官営巨大浴場の午後 (ゐづみ)
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官営巨大浴場の午後

 ――ピコン。

 ポケットの中の携帯端末が振動して、通知音が発せられる。

 目の前の男が、下卑た笑みを浮かべながら、露骨に促すような視線を向けてくる。荒い鼻息を私の額のあたりに浴びせかけながら、それが自分の送った何某かのメッセージであるということを必死にアピールしている。

「……見てもいいですか?」

 不快感を滲ませないよう、最大限の笑顔を取り繕いながら男に問いかける。「あぁ、いいよぉ」と、口吻を粘つかせながら男は答えた。

 右手のストロークを緩めないまま、左手で携帯端末を取り出し、ホロディスプレイを立ち上げる。ポップアップで表示されたメッセージは、男からクレジットが送付されたことを伝えていた。相場の約半額。

 案の定、これは男からの“後”の誘い。応じれば、残る半額が支払われる。たとえ応じなくても、送られた半額を返す必要はなく、割高のチップとして有難く受け取っておけばよい。きっと大抵の職員はそうしていることだろう。付いた職員みんなにこんなことをしているのだとしたら、小金持ちの道楽というには羽振りがよすぎるし、何より下賤極まりない。吐き気のようにせり上がってくる嫌悪感に、今すぐ右手に掴んでいるものを握り潰したい衝動に駆られてしまう。

 しかし、努めて平静に。私は特に表情を変えないまま携帯端末をポケットにしまい、そのまま業務を継続する。男の嘗め回すような視線に気付かないふりをしながら、右の手元をじっと見つめる。にちゃにちゃと、気色の悪い湿った音をたてながら私の右手は一定のペースを保って上下している。

 唐突に、男は果てた。何の前触れもなかったのでとっさに対応できず、吐き出されたものは私の顔面を汚した。きっとそれが目的だったのだろう、先ほどまで息を殺していた男は、「へへへぇ」とか「ごめんねぇ」とか、間抜けた表情を張り付けながら譫言のように呟いている。肩で息をしながら吐き出される口臭が、私の鼻腔をツンと刺激した。

 前髪や頬についたものをウェットティッシュで拭いながら「かまいませんよ」と一言。憎悪に近い忌避感をなんとか脇に押しのけながら、慈愛の表情を浮かべる。私が笑顔を向けると、男はより一層満足した様子で、濁った眼球をぎょろぎょろと泳がせた。

 後処理を終えて、ズボンのファスナーを上げてやると、男は立ち上がり部屋を辞去しようとする。そしてその直前に「それじゃあ、待ってるからね」と吐いた。その五月蠅の羽音のような醜音に肌が粟立つような気がした。

 男が出て行った直後に、二、三回咳き込む。そして再び携帯端末を取り出して、表示されているクレジットの額をぼんやりと眺めていると、新たなメッセージを受信した。男から送られてきたそれには、近隣のホテルの名前と部屋番号と時間のみが記されていた。

 

「しっかしギノセンセイもひでぇことするよな。いくら俺たちが警邏中だったからって朱ちゃんを派遣するかね、普通。ほとんどセクハラでしょ」

 公安局刑事課所有のパトカーが首都高を疾走している。

 運転席には監視官・常守朱が座っているが自動運転でハンドルが格納されているため、手持無沙汰をしてる。助手席には執行官・征陸智己が、後部座席には同じく執行官・縢秀星が座っている。このスリーマンセルで警邏にあたっていたところ、とあるレジャーホテルに設置されたスキャナーから急速な色相悪化が検知されたとの情報が、そのホテルのオーナーよりもたらされた。局舎にいた宜野座から、至急現場に急行するようにと、常守達に指示が下ったのがつい先ほどのことだ。

「こんなの絶対性犯罪がらみじゃん。純朴な朱ちゃんにはまだ早いって」

 軽口を叩きながら余裕を見せているようで、その実どこか浮足立ったような縢の態度から、その発言は翻って自分自身に言い聞かせているものなのではないかと、常守は思った。

「あのね縢くん、私もいい大人なんだからそのくらい大丈夫だよ。公安局に入った以上、そういう事件に遭遇することだって覚悟の上だから。それに、早いとかいうんだったら、縢くんだってそうでしょう。私とそんなに歳も変わらないんだし」

