」

 

 

 視線に応えたものであろうか、突然の告白。余りの唐突さに面食らうが、それ以上に内容が気になった。

 

「……憧れていたってことは、今じゃ諦めてんのかよ。爺さん」

 

 そんな自分の不平を告げる言葉に、当の本人は目尻を下げて微笑んだ。そんな笑みをしばらくこちらに向けていたかと思うと、ふと、月の方に向き直り、口を開く。

 

「うん、残念ながらね。正義の味方(ヒーロー)は期間限定で、大人になると名乗るのが難しくなるんだ。……そんな事、もっと早くに気付けば良かった」

 

 自嘲じみた様子で告げられたその言葉。言われて納得したが、口を衝いて出たのは、ふーん、と一種素っ気ない感想だった。

 

「そっか。それじゃしょうがないな」

 

「そうだね。……本当に、しょうがない」

 

 自嘲のように一拍、相槌の笑いを挟む切嗣。なんともなさを装って、その実憧憬を切り捨てるように溜め息を置いた。

 

 

「――うん。しょうがないから、俺が代わりになってやるよ」

 

 

 思いつくままに口に出した言葉。それに彼が見せたのは、ただただ驚いたような気色。

 その反応が気に入らなくて、知らぬ間に言葉を付け加えていた。

 

 

「爺さんは大人だからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。任せろって、爺さんの夢は――」

 

 

 言葉が、途切れた。養父は何かを探すように、何かから逃げるように、両の瞳を揺らしていた。

 かぶりを振る。構わず、続けた。

 

 確かに、誓うように。

 

 

 

「――俺がちゃんと形にしてやるから」

 

 

 

 だから、安心してくれよ――。その(ごん)は風に乗って、遥か遠景まで届いた気がした。

 

 それほどの静寂。いつの間にか虫の音は止んでいた。しかし、その寂しく、恐ろしい冷たさの残響する静寂を吹き戻すように、生暖かい()()()風が庭を渡った。

 

 本人さえ知らず知らずの内。そういった風情で顔を強張らせていた切嗣は、苦笑と共に表情を緩めると、大きな手を俺の頭の上に置く。それからぽんぽんと跳ねさせるように軽く撫でると、その手を縁側から庭に投げ出した膝の上に乗せた。それから手遊びのように指を動かし、意味のないであろう緩い形を組む。

 

 

「そうだね。――そうしてくれると、嬉しい」

 

 

 穏やかな声音。緩やかな吐息と柔らかな瞳の輝きは、横顔からしか見えなかったけれど。

 

 だとしても、それでも。

 

 

 

 ――――とても、印象的なものだった。

 

 

 

 そのまま、再びの沈黙。

 月も幾らか動こうかというぐらいに時間が経った頃。爺さんは躊躇いながらも切り出した。

 

「これだけは、覚えておいてほしい」

 

 言葉と共に、酷く真剣な眼差しでこちらを見てくる。それに応じてこちらも態度を正した。

 彼はそれを確かめると、深く頷いてから話し始める。――それは、いつかも聞いたこと。

 

 

「誰かを助けるということは、誰かを助けないということ。正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ。……それを忘れては、ならないんだ」

 

 

 含蓄なのか、諦念と決意の混在する不思議な響き。それを噛み締めて、正面から見返した。

 

 そして、確かに。

 

 

 

「――大丈夫。それでも俺は正義の味方になって、夢を叶えるよ」

 

 

 

 確かに、そう、宣った。

 

 親父は俺の瞳を覗き込んで、そうしながらまた両目を揺らして、果てに何か納得したように、理解したように息を漏らしながら頷くと――微笑んだ。

 

 

「そうか。ああ――――安心した」

 

 

 そう言い、瞼を落として浮かべた笑みは、全ての葉を枯れ落ちさせた大樹のように力強く。

 

 

 だけど。

 

 

 ――――酷く、物寂しいものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◇   ◇   ◇   ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤い月が、天高くに妖しく輝いていた。

 満天の星を映す夜空。その星々までもが染まってしまいそうなくらいに紅い。

 

 その天の真紅が地に降り注いで、凝縮し形を成したような存在があった。

 それは、西洋における邪悪の象徴――赤竜(レッドドラゴン)

 奴は醜悪な笑みを浮かべ、縦に裂けた暗い翠緑の虹彩を宿す金色の瞳でこちらを見下ろしている。

 

 

 ――スペイン、アンダルシアのとある港町。

 街を見下ろせる小高い丘で、()()は起きていた。

 吹き荒れる風に揺れる背の低い草原を見回せば、視界の奥に見える建物も含めてあちこちが燃えている。

 ……街の人間の避難は間に合わず、既に全てが死に絶えていた。

 

 終末事象(トワイライトシンドローム)

 その一つの在り方――終末のケ物。その甲種として人々の恐怖の幻想を結実させ、この丘に顕現した赤竜は、その存在をもってどこまでも悪辣に世界の終焉を加速させていた。

 

 奴の眼前でその巨体を見上げ、迎え撃つのは総勢二十人に満たない魔術師達。

 スーツを基調とした魔術礼装で身を固めた俺と、同じ様な格好に身を包んだ父。彼は普段使っている車椅子には乗らず、代わりに堅木で拵えられた品の良い杖を支えに、その両脚で立っていた。

 そんな俺らの前に立つのは、黒いイブニングドレスに双身を包んだ千夜会の執行総代。フーメルクルス・カトライヤとその妹ゼアルキス。そして千夜会の名の下に招集された十数人の到達者(グランド)級や偉業者(ハイグランド)級に相当する百戦錬磨の戦闘者達。

 

 その中では唯一未だ哲学者(フィロソフィアス)級でしか無い自分の存在は、とても場違いに感じられる。

 外縁にはアトラス院や千夜会執行局の人員が配置され、支援体制を整えていた。

 

 

 どこからか聞こえる、息を呑む音や唾を飲み込む音。呼気は荒くなっても、咳払いはおろか呻きさえ許されないほど緊張の高まった場で、皆今か今かと攻撃の機会を窺っていた。

 自身は魔力炉心を既に解放済み。負荷起動まで終えている。

 

 

 

 ならば、あとは――戦うのみ。

 

 

 そんな覚悟に割り込んで。

 

 

 

 ――――戦端を告げる号砲が如く、竜の咆哮が轟いた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「――竜種、ですか」

 

 四年前、十三歳の秋。この数日の暖かさが嘘のように消え、急に夜風に寒さが紛れ込んできた日。薄寒さに震えながらリビングの暖炉に火を入れ、二人して温まりながらくつろいで居た時。

 唐突とも言えるタイミングで父の八鍵(やかぎ)風光(かざみつ)に、その幻想種について知っているか尋ねられた。

 

 

 もちろん、最低限の知識は持っている。

 まず、それらは爬虫類をベースにした、堅い鱗と鋭い牙と爪をもつ幻想の中の生き物であるということ。ものによっては巨大な体躯と天を舞うことを表す翼を持ち、毒や炎を代表とする息吹(ブレス)を吐く超越種(モンスター)であるということ。

 

 加えて東洋と西洋、そしてある宗教での扱い。

 東洋では龍と呼ばれ、善や叡智、富と繁栄、権威と自然の威容の象徴とされているが、西洋では竜と言えば悪や邪智、強欲と無慈悲、軍事と自然の猛威の代名詞のような存在である。その強大さから力や権勢を謳うシンボルであることは洋の東西を問わず同じだが、その意味合いはだいぶ異なっている。畏怖の対象、敬い奉る存在が龍とすれば、恐怖の対象としてその暴性と強勢にあやかるのが竜なのだ。

 

 そんな竜のイメージは、爬虫類的な特徴からも分かる通りに()が大本にある。この世界において最大の版図を持つある宗教の経典には、蛇を原初の人間二人を唆した罪悪、つまり悪とする記述があった。現在、竜に悪性を信じる人が多い理由には、その宗教が蛇を悪の存在とするイメージを西洋の文化圏に広めた部分が大きいだろう。

 その宗教が広まったのは人理の基点周辺の時代。つまり人にとって竜は古の頃から、あるいはそもそもからして人間の敵として描かれ、悪とされてきたのだ。

 

 

 そこまで考えるが、師たる風光が満足するような返答をできるとも思えず。ただ、首を横に振るしかなかった。

 彼はそんな俺の仕草を不審そうに見るが、かぶりを振ってそれを排し口を開く。

 

「――竜種は一般の歴史書や文献には伝説としてその形跡を残すが、その存在はないものとされている。もっと言えば、魔術師の中でもおおむね秘匿されているものでもある」

 

「……間違いなく、()()はされていますね」

 

 アクセントを置いて含みをもたせた己の(ごん)に、親父は満足そうに息を漏らした。

 

「そうだ、秘匿はされている。――公然の秘密という形でな」

 

 そこまで言うと指を立て、下の方――地面に向けた。

 

「倫敦の地下迷宮――霊墓アルビオン。それそのものとも、最深部にあるとも言われる白竜の骸は時計塔、もとい秘骸解剖局によって管理と独占がされているが、表向きは隠匿されている。……実際、ほとんどの魔術師はその通りだと思っていて、真実は奴らの意図通り闇に葬られている」

 

 ここまでの情報は知っていた。そのため、首を縦に振る。

 

「三十年前までならまだ生きた竜が居たのだがな。それは、私達結社が滅ぼした」

 

「――父さん達が、ですか。……それは、良かったのですか」

 

 初めて聞く話に驚きで目を見開きながら、「自分に話しても良かったのか」「その竜を討ってしまったのは良かったのか」――そんな意味を込めた言葉を告げる。けれどもこちらの思いに反して、然程思うことがないかのようにこともなげに応じられた。

 

「あぁ、それは問題ない。……あれはどうしようもなかった」

 

 そこまで言うと、打って変わって重々しい雰囲気で目を伏せた。

 

「……あれは中国の奥地のある山に棲む、水利に関わる龍だった。人が際限なく山を穢したために、誇り高き豊穣の山の神が悪神に――恨みと憎しみに囚われた邪龍に堕ちてしまっていてな。人のためなら、――なにより、かつての()の龍を思うなら、殺すしか無かったのだ」

 

 まぁ、この話はもういいだろう。そう言って、彼は瞼を閉じた。

 迂闊なことを訊いてしまったことへの後悔。苦い後味が口を埋める。何か言おうとするが、肝心の中身が思いつかず、口を開け閉めするばかり。結局、黙り込んだ。

 

 

 そんな風に落ち込んだ様子を見せる息子に、親は半笑いのような間の抜けた空気を含む息を漏らしたが、しかし。表情は変えないままに、突拍子もなく切り出した。

 

「水明、コーヒーを入れてくれ」

 

「……随分と突然ですね」

 

 そうは言うが、ありがたくもある。たぶん、この親なりの気遣いなのだろう。

 

「飲みたくなったんだ。仕方ないだろう。息子にコーヒーを淹れさせるのは親の特権だ」

 

「どんな特権だよ。……インスタントでいいですか」

 

 言いながら立ち上がった。リビングを抜けキッチンに向かう。

 

「構わない。だが――」

 

「ブラック、ですね。分かってますよ」

 

 笑みと共に言った。父が首肯する。

 

「お前も飲むか?」

 

「ミルクとシロップを入れてなら」

 

 子供口なのがちょっぴり恥ずかしく、バツが悪いのも隠したくて。たっぷりの茶目っ気を乗せた軽口を返した。それに応じる親父。

 

「お前も早くブラックを飲めるようになれ」

 

「いつかね」

 

 おどけて言葉を濁すが、風光はそれに肩をすくめるばかり。

 表情こそ普段と変わり映えしないが、それでも決して感情がないわけではなく、単に表に出てこないだけ。だからこそこの様に気遣ったり、軽口を言ったり、おどけた言い回しに応じたりするのだ。見た目ほど厳しくも気難しくもなく、気さくな人柄なのである。

 

 尤も、その性質を表に出されるのも、それが分かるのも、彼に近しい者だけなのだが。

 

 

「――で、竜がどうされたのですか」

 

 マグカップを父親の前のテーブルに置きながら尋ねた。

 

「曲がりなりにも魔術世界でも秘匿されてきたお話なんでしょう? それを今、俺に話すということはそれなりの理由があると察しますが」

 

「そうだ。秘匿されてきたのは、知る者は一握りでいいからだ。しかし、今となってはそういう訳にもいかなくなった」

 

 魔術の師は自分の淹れたコーヒーに口をつけ、喉を潤してから続ける。

 

 

 

 

「――――千夜会(せんやかい)の『光を告げるもの(アカシックセイヤー)』が、ヨーロッパでの竜の現界を導き出した。……人理以降、ありえない――ありえなかった規模の、神秘災害としてな」

 

 

 

 

 飛び込んできた言葉に、耳を疑う。

 

「――――っっ! それは……」

 

 驚愕と、動揺と。それによって疑問が口許で立ち消えた。

 

 

 光を告げるもの、アカシックセイヤー。

 それは、全ての神秘の管理組織たる千夜会の所有する事象予測器だ。遍在する小事象から、稀有な大事象を予測する演算の魔術具――否、魔法級の神秘の遺物。有り体に言えば未来予知を可能とするそれは、千夜会が魔術協会の完全な独立を許さないでいられる大きな理由でもある。

 本質は未来の予知などといったものとはだいぶ違うが、大抵の使い方、少なくとも今まで使われてきた事柄に関しては、おおよそ似たようなものだ。

 

 

 気を取り直して、再び訊ねる。

 

「――それは、どういった形で? それに、何故私に?」

 

「……他の魔術師に知られるのも、時間の問題だからだ。これまでにありえなかった規模、とは形容としては曖昧だが、それ故に秘匿性など至極どうでもいい話になる。――あぁ、もちろん先程言ったように本物はもう居ない。竜種の生き残りは先の中国の彼奴が最後だ。だから、本物の竜は二度と生まれない」

 

 矢継ぎ早の質問への答は、多分に言外の意を含んでいた。

 

 ――そこから、ある一つの想像をする。

 

 何か理解した様子の俺を見て、親父が満足そうに、けれど深刻そうに、神妙に頷いた。

 

 

 

「そう、終末事象――トワイライトシンドロームの形で、だ」

 

 

 

 ――――。予想と同じ解。しかし、言葉を失った。

 

「先日、スペインに大規模な因果律の乱れの発生を観測し、千夜会がアカシックセイヤーを使用した。その予知の結果として、終末のケ物の甲種として赤竜――正確には竜の姿と性質を持った災害が顕現することが判明したのだ」

 

「……ケ物、ですか」

 

 ケ物。終末のケ物たちと呼ばれる、終末事象(トワイライトシンドローム)の一種。世界に定められた終末という終焉(おわり)を加速させるために、世にいるあらゆる生物を滅ぼすとされる事象が、『生き物を襲う怪物』という形をとった概念的な存在。まだ詳細な解明には至ってはいないが、それは外宇宙からの侵攻者とも、外殻世界よりの降臨者、あるいはその端末とも言われる。極端な話、地球という星(ガイア)自死因子(アポトーシス)――抑止力の一形態であるという予測さえあるのだ。

 現出するほとんどのケ物は、乙種と呼ばれる狼と犬の中間のような姿をした異形の怪物である。だが、稀に現れる甲種と呼ばれる存在は時々によってその姿形を変え、人間が生理的に怖れを抱く姿を取るという。

 それが、ヨーロッパの人々の思想に根付く悪の象徴――竜と重なったのだろう。

 

「ですがそんなものが世に出ることになれば――」

 

「――ヨーロッパに甚大な被害……いや、恐らくはそれだけに留まらないだろうな」

 

 人理以降、最大規模。そんな形容の上に竜種の姿形や特性を持つとなれば、歴史に記され、後世に伝えられるような偉人――英雄や聖人と言われるような者達がいなければ、倒すことは成し得ないかもしれない。

 だが、現代には伝説になるような竜殺しなどは存在しないのだ。父達はかつて為したようだが、それをもう一度できるかと言われると、安易にそうだと答えることはできないであろう。それだけ竜を討つということは難しい。伝承に残る英雄であるシグルズやジークフリード、教会の謳う聖人である聖ゲオルギウスや聖女マルタなどは、それだけの偉業を成したのである。

 

 対処を誤れば、世界が滅ぶ可能性すらある。だというのに、必ずできるという確証はない。

 つまり、これは決して負けられない戦いであるということ。

 

 ――ならば。

 

 東洋最高とさえ称される魔術師である()が参戦することは、当然考えうることだった。

 

 

「――では、父さんも?」

 

「ああ、その通りだ。私にも召集がかかった。今回の竜討伐に選ばれた魔術師は二十人ほど。明確な人の世の危機であるからか、応援として巨人の穴蔵の連中――アトラス院も動くが、基本は少数精鋭で倒しに行くことになる」

 

「主導は?」

 

「当然、千夜会だ。今回ばかりは他には委託できないと踏んだらしい。統括はカトライア家の長女、千夜会執行総代フーメルクルス。統括補佐はその妹、ゼアルキスだ」

 

「歴代の執行官最強のお二人が総指揮ですか。――凄まじい面子ですね」

 

「名目上はな。実際に現地で各魔術師を動かすのは、他の者の役目になるだろうが」

 

 ――()の竜との戦いでは彼女達が主力になるだろうがな、と静かに続ける風光。

 

 父が名前を挙げた二人、カトライア姉妹は現在の千夜会執行局の力の象徴だ。両者とも時間と空間を操作する魔術を扱い、戦闘では無類の強さを誇り、魔術協会の追随を許さない成果を上げ続けてきた。

 だが、今回は二人共まだ二十代前半という若さがために、旗頭ではあっても現地では場数を踏んだ魔術師に指揮を譲るという形になるのだろう。

 

 まだ哲学者(フィロソフィアス)級でしかない自分にとっては、全く次元違いの話ではあるが。

 

「最大級の終末災害、古の赤竜、執行局の頂点。凄まじいお話ですね。……ヨーロッパにはよく行きますが、随分と遠いものに感じられます」

 

 恐ろしさに身を強張らせながら、この親なら大丈夫だろうという一種の楽観をもって他人事心地に言葉を紡ぐ。

 しかし、それは否定された。

 

「……いや、お前にもこれは他人事ではないのだ」

 

 父の言葉の意味が上手く呑み込めず、一瞬理解が滞った。

 

「は? 他人事じゃないって――」

 

 問いに割り入る声。

 

「――今回の予知に際し、アカシックセイヤーはいくつもの可能性を弾き出した。竜種の発生、ヨーロッパの壊滅、ある者の覚醒(めざめ)、多くの死、終末化の加速。……無論、それらは可能性故に、変えることもできる」

 

 そんなもって回った物言いの後に、核心を口にする。

 

 

 

 

「――――そして事象予測器が最後に求めた、我らを導くとされた答えは――()()。お前をこの戦いに必ず連れて行くことだ」

 

 

 



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誘いは青かれど結末は赤く

 ――この戦いには、お前の力が必要なのだ。

 

 そんな意味の言葉と一緒に、鋭い眼差しが向けられた。その視線に怯むが、それ以上に驚きの方が強くて。間を置かず、頓狂な叫び声を上げてしまう。

 

「お、俺ですか!?」

 

「そうだ。理由についてまでは出なかったらしいが、おそらくは竜との戦いでお前の力が鍵になるのだろう」

 

 魔術の師匠としての彼、八鍵風光は重大な話をしているというのに、相変わらず素っ気ない表情を貼り付けていた。しかし、その言い様には僅かに、なれど確かに、息子を誇らしく思うような感情の揺らぎが垣間見えている。

 自らの子の力が、大事な局面で必要とされる。そのことはやはり嬉しいのだろう。なれど本人にとってこの話はまさに青天の霹靂でしかなく、恐れと不安を煽るものでしか無い。

 

「ですが、父さん。自分がそんなところで役に立つとは思えません。俺は低位の魔術師ですよ。現に階級も低いです。そんな戦いなら偉業者(ハイグランド)級の魔術師が中心になるのでしょう? 二つも階級が離れた方々と肩を並べて戦うのは、余りにも難しいです」

 

 そこまで言えば、言葉を渋る様子も隠さずに応じられた。

 

「……お前の結社での魔術師の階級に関しては、本来与えられるべきものを保留していたに過ぎん。それだけの実力を得ることができる教え方はしてきたつもりだし、お前もそれなりにやっていける自信は持っているだろう」

 

 しかし、直前の様子に反して子への信用を力強く言い放つ。不意打ちで表された父親の信頼に、目頭を熱くする嬉しさがこみ上げた。そのことを隠すために顔を伏せ、喜びから眦に浮かんだ水滴は素早く払う。冷静さを心がけて前を見た。

 

「……魔術師として戦えはします。これまで何度も父さんの戦いに付いて行くことがありましたし、神秘災害への対処についても教えて貰いはしました。ですが、そんな高位の術師達に交じって戦えるかと言えば、やはり不安が……」

 

 あるのです、と最後に小さく零す。親からの期待と、語られた自身の重要性という重圧と。それらに語尾をすぼませてしまうのは、己の中では尤もなことであった。

 

 

 敵対や協力の如何に関わらず、実力に差のある魔術師が魔術を同時に使うには、大概の場合『位格差消滅(ディスパラティアウト)』という神秘法則が壁になる。低位の神秘は高位の神秘の前に打ち消されるという基本に則って、低位の魔術が高位の魔術の支配領域(ルールエリア)に接近すると消滅してしまうのだ。

 本来ならば余程の格差がない限り起こるものではなく、成立には条件もあるから普通なら気にするようなことではない。なれど今回集まる魔術師達のレベルがレベルであるため、そんな問題が浮上するのだ。

 

 それこそ先に名前の挙がったカトライアの姉妹は千夜会の所属であるため、結社の階級こそ付いていないが換算すれば偉業者(ハイグランド)級の一つ上、場合によってはそのまた一つ上の首魁(マジェスター)級にさえ届くと評される能力を持っている。終末災害の対応のほとんどを担い、戦いに明け暮れるがために戦闘力が階級にだいぶ加味される結社の基準でこれなのだ。彼女らの実力は推して量るべきもの。

 こうした高位の魔術師に自分が交じると、彼らに威格差による魔術の消滅を鑑みさせる一手間を増やさせることになる。史上最大とされる神秘災害を鎮圧しようとする場で、高位の魔術師が低位の魔術師を活かす手間をかける余裕などはないはずだ。

 補助や付与などの魔術を使って補助するのならば威格差消滅が起きる可能性を大幅に減らせるため話は別だが、そもそも自らの使う補助や付与の魔術がこの戦いに出張るような高位の魔術師に必要だとは思えなかった。

 

 ならば、役に立てるかと問われて頷けるはずもない。

 

 そんな俺の思いを察した様に、親父が目を伏せた。

 

「お前が不安に囚われているのは、私の育て方が悪かったとも言える。鏡四朗からも、それに関しては小言を言われていたくらいだしな」

 

「……どういうことです?」

 

 おずおずと尋ねた。

 

「有り体に言えば、今まで過剰に厳しくしてきたということだ。余程のことがない限り、私はお前を褒めはしなかっただろう」

 

「ぇ……えぇはい、確かにそうでしたが……」

 

 風光は自分に魔術を教えたが、出来の良い行使を見せたときも、十分な知識の蓄積を披露したときも、特に褒めることはなかった。間違いなく、それは事実、しかしそれについては男親で、加えて本人があまり喋らない性分であるから、仕方のないことだろうと思って受け入れていたのだ。

 それが、どう悪かったのか。彼の婉曲な言い方では、どうにも要領を得ない。

 

「……水明。大魔術は使えるな」

 

「え……? はい、それはもちろん。一端の現代魔術師を名乗るならば、一つくらい使えるようにならなければならないと言ったのは、他ならぬ父さんですから。とはいえ詠唱速度を考えれば、実戦で使うにはいささか厳しいものがあるでしょうが」

 

 父に課された試験のため、少し前に戦闘用のものをいくつか編み出した。彼の激しい戦いに付いて行くことが増えたため、それらの魔術の必要性は高かったが、実戦で使うにはまだまだ己の力量は足りていないと思っている。

 

「スペインの戦いにおいて単独で大掛かりな儀式なしに大魔術を発動できるような実力者は、私とお前を含めても五、六人がせいぜいだろう」

 

「……では今回の戦い、執行官のお二人以外はそこまでの魔術師が来ないのですか? ヨーロッパに大打撃を与えるような怪物が発生するにも関わらず」

 

「ああいや、別にそういう意味ではないのだが。……ここに来て、こうも私の至らなさが出てくるとはな」

 

 目を閉じて沈思する父の姿は、不思議で仕方なかった。思いのまま眺めていると、その男がやや唐突な呻きと共に嘆息する。

 

 

 ――慢心は殺せたが、こうまで必要な認識まで消してしまうとはな。

 

 

 そう、零して落とすように漏らした言葉は、いかなる意図か。手の甲を額に当て、表情は変わらなくとも沈痛そうな仕草をする。やがて首を振ると、唇を震わせた。

 

「――理由は、行けば分かるだろう。無論、気を抜かないことだ。お前にとっても、今後この戦い以上に厳しい戦いはおそらくそうないだろうからな」

 

「…………はい」

 

 忠告にゆっくりと頷き、しばらくして飲み終わったカップを持ってシンクへと立った。

 

 

 その時、おもむろに親父が「いや、これは良くないか」と呟いた。気になって振り向くと、安楽椅子に座った彼に手招きをされる。二つの陶器を水に漬けるだけはして、対面に座り直した。

 

 

「いいか、水明。お前の実力は間違いなく他の魔術師と比べても十分に高い。例えアカシックセイヤーの導きがなくとも、竜との戦いに連れていける水準に達しているぐらいにな。……そうだな。もし、お前が他の魔術組織に参加を表明すれば、間違いなく大抵の所は両手(もろて)を挙げて歓迎するであろう。そう太鼓判を押せる程度の実力は、お前は既に持っているのだ」

 

 

 初めて聞く、淀みなく語られる賞賛の言葉。驚嘆の余りの大きさに息が詰まり、何も言えず口籠る。そこで言葉を切った父は、笑みのような空気を見せた。――それはあくまで気がするだけで、しかし確かに伝わるもの。

 

 

 

「水明。お前はどこに出しても恥ずかしくない弟子だ。俺の――――自慢の、息子だよ」

 

 

 

 ――心が、(あふ)れた。……それは己か、父親か。

 心情を表せない風光が、「私」ではなく「俺」と言い間違える位に、感情を込めた言葉。

 その中身と、込められた真情とに、絶え間ない歓喜が訪れる。――視界を歪める塩水は熱く、それ以上に心臓が熱く、痛かった。

 頭は茹だり、思考は働かず、なれど感情は跳ね回る。

 

 喜んでいることを隠すことなど到底できるはずないのに、それでも意地を張ろうとした。

 

 

 ぽんと頭に手を置かれる。

 

 

「――今まで私がしなさ過ぎたんだ。褒められておけ」

 

 

 そんな言葉と同時に、首を揺すられる。――これは、撫でて、いるのか。

 ぶつ切りの思考の出した解に、思わず笑ってしまう。不器用だと自覚は有っても、そうされるのは不満だったのか、父は置いた手の力が増させる。そのことにますます口角を上げ、首を竦めて逃げ出した。

 

 目尻に嬉し涙を浮かべたまま父を見る。そうすると彼は俺の肩に手を置き、力強く言葉を掛けた。

 

 

 

「――頑張りなさい」

 

 

 

 その言葉に、確かな喜色と感謝を乗せて、はっきりと返事をする。

 

 

 

「はい!」

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 手放すのを惜しみながら余韻に浸り、しかしそれも落ち着いた頃。シンクの前にずっと立っていた俺は、やっと蛇口を捻った。

 水道から流れ出る水をじっと眺める。流れるに任せ踊る透明を、ぼんやりと目で追った。

 

 そうしていると、ふと、うなじに違和感があって。

 説明の出来ない焦燥と畏怖が思索の海に接触するが、波一つ立てないままに過ぎ去った。

 

「竜、か……」

 

 図らずも零れた呟きは(くう)に溶けて、水に乗って流された。なにやら不吉な予感に焦がされるかのように、首筋が不可思議にも焼かれるような感覚に襲われる。

 

 ――それは父曰く、妻、つまり母の遺したものだというが、果たして――――。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 戦況は、最悪。その一言で形付けられた。

 

 直に竜に相対していた魔術師だけでも既に死亡者が五名、重症者が二名。戦死の方が多いのは相手の一撃が重すぎるからだ。躱しきれず食らって即死した。じきに戦闘に復帰可能な程度の軽い怪我で、治療のために戦線の後方に下がっている者も他に三名いる。

 周辺から支援する魔術師の被害は更に甚大だった。彼らは実力が足りていないから後方に居るのだ。ならば、ろくな防御も対処もできるはずもなく。流れ弾のように飛んでくる竜の息吹(ブレス)にまとめて焦がされ、時に振るわれた爪から漏れ出た真空波にその身を裂かれ、竜が気まぐれに翼をはためかせれば前線の魔術師達の間を駆け抜け圧縮された風の塊に粉砕され、あるいは魔眼――竜の視殺(ドラコマイ)に晒され呪い殺された。あっという間に二桁を大きく上回る死者を出している。

 生き延びている魔術師達も疲労困憊、満身創痍に近かった。それもその筈。食らってはいけない攻撃であるはずの奴の攻撃――初撃の赤竜吼(せきりゅうこう)を正面から防御したのだ。その時点で大きく体力を削られ、強度の足りなかった到達者(グランド)級の二人が消し炭になった。

 

 味方が死ねば負担も増える。それは自明の理。それを実証する惨状に、恨み言の一つでも漏らしたくなる。そんな余裕など肉体的にも精神的にも全く無いが。

 ここで非常に不本意ながら、父の言うことが正しかったことを理解した。――成る程、自分は十分強い。だってここまで来て、未だ死んでいないのだから。

 そんな思考を走らせながら、絶えず魔術を重ねていく。心配していた位格差消滅(ディスパラティアウト)など起きず、青い雷が楽々と魔術の嵐を抜けて赤い鱗に突き刺さった。――しかしそれは何の痛痒ももたらさず、牽制程度にしかならない。その事実が、胸に重くのしかかる。

 

 しかし、討伐に向けて着実に進んではいた。ダメージの蓄積は間違いなく出来ているのだ。

 

 とはいえ、どう好意的に見ようが現状は良くはない。まともに赤竜に攻撃を徹せているのは親父とカトライヤ姉妹を除けば、老練さを伺わせる風貌の二人の偉業者(ハイグランド)級の老魔術師だけなのだ。

 ついでに言えばその彼ら二人が実質的な指揮を執っている。むしろ戦闘の趨勢を見、指示を出しながら本人達も奮闘しているため、オーバーワークが心配になるくらい。

 その不安が顔に出たのか。「余計なことは考えるな」と苦笑しながらに小突かれる。――その余裕に感嘆しつつ、不遜だったかと反省する。

 

 そこまで考えたところで竜が鎌首をもたげ、その金眼を妖しく光らせた。またも視殺(ドラコマイ)。自身は風光のもたせてくれた邪視除けの絵(ナザール・ボンジュウ)護符(アミュレット)に守られているが、後ろの人々はそうではなく。今度は二人ほど犠牲になったようだ。その被害への後味の悪さと憤りをどうにか吐き捨て、平常心を掻き集める。

 今身に付けているアミュレットの限界を確かめると、後二回ほど耐えるのが精一杯なのも判った。次の用意をしなくてはなと考えを巡らす。

 

 竜は尾を強靭な鞭のようにしならせ、その巨躯の後方を吹き飛ばす。同時に翼を振るい、大岩をも砕く暴風を打ち出した。

 その暴威を避け、姿勢を保つのがやっと。――だから、反応が遅れた。

 叩きつけられたのは竜哮(ドラゴン・ロアー)。広範囲に拡散する燃焼と衝撃の大波。

 まともな防御はできず、大きく弾き飛ばされた。肋骨が三本に加え、右腕が折れたのを理解。

 それでもさっさと戦線に復帰しようと、素早く治癒の魔術を組み上げる。そうして顔を顰め、前方を仰ぎ見て――金の瞳と目が合った。

 

 

 ()()()()()

 

 

 しまった――。そんなことを思う暇もなく、言いようのない恐怖が際限なく湧き出した。金縛りにあったように体が動かない。精神操作の邪視か、でも護符は機能しているはずなのに何故――。 

 そう頭の片隅でどうにか黙考し、恐れを組み伏せ、現況にあっても意思に従わせられる瞳を動かして胸元を見る。

 

 

 ――そこには、紐のちぎれた首飾りが。

 

 

 ……つまり、これを把握して攻撃を振り分けた――?

 

 

「――()()、い」

 

 その知性に戦慄し、途切れ途切れに言葉が零れるが、意味はなく。赤竜はニタァと、一層厭らしい笑みを浮かべたと思うと、金瞳の怪光を強めた。

 

 ――脳裡を犯す感情。自身の瞳には禍々しき者(アストロソス)の幻影が映る。人に理由も理屈もなくただ恐怖を植え付けるその姿は、時を置かず視界を埋め尽くした。そして耳朶を打つ、脳を這いまわるような呪詛と怨嗟の声。それは凍結した鉄の棒に脳みそをかき混ぜられているよう。

 気がつけば世界は音を無くし、色を失くし、感覚すら遠くにやって、ただ極寒の冷気のみを押し付けてきた。

 

 

 ――――恐い怖い寒い冷たい痛いこわいコワイいやだいやだいやだ――――。

 

 

 完全に恐怖に呑まれた。心は果ての見えぬ螺旋の底。そこに囚われた。

 感知できる情報を処理できない。

 単色調(モノクローム)の世界の中で、なにやら灰色の竜がその顎門(あぎと)に鮮やかな赤い輝きを湛えている。その眼前を木製の杖を突いていた男が大口を開け、それを放り出して走り込んできていた。

 

 

 

 ――違う、これは父さん――――。

 

 

 

 そう知覚するのは同時だった。

 うなじを灼いた危機感で我に返る。

 俺の名を叫ぶ父。そして撃ち出されたケ物の赤竜吼(ブレス)。焦熱を宿す火球は空気を灼き、衝撃波を爆ぜさせながら軌道上の全てを食い千切って迫ってきた。

 

 絶体絶命の状況。限界まで圧縮した体感時間の中、短縮した詠唱を紡ぐ。

 

 

「――ッッッァァァァ!!」

 

 

 そうしようとして、叫び声とともに血反吐を吐いた。その血が地面に散るよりも前に、父さんが俺の目の前に滑り込む。そのまま両手を広げ俺を庇うように竜に背を向けた。

 

 

 ――え?

 

 

「Primum ex Quintum――〈第一から第五城壁――〉」

 

 

 防御はどうしたなどと、疑問を言う暇はない。しかし思う心も取り消せない。千々に切れた思考のまま、呪文を繋ぐ。

 

 既に目前に在る灼熱の余波が、眼球の水分すら蒸発させかねないほど強く感じられた。

 

 

「――Perfectus!〈――強化展開!〉」

 

 

 詠唱の完成。しかし傍目にも、もちろん己にも分かるぐらい不完全なもの。

 

 理知は取り戻したばかりで追いつけず、肉体は魔眼の硬直から抜けきっていない。

 

 

 ――何より、父の姿に動揺したのがいけなかった。

 

 

 

 自身の防御の魔術は紙のごとく破られた。

 そのまま父親の背に直撃する竜の息吹。それは確かな威力を持っていたが、狙った俺の命は穿てなかった。――代わりに、息子を守った稀代の魔術師の命を削っていったが。

 

 

 

 楽観と幻想は、音を立てて砕け散った。

 

 

 下半身を消し飛ばされた親父は、死んだように動かない。

 

 揺すっても、声を掛けても、動かない――。

 

 

 

 ――――?

 

 ――――――――。

 

 ………………。

 

 

 ……脳が、事実の理解を拒絶した。

 しかし、無意識に生存に傾いた魔術師としての理性が、現状を検分している。

 

 

 

 

 

 ――――――――慟哭が、絶叫となって天を衝いた。

 

 



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祈った女と願った男、その先に

 序章も佳境へ。よろしくお願いします。


 

「――嘘だっ! 父さんが、なんで……!? なんでだよ――!」

 

 

 取り乱して言葉を重ねるが、応じる素振りはない。それはそうだ。だって――。

 思考を打ち切る。そんなものは認めない。

 

 現実と妄想の間で意識が揺れる。その天秤が己の都合のいい方に傾きかけた時――親父の肩がピクリと動いた。

 

「父さん……? ――父さん!」

 

 慌てて飛びついた。それはすぐに押し返される。

 

「……馬鹿者。何をしている」

 

 苦しそうに喘鳴しながら、吐き出された言葉。

 

「――生きてた! 良かったっ!」

 

 それに狂喜する。

 顔を見ることすらなく、母は喪われたのだ。たった一人の家族まで失くしてたまるか。

 

 

「半身を消失して、挙げ句にショックで気を失った、か」

 

 冷静に自身の状況を分析する父親。不甲斐ない、と零しながら弱々しい動きでがらんどうの己の腹を撫でる。そうした後、ぽつりと呟いた。

 

 

 

「……これは無理だな。じきに死ぬ」

 

 

 

 ――は?

 

 

 

 その反芻は、音にならなかった。押して言葉を絞り出す。

 

 

「いや、だって父さん、生きてるじゃんか。だって、さ?」

 

 自分の魔術は延命の訳にすら立たなかったか。そんな囁きが脳裡を掠めた。――うるさい。

 

 現実を認めたくなくて。瞳を揺らすばかりの俺の両頬を、親父は己の臓物の血にまみれた両手で挟んでくる。

 

「いい加減にしろ、水明。そんな風に育てた覚えはないぞ」

 

 生温かいぬめり。

 それは命の温度だ。

 直感が、これが冷めた時に彼の命の灯火(ともしび)が消えるのだと告げる。

 

 

 ――なら、己の現実逃避に、大切な時間を使う訳にはいかない。

 

 

 それでも。

 

 

 

「なんで、魔術を使わなかったんだよ……」

 

 

 

 その問いは、漏れてしまった。

 

 

 

「……愚かなことだよ」

 

 

 苦笑のような気配とともに、父が頬に添えていた手を放した。

 

 

「息子が死の危機に瀕して、その姿を目にしてしまったら。何がどうと細かく考えることなんて出来やしなかった。……魔術も何も、結局は体を間に合わせるので精一杯だった」

 

 

 ――ただ、それだけのことだ。

 

 

 

 そう言ってから、嘆息と共に深く頷く。

 

 

 ――なんだよ、それ。そんな理由で、なんで。

 親に迫る死への悲しみ、それを招いた自分への苛立ちと憎しみ、この状況になって親の心配を場違いにも喜ぶ浅ましい気持ちとが、綯い交ぜになる。

 くしゃくしゃの顔。飲み下せない感情。

 

 

 ――でも、大切な時間を使う訳にはいかない。

 

 

 

 

「……よし。腹は決まったようだな。――最期に、伝えることがある」

 

 

 

 さいご。その響きの不吉さに顔を顰めるが、それでも。そんなことを考えている猶予はないのだ。今聞かなかったら、一生後悔しても足りないのだ。

 掠れて、震えて、涙を孕んで。そんな無様な声で「はい」と返事をする。

 ――そのまま親父は倒れ込み、肩に寄りかかってきた。顔は入れ違いになり、表情は見えない。

 

 

 

「私は、お前の母を守れなかった」

 

 

 

 耳元で告げられる、父の声も震えていた。

 

 ――なんで、そんなことを。

 

 今になって、それを言うのか。機会などいくらでもあったのだろうに。それこそいつかの日、母について一度だけ語ってくれたじゃないか。その時では駄目だったのか。

 思考の海に去来する感情の波。溺れないようにそれを問うと、確かに答えた。

 

 

 

「担わせたくはなかった。お前は不幸な女と、愚かな男の間に生まれた子供だ。もとより呪われた者と関わることを約束されたようなもの。口にすれば間違いなく同じものを追わせることになり、きっと自身のように望みの塞がれた末路を辿る羽目になる。――だから、言えなかった」

 

 

 

 

 ――お前の母は、どうしようもなく不幸な女だった。

 そう語ったのは、いつのことだったか。

 

 父の寡黙さには、言葉が結果を引き寄せるから安易に口を開けないという理由もあった。だが、もし魔術師の家系であることを抜きにしたとしても、俺らの在り方は一般家庭の父子のそれらと遠く離れているものであっただろう。

 日常生活で多少言葉を交わすことはあっても、語り合った記憶などは全くなく。そんな父とまともに会話をする機会と言えば、専ら自身が魔術を教わる時ぐらいだった。

 

 それでも、一度だけ。俺に語ってくれた事がある。

 

 

 それは母のこと。かつて守ると口に出して誓い――それを果たすことの出来なかった女のこと。

 

 

 彼女は破滅の呪いを背負った人だったそうだ。存在そのものが理に反する者。空を覆う黒雲の降らす冷たい雨と、その辛さと不吉さ、それらに濡れたうら悲しさだけが似合う、陰にも日向にも咲くことのできない女。その身に負わされた宿命のせいで、決して幸せに死ぬことはできないだろうと誰もが諦め、見向きもしない。

 

 そんな不幸の奈落に落ち続けているような、哀れな女だった。

 

 いつも父の隣にいて、いつもその腕の中でむせび泣いていた。心からの笑みを見たのはたった一度きりで、その笑顔――死の間際の笑顔でさえ、彼のことを労ったものであったらしい。

 

 ……そんな彼女を最後まで守ると口にして、しかし終ぞ叶えられなかったのだ。

 

 

 そう、これは私がまだ幼かった頃の話。結社を初めて訪れてから、まだ数年と経っていなかった頃の話だ。

 

 

 父は俺に魔術を教え、神秘を見せて。そうやって魔術師のあるべき姿を静かに説いてきた。そして幾度となく繰り返した一連の最後に、いつも結社の理念を――盟主の目指す命題を追い求めるのだと言っていた。

 それはもう、口癖のように。どこかに忘れてしまった熱量を思い出したように、心を籠めて。

 

 

 そこに必ず、自分達の望むものがあるから。だから神秘を、己の可能性を追い続けろと。

 

 

 そんな子供が抱く願望のような胡乱な目標を繰り返し説かれて。それを言われたのと同じくらいの回数、何故あなたはそれを目指したのかと繰り返して訊いたある時。父は切なそうな憧憬の眼差しと共に話したのだ。――俺の母のことを。最愛の女のことを。

 

 

「思い出せたな、水明。――いいか、結社の理想を追いかけろ。答えはきっと……そこにある」

 

 

 いつになく饒舌な父は、自嘲の雰囲気すら漂わせて言葉を紡ぐ。

 

 

「結局言ってしまったな。……悪い、未練だ」

 

 

 それは謝罪だったのか、自虐だったのか。そこまで言って零した吐息は、重苦しかった。

 

 

 ――――。

 

「何故――」

 

 思ってもいない言葉が口を衝いた。――何がために。何のために。これまで秘してきたことを、今になって願いと共に話すのか。

 

 

 

「……このままこの身が朽ち果てていくのは構わない。だが、彼女と共に願い、未来を目指した記憶を、共に分かち合ったこの思いを、我が身が滅びるに従って忘れ去られてしまうのは嫌だった」

 

 

 

 誰の記憶にも残らない、なんてことにはしたくなかったんだ――。そう、続けた。

 

 

 瞼を下ろしたまま、父は想いを言葉に紡ぎ直す。

 それは本当に今際を感じさせるほどに途切れ途切れで、弱々しい声音。

 

 

 

「この想いは、最後まで報われることはなかったから。辛さや苦しさ――そんなものばかりに彩られ、荊棘に閉ざされた道だったが、それでも」

 

 

 

 絶え絶えの息は声を濁らせるはずだが、不思議と明瞭に聞き取れる。

 

 

 

「――それでも、お前には、お前というたった一人の息子にだけは、覚えていて、欲しかった」

 

 

 

 向き直ろうと後ろに下がった時、ふらついて倒れかかった父を慌てて抱き支えた。

 

 ――その身の軽さに怯む。そんな俺の様子を気にもしないように、熱に浮かされたまま彼は言葉を重ねた。

 

 

 

「――そんな男と女がいたことを、そんな二人が幸せな夢を、幸せな未来を目指して駆け抜けてきた過去があったことを、忘れてほしくない。……それだけ、なんだ」

 

 

 

 所々掠れても、これまでからは考えられないくらい滔々と話す自分が可笑しくなったのか。父の言葉の端々に忍ぶ息遣いは皮肉げだった。しかし、語る思い出の色にも釣られたのか、節々の語調には喜色も滲み出ている。……特に最後の言葉には、それが顕著だった。

 

 

 感情の多さに負けて、表情を思い出したらしい親父が――()()()

 

 

 

 ――嗚呼、今更だよ、父さん。

 

 

 

 誇らしげで、嬉しげな父を見つめる。視界は歪んでいるが、その姿を目に焼き付けようとする。

 

 

 

 ――選べるはずないじゃないか。酷いなぁ、父さんは。

 

 

 ――自分もまた魔術師なんだ。父さんと同じでさ。

 

 

 ――何より、俺は父さんの……八鍵、風光の息子なんだよ。

 

 

 ――なら。

 

 

 

 

 

「――水明。魔術と静間(しずま)しか選ばなかった私には、もうお前しか縋る者がいない。……だから、頼む。結社の理念を追いかけろ。盟主がこの世界の理に求めたそれが、真実あるならば、この世には決して救われぬ者はいないのだから。だから――」

