黒の手帳は何冊目? (久聖)
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自由と放埒の一日  ゲストなし

プレーン味です。


 

 聖ヴラホの姿を戴く門をくぐり、狭い石門を抜け、壁が絞るように迫る長い階段を登りきると、空が視界すべてを青く染める。

 

 右頬にアドリア海の潮風を受け、神崎蘭子は大粒のルビーの瞳を輝かせた。八重の桜が咲くように色づく蘭子の横顔に、黒薔薇の日傘を差しかけている青年が表情をゆるませる。

 

 不意に潮風が暴れ、城壁の上がさざめきたった。蘭子の黒い厚手のドレスも逃げ散る小鳥の羽音を真似てフリルを踊らせ、青年の掲げる日傘はコウモリのように羽ばたいた。

 

 蘭子がほかの観光客のように慌てないのは、二秒と待たず、オトモの青年が大柄な身体を風よけにするからである。

 

 ゆるく巻いたツーサイドアップの髪を白い指で整える。冬の透明な陽光で、手は絹に、髪は銀糸になって、ほのかな薔薇の香をまといなおした。

 

「見よ、友よ。黄昏に囚われし原始の揺籠を」

「壮観ですね、神崎さん」

 

 二人の目に、生命力を感じさせるオレンジの屋根が陽光にきらめく。ここはクロアチアの南端にある都市・ドゥブロヴニクの旧市街地である。

 

 緑が多くを占める城壁の外とはことなり、家々はひしめきあいながら、あたたかみのある乳白色の壁をオレンジのいらか波の隙間から波頭のように覗かせ、深い青色の本物の海に圧し迫っている。

 

 頭上の空、右のアドリア海、奥に囲まれた港の浅瀬、三色の青のいずれとも美しいコントラストを、オレンジの人工の海は描き出すのだ。

 

「このひとときを不易のものとせん」

 

 日傘とともに気取る蘭子を社用のデジタル一眼のファインダー越しに見つめ、何枚となくその姿を電子データと記憶に焼きつけていく。まだあどけない顔がいっそう幼く満足気に微笑むと、青年はカメラを下ろした。

 

「なかなかよく撮れたと思います」

「ほほう。黒き翼が切り取りし刻の断片は……」

 

 大きい手のひらのなかの小窓を、二人は額をつきあわせて覗きこむ。ロケの前泊の一日を使った観光ではあるが、オフショットの数枚も抑えておきたいというのは、アイドルの職業病なのかもしれない。

 

「さすがは瞳持つ者。電光水晶の鱗を通しても曇りを知らぬと見える」

「ありがとうございます」

「そ、それで、その……。輝かしきはど、どの残影か……?」

 

 紅玉の瞳が見上げた鋭い三白眼は、わずかに瞼の裏に隠れ、迷いなく一枚の画像を示す。それは、視界の端を飛んだ鳥を反射的に追いかけて視線を外した、一瞬の横顔だった。

 

「かすかに陰を感じさせる表情が大人びて、とても良いと思います」

 

 その一枚も感想もまったく予想の外にあった蘭子の、目と口を丸くして慌てふためく姿を、青年は有機的なフィルムにのみ焼きつけて、おだやかに笑む。

 

「いっ、いざ、真珠を愛する女王の海へ」

 

 押しつけた日傘でカメラを封印し、蘭子はストラップシューズの丸い爪先をアドリア海を臨む回廊へと向けた。

 

 

 

「ふむ、長靴(ちょうか)の踵は人魚のヴェールの向こうか」

 

 片手をひさしにし、もう片手は低い壁につき、蘭子は大きく身を乗り出した。肝を冷やしてその細い胴体を抱きかかえた青年は、はっとして周りを見回す。自分がひと拐いと間違えられて、はるか外国に来てまで警察の世話になっては情けないし、なにより蘭子の楽しみを潰してしまうことになるのだ。

 

 さざ波が銀青色に輝くアドリア海を背に、また写真を撮る。内容を確認していると、青年の肩を太い指と陽気な英語が揺すった。

 

“ちょいと、ミスター・カメラマン、あたしたちも写してよ”

 

 目を点にする二人に、声のとおりに恰幅のいい中年女性と、対照的な体型の少女がにっこりと笑いかける。母娘らしい二人から二歩だけ下がったところで、目許にシワの多い男性が帽子を脱いだ。

 

“お願いできませんか、旅の記念には家族三人で写りたいものですから”

 

 父親につづいて娘、母とおなじことをいい、青年もそれを蘭子に通訳する。

 

「少し、お待ちいただいてもよろしいですか」

 

 蘭子は紅唇を尖らせたが、瞳を閉ざしたまま一度きり頷いた。頼まれごとを真面目にやってしまう性分なのはわかっていたし、自分と歳の近そうな子供の手前、駄々をこねるのもみっともなく思えたのだった。

 

 聞き取りきれる英語ではなかったが、ミスター・カメラマンの一語くらいは蘭子にもわかった。

 

 そのひとはカメラマンじゃなくて、わたしの……。ふだんいい慣らしている友の二音に詰めこみすぎたものを心のなかで広げようとして、蘭子は短い眉を寄せた。一〇個ほど単語を並べてみても、しっくりくるものが

見つからなかったのだ。

 

 三人家族の期待どおり、そして蘭子の案の定、青年は淡々と写真を撮った。青年の態度がプロフェッショナルに見えたというよりは、水を差されないのが彼らにとっては良かったのだろう。

 

 日傘を回しながら蘭子はそんなことを考え、膨らせた頬からいきおいよく溜息をつく。アドリア海の雲は、のびやかにただたゆたうばかりだった。

 

“ありがとう、ミスター・カメラマン。とっといてよ”

“いえ、大したことではありませんので……”

“大したことよ”

“私らの思い出を残してくれたのだからね”

“いえ、しかし”

“自分の仕事の価値を決めるのは自分一人ではないだろう?”

“……”

“ようしわかった。待たせちゃったあの子への詫び賃よ。日本人はそういうの大事にするんでしょう”

 

 否定しきれない青年にチップを握らせると、家族は二人の歩いて来た方へ、談笑しながら去っていった。

 

 郷愁にも似たざわつきと見送るのもそこそこに、青年は一番の大事に取りかかる。海から蘭子の視線をとりもどすのだ。

 

「神崎さん、お待たせいたしました。少し歩けばカフェがあるそうですから、一休みはそこでにしましょう」

 

 ややあってから、下唇を巻きこんだ口で、赤い瞳が振り向いた。

 

「なれば、さきがけてコウモリに安寧の刻を与えよう」

 

 差し出された日傘を青年が日傘をたたむのを見届けると、蘭子は歳のわりに豊かな胸を反らして頷き、身を翻して走りだした。日傘の留め具を掛けながら、青年は城壁上の遊歩道に可憐な漆黒の蝶を追う。

 

「お待ちください神崎さん! 冗談ではなく本当にあまり先へ行きすぎないでください! 私が二秒以内に触れられる範囲に留まってください!!」

 

 数字の根拠は不明である。

 

 青年の不安と裏腹に、ドゥブロヴニクをはじめ、クロアチアの治安は著しく良い。女性の一人旅も不安なし、とは旅行代理店の謳い文句である。この青年にかかれば、“女性ではなくまだ少女です”と反駁されるだろうが……。

 

 彼の声は聞こえていたが、蘭子は脚をゆるめなかった。腕を広げ、ペースを気にしない解放感が、コートとドレスの裡から細い身体を衝き動かす。

 

 背中を追う青年の目に、不満にくすんでいた少女の顔が海と空に洗われて、明るさをとりもどしていくのがわかった。

 

 ……だからといって、この追いかけっこをだらだらとつづけ、蘭子を危険に晒していたくはない青年である。振り向き振り向きして、彼の追いすがるのを楽しんでいるのはいいが、つまりそれは前方不注意なのだ。

 

「さあ、捕まえましたよ。楽しんでおいでなのはいいですが、言葉の通じない場所だということは忘れないでください」

 

 胸を腕ごと、片腕で抱き上げられた蘭子は、楽しそうな悲鳴を上げて両脚を地上数センチの空中で躍らせる。それを離れたカフェのテラス席から見咎めた二人の、これもまた対照的な体型をした警官が駆けつけてきた。

 

“なにをしてる”

“……誤解です”

 

 苦りつつ、そっと蘭子を地上にもどし、青年は身分を開示した。彼が勤める346プロダクションの名刺には英語も併記されているのが、いまは役立った。

 

“本物ですかね?”

“ああ、誤解だったかな。この子も逃げようとしないしな”

 

 警官同士の会話がクロアチア語で行われるのは、英語しか話せないであろう被疑者に聞かれないためではなく、彼らも英語を話し慣れていないからである。

 

 事務的な確認の会話の平坦さは、英語の聞き取りもままならずに見守る少女の心を波立たせた。

 

 自分がかばわなければ。また身柄を確保される前に。

 

「ひ、ヒーイズマイマン!」

“ほう?”

 

 横合いから上がった意外な声に、太い方の警官がべつな疑義を深めた。

 

“誤解です。彼女は私を呼ぶとき‘我が友(マイ・マン)’といいますから、それを三人称にも使えると思ったのでしょう”

“本当に? ‘恋人(ハー・マン)’ではない?”

“だとよかったのですが”

 

 軽くなりかけた口をつぐみ、青年は襟を正した。

 

“私は彼女の保護者です”

「イエス、ア・デーモン!」

 

 蘭子の意図したのは守護神(Daemon)であったが、陽気な警官たちは悪魔と勘違いして、ひとしきり笑ってから、愛らしい天使とかしこまる悪魔に別れを告げた。

 

「神崎さん。今後、私を説明するときは、“マイ・デーモン”にしてください」

「友では不服か」

「さきほどの英語は、呼びかけにしか使えない言葉ですので……」

 

 青年の助言にしたがい、城壁上の回廊の端のカフェにはいるや、蘭子は白い右手を閃かせた。

 

「テイクオーバースローンズ、マイデーモン!」

 

 “我が守護神、玉座を平らげよ”英語でも<闇の言葉>が健在なことは、彼の予想を超えていた。

 

 警官とおなじ誤解をした客や店員の視線が、悪魔の背中をチクチクと刺す。視線を海と空と蘭子のほかに向けないように努める青年とはちがい、自慢の守護神への畏敬の視線と思う被保護者は終始ご満悦であった。

 

 

 

 活力をとりもどした二人は城壁上をひとめぐりし、はじめの階段を降りた。来たときには視界にはいっていなかったオノフリオの大噴水は、傾きはじめた陽射しで金色に染まっている。

 

 そこからまっすぐ東へ三〇〇メートルを延びるプラツァ通りを、おなじく金色に浮かび上がる時計塔まで散策する。

 

 磨き上げられた石畳は音さえ高く反射させる。路地から洩れてくる生活音とこの目抜き通りの喧騒の合奏をBGMに、ときおり野良猫がステップを踏んで少女の赤い瞳を楽しませた。

 

 時計塔の下に広がるルジャ広場の南側へ、築三〇〇年になる聖ヴラホ教会の脇を抜けて進めば、ドゥブロヴニク大聖堂の威容が見えてくる。青みがかったダークグレーのキューポラが目を引く、バロック様式の建物だ。

 

「おお、上天の白を纏いし邸よ……」

 

 窓から差しこむ夕陽が厚みのある白の壁にやわらかく受け止められ、静謐とぬくもりを堂内に満たしている。

 

「この大聖堂は、イギリスの獅子心王リチャードⅠ世の寄進によって修繕され、地震によって崩れたあと現在のこの形に造り直されたそうです。修復の都度、建築様式はバシリカ式、ロマネスク式、このバロック式と変遷してきたと……」

 

 青年の解説はほとんど少女に聞こえていなかった。壁や柱にかけられた絵を見ることに全神経を傾けており、歩き方もおぼつかない。

 

 よろける細い背中を三度目に抱きとめたとき、このままかかえて移動しようかと彼は思った。

 

 大聖堂の主祭壇には一六世紀のヴェネツィア派画家・ティツィアーノの作品、聖母マリア被昇天が飾られている。青い服を着た聖母マリアが、ヨハネを含むだろう信者たちに見送られ、両腕をそっと広げて天使のお迎えを受ける様子を描いたものだ。

 

 おなじテーマで彼がヴェネツィアの教会に贈った油彩画では、マリアの視線の先に天主たる神が待っているが、この絵には描かれていない。

 

 蘭子は絵を見上げ、息を呑んで、のけぞりすぎて両手をばたつかせた。

 

「神崎さん、周りにひとがいますから、気をつけてください」

 

 これを見越して背後に控えていた青年がすばやく細い肩をつかまえたので、少女は絵のなかの聖母とおなじようなポーズで固まった。気づいた青年が笑う。

 

「天使が迎えに来てしまいますよ」

「フッ、我は我が意志によって地上に留まる。迎えなど追い返すだけのこと」

「頼もしい限りですが、そろそろご自分の足で立ってください」

 

 笑い合う二人の横の扉から、観光客らしい若者たちが談笑しながら出て来た。扉を閉めた、彼らの仲間ではなく聖職者らしい初老の男に、青年は訊ねた。

 

“そちらの部屋にはなにがあるのですか?”

 

 施錠しようとした鍵束を胸の前で揺らして、神父は答える。

 

“こちらは宝物殿です。儀式用の道具の数々に、司祭たちの聖遺骨、それから街の黄金時代を彩った品を保管しております”

 

 ご覧になられますか、と伝えられた蘭子は、紅い瞳を輝かせて大きく頷いた。

 

 二人が通された小部屋は、安置された品々の黄金の輝きで満ちていた。額にいれられた聖母の油彩画。年季を感じさせる厨子に、祭りに使われるのだろう大小の飾り。

 

 そして、ガラスケースに収まった……。

 

「ひ、ひとの子の枝葉が!?」

 

 金細工で飾り立てられた、腕や脚の模型が並んでいる。蘭子の怖がりは遺憾なく発揮され、大きい体躯の守護神にしがみつく。

 

“神父さん、こちらは……?”

“そちらが聖遺骨です。腕の骨は腕の型、脚の骨は脚の型に収めてありまして、お恥ずかしい話ですが、どれにどなたの聖遺骨が収まっているのか、はっきりしないのです”

 

 口でいうわりには、からりと笑ってのける神父である。なかには、この街の守護聖人である聖ヴラホのものもあるのだそうだが……。

 

「よ、夜中に動いたりはすまいな……」

「お守りのようなものだそうですから、大丈夫でしょう」

 

 疲れと恐怖に脚を苛まれた蘭子をかかえてホールにもどった青年を、城壁で出会った二人の警官が出迎えた。

 

“まさか、逮捕状が?”

“それこそまさかだよ”

“仕事終わりの前のお祈りだ”

 

 こんどは、青年の通訳で警官の言葉を知る蘭子である。

 

「信心深いのだな」

“悪魔を見逃してるけどね”

“せっかく二度も会ったんだ。記念撮影をしてやるよ。悪魔は写真に写るのか、試してみたいからな”

 

 ニヤリとする警官は、素直に差し出されたデジタル一眼を受け取って構える。細かく注文をつけながら、キューポラの真下、もっとも光の柔らかに降り注ぐ領域で、熱心にシャッターを切った。

 

“ちゃんと写るもんだな、悪魔らしい顔で”

 

 からかいとともに返されたカメラには、薔薇か天使かという笑顔の蘭子と、ぎこちなく、悪そうに頬を引きつらせる青年が写っているのだった。

 

 

 

「楽しんでいただけましたか、神崎さん」

 

 空と海、二つの藍色の間から吹く風に当たりながら、二人は旧港のベンチに座っていた。背後に広がる旧市街には街灯のオレンジゴールドが、濃紺の空と美しいコントラストを織りなしている。

 

「うむ。……だが、安息の日だというのに、我が友は我が従者でありつづけた」

「外国で、あなたを独りで出歩かせるわけにはいきませんから」

「堕天の翼がともにある限り、煉獄の鎖は解けぬか……」

「それは、しかたのないことですが」

 

 大きい手が、端を下げる眉の上をそっと撫でた。

 

「神崎さんが楽しく過ごせることが、私の喜びでもあります」

「茨の棘によらぬ恍惚はないのか?」

 

 戸惑った青年の頬を、白く頼りなげな指がなぞる。おだやかな港の波音が、二人の耳にひびいた。

 

「ひとつ、ありましたが」

「なにか?」

「期せずして、もう遂げてしまいました」

 

 デジタル一眼の明るい小窓に、二人の対照的な笑顔が映し出される。青年はそこに写っているよりずっと自然に、苦くだが、笑った。

 

「カメラを向けられるとどうも意識してしまって。克服しないといけませんね」

「ふっふっふ、研鑽を積むならば力を貸そうぞ!」

 

 蘭子はスマートフォンを出し、デジタル一眼にも指をかけて、満面の笑みを向けるのだった。

 

 

(了)




ドゥブロヴニクを舞台にしていますが私は行ったことがないので、旅行サイトや旅ブログやGoogleMapのストリートビューを頼りに書いています。現実と齟齬があったら見逃してください。


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すくいの人形  ゲスト:今西部長

ホラー風味です。


 そう広くない倉庫の天井近くまで、ぬいぐるみと人形の数々が積まれている。それらを種々の段ボールに仕分ける三人の人影。

 

 影の一つ、初老の男が、腰をさすりながら小柄な背筋を伸ばした。

 

「骨が折れるねえ」

「夢灰色の導師よ、魔女の木槌に打たれぬよう」

 

 三角巾に銀の髪をまとめた少女が芝居がかった口調で諭すのに、ワイシャツの袖をまくり上げた大男が言葉を継いだ。

 

「すみません、今西部長。神崎さんも。私一人でやるつもりだったのですが」

「そりゃ思い上がりってもんだ、きみ一人じゃ終わらんよ」

「我らが力、いまさら拝辞はすまいな」

 

 今西と呼ばれたロマンスグレーの男に同調して、神崎という少女は笑った。ここにしまいこまれたどの人形よりも華麗な黒いベルベットのドレスが、フリルをゆたかに揺らす。

 

 この倉庫はドラマや映画の小道具として作られ、その務めを終えたものたちが眠る場所である。

 

 かつて青年はその何体かに、新たな仕事を与えるつもりだった。黒いドレスをまとった新人アイドル・神崎蘭子の君臨するゴシックホラー世界“ローゼンブルクエクリプス”の住人として。

 

 そのために彼らが供養に出される日を先延ばしにしてもらっていたのだが、はたして、その魔女王となるべき少女が望んだのは、光と闇との狭間に咲きほこる薔薇、ゴシックロマンの世界“ローゼンブルクエンゲル”であった。

 

 かくして人形たちはただ朽ちて供養を待つのみの身となった。状態の良好なものは残し、ほかを寺へ送るために箱詰めする作業は、彼らを預かった青年の負担である。

 

 そして、きょうがその作業日だ。

 

「これは……まだ残しておけそうですね」

 

 青年が拾い上げたビスクドールを見て、銀灰色の髪を戴く二人は小さく跳び上がった。

 

「い、いまこっちを見なかったか」

「ぱっ、パンタソスの悪戯よ!」

「人形は動きませんよ、部長。神崎さんのいうとおりです」

「いうとおりときたか……」

 

 少女の言葉は詩性に富み、その真意は捉えがたい。壮年の男も聞き慣れてはきたが固有名詞に弱く、“幻覚だ”と逃避がちに断じたと気づいたのは、部下のフォローあってのことだった。

 

 蜘蛛の巣を払ってみれば、見たところ保存状態は悪くない。ナポレオン時代の歩兵の出で立ちをした少年の人形は、青い目を力なく床に投げかけている。

 

「まあよかろ、たしかに状態は悪くはなさそうだね」

「はい、大きいですし、次の機会でよいかと」

 

 九〇センチほどもある大きい体は、球体関節で繋がっていた。

 

 なにげなく細い肘を深く曲げるとなにか強い抵抗を感じ、彼はそれ以上いじらないように、そっと幼い勇士をぬいぐるみたちの間に座らせた。

 

「う、うむ、疾く残る魂の選別を果たさん! 疾くな!」

「おや、神崎くんはもう怖くなったかね。ついこの前は、ここで眠りこけとったのに」

「あれは……。あれは異郷の地で乾いた魂を癒す闇に、夢魔どもが紛れ……」

「おかげで私の心臓は止まらずにすみました」

「代わりに、神崎くんの嗜好を誤解してしまったと」

「ひとのせいにはしたくありませんが、そうです」

 

 神崎蘭子は今西部長によって見出だされた。担当、すなわちこの青年に引き合わせるにあたり、一計が案じられた。この人形の倉庫で蘭子がビスクドールのふりをして待ち構え、青年が近づいたところで動き出して驚かす。機械仕掛けのようだった当時の彼を、ショック療法的に少しは人間寄りに引きもどそうとしたのである。

 

 もちろん今西としては、偶然つかまえた未来のアイドルの容貌を、効果的に自慢したい意図が多分にあったのだが。

 

 後半の目論見は大成功であった。妖気を放つ人形とぬいぐるみに埋もれ眠るゴシックロリータの美少女は、彼の記憶に強く残った。異様で妖しい雰囲気を過度に強めた形で。

 

「さて、こんなところかね」

 

 ほどなく選別を終え、三人は体を伸ばした。破損や汚損のあるものたちが整然と並んだ大ぶりの段ボールは三つ。

 

 はなむけの言葉を述べつつ封を施し、まだ倉庫に残るものたちにも別れを告げる。

 

「闇に飲まれ……よ!?」

「どうしました、神崎さん」

 

 青年が少女の引きつった顔を覗きこむと、真紅の瞳が怯えて見返した。

 

「いっ、いま、ナポリの獅子の兵隊が我をみっみっ見たっ……!」

「すっかり参ってしまっとるな。どうだね、三人でカフェで甘いものでも」

 

 老眼鏡の奥でむりに明るく笑い、今西は倉庫に鍵をする。

 

「そうですね。ぬいぐるみとはいえこれだけ運べばお疲れでしょう」

 

 青年の言葉は、視線を落とした拍子に途切れた。倉庫脇に並べた段ボール、その手前の一つに、一八世紀フランスの軍服を着た少年人形が手足を投げ出して座っていた。

 

 青年の様子におなじ方を見やった小柄な二人もともに絶句し、そして、三人まちまちに悲鳴を上げた。

 

 少年の首が、彼らに向いたのである。

 

 膝から崩れる少女を青年が支え、巨躯を翻して人形の青い視線からかばう。大人二人、腰だめに構えて人形の動向をうかがっていたが、それはただ力なくうつむくのみである。

 

「と、ともかく倉庫にもどしましょう」

 

 蘭子を壁に預け、青年はあらためて人形を手に取る。陶磁器でできたビスクドール。服もひじょうに細い繊維で織られている。ずしりと重たく、人間の子供らしくも感じるそれを、ふたたびぬいぐるみのなかにもどした。

 

 今西もふたたび、扉を閉め、鍵をかける。

 

「神崎さん、歩けそうですか」

「これしきのまやかしに、我が影を縫い止めることなどできはしないわ……」

「頼もしい限りだが、素直に大人を頼りたまえよ……」

 

 しわがれ始めた声が、冗談めきつつも震えた。その様子に振り向いた青年は目を見張り、喉を一度大きく動かした。

 

「か、神崎さん」

「なにか、我が友よ」

 

 両の肩をしっかとつかむ大きい手に、少女も異様さを感じる。

 

「いまは、私だけを見ていてください」

「なに!?」

「けっして、余所見をなさらずに……」

 

 言葉どおり、彼女の視界をふさぐように立ち、青年は小柄な体を抱えあげた。

 

 そして、不自然な向きでその場を離れた。怖がりな少女の赤い瞳に、上司が抑える扉からはみ出しもがく、軍服の腕を映さないように。

 

 人形のような美少女といっても、やはり人間は人間である。中空の磁器ではない。胸に抱いた肌は、あたたかくやわらかで香りたつようだ。混乱の渦中にある彼を、このぬくもりがうつつの岸辺に繋いでいてくれる。

 

 もっとも、蘭子自身は、別の混乱にとらわれているのだが……。

 

 それでいいと青年は思った。

 

 わけのわからぬまま階下のカフェに運んで、パフェなりクレープなりを食べさせてやればいいと。

 

 部長は心配でも、目下はこのか弱い少女を守らねばならないのである。

 

 青年が走ろうと脚に力をこめたのは、彼の上司が人形との力競べに敗けたのと同時であった。壮年の男の呻きに、青年はうつむきを深くした。その逞しい肩越しに、蘭子は見た。人形の突撃に壁へ叩きつけられる、かつて己を見出してくれた男の姿を。

 

「今西さん!」

 

 悲痛な叫びに、人形はぐるりと首を巡らせた。恐怖が身を縮ませ、蘭子はふたたび青年の胸におさまる。空虚な音が激しさを増して迫った。

 

 青年は太い両脚に絡みつくためらいを払い、ふたたびタイル張りの床を蹴る。わずかの内にあと数歩の距離までせまっていた人形を引き離す。

 

 次の刹那、どこにそれほどのバネを持つのか、彼を上回る勢いで飛び出した人形は軍刀を抜き放ちざま、緊張した足首を斬りつけた。青年と少女はもつれるように、つきあたりの扉のなかへ転げいる。

 

 人形は獲物を追い詰めたことを確信したのだろう。その歩みゆるやかに部屋へはいり、丁寧にも扉を閉めたの

だった。

 

 

 

 神崎蘭子とそのプロデューサーは、転げこんだ小部屋でたがいの無事を確かめた。大柄な彼の懐中で丸まっていたおかげで、少女に怪我はない。

 

「まあ、人形のサーベルが、本当に切れるはずもありませんね」

 

 かぎ裂きもないスラックスの裾を示し、男は自嘲した。あの瞬間、脚を切り裂かれたとばかり思っていたのだ。とはいえ。

 

「だ、だが、呪痕はありありと……」

 

 鉄扉と、小柄とはいえ大人の男を押し返す膂力でもって、硬い磁器の棒を叩きこまれたのである。その足首には、青痣が一文字に残っていた。

 

 気遣う少女に、青年は少しだけ強がった。もう一度抱き上げようとしたとき、硬質な音が楽しげに、暗い部屋へはいってきた。

 

 扉を閉める知性に、青年の口には苦いものがこみ上げた。片膝を立てて座ったまま、すがる少女を背に隠す。

 

 組み付いてくれば、倍を超す体格がある自分が有利だ。切れない軍刀なんか怖くないぞ。そう自分にいい聞かせながら。

 

 身構える二人に反して、人形は泰然と扉を塞いだままだった。逃げ道を喪った獲物をあざ笑うには、長いように二人には思えた。

 

「夜目は利かないようですね」

 

 小声を発した途端、人形はまっすぐに彼の喉元へ飛び込んだ。間一髪で身をかわし、二人はカーペットの上を転がる。勢い余った人形は壁で止まり、取り逃がした事実に呆然とうつむいた。

 

 一瞬の出来事に愕としたのは二人もおなじであった。だが、蘭子は赤い瞳の光を気力に増させて、震える足で立ち上がった。驚く庇護者をその目で制して、か細い手はブラインドを勢い良く巻き上げさせる。

 

 暮色を帯び始めた曇り空の薄明かりを見るより早く、青年は少女を引き寄せ、かばった。飛びかかる呪い

人形から守るために。

 

 しかし、青年の予想に反して、そして少女の睨んだとおりに、人形が跳びかかった先は窓であった。それが強化ガラスでなければ、猛然たる突撃によって破られ、怪物は地上に落ちて砕けていただろう。

 

 ふたたびカーペットに放り出された人形が黙念と立ち尽くすのを見届け、蘭子はスマートフォンに指を滑ら

せた。

 

『唐津悪魔は木霊の悪戯に踊る』

 

 状況によっては黒幕からの謎かけだなと青年は苦笑した。おなじように光る画面を操り、会話をつづける。

 

『あの人形は、音に反応して襲ってくるということですか?』

 

 蘭子は自信に満ちて頷いた。

 

『我が術法によりすべての音をかき消さん! この窮地を脱するのだ!』

 

 短時間のうちによく入力できるなと男が感心し、なにをする気か問おうとしたとき、蘭子の手元から暴力的な音楽が狭い部屋に反響した。

 

 地響き然としたチューバとティンパニ、鋭く速いトランペットとピッコロ。一七世紀の作曲家バルフィナンがギリシャの神々と巨人族との戦争を題材に書き上げた組曲“ギガントマキア”から“アテナの戦い”だ。

 

 戦女神アテナが巨人族最強の戦士と戦い、シチリア島によって圧殺するくだりを表現した楽章で、スケールの大きさと敵・エンケラドスの名が示す“大音声を鳴らす者”の号に恥じぬ……というよりは、もっと慎みがあっていいのではないかと思うばかりの凄まじい演奏である。

 

 ブラインドをわななかせ窓を震わす音響は、磁器の身体も痺れさせて出処をつかませなかった。痙攣したように向きを、体勢を変える異形は、巻き上げられたもう一枚のブラインドにも反応を示さない。

 

『お見事な機転です』

 

 声で会話しても安全なのだが、そうしなかったのは、二人もまた自分の声さえはっきりとわからないからである。

 

 蘭子はベルベットに包まれた胸を得意気に反らし、光る画面を掲げて出口へ歩を進める。彼にとっては意外なことだった。洞察がではなく、その勇気がだ。

 

 ホラーの苦手な怖がりの少女で、動く人形を見てしまってからは恐怖にとらわれているばかりだと思っていた。

 

 我が身と引き換えにしてでも守らなければとかたく心を決めていたものであるから、反対に蘭子に救われることになるとは、考えもしなかったのである。

 

 かつて上司のたくらみにのせられたとき、青年が出会った美しい人形は両目を閉ざしていた。

 

 彼はその双眸に、炎の色を期待した。かつて己が力不足から、アイドルになるという少女の夢を絶った罪。それを抱えたまま、また新人アイドルを育てる不安と怖れ。すべて見透かして灼き尽くしてくれる苛烈な聖火を、冷たい罰という救いを彼はそこに求めた。

 

 いま幼い背を守る青年は、恐怖を押し殺して毅然と前を向く少女の横顔に、生けるパラディオンの姿を見た。その紅い両目に、希望の灯を見た。そして決意を新たにする。この小さい戦女神を守らねばと。

 

 扉が開き、閉ざされた音響空間が綻ぶと、人形は痙攣をやめた。青年はそれに気づき、わずかな隙間から少女を外へと逃がす。跳ねようとした人形の足はもつれる。彼は押し出しざま、アテナの讃歌を響かせる光の盾を受け取っていたのだ。

 

 立てかけられていた鉤棒は、本来スクリーンを引き下ろすためのものだっただろう。だがいまこのひとときは、悪夢を打ち砕くつるぎとなった。

 

 音の奔流に感覚を閉ざされた人形は、ついにその頭を砕かれて、永遠に活動をやめた。

 

 

 

 扉から漏れる音がなくなり、蘭子と、意識を取りもどして駆けつけた今西はそっとノブを押した。不安げな二人に、青年は無事な姿で、おだやかな表情を返す。

 

 人形のいた場所を見て、蘭子は何度目かの青い顔を見せた。砕けた頭から、黄色くどろりとしたものと、黒く曲がった太い針が覗いていたのだ。

 

「こりゃあ、く、蜘蛛か……?」

 

 今西が老眼鏡をかけ直して息を呑む。

 

「はい。どうやら、大蜘蛛が人形の頭に巣食っていて、……荒唐無稽な推察ではありますが、糸を使って手足を操っていたようです」

 

 あの勇ましさはどこへか、頼りなく青ざめる少女に、青年は眉尻を下げた。

 

「きょうはあなたのおかげで助かりました。いずれ、お礼を」

「礼には及ばぬ。其方がいなければ我は人形の手にかかっていたのだから」

 

 スマートフォンを返す青年の腕に、しかし蘭子はすがった。たがいの震えをおぼえて、二人は視線を交わす。

 

「邪智の妖虫が火種を残すとも限らぬ。火神の威厳にて浄化せねば」

「ええ、残した人形たちもすべてお焚き上げしてもらい、倉庫は業者に清掃してもらいましょう」

「この部屋の惨状も、なんとかいいわけを考えんとなあ」

 

 三人の苦い笑顔に、金色の陽が差し始めていた。

 

 

 

 

(了)




※蘭子スカウトの設定は勝手に追加したものです。


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表裏一体  ゲスト:前川みく

コメディ風味です。


 三月にはいったばかりのうららかな日曜日、原宿の駅は若者の足音と話し声を吸いこみ、吐き出しつづけている。

 

 駅舎の呼吸が落ち着くのを待って、三人の男女が尖塔と三角屋根の特徴的な影へと歩み出てきた。

 

 代々木公園からの寒風にスーツ姿の大柄な青年が首をすくめる。春の息吹というにはまだ緑の薫りうすく、肌寒い。彼の前を歩く二人の少女は、大きい風除けのおかげで寒がらずに済んだ。……二人合わせてやっと彼と釣り合いそうな体格の差である。

 

 青年が襟を直して空を見上げる。厚手の白い雲がその目に見える速さで西の空から流れこんでくる。吹き寄すかたを眺めれば、色濃い雲の塊が三白眼に映った。

 

 こっちに来なければいいのですが……。

 

 口のなかでつぶやく言葉は、少女のはずむ声に吹き飛ばされた。

 

「フェルガナの馬の如く!」

 

 瞳に赤々と篝火を焚いて彼を急かすのは神崎蘭子。トレードマークであるゴシックロリータの豊かなフリルを反らした胸で持ち上げる。

 

「張り切ってるにゃあ~」

 

 それを微笑ましく眺めるのは前川みく。アイドルとしてのトレードマーク、白い猫耳はつけずに、赤いセルフレームの眼鏡をかけている。

 

 オフの日ではないが、ひとの多い場所で目立つことを避けるためのスタイルである。そのため、しゃべりかたには猫キャラが生きている。

 

「すみません。参りましょう、神崎さん、前川さん」

 

 青年は黒いベルベットの日傘を開いた。それが落とす影へ、雲を紡いだような二つの縦ロールがふわり翻る。蘭子のまとうさわやかなシャボンの風が彼の鼻をくすぐった。

 

 茶髪のショートボブが転がりこむのを見て、青年はゆっくりと歩を進めた。エナメルの靴がアスファルトを叩く音が半球の天蓋にこだまして、青年の耳と大きい手に快くひびく。

 

「そうだ、さっきのふぇる……がも? ってなんにゃ?」

 

 少し歩いてつかまった赤信号の交差点、みくが蘭子に訊ねた。

 

「んぬ……。わ、我が言の葉が響いたのではなかったのか……?」

「急げって感じなの大体わかるけど~……。フェラガモの馬ってどんなのかにゃーって」

「フェルガナですよ。ユーラシア大陸のほぼ中央にある地域のことで、脚力にすぐれた馬の産地です」

 

 三国志に登場する名馬・赤兎馬がこのフェルガナ産の馬、汗血馬だとする説もある。

 

「へぇー……。二人とも物知りだにゃ……。みく、距ぉ~離を感じちゃ~うにゃあ~」

「どこへ行くっ」

 

 日傘から白く弱々しい陽光のなかへ、みくがにじり出ていく。白いレース地の袖が伸び、くちなし色の上着を捕らえる。腕をとらえる赤いマニキュアの手を外そうと、ストーンを控えめに乗せた指に力がこもる。

 

「にゃー!」

「クックックッ、大魔王から逃れられると思うたか! アーッハッハッはむ……む?」

 

 みくが飛びついて口を塞ぎ、蘭子の高笑いを遮った。

 

「ただでも目立つんだから大きい声出さないのー!」

 

 白猫と黒猫のじゃれあいをほほえましく見守っていた青年は首許をおさえた。路上のそこここから、どころか停車している車からまで視線が集まってくる。

 

「むむむ、氷の矢」

 

 身を縮めた蘭子に信号が青い救いの手を差し伸べる。これ幸いと、三人は横断歩道を駆け出した。

 

 

 

「我が友よ、蝙蝠を下がらせよ」

 

 白と興味とを混色した衆目から逃げ切ってたどり着いた路地裏で蘭子が二人を振り向く。

 

 日傘をたたむ短い時間にも汗ばんだ体を風が吹き抜けていき、それぞれに首をすぼめた。

 

 蘭子が背にするのはコバルトブルーの重厚な扉だ。日焼けした赤色レンガの外壁に黒縁の大窓が釣鐘のシルエットを切り取って、ラグジュアリーな白いレースカーテンの裡から、陳列された種々の細工品が道行くひとに手招きをしている。

 

「な、なんか物々しいにゃ……」

「こちらが神崎さんの行きつけのお店……ですか」

 

 近く共演が決まった二人は、せっかくなのでお揃いの小物を身に着けて出ることにした。これまで蘭子の使うものは本人のデザインを元に作ってもらっていたのだが、今回は急な話のため、既製品を買いに来たのである。

 

「うむ、ここなるは我が庭のひとつ。ひとの世をはぐれた聖魔混淆の箱庭よ」

 

 いざ! と蘭子は扉を押した。コロコロとドアベルが鳴り、扉同様コバルトブルーに染まった店内から、おだやかな白い光とかすかな白檀の香気が洩れてくる。

 

「いらっしゃいませー」

 

 抑揚を欠きながら、流麗に歌う声が三人を迎えた。しかし背の高い青年にも声の主は見当たらない。右も左も視界のかぎり、見上げるほどうず高く商品が積まれている。おそらくは種類ごとに分けられて、しかしそのなかでは雑然とした小物たち。棚の端には連なった駄菓子まで掛けられている。

 

 青年とみくが目移り……というより、どこに視線を定めたものかわからないでいると、奥の棚の影から銀髪をボブカットにした青いドレスの女性が現れた。

 

「ごゆっくりご覧になってくださいませ」

 

 ていねいに頭を下げるその口調は、迎えの挨拶とおなじ調子だ。

 

 極彩色の棚の前で話しこむ蘭子とみくに、青年は買い物かごとおぼしきバスケットを持って行った。赤ずきんが葡萄酒や焼き菓子を運ぶような、舟型の籐のバスケットである。敷布は内装どおりの紺色で、いうなれば青ずきんバスケットだ。

 

「蜃の吐息に踏みいる道はない。たしかな黄金郷へつづく標を見出ださねばならぬ……」

 

 あれでもないこれでもないと賑やかにするうち、みくが拳を振った。

 

「まずは猫チャンにならなきゃ始まらないにゃ!!」

 

 そう叫んで棚の海へ消えたかと思うと、すぐさま猛然と駆けもどってくる。

 

「蘭子チャンは髪色に合わせてアメショになってもらうにゃ!」

 

 ……そういう本人の髪は茶トラの色だが、ふだんもいまもつけているのは白猫の耳だ。青年は大阪出身のみくなりのボケなのかと悩んだが、蘭子がグレイッシュな猫耳をつけて上機嫌だったので黙っていることにした。

 

「にゃ、にゃー……」

 

 蘭子は白魚の指を遠慮がちに丸めてみせた。取っているのは猫のポーズというよりは、前川みくのポーズだ。

 

「なかなかキマってるにゃ。もっと腰を意識してお尻をつき出すにゃ」

「もっと胸を張るにゃ」

「上目遣いにゃ!」

 

 はたしてなんの指導なのか……。これを放置すれば己の人格が疑われかねぬと、青年はゆるめていた目尻をふたたび硬質なものにした。

 

「ど、どうかにゃ、我が友よ……?」

「その……よくお似合いです……耳は。ですが……」

 

 火照った頬が瞳だけで青年を見上げる。深い青につつまれて、赤い視線は甘く香るようだ。言葉に詰まる青年へ、不意に横合いから声がした。

 

「失礼ながらお客さまにお猫さま。お連れさまは反応にお困りのご様子……。僭越ながらわたくしがアドバイスなどさせていただきたく存じますが、よろしいでしょうか」

 

 いつの間に近づいていたのか、青いドレスの店員が彼の真横に立っていた。

 

「先ほどから拝見させていただいておりましたが、お連れさまはどうやら大変な堅物でおいでのご様子。おそらくはお客さまのそのスタイル……人間の耳も猫の耳もお見えになられたお姿に、どちらかにしろという魂の叫びと、女子会の空気を壊してはならないという理性のせめぎあいによって口を利くことができなくなっておいでのものと推察いたします」

「ちがいます」

 

 喉は詰まったままだったので、青年は目で答えた。動けばヒトの耳が見える前川さんにも、それを指摘どころか気にしたことさえありませんよ。

 

「では失礼させていただきまして」

 

 そもそも彼を視界にもいれていなかった青い店員には目で語る言葉など通じない。彼女の会話の相手は客人たる蘭子であって、その連れや猫にではないのだ。あっという間に蘭子のヘアスタイルを整え、人耳を隠してしまった。

 

「う、うにゃー……」

 

 銀の猫娘は丸めた指を黒い青年の鼻先に寄せる。彼の喉につかえていた複雑な思いは、胸の奥まで押し下げられた。……ぎこちない笑顔を返すために。

 

「た……たいへん可愛らしいかと……」

「にゃー!」

 

 蘭子がすっかり猫になりきってしまい、みくは小さくガッツポーズをした。困惑の色を濃くしていく青年の目からはこぼれて、見咎められることはない。

 

「お連れさま、こちら初回サービスとなってございます」

 

 いつの間にか真横に移動してきていた青い店員が、かぶりを振る青年に紫色をしたプラスチックの猫じゃらしを差し出す。

 

「どうぞ存分におじゃらしあそばされませ」

「Pチャンのじゃらしかたも蘭子チャンのじゃらされかたもみくがバッチリ指導してやるにゃ!!」

 

 みくの鼻息は荒い。こわばる指は猫じゃらしをつまみ、高めに掲げて細かく揺り動かす。甘く握った小さい猫の手がそれをはじく。

 

「にゃあ~……」

「動きはいいけど鳴き声がダメにゃ!」

「た、戯れには戯れの歌があるのか?」

「通訳!」

 

 蘭子の言葉はだれでもたちどころにわかるものではない。それでも諦めるのが早すぎると強面の裏に苦みを隠し、彼は答えた。

 

「猫が遊ぶときはちがう鳴き方をするのですか? と神崎は申しております」

「にゃるほど。そーじゃないにゃ! “にゃ”だとみくとカブるから別なのにしてほしいにゃ! 猫メイツの少ないいまならやったモン勝ちにゃ!」

「増やすつもりなのですか」

 

 質問が低い声に乗ることはなかった。その答えを、みくが問わず語りにのたまったからだ。

 

「個性派猫チャンをアホ……んっ、山ほど集めて、イチコーナーからイチ番組に独立にゃあー!」

「さすがは軽食屋を占領した革命闘士。見上げた野心でございます」

 

 店員は本当に感心しているのか怪しい口調で拍手を送っている。鋭い三白眼はそれを横目に睨んだ。申し訳程度に。

 

「むう~……。みゃ、みゃうー……」

「そうにゃ! いい鳴き声にゃ!」

 

 律儀な蘭子の恥じらう声に耳をくすぐられ、みくの妙な褒めかたに胸がぞわりとして、猫じゃらしの動きが鈍った。

 

「そこにゃ! 両手で掴むにゃ!」

 

 フリルの両袖が伸び、猫じゃらしをはっしととらえる。しかしいわゆる猫の手なので、猫じゃらしは両手のひらをくすぐってまた宙空へと逃げていく。

 

 やる前は気が重くても、いざ始めてしまうと案外興が乗ってしまうとは、往々にしてあることだ。及び腰だった蘭子も体を動かすうち、歯を見せて笑うようになっていた。

 

 顔には出ぬが、もちろん三白眼の青年も。

 

 猫じゃらしを上へ下へ、右へ左へ、速すぎないよう捕まらないように泳がせる。前川みくがはじめの台詞と裏腹に彼にはなんの指示も出さないのは、猫にとって人間の動きなどどうでもいいためだろう。

 

 銀色の猫をじゃらすうち、三白眼の焦点はしだいに遠くへ移っていく。独り暮らしのしんと冷えた家のなかへ。まだ小さい、手のかかりそうな猫の姿をえがきだす。

 

 一日の疲れをかかえて家路をたどり、冷えたドアノブをひねる。後ろ手に鍵を閉めてダイニングの灯りをつければ、まだしまうには早いコタツ布団で丸くなっていた猫が、不機嫌そうに起きてくる。彼がスーツも脱がずにしゃがみこんで撫でていると、すぐに鼻を鳴らしてその手をすり抜け、食事の催促をする。

 

 すこし温めたキャットフードをいれてやって、水も替えて、ようやく彼も半額弁当で空きっ腹を満たす。入浴の解放的なひとときは、この空想のなかでは魅力を欠いた。

 

 上がれば日付も変わるころだ、洗濯の用意を済ませて床に就かねばならない。猫は一緒に寝たほうがいいという話を思い出し、枕許に丸くなる姿を想像する。

 

「んー、みゃう~」

 

 朝にはまた食事の催促で顔を叩かれて目を覚まし、寝転がったまま機嫌を損ねるまで猫を撫でる。

 

「みゃああ……。わ、我が主よ、の、のどはちょっと……」

 

 ……青年が夢想の世界から立ち返ると、銀猫の神崎蘭子が腕のなかにいた。胸板に後頭部をあずけて太い指先に白い喉を任せている。

 

 困惑した瞳と見つめあい、謝罪とともに青年は飛び退いた。離した指先に、滑やかな感触が残る。

 

「蘭子チャン、そういうときは猫パンチにゃ! セクハラPチャンを成敗にゃ! 猫の手スタンバイで間合いをとって、上から下へえぐりこむように打つべし! 打つべし!」

 

 いわれるがまま、指を丸めた手が交互に彼の胸を叩く。遠慮しているのか“叩いた”という感触のみのある猫パンチだ。むしろ青年のほうが、細い指を擦りむいたりしないか心配してしまう。

 

「胸板ポコポコイワしてやるにゃ!!」

 

 みくはみくでなにかのスイッチがはいったようだ。鼻息荒く拳を振り回している。目つき顔つきが心なしか、青年には猫のように見えた。

 

「蘭子にゃん叩きかたがちがうにゃ! そんなブリッコが彼氏にやるよーなの、好感度が直滑降にゃ! みくのお手本をよく見て! 姿勢を低くして目つきは鋭く体を揺らして隙をうかがって素早くばーし! ばーし!」

 

 猫としてのキャリアの差か、前川みくの猫パンチは厚い胸板にドスドスと突き刺さる。だまって制裁を受け容れるしか、彼にできることはない。手本どおりの型を蘭子ができるようになると、みくは下がってコーチにもどった。

 

「猫パンチ! 猫パンチ! 連打あ! ナイス!! 猫キック! いまにゃ! トドメの猫頭突きにゃあー!!」

「ちょっと待ってください」

 

 膝の痛みをこらえながら、青年は跳び上がろうとする蘭子の頭を両手でつかまえた。鋭い目のなかの小さく黒い瞳がみくをとらえる。

 

「前川さん、猫の動きのご指導をされると仰っていましたが」

「にゃっ! ちょ、ちょっと熱がはいりすぎて……あにゃにゃ……。 ね、猫チャンがひっかくのはー、好きとか嬉しいとかって気持ちの表現なんだにゃ♪」

「どついてどついて蹴ってトドメと聞こえましたが」

「Pチャンがそんな言葉を使うなんて珍しいにゃー」

「目を見て答えてください」

「お客さま、お猫さま、お連れさま、お楽しみのところたいへん申し訳ございませんがお時間でございます」

 

 店員の横槍に蘭子はぱっと離れてカチューシャを外し、みくは歳下の少女を黒い針から身を守る盾にした。

 

「なかなか面白い光景でございました。そちらの猫じゃらしは差し上げますので、ご来店の記念にお持ちくださいませ」

 

 そういえばこの店員は何者なのだろう? 青年の疑問をよそに、猫の心を手にいれた蘭子とみくは、気分も新たに小物選びに気持ちを切り替えていた。

 

 

 

「我が友よ、我らにデルフォイの神託を……」

 

 青ずきんバスケットには蘭子がつけていた猫耳がひとつだけ。長い時間悩みとおして、蘭子もみくもすっかり行き詰まってしまったらしい。

 

「だれにゃ……選り取りみどりの雑貨屋なら秒速でコーデ決まるーとかいったひょーろくダマは……」

 

 ひょーろくダマは床に手をついてうなだれた。猫耳もへたっている。みくの予定ではアクセサリーをすんなりと決め、買い食いなどしながら原宿駅にもどって、ホームの端でユニットの相方・多田李衣菜と待ち合わせるはずだったという。

 

「もともと一点を足すのみのアレンジの予定でしたし、一つに絞って考えられては……」

「それはもうやってるのー!」

「で、では先ほどの店員の方にうかがってはいかがでしょう。当日の服自体はいま着て来ていますし、それをお伝えして……。まあ、ふつうの小物選びになってしまいますが」

 

 妙な人物ではあるが、こういう店の店員ならセンスについて頼りにしてもいいはずである。さっそく前川みくはそのとおりにした。

 

「かしこまりました。アイドルの衣裳に手を加えさせていただけるとは、わたくし胸が一杯ウキウキ気分でございます。この店の看板に賭けまして、全力で責務をまっとうさせていただく所存、よろしくお願い申し上げます」

 

 三人に後悔する暇も与えず、店員は棚の影に消える。かと思えばたちまちのうちに、深いワインレッドの紐を手にもどってきた。幅が一・五センチほどの、細い腕時計だ。

 

「猫といえば自由気ままな生き物……。しかしながらその性を宿したひとの裡には、束縛され繋ぎ止められたい欲求もたしかにあることと存じます。そこで、こちらメッシュレザーの腕時計はいかがでしょう。逃れえぬ時の流れ、たいせつな約束、そして撮れ高というノルマ。お二人揃って手首に感じれば、まさに運命共同体。デザインもお客さまのお召し物にはよく馴染み、お猫さまにはよいアクセントになるかと……。いかがでございますか?」

 

 四角い文字盤の、三人の見間違えたとおり一本のリボンにも見えるファッションウォッチを、蘭子とみくは手首に試した。

 

 店員の見立てたとおり、厚手の黒いフリルに彩られた蘭子の腕には、革を編んだバンドはしっくりと馴染む。

 

「よくお似合いです」

「ふふん」

 

 蘭子は青年のわかりづらい微笑に小鼻を膨らませた。

 

「Pチャン、Pチャン、みくはどう……にゃっ!?」

 

 くぐもった振動音にみくは言葉を切り、スマートフォンを取り出した。短く断るや店の隅へ駆けていく。その顔は露骨に青ざめていた。

 

 程なくしてもどってきたみくは苦手の魚もかくやとばかりに目を泳がせて、いった。

 

「ご、ゴメンにゃ蘭子チャンPチャン。りーなチャンとの待ち合わせに行かなきゃいけないにゃ……」

「む? それは鐘七つが鳴るころと……」

「りーなチャンどーせ遅れると思って三〇分早い時間伝えたら、時間どおりに来ちゃったにゃ……」

「すると、いまのは」

「早く来いーって電話」

 

 同情するような溜息が、音もなく二人と一人のあいだに流れた。

 

「まあ、多田さんの方へ行って差し上げてください。この腕時計は」

「ファッションウォッチでございます」

「……ファッションウォッチは買っておきますから」

「うん。みく、もう行くね! 時計は明日渡してほしいにゃ!」

 

 みくは三度頷いて、手首の赤いファッションウォッチをバスケットに放りこみ、駆け出した。その刹那の横顔に、喜色の浮かんでいるのを青年は見つけた。

 

「わかりました。お気をつけて」

 

 その返事は彼女の背に届いたかわからない。扉の重たい音がして、店はしばし静かになった。

 

「神崎さんは、ほかにも買って行かれますか?」

 

 銀の髪を揺らし、蘭子は頷いた。青年が手で促すのに従い、雑貨の海へ馳せていく。

 

「お連れさま、ちょっとよろしいでしょうか」

 

 腕時計二つを青ずきんのバスケットに持って蘭子のもどりを待つ青年に、落ち着ききった声がかけられた。

 

「当店ではお一人さま一点のご注文をいただくきまりとなっております。お客さまのお買い物もよろしゅうございますが、お連れさまも店内をご覧になられてくださいまーせー」

 

 歌うように語尾を伸ばすと、青い服の店員は深々と一礼した。

 

「わ、私ですか!?」

「はい。当店、数多の品揃えがございますので、どなたさまのお求めにもかならずや応じてみせる所存にございます」

「そう仰られましても……」

「ではあちらをご覧くださいませ」

 

 青い長手袋が仰向いて示すのは、短い銀の眉を寄せる少女の横顔。その真紅の瞳がためつすがめつしているのは、太さも色も装飾も、おなじもの一つとてない紐の束……チョーカーであった。

 

 幅広の黒に、舞い散る銀製の羽根をあしらったもの。総レースで、中央に大輪の薔薇を編んだもの。十字架の控えめなロザリオ、などなど。

 

「あれは……さすがに私のような者には似合わないかと」

 

 首許をおさえて一瞬、青年は鋭い目を丸くした。

 

「あ、私から神崎さんに買って差し上げるようにと?」

「ようやくでございますか。かのお客さまのお言葉はおわかりになるのにこれがおわかりになりませんとは、意外すぎてわたくし思わず」

 

 青い店員は金色の視線をいちど床に投げ捨て、ふたたび彼の鼻先に突きつける。

 

「二度見してしまいました」

 

 目許まで苦らせる青年を尻目に、店員は蘭子に近づく。さもいま気がついたかのように声をかけた。

 

「おや、お客さま、チョーカーをお求めでございますか」

 

 短い眉を八の字にして、蘭子は喉の奥で唸った。肯定の返事と受け取り、遠慮がちに近づいてきた青年へ水を向ける。

 

「ではお連れさまのお見立てではいかがでしょう?」

「私が選ぶのですか?」

「はい。わたくしばかり働いては不公平かと存じます」

「あなたはここの店員では……?」

 

 青年の疑問は口から外まで出ていかなかった。矢継ぎ早に、青い店員が言葉を足したからである。

 

「お連れさまはお客さまやお猫さまを星の彼方へ導くことがお仕事……。彼女たちの輝きを引き出す術には、わたくしよりもよほどお詳しいはず。見立てちがいでございましょうか」

 

 言葉と裏腹に、巨躯を見上げる両目には自信が満ちている。黄金の視線から思わず背けた彼の目に、期待と不安の薪に燃える篝火が映る。

 

「うむ! 我が翼、其方に委ねよう!」

 

 青い手袋と赤い瞳の示すままに、青年は無数の革紐を見較べる。記憶のかぎり、蘭子のファッションを脳裏に呼び起こす。レース編みは着けているのを何度か見た覚えがある。メッシュは感触が気になりすぎるかな。ウェスタンのブラウンは、やはり服に合わないか。

 

 ひとのためにものを選ぶ楽しさというものを久方ぶりに思い出し、硬い口の端が少しゆるむ青年であった。

 

「こちらはいかがでしょう」

 

 大真面目に悩み抜いた果て、彼が差し出したのは細めの黒い革のものだった。優美な曲線のバックルが金色に光る。その右側でリボン部分から大きくはみ出して漆黒の薔薇が大小六輪並び、ゴシックテイストのあるアクセサリーを主張する。そしてそのサテンの花びらを、花芯に埋まった緑色のジュエルが照らしている。

 

「ほう……。闇の結晶、ヴィーナスの供物か」

 

 はやばやと試着をすませた蘭子が満足気に頷いた。姿見を抱える店員も、変わらぬトーンでそれを褒める。

 

「暗黒の花と二つの輝きを持つ貴石、よくお似合いでございます」

「二つの……?」

「こちらの石はアレキサンドライトと申しまして、当たる光によってその色を変える風変わりな石でございます。当店のような蛍光灯や太陽の許では緑色、お客さまのおっしゃったとおりエメラルドに見えますが、ランプやこちらの電球色のライトを当てますと……」

 

 白い首に小さいスポットが当たり、黒薔薇が赤い光を湛える。青年が思わず声を洩らすと蘭子も見たくなったのだろう。音を立てて金具を外し、胸の前に掲げた。

 

「わあ……」

「アレキサンドライトの天然石は希少かつ高価……。ゆえにこちらは安価な人工石ではございますが、品質が安定しており天然石よりも変色が鮮やか。いささか皮肉なものでございますね」

「なるほど、面白い宝石ですね。神崎さん、こちらでよろしいですか」

「異存なし!」

 

 蘭子は鷹揚に頷き、チョーカーをバスケットにいれた。

 

 ……安心していられたのもレジまでの二〇歩程度の距離だけである。提示されたデジタル数字を青年は二度見した。チョーカーは覚悟できていたが、ファッションウォッチと主張した腕時計の額が想像をはるかに超えている。

 

「こんなに……」

「この極小の文字盤を仕上げる技術料……とでもお思いくださいませ」

 

 面積にして二平方センチほどの赤く小さい盤面に、低い溜息が一つ。青年の広い背で額面の見えぬ蘭子が横からのぞこうとするのを、店員が目で制した。

 

「贈り物のお値段はお気になさらないのがマナー……。お客さまにおかれましてはどうぞ、大きく構えておいでくださいませ」

 

 支払う立場の青年も、この少女に額面をもって心配させたり遠慮させたりしたくはなかった。すばやくクレジットカードを出して会計を済ませ、二人は青い店をあとにする。

 

 去りぎわ、青い服の店員が“お客さま、いい忘れたことが”と声をかけた。“お客さま”というので蘭子に用と思った青年だったが、店員は彼に話があるという。どうやらこの店では、買い物をしてやっと客になれるらしい。

 

「宝石言葉、という文化がございます。宝石の輝きに言葉を託す遊び心……。むかしびとの風情を感じますね。さて、お客さまがお求めになったアレキサンドライトの宝石言葉は“秘めたる想い”。二つの輝きを持つ石、そして本音と建前に生きるサラリーマンにはジャストフィットかと存じます」

 

 青年とて花言葉や石言葉があるのは知っていた。しかしどれにどんな意味があるとまでは詳しくない。すらすらとそれを話す店員に、素直に感心した彼である。

 

「薔薇の色と数にもおのおの意味がございます。こちらはいちどご自分でお調べになられて……、そしてたまにはオレンジのランプに照らされて、思索に耽られることをお勧めいたします」

「はあ……。まあ、そう、ですね」

 

 あいまいな返事に思うところはないかのように、店員はにこりと笑う。

 

「ではごきげんよう、またのご来店をお待ちしております」

 

 

 

 重厚なコバルトブルーの扉の裏路地には、もう夜の涼気が忍び寄っていた。買い物をしているあいだに雨も通り過ぎていったようで、舗道に色と香りがわずかに残る。長々と買い物をしたものだと、青年は腕を下のまま、肩を回した。

 

 待たせていた蘭子が壁にもたれているのを見て、彼はひとつ思い出したことがあった。思い出したというと語弊がある。忘れていていいことではないのだ。

 

「あの、神崎さん。先ほどのことですが……」

「む?」

 

 壁を離れて地面にまっすぐ立ちながら、猫のように下唇を上げてみせる。

 

「猫じゃらしのときですが、どこか変なところに触れたりしませんでしたでしょうか。ぼんやりと、その、猫を飼う空想に取り憑かれていて、よく覚えていないものですから、失礼を働いたのでしたらお詫びを……」

「ま、まあ……そのことは……。砂に刻みし絵空は刻の波にさらわれ消える。風の行方など追うに及ばぬものと知るがよい」

 

 そう露骨にごまかされると、とんでもないことをしたのではと余計に心配になってくる。ついさっきの記憶を、彼は必死に手繰った。

 

 店員も前川みくもそれほどリアクションは大きくなかった……。しかし、セクハラとはいっていた……。それにあの店員の反応はあまりあてにできたものでは……。

 

「そんなことよりも! つ、使い魔の一体や二体、其方ならば造作もなかろう」

「本当によろしいのでしょうか……」

「くどい!」

 

 一刀のもとに切り捨てられた悩みはそれきり忘れることにして、彼は蘭子の問いかけに答えた。

 

「たしかに、飼うお金がないわけではありません。しかし、家を空けがちの私ではひどく寂しい思いをさせてしまうでしょう。独り者がペットを飼うと、依存しきってしまい抜け出せなくなるとも聞きますし、とくにペットを喪った場合、すぐに新しいのを飼うか抜け殻になるか……。私は後者だという自覚はあります。ですので……」

「千秋の狭間ほどならば、我を使役する魔法陣を与えても良い……」

「それは外聞が悪いので……」

 

 蘭子はみゃあと低い鳴き声をあげて厚い胸を叩いた。さっき前川みくからダメ出しされた叩きかたである。

 

「神崎さん、ひとの目もありますから」

 

 白い頬を膨らせて数秒、蘭子はニヤリと笑った。

 

「黒薔薇の円環を我に捧げよ!」

 

 蘭子は藍色の空を大きく仰いだ。真紅の双眸は閉ざして、青年へ白い喉を強調する。やや戸惑ってから、彼は蘭子の言葉に従った……つまり、いま巻いている組紐のチョーカーを外して、買ったばかりの黒薔薇のものを着けるのである。

 

 四本の指先が首筋に触れると、蘭子は少し身を固くした。指先はさらに遠慮がちになって、うなじのところにある留め具を外す。買い物袋のなかから平たい小箱を取り出し、中身を外したものと入れ替えにして白く細い首へ。

 

 六輪の黒薔薇が白い首許に咲いた。

 

「苦しくありませんか?」

 

 顔が近いせいで声のボリュームがしぜん小さくなる。蘭子は目を泳がせてから、ささやくように答えた。

 

「もう少しきつく……。ぴ、ぴったりくっつくようにして」

「はい」

 

 締めたチョーカーに短くあえぐ息が桜色の唇から漏れる。

 

「すみません、締めすぎました」

「ううん、ちょうどいい」

 

 紅の瞳に嘘はない。だが、白い首に黒い革帯が食いついているのも事実だ。黒い眉の根が寄る。

 

「これでは痕が残ります」

 

 鎖の輪ひとつ分だけゆるく鈎にかける。伏した目の色は彼にはわからなかったが、ほころぶ口許は見えた。傾きのないことを確かめて、彼は数歩退く。夕焼けにはまだ早いが、その顔はだいぶ赤みがさしている。

 

「くっくっく、きょうのところはこれで勘弁してやろう」

「ありがとうございます」

 

 気の利かぬ返しを心のなかで自嘲した。軽やかにステップを刻む子猫に日傘を差しかける。夕陽を遮られるとき、首の宝石は赤く光っていた。

 

 

 

(了)



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あえて闇のなか  ゲスト:今西部長

コメディ風味です。


  ◆二〇一五年八月一八日

 

 黒き爪が永劫の傷を刻み、また一つ旧き時代の終焉を告げた。新たな歴史は焔をまとうこの鳥籠に育まれる。いずれ蠍の心臓となる日を夢に想いながら。

 

 ……なんて、冗談冗談。日記では<闇の言葉>は使わないって、自分との約束。たいていそのときの気分で紡ぎ出していて、しばらく時間をおいて読み返すと自分でもわからなくなっちゃうからだ。あのひとが私の言葉を専用のノートに書き留めるようになって、三ヶ月も経たないうちに二冊目にができていたから、よっぽどいつもちがう言葉を話してるんだと思う。

 

 あんな熱心にしてくれてるあのひとが、もしこの日記を見ることがあったら、がっかりするのかな……?

