香澄の記憶喪失 〜Lost memory〜 (FeNiX/As)
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第一話 失う恐怖と失って気づく大切な日常
それは、いつも通りの朝だった。
いつも通り、自分の部屋で目覚め、制服に着替えたりして朝の身支度をする。
ただ、いつもと違う点が一つ。
「今日はあいつ来ねぇのかな」
私、市ヶ谷 有咲のいつも通りの朝を送るはずだったのに、今日はどこか変だ。その異変に気付いたのは学校に着いてから気付いた。学校に着いても香澄の姿が見えず、隣の教室へと探しに行ってみる。
「おはよ〜。ってあいつ今日は学校に来て無ぇのかよ」
「あ、有咲!おはよ〜」
「沙綾か、おはよ。今日は香澄来て無ぇのか?」
「うん、連絡は入ってないんだけどね」
「そっか」
連絡も無しに休むなんて珍しい。何かあったのではないかと少し心配になってしまう。
「心配なの?」
「べ、別にそう言うのじゃねーしっ!」
「ふーん」
沙綾の見透かしたような視線がやけに刺さる。香澄が居ないからと言って私の日常に支障が出る訳でもないし。
「もう教室に戻るから。授業の用意して無ぇし」
「今日の放課後にでもお見舞い行こっか」
「考えとく」
なんて言ったものの、行くつもりではいたのだ。香澄が学校を休むなんて珍しいし、連絡も無いから少しは心配になる。
授業もあまり集中出来ないまま放課後を迎えた。少し駆け足で隣の教室に行くといつもの顔ぶれが揃っていた。
「あ!有咲!遅〜い」
おたえが指をさして笑いながら言った。そんなおたえもいつも通りだし、適当に流しておく。
「うるせぇ。こっちにも色々あるんだよ」
「香澄ちゃん大丈夫かなぁ?」
隣に居たりみが心配そうな声で言った。
「別に大丈夫だろ、ここで話してても仕方無ぇから香澄の家に行くぞ」
「そうだね、お見舞いにパンでも持って行こっか」
「それ良いね。沙綾ちゃんの家のパン美味しいから香澄ちゃん喜ぶよ!」
「じゃあ、沙綾の家に寄って行こっか」
「あ、私もパン欲しい」
うちのリードギター担当はこんな時でもマイペースだ。それが良いところでもあるし悪いところでもある。
「なんでも良いから行くぞ」
学校から出て香澄の家に向かう。
沙綾の家に寄って香澄が喜びそうなパンを選んだ。それにしても、一日中連絡が無いのは少しおかしい気がしたけど、家に行くといつも通りの香澄が出迎えてくれるだろうと思ってた。
「着いたな」
家のチャイムを鳴らすと香澄のお母さんが出て来たが様子がおかしい。どこか深刻そうで落ち着きのない表情をしていた。
そんな香澄のお母さんの表情を見た私たちは胸の中にある不安が一層大きくなった。
「みんなお見舞いに来てくれたのね、伝えたい事があるから、家にあがってくれる?」
香澄のお母さんは少し焦りながらそう言った。言われるがままに家にあがって、リビングに着くと香澄のお母さんが口を開いた。
「ありがとね、香澄のお見舞いに来てくれて」
「香澄はなんで今日学校休んでたんですか?」
沙綾の質問に香澄のお母さんは渋い顔をした。その時点で私の中では不安で埋め尽くされていた。
「香澄ね、朝起きて来ないから部屋に入って起こそうとしたの。そしたら、香澄は窓の方を向いて立って居て……」
香澄のお母さんは時折言葉を詰まらせながら、今朝起きたことを話してくれた。
「香澄はこっちを向いて言ったの。ここはどこですか?あなたは誰?って」
信じがたい話だが香澄のお母さんは表情一つ変えずに言った。
「香澄は寝起きで寝ぼけてただけと思っていたけど、時間が経っても治らなかったの」
「え?」
横に座っていたりみが飲んでいた水筒を落とし、中に入っていたお茶が床にこぼれ出す。
「あ、ごめんなさい!すぐに拭きますから!」
と言って下を向くりみの顔を見ると涙を流していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と謝るりみの声が震えていた。私はまだ信じられなかった。と言うより信じられる気がしなかった。
「香澄に会わせてもらって良いですか?」
と私が聞いたら、香澄のお母さんは香澄の部屋に連れて行ってくれた。部屋に入るのは少し怖かった。それはここに居るみんなも一緒だ。
「泣くのは早ぇぞ、香澄にあって見ねぇと分からないだろ」
「うん……うん……」
扉をノックして中に居る香澄に呼びかけた。
「香澄、部屋入るぞ?」
部屋に入ると、そこにはベッドに座りながら窓の外を見つめる香澄が居た。
「香澄?」
「あなた達は誰?あなたはどうして泣いているの?」
「香澄、私たちの事覚えてないの?」
沙綾が声を震わせながら言った。目には涙が溜まっている。
「ごめんね、私はあなた達の事分からないの。初めましてだよね?」
と香澄が言うと沙綾も泣き崩れ、おたえが沙綾を支えていた。私は何も言えなくて、ただ状況を飲み込めずにいた。
「嘘だろ……香澄。嘘だよな?本当は私たちの事覚えてるんだろ?冗談だって言ってくれよ!いつも通り私たちに笑顔を見せてくれよ!」