 

 

 

 

 

 俺を見て、この上なく人間らしく微笑む。

 

 

 それは、一生を駆け抜けた或る魔術師の男の生涯を表す様に厳かで、誇り高く、美しく――そして、満ち足りたものであった。

 

 

 ……たぶんこの笑顔も、言葉も。一生何処かにこびりついて、忘れることはできないだろう。

 

 

 

 

 

 『――だから、救えなかった私の代わりに、救われない女を救ってくれ――――』

 

 

 

 

 

 その言葉を最後に、すまないとだけ口にして。親父は腕に掛かる重さを、増させた。

 ……数拍か、数秒か、数分か。どれだけそうしていたのか。実際はごく僅かな時間だろう。

 事切れた父を、丁寧に横に寝かせる。

 

 今度は、天秤を間違うことなんてなかった。

 

 

 逃げることなんて――なかった。

 

 

 

 家族の幸せな未来を夢見た男は、ここに息絶えた。息子の答えも聞かぬまま、伝えなければならぬことは伝えたと。本当に物言わぬ石像のように、ようやく感情を取り戻した貌を凍てつかせて。

 

 思い描いた夢路の果て。いつも窓の外に思い浮かべていた平穏。望んで止まなかった、どこにでもある家族の在り方。それをただの一度も見ぬままにその人生を終えた。

 

 

 

 

 ――身勝手だった。

 

 

 俺を業深き魔道に誘い込んで。

 

 俺に愛深く恐ろしい試練ばかり課して。

 

 

 ――最後にこんな、幸せな夢を説いて――――。

 

 

 ……本当に、身勝手。

 

 

 

 ――――だから、今更だった。

 

 

 

 周囲を見渡す。無意識に周囲の音を脱落させていたようだ。色彩と音声(おんじょう)が感覚に戻ってきて、やっと戦況を把握した。どうにか膠着を保っているらしい。聞こえないが、こちらに向かって大口を開いている老魔術師の片割れが見える。早くしろ、などと叫んでいるのだろう。

 

 

 見れば、赤竜が再び息吹(ブレス)を放たんと灼熱を口に蓄えている。

 

 

 それは念入りな止めか、それとも死者への冒涜か。悪辣な知性を見せた()の竜の行動には、不快さを感じてしまう。

 

 

 激情が全身に漲り、駆け巡る。それを燃料とし、魔力炉心に更なる火を入れた。

 

 

 

 ――もっと、もっとだ。もっと強く。

 

 

 

「――――Non amo munus scutum! Omnes impetum Invictus!〈――――我が盾は盾にあらず! いかなる攻め手の前にあってもなお堅固なもの。いかなる砲火の前にあってもなお揺るがなきもの!〉」

 

 

 

 今度こそ絶対に防がんと、謳い出すは金色(こんじき)(マグナリア)

 研鑽とガバラの秘術、現代魔術理論による動作と記憶による唱句の置き換えによって発動までの時間が大幅に短縮されて尚、都合九小節を必要とする大魔術。

 

 

 

「Invincibility immobilitas immortalis! Cumque mane surrexissent castle――〈決して潰えず、不動にて盤石。其は()()()()()()()()()()()()()()に虚飾されし堅城! その名は――〉」

 

 

 

  五層の金色の魔法陣が正面に描かれる。それに同期して足元により巨大で一際強く輝く同色の魔法陣が展開され、同時に必要な魔力量が跳ね上がった。それに応じて大いなるマナである星気(アストラル)を星の内海から汲み上げ、体内に組み込んだ魔力炉を通してオドを精製し術式に充てた。

 星気を取り込むと共に、膨大な熱量が身体(からだ)に流れ込んでくる。

 

 ――それは、己には全て遠き力を感じさせるもの。

 

 

 

「――Firmus! Congrega aurum magnalea!〈――我が堅牢! 絢爛なる金色要塞(こんじきようさい)!〉」

 

 

 

 俄にもたらされた強大な力に惑わされないよう、制御を手放さずに詠唱を結ぶ。

 

 ――まだ、親には遠い。星気使いとしては技量が足りない。この大源(マナ)は使いこなせない。

 

 そんな感慨とは裏腹に、城塞を意味する結界は堅牢に構築された。

 

 

 迫りくる業火。迎え撃つは渾身の魔術行使。

 

 

 積層魔法陣に近づいた時点で、火球の速度が鈍化した。それは支配領域(ルールエリア)に入り、時間停滞の魔術が成立したからだ。

 激突と同時に物理防御を担う一枚目が消し飛ぶ。ほとんどその熱量は変わらない。

 程なくして魔力耐性を帯びる二枚目も砕かれる。これは大きく暴威を損なわせた。

 間を置かず術式解除の性質を持つ三枚目が貫かれる。神秘による攻撃であっても、術ではなく純粋な暴力であるブレスには相性が悪かったようだ。

 甚だしい発光と引き換えに、威力反射を為す四枚目も弾け飛んだ。しかし、相殺をもって温度と強勢をほとんど失わせる。

 ゆっくりと互いに消え失せるように、減衰干渉をする五枚目が溶けていく。そうして、既に残り火も同然となっていた赤竜吼を確かに消し去った。

 

 

 城壁は全て破られたが、しかし攻撃は通さなかった。

 

 

 ――つまり、防ぎきったのだ。

 

 

 

 ケ物が晒した隙を突き、カトライヤ姉妹が止めをささんと待機させていた切断の魔術を放つ。

 

 

 空間の断層と共に、存在ごと一切を抹消する透明な刃。

 その威力は絶大で、竜の致命に足るものかのように思えた。

 

 

 だが――

 

 

 安堵や快哉は(こら)える。それは竜の猛威が未だ収まらないから――むしろ増してきているから。

 

 

 二人の大魔術の直撃を受けて尚、奴は生き延びたのだ。

 

 

 赤竜は傷口から毒と呪いを宿した黒い血を雨とばかりに吹き出させて降り注がせ、更には生物を死に至らしめる血煙として穢れた霧を燻らせた。痛みにのたうっているのか、四肢と尾、そして翼をめちゃくちゃに振り回し、口から四方八方に竜哮(ドラゴン・ロアー)を撒き散らしている。

 

 それを決死の覚悟で押さえこむ先達の魔術師達。

 今、確実に切り札を切る余裕があるのは、己のみ。

 

 ――ならば、と。深く息を吸い、覚悟を決める。

 

 ――これで決着をつける。

 

 

 魔力炉に更なる火をくべた。激情という熱を代償に、作り出す小源(オド)を増させていく。

 炉心は限界を超え、澄んだ悲鳴のような高音と、濁った絶叫のような重低音を織り交ぜた唸りを上げる。肉体はその余波に骨を軋ませ、内臓を傷つかせ、皮膚を裂かせて血が流れさせる。オドに変換しきれなかったマナは熱となって体表から蒸発して、大量の魔力を含んだ熱霧となった。

 溢れ出る魔力が生み出す力場の波動に周囲に大地は微塵に砕かれ、大気は光すら曲げかねないほどに歪められ、そしてその全てが吹き荒ぶエーテルウィンドに消し飛ばされる。

 

 

 

 ――想いを力に。されど無くさず。燃え尽きさせず、抱き続ける。

 

 

 

 父の言葉を、誓いを、姿を、夢を刻み込め。焼き付けろ。そのための熱は――ここにある。

 無理を押して回転する魔力炉の負荷に、自身の肉体が悲鳴をあげる。構うもんか。

 外界から汲み上げた大源(マナ)、大量の星気が俺の矮躯と精神を蹂躙せんと荒れ狂う。――知ったことか。扱い切ってみせるさ。

 

 

 決して忘れるな。その熱量を失うな。夢を――追い続けろ。

 

 

 

 

 ――あぁ、今更だ。今更だよ。――追うに決まってるだろ? 父さん。

 

 そう、決意する。――(おの)がため、強く誓う。

 

 

 

 だから、止めの赤竜吼を放とうとした赤竜に――吼えたのだ。

 

 

 

 

 

 ――――あなたの夢はっ! 俺が、過たず叶えて見せる! 必ず――――!

 

 

 

 

 

 成したのは誓約であり、制約。自らの人生を捧げるもの。

 

 

 

 ――だからこの日、この場所で。幼くて、弱かった八鍵水明(じぶん)は死んだのだ。

 

 

 

 だから、災厄を呼び込んだ赤竜に――吼えたのだ。

 

 

 

 過去の己との訣別がため、今の己が為した誓約がため、未来の己が追う命題がため。

 

 

 

 

 

 そして――

 

 

 

 

 ――尊いと思った、家族の夢のために。

 

 

 

 

 

 そのために紡ぎ出すは――真詠唱。

 

 

 

 

 

 ――Velam nox lacrima potestas.

 ――(とばり)の内。夜の流す涙の威。

 

 

 

 莫大な魔力、緻密な(しゅ)、そして苛烈な意思に晒された世界が崩壊に慄くように震え、詠唱と共にその姿を変えていく。――今謳うは星空の大魔術、流星落(エンス・アストラーレ)

 幻想的な青い輝きを伴って、ゆっくりと足元に遥か遠大な魔法陣が描き出される。

 妖月に照らせれ、血飛沫を浴びたように赤黒かった夜空は黎明の如き紺碧に染まり、大地に蔓延っている仄暗い炎と穢れた血の霧を拭い去りながら静謐な空気を取り戻した。

 

 

 

 ――Olympus quod terra misceo misucui mixtum,

 ――其は天地の(しるべ)を綾なして、

 

 

 

 ――Infestant militia,

 ――(うつつ)に蔓延る不条理へ

 

 

 

 ――Dezzmoror pluviaincessanter.

 ――目眩く、降り注ぐ。

 

 

 

 地平線の天の際まで覆い隠すが如く、埒外に巨大で複雑な魔法陣が編まれていく。

 蒼光で構成される()()は、時計を象ったような特に巨大な一つを中心として幾重にも重なり、大小様々な魔法陣が何本となく描かれる時針に相当する蒼線に垂れ下がるように配置されていく。円形に並べられた文字列がその隙間を埋めるように組み込まれ、薄雲ひとつない夜天に蓋をした。

 

 

 

 ――Vitia evellere.

 ――()の嘆きしものは悪。

 

 

 

 ――Bonitate fateor.

 ――()の謳いしものは善。

 

 

 

 そして溢れ出すは星気光。青白く清らかなその光幕と金に輝く幻想の粒子は、天高くに輝く星々と今己らが立つ大地とから放射され、視界の全てを満たしていく。

 その光は赤竜の鼓動を弱め、その狂乱を失わせた。

 拘束せしは星の息吹(ガイア・ブレス)。天と地全ての星が持つ力の輝き。

 

 

 

 ――Lux de caelo stella nocte.

 ――全てはあの擾乱の先、彼方より来たる(またた)きの星芒。

 

 

 

 魔力の高まりは絶頂に。果てに鍵言はすぐそこに。

 言葉に呼応し、空を彩る星を写し出したように、中天に無数の魔法陣が構築された。光の奔流が竜を目掛けて収束していき、その余波のごとく無数の黄金の光を核とする青白い尾を引く小さな箒星が降り注ぐ。

 並び立つは天地に逆立する光の柱。

 それはさながら天の涙が地から建つ尖塔を避けて落ちてきているよう。

 

 

 

 

 

 ――――Enth astrarle――.

 ――――星天よ、落ちよ――。

 

 

 

 

 

 ――その夜、快晴の空。

 

 見渡す世界全てに満ちる澄み渡った星気光と共に、天に輝く遍く星々が地に墜ちた。

 

 




 かくして、現代の竜殺しは為されたり。


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夢追う少年、交錯した未来

これにて衛宮士郎、八鍵水明にまつわる序章は終了です。
……いささか水明の話が長かったでしょうか。不安。

二人が出会う話。その冒頭をどうぞ。


 ……そう、そんないつかの日のこと。

 母をとうに亡くした俺が、約束と共に父の最期に立ち会い、終末を謳う理不尽に叫んだあの日。

 その時に立てた誓いを、あれからただの一度だって間違いたと考えたことはなかった。走ってきた道を顧みることはあれど、後悔することなどなく。ただ、前を向いて駆け抜け続けた。

 

 

 ――だから今、神秘を目指した自分がいる。

 

 ――だから今、盟主の理念を追う自分がいる。

 

 

 

 

 ――――『救われない誰かを、確かに救うために』――――――。

 

 

 

 

 

 例え終わってしまったことの後追いでも。

 それでも、この世に救われぬ者などいないのだと証明できたなら。

 ――きっと二人の歩いてきた道も、無駄ではないのだと証を立てることができるから。

 

 

 

 

 そんな、青臭い話。

 現実味は欠片もなく、叶う見通しもまるでない。世のほとんどの人にとっては、きっと単なる荒唐無稽なお伽噺でしかない。

 現実の白日の下に晒すにはあまりに脆く、幻想の月光の下でしか見ることを許されないくらい儚いもの。無闇に夜陰に紛れてしまえば、いずれはその輪郭を溶かしてしまいそうなものだった。

 

 

 

 だとしても。

 

 

 

 ――叶えたい、夢だった。

 

 

 

 そう。

 

 

 

 

 ――――叶えてやりたい、夢だった。

 

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 

 竜の討伐、赤竜事変と名付けられた神秘災害の終結から二ヶ月。

 事件の後始末も、父の葬式も終えた自分は託された命題を追って、結社の悲願を叶える可能性を持つ街――冬木を訪れていた。

 

 今の季節の名を冠するこの街は、それに因んだかのように思わせるほどに深まる寒さを感じさせてくる。新都のビル群を抜けて吹く風の冷たさに、コートの襟を寄せて思わず身を震わせた。

 雪空の下、真新しい町並みを抜けて橋を渡る。目的地は深山町の、とある武家屋敷。

 

「ここか」

 

 しばらく歩けば到着した。そこは事前に調べた情報通り。

 情報の鮮度が悪いため、最悪の場合引き払われてもぬけの殻という事態も想定していたが、杞憂で良さそう。外から見ても人が住んでいる形跡があった。

 それにしてもと、実家とは全く違う純和風の建物に驚嘆の息が漏れる。

 

「凄いな」

 

 独り言が零れた。――それは緊張のため。

 深呼吸を一つして気持ちを落ち着ける。気合を入れて踏み出した。

 門を通る時、ぴりと首筋に微弱な電流のような刺激が走る。――結界、か。

 

 ……これでこの屋敷が魔術師の住処であることは確定。ならば、一層気を引き締めなくては。

 

 ――――。そこまで考えて、周囲から受ける感覚に違和感を抱く。

 

「……これは、排除の機能がないな? ――開かれた結界か」

 

 非常に珍しく、何よりも奇特な結界。その事実に目を丸くし、多少の安堵の息を吐いた。

 

 ――最終的に決裂するかもしれないが、とりあえず話は通じそうだな。

 

 そんな感想を懐いて、インターホンを押す。心の用意は大丈夫。

 

 若干間を置いて「はーい」と、若い男の声が聞こえる。――若いというよりかは、幼い、か?

 少年を思わせる声に疑問はあっても、ここまで来て特に何ができるでもなく。ただ平静を心掛けて、待つしかなかった。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

 顔を出したのは、声の通りに若い男だった。むしろ自分と同じ年頃に見える子供。写真で見た目当ての男とは似ても似つかないから、その息子ではないだろう。

 

 

 日本人には珍しい、赤い髪と琥珀色の光が差す瞳が印象的だった。

 

 

 そんな少年が何故、この家にいるのか。そんな疑問は棚上げにして、笑みを作る。

 

 

「初めまして。私は、八鍵水明と申します。不躾ながら、所用があって直接お宅に参りました。――衛宮切嗣さんはご在宅でしょうか?」

 




この直接の続きの話は一章十七話にて。
次より時間軸は四年後に一気に飛び、士郎視点でのスタートになります。


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一章
日常と変容 前編


大好きな先輩の名前を面と向かって呼べない桜ちゃんが可愛いお話。
そしてさりげに強気。

……聖杯戦争、一日目開幕です。


「――先輩、先輩? 起きてますか?」

 

 耳を撫でる柔らかな声。僅かに開いた扉からは暖かな光が差し込み、同時に涼やかな風も吹き込んでいるのを感じる。

 

「ん…………。……桜か」

 

「はい、おはようございます、先輩」

 

 どうにも重い瞼を上げ、目元をこすりながらガラクタや種々の刃物が雑多に転がる床から上半身を起こした。

 

 目の前では、もう見慣れてしまった後輩がこちらを覗き込んでいた。

 彼女と共に来た風が巻き上げる、埃っぽい土蔵の床に積もった塵。そうして舞い上がった塵は差し込む朝日を白く反射して、柔らかに輝く光の帯と霞を作っている。

 

 逆光と、舞い上がる帯霞とで、少女はその輪郭を淡く滲ませていた。

 

 その姿は普段に輪をかけて儚げで。

 

 

 ――思わず、息を呑む。

 

 

 そんな自分の様子を見て、桜は小首を傾げていた。

 

「――先輩? どうかされましたか?」

 

「……ぁ、いや。悪い、なんでもない。――おはよう、桜」

 

 正直、その無邪気に不思議そうにする様子は幼気な感じが強調されてたいそう可愛らしく、目を合わせ辛い。たぶん、自分の頬には朱が一刷毛かかってしまっている。

 

「はい。おはようございます、先輩」

 

 しかし、彼女はそんなこちらの心情にも思い至らないように、嬉しそうにもう一度挨拶をした。そしてこちらをしげしげと見つめたかと思うと、そのまま心配そうに形の良い眉を寄せる。

 

「……それにしても先輩、こんなところで寝てしまってたら風邪を引いてしまいますよ。ちゃんとお部屋で寝てください」

 

「――そうだな。気をつけるよ」

 

 和やかに応じた俺に、彼女は少しわざとらしくむぅと頬を膨らませた。

 

「そうですよ。心配しちゃいますから、気をつけてくださいね」

 

 冗談めかして手の甲を腰に当てて胸を張ると、そのご立派のものも強調されてしまい、またそちらの方を見ることができなくなる。気恥ずかしさに負けて僅かに顔を背け、しかし湧いてきた小さな煩悩を振り払うように首を振り、立ち上がった。

 熱中のまま落ちてしまい、硬い床で一晩を越した起き抜けの頭は、ただの寝起きよりも酷く緩んでしまっているようで全く困ってしまう。

 俺が立ち上がれば、彼女も腰に当ててた手を放して柔らかく微笑んだ。

 

「朝ご飯の用意はほとんどできてます。用意が出来たら居間に来てくださいね。えっと……」

 

 桜が俺の足元に目を落とし、そして柱に掛かっている時計をちらと見る。

 

「あぁ、ありがとう。悪いな。……あー、うん。少し片付けもあるし、シャワーも浴びて来るから、二十分ぐらいは見てもらえるか」

 

 お願いしながら、足元に広がってるガラクタと刀剣の山に視線を遣った。多少は片付けないと下手(まず)いだろう。来ては駄目と言ってあるが、藤ねえが見たら怒り出すかもしれない。

 

「はい。それでしたら来るくらいには仕上がるようにしておきますね。……楽しみにしててください」

 

 そう言って頑張り屋の彼女は腕まくりと力こぶを作るような仕草をする。だから可愛いって。

 

「うん、楽しみにしてる。でも今度は俺も作るから、ちゃんと起こしてくれると嬉しいな」

 

 照れを隠すように、頬を人差し指で掻きながらそう言ったが、少女は笑いながら聞き流すかのように土蔵を出ていく。

 

 

 ――ただ

 

 

「――鍛錬、頑張るのもいいですけど、ほどほどにしてくださいね」

 

 

 そんな言葉を残して――。

 

 

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 

 

「よう、士郎。結局蔵で寝たのか。……不健康なのは止せって。睡眠は基本だろう?」

 

 シャワーを浴び、居間に来た俺に掛けられた第一声。その(ぬし)は、部屋の隅に置かれた、不思議と和室の雰囲気に溶け込むロッキングチェアに腰掛けた男――八鍵水明(やかぎすいめい)だった。

 

 すらっとして細いその身を制服に包み、手元ではインスタントコーヒーが入ってたと思わしきマグカップを弄んでいる。たぶん、いつものブラックだろう。あの苦いものを飲む気がしれない。

 やや茶の入った黒髪の一見優男風な風貌である少年は、その榛色の瞳を楽しげに細め、薄い唇を皮肉げに歪めていた。しかも、その表情がよく似合っていることが本人の性格をよく表している。

 

 (せん)の声には嫌味っぽい相好の通りに、咎める響き以上に多分な揶揄の空気が込められていた。

 

「勘弁してくれよ。集中したら徹夜するのは水明もじゃないか」

 

「そうは言ってもな。お前が俺に同じこと言ったのは昨日の今日なんだ。というか、いつもそういうことに煩いのはお前じゃないか」

 

 薄笑いを口元に浮かばせながら言葉を繰る。それを言われてしまえば、どうにも弱った。

 確かに、自分もそこそこ夜更しをするのに彼の不摂生を注意することは多い。

 しかも、最近の事情から昨晩は互いにほどほどで切り上げるよう、むしろ自分がくどいぐらい言っていたのだ。それに関わらず、その自分が遅くまで鍛錬し、そのまま眠ってしまった。

 

 だからこそ、なんとも言い返せず。うぅと唸るばかり。

 

 そんな言い合いをする俺らを傍目に、桜が茶碗によそったご飯を運びつつ一言でばっさりと切って捨てた。

 

「なんでもいいですけど。どっちもどっちもな言い争いしてないでお皿運ぶの手伝ってください、水明さん」

 

 そんな一言に互いにがくりと項垂れる。……しかし、そんなことをしているも束の間のこと。

 目の前の少年は、自分だけ名指しにされたのがさも不満ですといった風情で顔を上げた。

 

「おおう、俺だけぇ……? ……当たりが強くないかなぁ」

 

 そう独りごち、立ち上がって指を軽く振る。するとキッチンのカウンターに用意されていた全ての皿とシンクの横にあった箸とが宙に浮いて――食卓に並んだ。

 

「……」

 

「……」

 

「……な、なんだよ。なんで二人してジト目になるのさ」

 

 そりゃ呆れてしまう。こんなことに重力路の魔術を使う必要がどこにあるっていうのさ。

 

「……や、そんなやつだと分かってたけどさ」

 

「そんな些細なことに魔術は使わないで欲しかったです」

 

 後輩も連携して彼を責める。

 

「わ、悪かったよ。でも数あったし――」

 

「言い訳は見苦しいです」

 

「う。――ってほら桜もちゃっかりご飯を先に運んでおかずは全部カウンターに置いてたじゃないか。浮遊じゃ細かい作業はできないし、それってこれを狙ってたんじゃ――」

 

「そんなことないです」

 

「え、でも」

 

「そんなことないです」

 

「いや、そ――」

 

「そんなことないです。だいたい水明さんはいつも――」

 

 再三の少女の強弁。……これは少しわざとらしくないかな、と思ってしまう。

 

「――桜? 流石にちょっと疑わしく思っちゃうんだけど……」

 

「う。――ごめんなさい、正直そうしないかなって思ってました。楽、したかったです」

 

「ほらぁ!」

 

 そう思って遮れば、素直に白状し、気不味げにそっぽを向く桜。それを見たお調子者の彼は俄然勢いづくが、しかし。

 

「水明」

 

 ぴしゃりと名を呼ぶと、さっくりと押し黙った。

 

 

 沈黙が居間を支配し、食卓は白い湯気を燻らせる。――が、それが保ったのも十数秒。

 

 

「「「――ぷっ」」」

 

 

 示し合わせたように三人揃って吹き出した。笑いが木霊し、それもややあって収まる。

 

「――あー、やめだやめだ。早く食べよう。冷めちまう」

 

「そうですね。せっかく時間を合わせたんですから、温かいうちに食べましょう」

 

「ん。それにしても朝から気合入ってるな、桜。どれも美味しそうだ」

 

 水明を皮切りにして各々言葉を重ね、卓についた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「ところで士郎。今日は藤村先生は来ねーの?」

 

 ほうれん草のお浸しを食べながら水明が尋ねる。

 

「ん、藤ねえか。来るって言ってたと思うけどな。ちょっと遅れてるみたいだ」

 

 噂をすれば影、という奴だろうか。ちょうどその時「おっはよー」と元気な声が聞こえたと思えば、けたたましい足音が居間に迫ってきた。

 

「いやぁ、なんか分からないけどバイクの調子悪くてねー、直してもらってたら遅れちゃったー」

 

 騒音を引き連れ、居間の戸を勢いよく開いて登場したのは藤村大河。こんな行動を見てしまうと本当に二十代なのだろうか、などと疑ってしまいたくなる。そんな推定成人の彼女は半眼で見つめる自分をよそに、早速食事を始めようとした。

 

 その傍ら何故か水明は思案顔。そして急にはっとしたかと思うと、うわぁと言わんばかりに頭を抱えた。それに構わず桜は「あ、よそいますよ、藤村先生」などと言いながら甲斐甲斐しく世話をしている。まさしく世話。だって虎だし。

 

「士郎? 今失礼なこと考えたでしょ―」

 

 うわエスパー!? ってこら虎よ箸を人に向けない。

 

「ま、いいや。美味しいし。んふー、今日作ったのは桜ちゃん?」

 

「あ、はい。藤村先生」

 

 立ち直ったらしい彼が、小声で「美味しいから良いやって、なんだ……?」と言って首を捻っている。同感だが考えても無駄だと思うぞ。

 

 一方、件の虎はいかにも美味しそうに鮭の照り焼きを食べている。

 

「ほんとに上手になったねぇ、桜ちゃん。これじゃ士郎もうかうかしてられないよ」

 

 その感想は本当のことで。丁度今、啜っている大根と人参の味噌汁の出汁の取りの上手さと味の良さにも感心させられている。

 

「そうなんだよ藤ねえ。だから今朝だって俺も作るから、これからはもっと早くに起こしてくれった言ってたのに聞き流されちゃうしさぁ……」

 

 今朝の出来事を思い出しながらそう零すと、なにやら水明がニヤニヤと笑い始めた。怪訝な顔をして水を向ければ、少し間を置いて話し出す。

 

「あー、そりゃ士郎、当然だと思うぞ。――まぁ、ヒントを言ってしまえば、今朝の、っていうか桜のご飯は俺も、あるいは藤村先生も()()()だったってことだ」

 

 ――?

 

 なんのことかいまいち分からず、首を巡らせる。

 

「それって水明くんどういう……。ってあぁ!」

 

 そういうと藤ねえも同じ様にニヤニヤし始めた。ひときしり俺を見たと思えば、二人の視線が残りのもう一人の方に向いた。当の彼女は「……へ? ひぇ!? ふぇっ!!?」などと、最初に少しだけ不思議そうな表情をした後、顔を赤くして奇声を上げつつあわあわと手を小刻みに顔の前で振っている。

 

 ここまできて何のことだろうか? ――と思えるほど鈍い訳ではなく。正直に言えば、顔が熱い。そんな自分と少女を見て親友とお隣さんはますますニヤつきを加速させる。どんな二人だ。

 

「~~~~っ! ともかく! いいから!」

 

 自分で何を言ってるかも怪しいまま、とにかく流れを断つためにまくしたてる。確かに桜のご飯は美味しいし、なにより気持ちは嬉しいけど、朝からこんな思いをするは御免(こうむ)りたいものであった。

 

「「えー」」

 

「えー、じゃない!」

 

「あの、私もやめてほしいです……」

 

 楽しげないじめっ子(いじりっ子?)二人の思わせぶりな不満の声とそれを否定する自分の言葉。そして桜の控えめな抗議。三様な台詞が飛び交う。

 

「ま、今日はこんなとこにしたげますかね」

 

「そうねー。士郎は良いにしても、桜ちゃんはあんまりいじると可哀想だし」

 

「藤ねえ……」

 

 扱いが軽い。不公平だと思います。

 

 

 

「ってやばっ」

 

 馬鹿騒ぎから僅かばかり経ち、残り香も薄らいで。

 虎は突然そんな事を言いだしたかと思えば、慌ててご飯を掻き込みだす。その声と箸の勢いの良さに、三人共少しばかり呆気にとられた。

 

「藤村先生? どうされたんですか」

 

 桜が代表するように尋ねるが、すぐには答えず箸を進める英語教師。その裏で水明はすくと立ち上がり台所の方に向かっていった。

 

「テストの採点あるの忘れてたのー、だから急がなきゃっっっんん」

 

 ようやく返事をすれば、慌てて食べるのと、急いで喋るのを同時進行させたばかりに喉をつまらせた。胸元を叩いてあっぷあっぷしているところに、先んじて立ち上がっていた彼が「どうぞ、藤村先生」とタイミングよくお茶を差し出す。……これを見越して台所に行ってたのか。

 

「ん、んく……。ふー、ありがとう水明くん」

 

 大河は湯呑を受け取ると一息に飲み干し、お礼を言う。そして残っていたわずか数口のご飯を味噌汁で流し込み、手を合わせた。

 

「――で、だから急がないといけないのよ。ということでごちそうさまー」

 

 そう言って手早く皿を重ねて流しに運ぶと、「後はよろしく―」と言葉を置き去りにして、来たときと同じ様に、音の方向だけを逆にして騒々しく駆けていく。慌てて皆で追い掛けるが、玄関で見送るのさえ間に合わない素早さだった。

 

「……行っちゃいましたね」

 

「……なんというか、藤村先生らしいな」

 

 二人の言葉の間を、遠ざかるバイクの音が通り抜けていく。

 

 数瞬間が空き、なんともいえない間の抜けた雰囲気が訪れた。

 

「……うん、俺らも残りを食べちゃおうか」

 

 そんな空気の中で口を開けば、三人で互いに顔を見合わせ、苦笑と共に居間に戻っていった。




彼らの日常は穏やかに。

お読み頂きありがとうございます。


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日常と変容 後編

水明くんは決めるときは決めますけど、基本はお調子者というか剽軽です。
あと女性には軽んじられるというかいじられる定めにある子。
学校とかでも口数は決して多くないけどクラスメイトなどにはしっかりバレてます。

……ともあれ聖杯戦争一日目の朝、物語は動き出します。



 

「――さて、士郎。確認しとくけど、変わらず聖痕は在るな?」

 

 そんな水明の問い。食後、弁当も詰め終わった頃。揃ってお茶を啜りつつ、テレビの音を背景音にしてくつろいだ雰囲気だった居間に、ぴしりと緊張が走る。

 

「あぁ、きっちり隠せてるけど確かにあるよ」

 

 少しばかり居住まいを正して答える。魔術の師である彼をして分からないくらい隠蔽できているなら完璧、ということだろう。

 

「なら、いい。ただ、それならちゃんと寝て体調は整えておけ。俺は解析の魔術でも掛けなきゃ分からないが、他のマスターがそうだとは限らないからな。万が一看破されたら、持ち主のお前がまともに戦えなきゃ話にもならん」

 

 早口じみた様子で言葉を継ぎ足していく水明。

 

 ……心配、してくれてたのか。

 

「悪い。ありがとな」

 

「当たり前だ。そういうのはいいから、しっかりやれ」

 

 彼はそう言うと、気を取り直すようにかぶりを振り、もう一度こちらに向き直って話を戻した。

 

「……聖痕はいくらかサーヴァントが出揃ったって分かるまでは隠す方針で行こうか」

 

 桜が口を挟む。

 

「あ、それならもうそろそろだと思います。一昨日、遠坂先輩に聖痕や令呪がないか確認されましたから」

 

「そうなのか? なら、今夜あたりに召喚しようか。いけるか、士郎」

 

 水明はそう言ってから、小声で桜に「そういうことはもっと早く言ってほしかったな」とも付け加えた。その一言に彼女は申し訳なさそうに謝る。

 

「や、実際今の所は問題起きてないし大丈夫。そんな気にしないでくれ。――で、士郎。どうだ、行けそうか」

 

 ひらひら手を振りながらフォロー。そうするくらいなら言わなきゃ良いのにと、微妙な気持ちで二人のやりとりを眺めるが、それはそれ。きっちりと切り替える。

 

「俺は問題ないよ。ただ、明日以降はどうする? それこそ遠坂には隠す方針なんだろ。聖痕の隠蔽はニコラス翁の魔術があったからできたけど、俺たちだけじゃ令呪の隠蔽は厳しいぞ」

 

 そう、首魁(マジェスター)級の魔術師の施術があったからこそ、半年前に得た聖痕を冬木の管理者であり、一人前の魔術師である遠坂から隠し通せた。しかし、召喚をして現れる令呪は十中八九今の隠蔽の術式を弾いてしまう。術を掛けた対象である聖痕が令呪に()()、その意味も本質も変わってしまうからだ。時間もなく、手助けもなく、明確に契約という指向性をもった神秘の印である令呪に、自分たちだけで再度完璧な隠蔽を掛けることは難しい。

 

 そんな思考の傍ら、それなぁ……、と水明は悩ましげに息を漏らす。

 

「……まず、俺らが魔術師だったってことは、バレてから結社の魔術師だって明かして対応しようか。多少、文句は言われるだろうが、結社所属の千夜の代執行が、時計塔寄りの魔術師に所在を言わないのは仕方ない、って納得してもらうしかないだろ。実際霊脈には手を付けてないし、他に迷惑も掛けてないしな」

 

「ん……。その線が妥当か」

 

 結社はその性質上、なかなかアンタッチャブルな組織だ。

 魔術世界における四大組織の他三つが魔術協会由来のもの――時計塔・アトラス院・彷徨海――であるにも関わらず名を並べられる異常性。他の組織が手を拱く終末災害の鎮圧のほとんどを担っている唯一性と重要性。魔術師らしからぬ理念に由来する高い倫理性と外部からのそれへの信頼性。いくつもの理由が重なって、「外様は手を出さない方が利口、互いに幸せになれる」とまでされた魔術師たちなのである。

 

 加えて神秘総ての管理機関である千夜会(せんやかい)の代執行でもある俺たちと他の組織の魔術師とでは、一般的な魔術師たちの間の原則以上に相互不干渉が鉄則なのだ。こちらが迷惑を掛けてないのならば多少の管理収入は目を瞑ってもらうしかない。あるいは、お金だけで済む問題ならいくらか渡しても良いかもしれない。

 

 

「……聖杯戦争に関しては、毛色が違うとは言え、冬木に住んでる魔術師が知らないって言い張るのは無理があるか」

 

 どうしよう、と水明は苦慮するが、かといってすぐに自分が解決策を出せるわけでもなく。ただ、互いに頭を捻る。そんな中、桜から助け舟が出された。

 

「それなら、知らないのは今開催されることだけ、とするのはどうですか」

 

 それを聞いた水明はいかにも得心いったというような表情をするが、自分はいまいち分からない。それが顔に出たのか、彼女は説明を重ねた。

 

「そもそも、前回から十年しか経ってない今回の開催が異常じゃないですか」

 

 語を継ぐ。

 

「だから聖杯戦争の存在は知ってても、今、開催されることは知らなかった、ということにするんですよ。聖杯に参加を願っていたわけではないけど、魔術師だったから巻き込まれた、数合わせのマスターだと、そう理解していると説明するのはどうですか、先輩」

 

 それこそさっき言ってた結社の魔術師だってことも絡めて、と彼女は言う。

 

「……なるほど。それなら問題ない……のかな? どうだろ」

 

 大丈夫だろう、とは思うが確認する。水明はうっかり癖があるが、能力は確かだし、なによりことがことだ。機会があるのに、一人だけで判断しようとすれば失敗を招きかねない。

 

「大丈夫だろ。ま、付け加えるなら、その設定だと普段通りの行動をとること。それこそ、いつものように学校に行くとか、そういうことが必要だろうなってぐらいだな」

 

 補足に頷く。すると、水明が突然悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「あと、遠坂は疑り深いタイプじゃないしな。ブラウニーなお前なら好相性だろ」

 

 ブラウニーな、ってなにさ……。

 

「いやいやあだ名のこと。お前は穂群原のブラウニーとか、偽校務員とかって呼ばれてるような振る舞いをしてるからな。ある程度は信頼されるだろってことだ」

 

 人畜無害というか、人が好いというか、そんな意味。そう続けながら、こちらの内心を見透かしたようにくつくつと笑ってからかってくる。なんだか不満だ。

 

 

 ――と、そこで一つ思い当たる。

 

「――それはいいにしても。桜はどうする? 遠坂にどう説明するんだ」

 

 唐突だが重要なことだ。彼女は遠坂の妹だ。それに、参席こそしてなくても結社に関わる魔術師であるし、そのあたりをどうやって、どこまで説明するか。そして間桐の事情をどこまで説明するか――。いくつかの意味を言外に含まして訊けば、水明は笑みを消してこちらに向き直った。

 

 

 

 ――魔術師然とした、冷たさを感じさせる表情。

 

 不意に見せたその(かお)に、思いがけず硬直してしまう。

 

 

 

「知らないことにする」

 

 

「――え?」

 

 

 

 必要な言葉が抜け落ちた。それでも、訊き返す。

 

「――桜は遠坂に真正面から令呪の有無を尋ねられるぐらいには警戒されてない。ってことは、伏せてれば切り札になりうるってことだ。だから何も説明しない。俺らと桜は、互いに互いの魔術的なことは何も知らないことにするんだ」

 

 水明はそんな説明をすると、ひとつ息を()いた。

 

「……曲がりなりにも俺は偉業者(ハイグランド)級だからな。それを理由に何も気付かないのはおかしいって疑われたら、場合によっては俺は彼女に疑問を持ってたことにする。だけど、少なくとも確信は持ててないと、そして桜と士郎は一般人としての関係と見ているとするのが妥当だろう」

 鋭い目つき。俺を通して、違う何かを見るような――。

 

「それでも説明する時は、共闘とかで確実に敵対しないときか――あるいは完全に敵対する時だ。揺さぶりのカードとして切る」

 

「な!? そんな言い方――」

 

「士郎」

 

 自身の名を呼ぶ声の咎める響きの強さに驚き、思わず二の句を継げなくなる。

 

「思うところはあるだろうが、これは戦争なんだ。目的のためには、禍根が残る可能性は呑み込んでくれよ」

 

「……分かってるけどさ」

 

 そうだ、分かってる。理屈として、戦術としてはベターだ。コンビとして動くことの多い俺らに比べて、あの少女が関係性を疑われる可能性は低い。なら、その事を有効活用すべきだ。頭ではそう、冷静に理解できる。

 

 

 だけど。

 

 

 ――だけど、心情としては納得しきれない。桜に、そして遠坂に対して、そんな露骨な言い方をされるのは嫌だった。例えそれが酷く個人的な感傷であったとしても、だ。

 

 思いのまま憮然とした表情でいると、おもむろに水明が顔を寄せてきた。

 

 

「――こういう言い方でもしないと、あの子が自分から動き出しかねないだろ。だから、()()()()を危険な目に合わせたくないならここは乗れ」

 

 

 耳元で告げられたその言葉に固まる。反射的に小声で真意を尋ねる。

 

「それって――」

 

「士郎」

 

 二度目の呼び掛け。その声には掣肘の意と、分かり辛いが、確かな気遣いが含まれていた。

 

「……分かったよ、そうしよう」

 

 小声ではなく、普通の声量で同意する。それを聞いた水明はひとつ首肯をすると、寄せていた身を離し、振り向いた。

 

「桜」

 

 名前を呼びながら、横目でちらとこちらを見る。

 

「そういうわけだから、できれば何もしない、というか隠すように立ち回ってもらえるか。……どうしても嫌だったら考えるけど」

 

 ここでも、気遣い。――あぁそうだ。こいつは、こういう分かりにくい男だったのだ。

 

「……はい。大丈夫です。たぶん、その方が良いと思います」

 

 控えめな声。しかし、確かに肯定する言葉。それに水明はまた頷くと、ふと、付けっ放しだったテレビに目を向けた。釣られて俺たち二人もそちらを向くが、流れるニュースは普段通りの変哲のないもの。ただ右上に表示されている時刻が問題だった。これのことかな、と思い呟く。

 

「時間、そろそろだな」

 

「だな。最低限の摺り合わせはできたし、残りは夜に話そうか」

 

「そうしましょう」

 

 水明がこれからについての提言をし、桜も応じるとさっと湯呑やコップを手にとり流しで洗い始めた。

 それを見て自分はガスの元栓などの確認を始め、水明はそれぞれの荷物を玄関に持っていく。そのまま先に外に出たようだ。洗い物も少ししかなかったためにあっという間に終わり、自分も彼女もすぐに水明を追う。

 

「んじゃま、行きますか」

 

 玄関先で待っていた水明が鞄を手渡せば、桜は頷き、自分は返事の代わりに鍵を掛けた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 通学路。朝の六時半を過ぎたばかりで、人通りはそう多くない。

 そんな中を、普通の学生と変わるところなくお喋りをしながら歩いていく。

 桜が話を振って俺が応じれば、水明が薄く笑いながら合いの手を挟み質問をする。俺が話し始めれば、水明が皮肉交じりの突っ込みを飛ばし、桜がころころと笑う。

 そんな日常だ。

 

 今日は藤ねえのバイクの不調の原因が水明であることが判明したりした。どうも昨日の夜、うっかり回路に魔力が残ったまま、齟齬のグローブをつけた状態でバイクに触ってしまったらしい。魔力炉を内包し、人の身であっても神秘の色が濃い彼が、魔力を通した状態で機械に触ればそんなことが起こるのは自明の理だった。「完全に故障しないで済んだだけマシだな」などと軽口を叩けば、水明は反駁もせず肩を落とした。桜はそんな俺に、いじめ過ぎちゃ駄目ですよ、などと注意する。それれに彼はますます情けなさそうな顔をして落ち込んだ様子を見せた。

 

 校門も差し迫り、最後の坂道を水明、俺、桜と横並びになって登る。そんな時、回復したらしい水明は桜に話しかけた。

 

「そういえば慎二はどうした、桜」

 

 最近姿が見えないけどどうした、という意味だろう。確かに彼は偶に衛宮家に朝を食べに来ることもあれば、そうでなくても通学路で合流することが多いのに、この数日顔を合わせていない。学校には来ていたようだが部活はサボりがちで、全くと言って良いほど会う機会がなかった。

 

「あ……。……えっと、その言い辛いんですけど……」

 

 問われた彼女は言葉通りに言い淀み、俯き加減になる。そんな彼女の様子を訝しんで、水明と顔を見合わせる。そのまま何秒か過ぎれば、桜は少し気合を入れるように息を吐き、顔を上げた。

 

「あの、この数日家に帰ってきてなくて。……その、女性の家に居ると言いますか、ずっと渡り歩いてるようなので……」 

 

 ……。

 

「あー……」

 

 あちゃー、とでも言いたげに水明が額に手を当てる。確かにそれは女の子の桜の口からは言いづらいことだっただろう。少し酷なことをしてしまったようだった。

 

 しばし、苦い雰囲気に包まれる。

 

 ドロリとした静寂。それを破る声。

 

「しかし、あれだな。ストレスでも溜まってるのか、アイツ。こんなことは今までなかったろ」

 

「だな。いろいろ遊ぶやつだとしても、顰蹙を買いかねないことはしないと思ったんだけどな。しかもこんな不誠実な感じのこと」

 

 珍しく気を使った彼の、空気を変えるように殊更に軽さを強調した弁に応える。実際、慎二は軽い奴であってもその辺りを踏み外すとは思えなかった。

 

「よく分からないんです……。またなにか私が悪いことをしてしまったんでしょうか」

 

 困ったように、再び俯いてそう言う桜。

 

「そんなことは無いと思うけどな」

 

「万が一、そうだとしても気にすんな。何も言わず、その上デリカシーゼロな行動してるアイツのほうがもっと悪い」

 

 そんな彼女を俺が、それに続いて水明が執り成す。

 己を責めていたその少女は、それを聞いて若干ではあっても安心できたのか、小さな吐息と共に控えめに微笑んだ。

 

 ……大丈夫なのだろうか。

 

 そうやって話しているうちに、校門が目前に見えてきた。水明はやや先を行って首を回し、こちらを見ながら歩いている。

 

「ま、なんにしても――」

 

 そう切り出し、校柵のレールを踏み越えた彼の表情が――凍った。

 

「――水明? どうした?」 

 

 不思議に思いながら、自分も校門を通り過ぎる。

 

 

 

 ――瞬間

 

 

 

 世界の色が変わった。

 

 

 

 景色が、赤の単色調に塗りつぶされた。どこからか、胸が悪くなるような甘い匂いがする。

 

 

 

 ――そして理解した。

 

 

 

 これは結界だ。

 それもとびきり悪性の、容赦なく領域内の人を害する類の結界だ。

 頭に血が上り、思考が鈍る。

 

 

 

 

「っ! これっ!」

 

 ――桜が顔色を変えて大声を上げる。

 

「これは酷いな……」

 

 ――水明が吐き捨てるように言う。

 

 

 

 

 二人の言葉を尻目に、ただこの悪意を思う。(くう)を通じてまだ見ぬ犯人を睨む。

 

 

 

 ――頭の片隅で、歯車が軋むような音と、撃鉄が落とされる音とが響いた気がした。

 

 

 

 

 ……いずれにせよ、それは。

 

 日常の終焉を告げるものだった。

 

 

 




こんなシリアスな終わり方しといて言うことではないですが、水明くんが前回頭を抱えていたのは自分が藤ねえのバイクを壊した可能性に思い至ったから。それに士郎は気付いていません。故に他人事感。いえ、そこまで重要なことではないですけども。