 

 きょうはすっかり舞い上がっていて、テンションの赴くままに書いてるけど、あとで読み返したらいちばん恥ずかしいページになるかもしれない。だけど、消したりごまかしたりはしない。自分の一日を偽らない。あのひととの約束だ。

 

 

 

 わたしのテンションが高い理由は、あのひと、つまりわたしたちシンデレラプロジェクトを育ててくれてるプロデューサーと、この日記帳を買いに行ったからだ。

 

 話の順番がめちゃくちゃだけど、ひとに見せるものじゃないしいいと思う。世のなかには、同時代のひとの悪口を後世のひとに読ませるために書くひともいるって飛鳥ちゃんはいってたけど、わたしはそんなつもりもないもの。

 

 ええと、その顛末はこう。前の日記帳を使い切ってたことをきょうの仕事の帰りに思い出して、わたしは大声を出してしまった。

 

「なにか忘れ物がありましたか、神崎さん」

 

 わたしの<闇の言葉>をよくわかってくれるのは当たり前になってきたけど、叫び声のバリエーションにも対応し始めたんだろうか。すごいけど、ちょっと怖いかもしれない。

 

「真白き史書を……」

 

 ②と書かれた黒いノートにペンを走らせながら、鋭い視線を下げて考えこむ。この真剣な表情がわたしは好きで、つい右から左から角度を変えて見てしまう。

 

 まあ、ほんの二、三秒のことなんだけど。

 

「日記を、つけているのですか」

 

 わたしは大きく頷いた。わたしの言葉が通じるひとはほかにもいるんだけど、会話になって嬉しいのはこのひとだけだ。日記を買い忘れたらきょうのぶんはどうしようなんて不安を、すっかり忘れていた。

 

「それで、日記帳がきのうで終わってしまったと」

「うむ、瞳の輝きに翳りはないようね」

「まだお店が開いている時間でしょうか」

 

 また書き忘れていたけど、もう午後七時になっていた。わたしの叫んだ声はよっぽど深刻そうに聞こえたみたいで、“きょうのうちに必要なものでしょう”といって買い物についてきてくれた。

 

「このあとはたてこんでいませんし、急ぎの用事といえば夕飯だけですから」

 

 それで、わざわざ汐留から原宿まで寄り道をして、この鍵つきの、真っ赤な日記帳を買ってくれた。ハードカバーみたいに、渋いブラウンの縁がついててかっこいい。

 

「其方もやはり闇の契約者ね」

「お眼鏡に適ったようでなによりです」

 

 そういえばちょっと前に、もっとニコニコ笑ってみろっていわれてたけど、こういうときに自然とフッと笑うのが、わたしはだんぜん素敵だと思う。

 

「ひとの言葉を紙に写していると、そこに籠められた本当の意味が見えてくるようで、軽い後悔や喜びがありますね」

「そ、そういうものか」

 

 わたしはぜんぜん考えたことがなかった。

 

「さすがは我が友にして師。隣と思えば遥かに遠く、掴み得ぬ黒き翼よ」

「いえ、私は日記を書かないので……。これは、神崎さんに教えていただいたことです」

 

 わたしは二冊の語録を示されて、顔が赤くなるのを感じた。恥ずかしさじゃなくて。

 

 このあとは、“こんどは私の用につきあっていただけますか”なんていって遠回りをして、初台のお店でハンバーグをおごってもらった。

 

 かけるのは専用のソースって決まってるのはちょっとショックだったけど(ケチャップ派だから)、食べてみたらそんなのどうでもいいくらいおいしくて、二五〇グラムを食べきってしまった。まだお腹が重い……。

 

「いい食べっぷりでした」

 

 なんて褒められると、やっぱり嬉しいんだけど……。

 

 こんどは女の子らしさを忘れないように。それだけ反省。それ以外のことは、いいことばっかりで最高だった。

 

 

 

  ◆二〇一五年八月一九日

 

 きょうはお仕事はなくて、レッスンだけ。終わったあとに、346カフェでおしゃべりをした。

 

「ああ~、もう来週から学校だよー」

 

 莉嘉ちゃんの学校は二期制で、夏休みがちょっと短いらしい。それで不満をいってたら、隣の杏ちゃんがニヤニヤ笑った。

 

「関東の民はぜいたくだな~。北海道じゃもう二学期が始まってるのにさぁ」

「うえーっ! 夏短いと休みもなの? ……あっ、じゃあじゃあ蘭子ちゃん、熊本の夏休みって長い?」

「我が火の国にあっても、菊花の覚醒めとともに夏の幻は消えるわ」

 

 莉嘉ちゃんはみりあちゃんをつついて、わたしのいったことを把握すると、溶けるようなリアクションをした。

 

「どこか、夏休みが長いところに行きた~い」

「魂の共鳴者よ……」

「夏休みが長いと、宿題増えるんだよ。上京したの失敗だったな~ってことのワースト5にははいるね、これ」

 

 杏ちゃんは冷たい紅茶をすすりながら、悲鳴を上げてるわたしたちを笑って見てた。そのあとの話題は宿題の進み具合とか、みりあちゃんの自由研究とか。

 

 ……と、ここで思い出した。そういえば、職業インタビューのレポートっていう宿題が出ていたんだ。

 

 

 

  ◆二〇一五年八月二〇日

 

 身近な働いている大人に、いまの仕事のことと、それを選んだ理由を訊いて、自分の感想を添えてB4のレポート用紙一枚にまとめること。

 

 これが夏休みの宿題の、職業インタビューの課題だ。アイドルはだめですよ、と先生が念を押したのは、わたしみたいな生徒兼アイドルが質問攻めされないための配慮なんだと思う。

 

 身近な働いてる大人といえばやっぱりあのひとだ。きょうのレッスンのあと、訊いてみようとして部屋を覗いたけど、電話の応対とか、ちひろさんが積んでいった資料のチェックとかで忙しそうだった。

 

 あきらめて引き下がったときに、うしろから声をかけられて、わたしはつい飛び上がってしまった。

 

「そんなに怖がらんでもいいじゃないかね」

 

 わたしたちの、なんていうか、お父さんみたいな立場のひと……今西部長はそういって笑った。怖がらせる気がないなら、正面から声をかけてほしい。

 

「なるほど、彼が美城に入社した経緯かね」

 

 わけを話すと、部長はにやっとして訊いてきた。

 

「少々ショッキングかもしれないが、いいかい」

「邪鬼が出ようと蛇神が出ようと、揺らぐわたしではないわ」

 

 それで、346カフェに場所を変えて、カフェオレと一緒にお話を聞いた。

 

「彼はじつは名の知られた不良だったが、わしを相手におやじ狩りをしようとしたのが運の尽きさ。バーンと一本背負いをきめてやれば手下は逃げ散って、更正するってんでしばらく仕事に付き添わせていたら、ひとの心のあたたかさ、笑顔の尊さを知ってこの道を志すようになったというわけだねえ」

「わ、我が友が悪鬼魔道に……?」

「人生色々、プロデューサーも色々だね。いや、まあ……」

「おやおや~? いま柔道の話してましたあ~?」

 

 部長の言葉を遮って、早苗さんが話に割りこんできた。酔っ払って。聞き取りにくかったけど、利き酒大会を堪能して、酔い醒ましにあったかいものを食べに来たとか。

 

 事情を説明すると、早苗さんが警官を目指したわけを、柔道との出会いからドラマ仕立てで(これはあとから来た、やっぱり酔ってる瑞樹さんの表現だ)話してくれた。さらに瑞樹さん、志乃さんたちも話し出して、収拾がつかなくなってしまった。止めに来た菜々ちゃんは“なんで一七歳になったの?”って訊かれて青冷めて逃げちゃった。不思議。

 

 わたしにはまだ、言葉の本当の意味は難しいみたい……。

 

 ともかく、目当ての話は意外すぎたけど、わたしの胸はいっぱいになった。いまからは想像もつかないあのひとの過去を知った高揚と、そんな荒むほどのことがあったんだっていう、出過ぎたことだと思うけど、心配や同情。

 

 ちゃんと言葉にして書けるのはこのくらいで、もっとよくわからないものがわたしの胸にいっぱいある。ハーブティーを飲んでも、あんまり落ち着かない。

 

 あしたは、あのひとからじかに聞いてみたいな。

 

 

 

  ◆二〇一五年八月二一日

 

 きょうはラジオドラマの収録があったので、ちゃんと話を聞けた。だから、わたしはきのうの日記を消したくてたまらない。そうしないのは自分の一日を偽らずに生きるためだ。約束だもの。

 

「私がこの業界を志したわけですか……。高校のころ、グレていた私にひとの笑顔のあたたかさ、それを作り出す素晴らしさを今西部長は教えてくれました。ゆえに彼に憧れて、美城の門を叩いたのです」

「おお……」

「などと今西部長がいうのを聞かれたかもしれませんが、信じないでください。真っ赤な嘘です」

「えっ」

「はじめて会うひとをおどかして遊んでいるんですよ。“だから、わしの悪口をいったら、こいつが黙ってないぞ”と」

 

 苦笑いのあとに語ってくれた真実は、部長から聞いたのとはもうまったくぜんぜんちがうお話で、でもいい話にはちがいなかった。

 

 それはあえてここにも、宿題にも書かない。“部長の顔を立てましょう”と密約を交わしたからだ。あのちょっと悪そうな顔には、とてもドキドキした。それに、この話をひとに教えて、あんまり興味を惹くのもいやだから。

 

 ……わたしはけちだろうか?

 

 

 

 追記:宿題には、早苗さんが警官になるまでのドラマを書くことにした。メールでOKをもらったから。

 

 

 

  ◆二〇一五年八月二二日

 

 暇そうにしてる今西部長を見かけたから、おとといの文句をいってやった。

 

「おやあ、そうだったかなあ。歳を取ると記憶の整合性ってものが怪しくってイカンなあ」

 

 なんて笑ってとぼけられると、わたしはついムキになってしまう。

 

「祭壇の琴の音は三〇枚の銀貨で乱れ、天動の白き地平は魂の雫に穿たれた。銀貨が血にまみれず上天の光を映したならば音色安らかであったものを!」

 

 むくれて、目許がちょっと熱くなるのを感じながら怒鳴っていると、横からあのひとの声がした。

 

「今西部長、神崎さん? どうされたのですか」

 

 部長がひとことで説明を済ませてしまったから、わたしは両拳を握りしめて睨んでるしかできなかった。

 

「なるほど……。すみません、私のことでお二人にご迷惑をおかけしまして」

「いいんだいいんだ、こんなに怒ってくれるなんていい子じゃないか」

「部長、差し出がましい口をききますが、そういうことをおっしゃられるのは」

「ん、そうだな。神崎くんもすまなかったね、君がそんなに……おっと」

 

 老人は退散するよ、といって、部長はどこかに逃げ出した。たぶん、近くの公園の、喫煙スペースだ。

 

「神崎さん、あまり部長を怒らないであげてください。あんな与太でも考えがあってのことなのです」

 

 わたしたちは休憩エリアで並んで座った。買ってもらったぶどうジュースは甘く冷たくて、わたしはちょっと冷静になれた。

 

「いかなる星図を描き出しているのか」

「あんな話を聞いたら、初対面のひとは私に対して緊張してしまうでしょう。それで、あとから“あれは嘘ですよ”といいに行くと、“なんだ、よかった、怖いひとじゃないんだな”と安心してもらえます。ふつうよりも親しみやすくなるわけです。緊張と弛緩のテクニックですよ」

「そう、だったのか……」

 

 わたしはもうこのひとを知ってるから、ぜんぜん効果はなくて、悪いジョークにしかならなかったんだ。

 

「言霊をめぐる葉脈の、なんと細やかな……」

「……たぶん」

 

 たぶん? それは絞り出すような苦い声で、じっと顔を見ていなかったら、このひとの口からこぼれたのだと気がつかなかったかもしれない。

 

 今西部長に確かめればいいのにといったら、あのひとは困ったような笑顔で、こそっと答えてくれた。

 

「本当にただの与太だったら、悲しいじゃありませんか」

 

 

 

(抜粋ここまで)



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時は待たない(前編)  ゲストなし

前中後編とも甘めにしてあります。



 梅雨明けの喜びを歌うような、茜色の夕陽である。天頂は一瞬ごとに藍色を深くしていく。その二色をつらぬいて立つ346プロダクションの社屋の足許からは、スーツ姿が渋谷の駅へ、長い影を引いて三々五々に歩く。

 

 その黒い群れをつっきって走るものがあった。

 

 深い海色のネクタイを締めた、体格のいい青年である。すぐ正面の大通りでタクシーを拾い、後部座席へ転げこむと息も整えず行き先を告げる。

 

「サレジオ教会の前までお願いします!」

「お急ぎですね」

 

 “はい”と返事をしたつもりで、喉から少し高い音が出る。

 

「ひ……、ひとを、待たせていまして」

 

 運転手はルームミラー越しにおだやかな表情で、はっきり頷いた。もう六〇ばかりだろうか。目尻と頬の微笑み皺が青年の印象に残る。

 

 青年は腕時計を顎の高さまで上げた。すでに一九時。いつもなら予定終了時間を待たず解散となる定例会が、この日たまたま紛糾したのだ。待ち合わせの時間は一時間前に過ぎている。雲行きが怪しくなったころに、チャットアプリで遅れる旨を伝えてはいた。よけいな気をつかわせないよう、努めて事務的な文面で。

 

 青年はスマートフォンのアプリに視線を移す。会議室を出るとき、居室を去るとき、エレベーターのなか、そしていまタクシーのシートで、五分のうちに四度目の確認である。

 

「神崎さん、申し訳ありません。会議が長引きそうです。三〇分ほどお待たせしてしまうと思います」

「懐かしき天上の日々を追憶し、契約のときを待たん」

 

 相手……神崎蘭子からの返事は彼の送信から二分後のタイムスタンプの一つきり、依然増えていない。

 

 神崎さんはおそらくは教会のなかで、絵を眺めながら待っているはず。しかし甘い見積もりの、すでに倍の時間が経っている。いまからの移動を加えれば三倍……。青年は眉間の冷えて痛くなるのを覚えながら、新たにメッセージを送った。

 

「いまそちらに向かっています。もう少しだけお待ちいただけませんか」

 

 既読の表示はすぐについた。安堵の息をつく。肺に空気をとりもどすのとほぼ同時に、蘭子からの返事が届いた。

 

「その心は高潔か?」

「はい」

 

 謝罪の言葉やまちがいなくもう二〇分ほどで着くという保証をどう文章にまとめるか、焦る青年の指は二文字だけを送信してしまった。蘭子から重ねてのメッセージはない。

 

 逆三角形の三白眼を歪めて、青年はうめいた。繊細で多感な歳ごろの少女に、いうべき言葉たちに加えてこのぶっきらぼうな返事の釈明まで、どう書けば正しく受け取ってもらえるのか。

 

 赤信号で止まった車窓へ、まとまらぬ考えから三白眼が逃げる。ケーキ屋のシャッターに貼られた新商品のポスターである。純白のレアチーズケーキ、木苺のソースつき。白く整った生地に深紅のソースが丸くとろけて滴っている。

 

 約束を二度破られてなお待っていてくれる少女の、白い顔にうるむ赤い瞳が目の奥に浮かぶ。青年はかぶりを振った。

 

「なるべく、裏道で行きましょう」

 

 信号待ちの運転手が渋滞情報を聞きながら、左へウィンカーを出した。

 

「すみません、お願いします」

「教会にスーツで駆けつけて、なんて映画ありましたっけね。あ、けどあれは美城さんじゃないか」

「ありましたね。あれはたぶん、ずっと自分の足で走ったでしょうけど……」

「バス停もサレジオ教会のすぐ脇に……っと、信号変わりましたわ」

「私の場合は待ち合わせですが、バス停は助かります。少し離れたレストランまで……」

 

 青年が自分の発した単語、“レストラン”に息を呑むなり、彼のスマートフォンが着信音を鳴らす。電話である。相手は蘭子ではない。画面に表示されているのはそのレストランの名だ。

 

 ……蘭子との約束の時間を過ぎているということは、行くつもりでいたレストランの予約時間も過ぎつつあるのだ。あいことなる安心と焦りを混ぜた声音で青年はスタッフの確認に答えた。

 

「ご予約のお時間を回っておりますが、いまどちらにおいででしょうか」

「申し訳ありません、予定がずれこんでしまいまして、いまは目黒駅の近くです。たいへん恐縮なのですが、二〇時……いえ、二〇時半からに遅らせていただくことはできませんでしょうか」

 

 早口の長台詞をスタッフは何拍か遅れて聞き取った。スマートフォンのスピーカーはしばらく打鍵音だけを青年に聞かせる。タクシーが三回ばかり曲がったあたりで、スタッフが電話口にもどってきた。

 

「たいへんお待たせいたしました。お客さま、二〇時半からにご変更でおまちがいありませんか?」

 

 どうやら問題なく予約をずらしてもらえるらしい。青年は安堵した。あとは一刻も早く蘭子の許へたどり着くのみだ。

 

 ……茨の城に住む堕天使・ローゼンブルクエンゲル。それが神崎蘭子という新人アイドルが打ち出す世界観である。その少女にさっそく来たのが、グルメ番組へのゲスト出演のオファーであった。

 

 美しく妖しげな世界観を壊さぬよう、最低限のテーブルマナーを備えておこうと、二日間の集中講座にも通わせた。きょうはその実践に、フランス料理のコースを味わう……というある意味では役得の、残業の日だったのだ。

 

 紛糾した会議も最後は実のあるところへ着地できた。ずれた予定も修復できた。気がかりなのは神崎さんだけだ。彼が事態を整頓し終え、車が大通りに出たときである。

 

「あちゃあ、お客さん、ここまで渋滞が来てました」

「えっ」

「目黒通りのね、五叉路で多重事故だそうで。このあたりの路地はスピードも出せませんし、歩かれたほうが早いかもしれません」

 

 はっとして青年は前後左右、六枚の車窓へ鋭い視線をめぐらせる。左斜めうしろに保育園が見えた。スマートフォンの地図アプリで確かめると、教会までは一キロあまり。走れば五分だ。

 

 行けると確信するや支払いを済ませ、礼をいって青年は飛び出した。車道を横切りながらジャケットを丸めて小脇に挟み、かばんのショルダーベルトを短くする。走る前から額に汗が噴き出てきていた。

 

 まさか、神崎さんが巻きこまれていないだろうか。気分転換に、あるいはしびれを切らして教会の外に出たときに? 暴走車が教会に飛びこむことも考えられる。

 

 ……おちつけ、事故があったのは五叉路だ。目黒通りの。サレジオ教会からは離れている。いや、しかし、神崎さんがあきらめて帰ろうと、そこまで出て行っていたら……? 待て、目黒駅までもどるならすぐそばのバス停を使えばいい。大通りには出ない。とはいえ、塞いだ気分を紛らわすために歩くということも……。

 

 どれだけ脚を動かしても、不安の泥が足許にまとわりついてくる。あの子は無事だ。事故は無関係だ。……青年は走る。ただそれをたしかめるために。

 

 

 

 サレジオ教会の周りはいたって静かだった。三六メートルの鐘楼は白くそびえ、十字架に残照を反射している。

 

 一九八五年に松田聖子、一九九三年にキング・カズがそれぞれ挙式したことで有名な教会だ。しかし神崎蘭子がここを待ち合わせ場所に選んだのは、著名人への憧れというよりも、もっとシンプルな理由だった。

 

 デビュー曲のPVを撮る候補地の一つがこの教会であり、下見に来てそのロマネスク様式の内装に惹かれたのだ。スケジュールが合わず、撮影はスタジオのセットとなったことでいっそう、この建物へのこだわりが強まったといえる。

 

 もちろん青年も蘭子のそんな心情に気づいていたから、回り道になってもそこを待ち合わせ場所とすることを諒解したのである。

 

 ……革靴の音も荒くそのしじまを青年は走り、薔薇窓の下の扉を開け放った。気まずい表情を作れぬまま、突き刺さる視線のそれぞれに頭を下げる。細い光の針の一つ一つが静かに逸れるなか、じっと彼に向けられる赤い瞳があった。

 

 神崎さん! 青年は叫ぶ衝動をかろうじて抑えた。息を短く吐き、空気の塊を一つ吸い、赤い瞳の主へ黒く小さい瞳を向ける。

 

 色素の薄い髪はふわっとおろしたセミロングスタイル。白いワイシャツには幾重ものフリルが飾られ、臙脂色のリボンタイ、そして黒絹のベストと、やや地味なボーイッシュスタイルだ。

 

 お忍びと自分のポリシーとの妥協点。ふだんのツーサイドアップもフレアスカートのドレスもない。だがその幼い顔に主張する長く黒いまつげと、紅玉に血をかよわせたような瞳にまちがいはない。神崎蘭子である。

 

 聖堂を走らないように、青年は蘭子のそばへ急いだ。足を踏み出したとたんに蘭子はうつむいてしまう。しかしその短い時間に彼はたしかに見た。赤い瞳に涙を浮かべていたのを。

 

 私はどれだけひとを悲しませたら気が済むのか。自責の念が胸に広がる。この子たちの笑顔を守り、育てて、広い世界へと送り出すのが使命だというのに。

 

 硬い床にひびく足音と心臓の音との区別をつけられぬまま、彼は蘭子のまうしろに立ち、丸まってふるえる背中によびかける。

 

「神崎さん、たいへんお待たせしてしまい、申し訳ございません」

 

 返事はない。青年は瞑目した。

 

 当たり前だろう。あいまいな短い言葉を二つだけで、一時間以上も待たせた男だ。赦してはもらえないだろう。だが憎まれたとしても、いま彼女に笑顔を……せめて涙を止めるだけでも、私はしなければならない。ともすればこれは使命感ではなく、この子の涙に耐えられず、胸の苦しさから解放されたい一心なのかもしれない。

 

 そうなら、私はひどいやつだ。

 

 三白眼が静かに開いた。床の上から蘭子の前髪へと焦点がさだまる。

 

「お怒りはごもっともだと思います。申し開きの言葉もありません。きょうの埋め合わせは、かならずさせていただきます。……もちろん、あなたの御意に沿う形で。それから、よろしければ……これで、涙をお拭きください」

 

 自分の言葉を無味乾燥なものと聞いて、彼の声の大きさも頭の位置も、情けないほど下がっていく。それが止まったのは、手にわずかな感触を覚えたためだ。差し出したハンカチを蘭子が取ったのだ。

 

 青年が顔を上げるのには、さらに覚悟が必要だった。赫く燃える星が宿った双眸に焼き殺される覚悟を。

 

「……ありがとう」

 

 青年は跳ねるように身を起こした。それがあまりにとつぜんで、蘭子は短い悲鳴をあげて身構える。

 

「す、すみません。しかしいま、ありがとうと……?」

「う、うむ。崩れゆく我が仮面を守らんとするその魂に共鳴せんと……」

 

 蘭子はいいかけて、レース飾りのついた小さい藤色のバッグから自分のハンカチを取り出し、冷却スプレーをふきかけるて彼に差し出した。落ち着いた赤色の生地に、白と黄色で組紐模様が描かれている。

 

「この極冠の欠片をもって、枯れ果てなんとする汝が生命の泉を潤すがよい」

 

 青年はいわれるままに受け取り、額の汗を拭いた。ひんやりとした感覚とかすかな花の香りが、引きつりきっていた彼の表情を和らげる。

 

 そのあいだに蘭子はまた背を向けて、手をせわしなく動かしていた。彼の冷却時間に化粧を直しているのだ。もちろん、かかる時間は数倍ことなるが。

 

 蘭子のまつげが黒々と天を指すのを待って、青年は話を元にもどした。

 

「あの……神崎さん。怒ってはいない……のですか?」

「怒る……?」

 

 なにをいっているのかわからないという顔で答える。なぜそんな顔をされるのか、こちらこそわからないと強面が答え返す。

 

 気の強い女性ならば“怒ってないわ、呆れてんのよ!”とハンカチをハナムケに足音高く立ち去るかもしれない。しかし蘭子はもっと繊弱であり、回答は彼にはより堪えるものであった。

 

「わたしは、……怒ってなんて……」

 

 珍しく、蘭子が難解で詩的な<闇の言葉>ではなく、ふつうの言葉で話した。反応できぬ青年に、さらに言葉をつづける。

 

「……ごめんなさい。ずっと疑ってたんです、来てくれないんじゃないかって。ちゃんと、会議で遅れるって連絡くれたし、これから出るっていってたのに……」

 

 待てども待ちびとが来ない不安に涙を流し、信じるべきを信じきれなかった不義理で顔を背けた。蘭子の行動のわけは、そういうことだったという。

 

 ただ怒っていてくれたほうがずっと良かった、などと思えば己の身勝手さにまた頭の位置も視線も下がりだす。罪悪感は背中からおおいかぶさってくる……というのを実感しながら、青年は肺の空気を入れ替える。

 

「神崎さん、悪いのはあなたをこんなに長い時間待たせた私です。だれだって不安になって、怒ったり帰ったりするほどの時間です。ですから、それで私を疑うのはなにも悪いことではありません。まだなのかと、何度もメッセージを送っても来るところをあなたは耐えていてくださいました。ご自分を責めないでください。それほどに思いつめてまで、私を待っていてくださって、ほんとうにありがとうございます」

 

 深く甘い色をした瞳を見つめて彼は熱をこめた。頭を腰よりも下げ、最も伝えたい言葉を口にする。

 

「……ほんとうに、ほんとうにごめんなさい」

 

 息を二度め吐き出しきっても背中は重たかった。その背を羽根のようにやさしく声が撫でる。頭をあげてと。

 

 上体を持ち上げたが、彼の背中におぶさっているものは重たく、完全には起こしきれない。蘭子と目の高さが合った。また目を潤ませている。ステンドグラスからこぼれてきた光が赤い瞳に映って、ラズベリーソースのようだった。

 

「あなたは怒ってはいないといいますが、私のせいであなたが傷ついたことは事実です。その償いをさせてはいただけませんか。なんなりと……お申しつけください」

 

 怒っていないことを承知で私的な罰を求めるとは、なんと自己中心的な考えか……。おそらく神崎さんはなにもいわない。償いかたは……彼女が喜ぶことは、自分で考えなければ。

 

 自己嫌悪のしわを額に刻みつつほぐそうとした思考の糸は、しかし、凛とした声で断ち切られる。

 

「ならば……いまいちど贖罪の調べを。神に背き、我が名のもとに奏上せよ!」

 

 きちんと謝りなおせと……。神に背き……? 蘭子の言葉の解釈に、まだ時間を要する青年である。顔を上げると蘭子の頭越し、聖堂の奥に、キリストの磔けられた十字架が見えた。

 

「承知しました。こちらへ、よろしいですか」

 

 ん、と短く返事をして、蘭子は白いフリルに包まれた胸をそらして、右手を差し出した。謝罪する場所までのエスコート。それは青年が思うほど、居合わせた数人の信徒には、奇妙な光景とは映らなかったようだ。

 

 バージンロードまで連れ出し、蘭子と遠い十字架との間に彼は立った。大柄な青年はすっかり、少女の視界から救世主の姿を隠してしまう。きらびやかな装飾を背負った彼を、蘭子はまぶしそうな笑顔で見つめている。

 

 そして、神に背いた青年の、堕天使のための償いがはじまる。

 

「神崎さん」

 

 呼びかけた瞬間、蘭子は片頬を膨らせ、むくれてしまった。なぜだ。三白眼を見開いて沈思する。

 

 呼びかけかたが悪かったということはすぐ理解がおよんだ。どう悪かったのか、どう呼ぶべきなのか。無意識に彼は首に手をやっていた。困ったときの癖である。

 

 フルネームで呼ぶべきだったのだろうか。だが“ざ”のあたりでもう薄紅色の頬を膨れさせていたから、そうではないのだろう。同様に、敬称のちがいでもない。呼ぶべきはちがう名か。

 

「ローゼ……」

 

 これもちがった。蘭子は両頬とも膨らせる。フグになる前に正解にたどり着かねばと、彼は大真面目に思った。

 

「……蘭子さま」

 

 膨れていたほほがしぼんで、相好をくずした。こわばっていた青年の表情筋と肩もゆるむ。

 

 そういうことならばと、彼はその場に片膝をついて、こそばゆそうな顔を見上げた。

 

「本日は、蘭子さまとの約束をたがえ、おやさしきお心をひどく乱してしまいましたこと、ここに深くお詫び申し上げるとともに、このような過ちをけして繰り返さぬことを誓います」

 

 ここで手を差し出されたなら、その甲にキスをするくらいのつもりになっていた青年であるが、蘭子はそうはしなかった。

 

「ふ、ふふん、魔王の顔も三度まで。これで二度目ということを忘れるな。アッハッハッハッハ!」

 

 鼻声で短く高笑いをして、蘭子は歩きだした。その背に青年は考える。

 

 魔王や堕天使を自称しているが、じつのところは、天国のどこかでうっかり足を滑らせて落ちてきた幼い天使が、帰り方がわからずに強がっているのかもしれないと。

 

 ……上半身で磔刑の救世主を振り仰ぎ、青年は胸に手を当てた。

 

 神さま、この子はとうぶんそちらにはお返しできませんが、やましいことはなにもありませんので、どうか私にバチを当てたりしないでください。

 

 教会のドアを半開きにして夕闇を背負う蘭子のもとへ、彼はいつもどおりの歩調で足を進めた。

 

 

(続)



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時は待たない(中編)  ゲストなし

 教会を出てからの道を、蘭子は青年の差しかける日傘の下を歩く。何度もちらちらと彼を気にしながら。

 

 その足どりはどこか重たげに見えた。明るくしてはいたが、待ちすぎて疲れてしまっていたのでは……と黒い眉根が寄る。赤信号。気づかう言葉をかけようと身をかがめたとき、信号が青に変わり、蘭子はぱっと全身で振り向くや、大きい手から日傘をひったくり、横断歩道を駆けて行ってしまった。

 

「……お嬢さま!お待ちください!」

 

 彼女なりに目立たないような恰好をし、ひとの前では<闇の言葉>も封印して(事実上、しゃべらないということだが)、どうにか神崎蘭子だと知られないようにしている。ゆえに、彼は名前を叫ぶわけにはいかなかった。大男が大声を出して走っていれば、どのみち注目を集めてはしまうが……。

 

 行き交うひとびとの合間を縫って、ときおり振り返る黒い日傘を追いかける。ここへ来ての意趣返しではない。遊んでいるのだ。青年にはわかった。元気がないように見えたのは、このための演技だったのだ。

 

 裏通りでようやく追いついた青年だが、蘭子は日傘を離そうとしない。

 

「あの、かん……いえ、お嬢さま。私に、なにか、至らない点がありましたでしょうか……」

「煩わしい太陽はもはや力を失い、我が身を夜闇にて護るこうもりもその翼をたたみ眠るとき! 我が執事よ、風を読み羅盤を回し、我が歩む宵闇に星明かりをともすのだ!」

「……まだ、周りにはひとがいるんですが」

 

 小声の心配をよそに、蘭子が<闇の言葉>を話しても人々は特に騒ぐこともなく、二人を一瞥してとおりすぎていく。

 

「あーいうの、マジにいンのな」

「いーな、執事ってアコガレ~」

 

 などと、まったく正体には気づいていないようすだった。どこか釈然としないものを感じつつ、いまは厚い胸を撫で下ろす。

 

 ともあれ、青年は右手を貸した。教会でのようなエスコートが望みだと受け取ったのである。しかし傘を畳んでは、蘭子の顔を隠せるものがない。交通機関での移動もあるため、手近な店で帽子を買った。目深にかぶれるハンチング帽もあったが、蘭子の好みに合わせ、つばが広く作られたシルクハットだ。クラウンは低く、ラピスラズリのようにきらめく青いリボンが巻いてある。

 

 蘭子はそれを右目が影になる角度で斜めにかぶった。

 

「そうやって隠すものなのですね」

「むふふ、これもまた真理」

 

 ……ハイソなふるまいで周りの目にさらされ、アイドルとして騒がれぬことを悔しく思いながら、二人は高輪のレストラン“セージェム”に到着した。ほぼ時間どおりだ。

 

 リーズナブルで気負わず楽しめるフレンチフルコースの店、と訊ねて、千川ちひろに勧められた店である。そこで彼らは、ちひろからも、電話口のスタッフからも、聞かされていなかったことを知る。

 

「説明がいたらずまことに申し訳ございません。当店はドレスコードを設けさせていただいております」

 

 二人は揃って目を丸くした。蘭子などは自分の服の前身頃を引っぱって、“しまった”という顔をしている。

 

「お嬢さまは問題ございませんが、旦那さまが少々ふつうすぎますかと……。提携している貸衣裳店がすぐそばにございますので、そちらをお尋ねいただけますと幸いでございます」

 

 リアクションを入れ替えて、ふたたび驚く。ボーイは丁寧な口調で、予約時間であるが着替えを待つ余裕のあることと貸衣裳店の場所を告げる。二人の足は、こんどはそこへ向く。

 

 五分と歩かず、その店は見つかった。高輪の街並みから浮いたショッキングピンクの外壁に鮮烈なパープルの看板を高く掲げ、ショーウィンドウとともに、ぎらぎら輝く電飾で強烈な自己主張をしている。

 

 私は女子中学生を連れてこんな店にはいるのか。

 

 青年はつい、周りに人の目を気にした。二人のほかにだれもいはしない。意を決してドアを引き、蘭子を通した。うしろにひとがいないことをあらためて確認して、店内へ滑りこむ。

 

 と、店員の出迎えるより早く蘭子が口を開いた。

 

「さあ、欲望のままに求めよ!」

 

 強烈なフレーズにあわてて口をふさごうとしたものの間に合わず、青年は小声でたしなめた。

 

「お嬢さま、そのフレーズはちょっと人聞きが悪いので……」

「なにゆえ……」

 

 見えないところで変な男がいいように解釈するかもしれない。無難な表現ではあいまいにすぎ、どう説明したものかと三白眼が蘭子から逸れる。その先にちょうど、連絡を受けていたらしい店員が、明るい声とともにカタログを二冊持って現れた。

 

 かっちりした細身のレディスフォーマルに身を包み、黒々とした髪をベリーショートにした女性である。くっきり引いた黒紫のアイラインがシャープで、黒ヒョウを思わせる。

 

 彼女はてきぱきとレンタルシステムの説明をし、カタログを広げた。

 

「イブニングはこちらからこちらのページにございます」

「こんなに種類があるのですか」

「はい。メンズ、レディスとも、多数ご用意しております。お悩みでしたら、お好みの色ですとかデザインのイメージなどおっしゃっていただければご案内いたします」

「ならば……闇の住人たる我にふさわしい、黒き羽で織られた衣を求めん」

 

 面と向かって<闇の言葉>でしゃべれば蘭子だとばれる。ばれなくとも、相手は困惑する。穏当に済ませたいとの思いが彼にはあったが、さらに試着に調髪が控え、しゃべらずに過ごせる時間はない。どだい無理な希望であった。

 

「く、黒い……? ええと」

 

 いま彼に可能なことは、困惑する店員に可能なかぎり通訳することだ。

 

「フリルがついたもので、なるべく黒のワントーンのものを」

「テレビで拝見したことありますけど、難解ですね……。字幕スーパーでわかった気になってただけですかね。プロデューサーさんでしたか? さすがです」

 

 デビューしたての“ローゼンブルクエンゲル”が出演した番組はまだ少ない。それを目にして、かつ覚えていてくれたことに、かたやいたみいって、かたやはにかんで頭を下げた。

 

 蘭子はイブニングドレスを三着に絞りこむと、試着室へ行った。……ボーイの説明なら蘭子の着替えは不要だが、そこは気分である。黒ヒョウは指を鳴らして代わりの案内係を呼び、蘭子についていく。新たに現れたのはレースで飾ったエプロンドレス姿の店員だった。

 

「さ、ドレスのお嬢さまをエスコートするのにふさわしいお洋服を見つけましょう」

 

 彼は燕尾服を借りることにした。細かいデザインはあまりよくわからない。それは彼が服飾に疎いというのではなく、そのおしとやかな店員の喉にある、彼とおなじ固い出っぱりが気になってしまったためである。

 

 声もなんだか低かったが、あれくらいの女性もいはするものだ。かんちがいだろう。……そう思いつつも、どうも気になってしまう青年だった。しだいに、あの

黒ヒョウのようなひともじつは……? とあらぬ疑いにとらわれだす。

 

 蘭子のお召し替えはまだ時間がかかるようだ。三分あれば整う男の短髪と一緒にしてはいけない。それまでのあいだ、不気味な想像から逃れるべく、彼は姿見で自分の服装を再確認した。

 

 白いウイングカラーのシャツに、同じく白の蝶ネクタイ。燕尾服はほとんど黒のような紺の生地で、金のブラスボタンが光る。前のボタンはかけていない。彼には落ち着かないようだが、かけないのが正式な着こなしである。

 

 ブラスボタンは本来、王侯に仕える従者が着るものにだけ使われる。したがって、ふつうであればプラスチック製のものを選ぶところだが、

 

「茨が鎖した古城に住むお姫さまの従者ですもの、ぜーんぜん問題ありませんでしょ?」

 

 おしとやかな店員がそういって勧めたのだ。そのときばかりは彼も喉仏から意識を解放されて、訂正をできた。

 

「お姫さまではなく、堕天使ですよ。それだと茨姫じゃありませんか。一四歳の少女のプロデュース方針にしては、ちょっと不吉すぎるでしょう」

 

 はじめの一言以外は、さすがに口には出さなかったが。

 

 ……茨姫は魔女の呪いのために、一五歳の誕生日から百年の眠りに落ちてしまう。一四歳でデビューした蘭子が茨姫では、一年しかもたない。褒めたつもりなのはわかっていても、彼には不吉が勝った。

 

 いまそれを思い出すと、反省の念も湧いてくる。店員にではなく、蘭子に対しての。

 

 ローゼンブルク“エンゲル”といっているのにああまちがえられるのは、まだ宣伝が弱いせいだろうか。ドイツ語ではなじみが薄いことも一因とは思うが、下手にカナ表記をあわせても意味が伝わらなければしかたない。ピンナップやグラビアでに天使や堕天使のイメージを強調したらいいだろうか……。

 

 職業病である。かっちりと整えた頭のなかは、蘭子のプロデュース方針の強化で占められた。

 

 高貴な身分に扮するドラマの仕事も来てはいたが、看板どおりのイメージが定着するまでは避けるべきだろうか。しかしきょう、お嬢さまとして扱われて喜んでいた。本人が希望するなら禁止はしがたい。いや、だが、薔薇と姫のわかりやすい印象が先行して、彼女のように茨姫と誤解するひとが増えても……。

 

 おしとやかな店員の顔を思い出すと、うっすらとヒゲがあったような気がしてきて、青年はかぶりを振った。もっとべつな、関係のないことを考えよう。

 

 神崎さんはまだドレスが決まらないのだろうか。もう髪型を選んでいるだろうか。しなやかな猛獣に似たあのひとは、美形なだけで女性だとは思うが……。うつむいたまま首を左右へやると、せっかく整えてもらった髪がまた跳ねる。

 

 これがあの子を泣かせた罰だとしたら、神さまは思いのほか趣味が悪い。神崎さんの希望が堕天使ではなく、呪いを受けたお姫さまだったならば、神さまがこんなふうにあの子を庇護することもなかっただろうか。

 

 仕事でも女装でもない方向へ、ようやく青年の“暇つぶし”は向かいはじめた。

 

 神崎さんが茨の古城のお姫さまだったら、どんなプロモーションになっていたか。

 

 一五歳の、いや一四歳のお姫さまは魔女の呪いによって百年の眠りに落ちる。彼女の両親と善良な魔法使いは、お姫さまを守るために多数の従者をおなじく眠らせ、城を深い茨の森で鎖して去ってしまう。百年の歳月を超えて、童話であればここで勇敢な王子が姫のもとに現れるのだが、蘭子姫はアイドルなので、かわいそうだが登場はもっと先の未来になる。

 

 目覚めたお姫さまと従者たちは、城を鎖す茨が姫を目覚めさせるべき王子の到来でしか消えぬことを知る。待てど暮らせど王子は来ないので、お姫さまは白亜のお城でいちばん高い三六メートルの塔の上から、王子に目覚めを伝えるために歌を歌うのだった。

 

 うつくしい歌声に誘われて王子のみならず多くのひとびとが森を訪れるが、生い茂る茨は侵入を赦さない。門扉は従者の一人である大男が見張っている。大切なお姫さまを軟弱な男に渡すわけにはいかないからだ。そのためにだれもかれも逃げ帰ってしまうものだから、お姫さまはまだ来ぬ待ちびとのために、ずっと歌いつづけなければならない……。

 

 と、オチまで考えたところで、スタンドミラーに映る己の姿に目が止まった。私がそいつか、と苦笑いを頬まで上らせる。そこまでひどい男にはなりたくないと思い直して、彼はこのお姫さまの話を忘れることにした。

 

「お客さま、お待たせいたしました」

 

 不意に声をかけられて、青年は頭を釣られたように伸び上がった。振り返ると、さっきの黒ヒョウの女性店員に連れられて、正装の蘭子が立っていた。

 

 注文どおりの、闇に溶けるような黒いマットなドレス。イブニングとしては控えめな露出。足許も黒いパンプスに履き替えて、上腕までをレースのアームドレスで覆っている。化粧を整え直したことも、彼には見て取れた。

 

 落ち着いた表情をして、一人前のレディのようだ。…というのは眉から下だけを見たときの話である。さきほどのシルクハットを、よほど気にいったのかまだ斜めにかぶっていて、ちぐはぐな印象を与える。

 

 フォーマルに身を包む青年へ得意げに笑んで見せるのが、むしろまだ子供だなと彼を安心させた。

 

「愛らしいお召し物もよくお似合いです、お嬢さま」

「フッフッフ、我が下僕もその身に闇の魔力が満ち満ちているのを感じるぞ。さあ、今宵我らの黒き翼であの月さえも覆い尽くそうぞ!」

「御髪はおとなびたまとめかたをされましたね」

「あまりいじらずに、おとなっぽくとのご注文でして。うまくいきましたね」

 

 前髪はふだんのままだが、うしろ髪はしばって左肩にかけている。そのスタイルに彼は見覚えがあった。

 

「うむ、我らが先駆者たる時の反逆者(アンチエイジング)の霊験にあやかった」

「……あの、その呼びかたを川島さんの前でしていませんよね」

「えっ」

 

 やったな。青年の表情が渋くなったのは弾指のあいだだったので、蘭子の丸くなった目に止まることはなかった。

 

 川島瑞樹には後日そろって謝ることを、ひとまず心に刻む青年であった。

 

「あはは、あ、失礼しました。瑞樹ちゃんふうの髪型、セットさせていただいて光栄でした。お二人そうしておいでだとほんとうに主従ですね。お若い執事どの、羨ましいです」

 

 店員がからからと笑いながらレジにはいった。彼女はライブにも握手会にも欠かさず出向くほどの、川島瑞樹の大ファンだという。

 

 代金の支払いの折、青年は一つ頼みごとをした。さほど深刻ではないが、つい声のボリュームを小さくする。

 

「きょう、神崎がこちらに立ち寄ったことはご内密にお願いします」

「構いませんよ、いきさつがいきさつですし、行くお店がお店ですものね」

 

 こちらはサービスです、と店員は二枚の仮面を差し出した。ひとつは黒色のアイマスクで、左の目元に赤いバラの刺繍がしてある。もうひとつは顔全体をおおう白い陶器のような仮面で、額から右頬にかけて蝶が何匹も舞う蒔絵が描かれており、立体感のある白い唇には金のバラを咥えている。

 

「行くお店がお店だとは……?」

 

 不穏なひびきを質すと、黒ヒョウは明るい調子のままからりと答える。

 

「あちら……セージェムさんはコスプレグランドメゾンです。頭文字をとって、(セー)(ジェー)(エム)、と。正装でもはいれますけど、コスプレ感があるほうが溶けこめますのでね」

 

 蘭子の正体を隠すことが目的に変わりはなくとも、そのさらなる理由には大きい隔たりがあったのだった。

 

 青年は引っかかるものを残して、蘭子は嬉しそうに、礼をいって貸衣裳店をあとにした。もう太陽は沈んだとはいえ、まだ表ではアスファルトから蒸し暑い空気が立ち上っている。めかしこんだ二人は汗の流れ出さないうちに、グランドメゾン……高級料理店でありながらコスプレをコードとする物好きなレストランへ急いだ。

 

 

(続)



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時は待たない(後編)  ゲストなし

 さきの慇懃なボーイに出迎えられ、ホールへ踏みいった蘭子と青年のマスクの目穴越しの視界に、巨大な壁画が飛びこんできた。

 

 古代ギリシャの、オリンピアの祭典だ。本家の彫刻以上にひどく写実的で、それ以上にオープンだった。蘭子が短い悲鳴をあげ、青年が反射的に彼女の目を隠した。

 

 思春期の少女になんてものを、と胸で毒づきつつ、執事らしく蘭子を気づかう。

 

「お嬢さま、大丈夫ですか」

「わ……我は、我はなにも見てはおらぬ……」

「配慮が足りませんでした。レディファーストなど遵守したばかりに……」

「ま、まあよい。このくらいでおびえる我ではないわ……」

 

 顔を完全に隠す白い仮面の下で声は動揺しきり、震えている。青年は蘭子に目を閉じさせ、手を引いてゆっくり歩いた。二人に注ぐ視線もいくらかあるが、ほほえましい主従ということのほかに意識を傾けはしなかった。

 

 アール・ヌーボー様式の店内は、真鍮とクリスタルガラスのシャンデリアが投げかけるシャンパンゴールドの灯りによって、やさしげでかつ華やかな世界を作り出している。高い天井へ柱がしなやかに伸び、あるものにはアジサイやエゾギクのプリザーブドフラワーが飾られ、またあるものにはヤマトタケルの熊襲征伐図がかけられ、あるいはロキの石膏像がせり出している。

 

 無節操な飾りを取り払えば、ここも神崎さんの気にいりそうな建物なのに。青年のひそめた眉は、黒いベネチアンマスクのおかげでだれにも知られなかった。

 

「階段になっていますので、お足許にお気をつけください」

 

 ホールを横切って、一段上がった壁際、薄手のカーテンで区切られた個室が並ぶ区画をとおる。そのカーテンは膝の高さで断ち切られていて、目線を下げればなかにいる客の足が見える。親しげに会話をかわすどの個室も、聞こえる声は一様に低い。小声でもあるが、低音しかしていない。

 

 白いタイトスカートにデニールの弱いストッキング、白いサンダル……女性看護師と見える脚。淡い水色のアリスワンピース。網タイツと赤いハイヒール。ルーズソックスにぺしゃんこのローファー……。

 

 いぶかしむ青年の心を読んだのか、ボーイが肩越しに、感情の読めぬ笑顔で説明をした。

 

「こちらの個室は、大きい声ではいいづらいのですが、基本的に密会用の場になっております」

 

 密会。青年は頭の辞書にその意味を確認した。人目を避けてこっそり会うこと。とくに男女の間柄で使われることが多い。

 

 おなじく意味を思い起こし、自分たちに重ねたのだろう、蘭子の白磁の耳赤くなった。青年はといえばむしろすこし青くなった。白金高輪という土地で、声から察するに四〇、五〇代の男たちがする密会などといったら、秘密会議、密談のいいかえではないのか。うっかりでも聞いたと咎められれば危険極まりない!

 

 なぜ千川ちひろは我々をこんな万魔殿に差し向けたのか……。こんどは顔いっぱいに苦る青年だった。見ているものは、おそらくいなかったが。

 

 ともかく、後悔先に立たず、青年は覚悟を決め、とおされた個室で蘭子と向かい合って座った。さいわい壁は厚く、隣室の声は聞こえない。

 

 蘭子はひざにナプキンを広げ、メニューをながめる。饗されるコースの案内が書かれたものだ。姿勢を正して座ってはいるが、大柄な大人向けに作られたらしい椅子のため、腰掛けは浅い。若干おとなびたいでたちと合わさると不思議と子供らしく、かわいらしいものと三白眼には映った。ふだんの恰好だったら、ビスクドールのようになっていたことだろうと夢想する。

 

 現実には三秒ばかりで立ち返り、蘭子が落ち着いてテーブルマナーを実践できているらしいことを見て取ると、彼もメニューを開いた。ホタテ貝柱のコキーユ、鮎のテリーヌ、牛フィレにフォアグラなど、いかにもという料理に食材が居並んでいる。

 

 蘭子が不安げに口を開いた。

 

「この宴の供物はポセイドンのはからいかデメテルの祝福か、その、未曽有の代償を伴う贄なのでは」

「ご心配なく。このくらいは平気ですよ」

 

 きょうの出費は、とうぜん経費として申告できるはからいである。しかし答えて、メニューへふたたび視線を落とすと、彼の胸にも一抹の不安が湧いて出る。服のレンタル代金に、この一応高級店のフルコース代金の領収書。はたしていくらになるだろうか?

 

「お飲み物はなにになさいますか?」

 

 青年がうつむいているうちにウェイターが来ていた。蘭子の注文したのとおなじものを、彼も頼む。ぶどうジュースである。

 

「む? 葡萄酒ではないのか?」

「……はい、このあともまだ、あなたを寮まで送らなければなりませんから」

「わ、我は我が為に友の禁欲など求めては……」

「こういったことは大人のマナーです。酔っていてはあなたをきちんとお守りできなくなってしまいますので」

 

 蘭子はまだどこか腑に落ち切らない様子だった。お酒は大人の人生唯一の楽しみだとか、飲まないと死ぬだとか、そんなことはないのだが……。青年はベネチアンマスクを外し、なるべくやさしい顔を作った。無理をしているわけじゃないことを示そうとしたわけだが、表情の固い彼にはそれこそ苦しいものがあるのだった。

 

「救世主の聖血をもって我が友の心を煉獄より解き放たんとしたのだが……」

「すみません、そのお気づかいだけで救われます。神崎さんが食事を楽しんで、それに正しいマナーも身につけていただければ、私は満足ですよ」

「祝福なき者に、我を照らすことはできぬ……」

 

 同席者が沈んでいては楽しめない、とはもっともである。そこまでいうほど無理をして見えたということで、その点を宿題と積んで、青年はいっそうおだやかに努めてこたえた。

 

「ご心配ありがとうございます。他愛のないことですから、お気になさらず。フルコースを楽しみましょう」

 

 まだ蘭子は不承不承といった面持ちだ。これ以上はどうしたものか、さすがに弱った青年に、カーテンが開いて救いの手が差し伸べられた。

 

「失礼します。お飲み物をどうぞ」

 

 ぶどうジュースである。コップではなく、ワイングラスを携えて。ウェイターの去りぎわ、彼がそっと頼んでおいた演出だ。

 

「おお、甘美なる蜜のよそおいか!」

 

 蘭子が喜色を浮かべる。それを見てとった青年の顔に赤い視線が注がれ、怪訝だった表情がついにやわらいだ。

 

 さて、と一つ区切りをいれて、青年はマナーの教養書を、マナー違反ではあるがテーブルの隅に置いた。

 

「乾杯をしましょうか。ワイングラスはぶつけないように」

「うむ」

 

 蘭子は大げさにうなずいて見せる。上機嫌のさまに、彼も肩の力が抜ける。

 

「本日は、情けなくも予定していたとおりにはいきませんでしたが、それでも、ついて来てくださったあなたの……」

 

 忍耐力、とつづけようとして青年は思いとどまった。迷惑をかけておいて“よく我慢しました”はありえない

だろう。

 

「あなたの……、やさしさに。乾杯しましょう」

 

 締まらないな。そうは思っても、蘭子の笑顔にたしかに救われた気持ちがした。

 

 

 

 テーブルマナーは同席者を不快にさせないためのもの。すべて本のとおりにする必要はない。食器の置きかたや肉の切りかたなど、不変の真理のようなものもあれば、ワイングラスの持ちかたやナプキンの使いかたなど、時勢とともに変わるものもある。

 

 蘭子の所作のよさには彼も目を丸くした。わずかな講座できちんと身になっている。むしろ、彼こそ手習いになりそうに思うほど。

 

「これしきの呪文、会得は造作もなきこと」

 

 そういって、黒薔薇に包まれた胸を反らして余裕を見せるのである。

 

 料理の味は素晴らしく、二人は舌鼓を打った。青年などはきょうようやく、幸せだなという思いをいだくにいたった。計れば二時間になんなんとする、短い至福の時だった。

 

 食後の紅茶でカップの持ちかたを確認して、ついにマナーの自習から解放されると、蘭子の口からは堰を切ったように言葉があふれる。学校の話、好きな番組、苦手なこと……。

 

 彼もまた饒舌になっていた。店内にひそむ英雄たちの神話、今後のプロモーションの方向性。話は、ティーカップが乾いてもつづいた。

 

「神崎さん、大丈夫ですか?」

 

 話しこんでいるうち、蘭子は瞼を重そうにして、姿勢をだいぶ崩していた。二三時を過ぎている。蘭子が暮らす寮だと、とうに消灯している時間だ。

 

「すみません、いまからだと門限を過ぎてしまいます」

「構わぬ、きょうはたのしかった。……あ、ご、ごちそうさまでした」

 

 折り目正しく、眠気でぐらつく頭を下げる。立ち上がるのに手を貸しながら、青年は思った。わざわざマナー指導などせずに、ただ食事を楽しむだけでよかったのかもしれない。そうしたら、もはやいいわけは立たなくなるが……。

 

 個室からの帰り道におかしな調度品が見えないことは確認しながら来ていたので、こんどは蘭子は目を開けて歩くことができた。

 

 だが忘れていたか、眠気で朦朧としていたか、蘭子は下り階段で中空に足を踏み出した。

 

「ひいっ」

「お嬢さま!」

 

 “神崎さん”と“お嬢さま”の呼び分けを無意識にできたことについて、なにか思う暇は彼にはなかった。

 

 左半身で蘭子の体を受け止める。その拍子に外れそうになる仮面を、うしろから回した右手でおさえる。右手はすぐ、細い右肩をつかんで仰向けに引き、右腕でその背を支える。腰を支えていた左手は膝の下にとおし、横抱きにして持ち上げた。

 

 鮮やかな機転に、ホールから歓声と拍手が湧く。気取る余裕はしかしなく、肘から先は自由な(蘭子の脚が細いおかげである)左手を小さく振って彼はどうにか応えると、逃げるように出口へ急いだ。

 

 ボーイはタクシーを呼ぶと申し出たが、青年は断って少し離れた大通りまで歩くことにした。店の近くでは勘ぐられるかもしれない。私たちは雲の上のことなど知りません。いや、この幼い堕天使が住んでいた雲は、淀んだ色のものではなくて、ちゃんと真っ白いもののはずですから……。

 

 だれに聞かせるでもないいいわけの道すがら、上弦の形にゆるんで見下ろす三白眼を、なかば閉じかけた赤い瞳がのぞく。

 

「プロデューサーは、きょう、楽しかった……?」

 

 声はすっかり眠そうだ。

 

「はい、私も充実した時間をすごさせてもらいました。あなたの笑顔が、たくさん見られましたから」

「よかった……」

 

 きょう、最大の笑顔の花が咲く。

 

 蘭子はずっと、彼のおだやかならぬことを気にしていたのだ。強面の青年はようやく気がついた。

 

 マナーは同席者を不快にしないためのもの、か。口のなかでつぶやいた。マナーができていなかったのは、私のほうというわけだ。

 

「わたしもお酒が飲めたら、もっとよかったのかな。わたしよりも、おとなのひとと行ったほうが……」

 

 歳に釣り合わぬ艶めいた唇からこぼれる言葉に、思っただけのつもりであろうとは考えつつ、それでも彼は返事をした。

 

「あなたが大人になったら、もう一度行きましょうか。こんどは、ワインで乾杯をして」

 

 蘭子は目を丸くし、頬を赤らめた。口を何度か開閉させ、白い指をさまよわせる。息を一つ飲みこんで、鼻から蒸気を噴くと、平時の澄まし顔を彼へ持ち上げる。

 

「この次は、規律の魔導書は持たず」

「若いひとの話題も、勉強しておきます」

「暗夜の理を、よりながく制してみせよう」

 

 六年も先の約束。すでに大人の青年にはそう長くもない時間である。しかし……。

 

 神崎さんにとっては長い時間にちがいない。青年は胸にひやりとするものを感じた。

 

「……さあ、帰りの車を探しましょう」

 

 

 

 日付が変わろうとするころ、二人を乗せたタクシーは女子寮の門扉の前に止まった。門扉の鉄柵の向こうに老婦人が立っている。車中からの連絡を受けていた、この寮の管理人だ。車中から頭を下げる青年をみとめて、安心三割の顔をした。

 

「お嬢……神崎さん、寮に着きましたよ。神崎さん」

 

 神崎蘭子は髪をほどき、頼もしい右肩にもたれて寝息を立てている。呼びかけてもゆすっても起きる気配がない。……彼のやりかたがひどくやさしいせいもあるが、そこへ思い至る前に彼が行き当たるのはこうだ。きょうはずいぶんと疲れさせてしまったから、無理に起こすのもかわいそうだ。

 

 自分のかばんを肩にかけ、腕に着替えをいれた紙袋をとおして、蘭子を横向きに抱きかかえる。日傘を左の手首にかけ、ハンドルの小さい蘭子のバッグは、持ちかたを迷ったが左手に持った。

 

 レストランの階段で抱きかかえたときより熱く、完全に眠りこんでいるのがわかった。今夜は私がいるからともかく……。黒く細い視線が無垢な寝顔に注ぐ。ひとりで遅くに帰るような日があると、心配ですね……。

 

 老婦人の先導で、燕尾服の黒い執事はお嬢さまを部屋へと運ぶ。腕のなかから、おだやかな寝息が彼の耳朶をくすぐる。何度もつられて視線を落とす。その寝顔はどの瞬間にも安らかだ。ほほえましいばかりの玉面に、だが、しだいにありもしない不安を覚えはじめた。

 

 ほんとうに百年の眠りに落ちてしまってはいないだろうか。ひそひそ話より少しだけボリュームを上げて、眠り姫に語りかける。

 

「あした、ちゃんと朝に起きて、ドレスとマスクを持ってきてください。昼間お借りしたハンカチは洗って、あさってお返しします。そうだ、ダンスレッスンもありますからね。お忘れなく」

 

 約束の時間は六年後ですよ、神崎さん。……胸のなかで念を押す。

 

 心の声はさておき、口から出た言葉への返事はない。返るのはすうすうと静かな寝息だけだ。老婦人は振り向きもせぬ。不意に心細くなった彼は、意味もなく呼びかけた。

 

「わかりましたか、神崎蘭子さん」

 

 かすかに、彼女の桜色の唇が動き、青年の名を呼んだ。肩書で呼ばれることに慣れていた彼は、こそばゆそうに目を細める。

 

「起きているのですか?」

「こよいの、しゅくさい……、よいしれよ……」

 

 気の早い夢のなかで、楽しんでいるらしかった。六年後の世へ、彼も心を飛ばす。このような、いや、これ以上の顔をしてもらえたら、どんなにいいだろう。

 

 蘭子をベッドに横たえ、彼女の荷物を置いて部屋を出た。管理人がしっかりと鍵をかけ、また無言で青年を外に送り出す。なにもいいはしなかったが、さきのタクシーは彼を待っていた。

 

 去りぎわ、今後はこのようなことのないように、時間は厳守ですよと叱られたのが堪え、しかし不思議と楽になった思いを彼はした。

 

 晴れわたった夜空はネオンで藍色に照らされ、小さい光点をまばらに灯している。涼味を帯びた風が広い背中を押す。青年も家路につくときだ。

 

 タクシーのなかで、時刻は〇時を回った。てっぺん越えちゃいましたね、遅くまでお疲れさまです……。そんな会話から、初老の運転手が懐かしそうに話す。

 

「子供は寝ちゃうとなかなか起きてくれませんよねえ。あたしなんてうちの子が小さいころは、寝顔しか見てなくて。たまに休みの日になると“知らないひとがいるー”だなんてねえ」

 

 あしたもし……。運転手の自虐が、眠い彼の思考をショートさせた。もし神崎さんが目を覚まさなかったら、女子寮は深い茨に鎖されて、私は寝ずの番をするのだろうか。百年も生きてはいられないから、六年で目覚めてもらいたいものだ……。

 

 

(了)



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小さな呼び声  ゲスト:川島瑞樹

ちょっと甘めにしてあります。



「煩わしき太陽よ、堕天使の翼に包まれてそのさだめを終えるがいい」

 

 地上八階。浅草の街を見下ろすランドマーク、“新凌雲閣”のスタッフ専用フロアでは、撮影機材を運ぶ音がひっきりなしに往復している。そのせわしなさに背を向けて、大窓のブラインドに作った隙間から柿の実のような夕陽を見下ろし、神崎蘭子は含み笑いをする。演技過剰なそれは、丸い夕陽をおなじ仕草で眺める大柄な青年の鼓膜を揺すった。

 

 彼にとってはとうに聞き馴染んだ声であり、この一時間ばかり待っていたものでもあった。逆三角形の三白眼の目許をひとつやわらげて、声のしたほうへ向ける。

 

「あれっ……」

「どうか? 我が友」

 

 青年は一瞬戸惑った。彼の印象にある神崎蘭子は白や黒のゴシックロリータに赤や紫の鮮やかな色を差して、銀を紡いだような髪をゆるく巻いたツーサイドアップにした、まだあどけない一四歳の女の子だった。しかしそこにいるのは一七か八か、背こそ彼の胸ほどまでだが大人びた少女に見えたのだ。

 

「いえ、なんでもありません。……いい衣裳です」

 

 疑問符を浮かべたのも一瞬、褒められて腰に手をやり胸を張るさまは、いかにも蘭子である。前髪のボリュームをおさえ、サイドテール一本にまとめて胡蝶蘭のかんざしで留めている。

 

 身につけるのは真夏の昼の薄雲色をした生地に、パステルカラーの花が咲き乱れる着物。浴衣ではない。本紫にむらなく染まった無地の袴を七分丈に裾上げして、飾りベルトの三本ついた、エナメルのブーツを見せている。

 

「これぞ我が眩惑の一翼の威力」

「たしかに、ふだんのあなたを知っていると意外ですね。もちろん、そういった装いも魅力的だと思います」

「うむ。……わ、我が友も、な」

 

 きょうはここの屋上、地上一一階の庭園で鈴虫の鑑賞会が催される。そこで風情のために、スタッフも着物か浴衣の着用が義務づけられた。洋服用のスタッフ腕章で左の袖を不恰好にくびれさせた男女が、そこかしこで機材の運搬や段取りの確認をしている。

 

 この青年もまた、大学卒業とともにタンスにしまいこんだままにしていた浴衣を引っ張り出してきた。藍地にトンボを白く染め抜いたもので、数年ぶりにもサイズが合わぬということがなく着られて大きく安心したものである。

 

 そしていつもどおりの洋装で来た蘭子のお召し替えを待っていた、というわけだ。

 

「うん、シンプルな服だと一瞬わからないわね。新しい子を連れてきたのかと思っちゃったわ」

 

 背後の楽しそうな声を蘭子と青年は振り向いた。その動きがどこかぎこちなく見え、声の主、川島瑞樹は小首をかしげる。夜会巻きにした亜麻色の髪が、落ち着いた照明に艶を放つ。

 

「おはようございます、川島さん」

「はーい、おはよう」

 

 瑞樹は声のトーンを一つ高くした。それは男性との会話だからではなく、蘭子同様の女学生スタイルをしているからである。瑞樹の着物は白と紫の矢絣模様、袴は濃い緋色のシックなものだ。裾は長くとっているが、足許はやはりブーツを履いている。

 

 この日は鈴虫鑑賞会がニュース番組の時事のコーナーで取り上げられる予定になっている。蘭子はそのゲストに以前から呼ばれ、川島瑞樹は急病のリポーターの代打として、こちらは大急ぎで駆けつけてきたのだ。

 

 ……青年は蘭子の背をかるく押した。以前、彼女が川島瑞樹に不名誉な二つ名をつけたことを詫びる機会とみたのだ。当の蘭子はそれがかっこいいと思っていたようで、不承不承という表情である。

 

「い、いにしえのサバトの折、我が言霊が不浄なる調べを……」

「神崎さん。これは、ふつうの言葉で……」

「ふふ、わかるわ。気にしなくていいのよ」

 

 瑞樹の返事で青年は目を丸くした。自分がまだ必死に頭を回転させてついていっている蘭子の言葉を、微笑みながらわかってしまうのか。……本当に?

