死神JKデイズちゃん (リメイク!) (氷の泥)
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01 vsヤマモト・デザイア・サトシ

 モテたい。何にせよまずモテたい。いつも、ふと気が付いた時にはそんなことを考えている。そんなことを考えるようになったのは、いつからだろう? いや、いつからだって構わない。だってそれは、何もおかしなことではないからだ。健全な男子であるなら誰もが皆、遅かれ早かれ、いつの間にか、そうなるに違いないはずだ。

 母から「キッチンペーパーと、卵と、その日安く売りだされている菓子類の購入」という指令を受けて、クソ暑い真夏の炎天下を歩く俺はまた今も、気が付くと「モテたい……」と考えてしまっていた。通りすがりの若い女性が視界に入ったことと因果関係があるのかもしれない。

 今回は近所のスーパーへ向かうことに自転車を使っていない。元々健全かつ引きこもりがちな身なので、少しでも運動になればと考えての徒歩だ。その選択に実際意味があるのかどうかなんて、かなりどうでもいいことである。心の問題だ。しかしただ歩くだけというのは、想像していたよりもっと退屈なことだった。

 そこで改めて、俺、山本聡のスペックを整理してみよう。どの面下げてモテたいだなんて言ってやがるんだ……と全国の女子に叩かれる可能性が俺にどの程度あるのか、暇潰しに今一度考えてみようじゃないか。

 ……山本聡(やまもと・さとし)、17歳、高校二年生。趣味はアニメ鑑賞とゲームとネット徘徊(主に動画サイトとまとめサイト、それとSNS)。学力における偏差値も、顔面における偏差値も、自他ともに認める中の下(なお「他」を構成するのは家族と親戚一同、同性かつ同い年の友人数名のみ)だ。ちなみに自慢できることは特になし。

 典型的なインドアタイプだが、ゲームが特別上手いわけでもなく、アニメの知識が豊富だったり深い考察をしているわけでもなく、読書経験に富んでいるわけでもない。ずばり言うなら、何においても中途半端な男。それが自身で評するところの、山本聡という人間である。

 改めて考えるとやはり、モテたいと口にすることで「身の程を知れ」という言葉がどこからともなく返ってくる可能性は、なかなか高いように思えてくる。しかしそうだったとして、俺がモテたいと思うことはそんなに悪いことなのか? 男に生まれた時点で、この手の欲望を抱えるのはもはや致し方ないことなのでは?

 一回くらい女の子とイチャイチャしてみたいよ。みんなそうだろ? 一度は考えるだろう? なのに、俺が何百回何千回そう考えたって、一度たりとも一瞬たりとも、願いは天に届かないのに、イケメンはただイケメンというだけで、降り注ぐ流星群が如く願いの対象が、こっちに好意を持った女子が押し寄せてくるなんて、それはずるいじゃないか。あんまりだ。

 顔が良くてなおかつ運動神経も良かったり頭が良かったり性格が良かったり、誰もが長所だと認めるような要素を一つ、二つ、三つと持っていることが、それがそんなに偉いのかよ……! ……と八つ当たりのようなことを思いはするけれど、実際のところ自分でもちゃんとわかっている。イケメンは偉い。だいぶ偉い。だってもし俺が女に生まれていて、イケメンと山本聡のどちらと付き合うか選ぶなら、秒でイケメンを選ぶもんな……。

 生まれ持った物である程度モテ度が決まってしまっていること、それはもう仕方がないことなんだ。けれど「仕方ない」の一言で潔く諦められるほど達観することもできない。ミスター中途半端である俺はイケメンを恨み切ることも、自分を諦め切ることもどちらもできない。それはなんとも、むなしい気持ちになることだった。

 ああいっそ、モテたいという欲望が、いつの間にか気が付いた時には消えてなくなっていればいいのに。あるいは空から俺にめちゃくちゃ好意を持ってる美少女とか、何かそういう奇跡が降ってこないかなぁ……。

「ちょっとそこの男子ー!」

 いかにも美少女っぽい声が、頭上から聞こえてきて我に返る。腹から声を出し本気で叫んでいるような、それでいて心惹かれるかわいらしい声が、ものすごいスピードで頭の上に近づいてきていた。

 でもなぜ頭上から!? 当然俺は空を見上げる。雲一つない青空、過剰なほどに眩く輝く太陽。その太陽光が、俺の視界をほとんど占拠してしまった。まぶしい、何も見えない、あるのは光だけだ。

「避けてよけて危ないー!」

 避ける? 何を? そう考えてしまったのがいけなかった。伏せろと言われて「なぜ?」と考えているようでは、戦場で生き残れない。いやここは戦場ではないのだけれども、とにかく避けろと言われたのだから、棒立ちになっているくらいなら、まだ何も考えずにその場から飛びのいた方が賢明だったのだろう。

「うおっ!?」

 結果として俺は、突然空から落ちてきた何かに潰された。ぺしゃんこになって死んでしまったわけではないけれど、アスファルトの地面と自分の体が衝突した時、間違いなく結構悲惨な擦り傷を負っただろうなと確信した。頭は打たなかったのが不幸中の幸いか。

 重たくなった俺の体に、黒い布のような物が覆いかぶさる。体が重たいのは負傷のせいではない、落ちてきた何かが俺の上に乗っているからだ。しかし「黒い布に関連する」「空から急に落ちてくるもの」なんて、俺はそんなものの存在を何一つ知らない。当然何が起こったのかなんてさっぱりだ。

「あーもう……」

 呆れかえったような、それでいて耳が癒されるような声と共に、俺の上に乗った何かはそこをどいた。黒い布もそれについていって俺のもとから離れる。三秒ぶりくらいに再会した太陽の光が異様に眩しく感じた。

「なんで空から声がするのにぬぼーっと突っ立ってるかなぁ」

 被害者であるはずの俺を軽くディスりながら、空から落ちてきた人(?)は、うつ伏せに倒れたままの俺に手を差し伸べてくる。俺はその手を見て衝撃を受けた。

 なんて綺麗な手! なんて綺麗な手……! なんて、綺麗な、手……!!

 それは白くてすべすべした、華奢な感じのする、一目見てわかる女性の手だった。そしてさっきから聞こえる声だ。俺は奇跡を感じていた。しかし本当にそんなことがあるのか……? ここは現実なのに……? 信じられない。でも信じたい。

 俺は期待を込めて、手を差し伸べてくれた人のことを見上げた。そこにいたのは、魔女が羽織るローブのような黒い衣装を身にまとう、ピンク色の髪をした美少女だった。ああ、神様! これがそうなのですね! 奇跡というのはつまり、彼女のこと……ッ!

「いや、早く起き上がって」

 ピンク髪の魔女(美少女)にせかされて、心臓がバクバク鳴っているのをひた隠すような気持ちでおそるおそる、しかし迅速に、俺は彼女の手を取り立ち上がった。

 もしかすると俺はこれが、初めて女性の手を握った瞬間かもしれない。倒れこんだ時地面に手をついて多少の怪我をしたかもしれないけれど、手のひらの感覚としては怪我なんてそんなことまるで気にならなかった。

「生きててよかった、マジの死神なんて御免だよ。……で、キミ、だいじょうぶ?」

 一ミリも本気では心配していなさそうな風で彼女はそう言った。彼女は俺に話しかけているのだ……! ピンクの髪がどうしても目立つけれど、けれど見れば見るほど彼女の顔は俺の好みだった。しかもそう歳が離れているようには感じない。

「おーい? 聞いてる?」

「あ、はい。大丈夫です」

「ケガしてない?」

 ちらりと自分の膝を見下ろす。赤い物が見えた気がした。見なかったことにした。手のひらからも段々、緊張とは明らかに別な熱さを感じてきた。気のせいだと思うことにした。

「大丈夫です」

「……ほんとに?」

 彼女が下の方、俺の膝あたりの高さの場所を見ながら言った。

「いや、まぁ、はい。大丈夫です」

「ふーん」

 理由はわからないけれど、なぜか空から降ってきた美少女。形だけな気が若干しないでもないけど、俺が怪我したことに対して何か負い目(おいめ)的な責任感を抱いていそうな感じがする……ようなそうでもないような、しないでもないようなって感じだけれども……とにかくそんな彼女とここから何か、素敵な物語が始まったりしないだろうか……!

 いいやするはずだ、必ずする。神は願うことを続けた俺に奇跡を与えたのだから! ぶっちゃけ神なんか信じてないし今もそれは変わらないけど、じゃあ別に俺の運が尋常じゃないほど良いとかなんでもいい、とにかくもう、俗に言う「確変」には突入しているのだ。何もないはずがない。そんなことあっていいはずがない。

「あ、それでなんだけど、気が動転しているところに悪いとは思うんだけどさ、君にちょっと頼みがあるんだけど……いいかな?」

 ほら来た。

「あ、はい。なんでしょう……?」

 会話のさなかピンク色の髪が珍しいこともあって……いや理由の九割は彼女の容姿が好みであることが占めているのだけれど、とにかく彼女の顔の方ばかり見ていると目が合ってしまい、俺は慌てて少しうつむき誤魔化した。

 うつむくと視界の大部分を占める、彼女の着ている黒いローブのような服。単純に暑くないのだろうかとか、美人なら変わった服装でも様になっているなとか、いろいろ考えてしまう。

 しかしそんなことも全て次の一言で吹き飛んだ。

「私のこと助けると思って、デートしてくれない……?」

「え……!?」

「だめ……?」

 いくらなんでも出来すぎていると思った。話の流れというか脈絡というか、筋が通っちゃいなくないだろうか。しかし俺は、筋を通してこの貴重な機会を逃すくらいなら、どんなめちゃくちゃな流れだろうと乗ってやろうと思った。

「いや全然喜んで光栄です」

「そう、よかった」

 舞い降りた奇跡であるわりに、言葉と裏腹に苦笑いする彼女は、どうもあまり嬉しくない方向に生々しい。きっと俺が誰か、例えば同じクラスの女子とかに告白でもしようものなら、こんな顔をされるのだろうと漠然と思った。

 もちろん、奇跡にあれこれ注文をつけるつもりなんてないけれど!

 

 

 

「いやー悪いね、急にお邪魔しちゃって」

 俺は気が付くと彼女を自分の部屋に上げていた。連れ込んだ……という言い回しが適切なのかどうなのか、俺にはまったく判断がつかない。

「いや全然!」

 あのあと彼女から「何か用事があって出かけていたのか」を聞かれて、おつかいの途中だったと答えるとまずはそれを完遂することを勧められた。卵をレジに通しながら、奇跡が物理的に降ってきたのが帰り道じゃなくてよかったなとか、どうでもいいことを考えながら、ずっと隣に立っている美少女のことが気になって気になって気が気じゃなかった。

 そしてそのまま言いつけられた品を家に持ち帰った俺と一緒に、彼女はこの家に上がり込んで、しかも俺の部屋に、この粗末な密室に、ちょこんと座っているわけである。

 デートとか言っていたのは何だったのだろう。これがデート? 家デート? ちょっと何がなんだかわからない。いや、わからなくていい。納得なんて二の次だ。……とは思うけれども、さすがに気にせずにはいられないことがまだいくつかある。

 妙な服装で派手な髪色をした彼女がスーパーマッケートの中を歩いていても、誰一人として彼女のことを好奇の目で見はしなかった。それどころかウチの母でさえ、俺が突然女子を家に連れてきたことに何も言わなかった。

 友達を連れてきたって言っておけばだいじょうぶ、私を信じて。そう言われたので(そして上手い言い訳が思いつかなかったので)半信半疑で従ってみたところ、母は俺の言うことを何も疑わず、まんまと彼女と二人きりになれてしまった。それにこれは買い物をしていた時点で気が付いていたことだけれど、俺の明らかに怪我をしていた膝も、というか膝以外の手のひらとかその他諸々全ての傷が、いつの間にか跡形もなく治っていた。いつ治ったのかまるでわからなかったけれど、さすがにここまで奇妙なことが起これば俺も確信する。

 空から降ってきた時点で確信するべきだったのかもしれないけど、遅ればせながら俺も理解してきたのだ。どうやらやはり、彼女は常識では語れない存在らしい。人間じゃない。

 ……でもそんなことはどうでもいいんだ。重要なのは女子と、それもこんなかわいい女子と、異様(当社比)に濃密なコミュニケーションを取れていること、それが何より重要なんだ。

「……あ、何か持ってきますねお菓子とか」

「んーいやお構いなく」

「いやいやいや」

 何かもっと踏み込まなければ。もう二度とこんなチャンスはないぞ。そんな風に焦る気持ちが最終的に、お菓子と飲み物を持ってくることとして外に出た。そんな誰にでも出来ることで好感度が稼げるなら、誰も苦労なんかしないのに。

 こういう時って何かおしゃれなお菓子とかでなきゃダメなんだろうかとか思いつつ、そんな物が家に置いてある気がしないので、ポテトチップスうすしお味と麦茶を持って部屋に戻った。

「おーありがと」

 俺が袋を開けると、お構いなくと言うわりに結構なスピードで彼女はポテチに手を伸ばす。お茶もなんというか、飲みっぷりがいい。

 人が飲み食いしているところを凝視するのもどうなのだろうと気付いて、気と視線を紛らわすために俺もポテチに手を伸ばした。彼女と手が触れやしないかとドキドキした。少しも触れなかった。

「えーそれで、キミの名前はなんて言うんだったっけ。山田くん?」

「あ、山本ですね」

「似たようなもんだ」

「えぇ……」

 名前に対する認識があまりにも雑すぎる。が、少し不思議に思うこともあった。山田と山本、かなり近い名前に思えるけれども、今のは当てずっぽうなのだろうか? 俺はまだ彼女に自己紹介をしていない。

 まあ仮に当てずっぽうで惜しい名前を口にしたわけでなくても、家には二人して玄関から入ったわけで、表札がチラッと目に入って「山」の字が入っていることだけは確認したとか、いくらでも説明がつくわけだけれども。

「じゃあ山本くん、私の名前知りたくない?」

「知りたいです」

「しょうがないな」

 お願いだからお名前を教えてくださいとこっちから懇願したかのような、偉そうな雰囲気をまとって彼女は立ち上がる。そして全力で曲を歌いだす時みたいに、大きく息を吸い込んだ。

「私の名前はデイズ! 死神JKデイズちゃん!!」

 何かよくわからないポーズを決め顔でキメながら、彼女は大声でそう名乗り叫んだ。

 ……それでここにきて俺は今さら、今まですでに傍まで迫っていた「あれ? 何か思っていた美少女と違うぞ?」という感覚に、本格的に頭の中を支配されていくのだった。

 そんな気持ちが顔に出てしまったのだろうか、死神JKデイズちゃん(仮称)は途端に真顔になった。

「……はい、というわけでですね、私、デイズです」

「あぁ、は、はぁ……」

「いや、普通に真顔で「デイズといいます」って名乗っても逆にやばくない? 今の方がよくない?」

「えーと……?」

「まあそういうわけで、デイズちゃんと呼んでくださいな」

 気合いを入れて立ち上がり名乗り終えた彼女は、何かが燃え尽きたかのように座り込んで、再びポテチをついばみ始めた。奇抜すぎる自己紹介へ対するダメ出しは、神が許しても彼女自身が許さない気がした。

 そもそもデイズって本名なんだろうか。彼女が何か人外の異能らしき物を持っていそうなことは一旦忘れれば、目の前の女子はたぶん日本人で間違いないんだけど、じゃあデイズってハンドルネームの類か……?