……それはともかく。
お読みいただきありがとうございます。


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見誤る敵 前編

「――士郎? 士郎!」

 

 自分の名を呼ぶ声で我に返る。気がつけば、苛立ちを努めて表に出さないように抑え込んでいる様子の水明がこちらを覗き込んでいた。桜も酷く心配そうに見ている。

 

「あ、あぁ、悪い……」

 

 一言詫びるが、心中は穏やかではない。冷静になったことで、結界のイメージの棄却はできた。世界は色を取り戻し、立ち籠めていた匂いは薄らいでいる。しかし、直前の記憶、そして悪意が、極めて鮮烈だった。怒りに囚われたままの俺を相棒がやんわり嗜める。

 

「分かるけどな、ここは抑えろ」

 

 美綴も見てるしな、と続けながら彼は目を遣る。それを見て桜は慌てて心配する表情を引っ込めた。すこしぎこちないが、おおよそ普段通りの様子。自分も不承不承ながら、どうにか呑み込む。

 

 彼女が居たのは玄関前の自販機コーナー。そこを基点に左右を見渡せばちらほら陸上部の面々も目に入る。

 それを見れば尚更そのままでは居られなかった。それは生徒らに被害を出したくないという思いがあるからでもあり、彼らに神秘を悟られるわけにもいかない事情からでもある。

 

 ひとつ、深呼吸。改めて冷静さを取り戻した。

 

 少し歩いて近づけば、先に指された彼女は片手を上げて、「や」と快活に声を掛けてくる。

 

「三人とも、おはよう」

 

「おはようさん、美綴」

 

 水明に続いて、自分と桜も挨拶をする。そんな俺らを胡乱げに見る美綴。

 

「八鍵に明るく挨拶されるのはどうにも変な感じだな。さっきの三人の様子も妙だったし、なんかあったのか?」

 

 いかにも興味から、という感じで訊いてくる。なんとか躱そうと口を開けば、声が出る前に芝居がかった様子の友人が話し出した。

 

「いや、大したことじゃないんだけどな。俺がちょっとやらかしてブーイング受けてたのさ」

 

 堂々と嘘を吐く。それを受けて、美綴は更に興味を惹かれたように目を輝かせた。

 

「へぇ、あのいつも済ました顔した水明クンがねぇ。一体何をしたんだい」

 

 反応を引き出そうと俺と桜の顔も見遣ってくる。

 

「そのわざとらしい名前呼びとクン付けは辞めてほしいなぁ、なんか怖いぜ」

 

 それを意にも介さず、前に立つ少年は目線を遮るように、大げさに両手を交差させて肩を掴み、さも寒そうなジェスチャーをしておどける。

 

「それに内容なんか言うわけ無いだろ、恥ずかしい。黙秘権を行使させてもらうからな」

 

 滔々と嘘を重ね、こちらを振り返る。「お前らも言わないでくれるよなぁ」などと口にしながら、余計なこと喋るなよ、とばかりの眼力でアイコンタクトをしてきた。それに二人してコクコクと何度も頷く。

 

「うっわ脅迫だ。やらかした奴のやることじゃないなぁ」

 

 美綴も水明に負けず劣らず冗談めかして話した。

 

「二人とも、そんな奴の言うこと訊くことないんだよ。ほら吐いちゃえ吐いちゃえ」

 

 しかし、"そんな奴"扱いをされた彼は、それを鬱陶しげに手をひらひらさせてあしらう。

 

「ま、そんな訳で朝練ちょっと遅れる。よろしく」

 

 そう打ち切れば、対して美綴も深く追求したい訳ではなかったようで。意外にもあっさりと応じた。あるいは俺らの雰囲気から何かを察して、空気を読んだ行動をしてくれたのかもしれない。

 彼女は小さな笑いを漏らすと、「早く来いよー」とだけ言い残し、甲を見せるように緩く挙げた右手を振って弓道場の方に向かっていく。そんな美綴を三人で見送った。

 

「さて」

 

 姿が見えなくなったのを確認すると、水明はこちらに向き直った。

 

「場所を変えようか」

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「訊くまでもないと思うがな。改めて二人に確認するけど――」

 

 校舎裏手の雑木林。人目につかないこの場所に移動した後。水明は適当な木に凭れ掛かるように立ち、横に並ぶ俺と桜と対面すると、そう切り出した。

 

 

「この結界、人を殺すものだよな」

 

 

 殺す、という言葉を濁さずに尋ねてくる。

 

「俺もそう思う。まだ解析してないから細かいことは分からないけど、この感じは明らかに異常だ。――あと、聖杯戦争関連の可能性は高いんじゃないかな。感じられる神秘が濃過ぎるんだ」

 

「先輩の意見も含めて、私もそうだと思います。日中は下手に動けませんから放課後ですね。印象的にはすぐに発動はしない感じですから、今日中に処理すれば十分間に合うはずです」

 

 俺と桜の言葉に「だよな」と返す水明。それを見て、更に自分にできることを考える。

 

「やっぱり、今すぐ校舎ごと解析掛けるか?」

 

 その行動は「それは待った方が良いかな」と制止された。何故、と目で訊く。

 

「そんな大規模にやれば痕跡が残りかねないし、そしたら遠坂にバレる。解析は起点を探してからだ」

 

 納得の理由。これほど露骨な結界だ。遠坂が気付かないはずがない。

 そして、後でならともかく、今、俺たちが魔術師と知られるのは非常に下手(まず)い。というより、間違いなく疑われて面倒なことになる。

 

 そう考える傍ら、水明は、それよりも、と前置きしてから続ける。

 

「誰がやったか、ってのをまず考えるべきだと思う。当然、呪刻か、基点から解析しきることができれば潰すけど、再展開の可能性を考えたら元を断ち切ったほうが良いしな」

 

 桜は「どうやったかというのは……」と言いかけるが、彼は渋面を作って否定した。

 

「それはそもそも今調べるのは難しいだろうよ。起点を調べてからしか考えられないだろうな。あるいは、それでも難しいかもしれない」

 

 単純な実力の不足を想定しているのだろう。ただ解くというのならともかく、他人の魔術を完全に解析しようとするのは本当に難しい。ましてやサーヴァントの施したものである可能性も考慮すれば、それは輪を掛けたものになる。それを思って、皆重いため息を吐く。

 

 

「――で、誰がやったか、心当たりはあるか」

 

 凭れていた木から弾みを付けて背を離し、放たれた質問。

 沈黙が降りた。その問いには……誰も答えられない。手がかりが少なすぎる。

 ――いや、厳密には心当たりが二つある。それは他の二人も同じだろう。だが、論理的にも、心情的にも、どちらもありえない()()だ。

 

 

「……まず、遠坂だが――」

 

 膠着を嫌ってか、それを破るように水明が再び口火を切る

 

「それはないな」

 

「それはないです」

 

 が、二人の反論が即座に出る。彼はそれを聞いて僅かに目を細めた後、首を縦に振った。

 

「だろうな。俺もまず除外した」

 

 言葉を切り、思案するように手を顎に添える。しばし瞑目。そして、おもむろに口を開く。

 

「彼女が犯人だったら不都合が目立つ。一つ目は、あいつが冬木の管理者であること」

 

 腕を伸ばし、一本の指を立てる。

 

「自分の領域(フィールド)の人間を徒に殺すのは管理者(セカンドオーナー)の在り方に反するし、魔術協会と聖堂教会の両方からの評価も最悪だ」

 

 俺も桜も頷く。それを見て水明は二本目の指も立てた。

 

「二つ目。こっちのほうが重要なんだが……」

 

 言いながら、ニヤリと口の端を上げる。

 

 

 

「俺もそんな奴だとは思わない」

 

 

 

 ――――。

 

「……先輩、水明さんのこれって煽ってるんですかね?」

 

「待て待て待て待て桜。いや待って待って」

 

 唐突な空気の弛緩。代わりに不穏な雰囲気を醸す彼女を、大慌てで止めに掛かる水明。

 彼女に同意することこそしなかったが、自分もイラッとはしたのは事実。ただ、正直、それ以上に安心してしまった部分も大きかった。なんだかんだ彼も遠坂を信用しているのだと思うと、なんとも言えない安堵感がある。だから何も言えずにいると、桜は諦めたのか、彼の方に向き直った。

 

「だって水明さん、朝からずいぶん魔術師(あっち)側に寄ってたじゃないですか。なのになんで、突然そんなふざけたようなことを言うんですか」

 

 

「……そうは言ってもな。実際に遠坂が犯人だったら俺らの手に負えないかもしれないぜ。だからそんな可能性、考えても無駄なんだよ」

 

 

 桜が首をかしげる。それを見た水明は、咳払いをひとつ。真剣な顔をして話し始めた。

 

 

「何年か遠坂を見てきた訳だけど、俺を含めて全員がそんな性格だと思えなかった。その上でそれが真実でないとしたら――あいつはとんでもない魔女だってことになる」

 

 

 そしてな、と続ける。

 

 

「恐ろしいことに、あいつには十分可能性があるんだ。音に聞く五大元素使い(アベレージ・ワン)っていう奴の素質はまさしく化け物級だ」

 

「――だからな、魔術師として、俺らを欺き通せるような能力も培ってるって場合もありえなくはないんだよ。魔術の素質が他の才能の程度と比例するとは限らないにしても、あれほど恵まれてたら実際のところ天井は到底分からない――なんでもありなんだ」

 

 

 嘯くように言を連ねる。

 

 

「そして、そのレベルの奴相手ならどう警戒しても無駄ってこと。危険だって可能性だけ頭に入れて時々の対応に気を配るしか無いのさ」

 

 

 長い言葉の最後に、そう締めくくった。

 

「――水明。それは……」

 

 皆まで言わないうちに遮られた。

 

「おうとも、邪推だよ、士郎。言った俺も、確率はえらく低いと思ってる」

 

 なら、なんで言ったのか、そう訊こうとしたとき、水明は手を伸ばして制してきた。

 

「一応、警告っていうか自戒すべき話なんだけどよ」

 

 耳を傾ける。

 

 

 

「俺ら、正直遠坂を侮ってる部分があったろ」

 

 

 

 予想外の言葉。でも、否定は、できなかった。

 

 

「この結界で思い直したんだよ。――――俺らは遠坂のことを無意識に下に見てないか、ってな」

 

「ずっと戦いに明け暮れてた俺らに届くはずが無いって、そう思ってた」

 

「本当に馬鹿なことにな」

 

「それは手酷い驕りだった訳だ」

 

「サーヴァントなんて規格外があるんだ。才覚次第でどうとでもひっくり返せる」

 

「あるいはその才能だけでどうにかされるかもしれない」

 

「気を引き締め直さなきゃならない。――そうだろ?」

 

 矢継ぎ早に言葉を繰る。傲慢を自嘲し、自戒し、糾弾する。

 

 

 ――否定は、できない。桜でさえ表情を曇らせている。

 

 

 

 

 遠坂が俺らを、妹を含めて騙し続けてきた可能性。否、騙しおおせてきた可能性。

 

 

 

 心は言う。それはないと。

 脳は言う。それはありうると。

 理性は言う。それはあってはならないと。

 綯い交ぜの思考。結論を出せないまま沈黙する。

 

 

 

 耳に痛い、音の空白。隣を見遣れば、桜も眉を曇らせ、俯いている。

 

 

「……そう、かもな」

 

「先輩……?」

 

 ようやく絞り出すように同意した自分に、不安げに呼びかける桜。そんな俺たちを前に、水明は厳しい表情を向けている。――だが、そうしていたのは決して長くはなかった。やや不自然なようにも感じられるタイミングで、ふっ、と雰囲気ごと表情を緩め、執り成すように言葉を向ける。

 

「……まぁ、ともあれ全部憶測じみた推測だ。さっきも言ったけど、そうそうないことだと思う」

 

 なによりあいつがこんなことをする奴だとは信じたくないしなと、柔らかな表情で口添えた。

 

 その点で水明の思いと、己の思いとが一致しているのは救いだったが、しかし。俺が今まで"最悪"を想像しなかったのは事実。私情で危険を呼び込む思考をしてしまっていたのは、強く反省すべき点だった。

 

 

 

 ――例え、憧れの人間を一種貶める想像だとしても。

 

 

 

 微妙な感情と思考とが、脳を素通りして表情に出てしまう。

 そんな俺を見て、水明は小さく笑った。

 

 

「落ち込むなよ、士郎も桜も。これはあれこれ考えた結果ってだけだろうよ」

 

 

 その笑顔は、酷く少年じみているのに魔術師らしくて。――でも、羨ましそうな、色もあって。

 

 

 ――――。

 

 

 複雑な色を面に浮かべたまま、彼は続ける。

 

「そんな深く考えんな。心構えの問題だ。だから、もう問題はないだろう?」

 

「でも」

 

 少女の反駁。それに彼は否定の意を示すように首を振った。

 

「だーかーらー、気にすんなって」

 

 頭を掻きつつ、しつこいけどさ、とため息を一つ。

 

 

 

「あのな、無理な想像でも想定するのは戦う魔術師の習いだけどよ、それ以前に俺らは結社の魔術師なんだぞ。――そこらの魔術師と同じ価値観で、人間らしい血の温度を消す必要もないだろ」

 

 

 

 ましてや、と自分と桜を指差して言う。

 

 

「お前らは俺と比べりゃまだまだ未熟なんだ。そう言う事ができないのも仕方ないさ」

 

 

 皮肉げな言葉。

 それを聞いた少女は一瞬ぽかんとしたかと思えば、しかし柔らかに微笑み、耐えきれないように口から楽しげに空気を漏らす。俺もたぶん同じであろう感想を抱いて、ほんの少しむっとした後、笑ってしまった。

 

 ……傍からは非常に分かり辛いが、これは「魔術師らしい人でなしでいるのは俺だけで十分だ」といったニュアンスの言葉なのだ。妹弟子(ハイデマリー)のように副音声レベルとはいかないが、ずいぶん長く接してきたからこそ、すぐに分かる。いつもの素直じゃない(ツンデレな)性格の滲み出る物言い。

 あんまりに俺らが笑うから、今度は水明がむすっとした表情で不機嫌になり始める。それを二人してどうどうと諌めれば、おかしさの余りとうとう本人まで吹き出した。

 

 

 

 校舎裏の雑木林。最初はいかにも魔術師が集う、重苦しい雰囲気に満ちていたその場所。しかし今は打って変わって笑い声の木霊する、学生の集いらしい明るい空気を纏った場所となっていた。

 

 

 

 ――少なくとも、そう、俺には思えた。

 

 




 お読み頂きありがとうございます。


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見誤る敵 後編

 この世界線上の慎二は割と一般人な感じに綺麗な慎二です。

 さておき、よろしくお願いします。




 心当たりの二人目――間桐慎二。彼に関しては、ほぼ即座に除外の方向で一致した。

 

 慎二の魔術回路は枯れ切ってることは皆知っていた。かつては尋常でない執着を見せたとは言え、三年前に間桐家、そして間桐臓硯を討伐したときの一件で、魔術の業と無情さは骨身にしみたはずだ。それで嫌気が差して魔道に関わるのも辞めたはずで、そこは三人とも同じ意見だった。

 

 

 あの時、その場所で、慎二の妄執も、嫉妬も、醜態も、見尽くした。水明が積極的に心を折ったせいではあったが、彼は本音を吐き尽くした。

 

 

 あんな慎二の姿は見たくなかったが、それでも今なら見ることができてよかったのだと思う。

 

 

 魔術に関する力も、心も、願いもない彼に、聖杯戦争に関わる理由は無いだろうし、巻き込まれて聖痕が現れたとしても、それを相談しない理由もないだろう。俺らとの間に友情は結ばれ直されたはずで、でなければあの戦いからの今までの日々はなかったはずだ。――可能性としては魔術を使えるようになること、そうした願いを持ってるということがあったが、それを願わざるを得ない人間が聖杯戦争で勝ち残れるだなんて考えはしないだろうから、結局は同じことだった。

 

 そもそもあの戦争で間桐は――ゾォルケンは御三家として資格を失ったはずだ。あの時こそ詳しくは知らなかったが、結果としてそうなるまで破壊したし、半年前には念を入れた細工も完了した。現に今の間桐家で唯一の魔術師であり、第一の優先権をもつであろう桜には令呪の兆しが現れていない。ならば慎二が令呪を持ったはずもなかった

 

 つまるところ、想定としては外部の魔術師による工作、そこに着地した。

 

 

 

 

 

    *   *   *

 

 

 

 

 

 雑木林での話し合い。

 笑いが木霊して、それが収束して、いくらも経たない頃。手振りと共に、水明が口を開いた。

 

「話を戻すけど、いいか」

 

 区切りを示すためのものか、儀礼的な雰囲気を印象を強調するかのような確認。それに二人とも頷けば、一拍、間をおいて話し出した。

 

「二人目――多分、みんな同じであろう心当たりの二人目。……慎二は、どうだと思う」

 

「ないです」

 

 桜による、遠坂のときよりも間隔(ラグ)が短い気すらする否定。自分もそれに続く。

 

「俺もなしだな。――水明はどう思う」

 

 あの遠坂についてのやり取りの後、なお想像できない慎二の可能性。それについて彼に尋ねる。

 

 しかし、こちらの気負いに反して、一切の手応えはなかった。

 

「――ない。徹頭徹尾ありえない」

 

 清々しいぐらいの言い切り。流石に訝しげな顔を向ければ、こともなげに水明は応じた。

 

「あいつには魔術師としての才能はない。あいつもそれが分かってる。しかも、聖杯戦争に参加する理由もない。勿論、自信もないだろう。――俺がそうなるくらいに心を折ったからな」

 

 堂々と、あんまりといえばあんまりなことを言い放つ。当事者の妹の彼女は、いささか複雑そうな表情を浮かべていた。それを見て、フォローか、あるいは補強か、彼は言葉を重ねる。

 

「あの時、臓硯ごと慎二の歪みは焼き切ることができたはずだろ。じゃなきゃ、今みたいな関係でいることなんてできなかっただろうさ。――違うか?」

 

 そりゃ、違わない――。

 なんとも場違いに間の抜けたような、だが確かな実感のある感想が浮かぶ。

 

「そう、ですけど……」

 

 言葉に詰まる桜。それを見つめる水明。双方を見兼ねて口を出した。

 

「微妙に同意しづらいのは仕方ないし、あと、あの時のことは桜の前であんまり混ぜっ返すべきことじゃないと思うんだけどさ。とりあえず慎二がマスターじゃない――少なくともこの結界を仕掛けた訳じゃないっていうのは、なんていうか、良いことだと思うんだ」

 

 それでひとまずはよくないか――。そう、上手くまとまってはいないが、先の反省を含めて自分の言葉を掛ける。水明は俺を見遣り、確認するように首肯をして、後輩の反応を待つかの如く瞼を閉じた。

 

 静かな時間が流れる。

 

 

 ――やがて。

 

 

 

「――はい、確かに兄さんがやってないって分かったのは嬉しいです」

 

「……だから、水明さんの物言いは許してあげます」

 

 

 

 冗談めかした言葉。静けさを感じる微笑み。そこに少女の頑固さが垣間見えたが、それもいい。

 彼も小さく頷くと、穏やかな笑みを浮かべおどけるように「いやいやごめんなさい」などと口にする。彼女はそれに対して、ぷい、と自身の口での擬音付きのいかにもな仕草で跳ね除ける。

 そこにひとまずの解決を感じて、自然と微笑みが浮かんだ。

 

「ともあれ、誰がやったか、っていうのは保留でいいかな」

 

 取り直すように言った自分の言葉。

 

「ま、そうなるわな。――そもそも誰がやったかっていう提起(あれ)の本題は遠坂の可能性について言いたかっただけだから、別にいいんだけどよ」

 

 根本から対処したいっていうのも本音だけどなと、小さく付け加える水明。

 

「だとしたら校外――というより外部の魔術師の仕業でしょうか? ……なら、目的はなんでしょう?」

 

 二人を受けての桜の疑問。それに自分の意見を言う。

 

「一つ考えられるのは工作かな。御三家の遠坂がマスターだってことは周知だし、煽るっていうか、挑発目的で仕掛けたとか?」

 

 俺の語を継ぐように、水明も口を開いた。

 

「詳しく調べなきゃ分からないが、こんだけ悪質だし、あとはサーヴァントの魂食いって可能性もあるな。――って自分で言ってて思ったけど、ますますこの結界が聖杯戦争関係だっていう可能性高まったじゃねぇか」

 

 元々確定事項みたいに言ってたけど、やっぱり確定してしまっていいかな、などと、実に嫌そうに言う。

 

 

 酷く悪辣な予想に、己も多少それを考えていたとは言え腹が立つ。無関係の一般人を自分の欲得に巻き込むなんて――ましてや命を奪うなんて、本当に度し難い。全く、馬鹿げてる。

 

 

 そんな怒りが顔に出てしまったのか、桜も水明も、落ち着いてと言いたげに肩を抑えてきた。

 

 深く息を吸い、感情をフラットに戻す。今日はまだまだ始まったばかりで、放課後の結界の処理もある。あんまり、エネルギーを使うわけにはいかないと、理性を働かせる。

 

「ともかく、邪魔、挑発がメインで――この言い方は嫌ですけど、あわよくば、サーヴァントを強化しようとしている、というのが一先ずの見方でいいですかね」

 

 俺が落ち着いた様子を見せてから、二人の意見をまとめる桜。互いに頷けば、気を取り直すように水明が手を叩いた。

 

「ともかく、残りは実作業が放課後、朝も言ったけど、諸々のすり合わせが夜、それでいいな」

 

「おう」

 

「はい」

 

 異論なく、二人して短く返答する。

 

 

「――んじゃま」

 

 校門での提案と真逆の水明の掛け声。特段に軽さを心がけたような声音。

 

「部活に戻りますかね」

 

 それは、意識ごと日常への回帰を促した。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 朝の清々しい空気。

 学校の一日が始まる前、学生たちの喧騒が始まる一歩手前の、独特の静謐さ。

 そうしたものを切り裂いた先で、トンッ、とも、タンッ、とも違う。どうもしっくりくる表現のできない音が鳴る。それは矢が的に命中する音。矢が風を抜けた音の後にやってくる快音。

 

 正中の射。それがための、小気味良い響き。

 

 ――弓道場には、綺麗な音が満ちている。的中の音を始め、矢の風切りの鋭い音、離れの時に響く弦音、引き分けから会までの引き絞られたような空気の震え。果ては射の節につき吐き、吸われる、真摯な息の音。

 

 そんな数多くの音の中、俺は親友であり、師匠であり、兄弟子であり、上司であり、相棒であり――同じ理念の下に在る男、八鍵水明の射を眺めていた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 結局、部活に合流したのは七時半頃。正式な開始時間から三十分程遅れての参加だった。

 口々に遅刻を謝りながら、手早く準備を済ませる。やがて順番に並べば、水明が三人の中で一番最初に射ることになった。

 彼は射場に立ち、八節を遵守する丁寧な射を組み立てた。四射四中で流麗に射終え、最後の残心は気持ち長めに取って的を眺めている。

 

 

「はぇ~、また今日もよく中てるね、八鍵」

 

 そんな水明への、美綴のなんとも間延びした称賛の声。

 

「――そうか? ま、あいつほどじゃないけどな」

 

 当の少年はそれに皮肉げに応じ、こちらを顎をしゃくってくるが「ありゃ別格でしょうに」などと返されている。

 

 別にそう持ち上げてもらえるほどのものでもないと思うけどな。そんな感想を思い浮かべながら、自分の番に立ち上がろうと足に力を入れる。

 

 その時、誰かに袖を(つつ)かれた。

 

「……先輩の射るときの姿は、他の人と全然違いますよ」

 

 桜だった。こちらの内心を見透かしたように、控えめに、しかしはっきりとした言い方で褒めてくれる。単純に嬉しいが、彼女のそれは可愛らしさがまず先にきてどうにも恥ずかしい。今朝の起き抜けの再来かと、湧き出る煩悩に蓋をする。……一成、仏様によろしく言っといてくれ。

 

 非常に罰当たりな思考をしながら立ち上がり、「ありがとう」と桜に声を掛ける。そしたら、はにかみながらも小さく手を振って応えてくれた。思わず赤面してしまい、軽く俯く。

 そんな俺らの様子を見て、美綴が面白そうにしていた。水明に耳打ちをしながら、なにやら指差してくる。それを聞いた彼は小憎たらしい表情を浮かべ、こちらに聞こえないような小声でニヤニヤと返事をしていた。

 

 ……聞こえないけど、だいたい何を言ってるかは分かるぞ……。

 

 そんな二人に、しっしと言わんばかりに手を振って追い払う仕草をすれば、しかしますますニヤつきを加速させる。どんな二人だ。特に美綴お前、今朝のうちの食卓を見てたのか。

 

 ……部活をやりながら何故、こうも家でのことを想起させることが多いのかと、小さくため息をつく。肩にのしかかる妙な疲労感を振り切ろうと、射場に歩を進めた。

 

 

 

 

 一呼吸。意識を沈める。自己を殺す――――。

 

 

 ――――足踏み――胴造り――弓構え――……。

 

 ……打起こし――引分け――会――離れ――残心――……。

 

 

 

 

 射法八節に従い、矢を射る。

 当然、的中。それも正中。

 継矢を()()()()()()、四本の矢を結べば正十字となる極小の四点に収める。中たると知っているから中たる射。

 終えて息を吐き、腰に手を遣る。ある意味既知であったとは言え、この結果にはやはり満足感があった。

 

 見つめていた的から射場の後ろに目を移せば、部員全員が自分を注視していた。それに自分が気付くと、半数ほどが蜘蛛の子を散らすように目を逸らし、しかしもう半数はなお感心や畏敬を抱いているような雰囲気で目を離さない。

 

 妙な空気の中、また美綴が声を上げた。

 

「うん、やっぱり衛宮の射は本当に綺麗だね。しかも今日はすこぶる好調だ」

 

 心底、といった様子で感心している。他の部員は反応が鈍いながらも頷いたり、感嘆のものらしい弱々しい息を吐いたりしている。

 

 

 ……褒められるは嬉しいが、どうにも面映い。

 

 ――なにより、自身の弓をそんなに良いものだとは思えなかった。

 

 

 どうすればいいのか分からず立ち尽くしていると、水明が戻れと手招きをしてきた。これは悪いことをしたと、次に射る桜に場所を譲るべくすぐに退()く。入れ違う時、彼女は小声で「お疲れ様です」と労ってくれた。

 射場の後ろに控えれば、水明はこちらを見ず、前を向いたまま声を掛けてくる。

 

「ま、お疲れさん。美綴の言う通りやっぱ()()()()()()だな」

 

 一部を強調し、それでいて意味を僅かに取り違えた言葉。それとやや遠くを見るような目。何か含みがあるようだが、いまいち掴みきれない。お、おうとだけ不明瞭な返事をすれば、水明は短いため息を吐いた。少し肩を寄せるような素振りを見せて、忍び声で返される。

 

「潜りすぎだって言ってんだよ。程々にしとけ」

 

 何が、とか、何に、といったようなことが欠けた、曖昧な言葉。だけど、そこまで言われれば分かる。成程、俺は朝の怒りは冷ますことが出来ていないらしい。――結界に気を取られ、魔術師側に意識を寄せ過ぎてしまっていたようだった。

 

「……あぁ、分かった。どうにかする」

 

「ん。しっかりな」

 

 明確ではない自身の返答。それでも、水明はそれに納得したようにはっきりと首を縦に振った。

 

 付き合いが長いからこその、短いやり取り。信頼があるならば応えなくてはと、気を改める。

 

 

 ――日常に意識を切り替える。

 

 瞼を閉じて、深呼吸。

 

 仄暗い、熱い水底から浮上する。

 

 

 目を開く。気がつけば、桜が射終えていた。結果は四射三中。内一発はぎりぎり中っているという塩梅。悄気げたように、彼女は肩を落としている。

 

「……なかなか先輩たちみたいに、とはいきませんね」

 

 こちらに戻ると、やや伏し目がちにそう言った。

 

 水明はふらと視線を揺らした後、何かを言いかけて口を結ぶ。自分はなんと言えば良いのか、というよりも藪蛇にもなりそうな気がして、押し黙ってしまう。そんな俺たちに桜はますます落ち込んだ様子を見せた。気不味くなり慌ててあれこれと言葉を投げかけるが、梨のつぶて。

 

「――いえ。冗談ですよ。大丈夫です」

 

 とうとう遠慮したのか、冗談に聞こえない微妙な台詞を言われる。……何も言えず、どうにも空気が沈んでしまった。

 

 

 ……それを押し破るように、後ろの方から掛けられる声。美綴だ。

 

「なーにしてんのよ。男二人して気が利かないね」

 

 呆れたような物言いの後、あれね、肘をもうちょっと上げたら良くなるように思えるよ、と端的な助言を飛ばす。あ、技術的なアドバイスで良かったのか、とあんまりにも単純な見落としに愕然としてしまう。本当に情けないなと、そう思い横を向けば、水明はなんとも言えない微妙な風情を見せていた。

 

 不審に思い、声を掛けようするが首を振って制される。指を顎にかけて思案したかと思えば、いいから、というように手で美綴と桜の方を示された。

 

 一先ずは保留しろ、ということだろうか。

 

 受け入れて向き直せば、指された少女は振り向いて、「ありがとうございます、主将」と返事をしている。どうやら幾らかイメージが出来たらしい。

 ……本当、頼りになる主将だ。しみじみとした感慨が浮かぶ。

 

「ところで、桜。慎二の奴がどうしたのか聞いてない? 休むのはともかく、あたしに連絡もないなんて珍しいからさ」

 

 そんな主将による、やや唐突な話題転換。面食らうが、ありがたくもある。ただ、桜にとっては触れるのは避けたいであろう話題でもあった。気を揉んで隣の後輩の少女を見遣るが、やはり言い辛そう。その様子を見て美綴は不審そうな様子を見せたが、水明が気を回して耳打ちをした。

 

 それで納得した雰囲気を出したかと思えば、時間を置かず浮かべている表情をじわじわといかにも呆れたと言いたげなものに変えていく。

 

「え、そんな事情? あいつ臆面もなく嘘の報告してきてたのか」

 

 女子なのに慎二の火遊びをさっぱりと切り捨てる同級生の強気さに妙に感心しつつも、その言葉の内容に疑問を持った。

 

「……そんな言い回しをするってことは、昨日までは連絡があったのか」

 

 この問いをなんでもないように肯定する美綴。

 

「たださ、あいつ家の事情でしばらく来れないって言ってたのよ。それでも学校は普通に来てるし、桜もいつも通りだから、長男としての家の仕事かなんかだと思って何も疑ってなかったのよ」

 

 言っているうちにだんだんと腹が立ってきたのか、早口になっている。

 

「ほら、間桐って名家ってやつじゃん? だからそんなこともあるのかなって思ってたのよ。前にもお爺さんが亡くなったから忙しいって言って、時々休んでたし」

 

 あー、もう。あいつ前も嘘ついてたのかな、と呟く。昨日荒れてたけど、今日遊んでるはそのせいか、とも。昨日荒れてた、というのはちょっと気なる文句だが、それよりも。

 

 

 慎二がちゃんと連絡していたことは意外だが、それ以上に理由に使っていた説明が意外だった。正直、今までは単なるサボりとしか認識していなかったが、彼女にしていたらしい言い分にはいくらかは真実の側面もあるように思えた。その辺り、いささか無関心に過ぎたと内省する。

 

「どうだろ。今まで俺はサボりと思ってたけど……。案外嘘じゃないのかもな」

 

 自信なさげな水明。対して桜は「多くて半々ぐらいだと思います」などと言う。……ある程度、把握はしてあったらしい。間桐の表の仕事、受け継いだ不動産業などは確かに彼の負担になっていたようだ。

 

 俺らの前では全く忙しそうな様子を見せないし、普段は家の話もしないから見事に隠されてしまっていたみたいだ。気を配らなかったことを重ねて反省。

 

「そっか。流石にそこまでは慎二の奴も嘘はつかないよな」

 

 安心したような、落ち着いたような美綴の声。……いや半分はサボりだって言われてるんだが。仕事の気晴らしで遊んでる可能性もあるから、一概に悪いとは言えないけど。

 それを指摘すれば「いや、遊ぶ時は遊ぶときで、そう言ってくることもあったから大丈夫だと思う」と返された。どうも、サボりより嘘を吐かれることの方が腹立たしいらしい。さっぱりした気性である彼女らしい考えに、なんとなく苦笑する。まぁ昨日俺たちも休んだのを許容してる辺り、出欠そのものを重要視していないのは分かっていたことなのだが。

 

 なんだかんだ慎二は部活中は真剣に取り組んでるし、備える実力も十分に高い。休みについて踏み込まないのは、その辺りのこともあるのだろう。

 

 人気はあっても一部からは何かと誤解されがちな友人が、この公正な同級生に信頼されていることは素直に嬉しかった。




 お読み頂きありがとうございます。


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陽の差す学舎 前編

 だいぶ毛色が違う話ですが、構成上必要な回ですのでご容赦をお願いします。

 もしかしたら「健全」ですが公共の場、周囲の目のある場では閲覧しない方が良いかもしれません。

 ところでここまでの設定資料が完成しました。よろしければ活動報告を御覧ください。

 『異世界魔法は遅れてる!』既読者向けがこちら→https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=215040&uid=269693。
 原作ネタバレ注意です。

 『異世界魔法は遅れてる!』既読者と未読者どちらにも向けたものがこちら→https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=215041&uid=269693
 多少情報が被る所はありますが、既読者向けの記事にはない情報もありますのでせひ。


 それでは、よろしくお願いします。


 所変わって二年C組の教室。

 朝のホームルーム直前。がやがやと落ち着きのない喧騒の中。

 朝の部活を終えて、学年の違う桜とクラスの違う水明と別れた俺は、親しい友人である柳洞一成の話を聞いていた。

 

「朝一番に悪いのだがな、衛宮。昨日のように視聴覚室のストーブも診てもらえないだろうか」

 

 両手を合わせて拝まれながら、彼らしい実直な口調で備品の修理(いつものこと)を頼まれる。

 

「別にいいけど、放課後は無理だぞ。先約があるからな」

 

 水明たちとのことだ。それを言えば、友人は手を振りながら大仰に頷いた。

 

「いやいやそれで構わない。頼んでいるのこちらの方なのだからな。どうか昼休みだけでも頼めないだろうか。なに、茶ぐらいは出そう」

 

「別に大丈夫だよ。どうせ他にもあるんだろ。どこのだよ。時間的には二つぐらいできそうだし、せっかくならやるぞ」

 

「あぁすまない、その通りだ。重ねて申し訳ないが、美術室のも任せてもいいか」

 

「あそこのか。……いいよ。ただ、昼を食った後そのまま生徒会室でやるから、一成がどっちも持ってきておいてくれると助かる。ハロゲンだし、それくらいお願いしてもいいだろ?」

 

「承った。それぐらいはやろうとも。お安い御用だ」

 

 堅い様子のまま、実に嬉しそうに助かったと口にする一成。その様子に安堵する。

 では頼んだぞと、そう言って立ち去った。それを見計らったように、教室の前の方の扉が開かれて、教卓へと人影が勢いよく飛び込んでいく。――担任の藤ねえだ。

 

「間に合った! それじゃ出席取るわよ―」

 

 慌ただしいな、などと思う間もなく次々とクラスメイトの名前を読み上げていく。そんな彼女の様子にみんな慣れきっているのか、いつものことだと流してしまう位だ。

 ふと気になって、縦横二つずつ離れた右前の席を見る。――本来は慎二の席である場所。しかし期待に反して、そこは空席であった。担任の虎曰くどうも体調不良らしい。

 一度捕まえてしっかり話したほうがいいいかなと思いつつ、今後の行動の予定を組み立てる。

 まず、自然さを心がけて授業を消化すること。次に、昼休みに水明と情報交換をし、一成の用事を済ませること。そして、午後の間に人払いの下準備をして、放課後に備えること。最後に、校舎を調べて結界を消し去ること――。

 余りにも簡素だが、基本的な骨子は定まった。あとは、それに従って行動するのみ。

 気合を入れるように「よし」と呟いて、一時限目の授業の準備に取り掛かった。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「慎二は休みだってさ」

 

 昼休み。生徒会室で俺と水明は桜の作ってくれた弁当を食べながら、一成も加えて昼食を囲む。

 そんな中、朝分かったことの報告をすれば「はぁ?」と、語尾を釣り上げた呆れの言葉が返ってくる。なんともいえない……。

 そうしたやり取りを疑問に思ったのか、食事の肉不足に不満たらたらな男が「間桐になにかあったのか」などと尋ねてくる。しかし、お寺の子相手にこんなことを言っていいのだろうかと悩んでしまう。正直、取り乱して悪態をつく姿しか想像できない。

 そんな俺の葛藤を知らないかのように、水明は慎二の女生徒と夜遊んでからに学校を休むという所業を告げ口した。……お前さぁ、ほんとに……。

 

 果たして、想像通り。お寺の彼は烈火のごとく怒った後、絶対に首根っこ捕まえて説教してやると息巻いていた。

 

 ……合掌。

 

 この場合の説教とは、一般的な意味のそれではなく、仏道での長いあれのことだろう。怒れる一成の講釈は、決して耐えるのが易しいものではない。それを知っている水明は隠しきれない含み笑いを浮かべていた。性格悪っ。

 

 そんな馬鹿話もそこそこに昼食を終え、修理の作業に取り掛かった。

 魔力を伴わない解析の魔術行使――青崎さんの補助も合って後天的に作成した、偽物の魔眼もどきを使う。能力も性質も余りに本物からかけ離れたそれは、外界に働きかけることも出来ず、代わりに魔力を動かすこともない。だからこその偽物で、もどきである。つまるところ得意な解析を、通常の視界に微力ながら発現できるまで鍛えただけのものだった。

 そうして傍からは全く分からなくとも魔術を駆使してヒーターを修理していく俺の様子を、二人は揃って茶を啜りながらただ眺めていた。

 

 …………。

 

 ……別にいらないって言ったけど、それはなんか違うかなぁ?

 そんな俺の思いを察したのか、依頼人の方が立ち上がって「いや悪い」などと言いかけるが、その時。無機質なノックの音が生徒会室に鳴り響いた。柳洞はいるか、という声が掛けられる。葛木先生だ。それを聞いた一成は「ほんと悪いな、衛宮」と、手を合わして謝ってから部屋の外に出ていった。

 なんだろう、ともう一人と顔を見合わせる。

 

 結局、数分もせず一成は帰ってきた。しかし、どこか気分が優れなさそうな雰囲気。その様子にただならぬ空気を感じて、話を聞こうと手早く二つ目のストーブの修理の仕上げを済ませる。正面の席に座り直し、おずおずと事情を問いただした。

 

 

「……いや、ご不幸事なのだがな。――新都の方で殺人があったそうだ。しかも、犯人がまだ分からないらしい。だから、今日からしばらく放課後の居残りは禁止だと伝えられたのだよ」

 

 

 ――――――――。

 

 お前を送っていくから待っていなさいと言われたのだが、そんなことよりもな――。沈んだ様子で一成は言う。寺の人間らしい、人の死を悼む気持ちを強く感じる言葉。同じ場所に帰る家人によってとは言え、被害者の無念を思えばむしろそうした手厚い処置が心苦しいのだろう。

 隣に目を向ければ、水明も厳しい顔つきをしていた。

 

「それはまた――穏やかじゃねぇな」

 

「……あぁ、全くだ。一応、五限の最初に全生徒に伝えるらしいが、どうなることやら」

 

 言い終えると同時に、深いため息を吐く。それで気分の悪さも幾らか和らいだのか、心持ち気分が上向き、余裕が出来たようだ。心配そうにこちらを覗き込んだ。

 

 

「衛宮も気をつけてくれ。どうにも私はお前が厄介事に首を突っ込みそうな気がしてならん」

 

「――気をつけるよ。ありがとう」

 

 

 出来うる限り、この地の魔術師として、だけどな。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「どうしたものですかね、先輩」

 

 夕焼けに照らされた、自分たち以外には人っ子一人いない図書室。

 水明とは別行動をして、俺は桜と二人で特別棟を調べていた。そうしているうちに、本棚の分厚い資料の下に隠された呪刻を見つける。

 たった今の桜の台詞は、この結界や基点のことではなく、新都で起きたという事件の方のことだろう。どうって、なにさと返す。

 

「いえ、やっぱりあれは聖杯戦争に関連しているとは思うんですけど。……どう調べるっていうか、対処したらいいんでしょうかって思いまして」

 

 赤紫の五角の印を矯めつ眇めつ調べるその横顔はいつになく真剣で、ともすれば強張っているようにも思えた。そんな桜を黙って見つめていれば、ふと横顔に陰影を作っていた斜陽が翳る。

 それを不審に思って周囲を見回すが、返事がないことに焦れたのか「どうしたんですか、もうっ」と小さく怒られた。……悪いことをしてしまった。

 

「やっぱり、後で現場を見に行くのがまず必要だと思う。――今夜はすることが山積みだな」

 

 不快感と焦燥とが溢れ出てしまいそうになった。それでも逸る気を抑え、すべきことを考える。

 あくまで順番だ、順番。先にこの結界をどうにかしなくては――。

 

 

 ――――。

 

 気がつけば、桜にちんまりと制服の後ろの裾を掴まれている。振り向いて見下ろせば――俯き加減で、瞳があちこちに揺れる不安そうな顔。そんな幼気な表情に、胸が締め付けられた。

 思いがけず、服を握っていた彼女の手をとってしまう。その紅葉を綺麗に漂白したような、白く小さい手をしっかりと包み込んだ。

 

 ――と、そこまでして、我に返る。そんな場合ではないのに、何を。

 

 手放せば、名残惜しそうに伸ばされる人差し指と中指が、気落ちするように少しずつ下がっていく。その時に。俺の二の腕をなぞった。

 

 

 

 ――ぞくぞくとした情感(もの)が背中を駆ける。桜の、年下の乙女の、甘い体臭が鼻につく。

 

 

 

 

 ――いけない。これはいけない。なんだこれは。

 

 

 

 

 ――――理性を手放すな――。

 

 

 

 

 直感が悲鳴を上げた。咄嗟に頬の内側を噛み切る。

 

 

 ――痛い。とても痛い。でも意識がはっきりした。知らぬ間に自分のがらんどうの心に知らぬ領域が出来ていたのを認識する。とても不愉快で、でも甘やかな――。

 

 

 もう一度、噛み切る。それも、念を入れて。何度も。

 今度こそ意識が完全に浮上した。鮮明な感覚が鉄の味とぬめりを伝えてくる。リアルな気持ち悪さ。血を吐き出したい。治療もしたい。

 

 

 

 そこまで考えて、はっと顔を上げる。

 

 

 

 

 

 ――目の前には、仄かに赤く上気した様子の桜が。

 

 

 

 

 

 普段の可憐で儚げな笑顔からは考えられない、色に濡れた艶然とした微笑み。匂い立つ妖しい色香にくらくらする。その隙に、腹の辺りに抱きつかれた。勢いに負けて数歩後ずさるが、本棚に背中が当たりそれ以上は退()がれない。追い詰められた。

 

 ――ふわりと、女身の柔らかな匂いと感触とに包まれる。意識を持っていきそうな感覚。――あぁ、この()は、まだ、少女なんだという実感。

 腹に顔を押し付けられる。すぅと、深く、深く、息を吸われ、体臭を嗅がれ、果てにはとろとろに蕩けきった、極上の笑みを向けられた。かと思えば、つつ――と、ほっそりとした指で二の腕を撫で上げられる。腰が抜けそうなほどの快感が背中に走った。

 

 ――終いには紅潮した頬と、豊かな胸とを、強く、深く、長々と押し付けられ、擦り付けれた。はぁ、と時折零れる、悩ましげな息はひたすらに扇情的で。

 

 思わず、残っていた血肉ごと生唾を飲み込む

 

 

「さ、桜?」

 

 

 自分でも頼りなく感じるほど上擦った声。触れ合う部分の熱さに身が震え、視線が泳ぐ。

 ――見上げる瞳の、色の深さに吸い込まれた。涙に潤んで細められ、浮かべる笑みと同じくらいしとどに情に濡れたその双眸。嫋やかに曲げられた人差し指は、ゆっくりと桜色よりもなお鮮やかに色付いた唇に運ばれる。色を集めたように濃く彩られた先端で、ふっくらと女性らしい、緩やかな丸みを帯びた指の腹が軽く啄まれている。たまに舌でちろりと自身の唇を舐り、湿らせている様は厭に艶めかしい。

 

 ちゅぱ――と、音を鳴らし、白を食む桃色の艷やかな様子。口の端から僅かに溢れる、白濁した涎の雫にさえ心奪われる。目の前の、小さく淫靡な捕食に息が詰まった。

 

 もう、視界は窄まるだけ窄まり、とてもじゃないが目を離せないかった。釘付けになる些細な淫行。たまらなかった。自ら身を寄せて、その可愛らしく、甘い甘い香りのする方へと――――。

 

 

 

 

 

 勢いよく頭を後方に振る。それも全身全霊で。この威力なら鉄板だってぶち抜けると確信できるぐらいの力でだ。ヘッドバットの要領で本棚に激突。尋常じゃない衝撃と痛み、そして打撃音が響いた。あまりの反動の強さに立っていられなくて前方に倒れる。本も落ちてきた。角が脳天に突き刺さる。丁度いいぐらいだ。首と後頭部と脳天と口腔。十全に痛い。つまり最高だ。痛覚が我が身の熱を冷やす。錯乱した思考も戻った。

 

 片手で額を抑えながら片膝立ちに立ち上がり、目の前の少女を見る。すると、自分に釣られて体勢を崩したのか、ぺたんと女の子座りで、ぱちくりと目をしばたたかせている様子を見せた。その側には本が転がっている。――どうやら彼女にも落ちてきたらしい。

 それを気にもしていないように、不思議そうに当たりを見渡して士郎(自分)が居るのを認めると、嬉しげに、そして再び艶やかに笑った。そのままがばりと抱きつかれ、床に押し倒される。

 

 覆いかぶさる柔らかさの暴力。脳を灼く甘い香りに、息ができない。どうにか抵抗しようと暴れるが、どこにそんな力があるのか、抜け出せそうにない。しかしそのままにしておけば、抱きつく力がますます増すばかり。このままでは我慢できなくなって、元の木阿弥より下手(まず)いことになる。

 

 痛ければ緩むかもしれないと、試しに抱きつく力を強め締めてみる。

 

 ――駄目。一瞬だけ呆気にとられたように動きが止まったが、その後が酷かった。興奮したように脚をばたつかせ、ぎゅうぎゅうと抱き付き返される。

 

 

 

 しかも、その時の表情を見てしまったのがいけなかった。

 

 

 

 ――幼い子供が見せるような、純真な笑顔。喜色に全面が染まった、その愛らしい(かんばせ)ですりすりと身を寄せるように擦られる。耐えられる訳がなかった。しかし、だからといって無理やり振り解くなんてことは、もっと出来る訳がなかった。死にそうな思いをして踏み止まる。呑み込まれそうになるのを必死に堪える。理性が仕事しているのがこんなにも辛いとは……!

