阿修羅の牙 (ダブルM)
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第一話 虎

東京某所――――

朝の陽光がストリートに明るく降り注いでいた。

道路の両側に建物が並んでいるが、たいていの背は低い。

一階建てか二階建て。せいぜいが四階建ての雑居ビル、といったところだ。

 

その舗道を一人の男が歩いていた。

明るめな金髪に、同じ色の髭を顎に蓄えた男だった。

バッグを一つ、肩越しに右手で引っかけている。

ジーンズに白のTシャツ。

そのTシャツは男の胸筋で驚くほど盛り上がっている。

胸だけではない。腕も、肩も、筋肉でパンパンに、膨れ上がっている。

シャツの袖など、今にも裂けてしまいそうなほどだ。

 

明らかに常人とはかけ離れた肉体であった。

訓練というよりは生まれつき。ステロイドのような「作った」肉ではなく、天然のものである。

この男の周りにだけ、冷たいような、熱いような。形容しがたい空気が流れていた。

やがて男はある建物の前で足を止める。

 

ビルだ。恐らく10階以上はあるだろう。

しかもその壁面には『人が虎を打倒している』様が大きく描かれている。

背の低い建造物が目立つこのストリートでは、ひときわ目立つ。そういうビルだった。

 

入り口の上には筆で書かれた看板がでかでかとかかげられていた。

『神心会本部道場』とある。

 

「…久しぶりだな」

 

男はしばらく看板と壁面の絵を見つめてから、開いているドアの中に入っていった。

正面には受付があり、道着姿の女性が男の方に微笑んでいた。

男は受付まで歩いていき、

 

「愚地独歩館長に会いたいのですが…」

 

太く、しかし誠実そうな声でそういった。

 

女性は微笑みを絶やさずにうなずいた。

 

「館長にお取次ぎ、ですね。かしこまりました。

失礼ですがお名前とご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 

受話器に手を置き、男の反応を待った。

 

「名前は『若槻武士』。要件は…そうだな、電話していただければ、としか」

男は言った。

『猛虎』と呼ばれた男。若槻武士であった。

 

 

神心会本部館長室―――

 

「すいません独歩さん。無理を言ってしまって。」

 

ソファに座り、手を組んだ若槻が苦笑いをしていた。

机を挟んで向こう側のソファにどかっと無造作に腰を下ろしている男もまた、苦笑いをしている。

独歩と呼ばれた男は、髪一本ない頭部をかりかりとかきながらため息をついた。

 

「いいけどよォ。電話していただければ、っておめェ。

受付の姉ちゃん、すげー不審がってたって末藤が言ってたぜ?」

 

愚地独歩。

実戦空手『神心会』の創設者にして生きる伝説。『武神』と呼ばれる男である。

 

「ハハ…すいません。

末藤にも迷惑をかけてしまったな。」

 

若槻は悪びれずに笑った。

今に始まったことではない。10年以上、独歩とはこういう仲だ。

 

「聞いてるぜ。負けたんだって?」

 

秘書と思しき女性が運んできた湯呑を一息にあおりながら、独歩は尋ねた

 

「はい」

虎は湯呑には手を付けず、目を合わせたまま答えた

 

「『牙』?」

「いいえ」

「関林?」

「いいえ」

「初見?」

「いいえ」

「…もしかしてルーキー?」

「はい」

 

「ふうん。

で、もう一度鍛えなおすためにおいらンとこに来た?」

 

「はい。すべてその通りです。」

 

「ふうん」

 

ひとしきり聞き終えた後、独歩は腕を組んだまま、ずりっと足を組んだ。

 

「で、具体的にはどーしたいんだい?」

 

ちらりと組みなおした独歩の脚に目を向けた後、

虎は武神の目を見て、にやりと笑った。

 

「立ち会いたい―――そういうと同時にその足が跳ね上がってきそうだ。」

 

「…っとっといけねえいけねえ」

 

独歩もまた、にやりと笑いながら足を組みなおし、ソファの上で胡坐をかいた。

 

 

「つまりあれだ。

要は闘りてェんだろ?

おいらとは違う、自分を負かした相手と『同じような感じ』の相手とよォ。」

 

「はい。仰る通りです。

表現するのは難しいですが…例えるなら、こう。

しなやかな相手、というべきでしょうか。」

 

独歩の元を訪れた理由。それはかつて敗れた相手…と言うよりはかつて若槻を破った技

 

『鬼鏖』

 

あれを攻略するためだった。

あれを放った相手はもう居ない。だが、あれを放てる相手が居ないとは限らない。

今すぐは出会えないかもしれない。

1年先かもしれない。もしかしたら一生出会えないかもしれない。

だが、1年後には現れるかもしれない。もしかしたら半年後かもしれない、

 

ああいうしなやかさをもつ相手。柳に雪折れなしというか、そういう相手。

そういう男と闘りたいがために、顔の広い独歩の元を訪れたというわけだ。

 

そしてその答えを独歩はドアの向こう側に持っていた。

 

「ならよォ。うってつけがいるぜ。

おーい!入ってきな!!」

 

若槻の向って後方。館長室の入り口に向って大声で呼びかける独歩。

疑問符を浮かべたまま若槻が振り向くと同時に、一人の男が入って来た。

 

「お久しぶりです。若槻さん」

 

武神、愚地独歩の養子にして『現』神心会の長。

『空手界の最終兵器』の異名を持つ男。

愚地克己であった。

 

「君は…克己君…?」

 

「おうよ。克己だ。おいらの息子ではあるんだがよォ」

 

――――違う。

若槻は直感的にそう感じた。以前の愚地克己とはまるで違う。

 

腕がなくなっていることも驚いたが、何よりもあの『甘さ』がない。

才能を鼻にかけた、お調子者のおぼっちゃまリーダー。

友達として付き合うならいいが、とても闘士とみることはできない。いまひとつ覚悟の足りない男。

若槻武士の中での愚地克己とは、そういう男であった。

 

「―――男子三日会わざれば刮目して見よ、とはよく言ったものだ。」

「ハハ…いろいろあったもんで。」

 

故に驚いたのだ。

今の克己からは大きな貫録を感じる。拳願会のベテラン選手のような。大企業のトップのような。一個団体を率いる男の落ち着きと覚悟を確かに感じる。

故に虎は頷いた。

 

「独歩さん。今から道場をお借りしても?」

 

 

神心会本部道場――――

 

「あんまりダラダラやってもアレだしナァ。時間は5分くらいにしとこうや。

ルールは…ン~~~~~…」

 

道場の中心で、道着姿の男が二人向き合っていた。

若槻武士と愚地克己である。剣呑な雰囲気ではないにしろ、二人の間には周りと違う空気が流れていた。心なしか、周囲の風景が歪んているようにさえ見える。

 

周囲には末藤師範代をはじめとする道場生が30人ほど壁際で正座し、これから起こる事柄に期待しながら若槻と克己を見つめている。

独歩は道場の中心で、かつ二人から少し離れたところから腕を組んでひとしきりうなった後、パンッと手をたたいた。

 

「よしッ!テキトーでッ!!」

 

「ハハ…いい加減だなァ、親父」

「昔っからだろう、そういうところは。」

 

笑いながらも構えを取る二人。

克己は無き右腕を前にして体を大きく半身にした、右手右脚前の右構え。

対する若槻も右手右脚前の右構え。克己ほどではないが、こちらも体を半身にして構えている。

 

「ひでえ言い草だなァ、オイ。

じゃあまあ、はじめッ」

 

(すごいな)

 

克己は改めて、若槻を見てそう思った。

構え自体はありきたりなものだが、それでも克己はどっしりとしたすごい構えだと思った。

山だ。巨大な山が道場にそびえている。

どこからどんな攻撃を受けても崩れそうにない。

少し姿勢が前傾するだけで空間がきしむようにさえ感じる。とんでもなく強い男の、ただただ純粋な圧力。

だが、それを受けても尚、克己の眼は穏やかだった。

 

(すごいな)

 

若槻は、克己を見て改めてそう思った。

片腕がない。

これが格闘技においてどれほどのディスアドバンテージになるかは考えるまでもないことだが、そんなことなどみじんも伺えないほど今の克己からは隙が伺えなかった。

柔かい枝を相手にしているような。打ち込んだところで手ごたえがあるのか。そういうイメージが脳裏に浮かぶ。

だが、それを感じて尚、若槻は笑った。

(これだ。俺はこういう相手を待ち望んでいたんだ。)

 

そう思った瞬間、虎は跳んだ。

重力と自重の乗った左手を振りかぶり、力任せに打ち下ろす。

狙いは克己の顔面及び頭頂。

右腕のない克己に対する、挨拶代わりの初手である。

 

――――――――ゴッ

という音がした。

 

「~~~~~~~~ッッ!?!?」

 

頭突きである。克己の頭部が若槻の顔面に叩き込まれた音だった。瞬時にスイッチした克己が若槻の左拳の横すれすれを通り、側頭部での頭突きを見舞ったのだ。

カウンターの頭突きにより若槻の目の前が発光する。実際に光っているわけではないが、脳への衝撃と鼻っ柱への痛みにより一瞬のホワイトアウトが生じた。

 

「シッ!!」

 

間髪入れずに克己の裏拳が虎の顔へとめり込む。めきり、という音が響いた。手ごたえはある。

もう一つ――――若き天才は宙に浮いたままの若槻の胴に、ダメ押しの右足刀を叩き込んだ。狙いは水月。

 

「かっ!!」

 

虎の口からたまらず呼吸が漏れる。

 

「3連撃ッッッ!!クリーンヒットォッッ!!!」

 

末藤師範代が大声で叫ぶ。

勝ちを確信した叫びだった。頭突き、顔面への裏拳、水月への足刀。常人なら悪くすると死ぬ。最低でもダウンは免れない。

それを愚地克己が行ったのだ。末藤自身、あれを食らえば今日一日は起き上がれない自信がある。

 

「~~~~~~ッッッッ!!???」

だから、驚愕した。

 

「驚いたな…」

 

猛虎がなんなく着地し。ただ、鼻血を拭っただけという事実に。

 

「克己君。いつの間にここまでのしなやかさを…」

 

鼻を一拭いしただけで血が止まる。

克己からすれば会心の手ごたえだった。だが、同時にこの程度で倒れるわけがないことも確信していた。

なんでもありの拳願試合で300戦のキャリアを持ち、数多くの強敵を討ち果たしてきた男がこの程度で終るわけなどないとわかっていたからだ。

 

「簡単なことではありませんでした…

しかし、失ったことで新たに得るものがあった。そう思っています。」

 

「フフ…」

 

克己が微笑むのを確認した独歩も微笑む。つられて若槻も微笑んだ。

 

「ハハ…さて、仕切り直しだ。」

 

若槻が笑みを消し、さきほどのように構えなおす。

克己も笑みを消し、構えなおす。

 

ドンッ

 

「「「「消えッ!!!」」」」

 

直後、虎の姿が消える。

前に踏み込む。空手を10年以上やっている道場生達ですら、虎のその動作を捉えることができなかった。

193センチ、193キロの肉塊が恐ろしいスピードで突っ込みながら拳を前に突き出す。

刻み突き。ボクシングでいうところのジャブ、いわゆるリードパンチであるが、超人体質の若槻が行うそれは、優に人間一人を絶命しうる力を持つ。

同時に濡れた手ぬぐいをはたくような音が聞こえる。

ローだ。若き天才は、阿修羅にさえかわし切れなかった刻み突きを『確認』してから体をそらし、拳が空を切ると同時にローを放った。

そのローが虎の太ももに当たって、跳ね返された。

すさまじい筋肉の束だ。

脚を戻す前に、虎が距離を詰める。

 

なんという男だ。

もう眼の前に若槻が迫ってきている。

だが克己は退がらない。退がれば圧力に飲み込まれると確信したからだ。

 

「フッ」

 

故に、自ら前に出る。同時に腰を高速で切り、その勢いで右肩が前に出る。

『右正拳の』動きだ。

 

(克己君、どういう――――!?)

 

虎の思考は一瞬そこで途切れた。目に何かが当たった。

袖だ。本来あるべき場所に腕がないため、右正拳を打つ動きで道着の袖が予測しがたい軌道で飛んでくる。

 

「クウッ!?」

 

直後。虎の右脚に強烈な何かが刺さる。

ローだ。先ほどとは違い、完全に見えず予測できないタイミングで飛んできたため、深々と突き刺さった。巨大な鉈が食い込んだようなイメージが若槻の脳内をよぎる。

だがそれでもなお。若槻は前に出た。

 

ドグン!!

 

「~~~~~~~~~ッッッ!!」

 

若き天才が宙を舞う。もらったのは下突き―――のはずであるが、克己としてはまだ軽トラックに衝突されたといわれた方が納得のいく威力だった。

かろうじてガードが間に合った左腕であるが、腕そのものが弱点になってしまったかのような鋭い衝撃が消えない。

着地と同時に、虎が目の前に現れる。

体を前傾させての下突き―――と見せかけてのロー。

 

「ッッッッ!!!!」

 

これもなんとか反応はできたものの、体が少し崩れる。これこそが若槻の狙いだった。

体をさらに前傾させて懐に入り――――

 

「ラッシュだッッッ!!!下突きのッッッ!!」

「フルコン系の動きだッッッ!!!」

 

突き。

 

突き。

 

突き。

 

突き。

右。

 

左。

 

左。

 

右。

 

右。

ではなく左。

 

「克己よ」

 

左腕で捌いている。

 

もう一度左。上体をねじる。

 

ねじりきれず、もう一度捌くはめになる。

もらう。

 

重。

 

もら。

 

ひび。

 

ぎり捌。

痺。

 

 

 

ここ。

 

「それでいい」

 

武神は笑った。

 

 

 

 

(なんて男だ―――)

 

本日何度目の驚愕か。

とにかく勝ちに行っている自分の得意パターンを、左腕一本と絶妙な足さばきによる上体ずらしでクリーンヒットを避けている。

こんな真似は拳願試合の誰も―――十鬼蛇ですら不可能だろう。

しかし同時にわかることもある。この状態が続けば、間違いなく勝つのは自分であると。

 

(距離を取ったところに追い打ちをかけるのも悪い手ではない。

しかしこの距離では『撃てない』だろう?)

 

これが現在の若槻が考えうる『鬼鏖殺』であった。

あの技然り、そもそもカウンターというものが、基本的には相手の力と『勢い』を利用し、自身の力を最大に叩き込むものである。

ド密着のクロスレンジならばその『勢い』はつきようがない。加えて、この距離から満足のいく威力を出せる存在は自分を置いて他にない。

『牙』の龍弾という例外はあるものの、そもそも『牙』自体がこういったタイプではないので、クロスレンジに持ち込む必要もない。

 

(慢心も油断もない!!戦ってわかる!!

拳願試合の猛者達と比べても!!あの十鬼蛇と比べても!!

克己君はなんらそん色がない!!過小評価などできるわけがない!!)

 

何発撃っただろうか。本人でさえ覚えていないような下突きの一発が、ついに克己の胴体に突き刺さる。

 

「~~~~~~ッッッ!!!」

 

―――――――――――――今ッッ!!

 

 

こらえきれずに九の字にまがった克己の胴体にダメ押しの下突きを入れんと更に前傾する若槻。瞬間、克己の腕が動く。

 

(左!?

 

距離

 

 

無視

 

 

下)

 

瞬時に虎の脳はそれを無視すべしと判断し、そのまま下突きを放つ。

そこで克己の姿が消えた。

 

「…ッッ!!」

 

否。消えたわけではない。確かにいる。

しかしこれは。

なんという。なんという男だ。

 

「…」

(俺の肩で…倒立を!?)

 

克己の出した左腕はカウンターを狙ったものではない。

肩だ。若槻の山脈のような肩に手を置き。そこで倒立を行うことで、下突きのラッシュを回避せしめんとするためのものだった。

サーカス生まれの克己ならではの、アクロバティックな回避方法だった。

 

「シィッ!!!」

 

若槻が驚愕に目を染めたその瞬間。

重力と自重で勢いのついた右足を。思いっきり虎の顔面に打ち付けた。

 

「がはッッ!!」

 

どうっ。

193キロの体が転倒し、道場が揺れる。

視界がドロドロに歪み、立ち上がることがままならない。

 

「…痛ってェ~~~~…」

 

しかし下突きをもろにうけた克己も無事では済まず。

着地と同時に片膝をついた。

口元から血が零れる。

たっぷり10秒ほどかかった後、

 

「…俺は、まだ、やれるッッッ」

「来いやァ…」

 

両者、ゆっくりと、ダメージを抱えたまま立ち上がった。

 

「残り一分」

 

武神の声と同時に、二人が構えた。

だが、先ほどとは構えが明らかに異なる。

 

(まさかこれを出すことになるとは思わなかったが…)

 

猛虎は右ひざをつき。

左手を前に出し、右手をたたみ、拳を握った。どういうガードもしていない。

 

(一撃必殺?)

 

克己の脳裏に4字がよぎる。

フルコンタクト系の空手でこのような構えはない。

琉球空手のアーナンコにも、ナイハンチンの中にも、このような構えはない。

だが、その構えは明確に予告していた。

この右拳を当てるぞ―――と。

 

(似てるなァ)

 

その姿を見て克己は思い出した。喧嘩師、花山薫のことを。

大きく身をひねり、単純にパンチを繰り出す豪快なあの男のことを。

恐らく、若槻も同じだろう。あの技には『受け』が通用しない。

先ほどまでのような小細工も通じないだろう。

それ以上の打撃を当てて倒すしかない。

 

(極上の打撃を…)

 

 

 

(なんだ…?克己君の構えが…?)

 

先ほどの半身の構えとは打って変わり、体全体をこちらに向けている。

それどころか手を上げてすらいない。いやいや、それ以前に体全体で力が入っている部分すら見受けられない。全身の緊張をドロドロに緩め、完全に脱力しきっている。

空手家の魂と言える拳ですら、武器であることを拒否しているかのように握らず、それでいて開いていない。

その手の形は、例えるなら菩薩の―――――

(構わない。最後に立っているのは、俺だ。)

 

お互いが必殺の構えに移行し、迂闊に動くことができない。

実際は10秒にも満たない時間だが、永遠ともいえる静寂が辺りを包む。

 

若槻の体が、少しづつ丸く縮んでいき――――

克己の体が、少しづつ緩んでいき――――――

道場生の誰かが、唾をのむ。

 

ドンッ

 

 

限界まで縮めたばねを一気に解き放つように。

通常の人間の52倍の筋密度を持つ若槻が、筋肉を体の中心に目いっぱい収縮させ、一気に解き放った。

伝統派空手におけるノーモーションの逆突きに似たこの技を、若槻は『爆芯』と呼んだ。

 

天才、愚地克己によって放たれた左正拳は――――

存在しない想像(イメージ)による無数の関節で加速され。

加速され。音の壁すらも超える。

近代体育の粋であるこの技を、克己は『マッハ突き』と呼んだ。

 

 

 

ドガァッ!!!

 

「なんだッッッ!!」

「どうなったッッッ!!!」

「いねえぞッッ!!」

 

マッハ突きと爆芯。

お互いの最強と最強をぶつけあった二人は――――

 

「よし…」

 

お互いの胸を捉えて吹き飛び。

 

「…」

「…」

 

道場の壁にぶち当たって気絶していた。

 

「それまで」

 

武神の呼び声も夢の中の闘士達には届かず。

 

「ダブルノックダウン…ッッ!!??」

「引き分けだッッ!!!」

「バカヤロウッッッ!!そんなこと言ってる場合かッッッ!!!早くお二人を医務室にッッッ!!!」

 

これにて決着!!

 

 

 



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第二話 武

本部、相撲編でまたでないかな


 

トーナメントが終って半年―――

“超人”理人、もとい中田一郎は岐阜県に居た。

場所は飛騨。ふもとからは遠く離れたアルプスの山中である。

 

その山中で一郎は修行をしていた。

荒く、手入れのされていないそのままの丸太を『素手』で削り、

仏像を彫るというものである。

 

(…この修行、何の役に立つんだ?)

 

いわゆる山籠もりの修行であった。

 

(でもオッサンがやってるんだ。無意味なことじゃねえよな。

…多分。)

 

「…」

 

理人の横で黙々と、目にも止まらぬ速さで突きを繰り出し丸太から仏像を彫り出している男がいる。

黒い道着に、無造作に生えた黒い髪と髭。

黒木玄斎

この男に手痛い敗北を喫して以降、一郎はこうして半ば強引に黒木の元を訪れては共に修行をしていた。

 

黒木は弟子入りを認めているわけではないが、突き放すわけでもなく、勝手についてくる分には構わないというスタンスで一郎の同行を許していた。

 

半ば強引に、しかし妙に人懐っこくかわいげのある一郎に黒木は声をかけたり教えたりした。教えるといっても黒木の『怪腕流』ではない。心構えや体の動かし方等である。

金はとらない。無料で教えた。

気が向いたり一郎が悩んでいたりすれば声をかけ、そうでないときは己の修行をしている。

 

黒木の修行――練習はスパーリングパートナーを置かない。

そういうパートナーが居なくてもよいから置かないのか。それとも務まる相手が居ないから置かないのか。一郎にはわからなかったが、独りで修行を行っている。

内容も様々だ。

滝に打たれることもあった。

周囲に火をつけ三日間眠らずに立ちっぱなしで念仏を唱えることもあった。

今回のように材木を素手で削り取り何かを作ることもあった。

 

そうかと思えば、相手が眼前に居るかのような動きをすることもあった。

ボクシングでいう所のシャドーに近いが、一郎がみた黒木のそれはまるで別次元だった。

相手が目の前に『現れる』のである。

ホルスターを見ると、そこに入るモノの形がわかるように。何もない空間に見えてくるのだ。そのあまりの完成度に、一郎には世界ランクのボクサーが行うシャドーですら、健康体操か何かに思えてきたほどであった。

異次元の修行を垣間見た後、夜になると一郎が炊事を勝手に行い、酒も勝手に勧めるので黒木もそれを拒むことなく付き合う。

 

拳願試合最強の男の修行に付き合い、自身のレベルアップを図ることができる一郎としては充実した日々であると言っていい。その日々に変化をもたらしたのは一人の男の出現であった。

 

ある日のことであった。

桜の花びらが舞う頃。一郎が美的センスのかけらもない、ヘッタクソな仏像らしきものを丸太から素手で掘り出している時、呼びかけられた。

 

「一郎」

 

黒木幻斎である。手を止め、そちらを見ると黒木は背を向けてただ一言だけ言い放った。

 

「ついてこい」

「お、おう」

 

背を向け、どこにいくのかも告げずに歩き出す黒木。

珍しいことではない。口数の多い男ではないので、何か用事がある際も必要最小限しか告げない。こういうことはしばしばあったので、一郎も特に理由を聞くことなくついていくことがままあった。

「一郎」

「なんだい、オッサン?」

「以前お前に言ったことを覚えているか」

「……?」

「『お前は圧倒的に経験が足りない』」

「あーーー。あれね。覚えてるよ、うん。」

 

一瞬間を置いたのち、黒木が続ける。

 

「…強くなりたければ『見ろ』。誰の戦いを見ようとも自由だ。」

「おう!それは覚えてるぜ!!だからこうやって…」

「だから、これから起こる戦いを見るのも見ないのも、お前の自由だ。」

 

そういって黒木が足を止めたところで、一郎は目を見開いた。

 

異様な空間だった。

ぽっかりと開いた空間に、木だけで組み立てられた小屋がある。

宿泊用のそれとは違い、人ひとりがかろうじて寝泊りできる程度の大きさしかない。

それだけならば人嫌いの猟師が小屋でも建てたのかと思う所だろう。

事実、一郎も最初はそう思いかけていたが、周りに立ち並ぶモノを見て考えを改めた。

 

(木偶人形に、巻き藁…しかも刺さってんのは…苦無?

忍者でも住んでるってのか?話の流れからして師匠が戦うんだろうけど…)

 

それだけではない。

マキビシのようなもの、木に突き刺さった小太刀、鎌に手裏剣。

拳願会の闘技者として荒事には慣れている。

慣れているが、さすがに手裏剣みたいなものはTVでしか見たことがない。そんなものがところかしこに転がっているのだ。

 

(一体どんなやつが出てくるんだ?!)

 

雑に放り投げた武器と共に捨てられているタバコの吸い殻に嫌悪感を示したところで、一郎は小屋の横の大きな桜に目が止まった。

満開の桜であった。このあたりで桜が咲くのはちょうど4月の半ばちょうどこのころである。

その桜の木の陰から一人の男が現れた。

「『レア映像』だ。」

 

(こいつが????)

 

一郎から見たその男の第1印象は、間違いなく良くなかった。

ざんばらで白髪交じりの総髪。

顔には濃く無精ひげが浮かんでいる。

背もあまり大きくなく、茶色のジャケットに見ただけで安物とわかるシャツに使い古したジーンズ。

見た目はどう見ても冴えない中年そのものであった。

この格好で公園にでも居ようものなら間違いなくホームレスと疑われるであろう。

 

「弟子を連れる黒木幻斎。

話には聞いていたが、実際にこうしてみると…なかなか」

「弟子入りを認めたつもりはないがな」

 

混乱する一郎をよそに黒木と男はお互い歩み寄っていき、迷いなく手を交わした。

「息災の様だな、本部以蔵。」

「どうも黒木さん、お久しぶりです。そして君が弟子の一郎さんだな」

「ア…どうも…」

(こんなやつがホントに強いのか?!)

 

迷いながらも握手をする一郎に、手を離した後本部はクスリと笑みを浮かべる。

 

「驚いたかい?」

「え?」

「あの拳願試合トーナメントを制した師匠の相手が。

こんな冴えない中年でさ。」

「ア…いや、その…」

 

心中をずばり言い当てられた一郎は何と言っていいのかわからない表情をした。

図星なだけに、面と向かっては言いにくい、という感じの一郎に師匠は苦笑いのため息をついた。

 

「まだまだ観察が足りんな。」

「え?」

「フフ…」

 

一郎が黒木の元に目をそらした瞬間。一瞬きらめいた何かが自身のほほをかすめ飛んでいき

 

「………ッッッ!?」

 

数メートル背後の木に突き刺さった。

 

「――――本部以蔵。拳願会にも煉獄にも、どこにも属さず。

『超実戦』柔術を極めた男だ。徒手だけでなく、あらゆる武器に精通しているこの男に勝てるものは闘技者でもほとんどいるまい。」

「すまないね。隙だらけなのでついからかってみた。」

「苦無、手裏剣。小太刀一振りに仕込み武器数種。ジャケットには少なく見積もってもこれくらいか。」

「さすが…」

(武器の種類までわかんのかよ…)

 

一郎が師の洞察力に驚き言葉も出ない間に、本部はポケットから取り出した煙草に火をつける。

ゆっくりと紫煙を吐き出しながら、黒木の方を向いた。

 

「さて…武術家二人、お喋りばかりっていうのもね…

そろそろ闘りましょう。」

「うむ。」

 

言うと同時に、黒木はゆっくりと構える。左手左足を前にして拳を開き。

半身になったいつもの構えだ。本部以蔵はいまだタバコを咥え、左手をポケットに入れたままなんの構えも取っていない。

 

「ルールは…やりながら決めますか。」

 

言うが否か、本部が何か動いた。少なくとも一郎には何をしたかわからなかったし、何が起こったかもすぐには理解できなかった

 

――――――――――――――――ちゅどッッ

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!????」

 

 

 

 

――――その当時のことを、中田一郎は後にこう語る。

 

いや、もうほんとにいきなりだったよ。

ちゅどッ、って。すんげー音がしたぜ。一緒に白い煙がグワーッとあがってさ。

あらゆる武器を使えるって言ってもいきなり爆薬使うとはおもわねーじゃん。

 

だから面喰っちまって声が出なかったよ、俺は。

いや、俺だけじゃねーと思う。拳願試合出てるような連中でも普通はああなると動けないと思うわ。

でも、そこはさすがっていうのかな。

 

「…」

 

オッサンはすぐ飛び出してきたよ。本部さんも。爆発と同時位かな。

二人の間の距離は5メートルかそこらくらいだったような気がする。

でさ、すぐに本部さんが上着から何かを取り出したんだよ。俺はちょっと遠い所から見てたんですぐにはわかんなかったけど、多分あれ手裏剣じゃねーかな?

 

ん?おう、そうだ、あの手裏剣だ。忍者とかがよく使うアレだよ。

しかもあれをさ、オッサンがガンガン叩き落としながら近づいていくんだよ。手裏剣だぜ?色んな方向にとんがってるあれを、平面の部分だけ狙って叩き落してんの。アンタ、信じられるかい?ハエじゃああるまいのにさ。

 

ありえねーってのは俺も思ってたけど、現にオッサンは近づいてくんだよ。んで3mくらいかな。そのあたりになった時にしかけたんだよ。

 

「ヌン!!」

 

そう、魔槍だよ。あー、魔槍ってのはあれだ。平たく言うと『突き』だよ。

オッサンのやる『怪腕流』ってのは部位鍛錬が半端なくてさ。巻き藁、砂鉄、鉄砂掌、結んだ竹…そういうもんに日がな一日突きをかますらしいぜ。脱臼しようが折れようが続けた果てに、槍と化した四肢が手に入る…って言ってたな。

俺もピンチ力や切り裂きには自信あるんだけど、アレはちょっと次元が…

 

当たったかって?ハハ。アンタ気が早いな。

 

「拳願トーナメント覇者…素手でやりあうにはちと荷が重い。」

「小太刀か。」

 

止めたよ。本部さんが小太刀を、こう逆手で持って魔槍の軌道上に置いてっからさ。

そうなると迂闊にオッサンも踏み込めねーから構えなおしてよ。膠着状態さ。

どうなったかって?まあまあ、焦んなよ。

 

「フフ…こういう緊張感も悪くねェが…一郎君も見ていることだし――――なッ」

 

そっからは本部さんが仕掛けたさ。こう、地面を蹴って土と石を目つぶしみてーにさ。

 

「小細工に窮したか、本部」

 

ああ。もちろんオッサンにゃ通じねーさ。つっても目開けたまんま微動だにしなかったのは驚いたけどよ。今思うと手で弾かなかったのも、読んでたんだろうな。

 

「ハナから真面目に闘る気はねェよ」

 

そのままぶん投げられた小太刀を即キャッチしたからな。どこまで先を読んでんだよって思ったけどよ。

 

「ッッ!?」

「だから、こういうのも使用(つかう)

 

本部さんもそれを読んでたみたいでな。オッサンが小太刀をキャッチした右手。そこに鎖がぐるぐる巻きになってたぜ。鎖分銅っつーんだっけ?鎖のさきに重しみたいなのがついてる武器。いつ取り出したのかもわっかんねーけど、あれを巻き付けてたんだわ。

だけど、オッサンの反応も早かった。

 

飛び出してんだよ。あのまま引っ張られて体制崩されるくらいならさっさと前に出て殴ろうって考えだろうな。多分俺もそうしたよ。

ああ、刀?捨ててたぜ。前に出る前にさ。

使えばいいじゃんと俺も思ったんだけど、『慣れぬ刀を手にすると、人はそれしか使わなくなる。武芸百般の男にそれは愚行としか言いようがない。』だってよ。

 

話がそれちまったな。オッサンが前に出た。そう感じた瞬間本部さんも迷いなく鎖を手放したよ。んで向ってくる師匠相手に『突いた』んだ

 

「手槍か。扱えるのか?」

「それなりに…だから、使用(つかう)ッ!!」

 

何て言うのかな…余裕があったよ、オッサンには。いや、確かにはええんだよ、本部さんの槍は。でも…なんていうのかな。焦りみたいなのがなかったんだ。オッサンには。

一発二発かわしたところで、もう手で捌き始めてさ。『見切った』と言わんばかりだったぜ。

はたき落としたところで、またオッサンが攻めた。ああ、魔槍だ。

だけど、本部さんはそれすらも読んでいた。

 

「!?」

「一発…ここは突くでも切るでもなく…」

 

い~~い音がしたよ、どうってな。俺ら闘技者には聞きなれた、重いミドルが入った音だ。

いつの間にか槍を手放した本部さんが蹴りぃ、入れてたんだよな。

体制の崩れた師匠にダメ押しの蹴りを放とうとした瞬間だった。

 

「けっとば…ッッ!?」

「見事なり、本部以蔵」

 

刺さってたよ。右の肩辺りのあたりに、ザクっと。魔槍がな。

 

「しかし不用意が過ぎたな。この黒木に対し徒手で挑むという行為がどれほど危険か。

知らぬ貴様ではあるまい。」

「~~~~~~~~~~ッッッ!!」

 

やっちまったみないな顔でさ、相当焦ってたよ本部さん。まさかこれが読まれるとは、みたいな感じでな。急いであの人は距離を取ったんだけど、師匠はそれを追わなかった。

なんでかって?そりゃアンタ―――

 

「…ここまでだな」

「ああ。ここまでだな。これ以上は――――そう、見せるものじゃあない」

 

――――決着だからよ。

 

 

―――――――――――――――――――

 

「すいませんでしたァッッッ!!!」

 

 

終って早々、本部の元に駆け付け頭を下げる一郎。

 

「ン…?」

「オレ…さっきは本部さんに――――」

 

見誤っていた。本部の風貌と年齢に目を取られ侮っていた。

そう謝ろうとした一郎を本部は笑いながら遮った。

 

「――――大丈夫だ、一郎君。

こいつに師匠の相手はムリ!!!正常な判断だ。」

「…え?」

「…」

 

驚き見つめ返す一郎を、黒木は黙ってみていた。

 

「黒木幻斎といえばあれだ。拳願トーナメントの覇者。武の体現。

言っちまえば新時代の王だ。

その相手がこんな冴えない。

こんなよくわからない。

こんな小さい中年が挑む。そりゃあ誰だってムリだと思うわな。」

 

微笑みながら本部がタバコを取り出し、火をつける。

 

「黒木さんから話を聞いた時、ぴったりだと思ったよ。

いいモノは持っているが、経験が足りないので力量を見誤る癖があるとね。」

「…オッサン?」

「…さてな」

 

褒められてんだがそうでないんだか。微妙な表現をする本部に黒木の方を見るが、師は明後日の方を向く。

 

「『だから』俺がいい。そう思って黒木さんから持ち掛けられたこの試合、受けることにしたんだ。」

 

本部以蔵。金竜山に最大トーナメントで敗北を喫して以降、多くの闘技者からよくわからない扱いをされることが多かったが、黒木だけは見抜いていた。

本部以蔵の本筋は柔術というよりもそこから派生した武器術。すべてを使ってこその男だということを。

 

だからこそ、この本部との試合を見せるのが良いと思ったのだ。相手を過小評価せず力量を見誤らない。何を使われても対応する。そしてその対応の仕方。

そういった経験を付けるにはこの男との試合を見せることがベストだと黒木は考えたのだ。

 

「―――――燃えてきたぜ。」

 

一郎の脳裏にこみ上げてきたのは拳願試合だった。

勝った試合もあった。手痛い敗北を喫した試合もあった。だがどの試合も肉体のぎりぎり、精神のギリギリ。そこへ自分の肉体と精神を持って行った。

その濃厚な時間を、また体験したくなった。要するに、試合を見てたぎって来たのだ。

抑えきれない肉体と精神の猛りが一郎を突き動かす。

 

「オッサンッッ!!俺も闘りたくなってきたぜッ!!」

「そう思ってな…」

 

それを見て黒木はふっと笑い、一郎の背後にある桜の木――――正確には、その陰から出てきた男を見ながら言った。

 

「久我重明だ。」

 

 



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第三話 黒

 

黒い男であった。

全身が黒い。黒い靴を履き、黒いズボンを履いていた。

黒いシャツを着て、そのボタンを一番上まできちんと止めていた。

ボタンの色まで黒い。

長い髪も黒かった。

鉄のような顔の皮膚も黒い。

何から何まで黒い男。

吐く息さえも黒く見える。

そういう男だった。

 

「……ッッ!!??黒木さん、アンタ…!?」

 

男は鋭く切れたような細い目で、焦ったように叫ぶ本部以蔵をじろりと一瞥する。

久我重明であった。

 

「本部以蔵…噂にたがわぬ武芸百般ぶり、見せてもらったよ。」

 

そういったその声までもが黒い。

 

「そういうアンタの噂も聞いているよ、暗器の重明」

「どんな噂だい?」

「大変危険な男らしい…『中』でもアンタのことを口に出すのはタブーだというくらいにね」

「クク…否定はせんよ」

 

久我重明は頷いた。

 

(こ、これはアレだ…ッ!!見ただけでわかる…ッッ)

 

曲がりなりにもこの何か月かを黒木と共に修行したからわかる。

この男は違う。自分が知っているどの闘技者とも違う。

大久保とも違うし、金田とも違うし、氷室とも違う。これまで戦った、誰とも違う―――

否、そうではない。

この久我重明の放つオ-ラと近い男を自分は知っているではないか。

加納アギト。

黒木幻斎。

 

この男が放つオーラはそれに似ている。圧倒的強者が放つ、危険で、悪魔的なオーラ。

以前の自分であったなら、このオーラを感じ取ることができなかっただろう。その差が理解らぬほどの実力差。そんな男に今の自分がどれだけできるのか。

 

(闘りてェ…ッ

今すぐこいつを引き裂きてェ…ッ!!)

 

獰猛な、それでいて甘く蠱惑的な誘惑が一郎を襲う。

闘ってみたいのだ。この男と。

力量差?勝つ?負ける?それが何だというのだ。

この男は闘いに来たんだろう?だったら――――

 

「黒木幻斎。」

 

久我重明が口を開いた。

 

「あんたんとこの坊や、何かやばい事を考えているらしいぜ。」

「考えてたら、いけないかよ?」

 

一郎が挑発するように、じりとにじみよる。

「いけなくはないさ…」

 

久我重明は何もしない。一郎の方を向きさえしない。

 

「だが…例えば。本日この場で坊やがオシャカになる—— それを承知してもらえるかな…黒木幻斎…」

 

また、一郎が半歩前に出る。もう間合いの手前だ。かなりぎりぎりのところまで来ている。それでも久我重明は動かない。黒木もまた、動かないまま久我重明に答えた。

 

「例えば…それは困るからやめてほしい―――そう言ったところで聞く耳を持つ久我重明とは思えんが」

 

クスリと、重明が笑った。

黒く、闇そのものに表情がついたような笑みだった。

 

「クク…弟子の稽古をつけてほしいと連絡もらった日には俺の事なんか忘れちまっているのかと思ったが」

 

重明が一郎の方を初めて向き半歩、距離を詰めた。

間合いだ。

重明は自ら死地に入って来たのだ。構えもなく、無造作なままに。

 

「来な、ぼうや。」

 

誘われている。

一郎はそう思った。

 

「開始ってるぜ」

「…死ぬなよ。一郎君」

 

挑発である。重明が明らかに自分を誘ったのだ。

本部の言葉など届かない。思ったときには、もう動いていた。

 

「シャアッ!!」

 

気合いと共に拳を繰り出した。

迷わずに、打つ。シンプルだが、力強い。

自然に伸びた右の拳であった。

一歩踏み込みながら右の拳を重明に打ち込む。完全に間合いだ。

 

(―――当たった!!)

 

そう思った。打った瞬間にそう思い込むほどのタイミングだった。

これを外すなんてことは闘技者をやってきた経験上ありえない。十鬼蛇にもオッサンにも当たる。そういうタイミングであった。

その拳が空を切った。

重明の姿がない。今その瞬間にまでいたはずの男がいない。

重明が居た空間に一郎の拳が伸びている。

空を打った拳を戻そうとしたとき、高くぞっとするような悲鳴が聞こえた。

それは紛れもなく一郎自身の口から出た悲鳴であった。

 

(え、えげつねェ~~~~~~~ッ)

 

武芸百般、なんでもありの本部でさえドン引きしてしまうような光景がそこにあった。

鼻だ。側面に出た久我重明の右手の人差し指が一郎の左の鼻の穴に深々と根元まで突き刺さっていたのだ。

 

「ガアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!」

 

めちゃくちゃに一郎は手を振った。苦痛と予想外の攻撃で思考はない。ただ、狂ったように手を振り回した。

 

重明は冷静に。暴れる一郎を黒い鉄のような目で見ながらフック状にした人差し指をそのまま思いっきり引っ張った。これに耐えられる人間はいない。

どう、ともんどりうって倒れる。否、倒れかけたがかろうじてひざをついた。鼻血と涙を出しながらも顔を上げた一郎の顔に黒い革靴の甲が叩き込まれた。顔面に対する中段の回し蹴りである。

 

「グウッ!?」

 

それをたえた。のけぞった顔と同じように鼻血が噴水のごとく湧き上がる。反撃はできない。だが、王馬の阿修羅的な技巧による技と黒木の重厚な打撃をたたきつけられた経験のある一郎には耐えることができたのだ。

追撃をしようと迫る重明。

倒れずに立ち上がろうとするが、何かに引っかかる。

 

「!?」

 

髪だ。頭頂部付近の髪の毛が久我重明によってとらえられていた。

そのまま膝が顔面に叩き込まれる。

 

めじり、といやな音がした。

 

眼前が黒く染まる。もう一撃膝が入る。めじゅあっという血の入り混じった音が聞こえる。今度こそ一郎はあおむけに倒れた。

その顔面に重明の拳が撃ち込まれる。

 

(すげえな、このオッサン…)

 

気持ちのいいくらい手を抜かない攻撃であった。

 

(全然手ェ抜いてねえや…)

 

もう一度、拳が撃ち込まれる。

凄い衝撃だった。あの十鬼蛇や黒木の攻撃にはまだ『心』があったように感じる。

ふとそんなことさえ思った。

顔を踏みつけられた。頭蓋骨が歪んだかと思った。

 

踏みつける重明。その向こうに何かが見えた。

男だ。男が空に立っている。くせっけで撥ねた髪で、精悍な顔立ち。

ギリシャ彫刻のような肉体を持った男だった。

十鬼蛇王馬であった。

 

(――――こうでなくっちゃあ)

 

一郎は十鬼蛇のことを思い出していた。力の潮流を乱されて、顔面を踏みつけられた。

その十鬼蛇王馬が頭から血を流してこちらを見て笑っていた。

 

(―――――勝負ってのはこうでなくっちゃあ)

 

たまらぬ男であった。

そう思った瞬間、一郎の体が右に動いた。

 

「ほう?」

 

僅かに驚いたような声をあげ、踏みつけようとした足を止めた。

一郎の意識があることにも驚いたが、それ以上に驚いたのは自分の足から出た出血だ。

 

「…す、ハァ。す、げえな、アンタ」

 

一郎は重明から3メートルほど転がって離れた後、立ち上がった。

口の中に固いものがあった。折れた歯である。それを血と共に吐き出した。

よろめきながらも、その血を右手で拭う。右手には拭った血とは別に、血がついてた。

 

「―――3度。」

久我重明が出血する足を下ろし、つぶやいた。

 

「下段突きを二度。かかとでの踏みつけを一度。

これを耐え、かつ意識が残っているとはな。

巽さんのところの坊やよりはましにできているってことか。

それに―――」

 

ちらりと足を見る。足の脛が何かに削り取られたように肉がそげている。深くはそげていないが、それでもすぐに血が止まるほどの浅さでもなかった。

 

「――――ピンチ力か」

 

離れたところで本部以蔵がつぶやいた。

闘技者の中でも随一の身体能力を持つ一郎。中でもその指先の力――――ピンチ力は人間の域を超えている。断崖絶壁を登ることですら、一郎にとっては階段を歩くに等しい行為である。

そんな指先を持った男がそれを攻撃に使えばどうなるか。簡単に言えば肉を“こそぎ落とす”ことができるのである。

これこそが闘技者『超人』理人の必殺技、“こそげ落とす十指(レイザーズエッジ)”である。

 

「―――――――――――っしゃぁッッッ!!!!!!!」

 

咆哮と共に指を繰り出す。

完全に避けきれなかった重明の胸元が浅く切れる。

いける。そう踏んで前に出た一郎の顔面に何かが刺さる。

 

「グッ!?」

 

いいタイミングで重明の右ひじが顔面に入った。

鼻っ柱に思いっきり当たった。しかし、それだけのことだ。

構う事は無い。ひるみながらも右でレイザーズエッジを放つ。

だが、当たらない。当たる直前で右手が止まる。

 

「うまい。手首を抑えている。」

 

本部以蔵が見た所、重明は既に理解していた。ピンチ力による指先の攻撃は確かに脅威だ。

生半可な防御は逆に出血を生みこちらが不利になる。だが、その攻撃は“指先”だけでのものだ。

指さえ触れなければ意味がないし、こそげ落とすように使うためには腕を『振りかぶる』必要がある。距離と軌道の問題だ。さらに閉じた拳で攻撃すればこそげ落とせない。

当たりさえすれば。捉えさえすれば一郎の土俵である。

 

だが捉えられない。立て続けに攻撃をもらう。

みしり、とどこかの骨のきしむ音が聞こえた。

 

(久我重明ほどの男にもう同じ手は通用しまい。どうする、一郎)

 

黒木は腕を組みながら、一郎の様子をじっと見ていた

 

 

一郎の顔面にカウンターで拳が撃ち込まれる。2発か、3発。

それと同時にボディにも何かが撃ち込まれていた。膝なのか、拳なのか。

わからない。まるで見えない。

――――強い。と一郎は思った。恐ろしくつよい。

大久保よりも強いだろう。

多分十鬼蛇よりも強い。

恐らくは黒木ともそう変わらない。

だが、同時に思うこともあった。

 

(おんなじだ。)

 

黒木と初めて戦った時。その拳を撃ちこまれた時。

 

(オッサンと。戦った時とおんなじだ。)

 

―――――だったらいけるぜ!!

 

「それでいい。」

 

黒木が頷いた。同時に、鮮血が舞った。

 

「…驚いたな。」

 

久我重明が出血した右腕を見る。

かすっただけ。それだけだったが、確かにとらえたのだ。

しかもその手の形。先ほどまでのような平手ではなく、指を閉じた貫手である。

これはまさしく――――

 

「――――『魔槍』か」

 

『魔槍』だった。それはまさしく、黒木幻斎の代名詞である魔槍であった。

黒木のものと比べるとまだまだ粗削りな部分は多いが、日々木材を素手で削り出すことによって磨かれた貫手の技。それに一郎の指先の力が加わり、爆発的な破壊力を生む。

今までの経験が生きた瞬間だった。

 

(―――ありがとよ、オッサン)

 

構える一郎。左手左足前の開手の構えだ。

これはまさしく師、黒木幻斎の構えであった。

重明はそれをじっと見た後、流れ出る血をなめとった。

 

「うれしいね、坊や。少しは楽しませてもらえそうだな―――」

 

血が止まる。それを見た瞬間一郎は前に出て、突いた。

魔槍だ。しかし重明がそれをかわす。ほんの一ミリか二ミリ。少しだけ後ろにずれることによってかわしていた。それと同時に一郎の耳が重明のつぶやきを捉える。

 

「腹」

 

なんのことか。そう聞こえた瞬間鋭い何かが腹部に突き刺さる。

激痛。呼吸ができなくなる。

多分前蹴りだと思った。

見えないから多分、としか思えなかった。

膝を突きそうになる。

こらえて前を向く。

 

「顔」

 

考えたわけではない。即座に腕を上げるが、顔面にパンチが突き刺さる。

右か、左かわからない。

もう一発入った。

負けるか。くそ。

もらいながら右の貫手を前に出す。

重明の左手がそれを流した。

 

「足」

 

ローだ。刃物が突き刺さったような感覚で、足にもらったことに気付く。

刺さってから切り返しざまに左手の貫手。

重明は体の中心軸をずらすことで最小限の回避を行う。

 

これは『予報』だ。一郎はそう思った。『打撃予報』なのだ。

黒木とも、王馬とも、誰とも違う。わかっていても防げない攻撃はこれが初めてであった。

だが、これならこれでやりようはある。

 

「顔」

 

重明はまだ構えをとっていない。そこからノーモーションで何かが伸びてきた。

撃たれた瞬間に右拳だと気づいた。

のけ反らず、そのまま左の貫手を返す。

右に体をそらしてかわされる

 

――――読んでいた。一郎はそう思った。

 

右の貫手を出す。魔槍のワンツーだ。狙いは重明の顔面。

確認してから左手で払われる。

 

―――――――――読んでいたッッッ!!!一郎は、笑った。

 

 

 

「あ、当たったッッ!!」

 

本部以蔵が吼えた。

『あの』久我重明の右掌が横一文字に深々と切り裂かれ、血が滴り落ちているのだ。

 

「おうよ。わかってきたぜ、あんた」

「…」

 

左の手に付着した血を払い落としながら言った。その手の形は貫手でもなく、平手でもなく、閉じられた拳であった。だが、握り方が今までと異なった。

正拳の握りから中指だけを突出させている。それは中高一本拳や、カーヴィングナックルと呼ばれる形であった。

 

(そうだ、一郎。指先の使い方次第で可能性は無限に広がる。)

 

黒木が口には出さずに賞賛する。

重明は当初、ワンツーからの左レイザーズエッジが来ることは読んでいた。

故に、掌の関節を指で押さえて切り裂きを防ごうとしていた。

だがその手の形が直前で切り替わったのだ。重明もこれには反応できず、開いた手の平を一郎の立てられた中指が切り取っていったのだ。

 

(い、一本拳かァ~~ッ!!!)

 

本部以蔵がその発想に驚き、同時に納得する

レイザーズエッジを読んで手を押さえようとする相手には一本拳で切り裂く。くしくもそれは、死刑囚・シコルスキーが好んで使った攻撃方法に酷似していた。

こうなると攻撃方法が特定しにくい。直前で貫手、一本拳、拳と変えられるとピンポイントでの防御が難しくなる。

かといって汎用的な防ぎ方をすればレイザーズエッジでこそげ落とされる。

 

「黒木幻斎」

 

重明が黒木幻斎を呼んだ。一郎から視線を外すことのないまま。

 

「弟子を取らないあんたが抱え込むこの坊や。

珍しいこともあるもんだと思って話に乗ってみたが…蓋を開ければなるほどという感じだ。」

「…」

「黒木幻斎の『怪腕流』を継ぐことのできる男。

要するに相当な秘蔵っ子ということだろう。」

「…」

「あんたとは古い付き合いだ。今までは壊さぬように手心を加えぬわけではなかったが…」

 

重明が動いた。

左手を開き、半身になり。

右手を引き、拳を握る。

構えたのだ。ここにきて、久我重明が初めて構えた。

 

「そうも言っておられんようだ。」

「もとよりそのつもりよ。」

(本気なのか黒木幻斎!!あの暗器の重明とまともにやらせるつもりなのか!?)

 

一郎はそれを見てにやりと笑った。

認められたうれしさ。

本気で来る怖さ。

伸びていく自分の力。様々な感情が入り混じるが、それでも顔に出たのは笑いだった。

 

「オラァッッッ!!!!」

 

咆哮一閃。右の魔槍を踏み込みと共に全力で突き出す。

重明が構えた状態で、左手で捌こうとする。

読んでいた一郎はそれを直前で停止()める。

開いた手を閉じ、中指を立てて手首を返す。魔槍読み防御に対するカーヴィングナックルだ。

重明の左手が赤く塗れる。

休ませる間もなく左のカーヴィングナックルを見舞う。

バックステップして避けようとするのは読んでいる。

途中で拳を開き、レイザーズエッジに切り替える。

関節一つ二つ分を読み間違え、重明の頬に赤い切込み線が入る。

更にもう一歩下がり距離を――――

 

(取ろうとするんだろう!?)