 いろいろ頭が混乱することばかりなので、一度自分の理解できる範囲に戻って落ち着きたい。俺は俺が理解できた部分だけを選り抜いて、この微妙な空気を断ち切るべく話題を決めた。

「えっ、ていうか、JKって女子高生ってことですか?」

「そだよ。山本くんは?」

「俺も高校生です。二年生」

「お、私も二年生。なんだ同い年じゃん。同い年なのに敬語! おもしろいね」

 心底楽しそうにそう言われてしまったので、俺はたぶんこの先の人生ずっと、歳がどうであろうと女性には敬語で話すのだと思う。彼女のリアクションに呪いをかけられた。言い方を変えれば、俺は味を占めていた。たぶん女子に「おもしろいね」と言われたのも今日が初めてだ。

「ちなみにJKの部分には食いついて、死神の方には興味なし?」

「あー、興味っていうか、ちょっと情報を処理しきれていないというか」

「がんばって処理して。ほらこれ」

 突然彼女の傍らに、それこそ死神が持っているようなイメージの、身の丈ほどある巨大な鎌が出現した。

「うおっ」

 突然そんな凶器が現れたのでさすがに驚いたけど、そんな俺を彼女はちょっとだけ冷めた目で見ていたように思う。もしかするとその鎌を見た人間の反応に飽きているのかもしれない。

「これ持ってこんな服着てるから死神名乗ってるわけ」

「な、なるほど」

「と来れば当然、なんで鎌なんか持ってんのって話になるよね」

「なりますね」

 何かものすごく彼女の作ったレールに乗った会話をしている気になるけれど、次々現れる常識外のことがつまり一体何を意味しているのか、知りたくなっているのは本当のことだ。とても興味を惹かれる。けれどもなぜだろう、ポテチが終了してしまうと俺は、彼女を見つめる権利を失ったような気持ちになった。

 俺も落ち着きを取り戻してきたということなのだろうか。勢いのまま欲望のまま、二度とはない機会を惜しむように彼女を見つめることが、なぜか急にはばかられる思いだ。だからかわりに、中身が全て失われた、パーティ開けしたポテチの袋の銀色の部分をなんとなく見つめてみる。油に汚れた銀色は部屋の明かりを反射して輝いていた。

 俺はこのままここで彼女とお喋りをしているだけで、それでいいのだろうか。降ってきた奇跡はいつまでここにあるのだろう。奇跡を繋ぎ止めるための方法って何……? まずそもそも、そんなものあるのだろうか……。

「実は私は、デザイアという化け物を狩る存在なのです」

 一つの情報を処理するたび、次の奇怪な情報が現れる。俺は美少女と自分の部屋で話している現状に酔ったのだろうか。それとも緊張していたのか、ぼーっとしていたのか、……何もわからない。けれど、返事は咄嗟に出てしまった。

「はい……?」

 何をわけのわからないこと言ってるんです? 俺の声からは自分自身でさえ、想像の百倍そんなニュアンスが感じ取れた。

 まずいと思って、なんとか取り繕おうと、けれども何も思い浮かばずに、恐ろしい怪談を聞いた夜にトイレへ行く時、怖さを紛らわすために何か歌いたいのにそんな時だけ何も思いつかないみたいな、焦りと恐怖だけがどんどん押し寄せてきてその他のものを追いやってしまうような気分だ。

「まあ一発では納得できないよね。でもよく聞いてほしいんだけど、私は「デザイア」っていう、欲望から生まれる化け物を狩らなければいけないのです。そういう存在は魔法少女と呼ばれています」

 そう言うと彼女は再び立ち上がり、何かもっと良い返事があったのではないかと自主的に猛反省する俺の目の前を、水の中で泳ぐ魚みたいにスイスイと、空中浮遊し始めた。

 一つの情報を処理すると次が来るのではない。常識で語れないものは、一つの処理も待ってくれないのだ。それで俺は気が付いた。

 たしかに美少女は降ってきたけれど、俺にめちゃめちゃ好意を抱いているという前提が、満たされていないじゃないか神様!

「魔法少女と言うくらいだから、こんな風に魔法が使えます。山本くんの怪我も魔法で治しました。そしてやっぱり魔法を使って、私はデザイアを狩るのです」

 わけがわからないことばかりだ。聞きなれない単語が出てくるし、雰囲気だけで感じ取っていることが間違ってなければ、彼女の言っていることは何か、日曜の朝とかにやっているアニメみたいな話だ。

 わけがわからないことばかりだ。アニメで聞きなれているはずの単語さえ、現実に持ち込まれると全然理解できない。わけがわからないことばかりだ。こんな奇跡のシチュエーションまで用意されたのに、彼女はまるで俺の妄想していたような理想とは違う。

 わからないことだらけの中、俺は一番簡単そうなことから聞くことにした。

「えっと……つまり魔法少女なんですか? 死神なんですか?」

「変なこと聞くね。どちらかと言われれば魔法少女だよ。君は死神みたいな見た目のガンダムを見て、あれは死神なのかガンダムなのか……って悩むの?」

 まるでわけがわからなかった。女子とガンダムの話をしたのは今日が初めてだった。

 

 

 

 俺の部屋の中で、天井と床の間を浮遊する彼女から手を差し伸べられたので、俺は躊躇せずその手をとった。

 流されよう。そう決めた。それが一番だ。だって美少女に手を差し伸べられるだけで、俺はこんなに楽しい。こんなに幸せだ。彼女に手を引かれると比喩ではなく、本当に自分の足まで重力から解放されたみたいに浮かんでいった。

 彼女の物である鎌は突然出現した時と同じように、いつの間にか姿を消していた。そして部屋の空気を入れ替えるみたいに窓を開けて俺たちは、そこから大空へ向けて飛び立っていったのだった。

 魔法少女を名乗る、死神みたいなファッションのかわいい女の子と、お手てをつないでお空の散歩。……なんてことが実現すればそれこそ夢のようだったのかもしれない。現実は違った。

 俺は彼女の背中に覆いかぶさるようにしがみついていた。そしてその彼女は旋回するトンビのように空を飛んでいる。ビュウビュウと風を切る音を聞きながら、一切やったことないけど、バイクの二人乗りって大体こんな感じなのだろうかとか思ってみたりした。

 けれどもそれどころじゃない。まさか落下すれば即死という高さまで飛ぶとは思っていなかった。俺は高所恐怖症なのだ。なぜ自分が浮いているのか理解もできない状態では、この背中にしがみついている……つまり実質初めて女子に抱き着いている状況でさえ、全然楽しんでいる余裕がない。風の音がそれこそ死神のささやきみたいに、俺に死を予感させる。

 さすがの俺も「高い無理こわい!」とすぐさま彼女にしがみついたわけではなかった。しかし高度が上がるにつれ、速度が増すにつれ、自然と体がそのように動いていたのである。そっちはともかく俺の方はどうやって浮いているのかと聞いても「魔法」としか答えてくれない彼女からは、幸いにも抱き着いたことを何も咎められはしなかった。

 それはそうと、なぜこんな時まで「怖いもの見たさ」という感覚は生きているのだろう。俺は下を見たい衝動に勝てなかった。彼女の肩越しに下を見ると、いつも暮らしている町がパノラマみたいになっていた。だからといって感動の「か」の字もない。同じ状況で「景色がいい」とか言える人は、どこかがおかしいとしか思えない。

「あ、あの、デイズさん……?」

「なにー?」

 お互いの声が風切り音で聞き取りずらい。俺たちの隣を鳥が飛んで行った。

「なんで飛んでるんですか……!?」

「デザイアを探しているんだよ。時間になったけど、どうやらキミの家には現れないみたいだから」

「そのデザイアって何なんですか……!?」

「欲望から生まれる化け物のこと。さっき言ったでしょ? 私はそれを狩らなきゃいけない。それで今回は、山本くんの欲望から化け物が生まれるってこと」

「な、なんで……!?」

「知らない」

「えぇー……」

 突然、空中を旋回していた彼女が急停止した。ほんの少しだけれどその急停止によって、飛んでいた時よりも強い力が俺にもかかる。反射的により強く彼女を抱きしめることになった。でも全然嬉しくない。マジで生きてる心地がしない。

「ほら、いた」

「え?」

「アレ」

 少し高度を下げて駅の方を指さされるけれども、特に何も変わった物は見えない。

 と思った矢先、ビルが一本倒壊した。映画みたいに砂煙を上げながら倒れていく。なぜか何も音は聞こえない。

「行くよ、しっかり掴まってて」

「え」

 嫌な予感がして、今までで一番強く彼女にしがみつく。人間は抱き合うと安心することが科学的に証明されているとかなんとか、何かの番組で見たことがあった気がするけれど、今は例外中の例外だった。

 俺は知った、今までの飛び方は散歩程度の物だったのだと。ジェットコースターみたいなGを感じながら、また怖いもの見たさで横を向いてみれば、快速電車の窓から外を見た時みたいに景色がスクロールしていくのがわかる。

 そうして間もなく、彼女の言う化け物が見えてきた。それは大きな人型の、言ってみれば怪獣だった。ビルを倒壊させ得るほどの巨体を誇るそいつの見た目は、「巨大」「人型」という以外にもう一つ特徴があった。

 全身が同じ色だ。白以外の絵の具を全部混ぜたような、まず真っ先に「汚い」と連想する色で全身が染まっている。醜くも黒に近いその色で全身が染まったその巨人は、巨大な影のようでもあった。

「山本くんはここで待ってて」

 地上まで降りた魔女は、俺をその場に置いて再び浮遊し始める。巨人のサイズ感に俺の遠近感もやられている気がするけれど、たぶん今いる地点からあの巨人が立っている場所まではまだ少し離れているはずだ。

 一般人を安全な場所に置いておこうってことか……? 彼女が俺をここへ置いていく理由をなんとなくそう察した。疑問に思うことは、ならなぜ俺をここまで連れてきたのかということだ。

「待つって、な、なにを……?」

「私がアレをやっつけてくるのを。……でも最後に一つだけ聞かせて」

 ずいぶん上の方から、彼女が俺の瞳を覗き込んでくる。今さらだけど、ちょっと神々しかった。魔女なのか死神なのかって感じの黒いローブに、ピンク色の髪が映えるんだ。その上またいつの間にか、あの大きな鎌を背負っている。そうして浮かぶ彼女は神々しかった。見上げる形だからそう思うのか……?

「あの巨人は山本くんの欲望から出来てる。……心当たりはない?」

 ぐっ……と息が詰まるような感覚がした。

「……いや、特には」

「そっか……。ありがと、じゃあね」

 また明日ね……とか、まるでそんなことを言いだしそうな軽い雰囲気で手を振って、彼女は飛び去っていった。その軽さが逆に、これが最初で最後のお別れだというようなことを予感させる。

 ……俺は、俺は走った。彼女の飛んで行った方向へ、巨人が暴れる方へ向かって。空飛ぶ死神魔法少女にはまるで追いつけないけど、それでもとにかく走った。仮に追いついたとして、その時やり直せるのかわからない、自信がない。でも俺は嘘をついてしまった。罪悪感が台風みたいに強い追い風になって、立ち止まっていられなかった。

 欲望の心当たりなんか一つしかない。なんでそれがあんな馬鹿デカくて物を壊すことしか出来ない巨人になっているのかはさっぱりわからないけれど、でも俺の中の欲望なんて、化け物になってしまうくらい大きな欲望なんて一つしかない。

 モテたいんだ、俺は。だから人の型をしたあの化け物を見た時思ったんだ。もしあれが本当に俺の欲望から出来たのなら、だったら、なんであんなに汚い色をしてなくっちゃいけないんだって。俺みたいなやつがモテたいって思うのが、そんなに悪いことなのかよって思ったんだ。

 でもそんなこと、フッと聞かれてポンと答えられることじゃない。相手は空から降ってきた美少女だぞ? 運命の相手かもしれない美少女に、言えるかよそんなこと。……そう思ったけど、でも途端に罪悪感が湧いてきた。

 よく考えれば彼女は運命の相手なんかじゃない。彼女との出会いから、俺を主人公にしたライトノベルみたいな物語が始まったりなんてしないのだ。強いて言えば今がそれだけれども、とにかく、一つ言えることがある。

 悲しいけど、彼女が急に俺に興味を持って「あなたの欲望は何?」なんて聞くとは思えない。じゃあなぜ聞いてきたのかって、自分のためにその「情報」が必要だったからだ。デートなんて言って俺に付いてきたのも、全部そうだ。彼女は自分の「化け物を狩る」という目的のために、その化け物の主である俺がどんな人間なのか、敵情視察の意味で、俺を見に来ていたんだ。

 やっとそれに気が付いた。走っても走っても思うように前に進まなくて、もう見上げたって空の中に浮かぶ黒いローブもピンクの髪も見えやしない。息も上がってきた。気が付くのが遅すぎた、そんな気がしてくる。罪悪感を抱くのも遅すぎた、手遅れだ、そんな予感がする。

 でも足を止めるわけにはいかない。俺は取り柄と呼べる物が何もないような、かといって大きな欠点をかかえているわけでもない、中途半端な人間だけど、だから何もかも遅すぎたのかもしれないけど、でもだからって諦められない。

 彼女が俺の運命の相手じゃなくたって、この先の人生特にモテることがなくたって、この際もうそれでいい、仕方がないことだ。俺は彼女の求めていた「情報」を伝えて、それで少しでも感謝してもらえたら、もうそれでだけでいい。それで我慢する、だから逆にそれだけは諦められない……!

