菊月の一番長い日 (ディム)
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菊月の一番長い日
なにぶん執筆に時間を割けない&スランプ真っ只中な現在ですので、以前菊月合同に寄稿させていただいたものを掲載します。
情けない提督で、君には顔向けもできないけれど。
菊月、今年も進水日おめでとう。
――戦争が終わった。
私がその報を聞いたのは、横須賀鎮守府予備基地内部の医務室でのことだった。
奇しくも今日は八月十五日、終戦記念日。じりじりと照りつける夏の日差しに身を焦がされながら、ベッドの上で身体を休める日々を送っていた私。そんな私の耳に聞こえてきたのは、司令官の執務室から入ってきた内線を受けて慌てる明石――私を含めた負傷艦娘の手当てを担っている彼女――が点けた、ラジオから流れる声。
『――聞こえますか。此方は大本営所属、軽巡大淀です。此方は大本営所属の大淀です。作戦行動中の全ての部隊に通達します。先程ヒトヒトゴーマルを以って、大本営司令部が深海棲艦の脅威が取り除かれたことを確認しました。先の作戦において敵中枢を撃滅したことで深海棲艦の自壊が発生しているとのこと。繰り返します――』
その声に呼応するように、先程までざわついていた部屋の外、あるいは廊下が静まり返ってゆく。それは勿論、この先の見えない戦いに決着がついた事に対してのもの――つまり、困惑が原因だろう。しかし……なぜか。その言葉に、どこか他人事のように捉えている自分がいた。
「――あれ、あんまり嬉しそうじゃないですね。どうしました? 『あなた達』から見れば、正に待ち望んだ勝利じゃないですか」
「その筈なのだがな……。どうにも、そんな自覚が無い。戦いが終わったという気がしない」
どうやら私は、随分と戦争に染まったらしい――最も、今は人であるとはいえ元はといえば艦艇だったのだから、さもありなんと言ったところか。私は明石の呼び掛けに返事をし、長い付き合いである彼女の顔を見遣る。普段から明るい彼女は、勝利の喜びにいつにも増して顔を輝かせている。しかし、その顔を見ても、やはり私の心に喜びは訪れない。
そんな私の内心を知ってか知らずか、彼女は笑顔を浮かべたまま、
「あ、そうだ菊月さん。さっき提督から来た内線なんですけどね」
「……それが? あれは、お前と私に『終戦』が決まったことを知らせる為の電話だったのだろう?」
「あ、いや、そうでもあったんですけどね。提督から菊月さんに伝言もあったんですよ」
ノイズ混じりの声を吐き出し続けるラジオの音だけをBGMに、明石が言葉を紡ぐ。窓を開ければまた違うのだろうが、閉め切った今では部屋に響く音と言えば明石かラジオの声だけだ。そして、そのラジオの音が止む。その隙を突いたように、明石が言葉を継いだ。
「菊月さんに、執務室まで来て貰いたいそうです。何やら、出来るだけ早い方が有難いとか」
司令官からの用事。事前に何も聞かされてはいなかったが、何の用事であるかは推察できる。ついに、司令官と交わした『約束』に回答する日が来たのだ。なら、此方としてもそれなりの準備を整えていかなければならないだろう。
「……分かった。今すぐ行くと司令官に伝えてくれ」
「はい、分かりました」
ベッドから立ち上がり、肌着の上から制服を着る。鏡で身嗜みを整え、顔は入念にチェック。よし、どこにも不備はない。司令官の前に出ても、おかしな所は指摘されないだろう。
「……では、行ってくる」
「はい、ご武運を!」
部屋を出て、執務室までの道のりを行く。板張りの廊下も白い壁も、どれも嫌と言うほど見慣れたものだ。窓の外には青々と茂る木々が太陽と風に揺れ、生み出された影が陽光と共に廊下に差し込んでいる。
みんみん、と蝉の声。むせ返るような夏の香を嗅ぎながら、廊下の日陰を通って司令官の居る部屋の前へたどり着く。
不思議と、誰とも出会わなかった。
「…………」
いつもの通りなら、このままノックをするだけだ。後は招かれるままに部屋へ入り、用を済ませるだけ。きちんと、その準備も済ませた。
なのに、肝心の一歩が踏み出せない。ドアをノックしようと伸びる手が、寸前のところで止まる。手を出して、引っ込めての繰り返し。
