ドロドロのシンデレラナイン (カチュー)
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#1 有原翼の憧れの男の子

 有原翼(ありはらつばさ)は電気の消えた真っ暗な部屋の中で微笑みを浮かべながら、スマホの画面を凝視していた。

 翼が見ていたのは1年前のリトルシニアのとある試合の動画。動画はバックネット裏から撮影されており、臨場感がはっきり伝わってくる。マウンドには翼の同級生の男子が普段の穏やかで優しい性格とは別人の自信に漲った表情で闘志を燃え上がらせていた。

 

「1年前もずっと見てたっけ」

 

 目元が緩み切ってうっとりとした翼が注目――いや執着している男子は大きく腕を振り上げ、恵まれた体躯から鋭く右腕を振り下ろす。速度表記が無くともわかる速度、球威共にあるストレートに打者は身動きすら取れずに三球三振に倒れる。

 

「何度見てもほんとすっごいなあ……!」

 

 続く打者は内に切り込むスライダーで空振り三振。次の打者はストレートのタイミングを大幅にずらすブレーキの利いたチェンジアップで凡打に打ち取る。

その試合の投球内容は打者27人に対して奪三振20個。被四球被安打0の完全試合であった。

 

 この結果が弱小チーム相手ならまだ現実味を帯びているかもしれない。しかし、全国大会3回戦で尚且つ優勝候補筆頭のチーム相手にこの投球内容である。全国屈指の猛者が文字通り手も足も出ない数十年に一人の天才。

その相手と翼の在籍していたクラブチームは決勝で戦うことになっていたのだ。

 チームメンバーは自信を喪失し、自チームの監督までも球数を多く投げさせてマウンドを降ろすしかないと弱気の発言をしていた。

 翼もまた体をぶるぶると震わせた。その様子を見たチームメイトの一人は『いつも能天気な有原も怖いものがあるんだな』と冗談交じりで話しかけてきたが、そうではなかった。

 

(彼と戦えることが楽しみで仕方なかったんだ)

 

 運命的ともいえる1年前の試合を改めて思い浮かべた翼は彼と試合をした過去を振り返る。

 

 

――野球は中学まで。

 翼は女子と言う理由だけで甲子園には出られず、スカウトも来ない現実に悔しくて悔しくて涙し、葛藤した上で野球人生のエピローグを完走しようとしていた。だけど、どこか胸にはしこりが残ったままで諦めきれなくて。

 しかし、これほどの強敵と全力を尽くして戦えるのであれば完全燃焼できる。そして、ゆくゆくは彼が甲子園に出場したらマウンドの彼に伝わるぐらいの大きな声で応援しよう。

 その後、彼がプロに入ってからも球場に駆けつけて、彼のプレイに一喜一憂するのだ。そんな自分の姿を想像すると笑みが零れ落ちる。

 この頃からある意味では一目惚れだったのかもしれない。

 

 

 いよいよ、決勝戦当日。翼は興奮からあまり眠ることが出来なかったが、寝不足感はなく過去一番に集中力が上がっていた。間違いなくベストコンディションである。

普段は信仰していない神様、そしてはるばる遠くから応援に駆けつけてくれた自分の親友に感謝を捧げた翼は相手チームを前に帽子を脱いだ。

「よろしくお願いします!」

 両チームが礼を交わし、相手チームが配置につく。もちろん、相手投手は憧れの男の子だ。

 近くで見た彼は動画よりも肩幅が広くがっしりとした体で……動画よりもかっこよく見えた。

(いけない、いけない!)

 思わぬところで集中力を乱されかけた翼であったが、自チームの先頭打者に投げられたボールを見て、一瞬で桃色の考えが吹き飛んだ。

 今まで対戦してきた投手とボールの質が違う。最初に投げられたストレート一球で翼を含めたチーム全体に畏敬を抱かせた。

 

(本当にあの球が打てるのかな……)

 

 一瞬、脳裏をよぎる言葉を頭を左右にぶんぶん動かし、無理やり振り払う。

 一番、二番ともにストレートでの三球三振。全試合登板してきたピッチャーとは考えもつかない圧巻のピッチングであった。マウンドの彼は落ち着いた表情で右肩をグルグルと回している。その姿からは傲慢な態度は見られず、油断も隙もない立ち姿であった。

 

「有原。あのストレート、思った以上に手元で伸びてくるぞ。少しタイミングを早めにとったほうが打てるかもしれない」

「そっか。アドバイスありがと!」

 

『三番、ショート、有原さん』

 

 アナウンスが流れ、目を閉じた翼は胸の前でバットをぎゅっと握りしめてバッターボックスに向かう。

 

「お願いします!」

 

 バッターボックスに立った翼はヘルメットを調節し、憧れの投手と本当の意味で相対する。彼は翼を見て目を細めたが、ワインドアップで勢いをつけ、すぐに第一球を放った。外角低めのストレート。監督からの指示もあり、一球目はじっくりと目で追った翼。

 

(速い! でも、まだ目で追える速さだ)

 

 キャッチャーからボールを受け取った彼は間髪入れずに二球目を放つ。今度は真ん中高めのストレート。

翼は目を見開き、鋭くバットを振るった。バットは空を切り、ツーストライク。キャッチャーミットの爆音からただ速いだけではないことも直に伝わってくる。

 そして、三球目。遊び球なしの渾身のストレート。剛球はインコース高めに向かって伸びてくる。

 

「……っ!」

 

 それを翼は全力でバットを振りぬいた。ヒット性の打球は三遊間を抜けそうになるも、相手のショートの立ち位置に阻まれ、惜しくもショートゴロという結果になった。

 

(すごい! 本当にすごい球だよ!)

 バットから伝わってきた衝撃に体全体が痺れている。そうだ、このワクワクする感覚!

 野球はこうじゃなきゃ楽しくない。痺れと痛みを感じつつ、翼は彼を見てより一層笑みを濃くした。そんな翼の楽しそうな顔を見た彼もまた釣られるように口元を緩めた。

 

 1回裏、2回表の攻撃は両チーム三者凡退。そして2回裏の攻撃の先頭バッターは彼だった。

 左バッターボックスに立った彼に投じた初球。低めに入った決して甘くないスライダーを膝を折りたたみ、アッパースイングで掬い上げた彼はバットを放り投げ、小さく拳を握りしめた。

 打球は弾丸ライナーでバックスクリーンに直撃した。文句なしの特大アーチで相手チームに先制点が入る。

 

(打者としても超一流なんだ……!)

 

 ホームベースをしっかりと踏みしめた彼は歓声を上げたチームメンバーに頭や尻を叩かれ、揉みくちゃにされている。楽しそうに野球する彼とチームメンバーを見て、相手に点を取られたのに翼は微笑みを浮かべてしまいそうになる。

 相手チームは元々無名のチームで彼がチームに入ってから全国大会に出場している。ワンマンチームと揶揄されているものの、絶対的エース兼4番打者がチームを牽引し、それに答えるために実力以上の成果を周囲のメンバーが出し、結束力は高くなっている。

 

 そして、両者無得点が続き4回表。またしてもパーフェクトピッチングを続ける彼相手に二度目の打席が回ってきた。

 これまでの球種は8割型ストレートのみ。極まれにチェンジアップを投げる程度で決め球のスライダーは解禁していない。

 そのことを不思議に思っている翼ではあったが、まずは目の前に立つ強敵に対してどのようにすれば打てるのかを考えるのが先。

 

「よしっ、ばっちこーい!」

 

 大声で気合を入れる翼に応えるかのような豪速球でツーストライクに追い込む。そこから翼は当てるのすら難しいストレートをカットし続け、初めてフルカウントまで追い込んだ。

 

(だんだんと慣れてきた! 次は必ず打つ!)

 

 雑音が消え、翼には彼の姿しか見えないほど集中力が高まっていた。人によっては翼からオーラが立ち上っているように錯覚した者もいるほどだ。

 ここで初めて彼はキャッチャーのサインに対して、首を振った。二度ほど首を振り、ようやく頷いた彼はワインドアップからボールを放つ。

 ボールは真ん中低め。先ほどの速球と同じ速さで翼に向かっていく。

 

(今度こそ捉えた!)

 

「っ、そんなっ!」

バットは無常にもボールを捉えることが出来なかった。バットから逃げるように急激に曲がったボールはバットを通り抜け、キャッチャーミットに吸い込まれていった。

 彼が今投げたのはストレートではない。ストレートとほぼ同じ速さのスライダー。

 これまでの試合では普通……といっては彼に失礼かもしれないが、キレのあるスライダーを投げてきたが今のは超高速スライダーで全くの別物だ。

 

 これでスリーアウトチェンジ。唖然とする翼を一瞥し、彼は翼に向かってグローブを前に突き出して、ベンチに帰っていった。

 一方、翼はふるふると体を震わせながら、チームメイトの元に戻っていく。

 

「有原! 元気出せ! あそこまで粘れているのはお前ぐらいだって!」

 

 最早、チームメイトの慰めの言葉なぞ聞いていなかった。全く見当違いも甚だしい。

 翼は落ち込んでなんかいない。天に舞い上がるほど嬉しくてしょうがなかった。

 あれが彼の本当の決め球だろう。それを自分だけに使ってきてくれたのだ。自惚れではなく、彼は有原翼という選手を明確な敵として認めてくれた。女性だから男性だからという訳ではなく、有原翼という一個人を認めてくれた。それが何よりも嬉しくてしょうがない。

 

(野球、やめたくないな。彼とずっと野球していたいな)

 

 野球は中学までと決めていた翼にとって正真正銘最後の試合だ。しかし、何故だろう。動画で何度も見ていたとはいえ、会ったばかりの人とずっと一緒に野球をしたいと強烈な感情を抱いてしまったのは。

 

 5回表。先ほどホームランを打った彼が長打を捨て、来たボールをカットして四球で出塁する。そこから連打を浴びた翼のチームは更に点差を広げられる。

 更にヒット性のライナーが出るも、翼が猫のような動きでダイビングキャッチをし、飛び出していたランナーをそのまま刺しゲッツーに抑え込む。

 拍手が観客席から巻き起こり、敵味方、観客ともに翼のファインプレーに感嘆する。ここで止めていなければビックイニングになっていた流れをせき止めた。

 しかしながら、スコアは0-3。またしても完全試合で進められている投手相手に厳しすぎるビハインドである。

そして、最終回の7回表。ここをノーヒットで押さえれば二度目の完全試合達成という大記録を前に彼に急遽異変が生じた。

 コントロールも抜群に良かった彼が初めてフォアボールを出す。2番打者にはボール先行でカウント3-0からの彼らしくない平凡なストレートをフェンスまで運ばれ、ノーアウト一三塁。ここでノーヒットノーランも完全試合も無くなり、ホームランで同点のチャンス。

 ここで準決勝で逆転サヨナラ満塁ホームランを打った翼に打席が回ってきた。翼の得点圏打率は6割3分。チャンスには滅法強い選手であった。翼もそれを自覚している。

 

(たぶん、これが私にとって最後の打席だ)

 

 野球人生最後になる打席に立った彼女は正面から彼を見据え、眉をひそめた。

 

(なんで、なんでそんなに辛そうなの?)

 

 彼のチームメイトも心配そうに彼を見ている。タイムを取って集まってきた内野陣に対し、「大丈夫、この子だけは絶対に抑えるから」と此方に対して聞こえるぐらいの大きな声で言った彼は燃え盛る闘志と挑発的な笑みを持って、翼と相対した。

 翼も心配は杞憂かと太陽に照らされた向日葵のような底抜けに明るい笑みを作る。

 しっかりと翼に目を合わせた彼は全身に力が行き届いたダイナミックなフォームで翼に対して第一球目を投げた。

 

「ふっ……!」

 

 今日の試合で何度も見た球威、速度がある彼のストレートを翼は初球から食らいつく。バットからは小気味よい音が響き、ボールはバックネット裏に直撃する。タイミングはバッチリと合っている。後は芯にミートさせれば確実にヒットが打てる。

 そう確信した翼に投じられた二球目。

 

「……ひぁ!」

 翼以外には投げないストレートと見分けがつかない超高速スライダーに思わず情けない声を出してしまう。これでカウント0-2。

 ここで彼は先ほどの翼の打席と同様に何度も首を振る。5回ほど首を振った後、彼は大きく振りかぶった。

サインを盗み見た訳ではない。だが、翼には彼の意思が伝わってきた。

 

(三球勝負で球種はストレート……だよね。君との最後の勝負、絶対に勝って見せる!)

 彼が繰り出してきた球は今まで見た中で一番速いストレート。だが、しっかりと見えている。ド真ん中でジャストミートさせればホームランボール。

 翼は今まで費やしてきた野球への思いを全身全霊にバットに込めて、フルスイングした。

 

 

 

 

 

 

「ストライク! バッターアウト!」

 

 

(まだ隠し玉を持っていたなんて! 本当に、すごいや……)

 

 翼のバットからは何も衝撃が伝わらず、初速と変わらない速度で手元で伸びてきた球は魔球とも呼ばれるジャイロボールそのものだった。

 完敗だ。だけど、どこか清々しい気分だった。なぜか自然と涙が溢れて止まらない。最後に彼を見るとどこか悲しげに「ありがとう」と声をかけてきたので、涙を拭って「ありがとうございました」と返した。

 

 自分の戦いはここで終わった。だけど、まだ試合は終わってない。

 

「まだまだこれからー! 一本打っていこー!」

 必死に声を振り絞り、チームメイトの応援をする。できることは何でもやる。なぜなら、これが最後の大会なのだから。そう、この試合が彼にとっても最後の試合になるとも知らずに。

 

 翼が倒れた後の4番打者相手に彼は振り被ることもせずにボールを投げた。ボールはキャッチャーミットに届くことはなく、マウンドから半分ぐらいの距離にポトリと落ちる。続けて投じられたボールはマウンド上にポトンと転がり、止まった。

 それに伴って彼は右肩を抑え――苦しそうに呻き声を上げてマウンドに蹲る。

 

 一斉に会場がざわついた。一体、彼に何が起きたのかと。

 すぐに担架が持ち出され、彼はベンチ裏に引き下がっていく。会場はざわつきから誰一人言葉を発することが出来ない沈黙に包まれた。誰が見ても間違いなく故障だと分かる。

 翼は目の前が暗転してモノクロと色のある世界を行き来していた。あの「ありがとう」という言葉は最後に対戦してくれてありがとうという意味だったのか。

 そんな訳はない。そんなはずはない。だって、彼は自分と違って将来有望すぎる選手で私が最後の打者になんてなってはいけない選手なんだから。

 私との勝負のために野球人生が終わってしまった? そんな大怪我な訳がない。だって、私はこれから彼の勇姿を見に甲子園、そしてプロで活躍する彼を応援するんだから。

 

 その後、後続で出た相手投手は彼とは雲泥の差であり、投手としての力は地方大会止まりであった。加えて、動揺の具合が相手チームのほうが大きかったため、7回表で5点を取り返し逆転。7回裏は三者凡退でゲームセット。翼のチームは見事全国優勝を果たした。

 

――そして、翼は野球をやるのも見るのもこれっきりにしようと決意した。

 

 だからこそ、野球部のない高校で彼と出会ったのは奇跡だった。翼は入学式の直後、彼を屋上に呼び出して、あの後の真相を直接聞こうと思った。

 

「あの、さ。私のこと覚えているかな?」

「うん。決勝戦で対戦したよね」

「覚えてくれていたんだ!」

「忘れるわけがないだろ。対戦して熱くなった選手のことをさ」

「わ、私も! その、本当にすごい球だった。ストレートも速すぎるスライダーも、あと、その、肩の怪我は……」

 

 翼をよく知っている親友が見たら救急車を呼びたくなるぐらい歯切れが悪く、目が泳いでいる翼に苦笑した彼は静かに翼が口にしてほしくなかった最悪の結果を告げる。

 

「あの後も肩が治らなくて、俺はもう野球は出来ない」

「そんな……」

 

 翼はペタリとその場に座り込み、ポロポロと涙を流し、嗚咽を吐く。あの時のトラウマが蘇り、視界がグルグル回りだす。

 思考が纏まらない中、右肩に温もりを感じた。ふと右肩に手を当てたら、そこにはピッチャー特有の大きくてゴツゴツした右手があった。肩に手を当てたまま彼は話を続ける。

 

「有原さんはまだ野球を続けている?」

「もう、やめちゃった」

「そうか。あのさ、すごい自分勝手なんだけど、有原さんには野球を続けてほしいんだ」

「え?」

「あんなに楽しそうに野球をする奴なんか有原さんぐらいしかいなかったよ。有原さんは野球が好きだろ?」

「……す、好きだったよ」

「俺も有原さんみたいにただ無邪気に野球がしたくなって、あの試合は限界以上の力を出すことが出来た」

「俺は野球をする有原さんが好きだし、もう一度有原さんが試合しているところを間近で見たい」

 

 対戦した時と同じく、自分だけに向けられた熱量を持った瞳を前に翼は混乱した頭の中で、情報を必死に纏めていく。

 彼が私が好き? わ、私も彼がかっこいいと思うし、好きだし! その野球人として! その彼が私が試合しているところが見たい? 私も彼にいいところを見せたいよ!

もっと私を知ってもらいたいよ!

 翼にとって野球への情熱は全国大会決勝に置き去りにしてきた。しかし、ここで彼と一緒に野球をしたいという想いが再熱してきた。

 

 彼と一緒に野球が出来たら、毎日どれだけ楽しいのだろうか。

 どれだけ幸せなんだろうか。

 どれだけ満たされるのか。

 

 だけど、彼はもう野球は出来ない。一体どうすれば――。

 翼は普段は使わない頭をフル回転させ、ひらめいた会心のアイディアを披露した。

 

「じゃあさ、私が野球をまた始める代わりに私の監督になってよ!」

「か、監督?」

「うん! 女子野球部の監督! ねっ、いいでしょ?」

「いや、この学校って男子野球部すらないし」

「これから作ればいいじゃん! そうと決まったら善はなんとやら!」

 

 ガバっと急に立ち上がった翼は長らく忘れていた心の底から生み出した輝く笑顔で振り返り。

 

「私のことは翼って呼んでね! それじゃ、またね!」

 彼と二人で目指す甲子園。なんて素敵な目標なのだろうか。そのためには数合わせとなるメンバーが必要だ。なかなか大変そうであるが、苦難があってこそ燃え上がるものだ。

 新たな目標が生まれた翼は、彼のために野球をするこれからの明るい未来に胸を躍らせていたのであった。

 

 

 

 

 泣き出されて一時はどうなるかと思ったものの、無事に元気を取り戻したみたいで一安心した彼。溜息を大きく吐いた後、屋上にショートカットの女子生徒が姿を現す。

 

「これで、よかったかな。河北さん」

「うん、バッチリだよ。約束通り、私のこと好きにしていいよ」

 

 翼の大親友である河北智恵は身長差から必然的に上目遣いになりつつ、口元に手を当てたまま煽情的に彼の胸元にしなだれかかった。

 



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#2 野崎夕姫の初めてとなる異性の友人

メンバーの加入順は基本的にアニメ順守となります。


 女子野球部部員の野崎(のざき)夕姫(ゆうき)は湯船に浸かり、一日の練習の疲れを癒していた。

 翼に突発的に誘われた野球部であったが、思いのほか楽しい。団体競技でありながら、個人競技でもある野球というスポーツは夕姫にとってこれ以上ないぐらいマッチしていた。

「早く明日になってほしいです……」

 明日は休日だが、監督である彼と個人レッスンの予定だ。翼も経験者であるが、コーチング能力は低い。彼女は感覚で全て行ってしまうため、表現がアバウトなのだ。

 夕姫も分かるように努力はするが、それでも完全に理解できないことがある。そういった時に翼の言いたいことをうまくまとめ、体の動かし方を教えてくれる彼。

 夕姫から見た彼の第一印象はとても優しげで大柄な男の子といった印象だった。168cmと女性にしては体格の良い夕姫を持ってしても、見上げる形となる高身長と服の上からでもわかるほど鍛えて上げられている肉体。

 そして、逞しい肉体とは裏腹な穏やかで優しい性格は男性ということで身構えていた夕姫の心を僅か数週間で解きほぐしていった。

 

 今日も彼が教えるために直接体に触れられることがあり、恥ずかしくて顔を赤らめてしまったが、彼が真剣な表情で教えてくれるのを間近で見て、不埒なことを考えているのは自分だけなのかとより一層恥ずかしくなった。

 また不埒なことを考えずに野球に対して真摯な彼に対する夕姫の評価はまた更に上がった。

 その後は一瞬だけ無表情になった翼に「私も教えて!」と催促され、すぐに離れていったが正直なところ、もう少しだけ教わりたかった。

 何よりも、だ。翼が嬉しそうに体をくっつけて彼に教わっている姿を見て、表現し難い感情が夕姫の胸の中をざわつかせた。

 鬱屈した感情を解消しようと部活帰りにSNSで個人レッスンを頼んだところ、快くOKをしてくれた。なので、夕姫は今から明日のことを考えてウキウキしていたのだ。

 

「明日は宇喜多(うきた)さんも誘うべきでしょうか……」

 翼たちは予定があるみたいなので、せっかくだし野球部のメンバーである同級生の女の子を誘うか思案するも、誘わない方向に考えを改めた。

「明日はせっかくの休みですし。宇喜多さんも疲れ切って、練習後にウトウトしていましたから明日はゆっくり休んでいた方がいいですよね」

 それがいいと夕姫はそれっぽい理由を並べて湯船の中で一人で頷いた。そして時間を忘れて、明日の構想の練ったせいで母親に声をかけられるまでぬるくなった湯船に浸かっていたのは内緒の話である。

 

※ ※

「おはようございます! ごめんなさい、遅れちゃって!」

 翌日。雲一つない快晴に朝9時前からグラウンドに集まった夕姫。9時半開始予定であったが、彼はそれ以上前に来てグラウンドの整備を行っていた。学校指定のジャージ姿の彼は夕姫を見かけると朗らかに口元を緩めた。

「おはよう、野崎さん。俺が早く来すぎちゃっただけだから、気にしないで」

(なんだかデートみたいなやり取りです……ふふ)

 言葉のやり取りがテンプレートなデートの待ち合わせみたいで夕姫はおかしくなって笑ってしまった。怪訝な顔をした彼であったが、すぐに気を取り直して、手をパンと叩いた。

「よし! 野崎さんも早く来てくれたことだし、準備運動してから早速練習を始めようか」

「はい!」

 