 俺は走った。メロスってこんな感じだったのかなとか思った。気が散っているのか、酸素が足りない苦しさに耐えかねた脳が、何か現実逃避のようなことを始めたのか、自分のことなのに俺にはまったくわからない。

 走りながらハッとする。急に閃くかのように、巨人の異変に気が付いたのだ。ビルを倒すほどの暴れっぷりだった巨人が、さっきから少しも動いていない。よくよく目を凝らしてみると、巨人の頭の高さに、黒い何かが飛んでいた。彼女だと直感した。

 静止したままの両者を見てまさかとは思ったけれど、どうやら二人は会話をしているようだった。距離……というか高度があるせいで地上の俺にはほとんど内容が聞き取れないけれど、巨人の口の部分が動いているのはだけは確認できた。

「オレハ……」

 やはり聞き間違いでなければ巨人が、人の言葉を操り何かを話しているのが聞こえてくる。浮遊することで目線を合わせている彼女も何かを話しているような気がするけれど、巨人より声の通りが悪くて上手く聞き取れない。

 しかし走りに走って、いよいよ彼女がはっきり見える距離まで来た。さっきまで背負っていた鎌を右手で握っているところまで見える。きっと今なら声が届く。俺は全力疾走で乱れた息を整える時間も惜しんで、無理やり息を吸い込んで叫んだ。

「デイズ!! 俺の欲望はッ……!」

 表情なんか見えやしないけど、彼女がギョッとしたのが雰囲気でわかった。そして巨人に一言二言何か言うと、俺の方に向かって猛スピードで飛んできた。

「ちょっとなんでいるの! 危ないよ」

「俺、さっき……、い、言えな……かったこと……あって、言わな、きゃって……思って」

 普段まったく運動しないことが祟って息も絶え絶え、まともに喋れない。そんな俺に対してなぜか、今までで一番「好意」に近い感覚で、彼女が話を聞こうとしてくれている気がした。

「うん、なに……? 聞くよ」

「俺は、俺の欲望は……」

「うん」

「俺は……」

 ……ここまできて、ここまできたのに俺は、やっぱりどうしようもなく「言いたくない」と思ってしまう。本当のことを言って一瞬空気が凍る未来が、もう今から肌で感じられるくらいだ。誰もが一度は体験したことのある、あの時が止まったような感覚。自分の口から出るたったの一言でそれを味わうのが、俺は怖くて仕方がなかった。

 そうして躊躇している間に、うつむいていた俺の足元には、大きな影が落ちた。

「あぶない!」

 彼女にいきなり飛びつかれた。その勢いのまま俺たちは二人で地面に転がる。その衝撃や痛みに集中することもできないくらい、まったく何が起こったのかわからなかった。

「あいつ! 待てって言ってんのに!」

 混乱する思考を落ち着けようと、さっきまで俺と彼女が立っていた場所を見ると、地面が小さなクレーターみたいに凹んでひび割れていた。鎌を持ったままの彼女の視線につられて上を見上げると、屈んだ巨人の拳から砂利のような物がパラパラと落ちていた。

 巨人に殺されかけた。いや、俺一人だったら死んでいた。俺は助けられた。一歩間違えば自分も潰されて、いくら空が飛べても、自在に鎌を扱えても、潰されたら死んでしまうのに、彼女に助けられた。

 尻もちをついたような体勢のまま、足が勝手に震えて止まらない。本当に寸前まで死が迫った経験なんて初めてだ。そりゃそうだろ、俺はただの平凡かそれ以下の高校生なんだぞ。普通の高校生が一度だって、死と隣り合わせになんかなるものか。

 今の自分は、車道に飛び出た子どもみたいだ。そう思うと情けなくなった。

「俺の欲望は、モテたいんだ。女子にモテたいんだよ。それがなんであんな巨人になるのか意味不明だけど、でもそれしか心当たりがない!」

 気に入らないクラスメイトを睨み付けるみたいな、気の強い女子高生の目で、彼女は巨人を見上げ敵意をむき出しにしていた。しかし俺の声が耳に入ると、その表情がふっと緩んだ気がする。

「ああ、なるほど、それで」

 何かに納得した彼女は浮かび、巨人の顔の高さまで飛んでいく。

「あー、ヤマモト・デザイア・サトシよ、取引をしよう」

 ……何か、また脳が理解を拒んだ気がした。「え?」と聞き返したくなるような音が聞こえてきた気がする。

 記憶違いでなければ、彼女は化け物のことを「デザイア」と呼んでいたはず。で、俺の名前は山本聡だ。苗字と名前の間にデザイアを挟んだようなフレーズを今彼女が、俺の欲望から生まれたらしい巨人に向かって使っていたように見えたけど、どういうことだろう。

 ……信じられないくらいダサいその名前が、仮にそれが神の決めた呼び名であろうと、俺は受け入れる気がしない。

「トリ……ヒキ……」

「十秒、いや五秒でいい。そこで直立不動のまま動かずにいてくれたら、私がヤマモトくんの言うことなんでもきいてあげる。そういう取引、どう?」

「なっ」

 横で聞いていて唖然とした。彼女は敵情視察の意味で俺に接触してきたのだと思ってはいたけど、まさか情報をそんな使い方するなんて。

「ワカッタ……!」

 巨人はあわれにも、その場で気を付けの姿勢を取って微動だにしなくなった。すると突然巨人の腹にデジタルタイマーのような表示が現れる。「5」からのカウントダウンが始まった。

 両手で鎌をかまえて、巨人の首元へ突進していく死神を見て俺は思わず叫んでしまった。

「おまっ、おい! 卑怯だぞ!」

 俺の叫びは間違いなく彼女の耳に入ったけれども、しかし彼女の心には一ミリも響かなかったらしい。シャッ……と鎌の刃が巨人の首元を走ったかと思えば、巨人はうめき声を上げることさえなく、オレンジ色の暖かそうな光となって消えていった。そして俺は見た……巨人が完全に消え去るその時まで、光になりゆくタイマーはしっかり時を刻んでいたことを。

 そして巨人が完全に消え去ると、その光の中から何かが現れたようだった。「それ」は宙を漂いながらゆっくり下降していく。…………人だ。消えた巨人の光の中から現れたのは、無数の人間だった。

 よく目を凝らすと、どうやらそれらの人は全員が女性のようだった。そしてその人たちとは別に、死神みたいな鎌を背負った女子が一人、猛スピードで俺のもとへ飛んで来る。

「いやー助かったよ! 楽に済んだ! 山本くんのおかげ!」

「……どうも」

「不満そうだね」

 彼女がクルクルとバトンのように鎌を回すと、手品みたいにスッとそれは消えてしまった。RPGの勝利リザルトみたいだなと思ってしまう。

「アレ、たくさん浮いている人たち、もしかして巨人が……?」

「そうだろうね。閉じ込めてたんでしょ、自分の中に」

「…………」

「あー、デザイアは欲望が過激な形で化け物になるんだよ。気にしなくても大丈夫だって」

 俺の欲望から生まれた巨人が街を破壊して、人を捕らえていた。ビルを倒したりしていたのは、その付近に隠れた人間をあぶりだすためか……?

 少し、考えてしまう。もし俺が仮に、あんなような物理的な力ではなく、もっとリアルな力を手に入れたとしたら。そうしたら俺はその時、あんな風に人を捕らえようとするのか……? 超常の存在の化け物と違って物理的に閉じ込めるのではなく、もっと生々しい方法で、逃げられないように……。

 そうやって、力があれば俺はそんな風にして、自分の欲望を叶えようとしてしまうのか……? だとすればその時は、卑怯だなんだと抗議することも出来ず成敗されてしまって、それで仕方がないとしか言いようがない。

 俺は、自分が歪んでいく様を想像したのだろうか。それとも、自分が言い訳をする暇もなく、首を狩り取られる様を想像したのだろうか。自分の頭の中に浮かんだことが何なのか見定めるより先に、感情が言葉になった。

「怖い」

「うん? どうしたの……?」

「もし、もしも仮に、あんな化け物みたいな力じゃなくて、金とか権力とか、リアルな力を俺が手に入れたら。そしたら俺も見た目だけ人間で、化け物みたいになっちまうのかなって」

 口に出してから、いろいろあったとはいえ今日初めて会った女子に、俺はいったい何を言ってるんだろうと我に返ったけど、それでこっちが「なんでもない」と言うより先に、彼女が笑った。心底おもしろそうに笑っていた。

「そういうのは力を手に入れてから言ってよ」

「……それもそうか」

 たしかに、もしも仮にとかなんとか言っても、俺がそんな巨大な力を手に入れる日が来るなんて、まったく想像できやしない。それこそ空から降ってきてもらうくらいしか無さそうなのに、隣にいる空から降ってきた彼女が、全然俺に都合の良い存在ではないんだもの。やっぱり奇跡を空に期待するのは無理なんだ。

「あ、時間だ」

 今思い出したみたいにそう言うと、彼女はまたしても地面から足を浮かせて空中へ向かって行った。……でも心なしか、今度は自分の意志で飛んでいるようには見えない。まるで何かに引っ張られているみたいだ。

「じゃあね山本くん、お別れだ」

「え、ちょ、そんな急な」

「大丈夫! 時間が巻き戻るし、記憶もいろいろといい感じに調整されるよ!」

「はぁ!? えっ、なに、ちがう! なんだそれ!」

 行かないでくれと、俺は言いたかったのだろうか。それとも全部わかるように説明してくれと言いたかったのだろうか。あまりに急で自分の気持ちもはっきりとは認識できなかったけど、たぶんどっちもだ。

 結局、彼女が何者なのか知ることは叶わなかった。自分の置かれた状況が何であったのかも、たぶん半分くらいしか理解できていない。頭上に彼女が降ってきた時にはバラ色の人生の始まりを期待したのに、これじゃあ消化不良、肩透かしだ。

 でも、かけがえがない思い出になったのも確かだと思えた。記憶がなんとかって言ってたから、もしかすると一秒後にはそれも失っているのかもしれないけど、それは仮にバラ色の人生を手に入れていたとしても同じことだ。

 天高く上って行った彼女はすぐに見えなくなった。そして俺が唖然とする暇もなく、感慨を抱く暇もなく、快速電車の窓の外なんて目じゃなくらいの速さで、視界中の景色がギーッと横に引き伸ばされたようになって、わけもわからない捻じれた世界が俺を包んでいく…………。

 …………これといって食べたいわけではないのに、むしろ全然食べたくないのに、なぜ俺はポテチを持って自分の部屋へ向かおうとしていたのだろう。疲れているのだろうか、一人で居間に突っ立っている俺は、おつかいを終えて家に帰ってきてからのことを、まったく思い出すことが出来ずにいた。

 でも、なんとなく不思議な気分だった。悪くない気分だ。心なしか体が軽い。俺はポテトチップスを菓子類のまとめてある場所に戻してから、ゲームでもしようかと思い自分の部屋へ向かう。

 もしも部屋に彼女なんか連れ込んで、一緒に遊べたりしたら、きっと楽しいんだろうな……。それにそんな関係の相手がいれば、ただお喋りやゲームをして遊ぶ以外にも、もっといろいろなことを……。

 ……と、いつも通りというかなんというか、そんな妄想がまた勝手に湧いてくる。けれどもなぜか、一つだけいつもとは違う、何かしら予感のような物を俺は漠然と感じ取っていた。

 なんとなく、仮に自分の部屋に女の子を連れ込めたところで俺は、キョドってしまって楽しむどころではないような気がする。それこそ手持無沙汰の末にポテチなんか持って行って、微妙な空気の中黙々とそれを食べるみたいな。そんな図を想像すると、少し自分がおかしく思えて、俺は一人で笑った。

 こんなことだから、俺がモテる日はいつまでも来ないのだと思う。

 

 

 

 

 



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02 オンリーハイティーン・セカンドチャンス

 頭上には、今にも雨が降り出しそうな曇り空。それと高層ビルの天辺がそこかしこに。

 たかだか数駅移動しただけで、上京したての芋学生というわけでもあるまいに。初めて足を踏み入れる街へとやって来た私は、軽めの迷子になってしまっていた。しかしこちらは十代、現代っ子、現役女子高生。スマホの機能を最大限活かして、現状の打開を試みる。

「あ、ごめんなさい」

 地図アプリとの睨めっこに熱中しすぎてロクに前を見ていなかった。そのせいで不覚にも、冴えないにも程がある陰気なおじさんに肩をぶつけてしまった。結構がっつりぶつかってしまったので、因縁でもつけられたらどうしようかと一瞬身構えたけれど、どうやらそれは杞憂だったみたい。

 すると今度は若干怒りが湧いてくる。こっちはちゃんと謝ったのに、おじさんは何も言わずに、私のことなんか認識もしてないって風で通り過ぎていった。そりゃもちろん前方不注意で歩いていた私が悪いけど、それでもなんだか腹立たしい。あれだ、感じ悪いってやつだ。向こうだって私を避けはしなかったくせに。

 ……ところで、それはそれとしておかしなことが起こっている。私は駅から出て買い物をしただけで、今はこうして真剣に帰り道を検索しているというのに、歩いても歩いても一向にその駅へ戻れないのである。これは何か、GPSとかそういうあれが、おかしくなったりしてるんじゃないの?