 

読んでいた一郎がここにきて蹴りを放つ。ワイルドな横蹴りだった。

空を蹴っていた。

同時に、ふぅっと。右の頬を風が撫でた。

まがまがしい風だ。

 

「ちぃっ!!!」

 

一郎は声をあげた。

次は拳だった。一本拳の裏拳を風を感じた方向に振る。

振ったその姿勢のまま、後ろから優しく顎に腕が回された。同時に反対の手が側頭部に添えられる。

がこん、と何かが鳴った。

正確には音はしていない。一郎の中で、そういう音が聞こえたのだ。

 

「~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!!????」

「あ、顎を外したッッ!!」

 

下あごがゆりかごのようにぶらんぶらんと下がっている。

閉じようと思っても閉じられない。

顎に、横から何かがぶつかって来た。拳だ。

口の中が何か固いものが当たって切れる。

歯が折れた。

顎が気になるが、腹につま先がささる。

体が九の字になる。

頭が下がっている間に顎ははめた。

ハメて手がふさがっている瞬間にアッパーを入れられる。

これはかわせない。

 

のけ反った顔を戻そうとしたら、下半身で何かが爆発した。

得体のしれない温度の塊がそこで爆発した。

激痛が襲ってきたのはその次であった。

強烈だった。

耐えられるとか、耐えられないとか。そういう次元ではない。

圧倒的な痛み。

睾丸を蹴られたのだ。膝で。

 

「ぐうううううう」

 

悲鳴を堪えた。だが、痛い。

股間を押さえてうずくまろうとしたが、それも叶わなかった。

上段の回し蹴りが一郎の側頭部を襲う。ものすごい衝撃で、数メートル先の木に衝突する。

 

「ハァッ!!ハッ!!」

 

だが、一郎はこらえた。ぶつかりながらも、木を支えに立ち上がった。

余り思考はない。闘技者の本能のようなものが一郎を支えていた。

まだまだ。

これから。

強い。

このやろう。

そんな思いが、立ち上がった一郎の脳裏をほんの一瞬だけはしり抜ける。

しかし、それもほんの十分の一秒くらいだった。

すぐにそんなことを思ったことも忘れた。

久我重明だ。黒い男がもう眼の前にいる。

それがこの日の一郎の最後の記憶だった。

 

 

 

寄りかかった木と密着状態からの拳で人体を挟み込み、一気に肩から先を除いた全身17か所の関節をフル稼働させて突き刺す。

その衝撃は木で挟み込まれることによって逃げ場のない衝撃を臓腑に与え、心房にまで達する。いわゆる寸勁で、木にくし刺したことが、決着の一手となった。

 

「見事なり。久我重明。」

「…」

 

久我重明が突き刺した手を抜くと同時に、支えを失った一郎の体がどさりと地に倒れ伏す。

 

「大丈夫かッッ!!?一郎君ッッ!!」

 

本部が駆け寄り、脈を確認する。

どくん、どくんと、心房は特に異常もなく脈打っていた。命に別状はない。

 

「もう、十分に見せた。」

 

安堵する本部に、重明が背を向けながら声をかけた。

 

「黒木幻斎に本部以蔵。

この二人の前でこれ以上は見せられん。」

 

背を向け歩き出す重明だったが、そこでぴたりと止まる。

 

「黒木幻斎。―――次はアンタとかもな」

 

黒木もまた、その黒い背に向って答えた。

 

「いつでも来い。」

 

黒い背が再び歩き出し、少ししたら見えなくなった。

 



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第四話 拳

二人の男がいた。

場所は、タイの首都・バンコクにあるホテルの最上階。

広いレストランの中心部の席で、何やら高級そうな酒と料理が机の上にところ狭しと並んでいる。

窓からは、近年目覚ましい発展を遂げるバンコクの明かりがこれでもかというほどきらめいている。

 

「スマナイね…急に呼び出した上にこんなお願いまで聞いてもらって」

 

男が言った。

黒い肌に、高価そうなジャケット。何やら年代物のジーンズ。

重そうな体躯で、体全体に少し丸みがある。

その体躯は脂肪による丸みもあるであろうが、鍛えられた男のそれであった。

50代後半ともいえる年配の男であった。

巻いた髪に、目元をサングラスで隠している。いや、隠さざるをえない。

この男こそ、全世界の誰もが知る元・スーパーチャンピオン。

ボクシングの神様。

『マホメド・アライ』であった。

 

「気に病む必要はありません。我が王からは快諾を頂いております。

それに俺は陛下の剣であると同時にボクサーです。」

 

対面に居る、浅黒い肌の男がぐいと酒をあおりながら言った。

紺の上下のスーツに白いシャツ、赤のネクタイ。

額には頭部を一周するような金のアクセサリを巻き、

長い黒髪の下の部分を数珠で縛り、肩に垂らしている。

年齢は20代半ばから後半くらいに見える。

怒っているわけではないが、能面のように表情が変わらない。

若さというよりも老成さ。妙な落ち着きがその表情の中には含まれていた。

並みならぬ死線を潜り抜けたに違いない、そういう雰囲気が感じられる男であった。

 

「この世にあなたの頼みを断れるボクサーなどおりませんよ。Mrアライ」

 

八頭貿易代表闘技者。

『タイの闘神』、ガオラン・ウォンサワット。

その人であった。

その男に、神が頭を下げていた。

 

「だが、すまないと思っているのは本当だ。こんな一家庭の事情に突き合わせてしまってな…」

「仕方のない事です。」

 

ガオランが、アライを見ながら言った。

 

「”あの”ジュニアに『生殺の領域』を教える…ボクサーでは私にしかできないでしょう。」

 

ガオランがグラスに注がれたぐっと酒をあおる。

 

「親子とならば、猶更です。」

 

アライもまた、グラスの中の酒を一息に流し込んだ。

 

「甘ったれた息子を叩き直してやりたいという気持ちはある。チキンと罵倒し、檄を飛ばしたことも殴り倒したこともある。」

「――――――」

「しかし…それと同時に、そんな厳しい世界から息子を開放したいという気持ちも同じくらいある。」

「―――――」

「そんな息子から『チャンピオン』の領域に行きたいと言われてしまうとね…難しいものだ」

「『チャンピオン』…”バキ・ハンマ”、ですか?」

 

ガオランが口に出したバキ・ハンマという男―――いや、少年を拳願会で知らぬものはいない。

無法地帯『中』でも手を出すことはタブーとされている地上最強の生物“オーガ”『範馬勇次郎』の息子にして地下闘技場のチャンピオン。

企業があの手この手でオファーを出しても断られる。

そうかといって闘技者を送り込めば『伊達』にして返される。

アメリカ大統領を素手で誘拐する。

最近ではド派手な親子喧嘩が世界に生中継されたことにより、その存在が全世界に知ら〆られることになった。

久我重明、オーガ、アンチェイン、J・ゲバルと並ぶアンタッチャブル的存在。

拳願会ではそういう存在であるらしかった。

 

「強かった…体も小さく若いのに、覚悟もできている。」

「―――――」

「命のやり取りにためらいはないんだよ。まだ18やそこらの10代(ティーン)だというのに」

「さすが…というべきなのでしょうか。」

「どうかね?」

 

アライが、妙に真顔でガオランに尋ねた。

 

「どう、とは?」

「ボクシングであれなんであれ。素手の格闘技において身体能力が高く、基本的には体重の重いものが有利だという事だ。君はどう思う。」

 

「それは間違いではないでしょうが――――」

 

言ってからガオランは黙った。

体重100キロのボクサーと60キロのボクサーが戦った場合、よほどの実力差がない限りは100キロの方が勝利する。パンチの重さが違うのだ。体重が違うという事は往々にして体格も異なるので腕の長さもまた変わる。

ボクシングが体重制を採用している理由がこれである。

プロボクシングの階級は全17階級。そうでないと、体格の勝るものが著しく有利となるからだ。

 

拳願試合でもそのような光景はままある。体格に優れたものが小さいものを身体能力のゴリ押しで屠ることなど特に珍しい事でもない。

しかしガオランは一人の男の事を思い出していた。

西品警備保障代表闘技者、コスモ・イマイ。

身長171センチ、体重68キログラム。決して恵まれた体格ではないが、それでも阿古谷やアダム・ダッドリーと言った体格に優れた闘技者を屠って来たのだ。最近は寝技以外の打撃でも体格に勝るものを倒していると聞く。

 

「身体能力。それ自体は決定的な要素ではないでしょう。」

「それはもちろんだ。しかし―――」

 

アライはまだ手を組んだまま言った。

 

「ジュニアのことですね。」

「うむ」

 

言って、アライは組んでいた手をほどいた。

 

「率直な感想を申し上げるならば―――ジュニアの身体能力はずば抜けています。

特にハンドスピード、反射神経が輪をかけてすさまじい。その点においては、私が知る闘技者の中で彼に勝るものはいないでしょう。付け加えるならば、バキ・ハンマに対してもそう劣っているとは思えない。」

「ふむ」

「それでも差がつくとするならば―――やはり覚悟の差でしょう。私が闘った印象からは、そう感じました。」

「――――どのような世界にも天才というものはいるものだ。」

アライは、窓の外を見つめながら言った。

「しかし、君も知っていようが往々にして大成する天才とは僅かだ。」

「――――」

ガオランは無言でうなずいた。

 

「天才は『脆い』」

 

アライはきっぱりと言った。

 

「敗北の味を知らずに勝利の味を当然と思う。それが天才の足元に口を開けている落とし穴だ。」

 

言ってからアライはガオランの方に向き直った。

 

「私は何人ものボクサーを見てきて、そう思う。敗北を知らぬ天才よりは敗北してもなお立ち上がる凡才が勝るのだ。乏しい才能。低い身長。

それでもなお絶望を断固拒否し、戦い続けた男が天才を抜くのを何度も見てきた。

何故だろうね。」

「――――――」

「天才には『感動』がないからだ。ジャブの練習一つとってもそうだ。

天才はすぐに覚えてしまう。何日か、もしくはジムに来た瞬間から驚くほど綺麗に左が撃てるようになる。それを一日に百回か二百回もすれば自分のモノにしてしまうだろう。

だがただの男ではだめだ。二か月で天才が通り過ぎてしまう所を一年も二年もかけてしまう。時にはそれ以上。ジャブを放つだけで何千回何万回を繰り返すとこもあるかもしれない。ただ、左手を前に出すというだけのことをだよ。」

「はい」

「ある時、ふいに手がきれいに前に出る。体勢を崩さずに。それまでと同じ場所を打っているはずなのに。これまでとはまるで違う感触が手に入る。これだと思う。その時に―――ああ、これだと思う。」

 

アライの声が少し高くなる。

 

「その時の感動の深さが、恐らくそのボクサーの一生を決めてしまう気がするんだよ。」

「――――――――」

「もちろん最初のスパーリングでボコボコに顔を腫らす。

しかしまたジャブ、ワンツーを繰り返して練習する。ただの男は天才が一か月で覚えることを1年も2年もかかって覚える。そうしたらそれを一生忘れない。

そうしてついに勝利を得る。天才が最初のスパーリングで味わう勝利を、ただの男は何カ月もかけて得る。そうしたらそれを一生忘れない――――」

 

アライは口をつぐんでガオランを見た。

ガオランは無言でアライの次の言葉を待った。

 

「ボクサーと言ったって所詮は初めてうまくミットを鳴らしたあの感覚を覚えているか。

初めてボロボロになりながらスパーリングを制した時の事を覚えているか。根っこのところはそんな単純なことだろうと思うよ。」

 

ガオランがぽつりとつぶやいた

 

「貴殿はどうなのですか。Mrアライ」

「私はそういう意味だとまだまだ現役さ。今だって一ラウンドだけなら世界チャンピオンだ。――――君を含めてな。」

 

にぃ、と口角を吊り上げがら目を見開く。どう猛さを隠さない笑みを向ける。

ガオランを見た。

 

「―――話を戻そう。天才と凡人の話だったな」

「はい。」

「しかし、まれにその感動を有する天才が居る。

感動し、その感動を持続したまま努力をしてしまう天才がいるのだ。」

「――――」

「バキ・ハンマは、まさにそのタイプだろう。それに楽しみながら日々を修練として生きている。範馬の血というこの世で最高の才能を預かりながら、それにおぼれず尚そこに感動と楽しみを見出して努力することができる。楽しまない、感動がないものが勝てるわけがない。」

「――――」

「思うに、ジュニアの不幸は、才能がありすぎたということかもしれん。

この私にさえ、特に苦労することなくテンカウントを聞かせてしまうのだから。」

「それを不幸というと、世の闘技者が怒りそうですな。」

「うむ」

「それに少なくとも、ジュニアはバキ・ハンマが持っていないものを一つ持っています。これは外に代えがたい。」

「なにかね」

「あなたという、慈愛溢れる親ですよ。」

ガオランは言った。

アライを見る。

「甘い―――とは言わんのだな。」

「『生殺の領域』―――たとえボクサーであれ。親ならば。

たとえ闘技者であれ血を分けたものならば。教えることができぬのは当然でしょう。」

「―――」

「なればこそ。陛下の剣として死線をくぐったものとして。

1ボクサーとして貴殿を尊敬するものとして。

明日も、ジュニアの『教育』を行いましょう。」

「――――ありがとう。」

 

アライは下を向きながら言った。

 

「――――ありがとう。」

 

 

午前三時、タイのとある山中にガオランとマホメド・アライジュニアが対峙していた。

 

ジュニアは動かなかった。

ただ、両の拳を持ち上げて構えた。

良い構えだ。

 

「そう…それでいい。」

 

対峙したガオランが言った。

鼻骨骨折。

第四歯及び第二歯欠損。

右中手骨骨折。

右肋骨五番完全骨折

左肋骨七番骨折。

全身に打撲多数。

これが今のアライジュニアの状態だった。

 

「万全とはほど遠い。しかしそれでいい。」

「――――」

「あの怪我がなければ。

体調が良ければ。

調子が良ければ。

言い訳はいくらでもできる。

だが、命を賭けてやれば二度目はない。」

「――――」

「その命を賭けた死線を乗り越えてこそ―――生殺の領域に踏み込めるのだ。

自分の命をかけてこそ、見えるものがある。」

 

教育を任されたガオランがとった行動。それはゲリラ戦だった。

タイのとある山中にジュニアを『置き去り』にし、ランダムな時間差でガオランが襲い掛かり叩きのめす。その間の食料は自給自足。けがをしようが何をしようがお構いなし。

いつどこから襲い掛かるかも告げない。

戦争のような真に命のかかった勝負では言い訳などなんの意味も持たない。そんな事をするくらいなら一分一秒でも自分の『命』と敵への対処を考える。ジュニアが生殺の領域に踏み込むには、こういう『抜き差しならない状況』に追い込むしかないと考えたガオランの決断であった。

 

「オキャアァッ!!!」

 

ジュニアが吼えた。

頭の中が真っ白になっていた。

頭だけではない。体もだ。

すべてが消し飛んでいた。

何もない。

 

空腹。

緊張感。

何もかもが消え去っていた。

その中で“負けたくない”

それだけを思っていた。

こんなところで無様に。

あのチャンピオンにリベンジするために。

あの怪物・ジャックに、あのドッポ・オロチに、あのゴーキ・シブカワに。

彼らを叩きのめすために。こんなところでガオラン・ウォンサワットに負けていては何も始まらない。

ない。

それは激しい怒りだった。

自分に対して?ガオランに対して?バキ・ハンマに対して?

わからなかった。

ただ、激しい怒りと殺意が彼の中で燃えていた。

その怒りがあらゆる苦痛を凌駕した。

その時、脳のどこかで何かがはじけたような気がした。

きいん、と音の様でもあった。

その感触がはっきりとわかった。

わかった刹那、痛みが消えた。

嘘のように痛みが消え、クリアな意識が戻って来た。

意識しないうちにステップを踏み始める。

良く動く、自分の肉体が。

脳が何かを出したのだ。極限状態に陥った時に出す脳内麻薬・エンドルフィン。

それがジュニアの体を動かしている。

 

「ヤリマスッッッ!!!!!」

 

ジュニアは自分からガオランに突っ込んでいった。

軽い。

気持ちがいい。

この男をぶちのめす。

それだけだ。

ほかにない。

その結果こいつが死んだとしてもそれはそれだ。

自分が死んでもそれはその時のことだ。

きらめくような闘志の塊だけがあった。

 

「オキャアッッッ!!!!」

 

ジュニアはもう一度叫んだ。

 

 

蝶のように舞い、

蜂のように刺す。

それがボクサー、ガオラン・ウォンサワットの知るマホメド・アライの戦い方であり、ジュニアにも共通する戦法であった。

それ自体は変わっていない。いないのだが

 

(打たせずに打つ――――どころではない。)

 

頸動脈。ヘッドスリップでかわしたが、回避しきれず血が舞う。

リバー。受けるが、衝撃が響く。

テンプル、人中。どれも捌き、かわすが確実に狙っている。

人間を確実に撲殺するために、可能な限りの急所を狙ってきていた。

 

お返しとばかりにガオランがジャブを返す。

左腕をだらりと下げたヒットマンスタイルと呼ばれる、その状態から撃ちだすジャブは打点が非常に見えにくい。

ガオランは一呼吸の間にそのジャブを13発連打できる。フラッシュと呼ばれたガオランの代名詞的ジャブだ。

 

「―――――」

 

そのジャブが、今ヘッドスリップだけでかわされていた。

しかもそのうえで前に踏み込んでくる。

ガオランがローを放つ。

踏み込ませないための蹴りであり、同時に踏み込んでくる最中にはかわしづらい足をねらって打った。

空を切った――――ガオランがそう感じるのと同時にボディに拳がめり込んでいた。

ダメージはあまりない。鍛え抜かれた闘神の腹筋を一撃では貫くに足りないからだ。

しかし、それでもガオランは驚愕していた。

 

(踏み込んだか。)

 

一歩か半歩、もしくはそれ以下かもしれない。だが、今のジュニアはとにかく踏み込んできている。こちらの命を取ることに躊躇がないのだ。相手を殺るためなら自分の命さえもどうでもいいと思っている節がある

かつて、範馬刃牙は気絶するジュニアにこういった

 

『やられずにやる。相手から命を取ろうとしているのに自分の命を差し出していない。やられて当然だ。』

『飛び込んで来た時のあんたのような本物の覚悟を持たなきゃな』

 

それをジュニアは聞いていない。

いや、人伝手には聞いたことがあるのかもしれない。

ガオランもアライからその話は聞いていた。

今のジュニアがそれを考えているのかはわからない。

無意識のうちに実践しているのかもしれない。

本能なのかもしれない。

しかしガオランにとってはどちらでもよかった。

今のジュニアは、自分の命なんてどうでもいいと考えている。

どうなってもいいから相手を倒す、それ一点にのみ集中している。

 

故に、昨日まで直撃していたガオランの攻撃が空を切る。加えて、当たらなかった攻撃が徐々に当たるようになってきている。

 

(ここから先は、教育ではないな)

 

ガオランも目つきを鋭くした。

ジュニアは身体能力のみで戦っている。

スエキチ・カネダのように先を読むでもなく、アギトのように学習するでもない。ただ、予知能力じみた反射神経だけでこちらの攻撃に反応しているのだ。

それに加えてこの勢いだ。

ボクサーでもなく闘技者ではなく。

ガオラン・ウォンサワット一個人としてマホメド・アライジュニアを撲殺する。

そうでなくでは殺される。

そう思った。

 

ガオランのミドルキック。折れている肋骨に対する放ったそれに、ヒットしたのも委細構わずジュニアが右を放つ。

ガオランの耳元をひゅっ、とも、ごうっとも言う音がした。

クロス気味にガオランが左のフックを放つ。

同時に、ガオランの上げている右腕に衝撃。

カウンターだ。ジュニアの反射的カウンターを読んでいたガオランが事前に腕を上げカウンターを防御していたのだ。

一息に下がり、再びフラッシュを放つ。

今度はヘッドスリップでは近づかない。ステップとジャブの応酬となる。

ジュニアは本能的に察していた。次に近づけば、やられる。それこそがガオランの狙いなのだと。

 

故にジャブの応酬に応じる。そして

 

「―――――!」

 

徐々にガオランの被弾が増える。

フラッシュを持つガオランと言えど、相手は至近距離のカウンターを『見てから』反応し、カウンターを合わせてくるような化け物。

加えてリーチもハンドスピードも向こうの方が上と来ている。

そんな男とのけん制合戦は分が悪い。しかしガオランもそれは承知の上だった。少し、フラッシュの軌道とタイミングを変える。

 

「――――」

 

ジュニアの拳がガオランのフラッシュをパリングする。

いつでもやろうと思えばできた。しかし、体勢を崩すためにこのタイミングが必要だった。

踏み込み、右ストレートを放つジュニア。

閃光のような一撃だった。一発だけの速度でいえば、闘技者・御雷零よりも早い。

少なくとも人間の目に負える速度ではない。そういう一撃であり、完璧なタイミングであった。

その完璧な一撃を、ガオランはいなした。

肩で受け流すようにいなし、カウンターの右ストレートを放つ。

滅道の牙の意識を刈り取った一発。

 

(――――!!!)

 

その一撃が、空を切る。

闘技者ならだれもが驚くだろう。

この距離、このタイミングのカウンターを交わしたことを。

そして、この距離、このタイミングで

 

「シュッッ」

 

ジュニアがカウンターを放つことを。

加納アギトでも、黒木幻斎でもこのような真似はできないだろう。

恐らく闘技者の誰もが不可能。現役時代のアライでさえできないだろう。

 

「――――ッッッ!!!???」

 

その一撃に、ガオランは踏み込んだ。

頭から突っ込み、頭からを流すのも気にせず前に出る。

反応してやったわけではない。戦略だ。

ジュニアの反応速度はすでに理解(わか)っている。明らかにあのアギト以上だ。

だからこそ、反応することは読んでいた。

 

恐らくカウンターは撃つだろう。

ならば、多少バックステップ気味に崩れた状態から撃つことになる。

その状態で顎や眼球のような顔面の急所を狙うにはフックのような攻撃は不向き。

残る選択肢は右ストレート―――――こうするしかないという方向に誘い込む。

パワー以外のあらゆる身体能力で勝るジュニアに対し『ボクシング』をしては万に一つも勝ち目はない。

こうしてガオランの『当初の目論見』通り、至近距離に至ることができた。

 

近い間合いでもつれ込むような形になった瞬間、ガオランは両手を相手の首方向に回す。

ムエタイでいうところの首相撲だ。

その型が決まった瞬間にガオランは膝を腹に打ち込む。

ジュニアの動きが一瞬止まった。

もう一度打ったところでジュニアのボディがカウンター気味に入る。

疾い。

ガオランが一度膝を繰り出す間にジュニアが三発ボディを入れてくる。

こうなると困るのはガオランの方であると、ジュニアは本能的に理解していた。

膝と拳。重さの違いはあるものの、ジュニアの拳の方が早く、そして正確に肝臓や胃に打ち込める。なんならテンプルでもいい。

無傷とはいかない。しかし、確実にやれる。こちらが殺されるよりも早く殺すことができる。

その予測通り、ガオランは首から手を離した。

 

(――――――――その瞬間(とき)を待っていたッッッ!!!!)

 

待望の左フックだった。首相撲から離れた瞬間の、真正面に気が向いているその瞬間に視覚外からの左フック。かわす手段はない。

 

(――――――――待ちわびたぞ。この瞬間(とき)を)

 

がつん、という鈍い音と主にジュニアは唐突に目がくらんだ。

当たったのはジュニアの左フックではない。

頭だ。

ガオランの額がジュニアの鼻頭にぶち当たったのだ。

ジュニアの上体がぐらりと揺れる。

ガオランの唇に強烈な笑みが張り付いていた。

強烈なパンチをジュニアの腹に叩き込む。

つうっ、

ジュニアの口から血が流れ出す。

そのジュニアの左側頭部目がけて下から跳ね上がって来たガオランの拳がぶつかった。

ジュニアの首が曲がった。

疾く、重い拳。

ジュニアが、腰から地面に沈んでいく。

腰から落ち、膝を突き、ジュニアは地面に頭から倒れこんだ。

これが、決着の一打となった。

 

「…見事。」

 

小さくつぶやきながら汗を流すガオラン。

勝ちはしたものの、綱渡りのような戦いであった。

一つでも読みを外せばこうなっていたのは自分だったかもしれない。

甘ったれたボンボンだった男がこうも化けるとは。恐怖と喜びがないまぜになった感情のまま、背を向けた。

背を向け歩き出そうとしたとき音が聞こえた

 

「―――――――――だ…――――って」

 

振り返る。初めて、ガオランの顔に驚愕が浮かんだ。

信じられないものをみたような顔だった。

 

「―…そ…―――…う」

 

ジュニアだ。ジュニアが立って、構えているのだ。

そして、おぼつかない足取りのままゆっくりと。

ガオランに向って歩を進める

 

「貴殿…」

 

立って、構えている。歩いてくる。

だが、それだけだ。

その目には光がない。

意識がないまま、歩んできている。

 

「―――――いつ…だっ―――――――…て」

「もういい」

「立ち…上が――――――――り」

「わかった」

「そし…て―――。た、た、――――か…」

 

ガオランにはできなかった。

闘おうとしている男の歩みを。

意識を失ってなお闘おうとする男を拳で止めることはできなかった。

 

「卒業だ。」

「――――――…う」

「これで、教育は終わりだ。」

 

優しく、ゆっくりと抱き留めた。

女のように、ふわりと。

ジュニアの歩みはそこで止まった。

 

 

 



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第五話 愛

―――――アメリカには、二つのペンタゴンがある。

一つは、誰もが知るアメリカ合衆国国防総省。

見た目故か。それとも表のエリートが集まるからなのか。

またの名を『ホワイト』ペンタゴンと人は呼んだ。

そしてもう一つ。アメリカにはペンタゴンと呼ばれる存在がある。

建物の形が五角形だからなのか。

それとも、『犯罪(うら)』のエリートが集まるからなのか。

それはわからないが、ここ、州立アリゾナ刑務所が『ブラック』ペンタゴンと呼ばれていることは確かだった。

 

その中に、『合衆国の恥部』と呼ばれる男が居た。

ブラックペンタゴンに収容される凶悪犯。その大半をたった一人で捕獲し続けている男。

刑務所には彼専用の監獄があり、エアコン、冷蔵庫、大型テレビ、屏風などだけでは飽き足らず名画っぽい絵や彫刻までもが廊下にまで所狭しと置かれている、受刑者でありながら、超VIP待遇の男。

受刑者でありながら刑務所を自由に出入りし、実質彼の監視体制は人工衛星に頼るしかない。法の外に君臨する誰にも繋ぎ止められぬ男。

アメリカで一番喧嘩が強え男。

その男の名は『ビスケット・オリバ』と言った。

 

 

「かけたまえ。」

 

太い男であった。

首も。

足も。

胸も。

声も。

何もかもが太い。

特にそのアロハシャツからはみ出る腕の太さときたら、女性のウエストどころではない。

しかし、デブではない。

筋肉だ。この男、それ自体がとてつもなく巨大な筋肉の塊である。

 

「君の彼女の部屋程…とはいかないだろうが、リラックスするといい。」

 

『ビスケット・オリバ』であった。

その男が今、一人の男に着席を促していた。

 

「理乃と出会ってから金持ちの部屋には慣れているはずだったが…

ここは今まで見た中でも一番だな。」

「ハハ…照れるな」

「Mrアンチェイン…招待してくれたこと。そして、相談に乗ってくれたこと。

感謝している。」

 

アンチェインに頭を下げる若い男。

前髪を二つ、大きく分けた髪型に、黒い上着、白いシャツとジーンズ。

美麗な顔立ちをしたこの男の名は御雷零。暗殺拳・『雷心流』の現当主にして、拳願トーナメント準決勝進出者。

アメリカ最強の男と、若き暗殺拳の当主。

立場も、境遇も、年齢も、人種も、何もかもが違う彼らを結び付けたもの。

それは一重に愛の力であった。

 

事の発端はある女のひと言だった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「零、アメリカに行きましょう。私のお友達に、零のことを紹介したいの。」

 

夕食を終えた部屋の中で、女が零に向って唐突に切り出した。

可憐で、妖艶な女であった。

胸元が大きく開いたワンピースに、金色の巻いた髪の毛。

男ならば誰しもが魅了される。

女の名は倉吉理乃。ゴールド・プレジャーグループの若き総帥にして、零の恋人。

その女が今、零の隣に座って腕を絡ませながら、笑って甘えてきていた。

零の答えは決まっていた。好きな女にこう、愛されて断れる男ではない。

 

「構わないよ。理乃が行きたいなら、俺もついていくさ。」

「やったぁ。じゃあ、ディスティニーランドにも行きましょう。

私、本場のモッキーが見たいの。」

「ああ。」

 

断れる男ではない。

ではないのだが、零の中には一つの迷いがあった。

その迷いが何なのか、零にはわかっている。

だが、まだそれを口にすべきではないと思っていた。

この旅行が終れば告げよう…そう心に秘めて。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「構わないよ。愛しい彼女のお友達、ミス・リノの恋人。

会った事は無くとも私にとってはもう友人のようなものだ。

友人の頼みとあらば断わる理由はないからね。

それに―――」

オリバが、葉巻に火をつけた。

「深い悩みなんだろう?それこそ、恋人には話せないような。」

「――――ああ。」

「私も愛しい彼女が居る身だ。こういう気配にはビンカンでね

大方、内容はリノとの事と自分の拳法のはざまで揺れ動く感情がある。

違うかい?」

「――――」

 

当たっている。

零の悩み。それは自身の方向性だった。

暗殺拳たる雷心流。それを愛する人と歩むため、不殺の拳として現代に適切な形に変える。

活人拳として愛する人のために戦う。

そこまではよかった。自身の腕に自信もあったし、あの拳願トーナメントにおいても優勝できるものと信じて疑わなかった。

だが、そこに壁ができたのだ。

黒木幻斎。

完敗だった。父を殺したその壁はあまりにも分厚く、高いものであったため心に迷いができたのだ。

結局今の自分はどうなのだ?

暗殺拳としても活人拳としても中途半端だ。

理乃は思ってくれている。それはわかる。

だが、俺は何がしたいのだ。

黒木幻斎に勝ちたいのか?

理乃と共に生きていきたいのではないのか?

おい、零。

お前、一体何になりたいんだ。

どうやって生きていくんだ。

うるさい。黙っていろ。

ではなぜおまえは理乃と一緒にいるんだ。

愛に囚われていてはあの男には勝てないのではないのか。

そんなことわかるか。

このままではいけないことくらいしかわからない。ただ、それが何なのかわからないだけなのだ。

自分の事だからってなんでもわかるわけではない。

自分の将来を疑いもなく決めて、疑いもなくその道を歩んでいるものなんかいるのか。

わからないから、まだこうして理乃といる。

そういう想いが黒木幻斎に負けて以来、頭の中でずっと巡っていた。

この男を前にしても、その想いはまだ消えていない。

 

ふっ、と。オリバが笑った。

 

「わかるさ。正直だからな、君は」

オリバがつぶやいた。

「正直?」

「ああ。正直さが顔に染みついている。

うらやましいくらいにね―――」

オリバは笑った。

「若いというのはいいことだ。エネルギーがある。正直を正直と通せるエネルギーがある。」

「――――」

「嘘をつく方が楽なのさ。だから私は毎晩嘘をついている。」

「…よくわからないな」

「わからなくってもいい。君はそもそも普通なんだ。

失礼な意味じゃなくて根本が普通なのさ。普通で強くなる男だ。」

「どういうことだ?」

「強い、ということと普通であることはあまり両立しないのだよ。

強くなるということは普通であることを捨てるということだからね。」

「―――――」

「その辺のごろつきに喧嘩で勝つくらいの強さなら普通でも十分だ。

しかし、君が望むようなそれ以上の強さを求めるとなると、普通ではいられない。

それはわかるね?」

「ああ…痛いほど理解している。」

 

そういって零はあることを思い出した。

雷心流継承の儀。不眠不休。不食不飲の荒行を九日間敢行した直後に行われるそれは、二日もの間構えを取り微動だにせず。更に不飲不食を貫く。

死が目前となり、幻覚幻聴が見える中で精神を研ぎ澄まし、闇の中からの不意の一撃にカウンターをとる。およそ尋常の所業ではない。

 

「言い方を変えよう。一線を超えた強さを身につけようとするならばある種の狂気を秘めなければならない。少なくともレイ。君はそう感じているな?」

「―――――」

「だが、君は普通だ。普通の部分をきちんと残してしまっている。

普通に物を考え、普通に行動し、普通に人を愛することもできる。

あの狂気的とも言えるライシンリュウの修行を極めながらも普通なんだ。」

「…知っているのか?」

「私に知らぬことなどないよ。」

 

オリバは微笑みながら言った。

 

「さて。

そんな普通の男が強さという狂気に取りつかれたゲンサイ・クロキにリベンジする。

これは果たして可能なのだろうか?不可能なのだろうか?」

「――――」

「そう、不可能だと思うだろう。普通ならば。

ほかならぬレイ。君も不可能だと考えている。」

「――――」

「だが、私は可能だと思っている。

普通だからこそ、できると思っている。」

「なに!?」

 

零が叫んだ。

 

「愛さ。」

「愛だって?!」

「愛だよ。」

「――――」

零は声にならない声をあげた。

 

「存在を全肯定し、行動のすべてがその人のためにささげられる。

強くなることも、戦うことも、食べることも…何もかも。

それが最も効率の良い燃料となる。人を愛する限り、燃料が尽きないのだから。」

「ならば俺は――――」

「今の君ではムリだ。」

 

オリバが葉巻から紫煙を噴き出しながら、言った。

嘲笑するように、首を振りながら。

 

「愛が、足りない。愛を信じ切れていない。

そんなザマではリベンジどころか、追いつく事すら適わないだろう。

それに、私にはリノが不憫に思えてとてもとても…」

「――――なんだと?」

「不憫さ」

 

オリバの大きい瞳が、零の眼を捉えた。

 

「なんのためにリノがここまで来たか。

なんのために君をこの私と引き合わせたか。

それすらわからぬボンクラではあるまい。」

「―――」

「普通の男が、狂気をなくして一線を超える方法。

それは愛しかない。愛という無尽蔵の燃料があるからこそ、人は強くなれる。

私という存在がその証明だ。ゆえに、リノは私と君を引き合わせたのだ。

君に、強くなってほしいからね。」

「なら、体験させてくれ」

 

零が立ち上がった。

殺気を隠さず、オリバの事を見下ろしている。

 

「無論だ。もとより、言葉で証明するものでもない。」

 

オリバも立ち上がった。包み込んで抱擁する母のような、優しい目だった。

 

「君に愛の強さを教えよう。」

 

そういってオリバは部屋を出た。零もあとに続く。

向うのは、中庭だ。夜の中庭だった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

半年前―――

 

怖いものなんてなかった。

優勝する自信があった。

闘技者の戦歴なんて何も関係ない。

そう思っていた。

準決勝まで勝ち残り、そこであの黒木幻斎と戦ったのだ。

ほれぼれするような技術であった。

前に立った時、堅牢なる城塞のイメージが零の脳裏をよぎった。

自分がどんなに動いてもその城を攻め崩すことができなかった。

その城の周囲をまわった。

なんとか突破口を見出そうとしたが見つからなかった。

 

そして今、全く同じイメージが零の脳に映っている。

ビスケット・オリバ。

なんという―――――

なんという男なのか。

まるで底が見えない。

 

(このバカげた筋肉量…

いや、そもそも骨格が人間の域ではない。)

 

身長は180センチ前半ほどであるが、恐らくその筋量と密度はユリウスラインホルトを超えるだろう。もしかしたら”猛虎”若槻以上かもしれない。

己と比べ、筋量にあまりの差があるので生半可な攻撃は通じないことは容易に想像がつく。

ならば――――

 

「戦力分析は終ったかね」

 

オリバが微笑みながら言った。

 

「――――ああ」

 

答えるように零は深く腰を落とした。

そのまま大きく左足を前に出した半身となり、左手は低く構え、右手は拳を握っている。

雷心流の構えだ。

 

「これはこれは。

ライシンリュウとは暗殺術。

特に暗器を用いた暗殺を得意とすると聞いていたのだが。」

「あいにくと愛する人に不殺を誓った身でな。」

「この私を殺してしまうかもしれない、と?」

「―――――簡単に死んでくれるなよ?」

 

言うが否や、オリバの視界から零が消えた。

雷の『ごとく』ではなく、雷と『成る』ように修練を積んだ零の一撃はまさに雷光と呼ぶにふさわしい。

その雷が、オリバの顔面を直撃した。

直撃したはずだった。

何も効いていないのか。アンチェインの顔は微動だにしていない。

距離を取る。

オリバが腕を出す。

 

「…フン」

 

腕を出すが、かすりもしない。すれちがいざまに人中に拳を叩き込むことも忘れない。

しかし、少しもぐらつかなかった。

零の打撃が軽いわけではない。

闘技者中最高のタフネスを誇るサーパインですら、顔をゆがめてたまらないほどの痛みを感じる、痛烈な打撃であるがこの男は出血どころか動きにみじんも変化が見られない。

三日月蹴り。肉につま先がめり込まない。筋肉の束にはじかれる。

オリバが前に出てくる。

否、正確には前に出ようとしたところでオリバが止まった。

零が、『周囲に居る』のだ。

前にも。横にも。斜めにも。見えてはいないが多分後ろにもいるだろう。

むろん、錯覚である。現実には一人であるが、少なくともオリバにはそう見えてしまっていた。

 

『雷心流・夢幻歩法』

 

神速の動きと緩やかな動き、緩急をおりまぜた不規則な動きで相手の視覚を幻惑し、雷心流最速の技『雷閃』につなげるための技である。

オリバが腕を上げ顔面を守るのを見た零は即座に攻撃を実行した。

狙いは無防備な脊髄。

 

『雷心流・雷閃』

 

雷光がきらめくようなその一撃は、猛者が集う拳願会の中でもダントツ最速。

その速度で持って、狙い通り背骨に一本拳を叩き込んだ。

並の相手ならこれで終わりだ。

勢いのまま、相手の表側に出る。

そのすれ違いざま、オリバの顔が見えた。

零は驚いた。

オリバの表情に変化がない。立ち会う前と同じ表情なのだ。

聖母のような。優しく、慈愛に満ちた微笑みだった。

再び構えなおし、オリバの前に立つ零。

その顔のまま、ずん。ずん。とオリバが迫ってくる。

脇腹に貫手。

シャツが破れる。それだけだった。

オリバが詰める。

もう一度、同じ箇所に貫手。

すれ違いざまに確認したが無駄だった。出血どころかあざすらできる気配がない。

オリバが詰める。

それに合わせて踏み込み打つ。

異常である、と零は思った。

何が普通なものか、とも思った。

この尋常でない筋肉量に筋密度、暗器程度の小さい武器では肉に刃が通るまい。

 

 

だがそれでも、更にはやく動く。

すべてがクリーンヒットしている。

さあ、この左は避けられないだろう。

当たった。

さらに右のストレート。

入った。思いっきり。

だが、撃ち抜けない。

左頬に思いっきり入ったというのに岩を殴ったようですらあった。

オリバの頸部がぴくりとも動いていない。

 

―――なんだこれは

 

オリバの捕まえるような左腕をかいくぐり眼前でフリーの体勢を得る。

間合いに入った瞬間、零の拳が動いていた。

下関。

清明。

神庭。

顔面にある各急所。その部位に応じて打つ拳の形を変え、より大きく衝撃を浸透させるこの技。相手には拳が大きく揺らめいたようにしか見えず、撃ち込まれたと認識した時にはもう遅い。

この技を零は『雷心流・陽炎』と呼んだ。

 

―――怪物め

 

その技が、アンチェインの愛の首筋一つで耐えられた。

顔面への急所にはすべて命中している。

しかし、揺れない。オリバの頭部がである。

いまだにいつくしむような笑みをこちらに向けたままである。

下がって、再び距離を取る。

下がった零を見てオリバがゆっくりと歩き出した。

同時に向こうの方から何かが迫る。

 

オリバの拳だ。

決して遅くはないが、零からすればよく見える。

長距離ミサイルだ。どういう弾道かもはっきりわかる。

どれだけの破壊力だろうが当たらなければ意味がない。

ダッキングでかわす。

頭の真上をその拳がすごい唸りをあげてすりぬけた。

とてつもない風圧だ。

髪の毛が浮き上がる。

まともにくらうわけにはいかない。

レバー。

左をそこに叩き込むが、拳がそこで止まった。

鉄?

いや、鉄なんてものではなかった。

零の脳裏によぎったイメージは大地。

大地に向って思いっきり殴るようなものだと思ってしまった。

どんなにいいタイミングで、どんな急所に当たろうが大地にとって人の拳がなんだというのか。

技もクソもない。

このビスケット・オリバという男の肉体は自分がこれまで相手にしてきたどの男とも何かが根本的に異なる。否、何か、ではない。

肉体だ。シンプルな肉体。筋肉の量と骨格が人類ヒト科の生物として明らかに常軌を逸しているのだ。

 

「チッ」

 

零は小さく舌打ちした。

決めてやる。

顎だ。両足でお前が立っていられなくなるほどの一撃を、その顎に決めてやる。

お前の肉が大地であるなら、この愛でもって大地を割るのみ。

零は足をとめた。

足を止めれば必ず手を出してくると信じて。

ほら、きた。

前に足をだす。

頭を沈め、左の拳をかわす。

髪の毛が当たったが、そんなものくれてやる。

俺は今眼前だ。フリーだ。

手を伸ばせば。

ほら―――当たった。

思った時には、もう、両の手が伸びていた。

 

「シッ」

 

はじけるような呼気が零の口から洩れた。

雷心流のスピードをつかさどる足。その鍛え抜かれた脚力で持って大地を『蹴り』。両の手をまっすぐ顎に向って突き出す。

サーパインを仕留めた技に、加速をつけた零の新しい技であった。

その技がアンチェインの顎に直撃した。

思いっきり。タイミングも角度も申し分ない。

あのサーパインですら、この技をまともにくらえば倒れるしかない。そういう威力であった。余りの威力にオリバの体が宙に浮く。

 

だが、それだけでは終わらなかった。

宙に浮いたオリバの両腕をつかみ。

力任せに引っ張りながら自分は腰を落として力を逃さず。

向ってきた顎に向って自身の頭頂部でもって顎に全衝撃を通す。

あらゆる防御を貫通するこの技を、雷心流では『発勁鎧通し裏当て徹し』と呼んだ。

 

会心の一撃であった。

倒れるしかない。少なくとも打った零本人ですらそう思った。

そう思った時、地の奥底から『何か』、唸り声を上げて迫ってくるものがあることに零は気づいた。

 

「攻守交替」

 

まさか。

嫌な予感が零の背骨を貫いた。

 

(嘘

逃げ

不可

筋肉

防御

来――――)

 

頭の片隅でそういうことを考えた。

考えたといっても千分の一秒やそこらだったはずだ。

考えた内にも入らないほんのわずかな時間。

何が来るかなんてのはわからなかったが、体が瞬時に反応していた。

左肘を上げ、左の脇腹をガードしたのだ。

そこへ、得体のしれないあの、『何か』が襲って来たのだ。

まるで噴火のように。

こんなとてつもないパワーを持った超自然現象が刑務所なんかで起こりっこないのに。

広場のどこにも火山があるなんて情報がなかった。

だが、その山はあったのだ。

居て、襲い掛かってきたのだ。

腕を当てられたのだ。

ガードした、左腕に。

単純に振りかぶって、回しただけの右腕だった。

ラリアットと呼ぶのすらおこがましい、ただ横に振っただけの腕。

それが零の左腕に読み通り当たった。細かく説明すればそういうことになる。

だがそんな細かいことなどはっきりいってどうでもいい事だった。

零にとっては左肘が爆発したようにしか感じられなかった。

その爆風で踏ん張っていた両足ごと根こそぎ持って行かれたのだ。

身体が、吹っ飛んでいた。

宙に浮いているとき、自分に何が起こったのかいまだによくわかっていなかった。

まさか、これがあのアンチェインの腕によるものだなんて思っても居なかった。

自分の知らない未知の力が働き吹き飛ばした――――そういわれた方がまだリアリティがあるというもの。

人の腕が、まさか、ここまでのパワーを持っているなんて考えたこともなかったからだ。

身体が浮いて地面と水平に飛ぶ。

宙で体がななめになり、数十メートル先の壁に衝突した。

左半身から。

 

「ガハッ!!」

 

全身がばらばらにくだけたような衝撃が零を襲う。

壁に当たる瞬間にとっさに手を突き、受け身に近いことはした。

したが、これだ。

とにかく立ち上がらなくては。

 

「~~~~♪」

 

地上最も自由な男が鼻歌を歌いながら悠々と歩いてくる。

信じがたい光景であった。

二度も秘技を顎に当てた。

上半身の急所という急所は打ち尽くした。

常人ならば間違いなく死。

闘技者でも3回倒しておつりがくる。

だというのに、まるでダメージがない。

機械と戦っていると言われた方がまだ納得ができた。

 

立ち上がり、構えて駆け出そうとしたときに気付いた。

あれ?

自分の拳の位置がみつからない。

いつもの場所にない。

あった。

なんであんなところに。

なんで、左肘より向こうに俺の拳があるんだ。

 

「…零」

 

はっと横に振り返る。

理乃。最愛の人が、遠くからこちらを見ていた。

心配そうに、両の手を胸の前で重ねながら。

何を―――――

 

「キャオラッッッッ!!!!!!!」

 

零が、吼えた。

痛みなのか。羞恥なのか。怒りなのか。

なぜ吼えたかは零にもわからなかった。

だが、その瞬間には駆け出していた。

眼の前の、肉の塊に向って拳と足を繰り出していた。

なあ、おい。

なんでお前は笑ったままなんだ。

どうして、理乃があんな顔をしているんだ。

まだやれる。

とにかく手数だ。

動け。

もう。

愛も、欲も。

何もなかった。

右拳と足を出し続ける。

打つ。

ひたすらに打つ。

打った分だけ当たる。

当たり前だ、こいつはもうガードすらしていない。

研ぎ澄ませ。

あの修行の時のように。

一体となるんだ。

気が遠くなる。

混ざりあう―――

 

 

 

 

「これは…戦いなの?」

 

微笑みながら、手も上げず。降り注ぐ雨を歓迎するかのように、すべての攻撃を浴びている男と。

白く眼をむきながらひたすらに雷そのもののような攻撃を浴びせ続ける男。

そういう男たちがいた。

理乃にはわからなかった。

 

「終わりが…近いのね」

 

愛を証明した男が居た。その男が自身の愛を見せつけるように腕を大きく広げた。

愛に迷う男が居た。その男が、まるで迷いなんてないかのように自分自身を見失うかのように動き続けていた。

部屋で、そっと枯れた花をなでるマリアにはわかっていた。

 

「もう、いいだろう。」

 

オリバが、広げた腕を閉じた。

その、閉じられた腕の中に零はいた。

信じられない速度だった。今までのパンチはなんだったのか。

そう思うような速さであり、撃つことに集中していた零にはかわすという思考すらわかなかった。

その腕が、もう一度、強く絞められた。

 

「―――――――――ッッッ!!!!」

 

オリバがとった行動は、ただ思いっきり零の胴から背を締め上げることだけ。

相撲で言うところの鯖おり。

だが、強烈だった。

その衝撃は背骨を伝わり、肺を圧迫し、心臓にまで届き―――

 

「―――――」

 

オリバが腕を解く。

ずるりと、零の体がそこから落ちる。

決着の瞬間だった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

零が、目覚めたのは翌朝であった。

零が、ゆっくりとベッドの上で目を開いたのである。

視線が宙を泳いだ。

 

「零…」

 

声をかけると、零の視線がそこで止まり理乃の存在を認めた。

 

「理乃…」

 

零がつぶやいた。

 

「ここは…」

 

問いかけたところで声がかかった。

 

「私の彼女の私室さ」

 

再び零の視線が泳ぐ。

オリバだ。戦っていた地上最自由、アンチェインその男が微笑みながらこちらをのぞき込んでいた。

 

「勝負は―――」

「いい勝負だったわ――――」

零が負けたとは、理乃は口にできなかった。

ただ、それだけを答えた。

しかし零はそれ以上問おうとはしなかった。

理乃の表情からどうなったかは理解った。

 

「途中から、曖昧なんだ」

 

零が微笑んだ。

 

「ただ、覚えているのは…」

 

零が記憶の糸を手繰り寄せるかのようにいったん口をつぐんだ。

そしてまた、口を開いた。

 

「何か、大きく、優しいものに包まれたような気がしたんだ…」

「――――」

「あれは、なんだったのかな…」

「愛よ」

 

理乃とは違う、女の声が聞こえた。

太く、芯のある声だった。

横を向くと、2メートルほど離れた女の顔をしたベッドがあった。

否、違う。

ベッドの上に女が乗っているのだ。

キングサイズのバカでかいベッドの上に、ベッドと一体化するような大きさの女が乗っているのだ。

それは肥満という表現では到底足りない―――――

 

「紹介するわ、零。

オリバさんの恋人であり、わたしのお友達のマリアさんよ。」

「だが、すまないね。私たちはこれからデートなので、これにて失礼するよ。」

 

声をかけたオリバがマリアの隣に行く。

そしてそのまま、ひょいと。

自分よりも大きな大きな恋人を、羽でも持つかのように軽々と抱えた。

 

「…すごいな」

「当り前さ。」

 

即答した。

マリアの顔が、少し赤くなる。

 

「私が強くなったのはね。この人をこうやって抱きかかえるためなのだから」

 

抱きかかえたまま。部屋から悠々と出て行った。

零は思い返していた。果たして自分は理乃のことをどれだけ考えていたのだろうか。

愛する人の要望には応えたいと思っていた。

実際にこたえてきたとも思っている。

だが。

愛する人のために『強くなろう』と考えたことはあっただろうか。

このままでは決して黒木には勝てないなどと――――――――――

愛のために『努力』し、『強くなろう』とはしてきたことはあっただろうか。

その『愛』は、足りていただろうか。

今はまだ中途半端かもしれない。

しかし。

自分のためではなく誰がために努力する。

愛があれば――――

 

「零…」

「…モッキー」

「…え?」

「…ディスティニーランド。一緒に行きたいって言ってたよな?」

「――――ええ。言ったわ、零」

 

泣きながら、笑った。

理乃の眼から、涙があふれた。

女はその意味が理解ったから、うれしくて泣いた。

 

「一緒に、行こう。今から。」

 

 

 




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第六話 闘

ひょろりとした、細面の男だった。

年齢は50代半ばくらいだろうか。

普通の顔をし、どこにでもありそうな眼鏡に無精ひげをはやしている。

着ているスーツもよくある仕立て屋で買ってきたであろう、変哲のない上下紺のスーツ。

一般的なサラリーマンの、標準的な姿。

よくいるオヤジ。

なんのオーラもない、くたびれたおっさん。

だがこの男、ひとたび仕事となるとがらりと印象が変わる。

大企業の取締役、権威ある一族の長、そういったものに対しても全く臆せず鋭い眼光をたたきつけて一歩も譲らない。

この男こそ半年前。一介のサラリーマンでありながら獅子奮迅の働きを見せ、乃木英樹を拳願会会長に押し上げた男。

フリーの闘技者を扱い、拳願試合に『派遣』する山下商事の社長、山下一夫である。

 

「ほ、本当に出場()てくださるんですか!?」

 

その山下一夫が、信じられないものを見たという表情で、その男を見た。

 

大きいことはいい事だ――――――というが。

その男はあまりにも大きかった。いや、巨大(おおき)すぎると言っていい。

 

座っている状態ですら、立った状態の山下一夫と並ぶほどである。

身長2メートル43センチ。体重201キロ。

異常な肉体を持つ男であった。

身長があまりにも高いこともそうだが、体重もそれに正比例するように伸びている。

通常このような肉体を持つ男は満足に動けないので体重が増えない。

例えば、身長の記録で人類史を塗り替えた『ロバート・ワドロー』の場合、身長が260センチの時点で体重が197キロであった。

いわゆる『巨人症』であり、余りに大きい体が足腰に甚大な負担をかける。そのため、彼の歩行には常に副木がかかせなかった。まともな運動などできるはずもないため、体重が筋肉により増えることもない。

だが、この男ときたら。

全身がガッシリとした、岩のような肉体を持っている。おそらく、体重のほとんどが筋肉で占められていることだろう。

 

拳願会、煉獄と並ぶ地下格闘技。

東京ドーム地下闘技場の最大トーナメント準優勝者。

ジャック・ハンマー――――本名、ジャック・『範馬』であった。

 

「徳川ノジイサンカラ聞イテルゼ。ガンダイと『ビグルート』社ノ代ウチダッテ?」

 

流ちょうな、しかしどことなく英語訛りを感じさせる口調でジャックは言った。

言いながら、ステーキを食べていた。

表面がカリッとよく焼けていて、それでいて中身は血が滴るようなレアの。

その上に鮮烈に光る赤いワインのソースがたっぷりとかかったそれを、大きな口で肉汁が零れだすのも気にせぬままかぶりついている。

 

「え、ええ…」

 

――――これで15杯目…一体どこまで食べる気なんだ…?

 

食すスピードも異常であった。ちらりと積み上げられた皿を見る。この高級料理店に来て、山下一夫が食べたステーキの枚数は一枚。

もちろん食事がメインの会合ではない。山下がこの男を誘ったのは仕事のためだ。過去に王馬が参戦した早食いバトルのように全力で食うわけではないが、だからと言ってこの食べっぷりは見ていて冷や汗を感じる。

山下にはこの男の口の中は胃ではなく、どこか別の空間が繋がっているのではないかと思えてきた。

 

「大歓迎ダ。」

 

歯に詰まった肉を楊枝でかき出しながら、ジャックは答えた。

数秒前に運ばれて来たステーキの皿は既に空になっている。

 

「自分から切り出しておいてなんですが…よろしいのですか?