 二人はグラウンドを軽くランニングをして、準備体操及び柔軟体操を念入りに行う。

「あ、あの。そこは」

「ご、ごめん」

 その際にジャージ越しから背中を押されたのであったが、ブラジャーのホックの部分に手が当たり流石の彼も耳が赤くなっていた。ちょっとしたハプニングがあったものの、柔軟体操を続行した夕姫であったが、この柔軟体操がかなりきつかった。

 

「痛い! 痛いです!」

「駄目だよ。もっと足を広げて」

「や、やめてください。これ以上は、もう!」

「……野崎さんの声を聴いていたら、もっとやりたくなってきた」

「え、嘘ですよね? ……ああっ!」

 人に聞かれたら誤解を招くような発言と喘ぎ声を上げる。野球のことになるとちょっと意地悪になる彼を恨めしく思うも、彼のことがまた深く知れた気がした。

 何故だか、そのことに嬉しいという感情の他に優越感を感じる自分がいた。嬉しいのはわかるが、優越感に関しては何に対して、誰に対しての優越感なのかが夕姫にはわからなかった。

 しかしながら、彼との交流のおかげで夕姫の昨日のモヤモヤした感情はたった数十分でどこかに吹き飛んでいた。

 

 

「それでショートバウンドのゴロの捌き方は、こう態勢を低くしつつ……」

「こう、ですか?」

「そうそう。で、そのまま捕球したらすぐに送球に移れるように体を……」

 昨日の続き、そして新しい技術を彼から学ぶたびに自分が成長していることを感じる。今までやってきたスポーツよりもとんとん拍子で出来ることが増えていくことが練習の辛さ以上に楽しかった。

 

「よし、クールダウンも終わったし一旦お昼休憩にしよう」

「はい!」

 あっという間に3時間が過ぎ、もうお昼過ぎとなっていた。春先なので風が少し冷たく、運動が終えた体には肌寒いかもしれない。

 一度ドリンク補給をして、一息ついた夕姫は内心ドキドキしながらスポーツバッグからとある物を取り出す。

「あのっ! 良かったら、これ作ってきたんです!」

 今日の朝から早起きして母親にもからかわれつつも手伝ってもらい、作ったお弁当だ。不慣れだったもので悪戦苦闘したが、出かける前になんとか完成に辿り着いたのだ。

「もしかして、お弁当?」

「はい。その、上手に出来たかわからないんですけれど……食べてもらえますか?」

「よっしゃ! めちゃくちゃ嬉しいよ! ありがとう、野崎さん!」

 お弁当の中身は卵焼きとウインナーと小さいハンバーグ、そして色合わせにレタスとほうれん草のソテーと男の子が好みそうなレパートリーが盛りだくさんであった。

予想以上に効果覿面で弁当の中身を見た彼は子供のようにはしゃいでいた。暖かい目で見つめていると、照れくさそうに彼ははにかんだ。

「俺、ハンバーグとか卵焼きとか、あとカレーのような子供が好きな料理が大好きなんだ」

「そうなんですね」

「やっぱり子供っぽいかな?」

「いえ、背伸びして大人ぶっているより全然いいと思います」

 大人ぶってカッコつけているより、ありのままの裏表ないほうが夕姫にとって好感が持てる。それに自分が作った料理をこんなに喜んでもらえて、胸の奥が春の陽気にまで照らされているように暖かくなった。

「じゃあ、早速食べてもいいかな?」

「はい、どうぞ」

「それでは、いただきます!」

 緊張から心拍数が上がっている夕姫を横目に真っ先に卵焼きに被りついた彼であったが、箸を持ったまま硬直してしまった。そして、水筒を持ってきて、急ぎ早でスポーツドリンクを注ぐと一気に飲み込んでいった。

「ごめん、ちょっとしょっぱかったかも……」

「え? しょっぱい、ですか? 卵焼きは砂糖を入れたはず……ああっ! ごめんなさい!」

 砂糖と塩を間違えて入れるなんて、ありふれた漫画のキャラクターが行いそうなことではないか。どこか抜けていると夕姫はずっと言われ続けてきたが、今日この時ほど抜けている自分を呪ったことはなかった。

「大丈夫。米と一緒に食べればそんなことないし、甘口よりもちょっとしょっぱいぐらいのほうが味付けとしては好きなほうだから」

彼に気を遣わせてしまい、胸の奥は陽だまりから猛吹雪へと一瞬で天候変化した。氷点下にまで気分が落ち込みそうになった夕姫であったが、彼は笑みを絶やさないまま弁当にかぶりついていた。

「うん。卵焼きも柔らかいし、ハンバーグは煮込んでいて味が染みているしうまい! ウインナーも最高!」

「別に無理して食べなくても大丈夫ですよ……」

「いや、本当にうまいって。ただ、また機会があるなら塩分を控えめに入れてくれると嬉しいかな」

 野崎さんの手料理が食べられる機会なんて、そうそう無いと思うけどね。と冗談ぽく言った彼は美味しそうに夕姫が作った弁当を食べ進めていく。卵焼きを食べるときだけドリンクを用意しているが、嘘はついている様子はない。

(お弁当作ってきてよかったです。男性にお弁当を作る女性の気持ちがようやく実感できました)

奉仕する喜びとでも評したらいいのか。彼のために尽くすことが至上の幸福に感じる。

「ご馳走様でした」

「はい。お粗末様でした。それで……その、もしよろしければ次の個人レッスンのときにお弁当作ってきますね」

「よっし! でも、全員がフリーになることは無いから当分お預けだよなあ……残念」

「……そうですね。残念です」

 その言葉を聞いて、夕姫は心の中で彼以上に残念がった。土日も予定が無ければ基本的に部活参加。全員が全員用事があることなんてそうそうないのだから。

 

「いよっし。休憩したし、朝の復習から再開しようか」

「はい! お願いします!」

 

(だから、今だけは彼のことを独占していても罰は当たりませんよね?)

 

 彼との関係は野球部の監督であり、同級生であり、初めてとなる異性の友人だ。彼とはまだ出会ったばかりで彼に対する好意はあくまで友達の延長線であり、恋愛感情ではない。いくら何でも出会って数週間の人物に恋心は抱くことは難しいだろう。夕姫は彼に対する溢れそうになる感情を自分なりに分析していた。

 

 仲の良い友達であるならば独占欲を持っても仕方がない。

 他の子と話していると胸の奥がひりつくのも友人を取られた感覚に違いない。

 自分だけを見て欲しいなんて、仲が良ければ異性・同性関係なく当然の心理なのだ。

 

――野崎夕姫は友人(・・)として彼のことが好きである。

 



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#3 河北智恵の計画

 河北(かわきた)智恵(ともえ)にとって有原(ありはら)(つばさ)とは幼馴染であり唯一無二の親友である。

 もしも、自分の家族と翼が生命の危機に瀕しており、どちらかしか助けられないとしたら――智恵はきっと翼を助けるだろう。

 

 1年前のあのリトルシニア全国大会決勝。あの日から翼は変わってしまった。

 あの大会後からは智恵や同級生、そして自らの家族にすらまともな会話が出来なかった。

 いたたまれない状態にあった翼であったが、全国大会からちょうど1カ月経過した日。不気味なくらい翼は元通りに戻った。

 けれども、長年の付き合いになる智恵にはわかってしまった。

 

 

――今の翼はどうしようもなく、壊れている。

 

 

 人を騙す才能なんてない翼が女優顔負けの演技で普段通りの彼女を演出している。顔に張り付けた完璧な笑みは瞬間接着剤を使ったかのように常に一定であり、普段彼女が怒るであろう場面で顔をムッとしたように見せるようにしている。

 まるで翼を模したAIロボットのようだった。

 だが、そんな彼女にひとつだけ残された想いがあった。それは決勝戦で戦った彼のことである。

 雨が今にも降ってきそうな曇天の日の帰り道。翼は黙っていれば美少女と評される整った顔を智恵に近づけて、一ヶ月分の会話を取り戻すかのように饒舌に語り始めた。全ての内容が彼に関する内容であったが。

「本当に彼はすごいんだ! ストレートは速くて伸びがあって重たいし、高速スライダーはこうグググイッ! と手元で変化するんだ! あれは直前まで見分けがつかないよ! バッティングも欠点がないし、甲子園でもエースで4番だね! きっと彼なら今からプロに入っても大活躍できるよ! プロ入り1年目で20勝超えしちゃうかもしれないね!」

「そ、そうなんだ。でも、彼はもう……」

 仮面の笑顔を脱ぎ捨て、心からの喜怒哀楽を表現して彼の凄さを智恵にマシンガントークで伝える翼であったが、智恵の言いかけた一言で急変した。

「もう、何?」

「だから、彼はもう肩を壊して……」

「ああああッ! 違う! 違う違う違う違うちがうちがうちがうッ!」

「ひっ、つ、翼!?」

 

 突如、目から光を失った翼は爪を立て頭を掻きむしりながら、激しい貧乏ゆすりをするように右足を地面に何度も何度も小刻みに踏みつける。喉の奥から悲鳴が漏れた智恵は親友に考えたこともなかった恐怖心を抱いた。

「私は彼のことをずっと応援するんだもん! 地方大会でも甲子園でもプロ入り後もずっと! 大怪我なんてするわけない! 肩が治らないなんてことはない! もう投げられないなんてことない! 私が最後の対戦相手になるわけない! 彼は、私の! 私の夢なんだから!」

 ポロポロと涙を流す翼を智恵は正直なところ理解しきれていなかった。

 たった一戦しか戦っていない相手。もちろん、プライベートの関わりも一切ない相手だ。いくら途轍もない才能を持った選手とはいえ、それだけで気が狂うほど想い続けるとは到底思えない。

 だが、『夢』という単語を耳に聞き、ようやく翼が執着する理由の一端が垣間見えた気がした。

 

――翼はきっと彼に自分の夢を託していたのだ。

 

 甲子園に行くという夢。

 プロ入りし、活躍し続ける夢。

 野球に携わり続けることへの夢を。

 

 その夢の象徴が自分の目の前で無惨に散ってしまった。その現実を受け入れることが出来ないのだ。

「そんなの嫌! いやだ、嫌! ちがうちがうちがう違うの! 違う、違う? 違うって何が? どう、違うんだろ? あれ、ともっち。私、何の話していたんだっけ」

「……ぴょん太焼きを一度に何個頬張れるかって話だったよ。翼ったら、しっかりしてよー」

「そうだったっけ? ごめんごめん!」

 時の流れがトラウマを解決するなんてテレビの番組でもよく言われているが、翼の症状は時の流れだけで解決できる物なのだろうか。智恵はそんな楽観的な考えには至れなかった。

 

 案の定、半年以上経過した後も翼の症状は治る気配が皆無であった。不幸中の幸いなのは、ヒステリックになる瞬間は智恵の前だけであるということか。

 厄介なのは自分から彼の話を振り、自分から情緒不安定になってしまうことだ。こうなってしまうと、話を受け止め続けるしか翼を抑えることが出来なかった。そして、翼の支えに成れない自分に自己嫌悪する日々が続いた。

 こうして翼が歪なまま中学校を卒業してしまったものの、ひとまずは無事に二人そろって同じ高校に通えることになり安心した智恵は春休みに新生活の準備をするために街中に買い物をしていた。

「あっ……!?」

 その時、智恵は見つけてしまった。

 ある意味で一番会いたくて、ある意味で一番会いたくなかった人物――彼であった。すぐに声を掛けなければとひと際高身長が目立つ男子の目の前に走って追いつく。

「あ、あの!」

「……ん? どうかしましたか?」

 

 智恵は自分が翼の友人であることを説明し、出会ったばかりの彼に現状を洗いざらいぶちまけた。途中でヒートアップした智恵のせいで注目の的になってしまったのを嫌ったのか、彼は途中で場所を変えるように促してきた。

 今は翼と一緒によく遊んだ公園で夕暮れの中、二人でブランコに座って話している。そして、話している内になんと彼も同じ高校に通うことになっていることがわかった。

 

「そうか。有原さんも野球やめてしまったんだ」

「それだけじゃない! あの日から翼は翼じゃなくなっちゃったんだ!」

 智恵は両手で顔を覆い、ずっと堪えてきた負の感情を出会ったばかりの人間に一気に吐き出してしまった。智恵だって辛かったのだ。でも、誰にも相談できなくて。翼がどんどん壊れていくのが怖くて、でも自分だけではどうしようもなくて。

「全部、君のせい! 君のせいで翼が壊れちゃったんだ! 君さえ、君さえいなければッ!」

「……それなら、俺は一体どうしたらいいんだ?」

 感情のまま、理不尽な言葉の暴力を叩きつけてしまったことに智恵は発言した後に後悔し、青ざめた。

「ご、ごめんなさい! 私、なんてひどいことを」

「いいよ。それだけ河北さんが有原さんのことを大事に思っていることが分かったから」

 彼は目を閉じてぐっと拳を握りしめつつ、喉の奥から絞り出すような声で智恵をフォローした。どんなに嫌いな相手でも平常時では絶対言うことがないひどすぎる言葉の刃を振りかざしてしまったことに、実際は自分すら情緒不安定になってしまっていたことを今更気づかされた。

 気まずい静寂が公園内を包み込む。

 

「何か俺に出来ることはないかな」

 もうすぐで夜の帳が降りてきそうな薄暗くなった空を見つつ、沈黙を破った彼はブランコを勢いを抑えめに漕ぎだしてポツリと言った。

 智恵は他人よりも秀でた頭脳を巡らす。彼が翼に出来ること。それは彼女の生きる目標になってもらうことだ。

 元々の翼の夢は甲子園に出場することである。それならば彼がコーチ、もしくは監督となり一緒に甲子園を目指すストーリーなんかどうだ。憧れの人物と一緒に、一直線に目標に走り続ける。そこで翼は物語のメインヒロインかつヒーローになるのだ。

 間違いなく翼なら、憧れの彼を目の前にしたらそういった思考に辿り着く。後はそこに至るまでのプロットを自分が作り上げればいい。

「あるよ。手伝ってほしいことがある。手伝ってくれたなら――私は君の言うことをなんだって聞くよ」

 

――光明が、見えた。

 

 

 智恵はその場で彼と連絡先を交換し、別日に何度か会って翼に関する情報共有と事前に演技指導を施していた。

 彼を見つけた翼は絶対に彼と二人きりになろうとする。そういった場でありとあらゆるシチュエーションを想定し、一番困難である翼が壊れている状態の応対も全部考えて対策を練った。結局のところ、蓋を開けてみれば割りとイージーな内容だったのでほっとしたのであったが。

 翼が去った後の屋上で智恵は自分の親友を取り戻してくれた英雄に精一杯の勇気を振り絞って、胸元にしなだれかかって誘惑したものの。

「結局は俺の意思でやったことだからさ。別に無理しなくていいよ」

「……いくじなし」

 据え膳食わぬは男の恥。女の子が自分からアプローチしたのにバッサリと振り払った彼をジト目で見る。顔はピッチャーをやっていた経験からポーカーフェイスであったが、心臓の音は隠しきれていなくて鼓動が直接伝わってくる。

――なるほど。女の子に興味がない訳じゃないんだね。安心したよ。

 あわよくば、ここで手を出してくれたのであれば深く彼を拘束できた。智恵の設計した計画ではそれが最高の結果だったのだが、なかなか思い通りにいかないものだ。

 

 

※ ※

 まだ名義上は同好会ではあるが、野球部の練習を終えた智恵は機嫌がよい翼と談笑しつつ帰路についていた。相も変わらず会話の内容は野球と彼の内容ばかりであるが、翼本来の魅力がふんだんに含まれた表情を智恵に向けてくる。

「それでね! 監督ったら私のこと考えなしの野球バカっていうんだよ! 私だってちょっとぐらいは頭使ってるもん!」

「うんうん、野球のことに関してはね」

「もう、ともっちまで私のことバカにするんだー!」

 彼がいることで翼は元通りになっている。しかし、だ。もし彼がいなくなってしまったら依存しきっている翼は一体どうなってしまうのだろうか。結末を予想するのは簡単だ。翼の薄氷一枚に守られた精神は二度と修復不可能になる。

 

 智恵は翼のためなら何でもするし、何でもさせてあげたい。翼の夢は、自分の夢だ。

――だからこそ、夢を叶えるためにどんな手を使ってでも彼を決して逃がすわけにはいかない。

 

 




漆黒のドス黒い闇を抱えたチュリカスこと椎名ゆかりちゃんを作中に出したい。
しかし、彼女はアニメに出て来ない。何故だッ!


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#4 鈴木和香の理想の関係

 鈴木和香(すずきわか)には自慢のお兄ちゃんがいる。かっこよくて優しくて頼りがいがあるだけではなく、大学野球ではプロのスカウトに大注目を浴びるほどの攻守揃った二塁手である。

 和香はずっとお兄ちゃんを見続けてきたし、お兄ちゃんのことを一番理解していると思っていた。

 かっこいいお兄ちゃんを支えるために寝る間も惜しんで野球理論やトレーニングメニューに体作りに良い食事を考える。それをお兄ちゃんが実践し、成果を出してくれる。それが嬉しくてたまらなかった。

 これが和香が理想とする相互扶助の関係である。

 これからもずっとお兄ちゃんを陰から支え、お兄ちゃんもまた自分のことを守ってくれると信じていた。和香にとって、この関係が常識であった。

 しかし、お兄ちゃんはもう自分の手助けを必要とせず、何より素敵な彼女を作ったことで自分が理想としていた前提条件を崩された。それはもう、枕を涙で何度も濡らしたほど悲しかった。一生、この悲しみを忘れることは無いだろう。

 

 

 それはそうと、もう一つ和香の常識を粉々に砕いた人物がいた。何を隠そう女子野球部の監督である彼である。

 そう、あれはお兄ちゃんとリトルシニア全国大会3回戦を見に行った時のことだ。

 愛しのお兄ちゃんは常人のはるか上を行く身体能力を保有しているだけではなく、野球のセンスが抜群に良い。身体能力が高いだけでは将来を期待されるプレイヤーには成れない。センスは後天的に身につけることも出来なくはないが、先天的な素質と比べると大きく見劣りする。

 大好きなお兄ちゃんという色眼鏡抜きにしても、間違いなく断言できる。お兄ちゃんはプロ入り出来る先天的な野球センスを持って生まれた天才だ。

 

――だが、マウンドに仁王立ちするアレ(・・)はなんだ。

 

 マウンド上には中学生の大会にいてはいけない怪物が対戦相手を蹂躙していた。ふと横を見るとお兄ちゃんすら言葉を失っている様子であった。

相手打者は打たせて取るチェンジアップ以外はバットに当てることすら出来ていない。四隅にバッチリと決まる伸びのある剛速球に遠目でもバッターの直前で急激に変化するカミソリの切れ味を持ったスライダー。対戦相手チームは前回全国大会覇者のチームであるのに、まるで弱い者いじめを受けているようであった。

「なあ、和香……」

「……どうしたの?」

「俺は一度も勝負をしていない投手のことを怖いなんて思ったことは一度もなかった。それはプロの投球を見ても、同じだったんだが」

 ここで言葉を止めたお兄ちゃんはお兄ちゃんらしからぬ弱気の発言をした。

「彼と勝負してみたいと思う気持ち以上に勝負するのが怖い」

 お兄ちゃんは暑さから出た訳ではない汗をかきつつ、驚きすぎて逆に平坦になった口調になっていた。野球でお兄ちゃんから消極的を言葉を発したことなんて、殆どなかったのに。

 彼のショータイムはまだ終わらない。

 打ってはバットを高く掲げた神主打法から繰り出される豪快なフルスイングで二打席連続ホームラン。その内の一本は球場最上段までボールを届かせるほどであった。二度目の特大ホームランを打たれたピッチャーはマウンド上で膝から崩れ落ちて、魂を抜かれたような足取りでベンチに引き下がっていった。

 

――彼には天才という言葉すら生温い。暴力的ともいえる彼の実力は多くの選手に憧れを抱かせると共に絶望を振りまいていた。

 

 だが、野球に携わる誰もが羨む才能の持ち主は全国大会決勝戦で再起不能の怪我をして、表舞台から姿を消した。野球をそれなりに齧っている人間なら知らない方がモグリなぐらい有名な話だ。

 だから、彼が同じ高校にいることを知ったときは驚愕のあまり叫びかけた。どうして、この高校に。

 しかも、彼が正式に認められていない女子野球部の監督になっているのだから、更に驚きは加速していく。もう何がなんだかさっぱりわからない。

 そして、野球部の発端者である有原翼と中学からの同級生である野崎夕姫に女子野球部に誘われて入部した今。和香は彼と部室で練習メニューや今後の方針に関してのミーティングを行っていた。

「個人的には基礎トレーニングの時間を少し削って、投げ込みやバッティングの練習時間を増やしたほうがいいと思うのだけれど、どうかしら?」

「いや、翼以外の皆の体が出来ていないから基礎トレーニングの時間は削れないよ。削るとしたら……」

「でも、そうしたらこの練習量が足りなくなるわ」

 自分が研究したトレーニングメニューや野球理論を二人で討論し、より完成に近いものに仕上げていく。野球に関しては普段の気を遣う性格は鳴りを潜め、真っ向から自分の意見をぶつけてくる。

 和香はこの時間が最近のお気に入りである。自分の研究成果を議論できるのが楽しいからだ。

「鈴木さんがいなかったら、一人で全部考えなくちゃいけなかったと思うとゾっとするな……」

「ふふ、そうでしょ?」

「本当に助かるよ! ありがとう、鈴木さん!」

「……ッ!? え、ええ」

 彼はニカっと屈託のない笑顔を和香にぶつけてきた。その表情がお兄ちゃんとそっくりで和香は軽く赤面してしまった。

(いきなり反則よ! お兄ちゃんと同じ顔をするのは!)