心のそこから出た言葉だった。ただ嘘であって欲しかった。香澄が悪ふざけで私たちを困らせようとしてるに違いないって思いたかった。だけど、現実は残酷だった。
「ごめんね、私はあなた達の事は分からないの。ごめんね。」
香澄はうつむいて寂しそうにそう言った。
「そんな顔するなよ……しないでくれよ……」
涙が頬を伝って床へと零れた。悲しかった、いつもなら抱きついてくる香澄にうぜーとか皮肉を言えるのに、そんな事すら後悔に思えて来た。
「香澄……」
膝から崩れ落ちた私は声が出せず、ただ名前を呼ぶことしか出来なかった。そんな私を抱きしめて香澄は言った。
「ごめんね、あなたの事は分からないけど悲しいなら慰めてあげるから、大丈夫だよ」
「香澄……香澄っ……」
今はただ、香澄に抱きついて泣く事しか出来なかった。
「あ、香澄。ギターは?歌は?」
不意におたえが香澄へとした質問の意味が分からなかった。こんな時に何を聞いてるんだって思った。
「歌?」
「うん!歌ってみて!」
「えーっと、じゃあ。きーらーきーらーひーかーる」
香澄が歌ったのはキラキラ星だった。私はそれを聞くと余計に涙が止まらなかった。部屋に差し込む夕陽も暗くなって来た頃、私たちは帰ることにした。玄関まで見送ってくれた香澄は少し寂しそうだった。
「じゃあな、香澄」
「うん。あれ?なんで……?」
香澄を見ると目から涙が溢れてた。
「あれ?あれ?」
「香澄?」
「なんでだろ?胸がぎゅーってする」
「香澄……?」
倒れそうになる香澄を間一髪のところで支えた。
「大丈夫か?香澄!?」
私は心配で香澄を抱き寄せた。周りのみんなも心配そうに見つめる。
「うん……大丈夫だよ。でも何かが、大事な何かが……」
「香澄?」
「痛っ!」
頭を抑えてうずくまる。私は何も出来ずに呼びかける事しか出来なかった。
「香澄っ!香澄っ!」
「っ!……あ……りさ、ありさぁ……怖い、よ……ありさ……」
「香澄っ!?」
私の名前を呼んだ後、香澄は気を失った。香澄のお母さんが救急車を呼んで、香澄が病院へと運ばれて行った。最後に私の名前を呼んでくれたことが私の胸に残っていた。
翌日も香澄は学校を休んだ。その日の授業は全く頭に入って来なかった。今日から香澄の家に通うことを決めた。沙綾は家の手伝いとかで無理でも、おたえやりみが何か用事があっても。私だけは家に通うと決めていた。
放課後になり、急いで香澄の家に向かう。チャイムを鳴らすと香澄のお母さんが出てきた。
「ごめんね、今日も来てくれたのね」
「後から、友達も来ると思います」
そう言って、香澄の部屋に行った。2人で話がしたかった。部屋に入ると、昨日と同じ体勢で香澄が座っていた。
「今日も来てくれたの?ありがと!」
「そんな事より体調はどうなんだ?」
本音を言うと心配で仕方がなかった。気が気で無かった。
「大丈夫だよ」
「そっか。それは良かった」
そして、本題を切り出す。
「香澄は覚えて無いと思うけど、いつも朝になると家に来てたんだ。一緒に学校に行くためにな」
「そうなんだ」
「いつもベタベタくっついて来る香澄にうぜぇっ!!とか言って離そうとしてたんだ」
「ごめんね、やっぱり覚えてないや」
自然と目に涙が溜まって来た。
「私は口ではそう言っていたけど、香澄が居ないとやっぱり駄目だ。私は香澄の優しさや明るさに惹かれてたんだ。香澄に依存してたんだ。そんな香澄に助けられて来たんだ」
香澄は真剣に私の顔を見て話を聞いてくれていた。
「だから、香澄。今度は私が香澄を助ける番だ。私は香澄の事……」
「香澄〜来たよ!って有咲?先に来てたんだ!」
「おたえ!?」
「沙綾もりみも居るよ」
どっから聞かれてたんだ?と考えると恥ずかしくなって来る。
「遅いぞ。お前ら」
「みんなも来てくれたんだね、名前は覚えて無いけどありがと!みんな!」
「体調は大丈夫そうだね。昨日パンを渡し損ねたからみんなで食べよっか」
「あ、食べる」
即答するおたえを見て少し笑みが溢れた。
「分かったから焦らないで。おたえのパンもあるから」
「りみりんもチョココロネあるよ」
「ありがとう〜!沙綾ちゃん!」
「ほら、香澄も有咲の分もあるよ」
「ありがとう」
「悪ぃな」
香澄がパンを食べる姿を見て少し安心する。
「美味しいね」
香澄が笑顔で言った。ただそれだけの事なのに、いつも見て来たはずなのに。その笑顔を見ると胸がいっぱいになって再び涙が溢れて来た。
「有咲泣いてる〜」
「おたえ、茶化すな……」
香澄が私の横に座り顔を覗き込んで来る。
「悲しいの?私、何かしちゃった?」
「いや、違う……」」
と言いかけた時、香澄が私を抱きしめて言ってくれた。
「私は何も分からないし覚えて無いけど、あなたが悲しんでいる時にこんな事しか出来ないの。でも、悲しい時はいつでもしてあげるからね」
そんな事を今言われると余計に涙が出てくる。けど香澄の温もりはいつもと変わらず安心出来る。
「ずりぃぞ、香澄……」
「沙綾!もう一個!」
「おたえ、空気読みなよ」
笑いながらもおたえにパンを渡す沙綾。いつもと変わらない日常がどれだけ大切なのかを初めて痛感した。
「りみりんもチョココロネあるよ?」