「はぁ~わかってないなぁ朱ちゃんは。俺が何年執行官やってると思ってんの。そんじょそこらの犯罪なんてだいたい珍しくもなんともないわけよ。性犯罪だって、俺にとっちゃ日常同然。ちゃちゃっと現場に急行して、パパっと執行して、ハイ終了ってなもんよ」

 などと言いつつも、その表情や言葉端からは焦燥の色が伺える。一刻も早く臨場したいと、言葉以上に顔色やしぐさが雄弁に語っている。そして常守自身も、やはり平静ではいられない。まだ事件性が確定していないとはいえ、場所が場所だけに、急がなければ取り返しのつかないことになりかねない。縢の軽口が憤りの裏返しであるということは、常守にも理解できた。

「まぁまぁ二人とも、そうカリカリなさんな。検知されたのはまだ色相の悪化のみ。しかも、現場のホテルってのはセックスセラピー施設のすぐ隣じゃねぇか。大方、わきまえてねぇ患者が職員にちょっかい掛けようとしてストレスになったってところだろう。よくある話さ」

 二人の焦りとは裏腹に征陸の態度はひょうひょうとしたもので、その発言に常守は憮然とする。

「そんな言い方、人の身に危険が迫っているかもしれないんですよ。それにこれがもし女性のものだとしたら、抵抗も出来ない可能性だってあります」

 ホテルのオーナーからの情報は色相の悪化が検知されたということのみで、個人情報は伏せられている。しかし、もし誰かが襲われているのだとしたら、それは女性である可能性が高い。

「しかしなぁお嬢ちゃん。女性といってもそれはおそらくセックスセラピストだ。しかも施設の外でってことは業務外ってことになる。多分だが、客から金を握らされて時間外営業させられてるんだろうさ。金欲しさに自分から危険に飛び込んでるんだ、そういうのは自業自得っていうんじゃないか」

「それは、そうかもしれませんが……かといって見過ごすわけにもいきません」

「だから今こうして俺たちが向かってるんじゃねぇか」

 征陸は一係の中でも最年長者であり、その超然とした視座や物言いは幾度となく他のメンバーを救ってきている。しかし、常守にはその超然が時折怜悧なものに感じられることがあった。ある種の諦観にも似た感情が、その時の征陸の声色には宿っていた。

 普段は優しく頼りになる人物だからこそ、こういった時にどういう態度をとればいいのか、常守には解らなかった。ただ、焦ったところで事態がどう変わるわけでもないということも事実であるため、ここで憤っていても仕方がないというのは征陸の言う通りだった。

「しかしまぁ、何とも業の深いことだよな。官営のセックスセラピーなんてものは」

 ふと、征陸は車窓を眺めながらつまらなさそうにごちた。

「お嬢ちゃん、賤業って言葉を知ってるかい」

「卑しい職業、という意味でしょうか」

「昔は売春をする女性を差して賤業婦なんて呼んだもんさ。今となっちゃ信じられない話だし、そんな言葉を口にすりゃその時点でサイコパスが濁っちまいそうなもんだが、嘗ては金を貰って性的に奉仕するなんてのは卑しいことだと考えられていたのさ」

「そんな、労働に貴賤なんてあるわけがありません。それに、セックスセラピーの事業は厚生省が認可したれっきとした医療行為です。売春なんて言わないでください」

 征陸の屈折した物言いに、常守は明確な批判の意志で対応した。古い時代を知っているからこそ、征陸は時として旧態依然とした差別的言動を垣間見せることがある。それは知識として得難いものである一方で、本来なら規制されて然るべき葬られたはずの歴史を紐解くことにつながる。国民が知るべきこととそうでないこと、シビュラシステムというフィルターを通すことで精神的安定を皆が保っている中で、古い時代を知るものの言葉というものは、時として人心を惑わしかねない。

「労働に貴賤はない、か。それなら俺たち執行官は一体どうなるんだろうな」

 その自嘲を孕んだ言葉に、後部座席の縢が息をのむ気配がした。そして常守もまた、返す言葉を失ってしまう。

「犬と蔑まれ、誰もやりたがらないコロシを率先して行う。罵られこそすれ、人に感謝されることなんてありゃしない。別に恨み言を言うつもりはないんだが、この時代の賤業といや、間違いなく俺たちのことさ。誰だって自分の労働は貴いものだと思いたい。みんながみんな上を向きながら生きていけるわけじゃない。見下ろした時に、そこに誰かがいる必要があるのさ」