 そんな和香を暖かい瞳で見つめていた彼はしばらくすると野球に携わっているときに見せる真剣な表情に変えた。

「それでさ、実はひとつお願いがあるんだ。鈴木さんにしか頼めないことなんだ」

「いきなり改まって、どうしたの?」

「……俺の練習メニューも鈴木さんに考えてほしい」

「え? どういうこと?」

「俺は野球に関わることを諦めていた。もう前みたいに投げられないし、打てない俺なんか何の価値もない。今更関わったところで空しくなるだけだと思っていたから」

 少し目じりを下げ、悲しそうに顔を俯かせた彼。そんなことないわと咄嗟にフォローしようとしたが、彼が顔を上げた時に見えた現役時代を彷彿させるふてぶてしく口角を上げる姿を見て、発言を控えた。

「だけど、翼や皆が楽しそうに野球しているのを見ていて……やっぱり俺は野球が好きなんだって再確認できた。昔みたいになんて贅沢はいわない。ただ、もう一度グラウンドに立って、ここにいる皆と野球をしたいんだ」

 そういって椅子から立ち上がった彼は部室の隅に置かれていたボールを手に取った。そして、彼は和香に立ち上がるように言ってから――左手でボールを投げた。

 山なりの力の抜けたボールは和香の手元に寸分の狂いもなくぴたりと収まった。

(その顔も反則よ! そんな顔されたら、断れる訳ないじゃない……)

 自分もしていたであろう野球を初めて体験した時のワクワクや期待感が全面に出た顔をしている彼を目の前にしたら、野球好きの人間は断りたくても断れないだろう。

(彼はお兄ちゃんとは違うけれど、彼のことを応援してあげたい)

「わかったわ。なるべく早くあなた個人の練習メニューも考えておくわね」

 彼の人柄の良さも普段の部活動や日常で十二分に分かっていたのもあり、二つ返事で頷いた和香は家に帰ってから、早速彼に適した練習メニューを夜通し考えた。

 お兄ちゃんのために二人三脚でやってきた同じ生活リズムに戻った和香は生き甲斐を取り戻していた。サポートする相手はお兄ちゃんではないものの、お兄ちゃん以上に才能があった選手。普通に暮らしていたら関われない才能を持った人が自分のことを頼ってくれ、もう一度再生する手助けをするのだ。ここでやる気を出さないで、いつ出すのだ。

 気合が入った和香は部活後もSNSで情報共有をしつつ、彼に最適なプログラムを構築していく。

 そうした生活を続けていったある日。彼は翼にすら見せたことがない特訓の成果を見せてくれた。

「いくよ、鈴木さん」

「ええ」

 二人きりで集まった早朝のグラウンドで和香をホームベースより後ろ……キャッチャーの捕球位置に座らせ、彼はマウンドに立つ。

 大きく振りかぶった彼は左腕を全力で振り下ろす。彼が投じたのは右腕で投げていた球と比べるのもおこがましい速度も重さもない棒球。

 だが、和香にとってその球は何よりも価値のある一球であった。利き腕でないのに、しっかりとコントロールされたボールはストライクゾーンド真ん中に構えた和香のキャッチャーミットにぽすんと気が抜けた音で収まった。

「や、やった! 届いた! 届いたよ、鈴木さん!」

「ええ、ええ! やったわね!」

「よっしゃあッ!」

 嬉しさを爆発した彼は天に両腕を上げる。そうして喜びのあまり、和香の方にダッシュで駆け寄ってくるとグラブを女房役のキャッチャーにやっていたときのように和香の頭にポンポンと乗せてきた。

「本当にありがとう! 鈴木さんのおかげだよ!」

「ええ、良かったわね」

(ふふ、よくお兄ちゃんも私を褒めるときにこうしてくれたっけ)

 お兄ちゃんはもう私を必要としてくれないけれど、彼はこうして私を必要としてくれる。私もまた彼の指導のおかげで日々上達しているし、彼がいないと野球部は成り立たない。いいわ、こういった関係ってすごくいい。

 和香が理想とする相互扶助の関係。彼との関係性はピタリとその条件に当てはまっていた。

――もっと助け合いたい。もっと喜びを分かち合いたい。もっと私を必要としてほしい。もっと私を褒めてほしい。この関係性は自分だけの特権だ。誰にも譲りたくない。

 

 心の奥底で待ち望んでいたお兄ちゃんに代わる存在をようやく和香は手に入れたのであった。

 

 



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#5 宇喜多茜の不満

 女子野球部内の小動物的な存在である宇喜多茜(うきたあかね)は不満から鋭くなった視線を隠すために特徴的な猫耳フードのパーカーを引っ張る。

 目線の先にいたのは誰にでも明るく快活な女の子で女子野球部の仲間でもある有原翼。そして、幼少期からずっと茜が想い続けていた相手であるお兄ちゃん――彼であった。

 幼少期に引っ込み思案で周囲に馴染めなかった茜を唯一気にかけてくれた男の子がいた。自然と茜はその男の子のことを”お兄ちゃん”と呼ぶようになった。

 お兄ちゃんといる時間は茜にとってかけがえのない時間だった。仕事の帰りが遅いお母さんに甘えられない分を思い切り甘えて、一緒に笑いあって遊んで。彼と一緒にいることを思えばひとりぼっちでも全然平気であったし、彼さえいれば他に何もいらないとまで思っていた――いや、今でも思っている。彼のことを忘れたことなんて、一日たりともなかったのだから。

 だからこそ、翼に誘われて野球部に入ろうと決意した日。彼と顔合わせをした茜の本能が刺激された。

――あの男の子は茜のお兄ちゃんだ!

 なんて運命的な出会いなのだろう。ずっと想い続けてきた彼と一緒の高校になるなんて。

 だけれど、本能だけでは確信を抱けない。彼がお兄ちゃんであるという保証はどこにもないのだから。

 しかし、練習を通じて話をしている内に茜は彼の話し方や癖を想起して彼がお兄ちゃんであることを確信した。

 この時ほど翼に感謝した日はない。翼のことを自分と彼を結び付けてくれたキューピットなのではないかと本気で思ったほどだ。 

 

 けれども、キューピットが茜の目に余る行動を取り始めた。

 茜は休み時間に彼の様子を見に来るのが日課になっていた。引っ込み思案である茜は遠目で彼のことを見ているだけで幸せな気持ちになれたのだが、最近は毎回翼があらゆるところで彼に絡んでいる。満面の笑みで会話を途切れさせずにひたすら話しかけている翼に苦笑して相槌を打っている彼。翼の幸せそうな顔を見た茜はパーカーの袖の部分をぎゅっと握りしめた。

――お兄ちゃんも休み時間は黙って過ごしたいはずだよ。お兄ちゃんは静かに過ごすほうが好きだもん。

 彼とよく遊んでいた公園で黙って綺麗な夕焼けを二人きりで見ていた頃を茜は思い出す。彼はそこまで口数が多い方ではない。無理をして話さなくても心は通じ合えるものだと茜は思い込んでいる。

 容姿は女子である自分から見ても可愛いが、うるさくて無遠慮な翼は彼のストライクゾーンからは大幅に外れているに違いない。野球はとても上手なのに人の感情の部分に関しては暴投している。

――有原さんは全然わかってない。あ、茜が一番お兄ちゃんのことをわかっているんだから!

 ひと通り彼のことを考えて気持ちが落ち着いた茜は敵に成りえない翼に憐れみの感情を向けつつ、教室を去っていた。

 だが、茜の懸念事項はまだまだ終わらない。

 放課後の女子野球部の練習中、再び茜は許し難い現場に出くわす。

「あの、監督。送球が逸れることがあるので、どうしたらうまくいくのかアドバイスしてもらえますか?」

「うん、わかった。野崎さんの場合はまだリリースポイントが毎回ブレているから、スローイングがズレるんだ」

「そうだったんですね。その、自分じゃよくわからないので……近くに来て教えてもらえますか?」

「了解。えっと、肩の位置はここでリリースするときは……」

「ここ、ですかね?」

「いや、違う。もうちょっと上の位置かな」

「……ふふ」

 

――野崎さん、お兄ちゃんにわざと体くっつけてるッ!

 

 同時期に入部した同級生の女の子の野崎夕姫(のざきゆうき)はクスリと笑って彼に少し寄りかかるように体を接触させていた。最初は彼と接触をするときは恥ずかしそうにしていたのに、今は余裕の笑みを浮かべて、指導という建前を以て接触を図っている。

――ず、ずるい! あ、茜もお兄ちゃんと……じゃなくて! お兄ちゃんを誘惑するなんて許せないよッ!

 夕姫は容姿もスタイルも自信がない茜と違って、両方とも普通の女子高生を遥かに超えている。一流の雑誌の専属モデルだと言われても違和感が湧かないぐらいだ。。

 加えて、翼と違い外面の性格はおっとりとしておしとやかだ。何かの間違いで彼が茜以外を選んでしまうこともある。それは絶対に許されない。

「そうそう、そんな感じ。野崎さんは飲み込みが早くて助かるよ」

「……ありがとうございます」

 しかし、茜が見込んだ彼は清楚な振りをした不埒な輩の誘惑を意図ともせず真面目な表情を崩さないで、本来の目的である指導を完遂させた。

 彼にはバレていないようだが目論見が外れて、笑みが曇った夕姫の顔を見てスカッとした気分になった茜はキャッチボールを再開するのであった。

 今一緒にキャッチボールをしている野球部の頭脳担当の鈴木和香(すずきわか)も彼との接触が増えたが、どうやら自分と似たような雰囲気を感じ取れる彼女に対しては危機感を抱かなかった。

 そして、部内で一番の常識人で気遣いに長けた河北智恵(かわきたともえ)は暴走気味な翼をコントロールしてくれるし、危険な行動を取りつつある夕姫を巧みな話術で彼から気を逸らしてくれるため、彼女には密かに感謝すらしている。智恵は部内で最も安心できる存在である。

――茜にとって一番気をつけなくちゃいけない相手はやっぱり野崎さんだよね。有原さんも今のところは大丈夫だけど……たまにお兄ちゃんを見ている視線が怖いから要注意だよ。

 そこで、ふと翼に目を向けるとこの世に存在するありとあらゆる黒色を凝縮したような瞳で彼と夕姫を凝視していた。向日葵のように誰にでも快活に笑う彼女とのギャップが激しすぎるのもあるが、純粋な恐怖が茜の体を縛り付ける。

 負の感情に敏感な茜は練習中に熱くなった体が一瞬で凍えきってしまった。智恵に声をかけられ、一瞬でその表情を引っ込めたが嫉妬という単語で片付けられないドス黒い執着は狂気といっても差し支えないものだった。

 

――や、やっぱり一番警戒しなきゃいけないのは有原さんかもっ! で、でも茜だってお兄ちゃんのことは譲れないもんッ! だけど、このタイミングでお兄ちゃんのところに行くのは止めておこう……。

 

 本当は今すぐにでも彼の元に向かっていきたいが、今向かっていったら自分は助からないかもしれない。茜は小動物の本能に従って、今日この場では撤退することに決めたのであった。




勇気の撤退。
むみぃはヤンデレ化しても返り討ちに合うぐらい貧弱なところがすごく可愛い。


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#6 襲来者

「ねえ、有原さん。貴女はいつまで”野球ごっこ”を続けているの?」

 新メンバーも加入し、賑やかになっていたひまわり畑のグラウンドは一人の少女の襲来により不穏な空気に包まれていた。腰まで伸びている長い黒髪を風に靡かせた襲来者は翼と監督である彼に対して敵意の籠った視線を送った。

「そして、貴方も。いつまで、素人のお遊びに付き合っているのかしら?」

「えっと、君は……」

 突然、知らない女の子に喧嘩をふっかけられた彼は当然戸惑う。そして、彼女は自分の名前が彼に知られていなかったことに更に目つきを悪くしたようだったが、ふっと自虐気味に鼻で笑った。

「あの子は1年5組の東雲龍(しののめりょう)にゃ~! クラスでもきっつい感じで余り友達はいないみたいだにゃ~」

 新メンバーである自称新聞部兼野球部員の中野綾香(なかのあやか)は彼女に対してナチュラルに煽りを入れた。

「あと、彼女の兄弟は野球一家で長男と次男はプロで活躍中。三男も大学でドラフト候補に名前が挙がっているみたいにゃ。そして、彼女もまた三塁手としてリトルシニアで活躍。全国大会準決勝までいっている実績があるにゃ~」

なるほどと彼は思う。彼女自身が真剣にやっているからこそ、素人と混じって野球をしている翼と自分に対して怒りの感情を抱いているのかと。

「まあ、貴方に関してはいいわ。誰もが喉から手が出るほどほしい絶大な才能を無駄に散らしてしまったのだから。本当に才能の無駄遣いだったわね。無理をすべき場所でないところで将来を捨てるなんて、もったいない。正直、貴方には心底がっかりしたわ」

「な、なんでそんなひどいことを言うんですか!」

「い、言っていいことと、悪いことがあるよ!」

 温厚な夕姫がまず口火を切り、啖呵を普段は絶対に切らない茜も続く。和香もツリ目がちな目を更に吊り上げる。

 ここまで言われたら普段は仏のように怒らない彼も少しムッとしたものの……横にいる翼の顔を見て、息を飲み込んだ。

「……そういうこというんだ」

 すぐ横にいた自分にしか聞こえない音量で呟いた翼はなぜかニコニコと龍に対して笑っていた。

 それはもう満面の笑みで。人一人を殺しかねない殺意に満ちた漆黒の笑みだった。

 様子がおかしい翼を知ってか知らずか龍は挑発を止めない。場がどんどん煮詰まっていくのを感じる。

「才能をドブに捨てた貴方はこのまま素人と楽しいだけの野球を教えていればいい。だから、せめて有原さんだけでも開放してしてくれないかしら。こんなお遊びじゃなく、ちゃんとした野球が出来る場所に。彼女の才能が枯れる前にね……」

 これ以上はヤバいと助けを求めて智恵の方を見るも、彼女はもう遅いよと口パクをした後に静かに首を振った。

 

「悔しいけれど、有原さんの才能は私も認めているわ。有原さんなら今からでもプロを目指せる。今度、私の所属するクラブチームにも推薦……」

「ねえ、東雲さん」

 途中で龍の話をカットした翼は笑みを保ったまま龍に近づいて行った。妙に落ち着いた様子の翼はひたすら不気味だった。

「……何かしら」

「私と彼の野球をお遊びって言ったよね」

「ええ、言ったわね」

「チームのために自分の野球人生全てを懸けて戦った彼のことを……才能の無駄遣いっていったよね」

「ええ、それが何か?」

 笑みとは裏腹に地中奥深くまで届くかと思わせる低い声で淡々と詰問した翼はおもむろに目の前に落ちていたボールを拾い上げた。

「そこまで言うならさ、白黒はっきりつけようよ。東雲さんの野球と私と彼の”お遊び”の野球のどっちが正しいのか」

「いいわ。で、その内容は?」

「1打席勝負。東雲さんのポジションはサードだっけ?」

「ええ」

「じゃあ、私が投手側でいいよ。ヒット性の打球が打てたら東雲さんの勝ち。東雲さんが勝ったら私はクラブチームにトライアウトを受けに行くし、野球部をやめてもいい」

「随分と舐められたものね。ショートが本職である貴女に抑えられるとでも?」

「抑えられるよ。だって抑えられなくちゃおかしいもん。それで、私が勝ったら東雲さんにはクラブチームをやめて野球部に入ってもらおうかなー。私たちの夢の為に今は少しでも戦力が欲しいもんね。それとさぁ……」

 そこで一拍置いた翼は笑みを引っ込めて、腹の底に抑えていた呪詛を一斉に開放した。例え人が息絶えていたとしても追い打ちをかけるような残虐な殺意をあらわにして光をともさない真っ黒な目で龍の瞳を覗き込んだ。

「彼に謝ってよ。ねえ、謝ってよ。いいからさ、謝って。謝れ、謝れ。絶対に許さないッ! あやまれあやまれあやまれ! ねえ、東雲さんッ! あやまれあやまれあやまれあやまれ!」

 許さない、謝れと怨念じみた発言をひたすら繰り返す。表情は怒りと笑顔と無表情を行き来して安定していない。が、龍を見る目元だけは強烈な負の意思に渦巻いていた。

 智恵以外の全員が狂った翼を見て、固まる。人はここまで憎悪や敵意や憤怒といった感情を明確に表に出せるものなのか。

 しばらくすると翼は脈絡なくうわ言をやめ、龍に対して不自然に微笑んだ。

「調整も必要だし、対戦日は3日後でいいよね」

「い、いいわよ……」

「楽しみにしているよ」

 勝負の約束を取り付けた瞬間、逃げるようにその場を去った龍。いくら強気そうな龍でもアレに対しては耐性はないはずだ。

「はあ……」

 彼女が去ったことにより空気が緩み、翼以外の全員が大きく息を吸い込んだ。そして一息ついた彼はとんでもない約束をした翼に恐る恐る声をかけた。

「翼、あんな約束をして大丈夫なのか? 彼女の言う通り、ピッチャーは本職じゃないはずだ」

「うん。でも、私はずっと見ていたし大丈夫。私たちが負けるわけがない」

 翼は感情が抜け落ちた顔でそう言った。言葉が抽象的すぎて、彼は翼が何を根拠に大丈夫だと言っているのかわからなかった。

 ポーカーフェイスを保てず、先の見えない勝負や何をしでかすかわからない翼に対しての不安を表情に出してしまった彼。

「えいっ!」

 そんな彼に対して翼は無表情をやめ、龍に向けていたのとは真逆の慈愛の微笑みを出して彼にぎゅっと抱き着いた。胸元から下にかけて翼の膨らんだ胸部が当たり、彼はドキドキしてしまう。練習中なら覚悟を決めて練習以外のことは思わないように努めているが、不意打ち気味で来られると思春期真っ盛りな男子高校生としては少々辛いものがある。

「大丈夫だよ。私たちは負けないもん。それに3日間は集中的に指導してくれるよね?」

「うん、そのつもりだけど……」

「なら、もっと大丈夫……大丈夫だよ」

 自身の胸元に髪と頬をすりつけて離れない翼をそろそろ振り払おうとするも、影のフィクサーからのストップがかかったため、そのままにしておく。

 それに伴い、我に返った周りの女子部員からの冷たい視線に晒された彼は大きな体を縮こまらせるのだった。

 



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#7 東雲龍の嫉妬

 東雲龍には目標がある。

 一つは女子でありながら、プロ野球選手になること。女だから通用しないなどという世間一般のくだらない一説を自身の実力で必ず覆して見せると日々努力を重ね、自身が女子であるという象徴の長髪を願掛けにして、逆境の中を戦い続けてきた。

 そして、もう一つの目標が――

「彼とプロの世界で戦うこと、だったのに」

 自宅の練習場で龍は一人で呟く。小さく漏れた声は自分でもわかるほど落胆していた。

 龍もまた彼の野球に魅了された者の一人であった。初めて彼のプレイを見た時、体中に電流が走った。

 正確無比な制球かつ恐るべき球速、球威のある速球。味方のエラーによりピンチになっても動じない精神力。類まれなバットコントロール。芯を外しても無理やりスタンドまで持っていくパワーと豪快なフルスイング。

 間違いなく彼は打撃も投球も世代ナンバーワンだった。数十年に一人の逸材である彼が将来プロに行けるのは、誰の目から見ても当たり前のことだ。

 同世代の誰もが彼に憧れた。憧れという感情とは無縁と思っていた自分も例外ではなかった。野球をしている彼は輝いていて、龍が出会ったどの男の子よりもかっこよかった。苦痛であり義務であったハードな練習も彼と対戦するためだと思えば、全然足りていないと思えた。

 練習後の空いた時間はお気に入り登録した彼の試合を何度も何度も視聴し、自分に取り入れようと熱を入れた。失いかけていた野球をする楽しさや意義を彼は思い出させてくれたのだ。

――参考にしすぎて調子が一時期下がったことは汚点ではあったが。

 

 そんな逸材である彼をプロの世界で自分が倒す。そして、彼とお互いが意識し合うライバル関係になる。彼と一緒にプロ野球を盛り上げていく、はずだったのだ。

「はあ……」

 今日のノルマである素振りを終えた龍は近くに置いてあった常温のスポーツドリンクを手に取って、休憩を取る。空を見ると満点の星空が龍を見下ろしていた。

 良好な天気とは違い、今日のトレーニングはいまいち集中し切れていなかった。原因はもちろん彼と――龍がライバル視している有原翼のせいである。

 翼を一方的にライバル視しているのは訳がある。翼が自分と同じ女子でありながらに自分以上に才能に恵まれた選手であることが理由の一つだが、それ以上に大きな要因がある。

 

「有原さんは私と彼の対決の機会を奪っていった……」

 

 リトルシニア準決勝。勝てば決勝であると同時に彼と対決できる絶好のチャンスだった。そこに立ちはだかったのは彼女だった。

 7回裏に龍のチームは3点リード。勝利まであと一歩だったが、味方の2連続エラーにより2アウト満塁。非常に重要な場面で翼に打席が回り、彼女は一振りで試合を決めた。

――逆転サヨナラ満塁ホームラン。彼女にとっては天国、龍にとっては地獄の結末を突き付けた。

 その後、決勝戦で彼と対決をした翼の満ち足りた幸せそうな表情を現地で見た龍は――口元から鮮血が出ているのにも気づかないほど、嫉妬した。

 

――そんな楽しそうな顔をしないで。本来なら、あの場所には私が立っていたはずなのに。

 

 その時は何とか激情を堪え、次の機会があると自分に言い聞かせて試合を観戦していた。しかし、龍に”次”はなかった。

 彼は翼に対して全力投球をした後に肩を壊して再起不能となり、翼が彼と対戦した最後の打者となった。龍は対戦の機会すら与えられないまま、目標の一つを失ってしまったのだ。

 

――どうして、こんな所で無理をしてしまったの? どうして、彼女にだけは全力だったの? 私が相手でも貴方は全力で戦ってくれたの?

 

 時が経っても心の棘は抜け落ちないまま野球漬けの日々を過ごした。目標を見失ってからモチベーションが上がりきらなかった中、彼と翼が自分と同じ高校に通っていることを知った時は驚きを隠せなかった。

 驚きの後に湧いてきた感情は彼に出会えた歓喜と落ちぶれた姿を見た悲しみ。そして、翼に対する業火のごとき怒りであった。満足に野球が出来なくなった彼とは違い、高みを目指せるはずの翼が素人のお遊びに付き合っているのを見ているとイライラが止まらなかった。

 いや、正確には違う。翼が彼を独占するためにお遊びの野球をしていたのが我慢ならなかったのだ。

 それが爆発したのが、今日である。彼に構ってもらうために無意識で媚びを売る彼女が目に付いて、居ても立っても居られなかった。

 その後の展開は龍の狙い通りに事が進んだまでは良かったが、あの時の彼女の執念に一瞬でも気圧されてしまった自分を恥じる。

「ずっと彼を追っていたのは貴女だけじゃないのよ……有原さん」

 多少、言い過ぎたのは認めよう。翼を煽るためとはいえ、度が過ぎることを言ってしまったのだから。彼に対しては本当に申し訳ないと思っている。勝負に勝った暁には誠意をもって彼に謝ろう。

 そう、勝ってから謝るのだ。腑抜けた翼に負けることは1ミリたりとも龍は考えていなかった。

 勝った後は少しずつ翼の立ち位置を自分のものにしていこう。じっくり、じっくりと。確かに実力者であった彼に練習を見てもらうのも悪くないだろう。

 彼と一緒に目指すプロ入りもなかなか魅力的ではないか。なるほど、翼が夢中になるのも頷ける。間違いなく毎日が充足感に溢れかえりそうだ。そのためなら素人たちに野球を教えるのもやぶさかではない。

 これからのことを想像すると、口角が独りでに斜めへと歪んでいった。

「……有原さん、貴女を解放してあげるわ。彼のいない世界へと」

 休憩を終えた龍は長髪を縛り直し、失った未来を別の形で取り戻すためにノルマを超えてバットを振り続ける。

――大事なものを奪われる絶望を有原翼に与えるためにも、絶対に負けられないから。




アニメ版舞子先輩すこ。舞子先輩をドロドロに依存させたい。
でも、やっぱり大正義椎名ちゃんをすこりたい。何故、アニメに出て来んのじゃあ……!