「じゃ、じゃあ貰うね」
「落ち着いた?」
香澄の優しい声に背中を押された気がした。私が香澄を助けてやらないと。今度は守ってやるって約束したんだ。
「あぁ、もう大丈夫。心配かけてすまなかったな」
「あなたの温もり、なんか懐かしい感じがした」
そう言われた時は少しビックリしたけど凄く嬉しかった。
「そうか」
「このパンも懐かしい味がする」
「美味しい?」
沙綾が聞くと香澄は大きく頷いた。そして香澄が真剣な顔で言った。
「私、みんなの事覚えて無い。何を忘れたかも分からない。けど、みんなの温もりは覚えてるような気がする。それと、ごめんね。何も覚えてなくて」
下をうつむいて悲しそうに言った香澄は何も覚えてないことへの罪悪感を感じているようだった。
「そんな事言うな。みんな香澄が大事だから気にして無いよ」
気にして無いっていうのは嘘になるけど、香澄が元気で笑顔ならこれからもなんとかなる気がする。そんな空気にみんな自然と笑顔になる。
「有咲、暗くなって来たし帰ろっか」
と沙綾が窓の外を見て言う。
「そうだな、じゃあな香澄。また明日」
「あ、ちょっと待って!」
「どうした……っ!?」
香澄が抱きついてきた。いつもならすぐに離れようとするけど、私も香澄の温かさに安心する。
「どうしたんだ?」
「多分だけど私、記憶を無くす前にあなたの事が好きだったのかも」
「えっ?ちょ、ちょままっ!」
急に顔が熱くなって来た。こんな時にそれはズルいだろ。でも、今日だけは素直になれそうな気がする。
「私もだよ」
と耳元で周りに聞こえないように言う。
「じゃあな、香澄」
「うん!また明日ね!」
その笑顔に私達は救われて来たんだ。今度は私たちが助ける番だ。
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第二話 記憶の欠片
“温かい思い出”
その翌日も香澄の家に行った。香澄の記憶の中に私が居ないって思うと寂しさで胸が押し潰されてしまいそうになる。
香澄の家の前で一度大きく深呼吸をしてインターホンを鳴らした。
「毎日ごめんね、学校が終わってすぐだから大変でしょう?」
「いえ、私はただ香澄と……」
「上がって。あとでお茶を持って行くね」
「あ、香澄のお母さん」
「どうしたの?」
「お邪魔で無ければ、これからも通い続けても良いですか?」
「ありがとうね、有咲ちゃん。香澄も喜ぶと思う」
「はい。ありがとうございます」
「さ、香澄の部屋に行ってあげて」
「お邪魔します」
部屋に入ると香澄がこっちを向いて嬉しそうに笑った。その顔を見ると、嬉しい反面なんか恥ずかしくなって来た。
「今日も来てくれたんだね、ありがと!」
「気にするな、私は香澄と話がしたくて来てるんだから」
いつもなら照れ臭くて言えないけど、今だからこそ素直に言える。
「私ね、1人でいる時不安で仕方がない時にあなたの顔を思い出すの。あなたが居ると安心出来るから」
「そっか、私が毎日来てやるから安心しろ」
香澄の手を握って誓うように言った。香澄が元通り笑えるように、私がその分微笑んであげるんだ。
「ありがとう。やっぱり私……あなたの事が好きみたい」
面と向かって言われると凄く恥ずかしい……けど、悪い気がしない。
「私も好きだ。だから早く思い出して欲しい。いつもの香澄に戻ってくれよ」
「そうだね。頑張らないとね」
香澄が少し悲しそうな顔をした。一瞬戸惑ってしまったが、香澄が私にしてくれたように香澄を抱きしめる。
「私もこんな事しか出来ねえけど、不安で押し潰されそうになった時、私がそばにいるって事を思い出して欲しい」
それが私の本心だった。香澄は頷きながら抱きしめてくる。私はこの温もりが大好きだ。
「お茶入れて来たよ。ってお取り込み中みたいね」
香澄のお母さんが少し照れ臭そうに微笑みながら言った。私はなんとか誤魔化そうと必死に言葉を探すけど、何も言えずに固まることしか出来なかった。
「あ、あの。これは……」
「良いのよ。一緒にいてあげて」
「いや、その……」
「私、あなたに抱きしめられると安心出来るし、やっぱりあなたの事が好き」
香澄が耳元で囁いてくるから余計に恥ずかしさで顔が熱くなる。
「いや、私もだけど……」
「まぁまぁ、これからも香澄の事よろしくね」
「はい……」
香澄に好意を向けられていた事に気付いていなかった。いや、香澄からも自分の本心からも逃げていただけだ。
「まぁ、香澄のお母さんにも頼まれたし。ずっと一緒にいてやるよ」
「ありがとう、名前聞いても良い?」
「私の名前は市ヶ谷 有咲だ。有咲で良いよ」
「有咲……ちゃん?」
「有咲で良いって」
「うん!これからもよろしくね、有咲!」
ようやくスタート地点に立つ事が出来た気がする。
「香澄〜来たよ〜」
「香澄ちゃん、大丈夫?」
おたえとりみが入って来て、急いで香澄から離れようとしたけど、香澄が離してくれない。
「香澄!?」
「このままでいたいの。駄目かな?」
「駄目じゃないけど……」
凄く恥ずかしい。おたえとりみは微笑みながら見てくるし。この恥ずかしい状況はなんなんだ?