 

 

 ――――長い、戦いだった。

 

 ほっと息を吐き、あくまで慎重に。満足したように動かなくなった彼女をそっと引き離す。――失敗。むずがるように腕を絡め取られ、胸元に抱き寄せられる。あれよあれよと脚も絡め取られて、むしろよりいやらしく密着した態勢になる。なんでさ……。

 

 花のような匂いが、肺の奥の奥まで入り込む。――くらりとした。今度は桜の顔は見えず、ただ目の前には白く綺麗なうなじが見えるだけ――。

 

 

 ――魔が差した。

 

 辛抱を強い続けてきた理性が陥落しかかる。

 

 

 魅力的に光を返す白い絹肌。ほんの少し汗の浮くその肌にそっと唇を添え、強く吸い付く。――少し、塩辛い。でもそれ以上に甘い、良い匂い。夢中で吸っていれば、喘ぎ声が漏れ聞こえた。

 

 

 ――――非常に、()()()()()――。

 

 

 自制心なんて何処かへ行ってしまった。歯を立てて、跡を刻む。

 (ほど)いて、抱いて。もっと、いっぱいさくらを感じたい。

 

 魚のように跳ねた。全身で悶えている。腕の中の少女の勢いがあんまりにも強いから、床や本棚のあちこちに体をぶつけそうになっている。さっきまでとは逆転して、こっちが抱きついて暴れるのを防ぐ羽目になった。おかげでこっちの目も覚めたが、なんだか。

 

 

 というより、なに負けてるんだよ――。

 

 

 そんな後悔。この状況で、自分がしっかりしなきゃいけないのに。

 

 ……慚愧の念は、先に立たなかった。

 

 

 勢いの弱くなった頃を見計らって背中に腕を差し込み、一気に体を引いて起こす。自身は胡座。彼女は割座。自分の足と腕の中に収まって対面した。

 さっきとは別の意味で上気している顔。頬に朱が注がれた様。自分も同じくらいたくさん朱の刷毛をかけられているだろう。荒い息を繰り返すが、彼女の目からは俺の知らない――知らなかった熱が抜けきっていない。

 

 最初からこうすれば良かったと、そう悔いながら呟いて、左腕で少女の右腕を掴む。ごめんな、とだけ謝り、魔力を指先に集めて左右の肋の合間に置いた。

 

 

 

 ――感じ取れたのは、黒を思わせる魔力痕。

 

 

 ――つまり、身体か精神への外部からの操作。

 

 

 

 ……腹を決める。

 集めた魔力を練りながら、霊基体(エーテルボディ)精神殻(アストラルボディ)へと干渉する術式を編んだ。水明と違って汎用的な魔術は苦手だが、抵抗もしない相手を押さえつけて、その上近距離でなら失敗することもなかいだろう。

 

 そう思いながら、右の手の平の下側、掌底突きに使うような関節部を手首を返して胸元に当てた。

 

 

 

 ――その淡桃に染まった柔肌は汗ばみ、とても熱い。

 

 

 

 ――――っ。

 

 

 

 歯を横に走らせ、舌を擦って切る。痛いけど、それで良い。働くのは理性だけで良い。

 

 

 

 一気に干渉式を弾けさせた。破裂音じみた快音。とても痛そう。

 実際、瞬間、掴んでいた左腕を肩ぐち身体(からだ)を跳ね飛ばされかねないほどの勢いで左腕を弾かれた。先程とは違った意味で、桜が悶える。しかし、その涙を溜めた目には恐ろしい熱は宿っていない。その事実に大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。

 

 

 のも束の間。

 

 

 ぶん投げられた猫のような叫喚と共に、凄まじい勢いで押し飛ばされた。視界が暗転する。

 

 

 昏む意識の中、取り乱したように己の名を呼ぶ声があった気がした――。

 




お読み頂きありがとうございます。


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陽の差す学舎 後編

 桜ちゃんは欲求の程度がだいぶ低いところで留まってしまう可愛い子。

 ……よろしくお願いします。


「本当にごめんなさい、先輩」

 

 もう、何回目だろうか。桜は正座をして肩を縮こまらせ、ひたすらに謝り続けている。

 意識を失っていたのはほんの数秒のこと。ごく短い間、衝撃で酸素が抜けて正体不明となっていた。それでも不覚は不覚だが、ともかく。

 

 気がついてから、幾度となく「いいよ。大丈夫だから」と伝えている。それでも彼女は握った拳を畳んだ膝の上で震わせるばかりで、全く受け取らずにふるふると首を振るばかり。伏し目がちな涙に腫らした瞼と傍目にも痛々しく、遣る瀬なさと罪悪感を誘われる。どうにもならないこの状況にほとほと困り果てた。

 

 

 天井を仰いで長く嘆息し、小さい唸り声のようなものを漏らす。

 

 ――やがては下を向き、言葉が出なくなってしまう。

 

 

 

 偶々、沈黙(それ)が揃う。不意の無音が訪れた。だからこその、転機。

 

 

 

 何も言わず、治療の魔術を組み立てる。――適性が無いための、低級な魔術行使。それを桜に施す。両の掌から散る翠の燐光は揺らめいていて、酷く弱々しかった。

 

 

 

 ……それでも、自分が傷つけてしまった女の子を治すのには十分なもの。

 

 

 

 少女が驚きを顔に浮かべる。でも、それを表に出していた時間は短かった。唇を固く結び、両腕を伸ばして俺の胸に当てる。程なくして、温かく場に満ちる、大きな翠光が灯った。――全身を覆う、じんわりとした快感。その健全な悦さに、細い息を漏らす。

 

 

 

 ――――大切なのは言葉を交わすことでなくて、気持ちを伝えることだったのだ。

 

 

 

 ……どれくらい、時が経ったのだろうか。ずいぶんと長い間こうして向かい合って、癒やしあっていた気がする。

 ――本当は、桜の癒術が掛けられる前に頭と首の痛みも引いて口の中の傷も治っていたけれど。そんなことは忘れたくなるほどに、とても心地よい一時(ひととき)だった。

 だが、そう翠緑に揺蕩う暇があるはずもなく。実際の時間はさほどは過ぎない内に、どちらからということもなく互いに手を止めた。名残惜しいが、やっと、諦める。

 

 

 

 

 顔を見交わす。自分から口火を切った。

 

「やっぱり、これはなんか仕掛けられたのかな」

 

「だと思います。自分で言うことではないですけど、あんなの私じゃないですから。……正気じゃありませんでした」

 

 頬を赤らめるが、それは恥じらうといえるような淡いものだけではなく。晒した嬌態と、あっさりと術に掛かった醜態とを恥じているのだろう。滲む空気はなんとも複雑だ。

 

 

「……あれは、どういう種類のものだったんだと思う?」

 

 

 気を紛らせるための問い。しかし、沈黙を返された。

 彼女が浮かべたのは、検分と思案の表情。

 長い長い空白。気不味さすら呼ぶそれはひたすらに冗長だ。

 

 耐えられなくなって怪訝な目を向ければ、桜はぷるぷると震えだした。

 

「…………の……くです。」

 

「え?」

 

「――感情のっ、増幅ですっ!」

 

 常の彼女なら有り得ないくらいに強い口調。というか大きい声。

 それに面食らっていると、顔を真っ赤にさせた桜が更にまくしたてた。

 

「困ってて、不安で、ほんのちょっとだけいい雰囲気で、だから――って何言わせるんですかっ、士郎さん!」

 

 内容も感情もぐちゃぐちゃなそれ。盛大に墓穴を掘っている。

 俺はいっそを目を白黒させて、上擦ったまま「さ、桜?」とどもりながら返す。

 

 

 ――仄めかされるだけで辛いのに、好意が明らかな言葉を吐かれてはたまらない。

 

 

 そんな意味も込めて呼ばれた自身の名前を聞いて、彼女も少し落ち着いたよう。

 

 

「操られていた、訳じゃないんですよ。でも……」

 

 告げる声は、切なさをも感じる悔恨の色に染まっていた。

 消沈して興奮も収まったのか、穏やかにぽつりぽつりと話し出す。

 

「たぶん、精神操作が中心の何かです。でも、外から感情なり思考なりを植え付けるものではなくて、元からあるものを増させるものなのだと思います」

 

 そう言いながら、また淡く頬を染める。

 釣られて時分も多少顔が熱くなるが、確かに手綱をとって心を律した。

 同時に、これを上回るくらいの慰めの感情も自然と浮かぶ。――あんなほんの僅かすら察知できない精神干渉があるか、と。

 

 目の前の少女は俺よりもよほど抗魔力が高い。というより自分が特殊な魔術特性であることを考慮しても、彼女の神秘への抵抗力は世間の水準と比べて大きく上回っているのだ。

 しかしそれを今、破るか、掻い潜った上での魔術行使がされた。その技術の高さがひたすらに恐ろしく、もっと言えばそれを知覚できなかった事実が尚更に身を竦ませる。

 ……()()桜の空気にあてられて冷静でなかったとしても、あまりに自分に非のある失態だ。

 

「――いくらなんでもタイミングが良すぎるからさ、多分、サーヴァントの仕業、宝具によるものだろうって思う。なら、どうにもならないこともあるんじゃないかな」

 

 宝具。英霊を象徴する道具、逸話、伝説が、人々の信仰の力のもとに形を得たもの。

 

 

 またの名を、貴き幻想(Noble phantasm)

 

 

 その力は絶大で、文字通りの切り札といえる。それを向けれては、警戒もしてない人の身などひとたまりもない。だからこそ、宝具ならばこの埒外の結果をもたらしてもおかしくないと考えられるだろう。

 

 

 

 ――だけれど、分からないこともある。

 

 

 

 桜が、そうですねと、同意してから続けた。

 

「結局、何がしたかったんでしょうか。ああやって私たちが……」

 

 頬に刺す赤味を増させながら、目を反らして言いあぐねた。助け舟を出す。

 

「揉み合ってた時に?」

 

 頷くが、その言葉選びに少し弱ったような表情をする。

 

「――その言い方も聞き方によってはちょっといやらしいですけど……。……はい、揉み合ってた時に、なんで何もしなかったんでしょうか。隙だらけ、だった訳ですし」

 

 …………。考えるが、思いつかない。

 

「分からないな。今の段階じゃ、なんとも言えない。……ごめん」

 

 桜はかぶりを振って否定するが、不甲斐ないのは変わらない。せめて、いくらかの考察をする。どうせ今襲われていないなら、そんな時間だけはあるだろう。

 念の為、今いる棟ごと解析を掛けるが、生命や神秘物の反応はない。それは完璧な隠形かもしれないが、であれば輪をかけて考えるだけ無駄だった。

 

「……こんな序盤に札を切ってくるんだから、たぶん手札の多いライダークラスか、魔術に精通したキャスタークラスの誰か、それくらいしか考えられないや」

 

 終ぞ、有益な答えなど出せなかったし、出せそうにもなかった。

 

 

 

「――これ以上は、水明さんにも相談しましょう。……行き詰まっちゃってしょうがないです」

 

 一息ついた上での桜の言葉。……内容には異論はないが。

 

「……どうやって?」

 

 とても切実な疑問。取り繕うことなどできなかった問い。……あの惨状をどう説明するのか。

 

「――? ~~~~っ!」

 

 最初に間の抜けた疑問符を掲げたが、次の瞬間には、ぼんっ、と擬音が聞こえてきそうなほどに顔を茹で上げた。実にたこたこ。

 

 そりゃそうだ。あの光景は俺だって水明には言いたくない。ちょっとした独占欲と、なにより大きな羞恥心、そして当の彼女への配慮。桜も詳細に思い出そうものなら、憤死に至るのも否めないだろう。

 

「全部言うぐらいなら舌噛みきって死にますっ」

 

 予想と概ね一致したことを、早口で言い切る桜。その息も絶え絶えといった様子は哀愁と笑いを誘う。忍ばしきることができず、小さく吹き出せばぽかぽかとお腹を殴ってきた。――それはそれは可愛らしい動き。

 

「もうっ! 笑わないでくださいっ!」

 

 そんな弁を聞き届けられる筈もなく。微笑みと大笑とが混ざりそうな具合だった。口の端を釣り上げすぎて頬が痛い。どうにか耐えていたようだが、遂には桜も可笑しくなってきたよう。

 

 

 

 そうやって。

 

 

 

 ――花が、ほころんだ。

 

 

 

 ――そう、この笑顔だ。見ていて癒やされる、小輪の花のような笑顔。本当に、安心する。

 

 

 

 先刻の不穏な様子と全く違った姿に、今更になって心の芯から安らいだ。

 そういう俺の様子に、桜は気付いているのかいないのか。どうしましたか、とでも言いたげに目を向けられた。今は、そんな何の変哲もない動作さえ愛おしい。……大切に、思える。

 

「いや、なんでもない」

 

 それだけ言って手を伸ばし、彼女の頭の上に乗っけた。ほんのちょっと首を竦ませるが、すぐに元通り。むしろ嬉しげに首を伸ばして、口角も上げた。ゆるゆるな表情。三度(みたび)四度(よたび)撫でれば、猫のように目を細めた。手を頭の形に流すように下げながら髪を梳く。さらりとした手触りをひときしり楽しんでから、そのまま頬に場所を移し、五本の指を添える。

 

 

 ぱっと手を離した。桜はそれに満足したように息を漏らし、ふいと目を逸らす。

 

「こんなことしてる場合じゃなくてですね……」

 

 嬉しいですけど、今はそんな場合じゃないでしょうと、口を尖らせる。

 

「そうだな、悪い」

 

 なんのげなしに目線を追う。

 

 

 

 ――その先には、日の落ちた宵闇の空があった。

 

 

 

 底に青を孕んだ、墨に浸されてゆくように黒味を増させていく紺碧。

 僅かな時間で相貌を変えてゆく、酷く気まぐれにさえ感じられる夜空。

 

 夜陰がその色を濃くするに連れ、星々は輝きを確かに強めていた。

 

 

 

「――夜、ですね」

 

「――あぁ」

 

 急がないとな――。その自分の言葉は、音になっただろうか。

 

 

 

 

 

 ――膨れ上がる魔力。迸る殺気。頭上に現れた、暴力的なまでの神秘。

 

 

 右手の聖痕が、きりきり痛む。

 

 

 突如現実に割り込んできた、危急を告げる異変。

 

 

 

 

 ――――サーヴァント。

 

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 思考形態が戦場での()()に変わっていく。古ぼけたペンキが剥がれ落ちるように、保っていた余裕が顔から消えてしまっていっているのを自覚した。

 

「――桜はこの棟の屋上で待機、常に状況をよく把握しておいてくれ」

 

 恐らく、件のサーヴァントがいるのは本棟の屋上。水明もいる場所。あいつなら確実に校庭に、そうでなくても校舎内を戦場(フィールド)に変えるはずだから、この別棟の屋上は安全なはず。流れ弾が飛んでくるような相手だったら怖いが、問題はそこだけ。伏せ札ということを生かして最大の利益を得るならばそれが最適。

 その考えのもと指示を飛ばすが、いまいち想像よりも反応が鈍い。見れば緊張の面持ちでこそあれ、何が起きたのか分かっていないような風情。そこでようやく合点がいく。

 

 マスターであるがための、敵のサーヴァントの知覚。それは桜には知りようがないこと。

 

「……サーヴァントがいる。それも水明が調べに行った起点のところ。結界を仕掛けた奴か、それを見つけて餌場にしてたやつか。――あるいは遠坂のサーヴァントかもしれない」

 

「……先輩。それって――」

 

「――単純に水明がヘマした可能性もある。むしろそれを念頭に入れなきゃだ」

 

 そう。そっちのほうがあり得るのだ。

 悪い方にばかり思考を傾けても駄目だと、そう、己に言い聞かせた。

 

 分かりました、と首を縦に振った桜。そのまま「念話を繋げておきますね」と言われる。

 

「いや、水明の方はやめとこう。今、状況を知るには一番いいけど、もしタイミングが悪くて集中を切らさせたりしたら、ものすごく下手(まず)い」

 

 彼ならどうするか――。それを考えての判断。確実に自分たちが不利にならない戦場を作り出ことを最優先にする。

 顔を見合わせ、深く頷き合った。そのまま駆け出す。

 桜は言った通りに屋上へ。自分はまず本棟へ。行動を別にしてからもその速度は緩めない。一息に魔術回路のスイッチを起動。

 

 

 

 頭の中で、撃鉄が落ちるような音がした。

 

 

 

 本棟、屋上前の階段。息を整えること、しばし。

 警戒はたっぷりと。一歩一歩確かめるように階段を上がり、最後の踊り場へ。

 息を潜めてドアノブに手をかける。同時に、空間探査の魔術の行使。

 

 

 

 ――――!

 

 

 

 覚えのある魔力の塊の、人智を逸した大跳躍。

 

 

 慌ててドアを開け飛び込む。目に映るは、校庭へと落ちてゆく青い影。

 

 

 

 猶予は、なかった――。

 




 一人称ですが、視点変更をした一話を挟んで戦闘へ。

 さておき。
 お読み頂きありがとうございました。


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赤き主従は落日に

 凛の方が水明より器が広いらしいですよ。

 ともあれ、よろしくお願いします。


 放課後。日も暮れた頃。

 私は学園に張られた結界の呪刻も既に六つを調べ終え、締めとして七つ目であり、起点でもある屋上の呪刻を調べていた。

 

 しかし、その結果は芳しくない。

 

 魔術師だけに見える赤紫のそれは、私の知らない形状であり、素材で出来ていた。到底、手に負えるものではない。理解できるものでなければ、根本から消去することなど不可能。魔力を抜くことはできるが、それは一時しのぎにもならないものであり、精々嫌がらせ程度にしかならないもの。そもそも術者がもう一度この結界に魔力を通せば、それだけで復活してしまうだろう。

 それよりも、結界の種類、性質こそが問題だった。心が冷えていく。

 

「……これは魂食い。結界の中にいる人間を溶解させて、滲み出る魂を強引に集める、とびきり凶悪なものね。――ねぇアーチャー。サーヴァント(あなたたち)ってそういうモノ?」

 

 皆まで言いたくないがための、含みをもたせて所々を省略した問い。

 

「……ご明察だな。我々は基本的に霊体だ。故に食事は第二要素(せいしん)第三要素(たましい)となる。そんな食事を摂ったところで基本的な能力が上がる訳じゃないが、魔力の貯蔵量は確実に増すだろう。――手許になければある所から持ってくるとは、実に魔術師らしい合理さだ」

 

 私の心を反映した、極寒の言葉など気にもしていないかのような気障ったらしい長台詞を吐く。なかなかどうして、効率的なマスターじゃないかとも。――なんて単純。全くその通り。

 

 

 

 ()()()()()、吐き気がするほど腹立たしい。

 

 

 

「それ、癇に障るわ。二度と口にしないで、アーチャー」

 

「同感だ。私も真似するつもりなどないさ」

 

 苛立たしげな私の命令に、赤い弓兵(アーチャー)はなぜか弾むような声で力強く同意した。

 

 

 …………。

 

「――それじゃ消そうか。対症療法にもならないだろうけどね」

 

 問答も終わり、いざ処置を施そうと屈むが――。

 

 

 

 「げ」

 

 

 

 後ろから聞こえた声に、弾丸のように振り返る。

 

 目に映ったのは、なんとも間抜けな声を出し、固まっていたクラスメイト――八鍵水明。階段室からひょっこり姿を表したかと思えば、気不味そうに困ったような顔をしている。

 

 そんな彼をを見て、自身もついつい「え」などと小声で困惑を漏らしてしまう。(せん)から霊体化していて見えていないが、横の気配を探れば相棒(アーチャー)も驚いているようだ。

 

「えっと、八鍵くん? どうしてここに……」

 

 少なからず怪訝そうにする空気を滲ませつつも、いつもの態度を保って言葉を掛ける。対して彼は俯いて頭を抱え、うーんうーんと唸ったまま一向に答えない。……どうにも毒気が抜ける。

 

「八鍵くん?」

 

 改めて、できる限り柔らかく声を掛ける。……そうすると、意を決したように顔を上げた。

 

「あー……、遠坂さ……」

 

 直前の様子に反して、尚言い淀む。焦れたように見えないよう、小さく首を傾げれば、彼は自身の後ろ――階段への扉を気にするような素振りを見せてから、口を開いた。

 

「絶対怒らない、まず話を聞いてくれるって、約束してくれるか?」

 

 なんのことだか分からないが、微妙な怪しさのある言葉。しかし、これを受け入れなくてはどうにもならなそうな頑固さというか、切実さを感じる。だから、不承不承首を縦に振った。

 彼は長い息を吐いて、最初に言っとかなきゃいけないんだけど――と、そう切り出した。

 

 

 

 

 「俺、魔術師なんだ」

 

 

 

 「はい?」

 

 

 

 

 いっそ食い気味に声が裏返る。隣の男を召喚したときの再現のような調子外れの疑問符。

 

 ――でなくて。そんな益体もないことを考えるのではなくて。

 

 一瞬何を言っているのか理解出来なかったが――数拍もなく魔術刻印を一気に励起させ、右腕を向けた。――ここまで早々に魔術師(マスター)との初戦とか。生唾を飲み込む。

 どう考えても、怪しい。こんな唐突に現れた魔術師を名乗る男の怪しさなど、限界を遥かに超えている。

 

「待て待て待て待て。いや待って待って待ってください遠坂さん約束はどうしたどうしました」

 

 妙に言い回しを敬語に直しながら、大慌てで両手を上げている(ホールドアップ)。小声で「しま……てほ……」などと呟いているが、よく聞こえない。

 

 

「どうしたもこうしたもないわよ! この状況でそれを言うなんて『自分が犯人です』って自供してるようなもんじゃない!」

 

 

 常なら有るまじき荒い言葉遣い。そんなことに気を回す余裕などなく、警戒のレベルを高く保とうとする。

 同じ学校に居たのにも関わらず、今まで何も勘付けずにいた魔術師相手に隙を見せるなんてとんでもない。念を入れてアーチャーにも準備をさせるが――果たして。

 

「だからまず話を聞けって。――そのまま腕向けててもいいから、話は聞いてくれ」

 

 両腕を上げたまま、落ち着いた様子で話しかけてくる。

 

 ……言う通りに、このままでは状況は行き詰まるしかない。それに彼はきっといつでも逃げ出せるのだろう。きっと、さっきの振り返るような動きはそう言うことだったのだ。

 相手の意を聞くのは悔しいが、諦めて首肯して先を促す。

 目の前のクラスメイトはそんな私にほっとしたように吐息を漏らすと、両手を下げてその身に纏わせる空気を引き締めた。右手を胸元にあて、貴人への礼のような動作をする。

 

「まず所属から伝えさせていただきたい。――私は結社が偉業者(ハイグランド)級の魔術師、名乗るまでもないでしょうが、名は八鍵水明と申します。……一応、千夜会の代執行も兼ねてる」

 

 ――結社。それに千夜会。

 芝居がかった堅い口上と、優雅さを放り捨てたような砕けた口調。内容と形態とがちぐはぐなそれは、しかし確かに誇りを感じさせた。

 二つの形で告げられた身分に驚くと同時に、深く納得もする。

 

 魔術協会ではなく、千夜会に属する魔術組織、"結社"。――いや、厳密に言えば魔術協会も千夜会に属しているのだが、協会は持っている力が強いがために千夜会の干渉を跳ね除け、ほぼ独立したルールを敷いている。そのため、私を含め大抵の魔術師はこの二つを区別していた。

 結社は系統違いであり、なにより強大であるために時計塔(総本山)のルールに縛られない。加えて普通の魔術師以上に秘密主義である代執行が、冬木の管理者である私に所在を言っていないのは仕方のないことだと言えた。噂に聞く結社の魔術師の高い倫理性を思えば、問題ないだろうとも。

 

 

 ――本当であれば。

 

 

 そんな疑念が顔に出てしまったのか。

 八鍵は、「スーツは着てないからこれで勘弁な」と言い、胸元のポケットから黒銀に鈍く光るペンダントを取り出した。こちらに向けて精緻な文様の描かれた蓋を開けば、上品に収まっている青い魔力結晶で造られた薔薇が見える。――って青い薔薇!?

 

「うっそ青花章!? え、偉業者(ハイグランド)級って、えっ」

 

 今度は疑っていたこちらが慌てる番だった。結社の幹部やその候補者の証である希望の花言葉をもつ意匠を見せられ、思わず向けていた腕を下げて少し後退ってしまう。

 対して、目の前の男はそんな私の様子に苦笑していた。

 

「そんな慌てんな――こっちもずっと隠してきたからな。いくらなんでも何も言わねぇよ」

 

 咎めるなんてそりゃ無体に過ぎるだろ。そう言葉を切り、ここまではいいか、と尋ねてきた。

 深呼吸をして、どうにか頷く。

 

「なら、よろしく頼む。……なにより話すべきはこの結界についてだろう」

 

 そこまで言った段階で、調べたいからそっちに寄っていいか、と訊かれた。

 ……ほんと、気が抜けるというか、なんというか……。

 どうぞ、と手で指し示し、同時にアーチャーに念話で合図をすれば、承ったという返事が返ってくる。防衛策は欠かさない。

 

 八鍵は気負うこともなさそうに呪刻の前までやってきた。場所を譲れば、軽く会釈をしてしゃがみ込む。

 

 

「――Correspondence〈――万物照応〉」

 

 

 告げられた鍵言。その魔術行使の様子に驚く。

 

「……魔力の動きがほとんどないのね。いつも、だけど」

 

 普段から魔力も全く漏れてないし。だから今まで魔術師だったって気付けなかったんだけど――。

 

 そんな意味も込めた(ごん)に、こともなげに応じられる。

 

「まぁ、な。代執行には隠蔽の技術が必須だから、習い性になってる」

 

 流石に戦うような時はそこまで気にしないけど。そう、平然と付け足した。

 

 

 代執行。千夜会に出向する、魔術師を裁く魔術師の称号であり、役職。それに同い年の男の子が就いていると聞くと、恐ろしい以上に薄ら寒い気分になる。

 

 ――なんという茨の道だろうか、と。

 

 そんな私の感慨もよそに、彼はさほど時間を掛けず解析を終えると顔を顰めた。「分かってたけど気分悪ぃな」と心底不快そうに悪態をつく。

 

「……やっぱり、これって人を魂と精神ごと溶かすものよね」

 

「だな。ご丁寧に魂をエネルギーとして再利用する機能までついてやがる」

 

 魂なんてそう使えるものじゃないだろうに――。不意に零れたといった風に呟いた。

 

 

 その物言いに違和感を抱く。下種な手口であっても、マスターとして考えれば有効なのは弓兵(アーチャー)と確認した通りだ。しかし、この言い方だとまるでそれを知らないよう。

 思考に口を閉じる。訝しげに見られるが、捨て置いた。彼が何者で、何が目的で、何を知っているかが問題だ。

 

 

 

 ――はったりか、真実そうなのか。

 

 

 

 魔力結晶の青薔薇など、まず手に入らないものだから、この男が結社の所属なのは間違いないだろう。その実力についても、繊細な魔術行使を目の前で行われたら疑うべくもない。

 

 

 

 ただ、この時期――聖杯戦争が行われている時分に、忽然と遠坂(わたし)の前に現れた魔術師を信じるべきか、否か。

 

 

 

 ――八鍵水明という同級生への信用。

 ……然程、ない。十分な理由があったとはいえ、こちらを騙していたのは事実。そもそも彼には少し皮肉屋のところのあるだけの、ごく普通の善良な生徒という印象しかなかった。これだと信用に足るようにも思えるが、擬態としても余りにもありふれている姿だとも言える。とてもじゃないが参考にはならない。……いつぞやの、学校の玄関先で遭った少女の笑顔が頭にちらつくが、それは努めて置いておく。

 

 

 ――結社所属ということへの信用。

 これは、多少ある。少なくとも、この結界を仕掛けるような輩ではないとは仮定して問題はないだろう。それでも、目的があれば私に敵対すること――聖杯戦争に参加することはありえる。いくら魔術師らしかぬ集団と言っても、魔術師であることに変わりはないのだから。()()()()()()()()()、目的があれば確実に動くはず。

 

 

 ()()()()()()()()()()という魔術師への信用。

 ――内心には、ある。善良さの滲み出る、遠慮した話し方や、先程の結界の性質(たち)の悪さを忌む様子は本心からのもののように思えた。だけど、理性はその様子を信用してはならないと警告している。それは当然で、だからこその板挟み。

 

 

 試しにアーチャーに探りを入れれば、「君の思うままにするといい」と返ってきた。……役に立たないやつ。

 

 

 

 ――つまるところ、自分の心ひとつの問題ということ。

 

 

 

 心の贅肉ねと、そう思いながら、一先ずは協調路線で行くことに決める。――自分の為に、マスターと疑わないということも。

 

 

 

「……そうね。酷く、悪趣味だわ」

 

 ままよと、沈黙を破って口を開く。

 

 そんな私の言葉に反応したかと思えば、まじまじと見つめて来た。かと思えばおもむろにゆったりとした微笑みを浮かべている。

 

 

 それは余りに邪気のないもの。

 

 

「そんな風に思うんだな、遠坂は」

 

 安心したといった様子の八鍵。訳がわからない。若干の、混乱。それを見取ったのか、更に笑みを深める。

 

「いや、こっちの話」

 

 そう告げて、ぼそぼそとなにやら小さく漏らしているが、一体何事か。

 

「そう思うんだなって……。――それ以外に何を思うっていうのよ。こんな隠す気がない結界なんて、三流しかやらないような馬鹿げた話じゃない」

 

 三流ね、と目の前の男はくつくつ皮肉げに笑っている。

 

「いやいや、全くその通り。ほんとにド三流のクソ野郎がやることだ――って男か分からんが」

 

 どうでもいいことを訂正する。上機嫌そうに肩を揺らしていた。

 

「なんでそんなおかしそうなのよ。人を殺す結界(こんなの)が仕掛けられてるっていうのに」

 

 そう注意すれば、ぴたりと動きを止めた。

 

「あーいや。……それもそうだな」

 

 うん、と冷たく呟く。

 

 

 

「あぁ、本当に癇に障るよ、これ。……こんな魔術なんて、冗談じゃない」

 

 

 

 その言葉の響きは酷く冷たく、しかし、込められた憤りはとても熱い。

 

 その温度差に、目を瞠った。

 

 

 

 ――――。

 

 

「……そう。見くびってたわ。ごめんなさい」

 

 思いがけず口を衝く、謝罪の言葉。

 それに対して"見くびる"ね、と思わせぶりな反応をされるが、聞き返す間も無く。すぐさま打ち消すように「こちらこそ」と返された。

 

 

 しばしの無言。

 

 

 

 気がつけば、薄っすらと残っていた夕日の残滓も消え去り、宵月と綺羅星が明々と私たちを照らしていた。ふと、その景色を見上げ、らしくもない嘆息を漏らす。――綺麗だ、と。……ひとつだけ文句をつけるなら、月を隠していないだけまだましとは言え、少なくない薄雲が星々の光を隠してしまっていること。

 

 それが残念といえば残念だった。

 

 

「とりあえず、この呪刻を消そうか」

 

 そんな感傷を置いてけぼりにした、不意打ちの提案。反対することではないけれど、その無粋さが面白くない。自然、言葉が尖ってしまう。

 

「……いいけど、できるの?」

 

「もちろんできるさ。厳密な再現はできないけど、術式を露呈させれば、解術そのものはね」

 

 いわば術式のスパゲッティの出来上がりってとこかな。そんな喩えをする。

 

 

 ちょっとその言い方だと逆に不安になるんだけど、大丈夫なのかな。

 

 

 しゃがみ直した八鍵に、そんな疑問を投げかけようとした時。

 

突然、月光が遮られた。

 

 

 何やと考えを浮かべすらせぬ間。辺りを確認しようと、首を巡らせ――。

 

 

 

 ――――視界に、暗い青味が差した。

 

 



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神秘は宵闇より濃く 前編

「なんだよ。消しちまうのか、もったいねえ」

 

 声が、響いた。

 

 二人して、弾かれたように振り向く。

 十メートルか、十五メートルか。幾らかの距離を隔てた上空。

 薄雲に霞む月光の下、そいつは俺達を見下ろしていた。

 階段室のそのまた上。給水塔の上に立つ、夜に溶け込む深い群青。持ち主の身長より長い深紅の魔槍が両肩に乗せるように、横一文字に背負われている。

 ――対比される二つの色が、酷く目を引いた。

 

 奴の吊り上がった口元は粗暴で、獣臭じみたものが風に乗って伝わってくる。

 ……獣の視線は涼やかだった。

 この異様な状況において、俺らを十年来の友人みたいに見つめている。

 

 

 

 ――これは下手(まず)い――――。

 

 

 

 男から感じる武威と嗅ぎ取れる異常性に、内心冷や汗を掻きながらどうにか動揺を表に出さないよう嘯いた。

 

「ハッ。そりゃそうだろ、こんな悪趣味な結界」

 

「……それとも、これはあなたの仕業?」

 

 身構えている遠坂が俺の前に出つつ、語を継いで獣じみた男に質問する。

 それぞれが言葉を投げかける中で咄嗟に取り出せる道具を探り、使えるものを吟味した。

 

 ――既に嵌めている齟齬のグローブ。上着の内ポケットに潜ませておいた水銀を封入したピルケース。結社の証たる青薔薇の魔力結晶。そして、肌身離さず持ち歩いている八鍵の秘薬が少々……。

 

 はっきり言って心もとないが、それでもどうにかするしかなく――。

 

 

「――いいや? そんな小細工を弄するのは魔術師の役割だ。俺たちはただ、命じられたままに戦うのみ――。……だろう? そこの兄さんよぉ」

 

 

 そうして思案を巡らせていれば、男は茶目っ気たっぷりに片目を閉じて、遠坂の横の何もない空間に言葉を投げ掛けた。

 その言葉、動作で、先程より確かめられなかった疑念が確信に変わる。

 

 ――やはり、遠坂は既に召喚を済ませているらしい。彼女のサーヴァントは、霊体化しつつもこの場に確かにいるようだ。

 

 魔力視の魔術を使った形跡はないし、霊視などの魔眼の持ち主であるようにも思えない。ならば直接あの青身の男の目には霊体――遠坂のサーヴァントが見えてるのだろう。

 そして、同時に分かるのが、こいつもまたサーヴァントだということ。

 しかし、これらに気付いていると、知られるわけにも行かない。

 

 ――ここで一つ方針が決定し、自身は縛られた。

 それは、絶対にここで真意を見せる訳にはいかなくなったということ。

 

 この二人、いや三人が聖杯戦争の関係者ならば、自身が既に関係者だという事実を隠し通した上で、この苦境を切り抜けなくてはならない。迂闊に助けを呼ぶ行為をすれば、さらなる窮地を呼びかねない。

 

 サーヴァント。

 魔術師が挑むのは無謀と言われる相手に、挑まなくてならないこの状況。まずは他所に居る桜か士郎に落ち着いて状況の把握をさせなくては――。

 

 遠坂は俺の存在を気にしているのか、少し後ずさってからは唇を噛むばかりで何も言わない。獣の空気をまとう男も、薄い笑みを貼り付け、肩に寄りかからせた紅い槍を弾ませるかの如く揺らすばかりで、これまた口を開かない。

 決定的なことがないまま数秒が過ぎる。

 その間に素早く周囲を見回した。

 四方を囲まれたこの場で戦うのは不利。潜在的には敵になりうる遠坂がいれば尚更だ。

 階段室までが約十五メートル、一番近い屋上の端までが約二十メートル余り――こちらは校庭の方を向いている。距離、奴がいる方に向かう危険性、扉を開ける時間、飛び越える時間……。

 諸々検討し、遠坂を抱えてフェンスを飛び越え、校庭に場所を仕切り直すのが最善だと判断。

 右の彼女の様子を窺えば、同じ様に周りに目を配り、逃げ出す機会を見計らっているような風情を見せていた。

 

 そこに降ってくる声。

 

 

「ほう、大したもんだな、お嬢ちゃんら。何も分からない様で要点だけは抑えてやがる」

 

 

 あーあ、これなら面白がって声を掛けたのは失敗だったか、などと、楽しげにも、気怠げにも取れる態度で男は言い放つ。遊ばせていた槍を片手に持ち替え、弄びながら回転させる。

 

 ――そして、濃密な魔力の籠もった穂先を横に向け、静止させた。

 

 

 高まる緊張。

 

 どちらということもなく聞こえてくる、唾を飲み込み喉を鳴らす音。

 

 

 ――遠坂達と、青き英霊。双方に気付かれないよう魔力炉の回転数を上げ、回路に通しておく魔力を増やす。同時に、士郎へ状況説明と救援要請をしようと念話の小径(パス)を開くが――。

 

 

「お、坊主。なんだよ、やる気満々じゃねぇか」

 

 

 いいねぇ。隣の女のためか?――と、そう遮られた。

 

 あっさりと魔力の高まりに勘付かれたことに心の中で舌打ちをするが、是非もなし。ならば、隠す必要もないと開き直り、一気に回転数を上げ、魔力炉心を唸らせる。

 

 ――Arc critica!〈――魔力炉、即発臨界!〉

 

 短縮した語句。ラテン語をベースにした、結社の代名詞たる魔術。

 脳裡で唱えた言葉に呼応し、蛋白石(オパール)を想起させる白光混じりの虹色の光で編まれた魔法陣が顕現する。心臓を中心として小規模ながらも三重に展開したそれが一際強く輝いた直後、総身を巡る魔力の総量が暴力的な膨張を見せ、それに伴ってエーテルウィンドが突風と化して周囲に吹き荒んだ。

 

 遠坂はよろめくが、即座に全身に強化魔術を掛けて凌ぐ。

 対して、群青の男はこいつはなかなか――などと呟いた。

 纏う魔力によってその色味を増した真紅の尖槍を構えると、踏み込みで貯水槽を壊しながら、シィッッ!と掛け声一過、こちらに一直線に突っ込んでくる。

 

 慌てず見切り、最低限のバックステップで躱した。

 砕けた貯水槽と屋上の床を見て、男の槍の迅さと威力の高さに戦慄する。そんな自分の心の裡などどうでもいいかのように男はニの太刀――槍なのに太刀というの妙な例えだが――を振るった。

 

 

 

 ――自分ではなく、宙に浮いている遠坂を狙って。

 

 

 

 マージンを取り過ぎだ、などと思う暇もない。彼女は跳び過ぎてしまっていた。

 ごく一瞬の隙、しかしそれは命を刈るに充分すぎるもの。

 ――当然の話として、強化した足で勢いよく回避を繰り出せば跳躍は高くなる。滞空時間という名の隙が増えてしまう。

 

 そこを狙われてしまえば、躱すことなど出来はしなかった。

 

 

 

 

 「っっっ! すまん遠坂っ!」

 

 

 

 

 致命だけは避けたかった。謝りながら、遠坂に向けて指を鳴らす。咄嗟の典礼魔術による一工程(シングルアクション)の魔術行使。指弾の魔術でもって彼女の眼前の空気を破裂させた。指を弾くという動作で魔術が発動する事を、魔術基盤に予め定義しておいたがために可能となるもの。

 

 無色の熱を伴わない爆風に従って、少女の痩身が吹き飛んだ。

 

 ほんの少し前までその少女がいた空間を真紅の魔槍が食い散らすように穿つ。

 

 

 ――彼女は防御の魔術を展開していた。槍撃の威力を和らげるためだろう。

 ――だが、フェンガースナップの鳴る直前、それを解いていた。

 ――つまり、意図は通じていたということ。

 ――しかし、つまりは指弾のダメージも通っていたということ。

 

 

 臍を噛む。どうにかもっといい方法はなかったかと、酷く自身を責めたい気持ちになる。だが、どう思い返しても自分に他に打つ手はなかった。

 

 

 ――ならば、今はできるをことする他ない。

 

 

 魔力炉に激情という形でさらなる薪をくべ、限界を引き延ばす。体中の魔力が蠢いた。

 

 

 

 即応し、即決して相方のダメージを厭わず、最悪を避けんと味方に躊躇なく攻撃した少年。

 

 僅かの時間で防御の魔術を張り、その上で少年の言葉に反応し、意図を察してその防御を解いて攻撃を受け入れた少女。

 

 蒼き英霊は若いながらも戦いの技術と覚悟を見せた魔術師達(おれたち)に歓喜したように、なお魔力をうねらせる己の方を楽しげに振り返った。

 

 

 

「おいおいやるじゃねぇか坊主も嬢ちゃんも――っ!?」

 

「――Augoeides sagittent trigger!〈――光輝術式即応展開、及び射出!〉」

 

 感心するかの如く口角を上げながら、褒め言葉らしきことを言いかけた槍使いのサーヴァントに間髪をいれず攻性魔術を打ち込む。

 

 魔術の手順の段階化。詠唱と動作を一組の小さな魔術として定式化し、更に大規模な魔術を構成するための魔法陣を(くう)に描き出す典礼化の技法。

 それに連動して術式を記憶から読み出す記憶術――魔術基盤に体内の魔術回路を通じて接続できない魔力炉式の魔術師が、基盤へと高速でアクセスをするために生み出した記憶から直接術式を読み出す技術。

 これまでの研鑽による唱句そのもの短縮。威力と引き換えにした詠唱の音の欠落による術の簡易化。ガバラの秘術たる圧縮詠唱技法(ノタリコン)

 

 いくつもの技術をもって紡がれたそれは、文字通り刹那の時間で詠唱が終えさせ、琥珀色に輝く魔法陣を中空に描いた。間断を許さず、その魔法陣から一つの光条を射ち出して敵を爆破する。

 それを確認する前に、自身に身体能力強化術式、身体強度向上術式を付与。

 爆煙と光炎とが目隠しをする中、その隙を突こうと脇を通り抜け遠坂の方へ走った。

 

 

 

 ――が。

 

 

 

「んなもん効かねぇよ」

 

 爆発の後、煌めいている光膜を払い飛ばしながら、青身の男はつまらなさそうに魔槍を振るった。

 

「――っ!」

 

 咄嗟の最低限の防御こそ間に合ったが、勢いは殺しきれず吹き飛ばされる。

 宙を滑る身体(からだ)の勢いを失わせるよう術を掛け、すぐさま立ち上がった。

 既に男は隙を逃さず追撃せんと駆け出している。

 

 だが、その後頭部に宝石――蒼玉(サファイア)による爆撃が襲いかかった。これには堪えきれなかったのか、勢いよく倒れ伏す。奴越しに奥を見れば遠坂が何かを振りかぶり、投げ終わったような姿勢でいた。

 それを見て、彼女による援護だと確信する。

 

「わりィ助かった!」

 

「んなの良いからどうにかしなきゃでしょうが!」

 

 感謝の言葉への、普段被っている猫をかなぐり捨てた声での指摘。余りにご尤もなことと、その勢いの良さに場違いにも苦笑いつつ、遠坂の作ってくれた時間で自身が特に得意とする炎術を編む。

 

 

 

「――Flamma est lego.Vis Wizard……〈――炎よ集え。魔術師の怨嗟の如く……〉」

 

 

 

 敵の周囲を取り囲むように顕れた数個の魔法陣から、唸りを上げて吹き出す炎。それは吸い込まれていくかのように倒れたままの男へと直進する。

 

「だから効かねぇって言ってるだろうが!」

 

 紅焔が接触した瞬間、跳ね起きた彼奴は心底鬱陶しそうに集まる炎を払おうと槍を振り回す。

 

 ――しかし、簡単には振り解けない。確かにその身に接触した炎は色を失い、その術式を解かれている。それでも、その大本の魔法陣へは影響を及ぼせていない。

 

 その様子から、思索を深める。

 

 