あなたはあの地下闘技場の正戦士。それがこういう――――」

「ドウダッテイインダヨソンナコトハ。」

「――――」

「億単位ノ金。デカイ不動産。ビル。銭ノカカル力比ベ。結構ジャナイカ」

「結構、ですか」

「アア。確カニオレハ闘技場ノ競技者デハアル…アルガ、ソンナコトハハッキリイッテドウダッテイイコトダ。」

「――――――」

「闘レリャアイインダヨ。強エ奴ト喧嘩ヲナ。」

「――――――」

「強エエンダロ?オレヲ頼ッテクルクライニ、相手ノ野郎ガヨ?」

「―――強敵です。」

 

そういって、山下は自身の黒いカバンから一枚のクリアファイルを机に出した。

ジャックがそれを取り、中に入っている資料を眺め出した。

 

「拳願試合、58勝2敗。“獄天使”関林ジュン。

これが、あなたが対戦する相手の資料です。」

「知ッテルゼ。プロレスラーダナ?」

「はい。表の世界では有名な―――アントニオ猪狩やグレート巽ほどではありませんが、それでも有名人です。」

「ソノ猪狩カラ聞イタコトガアル。ドンナ試合デモプロレスデ勝負スルンダッテナ。」

「はい」

「楽シミダ。場所ハ?」

「プールです。」

「ホウ、プール。」

「今は使われていない閉鎖されたプールです。過去に一度だけ、愚地独歩さんが出場したことでも――――」

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

時を同じくして――――とあるビルの最上階。

その社長室に、二人の男が居た。

岩のような肉体を持つ男だった。

ドレッドヘアーに、ずんぐりとした丸みを持った肉体。その丸みは脂肪ではなく天然の、粘り強い力をもつ筋肉が出す丸みであった。

 

「ほう、プールですか」

 

“獄天使”関林ジュン。ジャック範馬の対戦相手の男であった。

 

「どうだっていいんだよ、場所なんてな」

 

関林を呼び出した男が言った。

鋭い目つきに、大きく尖った顎。放つ言葉一つ一つに相手を従わせる強制力ともいうような言霊―――カリスマ性が感じられる。

この男こそ、FAW代表にして、超花形レスラー。日本人誰もが知る男、グレート巽であった。

 

 

「重要なのは相手があの『範馬』ってとこだ」

「――――」

「拳願会にも煉獄にも所属せず。最大トーナメント、死刑囚との戦いのときのみ顔を出す裏社会でも知る人ぞ知るジャック・範馬」

「――――」

「最大トーナメント準優勝。範馬勇次郎の息子。ピットファイター。

肩書を上げればきりがねえ」

「はい」

「その範馬の初、拳願試合の相手にプロレスラーが選ばれる。」

「――――」

「大役だな」

「はい――――」

「事件だぜ。」

「――――」

「プロレスの強さ。面白さ。底知れなさ。それを裏社会に知らしめたのはもちろんだが、」

「はい」

「礼を言う。」

「礼、ですか」

 

グレート巽が、自慢の顎を上げて見下ろす。決定事項を告げるかのように、淡々と。

 

「箔がつくだろうが。

あの『範馬』に勝てるプロレスラーってのはすごいんだ――――ってな」

「――――」

「なあ?お前の団体ももちろんだがわが社に対する投資も増えることだろう。

その利益は計り知れない。」

「――――」

「チャッチャとぶちのめしてこいッ」

「――――」

「腕一本になっても範馬の命を取ってこいッッ」

「――――」

「歯一本になっても範馬の動脈をかみちぎってこいッッ」

「――――」

「プロレスラーならそんくらいは当たり前だ。

どんな重傷を負ってでも必ず範馬の首を取ってこい。」

 

――――やっぱりな。

関林の胸中に浮かんだ言葉は、それであった。

この人がそんな生ぬるい激励の言葉なんかかけてくれるわけがない。

だからであった。

関林の口角と目じりが、強烈に上がった。

来る栄光と暴力の愉悦に歪んだ。

 

「プロレスラーの強さを信じていただき。

初めて範馬に勝ったプロレスラーという大役を譲っていただき。

感謝します。」

「フフ…いい貌で笑うな」

「ありがとうございます」

「なあ、関林。お前ケンカは好きか?」

「ケンカですか?」

 

関林が、妙に真顔になった

 

「おう」

「嫌いっす」

「ばか、本当のことを言え。

気に入らない相手をぶちのめすのは好きかって聞いてるんだよ。」

 

「好きっす♡」

 

関林が、再び笑った。

 

「これだよ…この嘘つきめ。」

 

巽も笑った。

 

「勝つことも嘘。負けることも嘘。こういった際の言葉にすら嘘が入る。

お前は生粋のプロレスラーだ。俺が言う事なんてなかったようだ。」

「恐れ入ります。」

「試合は三日後だ――――必ずぶちのめせ」

 

 

男たちが戦うには似つかわしくない場であった。

子供ウケしそうなチープなイルカをメインに、カニなどの海洋生物がバランスよくアニメ調の絵柄で底面に描かれている。そのプールを見下ろせる位置には、これまた安っぽそうな椅子が所狭しと並べられていた。

十年以上前に閉鎖されたプール。

水を抜かれ、昼間訪れるものが皆無なのに、今なお取り壊されないことを不思議がる市民も多い。

そのため多くの噂がたった。

やれ、暴走族のたまり場だ――――

やれ、薬物の裏取引の現場だ――――

やれ、自衛隊の秘密の駐屯所だ――――

 

だが、事実は全く異なる。

 

「うおーーーーーッ!!!関林ィィィーーーーッ!!」

「あ、あの範馬だッッ!!!ついにッッ!!」

「プロレス見せてくれーーーーッッ!!」

 

夜、このプールが戦場となるからだ。

拳願試合―――代打ちの場なのだから。

 

――――今夜は、盛り上がっているな。

 

熱量がいつもとちょっと違う。

その原因が目の前の男であることは、容易に想像がついた。

ジャック・ハンマー。

ああ、みんなわかっているんだ。関林は思った。

範馬のことはみんなわかっている。あれを見たからだ。

範馬勇次郎と、範馬刃牙の親子喧嘩。

地上最大のぶん殴りあい。

その系譜を継ぐもう一人の男、ジャック。ピクルに敗北したとはいえ、ピクル相手に『五体満足』で帰還した男。

関林は歓喜していた。

あの『範馬』と拳願試合で始めて戦えることに。

そして、恐らく勝利をすることに―――

ありがとう、プロレス。

お前のおかげだ。お前のおかげで俺はこんなすごい漢と戦えるのだ。

 

歓声の中、近づいていく。

同時に、ジャックも近づいてくる。

ゆっくりと、まるで愛し合った者同士の逢瀬のように

そろそろ射程内に入る―――そう思ったところで、関林の耳が唸り声を捉えた。

地の底からだ。しかも大きい。

それは獣の声であった。獰猛な、血に飢えた獅子の声であった。

それが大きく口を開けて、迫ってくるのだ。

関林は――――何もしなかった。

気づいてなお、そのまま歩み続けた。歩み続け、その身を牙にさらした。

顎だ。

ドンッッ

顎で、何かが爆発した。とてつもない力を持つ何かだ。

身体がその衝撃で宙に浮きあがる。アッパーだ。

ジャックの、地面すれすれから跳ね上がるような右アッパーが関林の顎を直撃したのだった。

何メートルか、跳ね上がった関林がどう、と地面にあおむけに倒れ伏す。

会場はこれに反応した。

 

「すっげェーーーーーッ!!!」

「全然見えねェッッ!!!??」

「あの関林がッッ!!!」

 

だが、ジャックは反応しなかった。

同じく、山下、巽をはじめとする目の肥えた人間たちの表情は変わらなかった。

 

「ナルホドナ。」

 

倒れて動かない関林をしり目に、ジャックが己の拳を見ながら口を開いた。

 

「殺サレテイル。」

「――――」

「スベテノ攻撃ヲ受ケキル。ドンナモノカトオモイ打ッテミタガ」

「――――」

「ポイントヲズラシテ受ケテイル。

ソウスルコトデ完全デハナイガ威力ヲ殺シ、ヒイテハ相手ヲ壊ス。」

「――――」

「モウチョイオレノアッパーガ甘ケリャ、手首ガオシャカニナルトコダッタ。」

「―――――」

「―――トハイエ」

 

相も変わらずあおむけのままの関林に、ジャックは言い放った。

 

「イツマデ演技コイテンダコラ」

「――――知らねえのか?プロレスラーは演技も上手いんだよ」

 

即座に立ち上がる関林。

ダメージなどないかのようなその動作に観客たちのボルテージはさらに上がる。

その中で、狂宴には混じらず、一人微笑む男が居た。

顎の長い、大きな男だった。

 

「フフ…この嘘つきめ。」

 

グレート巽だった。

プロレス界のカリスマにはわかっていた。あれは確かに演技だ。

そう、演技には違いない。

ただし、半分だけ。

ポイントはずらしたものの、相手はジャック・範馬。そのアッパーの衝撃はおよそ並の闘技者とは比較にならない。受けはしたが、顎には罅が入り。振動は脳に伝わり一瞬意識が『飛んで』いただろう。

ジャックとしても事前に関林の情報を山下から受けていたので、演技と『思い込み』追撃するのはやめた。つき続けた嘘が活きた瞬間であった。

 

「だが…それでいい。もっと嘘をはけ。」

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

作戦はある、と言えばある。

ない、と言えばない。

考えていることはひとつだ。

『プロレス』をする。

それだけだ。

空間が歪むほどの重圧が関林を襲う。

だが、このまま下がってはプロレスができない。

故に前に出る。

前に出て、ジャックの拳を受ける。

受けながら、手を出す。逆水平チョップだ。

これまでの相手とはケタが違う。

打たれた瞬間に、関林にはそれがわかった。

重いとか、早いとか、そういう問題ではない。

そもそもの『肉体』が違うのだ。

対格差もあるが、それを自在にコントロールできるフィジカルモンスター。

ぶん回す左のフック。

それを受けて、右の拳で殴り返す。当たる。

だというのに。

そのままの勢いで、右のストレートが飛んでくる。

鼻血が噴き出す。

ほら。

こいつはこんなガタイなのに、こんな技を、こんなスピードで。

首がのけぞるのを耐え、そのまま頭突きを返す。

ジャックの鼻っ柱に叩き込むのと同時に腹に何かが突き刺さる。

拳だ。ジャストな角度で突き刺さったそれは、もはや人間の腕というよりは刃物。

関林の脳裏は、ナイフをつきたてられたイメージで埋め尽くされた。

しかも連打だ。

撃ち返す。膝を入れた。あばらに、思いっきり。

止まらない。

左のアッパーが関林の顎を跳ね上げる。

全く止まらない。

だが、前へ出ていく。

それしかできない。

否、それしか『してはならない』。

前に出て受け。

受けたら殴る。蹴る。投げる。

言ってしまえばそれだけだ。

それをするためだけに稽古をしてきたと言っていい。

殴られたら殴って。

蹴られたら蹴って。

投げられたら投げて。

殴って、殴って、殴りまくる。

プロレスラー(おれたち)には、どんな攻撃だろうと真っ向から受け止め克服する義務があるのだから。

 

ローが来た。

靭帯を――――それがどうした。

エルボーで切り返す。

ボディアッパー。

内臓―――――それがどうした。

空いた顔面に拳を返す。

ミドル。

ほれぼれする衝撃だった。肝臓まで衝撃が―――

――――知ったことかよッッ

骨が砕けようが、肉が裂けようが知ったことではない。

 

『プロレスラーがプロレスを信じなくてどうするんだ』

 

衝撃の一言だった。

尊敬する大先輩、蔵地さん。すべての攻撃を受け切り、負けてもそう言い放った。

真のプロレスラーの在り方を教えてくれた一言だった。

思い出すたびに、心に火が灯る。

打たれた場所にも火が灯る。

全身の温度が上がっていく。

『いいか、純平。プロレスラーになりたきゃ一日でも稽古を欠かすなよ』

熱い。

『たとえ、親が死んでも。俺が死んでもだ』

育ててくれた社長。馬場道山がそう言っていた。

社長の葬式の日。泣きながらジムでスクワットをした。

毎日、稽古をしてきたのだ。

ロープ登り5メートル×20回。

プッシュアップ1000回×3セット。

ブリッジ1時間。

ヒンズースクワット1万回。

これらはスパーリング前の準備運動だ。

そこから意識を失うまでスパーリング。

1日として、休んだ事は無い。

自分には何もなかった。

親もない。

学もない。

だが、この肉体には自信がある。

誰よりも長い間、この肉体を苛め抜いてきたのだ。

膝。

ぐつぐつと、筋肉の中で血がわいていた。

 

「ハアアアッ」

 

関林は吼えた。

 

「ハイイイイイイイイイイイイイッッッ」

 

モンゴリアンチョップ。

ジャックの体勢が揺れる。

揺れながら、がら空きになった顔面に拳が叩き込まれる。

衝げ――――殴りたいならなぐれ。

同時に腹。

右を出したら右。

左を出したら左。

右。右。

左。左。

膝。膝。

持久力、スタミナ。

時間1分なのか、2分なのか。考えても居ない。

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

 

普通なら倒れる。

ジャックはそう思っていた。

いや、倒れなくてもいい。

ひざをつくくらいはする。

最低、怯むくらいはしてもいい。

そういう一撃だった。

そういう一撃を何発も、何発も入れた。

しかし、あいつは倒れなかった。

それどころか、反撃してくるのだ。

入れたら入れたぶんだけ、返ってくる。

それで、打ち合いになっている。

その時にあいつの顔を見た。

笑っていた。

やせ我慢の、無理やり張り付かせた笑みだった。

普通、ああなったら先は長くない。

もう数発いいのを入れてやれば終わりだ。

たとえ動けたとしても、反応は鈍い。

顎なら一発で終る。

過去、何人もの人間を打ち砕いてきた経験からそうだと言える。

しかし、あいつは同じ速度で動いてきた。

よほど修練をしてきたのだろう。

徹頭徹尾、強くなることだけに人生をささげた自分と同じくらい、稽古をしてきたのだと直感的に感じた。

馬鹿みたいに、それこそ親が死んでも修行をやめなかったのかもしれない。

凄い肉体だ。ほれぼれする、いい体だ。

だが、何も着ていない。

自分と同じ、パンツ一枚の姿だ。

ならば、あれをやろう。

ヤシの実を食いちぎるほどに鍛え上げた俺の顎。

お前に耐えられるか―――

 

――――――――――――――――――――――――

 

「~~~~~~~~~~ッッッ!!???」

 

山下一夫は、声にならない声を上げた。

突き刺さっているのだ。

関林の左腕に、がぶりと。

ジャックの歯が深々と突き刺さっていた。

 

「か―――――噛みつきかァ…」

 

なかなかに強力な技―――これを技と言っていいのかわからないが――――である。

男女問わず、使えるその攻撃。生じる威力と痛みは、どんなずぶの素人だろうと容易に想像がつく。

それを大男、ジャック・ハンマーが行ったのだ。その咬合力は常人の比ではない。

――――関林が食われる。

誰もがそう思った。

山下も、ジャックも、ほかの闘技者も。これで終わりだと思った。

―――否、思っていた。

 

「ぬんっ!!」

 

その関林が、左腕一本でジャックを地面にたたきつけるまでは。

 

「…ッッッ!!??」

 

衝撃で口が開き、獲物を逃がす。

 

「あ、アームホイップ…!!関林はまだ終わっていないッッ!!!」

 

アームホイップ。腕一本で相手を投げ飛ばす、プロレス流一本背負い。

300キロを超える弟子、河野春男を腕一本で持ち上げる関林にとって、200キロ弱のジャックを投げ飛ばすことなど、赤子の手をひねるに等しい行為であった。

 

「さて。ここからだな。」

 

出血する左腕を意に介さず。ぐるんぐるんと肩を回し余裕っぷりをアピールする。

 

「アア。ソウダナ。」

 

ジャックもまた、あおむけになった状態から首だけで倒立し。ゆっくりと体を起こした。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

何故闘っているのか。

拳。

わからなかった。

足。

わからない。

頭。

こんな場所で。

蹴。

強くなりたかった。

打。

父を倒すために。

痛。

母の無念を晴らすために。

蹴。

闘う事は。

拳。

好きだった。

拳。

努力とか。

手。

考えたこともない。

腕。

女も。

蹴。

金も

額。

すべて捨てた。

拳。

蹴。

強くなることが好きだった。

そのためならどんな苦痛にも耐えられた。

苦。

痛。

打。

だから、今も闘っている。

強くなるため。父を超えるため。

たとえ弟にファイターとして失格だと言われようが。

こうして代打ちに出ている。

足。痛。拳。蹴。

肘。拳。膝。腹。

顎。苦。肩。顎。

バカじゃないのか。

馬鹿でもいい。

貌。

痛。

肘。

親父を。

範馬勇次郎に勝つためなら。

足。

拳。

打。

薬は、よかった。己に流れる血を忘れさせてくれる。

博士も、よかった。己に流れる血を実感させてくれた。

(だから、死んだ。)

(絶望して。俺に。)

女拳なんか蹴強くなる痛に比べたら顎膝肘どうでもい顔こ拳だ。

こ拳れ膝終っ痛た怒ら、膝ま噛た歯強顎い拳や蹴つ入に頭挑膝む。

(死ぬまで)

俺の人生…

拳。打。顔。

足。

蹴。腹。膝。

肘。顔。痛。打。

殴殴殴。

蹴蹴蹴。

顔腹顎。

拳膝肘。

 

 

 

 

何だ、

何があった。

糞が。

一瞬意識がぶっとんでいたみたいじゃねえか。

これが範馬。恐ろしいやつだ。

バカみたいなタフさとスタミナを持っていやがる。

肘。

糞。

ぼぐん。

鼻。

ばがぁ。

ミチィ。

野郎。

めちぃ。

めじゃ。

どぐん。

ばがあ。

びちゃ。

どかっ。

ドグン。

ぼなっ

ごず。

ごすぅ。

また顎だ。

がちん。

歯と歯がぶつかる。

びきい。

首がよじれる。

頸椎―――

ごしゃっ

野郎。

プロレスだ。

打たれても―――

どぐん。

痛!

痛。

打ち返す。

拳(ぼぐん)。

蹴。(どがあ)。

頭。(めちゃあ)。

膝。(みしい)。

打つ。

打。打。殴。殴。蹴。蹴。噛。

 

「あいいいいいいいッッ!!!」

 

狂。

狂。

狂。

 

これはあれだ。

あいつは骨だ。

眼が聞こえない。

耳が真っ暗だ。

あの拳が立っている。

足で殴る。

真っ赤な味。

捉えろ。

脳が哭く。

歯が吼える。

俺が筋肉だ。

俺は肉だ。

俺は拳だ。

俺はこ、だ。

背骨もおれだ。

尻も、

俺も。

俺。

お、

 

知ったことか。

 

あいつが肉だとか。

骨で考えてみれば、

あいつは耳だ。

ここで膝を出せば赤い。

拳が聞こえていればそれでいい。

ぶちのめす。

ぶちのめぶちのプロのめりめりめす。

今。めりめののレス。殴打喜強。

 

「ガッ」

「カァッ」

「ダッ」

「ダァッ」

 

会場が、沸いていた。

 

 

楽しいなあ

(はあ)

ぞくぞくするなあ

(はあ)

比べっこだ。

(ひい)

ここからは。

(ふう)

技術とか、

(ふう)

肉体とかではなく、

(ひい)

もっと根源的なもの。

(はあ)

人間力っていうのかな。

(ひい)

哀しみとか。

(ふう)

苦しみとか。

(はあ)。

我慢してきたもの。

(ひい)

そういうものの量だ。

(ふう)

比べあうんだ。

(ふう)

なあ。

(ひい)

わかっているのか関林。

(はあ)

そうか。

(ふう)

わかっているのか。

(ひい)

なあ。

(ふう)

楽しいなあ。

 

 

 

山下一夫は立ち上がっていた。

こんなぶん殴りあい、坐ってみるには遠すぎる。

もっと、距離は近づかなくとも気持ちで近づきたい。

そう思ったときには、自然と立ち上がっていた。

山下だけではない。

観客皆が、立ち上がってみていた。声をあげていた。

図らずとも叫んでいた。

魂が吼えているのか。

言語化できないなにかが口から飛び出していた。

皆が立っていた。

巽もまた、立ち上がっていた男の一人だった。

 

 

 

疾。打。立。蹴。拳。痛。膝。腹。顔。肘。打。打。拳。拳。拳。蹴。足。打。膝。腹。肘。鼻。掌。耳。膝。膝。拳。額。ごすん。打。蹴。打。蹴。蹴。足。拳。間。無。近。頬。拳。返。肘。左。ごしゃっ。めきい。どがあ。打。打。殴。「ハッハァ!」「ニィ」打。殴。痛。「カッ!」「ヌッ」顔。顎。アッパー。がきぃっ。打。めちゃあ。打。ばぐん。蹴。どむんっ。「ガハッ」「ガッ」頭。鼻。額。骨。腹。打。拳。がつん。がつん。「チィッ」「ジャッ」

血。

汗。

疲。

拳。

蹴。

打。

歯。

噛。

膝。

腹。

 

「オラッッッ!!」

「邪ッッッ!!!!」

 

足。拳。脚。下段。蹴。中段。拳。顔。叩。打。突。手。組。膝。膝。膝。離。踵。高。上段。耐。拳。痛。中段。回。裏。跳。打。打。打。「シャアアッ」「ヌンッッ」ごしゃみちぐぶどずん打拳蹴脚膝顔肘鼻拳脚頭踵膝手上段手額肘蹴組打離打打打「ぐっ」「グッ」ゴチィどずん蹴気血怒勝情怒怒拳腹早力怒怒血拳顔上鼻頭首膝「はぁっ」「ハァッ」はあ拳ひい脚ふう頭「かっ」「ガアッ」打打蹴脚殴殺殺殺蹴脚殴殺殺殺殺殺殺父殺殺殴恩殺殺殴拳拳愛殴殺殺殺殺死殺殺殺殺殺殺殺殺刃殺殺殺殺殴殴蹴噛信殺殺殺殺殺打拳蹴脚腹腹膝殺殺殴愛拳拳殺死殴鍛情打拳拳脚脚殺殺殴殺蹴汗ジェーン殺殺拳打打打蹴社長蹴哀殴殴殴殺勇次郎打愛殴殴欲打拳拳殺殺殺プロレスを信じろ殴殴打拳脚蹴膝膝膝弟肘蹴蹴殴殴愛誰が知る苦喜愛殴殺殺殺ありがとう悦打信じろ殴信じろ殴勇次郎殴殺俺だって殺殺殺痛打蹴打蹴夢中だ殴蹴殴蹴殴蹴認めろって殴殴殴蹴拳蹴拳脚拳空脚殺殺殺―――――――

 

 

 

終わりは唐突だった。

ぷつんと。糸の切れた操り人形のようにジャックが腰から落ち、膝をついた。

関林の放ったハイキック。それがジャックの顎をかすめたのだ。

狙ったわけではない。お互いの意識なんてもうとっくにもうろうとしている。まともな思考もない。そういう中で放った一発が入ったのだ。

たまたまと言えばたまたまと言える。

関林のタフネスの勝利と言えば、勝利である。

現にジャックは白目をむいている。

時間にしてほんの一瞬、関林が止まった。

山下一夫が何か叫んでいる。

巽がほくそ笑んだ。

関林がとどめに組み付こうとした。

もはやだれの目にも明らかだった。

ジャックは意識を失っている。次の一撃で終わりだろう。

その瞬間、再び関林の耳が何かを捉えた。

聞いたことがあるこの音。間違いない。あれだ。

あの巨獣が再び口を開けこちらを呑み込もうとしている。

だが待て。

この状態からは『受け』られない。

それにこいつはもう落ちている。

いかにこいつが怪物とはいえ現実(ここ)ではそれが――――

 

巨獣がとびかかって来た。

顎だ。

顎に思いっきり、右のアッパーが下から撃ち込まれた。

まるで強風に吹かれた綿毛のように、その圧倒的なパワーによって関林の体が宙でぐるんぐるんと廻って、床の上に落ちて行った。

床の上に落とされた。

しかし、関林はその床の感触を味わうことがなかった。

意識が、宙を舞っている時に体の外に弾き飛ばされていたからだ。

 

(し…失神したまま…ッッ!!???)

 

山下一夫が目を見開いた。

確かにジャックの動きは止まっている。アッパーを撃った体勢のまま、微動だにしない。

眼も青い部分が見えずに完全に裏返っている。気を失っていることは誰の眼にも明らかだった。

過去、関林が失神したまま歩いたことはあった。アームホイップのような技をしかけたこともあった。

しかし、気を失った人間がここまで力強い打撃を出すことができるのだろうか。

自身に刻み込まれた細胞の記憶。

気を失えどなおジャック。

 

(責めまい…誰も…)

 

興奮を通り越して、戦慄を覚えた巽が坐って腕を組んだ。

背骨につららをつっこまれたような、冷たい汗が出る。

関林の勝利を信じて疑わず。いや、事実勝っていたともいえる。しかし、失神してなお牙をむくとはだれが予想できようか。

関林は間違っていない。自分も同じ状況ならとどめに投げに行ったであろう。

そうした場合結果は――――冷汗が、止まらなかった。

勝負はついた。しかし、観客がまだざわついている。

 

「ジャックが意識を取り戻したぞッッ!!!」

 

何事かと思い、立ち上がりプールを見る巽。

不思議な光景がそこに広がっていた。

ジャックは立っていた。だが、立っているだけで何もしない。

倒れた関林が、プールの中央で奇妙な動きを見せていたからだ。

天井のライトに向って左右の拳を繰り出し、足まで動かしている。

のろいパンチ。ゆっくりとした蹴り。

関林は自分が倒れたことに気付いていないのだ。

まだ、立って戦っているつもりらしかった。

関林の眼に光はないが、まだ開いていた。

ライトに向ってつかむような動きを見せる。

投げ―――ているのだろう。

脚を出した。蹴っているのだろう。

関林はうっすらと微笑んでいた。

ジャックはそれを無表情に見下ろしている。場内が静まり返った。

 

「ど、ドクターッ!!!」

 

山下一夫が叫んだ。

同時に大きく、赤毛を一本に縛った医者と、無造作な金髪にどこか不健康そうな隈を抱えた医者が飛び出して関林の瞳孔を確認した。

二人の医者は、それを確認した後同時に叫ぶ。

 

「「試合終了だッッ!!担架をッッッ!!!」」

 

確認したジャックが背を向け、歩き出した。

決着の瞬間であった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「凄い試合でしたね…」

 

株式会社――――山下商事。設立したばかりの小さな事務所の中で、女がつぶやいた。

おおきい眼鏡をした、金髪ポニーテールの女性であった。目鼻立ちがくっきりとして整い、その表情からは知性から出る落ち着きと有能さが溢れていた。

女の名は秋山楓。拳願会会長の乃木英樹の元・秘書にして山下一夫の右腕的存在。

なお、そのバストは豊満であった。

 

「はい。一生のうちにそう何度も見れるものではないですね…」

 

山下が答えた。

 

「意識をすぐ取り戻したジャックさんもそうですが、関林さんもさすがでしたね。

試合の後、医務室に担ぎ込まれる前に目を覚ましたそうですから。」

 

関林は重傷であった。

普通なら死んでいてもおかしくない骨折と打撲の数々。

だが―――

 

「この分なら来月には復帰できるでしょう。」

 

二人の医師がそう告げた。

医師がすごいのか。関林がすごいのか。あるいはその両方か。

あれから二週間。関林が闘技者に復帰するのはもう秒読みの段階らしい。

 

「関林さんもそうだけど、ジャックさんも素晴らしい闘技者でした。

どうですか?社長から見てジャックさんは。」

「素晴らしい闘技者なのは間違いないと思うんですが…いかんせん、食費がね…

ジャックさんにおごっているとお金がいくらあっても足りないよ」

 

苦笑いしながら楓にこたえる。

その様子を見た楓は目を丸くした後、はあ、とため息をついた。

 

「…この反応。さては山下さん、会長から『まだ』聞いていませんね?」

「ヨオ。」

「え?」

 

いつのまに居たのか。

その巨体でありながら、山下が気配を感じたころにはもうその男は背後に居た。

優に3人は座れるであろうソファーに深々と一人で座って、俺のもんだと言わんばかりに3人分の席を独占していた。

 

「ジャックさん。うちの専属ファイターになっちゃいましたので…。」

「ヨロシクナ。」

「…???」

 

いまだ事態を呑み込めていない。山下に、楓が慌てて付け加える。

 

「ええっとですね…あの試合を見た乃木会長が、えらく感動しまして。

ぜひ山下商事の専属闘技者になってくれないかと打診したところ――――」

「ヤマシタカズオ。ナンカ、アンタトハ上手クヤッテイケソウナ気ガシテナ。」

「――――とのことでして。今日付で…」

「聞いてないんですけど!!!!???」

「アア。言ッテナカッタカラナ。」

「いや、言ってよッッ!!!!????」

 

設立以来最高に汗を流しながら叫ぶ山下。

ジャックはその背後に『かずーーーーーん』という謎の文字?のようなものを見た。

ような気がした。多分。

 

「マア…ヨロシク頼ムゼ。山下『シャチョウ』サンヨ。」

 




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第七話 兵

熱風が吹いていた。

気温は実に50度。体感温度はこれより更に高くなるだろう。

空は、憎たらしいほどに晴れ渡っている。

その晴れた空の下、ちらちらと風で飛ばされた砂が舞っている。強い風ではないが、炎天下の熱風は肌を焼く。

その炎天下の中、一人の男が居た。

風で運ばれて来た砂が男の靴の川上側に積もる。

男は『仕事』に一区切りがついたので、手ごろな岩に腰掛けていた。

周囲に人は居ない。数刻前まで激しい戦闘があったので、多くの市民は建物の中に潜んでいる。そんな市民も『終わった』ことを察してか、ちらりほらりと顔を出し始めていた。

とはいえこの暑さだ。普通に出ては肌がやけどする。そのため、皆ここでは『長袖』での外出が必須であった。

しかし、男は熱射が降り注ぐ中で何をするわけでもなく座っている。ここまで移動してきたバイクの隣で、岩に腰掛けていた。

糞熱く、今の今まで『戦闘』があったこの地域で特に警戒もせずにリラックスしている。

服装もまた、ほかの市民とは異なっていた。

『半袖』なのだ。

まだ、もう少し前の季節でさえ外出するものは焦がすような日差しを避けるために肌を衣類で覆って行動する。最低でも、腕と足くらいは着ているもので隠す。今年のような異常気象じみた気温ではなおさらだ。

それが、この男は違っていた。

履いているのは動きやすい短パンであり、着ているものはタンクトップ一枚であった。

こんな状態で外に出続けていたら確実に肌が火傷をする。男がアフリカ出身で、暑さに強いタイプの肌黒い人種であるとは言え、このままでは確実に行動に支障がでる。

だが、この男は平然としていた。というよりも、今の今までこの姿で『仕事』を行っていたのだ。

 

 

肌を焼くような熱風が吹くこの地域は半年ほど前まで『イラク』であった。イラクの一部であった。

もともとはモスルと呼ばれる地域であり、ムスリムのアラブ人が多く住む地域であったが、クルド人が統治する地域とほぼ隣接している。そのため、元より複雑な問題を抱える地域であった。

民族。

宗教。

そして政治…

そこを狙い、あるテロ組織が軍事行動を行ったのであった。電撃的作戦であったそれは、政府の対応を後手後手にさせて、この地域の反政府感情を揺り動かし、ついには別の国家として樹立するにまで至るのであった。

当初、一テロ組織の軍事行動とだけ思われていたその行動が、実は欧米の支援を受けた入念な作戦に裏打ちされた綿密な行動であると気づいたとき、イランは大国に助けを求めた。

大国――――ロシアはその話を受けた。欧米の手が中東にまでまわるのは面白くないと考えたからである。

しかし、表立って行動すれば軍事介入を行ったとして他国と世論の反発は免れない。

そこで、ロシアはまず二つの援助をした。

一つは金銭。秘密裏に金銭を支援することにより政府側が軍事行動を行いやすくする。

そしてもう一つ――――それは一人の傭兵の紹介であった。

かつてシエラレオネで起こった軍事クーデター、その鎮圧のために政府が雇い入れた男。

男は完全武装した反乱軍を相手に単身、さらに素手で挑み一発の銃弾を浴びることなく事態を鎮圧した。

その男こそ、この薄着の男。

この地域の反政府軍の鎮圧という『仕事』を終え、『反政府軍であったモノ』に囲まれながら薄ら笑いを浮かべているこの男。

そいつの名は『ムテバ・ギゼンガ』といった。

 

そのムテバがリラックスしながらスマートホンを見た。

現在時刻は13時過ぎ。報告も終え、後は女でも食って帰ろうか―――そう思った刹那、ムテバは軽く首を傾けた。ほんの数センチ、傾けたその空間を何かが飛んでいき、ムテバの4メートルほど手前の地面に落ちた。

その地面から、液体が出ると共に強烈な匂いが鼻を突きさす。

 

「へえ、うまいもんだね」

 

そこへ、一人の男が声をかけてきた。

ムテバが振り返ると、上下迷彩服に白いバンダナを頭に巻いた男が居た。

身体の小さな男であった。

装備をあまりしない身軽な格好に、アジア人特有の幼い顔立ちが男の体をより一層小さく見せる。

 

「クク…アンタほどじゃないさ。Mr戦争(ウォーズ)

 

ゆっくりと、ムテバが立ち上がって振り返りながら、つづけた。

 

「アンタの噂は戦場でよーく耳にしている。その男にうまいだなんだの言われてもね…」

「どんな噂だい。」

「曰く、オーガと並ぶ最強の軍人。

曰く、アンタを含めたたった五人で自衛隊の精鋭を撃破。

曰く、その身に銃弾どころか拳一つ浴びたことがない…」

「ストーカーが趣味かな、虐殺者(ジェノサイダー)

「最近じゃあの死刑囚・シコルスキーに敗北を与えたとも聞いている。

軍人中の軍人ノムラ―――いや、『ガイア』。

そんなビッグネームがこの俺に何の用かな?」

 

薄ら笑いは消さないまま、ガイアと呼ばれた男が口を言った。

 

「ビッグネームって意味じゃあんたも負けていないだろう。

伝説の傭兵のエピソードは遠い日本にも届いている。」

「どんなエピソードだい」

「素手で武装した海賊を二分で皆殺し。

コンゴ内戦で武器一つ持たずに一地域を鎮圧。

あの『関林』に完勝。」

「オーケーオーケー。アンタの趣味がストーカーだってことがよくわかった。」

 

ムテバが微笑しながら手を上げた。

熱い風が、二人の頬をなでる。

 

「後悔してるかい」

 

ガイアが言った。

 

「そう見えるかい」

 

ムテバが答えた。

 

「チョットね。」

「じゃあそうなのかもな」

「でも、同時にスゴク期待している。」

「そう見えるかい?」

「ああ。勃起してる。」

「クク、そうかもな」

 

そそり立つ短パンの布地も意に介さず、ムテバの剛槍が天を仰ぐ。

 

「仕方がないさ。気になっちまったんだ。」

「気に?」

「アンタのことがさ。」

「変態が趣味とは聞いていなかったな」

「クク。『狩り』を前にするとどうしてもこうなっちまう」

人狩り(マンハント)?この私に対して?」

「他に誰がいるんだい?」

 

ムテバが哂う。

 

「狩りこそが我が人生。今日の獲物は狩りつくしたと思ったが…予定変更だ」

「帰っていいかい?」

「そんなこと思っても居ないくせに。アンタも仕事だろう?」

「ああ、仕事だ。」

「なら帰るって選択肢はないな。

アンタが俺を殺すか、俺がアンタを殺すかしかない。」

「不条理だな」

「戦場じゃ不条理だっていいのさ。だろう?」

「まあね。」

 

言うが否や、ムテバが駆けた。一直線だった。

狙いはガイアの眼球。

 

「!?」

 

その攻撃が、空を切った。

というより、居ない。

さきほどまで目の前にいたガイアがムテバの前から完全に消え去ったのである。

気配はある。しかし、どこに居るのかがわからない。

いくら戦場といえど、尋常ではありえない事態であった。

 

「くっ!??」

 

ありえない事態に、ムテバがしきりに首をふり辺りを警戒する。

 

(チョット残念かな…)

 

背後で砂を全身に纏い、偽装したガイアが心の中でつぶやいた。

伝説の傭兵といえど、こんなものか、と。

期待が大きかったと言えばそうかもしれない。伝説の傭兵なのだから、この程度は見破って楽しい戦いになるだろうと。

自分の戦力がはるかに上回っていると言えばそうなのかもしれない。

だが、『念のため』もあり得る。そう思って、手にしたナイフのスイッチを入れた。

その瞬間、柄からナイフが『発射』された。

『スペツナズ・ナイフ』。ロシアの特殊部隊が開発したとされるそれは、短剣の刃先部分のみが弾のように発射される。初速、時速60キロで迫るそれは、たとえ対峙していたとしてもかわすことは困難を極める。

それを背後から撃とうものなら、まさしく『必殺』の兵器となる。

 

その必殺のスペツナズナイフが空を切った。

と、同時に黒い風が吹いた。熱く、悪意のこもった風だ。

風を風…と感じる前にバックステップしてかわす。

一瞬前までガイアが居た位置には、二本の指があった。

ガイアが居た位置、というよりはガイアの『眼球があった』位置、と言った方がいいだろう。

 

「どうだい?傭兵の演技もなかなかのもんだろう。」

「なかなかだ。もし私が映画の審査員なら主演男優賞を渡したいところだよ。」

(―――なぜ当たらなかった?)

 

視覚以外の全感覚を研ぎ澄まし、常人とは比較にならない洞察力を持つムテバにとって偽装などなんの意味も持たない。

だから攻撃も読めたし、『観える』ので不意打ちをかますところまではできた。

しかし、その後が誤算であった。

確かに命中ったはず。

外したというよりは何か攻撃がすり抜けたような―――そんな感覚さえ覚える。

仮説として考えられることはある。あるが、今は攻撃しないことには始まらない。

つう、とガイアが腰を沈めて近寄る。

 

「シャッ」

 

低くなった顔面にムテバが右脚で蹴りを放つ。

靴の爪先が当たった――――そう思った瞬間、またしても爪先がガイアを『すり抜け』ていた。そしてその脚がふわりと柔かい何かに包まれる。

ガイアだ。ガイアの腕がムテバの伸び切った足をつかんでいる。

そして、そのまま思いっきり背後に振りかぶった。

脚一本背負い―――プロレスではたまに見かけられる技であるが、脳内麻薬を自在に操り人間の潜在能力を極限まで引き出しているガイアが行うそれはもはや殺人技。

以前『目黒正樹』から行われたそれとは威力と速さが完全に異なる。

時速80キロの速さでムテバが地面にたたきつけられる―――

 

「オヤ、受け身を取ったね」

 

顔面からすぐ先の地面にたたきつけられたかのように見えた時、両手をその地面について勢いを殺していた。

それには答えず、即座に起き上がる。

――――どういうことだ?

これ以上ないと言えるタイミングで蹴りこんだ。

普通ならばあれでKO。最低でもガードくらいはさせられるタイミングだった。

今回は義眼も『まだ』使っていないので自分の体調の変化から来るタイミングのずれというわけでもない。

で、あるならばこれは間違いなく、ガイアが『何か』をしている。これを解かなければ自分の命はない。

 

――――この緊張感、たまらんね。

 

アップライトの構えからノーモーションのジャブを放つ。当てて倒すことではなく、動かすことを目的とした攻撃。

その攻撃が、またしてもすり抜けた。

ガイアの手刀。右手で受け、そのまま懐に入った。

膝だ。傭兵は無駄なことはしない。確実に一撃で倒すために、蹴り上げる箇所は決めている。顔面か、睾丸かだ。

その睾丸を狙った膝であったが、これも空を切った。

同時にムテバの耳が風を捉えた。

殺意と破棄力のある、うねりを持った風だ。頭を下げる。そこにガイアの右の剛腕がすり抜けていった。

 

――――なるほどね。

ムテバは心の中でうなずいた。

さっきからの妙な空振りもこれで都合4度目。

その妙なものの正体になんとなく気づきかけてきた。

普段のムテバならこのような空振りはありえないことである。わざと外したり、防がれたりすることはあっても目測を誤って空振ることはまずない。

それがこれまで体験したことのない違和感をムテバに覚えさせていた。

大きく動揺するほどでもない。しかし、無視できるほどの違和感でもない。

その空振りの正体がなんであるかになんとなく検討がついた。

しかし、だからといって『これ』を実戦で実行できるものなど自分を含めて世界に何人いるかどうかだ。それが、

 

――――なるほどね。

 

の中には込められている。

賞賛に近い意味もある。納得の意味もある。それがわかった。

だから

 

――――なるほどね。

 

この一言に集約されたのである。

おおよその仕組みがわかっているが、チェックを誤っては意味がない。

あとは確信を得るのだ。

そう結論づけたムテバが一息に距離を取る。

バックステップを繰り返し、一瞬の間に10mもの間合いを取った。

取ったのだが―――ざうっ

 

「!?」

「オイオイ、どこに行こうっていうんだい。」

 

もう、目の前にガイアが居た。

ネコ科の猛獣の間合いは10mだと言われるが、あの距離を一度のジャンプで詰めたガイアをムテバは人類ヒト科であるかどうか疑いたくなってきた。

猛獣が右のミドルを放つがムテバはそれを受けずに、さらに身を引く。

追うガイア。踏み込みの速さに迎撃が追い付かない。

しかし、仕込みはできた。

あとは試すだけだ。

とことん見てやるよ。

お前が噂通り大地の神『ガイア』なのか。

それとも人間、『ノムラ君』なのか。

このムテバ・ギゼンガがしっかり観ていてやろう―――

 

 

 

ムテバの目がぎらんと光る。

同時に、何かをなげつけた。それは尖ったたくさんの黒いものであった。

ガイアは気づいていた。わざとらしく取った距離の間に後ろ手に何かしていたのを見逃さなかったからだ。では、中身は何か。

よもやここにきて銃を出す男でもあるまいというのは想像がつく。ナイフというのも違う。使うならとっくに今までの場面で使っているだろう。そこまで考えると、ポケットの中身は小細工の類ということになる。

それを受けるか、よけるかした隙に足を払う。

もしくは急所への一撃で決めるつもりだろう。

ムテバは名手だ。目つきや睾丸への攻撃はこちらが少々身をひねったところで問題なく決めてくる。そうなれば戦いは終わりだ。

そうなれば。

 

(サングラスの無駄だな、虐殺者(ジェノサイダー)。)

 

これも手を使わず、身をひねらず。必要最小限の動作でかわす。

ほんの紙一重の差でかわし、隙を作らない。

のだが、じゃっという音がした。

音の正体はすぐにわかった。

眼の前の男だ。

ムテバが蹴り上げた地面の砂。それがガイアの軍服の裾にかかっていたのだ。

どうってことない行動。ここ戦場においては挑発ですらない。

だが、効率主義のこの男がそんな真似をするだろうか

 

「オヤ」

「―――――――――」

「当たっちまったね」

「これのことか?」

「よくわかってるじゃないか。」

「傷にもならないこんな事で誇らしげにするってのはなんというか…安っぽいんだな、案外。」

「クク…」

「このズボン、チョット気に入ってたんだけどな…」

「なら、気にする必要はないぜ」

 

大きな拳が、思いっきりガイアの顔面に入っていた。

 

 

 

 

 

「ッッッ!?!?」

「もっと汚れちまうんだからな…着てるもん、全部がよ。」

 

肉が肉を穿つ衝撃が拳を奔った時、ぞくりとムテバの背に血の塊のようなものが走り抜けた。

―――これだよ、これ。

 

強烈な快感であった。立て続けに爪先を腹に打ち込む。柔かいその肉に足が食い込んだ。

ガイアが吐しゃ物をまき散らす。ムテバの鍛えられた爪先が水月にクリーンヒットしている。今日食べたものか、胃液か、そういったものがムテバの顔面を濡らすが意に介さず立て続けに顔面に拳を撃ちこむ。

右。左。右―――

面白いようにムテバの拳が当たる。

何故、いきなりムテバの攻撃が当たるようになったのか。

それはムテバがガイアの『秘密』を解き明かしたからに他ならない。

 

――――ネタは割れたぜ。『勘』、だろ?

カンといってもあてずっぽうのヤマ勘とは全く持って異なる。

アンタの『カン』という名の警報ランプは『殺意』とか『殺気』とか、人間の『念』みたいなものに反応するんだ。その念を察知して、攻撃をかわす。違うかい?

 

その通りであった。

事実、ガイアは人間の敵意を察知する力を持っていた。

身に着けたのは10年以上前、ウガンダで敵対勢力につかまり、捕虜になった時だ。

傭兵として内戦に参加した彼は、殺人という美酒に酔いしれた。培った技術、武器。それらを思うさま使ってもよいという歓喜に酔いしれた。

だが、酔いしれるあまり我を忘れた。

気づけばガイアは危険を顧みず行動するようになり――――その結果、囚われることとなったのだ。

通常、ジュネーブ条約で捕虜に対する拷問は禁止されているが、こと傭兵だけにそれは適応されない。傭兵であったガイアには、即刻処刑が決定した。

およそ文明国ではありえない刑罰とスピード。

捕虜となった次の日には目隠しをされ、木に縛り付けられ、100個の銃口を向けられていた。

そこで、ガイアは得たのだ。確実に訪れる恐怖。その極限の恐怖がガイアの神経を研ぎ澄まし、人間が行動を起こす直前に放つ『念』を感じられるようになった。

まさに処刑が実行される間一髪のところで味方勢力に助けられて以来、彼は生まれ変わった。

敵の作戦だとか。

闘気だとか。

殺意だとか。

そういったものが手に取るようにわかってしまうのだ。

危機察知能力がずば抜けている、と言えばそうかもしれない。

超能力である、と言えばそうだと言えるだろう。

 

 

そのガイアが今、『念』のない攻撃に圧倒されていた。

腹に蹴りを入れられた。腹をけられたのはガイアが内股になり股間を守っているからであるが、それでも響く。鞭のようにしなる脚であった。

―――強い。

ガイアは1も2もなくそう思った。

ムテバがである。

 

 

伝説の傭兵、その仕事は多岐に渡る。

軍隊の鎮圧、賊の殲滅、用人警護――――そして、暗殺。

誰かに教えてもらったわけではない。そういった裏家業を続けていく中で、ムテバがある程度『念』を消して攻撃することを覚えることは、自然な流れであった。

こんな芸当など、過去に中国で鍛えてもらった『妖怪ジジイ』の技に比べればどうってことはない。

ガイアの顔面に肘を入れる。ぐじりと鼻が潰れる音が聞こえた。

倒れこそしなかったが体が後ろにぐらりと揺れる。揺れながらも追撃を受けまいとガードを固めるガイアであったが、ムテバの姿が消えた。

その瞬間に足を払っていたのだ。鉄パイプで足をぶん殴られたようであった。しかも、自分の動きの方向に合わせて払われたのであおむけに盛大にすっころんだ。その衝撃で、守っていた腕が解かれる。

 

――――頃合いか。

 

右手を逆手に構え、親指だけをたたむ。貫手の形状にしたそれを、人体の胸部中央――――心臓に叩き込むその技を、中国拳法では『心臓抜き』と言った。

受けたものは死、あるのみ。絶命技を叩き込もうとしたまさにその時。

 

「奇ッッ!!!!!!」

 

恐ろしい衝撃がムテバを襲った。

衝撃といっても打撃による衝撃ではない。

音だ。

ガイアの口から発せられたすさまじい音量の声がムテバの耳を揺さぶったのだ。

一瞬、ムテバが観ているガイアが『揺れた』。たまらないと思い、ムテバは瞬時に距離を取った。

事実、この攻撃はムテバにとって泣き所であった。

全盲であるムテバがいかにして相手を観ているか―――その多くは聴力に頼っている。

蝙蝠が暗闇の中でも音波を頼りに物を観るように、ムテバも基本的には音を頼りに相手を『観』ている。

その頼りの聴力に揺さぶりをかけられたのだ。

脳内で描かれているガイアの位置情報に、若干の狂いが生じている。

 

「しょうがないな…」

 

ガイアが大きく息を吐いた。同時に、大きく息を吸った。

いや、大きいなんてものではなかった。

膨らんでいるのだ。

空気をぱんぱんにいれた風船のように、ガイアの上半身が大きく盛り上がっているのだ。

ムテバにはまだわからない。

ただ、何かやろうとしていることだけはわかった。おそらく、とてつもない何かがくる。

さらに距離を―――――

 

「あッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!」

 

取れなかった。

衝撃に、砂が舞う。

衝撃で、鳥が落ちた。

衝撃に、ムテバの耳が完全に破壊された。

ほかの五感で補うという思考すら生まれてこなかった。

それほどの衝撃だった。

常人の数倍の肺活量を持つガイアが、常人の数倍の空気を肺にため、その空気をいっきに声帯から消費する。

その行為は攻撃―――というよりもまさに兵器。

ムテバの動きが、完全に止まった。演技ではない。本当に動けなかったのだ。

―――――ムテバ、聴力を喪失。

 

「なかなかいかした光景だろう―――って言っても見えるわけでもなかったな。」

 

返事を待たず、ムテバの前まで歩いて行ったガイアが、いきなり足を跳ね上げた。

右の蹴りだ。

どん、という音がしてムテバの体が九の字に曲がった。動きが止まったとはいえ、そこは伝説の傭兵。

止まりながらも急所だけは押さえているので蹴るのは腹にとどめたわけであるが、無防備の状態からガイアの蹴りをもらうとどうなるか――――

 

「ガハッ!!!」

 

吐血及び吐瀉。

ほとんど予備動作のない蹴りであったが、内臓まで響いているのは確実だった。

続いて下からすくい上げるような左の蹴り上げ。

ムテバの顔面が噴き出す鼻血と共に上に上がった。

――――ムテバ、嗅覚を喪失。

続けざまに、ひねりを加えた右の掌底が前に突き出された。

その掌がムテバのみぞおちに綺麗に吸い込まれる。

 

「ゲエッ」

 

ムテバが再び声を上げた。体を折り曲げ、苦悶にあえいでいた。

この状態からではまともな攻撃や武器攻撃は使えない―――そう断じたガイアはムテバに組み付いた。

背後から馬乗りになるように組み付き、胴体に足をまわして首に腕をまわす。

いわゆる裸締めである。

完全に極まったこれを返す技はない。少なくとも、ガイアは知らない。

技はないが、技でなければ返す方法はある。

伝え聞く超握力の花山薫。彼ならば掴んだ腕を握りつぶして脱出できるだろう。

もしくは範馬刃牙。狂っているともいえる精神力で耐えながら首と顔面の間に無理やり空間を作り、顔面に後頭部で頭突きをみまう。

事実、5年ほど前の範馬刃牙に裸締めをそうやって脱出されていた。

その時の教訓から、こうして徹底的に戦力を削いだ相手にだけ極めることにしていた。

そして、ムテバはそのどちらのタイプでもない。

どちらでもないがゆえに――――

 

「―――ありがとよ。」

 

ガイアの知らない技を使った。

鋭い衝撃がガイアの腕―――両手首辺りに広がる。鋭い衝撃と痛みでありながら、一瞬力が入らなくなる。

中指で神門と呼ばれる経穴をついたのだ。若槻ほどの剛力に組み付かれても脱出できるそれが、ガイアに通用しないわけもなく。

 

「おかげで、目が覚めた。」

 

腕を振りほどく。

その隙に足の膝にある経穴――――陰凌泉をつく。同じような衝撃で、ガイアの足がほどかれる。

その隙に―――ムテバ、死地よりの脱出を果たす。

 

(クク…つくづく、『妖怪ジジイ』には感謝だな)

(間違いない。『見』えている。)

 

ガイアは点穴を撃たれた瞬間に気がついていた。

ムテバ・ギゼンガは「見」えている。聴力と嗅覚を破壊し、残る触覚のみで点穴を打つことの難しさもさることながら、目が『合った』のだ。

視力はないはず。

しかし、明らかにこちらを『見』ている。

鮮やかに、『見』ていた。

 

ガイアの予測は正解であった。

岩見重工社長、『東郷とまり』。ムテバの元・雇用主である悪魔的女性が彼に施した『義眼』。

それを作動させていたのだ。

聴覚は失ったが、問題なく『見えている』。つまるところ、勝負は振り出しに戻ったのだ。

 

二人の間に熱い風が吹く。

再び、男たちが拳を握り固めた。

そして、駆けた。

駆けようとした寸前――――二人の頭部を銃弾が貫通した。

 

「~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!???」

「…ッッ!!!??」

 

否、貫通したイメージが二人の脳裏を疾(はし)った。

脳漿をぶちまけるところまで見えてしまうほどの、鮮烈なる『死』の感覚。

強烈な悪寒が二人を襲っていた。

 

『獰猛』

『凶悪』

『高圧的』

 

そんな言葉ばかりがムテバとガイアの脳裏を駆け巡る。

額からどっと汗が出る。ガイアはこの感覚に覚えがあった。

忘れもしない、あの――――――――――。

 

「…ッッ」

 

喉がからからに乾いて声が出ない。初めての体験であった。

眼を失いながら戦った時も。死が常に隣り合わせで会ったコンゴ内戦の時も、”猛虎”若槻との戦いのときも。こんな事は一度としてなかった。

ムテバの警報ランプが最大になってわめきたてているのだ。『ここから逃げろ』と。

 

(こ、これがッ!!!…まさかッッ)

 

その正体はすぐに分かった。

ずちゃり、ずちゃりと。遠くから歩いてくる男がいた。

身長は優に190は超えていよう。

漆黒のシャツからはみ出た腕からは恐るべき太さのエッジが何本も立ち。

漆黒のズボンが教えてくれる男の足取りは、ネコ科の猛獣以上の軽やかさがある。

そしてその男の周りにはオーラとも言うべき陽炎がゆらいでいた。

 

「…たまには散歩でもしてみるもんだなァ。」

「~~~~~~ッッ」

「とんだ拾いもんもあるもんだ。」

「…初めて、仕事を受けたことを後悔しているぜ。」

 

やにわに。

男の、ワックスで固められた頭髪が持ち上がり始めた。

燃え上がる炎のように、めらめらと、立ち上がりはじめた。

 

「なあ?伝説の傭兵、ムテバ・ギゼンガ。」

「…アンタに伝説と呼ばれる日が来るとはな。

…『オーガ』」

 

『オーガ』と呼ばれた漢は笑った。

範馬勇次郎。

この地上に存在するあらゆる生物の中をぶっちぎりで超越した最強の存在。

米国を腕力だけで屈服させたすべての兵士の伝説的存在。

拳願会でもこの男に依頼を出すことはタブーとされており、あの片原滅道ですら手を出す事すらままならない。恐怖の存在。

 

空気が足りない、とムテバは思った。

異様な圧力が眼の前をふさいでいる。

汗が止まらなかった。この程度の熱さでは汗一つかかない自分が、なぜこんなにも。

それは目の前の男が怖いからだとムテバは思った。

俺は、この男が怖いのだ。

いや、俺だけなものか。

みろ、さっきまで殺し合いをしていたあの男までもが、追い詰められたウサギみたいな顔をしているじゃないか。

何故怖いのか。それもよくわかる。

死ぬからだ。この男と戦えば間違いなく死ぬ。

それはどんな危険な戦場でいることよりも確実だった。この男の半径20m以内は確実にこの世のどんな戦場よりも。核兵器が降り注ぐ終末より危険だということが本能で理解った。

本能でも、頭でも分かってからのムテバは早かった。

 

「ちょこっと――――――」

 

遊んでいかねえか。

オーガは言い切ることができなかった。

 

「…はっや」

 

ぼそりとガイアが思わず本音をつぶやく程に、ムテバは早かった。

逃げたのだ。背を向けて、バイクにカギを入れてエンジンを吹かせる。

ムテバが小さくなるまで、実に数秒の出来事であった。

 

「…」

「いッ、いやッ!!あの…ッ」

 

所在なさげに出した腕をポケットに突っ込み、ガイアの方に顔を向けるオーガ。

ぎょろりとした目玉と、額と側頭部に浮かんだ血管が今の勇次郎の感情を物語っていた。

機嫌を損なえば待っているのは――――

苦し紛れの笑顔がガイアの顔面に張り付いていた。

 

「き、今日は…お、終わりってことで…?」

「…」

 

――――振られちまったぜ。

 

それだけ言い残して、勇次郎はガイアに背を向けた。

すねたような、ちょっと寂しい子供が言うような口調で歩いて行った。

 

「――――――――――――――ふう。」

 

 

伝説的傭兵二名、共に生きて帰還を果たす。

 




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第八話 牙

徳川邸。

 

そこに二人の男が座していた。

一人は上座には身なりのいい、高級そうな和服を着た老人。パイプを吸いながら足を崩して男に向き合っている。

 

「ほう、めっちゃんから聞いたと」

 

老人が、つるつるに剥げた頭をかきながらいった。

 

「はい。拳願会の他で、強きものと戦いたいならここ――――

徳川財閥当主、徳川光成様を頼れと。」

 

対面している、無表情なもう一人の男が答えた。

徳川光成と呼ばれたこの老人こそ徳川財閥13代目の当主にして、国内屈指の財力家。

片原グループと同等、もしくはそれを超える財力を持ち、金をキロ単位で数えることを常とする怪物。

その財力と権力は時の総理大臣でさえ彼の前では委縮してしまうほどである。

だが、対面に坐ったこの男には全く怯んだ様子がない。

それどころか、表情も変えずに淡々と光成の眼を見返してくる。

完全なる実力に裏打ちされた、圧倒的な自信をもつ男。

好みのタイプであった。

大の格闘技好きとして、こういう男が光成は大好きであった。

笑いながら答えた。

 

「拳願試合の王。滅堂の牙たる君が訪れてくれたのなら、ワシとしては身に余る光栄というしかない。大歓迎じゃ」

「ありがとうございます。」

 

ポマードできっちり固めた前髪を触りながら、男が答えた。

この無表情に返す男こそ、拳願試合の元・王者。

160勝1敗。つい最近、黒木幻斎に敗北するまで拳願試合の王であり続けた男。

『滅堂の牙』、加納アギトであった。

 

「にしてものう。あのジジイが。カッカッカッ」

「――――」

「そういうことなら話は早い。こっちもとびっきりの相手がおる。」

「――――」

「チャンピオンと、闘ってみるかい?」

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

そういわれて辿り着いたのがこの家であった。

異様な風景の中にある、異様な家で会った。

チャンピオンの住む家までの道のり、チャンピオンの家。

そこら中いたるところに落書きがあった。

しかも、ただの落書きではない。

 

『刃牙死ね!!』

『キンタマ!!!』

『命とったる』

 

便所の落書きのような、心底品性下劣極まるような落書きであった。

そういったものが視界に収まりきらないほど書かれている。

道路にも、

塀にも、

家の屋根にも、

壁にさえ、

いたるところに書かれてある。

そのすべてが、大日本銀行で闘技者として育ってきた加納アギトには見た事のないものであった。

『DEATH』

『俺は逃げも隠れもせん』

逃げも隠れもしないなら、この落書きの主はいったいどこにいるのだろう?

そんな事を考えてしまう。

アギトからすれば、見るものすべてがあまりにも斬新で、あまりにも意味が分からなかった。

わからなすぎて、しばし眺めることに夢中になっていた。

 

『喧嘩上等』

『下品上等』

『エロ魔王』

 

興味深い。

エロ魔王とはゼットンのような怪物なのだろうか?