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#8 対決

非常に遅ればせながら、評価して下さった方ありがとうございます!
日間ランキングにも一時的に乗っていたようで、嬉しい限りでございます。

さて、いよいよハチナイ8話が放送されましたね。
アニメに出ていないメンバーも沢山出てきて、盛り上がりました。

――ところで、椎名ちゃんはどこですか?


 暗雲立ち込め強風が吹き荒れるひまわり畑グラウンド。マウンドでは女子野球部創設者である有原翼が剝き出しの刃のような剣吞な雰囲気を漂わせて投球練習を行っている。

 一方、この勝負の仕掛人である東雲龍は至って冷静な表情で彼女の投球を隈なく観察していた。

 

 緊張感は伝播し、戦いを見守る部員たちもソワソワして落ち着かない様子であった。

 

「あの、監督。翼さんなら必ず勝てますよね?」

「俺は勝てると信じているよ」

「そうだ! 夕姫、何弱気になってんだ! 気合入れて応援しろ! フレー、フレー! つ、ば、さ!」

「フレー、フレー! なのだ! 負けるつもりで戦う勝負師なんていないのだ!」

 

 勝負前に弱気になっている1年生を励ます2年組。応援団に所属する岩城良美(いわきよしみ)と勝負勘に優れた阿佐田(あさだ)あおいである。彼女らも未経験ながらなし崩し的に野球部に参加したメンバーだ。

 

「ね、ねえ。中野さん。東雲さんってやっぱり上手なの?」

「それは監督である彼に聞くのが早いにゃ~」

「……中野さんに見せてもらったリトルシニア時代の映像を見る限りだと、東雲さんは率直に言って翼と同格の選手だった。ブランクがある翼と野球を続けてきた東雲さんとでは今の実力面では彼女の方が上かもしれない」

 話を振られた彼は客観的に見た感想を述べる。龍は苦手な球やコースもなく、広角に打ち分ける技術も持っている。加えて、甘い球を投げようものならスタンドまで簡単に持っていく女子離れしたパワーを兼ね備えたスラッガーだ。

「だけど、勝負強さの部分に関しては翼の方に分があると俺は思うよ」

「うん。翼はピンチやチャンスの場面には滅法強かったから」

 ブランクのある翼が勝っている点は生まれ持った勝負強さだ。6割強という異常な数値を誇っていた得点圏打率や救援で投球に入った際のリリーフ成功率は群を抜いて高かった。

 それに翼は”持っている”女だ。翼は才能や運も含めて選ばれし人間だ。

「とにかく岩城先輩を見習って応援しましょう! フレー、フレー!」

「ふ、フレー!」

 直接対決した経験のある彼と翼に関しては知らないものがない智恵が太鼓判を押し、不安がっていたメンバーも表情に明るさを取り戻していった。

 

 この野球部は有原翼を中心に回っている。その彼女が負けて野球部を離脱したら、たちまち女子野球部の活動は成り立たなくなり崩壊してしまう。なので、翼には何が何でも勝ってほしいと皆は思っている。

――違う。全員が全員そうではない。翼がいなくなってしまったら、彼もまた自分たちから離れてしまうのではないかと一部のメンバーは焦燥感にかられていたのだ。

 だからこそ、自分たちの平穏を崩す外敵の駆除を担当してくれた翼を全力で応援しているのである。

 

 

 

 

 

※ ※

「ウォーミングアップは済んだかしら」

「うん。東雲さんも体は温まった? じゃあ、そろそろ始めようか。言い訳は一切させないから」

「その言葉、そっくり貴女に返してあげるわ」

 龍はバットを力強く両手で握りしめて、バッターボックスにて簒奪者(さんだつしゃ)であるマウンド上の翼と相対した。マウンド上の翼も勝負に向けて調整をしていたようで、3日前よりも研ぎ澄まされた威圧感を龍に対して放っていた。

――そうでなければ、潰しがいがないわ。

 審判にはお互いの要望で彼についてもらう。いよいよ、お互いの未来をかけた一打席勝負が始まる。

 額についた汗を軽く拭った翼はサイド気味のフォームから和香が構えているキャッチャーミットに向かい、第一球目を投げる。

 球種はストレート。伸びのある球が外角ギリギリに突き刺さる。龍はその球をじっくりと見送る。それと同時に翼の質の良い球に感心した。

――ブランク明けとは思えない球ね。回転もかかっていて伸びもあるし、球速も出ている。

 だが、それだけだ。決して打てない球じゃない。

 

 第二球目はタイミングをずらす緩やかなカーブを慌てずに見送り、1-1。変化球が取れない和香はポロリとこぼしてしまい、慌ててボールを翼に返球した。

 

 続く三球目。再び外角のストレートに対して、龍は球に逆らわずバットを振る。バットからは快音が鳴り響き、打球はライト方向のファールゾーンに弾丸ライナー気味に流れていった。

 これでカウントは1-2。ピッチャー有利のカウントだ。

「これで1-2。あと一球で終わりだね。案外、あっけなく決着がついちゃいそうかな」

「ええ、そうかもね」

 優位に立った翼は糊で張り付けたような作り笑顔で追い詰められた龍を煽ってくる。龍は煽りに対して、自信に溢れた不敵な笑みを浮かべて翼に応戦する。

 怪訝そうな顔をした翼であるが、弱った獲物を捕らえる捕食者のような無機質な目に変えた。次で止めを刺しに来るつもりだ。

 

 しかしながら、龍は次の球を必ず打てる自信があった。球種は読み切っている。彼女ならあの球を投げてくるに違いない。

 

 運命の第四球。翼が投げたのは内角ギリギリに入ってくる速い球。見逃せばギリギリボールの際どいコースだった。

 

 

 

――待っていたわ、この球を!

 

 

 ボールは手元でグイっと曲がり、内をえぐるようにストライクゾーンに入ってくる。

――ストレートと同速度の高速スライダー。龍は狙い通りの球にほくそ笑む。

 これは彼が全国大会で翼にだけ見せた決め球だ。龍は溢れかえる嫉妬心を抑えてでもそのシーンを何百回、何千回と再生し、脳内にインプットしていた。

 それに自分の大切なものを自慢気に他人に見せびらかす彼女なら確実に高速スライダーを投げてくると確信していた。

 微かに声に出して笑った龍は大きく左足を踏み込み、丁寧に腕を折りたたんで全体重をバットに乗せた。バットは寸分の狂いもなくボールに一直線に突き進んでいく。

 

 

――ガキーンッ!

 

 

「ッ!? なんで!?」

 金属バットから奏でられる会心の反響音。真芯で捉えた打球はグングンとレフト方向へと綺麗な弧を描いて進んでいく。驚愕の表情のまま、翼も打球の行方を首を後ろに向けて見送る。

 打球の行方はひまわり畑の奥の方まで飛んでいき、ようやく落ちた。文句なしのホームラン、だったのに。

「……本当に運がいいわね」

 龍は忌々しげに呟いた。翼の運の良さに一種の呆れすら覚えたからだ。

 そう、今日は天気が悪く強風が吹き荒れている。

 強風に煽られた球はフェアゾーンに入っていた白球を押し流し、ファールゾーンへと運んでいったのだ。球種とコースが分かっていた分、引っ張り気味に打ってしまった龍にも落ち度があるが翼を勝たせようとする何者かの意思が働いているようで心底不快になる。

 

「どうして、どうしてなの!? なんであの球が打てるの!? だって、あの球は私だけの! 彼と私だけのスライダーなのに!」

「別に貴方だけの特別なものじゃないわ。あんな球、ただの高速スライダーじゃない」

「そんな訳ない! だってあのスライダーは誰にも当てられない私たちの無敵の決め球だもん!」

「彼が投げていたスライダーは例えコースが分かっていたとしても、初見ではまず当てられなかったでしょうね。何百回、何千回とリプレイを見ても打てる自信が湧いてこない彼の決め球。ああ、私も叶うなら貴方のことを直で体験したいわ! きっと、とても楽しくて気持ちいいのでしょうね……」

 勝負中で高揚していた龍は後ろを振りむき、彼に熱烈な視線を送る。恐らくだが、今の自分の目は翼のような見苦しくて粘ついていてドロドロな欲に塗れたものだったのだろう。認めたくないが翼と自分は似たもの同士だ。だからこそ、同族嫌悪が湧く。

 視線を正面に戻した龍は頭の中がひまわり畑の女を嘲笑を滲ませた悪意を含んだ顔で見据えた。

 

「それと有原さん、あまり彼を馬鹿にしないでもらえるかしら」

「なに、言ってるの。散々彼のことを馬鹿にしていたのは東雲さんのほうでしょ!」

「私は事実を言ったまで。馬鹿にしているつもりは全くないわ。それよりも有原さんがあんな平凡な球を”私たち”の決め球と言ったことが非常に腹立だしいわね。勝手に彼のことを一括りにしないでもらえるかしら。貴女は彼の隣に立つべきじゃないのよ」

 

――隣に立つべきなのは、この私。野球に対してストイックで真摯に向き合える私こそが相応しい。

 

 翼は先日のような笑顔の仮面を纏う余裕はなく歯を食いしばって、必死に怒りを抑えているようだ。彼女は濃度100%の純粋な敵意と殺意を持った瞳で龍のことを凝視していた。

しかし、後ろに立っていた彼の姿を翼が捉えた瞬間、彼女の様子が一変した。顔を死人のように青ざめさせ、すぐに顔を隠すかのようにグローブで覆った。だけど、隠れていない口元はどうやっても隠し切れないほど震えていた。彼との思い出を砕かれて明らかに動揺している。ああ、実に滑稽だ。

冷静さを欠いた選手は自滅する。やはり、メンタル面でも彼の足元にも及ばない。

 こんな我を忘れた状態の有原翼に負けるはずはない。早く投げてこいと再び龍はバットを構えたその時。

「ごめん、東雲さん! タイム!」

「……は?」

 公平なはずの審判である彼がタイムと言い、翼のほうに駆け寄っていった。突然の出来事に呆気に取られた龍。

 しかし、すぐに状況を把握すると無理やり凍らせた彼女の心は胸中でひたすら燻っている漆黒の炎であっという間に溶かされていった。

 

「なあ、翼」

「ッ! あぁ、ああああッ! ごめんなさい! ごめんなさい! 違うの! こんなはずじゃなかったの! 私はずっとあなたを見てきて、それで! だから、私たちの球は絶対に! その、だから! 許して……お願いだから」

「落ち着いて。俺は怒りに来た訳じゃないよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……え? じゃあ、どうして?」

「翼が心配だったからに決まっているじゃないか」

「そう、なの? えへへ、そうなんだあ……」

 

 支離滅裂で情緒不安定に必死に謝っていた翼は彼に声をかけられただけで冷静さを取り戻した。彼を見つめる涙で潤んだ瞳は安心しきっていて、彼しか映し出していない。

龍はこの無意識に媚びを売る女の表情をした翼が大嫌いだ。

 翼に包容力のある微笑みをかけた彼は翼に耳打ちをし、彼女は真剣な表情で聞いた後に何度も何度も笑顔で頷く。ぽんと翼の背中を軽く叩いた彼はゆっくりとマウンド上から戻ってくる。

「……有原さんに何を吹き込んだの?」

「たいしたことは言ってないよ。俺の為にじゃなく、前に対戦した時のように野球をやってくれと伝えただけだ」

「そう。本当に腹立たしくて……羨ましいわね」

 

――私には彼と対戦する機会は二度とないのだから。

 

 悲痛な表情を見た彼はじっと龍を見ると、翼にはまだ言っていないんだけどと囁く。彼から伝えられた内容を聞いた龍は天上へ至るかと思える悦楽を得た。

「わかったわ。約束よ」

――それならば、一時的に私怨を切り捨てて勝ちに行きましょう。

ふっと息を整えた龍はマウンド上で俯いている翼を眺めると、バットを構えた。それと同時に顔を上げる翼。彼女を見た龍は目を丸くする。こちらを見た彼女は、戻って(・・・)いたからだ。

「東雲さん! 私、やっぱり野球じゃ負けたくない! だから、彼とは関係なしに絶対に勝つから!」

 翼は一転して、負の感情が一切ないニカっと屈託のない笑みを龍に向ける。龍がライバルと認めたあの頃の翼だ。どんなに苦しくても野球を楽しむことを忘れない翼に。

 そして、リトルシニア全国大会で彼にただ一人全力を出させた選手である憎たらしいほど強かった有原翼に。

 翼は龍に分かるようにボールをストレートの握りで挟んでみせてきた。

「最後は私らしくストレートで勝負。打てるもんなら打ってみなよ」

「あら、負けるつもりなの? 貴女のストレートはもう見極めているわ」

「勝負はやってみないとわからないよ」

「……来なさい」

「うん!」

 

 翼は無駄な力が抜けた流麗なフォームからサイド気味ではなく、オーバースローに近い高いリリースポイントから全力で腕を振り下ろしてきた。予告通りの直球でコースはインコース高め。速度は今まで見せたストレートよりも間違いなく速い。130キロは優に超えているだろう。

 

――いい球ね。でも、私なら合わせられる!

 

 龍はしっかりと目でボールを捉え、軸足を回転させた。

 

 

 

――快音が、響いた。

 

 

 

 

 

 

※ ※

「今日から野球部に入部することになりました東雲龍です。よろしくお願いします」

『よろしくお願いします!』

 対決の結果、龍は女子野球部に入部した。せっかく入ったクラブチームも抜けて、ここで野球をすることに決めたのだ。理由は定かではないが、翼と通じ合うものがあったのだろう。

 監督である彼としては龍が部に馴染めるか心配であったが、思ったよりも好意的に受け入れられているようだ。

 翼が投げた最後の球は確かにストレートだった。しかし、ボールを打つ直前にほんの僅かに球が上に浮いたのだ。結果的には小フライになりショートとレフトの守備位置の間にボールが落下した。

 

 ヒットとも打ち取ったとも言えない結果であったが、龍は自ら負けを認めた。そして、翼との約束通り、神妙な面持ちで自分に対して最敬礼での謝罪をした。そして、謝罪を受け入れるのと同時に彼も龍に感謝していた。

 なんといっても自分だけでは翼を戻すことは出来なかったからだ。生き生きと野球をやっている翼は本当に魅力的で好ましい。自分もまた野球をするのが心から好きな翼に憧れを抱いたのだ。

 そして、自分もまた龍に交わした約束を守らなければいけない。

 

※ ※

 部活帰り。彼は龍と二人で近くのバッティングセンターに足を運んでいた。

 龍は自宅に帰り風呂にでも入ったのか、美しい長髪からはシャンプーのいい匂いを漂わせている。耐性がついてなかったら、不自然な挙動になっていたかもしれない。

 どういうことか一度解散してから集合することを指定されたのだ。別にそのまま行っても良かったのではないかと彼は疑問に思う。

「私との約束もきっちり果たしてもらうわ」

「わかってるよ」

 彼が龍と交わした約束。それは彼女とも勝負することだった。手始めにどちらがよりホームランが打てるのかバッティング対決。

 そして、いつの日か投手と打者として、真剣勝負を行うことだった。

 

「指導ばかりで碌に練習していない貴方になら負ける気がしないわ」

「言ったな。そこまで言うなら負けた方がジュース奢りだから」

「そう、奢ってくれてありがとう」

「俺が負ける前提なのかよ……」

 

 相変わらず言葉はツンツンしているが、勝負ごとになると目を尖らせ、ムキになる龍は自分と同じ同世代の少女なのだとしみじみ思う。

 また賛否両論分かれるがズバッと表裏がない発言が出来る龍のことは嫌いではない。向こうが気を遣わないので、こちらも気を遣う必要がないから楽なのだ。

「東雲さんとは翼と違った意味で気兼ねなく話せるよ」

「これから勝負をするのよ。他の女の名前は出さないで頂戴」

「デートするわけじゃあるまいし……」

「二人きりで出かけているのだから、これはデートと言えるのではないかしら」

「え……」

 彼女らしからぬ発言と整った顔で流し目をされた彼は一瞬ドキマギする。焦った彼に対して、龍はこれまた年相応の可愛らしい顔で微笑んだ。

「冗談よ」

「お、驚いたよ。東雲さんも冗談を言うんだ。てっきりそういったのは嫌いなのかと」

「たまには言ってみたくなることもあるわ。止まってないで、早く行きましょう」

 スタスタと歩き出す龍を慌てて追いかける。すぐに彼女の隣に追いついたとき。

 

「……私を夢中にさせた責任は必ず取ってもらうわ」

 

 龍は笑みを保ったまま、何か呟いたが彼には聞き取れなかった。まあ、龍が楽しそうならそれでもいいかと大して気に留めずに眼前にあるバッティングセンターへの入り口へと向かっていくのであった。

 




アニメのハチナイの爽やかなストーリー、ほんとすこ。
ちなみに有原さんは浄化されているように見えて、実のところ一切変わっておりません。




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#9 倉敷舞子の危機感

お久しぶりです。
最近実装されたウエディング野崎にいががわしさを感じるのは自分だけでしょうか。




倉敷舞子(くらしきまいこ)は男嫌いである。正確には人間嫌いと言った方がいいのかもしれない。舞子の家庭環境は客観的に見ても歪んでいる。

 家庭を顧みない父親にヒステリックで精神的に病んでいる母親。冷え切った家庭はすでに修復不可能なほど崩壊している。

 野球部に入部した動機も家に戻りたくないからという理由が大半を占めていた。

不純な動機で入った野球部であるが、元々体を動かすのは嫌いではない。運動神経も人並み以上に優れていた舞子は野球未経験ながらもすぐに順応していった。

 

 案外居心地が良い女子野球部であるが、一点だけ懸念すべき問題点があった。

 

「倉敷先輩、次はアウトコース高めにお願いします」

「……わかったわ」

 

 今、ボールを受けてもらっている女子野球部監督である彼の存在だ。

 彼は本来の利き腕ではない左腕を使い、ボールを舞子の取りやすい胸元よりに投げ返してくる。

 出会って2週間ほどではあるが、彼の純朴な人柄の良さは分かっているつもりだ。監督業もやりつつ、率先して雑用もこなし皆が快適に野球が出来るように頑張っている。誰にでも優しく平等で一見すれば好青年で非の打ち所がない。

 しかし、舞子は彼のそのような所を危険視していた。

 

 ――ああいった男が一番危ない。

 

 優しいだけの男というのは暴力を振るう男よりも質が悪い。

 心を許したら最後、彼に依存してドロドロの底なし沼に引きずりこまれるだろう。自分の母親のように。

 口元を軽く噛み締めた舞子はネガティブな感情を振り払うべく、指導者の顔をした彼に向かって力一杯の投球を返していった。

 

 今日もハードな練習を終えた舞子は家の玄関の前で立ちすくみ、暗くなってきた空を見上げる。今の自分の気分と同じ不安定な色をしている。

 

「ただいま」

 

 憂鬱な心で玄関を潜り、リビングまで行くと自分以上に不安定な心を持った母親がおかえりの言葉ひとつかけずに生気の籠っていない瞳で舞子をじっと見つめる。

 

「ねえ、舞子。今日もお父さん帰ってこないの。ねえ、どうしてだと思う? ねえ」

「……知らないわよ」

「知らないって何? お母さんが悪いっていうの? ねえ、ねえ!?」

「だから、知らないってば!」

「私のせいじゃなかったら誰のせいなの!? 舞子のせいじゃないの……!」

「ッ……! もう、嫌ッ!」

 

 何度も繰り返された理由もなく自分を非難する言葉に舞子は耐え切れずにバッグを持ったまま、再び玄関に向かい家から飛び出した。

 その後、舞子は行く当てもないまま繁華街を彷徨った。もう何もかも嫌になる。どこにいても自分の居場所はない。

 行く先を確認せずに彷徨っていたら人だかりの少ない路地のほうに来てしまっていた。

 

「あれ、キミ高校生?」

「暇みたいだしさ、俺たちと遊ばない?」

「……結構です」

「まあまあ、そう言わずになあ」

 

 すぐにこの場を離れようとしたが、柄の悪い男どもに捕まり思わず舌打ちをしかけた。今日も厄日である。無視をして、踵を返したところに肩を掴まれた。知らない男に体を触られた嫌悪感に全身が泡立つ。

 

「……触らないで下さい」

「いいねえ、俺ってキミみたいな気の強い子がタイプなんだよねえ」

「お前、この前はか弱い女の子がタイプって言ってなかったっけ」

「俺は日によって好きなタイプが変わるんだよ」

 

 下卑た笑い声に更に嫌悪感は強まり、払いのけようとするももう一人の男に空いている腕を掴まれてしまい、逃げ場を失ったその時。

 

「あ、探しましたよ先輩」

「え……」

 

 簡素な白いTシャツにジーパン姿の普段着を着た彼がいつも通りの穏やかな表情で近づいてきた。

 そのまま流れるように、男たちの手を跳ねのけると舞子の手を自然に握り路地から出ようとした。

 

「おい、てめえ。いきなり邪魔して……」

「あんたらが邪魔だ。何勝手に先輩の体に触れているんだよ」

 

 男の一人が呼び止めるも、彼に普段のトーンより数段低い声で牽制する。怖気づいたのか男は途中で言葉を止めた。彼の変貌した振る舞いに気圧されたからだ。威圧感抜群に相手を圧倒する目や姿勢は興奮気味の翼に半強制的に見せられた彼の試合動画そのものだった。

 高身長だけではなく、Tシャツ姿になっている彼の体はまさしく鋼の肉体で喧嘩慣れしている人間相手でも襲い掛かるのをためらうほどだろう。事実、チンピラたちはガンを飛ばすだけで全く動こうとはしなかった。

 彼の姿に安心感を抱いた舞子は無意識に彼の逞しい背中に隠れる。男たちは彼からの威圧感に耐え切れず舌打ちをして、その場から立ち去って行った。

 

「もう行きましたよ、先輩」

「……そう。助かったわ」

「あの、そろそろ手を離してもらっても……」

「あ、あんたから握ってきたんでしょ!?」

「す、すみません」

 

 顔が熱くなった舞子は瞬時に男らしいゴツゴツした手を放す。自分の手はじっとりと汗ばんでいて男に絡まれて、怯えていたのが彼にも伝わってしまったのに違いない。

 それはそうと普段とのギャップにドキリとしたところはバレていないだろうか。後輩に自分の弱みをみせたようで恥ずかしくてたまらなかった。

 

「そういえば倉敷先輩はどうしてこんな時間にここに?」

「それはあんたもでしょ」

「俺は野球道具を買うために来たんです。左利き用のグラブとキャッチャーミットが欲しくて」

「……そう」

 

 グラブはわかるが、キャッチャーミットまで買う必要があるのだろうか?