 ――やはり、奴に時間重視のの光輝術式が効かなかったのは、術式防御や解術の類ではなく、対魔力によるものだろう。位格差消滅(ディスパラティアウト)の一種たるそれだ。低位の神秘は高位の神秘に打ち消されるという、現象であり原理であるもの。それを強調し、スキルへと昇華させた彼への魔術の通り難さは厄介だ。

 

 

 ただ、幸いにも程度はさほど高くないように思える。ならば、大魔術か広範囲への一撃で――。

 

 

「あぁもう面倒くせぇ! 面白ぇんだかつまんないんだかどっちだ! 坊主っ!」

 

 

 不満を告げる大声。

 

 ――思考の海から浮上する。屋上(ここ)で大規模な攻性魔術は使うわけにはいかない。であれば――。

 

 意識の浅層で次手を検討しながら声のした方を見遣れば、男は指先に魔力光を灯していた。そしてあっと言う間もなく空中に文字の如き印を刻み込む。

 

 

 

 ――ルーン魔術。

 

 

 

 そう察したのも束の間、赤い魔法陣ごと術が消し飛ばされた。

 

「っ!」

 

 奴の肩越しに遠坂の慌てたような表情が見える。

 

 

 だが。

 

 

「そう心配するなって」

 

 蒼き槍手(そうしゅ)が己を貫かんと迫る前で、気軽にそう言う。

 

 

 ――そう、とりあえずの時間稼ぎならこれで十分だ。

 

 詠唱をもって奴の周囲に魔術を紡ぐ。その魔術は重力式。指定領域の重力法則を操作する魔術。

 

 此度は加重の方向に舵を取る。

 

 

「――Gravitatem〈――重力式、展開〉」

 

 凶手を遂げんとするその速度が鈍る。

 すかさず同種の魔術を繋いだ。

 

 

「――Gravitatem.Bis coniunctum〈――重力式、二重連結〉」

 

 ほぼ完全に足が止まった。それでもなお駆けんとするが、重力場がそれを許さない。

 これはただの魔術の重ね掛けにあらず。

 

 

「――Gravitatem.Tern coniunctum〈――重力式、三重連結〉」

 

 膝をつく。僅かに体を動かすのも辛そうだ。射殺さんばかりにこちらを睨む。

 これは魔術と魔術を繋ぎ、その間に一切の時間を消す物。

 

 

「――Gravitatem.Quadr contexitur!〈――重力式、四重連結!〉」

 

 呪詛を感じさせるほど厳しくこちらを見つめる顔が、勢いよく地面と激突した。這いつくばり、ピクリとも動けず。指先さえ震えるばかり。

 

 

 ――これは連結秘法。魔術を連ね、一つの魔術として束ねる秘術。

 

 

 

 ここに、蒼き槍使いの拘束が完成した。

 

 

 

 ダメ押しにもう一つ、直接言霊の魔術を掛ける。

 

 「Et cadens in terram〈這いつくばれ〉」

 

 こちらは手応えなく弾かれた。だよな、と独りごちる。

 やはり対魔力は範囲系の魔術まで干渉することはできないようだった。ランクが高ければ無理やり受け流せると聞くが、奴はそこまでではないらしい。ましてや、神秘による場への干渉ではなく、場の法則への干渉であるが為に尚更防ぎづらいようだった。

 

 とはいえ、この重力式も長くは持たない。

 

 現に、本当に少しずつではあるが、両手の人差し指に魔力光を灯し、ルーンを書いている。

 フサルクの“N”《ナウシズ》の逆字と、“U”《ウルズ》の正字、それぞれの原型か。束縛を弱め、増した力で領域外へ脱出、といったところだろうと予測する。“E”《エワズ》当たりも足すかもしれない。念の為、術式を当て特に補正しないまま乱干渉する。これでもう少し時間が稼げた。

 

 

 

 さて――。

 

 

 

「逃げるぞ!」

 

 そう言い、走る勢いを保ったまま遠坂の腰に手を回す。

 

「ちょ、やっ!?」

 

 いきなり伸ばされた腕に慌てたようにやや抵抗するが、構わずそのまま引き寄せた。

 

「口閉じろ。舌噛むぞ」

 

 一拍、深く息を吸う。

 

「Nutus.Multitudo decresco……〈質量低減、重力軽減……〉」

 

 自身への重力操作の詠唱。加えて身体能力強化と遠坂ごと肉体を防護する術式も編む。

 目測で端まで距離は二十メートル弱、高さは三メートルと半ばほど――そのまま足に力をため、一息にフェンスの縁へと鋭角に飛び上がる。

 

「しっかり掴まれ。――落ちるなよ」

 

 勢いを殺さぬまま膝下に左腕を通し抱える。いわゆるお姫様だっこの形だ。

 

 ――Via gravitas〈――重力路、形成〉

 

 内心で言霊を紡ぎ、空間への重力操作の魔術を組み上げる。

 フェンスの天辺に着地し、そのまま跳ぼうとすれば、そこで遠坂が怒鳴った。

 

「っととそんな事言われても! ――ああっもう! 失敗したらただじゃ済まさないんだから!」

 

 言いながらも腕を伸ばし、自身の首を中心にしっかりと腕を回す。

 

「んなミスすっか! てか失敗したら仲良くお陀仏だっての!」

 

 そんな軽口を一つ。

 

 

 フェンスを足場にほぼ真横に跳ねる。自然の引力を感じられたのは刹那にすら足りない一瞬。一転してなめらかに、ほぼ垂直に近い挙動で屋上から校庭へと落下する。速度は自由落下のそれを超え迅速。なれど、地面に激突するか否かのところで一気にその速度を緩め、柔らかく着地をした。

 淀みない魔術行使の結果として行われる制動。跳躍から着地まで、一秒の半分にも満たない短時間での所業。

 

 

 

 ――命からがらといった印象だが、結果としては大過なく。

 

 ひとまずの逃亡は、確かに成功した。

 




ようやく戦闘開始。全四回と言いつつ次回はほとんど会話。

というか遠坂を警戒しつつも見捨てたりするような発想がないのが水明クオリティ。


 ……お読み頂きありがとうございます。


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神秘は宵闇より濃く 後編

 抱えた遠坂を降ろしながら、数歩進む。

 

「あ、ありがとう」

 

 跳ぶ前の口調に反して、意外としおらしくお礼を言う彼女。

 それがおかしくて少し笑ってしまう。すると「なに?」とでも言いたげな目で睨んできた。

 いやいや、なんでもありませんって。

 そんな内心を、半笑いのままジェスチャーで大げさに表した。

 

 ――――。

 

 しかし、差し迫った問題に思い至る。

 あの青い槍使いの再襲に備えるならばさほど余裕はないと、浮かべた笑みを消した。

 広い場所を確保すべきだと意思を伝えようと校庭の中心を指差せば、遠坂も頷く。ほぼ同時に駆け出した。

 互いに相手の顔を横目の視界に収めながら並走する。

 

 まず、自分が切り出した。あの男の刺突を躱させるために撃った、指弾の魔術のことだ。

 

「さっきは悪かったな。……一工程(ワンアクション)とはいえ痛くなかったか」

 

「全然。私の抗魔力は高いもの、あれくらいならへっちゃらよ。」

 

 すぐ自分の治癒魔術で治せたしね、と付け加える。

 それから、そもそもあれは私へのカバーでしょうに、と、正面に向き直してぽそりと呟いた。

 

 自分としては、あの攻撃の意味がちゃんと伝わっていたようでなによりだったが、しかし。

 「治した」という言い方から、やはりダメージは入ってしまっていたことが分かって、自責の念がぶり返す。

 

 けれど遠坂のあくまでも気にしない様子に、自身も割り切るしかなく。心を切り替えるために頭をふるふると振った。同じく、前を向く。

 それから、ぽつり。

 

「――そうか。なら、良かったけど」

 

 

 

 沈黙。しばし走ってから、それにしても、と続ける。――確認のための、若干の芝居。

 

「よくあの状況で俺に合わせた、っていうか助けてくれたな」

 

「はぁ?」

 

 遠坂が足を止めた。自分も釣られて足を止める。図らずも、校庭のおおよそ中心に到着したようだ。校舎からの距離は十分で、敵の初動を見てから対応できるだろうと思える場所。また周囲の空 間の広さ、地面の確かさは屋上の比ではなく、存分に大火力の魔術を撃てる場所。

 

 そんな場所で、心底信じられないものを見るような口調で言う。

 

「あのね、あんな状況で恩とか優先順位を間違えるほど馬鹿じゃないわよ」

 

 心外だとでも言いたげにその身を震わす。

 

「それともなに? そんなことを間違えると侮ってたわけ?」

 

 

 自身への疑いがどの程度か――。

 

 

 それを確かめるための、本心からの確認と兼ねた一芝居。それを知って知らずか、俺の(ごん)に大分頭にきた様子。慌てて弁明を返す。

 

「そうじゃなくてだな。突然現れた魔術師なんてめっちゃ怪しいだろ。我ながらだけどよ……」

 

 語尾を濁しつつ言えば、ああそういうこと、と眉間を抑えながら頭を振る。

 

 そりゃね、と前置いて話す。

 

 

 

「もちろん、怪しいとは思ったわよ」

 

 言葉を切り、一歩近づいてこちらを見上げてくる遠坂。

 

 

 

「でもね」

 

 真剣な声音。

 

 

 

「あの結界の性質(たち)の悪さに憤ってた貴方の様子は本物に見えた」

 

 真摯な眼差し。

 

 

 

「さっきの戦いで貴方は私を警戒してたけど、それでも私を囮にしようとする素振りなんて欠片も見せなかった」

 

 摯実な言葉。

 

 

 

「だから信じて、共同戦線を張れたのよ」

 

 

 

 ――――。

 

 

 ……どうにも気恥ずかしい。

 

 ――――正直、士郎みたいな人間に向けられるとばかり思っていた種類の信頼。意外と嬉しくて、なにより恥ずかしい。こんな場面なのに視界が狭まる。違う、そんなことをしている場合じゃない。なのに――。

 

 

 

 ………………。

 

 

 

 どうにか平静を取り戻す。そうやって我に返れば、少なからず良心が苦味に軋んだ。こんな風に返されるなら、下手に芝居なんてするんじゃなかったと後悔。

 まるでこちらの芝居に気付いてない様子が、無垢な少女を騙したようで決まりが悪い。

 

 

 

 ――なにより。

 

 

 真っ直ぐな言葉が、痛かった――。

 

 

 

 頬を人差し指で掻きながら、どうにか「そりゃどうも」とか、口元で言葉をもごもごと濁す。

 それに遠坂は「なーに照れちゃってんのよ」と、肩をぱしぱし叩いてきた。痛い。いや茶化してくれるのはいっそ助かるんだけど力が強い……。

 

 気を取り直して、一呼吸。(しか)りと魔術師の感覚を取り戻す。

 

 

 ――良心は(にが)めど、目的は達成しなくてはならない。

 

 

 そんな自分の様子をどう見たのか、遠坂も居住まいを正した。

 

「話を変える、というより戻すぞ。――()()はなんだ? 知ってるなら簡潔に頼む」

 

 正体は知っているが、士郎と桜との打ち合わせ通りの設定を保つために質問を投げかける。まさかこの場面で訊かないわけにはいくまい。正直なところ、自分が士郎よりも先に遠坂に対応することになるとは思ってなかったが、むしろ好都合。確実に調整する。

 

「……その言い方だと、本当に知らないみたいね」

 

 確かめるようにこちらを見つめる。それにただ沈黙をもって答えとすれば、ごく短い時間黙考し、「……いいわ」と、思いを決したように頷いた。

 

()()は『サーヴァント』。歴史上の英雄を、聖杯に依って限定的に降霊した使い魔よ。――冬木に居るんだもの、冬木市(ここ)の聖杯戦争、あるいは第七百二十六号聖杯は知ってるわよね」

 

 今度はこちらが首肯する。そしてできる限り、物言いたげ態度で対した。

 

「……聖杯戦争は流石に知ってる。基本的なルールもだ。でも――」

 

「――なんで()、そう思ってる?」

 

 言いかけて、語を継がれる。同じく、また頷いた。

 

「ここのは五十年か六十年周期のはずだろ。でも前回は十年ぐらい前だったよな。それなのになんで、今起きてるんだ?」

 

「……そうね。そこまでは知ってるんだ」

 

 遠坂は平然と言葉を返すが、しかし後半の質問の答えは留保する。おもむろに左手を顎に遣り、思案気に肩を揺らした。

 

「結社の魔術師、か……。本当にマスターじゃないのね?」

 

 念を押される。

 当然のことだとは思うが、ここは押し通すしか無い。ついでに言えば、自分は確かに()()()()()()()()

 

「マスターではないよ。誓って、今回の聖杯戦争には参加していない」

 

 虚実入り交じった言葉。それを証明するように両腕を差し出す。

 

「見た感じ令呪はないわね。……触るわよ」

 

 意図を察した遠坂は俺の手の甲を一目見た。次に断ってから袖をまくりあげ、腕全体をぺたぺたと手で触り始める。

 その手を通じて若干、魔力が通っている気配がした。魔術とも言えないような簡易的なものだが、一応は神秘を混ぜた探査といったところだろう。

 ……その気配の精密さに感心すると同時に、これが士郎(令呪持ち)だったら万が一があったかもしれないと、やや血の気が引く思いをする。

 

「よく制御してるな」

 

 自身を誤魔化しきれず、心情のままの言葉が口を衝いた。それに遠坂は「それはどうも」と事もなげに答えると、確かめ終えたのかさっさとまくった袖を戻す。

 

 

「とりあえず、信用はしてあげる。――でもあなたがマスターになる可能性はあるの。だから、共闘は今夜までね」

 

 

「――それで十分だ。助かる」

 

 

 一先ず切り抜けたことに内心安堵しつつ、本音混じりの端的な答を返した。

 すると遠坂はひとまずの約束は結べたことに満足したのか、ほっとしたように息をつく。そして、少々深刻そうな具合で付け足した。

 

 

 

「あ、言わなかったけど、私も今聖杯戦争開催されてる理由は分からないのよ」

 

 

「……は?」

 

 

 

 素。素の反応が漏れる。どう見てもブラフではなくて本当に知らない様子。いや待て御三家。本当に知らないってそれで良いのか。

 ジト目を向けるが、それも致し方ないだろう。

 

 

「し、仕方ないじゃない。あの時私まだ七歳――っ」

 

 

 そこで、慌てたように言葉を切る。遠坂は目を細めて俺に尋ねた。

 

 

「……八鍵くん。前回の聖杯戦争について、どこまで知ってる?」

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 迂闊に答えられない質問。選択を誤れば、自身の持つ情報網の限界とを悟られる。それに、士郎や聖杯戦争との関係についての疑念を与えかなかねない、重要度の高い情報。

 特に後者は一つ間違うだけでも非常に危険だ。

 

「……それは簡単には言えないな。俺の情報力がどれ程かを教えることになる」

 

 できる限り勿体つけて話す。

 

「――まぁ、御三家の各マスター、遠坂時臣、間桐雁夜、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。時計塔からの参加者の、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトとウェイバー・ベルベット。それに数合わせの犯罪者のマスターがいたとは聞いている。残り一人は知らん。それ以上は言えん」

 

 ぶっきらぼうな言い方。

 実際は全てのマスターの名前と経歴、同じくそれぞれへの協力者の名前と経歴、サーヴァントのクラスと所属、そして生存者とアーチャー・ランサー・ライダー・アサシンの真名まで調査が及んでいるため、分かっている。聖遺物を入手しようとした輩は、馴染みの情報屋の網にしっかりかかっていた。アサシンはハサンに固定であるため言わずもがなだが、詳細は分かっていない。

 

 

 ――セイバーに関しては憶測だが、これにも候補はある。

 

 

 

「――そう。それは確かに仕方ないわね」

 

 

 

 酷く冷たい声。警戒度が跳ね上がったか――。

 

「……? どうした?」

 

 ――しかし、どこか縋るような色のある目。胸にチクリとした感覚が走る。なにかが違う。

 

 

 

 ……この声音は、警戒ではなく、落胆?

 

 

 

「――気にしないで。代わりに私もこの話題はもう尋ねないから。……もちろん、共闘に影響させたりもしないわ」

 

 

 お互い様にしましょう――。遠坂はそれだけ言って、校舎の方に体ごと視線を向けた。話はこれで終わり、と全身で訴えかけている。

 釈然としない部分はあるが、現況を考え、押して気持ちを改めた。

 

 全身の点検。迂闊に手札は切れないが、かといって手を抜きすぎても歯は立たない。ギリギリのラインを見極める。まずは消耗した魔力回路をいくらか修復して、次の手を検討する。まず、敵の初手は何か。高速の奇襲、ルーン魔術での撹乱、あるいは他の手か。対応できる手段を想定する。

 その傍ら、遠坂は硬い雰囲気を解いて周囲を警戒していた。

 

「それにしたってほんと何なのよ、この状況ぉ……。あのランサーっぽいやつとか、結社付きのやつとか、三流魔術師とか色々湧きすぎたっての」

 

 なんのげなしと言った感じで愚痴を零しながら、相当に厭そうな様子で遠くを眺めていた。

 

 怒りの対象は、あの青い英霊と、俺と、結界の張り主とのことらしく、なかなかどうして忙しない。英霊と術師に関しては全く同感で、むしろ自分も一緒になって愚痴りたいところだが、それよりも猫が剥げかけた遠坂の様子に思わず苦笑いしてしまう。……こりゃどうしたもんか。

 

 とりあえず、どうにか宥めようと遠坂に手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 ――刹那。

 

 

 

 

 視界の遥か右上。その隅に、群青と真紅が閃いた。

 

 

 

 

 

 「遠坂っっっ!!」

 

 

 

 

 

 伸ばした手で、彼女をそのまま突き放す。自身の後ろへと思い切りよく押し込んだ。

 きゃ、などと可愛らしい悲鳴を上げるが、今は気遣うことはできない。

 

 

「Primum exci――〈第一城壁。局所展――〉」

 

 

 最速で自身の誇る、金色(こんじき)の盾が一枚目を展開しようとするが――。

 

 

 

 真紅の一閃。

 それと同じくらいに濃い、赤が散る。

 

 

 

 切りつけられたのは自身の腕。

 中途半端に展開し、切り裂かれた金色の魔法陣。

 

 

 

 

 

 壊れた金に、かつて竜に破られた光景が――かつて竜に敗れた己がフラッシュバックする。

 

 

 

 

 

 ――――嗚呼、厭だ。

 

 

 

 

 

 反射的に火属性の自然魔術、広く視界を埋める単純な魔術炎を青身の男に放った。しかし、俺から見て右の前方に避けられる。目眩まし程度だがないよりかはマシといった風情。

 それを確認するのすらもどかしく、一呼吸もない時間で全身の能力を強化した。

 すぐさま後方に飛び跳ね、自身の腕の状態を診る。鈍った魔法陣の輝きの下、腕はどうにか繋がってこそいるが、その傷は深い。

 

「――っ、八鍵くん!? ――今治療するから!」

 

「いいから下がれっ!!」

 

 座り込んだ体勢から、こちらに駆け寄ろうとした遠坂を強く制止する。この場所に彼女がいては危険だ。――中途半端に展開したままの盾を消し、リソースを回す。

 

 

 無茶を承知して、五元素それぞれの魔術を起動。一瞬で放ち、混ぜ合わせ、五行の相克の概念を用いた破壊の魔術と化させる。

 循環するが故の対消滅。それによる破壊術。

 動揺し集中を欠いた状態。その上、魔力炉を解放どころか完全に起動していない現状で放てば、恐らくその魔術行使に耐えきれずに多少の負のフィードバック――リターンオーバーが返ってくるだろう。

 

 

 だが、構うことはない。

 

 

 拮抗する五元素。絡みつき、荒れ狂うそれらは次第に反応を高め、やがて――標的のサーヴァントを中心として消し飛んだ。

 

 

 校舎すら巻き込んで消し飛んだかと思わせるような轟音。

 

 

 

 しかし。

 

 

 

 

「……おいおい。そんな隠し玉もってたのか、坊主」

 

 

 

 

 ――平然とした声。

 

 

 

 対して自分は未熟な魔術行使の代償――返礼の風(リバウンド・エア)を受け、膝をついている。

 

 

 ――余りに無様。敵を甘く見積もり過ぎ。こんな時に何を油断した――? 馬鹿すぎる――。

 自身への怒りは際限なく湧き上がり、同時に呆れが礼に来る。

 

 

 内側からくる破壊がために吐血した。荒く喘鳴しながらも治療の魔術を組み上げる。

 

「……にしてもホントすげーな。俺を釘付けにするばかりか、まともに食らったら消し飛ぶような攻撃を咄嗟に撃つなんてよぉ」

 

 いやほんとすげーすげーと、気楽そうに笑う青い槍兵。

 血を止めどなく流す両腕に、どうにか治癒の翠光を発生させ、軋む心臓と疼く肺の痛みに耐える。

 

 そんな俺を見つめる青身の男は、親愛と礼儀すら感じさせる態度で槍を構え口を開いた。

 

 

 

 

「ま、だからよ」

 

 

 ――後々のために、ここで死んでくれや――。

 

 

 

 

 そう言い放ち、致死の一撃を放たんと疾駆する。

 

 

 

 ――――サーヴァントとの遭遇戦。その第二幕が今、開始された。

 

 

 



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群青の戦夜 前編

 

「Calor fit helices ut hastam!〈灼熱は渦巻き風を穿たん!〉」

 

 

 風の如く駆ける槍手へと、手元に花開いた万華鏡の如き魔法陣から吹き出す不可視の熱線。そのはずの魔術を感じ取り、打ち払いながら平然と避けようとする。

 

 ――だが。

 

「なッッ!?」

 

 確かに彼は驚愕と苦悶に表情を染めた。

 長身の周囲にとぐろを巻いて絡みつき、男の周囲の空間を食い破らんと唸る透明な高熱の蛇。

 空気を灼き、その熱で息を吸うのを困難にさせ、込めた概念によって燃焼という過程を経ずに領域の酸素、そして大源(マナ)を枯渇させる。

 同時に、概念を重ね、物理法則を捻じ曲げ、神秘を浪費し、結果的に大規模な魔術となったこれで、作為をもって限定空間における隠秘学的エントロピーを著しく増大させた。

 性質的には生物特攻の魔術であるが、空間を神秘の顕現の限界――魔術融解(マジックメルト)現象へと大幅に近づけるこれは、大源(マナ)の遮断も相俟って躰そのものがエーテル、そして神秘で構成されるサーヴァントにもよく効くはずだ。

 

 のたうつ青身の男。貴重なまとまった時間の確保。それで自身の両腕の治癒と返礼の風(リバウンド・エア)で傷ついた内臓の霊的復元を完了させる。

 

 程なく、魔術が弱まったところで弾かれた。男は警戒したのか、その場に留まり、油断なく穂先をこちらに向けて様子を窺ってきている。自分は次の一手に備えて息を整えた。

 

 

 

 ――対峙。膠着。数拍、空白。

 

 

 一転、――烈勢。

 

 

 

 槍使いが、死を運ぶ青褪めた馬のように悍ましき気配を纏って突撃してくる。

 

 必要とされているのは、自身の生存と敵の致命への一手――。

 

 

 ――この距離での撃ち合いは危険。なにより、座り込んでいる遠坂にいつ矛先が向くかも分からない。ならば、と内ポケットからピルケースを取り出し、魔術の封を解きながら振りかぶって中身を出した。

 

 

「Permutatio Coagulatio vis lamina――!〈変質、凝固、成すは力――!〉」

 

 

 撹乱の近接戦を仕掛けるべく水銀刀を起動。詠唱に合わせ、勢いよく宙にばらまかれ不定形であった水銀が流動し、収束し、刀の形に凝固する。それを握りつつ、密かに爆裂の魔術も待機。

 

 

「――Permutatio.Coagulatio.vis flagellum!〈――変質、流動、鋭くうねろ!〉」

 

 

 即座に一撃を仕掛ける。朽葉の剣技も乗せた、魔術をもって放つ一撃。流動し、しかし鋭角の軌跡を描く鈍い銀の切り上げの一閃。それが迎え撃つ朱槍と打ち合った。

 

 

 

 ()()()()()

 

 

 

 ――どうして、打ち合える? 自身の技量は目の前の遣い手に到底足りない。武器の質の差も歴然だ。

 当然、打ち負けるつもりでいた。

 その上で切り払われ、術が(ほど)けた時に槍を振り切らせ、その隙を突いて魔術を撃ち込む手筈だったのに。

 

 

 ……まさか、読まれている? 感じられたこの男の武威からすれば、己の武器を見て企みを読み取ったというのもありうるが……。

 しかし、その想像には違和感が付き纏う。

 

 五合も重ねたところで無理が出た。

 当初の手筈通りにタイミングを合わせて水銀の固定を解き、隙を誘う。

 

 

「――Chain explode〈――連鎖爆発〉」

 

 

 男の足元からその体にかけて連続する爆発。それは体捌きで往なされた。

 理外すら感じる理不尽の技量は、さほどダメージが通った様子を見せない。しかし目論見通り後退させることは出来た。

 

 魔力を励起し、地に散った水銀を再び剣へと変える。返す刀で強化した足で距離を一歩で詰めるが、即座に紅い槍が喉元を目掛けて繰り出された。

 間一髪で転がって躱すが、息を()く間もなく。

 一、二、三と追撃が連なって襲いかかる。

 小さく憎まれ口を叩きながら更に転がり、地面を蹴り出して、どうにか回避。

 

 

「――Omissa vicissim!〈――逆理の天地!〉」

 

 

 間髪を入れず放つ重力逆転の魔術。少しだけよろめいた様子だったが、警戒されていたのか僅かも掛からずレジストされた。

 

 それでも、退避には十分。

 指弾の魔術を続け様に放ち、まず群青の男の耳元の空気を破裂させる。

 パチン、とこちらの指先で鳴った軽い音に連動し、強烈な爆音が男の直ぐ側で狂い響いた。酷く嫌そうな顔をすれば、追撃の手が若干緩む。

 続けて眼前の空気を破裂させ、自身の身体(からだ)を吹き飛ばし、大きく距離を取った。

 

 

 

 ――こいつは何故、俺を殺しきれない――?

 

 

 

 体勢を立て直して、攻撃を再開する。そうしながら、ふつふつと湧く違和感。自身が感じた脅威に対しての結果の不足。直感はそこが打開策につながると訴えかける。思考を並行させ、次の手を積み上げながら想定する。

 

 

 

 ――こいつが想像より弱い。……まず、ない。

 

 

 

 ――こちらの意図を読んだ上で、策を弄している。……考えづらい。戦術は組み立てるタイプではあっても、小細工をするタイプには思えない。

 

 

 

 ――ならば今、弱体化している? ……外傷は見えない。感じ取れる小源(オド)の流れにも淀みはない。痛みや傷を無視するぐらいの芸当はできるだろうが、それにしたって行動の節々に一切歪みを表さないことはできないはず。

 

 

 

 考える。考える。考える。

 手は休めない。まだ完全に起動していない魔術炉が唸りをあげ、限界へと近づきつつあるが、それでも攻撃を止めることは出来ない。かといって完全起動にしろ負荷起動にしろ、この男を前にして魔術炉の術式を組み立てる時間はない。

 

 

 槍の間合いの外側、遠間で雨あられと魔術を降り注がせるが決め手はない。時間は稼ぐが現状だと打開は出来ない。違和感への思考の結論も得られない。

 

 行き詰まった戦闘。続く槍撃と魔術の撃ち合い。手札(魔術)は数多く切らされ、いよいよ自身の大魔術の行使の必要性が視野に入る。

 しかし、いずれにしても魔力炉心を解放しなければそもそも使えず――。

 

 

 

 頭の片隅に、何かが引っかかった。

 

 

 

 なんだ――。狙い、こいつの狙いか。何が目的だ……?。

 

 

 

 大規模魔術の行使による自滅狙い? 確かにさっきは消滅術式でリバウンドを食らったが、そんなのを期待されるほど甘くは見られていないはず。

 

 

 

 手札を多く切らせること? いやいやそんなことしなくともこの男ほどの強さがあれば手札の上から自分の心臓を貫くことも可能――。

 

 

 

 

 そこで、はたと気付く。

 

 

 

 

 違う。こいつは自分で戦っているんじゃない。自分の意思だけで戦っているんじゃない。

 

 

 

 ()()()()()()だ。こいつは使い魔(サーヴァント)なのだ

 

 

 

 故に、他者(マスター)の思惑の入る余地がある。違和感の正体はそれか。

 

 

 

 ――恐らくは他勢力の情報収集。そして調査のための戦闘と確実な生還が指示……。

 

 

 これならば俺の殺害を宣言した後に起きたこの膠着も理解できる。

 灼熱の槍蛇の魔術は、サーヴァント相手でも危機感を抱かせるには足りるものだ。

 だから、帰還の命令の達成に重きを置いた。この男の好戦的な様子を見るに、信条に反するであろうこの状況は令呪でも使われたためにあるのかもしれないと想像できる。

 

 また、この青い槍使いがあの結界に関わりがないとしたら、あの場で話し合ってた俺を遠坂凛(マスター)の仲間だと考えているだろうことも分かる。その後も共闘していたのが拍車をかけているのだろう。

 ならば、未知数ながら戦闘をこなす俺の手札を見極めようとするのもかもしれない。

 

 

 しかし、ひとつ解せない。何のために敵を倒す機会を失ってまで、戦闘能力の高いサーヴァントを偵察に専念させるのか。そこまでして情報を集めても、肝心の自分の手札も見せてしまっては意味がないのではないか。

 

 

「……偵察か、お前の目的は。だから手を抜かざるを得ないのか」

 

 

 情報が欲しいと、疑問と要求のままに考えが口を衝いた。

 槍兵の目が鋭く細まり、僅かな間攻防が止めて睨み合う。男は一瞬、酷く不快気な顔をした後、不敵な笑みを浮かべた。

 

「ハッ。どうだかな、坊主」

 

 一度構えを解いたかと思うと、踊るように魔槍を舞わせる。猛攻が苛烈さを増した。これまでの間合いが意味をなくし、防御と回避が追いつかなくなる――。

 

 

 

 その時、黒き魔弾が蒼き槍手に直撃した。

 

 

 

「効かねぇよ! んなちゃちなもので邪魔すんじゃねぇ!!」

 

 水を差されたことへの激昂の声。

 その理由は遠坂による援護射撃――ガンド撃ち。その余りの威力の高さに目を瞠る。物理的な破壊力すら有する、フィンの一撃に値するガンドだった。

 しかし、目の前の槍使いの対魔力は貫けない。

 男は苛立つようにその穂先を遠坂へと向け、標的を切り替えんとするが、それに構うことなく遠坂はガンドを連射した。――さしずめフィンのガトリングといったところか。少々間が抜けているが、そんな考察をする。

 

「なんか掴んだんでしょ! なら時間を稼ぐからなんとかしなさい!」

 

「――――! 九秒っ! 頼んだ!!」

 

 こちらをよく見ていたらしい、曖昧だが状況には的確な遠坂の(ごん)

 素早く後退しながら最小の望みを手短に返す。

 彼女はそれに頷くと、いくつもの宝石をポケットから取り出した。

 自分は追われないよう、離脱間際に時間稼ぎの魔術を一つ放つ。

 

 

「――Ground seal!〈――地面封じの術!〉」

 

 

 標的を変え、今まさに遠坂に向かわんとしていた青い英霊。奴の上空に大量の土砂が出現し、雪崩と言わんばかりに埋め立てた。

 しかし、量が足りない。

 さほど時間は掛からず、青身の男は土砂の山から脱出する。そこを遠坂の宝石による爆撃が狙い撃つが、男は難なく切り伏せた。なれど大威力のそれは爆発の余波で着実に痛痒は与えているよう。

 遠坂は痛痒に耐えるがために一瞬生まれる硬直を隙だとでも言わんばかりに、活路をこじ開けようと距離を走って保ちながら宝石と魔術を乱射している。

 それはいくつか直撃し、痛打として更に大きな隙を呼んでいた。

 

 

 その様子を頼もしく思いつつ、起動の魔術を組み立てんと魔力炉に激情の火をくべる。

 増大する魔力に呼応して、自身を中心として大気が悲鳴をあげるように鳴動し、蒼い稲妻が泡沫の如く現れては消えてゆく。電磁場の変化によって足元の地面からは塵や砂埃が舞い上がり、放電に触れては弾け飛ぶ。

 場の物理法則の安定度が下がったことを証明するように、尋常ならざる現象が顕現していた。

 

 群青のサーヴァントは異常を見取り、こちらに注意を向けるが、それが仇となり更に遠坂の攻撃を受けている。生まれる隙は十分。ならば――!

 

 ――Archiatius fullload!〈――魔力炉、完全起動!〉

 

 内心で唱えた呪文と共に、足元から胸元にかけて何重もの虹色の魔法陣が展開された。直後、爆発的に増幅された魔力がエーテルウィンドの暴風を伴って周囲の全てを吹き飛ばす。

 

 ここまでに、六秒。残りの三秒で初撃を決める――!

 

 

「――Fiamma est lego,vis wizard!〈――炎よ集え、魔術師の叫ぶ怨嗟のごとく!〉」

 

 

 青の槍手を取り巻くように無数の赤い小魔法陣が描かれ、自身の足元に同色の巨大で緻密な魔法陣が展開される。大魔法陣の文字図形を囲う二重の外周円がそれぞれ反対に高速回転すると、周囲の地面を炎が薙ぎ払った。

 

 

「――Hex agon aestua sursum.Impedimentum mors!〈――その断末魔は形となりて斯く燃え上がり、そして我が前を阻むものに恐るべき死の運命を!〉」

 

 

 自転し、男を中心に公転する小魔法陣から燎原の赤光と焦熱が漏れ出し、これから起きる災禍を予兆するかのように唸りを上げる。

 ここまでの唱句を言い切ると同時に、手の平の上に目を灼くほどに赤熱した宝石が顕現した。

 それを前方に掲げ、終いの呪文を謳い上げる。

 

 

「――Fiamma o ashurbanipal!〈――ならば輝け! アッシュールバニパルの眩き石よ!〉」

 

 

 正詠唱。

 その完了と共に右手に在る炎玉を握壊させる。

 瞬き一つの間もなく、生命を灼く呪いを宿す膨大な紅焔が噴出した。

 最奥の炎の神秘であることを示す、これ以上ないほど濃く、鮮やかに赤い魔術の炎。その規格外の熱量は、赤いほど良質とされる魔術炎の原則を超えさせ、周囲に純白の陽炎の如き熱光すら湛えさせていた。

 

 呆然としたように手を止め、瞠目する遠坂の大きな瞳に赤と白の光が映されているのが見える。

 

 赤いプラズマといった様相のそれは、猛火ではなく光線のように四方八方から男へと殺到した。

 

 

 

 ――激突。そして輪壊。

 

 

 

 赤熱に踊る青影。

 男は喰らった炎と同じくらい紅い槍を振るい、対比されよく目立つ青い魔力光で構成されるルーンを刻む。

 

 

 

 ――殺しきれていない――――!

 

 

 

 アッシュールバニパルの炎をもってすら焼き尽くせない対魔力に歯噛みするが、それよりも。

 堪らず、走り出す。赤熱の向こうの青影を追う。

 ここに来て奴の狙いは各個撃破。自身の術後の隙を突いて、今尚棒立ちになっている遠坂を屠らんと凶槍を手繰っている。

 

「させるかよ――!」

 

 叫ぶ。勢いよく指弾の魔術を撃ち、男の足元の地面を捲くった。

 男が空を蹴って隙を晒せば、自分は続けて攻性魔術を構成する。

 

 解放した魔術炉心が実現する、ほんの数分前まであった魔術の連続行使の制限など忘れたかのような体内からの術の通りの滑らかさ。

 

 

「――Et factus est invisibilis. Instar venti! Tempestas!〈――我が刃は不可視なりて、しかし我が敵を鋼の如き鋭さを以って血だまりへと沈めん! 微塵に吹き飛べ!〉」

 

 

 単純な斬撃の魔術。縦に地を裂いて疾る真空の刃は遊ぶ彼奴の髪を房の端から数本持っていくが、あえなく紙一重で躱された。それすらも問題とせず、更に魔術を紡ぐ。

 

 

「――Ad centum transcription. Augoeides accelerator trigger!〈――光輝術式略式稼働。爆装は一番から五十番までを加速展開、精密爆撃!〉」

 

 

 先刻屋上で使われた同系統の術などとは比較にもならない輝きを放つ、五十の琥珀色の魔法陣。 中空に展開されたそれらは、その輝きの強さに比例する強大な威力を有する光条を発射し、正確に青身の男を撃ち抜かんとする。

 対して奴はいっそ小気味よいほどに回避し、それの出来ぬものは朱槍をもって捌こうとした。しかし、高速で迫るそれらが間断なく襲えば、一切の被弾をしないことなどできるはずもなく。十発と言わず直前の遠坂の宝石弾に匹敵する攻撃を当てていた。

 

 手を緩めず、確実に決着を付けんと魔術を組み立てる。

 

 

「まだだ――。――Stella maris〈――行け、呪いの凍て星〉」

 

 

 鬼札が序、ステラ・マリス。

 導きの海の星、そして聖母の星とも言われる星を謳う氷呪。

 カバラ数秘術による凍結の再現に、占星術(アストロロジー)での結果の補強、そこへ呪術を織り混ぜた、属性は水に大別される三系統複合型の氷結魔術。高度な魔術と呪いとが混在しているがために、双方に高い知識を持たなければ破られない、そうした性質を持つ拘束式。

 幾重にも重なり、天高くに展開された露草色の魔法陣が寒々しく輝く。そこから極低温の魔力塊を核とする、雹と水気の尾を引く神秘の箒星が墜落した。

 今の夜空には北にポラリス、南にシリウス、西の際向こうにスピカが輝いているがために、大半を省略した略式詠唱でも必要十分な効果を持つ。

 

 そしてそれは確かに、群青の男を凍止(いと)めることが出来た。

 不完全な行使であるために、これを破ろうとする動きを許すが、もとよりこれ単体で片を付けるつもりはない。

 

 

「――Flamma est lego.Vis Wizard! Hex agon aestua sursum!〈――炎よ集え。魔術師が叫ぶ怨嗟の如く! その断末魔は形となりて、斯く燃え上がれ!〉 」

 

 

 鬼札が次、紅焔の輝石。つい先の焼き直しの如く大小の魔法陣が中空と地面に描かれ、余波たる灼熱の舌が(くう)と地を舐る。一息に告げた文言は長く、予兆たる事象の現出も早い。凍りつく青身の男の周囲に灼熱が廻るが、その堅氷の呪詛を焼かないがために融かすことはない。

 それを当然とし、息を吸うと共に強力な身体能力と身体強度の強化術式を掛ける。

 

 

「――Eva, Zurdick, Rozeia, Deivikusd, Reianima!〈――イーヴァ、ツァディック、ロゼイア、デイヴィクスド、レイアニマ!〉」

 

 

 蛮名。一見意味を成さないこれは、古き神の名の音を象ったもの。偉大な神を人の智慧の下に貶す呪いの名。繊細な制御の放棄と引き換えに、強大な力をもたらす邪道の技。本来は忌まわしいそれを呪文に割り込ませ、術の熱量を遥かに増大させる。

 右手に再び顕現した赤熱する宝玉を握り込んだ。

 同時にその掌に魔力を溜めながら、一足で距離を詰め、青い男を取り囲む小魔法陣の一つを自身の後ろに回り込ませる。

 溜まった魔力に術式をあてがい、拳と宝石とを中心として右手周りに回転する臙脂色の帯状円環魔法陣(ベルトバインドサークル)を展開させた。

 

 

「――Fiamma o asshurbanipal!〈荒みて輝け! アッシュールバニパルの眩き石よ!〉」

 

 

 変則詠唱の炎術。

 そしてその鍵言に重ねるは鬼札が結、覇者の拳(ラグラインベルゼ)

 『不倒王(ビートレクス)』、オズフィールド卿直伝の拳撃の魔術の冴えは、防御の上からその暴威を徹すもの。

 本家と比べて格が落ちるとは言え、対応するには解術しか方法のないのがこの魔拳。

 なれどこの青いサーヴァントの持つ対魔力はそうした類ではないが故に、その絶威を余すところなく受けるだろう。

 旋風の如く青身の英霊に纏わりつく赤炎。それをくぐり抜け、振りかぶる右腕の肘に先程移動させた小魔法陣が張り付く。それは男の懐に飛び込み、渾身の力を持って拳を振り抜こうするときに炎を噴出させ、さながら推進機構の如き働きをして更に拳を加速させた。

 酷く原始的なようで、その実極めて高度な魔術による暴力を男に打ち込む。

 

 

 

 周囲の音を消し去るような大気の絶叫。絶佳と言わんばかりに風が弾け、光が割れる。

 

 

 

 水月(みぞおち)に叩き込んだ覇拳。妙な手応えの後、僅かな血飛沫を散らしながら吹き飛び、体勢のままならない男に追撃として生物を呪う焔が襲いかかった。

 

 

 ――劫火の果て。しかし立ち上がる影。ふらふらと立つのもやっとかという風情。それでいて楽しげにも見える揺れ方。

 響く哄笑。調子外れのそれは不安を掻き立てる。

 

 

「――あぁ最高だ、坊主。ほんと何者(なにもん)だよ、オメェ」

 

 

 心底嬉しそうに身を震わせ、左手で髪をくしゃりと掻き上げる青い英霊。軽やかな動作だが、その体は間違いなくぼろぼろ。確かに痛撃を与えたようで、そう言い放った後に決して少なくない血を吐いた。

 

 

 ――戦闘狂。

 

 

 脳裡にそんな言葉が去来する。分かってはいたが、この状況を喜ぶ様子に辟易する。

 なにより恐ろしいのが、氷呪を最終的には力業で破られたことだ。不完全であり、可能性は織り込み済みだったとはいえ、呪詛を組み込んだ()の式を無理矢理に壊されたのは戦慄を禁じ得ない。

 ……あの拳の手応えの弱さは防御のルーンが間に合ったためだろう。

 

 ――うるせぇよ、化け物(バケモン)が。

 

 相対して、舌打ちを一つ。内心は口に出さず、男が瞳を輝かせたのを黙殺する。

 

「なんだノリ悪ィな。名乗りぐらい上げたらどうだよ」

 

 俺は上げられんねぇけどなと、揶揄するような一言を付け足す。なかなかにつまらなそうだ。

 

 悪心(あくしん)から、負けじと言い返す。

 

「言ってろ、アイルランドの光の御子。それともその同僚のケルトの戦士か?」

 

 ただの推測。だが、そのための要素は実に多い。

 

 ――神速の槍遣い、強大なルーン魔術、よく冷えた戦闘の嗅覚、獣のような身のこなし、不死身の如きしぶとさ、戦闘そのものを楽しむ気質、それに反する行動も取れる柔軟さ。

 ここまでの条件が当てはまる人物は決して多くないのだ。当たらずとも遠からずといったところだろう。

 現にほぅ、と間の抜けた息とも声ともつかない音を漏らし、感心したような雰囲気を見せている。

 

「ほんともったいないことをしたなぁ、こりゃ。最初っから殺す気で掛かりゃ良かったか――」

 

 一変。おどけた空気は何処(いずこ)かへ。礼を持った態度で男が正立する。

 

 

 ――生存本能が、全力で危機を叫んだ。

 

 

「知恵あり、才気ある魔道の少年。せめてもの礼儀だ、今宵は隣の少女の助命は約そう――」

 

 

 冗談じゃない。これは――。

 

 

 

 

「――そしてお前は我が必殺に滅びるが良い――――!」

 

 

 

 

 ――宝具の、解放。

 

 

 一転して腰を落とし、獣を想起させるような構えを取る。殺意に濡れた真紅の魔力が、呪いの朱槍を覆い奔る。

 

 

「――っ!」

 

 

 吹雪と錯覚しかねないほど冷たく吹き荒れる心霊寒気(サイキックコールド)。そのあまりの凄絶さに怖気が走った。

 

 

 

 ――そうした冷気の中を駆け抜ける、敵の宣誓。

 

 

 

 

 

「その心臓、貰い受ける――――!」

 

 

 

 

 

 言葉の力強さの通りに魔力は恐るべき高まりを見せ、しかし、それよりも恐ろしい現象が起きようとしている。それに喫驚の声が漏れるが、それでも防御の魔術を紡ぐ。

 

 

「――Non amo munus scutum. Omnes impetum Invictus〈――我が盾は盾にあらず。いかなる攻め手の前にあってもなお堅固なもの。いかなる砲火の前にあってもなお揺るがなきもの〉」

 

 

 対させるは自身の大魔術が一角。赤竜の息吹(ブレス)すら防ぎ切る金色の(マグナリア)

 

 

 

「〈刺し穿つ《ゲイ――」

 

 

 

 だが、確信する。これは防げないと。

 威力など問題ではない。特性こそが大敵。自身が今まさに手に嵌めている品が、大幅に効果が弱いとは言え同じ系統に属するものだからこそ理解できること。

 

 

 

 ――――因果操作の宝具――。

 

 

 

「Invincibility immobilitas immortalis.Cumque mane surrexissent castle――〈決して潰えず、不動にて盤石。其は星の息吹を集めたる黄金の輝きに虚飾されし堅城。その名は――〉」

 

 

 半分以上無駄と知りつつも詠唱を続ける。黄金の魔法陣を支えるように大きく開いた右手を前に掲げ、固く握った左手を左胸、心臓の上に添えた。

 焼け石に水程度であろうとも、齟齬のグローブ――群青の英霊の宝具に劣るであろう魔術品――が多少でも狙いを逸らすことを期待しての所作。

 

 

 

 灰色の世界。極度の緊張から色を失った視界。時の流れが酷くゆっくりに感じる。

 単色調(グレースケール)の中、魔槍の真紅だけが鮮やかに色づき、やたらと目につく。音も遠い。

 その静寂を破るように、槍兵の口元が震える。

 

 

 

 ――()

 

 

 

 震えた、()()()()――。

 

 

 

 

 

 「固有時制御( Time alter )――三重加速( triple accel )!」

 

 

 

 

 男の後方から回転して飛び込む大剣の洗礼。

 それすら青い獣に届かないうちに、三倍に圧縮された呪文が意味を取らせないままに空を走り抜ける。

 

 

 ()()()()()()()からこそ察せる言葉。――"全投影連続層写(ソードバレル・フルオープン)"。

 

 

 蒼の槍手は大剣を上方に弾き飛ばし、勢いよく振り向いた。

 低い姿勢のまま真名解放を控え、周囲に視線を走らせる。

 

 しかし一拍と置かずに大小、洋の東西様々な大量の刀剣が弾雨と降り注いだ。それらは男に触れることすらなく躱され、難なく撃ち落とされ、時にはいかなる力が働いているのか時に不自然に逸れていく。

 その様子と、乱入者と、両方に驚いたのか。遠坂は目を丸くして武器の飛んできた方向を凝視している。

 傷すら付けられなかったのを見て取ったのか、(しか)りと攻撃を入れようと赤い影が大剣の軌跡を辿って青い男に追突した。

 

 

 完全に中断された宝具の真名解放。

 しかし、命拾いの安堵の吐息以上に言いたい事があった。

 

 

「士郎――!」

「衛宮くん――!?」

 

 

 重なる言葉。破裂する剣戟をもって青の槍手を吹き飛ばした赤毛の少年――衛宮士郎は、制御解除( Release alter )と、小さく呟いてから素早く後退する。

 やや荒れた呼吸を整えながら、肩越しに振り返った。

 

 両手には白と黒の意匠の中華風の双剣を握っている。

 

 

「や、二人とも。……とりあえず、これでいいのかな?」

 

 



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群青の戦夜 後編

サーヴァントとの遭遇戦、終幕です。
それでは、よろしくお願いします。



 

 なんとも場にそぐわない、明るい口調。しかし、その調子に反して眉は強く寄せられ、口元は固く引き締められている。端々に厳しさの出る、戦場での相棒の表情だ。

 

「状況が読み切れないけど……。あれは敵で良さそうか」

 

 主に遠坂に向けて言葉。当人は困惑しながらもこちらに近づき、俺と士郎を見比べ、なんとかコクンと頷いた。士郎はそれに満足そうに息をつく。そしてこちらに向き直ると、ほら早く、とでも言いたげに目で合図され、慌てて念話を繋ぐ。屋上での失敗から完全に失念していた。

 

(あれ、サーヴァント。たぶんランサー。結社の魔術師で代執行ってことまではバラした)

 

 端的な連絡。それにこめかみを抑えるような素振りをされる。

 

(……訊きたいことはたくさんあるけど、とりあえず了解。他には?)