 

「あのー…」

 

しばらく眺めていると、声がかかった。

優しい、青年の声であった。

夢中になりながら、背中で返事をした。

 

「ああ…スマナイ。つい、珍しくてな」

「ハハ…確かに。あんまりないですよね、こーゆーのは」

「汚いが…しかし、新しい。新鮮だ。」

「え?」

「私は今、旅をしていてね。その中である人物を訪ねて来たんだが…しかしすごいな。

あれなんか登って書いたのだろうか」

「あのー…どちら様です?」

「私は加納アギト。範馬刃牙という人物を探しているのだが…」

「あ、それならちょうどよかった。」

「何?」

 

その言葉に振り替えるアギト。

そこに、一人の青年が居た。

白いTシャツによれたジーパン。

美男子ではるが、超がつくほどではない。

ある意味どこにでも居そうな顔。

それでも妙に人を引き付ける感じがする顔をしていた。

普通の顔をしているだけなのだろうが、愛嬌のようなものがその顔や口元に漂っていた。

髪の毛は赤いが、どこにでもいそうな青年。

 

「初めまして。範馬刃牙です。」

 

この青年こそが、地下闘技場最年少チャンピオン。

範馬刃牙であった。

 

「それで…ご用件は?」

「――――私と立ち会ってもらいたい。」

「―――いきなりだね」

「御前と、ご老公から聞いていた。ここに行けば、チャンピオンに会えると」

「御前?」

「片原滅堂。片原グループの総帥にして、私の元・『雇い主』だ。」

「ああ…じゃあ、あなたがあの『滅堂の牙』

話は聞いたことがあります。

なんでも、敗北を喫して以来見聞を広めるために旅に出たって言うのは。」

「間違いではない。それに、私も御前から君と君の父親の話を伺っていた」

「親父の?」

 

刃牙が怪訝な顔をした。

 

「御前が仰っていた。昔、君の父親に殺されかけたと。」

「親父に?」

「御前が範馬勇次郎と初めて会った時のことだ。」

「いつですか?」

「十年以上前だと聞いている。私が御前と出会う前だ。」

「へえ」

「あんなに怖かったのは初めてだ、と言っていた。

あんな御前は初めて見たのでな。よく覚えている。」

「――――」

「そんな父親と戦った君も、強いんだろう?」

「いまの話の流れだと強いのは親父ですけどね」

「謙遜する必要はない。親子喧嘩の動画は見させてもらった。

そして、今も尚私はひしひしと感じている。君の戦力を」

「――――俺も、感じてますよ」

「同じか」

「同じですね」

 

空気が、変わった。

今まではなんてことのない、土の大地だったものがいきなりガラス張りの地面に変わったのだ。

何か一つの拍子ではじける。

はじけて壊れる。

そういう空気であることが、二人共わかった。

わかったからこそ、刃牙は親指で後ろを指した。

 

「裏に空き地があるんです。そこなら人目につきにくい」

「わかった。」

 

刃牙がそう言って背を向けた。

加納アギトも、それについて行った。

わくわくしていた。

 

 

空き地に一筋の風が吹いた。

Tシャツジーパン姿の範馬刃牙が立っている。

その対面に、加納アギトが立っていた。

拳願会対地下闘技場。

加納アギトの背の体毛が逆立っている。

ぞくぞくしていた。顔に哂いも浮かんでいる。

範馬刃牙の柔かい視線がこちらに向いている。

あの親子喧嘩を見て以来、一時は欠伸が止まらなかった。

原因はわかっている。

凄すぎたのだ。

こんな男達が居るのかと思った。

こんなに強い男達がこの世に存在するのかとも思った。

ようやくやれるのだ。

この漢と。

嬉しかった。

辿り着けるかもしれないのだ、この世の強さの頂に。

『地上最強』の称号に。

始めから―――

そう思っている。

迷いはない。

全力で闘う。

我闘う、故に我あり。

それこそが自分なのだ。

闘いこそが、加納アギトの証明なのだ。

もう一度、風が吹いた。

 

血が沸き立っているのがわかる。

肉が歓喜に震えているのもわかる。

構えて、前に出る。

ただそれだけのことで全身の毛穴という毛穴から悦びが噴き出してきていた。

悦びに満ちた肉体が血を沸かせて、それが体外へ吹きこぼれてくるのだ。

笑みが抑えられなかった。

加納アギト―――――身長200センチ、体重128キロ

範馬刃牙――――――身長168センチ、体重76キロ。

身長差で32センチ、

体重差にすると実に52キロ。

成人女性一人分は優に違う。

スポーツ競技では考えられない対格差であった。

しかしこれは競技ではない。

競技ではないからルールもない。

同じだとアギトは思った。

拳願試合でも体重別というものはない。

そこでは小さなものが自分より大きなものを打ち倒す光景がなんども見られたではないか。

その中には自分とこの範馬刃牙以上の体格差のものもあっただろう。

自分だって、自分より大きいものを倒してきたではないか。

だから、そういうことで油断したりはしない。

しかも、今まで戦ってきた相手は範馬刃牙ではない。

範馬刃牙は範馬刃牙だ。

他の誰とも比べられない。

もしかしたら自分を倒したあの黒木幻斎よりも上かもしれない。

そうか。

だから俺は悦んでいるのか。

だから血が沸き立つのか。

歓喜に満ちたまま歩みを進める――――

 

 

「へえ」

 

隙さえあればすぐ突っかけよう―――そう考えていた刃牙の心境が変わった。

間合いに入れば即決める算段であったのだが、加納アギトの肉体が何か別のもののように見える。

現実には別のものに変わったりしない。しないが、ことさらに大きく見えたのだ。

身長差があることは知っているが、それよりも一回り大きく見える。

加納アギトが構えたのだ。

いわゆるアップライトの姿勢である。それ自体は珍しいものではない。

珍しくない分、その歪さが目立った。

前傾姿勢であるが、その角度がすこしきつい。結構な前かがみだ。

これでは打撃を受けやすくなりスウェーバックにも時間がかかる。

脇をきっちりとしめ、左足を前にだし右足を後ろに出している。

両腕でしっかりと構え、その二つの拳の間から加納アギトの二つの目がしっかりとこちらを捉えている。

自ら穴にこもった獣が、その穴の中から炯々とその眼を光らせているようでもあった。

 

「たまんねえや…」

 

素晴らしい名画か、あるいは彫刻か。

完成された芸術が眼の前に立っているような感動すら覚える。

しかもこの芸術は動き、牙を剥くのだ。

今、刃牙は心の底からわくわくしていた。

玩具を買ってもらえる少年のように、期待に満ち溢れ歩き出した。

軽やかに、帯電された空間に足を進めた。

空間の磁場に触れ、毛先が逆立つ。

その時――――動いた。

同時に動いたようにさえ見えた。

 

「シュッ」

「コッ」

 

二つの唇から同時に呼気が漏れた。

拳。

拳。

足。

拳。

足。

拳。

脛。

膝。

めぐるましく二人の攻撃が交差した。

ほとんど、ありとあらゆる部位がお互いの体目がけて、動き、疾った。

休まない。

連続した攻撃であった。

しかしそのことごとくが空を切った。

加納アギトのすべての攻撃を範馬刃牙が。

範馬刃牙のすべての攻撃を加納アギトがかわし続けたからである。

手で受けたりだとか、足で受けたりだとか、ダッキングしたりだとか、そういうのもなかった。

ほんの紙一重の距離でお互いがお互いの攻撃をかわし続けているのだ。

それはあたかも、互いが互いの幻影を攻撃し続けているようにさえ見えた。

だからこそ、加納アギトは驚愕した。

 

これだ。”俺”はこういうのを求めていたのだ。

身長167センチ。己の身長とは30センチ以上、リーチに至っては40センチ近くは違うだろう。

大人と子供と言ってもいい。それくらいは数字の上で上回っているものがある。

これを利用して近づかせない、ということが競技シーンではよくみられる。現にアギトも恵まれた体格から活かした攻撃を行い勝利したことが何度もある。

初見と戦った時のように、近づかせず戦いを有利に進めたことも何度もある。

それだというのにこの男ときたら。

既に間合いに入っているのだ。

近づかせない、とかそういう概念ではない。

既に入っているのだ。

アギトが攻撃するよりも早く、既に懐に入って仕掛けてきているのだ。

スピードが速いというのはもちろんある。

自分より小柄なこの少年がスピードで勝るということは理解できる。

だが、それだけでは説明がつかない。

つかないが、アギトは納得していた。

スピードのほかに心辺りがあったからだ。

 

――――“先の先”か。

 

気の起こり…意識の起こりと言い替えてもいいかもしれない。

脳が命令があり動作を行う…ふつうはこうだ。

しかし事実は異なる。

まず肉体が信号を発する。

次に脳が命令し、意識をする。

肉体が信号を発して脳が肉体に命令を下すまでの0.5秒の間、人間は無意識である。

つまるところ、信号を発してから意識するまでには0.5秒のタイムラグが存在するのだ。

そのタイムラグの間はやりたい放題というわけである。

この信号を察知することこそが、『読み』。先読みである。

それを読むことができれば、相手が攻撃する前に避けることができる。

これを完全な形で出来るのは世界でも黒木幻斎と自分だけだと思っていたのだが―――

井の中の蛙であったというのも納得できる話だ。

こんな少年が、この領域に踏み込んでいるとは。

しかも、この少年よりも父親の方がずっと強いという話ではないか。

世界は広い。

 

――――こんなことがあるのだな、範馬刃牙よ。

 

『私』は、自分は黒木幻斎以外には負けないと思っていた。黒木幻斎と戦う前は、御前に仇なすものはすべて潰すことができる『滅堂の牙』であると思っていた。

それが当然だとも思っていた。

しかし、お前が居た。

外に出た世界。

自分が極めたと思っていた武の頂ともいえる『先の先』をこんな少年が完璧な形で使えるとは。これからも満足いく戦いができる出会いが外には待っているのだろう。

死ぬまで。

だから『俺』は、今楽しい。

 

「アンタ」

 

動きながら、刃牙が声をかけてきた。

 

「笑ってるぜ」

 

笑っている。

ああ、笑っているのだろう。

確かに笑っているとも。

だけどな。

お前だって同じだろう。

楽しいだろう。

笑ったまま、アギトは拳を出した。

刃牙が喋ったそのほんの一瞬、呼吸が途切れたのだ。

そこを見逃さなかった。

右のパンチ。

パンチ、と呼んでいいのだろうか。

少なくとも既存の格闘技にこのような大ぶりの攻撃はない。

近いものはロシアンフックだろうか。豪快な、フルスイングであった。

今までの『武』の攻撃とは異なり、人が変わったかのような豪快な一撃。

これこそがアギトのもう一つの『型』、無形である。

その本質は暴力。

アギトの本能から繰り出される『型』のない暴力であった。

黒木幻斎と戦った時に『進化』したそれは、武のモードとこの無形を瞬時に切り替えることができるようになった。

この形のない一撃を出したところで、アギトの意識は一度途切れる。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

――――やるよ。どうせ乗ってる暇もないんだからな。

 

思えば、あれが旅の始まりだった。

 

(―――――)

 

あいつの言うように、十分すぎる名馬だった。

一度乗ってみたかったそいつは、初心者ライダーである自分に忠実に、どこまでもついてきてくれた。

 

(―――――――)

 

あれ?

誰だ?

誰が俺を見下ろしているんだ?

鷹山じゃない。

 

(――――どうだい?)

 

範馬刃牙だ。あの動画で見た、親子喧嘩の―――?

何故ここに?

そもそも私は倒れているのか?

あおむけに?

いつから?

何があったんだ?

 

(―――――まだ続行(つづ)けるかい?)

 

いつから私はこの男と。

そうだ、思い出した。

この男と戦っていて、無形を放ったのだ。

そうしたら何かをくらって記憶を飛ばされたのか。

あれは、右の上段蹴りだったか。

 

「当然ッッ!!」

 

 

 

 

加納アギトが手をつき、起き上がる。

飛ばされたのは一瞬だけだった。

 

「初めてではないなッッッ!!!!無形の暴力と戦うのはッッッ!!!」

「ん~~~~~。初めてではないっていうか――――」

「―――――」

「それが、当たり前だった?」

「…何?」

「初めては13歳の時だったかな。飛騨の奥山に居る夜叉―――まあ、バカでかいゴリラみたいなのと戦ってさ。」

「―――――」

「――――そっからはヤクザ。軍隊。プロレス。中国拳法。地上最強の生物。

地下でも、地下以外でもいろいろやったよ。

こないだは白亜紀最強の戦士ともやった。」

「ピクルか?」

「そう。だから、慣れっこなんだよね、こういうの」

「――――素晴らしい。」

 

言いながら、アギトがいきなり右脚を跳ね上げた。

右の上段蹴り。武術的な、まっすぐで隙のない蹴りだった。

 

―――顔。ハイキックね。

 

顔をそらす。

脚に薙刀が突き刺さった

 

「ッッッッ!!!!????」

 

突き刺さった瞬間に、飛んで逃げた。

ローだ。

上に跳ね上がると見え、頭部まで飛んできた蹴りが、コンマ一秒前に軌道を変えて暴力的な下段蹴りになったのだ。

もうすこし遅ければ、加納アギトの靴の爪先が刃牙の太ももの肉を突き破るところであった。

 

――――今のは?

 

刃牙は言葉を呑み込んだ。

今の今までは確かに、武術的な攻撃を出すときは、武術的な攻撃の『まま』であった。

だから、突然スイッチされても問題はなかった。

武か暴か、スイッチされようが意識の起こりを読める自分にとっては、先に宣言をされながら攻撃されるようなものだ。

怖くはなかった。

しかし今のは?

 

「カッ」

 

アギトの眼が、くるりと動いて白目になった。

呼気と、その右のミドルに対して左手を下げて脇腹を防御するが

――――加納アギトの左の拳が飛んできた。

眼がくるりとまた動き、黒い目が戻ってきていた。

まっすぐな、良い正拳であった。

残った右腕でガードするが、刃牙の体が崩れる。

 

――――間違いない。

 

刃牙の額から冷たい汗が流れた。

このわずかな攻防ではあるが、刃牙にわかったことがある。

この男は強い。

そして上手い。

それはもちろんなのだが、これまでは刃牙にとって対応できる攻撃ばかりであった。

狙いも正確で、逆にそれが読みやすかった。

刃牙はさきほどと変わったことはとくにしていない。

となれば、この変化の原因は間違いなく加納アギトにある。

しかもその原因が――――

 

――――まいったね。このタイミングで進化って…

 

アギトが、『進化』していたのだ。

これこそが加納アギトの真骨頂。闘いの間に『適応』し、相手に合わせた最適の回答を見つけて『攻略』する。これを範馬刃牙は理解したのだ。

今までのようなただのスイッチではなく、直前に『スイッチ』することによって、より『当てる』ことに特化させた動きになっている。

もちろん、直前で動きを変えるという事は筋肉に大きな負担をかけるので威力も落ちる。

だが、重いのだ。

重いというのは、攻撃そのもののことではない。

確かにアギトの攻撃は十分な重さがある。

しかし、例えばガオランや大久保のような体重が十分にあるような相手では効果は薄いだろう。

刃牙クラスの体重の相手を攻撃する、という意味では十分に重いのだ。

 

「まずいな、こりゃ」

 

刃牙が、焦ったように笑った。

 

「カアッッッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

アギトが吼えた。

叩いた

叩いた

叩いた

拳と脚を次々に打ち込んでいく。

無形で叩く。

武で打つ。

武の蹴りが直前で無のパンチとなる。

無のフックと見せかけて武の回し蹴り。

加納アギトは止まらない。

範馬刃牙はそれをかわす。それを受ける。

手で。脚で。肘で。膝で。

受けて、流して、防御する。

そこでほんの一瞬、加納アギトが止まった。

時間にするとコンマ数秒、本当に一瞬すぎるくらいの一瞬であった。

その一瞬だけ、隙が生まれた。

フェイントのためなのか。

何かに迷ったからなのか。

わからないが、とにかくほんの一瞬だけ加納アギトに隙が生じたのは事実だった。

それは普通の戦い――――いわゆるボクシングや空手の試合であればどれほどのこともないわずかな隙だ。普通ならば隙とも言えない隙だ。

たとえ相手が加納アギトでもつくことの難しいわずかな隙だと言っていい。これはそのような隙であった。

ただ、一点普通の隙とは違ったことがあった。

ミスで起こる隙とは違い、この隙は加納アギトによって『作られた』隙だということだ。そして、アギトはこの隙を範馬刃牙が見逃さないと知っていた。

知っていて待っていたのだ。

刃牙がわずかに下がったガードに対して右を放った。

その攻撃に対してアギトはガードを上げなかった。

代わりに、それより先に右脚で大地を蹴った。

蹴ってその攻撃をかすめるようにして避けながら、体ごと刃牙に密着する。

密着しながら拳を水月に当てた。

踏み込んだ力を利用し足から発生した衝撃。

その衝撃をそのままに腰に伝え、胸に伝え、腕に伝え――――最短距離から最小限の動作で最大の効果を発揮する打撃を範馬刃牙に行った。

黒木幻斎に、初見泉に放った寸勁と似るこの技を、アギトは『龍弾』と名付けた。

 

 

 

 

 

 

 

緊急時、人は物を考えない。

あらゆる単語が脳内を疾りまわる。

 

(罠

無理

尊敬

寸勁――――)

 

真正面だった。

かわせなかった。

受けるしかない技であった。

範馬刃牙の放った拳の間の、狭い空間に加納アギトが入り込んでいるのだ。

その技が、刃牙の腹部で爆発した。

 

――――龍弾、炸裂。

 

体重差実に52キロ。

刃牙の体が宙に浮いた。

 

――――ちぎれたッッ!?

 

刃牙の脳裏に浮かんだものはそれであった。

自分の体がである。

自分は何か隠し持っていた爆薬か何かで吹き飛ばされ、上半身だけがこうして宙を舞っているのではないかと錯覚していた。

背から地面に落ち二回か三回バウンドした後、刃牙は自分の背中と脚が草の感触を衣類越しに味わっていることからまだ自分の下半身が失われていないことをようやく理解した。

意識はしっかりしている。しっかりしているが―――刃牙は思い出していた。

この、どろどろにとけてなくなりそうな甘い痺れを。

 

―――――気持ちいいや。

 

拳願試合の元・王、加納アギトの最大火力。

それは懐かしい感覚だった。

父・範馬勇次郎と少年時代に立ち会った時の記憶。

アメリカ最強の男、ビスケット・オリバの全力。

白亜紀最強の雄、ピクルの一撃。

あいつらとやった時はいつも―――――

 

 

 

 

「まだ続行(やれ)るのか…」

 

少し驚いた顔をしている。

何驚いてんだい。

しかもそんな遠いとこから追い打ちもかけずに何のつもりだ。

 

続行(やれ)るじゃない。」

「―――――」

続行()るんだよ、俺らは」

 

わかるんだよ。

あんた、強いな。

強すぎるくらいだ。

兄さん。

オリバのおっちゃん。

あの人たちとも変わんねえよ。

何も変わんねえ強さだ。

だからさ、溶けるんだよ

身体がね。

こう、どろどろになって。

どろどろになるだけじゃとまらなくって。

溶けてって。溶けてって。溶けてって。

そしたらさ、

ほら、出た

―――鬼だ。

 

「堪能させてもらったよ。」

 

刃牙が立ち上がった。

 

「!?」

 

アギトが目を見開く。

立ち上がった、というのは正確ではない。

それだけでもアギトは驚く。

地下闘技場の王とはいえ、初見を葬るきっかけとなったあれを叩き込んだのだ。

だが、本当に驚いたのは立ち上がったことではない。

その起き上がり方と地面だ。

腕も、足も、頭も。

何も使わずにそのまま、地面から垂直に刃牙が跳ね上がって、立ったのだ。

信じられない復帰の仕方であるが、今まで刃牙が寝ていた地面に何かがある。

あれはなんだ?

土に刻まれたあの模様は?

いや、模様じゃない。

貌だ。

しかも、とびきり凶悪な―――

 

「そうか。」

「――――」

「これが、鬼の貌か。」

「知ってたんだ」

「最強のヒッティングマッスル。

親子喧嘩を見て以来。一度見ておきたかった。」

 

少年のように、新しいアニメを見る前の子供のように笑いながらアギトは言った。

険の取れた、柔かい笑顔だった。

それを見て、刃牙も笑った。

 

「はは…」

「―――――」

「なんかこう、アンタにばっか見せてもらってばかりな気がするね。」

「―――――」

「その…申し訳ないなって。」

「構わない」

「イヤイヤイヤ。だって大変でしょ?」

「―――――」

「いきなり住み慣れたとこ出て外の世界来てさァ。」

「―――――」

「そんな箱入り娘にもてなされてばっかりってものなんていうか…こう。

こっちも気を遣うよね。」

「―――――」

「だから、俺もなんかしなくちゃあって思ったんだ。」

「―――――」

使用(つか)わせてもらうよ、こいつを」

「!?」

 

刃牙が、構えた。

それを見たアギトは驚愕した。

それは奇妙な構えであった。

すべてが奇妙で見たこともない構えだった。

まずは脚が奇妙だった。左足が前、右脚を可能な限り後ろに置いている。

次に腰が奇妙だった。腰を深く深―く。それこそ胸が地面につくような勢いで落としたうえで。

最後に腕が最も奇妙だった。

左腕は顔の下に拳が、右腕は顔の上に拳が。あたかも角のように突き出るように構えていた。

およそ格闘技では見たことのない奇妙極まる構えであったが、アギトが驚いたのはその構えにではなかった。

 

(~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!???)

 

背後、いや少年だ。この少年の形が希薄となり、浮かんでくるものがある。

浮かんできたそいつは、まるで山のようであった。

まず体がでかい。

体長?といっていいのか。優に8m。もしかしたら10mくらいはあるかもしれない。

次に頭部がでかかった。成人男性二人分はあろうかという三本の大きな角と、盾のように上部に張り出した頭部の襟飾りがただでさえでかい頭部をことさらに大きく見せている。

正面から見ても横から見ても、でかいだろう。

現代の生物では考えにくいくらい、何もかもがでかい。

幼いころか、御前の元に行ってからかは忘れたが、確実に図鑑か何かでみたことがある。

ていうか、これって、どう見ても…

 

(ト、トリケラトプスかッッッ!!!????)

 

刹那―――、それが猛進(はし)った。

慌ててその角をつかんだ。

掴もうとして、鼻の方にある三本目の角が胴体に突き刺さった。

 

―――これは、なんなのだ?!

 

吹き飛ばされながら、これはなんなのだろうと加納アギトは思っている。

武、ではあるのだろう。

形意拳とは動物をまねてはいるものの、動きを『人間流』にアレンジしたものだ。

そういう意味では、これは武なのかもしれない。

しかし見たこともない動物を真似て、そのうえでその動物――――恐竜の力をそのまま発揮できるこれは、武なのだろうか。

無、でもあるのだろう。

しかし自分のような形のない暴力とは違い、野生の猛獣が暴れるようなそれは暴力とは呼ばない。ましてやトリケラトプスがその角でもって突っ込んでくることを暴力とも無形とも呼ぶわけがない。

加納アギトにはわからなかった。

そもそも、この範馬刃牙という男は人間なのか。

人間でありながら恐竜になれるなどということが、この世で起こりえることなのだろうか。

もしかしたら自分は幻想の中で、この世のものではない何かを相手にしているのではないだろうか。

加納アギトにはわからなかった。

わからないまま、地面に落ちた。

何メートル飛ばされたのだろうか?

正確な数字はわからないが、空き地の端から端まで吹き飛んだことはわかった。

 

「~~~~~~~~~~ッッッ!!!!」

 

意識はクリアだ。全身の感覚もしっかりある。

ただ、腹の感覚がなかった。

腹に大きな穴が空いていた。向こう側まで見えるんじゃないかというくらい、大きい穴が空いているのだ。

立ち上がる。

 

「ッッッ!!!!!!!?????」

 

立ち上がった時のこの苦痛をどう表現すればいいのか。

痛い―――なんていう表現では到底済まされない。

一度ちぎれた体を無理やりつなげ合わすような――――?

ダイナマイトを呑み込んで腹部が爆発して、尚生きていたときのような――――?

どでかい鉄塊で腹を串刺されたような――――?

痛みとしてはこういうものが適当なのかもしれない。

ただ、痛いよりもとにかく苦しかった。

呼吸ができないのだ。

巨大な手で体の内側を無理やりひねりつぶされたような苦しみだった。

耐えろ。

そう思いながら膝を立てた時、

 

「オエエエエエッッ!!!!」

 

吐いた。

黄色い胃液と今朝食べたものと、血が地面にぶちまけられた。

 

「ゲエエエエエッ!!!」

 

吐いた。

拳願試合でなくてよかったと心底思った。

滅堂の牙であればこのような無様な姿、御前にはとてもでないが見せることができない。

手の甲で口を拭う。

横隔膜がせりあがっているのがわかる。

呼吸が浅く、まともに酸素が体に行き届いていないのもわかった。

苦しかった。だが、不幸ではなかった。

 

「―――――よ、―――った」

「ん?」

「…よかった」

「何がだい」

「いろいろだ」

「いろいろね」

「だが、一番は外に出て見聞を広めようと決断したことだ。」

「―――――」

「本当に牙をやめてよかった…」

「―――――」

「君のような漢に出会えたのだからな」

「ハハ…照れますね」

「こんなにも強い男がいるなんて、思っても居なかったのだ」

「俺より強いやつはいますよ」

「それでもだ。こんな体験は拳願試合ではできなかった――――」

「―――――」

「―――だから、よかった。」

「―――――すごいな」

 

ふらつく足を叱咤しながら起き上がるアギトに対し、刃牙が言った。

アギトの前髪が揺れている。ポマードで固めた髪が、汗で溶け始め髪がたれ始めてきているのだ。

 

「内臓損傷。骨折複数。しかもその骨が、肺に突き刺さっている。」

「――――――」

「それでもなお、まだアギトさんはやろうとしてくれている。

この時間を終わらせるまいと立ってくれている。」

「当然だ」

「当然?」

「私には何もなかった。」

「―――――」

「親も。兄弟も。親しい人も。何もかもがなかった」

「――――――」

「人生。ある時期まで良いことなど何一つなかった。」

「――――――」

「そんな私を支えてくれたもの。御前、そして闘いだ。」

「――――へえ」

「我闘う。故に我在り。闘いこそが私の存在の証明ッッ!!」

「―――――」

「だから、闘うのだ。」

「ワカったよ」

 

刃牙が、頭をかきながらいった。

そして、もう一度構えた。

 

加納アギトは、対角線上にいる範馬刃牙を見つめていた。

あの龍弾。

あれが、完璧に入ったはずであった。

進化した自分のスイッチをフェイントにした拳を、その体に叩き込んだのだ。

おもいきり。

自分の最大火力を叩き込んだのだ。

息だってあがっていた。

勝った。

そう思っていた。

だというのに。

 

「―――――」

 

叩かれている。

叩きまくっている。

蹴られている。

蹴っている。

しかし、打っているうちに、蹴っているうちに範馬刃牙がさらに早くなるのである。

自分より52キロも下なのに真っ向から打ち合える身体。

こういう肉体もあるのか。

驚嘆すべき肉体であった。

技とか、

意思とか、

そういうのもすごいが、この肉体はそういうものを超えている。

これは範馬の血というとんでもない肉体を持つ男との戦いなのだ。

それを、加納アギトは荒い呼吸を繰り返しながら思っていた。

肉を打つ。

肉を打たれる。

蹴る。

蹴られる。

殴る。

殴られる。

殴蹴打

拳殴打

痛い。

苦しい。

傷ついている。

しかし、範馬刃牙の肉体は嬉々としてそれを楽しんでいるようであった。

この自分だって同じだ。

楽しんでいる。

この男でなければ座り込んでいるかもしれない。

でも、まだ立って闘っている。

なんという濃い時間か。

こんな小さい肉体でありながら自分と真っ向から闘える身体。

素晴らしい。

自然に微笑んでいた。

見れば、刃牙も刃牙で微笑んでいるように見えた。

ボコボコに変形した顔で笑っていた。

自分もきっとそうなのだろうと思った。

そうだろうと思いながらお互いの顔面にお互いの拳が突き刺さった。

膝が揺れる。

手が止まる。

おい。

止まってくれるな。

俺の身体よ。

こんな楽しい時間を――――

そこで、刃牙が口を開いた。

 

 

「アギトさん。」

「――――何かな」

「俺、今から技を出します。」

「―――――――」

「この技が、俺にできる最高の技です。」

「―――――――」

「俺、頭悪いんでよくわかんないですけど」

「―――――」

「これが、そんなになってまでも続けてくれる貴方に対する礼儀だと思うから…」

「わかった。」

「―――ありがとう。」

「…礼を言うのはこちらのほうだ。」

 

 

加納アギトが構えなおした。

対して刃牙は、構えを解いた。

どうするつもりなんだ。

警戒を詰めるアギトの予想とは裏腹に、刃牙はさらに構えを解いた。

さらに、というのは正確ではない。

緩んでいるのだ。

全身から力を解き、ふらふらとしている。

眼もどこかうつろだ。

力を抜いている、と言えばそうなのかもしれない。

武術でいう脱力というのならきっとそうなのだろう。

しかしこのレベルの脱力を、この次元の戦いで?

アギトにはわからなかった。

 

「行きます」

 

わからないまま、もう一度衝撃が襲ってきた。

ぶつかってきたのだ。

その衝撃のイメージは、新幹線だった。

あの線路を奔る鉄の物体が、そのMAXのスピードをそのままに、いきなりぶつかってきたのだ。

範馬刃牙の、いや人間が出せるスピードとは思えなかった。

そもそも、いきなりMAXのスピードというのもおかしな話であった。

あのウィルバー・ボルトだって、御雷だってそんなことは不可能だ。

――――人間じゃない。

――――これが範馬。これが最強。

――――さすがだチャンピオン。

そう思ってから、アギトの思考は闇に落ちた。

気持ちのいい、闇であった。

 

「ゴキブリタックル…です。」

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「して、負けたと」

「はい。」

 

徳川邸。

そこで、二人の男が座して向かい合っていた。

徳川光成と、加納アギトである。

 

「どうじゃった?刃牙は」

「強かったです。私が後れを取った黒木幻斎と、なんら変わらぬほどに」

「じゃろう。刃牙からも聞いておるよ」

「―――――」

「素晴らしい戦士じゃったと。自分が負けた範馬勇次郎、ピクルとなんら変わらぬくらいには、とな」

「恐縮です。ご老公」

 

改めて、加納アギトが背筋を伸ばした。

真剣な顔で、光成を見た。

そのまなざしに、光成も真剣にアギトを見た。

 

「なんじゃ」

「彼が最強である、そういわれましたね」

「うむ、言った」

「しかし彼は、彼より強い男がいると言っていました。」

「うむ…おる。」

「そして、彼は地下でいろいろな戦士とやったと言いました。」

「うむ、やった。」

「ご老公。」

「なんじゃ」

「ぜひ、私は地下闘技場の猛者たちとッッッ!!!」

 

徳川は笑った。

口を、Vの字に吊り上げて、にぃぃと笑った。

 

「もちろんじゃッ!!!」

「ありがとうございます」

「なんなら対抗戦じゃッ」

「対抗戦?」

 

にいぃと笑いながら、徳川は答えた。

 

「拳願会VS地下闘技場ッッッ!!!!

どっちがつええか決める、対抗戦を開くんじゃッッッ!!!!!!!」

 

 

 




誤字脱字報告、感想等お待ちしております。
次々回から、第二部の対抗戦編が始まります。多分。


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第九話 血

どうやら日間ランキングにランクインしたようで。
頭を下げずにはいられない。謝りたいと感じている。
だから感謝というのだろう。本当にありがとうございます。


「寝ているな」

「うん」

 

ビルの屋上で双眼鏡を覗きながら、男と女が言った。

黒いタンクトップにベージュのハーフパンツの女と、

同じく黒の、薄い上着に白いインナーとベージュのパンツを着た男であった。

変った男女であった。

年とか

組み合わせとか、

体形とか、

そういうところではない。

単純に見た目が変わっていたのだ。

二人共眼が黒い。

瞳が黒いのではない。むしろその逆だった。

瞳の部分が白くそれ以外の部分が黒いのだ。

常人の眼の構造とは明らかに異なっている。

それは突然変異によるものではなく、品種改良の末に作られた人間の業の産物。

1300年もの時をかけて作り上げてきた、伝説の一族である証だった。

 

「風水、しっかり見張っておけよ。よそ見している間に逃げられましたってのが最もキレられるからな」

「わかってるよ変造ニィ。そんなへまはしないし…何より、向こうにその気がない。」

 

呉風水と呉変造。それが男と女の名前であった。

彼らがこの夜の森に居る理由、それはある男を見張るためである。

そのきっかけとなった男の発言を変造は思い出していた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

『今回の仕事はターゲットの生け捕りじゃ。失敗は許されん。』

 

先週の夜、呉一族200名ほどを集めた会合の中で長である恵利央が言った。

内容自体はたまにある任務であった。

金さえもらえばなんでもやる呉一族にとって、誘拐や暗殺と言った闇の仕事は特に珍しい事でもない。

だから今回の任務に関しても、やること自体は特に珍しい事でもなんでもないのだが、変造には違和感があった。

その違和感の源は恵利央である。

 

――――なんか、いつもより気合い入ってね?

 

変造だけではない。

ここにいる一族全員がなんとなく察していた。

呉恵利央、91歳。呉一族の最長老にして仕事を取り仕切る事実上の一族長。

長としての風格を備えた冷静な老人であるが、今回の声には妙な力が入っている。

知らぬものならわからないが、恵利央をよく知るものであれば何とはなしに様子がおかしいことに気付く。

それくらいの変化であった。

そして、長自身そのことに気付いていた。

気づいていたので、その原因を口にした。

 

『今回の依頼主は、三階。自由主民党幹事長の三階じゃ』

 

―――マジ?国から?

 

長の発した一言に変造が息をのむ。

周囲も驚いたのであろう。

取り立てて騒ぎ立てたりはしないが、ところどころでつぶやいたり小声でささやきあったりしている声が聞こえる。

それもそのはずであった。

呉一族と国とのつながりは5年前に途切れているのだ。

 

五年前、朱沢グループ総帥の娘、朱沢江珠がある『男』に殺害された。

激怒した総帥が秘書の静止を押し切り、グループ関係者である議員に『男』の殺害を打診したのだ。

グループと懇意であった議員は総帥の言を聞き入れ、呉一族にその『男』の殺害を打診する。

当時、勢力を拡大中であった恵利央は一も二もなく乗った。

ここで成功すれば、国家に取り入ることができる。そうなれば、呉一族の存在と仕事についてお墨付きを得たも同然であるからだ。

乗り掛かった舟に勇んで飛び乗った恵利央を嘲るように、その『男』は恐るべき破壊を実行する。

 

―――――調査に出た偵察班を破壊し、

―――――実行に出た精鋭100名を真っ向から破壊し、

―――――恵利央の眼の前で側近をバラバラに破壊したのだった。

 

呉一族、1300年の人体改良をあざ笑うかのように、その男は圧倒的な身体能力だけで一族を半壊状態にまで追い込んだのだ。

まともに付けた傷は恐らく一つもない。

それ以来、国からの連絡は途絶えた。

日本だけではない。

各国の行政機関、特にその『男』を知るところからは見向きもされなくなってしまった。

一族に声をかけることによって『男』と敵対していると思われたくないからだ。

屈辱であった。

しかし、同時に理解もした。

この世には触れてはならぬものがあるのだと。

それ以降、呉一族の中で一つのルールができることになった。

 

『範馬勇次郎、触れるべからず』

 

これが恵利央が出した結論であり、国との関係が途切れることになる原因であった。

そして今回、その国から打診が来たのだ。

 

『皆も知っての通り、5年前の事件以降国と我が一族の関係は絶たれている。

またとない機会じゃ。故に、此度の任務には相応の気持ちで臨んでもらいたい』

 

そこで、恵利央の言葉がいったん止まった。

目に力が入る。

杖の取手がみしりという音を立てる。

知らずのうちに血管が浮き上がり心拍数が上がっている。

口をVの字に吊り上げながら、恵利央はもう一度口を開いた。

 

『それでは今回の標的を言い渡す。

ピクル”。今回の任務は、ピクルの捕獲じゃ』

 

会場がざわついた。

無理からぬことであった。

この日本―――否、この世界に住む者たちにとって、彼の存在はここ最近のトップニュースであったからだ。

原人ピクル。

曰く、1憶9千年前からよみがえった原人――――

曰く、塩漬けの層から出てきた男――――――――

曰く、恐竜を捕食する雄――――――――――――

曰く、衆人環境での人気キャスター強姦―――――

逸話に事欠かない男。

全人類にとっての文化遺産。

生きた世界遺産。

ピクルとは、世間ではそういう存在であった。

そして、その認識は呉一族も変わらない。

変らないからこそ、驚いたのであった。

 

――――――アメリカさんにいい顔したい、政治家のご都合かね。

 

変造は心の中でそうつぶやいた。

事実、その通りであった。

その通りであったがゆえに、恵利央はそれ以上の背景を口にしなかった。

余計な混乱を生まぬためである。

 

『さしあたって…今奴がある郊外の森に居るとの情報が入った。

発見し、準備ができ次第麻酔銃で持って生け捕りにすべし』

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「――――よしわかった。」

「――――」

「風水。ライフルの準備だ。」

「いいけどさ…これマジなの?こんだけ撃つつもり?

しかも、あいつ寝てるよ。」

「マジだ。シロナガスクジラだってそんだけ打ちこみゃ眠るだろう。

それに、直前で起きたり仕留めそこなっても困る。」

「それはないけどさあ…」

 

風水があきれながらに弾の入ったバッグ…というよりトランクを指さした。

その量、優に数十キロ。

やれやれとでも言いたげな目でライフルを組み立て始めた。

 

「持って帰るのがだるいんだよね。」

「わかるけどな。念には念を入れたいんだろう」

「はいはいっと…」

 

軽口を叩きながら、スコープをのぞき込む風水。

ライフルの上部に取り付けられた8倍スコープからは大の字になって悠々と寝ているピクルの姿がしっかりと確認できた。

 

――――しっかし、リラックスしちゃってまあ。子供みたいだね。

 

そう思いながらも手は抜かない。

抜かないがゆえに、風水の眼に血管が浮かんだ。

尋常ではない量である。

そもそも、少なくとも眼球にエッジがぼこりと浮かぶことなど常人ではありえない。

 

「よし…外したな」

「うん」

 

これこそが呉一族が呉一族たる所以の秘伝、『外し』である。

通常、人間は脳のリミッターにより3割程度力しか使えないように枷がかかっている。

この枷がなければ、人体はその力に耐えきれずに崩壊するからだ。

しかし呉一族は長年の品種改良により、そのリミッターを外してなお肉体が崩壊せずにいられるのである。

この『外し』、潜在能力の開放率に個人差はあれど常人ではありえないほどの力を得る、という点で共通している。

奇しくもそれはガイアや刃牙が行う脳内麻薬の開放による身体能力の強化に酷似していた。

そして、今ライフルを構える風水の開放率は24%。

高くはないが、こうしてライフル越しに目を『外す』ことにより対象のどんな動作も見過ごさずに打ち抜くことができる。

事実、今までそうやって風水は仕事をこなしてきたのだ。

 

「ならもう一度確認だ。

カウントダウン後、風水が麻酔銃を打ち込む。

その後、近くにまで近づいている精鋭部隊が麻酔針か縄で持って対象を捕獲する。

オーケー?」

「オーケー」

「カウントダウンだ。」

「――――――」

「5」

「――――」

 

『外し』たその瞳でのぞき込む。

いまだ原人は眠っている。

 

「4」

「――――」

 

トリガーに手をかける。

狙いは外さない。

外しようもない。

寝ている男に麻酔弾を打ち込む、ただのそれだけだ。

 

「3」

「――――」

「2」

「―――――」

 

力を込めた。

その瞬間だった。

雄が目を覚ましたのだ。

覚ましただけではない。

立ち上がっている。

いつ立ち上がったのか。

わからなかった。

自分は片時も目を離していない。

ましてや『外し』てまで動体視力を上げているのだ。

その自分が、見過ごすのか。

自分でなくてもいい。

変造でもいい。

ホリスでもいい。

一般人でもいい。

1秒前まで寝ていた大男の立ち上がる瞬間が『見えない』などということがありえるのだろうか。

だが、現にこの男は立ち上がって、こちらを見ているのだ。

鮮やかに、こちらを見ていた。

 

(うそでしょ!?この距離で!??)

 

疑いようのない真実だった。

それはスコープ越しに覗いている8倍スコープ越しに目が合ったことから嫌でもわかった。

 

『―――――ッッ』

 

「1」

「待って――――」

 

変造。そう言い切ることができなかった。

ちゅどッッッ!!!!!!!!

何かが爆発したような、そんな音と共に風水のスコープが白一色に染まった。

 

「な、なんだッッ!!!」

「ピクルが起きたッッ!!!」

「なんだと、お前―――」

「さっきまでは寝てたッッ!!けど起きてッッ!!」

「そんな――――」

 

―――――バカなことがあるか

変造はそう言おうとした。

言おうと、動かそうとした口がそのままの形で止まってしまっていた。

風水の後ろに一頭の獣が立っていたからである。

 

「ハルルル…」

 

向かい合った風水の、真後ろの空間。

だだっ広い、なんの変哲もないビルの屋上。

そういうふうに見えるはずであるのだが、今や変造の視界のほとんどがこの獣で埋まっていた。

大きい肉体。

大きい腕。

大きい指。

大きい脚。

大きい首。

大きい顔。

大きい目。

剥いている牙さえもが大きい。

褌一つのほぼ裸の格好であるが、それが不思議と様になっていた。

ただ立っている、それだけで獣の放つ気がむんむんと立ち上ってくるようであった。

強烈な存在感とオーラ。

人の形をとっているが、根本のところが現生人類とは明らかに異なる雄。

ピクルであった。

 

(いつの間に

でっけえ~~~

この距離で

ばれた

ふんどし?

怒ってる)

 

「…変造」

 

風水は言った。

背後は振り返っていない。しかし、わかるのだ。

そこに、居る。

 

「ルララ…」

 

予知能力じみた獣の第六感。

1キロ以上離れたところから一瞬で辿り着く驚異的脚力。

風水は今、ピクルという稀代の獣に心底恐怖していた。

風水は、食われる前の獣の気持ちを理解したのであった。

恐る恐る、振り返る。

 

「ハルララッッッ!!!!!!!!!!!」

 

瞬間、ピクルの身体がぶれた。

少なくとも、変造にはそうとしか見えなかった。

それと同時にめしゃあ、とかどぐしゃあという音が上がり、目の前から風水とライフルの姿が消えうせた。

 

―――――アッふぁー(パー)…はっはほ、ほほう(だったと思う)。

 

後日、風水はぐしゃぐしゃになった下あごを抱えながら、病院でそう答えた。

だが、変造ではその拳の軌跡を見ることがかなわなかった。

そして、風水の身を案じることもできなかった。

またしてもピクルが『ぶれた』ところで、変造の意識は途切れているからだ。

 

 

 

 

 

 

 

ビルからそう遠くない、森の中にテントが張られていた。

大きい、少なくとも十名以上は入ることのできる大型のテントであった。

これこそが呉一族の『ピクル捕獲作戦』の司令部である。

 

「クソッッ!!偵察班がやられたッッ!!」

「実行班―――――ッッッ!!???!!どうした実行班ッッ!!」

「連絡がつかねえッッッ!!!やられちまったか!!!???この一瞬で!!???」

「下だッッ!!風水がビルの下で倒れているッッ!!」

「銃が通じないッッ!!??そんなことがあるかァッッ!!!」

「バカヤロウッ!!そんなことよりターゲットは――――!!!」

 

今、その司令部が混乱に陥っていた。

呉一族の誰もが、事の次第についていけていなかった。

寝ていたと思っていたターゲットが、物の数秒の間に立ち上がって消え去り。

あまつさえ1キロほど離れた所に現れて偵察部隊を壊滅させる。

何より、これを呉一族に対して一人の人間が行ったということが何よりも彼らにとって信じがたいことであった。

交錯する怒号と非難。そんな中、一人の男が立ち上がった。

黒いジャケットに白のパンツを身にまとい、

黒髪の、ぼさっとした髪をした男であった。

 

「落ち着け。」

 

低く野太い、しかし透き通るいい声であった。

その声が上がった瞬間、ぴたりと喧騒が止んだ。

男の名はホリス。

『鬼哭童子』、呉ホリス。

外しの開放率は80%を超え、呉一族でも屈指の実力を持つ男である。

 

「人の形をしているが、こいつは獣だ。

一頭の知性の高い獣を相手にしていると思え。」

 

ホリスが言うと同時に、男が立ち上がった。

肉が厚い。

脂肪もあるだろうが、恐らくそれ以上の筋肉で全身が覆われている。

その厚い肉体に、フォーマルなスーツをまとった男であった。

 

「やれやれ、面倒な任務だな」

 

『鬼牛』、呉堀男であった。

この男もホリス同様、呉一族では屈指の実力者として名の通る男であり、『あの』ムテバ・ギゼンガと死合、生き残った傑物である。

 

「ここからは、俺と伯父貴の二人でやる。お前たちはそこでいったん待機だ。」

「これ以上、犠牲を増やすわけにはいかんからな――――」

 

そう言って、堀男はテントの外に足を踏み出した。

 

「全く、行動の早い―――ん?これは伯父貴のナイフか?」

 

ホリスがテーブルの上にあるナイフを手に取った。

ムテバと戦った時にもこれを使ったらしい、愛用のナイフである。

まだテントから出てすぐだ、そう遠くまでは行っていまい。

 

―――渡しに行くか。ついでに俺も出よう。

 

そう思い、外に出た。

出たのだが――――

 

「――――伯父貴?」

 

見当たらない。

ホリスの背中に嫌な汗が流れた。

いくら伯父貴が外していようと、こんな数秒の時間で目につかないところまで行けるものか。

いや、そもそも自分が気づかないということなどあり得るのか。

 

―――――慎重に。

 

たらりと、額に汗が浮かぶ。

渡すはずのナイフを、自然と構えた。

同時に、どしゃっという音がホリスの真横で鳴った。

何らかの、肉が落ちた音であった。

同時に、何らかの飛沫がホリスの貌を濡らす。

瞬時に振り向いた。

振り向いて、叫んだ。

 

「伯父貴ッッッ!!!」

 

落ちてきた肉は、堀男であった。

異様な倒れ方であった。

うつ伏せに、地面で顔を隠すように堀男は倒れている。

だが、足りないのだ。

堀男の体に何かが足りない。

その足りない何かに気付いた時、ホリスは戦慄した。

腕だ。

倒れ伏した伯父の頭の横には右手と、肘から先のない腕があるのだ。

驚愕よりも、怒りがホリスの胸の中にこみあげる。

熱した鉄のような激しい怒りであった。

その怒りに呼応したのか、ざっと草を踏み分ける音がした。

背後に獣臭が立ち込める。

 

「ピクルッッッ!!!!!!!!」

 

叫び、振り向いた。

振り向くと同時に、ナイフを振った。

だが、それよりもピクルの足の方が速かった。

丸太のように太い脚がホリスの腹に向って伸び切ってきたのだ。

その蹴りが、真正面からホリスにぶつかって来た。

とてつもない衝撃であった。

前蹴り。

いや、原人にそもそも前蹴りとか、パンチとかそういう思考はない。

ピクルとしては思いっきり足を前に出した。

それだけである。

特別な仕掛けは何一つない。

その右脚がホリスに向って走っていった。

だが、それには原始の力と速さが込められていた。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!????」

 

不可能だった。

捌こうとか、

ガードしようとか、

避けようとか、

そういう思考すらわかなかった。

わく暇すらないままに、脚をぶつけられたのだ。

ホリスは既に『外し』ている。

外していてなお、捉えられぬほどの速度。

地面と水平に飛びながら、30メートルは離れた木にぶちあたってとまった。

その衝撃をホリスが味わう事は無かった。

蹴られた瞬間に、意識が体の外にはじけ飛んでいたからだ。

 

 

 

 

 

 

原人は退屈していた。

こいつらは動きの統率がとれているものの、一人一人は弱い。

1300年の人種改良の歴史を持つ呉一族も、1億9千万年前から来た最強の雄にとってみれば、ひ弱な現代人とそう大差ない存在であった。

少なくとも、自分の脅威になったり遊び相手を務められるような連中でないことは確かだった。

刃牙(ダチ)克己(かれ)(あいつ)のような男達ではないからだ。

 

そのことがわかっていたから、放置していた。

見られていることは最初から知っていたが、放っておいていた。

野生動物が人間の姿を目にしてもすぐには逃げないように、たいして危険でもない存在は相手にするまでもないからだ。

ただ、アクションを起こすのが面倒なだけだ。

―――――しかし長いな。

頭でこういう文字を考えたわけではない。

しかし、原人はこういった的なことを考えていた。

それに、数も多い。

遠くから見ているやつもいれば、近くに潜んでいる奴もいる。

――――5分経過。原人は無視。

――――6分経過。原人は無視。

――――7分辺りで逃げる気がない事を悟った。

――――8分くらいのところで、やつらが牙を剥いたので腹が立った。

そして、10分くらいのところでだいたいのやつらは片付いた。

片付いたところで、ピクルは食事にしようかと思った。

思ったが、何かが足りない。

ピクルの内部でまだ醒めていない何かがあるのだ。

まだ、猛っている。

まだ、吼えている。

血が。

肉が。

魂がまだ足りないと叫んでいるのだ。

身をよじっているようであった。

何かが燻っているのだ。

この感情はなんだ―――そう思った時に、ここ最近の男達の事が脳裏に浮かび上がって来た。

最初の(あいつ)はすごかった。

見たこともない攻撃をたくさん仕掛けてきた。

次の克己(かれ)もすごかった。

あんな小さい体に、巨大な牙を身に着けるまでの修練。尊敬に値する男だった。

その次のジャック(やつ)は怖かった。

蘇るなんて聞いていなかった。

最後の刃牙(ダチ)は強かった。

強すぎるくらいだった。

だからなのだろう。

そういう連中と闘い、食してきたから足りないのだ。

だから、足りない。

燃え残った何かが自分の内側でくすぶっている気がした。

それに、恐竜(あいつら)もいない。

あそこまで、とピクルは思う。

あそこまで、やらなければ―――――。

あそこまでやれるやつが居るのだろうか、ここに。

 

「クカカカッッ!!マジで全滅してやがる!!」

 

―――――いた。

立ち上る獣臭。

敵意と殺意をむき出しにした悪意の塊のようなものが迫ってきている。

原人が、後ろを振り向いた。

その瞬間に、何かが顔にぶつかった。

顔面に、一撃をもらった。

 

「ケッッ。この程度じゃあ挨拶にもなりゃしねえか」

 

眼の前の雄が、吐き捨てるように言った。

恐らく、拳をぶつけてきたのはこの雄だろう。

その雄は嗤っていた。

嗤ってはいるが、むき出しの殺意がそこにあふれていた。

野生の獣でいうならば、牙を剥きだしにしてこちらを見ているようなものだ。

その感覚に、ピクルはなつかしさを感じていた。

有無を言わせず襲い掛かり。

殺意と敵意を隠そうとせずに爪と牙を剥けてくるそのどう猛さは、ある意味現代(ここ)で出会った誰よりも恐竜(あいつら)に近かった。

 

「クカカ…原人にも感情ってもんがあるんだな」

 

いい。

こいつはいい。

雄は歓喜していた。

さきほどまでの、餌どころか遊び相手にもならぬ者たち。

そいつらにひとしきり失望した後だったからだろう。

笑みがふきこぼれる。

あんなやつらの後で、こんな玩具が来るなんて。

髪が逆立つ。

たまらない雄であった。

愛しくって、

かわいくって、

抱きしめたくって。

ピクルは、たまらずとびかかった。

 

 

 

 

 

 

この男がここに来たのはたまたまであった。

たまたま、恵利央が話している任務の内容を小耳にはさんだから、暇つぶしにぶらっと歩きにきたのだ。

恵利央はこの男を、今回の任務に召集していない。

生け捕りの任務に同行させるべきでないと判断したからだ。

無理からぬことであった。

それは、この男の生来の凶暴性故である。

もしこの男が履歴書を書くのならば、趣味と特技の欄にはこういうことがかかれるだろう。

 

―――――趣味・気に入らないやつを殺す事

―――――特技・気に入らないやつを殺す事

 

あらゆる意味で最低の自己紹介であるが、事実その通りであった。

有り余る凶暴性と悪辣さ。

そこに、一族屈指の才能が加わり手の付けられない暴君と化している。

異端の多い呉の中でも、とりわけ目立つ存在。

禁忌の末裔の『魔人』。

開放率100%を誇る天才児。

男、呉雷庵とはそういう存在であった。

 

 

 

その魔人が今、はじき飛ばされていた。

 

―――オオッッ!!????