 

「蘭子ちゃんが私にそんな顔するようなことっていったら、ね」

 

 刺さった棘はしっかり憶えているらしかった。二人は揃って深々と頭を下げる。その二つの頭上で手をひらひらとさせ、瑞樹は花のかんばせを保っている。

 

「だから、いいの。あんまり深刻にされると、こっちもマジみたいじゃない。まあ、でも、そうねえ。プロデューサーくんには、監督責任というのがあるわけだから?」

 

 そういって瑞樹は黒い野球帽を差し出した。夕雲を描いたネイルが黒地によく映える。

 

「“すずむしゃくんの兜”。これかぶって雰囲気出してくれない?」

「なんの雰囲気ですか」

 

 などと口答えのできる立場ではなく、彼は瑞樹の示した“兜”……黒い野球帽に半透明のフィルムとプラスチックの棒とを二つずつ取りつけて鈴虫のようにしたものを頭に載せた。

 

「これでよろしかったのでしょうか」

 

 “かわいい”とご満悦の瑞樹に対し、蘭子は短い眉を寄せて固まっていた。極端な二つの表情で迎えられ、青年は蘭子寄りの顔をした。

 

「あはは、もう、よろしいよろしい。お姉さん赦しちゃう! ほら暗い顔してないで。似合ってるわよ、男前っ!」

「ありがとう、ございます……」

 

 頭を下げるとフィルムがガサガサと安っぽい音を立てる。鈴虫の翅のこすれる音はオスからメスへの恋の唄だというけれど、これを快く思うひとがいてくれるだろうか? ……そういえば階下で大笑いしていたカップルは、これをかぶっていたかもしれない。そんなことを思い出して、青年は渋面を深めるのをどうにかこらえた。右手はつい、首のうしろをさすってしまうが。

 

 蘭子は手許のパンフレットで“すずむしゃくん”の解説を読み、なお眉をひそめる。いわく、侍に憧れた鈴虫が浅草観音さまへの誓願によって人間になった、八歳の少年。鈴虫振興会の広報担当。三頭身のシンプルな顔をきりりと引き締め、兜という名の野球帽がトレードマーク。

 

「……」

「さ、蘭子ちゃん。きょうの収録、がんばりましょっ!」

「神崎さん、ご心配なく。上ではこれは脱ぎますので」

 

 戸惑いがちに、蘭子は頷いた。

 

 

 

 新凌雲閣。大正時代に姿を消した凌雲閣……“浅草十二階”という名前で知られるランドマークが現代によみがえりました。先代とおなじ赤レンガ造りの威容を誇る一二階建て。正八角形のフロアをエレベーターと螺旋階段がつらぬき、内装は当時のようすを忠実に再現します。

 

 一階から七階までは名店街、九階と一〇階はレストランフロアとなっております。八階はビル関係者の専用フロアのため、一般のかたの立ち入りはできません。一一階は屋上庭園。季節に合わせた催事を行っております。中央には二階建ての尖塔があり、先代とおなじく展望スペースになっております。近代化しつつある浅草・吾妻橋を、大正ロマンに浸りながら見渡してみませんか?

 

 ……鈴虫鑑賞会に撮影場所を用意するまで、台本に集中する蘭子の邪魔にならないよう、青年はこの建物のパンフレットを読んでいた。頭に戴いていた騒がしい帽子はすでにない。彼自身が落ち着かないこともあるが、先のように蘭子のお気に召さないこと、そしてきょうの主役たちの歌の邪魔になることが理由である。

 

 もっとも、かごのなかの彼らがどれだけ歌っても来てくれるメスはいない。つがいができればそれきり鳴かなくなるから、死ぬまで独り身である。

 

 虫売りも買い手も、なかなか残酷なことをするな。などと青年も己が身の上を虫にかさねて思いはしたが、さてもういちど省みれば、年頃の少女で似たような真似をしているのだった。苦いものを口の端に浮かべていると、ADが蘭子を呼びに来た。撮影開始である。

 

「みなさんこんばんは! リポーターの川島瑞樹です」

「闇夜に棲まいし我が下僕たちよ、我、神崎蘭子が今宵この勝利の塔の頂上に至れる幻獣たちの宴に導きの灯を燈そう!」

 

 金色の夕陽のなかカメラのフレームに収まるのは、壇上のガラスケースと女学生に扮した二人のリポーター。そして遠巻きにスマートフォンのカメラを構える見物人たち。

 

 あのうち何人が神崎さんを目当てに来ているのだろう。青年はまぶしさに細めた三白眼で野次馬を見やる。撮影をしている、芸能人がいる、そんな理由がほとんどであろうことは想像に難くない。三割程度だろうか。渋くした表情が見える位置にいた一部の野次馬は、少しだけ縮こまった。……それでもスマートフォンを構えたままでいるが。

 

「地を満たす精霊たちの共鳴、天に捧ぐ調べよ」

「全部でなんと二〇〇匹の大合唱、ほんとに素敵よね。あ、合唱っていったけど、みーんなソリスト。歌声を競いあってるの」

 

 このコーナーは、二人の女学生が鈴虫を話題におしゃべりをするという構成で書かれていた。しかし青年にも、野次馬にも、おそらくスタッフにも、あまりそのようには見えない。

 

「孤独なる魂の叫びであったか……」

「しかも、ぼくのところに来て~っていう、熱烈な愛の歌なのよ。人間だって魅了しちゃうんだから、すごいわよね」

「そうであったか……。では想い満たされしときは、無上の音色が天地の狭間を」

「残念ながら! パートナーを見つけた鈴虫くんはもう鳴かなくなっちゃうの。かの文豪、小泉八雲も、それを残念がっていたわね」

 

 取り巻く目が見ているのは女学生と女教師のコンビだ。律儀な青年は心のなかで瑞樹に頭を下げた。これは服の柄や髪型や見た目は問題ではなく、蘭子が質問をして瑞樹がそれに解説するという脚本のせいである。こうなったのは蘭子に説明させると“例の、よくわからない言葉”に変換されて視聴者に伝わらなくなるから、というわけで、もう一人、どこにいるかわからない構成作家にも低頭しきりの彼であった。

 

「ペットの鈴虫は野生じゃ生きていけないから、最後にお嫁さんを探しに行け、なんて草むらに放しちゃだめ。責任をもって最期まで面倒を見てあげてね」

「囚われしはエデンという獄牢か……」

 

 二人の話は青年に、先の連想を思い出させる。プロダクションというかごに囚われた少女たちと、囚えている自分たちを。

 

 いつかは、シンデレラプロジェクトのかごを私は開けてやらねばならない。それは、まだしばらく先の話ではある。先の話だが、それまでにあの子たちが、独りでも輝けるように育てていかなくては。……そう、アイドルは虫とはちがうのだ。

 

「こんなふうに愛の歌にかこまれてると、ワルい女になっちゃったみたいね。もちろん、心地はいいんだけど。ふふふ。蘭子ちゃんはどうかしら」

「うえっ!?わ、わたし……否、我は……、幾束の花よりもただ一輪、至上の赤き薔薇を望むがゆえに……」

 

 

 

 収録が終わり、蘭子と青年は和装のままかるい夕飯をとってから一階に降りた。

 

「我が友よ、太陽滅びし塔の街に翼を翻さん!」

「もう八時を回っていますから、長居はできませんよ」

 

 鷹揚に頷く蘭子だったが、散策ルートを考えようと彼がスマートフォンを取り出したとたん、薄紅の頬を膨れさせる。

 

「どこか、行きたい場所が……?」

「今宵はこの翼、風にあずけんと……」

 

 気ままな散策がお望みらしいことは察しがついた。とはいえ浅草の大通りは夜でも賑わい、はぐれれば危ない。

 

「わかりました。ただし、私からはなれて歩くのは禁止です。私の腕がとどく範囲に、かならずいるようにしてください」

「心得た」

「それから、虫除けはちゃんと使いましたか。まだ悪い虫も飛んでいますから」

 

 虫除けスプレーを渡してふとずらした黒の視線の先には、川島瑞樹がいた。二人を見てニコニコ笑う彼女もまた、撮影のときの衣裳のままだ。

 

「ど、どうかされましたか? ……川島さん」

「ううん、どういう会話してるのかしらと思って」

「いまの表現に他意は……」

「わからないでもないけど」

 

 少女のようにいたずらっぽい顔をすると、こんどは蘭子のほうを向く。

 

「これからパパとお出かけ? ……『ひと聞きが悪いし私はそんな歳じゃありませんよ』って顔ね。わかるわ」

 

 すぐさま切り返した瑞樹にせりふを取られ、青年は口ごもった。苦い顔をしていると、瑞樹はいっそう楽しそうになる。

 

「まだ若いのにこういわれちゃうと、意外にこたえるでしょ」

「はい……」

「きょうの撮影もね、みんな褒めるんだけど、“みごとな授業でしたよ”っていうのよ。私、蘭子ちゃんの同級生のつもりで用意してきたのに」

「あの台本でですか」

 

 口を押さえてももう遅い。川島瑞樹は目許だけ怒ってみせている。……はじめのコンセプトでは彼女のいうとおりのものだったので、無理からぬことではある。

 

「クラスにひとりふたりいたじゃない、物知りな子って。それよ」

「それでしたか……」

 

 心のこもらない返事に、目許の演技くささが消える。

 

「キミも私を先生だと思っていたでしょ」

「と、時の反逆者は人の心を読めるのか……?」

 

 アンチエイジングよりはましな呼びかただろうか。青年はヒヤリとしたが、呼ばれた本人は“そうね”とにこやかだ。よけいな言葉が出ないように沈黙を保っていようと青年がこっそり一つ溜息を逃がした矢先。

 

「ではその真名は“読心の魔女”……」

「神崎さん」

「蘭子ちゃん」

 

 川島瑞樹が手で“どうぞ”と促した。青年は少しかがんで蘭子の顔を覗いた。なるべく、隣に立つ妙齢の女性の顔を見ないようにして。

 

「いわんとしたその、字面はわかります……。ですが、音の……ひびきがですね。ひじょうにナイーブなものでして。ともかく、いまの言葉は少々、ひとの心をえぐりますので。時の反逆者にしておきましょう」

 

 その落とし所もどうなのか? 妙齢の瑞樹の口の端が少しだけ引いた。どうたしなめたものかわからなかった気持ちの、ある意味では逃げ道であった。ふう、と声に出して息を吐く。

 

 青年はといえばきょとんとした顔で応えられ、沈痛のなかにいた。十四の少女には理屈でもわからないだろう。むべなるかな。

 

「川島さんも、その……神崎は悪意があってのいったのではありませんので、どうか、ご容赦のほどを」

「うん……。いまのは私が読みきれなかったんだもの。いいわ。それに本気で謝られると、私も本気みたいじゃない……」

 

 わりと本気のような声だった。

 

「ええと、その、……ごめんなさい」

 

 自分がひとを傷つけたらしいことは察したのだろう。しょげる蘭子を、川島瑞樹が慈母の眼差しでつつむ。背はそれほど変わらないが、蘭子を抱き寄せる姿は大きく頼もしく彼には映った。

 

 しかし、胸許に神崎さんの頭を抱いて撫でている姿は、親子のような……。男の身にできる慰めの限界と、余分で失礼な考えとが胸中に広がり、無意識に彼は一歩下がった。

 

「あらプロデューサーくん、どうかした?」

 

 涼やかな声が青年の足を縫い止めた。川島瑞樹が花の笑みで彼を見ている。

 

「ど、どうもしていません」

「そう? やましくないなら堂々としてなくちゃ、怪しいわよ」

 

 ほんとうに心を読まれた気がして胸を押さえる。そんな彼のようすに、背を向けている蘭子は気づくこともなく、回復した調子で瑞樹を見上げる。

 

「時の反逆者は次なるサバトへ向かうのか?」

「私はね、うーん、雷を封じ込めた生命の水を買いに行くのよ」

「いかずちを……?」

「ひょっとして、電気ブランですか」

「そう、楓ちゃんから頼まれちゃって。もうおそい時間だけど、まだやってるかしら……」

 

 お詫びの印とばかり、青年は売店が夜一〇時まで開いていることを素早く調べて伝える。川島瑞樹はクスクスと笑った。

 

「ありがとう。それじゃもう行くわね、お邪魔虫しすぎちゃったみたいだし」

「私たちはそういうものでは……」

「わかってるわかってる。冗談にそんな反応しないのよプロデューサーくん。さっきもいったでしょー?」

 

 笑顔で手を振って、瑞樹は浅草の街に消えていった。すこし遅れて、蘭子と青年も新凌雲閣をあとにする。鉢合わせて気まずくならないよう、神谷バーとはべつの方角に。

 

 

 

 スマートフォンはかばんに押しこめ、土地勘もない街をそぞろ歩く。小さい女学生が白妙の袖を、黒紫の袴をひるがえす。そのたび、すっかり近代のものとなったはずの街が青年に、ガス灯のにおいを嗅がせオレンジのあかりを見せる。

 

 写真を撮ろうとかばんのなかへ伸びる手を、青年は止めた。よく警官に見咎められる身として懲りていることもあるが、この大正浪漫の空気を写真では残せぬと感じたからだった。

 

「新しき風は此方より!」

 

 蘭子はときおり長い袖を夜風にそよがせて走る。離れないよう約束を破らせないよう、青年が大股でそのあとを追いかける。するとかならず曲がり角で立ち止まり、彼の追いつくのを待つのだった。

 

 何度目かに曲がった先は、店もなく、街灯がポツポツと灯る道だった。

 

「次の角にしましょうか」

「い……否、この程度、障害たりえぬ……。が、その黒き翼にて我を幻術から守護せよ……」

 

 角に着くたび曲がるルールで遊んでいるらしかった。青年が応じると、蘭子は袖を強くつかむ。そうすると洋服ならばいざ知らず、浴衣では肌脱ぎになるばかりか、帯までずれてゆるんでしまう。歩いているうちに脱げそうで、“いまだけ手をつなぎましょうか”と左身頃を直しながら持ちかける。驚き、紅潮する顔を伏せて戸惑い、蘭子は彼の左腕を、卒業証書の筒のように抱えるのだった。

 

 手どころか全身ふるえているのを、手と手で繋ぎなおすとはいえふりほどくのも忍びなく、そのまま小さい歩調に合わせる。にじり足の青年が顔を上げると、明かりが二つ近づいてくるのが見えた。蘭子が悲鳴をあげて太い腕をひっぱる。

 

「自転車ですよ、神崎さん」

 

 部活帰りか、ユニフォーム姿の少年が話しながら駆け抜けていった。わかりやすく息をつく蘭子に隠れ、青年もひそかに安堵していた。あの二人が警官で、また見咎められはしないかと冷や冷やしていたのである。……とはいえそれこそ怯懦というもの、怖がりの蘭子の寄る辺たるべく、ぐっと抑えこむ青年であった。

 

 やがて二人は浅草寺の裏手に出ていた。もうひと歩きもしたらタクシーを拾おうか。そんなことを考えて言問通りの車を眺ていた青年は不意に左腕に当たる風が冷たくなったことに気づく。そこにつかまっていた蘭子が離れ、玉垣に引き寄せられていたのだ。

 

「神崎さん、あまり藪に近づくと蚊に刺されますよ」

「わ、わかっている。しかし……」

 

 そういって、唇に白魚の指を立てる。青年も口をとざし、蘭子に近づく。耳を澄ましていると、藪のなかから虫の音が聞こえた。時期が早いのか、大通りに声が散るためか、あるいは彼らが収録での大音声に慣れたせいか、この草むらの合唱は二人の耳にうらさびしくひびいた。

 

「もう少し、歩いてみましょうか? もっと、よく鳴いているところまで」

「ふむ、まだ夢魔の訪れにははやい。新たなる楽園を求めようぞ」

 

 元気のいいことをいって、蘭子はまた青年の左袖を取る。その仕草は、しかし、気取ってしたのではなく、もつれかけた脚のためだった。……青年はいっそう足の動きを遅くして歩くことにした。

 

 

 

 人影も車通りもない細道を右へ曲がり左へ曲がり、浅草の街といえどやはり東京の一角であることを彼らは思い知る。緑地がまるで見当たらないのだ。

 

 「次の角の先にもなにもなければ、大通りにもどってタクシーを拾いましょう」

 

 夢魔にさらわれそうな蘭子はタイムリミットの提示に小さく身を跳ねさせ、頷いた。彼の腕をつかむほどの元気もなくなり、弱々しく右の手で袖先をつまんでいる。

 

 はたして、角を曲がると、わずかばかり視界がひらけた。小高い丘に石段が連なり、途中に丹塗りの鳥居のようなものが見える。そしてその向こう側から、虫の歌が降り注いでくる。

 

「神崎さん、階段ですが、のぼれそうですか」

「ふっ、我が魔力は未だ尽きず」

 

 強がる蘭子は頼もしい手を背を支えられ、一段ずつ夜闇と虫の声のなかへ上っていく。階段が終わるとふらつきながら、青年の数歩先で立ち止まった。暗い境内に蘭子だけが白く光るようであった。

 

「ここが……求めし楽園か?」

「はい、神崎さんのお気に召しましたならば」

「では妖精の宴を楽しむとしよう、我が友よ」

 

 振り向いた蘭子の、まどろむようなおだやかな顔に、青年の心臓が跳ねた。

 

 その濃い色の袴から、少しずつ、白い着物も薄く色づいた肌も、闇のなかに消えていってしまう、そんな気がした。蘭子はまた背を向けて、暗がりの奥へ進んでいく。さっきまで、街灯がつくる影にもびくびくして歩いていた面影は、夜闇のなかへ溶けて消えてしまった。

 

 眠すぎて、感覚が麻痺しているのですか。

 

 私の袖は、もう必要ありませんか。

 

 まさか、虫の声にほんとうに誘われてなんか、いませんよね。

 

 大きい手だけが追いかけようとしたとき、その小さい背がふらついた。傾ぎかたが大きい。

 

「神崎さん!」

 

 叫んで石畳を蹴る。次の瞬間には、彼は膝の力を失って崩れる蘭子を両腕で抱き支えていた。

 

「大丈夫ですか」

「む、夢魔の仕掛けし泥濘が……」

「もう、お疲れですね。帰りましょうか、このままお運びしますから」

「ヒュプノスの下僕はすでに退けたわ。永劫に等しい流浪の果てに辿り着きし約束の地、いま、しばしは……」

 

 保護者としては帰りを促すところだが、彼は顔をほんの二秒困らせるにとどめ、蘭子のオムズカリを受け容れた。

 

「わかりました。では、一〇分だけですよ」

 

 かばんのポケットからスマートフォンを出して、時間を見せる。蘭子が頷くのを見、横抱きにして本殿へつづく石段に運んだ。触れると夏とはいえ石は冷えていて、じかに座らせることはできない。それで彼はそのまま石段に腰掛け、蘭子の椅子になった。

 

 腕のなかの少女は赤い目を丸くして見上げ、すぐに目を伏せた。眠たそうな白い顔の、赤みを帯びたのが彼の目にも見えた。

 

「すみません、あまりお体を冷やしてはいけないと思いまして」

「あ、ああ……。よきにはからえ……」

 

 声の力はすっかり抜けていた。熱を持ちはじめた細い身体を彼は横抱きのまま抱き寄せる。いまに眠りこんで伸びきるだろうという予想ははずれ、蘭子は広い胸に丸くなった。

 

 胸に耳をあてられていると、さっきまで相対していた川島瑞樹以上に心を読まれているようで、青年は小さく身じろぎをする。

 

 いや、読まれて困るような心などない。独り頷いて、しっかりした腕で蘭子を包みなおす。そう、堂々としていればいい。私は椅子。余計なことは思わない。

 

「我が友よ、其方の魂の波動に乱れを感じる……」

「神崎さんに聞かれているせいですよ」

 

 ……などと正直にいうまでの度胸はなく、ここまでずいぶん歩きましたからね、とごまかした。蘭子の返事はそっけない。それは蘭子が鼓動から心を探るすべを持っているとか、幼いなりの女の勘とか、そうした理由からではない。彼にとっては幸いか、ただただ眠いからである。もっとも、当人は拙劣(へた)な嘘で不興を買ったととらえていたが。

 

「ご心配なく、深刻なことではありません。……それより、そうしていると私の胸がうるさいでしょう」

「地を満たす星屑の声よりも甘美なるは、黒翼の裡よりこぼれし福音の鐘……」

 

 蘭子の言葉の意味をひもといたとき、青年の心臓は本人にもわかるほどの音を立てた。

 

「灼熱の息吹が……」

「すみません、すこし離れましょう」

 

 そういいはしても彼は腕が震えて蘭子を動かせず、その胸に頭をぐりぐりと押しつけられた。それが拒否の首振りだと、気づくには長い時間を要した。

 

「な、なぜです」

「ことわる」

 

 三白眼が天を仰ぐ。

 

 そういえば、あのとき川島さんとなにか話していたな。まさか、この一連のことは、なにも知らぬ神崎さんさえ使って私に人誅を下そうという、彼女の恐るべきたくらみなのではないだろうか……。

 

「暑いのではなかったのですか?」

「……どうしてこんなにドキドキしてるのか、教えてくれたら離れます」

 

 ふたたび心臓が跳ねる。しかしすぐに冷静さをとりもどす。演技がかった言葉は、蘭子の素直なものではないと直感できたのだ。

 

「川島さんから、なにか教わりましたね」

 

 小さい体が、びくっと震えた。答えはそれでじゅうぶんだった。かるく息をととのえ、彼は言葉をつづけた。

 

「神崎さん。私は、自分の胸の裡がすべてわかっているわけではありません。言葉でそれを表現することも下手です。ですから、いまは、私の胸からじかに聞いてみてください。時間は……まだ、ありますから」

 

 二つの腕に力がはいった。……青年の背中へ回った蘭子の右腕と、そして彼の左腕。虫の声はもう、聞こえなくなっていた。

 

 

(了)





※本作中の新凌雲閣は実在しません。


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かがみむし(前編)  ゲスト:KBYD

怪談です。


 耀く黒の棟々と色濃い緑に、天から目に痛いほどの純白の熱が吹きつける。うだるような暑さの元兇たる蒼天の一つ星を、鳶が威嚇して飛び廻っていた。

 

 京都は九条にいまなお残る平安京、東寺。境内のがらくた市は、平時を上回る盛況である。華やかに装った四人の少女を取り巻き、巨大なカメラや太陽に劣らぬ光球、集音マイクが白黒の森をなしている。Tシャツとハーフパンツのラフな恰好のものもいれば、ワイシャツにネクタイを締めスラックスを穿いた男もいる。そうした多彩な姿の生け垣の外は、バラエティ番組収録の見物者のひといきれで満ちていた。

 

「熟成されし魔力のかぐわしさよ……。フフフ、胸が踊るわ」

 

 寺のどの棟より黒いベルベットの日傘を差して、神崎蘭子は出店のワゴンに整列した和の雑貨をのぞきこんだ。銀絹の髪が汗を吸って重く揺れる。

 

 パステルブルーのリボンをアクセントにしたフリルブラウスはレフ板以上に白く、胸の豊かなシルエットを影のなかにくっきりと描き出す。細い腰にぴったり合わせて絞られたスカートは日傘同様に黒く光を呑みこみ、そこから伸びる細い脚は白タイツに黒のエナメルの靴、そして熱をまといつけていた。

 

 細い顎からワゴンに滴りそうになる生命の雫を、織りも細やかなハンカチで拭う蘭子である。

 

「ふふーん、お姉さん、カワイイボクにピッタリのをひとつ頼みましたよ!」

 

 その隣、真夏の太陽の下、光球と化した純白の日傘を掲げるのは輿水幸子。淡い藤色の短い髪は、はねた毛先に水滴をのせていた。身にまとう服は蘭子のものと似ているが、襟をかっちりと閉じた蘭子とはことなり、胸許をスクエアカットで大きくひらき、スカートは装飾のない濃紫であった。

 

「こんなんどうかねえ。二人お揃いがええやろ?」

 

 “お姉さん”という単語から想像される年齢を三倍ほどしたご婦人は、鳥の描かれたアクリルのかんざしを差し出す。受け取る二人の目に、陳列の隙間に落ちている黒いものが映った。

 

「貪食の使い魔!」

「はい? あっ、ハエ……ハエですね!?」

 

 蘭子の言葉は過度に装飾されているが、その内容は至ってふつうのものだ。いまも、ただハエの死骸に驚いただけのものである。

 

 だが、その指すものがふつうでなかった。

 

「……ですよね?」

 

 幸子がしつこく確認するのも、蘭子の真意にではなく、小指の爪ほどもない黒い塊が、本当にハエなのかわからなかったためだ。その頭を失っていたからである。

 

 出店のご婦人も、顔を近づけて確かめる。

 

「ハエやね」

「だ、断頭台にかかるとは……」

 

 ご婦人は年の功か、蘭子の言葉によどみなく答えた。

 

「“かがみむし”にやられたんかもわからんな」

 

 “かがみむし”というのは空想上の虫だ。姿はハエや、セミや、蝶である。ただしその首から上は光るように白く、よく見ると周りのものが映っている。これと顔がぶつかった虫は、首から上をそっくり奪われて死んでしまうのだ。そうして顔を手にいれたかがみむしは、ちぐはぐな姿の虫として生きていくという。

 

 もし、首のない虫の死骸を見つけたら、それはかがみむしにやられたのである。もし、トンボ頭の蝶だとか、カマキリ頭の蜂だとか、そんなものを見かけたら、それはかつてかがみむしだったものである。

 

 情感をこめた説明に、蘭子と幸子は暑さも忘れ、日傘をぶつけておたがいにしがみつき合った。

 

 ちょうどそのときに、その横で、やにわに騒ぐものがある。

 

「ちょっとおじさん! このねこっぴーなんでトラ縞なの!?」

 

 雑然とした構えの店先で、茶色の長髪を乱麻にし、童顔の女が店主に食ってかかっていた。

 

 空色のポロシャツに白いホットパンツ、贔屓のプロ野球チーム“キャッツ”のロゴをワンポイントにした野球帽と白いソックスという出で立ちは幼い印象を与えるが、彼女、姫川友紀は二〇歳である。愛すべきマスコットがライバルチームの色に染まっているのを、雑多な小物の山にめざとく見つけたのだ。

 

「ワルい化け猫も心入れ換えたっちゅうやっちゃ。ヨソにはまずあらへんで」

「それセーフなやつなの?」

「ウチのオリジナルでな、“とらっぴー”ちゅうねん」

「セーフなやつかって訊いてるの!」

「よしなはいな友紀はん、ここに味方はいてませんさかい」

 

 横から長い黒髪の、こちらはほんとうに少女、小早川紗枝が、少し意地悪く友紀を諫めた。夏雲色の薄物に染めつけられた赤い金魚が、ひらり炎天に踊る。

 

「そんどぎつい帽子もやめてこっちしたらええ。いまなら発心割り引き、一〇〇円安したんでー?」

「やだよ!!」

 

 TとHを合わせたロゴの帽子を両手と両手で押し合う二人を指して、ラフな恰好の番組ディレクターと、ネクタイを締めた男が小声で話す。

 

「あれ、流してセーフなやつかな」

「アウトかと……思いますが」

 

 アイドルチーム“KBYD”の三人、姫川友紀、小早川紗枝、輿水幸子と、新人アイドル“ローゼンブルクエンゲル”神崎蘭子の四名の、夏休み旅行企画である。このがらくた市に加え、秋ごろ一般公開される東寺の文化財を伝える第一日目。二日目以降も洛中の各所を紹介する。という体で、ほぼ、はしゃぎまわる少女たちの映像を延々と流す番組だ。

 

 編集の手間さえあまりかけたくない制作現場の雰囲気が、場面単位での可否判定をさせているのだった。

 

 汗だくの買い物行脚が騒々しく終わると、ネクタイの青年は少女たちによく冷えたタオルを差し出した。めいめいが戦利品を彼に示す。

 

「見よ我が友、翡翠鳥の霊水晶よ!」

「ボクのツバメのとお揃いですよ!」

「お二人とも、よくお似合いです」

 

 アクリルのかんざしで飾って得意気な蘭子と幸子に、深い海色のネクタイがおだやかに答える。その脇腹を、紗枝がそっとつついた。

 

「幸子はんには“カワイイ”ゆうたりませんと」

 

 ひそんだ柳眉に、フリルをたたえた二人の一四歳のうち彩度の高い方を見ると、その言葉を待つように控えめな胸が反りかえっていた。

 

「たいへん、カワイイと……思います」

「ふふーん! 蘭子ちゃんにはワルいですけど、シンデレラのプロデューサーさんもやっぱりボクがいちばんカワイイってわかるんですね!」

「ふっ、我が本懐は闇のなかにこそあるわ」

 

 青年は、神崎さんもお綺麗です、といおうとしたが、しかし、それはわざとらしく、幸子への褒め言葉にも付け足し臭さが際立ってしまうと悟り、沈黙を貫いた。

 

「ちぇー、二人はいいよね、ちゃんとしたの買えてさ。あたしなんてパチモノばっかり掴まされたんだよ!」

 

 姫川友紀は小麦色に焼けた肉感的な脚を広げ、野球グッズを両手に掲げる。

 

「そやけど、友紀はん、自分で買うたんやないの。“とらっぴー”のぐっず」

「虎の模様になってもねこっぴーはねこっぴーだもん……」

 

 友紀は手のひら大のマスコット人形を、せまいポケットにねじこんだ。

 

「てかそれはいーの! 問題はこのキャップとユニ! キャッツだと思ったらオレンジにしただけの赤い球団のやつだし! ユニの背中の柄、ねこっぴーと魚が混ざってワケわかんないし! そもそもあそこのマスコット魚じゃないよどっから来たのこれ!?」

 

 魚顔のしもぶくれた猫という奇怪な顔が描かれたTシャツは、四人に当惑の表情を与えた。渋茶を口いっぱい含んだような顔で、紗枝が視線を逸らした。

 

「これ、視聴者プレゼントとかになんない?」

「権利的によろしくありませんので……」

「着たらええやないの」

「やーだー! こんなのやだあー!」

「だ、だが己が手の選び取った……」

「だまされたんだってば!」

「友紀さんはお子さまですねえ。そんなにいやならボクがカワイく着こなしてあげてもいいですよ!」

「よしなよ、こんな妖怪T着たらツキが落ちるよ」

「すいませーん、そろそろ次の撮影始まりますんでー」

 

 騒ぐ友紀をなだめ、一同は番組の撮影をつづけた。

 

 

 

 上空を旋回する鳶はいつの間にか鴨川の向こうへと去ったが、太陽は熱線を涸らし、桂川のはるか遠くの空を、余熱で赤く灼いてなお猛っていた。

 

 鋭く刺してくる赤光を二つの日傘と巨体の青年で遮って、四人のアイドルは宿への道をたどる。

 

「そうだ、ボクたちのプロデューサーさんはいつ合流するんですか?」

 

 白い日傘の下で、輿水幸子がどこか心細げに振り向いた。

 

「すみません、お三方の担当者は、秋ごろの企画の調整があるとかで……」

 

 夕陽を遮る青年が申し訳なげに答える。こういうとき、首筋をかばうような所作をするのが、彼の癖だった。日本人としては深い顔の彫りが、深い夕陽のために黒々となって、逆三角の三白眼だけが浮かんで見えた。

 

「いや、プロデューサー、そんなこといってたよね? あたし聞いたよ?」

「引率のセンセは一人おったら足りるやろーってゆうたはりましたなー。しんでれらのセンセも東京で十何人仕切らはるより楽ができまっしゃろーて」

 

 彼女らの担当者は共通語を話すので、これは紗枝の喉をとおしたものだが、引率の先生という表現と内容に偽りはない。幸子が聞かされていなかっただけなのだ。

 

「ゆえに、この出征、其方らも我が友たる黒き翼の庇護に与るがよい」

 

 四人でただひとり、この青年の本来の預かりで“シンデレラ”の一人である蘭子が、彼の友というよりは主人を気取って黒い日傘を高くした。

 

「はい、はい、よろしゅうお頼もうします」

 

 白い袖口を三角に口許を隠して紗枝が笑うと、KBYDの残る二人もそれにつづいた。

 

 

 

 わずかに真円を欠いた月が夜風にひかれて昇りだしたころ、“シンデレラのセンセ”である青年は充てられた部屋に寛いでいた。その扉を、言葉足らずにノックするものがある。

 

「コーチー、コーチー、お風呂ー」

「なにごとですか、姫川さん」

 

 応対した彼の前には、四人のアイドルが大きい巾着を手に手に立っていた。姫川友紀が彼をコーチと呼ばわるのは、彼女の担当者や紗枝の表現を受けてのものだろう。

 

「銭湯行きたい」

「銭湯ですか……」

 

 青年は難色を示した。アイドルである彼女らを銭湯、公共で裸になる場へと送り出していいものか。

 

「癒しの泉は砕け、遺されし聖杯に我らの身は過ぎる」

 

 大浴場が使えない、とは彼も聞いていた。

 

「内湯はおいやですか……」

「いいじゃんいいじゃんおっきいお風呂はいりたい脚伸ばしてはいりたい浮いたり泳いだりしないからいいでしょ連れてってよお願いお願いおねが~い!」

「小早川さんに連れて行っていただけばいいでしょう」

 

 友紀と紗枝の二人であれば、おそらく、彼は心のなかの言葉をはっきり口にしただろう。だが蘭子と幸子の二人もいては、紗枝の監督能力を超えている。

 

 諒解の言葉をみじかく、やや苦みばしって告げた青年が支度を済ませて再びドアを開くまでに、三分と経っていなかった。

 

 風のない夜だった。辻ばかりが明るく、長く伸びる道はその大部分を暗闇に浸している。分厚いガラス越しに見るような、輪郭のどこか蕩けた月の光は、わだかまる闇を散らせずに湿気の一部になっていた。

 

 スマートフォンの地図を見ながら歩く姫川友紀に、小早川紗枝がぽっくりを鳴らしてついていき、そのうしろには神崎蘭子と輿水幸子をしがみつかせた、ワイシャツにスラックスの青年がつづく。ネクタイはしていないのが、昼との唯一のちがいである。

 

「紗枝ちゃん家に泊まれたらこんなことならなかったのになあ」

「うちとこなあ。うちら四人だけちゅうわけにいかしまへんやろ?」

 

 脚を伸ばせる大風呂があることは否定せず、紗枝は青年の存在を悩ましげにする。夜闇への怯えを押し隠しながら、蘭子が声を張って返した。

 

「うむ、三千世界に我らを断つ刃なし!」

「前にうちらのプロデューサーはんがうちとこ挨拶に来やはったとき、女衒が来よったーゆうて、逆さ箒のお出迎え、座布団ペラペラ毛羽立って、冷やこいお(ぶぶ)にふかした羊羹のおもてなしや。しんでれらのセンセやしあんときよりは上等どっしゃろけども、なあ……」

「そんな仕打ちが……」

 

 この一度きりならば青年は耐える自信があった。だがそれを蘭子に見せては無用に気を揉ませてしまうなと思うと、局の用意した、大浴場の壊れた安宿で正解だったと感じるのだった。

 

「最近よーやっと打ち解けはったようやけど、今回来やはらへんかったんは、さすがにしんどく思わはったんかもわからしまへんな」

「プロデューサーさんが新幹線に乗るときビクってなるの、そのせいなんですかね……」

 

 同僚への京都土産はあまり京都らしくないものにしてやろうと、青年は心に決めた。そのシャツが引っ張られて、裾がスラックスから飛び出す。蘭子が、飛んできた虫に怯えて、シャツの脇腹を掴んだまま跳び上がったのだ。

 

 混乱は幸子も巻き込んで、友紀と紗枝が小首をかしげるなか、青年の大きい手が元兇たるヤブ蚊を握りつぶすまでつづいた。

 

「疑心、暗鬼を生ずとはいいますが、神崎さん、あなたにしても妙な怯えようでした。なにかあったのですか?」

 

 ポケットティッシュで手の死骸と血を拭いながら、青年は右うしろで縮こまる少女に訊ねた。

 

「か、かがみむしかと思ったのだ……」

 

 蘭子はいぶかる三人に、幸子と二人で、蘭子はかがみむしの話を聞かせた。その反応ははなはだ冷たいものであった。

 

「はぁ、そら怖おしたなー」

「信じてませんね!? 蘭子さんやカワイイボクがこんなに怯えているのに!」

「だってそんなのいたら人間にぶつかって人面虫ができるじゃん」

「なんでこんなときばっかり地に足のついたこと考えるんですか!?」

「せやかて、うちも京都人(みやこびと)のはしくれどすけど、そないな虫、聞いたこともあらしまへん。そんおばあはんのつくり話とちがいます?」

「我が友よ! 其方は我らが魂の純潔を信じるか!?」

「私としても、にわかには信じがたい話ですが……。まあ、ご安心ください。いまのようにして退治してみせますから」

 

 はじめの一文は口のなかでだけ呟いて、青年は二人を励ました。やや納得のいかない面持ちで少女の顔が前を向くと、着物の少女がすぅーと薄笑いを浮かべて立ちふさがった。

 

「きょう、大宮下って九条をずっと東にいってお宿まで来ましたけど、大事なこといい忘れてましたわ」

 

 九条大宮、東寺の南東の角のあたりには、かつて虎の姿を刻んだ瓦があった。虎とはいうが猫に見えるということで、その角は“猫の曲がり”と呼ばれる。この猫の曲がり、通ると不吉なことが起こるといわれており、現代においても慶事の際には、ここを通らないように気をつけている……。

 

 という話を紗枝が押し殺した声で語ると、いよいよ二人は泣きそうになってしまった。

 

「じんくすどすえ、じんくす。うちかて皆はんと一緒に猫の曲がり、曲がって来ましたさかい、なんやおしましても一蓮托生。あの蚊みたく、しんでれらのセンセにぷちっと潰してもらいまひょ」

「……努力します」

「頼もしいねー、蘭子ちゃん、幸子ちゃん。じゃ安心して、しまっていこーっ」

 

 

 

 すっかり脚の鈍った二人を押して訪れた銭湯はひっそりとしていて、彼らの前には数人の客があったのみだった。それも体を洗っているうちに湯を上がり、男湯も女湯も貸切状態になった。

 

「やぁー、あたしたちもあっちこっち行ったけど、京都来たのは初めてだね~」

 

 浮かないという約束をさっそく破り、顔に反して豊かな胸を水面に漂わせて姫川友紀が歌った。

 

「蘭子ちゃんは地方ロケでどこ行った?」

「我はまだ、飛翔を赦されぬ身なれば……。だが、在りし日には火の山、天孫降り立てる地に足跡を残した」

 

 どこ? といいたそうな友紀に、幸子がそっと伝えた。

 

「阿蘇山と、高千穂じゃありませんか」

 

 我が意を得たりと蘭子が鷹揚に頷く。こちらも歳に対して大きい胸が、湯のなかで揺れた。

 

「高千穂って宮崎だよね! あたしも遠足で行ったことあるよー。むずかしい話聞かされて、眠かった思い出ばっかりだけど……」

「友紀さん、このまえ富士山で縁起のお話を聞いてたときも堂々と寝てましたよね……。カワイイボクを見習って、ちゃんとお勉強しないとダメですよ!」

「霊峰を巻く魔の森の演目か。たしか、可憐の神髄もケットシーの使徒も共に夢の彼岸に遊んでおったように見えたが……」

 

 富士の山開きに先駆けた特集番組である。山梨出身の幸子に合わせたのではないが、山梨側をメインにしたものであった。

 

「そっ、そんなことありませんよ! ねえ紗枝さん、ボク起きてましたよね!」

「はい、はい、かいらしおすえー。幸子はんはかいらしおすえー」

 

 持ちこんだシャンプーで、長く艶めく黒髪を丁寧に洗いながら、紗枝は目も向けずに答えた。その返事に幸子が不満を抱くのは、噛み合わなさにではない。

 

「もっと心をこめていってください!」

「はぁー、どえらい、どえらい」

「相撲甚句じゃないんですよ!」

 

 騒ぐ二人の頭越しに、友紀と蘭子は脱線した話を修復していた。浴槽の縁を枕にして、友紀がその引き締まった脚を開くと、蘭子は目を逸らす。

 

「シンデレラプロジェクトは地方のお仕事ないんだね。旅行楽しいし、里帰りできたりするのにな」

「我らは未だ暖炉の横に重き枷を負いし灰かぶりであるが故に……」

 

 日焼けの脚が水面を離れた。湯は肌に弾かれながら重力に引かれ、ふたたび脚が浴槽に浸るより先にもと来た場所へと帰っていく。

 

「うちらが気軽にほうぼう行かれますのは、友紀はんがいちおう大人やしどす」

 

 髪の手いれを終えた紗枝が、二人の間の湯に足を浸した。

 

「蘭子はんが行こうとしたら、引率のセンセと二人旅どっしゃろ。そんなん、お赦しが下りんのとちがいますかしら」

 

 なあ、と小首をかしげてみせると、蘭子の顔がやにわに赤くなった。紗枝はタオルで口許を隠し、浴槽の縁と平行に腰を下ろす。腹の上に少女の全体重を乗せられた友紀は悲鳴をあげて沈んだ。

 

「浮かへん泳がへんちゅう約束どしたえ?」

「沈めることないじゃん!」

「紗枝さん、蘭子ちゃんまで沈んじゃってますけど、なにしたんですか……?」

 

 湯あたりにも似た顔色の蘭子は鼻先まで湯に浸り、あぶくを立てていた。

 

「ユメノヒガンに旅立っちゃったかなー?」

「一人で行ったあきまへんえ蘭子はん。二人旅てゆってんかぁ」

 

 二人の言葉を頭上に乗せられて、蘭子はさらに湯の海深くに沈むのだった。

 

 

 

 青年は女湯の喧騒を湯けむりの遠くに聞きながら、湯船に体を緩めていた。思えば、姫川友紀ではないが、手足を伸ばしてはいる風呂は久方ぶりである。出張はビジネスホテルばかりだったからな……とタオルで目許をあたためて、親爺くさいことをしている自分に気づき、苦笑するのだった。

 

 ふと、女湯が静かになった。そろそろ彼女らは風呂を出るのだろう。青年も、弛緩した筋肉を締めなおして湯船を上がる。アイドルたちを、湯上がりのまま待たせるわけにはいかないと。

 

 彼に急ぐ気持ちがなければ、壮大な富士の背景画の前で朧に佇む男の存在を、いぶかることもあっただろう。少女たちもまた、旅行話に妄想と現実を行き来していなければ、洗い場にただ茫と座る女に気がついたかもしれない。

 

 そして、どちらも、戸を開けることなくそこにいたことにも。

 

 

(続)



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かがみむし(後編)  ゲスト:KBYD

 宿へ帰る道は、すっかり夜闇に沈みきっていた。温度を感じさせない月明かりは、雲に吸われて地表までたどりつけないでいる。

 

「シンデレラプロジェクトはさー、こういう旅企画ってやんないの?」

「皆さん、学生ですからどうしても……。姫川さんも、予定を訊かれるのは、お三方でいちばん最後ではありませんか?」

「いわれてみれば」

 

 プロデューサーが彼女のところにスケジュールの調整に来るときは、たいてい、“紗枝と幸子が動けるの、こことここしかないからどっちかは絶対空けてくれ”という要求から始まっていたのを、友紀は思い出した。忘れていたのではないが、専業アイドルの彼女はもともと野球観戦くらいしか個人的な予定がなく、あまり気に留めていなかったのだ。

 

「それに、引率する大人が私だけでは不都合もありますので」

「美波ちゃんは?」

「新田さんも年少者を任せられる歳ではありますが、新人であることに変わりありません。負担が大きすぎてしまいます」

 

 新田美波自身も新人アイドルのために信用を得にくいという点については、黙っておく青年であった。

 

「その点、友紀はんやったら余裕もおして虎の子任しても安心やと」

 

 まだしめり気ののこる黒髪をまとめ上げた紗枝が、タマゴ肌の一四歳二人を連れて姿を現す。

 

「小早川さんのサポートも、あてにさせていただいています」

「あら、うれし」

「ふーん、そうなると、連休だけとはいえボクたちが地方ロケできてるのは、友紀さんのおかげってことなんですね」

 

 幸子はシャツの上から浴衣を羽織った、あまりカワイくはない恰好で、口をとがらせてみせた。

 

「大人だからね!」

 

 友紀が腕組みをして胸を強調して、鼻高くふんぞり返ると、下ろした髪から水滴が散った。

 

「畏れ敬えー!」

「……それは、我が水鏡か?」

 

 微妙なモノマネに蘭子が口をとがらせた。珍しい反応だな、と青年は思う。

 

「そこは“幸子ちゃんがカワイイからだよ”っていうところですよ友紀さん!」

「我が友よ! 我は飛兎竜文に拝す後塵のなきを知らしめんことを求める!」

 

 子供の懸命の訴えを、片方の大人はいつもどおりになだめすかして、もう片方はいつもどおり、大まじめに受け止めた。

 

「神崎さん、お一人で地方に仕事に出られるのは許可できません」

「ほんなら引率のセンセがついてかはったらよろしいんとちゃいますのん」

「あっ、紗枝ちゃんのその語尾聞きたかったんだー。かわいいのん」

「語尾とちゃいます」

 

 薄桜色をした無地の薄物の袂で、紗枝は横の脳天気な大人をはたいた。

 

「いかに、我が友」

 

 短い銀色の眉を立てて、紅玉の瞳が湯屋の薄明かりにかがやいた。青年は、表情を少しだけゆるめると、東京での仕事以上に無理をしないことと、自分の目の届く範囲にいることを条件に、地方での仕事を探すことを諾けた。

 

 存外に目論見どおりに話が運んで、紗枝はつい笑い出してしまった。さきほど、浴槽に沈んだ蘭子を引き上げてから、こんな会話があったのだ。

 

「プロデューサーっていったって男のひとだもんね。二人きりで泊まるのは、怖いよねえ~」

「無礼な、我が友に邪心あらず、我に友を恐れる心なし!」

「ほんなら一遍、どこぞにか行かはります?」

「受けて立つ!」

「こんなカワイイボクだって、プロデューサーさんに連れられて過酷なロケをしていたんです! ふふーん! 蘭子さんもやってみれば、ボクのカワイさに少しは近づけるかもしれませんよ!」

 

 冗談を冗談で済まさなかったところは、京都人にもしばらく暮らした江戸のお祭り好きが染みこんでいたのかもしれない。ともかく、いぶかられては困るので、幸子が紗枝の笑いを適当にごまかした。真相にたどり着くための材料は、彼の手にはないのではあるが。

 

「紗枝さん、いつになくはしゃいでますよねえ」

「そないなことはあらしまへん」

 

 台詞に節がついていることに、本人は気がついていないようである。

 

「幸子ちゃん、ニブいなあ。宿に着く前からずっと上機嫌だよ、紗枝ちゃんは」

「なにかいいことがおありでしたか」

「うーん、うち、ずーっと(みやこ)のまんなかで育ちまして、洛中洛外、家のほかに泊まったことがおしません。そやし、こうしておんなし京の街の、家とちごうたところ泊まって、お湯をいただいて、なんて、なんや心が浮き立って浮き立って」

「それではしゃいで、あたしにお尻からぶつかってくるんだもんなー。やっぱ実家が良かったなっ」

 

 青年のぎょっとした視線に紗枝は顔を赤くした。告げ口の持ち主の背中で、薄桜の袖が振られ乱れる。

 

「もう、アホ、そないなこと男のひとにゆわへんの!」

 

 

 

 行きとおなじ並びで談笑しながら夜道を進むうちに、輿水幸子が違和感を声に出した。

 

「こ、この道こんなに暗かったですか……?」

「風の交わる処も、一里塚も、電光の(はたらき)が失せている……」

 

 不安げに白い首をめぐらす蘭子に、青年はスマートフォンの地図を開いた。表示された現在地は広い川の真上になっていて、およそあてになりそうにない。

 

 そういえば以前、先輩が出張先で、行き先の住所を入力したらとんでもない大嘘を表示され、二時間無駄にしたと愚痴っていたな。そのときの座標も川の上……にあるなにかの物置だったとか。青年がそんなことを思い出して画面を閉じたとき、なまあたたかい風が吹いた。五人はずっとうしろになにものかの気配を感じた。

 

 それはずっと離れているはずだが、すぐ近くにいるような不気味さがあった。湯に火照っていた体が急速に冷えていくのを、五人五様に覚えていた。

 

 なにものなのかはわからないが、三六計めぐらしてみても、五人には逃げるよりほか道はなかった。

 

「けど紗枝さんは走れませんよね」

「私が運びましょう。神崎さんもご一緒に。姫川さんはいちおう大人ですので、心苦しいですが頼らせてください。輿水さんをお願いします」

「えっ……。幸子ちゃんを?」

 

 友紀はイヤそうな顔をする。この非常時に、と四人ははっきりと、あるいはぼんやりと思った。

 

「ふ、ふふーん! まあ仕方ないですよね、カワイイボクと密着してたら友紀さん霞んじゃいますもんね!」

「ううん、幸子ちゃんって暴れそうだなって思って」

「暴れないですよ!?」

「ふむ、では古都の姫をケットシーの使徒に任せ……」

「ボクが蘭子ちゃんと一緒にこちらにと。いいですよ、ボクはどこにいたってカワイイですからね!」

「友紀はんはどないな風に運ばはんのかしら?」

「おんぶ」

 

 明快な答えに、紗枝は青年に向き直った。

 

「しんでれらのセンセ、なんや気合いかなにかで腕生えて来ーひんの?」

「私は仏さまではないので……」

「えー、腕増えるならあたしも担いでってよー」

「我が友は我と共に地上に黒薔薇の夜をもたらす闇の使徒よ! 負うは七条の後光にあらず、禍々しき漆黒の翼!」

 

 どこかずれた友紀の要求と、なにかかけちがった蘭子の反論はすれちがって夜闇深くに沈んでいった。

 

「友紀さん、紗枝さんは着物なんですから脚開かせちゃいけませんよ……」

「せやせや、いったっていったって」

「ふっ、ケットシーの使徒よ、姫を抱くときはこうするのだ」

 

 蘭子は得意気に胸を反らすと、かがんだ青年の首に腕を回した。たくましい右腕に白の細身を委ね、優雅に跳ねた両脚を太い左腕が持ち上げる。白と黒のフリルをたたんだ少女は厚い胸におさめられた。

 

「しっかり引きつけておくと安定します」

「手慣れたはりますなあ」

「そんなしょっちゅう抱いてるの?」

「いやないいかたはよしてください」

 

 友紀のひと聞きの悪いモノイイに、青年は苦虫を噛んだ。

 

「けどお姫さま抱っこか……。姫ってついてるのあたしなのに」

 

 持ち回りの順番があるのか、こんどは友紀が口をとがらせていると、紗枝と幸子が左右から彼女をはさみ、抱え上げた。

 

「はいはい、お姫さま抱っこやえー」

「よかったですねえ友紀さん。世界一カワイイお姫さま抱っこですよ!」

「これハンモックじゃない!? あっ、ダメ、脚開いちゃうとヤバイのこれ! 教育的にマズイから!」

 

 めずらしく慌てふためく大人をアスファルトに返し、二人は肩をさする。

 

「満足しましたやろ。ほいたらことの起きたときはあんじょう頼みますえ」

「ちょっと待ってください。シンデレラのプロデューサーさんが蘭子ちゃんをそうやって抱いてたら、ボクはどこに!?」

「おんぶやね」

 

 明快な回答に、幸子は一瞬言葉に詰まった。

 

「ふ、ふふーん! いいですよ!? ボクはガニマタでもカワイイってこと、証明してあげますよ!」

「それ見えるの、うしろの怪しいヤツだけだけどね」

 

 その言葉に、発した本人まではっとなり、一同五人は背後をかえりみた。異様な気配の主は、暗がりのなかにあって、その服がわかるほどの近くまで来ていた。

 

「ゆ、浴衣の合わせかたってあれで合ってましたっけ?」

 

 白い無地の長衣に、幸子の声が震えた。

 

「いややわあ、にわか仕込みやねえ、左右まちがえたはりますわ」

 

 震えながら、長い袂がみたび友紀を打つ。

 

「抱いておくれやす」

 

 友紀はなにもいわずにそれに従い、彼女が走りだすのを待って青年もあとにつづいた。背中に、いきおいよく輿水幸子をへばりつかせて。

 

 服が見えれば、顔も見える。五人ははっきりと見てしまった。背後の男女と思しき二つの人影は、首から上を鏡のように光らせた、死装束の異形であった。

 

 

 

 姫川友紀はがむしゃらに走った。うしろの怪人の気配は離れるどころか、進むにつれて迫ってきているようだ。脚にも体力にも自信はあったけど、鈍ったかなと友紀は思う。なにかと適当な大人であるが、ひと一人抱えていることをいいわけにはしなかった。もっとも、自分一人なら観念もできたんだけどな、などと冗談めかすのが彼女である。

 

 気がつくと、半歩うしろを走っていたはずの、少女二人を抱えた青年は姿を消してていた。異形の気配も一つに減っているが、安心にはつながらない。

 

 あたりの景色はくろぐろとして、土地勘のあるはずの紗枝までも前後不覚になっている。

 

 腕を伸ばされたら捕まりそうな距離を離せないまま、友紀の脚が踏みいった先は、ついに行き止まりであった。獲物を値踏みするような光る顔の怪人と、二人は

壁を背にして相対した。

 

「あんたはんと二人やったら、うち、死んでもええと思います……」

「まだ諦めないで! 失礼でしょ! 野球はツーアウトからだから! なんかある! まだなんかあるから!!」

 

 こうでもいわないと諦めがつかない理不尽な危機だった。そんなかぼそく、泣きそうな声を出す紗枝を叱咤して、友紀はどうにか平静を保つ。

 

「そうだ、なにか! なにかぶつけて、怯んだ隙に逃げよう!」

 

 ぶつけられるなにかなど、二人には着替えをいれてきた巾着袋しかなかった。それなりに重たい二つのかたまりは、しかし、よろけも驚きも生むことなく、怪人に当たって地面に転がった。銀色の顔はそれらをちらりとも見ず、二人に突き出されている。

 

 友紀は紗枝を下ろして背中にかばい、かくなるうえは自分が捨て身でかからねばと歯を食いしばった。握った拳が決意を伝えたか、紗枝が不安げに視線を上げ、落とす。

 

 そこに、友紀のホットパンツのポケットのふくらみに、黒玉(ぬばたま)の瞳は止まった。

 

「せや、とらっぴー! 最後のあがきに、投げてしもうてもええかしら」

「うえ? うん……。そうだよね、虎みたいな猫、なんて、不吉なのあたしが持ってたせいかもしれないし。思いっきりやっちゃって!」

 

 引っ張り出された出店のオリジナルグッズは、水平に近い弧を描いて怪人に向かって飛んでいった。とらっぴーは光るように白い顔にぶつかるや、瞬間、ぼつんと座布団の破けるような音を発して地に落ちる。その首から上はえぐられ、綿が飛び出していた。

 

 鏡のようだった怪人の頭は虎柄の猫のように変わり、動くはずもない口許をにぃっと歪めると、青ざめた二人の横をすたすたと、行き止まりの闇のなかへと溶けて散っていった。

 

「さ、紗枝ちゃん……ナイスピッチ」

「おおきに……」

 

 あたりに薄明かりはもどったが、二人が、末端ほど大きく震わせる悪寒から解放されるには、いましばらくの時間が必要そうであった。

 

 

 

 逃げ始めて、五、六分は経ったのだろうか。青年は姫川友紀の慧眼を背中に痛感しながら、どことも知れぬ道をひた走っていた。早くも脚の感覚は消え、いつもつれてもおかしくはなかった。

 

 二人を解放して、自分が怪物を押しとどめるか、あるいは“かがみむし”の亜流だというなら、自分が犠牲になれば二人は助かるか……。青年は逡巡する。

 

 私が死んだとしても、より有能なプロデューサーは多くいる。彼らがきっとシンデレラプロジェクトを成功に導くだろう。夏のフェスを見られないのは、心残りになるが。

 

 そう心を固めながら下ろした視線が、紅玉の光を浴びた。迫りくる危険への恐怖と、親愛なる者たちの危機への不安を混ぜてなお、彼の目に鮮やかな赤であった。

 

 この子は私の死を悲しむだろうか。やさしい子だから、きっと泣いてくれるのだろう。プロデューサーとアイドルという仕事上のつながりを越えて、友と呼んだ相手が帰らなければ、幼い心に傷跡が残るかもしれない。

 

 少女が悲しみの淵から立ち上がる力を持っていることを、彼は疑わなかった。しかし、己の行為でそこへと彼女を突き落とすことを恐れた。

 

「ぎゃああっ!」

 

 迷いと疲れは足を鈍らせ、怪人に目的を達させた。白く冷たい二本の腕が、幸子の両肩を掴む。

 

「神崎さん、あなただけでも逃げてください!」

「蘭子ちゃん“だけでも”ってなんですか!? ぼ、ぼぼぼボクは顔がなくなったってカワイイにちがいありませんけどね、顔がなくなったら息ができなくて死んじゃうんですよ!」