「沙綾は?」
「沙綾は家の手伝いで今日は来れないって」
沙綾も家のことで大変だろうから、香澄のことは私に任せて家のことを優先して欲しい。家のことも香澄のこともってなると沙綾の落ち着ける時間が無くなってしまうから。
「そっか」
「おたえちゃんとりみちゃん?」
「おたえで良いよ」
「わ、私はりみりんって呼んで欲しいな」
「おたえとりみりん?」
「そうだよ、おたえだよ〜」
「これからもよろしくね!」
初めてポピパを結成した時のことが自然と頭の中で蘇ってくる。
「うん!香澄ちゃんもね!」
「あ、そうだ。香澄のランダムスターってどこにあるの?」
「ランダムスター?」
部屋を見渡すと隅っこの方にスタンドに立てかけられた赤いギターがあった。おたえがそれを香澄に渡す。
「香澄、キラキラ星弾いて」
「おたえ、無茶言うな」
「きーらーきーらーひーかーる」
「え?」
「どうしてか分からないけど、これを持つとキラキラドキドキした感じになるの。不思議だね」
全部忘れてても、私たちの絆を繋いだ大事なギターのことは覚えててくれたんだ。正直驚いたけど凄く嬉しかった。
「今日はもう帰るわ」
「うん」
「明日も来るから」
香澄は寂しくそうな顔でうつむくから、手を強く 握って励ますように言った。
「うん!バイバーイ!」
香澄が元気に手を振るのを見てから部屋を出た。
「すいません、香澄のお母さん。少し良いですか?」
部屋を出た後、香澄のお母さんにずっと疑問に思っていた質問をした。
「香澄の記憶喪失の原因は何ですか?」
「病院に行って検査したけど、異常が無いの。ただ記憶だけ無くなってる状態で、治療法が分からないから家で安静にするようにって言われて……」
「そうですか」
「これからも香澄と話してあげて欲しい。何かを思い出してくれると思うから」
「分かりました」
その日は家に帰って、何も考えずに休むことにした。明日は土曜日だし、朝から香澄の家に行くって決めてたから早く寝ることにした。
「ん……準備しねえと……」
朝の身支度を済ませて家を飛び出した。一刻も早く香澄に会いたくて、その一心で香澄の家へと向かった。
「お邪魔します!」
「香澄は部屋にいてるから、色々話してあげて」
「分かりました」
香澄の部屋の前で大きく深呼吸してから入った。
「香澄、遊びに来たぞ」
「あ、おはよ!」
「何か良いことでもあったのか?」
香澄が記憶を失って以来初めて香澄の明るい顔を見た。
「今日はすごく楽しい夢を見たの!」
「へ〜、どんな夢だったんだ?」
「人がたくさんいる前で、赤いギターを弾いて歌ってたの。他にもどこかの蔵みたいなところでも練習してたよ!楽しかった!」
突然そんな事を言われたから驚いた。思い出したのかと思った。
「でも、どこか懐かしく思うんだ」
「そうか」
「私……痛っ」
香澄が突然頭を抑えてうずくまる。前にも1度あった。
「香澄!大丈夫か!?」
「あ、あり、さ……バン……ド出来……くて、ごめん……ね」
途切れてはいたが、香澄が伝えようとしていることは分かった。記憶がうっすらと残っているのだ。それを私に伝えようと必死に話してくれてるんだ。
「香澄!しっかりしろ!そんな事今は良いから!」
「ごめ……ん、ね」
私は香澄を抱き寄せ、手を握りながら大声で香澄のお母さんを呼んだ。その後、香澄は救急車で病院へと運ばれた。
「有咲ちゃん、ごめんね」
「いえ、香澄の記憶が戻りそうだったんです」
「え?」
「急に頭を抑えてうずくまった後、バンド出来なくてごめんねって。香澄、全部忘れた訳じゃないんです」
起きた出来事を香澄のお母さんに伝えると少し驚いていた。だけど、すぐに優しい表情に戻って微笑んでいた。
「そうなの」
「はい」
「有咲ちゃん、これからも香澄の事よろしくね」
「分かりました」
その日は病院から帰ろうとしたけど、香澄の事がどうしても心配だったから病院へと向かった。
香澄はまだ目を覚ましてなかった。そんな香澄の手を握って話しかけた。
「一緒にいてやるから。こんな私を必要としてくれる香澄のために」
病室で1時間ほど経った頃、沙綾たちが病室へと駆け込んできた。
「香澄大丈夫!?」
沙綾が少しパニックになりながら聞いてきた。
「ああ、大丈夫だ」
「よかった〜」
安心からか膝から崩れ落ちるりみ。ただ香澄は今も目を覚まさない。目を覚ますまでここに居るつもりだけど。
「有咲、何があったの?」
沙綾は心配そうに聞いてきた。。私は起きたことを細かく説明した。途中でりみが泣いてしまったけど、沙綾は最後まで真剣に聞いてくれた。
「という事は、まだ香澄の中に記憶が残っているってこと?」
「ああ、多分……香澄が記憶を無くした日も私の名前を呼んだしな」
「そうだね」
「お腹すいてきたなぁ」
「おたえ、こんな時ぐらい空気読もうよ」
「私は香澄が目覚めるまで、っていうか今日は一泊して行くつもりなんだけど」
「私もそうしようかな」
「沙綾は家の手伝いとか大丈夫なのか?」
「うん。大丈夫」
「わ、私も」
「じゃあ私も」
沙綾もりみも香澄のことを本気で心配してるし、おたえも香澄を心配そうに見つめている。
「りみもおたえも家に連絡入れといてくれよ」
「分かった〜」
それから香澄が目覚めるまでみんなで待った。香澄が目覚めたのは夕焼けが窓に差し込み暗くなってきた時間帯だ。沙綾たちは疲れて眠ってしまってる。
「あれ?私、ここどこ?」
「おはよ。ここは病院だ。香澄が倒れた後、救急車で運ばれたんだよ」
「そっか、有咲。ありがとう!」
「何がだよ?」
「約束守ってくれた! 一緒にいてくれたから!」
「感謝されるような事はしてねぇよ」
「ねぇ、有咲」
「どうした?」
「記憶を無くす前のこと教えてくれる?」
「良いぞ」
それから、私は香澄に話した。蔵のことやポピパのこと、香澄の日常とかを話した。香澄は話を聞いて、笑ったり驚いた顔をしていた。
「ねぇ、有咲はそんな私を嫌いにならなかったの?」
「口では突き離していたけど、香澄は私を必要としてくれた。香澄のお陰で見る世界が変わったんだ。私はそんな香澄が好きだったんだ」