 もはや直接通行人に道を聞くしかないのだろうか。人となりの知れない他人に話しかけることは気が進まないけれど、このままでは日が暮れそうなので仕方がない。それに女子高生(美人)から道を聞かれて嫌がる人なんてそうそういるはずが…………いやどうだろう、いるかもしれない。自分のことに必死な人って多いから、まさに今の私みたいに。

「……うん?」

 私は今、ちゃんと前を向いて歩いている。二度も肩をぶつけるわけにはいかないと思ったのと、誰に道を聞くべきか品定めしていたから。……でも、何か変だ。

 なにか、そう、みんなこっちを見てる。無数に歩いている赤の他人たちが、ほとんど全員こっちを見ている。どう考えても私を見ている。

さらに不気味なことに、それらの人たちはみんな血の気が引いたような顔をして、幽霊でも見るような目で私を見てきている。それにすれ違う時、過剰に私を避けるような動きをする。明らかに異常だ、というか失礼だ。

 これはどういうこと……? 事態を把握するため、私の脳みそはかつてないほど高速で働いた。そしていくつかの可能性に気付いた。注目されるような理由で、思い浮かんだのは三つだ。

 一、知らぬ間に服がめっちゃ汚れてる。二、何らかの事故でスカートがめくれっぱなしになっている。三、恐ろしい見た目の虫が私にくっついている。

 ……どれにもいまいち納得できなかった。ひどく汚れた服の女を見て血の気が引く人は極々少数派だろうし、スカートの説もそれは同じ。虫が付いてるというのも、なんというか、直感で違う気がする。たとえそれがどんなに気色の悪い見た目をしていたって、すれ違う他人のほぼ全員がこっちに不気味な視線を送りつけてくることなんかある……?

 しかし何にせよ理由はあるはずだ。そしてその理由はたぶん、下を向くとわかる。通行人たちがドン引きしながら見ている物が、私の目にも映るはずだ。……そう考えると私も洒落にならないレベルで怖くなってくるし、もう下向けないんだけど。知らぬが仏って言葉もあるくらいだし……。

 けれどそう考え始めてから少し、お腹のあたりが重いような気がしてきた。知らぬが仏の仏は、だんだん私から遠ざかってしまっているように思えてならない。ものすごく嫌な予感する。虫じゃありませんように虫じゃありませんように虫じゃありませんように……。

「あ、あなた……」

 突然、私の母と同じくらいの年齢と思われる女性が、私のお腹あたりを指さしながら話しかけてきた。ああ……やっぱりそのあたりに何かあるんだ……。と、軽い絶望感に見舞われる。

それにしたっておばさんのリアクションは何か大げさすぎる気がするけど、でも嫌だな、指さすくらいなら助けてほしいと思う。

 私は真実を知るのが恐ろしくて、面接かってくらいにおばさんの顔だけを見つめて言う。

「えっと、何か付いてますか……?」

 おばさんの声は震えていた。

「それ、刺さってるの、それ……!」

「刺さってる?」

 どうやら虫じゃないっぽい。なんだ、そうと分かれば何も怖くない。

だったら、この異様な視線の答えを確かめよう。そう思って私は下を向いた。何の覚悟もせずに、落とした小銭を拾う時みたいに、空っぽの頭でそれを見た。

 ……どこか別の場所でも、それを見たことのある気がした。握りやすそうな形をした、黒色のグリップのような物。……家だ、家で見た。私はそれによく似た物を、自分の家の……台所で見たことがある。

ありふれた「物体」だった。私は、そんなことをしている場合じゃないのに、なぜかしばらく「これは何て呼ぶ物だっけ?」と考えて立ち尽くしてしまった。脳みそが理解を拒否したのかもしれない。

「……柄だ」

 柄。下を向いて見えたのは、刃物の柄。料理包丁よりは小さいけれど、例えば人を殺すには十分そうなサイズの刃物が、私のお腹に刺さっていた。

 気付いた時には服が目も当てられないほど赤黒く汚れていて、そこだけぐずぐずと湿っていた。その一部分だけが、雨の日にずぶ濡れになった時みたいだ、と思った。

 凶器を突き刺せば人間の体から血がそんな風にあふれ出るなんて、私は今までどこか信じていなかったのかもしれない。

「あ、あっ、や」

 上手く言葉が出なかった。なんとなく、柄が掴みやすそうだったから、私はそれを握った。

「いっ……!?」

 は? と何かを疑うほど痛かった。たぶん疑ったのは神様だ。か弱い人間の神経が、こんなに鋭く痛みを伝えるように出来ていていいのかと、正気を疑った。それで反射的に手を放したおかげで、ああそうだそういえばこういう時は、刺さっている物を抜いちゃダメって漫画で読んだんだったと思い出す。

「え……」

 突然、景色がぐるぐる回りだした。いつか雨を降らしそうだった空の灰色が、逆上がりしている時みたいに何度もぐるんぐるんって回る……。

 そのうち、人の足ばかりが見えるようになった。悲鳴みたいな物も聞こえるけど、なんでだろう、つんざくようで不愉快な高音がこっちへ向かって飛んできているはずなのに、でもどんどん遠ざかっているみたいだった。遠ざかっていく音のことを「あれはどんどん大きさの増している音だ」と、理性だけで理解しているような感覚に陥る。

 自分が地面に倒れたのだということを理解するまで、何秒かかったのかわからない。理解が追い付いてきても、まだ頭がぐらぐらする。視界がずっと手ぶれするみたいに揺れている。慌ただしく人が動いているのだということが、気持ち悪い妖怪みたいにぐちゃぐちゃがちゃがちゃ動く足の群れでかろうじて分かるけれど、あれは何のために動いているんだろう。

もしかして無数の足は、私から逃げているのだろうか。それじゃ困る。してもらわなければならないことがあるから。無数の他人には、どうしてもやってもらわなきゃいけない。私はまだ、死にたくない。

 こんなに人数がいるんだ。一人くらい出来るはず。本当なら全員わかってなきゃいけないくらいだ。こんな時どうするのか……なんて考えるまでもないでしょ。救急車。誰でもいい、一人でいい、早く呼んで。すごく寒い。悪寒ってやつがする。

「は……は……」

 声が上手く出せない、それどころか今さら気付いたけど、呼吸も上手く出来てない。すごく寒い。ずっと音が聞こえる、がやがや言ってるばっかで何がなんだかわからない。無数の人の声が、クソの役にも立たない騒音だとしか思えない。

 音はどんどん遠ざかっていく。視界に映る世界の色が薄くなった気がした。私以外の世界全部が、どこか遠くへ離れていくみたいな……。音も、熱も、全部取り上げられていくみたいで、その時ようやく私は、心の底から恐怖を感じた。

 もしかして、本当に死ぬの……? 嘘でしょと言いたいけれど、離れていく物が全部そのまま、私の死の実感だった。

いやだ、死にたくない。だって私はまだ、何もしていない。出来てないことばっかりだ。思い残すことばっかりだ。例えばほら、お酒も飲んだことないし、働くと言ってもバイト程度で、あとそれと、今は夜遅く出かけることも出来ないし、来週友達と遊ぶ約束もあって…………あとは…………あとはなんだ…………未練といえば…………彼氏? 結婚? …………いや、違うか、それは。別に処女を捨てたいわけじゃないけど。

 ともかく、とにかく、私にはまだやり残したことが山ほどある。何をやり残したのかさえはっきりとは分からないけど、それでも何かを大量にやり残している、死にたくない理由なんてその感覚だけで十分だ。明確な未練がなきゃ生きちゃいけないなんて決まりはないはずだ。死ぬなんて冗談じゃない。絶対にありえない。私は、私が死にたくなった時に死にたい。それは今でもないし、明日でもない、まだずっと先だ。

 ……けれど、死にたくないという気持ちは強まっていくのに、それは何かを成す様子がなかった。誰かが私の方に駆けつけてきて何か言っているけれど、もう何を言っているのか全然聞き取れない。視界もいよいよ揺れるどころか歪み始めて、何がなんだかよくわからないくらいボヤけてきたかと思ったら、だんだん暗くなっていく。そういえばまぶたを開いてるのか閉じてるのか、息をしているんだかいないんだか、全然わかんない。もう全部だ、全部がわからない。体の感覚全部。どっちが上で、どっちが下なのかも……。

 わかんないけど、でもとにかく寒い、寒いことだけはわかる。きっと冷蔵庫に閉じ込められたらこんな感じだろうと思う。冷蔵庫って物は内側から開けられないようになっているから、絶対に入っちゃいけないって子どもの頃言われたな……。

 ずっと、誰かが私に話しかけている。何を言っているのか聞き取れないのに、すごく小さな音に思えるのに矛盾してるけど、その人の声をすごくうるさく、うっとうしく感じる。いや、違う、みんなうるさいんだ。人の声がうるさすぎて、他の音が何も聞こえない。

 こんなに長く、ずっと待っているのに、救急車のサイレンが聞こえない。みんながうるさいせいだ。みんながうるさいから、いつまで待っても聞こえやしないんだ。私が暗くて寒い苦しみの中で頑張って耐えているのに、いつまで待っても、サイレンの音が聞こえないのは、他人の声がうるさいから…………。

 

 

 

 

 

 …………ふと気が付いた時には、何の音も聞こえないようになっていた。

 全部が無くなっている。人も、街も、空も、全部。私は咄嗟に確かめる……するとお腹に刃物なんか刺さっていなかった。それに服は一滴の血にも汚れてなんかいなかった。

 けれど変わっていな物もあった。暗闇だ。死にかけた私の視界がそのまま続いているかのように、上を向いても下を向いても、振り返ろうと何だろうと全方位完全に真っ暗闇。暗いというよりも、むしろ「黒い」とでも言った方がいいのかもってくらい、自分のこと以外は何一つと見えやしない。

 病院のベッドの上で目が覚めるのかと思っていた。両親がこの世の終わりを乗り切ったみたいな顔をして、寝たきりだった私の隣に座っているものかと思っていた。でも違った。ここは、いったいどこなんだろう……?

「ああ、お目覚めかな?」

「うわあぁ!?」

 突然のボイスに心臓を跳ね上がらせながら振り返ると、尋常じゃないほど近い距離におじさん(おじいさん?)の顔があって、さらに心臓が飛び上がった。比喩じゃなくて、マジで死ぬかと思った。

「そんなに驚かなくても」

「いや(ちけ)ぇ!」

 思わず語気が荒くなってしまう。が、思えばこのおっさんは状況的に、倒れた私を治療してくれた医者なのではとも思い当たった。

 異様に暗い部屋に患者を置いておく措置に、何かそうしなければならない理由があるのか……と考えると、もしかして私には何か後遺症が残ったんじゃないかとか、目をそらしたくなる内容ばかりが脳内をめぐっていく。

「あ、いや、すいません。ちょっとびっくりしちゃって……」

「んーいいよいいよ。こっちこそごめんね」

 おじさんは二~三歩身を引く。暗闇の中よく目を凝らしてみると、彼の顔にはいかにも威厳のありそうな白い髭がわしゃわしゃと生えていた。

「えっと、それでここはどこなんですか……?」

「どこ? ふむ……」

 私の至極真っ当な質問に対して、彼は白い髭を触り触り、わざとらしく考えているような素振りをしているように見えた。きっと答えなんてすぐ言えるに決まってるのに。

「どこでもない、と言うのが正しいかな。君にとって」

「はい……?」

「君は死んだのだよ」

 不思議なことに、サァー……っと、自分の体から血の気が引いていった。

「……すみません、ちょっと意味が」

「君は通り魔に刺されて死んだ。享年17歳……悲しいけどね」

「嘘だ」

「嘘じゃない。実際ここはすでに現世じゃないから、出口なんてない。納得できるまで探してみるかい?」

 ……なぜだかそれは、言われるまでもなく本能が理解しているようだった。ここに出口はきっと無い。死んだのだと言われれば、なんだか「そういえば」という気もしてきてしまう。

けれどそうやって、いくら本能が語りかけてきたって、納得はできなかった。

「っ……!」

 私は走った。得体の知れない男に背を向けて、暗闇の中を夢中で走った。いつか出口に、ドアか、窓か、そうでなくても壁に当たる、壁に当たれば壁を伝えばいい。とにかくここが「無」ではないことを確かめようと必死になった。

 そして、息が切れて、立っていられなくなるほど走っても、私は自分自身以外の何物にも触れられなかった。地面だけは、地面だけはこの暗闇の中にも確かにあるらしい。けれどもそれさえ目には見えないのだ。私が足で蹴り、背中で寝そべった「それ」が何なのか、目視ではまったく確認することができない。

 光も吸い込むような黒の中にポツンと浮かされているみたいなのに、重力は確かにある、地面もある。なのに何も見えない。自分の足元は奈落の底に落ちる穴のように暗く、地面なんかないように見える。なのに私はそこに立っているのだ。寝そべることもできるのだ。

「どう? わかってきた?」

「…………」

 返事をしなかったのは、走りこんだあとで酸素を吸い込むことに必死だから……というわけではない。一秒前までは確かにそのような状態だった。けれどまた足音もなく、突如私のもとに現れた白い髭の男が話しかけてきた瞬間、私の中から息苦しさは嘘のようになくなってしまった。それさえ何かの間違いだったかのように。