「いざとなれば私の顔を差し出します。顔ならばだれのでもいいはずですから」

「まだいざじゃないんですか!?」

 

 その言葉に、蘭子の揺れる赤い瞳が澄んだ。手の感覚を頼りに、分厚い体をはさんで向こうに震える幸子の帯を解く。そして、肩越しに羽織られた浴衣を一気にめくり上げた。

 

 輿水幸子が背中の異様な感覚にさらなる悲鳴を上げる。怪人が顔をべったりと押しつけたのである。

 

 青年が驚きに固まった喉からやっと背後の少女の名を叫ぶのと、怪人が彼女から離れたのはほぼ同時であった。

 

 気配が遠のくのを感じて青年は振り返る。怪人は背を向けて、夜のなかへと歩んでいた。あちらも三人の視線に気がついたのだろう、ゆっくりと肩越しに振り返り、不気味な笑みを残して、やはり霧のように消えていった。その顔は、しもぶくれた魚顔の猫という、いかにも異様なものだった。

 

「可憐の神髄が、かの擬物を負いし咒衣を纏っていたのを思い出したのだ」

 

 動悸のおさまらぬまま、蘭子はわけを告げた。

 

「昼間、姫川さんが買っていた……。顔ならばなんでもいいといっても、絵でもよかったとは……」

「カワイイボクの、ふだんの行いがカワイかったおかげ、ですね……」

 

 見回せば、三人の周りの様子も元にもどっていた。道路の反対から、震える手を取り合って友紀と紗枝が帰ってくる。暴れなくなった幸子を背負ったまま、一同は無事を確かめあい、そして宿への道をたどった。

 

「結局、内湯で汗流さなあきへんな」

 

 力なく、しかし心の底から笑いながら。

 

 

(了)



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背伸び  ゲストなし

プレーン味です。


 

 昼を回り、夜半からの雨は、寒々としてビル街を霧の腕に抱きすくめている。半地下に位置する広々とした部屋、そのコンクリートの床は、きょうの曇天を圧し固めたように冷たい。

 

 それから逃れ、神崎蘭子は黒のストラップシューズを脱いでソファにいた。黒いスカートの膝には、日ならぬハロウィンイベントのイメージを描きつけたスケッチブックを抱えている。閉めきられた室内で弱い暖房が冷気と中和して眠気を誘う。砂嵐にも似た雨音は心地よい子守唄となり、少女がまとう厚手のベルベットの、細やかなフリルのひとつひとつに染みこんでゆく。

 

 睡魔が、蘭子のゆるく巻いた左右の銀の髪を櫂にして、意識の小舟をまどろみの海へ滑らせんとする。それを、硬質な音がどうにかつなぎとめていた。衝立の裏からひびくその音は、彼女の保護者である、逆三角形の三白眼をした大柄な青年がキーボードを叩く音である。

 

 打鍵音はハロウィンよりもさらに先の、大きいイベントに関する資料を彼のPCの画面に記してゆく。しぜんと力む手が、蘭子を睡魔から守っているとは青年はつゆ知ることはない。

 

 あたためてきた構想のすべてを音と電子データに変えきるまであと幾許かというときである。室内の二人の視覚と聴覚が、蒼白の閃光と鋭く低い唸り声に占められた。

 

 大気の鳴動は蘭子の短い悲鳴を呑みこんでなおつづく。腹の底を揺らすようなとどろきのなか、回復した二人の視界は、ひとしく暗闇だった。蛍光灯は暗い灰色を呈し、モニタもタワー型PCのLEDも光を喪っている。

 

 左を向き、右を見て、少女の赤い瞳に見えるのは、天井に近い小窓の、夜のような曇り空と、きわだって白いホワイトボードのうすぼんやりとした姿である。ふたたび霧雨のノイズで満たされた耳に、衝立の向こうから低い呻きが届いた。

 

 蘭子は身を固くしたが、その正体に思い至り、あわてて椅子から飛び降りた。氷の床に上げた二度目の悲鳴は、衝立の裏の青年に、我をとりもどさせるにはじゅうぶんであった。

 

「神崎さん!? そ、その場を動かないでください……。いま、どちらに?」

「おお、オダリスクの寝台……」

 

 黒のタイツをつらぬいた凍気に膝が固まっていた蘭子は、青年の言葉を受け、ソファに小柄な体を放り出した。ひときわ大きい影が寄り、丸みを帯びた尻に重い揺れが伝わる。闇に盲た青年が、硬い革靴をソファの足にぶつけたのだ。

 

「す、すみません。こちらですね」

「うむ。と、隣に……」

 

 青年は座面を叩くかわいらしい音に従い、すり足で動いた。爪先に当たった軽いものが蘭子の靴であることは直感でき、指定の場所に座ると、自分の足の横に揃えて置き直した。

 

 座面に蘭子の残した体温を感じ、青年は表情をゆるめる。

 

「どこかぶつけてはいませんか」

「ふっ。闇こそ我が眷属、斯様な愚を犯すと思うか」

「悲鳴が聞こえましたよ」

「そ、それは……。それは、其方の懊悩の声に逸った天馬の嘶きよ」

 

 手綱はきちんと持っていてください、と答える青年の声は、先の嗚咽が揺り返したように、少しだけ詰まった。蘭子は仰々しくして頷く。

 

「しかし、光盗みし大罪、なにものが……?」

「先ほどの雷が電源設備に落ちたのでしょう。すぐ館内放送がはいるはずです」

 

 耳を澄まして五秒のうちに、青年の言葉どおり、社員はその場で復旧を待つようにとアナウンスがかかる。蘭子は首をかしげた。目のなれてきた青年には、赤い瞳と銀色の髪のかしぐのがはっきりと見えた。

 

「放送設備の電源は別系統に取られているんです。ほかに、電話は電話線から給電されていますし、カードキーの認証や階段の灯りも別系統ですね」

 

 閉じこめられる心配はないと言外にするが、はたして蘭子に伝わったかはさだかでない。青年もそこまで気が回っていなかった。どうせ落ちるのなら……という呟きが、乾いた唇からこぼれる。はっとして口を抑える仕草を、彼よりも闇に馴れた赤い瞳が映していた。

 

「ふっふっふ、これしきの闇に心脅かされるようでは我が神域には遠いぞ」

「……そうですね。これでは、いけませんね……」

 

 覇気のない声だった。蘭子はいぶかり、身を乗り出すと、青年の肩から腕をつたって、縮こまった大きい拳を包んだ。両目がひときわ明るく光る。

 

「其方は我が友にして戦車の牽き手、闇に臆しては我が覇道は途絶えてしまう。ゆえに、我が魔力を分け与えん!」

 

 持ち上げられた青年の拳に、やわらかい温もりと鼓動が伝わる。暗い青色のモノクロームのなかで、なにごとかのやまとことばの呪文を唱える少女の唇は、青年の目にははっきりと桜色に見えていた。

 

 呪文について、すべやかな生地ごしに手を挟むものから意識を逸らすべく、青年は訊ねた。

 

「千古の時代、我を夜の翼から守りし女神の歌よ」

 

 得意げに反らした胸は、青年の手を更なる谷底へ落とす。脱出を諦めたか、彼は笑んで応えた。

 

「素敵な歌ですね……。ありがとうございます、私のために」

 

 その声がまとうカラ元気の分子は、少女でなくとも気がつきえたであろう。暖房の止まった部屋の寒さに白んだ頬を膨らせて、蘭子はなお強く青年の手を胸に抱きしめた。

 

「我が瞳はたばかれぬぞ」

「大したことではありませんから……」

 

 声は暗闇に吸われて、青年の発した半分も少女の耳に届かない。

 

「なおも我に背くか!」

「本当です。ちょっと、思い出せなくなってしまっただけで……」

 

 青年の黒く小さい瞳が、闇のなかでも蘭子にははっきりと見えた。

 

「む、無意識の海に月の影を探すのならば、我が眼力を助けにできぬか……?」

「大丈夫ですよ、思い出せなくても、もういちど紡ぎ出せばいいのです。ただ、ちょっと、資料の肝心な部分がちょうど、停電で……。ああいえ、Wordは定期的にバックアップを取ってくれますから、もしかしたらなにごともなく、全部無事かもしれません……」

 

 青年の頭は、少女の胸にあずけた腕に伏し、その重みに沈んでゆく。理性は大したことではないと告げている。自分のいちどは考えたことが再現できないなどとも思わない。しかし、企画の訴求点を会心の文章に著した刹那に襲った蒼白の閃きは、青年の気力を奪い去り、心を暗黒の深海へ突き落としていた。

 

 疑懼の霧が両目をふさぎ、憂愁の錘が心臓に下がっては、取り柄のひとつに頑丈さを数える青年も、蘭子に気づかわせまいとすることさえ苦労に感じた。

 

「友よ……」

 

 心細くつぶやいて、蘭子は、胸に抱いた大きい手が、すがるようにリボンを握っていることに気づいた。あまりに弱々しく、ベルベットのなめらかさに、いまにも滑り落ちていきそうだった。

 

「わ、我らは一対の翼よ!」

 

 繊弱に堕した手のひらを、白く細い喉許まで持ち上げて、少女は声を張る。

 

「其方が羽ばたくことをやめれば、我もまた混迷の海に墜ちる」

「すみません……。ただショックだっただけですから、そう、手を動かせば、……動かせば、すぐに、もとどおりに……」

 

 なかば以上を自分へいいきかせる言葉は途切れた。電源の復旧まで、どれだけかかるのだろうか。きょうのうちに復帰するのか。自分はほんとうに、もとのできを再現できるのか。不安の泥は鉛の重さで彼を覆いつくしていく。

 

「其方の嘆き、絶望の海は我が飲み干さん」

 

 赤い瞳が、霧雨の音だけが満ちた暗闇のなかで、まっすぐに持ち上がる。蘭子はスカートの裾をつまみ上げ、青年の前へと膝でソファの上を移動した。うなだれていた頭を持ち上げても、青年の目に蘭子の白貌は見えない。黒いフリルの海に、青年の顔は沈められた。

 

 洗剤のものか、花の香りと、熱を帯びた汗のにおいに鼻が溺れる。鼓動が速く耳を打ち、短い髪には豊かなフリルが触れる。その向こうに硬い厚布が、顔に感じるよりもはるかにやわらかな肉を感じさせる。

 

「いまこの刹那に、魂を解き放て」

 

 少女の細腕は、溢れる黒のベルベットで青年の頭をあたたかく包みこむ。呼応するように、ワイシャツの太い腕は少女の腰にすがろうと震える。

 

「傷負いし黒騎士に、堕天使の祝福を……」

 

 細い指が髪を撫でる官能に、青年は溜め息をついていた。少女のくびれに腕が触れ、その重みを尻の丸みに預ける。

 

「神崎さん……」

 

 少女にははじめて聞く声だった。腹に発された、上擦ったか細いひびきが小さい心臓を締めつける。常に自分たちを守ってくれるこの頼もしい大人が、いつも見上げていた大きな男が、いまは……。

 

 少女自身も戸惑うほどの深みからこみ上げた衝動が、細腕に力を増させる。衝動は熱へと変わり、熱は桜色の唇から、青年の名となってこぼれた。口をつぐめば、両眼からにわかにあふれようとする。

 

 息苦しさに青年は腕をほどき、深い呼吸とともに華奢な腰骨をつかむと、切なさを増す腕から強引に逃れた。

 

「いけません」

 

 厳然とした声はやはり、自分へと向けたものだった。言葉に詰まる蘭子をまっすぐに見上げ、わずかにおだやかな表情を見せる。そこに一切の作為の影はなかった。

 

「たかだか数分の作業が消えた程度で取り乱して、こんな甘えかたをしては、情けない男と思われてしまいます」

 

 こんどは蘭子が、顔に強がりの白粉をまぶす番だった。弱った姿を見たいわけではない。しかし、自分しか知らないその姿を、もっと見ていたかった。自分だけが彼の支えでいられる時間が、もっと欲しかった。

 

「雷神の槌を受ければ勇者も潰乱に陥ろう。臆病な傍観者の哄笑ごとき毒花、心の苑に咲かせることはないわ」

「自分で思ってしまうんです。あなたにとっては、頼りになる大人でいたい。腑抜けたところをお見せして、失望されたくないと」

「だ、だから、わたしはそんなことは……」

「男の、子供っぽいところです。お赦しください。……こういう甘えかたをしてしまうことも」

 

 腑に落ちきらないと唇を尖らせ、白い手をふたたび青年の頭にかけた。

 

「ま、まあ、よかろう。だが、いまはもう少しだけ……。我が胎にその身を安んずるがいい」

「……わかりました」

 

 青年は蘭子の背中を抱き寄せた。少女のいざないに沿いかぐわしい腹部へ顔をうずめるのではなく、華奢な身体を横へ崩して、太い脚の間に横座りをさせる。

 

「ただし、この形でです」

 

 少女は身じろぎをして、背を支える腕から身体を起こす。

 

「こ、これでは揺り籠に在りしは我の方……」

「あなたの手が震えていたこと、気がつかないとお思いですか」

 

 もう片方の手が、黒いベルベットの海で縮こまる両手を握ると、赤い瞳が気まずく揺れる。すでに冷えはじめた白魚の指が、ごつごつした手のなかで泳ぐ。

 

「悲鳴をあげたのも、聞こえていましたよ」

 

 青年は心のなかで失笑した。安っぽい揺さぶりをかけてまで精神的優位を取りたいのか。一〇歳以上も下の子を相手に。そう、大人の自分が、歳若い少女を相手に……。

 

 赤くなってうつむき黙る横顔を、青年は肩ごと抱き寄せた。

 

「これなら、私も不安にかられずに済みます。あなたのぬくもりが伝わってきいますから」

 

 言葉の後半は、ノイズ混じりのジングルで遮られた。電源の復旧を告げ、スピーカーは切断音をはっきりと残してアナウンスを終える。

 

「……あと一〇分ほどですね」

「たったの……」

「部屋があたたまりなおすまでは、もう少しかかります」

 

 白い指をそっと撫でる青年の言外にしたところに、少女は渋々という風をよそおって頷いた。いま少しは甘えるだけの側でもいい。大きい手のひらの熱を指先で吸いながら、気持ち速い鼓動を、蘭子は子守唄にするのだった。

 

 

 

(了)



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線引き  ゲストなし

2017年の春ごろに国立新美術館でやっていたミュシャ展を舞台にしたお話。
プレーン味です。


 都下、日増しに色を濃くする青と緑の間に、神崎蘭子は濃密な銀色の長髪を吐息とともに弾ませていた。なにやらカラフルなモニュメントも大粒の紅玉の瞳の端に流し、丁字路の壁で遠慮がちに佇む人影へ。飛びつく寸前で止まった少女のカールした銀髪から、服を飾り立てるフリルから、花の香りの微粒子がこぼれ、大柄な青年の鼻腔にはじける。

 

「お久しぶりです、神崎さん」

 

 険しかった青年の逆三角形をした三白眼がゆるむんで、蘭子も再会の喜びを顔じゅうから溢れさせる。アイドルとしてデビューしてからの一年、彼の許を巣立ってからの一年、記憶の波濤は口より先に、宝石の目のふちににじんだ。

 

 目つきよりも数倍おだやかに、青年は蘭子のはずんだ、あるいはせきかかる息の整うのを待って、そばにいられなかったこの一年間のことを問いかけた。

 

 ……もちろん、二人はおなじ社屋を拠点にして、メールで、SNSで、電話で、ときには直に言葉を交わすこともあった。しかしそれらは、二人で過ごす時間という感覚を置き去りにしていたのだ。

 

 ゴシックロリータと独自の世界観でアイドルとして顔の売れたいまにして、その実感をともないつつも蘭子がその身を偽らないのは、

 

「すみませんが、きょうは仕事ではありませんので、撮影はご遠慮願います」

 

 どちらの心にもやましさの影が落ちていないと、信じ切っているからである。

 

 青年が断りながら示した、アルフォンス・ミュシャ展のチケットに、数人のご婦人はチケットカウンターに行こうかと全身で迷う。それに微笑みかけて、青年が差す日傘に、蘭子は細身の体をおさめた。自然に揃う歩調は心地よく、履きなれた靴の音が軽快にひびく。

 

「神崎さん、日傘はこちらに置いていくようです」

 

 示された鍵つきの傘立てに、蘭子が振り返って頷くと、青年は黒いフリルの日傘をたたんだ。初夏の陽射しにさらされて、絹の髪がなめらかな鏡のようにきらめく。小気味いい音とともに引き抜いた板鍵を、青年は手首に着ける。

 

「エグリゴリの名は」

「〇四〇八番にしました」

「我が聖数か」

 

 こそばゆそうに桜色の唇の奥が笑う。

 

「すみません。少々浮かれているようです」

「我とても雲に立つもの、いたずらに風を送られては立っていられなくなってしまうわ」

「そのときは、私が支えます」

 

 自分のセリフの照れをごまかすように、青年は腕を広げて道を示した。

 

「参りましょう。展示もお待ちかねですよ」

 

 蘭子は青年の大きい手からチケットを一枚取り上げる。代金がわりに、まだ幼さの残る顔を花のように咲かせて。

 

 

 

 六本木の国立新美術館で開かれたアルフォンス・ミュシャ展のメイン展示は全二〇点からなる巨大な連作、スラヴ叙事詩である。小さくとも約四メートルかける約五メートルのカンバスに詰めこまれた、一七〇〇年になんなんとするスラヴ民族の歴史が来館者を圧倒する。

 

 どのカンバスの前も半円状に空けて見いるひとの群れを避けながら、二人も巨大な油彩画を眺める。不穏な始まりを示す一点目の前はなかば逃げるように蘭子が青年の背を押し、二点目、“ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭”に目と足を止めた。

 

「こちらは画面が賑やかですね」

「ひとの子が謳歌する、一〇〇〇年を褪せぬ輝きよ」

 

 スヴァントヴィートはバルト海沿岸のスラヴ人に信仰されていた収穫の神だ。それを称える祭りに広場は賑わうが、カンバスの左上には、狼を伴った戦神がのぞき、ゲルマン民族の近い来襲をほのめかしている。

 

 そうした寓意に気が回らなくとも、ちょうど目線の高さ、カンバス最下部の中央に座る女性に、青年は視線を寄せた。

 

「どうした? 我が友よ」

「あの女性の表情が気になりまして……。なにか訴えかけてくるような、深刻そうな……」

「むう!」

 

 細い喉を震わせて抗議の鳴き声を発し、蘭子は青年を腕で引いた。一つめの展示ブロックのなかを時計回りに、つづく四枚の絵画を足早に眺め去っていく。

 

「か、神崎さん、もう少しゆっくり見ていきましょう」

 

 解説のプレートも読めないままに二つ目の空間へ引きずられてきた青年は、不機嫌な小さい肩を両手でつかまえた。手が覚えていた、折れそうな硬さではなく、しっとりと弾力のある感触で、一六になったばかりの彼女の歳ごろを思い出す。かつて手許にあったおりの、一四歳の小さい女の子では、いまやすでにないのだ。

 

「よかろう、七つ目の時を超える窓、その光の綾は」

 

 ……クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ。展示の順序ではなく、描かれた順序に沿って、二人は縦長の一枚の前へ足を運んだ。これを左とし、九点目、一〇点目と並べると、フス派を主題としたチェコ側の歴史を描く物語になる。

 

 そしてこの絵は、

 

「娼館を修道院に改装させるミリーチ伝道師の姿……」

 

 なのである。

 

「とくと見よ」

「……」

「ふむ、女たちの深き悔恨と祈りが瞳と心を震わせるな」

「次の絵を見ましょう、神崎さん」

「……我が天の光だけを眺めて地上を渡ってきたと思うか」

「思いませんが、きれいな光を浴びて輝くあなたの瞳が、私は好きです」

 

 桜色の唇はとがらるかだらしなく横に広がるか迷い、意味のない短い言葉を二、三発した。チェコを描く三枚の残り二枚を眺めるうちに、大人びはじめた幼い顔はようやく混乱からさめたのだが、もどって八点目“グランヴァルトの戦いの後”が呈す惨禍の痕には、少し青ざめて頼もしい背中に隠れた。

 

「ミュシャは凄惨な光景を描くのを避ける傾向にあったそうですが、写実的に描かれると死の恐ろしさが迫ってきますね……」

 

 ここからつづく歴史は戦乱のなかにあり、青年は眼前に迫る暗黒の迫力と、背中に押しつけられるどこか心地よい圧迫感に挟まれて来場者の海を渡った。

 

 そのなかにあって一枚、光彩を放つのが、“フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー”である。画面中央のゴシック様式の窓からの陽光は暗い主題の多かった一連の絵に差した朝陽のようにも見える。実際に示すのは、新たな自由の誕生、そしてボヘミアに対するローマの宗教的支配の終焉だが。

 

「“ローマの終焉”と題された本……だそうですが、ROMAの四文字以外はよく見えませんね」

「少年……?」

 

 解説には、“ローマの終焉”と題した本を持つ少年、とあるのだが、美形と帽子のビジュアルで、蘭子にはあまり納得できなかったようである。しばらく“彼”を眺めていた二人はどちらからともなく苦笑を漏らし、三つ目、最後のブロックへと足を向けた。

 

「これは……白雪と銀氷の天地」

「ロシアの農奴制廃止、とありますね。背景はクレムリンの写真で見たような気もしますが」

「ううむ、白銀の妖精ならば……否、窓の先の名は光に託されし心にあらず、息遣いにこそ耳を傾けるべし!」

 

 ……雪の積もる赤の広場で、農奴の身分から解き放たれ途方に暮れる群衆の背後に、聖ワシリイ大聖堂のカラフルなタマネギ型の七つ屋根が浮かぶ。この表情をあらためて眺めて、疑問を呈す蘭子であった。

 

「なかなか難しいところですが……。神崎さんも学校はないから好きに学び、アイドル業もないから好きに働け、といわれたら困るでしょう?」

「むう……。偶像たる影を産み出す輝きを失えば、暗夜を闊歩する我が脚とて竦んでしまうかも……」

 

 だが、と赤い瞳が輝いて青年を見上げた。

 

「我が脚の折れしときは、(さそ)うものがあるという。ならば、我が心に惑いはないわ」

「それは……よかったです」

 

 青年は口の下手さを噛み締めながら、上機嫌の蘭子と次なる絵へと向かった。“聖アトス山”と題された絵に山容は描写されていない。聖なるアトス山にある教会で祈る巡礼者と、それを見守る天使たちの彫像の一枚だ。

 

 そしてすぐ背後に飾られている“イヴァンチツェの兄弟団学校”。赤い壁の奥に高い糸杉と白亜の塔を望む学校の庭が描かれている。そこにいるのはキリスト教の布教のためにチェコ語の聖書を印刷する、若者たちの一団だ。その絵の左下に蘭子は目を留めた。

 

「水鏡に宿れる光?」

 

 アトス山の教会と、イヴァンチツェの印刷小屋。そのどちらの左下にも、白ひげ豊かな老人と巻き毛の少年が描かれている。

 

「どちらも似ていますね」

 

 二枚の絵のあいだを何度も往復して老人と少年は同一人物だと結論し、蘭子の歩調で次の絵へと彼らは進む。その絵、“スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い”を見上げて蘭子は、それまでとは描かれかたのちがう人物たちに、眉の角度を変えた。

 

「未完成……?」

 

 神の座した樹の下で輪を作る若者たち、それを取り巻くひとびとのようすなのだが、手前の数人を残してぼんやりと色が置かれただけのようになっている。

 

「これだけは政治的な問題から完成させず、生前は公開もしなかったそうです」

 

 聞きかじりの知識ですが、と断って、青年はシルエットのままになっている大人たちを手で示す。

 

「彼らの右手を指先まで伸ばして前へ出す誓いのポーズが、ナチスドイツ式の敬礼を想起させると物言いがついたのです。右下に描かれている円に収まった変形十字も、本来スラヴの太陽のシンボルなのですが、これを参考にハーケンクロイツが作られてしまったために……」

 

 青年はかぶりを振って、小声でつづける。

 

「政治的な問題から影に沈んでしまった、文化と一枚の絵の、まさに現物です」

「悪意は水脈の毒か……」

 

 

 

 複雑な気分を最後の一枚に洗い流し、二人はさらに先のコーナーに進む。

 

「おお、我が瞳の求めし軌跡よ」

「アール・ヌーヴォーもご趣味のうちでしたか」

 

 アルフォンス・ミュシャと聞いて多くが思うのは、アール・ヌーヴォー式のくっきりとした流麗な主線と微細な筆致で花や女性を美しく描いた絵であろう。ゴシックロリータのように情報量の非常に多い、優美なデザインを好む蘭子が同様に愛好する様式としては、青年にとってもあまり意外ではなかった。

 

 展示されている舞台の宣伝イラストを食いいるように見つめる蘭子である。

 

「ハムレットでしたら、社内に映像があるかもしれません」

「トスカもまた魔力を秘めていよう」

「探しておきます」

 

 このコーナーの奥側には、今回の展示では唯一の彫像“ラ・ナチュール”が置かれている。ブロンズで作られた、うら若い裸の美女の胸像である。両目を閉ざし、胸は隠すことなく自然に張った姿は、性的な因子を廃した、女性美のひとつの具体化と……思わなかったものも、もちろんいる。

 

 嘆息する青年の脇腹を肘で刺すと、蘭子はまたむくれて大股に歩き去った。それまでの展示と異なり、狭いブースである。声を立てずに少女を追い、その腕をどうにかとらえたのは、明くるコーナーも最後、“クォ・ヴァディス”の前であった。

 

「むう、このようなところで……。アスモデウスに魅いられたか」

 

 中年の域にあるも精悍な男・ペトロニウスに恋をした奴隷娘のエウニケが、彼の大理石の彫像に肌を晒しキスをする、その一瞬前を描いた作品だ。

 

 蘭子の言葉に巨大な絵を見上げて青年は瞠目し、偶然だと主張した。実際に偶然である。蘭子がこの一枚の絵の雰囲気に、そして解説文に気を取られて、足を止めた結果なのだから。

 

「それより、ひとが多いのですから……。ぶつかっては危険ですし、私の目の届かないところに行かれると、その、心配ですから」

「……」

 

 振り仰いで、赤い瞳は、青年の言葉足らずをいまさらながらに思い出した。もとより険しい目から上の、重く垂れこめた暗灰色の空にも似たありさまは、とても二文字で表現しきれるものではなかったのだ。

 

「責めはいくらでも負いますので、どうか、ご自分の安全を」

「よい。我が歌なき静寂の冷気、心に焼きついたであろう」

 

 弱々しい語気が、言葉と裏腹の気持ちを青年に伝える。そうと知らぬ本人ははっきりと言葉に変える。否、知っていても己の口で伝える少女であったろう。

 

「凍えし心臓、我が掌にて癒やさん……。あの、心配させてごめんなさい……」

「はい。この手はお離しになりませんよう。私も、ずっと見ていますから」

 

 

 

 青年はそこから先の展示をほとんど見ないまま、展示室の正面にある円形のサロンの席にいた。感想をいいあう間も、その手は去年の春より大きくなった白い手の、きつく握るこそばゆさとあたたかさを反芻していた。

 

「エウニケの想いは遂げられたのだろうか……」

 

 話題は飛び飛びに進み、青年の記憶の最後にある一枚にやってきていた。

 

「クォ・ヴァディスは読んだことがないもので……。絵を一見した印象では、歳も立場も遠いように思え……」

 

 以前と変わらぬ、短く整えた銀の眉が下がる。それが意識にはいるより早く、青年は失言を悟っていた。白魚の指が青いグラスをなぞり、水滴をソーサーに落としていく。

 

「し、しかし、そういうものを乗り越えるのが、愛の物語だと思います」

 

 力強い断言に、少女が指を止めて微笑む。数秒の停止した時のあと、店員がこの展示に合わせた特別ケーキセットを運んできた。マカロンとミルクアイス、木苺ソースのチーズケーキの三点盛りである。アイスの甘さ、コーヒーのほろ苦さよりも、甘酸っぱい真紅の木苺ソースの味が、きょうの蘭子の舌には強く残ったのだった。

 

 

 

(了)



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血の気  ゲスト:渋谷凛

しおあじ


 

 

「それでは、すぐお連れしますね」

 

 蛍光グリーンのジャケットをはためかせ、千川ちひろが廊下へ飛び出した。346プロダクションが擁する新人アイドルたち、シンデレラプロジェクトの全員がデビューを果たして間もないこの時期、彼女たちにはテレビ番組から、中小規模のステージから、連日オファーが届く。きょうも、シンデレラたちを取りまとめる青年に、アポイントメントもなく面会を求める客があるのだ。

 

 ゆっくり閉まってゆく扉に背を向けて、青年は無人のプロジェクトルームで取り急ぎ身だしなみを確認した。ネクタイだけ直し、大窓の外へ視線を転じる。地上三〇階から見晴るかす街並みは深い青色の空に覆われ、その遥かな外縁に夏の雲が白く立ち上がっている。直接に届かずとも陽射しはまばゆく、青年は鋭い三白眼をさらに細めた。

 

 かすかな物音に、青年は振り返った。閉まらんとする扉の隙間に、飾り気のない手が滑りこんで止めたのだ。

 

「おはよう、プロデューサー。……なに? 開けかたが乱暴だった?」

 

 強引に滑りこんできた少女・渋谷凛の薫る青葉の視線を浴び、青年は自分があっけにとられた顔をしていることに気づいた。

 

「まあ、そうですね。危険ですので、ノブを使うようにしてください」

「うん」

 

 凛は苦笑いで返事をすると、肩にかけていた通学カバンをソファに預けた。

 

「渋谷さんは本日は、四時から五時の間に健康診断がありますので、忘れずに受診なさってください」

「ああ……そうだったね。大丈夫、ちゃんと忘れずに行くよ」

 

 凛はスマートフォンのスケジュール帳の上で指を遊ばせる。歯切れ悪そうに喉と鼻を鳴らすのを、青年が珍しそうに見つめる。

 

「んー、きのうは……蘭子の番だったんだね。怖がってなかった? 採血とかあったんでしょ?」

「はい。だいぶ、不安だったようです」

 

 怖がりの本性をゴシックロリータの黒いドレスに鎧った神崎蘭子はきのう、凛の想像どおりに怯えていた。真紅の果実のような瞳を白い手とおなじように震えさせ、胸に抱いた健康診断票はしわしわにして。力なく垂れた銀の絹の髪、小さい背中の感触は、青年の手にまだ新しい。

 

 青年の苦い表情をどこか楽しそうに、凛は長い黒髪をかきあげて耳にかけた。

 

「蘭子も大変だったんだね」

「“も”……と、いわれますと?」

 

 凛は表情を改め、ダークブラウンのローファーを青年に一歩踏み出した。

 

「……あのさ」

「はい」

 

 声音にも真剣なものを感じ、青年も襟と姿勢をただす。

 

「きのうまる一日じゅうさ、卯月が“がんばります”を“ばんがります”ってずーっといってて」

「……はい」

「私は気になって仕方ないのに、未央もだれもなにもいわなくて。指摘したら卯月は返事だけしてそれでもやめなくてさ」

「はい」

「何度もいったのにやめなくて」

「はい」

「もう悔しいし悲しいし、“卯月!”って怒鳴ったら、ドッキリ大成功だって」

「はい……」

 

 暗色の靴が、硬い床に一つひびく。

 

「仕掛け人の卯月たちはもちろんだけど、プロデューサーも、私にドッキリをやるって知ってたよね?」

 

 口調どおり厳しい青竹の視線が顔に突き立つことに怯まず、青年は鋭い目をできうるかぎりに大きくして見つめ返した。

 

「はい。ですが、詳細な内容までは聞いておらず……。ただ、知っていても、“ドッキリはヤラセなし”というのが業界の鉄則なので、事前に教えることはできませんでしたが……」

 

 鼻からのつまらなそうな返事も、青年は正面から受け止める。

 

「ご不快にさせてしまい、すみません。今後は精査します」

 

 頭を下げる青年の、真面目と冷静の両岸に両脚が踏みとどまったままなのを見て、凛はより多くの息を鼻で吐き出した。

 

「ま、いいよ」

 

 脅かすつもりの言葉にはたじろがず、なにげない一言で揺らぐ大柄な青年に、凛の顔に苦笑が浮かぶ。“しょうがないな”と応える代わりに肩をすくめて、キャビネットに置かれた花瓶を指ではじいた。

 

「撤収してるときに見せてもらったけど、CCDカメラって本当に小さいよね。ボトルガムにもはいってるの。ぜんぜん気づかずにガム食べてたよ」

「いまもその花瓶から、こちらを伺っているかもしれませんよ」

 

 青年の珍しい冗談で、凛は思わず周りを見めぐらした。それをごまかそうと、耳を赤くして握った片手を上げたところへ、重い音を立ててまた扉が開く。

 

「プロデューサーさん、お客さまをお連れしましたよ」

 

 蛍光グリーンのジャケットの千川ちひろが笑顔と右手のひらで示したのは、老若黒白、対照的な二人の男だった。

 

 

 

 綿飴のような頭の鹿毛仁(かげ じん)は生物学者と名乗り、黒い飴細工のような七三分けの努月理(ゆめづき さとし)は若手の医師を名乗った。二人の来客と青年にアイスコーヒーを供すと、千川ちひろは執務室を退出する。扉をはさんで聞き耳を立てていた凛の背中を押しながら。

 

 名刺の交換をせわしなくし、うっすら汗を浮かべるグラスのコーヒーで口を湿らせると、努月が見た目どおりに堅苦しく話しだした。

 

「346プロダクションさまの健康診断結果は当病院で取り扱っておりまして、その分析結果につきまして一件、おりいってご相談させていただきたいのです」

「私にということは、シンデレラプロジェクトのだれかの……?」

 

 硬質な声が彼の不安を短く肯定する。受け取ったひもつき封筒は乾いた音を発しながら、表面にしわを増やしていく。

 

「神崎蘭子さんの血液検査結果です。まずはご覧になってください」

 

 8の字にかけられた留めひもをつまむ指が震え、何度もかえって巻きつけ、端を取り落としながら、青年はやっと中身を取り出した。

 

 彼には見慣れた書式の成分表は、〇に近いγ-GTPや正常範囲内やや下の赤血球数など、蘭子がいたって健康であることを淡々と報告している。ただ、下側の余白の、丸みのある走り書きに、青年は黒い眉を寄せた。

 

「“発光”……?」

 

 つぶやきとともに体から震えが抜け、一人がけの椅子に腰を下ろしたときの落ち着きがもどる。疑色を帯びてまっすぐな視線を受け、こんどは鹿毛が口を開いた。

 

「検査をやっていた看護婦のメモだよ。彼女も検体の発光を確認して、まあ私のところに持ってきてね、調べてみたんだが……」

 

 “看護士です、先生”との努月の小声に、鹿毛はあいまいに頷いてつづける。テーブルの上を滑って手許へ来た紙は、鎖状の六角形やラテン文字の羅列に、青年には見えた。

 

「新型のルシフェリンが検出された。その式はまだ予想だが、まあまちがいはあるいまい。複合光で発光量子効率が〇・九〇……ああ、白い色でよく光るということだ」

 

 ルシフェリンという言葉には青年も聞き覚えがあった。自ら発光する生物が体内に持つ物質の総称で、ホタルのものが最もエネルギー効率がいいという。発光は視覚的にわかりやすいため、遺伝子の発現解析によく使われているとも聞いた。それは彼がまだ学生のころ、テレビやキャンパスで話題になっていたノーベル化学賞の話の延長でのことである。

 

「白い発光は世界初だ。青、緑、赤と三原色のルシフェリンは揃っているが、これを光の強度が揃うように混合してやるのは骨が折れるから誰もやらなんだ。まあ結果としては正解だった。見事な白色ルシフェリンが登場したんでな」

「はい。そして、その白色ルシフェリンのサンプルがより大量に必要です」

「サンプル?」

 

 硬質なまま熱を持つ努月の声に、青年は眉をひそめ、身構える代わりに襟を直した。はんだごてを突きつけるような視線を受けて、しぜん、もともと鋭い目つきがよけいに険しくなる。

 

「つまり、神崎くんの血液をもっと提供してほしい」

「なんですって!?」

 

 言葉未満の状態で頭のなかに這い回っていたなにかが、気安い老人の言葉でたちまちに毒虫の姿を得て飛び立った。浮かした腰を椅子にもどしたがまるでおさまりが悪く、青年は縁にごく浅く、飛びかかるような姿勢で座った。

 

「白色ルシフェリンの含有率は一ミリリットルあたり六〇マイクログラムです。追加試験や検証に、ひとまず一グラム、およそ二リットルぶん。量産の目処が立つまでには現状の概算ですが五リットル」

「そんなことは許可できません!」

「しかし遺伝子工学の助けになります」

 

 遺伝子の発現状況が視覚的にわかるよう、呈色や発光をさせるために加える遺伝子をレポーター遺伝子という。改良した遺伝子の出来不出来を見るなど、工学上欠かせない要素で、ルシフェリン遺伝子がよく使われている。しかし、光量や色の強化があえて言及するほどの進歩にどうつながるのか、余裕のない青年には考えるべくもなかった。

 

「オワンクラゲのルシフェリンで作られた光る猫は見たことがあるだろう?おなじ要領で光る樹を作って道端に植えれば電気いらずの街灯になる。非常にエコだ。手入れも剪定くらいなものだ。まあ、街灯らしい光が得られんから、話にならなかったんだが」

 

 一息にいうと鹿毛は、早くも尽きたコーヒーを物足りなそうに、紙コップの底を眺めた。

 

「これまでは構想だけだった話ですが、神崎さんの新型ルシフェリンがあれば未来が拓けるかもしれません」

「そんな量を採るためにどれだけ彼女を拘束するつもりですか! どれほどの苦痛だと思っているんです!」

 

 もはや青年に椅子は用をなさなくなっていた。毒虫の火をまとって飛び交う感覚が走る指先で、ローテーブルを圧し割らんばかりにする。

 

「科学に犠牲はつきものだよ」

 

 いけしゃあしゃあと答える鹿毛に一瞬鼻白み、しかし、熾き火はすぐ勢いをとりもどす。

 

「……これまでの犠牲は見ず知らずのひとでしたから、薄情かもしれませんがなんとも思っていませんでした。ですがこれは事情がちがいます。どのような理由であれ、あのひとは害させません!」

 

 青年はテーブルを爪できしませ、剥いた牙の隙間から火の粉を噴き上げた。紙コップを揺らして物足りなそうな鹿毛の態度が油を注ぎ、努月の涼しい顔がふいごで風を送りこむ。

 

 冷房のたしかに機能しているはずの室内で、青年の顎から暗褐色の天板へと汗の一粒が落ちた。薄い唇を真一文字に結んで身じろぎもしない努月の横で、鹿毛はへの字にした唇の山を右へ左へさせている。二粒目がはじけ、三粒目の躍り出るのとほぼ同時に、白い頭の老人が大きく息を吐いた。

 

「いや、わかった。しかたない。私は諦めよう」

 

 鼻息の音を短く立てて、努月が鹿毛の意思を問い直す。深く頷く老人の姿に、青年はテーブルを爪から解放し、努月ははじめの一口からずっと飲まずにいたコーヒーで、かすれかけていた喉を潤す。

 

「いまあるぶんだけでやるか。まあ、日本の研究者は制限されたほうが成果を出すものだしな」

「ご理解くださって、ありがとうございます」

「いいえ、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」

 

 努月の言葉はスマートフォンの振動で遮られた。断って通話を始めた直後、不変に思われた表情が驚愕の形に歪んだ。

 

「あのひとが……? すまない、なるべく引き伸ばしてくれ。私もいまから、神崎さんの担当の方ともどる」

 

 通話を終えた努月は、青年に深々と頭を下げた。彼の先輩医師である板頭等(ばんどう ひとし)がこの話を聞きつけ、蘭子の血液に高い値がつけられるとふんで彼女をつかまえたというのである。

 

 青ざめた顔をするのも一瞬、“先に行きます”というや(二人にはほとんど聞き取れなかったが)、青年は部屋を飛び出していった。

 

 乱暴に開け放たれ、閉まりきらんとしたドアをノブでつかみ、凛が応接間に姿を現した。パーティションの支柱に背を預け、腕を組んで、二人を見下ろす。青年がまだここにいたなら、頼もしい味方に思えたかもしれない。

 

「ねえ、悪趣味すぎない?」

 

 相変わらず淡々とした言葉に、二人の男はしばし顔を見合わせるのだった。

 

 

 

 神崎蘭子は簡素なベッドに小柄な身体を横たえていた。薄いティッシュ箱のような枕は、後頭部を乗せても横顔を乗せてもまるで落ち着かない。清潔感を絞って染めたような白い壁のこの部屋は、四畳ばかりだろうか、やはり簡素な机にファイルと筆記具が置かれ、背もたれのない丸いすがぽつねんとある。

 

 二つある扉のうち、入室に使わなかったほうの向こうから、蘭子はなんとも恐ろしげな物音を聞く。細かい金属がいくつもぶつかる、軽快で心のない音だ。泣き出しそうな溜息を漏らして、蘭子はごく淡いクロッカスのブラウスの胸で小さい手を祈るように合わせた。

 

 ……エントランスで千川ちひろから再検査通知を渡され、指示されるままにこの病院へやって来たのは、三〇分ほど前のことだ。シンデレラの一人である彼女の担当、三白眼の鋭い大柄な青年を伴いたかったが、とにかく急かされて炎天下を独り歩いたのだった。

 

 痛かった採血の記憶で窓口へ行く脚が鈍った。吹き出る汗をいいわけにして控えめな冷房に休んでいたところへ、濃い茶色の巻き毛の男が声をかけてきた。白衣に縁無し眼鏡の男は、蘭子には、彼女の恃みの青年より少し年長に見えた。

 

 板頭と名乗ったその眼鏡に案内されるまま診察室の椅子に座ると、きのうの血液検査での結果について知らされた。大筋はおなじころに、いまは病院へとひた走っている青年が聞かされたとおりのことである。

 

 ただし一つちがうのは、白色ルシフェリンを大量に作れるようになることでもたらされる恩恵の規模が、板頭の説明では難病治療やエネルギー問題の解決まで飛躍していた点であった。

 

 勢いに押し切られ、わけのわからぬままに追加の採血に同意した神崎蘭子は、機材の用意をこの白亜の部屋で独り待っている。その間に恐ろしくなってきて、だが約束をたがえるうしろめたさに細身をベッドに押さえこまれ、真紅の瞳に涙を浮かべる蘭子である。

 

「友よ、我が瞳は曇っていたのかもしれぬ。其方の瞳であればどの道の涯てに光を見ただろうか……」

 

 眼光鋭い“友”の姿を思い、蘭子は天井をまっすぐに見つめて、両手の指に力をこめて握った。奥の扉の向こうから一つ大きい音がして、静かになる。

 

「ギャッラルホルンは鳴れり……」

 

 両のまぶたにも力がはいり、淡いアイシャドウと漆黒のマスカラが紅の瞳を閉ざし、恐怖と緊張が小さい身体を震わせた。ドアノブが、音を立てて回る。

 

「神崎さん!!」

 

 奥の扉より早く廊下の扉が開き、大きい影が飛びこんできた。なかば怒鳴るような声に、蘭子は全身の緊張を解いて跳ね起きる。

 

「我が友!」

 

 かかとで蹴られたベッドが壁に安い音をひびかせる。飛びつき、抱きとめる二人の奥で、開きかけた扉がそっと閉まった。

 

「帰りましょう。こんなところにいてはいけません」

 

 青年は己の胸から見上げる真紅の果実をやさしくのぞきこんだ。白く小さい手でワイシャツの肩にしがみつく。

 

「きのうのぶんだけでも研究はできるそうです。あなたがこれ以上痛い思いをして、身を削ることはありません」

 

 震えの残る銀の絹の髪を、熱っぽい手が撫でる。

 

「だ、だが、我が受難により光もたらされる民があるのならば……。この身、ひとときカフカスの鷲に捧げても良いと思うのだ」

「あなたを犠牲にして得た利器になんの価値があるというのですか。ファンのみなさんも悲しみます」

「巫女の神託には従うはず……」

「少なくともここにいる一人は納得しません」

 

 青年の鋭い目が、蘭子の揺れる瞳をおなじ高さから見据えた。力強い手が、ブラウスの細い肩をしっかりと包みこむ。

 

「あなたはアイドルです。血を使うのでしたら、汗と涙との結晶をステージの上から届けましょう」

 

 青年の目と口許がその線をおだやかにすると、蘭子もまた表情をゆるめた。両目にどこか安心したような、静かな光をたたえて。

 

 青年の汗を蘭子が拭い、日傘を青年が預かり、並んで廊下側の扉を開いた。白くまばゆい光が、狭い部屋になだれこんでくる。

 

「はーいどうも、ドッキリカメラでーす」

 

 笑顔の鹿毛、努月、板頭と、うしろから彼らを睨む凛のあわせて四人が“ドッキリ大成功”のフリップとともに二人を出迎えた。うしろにはマイク、照明とレフ板、二台のカメラが控えている。

 

 目を丸くする二人に、フリップをうしろのスタッフに渡して凛が進み出る。細い首筋をかき、顔は背けがちにしながらも、鮮緑の視線はしっかりと二人に注いでいる。

 

「ごめん、私はさ、知ってたんだ。プロデューサーも巻きこむって」

「そうでしたか……。ああ、それでやけにきのうのドッキリの話を」

「うん、教えようと思ったけど、ヤラセはだめだって聞くとさ」

「ドッキリ……? これは、バルベリトの詭弁……?」

 

 事態の飲みこみきれない蘭子に、凛は苦笑いを向けた。

 

「そう。怖かったでしょ蘭子。こんな場所だし、ネタの趣味は悪いし」

「わ、我が血の煌めきは」

「そんな物質ありません。どうも、板頭等と書いてイタズラです」

 

 茶髪の眼鏡の人懐こい笑顔は、黒と緑の刺々しい視線に引きつった。

 

「白いルシフェリン以外は嘘でもないそうですが。ドッキリの努月理です」

「そして私が仕掛け人の鹿毛仁。いやあ、お疲れさまですみなさん」

 

 朗笑する三人に温度のない“お疲れさまです”を返し、心には、この番組のプロデューサーと放送作家はきちんと調べておこうと決めた青年である。もう一つの“お疲れさまです”と、同義である蘭子の“闇に飲まれよ”もまた心のこもらないまま、雑な偽名を使っていたスタッフに届いた。蘭子が頬を膨らせ、茶髪を恨みがましく睨んでいる。

 

「蘭子……まさかかっこいいって思ってた?」

 

 むくれたまま深く頷く。蘭子の視界をふさぐように青年が回りこみ、そっと肩を包んだ。

 

「堕天使の覚醒めが我が身に兆しをもたらしたものだと……」

「それは残念でしたが、神崎さんが狙われずにすむなら、とてもいいことです」

「ルシフェリン……闇の波動を感じたのに……」

 

 怒りのエネルギーが放散してうなだれる蘭子に、青年はつい焦ってしまう。慰めの苦手な凛も、腕を組んで困り顔だ。

 

「見るだけ、でしたら、せっかくの夏ですから、どこかで夜光虫の取材などを探してみましょう。生物発光は、ご自分が光るより見るのが楽しいですよ」

「やこうちゅう?」

 

 赤みを強くした瞳が見上げる。こんどは青年がハンカチを差し出す番だった。

 

「海にいるプランクトンの一種です。青白いルシフェリンを持っていて、夜の波打ち際などを輝かせています」

「ふーん……。私もいい? 蘭子」

 

 さっき泣いたカラスがもう笑い、凜へうれしそうに二つ返事をする。青年は自分に訊くのではないのかと片眉を上げたが、肯定以外をしないと思われたのだろうと、独り、納得した。

 

「……番組の趣旨からは外れるかもしれませんが、この二人でそういう映像はいかがですか?」

 

 すっかり機嫌を直した蘭子の満面の笑みと、凛の自信に満ちた微笑が三人のスタッフに迫る。アイドルや見知らぬ男の怒り狂う姿より、驚きの自然現象と銘打ったちょっとした非日常ではしゃぐ二人のほうがまちがいなく視聴者には受けるだろう。まだ気迫の抜け切らない青年の眉間も含め、三者三様におなじメッセージを発している。

 

「ひ、ひとまず持ち帰らせていただいて……」

「いえ、急なことですし、すぐにそちらのプロデューサーさまとお話をさせていただけませんか。ああ、作家のかたにも、大枠で本を書いていただかないといけませんね」

「いや、ちょっと、ねえ?」

 

 笑顔を無理に貼りつけた青年に肩をつかまれ、茶髪の顔は完全にひきつった。巻き添えはごめんだと、撮影スタッフと残る二人のドッキリ仕掛け人が静かに撤収を始める。茶髪がすがるように伸ばした手は、せわしない足音にまぎれた“あとはがんばってくれたまえ!”という声で叩き落されるのだった。

 

「では、あとの段取りをお願いします。ちょうど、使える部屋もありますから」

 

 

(了)



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茨の公主と黒マント<その花の名は>(前編)

児童文学っぽいキャスト替えです。
たぶん苦甘。


 むかし、とある国の丘の上に、薔薇園に囲まれた美しいお屋敷がありました。そこには豊かな黒髪に黒曜石の瞳を持つ四〇代くらいの女性が住んでいて、丘の下に広がる町のひとたちは、お屋敷のたたずまいから“美城のご当主”と呼んでいました。お屋敷で働くひとたちは“ミレディ”、要するにご主人さまと呼んで、内と外とを区別しています。

 

 彼女には細い銀髪にルビーの瞳をしたお人形のような一人娘がおりました。こちらを町では“茨の公主”、お屋敷では“お嬢さま”と呼んでいます。本人は母親の真似をしてカタカナの呼びかたを模索した時期もあったのですが、どうもしっくり来なかったようです。

 

 なぜだれも本名を呼ばないのかというと、それはまじないよけのためでした。本当の名前を知れば、相手に呪いをかけることも、意のままに操ることもできてしまうと信じられておりまして、えらいひとたちは本名を隠して生活しているのです。

 

 それからこの親子の似ていない理由ですが、町のひともお屋敷のひとも、口々に噂をしています。それはだいたい、ウールのような茶髪が愛らしいと評判の、お屋敷の花園を管理する三姉妹の意見に代表されまして……。

 

「お嬢はミレディが造った人造人間なんだじぇ!」

 

 暴論を唱えるのは長女・ユリユリ。もちろんそんな事実確認はしていませんし、知られたら首が飛びそうです。

 

「ミレディにだって若いころはいろいろあったんスよー。旅の美青年と一夜の契りを……とか。お嬢さまはきっとその彼の面影を強く残してるんス」

 

 結婚する気配もない女主人の態度から推理するのは、次女のヒナヒナ。こちらも事実確認などしておらず、単なる推測です。お二人のお歳を考えると、若いころといっても二〇代後半のできごとになることには気づいてないようですね。

 

「あのミレディのことだし、男なんて知らないだろ。お嬢は養子なんだよ。だって輪郭からしてベツモンじゃん?」

 

 自分たちのことを棚に上げていちばん首を刎ねられそうなことをいうのが、三女のナオナオ。

 

「男が女と交わるわけないじゃんッ!!」

「姉さんはうちらの親をなんだと思ってるんスか!」

「ユリユリたちも人造人間!」

「姉貴ッッ!」

 

 姉妹だというのにまるで意見が揃いませんが、いずれも流言飛語であることと、敬意のないことは共通していました。この三姉妹の長女と次女も、姉妹というのに生年月日が二〇日しか違わないのですが、それはおいておきましょう。

 

 

 

 さて、女性ばかりのこのお屋敷には、数人の男性の姿も確認されています。

 

 有名なのは全身を赤いリボンでぐるぐるに巻いたミイラ男。だれも素顔を見たことはないようですが、体格が男っぽいので男なのでしょう。ふだんなにをしてるかというと、お屋敷の見回りです。ものが見えてるのかどうかはわかりませんが。

 

 それから一時間に一度はお屋敷の外まで出てタバコをふかしている侍従長。ミレディよりも歳上の彼は、人当たりがいいのでよく頼りにされています。

 

 最後に、黒衣の大男。お嬢さまづきの無口な執事です。名前もはっきりしませんが、出で立ちから町でもお屋敷でも“黒マント”と呼ばれています。

 

 黒マントの仕事はたくさんあります。お屋敷の見回りや高いところの掃除、力仕事もよく頼まれます。なかでも大切なのは、怖いのが苦手なお嬢さまがミイラ男と鉢合わせそうになったときに、ミイラ男を適当にどけてお嬢さまをお通しすることです。

 

 ほかにも朝にはお嬢さまを起こしたり、お出かけのときは馬車を走らせたり、日傘を差したり、荷物を持ったり。観たお芝居のお気にいりのシーンを一緒に演じることもありました。給仕はちゃんと係がいますが、お嬢さまは彼に運んできてもらうのが好きでした。そしてお嬢さまが眠る前には、ハーブティーを淹れて差し上げます。

 

 黒マントは毎日きめられたとおりに働きますから、お嬢さまも毎日、彼の声で目を覚まして、彼に布団をかけてもらって眠ります。彼はお嬢さまの可憐な笑顔がなによりも好きでしたし、そうしたときに目を細めて口の端を引いた彼の顔を見ると、お嬢さまの笑顔はなおのこと輝くのでした。

 

 

 

 聖誕祭を間近にひかえたある日のことです。シルクのような黒髪が美しいと評判の、花屋三姉妹が苗木を運んで参りました。馬一頭に荷車をがらがらと牽かせ、お屋敷の庭の脇へ停まります。馭者をしていた花屋黒髪三姉妹の次女・リンリンが、庭師茶髪三姉妹の三女・ナオナオに声をかけました。

 

「注文されてたの、持ってきたよ」

 

 二人は気心の知れた仲ですが、検品は手を抜きません。

 

「ポインセチアの赤が五〇株……これ赤みが足りなくないか?」

「ごめん、今年はちょっと色々あってさ。全部におなじように色づけしきれなかったんだ」

「あと数日、短日処理をしたらきれいに色づくはずです。もちろん、そのぶんのお代は引かせていただきますから」

 

 花屋の長女、フミフミが申し訳なさそうにいいます。

 

「どのみちこっちでも調節はするんスから、そんな恐縮しなくていいッスよ」

 

 庭師次女の言葉で、フミフミはすこしおちついた顔にもどりました。ナオナオは検品をつづけます。

 

「ピンクも五〇。よしよし。あと、姉貴が頼んでた種は?」

「それは荷車じゃなくて……アリス」

 

 黒髪三女・アリスは、フミフミのうしろからひょこっと顔を覗かせました。

 

「あんたに持たせてたよね、薔薇の種」

「……はい」

 

 アリスは、抱えていた布袋から、いくつかの巾着を取り出します。中身を確認して、三袋をヒナヒナに渡しました。

 

「中身は、これが……」

 

 いいさしたアリスを、ヒナヒナが止めます。

 

「開ける楽しみがなくなるッスよ」

「受け取る前に確認しろよ!?」

「いやあ、こういうのは中身当てるのも楽しみのひとつッスよ」

 

 ツッコんだナオナオでしたが、たしかにプレゼントの中身にワクワクする気持ちは身に覚えがありましたから、口をすぼめて黙ってしまいました。

 

「プレゼントとかじゃなくて、注文されてた商品なんだけど……」

 

 おなじく身に覚えのあるリンリンも、語尾が消えていきます。

 

「そう! 買うものなら中身を把握しておくのは大事だじぇ! 表紙に惚れて買ったのに、ページをめくれば右と左が大☆逆☆転……。おおお……おそろしい……」

 

 ユリユリは勝手に忌まわしい記憶のフタが開いたようで、変なポーズで膝をガクガクさせています。けれど、いつものことなのでだれも気には留めません。

 

「えーっと、赤と、白と、これが黄色。ありがとうっス、アリスちゃん」

 

 お礼をいわれたのに幼い三女は口をとがらせました。こちらもいつものことなので、だれも気には留めません。

 

「また種から育てるの? 挿し木でいいじゃん、いい花が選べるじぇ?」

「わかってないっスねー、自分で育てるからいいんスよ」

「ユリユリはお手入れで手いっぱ~い」

「種からだと肝心の花がどうなるかわからないから、観賞用だと悩むところだよね」

 

 リンリンが難しい顔でいいます。つづけざまにナオナオに種派か挿し木派か訊ねると、彼女は考えこんでしまいました。

 

「それにユリユリ的にはね、種……種って響きはステキだと思う、でもね! 地面に自分の……この女の指で穴を開けなければならないことが苦しいの! 種が自分で地面にグリグリ穴掘ってモゾモゾ潜り込んでいってくれればダンゼン種を支持しますわかる!?」

「わかんねーよ」

「姉さんいまアリスちゃんもいるんス」

 

 アリスの耳はさっさとフミフミが塞いでいました。

 

「その点挿し木はシンプルイズベストといわんばかりでね、大好きです」

「聞けよ」

「花植えながらそんなこと考えてたんスか……」

 

 妹の呆れる声もどこ吹く風です。

 

「でもさ、母なる大地っていうんだし、女じゃない? 地面」

 

 リンリンの言葉にユリユリは色を失って、アシカのような鳴き声を最後に静かになりました。

 

「まあ、姉さんのヨタ話はともかく、アタシはちょっとくらい変でも、自分だけの一輪を作ろうみたいなのっスから……」

「ふふっ、姉さんもおなじようなこといってたね」

「込めた愛情が大事、ですよね」

「うーん、そういわれるとあたしもやってみたくなるような……」

「おっ、ナオナオも創作の道に?」

 

 ユリユリは立ち直りのはやい女でした。

 

「そういうことなら線の引きかたベタの塗りかた、あれやこれや伝授してあげるッスよ~。お嬢さまも最近まで……っと、なんでもないッス」

 

 ん?と三女の顔が引きつり、いちばんウェービーな髪がざわざわしはじめます。

 

「見てみたいな、ナオナオのえがいた物語」

「はあ!?」

 

 長い髪がぶわりと上がって顔が赤くなってくると、

 

「そんなことより、代金の確認を」

 

 最年少アリスがバッサリとやりました。女の子の話がどんどん転げてだらだら長引くのはごくごく自然なことですが、この黒のテグスと茶色の毛糸はまわりを巻き込んでとくにこんがらがりやすいので出鼻をくじかないとお家に帰れなくなってしまうのです。

 

 蒸し返したそうな庭師姉妹を振りきって花屋姉妹が荷馬車を動かそうとしたところへ、一つの黒い影が通りかかりました。

 

 六人がいっせいに振り返ります。

 

「黒マント!」

 

 

 

 丘の下に広がる町へとつづく一本道をたどる馬車を、はるか高みから見送る目がありました。

 

 黒い日傘を差した白い肌の少女。着ている黒いドレスはフリルとレースといくつもの大きいリボンにタイトなひもで飾られていて、疲れ目にはちょっとくらくらする装いです。赤い唇をキュッと結んで、赤い瞳と短い眉をひそめて、馬車がゴマ粒のようになってすっかり見えなくなるまでテラスに立っていました。

 

「こんなところにいたのか」

 

 部屋の暗がりから呼んだのは、エメラルドのピアスをつけたスーツの女性でした。

 

「お母さま」

 

 複雑なドレスの少女はどこか不満気に振り返ります。そうして、アップにした長くウェービーな黒髪を風に揺らすお母さまの許へ、つかつかと厚手のかかとを鳴らして詰め寄りました。

 

「我が下僕を下界に遣わせしか」

 

 お母さまが思わず首を傾げると、胸許をかざる金細工がシャラシャラと澄んだ音を立てました。

 

「いいや。かれの引く轍はかれの意志だ」

「その心は高潔か」

「この母がおまえの眼を恐れると思うな」

 

 二人ともヤンゴトナキご身分ですので、話す言葉がシモジモの者とはすこしだけちがいます。お嬢さまは表情を悔しそうにゆがめて、うつむいたままお母さまの横を通り過ぎて行きました。

 

「太陽の下に黒い外套が隠れられるはずもなかろうに、愚かな……」

 

 お母さまが溜息をつくと、そこへ紙束を持ったナオナオがやってきます。

 

「ミレディ、クリスマスの晩餐会用の鉢植えが揃いました。それで、当日の置きかたとかご確認いただきたいんですけど」

 

 

 

 荷車の上では、黒マントが大きい体を窮屈そうに曲げて隅っこに座っていました。ちょうど花屋に行くところだった彼は、帰る三姉妹と同道させてもらうことになったのです。

 

 馭者は彼の仕事ですが花屋姉妹はお嬢さんではありませんでしたし、姉妹もお客さんである黒マントを働かせるなんてとんでもないことでしたから、馬車を操るのは来たときと同じくリンリンです。

 

 四人はとくに口もきかず、木の車輪が乾いた土に轍をきざむ音だけが響きます。黙っているのが気まずかったのか、アリスが口を開きました。

 

「黒マントさんはこのところよくうちにいらしてるみたいですけど、いったいなにをしてるんですか?」

 

 黒マントは何回か口をちいさく開けたり閉じたりしたあと、

 

「お店の一角をお借りしている以上のことは、すみませんが申し上げられません」

 

 そう告げて、またかたく口を閉ざしてしまいました。じじつ、彼がしていることを知っているのは黒マント本人と、店のバックヤードを使わせている花屋のご主人、つまり三姉妹のお父さんだけなのです。

 

「ひとにはだれだって秘密があるんだよ、アリス」

 

 馬を走らせながら、リンリンがいいます。

 

「そうですね、人間はみんないえないこともいいたいことも胸に抱えて生きています。そこから産み出されるのがこの、本という小さい宇宙のかけら。ナオナオだけに作らせず、リンリンも作ってみたらどうでしょう?」