「私も香澄には感謝してるんだよ」
「沙綾、起きたのか」
「うん、たとえ香澄が記憶を失っても私たちは香澄の友達だしバンドメンバーだよ」
「ありがとう。私も早く思い出したいのに、今覚えてるのは有咲が好きだったって事しか覚えてないの」
「恥ずかしいからやめてくれ……」
「あ、有咲!否定しないんだ」
「沙綾、恥ずかしいから茶化すな……」
「あはは、ごめんごめん」
「まぁでも、私は香澄のそばにいるから」
「ありがと!有咲!大好き!」
「こら!病院だぞ!静かにしろ!」
香澄には振り回されてばっかりだ。それも悪くないけど。
香澄が記憶を失ってから私は以前よりも香澄に素直になれた。一緒にいる時間も遥かに多くなったし、気持ちを伝えることもできた。でも、香澄には思い出して欲しい。以前の私たちや、香澄が大切に思っていたものや人も。
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第三話 それでも幸せを感じる日々に
私が目覚めたのは、うっすら朝日が差してきた、朝6時過ぎ頃だ。香澄や沙綾たちは寝ているから、起こさないように飲み物を買いに向かった。
「朝は冷えるな……寒っ」
この時期の朝は少し辛さを感じるくらい寒い。病室では暖房が効いていたから部屋を出るまで気付かなかった。温かいお茶を買ってから少し早歩きで病室へと戻った。
「香澄……」
スヤスヤと字気持ち良さそうに熟睡している香澄の寝顔を見ると、自然と笑みが溢れてしまう。そばに居るだけで安心させてくれる。
「あり…さ……」
「ん?」
ただの寝言だった。私の名前を呟く香澄は何処となく寂しそうだった。
香澄の手を握り、私も再び眠りにつく。香澄の記憶は無くなっていても、香澄の温かさが伝わってくる。ここに香澄がいると実感出来る。そんな事を考えていると、いつしか眠っていた。
「……りさ」
「ん?」
「有咲」
「ん?香澄……?」
嬉しそうに私の頭を撫でていた。嫌じゃないし、むしろ安心出来るから何も言わずに続けてもらう。
「有咲、おはよ」
「あれ? みんなは?」
「香澄と2人で色々話ししたいはずだから、有咲には悪いけど帰るねって」
「なんだそれ」
話している間も香澄は私の頭を撫で続けている。特に何も言わない私に、香澄が質問をしてきた。
「ねぇ、記憶のない私は嫌い?」
それは考えるまでもなく答えが出ていた。
「バカなこと言うなよ。どんな香澄であれ、香澄は香澄なんだ。嫌いになるわけないだろ。不安なら、何回でも好きって言ってやる」
「有咲ぁ……恥ずかしい……」
香澄が下を向いて恥ずかしがるから、私まで恥ずかしくなる。いつもは香澄が言ってくるのに、言われるのは弱いのかよ。
「でもありがと。私も大好きだよ」
香澄が私の頭を抱きしめる。香澄には悪いけど、記憶を無くした香澄には素直になれる。今まで思っていた事も伝える事が出来る。今までの私からすれば考えられない事だし、香澄に甘えてただけなのかもな。
「ねえ、有咲」
「どうした?」
「私の体調が良くなったら、お出かけしたい」
「どこにだ?」
「私の行った事のある場所に行きたい」
「……治ったらな。早く治せよ」
「うん、頑張る!」
香澄と話していると、病室に香澄のお母さんと病院の先生が入って来た。表情はお世辞にも明るいとは言えなかった。
「おはようございます。香澄さんの容体について話したいので、席を外して貰っても良いですか?」
「分かりました」
香澄から離れようとするけど、香澄が抱き着いて離してくれなかった。
「香澄?」
「私このままが良い。ダメ?」
「香澄、わがまま言わないで」
香澄のお母さんが香澄に注意したけど、首を横に振って一層強く抱きしめた。
「いやだ、有咲にはそばにいて欲しい。離れたくない!」
「香澄……」
「仕方ないですね。では、お連れ様も香澄さんの容体について聞いてください。」
「分かりました」
そこから30分ぐらい説明を聞いた。脳や体に異常は無く、強いショックを受けたわけでもない。正直お手上げ状態だって。
「そうですか……これからも香澄は自宅療養という事ですか?」
「そういう事になりますね。香澄さんの思い出の場所とか連れて行ってあげると何か思い出すかもしれませんよ」
「そうですね。先生、ありがとうございました」
「いえいえ、それでは私はこれで」
そう言い残して病室から出て行った。原因も要因も無いんじゃお手上げ状態になるのも仕方がない。私が出来ることなんて少ししか無いけど、少しでも香澄の為になるなら、それを続けるまでだ。
「有咲ちゃん、ごめんね。香澄がわがまま言って」
「大丈夫です。それより香澄はいつ退院するんですか?」
「先生は今日って言ってた。それと……香澄は有咲ちゃんの話しかしないし、有咲ちゃんがいない時にすごく寂しそうな顔を見せるの。だから出来るだけ一緒にいてあげて欲しいんだけど、お願いしてもいいかな?」
頭を深々と下げてお願いされてしまったら断れない。元から断る気なんてなかったし、そもそも私はそうするつもりだった。
「もちろんです。迷惑じゃなければ毎日でも」
「ありがとう。香澄のことお願いするね」
「はい。分かりました」
香澄のお母さんは退院準備の為に家へと帰って行った。再び二人きりの空間が訪れる。そこで、普段なら絶対に聞けないことを聞いてみた。
「なんで私なんかが好きなんだ?」
香澄はかなり考えて、悩んだ挙句私の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「ごめんね、覚えてないの。でもね、不思議と有咲が大好きだって感覚は今でも残ってるんだ。ずっとずっと一緒に居たいって思う」
「……」
香澄が思い出してくれた事、私を好きと言ってくれて必要としてくれる事が嬉しい。そんな香澄が私も好きだ。
それから私は香澄のお母さんが戻って来るまでの間、香澄と色々話していた。覚えてることや忘れてしまったこと。今までの出来事とかも。
二時間ほどが経って、香澄のお母さんは病室へと戻って来た。