 

(マスターってことは隠すから略式召喚はなし。全力出すのも出来ればなし。死ぬのは一番なし)

 

 眉を顰められる。

 

(それは無茶じゃないか。手札晒すのを惜しんでたら死にかねないだろ)

 

 ご尤も。事実、何も出来ず死の危機に瀕してたからなんとも言えない。しかし。

 

(そうは言ってもな。……一応策はある)

 

 少々訝しむ様子の遠坂。ずっと無言で居れば怪しまれるか。

 

「……ありゃ槍の名手だ。ルーンも使う。それに妙にしぶとい」

 

 カモフラージュのための発声をすれば、士郎はすぐに意図を察して応じた。

 

「オーケイ。近接戦は無謀か。どうする」

 

「いや、無謀って言ったのに悪いが、前に出てくれ。その間に儀式級を組む」

 

(甘き声で行く。既にダメージは深いし、特性的に考えても無効化はされないと思う)

 

(あれか。……うん、遠坂には効かないだろうし、見られてもいい手だろう。最適なくらいだ。サーヴァントって言うなら逆にあっちには効果は高いだろうしな。なら、俺は意識をより掻き乱すようにすれば良いのか)

 

(そうしてくれりゃ助かる)

 

 士郎はため息を一つ。

 

「任せろ」

 

「頼んだ」

 

 互いの拳を力なく合わせた。

 

 

 タイミングよく、こちらの方に歩いてきた槍手。声を掛けられる。

 

「相談は終わりか? 坊主たち。てかお前らは仲間っつうことでいいのか」

 

 いったい何個隠し手があんだよと、気が抜けたようにぼやく。

 

「この際だから訂正しとくけど、遠坂――そっちの女の子は仲間じゃないぞ」

 

 え、と口を半開きにしてこちらを見てくる遠坂と士郎。

 ……遠坂はともかく、なんでお前まで驚いてんだ。

 

「あん? じゃあなんで屋上に一緒に居たんだ。しかもさっさと一緒に応戦してきたじゃねぇか」

 

 そんな場合でもないだろうに、あれこれ訊いてくる。……いや、この場合正しいのか。情報収集がコイツの目的だったなと思い出す。

 

「同級生だからだよ。俺らは元々魔術師だけどな」

 

 言葉を繰る。

 

「遠坂から聞いたけど、聖杯戦争に俺らは関係ない。ただ、前触れもなく学校に張られたあの悪趣味な結界を調べてただけだ。んであんな場面で、槍なんてぶら下げた男と、同級生の女ならそりゃどっちと協力するのが妥当かなんて、言うまでもないよな?」

 

 茶化すように言葉を掛ければ、男は「成る程な」と頷いた。

 情報の修正は為ったか――。

 

「ま、ともあれまとめて敵ってことで良い訳だ」

 

 んじゃ、続けようか。そう言って、瞬く間に距離を詰めてくる。クソ戦闘狂がッ!

 

「離れてろ! 遠坂っ!」

 

 彼女を押し飛ばす士郎。……それを見て、俺も大概荒っぽかったなと場違いにも反省。

 彼はそんな自分をよそに、手に持つ夫婦剣と(くう)に浮かぶ数振りの長剣で応戦している。

 それに呼応して魔術を紡ぐ。

 

 ――Phantom road〈――異界反転〉

 

 内心で呟いた唱句を鍵とする、異界創造の魔術。先程までは余裕が無かったために後回しにしていたが、派手に魔術を繰り出すなら必須なもの。これは領域を世界から隔離するがために、おおよそ完全な神秘の隠蔽を可能とする代物だ。

 音の響きに合わせ、透明な球体が自身の足元に顕れた。

 空間の境界を指し示す無色単型の球形魔法陣(スフィアシンボル)が高速で輪転しながらその半径を広げてゆく。この迅速な展開と簡素な魔術工程は、結社が永く改良と典礼化を重ね続けてきた賜物。例外的に魔術基盤へと強固に固着させることに成功したからこそ、難易度に比して発動が容易になっているが、本来これは数人の魔術師による儀式をもって為すような大魔術なのである。

 

 結界で任意の空間を切り取る。指定範囲は学園の敷地全体。その領域へこの世にしない要素を組み込み、現実に被せるように転写することで質量と形骸を持つ虚数空間を造り出す。

 何もかもが現世から反転した、鏡写しの幽幻世界。

 それを為し遂げんと、今まさに結界の魔法陣が敷地の現界へと辿り着くが――。

 

 

 ――境界面が敷地の端で歪んだ。

 

 

 つまり、これは、既に。

 

 

 思考を中断し、素早く周囲を見渡す。

 すると僅かな時間だが、校舎の影の一部が不自然に濃くなるのが見えた。そこに向かって頷くと、完成間際だった異界反転の魔術を停止させる。

 気を取り直し、謝意を伝えようと片手で拝む。すぐさま自身も攻撃に加わった。

 

 

 光術。炎術。雷術。

 定番ながらも攻撃に適した魔術を中心に、士郎を巻き込むことのないよう気を付けながら適宜撃ち込んでいく。男に隙ができれば傷を開くように、士郎が追い込まれればそれをカバーするように。

 

 真紅の尖槍が命を穿たんと強勢に出れば、干将と莫耶が堅実にその勢いを往なすように振るわれ、その間に牽制の攻性魔術を撃ち込んでいく。魔槍が幻惑せんと揺れれば、自身の魔術がその紅い軌跡を絡め取り、それで生じた隙に双刃が迫る。

 

 これまで幾度となく戦闘を積み重ねたが故の堅固な連携。何度か士郎の剣が弾き飛ばされているが、その度に再投影している。時折、自身で隙を突いて中空から剣を引き出し射出しているが、それは最初のときから一発も命中していない。

 

「士郎! そいつに飛び道具は無駄だ! 多分加護かなんか!」

 

 おそらくは矢避けの加護。いよいよ槍使いの真名は"クー・フーリン"だと確信する。

 

「了解! ――ちょっと任せた!」

 

 言葉通りに自身に攻防を押し付ける位置に背進する。通った道には日本刀が二本突き刺してあった。その内の一本を手に取り、防御を重視して振るう。まともに打ち合うことなど出来やしないが、それでも魔術を織り交ぜて時間稼ぎに徹すれば多少は可能だ。

 

 大径(パス)が開き、大量の魔力が持っていかれる。

 あんにゃろう、と悪態をつくが、かと言って閉じるわけにもいかない。

 流れていくままに任せ、魔力炉を更に回転させる。大源(マナ)から変換する魔力を増大させた。溢れたエネルギーが熱となり、蒸気のように神秘を含む高熱の霧が身体(からだ)から吹き出す。

 

 数合の死線を潜れば、後方で爆発的に魔力が高まる気配がする。――これは。

 

 

 制止するために、隙を見て声を上げようと喉を震わす。それが音となる前に、士郎が叫んだ。

 

 

 

 

「待たせた――。――Limited Blade Works!〈――限定顕現・剣の丘!〉」

 

 

 

 

 言葉とともに、碧緑の魔力光が直線的な図形、幾何学的な行路を辿って地面を広範囲に流れた。

 

 一見何も起きていないが、実情は全く違う。辺り一帯の大半が士郎の支配領域(ルールエリア)となったのだ。既に彼にとってはこの領域の大気が、土が、水が、光さえも剣を構成する要素となる。

 理外の秘呪による、魔力以外への強力な干渉域。

 しかも彼の特異性を大本に置くこの魔術は、術式への干渉も本人が指定できる。

 つまり、味方は相変わらず自由に魔術を行使できるのだ。

 

「――ったく馬鹿っ! やりすぎだっての!」

 

 毒づく。確かに全力ではないが、これでも十分下手(まず)い。

 

 ……どうしたもんか。先とはまた違った意味で途方に暮れる。

 

 絶対に後で遠坂に突つかれる。というか突つくのが普通。現に限界まで目を見開いている。 おーおーこの異常性が分かるのか。

 

 そんな現実逃避もそこそこに、一気に赤毛の少年の立つ方へと退がる。

 この際と言わんばかりに、手持ちのものと近くに刺さりっ放しだった刀を投げつけた。それは空中にある間に当然のように強化され、巨大化し、より強烈な威力を伴って群青のサーヴァントに向かう。

 

「なに、あれ……?」

 

 続けて呆然としたような遠坂の声。気持ちは分かるが今はそんな場合じゃないぞ―。

 

 …………。

 

 深呼吸。自分も戦闘に集中し直す。

 

 その間も士郎は乱舞するように剣を振るい、あちこちから刃を射ち出していた。今度はいくつか男の身に届くものも出てくる。どれも奴の後方から来たものだ。……視認が鍵か?

 

「後ろから撃て! 士郎!」

 

「――っ! クソがっ!」

 

 ビンゴ。青いサーヴァントの怒りの声。魔術に加え剣弾も命中するようになれば、いよいよその弾幕は飽和攻撃の(てい)を成す。奴は目にも止まらぬ神速をもって槍を振るい、迫る攻撃を撃ち落とすが、足が止まってしまっていた。一つの場所に釘付けになれば槍兵の真価は失われる。

 

「ッッ! 畳み掛けるぞ!」

 

「――Armoury seals!〈――刃の檻!〉」

 

 返事はなく、適した魔術によって応じられる。――重畳。

 

 地面から螺旋を描くように現出した無数の刃が青い獣を追い詰める。敵は即座にその剣先を斬り飛ばし、退路を拓くが、あらゆる刀身から更に刃が生えてきて路を塞ぐ。それは四方八方に伸びながら連鎖し、迂闊に動けば切り刻まれる刃の檻が完成した。

 

 総身の被害は甚大。なれど諦めず魔力を高めている。ルーンの重ねがけによる破壊か、魔力を込めた一撃か。――いずれにしても都合がいい。

 

 

「――Buddhi brahma.Buddhi vidya〈――目覚めよ力。大いなる知識と共に〉」

 

 

 始まりの唱句。男はカクンと、膝の力が抜けたように一瞬ふらつく。

 

 

「――Asat nada Arupa-loka〈――あまねく声はいと高く天にあり〉」

 

 

 男の足元に展開される緋色の巨大な魔法陣。刃の檻さえ包み込むように描かれる、血のような色の図柄と文字。緋の光と刃の影とが怪しく交差する中、青身の男は非常に苦しげな、鬼気迫った表情をする。

 

 

「――Kalabingka mahamaya om karuma sam kri〈――甘美なる響きを持ちて汝が原罪を解き放つ〉」

 

 

 舞い降りる光条。天地上下の別を付けさせない光の柱。

 その中心での、僅かな間の――恍惚の面持ち。そうだろう。なぜなら――。

 

 

「――Samadhi kalpa devanagarai〈――汝よ聞け、方一由旬終わらぬ声を〉」

 

 

 ――なぜなら、これは福音なのだから。それも、天高きエゴの解放の福音なのだから。

 彼は膝をつき、それでも奥歯を噛んで耐えている。だが時既に遅し。

 その身の魔力の高まりは消えていた。

 

 

「――Samadhi Kalpa nada〈――汝よ聞け、方一由旬尽きぬ響きを〉」

 

 

 いよいよ発光が甚だしくなってくる。緋から変わるのは、魔法陣の上に満ちる目に焼き付かんばかりの白の光域。その中に巨大な飛鳥にも似た輝きの輪郭が現れる。――酷く甘い声を引き連れて。

 

 

「――Vahana amanasa samskara buddhi karanda trishna!〈――汝よ、いまその身を三界にまつろわぬ理と昇華し、甘き声の渇きにその身を委ねよ!〉」

 

 

 目眩く光の柱。その合間を前にして鍵言を謳えば、己の瞳にはその巨鳥がひときわ高く大きい甘い嘶きと共に天に舞い上がっていく姿が微かに映った。

 男はそれと共に体内の魔力を、そして身体を構成するエーテルすら吐きだすかに思えたが――寸でのところで槍を手の甲に突き刺し、我に返って耐えきる。

 限界に達したように倒れ込み、小源(オド)の大半をもっていったが、惜しくも消滅までとはいかなかったようだ。

 

 

 ――迦陵頻伽(クラヴィンカヤ)の甘き声。

 極楽浄土にいるとされる、迦陵頻伽(かりょうびんか)と呼ばれる人頭鳥身の生物。妙声鳥とも呼ばれる彼(か)の霊鳥の甘き嘶きは、隠秘学においてはとある例えをされる。

 それは人間、個人が進化する際に聞こえる、一種の啓示であると。高次のエゴに働きかける、天上の福音だと。

 通常、それを聞くのは高位の魔術師にしか成し得ないものであり、聞く資格もまた、高位の魔術師でしか持ち得ないもの。

 しかし、それを未熟な者が聞けばどうなるか――。

 

 答は、魔力も魔術も制御できなくなる、というものである。

 

 早すぎる福音など毒でしかない。低位の魔術師は高次のエゴの働きにより、低次のエゴである我欲の暴走を抑え切れなくなり、欲望を体現させる力である魔力、そしてその手段である術式の制御を手放してしまうのだ。

 

 その現象を再現するのが、この魔術。

 トリシュナ、tṛṣṇā。

 渇きを意味するこの言葉。五つ以上の宗教の儀礼語であるが故に、魔術的な観点からも強力であるヴェーダ語(古サンスクリット)。それを利用した、枯渇と堕落の術式。

 

 魔力を奪うのではなく、抜き取るのでもなく、()()()()()()、そういった性質のもの。

 

 本来十分に魔術に熟達しているであろうこの槍の英霊相手に通用したのには、いくつものからくりがある。

 

 一つ目は魔力を励起させていたこと。

 自ら魔力を引き出させるとは言え、間口は広く、そして既に開いている方が良いに決まっている。

 

 二つ目は満身創痍と言っていいいぐらい消耗が激しかったこと。

 当たり前だが、思考能力に鈍りが出ていて、抵抗力が小さい方が成功する公算は高まる。

 

 三つ目は相手がエーテルで構成される、神秘そのもので出来た躰であるということ。

 この身体(からだ)だと迦陵頻伽の幻影に僅かな魔力を渡すだけで、連鎖的に多くの魔力を与えることになってしまう。身体要素の崩壊のために栓が抜け、根こそぎに魔力を持っていかれてしまうのだ。

 

 四つ目、これが最も重要なこと。

 それはこの男が英霊そのものではなく、『サーヴァント』であるということ。つまり、クー・フーリンという英霊の、槍使いとしての一側面のみを降霊(おろ)した存在であるということだ。

 

 

 サーヴァント。

 これは、聖杯の補助があっても英霊そのもの召喚するのは容易ではないがために、「役割に即した英霊の一面」というものに限定することで召喚と現界の負荷を抑える仕組みの産物である。

 これが大きな枷を生むのだ。

 

 クー・フーリンは間違いなく偉大な英雄であろう。影の国で修行を積み、魔槍たるゲイボルグとルーン魔術を授かった、アルスター随一の勇者。

 だが、今ここに居る彼は槍兵(ランサー)なのである。生前の能力としてルーン魔術は扱えるが、それは十全ではない。魔術師(キャスター)ではないからだ。

 

 そこが最大の弱点だ。迦陵頻伽の声は高位の魔術師には無意味――しかし、例え生前魔術を修めていたとしても、今の彼は戦士なのである。魔力の扱いは最盛期よりも(つたな)く、そもそもどこまでいっても魔術は手段でしかない、言うなれば単なる魔術使いの槍使い。

 奴は戦士としての覚悟は持っていても、魔術師としての覚悟は、持っていなかったのである。

 それを指し示すのが、中心に居たためとはいえ彼は倒れ、余波を受ける位置にいた俺たち三人がなんの痛痒も受けていないということだ。

 

 ――そもそも、魔術を究めんとする魔術師の在り方は異常なものである。迦陵頻伽の声はそういった、魔道を進む心が無ければ耐えきれないもの。

 すなわち、魔道に()()()人間でなくては耐えられない魔術。

 

 そう言う風に言えば、最後の最後で凌ぎ切ったのを褒めるべきですらある。

 

 

 ともあれ、虫の息なのは間違いなく。確実に止めを刺そうと最後の魔術を組み上げる。正確に狙って雷撃を撃ち込めば――しかし。

 

 

 

「「なっ――――!?」」

 

 

 

 全く同時の、俺と士郎の声。

 

 意識を失っていたはずのランサーは跳ね起きて、そのまま朱槍によって雷を切り払った。

 

 慌てて二の矢を紡ぐが、遅きに失する。そのまま一言すら置くこともなく遁走された。

 異様な速さに呆然とするほどの全力の逃走。用意した攻撃は無駄になり、その矛先は頼りなく揺れるばかり。

 

 

 ――余りにも呆気ない、とんだ幕切れであった。

 




余談ですが、呪文が「spell〈綴り〉」となっている場合発音しているのはspellの方です。
〈 〉の中は意味を表していて、こちらが小節や節の基準となります。水明は全てこのタイプ。といいますより魔力炉式の魔術師は少なくともこのタイプの詠唱です。
なお、士郎は魔力炉式の術師でないので色々な形態の唱句を使います。

それはともかくとしまして。
お読み頂きありがとうございました。


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その光は誰がために 前編


――これは、未来を選ぶ物語



 それは俺が十歳の時、まだ親父が生きていた頃に言われたこと。朽葉鏡四朗(剣の師匠)の言葉。

 

 

 ――いいか水明。剣士ならば、いつ死んでも剣によいという覚悟が必要なければ、強くはなれない。だが、それ以上に己の命を尊ぶことがなくては大成なんて出来やしない。……剣士ではなく、義兄(にい)さんを追って魔術師になる君に言うことではないけど、覚えておくと良い――。

 

 

 この土壇場になって見せたランサーの潔い逃げに、俺はそんな教えを思い出していた。

 奴は剣士ではなくても、間違いなく『至った』遣い手。

 一つの武器を極めた戦士ならば、つまりは同じことなのだろうと、そう思う他、なかった。

 

 記憶に沈思する俺と、茫然としたままの遠坂を見遣り、士郎がため息を()いた。

 

 

 

「Enchant――〈概念剣製――〉」

 

 

 言いながら、彼は髪の毛を一本引き抜いた。

 言霊と共に魔力を流し込み、変成する赤い棘。

 掌中に現れたのは緋色の鳥。()雲雀とも呼ばれる、渡り鳥の田雲雀を模した魔導生物であった。

 

 

「――Familiar,with "Hrunting"〈――使役術、付与・"赤原猟犬(フルンディング)"〉」

 

 

 鍵言が告げられる。

 聖遺物や宝具そのものを投影するのは負担が大きいために彼が編み出した、()()()()のみ取り出すという特異な魔術。ネステハイムの現代魔術理論に特有の、『神秘のいいとこ取り』という発想故に生まれたもの。

 

 この赤原猟犬(フルンディング)は二年ほど前、北欧でとある神格を召喚しようとした魔術師達(外道共)を討伐した事件に縁があるもの。その時に見た、実物のフルンティングを元にして開発したものである。

 それは"血の匂いを嗅ぎつけ、ただ振り回すだけで最適な斬撃を打ち込んでくれる"という伝承を、"敵を狙えば最適な攻撃をする"、ひいては"必ず命中する"という概念として抜き出したもの。

 剣に関わること、正確には剣を造ることに関して出鱈目な適正を持つ、士郎の切り札の一つであった。

 取り出した概念の内、"必中"の能力を宿した鳥が放たれた。その使い魔は紅い彗星の如き軌跡を描き、視界の彼方で逃げを打つ蒼い槍兵を追っていく。

 

 俺はその様子を、なにをするということなく眺めていた。

 

 

「……悪い、ぼうっとしてた」

 

「――いいけどさ。いや良くないけどさ。しっかりしてくれよ、水明」

 

 追跡をかけるなんて初歩の初歩だろうに――。そう呆れながらに言われる。その言葉のまともさに身が縮まる思いだった。

 ……どうにも体が怠い。どうやらサーヴァントとの戦いは、いささか無茶だったらしい。

 

 ふと、振り返れば、遠坂がなにか堪えきれないようにぷるぷる震えている。

 

「意っ味分っかんない! なんで魔術師がサーヴァント殺しかけてんのよぉ!」

 

 ああもうっ、あったまきたぁ! と叫ぶ赤い人。甚だ理不尽な怒りだった。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 月は中天を過ぎ、ますます輝きを増している。気がつけば薄雲は晴れ渡り、風が出始めていた。

 

 

「――で、説明してくれるんでしょうね」

 

 やっと落ち着いたのか、据わった目で尋ねてくる。怖い。

 

「あ、ならまず俺に状況説明をしてほしい。なんであんなのに襲われてたのかとか、なんで水明が遠坂と一緒だったのかとか。――サーヴァントがどうとか、色々、さ」

 

 そこではっとした顔をする遠坂。遅いっての。こっち見んな。説明押し付けようとすんな。

 しばし睨み合うが、結局折れたのは自分だった。……まずは士郎から。

 

「……()()()()、あれはサーヴァント。理由は分からないが、聖杯戦争が五十年近く繰り上げで始まってるらしい。んで俺が屋上の基点調べてたら遠坂とかち合った。その後、あの――ランサーに襲われた」

 

「なるほど分からん。……冗談。水明も細かいことは知らないってことでいいんだな?」

 

「そうだ。これ以上は遠坂に訊け」

 

 ――と、そこまで言って、尋ね忘れていたことを思い出す。

 

「言ってからにすぐで悪いが、士郎。ちょっと先に失礼させてくれ」

 

 断ってから彼女の方に向き直る。士郎は肩をすくめて場を譲る意を示した。

 

「遠坂、お前マスターだろう。なんで、自分のサーヴァントで応戦しなかった。おかげで死にかけたぞ」

 

 確信していたが、あえて質問しなかったこと。

 気付いていないとブラフをかますことも考えたが、騙し切るのはあまりに難しい。聖杯戦争についての予備知識があれば御三家の遠坂を知らない振り――遠坂凛がマスターであると考えていないと思わせるのは、相当に無理があった。

 

 それを考えての、取捨選択。

 

 

「それは……」

 

 言葉を詰まらせる。悩ましげに息を漏らして沈黙する。

 どれくらいそうしていたのか。不意に深く息を吸えば、決心したように「こんなのフェアじゃないもの」と呟いた。

 

「……正直に言うわ。――私は、貴方(あなた)たちを信用していなかった」

 

 こちらをまっすぐに見た。堂々とした態度。でも、決して高慢さは感じない。

 

「だから手札を隠したかった。それだけよ。……今となっては悪いとも思ってる」

 

 出すタイミングが掴めなかったっていうのもあるけどねと、少しだけバツが悪そうに言い足した。 

 こちらのことを信用していないと言っていたときは凛としていたのに、最後の部分では不満そうなのは、持ち前の矜持(プライド)のなせる業か。

 

 そっか、と思いの外素直に口を衝いた返事には、隠しきれない笑いが滲んでしまった。相棒を見れば、同じ様に苦笑いし、それを噛み殺している。

 それに「なにようっ、二人とも!」などと噛み付いてくるが、それは余計に笑いを誘うものでしかなく。その無意識の煽りに遂に士郎と二人揃って声を出して笑ってしまい、脱線した空気を戻すのを苦労させられた。

 

 

 

「――で、遠坂。説明して欲しいって言ってたけど、何をだ。長く掛かりそうななら、先に結界の消去を済ませたいんだけど」

 

 若干怒り出しそうな遠坂の様子を察し、笑みを引っ込めて尋ねれば、もの凄く嫌そうにしながら応じられた。――ちと、遊びすぎたか。程々にしよう、と彼女にとってはろくでもない決意をする。

 

「あぁ、それね。いくら代執行(あなた)が時計塔から任された霊地の管理人(セカンドオーナー)に関係がないって言っても、ここまでも関わったんだもの。当たり障りない範囲でいいから色々説明は求めたいの。――でも、そうね。これは後回しでいいわ。先に結界を潰してしまいましょう」

 

 冷静に優先順位を付け、淀みなく要求を整理した遠坂。その理性的な様に称賛の意が出かかる。

 

「だってここは私の管理地(フィールド)よ? そこで好き勝手する三流魔術師なんて優雅にボッコボコにするに決まってるじゃない。ほら、さっさと行くわよ」

 

 ――前言撤回。なかなか直情的なようだ。というよりボコボコって優雅じゃなくないか?

 

 そんな風に考えるこちらのことなどまるで構うことの無いように、肩を怒らせ先を行く遠坂。その感情を率直に表現する在り方に、またも笑いがこみ上げてきた。

 

 

 

 ――――でも、まぁ。これくらいの方が、人として好ましい。

 

 

 

 そんな感慨。一般的な魔術師としては甘くても、自分もそうありたいと思ったからこそ、俺は今結社(ここ)にいる訳で。それに合致する性質の彼女と敵対することはなさそうなのが、嬉しかった。

 

 

 横を向けば、なにか眩しいものを見るかのように士郎が目を眇めていた。

 

 

 

 ――それを見て、我に返った。冷情を取り直す。

 

 

 

 ――目的を、忘れてはならない。この戦争に参加した理由を、忘れてはならない。

 そのための、相棒にして同志である者への忠告。

 

 

 

 ――俺は、彼が遠坂に惹かれていることを知っている。

 

 幼い頃から、魔道の家門の当主として何恥じることのない働きをしてきたこと。

 学校で見せる、常に己を律した姿。

 今見せたような、人間らしく感情の動かす(さま)

 彼女の、その名の通りの凛とした在り方。

 

 

 それは、己も尊敬できるからこそ分かること。

 

 全てをひとまとめにして、憧憬と共に彼女を異性として見ている彼への――友人としての忠告。

 

 どうか、傷つかないで欲しいと、そう祈る。

 だからこそ、冷酷に。傷を開かないうちに、と――。

 

 

 

 

「……あまりのめり込み過ぎるなよ、士郎」

 

 

「――――っ。……分かってる」

 

 

 

 

 ――そう、あまり遠坂凛に情を移すのは上手くない。なぜなら遠坂家は宝石翁の系統――第二魔法の系譜に連なるものであり、そこへの到達を願う者だからだ。

 

 

 対して結社は、ある意味では第二魔法の否定すら掲げている。

 

 

 

 

 

 ――――『救われない誰かを、確かに救うために』――――――。

 

 

 

 

 

 それは盟主が掲げた理念。

 

 それは彼のもとに集う魔術師が願ったこと、惹かれた思想。

 

 それは結社の追う命題であり、光だ。

 

 

 

 

 

 ――――アカシックレコード。

 

 

 

 

 

 それは過去、現在、未来、そして()()()()までも含めた、全ての事象を記録したもの。

 

 魔術と科学。学問の如何は問わず、この世全ての理を解き明かした先に辿り着くとされる大いなる叡智にして、根源の一端。始原と終焉の両端を繋ぐ、知の終着点。

 

 

 

 そこにもしも、『救われなかった』者達の幸せな未来が記録されているのならば、救われない誰かを助けることは可能だという理念。

 

 

 

 誰しも(すべてのひと)の幸せを目指した、盟主の夢だ。

 

 

 

 世の人は、それをあまりに子供じみてると馬鹿にするかもしれない。

 現実を見ていないと見下すかもしれない。

 出来ないことをしようとするなと諌めるかもしれない。

 

 

 

 ――それでも、そこに希望があると知っているから。そこに自分たちが戦い続ける理由がある。

 

 

 

 ――――世界の可能性の収束。あらゆる人間の幸福を実現した世界の継続。

 

 ――――アカシックレコードによる、あまねく人々の幸福の観測。

 

 ――――それを一つの幹に編纂し、『何者にも終わらせない世界』を構築すること。

 

 

 そして

 

 

 ()()()()による、()()()()()()()()を成すこと――――。

 

 

 

 それが、()、結社が為そうとしている、命題のひとつの解である。

 

 

 

 

 ――その始まり。根源の知識(アカシックレコード)への到達。

 

 それこそが、俺たちが聖杯戦争に参加した理由――――。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 青き神学者の石(ラピス・エクシリス)

 大本は聖血、またはラピス・ラピスィス・エクシリス・コエリスと呼ばれるものがある。

 

 それは聖杯に満ちるという、死者を蘇らせる奇跡を宿した青い液体を指す言葉だ。

 

 化金石(ラピス)とは元来、錬金術の秘奥を示す語だが、それが転じて、隠秘学においては入力と出力が釣り合わないもの――少ない作業や触媒でそれ以上に多大な結果を生み出すものもまた、ラピスと呼んでいる。

 

 それはともあれ。

 

 あいにくとこの冬木の聖杯――聖堂教会の言うところの第七百二十六号聖杯は、()の原罪を持ち帰った救世主の血を受けた『本物』でないということは既に証明されている訳だが、しかしその器は根源に届きうることは確からしい。

 ならば、例え偽物であろうとも、自分達には可能性の一つとしてこの聖杯に賭ける望みがある。

 

 

 ――なにより。

 

 

 十年前の新都の大火災。時期が符合していることを鑑みれば、聖杯戦争が関係していないとは考えるのは、あまりにも無体だ。もっと言えば、盟主殿はあの大火災がまっとうな理由――激戦の結果や宝具の余波ではなく、聖杯戦争と言う仕組みそのものが引き起こした可能性もあると睨んでいる。

 

 結社の盟主、ネステハイム。ネステハイム・ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ。

 魔術王とまで謳われた、かの御仁の言葉だ。決して、蔑ろにすることは出来ない。

 

 

 なにより。

 

 否。

 

 ならば、真実を調べ、再現を防ぐために。

 

 

 ――――自分たちが戦わない理由など、なかった。

 

 

 



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その光は誰がために 後編

 

 とうとう、士郎はそれ以上何も言わないまま遠坂を追った。一人、取り残される。

 

 さほど時を置かず、自分も後を追おうとして――立ち止まった。

 

 

「そこにいるんだろ」

 

 

 振り向いて言い放てば、魔力と影の蠢く気配。それが指向性をもって形をなした。

 黒の中から滲み出るように人間――間桐桜が現れる。

 彼女が使っていたのは位相断層と転換の魔術。

 平たく言えば、世界の裏側に紛れ込む魔術だ。

 

「ばれてましたか」

 

「そりゃ、あれだけ分かり易くされればな。――事前に隔離の結界を張ってくれてたのは桜だろ? 俺が広げた時、重なった違和感がなければ気付けなかったよ」

 

 俺が異界創造の魔術( Phantom road )を使った時に、不自然に動いた影。それがなくては分からなかっただろうなと、強い実感を込めて言う。

 

「クドラックの一件から、空間加工の技量がまた上がったんじゃないか」

 

「……そうですね。技術的な意味で言えば、あの人の魔術はすごく参考になりますし、相性もいいです」

 

 気不味そう、というよりかは、愉快ではないといったような雰囲気を目の前の少女は醸す。

 

 

 ――クドラック・ザ・ゴーストハイド。

 空間自在法(クロスディメント)とまで称された、空間干渉系の魔術を得意とする魔術師――否、魔人。

 自己の存在する位相をずらし、世界の裏側から高みの見物を決め込みながら『こちら側』に魔術を通すと言う、遥か高みの神業を平然とやってのける怪物。

 

 ――結社の理想を求めた果てに、全人類の死を救済だと信じるに至った、狂気の求道者。

 

 その性質が故に盟主が手に掛けること出来ず、半世紀以上に渡って死と絶望を撒き散らし、その度に慟哭し続けた、悲しき男。

 

 魔に堕ちし十人(グリード・オブ・テン)の一角である彼を退けたのが一年前。

 奴が街を切り裂き、千夜会が隠蔽しきれないほどの虐殺を為そうとしたときだった。

 

 士郎の特異性が完全に判明し、その特殊さと『夢を嗤う男』が味方になるという、いくつもの偶然があったからこそ成し得た奴の滅び。

 あの事件には桜もそれなり以上に関わっていて、しかし最後まで外側にいた彼女は冷静に奴の魔術を見続けていた。――そこで目にした魔術の数々は、彼女の属性である架空元素・虚とは非常に親和性が高いもので、確かな今の糧となっている。

 

 クドラックの専門であった、"空間"はまさしく"ありうるが、物質化しないもの"であった。

 

「――とまぁ、それは良いとしてだ。桜、状況はどこまで把握している?」

 

 確認の問い。

 

「えっと、水明さんが遠坂先輩と校庭に走っている辺りからは見ています。先輩――士郎先輩の指示で屋上から見ていたのですけど、応戦し始めたぐらいの時にこっそり降りてきました。その時ぐらいに空間加工の魔術は私が張り直しておきました。……前の魔術が凄まじい轟音を出したので」

 

 あれでは周囲にバレてしまいますよと怒るが、あの状況でそんなことを考慮できるはずもなく。自身への正当化と桜の言い分の正しさの間で、ただ渋い顔をするしかない。

 

「あと、先輩とは開放する形で念話を繋ぎっぱなしだったので、その辺りの情報もですね。……聴覚強化もしていたので、先輩とあの青いサーヴァントとのやり取りもだいたい耳に入っています」

 

 ある程度はこちらの事情を汲んでくれたのか、耳に痛い諫言は早々に切り上げて流々と説明をされた。

 成る程。

 

「なら、話は早いか。……悪いが、今夜は衛宮の家に寄るのは避けてくれ。念話は繋げたままでいいけど、一応こっちに影響が出ないようにしてくれると助かる。……本当に悪いな」

 

「……ということは、先輩の家に呼ぶんですね?」

 

 不安げに揺れる瞳。誰を、を欠落させた言葉。――胸が痛む。

 

「あぁ、そうだ。……ごめん、としか言えない」

 

 ――これは桜の想いを踏みにじりかねない行為だ。

 今はまだ、確かに士郎の好意は彼女()に向いている。だけど、これ以上踏み込ませたら彼女(遠坂)が接近するかもしれない。

 ……少なくとも、士郎にはその気配がある。

 

 それらが分かっていても、この手を選ぶしかなかった。今は遠坂の信頼を勝ち取るのが最優先で、桜の心情は後回しにすることしか出来ない。

 

 

 

 ――彼女がどれだけの思いを向けているかなんて、よく分かっているというのに――――。

 

 

 ……大切な妹分が悲しむのは、嫌で仕方なかった。

 嫌悪と、後悔の念が満ちる。

 

 

 

 ――しかし。

 

 

 

 

「――――大丈夫です。姉さんに()()()、負けませんから」

 

 

 

 

 予想外に、力強い言葉。

 内容に反して僅かに響きが揺れてはいたけれど。そう宣う顔は凛々しく、あまりにも眩しい。

 

 ……俺のせいだというのに、安心させられてしまう。

 

「――そっか。なら、頑張れ」

 

 手を伸ばして彼女のくしゃくしゃに髪をかき混ぜる。くすぐったそうだが、抵抗はされなかった。

 指の動くままに、髪が跳ねて遊んだところに白い首筋が見えて――固まる。

 

 

 …………。

 

 ……………………。

 

 ……。

 

 ……………。

 

 

 再起動。たっぷり九秒経過。

 

「……なぁ、桜さんや。つかぬ事を訊きますがね。その首筋のやつ――なんだよ?」

 

 どう見てもキスマークですよねそれ?

 目の前の少女ははぽかんとしている。

 

「お前らは、俺が、真面目に働いてる時に――何をしてたのかな?」

 

 知らず知らずのうちに、言葉を区切って威圧していた。

 ようやく朱色が顔を昇ってくる。遅ぇよ。

 

「なるほどなるほど。ついさっきまでしっぽりしけこんでたから自信があると? ほー、元気でいいんじゃない? ―――凄い胆力だなぁ」

 

 主に俺に対して、だが。……桜は成長したなぁって喜んだ気持ちを返せ!

 

 当の彼女はあうあうと声にならない声を上げている。知るか。

 

「せ」

 

「セ?」

 

 はて、何を口走るつもりなのかな?

 

「せ、先輩に訊いてくだひゃい!」

 

 言い出して脱兎。ふざけんないつものとろさはどこ行った。

 

 内心を流れる恨み言は止めどなくとも、体はついていけず。呆れと疲れからの苦笑が漏れる。

 

 

 ――ま、仲が進んだっぽいのに免じて、良しとしますかね。

 

 

 

 ため息ともつかない忍び笑いを口に留めて、ゆっくりと歩き始めた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「頭が痛いわ……。私と同い年よね、貴方たち」

 

 ほんと嫌になっちゃうと、遠坂が悔しげに言い捨てる。――十分だと思うんだがな。結界の消去なんて、専門じゃなければするだけ無駄なものなんだし。

 魔術師の工房を潰すときぐらいしか、普通は役に立たないだろう。

 

 屋上。

 最後の呪刻であり、起点でもある屋上の七角の紋章を消そうと、俺は膝をついて魔力光の灯る両手を向けていた。既に七つあった基点のうち、四つまでをあのサーヴァントに遭遇するまでに士郎たちと俺とで解除してあり、残りの三つのうちの二つもつい先程終えている。

 

「水明と同じ括りにされても困るぞ、遠坂。解析まではともかく、このレベルの結界を消すのは俺にはだいぶ辛いんだからな」

 

「……その解析できるってのがおかしいのよ。その呪刻は私でも材質も術式も分からないものなの。それをあっさり看破するなんて、やっぱりふざけてるわ」

 

 妙な言い合いをする二人を横目に、魔力を消失させつつ術の逆式を掛けて結界を消去する。

 

 ――――終了、っと。これなら再利用もされないだろう。

 とうとう士郎でさえこの印に宿った過去を見通せなかったようで、仕掛けたのが何者かは分からなかった。だが、基点に向いた場所は全てかき乱しておいたのだし、もう二度と学校に結界が張られることはないだろう。自身の技量的には本当にぎりぎりで、想定よりも一枚落ちる術式だったから助かった。

 

「はいはい。遠坂も士郎も無駄な言い合いはやめたやめた」

 

「――もう終わったの?」

 

 遠坂は目を丸くする。実態は無理やり無効化しただけで、自分も詳細は理解出来なかったのでけれど。まぁ、それは言わなくてもいいだろう。

 

「おうよ。遂に誰がやったのかは分からず終いだったが、とりあえず張り直されることは無いと思うぜ。まぁ、相手がキャスターだったらどうにもならんが」

 

 最後の台詞にどうにも微妙な顔をする二人。――いや、案外とここまで分かりやすいのはフェイクかもしれないと思うのだが、それは俺だけか。

 

「そう、それならもう良いわね。――ちょうどここなんて人が来る心配もないんだし、終わらせてしまいましょう」

 

 出し抜けに居住まいを正して、問う体勢を整える遠坂。それに待ったをかける。

 

「さっき襲われたばかりのここで?」

 

「――――っ。えぇ、そうね。……じゃあ、どこで話すって言うのよ」

 

 笑みを浮かべて指し示す――士郎を。

 彼のぽかんとした表情。いやだってまともにゆっくりできる場所なんて拠点の衛宮邸(あそこ)ぐらいしかないし。

 

「ちょっと遅いけど夕飯も食べながら話そうか。お腹も空いただろうし」

 

 食事の誘い。開襟の鉄板ネタだと思うのは寂しい想像力だろうか。

 

「……それ、もしかしなくても俺の仕事?」

 

 おずおずと尋ねてくる赤毛。

 

「当然。よろしくな。――こいつの料理は美味いんだ」

 

 最後の言葉は遠坂に向けて。当の彼女は呆気にとられた顔をする。

 

「呆れた……。呑気なものね」

 

 苦々しい表情でそう言う。否定は出来ないなぁ。

 

 

 不意に遠坂が眉を寄せた。そういえば、と小さく手でも叩きそうな風情。

 

「ずっと訊かなかったけど。衛宮くんも結社の一員でいいのね?」

 

「――今更だな。その通りだよ」

 

 相棒の方を見る。意図を察して頷いた。

 

「では、改めて。遅ればせながら遠坂のご当主にご挨拶を」

 

 彼が慣れない様子で、格式張った礼をする。そのぎこちなさが少し可笑しい。

 

 

「――(わたくし)は衛宮家が六代目、今代より結社が末席を汚す哲学者(フィロソフィアス)級の魔術師、衛宮士郎と申します。以後、()()()()()()お見知りおきを」

 

 

 それに彼女が応じた。

 

「――そう。なら、私も礼に則る方が良いわね」

 

 堂に入った姿で礼を取る。

 

「私は遠坂家六代目当主、遠坂凛よ。八鍵との協約に従って、今夜までは過剰な干渉を控えるわ。――これでいいかしら」

 

 含みを持つ、俺に向けられた響きのある言葉。

 

 やはり、彼女は抜け目ない。魔術師の礼の交換で、行動を縛ろうとしていたのが察せられている。それを信用せざるを得ない形で返された。

 

「頼んだ。――この状況は不可抗力であって、こちらに争う気はないんだ。不可侵を約束してくれると有り難い」

 

「……いいわよ、別に。マスターじゃないなら、()は殺し合う理由も無いわ」

 

 今、を強調する。想像通り、警戒されている。前に言われた通り、これから()()可能性を考慮しているのだろう。むしろここまで来れば、現在のマスターの数を把握していると考えたほうがいいか。いや、さほど難しいことではないが。前回の言峰(教会)と遠坂の協定を思い出し、今もいくらかのパイプがあると想定する。

 

 ――と、そこまで考えたところで士郎からの念話の小径(パス)が繋がった。何故、口で言わないのか。はっと振り返れば、緊張の色が出る面差し。訝しげな顔が浮きそうなのを抑えて応じる。

 

 

(……追跡が止まった。ランサーはしばらく廃墟で休んだ後、新都の冬木教会に入っていった)

 

 

 ――それは。

 

 

 危うく、声が喉元まで出かかった。どうにか平静を装って飲み下す。

 

(……中は探ったか)

 

(無理だ)

 

(理由は?)