 

 なんでそうなるのと、リンリンは慌てて振り返りました。

 

「私は絵なんて描けないからっ!」

「表現は文字だけでもできるんですよ」

「なんでそんな書かせたいの!? だいたい小説なんて、表現が……言葉が追いつかないよ!」

「そうでしょうか……」

「ひょ、表現といえば、美城のご当主も茨の公主もすごいですよね。あのよくわからない言葉、なんであんなにスラスラ……」

 

 すっかり混乱している下の姉に助け舟を出そうとしたアリスでしたが、まずいことをしてしまいました。

 

「アリスさん」

 

 黒マントが、いっそう低い声を出したのです。

 

「ひとそれぞれに思うことがちがうのはわかっています。ですが、私の前でお嬢さまをそのようにおっしゃるのはお控え願えませんでしょうか……」

 

 黒マントは震えるこぶしを、長いすそに隠しました。泣き出しそうなアリスを、こんどはフミフミがかばいます。

 

「すみません、黒マントさん。アリスはそんなつもりでいったんじゃないと思います。アリスはあのお二人のこと、好きですものね?」

 

 三女はこくんと頷きます。

 

「ご当主も公主も、私のこと、可愛い名前で呼んでくれるから……」

 

 先程もでしたが、アリスは“アリス”と呼ばれるたび、いつも眉根が寄ったり口が尖ったりするのです。

 

「いやなんです、自分だけちがう名前が」

 

 姉たちがフミフミ、リンリンときて自分だけアリスですし、友達の庭師三姉妹は同じ四文字の名前を持っているわけで、自分だけ仲間はずれのような心持ちがするのでした。

 

「私の本当の名は、授けてくださったお嬢さましか知りません。黒マントというのは、あだ名です」

 

 黒マントは身動ぎせずにいいました。

 

「名前らしい名前があるだけマシだと思えっていうことですか」

 

 アリスに噛みつかれて、黒マントは困ったように首へ手をやりました。

 

「そういうことでは……。私はこのあだ名のおかげで、年中どこでもこの外套を羽織っていなければならなくなりました。夏は暑いし、無礼だといわれることもあります。ですが、いやだとは思いません。ひとから呼んでいただけますから」

 

 そういって、黒マントは丘を見上げると目を細めます。

 

「親しみをこめて呼んでいただけるというのは、とてもうれしいことです。みなさんがあなたや互いを呼ぶ声に、ちがいがありましたか」

 

 アリスは難しい顔をして、考えこんでしまいます。

 

「どうしてもっていうなら、あだ名かな」

 

 リンリンがまた振り返りました。

 

「やっぱり、“アリアリ”?」

「“リスリス”のほうがかわいらしいですよ」

 

 二人の姉にはさまれて、アリスは胸がとてもムズムズするのでした。

 

 

(続)



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茨の公主と黒マント<その花の名は>(中編)

 夜になって、黒マントは帰ってきました。使用人用の出入口に手をかけると、ひとりでに扉がひらきます。

 

「おお、おそいお帰りだね」

 

 タバコを指にはさんだ侍従長が笑って立っていました。なにかいいさす黒マントを制して、

 

「お嬢さまなら、食堂でお待ちだ。自分の仕事を忘れちゃいかんよ」

 

 用は済んだとばかり、いそいそと喫煙スペースへ駆けて行きました。

 

 黒マントが慌てて食堂へ駆け込むと、長テーブルの奥にお嬢さまはひとり、黙然と座っておりました。

 

「お待たせして申し訳ございません!」

 

 かすかだった暖炉の火を熾し、燭台に火をつけます。調理場に残っていたパンとスープを温めなおして、赤い瞳を伏せてじっと座ったままのお嬢さまに運びました。彼が慌ただしく駆けて来るにつけ、行くにつけ、かすかな香りが、お嬢様の鼻に届きます。

 

 この一年ばかりには週に二度ほど、黒マントはお嬢さまのそばを離れて、どこかへ行くことがありました。そのたびに彼の黒い外套から、花の匂いがしていたのです。どこでそんな匂いをつけてくるのか、はじめのうちこそ問い質しました。しかし彼は“年が明けるまでには明らかにいたします”としか答えません。お嬢さまの胸には、暗い雲がどんどん増えていきました。

 

 そしてきょう、偶然から見てしまった花屋の姉妹との逢瀬。寝る前のハーブティーは、その花屋に彼が注文して買っていることは知っていました。ですがそれは、鉢植えと一緒に定期的に持って来させていたもので、わざわざ彼が出向く必要はありません。

 

 たちまちのうちにお嬢さまの胸の雲は黒く重たくなって、ただスープが熱いということ以外、なにも感じないままに食事を終えました。

 

「精霊の薬湯はもはや要らぬ」

 

 いつものように差し出されたティーカップを、お嬢さまは突き返しました。豪華な天蓋のついたベッドの上で、靄がかった赤い瞳は従者を避けてさまよいます。

 

「我が身に澱み、蝕む毒……」

 

 黒マントは目をみはって、動けないでいました。お嬢さまにはやく下げろと急かされて、震える手で流しに捨てました。

 

「おやすみなさいませ、お嬢さま」

 

 横たわる主君の小さい体に、大きすぎるほどの毛布と布団をかけて、いつものようにささやきます。明かりを消して部屋を出、鍵をかけると、黒マントはとぼとぼと自分の寝床に帰って行きました。

 

 きしむベッドに大柄な体を横たえ、毛布にくるまって、一時間も二時間も、彼は眠れずにいました。お嬢さまがハーブティーを飲まなかったのも、おやすみと返してくれなかったのも、これがはじめてでした。

 

 熱すぎるとか、薬っぽいとか、この香りは嫌い、好き、おいしい。

 

 お嬢さまは一杯ごとに表情を変えて、そのどれもが彼には宝物でした。お嬢さまがおやすみといってくれるから、彼は身を休めることができたのでした。

 

 硬い寝床で、彼ははじめて眠れぬ夜をすごしました。

 

 

 

 目の下のクマをごまかして、黒マントは朝一番の仕事に向かいます。

 

「お嬢さま、お目覚めの時間です」

 

 いい終わらないうちに大きい扉が無造作にひらくと、お嬢さまが立っていました。昨夜よりは顔を自分のほうへ向けてくれていることに安心した黒マントですが、お化粧でも隠し切れないほどのクマをその顔に見つけます。

 

 それを問うとお嬢さまは黙って扉をとざし、ふたたびひらいたときには見事な白いかんばせをしていました。

 

 いつもであれば、お嬢さまはノックだけでは起きてこず、枕を抱いてむにゃむにゃいっているのを揺り起こしてやらねばなりません。“煩わしい太陽ね”“はい、おはようございますお嬢さま”と挨拶をかわし、それからお着替えを待って髪を梳き、またお化粧を待ってようやく朝ごはんを食べに食堂までエスコートをするのがならいでした。

 

 きょうのお嬢さまはそのくだりが逆転していて、そのうえ様子がおかしいのでした。白百合のように微笑むといつもの挨拶をし、ふだんはそっと添えるだけだったエスコートの手は、腕を絡ませて。

 

「お嬢さま、きょうはいかがされましたか?」

 

 訊ねれば、すまし顔で答えます。

 

「我は我が心の赴くままに。其方は如何にやあらん」

「御意に」

 

 昨夜の機嫌はすっかりなおっているのだと、黒マントは安心しました。

 

 お昼にはバスケットにサンドイッチを詰めて、黒マントが走らせる馬で近くの湖へお出かけを。

 

 夕方、冷える空気から逃げるようにお屋敷にもどると、お嬢さまは部屋にこもります。

 

「固くとざした地獄の門、けっして開けてはならぬ!」

 

 毛糸玉をいくつも持ち込んでなにかしているようでしたが、黒マントは気づかないふりをしました。

 

「お嬢さま、今夜はハーブティーはいかがされますか」

 

 きのう激しく拒絶されただけに、声が緊張していました。お嬢さまの答える声は、しかし、ひどく明るかったのです。

 

「女王に捧げられし黄金の雫を加えよ」

 

 いわれたとおり、まあ、いわれたとおりというとなにかおかしくはあるのですが、黒マントはハーブティーにはちみつを混ぜました。

 

「足りぬ」

 

 言葉に従ってはちみつを足して足してなお足して、ハーブティーがどろどろになると、お嬢さまはカップを受け取ってひといきに飲み干しました。

 

「おいしい」

 

 千秋の思いで待っていた言葉に、黒マントの頬がゆるみます。

 

 茶器を片付け、いつものとおりやさしく毛布と布団をかけ、寝る前のご挨拶。

 

「おやすみなさい、お嬢さま」

「其方も月光の翼の裡にその身を預けるがよい」

 

 さて、このお嬢さま、“おやすみなさい”はいいましたが従者の袖をつかまえて離しません。

 

「いかがなさいましたか」

 

 と問えば、

 

「悪魔の奏でるヴィオロンが我が耳に届くまで、其方の熱を捧げよ……」

 

 すがるような眼で黒マントを見つめるのでした。彼はすぐさまベッドの横に跪くと、差し出された白い手を両手でそっと握ります。

 

「お望みとありましたら、朝まででもおります」

 

 お嬢さまの瞳が、わずかにうるみました。

 

「その心の高潔を示せ」

 

 黒マントには二晩目の眠れぬ夜でしたが、こんどはまったく苦ではありません。ただ、一つだけ、心に引っ掛かるものはありましたが……。

 

 

 

「おひとつ奏上いたしたく存じます」

 

 翌日の夕方、お嬢さまがまたお部屋でなにかを編まれているあいだに、黒マントはミレディの許を訪ねました。

 

「お嬢さまのご様子がなにか、ふだんとはちがうのです。笑っていらしてもお声が弾まず……。お眼が氷のごとく固まっておられることも。ミレディになにかお心当たりがありましたら……」

「ことしの冬は冷えるな」

 

 ミレディの返事は返事になっていないように聞こえますが、やはりいつものことなので黒マントは気にしません。

 

「家にいてもこごえるのは、隙間風……。建てつけの悪い家にしたつもりはない、ならばどこから吹く」

「戸や、窓ですか。締め忘れた」

「そうもあろうな。だがそうではない。あの子はそんな不用心ではないさ」

「であれば……」

「部屋を照らし、体を温める暖炉……。あの子の部屋のそれは、どうやらおかしくなってしまったらしい。吹き込む冷たい風はすすと灰にまみれて、火種も見失ったというのに暖炉に

しがみついてうずくまっている。うしろにはあたたかいベッドもあるというのにな」

 

 ミレディは自嘲気味に笑いました。この母娘の言葉を難なく聞きこなしている黒マントですが、このときばかりは困った顔をしています。

 

「暖炉……」

「そうだ」

「火を……。ふたたび、火をとりもどす……」

「できねばこの屋敷にきさまの居場所はない。……わたしの話は終わりだ」

 

 ミレディは腕を組むと、顎で扉を示しました。退出しろ、ということです。さすがにジェスチャーはシモジモのものたちと変わりありませんでした。

 

 

 

 いっぽうのお嬢さまは、お部屋にこもって編み物の真っ最中。白くて幅広のマフラーです。あと三日後に迫ったクリスマスにむけて、大急ぎで編み針を動かします。

 

 この色を選んだのは、黒ずくめの黒マントですから、きっと白がよく似合うとお嬢さまが思ったからです。毛糸の白にも青っぽいもの緑っぽいものとさまざまですが、お嬢さまはかすかにクリーム色をふくんだ暖かみのある白を選びました。

 

 プレゼントの用意を忘れていたわけではありません。お母様に贈るもの、母娘で使用人たちに贈るもの、黒マントにとくべつに贈るもの。みんな揃えてありました。

 

 そのうえでマフラーも編んでいるのは、大事な執事を花屋に奪られたくないという、必死な思いからのことです。そう、きのうからべたべたと甘えるようになったのも、自分には黒マントをこんなに必要に思っているんだとアピールしていたのでした。それは、まだ幼いお嬢さまにができる最大限の抵抗でした。なにもかも、おとといの晩を泣き明かして決めたことでした。

 

 彼のしてくれることは、なんだって受け容れようとも決意をしていました。それでも、花屋から買ったハーブティーだけはそのままには飲み込みたくなくて、はちみつでごまかさせたのです。……とはいえあれは甘すぎて、少々気分が悪くなってしまったものですから、今夜はたっぷりのショウガをあわせてみよう、なんて考えています。

 

 

 

 あくる日も、お嬢さまは黒マントと一緒でした。時計の針の進むにつれて、お嬢さまの甘えようは強くなっていきます。それはきっと、執事がミレディの言葉の意味を考えてばかりいて、上の空になっていたためで……。

 

「お嬢さま、パーティーの折に、大切なお話がございます。つきましては、ダンスの始まる前にお時間をいただけませんか」

 

 さらにあくる日の朝食のあと、執事はひとつの答えにたどり着きました。

 

(私がいま、お嬢さまにして差し上げられることはなにもない。だが、もし、お嬢さまのお心が熱をとりもどすときがあるとすれば……)

 

 彼の脳裏に浮かんだのは、毎年のクリスマス、贈り物の箱を楽しみに開けるお嬢さまの輝く笑顔。贈り物を受け取る楽しみ、開ける前のワクワクする気持ち。そして思わぬ中身への驚きと興奮。クリスマスに限ったことではありませんが、そのお嬢さまのはしゃぐ姿が強く想われたのです。

 

(お嬢さまは、私が贈り物をご用意申し上げたとはお気づきでないはず)

 

 だから、

 

(きっと例年以上に、お心を動かすことができるはずだ)

 

 と、考えたのでした。

 

 希望が見えて落ち着きを取り戻した黒マントでしたが、お嬢さまのじゃれつきようは止まりません。気を引こうと焦っているのではなくて、やめどきがわからなくなってしまっておいでのご様子です。

 

 

 

 そうして訪れたクリスマス・イブ。近くの諸侯やらその子女やら、従者やら裕福な領民やら……。丘の上のお屋敷にぞろぞろと集まってまいりました。ホールでミレディとともに来賓と挨拶をしているお嬢さまに、背後に控える黒マントがっそりと耳打ちします。

 

「すこし席を外します。お嬢さまはそのままお待ちになっていて下さい」

 

 その場は許したお嬢さまでしたが、三分と経たないうちにそわそわと落ち着かなくなって、

 

「冷えるか?」

 

 お母さまに心配されてしまいます。

 

「い、否。今宵のミサの熱気に……」

「背中が、だ」

「お母さま……?」

 

 ミレディの瞳は娘の顔をちらりと撫でて、近くの扉に留まりました。そのさまに、さすがは母娘といったところで、お嬢さまはドレスの裾をつまみ上げると小走りで駆けて行きました。

 

 広いお屋敷のなか、見かけた使用人に片端から黒マントの行方を問うて、お嬢さまは走ります。螺旋階段を上へ下へ、中庭を抜けて内廊下、そしてついに外廊下、窓の向こうに求めた影を見つけたのです。

 

 なにかを待つように、丘の下へとつづく馬車道をじっと眺めている姿。その視線の先からがらがらと、二頭牽きの馬車が近づいて来ました。黒マントは歩み出て、馬車の来賓を迎えます。お嬢さまは窓ごしに、それを食いいるように見つめていました。

 

 馬車からは花屋の三姉妹が降りてきて、次女の手には大きい包みがひとつ。早足で近寄っていく黒マントに、その包みを、リンリンは笑顔で手渡しました。うやうやしく受け取り、彼も笑顔になります。それは、口を半月のようにひらいて目尻は細く下がった、お嬢さまさえいままて見たことのない笑顔でした。

 

 お嬢さまはひえびえとする窓に、割れそうなほど両の手のひらを押しつけていました。

 

 黒マントは深く頭を下げて、リンリンは照れ笑い。うしろの二人もニコニコしています。三人とも、きれいなドレスの袖が、裾が、ひらひらと揺れてお姫さまのようです。黒マントが玄関をあけて、三人をお屋敷に招きいれました。

 

 お嬢さまの脚はばらばらに壊れて消えそうで、冬の夜の凍るような窓が、ようやくその体を支えています。細い喉はえづくばかりで、息を吸うこともできません。

 

「このことは、きょうのうちは、お嬢さまにはご内密にお願いします」

 

 聞きなじんだ声が、廊下の先から聞こえました。顔を上げれば、秘密の約束を交わしたのは、先程の三姉妹。ルビーの瞳からひとりでにあふれる熱いものは、すぐに冷たくなって凍えた頬をつたい、小さい顎から虚空へこぼれていきました。

 

 ふらふらと立ち上がるお嬢さまの姿に、黒マントたちも気がついて歩いてきます。いつもの、なにごともないような落ち着いた顔を作って。

 

 にじむ視界に一瞬、彼らの顔が見えたとたん、お嬢さまは美しいドレスも銀色の髪も振り乱して、転がるように走り出していました。いくらがむしゃらでも、そこは自分の家ですから、まちがえることなく自分の部屋へと駆けこみます。途中でミイラ男を突き飛ばし、メイドを一人下敷きにしてしまいましたが、彼女はうれしそうな声を出していたので平気でしょう。

 

 そうしてお部屋の扉にも窓にも鍵をかけ、厚手のカーテンをすべて閉めます。肩で息をしながら、この日の最後にいちばん大切なひとへ送ろうと思っていたプレゼントの前に立ちました。それはヒナヒナに教わって、春先からなんども描きなおした油絵でした。

 

 布を外して震える両手で持ち上げれば、お嬢さまの両眼に浮かんでくるのは、短い黒髪、白目がちの鋭い目、若々しさと苦労の同居した精悍な顔つき。馬を走らせているとき、斜めに見上げた顔は、遠くを見つめていました。火で遊んでいて叱られたときにはほんとうに怖いと思いました。迷子になったときに見つけてくれたのは、すっかり青ざめた彼でした。はじめて会ったときのかたい無表情。食事を並べてくれるときの横顔。ハーブティーを淹れるとき、一瞬見せる真剣な顔。はじめて表情をゆるめたときのこと。自分の笑いにつられた微笑み。おやすみなさいというときに見せる、おだやかな顔。町で見た劇を、あわせて演じてくれる難しそうな顔。

 

 どれほど記憶をたぐっても、

 

「あんなに笑ってくれたこと、なかった……!」

 

 だから描いたのでした。

 

 いつか見たいと思った、彼の晴れやかな笑顔を。

 

 きっと自分が引き出してみせると決めたその顔を。

 

 もうその顔はありません。イーゼルの頭がカンバスを突き破って、油絵の具が部屋に飛び散りました。イーゼルは倒れ、カンバスは布も木枠も砕けて割れて。ぱちぱちと暖炉の中、黒一色に変わっていきます。湿った布はわずかのあいだ抵抗していましたが、お嬢さまが白いマフラーを叩きつけるころにはすっかりおなじように染まっていたのでした。

 

 

 

 お嬢さまのご様子がおかしいと騒がしくなる使用人たちを、ミレディは一喝します。

 

「鳥の歌も獣の声も、とばりに隙間を作れはしても、鋼の錠を解くには能わぬ。鍵持つものに任せることだ。おまえたちの歌、今宵は集いし我らが同志に捧げよ」

 

 シモジモの使用人たちもこのお屋敷で働いて長いので、ヤンゴトナキお言葉のとおりにいたします。なにごともなかったようにワルツを奏で、テーブルの料理は片手に持てる軽いものと替えて、来賓のお歴々にはシャンパンを。

 

 ただ一人その場にいない鍵持つものは、お嬢さまの部屋の前で立ち往生をしていました。

 

 麻袋をかかえては走るわけにもいかず、そっと歩いてたどり着いたこの大扉。ふだんのようにノックをしてお嬢さまを呼べば、はいってくるなと強く拒絶されてしまいました。その声の剣幕にたじろいでいるうちに、お部屋のなかからはがたがたごとごとと怪しい物音。もしや賊かと包みを扉の向かいの壁のきわに置きまして、ノブをひねりますが扉はひらきません。

 

「お嬢さま! ご無事ですか! なにがあったのです!」

 

 心配でたまらず、大男は叫びました。その声はホールまで聞こえたといいますから、その体のとおりの大音聲でした。

 

 お部屋の中は一瞬静かになりましたが、なにかが分厚い扉にぶつかる音につづいて、お嬢さまの声が響きました。お嬢さまは小柄なかたですから、ホールまでは聞こえなかったそうです。

 

「控えよ!」

 

 それはくぐもった、悲鳴のような声でした。

 

「そっ、そなたのっ……其方の顔などもう見たくない! 出て行け!」

 

 ものをぶつける音は三回つづいて、またお部屋は静かになりました。黒マントは色をなくして佇んでいます。

 

 お嬢さまを怒らせてしまったことは過去になんどかありました。そのたびにお嬢さまはかわいらしい頬を膨れさせて、すねたように彼の眼を見据えていたものです。あまりにもそのお怒りが激しいときには、白い歯を食いしばって、ポロポロと涙をこぼすのでした。

 

 ですから、お嬢さまのこんなご様子は、黒マントにとってはじめて見るものだったのです。

 

 

 

 お嬢さまは、燃えたウールの臭いがこもるお部屋の中で丸くなっていました。扉の前には、チェストだとか椅子だとか本だとか、お嬢さまの細腕でどうにか動かすことのできた重いものたちが積み重なって、はいるものを拒んでいます。乱暴に投げつけられた本は、割れた花瓶で水漬いてしまいました。

 

 まったく動かすことのできなかったベッドの上で、投げつけることのできなかった小さい絵を抱いて、お嬢さまはなんどもなんどもしゃくり上げます。

 

 その絵は一二歳の誕生月に、画家を招いて描かせた肖像画でした。とびきりめかしこんで、もっともよく似合うと思ったドレスに身を包んで、いまは扉にもたれているお気にいりの椅子に座ったお嬢さま。背後には、いつも変わらず黒いマントを羽織って控える、いちばん大好きなひと。彼のおだやかな笑顔はとてもよく描かれていて、すこしばかりヤキモチを焼きもしたのですが、絵が仕上がったのを見たとき、お嬢さまは天にも昇る心地がしたのでした。

 

 ただいまはもう、遠い遠い思い出です。

 

 しゃくり上げながら、お嬢さまは自分の名付けた彼の“本当の名前”を呼びました。なんどもなんども。こぼれた涙の粒とおなじくらい、なんども。

 

 

(続)



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茨の公主と黒マント<その花の名は>(後編)

 長い長い夜が明けました。多くの来賓は夜半を待たず家路につき、ミレディの友人たちはながながとワインを傾けてから帰って行きました。使用人たちは朝食をとりにこないお嬢さまを心配しましたが、やはり女主人に叱られて、そぞろな気持ちのままふだんどおりの仕事をしています。ただひとりをのぞいて。

 

 大きく分厚い扉の前で、黒マントは片膝をつき、頭を垂れ、こぶしを絨毯に圧しつけたまま、石像のようにじっとしていました。

 

 夜が更ければ、お嬢さまはきっと眠っておいでなのですから、騒いでお起こししてしまってはいけません。でももしかしたらお嬢さまは眠れなくて、夜のハーブティーを淹れろといってくれるかもしれません。だから黒マントはその場を離れず、三日ぶりの寝ずの番をしていました。四日前の眠れぬ夜よりも、この一夜はつらく、苦しく、長いものでした。お嬢さまの手を握って番をしたあの夜の、千倍は長い時間でした。

 

 朝、いつもの時間には立ち上がって朝のご挨拶をと心に決めていたはずなのですが、ゆうべのあの涙に濡れた悲痛なお声を思うと、彼の大きい体は動きませんでした。

 

 庭のさえずる小鳥も静かになって、もうじきお日さまは空のてっぺんへと昇るころです。立てた膝には大きい麻袋を乗せて、黒い影はただただ、押し黙っています。

 

 

 

 お嬢さまはいつもよりも遅い時間に目を覚ましました。枕元に時計がないことにはっとして、すぐにゆうべ手当たり次第に扉へ投げつけてしまったことを思い出し、よろよろとそのがらくた山に近づきます。

 

 見つけた時計は壊れずに時を刻んでいましたが、乱れた針が指していたのは六時でした。

 

「いまは一〇時四八分だ。合わせておきなさい」

 

 背後の声に驚いて振り向けば、そこには腕組みをしたお母さまが立っていました。目を白黒させるお嬢さまに、お母さまは淡々といいます。

 

「四九分に変わったな」

 

 時計を合わせて枕元に戻したお嬢さまは、部屋の窓があいていて、重いカーテンが風にそよいでいることに気がつきます。

 

「いかなる術式を以って我が結界を……」

「この屋敷がだれのものと思っている」

 

 鍵束の輪を長い指で弄びながら、お母さまはアンニュイに答えます。窓の外のバルコニーに、立てかけた梯子で小さく手を振る侍従長が見えました。

 

「あかぬ錠もないではないがな」

 

 わけを問う娘に、わからぬか、と難しい顔をしました。

 

「おまえの部屋の前に鎮座する闇色の彫像のために、使用人たちが通れぬと困っている」

 

 彫像の正体に思い至ったお嬢さまの赤い眼が、はっと見開かれました。

 

「自分のものは自分で片づけるように」

「……いいえ」

 

 その眼はまた閉じそうに下を向き、喉から声を絞り出します。

 

「あれはもう我が闇の軛から放たれ、野の花を渡る蝶。光の許に我が力など、及ばず……」

「光の道は容易に歪む。……おまえ、わたしが買ってやったものまで投げたのか」

 

 お母さまの手が拾い上げたのは、いつか土産物屋の店前にあったプリズムでした。窓からの光にかざせば、がらくた山に虹色の帯が浮かびます。

 

「硝子の一枚も挟めば、あるべき光の届かぬこともあろうな」

「我が瞳に、翳りがあったと……?」

「花屋な……」

 

 身をすくめた娘に困ったような顔をして、お母さまの言葉はつづきます。

 

「市長の家の馬車に乗って帰っていった」

 

 お嬢さまはまだどこか怯えた顔で、お母さまを見上げました。

 

「その、心は……」

「この母はおまえの眼など恐ろしくはないが」

 

 繻子のハンカチでそっと、目許を拭いてやります。

 

「涙は困る。おまえを産んだときからな」

 

 お嬢さまは紅唇をきゅっと真横に結んで、背筋を伸ばしました。泣き腫らした顔をととのえようと向かった洗面台の鏡の中から、お母さまが語りかけます。

 

「仮面をかぶれば素顔は見えぬぞ」

 

 お嬢さまはひりひりする眼の周りだけ濯いで、すぐに分厚い扉の前に積まれた家具をどかしにかかりました。こまごましたものを抱えて、部屋のなかほどへ移します。椅子は足許がふらふらしましたが、なんとか運べました。しかしテーブルは、ほんとうに自分が運んだのか疑ってしまうほど動かせません。

 

「仕方のない子だ」

 

 お母さまが溜息をつきながら手伝ってくれたのですが、

 

「脇によけておけばよい。元にもどすのは、やつにやらせるのだろう」

 

 といって大雑把なのは、お嬢さまにとってはとても意外でした。

 

 扉の前がさっぱりすると、お母さまは豊かな黒髪を揺らし、開け放たれた窓の光と風の中へ去って行きました。

 

 ひとり残されたお嬢さまは、錠前を白魚の指でいじります。開けかたを忘れたのではありません。解錠するべきか、せざるべきか。それを悩むのです。悩んで悩んで、いくたびもお母さまのすがたをうしろの光に探しました。

 

 逢いたいと願う気持ちと、勘違いでなかったらという恐怖のあいだに少女の心は揺れて、揺れて。ようやく定まったのは、錠前がすっかり人肌になったころでした。

 

 

 

 闇色の彫像は、大切なおかたを案じる気持ちと拒絶されることへの恐れとに挟まれて、身じろぎひとつできないでいました。お嬢さまはもうお起きになられたろうかとか、お腹を空かせておいででないかとか、声をかけてはまたあの悲しい声を出させてしまわないかとか、お嬢さまのことばかりが行き場をなくして頭のなかをぐるぐると回っています。

 

 吹き溜まった頭に鉄の音が響いて、からりとした冬の昼をわたる風と静かで低い光が、固くなった体を包みます。彼は顔を上げました。真っ赤な瞳、下がった眉根、鼻の頭と頬も赤くしてきれいな銀髪はぼさぼさに乱れた、彼の主がそこに立っていました。

 

「……永劫を過ごせしか」

 

 かすかに震えるお声が、静かに風にのって届きます。黒マントは乾いた喉から、はい、と絞り出しました。

 

 赤と黒の瞳はまっすぐに見据えあったまま、お嬢さまの紅唇が“どうして”と動きます。黒マントは背中を起こして答えました。

 

「私の主はただお一人、お嬢さまをおいてほかにございません。そのお嬢さまから出て行けと賜れば、これは出て行かねばなるまいと思いました。ですが、どうしても心残りがございまして、こうしてご命令に背きました。申し訳ございません……」

 

 その小さい漆黒の瞳は冬の陽光をまっすぐに、赤く大きい瞳へ投げかけます。お嬢さまは目を閉じて、かたちのいい顎をすこし引くと、口の端をその半分ばかり持ち上げました。

 

「よい」

 

 おごそかにつぶやいて、いちど部屋を振り返り、いいました。

 

「嵐は去れり、されど痕を留めり……。其方の力が……あの、……片付けるのを、手伝って」

「御意に」

 

 黒マントはそれだけ答えると、お嬢さまの机だとか、椅子だとか、チェストだとかを黙々と元の位置にもどしていきました。絨毯に散らばった木くずも、ほうきとちりとりで取ってしまって、あっという間にお部屋はおとといまでのようになりました。

 

 黒マントは最後に、お嬢さまのお部屋の暖炉を開けました。黒いすすが吹き出したあとに、黒くぐしゃぐしゃに燃え残ったマフラーと、すっかり布が焼け落ちてしまったカンバスを見つけます。

 

 黒マントがそっと撫でると、それは灰の中へぼろぼろと崩れてしまいました。

 

「このたびは、お嬢さまにおつらい思いをさせたこと、詫びるに足る言葉がございません」

 

 まだ眼の赤みの引かないお嬢さまに、深々と頭を垂れます。

 

「この一命をもって償いとなりますならば、とうに捧げた命ではありますが、どうぞお取りください。……ただ、その前にひとつだけ、お贈りしたいものがございます。どうか、お受け取り願えませんか」

 

 お嬢さまがこくりと頷くと、静かに立ち上がって、夜半からずっと大切に抱えていた大きい包みを差し出しました。お嬢さまは目を拭って、震える手で茶色の麻袋を持ち上げます。

 

 するとそこには、黒マントが両手に支える素焼きの鉢に、黒い土、みずみずしい緑は茎が淡く、葉には濃く、細首の先にはお嬢さまの両手にやっとおさまるほどの薔薇の花。幾重ものフリルは中を高貴な紫に、外を可憐な白に染めて重たげに、しかしぐっと顔を上げて、お嬢さまへ向いて咲き誇っています。

 

「きれい……」

 

 つぶやきとともに、お嬢さまの瞳にも輝きがもどります。

 

「これを、わたしに……?」

 

 か細い声に、黒マントは力強く頷きました。

 

「この一年をかけて、あなたの御ためにのみ育てました。私のほかには、花屋の主人も姉妹たちも、だれも見たものはおりません。お嬢さまお一人に捧げるための一株です」

 

 そっと手渡された紫の薔薇の鉢は、まだ幼いお嬢さまにはずしりと重たいものでしたが、細い腕と足首に力をこめて、しっかりと受け取ります。

 

 しばしその美しく咲いた花を見つめておりましたが、ためらいがちにその紅唇を開きます。

 

「ひととせのあいだと申したな」

「はい」

「孤高なる幾重の翼に秘められし神話、語ってみせよ」

 

 黒マントは話します。

 

 この薔薇を選んだのは、お嬢さまの黒いお召し物に映える白と、白いお肌を引き立たせる紫をしていたからと。

 

 ただ一輪のみの花を捧げたかったから、もとの木と同じ花をつける挿し木をせず種から育てたことを。

 

 たびたびの外出は、世話の一切を自分だけで行っていたためであると。

 

「先だっては、私が楽をしようなどと思い花屋の荷馬車を利用したために、お嬢さまのお心をわずらわせてしまい、まことに……」

「もうよい、古き罪は葬られた」

「あの日、遅くなりましたことは、この鉢の用意のためでした。店主に届けてもらわなかったこととあわせまして……」

「よいのだ」

「よくありません。これだけは! お嬢さま、私の不手際による数々のご心痛、まことに申し訳ございません。……いえ」

 

 黒いマントを羽織った大男は小さい主君を見上げます。その顔は、お嬢さまがはじめて見る必死の形相でした。

 

「……ごめんなさい、お嬢さま」

 

 こんなに震えた声も、涙も、お嬢さまは知りませんでした。彼がその手で拭うよりはやく、お嬢さまはその唯一の下僕を胸に抱きしめました。お召し物が汚れますと止められても聞きません。

 

「我もまた罪人、其方を裁けはせぬ。其方に贈る偶像も羽衣も、心に涌ける毒虫のために業火に投じてしまった」

「お嬢さま、それこそ私のせいで……」

 

 さらに強く抱きしめられて、黒マントは言葉を切りました。

 

「其方は孤高なる光の天使を育み、我に捧げた……。だが我が翼に羽根はもう……」

「お嬢さま。そのお心だけで十分です。が……。叶いますならばひとつだけ、いただきたいものがございます」

 

 お嬢さまは腕を離し、半歩下がっていいました。

 

「申せ」

 

 黒マントは胸に手を当てて求めます。

 

「昨夜の、出て行けとのお言葉、お取り下げを願いたく……。私は、……私には、あなたにお仕えするよりほかに、生きる道がございませんゆえに」

 

 赤い瞳に、また涙が溢れてきました。慌てて差し出された淡い藍色のハンカチで、熱い雫を拭います。

 

「……ばか。あんなの、全部うそだもん……」

 

 膝をつくお嬢さまを、黒マントが抱きかかえました。

 

 肩の震えがおさまると、胸の中から紅潮した花のかんばせが向き上がり、真紅の花弁ははじめて耳にする名を囁きます。

 

「この名……我が真名を魂に刻み、其方の時のすべてを我に捧げよ」

 

 黒い瞳がうるみ、落ち着いた声が答えました。

 

「御意のままに」

 

 冬のやわらかな日差しと正午を告げる鐘の音の中、ふたりの黒い影はひとつに寄り添って、じっとたがいの鼓動を感じていました。

 

 

 

 いつもの主従に戻った二人を見て、使用人たちも安堵の息をつきました。

 

「まったく、苦労をかけおって」

 

 夕食の時間、クロッシュをかぶせたメインディッシュを運ぶ黒マントに、ミレディがお小言をいいます。

 

「きさまがはじめから贈り物のことをいっておればなかった騒ぎではないか」

 

 黒マントは困ったように首に手をやって、答えました。

 

「それはそうなのですが、ミレディ。中身がわかってしまっては、お嬢さまのお喜びがなくなってしまうのではないかと思いまして……」

 

 ミレディが高い鼻を鳴らし、お嬢さまにきょうのメインディッシュを訊ねますと、ヤンゴトナキお言葉でカモのローストですと返ってきました。

 

「クロッシュを開けるとき、娘の顔を見ておけ」

 

 首を長くして待つお嬢さまの前へいつもどおりお皿を運び、ミレディの仰せのとおりにしてみますと、お嬢さまは瞳を輝かせてにこにこしておりました。

 

「きさまにしても、朝ごとに、娘の部屋をつまらんと思うて開けるのか」

 

 背後で眼と口を半開きにしている大男を銀のスプーン越しに見て、ミレディは溜息をつきました。

 

「揃いも揃って<瞳>の力のにぶいことだ……」

「血は争えんといったところだね」

 

 スプーンの鏡像の中で、侍従長も苦笑いをしていうのでした。

 

 

 

 さて、茨の公主の本当のお名前なのですが、彼女も黒マントもついにだれにも告げることはありませんでしたから、もうどこにも知るものはおりません。そんなわけで、ここにも書くことができないのです。

 

 

(了)



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茨の公主と黒マント<くま>

児童文学っぽいキャスト替えです。
今回は軽め。


 むかしむかし。とある国の丘の上に、白亜のお屋敷がありました。豊かな黒髪と黒曜石の瞳を持つ妙齢の女傑がそれを治めておりまして、“ミレディ”とか“美城のご当主”と呼び慕われていました。ミレディには一四歳になる一人娘がいらっしゃいまして、銀糸の髪と紅玉の瞳をもつこのご令嬢は“お嬢さま”とか“茨の公主”と呼び親しまれています。

 

 お屋敷を囲む美しい薔薇園は、だれよりも薔薇が好きだと公言してはばからない“ユリユリ”という庭師と、その妹“ヒナヒナ”“ナオナオ”の三人が中心になって、毎日心をこめて手入れしていました。

 

 きょうはハロウィン。こちらの世界とあちらの世界の境があいまいになって、さまざまなものたちがあちこちをうろつくといわれる日です。

 

 きょうばかりは薔薇園はカボチャ園に姿を変え、三女が育てた特大カボチャだとか、次女が気合を入れて彫った“イケメン”・オー・ランタンだとかが、訪れる子供たちの目を楽しませています。

 

 長女も友達と力を合わせ、表面の溝が広く間隔をあけたキョープキンだとか、縦だけではなく横にも割れたフップキンだとか、エクボのような溝がはいったダイデンプキンだとかの肉々しいカボチャを育てていたのですが、ミレディに見つかって畑ごと潰されてしまいました。

 

 そんな日に、ミレディとお嬢さまは近くの森へお出かけをしていました。付き従うのはお嬢さまづきの執事“黒マント”に、新米の猟師“ぼのぼの”です。 黒マントは名前のとおりの黒く長い外套を風にそよがせて、四人の馬車を走らせています。ふだんは黒マントの下の戦斗服はダークグレーのスーツなのですが、きょうは真っ黒な鎧兜を着込んで戦士の中の戦士といった装いです。

 

 ぼのぼのの名前は“のののの”とか“ぼのの”とかの案もあったのですが、いいづらいなとか、わけもなく法則から外れてはいけないなということでこのような名前になりました。カタカナで書くべきかもしれませんが、それだと類人猿みたいでかわいくないのでひらがなです。これなら、ラッコみたいでかわいいですね。

 

 ぼのぼのの服はというと、ふだんの恰好はわかりませんが、きょうはしゃきっとした緑の銃士服です。

 

「ミレディー……。もりくぼにはこんなのむーりぃー……でーすー」

 

 もりくぼではなくぼのぼのです。しゃっきりしているのは服だけで、本人は目に涙をたたえてぐにゃぐにゃでした。

 

 後回しになってしまいましたが、ミレディはシックな黒のロングドレスにカボチャ色のとんがり帽子で魔女の仮装。お嬢さまはいつもの黒い服ではなく、ドレープたっぷりの真っ白い衣裳とふわふわの翼で天使の恰好をしています。

 

 二人とも、森をなんだと思っているのでしょう。

 

 

 

 お二人の家には、それはそれは古いしきたりがありました。ハロウィンの日には、森でクマを一頭仕留めてきて夜のごちそうに使う、というものです。本来は一族の男がおこなう行事だったのですが、いまはミレディとお嬢さましかいらっしゃらないので、こうして従者を伴ってのクマ狩りです。

 

 もともとは“すぐれた統治者は武勇にも秀でていなければならない”というマッチョイズムにもとづいたものでしたので、狩るのも獅子だったわけですが、いつのころからか“どうせなら食べられる猛獣にしよう”となりまして、クマに白羽の矢が立ったというわけです。

 

 クマと闘うことになる黒マントは鎧兜に槍と剣でもって備えておりますし、ぼのぼのが猟銃を用意して助太刀、いえ助鉄砲をするようになっていました。

 

 なっていたはずなのですが。

 

「帰りましょうよ……。もりくぼにおじいちゃんの代わりなんか務まりません……」

 

 ぼのぼのですってば。

 

 彼女はすっかり怯えて、どんより曇った顔をしていました。去年までこのクマ狩りに参加していた祖父は先の冬に天寿をまっとうしてしまいましたので、孫娘にあたる彼女が銃を取ることになったのです。

 

「ぼのぼの、あなたは無理に闘うことはありません。クマは私がなんとかしますから、お嬢さまとミレディをお守りすることだけ考えていてください」

 

 黒マントは紳士でした。

 

 ぼのぼのの表情が少しだけ晴れます。ちょっとやきもちを焼いて片方の頬を膨らせるお嬢さまを、ミレディは目を細めて見ていました。

 

「しかし、お嬢さまが傷のひとつでも負うことになれば、私はどうするかわかりませんよ」

 

 黒マントは過保護でした。

 

 ぼのぼのの表情は暴風雨です。お嬢さまはほくほく顔になりましたが、ミレディは眉間を押さえてしまいました。

 

 

 

「黒なる神獣/模糊夜の贄は/白黒森の/いずこに眠る……」

 

 お嬢さまの即興の詩が、森にうっすらかかる霧のなかへ溶けていきます。クマ狩りの馬車はごろごろと、森のなかを進みます。ミレディが金色の懐中時計を開けてつぶやきました。

 

「例年ならば一頭くらいは出てくるころだが」

 

 ミレディを待たせてはいけないと思ったのかはわかりませんが、向こうの茂みから小さい黒いものが飛び出してきました。

 

「月影を秘めし神獣!」

 

 待ちに待ったクマです。まだ小さいのですが、お嬢さまの瞳が輝き、ぼのぼのの顔に嵐が吹きます。黒マントとミレディは表情を変えませんでしたから、四人を合わせてプラスマイナスでいうとマイナス気味です。

 

 と、大人二人の表情も険しくなりました。子グマを追いかけて、茂みから野犬の群れまで飛び出してきたのです。

 

「ひいい、子グマより馬のほうを襲ってきそうなんですけど!?」

「恐れは二つの克服がある。未だ知らぬか、勇気かだ」

「我が下僕よ、地を這うあぎとを馬蹄にかけよ!」

 

 装いこそ可愛い天使ですが、いうことは魔女王のごとしです。

 

 黒マントがお嬢さまの御意に従って馬に鞭をいれると、ぼのぼのが悲鳴を上げました。ごうと音をたてて馬車はまるまる太った子グマに突進します。

 

 子グマはすんでのところで、出てきたのと反対の茂みへ飛びこみました。野犬たちはお嬢さまの言葉どおり蹴散らされ、森のなかへ隠れます。

 

「はしこいな」

 

 ミレディが少しつまらなそうに鼻を鳴らしました。

 

「か……、狩るのはあの子グマでいいと思いますけど……」

 

 子グマでもじゅうぶん怖かったぼのぼのは、おとなのクマに立ち向かう元気をすっかりなくしていました。しかしお嬢さまにかわいそうだとか、食べるところが少ないとか、黒マントのかっこいいところが見られないとか、そういった内容のことを滔々とまくしたてられたうえ、ミレディにしきたりはしきたりと一喝されてしまいました。

 

「お嬢さまの御意のままに」

 

 手綱を握りなおす黒マントの声は少し高揚しています。お嬢さまの期待が嬉しいのです。なおさら、自分は来なくてよかったんじゃないかとぼのぼのは膝を抱きました。ですがいまさら帰れといわれるのも怖いので、ぎゅっと口を結んでいます。

 

 馬が大きくのけぞって嘶きました。ミレディも眉をひそめ、荷馬車の上で構えます。霧が四人と二頭の馬の鼻に、異様なニオイを運んできたのです。

 

 「野犬だ!」

 

 黒マントは怯える馬を走らせようとしましたが、ミレディの声とどちらが早いか、ふたたび野犬の群れが飛び出してきたのです。

 

 彼らはずっと空腹でした。親とはぐれた子グマをやっと仕留められるところで、邪魔をされた怒りがありました。そしてそれ以上に、立派な二頭の不自由な馬は、とても魅力的なごちそうでした。四人の人間のうち黒い二人のことは獣なりに恐ろしく感じていましたが、もはやそれどころではありません。群れは夢中で馬に飛びかかりました。

 

 噛まれた馬は走りだし、お嬢さまは馬車に必死の思いでつかまっていました。道なき道をがたがたごろごろ、川を渡って木立を抜けて、ようやくのことで止まります。お嬢さまがおそるおそる目を開けると、そこは湖のほとりでした。

 

 夕陽を映して輝く湖面。さざなみを受けて静かに揺れる浜辺の流木。山も森も、天と地からの金色の光が美しく染め上げていました。

 

 お嬢さまは馬車を降りて、その光景に見惚れます。

 

「天上の絵画のごとく……」

 

 いいさしてお嬢さまは大変なことに気づきました。お母さまもぼのぼのも、黒マントまでいないのです。

 

 かわりに、湖のほとりに黒く大きいずんぐりした影が、ひとつ。

 

 

 

 黒マントたちは重たい脚を急かして、森の道を歩いていました。野犬は数秒のうちに長槍の露と消えたのですが、お嬢さまが馬車から飛び降りそこねてしまったのです。

 

 これには過保護でないミレディも困った顔になりました。

 

 薄かった霧は日暮れが近づくにつれて濃さを増し、三人はお互いの顔もよく見えません。これは、ぼのぼのにとっては幸運なことでした。なにせただでさえ泣きそうなのを必死にこらえて、銃を支えにしてやっと立っているのですから、お嬢さまに過保護な黒マントの形相を見てしまえばもうどうなるかわかりません。

 

 轍を追って歩いて歩いて、小さい川にさしかかりました。夕陽が水の流れにそって差しこんでいます。金にきらめく光のなか、黒マントは木立に見知った影をみとめました。銀色の髪に赤い瞳、薄紅のさした白磁のお肌。間違えようもない、お嬢さまの姿です。しかしなんということか、その装いは純白の天使ではなく、暗い色のあられもない服に黒く汚れた翼を背負っていました。

 

 そしてその瞳の先には、変わり果てたお嬢さまに笑顔で迫る大男……。

 

 黒い翼のお嬢さまが気づいて発した短い悲鳴に、黒マントの足は一瞬すくみました。すぐに気を取り直して大男めがけ長槍を繰り出したのですが、二人の姿は薄金色の霧にとけて消えてしまいます。焦りが霧のなかに見せた幻だったのか。かぶりを振ると、重くなったマントをなびかせて森の奥へと急ぎます。

 

 どんなに探しても、二人は気配さえありませんでした。歯噛みをしていると、絹を裂くような悲鳴がこだましました。

 

 その瞬間、大男は甲冑など着ていないかのように、黒い風になっていました。

 

 

 

 湖に佇んでいた黒い影は、縦にはお嬢さまの倍、横なら四倍ほどもあるクマでした。こんどは正真正銘の大人のクマで、頼みの執事もお母さまもいない女の子は悲鳴をあげるしかできませんでした。

 

 もちろん、そんなことをすれば猛獣に気づかれてしまいます。

 

 ゆっくりと様子をうかがいながら、ヒグマは歩いてきました。お嬢さまにはその一歩一歩が、ずしんずしんと地の底から響くように聞こえます。

 

 馬車から降りたのを後悔してももう遅いのでした。すぐ目の前で立ち上がるその威容にへたりこみ、震えながら執事の名前を叫びました。

 

 

 

「お嬢さまァーッ!」

 

 最期に聞きたかった声が聞けてよかった。そう、お嬢さまは涙をこぼします。その涙の粒は、どすんと大きく地面が揺れた拍子に、頬から金色の光のなかへ躍り出ました。猛獣の唸る声と、ガチャガチャという鋼の音に目を開けば、黒マントが、肩に折れた槍を突き立てられたヒグマと取っ組み合っていたのでした。

 

「離れていてください! じき、ミレディたちもおいでになります!」

 

 ヒグマの片腕と首をおさえて、黒マントがいいました。槍で刺した片腕は動かなくとも獣の力はとても強く、お嬢さまを振り返る余裕はありません。

 

 それでも駆けつけたときに、白い天使の恰好のままでおいでなのは見ていましたから、きっとさっきの幻はこれを伝えようとしていたのだと、黒マントはひとり納得して不届きなヒグマを誅せんとします。

 

 こういうとき、お嬢さまはなにもできない自分がとても悔しいのでした。せめて素直に、でも心配で、湖畔の木立の影で彼の闘いを見守ります。

 

 黒マントとヒグマは上になり下になり、湖畔を転がって格闘していました。執事がお嬢さまより大きいといったって、やはりヒグマと比べたら横は二倍くらいちがうわけですから、見ているお嬢さまは気が気ではありません。

 

 ついに、ヒグマは黒マントを振りほどいて放り投げ、流木の上に叩き落としてしまいました。こうなっていいつけを守っていられるお嬢さまではありません。また執事の名前を呼びながら、ぐったり横たわる彼に向かって走ります。ヒグマもまた、ずしん、ずしんと二人に迫っていました。

 

 

 

 ちょうどそのとき、ミレディとぼのぼのがようやく湖畔にたどりつきました。娘主従の危機に、ミレディはいよいよ気色ばみます。

 

「ぼ、ぼのぼのがやります……。う、ううう撃ちますぅ……」

 

 ぼのぼのもついに意を決して、担いでいたマスケット銃を構えました。けれど手も指も、もう全身震えてしまって、引き金を引くどころか照準をのぞくこともままなりません。歯の音なのか引き金なのか、銃床と服の飾りの音なのか、がちがちがちがちとうるさいくらいに響きます。

 

「撃ちます、撃ちますよ!」

 

 ぼのぼのが放った銃弾は、なんと見事にヒグマのしっぽに当たりました。しっぽを刺したなにかを一瞬ちらりと気にしたものの、その歩みは止まりません。

 

 ぼのぼのは次の弾をこめて、震える銃をもういちど構えます。

 

「ぼのぼの、つぎはわたしが撃つ」

 

 いうが早いかミレディは震える手からマスケット銃を取り上げて、ヒグマに向けまっすぐに引き金を引きました。

 

 

 

 起き上がった黒マントが見たものは、迫るヒグマの腕を射抜く銃弾。そして、自分の顔にこぼれるお嬢さまの涙。刹那、黒マントは双眸を見開いて体を跳ね起こし、ヒグマに躍りかかっていました。

 

「お嬢さまを泣かせたな!」

 

 こんどこそ振り向いて足を止めていたヒグマは、漆黒の鬼神が怒気とともに振りぬいた白刃によってその首を刎ねられ、湖岸に散ったのでした。

 

 

 

 四人は互いの無事を喜んで、大きいクマもみごと狩ることができ、これにて一件落着……とは問屋がおろしません。馬が怯えて逃げてしまっていたたので、重たいヒグマを四人で引きずって帰らなければならなかったのでした。

 

 四人一様におなじ一言が胸に浮かんでいたのですが、この寒い日没ごろに口にするのははばかられたので、押し黙ったままだったということです。

 

 

 

(了)



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素直じゃなくて  ゲストなし

甘く仕上げた3年モノ
最初の段落のとおり2016年の作なので、いまだとやってないコーナーが……。


 二〇一六年の秋は紅葉にのみその影を残して、風の冷たさが冬への移ろいを感じさせる。きょうは一一月一四日。東京都下、とあるキー局のスタジオに、少女たちが花と笑顔を咲かせている。

 

「もうすぐクリスマス! というわけで、きょうのテーマは!」

「クリスマスツリー!」

 

 一年目を越さんとする番組・“とときら学園”の幼い出演者が声を張った。台車に載った植木、草花が彼女たちを囲むように到着し、さらに歓声を誘う。

 

「もみの木をみんなで飾りつけて、すてきなクリスマスツリーを作ろー!」

 

 少女たちがはしゃぎ、つつがなく進行する収録を、スーツ姿の大柄な青年が静かに見守っていた。初対面のものは気おくれするような鋭い三白眼も、このときは柔和な光をたたえる。

 

 新人アイドルの発掘・育成計画“シンデレラプロジェクト”の二期生である少女たちの、先輩に引けを取らぬさまは、去る年もいまも、青年の黒く小さい双眸にたのもしく映るのである。

 

「おねえさん、きょうのお花はカサカサしてるね?」

「うん、きょうはドライフラワーがメインだよ。クリスマスツリーはモミの木。モミの木の花言葉は永遠。ってことで、きょうのお花たちは、みんな花言葉が“永遠の〇〇”になってまーす」

 

 そういった花々は春先に咲くものが多く、ドライフラワーでなければ調達が困難であった。飾りつけに使う以上、生花では少々可哀想だという意見も多少はある。

 

「ヒイラギが“永遠の輝き”。白くて小さいヘリクリサムは“永遠の思い出”」

「この、カラフルな春菊みたいなのは?」

「それはスターチス。“永遠に変わらない心”だよ。で、やっぱりカラフルで大きめのこれはストック。アイビーと合わせて、“永遠の愛と恋”」

「噴水みたいになってる白い花は?」

「それはホトトギスっていうんだよ。花言葉はモミの木とおなじで“永遠”。それから“私はずっとあなたのもの”……!」

「うわあ」

「ロマンチックでしょ!!」

 

 ときに真面目に、ときにコミカルに、収録は予定より早く完了した。青年はアイドルたちを帰らせると、次の撮影の打ち合わせに向かう。途中、完成したツリーを運ぶスタッフとすれちがった。

 

 黒っぽい緑のモミの木は、頭に白い花冠を頂いて、幼い少女たちの仕立てたドレスをまとっている。ふいりのアイビーをフリルに見立て、青、赤、黄色に紫の花輪をリボンにして、各種のオーナメントが添え物に見えるほど賑やかだ。

 

 ふと、その姿に、青年はなにか郷愁のようなものをかきたてられた。運搬の若いスタッフが彼の視線に気づいて、足を止める。

 

「どうかしました?」

「すみません、なにか……懐かしい気がして」

「あー、なんかわかりますよ。小さいころ、教会の学童で作らされた、天使の人形っぽいんですよねー」

 

 いわれれば、ワタの雪のかたまりが二つ、不恰好な翼に見えなくもなかった。“そちらも、学童が教会でした?”と問われ、まだ思索の波打際にいた青年は変に強く否定してしまい、慌ててフォローをいれた。

 

「そういうわけではないんですが、大事なひとを思い出してしまって」

 

 

 

 雑談を二つ三つしてツリー運搬のスタッフと別れ、別番組の打ち合わせも順調に終えた青年は、生放送の天気予報コーナーの収録を見かけた。

 

「今宵の月は格別ぞ!」

 

 フリル豊かな漆黒のベルベットをまとい、ゆるく巻いたツーサイドアップの銀髪を軽やかに揺らして、一人の少女が見得を切る。

 

 五分ほどの天気予報コーナーのアシスタントである彼女は、今年の春に無事彼の許から巣立ったシンデレラプロジェクト一期生、神崎蘭子である。眼鏡のベテラン気象予報士とマスコットのきぐるみ、観覧に来た一般人たちとともに番組の一角を支えている。

 

「今夜はスーパームーンです。地球にぐっと近づきまして、その距離、なんと三五万六一二キロ。ここまで接近するのは、実に六八年ぶりのことだそうです」

「怜悧なる光は夜天も満たすか?」

「大きさは一四パーセント増しといったところなんですね。イマイチに感じるかもしれませんが、あっ、映像来ましたね。明るさは三割ほど強くなります。ご覧のようにね、カメラちょっと引いてもらえますか? 肉眼で見ると、このくらいなんですが……。模様がね、すごくはっきりご覧いただけると思います。日本では二三時前後に最も大きく見えます。ちょっと遅いお月見をされるのもいいかもしれませんねー」

「あまねく命を魅了する女王の輝き……。魅いられし魂は啖らわれ、現し世に焦がれる黄金の牙城の虜囚となろう」

「満月や新月の日は事故が起きやすいといわれていますからねー。みなさんも歩きスマホ、歩き月見はお控えになって、良い一週間をお送りください。では」

「闇に飲まれよ!」

 

 ……蘭子の語彙ではねぎらいを意味するこのフレーズが、夕刻の天気予報に合うとして抜擢されたのは夏のことだ。特殊な語彙で話す彼女でも、気持ちはほかのアイドルたちと変わらない。コーナーに溶けこむまで、三ヶ月の時間はじゅうぶんな長さであった。

 

 青年はかつて担当した、懐かしい少女に一声かけようかとした足を止めた。彼女にはもう、いまの担当者がつき、やさしい共演者が見守り、ファンがいる。白く可憐な少女の顔に浮かぶ、翳りのない笑顔に遠くから微笑むと、踵を返し、珍しく日付の変わる前の家路についた。初冬の風は彼の鼻に少女の香水を思い起こさせ、胸の奥でひと暴れしてから、いずことなく去っていった。

 

 そして蘭子も、ふとスタッフに走らせた視線の奥に懐かしい大きい影を見た。去っていく背中に、声の届かぬことを知って、短い眉根を寄せるのだった。

 

 

 

 青年は独りの部屋で、ひときわ大きくかがやく満月の登極を眺めていた。

 

「格別の月……か」

 

 一四パーセント増しの魔力に惹かれる前に、カーテンで月光浴を打ち切ると、青年は冷えたベッドにもぐりこんだ。……はずであった。

 

 深い眠りから浮き上がって、青年は、夜の野に身を横たえる自分に気づいた。いつものようにスーツ姿で、左手首には腕時計の重みもある。吹きつける風は、乾いて痛い冬の風ではなかった。煌々とした月の明かりで文字盤を読むことができた。零時である。

 

「たしか、明晰夢、とか……」

 

 頭は論理的に動いていて、これは夢のなかなのだと結論を導いた。示された零時は、きっとちょうど眠りに落ちた時刻だと。

 

「スーパームーンの光にあてられたかな」

 

 満月は眠る前と変わらぬ大きさで、夜空を縁まで濃密な青に照らしている。この無限とも思える野原を歩いてみようと腰を上げた青年の目に、銀色の光が飛びこんできた。

 

「……神崎さん?」

「わ、我が友!? な、なぜ我が禁断の領域を……あれ? ここは?」

 

 すぐとなりで眠っていたらしい少女に気づかなかった非礼を、青年は詫びた。もちろん夢のなかのできごとである。自分が起き上がる段になって、はじめて蘭子がここに現れたのだろう。あの天気予報コーナーがそれほど心に残った、ということだろうか。

 

 ちがうな、と青年は苦笑した。会って語らう時間が欲しかったのだ。半年前、積極的に話しかける大義名分を失ったときから。……積極的にしたことなど、いちどもなかったくせに、と口許の苦笑が深くなった。

 

「つ、月の女神の導きか……」

「七〇年ぶりの大接近でしたか」

「六八年よ」

 

 蘭子は得意気に、豊かな胸のフリルを波打たせた。

 

「ふふ……。冴え渡る女王の威光は、闇をこそ深める」

 

 月光にかざした小さい手が回るにつれて、黒々とした影がその白い肌の上に踊る。青年の目は、可憐なモノクロームの蝶ではなく、月明かりに妖しいほど美しい、紅玉の瞳に釘づけになった。

 

 どこか冷たい金の光と夜の闇が織り成す陰影は、少女の顔から幼さを隠す。紅玉を覆う水晶には長いまつげの影が落ち、見つめていた青年は、肺の深くに夜のしじまを行き渡らせた。

 

 宙空でやわらかく小さい手を握り、蘭子が微笑みかける。

 

「この地上でも、女王の赦しの許なれば、其方も真なる闇を手にできよう」

 

 どきりとして逸らした視線に、白い手のなかが欠けて見えた。あらゆる光が身を引いた、真実に黒い空間と思えた。

 

 青年が真似て、より大きい漆黒を作ってみせると、蘭子はそこへ小さい手をもぐりこませた。細い指先の、淡く色づいた爪が黒のなかに浸る。

 

「くすぐったいですよ」

「闇に飲まれた!」

 

 寂廖とした風景のなか、金の光が照らす屈託のない笑顔に、青年は息を飲む。太い指が華奢な指に触れた。くるみくるまれて、丸くなった二つの手が下りる。

 

「安らぎの日だまりね……」

 

 手の甲をなぞる白魚の心地よさに、しばし集中していた青年は、ゆっくりと口を開いた。

 

「少し、座ってお話をしませんか」

 

 少女に断る理由はなかった。短い草の野に……彼は膝を勧めたが、細い首を振ると、敷いてくれたハンカチの上に腰を下ろした。

 

 立っているときとちがう、座って少しだけ見上げて見る彼の横顔が、蘭子は好きだった。彼の許を巣立って半年を過ぎても、それは変わらない。膝の上で眺めるのも、抱えられて上目づかいに見るのも、ならんで歩いて振り仰ぐのも、もちろん好きな顔である。しかし彼女がはじめて、しっかりと見たこの青年の顔は、となりに座ったときの、真剣な横顔であったのだ。

 

 彼女の特殊な語彙を理解できるようになった青年でも、おくびにも出さずに過ごしてきたことであるから、いまもって気づいてはいなかった。それだから、ためらいがちにそれを伝えられたときは、尋常の語彙であったにも関わらず、理解に数秒を要した。

 

「太陽の断末魔より、月の恩賜こそ其方にはふさわしい」

 

 太い腕の影に顔を半分隠して、蘭子は自分の言葉を押し流した。

 

「神崎さんの……白い肌も、お髪も、月明かりの方ほうがきらめいて……際立って見えます」

「むう、太陽の許では我がかがやきが褪せるというのか」

「どんな明かりでも、神崎さんはおきれいです。あなたの裡なる光は、真夏の太陽にもひけをとらないと信じています」

「その心は高潔か?」

「……どう、なのでしょう」

 

 青年の目許から下へ、黒々と影が落ちた。

 

「私がお褒めすればあなたが喜んでくれるという……。おためごかしなのかもしれません」

「なにをいうのだ!?」

「私の手によらず、あなたがかがやきつづけることに、私は少なからぬ嫉妬を抱いています。あなたに必要としてもらえないことが、恐ろしくて……」

 