「香澄、帰るよ」
「うん。有咲は?」
「私も一緒に行くよ」
「ごめんね、有咲ちゃん」
「良いんです。私が香澄と話していたいので」
「香澄、立てるか?」
「うん」
香澄と一緒に外を歩く。何気ない日常がこれ程までに幸せだって思えたのは初めてかも。繋いだ手の温かさ、隣に居る安心感。何もかもが嬉しかった。
「帰って来たな」
「うん」
「おかえり。香澄」
「ただいま。有咲」
「明日、色々連れて行ってやるよ」
「ホント?ありがとう有咲!」
心の底から嬉しそうに喜ぶ香澄。香澄の笑顔は人を幸せにしてくれる。
「私も今日は帰って、明日の準備をしないとな」
そう言うと、香澄は露骨に寂しそうな顔をした。
「そんな顔するな香澄。明日も絶対来るから」
「うん」
「また明日な。香澄」
「うん」
香澄の部屋を出た私は明日の件で香澄のお母さんに許可をもらいに行った。ここでダメだって言われたら諦めるしかない。
「すいません。少しお話したいんですが?」
「どうしたの?」
香澄との出かける約束をして、明日の放課後香澄と一緒に行く事を話した。香澄のお母さんは笑顔で了承してくれた。その日は家に帰って明日の用意をした。
迎えた翌日。一日中香澄の事しか頭に無かった。授業もお昼休みも、覚えていないくらいに香澄のことを考えていた。
「あ」
学校が終わるチャイムと同時に教室を飛び出して 香澄の元へ走って向かった。
香澄の家に着いてチャイムを鳴らすと、いつも通り香澄のお母さんが出迎えてくれる。香澄の部屋へと向かい、身支度を手伝う。
「有咲!ありがとね!私すっごく嬉しいっ!」
「分かったから、早くしろ」
「何回も申し訳ないけど、今日も香澄の事よろしくね」
「はい。任せてください」
「有咲、準備できたよ!」
「じゃあ、行こっか」
「行ってきまーす!」
元気に出て行く香澄を見送る香澄のお母さん。どことなく嬉しそうだった。
「お姉ちゃん行ったの?」
「うん。今出かけた行ったわよ。明日香も香澄に話しかけたら良いのに」
「お母さんには分からないよ。私怖いんだよ、お姉ちゃんに忘れられてるのが」
「そうだよね。ごめんね」
「お母さんが謝る事じゃないよ」
「今は香澄が何かのきっかけで全部思い出してくれたらって祈る事しか出来ないもんね」
「有咲!最初はどこに連れて行ってくれる
の?」
目を輝かせながら聞いてくる香澄。繋いだ手を振りながら歩いている。
「私の家だよ。まぁ家の方じゃなくて蔵だけどな」
「なんで蔵に行くの?」
「私たちが出会って、全てが始まった場所だからな」
「そうなんだ」
「ほら、着いたぞ。ここだ」
「ここが?入っても良い?」
「ああ、ここで私と香澄が出会ったんだ。その時に香澄のギターもここにあったんだ。下に降りてみるか?」
「うん」
香澄の表情が少し曇った。何か考え事をしている様にも見えた。
「ここで私たちはバンドの練習をしてたんだ」
「うん」
「ここではポピパのメンバーで勉強会をしたり香澄の宿題を見てやったりしてたんだ」
「うん……」
「香澄が指を切った時も絆創膏を巻いてやったし、香澄の声が出なくなった時もここで集まったりしたっけ……」
涙が止まらなかった。今までの思い出全てが詰まってる場所だ。全部大切な思い出なんだ。忘れるはずがないのに……
「香澄……っ」
私はたまらず香澄に抱きついた。香澄はそんな私の頭を撫でてくれる。
「どうしてかな?涙が……」
一筋の光が頰を伝って床に零れた。それを見た私はどうしようも無く、強く抱きしめることしか出来なかった。
「有咲、痛いよ……」
「ごめん……ごめんな……」
それ以外何も言えなかった。目の前に香澄が居るのにどっか行ってしまったように思えた。それが耐えられないぐらい寂し感じた。
涙で視界がボヤけて香澄の顔がはっきり見えなかった。
「有咲〜香澄〜!そこにいるの〜?」
不意に沙綾の声が聞こえて来て、慌てて袖で涙を拭って返事をした。
「どうした?」
「香澄の家に行ったら、香澄のお母さんが有咲と出かけてるって聞いたから、ここかなって思って」
「有咲は分かりやすいから、すぐ分かったよ」
「おたえも来てるのか」
「有咲ちゃん、香澄ちゃん、大丈夫?」
「りみもか、そっちに行くから」
「有咲、泣いてたの?」
「泣いてねぇ!おたえはいっつも私の事を茶化して来やがって」
「香澄も」
沙綾が微笑みながらハンカチで香澄の涙を拭っている。
「ありがと。沙綾」
「有咲と香澄はどうしてここにいたの?」
今までのことを説明しようとした瞬間、彩綾が何かを閃いた様に口を開いた。
「香澄の思い出の場所巡りとか?」
「そうだよ」
「有咲は優しいもんね〜」
「ね〜」
おたえと沙綾が茶化す様に言ってくる。面と向かって言われると恥ずかしいし、腹が立つ。
「優しくねえ!」
「有咲は優しいよ」
不意に後ろから香澄が抱きしめてくる。
「有咲は私の約束を守ってくれてるもん。今日だって、思い出の場所に連れてきてくれたし、私の大好きな有咲は優しいよ」
「おいっ……」
恥ずかしすぎて顔から湯気が出そうだった。沙綾とりみも下を向いて顔を真っ赤にしていた。
「ごめんね、こっちまで恥ずかしくなってきた」
「沙綾も有咲も顔真っ赤だ〜」
「空気読めよ!おたえ!」
みんなと笑い合って話すのが、随分と久しぶりな気がした。こう言う時は時間が経つのが妙に早い。
「有咲、今日はありがとね!」
家に着くと香澄のお母さんが出迎えてくれた。
「今日はありがとうね、有咲ちゃん。もし良かったら今日は泊まって行かない?外も暗いし、香澄も喜ぶと思うわ」
「でも、迷惑じゃ……」
「うちは大丈夫だから、香澄のためにも泊まって行ってあげて」
「分かりました。お邪魔します」
断る理由も無く、お言葉に甘えて泊まらせてもらう事にした。着替えとかは持って来てないから香澄の服を借りた。なんだか恥ずかしい……
「有咲ちゃん、お風呂沸いたから先に入って来て」
「あ、はい。お先に失礼します」
「出てきたらご飯にしよっか」
「わかりました」
友達の家のお風呂ってよく分からない緊張感がある。普通に入って良いのだろうか?