 征陸はセックスセラピストを賤業だといっているわけではない。明確に人々の忌避を集める、潜在犯が従事する執行官という業務が誕生したことで、前時代に賤業だと扱われていた数々が相対的にその位を高めたのだ。嘗ては卑しいとされた物事が、歴史の欺瞞によって他と等しく貴いものだと扱われる、前時代を知る身としてその違和感に日々言い知れぬ感情を抱いているのだろう。しかし、そう察したところで、シビュラ以前の時代を生きていない常守には、征陸の心情は想像するに余りある。

「お国から金を貰って性的奉仕をする。俺たちの若いころの時代じゃ考えられなかった話さ。だが、この時代に生まれたお嬢ちゃんや縢にとってはそいつが当たり前になってる。嘗ては卑しいとされた仕事が貴いものとされ、皆が喜んで従事する。そいつが俺にはどうにも不気味でね。いつも思うのさ。『成しうる者が為すべきを為す』、賤業と呼ばれた仕事を為すべき者ってのは一体どんな人間なんだろうなってな」

 シビュラ・システムによるサイマティック・スキャンによって、人は己の成すべきことを教示される。自分が何のために生まれてきたのか、その答えをシビュラなら教えてくれる。常守は職業訓練修了後、シビュラによって十三省庁六公司すべてに対して適正判定Aを貰っている。その中には、セックスセラピーを所管する厚生省健康局も含まれていた。自分がもし公安局に入らなかったとしたら、複数の有り得た未来の中にはセックスセラピストとしての自分というのも存在していたのだろう。今となっては想像もつかないが、それがシビュラの示した未来であったのなら自分は迷わず受け入れただろうと、常守は思った。

 

 世の中には、何をやらせてもうまく出来ない人間というのが存在するが、私はそれだった。

 勉強、運動、創作、コミュニケーション、どれをとっても人並み未満の結果しか残すことができなかった。人間だれしも何かしらの才能に恵まれているものだと信じたいが、自分の最も秀でているとされる点ですら人並み程度の結果しか出せなかったとしたら、それはもう何をしたところで人から抜きんでることはできないということだ。特技らしい特技を持たず、何をしてもうまく出来ずに周りに迷惑をかけ続ける、つまりは生きることに向いていない。

 そう思っていたからこそ、シビュラ・システムによってセックスセラピストという生き方を提示されたときは、はっきり言って困惑した。厚生省健康局が所管するセックスセラピーは主にメンタルケアを目的とし、また、配偶者を得られないような性的嗜好に瑕疵のある人物を対象とした事業だ。配偶者を持つ者であっても、ふたりの性生活に不和が生じることは往々にしてあり、その際に利用してもらうことで不和の解消するサポートをしている。

 自分が他人の性欲処理に向いているだなんて、俄かには信じられなかった。というのも、自分自身、こと性愛に関しても異常性を自覚していたからだ。端的に言うと、私は恋愛体質だった。シビュラの示す相性適正を参考にせず、自分が感覚的に好きだと思った相手に求愛してしまう、いわゆる変人の部類なのだ。当然、告白された側は、相性適正が合致しないかぎり私を袖にする。これまでの人生で、私の恋が成就したことは一度もない。

 シビュラのお告げではなく、自分の嗜好によって相手を吟味する私が、アトランダムに割り当てられる対象に性的奉仕をするセックスセラピストが向いているとはとても思えなかった。

 しかし、さすがはシビュラ・システムといったところで、いざ業務に従事してみるとそれが杞憂であったことを思い知らされた。

 好みでもない相手に対して愛想を振りまくことへの嫌悪感は確かにある。しかし一方で、性処理を行うこと自体にさほど抵抗はなかったのだ。なぜかと問われると言葉に詰まってしまうのだが、大きな苦も無く日々の業務を全うできるということは、それが自分に向いた仕事であると考えて間違いないだろう。