 交流は絶えていない。新しいシンデレラは、つねに彼の助けを必要としている。それでもなおぽっかりと空いた穴の口を閉じるように、青年は胸をつかんだ。

 

「あなたが見せてくれた、あの笑顔が……。あの日の、夕暮れの、噴水での、あの笑顔が忘れられないのです」

 

 蘭子が青年の両肩をつかむと、影はいちだんと濃くなった。

 

「あなたの魂はかがやいている。いつだって笑っていることができる。ほかのみなさんとおなじてす。それで満足なはずなのです」

 

 蘭子は、笑顔でいられぬときもあるのだと、胸の奥底にしまっていたものを吐き出そうとしたが、細い喉は詰まって、瞼と耳朶が熱くなるばかりだった。

 

「笑うあなたを見るたびに、胸に冷えたものを感じました」

 

 ほとんどすがりつく恰好で、銀の髪が縦に揺れた。気持ちのおなじことを、重なる心音が伝え合う。

 

「あなたの笑顔を見たい……。私が、私がしてあげた笑顔を……。ファンや、ご友人や、ほかのだれのためでもなく、私があなたを笑顔にしたい」

 

 細い肩は、触れるか触れまいか迷う手の震えを感じた。

 

「私のためだけに笑ってほしいと、ずっと……」

 

 大きい両手はそっと蘭子の肩を抱き、そして手の持ち主から引き剥がした。

 

「すみません、夢のなかとはいえ、このようなことを……。ですが、話せて、スッキリしました。神崎さんも、いっておきたいことがあれば……」

 

 いいさして、青年は自嘲した。自分の夢のなかである。この蘭子は、自分に都合よく動く人形のようなものだ。甘い言葉しか、きっといわないだろう。

 

「我は永遠の淵で待ちつづけている。翼の還るときを……。ふたたび我を空へ、だれにも導けぬ高みへ引き上げる、漆黒の大いなる翼を」

 

 白い手が力強く、両肩に添えられた手を握った。背負った満月よりも鮮烈に紅玉が光を放つ。

 

「いまは忍耐のとき。翼は雛鳥を育まねばならぬから……。で、でも、だけど、赦せぬ。その翼は私のものだとだれも知らぬ。我がためにこそあるというのに」

 

 熔けそうなルビーの光が、青年の目を満たす。

 

「神崎さんのことを、ほんとうに天使なのでは、と疑ったこともありました。まだうまく飛べない幼い天使が、天国から足を踏み外して……。堕天した、と強弁しても、じつは神様が捜しているのかも、なんてことを」

 

 そうして彼女を神聖視して、遠ざかろうとしたのは再三ではなかった。いま、もういちど、揺れすぎた心はバランスを取ろうとしている。

 

「……歳の差もさることながら、人間が天使に恋をしてはいけませんね」

 

 さびしそうな笑顔だった。

 

「それがどうした!」

 

 真紅の光は揺れるのをやめて、桜色の唇を噛み締める。

 

「わたしだって、好きなんだから!」

 

 ためらいは一瞬だった。一息に叫び、蘭子はうつむいていた顔と短い眉とを跳ね上げた。

 

「我が堕天は、粗忽などではない。……其方に逢いたいがためよ!」

 

 いよいよ青年は自分が情けなかった。夢のなかで、自分への慰めに、蘭子にこれだけのことをいわせているばかりでない。その甘さに、溺れてしまいたい……どうせ夢なのだから構わないじゃないかと、思ってしまったのである。

 

「私もあなたに逢いたかった。……なんと罵られようと、真実です」

 

 黒曜石の矢じりが、ついに紅玉を射抜く。

 

「いまは離れていますが、きっとあなたの許にかえります。ですから、ずっと私を必要としていてください」

「高潔なる心、穢すでないぞ」

 

 蘭子は袖から真紅の繻子織りのリボンを引き抜き、青年の左の薬指に結んだ。

 

「これは友、赤き組紐の女神よりもたらされし契り。永遠なる契約の証よ」

 

 なにかを期待して見上げてくる目に、青年の手は地を這った。おなじように着ているものを使いたくても、男の服に手ごろな紐もリボンもない。

 

 手が体の横まで来たとき、みずみずしい感触があった。草が一本伸び上がり、小さい花をいくつも連ねて咲かせている。この白い、噴水のように広がる花弁は、きょう知ったばかりの花だ。青年は目を閉じた。夢のなかとは、かくも……。

 

 摘み取り、きょとんとする蘭子の前で小さい指輪に仕立てた。緑の環についた白い一輪は、玉石の光に似ている。

 

「ほう、其方にそんな技量があろうとは」

「門前どころか真正面でいろいろと見させていただいていますから、小手先の経くらいでしたら」

 

 夢のなかでは現実以上に器用になれますね、と心のなかでつづけた。

 

「いかな妖精の化身か」

「ホトトギスという花です。“私は永遠にあなたのもの”……そういう意味の花だそうです」

 

 赤い瞳はうっとりと指輪をためつすがめつし、桃色づいた鼻を近づけてから、澄ました顔で柔らかな胸を反らし、左手を差し出した。

 

「真なる儀は其方の蔵するより小蛇と成して互いの指を食むもの……。だが、我は鷹揚なるぞ」

「私の夢に生えた花ですから、私のもののようなものではあります」

 

 いいながら、白い指に小さい紫の指輪を通した。愛おしげにそれを見つめる蘭子の、笑顔とくくってしまうにはもったいないとさえ感じる表情に、青年は目許の熱くなっていくのを感じた。

 

 叶うことなら、現実の世界でこんな顔をしてほしい。願いを胸に押しこめるように、青年は蘭子の細い体を抱きしめる。月光のなかに、二人の影は一つに溶け合った。

 

「幸せ……。このまま、醒めなければいいのに……」

 

 

 

 朝は平等にやってくる。幸せな夢に浸っていても、悪夢にうなされていても、太陽はひとびとを引きずり起こしにかかるのだ。

 

 三五万キロの彼方から月光の祝福を受けていた青年も、アラームの鳴るのと同時に、鋭い目を開いていた。ぼんやりと起き上がり、見た夢を反芻する。

 

「あんな夢を見るとは、なおさら神崎さんにあわせる顔が……」

 

 苦りきってため息をつき、ふとして首を傾げる。蘭子がしていた婚約指輪のおまじないは、友達から聞いたといっていた。あの二つ名は佐久間まゆである。しかし、彼女とはあまり話したことはなく、そんなおまじないを聞いた記憶もない。

 

 ロマンチックが行きすぎて乙女チックになってしまったか。我がことながら呆れたものだ……。掻いた頭に違和感を覚え、青年は左手を見た。

 

「これは……?」

 

 薬指に結ばれた真紅の繻子織りのリボンに瞠目したとき、スマートフォンが鳴った。掴み取った画面の着信表示は、神崎蘭子であった。

 

 

 

(了)



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残り雪  ゲスト:速水奏

少し甘めに。


 一面の白銀の世界を、蛍光色のパーカーが右へ左へと動き回る。雪面のコンディションや太陽の位置を確かめ、大きいビデオカメラの向きを変えている。その動きを見守って、ダークスーツにチェスターコートの青年はターコイズブルーの冬空に白い息を吐き出した。黒い煙突のような彼に蛍光オレンジのパーカーが頭を下げる。青年も一礼すると、雪に靴を埋めながら、暗色の幔幕で目立つ休憩スペースへ向かった。

 

「神崎さん、速水さん、ご用意はよろしいですか」

 

 彼の担当する新人アイドルたち“シンデレラプロジェクト”に所属する神崎蘭子。いま一人の速水奏は、美城常務……彼のはるか上役の集めた“プロジェクトクローネ”のメンバーである。二人と青年、そして蛍光色のスタッフたちはこの雪山に、スキー場のコマーシャル・フィルムを撮りに来ていた。

 

 幔幕の外から声がかかると、休憩スペースから朝霧色の髪がのぞいた。遮るものなく上下から照る太陽に、紅薔薇色の瞳が星を散らしたように輝く。身につけた衣裳はゴシックロリータふうの浴衣。純白と氷色をメインにしており、用意した広告代理店側は雪の精と説明する。蘭子も青年も一度で納得したできである。

 

「ふっふっふ、愚問! 我は常在戦場なり!」

「頼もしいお言葉です」

 

 寒さがこたえていまいかと気にかけていた青年は、凍りかけた顔の筋肉をゆるめる。目だけでスペースを見回し、奏のいないことに気づいた。

 

「蒼翼の乙女ならば花園へ……」

「行って、もどってきたわよ」

 

 訊いたのと数秒の差で奏はもどってきた。日光を受けてその瞳は満月のように光る。真冬の夜空の髪をうしろへなでつけ、黒を基調にした男物の冬コーデに身を包んでいる。

 

「お待たせしちゃったみたいね。お詫びの印に……」

 

 青年の首許に二匹の黒蛇が這い上がる。眉から上がピクリと動いたが、表情は変わらない。

 

「いえ、ちょうど呼びに来たところでしたから、お詫びは不要です」

「つれないなあ」

「こんなことをしていると、スタッフの皆さんにこそお詫びしないといけなくなりますよ」

 

 蛇は彼の喉を離れ、蘭子の手をとると、二人を待つ大くのスタッフのもとへ向かった。過剰になりかけたお詫びの件に蘭子は頬を膨らせたのも短いあいだで、すぐにここへの車中とおなじく、楽しそうに笑い合っていた。

 

 さきごろのオータムフェス以来、クローネの面々とシンデレラたちの距離は大きく縮まった。お互いの居室に行き来することも増え、きょうのようにおなじ仕事を受けることもある。もっとも、クローネを取り仕切る美城常務とシンデレラプロジェクト担当の彼とには、役職の差もありいまだ大きい隔たりを残しているが。

 

 今回のスキー場の広告は、スキーやスノーボードなどをするところを撮るのではない。暖冬のためスキー場に充分な雪がなく、近場の雪山のひらけた斜面を使っているからである。この点は詐欺まがいなのだが、安全面に配慮があっただけマシと青年は自分を納得させていた。

 内容はスキー客の青年と雪の精の、一瞬のロマンスである。蘭子に雪の精役が来たのは、嗜好が合って仲良くなった速水奏からのご指名だった。そして奏が青年役を受けたのは、キャストを指定しなかった代理店と常務の隙を、“スキーをひっくり返してキス、ってことでうちのキス魔使いましょう”と彼女の担当者によるダジャレ未満の世迷い言がみごとに貫いた結果であった。

 

 その担当者はここにはいない。青年に二人を引率を任せて東京で“プロジェクト・クローネの速水奏”の営業行脚をしている。

 

 半日とはいえ速水奏の面倒を見る上で、青年がこんこんと聞かされたことがある。なにかにつけキスやボディタッチで揺さぶってくるぞ、おまえみたいなのはキスマークの一つや二つつけられてもおかしくないんだぞ、と。けっこうないいようだと思いはしたが、それならばと前向きに、彼は自分のペースを崩さないよう努めることにした。いまのところはうまくいっているようだ。

 

 

 

 撮影はつつがなく進行していく。滑りに来た若者が雪の精と出会い、スキー板を放り出して彼女の手を取る。雪原に遊ぶ二人。脚本ではそのあと、転んだ青年を雪の精が笑いながら木立に消えていく。青年は切なげに遠くを睨み、再会を誓う。キャッチコピー“何度だって、ここに来る”がそこにかぶさるということだったが……。

 

「あっ」

 

 二人揃って雪のなかに倒れこんだ。ほとんど奏が蘭子を押し倒すような恰好で。そこからはアドリブだった。奏についてはそうである。蘭子は、青年は気づいたが、奏に振り回されて素が出ていた。

 

 白銀の髪にかかった雪を払い、奏扮する若者は赤みさす頬に手を添え、静かに顔を近づける。驚いて固まっていた赤い瞳は、眼前に唇が迫ってからようやく息を吹き返し、大きく顔を背けた。ぴたりと止まる青年の下から這い出し、口許を袖に隠しながら雪の精は木立へ消える。いちどだけ、物悲しげに振り向いて。

 

 

 

「お疲れさまです」

 

 簡易の休憩スペースで、青年がほうじ茶と使い捨てカイロを二人に差し出した。それぞれに受け取り、彼を挟んで座る。片方に固まったほうが話しやすいだろうにと青年は思ったが、蘭子の気まずさを察して黙っていた。

 

「うう……。よもや運命の轍をたがえるとは……」

「おもいっきり裾踏んで転んじゃったものね、ごめんなさい」

「監督はなかなかお気に召したようでしたから、あれでOKが出るかもしれません」

 

 蘭子は素直に表情を明るくする。対して、奏の反応は青年には意外だった。

 

「うーん、アレをオンエアされるのはちょっと恥ずかしいかなあ。あんまり演技してなかったし……」

 

 まさか本気で蘭子にキスしようとしたのか。反射的に振り向いた青年の肩口に、奏が細い顎をのせていた。予想だにせぬ状況に、短く低い悲鳴が洩れた。

 

「ふふふ、やっと慌ててくれたわね」

 

 あれが演技じゃないといわれれば驚きます。いや、いまの反応のことだろうか? 時系列の概念が一時的に吹き飛び、青年は自分のほうじ茶をすすった。

 

「もしシナリオを、さっきのアドリブのに変えるってことになったら」

 

 一口のうちに、表面的ながら落ち着きをとりもどした青年に、奏は興味をなくしたように離れる。席を蘭子の隣にかえた。

 

「こんどは、本当にキスしちゃおうか」

 

 いたずらっぽく笑う先輩に、蘭子は困惑の鳴き声をあげた。

 

「速水さん、それはちょっと……」

「だって、こんなかわいい唇をみすみす逃がすなんて……ね」

 

 ターゲットは男の自分だけと油断していた青年である。事前にアドバイスをするのなら、担当するアイドルの趣味くらい正確につかんでおいてほしいと、心のなかで同僚に詮のない文句をつける。

 

「カメラの前がダメなら、いま」

「は、速水さん!」

「あら、いけない?」

「いけません!」

「天使の蘭子ちゃんには清らかなままでいてほしい?」

「……そうです」

 

 速水奏のしたたかなのはこのあたりで、彼の答えるより半瞬はやく、こう滑りこませてきた。

 

「自分の手で穢すために」

 

 一四の少女でもその言葉の意味するところはわかったらしい。蘭子が白磁の顔を赤く染め、それ以上に深い色をした大きい瞳で失言を捏造された青年を凝視する。彼は青くなった。

 

「ち、ちがいます! 神崎さん、ちがいますからね!」

「必死になっちゃってアヤシいんだ。ふふふっ。蘭子ちゃん、二人きりには気をつけないとダメよ。こんなひとが相手じゃ、なすがままにされちゃうわ」

「危険なのはあなたです」

 

 声にはせねど渋面を作る彼と二人のアイドルに、スタッフが撮影再開を告げに来た。

 

 

 

 シナリオは大方の予想どおり、先のアドリブを活かしたものに変更されていた。ラストシーンのみ、立ち上がった青年が雪の精を樹に追い詰めてキスをするというものに、さらに変えられている。青年の眉根は寄りっぱなしである。

 

 キャッチコピーも“雪の妖精を融かしに行こう”と変わった。当初の冬のはかない恋模様みたいなものはどこへ行ったのか。否やはない彼らであるが、広告代理店や依頼主のスキー場の意向は気になるのである。

 

 その協力にも限度はあった。二人に本当にキスをさせるわけにはいかないのである。青年の説得と監督の妥協により、ふわふわした、象徴的な映像になってしまった。最初のまま、ないしはあのアドリブのままで良かったのではないかと、青年のみならず疑念の目を監督へ向けた。

 

「どうせフレームアウトさせちゃうなら、本当にしたっていいじゃない」

「わ、我が氷の唇に触れるは死を意味する!」

「いいわよ、私の熱で解かしてあげるから」

「お茶の間に少女同士のキスシーンは流せません。私が止めなくても局が、その前に常務が水際で止めるでしょう。そうなればお蔵いりで、この仕事はなかったことにされてしまいます。それは困りますよね?」

「ふーん! 私が男だったらプロデューサーさんは許可したのね! 蘭子ちゃんのかわいい唇をよその男に売り渡すんだ!」

「我が凍土の花は甘美なる黒炎をおいてほかに解かすことはできぬ! 白群の水晶に閉ざされる羊を望むのか我が友よ!」

 

 蘭子にまで怒られて青年はたじろぐ。なぜ、と首を傾げるわけにもいかず、両手のひらを向けるのが精一杯だった。

 

「相手が男性でも許可しませんよ、まだ一四なんですから」

「へえ、じゃあ私と男のひとなら?」

「それは、止めはしませんが」

 

 じっさいには事務所NGの範囲であろう。しかし、彼女についてはなにか特例が動いているかもしれない以上、下手なことをいうのを避けたのだった。

 

「蘭子ちゃん、あと三年したらキスし放題だって」

 

 蘭子は全身で慌てた。なにを想像したのか、彼が想像をめぐらすよりも先に、もんどりうって雪道へ頭から突っこんでいった。もちろんそれをぼんやり見守っていることは、天も自分も赦さぬ青年である。彼女の腕を掴んで支えようとした。だが焦った彼も足を取られてバランスを崩してしまった。それでも執念か、蘭子と雪とのあいだに滑りこんでクッションになってみせた。

 

「神崎さん、お怪我はありませんか」

 

 彼の胸の上で、全体重をあずけていた蘭子がゆっくりと動く。

 

「うむ……。我が友も無事か」

「はい。あなたひとり受け止めるくらいでは、びくともしませんよ」

 

 びくとも、どころかずるりといった結果がこの状況ではある。しかしながら、そうだからこそ張りたい見栄というものが彼にもあった。付け加えるなら、ここはのんきに笑ってなどおらずに起き上がるべきだったのだが、それはいまの彼にはわかるべくもないことだ。

 

「あう」

 

 青年の腹の上に追加の荷重がかかり、あいだに挟まれた蘭子が短くあえいだ。速水奏がかぶさったのである。

 

「なにをしているんですか……」

「私が男の人とキスする分には止めないんでしょう? ふふっ、これなら逃げられないわよね」

 

 金の満月が二つ、魔女のブランコのような赤く細い三日月の上に浮かんでいる。周りの目を気にしろと鋭い三白眼で抗議し、しかし自分ではその“周り”を見ることを躊躇した。彼の首筋を汗がつたう。

 

「だ、だ、だめー!」

 

 叫びとともに蘭子が上体を大きく跳ね上げた。蘭子の上からかぶさっていた奏は雪の上に投げ出され、小さく悲鳴を上げた。聞こえていれば、青年も気づかったかもしれない。気にすべきだった“周り”、スタッフは遠巻きに笑っている。奏慣れしたひとたちだ、とかの担当がいっていたのを、青年はぼんやり思い出した。

 

 彼は蘭子に礼をいい、二人で立ち上がる。薄紅の頬を膨らせて、淡い桜色の唇が尖っていた。その小さい花びらは雪が放つ白い光に艶めいて、本意ならずも青年に、奏がああもこだわったわけを納得させた。

 

 もともと蘭子は色素が薄く、まだ幼いために皮膚の厚みもない。そのため雪の肌に唇は血の赤をそのまま呈して、髪色が黒檀のごとくあれば白雪姫だったろう。いまは雪は雪でも雪女、あたたかみを控えるべく白いルージュを引いた。それが、八重桜を思わせる色をなしている。

 

「わ、我が貌(おもて)になにか……?」

「いえ、なんでもありません。はやく戻りましょう」

「そうはいくか」

 

 逃げられるものでもないのだが、休憩スペースへ逃げ戻らんとした二人の行く手を、オールバックをゴルゴンのように乱した奏が怒気の炎を背負って阻む。

 

「無事に帰れると思わないことね」

「なにをおっしゃってるんですか」

「知らないの? 冬山の林に棲む怪物の話を」

 

 話して聞かせるから聞け、という笑みだった。蘭子が短く鳴いて青年の左胸にぶつかる。怒りを鎮めるには聞くよりほかないと、彼は蘭子を捕まえて……もとい支えて、奏に話を促した。

 

「うちのひとが大学生のころ、ワンゲル部に所属していたんだって」

 

 うちのひと、とは彼女の担当プロデューサーのことだ。この呼ばわれかたになにか思うところはないのだろうか。青年は眉を動かしたが、それだけである。

 

 声の調子をワントーン下げて奏が語りだすと、蘭子は大型犬から逃げる仔犬のように彼の胸許をかきむしり、コートの裡に潜りこんだ。ジャケットまでめくろうとしていたが、吊るしとはいえ体型に合ったもののため、それは断念せざるをえなかった。生真面目な性分が働いたか、コートから顔だけ出して震えている。青年はその肩をそっと抱き、奏の話のつづきを聞いた。

 

 とうとうと語られる話はおおよそこのようなものだ。

 

 奏のプロデューサーがまだ大学一年生のころ、ワンゲル部揃って東北地方の山に登った。キャンプに向かう途中森で迷い、夜になってしまった。特徴的な地形に出たことでようやく現在地が把握でき、ほどなく目的地にたどりつけそうだと胸をなでおろす。

 

 彼は入部したてで、ありがちなシゴキというべきか、先輩たちの荷物を背嚢に積まれ、最後尾を歩いていた。

 

「そしたら、見たんだって」

 

 金の目が細まる。

 

「黒い空に舞う雪のなか、白っぽい影がふわーっと降りてきて、四年生の先輩にかぶさるのを」

 

 鳴き声とともに、青年の左胸に伝わる震えが大きくなった。

 

「影はすぐ飛び上がって、またべつな先輩へ……。けれどだれも気がつかない。プロデューサーさんは寒さと疲れと恐怖で声も出ず、背負った荷物に隠れるようにして歩いて……」

 

 青年はふと気になった。奏が自分より、蘭子を見ながら話しているような気がしたのだ。震える頭を撫でようとして顔に触れてしまった手に雫を感じた。

 

「速水さん、すみませんが巻きでお願いします」

「つれないなあ。ま、もうすぐお終いだけど」

 

 震えはだいぶおさまってきた。気分が安定したのか、震える元気もなくなったのか、蘭子より頭一つ以上大きい彼の視点ではわからない。

 

「ようやくキャンプ場につくと、待っていたほかのメンバーは灯りで照らされた先輩たちを見て悲鳴を上げたわ。だってみんな、背中が血に染まっていたんだから……!」

 

 蘭子を支える腕に、かかる重みがにわかに増した。蘭子が腰を抜かしたのだ。雪に座らせるわけにもいかず、青年は蘭子を抱き上げた。奏が楽しげに視線を上へ逸らし、手を振る。ならって見上げた青年が見たのは、太い枝に留まった大きいフクロウ。

 

 冬、つまり恋の季節のフクロウは、つがいと子供に近づくものに苛烈な攻撃を加えるようになる……。そんな話を聞いたのを、彼は思い出した。人間が相手でも飛びかかるとなれば、怪物級の気性の個体だったことはたしかだろう。足を開き翼を膨らせて睨みつけるのみの“彼”に、青年は思うのだった。

 

「仕返しのつもりではあったけど、そこまでいくといじめたみたいじゃない」

「いじめてるでしょう」

 

 困ったような口ぶりの速水奏に、青年が口ではなく目でいいかえす。彼女ならば聞き取れたことだろう。

 

 

 

 深夜。雪山の昼とそう変わらない、ひんやりとした賃貸マンションの一室。ハンガーに掛けたジャケットを前に、青年は固まっていた。

 

 あの山を降りてからの行動を何度も脳裏に再生している。ガソリンスタンドでの給油。奏を自宅に、蘭子を寮に送る。蘭子が去り際に謝っていたのを不思議に思った。奏がひどく満足気に笑っていたような思いが、数を重ねるごとに増す。自分は帰社して企画書の作成にスケジュールの確認、それはいい。エントランスで何人とすれちがったか。彼らの表情に目立った変化がなかったか。帰り道、それこそ、どれほどのひとがこれを見ただろう。記憶は想像を巻きこんで、彼の色を失わせていく。

 

「神崎さん……」

 

 幼い雪の精の名前を、彼は喉から絞り出すしかできなかった。ジャケットの左胸に彼女の咲かせた、白く小さい氷の花に触れたまま。

 

 

 

(了)



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誕生日のお祝い  ゲストなし

甘茶あじ


 黒いタイツをすり抜けて、花の絨毯を掃く風がわたしの脚を冷やす。夜には気温がガクッと下がりますって食堂のテレビでいってたっけ。立ち止まると、石畳からもローファーをつうじて冷気が這い上がって来るみたい。見上げた先にひしめく色とりどりの花は、春風に香りを委ねている。その花の下で、長く手を合わせてたおばあさんが、待ってたおじいさんに手を引かれて去っていく。そのうしろ姿がかわいいなあって、わたしは思わず微笑んだ。

 

 きょうは四月八日、わたし、神崎蘭子の誕生日。生まれ育った熊本では、小学校のころからわたしより誕生日の早い同級生がいたけど、アイドルになるために上京した先の中学校では、わたしが一番最初の一五歳だ。

 

 それから、きょうはお釈迦さまの誕生日でもある。小さいころから聞かされてて、知ってはいたのだけど、熊本ではなんとなく避けてて、去年は不案内をいいわけにして、結局いちども誕生会……花まつりに参加したことがなかった。

 

 今年こうしてお寺に来たのは、新しい世界に踏み出す楽しさを、この一年で覚えたから。芸能事務所・346プロダクションが新人アイドルを発掘、育成する一年計画、シンデレラプロジェクト。汗と、涙と、友情、笑顔。すてきなものがぎっしり詰まった、あっという間の時間。解散式でたくさん泣いたけど、後悔なんてはじめから、寂しさだってもうなくて。あれから一週間、すこし間が空いたきょう、この区切りの日にわたしは誓う。

 

 ――この手は合わせ祈り、仰向き慈悲を乞いはしない。大地を睥睨し望みを掴み取るもの……。円環の解脱者よ、我が野望の成就るときを座して看ておるがいい!

 

 Ⅲの学年章が真新しいセーラー服の胸を張ったまま、わたしは花御堂に進み出て、柄杓を取った。天地を指すお釈迦さまの足許、金色に鈍く光る甘茶の海をひとすくい。これをかけてあげてお祝いする、らしいけど。

 

 ――夕陽宿せる甘露、味わいはいかばかりか……?

 

 わたしは柄杓に指を浸けて舐めてみようとした。さすがに、直接飲んだりしないもん。でも、横からの声がそれさえ止めた。

 

「その甘茶は口にするものではありませんよ」

「すっ、すま、すみません……。この名と香気に魅入られてしまいました」

 

 ……わたしの言葉は、ふつうのひとはあんまりわかってくれない。いままではわかってくれるひとの“通訳”に甘えていられたけど、もうそれはできない。だから、必要なときは妥協したのも話すようにした。助かるよってよくいわれるし、うまくいってると思う。

 

「すこし言葉が大人しくなりましたか」

 

 ……ん?

 

「大人しく?」

「お久しぶりです。うしろ姿でもしやと思いまして」

 

 振り向いた先には厚い胸、わたしの頭より高い肩に、しっかりした首と顎。平らな瞼の下、切れこんだ目のなか、小さくも力強い瞳が光る。髪と太い眉は整えて黒々としたそのひとは……。

 

「わっ、我が友よ、なぜここに!?」

 

 <我が友>、友達はたくさんいるけど、このひとよりわたしを理解してくれたひとはいない。ダークスーツに巨躯を包んだ、倍近く歳上の男のひと。梅雨空裂く晴れのあの日、夕闇のなか、わたしに堕天使の翼をくれたひと。秋も深いあのライブで、わたしの世界に踏み込んできてくれたひと――。

 

「あなたにお祝いのメッセージを送ってから、仏生会を思い出しまして。外回りのついでにと寄ってみたんです」

 

 それで、甘茶をかけようと花御堂に近づいたら、変なことをしようとしてるわたしを見つけて声をかけたらしい。

 

「うむ、其方の讃歌、我が心に届いたぞ」

 

 朝、顔を洗ってもどったとき、テーブルに置いたスマートフォンに“お誕生日おめでとうございます”のメールが来ていた。差出人はもちろんこのひとで、思い出すと、ついさっきのばつの悪さなんて吹き飛んでしまう。

 

「朝早くにご迷惑でなければよかったのですが」

「福音の先駆けたる其方の声、喜びのほかになにがあろうか」

 

 そう、友達はもちろん、お父さんお母さんより早い“おめでとう”だった。頬がゆるみっぱなしのわたしに、強面をすっとやわらかく作り変えて、一段とやさしいカヴァリエ・バリトン。

 

「でしたら、いいのですが。神崎さん、ともかく、甘茶をかけて差し上げてください。あとの方もお待ちですし」

 

 うしろには、大学生かな、女のひとが二人、手を繋いで“寒いね”っていい合って、順番を待っていた。わたしは早回しでお釈迦さまに甘茶を灌ぎ、手を合わせる。案内されるままについていった先には、紙コップにはいった……?

 

「我が友よ、それは?」

「甘茶です」

「まっ、まさか我に!? 我は神仏などではなく堕天使……」

「かけません……。飲んでみたかったのではありませんか?」

 

 そういえばそうだった。だって、コップの下の方を持って、こっちに傾けてるんだもの。

 

「うん……? これは、我が予知を覆す……」

 

 甘茶って、緑茶にお砂糖を混ぜたものだとばっかり思ってた。だけどこれはそれはとまったくちがう味で。それを友に告げれば、珍しく楽しそうに笑ってから、優しい声で教えてくれた。アマチャの木の若葉で作るお茶で、お砂糖をいれなくても甘いものだって。

 

 二人でコップを空にして、寮までの道を歩く。ちょっとだけ遠回りになる、公園を抜ける道。薄ピンクの雲に包まれたような、夢心地の散策路。

 

「儚き花魄を憐れみし仙女の手土産か」

「不思議なものですね。足許にこれだけ花びらが積もっているのに、咲いている花は一つも減っていないように見えます」

 

 わたしがどんな表現をしたって、このひとはかならず読み解いてくれる。もちろん、それができるひとは、ほかにもいるけど……。

 

「刻を言祝ぐ花鎖……」

「……ここが私たちごと、時間に置いて行かれたよう、ということでしょうか。すみません、ブランクが響きましたかね……」

 

 ほんとうは、いまのに意味なんてない。なんとなく口をついただけの言葉だけど、このひとは意味を探してくれる。わたしのこと、まっすぐに見つめようとしてくれる。買いかぶりで、ほんとの姿が見えてなくてもいいよ。ときどきかんちがいでも、赦してあげる。真剣に考えてくれるから、あなたが見つけた答えがわたしの伝えたかった言葉だよ。

 

 でもやっぱり、なんでもないのはなんでもないって、正解にたどり着いてほしいかも。なんだか可笑しくなって、わたしは駆け出した。そのとたんに風が花びらを舞わせて、わたしをすっかり包んでしまう。一面桜色の景色。飛んでくる花のかけらは顔に痛いくらいの勢いだけど。

 

「神崎さん!」

 

 パステルカラーの海を裂いて、黒い影が飛び出してくる。硬派な強面なのに、目を見開いて、眉毛が下がって。

 

「なにごとか?」

 

 首に手をやる、いつもの癖。なにか、困るようなことがあったのかな。

 

「いえ、すみません、大声を出して」

「なにごとかと訊いておる」

「……その、あなたが、どこかに消えてしまうような、気が、して……」

「花魄風情に拐かされる我ではないぞ」

「すみません」

 

 いったきり、彼は困ったときの姿勢で動かなくなってしまって、その胸と、わたしの伸ばしかけた手の間を、桜の行列が駆け抜けていく。

 

「せっかく、きょうお会いできたのですから、誕生日のお祝いをさせていただきたいのですが」

 

 そんな申し出はぜんぜん予想してなかったから、こんどはわたしが慌ててしまった。

 

「が、賀詞は奉じられ、竜王の甘露も……。これ以上は不慳貪(ふけんどん)の戒めを破ることになる……」

「堕天使のあなたが仏教の戒律を気にされますか? それに、お祝いの言葉は当然のことですし、甘茶はお寺からの施しです。私はまだなにもしていません」

 

 表情にはもう余裕がもどってる。薄く微笑んだ顔はニヒルで、かっこいい。欲しいものを思い浮かべようとしたけど頭のなかのモヤモヤはぜんぜん形を作らない。なにか、なにか……?

 

「手……」

「て?」

「手を、繋ぎたい」

 

 浮かんだのは、花御堂の下に見た年配のご夫婦。うしろにいた、友達同士の大学生。<友>って呼んでたのに、わたしたちはまだ、あんな風に手を繋いだことがなかった。

 

「い、いやか?」

「とんでもありません。それでよろしいのでしたら」

 

 彼の手はあったかくて、大きくて、手を繋ぐっていうより、わたしの手が包まれてるみたいだった。わたしに歩調を合わせてくれて、桜舞うなかを並んでゆっくり歩く。話すのは、ほとんどわたしの話。

 

「本担当の方は優しくしてくれていますか」

「弁才の天女が調べは我が新たな標星となろう」

 

 話すたびちょっとずつ、ちょっとずつ。

 

「さきほどの“大人しい”言葉は彼女からのご指導で?」

「あれは我が敷きし<闇>の真髄への旅路。光あるひとの世との狭間に揺蕩う、<黄昏の言葉>と名付けようか」

 

 胸の奥にひんやりしたものを感じて。

 

「髪型、変えられましたね」

「こ、これは牢獄の咎人に窶せる姿。……其方には見せていなかったな」

「そうでしたか。それでも、わかるものですね」

 

 それが、息を詰まらせるから。

 

「きのうは新たな咎人の祝祭。我が導きを求めるものもあった」

「正しくご案内できましたか」

「論を待たぬ! 見くびるでない!」

「失礼しました。すっかり先輩ですね」

 

 あたためてほしくて。

 

「神崎さん……?」

 

 わたしは、手をほどいて腕を絡めた。<友>のぬくもりが、少しわたしの胸に近づく。

 

「天樹は、我が止まり木とするには高すぎたのだ……」

「すみません、ご無理をさせてしまいましたね……」

 

 見上げた、罪悪感のにじむ顔。ちょっとだけこわばった太い腕に、わたしは両手でしがみついた。そうしても、胸の冷たさはどうにもならない。

 

 もっと、引き寄せてほしい。肩に腕を回して。ううん、もう歩かなくていい。うしろから抱きしめて。やっぱり前からがいい。わたしも思い切り抱きつくの。そしていってほしい。“無理に言葉を変えないでください。私が通訳をします”“ずっと傍にいますよ”“私に任せてください”耳許で、やさしく。下ろした髪を撫でて、わたしが眠りに落ちるまで見守っていて。

 

 目からも鼻からも、熱いものがどんどん溢れてくる。止められない。息が乱れて、手も脚も力がはいらない。わたしを心配そうに呼ぶ低い声。遠慮がちに、大きい手がわたしを分厚い胸に導く。寄りかかって、震えて、しがみついて、わたしは泣いた。学年でいちばんお姉さんになったのに。後輩に教室の場所も教えられるし、新しいプロデューサーともちゃんと話せるし、もう、……もう甘えないって決めてたのに。

 

 手を繋いだだけで、かんたんに決意は壊れてなくなった。もっともっとって、甘えがエスカレートしてく。成長したわたしを見てほしかった、それで褒められたかったのに。

 

 涙が止まるまで、いくつの鼓動を聴いていただろう。呼吸が整って、足の裏に地面の感触がわかるようになって、わたしは彼を見上げた。つらそうな顔で、わたしを見下ろしている。声は、まだ出せない。

 

「神崎さん、落ち着きましたか」

 

 わたしは頷く。叱られる前の子供みたい。大きな手が、わたしの肩を掴んだ。

 

「あなたはもう暖炉の脇に眠る灰かぶりではありません。輝くドレスを纏った若いお姫さまです。ひとはあなたに憧れ、あなたは灰かぶりたちに手を差し伸べる。……先輩になったのです。学校でも、346でも」

 

 その目は、熾火の揺れる炭塊のよう。このひとのぬくもりは、きっとこの瞳が放つ熱。それは私の目からはいりこんで、また熔かしていく。

 

「しっかりとお立ちください。自信を持って、胸を張って。あなたの魂の輝きを、私たちに見せてください」

「でも、でも、わたし、子供のままで、甘えたくて。一年で、成長して、お姉さんになれたと思ったのに。次あなたに会うときは、カッコイイところいっぱい見てもらうって決めてたのに、会ったらいっぱい甘やかされたくて」

 

 手がまた、わたしを鼓動に誘う。拒むことなんかできなかった。

 

「もちろん、一五歳はまだ子供のうちです。あなたはひとつ先輩になりましたが、あなたの先輩はずっとたくさんいます。素直に頼っていいんですよ。プロデューサーも、ほかの皆さんも、あなたに頼られるのを待っているはずですから」

「あなたも、そう?」

 

 どんな情けない目で見上げたのか、わからない。ぼやけて見えるその表情は、ただただやさしかった。

 

「もちろんですよ」

 

 わたしは目だけで見上げていたから、胸から顔を伝って、彼が声にしなかった声が聞こえた。“ダレヨリワタシヲタヨリニシテクダサイ”って。驚いて起こした首は、またすぐ大きい手で胸に埋ずめられた。

 

「甘えていいの……?」

「はい」

 

 私は大きい体にしがみつく。強く、強く。頭も体もめり込んでしまうくらい。

 

「我が友よ、流転を留めるすべはないのか」

 

 風が花をまとって、わたしたちの周りで踊る。このまま時間が止まればいい。

 

「時間は過ぎていくものです。そうでなければ困ります」

「なぜ」

「一週間顔を合わせないでいた間に、あなたはきれいになりました。初めてお会いしたころと較べれば、はるかに。これからもあなたはきれいになっていくでしょう。春がくるたび、いや季節が、月が……きっと日を追うごとに。いまよりもなお美しく輝くあなたの姿を、私に見せてはくれませんか」

 

 おべっかじゃないってことくらいこの鼓動を聴かなくても、ううん、声じゃなくて紙に書いてあったとしたって、わたしにはわかる。ずるいよ。

 

「よかろう。我が魂の輝き、その<瞳>を通じ世に残す務めを課さん」

「ありがとうございます」

「そして、我が魂の曇れるときは、其方の聖衣を我が紅瞳の聖水に浸し、洗い清めよ」

「はい」

「あと、あと、いましばしは、我をもっと……甘……やかせ」

 

 わたしのお願いの後半と桜の花びらの音を貫いて、荘厳な鐘の音があたりに響いた。お寺が時を告げる鐘。せっかくお祝いをしに行ったのに、お釈迦さまは意地悪だ。

 

「もう六時ですか……。きょうはもう、帰りましょう。後日、時間を作りますから」

「その瞳は、高潔か」

「はい。私もこの(きよ)さ、けっして失いはしません」

 

 胸を離れると、夜から吹く風が冷たい。舞う花びらはもう落ち着いて、青いレンズを一枚かぶせたような、黄昏の色のなかでただ小さく揺れるだけ。

 

 ぜんぜん気がつかなかったけど、公園のなかではお花見用の提灯が点って、ブルーシートのひとたちはお酒のにおいをさせていて。だれも、道の上のわたしたちに気がついてなかったみたいに、騒いでる。

 

 隣の<友>も意外そうに見回していたけど、わたしが見上げてるのに気づくと、やさしい顔で左手を差し出した。わたしはそこに右手を重ねて、二人歩き出す。

 

 一五歳の誕生日。いちばんのプレゼントはこの手のなかに、ずっとずっとそのぬくもりを残してる。

 

 

 

(了)



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喜ぶ顔が見たいから  ゲストなし

ちょい甘?
武内Pフラット寄り。


 神崎蘭子は学校にいた昼間じゅうを上の空で過ごしていた。数学の時間では当てられる順番が来ていたのに演習問題に手をつけず怒られ、国語は朗読のために持った教科書が逆さまで、持ち直そうとして放り投げた。

 

 生来、引っ込み思案の蘭子である。はずみをつけるために、難解で尊大ないいまわしで恰好いい自分を演出してきた。学校生活でもそれは“顕現”していて、それだけに、生活態度そのものを他人よりまじめにしていた。それを豪快に破壊せしめるこの日のようすは、数日前、一月のなかばを過ぎたばかりの、寒い午後に端を発する。

 

 

 

 ……346プロダクション本社の半地下、蘭子の所属するシンデレラプロジェクトが仮の居室に定めた倉庫の片隅で、独り溜息を繰り返すものがあった。蘭子たちの担当プロデューサーである。鋭い目と眉とをさらに険しくして、デスクに両肘をついている。簡素なそのデスクは大柄な青年の体重を受けて、彼の代わりにうめく。

 

「我が友よ、シーシュポスの岩を擲ち紅の泉にひとときの戯れを!」

 

 太く短いペットボトルを左右の手で交互に持ち替えながら、蘭子が青年の丸まった背中に声をかけた。額に指の跡をつけた青年が立つと、蘭子はそれぞれのマグカップにあたたかい紅茶を注ぐ。

 

「ありがとうございます神崎さん。……」

 

 言葉をつづけるか青年は迷った。いまデスクに置いてきた悩みごとを、はたしてこの子に打ち明けたものか?

 

 年末のことがふと、彼の脳裡に浮かんだ。道を見失っていた島村卯月が立ち直ったあとの、上司との酒の席のことだ。多くの少女たちが卯月の助けのために、あるいは穴埋めに、奔走していたことを褒めて、今西部長はこういった。

 

「きみももっと、彼女たちを頼りにしてあげていいんじゃないかね」

 

 背負い込みすぎる息子を心配するような口調だった。それはじっさい、血縁をのぞいてそのとおりだ。二人のあいだには親子ほどの歳の差があったし、青年にとっては入社以来五年以上、世話になってきたひとである。

 

「はい、もちろん新田さんや――」

「諸星くんだろ」

「は、はい。おっしゃるとおりです」

 

 恐縮して首筋をかくと、今西部長ほ角縁の眼鏡の奥で愉快そうに笑った。

 

「リーダーとか、年長とか、きみが与えた肩書き越しでなしにだね、めいめいに直接、だよ。あの子たちはきみが思うより……ひょっとするとわしのイメージより、ずっとしっかりしてるぞ」

 

 その言葉を一音一音反芻して、青年はまだ紅茶の半分以上残るカップをテーブルに置いた。黒い瞳でまっすぐに蘭子を見つめる。

 

「神崎さん、あなたの語彙とセンスを頼らせていただけますか?」

「む? フフフ、我が翼の助けを求めるか」

 

 よかろう、と鷹揚に頷き、蘭子もカップを置く。その態度は、しかし、数秒で崩れ去ってしまうのだった。

 

「プロポーズの言葉を考えねばならないのですが、いいフレーズが浮かばず……」

「にゃぁっ、ぬっ……!」

「アイドルのプロデューサーという仕事ですから、月並みなものでは突き返されてしまいますので……」

 

 青年は両手を膝にして深く頭を下げた。連動するように蘭子はのけぞる。彼女の言葉にはじめて、真正面から向き合いつづけてくれるひとである。友達でさえ深くは考えず、蘭子の所作や声音で合わせたり、乗ってきたり、ときにすれちがう。もちろん彼も読みちがえることはある。むしろ多いかもしれなかった。だが蘭子にはそれがむしろ楽しく、つかまえられたい鬼ごっこに興じるような高揚感があったのである。

 

 そんな彼に頼られる、そのことは嬉しい蘭子だが、プロポーズの五文字はあまりに重たかった。ようすのおかしい蘭子を気づかう声でやっと我に返ると、身を乗り出して声を張った。

 

「きっ、刻める暦の厚さは」

「暦……。つきあって何年か、ですか。それはだいじな情報ですね」

 

 顎に手をやり、青年は何秒か、蘭子から視線を外す。いかつい顔つきの鋭い三白眼は、蘭子にとり第一印象こそ怖かったものの、いまや斜め三〇度の横顔を恰好いいと思うほどになっていた。それだけにショックは大きい。傷を広げる真似を、自らしてしまったほどには。

 

「三年……でしょうか」

「しゃんねん!?」

「い、一般的な数字かと……思うのですが」

 

 そうかもしれない……。三年という時間の長さに頭を揺さぶられながら、蘭子は納得しかけた。納得しきってしまわないように、彼が自分と向き合ってくれた日……梅雨明けの黄昏どきに意識を飛ばした。あれから半年。そのときにはすでに二年半を重ね、いま三年となった歳月はその、六倍……。

 

「ろっ……」

「神崎さん?」

「じ、時空のひずみが……ええい! そ、その……あのぅ……ユノの加護を約束されし花はいかなる……?」

 

 のけぞり、丸まり、蘭子は空になったペットボトルに顔を隠すようにして問うた。青年はまた生真面目に頷いて考えこむ。

 

「たしかに、いわれる側が嬉しくなければ……。しかし……」

「……」

「そうですね、神崎さん」

「へっ」

「神崎さんがいわれてみたい言葉でいかがでしょう」

「むむ? 我が水鏡……? 否、我が猛き先駆けか」

「はい。イメージしていただけるでしょうか」

 

 彼の恋人が自分と似たような女性だというのは嬉しくもあり、この真剣な眼差しの裏にその見知らぬ姿が見えるようで、二リットルのペットボトルにすればよかった、などと伏し目がちに蘭子は思うのだった。

 

 ……ともかく、蘭子の質問はそこで尽き、青年から“長じた蘭子”へのプロポーズの言葉を考える段となった。

 

「“私と結婚していただけませんか”では……いけませんよね」

「剣士のつるぎが如し」

「や、やはりビジネスライクすぎますか」

 

 まっすぐ自分に向いたものではないが、彼に正面からそうした言葉をいわれるのはそう悪い気はしなかった。こうなったら求愛の裏に神崎蘭子ありと見せつけてやる、などと思えば彼の目を見つめ返す勇気はもどってきたし、詩篇を紡ぐように言葉を数多拾い集めるうち、そのこと自体が楽しくなってきた。とはいえくだんの女性の名前まで訊く勇気まではなく、蘭子は心のなかで仮に“蘭花さん”と呼んだ。ときおり声にも出ていたが、青年はそれにとくに触れはしなかった。

 

「“とこしえの天の光が我らを”……むむむ。“タナトスの刃も我が腕を奪えぬ”……ぬーん!」

「“どれだけ時間が経ってもあなたを愛しつづけます。最期のときまで私の手を”……“取っていて”? いえ、“握りあって”……? 独りよがりになると良くありませんし、難しいですね」

「捧ぐべきは心臓、肉は虚飾。なれど命は血の巡らぬ髪にさえ……」

「シンプルなほうがいいでしょうか? “あなたと共に光のさす道を歩んでいきたい”……」

 

 考えついた愛の言葉を繰り出しては添削しあう。どうせならいま、ちひろさんかだれかがはいってきたら……などと、彼や“だれか”の反応を夢想する余裕が蘭子には出てきた。けっきょくは闖入者のないまま、会心のワンフレーズの完成にこぎつけたのであるが。

 

「ありがとうございます、神崎さん。これで挑戦してみます」

 

 やりきった感覚を口の端に浮かべる青年を見て、蘭子は微笑み返そうとした。これで終わってしまうのだと──二人のあいだに分厚い壁が完成してしまうのだと、言葉にならぬままに蘭子は思い出した。胸がふさがって、両手の支えにした小さい空っぽのペットボトルは、少女の体重にパキン、くしゃりと高い音を立てた。

 

「う、うむ、我が友よ。神々の……戦果を嘉みしたまわんことを」

「はい、いい結果が出ましたら、すぐご報告します」

「ぬっ、う、うん」

「もちろん、そのときは──」

 

 

 

 神崎蘭子の意識が空の高みから地上へ帰ってきたのは、その華奢な肩に大きい手が置かれたときだった。駅の改札の、雑踏から少し離れた柱にもたれてぼんやりしていた蘭子が、紅玉の瞳をかがやかせて振り向く。視線の先、五〇センチほどに、鋭い三白眼のいかつい顔がある。青年の、ふだんよりもゆるんだ表情をしているのが、蘭子にはわかった。

 

「いざ船出の刻……!」

「はい、参りましょう」

 

 昂然としてタクシーの後部座席に並び、二人は都内にあるフレンチレストランへ向かう。運転手となにを話したかもわからぬうち、二人はオレンジゴールドの灯りに浮かぶ、城館のような建物の前にいた。大理石の飛び石が、芝生の上をゆるやかに、立派な玄関へと導いている。

 

「しゅ、祝福の鍵は」

「はい、こちらに」

 

 青年が懐から取り出したのは二枚の紙である。このレストランのフルコースと引き換えられるペアチケットだ。

 

「神崎さんがお持ちください。あなたのおかげで勝ち取れたものです」

「永遠を契る言の葉のひとひらを、召し上げし天よりの甘露……。ふっふっふっ」

「プロポーズの言葉のコンクール、なんて業務命令がきたときは肝を冷やしましたが……。神崎さんがいてくださって本当に助かりました」

 

 この冬、都内の結婚式場などが共催したコンクールのことだ。346プロダクションは規模こそ大きいが、まだ新興の芸能事務所である。スタッフの優秀さを外部にアピールしたい上層部が、二人以上の入選を目標に掲げて、プロデューサーたちに応募を通達したのである。

 

 半地下の居室でワンフレーズを紡ぎ終えたあと、青年は蘭子にこういったのだった。

 

「もちろん、そのときは賞品は神崎さんのものです」

 

 きょとんとする蘭子に青年は告知サイトを見せた。状況を飲みこむや、まだ皮算用ながら蘭子は山分けを熱烈に主張した。この手のものはペアチケットだという知識はあったのだ。そして知らされた優秀賞入賞に沸き、約束をしたきょうこの日を指折り数えて待っていた蘭子である。

 

「さあ我が友よ、ともに天国の敷居を踏み越えん!!」

「参りましょう、神崎さん」

 

 少女に手を引っ張られ、青年は光の宮への飛び石を渡っていった。

 

 

 

(了)



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星のめぐり  ゲスト:ラブライカ

プレーンあじ。


 空気が薄氷のような冬の日、宵の口である。都心を外れた公園の広場に、天体望遠鏡を囲む三人の少女と一人の青年がいた。神崎蘭子が濃い銀髪を揺らし、亜麻色の髪の新田美波にファインダーをゆずる。白銀色のアナスタシアは素手の凍えも気にせず二人に貼りついて、自らセットした宇宙の小窓の景色を解説している。

 

 一歩引いたところで、大柄な青年は三人の少女ばかりでなく、木々や水面へ注意を向けていた。睨め回すような視線は、見るものが見れば三白眼の鋭さが少女たちとそのほかで、まるでことなることに気づけるだろう。彼は三人の、アイドル活動を見守るプロデューサーなのである。

 

「神代の獅子狩人がかような宝珠を持っていたとは」

 

 いま見たばかりのオリオン大星雲の放つ光の広さをまぶたに甦らせ、蘭子は淡い薔薇の唇を嘆息の靄に包んだ。まさに鑑賞している美波も、暗黒の宇宙にたゆたうコスモスのかがやきに喉の奥で感嘆し、チャコールの細い手袋で白い望遠筒を撫でた。

 

「我が友よ、天に咲く永遠の花、其方にも!」

「プロデューサーさんも見たほうがいいですよ。光がふわーっと広がっていて」

「レコメンデュエミィ、探しやすくてきれい、冬空のおすすめです」

 

 興奮する蘭子にコートを引かれ、青年も一三〇〇光年の彼方に広がった若い星雲をレンズにのぞいた。低い嘆息と見開く鋭い目に、三人は満足げな笑顔を見交わす。

 

「揺り籠より目醒め、凍れる空に羽撃く星の煌めき……。フッフフフ、其方の瞳をいかに染める?」

「少し、薄く赤く光って見えますね」

「おお、友の瞳にも天なる薔薇は栄光に殉教の影を添えたか!」

 

 オリオン大星雲は、天文台にあるような大型の天体望遠鏡でのぞくと赤みを帯びて見えることがある。天体写真でも赤いものが多い。だが、個人レベルの望遠鏡では白くしか見えず、蘭子の話した額面どおり、見るものの目しだい、あるいは知識のフィルタしだいだ。

 

 はじめて垣間見た遥遠の光に興奮冷めやらぬ蘭子との会話を、青年は大柄な身を起こすことで中断した。一瞬きょとんと、言葉を切った赤い瞳に、手袋をしていない大きい手が望遠鏡のファインダーを示した。

 

 星の世界に夢中になる少女の横顔から青年が視線を上げた。それに気づいたアナスタシアが、水筒のあたたかいお茶を傾けるチャコールの手袋を止めず、青い瞳で微笑む。

 

 その姿に、違和感を覚えた青年である。

 

「アナスタシアさん、手袋は……?」

 

 新田美波の手袋をアナスタシアが着けているのだ。ただそれは、彼女の手を心配して美波が着けさせたのだろうと、いいながら青年は思った。それにより注目が小さい手を離れると、新たな、そして露骨な違和感にぶつかるのである。

 

 白銀の少女は、コートの背中を大きく膨れさせている。

 

「……二人羽織りですか」

「ダー、二人だとあったかいです」

 

 美波の両手はアナスタシアのそれとして、言葉と表情に沿った動きをする。顔をあげた蘭子が、美波の姿のないことにしばし混乱したほどである。二対の脚で望遠鏡へよどみなく近づく姿には、青年も目をしばたたかせた。

 

「こんどはバリシャヤ・メドヴェディーツァ……ホクトシチセイを見ましょう」

「それは……ど、どちらの託宣か?」

「ミナミの希望です」

 

 そう答えると、こともなげに望遠鏡を北に向け、ピントを調節した。異様といってもいい息のあいかたに、戸惑いを隠せない蘭子と青年である。

 

「むう……テレパシー……」

「さすがに服の下でなにかやりとりをしているのだと思いますが……」

「斯様なからくりならば、我らも阿吽の妙技、見せつけん!」

 

 蘭子の瞳が紅玉に、どの星よりも光った。

 

「プロデューサーさん、コートの前を開けてあげてくださいね」

 

 二人ともきちんと見ていなかったが、美波の言葉に合わせてアナスタシアは口を動かしてみせた。

 

 いわれるがままにもう一つの二人羽織りができあがる。蘭子と青年では丈があまりにちがうため、青年のコートのボタンのあいだから、蘭子が顔を出しているだけであるが……。ひとまずは満足そうなことが小刻みに揺れる体の熱に察されて、青年は黙ることにした。

 

 先に望遠鏡をのぞくよう促された蘭子の移動は、両腋で持ち上げられての移送であった。

 

「端から二番目の星、二つあるのが見えますか? ランコ」

 

 明暗二つの星を片目にとらえて蘭子が頷くと、アナスタシアの声のトーンがわずか上がった。

 

「暗いほうは、名前をアルコルといいます」

「悪魔の蜜にも似たひびき……」

「おまけの星、輔星とか、死兆星なんて呼ばれる星ですね」

「見えると死期が近いって伝説があるのよ」

「なにを!?」

 

 怯える蘭子だが、隠れる先はない。ゆったりしたコートの下で暴れるのを、青年は頭を撫でるほかなかった。

 

「ええと、神崎さん、アルコルが見えると死ぬというのは漫画の話でして……。実際には目のいい若いひとは隣の明るいミザールと見分けられますが、老眼が進むと……いいかたは悪いですが寿命が近いご老人は見えない、と」

「……まことか?」

「エト・ポゾール、プロデューサー、ばらすの早いです」

「双生の妖姫よ、我をたばかろうなど!」

 

 蘭子が頬を膨らすと、ごまかすように二つの声が笑った。

 

「まあ、アルコルは名前のとおりプリローゼニエ、おまけです。明るいほう、ミザールをよく見てみてください。さらに二つにわかれて見えるはずです」

「むう……たしかに」

 

 明るいミザールは、アナスタシアのいうとおり、二つの光点を持つ。これは世界ではじめて望遠鏡での観測で発見された連星である。発見者はガリレオの弟子であり……。熱を帯びはじめるアナスタシアの話を蘭子は遮った。

 

「レンセイ……? この光の双児も巨人の光雲のごとく、揺籠たる力を秘めているのか?」

「連なった星って書くのよ蘭子ちゃん」

「ダー、二つの星が引っ張りあってぐるぐる回ってます。こうですね」

 

 いうが早いか美波とアナスタシアは分離して、両手を取り合って回りだす。

 

「実際にはサロンヌィ・ターニツ、えー、社交ダンスみたいです。近づいたり離れたり、ですね」

 

 連星はたがいに焦点を共有した楕円軌道を回る。イメージとしては、二つの楕円がわずかに重なり合って、雪だるまのようなシルエットを作るのである。

 

「振り回されてますね、新田さん」

「楽しいですよ。プロデューサーさんだってそうなんじゃないですか?」

 

 回りながら、美波の垂れ目の視線は青年の顔よりも、胸許でぬくまる蘭子に向いているようだった。

 

「ニェート、ミナミのほうが重いですから、ラブライカ連星は振り回されるの、アーニャのほうです」

 

 公称体重は実際に、新田美波のほうが二キログラムだけ多くなっている。

 

「アーニャちゃん」

 

 声を低くするや、美波はコートごとアナスタシアにおおいかぶさった。脚がもつれあいながら倒れない、不思議な暴れかたをする二枚のコートにあっけにとられる青年の体を、とつぜん夜風が冷やした。

 

「我が友よ、我らも見えざる連理の枝なす星とならん!」

 

 コートから飛び出した蘭子が、紅潮した頬で黒いファーの手袋を突きつける。下から支えるように青年がその手を取ると、蘭子はいきおいよく回りだした。しかし、体重の差に青年の生来のにぶさもあって、

 

「プラネタ、太陽と惑星ですねランコ」

 

 と、アナスタシアにおかしげに評されてしまった。

 

 連星が共有する焦点の位置、つまり雪だるまのめりこみ具合は質量で決まる。あまりに差があれば重いほうの星の中心近くに焦点が定まり、軽いほうだけが動くことになる。それが恒星と惑星の関係だ。

 

「むう、我がかがやきが足りぬと申すのか」

「体重よ蘭子ちゃん。倍くらいちがうんじゃない?」

「さすがに倍は……」

 

 蘭子の公称値を思い出し、言葉を濁す青年である。

 

「ランコはヴェネーラ……金星ですしね」

「放つ光明に対星を惑わさねば堕天使の長の名が泣くわ!」

 

 足を止めて膨れる蘭子へ、美波と肩を寄せてアナスタシアは教えた。

 

「星と星なら、離れていたほうが相手を動かしやすくなります、が……」

 

 太陽から遠く重い木星だけは、焦点が太陽の外にある。つまり木星と太陽は互いに相手を振り回しあっているといえる。かといってあまりに離れると互いに重力の手を結ぶには至らない。そんな、蘭子は知らない話を前提にしてアナスタシアが笑う。

 

「人間の場合は近ければ近いほど、相手を動かしやすくなりますね」

 

 なるほど、と一言発して蘭子は青年に飛びついた。飛びついて、ぶら下がるようにしがみつくと横へとにじり動く。彼女なりに力をこめているのである。

 

「ええと、神崎さん……」

 

 青年は声を苦らせた。近づきすぎた蘭子の足を踏んでしまいそうで、さらに動きづらくなっていたのである。しかし、見上げてくる尖った唇に、ふたたび離れるようにいうのは気が引けた。

 

「失礼します」

 

 肚を決め、青年は腕を動かした。にじり動いて、まさに腕を乗り越えようとしていた蘭子の体を、背に腕を回して抱き上げる。横から二つの驚きが同時に、おなじ大きさの吐息の雲を作った。

 

 足のつかないほど抱え上げられて丸くなる紅玉の瞳は、ふだんよりもぐっと近くに青年の顔を見ていた。

 

「こうでよろしいでしょうか」

 

 遠慮がちに青年がその場で回りはじめると、蘭子は驚いて肩へしがみついた。表情で安心させようとした青年の計が上手く行ったかはさだかでないが、二周三周とするにつれ、幼い顔の緊張は解けていった。

 

 夜風を切る感覚を楽しむように爪先を動かし、ときに笑い声を上げる蘭子を眺めて、新田美波は苦笑いをした。

 

「アーニャちゃん、あれはちがわない?」

「チェルナヤ・ディラですかね。ランコ、無事に帰ってこれるでしょうか」

 

 いっぽうのアナスタシアは、いたずらっぽく笑うのだった。

 

 

 

(了)



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混ぜるな危険  ゲスト:速水奏

チョコレート味


 まだ二月もなかごろだというのに、早くも三寒四温の風情がただよいはじめた。この日も早朝こそ冷たい風が吹き回ったが、昼には四月なみのあたたかさになるとの予報が出されている。

 

 とはいえ、コンクリートを打ちっぱなしにした半地下があたたまるにはまだ時間がかかる。シンデレラプロジェクトが仮の居室と定めたこの広い部屋で独り、大柄な青年はキーボードを打つ手を揉んだ。打ちこんだばかりの文章を鋭い三白眼であらため、椅子の背を軋らせて大きく伸びをする。その耳に、澄んだ金属の音が届いた。

扉にかけられた蹄鉄の音だ。

 

「お、おはようございます」

 

 内心あわてて、動作はゆっくりと、彼は佇まいを直して向き直る。扉からはいってきたのは二人の少女だ。ツーサイドアップにした朝霧の髪をうしろへ揺らす神崎蘭子と、夜空色の短い髪に満月色の目の速水奏。

 

「わ……わずらわしい太陽ね」

「おはよう」

 

 青年は表には出さずおや、と思った。それは蘭子の、夕陽より赤い瞳に緊張の色があったためで、彼の担当外である奏の訪問にはよらない。……部署を問わずアイドルもスタッフも出入りするこの部屋にあって、意外な来客は彼にはいなかった。