「まぁ気にせず入るか」
『無心』で頭と体を洗い流し、『無心』で湯船に浸かっていた。ここで香澄のことを考えるのは非常に危ないからだ。私には刺激が強すぎる。
「有咲、一緒に入って良い?」
「か、香澄!?ちょっ!ちょまま!」
「お母さんが一緒に入って来なさいって」
「え?えぇ……」
香澄のお母さんが言うなら断れないけど、香澄のお母さんに対して少し言っておきたい事が出来た。言わないけど。
「お邪魔しま〜す」
「……」
私は香澄の体を見ないように『無心』で反対側を向く。香澄が体を洗っている間も必死に目を向けないようにする。
何も考えない様に頭の中を盆栽で埋め尽くした。
「有咲ちょっと詰めて」
「え?」
あ、見えた。見てしまった。
「お風呂気持ち良かったね!」
「ああ」
こっちは途中からそれどころじゃなかった。最後のは反則だ。
それから、晩御飯をご馳走になり、香澄の部屋で寝る事にした。
「有咲!一緒のベッドで寝ようよ!」
「えっ?私は床に布団引くから良いよ」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……」
そんな顔されたら断れないし、断るのは勿体無い。
「有咲!おやすみ」
「ああ、おやすみ」
とは言ったものの、こんな状況で寝れるはずがない。色んな考え事をしているうちに眠りに落ちていた。
「有咲は私の記憶が戻っても好きでいてくれるのかな?ごめんね、有咲。記憶が戻って欲しいけど、有咲の態度が変わってしまうのが怖いんだよ。だから、これからも甘えてしまう私を許してね。大好きだよ。有咲」
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第四話 大きな一歩と君の距離
「んぅ……」
何かに体を締め付けられている。必死に振り解こうとしても振り解けないほど強い力で締め付けられて息苦しさを感じるほどだった。
「……あれ?」
私を締め付けている正体を見ようとしたけど目の前が真っ暗でその正体が分からなかった。何かで目隠しされているみたいだ。
寝ぼけた頭ではそれが何か分からなかった。
「香澄?」
「ん〜?有咲?」
思ってたよりも返事が近くで聞こえてきた。この温かくて柔らかい、どこか安心出来るような感触は香澄だったのか。
「有咲、おはよ」
香澄は私の名前を呼ぶ時、少し嬉しそうな顔をする。その優しい微笑みに心を掴まれそうになった。いや、もう盗まれてるんだけど。
「学校に行く準備をしないと」
「有咲…行っちゃうの?」
「また来るから。そんな寂しそうに言うな」
「うん!待ってるね!」
心底嬉しそうな顔。私がずっと一緒に居て守ってやらないとって本気で思う。誰よりも近くで香澄を守ってやらないと。
「しっかりしねえと」
頰を数回叩いて気合いを入れ直した。香澄のお母さんに昨日のお礼と学校があることを伝えて帰る事にした。
「はぁ……」
学校に着いても昨日のことで頭がいっぱいだった。そのせいで授業の内容が頭の中に入って来なかった。
「〜〜〜っ///」
不意に思い出すと我慢出来ずに表情へと表れてしまう。すげえ暑い。
「顔が真っ赤だね。どうしたの?」
不意に沙綾に話しかけられて、咄嗟に昨日のことを頭から追い出した。
「いや、何でもねえよ?」
「有咲ちゃん、熱でもあるの?」
心配そうにりみまで駆け寄って来た。思い出して恥ずかしくて紅くなってるだけなんて言えない。
「本当に大丈夫だから、心配してくれてありがと」
「なんか、有咲から香澄の匂いがする」
「っ!?」
こういう時のおたえはやけに鋭い。こっちからしてみればいい迷惑だ。
「それ私も思った」
「沙綾まで!? 違うから!」
「まだ何も言ってないよ?」
沙綾とおたえのフェイントにボロが出そうになったけど、ギリギリ耐え切った。
「もうこんな時間か。教室に戻るわ」
午後の授業中も相変わらず落ち着かない。早く香澄のところへ行きたい。こんな授業よりも遥かに香澄の方が大切だから。
いっぱい香澄には振り回されたけど、どれもこれも私にとっては大切な思い出だ。今度は私が香澄を助けるきっかけになりたい。
「やっと終わった」
放課後を知らせるチャイムが鳴り、私は教室を飛び出して香澄の家へと走った。一日の中で何よりも大切な時間。
「お邪魔します!」
香澄のお母さんに挨拶をして香澄の部屋へと向かった。
「香澄! 入るぞ!」
「うん!」
扉を開けて香澄の姿を見た瞬間、勢いよく扉を閉めた。ちょうど着替えてるタイミングだったらしい。
「なんで言わないんだよ!」
心臓がうるさいくらいに鼓動を打っている。もうこんな状況が続けば心臓と理性がいつか崩壊してしまう。
「有咲? 気にする事じゃないよ?」
「私が気にするんだ!着替えが終わったら言って!」
「は〜い」
それから五分くらい廊下でスマホをいじって待っていた。何か気を紛らわさないと、まともに話せそうにない。
「有咲! もう大丈夫だよ!」
そっと扉を開いて服を着てるか確認しながら入った。いつも通りの服装なんだけど、どこか違和感がある。なんて言うか香澄らしさが足りないって言うか。
そうだ。髪型だ。いつもと違って自然な感じだから香澄らしさが無いんだ。
「いつもの髪型にしないのか?」
「いつもの髪型?」
香澄が記憶を失ってから、猫耳みたいな髪型を見ていない。本人曰くあれは星だったらしいけど。
「う〜ん、覚えて無いや」