「最大多数の最大幸福」を謳うシビュラの恩恵に浴することで、何の才能も持っていないと思っていた私に、人並みに活躍できる場所が与えられた。反骨する嗜好を持つ私にすら、シビュラは幸福を分け与えてくれる。こんな私にも務まるお仕事があるのだと教えてくれて、まさにシビュラシステム様様であった。

 だというのに私は、恥知らずにも未だにシステムの逸脱を試みてしまっている。

 指定されたホテルの部屋に入ると、男は半裸でベッドに腰かけて携帯端末を触っていた。私の入室に気が付くと立ち上がり、「まってたよぉ」と震える声でつぶやいた。

 現在は業務の時間外、これはセックスセラピストとしてのお仕事ではなく、あくまで私が個人的にこの男に会いに来たに過ぎない。自由恋愛という建前の、ありていに言ってしまえば売春行為だ。

 セックスセラピーと売春には明確な区切りがある。個人間での直截的な金銭のやり取りが発生するか、本番行為を伴うか、そして何より、官営施設のなかで行われるか否か。厚生省健康局が運営するセックスセラピー施設以外の、いわゆる風俗営業を行う施設はすべて違法であり摘発の対象となっている。廃棄区画にでも潜れば、或いは今でも営業しているところがあるのかもしれないが、そんなところに足を運ぶよりも個人を買ったほうが労力もリスクも少なく済む。

 恋とは犯罪同様心の病だ。シビュラの声に従っていれば、自分が最も愛することができるパートナーを見つけることができるし、そんな相手と添い遂げることができれば心身の充足は概ね果たされる。自由恋愛などという建前を必要とするということは、自分が異常者であると自覚しているということになり、売春を企図するような人間とはすなわちシステムのつまはじき者である。それに応じでしまっている私もまた、まともな人間であるはずはない。

 何を期待してここにやってきた。当然、お金のためだ。そうでなければ、こんな醜い男に抱かれてなどやるものか。

 つい数時間前に発散させてやったはずなのに、男の欲望は既に露骨な高まりを見せていた。私が近づくと、男は目を泳がせながら、ひゅーひゅーと細く短い呼吸を繰り返した。男が現在身に纏っているのは縞柄のトランクスのみで、滲んだ手汗をそれでごしごしと拭っている。緊張しているとでもいうのだろうか。私は怪訝な視線を男に投げかけた。それは、業務中では絶対に見せない様な険のある表情で、男はびくりと体を震わせた。

「あ、ま、まさかほんとに来てくれるとはおもってなかったから、びっくりしちゃってねぇ、ひひひ……」

 口角に泡が堪っている。トランクスの縁に乗った腹肉には無造作に体毛が生え散らかっている。頬をぼりぼりと引っ掻くと、剥がれた角質がフケと一緒に宙を舞った。もう耐えきれないとばかりに、股間にはすでにシミが広がっている。化け物じみた醜怪さだ。

「そう、なんでもいいけど、さっさと済ませてしまいましょう」

 こんな醜い男の雑談に付き合ってやる必要はない。

 私もベッドに腰かけ、衣服に手を掛ける。

「ぇえ、そんな急がなくっても、いいんじゃないかなぁ。もっと、おしゃべりとかしてからでも、ねぇ……」

「別に喋ることなんてないから。早くして」

「でもでも、まだ心の準備がぁ」

 身体の準備は万端だというのに、今更何を言っているのか。そもそも、セックスセラピーの利用者として接したことは複数回あるわけで、今更話すことなどなく、心の準備もなにもあったものではない。

 私が無視して服を脱ごうとすると、徐に男はにじり寄ってきた。巨体の移動に合わせて、ベッドが大きくきしむ。

「じゃ、じゃあ、始める前にせめて手を握ってほしいんだな」

 そう言って男は手を差し出してきた。

 酷く煩わしい。

 こんな関係に、過程など何の意味もない。しかし男は、私から何か、セックス以外の言葉や行動を引き出そうとしている。肉体の快楽以外の何かを求めている。もしかするとそれは、文字通り恋愛に類する感情の動きなのか。それともただ単に、施設以外で私に手を出すことに躊躇いを覚えていて、呼びつけたくせに襲い掛かる度胸もない意気地なしだというだけなのか。