 

技も何もない、ピクルが手を横に振り回しただけの動作。

たったそれだけで雷庵の身体が宙に浮いた。

左肘でガードはしている。

そのガードの上からはたかれ、飛ばされたのだ。

真横に10mほどすっ飛ばされた。

少したたらを踏んだが、着地はなんとか両足からできた。

両足で立ち、改めてピクルを見る。

山だ。

巨大な山脈が雷庵の前にそびえたっている。

巨大な人の肉体。

それが、ただ立っている。

それだけで大きい。

その肉体が、急に大きくなった。

動きの初動が見えないのだ。

同時に、何かがくると思った。

見えたわけではない。

魔人の直感が、本能的に顔面を両腕で庇ったのだ。

じゃどおっ

そういう音が聞こえた。

少なくとも、雷庵の耳にはそういうふうに聞こえた。

 

「オ゛オ゛ッッッ!!!???」

 

再度、魔人が宙を舞う。

ありえない衝撃であった。

闘技者として、呉一族として闘いの日々を送る雷庵である。

むろん、蹴りの威力もそれによって人間がどれくらい飛ぶのかもよく知っている。

だが、自分が飛んでいるこの距離はその常識をはるかに凌駕していた。

それにこの力――――ダンプカーにはねられたと言われた方がまだ雷庵としては納得できる話であった。

今度は足から着地できなかった。

どうと、もんどりうって倒れた。

それを見て、ピクルは笑っていた。

朗らかに、笑っていた。

まるで幼い子供が玩具の人形を振り回して遊んでいるかのように、楽しそうに。

 

―――――嘗められている。

 

魔人は直感で分かった。

言葉を発せぬがゆえに、その貌がありありと伝えていたのだ。

 

「―――――――殺す」

 

雷庵が、切れた。

びきぃという音と共に、雷庵の貌にエッジが浮く。

それだけではない。

色が変わった。

全身の色が赤く、血管が浮かんできているのだ。

これこそが『外し』

呉一族でも最高の開放率を誇る100%の外しであった。

 

「――――――」

 

この姿を見た瞬間、ピクルの表情から微笑みは消えうせ。

雷庵は「遊び相手」から「餌」への昇格を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

「行くぜ、原人」

 

二つ、三つ呼吸をしてから雄が前に出てきた。

さっきより早い。

一気に前に出てきたので拳を振りかぶったのだが、その下をかいくぐられる。

正面から、ピクルにぶつかってきた。

次の瞬間、雄の拳が嵐のように降り注いできた。

ごつん。

がつん。

ごつん。

ガツン。

重い拳だった。

それが立て続けにピクルの身体にぶつかってくる。

頭部と言わず、ボディと言わず、魔人の拳と脚がピクルを叩く。

殴られ、蹴られているが、ピクルの脳に去来しているものは痛みや苦しみではない。

 

――――ここからなのだな

 

こういうものであった。

戯れの時は終ったのだ。

こいつは、克己(かれ)と同じように牙を剥いたのだ。

温和で弱弱しかったものが、不意に危険な液体を吐くように。

弱小なサイズではあるが、その戦力は十分自分の『餌』として足る。

 

「オラァッ!!!!」

 

雄が自分の脚を蹴る。

左足の内側に、思いっきり叩き込んできた。

効きはしない。

しないが、いい。

すごくいい。

襲い来る強敵。

これだよ、これ。

こうでなくては『食い甲斐』がないだろう。

原人が拳を振りかぶった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハルララッッッ!!!!!」

 

叫びながら、ピクルが右の拳を真上から振り下ろしてきた。

それを、雷庵が両腕でブロックした。

 

「ぐおッッ!!??」

 

にも関わらず、雷庵の顔面が地面にたたきつけられた。

重い。

重すぎる拳であった。

経験したことのない事態である。

むかつくやつは殺してきた。

気に入らないやつも殺してきた。

それは自分が強かったからだ。

戦闘集団呉一族、その中でも最高の天才と称される自分が強かったからだ。

どんな相手だって倒してきた。

ちょっと強いやつが居ても、『外し』を使えば簡単に蹂躙できた。

そうだな。

まともな試合をしたのは変身した十鬼蛇。

あいつとだけだ。

だがこいつは。

どれだけ拳を当てても倒れない。

倒れないどころか、拳を当てて、次の拳を当てるまでにダメージが回復しているのだ。

もしかしたら、そもそも全く効いていないのかもしれない。

こういう肉体があるのか。

今だって、パンチのたった一発でこうやって地面に転がっている。

急ぎ立ち上がる。

立ち上がったところに、丸太のような脚が降って来た。

バックステップで距離を――――

取らせてもらえなかった。

自分が下がるよりも、ピクルが踏み込む方が圧倒的に早いからだ。

信じたくなかった。

両腕で、顔面を庇う。

そこに拳がぶち当たった。

そもそも、これを拳と呼んでもいいのだろうか。

骨とか、肉ではない何か別の物体が原人の身体を構成していて、その謎の物質でぶん殴られたのではないか。

雷庵はそんなことを考えてしまった。

そんなことを考えてしまうくらい、こいつの拳は別次元だった。

別次元すぎて、体が宙を舞った。

魔人、三度空を飛ぶ。

 

―――――通じねえ。

 

雷庵の脳裏に去来した言葉は、これであった。

呉一族。

戦闘に特化するために多種多様な人種と掛け合わせ、人種改良に及んできた1300年の歴史。

その歴史が通用しないのだ。

ジュラ紀、1億9千万年前から来た肉体にはまるで通じちゃいないのだ。

バランスを崩しながらも、着地する。

 

――――理解ったよ。

 

ここまで来ると馬鹿でもわかる。

認めたくないが、認めなければならなかった。

肉体での勝負はムリだ。

己の膂力を持って思うがままにならない存在を許すことはできない。

出来ないが、世の中にはそういう男もいるのだ。

あの男だってそうだった。

トーナメントで闘い、自分に土をなめさせたあの男。

十鬼蛇王馬。

あいつは『技』で俺に勝ったが、こいつは『力』で俺に勝っている。

『力』だけでは勝てない戦いもある。

そういうことは、十鬼蛇との戦いで学んだ。

学んだからこそ―――――

 

「クカカ」

 

雷庵が嗤った。

実に、楽しそうに嗤った。

口角が急角度に持ち上がった、凄惨な笑みを浮かべている。

その貌に、ピクルが拳を振り下ろした。

振り下ろして、そのまま回転した。

200キロを超えるピクルが、宙で回った。

 

「技ァ。使わせてもらうぜ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

――――回転している。

 

原人はそう考えていた。

 

――――これは、あれか。こっち(現代)に来てすぐ味わったあれか。

 

不思議な何かである。これは、楽しかった。

赤い髪をおったてた、あいつ(勇次郎)から食らったあれ。

まっすぐに押し合っていたはずなのに、いきなり自分の身体が横に回転したのだ。

突風でもない、風なんて吹きようがない環境で。

そして、今再び自分の身体が廻っている。

横にではない。

縦にだ。

縦に回っている。

だが、問題ない。

こんなもの、あいつ(トリケラトプス)の突進をくらってぐるぐる吹っ飛ばされた時に比べたらなんてことはない。

このまま、廻ってやろう。

このまま廻って、地面から着地する。

こいつの思惑を外れて、着地する。

正しく。

その時にあいつの貌をぶん殴ってやろう。

脚がそろそろ地面につく。

 

――――今ッ

 

そう思ったところで―――――地面が空から降って来た。

 

「クカカカカカッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

秘投必殺。

ここに、呉の投げが見参した。

 

 

 

 

 

「わかったか原始人?これが人間様の『知恵』ってやつだ」

 

普段から蹂躙するあまり、技なんてめっきり使っていなかったが。

こうしてみると、まだまだ自分の技も錆びていないものだということがわかる。

あのトーナメントで敗れて以来、技の方もそこそこ真面目にトレーニングしてきた甲斐があったというものである。

甲斐があったからこそ、こうしてこの原始人は無様に寝っ転がっているのだ。

以前同じ技をしかけた連中のように頭が破裂しなかったのはさすがというべきだが、ダウンしているなら同じことだ。

 

――――踏んで終るか?それとも極めて終るか?

 

来る暴虐の未来に舌なめずりをしたところで、眼があった。

雷庵の眼が大きく開かれる。

そのまま、雷庵は大きく上を向いた。

ピクルが、大きく跳ね上がったのだ。

立ち上がったのではない。

その右手で。

その左手で。

その右脚で。

その左足で。

4つの腕と足で、地面を思いっきり叩き上にはねあがり。

4つの腕と脚で、地面に着地した。

呉一族――――その改良に改良を重ねた1300年の歴史はただひたすらに見事というほかない。

しかし、それは突き詰めるとどんな『人間』にも負けない『人間』を作るための行為に他ならない。

あくまでも、対『人間』。

対、二足歩行!!!!

 

「―――――カカカッッ。マジで獣だな、オイ」

 

なんという。

なんという構えか。

雷庵はそう思った。

およそ人間同士の戦いでは、見たこともないほどの前傾姿勢であった。

近いものを上げるとするならば、トーナメントで見た相撲取りの『ぶちかまし』。

あれに近いが、あれよりもさらに低い。

最も近いのは、あれだ。

ライオンとか。

トラとか。

ああいう大型の猛獣がとる戦闘態勢。

そういうものであった。

前進。

前に進む以外はすべて排除した突進の体勢である。

 

「いいぜ。受けてやるよ、原始人」

 

雷庵が言った。

言って、正面から見据えた。

 

「言葉はわかんねーだろうが、理解(わか)るだろ。」

 

両腕を腕の下に。

ティラノサウルスの手ように、構えている。

前傾姿勢で、構える。

呉一族として。

魔人として。

この前進すると誓いを立てた獣を、破壊する。

そういう心づもりであった。

それを、ピクルは理解した。

理解した刹那、獣の五体は発火。

4つの『足』で、地面をえぐれるほどに強く蹴った。

身体を炎の玉とし、雷庵に打ち込んできたのだ。

Tレックスを屠った時のあの――――

トリケラトプスを打ち砕いた時のあの――――

ブラキオプトルを怖気づかせたときのあの―――――

(あいつ)を倒したときのあの日の全力(マックス)を。

ぞくりと、雷庵の背中の毛が逆立った。

 

「カッッッ!!!!」

 

思いっきり右腕を放った。

『外し』、開放率100%の雷庵による、渾身の右ストレート。

 

「―――――――――――――――」

 

古代の原種による矛――――

その矛が、現代の改良を重ねた盾に激突し。

盾を砕き散らした。

 

「――――――――」

 

魔人、本日4度目の宙。

しかし、雷庵がその宙を見ることはかなわなかった。

矛が刺さったその時には、眼がぐるんと回転し、意識がどこかに行っていたからだ。

故に本日は矛盾なく。

矛の勝ち。

 

 

 

 

原人の眼から涙がこぼれた。

殴られた痛みからではない。

悲しいからだ。

食らう事は、別離を意味する。

呪われた運命。

凶暴なる食欲を満たすために、今からこの雄と別離れるのだ。

だから―――――

おい、待てよ。

いいところなのに。

さっきからこのばらばらうるさいのはなんだ。

これから食うってのに――――まぶしい?!

 

 

「雷庵ッッッ!!!!!」

 

ピクルの上空十数メートル。

そのヘリから、恵利央が叫んでいた。

―――雷庵が来た。

そういう報告を受けて、呉の屋敷から恵利央が飛び出したのだ。

雷庵が殺してしまうかも。

そうなれば国との関係は水の泡だ。

そうならないように長である自分が駆け付けたのだ。

自分が思ったこととは真逆の事態が起きているが、この光景を見る限り結果的に来てよかったと思った。

自分が来なければ、雷庵は間違いなく死んでいただろう。

食われて。

一族としては醜態である。

一族100名近くをもってしても、原始人を捕獲するどころか有効的な攻撃を何一つ加えることができなかったのだ。

国との関係も、今度こそ絶たれるだろう。

しかし、雷庵を失うわけにはいかない。

そう思ったからこそ、叫んだのだ。

原人と目が合った。

珍しく――――この原人にしては、珍しく不機嫌そうな顔をしていた。

不機嫌そうな顔をしながら、後ろを向き、森の中に奔っていった。

 

―――――ピクル、森中に姿を消す。

 




誤字脱字報告、感想等お待ちしております。
次回から第二部の対抗戦編が始まります。


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第二部 対抗戦編
第十話 義


今回から対抗戦編が始まります。



「い、今なんて!?」

 

大きい目を、さらに大きくぐりっと見開いた山下が言った。

 

「”対抗戦”を行う。そういったのだよ。」

 

対照的に、目の前の男は淡々としていた。

前髪を上げ額を晒し。

青っぽい何やら高価そうなスーツに身を包み。

マホガニー製の机の上で手を組み。

要するに、いつもと何一つ変わらない調子で山下に告げたのだった。

 

「地下闘技場と対抗戦を行う。

この決定に変わりはないということが、拳願会の総意だ。」

 

男の名は乃木英樹。

山下商事が所属する巨大企業、乃木グループの会長であり。

現拳願会会長を兼任する男である。

山下とは絶命トーナメント以来苦楽を共にした存在であり、上司と部下以上の信頼関係がここにはあった。

 

「乃木会長…

あえて言わせてもらいますが、”煉獄”との様々な調整も秒読みの段階です。

この時期の対抗戦、というのは少し厳しいものがあるのではないでしょうか。」

「違うな山下くん。“今だから”なのだよ」

「…理由をお聞かせいただいても?」

「ああ。だが、理由を説明する前に一つ確認しておきたい。

煉獄との対抗戦が、”外敵”からこの日本を守るために必要な行為である。

その認識は持っているね。」

「はい。」

 

よどみなく山下は答えた。

この日本にはいくつか「裏格闘技団体」が存在する。

ルールが違ったり、出ている選手層が違ったり、規模が違ったりとそれぞれまちまちではあるが巨大な金がその裏に存在している点についてはほぼ共通していた。

それらが現在群雄割拠状態で、更に拳願会内部でも我が我がと覇を争う戦国時代の様相を呈しているのである。

今の状態では、諸外国からの『外敵』が資本力にものを言わせて侵略していた場合食い物にされる。

そういった危険をはらんでいるのだ。

だからこそ煉獄と『対抗戦』の後組織統合を行い、外敵に立ち向かうというシナリオが乃木と山下の共通認識であった。

そして、国内統合をするためには抑えなければならない巨大団体が三つ存在する。

一つは、山下や乃木が所属する拳願会。

もう一つが、今話題にのぼった煉獄。

最後の一つが―――――

 

「故に、”地下闘技場”と密約を結ぶのだ。煉獄との戦い、外敵との戦いに寝首をかかれないようにね」

 

地下闘技場。

東京ドームの地下に存在し、あの『範馬』が所属する闘技場である。

しかし煉獄や拳願会と違い、この闘技場は「代打ち」の場ではない。

企業と企業が何かを賭けて争ったりだとか、

巨大な金が動いたりするだとか、

そういったものがない。

そもそもこの闘技場に企業が関わったりすることは基本的にはない。

なぜなら、この闘技場での戦いに金が出ないからだ。

選手たちに支払われる金がなければ、企業同士の取引もない。

ないがゆえに、純粋に闘いのみを求める男たちがここに集う。

金とか。

権力とか。

しがらみとか。

そういったものに左右されずに、純粋な力だけを競いたいものがここにあつまってくるのだ。

ならば拳願会とは関係ないのではないか――――。

事実、そこまでかかわりはない。

関りはないが、運営している男が問題であった。

第13代徳川財閥当主、「徳川光成」。

日本のありとあらゆる場所に存在する徳川グループの総帥であり、その資産規模のあまりの大きさ故に時の総理でさえ挨拶に伺わねばならない男。

純粋な資産量だけ言うなら、あの「豊田出光」を超えるとまで言われている。

それに加え、この男には問題行動を起こす癖があった。

 

“あの爺さんにはほとほと困っているわよッッ”

 

そういう拳願会員もいる。

人を丸のみできる大蛇を連れてきた。

ノーベル賞受賞者、アルバート・ペイン博士を無下に扱いながらピクルと闘技者を戦わせる。

野生のシベリアトラの密漁疑惑。

そういう、倫理観とか常識とか。

そういうものをあまり持ち合わせていないのだ。

噂はまだある。

東京タワーという説も、スカイツリーという説もある。

どちらであるかははっきりしないのだが、多くは大きい塔の地下であるという説で一致している。

その地下で何かを企んでいる、というらしいのだ。

何かとは何か。

核実験というものもいれば、クローンを作っているという者もいる。

そもそも地下なんてあるのか。

本当であるなら一体だれが伝えたのか。

嘘であろうというものもいる。

第一、クローンや核実験ならばなぜ地下なのか。

クローンであったとしても誰のクローンなのか。

 

「徳川さんならやる」

 

そういう者もいる。

クローンでは権威的科学者を呼んだとか。

死刑囚と繋がっているとか。

ヤクザと繋がっているとか。

そういう者もいる。

徳川自身ではこんなことを語ったりはしない。

だから徳川に問うても

 

「カッカッカッ」

 

こう笑うだけである。

これらのことが真実であるかどうかは置いておくにしても、徳川を知る人物で、これを耳にしたものすべてが口をそろえて言う事がある。

 

「ああ。徳川さんならそれくらいやるでしょう。」

 

徳川光成。

そういう人物であるらしかった。

こういう気まぐれな核弾頭のような男が外敵と組まれたときどうなるか――――まったくもって予測がつかない。

だからこそ、先手を打って組んでおきたい、ということなのだ。

だから乃木が提案した、徳川光成との密約に拳願会としても異論はない。

異論はないが―――――

 

「試合形式は、ギャラは、どうするんですか?」

 

山下が訪ねる。

問題はここであった。

基本的にノーギャラで行われる地下闘技場。

拳願会としてはOKでも、『どこ』が『誰』を出すのか。

出したところでメリットはあるのか。

そういう疑問が出てくる。

もっともだ、と乃木が頷いた。

頷いて、それに答えた。

 

「試合形式は9対9の紅白戦だ。場所は地下闘技場を使うことになっている。

ギャラについても問題ない。」

「問題ない―――――ですか。」

「この対抗戦の参加者には、徳川光成氏が主宰するパーティに参加できることになっている。」

「パーティ?」

「そうだ。だが、ただのパーティではない。

ここのパーティには主催者の徳川氏をはじめ、

現総理大臣、阿部氏、

トラムプ氏

ブーチン氏、

周氏、

ゼフ・ベゾス氏――――

古今東西のありとあらゆる政治・資産家が集うことになっているのだ。

可能ならば呼び寄せることもできるらしい。」

「それって――――」

「そうだ。どこの誰とでも問答無用にパイプをつなげる。

我々には喉から手が出るほどほしいもの。

これを、用意しようと徳川氏から打診されたのだ。」

「――――――」

「これならば、十分ペイは取れると踏んだのだろう。

既に数社から対抗戦に出してほしいとの連絡が来ている。」

 

結局のところ、徳川光成が訴えたのは「力」であった。

徳川財閥の持つ人脈という人脈。

それらの中から好きなものをやるから出ろ――――そう訴えたのである。

企業側からすれば、このチャンスを逃さない手はない。

闘技者を出すだけで、世界最高クラスの指導者との接点が作れるのであるならば利用しない手はない。

しかも、無料でだ。

 

「どこからでしょうか。」

「西品治警備保障会社、『今井コスモ』。

八頭貿易、『ガオラン・ウォンサワット』。

既にここからは参戦が確定している。」

「コスモくんとガオランくんか!

この二人なら、勝ちがぐっと近くなりますね。」

「そうだ。特にコスモくんは向こうの参加者と、何やら因縁ができたようでね―――」

「因縁、ですか。」

「そのようだ。私も忙しかったので詳しくは聞かなかったが。」

「―――――」

「そしてもう一社、ついさっき参加が確定した会社がある。」

「どこでしょうか。」

「若桜生命。阿古谷清秋の参加が確定した。」

「か、彼が!!??」

「理由に関しては―――そうだな、これを見たまえ。」

 

そういって、乃木は一枚の新聞紙を机の上に置いた。

今日発行の、なんてことのない新聞だったが山下にはわかった。

記事の内容を見た瞬間に理解したのだ。

阿古谷が出る理由と、その対戦相手が。

 

『東京の花山組襲撃!!??犯人はいったい?』

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

太い男と、細い男が並んで歩いていた。

細い男の眼は細く、鋭い。

腕も体も細くシャープな男であった。

黒のジャケット、黒のパンツに虎模様のシャツ。

派手ないでたちではあるが、前髪をきっちり額に上げて一本も乱れていないところから彼の几帳面さがうかがえる。

男の名は木崎。

五代目藤木組系暴力団花山組若頭――――要するにヤクザである。

 

太い男の方は――――圧倒的。

そんな表現しか見当たらない巨躯の持ち主であった。

『ガタイがいい』という領域はとうに超えている。

太い。

すべてのサイズが規格外の男であった。

指が太い。

手も。

胸も。

首も。

脚も巨大(でか)い。

拳も巨大(でか)い。

創もある。

大小問わず、場所問わず。

拳にも、貌にも、恐らくはその全身にも。

明らかに普通ではない経歴を思わせる。

その普通ではない肉体を白一色のスーツが包んでいた。

分厚くせり出した太い胸の筋肉が内側から押し出しているのは、派手な紫色のシャツと白いネクタイである。

太い頸が入っているその襟元には、ひし形の四つの辺から更に角のように尖ったバッジが見える。

そのスーツの下から男の放つ気―――オーラのようなものであろうか。

それがうっすらと陽炎のようにゆらめいている。

強烈な存在感とオーラ。

見ているものが思わず振り返るような、そこだけスポットライトがあたっているような光芒をその男は放っていた。

この男こそ、花山薫。

五代目藤木組系暴力団花山組二代目組長―――――要するにヤクザの組長である。

そんな組長とその側近が組の事務所に帰っていた。

事務所に帰って門をくぐった時、

 

「―――――――ッッッ」

「こ、これは…ッッッ!!!」

 

眼を見開き、立ち尽くしていた。

 

男達は朝、外出をした。

むろん、留守番をする家族がいる。

組の者だ。

血は繋がっていない。

しかし、共に飯を食らい共に笑う彼らの事を漢達は家族と思っていた。

組の者たちも、漢達のことを家族と信じていた。

夕方、帰宅する。

するとどうだ。

家族が、血を流して倒れている。

歯が折れている者もいる。

腕が折れているものもいる。

顔面がえぐれているものもいる。

気を失っているものも、いないものもいる。

様々であるが、皆立てず、喋れずにいるという点に関しては一致していた。

留守番は―――――

当然行われるものと思っていたために、立ち尽くす男二人。

それが、今の彼らであった。

しかし、いつまでも茫然とはしていられない。

気を取り直すように、木崎が叫んだ。

倒れている一人を抱き起して叫んだ。

 

「―――おいッッッ!!!!

どうしたッッッ!!!!

何があったッッ!!」

「~~~~~~~あ、あにき…」

「しゃ、喋れるかッッ!?

「に―――――」

「に?」

「人間――――じゃ、ねェ…」

 

そう言って、男の身体から力が抜けた。

眼を開いたまま、全身から力がすっと抜けたのだ。

木崎の眼に、熱いものが浮かぶ。

 

「大将――――――――ッッッ!!!

大将~~~~~~~~ッッ!!」

 

走ってくる男が居た。

金髪をリーゼント風に丸め、額の両端に切れ込みを入れている。

アロハのTシャツにゆるんだパンツ。

それに小さい。

恐らく身長は150かそこらくらいだろう。

背だけではなく、肝っ玉も小さいのがその泣きはらした顔から見て取れる。

典型的なチンピラ。

そういういで立ちの男がどたどたと走ってこちらに向ってきた。

 

「KEN

KENかッッ!!?」

 

田中KEN。

先代の七回忌を忘れたりするポンコツではあるが、どこか憎めない男。

花山からもかわいがられている。

その男が、両眼から一杯の涙をこぼしながら走って木崎と花山の元に駆け付けてきた。

木崎と花山が見た所、KENに目立った怪我はない。

それどころか血もついていない。

安堵しながら、木崎が訪ねた。

 

「無事だったんだなッッ!!

何が――――」

「おれんことはいいっすッッ!!

それよりッッ!!それよりこっちにッッ!!!」

 

木崎が言い終わる前に、KENが花山の腕を取った。

取って、上の方を残った左腕で指さした。

花山組事務所の、組長室だ。

その様子に花山と木崎は少し驚いた。

このKENという男はこんな騒ぎ方をする男だったか?

男ができていると言えず、冗談が好きでお調子者。

そのくせどこかぼんやりしていて、大事を大事ととらえることのできない器。

かわいいやつではあるが、少なくともこういうふうに焦って取り乱したのを見た事は無い。

見たことがないからこそ、事態の重要性が理解できた。

倒れ伏す家族には悪いと思いつつも、組長室まで駆け上がる。

KENを抱え、階段を木崎と共に二段飛ばしで駆け上がる。

駆け上がり、三階の組長室のドアに手をかけた。

ドアノブが握り潰れるのも意に介さず強引に押し開けた。

押し開けた所で、固まった。

 

「―――――――――――――――ッッッ」

「こ、こりゃあ…ッッッ」

 

―――――凄惨。

部屋の中の状態を、ひと言でいえばそうなる。

壁にかけていた国旗は、無残にも切り裂かれ。

応対用の椅子と机はその原型を留めることがなく。

コンクリートの壁と床には、恐らく何らかの衝撃でつけられた無数のクレーターとひびが入っていた。

そして何より。

おぞましい量の血があらゆるところに飛び散っている。

天井にも、

床にも、

壁にも。

いたるところに真新しい血痕が付着していた。

そして、その血の主はすぐにわかった。

見た瞬間に理解できた。

 

「―――――レ」

 

山が、部屋の奥にそびえたっていた。

巨大な人の肉体。

それが、立っていたのだ。

ただただ、立っていた。

真っ赤に染まった山が、傷一つついていない花山の勉強机の前で沈黙していた。

白目をむき、意識がどこかに行ってしまっているようにも見えた。

知っている。

花山も、木崎も、KENも、この山を知っていた。

否、この貌とこの身体を知っていた。

無造作な金髪。

えぐり取られたような貌の創痕。

ゆるんだズボンに髑髏の黒い上着をまとったこいつは――――

 

「レックスッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

登倉竜士――――通称『レックス』。そう呼ばれる男であった。

そのレックスが、立ったまま気絶していた。

叫んだ木崎が近寄ろうとして、何かを踏んだ。

ぴちゃりという、湿った水のような何かだ。

まだ、レックスは3m位先だ。

 

(血が――――流れすぎている)

 

冷や汗を流しながら、ごくりと唾をのんだ。

そして、振り返った。

振り返って言った。

 

「KEN―――――救急車だ。ありったけ用意してもらえ。」

「は、はいッッ!!」

「それが終ったら、納得のいく――――説明をしてもらうぞ」

 

KENが携帯で病院にかけている。

その横にたたずんでいる花山を見た。

表情は読めない。

眼鏡が光の反射できらめき、どういった顔をしているのかは木崎から見ることができなかった。

ただ。

その固く握りしめられた巨拳。

そこから滴り落ちる血の滴が、花山の心を雄弁に語っていた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

その男は、ふらりと現れた。

具体的な時間はわからない。

20時とか、21時くらいだったとかいう者も居る。

ただ、夜であり、更に人気のない時間帯にいきなり現れたという点については全員の意見が一致していた。

幽鬼のように、前触れもなく。

どこからともなく、花山組の事務所の前に現れたのだ。

 

「―――――どちらさまで?」

 

組員が剣呑な調子で声をかけた。

フツウでない男たちが、メンチを切りながら、数人で男を囲んでいる。

褒められた行為ではないが、無理のないことでもあった。

ヤクザである彼らから見ても、この男はあまりにも怪しすぎた。

全身を上から下まで。

黒い鎧のようなもので覆いつくし。

頭部も同じような材質の黒いヘルメットをかぶっており、完全に顔が隠れている。

そして、肉の分厚い男だった。

鎧のようなスーツが張り詰めているところからも、ぱんぱんに肉が詰まっているのが理解できる。

身体が大きい。

花山よりは少し小さいが、それは花山が大きすぎるためだ。

常人からすれば、十分な巨体であった。

現に、組員達も冷や汗を流しながら見上げている。

そこで、目が合った。

黒いヘルメットのガラスから、右目だけがちらっと見えたのだ。

目が合った組員は言葉を発することができなかった。

全身に鳥肌が立ち、背中につららをぶちこまれたような感覚に陥った。

 

「―――――」

 

その黒い男が、養豚所の豚でも見るような、冷酷な目であったからだ。

 

KENはその時、二階でくつろいでいた。

くつろいで二階の窓際でその様子を見ていた。

KENの視線の先に黒い男と4人の男がいる。

黒い男がドアの前に立ち、その周囲を包んで4人の男たちが取り囲んでいる。

その背後に、ちかちかと煌めく電灯があった。

男達は手を出して立っているものもあれば、ポケットに手を突っ込んでいるものもいる。

ポケットに手を入れているものは、恐らくナイフをその手に持っている。

妙なことをすれば、即出す。

そういう面構えもしていた。

そして、それは黒い男もわかっているように見えた。

なんで逃げないんだろうな?

KENはそういうことを考えていた。

今ポケットに手を突っ込んでいる人間の一人をよく知っている。

いつも抗争の時には目を輝かせ、その抗争のためにいつもナイフを研いでいるような危ないやつだ。

そいつのナイフは、手入れされているだけあってよく切れた。

一回使っているところを見たことがあるが、刃が肉にするりと入るのだ。

それを、胸や脚に入れてぐるりと回す。

内臓とか筋肉とかがずたずたになる。

あばらの間に潜り込ませて骨を削ったこともあった。

花山のためならそういうことを平然とできる男であった。

だが、黒い男はそんな男を目の前にしても平然としていた。

ついに、男がナイフを抜いた。

 

「それ以上、ドアに近づかない方がいい。」

「―――――」

 

ナイフの男が言った。

黒い男は何も言わないし、何の構えも取っていない。

ただ、無造作にそこに立っているだけだ。

 

「俺らが言うのもなんだけど、あんたみたいな怪しい人間をそのまま通すわけにはいかないよ。」

「―――――――」

「なんかさあ、変にイキった恰好しちゃってるけどねえ。

そんないで立ち見てびびるような人間はチンピラだ。

そういうモンは今ここにいないよ。」

「―――――俺には全員、チンピラに見えるがな」

 

黒い男が、初めて口を開いた。

 

「あんた、極道を相手にしてるんだぜ。

そういうことを言っちゃいけないね。こちらは舐められたら終わりの商売なんだ。

そういうことを言われると、こっちも本気に―――――」

「本気だから来たのだ。」

 

黒い男が、指の関節を鳴らしながら言った。

 

「貴様らに念のため言っておく。俺は『正義』だ」

 

悠然として言った。

 

「逃げても、追いかけて正義を執行する。向ってきた者も、躊躇なく正義を執行する。

加減はしない。最低でも明日から自分の脚で立てなくしてやる。

貴様ら悪が、まっとうな生を謳歌できると思うな」

 

男が言い終わる寸前――――

 

「しゃあ!!」

 

ナイフを手にした男が、それを突き出してきた。

それが、当たった。

否―――当たったように思えた。

 

「これより、正義を執行する。」

「~~~~~~~~~~~ッッッ」

 

ナイフを持っていた男が右手を押さえて倒れ。

その横に、『ナイフと右手』がどちゃりと地面に落ちた。

 

「「「「「!!!!!!!!!!???????」」」」」

 

KENも、周囲の男も何が起きたのかわからなかった。

当然だった。

この黒い男は、彼らが目にも止まらない速度で右手をつかんだ後。

二回、三回とねじって右手首を手に持っているナイフごとねじ切ったのだった。

そしてそのまま、もだえ苦しむ男の頭部を踵で思いっきり踏みつぶした。

スイカが地面に落ちたような音と主に男の身体がびくんと撥ねた後、全く動かなくなった。

この段階でようやく、男達は理解した。

 

「てめえッッッ―――――――――――――!!!!!!」

「スッゾオラアッ―――――――――!!!!!!!」

「舐めんな―――――!!!!!!」

「お、応援を―――――!!!」

 

思い思いに叫んだ。

激高するもの。

敵討ちに燃えるもの。

びびるもの。

男達は本能的に、いろいろと叫んだが。叫び終わることはなかった。

 

「――――――――――」

 

黒い男が、叫び終わる前に男たちの声帯を素手でえぐり取っていたからだ。

頸の肉ごと、荒々しく。

しかし、チンピラでは到底見えっこないような圧倒的速度を持ってして。

KENは、椅子から崩れ落ちた。

崩れ落ちたところで、黒い男は手に付着した肉を丸めたティッシュでも捨てるかのように後ろに放り投げた。

放り投げ、ドアノブに手を回した。

 

「敵だァァァ――――――――――――――ッッッ!!!!

敵が入ってきているぞォォォォ――――――――――――ッッ!!!!」

 

組員の反応は早かった。

最近まであった源王会との抗争以来、こういうことには特に敏感になっていたからだ。

皆が、思い思いの武器を取り、入って来た男に対してとびかかる。

 

 

「拳銃。

ナイフ。

日本刀。

機関銃―――――――」

 

黒い男は何をするでもなく、そのままするすると歩いて行き。

突き出されたナイフをかわしながら男の顔面にハンマーナックルを叩き込み。

 

「―――度し難し」

 

ナイフをもった男の顔面が完全に凹んだ。

背後から振りかぶられた日本刀が、まだ初動のうちに。

 

「――――悪徳は栄え」

 

黒い男の太い右脚が二つの睾丸を砕き散らした。

 

「うげえええッッ!!!」

「世は荒廃する」

 

日本刀を持った男が、口から泡を吹きながら床を転げまわる。

その顔面を踏みつぶしながら、歩いていく。

 

「野郎ッッ!!」

「くそがっっ」

「死ねやッッ!!」

 

銃を撃つものも、機関銃を鳴らすものも居た。

それを、男は残像が残るようなスピードで走り抜ける。

はしり抜けながら、次々に命を奪っていった。

何発かは当たっていた。

かわしきれずに、黒い鎧に銃痕がいくつかついていた。

ただし、それだけだった。

この鎧がどういう素材でできているのか。

ゴムなのか。

鉄なのか。

それともほかの樹脂のような何かなのか。

わからなかったが、男の動きに何一つ支障がないことが見て取れた。

 

「度し難しッッ」

 

(ま、機関銃(マシンガン)より強ええ…ッッ!!!!)

 

次々と殺戮していくその姿に、KENは恐怖した。

同時に、二階から降りてくるんじゃあなかったと思い急いで階段を上った。

幸いやつはまだ、こちらに気付いていない。

逃げるため、でもあるがそれ以上に重要なことがあった。

逃がさなければならない。

自分ではなく、あいつを。

ふらりと訪れ、組長室で大将が帰ってくるまで待っているカタギのあいつを――――

 

「――――なになに?」

「な―――――」

「なんか、やってんの?」

 

そいつが、やってきた。

のそり、のそりと。

巨大な灰色熊のように、階段の上からそいつが歩いてきた。

 

「レックス!!!」

 

レックス。

花山薫のダチであり、一般人。

人間には見えない巨躯の持ち主ではあるが、れっきとした一般人である。

KENが叫んだところで、黒い男がぴたりと止まった。

止まったまま耳に手を当てた。

 

「――――聞こえるか、檜山」

『――――ええ。聞こえるよ、阿古谷』

 

今、無線越しに阿古谷と呼ばれた男こそが、この黒い男。

若桜生命所属闘技者。

並びに警視庁第44機動隊隊長、警部。

拳願試合戦績40勝1敗。

“処刑人”阿古谷清秋である。

その阿古谷が、相棒であり雇い主でもある檜山に言った。

 

「目標を肉眼で確認した。これより正義を執行する。」

『――――了解。サポートは?』

「不要だ。三分以内に終わる。」

『――――わかったわ』

 

耳に当てていた手を下ろし、すっとレックスとKENを見た。

ヘルメットでおおわれているため、その表情は読めない。

読めないが、視線とその意味は理解できた。

動物的本能とでもいうのだろうか。

それとも、第六感とも呼ぶべきものだろうか。

そういった五感以外の何かがレックスに強烈に訴えかけてきているのだ。

 

「うん―――――やべえな」

 

そういうが否や、レックスはKENをつかんだ。

親猫が子猫の首根っこを口ではさんで移動するように、KENの首根っこを摑まえて階段を三段飛ばしで駆け上がった。

 

「ど、どこ行くんだよッッ!!!」

 

何を言っているんだ俺は――――

KENはそう思った。

こんなことを言いたくて、レックスに会ったわけじゃない。

お前は無関係だろ。

カタギだろ。

逃げろ。

こういいたかった。

しかし、言えなかった。

後ろを振り返れば、黒い男が猛スピードで追ってきているからだ。

この調子だと、窓から降りることも考えていない。

 

「うーん。花山(ハニャヤマ)の部屋?」

 

そのまま、三階にある組長室のドアを開けた。

ドアを開けて、そのまま跳んだ。

助走もつけずに、十m近くは跳んだだろうか。

花山が普段使う、勉強机のところまで飛んだあと、脚を入れるスペースにKENを放り込んだ。

 

「おれがよう、良いって言うまで出るんじゃねえぞ」

「―――――な」

「うん。おれが、おれが守護(まも)らなきゃ。」

「レ――――」

花山(ハニャヤマ)は…ダチだから…」

「レックス――――!!!」

 

「追いかけっこは終わりか?」

 

ドアをけ破り、阿古谷が部屋の中に踏み込んできた。

 

「に、逃げてるつもりなんかねえよッ」

「ほう?」

「ここならおめえをほんきでぶちのめせるからなッッ」

「――――」

「よォ…言っとくけど」

「――――」

「おめえ、逃がさねえぜッッ」

 

そう言って、レックスは床を『むしった』

コンクリートの床を、ことも無げに。

無造作に。

食パンのようにむしり取った。

 

「――――そうか」

 

既に阿古谷はレックスの間合いの縁に入ってしまっていた。

もう一歩踏み出せば、否応なく間合いに入ってしまう。

この場合の間合いというのは実際に攻撃が相手に届く距離ではない。

何らかの構えを取らなければならない間合いであった。

しかし阿古谷はその縁で足を止めていた。

なぜか。

その理由はレックスが握っているコンクリートの塊にある。

もしも間合いに入る動きをした途端、レックスがその塊を投げてくるかもしれない。

一旦動きを開始した途端にその塊を投げてしまわれると、フットワークでかわすことが少々難しくなってくる。

不可能ではないが、そうするともう一方の手に握られている塊をかわすことができない。

確実に手で払うことになってしまうだろう。

仮に手で払った場合、相手が踏み込んで仕掛けてきたら後手に回ることになる。

そして、そのことをレックスも十分意識しているようだった。

 

「へへ…」

「――――それを、捨てる気はなさそうだな。」

「あ、怒った?」

「―――――」

「やっぱ怒ってるじゃん」

「捨てる気がないならそれでもかまわん。」

「ないね」

 

レックスが答えた。

こたえると同時に、阿古谷がゆらりとレックスの間合いに入った。

速い動きではない。

ゆっくりとした動きであった。

もし塊を投げられても体捌きでかわせる。

そういった、余裕を持った動きであった。

普通であれば腰を落とすか、両手を持ち上げて構えねばならない。

相手の動きに対応し、攻撃に移ることのできる形をとらねばならない。

それでも、二人の肉体は構えをとっていなかった。

阿古谷は両腕を垂らしたまま。

レックスも両腕を垂らしたまま。

 

「へへ…」

「…」

 

レックスは笑った。

阿古谷は全くの無表情のまま。

その時、阿古谷が動いた。

いや、動いたように見せた。

レックスに向って右に回り込むように左足を出した。

実際には足を出していない。

フェイントである。

そのフェイントにレックスが反応した。

右手に持っていた塊を阿古谷の顔面に向けて投げた。

阿古谷が眼の前の空間を、左の掌でなでた。

なでたまま、右の手を動かした。

 

「痛でッッ」

 

レックスの左胸の上の方を何かが貫いていった。

その衝撃で左の手に握っていた塊を落とす。

 

「せ…性格悪いよな、おめえ…」

「―――――」

「じゅ、銃弾握ってんならよォ…(おい)らのそれ…とらなくてもいいじゃん」

「―――――」

「怒ってたわけねェよなあ…銃弾持ってんだから…」

「―――――」

「もしかして、ホントは怒ってた?根暗そうだから、わかんなかっただけで」

 

そう言っているその最中に

 

「おりゃッ」

 

どういう呼び動作もなしにレックスの左の拳が阿古谷の顔面に放たれていた。

コンクリートを豆腐のように砕き散らし、あのG・Mにすら『人間には見えない』とさえ言わしめた男の拳。

 

「~~~~~~~~~ッッッ!!??」

 

その男の拳が今、左腕一本で捌かれていた。

しかも捌かれるだけではない。

同時に、レックスの腕が切り裂かれているのだ。

 

「痛っでえ…」

 

これこそが阿古谷の技、「リッパー」である。

拳の骨部分、いわゆる拳骨の浮き出た部分をひっかけて高速で回転させることにより相手を切り裂くのだ。

絶命トーナメント以降更に磨きをかけたその技は、もはや『嫌がらせ技』の域には非ず。

レックスの太い腕の、皮だけでなく肉ごと引き裂いていた。

 

「こ、こんにゃろ…ッッ!!!」

 

 

 

右腕を振る。

当たらない。

左腕を振る。

捌かれてまた切り裂かれる。

肉片と血が天井に飛び散る。

痛い。

気の遠くなるような痛みがレックスを襲っていた。

それでも迷わなかった。

すうっと前に出た。

間合いを図るようなことはしないし、レックスにはできない。

前蹴り。

ただまっすぐに。

愚直に阿古谷を蹴り上げようとした。

ただ、このままやれば身体のどこかには当たる。

当たればいい。

当たったら?

その後考えればいい。

そういう蹴りだ。

浅くてもいい。

深くてもいい。

タイミングが合わなくてもいい。

空を蹴ってしまっても足を取られてもいい。

そういう蹴りであった。

その蹴りが、切り裂かれたあと右腕で防がれた。

阿古谷の身体が宙に浮く。

レックスは感心していた。

こいつは知っていた。

かわせぬとしって、切り裂いた後受けたのだ。

この飛んだのも、自分から飛んでいる。

ダメージはゼロだ。

―――つええ

しかしここで止まってはいられない。

前へ出る。

拳で撃つ。

打つ。

打つ。

それを阿古谷は浮いた状態で。

右腕で捌き、左腕で切り裂く。

右ひじで拳を上からたたく。

余りの衝撃にレックスの拳から骨が突き出る。

最後の一発は捌く事すらせず徹底的に切り裂く。

右で、左で、右で。

レックスの左拳から上腕部分までを徹底的に切り裂いた。

痛みにレックスがよろめく。

そよ風のようにふわりと着地した後、嵐のように阿古谷の拳と蹴りが襲い掛かって来た。

左下突き。

レバーブロー。

右上段足刀。

右下段足刀。

左掌底。

すべて、入った。

約束組手かと思えるようなくらいに綺麗にクリーンヒットした。

ぐるんと、レックスの眼が白くなった。

意識がどこかに飛んで行ってしまっているようにも見えた。

 

 

 

 

―――――めっちゃつええ

 

レックスは困惑していた。

強い。

こいつの拳と脚は固い。

人間の硬さじゃない。

まるで骨とか足が鋼でできていて、それをそのままぶち込んでくるような。

そういうたぐいの強さであった。

かといって攻撃しても当たらない。

当たらないだけならいいが、切り裂いても来る。

中途半端な刃物じゃ出血さえしない自分の身体を軽々と。

今まで戦った誰よりも強い。

壊した電車よりも。

不良よりも。

ヤクザよりも。

オカマよりも。

だけど、なんだろう。

困惑しているのは、こいつに対してではない。

自分に対してだ。

なんでかな。

あきらめるとか、倒れるとか。

そういう気には全くならなかった。

なんでだろう。

血がいっぱい出てるのに。

こんな痛い目に合ってるのに。

我慢してるとか。

耐えてるとか。

そういったものさえも浮かばない。

ただ、何かが胸の中に芽生えていた。

暖かくなるような何かだ。

何だろう。

ぽかぽかした。

あったかくなって全身に力がみなぎる。

花山!?

そうか。

そう思ってしまった。

なんで、こんなにもやれるのかとか倒れないのとか思ってしまった。

だからか。

レックスは思った。

そうだ、あの時(おい)らは嬉しかったんだ。

はじめてであった優しい人。

(おい)らの痛みを消してくれる人。

(おい)らを男として見てくれる人。

震えた。

嬉しさに震えた。

(おい)らもできる。

(おい)らも漢なんだ。

ギリとか。

ニンジョウとか。

花山が言うそういうのがチョットわかってきたような気がする。

(おい)らが守護るんだ。

苦しくなかった。

身体が、自然にこいつの拳を。

脚を。

膝を受け止めていた。

拳が動く。

切り裂かれる。

顔面が凹む。

当たるのも、

当たらないのも。

すべてが必然だ。

それでも、時間は経つ。

KENと、机は無事だ。

殴ろうとして、

殴られて。

蹴ろうとして、

蹴られて。

傷口に指が差し込まれ、内側から肉が抉られる。

それでもよかった。

それでよかった。

こいつが守護れるなら―――

快感が生じる。

当たった場所から、当てられた場所から極彩色の泡がはじけ、貌を濡らす。

すごい、気持ちのいい鐘の音が―――――

 

 

元和二年、如月の事。

武蔵野地に語り継がれる物語。

その日、一人の旅の博徒が、当地の豪農『花山家』に一夜を施されることとなる。

長旅をいやし、手厚い施しを受けたという。

その夜。

十数名からなる盗賊が花山家を強襲。

この盗賊が豊臣家の残党であるとかそういう説もあるが、

花山家が一家五名斬殺の、阿鼻叫喚の事態に陥ったのは事実である。

この夜起こった『晴天の霹靂』。

己一人では抗えぬと判断した旅の博徒は――――

一粒種の長男『弥吉』を背負い、寺の鐘を幼子の身にかぶせ。

それを背負い、一人盗賊の前に立ちふさがったという。

両の手がふさがったまま。

幾太刀も幾太刀も浴びせられ。

それでも漢は倒れなかった。

五臓六腑を刻まれて。

それでも漢は倒れなかった。

とうに命は枯れ果てて。

されど漢は倒れなかった。

わが身を盾に立ち尽くすその姿に、さしもの盗賊も賞賛の言葉を残しその場を去ったという。

これこそが、花山家に伝わる刺青。

『侠客立ち』の由来である。

そして今宵。

一人の漢が、友の家族を守護りきった。

国家権力。警視庁最強の男の攻撃を受け切って尚、倒れなかったのだ。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

『阿古谷』

「――――」

『阿古谷?』

「―――――――――正義、執行完了。」

『―――そうかい』

 

無線の女に、そう伝えた。

初めての事であった。

今まで数多の悪に正義を執行してきた。

ヤクザも。

サイコも。

詐欺師も。

その息子も。

悪の種と呼べるものはすべてに正義を執行し、皆一様に己のありさまを後悔しながら死んでいった。

しかし、こいつはなんだ。

阿古谷にはわからなかった。

悪党というものは、大なり小なりどいつもこいつも自分の罪を自覚している。

しているからこそ、己が現れた時に恐怖を感じながら死んでいくのだ。

もしくは、勝てると勘違いして笑いながら死んでいく。

しかしこいつはなんだ。

何故こんな、やり切ったような顔をしているのだ。

何故、後悔のない澄んだ笑顔をしている。

しかも立ったまま。

不愉快ではある。

笑ったまま、というのもそうだがこんな悪に少しでも感心してしまった自分に対して腹が立つのだ。

それに悪の殲滅は完了していない。

もう一人のターゲット、花山薫。

こいつを始末しない限り、この不愉快さは晴れることがないだろう――――

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

何も言わなかった。

KENが電話し、木崎が指示を出す。

花山薫は何も言わなかった。

何も言わないまま、歩いて行った。

友、レックスの方に向って。

立ったまま気を失っている男に向って歩いていき。

 

「――――――――――――たいした。」

 

両の腕で、がっしりと抱きしめた。

力強く。

それでいて豊潤な抱擁であった。

 

「――――たいした『侠客立ち』だぜ。」

 

 

 

――――――――――――対抗戦第一試合。

花山薫VS阿古谷清秋。

ここに決定。

 

 

 




誤字脱字報告、感想等お待ちしております。


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第十一話 囚

ダンベルアニメ、いいですね。
メインの話には絡みませんがこの作品でもダンベルキャラを出す予定ができたのと、
このお話にもダンベル的要素が含まれるので作品タグを追加しました。
宜しくお願いいたします。
追記。
規約的に危ない場所があったので、いろいろ修正しました


「全く…つくづく驚かせてくれる患者だね、君は」

 

白衣の男がポケットに手を突っ込みながら言った。

手入れのあまりしていなさそうな無造作な金髪に、眼もとに大きい隈が広がるどことなく不健康そうな男であった。

身長は170センチ中盤。体重は60キロ台であろうか。

至って並と言える体格であるが、青いシャツの胸元から覗く大胸筋にはほどよく張りがあり、相当に鍛えこまれていることがうかがえる。

この男の名は英はじめ。

絶命トーナメントの医務室担当の医者であり、あの『ドクター紅葉』と並ぶ日本が誇るスーパードクターである。

同時に日本政府のエージェントでもあるため、『こういう』荒事はなれっこであった。

なれっこであるため、目の前の男を見てもいつもと変わらない薄ら笑いを浮かべていた。

 

「――――――」

 

男は答えず。

代わりに嗤った。

朗らかに。

しかし、獲物に牙をむく獣のように嗤った。

大きい男であった。

それは、目の前にいる英と比べるとことさら顕著であった。

英は決して小さくない。

170センチ中盤と男性の平均身長より少し大きいくらいなのであるが、その英が完全に見上げていた。

ゆうに2メートルはあるだろう。

異様な男であった。

全身―――顔面以外の至る所に施された刺青もそうだが、眉毛以外の毛が全身どこにも見当たらない。

何より、顔と体のギャップがすごい。

顔にはそれ相応の皺が入っており、50代前半か40代後半くらいを思わせるが、身体がすごかった。

全身に肉が張り詰めている。

腕も、脚も、頸も。

どれも太い。

どこもかしこもが、よく絞り込まれている。

これが、何か月も前からつい昨日まで意識を失っていた入院患者の肉体だと言って誰が信じるだろうか。

 

「ここにきて急に肉体が若返り始めたかと思ったら、急に意識を取り戻していきなり暴れ出すとはね。

ますます君に興味が湧いてきたよ、スペック君。」

 

男の名はスペック。

かつて東京に上陸した最凶死刑囚の内の一人。

刃牙を手玉に取り、警察をあざ笑い、一般人を虐殺。

暴虐を尽くしたのち花山に敗れ再起不能となったはずの男であった。

現に昨日までは全身をチューブで繋がれており、骨と皮だけの肉体であった。

動く事すらままならない、重病患者のそれのはずであった。

しかし。

先週くらいからであろうか。

急に肉に瑞々しさが戻り始めたのだ。

そのことに興味を持った英が今日秘密裏にこの病室に入ったのだが――――

 

「そりゃアンタが悪いんだぜ、センセイ。」

「なぜだい?」

「解剖しようか、なんて言われたら誰だって暴れるだろう?」

「そうかい?」

「そうだぜ」

「――――フフ。元気がいいのはいいことだが、元気が過ぎるのも困りものだね。

そこんとこどう思う?ご老人」

「俺はまだ97歳だ。元気いっぱいだぜ。」

 

スペックが微笑みながら答えた。

 

「十分高齢者だと思うが」

「遅れてるねえ、先生。今や人生百年時代って言うじゃねえか。

こんくらいの年で運動してるやつくらい、めずらしいことじゃあるまい。」

「ベッドをぶん投げてくる97歳は珍しいと思うがね」

「そうかな?」

「そうだよ。」

 

そこで、スペックが笑みを深くした。

闘いのための笑いではない。

近所の人に笑顔で会釈する時のような。

隣人に気軽に挨拶をする予期のような優しい微笑みであった。

目じりをさげ、口元をV字に吊り上げて笑っている。

その原因は英の背後にあった。

正確に言うならば、この病室の入り口にあった。

 

「せ、先生…これは?!?!」

 

金髪の、肉がエロチックに張り詰めた女性だった。

白衣にミニスカート、網タイツ。

開いた胸元からは肉の張りつめた、豊満な乳房の上部が見て取れる。

英の助手ともいえる看護師、吉沢心美であった。

その心美が、部屋の惨状を見て震えていた。

 

「いいところに来たね、吉沢君。」

 

不自然に真っ二つになったベッド。

割れた花瓶。

凹んだコンクリート製の壁と床。

まるで、今まで巨大な二頭の獣が闘っていましたと言わんばかりの有様であった。

 

「オヤ…もうちょっと遊びたかったが、そうも言ってられないようだな」

「え?え?」

「吉沢君。気持ちはわかるが、まずは警察に連絡をお願いしたい。」

「じゃあな。ウォーミングアップとしては楽しめたぜ、センセイ」

 

そういって、スペックは窓を開けた。

開けて、そのまま下に飛び降りた。

はじめは追いかけて、窓の外を見たが――――

 

「やっぱりね」

 

肩をすくめて、病室を後にした。

スペックの姿がそこには既になく、追いかけることは不毛だと判断したからだ。

――――――スペック、再び東京の地に舞う。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「対抗戦?」

「そうだ。昨日西品治君から聞いたよ。」

 

2人の男が並んで歩いていた。

金髪をポニーテルに縛り、黒いシャツにベージュのパンツに白い上着を着た少年と。

金髪をポニーテールで縛り、黒いシャツに黒いハーフパンツを着た男だった。

 

「先輩からかー。俺はまだ聞いてないなあ」

「まだ水面下だしなあ。それに、対抗戦先があの地下闘技場だ。

先に俺に連絡しておきたかったんだろう」

「――――師匠、知ってるの?」

「ああ、よーく知ってる。あのじっちゃんのことはな。」

 

今、師匠と呼ばれた黒いハーフパンツの男の名は暮石光世。

総合格闘ジム、「クレイシ道場」の師範であり現役の総合格闘家である。

 

「だって、俺あそこで闘ったことあるし。」

「まじ?」

「マジだよ、コスモ」

 

そして今コスモと呼ばれたこの少年こそが、過去行われた絶命トーナメントにて参加者中最年少ながらも準々決勝まで駒を進めた逸材。

数多くの闘技者から天才と呼ばれ続けた男。

最年少闘技者『今井コスモ』である。

 

「あそこって―――――ああ、そうか。代打ちの場じゃないんだ」

「そ。だから俺も気楽にやれるのさ。

拳願会みたいなしがらみとかがなんもねえから、『超天才』の俺の才能を活かしまくれるってワケ。」

「全く…何回も言うけど、そんなに自身あるなら拳願試合に出でもいいじゃん。」

「やだ」

「やだってアンタ――――」

「俺、人のために闘うとかマジ無理だし。」

「はあ」

「そうため息つくなよ。お前、今度拳願会代表して地下闘技場との対抗戦出ることになるんだから。」

「へ?」

「昨日じっちゃんと電話したらそういう話になったし。」

「聞いてないんだけど!!???」

 

驚くコスモをしり目に、暮石は腕を頭の後ろで組んで話を続ける。

 

「受けといた方がいいと思うぜ。

あのじっちゃんとコネ作っとけば、マジで誰とでも戦えるし。」

「――――範馬とも?」

「ああ。

それだけじゃねえ。

武神・愚地独歩、

達人・渋川剛気、

なんなら死刑囚とだって戦える。」

「――――いいね。」

 

コスモが笑った。

口角だけを吊り上げた、好戦的な笑みだ。

それを見て、暮石も笑った。

 

願ってもない条件であった。

地下闘技場、範馬の話は以前から聞いていた。

聞いていただけではない。

実際に目撃もした。

あの親子喧嘩、あれを最前列で見物したのだ。

震えた。

あそこまで―――

あそこまで人間はやれるのか。

強さとはあそこまでいけるものなのか。

そう感動したと同時に、興奮もした。

俺も。

俺もたどり着けるのか。

辿り着いて、超えることができるのか。

あいつらとやれば。

あいつらを倒せば、

手に入るのか。

「地上最強」の称号が。

そして、今の話では自分はその「地上最強」からそう遠くない位置にいるように思える。

闘ってみたい。

闘って勝ちたい―――そういう想いが、炎のように燃え上がって来た。

 

「よかったなあ、コスモ。俺が師匠でよ」

「確かにね…師匠の言うとおりだよ。」

「なら、やることは一つだけだ」

「ひとつ?」

「これだよ」

 

暮石が右手で拳を持ち上げて作った。

ごつんとしたいい拳だ。

 

「練習して、闘って、強くなる。これしかねえだろ。」

「そうだね…」

 

コスモは頷いた。

 

「アダムのやつも、最近強くなってきてるぜ」

「それは実感してるよ、毎日ね」

「ああ。確実に、毎日強くなってきている。

体重も増えてる。

ついこの間、拳願試合で漁師のおっさんをぶちのめしていたよ。」

「ああ、あの人か」

「なあ、コスモ。うかうかしてられねえぞ。

最近の成長スピードだけならお前より上かもしれねえ。」

「かもね。でも――――」

「でも?」

「勝つのは俺さ。」

「いうね」

「言うさ。だって俺は、師匠の弟子で、『天才』だから。」

「なるほどね」

 

 

そう言いながら、道場の前の扉を開く。

開いたと同時に、否。

開く直前、二人はジムの異変に気付いた。

闘技者としてのカン――――とでも言うべきものなのか。

人間として本来備わっている第六感というべきものなのだろうか。

どちらかは判別がつかなかった。

つかないが、二人の男は何かを感じていた。

何かが。

何かがおかしい。

 

「しゃっ」

 

暮石がドアノブに触りかけた手を引っ込め、代わりに足を思いっきり前に出した。

暮石の脚によってぶちやぶられたドアは道場の奥の壁までノーバウンドですっ飛んでいき哀れな姿にひしゃげた後、地面に落ちた。

それを確認する前に、コスモと暮石がジムの内部に踏み込んだ。

 

「―――――ッッッ」

「なんだよ、これッッッ」

 

つるされていたいくつものサンドバックが――――

中身と共に地面に散らばり。

昨日まで新品のようにきらめいていた鉄製のトレーニング用具が――――

べっとりと赤黒い色に変わって無秩序に転がっており。

今朝まで元気よく挨拶をかわしていた道場の門下生たちが―――――

今や一言も発せぬ状態で地面に転がっていたり、天井に埋め込まれていたり、リングのロープに洗濯物のように引っかかったりしていた。

皆一様に、ピクリとも動いていない。

骨が飛び出していたり、頭部が半分ない者もいた。

 

「ヨウ、オカエリ。」

 

片言の日本語で、リングの上からロープに腕でもたれかかっている男が朗らかに二人に語り掛けてきた。

 

「――――アンタ、誰だ?」

 

知らない男であった。

ジムの練習生でもコーチでもない。

近所の男でもない。

こんな、上下黒のジャージで頭が剥げた大男など暮石も、コスモも見たことなどないからだ。

 

「スペック…ッテモンダ」

 

その足元には、アダム・ダッドリーが白目を剥いて横たわっていた。

 

「マア…アンタノ敵ダ。多分ネ。」

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「ムンッ」

 

男が、台の上に仰向けになって、鉄のバーを握っていた。

そのバーの両端には巨大な鉄の塊がくっついている。

よく見れば、中央に穴の開いた円盤がバーの両端にいくつもセットされているのだが、傍目に見ただけでは巨大な鉄の塊にしか見えなかった。

肉がぱんぱんにはりつめた、大きい男だった。

天然の金髪に、頭頂をワックスで立たせ、両サイドを刈り込んだソフトモヒカン。

黒のタンクトップから見える太い腕には、派手な模様の刺青がこれでもかというほど書き込まれていた。

バーを上げ下げし、呼吸をするたびに男の口から『FUCK』と書かれた金の前歯が光る。

男の名は『アダム・ダッドリー』。

かつて絶命トーナメントに出場したレジェンドの一人にして、コスモに一回戦で敗れた男。

今は自身を鍛えなおすためにコスモと同じ暮石道場にて修行を積んでいる。

 

「ムンッッ」

 

一気にバーを持ち上げる。

鋼鉄のバーがしなる。

一回。

二回。

三回。

四回。

五回。

持ち上げて下ろす。

同じ動作を五回繰り返してから、アダムはそのバーをフックに戻した。

バー自身の重さを合わせて200キロ。

もう10キロ増やすか――――

そう思った時、人の気配があった。

 

「たいしたもんだねえ」

 

流ちょうな英語であった。

よれた黒のジャージを上下に来ている男だった。

年は顔から見るに40代後半か50代前半だろうか。

ただし、身体がおかしかった。

身長が190センチ代のアダムよりも高いこともそうだが、肉体に異常な張りがあった。

その肉の瑞々しさは、ある種同門の今井コスモと並ぶ若々しさを備えていた。

アダムが上半身を起こしてそいつを見た時には、そいつはフックに戻ったバーベルをポンポンと叩いていた。

 

「こいつは200キロくらいあるんじゃないの?」

「何の用だい。」

 

アダムが訪ねた。

剣呑な目で、男を見ながら台の上で座っている。

じろりと。

睨んでいる調子に近い視線を向けているのはこの男が怪しいから。

そういう意味もある。

しかし、それだけではない。

どこかで見たような―――――

 

「あら?アララ?そういや、どっかで見たことのある顔じゃん」

 

わざとらしく言ったのは男であった。

つるつるの、髪の毛一本ない頭をこりこりとかきながら言った。

その間にアダムが立ち上がる。

ほかの門下生たちもやにわにざわつき始める。

 

「きみ、あれだよね?昔テキサスでストリートファイトやってた――――」

「何の用だって聞いてるんだ」

「そんな怖い顔しなくたっていいじゃないか。」

 

男がおどけた調子で言った。

 

「いやでもするさ。

アンタが合衆国でも、こっちでも有名なサイコ野郎――――死刑囚、スペックだからな。」

 

アダムの言葉に周囲が一層ざわついた。

―――死刑囚?