 ――もしかして、私の球を受けるために?

 自分の考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴する。舞子の他にもピッチャー候補の部員はいるのだから。

 

「それで、倉敷先輩はどうしてここに?」

「しつこい。あんたにはどうだっていいでしょ」

 再び話を返されたが、あえて舞子は突き放すようにつっけんどんな態度を表に出した。助けてもらったのに陰険な態度を取られたら普通の人間だったら引き下がるかと思い、わざと嫌われる態度を取ったのだ。

 しかし、彼は普通ではなかった。

 

「どうだってよくないです。先輩は野球部の仲間ですから」

「たった2週間程度の関係で仲間? 笑わせるわね」

「たった2週間でも倉敷先輩は仲間です」

 恥ずかしげもなくスラスラと青臭い台詞を吐く彼に辟易するも、彼のどこまでも真っ直ぐな目を見ると相手の言葉を素直に受け入れられない醜さに自己嫌悪しそうになる。

 自分が持っていない輝きを持っている彼のことが羨ましくて妬ましくて……好ましい。

 

――彼になら別に言ってもいいか。

 

 舞子は普段だったら話すことはなかっただろう身の上話を失笑を交えて、ポツリと漏らした。

 

「……家に帰りたくないの」

「そう、なんですね」

「……何も聞かないの?」

「何か気の利いたことを言った方がいいですか?」

「余計なお世話よ」

「ですよね。俺も打たれた時とかにチームメイトが中途半端に慰めに来られたら悔しさで死にたくなります」

 

 舞子は追及をやめてくれたことにホッとする。ここで表面上だけの同情をかけられたら間違いなく彼の前から立ち去っていただろう。ここで彼は舞子の浮かない表情を見た後に爽やかな表情で誘ってきた。

 

「先輩。まだお時間があれば俺に付き合ってもらっていいですか?」

「嫌」

「そこを何とか!」

「嫌」

「ええ……」

 

 彼の困った顔がおかしくなってクスクスと笑ってしまう。ここで舞子は自然に彼と話せていることに不思議に思う。先程までの気分は最悪だったが、今は決して悪くはない。少しぐらい付き合ってもいいだろう。

 

「いいわよ。今日は不覚にも助けてもらったから」

 

 

※ ※

 彼が連れてきたのはバッティングセンターだった。彼は慣れた様子でバッティングスペースまで舞子をいざなった。

 

「ストレスが溜まった時はバットを振るのが一番です」

「どこまでも野球しか結びつかない単細胞ね」

「野球好きの俺にとっては誉め言葉ですね」

「はいはい、実に幸せな頭ね。それで初心者用のマシンはある? まずはそこで慣れようと思うんだけど」

 

 最初だから球速の出ないマシンを選ぼうとしたが、彼に却下される。

 

「速い方が練習になりますし、当たった時に反発力でより遠くまで飛ばせるようになるので気持ちよさが段違いですよ」

「だけど……」

「それに倉敷先輩なら合わせられるんで大丈夫です」

「根拠もなしにいい加減なことを言わないで」

「根拠はあります。先輩のこと一週間見てきた結果、打てるって判断しました」

「何にも判断材料になってないじゃない」

 

 いいからいいからと若干強引にバッターボックスに導かれた舞子。最初の数球は球速に目が追い付いていなかったが、すぐに目が慣れた。5球目にマシンから投じられた球を舞子は思い切り振りぬいた。

 

「おお! 流石です、先輩!」

 彼の感嘆する声が聞こえる。舞子も打った瞬間に手ごたえを感じたボールはもう少し飛距離が出ていればホームランの当たりだった。

 残りの球は大した結果は出せなかったが、あの球を捉えた気持ちよさは癖になりそうだった。

 

「どうです? 気持ちいいですよね?」

「……悪くないわ」

「それは良かったです!」

 彼は舞子に向けてニカっと無邪気な笑みを浮かべた。舞子は強がってそっけない風を装うも嬉しさを隠し切れず、すぐに次の球を打つためにコインを入れた。

 結局、あの一球しか会心の捉え方は出来なかったが、この一瞬の快感を求めるためにバッティングセンターに通っている人もいるのだと察する。

 

「よし、たまには監督らしいところを見せましょうか」

 

 疲れた舞子に代わって、彼がバッターボックスに立つ。そういえば彼が指導ではなくプレイヤーとして野球をするところを見るのは初めてだったりする。

 彼はヘルメットを被ると左バッターボックスに立ち、バットを高く掲げる。独特なフォームのままマシンから出てきたボールをフルスイングで豪快に合わせた。

 

「すごい……」

 あれだけ全力でフルスイングしているのに一球たりとも打ち損じはない。全てがホームラン級の当たりだ。周りにいた客も彼の隔絶されたバッティングを見ると打つ手を止めて、驚嘆している様子だ。

 続けて彼は至って自然に右バッターボックスにも立つ。

 

「あんた、右でも打てるの?」

「はい。元々右打ちだったんですけど、左で打てやと子供の頃に遊んでいたときに言われて」

 

 俺が打ちすぎてしまったからなんですけれどねと彼は過去語りをしたときにドヤ顔をした。野球に関しては少しだけ傲慢になる彼にイラっとしたが、再び打ち始めた姿を見るとそんな感情も吹き飛んでしまう。

 右打席でも彼はホームランを量産する。天才と呼ばれる気にくわない人物は舞子の同学年にもいるが、彼の野球に特化したセンスと比べると彼女のマルチなセンスも霞んでみえる。

 

「どうやったら、まともに打てるようになる?」

「そうですね。こんな風に――もう少し脇を締めて、コンパクトにバットを振るようにしたらいいかと。後は絶対打つという気合ですかね」

「……教える気ある?」

「え? もちろんです!」

 

 あろうことか彼のフォームと正反対のアドバイスに加えて、根性論を持ち出してきた。だが、ふざけているとしか思えないアドバイス通りに打ってみるとしっかりとボールを捉えられるよう回数が増えたことがまた腹が立ち――指導により上達する快感がまた気持ちよかった。いい打球を打つたびに褒めてくれる彼の声援が心地よかった。

長い間忘れていた楽しいという感情。舞子は暖かい感情に身を浸して、バットを振るい続けた。

 

 

※ ※

 

「今日はありがとうございました。気晴らしに付き合ってもらって」

「……うん」

 直接的な表現はなかったが、彼は遠回りに舞子に対してすごく気を遣ってくれていた。本来なら感謝を伝えるべきなのは舞子のほうなのだが、くだらないと思っていた年上のプライドが邪魔をして頷くだけになってしまった。

 気を遣わせてしまった負い目もあるが――それ以上に事情を深く聞かずにただ寄り添ってくれたことが嬉しかった。

 

「あんまり夜は出歩いてはいけませんよ。最初に絡んできた奴らもいるんですから」

「あんたは学校の教師か」

「教師ではないですけど、一応指導者である監督なので」

 

 ここまで他人と一緒に居たのも久しぶりだ。これからまた家に戻らなくてはいけないのに、家を飛び出した時と比べると精神的に大分余裕が生まれた。彼と一緒にいる時間は非常に心地よかった。

 

「ここでいいわ」

「はい。それと……先輩が退屈な時は俺や野球部の仲間を誘ってください! それでは、失礼します!」

「……またね」

 

 大きな背中が見えなくなるまで見送った舞子は小さく手を振り無意識に笑っていたことに気づいた。自分の頬を軽く叩き、溶かされてそうになる思考を辛うじて戻す。

 

――ダメ。心を許しちゃ、ダメ。

 

 彼は危険な存在だ。彼は自分にだけ優しいわけじゃない。たまたま困っている自分が見捨てられないから構って来ただけ。

 自分も自分だ。ちょっと優しくされただけで感化されてはいけない。嬉しいとか幸せだとか思ってはいけない。自分は絶対に母親みたいに都合のいい女にはなりたくないのだから。

 

 

 

 

 

※ ※

 一度は気分を持ち直した舞子であったが、母親とトラブルが起きるたびに家を飛び出すのは変わらなかった。

 今までは繁華街をぶらぶらしたり、ファストフード店でドリンク一杯でスマホを眺めていたものだったが――今は違う。

 

「ここ、間違っているわよ」

「え?」

「ここは、この数式を使って……」

 

 今日も朝から母親が安定していなかったので、家に戻りたくなかった舞子は部活後に待ち合わせをする約束をした。今はテスト前ということもあり、ファミレスで彼と一緒に勉強をしているところだった。家で暗い気分のまま勉強するよりは効率がいいと舞子は思ったからだ。

 舞子は気が付いていない。勉強をするだけなら、別に彼のことを誘う必要は全くないことを。危険な人物だと分かり切っているのに自分から誘っている矛盾にも気付けない。

 

「倉敷先輩って勉強も出来るんですね」

「まあ、時間を潰すために勉強していたから」

「……なんか寂しいですね」

「うるさい」

「いてっ!」

 

 生意気なことをいった後輩に教科書を持って軽く叩いた舞子は大げさなリアクションを取った彼を見て、静かに笑った。野球一辺倒で勉強はそこまで得意ではなかった彼は普段とは逆に舞子に教えられる形でテストの範囲を見直していた。

 最近の彼は舞子に対して遠慮がなくなってきた。日頃、練習で舞子の球を受けているのもあるがプライベートの時間も一緒にいることが多くなったからだ。バッティングセンターにも行ったし、カラオケやカフェで時間を潰したこともあった。彼と過ごす時間はぽっかりと空いていた舞子の心の隙間を着実に埋めていった。

 彼も舞子もそこまで話を振るタイプではなかったので、二人で黙々と問題を解いていく。気まずくなる静寂も、彼となら逆に心が落ち着く。

 そんな中、沈黙を打ち破るように彼のスマホから着信音がなった。確認するために彼がスマホの画面を開いた。

 

「あ、もうこんな時間か。すみません、倉敷先輩。俺はこの辺で失礼します」

「……何か用事でもあるの?」

 

 舞子は非難交じりの低い声を出してしまったに自分に驚く。これも今までの舞子だったら間違いなくかけない言葉だった。

 

「今日はこれから翼とバッティングセンターに行く予定だったんです」

「……そう。これで赤点取ったら笑い種ね」

「めちゃくちゃ耳が痛いです……本当に翼は自分以上に洒落にならなそうなので。それではお金は置いておくので、支払いをよろしくお願いします。今日はありがとうございました! また明日!」

「……うん」

 

 急ぎ足でファミレスを後にした彼。一人残された舞子はジュースを飲み終えた後、ストローを噛み締め、取っていたノートの切れ端をくしゃりと握りつぶした。

 

「行かないでよ……」

 

 心の底に浮かんでいた文字がそのまま口から出てしまう。言った後に何を言っているのか自分でも意味がわからなくなる。

 舞子は彼の彼女ではないし、彼がどこで何をしようが関係ない。別に翼と遊ぼうとどうだっていいはずなのに。

 どうして翼に対してこんな妬ましい感情を抱くのか。どうして自分を置いて行った彼に対して、怒りを覚えるのだろうか。

 

 

――私を一人にしないでよ。

 

 

 舞子は未だに気が付かない。自分の半身が既に引き返せない泥沼に引きずり込まれているのを。

 




舞子ラスが書いていて一番難しかったです。こんなんじゃ闇の衣を纏っている椎名ちゃんを書く時はもっと難しいやろうなあ。


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#10 神宮寺小也香の孤独な理解者

箸休め回。
ハチナイアニメ終わってしもうた……




 清城高校。かつては野球の名門校であったが身内による不祥事があり、廃部寸前になっていた。新入生であった神宮寺小也香(じんぐうじさやか)は部活紹介の際に全校生徒の前で演説をし、たった一人で崩壊寸前の野球部を立て直した。

 小也香は名門を復活させるという重圧に耐えながら、キャプテンとして入部希望者である部員たちを引っ張っていった。

 練習を積み重ね、可もなく不可もなくといったラインにようやく部員たちを持って来た。小也香の次の予定としてはそろそろ練習試合を組みたいと思っていた。理由は実践経験が乏しい部員たちに経験を積ませたかったからだ。

 

――この話は渡りに船ですね。

 

 そんな中、いい実験台となる対戦相手が見つかった。相手は野球部が作られて間もない里ヶ浜高校だ。

 ただの素人相手だったら練習にすらならないので断るところだったが、里ヶ浜の女子野球部員にはリトルシニア全国優勝、準決勝経験者がいたのだ。

 小也香としても屈指の強打者である彼女らとは対戦してみたかったが、それだけでは試合を受ける条件を満たしていなかった。他の選手は野球を覚えたての素人なのだから。

 しかし、相手側から野球部の監督の名前を聞き入れた瞬間、小也香は手のひらを返してすぐに練習試合を受諾した。

 

――まさか彼が野球部すらなかった高校にいたとは、驚きました。

 

 何しろ、里ヶ浜高校の監督は彼だったのだ。真剣に野球をしている者であれば、間違いなく一度は聞いたことがある小也香と同い年の大投手である。

 彼は、強かった。直球、変化球、制球力――どれを取っても完全無欠だった。バッティングでも彼に肩を並べられる者は全国を探しても、殆どいなかった。

 多くの野球人が彼に憧れ――自分では絶対に届かない逸脱された才能を嫉妬し、恐れた。

 

 小也香はどちらかというと憧れの感情の方が強かった。何しろ彼のピッチングに憧れて、自らの決め球であるスライダーを磨いたのだ。

 同時にリトルシニア決勝で再起不能になったことでも非常に有名である彼だ。そんな彼が野球部すらなかった高校に入学して、監督を行っている。奇妙なこともあったものだ。

 

「はあ……」

 現在、小也香は近所の寺の敷地の一角を借り、制球力を磨くために壁当て練習を行っていた。しかし、練習成果は決して芳しいものではなかった。

 

「……ダメですね。このままでは」

 

 変化球どころかストレートも思ったところにボールがいかない小也香は一度練習を打ち切り、自身の投球フォームを見直すことにした。梅雨が近づき、ジメジメした気候も祟ったのかいまいち今日の練習は乗り切れない。

 

――蒸し暑いから調子が悪いなんて、みっともない。

 

 自分の不調を気候のせいにしようとするふがいなさに頭を抱えたくなりそうになる。

 

 小也香は折りたたみ式の撮影器具に固定されているタブレットから自身が映し出された動画の確認を行い、フォームの修正や問題点を洗い出す。これも一人での作業だ。タブレットに映し出された自分の表情は疲れ切った表情をしていた。

 今のところ小也香が部員たちの練習メニューから監督業までまとめて指揮をしている。そのせいだと言い訳にしたくないのだが、自分自身の練習を疎かにしている傾向にあった。当然、遅れた分を取り返すべく部活後には定期的に寺で自主練習をしているのだが、明確な指導者がいないために上手くなった実感が湧かない。

 

「無名校に行くのであれば、私たちの高校に来ても良かったと思うのですが……」

 

 思わず願望を口に出してしまった小也香であったが、すぐにないものねだりをしても仕方がないと気分を入れ替えた。

 何はともあれ、楽しみだ。試合を受ける条件として、今週の日曜日に清城の練習を一度彼に見てもらうことになっていたからだ。彼も彼で偵察も含めて、練習を見に来るのであろう。

 

「私が見落としている点も修正して下さるかもしれませんし、部員の成長にも繋がります。それに、私自身にもきっと……」

 だが、ここ数十年で最高の逸材と評価されていた彼に練習を見てもらうことは清城の情報を差し出す以上のメリットはあると小也香は考えている。ワクワクする感覚を久方ぶりに思い出せた小也香は小休憩を終えた後に気分よく練習に戻っていった。

 

 

 

※ ※

「ね、ねえ小也香。本当に今日、彼が来るんだよね」

「はい。何度も伝えたかと思うのですが」

「そうだよね、そうなんだよね! うわあ、緊張するよお……」

 

 日曜日。カラっと晴れた湿度も少ない快晴の中、小也香の女房役である牧野花(まきのはな)は朝からずっと挙動不審になっている。それに輪をかけて、周りの部員たちも落ち着かない様子だ。

 彼が来る。そう聞いた清城高校のメンバーは浮足立っていた。野球経験者がそこそこいた清城は彼のことを知っている者が多かった。彼のことを知らなかった者も打者や投手ねじ伏せる圧巻のプレイを視聴したら、タブレットの画面から一瞬たりとも目を離せなくなってしまったほどだ。

 そして予定時間より早めに顔を出したジャージ姿の彼は歓喜の悲鳴と歓声によって彼女らに迎えられた。

 実物の彼は人当たりが良く、動画越しでも感じられた圧を全く感じさせない男子であった。

 

 彼は挨拶を終えると早速練習を見せてほしいと言ってきた。清城の部員は普段よりも数倍以上の熱量で練習を取り組み始めた。

 彼は部員たちが行う練習に対して、小也香とは別の視点から適度で的確なアドバイスを施していく。

 

「足腰に力が伝わりきっていませんよ。こうやってですね――もっと体全体の回転を意識してください」

「は、はひっ!」

 

 指導で腰や肩を触られた花は素っ頓狂な声を出してしまっている。初対面の女子生徒に対して、教えるためとはいえ堂々と体を触れてくるとは相当肝が据わっている。

 女子は男子が思っている以上に視線や仕草に敏感だ。特に初対面の男相手には必然的に警戒心は高くなる。それは小也香もそうであるし、花や他の部員も共通の認識だろう。

 

「……あっ! 前より打ちやすいかも!」

「バッチリです。後はその感覚を忘れないようにしっかりと体に染み込ませましょう」

「あ、ありがとうございます!」

 

 だが、彼は野球に対してどこまでも真っ直ぐだった。元から無いとは思っていたが下心ありきなら問答無用で学校から追い出しているところだ。

 けれども、彼は敵になる自分たちに対しても一生懸命に指導をしていた。

 そして指導通りに結果を残すと自分のことのように喜ぶ。的確な指導と野球に携わることが心から嬉しそうな無邪気な彼に対する評価は短時間で急激に上昇していった。

 一通り練習を見終えた彼に感想を伺おうと小也香は彼の隣に行った。キャプテンたるもの部員たちには隠してはいるが、小也香とて彼と話すのは緊張する。何せ、憧れの人物が目の前に立っているのだから。ふうと深呼吸して、鼓動の音を落ち着かせた小也香は彼に話しかける。

 

 

「どうです? 我が校の部員は」

「ウチと比べると基礎がしっかりと固まっています。守備や走塁もこのまま練習を続けていけば、たぶん大丈夫かと。ただし、打撃に関してはもう少し詰められる部分はあります」

「やはり、そうですか……」

 

 彼に自分たちの評価を求めると、返答は予想されたものだった。

 いかんせん清城の指導者兼キャプテンである小也香が打撃は不得手である。必死に理論を勉強したが、体を使って実践するとなると勝手が違う。ここでしっかりと彼から技術を学び、活かしていかなければ。

 彼からバッティングのノウハウを聞き出し、事前に用意してあったボイスレコーダーで録音する。彼は小也香の用意周到さぶりに中野さんみたいだなと呟き、引きつった表情を浮かべていたが、親切丁寧に疑問点や課題点に対して答えていった。

 やがて話は小也香の投球へと移っていく。マウンド上から投球するように言われた小也香は花に座ってもらい、10球ほどボールを投げた。すると、小也香の背後で観察していた彼がすぐに問題点を指摘してきた。

 

「足の踏み込む位置が僅かに浅いです。それと肘の出し方が……」

 

 彼は幾ばくかの時間ですぐに問題点、そして解決策を提案してくれた。天才型は説明が下手だ評されることも多いが、彼の説明は簡潔でとても分かりやすかった。彼の言われた通りに修正を重ねていくと、長い間うまくいっていなかった制球が段々と安定し始めてくる。

 

「ありがとうございます。短期間でここまで修正できるとは思いませんでした」

「癖になる前に治せて良かったです。自分だけだと気づかないこともありますからね」

「ええ……本当に助かりました。それと私に対して敬語で話す必要はありませんよ。私とあなたは同い年ですから」

「そうだったんだ。神宮寺さんはてっきり年上だと思っていたよ」

「……私が老けて見えるってことですか?」

「い、いや違うって! 神宮寺さんは里ヶ浜の部員たちと比べても、落ち着いていて大人っぽいからさ! その……気を悪くさせたのならゴメン」

「ふふ、気にしていないですよ」

 

 

 指導中やマウンド上に立っていた冷静な立ち振る舞いと違い、彼は思った以上に普通であった。この会話をきっかけに緊張はほぐれ、彼と打ち解けるようになった。

 この後も練習を続け、小也香は久々に野球の練習が楽しく感じられるように手助けしてくれた彼に感謝し、ここ最近の停滞を取り戻すべく練習に集中することにしたのだった。

 

 

※ ※

「改めて今日はありがとうございました」

「いえいえ。しっかりと敵情視察もできたし、こちらこそありがとう」

「……そうだろうとは思っていましたが、強かですね」

「土産話もなしに帰るのもおかしな話だからね」

 