やっぱりそこの記憶もなくなってるのか。
胸に走る小さな痛みを掻き消して明るく振る舞うように努めた。
「整えてやるから」
香澄の髪型を教えてもらったことがある。最初は難しくて出来なかったけど、次第に出来るようになった。何度か香澄の髪も整えてやったこともあるし。最初はなんでやらされてるのか分からなかったけど、今に生きてるから良しとしよう。
「ほら、出来たぞ」
「これ! 有咲!これすっごくかわいい!」
全身を使って喜びを表現する香澄。仕草や行動は今も前も変わらないんだ。なんか安心するって言うか、懐かしい感じがする。
「お邪魔しま〜す!」
沙綾たちがお見舞いのパンを持って来た。やっぱり香澄としてもみんなが来る方が嬉しいもんな。
「体調はどう?」
「沙綾! 大丈夫だよ!」
「香澄が早く良くなるようにパンを持って来たから、食べて食べて」
「ありがと!」
みんなとワイワイしながら何かを食べるのって久しぶりな気がする。香澄が記憶を失くして学校を休んだあの日から、たまに揃ってお昼ご飯を食べたりするけど、そこに香澄の姿は無い。四人でお昼ご飯を食べる回数も段々と減って来てるし。
「美味しかった〜」
「なんで香澄よりもおたえの方が食ってんだよ!」
「あははは、有咲おもしろ〜い」
「おもしろくねえ!お前のことだよおたえ!」
「本当に有咲は香澄のこと好きだよね」
「はぁっ!? 急に何だよ!?」
無意識のうちにチラッと香澄の方に視線を向けてしまった。バッチリ目が合ってしまって気まずいし……
「私は有咲のこと大好きだよ!」
「私だって香澄が……」
誰にも聞こえないような声で返事するもはや声が出てたかどうかも分からないくらい小さな声で。
それを聞いた沙綾とりみの顔が徐々に真っ赤に染まって行った。
「恥ずかしがるならそんなフリをするなよ!」
「パンもう1個欲しい」
「おたえはまだ言ってんのかよ!」
いつものことだけど、めちゃくちゃだなこいつ。
「もうこんな時間か〜私そろそろ帰らないと」
「あ、私も」
「また来るからね! バイバイ!」
沙綾たちが帰って行った後、二人きりになった。さっきのことを思い出して恥ずかし過ぎて死にそうだ。好きなら好きって言わなきゃいけないってのは分かってるけど……
「パン美味しかったね〜」
パンの味なんて思い出せない。今の状況を意識し過ぎて何も思い出せない。
「有咲? どうしたの?」
急に近づいて来た香澄にビックリしてバランスを崩してしまった。
「痛ぇ……え?」
バランスを崩した時に香澄が助けようとしてくれてたみたいで。
「あ……香澄……」
香澄が覆い被さっている。顔が近い。恥ずかしい。うまく言葉が出ないし頭が真っ白だ。
「有咲は私のこと好き?」
「……」
「ねぇ、有咲」
「好き……だ」
「嬉しいな。有咲、好きって証拠見せてよ」
「はぁっ!? どうやって——」
香澄は無言で目を瞑った。恋愛経験のない私でも分かる。これは…これは……
「え?」
どうすれば良いんだよ!? ここで出来なきゃ一生後悔するし香澄も傷つけてしまう。腹をくくれ私っ! 今頑張らないでいつ頑張るんだ!
「香澄……ん」
ほんの一瞬。ストップウォッチの針が進むよりも短い時間だったけど、マシュマロよりも柔らかい感触が唇に伝わった。
「これで良いだろ」
「うん!」
顔から湯気が出そうだ。心臓の音も絶対聞こえてるだろうし。
「私も、有咲が大好きだって証拠見せないとね」
「え? あ——」
目をギュって閉じて、緊張でどうにかなりそうなくらい体が震えてしまって気が気でなかった。
「大丈夫だよ。有咲」
香澄が抱き締めてくれてる。さっきよりも長い時間、唇に柔らかい感触があった。好きな人からこんなことしてくれるなんて思っても見なかった。
「香澄?」
「有咲…もう一回……」
その日の夜は悶々として一睡も出来なかった。
「どうしたの有咲? 寝不足?」
「そんなところだ」
「今日は一緒に行こうね」
「ああ、沙綾は大丈夫だと思うけど、おたえに早く準備しろって言っておいてくれ」
「分かった」
ホームルームも終わって、いつもなら香澄の家に直行するけど、沙綾との約束もあるし隣の教室へと向かった。
「早く行くぞ!」
沙綾たちと合流して香澄の家へと向かった。昨日のことが鮮明に蘇ってくる。眠気を上回る恥ずかしさが身体中に広がっている。
「香澄〜来たぞ〜」
きっと香澄はこんなこと気にしないんだろうな。
「来てくれたんだ! 有咲も!」
不意に香澄と目が合うと、恥ずかしそうに頬を紅くして目を逸らした。
「有咲?」
「ごめん沙綾。限界。もう無理。ちょっと寝る」
「有咲!?」
「沙綾、そっとしといてあげて。私も寝不足なの」
「何かあったの?」
「実はね……」
「有咲、おはよ」
眼が覚めると香澄の顔が目の前にあった。ビックリして飛び起きると香澄の頭とぶつかってしまった。
「痛た…ごめん」
「ううん。ねぇ有咲」
香澄から沙綾たちに言ったってことを聞いた。それ自体は別に気にしてない。
「そっか」
「うん」
「おたえたちもね……」
沙綾とおたえの関係も聞いた。特に驚きはしなかった。あれだけ一緒に居て付き合ってないって方がおかしい。
「そっか」
沙綾たちとどんな顔して会えば良いんだろ?
「ごめんね、有咲」
「気にするな」
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