「さっきの質問にもう少しちゃんと答えよう。ここがどこか、名称でも座標でもない答え方だ。ここは私のプライベートルームとでも言ったところなんだよ。そして私は、神だ」

「神?」

「薄々気付いているだろう? 君たち人間が思い描くのと同じ、全能の神様だよ」

 あんなに走ったのに、そういえば私は少しも汗をかいていない。しかし喉が渇いたと思うと、いつの間にかペットボトルを握っていた。暗闇の中でも不思議とよく見えるそのボトルの中身は、スポーツドリンクのように見える。

 全能か……と頭の中で呟く。嘘みたいだけど、状況から察せられる全てが、私が生きていてどこかに監禁されていることよりも、ファンタジックな別の可能性の方が、よほど正しそうだと示していた。

「死ぬと神様に会えるんですか」

「普通は会わない。こんなところは経由せず、天国か地獄に行く」

「ならどうして私はここに? 17歳を出口のないプライベートルームに……って、いくら神様でも、それはちょっと、まずくないですか? ……ふふっ」

 ヤケになったのか、なんだかちょっと笑えてきた。相手が神でも人間でも、ここが現世でもあの世でも、今この状況ってつまり誘拐と監禁だ。成人もせずに死んだ哀れな女のことを、その死について眉一つ動かさず「悲しい」なんて言う男が、いったいどうしようっていうんだろう。

 閉じ込められたら、死んだことと同じだ。欲しい物は何も手に入らない。手に入れるための努力すらできない。私が死んでようと生きてようと、ここがどこだったとしても、何がどうなっていても全て同じことだ。私の現状は、自分の辞書に載っている「死」に当てはまってしまっている。

 こんなことになるなら意識を失ったまま二度と目覚ない方がマシだった……という意味では、今こそ私は死にたがっているのかもしれない。さっきまで生きたがっていたのに、おかしな話だけれども。

「うーん、なるほどね。そうだ、うん、まずい。もし私が独断で君をここに連れ込んでいるとすると、それは物凄くまずい。罰せられる」

「罰せられる? 神様が?」

「ああ、神だって法を犯せば罰せられる。神の世界にも法はあるのだよ。だから当然、神は一人じゃない。君をここへ連れてきたのは、みんなで決めたことだ。合法的なことだ」

「合法ね……」

 本人の知らないところで勝手に何かを決められて、こんなところに閉じ込められて、それで合法だなんて、神の世界もそれなりにクソらしかった。

 怯える子犬のような声が出れば可愛らしかったのかもしれないけれど、私はむしろふてぶてしく、どんどん自分の肝が据わってくることを感じる。

「つまり私に何しようって言うんですか」

「魔法少女になってもらいたい」

 神は即座にそう言った。

「……は?」

肝が据わったと思い込んでいた小娘は、面食らって思考停止してしまう。

「魔法少女になってもらいたい」

「……は?」

 呆然とする私の何を確認したのか、神様はこのまま話を進めても平気だと判断したらしい。もじゃもじゃ白髭男はそのままストーリーテラー気取りで、長引きそうな雰囲気を纏いつつ話し始める。

「君は知らないだろうけど、君のいた世界……つまり現世には、人間の欲望から生まれる化け物がいる。我々神はその化け物の処理に手を焼いているのだ。なぜ全能の神が手こずるのか、それはその化け物が、本来生まれるはずの物ではなかったからだ。イレギュラーな存在には神とて時に手を焼くこともある。しかし我々はそれを根絶やしにして、排除しなければならない!」

「いや、いや、待ってください。何の話ですか。何の話なんですかそれ」

「君に一つだけ問う。欲望から生まれる化け物……デザイアを狩り滅ぼす使命と引き換えに、もう一度君に命を与えよう。……そう言われたら、君はその使命を受けるかい?」

「いや、ちょっと待ってくださいよ!」

 両手を胸の高さで押し出して「ストップ!ストップ!」と全力の意思表示をする。

「なんですかその、デザイア……って化け物の名前? それやっつければ生き返らせてくれるって、そういう認識でいいんですか?」

「うむ」

 神は満足そうに頷く。言いながら冗談かと思う認識で合っていた。私の理解力がすごい。

一周回ってそろそろ冷静さを取り戻してきた私は、上げたままになっていた手をゆっくり下ろす。そしてじっくりと、質問をすることで話を進めていく。

「化け物なんですよね、そのデザイアってやつは」

「そうだ」

「それを退治するかわりに、生き返らせてもらえるんですか?」

「そう」

「……私が、化け物退治を?」

「うむ」

 ここから出て、もう一度元いた世界に帰れるのなら、そんなに嬉しいことはない。蘇れるものなら蘇りたいに決まっている。わけのわからない化け物退治のことは一旦聞き流すとしても、私は「生き返る」ということに物凄く惹かれた。

 死ぬとか生き返るとか、私にとってそんな事柄は、早くもファンタジーではなくなっていたのだ。理解力もすごいし、順応力もすごい。これは褒められるべきだろう、死ぬには惜しい人材だろう、そうだろう。

 といった具合で私は自己肯定感高めの人間を自負しているけれど、だからってまさか自分を全能だと思っているわけではない。だから神に言うことは一つだ。

「ただの女子高生が化け物なんか倒せるわけなくないですか?」

 瞬殺で返り討ちにされる未来しか見えない。化け物どころか、野犬や凶暴なカラスにさえ勝てない。

「もちろんそれは、こちらから「力」を支給する。神の与える力だ、心配はいらない。その力をもって化け物を退治してくれればいい」

「……なぜそれを神様ではなく私が? 力があるなら神様がやればいいのでは」

「我々はデザイアの元を断つことに忙しいのだ。わかっているとは思うが、人間の欲は無限だ。しかし欲望があってこその人間でもあるのだから、欲望自体を断つわけにはいかない。だから我々は「欲望が化け物を生む」という法則そのものを書き換える。……わかるかな、世界のルールを変えるのに忙しいのだ、我々は。その間君に、現物の数を少しでも減らしてほしいというわけだ」

「は、はぁ」

 まるでゲームみたいな話だ……と、ロクにゲームをやったこともない私が思うくらい、全然現実味のない話だった。

 でも要するに、その化け物が生まれること自体、神様にとって不本意なことらしいのはわかった。だから神様はその不本意を、言ってしまえば世界のバグを直すというわけだ。ゲーム感覚の話に聞こえるのは、たぶんそれが神のスケールというやつなのだろう。

「簡単に言うと「手伝い」だよ。我々が働く間、君にも出来る範囲で手伝ってもらいたいという話だ。引き受けてくれるなら、二度目の命という対価を支払う」

「それって……化け物退治って、すごく大変なことなんですか? 痛かったり、怖かったり、休む暇もなかったり……」

 そもそも化け物ってなんだよ、という疑問もある。神の言った通りなら、私の生きていた世界には化け物がいて、しかしなぜかそのことを私を含み誰一人として知らないのだという。そこからすでにおかしいけれど、順を追って聞いていくことにしよう。

「痛みからはあらかじめ解放しよう。暇については、君たちが言ういわゆる「ブラック」よりはマシ……とまでしか言えないな。多少忙しいことは否めない。何しろ神の手伝い、神でさえ手に追いきれない部分を少しとはいえ背負ってもらうのだ。十代の少女には酷な話かもしれないが、夏休みはあげられない」

「うーん……」

 悪い話ではないように聞こえる。そう聞こえてしまうことが、どうにも胡散臭い。一度死んでから生き返るって、そんなちょっとキツめなバイトみたいなノリで出来ることだっけ……?

 全能らしく私のそんな気持ちを察したのか、あるいは思考まで覗かれていたりするのか。神はさらに魅力的なことを言い出す。

「それに何だ、やってみて嫌となれば別に、その時点でやめてもらっても構わない。どうかな、試しに一度やってみるだけでも」

「試しに……か」

 その言葉は、天使がくれる贈り物なのか、それとも悪魔がちらつかせる契約書なのか。神様は私にとって善悪どちら側の存在なのだろう。何も分かりゃしないのに、正しく判断しろという方が無理な話だ。誰だってそう、胸を張って「こっちが正しい」と断言することなんか出来ない。

 だから誰だって、私と同じ状況に置かれたら、私と同じようになるはずだ。

「本当の本当に、後悔するくらいつらいことはないんですね?」

「少なくとも痛苦の類はない」

「あとから「やっぱり無し」って言うこともできるんですよね?」

「うむ」

「……本当に、生き返らせてくれるんですよね?」

「もちろん。約束する」

「……わかりました」

 そうして私は、魔法少女とやらになることを了承したのだった。

 

 

 

 

 

 姿見に映りこむ、生まれ変わった自分の姿を見る。ピンク色の髪が我ながら、期待していた通り可愛く仕上がっていた。

「染めてみたかったんです。ピンク」

 大きな鏡を前にしていることもあり、その場でくるっと一回転してみせたりする。そうやって満足感を全身で表現するも、隣に立つ神様は興味なさそうに無表情をつらぬいていた。それどころか時折、退屈そうに髭を触っている。失礼な人だ、こちとらJKだぞ。

 生き返るにあたって、私はデザイアという化け物を借る力の他に、望んだ容姿も提供してもらえることになった。とはいえ自分の見た目は前々からそこそこ好きなので大胆なチェンジはせず、いつかやりたいと思うばかりで実行しないままでいた、髪色のチェンジだけをお願いしたというわけだ。

「気に入ったなら何より」

「それで、支給してくれるって「力」は、具体的にどういう物なんですか?」

 鏡を見ているから余計になのか、力というのが「筋肉がムキムキになる」とかだったら、ちょっと今からでも断るかどうか真剣に悩むことになる。女子として、命と見た目どっちが大事なのかは、答えを出すのに永遠の時を必要としそうな大問題だ。

「具体的な形は君に決めてもらう。君の望むような力を与えよう。化け物退治に役立ちそうな内容を好きに考えてくれればいい」

「いや、そんなこと言われても思いつきませんけど……」

 日ごろから巨悪を打ち倒す妄想に明け暮れる小学生男子じゃあるまいし、化け物退治に役立ちそうな力とか言われても何も浮かばない。これっぽっちもピンと来ない。

「ならば例を出してみよう。腕力ではなく「意思」で動き、何物であろうと一太刀で切り裂く剣。目標をどこまでも追尾する、エネルギー無限の光線銃。嵐を操る魔法の杖に……ええとそれから……どんな物があったかな……」

 男の子の妄想を聞かされているかのような話ばかりされても、少年の心が私の中にはないのか、やはりいまいちピンと来ない。けれどもそこは私、理解力が高いので、考えるべき方向性だけは把握した。

「要するに武器を考えろってことですね」

「そういう解釈も間違っていない。もちろん何も持たず、サイコキネシスなどを使うことも選べるが」

「いや、武器にしましょう」

 武器の例をいくつも出されたあとにあえて手ぶらで使える力を選んで、それを武器以上に有効活用できる自信があるのかと言われれば、そんなもの当然これっぽっちもない。だからとりあえず武器を作ろう。形から入るってやつだ。

「わかった。それでどんな?」

「どんな……うーん……」

 自分が手にする武器について、具体的に想像してみる。性能については最悪神様におすすめを聞けばいいけれど、大事なのは見た目だ。自分が身に着けるのだから、見た目だけは妥協できない。

 しばらく悩み、あれでもないこれでもないと頭の中に浮かぶイメージを吹き飛ばして、ようやく正解と思しき答えにたどり着いた。

「じゃあ鎌にします」

 髪を染める話をして以降興味なさげだった神様が、初めて私の顔をまともに見た。

「鎌?」

「こーんな大きい、私の背と同じくらいの大きさの鎌にしてください。死神の鎌みたいなやつ。あ、でも刃の部分は出来るだけ細身でお願いします」

「構わないが、なぜそのチョイスなのか、一応聞いておいても?」

「武器の中で一番かわいいからです」

 剣はザ・男の子の武器って感じがするし、そうでなくてもシンプルすぎる。槍はなんか、直感的な「切る」という動作ではなく「突く」をわざわざ選択するあたりインテリ感というか、意識高い感じがしてピンと来ない。ハンマーとか斧とかもデザインの時点で筋力ありきで野蛮な感じがするし、かといって杖はいかにも非力な女子、あるいは魔法少女向け(そもそも魔法少女ってなんだよという疑問はさておき)って感じで芸がない……と考えるうちに至った答えが、大きな鎌だった。

 考えてもみてほしい。武器を持っていること自体おかしいって話は一回忘れることにして、デートの待ち合わせ場所にいる女の子が持っていて一番かわいい武器は何かってことを。剣か? 槍か? ハンマーか? 斧か? それとも杖? いやいやいや、鎌でしょう。すらっとしていて曲線がおしゃれで、ちょっと得体の知れない感じが素敵だ。

「かわいい……? 鎌が?」

「かわいくないですか? 大きいやつですよ。すらっとしていて長いやつ」

「武器にかわいさを求めるなら、個人的には遠距離系を推すが」

 遠距離、そう言われてはっとした。真っ先に思い浮かべたのは弓道部の女子だった。なるほど確かに見た目は満点かもしれない。考えもしなかった。神様が最初に剣とか言うから。

 けれどよく考えてみると、遠距離系なんか最初から選択肢になかった。というのも、私はボールを狙った箇所に投げるのがものすごく下手だし、射的も当てられた試しがない。ならきっと弓も苦手だろう。

神様の力で「必中の能力」を持った遠距離武器を用意してもらうにしても、本来自分がこれっぽっちも扱えない代物を、わざわざこの特別なタイミングで選びたいとは思わなかった。

「いいです、鎌にしてください」

「ふむ。それなら、その鎌に付ける「力」の内容はどうする?」

 それについては武器の形が鎌に決定した時点で、一つ絶対条件を決めていた。

「力っていうか、やってほしいことなんですけど。物理的には絶対何も切れないようにしてください」

「ほう」

「ほら、鎌って刃ですし、むき出しの。ちょっと触ったら怪我するとか嫌だし。それにあと、こう、化け物をブシャーってやって、血みどろとかそういうの無理です」

 グロいのが特別苦手というわけではないけど、猟師から「やり方を教えてやるから肉の解体を手伝ってくれ」と言われたら、それはなんとしても断りたい程度の感覚はある。どうせ神様に何でもありの力をもらうのだ、嫌なことは避けよう。

「なるほど。ではこういうのはどうだろう? 形はあるが、質量がない鎌。触れる物すべてをすり抜ける、実体のない鎌」

「ああ、いいですね。そういう感じでお願いします」

 神様はもしかして、いわゆる中二病ってやつなのでは?