 朝よりも気温が上昇し、日の光が燦々と照らすお昼過ぎ。彼は自分が持ってきた荷物を整理整頓していた。

 彼が清城にいるのは午前中のみ。午後からは母校に戻って里ヶ浜の部員をみっちりと指導する予定のようだ。

 牽制球を投げ合いつつ、小也香は母校に帰る準備をしている彼と談笑する。

 いよいよ帰る支度を整えた彼は小也香の目を見て、穏やかな表情をやめて野球に取り組むとき以上の真剣な眼差しをした。

 

「最後にこれだけは言っておきたかった。神宮寺さんは無理をせず適度に体を休めた方がいいよ」

「休んでいる暇はありません。私にはやるべきことが多すぎます。清城を前と同じような名門にするには全然足りないぐらいです」

「……だよな。俺もそうだった」

 

 小也香の意気込みに儚げな目をした彼は荷物を肩に担ぎつつ苦笑した。

 

「俺も勝つために練習をひたすら続けていた。チームメイトも監督も一心に俺に期待を寄せて……俺もその期待に応えるようとした。だから、俺は肩が壊れかかっていても誰にも相談できなかった」

「どうして、ですか」

「皆の期待を裏切りたくなかった。あいつらと一緒に全国優勝をしたかった。皆の喜ぶ顔が見たかった。だから、無理を押し通し続けた」

 

 周りからの期待と重圧と責任。今の小也香にのしかかっているものと同じ……いや彼の場合はそれ以上の計り知れないプレッシャーだったのだろう。

 

「……っていうのは、全て建前だったんだ」

「建前?」

「ああ。本当は監督もチームメイトも誰一人として信頼していなかった。俺が抑えて打てばどうにでもなる。俺がチームを優勝させる。俺が俺が俺がって……全てが独りよがりだった」

 

 

――私もそうです。私がチームを引っ張らなければ、私が清城を復活させるのだと。

 

「肩を壊した時、俺の幼馴染にどうして頼ってくれなかったのって泣きながら抱きしめられた瞬間、野球は一人でやる競技じゃないってようやく思い出せたんだ。だから、神宮寺さんには限界になる前に仲間を頼ってほしい」

 

 確かにチームメイトのことを信頼したことは一度もなかった。他人に頼るなんてことは考えたこともなかった。全ては自分で道を切り開くものだと思い込んでいたから。

 

「こんな話、部員たちにも話してなかったんだけどなあ……何でだろう、俺と同じような立場の神宮寺さんには俺みたくなって欲しくないかもしれないな」

 

 彼は使い物にならなくなった錆び付いた右肩を抑えて、今日初めての陰のある表情をした。どこか哀愁が漂う姿は過去を吹っ切れていない証なのだろう。こんな弱り切った姿を監督として里ヶ浜の部員たちには見せられないに違いない。小也香以外誰も見ていない素の彼がそこにはあった。

 

――ゾクリ。彼の悲痛な姿を見て、体を微かに震わす。

 

 彼は誰よりも強くて、誰よりも優しくて……孤独だったのだ。強すぎるが故に悩みを打ち明けられず、優しすぎるが故に誰にも理解されなかった。

 そして、選手たちを導く監督になった今でも彼の理解者はいない。彼は孤独のままだ。彼は自分を解ってくれる理解者が欲しいのだ。だから、同じ立場の小也香にだけ隠していた心情を微かに出してしまったのだろう。

 

――私なら彼の理解者になれる。彼なら私を孤独から救ってくれる。

 

 ここで小也香はまだ出会ったことすらない里ヶ浜の部員たちに確かな優越感を抱いた。たった数時間で彼女たちよりも憧れの彼の本質を理解することが出来たのかもしれないと心が湧きたつ。

 

「……わかりました。あなたからの金言は忘れずに心に留めておきます」

「金言なんて大げさすぎるよ。でも、そうして貰えると嬉しいな」

「それでは私からも。あなたも一人で無理をしすぎないで下さい。同じ指導者同士、助け合いも出来るでしょうから。悩みや苦しみは共有し合って、負担を少なくしましょう。そのために……」

 

 ここは攻めの一手だ。小也香はすかさず自らのスマホを取り出す。

 

「連絡先を交換しましょう」

「わかったよ。ライバル校だからこそ話せる内容もあるだろうし」

 

 小也香の連絡先に彼の名前が登録される。あの、憧れ続けていた彼の連絡先だ。

 思わずにやけてしまったので、彼や部員たちに見えないように顔を俯かせる。コミュニケーション能力が高いとは言えない小也香とて自分のキャラクター性ぐらい把握している。なので、オーバーなリアクションは取れない分、空いた拳はしっかりとグーのポーズを取って喜びを噛み締めた。

 

「じゃあ、今度会うのは来週だね。楽しみにしているよ」

「ええ、こちらこそ。少しは楽しませてくれると助かります」

「余裕ぶって足元掬われないように気を付けなよ。それじゃ、またね」

「ええ、また」

 

 軽口を叩きあったのち、彼は清城を後にした。この後、彼は清城の部員たち以上に懇切丁寧に野球を教えるのだろう。小也香は彼の指導を常に受けられる里ヶ浜の部員にほの暗い嫉妬心を抱いた。

 

「……負けたくありません。負けられません」

 

 負けたくない。彼の指導を毎日受けられる恵まれた環境を当たり前のように受け続けている彼女らに。

 負けられない。何ひとつ解ろうともせず、彼を孤独にする元凶たちに。

 




アニメ版の最後の方に出てきた八重歯が特徴的な美少女。

「あはっ」

この一言で伝わってくる狂気が半端ないすわ。


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#11 九十九伽奈の欠落した感情

愉悦部、爆誕。


――何事もうまくいってしまう人生は味気ない。

 

 九十九伽奈(つくもかな)は自分の生きていた軌跡をそのように評した。

 伽奈は目標のために最適で最短で最小限の力配分を行えば、ありとあらゆる分野でトップクラスの実績を残すことが出来た。

 同時にスポーツにしても勉強にしても、他の人たちがわざわざ非効率な方法を取るのか理解できなかった。

 無駄な過程を行っていた人に率直な意見を伝えたこともあったが、その度に反感を買ってしまった。意味がわからなかった。ただ、アドバイスをしているつもりだったのだが。

 

 

『完璧超人だからって調子に乗りすぎ』

『上から目線で正論をぶつけてくる性格ブス』

 

 と、陰口を叩かれることもあった。

 完璧だから調子に乗っている? 全く論理が成り立っていない。

 正論を伝えることの何が悪いのか。どうして間違ったことを正しているだけなのに責められばならないのか。

 物事に取り組めば、すぐに結果を出してしまう。結果を出せば、やっかみが増える。助言をすれば、心ない誹謗中傷が待っている。ああ、そうか。

 

 

――物事にかける情熱など、いらないのか。

 

 

 それ以来、伽奈は傍観者でいることにした。冷めた目で世界を眺める伽奈はこれからも無難に日々を過ごし、苦難もなく無難な人生を過ごしていくのだと思っていた。

 

 そんな退屈な時間を浪費していた時。すっかり冷めきってしまった伽奈に転機が訪れた。

 生徒会に所属している伽奈が野球同好会の部に昇格するための審査担当として同好会のメンバーと関わりを持ってからである。

 

 その中でも、不器用で愛想のない同級生の倉敷舞子も参加していることに少しだけ関心を持った。関心を持った理由は舞子が自分と似ていると思ったからだ。

 最初は無愛想な態度を隠そうともせずに練習に参加していた彼女であるが、ある日を境にやんわりとした笑みを浮かべることが多くなった。

 その瞬間が最も見られるのが、ピッチング練習時であった。今がちょうどその時である。

 

「っ!」

 

 舞子はみだれのない美しいフォームからキャッチャーに向かって、ド真ん中に速球を投げ入れた。

 キャッチャーミットからはバシンと気持ちの良い音がこだまする。

 

「先輩、ナイスボールです! また同じコースにお願いします!」

「ん」

 

 キャッチャーからの賞賛の声に冷静な表情は保っているも、口角はほんのりと上がっている。舞子が数球投げた後、キャッチャーは立ち上がって彼女に指導を施す。

 常に他人と距離感を保っている彼女とは思えない。自らの体を指導のために触られても文句ひとつ言わずに受け入れているのだ。ましてはそのキャッチャーは同性ではなく異性なのだから驚きだ。

 キャッチャー――この同好会の監督である彼と話している舞子は感情の機微に乏しい伽奈でもわかるほど嬉しそうだ。彼を暖かな目で見つめている彼女はとても満たされていた。

 

――私も投げたら、彼女みたいな感情を抱けるのだろうか。

 

 じっと見ていてしまったのが祟ったのか、視線に気づいた舞子は眉を吊り上げ、整った顔で睨め付けてきた。美人が怒ると迫力があるというのは、どうやら本当らしい。

 

 

「……何よ」

「なんだか、楽しそうだなと思って」

「はあ? 言いたいことがあればはっきり言えば?」

「もう言ったけど」

「……何なの!? アタシが気に入らないってこと!?」

 

 またか、と伽奈は内心うんざりした。そんなつもりは全くないのに。

 まあ、陰口を叩くよりもストレートに啖呵を切ってくれるほうがましだ。相手が自分に対してどんな感情を抱いているのか一目瞭然なのだから。

 そんな喧嘩腰の舞子を見かねたのか、慌てて彼が仲裁に入ってくる。てっきり舞子のことをフォローするために優しい言葉をかけるかと思いきや……逆に彼女をしかりつけた。

 

「落ち着いてください。今のは倉敷先輩が悪いです」

「……何よ。アンタはアイツの肩を持つわけ?」

「はい。どう考えても理不尽ですから」

 

 ここまではっきりと否定されると思っていなかったのか、舞子の目は視点が定まらずに泳いでいた。

 

「客観的に見て、九十九先輩に落ち度はありませんよ。ただ見ていただけなんですから」

「でも!」

「でも?」

「……何でもない。少し頭を冷やしてくるわ」

 

 彼の前でバツの悪そうな顔になった舞子は伽奈を再び睨むと、休憩スペースに向かっていった。想定とは違った彼の対応はとても年下とは考えづらい大人な対応であった。元々個人的に興味があった彼にますます関心が湧いてくる。

 

「申し訳ありません。私のせいで練習の邪魔を」

「いえ、気にしないで……いや気にしますよね」

 

 テンプレの常套文を口にしかけた彼はわざわざ言い直した。ここにも彼の気遣いが見て取れる。続いて彼は舞子がいない間に必死になって彼女を擁護した。

 

「その、倉敷先輩は決して悪い人じゃないんです。無愛想に見えてとても面倒見がよくて、人に誤解されやすいくらい不器用だけど優しい人なんです。俺も普段からすごくお世話になっていて、だから……」

「大丈夫です。私は倉敷さんに対して悪印象は持っていませんから」

「ああ、良かった」

 

 俯瞰的に世界を見てきた伽奈だからわかる。目の前で胸を撫でおろす彼は雑草のようにわんさかいた偽善者たちとは一線を画している。彼は良くも悪くも愚直すぎる人だ。

 彼は気まずい空気に耐えかねたのか近くに置いてあった茶色のグローブを持ってくる。

 

「そうだ。九十九先輩も一度投げてみますか?」

「え?」

「楽しそうだと思っていたのなら、是非やってみてください」

 

 彼は持ってきた右利き用の汎用グローブとボールを手渡すと、伽奈との距離を離す。そのまま彼は座り込んで、どっしりとした構えで伽奈の球を迎え入れる準備をした。

 

「いいんですか?」

「大丈夫です! 先輩の肩は先ほど付き合って頂いたキャッチボールで温まっていますので! 思い切り投げてきてください!」

 

 伽奈は以前動画で見たピッチングの基礎の動作を脳内でトレースして、投げた。風を切る音と共に回転が程よくかかったボールは彼の構えた位置にズバッと決まった。

 

「ナイスボール! もう一球続けていきましょう!」

 

 確かに気持ちいいのかもしれない。全力で投球するのも、狙った場所にボールが行くのも……普通の人は楽しいのかもしれない。

 しかし、何でだろう。こんなもんかと冷めた気持ちでこの競技を捉える自分がいた。ある程度投げ終わった後、彼は困った表情で伽奈に近づいてきた。

 

「あまり楽しくなかったですか?」

「いえ、楽しかったです」

「嘘ですね。案外、九十九先輩ってわかりやすいところもあるんですね」

 

 嘘だと断言した彼は伽奈に対して、苦笑いを浮かべた。

 何故、見抜かれた。変わり者の友人から表情筋が死んでいると言われている自分の表情からはわからないはずなのだが。

 

「そりゃそうですよ。無意識で持てる力をセーブしているんですから。楽しい訳がないじゃないですか」

 

――無意識で力をセーブしている? 私が?

 

「九十九先輩の投球、すごく綺麗で整っていました。動画の見本をそのまま再現しました?」

「はい」

「でも、そのフォームは一般向けの最適なフォームであって、先輩には適していないフォームです。例えば、投げ方はこうギュンとグイっと肩を下して、グググッと肘をこんな風にやってですね……足はこうギギっって投げる感じです」

「……倉敷さんに教えるときと違って、随分適当じゃないですか?」

 

 擬音だらけな表現で普通の人だったらまず理解できない内容だ。正直、人によっては馬鹿にされていると捉えるかもしれないアバウトすぎるアドバイスだった。

 

「たぶん九十九先輩ならこの方がわかりやすいかと思いまして。俺も言葉を考えるよりもこういった教え方が一番楽なんです。それじゃもう一度お願いします!」

 

 熱心なのはいいことだが、どうせ大して変わらないだろうと思ってしまう自分の熱意の無さに呵責を覚える。だが、アバウトすぎる説明も自分なら理解できるし、せっかく部外者の自分に対してここまで真剣に教えてくれているのだ。彼に教わった通りにもう一度投げてみるのも悪くない。

 

「ふっ!」

 

――何だ、コレは? 力の伝わり方が全然違う。肩や肘に余分な力が入らず、足の踏み込みも少し修正するだけでこんなに異なるものなのか。

 

 過去一番の力を出し切った。そう思えた会心のピッチングに対して、彼はあろうことかヤジを飛ばしてきた。

 

「全然ダメです! 先輩はこんなもんじゃないはずです! 腕も足腰もなっていませんよ! こうです、こう!」

 

――言ってくれるじゃないか。

 

 成果を出したのに、面と向かってダメ出しされた経験なんて一度もなかった。これが凍えた伽奈の心をみるみるうちに溶かしていった。

 どのように投げたら彼を納得させられるのか。見返せるのか。伽奈は明確に自分の才能をフル活用しようと努力し始めた。感覚だけに頼るのではなく、試行錯誤しながら伽奈は錆び付いたギアをどんどん上げる。

 

「ふっ!」

 

――ズバーン!! 

 

 ギアが最高潮に達したとき、伽奈は渾身の一球を生み出すことが出来た。肩で息をしつつ、どうだと見返すと彼は満足気に頷いた。

 

「……ようやく楽しんでくれましたね」

「何故、そう思うのですか?」

「だって、楽しそうに笑っていますから」

「え?」

 

 口元に手をあてると確かに三日月型に口角が吊り上がっていた。長年体験することが出来なかった達成感。体の奥底から湧き上がってくる活力。生きているという実感。

 ああ、なるほど。これが満たされるということなのか。これが楽しいという感情なのか。

 人が欠落していた感情の余韻に浸っているところに、物凄い剣幕でこちらにズカズカと歩み寄ってきた女がいた。先程からずっと遠くから様子を伺っていた舞子だった。目尻をひくつかせ、怒りを沸点ギリギリで留めているのが見て取れる。

 

「ちょっと。何で九十九さんがアイツを座らせて投げているのよ……」

「彼から言ってきたんだ。投げてみないかって」

「ああ、そう。なら、もう邪魔だから早く出て行ってくれる?」

 

 彼女からかかってくる圧が先程とは全く違う。これは怒りだけではなく、明確な敵意だ。落ち着かない様子で組んだ腕の肘を人差し指でつつき、ワナワナと唇を震わせる。

 また身に覚えのない怒りを受ける羽目になるとは。とりあえず謝っておけばなんとかなるだろう。

 

「邪魔とは随分とひどいんじゃないかな。でも、気に障ったのなら謝るよ」

「……ああ! ほんとにムカつく! 何もわからずに謝られたところで腹が立つだけよ!」

「それじゃあ教えてくれないかな? 何でキミが怒っているのかを。その上で謝るよ」

「本当に人を煽るのが得意なようね……!」

 

 舞子が今にも掴みかかってきそうな距離まで詰め寄ってくるも彼が合間に立って、無理やり衝突を防いだ。すると舞子の理不尽な怒りの矛先は彼にも向かう。

 

「やめてください、倉敷先輩!」

「アンタもアンタよ! 九十九さんは生徒会から来た審査員で部外者でしょ! アンタがそこまでして真剣に教える必要なんてないじゃない! それとも、何? 九十九さんのほうがアタシよりも伸びしろがあって上手だったから教えがいがあった? だから、アタシのときより指導に熱が入っていたんでしょ?」

「そういう訳じゃ……」

「アタシには踏み込んだ指導は一度もしなかったじゃない! ねえ、アタシもっと頑張るから。だから、アタシにも同じように教えなさいよ。悪い部分があったら言ってよ。足りないところがあれば、今からでも直すから。アンタの期待を裏切ることは絶対しないから……」

 

 最初は彼に対しても語気を強めて怒りをぶつけていた舞子であったが、どんどん声が弱弱しくなり、最後は懇願するように瞳を潤ませていた。

 まるで飼い主に捨てられそうになる子犬みたいではないか。自分と似た人間だと思っていた彼女はこんなに脆い人だったのか。

 感情がないと揶揄される伽奈でもこの場を収めるには舞子の望む言葉をかけてやるのが一番いいと考える。それが人生をそつなく生きていくための処世術だろう。

 しかし、彼も真っ直ぐすぎるが故に気の利いた甘い嘘をつくことが出来ない。

 

「……倉敷先輩には同じように教えられません」

「どうして……どうしてなの?」

「倉敷先輩と九十九先輩は違いますから……」

 

 彼に拒絶されたと思ったのか、舞子は顔を俯かせ、双眸を真っ赤にさせた。乾いた土に彼女の流した雫がぽとぽとと染みを作る。舞子は嗚咽を交えながら魂を引き裂かれるかのような悲痛な声で叫んだ。

 

「違うって何……? 九十九さんと、アタシとの違いって、何よ……! 才能の、差? ああ、そう。そういう、こと。アンタも、九十九さんも、天才だものね……! 天才同士、通じ合うものもあったんでしょうね! だから、さっきもッ! アタシを悪者扱いして、アイツの肩を持ったんでしょッ!」

「誤解です、先輩!」

「もういい! 才能のない、アタシなんかには、分かるはずも、ないんだからッ!」

 

 転びかけそうなくらい態勢を崩しつつ、舞子はこの場から逃げ出した。逃げる際に此方を一瞥した目は漆黒の憎悪に染まっていた。

 特に気にすることなく、横にいる彼の様子を見るとさすがに混乱しているのかすぐには動けないようだ。彼女の姿がグラウンドから消えそうになった時にようやく我に返る。

 

「行ってください!」

「あ、あの」

「いいから、早く!」

「ッ! すみません!」

 

 その後、彼は必死な形相をして、意図せず傷つけてしまった彼女の背中を追いかけていった。ああ、そうか。彼も同じなのか。

 

――彼も私と同じで人の心がわからないのか。

 

 彼の場合は愚直で優しすぎる。故に人を癒し、それ以上に深く傷つける。人の心に寄り添っているつもりで真逆の行為を働く。なんて残酷な男なのだろうか。

 きっと舞子はあの後、彼の心地よい猛毒(甘言)にほだされ、ますます彼から離れられなくなるのだろう。そして、いつの日か再び彼に裏切られたと錯覚して、一人勝手に寂しく傷つく。

 回数を重ねれば重ねるほど彼を摂取しなければならない時間は長くなり、心は醜い嫉妬心や猜疑心でいっぱいになっていく。そんな彼女が不憫で哀れで仕方がない。

 

 

 

「くふ……ふふふっ」

 

 

 

 あれ、何故だろう。笑いがこみ上げてくる。とても笑う場面じゃないのに。笑いをこらえるのが辛い。この状況が愉しくてしょうがない。

 異変に気づき、周りに集まってきたメンバーたちに表情を隠すように無表情を意識的に保つ。

 ここ数週間、伽奈はずっと彼女らの活動を見てきた。外から見ていると鮮明にわかるのだ。彼女らの半数以上は彼といるときに一番輝かしい笑みを浮かべていたことを。そして、自分以外の人と話している時に見せる彼女らの黒い感情を。つまり、末期患者である舞子ほどではないにしろ……彼女と同じようになる素質を持った予備軍が控えているのだ。今日の舞子以上の反応が見られると思うと、想像するだけで心が震える。

 ここなら感情を動かす何かを必ず探し出せる。彼に教わるのは新たな自分を発見できて楽しいし、愉しそうだ。

 それに傍観者でいるのではなく自分も劇の一員に参加するのも面白いに違いない。劇は眺めるよりも直接関わった方が格別の臨場感を味わえるに違いないだろうから。

 

「ふふっ……」

 

 欠落した感情を取り戻すために伽奈はゆっくりと愉しみに待つ。遠かれ近かれ訪れるであろう盛大でド派手な劇場の開幕を。

 




九十九くんのファンの皆様、誠に申し訳ございません。


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#12 練習試合

ドロドロ要素のないやきう回でございます。


 練習試合当日。晴れて部に昇格した里ヶ浜高校女子野球部は対戦校である清城高校に赴いた。

 内野は黒土で丁寧に均され、外野の瑞々しい天然芝、多くの野球専用の練習器具と里ヶ浜とは比べ物にならない練習環境が整っていた。腐っても元名門校である。

 グラウンドの中央に両選手が集まり、キャプテン同士が握手を交わし合う。

 

「里ヶ浜高校女子硬式野球部、キャプテンの有原翼です! 今日はよろしくお願いします!」

「清城高校女子硬式野球部、キャプテンの神宮寺小也香です。本日は有意義な試合をしましょう」

「……はい!」

 

 翼は天真爛漫で野球が大好きな少女の顔を作り、小也香の目を覗き込んだ。そして、小也香の奥に潜む微かな敵対心と嫉妬心を直感的に悟った。ああ、この女も少し彼に優しくしてもらっただけで勘違いしている害虫だ。

 身内にも色目を使う雌猫がたくさんいて対処しきれないが、野球は最低でも9人いなければ成り立たないゲームだ。甲子園に行くという夢のためには仕方ないと割り切っている。

 しかし、チームメイト以外の凡骨は話が違う。彼に纏わりつく羽虫は迅速に駆除しないと。封じ込めない闇が表面に出てきそうになるが何とか抑えつける。

 