―――あのちょっと前に脱走した…

―――スペック!!スペックだ!!

 

スペックであった。

 

「クスクス…有名人ってのも困りものだなァ」

「だから何の用だって聞いてんだよホ●野郎。」

「試合さ。」

「―――――」

 

アダムは黙っている。

 

「結構やってるんだろう?日本(こっち)に来てからも。」

「――――」

「最近ダークウェブで見たよ。ケンガン?ってのに出てるらしいじゃないか。」

「出てるぜ」

「そういう試合を俺にやらせてくれって言ってるんだよ」

「試合を?」

「まあそういうことだわなあ…」

 

スペックは首だけ動かしてちらりと道場の中を見渡した。

彼の見立てでは、他の門下生と比べてもアダムの強さは頭一つ抜けているように見えた。

自身という不審人物が入ってきているにも関わらず、この場はアダムに任せよう。

彼ならなんとかしてくれる。

そういう空気が漂っていた。

 

「アダム君、よほど強いんだ」

「かなり、つええよ」

 

アダム本人が笑って言い返した。

その顔を見ていたスペックが口元を手で押さえて下を向いた。

下を向いて、クスクスと笑った。

 

「いいねえ」

 

笑いながら言った。

 

「実にいいじゃないか、ボウヤ」

「――――」

「ここって、総合格闘のジムなんだろう?」

「ああ」

「ちょっと興味出てきたぜ、それ」

「――――」

「拳願試合じゃなくていいや。ボウヤ。ちょっとわたしとやってみないかい?」

「――――いいぜ」

 

道場が、ざわついた。

 

「グローブはあるかい?」

 

アダムが、スペックから目を離さないまま背後に声をかけた。

 

「あります」

 

道場の若手が答えた。

すぐにその若手がオープンフィンガーグローブを出してきた。

全部で四つ。二人分だ。

はめた時指先が出るようになっているグローブである。

 

「あそこでやろう」

 

アダムが親指で背後を指さした。

四方を柱で囲まれた台座――――リングだ。

 

「いいよ――――けど、それはいらないな」

 

スペックは快諾したが、若手の持ってきたグローブの受け取りを拒否した。

アダムが首をかしげる。

 

「何故だ?」

「だって――――ボウヤ、アンタいつも拳願試合ではめてんのかい?」

「いいや」

「ホラ」

「――――」

「だったら、いらないさ」

「へえ」

「だからさ、それ悪いんだけど――――」

「―――じゃあ、おれもいらねえや」

「へえ」

「おい、返して―――――」

 

そう言って、アダムが若手の方に振り向いた。

その瞬間だった。

 

「シュッ」

 

呼気と共に、スペックがいきなり蹴った。

右の蹴りだ。

どん!!

そういう音がした。

強烈な蹴りである。

上手い蹴りではない。

自己流と言っていい。

ただ、ほとんど動きに予備動作がなかった。

アダムが背を向けた瞬間、その頭部に向って思いっきり足を出していたのだ。

空手やキックのセオリーにない蹴りであった。

その蹴りがいま――――

 

「――――――――焦んなよ、早漏野郎。」

「ホッ♡」

 

アダムの右の掌で止められていた。

背を向けたまま、後頭部に手をかざしスペックの蹴りを掌で受けていたのだ。

スペックは感心していた。

 

「やるじゃん」

 

自身の不意打ちを止めたこともそうだが、よろめきすらしないことに感心していた。

スペックの今までの経験上、背後からけりこめば大抵の相手はダウンした。

ダウンしなくても、最低バランスを崩すくらいのことはした。

そこから一気に決め切る――――そういう算段であった。

しかし、この男は耐えた。

耐えたというか、バランスを崩すそぶりすら見せなかった。

まるで、背中に一本の強力な鉄柱が入っているような――――そういうイメージがスペックの脳裏に浮かんだのだ。

 

「俺を誰だと思ってやがる?

こんなファッキンキックじゃあ、おねんねする気にもならねえぜ」

 

言いながら、アダムが足を思いっきり後ろに出した。

十分な威力を持った左の後ろ蹴りであった。

スペックはそれに対してかわすことはしなかった。

 

「――――――いいね」

 

ただ、右手を出した。

右手をアダムの左脚に沿わせた。

それだけで、アダムの左足は軌道をそらし。

スペックの身体に当たることなく地面に落ちた。

その隙をスペックが攻撃しようとして―――やめた。

 

「よっと」

 

アダムが右脚を軸に左方向に回転する。

回転することで、アダムはスペックの正面を向き――――足の位置も、正常の構えの位置に戻す。

派手に動いてはいるものの、体幹が全くずれていない。

ずれていないがゆえに、隙が無かったのだ。

すさまじいバランス感覚である。

 

「リングに上がる必要はねえな」

 

アダムが金歯を剥きながら笑った。

合わせてスペックも笑った。

 

「今まさに試合(ファイト)開始だ。」

 

アダムが言った。

 

「いや、試合(ファイト)はやめだ」

「What!?」

 

混乱するアダムに、スペックは笑いながら背を向けた。

背を見せて、さっきまでアダムがトレーニングをしていたベンチプレス台に目を向けた。

目を向けた後、

 

「アダムくん、すまんね。」

 

思いっきり振り返った。

アダムがさきほど見せた軸を中心にした回転よりも速く、鋭く振り向いた。

そして振り向きながら

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!?????」

「やっぱり、君を殺すことにしちゃった♡」

 

片手で持ったベンチプレス台を、アダムの頭頂部に思いっきりぶつけたのだった。

アダムがふらつく。

 

―――――やろうッッッ

―――――くそが

―――――ぶっ殺してやる

 

思い思いの。

しかし、皆一様に殺意をこめた言葉を発しながら、道場生達がスペックにとびかかった。

壁際で見ていたものも、リングの上で見ていたものも、シャドーを行っていたものも。

我がアダムの仇を討たんととびかかった。

それを見て、スペックは笑った。

瞳がぐるん動いて白目になると共に、目じりが思いっきり下がり、逆V字の形になった。

同時に口角を思いっきり吊り上がらせた。

悪魔的な笑みだ。

人間ができる表情とは思えなかった。

殺戮の悪魔が下界に降り立ち、愉悦のために暴虐の限りを尽くすとしたらこういう顔をするのだろう。

そういう貌をしていた。

 

「―――――♪」

 

その顔のままスペックは片手でベンチプレス台を振り回した。

タオルのように軽々と、前後左右に八の字に振り回した。

 

「がっっ」

「いでええッッ!!」

「うわああああ!!!」

「…ッッッ!!!」

 

腕に当たったものは腕が折れ。

脚に当たったものは足から骨が飛びだし。

顎に当たったものは歯がぶっ飛び、関節が外れたりした。

壁まで吹っ飛んだり、地面にそのまま転がったりした。

 

「あ…そういえば」

 

脚の部分しか残っていない台座を放り投げた後、スペックは明後日の方向に視線をうつす。

自身の足元に転がった道場生の頭をぐちゃりと踏みつぶしながら、何かを思い出すように言った。

 

「FUCKッッ!!!!」

 

震える視界も収まらぬまま、アダムが腕を振る。

豪快な右のフックだ。

スペックはそれを、顔だけそらすことで回避する。

 

「中華マンジュウ。その辺のコンビニで買ってきたの忘れてた。

食うかい?」

「Damn it!!!!」

 

右。かわす。

左。かがんでよける。

右。空を切る。

アダムが繰り出すパンチのことごとくを避けながら、後ろ手にコンビニ袋を取り出した。

 

「オイオイ。人の親切は素直に受け取るもんだぜ。」

 

取り出したコンビニ袋を、アダムにぶつけた。

軽く、ふわりとした投げつけであった。

ダメージを与えることが目的ではない。

一瞬でも手を使わせることができればいい。

そういう目的の投擲であった。

少なくとも、アダムはそう思った。

思ったからこそ、サイドステップでかわした。

 

「冷めないうちにな♡」

 

かわしたところで、構えた左腕に何かがぶつかって来た。

――――硬。

アダムが最初に感じた事はそれであった。

 

(左ッ

重ッ

響ッ

飛ッ

痛ッ

折ッッ

 

――――――FUCK!!!!!)

 

次には重いとか、響くとか、痛いとか一瞬であらゆる文字が脳裏をよぎった。

実際にこういう文字を考えたわけではない。

反射である。

反射的にさまざまな思考が脳裏をかけぬけて、アダムは地面と水平に吹っ飛ばされた。

折れたことは即理解できた。

飛んでいる最中に理解できた。

左腕が、見たこともない方向に曲がっているからだ。

壁と激突した時、自身の腕が折れた理由が嫌でも理解できた。

バーベルだ。

あいつが今手に持っているバーベル。

さっき、おれが使っていたあれだ。

200キロのバーベルだ。

そこまでは理解できた。

しかし、おれが持ち上げるだけで精いっぱいのあれを振り回したというのか。

普通の人間であれば持ち上げるどころか、片づけることすらままならないアレを横薙ぎにぶん回したのか。

 

――――怪物(モンスター)め。

 

驚愕のまま壁に折れていない方の手をつき、立ち上がろうとした。

立ち上がろうとして、崩れ落ちた。

 

糞脚(ファッキンレッグ)が!!

立て!!立ちやがれ!!!

言う事を聞きやがれッッ!!!)

 

そんなアダムの様子を見て、スペックは笑っていた。

さっきの貌のまま、にこやかに笑っていた。

しかし、その手にもうバーベルはない。

別の何かが握られていた。

 

「アダムくん。君は―――」

「――――――ハアッ!!ハアッ!!!」

「――――――ダンベル何キロ持てる?」

 

握られていた何かが――――鉄の塊が、立ち上がったアダムの顔面に直撃した。

 

「――――――ッッ」

 

自分の意志に反して顔がのけ反る。

スペックがダンベルをアダムに投擲しながら、楽し気に歌う。

実に、楽しそうに歌っていた。

 

「お願いマッスゥ~めっちゃ●テたい~~~~♪」

「――――――――――――」

 

10キロのダンベルが頬にめりこむ。

頸の筋肉がきしむ。

 

「お願いマッスゥ~めっちゃ●せたい~~~YES♪」

「――――――――――――」

「お願いマッスゥ~めっちゃ●テたい~~~~なら筋肉にお願いだッ♡」

 

15キロのダンベルが口に直撃する。

金の歯が飛ぶ。

 

「レッグカール♪

ハックリフト♪

泣く子も黙る大腿●ッ♡」

 

脚に鉄の円盤が突き刺さる。

 

「バックプレス♪

サイドレイズ♪

肩にちっちゃい重●のせてんのかーいッ♡♡」

 

肩に。胸に。ガードした腕に。手にしたダンベルが暴力的にぶつけられる。

アダムが横にぐらりと転げ、うつぶせになる。

 

「ベントオーバー♪

ラットプルダウン♪

背中に鬼神が宿っ…ちゃいねェな♡」

 

200キロのバーベルが背中にたたきつけられる。

一回。

二回。

三回。

ビクンとアダムの身体が跳ねる。

 

「仕上がってるよ♪仕上がってるよ♪」

 

撥ねて、もう一度振り下ろそうとしたところでスペックの眼が見開かれた。

戦闘不能と思われたアダムの肉体が跳ね上がり、そのまま右の拳を振りかぶって来たのだ。

 

I’ll Nail You(ぶちこんでやる)ッッ!!!!」

 

バーベルを両手で持ち、今まさに振り下ろさんとするスペックに回避する手段はない。

ぼこりと盛り上がったアダムの右腕の筋肉が、今まさに復讐を果たさんとスペックの顔面に迫っていた。

どぐん。

重い音がした。

肉に肉がめりこむ音だ。

直撃した。

確かに、スペックの左頬にアダムの右拳がヒットしている。

しかしアダムの脳内で現れたイメージは、現実とは全く異なる。

岩だ。

何百年も前からあるような、巨大な苔むした岩に拳を打ち込んでいるような。

そういうイメージが脳裏を疾り抜けた。

同時に、激痛がアダムの顔面と頭部に襲い掛かって来た。

何が起こったのか。

凄まじい力がアダムの頭部を圧迫してきたのだ。

顔をつかまれた。

スペックの30センチを超える巨大な掌がアダムの顔面を圧迫している。

とてつもない力だ。

 

「~~~~~~~~~~~ッッッ」

 

両手でつかんで引きはがそうとするが、びくともしない。

呼吸もできない。

スペックの手の隙間からかぼそい息をするだけだ。

それを見たスペックは嗤った。

嗤ったまま、アダムを右手一本で持ち上げて

 

「頑張るあなたは美しいッ♡」

 

後頭部から壁にたたきつけた。

衝撃の余波でコンクリート製の壁にクレーターができる。

ぐったりとしたアダムを見て、スペックは更に笑いを深めた後、

 

「マッチョアネー●ッ♪」

 

壁にアダムをたたきつけた。

 

「イッツマイ三角●~~~~♪」

 

幾度も。

幾度も。

 

「―――――――――――」

 

アダムが完全にこと切れ、全身の穴という穴から血を流しているのを見た所で

 

「ンフ♡」

 

満足し、片手でアダムをリングに放り投げた。

そして自身もリングに上がり。

ロープに上半身をもたれかけながら、道行く人を笑顔で観察していた―――――

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「敵…ねえ」

「ここまでやった上でそんなこと言っちゃってさあ…

ただで帰れると思うわけ?」

 

暮石がにらむ。

コスモもにらみつつ構えた。

腰を落とし前傾姿勢になり、手を胸の下に添えたいつもの構えだ。

 

「イイヤ、帰レルサ。今日ノトコロハナ。」

 

そう言いながらアダムをの髪の毛をつかんで右手一本で引きずり起こす。

アダムの状態は傍目から見てもひどいものであった。

眼がぐるんと白目を剥き意識がない。

腕があらぬ方向に曲がっている。

骨が皮膚を破って突き出ているところもある。

何より身体中のあらゆるところが紫とか黒にうっ血していた。

アダムが白色人種ではなく、もともとこういう肌の色をしていたんじゃないかと思えるくらいであった。

まともな肌の色のところはほとんどない。

そのアダムを、スペックはぶん投げた。

リングの上から、コスモに向って思いっきり。

 

「何――――!!??」

 

ぶちぶちと頭皮と髪の毛が破れた音と共に、100キロを超す肉の塊がコスモに肉薄する。

 

「コスモッッ!!!!」

 

暮石が叫ぶ。

 

「だ、だいじょう―――――――」

 

コスモは無事であった。

尻もちはついたものの、なんとかアダムを無事キャッチすることに成功はした。

しかし、大丈夫と言い終えることができなかった。

 

「ぐはッ!!!??」

「ハハハハハハハハハッッッ!!!!!!!!!!!!!」

 

スペックが一足でリングを飛び越え、アダムとコスモの上に飛び乗ったからだ。

そして飛び乗った二人を踏み台に再び飛び上がり―――――

 

「ジャーナボウヤ!!!!!!!!!!!!!

ハハハハハハハハハハ!!!!!!」

 

暮石道場の天井を突きやぶって、屋外に姿を消した。

 

「コスモッッ!!!無事かッッ!!!??」

「無事だよ…それよりもさ、師匠。」

 

アダムを床にそっと下ろしながら、携帯を取り出す。

アダムは死んではいないが、急を要する状態である。

スマホのキーパッド画面を出し119番を入力しながら、コスモは暮石に尋ねた。

暗い、ぞっとするような瞳であった。

 

「徳川さんってさあ。頼めば戦いたい相手と戦えるんだよね。」

「―――――――ああ、闘える。」

「俺さ、対抗戦出ることにするよ。相手は―――――わかるよね?」

 

 

 

―――――――――――対抗戦第二『死合』

スペックVS今井コスモ。

ここに決定。

 




コスモ、切れた!!

誤字脱字報告、感想等お待ちしております。


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第十二話 友

ダンベル、キャラが濃い。



一人の女子高生があせだくになって、バーベルを上げていた。

金髪のツインテール、肌が浅黒く日焼けした少女だ。

黒いタンクトップと、側面に白いラインが入った赤のジャージが汗に濡れて肌に張り付いてきている。

豊満な谷間に汗が一滴、また一滴と吸い込まれていた。

 

「ふんっ!!!…ぎぎぎ」

 

少女――――紗倉ひびきはあおむけになってバーベルを持ち上げていた。

ひびきの握ったバーが、手からにじみ出た汗のため、反射できらめいている。

30キログラム。

これが、ひびきがあげているバーベルの重さであった。

ここはシルバーマンジム。

都内某所にあるトレーニング・ジムだ。

最新式のトレーニングも、ここでは早い時期からすぐ取り入れている。

筋トレの専門家もそろっている。

最近では実力ある格闘家が利用することでも有名になっている。

本格的に鍛えたい者には何かと話題の評判のいいジムであった。

一回。

二回。

三回。

四回――――

歯を食いしばりながらバーベルを上げる。

残り五回。

それが、右にいる男から言われたノルマであった。

再びバーベルを上げる。

一回。

二回。

三回。

四回。

 

「4.1回」

 

そうか、まだ五回に達していないのだな。

 

「4.2回」

 

なるほどなるほど。

ひびきは、おぼろげながら理解した。

これは、まだ終わらない。

残り五回というのは、この人が五というまでっていうことだ。

だから小数点がついているし、残りの回数も無限に――――

 

「っていつまでやらせる気ですか???!!!!」

 

いいつつも、バーベルを上げるひびき。

まだ余裕があると判断されたのだろう。

男がにいと笑いながら、再び口を開いた。

 

「マダマダ元気ガアルジャネエカ。4.3回。」

「――――ぐっ!!!」

「ホラホラ。腕ガ上ガリキッテネエゼ。4.4回」

「くっそぉぉぉおおおおーーーー!!!!」

 

叫びながらバーベルを上げるひびきを見て、男は笑った。

ジャック・ハンマーであった。

山下商事の専属闘技者となって以来、ジャックは近場にあるこのジムによく来ていた。

だが、自分で見つけたわけではない。

 

「おっ。様になってるじゃねえか」

「ヘッ、茶化スンジャアネエ。

サア4.5回ダ。」

「ぎっ…!!!ぎっ!!!」

 

ドレッドヘアーの、肩幅の広い大きい男が隣から声をかけた。

プロレスラー・関林ジュンである。

このシルバーマン・ジムは関林の紹介であった。

拳願試合で闘って以来どこか意気投合するところがあったのか、

お互いがお互いの事を認め合ったのか。

あるいはその両方か。

その点については、当人の間でしかわからない。

しかし、事実として二人はよく一緒にいた。

関林が巡業の日は設営に参加したり、

超日本プロレスの若手の指導にあたったり、

時には関林とスパーリングをしたり。

こうして一緒にトレーニングをしたりしていた。

 

「な?こいつを連れてきて正解だったろ?」

「間違いないですね。

素晴らしい人材ですよ!!」

 

そして、関林がトレーニングをしようとこのシルバーマンジムを紹介した理由がこの男にあった。

髪の毛は短髪に。

しかしよく手入れされていて清潔感がある。

眼はほそいが、顎が太くなく顔全体が小さいため爽やかな印象を受ける。

上下青を基調としたジャージを着ており、その布地には汚れが見当たらない。

笑った時に出る歯も、白く輝いていた。

 

「イヤ…アンタガイテ助カッタノハコッチノ方ダ、ナルゾウ。

オレノトレーニングニ反対シナイドコロカ、ソノ上デ効率ヨク指導シテクレルナンテナ。」

「最初はなんて無茶なトレーニングをするんだと思いましたけど…特別な想いがあるなら、僕も手伝わないわけにはいかないです。

ジャックさんの筋肉もそれを望んでいるようですし!!!」

「―――ジャックの筋肉、ついに意志を持ったのか?!?!」

 

今関林に現実的なツッコミを受けた、このさわやか系イケメン。

街雄鳴造。

それがこの男の名前であった。

トレーナーでありながら、自身も一流のボディビルダーである男。

指導者としても一流で、ここに来てからジャックの身体能力は飛躍的に上昇した。

もともと243センチの肉体を自在に操るフィジカルモンスターが、街雄の指導によりさらにボディバランスと全体的な筋力の向上に磨きがかかっている。

その成果は拳願試合でも現れていた。

平均69秒。

これがシルバーマンジムに来て以来の、ここ3戦のジャックの平均KOタイムである。

その中には因幡のような絶命トーナメントに出場した『レジェンド』も含まれていた。

しかも、目立った怪我もない。

勝ち方は単純だ。

初手から突っかける。

次に猛烈なラッシュを仕掛ける。

これで終わりだ。

普段からよくやるジャックの戦法である。

この初手の突っかけと、ラッシュの速度が更に増したのである。

 

『人間じゃねェ。誰があいつを止められるんだ。』

 

そう言って、山下商事と闘うことをあきらめる企業も増えた。

 

『次の王は範馬だな』

 

そういう拳願会員もいる。

明らかに街雄の手腕によるものであった。

それ以来、ジャックは街雄の指導にはほぼ従うようにしている。

一か月経ち、二か月たち。

お互いの親睦も深まったころ、街雄が一つの依頼をしてきた。

ジャックの才能を認めて、ひびきや朱美などの高校生組の指導を空いている時間に頼めないかと打診したのだ。

最初、ジャックは渋った。

自身がトレーニングをしにきているのに教えるのか。

しかも、自分たちとはほど遠い人種の彼女らを。

だが、街雄に恩がある身として断り切れずに面倒を見ることになったのだった。

その結果――――

 

「5回。ヨク頑張ッタナ。」

「ぜえ…ぜえ…」

 

こうして、空いた時間にトレーニングを見るくらいのことはするようになった。

ひびきが、肩で息をしながら水筒が置いてある棚に向って歩いて行った。

ふらふらしてはいるものの、眼はまだ死んでいない。

少し休憩したら、次のトレーニングに入れるだろう。

口数が多く、オーバーリアクションなもののガッツがある娘。

ジャックの中でのひびきとは、そういう存在であった。

――――まだまだしごけそうだな。

そう考えて、次は何をやらせようかと思案しているうちに、関林が声をかけてきた。

 

「ジャック、そういやお前さん対抗戦の話聞いたかい?」

「アア。地下ト拳願会デヤルンダッテ?

オマエハ出ルノカ?」

「あったりまえだろ。相手も既に決まっているぜ。」

「ドイツダイ?」

「丹波。丹波文七。そう、巽さんから聞いたよ。」

「―――――ソイツハ、マタエライ相手ダナ」

 

ジャックがにい、と笑いながら答えた。

丹波文七。

プロレス界からすれば、いい意味でも悪い意味でも有名な男であった。

どこにも属さず、しかし巽真と松尾象山が取り合うほどの超実戦派空手家。

梶原に腕を折られ悲鳴をあげた丹波クン。

リベンジを果たした丹波文七。

新進気鋭の新人、鞍馬彦一をケンカでぶちのめした丹波文七。

中堅レスラー三人を再起不能にした丹波文七。

プロレス界とは浅からぬ因縁をもつ空手家。

プロレス界での丹波文七とは、そういう男であるらしかった。

 

 

「まあ、それはいいとしてだ。

気になってたんだがよ。ジャックお前あれだよな?

地下出身だよな。」

「マア。」

「でも、今は山下商事に所属してるんだろ?」

「アア。」

「あーーーー。言いなくないならいいんだけどよ、どっちから出るか気になってさ。」

「―――――」

「まあ、言いにくいなら――――」

「拳願会カラ出ルサ」

「ほう?」

「山下社長トハ気ガアウシ…何ヨリ、地下ニハアイツガ居ル」

「――――刃牙か?」

「ソウダ。」

 

ジャックが拳願会から出る理由―――――それは異母弟、範馬刃牙の存在が大きかった。

山下に恩はあるものの、決め手ではない。

結局のところ、純粋戦士であるジャックは闘いたい相手がいるかどうかが重要なのだ。

そして、それは地下闘技場にいる。

地下で闘ってもいいが、むざむざこの機会を逃す手もない。

既にこのことは刃牙にも伝えられており、承諾を得ている。

 

―――――対抗戦第九試合

ジャック・範馬VS範馬刃牙

既に決定。

 

「そうか。そうだよな。」

「アア――――俺達ハ兄弟ダカラナ…」

「ああ――――兄弟だし、それでいいんじゃね?」

 

関林が腕を組みながらうなずいた。

それと同時に、にかっとわらった。

 

「しかし――――へへ。それを聞いて嬉しかったぜ。」

「ン?」

「ジャック、お前と同じチームで闘えるからだよ。」

「――――――」

「仲間、ってわけだな」

「アア。言ワレテミリャア、ソウカ。」

 

考えてもいなかったことだった。

そうだ、言われてみれば同じチームで闘うのだ。

今まで、ずっと一人であった。

博士が居た時期もあった。

猪狩は今でもサポートしてくれている。

紅葉もだ。

しかし、こうして同じチームで戦い共に勝利を目指すようなことはしたことがなかった。

団体戦とか、そういうのにも興味がなかった。

自分が戦えればいい。

そう思っていたからだ。

ついこの間までは。

だが、今ジャックは楽しんでいた。

関林とスパーリングをすることとか、街雄とやるトレーニングだとか、こういう指導だとか。

いろいろなことが、楽しくなってきている。

 

「生マレテ初メテノチームプレイダゼ」

「――――」

「面白クテ、タマラネェナ」

「いいね」

 

本心であった。

最近よくジャックはこう思うのだ。

強いってのはスピードがあるだとか、パワーがあるだとか。

それだけじゃあないということだ。

楽しむこと。

これが必要だ。

多分、刃牙は毎日こういう感情で過ごしていたのだろう。

必死になって、つらい思いをしながら修練を積む者が、楽しみながら修練を積むものに勝てるわけがない。

敵わぬわけだ。

勝てぬわけだ。

そう思った。

少なくとも、今までの自分ならばそうだったであろう。

しかし、今の自分ならば勝てるかもしれない。

そう思い、ジャックは握った拳を見る。

こいつを楽しむこと。

それだけならば、今の刃牙にも負ける気がしなかった。

柄にもなく浮かれていると思ったが、いけないことだとも思わなかった。

 

「けど、忘れんなよ」

 

こつんと、関林の拳がジャックの胸に当てられた。

優しい丸みを帯びた拳だった。

 

「ジャック。対抗戦の次はおめえさんだ。

この関林が、範馬に土をつけた初のプロレスラーになるんだからよ。

それまで負けるんじゃねえぞ。」

「素敵ナ宣言ジャネェカ。余計ニ負ケラレナクナッチマウ。」

 

ジャックは口元に微笑を浮かべながら、答える。

優しい、しかし決意を秘めた顔であった。

 

「ジャックさん、ジャックさん」

 

そこに、街雄が声をかけてきた。

振り返ると、街雄の他にもう一人いた。

女の子だ。

ひびきと歳のころは同じくらいだろうか、よく一緒にトレーニングをしているのを見る娘だ。

今日もいつも通り、白いタンクトップに黒いハーフパンツの、トレーニングウェアを着ている。

黒く長い、美しい髪に整った顔立ち。

出るところは出て引っ込むべきところは引っ込んでいる。

素晴らしいプロポーションの持ち主であった。

だが、話した事は無い。

 

「――――ン?」

「彼女、奏流院朱美さんって言うんです。

ジャックさんがさっきまで教えていたひびきさんとはお友達で。」

「ソウナノカイ?」

 

ジャックが、膝を落としてひびきの顔をのぞき込んだ。

2メートルを大きく超えるジャックが上から見下ろすように話せば威圧感を与える。

そういう心遣いをしたうえでの行動だったのであるが、

 

「は、はい~~~~!!!!」

 

当の朱美は顔を、自身の名前の如く真っ赤にしながらひきつって答えた。

 

「はは。彼女、ジャックさんに聞きたいことがあるみたいでしてね。

こうやって連れて来たんですよ。」

「聞キタイコト?」

 

首をかしげるジャックに、関林は合点がいったようにうなずきながら言った。

 

「ああ。確かにお前、見た目えげつないからなあ。

聞きたい事あっても女の子一人じゃきついわ」

「テメーニダケハ言ワレタクネエ。」

 

ジャックが関林を苦笑いしながら肘で小突く。

その様子を、陰から見守る影が三つ――――いや、四つあった。

 

「うわー。やべえなこりゃ。完全にやっちゃってるよ。」

 

一人はひびきである。

親友が完全に『やっちゃってる』姿を見て顔面に手を当て点を仰いでいた。

 

「朱美、あんなキャラだっけ?」

 

ひびきの頭の上さらにのぞき込むように、浅黒い健康的な肉体をした少女が言った。

2人の友人、上原紗耶香である。

ひびきほど朱美とつるんでいるわけではないが、付き合いはそこそこ長い。

普段は上品華麗なお嬢様。

筋肉が絡むと残念になる変な女。

紗耶香の中ではそういうイメージであっただけに、あの妙なテンパリ様がひっかかったのだ。

 

「いえ、普段とはほど遠いわよ。」

 

紗耶香のさらに上からのぞき込む影があった。

2人の教師、立花里美である。

学校でも、ジムでも彼女の姿を知る里美は珍しいものを見るかのように目を丸くしている。

そう。

今の朱美はぶっちゃけ上がっていた。

誰がどう見てもわかるくらい上がり切っていた。

 

「―――朱美、マジでジャックさん狙いなの?

ああいうのが好み?」

 

その里美のさらに上からのぞき込む影があった。

銀髪の美しい短髪に、朱美以上の出るところが出ている身体の持ち主であった。

ジーナ・ボイドである。

ジーナは母国・ロシアで格闘技をやっている都合上、ジャックの話は耳にしたことがある。

ロシアの英雄、ガーレンを倒した男。

ロシアの最凶死刑囚、シコルスキーを圧倒した男。

ロシア裏格闘技では話題に上らない事は無い危険な男。

むろん、口に出すことはない。

友人の恋路を邪魔することでもないと思ったからではあるが、ジーナの中でジャックはそういう存在であった。

 

「いや――――朱美の視線の先をよく見てみなよ」

 

ひびきに言われてジーナが、よく朱美の顔を見てみた。

確かに舞い上がって顔を赤くしてはいるものの、視線の先が顔ではない。

胸だ。

 

「大胸筋ね」

「大胸筋だわ」

 

紗耶香と里美が、声をそろえて言った。

そう。

朱美はジャックの貌を見て舞い上がったり、顔面と性格が好みのタイプだから上がっているわけではない。

 

(ほんとに最高――――!!!今まで見た中で一番タイプの大胸筋――――!!!)

 

大胸筋がもろ好みドストライクだったからなのだ。

 

(ジャックさんが来るまでは私、待雄さんの大胸筋が至高だと思っていたわ。

汚れのない、光り輝いた―――――さわやか正統派の大胸筋が好み…そう思っていたの)

 

確かに、今でも街雄の大胸筋は捨てがたい。

興奮に値するものがある。

それは事実だ。しかし―――――――

 

(でもジャックさんを見てから考えが変わった――――いえ、最初からそうだったのかもしれない。

やっぱり私、お姉ちゃんみたいにワイルド系が。

オラオラワイルド系大胸筋が好きだったのね…)

 

やたら自分の胸に視線を向けられていることに気付き、頸をかしげるジャック。

なんとなく察した関林はにやつきながら事の次第を見守っている。

ここでようやく、朱美が口を開いた。

おずおずと、ジャックの服の裾をつかみながら恥ずかしそうに言った。

 

「あ、あのー…」

「ン?」

「せ、背中の筋肉を見せてもらってもいいですかッッッ!!!???」

「ア、アア…カマワンガ…」

 

謎の勢いにたじろいだジャックが、すごすごと上着を脱ぎ背中を見せる。

 

「く…く…」

「――――」

 

関林は下を向いて思いっきり笑いをこらえ。

街雄がニコニコしながらジャックと朱美を見守っている。

 

「コレデイイカイ?」

 

振り向いたジャック

広がっている背中を見てぶるりと体を震わせた。

――――最高よ。

そう思った。

顔を赤くし、恍惚とした表情で男の背中をつつ、となぞる。

 

(男は顔よりヒッティングマッスルで選べというお姉ちゃんの言葉を借りるなら、

この人を狙わない手はない…!!

背中広すぎてパンこねれるわ!!!)

 

なぞられていることに疑問符を浮かべながらも、とりあえずはそのままにしておくジャック。

そこに、関林が近づいてきた。

ジャックの隣に並ぶ。

なにも言わない。

 

「―――――」

 

何も言わずに朱美に向って横を向き、手を組んで大胸筋を強調した。

いわゆるサイドチェストである。

 

「!?」

 

朱美の眼の前に、至高の広背筋と極上の大胸筋が並ぶ。

ジャックとは違い、粘りのありそうな優しく丸い筋肉であった。

朱美は鼻血が出そうになるのをこらえながら、男達の筋を凝視している。

 

「――――なるほどね」

 

その様子を見て何かをひらめいた街雄が関林の隣に並んだ。

並んで―――――

 

「サイドチェストッッッッ!!!!!!」

 

服が、はじけ飛んだ。

はじけ飛んだジャージの下から、合成写真かと疑わずにはいられないほどのゴリマッチョボディが飛び出し朱美の網膜に突き刺さる。

 

「ああんっ!!??」

 

こらえきれずに、朱美の鼻から血と汁が噴き出した。

自分は暴力を受けている。

朱美は、そう思った。

筋肉美というエロスの塊が自分の眼球を埋め尽くしているのだ。

これが暴力でなくて何なのか。

ピンク色にそまる思考を切り替えることもできず、鼻息荒く三人の筋肉を見ていた。

 

「――――ナルホドナ」

「――――――」

 

ジャックが振り返る。

同時に、名もなきマッチョたちが集まって来た。

ぞろぞろと、朱美の眼の前に並ぶように歩いてくる。

うんうんとうなずきながら街雄が並んだもの達に促す。

 

「さあ、皆さんご一緒に再度…」

「―――――――」

「はいッ!!!!サイドチェスト!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

ムキィッ

そういう効果音と共に、目の前に並んだ男たちが一斉にサイドチェストを取って朱美に一歩近づいた。

 

「ああっっ!!!!!????」

 

たまらずよだれと血を口から吐き出しながら、朱美はよろめく。

こんなことが。

こんなこの世の極楽が。

こんな世界が許されていいのか――――。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

この時、朱美の脳内で繰り広げられた光景は、マッチョたちのサイドチェスト攻撃ではない。

そもそも、シルバーマンジムですらない。

会場だ。

こぎれいなビルの、一会場。

こういうものであった。

その中で、朱美は眼鏡とスーツを着用しながら椅子に座り、長机越しに対面を見ていた。

そこにはジャックや街雄をはじめとするマッチョ達がパンツ一丁で一列横並びに椅子に坐っている。

 

「今からマッチョの集団面接を始めます。

当社に入るに当たって一番力を入れた部位はどこかお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「二頭ダ」

「マッチョ」

「大胸筋です!!!」

「マッチョッッ!!」

「泣く子も黙る、大腿筋かな」

「マッチョ!!!マッチョッッ!!!」

 

こういったものであった。

眼の前の光景は、既に朱美の瞳には映っていない。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「帰ルカ。」

「ああ。」

 

そして、どこかの世界にトリップしている朱美をよそに。

ポージングに飽きたジャックと関林はロッカールームに向って歩いて行った。

 

「お、おい朱美ッッ!!」

 

ひびきがさすがに見ていられなくなり、飛び出して朱美の肩をゆすった。

がくがくと、焦点定まらぬ顔で飛んでいる朱美をこちらの世界に戻すべく力を込めて呼んだ。

 

「ほえ…?ひびき…?

私は今からジャックさんの腹斜筋で大根をすりおろすところだったのに…?」

「いや、知らねーよ!!!それよりも早くしねーとジャックさんの連絡先聞けねーぞ??!」

「―――――――――ハッ!!!???」

 

急いで走り出し、ジャックの連絡先を聞いた。

混乱しながらも連絡先を教えるジャックに、横で大笑いする関林。

本日もシルバーマンジムは平和であった。

 

 

 

「ここらへんでいいかい、先生。」

 

東京湾に面した、とある倉庫。

その中で二人の男が相対していた。

一人はヒョウ柄のシャツに白のジーンズ。

シャツからはみ出た胸部の筋肉、

ちらほらと生える無精ひげ、

濃いめの眉、その右眉をまたがるような大きい創痕。

悪く言えば、清潔感が少し欠ける。

よく言えば漢らしい。

そういった印象を受ける男であった。

男の名は丹波文七。

超実戦派空手家の雄にして、関林の対抗戦の対戦相手でもある男だ。

 

「構わないよ。」

 

先生と呼ばれた男が、丹波の眼を見た。

手入れのしていないぼさぼさの黒髪。

丹波と同じく、ちらほらと見える無精ひげ。

それに加え、黒い浴衣のような和服を羽織っているので、どことなく浮世離れした感じが見て取れる。

この男こそ、徳尾徳道。

通称”二徳”と呼ばれる男であり、あの『牙』を敗北寸前にまで追い詰めた男である。

しかし、その『牙』との試合で重傷を負った二徳は療養を余儀なくされた。

これが数か月前の出来事である。

そしてけがから回復した今、再び闘いの場に上がろうとしていた。

対抗戦には時期的に難しい。

しかし対抗戦が終ったあとの試合について、既に山下からオファーの準備はしていてほしいと頼まれている。

 

「丹波君――――ウォーミングアップに付き合ってくれること、感謝している。」

「礼には及ばねェよ。こっちも対抗戦を控えてるんで、いい練習相手が欲しかったんだ。」

 

そこで、実践のカンを取り戻すべくウォーミングアップを頼んだ相手。

それこそが丹波文七であった。

丹波文七は数年前、プロレスラー梶原に敗北を喫して以来様々な格闘技を取り入れていた。

その中で、サンボを習いに行ったことがある。

その道場に居たのが二徳である。

2人は年も近く、実力も近いことから意気投合。

以来、こうして何かの機会に会うことが度々あった。

 

「対抗戦――地下と拳願会のあれね。」

「知って―――て当然だわな。先生、あんた拳願会の人間だし」

「うむ。対戦相手のことも知っているよ」

「へえ」

「関林だろ?」

「そうだよ」

「これはまた、えらい相手とやることになったねえ」

「プロレスラーだろ?」

「その認識でいると君は負けるかもな」

「――――」

「”獄天使”関林ジュン。彼は君が今まで相対した、見てきたどのプロレスラーとも違う。」

「同じやつなんかいなかったよ」

「それでもだ。彼はプロレスに愛された男だよ。」

「愛された男?」

「常に、プロレス技で闘う。常に相手の攻撃を受け切る。そしてこの日本でトップクラスにプロレスをやっている男だ。」

「どういうことだい?」

「五千二百試合。」

「五千二百」

「これがどういう数字かわかるかね」

「いいや」

「今まで彼が行ったプロレスの回数さ。年間二百六十試合。それをざっと二十年くらいだ。

しかも、試合も練習も一回も休んだことがない。それは関林が一度も大きなけがをしていないってことを意味する。」

 

二徳が腕を組みながら言った。

 

「なぜこういう事ができるか。それは、彼の受けが尋常でなくうまいからだ。」

「受け、ねえ」

「相手のフォームを崩して破壊する。相手の攻撃力が高いほど、その威力は増していく。

だから相手は本気で攻撃できないし、セメントに近い事を仕掛けようとすると逆に自分が壊れる。」

「へえ」

 

五千二百試合。

二十年もの間相手の攻撃を受け続けてきた肉体。

プロレスが作り上げた、プロレスそのもののような肉体。

彦一よりも、

梶原よりも、

長田よりも。

もしかしたらあのグレート巽にまで匹敵するかもしれない、純度の高いプロレスの肉体。

自分はそういうものを相手にしようとしているのだ。

 

「面白いじゃないか」

 

にい、と丹波が笑った。

犬歯をむき出しにした、闘争心溢れる笑みだ。

 

「全く…つくづく君は餓狼だな。一人で戦い、相手が強ければ強いほど燃えるとはね」

「――――」

「私とは正反対だ。全く、次の試合が最後の試合になることを願うばかりだよ。」

「ハハ。先生は、そう言いながら一生戦ってそうだ。」

「勘弁願いたいね」

 

頭をかきながら、二徳が腕を下ろした。

 

「では、そろそろ始めようか」

「そうだな」

 

二徳は腰を落とし、両手を前に出した。

丹波は拳を上げて、構えた。

二徳の周囲が、

丹波の周囲がぐにゃりと歪んだ。

倉庫の壁や床なんかが軟らかい何かできているように歪んで見えている。

幻覚だ。

実際に物質が柔かくなっているわけではない。

しかし二頭の獣の闘志が、熱い陽炎のようにゆらめいて燃えているので、あたかも空間が歪んでみてるかのような錯覚が起きているのだ。

と――――

つううう、と二徳が動いた。

腰を落としながら前へ。

大陸のプレートが別のプレートの下にゆるやかに沈みこむように。

斜めに沈みながら前に出ていた。

丹波も、それに合わせてじりしりと。すり足のまま前に出る。

そこで――――

ダアン!!!!

こういう音が鳴った。

音の出どころは二徳。

より正確に言うなら二徳の足元にあった。

大地が動く時のように、沈んでいた二徳の身体が急に浮き上がったのだ。

床を思いっきり蹴り、身を起こすと同時にまっすぐ力強く丹波の懐に入ろうと試みる。

そして、入った時には既に手が動いていた。

タックルだ。

丹波の腰をつかみ、テイクダウンを奪おうとする。

 

「コッ」

 

それを、丹波は耐えた。

呼気と共に四股に力を入れて上からがぶりつくように覆いかぶさる。

アマレス流のタックルの切り方だ。

同時に、下から右の膝を突き上げようとした。

狙いは二徳の顔面だ。

 

「ぬっ」

 

二徳は膝を見た瞬間腰を左に切り、がぶりつかれたまま強引にサイドに移動する。

すごい力だ。

このまま膝を出し切ってはバランスを崩すだろう。

そう見込んで無理やり側面に移動しようとした。

そして、側面に移動することはあっさりと成功した。

丹波ががぶりついていた手をいつの間にか離し、膝を打つことをやめていたからだ。

移動した二徳のその眼前に左の拳が置かれてある。

サイドを取った瞬間に攻め込んでいたならば、この鉄拳が鼻っ柱にぶち込まれていたところであろう。

 

「やるね」

「あんたこそな」

 

互いが互いを賞賛した。

仕切り直し、丹波も二徳も構えなおした。

しかしその距離がはじめの時より若干近い。

 

「いくぜ」

 

じゃりっという、靴で小さい砂を踏みつけた時のような音が聞こえた。

音の発生源は丹波であった。

今度は、丹波から仕掛けたのだ。

右拳が二徳の顔面に迫る。

フェイントも何もない。

空気がこすれるような轟音と共に迫る。

二徳はそれを左手で内側から払い、そのまま丹波の腕をかすめるように左の突きを丹波に向って出していた。

受けと打撃が一体になったかのような、上手いやり方であった。

丹波はそれを首をひねって回避。

丹波が左のミドルを繰り出す。

二徳が、左へ短くとんだ。

受け切れぬと判断して自らとんだのでダメージはない。

それでも完全にはかわしきれなかった。

服の、脚がかすめた箇所から焦げたようなにおいがする。

着地と同時に丹波が距離を詰めた。

右脚を、左足に向って打ち下ろす。

ローだ。

タックルにせよ飛ぶにせよ、まずはその足を封じるという気持ちで蹴った。

それは二徳にもわかっていた。

わかっていたので、脚を上げて受ける。

それでも、重い衝撃が奔った。

反撃しようにもできなかった。

丹波が止まらないからだ。

 

左。

捌く。

左。

捌く。

右。

首をそらして回避。

距離を取ろうとしたところに前蹴り。

右手で上から受ける。

もう一度、爪先で突き刺すように蹴る。

右腕で上から抑える。

二徳の視線が、完全に下を向いていた。

万を持して、丹波の渾身の右が振るわれた。

顔と腹。

上下に揺さぶって意識を散らしたうえでの、顔面への右正拳であった。

―――当たる。

打った瞬間に、丹波はそう思った。

路上、試合。場所問わず何年も闘い続けてきた男の、本能から来る確信であった。

 

「流星光底 長蛇を逸す―――頼山陽。」

 

その拳が今、空を切っていた。

いないのだ。

今そこにまでいた二徳の姿がない。

ばかな。

一体どこに――――

そう思った瞬間、ぞくり。

悪寒が丹波の全身を包んだ。

そして、見つけた。

下だ。

丹波の右手を潜り抜け、低い姿勢のままフリーの状態を得ている。

なんという男か―――

冷や汗を流しながらも雄は瞬時に動いた。

膝だ。

低い姿勢の、タックル狙いの二徳に対してカウンターを入れようと膝を出した。

―――結論から言えば、この行為は無意味であった。

フリーの体勢になった二徳からすれば、ここから来るのは膝しかないと容易に想像がつく。

ついているので、左腕で上から丹波の膝を押さえつつ、逆の手で丹波の軸足を抱え込んで体ごと押し込んだ。

軸足タックル。

 

「~~~~ッッッ」

 

苦し紛れに丹波が肘を背に落とすが大したダメージはない。

そのまま、二徳の目論見通り丹波は尻から地面に落ちた。

テイクダウン、成功。

二徳がそのまま抱えた脚に関節技を決めようとするが、丹波が素早くそれを抜く。

ならばと覆いかぶさりマウントを取ろうとしたところで、何かが絡みついてきた。

 

「うまい」

「あんたに上になられちゃあたまんねェからな」

 

そう、二徳が思わず口に出した。

丹波も、笑いながら答えた。

脚だ。

大蛇が獲物に絡みつくように、丹波の脚が二徳の身体を下からがっしりと挟み込んでいた。

力強い。

二徳はそう思った。そして、迷った。

どうするべきか。

脚をこじ開けマウントを取ろうにも、丹波の力が強すぎる。

それに、無理に開けようとしたら下から打撃をもらう可能性もある。

丹波も迷っていた。

ガードポジションを取ったはいいが、相手は関節のプロ。

下手に三角絞めなどやろうものなら逆に腕を取られて極められる可能性が高い。

しかし、だからといって打ち合ってくれるような男か。

空手家の自分の実力をよく知っているこの男が?