何故だ? 何故だ? 自問自答を繰り返す――否、それはただの時間稼ぎだ。私は、本当の理由になど検討がついている。
いつの間にか、心臓がどくんどくんと高鳴っていることに気がついた。同時に、半ば勢いのまま此処に来てしまったことにも。
とはいえ、この一歩を踏み出さなければ何も始まりはしない。例え、それがどんな結果となろうとも。
「……司令官、菊月だ」
木の陰が映り込む木製のドアをノック。閑散とした廊下に、固い音が転がる。それを三回――しかし、部屋の内にいるはずの彼から返事はない。
おかしい。何時もなら、偉そぶって「入れ」だの何だのと声を掛けてくる筈だ。訝しみながらドアノブに手を掛け、耳を澄ませる。部屋の中からは、物音ひとつ聞こえてこない。
警戒しながら扉を押し開き、中を確認する。確認すれば、返事が無かった理由など一目瞭然だった。
「……人を呼びつけておいて、本当に司令官は……」
彼は、卓に突っ伏して眠っていた。
規則正しい寝息が、入り口まで聞こえてくる。呆れながら近づいてみるも、目覚める様子はない。相当深く寝入っているようだ。
「……何なのさ、一体」
高鳴っていた動悸が一気に収まる。同時に溜息をひとつ。次いで、部屋に備え付けられた内線を取る。履歴の一番上を選び、コール。二回の呼び出し音の後、電話口から聞き慣れた声が聞こえて来た。
『提督ですか? もう、さっきから何なんです』
「済まないが、私は司令官ではない」
『……菊月さん? 一体どうしたんですか』
「その、な。司令室に来てみたは良いものの――司令官が熟睡している。様子を見てみたが、どうやら当分目覚めそうもない」
言えば、電話口からは呆れたような声。感情が顔に出易い彼女がどんな表情をしているか、手に取るように分かってしまった。
『まあ、提督もこの所休み無しでしたからねぇ。先日の一大作戦からこっち、ずっと神経を張り詰めてた所に終戦ですから。仕方無いと言えば仕方無いのでしょう。……いやー、それにしてもアレは酷かったですね』
「そうだな。その疲れからだと言うのならば、眠らせてやるのも……いや、そうではなく。電話を掛けたのはそんな話をする為では無いんだ。明石、お前に一つ頼みたいことがあってな」
『ええ、構いませんよ』
此方の話も聞かずにオーケーを出す明石。もっと慎重になれとは昔から言っていたが、こればかりは変わらないようだ。
「……はぁ。お前に頼みたいのは、司令官への伝言だ。おそらく司令官が目を覚ませば、私のことでお前に電話するだろうからな。私が怒っていないことと、鎮守府の中を散歩していることを伝えて欲しい」
『つまり、菊月さんは今から散歩されるという事ですね。分かりました!』
「ああ。別段出歩くことに制限は無いだろう?」
『ええ。菊月さん、もうほぼ完治してますからね。あ、けど無理だけは禁物ですよ?』
此方を心配する明石に二、三言葉を返し、内線を切る。振り向けば、司令官は私達の話し声など聞こえていないかのように眠りこけたまま。
近づいて、そっと覗き込んでみた。両手を組み、それを枕に卓に身体を預けている司令官。組んだ両手の下に何かを握り締めてそれを胸の下へ抱いているようだが、流石にそれが何かは判別出来なかった。
彼の頭から帽子を取り、一度だけその頭を撫でてみる。ごわごわとしたその手触りが、私は嫌いではなかった。
「ありがとう。……また、後で」
何気なく口にし、部屋を後にする。先程までは静まり返っていた廊下の奥からは、賑やかな声が聞こえてきていた。どれもこれもが歓声に分類される音。歓喜の声たち。
一瞬だけ不思議に思ったが、何のことはない。終戦――それも、勝利を迎えて戦いが終わったのだ。自分たちは本当に勝利したのか――その混乱が解ければ、次に訪れるのは歓喜。考えてみれば当たり前のことだった。
「勝利に慣れていない、というのも考えものだな……? まあ、それは私もか」
言いつつ、私はその歓声とは逆方向へ向かって歩き出す。別に人混みや賑やかなのが嫌いだ、という訳ではない。ただ、司令官へ向けて用意した覚悟が空回りになった今、少し一人で色々と考えを巡らせたかったのだ。今後に――戦争が終わった後の、私の在り方について。
「そういう意味では、司令官が寝ていて良かったかも知れないな」