 男が何を求めているのか、私にはさっぱり理解できなかった。そんなことよりも、さっさと行為を始めてしまいたかった。

「そんなのどうでもいいからさ」

 私は下着姿になり、立ち上がる。向こうに度胸がないのなら、私の方からのしかかって、さっさと終わらせてやる。焦りを見せる男にかまわずに、肩を突き飛ばして組み敷いてやると思い立ったその時だった。

 部屋のドアが乱暴に開け放たれた。

 

「公安局だ! 動くんじゃねぇぞ変態野郎」

 勢いよくドアを蹴破った縢がドミネーターを構えながら突入する。

 案の定、部屋の中には半裸の男女が居て、まさしく事を構える直前といった様子だった。方や若くて華奢な女性、方や小太りの中年男性、欲望のベクトルは一目瞭然だ。

 すかさず縢はドミネーターの照準を男に合わせる。

『犯罪係数・オーバー100。執行モード・ノンリーサル・パラライザー。慎重に照準を定め、対象を制圧してください』

 ドミネーターから発せられる志向性音声が、シビュラの神託を執行官に告げる。目の前の男は幸福な社会を犯す病理であり、隔離すべき悪である、と。

 縢に続き、常守が入室する。征陸は外での有事に備えて、玄関付近で待機している。

 突然の出来事に、部屋に居た二人は唖然とした表情だ。

「こ、公安局……なんで」

「おめぇが来てからこの部屋の空気がどす黒くなったって通報があったんだよ。この潜在犯が」

「潜在犯……ぼ、僕が? うそ、う、嘘だぁ。僕が、そんなぁ」

 シビュラの目を欺くことはできない。ドミネーターが判断を下した以上、この男の執行は既に決まっている。いくら動揺しても、懇願しても、その事実が覆ることはない。

 女の方も怯えた様子で、とにかく射線から離れるべく二、三歩後退る。縢が銃口を男を釘付けにしているので、その背後を回って、常守が女の元に駆け寄る。

「安心してください。もう大丈夫ですから」

 衣服を拾い上げ、女の肩を抱きながらゆっくりと縢の背後まで連れていく。一先ず女を保護したことで、部屋の真ん中にはドミネーターと対峙する男だけが取り残された。

「そんなぁ……こんなのひどいよ、あんまりだぁ」

 男は眦に涙を溜めながら、縋るような視線を縢に向ける。涎と鼻水でぐしゃぐしゃになった中年男性の顔は、縢の不快感を猛烈に煽る。

「なんでこんなことに、ぼくは、ぼくはただ……」

「動くんじゃねぇ!」

 ベッドの縁に腰かけていた男が立ち上がる。あまりの恐怖に失禁してしまったのか、下着越しに染み出した尿がぼたぼたと滴り落ちて床を汚す。がくがくと震えながら、滂沱の涙を流してただひたすらに現実逃避の呪詛を繰り返し繰り返し吐き続けている。

「ぅぅぅうぁあぁんまりだぁあああああああああ!」

 突如、なにかに取りつかれたかのように男は縢に向かって突進してきた。

 縢はすかさずドミネーターのトリガーを引き絞った。

 放たれた神経ビームは男の額を貫く。

「ぁヴっ!」

 濁った悲鳴ともに、一瞬にして男は昏倒した。自らが作った尿だまりに倒れこみ、べしゃりという汚らしい音を室内に響かせた。

 再びドミネーターのトリガーはロックされ、縢が銃口を下ろす。部屋には静寂が訪れた。

 見たところ女に外傷はなく、男を制圧したことで事件は未然に防がれた。男を搬出するために縢はドローンを手配。未遂とはいえ事件性が確認されたため、征陸は封鎖の段取りを行っている。

 常守は保護した女を介抱しながら、顛末を宜野座に報告した。

「宜野座監視官、突入の結果潜在犯を一名発見、これを確保しました。悪化が確認された色相は、この男のものだと思われます。これより、男を連行します」

『馬鹿を言うな。その部屋のスキャナーは未だ色相の悪化を検知しているぞ』

 携帯端末越しに、宜野座の怒号が飛ぶ。

 その言葉に、常守は自分の耳を疑った。

 現在宜野座は、ホテルのオーナーの許可を得て室内のスキャナの情報をリアルタイムで確認している。その宜野座が、現在も室内に色相重篤者が居るといっている。

 考えられるのは当然、保護した目の前の女しかいない。

「それは、私たちの突入によるストレス作用ではないのですか」

『いいや、想定値をはるかに超える悪化量だ。君たちはそれほど乱暴な突入をしたとでも言うのか』

 公安局に遭遇したとなれば、やはり被害者であっても精神に相応の負荷がかかる。そもそも、事件に巻き込まれている時点で色相悪化は不可避だ。しかし宜野座は、それらによって想定されるストレス以上の悪化を検知しているのだという。