考えにくいことである。

数秒、お互いの動きが止まった。

 

「―――――」

 

止まったが、先に動いたのは二徳であった。

二徳が、抱え込んでいる丹波の脚の、内側のくるぶしの少し上あたりを思いっきり指で押した。

 

「づうっ!!??」

 

三陰光。足首付近に存在する急所である。

ここを思いっきり押し込まれることにより、丹波は思わず足から力が抜けた。

二徳が、上から覆いかぶさろうとする。

たまらず丹波が右腕を下から放った。

それを見て、二徳は笑った。

にやりと、予想通りだというふうに。

 

「よし。」

 

手首を掴んだ。

同時にサイドに回り、丹波の右腕を両腕で抱えて身体を後ろに倒していく。

腕ひしぎだ。

伸ばしきれば決まる。

 

「カッッ!!!!」

 

その一瞬前に、察した丹波が強引に腕を引っこ抜いた。

極まると思っていた二徳は眼を見開く。

瞬時に立ち上がった丹波が、踏みつけるように二徳の脚に向って蹴り下ろす。

 

「くっ」

 

二徳はそれを後ろに転がって回避し、立ち上がった。

再び、丹波が構えた。

再び、二徳も構えた。

今度は動かない。

お互いがお互いの動きを知っているので、打つ手が少なくなってきている。

これ以上は、今まで以上のリスクがある攻撃を行わなければ勝負が動かない。

丹波も二徳も、それを理解した。

理解したので――――

 

「―――――ふう。ここまで、かな」

「―――――ああ。そうだな。どうだい先生、身体の調子は?」

 

構えを解き、力を抜いた。

濃いウォーミングアップであった。

 

「まずまず―――といったところかな。これなら何時復帰戦が来ても問題ないだろう」

「そいつはよかった。」

「君の身体もよく切れている。特に打撃がすごいね。私も馬力には自信があるほうだったが、つい打撃戦を避けてしまったよ。」

「そいつはお互い様だ。俺も、先生の寝技に付き合いたくねェからああいうことをしたわけだし。」

「―――フフ」

「―――ハハ」

 

笑った。

お互い、いい汗を流した爽やかな笑顔であった。

その笑顔のまま、二徳が言った。

 

「これなら、対抗戦には期待が持てるね」

「――――」

「ただ――――」

「ただ?」

「ただ、君が負けることがあるとするならば。それは君がプロレスをした時だ。」

「俺はプロレスなんかやらねェよ。」

「そうだろうな。だから、プロレスをやったら君の負けだ」

「やらなかったら?」

「さあね」

 

笑みを浮かべたまま、二徳が言う。

 

「ここで私が勝っただの負けただの言ったところで君は何か変えるかい?」

「変えねェな」

「だろう。」

 

顎を引いて頷いた後、ぐーっと、身体を二徳が伸ばした。

 

「さて、そろそろ私は行くよ。いいネタを思いついたのでね」

「先生、前から言おうと思ってたんだけどやっぱアンタ格闘技やったほうが―――」

「ではな」

 

丹波が言い終わる前に、二徳が身をひるがえした。

相変わらず自由な人だ。

そう漏らして、苦笑いしながらため息をついた。

だから自分とも長い間つるんでいられるのだろう。

そして丹波も深呼吸した後、二徳を追うように倉庫を後にした。

身体の熱は、まだ冷めきっていない。

火照っている。

この熱を持った獣をぶつけるのだ。

稀代のプロレスラー、関林ジュンに。

そう思い帰路についた。

恋に焦がれる少女のように、胸を焦がしたまま。

 

――――――――――第三試合

丹波文七VS関林ジュン

ここに決定。

 

 




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第十三話 烈

13話 烈

 

ガオラン・ウォンサワットはリングの上で拳を繰り出していた。

 

「シッッ!!シッッッ!!!」

「はい次ッッ」

 

小気味いい音と共に、ガオランの眼前にいる紗耶香のミットが跳ねていく。

打つたびに、違う位置に繰り出される二つのミット。

それが、また繰り出されるたびに跳ね上がった。

16オンス。

これがガオランがはめているグローブの重さであった。

通常、プロの試合に使われるグローブは8オンスなのでそれの二倍の重さということになる。

慣れないものがつければ、構えるだけで結構な重量を感じるサイズだ。

両こぶしに450グラムずつつけて腕を振りまくれ、と言えばその重さがなんとなくわかるだろうか。

 

「シッッ!!」

 

それを、ガオランは難なく。

いつもと変わらないスピードでこなしている。

すでに5ラウンド分、ノンストップでミットを打ちまくっていた。

信じられない体力であった。

それでも十分な余力を持ったまま、ガオランは紗耶香に言う。

 

「紗耶香殿、もう少し回転を速くしても大丈夫か?」

「まじ?これ以上?」

「難しいか?」

「いや、大丈夫だけど――――」

「ならば、お願いしたい」

 

ここは光栄ジム。

紗耶香の実家が経営するボクシングジムであり、世界クラスのボクサーを多数輩出することでも有名なジムである。

紗耶香はまだ高校生のため経営に携わっているわけではないが、休日や姉からの要望があればこうして選手のミットを受ける手伝いをしたりすることがあった。

そういうわけで、現在は光栄ジム所属の世界チャンピオン・ガオランのミットを受けているわけであるが。

 

(はっええ…ハンドスピードもそうだけど、反応速度が尋常じゃない。

ミット出したと思ったその瞬間には打たれてる…)

 

ほかの選手とは明らかに速度が異なっていた。

むろん、一般のボクサーたちより下地はある。

幼いころからタイの皇太子・ラルマーの側近となるためにムエタイに取り組んで来たので格闘技のキャリアは20年以上だ。

しかし、そういう選手が居ないわけではない。

幼いころからボクシングを始め、今紗耶香のジムで世界を狙っている選手は確かにいる。

その選手と比較しても、ガオランの速度はあまりにも早すぎるものであった。

異常と言ってもいい。

――――虎だね、こりゃあ。

ほかの選手が鍛えた一般人レベルとするならば、ガオランは野生の虎だ。

特別な修練など何も受けずとも、人間よりはるかに優れた運動能力と反応速度を持ち得る生物。

修練というよりは生まれ持った資質。

明らかに才能の賜物であった。

 

「シッッ!!!」

「くっ!?」

 

殆んど矢継ぎ早に出していく紗耶香のミットをその瞬間にはじいていくガオラン。

もう何発撃っただろうか。

覚えていないが、明らかに尋常のミット打ちの数倍の量をこなしている。

紗耶香の息が上がり始め、ミットを出す速度が落ち始めた辺りでタイマーが鳴った。

3分の終わりを告げるタイマーだ。

そこでガオランが、腕を下げて礼を述べる。

 

「感謝する、紗耶香殿。」

「そ、それは、よ、よかった…」

 

汗一つかかず淡々と述べるガオランとは対照的に、肩で息を切らしながら紗耶香が答えた。

 

(な、なんで私の方が汗かいてんのよ…ふつー逆でしょ…)

 

ばて気味の紗耶香が膝に手をつき下を向く。

ガオランはガオランでリングから降り、すでにサンドバックを叩こうとしていた。

そして、サンドバックに手を伸ばそうとしたとき、やにわにジムがざわついた。

 

「やってるじゃないか」

 

ガオランの背後から、そういい放つ男がいた。

いつからいたのか。

見慣れない男であった。

黒人特有の黒い肌と、カールした髪の毛。

オレンジ色のアロハシャツにデニムを履いている。

目元はサングラスでおおわれているのでわからないが、少なくともここの人間ではない。

皆がざわついているのは、どう考えてもこの男が原因であった。

しかし、どこかで見たことがあるような――――

声をかけられたガオランは一瞬目を丸くした後、ふっと微笑みながら言った。

 

「――――来日していらっしゃったのですか。

ご一報いただければお迎えにあがったものを。」

「ハハハ。たまにはこういうサプライズもいいだろうと思ってね。」

「私にはいいのですがジムの皆が困惑しておりますよ――――Mr.アライ。」

 

Mr.アライ―――――その、ガオランが発した固有名詞にジムのざわめきは最高潮になった。

普段、ジムの空気が緩んだらしめる紗耶香の姉ですら、さわぎを止めようとしない。

紗耶香も紗耶香で愕然としている。

 

「マジ?」

「―――――神様じゃん」

 

マホメド・アライ。光栄ジムに降臨。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

光栄ジム、会長室。

練習場とはドア一枚隔てた場所で、長机を挟んで二人の男がソファーに座り向き合っていた。

そのドアを開け、震える手でお盆を持ってくる少女がいる。

 

「お、お茶です…」

 

紗耶香であった。

緊張して無理とだだをこねる姉に無理やり行かされて茶を運ぶことになったのだ。

――――緊張してんのはこっちもだよッッ

そういってやったが、背中を無理やり押されてやむなくそのお役を頂戴することになってしまったのだ。

失礼のないように、震える手になんとか力を入れて、お盆にある茶の入った湯呑をアライの前に置く。

その様子を見たアライは、朗らかに笑いながら紗耶香に言った。

 

「ハハ。そんなに気を使わなくても大丈夫だよ、お嬢さん。」

「フフ―――それは酷というものでしょう。あなたがボクシング界に与えた影響力の大きさを考えれば。」

(マジそれ!!!)

 

心の中でガオラングッジョブと思いつつ、茶を二人分置いて足早に退散する。

二度とこんなことしたくねえと思いながら、ほかの選手のミット打ちに戻った。

ガオランはそんな紗耶香を見て微笑んだのち。

茶を一息に飲み干して、アライに言った。

 

「ジュニアの調子は?」

「素晴らしいよ。この間は拳願試合に出てね、ネヅ…とかいう闘技者に勝ったらしい。」

「ほう」

「君のおかけだよ―――――本当に感謝している。」

「いえ。それが彼の本来の実力です。」

「だといいが。」

「それで――――ご用件は?」

「ああ、そうだった。それを伝える前に――――」

 

アライも、差し出された茶をぐっと飲みほしたあとガオランに尋ねた。

 

「例の対抗戦…出るそうじゃないか」

「――――――」

「対戦相手のことは知っているかね?」

「いいえ、まだ。」

「ならば伝えよう。」

「――――」

「レツ。カイオー・レツが君の相手だ」

 

カイオー・レツ…ガオランの脳裏に一人の男が浮かび上がった。

 

「レツ…スモーキン・ジョーとウィルバー・ボルトを倒した中国人ですか。」

「そう。あのボクシング界で物議をかもした中国人だ。」

「―――――――」

「君も知っているだろう。レツがしばらく前に言った、ワーレフを倒した時に言ったあの言葉を」

「―――君たちのボクシングはまだ幼い。」

「そうだ。」

「不愉快でした。」

「だろうな」

「ワーレフを、ウィルバーを倒したごときでボクシングの底を見たかのような言動…

ボクシングをなめているとしか思えません。」

「わたしもだ。」

「――――――」

「君に伝えたいことがある。」

「なんでしょう」

「その、レツからの伝言だ。」

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

聞き終わったあと、ガオランは眉間にしわを寄せた。

それだけではない。

拳と眉間に、力の入った青筋を浮かべている。

 

「奴が、そんなことを。」

「事実だ。」

 

組んだ手を、みしりときしませながらガオランは言った。

 

「―――――不愉快だ。」

 

アライが何を伝えたのか。

その答えは、つい数日前の中国にあった。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

中華人民共和国・某所――――

 

白林寺の道場内で二人の男が向き合っていた。

一人は――――容姿端麗。

それ以外の言葉が見当たらない。

切れ長の目に、それに沿った二重。

長いまつげと細く整えられた眉毛がことさらに男の貌のパーツを引き立てている。

しみだとか、青髭だとそういうものも一切ない。

白磁のような肌が光に反射してきらめいている。

身体もまた、見事であった。

左右均整に整えられ、腹筋も、二頭も、太ももも、余すところなく筋肉が張り詰めている。

かといって、ボディビルダーのように肉が肥大化しているわけでもない。

まるで中世の彫刻家、ミケランジェロが現代に創り出したような美しき肉体。

頸から胸にかけて凸型の上着を羽織り、太ももの大部分が見えるようなショートパンツをまとっている。

ある女に『わいせつぶつ』とまで言わしめた、この色気漂う男の名は、二階堂蓮。

現在は片原グループに所属する闘技者であり、日式中国拳法”天狼拳”の使い手でもある。

絶命トーナメントでは怪物・桐生刹那に後れを取ったものの、その実力は本物。

中国武術省では、中国拳法の最高名誉『海王』の名を与えてはどうか。

連日そういう話題に上る男である。

その男が今、冷や汗を流していた。

既に構えは取っている。

体を左足を前に大きく半身にし、脚を蟹股気味に前後に広げて配置。

腰を深く落とし、左腕は肘を少し曲げ胸の高さ位に。

右腕も同じように少し曲げ胸の位置くらいにしたいつもの構えだ。

だが、動けない。

 

「ッッ」

 

間合いをじりじりと詰めることさえできない。

それは目の前の男が原因だった。

その男は上半身裸で、構えてすらいない。

凛々しい眉。前髪を一本残らず額に上げ、みつあみのおさげにした髪の毛。

なにより身体がすごい。

浅黒い肌に、巨大な大胸筋と前方からでも見えるほどの三角筋。

黒一色の道着から見える左の脚には義足がハメられているが、不自由をみじんも感じさせないほどに男の体幹は安定していた。

蓮の肉体が美術品とするならば、この男の肉体は兵器。

どうやって作り上げたのかわからないほど、鍛えこまれた恐るべき肉体であった。

 

「ふ、相手が相手なら試合放棄とみなされるぞ」

 

微笑んで、言ったこの男こそ烈海王。

拳法家として最高峰の称号、海王の名を持つものにして中国武術会でナンバー2と称される拳雄である。

 

―――――――これほどか、烈海王。

 

蓮は、そう思った。

一見無防備に見えるこの形ではあるが、これは言い替えれば如何様に攻撃されても対応できるという自信の表れでもある。

現に、蓮は打ち込めずにいた。

イメージができてしまうのだ。

顔に打ち込めば―――――左の崩拳が顔面に。

腹にけりこめば―――――右の脚が側頭部に。

そのまま自身が倒れ伏すところまでがセットだ。

故にいずれも不正解。

 

(とはいえ、何もしないわけにもいくまい。)

 

じり、と脚を体ごと左に動かした。

 

「作戦は決まったか?」

「ああ。今さっき、な。」

 

いうが否や、一気に間合いを詰めた。

間合いに入る――――その寸前で足を止め、側面にとんだ。

烈の側面にある壁。

そこに両足をつき、

 

把威(はい)ッッッ!!!!!!!!!!!!!」

 

水平に飛びながら右脚で蹴りこんだ。

いわゆる三角蹴り。

壁を蹴り、その勢いをもってして相手にけりこむ。

選ばれた運動能力を持つものにしかできぬ攻撃。

烈は、何もしない。

視線すら向けない。

ただ、身体を少し沈ませた。

膝の力を抜き脱力することで回避せしめる最速、最低限の動作。

 

「!?」

 

蓮は驚愕した。

不意打ちにも近いあの攻撃をほんの少しの動作でかわした。

それだけではない。

あろうことか、この男は三つ編みの髪の毛を自身の足首に絡ませているではないか。

烈は、生きている蛇の如く巻き付けたそれを首ごとひっぱり。

 

「ぬんッ」

 

蓮を前にぶん投げる。

空中で身を翻し、脚から着地することには成功した。

しかし―――――

なんという。

なんという技術か。

腕や脚なんかではなく髪の毛を。

神経の通っていないそれを己の手足の如く操り、当てるだけならまだしもあまつさえ絡ませて投げ飛ばすとは。

ほれぼれするような技術であった。

知らず知らずのうちに、烈を称える笑みが蓮の口元に浮かぶ。

烈はまだ構えていない。

蓮は再び構えなおし、

 

(シャ)ッ!!!!!!!」

 

突っかけた。

今度は奇をてらうような真似はしない。

まっすぐに。

そして、爆裂音がした。

木製の床が抜けるほどの力で踏み込んだその勢いが、この音を生んだのだ。

それほどの踏み込みであった。

あの桐生刹那ですらが驚くほどのスピード。

明らかに海王クラスの速さである。

その勢いを保ったまま、拳を放つ。

親指と人差し指と中指。

この三本でつまむような形をつくり、烈のこめかみをフック気味につきにいく。

その手が、手にはじきだされていた。

烈が左の手の甲で軽く、軌道をそらすようにはじいたからである。

それは読めていた。

蓮はそう思いながらほとんど同時に、左を繰り出す。

左の貫手である。

狙いは腹だ。

骨と肉の間に入ってきそうな貫手である。

烈は、右腕をそっと蓮の貫手の内側に沿わせた。

はじいたりはしない。

勢いを持った連の腕はそれだけで軌道が外側にそれてしまう。

だが、止まらない。

その時には既に蓮の右ひじが烈の顔面に向って放たれていた。

烈が、右掌でそれを止める。

拳。

脚。

膝。

拳。

拳。

脚。

脚。

肘。

至近距離でめぐるましく蓮の打撃が放たれていた。

あまりの速さに、腕とか足が線のように見える。

それそのものの形がぶれて見えない。

そういう速度であった。

対する烈は――――いまだ構えてすらいなかった。

構えずにまっすぐ連を向いたまま。

脚を。

拳を。

膝を。

肘を。

そのことごとくを両の手で受け切っていた。

しかも、その場から全く動いていない。

一分半。

これが、最初の攻防が始まってから現在までの時間である。

濃密な蓮の打撃に彩られた1分半である。

並の者なら受け切れずにKO。

そうでなくても、精神力の大半をすり減らしてしまうほどの打撃の密度である。

だが、そのことごとくが烈に防がれていた。

たとえ闘技者でも一発はあたる。

最低、かすめるくらいはしてもいいだろう。

そういう連打であるにも関わらず、当たらない。

この時、蓮の脳内に浮かんだものはこれであった。

バリア。

SF映画であるような、透明な壁だ。

そういうものが烈と自分の間に張り巡らされ、立ちふさがっているのだ。

届かない――――

その考えを払拭すべく、呼気と共に右の上段蹴りを放つ。

軸足を回転させ、右の脚がきれいに上がった美しいフォームであった。

同時に、烈の眼が光った。

ぎらんと、獲物にとびかかるときの狼のような鋭い輝きを放った眼である。

冷たい汗が蓮の背骨の上を伝う。

そう認識した時には、烈の姿が蓮の目の前から消失した。

否、消えたわけではない。

下だ。

身を低く。

それこそ地を這うように体を沈ませた烈が、両の手を地に突き左脚を軸に体を時計回りに回転。

その回転させた勢いを持った右の踵を、蓮の軸足にぶつけていた。

いわゆる水面蹴り――――――足払いである。

鈍く重い衝撃が左足首を襲う。

 

「ぐっ!?」

 

当然、耐えることはできず身体が一瞬宙に浮いた。

 

「破ッッッ!!!!」

 

烈が動いた。

勢いのまま立ち上がった烈が、その場からまっすぐに。

呼気と共に、ごうとうなりを上げて縦の拳を突き出す。

中国武術を象徴する武器――――崩拳である。

宙に浮いている蓮に躱すすべはない。

横向きに回る蓮の胴体に、吸い込まれるように烈の拳が突き刺さる。

それでもなお、蓮は『レジェンド』

あの、究極の猛者の中の猛者しか集わぬ絶命トーナメントの参加者だ。

拳が胴につきたてられる寸前。

ほんの寸前に、拳が当たる直前に掌で受け止めることには成功した。

したのだが。

 

「がっ!??」

 

そのまま掌ごと腹に押し込まれた。

しかも、インパクトの瞬間に拳にねじりが加えられている。

それも、手打ちではなく足から、腰から。

いつの間にか構えていた烈の全身から伝わる力がその拳には込められていた。

貫通力を備えた拳。

銃弾を前にして木の葉を差し出すような防御はあまりに儚く。

 

「うごっ!!!」

 

そのまま、数メートルも吹き飛ばされて壁に激突した。

受け身など取れようはずもない。

 

「―――――」

「ほう。あれを受けてまだ立ち上がれるのか」

 

烈が賞賛した。

並の相手なら、いや、海王が相手でも終わっていて不思議ではない。

そういうタイミングでの一撃である。

蓮は立ち上がり、二度深呼吸をした。

乱れた呼吸をその二度の呼吸で元に戻したのだ。

そのまますうっと腰を浅く落とし、両の手を揉み手するように、腰の下で構えている。

奇妙な構えであった。

先ほどまでの構えとは根本から異なる。

防御を考えずに、何かを行う。

そういう意思が見える構えであった。

これこそが天狼拳・秘奥。

 

「なるほど――――奇龍か。」

 

烈が言ったその言葉に、蓮の切れ長の目が丸く開かれる。

 

「――――知っていたのか。」

「文献ではな。私もこの目で見るのは初めてだが。」

「――――」

「その文献では対練(約束組手)ですら再現するのは困難だとも書かれていた。

非常に興味がある。」

「なら、身をもって知るがいいさ。」

「言われずとも」

 

初めて、烈から動いた。

すうっと、烈の両腕が下から持ち上げられた。

その両腕は前に出すことはせず、そのまま上に持ち上がり。

さながら灰色熊が立ち上がって威嚇するかのように、両腕を広げて構えている。

妙な構えだ。

少なくとも、蓮が知る武術にこういった構えはない。

腕を広げたまま、烈がまっすぐにこちらを見ている。

烈しい。

なんという眼か。

圧倒的な力を持った獣は、もはや逃げ場を失った獲物を見るときこういう眼をするのかもしれない。

吸い込まれそうな瞳であった。

ごくりと、蓮ののどが唾を呑み込む。

これほどの拳法家がいるのか。

闘技者どころか地球上を探し回ったところで、これほどの男はそう見つからないだろう。

蓮は悦びにも似た賞賛を送っていた。

三秒。

その時、烈の身体が動いた。

動いたといっても歩いたとか、飛んだとかそういうものではない。

どういう動きをしたのか。

烈の身体―――上半身が大きく膨らんできている。

空気を送り込んでいる最中の風船のように、今まさに大きく膨らんできているのだ。

―――――何を。

蓮がそう思った刹那。

烈が、口に拳を当てた。

吹き矢を吹くように構えたと思うと

 

「~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!??」

 

不意に、視界が奪われた。

 

(く、空気かッッ!!!??吸い込んだ空気を弾丸のようにッッッ!!!????)

 

何かの確証があってそう思ったわけではない。

カンである。

眼球に何かが刺さったような異物感や濡れたような感触がないこと。

直前の烈の構えから推察すると、こういう結論が導かれただけにすぎない。

そして、そのカンは当たっていた。

大量に吸い込み、肺にためた空気を弾丸にして発射する。

最大トーナメントで烈が克己に対してはなったことのある技である。

なんと異様な技をこうまで鮮やかに使うのか。

本日何度目の賞賛か。

鳥肌が立つような興奮を感じながらも。

視界を奪われながらも、二階堂蓮は冷静であった。

ものすごい勢いで突っ込んでくる気配を感じている。

自分よりも。

あの桐生刹那よりもはるかに早い。

人間の出せる速度とは思えなかった。

 

(感じ取れ。奴が間合いに入るその瞬間を。)

 

烈が間合いに入る、その刹那―――

 

ベヂィイイイイイッッッ!!!!

 

『虚』

 

そういう、空気が破裂するような音が道場に響き渡った。

蓮が揉み手に圧縮していた空気を解き放つことで、開放された空気が爆音と共に大気中に飛び出す。

烈の動きが、ほんの一瞬止まった。

蓮は止まらない。

止まらないまま烈のサイドに移動し、

 

「―――――――――」

 

『幻』

 

耳元で何かをつぶやいた。

ぼそぼそと、何かを。

しかしまがまがしい言葉の羅列を烈の耳へと吹き込む。

烈の眼が見開かれる。

―――『瞬間催眠』である。

秘伝の呪詛を吹き込まれた烈の動きは止まったままだ。

 

「応ッッッ!!!!!!―――――――――――――」

 

『光』

 

そして、無防備となった相手に渾身の発勁を叩き込む。

この『虚・幻・光』が一体になった攻撃こそが天狼拳の秘奥、『奇龍』。

もう一人の阿修羅、『桐生刹那』ですらまともに食らった秘奥中の秘奥。

 

呃啊(フン)ッ!!!!!!!」

「ッッッ!!!!!!!!????」

 

その『奇龍』が今、稀代の拳法家・烈海王によって破られたのだ。

真っ向から、しかもただの一撃で。

 

「ぐあっ!!??」

 

またしても、壁にたたきつけられる蓮。

先ほどとは違いダメージは甚大だ。

マッハの速度で連の胴に撃ち込まれた拳の威力は、さながら身体の中の内臓という内臓を巨大なプレス機で押しつぶしているかのような苦痛を与えている。

立ち上がろうとしても、立ち上がれなかった。

脚に、身体に力が入らないし、そこに意識がまわらない。

腹だ。

とにかく腹が―――――

 

「ぐおおおええええええええええええ」

 

寝ながら、胃液と今朝食べたものをぶちまけた。

 

「おおおおあああああああ」

 

二度、大きく吐いたところでごろりとあおむけになる。

美麗な顔に床からはねた吐瀉物がかかっているが、気にかける余裕もない。

荒い息をしながら、大の字になる蓮に烈が上からのぞき込んできた。

そして、烈が何かを言う前に、蓮が口を開く。

 

「ひ、一つ…聞かせてくれ」

「何かな」

「俺の奇龍…どうやって破ったのだ?」

「ふむ…そうだな。」

「――――――」

「瞬間催眠の使い手とその解き方を知っていた――――というべきか」

「…な、に?」

「かつてドリアン海王という瞬間催眠の使い手と戦ったことがあってな。

その対策としてわが師から瞬間催眠の対処法を聞いていたことがあったのだ。」

「ど、ドリアン…あの、死刑囚…の?」

「その、ドリアンだ」

「なるほどな―――――」

 

烈の奇龍の破り方は単純である。

瞬間催眠を受けたその刹那、大きく声を発することで催眠を即座に解除。

同時にマッハ突きを敢行することにより、カウンターを取る。

ざっと説明すればこういうことになる。

しかし、そんなものは実際に起きたことに比べればくそみたいなものだ。

蓮は、そう思った。

言うは易いが、現に実行できるものなどこの烈海王を置いて他にいないだろう。

催眠を瞬時に解くだけでもありえないことなのに、その後の攻撃に超がつく高等技術でカウンターを放つなど誰ができるのか。

 

「奇龍…正直言って、寒気がしたものだ。私も伝説上の技とばかり思っていたのでな。

実際に対戦の場で行えるものが居るとは思ってもいなかった」

「ふ。ふ。ふ…一発で破られたうえでそんなことを言われてもな…」

「――――――」

「まいった――――降参だ。」

「――――――」

「スマナイが、手をかしてはくれないか?少し起き上がるのが難しくてな…」

「もちろんだ」

 

そういって、蓮に肩をかす。

 

「いや、私がかそう。」

 

否、かそうとしたところで男が現れた。

 

「ああ…来ていたのか」

「あんたは…」

「良いものを見せてもらったお礼というわけだ。」

 

マホメド・アライであった。

本来は立ち合いを見る予定であったが、飛行機の事情で試合前に間に合わず到着が遅れてしまった。

そして、到着した時には既に始まっていたので邪魔をするわけにもいかず、道場の外から覗き見ていたというわけだ。

 

「スマナイ、Mr.アライ。あなたが到着するよりも先に始めてしまった。」

「なに、遅れてしまったのはこちらが悪いのだからな。気にする必要はない」

「―――――」

「素晴らしいファイトだった。ところで、医務室はどっちかな?」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

――――医務室

 

「烈、この男はまさか」

 

医務室のベッドの上に寝かされた連が、尋ねてきた

 

「そのまさかさ。ボクシング元ヘビー級王者、マホメド・アライその人だ」

「フフ…私がここに来たことはトップシークレットで頼むよ。後でストーカーされても困るからね。」

 

アライはあまり困っていなさそうな声で言った。

 

「こ、この男があの伝説の…」

 

連は目を見開いた後、深く息を吐いて言った。

 

「烈。あなたには驚かされてばかりだ。」

「これは私のせいなのか…?」

「ハハハ。違いない。」

「それで…今回メッセンジャーで来たと言われたが…」

「そう。対抗戦のことだ」

 

気を取り直したように、アライが烈に言った。

 

「君の対抗戦の相手が決まったのだ。」

「それは…ここで言っていい事なのか?」

 

蓮が、アライに尋ねた。

必要ならば部屋から出る。

そう言外に言ったつもりであった。

 

「私は構わん。」

「ハハ。君が良いというのなら言わせてもらおう。

まずは君に打診しないと発表もできないからね。」

「それで、相手は」

「ガオラン。」

 

アライが言った。

烈は一瞬目を丸くしたが、すぐに元の貌に戻った。

 

「ガオラン・ウォンサワットが君の対戦相手なのだが、どうだね。」

「私は一向にかまわん。」

「――――――」

「しかし…」

「しかし?」

「彼はボクサー…そう聞き及んでいるのだが」

「うむ。それがどうかしたのかい」

「――――」

 

烈は黙っている。

 

「私もボクサーだ。」

 

アライはそう言った。

 

「以前君とやったジョーもそうだ。ボルトもそうだ。彼らが弱いか?」

「弱くはない」

「だろう」

「だが、それでも勝利した。」

「――――――」

「腿も。貫手も。頭突きも。投げも。肘も。膝も使わず。」

「お、おい烈――――」

「さらには正面から上半身へ。両の拳の打撃のみで世界王者を打倒した。」

「――――――」

「そんな私にボクシングの世界王者が、それもなんでもありのルールで挑むと…?」

 

口元に薄ら笑いを浮かべながら、烈は言った。

 

「――――――」

 

明らかなる挑発である。

しかし、本音でもあった。

本心から、そう思って挑発しているのだ。

『お前では相手にならない』

直接は言わないものの、これはそういっていることと何ら変わりはない。

事実、烈はそういっているつもりであった。

アライは何も言わない。

ただ、黙っていた。

蓮は冷や汗をかきながらことの次第を見守っている。

 

「真剣勝負ということなら構わないが――――」

「構わないが?」

「なんならボクシングで勝負しても構わない」

「なに?!」

「無論彼が望むなら、ではあるが。」

「―――――」

 

黙っているアライをよそに、烈が続けた。

 

「一つ、彼に伝えてほしい。」

「何かな。」

「ボクシングでも、何でもありでも同じことだと。」

「―――――」

 

そういうと、烈は立ち上がった。

蓮とアライに背を向け、医務室の壁に向って歩いていく。

鉄筋コンクリートでできた、分厚い壁だ。

 

「君の道は既に――――――」

 

言うが否や、烈の腕が消えた。

 

「「!!??」」

 

実際に消えているわけではない。

打ち込んでいるのだ。

一本拳で。

二本拳で。

貫手で。

崩拳で。

正拳で。

掌底で。

ありとあらゆる拳の形で壁に向って打ち込みまくっているのだ。

だが、アライと連が驚愕したのはその速さではない。

音だ。

蓮がかろうじて眼で追えるか追えないかという速さの拳をコンクリートの壁に思いっきり打ちまくっているのに音が一切しないのだ。

殴るような音はもちろん、

かすれるような音とか、

何かが動いた時のような音とか。

そういうものも一切ない。

ただ、烈の腕がきらめく閃光のように光り輝きながら動いていた。

(たん)

烈が止まると同時に、そういう音が初めて聞こえた。

そこで、ようやく烈が振り向きながら口を開く。

 

「2000年前に通過していると。」

 

さらさらと。

何かが流れる音を蓮とアライの鼓膜が捉えた。

それの正体はすぐにわかった。

砂だ。

烈の背後から砂が――――

そう思った瞬間に、大量の砂が流れ落ちてきた。

 

(!?う、撃ち込んだ部分が砂に!!!???)

「…ミステリアス」

 

烈が撃ち込んだ部分の壁。

それが、砕けるでもひびが入るでもなく。

細かい流砂となって流れ落ちたのだ。

自然現象でも、トリックでもない。

現に、撃ち込んだ部分の壁には烈の拳の形がこれでもかというほど刻まれているではないか。

こんなことが。

こんなことができる人間がこの世にいるのか。

これが中国武術ナンバー2の実力――――。

蓮が、唾を呑み込んだ。

 

(人間じゃない…)

 

アライは、それを見て笑った。

口の端を大きく吊り上げ、笑いながら言った。

 

「伝えておこう。」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

時は戻り、光栄ジム。

 

「以上が、私が見聞きしたすべてだ。」

「――――――」

 

ガオランは黙っている。

無理もない。

アライはそう思った。

自分とてここまで侮辱されて冷静でいられるのか。

いや、己の場合は烈と同じか。

よく挑発をした。

自分としては事実を述べていたが、それでもあれはメディア向けの意味が強かった。

予告KOなんかもしたりした。

しかし今回のケースは違う。

烈は本気でそう思って、本気でそう言っているに過ぎない。

 

「では、私は帰るとするよ。」

「――――――」

 

手を組んだまま、額にエッジを浮かべているガオランを置いてアライは会長室の扉に手をかけ、開く。

 

「あ、あのー…」

 

そこで、声をかけられてとまった。

紗耶香の姉だ。

 

「ン?」

「あ、あの―――えっと…せ、せっかくなので…ぱ、パンチを見せてくれませんか?

サンドバックでも、ミットでも…あれならシャドーでもいいので!!」

 

震える声で、しかしはっきりとアライに向って言った。

ちらりと周囲をアライが見ると、そこの者すべてがこっちを見ていた。

サンドバッグを叩いていたものも、腹筋をしているものも、鏡の前でシャドーをしている新人も。

皆が皆アライを見ていた。

期待しているのだ。

アライの、神様が放つ神の拳を。

 

「そういうことなら、大歓迎だ。」

「やったあ!!」

 

紗耶香の姉が、ぴょんと飛び跳ねた。

同時にジムが湧く。

見れるのだ。

神の拳が。

ヒーローのパンチが。

そういう期待でジム内が湧き上がっていた。

ただ一人を除いては。

 

「Mr.アライ。」

 

いつの間にそこに居たのか。

サンドバックの前に、ガオランが居た。

いまだ額に青筋を浮かべたまま、ガオランがサンドバッグの前で構えているのだ。

大きく半身に構え、左腕をだらりと構えたおなじみのヒットマンスタイルだ。

そのまま、ガオランが左腕を振った。

 

「う、腕が消え?!?!?」

 

ガオランの左腕が消失している。

少なくとも、紗耶香にはそうとしか見えなかった。

紗耶香だけではない。

アライを除く、このジムの全員がそう見えた。

ガオランの左腕の軌跡を眼で追う事が出来ていないのだ。

それはいい。

ハンドの速さが眼で追えないのは理解できる。

理解できないのはサンドバックだ。

ガオランの左が高速でサンドバックを叩いている。

それは状況から察するになんとはなしにわかるのだが、音がしない。

それだけでなく、微動だにすらしていないのだ。

打ち込まれたサンドバックがあまりの破棄力に、吊り下げられている金具ごとふっとばされたことあるが、こんな光景は見たことがなかった。

 

「烈に伝えてほしい。」

「何かな」

「御大層にボクシング『ごっこ』を興じていたつもりだろうが、それは間違いだ、と」

「なるほど―――ほかにもまだ何か言いたそうだな」

「貴公の背負う4000年。このガオラン・ウォンサワットの28年が叩き潰すと。

そう伝えてほしい。」

 

そういって、打ち終わったガオランがアライに向って振り返った。

同時に、どさりと言う音がする。

重たい何かが地面に落ちる――――紗耶香はその音を認識した瞬間に、何が起こったか理解した。

サンドバックだ。

ガオランが打っていたサンドバックの下から半分がちぎれて落ちているのだ。

しかも、ナイフで抉ったようにずたずたになって。

ごくりと、紗耶香はつばを飲み込む。

サンドバックの頑丈さは、幼いころから理解していた。

革製の、分厚いものである。

殴り方を誤って手首を痛めるものも珍しくない。

すくなくとも、拳なんかでこんなにざっくり切れたりはしない。

これは本当に現実なのか―――。

今、自分は何かの幻覚の中に居て超人たちが集う夢を見ているのではないか。

そう考えてしまうほどだった。

少なくとも、自分と同じ人類とは思えない。

そう思った瞬間、隣にいるアライと目があった。

眼があったアライは目を大きく開き、白い歯を見せながらにかっと笑った。

 

「スゴいね。人体♡」

 

――――――――――対抗戦第4試合

烈海王VSガオラン・ウォンサワット

ここに決定。

 

 

 




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第十四話 策

木の床板を擦る小気味いい音が響いている。

裸足の踵が床を踏み込む音。すべる音。

荒い呼吸。

何組もの肉体が道場の中で同時に乱取りをしているのである。

道場の奥には神棚が祀られている。

そこの前で筋力トレーニングを行っている者もいる。

ヒンズー・スクワット。

腕立て伏せ。

道場の端の方でダンベルを持っている者もいる。

歯を食いしばってやっている人間もいた。

むっとするような汗と男の匂いが立ち込めている。

昨日今日でできた匂いではない。

何年にもわたって積み重ねられてきた匂い。

床、壁、柱――――部屋のありとあらゆる構造物にこの匂いがしみ込んでいそうであった。

トレーニングをしている人間はいずれも若い。

10代後半から20代前半だ。

神心会本部道場。

太陽が真上に来る、もっとも暑い時間だ。

夏の熱気が中に入り込み、より一層道場の中を蒸し暑くさせている。

どれくらい続けているかわからないが、スクワットを続けている男の足元には水たまりができていた。

赤道近くの島国かと思うくらい、道場の中には熱気と湿気がこもっていた。

人の肉体が創り出す熱が部屋の温度をあげているのだ。

時折乱取りがとまったりする。

克己が門下生の面倒を見ているのだ。

その克己の眼が玄関に止まった。

玄関のところで、一人の男が立っているのだ。

奇妙な男であった。

美男子ではないが、妙に印象に残る顔である。

細い目に、ゆるやかなカーブを描いた口元。

普通にしているだけなのだろうが、愛嬌のようなものがその目と口元から漂っている。

どこかとぼけたような、ひょうひょうとした様な顔だ。

どちらかといえば細面でひょろりとした体躯をしている。

年齢は20代くらいだろうか。

しかし実際の年齢が10代と言われても30代と言われても驚きはしない。

若さと老成さがその表情の中には含まれていた。

男は袴をはき、上には柔術のような道着を着ている。

克己に驚きはない。

知っている顔だ。

 

「金田さんだな。」

「はい。三日ぶり、ですかね。」

 

金田末吉。それが男の名であった。

克己はその名を呼びながらゆっくりと近づいていく。

金田がくつを脱いで道場にあがる。

 

「よく来てくれたよ。」

「とんでもないです。あのような席でこんな頼みごとをしたというのに―――」

「いいっていいって。女の子摑まえるよりももっと素敵な男を捕まえちまったんだからな。」

 

克己が笑いながら言った。

何故金田が克己の元を訪れたのか。

その理由は、ここに居ない男にあった。

 

「まさか門下生の女の子に呼ばれて行った合コンパーティに絶命トーナメントの参加者が三人もいるとはねえ」

「僕は数合わせで呼ばれただけでしたけどね…」

「それでもさ。」

「ハハハ…」

「で、氷室はどうだった?」

「あとでライソが来ました。お持ち帰り成功だそうです。」

「やるねえ。んで、こっちに来たことは氷室に伝えたのかい。」

「死ぬなよ、と。」

「ハハハ。そんなに危険な場所じゃないさ。」

「―――――」

「もっとも、それは金田さん次第だけどね♡」

「これはこれは。怖いですねえ。」

 

金田が、来た時と変わらない顔で笑った。

 

「よォーシ、お前ら!!!あれ持ってこい!!!」

 

克己の声と共に道場生達が数人奥の扉の向こうに消えていった。

それ以外の者たちはぞろぞろと、道場の端に移動していく。

呼吸の荒いもの、荒くない者。

汗がすごいもの、すごくないもの。

みなまばらではあったが、それぞれ道場の端で正座をしていた。

道場の中心に大きな空間が空く。

そこに、先ほど消えた道場生達が戻って来た。

皆、その手に台車を持っている。

何が始まるのか―――

そう思っている金田の前で、道場生達が積み荷を降ろしセッティングを始めた。

背丈ほどもある大きい氷。

5センチ四方の角材。

分厚い板。

二つのコンクリートブロック。

その上に、橋のようにかけられた細い針金。

 

(これはもしや―――――)

 

そう、金田が思った時一人の男が奥の扉から出てきた。

剥げた頭。

太い頸に、傷だらけの貌。

黒い眼帯。

神心会の道着。

空手界の太陽、愚地独歩である。

その独歩がゆっくりと氷の前に立った。

その様子を道場生と金田が固唾をのんで見守る。

2秒か、3秒くらい経った折だろうか。

独歩が氷に右の拳を当てた。

柔かい、まるで凶器とは思えないほどに丸みを帯びた拳だった。

殴ったわけではない。

拳の部分を押し付けるようにくっつけただけである。

その状態から

 

「カッ」

 

息吹と共に、独歩の足首が道場の床板を踏み抜く。

同時に腰が切れ。

その動きが背中に伝わり。

背中を通して伝わった力が腕。

腕から拳につながり――――――

 

(こ、拳を押し当てた状態からあの分厚さの氷を!!??)

 

氷塊を砕き散らしめた。

それだけでは終わらなかった。

背を向けたまま独歩は後方に足をだした。

右の足刀による後ろ蹴りである。

 

「シャッッッ」

 

その右脚が、設置されていた角材をまるでバターか何かのように切断した後。

 

「シュッッ」

 

右拳で門下生の持つ板のど真ん中を拳が貫いた。

試し割用の板を割ること自体は珍しい事でもない。

空手の経験者ならそこそこ誰もがやれることであるし、金田とて造作もなく行える所業である。

だが驚くべきは、試し割用の板を割るのではなく貫いたことである。

独歩が拳を抜いた後の板が、まるでドーナツのようにぽっかりと丸く穴が空いているではないか。

凶器である。

金田はそう思った。

ここまで鍛えられた人間の拳は、もはや人体に非ず。

刀剣とか、銃弾とか。

そういうものと同列に扱える代物であると思った。

そういう貫通力を持った拳を人に打ち込んだとしたら――――

金田の頬に冷たい汗が流れる。

そんな金田の心中を知ってか知らずか。

独歩が飛んだ。

高い。

助走もなしに、2メートル以上は上に飛んでいるだろう。

齢50、体重100キロを超えた男の身体能力とはとても思えなかった。

そして、勢いが乗ったまま独歩は左の手刀を下に振り下ろし―――――

 

「ぬんっ」

 

一本の針金を切断せしめた。

 

「すっげえッッ!!!!」

「さすが館長ッッッ!!!!!」

「武神パねえッッッ!!!!!」

 

門下生たちが口々に賞賛の声を上げる中、独歩は拳を構えたまま金田に向き直っていった。

 

「愚地独歩です…」

「どうよ、金田さん。」

 

横に居る克己が金田に向って話しかける。

この克己は期待しているのだ。

絶命トーナメントに参加したこの男が果たしてどういう反応をするのか。

驚くのだろうか。

興奮するのだろうか。

どういうリアクションをしても称えるものに違いない――――

 

「ぶっ」

 

故に、金田が発言したその言葉は完全に克己の予想の範囲外であった。

 

「”武”というよりは”舞”。舞踊に近いですね。」

 

金田がいつもの笑顔のまま、とんでもないことを言い放った。

道場生達が凍り付く。

一体この男は何を――――

そんな空気を読もうともしないまま、金田は克己に向ってもう一言加えた。

 

「しかし、武神ともよばれる方がなぜ動きもしない石や木を…?」

 

克己は口を開くことができない。

自分の脳内で期待していた反応とはまるで逆方向であったこともそうだが、一番は金田の正気を疑っていたからだ。

天下の神心会道場、その門下生と愚地独歩の目の前。

敵地であると言っていい。

そのど真ん中で、あろうことか象徴的人物に挑発するなどというのは――――

 

「なんだァ?てめェ……」

 

―――独歩、キレた。

克己も、門下生たちも口を開くことができない。

独歩が喧嘩をするモードに入っているのでおいそれと口出しをすることが憚られるということもあったが。

それよりも先に、道場生達の脳裏に去来した思いがあった。

期待と言ってもいい。

道場(ここ)で。

眼の前で。

 

(((((殺人が見れる!!!!????))))

 

「舞踊だァ?」

「お怒りですかね、愚地さん」

 

ゆっくりと、独歩が金田に向って歩いていく。

武道的な、しっかりとした歩みではない。

血に飢えた獅子がゆっくりと餌に近づくような。

そういった歩みであった。

 

「上等だ…」

「―――――――」

「踊りか…

踊りじゃねえか…」

「―――――――」

「その身で確かめてみるかい?」

 

愚地独歩が前に出てきた

金田の正面に立った。

恐ろしく真剣な顔でにらんでいる。

子供のようなとてつもない無垢な眼であるような気もした。

あらゆる修羅場を体験しつくした人間の眼のような気もした。

 

「――――」

「あ?」

 

鬼が下りた。

そう言えばいいのだろうか。

やる眼だ。

金田にはそう感じられた。

そして、それは間違いではなかった。

 

「シッッッッ!!!!!!!!」

 

左の刻み突き。

眼で追える速さではなかったが、金田は回避をすることに成功した。

独歩が動くより先に動いていたのだ。

何故こういったことが可能であるのか。

それは、金田が予測の達人であるからだ。

 

 

金田末吉、27歳。

地味な見た目とは裏腹に拳願会でも大物食いとして知られているこの男は、あらゆる意味で闘技者として異質な男であった。

まず、身体が弱い。

金田家の次男として未熟児のまま生まれたこの男は、幼少の頃から極度の虚弱体質であった。

物心がつく前に大病を患い二度死にかけたことがある。

大きな手術であれば、小学校に入る前に4回した。

幼少時の金田の肉体と風貌を見るに、どこからどう見ても闘技者となりえる存在ではなかった。

小さく、痩せた身体。

細い手足。

青白い肌。

勉学においては特に後れを取った事は無い。

進学校で学びながら、塾に通いつめる毎日。

そこは問題ない。

しかし、幼少の頃は、どこでも身体の強いものが跋扈する。

弱いものは常にその下風に立たねばならない。

残念ながら、ここではどうしても後れを取ってしまう。

これはある程度体が出来上がり、高校生になった後も変わらなかった。

持久走では常に最下位であるとか。

女子に腕相撲で敗けるとか。

ある意味、どこにでもいる身体の弱い少年であった。

それ故ほかの者から軽んじられることが多かった。

しかし、というべきか。

だからこそというべきか。

「強いやつに勝ちたい」

そういう想いだけは誰よりも強かったのだ。

故に、金田は努力をした。

身体的能力を補うための努力―――すなわち、予測。

先読みと言ってもいい。

ひたすら人間を観察し、相手の動きを完全に予測。

攻撃を見切って自分の攻撃を当てる。

これが金田の持つ『強さ』となった。

 

 

 

「グハアッッッ!!!!!」

 

その強さが今、圧倒されていた。

動きは読めている。

現に金田の脳内では独歩の動きの軌跡が見えている。

 

「どうでェ、ボウヤ。」

「ハアッ―――ウグッ」

「オイラの空手。まだ、踊りだと思うかい?」

(バカなッッ――――動きは読めているはずなのに…ッッッ)

 

だというのに。

 

(なぜ…動けないんだッッ!!???)

「次、行くぜ。」

「――――ッッ」

「上段の正拳突きだぜ。投げるなり折るなり好きにしな。」

「言われずとも――――!!!????」

 

まただ。

独歩は右の正拳を放つと言っている。

嘘ではない。

金田の脳もそう言っている。

先読みは当たっているのだ。

当たっているのに―――

 

「~~~~~~~~~ッッッ!!!?????」

 

独歩の拳が消える。

反応できない。

なぜか身体が動かない。

金田の視界が白く、ちかちかと光る。

それと同時に、鼻っ柱に強い衝撃が走った。

余りの痛みに首ががくんとゆれ、鼻血と共に涙が顔から噴き出す。

 

「オヤ。」

「――――――」

「当たっちまったねェ。」

(う…動けないッッ)

「何故かわせないか、わかるかい。」

「――――――」

「オイラはね、今見せたような基本の技を50年以上。毎日千本やっているんだ」

「――――――」

「それができるバカなら誰だってこんなことはできる。」

「ぐ―――――」

「次は中段だ。大サービスで言っといてやるが、右の前蹴りだぜ。」

(わかっているッッ、そんなことはッッ)

「かわすのは自由。

今日は調子わりぃなァ~~とか思ったら防いでもいいよ♡」

(しかし…ッッ!!!)

「そら」

 

まただ。

また、独歩の脚が消える。

まるで透明人間か何かが自分の手足をすり抜けて攻撃しているような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。

透明な独歩の脚が、金田の腹部に直撃した。

その時、金田の脳裏に浮かんだものは独歩の脚ではなかった。

刃物だ。

鋭く研いだ、日本刀のような鋭く尖ったものが自分のどてっ腹に突き刺さっているのだ。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!!???」

 

この苦痛をどう表現すればいいのだろう。

叫びたかった。

転げまわりたかった。

言葉にならない。

というより、単純に声が出なかったのだ。

生暖かい熱さを持った液体が、自分の体内から急速に駆け上がってきて、口元付近にまで到達している。

武道家として、みじめに床を這いずり回ることだけはしなかったものの、完全に金田の動きは止まっていた。

そんな金田を見て、独歩は笑っていた。

笑ったまま、動いた。

 

「まだまだいくぜェ」

「――――――ッッ」

 

動いたのだが、金田には独歩が動いたようには見えなかった。

どういう動きをしたのか。

独歩の姿がいきなり膨らんだのだ。

次の瞬間、独歩がいきなり間合いに入っていた。

拳の構えた位置をそのままに、右ひじを曲げながらすっと前に出たのだ。

拳の位置はそのままであるため、金田には独歩が近づいたかわからなかったのだ。

わからないといっても一秒にもみたない間、コンマ数秒とかその程度である。

だが、そのコンマ数秒が致命的であった。

 

「貫手」

「おぐっ」

「手刀。」

「ガッッ」

「顔面」

「ぐ―――――うん」

 

独歩がひとしきり打ち終わり、再び両者が向かい合った。

独歩は汗一つ流していない、綺麗な顔。

しかし、笑っていない。

対する金田は、凄惨であった。

眼が腫れあがり、鼻からの血が止まらない。

右頬がナイフで切られたようにぱっくりと割れており、そこからピンク色の肉が見えていた。その裂け目も、奥からあふれる血でたちまち埋まっていく。

口元から血が出ていることから、内臓も痛めているであろう。

しかし、笑っていた。

細い目をかっと開き、牙をむき出しにして笑っていた。

 

「金田――――――おめえ」

「―――――うん、いい。」

「―――――――」

「うん、うん。ナルホドね。」

「―――――――」

「ようやく、わかってきましたよ」

 

独歩は答えない。

真顔のまま、金田の下腹部―――金的に向って前蹴りを放つ。

独歩は先ほどから何も変えていない。

何かを工夫したりだとか、さっきよりゆるくやっているだとか、そういうことは何もしていない。

だが。

 

「ね?」

 

攻撃が当たらない。

異様なかわされ方であった。

独歩が動く前に動いているのだ。

タイミングやリズムでたまたま手で防げたりするとか、

目が慣れてきたとかならまだわかる。

しかしこれは――――

 

「結構理解(ワカ)ってきたかな~~~って感じでしょ?」

「――――――」

 

独歩は口を開かない。

代わりに、その顔面に向って拳を突き出す。

躱される。

右のロー。

躱される。

踏み込んでの頭突き。

間合いを外される。

右の正拳、と見せかけた左の下突き。

これも、横に体を捌いてかわされる。

 

「ちぃっ」

 

拳。

拳。

肘。

脚。

拳。

脚。

 

二秒。

克己だけが眼で追えるその攻撃を、金田はすべてかわしきった。

しかも、手を使った防御はない。

脚と体を使った体捌きのみでだ。

ごくりと、克己が唾を呑み込む。

あの伝説の絶命トーナメントに参加したのだから、その腕が疑いようのないものは事実だ。

克己としても、そこそこできると思ったから連れてきたのだ。

しかし、あくまでも『そこそこ』である。

これほどか?!

絶命トーナメントで一回戦落ち。

ガオランに惨敗したこの男が、これほどの水準(レベル)だったのか!?

三度、両者が向かい合った。

そこで、ようやく独歩が笑った。

 

「へえ。」

「―――――」

「勉強してやがんなァ」

「はは。武神の拳―――予想はしていましたが、これほどだとは思いませんでした。」

「――――――」

「ですので―――ここら辺にしませんか?」

「あァ?」

「独歩さん。あなたの攻撃はすべて見切りました。」

「――――」

「その、チョット言いにくいんですが―――」

「―――――――」

「これ以上やっても無駄かなあ、と」

「先読みか。オイラの攻撃のデータを研究して、それを解析することに成功した、と」

「そういうことです。ですので―――――」

「なんか勘違いしてやがんなァ。」

「え?」

「肝心要が抜けていやがる。」

「―――――」

「データ結構。最新のデータ結構。過去の積み重ね結構。」

「―――――」

「闘いってのはそういうもんじゃねェんだよ。」

「何を―――」

「数字や20年ばっかしのボウヤの脳みそじゃ辿り着けねえ境地ってもんがあるのさ」

「しかし現にあなたの攻撃は当たっていない。」

「試してみるかい。」

「試す?」

「オイラをさ。」

「それは、試しました」

「半端な技ならな」

 

言って、独歩は小さく笑った。

金田も、笑った。

頬に汗が伝う。

 

「今までの技が、本気ではなかったなら―――――」

「なら?」

「まあ、おいおい試していきますよ。」

「おいおいね。」

 

独歩が頷いた。

 

「おいおいです。」

 

もう一度、金田が笑う。

そして、ここで初めて金田が構えた。

 

「む」

 

独歩の表情が変わる。

左足を前に、身体は半身。

右拳は腰の横に備え。

左腕を上に曲げ、肘を突き出すようにしている。

50年以上武に携わって来た独歩ですらが見たことのない構え。

これこそが、金田の本気の構え。

 

『紅人流・陰陽交差構』。

 

対する独歩も、ついに構えた。

左手左足を前に、左右の手を上下に配置した天地上下の構えだ。

その構えを、金田は正面からまっすぐに見ている。

独歩は独歩で金田の全体像をぼんやりとみている。

どちらも動こうとしない。

金田が見ているのは独歩の眼であり、身体全体の動きだ。

予測パターンの中には視線や身体の反応なども含まれているので、それを見逃すまいとしている。

そして、それ以外の部分も観ようとしている。

闘う時には心の中にどう動くか、どう攻撃しようかというものも生じる。

これが生じれば、身体も動く。

挑発で相手を動かせる、というのもこれに近い行為だ。

その動きを呼んで先手を打ってゆく。

氷室と戦った時も、実際に軽く挑発をして氷室を動かせることに成功した。

しかしこの愚地独歩という男の肉体はどのようなものも発していない。

無、というものに近いのであろうか。

攻撃しようとか言う意思や、心が感じられないのだ。

それは草原の一角に無心に湧き出る泉のように。

ただただ、愚地独歩の肉体がそこにあるのだ。

怯えもない。

大気のごとき自然体であるように感じられた。

これほどか。

武神。

虎殺し。

空手界の太陽。

数ある異名は伊達ではないということが、今心で理解できた。

面白い。

金田は、その時自分でも意識しないうちに唇に笑みを浮かばせていた。

自分からゆく。

金田はそう決めた。

当身を行う。

自分が動き、相手が反応すればそれに応じて金田が予測を入れる。

 

(いざ、尋常に―――――勝負ッッ!!!)

 

そういう心づもりで踏み込んだ。

初段は顔面に左肘。

同時に独歩の身体が空気のように左に動いた。

力の入っていない、無駄のない動きであった。

同時に、独歩が左拳を金田の顔面に繰り出す。

金田が頭を下に動かし、空を切る。

すかしたのを確認した金田が右の拳を前に突き出した。

しかし、独歩の顔面までは若干距離がある。

その最後のわずかな距離を金田は埋めていた。

指だ。

右拳から人差し指を突き出して前に伸ばしたのである。

眼球。

独歩はそれに対してかわすことはしなかった。

逆に、自らの額を金田の指に向けて思いっきりぶつけた。

めきり、とも聞こえた。

ぐしゃり、とも聞こえた。

そういう音と共に、金田の人差し指がありえない方向に曲がる。

だが、金田は笑っていた。

激痛を意にも介さず、牙をむいて笑っていた。

独歩の右の足先蹴り。

左に躱し、もう一度右の拳を打ち込む。

だが、それよりも先に独歩の右足が戻っていた。

ローキック。

切られた?!

金田は瞬間的にそう思った。

衝撃というよりはむしろ斬撃。

金田の左足に巨大なアーミーナイフが食い込んだかのような痛みが走る。

だが、拳を止める事は無い。

独歩が頭部を数ミリ後ろにずらす。

それで、この拳は外れる。

そういうつもりのスウェーであった。

しかし、その数ミリを金田は再び埋めてきた。

親指を、握った拳から一本だけ立てて伸ばしてきた。

再び眼球だ。

だが、それも届く事は無かった。

とどくほんの数瞬前に。

独歩の左の下突きが、金田の腹部につきたてられていたからだ。

 

「いいねえ」

 

血を口から出しながらバックステップする金田に、独歩は笑って言った。

 

「えげつない技を使うじゃねえか。オイラもそういうのは嫌いじゃないんだ。」

 

金田が仕掛けた眼球への攻撃に対して言っているのである。

金田としてはもとより当たると思って出している攻撃ではない。

ここから、必殺の投げにつなぐための一連の動きの中にある攻撃である。

むろん当たれば良いが、そう都合よくいくことがないことなど理解している。

あくまで、これは布石なのだ。

 

「しかしまずいなァ…」

 

ぼそりと独歩が言った。

 

「何がです?」

 

金田が口元からあふれる血を拭いながら尋ねる。

 

「だんだん手加減ができなくなっちまう。」

「それはまずいですね。」

 

金田はそういって微笑んだ。

ずい、と独歩が前に出る。

金田も、前に出る。

互いの制空権が触れるか触れないか。

そういう所で、お互いの脚が止まった。

その時――――

 

「ひゅっ」

 

鋭い笛のような呼気が金田の口から洩れた。

このタイミングを計っていたのだ。

金田は踏み込みながら独歩の顔面に向って左の拳を突き出していた。

はずされた。拳が空を切る。

頭を沈めて独歩が金田の懐に入ってくる。

組める間合いであはるが、空手家の独歩が組んでくる事は無い。

それはわかっている。

パンチだ。

左の拳が金田のこめかみに向って飛んでくる。

鉤打ち。

フックだ。

身体を後ろにそらす。

かわした。

独歩が追いかけてくる。

こわい風が一瞬金田の肉体を吹き抜けていったようであった。

来る。

金田はそれを直感した。

データ通りではある。

右の顔面への正拳。

それが自分に襲い掛かってくる。

それは間違いない。

恐怖。

武神の右拳。

それが金田の顔面に届く直前――――否、届いてから金田は首を横にそらした。

独歩の拳に自分のほほを沿わせて、頸を回転させ衝撃を逃す。

自分はこれを待っていた。

機会(チャンス)だ。

右腕を両の腕で、抱え込むように捉え。

金田は身を沈めながら半身になった。

腰を入れ独歩の身体を上に跳ね上げ、肘を支点に投げる。

『紅人流・天地返し』

――――決まった!!??