私は、外へ――出撃港へと繋がる扉を開く。瞬間、海から吹き抜ける風が全身を揺らめかせる。吹き寄せる潮の香りとともに、木々の合間から射す強い陽の光が顔へ降り注ぐ。
それを遮るように掲げた左手、その薬指には、かつて司令官から手渡された銀の指輪が輝いていた。
この横須賀鎮守府予備基地の中庭は、海に面している。正確に表現するならば、コの字型をした基地施設の中心部に中庭が存在すると言うべきか。平時であれば昼食なり羽伸ばしなり、あるいは昼寝なりと人で賑わう中庭であったが、今この時にそこに存在しているのは私だけだった。
中庭の中でも最も海に近く、そして海に面したベンチに腰掛け海を眺める。「毎日仕事で海に出なければならないのに休憩の時にも海を眺めていたくない」なんて理由で人気のないこのベンチ、私もあまり好きではない。最も、私が此処を好かぬ理由は昔を思い出すからだが。
ではなぜ、好き好んでこんな所に座ったのか。理由は単純、昔のことを思い出したいと思ったからだ。
戦争が終わった後の私の在り方……『私のこれから』について思索を巡らせるならば、やはり昔のことを考えねばならない。
――あの島のあの海で、空からくる災厄に身を焼かれたこと。そのまま沈んだこと、その後引き揚げられたこと。引き揚げられ、改修されかかり、放棄され――そのままずっと、徐々に朽ちゆく身体で海を眺めていたこと。
そして、その錆びついた嘗ての身体から魂を抜き出され、ヒトの身として産まれ変わらされたことと、ヒトとして数年過ごした後にそれを思い出したことを。
それまでの永い永い時間を、波の音を聞きながら回想してゆく。砲撃の音も雷撃の音も、艤装が駆動する音も。この広い海の何処からも聞こえてこない――嘗て艦であった頃には当然で、ヒトの身として産まれ変わってからは終ぞ馴染みのなかった環境が、私の郷愁を蘇らせる。
苦しみはなかった。あったのは、寂しさだった。
艦であった頃も、ヒトに成ってからも、自分が嘗て艦だったことを思い出してからも、私はずっと一人だった。
自分が嘗て艦であったことを思い出すまでは、なぜこんなに寂しいのかと思っていた。
自分が嘗て艦であったことを思い出してからは、感じていたその寂しさもマシなものだと思えた。
けれど、ずっと、私は一人だった。
艦娘――あるいは、艦娘を量産する為の素体、実験台として招聘されてからは、嘗ての仲間たちと出会った。その仲間たちと共に深海棲艦と戦いながら、データを集める日々。私やそれらを通して得られたデータから、ヒトとして産まれただけの人間も艦娘になれるようになった。
そうしてただの旧式駆逐艦の一人である私はもう一度お払い箱となり、また一人ぼっちに戻った。近海を掃海するだけの日々を繰り返し、終われば眠る毎日。それでも、あの島に一人ぼっちでいるよりは全然耐えられると思った。……そんな時だった、あの人が声を掛けてくれたのは。
「今度一から基地を任されるんだけどさ、お前、俺と一緒に来てくれないか」
私を掬い上げる、今でも鮮明に思い出せるその言葉。彼からすれば大したことのない一言なのだろうが、私にとっては違ったのだ。私はそうして、あの人と出逢い――
「……む?」
ふと、陽の光が遮られていたことに気付く。いつの間にか閉じていた目を開き、少し上を向く。そこには、ベンチの上から此方を覗き込んでいる女性の顔があった。
正規空母、加賀。この基地の面子の中でも古参で、明石の次の次くらいに付き合いの長い彼女。彼女が無表情のまま、缶ジュースを両手に持ってそこにいた。
「……加賀か」
「ええ」
「どうして此処に?」
「何となくよ。強いて言うなら、風に当たりたかったのと、海を見たかったから」
そう言って、彼女は私の隣に腰掛けた。吹き抜ける夏の風が、彼女のサイドテールを揺らしてゆく。その風は、どこか遠くの海を連想させた。
「……此処、あまり人気が無いところよね。なんでこんな所に?」
「昔を思い出したくてな」
「そう。……私は、あまり思い出したくないわ。こんな所で懐古なんてしたら、嫌でも彼女達のことを思い出してしまうもの」
そう言った加賀の瞳は、水平線を捉えている。そこにあるのは、果たして誰の顔か。おそらく、そのどれもを、私は知っている。
「……みんなとも、一緒にこの日を迎えたかったな」
「……ええ」