「この部屋には気絶している潜在犯の男を除けば私と縢くん、そして被害者の女性しかいません。つまり、スキャナが検知しているのは彼女の色相ということですか」

『あぁ、そのようだな。そして、その女性の色相は君たちがその潜在犯の男とやらを制圧した直後に急速に悪化している。一体何をしているんだ』

 事件発生によるエリアストレスの増大、およびそれがトリガーとなるサイコハザードの拡散。陰惨な事件が衆人環視の元で発生したとあれば大規模な色相汚染は想定してしかるべきだが、事件は未然に防がれしかも目撃者は被疑者と被害者の二人だけだというのが現状だ。女性が極度にストレス耐性の低い体質であるのかとも考えたが、であるならばまず男に襲われた時点で相応の反応が現れるべきだろう。男を制圧した後、つまりは自身の身の安全が確保されたと同時に色相が濁るという心理状況が、常守には理解できなかった。

(それだとまるで、この女性が襲われることを望んでいたみたいじゃないですか……)

 常守は女性の肩を抱きながら、その表情を確認する。突入した直後に比べ、今はだいぶ落ち着きを取り戻しているようだ。いつの間にか携帯端末を手に取り、ホロディスプレイを起動していた。そしてその表示を眺めながら何か物憂げな色を浮かべており、傍らの常守には特に注意を払ってはいない。

 とにかく、このままこの部屋に留まっている必要はないため、被疑者の男性が運び出されたことを確認し、女性と共に部屋を出ることにする。もし宜野座が言う通りこの女性に色相汚染があるというなら、早急なメンタルケアが必要となる。狡噛や宜野座なら、即座に女性にドミネーターを向け犯罪係数を測定するところだろうが、常守は被害者の女性に銃口を向けるようなことは極力避けたかった。

 常守の先導になんら異を唱えることなく女性はついてくる。なにやら思案に暮れているようで、ふらふらと覚束ない足取りが見ていて危なっかしい。

(一体何を考えているの?)

 

 ――ピコン。

 ポケットの中の携帯端末が振動して、通知音が発せられる。

 傍らに立つ公安局の監視官は端末で誰かとやり取りをしている。執行官は気絶した男をドローンと共に運び出している。それぞれ、若い男女だ。私よりも年下かもしれない。若いのにこんな危険な仕事をしなくちゃいけないなんて大変だなぁ、偉いなぁ、なんてことを考えながら端末を取り出す。

 ホロディスプレイを起動すると、蛇の形状をしたホームセクレタリー・アバターがポップアップされた。

『緊急です。緊急です。現在の貴方の色相は急激な悪化傾向にあります。早急なメンタルケアを推奨します』

「……え?」

 常に私の心理状態を測定しているAIが警告を発している。私の色相が、濁っている?

 あの男とセックスしかけたから? いや、それを承知の上でここまで来たはずだ。今更心理的負担になるはずはない。それに、もしそのことがトリガーだったとしたなら、もっと早い段階で濁っていたはずだ。

 公安局の立ち入りに気が動転してしまったとか。しかし、突入してきた刑事たちに対して、私は何ら圧力を感じてはいなかった。確かに驚きはしたし、生でドミネーターを発砲するところを見たのは初めてだったけれど、公安局と健康局は同じ厚生省が所管するいわば同僚のようなものだ。研修等でノナタワーに足を運ぶことも多々あるので、公安局の職員だって、はっきり言って見慣れている。

 それなら、私は一体何にストレスを感じているというのだろう。

『最寄りのケア施設はこちらになります』

 ホームセクレタリーがマップを起動し、その上に幾つかの輝点を表示する。ここから徒歩圏内にある私の心理に効果的だとされる種々のメンタルケア施設が列挙されている。そして、ここから最も近くに会ったのは私の職場だった。

 AIが私のメンタルケアに向いていると判断したケア施設。これまでの人生で重篤な悪化を経験したことがなかったため、どんなケアが自分に効果的なのか、調べたことはなかった。まさか、セックスセラピーが自分の色相をクリアにしてくれるだなんて、思っていなかった。

「……あ」

 つまりは、そういうこと?