 

(結界もあるし、なによりあそこの大源(マナ)は濃すぎる。使い魔が動かしにくくなるのに、気付かれないように侵入させるのは厳しい。ましてや逃げ帰った後だぞ、警戒してるに決まってる)

 

(……そうだったな。――なんだって、中立地帯にサーヴァントなんているんだよ……)

 

 現実に吐き捨てそうになる。酷く焦燥感に襲われた。

 

 しかも、たった今思い出していた遠坂と教会の前回の結託を考えれば――暗い予想が脳裡を掠める。とんだ茶番の可能性。

 

 あのサーヴァントによる襲撃が遠坂による、罠であるということ。

 

 当然士郎も、遠坂と言峰の四次での約定は知っている。今の神父である、言峰綺礼が目の前の少女の後見人であることも。

 だからこその念話の選択。強張った表情。

 

 考え過ぎかとも思う。だが、彼女がサーヴァントを出し渋ったのもよほど筋が通る。あの慌てようと零れた愚痴は本心に見えたが、どうだか。

 朝も言った通り、遠坂が結界を張った見込みは低い。夜の今でも、それは変わらない。実際に話をして、その考えへの確信はますます深まっていた。

 

 そこへ過った、一抹の不安。

 

 

 ――鬼が出るか蛇が出るか。賽はもう投げられている。

 

 

 長く無言でいれば不審を抱かれる。ならば、止まることなど出来なかった。

 

「じゃあ、士郎の家に行こうか」

 

 予定通りの言葉。しかし予想とはかけ離れた心境。努めて、明るさを心がける。

 

「それなら楽しみにしてるわ、衛宮くん」

 

 そう朗らかに言って、歩き出した彼女。

 そして唾を飲み込み、横に並んだ彼。

 その顔には僅かばかりの硬さがあるようにも思えたが、慣れたものがよく見なければ気付けない程度。それに倣って、どうにか動悸を沈めて付いていく。

 

 

 酷く冷たい、嫌な汗が一垂れ、背中を流れていった――――。

 

 




遠坂姉妹との関係がなかなかにややこしいです。それに水明と士郎のズレも表面化してきました。

……お読み頂きありがとうございます。


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答え合わせと心理 前編

 歩きながら、遠坂が何気なく訊いてくる。

 

「そういえば、八鍵くんはなんで彼の料理の味なんて知っているのかしら」

 

「――そりゃ、平日は大抵泊まり込んでるからな。実家は浅谷にあるんだよ」

 

 

 衛宮邸への帰路。どうにか平常心を取り戻した俺は、衛宮を見遣る彼女となんとかいつものような受け答えを成立させていた。……嘘。正直に言うと、ちょっと意識しすぎて素直に過ぎる言動をしている自覚がある。修正は難しいが。

 

「へぇ、浅谷に。確かそんな遠くなかったよね」

 

「そうだな、一応在来線の電車で二時間ぐらいだ。学校に通うのには不便だし、弟子の士郎の魔術の教練もあるから、効率を考えて基本世話になってる」

 

 泊まってる、ということそのものには疑問がない様子。目の前で連携も見せたし二人組(ツーマンセル)ってことは分かってるだろうから、士郎との関係は隠すことはないだろう。

 

「弟子に食事の面倒を見られるって、それでいいの? 師匠の面目が立たないんじゃない?」

 

 少し可笑しそうにしながら、見上げるようにして揶揄を投げ掛けてきた。そんな少女に負けじとたっぷりの皮肉の色を乗せて言葉を返す。

 

「それを言うなら弟子に修行の関係ない雑事全てふっかけるのも、世間的にはよく言われる師匠像だと思うがな」

 

 もちろん俺はそんなことしないけど。そう先んじて素早く断れば、彼女は先回りしてからかいの種を取り上げられたのに不満があるようで。言い足りないらしく残念そうな顔。……こいつは悪魔かな?

 

「あそこは八鍵(うち)が一帯の地主でな。数少ない魔術協会の抑えていない日本の霊地なんだ。普段は家族ぐるみで付き合いのあったお隣さんに管理を任せてる。……あぁもちろん責任者は俺な。八鍵(やかぎ)にはもう、自分しかいないから」

 

「……そう。親御さんは他界されているのね」

 

 寂しげに呟く。一瞬、その姿を訝しむが、次には彼女の両親のことを思い出した。――普段はなんでもないように気丈に振る舞うこの少女も、やはり親の死、というものはどこか心に陰を落とすのだろう。あまりにもいつもは堂々としているから、すぐさま事実と今の様子を繋げられなかった。

 これは、反省すべきもの。

 

「ああ。母は生まれてすぐに、父は四年前にな。――スペインで起きた終末災害の鎮圧の時、俺を庇って、それで――っ」

 

 そうした心に引きずられて、言うつもりのなかったことまで迂闊にも漏らしてしまう。

 言いかけて、「なんでもない」と。そう濁したが、彼女は大きな目を見開いて立ち止まった。

 それに合わせて自分も歩みを緩めて体ごと振り返れば、三人での並びが解けて士郎が先行する形になる。彼は少しだけ振り向く素振りを見せたかと思えば、遠坂の尋常でない姿を認め、俺に視線を投げ掛けるとそのまま前を向いて歩いていった。

 そんな少年達の様子を気にする余裕もなく、少女は途切れ途切れに声を吐き出す。

 

「違っ! そんな、つもりじゃ……なかったの。……ごめんなさい」

 

 動揺もあらわに、声もその身も震わせて零した言葉。最後には平静を取り戻して謝罪された、そうした切実さが心に痛くて。だから、殊更になんでもないように言葉を紡ぐ。

 

「いや、もう過ぎたことだ。大丈夫、問題ない。――気を遣わせて悪いな」

 

「……そんなこと、ないけれど」

 

 そんな言葉とはかけ離れた態度で、俯きぽしょぽしょと小声を返す遠坂。

 

 

 

 ――その様子が痛ましくて、嫌だった。

 

 

 

 どう言葉を掛けようかと、思い悩んでいるうちには勝手に口が動き出す。

 

「――遠坂。お前の親父さんは、どんな人だったんだ?」

 

 無難なのか、それとも悪手なのか。無意識に飛び出たものは親に関する質問で、自分から尋ねたというのに少し驚いてしまい、恐る恐る件の彼女を見る。

 その彼女はその形の良い眉を下げて、困ったような声音で切り返した。

 

「……えっと。私の父が死んでいるのは知っているのよね?」

 

「……こんな事を訊くのは難だが、ご母堂もお亡くなりになっているはずだろ?」

 

 そうね。と目を伏せながら話す。

 

「お父様が聖杯戦争で死んで、それから母は心を病んだわ。――それからいくらもしないうちに逝ってしまったの」

 

「――そうだったのか。あ、いや、その……。……悪い」

 そこまでは知らなくて。バツの悪さと後味の悪さ、辛いことを話させてしまった罪悪感に、言葉の歯切れを悪くさせられる。

 

「本当に気にしないで。私も同じ様なことをしてしまったし、それに――もう、乗り越えたことだから」

 

 そう言い切った遠坂は、その名前の通りに凛としていた。

 

「そうか。……強いな、遠坂は」

 

 渡した声は己の思っていたよりも真摯で、だからこそ彼女は強張りと共に目を丸くした。

 

「どうして、そんなことを。……あなたも同じだったんでしょう?」

 

 尋ねられた内容は意外。しかし、それがために彼女の琴線が分かる。

 

「いや、さっきも言ったけど頼れるお隣さん――魔術のことを話せる人達がいたし、何度と言わず助けられたんだ。その人達は神秘に関わりはあるけど魔術師じゃないから、神秘を教わることはなかったけど、でもそれだって魔術を習い始めたぐらいには結社に入ってたから、そこの人が面倒をみてくれたし……」

 

 郷愁は()んで。前を見据えた。

 

「……だから、ずっと一人でも頑張り続けた遠坂には叶わないし、素直に凄いと思えるんだ」

 

 でも、分かっていようが、結局偽ることなんて出来なくて。

 

「……そんなこと、ないけれど」

 

 返ってきたのは、先程の繰り返し。

 

 立ち尽くして、胸の詰まる静けさにむせそうになる。

 

 

 ――それを破ったのは、やはり、遠坂だった。

 

 

「……お父様は、なんというか謹厳な正道の魔術師だった、としか覚えていないわ。――たぶん悪いところもあった思うけど、小さい頃に死別したから知ってる限りではそれはないの」

 

 素直な高評価に目を丸くする。というより、父親の呼び方……。

 そんな風に内心で些細なことを気にする俺に構わず、彼女は続けた。

 

「それと割と家庭人な印象もあったなぁ。魔術師なのにお母様と円満だったし、基本的に弟子というより子供って感じで見てくれた人だったし。……確か、私の前で明確に魔術師として在ったのは魔術の修練と――聖杯戦争に赴く直前に見送りに行って、その時に言い残した時、ぐらいだった」

 

 述懐は遠く。その瞳は彼方を見遣っていた。

 

 ――――。

 

「良い、父親だったんだな」

 

 そう言うしかない、というのが正直な心証。それに気を良くしたのか、薄い笑みを浮かべた彼女は上機嫌で口を開く。

 

「そうね。……少なくとも私にとっては、良い父親だった」

 

 ――そう、思いきや。告げられた響きは含みもあって。怪訝そうにすれば「なんでもない」と首を振られる。

 そんな仕草の余韻も残さず、疑問もそこそこに、そのまま歩き出した。慌てて付いていく。

 

「八鍵くんはどうだったの? ……父親のこと」

 

「俺? ……ノーコメントで。遠坂ほどじゃないが、美化されてる自覚はあるからな」

 

 親について話すならやっぱりあの誓いがちらつくから、そう簡単には話せない。

 そう考えてぼかせば、不平と疑念がありありと浮かんだ表情を向けられた。その様子の変わらなそうな気配にため息を()いて、ひとつ諦める。

 

 

 

「――ま、とんでもなく厳しい師匠で、これ以上なく尊敬できる父親だった、とは言っておこう」

 

 

 

 その(ごん)に、「なんだ、八鍵くんも父親が好きなんじゃない」と返される。

 む、そう片付けられるのは不満なような。反抗から悪心(あくしん)が湧き上がる。

 

「ごめん。一ついいか?」

 

 その問いにきょとんとした様子で頷く遠坂。

 

「そういうお前のファザコン振りには敵わねぇよ?」

 

「――――っはぁ!? 言うこと欠いてそれ!? それなの!!?」

 

 お父様呼びとかないわーと、そう茶化せば、憤懣やるかたないという風情で声を荒げる。

 

 

 

 

 ――あんまり長い間、内面の深い所に触れかねないところにいると、こちらの心が持たない。

 

 

 『今はまだ』、疑いを持たななくていけないのに――いけないから。

 

 

 

 

 己の撒いた種を得て怒れる彼女をどうどうと諌めれば、「覚えておきなさい」という台詞と共に睨まれた。……とても怖いです。

 

 取り直して。彼女はこともなげに質問を続ける。

 

「衛宮くんの家に泊まることが多いって言うなら、一年の桜と会ってたりもするの?」

 

 ――出た。気を引き締める。伏せ札は隠しきってこそ。

 

「……そうだな。今更来てるのは知ってる、ていう話でもないわな。気が引けることも多いけど、基本は朝晩のご飯の御相伴に預ってるから――よく、知ってる」

 

 言いつつ、「一応桜は藤村先生の家に行ってることになってるんだがな?」と牽制する。矛先が逸れて欲しいと祈りながら。

 彼女はうぐっ、といくらかたじろいで立ち止まるが、しかし。

 

「そんなの建前だけじゃない」

 

 真顔での物言い。言ってすぐにゆっくりと歩き出す。その様は本当になんでもなさそう。

 ……あれ、意外と広まってる? いや、確かに普段の桜の士郎への言動や献身ぶりを見れば辿り着くのは難しいことでは無いと思うけど、それはそれで(まず)いような……。

 僅かに困った素振りを見せれば「冗談よ、冗談。やたらには広まってないわ。――弓道部の女子、を除けばだけどね」とフォローされる。疑う余地のない情報をどうもありがとう。

 

「ってか、なんで遠坂が桜を気にするんだ?」

 

 ささやかな反撃を兼ねて尋ねる。俺達は桜本人から聞いているが、彼女達が姉妹なのはほぼ知られていない。本来は自然だが、周囲から見ると不自然であるはずのこと。そこを突いた質問。

 

「え? ――だって綾子が目をかけてるし、……なんか全く報れなそうな恋する乙女してるし、気になるじゃない」

 

 予想していたのか、いなかったのか。答えを用意していたかは微妙な間を挟んで、納得の行く答えを返される。……いささか女の子らしくはありすぎるが。

 遠坂は先の台詞で桜のことを形容する時に小声になって身を寄せてきたが、それはやむを得ないこと。気にしたように先を歩く赤毛がこちらを見てくるが、それをシッシと手を振って追い払う。

 ……この状況では仕方ないが、デリカシーな、デリカシー。桜のためにもそこでステイだ、士郎。お前が聞いてしまうのはいくらなんでも可哀想だぞ。

 場違いにそんな気の抜けた考えを巡らしつつ、「成る程な」とだけ返す。――報われなさそうなのはお前さんのおかげでもあるし、しかも言うほど目がない訳でなさそうだけどな、などといった思いをつらつら頭に浮かべながら。

 そうやって歩いていれば、突然「今日は桜は来ないのよね?」と訊ねられた。無論、来させていないし、そういうつもりもない。そう答えれば、「当然ね」と小さく息を吐き、肩の強張りを緩ませた。

 軽く俯いていた彼女が、思い切って勢いよく顔を上げる。

 

 

「――話をだいぶ戻すけど、貴方たちは本当に聖杯戦争に関係していないのね?」

 

 

 

 念を押して確かめられる。――どうにか桜の話題からは脱したようだ。……のか? この先次第。

 

「関係するも何も、今起こってることすら知らなかったっての」

 

 こちらも念押しして偽る。――できるだけ無造作に。そして誠実そうに。

 遠坂はこちらをじっと見て、ちらと士郎を一瞥すると、あっさりと矛を収めた。

 

「あっそ。――まずは信じるわ」

 

 素っ気ない声。その音に滲む色は、一体何か――。察せないまま、彼女は足を早めて先を行く。

 見れば、もう家の門の前まで来ていた。士郎が門の前で鍵を揺らしている。早く来いということだろう。

 自分も先を急ぎ、駆け出した。門の先に入らず待っている二人を追う。

 

「遅い」

 

「悪い」

 

「ん」

 

 輪に加わって、テンポの良いやり取り。隣の少女はそれを聞き、眩しそうに目を細めた。

 

 

「――ようこそ、我が家へ。歓迎するよ、遠坂」

 

 

 先に境界をまたぎ、やや芝居がかって受け入れの意を示す士郎。今度は地に足がついていて、なかなかに様になっていた。だからか、遠坂は言葉を失ったように棒立ちになっている。

 それに耐えられなくなったのか、彼がいくらか恥ずかしそうに自分の後頭部を触れれば、その空気も霧散する。向かい側の俺ら二人で笑いを漏らして――門を超えた。

 遠坂がぴく、と柳眉を上げる。違和感、というよりは驚いたような表情。

 ――結界の性質について、だろうか。

 そもそも感じ取れるだけで感度は高いことを表すし、これに()()という辺り、ひとまず感性も俺と遠くないんだろうと推し量れた。

 

 若干の、安堵。

 

 特に何も声を掛けずに、遠坂を追い抜いて玄関へと歩く。錠は家主が既に開けていたらしい。

 ――と思えば、ちょっと思案気な顔をして立ち尽くしている。

 

「どうした、士郎」

 

「……いや、鍵閉め忘れたかなって」

 

「閉まってなかったのか」

 

 確かに鍵をかけていたように記憶しているが。

 おかしいよな、と互いに首をかしげる。

 用心し、結界を操作して家に探査をかけるが、特に異常はない。この結界は悪意を持つものの探知能力が非常に高いために、それをくぐり抜けられる存在がいるとも思えなかった。――アサシンを除けば、であるが。

 しかしマスターであることが漏れてない魔術師の家に潜んで、何になるだろうか。……さほど時間を掛けず、奇襲の可能性を却下する。

 

「二人ともどうしたの?」

 

 俺らの間に顔を出した遠坂が、不思議そうに見上げながら問うてきた。それに「なんでもない」と口々に誤魔化しながら玄関へと這入る。彼女は少し不満そうな色を見せたが、行儀よく「お邪魔します」と言い、靴を揃えて家に上がった。

 

 

 

 士郎は「案内をしといて」とだけ言い残して、遠坂を待たずに台所へ行った。

 

 思い返せば、結構な時間この少女と話している。少なくとも、今までの学校生活での会話の総計に届きうるだろうぐらいに。

 桜を裏切るような気持ちがしなくもないが、これは士郎に悪いような気がした。――彼の方が、色々話したいだろうに。

 

「立派なお家ね」

 

 廊下を歩きながら、太い梁や柱を見た感想を述べる。

 おうち、という妙に幼い言い方に、口角が上がりかけたが、(しか)りと抑えて口を開く。

 

「そうだな。離れや道場、土蔵まである大きい屋敷だよ。――あぁ、土蔵は間違っても入らないように。死んでも知らんからな。むしろ殺す」

 

「――工房ね。分かったわ。……別に良いけど、殺すなんてずいぶん物騒な言葉ね」

 

 そりゃ当然。いくらなんでも他所(よそ)の魔術師の秘跡を暴こうとするなら、命を賭けてもらわねば。

 そんな風に思う俺に、彼女はあなたに勝つにはサーヴァントが必要そうね、と零す。……その力を比べるような発言は、いささか迂闊だと思うが。

 いやこれも演技でなければ、だけど。

 

 

 

 ――――。

 

 ――――――。

 

 …………。

 

 ………………。

 

 ――いや。

 

 

 ――――もう、止そう。

 

 

 

 いくらなんでも、しつこい、かな。そう考えて、肩の力を抜く。

 

 すると遠坂の怪訝そうな表情。

 目敏い、いや、気が利くというべきなのだろう。

 

 それは、彼女の恐れるべき性質ではなく、褒められるべき性質なのだ。

 心濃やかで、察しがよく、気が回る。

 ただ、それだけ。それだけのこと。

 

 第一、彼女ほどまともに振る舞う魔術師を疑っていたら、気が変になってしまう。あんまり他人を疑うのは気持ちのいいものじゃないいし、なにより心に毒だ。

 

 力みを取れば、視界も広まる。息もしやすくなった。

 

 

「いや、なんでもないよ」

 

 そう呟くと、目の前の少女はそればっかりね、と頬をふくらませる。

 

 

 あぁ、全くだ――――。

 

 




 やっと解決です。家に帰ってきたがための心の緩みという助けもありましたが、水明くんがやっと遠坂を信用しました。捻くれすぎな彼。

 ところで序章から名前の出てきた地名である「浅谷」。ここは全くの架空のものであり、捏造の都市です。舞台になる場所ではないので、余り語る機会もないでしょうからちょっとこぼれ話。
 まず、八鍵の一族が地主であるという設定(未刊行九巻相当のWeb連載分で出てきます)を踏襲しました。しかし彼らが元々冬木に住んでいることにする訳にもいかないですし、住んでいる場所を隣町の禅城家のある場所にするのもおかしい。また、あんまりに遠いのも難だなとなりまして在来線で二時間という塩梅になりました。距離が妥当かは正直自分では判断がつかないです……。

 語源はなんとなく頭に降ってきたものなのですが、己の思考回路を推定すると恐らくは冬木市にある深山町からなのかと。深い山⇔浅い谷という発想だったのだと思います。自分のことですが。

 ともあれ、お読み頂きありがとうございました。


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答え合わせと心理 中編

『ほほをつたう』を踏まえての回。
今更ですが、この物語は3ルートの諸要素の複合を意識していたり。

……それでは、よろしくお願いします。


 案内は終わって。俺は居間で座り、士郎が調理する姿を眺めていた。

 

「本当に手際がいいわね」

 

 遠坂は台所でカウンターの対岸でふらふら。「良い匂い」と、そう感心しながら士郎の料理をする手許を背中越しに見ようとしている。

 ……ずいぶんとまぁ、落ち着いているというか恐れを知らないというか。

 

「馴染みすぎだろ」

 

 突っ込みが思わず飛び出た。

 

「だって面白いんだもの。私も料理はするけど、こうやって(はた)から見ることなんて無かったから」

 

 唇を尖らせながら応じられる。

 

「――遠坂も料理をするのか」

 

 士郎が手を休めることなく口を開いた。

 

「えぇ、一人暮らしだし。得意なのは中華ね」

 

「中華か。――俺は苦手だな」

 

「……それは味が? 料理として?」

 

「味から、かな。だから、作るのも苦手だ。……なんか、みんな味が一緒だろうって思えちゃうから練習する気にもなれなくて」

 

 遠坂がものすごく不満そうに息を漏らした。

 

「なにそれ。ちょっとそれは偏見に過ぎない?」

 

「いやだってさ、辛いばっかりじゃん。やたらと赤黒いし」

 

「何言って――ってああ、分かった。あなた、泰山の中華食べてトラウマになったクチね」

 

 あそこの店主は頭おかしいもんね――。そう嘆息と共に額に手をつく。

 嫌な話だが理解できた。俺も一度だけその店に行ったことがあるが、確かにあの激辛は凄まじかった。大方、士郎は小さい頃に食べて嫌になったのだろう。

 

 

「――ん、分からん」

 

 

 ――と。これは地雷か。

 険の混じった響きに、遠坂が驚き混じりに怯んだ。まじまじと彼の背中を凝視している。

 

「遠坂。悪いが戻ってくれ」

 

「――? うん……」

 

 不可解そうな面持ちながら、素直に言うことを聞いて椅子に座った。

 

「士郎」

 

 短く呼びかける。

 

「分かってる。いいように説明してくれ」

 

 頷く。真剣な目を向ければ、彼女はそれに応じて背筋を正した。

 

 

 

「遠坂。士郎はな、十年前のあの火災の遺児だ。だからあいつにとって、それよりも前の過去は思い出したくないことなんだ。なら――分かってくれるな」

 

 

 

 多くを省いた言葉。

 しかし、息を呑む。

 思わずと行った様子で振り返り、なにやら口を開くが、音にはならず。肩を落として黙り込んだ。

 

 しばしの沈黙。くつくつと何かを煮込む音と、同じく何かを刻む包丁の音。

 士郎が続けている料理の音だけが響く。

 

 

「――ごめんなさい。知らなかったとは言え、無神経だったわ」

 

 

 静寂を超えてから、沈痛そうに謝る。

 

 

 それから、「もう、今日は何回失敗したのかな」とだけ漏らした。

 

 

 ――――。

 

 その嗚咽のような呟きに何も言えず。一抹の期待を込めて前を見遣れば、士郎は頷いてから遠坂にひらひらと片手を振って取り直すような雰囲気を出した。

 

 ……本当、頭が下る。仕草だけで空気を和ませた。

 

 

「――っと。そろそろできるから運んでくれ」

 

「ん? おう」

 

 応じて立ち上がろうする。

 

 

 

 

「およ、いい匂いすると思えば、士郎さん早速御飯作ってたんだ――」

 

 

 

 

 そこに割り込んだ声。

 

 

「へ?」

 

 遠坂の間の抜けた声。

 

 

「げ」

 

 俺の嫌そうな声。

 

 

「あぁ」

 

 士郎の納得したような声

 

 

「はい?」

 

 理解不能といった感じの――件の声。

 

 

 

「誰?」

 

「マリー、どうしてここに……」

 

 

 遠坂の誰何(すいか)と俺の疑問。

 

 居間の入り口で固まっているのは、声色に反して表情筋をピクリとも動かしていない、人形じみた美貌をもつ黒髪痩躯の少女――ハイデマリー・アルツバイン。

 いつもは陶器のように白い肌は、今は桜色にほんのりと色づいていた。(つや)やかな髪をしっとりと濡らし、フリルの多くあしらわれた可愛らしい白の部屋着を着ている。

 離れの風呂場で入浴を済ませたのだろう。案内の時、離れに関しては渡り廊下で口頭だけの説明をしたのが祟った。

 ……あの空いていた玄関の件はこいつが原因らしい。慌てて携帯を確認すれば、いくつか通知があった。日本に来るなんて珍しい話だから失念していたが、連絡をした上で返信がないのに業を煮やして先に家に上がっていたようだ。

 

 宝石のような蒼い瞳をゆっくりと揺らす、くっきりとした細い眉と小鼻を持つあどけない顔立ちの彼女は、それこそ人形のように全くの無表情だ。

 しかし、付き合いのある人にはどうにか分かる程度には困惑と疑念の空気を醸している。

 

「どうしたもこうしたも――わぷ」

 

 即座に小径(パス)を開き、大量の雑音を送りつける。

 気を緩めていた彼女はそれだけで目を白黒させた。

 そのまま回収し、手を取って音が聞こえなくなるエリアまで進む。後ろで「だから誰なの?」と置いてけぼりにされた声が聞こえた。――すまん、遠坂。士郎に訊いといてくれ。

 

 ずんずんと歩く。手を繋いだ少女は、抵抗するようにわたわたと暴れるが、意に介さず手を引いた。動きに合わせてふわりと紫檀(ローズウッド)の香が漂う。

 ――離れの手前まで来た。そこに着いてからやっと手を放し、向かい合う。

 

「なにするのさ」

 

 驚き混じりの怒りの声音。だが、先程と同じく全く表情は変わっていない。

 唇に指を立てる。それを見ると不服そうながらも黙り込んだ。――大事を取っての念話。

 

(――どういう状況なの。切羽詰まった相手ではないようだけど)

 

(……あいつは遠坂凛。遠坂の当主だ。色々あって飯を食いながら話し合いをすることになった。お前が居合わせたのは丁度その時)

 

(……。キミが何を言ってるのか、ボクには全く分からないよ)

 

 ふぅ、と呆れ混じりのため息を零される。

 

(とりあえず、遠坂には俺らが聖杯戦争に参加していることを隠したい。いずれはバレるが、少なくとも今日は、だ。詳しいことは後で話すから、ここは我慢してくれ)

 

(……分かったよ。あの女の人に、ボクらが聖杯戦争に参加していること、士郎さんと()()がマスターだってことを隠せばいいんだね)

 

(――そうだけど、待て。今お前もマスターって言ったか)

 

(言ったよ。ドイツ(あっち)に戻るタイミングで聖痕が発現してから、何回も連絡したのに水明君が少しも返事をよこさないから悪いんだ。もう始まってたらって思えば日本に来るしかないじゃないか)

 

(――――そうか。いや、こちらも取り込んでいてな。悪かったとは思ってる)

 

 こちらにも事情はあったとはいえ、それは仕方ない判断。

 また、彼女の参戦は喜ばしいが、しかし。

 

 

 このタイミングで――、と手の平を額に当て、呻く。

 

 

(なにさ。天才のこのボクが参加するんだよ。なんか文句でもあるの、水明君は)

 

 ……天才。天才ね。確かに彼女は天才だろう。

 

 ハイデマリー・アルツバイン。

 千夜会が人形師の最高位――"人形術師(ドールマスター)"の名を冠する錬金術師、エドガー・アルツバインが末娘。歴代にして当代最高の人形使いである彼が最高傑作と口にするその少女。彼女は、幻とも謳われるアルツバイン時計人形工房謹製の魔術に依る存在――ホムンクルスだ。

 

 人造人間(ホムンクルス)

 錬金術の最奥にて鋳造される疑似生命体。人造の星の触覚。誕生した段階で既に、必要な知識と己の存在意義を自然から引き継いでいる人形。

 中でもアルツバインの一門の自律人形(オートマタ)人造人間(ホムンクルス)の作成技術は群を抜いている、特にホムンクルスの方は古くに途絶えた"試験管(フラスコ)の中の小人"を源流に置くだけに特殊だ。

 

 ()の工房ではその鋳造に紅き哲学者の石(ラピス・フィロソフォルム)――またの名を『賢者の石』、これを使うのである。

 莫大な魔力と真理を内包するその『ラピス』は、根源の渦からの叡智も記録している大神秘。

 エドガー卿の造る乙女たちはこの万能の触媒を万物融解液(アルカヘスト)によってその身体に溶かし込まれ、通う血を擬似的な生物霊基として成立させた埒外の魔力と知識を宿した高次の生命体なのである。

 

 ハイデマリーも数多のホムンクルスの例に漏れず、感情やそれの表現は乏しいものの飛び抜けて高度な自由意志を持ち、魔術に限らない幅広い才能を授かっている。

 確かにエドガー卿や彼以外の造った既存のホムンクルス達と同じく、全てを生まれながらにもっているホムンクルス特有の欠点はあっても、その評価を差し引きで覆すだけ能力があった。

 

 それは最高傑作といわれる由縁であり、彼女が自身を天才だと自覚するに足るもの。

 

 彼女は己だけの魔術系統――オリジンマジック、それも強力な遣い手であった。

 そしてなによりも重要なのが、マリーの賢者の石への適正。彼女は、彼女以外のエドガー卿の歴代の子供達よりも多くの知識を、その身に溶け込んだ根源への触媒である紅き哲学者の石(ラピス・フィロソフォルム)を通して引き出すことができるのだ。

 だが、残念ながら限界も証明されている。

 ハイデマリーを含め彼の乙女らでは、根源に到達すること『そのもの』は叶わないのだ。しかし、そんなことはエドガーにとって些細なこと。

 ()()を創ろうとするエドガー卿には関係ないことだ。

 

 そんな天与の才と識を持つ彼女が、自身を天才と言って憚らないのも無理はなかった。

 

(――別に何もないさ。……ただ、くれぐれも気を付けてな)

 

 少女がいかにも立腹したと言う感じで口元をへの字に固める。

 

(――言い方が悪かったよ、マリー。ごめんて)

 

「……ふんだ!」

 

 へそを曲げたまま歩いていく彼女。……分かりやすく怒ってくれるうちはまだいいのか。

 

 微苦笑は置いていき、後を追いかけた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「――改めて紹介するけど、こいつは俺の弟子のハイデマリー。士郎と同じく、結社に所属している魔術師だ。……俺としても日本(ここ)に来ているのは予想外でな。言うのが遅れた」

 

 再びの居間。

 ハイデマリーはラフな服装から着替え、白のワンピースで清楚な印象の格好に固めている。トレードマークのマジシャン然とした燕尾服とシルクハット、ステッキのセットは使っていない。

 

 彼女はあの後、割り当てられた部屋に衣装替えに行った。終わるのはもうあっという間。どうして女の子がそんなに早く着替えられるのだろうか、などと考えていれば胡乱げに見られた。「ボクの人形さんに手伝わせてるだけだよ」とのこと。……考えれば分かったであろう話。

 

「初めまして、Miss.遠坂。紹介に預かりましたアルツバインの末妹、ハイデマリー・アルツバインと申します。以後お見知りおきを」

 

 つい先程のやりとりを思い出していれば、瀟洒な語調。最後の溜めに合わせて優雅に一礼する。

 遠坂が細い息と一緒に目を見開いた。

 

「――あのアルツバインの。……末妹ということは、貴女(あなた)はホムンクルスなのね」

 

 特に気負うことなくハイデマリーは肯定する。

 

 アルツバイン――アルツバイン時計人形工房は、ドイツにある第三魔法をかつて完成させた千年工房、アインツベルンと共に錬金術師達の頂点に双璧をなす一門であり、この二つの工房のホムンクルスの性能と精緻さは甲乙つけがたいと言われる。

 

 正確には区別すれば、極限の魔術回路、第三魔法のために意思ある人形を再現しようとしているのがアインツベルンであり、人形に命を吹き込み、『生きた人形』――『人間』を創造しようとしているのがアルツバインだ。

 

 エドガー・アルツバイン。

 結社の三大幹部が一人、人体神秘を究めた魔術師であるニコラス翁をして至高と唸らせた錬金術師であるその妻とともに、世にいくつもの工房製の人形を送り出し大功を為させた、魔術世界最高の人形使い。この先どれだけ数の人形師が生まれようとも彼を超えられる者はいないと言われるほどに高い技量を持つこの男の名声は、登場から()()経った今も色褪せることはない。

 

 近年になっては魔術協会の封印指定の人形師、蒼崎橙子が並び立つ名として挙げられることがあるが、彼女は魔法・青の家系の血を引く一代限りの突然変異のような魔術師であるし、なにより重ねた歴史が浅い。どちらにも遭ったことのある俺からすればエドガー卿と実力は伯仲しているにしても、得意としている分野が違うように思えた。彼女はあくまで『人間の代替としての人形』作りに適正があり、それの製造に血道を上げていたのだ。人間そのものを創ろうとしている彼と、人間の代わりを造った彼女とでは、辿り着いた領域が似ているようでまるで違う。

 

 

「……全く、今日は初めて知ったことが多すぎるわ」

 

 いくらなんでも疲れてきた――。そう零す背中は煤けている。……確かに、なかなかにハードな一日であったのだろう。

 

「ともかく、最低限の意思交換は出来ただろう? それなら早くご飯にしようか」

 

 建設的な士郎の提案。尤もなことだ。俺が再び台所に向かって歩き出せば、士郎が「マリーも夜はまだだろ?」と確認する。……濃やかな気遣いに敬礼。

 圧力に負けて後ろを見遣れば、ホムンクルスの少女は少し非難めいた視線を向けてきていた。

 ――へいへい、気が回らなくてすまんかったよ。

 そういった意志を込めて会釈すれば、彼女も尖らせていた雰囲気を収めた。同じく手伝いに来る。遠坂も釣られて立とうとするが、そこは「お客様だから座っていてくれ」と制した。悪いわね、と据わりが悪そうに呟くが、流石に配膳まではさせる訳にもいかない。

 

 食卓にご飯、わかめと豆腐の味噌汁、鶏大根、人参と南瓜のかき揚げ、里芋の千切りの小鉢、少々のきゅうりの漬物などが並ぶ。士郎の得意な和食ベースの食事。どれも非常に旨そう。しかし料理人さんは「冷蔵庫に野菜がなかったせいで副菜が一品足りないな」などとぼやいている。どこまで上を目指すのさ……。

 ご飯は粒が立ち、つやつやと輝いていて、味噌汁からは出汁と味噌の芳醇な香りを湯気と共に燻らせている。鳥大根は程よく照りが乗っており、その甘辛い匂いはとても食欲をそそった。天ぷらからはほかほかと熱気と混じって甘く香ばしい香りが立ち上っている。刻み海苔の散っている里芋は味のバランスを取ってか、三杯酢ベースのタレと、小皿に盛られた練り梅のペーストが好みでかけられるようを添えられていた。漬物は十分な塩気と旨み、そして仄かな甘味を感じさせる香りをまとっており、箸休めとして手を止めれなくさせそうだ。

 見た端から唾を誘う夕食を見て、遠坂が小さな歓声を上げた。わぁと目を輝かせる姿は、年齢よりも印象を幼く感じさせる。

 

「上手、と言われるのは伊達じゃないのね。凄く美味しそう」

 

 褒める言葉以上に、楽しみそうな気配がだだ漏れで、そんな姿に俺と士郎が顔を見合わせて苦笑してしまう。横を見れば、マリーも人柄がわからないなりに可笑しさが抑えきれないといった感じで、微笑みのような風情を見せていた。

 他の三人のことをさほど気にする様子もない遠坂に倣って、自分たちも座った。

 士郎が音頭を取って、手を合わせる。

 

「――いただきます」

 

 その声に各々行儀よく続けて、箸を取った。




飯テロ成分が認知させる事ができていたら嬉しいとかどうとか。

……お読み頂きありがとうございます。


(追記注:ハイデマリー含め、アルツバインのホムンクルスは根源接続者とは違います)


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答え合わせと心理 後編

旗折なお話。

よろしくお願いします。


「見た目通りに、ううん。見た目以上に美味しいわ」

 

 上品な箸使いで鶏を解しながら、笑みを深めてそう言う遠坂。事実、満足気な息も漏らしている。

 

「そりゃどうも。そう言ってもらえるなら作った側としては嬉しい限りだ」

 

 士郎はうんうんと首を振りながら応じた。こちらも非常に機嫌が良さそう。

 マリーは相変わらず無表情だが、鶏大根が気に入ったようでご飯と交互に無心に口に入れていた。

 人形のような少女がはむはむとひたすらに箸を進めている姿はなかなかに可愛らしいが、少なからず違和感を抱くというか、なにやら怖い感じもする。

 ぼんやりとその様子を眺めていると、彼女の嗜好に気付いたらしい士郎が「お代わりは要るか」と声を掛けた。……よく見ていらっしゃる。

 声掛けにこくこくと頷いて無言で皿を差し出すその子。

 その様子を見て、遠坂も恥ずかしそうに手を上げた。

 

「……私もお願いしていいかしら」

 

 頬を染めてのささやかな要求。それに士郎は笑って頷くと、遠坂と自分の二人分の空の皿を持って立ち上がった。自分にも目でお代わりを尋ねられるが、首を横に振って立ち上がる。……いや、食べるには食べますよ? 自分の皿を持ち、ハイデマリーの分の皿も受け取って後に続く。

 揃って台所に立てば、どちらからともなく口を開く。小声での会話。

 

「とりあえず経過は良好、って感じかな」

 

「あぁ。今の所問題はなさそうだろ」

 

 ちらと女子二人の方に目を遣る。彼女たちは決定的に何するということもなく、互いを意識しないように見合っていた。

 

「何してんだ、あいつら」

 

「……さぁ? 流石に気不味いんじゃないか?」

 

 そりゃ、そうか。初対面同士だし、片方は人見知り、もう片方は一応敵の魔術師のホームでその陣営の人間と対面して放置されている訳で、相手のことが気になっても声を掛けるのも難しいのも当然よな。

 理解すれば、この後の流れの調整を思ってため息を()く。そうすれば片手での拝み混じりに背中を叩かれた。……危ないっつの。皿から汁を垂らしそうになったぞ。

 そんな非難を視線に込めて送るが、柳に風の穏やかな表情。微笑みは残したまま。

 

 

「――ありがとな」

 

 

 唐突な感謝の言葉。訝しげにすれば、くすりと笑われた。

 

 

「いや、水明のおかげで遠坂と敵にならずに済んだからな。――朝のあれから行動は、そう言うことだろ?」

 

 

 ――――。

 

「……さて。なんのことだろうな」

 

 (とぼ)けた返事。反応は見ずに先に行く。……知ったことないっての。

 マリーの左隣、遠坂の対面の自分の席に黙って戻れば、二人ともに不思議そうな顔をされる。

 ――はいはい。いろいろ思うでしょうけど質問は受け付けません。

 そんな頑なさを全面に押し出せば、二人ともやや頬を引きつらせながらも目を逸らした。その先の赤毛男の満面の笑み。……あぁ、もう。

 視線が下を向く。

 はぁ、とひとつ嘆息して切り替えた。

 

「――で、遠坂。訊きたいことがあるんだろ? 別に言えないことは言えないって言うし、数の制限も付けないから適当に訊いてくれていいぞ」

 

 そんな俺の言葉に、三人が揃って顔を引き締めた。遠坂がおずおずと切り出す。

 

「じゃあ、まずさっき気になったことから。――アルツバインさんが日本に来たのは予想外って言ってたけど、それはどうして? あと、どうして来たの?」

 

 ……。少し答えづらい質問。誤魔化しながらなら言えないほどではないが、どこまで明かすか悩むべきものでもある。当然マスターとして来たのは伏せるにしても、それ以外をどうするか。

 

「まぁ、来ると思ってなかったのは、彼女は相棒であっても日本に来るのは珍しいからっていうのがあるな」

 

 そこまで言って件の少女と目を合わせた。彼女は首肯すると、語を引き継ぐように口を開いた。

 

――悪戯猫のような、楽しげで嫌らしい笑みを幻視させて。

 

 あ、これ駄目なやつ。嫌な予感。

 

「待――」

 

「いやぁ、それは水明君に会いに来ただけだよ。お互いが大好きだからね」

 

 どうにかその口を閉ざさせようと言葉を発するが、間に合わなかった。

 底意地の悪い笑顔――実際には無表情だが、確かにそう感じさせる――を向けられて苛立つが、どうにか噛み殺して軽口を叩く。

 

「言ってろ八歳児」

 

 今度は遠坂が驚く番だった。(まばた)きもせず、人形の少女を見つめている。

 

「八歳児……? ――ホムンクルスは成長しないとは聞くけど、その見た目と情緒の印象で八歳と言われると違和感が凄いわね」

 

 遠坂の言葉に、マリーがへへん、と胸を張って鼻の下を右の人差し指で擦った。

 

「そりゃ私は特別だもんね。見た目だって少しずつ成長もするし、なによりお姉ちゃんたちよりも才能があるんだから」

 

 言いながらこちらを一瞥する。その綺麗な蒼い瞳に映る感情の色は自慢げだが、同時に気遣わしげでもある。

 

 ……巧い。巧いが腹が立つ。確かに遠坂の興味は移ったし、その興味に目を眩まされて"日本になかなか来ない"という、先程の説明を若干かみ合わせの悪い今の話の穴に気付く素振りもない。そうさせたことに疑問を挟む様子もない。それはとても助かること。

 

 でも釈然としない……。

 

「――あぁ、誠に遺憾だがマジでコイツは天才だな」

 

「遺憾って何さ!」

 

 やむを得ず白い少女の作った流れに乗ったが、自分の言い方に難があった模様。思わずといった感じでハイデマリーが怒りの声を上げた。

 

「まぁまぁ二人とも。今のは水明が悪いよ」

 

 細部は知らないながらも、俺たち二人の誤魔化したい意図を正確に汲み取ったらしい士郎の(ごん)。じっと目を見つめられる。……言う通り俺の悪手だよ。台無しにしかねないさ。

 

 むすっとした表情でいれば、遠坂が半笑いで手を振って取り消した。

 

「悪かったわ、その話題はもうなし。痴話喧嘩に付き合うつもりなんてないしね」

 

 そこまで言って正真正銘の意地悪な笑顔を浮かべる。……このあかいあくまめ。

 

「――それにしても八歳の女の子が好きなんて、八鍵くんはいわゆるロリータコンプレックスと言うやつなのかしらね。だとしたら、これからのお付き合いは考えたいものだけど」

 

「よーし分かった、遠坂。そこから動くなよ。その勘違いごとぶっ飛ばすから」

 

 やたらと丁寧な口調の謂れのない中傷に据わった目で拳を固めれば、言った本人である彼女も慄いた。またも「まぁまぁ」と士郎が宥めに掛かるが知ったことか。あんまり柔らかいところを突かれてはたまらない。

 

 ――だから、茹だった頭で考えることもなしに、とんでもないことを口走ってしまった。

 

「だいたいなぁ! 俺が好きなのは初美なん、だ……よ? ……なんです。……です?」

 

 尻すぼみになる語勢。盛大に自爆した。一気に頭が冷える。

 

「――初美って朽葉さん? 半年前に玄関で延々出待ちしてたあの?」

 

 ……そうだ。掠れた声で呟いて、箸を置き背中を丸める。

 

 朽葉初美。同い年の幼馴染。俺に剣を教えてくれた鏡四郎さんの愛娘であり、年齢に比して圧倒的と言えるほどまで熟達した朽葉流の剣の遣い手。刀一振りのみで魔を狩ることができる程の剣士。ほぼ兄妹同然に育ち、その前からも親ぐるみで仲の良かった従兄妹(いとこ)

 ずっと世話になってはいたが、自分が魔術師であることは隠していた。理由は単純。そもそも父親の風光(かざみつ)が生きていた頃は当人から口止めされていたし、彼が死んでからは自分の魔術の腕にも交渉力にも全く自信が無かったからだ。力がないのに、神秘に立ち入ってしまえば火傷では済まない。それに巻き込んで彼女を傷つけること、ましてや死なせてしまうことは嫌だった。

 

 ――その想いの源泉に考えを巡らせるのは意図的に避けていたのは事実。それは父の遺言を思うからであり、自分が最悪消されて終わりの魔窟を歩んでいる自覚はあったためでもある。

 

 俺が士郎に会ってから行動を共にするようになるまでは、彼女はほとんどの食事、朝昼晩と隣の家から八鍵の屋敷に作りに来るほど世話を焼いてくれていた。――その頃は己が仄かに抱いていた好意にも、彼女から向けられていた好意にも無自覚だったが。

 

 決定的に関係が変わったのが一五歳の時。士郎が実践者(プラクティカス)級――今の等級である哲学者(フィロソフィアス)級の一つ手前に昇格した頃で、時計塔でいう開位(コーズ)の下位に相当する位階に至っていた。

 自分は既に上から数えたほうが早いぐらいには魔術の腕があり、なおかつ弟子が十分な位を()、加えてかつての成人の基準であった元服の年齢に達した。ならばもうお前は一人前と言っていいだろう――。そんな理由をこじつけられて、師匠に魔術師であることを暴露されたのだ。

 

 その時は初美に死ぬほど怒られた。なんでそんなことを隠していたのかと。そしてものすごく心配された。どれほど危ない目に合ってきたのかと。最後には泣きだされた。どうして言ってくれなかったのか、自分は訳に立たないのかと。あなたは私が必要ないと思っていたのかと。

 

 実際はもっとめちゃくちゃな言葉を投げつけられた。手も上げられたが、それも甘んじて受けた。

 

 

 

 ――彼女の言葉には、行動には、真情があったから。どこまでも俺を案じている心が見えたから。

 

 

 

 だから、あの時自分は折れたのだ。――唯一人を、危険と共に置くことを許容した。

 

 

 

 それだけ、己にとっては大事な思い出。それに繋がる女の子の名前をうっかり口に出してしまったことには、我ながら呆れるしか無かった。

 

 

 自己嫌悪が心を穿つ。いじけたまま切れ切れに問うた。

 

「……なんで遠坂が初美のこと知ってるんだよ」

 

 その疑問に瞼を閉じて悩んだと思えば、うーんと唸ってから答える。

 

「さっきも言ったけど、半年ぐらい前に彼女が穂群原の中央玄関にしばらく通ってたことがあったでしょ?」

 

 ほら、あの結構な騒ぎになったやつ。そう言われれば否応なく思い出す。否、そんなこともなく当然として思い出せるもの。

 あれは俺が士郎との仕事に掛かりきりで、しばらく家に帰らなかった時のこと。そのまま戦場から日常に意識を復帰させるために、屋敷に戻らず学校に通っていた頃のことだ。

 自分が仕事で居なかったのはともかく、終わってもからも長い間連絡をしなかったのことへ怒りと、曰く「私のご飯を食べさせられない」という悔しさからの行動であったらしい。――思い返せば随分と可愛らしい理由だが、自分が気不味くて逃げ回ってしまったために彼女も意地になってしまったようで、その騒ぎは数日間続いてしまった。結局桜に諭されて謝りどうにか許してもらえたが、その時のお冠具合は凄まじかったのはよく覚えている。

 

「あの時機会があって少しだけ話してね。名前と居る理由を聞いちゃったの」

 

 …………。さいですか。

 

 非常に気恥ずかしい。ますます落ち込む。

 遠坂も箸を置き、片肘を付いてなにやら羨ましそうな目つきでこちらを見るが、それから思い至るのは大方惚気だろうと言う予想のみでげんなりすらする。……それはないでしょ、初美さんや。

 

「ま、それはいいわ。こちらも冗談が過ぎたし、終わりにしましょう。馬に蹴られる趣味もないから謝っておきます。――ごめんなさい」

 

 真面目くさった様子で謝罪をする彼女。そうされてしまえば毒気が抜かれ、何も言えない。黙り込んでいると頭を下げっ放しだった遠坂から「……もういいかしら」と確認の声が掛かる。

 それに頷いて――すぐにその動作は見えない事に気付き、どうにか返事をした。

 

 沈黙が流れる。それはもうたっぷりと。同僚たちを見れば、神妙さと微笑ましく思う気持ちの混ざったような表情で穏やかにこちらを見つめていた。……居心地が悪い。

 

 ぱん、と柏手が鳴った。遠坂の唐突な行動。全員の視線が集中する。

 それに彼女は僅かに身じろいだあと、こちらを強く見据えて話し出した。

 

「無理やり空気を切ったのは悪いわね。でも、こうするしか無かったでしょう?」

 

 確認までで一度区切り、三人を順に見渡した。それに応じて、それぞれが中途半端になっていた食事を辞め、聞きの態勢に入る。

 

 

 次に紡がれたのは――核心を問う言葉。

 

 

「じゃあ、訊くわね。――結社の魔術師がこの街に居る目的は何? そもそも結社とは何? 貴方達が話せる範囲でいいから、教えて頂戴」

 

 



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八鍵と衛宮 前編

水明と士郎、出会いのお話です。

それでは、よろしくお願いします。



 

 皆、押し黙った。目を見合わせるが、誰も口火を切らない。

 

「悪いが遠坂、それは答えづらい質問だ。……だが、お前に対しては誠実でありたいとも思っている。だから、念話で打ち合わせをすることを許してほしい」

 

 水明の言葉に、遠坂が目を細めた。その目を隠すように前髪を二本指で弄りながら、引き締めていた口元を緩める。

 

「……そう。そんなこともできるのね。しかも、それを明らかにしてでも確実なすり合わせと友好を得たいと――」

 

 嘆息をひとつ。そして、手を開いて指し示すような仕草。

 

「――いいわ。待つから、どうぞ」

 

 それに三様に頷いた。

 

 

 

(で、どうするのさ)

 

 緩い輪になって座ってから、最初に尋ねたのはハイデマリー。

 

(まず、結社の理念については俺がぼかしながら言う。これが狂えば下手(まず)で済む話じゃないから、何が有っても丸投げしてくれ。多少不自然でもいいから、必ず、だ)

 

(了解)

 

(よろしく、水明君)

 

 自分と彼女の返答。それは彼にとっても満足なものであったようだ。任せろ、と言わんばかりに緩く握った拳を胸に当てている。

 

(この街に居る目的、ね。……完全に聖杯な訳だが、馬鹿正直に言うわけにもいかないしな)

 

 水明の弁。元から住んでいた俺はともかく、水明たちに関しては全くその通りだからこそ非常に困ること。言った張本人は悩ましげに顔を伏せていた。

 そんな彼の様子を察して、妹弟子が怪訝そうにする。同じく、自分も眉を寄せた。

 

(何か考えがあるんだろ、水明。言ってくれ)

 

 鋭い視線を投げかけながらそんな確認をすれば、躊躇いがちな思考が返ってくる。

 

(……あるにはあるんだがな。出来れば避けたいんだ)

 

(それはまた、どうして?)