 

「プロデューサーさん、きょうの収穫はいかが?」

「収穫……?」

 

 一瞬首を傾げそうになり、チョコレートのことだろうと思い至って、彼はつとめてあいまいな表情を作り、頷いた。

 

 ……世のなかにはショクゴウキンというものがある。金属のたぐいではなく、“食合禁”、すなわち“食べ合わせの悪いもの”だ。鰻と梅干、スイカと天ぷら、そのたぐい。それは食べ物に限った話ではない。ものでもひとでもおなじことだ。彼も聖人ではなければ、特定の日の特定のひとに忌避感を持つことがある。

 

 競馬狂の同期と、大きいレースのある日。締め日の事務職、千川ちひろ。そしてきょう、二月一四日という女性主体のイベントの日に、この速水奏。

 

「まだなにもありません。まっすぐに出社してきて、だれにも会いませんでしたから」

「あら、よかったわね蘭子ちゃん。蘭子ちゃんがはじめてだって」

 

 わざわざ引っかかるいいかたをする奏から青年は視線を外した。壁の時計は午前八時半を回ったところだ。346プロダクションの始業時刻には、じつはまだ早い。働き者の青年は、きょうは午後にしか仕事をいれていないはずの蘭子がもう姿を見せた理由を、奏の言葉以外から探そうとした。これというものに思い当たったか否か、どちらにせよ、彼の口から出る言葉は一つだ。“お早いですね”と。

 

「一番乗りがしたかったのよね」

 

 金色の目がしたりと細まる。

 

「う、うむ。我が友よ、まだ火蓋は切られておるまいな」

「ええ、この部屋にも、お二人以外はまだだれも来ていません。私ももっと遅く来るべきでしたか?」

「否、其方の道を歪めるには及ばぬ」

「ええと、神崎さん、冷えますか……?」

 

 コートこそ脱いでいるが、蘭子は口許をスミレ色のマフラーで覆ったままだ。暖房の効きが悪いかと、すでに室温に慣れた青年は首筋をかいた。

 

「これは、うう、口先の魔術師に我がマスケラを溶かされてしまったから……」

 

 青年は蘭子の目許をまじまじと見た。赤い視線が彼から逸れてはぶつかり、また逸れる。そしてマスケラをマスカラと聞きちがえていたのに気づいた彼の困り笑いで床に落ちた。

 

「蘭子ちゃん、もうちょっと恰好よくならない? せめて唇の、とか」

「速水さんはそんなことを要求する前に、なぜ神崎さんの化粧を落としたのかご説明願えませんか」

 

 口調がつい厳しくなる。蘭子とのつきあいの、彼よりも短い奏たちがよどみなく彼女と会話できている眼前の事実が、冷えた針先となって彼の喉を裡から刺すのだ。

 

「それはまだヒミツ」

 

 奏はなんの痛痒もないというように、すらっとした人差し指を口の前に立てた。かつて彼女が語った言葉が青年の脳裏をよぎった。魅力的な女性は常に秘密を抱えている、と。ただそれは暴きたくなるような謎めきのことで、叱られそうな悪戯をごまかすのはちょっとちがうのではないだろうか……。引きずられて一瞬苦らしめた顔を、彼は小さく振った。

 

「我にも真理の扉を閉ざすのか?」

「もうちょっとあとで、ね? 代わりにクピドの秘術を授けてあげたじゃない」

「妙な知識を吹きこまないでくださいよ」

「自分が食べにくくなるから?」

「なんの話です」

「チョコの話。きょうはバレンタインデーでしょ?」

 

 振り落とした渋面が青年の顔に飛び帰ってくる。速水奏はそ知らぬ顔だ。

 

「どうしたの? すごい顔よ」

「すみません、いただいた苦虫があまりに苦かったもので」

「だれから貰ったか知らないけど、この飽食の街で虫なんか食べなくってもいいじゃない」

 

 青年の口に追加の虫を押しこみつつ、都会の夜空色の魔女は生贄に語りかける。

 

「さ、蘭子ちゃん」

「う、うむ、むぅ……」

 

 目許までマフラーに埋まって、蘭子はなにかをためらう。

 

「勇気をあげようか……?」

 

 マフラーに忍びこもうとする毒蛇から身をかわし、転がるようにして蘭子は青年の前に進み出た。白い両手に乗せた平たい小箱は無地の黒い光沢紙で包まれ、白いラインの入ったラベンダー色のリボンで飾られている。

 

「わ、我がおも……否、こ……ではなく、うう、ま、魔力! 我が魔力に満つ黒化(ニグレド)せる霊石(エリクシル)を受け取るがいい!」

「ええ、と。手作りされた……チョコレート、ですか」

「うむ!」

「ありがとうございます」

「もっと喜んだって怒るひといないわよ?」

「喜んでいますよ」

 

 プロデューサーという職掌上、アイドルからのプレゼントに浮つくわけにはいかぬ。そう、彼は思っていた。素直に浮かれる同僚を見て不安になることは多いが。

 

「のちほど大切に食べさせていただきます」

 

 いいさして、彼は果実のソースのように瑞々しく輝くものを見た。いま、この場で食べてみて欲しいと訴えるような目だった。

 

「……いえ、いまいただいてもよろしいですか、神崎さん」

 

 声を介すか否かにかかわらず、蘭子からのメッセージの判読は私の特技の一つといっていいのかもしれない。嬉しげになんども頷くのを見届けて、彼はなるべく丁寧に包装を解いた。ベリーのさわやかな香りが立つ。ギリシャ十字の中央にアクセントを飾ったチョコレートの詰め合わせ。レーズンやオレンジピール、アーモンドなどなど。

 

 口に含めば鋭く硬いエッジもじわりと甘く溶けていく。そのミルクチョコレートのやさしい味をアーモンドの香ばしさが包み、鼻へ抜けていく。美味しいとシンプルな表現をしたのは彼の巧言との遠さゆえではあるが、蘭子はマフラーに隠れていてもわかるほど大輪の笑顔を咲かせた。彼としてはチョコレートよりもその笑顔の全貌のほうが望ましかったが、本人が恥ずかしがってしまっていては詮無きことである。青年の表情がおだやかになると、元兇たる速水奏がついに動機を供述するときがきた。

 

「じゃ、私からもハッピーバレンタイン」

 

 そういってハンドバッグから金色の短い筒を取り出す。数度の瞬きののち、それが口紅だと気づいた青年は半歩後ずさった。

 

「私は化粧はしませんが」

「でしょうね。ちょっと見てみたくはあるけど」

「わ、我が友に偽りの(おもて)は不要と見る!」

「そ、必要なのは蘭子ちゃん」

 

 いうや夜色の魔女はスミレを雪の野に散らし、魔法の筒をひねると寒椿は桜へと移ろう。淡桃の細面が満足気に笑って離れると、幼い赤い瞳は波立ったように揺れた。そしてなにを思ったか、小さい舌で唇をなぞり、もとの赤へともどしてしまった。

 

「甘い……」

「生チョコだもの。もう一回塗るから、こんどは舐めちゃだめよ」

 

 青年の顔がまた険しくなる。

 

「面白いでしょ、ルージュ型のチョコ。友チョコにいいと思って」

 

 この346プロダクションは女性社員が圧倒的に多い。ゆえにバレンタインデーのチョコといえば友チョコで、義理チョコはその亜種にすぎない。蘭子もやはり、この出来のいいチョコレートをシンデレラやクローネの面々と交換して食べ合うはずである。

 

「はい、プロデューサーさん。召し上がれ」

 

 どこかに感じた針を追う暇も彼に与えず、奏は義理チョコを差し出した。……生チョコレートを唇に塗られた、神崎蘭子を。

 

「ま、ま、ままさか我が紅を奪ったのは」

「口紅は味も悪いし体にも良くないものね」

「しししかしこれをたったっ食べるというのはっ」

「たまには激しいカレもいいんじゃない?」

 

 どれだけ想像を逞しくしたらそうなるのか、深くなっていく眉間のしわを青年はチョコレートの十字架で浄化しながら、なるべくやさしい声を出した。

 

「舐めてしまっていいですよ、神崎さん」

「えッ、な、舐めっ!? そんなことをすればしっ舌が……!」

 

 青年の表情の変化は忙しい。

 

「ご自分の口についたのを舐めとってしまえばいいんです。速水さんも、神崎さんに変なことをさせるのはおやめください」

「変って……。私は素敵だと思ったのよ」

 

 奏の苦虫と蘭子のチョコレートと、はたしてどちらの在庫が先に果てるか。こんな形で浪費する自分にも、青年の心はささくれ立ちかける。

 

「チョコレートにはね、GABAっていう抗ストレス物質がたくさんはいってるから……」

 

 眼前で妖しく動く舌から意識を逸らし、青年はふと耳に蘇ってきた声の記憶を慎重にたぐ

った。はいってるから……“お肌にもいいのよ”だ。川島瑞樹の言葉だ。去年、パウチ入りの丸いチョコレートを瑞樹から山ほど貰ったときのことである。“食べすぎも毒だけど”といいながら彼女の築いたデスクに赤い山を、印象的に覚えている。

 

 バレンタインといわず、彼には去年の冬の記憶があまりない。可笑しく思ったのはそれくらいだったかもしれぬ。それというのは、託された少女たちの夢を断ってしまったことで、塞ぎこみ機械のようになっていたためで……。開きかける記憶の暗さに覆われかけた彼の視界に、急に動くものがあった。意外そうな短い声が奏のものとわかったその眼前に赤いものが迫る。

 

「こ……このラシール・フルールを其方に……」

 

 ようやく彼の目が焦点を合わせたとき、みたび奏のガナッシュをまとった桜色の唇があった。

 

「其方に、……と、溶かしてほしい……」

 

 白い手が私の肩をおさえ、細い指がすがる。揺らぎながらまっすぐに、真紅の光が私の両目を貫いた。

 

「其方にのみ手折ることを赦されたこの花、いまこそ……」

 

 桜の花弁は震えながら、しかしはっきりと言葉の形を作る。記憶の暗がりからもどってきたはずの青年は、しかし、体を動かすことができなかった。

 

「神崎さん……」

 

 どうにか絞り出した声はかすれていた。その鼻先を甘い吐息が包む。

 

「秘められし花の魔力を其方に与えん」

「なにを、おっしゃっているんです……」

 

 ジャケットごしに、彼の腕は桃色の爪を感じる。うるむ瞳の奥に、固い決意を見た気がした。

 

「わたしがしてあげられることならなんでもするから、だ、だから……だから、もう、そんな顔しないで……」

 

 青年は気づいていないことである。彼の顔に刻まれていた声なき慟哭の形相が、奏の誘導よりすみやかに、蘭子に勇気を出さしめたのだ。

 

「あなたのすべてを受け止めてみせるから……!」

 

 言葉の後半は不明瞭になった。青年が人差し指で、桜色の唇を抑えたからだ。

 

「私の仕事はあなたという花を、いまよりももっと美しく咲かせることです。切って持ち去ることはできません。いちどは花壇を踏み荒らした男が、ふたたび花守りになれたのです。花泥棒を認めることはできません。たとえ、それがだれでも……」

 

 浮いていたエナメルの踵が床に降りる。その右手から、青年は金色の筒を取り上げた。蓋を外し、スリーブを破いて、オベリスクの形をしたガナッシュを口に放りこんでしまった。心を安からしめるには、それは甘すぎた。

 

「あなたを唆すものも、なくしてしまいましょう」

 

 包み紙を手のなかで金色の紙玉にしてポケットへ隠すと、呆然とする蘭子の頭の向こうから、ぷうと吹き出すものがある。奏である。

 

「ちょっと、さっきからもう……!」

 

 奏は口許と腹を抑えて背を丸め、肩を震わせている。

 

「そこまでやれなんていってないわよ二人とも……!」

 

 いい終わるとこらえきれなくなったか、声を上げて笑い出した。その場に座りこみ、ソファの背にすがり涙まで浮かべて。気障なことをいった自覚はあれば、奏の笑う理由は理解できる青年である。だが、蘭子が赤面してうつむいたことは意外であった。

 

「それを食べちゃうなんて反則でしょ」

 

 奏の言葉は大笑いで細切れになっていた。それをつないで復唱して、彼は自分の失策を悟った。

 

 あのチョコレートは、三度も……。

 

 

 

(了)



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スイセンの残り香  ゲスト:和久井留美

プレーンあじ


「ふっふっふっ、小さき幸福の化身……!」

「神崎さん、直接触るのは危険ですから、ひとまずこちらを」

 

 タオルを差し出してくるプロデューサーは腰が引けていた。わたしの代わりに持ってる日傘をぐっと前に出して、その手首と片手でタオルを広げて、姿勢を低くして……。わたしの倍くらい大きくて、鋭い目がかっこよくて、頼もしいひと。なのに、たまにすごくおどおどするときがある。わたしの扱いかたとか、いまみたいに、子猫に触るときとか。

 

「にー」

 

 わたしの胸で子猫が鳴く。日傘の陰でレモン型になった目で、じっと見上げてくる。大きさは両手にちょっと余るくらい。真っ黒の毛並みはボサボサ。“漆黒”はツヤツヤの黒のことだからこの子には使えない……シャンプーしてキレイになったら使えるかな?

 

 ドラマの収録の帰り、金色に光って見えるくらいスイセンが集まっている河川敷に寄り道をしたら、この不安そうな声が聞こえた。プロデューサーと一緒に探して、植込の陰で震えてるのを見つけた。近くにぼろぼろの、ねずみ色に汚れたタオルが落ちてて、すぐに捨て猫だってわかった。

 

「安寧の雲にその身を休めるがいいぞ」

 

 真新しいタオルに子猫を乗せると、プロデューサーの顔はもっと不安そうになった。片手でしか支えてないから危ないのはわたしにもわかってる。……だから、さっとくるんで、また胸に抱きなおした。プロデューサーはすごくほっとした顔をしてる。

 

「あら……蘭子ちゃんが見つけてくれたの」

 

 スイセンの甘い匂いのなかに、オレンジとかジャスミンのサッパリした香り。プロデューサーのうしろにいつの間にか、背の高い女のひとが立っていた。和久井留美さん。さっきまで撮ってたドラマで、主人公の女刑事を演ってるひとだ。ドラマのメインテーマの、ジャジーなサックスが耳によみがえった。

 

「和久井さんの猫ですか?」

「まさか。こっちに子猫がいるみたいだから、探しに来たのよ」

「さ……さすが魔女王、このささやきを捉えるとは」

 

 留美さんは切れ長の目を細くして微笑んだ。それから、せっかく保護してくれたから、なんていって、プロデューサーと黒猫と、三()の写真を撮ってくれた。

 

「魔女王にもこの幸運の化身の影を」

「私は写真だけで遠慮しておくわ、ちゃんと抱いててね」

「ああ……たしか猫アレルギーをお持ちでしたか」

「そう、だからこの距離が限界なの」

 

 子猫がちょっとむずかって、わたしは取り落しそうになる。プロデューサーがすばやくフォローしてくれて無事に済んだけど……。

 

「私が持ちましょうか」

 

 触るだけでもおっかなびっくりのプロデューサーに預けるのは、プロデューサーも子猫も両方心配。でもちょっと子猫を抱いてるプロデューサーも見てみたい。わたしが返事を困ってるのを、顔に出すより前に留美さんがだめだといいきった。

 

「きみは手が大きいから猫ちゃんが隠れちゃうでしょ。蘭子ちゃん、胸に乗せるようにして、下から支えてあげて」

 

 こんどは留美さんは自分のスマートフォンで、子猫のアップを何枚も撮った。……スリーショットのときより明らかに熱心で、プロデューサーとわたしは顔を見合わせて笑っちゃった。声には出さずに。

 

「ところで、和久井さん、この子猫はどうしたらいいのでしょうか」

 

 満足げな留美さんに、プロデューサーが訊ねる。堂々としてるのを、なんだか久しぶりに見たように思えて、わたしはまた笑った。こんどはちょっと声にも出して。

 

「だれかが飼うのがいちばんだけど」

「わ、我が城に!」

「寮でですか? 難しいと思いますが……」

 

 雪美ちゃんは黒猫のペロちゃんと一緒に寮にいる。でもそれは、雪美ちゃんのお家の事情と、ペロがトレードマークの一つになってることでどうにか赦された特例らしかった。わたしだってサインに黒猫いるんだけど。

 

 小春ちゃんのヒョウくんは、って訊いたら“イグアナは犬や猫とちがって静かだし、家を汚すイメージが薄いから”。凛ちゃんのハナコちゃんとか、アッキーやわんこ……そもそも寮暮らしじゃなかった……。

 

「はっ、聖夜の使者!!」

「そういえば……。サンタクロースさんのブリッツェンは寮で暮らしていますね」

「ブリッツェンは参考にならないわよ。宙に浮いてるから床を傷つけたり汚したりしない、グルメだから建材や家具を食べない。ふつうの生き物じゃないものね」

 

 一瞬見えた気がした希望は幻だった。ううん、たしかにありはしたけど、迷宮の、高すぎる天井に空いた穴みたいなものだった。わたしの腕のなかで力いっぱい、それでもすごく弱々しく、生きてることを叫ぶこの子を、わたしは守ってあげられない……。

 

「な、ならば我が友!」

「私の家はいけません」

「んなっ」

 

 こんなときに! ひょっとして、動物がニガテ? じつは犬派? 困っていたら、留美さんが溜息まじりに説明してくれた。

 

「一人暮らしの仕事人間にはペットを飼う資格がないのよ。平日の夜しか、へたしたら休日だって家にいないんだから」

「そういうことです。子供となればなおさら、私では務まりません」

「むう……。ならば、そうだ、我らが宮なら!」

「会社で……そうか、向井さんもそうしていたはずですね」

 

 わたしは頷きすぎて、髪の毛で自分の顔をひっぱたいた。

 

「個人的には歓迎だけど、よしたほうが無難でしょうね」

「えっ」

 

 留美さんにつられてプロデューサーが難しい顔をする。二人の顔をなんども見ていると、プロデューサーは顎から手を離してちょっと姿勢を低くした。

 

「私たちはいま、会社の方針に反したまま、存続のお目こぼしをいただいてる状態です」

「むう……」

 

 シンデレラプロジェクトは公式には解体されてるし、物置を片づけて使ってる部屋に、“会社のための仕事をしてないひとたち”が集まってるだけ……っていうことになるらしい。

 

「そこで動物を飼う、となると、追い出す口実にされかねない……。そういうことですね」

「そうね。下手したら仏恥ちゃんまで危ないわ」

 

 留美さんはわたしたちより、あのちょっと怖いお姉さんの茶トラ猫のほうが大事みたいだった。まあ、この子との扱いの差も感じてたけど。

 

「ならば……」

 

 次の方法をなにか考えないと。でも、いい考えは浮かんでこない。実家ぐらしのメンバーに頼むのは、なんだか気が引けるし……。

 

 丸くくるんだ子猫をのぞきこむ。甲高い鼻声で、ピンク色のちっちゃい手を伸ばしてくる。桜色の肉球と、まつげみたいな爪を思いっきり開いて。

 

「あとは飼えるかたを募ってお譲りする……これでも見つかるまでどうするかが問題になりますね」

 

 プロデューサーがわたしの表情をうかがいながら、そういった。わたしたちにはこの子は飼えない。わかっているけど、子猫を抱く腕に力がはいる。不思議がるような鳴き声が、胸許から聞こえた。

 

「手放せるなら、保護猫施設ね。近くて評判のいいところだとこことか」

 

 留美さんはさっとスマートフォンで、二ヶ所教えてくれた。なんでそんなに把握できてるんだろう……。

 

「はくちゅん!」

「にっ!」

 

 くしゃみに驚いた子猫を留美さんはなだめて、“限界が来たみたい”って足早に去っていった。保護猫施設への寄付金を二万円もプロデューサーにおしつけて。そんなに好きなのに近づけないなんて、アレルギーって大変なんだ。なんども腕と背中を丸めるうしろ姿を見て、そんなことを思った。

 

「われわれも参りましょう」

 

 プロデューサーのおだやかな声。いやだといいたいけど、すごく断りづらくさせてくる。

 

「ひとまず施設に預かっていただいて……」

「……」

「春になったら迎えに行きましょう」

 

 わたしは飛び跳ねそうになった。子猫が驚いた声を出したから、ほんとに跳ねたかもしれない。

 

「成果さえ出せば、私たちの立場は認められます。そうすれば社内で猫を飼うことも、きっと赦してもらえますよ」

 

 わたしはなんども頷いた。子猫が落っこちそうになって、プロデューサーがまたおっかなびっくり包みなおす。預かってもらう施設は、ちょっと遠いほうを選んだ。三()で歩く道は、きっと長いほうがいい。

 

 

 

(了)



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気持ちを籠めて  ゲスト:佐藤心

スウィーティー


 無機質なビル街に、淡い色をした花びらが舞いはじめた。第一期シンデレラプロジェクトから巣立った一四人の、もはや新人ではない若きアイドルたちが新天地に抱える不安を雪ぐように。

 

 その一四人の一人、神崎蘭子は、深紫色のバルーンスカートをしぼませて、プロダクションのリフレッシュルームでうなだれていた。ゆるやかに巻かれたツーサイドアップの濃い銀髪をばねのように縮めて、大判の本を読むでもなく広げたままにしている。

 

「おーっす蘭子ちゃん。顔上げろよー、天気いいぞっ」

 

 ひょうきんな声がその頭を打ち、フリル豊かな白のブラウスから、花吹雪の名残をひとひら取り上げた。

 

「秘匿されし四数!」

「しゅがーはぁとな」

「しゅ、シュガーハート……」

 

 見上げた赤い瞳に、カナリア色に丸まったツーサイドアップが映る。深緑の瞳がそれを見返して、きゅうっと弧を描いた。

 

「ひらがなで発音してね」

 

 自分で作った自分のニックネームにこだわりのある“しゅがーはぁと”こと佐藤心である。そのこだわりは荒い言葉とおちゃらけた口調で、人間も物事も詩的にいいかえたがる蘭子のそれを圧倒する。

 

「む、むう……。しゅがーはぁとよ、我にいかなる用か?」

「ヘコんでるぽいから、心配してんの。どした? お花見でヤなことあった?」

「我が時計は、儚き妖精の宴にこぼす砂粒を持たぬが……」

「行ってないってこと? まいっか。じゃどうして? お姉ちゃんにいってみ」

 

 蘭子は短い眉を寄せて、開かれた本に視線を這わせる。佐藤はそれを追い、ページを見ないふりをして、蘭子の答えを待った。

 

「禁断の果実……」

 

 先に遠目に見ていたおかげで、ハンバーグのことだと気がつけた佐藤である。

 

「自炊?」

「否、これは禍津神への供物。……なれど、我が手に届くは朽ちし土くれ……」

「だれかに食べさせたいけど上手くいかないっていってる?」

 

 赤い瞳を揺らし、蘭子は弱々しく頷いた。

 

「我らかつての灰かぶりを導きし黒の導師、甘美なる瞳の力に報いんと」

「え、なに? あ、シンデレラプロジェクトのこと? どうし……?」

「ふっふっふ、我がために荊棘の古城を漆黒の翼持つものよ」

「ヒント! ヒント!」

「……プロデューサー」

 

 片頬を丸く膨らす蘭子に佐藤はしきりに頷きながら、かろうじて愛想笑いを返した。

 

「つまり、お世話になったプロデューサーにハンバーグでお礼がしたい?」

「うむ。我が魔力を我らをつなぐ宇宙の卵となし、ウロボロスが我らの友誼を称える詩を紡ぐのだ」

 

 言葉の意味を確かめると、乙女心とその付属品を刺激されたか、佐藤は目を輝かせて少女の手をとった。

 

 なお、これ以降、佐藤による確認を省略する。

 

「スウィーティーな蘭子ちゃんにははぁとが手取り足取り、心のこめかたから手の抜きかたまでぜーんぶ伝授しちゃう! ……遠慮してもムダだぞ?」

 

 彼女が料理をはじめとした主婦スキルを高いレベルでまとめていることは、蘭子もよく知っていた。それを頼りにしなかったのは、自力で美味しく仕上げ、青年に自慢したい気持ちがあったためである。

 

 いまその気持ちが、苦い焦げ肉を量産した現実と戦い、二分ほどで屈した。

 

「いつから練習する?」

「砂粒はもう残っておらぬ」

「は?」

「煩わしき太陽が天を占めしとき、理の蛇が尾を噛むか否か、世界が別たれる」

「数字で喋ってみて?」

「……約束したのはきょうの一二時」

「マジで」

 

 さしもの佐藤心も真顔になり、腕時計とスマートフォン、そして置き時計を二度ずつ確認した。すでに一〇時を回っているのである。

 

 

 

 346プロダクションの巨大な持ちビルには、一般企業にはない設備が揃っている。ダンスレッスンに使う、壁一面が鏡の部屋。エアロバイクなどを備えたトレーニングルーム。温水プール。そうしたなかに、テーブル席と隣接した、それなりの規模の厨房がある。スーツ姿の大柄な青年は、その扉の脇で五分ばかり待機し、一二時ちょうどに三度ノックをした。

 

 扉の向こうに張りつめて震えた声を聞き、一拍おいてドアを開く。彼の逆三角形をした三白眼は、想定と異なる光景を映して円くなった。昼食の約束をした神崎蘭子の隣にもう一人、エプロン姿でにんまりとしている女性がいたからである。

 

「蘭子! はぁとの! 昼食ばんざい!」

 

 青年はノブを掴んだまま挨拶の言葉を出しかけて固まる。佐藤は両手を高く振り上げた。……蘭子さえも置き去りにして。

 

「きょうのメニューはハンバーグー! まずおいしそうなひき肉を用意します」

「すみません佐藤さん、なにをしようとしているんですか?」

「しゅがーはぁとって呼べよお」

「佐藤さん、なにをしようとしているんですか?」

「強情か」

「と、友よ、しゅがーはぁとは我に力を捧ぐ高位の術師。我らが無上の果実を摘み取り、汝に捧ごうぞ!」

 

 蘭子になだめられ、佐藤にすかされ、青年は少し離れた席について、二人の調理を見守ることにした。このようなことをしていると、目つきの悪さから、強いプレッシャーを与えているように見える、と彼に詳しくないものはいう。

 

 往々にして誤解である。だがいまにかぎり、誤解ではない。

 

「ステップ1! タマネギをみじん切りにする!」

「ふむ、悲嘆へいざなう白き琥珀の擬宝珠……」

「切った面を空気に晒さなきゃツーンとしないから安心して。半分に切ったらすぐ伏せんの。そんで縦横に刻むときもバラけないように抑える。これだけですごくちがうから」

 

 蘭子の小さい手ではアドバイスどおりにするのは難しかったが、それなりの効果をあげることができた。佐藤の技能に若干の疑いを残していた蘭子だが、尊敬を帯びた笑顔を向ける。

 

「では我が師よ、悲劇の白を獄炎にて喜劇の飴玉に」

「炒めるのはな~し。炒めて冷ましてってやってると時間かかっちゃうから、あいつ餓死するぞ。レンジに放りこめ~」

「そ、それはいけない……」

「てことでステップ2! ひき肉にタマネギ、パン粉、溶き卵に塩コショウを全部いれて一気に混ぜる!」

 

 ビニール袋を手袋がわりに、大きいボウルでハンバーグのタネを捏ね上げる。なかなかの重労働に息が上がりはじめた少女が、あせった声を短く発した。

 

「生命の雫がっ」

「ん? ああ、平気平気、黙っときゃバレない。隠し味隠し味」

「……」

「色々とよく馴染むまで捏ねたところで、ステップ3! タネをハンバーグの形にして焼く前のひと手間ー!」

 

 基本的には手のひらより少し大きい程度の小判型にするが、蘭子はなるべく丸い形にタネをとった。

 

「これを叩くなり両手でキャッチボールなりして空気を抜くのが大事ね」

 

 手首のスナップを効かせて快音をひびかせる佐藤に対し、蘭子は遠慮がちにゆっくりと肉を飛ばす。

 

「そんなんじゃダメー。もっと力こめて。この野郎! って感じで」

「ま、魔力の贄は慈母の掌に育まれるものでは……」

「あんね、やさしくペタペタしても空気は出てかないの。もっと力いっぱい。料理はパワーと手際だかんな」

 

 佐藤は、自分ではとてもかわいいと思う表情をして蘭子の不安げな顔をのぞきこんだ。

 

「で、では、そのう……あ、愛……情は……」

「まだこめる気かよ」

 

 蘭子は赤い瞳を疑問に揺らした。ニヤリとし、佐藤がわざと声を張り気味に答える。

 

「脂身の多いスーパーのひき肉はスルーして、わざわざ肉屋で挽いてもらった赤身じゃん? 料理の愛情ってそういうとこだぞ」

「……」

「タマネギの調理も被験……オホン、食べるひとを気にしてたし、タネを捏ねるのでも妥協せずやりきったかんね。ばっちりスウィーティー」

 

 だから空気抜きははげしく叩け、と深緑の瞳が不安げな顔へ見開かれた。

 

「こ、こうか」

「もっと勢いよく! 憎いあンちくしょうの顔を思い浮かべて!」

「おらぬが」

「作って!」

「むり!」

「もー、やさしいんだ蘭子ちゃんは。こういうとこでストレス吐き出せないと大人になってからツラいんだぞ。はぁとはちゃんとストレスを吐き出せないで潰れたやつを知ってるからいってるんだぞ。陰湿なオツボネサマの」

「あまり神崎さんに薄暗い話を教えるのはやめていただけませんか」

 

 背後の低い声に、佐藤は太い悲鳴を上げて飛び上がった。

 

「ビビったぁ~……。ひけ……お客さまはうしろの席で座ってゆっくりとお腹空かしながら待ってろよな!」

「くれぐれもお願いします」

「過保護か」

「神崎さんにはきれいな人生を歩んでいただきたいので」

「食い下がるな!?」

 

 青年が席にもどったのを見届け、佐藤は指導をつづける。両手の間を行き来していたハンバーグのタネは、しだいに平たく、面積を広げていった。厚みが均等になるように回転を加え、手におさまりきらないほどになれば手のひらではなく指先に乗せてさらに回転をつづける。

 

 頭上で回転させるようになったころには、小ぶりの傘ほどに広がっていた。

 

「ま……待て! 我が師よ、これはまことに禁断の果実の錬成か!?」

「くそっ、もう気がついたか……。ピザ窯に押しこむところまでやりたかったのに……!」

「佐藤さん、真面目にやっていただけませんか」

 

 青年はいつのまにか、パイプ椅子とともに厨房に席を構えていた。

 

「はぁとがマジに作ったメシが食べたいとかプロポーズかな?」

「誤解を招く発言をしてしまい申し訳ございません。神崎さんにきちんとしたハンバーグを作らせてあげてください」

「真面目か」

「あなたも大人ならいちど引き受けたことは完遂していただきたい」

「天丼にしてはクドいぞ」

「ハンバーグ丼でしたらやぶさかでもありません」

「さてはウッキウキだなオマエ」

 

 ステップ4。フライパンに油をひき、よく熱する。中火にしてハンバーグのタネを並べ、片面を焼く。このとき、中心を少しくぼませておくと火がとおりやすくなる。焼き色がついたら裏返し、蓋をして蒸し焼きにする。

 

 火を扱う段になり、佐藤の指導から遊びが消えた。青年の腹が鳴ったのは、おもにそのまともさへの安心からだったろう。

 

「焼いてる間にステップ5! つけあわせの野菜を焼くぞ! 食べるよな野菜」

 

 短い眉で富士の山容となした蘭子だが、親愛なる友の手前、情けない姿ではいられなかった。

 

「香気放つ燭台の穂先……」

「キャロットグラッセはめんど……時間かかるから、こんどにしよ?」

「なれば?」

「小芋とインゲンとニンジンのバターソテー」

 

 厚い輪切りのニンジンをレンジで温め、半分にした小芋とインゲンとともに小さいフライパンに溶かしたバターで焼く。ハンバーグの焼き加減と並行して見るのは、蘭子には忙しい調理であった。

 

「焼き上がったらお皿にのせて、仕上げのソースは?」

「赤き秘薬!」

「トドメに愛情たっぷりかけて完成! 基本……じゃなくてスウィーティーなハンバーグ!」

「親愛なる友よ、言祝ぎの宝珠にて魔力を満たすがいい」

 

 焦げ目のついた野菜を添えて、紅く片翼を描いたハンバーグが満面の笑みで差し出される。片面は野菜以上に焦げ、肉に灰色を呈していても、蘭子史上最高のできばえであった。

 

「蘭子ちゃん特製ランチプレート風ハンバーグセットだぞ」

 

 赤と緑の深い色の視線が見守るなか、青年はフォークで一片、ケチャップを少なめにハンバーグを口にする。二人が揃って“審判のとき”と小さく呟く。

 

「……しゅがーはぁとも<闇の言葉>を?」

「いやこれはフツーにいうっしょ」

 

 ケチャップを塗った二口目を飲みこんだ青年に、再び二対の視線が向かう。表情をゆるめて(なじみのうすい佐藤には判然としなかったが)味わっていた青年だが、黒いまっすぐな眉をやや下に反らし、大きい手を首許にあてる。

 

「……なんかいえよ?」

「伽藍の鐘は歌わず、か……」

「いえ、おいしいですよ。ただ……」

「ただ?」

「その一言で終わらせてしまうのはもったいなく思ったもので。……ですが」

「銀の弾丸は二つと要らぬ」

 

 蘭子は紅潮した頬を持ち上げて、熱い鼻息を吐き出した。

 

「今宵の爪痕、永劫の標とならん……!」

「お礼を申し上げるのは私です。これだけのものを作っていただけるなんて、私は幸せものです」

 

 険しくも見える目が閉じると、満足げな笑みが広がる。大粒の紅玉の瞳からぽろぽろと水晶の粒をこぼしながら、蘭子は小さい両手で、最愛の友の大きい手を握った。

 

「其方がために紡ぎし詩篇は言の葉を持たぬ。しかし鐘の如く地平線にひびき、其方に迫らんとする……。イーコールの拍動、次なる刻は神も知らぬ。が……。また、いつか、友のために吟じたい」

「いつでも、時間をお取りします。そんなに不安がらないでください」

 

 繋いでいなかった左の手がハンカチを取り、蘭子の涙を拭った。やわらかな感触と心落ち着くにおいに名残惜しそうな表情を一瞬、蘭子はにっこりとして、短い眉を力強く反らせた。

 

「来る終末こそは、果実の艶美なる輝きが世を包むであろう」

 

 青年はにこやかに頷き、ちらりと佐藤を睨んでから少女に囁いた。

 

「楽しみにしています。なにせ、あんな指導でこれだけのものを作れたあなたですから」

「メロメロじゃん。隠し味が効いちゃったかな?」

「隠し味?」

 

 疑問の色を帯びた視線に、蘭子は短い悲鳴を上げた。

 

「き、禁忌に触れるな!」

「触れてもバレなきゃ平気だぞ。はぁとの無添加ランチと食べ比べればわかる……かもよ?」

「いえ、神崎さんも当てられたくはないようですし、遠慮しておきます」

「そうかよ。んじゃ蘭子ちゃん、おランチにしよ? はぁとのハンバーグ風味プレート状ランチ食べよ?」

 

 佐藤は板切れを取り出した。おそるおそる嗅いでみた蘭子の鼻腔に、豊かなハンバーグの香りが満ちる。思わずあとずさって、身を乗り出した青年の腕に隠れる。

 

「なんですか、それは」

「作ってるのずっと見てたろ?」

「神崎さんのとまるで別物に見えるのですが」

「たしかにはぁとは蘭子ちゃんに指導しながら作ってたけど、いったとおりに作ってるなんてだれもいってないぞ。叙述トリック叙述トリック」

「謝ってください。世の叙述トリックの本に一冊一冊丁寧に謝ってください」

「ぶっちゃけタネを薄く伸ばしたとこで怪しまなかったのが悪いと思う」

「どうやればこうなるんですか……」

「やる気でやるとこうなるゾ」

「して、このモノリスはひとの子の手に負えるのか?」

「およそ人類に食べられるようには見えませんよ神崎さん」

 

 蘭子を腕にかばったまま、器用に佐藤との間に出てきた青年である。

 

「おいおい、はぁとの手料理が食えないっつったか? 失礼な地球人だな」

 

 パキンと軽快な音を立ててプレート状ランチを割り、そのソリッドな欠片を佐藤は青年の顔に向けてつきだした。攻撃ではなく食べろという意味であると三秒かけて気づいた青年は、未知の物体を震える手のひらに受け取った。

 

 恐怖を濃くした赤い視線に見守られながら、青年はそれをそっと口に運び、前歯を立てる。

 

「……食べられません。硬すぎます」

「十戒も刻めぬ金剛怪奇の摩訶石盤……」

「食べ物はムダにしちゃいけないんだぞ。おいしくぜんぶ召し・上が・る!」

 

 無言のまま蘭子の手を引いて逃げ出した青年であったが、おろし金で粉末になった佐藤のおろしハンバーグで視界を奪われて蘭子ごと取り押さえられた。彼女を人質にされては、かんなで削って冷奴に乗せた佐藤の豆腐ハンバーグを完食せざるをえず、体がなんの変調もきたしていないことを心配に思いながら、次なる蘭子との昼食会を待つのであった。

 

 

 

(了)



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無言のロマンス  ゲストなし

プレーン味ですが「巷に雨の降るごとく」を別なタブに開いておくと少し読みやすくなります。


 煉瓦舗装の商店街の、一軒の喫茶店。焙煎された豆ときつね色のトーストの香りたゆたい、まどろむようなバイオリンがレコード針のかすれとシーリングファンのきしみと和音を奏でる。ジャケットを脱いだ壮年の客たちは、いすの反った背にもたれて、かぼそい秋雨に濡れる街路の緑に目を休め休め、橙色のランプで活字を追っている。

 

「ご注文を伺います」

 

 窓辺から離れた渋い暗赤色のテーブルで手を挙げる青年に、ウェイトレスが歩み寄る。大柄な青年は黒髪短く眼光鋭くして、昼休みであろうにネクタイをゆるめもせず長袖のワイシャツにかたく締めている。

 

 逆三角の三白眼が不意におだやかな光をたたえ、その影に隠れていた少女をウェイトレスに示す。少女、神崎蘭子はフリルとレースで飾られた白のブラウスと黒のスカート、おだやかな空調の風にたゆたう白銀の髪のモノクロームを、大きい瞳とおなじ真紅のリボンで引き締めていた。

 

 黒く染め伸ばした睫毛を誇り桃色の唇を優雅にして、蘭子は注文を告げる。

 

「正邪併せ持つ始まりの獣が美味を購いし混淆の一皿を」

 

 ウェイトレスは化粧気の薄い目をしばたたかせた。

 

「すみません、牛ほほ肉のシチュウのセットを一つください」

 

 青年が眉を下向きに曲げてその意図するところを伝えると、ウェイトレスは納得しきらない面持ちで伝票にそれを記した。少女が嬉しそうにしているので、青年の“通訳”は正しいのだろうけど、と。蘭子なりの、これが甘えかたであることを、ウェイトレスは知らない。

 

 伝票には青年の注文であるホットサンドのセットと、食後の“赤き雫”……アイスティーとホットコーヒーが連ねられた。

 

「紅茶でよろしかったのですか?」

 

 ウェイトレスが下がってから、青年は意外そうに少女に訊ねた。

 

「ふっ。安らぎの揺り籠を扼す狂乱の徒を喚ばれては困るのだ」

 

 ほんとうは恰好をつけて飲んだブラックコーヒーの苦さが堪えていることと、かといって砂糖やミルクを多量に求めるのも子供っぽいと思えたためだ。

 

「そうでしたか」

 

 携えたヴェルレーヌ、フランスの詩人の本にあわせた店選びに見えたので、飲み物もカフェオレにするのかと思っていた青年である。

 

「うむ、この止まり木に、黄昏る花の都の詩情を嗅ぎとったは真実。……だが、今宵の薔薇を潤すに漆黒では足りぬ。ふっふっふっふっふ……」

 

 早計でした、と青年はカフェモカくらいの苦さで笑った。

 

「フランスの詩集をお持ちのわけも、お訊きして構いませんか?」

 

 淡雪の指でレモネード色の本を開きかけて、青年の黒い瞳を見上げて頷く。

 

「これは詩吟の精と友誼を結び、ダンタリアンの迷宮より持ち帰ったのだ」

「なるほど、図書館から……」

 

 深い海色のネクタイが揺れる。

 

「ただ、セーヌの流れは細緻にして我が翼の捉うる風とはいまだなしえず……」

 

 リボンで留まったゆる巻きのツーサイドアップがテーブルの表面を撫でた。

 

「雰囲気や語感だけ味わうのもいいものですよ。詩歌は感性のものですから、こうして楽しむものだというきまりはありません。ですが、原文も読まれて、原語独特のリズムを味わってみてください。発音はインターネットでも検索ができますし、私も多少はお教えできます。ヴェルレーヌの詩は、とくに簡単な単語を駆使した脚韻の踏みかたが……」

 

 滔々と溢れかけた詩情を青年は喉に抑えた。小ぶりのグラスから冷水を一口、這い上がらんとする残滓を押し流して、ばつが悪そうに謝る。蘭子は楽しげに喉を鳴らしてそれを容れ、ページを手繰る。

 

「纏う瘴気の芳香ならば、我はこの一篇が」

 

 雨はしとしと市(まち)に降る――。蘭子が青年の前で開いてみせたのは、アルチュール・ランボーの一行詩をエピグラフにした一作であった。訳者は堀口大學、フランス詩の訳ではとくに高名な人物の一人だろう。

 

「巷に雨の降るごとく/われの心に涙ふる……。つい物思いにふけってしまう詩ですね……」

 

 懐かしい空気を噛みしめるような青年の声が、蘭子の耳をくすぐる。爛漫に見えるこの少女にも、この詩に共感するような、歳ごろらしい悩みがあるのだな、と微笑ましく見守りつつ、青年は心のどこかに苦々しさを覚えた。

 

「我が友の泉に、この銅貨(コイン)はすでに沈んでいたか」

「ヴェルレーヌに代表される象徴派は、学生のころよく読みました」

「で、ではその、ここ……。三連目の後半できまって淀んでしまうのだ」

 

 ランプに照らされて薄金色をなす眉を下げ、青年の肩に身を寄せて、蘭子は二行を指した。

 

 “何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?/この喪そのゆえの知られず。”

 

「ピエタの慟哭に対する騒乱かと見えたのだが」

「はい、そこまでの部分で、心に妙にまとわりつく悲しみを詠っていますから」

「うむ。しかしなにゆえに裏切りと嘆くのか……。喪……もそ? も……」

 

 ひそめた眉を一回転しそうなほどにして、蘭子は唇をかたく結んだ。

 

「この喪、で切ります。ほかのかたの訳では、“ゆゑだもあらぬこのなげき”となっていて、哀しみの出どころを繰り返し問うているわけです」

 

 蘭子が髪を弾ませて点頭すると、青年はもう一つの疑問に答えるべく言葉をしかめつらしくして選ぶ。

 

「このころヴェルレーヌは妻マチルドを捨て、歳下の詩人ランボーに捨てられ、暴力事件を起こして懲役刑を受けました。裏切りという言葉は、そのあたりの心情が出たものかと」

 

 ヴェルレーヌは妻のほかに美少年に惚れ娼婦に惚れ、明るいとはいいがたい複雑な人生を歩んだ。“ランボーに捨てられた”節は軽く流したかったのだが、蘭子の心のひだに引っ掛かったのを見てとって、青年は別の解釈を持ち出した。

 

「あるいは、一行目を“raison”で終えているので、三行目、四行目は韻を踏んだ“trahison”“raison”にしなければならなかった、というだけかもしれません。この詩は四つの連がいずれも、一・三・四行目で脚韻を踏み、連ごとに見るとそれが交韻になっているという構造ですから」

 

 しかし、言葉の奔流に疑問は耐えきったのだ。

 

「ランボーというのはこの冠なす一篇の……?」

「……はい。エピグラフといって、ここではほかの詩の引用です。ランボーの詠んだその一言から作ったという恰好でしょう」

「……男のひと?」

 

 顔も声もブラックコーヒーの苦さで、青年は首肯した。

 

「芸術家もいろいろある、ということです」

 

 より具体的な話になる寸前、香気と湯気をともなって、二人の昼食が届いた。ビーフシチュウの芳醇な香りに蘭子が顔を花やがせる。詩集がハンドバッグにしまわれると、いよいよ詩人は大皿に居場所を逐われ、テーブルの縁から転げ落ちていった。

 

 

 

 青年が蘭子の口許の汚れを甘やかしているところへ、食後の一杯が供される。痛いほど冷たい紅茶で牛肉の味を洗い落とすと、蘭子はとなりに座る黒い瞳が、ブラックのままのコーヒーの、湯気の先を遠く眺めていることに気がついた。

 

 青年もまた、紅茶よりも赤い瞳が不安の波紋に揺らいでいることに見ずして気づき、カップを置いて顔を向けた。

 

「すみません、学生のころを思い出していました」

 

 彼にヴェルレーヌを薦めた先輩は、なにかというとコーヒーを飲んでいた。“大抵の問題は、コーヒーを飲んでるあいだに心のなかで解決するものさ”と恰好をつけて。それは彼の知らぬだれかの受け売りで、じっさいその先輩が大抵の問題をどうにかできていたようには、ありし日の青年の目には映らなかったが……。

 

「ふっ、漆黒の雫なぞなくとも、我が友のあるかぎり我に愁うるいとまなし!」

「もったいないお言葉です」

 

 そういえば、と蘭子は思った。ランボーとヴェルレーヌの話は半端なままだ。しかし友はあれ以上語りたくないように見え、問題が残ってしまう……。

 

「や、やはり、我が友よ。闇のひとしずくを我にも……」

 

 青年は驚いた様子だったが、言葉の裏のなにごとかを汲み取ると、カップをソーサーごと蘭子の前に滑らせた。砂糖を断り、高揚感をもたらす湯気に目鼻をしばし湿らせてから、薄桃色の唇へ白い両手でカップを運んだ。苦味が舌を取り囲み、じわじわと沁みこむ。

 

 震える手で、小さい音とともにカップをソーサーに返した。

 

「神崎さん、ご無理はせずに……。厚手のハンカチもありますから」

 

 青年の鼻先をゆるく巻いた髪ではたき、蘭子は黒い香気をどうにか飲み下す。すぐに冷えた紅茶が残り香を消すと、怯えた猫のような声がこみ上げた。

 

「飲みやすいようにして飲みましょう、神崎さん。万人の正解というものは、コーヒーにもありはしませんから」

「はい……」

 

 抱いた疑問が解けることは、もちろんなかったが、ブラックのコーヒーでもあんがい飲めるということと、今夜の寝つきはそうとう悪くなりそうだということは、少女の心に、はっきりとわかった。

 

 

 

(了)



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七年の呪い  ゲスト:学生時代の先輩

ビール、もしくは水の味。


 空の青は深く、夏の雲が漂い、しかし吹く風が半袖を冷やす。九月の日比谷公園はオクトーバーフェストのさなかだ。キッチンカー囲まれた噴水広場はジョッキと紙皿を手にした来客で溢れ、そのうちの半数ばかりが特設ステージへ視線を注いでいる。

 

「愚かなる気高き琥珀に見せられし罪人たちよ! この堕天使・神崎蘭子の到来に震えるがいい!」

 

 赤薔薇の王笏を会場へ突きつけて高らかに歌うのは神崎蘭子。346プロダクションが擁するシンデレラプロジェクトの一人である。彼女の<闇の言葉>の意味がわかるものは多くはないが、この酒のはいった場で、それは些末なことだ。途切れぬ複雑で詩的なマイクパフォーマンスに拍手と野次があがる。

 

 純白と漆黒、二枚の翼が特徴的な紫紺の衣裳。落ち着いた銀色の髪と紅色の瞳、大胆に露出した肌の白さは儚げな印象を与えるが、その足取りはたしかで、ほほえみはどこかワルそうに、自信に満ちている。

 

「よかった」

 

 控えのテントで独り、大柄な青年が安堵の息をついた。きまじめに濃い色のスーツを着こんだ彼は、蘭子を含む一四人のシンデレラたちの担当プロデューサーである。本人はやる気を見せて昂然としているとはいえ、まだ一四歳の少女だ。酒宴の仕事に萎縮しはしまいかと気を揉んでいたのだった。

 

「おっ疲れさまでーす!」

 

 背中に明るい声を投げつけられて青年は振り向いた。みじかい焦茶色の髪をした女性だった。フェストスタッフのユニフォームを着、細い銀縁の眼鏡から楽しげに笑っている。

 

「いやあ、ごめんねホント。ふつうに日本の子だなんて思ってなかった……。ローゼンブルクエンゲルとかドイツ語じゃん。グラビアもオトナっぽいしさあ」

「先輩……」

 

 青年は苦虫を噛み潰したような顔でなにか答えかけ、いちど視線を逸らしてから言葉をついだ。

 

「アーティスト名に英語もフランス語も昔からよくあるでしょう」

「ソロってみんな本名じゃない?」

 

 まったくそんなことはない。青年は首だけで答えた。

 

「それに、最近のグラビアには大きく一四歳と書いてあったと思いますが……」

「アーアー、ワタシ 日本語 ヨムノ ジョウズ ナイデス」

「アラビア数字も日本語ですか……」

 

 二匹目の苦虫を噛みながら、彼は追及をあきらめた。

 

「まあ、思いっきり勘違いで呼んじゃったけど、きみの子でよかったよ。拒否られたらどうしようって……予算とか」

「昼のステージでしたから」

 

 ビールの祭典といっても、ドイツの白ソーセージやワッフル、アイスなどの食べ物も提供されており、昼間は親子連れのすがたも多い。酔っ払いに絡まれることはないだろうと、彼は判断したのだった。ゆえに、売り出し中の神崎蘭子サイドに、このオファーを断る理由はいっさいなかったのだった。

 

「ありがたやありがたや……。でさ、なんかやつれてない? やせたよね、大学のころより。よしよしここはお姉さんがひとつ栄養のある黒ビールでもオゴリましょう!」

「まだ仕事中なのですが」

 

 返事も聞かず、眼鏡のスタッフはテントを飛び出していた。そそっかしいのは変わっていませんね、と大学の後輩だった青年は三匹目を噛むのだった。

 

 

 

「お疲れさまです、神崎さん」

 

 ステージを終えて楽屋にもどってきた神崎蘭子に、そのプロデューサーはタオルを渡す。少女がステージの火照りを冷ましたところへ、眼鏡のスタッフが小走りで帰ってきた。その両手に一つずつ握りしめたものに、青年は溜息をこらえる。黒ビールのジョッキである。律儀にもどこかの列に並んでいたようだ。

 

「おまたせー! あっ、お疲れさまでーす」

「うむ、炎天の獄卒よ、闇に飲まれよ」

「はい、修道院ビールよ」

「ビー……ル……?」

 

 まだ幼い少女には、差し出された濃褐色の液体とビールのイメージとが結びつかなかったようだった。

 

「日本では金色のものが一般的ですが、こうした褐色のものや、真っ黒いものもあります。原料もさまざまで、果物のビールもあれば滋養強壮剤のようなものまであるんです」

 

 蘭子に差し出されたジョッキをまんまと受け取り、右手に半リットルの重みを感じながら、彼はざっくりと説明した。彼自身、なぜこれを買ってきたのか説明されたい立場ではある。だがそれは求むるべくもないことだと、問わずともわかっていた。

 

「飲まなければいけませんか……」

「きみには水みたいなものじゃない?」

「しかし、いちおうまだ仕事中で」

「度数もたいしたことないんだし、バテて倒れる前にちゃんと栄養とっといたほうがいいって。ねえ、このひと、元気そうに見える?」

 

 大学時代の感覚にもどっているらしい先輩は、後輩が番をするアイドルに話を振った。

 

「えっ!? う、ううん……。追憶すれば、煩わしき太陽の支配せる時代になってより、我が友はその魔力に翳りが……でも、あの、いやがってるみたいですから……」

 

 前半部分に同意らしい雰囲気を感じとるや、そこから先は聞かず彼女はまた後輩に向き直って酒をすすめる。

 

「ほら、担当アイドルに心配されるようじゃだめでしょ。きみは心配する立場、ね? 度数だってふつうのビールと変わんないだろうし……たぶん」

 

 一般的なビールは五パーセント。修道院ビール、とくに色の濃いものになると七・五パーセントから、高くは一〇パーセントを超えるものもある。もちろん、この場の三人のだれも、そんなことは知らない。

 

「じゃ、乾杯ね。打ち上げも兼ねて……。主役の蘭子ちゃんは悪いけど、ミネラルウォーターで」

 

 青年は観念してジョッキを持ち上げる。少女が不安げに顔全体で見上げ、眼鏡の先輩は彼の目をのぞくような目つき。

 

「……あの、なぜ目を合わせてくるのでしょう」

 

 やりにくいのですが、と苦情をこぼす青年に、銀縁の女性は指を振って胸をそらした。

 

「ドイツのマナーみたいなものでね、乾杯のときにはひとの目を見てないと、そのさき七年は結婚できなくなるのよ。いやでしょう七年も……。うわあ恐ろしい……」

 

 だったらはじめから飲ませないでくれ、と男は目で訴えかけたが、届きはしなかった。ふたたびジョッキを持ち上げると、先輩はおなじように目を覗きこんでくる。ちらっと目をそらすと、神崎蘭子は顔を背けてなにかつぶやいていた。

 

「あの、神崎さん?」

「七年……経ったら、わたしだって……」

「神崎さん」

「待っててくれないかも、しれないし……」

 

 男は体中で溜息をつくと、まとめて何匹も噛み潰したように眉根を寄せてまぶたを閉ざしたまま、ジョッキを突き出していった。

 

「乾杯」

「あっ、貴様! 私を、私を呪われさせる気か? なんて邪悪な後輩なんだ……!!」

 

 ドイツの言い伝えを真に受けていたのは少女だけではなかったようで、銀縁眼鏡の奥の瞳はすぐに隣にいたおさない赤い瞳をのぞいた。

 

「蘭子ちゃん乾杯!」

「か、乾杯」

 

 

 

「すみません、断りきれず……」

 

 日比谷公園をあとにしながら、日傘を低く持ったスーツの男がいう。

 

「ま、まあ、あれで其方の魔力が充ち足りるのであれば」

 

 白のブラウスに黒のロングスカートとケープをまとい、そのいずれも大量のフリルで飾った少女が振り返らず答えた。

 

「だが、あの誘惑の毒気を浄化するには時を要しよう?」

 

 つづけられた言葉とともに、日傘の下から赤い瞳がのぞく。スーツの男は苦笑いとともに頷いた。

 

「きょうは急ぎの仕事はありませんし、お時間がよろしければ銀座を歩いてみませんか」

「銀ぶらなるものか。ふっふっふ、よかろう」

「申し訳ありません、酔いざましに付き合わせてしまって」

「構わぬ。……が、詫びたいというなら受けてやっても良いぞ」

「そうですね……」

 

 男は頭の中に銀座の地図を広げた。銀座駅からならば渋谷まで一本で帰れる。そこは行き過ぎないように、適切な店を探した。

 

「では、あまり広くはないのですが、喫茶店にご案内させてください。時期ですし、いいモンブランがありますよ」

 

 秋空にブーツの音も高く、二つの黒い影は銀座の街へ消えた。

 

 

 

(了)



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大人と子供  ゲスト:川島瑞樹

「はぁー、冷えるわねー」

 

 言葉と裏腹に楽しげな声が、半地下の広い元倉庫にひびいた。コンクリートを打ちっぱなしにしたここは、いまはシンデレラプロジェクトの面々が使う業務スペースであり、会議室であり、集会所である。

 

「おはようございます、川島さん。神崎さんもご一緒でしたか」

 

 小さいデスクとパソコンとで留守居をしていた青年が立ち上がって声の主を迎える。川島瑞樹と神崎蘭子、二人の開け放った重いドアは、内ノブにかかっていた蹄鉄を鳴らして閉まった。

 

「……どうされたんですか?」

「見てわからないかしら?」

 

 青年は首筋に手をやった。二人の高揚した顔、蘭子の手にした土鍋。土鍋は蓋の蒸気穴から湯気を立てていて、銀の十字架を散らした黒紫色のミトンで蘭子が掴んでいることからも、鍋料理ができたてであるらしいことは彼にもわかった。その中身は、彼の鼻にはなにも匂わず、不明であるが。

 

「ヒント」

 

 桃色の手指を返して、瑞樹は蘭子に話を促す。

 

「明けてより今宵の月は何度目か?」

 

 足を肩幅以上に開いて、歳の割に大きい胸を反らしてみせる。その前で脇を閉めて土鍋を持っているから、蘭子は全身でラテン文字のAをえがいていた。Aラインのワンピースとはよくいったものだ、などと青年は感心しつつ、謎かけに答える。

 

「七度目、一月七日ですね」

 

 二人は鷹揚に頷く。声に出して、青年もすぐ答えにたどり着いた。

 

「七草粥ですか」

「せいかーい!」

 

 平時より二オクターブほど高い声で瑞樹は正答を祝福した。脱いだ上着を振り回すのはハンドベルかタオルのつもりだろう。蘭子もようやく、重そうな土鍋をテーブルに置く。

 

「きのうスーパーで見つけちゃったのよねー。熊本・阿蘇で採れた春の七草セットって。これはもう蘭子ちゃんと作ろうと思って」

 

 蘭子が夏前にデビューしてから何度か一緒に仕事をした瑞樹は、この一四も歳の離れた少女を気にいっているようだった。相通じる世間話があるとは青年には思えなかったが、一緒に遊んでいるところを見かけることがままあった。歳の離れたお姉さんと遊ぶのを蘭子は楽しんでおり、瑞樹も若い娘とはしゃぎたいだけ……というのが彼の見立てで、それは正解でもある。

 

「それで意外と多くなっちゃったから、キミにも食べさせてあげる。アイドルの手料理よ!」

 

 堅苦しく述べられた彼の謝辞は、瑞樹の眉間を険しからしめる。

 

「キミは本当にかわいくないわね……。蘭子ちゃんは目をキラキラさせて喜んでくれたのに」

「生来よりそういうものは持たずにきましたので……」

 

 青年は生来の硬い表情を精一杯すまなそうにさせた。いいわけめいたあぶくが“女子中学生なみの可愛さを三十路間近の男に求められても……”と胸の底ではじけたのは、おくびにも出さずに。

 

 彼とほぼ同年代の川島瑞樹はそれこそ女子中学生のように唇をとがらせ、これもまた露骨にそっぽを向いてテーブルにお椀とれんげを用意しはじめる。手ぶらで来たと思っていた青年の当惑の目を見ることなく、二人は七草粥をよそっていく。

 

「これなるは桃花源の女御と我の」

「にょうご?」

 

 川島瑞樹の笑顔は笑っていない。

 

「む、むすめご」

 

 仲良く遊ぶなかにも、なんらかの教育があるのだろう。蘭子は上ずった声で言葉を直した。

 

「桃花源の娘御と我とが捧げし供物、直会(なおらい)の伴をせよ!」

 

 いいなおしのやりとりは見なかったことにして、青年は頭を下げた。

 

「ありがとうございます。お相伴にあずからせていただきます」

「では!」

 

 熱気立つ煮えた白米が、れんげに乗って彼の鼻先に突きつけられた。朱塗りもつややかなそれは鉄線の蒔絵がえがかれて、安物ではないことを主張している。鮮やかな赤い柄からそれを支える白い指へ、興奮気味の蘭子の顔へ、困惑ぎみの三白眼は移っていく。大きい赤い目はさらに丸く広がり、桃色の唇がゆるやかな放物線を描いて、口を開けろと言外のお達しである。

 

「あの、神崎さん。自分で食べられますので……」

 

 聞くやこんどは頬が膨れる。気恥ずかしさだけで断る彼ではない。柄をつたって蘭子の指にかかりそうな粥から二秒、彼は目を離す。

 

「川島さん、スマートフォンはしまってください」

「ちぇーっ!」

「あなたいったい何歳のつもりですか」

 

 飛び出そうとする余計な言葉を、彼は差し出された粥で防いだ。

 

「美味しいですね」

 

 しゃきっとしたセリの香りに、ほのかな塩味がさらなる食欲をあおる。歯触りのいいスズナ・スズシロも嬉しい甘みを添えている。彼は自分の顔を見ることができないが、瑞樹と蘭子の二人は満足げに笑んだ。

 

 ようやく席についた彼に饗された椀には、七草粥がきれいな半球状にこんもり盛られている。用意されたスミレのれんげで一匙すくえば、粥とは思えぬたしかな手応え。形を整えるためにずいぶんたたいたようだ。これを盛っただろう蘭子の椀に彼は目をやる。ごくふつうの量。一瞬、取り替えてほしいくらいに思う青年である。そして。

 

「川島さんのそれは……」

 

 ほぼスープだった。瑞樹の椀にあった米のすべてが私によこされたのでは? 青年の勘繰りは顔の皮一枚の下でどうにか押し留められた。

 

「うふふ、ダイエット中でーす♪ だってミズキ、アイドルだもん!」

 

 隣のアイドルと量をまた見較べて、青年の頭に、基礎代謝の四文字が浮かぶ。

 

「プロデューサーくーん? いま、“脂肪が落ちにくいもんな”とか思わなかったかしらー?」

 

 むせかえった青年の斜向かいで、図星を突き刺した魔女の目は険しくなる。その隣の蘭子だけは目を輝かせていた。

 

「おお! いまだ読心の力は健在か!」

「蘭子ちゃん」

 

 イマダドクシンの七文字を正確に漢字に変換できぬ瑞樹ではないが、誤変換を一つ経由したらしい。一オクターブ下がった声音に、向けられた蘭子より青年のほうが緊張した。だがそれも一瞬のことだ。彼女の顔は唇の中央を上げていかにもわざとらしくどこかユーモラスに、怒り顔を主張している。蘭子がしょげると、彼女もやっと表情筋の緊張を解く。

 

「いいもーん、気にしてないもん。だってミズキはピチピチの一八歳だからっ☆」

 

 否定形の言葉が口から出ないように、青年はなるべく多めに粥をすくって口に押しこんだ。蘭子もこれにならってか、お椀から直にスープをすする。自称一八歳はこれにこそおカンムリのご様子だが、二人は口のなかのものをどうにかするまでなにもできぬ。せいぜい、すまなそうに目で応えるだけである。

 

「アイドルに転向したときに諦めたと思ってたんだけどね、やっぱり親はうるさいのよ、結婚しろ結婚しろって」

 

 二人のしゃべれないことを逆手に、瑞樹はいいたいことをいいだした。

 

「せっかくアイドルになったんだもの。あと三年はスポットライトを独り占めしてたいなって。でもわかってくれないのよね~……」

 

 深々とため息をつき、とろみのついたスープをアジサイ柄のレンゲでかき混ぜる。

 

「ご結婚後もアイドルをつづけるのは、なかなか難しいでしょうからね」

「偶像の下僕たるもののなかには、片翼のままを嘆くのもあるというが」

「それはもっと上の世代の話ね」

 

 上? 傾きそうになる首を青年は制した。

 

「ファンって、若いアイドルには理想の恋人を夢見るものだし」

「神崎さんくらいのお歳だと、娘を重ねて見るかたもいらっしゃるでしょうね」

「うんうん、キミくらいの歳だとちょうど……」

 

 とつぜん押し黙ったかと思うと勢いよく手を叩き、それ以上の勢いで立ち上がった。

 

「それよ! 蘭子ちゃん、三人で写真を撮るわよ! それを送ってやればうるさい両親も黙るはず!」

「……どういうことでしょうか」

「そしたらとくにコメントなんかつけなくたってきっと私が東京で家庭を持ってるって思いこむわ!」

 

 独りで盛り上がる瑞樹の言葉を数秒遅れて理解し、青年は気色ばんだ。架空の夫に見せかけられようとしている。

 

「神崎さんまで巻きこむんですか」

「子供はいたほうが説得力が出るじゃない」

 

 大きすぎるだろう。冗談のような切り返しでは飲まれてしまうことを彼の理性は反射より先にさとって、なるべく論理的な切り口を探す。

 

「私はともかく、神崎さんの顔くらいご存知のはずでは?」

 

 川島瑞樹は両手を広げて、かしいだポーズで固まった。

 

「……つれご」

「私が神崎さんの父親で、妻には逃げられたと」

「……そこは……かっこよく死別とか……」

「わ、我が父も母もちゃんといる!!」

「だ、だんなさんがなくなってプロデューサーくんとさいこんしておくさんもなくなってわたしとさいこん……」

 

 神崎家を乗っ取った悪魔かなにかにされた青年である。このまま瑞樹の嘘を貫くとどうなるか、彼はつい考えた。つぎは自分が死んで瑞樹・蘭子の奇妙な母娘が遺るのではないか。

 

「神崎さんが悲惨すぎます」

 

 蘭子はさっきの比でなく両頬を膨らせて涙目になっている。瑞樹もさすがに我に返り、すっかりご機嫌斜めの少女に謝罪をしている。横から抱き寄せて頬ずりをするのが誠実な謝罪なのかは彼にはわからない。

 

「じゃあ気を取り直してプロデューサーくんと二人で。私がノイローゼになる前に顔を貸してちょうだい」

「返していただけるんですか?」

 

 浮かんだ返事は声にする前に、彼の危機意識が握りつぶした。蘭子の手前、あまり真剣に叱りもしたくなく、かといっておなじ独身者として彼女の親の味方もできはしない。

 

「ふ……ふ……」

 

 彼が顔だけいやそうにしていると、蘭子がわなわなと震えるのが視界に映った。

 

「太れっ!!」

 

 青年もいままで聞いたこともない<闇の言葉>、いやただの暴言を吐き出して、蘭子は土鍋に残っていた粥を瑞樹のお椀に放りこんだ。

 

 お粥を押しつけあう子供二人を、青年は疲れた顔で見ている。彼女たちはどうやったらおとなしくなるのだろう?