すらすらとそれっぽいことを決めてくれる神様にそんなことを思ったけれど、賢い私はそれを口にしなかった。私はコミュ力もあるのだ。

「しかしその鎌で戦うのだから、それ相応に適した力も必要になる。すり抜ける鎌なら例えば……通り抜けた物から「何かを断つ」という能力はどうだろう? 化け物の「存在を断つ」ことが出来れば一撃必殺の武器になる上、その他様々な、自分に都合の悪い物を断つことができるが」

「それでお願いします」

 私の目的は生き返ることであって、かっこよく化け物を退治することじゃない。むしろ化け物退治は、出来ることならやりたくない部類だ。だからたぶんこの先この話題で、私は「それでお願いします」しか言わないのだろうなと予感した。出来るだけ楽をすることと可愛さを求めること以外、まったく興味が持てない。

「了解した。ではそれに加えて「触れずとも動かせること」「自由に出し入れが出来ること」「大きさを自由に変えられること」を能力とする。それと一応質量を得ること、「実体化」も任意で可能ということにしておこう。それでいいかい?」

「はい」

「よし。では君にこれを授ける」

 神様が右腕を横に伸ばすと、その手中に柄が収まるよう丁度よく、大きな鎌がパッと現れた。あまりにも一瞬の出来事だったけれど、きっとこれが神様の言う「作る」なのだと理解する。

鎌を手渡されて持ってみると、新聞紙よりも軽かった。

「柄だけは常に実体化するようにしたが、刃の部分は全てをすり抜ける」

 言いつつ、神は刃の部分に手を通す。鎌の刃は注文通り、映像みたいにその手をすり抜けた。「何かを断つ」能力っていうのも、この調子ならしっかり備わっているのだろう。

 さらに言われるがままチュートリアルを進めると、確かに触れるまでもなく意思だけで鎌を動かすことが出来た。大きさも思うまま変わるし、消えろと思えば消えて、出てこいと思えば現れる。言われていた通り何もかも思い通りだった。一応刃の部分も実体化を試してみると、確かに冷たい金属の類に触れることが出来るようになった。使うことはない機能だろうけど。

しかし、そうやって武器を扱う練習をするうちに私は、何でも思い通りになるであろう神の力の、その一部を授けられてわくわくするというよりむしろ、じわりとした恐怖が湧いてきた。なんというか、デスノートを拾ってしまったような感覚だろうか。

「……どう? 扱えそう?」

「ああ、はい」

「なら次の話に移ろう」

「はい」

 魔法少女になるにあたって、他にすること。望んだ容姿と二度目の命を与えられ、使う武器を決めた次は、

「衣装についてだけれど、もちろん必ず特別な物を用意しなければならないわけじゃない。が、せっかく魔法少女をやるのなら個人的には……」

 あーだこーだと話す神様。「衣装」という響きに魅力を感じないわけじゃないのに、そのノリにまったくついていけないのはなぜだろう。どうも私は神の話が好きじゃないらしい。

 希望を出せば出しただけ叶えてもらえるというのに、我ながらわがままなことだった。

 

 

 

 

 

 魔女のような黒いローブを身にまとい、身の丈ほどある大鎌を背負った私は、扉の前に立っている。ローブはフード付きだ。

「それではいよいよ、君には魔法少女として旅立ってもらうことになる。その扉を開けばそこは現世、晴れて死者蘇生だ」

「はぁ、なんか実感ないですね」

「すぐに慣れるさ、きっと。……そういえば魔法少女は活動名として本名とは別の名前を設定出来るのだが」

「いや、あとあと考えますそういうのは。やってみないと続けるかもわかりませんし」

「うむ」

 自分の名前どころか、その気になれば武器や着ている服など、あらゆる物にオリジナルの名前を付けられるらしいけど、それにはあまり興味がない。何かしら呼ぶための響きが必要だとは思うけれど、何より大事なのは見た目だ。

 いざ蘇り……と扉を開く前に、神様からスマホを渡された。それはスマホを模した神々との通信機であり、現世にいながら神の世界との交信を取るための道具らしい。同じ道具同士で連絡先を交換することも出来るらしく、つまり魔法少女とやらはすでに、私以外にも複数人存在しているらしいけど、そういうことも考えるのはあとにする。まだ何も始まっていないのだから。

「じゃあ、行きますね」

「健闘を祈る」

 ドアノブに手をかけて、出来れば戦いたくなんてないんだけど……と思いつつも扉を開く。途端、眩いばかりの光があふれだし、私はそれに包み込まれた。真っ暗闇の空間から一転して、眩しすぎて白い空間に投げ出されたようになる。

 思わず目をつむったまま、神に抗議の言葉を投げつけようとした。ちょっとこれどういうことなの、って。しかしその前に肌で風を感じる。自転車で下り坂を全速力で走る時のような、風を切る感覚がひどく懐かしく感じる。

 ハッとして目を開けると、世界は青かった。青い空だ、白い雲も浮かんでいる。蘇生日和とでも言うべきか、扉の外は清々しい晴天だった。

 けれどすぐに気が付く。空が……近すぎる。それに自分が感じていたのは、風を切る心地良さではなかった。これはジェットコースターで落ちる感覚だ。重力というより、Gと表現したくなる感覚。生き返って早々、命の危機を感じるようなこれは……。

 私は、空高くに投げ出され、落下している最中だった。我ながら死んだ時同様、生き返った時も状況を把握するのが遅すぎる。何が高い理解力だ!

「くっ、ちょ、これ、死っ……」

 抗議しようにも神はもうここにいない。けど二度も死ぬなんて御免だ。

せっかく特殊な力を持った鎌を背負っているのだから、これでなんとか出来ないかと考える。そうだ、例えばこれが意思の力だけで動くなら、空中に浮いてとどまることだって出来るはずだ。魔法少女とはよく言ったもので、つまり私は魔女のイメージ通り、箒ではなく鎌で空を飛べばいい!

 と背中の鎌に手をかけた時点で、ポケットの中のスマホが震えていることに気が付いた。耳を澄ませてみると、ビュウビュウ鳴る風切り音に紛れて、着信音のような物も鳴っている。

「もしもし!?」

「騙し討ちのような形になって済まない。けれどこれもチュートリアルなんだ」

「はぁ!?」

「魔法少女は空を飛べる。「飛べる」と信じてみたまえ」

「……はぁ!?」

 それが本当だとして、いきなり空中に投げ出すなんて許せない……。腹の中に怒りを溜めつつ、飛べ……飛べ……! と念じてみる。すると体がふわっと浮かび上がり、ぷかぷか浮かんだまま停止した。あまりにもあっさり飛べた。試しに念じてみると、鳥が飛ぶように自在に空中を動けた。

「あ、飛べた」

「うむ。魔法少女の移動は基本的に飛行で行う。飛行状態でいる間、何者にも認識されないようにこちらで設定しているからね」

「なんで先に言わないんですかそういうことを」

「……二度目の人生のスタートは、劇的であるべきだと思わない?」

「良い意味でなら、思うかもですけどね!」

 紐無しバンジーを良い意味とは言えない。二度目の人生であるばっかりに、人間は死ぬということをとてもよく理解しているからなおさらに。

「それじゃあ悪いけど、さっそく仕事の話だ。まぁ研修期間のようなものだ、気軽にやってくれたまえ。まずはそのまま下降して着地してほしい」

「はいはい。やってみます」

 私、やっていけるのかな。せっかく生き返ったのに、初めに浮かんできた気持ちはそういった物だった。

 



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03 いざデビュー戦へ

「おお、帰ってきた……」

 着地して眼前に広がる光景は、なんの面白みもない普通の住宅地だった。あの暗闇に満ちた神の部屋からしてみれば、かなり生きている実感のある場所に舞い戻ってきたけれども。

 とはいえここがどこなのかはわからない。特別暑くも寒くもないけれど、知らない土地は知らない土地だ。まさか国外ということはないだろう。

 ……私が一度死んでから、世界ではどれだけの時間が経ったのだろう? 浦島太郎になってるわけじゃないとしても、なんだか私は今、妙な感慨深さを感じている。まるで数年ぶりに故郷に帰ってきたみたいな……。生前は引っ越し経験ゼロの実家暮らしだったけれども。

 と、死者蘇生の余韻に浸る間も少なに、ポケットが震えた。また神様からの着信だ。

「もしもし」

「着陸した?」

「しました」

「よし」

「ここってどこなんですか?」

 聞きつつ思い出す。あの時は話半分に聞いていたけれど、神は、私の髪を染め服を用意するついでに、注意事項を話していたことを。

 例えばそれは、生き返ったあとの私が、元の身分を主張することの禁止。死んだはずの人間が蘇ると大騒ぎになり化け物退治どころではなくなるから、別人として生きろとのことだった。あまり嬉しくはないけど、了承しなければ生き返れないのだから仕方がない。

 そして大事なのはそれに伴い、身内との接触が禁止されていることだ。だから私は親に会いに行けないけれど、こちらから行かなくたってどこかでばったり会うことがないとは言いきれない。ということは、ここは私が住んでいた地域から遥か遠方にある土地なのでは? と考えられるわけである。それならばったりも何もない。

「どこと言われても、県で言うなら千葉県かな。ネズミの国がすごく近くにあって、そこからまっすぐ進んで大きな道路に出ると、大きな城が遠くに見える」

「へえー」

 推測に反して自宅は思いっきり近かった。東京の名を冠する千葉県の物の中で一番偉大なあのランドとシーは、元々電車で一時間とかからない距離にあったのだ。その気になれば歩いてでも帰れないわけじゃない。魔法少女になった分、空も飛べるならなおさら。

 魔法少女特有の力で空を飛んでいる間は誰にも認識されないって話だったから、ばったり会った時はそれでなんとかしろってことなのかもしれない。

「あー、本当だ見えますね、城」

「デザイアを倒したあとなら遊びに行っても構わないよ。知り合いに知り合いとバレなければの話だけれど」

「え、お金は?」

「単なる遊び程度ならこちらでいくらでも出す。命がけの仕事をしてもらうわけだからね」

 神の話した注意事項その二、魔法少女が死亡した場合、再びあの暗闇へ戻され、リトライするかどうかを問われる。約束通り、魔法少女は死ぬほどの目に遭っても苦痛を感じないらしいけれど、死亡後辞退したければ出来るらしい。

 だから確かに化け物退治はとんでもない仕事だけども、命がけと言われてもいまいちピンと来なかった。ピンとは来ないけど、お金はもらえるならもらえるほど良い。

 ちなみに身内バレ等の不祥事を起こすと、強制的に命を奪われ、リトライの権利も剥奪され、私はあの世へ送られるらしい。呑気に遊園地で遊んでいられるのかというと怪しいところだ。しかし遊園地にも満足に行けない命だなんて、そこに価値がないのも事実。

「ところで、チュートリアルはまだ終わっていないのだけれど、説明に入ってもいいかな」

「え? あぁ、はい」

 武器の使い方を習い、注意事項を聞かされ、不意打ちで上空へ投げ出されての飛行訓練も終えた。それでまだ続きがあるとは、嫌に長いチュートリアルである。

 とはいえバイトでマニュアルを渡され、それをペラペラーっとめくった時も、似たような感想を持ちはしたけれど。

「まずは今回のターゲットについての説明だ」

 ターゲット。神様がデザイアと呼んでいる、人の欲から生まれる化け物。一口に化け物と言われてもいったいどんな物なのか想像もつかない。バルタン星人みたいなやつかもしれないし、ゴジラみたいなやつかもしれないし、足のないお化けみたいなやつかもしれない。

 ……はっきり言って不安だ。空を飛べる、特殊な鎌を持っている、苦痛と無縁で命は一つじゃない。それだけ揃えば特別感というか、自分が「出来る奴」になったような気分が、正直そこそこには湧いてきている。けれどもその勢いで「怪人だろうと怪獣だろうと倒してやりますよ!」と言えるのかといえば、全然そんなことはないのである。

「これから送る住所に、これから送る顔写真の男が住んでいる。こちらの調べでは、本日中にその彼からデザイアが発生することになっている」

「はあ」

 デザイアの発生は天候の崩れのようにある程度予見出来るらしい。そこまで出来るなら退治までやればいいのにと思うけれど、実際は「忙しい」と言ってそうしないところからするに、神様の言う予見は何かしら自動的な物なのかもしれない。もっと言えば、神の力を持っても退治までは自動化出来ていないということか。

「デザイアは人の欲望から生まれる化け物だ。だから当然、それぞれが各々の欲望の影響を大きく受けた存在となっている。恐ろしく個体差のある物なのだと、まずは事前に承知しておいてほしい」

「はあ、まぁ、はい。……見てみないことには何とも言えませんけど」

「うむ。それはそうだと思うが、しかし君にはミッションがある」

「化け物退治以外に?」

「以外と言えるかは微妙なところだ。デザイアの情報収集をしてほしい……というか、そうすることを推奨したい。君がターゲットの男性と接触して、彼の内に潜む欲望を把握すれば、デザイアへの対策も練りやすくなるだろう。ぶっつけ本番で化け物退治に当たるのも悪くはないだろうが」