 ――いけない。彼が好きな私は心の底から野球が好きな私なんだから。

 

 龍との勝負の最中にかけられた自分だけを想った彼の暖かい言葉、そして優しく背中に寄せられた大きな手の感触。今でも思い出すと体が火照って臍の下がむず痒くなり、自宅は勿論のこと、外でも油断すれば手を疼く部分に移動させてしまいそうになる。

 

『翼はさあ、彼氏作ろうとか思わないの?』

『彼氏? 考えたこともなかったよー』

『もったいないなあ。翼なら黙っていればどんな男でも捕まえられそうなのに』

『黙っていればってどういうこと!? でも、私には野球があるから今はいいかな」

 

 野球しか興味がないと自他ともに思っていた。友人たちが色恋沙汰で盛り上がっている最中、実感が湧かず適度に相槌を打つことしか出来なかった。

 けれども、今は違う。一人の男の子のことを想うだけでこんなにも興奮して、渇望して、幸せな気持ちになれることを身をもって体験した。もう野球しか知らない有原翼には戻れない。

 

 ――憧れの彼が望む有原翼になりたい。

 

 そうすれば、彼はより一層自分のことだけを見てくれる。優しく包み込んでくれる。一緒に夢を追いかけてくれる。ずっと一緒にいてくれる。

 

 ――彼の傍にいるのは私だけでいい。心と心が繋がっている私だけでいい。

 

※ ※

 1回の表。先攻となった里ヶ浜の1番バッターの中野綾香は小也香のストレートをボテボテながらもなんとかバットに当て、俊足を生かした内野安打で出塁する。

 2番の阿佐田あおいには大振りのスイングで1球目は空振りを取るも、2球目で内野の意識を逸らせたバントを鮮やかに決められ、得点圏にランナーを進められる。

 開幕からピンチの場面。続く3番打者――リトルシニア全国優勝経験者の有原翼が深い集中力を持ってバッターボックスに入ってくる。

 

 小也香は程よく力の抜けた自然なフォームと堂々とした立ち振る舞いに噂通りの強打者であると身を引き締める。何せ彼女はリトルシニア強豪チームで男子を差し置いて3番を張っていた猛者だ。

 女房役の花が出したサインはアウトコース低めのストレート。サインどおりに投げた球を翼はじっくり見送る。2球目に求められたのはインハイ高めのストレート。体に近い球を投げたのに彼女は微動だにしないまま、ただボールを目で追っていた。

 あっという間にツーストライクに追い込んだものの、嫌な見逃し方をされている。

 3球目は振ったらラッキー程度の釣り玉。当然、翼はただ見送るのみ。やはり釣り玉で振ってくれる甘い相手ではない。

 続く4球目には初めて投げるチェンジアップで凡打に打ち取ろうとするも、見てから軽くファールゾーンにカットされる。

 カウントは未だピッチャー有利の1-2。しかし、ジリ貧になっているのはバッテリー側の方だった。ストレートでもチェンジアップでも翼相手ではアウトを取れそうにない。故に、手札を一枚晒すしかなくなった。

 

『小也香、ここは決め球で勝負をしよう』

『わかりました』

 

 キャッチャーとサインで意思疎通した小也香が投じられた5球目。それはストレートとは明らかに球速の違う球。かといってチェンジアップではない。グイっと横斜めに鋭く落ちるボール。

 

「いきなり落ちた!?」

「……カーブ、いやスライダーよ!」

 

 里ヶ浜のベンチからどよめきが起こる。この前に来てくれた彼にも見せたことがないスライダー。この球は小也香の自信と誇りがふんだんに詰め込まれた一球だ。そう簡単に打てる球ではない。

 だが、意表をつかれたはずの翼は驚きもせず小也香の決め球を見て、嗤った。

 翼のタイミングの取り方は確実にストレート待ちだったはず。にもかかわらず、強固な足腰と体幹でバランスを崩すことなくアウトコースに逃げる球を柔らかくも非常に鋭いスイングで合わせた。

 

――カーン!

 

 キャッチャーの花も、ピッチャーの小也香すら完璧に捉えられたと思った一振りは予想に反して、打ち損じとなりライトフライとなる。しっかりとライトが捕球し、翼を打ち取ることに成功した。

 自分の失態に苦笑いを浮かべた翼はすぐに明るい笑みを携えて踵を返す。流れるまま、バッターボックスに控えている次の打者に耳元で何かを囁く。コクリと頷いたネクストバッターの東雲龍はバッターボックスに入り、クスリと鼻で笑った。

 こちらを馬鹿にしているのが明らかにわかる見下した態度。実に憎たらしくて、腹立たしい。煽りの天才とは彼女のことを言うのだろう。

 以前、龍とはバッティングセンターで顔を合わせたことがある。だが、龍と小也香は致命的にまでソリが合わなかった。私怨もあり、翼以上に打ち取ってやりたい人物だ。

 無難にストレートでストライクを取り、その次の2球目。花のサインに頷いた小也香は全身のバネを引き絞り、渾身のスライダーを投げた。

 

「……話にならないわ」

 

――ガキーン!! 

 

 一閃。腰の粘りをふんだんに生かした翼以上のスイングスピードでバットを繰り出した龍は小也香のスライダーをお手本のように掬い上げた。右中間に打球はグングンと伸び、外野は追うことを諦める。

 清城の絶対的エースから放った2ランホームラン。彼女たちの目を覚まさせるには十分すぎる一打であった。

 

 

 

※ ※

「あんなに曲がる球を捉えるなんて! 凄いですね、東雲さん!」

「うん! ほんと、すごいよね!」

 

 夕姫の賞賛の声に翼は感激したように装うが、自分と同類の龍なら打てて当然だと思っていた。何故なら、小也香のスライダーは速度、キレ、変化量全てにおいて彼のスライダーの劣化版なのだから。

 翼が打ち損じんでしまったのは、翼自身がスライダーという球種を神聖視していたためだ。頭の中でインプットされていた球とイメージがあまりにもかけ離れていた。なので、バットを出した位置がズレてしまったからだ。

 

 打席に立つ前の龍にかけた一言は彼の半分以下、だ。その一言で察してくれた龍はイメージを補完し、投じられた球をうまく捉えたのだった。

 

 ――あの時の東雲さんが怒るのも無理ないかな。あんな球で彼と私の決め球なんて言っちゃった。うわぁ、すっごく恥ずかしいよ!

 

 今思うと、自分が龍と対決した時に投げたスライダーも小也香と同じヘボ球だ。

 確かに逆の立場からすると馬鹿にされているとしか思えない。今更ながら羞恥心が湧いてくる。

 恥ずかしさから目を背けて我に返り、試合の様子を伺うとちょうど5番バッターの伽奈がストレートをうまく合わせたところだった。小也香の顔面近くに打球が飛んでいったが、体を仰け反らせながらもうまく捌かれてスリーアウトとなった。非常に惜しい当たりだった。全くもって惜しい。とても残念だが、これで攻守交替だ。

 

「倉敷先輩! バシッとお願いしますね!」

「……わかっているわ」

 

 翼はグラブを持ってグラウンドに行くと、これが初試合で初登板となる舞子に声を掛ける。舞子は相変わらず素っ気ない態度を取っているが、試合前から気合の入れようは凄まじいものだった。加えて、恐らくプレッシャーに関してもチーム随一のはずだ。

 ピッチャーというポジションは野球で一番重要なポジションだ。チーム力に大きな差があろうとも、ピッチャーが打たれなければ負けることは無い。

 この試合の場合、チーム力では里ヶ浜は清城に誰がどう見ても負けている。勝つためには舞子に奮起してもらうしかないのだ。

 

 そして、一番のプレッシャーの要因はチームメイトからの期待――ではなく、彼からの期待に応えることだろう。

 

 あれだけ付きっきりで練習を見てもらっていたのだ。結果を出なさければ許されないと自分を追い込んでいるに違いない。

 しかしながら、気持ちだけで勝てるほど野球はそんなに甘い競技ではない。

きっちりと実力で抑えてくれたのなら、それはそれで翼にとってもありがたい。このレベルの相手にすら勝てないようでは甲子園なんて夢のまた夢だからだ。戦力が上がることは望ましいことだ。

 

――彼の期待だけは裏切らないで下さいね、倉敷先輩。

 

 舞子自身に思うことは多々ある。つっけんどんとしても、少しでもほっとかれると自分から彼に近づく。放課後にも何かと理由をつけて彼を連れ回す泥棒猫。彼といるときに見せる満足そうな顔。頭が割れそうになるぐらいの怒りと殺意を何度抑えたことだろうか。

 

 でも、寛大な心で許そう。有原翼は野球に恋する女の子なのだから。とりあえず、自分らしく試合を楽しむことを考えようと翼は朗らかに微笑むのだった。

 



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#13 練習試合 2

球詠が始まったのもあり、投稿再開です。


 

 監督の彼はこの試合一度も指示を出していない。ただ静かに自チームと相手チームを観察していた。

 試合に出ている選手たちに労いの言葉はかけるも、それ以外は地蔵のように静観を貫いていた。

 

「なんだか浮かない顔だね。このままいけば勝てそうなのに」

「このままいけば、か。確かにそうだな」

 

 采配によりスタメンを外され、ベンチから応援をしていた智恵が自身の微妙な表情を読み取ってくる。人をよく見ている智恵の前では意図して作ったポーカーフェイスは見抜かれてしまう。

 監督たるものいずれは自分も彼女のような技術を身につけなければならないと思いつつ、試合を観戦する。

 経験者である翼や龍を差し置いてピッチャーに任命した舞子は清城相手にエラーと四球でランナーは出したものの、3回まで被安打0と文句なしのピッチングを行っていた。

 球種はストレートとチェンジアップのみであるが、緩急とコースを使ったピッチングで格上である清城打線を抑えている。

 和香の配球選びも流石といったところだが、サインを出した場所に球を放る舞子の制球力も目を張るものがある。キャッチャーのサインに首を振らないため、投球テンポもよい。

 そして、ピッチャーとしてかかせない相手を威圧する闘志や気の強さは里ヶ浜の中でも龍と比肩するだろう。身体能力や野球センスは置いておき、投手としての資質という一点において舞子は翼よりも上かもしれない。

 が、2巡目以降のここからが本番。観察を終えた清城打線が暴れだす頃だ。試合前に伝えてあることを舞子が実践できるかどうかで今後の展開は変わっていくだろう。

 

 彼女にはマウンドに立つ苛酷さをじっくりと味わってもらいたい。そして、翼や龍を除いた部員たちにも試合のプレッシャーを肌で感じ取ってほしい。

 

――今日は里ヶ浜ナインを完膚なきまでに叩き潰してもらう為に清城高校に来たのだから。

 

 

※ ※

――ここまでは怖いくらい順調ね。やってきたことは無駄じゃなかった。

 

 本日の試合のマウンドを彼から任されている舞子はロージンバッグを手に取り、集中力を高めていた。

 汗はかいているものの、息は上がっていない。スタミナもまだまだ十分にある。練習後にも体力づくりを行ったかいがあったというもの。

 それに彼が付きっきりであそこまで熱心に、入念に、厳しく、時には優しく教えてくれたのだ。それに応えないでどうするのだ。

 

――アンタが指導者としても優秀だってことを私が証明して見せるから。だから、ずっと見てて。

 

 だが、舞子の意気込みとは裏腹にノーヒットに抑えられていた清城打線は突如牙を剥いた。

 4回表に投げた初球。アウトコース低めのストレートをレフト前に運ばれると続く打者にもあっさりとセカンドの頭を超える当たりを出される。

 あっという間にノーアウト一・二塁。ボールも低めに集まっているし、球威は落ちていないはずなのに何故。

 続く打者は相手チームのキャプテンである神宮寺小也香であった。

 

 初球。投球モーションに入ったその瞬間、清城のランナーは二人とも走った。ダブルスチール。和香は慌てて三塁にボールを投げたものの、相手ランナーは悠々のセーフ。和香のフィールディングの拙さと肩の弱さに付け込まれた形だ。ノーアウト二・三塁と更にピンチが広がる。

 

 続けて、1球外して続けた3球目。外角のストレートをうまく流され、強い打球がファーストの夕姫に向かう。

 

「……あっ!」

 

 焦った夕姫はトンネルをしてしまい、走者一掃のツーベースとなった。

 舞子は表面上冷静さを保ち続けていたが、内心はひどく揺らいでしまっていた。どうして打たれる。どうして味方はまともに守ってくれない。

 ネガティブな思考に陥ってしまった舞子は咄嗟に陽だまりのように心を穏やかにさせてくれる存在に目を向ける。ベンチからマウンド全体を見ている彼の瞳は舞子の方を一瞬だけ捉えるも、すぐにマウンド上の選手全体に意識を集中させたようだった。

――いや、嫌だ。なんで、アタシを見てくれないの。アタシが不甲斐ないから? アタシのことだけを見てくれればもっと、もっとやれるのに。どうしてどうしてどうしてなんでなんでなんでなんでなんで――!

 

 

「――輩、先輩! 大丈夫ですか? ドンマイです! これからこれから!」

「――有原」

 

 いつの間にかマウンドにまで来ていた心配そうな表情の翼に声をかけられ、ようやく舞子は我に返った。舞子が放心している間にマウンド上にナインが集まってきたようだ。どうやら和香がタイムを取ったらしい。

 気づけばスコアボードはこの回清城側に4の数字が付いていた。打たれたことにも気づかずに放心して投げてしまっていた。なんたる失態だろう。

 

「ごめんなさい! そのまま捕れていれば失点を抑えられたのに……!」

「……別にいい。一番はアタシの責任だから」

「私からも。試合中に課題が浮き彫りになってしまってすみません。配球も組み立て直しますので、先輩は普段通りに投げ込んできてください」

「……ええ」

 

 夕姫や和香の謝罪を生返事で返す。自他への不安と怒りがごちゃ混ぜになりつつも、舞子は条件反射的に会話をしていた。そこに一切言葉を選ぼうとしない龍が挑発してきた。

 

「倉敷先輩。変わりましょうか? これ以上投げても無意味でしょうから」

「意味があるかかどうかは東雲が決めることじゃないわ。アタシとアイツが決めることよ」

「いえ、貴女は彼の教えを何も学んでいないもの。貴女に費やした彼の献身と努力は全て台無しね」

「……ふう、はあっ」

 

 舞子は大きく息を整えて、怒声を発さないようにした。イライラすることこの上ない。何故、龍に知ったような口を利かれなければならないのか。

 雲行きが怪しくなったのをナインだけではなく、敵である清城ですら察してしまうほど、マウンド上は剣吞な雰囲気に包まれていった。

 

「アタシがアイツから何も学んでいない? 全て台無し? ふざけんな」

「事実でしょう?」

「――今すぐ撤回しなさい」

「ちょっと待って! そうだよ。東雲さん、ちょっと言い過ぎだと思う」

 

 険悪なムードの中、翼が手をわたわたさせながら間に割り込んできた。自分たちの言い争いを困ったかのように眉を下げた翼は仲裁に入ってきた――かのように見えた。

「だって、倉敷先輩がわかっていない訳がないじゃん。あれだけ一緒にいたんだからさ。きっとこれから身を持って私たちに教えてくれるはず! 監督から時間をかけて教えてもらったことをね!」

翼は馴れ馴れしく背中を軽く叩いてくると、生暖かい眼差しでこちらを見つめてくる。

 

 イライラする。イライラする。彼女たちの言動に。

 イライラする。イライラする。明確な反論が出来ない自分に。

 

 何より、彼に対して申し訳がたたない。歯を食いしばるも、ごちゃまぜになった感情が溢れそうになる。

 投げるのが、怖い。一球投げることに彼と離れ離れになってしまう感覚に陥ってしまうから。

 

 そんな状態で投げてもいい結果は生まれなかった。更に打ち込まれ、途中で龍とピッチャーを交換。龍も投手は本職でないながら、奮闘したものの結果は試合は5回コールド。里ヶ浜高校の初戦は大敗北で幕を閉じた。

 

 

※ ※ ※

 清城高校と挨拶を終え、顔を暗くしたナインがベンチに戻ってきたとき彼は黙り込んでいた口をようやく開いた。

「皆、お疲れ様。試合全体の本格的な反省点は帰ってから行うとして……まずは倉敷先輩」

「あっ……」

 

 彼はずっと落ち着いた口調で怒っている様子も見られなかったが、それが一番怖かった。舞子は彼の顔を見ないようにずっと俯いたままでいた。間違いなく失望された。間違いなく呆れられた。間違いなく、見捨てられる。また何もなくなってしまう。審判の時を待つ中、彼は予想だにしていない行動をとってきた。

 

「えい」

「ふえ?」

 

 あろうことか彼は舞子の頬を人差し指でぷにぷにと突いてきたのだ。二人きりの時ですら、ここまで大胆な行動は取ってきたことはないのに。敏感な肌に触れられた驚きと嬉しさと羞恥心から舞子は顔を真っ赤にする。

 

「ちょ、え? ア、アンタ!?」

「そうそう、いつも通り怒ってください。いつも通り、いつも通り」

「やめなさい! 何すんの!?」

 

 ずっと触れられているのもやぶさかではないが、衆人環視の元だとこれ以上はよくない。形式上の威嚇をすると、彼はいたずらっ子のように怖い怖いと言いながら離れていった。

 続けて彼は普段は選ばない直接的な表現で舞子に問いかけてきた。

 

「どうですか、今日の戦犯である倉敷先輩。何が悪かったのかわかります?」

「……単に私の実力不足でしょ」

「全然違います。俺が試合前に言ったことを忘れました?」

「どんな状況でも練習通りに投げろ……?」

「ええ。倉敷先輩が普段通りに投げていたら5失点ぐらいで済んでいたと思いますよ。打ち込まれていた先輩、腕の振りもフォームもバラバラですっかり弱気になっていて、普段の先輩らしくなかったです。いや、非常にガッカリしました。俺の教えたこと何も伝わってなかったのかなって。先輩との時間は全部無駄だったのかと思ってしまうほどでした」

 

 淡々と自らの失態を告げられるも、思ったよりショックは来なかった。言葉は厳しいものの、彼の責める意が一切含まれない話し方もそうであるし、彼はずっと自分のプレイを観察して、あえて厳しいことを言ってくれているのだ。まだ、見捨てられていない。

 

「前にもいいましたけど、スポーツは技術よりも心の持ち様です。極論、マウンドに立つときは自分こそが絶対、自分こそが最強だと自信を持って投げればまず打たれないんですから」

「それはアンタだけでしょ」

「そこは突っ込まないでほしいところですが……倉敷先輩は技術の前にメンタル強化を早急に行いましょう。大丈夫、倉敷先輩はもっとうまくなれる。あなたは里ヶ浜のエース候補なんです。その自覚を明確に持って、次は投げるようにしましょう」

「……わかった」

「あと、3回までのピッチング。練習の成果が出ていて、流石でした! 次も期待してます!」

「……うん」

 

――ダメだ。一言、承認されただけで多幸感が全身をめぐる。いつから彼限定でここまでチョロくなってしまったのか。

 

「じゃ、続けて本日4エラーの野崎さん」

「は、はい……!」

 

 舞子をいつも通りの穏やかな笑みで暖かく包み込んだ後、言葉を投げかける対象をエラーを重ねた夕姫に切り替えた。余裕が戻った舞子は夕姫の様子を伺うと、まるで死刑宣告を待つ囚人のように追いつめられている表情をしていた。自分も先ほどまでこんな表情をしていたのだろうか。

 彼は真面目な顔で数秒夕姫を見つめていたが、すぐに頬を緩めた。

 

「この調子で失敗を重ねていこう」

「本当にごめんなさいっ! ……え?」

「今後、失敗はいい経験をしたと思うようにしよう。失敗しない人間なんてこの世にいない。いるのは失敗した後、くよくよ後悔し続ける人か怖くても勇気を持って前に進めるかのどちらかだと俺は思うんだ」

「……失敗しても、いいんですか? 失敗を怖がらなくていいですか?」

「ああ。失敗は悪じゃないよ。失敗しない人生とか俺だったらつまらなくてしょうがないね。だって、何も乗り越えるものがないじゃないか」

 どこまでもポジティブに考えられる資質。人の心を掴んで離さない不思議な魅力。彼は呆れるほどに人の中心となるべき人物であると再認識した。全く自分とは正反対の人間だ。

 

「野崎さんに足りないのは翼のような積極性だ。もっと頭をからっぽにして、前に進むことだけを考えよう。大丈夫、野崎さんがそれでも心配なら俺がいくらでも付き合うから」

「監督……! はい!」

「いや、ちょっと待って! それ、私が頭からっぽって暗に言ってる!?」

「違った?」

「違うよ!?」

 

 先程までの表情はどこへやら。夕姫は翼と軽く掛け合いをする彼に涙を流しつつも、熱に浮かされた表情で彼をひたすらに見つめていた。

――この女たらし。頭からっぽにして発言している女の敵を睨みつけたくなる。ムカつく。すごくムカつく。腹立つことこの上ない。

 だけど、すごくかっこいい。ずっと一緒にいたい。好き、大好き。

 

「あっ……」

 

 認めるしかない。倉敷舞子は残酷なほど優しくて頼りがいのある年下の男の子をこの上なく好きになってしまった。理屈じゃダメだってわかっている。母親の二の舞になってしまうことは自覚している。

 愛想もなく、女の子らしさもなく、性格もよくない自分が彼女たちを相手に戦争するのはどれだけ無謀なことなのか、十二分にわかっている。

 

「……でも、アイツだけは絶対に渡さない」

 

 この歪な感情は彼にとっても自分にとっても良くないものだと、本能で知っている。

 しかし、もう彼無しでの世界は考えられない。また灰色の世界に戻ることは決して出来ない。何を犠牲にしても、必ず彼を手に入れる。

 試合のフィードバックを続ける愛しい彼を視界に捉えながら、狂気の住人であることを認識した舞子は昏き覚悟とは裏腹の晴れやかな微笑みを浮かべたのであった。

 



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#14 椎名ゆかりの”大嫌い”な人

大本命の登場です。ドロドロ要素皆無で申し訳ない。


 

「椎名さん。やっぱりまだ気持ちは変わらないかな?」

「あはっ、ごめんね。サッカー同好会の活動もあるし、まだ野球をやるって気分じゃないからさー」

「そっかあ。わかった! 気持ちが変わったらいつでもきてね!」

 

 どたばたと廊下を走り去っていく”大嫌い”な女の子の姿が消えると同時にゆかりは人当たりのいい笑みを保ったまま、八重歯を隠した。

 

「……あはっ、翼といいあの人といい、何でまだ野球を続けてるんだろうなあー」

 

 ほんと、嫌になる。サッカー同好会の活動などあってないようなもの。断る理由になんかならないのに。

 かつて野球をやっていた少女――椎名ゆかりは未だに野球から逃げ続けていた。

 

「翼ってばあたしのこと、名前ぐらいしか覚えてなかったし。才能のない人間は覚える価値ないってかあ」

 

 ゆかりは自虐的な空笑いをした。

 才能って言葉は嫌いだ。才能を持っている人間は大嫌いだ。才能は全てを肯定し、全てを否定する。

 ゆかりは幾度も優秀な姉の才能を肯定され、自身の才能を否定された。それでも足掻いて足掻き続けて、最後には自身にも周囲にも裏切られた。

 

――ほんと、嫌になる。

 

「……さてさて、シュシュっと帰ってチュリオーズの応援をしないと! ここで勝てば最下位脱出! 5連勝したら3位が見えてくるんだし!」

 

 いつまでも付きまとう過去から目を逸らし、ゆかりは誰から見ても元気そうな顔つきで下校の準備を進めるのであった。

 

※ ※ ※

 未だに一週間に2度ほど来る勧誘の魔の手をうまく躱していたゆかりは授業中にふと窓の外を眺めた。ちょうど他クラスが体育の授業をしており、男子はサッカー、女子は陸上と分かれていた。

 

――うわ、はやっ。

 

 そこでは、しつこい勧誘魔である有原翼が100m走でフィジカルエリートぶりを発揮していた。さすが、陸上の推薦を山ほど貰っていただけはある。

 

――まあ、野球の推薦は貰えなかったみたいだけどね。あはっ。

 

 翼ほどの常人のはるか上を行く才能があったとしても、女子というだけでハンデは非常に大きいのだ。能天気な翼だって抗いようのない現実を突き付けられたはずなのに、何も感じさせないような快活な笑顔とやる気が漲っている。

 

――どうしたら、翼もあたしのようになってくれるんだろ。

 

 と、ネガティブな思考に囚われかけたゆかりはかぶりを振って、輝かしい翼を視界に入れないようにした。

 そして、授業に集中しようと正面を向くと前の席に座っている女の子も同じように窓の外を眺めていた。 何故だが、頬を赤く染めながら。

 気になったので、視線の先を辿ってみる。すると、見覚えしかない高身長の男の子がちょうどボールを相手チームから奪い取ったところだった。

 エリア中央で一気に駆け上がる男の子。それに合わせて四方で囲んで止めようとした相手チームのディフェンスを体をくるりと回転させ、華麗に躱していく。

 

――ま、マルセイユルーレットじゃん! 今の! あたし、生でバッシリと決めたとこ見るのはじめてかも!