そう思った時、信じられないことが起った。

独歩の身体が宙でくるりと一回転したのだ。

金田が投げたその力を利用し、独歩は体を縦に回転。

その勢いを持って、自らの両足で床の上に着地したのである。

背から道場にたたきつけられるはずであった独歩の肉体が、金田の前に立っていた。

しかも、ただ着地するだけなら背から落ちるはずであるが、正面を向いているのだ。

何故こういう事ができるのか。

それは、独歩が『予測』していたからだ。

金田が右腕を握りに来ることは、長年の戦いの経験で予測できた。

故に、差し出したのだ。

投げやすいように、読みやすいように自身の右腕を囮として差し出したのだ。

見事それに引っかかった金田が腕をつかんで投げる。

投げられると同時に、脱力していた腕を引き抜き、空中で身を翻す。

 

(自分から

投げられ

上手

武神

凄い

恐怖

これ――――)

 

これが、金田のこの日最後の思考となった。

 

「予測は何もおめえさんの専売特許じゃねえってこった。」

 

独歩が、倒れた金田の顔面から拳を引き抜きながら、歌うように。

楽しそうに言った。

それと同時に、めりめりとか、ばきばきとかいう音が聞こえた。

何かを力で無理やり引きはがす音だ。

 

「こういう時は、こうするんだったっけ?」

 

克己だ。

克己が、道場の奥にある戸板を引きはがして持ってきている。

 

「オウよ。道場やぶりは戸板に乗せて返す。」

「へえ。」

「慣習ってもんだ」

「―――――」

「運び出せ。」

 

―――――――――――――――――

 

 

「帰ってくんねえかな」

 

空手着を着た男が、目の前に座る男に嫌そうに言った。

マホガニーの机を椅子代わりに座り、嫌そうに言うその男はあまりに太かった。

太い肉体。

太い腕。

太い指。

太い脚。

太い頸。

太い顔。

太い唇。

太い鼻。

太い目。

太い眉。

そして視線までもが太かった。

肩幅が広い。

道着の下からせり出す胸板も、あまりに太い。

シルエットだけを見た人間が、羆と勘違いしてしまいそうな太い男。

この男こそ、空手団体北辰館館長にして愚地独歩と並ぶ空手界の生きる伝説。

松尾象山であった。

その松尾象山が今、露骨に嫌そうな顔をしていた。

対する男はそれを気にした様子もなく、口元に薄ら笑いを浮かべていた。

 

「まあそう言いなさんなって、松尾さんよ」

「君が来るとだいたい、ろくなことがないんだよねえ」

「今日は、いい話を持って来たんだって」

「そんなこと言ったってさあ。こないだ、君が来た時のこと覚えてる?」

「なんだっけ?」

「ほら、川口さん。受付の子だよ」

「あーーーー」

「大変だったんだからな?人妻ひっかけたのがうちの道場生だって話になって。

旦那さんが乗り込んできたり、弁護士とかから電話来ちゃったりしてさあ」

「あれはさ、しょうがないじゃん」

「何がしょうがないの」

「だってさ、かわいいんだもん。あんなに若くてかわいいとさ、指にリング付けてるとか気にならなくなっちゃうよね」

「ほら」

「ほらって。いやいや、今回はマジだって。マジにいい話。」

 

男が、手を振りながら言った。

無精ひげを手でこすりながら、象山の眼を見据えて言った。

 

「俺、対抗戦に出ることになったのよ。それで話があってね―――――」

 

男の名は初見泉。

対抗戦、第五試合の愚地独歩の対戦相手である。

 

 




この作品初ですが、次回に続きます。

追記)初ではないですね、二話のこと忘れてました。


誤字脱字報告、感想等お待ちしております。


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第十五話 泉 

今回は小説版餓狼伝の設定を取り入れています。


対抗戦第五試合、愚地独歩VS初見泉。

ここに決定。

 

その知らせを初見本人から聞いた松尾象山は、顎を手に当ててつぶやいた。

 

「いいね」

「だろう?そういうわけだからよ、松尾さん。ちいと話を聞いてくれねえかな」

「――――」

「もちろん、あんたの席は用意してあるよ。乃木のおやっさんが天下の松尾象山ならば、と喜んでね。」

「ふうん」

「納得―――いってないかい?」

「うん」

 

太い男は顎から手を放し、腕を組んで笑いながら言った。

 

「だってね。あの乃木さんが泉君をよこしてそれで終わりなのかなあ、と思ってさ」

「さすが」

「長い付き合いだからねえ、彼とは。二葉会潰した時もきっちりもみ消してくれたし。」

「―――――」

「で、話って?」

「ああ――――。いくつかあるんだが、いいかい?」

「いいよ」

「よし、まず一つ目なんだが―――あんたの印税の取り分を上げたい。いくつか本出してたろ?」

「ふうん。」

「二つ目――――北辰会館のイベントの告知を、乃木出版が格安で請け負う。」

「そりゃあ、いいねえ。大会なんかを大々的に打ってもらえればこっちとしてもありがたい。」

「だろう。」

「で、条件は?」

「それはだな――――」

 

初見がにやりと笑ったところで、館長室に軽く。

木を叩く音が聞こえた。

ドアがノックされている。

 

「失礼します」

「失礼します」

 

同時に、二人の人間が部屋に入って来た。

盆を持つ若い空手着の女性と、その女に負けない美貌を持つ男だった。

黒く、艶めいた長い髪の毛に怪しく輝く唇。

切れ長の瞳と長いまつげ。

男らしからぬ怪しい色気を出すこの男の名は姫川勉。

松尾象山の懐刀にして北辰館ナンバー2の実力を持つ男である。

 

「お茶です」

「わるいね。ていうか君結構かわいくない?」

「へ?」

 

声をかけられた女性が、きょとんとした眼で泉を見た。

 

「ちょっと泉くん、何してんの」

「いやいや。松尾さんこそ何言ってんの。

俺はただ目の前の真実に対して持論を述べただけだぜ?」

「そういうのがやりたいならそういう女の子がいる店でしなさいよ」

「あ、もしかして松尾さんそういうのがやれる店行ったことあるの?」

「あっちゃだめかい君ィ」

「ダメじゃないけどね。

でも、そうかあ。それで出張する時もあんま人連れて歩かないんだ」

「独りが好きなの」

「あの…」

「ああ、すまないね。こいつセクハラオヤジだからさ。」

「ちょっと松尾さん、それないんじゃない?」

「私がきっちり言っておくから、君はもう出て行っていいよ」

「し、失礼します」

 

女性は少しおびえながら、太い男と泉の前に茶を置き、そそくさと館長室を後にした。

松尾象山は、ため息をつきながら泉の方を向いた。

 

「やっぱろくなことがないじゃん」

 

松尾象山が出された茶をすする。

同時に泉もそれをすすった。

 

「お邪魔でしたかね」

 

姫川が言った。

 

「いいや、むしろ来てくれてありがたいくらいさ」

「で、条件って?」

「そうだな――――それを話す前に、姫川。お前さんもちょっと座ってくれよ。」

「私も同席する、ということでしょうか。」

「そうだよ。」

「かしこまりました。」

 

そう言って、姫川は泉の対面のソファーに座った。

松尾象山は、いまだマホガニーの机の上に腰掛けたままだ。

 

「ま、単刀直入に言おうか。」

「はい」

「姫川。お前さんの持つ“離桜”と”淡水”。こいつを譲ってほしい。」

「―――――」

「んで、松尾さん。あんたにはこれを黙っていてほしい。」

「なるほどね」

 

姫川は何かを考えるように口を閉ざしている。

対照的に、松尾象山は朗らかに言った。

 

「私のとこに銭のメリットをくれる代わりに、こいつを私に黙っていろと。」

「悪くないだろ?」

「いいよ」

「さすが、太っ腹」

「そういうのは盛られた方が悪いもんだしねえ。

それに、そういうのがあった方が試合がやばくなって楽しそうだ」

「これで松尾象山のOKは取った。あんたはどうだい、姫川」

 

少し考え込む様子を見せた後、姫川は泉に言った。

 

「その前に一つ聞かせてください。」

「なんでも」

「―――――古見製薬と、宇田川ですか?」

「大正解。」

「なるほど―――情報源はどこかと思っていましたが、合点がいきました。」

 

すっきりとした顔で姫川が言った。

それもそのはずである。

この、”離桜”と”淡水”は格闘技”スクネ流”の秘伝。

その”スクネ流”の使い手たる姫川とその一族しか知らぬことであるはずなのだ。

 

「宇田川がうちのおやっさんにちらりと以前話していたらしくてね。

そこから古見製薬に聞いてみると、東製薬が当たったわけだ。」

 

スクネ流とは、結論から言えば天皇の御傍守として作られた宮中専門の格闘技である。

そしてこの流派、基本的には武器を使わない。

もちろん使えなくはないが、なぜ基本的に使わないかというと儀式や宮中行事のような重要な出来事の際でも働けるようにするためである。

基本的に祭事に武器を持ち込むことは厳禁であるが、暗殺を狙っている輩が天皇家から武器を奪って躍り出たり、隠し持った武器で襲い掛かることがないとは言い切れない。

そこで、武器を帯びられないような時でも天皇のために十分な働きができるようにと培われた技術体系である。

 

故に、基本的には素手。

だが、この御傍守というのはそれだけでは終わらない。

天皇を守るという仕事柄、毒見役も兼ねていたため、薬に対する知識とこれを操る術にたけていた。

それに加えて天皇家を仇なすものには先に仕掛けて殺してしまう――――要は暗殺も積極的に行っていたのだ。

素手専門で、薬に関する造詣が深い連中がどう暗殺するか。

容易に想像ができる。

『毒』だ。

”離桜”と”淡水”とはスクネ流の技名でもあり、そのまま『薬』の名前でもあるのだ。

 

「国内大手の製薬会社古見製薬と親しい乃木出版。

特に拳願会の派閥でも同じ乃木派とくれば、情報を仕入れるくらいわけないってこった。」

 

そしてこの御傍守が明治維新で天皇の元から離れ、『くすりのあづま』として会社を興した後、昭和に入って『東製薬』に名前を変えた。

この東製薬に婿入りした男、姫川源三の息子―――それがこの、姫川勉である。

故に、乃木と泉は姫川の元を訪れることに決めたのだった。

 

「あんたにも見返りはある。

もし譲ってくれるなら、ヤクザに追われているあんたの親父、源三を乃木出版が保護しよう。」

「――――」

「なんなら闘技者にしてもいい。おやっさんはそう言ってたぜ。」

「なるほど」

「ま、おれとしちゃどっちでもいいんだがね。やれることはやっておきたいっておやっさんがさ。」

 

来る煉獄との吸収合併をかけた対抗戦のために、拳願会での発言力を増しておきたい。

その相手として、地下闘技場のスターの一人である武神に勝つことは乃木出版として押さえておきたいポイントだった。

むろん、毒殺では意味がない。

殺さずに試合で勝てるような、毒。

殺すためではなく勝つための毒。

そういうものを欲しいがために、乃木は以前から松尾象山と交流のある泉を派遣したのだった。

 

「わかりました。そういうことならば”離桜”と”淡水”をお譲りしてもよろしいのですが―――」

「ですが?」

「しかし、それだけでは私自身にメリットがありません。」

「まあね」

「父は父として、感謝はしております。

ですから、この私からも一つお譲りするための条件を付けくわえさせてください。」

「なんだい」

「この私と試合をしていただく、というのはどうでしょう。」

「あー、やっぱり?」

「やっぱりです。」

「俺、対抗戦控えてるんだけど」

「はい、存じております。」

「だったら――――」

「ですので、練習試合ならばどうでしょう。」

「――――」

「お互いに本気ではなくけがをさせない。

急所にはいれない。そういう試合形式ならば、問題ないのではないでしょうか」

「お前さん、結構やる気だね」

「それはそうでしょう。」

「―――――――――」

「あの絶命トーナメントでベストエイトに輝いたレジェンドにして、五代目牙とまで目された男が目の間に居るのですから。」

「うーん」

 

苦笑いしながら明後日の方向を向く泉。

そんな泉に対して、姫川はくすりと笑いながら言った。

 

「そういえば…あなたはむらっけがかなりある選手と聞いております。」

「ああ、そうだな。こればかりはどうにもならねえ」

「だからでしょうか。」

「あ?」

「調子が悪いから私に拳を当てることができないと。

投げることができないと。そう考えておられるのでしょうか?」

「―――――」

 

初見の雰囲気が、変わった。

獅子だ。

軽薄な男の内側から、闘争を望む獣がガワを食い破って出てきた。

そういうふうに、姫川と松尾象山には感じられた。

 

「お前さん程度なら、今の調子でも問題ねえよ」

「うーん」

「―――――」

「とはいえ、ですよ。

調子の悪い時には格下相手にさえ苦戦するあなたが渋っていたのですから。」

「今はそんなに悪くねえさ。」

「―――――」

「繰り返しにはなるが、この調子なら問題ねえよ。お前さん程度ならな」

「本調子でなければ、おそらく当たらないと思いますが。」

「言うじゃねえか――――」

 

ゆらりと、歪んだ熱気を身にまといながら初見が立ち上がる。

それを見た象山哂って言った。

 

「決まりだな。じゃあ、今から下の道場に行こうか」

 

――――――――――――――――

 

「…マジか?」

 

道着姿に着替えた初見が言った。

肩で呼吸をしながら、同じく道着姿になった姫川を見ている。

姫川は構えもせず、ただそこにたたずんでいた。

初見は、獣が唸るような呼吸をしている。

 

「牙ですら、もうちょっと当たってくれるんだがな…」

 

顔面に届く。

そう確信して出した拳であった。

胴にぶち当たる。

そう思って出した蹴りであった。

そう言う攻撃がことごとく空を切っているのである。

これまでにも攻撃が空を切ったことは何度もあった。

しかし、それは肉体がその事情を呑み込んでいる。

相手がきっちりかわしていたからだ。

初見ほどの達人になると攻撃を外すことなどめったにあることではないが、相手も一流ならないわけではない。

だがその場合は眼や身体が相手の動きを追っているので理解はできる。

何が起こったかくらいは理解できるのだ。

だが、これは。

牙に龍弾を打ちまこれた時以上に不可解であった。

初見泉は今の状況を理解できていない。

何が起こったのか。

かわされる―――というよりは、当たらない。

この優男がギリギリで見切ったようにも見えるし、自分から外したようにも思える。

初見の人生で一番理解のできない空振りの連続であった。

 

「フウ―――――」

 

初見はゆっくりと呼吸を整える。

呼吸が正常なものに戻ってくる。

挑発されたとはいえ、手心を加えたのは事実であった。

当てるつもりではある。

当たってもケガにはならぬよう、自分もケガをせぬよう。

そう言った意味での手心は加えていた。

しかし――――

本気で当てにいっている。

 

「面白くなってきやがった。」

 

初見は笑った。

笑いながら、もう一度構えた。

自信に満ちた、本気の面構えだ。

 

「もう一度だ。」

「―――――」

「何したかわからねえが、そのすかした面が気に入らねえ。

次は当ててやる。」

「いやです」

 

だからこそ、姫川の言葉が理解できなかった。

 

「―――は?」

「いやです、と申し上げました。」

「いやいや待て待てって。ここまでやっといてそれはないんじゃねえのか?」

「『だから』です。」

「何?」

「本気になった初見泉に”淡水”は効きませんからね」

「まて、お前――――」

「淡水とはそういうものです。」

 

姫川がきっぱりと言った。

 

「地下と拳願会が対抗戦を行い、初見泉が訪れてくる。

そうなった時点でこうなることは予想できていました。」

「――――」

「故に、身をもって味わってもらうことでその効力を確かめてもらおうと思ったのです。」

「―――なるほどね。やり口は気に入らねえが。」

「申し訳ありません」

「あんまり申し訳ないと思ってねえだろ」

「はい」

 

ふう、と一つため息を吐いた後、泉は言った。

 

「終わった後で言うのもなんだが…ここには松尾さんもいるけど、いいのか?」

「問題ありません」

「私は以前くらってるからね。原理も説明してもらっている。」

「――――――」

「ええ。ですので、お譲りすることも含めてあなたには一度話しておきたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」

「話してみな」

 

初見がポケットに手を突っ込んでいった。

 

「淡水というのはスクネ流の技の名前なのですが、それがそのまま毒薬の名前である、というのはもうご存じでしょうか」

「いや。毒薬ということだけしか知らねえし、効果もよくわかっていねえ」

「その淡水を、さっき泉さんが飲まれたお茶の中に入れておきました。」

「何――――?!」

「この淡水をのむと、人は短時間の間極めて暗示にかかりやすくなるのです。」

「姫川、てめえ、まさかさっきのは。」

「はい。暗示をかけさせていただきました。」

 

だからか。

初見は心の中で理解した。

妙な挑発をすると思ったぜ。

普通なら勝てないという所を当たらないというのはちょっと変わっているなと思っていたが、こういうことか。

勝てないではなく、『当たらない』。

より具体的な暗示をかけることにより、淡水の効果をより高める。

そのために、挑発をしていたのだこの男は。

だが―――

初見は顎に手を置きながら言った。

 

「それだけか?」

 

姫川が答えた。

 

「はい。それだけではありません」

「いくら暗示にかかりやすくなるっつっても、薬を飲ませてまで拳が当たらねえよってだけのものじゃねえだろ」

「はい。ですので二度目はお断りさせてもらっています。」

「―――――――」

「この淡水、薬の作用にプラスして相手の心の隙をつくことが重要だからです。」

「心の隙、ねえ」

「ええ。淡水を成功させるためには、実は三つの要素が必要になってくるのです。」

「三つ」

「今申し上げた薬の作用と心の隙、それに加えて使う側の体捌き。この三つです。」

「なんとなく、わかりかけてきたぜ」

「この淡水、まっとうな本気の勝負の折にはほとんど効果がありません。」

「―――」

「まず第一に、当たらないといったこちらの言葉を強く意識させる必要があるからです。

むきになってくれればいいのですが、聞き流される可能性もあります。

ですので、相手の集中力が高い本気の殺し合いの折などには効果が薄いと思います。」

「―――――」

「それにいくら暗示と言っても動かない対象物が相手では意味がありません。

例えば、この床などがその典型と言えます。

打つ方はゆっくり対象物を確認して拳を移動させればいいだけの話ですから。」

「そりゃ、そうだわな」

「ですので、これは催眠術に近いものと考えてもらえれば結構かと思います。」

「催眠術?」

「はい。例えばの話ですが、いくら催眠術をかけたところで一人の若い女性に駅前で服を脱げと言っても脱ぐでしょうか」

「普通は脱がねえよな。この俺でもホテルや路地裏がいい所だわ」

「それは催眠術ではなく話術でしょう」

「そう?」

「そうです」

 

はあ、と姫川はため息をつきながら言った。

 

「話を戻しますが、いくら催眠術をかけると言ってもそれはおのずと常識の範囲内での出来事になります。

身体を硬直させるなどは身体的作用に働きかければできますが、精神や常識を改変するといったことは難しいでしょう。」

 

姫川が口にした通り、催眠術をかけるにはその行為をおのずと相手の常識の範囲内に入れる必要がある。

例えば女性に服を脱がせるならまずは暑いね、と暗示をかける必要がある。

暑いのだから、上着を脱ぐことは自然である。

次に汗をかいたのだから、流そうかという。

汗をかき、風呂に入るのは当然。

だから風呂に入るために服を脱ぐのも当然―――このようにして常識を誘導するのである。

 

「淡水も同様です。」

「なるほどね」

「先ほど淡水を成功させるには、お互い本気でやらない。そのうえで私が構えないといった状況が必要でした。」

「――――」

「本気ではない練習試合。そのうえで、私が構えずに脱力している。

そういう人間を『レジェンド』である初見泉が打つ。

わずかかもわかりませんが、無意識のうちにどこかでためらいが生じます。

そのためらいこそが重要なのです。」

「――――」

「そういう心の動きと薬と当たらないといった言葉。これらが増幅して、無意識のうちに拳を外そうとしてしまう。」

「――――」

「あとは受ける側がギリギリのタイミングで外せばよいのです。」

「そういうことか」

「はい。私が二度目をお断りしたのはこの心の隙が無くなるからです。

本気の初見泉が相手ではね」

「本気の松尾象山よりはましだろ?」

「かもしれません。しかし、危険なことに変わりはありませんから。」

「けっ」

 

吐き捨てるように言う初見に対し、松尾象山が正座しながら言った。

 

「しかしこれじゃあ不満が残らねえかい、初見くんよ」

「まあ、そりゃあ」

「そこでだ。薬の効果ももう薄いだろうし、いっちょここから試合をやるってのはどうかな?」

「へえ」

 

初見が目を光らせた。

 

「そいつは願ってもないが」

「条件はさっきと同じ。怪我せずに帰れば乃木さんだって納得するでしょ」

「ああ。」

「姫川、お前はどうでえ?」

「――――」

「姫川、こいつはいい女が股濡らして誘ってんのと同じだぜぇ。

はやくはやくって言ってんのにそいつを断るってのはよぅ」

「そういうことならば、仕方ありませんね」

 

姫川が、初見の方を向きながら言った。

 

「到底美女には思えませんが、お相手致します。」

「助かるぜ、松尾さん。理想的な展開だ。」

「何。私も以前姫川に似たようなことをされたからね。意趣返しさ。」

「やらなきゃよかったかな…」

 

ぼそりとつぶやきながら、姫川が一歩下がった。

刹那。

一瞬前まで姫川が居た位置を、黒い鎌が横薙ぎに抜けていった。

初見だ。

初見のミドルキックが空を切ったのである。

それと同時に、ふっと。

姫川が動いた。

上体と共に拳を前に突き出そうとしている。

右の拳で初見の顔面を打とうとしている。

打とうとしているが、実際にはそうしなかった。

フェイントである。

初見はそれがわかっているから反応しない。

本命は、脚だ。

右の前蹴りが初見の腹を狙っている。

初見が下がる。

そこで、姫川の脚が伸びた。

前蹴りのためにたたんでいた右の膝が円を描くようにして初見の頭部に襲い掛かったのだ。

それを見て初見は感心した。

通常このようなフェイントは回し蹴りのような、ミドルキックから変化する。

ここから脚を上に上げるか下げるかでハイかローに変るのである。

途中から軌道変化するので受けにくい技であるが、それを姫川は前蹴りで行ったのである。

 

芸術的(アーティスティック)っていうのかね、こういうの。たまらんぜ。)

 

これはかわせず、左腕で受ける。

同時に、初見が右の脚で蹴りにいく。

どういう格闘技にもない蹴りであるが、そうであるがゆえにほとんど予備動作がなかった。

脚を上げると同時に蹴りに行っている。

狙いは左の軸足、関節。

当たる――――初見がそう感じた時には、もうそこに姫川の脚はなかった。

どこに。

速。

瞬間、本能的に初見は右のガードを上げた。

こめかみまで覆った、その瞬間に何かが爆裂したかのごとき衝撃が、初見の右腕を襲った。

姫川だ。

姫川が自身の右脚を着地させる前に、左足でハイキックを見舞っていたのだ。

しかも、それだけでは終わらなかった。

なんと姫川は、右脚を着地させるどころかその足でもう一発顔面にけりこんできたのだった。

たまらず両腕でブロックするが、吹き飛ばされる初見。

 

(マジかよ…空中で足のワンツースリーって…!!!)

 

しっかり足から着地したものの、その時には既に姫川も両足で立っていた。

芸術だ。

一も二もなく、初見はそう思った。

こういう美麗な男が顔に負けぬ、いやそれ以上に華麗な技を次々と放ち、しかもその威力も一流である。

ぞくぞくしてくる。

自分が画家であるなら、この一面を切り抜いて書き抜きたい。

女であるならば抱き着いてキスしたい。

そう思わせるほどの男であった。

 

そして、同じことを姫川も考えていた。

今出した技の数々、並の人間であれば既に終わっている。

それらすべてを初見で見切った上に、不意打ちに近い空中三段蹴りもしっかり防いできた。

この男は強い。

丹波よりも、

長田よりも、

藤巻よりも。

もしかしたらあの磯村露風よりも。

正確なほどはわからないが、少なくとも今の時点で底が見えないという点においてはあの男と共通していた。

底が見たい。

そう思った姫川は、初めて自分から近づいた。

 

「私の番ですかね」

「かもな」

 

じり、と姫川が近づき。

じり、と初見が下がる。

 

「ずるい…」

「野郎に言われても嬉しかねえな」

 

そうはいったものの、姫川の顔には微笑みが浮かんでいた。

素晴らしい技術だ。

そう思っているからである。

姫川が間合いに入ろうとする。

その一瞬前に初見がほんの少し下がる。

それだけのことであるが、姫川は手を出しあぐねていた。

初見が姫川のリーチギリギリの範囲を常に保っているからである。

無理に行けば、その瞬間逆に間合いを詰められカウンターをもらうかもしれない。

かといってゆっくり行けば、このように手を出せない状況を作る。

手を出すことなく、こちらの動きの大部分を封じてくる。

 

「とはいえ、このままじゃあ埒が明かねえな」

 

すっと、初見が手を下ろし構えを解いた。

そして、下がることもやめた。

一緒に姫川も止まる。

 

「それでは?」

「やっぱまだ俺の番ってことで」

「ずるい…」

「大人はずるいからね」

 

そして、ゆっくりと初見が歩きだした。

まるで散歩でもするように、普通に姫川に向って歩みを進めたのだ。

対する姫川は、下がらなかった。

下がらないまま。

 

「ヒュッ」

 

右の脚で蹴りこむ――――そういうモーションを見せた。

初見はどういう動きもしない。

ほんの少し、顔を後ろにそらしただけだった。

そこを、真下から。

ごう、という空気を割く音と共に何かがつきあがって来た。

左脚である。

右でのフェイントをかけた後、下から突き上げるように姫川が左足をけり出したのである。

これは読めていた。

そう思い、伸び切った足に手をかけようとした瞬間。

強烈な悪寒が初見の全身を襲った。

道場には自分も含めて三人しかいない。

にもかかわらず、いるのだ。

後ろから黒いローブをかぶった死神が、その鋭い鎌を自分の顎にひっかけている。

むろん、幻覚である。

実際に初見の背後に誰かいるわけではない。

しかし、強烈な死の予感というものがそのようなイメージを初見の脳内に映させていた。

ガードを――――

とっさに右腕を胸のあたりで構えた。

そして、それは正解であった。

先ほどの左足以上の速さで跳ね上がって来た右脚が、初見の腕に直撃していた。

ものすごい衝撃だ。

人間の脚というよりは、まるで革製の鞭。

異様にしなるこの脚が、もし顎に直撃していたならたやすく意識を刈り取られていただろう。

そう思った刹那―――――初見の頭頂部にハンマーが叩き込まれた。

 

(何

まさか

これ

虎――――)

 

脚だ。

蹴りあがった姫川の左足が、上から降りかかって来たのだ。

それはさながら虎の顎が、獲物に食らいつくかの如く。

虎の牙になぞらえた両の脚が、頭部を挟み撃つ―――――

虎王と呼ばれるものであった。

この神がかり的な技を見た後、松尾象山は笑った。

なぜか。

そのまま地面にたたきつけられるはずの初見が、立っていたからである。

たたらを踏んで、後ろに下がった。

頭部から血も流している。

息も荒い。

しかし、それだけであった。

 

「ひゅーっ…あぶねえあぶねえ。」

 

ダメージを受けてよろめいているだとか。

苦しんでいるだとか。

そういうのは一切ない。

呼吸も、この一瞬で整っている。

 

「当たる直前に脱力し、頭部を自ら下に向けることにより衝撃を受け流したというわけですか。」

「ああ。」

「素晴らしい。」

「だろ?」

「楽しくなってきました」

「ああ。だけどよ、そろそろ『決め』だ。」

「―――――」

「お前さんには悪いが、おれは男と長々遊ぶ趣味はないもんでね。

そろそろ終わらせてもらうぜ。」

 

その瞬間、初見が前に出た。

一直線である。

フェイントも何もない。

ただ突っ込んできて当てる。

拳でもいい。

脚でもいい。

掴みでもいい。

そういう踏み込みであった。

そうであるがゆえに、姫川も迂闊にフェイントを出すことができない。

ロー――――×

ボディ――――×

ハイ―――――

フック――――×

正拳―――――

投げ―――――×

次々と脳内に現れる選択肢を潰していった結果、姫川がとった選択肢は。

 

「シッ」

 

顔面への正拳突き。

これであった。

渾身の右の拳が初見の顔面に放たれ、めりこんだ拳によって初見の頭部が後方にはねる――――

 

「!?」

(と思ったろ?ならねえんだなこれが。)

 

はずであった。

姫川には初見の頭が吹っ飛ぶのが見えた。

にも拘わらず、初見は拳の真横で陣取っており、完全にフリーの体勢を得ている。

極限のラインですか―――

姫川はそう思った。

誰もが死を確信するぎりぎりの間合いで回避せしめることにより、相手の意表を突く。

ミリ単位の見切りができなければ不可能な達人の技である。

初見の左ボディ。

とっさに左腕を下げ、右の拳を戻しガードをする。

だが、来ない。

来るはずの衝撃が来ない。

これは、まさか。

 

「バーカ」

 

気づいた時にはもう遅かった。

右腕が、初見の左手に掴まれている。

まずい。

このままでは。

攻撃を―――

右ハイ。

考えたわけではない。

とっさに出た攻撃であった。

左腕の外側。

死角に当たる部分から脚を伸ばして反撃を―――。

そういう心づもりでうった。

少なくとも、姫川はそう感じて撃とうとした。

 

「ッッッ!!!???」

 

しかし、うてなかった。

自分の身体が宙に浮いていたからだ。

脚を上げるのと同時に――――いや、最初から狙っていたのだろう。

あそこでハイキックを選択するのを完全に読んでいたこの男は、蹴らせておいてその軸足を狩りにきていたのだ。

軸足を払われると同時に、右腕が投げ捨てられるように放られ自分の身体が完全に宙に舞っている。

着地しようにも、勢いをつけて投げられているので体勢が変えられない――――!!

ダメ押しに、さかさまになったところで顎に手が添えられた。

 

(掌の上――――というわけですか)

 

ずん。

そういう音と共に、道場が揺れた。

姫川の身体が、頭から道場の床に落ちる。

 

「やるじゃねえか。受け身とりやがった。」

 

とっさに受け身は取れた。

受け身と言っても、頭と地面の間に手を挟むだけである。

だが、頭部が地面に落ちた果物のようにはじけることだけは防ぐことができた。

 

「初見流合気道『百会投げ』

ま、そうなるように投げたから当然だけどな。」

 

姫川の視界がどろどろに歪む。

初見も。

松尾象山も。

床も。

天井も。

直線のものは何もない。

全てがぐにゃぐにゃに歪んで廻っている。

 

「~~~~~~~~~~~~~ッッッ」

「だから言ったろ?お前さん程度なら今でも十分だってな。」

 

受け身を取ったにも関わらずこのざまだ。

本気で投げられていたなら―――――

ぶるぶると震える手を床につき立ち上がろうとするが、顔面が床とぶつかった。

それを見た松尾象山は、また笑った。

笑って、右手を上げた。

 

「それまで。」

「ふう。ありがとよ、姫川。おかげで、調子を上げることができそうだ。」

「今の調子はどんなもんだい?」

「80%くらいってとこかな」

「いいねえ。これは、対抗戦で本気の初見泉を期待していいのかな?」

「任せときな。この分なら、対抗戦には絶好調で持って行けるからよ――――」

 




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第十六話 獰

一人の男が、バーのカウンターでウィスキーを飲んでいた。

ライフロイグの18年もの。

スコッチ。

シングルモルト。

そのスモーキーな香りが男の周囲を包んでいる。

氷を浮かせたグラスが、男の手で持ち上がるたびにからんと音を立てる。

グラスを拭くバーテンダーの後ろには古今東西の酒瓶が並んでおり、それが室内のほの暗い灯りに照らされ、星のようにきらめいていた。

 

「…なんでや」

 

グラスを持った男が、一口飲んだ後そうつぶやいた。

ガタイのいい。

いや、ガタイの良すぎる男であった。

白いTシャツがぱんぱんに膨らんだ筋肉で張り詰めている。

そでからエッジの浮かんだ極太の腕が出ており、相当に鍛えていることがうかがえた。

履いているジーンズからもまた、太ももの肉がみっちり詰まっていることがわかる。

男の名は大久保直也。

絶命トーナメント参加者であり、総合格闘技『アルティメットファイト』の王者。

表でも裏でも名の通った実力者である。

 

「なんで俺はこんなとこで野郎相手に酒飲んで愚痴こぼしとるんや…」

 

その大久保が、丸刈りに剃った頭を抱えながら言った。

 

「そりゃ、お前がお持ち帰りミスったからだろ?」

 

眼の前のバーテンダーが、カウンター越しにあきれたように答える。

肌を浅黒く焼き、短い髪を金髪に染めた青年であった。

整った顔立ちに、程よく鍛えられ無駄のない肉体。

モデルと言われてもおかしくないほどに、見栄えのする男だ。

男の名は氷室涼。

表の仕事はバーテンダー。

裏では闘技者を務める色男。

さっぱりした性格で、誰とでも男女問わず誰とでも付き合える明るさを有しているため交友関係も広い。

特にうなだれているこの大久保とはトーナメント以来意気投合しており、こうしてたまに大久保が店に飲みに来ることもある。

ライバルでもあり友人でもある関係。

だから、そういう男がしょうもない理由で酒を飲んでいても慰める事は無い。

ただ、軽口を叩くだけだ。

 

「いきなり連絡先教えてとか、ちょっと早まった感あるんじゃねえの?」

「いや、お前のせいや」

「は?」

「だって、あれやん。今回の女の子お前が集めたんやろ?」

「まあ」

「だったら、お前狙いやんけ。違うやつは克己んとこ行ってたし」

「知らねーよ。もともとはお前がしたいって言うから組んだんじゃねえか」

「お前がお持ち帰りせんかったら俺も今頃…」

「いつまで言ってんだよ…」

「はあ…今はこの酒だけが俺の癒しや。」

「まあここで一番高いやつだからな。癒されて当然だろう。」

「は?」

「だってお前、なんかいい酒くれって言ったじゃねえか」

「アホか!!誰も一番高い酒くれとは言うとらんやろうが!!!」

「癒されたろ?」

「お前から一番高いって聞くまではな…」

 

再び頭を抱えながら下を向く大久保。

ため息をつきながら、氷室は再びグラスを拭きながら大久保に言った。

 

「そういや聞いたか、あの話?」

「ん?」

「対抗戦だよ。地下との」

「ああ…俺んとこにも打診来たわ。」

「まじ?」

「マジ。断ったけどな。表の試合と日程が被っとって…」

「ふうん」

「お前んとこは?」

「俺は絶命トーナメントに参加してないからな。

打診は来なかったよ。」

「ほーん。まあそれはしゃあないな」

「出たくないわけじゃないんだが、メンツを聞いちまうとな」

「ほう?」

「阿古谷、今井コスモ、関林、ガオラン、初見…今決まってるだけでもこんだけのメンツだ。つい最近、若槻の相手も決まったって話だ。」

「勝ちに行くメンツやな…でも、あれか?やっぱメンツ決める基準はトーナメントの順位って感じかいな?」

「それも一つらしいぜ。後は参加者同士の因縁が――――」

 

氷室が言いかけた時、五人の男が入って来た。

どいつもみんな若く、大きく。

そして眼に力が入っていた。

 

「氷室、居るか?」

 

そのうちの一人がそう言った。

 

「俺だけど?」

 

男が親指で店の外を指さした。

 

「ちょいと面かしな」

 

そういって男たちは、氷室の返事を待たずに出て行った。

氷室はそれを聞いても顔色一つ変えず、丁寧にグラスを拭いていた。

 

「なんや、面白そうなことになってるやん。」

 

大久保が、笑いながら言った。

 

「まあね。」

「なんやあれか?あいつらの女ともめたんか?」

「ちげーよ。ありゃこの辺りを縄張りにしてる反ぐれさ。」

「ふん?」

「ショバ代を払えってうるさくってな。

むろん、払う理由なんて何一つないしマスターはそういうのが嫌いだから払わなくていいって言うんでね。」

「なるほどなあ。ほんであれか?払わんかったら嫌がらせするぞー、的な?」

「そう。で、こないだ店ん中で騒ぎ立てるからよ。『丁重に』お帰りいただいたってわけ。」

「あーーー。そら呼び出し食らうわ。」

「そういうわけなんで、ちょっくら行ってくるわ。

お前も来いよ。」

 

グラスを拭き終えた氷室が大久保に向って言った。

 

「イヤや言うても行くわ。こんなおもろそうなことほっとけるかい」

「お前は暴れんなよ?万一スキャンダルでも食らったら面倒だ。」

「わかっとるわかっとる。俺はただ目の前で起きる喧嘩を『たまたま』みかけた一般人いうことにしとくから。」

「わかってんじゃねえか」

 

キャップを深めにかぶりながら席を立つ大久保。

氷室の背中をばんと叩きながら外に出た。

 

 

氷室が外に出ると五人の男達が待っていた。

辺りは店の明かり以外に光と呼べるものがほとんどなく、男達の顔ははっきりとわからない。

しかし、それはこちらも同じであった。

大久保がわざとらしくキャップを深めにかぶって遠目から見ているが、ばれている様子はない。

 

「こっちにこいや」

 

男の一人が顎をしゃくりながら歩いて行った。

 

「へえ、いいとこ知ってんじゃん。」

 

氷室が笑いながら言った。

ここはビルとビルの間の路地。

人の気配はこの路地にない。

一人の男がポケットから銀色に光る、長いものを出した。

がちゃりがちゃり、という音が路地に響く。

アーミーナイフである。

刃渡りも30センチくらいはあるだろう。

同時に、後ろの男達もバットや鉄パイプ、メリケンサックなど各々の武器を取り出してきた。

 

「おい。なんのことかわかってんだろうな?」

 

それに対して、氷室は何も言わなかった。

ただ、口元をゆがめて笑った。

笑いながら、散歩でもするように歩いて。

 

「――――――」

 

男の眼の前に立った。

男は虚を突かれたように、眼を丸くした。

それと同時に、こめかみと額に血管が浮き出てくる。

 

「野郎ッッッ!!!!!!」

 

男はいきなりナイフを突き出してきた。

遠慮はしていない。

本当に殺すつもりでついている、そういう動きであった。

氷室はそこから動かない。

男のナイフを避けようともしない。

ただ、左の腕がぶれた。

男にはそういうふうに見えた。

何をされたのかはまったくわからなかった。

ただ、男は意識を手放し膝から崩れ落ちた。

そして膝立ちになったあと、顔から地面に倒れて動かなくなった。

大久保はそれを氷室の後ろから見ながら、にやりと笑った。

 

「「「「!?」」」」

 

男達が動揺する。

氷室は止まらなかった。

動きを止めずに、もう一人の男の顔面に拳を打ち込む。

これも男には見えない。

それもそのはずである。

氷室涼、25歳。

その格闘スタイル、『ジークンドー』。

最速最短を突く崩拳が可能にするハンドスピードを、驚異的な身体能力を持つ氷室が行えばそれは閃光となる。

最速と言われるミドル級のボクサーのハンドスピードが平均10m/秒なのに対し。

この男の崩拳のハンドスピード、実に平均15m/秒。

闘技者の中でも上位を誇るこのスピードを、チンピラ崩れに見切れるはずもなく。

見えないまま顔面が跳ね上がり、ビルの壁面に頭をぶつけて気を失った。

 

そのまま、返す拳で隣にいる男の側頭部に右脚を叩きこむ。

男はうめき声も立てずことりと地面に倒れた。

 

あとずさりするもう一人には右のリードブローを顎にお見舞いし。

意識を失ったそいつは、糸が切れた操り人形の如く倒れ伏す。

残った一人も逃げようとしたが、

 

「よっ」

「おげっ」

 

背後から股間を蹴り上げられ、悶絶。

 

「あがっ、あががが」

 

急所を押さえながらその場でのたうち回って、ついに動かなくなった。

ナイフの刃が見えてから5秒も立っていなかった。

 

「こんなもんかな」

「ほー、やるやんけ」

「だろ?なんかあったら正当防衛ってことで頼むわ。」

 

そう言って、大久保と路地から出ようとすると、出口をふさぐように立つ一つの影があった。

小さい。

160にすら満たないであろう、小柄な男であった。

身体はベージュのコートでおおわれているが、その小さく細い顔と首同様、腕も足も細く、小さいと思われる。

その顔には深く、年輪のように皺が刻まれている。

高齢の、小柄な老人。

それが、氷室と大久保の男に対する第一印象であった。

 

「―――なんだい、見てたのかいじいさん。」

「うん。通りかかったときにチョっとね。」

「なら、見てた通りだぜ。こっちは素手、向こうは武器ありで複数人。

どっからどう見ても正当防衛ってやつだ。」

「よく言うぜ、あんちゃん」

 

くすりと、老人が笑った。

 

「下手な武器なんかよりもよっぽど危険な身体と拳持っといてよォ。

正当防衛騙るってのは、ちょっと無理があるんじゃねえのかい?」

「―――――」

「ま、通報はしないから安心なさい。いいもん見せてもらった礼ってことじゃな。」

「――――じいさん、なんかやってるね?」

 

氷室が、汗をかきながら言った。

運動によるものではない。

この、成人男性どころか子供か女性ほどの身の丈しかない老人。

にも拘わらず、氷室の脳裏にはこの老人と巨大な虎が被って見えていた。

その獣が、凶悪な爪と牙をむいてこちらを見ているのだ。

自然と、氷室の口に強烈な笑みが浮かび、白い歯が見えてくる。

 

「あ、わかる?」

「それも、相当やってるね?」

「まあまあ、やっとるかもね。」

「それとさ…なんだかわかんねーけど、じいさん。

あんた、俺になんかしかけてるよな?」

「バレちゃった?」

「そらそうやろ――――というか、趣味悪いで『達人』」

 

後ろから見ていた大久保が、呆れながら言った。

 

「いくら暇やから言うても、あんたほどの男が喧嘩自慢相手に腕試しに行くんは感心せんで。『渋川剛気』センセ。」

 

老人―――渋川剛気は、そういわれてにやりと口元を歪ませた。

 

「バカ言っちゃいけねえぜ、ボウヤ。」

「―――――」

「こんないい火種を見つけたんだ。

このまま燃やさずに黙って帰るわけにはいかねェだろう。」

「――――らしいで、氷室?」

 

大久保がそう言い切る前に、氷室が構えていた。

右手右足前の、氷室のいつもの構えだ。

 

「光栄だ。」

「―――――」

「あの伝説の『最大トーナメント』のベスト4。」

「―――――」

「達人とやれるってんなら、逃す理由はねぇ。」

「―――――」

 

達人は答えなかった。

こたえないまま、少しだけ腰を落とした。

 

「いいのかい…」

 

氷室が、かすれた声で言った。

 

「いいぜ…」

 

渋川が答える。

それっきり、二人は黙った。

2人の唇が動かなくなる。

大久保も、静かにそれを見ている。

 

「シャアッ!!!!!!!」

 

いきなり、突っかけた。

氷室が気合いと共に、右の崩拳を渋川の顔面に放った。

当たればよし。

当たらなくてもよし。

次の連携につないで休ませない。

そういう心づもりで撃った拳であった。

だからだろう。

 

「!?」

 

眼の前の空間から突如として人間が消えた。

その事態に頭がついていかず、拳が空を切る。

 

「ほ」

 

わずかに聞こえた声。

背後から。

いつ。

何故。

そう言った考えが脳裏に浮かぶ。

浮かぶのと同時に、振り向いた。

振り向きながら、拳を振るった。

左のバックブロー。

鋭利な刃物を思わせるその鋭さは、描いた軌跡がきらめいているようにさえ見える。

 

「つ~~~かま~~~~えたッ♡」

 

だが、その腕が達人に届くことはなかった。

左手首が、渋川の左手にとらえられている。

 

「アカンッ!!!!離れろッッ!!!」

 

大久保が叫ぶ。

言われる前に振りほどこうとする氷室。

だが、遅かった。

 

「ほいなッ」

 

地面が、起き上がった。

起き上がってきて、そのまま氷室の顔面にぶつかった。

現実にあり得ることではない。

あり得ることではないが、少なくとも氷室にはそうとしか感じられなかった。

あまりにも鮮やかに投げられたせいで、重力とかそういったものを一切感じないのだ。

じくじくとした痛みが自分の顔面のあらゆるところからにじみ出てきている。

だが、まだ負けてはいない。

鼻血は止まらないが、戦闘不能というほどではない。

そう思って地面に手をつき、立ち上がった。

 

「~~~~~~~~~~~~~~ッッッ」

「あちゃ~~~~~~」

 

否。

立ち上がろうとして、しりもちをついた。

大久保が、頭を手で押さえながら天を仰いでいる。

しかし、氷室の眼にそんなものは映らない。

曲線だ。

あらゆるものがねじ曲がり、柔かくなっている。

コンクリも。

大久保も、

ゴミ箱も、

達人も、

どれも。

脳への衝撃で視界に映るすべてがドロドロに歪み切り、まともに見えているものは何一つなかった。

――――なんだ、これは。

あっけにとられているところに、渋川が近づいた。

軽く、散歩でもするようにゆっくりと歩いて行った。

 

「ドロドロかな、兄ちゃん。」

 

歪み切った渋川が、白く裏返った眼で言った。

 

「こっからはえれえことになるぜ…」

「ッッッ!ラアッ!!!!」

 

歪む視界のまま、無理やり立ち上がり右の拳を振るう。

蹴りはできなかった。

震える視界のまま平衡感覚を保ちながら、攻撃するにはこれしかない。

 

「ハハ…」

 

だが、これこそが達人の狙いであった。

達人の身体が自分の右拳をすり抜けて、その外側に居る。

腕を取られていた。

触られた感触すらない。

いつ掴まれていたのかもわからなかった。

その後、何が起こったのかもわからなかった。

わからないから自分に加えられてくる力に抵抗する術がない。

 

―――――蹴り、だったと思う。

 

後日、金田に氷室はそう言った。

それはまさしく的中していた。

渋川は、氷室の右ひざの後ろを斜め横から蹴ったのだ。

ひっかけるように、踵で。

右ひざが曲がり、身体が前に泳ぐ。

というより、泳がされた。

そして、そのまま胸から地面にたたき落とされた。

 

「グブッッ」

 

腹ばいにされ、氷室の口から血が噴き出る。

右腕が一本の柱のようになって上に持ち上げられている。

右肩―――右腕の付け根に渋川の左ひざが乗っているのだ。

完全に右腕を極められていた。

靭帯がぎりぎりまでのばされている。

一体どういう技をかけられてこうなったのか。

氷室にはわからなかった。

ただ、右腕の中から異様な音がした。

分厚い布を一息でひきちぎるような。

ばりっとも。

びりっとも。

ぶちぶちっとも聞こえた。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッ!!!!!!」

 

渋川が、氷室の右腕を一気に折ってのけたのだった。

 

「ほいッ」

 

達人はそのまま立ち上がり、氷室の後頭部に足刀を叩き込んだ。

氷室はそれっきり、動かなくなった。

大久保がそれを確認し、氷室に近寄る。

渋川は、何もしない。

 

「あ~~~~~、こらあかんわ。腕折れとるし、かんぜんに伸びてもうとるわ」

「――――」

「ええもん見せてもろたわ。」

「そりゃ、よかったわい。」

「ほな、達人ははよ行き。俺が救急車呼んどくさかい」

「いや、ワシが呼んどくわい。やったんワシじゃし」

「そんなもんか?律儀やなあ」

 

そういって、渋川は懐から携帯を取り出した。

シンプルな、電話だけかけられるタイプのものだ。

 

「あーーー、救急車?今新宿の路地裏で~~~」

『―――――』

「うん、そう。場所は、そう。」

『―――――』

「人数は―――二人。金髪の男前と、坊主のでっかいのが倒れとるんじゃよ」

「…なんやて?」

「だから、そういうことじゃよ」

 

携帯の電源を切りながら、渋川が振り返った。

 

「おめえさんともやろうって意味以外、あるわきゃねえだろうが」

「ほ~~~~。おもろいこと言うじっちゃんやなあ~~~~」

 

大久保が、キャップを後ろに放り投げて構えた。

 

「そういう挑発は、乗らんとあかんよなあ」

 

手を下に構えた、総合の構えだ。

掴むこともできるし、投げることもできるし、殴ることもできる。

そういう構えである。

ここで、達人も構えた。

左脚だけを前に、身体は正面を向き。

両拳を握り腕を下に出している。

 

(とはいえ、どないするかな…)

 

臨戦態勢ではあるものの、大久保はプランを決めかねていた。

自分の方がはるかに大きく、リーチもある。

そういう意味で打撃で行こうかと最初は考えたが、即座にこのプランを脳内で却下した。

 

(ジークンドーやっとる氷室でさえあれや。

俺が打撃戦しかけても、ええ感じにはならんやろうな)

 

ならば。

組み付いて投げる。

寝技になる前に、コンクリの地面にたたきつけて終らせる。

 

(そこにフェイントやらなんやらを入れて―――決まりやな)

 

じりと、渋川が姿勢を崩さずにじり寄った

大久保も、それに合わせて下がる。

 

「どうしたい、兄ちゃん。」

 

渋川が、口元を歪ませながら言った。

 

「いやー、達人相手はかなわんなあ。」

 

大久保は、わざとらしく返した。

だが、口元には怪しい笑みが漂っている。

 

「かなわんけど…」

 

下がりながら、ちらりと横を確認する。

確認して、もう一度笑った。

 

「これはどうやッッッ!!!」

 

咆哮。

それと達人の視界に青い何かが膨らんできたのは同時であった。

身体ではない。

ゴミ箱だ。

路地裏にある、生ごみがため込まれたゴミ箱を渋川に向けて蹴り飛ばしたのだ。

生臭いにおいと共に、箱の中身が飛び散る。

ぶつかるだろう。

そう感じた瞬間、大久保は前にでた。

 

「頂きッッッ!!!」

 

ゴミ箱もろとも組み付こうとする。

リーチの長い大久保ならば十分その裏に居る達人ごと抱え込める。

そう思い、組み付いた。

 

―――――――!?

 

組み付いた、はずであった。

だが、自分の腕の中にあるのは空気だけだ。

ゴミ箱は、路地の入口付近で音を立てて地面に落ちた。

どこに。

右、ではない。

左、でもない。

下。

下か。

達人がその小柄な体を更に小さくし、大久保の視線の遥か下。

まさに足元にいた。

その身を伏せ、道に出っ張る岩のように大久保の脚を体で払う。

 

「うおッッ」

 

勢いがついている、故にかわせず。

前のめりにつんのめった。

しかし、さすが総合王者というべきだろうか。

つんのめりはしたが、なんとかバランスを保つ。

保って上体を起こそうとしたとき脊髄に衝撃が奔った。

 

「ガッッッ!!!!????」

 

背骨。

その中心部から神経が鋭い痛みを訴えている。

振り向かずともわかった。

一本拳だ。

拳からはみ出すように立てられた中指で、背後を突かれたのである。

意図しないうちに背筋が伸びる。

 

「ほれ」

 

そこで、左手を掴まれた。

同時に、己の両足が地面から離れる。

離れて、そのまま壁に向って顔から自分の身体が飛んで行った。

このままでは―――

とっさに手の平を顔にかぶせるように置いた。

 

「ッッッッッ!!!!」

「ほう、受け身とりよったか。」

 

受け身と呼べるようなものではない。

しかし、かろうじて顔面から壁にたたきつけられることは避けた。

 

「さすがやなあ、達人」

 

大久保が、振り向きながら言った。

唇から血が一滴流れた後、微笑が浮かぶ。

薄刃の刃物に似た、触れれば切れそうな笑みであった。

自分が今までやってきたレスリングなどとは違う。

関節というより、人体の反射につけこむような技だ。

 

――――おもろいやんけ。

 

大久保はそう思った

いいだろう。

この男を試してやろう。

自分はそういうつもりで達人の喧嘩を買ったのだ。

腹を決めた途端、怖い色の光が大久保の眼に宿った。

自分から行く。

そうと決めた瞬間、大久保の身体が動いていた。

打撃。

下から突き上げるアッパーだ。

達人はどういう動きも見せない。

ただ、じっと大久保の事を見ている。

そして、そのアッパーが当たる直前。

大久保が大きく身をかがませた。

打撃から、瞬時にタックルに切り替えたのだ。

 

打→掴。

 

これこそが大久保の真骨頂。

総合格闘技とは文字通りあらゆる攻撃手段を持つ格闘術。

打撃。

掴。

投。

絞。

すなわち、その攻撃は変幻自在。

単独の技術で及ばないなら、複合で挑む。

打撃を警戒した渋川に、組み付いていく。

瞬間的な切り替えを行い、相手の反応の間に合わないうちに決める。

 

(今度は、かわせんやろッッ!?)

 

フェイントを入れたところで、大久保が狙いに言ったのは足。

達人の脚を、片足タックルで取りに行ったのだ。

今度は、自分が地面を這うようにしているので先ほどのような体当たりは食らわない。

そう思い、そのまま足をつかんだ時。

 

「!!!????」

 

大久保の身体が後ろに吹っ飛ばされた。

何が起こっているのか理解できなかった。

理解できないまま、コンクリートの壁面に体を思いっきり打ち付けていた。

 

「ホッホーッ♡よ~~~~く飛んだのう」

 

この場に本部以蔵が居れば、こう言っただろう。

あれこそがまさしく、本物の合気であると。

理屈は単純だ。

危害を加えてくる相手に対し、己の力を加えて相手に返す。

それは大久保も、今理解(わか)った。

何をされたのかということはわかった。

しかし。

こんな。

こんな技術があり得るのか。

こんなほれぼれするような、恐ろしい技術があるのか。

 

(か、完全やないか…)

 

どろどろに回る視界と、震える身体を起こし走り出す。

打 即――――

 

「ほいッ」

 

これも、吹っ飛ばされた。

立ち上がる。

襟をつかむ―――ふりをして、離れる。

離れたところから、ロー。

 

掴 離 打

 

「いかんなあ」

 

速くはない。

達人の動きは早くはないはずであった。

しかし、気付いた時には達人は己の伸び切った膝に手刀を合わせている。

完全なタイミングだ。

膝があり得ない方向に曲がる。

 

(折―――――――――――)

 

そう感じたと同時に、大久保は己の身体が渋川を軸に回り始めているのがわかった。

 

――――達人に、投げられている。

 

大久保の、この日の記憶はここで途切れた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

渋川は、大久保が完全に白目を剥いたのを確認する。

息はしている。

しかし、意識はない。目の前で手を振っても反応はない。

それを見た達人は―――

 

「じゃ…逃げよッ」

 

―――走り出した。

一目散に、路地裏から。

闘争が始まれば、即座に現場から脱出(エスケープ)。

誰恥じることのない、法治国家『日本』での喧嘩術である。

 

「こんなことしてたら捕まっちまうぜ。

対抗戦の前だってのによ…。」

 

 

――――――――――――対抗戦第六試合。

渋川剛気VS若槻武士。

決定。

 




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