暫しの間、言葉が途切れる。その合間に、加賀は缶ジュースの一本を私に差し出して来た。抹茶オレだった。毎度のことながら、彼女のセンスは、どこかおかしい。
「……何か、あったの」
「急にどうした。私は別段、変わったことは無いが」
「いえ。ただ、こんな日のこんな時間に、一人で海を見て、その上昔を思い出していたなんて言うのだから。だから、何かあったのかと」
「……そう言う事か。心配させたようで済まないが、別に何も無いさ。ただ、そうだな――少しばかり、未来について考えることがある」
未来について。あまりにも漠然とした物言いだが、それ以外に形容しようが無いのも事実。抹茶オレを口に含みつつ、私はそう言葉を紡いだ。
弱気になっていたのか、あるいはこの夏の陽射しに浮かされたのか。肌を焦がす熱気だが、艦娘である私の身体はこの程度では汗も流さない。しかし、幾許か口を軽くする作用はあったようだ。
「……恥ずかしながら、私にとってはこの戦争こそが全てだった。いや、この戦争こそが私に『全て』を齎したと言うべきだろうか。それだけに、色々と考えてしまうんだ。私の中では、未だに戦争が終わったなどという実感は無い。なのに、皆はきちんと喜んでいる。戦争が終われば、私はどうなるのか。みんなはどうするのか。私は置いて行かれるのか。……司令官とは、どうなってしまうのか」
「……そう、ね。私も立派な人間じゃないから模範的な答えなんて返せないけれど、やっぱり家族のところへ帰る人が多いんじゃないかしら。こんな仕事でも給金だけは一人前以上で、使う当ても無かったから貯めている人が殆ど。静かに平和に暮らす人が、多いと思うわ」
「家族……か。参考までに、お前は?」
「考えてないわ、急だもの。だから当面は、赤城さんや他の正規空母の子たちと共同生活をするつもりよ。――けど、そうね。折角だから、子供の頃の夢だった仕事に就けるよう、頑張ってみようかしら」
そう言う加賀の横顔は、先程と同じく遠い海を向いている。しかし何故だろう、その顔に浮かぶのは同じ無表情だと言うのに、彼女はどこか微笑んでいるように見えた。
向いた水平線には、大きな白い入道雲。まさか、それを見ていた訳でもあるまいに。私も同じようにそれを見つめつつ、
「……ちなみに、その『夢』とは?」
「お花屋さんよ」
「…………なるほど。ありがとう」
一瞬言葉に詰まる――が、似合っていない訳ではない。むしろ、彼女が営む花屋になら足を運んでみたくもある。
「……? まあ、良いわ。それで、あなたは? 将来の夢。まだ十一歳なのだから、無くはないでしょう」
「私は十二だ、加賀。……とは言うがな。先も言った通り、私には戦争しか無かったのだ。思い浮かぶものなど無いさ」
「そうかしら。少なくとも私ですら、『あなたの将来の職業』と聞いて浮かぶものがあるのだけれど」
「ふむ……? 興味深い、聞かせてくれないか」
「提督のお嫁さん」
「――ぶっ!!」
口に含んでいた抹茶オレを盛大に噴き出す。げほ、ごほと咽せつつ必死に息を吸えば、肺に満ちる真夏の気配。同時に、頰が熱くなってゆくのが分かった。無論、これは無様を晒した羞恥からではなく、
「なっ、何故……」
「……というか、此処にいるメンバーなら大体同じ答えを言うのでは無いかしら」
「そっ、そんなにかっ!?」
「ええ。あなたと初めて出会った時が嘘のように分かり易いもの」
「む、むう……!」
公言などしていない筈の気持ちが、多方面に筒抜けだったからである。
熱い頰をそのままに、思考が巡る。司令官のお嫁さん。お嫁さん。それはなんて素敵な響きなのだろう。司令官と結婚して、どこか静かな所に二人で住んで、ずっと一緒にいる。そうだ、例えば今日みたいな夏の暑い日には二人で庭の花壇に水遣りを――
ああ、駄目だ。想像するだけでいっぱいいっぱいになる。というか私は、司令官が起きていたらこんなに恥ずかしくなるような事を言おうとしていたのか。
全くもって、先程から加賀は少々少女趣味が過ぎるのでは無いだろうか。共に肩を並べて戦って久しいが、そんな言葉が口から出てくるのなんて聞いたことがない。抗議の意味も込めて、半目で彼女を見遣る――と、彼女はほんの少し、微笑と呼べるレベルで、くすくすと笑っていた。その表情には、見覚えがある。即ち、からかわれたということだ。