 

 フランスの名選手が得意とした超絶技巧を何でもないように披露し、このままゴールに迫る男の子。またしても相手ディフェンダーが男の子をマークしたが――今度は抜こうとはせず、トップスピードから急停止した彼はつま先を使い、ノールックでボールを浮かせた。

 急な変化に体が追い付かないディフェンダーは目だけでボールを追うしか出来ず、チームメイトの一人が浮いたボールを絶好の位置で受け取るとボレーシュートを放つ。もちろん素人キーパーは反応できるはずもなく、ゴールネットに突き刺さった。

 

 華麗な一幕を目撃した前の席の女の子は口を押え、歓喜の悲鳴を両手で必死に抑えていた。

 ゆかりはゆかりで今のプレイを見て、乾ききった失笑を隠すために口元を右手の甲で隠した。

 

――自分で決めにいけたのにあえてトドメを譲るとかめっちゃかっこいいね! ……あはっ、いろんな意味で人間出来すぎていてドン引きだよ。

 

 もはや、呆れるしかなかった。手柄を渡したチームメイトと拳を突き合わせて笑い合っている彼を見た感想がそれだった。

 運動神経は抜群に良く、高身長で足も長い。顔だって悪くないし、性格も誰にでも優しいと評判だ。

 

――ほんと、嫌になる。あんなことがあったのに、どうして、そんな顔で笑えるのかな。

 

 どこまでも恵まれていた彼は決して手の届かないゆかりにとって一番”嫌い”な人であった。

 そして、彼は奈落の底にいると思っていたゆかりの更に奥深くまで転がり落ちていった一番”好き”になった人でもあった。だからこそ、彼の現状に不満を覚える。

 

「なんで、まだ折れてないんだろうなあ……早く折れてこっち側に来た方が楽なのに」

 



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#15 椎名ゆかりの”大嫌い”な人 中編

八重歯がチャーミングな女の子って可愛いよね。


 彼は、英雄であり怪物だった。

 小学生の頃から頭角を現し、U-12代表としてチームを牽引。中学生時代も走攻守、そして投球。あらゆる面で頂点に君臨していた。

 小学校時代は自チームのキャッチャーに気を使い、本気を出すことが出来なかったようだが、中学生からようやく自分の球をまともに取れるキャッチャーに巡り合い、自らの制限を解除したかのように暴力的な才能を振るい始めた。

 

――もしかすると、中学生時代も全力だったのか今になってはわからないが。

 

 マスコミの取材を受けた彼と対戦した打者は彼の投球に関して、各々が怯えた表情でこう言ったらしい。

 

『本物のストレートを見た。ただ速いだけじゃない。彼のストレートはまっすぐ来る』

『かろうじて当てても、彼のストレートは重すぎて前に飛ばない』

『スライダー、チェンジアップ。ストレートと同じフォームのまま繰り出される変化球はまさに魔球だった』

『直球も変化球も四隅を狙って投げてくる。甘い球は一度もこなかった。打てるはずがない』

『彼が投球モーションに入っただけで心臓発作を起こし、死にかけた』

 

 続いて、彼と対戦した投手は顔を青ざめさせてこう言うのだ。

 

『インコースに投げたストレートを逆方向にスタンドまで持っていかれた』

『指にかかった会心のフォークを曲芸師のように片腕で掬い上げられた』

『勝負を避けて歩かせても、三盗までガンガン走ってくるのでバッター相手に集中ができない』

『バントでホームランを打たれた』

 

 と、武勇伝は都市伝説並みに数知れず。そんな彼には明確な指導者はいないらしい。なのに、元プロの野球専門家曰く『欠点は完成されていない体だけ』そうだ。技術面は言うことはないと日曜の朝に喝を入れる野球界のレジェンドも太鼓判を押している。彼は野球人とって、良くも悪くも全てを破壊する怪物だった。

 

 ゆかりは彼のことが小学生の頃は”憧れ”の男の子で小学生最後の大会以降は”大嫌い”な男の子になった。

 

 ――野球を嫌いといいつつ、プロ野球視聴や野球番組を欠かさず見ている高校生になった今は……”大好き”と”大嫌い”が混在して自分でも分からなくなってしまっている。

 

※ ※ ※

 ゆかりは電気の消えた真っ暗な部屋で感情の抜け落ちた顔をし、スマホの画面を凝視していた。ゆかりが見ていたのは、今は削除済みである昨年のリトルシニア決勝の試合だ。マウンド上には故障寸前とは周りに悟らせない同じ高校の男子生徒が闘志を漲らせていた。

 

 ゆかりは精神が不安定になると決まって保存してある動画を見るようにしている。毎回もう二度と見るものかと心に決めているのに、ついついこの動画に頼ってしまう。動画も終盤。7回表の2アウト。

 打席には”大嫌い”な学友の有原翼が目の前の好敵手と戦うのが楽しくて仕方がないと言わんばかりの仕草でバッターボックスに立つ。

 

「ここはカットっと」

 ゆかりは迷うことなく、動画の再生時間のバーを指でスライドさせる。バカげていると思いながらも、何度も見てしまうのは次の場面なのだから。

 

「……あはっ」

 そう、見たかったのはここだ。マウンド上で苦悶の表情で蹲る彼。野球人生が断たれた絶望の瞬間を見たゆかりは再生時間を戻す。また再生。

 

「……あはっ!」

 戻す。再生。すごく痛そう、苦しそう。地に堕ちた姿を見て、笑う。

 

「……あはっ! あはははははっ! あはははははははっ!」 

 戻す。再生。笑う。笑い続ける。

 

「あはははっ! あはっ! あはははははっ!」

 また再生。笑いが止まらない。涙が止まらないほど、笑う。お腹が痛い。

 

「あはっ……なに、やってんだろ、あたし」

 ゆかりは笑う。そして、動画を閉じた。ひとしきり愉快な気持ちになってから、深淵なる闇に落とされたかのような自己嫌悪に陥る。

 これからの野球界を背負っていたであろう一人の男の子の野球人生が崩壊する瞬間を見て、心の底から笑えるなんて人として終わってる。

 

「どうして、君はあたしと違った道を選ぶの? もう二度と報われない野球に関わるなんて、苦しくて辛いだけじゃん……」

 ゆかりは甘美で忌々しい映像を流していた自らのスマホを床に投げ捨てて、泣き笑いをしながら目を閉じたのであった。

 

※ ※ ※

 

 数日後の放課後。いつも通りの自分を取り戻せたゆかりは帰宅前にクラスメイトと教室でテスト勉強をしていた。もう少しで期末テストがはじまるので、その対策を兼ねて皆で輪を囲んでいたのであった。

 

「椎名さーん! あの人から呼ばれてるって! 早く早く!」

「……うん、わかったー!」

 

 放課後に自分を呼ぶ人物。真夏のひまわりのような煌めきを携えた彼女だろう。クラスメイトに一声かけた後に席を立ったゆかりはスタスタと廊下側に向かっていく。今日はどんな断り方をしようかと考えつつ、正面を見据えると、そこにいたのは翼ではなかった。

 

「ごめん、面識もないのに急に呼び出しちゃって」

「あ、ああ。ううん、ぜんぜんだいじょうぶ、だよ」

 

 なんで、彼がここにいるのか。ゆかりは思わぬハプニングに戸惑い、言葉を絞り出すのがやっとであった。

 

「そして、もうひとつ。あの野球バカがたびたび押しかけてるみたいで、本当にごめん!」

「……あはっ、もう慣れたからだいじょうぶだよー」

 両手を合わせて謝っていた彼がここでゆかりの顔をまじまじと見た。彼の瞳は翼に似て透明で真っ直ぐで力強い、ゆかりの大嫌いな輝きを持っていた。じわじわと浸食してくる愛憎混じった感情が彼と対面した緊張感を上回り、ゆかりは逆に冷静になった。

 

「あ、自己紹介が遅れた。俺は1年3組の――」

「知ってるよ。だって、君、女子たちの間で有名人だもん」

「え? そうなのか?」

「女子野球部の監督という立場を利用して野球部の女の子たちをあの手この手でヒャッハーと誑し込んでいるド外道だって」

「はあ!? そ、それマジですか……?」

「マジ、大マジだよ。一日一回女の子を自販機のように取り換えては、楽しみ終わったらゴミ箱にポイ捨てしているとか」

 

 ジト目をして、怯えるように半歩下がったゆかりは発言に真実と嘘を混ぜた。こんな複雑な感情を抱かせる彼に対する仕返しだ。

 

「俺の評判、真正のガチクズじゃないか! ……最悪だ。なんで誰も教えてくれなかったんだ」

「ま、設立当初のほうだけだったけどねー。今はそんな風評もなくなってるけど」

「マ?」

「マ、だよー」

「よ、良かったー! 俺の人権が救われた! まだ人生ゲームセットじゃなかったわ!」

「……あはっ」

 

 気分が悪くなったゆかりの信憑性のない言動に惑わされ、落ち込みかけた挙句……証拠もない言葉ひとつで高らかにガッツポーズをしている子供っぽい彼におかしくなって、ゆかりも釣られて笑ってしまう。

 

「今日は……テスト勉強中かな」

「うん。まあねー」

「なら、明日。明日の放課後、ちょっとだけ時間を貰えないかな」

「明日? 明日は予定入ってないし、別にいいけど……」

 

 明日はチュリオーズ戦もないし、帰ってもやることがなかったため、ゆかりは安易にそう答えてしまう。それが、間違いだった。

 

「ありがとう! じゃあ、明日の放課後、校門の前で待ってるから!」

「え、ちょっ……!」

 

――あれ? あたし、約束しちゃった? これって、もしかしてデートの約束? いや、今まで話してもいなかったのに絶対ないでしょ!?

 

 ゆかりの返答を待たずに彼は満面の爽やかな笑みをゆかりに向け、猛スピードで走り去ってしまった。教室に残っていたクラスメイトの子たちはキャーキャーと興奮してうるさい。

 ゆかりはあまりの急展開に呆然と立ち尽くすのであった。




実は主人公の名前はずっと前から決めているんですが、これまで通り”彼”で統一した方がいいのか、彼に名前を与えるべきなのか迷ってます。

名称があった方が書きやすいんですよね……


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番外編
#1 小鳥遊柚の先輩 ①


モチベーションが上がらない→せや、書きたいものを書こう!

ってことで真の幼馴染さんの過去話です。


 小鳥遊柚(たかなしゆず)は相対的に他者よりも優れている人間であると幼少期から自覚していた。

 勉強は授業中の話さえ聞いていれば容易に満点をとれる上、運動面もスポーツをやっている運動神経のよい男子を圧倒することが出来るほどだった。

 コミュニケーション面においても誰とだって仲良くなれるし、容姿も間違いなく可愛い部類だろう。

 周りからチヤホヤされ、驕ってしまっても無理のない環境で柚は決して驕らなかった。何せ、自分と比べるのもおこがましい才能に恵まれたかっこよくて優しくて大好きな先輩がいたから。

 

 元々、体を動かすことが好きだった柚は前から興味があった近くの野球チームに体験入部した。そこで出会ったのが先輩だ。

 先輩は、すごかった。打っても投げても一つ一つのプレイが圧巻であった。一度目に焼き付けてしまったら忘れられなくなる輝き。他人に明確な憧れを抱いたのはこれが最初で最後だった。

 

 その日のうちに入部することを決めた柚は先輩に少しでも近づくため、必死に練習をこなした。そんな柚を先輩は気にかけ、遅くまで柚の練習に付き合って支えてくれた。調子が上がらず、泣き出してしまった時も黙って傍に寄り添ってくれた。体調を崩してしまった時には時間を見つけてはお見舞いに来てくれたりもした。

 最初は自分が女の子だから特別に優しくしているのかと邪推したが、他の同性のチームメイトにもやっていることがすぐにわかった。

 先輩は自分のことよりも他人を優先するお人よしだったのだ。そして、自身の遅れてしまった練習は誰もいなくなったグラウンドで返す。

 

 先輩は誰よりも才能がありながら、努力家で誰よりも優しかった。

 そんな先輩のことを人として好きになるのは必然だった。

 

 野球だと少しだけナルシストになるところ。協調性があるのにとても負けず嫌いなところ。辛い時には必ず傍にいてくれるところ。ワガママを言っても、苦笑交じりで望みを叶えてくれるところ。頑張ったら頭を優しく撫でて褒めてくれるところ。泥だらけになりながら、野球を楽しそうにやっているところ。全てが愛おしかった。

 柚も彼に近づけるように練習を続けてきた結果、メキメキと頭角を現してチームの4番を張るまで成長することが出来たのだった。

先輩と柚はお互いが投手と捕手としてバッテリーを組み、一蓮托生のコンビとしてチームを引っ張っていく存在になった。

 このままずっと一緒にいられると思っていた。ずっと一緒に野球をして、少ない休日には一緒に出掛けて、バカみたいにふざけあって、甘えて、笑い合って。楽しくて幸せな日々が続くと信じていた。

 

――その幻想は柚が中学生に進級したときに崩壊した。

 

 

 先輩を追いかけて、地区の違う中学校に進学した柚は当然彼が所属したチームに入った。ここでも一緒にバッテリーを組んで、チームを導いていくつもりだった。

 しかし、努力を重ねても周りの男子よりも俊敏に動けない。リトルリーグ時代までは力強いバッティングに自信があったのに、チーム内では平均より上程度。走力と肩力に至ってはチーム内の男子の平均以下という不甲斐ない結果になってしまった。

 結局、柚はピッチャーにもキャッチャーにもチーム内で任命されることはなかった。

 所詮、柚は秀才止まりだった。性別の差を覆すためには努力で補うしかなかった。より努力しなければ、周りの平凡な男にも抜かれかけてしまう事実に悔しくて一人で枕を濡らした。

 勉強も授業中に聞くだけでは学年トップの成績を維持することは難しくなった。

 

 毎日毎日、柚は不安と恐怖に駆られていた。このままだと先輩と対等どころか背中すら見られなくなる不安。先輩に見限られて、やがて忘れ去られてしまうのではないかという恐怖。先輩の性格上決してありえないが、負の感情はどんどんエスカレートしていき、季節は夏に差し掛かるのに全身が寒気が走るほど柚は追い詰められていた。

 それでも、小鳥遊柚のアイデンティティを守るために血反吐を吐く努力をし続けた。

 足りなくなったパワーは動体視力とミート力の強化で力任せではなく、芯を捉えるコンパクトなバッティングに切り替えた。守備も基礎をこれでもかというぐらいに固めた上で動き出しを極限まで早くする特訓を行い、守備範囲とフットワーク面の改善に努めた。

 勉強も予習、復習をどんなに疲れていても欠かさず行い、寝落ちしかけたとしても一日のノルマを達成するまでは決してやめることはなかった。

 

『あのピッチャーの球をよく打ったな!』

『私だって元は不動の4番打者だったんだからね! むふん!』

『……毎日頑張っていた結果が出たな』

『えへへ……』

 

『見てみて、せんぱーい! テストの結果!』

『また100点か……相変わらず柚は頭いいよな。俺はそこまで勉強できないから、羨ましいよ」

『良かったら、日頃お世話になっているお礼に勉強教えてあげようか?』

『別にいいよ。そもそも学年が違うだろ』

『そんなこといって後輩から教わるのが恥ずかしいんじゃないんですかぁ~?』

『……違うよ』

『絶対そうだ! 先輩、露骨に目を逸らしたもん! むふふふっ!』

 

 

――どんなに傷ついたとしても、好きなものは自分から手を離さない。全ては先輩との思い出と共に過ごす時間を守るために。

 

 努力の結果、柚は3年生が引退した時にはスタメンを奪取し、勉強の成績も学年トップを維持することが出来た。

 クラス……いや学年でも自身の明るくて気さくな性格を生かし、コミュニティの幅を広げて続け、今まで通り誰からも好かれるようにした。恵まれた容姿や休み時間に先輩に会いに行っていたのもあり、2学期には文武両道の優等生として小鳥遊柚の名前は学年を超えて知れ渡るようになった。

 

 そんな、ある日のこと。柚は休憩時間に同性のクラスメートと談笑していた。ドラマの内容からかっこいい俳優の話、そして身近にいる男性でかっこいい人は誰かという話題に移った。そこで真っ先に話題に上がったのが愛してやまない柚の先輩だった。

 

『柚ちゃんとよく一緒にいる先輩ってすっごくかっこいいよね!」

『うんうん! 高身長で運動神経も抜群だし! しかも、先輩って超優しいんでしょ?』

『うん、まあ……』

『柚ちゃん、先輩とは幼馴染で異性としては好きじゃないって言ってたよね? じゃあ、今度私に紹介してよ!』

『ずっるい! わたしも紹介してほしいな! 先輩みたいな人が彼氏になってくれたら誰にでも自慢できるよね!』

『間違いないっ!』

『……は?』

 

――何を言っているの、こいつらは。全てが私以下で何の努力もしない女が先輩と関わろうとするなんて、めちゃくちゃ図々しいんですけど。

 しかも、先輩をブランド品みたいな扱いをしてたよね。自分勝手もここまで来ると笑えてくるよ。

 バットを持っていたら、間違いなく目の前の産業廃棄物めがけてバットを振り下ろしていただろう。はらわたが煮えくり返るほどの殺意が芽生えたが爪を太ももに突き立てて必死に人には見せてはいけないモノを堪えた。

 

 確かに生ゴミが言っていたように先輩のことは異性としては好きではない。だけど、先輩自身のことは大好きでたまらなく大好き。先輩のためだったらどんなものでも捨てられるし、何だって出来る。決してこいつらにはわからない感情だろう。私は先輩の全てを狂おしいほど愛している。

 

 何より先輩は私の先輩だ。私の許可も得ず、堂々と盗もうとするなんて弁解の余地はない。

 先輩は優しいからこのようにくだらない女に付きまとわれて、騙されてしまうかもしれない。それだけは許されない。許してなるものか。こんな奴ら、先輩の視界に入る資格もない。

 そうだ、先輩は私が守らないと。いつも私のことを守ってくれて、優しくしてくれている恩返しをしなくちゃ。言葉には出さないが、先輩にはいつもお世話になってばかりで何も返せていないのだから。うん、それがいい。

 

※ ※ ※

 

 先輩を紹介してほしいと言ってきたクラスで仲の良かった女の子たちはあれから2週間ほどでだんだんと元気がなくなり、1カ月で不登校になり――2ヶ月後には別の中学校に転校していった。不思議なこともあったものだ。あの二人とはもう少しお話(・・)をしていたかったのに。非常に残念だ。

 季節はもう冬。夏場に感じていた悪寒はここ最近感じることはなく、むしろ冬になったほうが体が暖かく感じている。いや、たった今、体が更に暖かくなった。前方に先輩を発見したからだろう。先輩の背後にダッシュで近づき、そのまま左腕に抱き着く。

 

「……せーんぱいっ! えへへ!」

「いつも抱き着くなって言ってるだろ」

「いいじゃん、減るもんじゃないんだし」

「俺の心が擦り減っているんだよ。ほら、周りの目が怖くなったじゃないか!」

「大きい図体の割に小心者だなー、先輩は。あの人たちは見ているだけで何もしてこないよ?」

「そういうことじゃなくて。勘違いされたら柚が困るだろ?」

「勘違いなんかされていないって! だって、私と先輩はとっても仲のいい幼馴染なんだから!」

 

 何はともあれ、去ってしまった子のことを考え続けても仕方がない。それよりも先輩と一緒に過ごせる楽しい時間のほうが大切だ。いつまでも先輩を柚だけの先輩にしておくべく、今日も努力を重ね続けるのであった。



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