「え、そこは神様がスーパーゴッドなパワーで欲望の詳細を調べて、私に教えてくれたりしないんですか?」

「しない」

「なんで」

「できない」

「なんで」

「神は忙しい」

 魔法少女そのものはブラック企業的でなくても、その上にいる神様たちがブラック体制の中にあるのでは、結局はその影響がこっちにまで来てしまう……っていうことだろうか。神様に十分な暇があればそもそも私は生き返れなかったわけだから、ここは何とも言えないところだけども。

「だから情報収集は任せる。……とはいえデビュー祝いに一つアドバイスをしておこう。デザイアの出現位置は、必ずしも欲望の主と同じ場所になるとも限らない。が、そこまで離れることはないから安心して頑張ってくれ」

「なんか、大変そうというか、面倒そうというか」

「そこは二度目の命の対価だと思ってもらうしかない」

 それを持ち出されては何も言い返せない。なんやかんやぼかしているけれど、実際私の命は神に握られているのだ。……あまりいい気分じゃない。

「それじゃあ、健闘を祈る」

 説明するだけして、通話は切れた。直後、地図付きの住所と若い男性の顔写真が送られてくる。写真の下には男の名前と年齢が書いてあった。橋本典行、二十歳。

 

 

 

 

 

 写真を見た限りでは、ターゲットの男性とやらは明らかなオタク系だった。決して醜いわけではなく、服に美少女がプリントされているわけでもなく、見ようによっては「普通の人」とも言える見た目だけれども、何をもってしてオタクだと思ったのかというと、こう、……爽やかさが欠片もない。

 活力だとか、健やかさだとか、そういう物がまったく感じられない。見るからに不健康というと言い過ぎだけど、たぶん趣味は引きこもって漫画かゲームだろうな、という感じ。そして知性的にも見えない。彼のような人が教室の隅で小説を読むとすれば、表紙を隠しもしないライトノベルが似合いそうだと思う。さらに言うなら、「視力が落ちたので致し方なくかけました」といった具合の、まるで似合ってないメガネが気に食わない。

 そして何よりその写真から伝わって来る雰囲気が、心の底で他人を馬鹿にしていそうな感じが、この時点でさえどうにも気に食わなかった。絶対仲良くなれないタイプだ。

 神様は彼の家へ行き、彼と接触して、出来れば欲望の詳細を知れ、というようなことを言っていたけれど、正直まったく気は進まない。

 しかしそこであることにも気が付いた。若くして死んだ女性が皆チャンスを与えられて魔法少女になるのかというと、まさかそんなことはないだろうと思っていたけれど、だとすれば今私がここにいる理由も、クジ引きで決まった結果ではない。見た目で決められたというのも、たぶん違う。

 私が魔法少女に選ばれたのは、平均かそれよりちょっと上くらいには持っているであろう、コミュ力を買われたのだ。そうに違いない。それかコミュ力があって、なおかつ見た目がいいからかな?

 言われるがままする以外にないので、私は地図を見ながら目的地に向かう。が、それで自分が死ぬ直前のことを改めて思い出した。そう、あの時の私は迷子になっていて、地図を使ったってそこから脱出出来なかったのだ。生き返らせてもらっておいて何だけど、これは人選ミスじゃないか……?

 と思ったら、神様から支給されたスマホに入っていた未知の地図アプリは妙に優秀で、案内されるがまま歩いていると、それらしき家の前にあっさりたどり着いた。やはり生前のあれはGPSが狂っていたのだと思う。

「さて……」

 見慣れない家の前で立ち尽くす。私がやるべきことは、インターホンを押し、おそらくは家にあげてもらって、情報収集とやらをすることだ。……やっぱり気は進まないけど、そのための鎌である。

 デザイアを退治しに来た魔法少女です、情報収集にご協力を! あなたの欲望聞かせてくださいな! ……と知らない人から急に言われたら、誰でも警察への通報を考える。が、もちろんそれでは困る。だから鎌の「断ち切る」力を使う。不信感や違和感の類を相手から断ち切り、私と関わることを自然なことだと思い込ませる。

 鎌の力は道中すでに確かめてきた。大きな鎌を背負った女が道を歩いていて二度見しない通行人はいない。だからその人たちに鎌を使った。今何の騒ぎも起こっていないことが、この鎌の力の証明だろう。

 覚悟を決めてインターホンのボタンを押し込む。先行きは不安だけれど、どの道上手くいかなければどうしようもないんだ、やるだけやってみよう。

「どちら様ですか?」

「えっ」

 驚いた。スピーカーから聞こえてきたのは若い女性の声だった。あの冴えない男に恋人が……!? と思ったけれど、よく考えたらたぶん姉か妹だろう。

「……あー、えっと、ノリユキくんの友達です」

 多少のことは強引にでも押し切って、なんとか彼女に玄関を開けさせなければ。断ち切る相手が見えないことには鎌の力も使えない。

 いや、それとも「鍵」を玄関ドアから断ち切ってしまえば、勝手に潜入することも出来たのだろうか……? ちょっと初っ端からそんなことをする覚悟はないし、事が済んだあとの橋本家のことを考えると実行することはないけれど。

「友達? 待って、今開けるね」

 扉はあっけなく開いた。出てきた茶色い長髪の女性はきっと私より年上で、髪色でもファッションでもなく、顔からギャルっぽさが滲み出している人だった。ギャルか、そうでなければヤンキー。

 背負った鎌に手をかけ、彼女目掛けて振り抜く。そのままの長さでは明らかに届かない大鎌は、瞬時に伸びてちょうど彼女の首元をすり抜けた。

「すみません、突然来てしまって。初めましてですよね」

 白々しく言う。

「えぇ、そうね。あいつに女友達がいたなんて初めて知った」

「実は私も、お姉さんがいるなんて知りませんでした」

「あぁ、まぁそうかもね。とりあえず入りなよ」

「お邪魔します」

 あっけなく潜入出来てしまった。さすがは神の作った鎌といったところか。もしも生き返りだの魔法少女だのという流れも無しに、生前に突然これを入手していたら、力に溺れてしまっていたかもしれない。

 しかし力といえば、私の直感力も侮れない。やはりあの女性は橋本典行の彼女なんかではなかったのだ。そうだろうとも、そうだろうとも。

「ちょうど昼ご飯出来たところなの、食べていかない?」

「え」

「作りすぎちゃったし、……あなたと弟の関係もちょっと気になるし」

「いや、関係って……。何もないですよ」

「まぁまぁ」

 初対面の人間とのコミュニケーション的距離感がものすごい人だなとは思いつつも、変に逆らって話をややこしくしたら、鎌の力をもってしてもどうにもならない状況となってしまうかもしれない。言われてみればお腹が空いているような気もしてきたし、お言葉に甘えておくことにする。

 リビングに通されると、底の深い鍋がコンロの上に乗っているのが見えた。パスタでも茹でていたのだろうかと想像していたら、実際テーブルの上にペペロンチーノが並べられていく。

 手伝いましょうか、って言った方がいいのかな……と一瞬迷っている隙に、

「その鎌、本物?」

 と、向こうから話しかけてきた。

 正直、ギクリとする。彼女の現状へ違和感を抱く感覚は、鎌で全て断ち切ったはずだ。だからこれは何も探りを入れられているわけじゃない。そのはずだと信じようとしても、ギクリとするものはしてしまう。これでもこんな悪い意味で非日常的なことをするのは初めてなのだ。

 むしろ上手くやっている方だと褒めてほしいくらいである。仮に世界が全て自分に都合のいいように回ったとしても、赤の他人の家に涼しい顔して上がり込むことが誰にでも出来る所業だとは思えない。

「いや、偽物ですよ。刃物をむき出しで持ち歩いてたら危ないじゃないですか」

「そっか。だよね。よく出来てるなーと思って」

 出てきたペペロンチーノは、見るとなんだか鷹の爪の量が多い気がした。露骨に多いわけではないし、気のせいかもしれないけど。

「あれ、聞くの遅れたけど辛いの平気?」

「あ、はい」

「よかった。じゃあ弟呼んでくるから、お先にどうぞ」

 初対面の間柄でそう言われて、その通りにする人がいるのか……? と思わせられる台詞を残して、橋本典行の姉はどこかへと消えていった。足音からするに二階へ向かったのだと思う。

 当然私はパスタに手をつけることなく、かといっておとなしく待つこともせず、鎌を握って部屋の出入口に立つ。鎌を使うのは初めが肝心だ、不意打ちが肝心だ。他人から違和感を断ち切るということが、何が起こっても私に不都合ない状態を作る力なのかどうか、いくら神様の作った鎌だろうとまだ過信することは出来ないから。

 帰ってきた二人分の足音に身構えて、目が合うよりも早く、橋本典行へ向けて鎌を振り抜いた。刃は彼を無事すり抜ける。

 そして彼は、確実に鎌の力を受けた「その後」で、私に訝しげな目を向けたのだった。

 しまった……と、そこで自分のミスに気付く。彼の友達だと言って家に上がったのはまずかった。

「……どしたん?」

 突然立ち止まった弟に姉が言う。きっと彼女は「友達の女子が来てるぞ」とでも言ったんだろう。彼はそこでまず違和感を抱いたはずだ。彼に女友達がいるなら「なぜ突然?」、いないなら「誰だ?」と。しかし何にせよ事実リビングまでは降りてきた、そこまではいい。

 けれど実際私を見た彼は、やはりこいつは知らない人間だと認識したはず。そこから違和感の類を断ち切ったって、それだけじゃダメだ。この鎌にあるのは断ち切る力だけ。ありもしない記憶を植え付ける力なんてない。橋本典行は私を「敵」だとは思わなくても、やはり「誰だ?」とは思っているはずなんだ。

「いや、別に」

 言って、彼は何事もないかのように席に着く。

 それから三人で喋りながら食事をした。二人はいつ知り合ったのと聞かれると、彼が「ちょっと前にゲーセンで」と答えた。彼女はどんなゲームが趣味なのと姉が聞けば、やはり弟である彼が「この人はUFOキャッチャーばっかりで、ゲーマーとはちょっと違うんだ」と答える。

 私は「デカいぬいぐるみとかが好きで、でも買うのと取るのとでは気持ちが全然違うんですよ」と、心にもない出まかせを言って話を合わせる。人間追い込まれると、嘘なんていくらでも紡げるらしい。

 食べ終わったら、彼は「じゃあ俺ら部屋でゲームするから。下手くそは来んなよ」と姉に向けて言い、「ついて来い」と言わんばかりに私の肩を叩いてきた。やけに友好的な対応を不気味に思いつつも、私はそれに従うしかない。

 階段を上り、彼の部屋に入って、ドアは閉められる。お互い適当な場所に座ったあと、冷や汗をかきながらほとんど青ざめていたであろう私に、ついにその言葉は投げかけられた。

「で、誰?」

「……あー」

 やっぱりそうだ、彼は私を友達だとは思っていない。そりゃそうだろう理屈通りのことだ。

 意外だったのは、彼が私を庇ってくれたということ。鎌の力を使いつつあからさまな嘘をつくとこうなる……という例でもあるけれど、それを踏まえてもきっと彼の根は善人に違いない。

 そしてその「彼は善人である」という事実が、失礼ながら、私にとってはとても意外だった。なぜかといえばまた失礼を重ねることになるけれど、つまりこれが「人は見た目によらない」というものだった。

「名前は、その、まだないんですけど」

「はぁ?」

「ご、ごめんなさい」

 本名を名乗ることは禁じられている。通り魔に刺されて死んだ女子高生として私は広く報道されてしまったらしいので、余計な騒ぎを避けるために本名を禁じられているのだ。そういう意味で、髪を奇抜な色に染めることに神様は賛成していた。元の面影から遠ざかるから。

「まぁいいや。何か事情があってウチに来たんだろう、大きな鎌なんか背負って」

「あ、はい。そうです。とても事情があるのです」

 鎌の力で、他人の私に不都合な感覚を断ち切った。見知らぬ人間がわけのわからぬことを言って家に上がりこもうとしても、首を傾げる以上のことはしないくらい、私の存在を拒否しないように。

 しかしそれが具体的にどういうことなのか、私はどうもまだ把握しきれていない。鎌を背負った女を「鎌を背負った女だ」と認識しながら、さらにそれを「普通ではない女だ」とまで理解しているのに、だからそいつを排除しようという気持ちがまるで湧いてこない状態の人間というのが、つまりどういう物なのかってことを、面と向かっていながらまるで理解出来ていない。

「事情って?」

「それは……」

 自分で力を振るっておきながら、気味が悪い。彼に私がどう見えているのかさっぱり分からなかった。

 そして馬鹿正直に「あなたの欲望から生まれる化け物を退治しに来たのです」と言うことが怖い。頭のおかしいやつだと思われることが怖いのか……? いや、仮に難なく話を受け入れられたとして、やっぱり気味が悪いからだ。なんだか目の前にいる人が、人間じゃないみたいに思えてしまう。

 改めて、とんでもない力を持ってしまったのだと実感するしかない。一番かわいい武器は大きな鎌だ……なんて考えていたことが大昔の記憶のように思えてきた。

「信じてもらえないかもしれませんけど」

 謎の女を庇い部屋に入れた男は、全てに対してひどく興味がなさそうな目をしていた。

「あなたの欲望から生まれる化け物を退治するために、私はここへ来たんです」

 結局そのまま言ってしまった。それ以外を思いつかなかった。

「はぁ?」

 頭のおかしいヤツを見る目で、彼は言う。

「そんな化け物がいるわけないだろ。仮にいたとして、どうやって倒するつもりなんだよ。その鎌があれば出来るのか?」

 ……あれ?