 

 

 

(了)



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知らぬが仏  ゲストなし

 重ねての大雨は暑気を洗い去り、太陽さえ一枚、薄衣をまとって秋の足音に耳をそばだてている。鎌倉は鶴岡八幡宮、蓮の葉があざやかなパッチワークを描く源氏池のほとり。ハトの群れとまばらな観光客のなかでスーツ姿の青年が、文字どおり抜きん出て高い頭を右へ左へ動かしている。

 

 ややあって彼がようやく動きを直線にしたその先には、少女が一人涼風の吹く空を見上げている。白と黒との絵画とことなるのは濃い銀色の髪が風にそよぐこと。そして瞳と唇に鮮やかな赤色が差していることだ。まだあどけない顔立ちに反すプロポーションやそれを覆うフリルとベルベットよりも、その赤の鮮烈なきらめきはひとの視線を釘付けにする。

 

 見開かれる観光客たちの目と好対照に、青年は鋭い三白眼を気持ち細めて、その少女の前に立った。

 

「こちらにおいででしたか、神崎さん」

 

 白百合のかんばせが、やにわに薄桃色を帯びて振り返る。

 

「遅いぞ、我が友よ」

 

 青年は蘭子の隣に立った。収録の後始末の長引いたことを詫びながら、黒いレースの日傘を小さい手から受け取る。

 

「なにか見えるのですか?」

 

 紅玉の目線の先を追って、三白眼は源氏池に浮かぶ中島の高い木を捉える。それを見上げたままで蘭子は答えた。

 

「天空の盗賊、貪食の翼の軌跡よ」

「ああ、トンビが……」

 

 彼の諒解を待ってか、焦茶色の四角い翼が螺旋をえがいて頂の梢を揺らした。幹のほうから、べつの一羽がその帰りを迎え出る。

 

「巣があるのでしょうね」

「ふむ、円環を描きしは右の比翼であったか」

 

 日傘の陰で、蘭子と青年はトンビのつがいを見上げる。樹上の二羽に飛び立つ気配はない。

 

「雄雌の別がわかるのですか?」

「我が眼力を疑うか?」

 

 蘭子が胸を反らすと、薄手のブラウスの肩が青年のみぞおちを叩いた。斜めを見上げるその目の赤には、不満とからかいの色が混じっている。悠長に遅れてやってくるのは男に決まってる、と。

 

 彼が重ねて遅刻を謝ると、蘭子は満足げに頷いた。そのままハトの群れを横切り、八幡宮の参詣道に向かう。待ちぼうけた姫君を日傘の陰から出さないように、青年は歩幅を狭くして華やかなフリルの背を追った。

 

 二足の黒い靴と砂粒のセッションを、蘭子は楽しんでいる。少なくとも青年の耳にはそう聞こえる足音だった。遠い国の言葉たちが風の声にちぎれ、規則的なリズムにあわせて歌う。

 

 参詣道に出ると、そこにかすかな笛の音が加わった。高くどこかくぐもった音色。和楽器だと二人は察して、出どころを探す……青年は目だけで、蘭子は上半身も使って。ゆるく巻いた銀の髪が、彼の顎の先で踊る。

 

「あの屋根のところ、ひとが集まっていますね」

 

 大きい手が舞殿を指した。高い基礎に乗った大きい四阿のような建物である。

 

「異教の偶像の顕現か……?」

「撮影や収録ではないようですが……」

 

 声こそいぶかるが興味をそそられたらしく、スカートのフリルを乱して、蘭子は足を舞殿へ急がせる。遠く聞こえたのは笙の音、雅楽の奏でられる舞殿には正装のひとびとが姿勢を正して座している。蘭子は青年に振り向いた。

 

「友よ、あれは?」

「おそらく、神前式だと思います」

「しん……」

 

 短い眉を寄せて、蘭子は言葉を文字に変え、文字の意味を記憶からひっぱり出した。

 

「天神地祇の許、孤独なる歩みは涯てて永遠への船出……」

「はい。……オープンな場で執り行うものなのですね」

「名も知らぬ旅人なれど、天の風の祝福を」

 

 憧憬のこもった囁きは、折からの風とともに舞殿を吹き抜けて、高い天へと運ばれていった。青年はちらと蘭子の背中を見た。こうしたやわらかな風の吹くとき、つい出る癖のようなものである。ふだんは隠している翼が見えるような、それを広げて飛んでいってしまうような気がして。

 

 蘭子の耳は神前式の音楽を堪能しきったようで、赤い瞳の興味に任せて奥、石段の脇にある切り株へと吸い寄せられていった。

 

「大イチョウ……? すでに死しているようだが」

「何年か前に倒れてしまったんです。しかし、いまは息を吹き返しているようですね」

 

 切り株の上に顔を出す鮮やかな若芽を彼は斜め上に指し示したが、頭一つ小柄な蘭子にはよく見えない。眉尻を下げて試行錯誤する彼女の小さい手を引き、青年は石段を登った。蘭子が覗ける高さまで登れば切り株は遠のき、小さい若芽が見えなくなる。それで、彼は切り株の真横で足を止めた。彼の目の高さでやっと、へし折れた断面が見える位置だ。

 

 日傘を白い手に預け、黒いフリルのスカートを肩まで抱き上げる。花の香りが青年の嗅覚を満たし、あわててしがみつく手が視覚の半分を占めた。きめ細かい布越しのやわらかな熱に集中しかける触覚だけは全身に分散させた青年である。それは少なくとも、耳の熱さを感じられる程度には成功していた。

 

「見えますか、神崎さん」

「おお、フレイヤの息吹を感じるぞ」

「逞しいものですね、わずか数年で」

「生えてきたのね、最近のことじゃあないのよ。五年前の春先に倒れたんですけどね、ふた月もしないうちに根っこから芽が出てきてたんです」

 

 とおりがかりの老婦人がそういって切り株のふちから青空を見上げた。揃っておなじような驚きかたをする蘭子と青年に目を細め、口許を隠す。やがて降りてきた老紳士とともに、会釈をして眼下に去っていった。白い日傘の揺れながら小さくなるのを見送って、黒い頭を抱えこむ蘭子の手がゆるんだ。

 

「五年……」

 

 蘭子は青年より二段上に降り立った。二人の目の高さが揃う。五年前には蘭子はわずか九歳、私は就職活動に勤しんでいたころか……。赤い瞳を正面に見た青年の胸にふと、感慨が涌いた。その当時にはアイドルのプロデュース業をするようになるとは、思ってもいなかった彼である。芸能界の裏方を志した高校時代、アイドルと知り合えるかもしれないなどと考えた日のことが瞼の裏によみがえる。

 

 ……その当時、つまり一〇年前には、この子はまだ学校にかよってもいなかった。歳の差を考えると、私が硬い学ランに袖をとおして、爪を痛めながら金の釦を留めていたころに生まれたのだ。隔世の感がめまいを誘い、青年はうしろへバランスを崩した。日傘を放り出した蘭子の伸ばした両腕につかまり、一段踏み外しはしたがこらえきった。

 

「すみません、ちょっと、昔のことを考えていたら……」

 

 蘭子に体勢を立て直させ、日傘を拾う。おなじ段に立つと、銀で染め抜いた絹糸の束は、彼の肩よりも低い。参詣者が気づかう言葉をかけつつ石段を登る。その頭が階段の端に見えなくなってから、青年は蘭子を上へ促した。神社のメイン、本殿はこの上である。

 

 しかし、蘭子は沈んだ様子で、それを振り落とすように首を動かすと、彼に向き直った。

 

「大樹は崩ずれど、ニーズホグの牙にも負けず春の歌を知った……。我が友の許でしおれし花も、異郷の風のもとにかぐわしく歌っているはずよ」

 

 蘭子は青年が、かつての失敗を回顧していると思ったらしかった。それも独りのつまづきではなく、少女たちの未来を挫いてしまった、苦い経験だと。よもやはるかに卑近な、過ちでさえないものに打たれただけとは知るよしもない。

 

「翼は黒白(こくびゃく)によらず、先へと翔ぶためにある。想うのならば、我が友よ、今宵の月、明日の太陽をこそ想い、照らされし絵姿をその黒き瞳に映すのだ! そして、ともにそれを未踏の地平に刻もうぞ!」

 

 純白のブラウスのフリルを翼のように広げて、血潮の色を濃くした瞳にこういわれてしまえば、彼には頷くよりほかできることはない。蘭子が石段を一つ登る。銀の前髪が青年の鼻の高さになる。次の一歩にさきがけ、青年もまた足を上に踏み出した。

 

「神崎さん、あじさいはお好きですか?」

 

 銀の髪はとまどったように揺れ、短い言葉とともに頷いた。

 

「我が友が捧ぐなら、移り気の手鞠でも蜂蜜色の薔薇でも、我は拒みはせぬぞ」

「ここからもっと北西に行くと、一面にあじさいの広がる、あじさい寺と呼ばれるお寺があります。そちらにお誘いしようと思いまして」

「な、なんだ。そうであったか……。だが、いまは……」

「はい、もうあじさいの時期ではありませんから、来年です。来年の初夏ごろ、いかがでしょうか」

「我が運命に刻んでおこう」

「ありがとうございます。見頃に、かならずお誘いします」

 

 次の春には、蘭子たちは彼の預かりでなくなり、広い世界に飛び立っていく。この少女をつなぎとめんとする、それはうしろむきな約束に思え、青年は奥歯でだけ笑った。

 

「よかろう、いかなる障壁もこの翼で飛び越え、其方の許に降臨しようぞ」

「頼もしいですが、ブッキングしたらお仕事を優先してくださいね」

「それはならぬ。我が友との約束、たがえることまかりならん!」

 

 青年の目許口許に嬉しそうな苦笑いがにじむ。

 

「来年はあじさい寺、また来年もどこか……。いつかは、我が友の郷里へ……」

 

 石段のてっぺんでつぶやいた声が、風に乗って散る。ただわずかに青年の鼓膜を揺らし、いつかの未来を瞼の裏に描きだした。蘭子の頭が己の肩をこえて、顎に届くくらいにはなるだろうか。服装はおなじままだろうか。彼女なら成人しても着こなせよう、心配など無用のものか……。そんな彼女に相変わらず日傘を差しかける自分。そう、蘭子のうしろを歩いているのは、まちがいない。そんな里帰りにきっと旧知の友人も親たちも、一様に驚く。

 

 行く先々で蘭子のことを訊ねられては答える姿は、蘭子に自分の故郷を紹介するというより、むしろその逆に思えるのだった。

 

「私が故郷をご案内するのもいいですが、いつかは、神崎さんの故郷をご案内していただきたいですね」

「きっ、聞いていたのか!?」

 

 蘭子は素っ頓狂な悲鳴を上げて、顔を赤く染めた。全身で振り返り、手足をせわしなく動かす。そのなかでふと、さまよっていた視線が彼の顔の横に止まった。ばたつく手も胸の前で小さく祈るようにしている。……はるか石段の下に見える舞殿から神前式の一団が出て来たのだ。色打掛に角隠しの花嫁が、鮮烈な赤を初秋の陽光に印象づけながら、紋付袴の新郎と歩む。

 

 蘭子は気恥ずかしさも忘れたように嘆息した。

 

「神崎さんは、神前式がお好みですか?」

「わ、我は天主と十字架に誓うほうが……。いや、な、なにをいわせる!」

「す、すみません。拙速がすぎました」

 

 蘭子は言葉の末節に気を配るほどの余裕はなく、すでに本殿に向けて歩きだしていた。余裕があったなら、“拙速”の二文字に“数年ののちにはあらたまって訊くつもりでしたが……”などと前置きを聞きとり、いまよりもさらに心臓を鳴らしただろう。

 

「なにをしている! ともに祭神の加護に(あずか)らん!」

 

 歩幅広く踏み出す蘭子の背を、青年はふだんどおりの歩調で追う。神さまになにを願おうか、いまさらながらに、鶴岡八幡宮のご利益を記憶からたぐりながら。

 

 

 

(了)



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見えないところで  ゲストなし

 白い壁紙と黒檀のパネルがコントラストをあざやかにする会議スペースに、神崎蘭子とその担当プロデューサーの姿があった。一週間前は机に向かい合い、新人アイドル蘭子のプロデュース方針について話していた二人だが、きょうはソファに並んで数枚のイラストを見較べている。

 

 革張りのやわらかさが大柄な青年の体重で沈みこみ、小柄な蘭子はかしいでその肩に寄りかかる。やわらかく巻かれた髪の一房に頬をくすぐられ、青年は鋭い三白眼を細めた。

 

「光と闇の狭間に揺れる薔薇は獄牢の束縛を花器と為さん」

 

 フリルの満艦飾でその身をいろどる蘭子の言葉は、彼女と向き合いはじめたばかりの青年には耳慣れきらぬところがある。

 

「ええと……体にフィットしたものがいい、と?」

 

 そのために言葉の意味を訊き返せば、そのたび蘭子はオウヨウに、あるいは満足げに頷く。青年はすぐ律儀にメモを取るので気づいていないが、白い頬に薄紅を散らして、少女はその姿を見守るのである。

 

「となると素材は伸縮性のあるものになりますね。神崎さんがふだんお召しの綿や絹ではなく、レザーだとか……」

「そ、そうなのか? 反逆者の鎧は金字塔の主がごとくしてあったが」

 

 短い眉を寄せる蘭子の言葉を青年が確かめようとした矢先、低くうなる声が二人の間を走った。ソファのやわらかさに飛び退きそこねてバランスを失った蘭子の、伸ばした細い腕を大きい手が掴み、胸許へ引き寄せる。

 

「だ、大丈夫です。ご心配なく」

 

 その身をあずけることになった、肩よりもあたたかいところに、うなり声の正体を蘭子は見た。

 

「隔り世の喚び声か……」

 

 頷き、懐のスマートフォンのコールに応える青年を、蘭子は見上げていた。短い会話でも大まじめにしていた彼は、臆病を恥じらう様子や胸板に居心地を見出す姿を、まったく見ていなかった。

 

「ちょうど、衣裳室が空いたそうです。生地から選ばれるのであれば、既製のものを参考にしてみませんか」

「へっ、あっ、ああ、うむ!」

 

 くつろいでいたのをごまかすような返事を受けて、蘭子を抱え上げるように床に立たせ、青年は大きい手で扉のほうを示した。

 

 服屋以上の密度で並ぶ衣裳の海で、銀糸の髪と赤いリボンを右に左に傾がせながら、蘭子は気にいったデザイン、手触りのものをつまみあげる。三着ずつ両手に持ってもどってきたのを、ねぎらい五着を受け取って、青年はわずかに首をひねった。

 

「どれも綿やポリエステルのようですが……」

「フッ、案ずるな我が友よ。時の反逆者はかつて主なきいかなる鎧をも随意のものと成したという。紡がれしものであっても我が曲線を顕すに不足はないわ」

「時の……川島さんですか? どんな服でも体の線を出して着こなしていた?」

 

 服に合わせて自在に肥ったり痩せたりしていたのでは……。たわけた考えが青年の脳裏をよぎった。そしてそれに引きずられて、口に出せるものが一つ、浮かび上がってきたのだった。

 

「あれのことでしょうか」

「あれとは?」

「神崎さんには真似のできない技ですね。正確にいえば、可能ではありますが

私がさせません」

「なにゆえ!?」

 

 蘭子の思わず取り落とした衣裳は裾で床を撫でると、青年の手を経てもとの小さい手に帰ってきた。なだらかな山を眉に描かせ、赤い瞳が青年を見上げる。彼は手にした衣裳をハンガーラックに預けると、ジャケットのボタンを外し、両肩で脱いだ。

 

「われわれ男はスーツのときによくやっているのですが」

「う、うん?」

 

 白いワイシャツにうっすら浮かび上がる、さっき束の間揺られていた胸板に、赤い瞳が見開かれた。その色がこぼれたか、頬がほのかに染まるのを、やはり青年は見逃していた。蘭子に背中を見せたためである。

 

「シャツの余りを背中に寄せて、スラックスとベルトで抑えて留めるんです」

 

 大きい目がまたたいた。青年のワイシャツは、言葉のとおり、鋭い三角形の折り目をベルトの下から肩のラインまで伸ばしている。

 

「女子アナのなかにはこれとおなじことをクリップでするかたがいまして……。おそらくかつての川島さんはそのタイプだったのでしょう」

「なんと……」

「三六〇度どこからも見られることを意識しなければならないステージ衣裳とちがって、写るのが正面だけなのでこういうことができるのです」

 

 蘭子が片頬を膨らせ、桜色の唇を尖らせたのは、淡いあこがれの砕けたためばかりだっただろうか。青年は振り向きしな、ジャケットを羽織ってしまった。

 

「神崎さんはとくに、背中側のデザインに注力されると思いますし」

「それは……無論のことだが。一対の光と闇背負いし孤高の薔薇を顕現せんと幾度の召喚を試したか……」

「きちんと採寸をすれば、神崎さんのご希望のラインで仕上がってきますよ。ですから、背中にこうした小細工をするのはよしましょう」

 

 一際やさしい声で諭されては断るすべもなく、蘭子は髪の房を小さく揺らす。

 

「では、我が鎧に相応しきトワゾン・ドールを求め旅立たん!」

「はい、オトモいたします」

 

 ……蘭子の衣装に適した生地素材を探すための時間は、三〇分を待たずしてファッションショーへと趣向を変えていき、やがて衣裳室の主に睨まれながら退散していく苦笑いの二人であった。

 

 

 

(了)



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それぞれの世界があって  ゲスト:小早川紗枝

デレステにハロウィンテーマの家具が実装されたときのものです。


 一〇月初旬のたそがれどき、人影もまばらな街角にときおり鋭い風が吹きつける。半袖のワイシャツの若いビジネスマンが二人、急な冷えこみと薄着の油断とを冗談めかして足を早めた。すれちがった一人の青年が振り返る。それは、彼らの奇抜なシャツの柄に驚いたからではない。彼の半歩前を進む少女が、唐突にきびすを返したからだ。

 

 ついいましがた通りすぎたショーウィンドウの前までもどり、その少女、神崎蘭子はポーズを作る。黒いレースのフレアスリーブの白い手で自分の小さいあごをつまみ、コルセットを巻いた細腰を抱いて、重たげに広がる黒のフリルのスカートから伸びた脚にはレース編みのストッキングをまとい、交差させている。

 

「お嬢さま、なにか気になるものがございましたか?」

 

 蘭子もまだ新人とはいえ歳若いアイドルである。嘘の代名詞で彼……担当プロデューサーが呼ぶのは、衆目を集めるを避けるためだ。目立つ外見には焼け石に水ともいえるが……。

 

「あ、ああ……我が下僕よ。煉獄彷徨う魂の饗宴、その偶像の秘める光が我を呼んだのだ」

 

 それは蘭子自身の楽しみによるところが大きい。寡黙で大柄な青年は、か細く豪奢な“お嬢さま”の守り人としてとくに違和感なく巷の景色の、明るい側の一部となっている。

 

 白魚の指の示すショーウィンドウには、ハロウィングッズが飾られていた。ダークブラウンの丸テーブルにティーセットが並び、紫の幽霊とオレンジのカボチャをかわいらしくアレンジした椅子がそれを囲う。おおきいジャックオーランタンが菓子箱になっていて、山盛りのゼリービーンズを床にいくらかこぼしている。楽しげなハロウィンの彩りである。

 

「覗いて行きますか?」

 

 蘭子は意外そうに彼を見た。仕事先のスケジュールが押して、蘭子たちのスケジュールが三〇分ほどうしろへ送られたとき、“早めに着くぶんには、まあ、あまり問題ないでしょう”と彼はいっていたのだが。

 

「すみません、言葉が足りず……。“遅刻するよりは早く着いて待つほうがいい”程度の意味でした」

 

 急に遠慮がちな目になった蘭子に思い当たる節を訂正する。真紅の瞳はころころとその輝きを変えるもので、銀の髪をたなびかせて自動ドアをくぐり、極彩色の空間へ飛びこんだ。モノトーンにこそ親近感のある青年は玄関マットの上でたじろいでしまうが、蘭子は嘆息しながら目当ての売り場へかけていく。

 

「お嬢さま、お待ちください」

 

 せまい棚と棚の間をすり抜けて青年は蘭子を追う。ひとがほとんどいないのは彼にとって幸いだが、体格の大きさが思うようには進ませてくれない。右によろけ左にぶつかりながら、ただ蘭子の迷いのなさに舌を巻くばかりだ。こうした店にはなにか、女性にしかわからない誘導があるのだろうか? いよいよ見当のつけどころさえ混乱する青年の視界の奥で、蘭子はようやく立ち止まった。

 

「フッ、煩わしい太陽ね」

 

 その挨拶は青年へでも棚にうずたかいハロウィングッズにでもなく、そこの先客がために発されたものだ。

 

「あら、おはようさんどす」

「お、おはようございます」

 

 挨拶を返した着物の少女、小早川紗枝は両の手にカボチャをつかんでいる。青年も滑りこみではあるが間に合った。紗枝は両手のカボチャ……正確には表情のことなるジャックオーランタンの大きいぬいぐるみに、頭を下げさせた。おなじ規格のものながら、表情は細かくちがう。左に持つのは口がひとまわり大きく、右は際立って垂れ目である。

 

「西なる都の姫君、其方も煉獄の灯火に惹かれたか」

「ええと……」

「小早川さんもハロウィンのグッズを買われるのですか? と……」

 

 蘭子の言葉にかしいでいた三つの顔が、説明をうけて、得心して頷いた。口の大きいほうは細かく、垂れ目のほうは鷹揚に、紗枝自身は小さく二回。

 

「うちとこのプロデューサーはんがこれとよう似た西洋座布団を買うてきてくらはりましてんけど、また友紀はんがなあ……」

 

 紗枝は姫川友紀、輿水幸子とともにKBYDというユニットを組んでバラエティを中心に活動している。三人ともマイペースでなにかにつけウルサイくらいだと、青年は担当の愚痴を聞いたことがあった。聞き流しがちな彼だが、紗枝も“ウルサイ”に分類していたのが意外で、それはよく憶えている。

 

「なにかありましたか」

「すっかり気にいらはってもうて、ずっと離しもせんとぽんぽん放って遊んだはるんどす」

 

 離さないのか離すのか。光景を一瞬、青年は想像しそこねた。

 

「けど、ほんまは座るもんどっしゃろ? うちも座りたいし、うふふ。そやし、もひとつありましたらええかなと」

 

 それでクッションを吟味していたと紗枝はいう。もこもこした見た目で青年はぬいぐるみとばかり思っていたが、それはクッションだったのだ。

 

「其なる灯火の依代を共にする契りを交わしては?」

「ええと、交代に使うというのは……」

 

 紗枝の表情に翳りがうかぶ。友紀への気おくれというよりも、気づかわしげに悩む顔である。

 

「まったく、あないな見た目は子供、おつむも子供、おっさんみたいなもん食べて、口を開けば野球の話、はあ、取り上げてやってもかましませんけど、なんやなあ……」

 

 クッションに視線を落として、ふかく溜め息をついた。

 

「あの、あまりそのように……」

「はい、はい、わかっとりますえ。たまにはあかん子になりたなるときもあるんどす」

「阿寒湖でも摩周湖でもいいからはやく選んでくれないか……」

 

 どこに潜んでいたのか、KBYDの担当プロデューサーがあらわれた。彼は手でちいさく蘭子と青年に挨拶し、紗枝の話を補った。

 

「いやね、たまには時季モノを一個くらいと思って買ってったのさ。そしたら紗枝が見つけて座って茶あ飲んで、本取ってくるって席外すだろ。次にもどってきた友紀が“あたしいっちば~ん!”って飛びついて。タイミングよくはいってきた幸子と投げ合いはじめてさ? 紗枝は行き場なくしてションボリってわけよ。しかも“これいいにおいがするね”とかいうから紗枝のやつ、さっきまで座ってたの返せとかいえなくなって」

「プロデューサーはん、決まりましたえ」

 

 小早川紗枝は迷っていたどちらでもない、牙がとくにギザギザのジャックオーランタンを顔の前に掲げてのたまう。短い悲鳴のような返事をすると、紗枝のプロデューサーはジャックオーランタンの先導についてレジへ行進していった。

 

「さあ我が友よ、我が煉獄を渡る供に相応しき魔獣を示せ!」

 

 蘭子はといえば、オレンジと黒と紫のマーブル模様の前に立ち、似合いのひと品を青年に求めた。目移り以前の問題を抱える彼は平衡感覚を狂わせて、ぬいぐるみやクッションの山の横に立てかけられた、おそらく売り物ではないだろう棺桶に手を伸ばす。

 

「死せる者の揺籠に供は務まらぬ!!」

「す、すみません」

 

 蘭子の体当たりで遮られた手を首筋に逃げさせる。目を大きくデフォルメされた骸骨のカカシにも手を伸ばしたが、不気味すぎると強く拒絶されてしまう。なんでもいいといったのに。青年は女性へのモノ選びの難しさをあらためて噛み締め、はたと気づく。なんでもいいとはいっていなかった。ジャックオーランタンでは安直に思え、堕天使のお供にコウモリは目新しくもなく、黒猫ならば先日チャームを一つ贈ったばかりであった。

 

「こちらなどいかがでしょうか」

 

 魔法使いの恰好をした、白い幽霊のぬいぐるみを青年は差し出した。

 

「お、おばけ……」

 

 たじろぎはしたが、愛嬌のある顔立ちにほだされたか、おずおずとだが蘭子は受け取った。両手を伸ばして鷲掴んだ、その姿勢のままで固まっている。

 

「し、しかしおばけは、その、夏の夜のものというか、もう雪の精も近づきつつある折ゆえ……」

「幽霊は夏、との向きはありますが、それは芝居小屋のお盆の都合のためですので……。お盆にも帰れない奉公人だけでも芝居小屋を営業するために、演技も設備も求められない怪談話が選ばれたことで伝統になったそうです」

「む、むう……。もっとたのしいはなしにすればよかったのに」

「肝が冷えるとはいいますが、ほんとうに涼しくなることはまれでしょうし……」

「そうでもない!」

「失礼しました。もっと古くは“幽霊の正体見たり枯れ尾花”というように、この時期にも……むしろうら寂しい時期こそ幽霊の時期と思われていましたし、ハロウィンの本家のイギリスに行けば、幽霊は冬のものだそうです。もっともあちらの幽霊は、この土地には由緒があるんですよ、という箔づけ程度のものですが。日本でも足のある幽霊が、雪の上に足跡だけつけて行く描写のために冬に出たり……」

 

 青年は口を噤んだ。幽霊話にこもった熱を瞬時に、短いうめきですべて吐き出す。だがときすでにおそく、蘭子は青い顔をして震えていた。幽霊のぬいぐるみを抱きしめて。

 

「す、すみません神崎さん。もっとかわいらしいものにしましょう」

「い、いや、これで、これでよい」

 

 とぼけた笑顔の幽霊を、赤い瞳がじっと見据える。抱きしめるというより抱き潰すくらいに力いっぱい、蘭子は幽霊を自分の胸に押しつけた。

 

「よろしいんですか?」

「よ、よい。其方の欲望のままに……」

 

 

 

 二人は余らせていた時間をほぼ使いきって現場にはいった。リボンのかかった丸いものをだいじに抱える蘭子を見た共演者が、めずらしそうに声をかける。プロデューサーからもらったと素直に答えかけて詰まった蘭子に代わり、青年が簡潔に返事をした。

 

「ファンからのプレゼントです」

 

 入り待ちかあ、と笑いながらそのタレントは去っていった。蘭子は反対に怪訝な顔だ。

 

「なにゆえ偽りを……」

「嘘ではありませんよ」

 

 目を丸くした蘭子は、身を翻すと薄暗いスタジオの廊下を先へ急ぐ。いきおいよく振り回された縦ロールが青年の胸を叩いた。

 

「その容は巌が如くして、宿りしは邪鬼の叡智、禁断の果実を貪り、聖譚曲を地に響かせ我を苛む……」

「あの、神崎さん……?」

 

 彼女の言葉は幾分わかるようになってきた彼ではあるが、その心の内まではまだ見えないことがある。彼女の赤い瞳に映る世界をこの目でのぞけたらと思うこともしばしば、まさにいまもそうであった。戸惑う青年の、わずかに丸みを帯びた三白眼を、蘭子は向き直って見つめる。

 

「我が友よ、なおも心に高潔はありや」

 

 じっと見つめ返し、彼は頷いた。険しかった眉が穏やかになるのを見届けて、青いリボンの紙包みに声をかけた。

 

「夜は私はついていられませんから、悪いことが起こらないように、神崎さんをたのみますよ、幽霊さん」

 

 蘭子はむくれてみせたが、どこか楽しそうだった。

 

 

 

(了)



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氷雨の街  ゲスト:渋谷凛・本田未央

とくていのもでるはいません。


「長い……長い雌伏の時であった」

 

 万感の想いをこめ、深紅の瞳が静かに開く。

 

「ついに取りもどしたね……私たちの城」

 

 閃緑の眼はいとおしげに、主を失って長い広間をめぐる。

 

「嗚呼、夢にまで見たこの絶景~! ではでは歓びの歌をば一番」

 

 栗色の跳ねた髪が揺れ、黒と銀の二人の前に躍り出た。

 

「気が早いよ」

「うむ、我らが同胞が揃わぬうちは……。だが、フッフフフ、猛る魂を鎖すことなど叶わぬもの!」

「おやおや? 魔王さまは我慢弱くておいでですかな~?」

「ふふっ、私も気持ちはわかるな。ふふふっ」

 

 三人の高笑いが広々とした空間に(こだま)した。真昼の太陽を覆う暗灰色の雲からは淀み透けた手が無数に伸びて、びたびたとはげしく346プロダクションの窓を叩く。その上には青空も星もあるといったところで、この天気は喜ばしからぬものであろう。

 

 三月も半ばというのに寒がこぞって帰省してきて、東京のコンクリートジャングルが噴き出す熱気を征服してしまった。地上三〇階のこの部屋は、上半期いっぱいまで魔王夫妻と宮廷道化師……もとい渋谷凛、本田未央、そして神崎蘭子が使っていたものだ。より正確には彼女たちを含めたシンデレラプロジェクトが、である。下半期中に成果を出さねば解散とまで追いこまれた新人アイドルたちがついに成果を認めさせ、この部屋にもどる権利を得たのは、ひと月ばかり前のことだ。だが引っ越しなおす時間もなく、部屋はガランドウのままである。

 

「神崎さん、そろそろ発ちませんと」

 

 小芝居に夢中の魔王蘭子に、暗がりから現れた大男が腕時計を示した。彼女たちの担当プロデューサーである。

 

「む? も、もうそのような……」

「ありゃー、ほんとに一曲やる時間もないかー」

 

 おどけていた未央がぴしゃりと自分の額を打つ。

 

「ごめん、時間取らせちゃったね」

 

 凛はそういって緑の黒髪を揺らし、蘭子を青年のほうに促した。発たねばならぬのは蘭子とその保護者たる彼だけで、凛と未央はただ蘭子をここに誘って遊んでいただけだった。

 

「急いで急いで!」

「未央が引っ張るからだよ」

「しぶりんだってノリノリだったじゃーん!」

 

 じゃれあう二人へ挨拶も手短に、蘭子と青年は持ち物の確認をして部屋を出る。

 

「頑張りなよ、蘭子。またみんなで、この部屋で待ってるからさ」

 

 背中に飛んできた今生の別れのような台詞に二人が振り向くと、すでに未央が凛をからかう段になっていた。

 

 きょうは新作ラジオドラマの収録。実績はいくつかある蘭子だが、それでもデビューしたての新人である。時間ちょうどどころか遅刻などはできぬ。足を滑らせないよう、蘭子のボリューミーなゴシックロリータが雨に汚れないよう、とくに青年が気をつかいながらタクシーを拾い、現場へ急いだ。

 

 その甲斐あって七分前に滑りこみ、蘭子を預けてさらに別件での仕事を終えて、……青年はカフェの窓側のカウンター席にいた。蘭子をスタジオに迎えに行くまでの、わずかながら空き時間だ。雨はやむ気配をみせず、風はその強さを増していく。

 

 知らず、溜息をつく。あしたは晴れて気温も上がるという予報を疑わしげに、青年は空を見上げた。にぶい色の単調な空が鋭い三白眼に眠気を注ぎ、まぶたを重くさせる。涙袋のしびれがこめかみまで広がり、じわりときえていく。スマートフォンが鳴った。凛からの電話だ。

 

「あ、プロデューサー? いま空き時間だよね?」

「はい、もうじき神崎さんを迎えに行くところです」

「そう。送るの間に合った?」

「はい、問題なく」

「よかった、あんなことやって遅刻させたら可哀想だからさ」

 

 電話口の奥で、未央と責任の所在をぶつけあうのが聞こえる。……もちろん、ふざけているのである。

 

「突然でしたね、プロジェクトルームに行こうとは」

「うん……。奈緒から聞いたんだけど、そのラジオドラマの監督、すごく指導が厳しいんだって」

 

 青年はその名前を頭のなかから引いた。凛の友人で、アニメ作品に造詣の深い少女だ。今作の監督はこれまで多数のアニメ作品を手がけているので、彼女の情報網にも引っかかっていたのだろう。

 

「叱られすぎてストレスで酒浸りになったひとがいたとか、頭にきて“目の前で死んでやろうか”って思ったひともいるとか」

「そんなにですか……」

「だからちょっとは励みになるかと思ってさ」

 

 あの深刻なエールのわけに、青年は納得できた。

 

「きっと、素晴らしいお守りになったと思います」

「オマモリ……。ふふっ、まあ、そうかもね」

 

 押し殺しきれてない笑いがまだ聞こえる。

 

「未央はなんかいうことある? もう切るけど」

 

 遠くに未央の戸惑う声を二、三秒流して、通話はブツリと切れた。不安の虫にせっつかれ、青年は席を立った。

 

 

 

 仕事を終えた蘭子は、塩した青菜を体現していた。笹の小舟のような眉も長いまつ毛も見事に下がり、情けなく開いた唇の隙間から吐息とともにうめきが漏れる。死を決意するほどの傷は負わなかったらしいことは蘭子にも青年にも幸いである。少し安心した自分に気づき、青年はかぶりをふった。

 

「お疲れさまでした、神崎さん。さ、346にもどりましょう」

 

 ゆるく巻いたツーサイドアップを力なく揺らし、蘭子は青年の袖をつまんだ。

 

「すこし、歩きましょうか」

 

 虚ろな赤い瞳が上がる。“この大雨に?”といっているのだろう。

 

「駅ビルでなにか甘いものでも」

 

 彼にいえる最大限の甘言は有効だった。曇りきっていた少女の目に生気がもどる。しかし蘭子は二つ縛った髪を振り回し、またうつむき気味に、言葉をこぼす。

 

「憐憫など無用、闇に生まれし姫は傷を背負いその力を増す……」

「すみません、あなたの打たれ強さ、見くびっていました。では参りましょう」

 

 外の雨はいっそうはげしく、ぼたぼたと舗道に落ちている。もはや径が大きいといえど、傘を差しても濡らさずに済むのは胸から上程度のものだろう。タクシーを拾うまでの、五分のうちであっても。

 

「失礼します」

 

 青年はコートを開き、左身ごろに蘭子をくるんだ。戸惑う短い声が胸許に上がる。

 

「これなら濡れずに済みますので」

 

 数歩の距離だが、きっと心に降る雨にしとどに濡れただろう蘭子を、この氷雨に打たせるのは忍びなかった。戸惑う声は静かになって、わずかに身ごろが引っ張られる。

 

「わ、我が友よ……。その、先の……甘美なるいざないだが」

 

 遠慮がちに、しかし強く、赤い光が照りつける。

 

「やはり、受けようと思う。下僕の雅量を受け止めてこその魔王よな」

 

 魔王蘭子は、下僕の懐におさまりのいい場所を探す。満足げに鼻を鳴らすのを聞いて、青年は歩みを促す。ゆっくり、足並みを合わせながら、雨に煙る通り沿いを駅へと。

 

 雨音がすこし乾きだし、二人の目は街並みに転じた。冷えきった空を裂き注いでくるのは、白くまだ重みを感じる……。

 

「凍てつく女神の涙か……」

「三月の東京に、雪ですか……」

 

 みぞれのようなものとはいえ、雪は雪にちがいなかった。自分では晴らすこと叶わなかった蘭子の顔を、たやすく色めかせてしまったにび色の空に、青年は眉根の寄った視線を鋭く投げかけた。

 

 

 

(了)



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支えるもの  ゲストなし

 真夏の太陽は空を青く塗りつぶし飽きたのか、少しずつ白の粒子を散らして縁の方からベージュ色に染め替え始めていた。己の短い影を見下ろし、青年が黒いベルベットの日傘の柄を握りなおす。すっかり手に馴染んだ、女物の細いハンドル。

 

「出てくるのが少々早すぎましたね……」

 

 小さい日陰に、熔かした銀で染めた絹の房が揺れる。斜め上から見るそれは、彼にはもう見慣れた光景だ。花の香りを含んだその銀の下には、名工の彫った大理石の白貌が血色を透かし、透きとおる真珠に飾られている。

 

 神崎蘭子、彼の担当する一四人の“シンデレラ”の一人は、黒いマスカラをなんとかそびえさせ、紅玉の瞳を斜め上へ向けた。

「うむ、太陽の呪いが……」

 

 答える声に覇気がない。それは暑さと陽射しのせいだけではないだろうことを、青年は察している。ここ、銚子半島を走る私鉄が開催する夏のイベント、“お化け屋敷電車”をリポートする仕事で訪れたのだから……。

 

 停留所までの短い道中、蒸し焼きの歩道に、黒のストラップシューズの音はどこかくぐもる。

 

「凍れる雷の馬車よ、グラズヘイムの風をもたらせ……」

 

 それこそ幽霊のような足取りで、蘭子はバスの後部、車道側の二人がけ席へ向かう。すぐに座らないのは、窓側に大柄な青年を着かせるためだ。体の色素が少なく、

暑さにも陽射しにも弱い少女の自衛であり、新人とはいえアイドルである以上、なるべく人目を避ける意図もあった。青年が少し窮屈に座ると、蘭子は一人ぶん弱の空間に行儀よく小柄な体を預けた。

 

 少女一人、青年一人、それに老人を数人乗せたバスは利根川沿いを半島の突端へ走る。蘭子は通路と空席越しに、コンテナの詰まれた河口域を眺めていた。

 

「ティターンの寝台か」

 

 歳相応の好奇心を輝かせる視線の先では、利根川の河口を一直線に赤い帯が横切る。青年はいつものように、知識のかぎりで蘭子に景色を教える。

 

「銚子大橋ですね。あの対岸は茨城県です」

「茨城……」

 

 声のトーンが下がる。以前、彼女のアイドルとしての名義“ローゼンブルクエンゲル”を“茨城の天使”と友人に揶揄されたことは、彼女との友情の手前、表立てはしなかったがやはり不満であったらしい。その友人、心霊モノを趣味とする白坂小梅もこのロケに興味を示していたが、“怖がらないから”を理由に制作サイドから門前払いされた。それで非常な怖がりの蘭子にオファーがされた極端さは、温和な青年もおおいに眉をひそめたものだった。

 

「橋の長さは一・五キロで、川の橋としては日本一だそうです」

「大和に無双の紅き糸か……」

「利根川そのものも日本一ですね」

「牢獄の金糸雀がさえずっていたわ。恢恢たる龍脈を束ね不死の灰に塗れたこの地の命を支える、と」

「きちんとお勉強もなさってるようで安心しました」

 

 頬を桃と膨らせ、短く整えた眉を力強くして蘭子が振り返る。青年はそっと銀の細い髪を撫でた。バスの空調ですでに乾いた銀の髪は指と指、指と爪の間をくすぐってはこぼれ、梳く手こそ心地よくなるさざ波だ。怒りを鎮めるのも、純粋に褒めるのも、心の棘を抜くのも。三つまとめてしまおうかという己が横着さを青年は笑う。……手を離すときに、名残惜しそうにしていたのは赤い目ばかりではなかった。

 

 

 二人は銚子ポートタワーの前でバスを降りた。

 

 長年の海風にガラスの曇りは強く、タワーからの眺めに蘭子は物足りなかったようだ。近くのレストランでは、醤油のアイスを物珍しさから頼み、想定以上の醤油味に苦戦する。なんとなく見越していた青年のバニラを貰い、その甘さにご満悦。醤油アイスを引き取った彼は、なるべく表情を一定にして(彼には不要な努力という向きもある)完食に努めた。

 

 ふたたび車上のひととなり、銚子半島の突端を二人は南へ、関東最東端、犬吠埼へ向かった。仕事は夜になる前から始まるが、いま真昼からはまだ時間がある。二時間ものあいだ、一両編成の電車でオバケ屋敷と対峙させられる蘭子のための、これは時間である。

 

 犬吠埼灯台は緑と明褐色の崖の上で白い巨体をまっすぐに、青も鮮烈な空を裂いて突き立てている。太陽の光を鋭く反射する突端を見上げ、蘭子が日傘の縁越しに嘆息した。

 

「螺旋階段は九九段あるそうです」

(きざはし)の数など我にはかかずらうことのないことよ」

 

 “九九段じゃなかったら怖いから数えない”と理解して、青年は頷いた。しかし頂上からの眺めにはおおいに興味があったようで、青年に先んじて階段を登る蘭子である。女性と同道するときの礼儀として、階段は男が先に上りあとから下りる。その機会の一つを青年は失う形になった。

 

「神崎さん、やはり私が先に参りましょうか」

「い、いや、構わぬ。だがア・バオア・クーを振り落とさぬよう……」

 

 蘭子はスカートの尻を抑えて、アヒルのように階段を踏んでいく。先の礼儀といまの青年の言葉の意味するところはこういうことである。

 

 頂上の小さく重い扉を開くと、強烈な風が吹きこんでくる。蘭子は細い体を見えざる激流にねじこみ、どうにか灯台の外周をとりまく手摺をつかまえた。

 

「わ、我が友よ、我に翼の庇護を……!」

 

 声は紅唇からこぼれるはしから風にさらわれていく。その向きは定まらず、風避けになるにはうしろからかぶさるほかなかった。それでも正面からの風は防げぬ。ときおり銀色の絹糸が逆巻いては彼の顔をくすぐる。

 

「一巡りしてみましょうか」

「う、うむ。エーギルの館にかかる弧光を瞳の贄となそう」

 

 犬吠埼灯台の扉は丘側にあり、そこから狭いテラスを

半周すれば、太平洋に囲まれた孤島に立ち尽くす錯覚へと落ちていく。はるか眼下でクリーム色の荒磯に白波が砕ける音は、硬い床にあるはずの脚を掬い、心を寄る辺なき紺碧の宇宙へ引きずりこむのだ。

 

 蘭子の細い肩を掴む手に、かすかな震えが伝わってくる。青年は少しだけ身を乗り出し、白く儚げな身体を包んだ。銀の髪がシャツ越しに胸をくすぐる。

 

「ご心配なく。私がついています」

 

 返事の言葉はなかったが、海抜五〇メートルのあらしま風に冷えた手で強く彼の手の甲を掴むと、うつむきがちだった白銀の頭を上げた。青年は赤い瞳の行方を、空と海とを隔てるゆるやかなアーチに追う。アーチの上、ベージュがかった淡い青を泳ぐ、平たく黒い影が見えた。

 

「神代に生きたものを運ぶ方舟か……」

「東北の港へ行くのでしょうね」

 

 二人で見はるかすその石油タンカーは、じっと見ていてはわからない速さで北へ動いている。

 

「方舟と我らを隔つ時空はいかほどか」

 

 その遥かな船影と外洋の波のほかに動くもののない孤島の景色に飽きたのか、蘭子がそう尋ねた。

 

「水平線の上ですし、簡単に計算しますが」

 

 水平線までの距離は、目の高さの平方根を三六〇〇倍したものとほぼ等しい。灯台の五〇メートルに真面目にも身長を加え、およそ五一メートルの平方根を青年は考える。

 

「およそ二五キロメートルといったところですね」

 

 蘭子の尊敬のまなざしに、青年は首のうしろをかく。平方根を七で妥協した、ばつの悪さのためである。

 

 

 

 白鉄と烈風の孤島から関東平野の端に帰ると、太陽の白色がややオレンジを帯びはじめていた。それでもまだ、ロケの用意を始めるには早い。そう伝えられると、銀の髪と真紅の瞳は二つの青のはざまを巡り、おごそかに返事を告げる。

 

「ならば星の鼓動を聴かん」

 

 太陽より白いフリルの袖を広げ、パステルブルーの小さい爪はまっすぐに、浜辺……君ヶ浜海岸を示す。犬吠埼のすぐ北側にある君ヶ浜海岸はごく一般的な海岸だ。黒っぽい砂に、そう広くはない浜。夏休みがはじまって間もないためだろうか、ひとはほとんどいなかった。寄せては返す外房の波は耳に心地よく、かすかな風と這い上がってくる香りはあまじょっぱい。

 

「我が友よ、アクア・ウィタエの洗礼を、う、受けたいのだが……」

 

 ストラップシューズ越しに砂を踏むだけでは我慢しきれなくなったのだろう。おずおずと見上げてくる少女に、青年はかばんの中身を示した。

 

「スポーツタオルはありますから、足首まででしたらいいですよ」

 

 喜色をたたえた声とともに、蘭子は黒い靴を脱ぎ、そこへ白い靴下を押しこんだ。ハンドバッグも砂上のものとして素足の感触に歓声を上げ、まぶしい笑顔の花を咲かせる。危うい足取りで波打ち際へ行くと、濃い色の砂の冷たさに、短く楽しそうな悲鳴を上げた。

 

 波の冷たさにも二、三度たじろいで、足首までを白波に預ける。目を細めて見守る青年に手を振る姿は一四歳よりもあどけなく見えた。引く波に足の下から砂をさらわせる遊びに、蘭子は夢中になっている。ほのかなピンク色を浮かべるその白い肌を、青年は日傘の丸い影に隠した。意外そうに蘭子が、丸くした目と口で見上げる。

 

「友よ、アキレスの生命線は……」

「脱いできました。神崎さんの赴くところへオトモをしなければ、いる意味がありません」

 

 スラックスの裾を捲り上げるなど、何年ぶりのことだろう。いや、海自体、もう久しく触れていなかった。波にさらわれる砂が足の裏にしがみつくくすぐったさが、感慨を彼につれてきた。薄くない足の皮膚が体温と水温の釣り合いをとるのに、さして時間はかからなかった。

 

「開闢以来のことよ」

 

 はにかんで、蘭子が見上げた。

 

神祖(かむおや)たる母に触れるのは」

「はじめて……海が、ですか?」

 

 蘭子の言葉を声に出して確認したのは、海に触れるよりもずっと短い断絶であったが、やはり久しぶりだった。小さく、しかしはっきりと、蘭子は頷いた。

 

「太陽は白き我が身を呪う……。天なる神々はその眼差しから我を隠すため、エーギルを疎んだのだ」

「すみません、配慮が足りませんでした」

「フッ、黒き魔人の守護がある。それでなにが恐ろしいものか」

 

 足にはねた飛沫が二人の顔のあいだまで上がり、重力の手に引かれて海へと帰っていった。よれていたネクタイと襟を直して、過ぎたる光栄に発そうとした言葉は、しかし、白妙のどこか大人びた笑みに塞がれてしまった。

 

「故にいましばしの人魚の刻を……」

「はい、心ゆくまで」

 

 バスが来るまでというべきだったかもしれない。いいきってから後悔したが、波がすぐどこかへ洗い流していった。蘭子がこの時間を楽しく過ごすことができればいい。このあとに控えるものを思い、表情を少し引き締める青年だった。

 

 いまふたたびの強い波がしぶきを蘭子の頬まで跳ねさせた。拭った手に紅唇を寄せる。鼻腔にざらつく塩の味を青年は思い出した。小さい舌を突き出して塩辛さを吐き出そうとする蘭子にハンカチを勧める。……さすがに青年のは差し出さず、蘭子自身のレースのものを使うようにと。

 

 しばし口をもごもごさせていた蘭子は、背筋を伸ばしなおす。スカートの裾をつまみ、いたずらっぽい顔を見せて銀の髪を、ブラウスのミルクホワイトのリボンを、黒いスカートの豊かなフリルを、さざ波の音のなかに翻して駈け出した。

 

「いかな茨にも我は囚えられ……」

 

 ……正確には、駈け出そうとして、足をもつれさせた。もがく腕を大きい手がつかみ、引きもどして胸で受け止める。はずんでまた海面へ倒れんとする身体を支える腕が、厚手の固い布越しの、張りのある弾力を感じた。

 

「立てますか」

 

 恥ずかしく思ったようで、身体をわななかせうめきながら、蘭子は白い脚を泥に突き立てた。自力で立てることを確かめ、青年はそっと手を離す。

 

「波打ち際を走るのは、水着のときにしましょう」

「乙姫の羽衣……」

 

 学校指定のではない、好みのデザインの水着と写真でしか知らぬはるか南の海に、少女の心は飛んでいた。危なっかしいその肩に、青年の手が添えられる。

 

「真珠を踏みしめ、満ちるは水宝玉。天青石の輝きのもとに……」

「いずれ、海での仕事を見つけてきましょう」

「うむ、其方の黒き翼で、我を導くのだ」

「翼、ですか……」

「そうとも」

 

 顔ごと見上げる、確信を充たした両眼は、日傘の影に反響する金波を従えて美しい。場所が場所であれば彼は跪いてしまったかもしれない。

 

「私にも翼があるのなら、いいですね。そうしたら、どこまでもあなたと……」

 

 あなたと……? 思いがけぬ言葉を発した喉を、青年は意識的に押し留める。

 

「我と、ともに……。ともに……」

 

 蘭子もまた、うつむいて声を詰まらせた。青年はひやりとする波の寄せて返すのを、百も数えたろうか。片手で触れる白い肩はまだ熱い。深い深いルビーの光が、まっすぐに彼の目を射った。

 

「ずっと、傍で護ってほしい……」

 

 消えいりそうな声だった。青年は幻聴と思った。願望が潮風をそう震わせたのだと思った。だが赤い唇はたしかに、彼の目にも、そう動いたのである。……日傘を持つ手が、ひとりでに蘭子のデコルテラインを抱き寄せた。

 

「ずっと、あなたのいちばんの支えでありたいと思っています」

 

 水平線を見つめてつぶやく。返事は潮騒にまぎれて聞き取ること叶わなかったが、細い顎の触れた腕がたしかに受け取った。近づいたうなじの香が、外洋の臭気を一掃する。

 

「ちょ、ちょっと、苦しい……」

 

 声は遠慮がちながら、青年の全身を心臓ごと跳ねさせた。あやふやな言葉で謝りながら、腕の力を抜く。ごく藍がかるゆるやかな太平洋のアーチが、青と白の鼓動を送りこんでくる。

 

「そろそろ、もどりましょうか」

 

 こんどははっきりと、満足気な返事を蘭子はした。下ろされた青年の腕に潮風が冷たい。二歩だけ海の深くへ進んだ蘭子が振り返り、歯を見せて笑う。

 

「いまこの身に魔力は満ち満ちた。ラグナロクの前夜祭に、夜の一族の尖兵を打ち果たしてくれようぞ!」

 

 銀の髪をそよがせる裸足の女神は、無限に広がる空色の翼を背負っていた。

 

 

 

(了)



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嵐の春に  ゲストなし

 

 咲きかけの梅の鮮烈な香りを、南風が低彩度の街に吹き散らしていく。神崎蘭子は紅の瞳で長々とつづく赤信号を見やり、あわてふためく鳥と化した黒の日傘をたたんだ。

 

 これは春何番だろう? ぼんやりした感想と一緒に吐き出した溜息を新たな風がさらい、濃い銀色の髪を乱す。手櫛で整えて落ち着く間もなく、次の風が少し生地の薄い春物のドレスに、黒いフリルの荒波を立てた。

 

 春の嵐の絶え間ないいたずらに、蘭子は顔にかかるセミロングの髪を抑えた。故郷の熊本にいたころのこの風の時期には、ただ顔をしかめ、憂鬱な気分で、出歩きを控えていた。好んで着るゴシックロリータのフリルが崩れてしまうし、お気にいりの日傘を差していられないからだ。

 

 346プロダクション所属の新人アイドルとして上京したての二年前の春も、憂鬱に変わりはなかった。それでも出歩くようになったのは……。少女はごく淡いアイシャドウの瞼を下ろした。顔で唯一漆黒の、長いまつげが左右に振れる。あの春は、はじめての東京、あこがれの原宿で、木の葉よりも気持ちが高く舞い上がっていて、かつてなくアクティブだったのだ。

 

 そして去年。少女は風に膨らむ胸許のドレープを白い手で抑えると、桜の唇を引いた。まったく無意識の微笑だった。

 

 

 

「これでは、日傘が差せませんね」

 

 一年前の春、風の日に、蘭子は斜めうしろに心地よく低い声音を聞いていた。声の主、一回り以上も歳の離れた、蘭子を包み隠せそうなほど大柄な青年の、託された黒い日傘を閉じるバネの音が風のうねりとともに、色づく耳朶に届く。

 

「猛るゼピュロスは蝙蝠の空を奪うか」

「早めに落ち着いてもらいたいところです」

 

 頼もしい気配がまうしろに、半歩だけ近づいたのを蘭子は風の流れに感じた。当時はゆるめに巻いたツーサイドアップだった髪は、もどされた耳のうしろで静かに揺れている。

 

「だがそのときは、春の女神が冥府を去るときぞ、友よ」

 

 歳のわりに豊かな胸を反らすと、頭の先が友の熱に触れた気がした。青年の脚の間を抜け、少女の脚にまとわりついて、また風が通りを駆け抜けていく。

 

「春はまだ、もう少し先です。神崎さん」

 

 背後の声は風のもたらした湿度を含んで、銀色の頭上に注いだ。回りこんだ西風の神の指先が二房の髪をかき乱し、少女は歩幅を狭めた。厚い胸郭が頭にあたり、重心を失っていた脚がよろめく。

 

「す、すみません」

「よ、よい。我が庇護たる漆黒の翼よ……」

 

 太い腕から胴を解き放たれた蘭子は、向きを変え正面から吹きつける突風によろめき、たくましい胸にふたたび顔を預けた。細い肩に感じるいかつい指はふだんよりも痛く、しかし不思議とそれが快いのだった。

 

「風除けくらいにはならせてください」

「よかろう。我が征く覇道の黄塵を晴らせ」

 

 鼓膜をくすぐる声にささやき返した。短い返事で進み出た広い背中は少女の視界を埋めてしまったが、道が見えなくなったという思いはなかった。揺れる前髪の向こうでときおり振り返る逆三角の三白眼に、頬を上げてみせながら、黒のブーツはレンガ道を軽やかに進む。

 

 ただ、春の風は気まぐれで、交差点では真横から、ビルの谷間では渦を巻き、一本道には前にうしろにと向きを変え、そのたびに青年も歩く位置を移った。自分よりも一〇数回、この季節を多く過ごしたはずの友の、その慌しい様子に蘭子が笑い、青年もはにかんで頭を掻いた。

 

「思うようにはいきませんね……」

「天に縛られし哀れな太陽とは神格がちがったわね」

「あなたのためにもっと、できることがあればいいのですが。残りの時間は、さほど……」

 

 青年は肩越しの視線を切って、かぶりを振った。蘭子もまた、後半の言葉を風に飛ばされたことにして、下唇を噛む。

 

「……まだ、楽園は門を開かぬ。ファヴォニウスの祝福にて、太陽のしずくを供物とせん」

 

 上ずり気味の声に、青年は顎に手をやると、ふだんの落ち着いた瞳で問う。

 

「喫茶店で、ハーブティー。ですか?」

 

 見上げる赤い瞳を外さぬまま頷く。青年は広い背中で答える。

 

「それでしたら、少々歩きますが、いいお店があります。ご案内しましょう」

「うむ。うむ!」

 

 細い体をはねさせるようにして、蘭子は何度も頷いた。上半身で振り向いて青年はそれを笑顔で受け止め、うやうやしく蘭子を春風のなかへと連れ出した。

 

 

 

 ……それからふた月が経たぬうちに、蘭子は新人アイドルの肩書を卒業……すなわち、青年の手を離れ、中堅と肩書を変えて独り立ちを果たした。所属が変わっても会社は変わらない。ゆえに、会おうと思えば彼にはいつでも会えた。だが去年の一年のように、ともに歩くことはないのである。

 

 春の大風をふたたび憂鬱に思ってついた溜息の飛ばされていく先を眺めて、蘭子は青信号が点滅していることに気がついた。一年分だけ遠くなった一日を思い返している間に、渡りそこねてしまった。赤くなった信号に困った視線を送り、すくめた細い肩に、うしろから声がする。

 

「なにかお悩みですか」

 

 快く低い声に、白い耳朶は色づき、喉は歌うように気取って答えた。

 

「旧き風に我が翼が乱れただけ、飛ぶに障りはないわ」

 

 背筋を伸ばしきったあとで、少女の意識は声の主に気がつく。振り返るのを待たず、耳と心をくすぐる声の主は言葉をついだ。

 

「頼もしいですが、こういう日は、風除けが必要でしょう」

 

 一年分だけ幼くかえった笑顔が、おだやかな逆三角の三白眼を見上げた。

 

 

 

(了)



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