 

(…………っ。……士郎。お前の曖昧な過去を理由にするって手でもか?)

 

 気不味そうに、心底厭そうに言い切きった。思わず、取り繕うことが間に合わずに表情が固まってしまう。それを見て、水明がやはりといった風情で顔を顰めた。

 数拍を置いてやっと我に返り、表情筋の強張りを無理やりながら解く。油の差し足りない機械のようにぎこちないのは自覚していたが、それでもゆっくりと息を吐きながらどうにか顎を引いた。

 

(――そうか)

 

 唇を強く結ぶ。

 

(それでも、それが最適なら――その手を選ぼう)

 

 決意は固めた。後は自分次第。マリーが心配の色を瞳に浮かばせるが、首を振って応える。

 

(……分かった)

 

 吐息を飲み込んでの師匠の返事。こちらの意思を読み取ったのか、深呼吸と共に背筋を伸ばした。

 

 全員、遠坂の方に向き直る。

 

 幾分かの間。その沈黙は長いが、これからのことを思うと余りに短い。

 

 ――ある程度ぼかすが、いいか。

 そう前置いて話し出した水明を横目に、俺は彼との邂逅の日を思い出していた。

 

 

 

 それは四年前。年の暮れも見えてきた冬の頃。

 粉雪が寒さを知らせ、それを舞い散らす風が尚更に外気が冷たいことを教えてくれていた日。

 

 それはこの屋敷を、八鍵水明が切嗣を訪ねてきた日だった。

 

 

 奇しくも、それは養父の命日のこと。

 

 

 

 そう、俺が初めて、『魔術師』と出会ったお話。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 

 そろそろ爺さんの墓参りでもしようかな。そう思い立った昼下がり。

 

 今日は学校は休み。藤ねえも大学はなくて、一緒に昼ご飯を食べてから一足先に菩提寺に行った。

 

 それは自分が鈍いという自覚は有っても、彼女を一人で行かせてあげた方が良い、ということぐらいは分かったからだ。

 

 

 少し前に昼食を食べ終えて。

 外出用にダウンコートを羽織った藤ねえに、切嗣さんのお墓に一緒に行こうと誘われた。それを目を合わせないようにして断れば、覗き込むように不思議そうな顔を向けられる。「しばらくしたら行くから」と声を掛ければ、彼女は少し思案するように指を顎にかけた。

 そうして幾らかの間を置いて浮かべたのは――とても、綺麗な微笑。たぶん、街中で出そうものなら男も女も問わず、誰もが目を奪われてしまうであろう程に綺麗な表情だった思う。実際、自分も思わず魅入られたように固まってしまっていた。

 

 そんな俺にその微笑みと共に近づいたかと思うと、うりうりと後ろから抱きつくようにして頭を撫でてくる。ひときしりそうしてじゃれついてきた後、今度は前に回り込まれて、ぎゅうと、しっかりと力強く、それでいて柔らかに抱き締められた。

 そして、ぽふ、と頭に乗った顎。それが動いて、「ありがとう」と一言が降ってくる。

 泣きそうに嬉しそうな、それでいて年上らしく落ち着いた、女の人の声。

 

 ……どれくらい、そうしていただろうか。

 

 身長差があるから、俺は胸のあたりに顔をうずめることになってしまうお隣さん。

 その、いつもお姉さんをしてくれる人の穏やかな鼓動を感じて。人柄を表すようなお日様みたいな良い匂いに包まれて。身悶えしたくなる気恥ずかしさと嬉しさに襲われて。……でも、突っ返すような気持ちにはなれなくて。

 

 だから、おずおずと抱き返して、抱き合って。

 

 

 そうやって、ただずっと――悼んで、慰めあってた。

 

 

 ……けれど、現実にずっとそうしている訳にいかなくて。数分抱き合った後に、ゆっくりと身を離した。互いに少しはにかんで、顔を見交わす。

 

 それもまた、やはりわずかのこと。突然、藤井ねえがいつものように底抜けに明るい、脳天気な声で話し出す。

 

「なら、お姉ちゃんが先に行って掃除とか済ませちゃうから、士郎はお線香だけ上げてね。――そうやって手間かけさせられた分、お夕飯には期待しちゃうから」

 

 いや、やっぱりどこか言葉の息遣いの端々がしっかりしていて、完全に普段通りとはいっていない。ちょっと湿っぽく、そして大人っぽい響き。でも、どちらにしたって藤ねえらしい、ふざけているようで気の回る、お調子者で優しい言葉だった。

 

 そんな複雑な印象の言葉を言い置いて、彼女は玄関へと駆け出した。

 言われた通り、今夜は豪勢にしようと心に決めて後を追う。既に外に出ているらしく、開け放たれた引き戸の向こうに白雪が深々と降り、時に風に吹き乱される様が見えた。厳しい寒さを感じさせるその景色はさほどの間もなく閉められた戸に遮られる。そのまま「行ってきま―す」と、元気のいい声。……今度こそ、いつもの通りのお姉さんの声だ。

 

 そのことに安心して、小さく息をつく。

 

 それも束の間。どたどたと騒がしい足音を立てながら何故か戻ってきた彼女が勢いよく扉を開け放ち、開き直ったように言い放つ。

 

「道具全部忘れた!」

 

 …………。

 

 全く、藤ねえらしいと言えば藤ねえらしい……。

 何も言わず反転して、必要なものを用意しに行く。箒とかは近くの共同のものを使えばいいから、持たせるのは線香とライターと、小さな蝋燭。そしてお花を買うためにお財布。それらを袋に入れたところで、あるものが目に入った。……うん、これもあったほうが良いな。

 そのいくつかの物を小脇に抱えて、玄関に戻る。

 見れば鼻頭を赤くした藤ねえが、手をこすりながら待っていた。

 

「はいよ、藤ねえ」

 

「あ、士郎。ありがとう」

 

 そう言って手提げを渡す前に、上がり框の上から二の腕を掴んで、そっと体を引き寄せた。そして後ろ手に持っていた編み物――マフラーを首に緩く巻き付け、毛糸帽子を目深にかぶせる。

 

「今日は寒いんだから、しっかり着込まなきゃ。ほら、残りは自分でやって。これも持って」

 

 親切の照れ隠しに突っけんどんにそう言って、二十枚入りのティッシュを上着のポケットに突っ込んだ。

 そんな自分の子供っぽい態度にか、あるいはバレバレの気遣いにか、そんなものにだろう。温かみのある小さな笑みを零して、「ありがとう」とまた頭を撫でられた。……ちょっと嫌。

 その感情が顔に出てしまえば、今度は小さく吹き出された。そのことにますます不機嫌になって、だんだんとへの字に曲げた口の歪みを増させていく。

 そうした口の角度での抗議も限界に達した頃、彼女は愉快そうに謝り、また撫でてきた。今度はあやすように、終いにぽんぽんと頭を叩いてくる。……もう、子供扱いばっかしてさ。

 でも結局不満は飲み込み、口角を上げて送り出した。

 

 自分がそれを少し気に入らなくても、あの人が切嗣を慕っていたのは本当だし、その気持ちは未だに引きずってしまう位に本物だった。

 なのに二人で挨拶をしに行ったら、あの普段は抜けた様に振る舞う年上の女の人も、義理とは言え切嗣の子供である俺に遠慮して、あるいは親の死に泣こうともしない俺を心配してしまうだろう。たくさんの気持ちを我慢してでも、お姉さんらしくしようとしてしまうだろう。

 

 それは、きっと良くないこと。

 

 泣きたいなら泣けばいいのに。そう無責任に思ってもしまうが、そうさせる原因の俺がそれを口にするなんてとんでもないことな訳で。例え下手な気遣いが見透かされようが、口が裂けても言えなかった。

 だから、せめて時間は置いて出掛けようとしたのだ。

 

 

 

 それも十分かと思うくらいには時間が経った頃。そろそろ時間だし行こうかと腰を上げた時、インターホンが鳴った。

 

 こんな時間に誰だろう。新聞の勧誘とかだったら嫌だな。そう思いながらも、「はーい」と大きな声で返事をする。嵌めようと手に取っていた手袋を置き、巻いていたマフラーを(ほど)いて、玄関に向かった。

 土間に降りて足元から這い上がる冷気に震えながら、訪問者を迎えようと戸を開く。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

 そこには自分と同じくらいの年に見える、男子中学生らしき少年が居た。

 暗緑を基調とした上品なデザインの制服――たぶん県内の浅谷市にある私立の中学校のものだったと思う――の上に、いささか学生には重たそうに思える黒の厚手のコートで身を包んでいる。

 その彼は見た目の年齢に不釣り合いな慇懃な笑みを浮かべて、これまた見た目の年齢に不釣り合いな程に畏まった口調で、挨拶を告げた。

 それは、よく慣れた様子のもの。

 

 

「初めまして。私は、八鍵水明と申します。不躾ながら、所用があって直接お宅に参りました。――衛宮切嗣さんはご在宅でしょうか?」

 

 

 ――ただ、その大人びた態度とは裏腹に、子供のような頑固さを思わせる、意志の固そうな榛色の瞳が印象的だった。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 少年の声色で掛けられた、少年らしからぬ言葉。その落差(ギャップ)に固まる。

 

 なにより、内容が問題だった。

 

「えっと、その、親父は……」

 

 咄嗟に何か言おうとして、結局には言葉が右往左往。

 その俺にか、言い淀んだ先にか、訪問者の少年は困惑と少しの驚きのようなものを顔に浮かべている。そのまま俺が続けるのを待つように、穏やかに微笑んだ。

 

「その、父は一年前に、逝去、してます」

 

 使い慣れない表現を喉元から出すのと、悲しみを思い出す事を言うのとで、声はつっかえつっかえになってしまった。

 その様子と言葉にだろう。表情が驚愕と僅かな落胆と、――そしてそれを覆ってしまうぐらい強い悔恨の念を孕むものに変わる

 

「――っ。これは無作法を失礼しました。……お悔やみ申し上げます」

 

 丁寧な謝罪と愁傷の文句。

 これまた聞いたことのないような慇懃さに面食らうが、おかげで我にも返った。

 どうにか気にしないよう伝えるが、上手く言えただろうか。その傍らに考える。

 

 ――何を理由に、この人は訪ねてきたのだろう?

 

 その思いを確かめるため、口を開いた。

 

「今日は父の命日なんです。これから私も墓参りに行くところなのですが、よろしければ一緒に供養してやってもらえませんか」

 

 そこまで言って、もうひとつ。

 

「――いえ、まずはその前にどうぞ上がってくださいな。……父に何の用があったのか、あなたと養父がどういう関係であったのか、その辺りをお話頂ければ嬉しいです」

 

 目前の彼は息を吐き、しかし頷く。

 

「そういうことなら。……失礼します」

 

 会釈を一つして、玄関に踏み込む。どことなく気品を感じさせる所作でローファーを脱いで揃えると、また小さく頭を下げてからこちらを見てきた。

 

 ――と、案内しなきゃか。

 

 気合を入れるように細く息を吐く。

 場所は居間でいいだろう。お茶は来客用の良いのがあったかな。そう考えながら、指し示すように手を伸ばす。

 

「――では、こちらに」

 

 先導して、すぐに。控えめな声音で声を掛けられた。

 

「すみません。失礼かもしれませんが、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか」

 

 相変わらず使われる、同年代の子供が使うとは思えない言い回しに身が強張るが、それは苦笑と共に押し流した。「はい」と短く答えれば、生真面目な様子で尋ねてくる。

 

「――先程は養父と、そう仰っていましたが、あなたは衛宮さん――切嗣さんの息子、ということなのですか」

 

 息子なら俺も衛宮姓だということに気付いたのか、爺さんの名前を言い直した八鍵さんは少しばかり居心地悪そうにしていた。

 

「えぇ、はい。……六年前の新都の火災は知ってますか」

 

「それはもちろんで――っ。……もしかして、君は」

 

 目を見開いて、台詞は途切れた。取り繕う余裕が足りなくなったのか、微妙に敬語が薄まる。

 

「はい。あれで私は焼き出されて、あの人に拾われました。――どうぞ、座ってお待ち下さい」

 

 元々建物の中を動くだけの、特に長さなどない道程である。然程もかからず目的地の居間に到着すると、着席を勧めてから茶を出すために台所に向かった。

 ――と、その前に戸棚かな。来客用の茶器と茶葉、茶菓子の一式はそこに入っている。

 

「あ、いえ。お構いなく」

 

 そんな己の背中に言葉が掛けられた。

 

「……それより、すみません。先程から非礼ばかりを」

 

 居間に案内したのは失敗だったか。台所が直接繋がっているから、お茶を淹れるために離れて流れを切るということも出来ない。

 そんな事を考えながら薬缶を火にかけ、柔らかさを心がけて応じる。

 

「それこそお構いなく。ご存じなかったのでしょう」

 

 それよりも他に言いたいことがあった。

 

「それよりも、すみません。……その話し方、どうにかなりませんか。恥ずかしながら自分は敬語には慣れていないので、合わせるのが正直大変で」

 

 当惑して様子で「いやそれは――」と言いかける彼の(ごん)に割り込む。

 

「それに、明らかに同い年ぐらいの子供にあんまり綺麗な言葉遣いをされるのはどうしても違和感がありますし、自分の不出来さを目の当たりにするようでちょっと(つら)いです」

 

 冗談めかしてそう言えば、八鍵さんは考え込むように黙り込んだ。内心を言っているようで、その実当たり障りない理由付け。こちらの心情的な問題を押したなら、彼にとっても聞き入れやすいだろう。

 実際はネコさんのところでバイトしているから、敬語に慣れていないということはない。でも、目の前の彼に合わせた言葉を使うのは大変というのも事実だった。

 

「いえ、やはり私はこのままで。そちらが崩す分には結構ですから」

 

「……そんな訳にはいかないでしょう」

 

 お客さんですからと、口には出さなかった言葉。

 やりとりに釣られて思考まで堅くなっている。その事に気付いて一人呆れと笑い混じりに嘆息すると、不審そうな色の顔を向けられた。

 

 ――おっと、これはいけないな。

 

 かぶりを振って余計な念を落とす。まずは、作業。

 急須に入れておいた熱湯を湯呑に戻し、その間に上等な茶葉を茶漉しに入れてまだ温かい急須に嵌めた。そのまま同じ様に十分に温まった湯呑から、程よく冷めたお湯をゆっくりと急須に(そそ)ぎ、丹念に味を出す。そうして淹れられた甘い香りを立ち上らせる緑茶を、数回に分けて均等に三つの湯呑に()げば完成。こうやって、使う器をしっかり温めておくのが美味しくするのには重要だ。

 色と香り、どちらも十分な出来であることを確認して満足する。

 

「粗茶ですが」

 

 言った端からの謙遜と共に出されたお茶に、参った参ったとでも言いたげに両手を上げてひらひらと振る訪問者の少年。

 

「悪かった。悪かったです。こっちもどうにか普段の話し方にするから、そっちも勘弁してくれ」

 

 どこが粗茶さ、明らかに物も腕前も上等じゃねぇか。

 悪童じみた響きを持ったそのぼやきがどうにも可笑しくて。……少し、笑ってしまう。

 そんな時、手でも打ちそうな気配を漂わせながら少年が呻く。

 

「あぁ、とんでもないこと忘れてた。――名前、聞いてなかったな」

 

 ――――。

 

 本当だ。なんでそれを忘れてたんだろう。

 

 反省を込めて、しっかりと彼を見据えて口を開いた。

 

 

 「――俺は、衛宮士郎。切嗣の養子の、士郎だ」

 

 




お読み頂きありがとうございます。


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八鍵と衛宮 後編

水明と士郎、出会いのお話、『魔術師としての』出会いのお話です。

水明は基本的に善良ですし、素直です。でも目的のためにはある程度手段を選ばない、ということを選べる子でもあります。
つまり、彼はこの話(前後編両方)で結構な数の嘘をついてます。一人称、ということを念頭に、どこまでが設定(事実)で、どこまでが水明の嘘か見て頂けたらば嬉しいです。

それでは、よろしくお願いします。



 

「――で、八鍵くん。親父に用があるって言ったけど、なにさ」

 

 今更な自己紹介を終え、出された茶を一口啜った客人への一言。「うわ、旨っ」と漏らす声に、お世辞の色は見えない。

 

「それなんだがな」

 

 そう言うとじっとこちらを見てくる。

 

 ――妙に圧力を感じるけど、なんだ?

 

「いや、悪い。――俺の父親、風光(かざみつ)が切嗣さんとの古い知り合いでな。最近父が亡くなったんで、代替わりの挨拶をしに来たんだよ」

 

 気不味そうに首を横に振りつつ言うが、寝耳に水だった。確かに親父は世界を飛び回っていたようだから沢山知り合いはいるだろうけど、それが浅谷にいるとか、八鍵とかいう名字を持つ男になどのことは聞いたことがなかった。

 それを訝しめば、吐息とともに告げられる。

 

「俺の家はいわゆる地主でな。昔切嗣さんが世界中のあちこちに回っていた時に、日本での家の世話をしたことがあるんだよ。それから何かと縁があったんだが、ここ十年単位で音沙汰がなかったらしいんだ。――あの火災に居合わせて子供を引き取っているとは、思ってもみなかったが」

 

 尤もらしく言う、長い説明の前半には取って付けたような言葉の軽さがいくらか滲んでいたが、終いの言葉には嘘とは到底思えないような感慨が(うず)まっていた。

 

 ――待て。こいつは親が死んだと今言ったか。

 

「……こともなげに流してるけど、今親御さんが亡くなったって言ってなかったか?」

 

「言ったな。それで父の遺品を整理して古い知り合いとして名前が出てきたんだよ。今住んでいる場所は知らなかったし、そもそも先に共通の知り合いの人を訪ねたから挨拶をしようと思い立ったんだけどさ」

 

 あっけらかんと言い放たれる。その軽妙さと、直前にあった感慨になんとも言えないまま黙っていると、彼は口の端を上げて手を振った。

 

「もうなんだかんだ二ヶ月は経ってるか気にすんな。――んで、さっき言った共通の友人ってのがドイツの人でな。教えてもらった情報に子供のことなんてなかったから、呼び鈴を押して君が出てきた時は実は困ってたのよ」

 

 フォローなのか、強がりなのか、はたまた触らないでほしいという意思表示なのか。詳細は分からないが、打ち切りたそうな空気を纏っている台詞。

 いずれにせよ、乗らないという選択肢は選ぶべきでなかった。

 

「ドイツか。俺がこの家で暮らすようになってからも何回か行ってたらしいけど、そこのことなのかな」

 

「……どうだろうな。うちの親父の知り合いも何戸かあったし、君が家名がどうとか聞いていれば別だろうけど」

 

 若干の不自然な間を挟んでの回答。ずっとちらつく言葉の端々の怪しさから諸々を疑いたくなるが、その気持ちを抑え込み、昔のことに思いを巡らせながら応えた。

 

「うーん? ないな」

 

 結局は思い出せない。 

 

「なら――」

 

 そう、言いかけて。

 飛び込んできたのは、インターホンもなしに勢いよく開かれた扉の音。

 八鍵は疑問符を頭に浮かべるが、自分は来訪者が誰か察した。そのまま訪問者の対処をしようと腰を浮かす。

 

「たぶん知り合い。ちょっと待って――」

 

 

「――士郎ぉー。見慣れない靴があるけど、お客さんでも来てるのー?」

 

 

 ――くれるか。問いを言い切るのは間に合わず、心当たり――藤ねえが居間にやってきた。

 

「ありゃ、どちら様」

 

 殊更に(とぼ)けた声音と表情でそう言う。やはり、目の下が赤く腫れていた。

 

 その遠慮のない物言いにか、察し良く女性が泣いた後の姿であるのを理解したからなのか、ぎょっとした様子でこちらとあちらを交互に見てくる八鍵。

 

「あぁいや……。こっちは藤ね――藤村大河さん。お隣さんでよく様子を見に来てくれる人」

 

 言い間違えそうになったのを咄嗟に直すが、ちゃかり聞き逃さなかった彼女はにまにまと嬉しげに、そして面白がるように笑みを浮かべる。からかいの言葉であろうものを口にするのを遮るよう、語気を強めて紹介を続けた。

 

「で、こちらが八鍵水明くん。家の都合で切嗣を尋ねてきたんだと」

 

 強めの口調に加え、睨めつけることによって彼女の軽口を封じる。

 

「あ、あぁ。紹介に預かりました八鍵です。所用があって直接訪ねさせていただいたのですが、何分古い縁ですので切嗣さんのことを知らず、結果的に無体を働いたようでして、はい」

 

 慌てたのか、彼は妙に恐縮したまま言葉を繰っていた。

 そんな少年の様子に藤ねえは俺への揶揄の表情は引っ込めて、苦笑交じりに執り成した。

 

「あー、ごめんね。無駄足になっちゃったか」

 

「いえ、お気遣いなく。むしろこちらこそ申し訳ないです。他界なさっているのを知らない上に、こんな日に来てしまうとは重ね重ね不調法かと。……本当にすみません」

 

 元のなんとも言えない丁寧な語調。年とそぐったものでない上に変に堅い。

 それが藤ねえには可笑しいのか、何この子と小さく訊ねてくる。――まだよく分からないよ。

 

「そんな堅くならなくてもいいのよ。士郎と同じくらい年でしょ、君」

 

 年上の女の人に半笑いのままそう告げられた彼は、困ったように微笑んで固まっていた。……こちらを見遣るが、何をしろと?

 

「……えっと。この話し方は性分ですので、笑ってご容赦頂ければ。年齢に見合わない話し方なのは自覚してはいるのですけど、はい」

 

 たどたどしく告げてから、あ、十三歳の中学二年生ですと申告する。……同い年か。

 

「あれ、士郎と完全に同じなんだ。へー、しっかりしてるね」

 

 気の抜けた声に、彼は少し肩を落としてから「いえ」と返す。それを見兼ねたのか、藤ねえは半笑いで手を振って断った。

 

「お家の都合って言ってたし、緊張してたのかもしれなけど楽にしていいいからいいから。……ところで、そのお家の都合ってどうしたの?」

 

 これまたお気楽さを強調した言い回し。しかし応える語調は堅い。それは当然のこと。

 

「父が死去し、家を私が継いだので、かつて親交のあった衛宮さんにご挨拶をと思いまして」

 

 その内容に、年上の彼女は揺らしていた体を硬直させた。バツが悪そうに目を逸らす。

 

「ごめんね、考えなしに訊いちゃって。……どこの辺りの家なの?」

 

「浅谷です。地主をしておりました。……藤村組とは全く関係ないです」

 

「あちゃー。でも、私の名前を聞いて極道の娘とは分かる程度なんだ?」

 

 普段のおちゃらけた様子、今の気楽そうな口調からは想像できないほどテキパキと話を進めていく藤ねえに驚きながら、二人のやりとりを眺める。

 気がつけば、自然と場が二人の会話と挨拶に移行していた。

 

「あ、はい。それは、一応。地縁などで揉め事は起こしたくありませんし。正直、この機会にこうして多少の縁を繋げたのは喜ばしいことです。正面からお話を伺いにいくのは、いささか避けたくはありましたから」

 

 若干つっかえながらも、ほとんど淀むことなく言葉を紡ぐ彼。そつがないのに割と本音を伝えるその話し方に、彼女も好感を抱いたようだった。仕方ないな、とでも言いたげに頬を緩める。

 

「こう訊くのも良くないのかもしれないんだけどね。その切嗣さんへの挨拶って手紙では駄目だったの?」

 

「いえ、(せん)も言いましたが古い縁ですので、現住所が正しいのか判らなかったですし、礼を通したり、その他にも直接伺いたいことがあったので。ですので、こうしてお訪ねさせて頂いたのです」

 

 先程の己にされたものの繰り返しの説明。それに藤ねえは納得したように頷くと、ぽんと手をたたくような素振りを見せた。

 

「そっかそっか。……うーん、士郎、八鍵くんを連れて切嗣さんのお墓参りに行ってくれば?」

 

 突然の提案。

 それは話の途中で外に目を遣ってからのもの。だが、それは元々考えてはあったもの。

 彼女は雪空の様子を見て思いついたのだろう。

 

「最初からそのつもりだよ」

 

「ん、なら行っておいで。そしたら八鍵くんも交えて夜ご飯にしよう」

 

 何がいいかな、寒いから鍋とか? などと思案して。そのほっそりとした(おとがい)に手をかけた彼女は少し楽しげで、でも気遣わしげだった。

 恐らくは、親を亡くして、という部分を慮ってのこと。こういうところがこの人らしい温かみに溢れていて、でも開けっ放しを過剰に装って居ることが分かって。

 少し、不器用だと思うところ。

 

「いやいやいや、何故に私が相伴に預かることになっているのですか」

 

 語調の乱れた彼の物言いに、藤ねえはなんでもないように頷いた。自分も続いて当然といったように首を振る。墓には日が落ちる前に行きたいし、それでも八鍵からは親父との話を聞きたい。ならばご飯などで時間を共にして、話の続きを聞こうと思うのは己の中では自明のことだった。

 それはきっと藤ねえも考えたこと。そしてそれには、この苦労している年下の男の子への気遣いがあったのだろう。それを俯瞰するようにして気付いた自分に、内心で小さく苦笑する。

 

「八鍵、迷惑だったか」

 

「いや、そんな訳ではないんだが。……こちらこそ迷惑ではないかと思ってな」

 

 やはり遠慮がちな態度に被せるように、藤ねえは勢いよく手を振って語を継いだ。

 

「なら決まり! 八鍵くんも一緒に食べるのー!」

 

 元気よく、子供っぽく言い切った彼女に、同い年の少年は苦笑すると、少しだけ嬉しそうに首肯した。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「……こんな事を聞くのも難だが、藤村さんと言ったか、あの人に何があったんだ? ……その、涙の跡があったようだけど」

 

 吹雪の気配すら漂わせてきた、空模様が不穏な墓参りの道行き。

 その最中におっかなびっくりといった風情で訊いてきた八鍵。気不味げな様子に誇張はなく、故に気遣いを回す余裕はないらしい。

 

「今日は切嗣――親父の命日だっていうことは話しただろ? 言ってしまえばそういうこと、なんだけど」

 

 皆まで言うのを躊躇って、口元で誤魔化す。それに彼は何かを察したように視線を巡らし、曖昧な笑みとともに細い息をついた。そして、両の瞳に灯る光が増したような気配。

 

「あぁ、なるほどな。……慕ってた訳か」

 

「たぶん、ね。切嗣は徹底して藤ねえを子供扱いしてたけど。――いや、子供扱いとは違うのか」

 

 記憶を浚いつつ話せば、怪訝な目を向けられる。それにかぶりを振れば、「すまない、踏み込み過ぎたな。不躾だった」と謝罪が飛んできた。

 

 降りてきた沈黙を縫って、黙々と墓前まで足を進める。

 そのまま手際よく線香の用意をして、しばし手を合わせて沈思した。

 

 ――今日は爺さんを訪ねてお客さんが来たんだけど、どんな繋がりだったのかな。

 ――藤ねえは、今日もお姉さんやってたよ。

 ――もう、一年も経ったんだよ。

 ――どうすれば良いのか分からないけど、俺は――――。

 

 止めどなく、いつかもの景色を瞼に浮かべる。

 そうして最後の言葉を綴りかけたところで、ふと、横を見た。

 

 

 ――静謐な空気さえ身に纏わせながら、真摯に両手を合わせて目を閉じている八鍵の姿――。

 

 

 視線の先にはあったのは、そんな彼の姿。

 少しも彼のことを何も知らないというのに、その態度だけで人となりが分かるという錯覚をするような、そんな印象的な祈り。哀惜と弔意、そしてどこか羨望と敬意を感じさせる、摯実なもの。

 

 だから――だからこそ。

 

 

 何が彼をこうさせているのか、それを確かめたい。

 

 

 そうした思いが、強まった。

 伏し目がちにかぶりを振りながら、「救わ……なを……? いや、これは違うか」と、不明瞭な呟きを漏らして、彼はこちらに向き直った。

 

「寒くなってきたなぁ」

 

 夜が迫ってきていることが分かる程度には、墨黒の色が橙と青の入り交じる上に霞み始めた夕空。

 八鍵はゆっくりと首を巡らせながら、暮れの空を見渡して呟いた。

 

「……だな。もう済んだし、帰ろうか」

 

「悪いな、俺も線香あげさせてもらって。……家族の時間を邪魔したか」

 

「いや、こっちから付き合わせたんだから、問題ないよ。変に気を遣うなって」

 

「……そうか」

 

「そうだよ。切嗣だってあんなに真剣に祈ってもらえたんだ、きっと喜んでるさ」

 

 思っていないような言葉が、しかし見せられた様子に釣られて出てきた。

 彼は軽く目を瞠った後、後頭部を片手で掻きながら気恥ずかそうに墓に会釈した。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「八鍵くん、ほら遠慮しないで食べて食べて」

 

 どこぞの世話焼きおばさんかと突っ込みたくなるような風情で、食を次から次へと進めるのは我がお隣さん、藤村大河。

 対して進められるままに鍋から己の皿に具をよそっている八鍵は、彼女の勢いの良さに目を白黒させながらも頷き、少し幼気(おさなげ)に、しかし気色が隠せない様子で盛られた肉と野菜の小山を崩している。

 

 囲んでいる夕食はしゃぶしゃぶ。常なら争奪戦の色さえ見せるこの食卓がこんなにも和やかなのは、客人の前で虎が大人しくなっているということよりかは、奮発してケチらず高い材料をたくさん買ったということが強く起因していた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 墓参りの帰り道。

 マウント深山商店街に寄った俺らは、夕飯の材料の買い出しをしていた。

 

「しっかしどうしようかな。鍋じゃ手間を掛けるにも限界があるぞ」

 

「……何の話だ?」

 

 八鍵が不思議そうに訊ねてきたのに、こともなげに応じる。

 

「ん? いやこっちの話――じゃなくて。今夜は元々豪勢にするって藤ね、藤村さんと約束をしてたから、どうしようかって思って」

 

「別に普段の呼び方で良いぞ。気にすることないだろう」

 

 墓参りのとその行き帰りの道中でいくらか話したからだろうか。被っていた猫がいくらか剥げたらしく。皮肉げに口許を歪めた彼は、くつくつと少しだけ楽しそうに揶揄の響きを載せた言葉を投げかけてきた。

 

「お前、分かっててからかってるだろう」

 

 ジト目で軽く不平を告げるが、さてな、とチャシャ猫笑いで誤魔化される。

 

「そもそもお隣さんと夕食を一緒にするって前提がおかしいと気付け」

 

 …………。いつものことだから考えてもみなかった。

 その指摘に固まっていれば、「とりあえず、出汁に拘ったらどうだ?」と建設的な意見を告げられる。

 

「あ、あぁ、そうだな」

 

 色々と見透かされていたという事実を、ゆっくりと自分の中で消化して受け止めながらどうにか返事をすれば、「やっぱりお前が料理係だったんだな」と納得した様子の声を掛けられた。

 

 ……どうでもいいようなことばっかだけど、次々と俺の家の内幕が察せられてる……! なんか危機感……!

 

 そんな内心に構わず、彼は学生が持つには似つかわしくない高級そうな財布をポケットから取り出し、さっと中身を確認してから牛肉の吟味を始めていた。

 

「あら、士郎ちゃん。お友だちかい?」

 

 見慣れた肉屋のおばちゃんが、気安い様子で声を掛けてくる。

 

「あ、いえ……どうでしょう?」

 

 正しく言おうとすれば説明が長くなり、どうした言い方が正解か分からずに言葉に詰まった。その様子に怪訝そうな目を向けられながらも、「一緒に夜ご飯を食べるんだろう?」と尋ねられる。それに俺が頷けば、素早くおばちゃんは八鍵に目を向ける。だが、それに少し少し瞳を揺らして目を逸らす八鍵。

 

 そんな俺達の様子に「かーっ、思春期の男の子って面倒くさいね。ほらおまけしてやるからこれ買っていきな」と、ちょっと普段は手が出ないような、お高めの肉を指差してきた。

 

 恐らくは若干のお祝いの意図と、彼の財布を見てのことだろう。抜け目なく商売上手な彼女の弁に、同い年の少年は苦笑して了承の返事をした。そのまま支払いを済ませ、少なくないおまけの詰まった袋を下げる。

 支払いを持たれてしまった。それもだいぶ高額の。断ろうと財布に手を伸ばし掛ければ、「良いって。金はあるから」と制される。

 借りを作ることを渋る意を見せると、料理をしてもらうんだから、これぐらいはお相子の範疇だと言われた。

 

 既に終わってしまっていることであるから、そこまでは不承不承ながらも了解する。しかし、どうにか残りの食材の支払いを持つことで話をつけ、二人でたくさんの食材を抱えて帰宅した。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

「どうしよう、吹雪いてきて電車止まっちゃったって」

 

 食後、満腹の腹を抱えながら三人でテレビを眺めていれば、ニュースの左下の速報で交通情報が流れていた。

 

「道路も駄目みたいですね。タクシーもこれでは呼べないか」

 

 若干、焦りを孕んだ声を上げるたのは八鍵水明。買い物の時の一件や財布もそうだが、自然とタクシーという選択肢を思い浮かべる辺りに、なかなかの裕福さを感じる。

 ここまでの会話を受け、ふと思いついて声を掛けた。

 

「……なぁ、八鍵。今日は泊まっていかないか?」

 

 この食事中、切嗣について知っていることを尋ねたり、直接聞きたい要件とは何だったのかと突いてみても、結局のらりくらりと躱された。

 だが話をする彼は、十分な好感をもつに足るものだった。

 (ゆえ)に困っているならと、そう思っての提案。それ一もなく二もなく賛成したのは、藤ねえだった。

 

「あ、なら私が連絡しようか。お(うち)に誰か居るかな、八鍵くん?」

 

 あっけらかんと尋ねられたことに、彼は眉を上げて返答した。

 

「……誰もいませんね。八鍵の一族には、私しかもう居ないので」

 

 天使が通り過ぎたように、無音が数拍足踏みをした。

 

 どうにもならない告白に黙り込んでしまった俺と彼女は、取り繕うように言葉を重ねようとする。

 それらに先んじて、八鍵が口を開いた。

 

「――いえ。ではこちらこそ、一晩の宿をお願いします」

 

 そう願ってきた表情は、酷く強張っていた。

 

 

 

 

 

  *   *   *

 

 

 

 

 

 夜も更けて。

 藤ねえは帰った家でとうに寝こけ、泊めた八鍵も案内した部屋で寝静まっているであろう頃。

 雪を降らせるのをぴたりと止めた空を見上げて、俺は庭を歩いていた。

 足が向かうは、庭の片隅にある土蔵。当然、歩いている時間などほんの僅かのこと。それでも寒さに身を震わせながら、雪で底明るい夜の空気を凝縮したように凍える扉を開いた。

 すかさず入り込み、ガラクタの修理品であるストーブを付けようとする。早く暖を得ようと、間髪をいれずそれを奥から引き出し、前に屈み込んだ。あっという間にかじかんでしまった手で、ぎこちなく着火の操作をする。

 思ったように指が動かないためか、なかなか炎は点いてくれない。

 落ちついて両手に血を通わせようと、息を吐きかけながら擦れば、口から立ち昇った白いもやが天井を舐めた。しばし両腕を交差させるように組んで、脇に手を挟む。いくらか血色が戻った頃合いを見てからもう一度火を灯し直せば、今度は素直に周囲を暖かく照らした。

 

「よし」

 

 座り込んでから、己に当たる光の暖かさに細く息を吐き、目元を緩める。

 そして、「ならば」と。

 独り言じみてはいたが、最初の目的を果たそうと――魔術の練習を始めようと居直った。

 まずは手近なところに置いてあった、ハンカチで試す。

 

「――同調(トレース)()開始(オン)

 

 まず、魔術を行使するために魔術回路を造り出す。

 それは、脊髄に炉に赤熱するまで入れた鉄棒をまっすぐ差し込むようなもの。

 

「――基本骨子、解明」

 

 確実に命の危機を感じる()()に向き直り、正面から受け止める。微弱な魔力を通してから、目の前にある布の解析を始めた。

 

「――構成材質、解明」

 

 造り出し、物体に通す魔力を徐々に増やしながら、物質の構造を細く細く縫うように染み渡って己に詳細を教えてくれるように加工していく。

 

「――、基本骨子、変更」

 

 最初の干渉のキー。染み渡った魔力を元に、手元に収まったハンカチの存在理念から構成を変えていった。

 

「――、――っ、構成材質、補強」

 

 二つの術式のキー。変更し、成り代わったこの布にふさわしい在り方を、物体として補強する。

 

「――――全工程(トレース)()完了(オフ)

 

 そして確かに魔術が成立したのを見て取り、結びの唱句を紡いだ。

 

 

「……こんなものかな」

 

 人差し指でピンと弾く。青緑の魔力が回路図の様に転写され、布にあるまじきほど硬質化したその一枚は、きぃんと、やはり布が鳴らすとは思えない高い金属音を鳴らした。

 

 それを人差し指の先に乗せ、くるくると回して弄んでいたら、ほどなくして強化が解けてふわりと指を包み込む。

 今度は弾いても、指同士を叩いた時のくぐもった音がするばかり。

 つまり、ただのハンカチとなっていた。

 

 長い溜息をついて、ストーブの脇に寝転がった。手に持ったハンカチを胸元に置き、手足を気ままに投げ出す。

 そうやってゆっくりと腕を動かしていたら、思いがけず床に適当に転がっていた鉄パイプに手が触れた。

 そのまま片手で拾い上げ、寝転がったまま目の前に掲げる。そして思い立つまま魔術を掛け始めた。

 

「――同調(トレース)()開始(オン)

 

 先ほどと同じ、呪文の始まりのキー。

 

「――基本骨子、解明」

 

 背を焼く幻痛を感じながら、少しずつ力を込めて魔術を紡いでいく。

 

「――構成材質、解明」

 

 いつもより詳細に解析することを意識して、深く深く魔力を染み渡らせる。そのせいか造り出した魔力回路の持つ熱が、いつもより高いような感覚さえあった。

 

「――、基本骨子、変更」

 

 その唱句を起点に、違和感が無視できないほど大きくなってきた。手に持った鉄材が震え始め、碧緑の魔力光の線が、異常な明滅を始める。――(まず)い……!

 

 慌てて手放すべく、立ち上がりながら打ち捨てるように投げた。床に勢い良く衝突したことを引き金としてか、破裂する鉄パイプ。

 

「手酷い失敗をしたな……」

 

 後退りながら爆発に耐えきってから、呆然と呟く。

 あぁ、どうして気もそぞろに魔術を使ったのだろうと、強い後悔の念に襲われた。

 

 

 そこに唐突に鳴り響いた、悪意を持つものを知らせる警告の音。

 

 

 我に返って結界による柏木のような音が鳴った原因を警戒していれば、音もなく月明かりが差し込む。

 

 土蔵の扉が開いたのだ。

 そう直感して振り向く前に、その声が耳朶を貫いた。

 

 

 

 「あぁ、……本当に酷いな」

 

 

 

 唐突に後ろから掛けられた声。それは今日一日で聞き慣れてきたもの。

 

 

 

「……怪しいとは思ってたし、泊まることを誘われて、謀られたことを考えていれば魔術行使を知覚して。だから警戒して来てみれば――――居たのはとんだ半人前以下の、自殺志願者じゃねぇか」

 

 

 

 吐き捨てるように言った彼――八鍵水明は、心底不機嫌そうに腕を組み、扉に浅く凭れるように寄りかかってこちらを見据えていた。しかし、方向が悪いのか、影が濃くて表情は見えない。

 

 

 

「……衛宮、お前は何者だ。一体、()()()()()()()

 

 

 

 そう問い、顔を上げた八鍵の顔に光が差した。

 思わず、呻くほどの重圧。

 

 

 やっと見えた彼の瞳は色は、燎原のものか、焦熱のものか。

 

 いずれによ。

 

 

 ――――隠しきれない怒りに染まり、赫灼と赤に燃えていた。

 

 

 

 




お読み頂きありがとうございます。

……余談ですが、先日の低気圧通過の際、作者は落雷により作品データ+PC本体を消し飛ばしました。現在環境こそ復帰してますが、消えたデータは復旧しておりません。見込みもありません。オフライン執筆派の悲哀です。
そのためこれからの更新が若干滞りがちになることをご了承下さい。しばらくは気力維持のために、この作品の執筆にある程度専念いたしますので更新ペースを上げられますが、詳細なプロットや構成をまとめたファイルが消滅したので2章以降、特に3章以降が非常に遅遅としたものになります。

6/16追記。
少し書き溜め期間に入ります。翌々土曜日までお待ち頂ければ幸いです。
詳細は下記活動報告にて。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=217205&uid=269693

また、アンケートご協力をありがとうございました。詳細は同じく活動報告に記録してあります。


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