「全く、それだけ自覚しているのに何が『私の将来の在り方について』なのかしらね」
「……こほん。今のは、単に不意を突かれて動揺しただけだ。私にだって、きちんと考えることはある。……不安だって、あるさ」
「それは――どんな?」
「可能性は低い、いや、無いに等しいだろうが思ってしまう……彼を、失うのが怖い。司令官と、離れ離れになってしまうのではないか。私や司令官の問題ではない、もっと別の何かのせいで、司令官と二度と会えなくなるのではないか。そう、考えてしまうこともある」
考えればきりがない。心に溜まった泥から次々と湧き出す不安の泡。その一端を吐露し、
「じゃあ、聞くけれど。もしもそうなったとして、あなたは提督と一緒にいることを諦めるのかしら」
「――そんなことっ!」
「……ほら、それが答えでしょう」
先程と同じように口元を和らげた加賀に、照らすように笑われた。
「……な、あ」
「これはあの子――瑞鶴の受け売りで、私が言えたことじゃ無いけれど。『女の幸せなんて、待ってたってやって来ない。欲しいものがあるのなら、自分から獲りに行かなくちゃ』……だそうよ。私はそんなこと、当たり前だと思うのだけれど」
「自分から――獲りに行く」
それは――、その思考は、私の中に存在しなかった。
嘗てこの身が鉄の塊であった頃から、私は待ってきた。待って、待って、肉の身体を得ても待って、そして得たものを失わないように必死に繋いでいた。
だから、その当たり前は、新鮮だった。
「……ありがとう、加賀。目から鱗が落ちた気分だ。本当に、ありがとう」
「構わないわ。あなたは、妹みたいなものだもの」
「ただ――加賀。私に、それが出来るだろうか」
言えば、加賀は笑う。それは口元だけの微笑ではなく、久し振りに見る満面の笑みだった。
「ええ、出来ると思うわ。初めて会った時のあなただったら無理だったでしょうけれど――今のあなたなら、できる。だって、あなた、変わったもの」
「変わった……?」
「変わったわ。だって、あなた――お礼、言えるようになったもの」
加賀が立ち去ってからも、私は暫くベンチで呆けていた。益体のない言い方をすれば、ぼーっとしていた、とも言える。
頭の中でぐるぐると回っているのは、先程の加賀とのやりとり。欲しいものは捕まえにいく、という内容。
確かに――それは、その通りだ。そして、加賀はそれを私にも可能だと言った。だが、それは本当だろうか? 私に――嘗て艦であった、幾年もただそこに在り続けるしか無かった私に、可能なのだろうか?
気分が滅入っている訳ではない。ただ、純粋に分からなかった……ポケットに入れた携帯電話が鳴動したのは、そんな時だった。
「……もしもし」
『あ、菊月さんですか? 私です、明石です』
「その様子だと、司令官が目覚めたか」
『はい、今ちょうどお顔を洗っておられるそうです。それで、支障が無ければ提督自ら菊月さんのもとへ伺いたいとか。そんな訳で、今、どこに居ます?』
「……中庭だ」
『分かりました、では直ぐに提督に伝えて――』
「……ああ、少しだけ良いか、明石?」
電話を切ろうとする明石を制止し、私は先程の会話の全てを打ち明けた。
彼女は、私が嘗て艦であったことを知っている。それどころか、艦であった私の調整やケア、あるいは研究に携わったのは彼女なのだ。私からすれば、この身体のことを私以上に知っている人間。
だからこそ、私は心中まで全てぶち撒けた。嘗て艦であった私が、置き去られ待つしか出来なかった私が、今更何かを求め、得に動くことが出来るのだろうかと。
「お前は生まれた時から人間で、此処の加賀も生まれた時から人間だ。だから、何でも出来るのだろう。欲しいものは獲りにゆける。しかし――私は、嘗て人で無かったモノだ。ただそこに在ることしか出来なかったモノ。そんな私が、出来るだろうか」
私は問うた。すると明石は、さも不思議そうな声音でこう返したのだ。
『え、出来るに決まってるじゃないですか』
「……は?」
『というか菊月さん、忘れてません? あなたは確かに過去、艦であった。それは確かですが、今は艦でも何でも無いんですよ?』
「いや、それはそうだが」
『そもそも昔は駆逐艦だったとはいえ、その時に寂しいだとか感情を持ってたかって言えば確実じゃないですし。そんな感情を抱いていた、と思えるようになったのも、人になってからでしょう?』