 私のメンタルは性的快楽によって癒される。いいやそれどころか、セックスを取り上げられると私の色相は濁ってしまう。あの男とセックスをしそうになったから濁ったんじゃない。その逆だ。私は、公安局によってセックスを中断させられたことによって、メンタルに打撃を受けてしまったのだ。

 信じられない。認められるわけがない。

 私が、あんな醜い男とのセックスを望んでいただなんて。お金ではなく、医療的な奉仕精神でもなく、唯々純粋に肉体の快楽を求めていただなんて。

 だが、シビュラシステムを前にすると、人の心理は丸裸にされてしまう。私の思い込みや信念など関係なしに、シビュラは私の深層を詳らかにする。虚飾など剥ぎ取られ、欺瞞など破り捨てられ、本来あるべき心の形がデータとして現れる。

 私のメンタルは、セックスによって保たれていた。セックスセラピストが天職だった、それは当然だ。奉仕する以上に、私の心が満たされていたのだから。

 何をやってもダメな自分に与えられた唯一の取り得。医療行為としての性処理で他人のメンタルを正常に保つ、貴いお仕事。

 何が貴いものか。ただ自分が満たされたかっただけではないか。ただ肉欲の虜となっていただけではないか。

 私は、私という人間は、私という存在の役割は、ひたすら性欲に支配されている。私は他人と交わるためだけに生まれてきたのだ。

 私を保護するために傍らまで来てくれた監視官の女の子。私より若いのに、執行官の指揮を執り、犯罪者たちを取り締まっている。彼女に与えられた役割とはすなわち正義。この国を守るために戦う、シビュラの銃口。危険が伴うため高い能力が求められる、故に貴いお仕事。彼女はシビュラシステムによって、その貴い職務にふさわしい人間であると判断された。

 彼女が羨ましい。正義を執行する権限をシビュラによって与えられた、社会に不可欠な存在、才能あふれる貴い人間。そんな彼女が、とても、とても。

 それに比べて私は、どうしてこんなに卑しいのだろう。肉欲が詰まっただけの、人の形をしたただの容れ物だと、シビュラは私にそう言ったのだ。お前にはセックス以外に何の取り得もないのだと、そう宣告されたのだ。

 いやだ。気付きたくなんてなかった。心の上澄みの部分が、深層に沈むどす黒い私自身を否定したがる。無駄だと諭す私と、それでもと抗う私が相争って今にも張り裂けてしまいそうだ。

 でも気付いてしまったのだ。あの執行官がドアを蹴破る寸前、確かに私はあの男に抱かれることを期待していた。あの醜さに蹂躙され、職員としてではなく、一人の女として汚濁に塗れることを望んでいた。あの男が心の準備だなんだと言って過程を重視することがじれったかった。そんなものはいいから一刻も早くセックスさせてくれと心の底の部分では願っていたのだ。

 気付くべきではなかった。まだ気付いてなんかいない。これはまやかしだ。色相の悪化で私は錯乱しているだけだ。認めない。認めない。違う。あんな気持ち悪い男と交わりたいわけなんてない。お金が欲しくて仕方なくやってきただけだ。他意なんてあるはずない。セックスはお仕事。セックスは医療行為。望んでない。ほんとはしたくなんてない。公私混同なんてしてない。仕事の合間も興奮なんてしていない。全然、全然、何も思っていない。何も感じていない。違う、違う。私は、私は――

「私は、そんな人間じゃない!」

 叫んだ瞬間、ふと我に返った。

 気付かないうちにホテルの部屋を出ていた。

 目の前にはドミネーターを構えた壮年の男性が立っていた。

「あぁ、俺だってそう思うよ。こんな人間になりたかったわけじゃないんだがなぁ」

 あの監視官の女の子が制止しようとした瞬間に、壮年の男性はトリガーを引いた。

 身体に衝撃が走り、私は意識を失う。その直前に男性が哀し気な視線を私に向けていたことを、目覚めた私は真っ先に思い出すことだろう。



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