「それが、一体なんだと」
『ぶっちゃけて言うとですね。あなたは、昔艦であったことを覚えているだけのただの女の子なんです。艦の記憶なんてのは、そりゃ大切なものではあるんでしょうけど――ただの過去。要するに、私が二十年と少し生きて、その記憶を持ってるのと変わりないんですよ』
「あ――」
ぱきり、と心中で音がした。それは例えば、卵の殻が割れるような。自らを縛っていた鎖がひび割れるような。あるいは、錆びた艦艇の檻が砕けたような。そんな音。
『菊月さん、昨日の晩御飯の献立は?』
「……秋刀魚の、塩焼き」
『菊月さん、あなたの好きな人は?』
「……司令官」
『菊月さん、あなたの前世は?』
「睦月型駆逐艦九番艦、菊月」
『全部同じなんですよ、記憶なんだから。記憶なんだから、それに囚われる必要は無いんですよ。そもそもですね、鉄の塊が思い悩みますか? 陸を歩けますか? 人を、好きになれますか?』
「どれも、無理だ」
『でしょう。そんなの当たり前です。全部当たり前。あなたは人間なんです。昔艦艇だっただけの、ただの十二歳の女の子。今までは、そんなただの十二歳の女の子が戦いに駆り出されてただけなんですよ。だから――』
――もう、艦としての戦いは、終えて良いんです。
その声が届いたかどうか。私は携帯電話を取り落とし、それをそのままにベンチから立ち上がる。足音が聞こえたからだ。
振り返れば、真っ青な空と青々とした芝生。海よりも青い空には、ひとつの飛行機雲。それを横切るように、白い軍服が空に映えていた。
「……すまない、菊月! 俺から呼んでおいて、情けない」
「全くだ。……だが、お陰で私も色々と考えることが出来た。だから……その、構わない」
そこまで言えば、私達の間に沈黙が流れる。原因は勿論――私が、何か気恥ずかしくなって下を向いてしまったからに他ならないのだが。
「あー……まあ、何だ。それじゃあ、いきなりで悪いが、呼びつけた用事を済まそう。……約束の答え、聞かせてくれ」
約束。それは、私が司令官と交わしたもの。『戦争が終われば、一緒に暮らさないか』という問い。それは今よりずっと前に交わしたもので、その時はまだ司令官を「そういう意味で」好いてはいなかった。そして、明確な答えも返していなかった。
だから、今答えよう。
「……司令官。私はおそらく、怖かったのだ。私は、失うことを恐れていた。だから、失うくらいならと得ることすら恐れていた……自分でも、情けないがな」
司令官は、黙って此方を見つめている。
「けど、私は。……今、一人の人間として、答えを出そうと思う。わたしの気持ち全てで」
「……ああ」
「司令官。私はあなたと共に暮らしたい――否。あなたと、共に生きてゆきたい」
我ながら、簡素な言葉だ。けれど、私と彼との間ならばこれで良いとも思う。
気持ちは伝えた。ならば、あとは。
「……確かに受け止めた。なら、次は俺の気持ちを聞いてくれ」
「……ああ」
「俺はお前に、共に暮らしたいと言った。その気持ちに変わりはない。ただ、それ以上の気持ちが溢れている」
司令官は、胸ポケットから何かを取り出す――私はそれに見覚えがあった。
先程、司令官が固く握り締めていた何か。こうして陽の光の下で見れば、「それ」が何であるかなど一目瞭然だ。
――手のひらほどの小箱。
――紫色。
――似たものを、一度見たことがある。
――かつて、左薬指に嵌めているものを貰ったときに見たそれよりも、遥かに――
「菊月。俺と、結婚を前提に交際して欲しい。――あと、四年ほど」
「……ああ、喜んで」
その時私は、「これまでの人生」で最高の笑顔を浮かべられただろう。
――戦争が終わった。
奇しくも今日は八月十五日、終戦記念日。
それは、私の……『睦月型駆逐艦九番艦菊月』の、永い戦いが終わった日。
その日は、私の人生が、改めて始まった日だった。
ご意見ご感想、応援メッセージ等お待ちしております(物書き力の低下)
(偽)のほうも……以前のプロットそのまま書ける状態ではないので、見直して少しずつ書かないとなぁ……。
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