 何かが、少しずれている気がした。化け物退治と言ったところで妄言だと思われるだけだとばかり私は思い込んでいたけれど、なんだか、そうでもない……? 化け物なんかいるわけないと言うのに、「仮に」の話をしてくれるんだ。どこの誰とも知れない、名無しの女に。

 だんだんわかってきた。私は鎌の力を「私に不都合な全ての感覚」を断ち切るために振るったけれど、そういったアバウトな指定によって生まれたのが今の状況なのかもしれない。「不都合ではない」という指定の結果が、このなんとなくズレを感じる受け答えなのでは……?

 もしかしてもっと具体的に「私を疑う一切の心」を断ち切ると指定して鎌を使えば、私の言うこと全てを鵜呑みにして信じ込み、妄信することに躊躇しないような、信徒のような人間が作り出せてしまうんじゃないだろうか。だとすればそれは、まさしく神の力である。

 そんな力、空恐ろしい。私はとんでもない役目を背負ってしまった。化け物を見る前からやや後悔する。生きる喜びより先にそちらの方が目立った。

 けれど生き返ってしまったからにはやるしかない。図太く、開き直るしか。

「それは、わかりません。けれど化け物は欲望から生まれるので、対策を練るために私はそれを知りたいんです。どうか欲望を、心当たりのあることを教えてもらえませんか」

「欲望ねぇ」

 どうやら鎌の作用で円滑に会話を進めることが出来るようだったが、それとは別に、橋本は私に対してあまり良い印象を持っていないようだった。その目も、纏う雰囲気も、どこかこちらを馬鹿にしているように感じる。彼の根が善人であることを知ったはずなのに、どうしてこう「根」以外の部分は、私が写真で見た第一印象と同じなのだろう。

「人の欲って、そんなに個人差あるかな?」

「え?」

「大体は金じゃないか?」

 言われてみれば、確かに。大抵のことは無限の財産があれば解決するだろうし、金銭欲が無い人間なんてほぼいないように思える。ならデザイアは全てそれにまつわる怪物なのか……?

 そこで私に思い浮かんだ選択肢は二つだった。神の言う通りデザイアが非常に多様な物であるなら、大抵の人間の中にある「金銭欲」という存在が持つ半ば絶対性と呼べる物は、デザイア対策としてはあまり当てにならない物だ……ということになる。なぜそうなるのかと言われたら、それはさほど欲深い方でもない私にはさっぱりわからないけれど。

 かといって、残ったもう一つの選択肢は……。いったい、私に神を疑えとでもいうのか? あの神様が言っていたことは嘘だったのだ、と。

「たぶん、それはあまり重要ではないと思います」

「はぁ? たぶんってなに。なんで重要じゃないんだ?」

「それはわかりませんけど……」

「あんた化け物退治に来たんだろう、なんでわからないんだ」

「うう……」

 おっしゃることはごもっともだった。だから私はこんな時に、一度死ぬ前の人生を反省させられる。一方から見ればいかに理解不能な他人の行動であっても、こんな風に説明のしようがない事情を抱えている場合だってあるのだということを、身をもって知ってしまったから。二度目の人生はもう少し思慮深く生きようか……。

 とはいえ、丸っきり何もわからないまま適当を言っているわけでもない。仮説は立てた。要するに神様は嘘を言わなかったけれど、真実の全てを教えてくれたわけでもないんじゃないか、という話だ。いきなり私を空中へ放り出したあの神様なら、そのくらいの不親切やりかねない。

「あの、わからないんですけど、思うにですね」

「うん?」

「人の欲望は一つじゃないから、化け物はいろいろな欲望がない混ぜになった結果の物だと思うんです。だから、仮にその中で一番大きい欲が金銭欲だとしても、他の欲も知っておかないとダメだと思うんです」

「……なるほど?」

 納得とまではいかなくても、一理あるというくらいには思わせられたらしい。

「他の欲か。ううむ……」

 彼は腕を組みうつむいて思考を巡らせ始める。それを待つ一方、私は私で考えた。仮にこの後現れるらしいデザイアが金銭欲の化け物だったとしたら、それは具体的にいったいどんな化け物で、どうすればそれを退治出来るのだろう……と。人間にそうしたように、人間の欲から出た化け物に対しても鎌を当てるだけでいいなら、そこまで命がけだったりすることはなさそうだけれども……。

 なんだか胸騒ぎがする。そんな甘い話ではないような気がする。近付き難いほど恐ろしい形相の化け物に勇気を振り絞って接近し、鎌をちょっと振ることさえ出来れば全部解決だなんて、そんな簡単なことではないような気がする。何の根拠もないけれど、そんな簡単なことがゴールなら、私は今こんなに苦労していないように思えるのだ。

「三つ思い浮かんだ」

 橋本が沈黙を打ち破るように言い出す。

「食欲、睡眠欲、性欲」

「それはただの三大欲求じゃないですか!」

「だから言ったんだ、そんなに個人差があるとは思えない。人間の欲なんてそんなもんだろ」

 彼の言うことは、いちいちごもっともな内容ではある。三大欲求に勝る欲望なんてそうそう思いつかない。けれど、本当にそうだとしたら、神様はどうして私にこんな真似をさせているんだろう。情報収集をしろと神は言った。そんな楽な話ではないはずなんだ、そんな単純な話では……。

「きゃああああああああ!!!!!!!」

 ドキリと心臓が飛び跳ねた。

 ガラスを割ってしまいそうな高音が、聞いたこともないような悲鳴が聞こえてきた。通り魔に刺された私が血だまりに沈んだ時に野次馬が上げていた物より、格段に激しく危機を知らせるような絶叫だ。

「なんだよ、ゴキブリでも出たのか……?」

 橋本が立ち上がり、のそのそと自身を引きずるような動きで部屋を出て行った。そうか彼の姉の声かとようやく我に返り、私も後を追う。

 階段を駆け下りてリビングへ向かうと、あんぐりと口を開けた橋本が呆然と硬直していた。その目は「信じられない」と心情を物語っている。彼の視線の先を見ると……。

 ついに、それはあった。

「た、たすけ」

 黒い沼だった。床に小さな黒い沼が、墨よりも深く黒い沼のような物が広がっていて、それが橋本の姉を飲み込んでいく、まさにその最中だった。

 あっ、と思った時にはすでに、彼女の髪が沼に沈み切ってしまう。

「あ、あれが……?」

 デザイアなのか、という自問自答の、なんと愚かなことだろう。もしそうでなければ、あの超常的な存在はいったい何だっていうんだ。

 黒い沼は人間を一人飲み込むと役目を終えたのか、あるいは満足したのか、土が水を吸うようなあっという間の速度で縮小していき……消えるかと思われたが、違った。「点」と呼べるほど小さくなったその黒は、ホースから放たれた水のような勢いで、私の足元に伸びてきたのである。

 しまった、と思う暇もない。足元の黒点は一瞬で沼のような大きさに戻り、私をつま先から飲み込み始める。ぬかるみの中でもがくどころか、黒い沼はこの世の存在ではないのか、沼に沈み飲み込まれた部分はなぜだかピクリとも動かせず、体が硬直してしまっていた。

 また、また死ぬの……? そんな恐怖を感じる余裕が、首まで沈んだ時に戻ってきてしまうのは、人間の欠陥点だと思った。そんなことを思って、怖がったところで、今さら何も出来ないのに。

 一度死んでみたって何も変わらない。死ぬと思った時には、いつだって手遅れなんだ。

 



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04 vsハシモト・デザイア・ノリユキ

 死ぬ。そう直感した時でも私の脳は、走馬燈なんて気の利いた物を流してはくれないらしい。

 目元まで黒い沼に飲み込まれて、視界を失った瞬間、脳裏によぎったことは単なる豆知識だった。くだらないと思っていた、自分には無関係だと思っていたその知識は、だからなのか、まるで当てにならず、おぼろげに浮かんでくるばかり。

 人間の一番苦しい死に方って、溺死だったっけ。それとも焼死? 餓死? 今となってはその正しい答えが何だったとしても、お願いだから私が安らかに死ねますように……と、祈ることしかできない。

 

 

 

 

 

 ……頭の先まで沈み込んでようやく気が付いたのは、この「黒」は、液体ではないということだった。かといって気体でもない。固体でもない。

 黒い沼に飲み込まれたその先には、すごく身に覚えのある光景が広がっていた。光景というか……その光のない様。無限に濃い黒色だけで満たされた空間。そこはまさに私が神様と対面した時の、得体のしれない場所にそっくりな空間だった。

 それであぁそうかと思い出す。そういえば神様は言っていた。とても重要なことを言っていた。魔法少女となった者からは、痛み等の苦痛が取り払われると。気が動転するとそんなことさえ忘れてしまうもので、ようやく少しは冷静さを取り戻してみれば、そもそも苦痛から解放されるのでなければ化け物退治なんて責務、か弱い女子高生である私が自ら望んで背負うわけもなかったのだった。

 つまり私はまた死んで、あっという間に神様のもとへと帰ってきたのだ。二度目の生を受けてから死後の世界へ出戻るまでの記録が二十四時間を切ってしまった。スケジュールとしてあまりにもハードすぎる。

「……ん?」

 と、視界の隅に何かが映った。それはこの暗闇の空間には似合わない、目に悪そうな電気のような光源だった。

 真っ暗な部屋で点けっぱなしにされたテレビのようなその光は、あの世から現世へ戻る時に通ったあの扉、私を大空へ投げ出したあの扉が放ったような希望と神々しさの光とは真逆に、不吉と俗っぽさを演出しているかのような光だった。

 というかよく見ればそれはそのまま、私のよく知る「テレビ」という物体から放たれている映像の光だった。神様もテレビを見るのか……と思った、その時。

「ウェルカムトゥ、ようこそ、ガンダム動物園!」

 突然の大声に肩が跳ねる。今日一日で大きな声に対して若干のトラウマが出来かねない。

 振り返るとそこに男がいた。橋本典行だった。ただしその顔面は半分だけが黒くなっている。黒い部分は輪郭だけをハッキリとさせながら、それ以外のあらゆる物が無限の闇の中に深く沈み込んだようにぼやけていた。

 顔の半分を覆う闇の中で、瞳だけは機械的なランプのような光を放ち目立っている。そしてその黒い輪郭は普通ではない。頭部に何か、ツンツンとしたアンテナのような物が立っている。

 私がそれを見て真っ先に想像したのは人造人間……体の半分がロボットになっている人間だった。

「な、なんで、橋本さん……?」

「ノン、ノン。俺は橋本典行にして、橋本典行にあらず。俺は「橋本デザイア典行」、彼の欲望の化身さ」

「……え?」

 デザイアという響きと、そのあまりにもダサい名乗りと。一気に二つの衝撃が押し寄せてきて、私のキャパはあっけなくパンクした。

「え、なに、デザイア?」

「ああ」

「欲望から生まれる化け物?」

「ああ、そのデザイアだ」

「……あんたが?」

「そうとも。それとも何か? 俺が人間に見えるのか?」

 ビコーン……というような音と共に、彼の人ならざる方の目がひと際強く光った。

「いや……。え、じゃあ神様は?」

「神?」

「ここは神様の作った空間でしょう?」

 今一度あたりを見回す。目に映る物は電源の点いたテレビくらいの物で、あとはこの世の物じゃないみたいに暗闇が延々と広がるばかりの空間……。……いや、いや違う、違った。私は見落としをしていた。

 テレビの前にはゲーム機が置かれていた。暗闇のこの場にあってよりにもよって、そのゲーム機のカラーは黒。電源が入っていることを示すランプだけが存在を主張して、そこそこ大きいゲーム機がポツンとそこに置かれてあった。さらによく見ればちゃんとコントローラーも転がっている。

 そして、さらにそこから少し離れた場所、テレビの光が当たるか当たらないかという場所に、よく見ると何かが打ち捨てられたかのように横たわっていた。闇の中に放られたそれは、それは人だった。その人というのは、橋本の姉。私より一瞬早く黒い沼に飲み込まれた彼女が、未だ意識を取り戻すことなくそこに転がっていた。

「お前の言う神が何なのか俺は知らず、また俺とて神にまでなろうという気はないが、しかし一応答えてやろう。ここは、この空間は、俺が作った物、俺の空間だ。それ以外の何物でもない」

「いや、ちょっとあれ、あんたのお姉さんでしょ。どうなってんのこれ」

「まあ落ち着けよ、順番に説明するから。俺は欲望の化身だがな、お前たちを殺したいってわけじゃないんだぞ」

 一挙手一投足が神経を逆なでするような、独りよがりで大げさな芝居がかった動きで、デザイアを名乗る橋本はこちらに背を向け歩を進める。そして私がいる方でもなく、姉の倒れている方でもなく、テレビがある方でもなく、ただ何もない暗闇に向かって立ち止まった。

 すると、彼の目の前にズズズッ……と何かが生えてきて、それが目をくらませるような光を放ち出す。彼の足元近くの暗黒から湧いて出たそれは、それはまたしてもテレビだった。そしてまたしてもゲーム機が共にあった。

「俺の欲望は、俺を認めさせること。満足にゲームも出来ないくせに俺を馬鹿にするクソみたいな人間を、負かして、叩きのめして、俺の前に跪かせることだ。私が間違っていましたごめんなさいと言わせること、それが俺の望みであり存在理由……! ただ何も別に、全世界の阿呆と老人にそうさせたいわけじゃない」

 話しながら、髪でもかきあげるかのような何でもない自然の振る舞いで、顔の半分見えない彼が何かをこちらに放り投げてきた。暗い中で山なりに落ちてくるそれを慌てつつもなんとか受け止める。……手のひらの中に収まったそれはゲームのコントローラーだった。電池なのか充電なのか知らないけれど、どことも繋がっていないそれは軌道を知らせるように中心がぼんやりと光っている。

「気が強いだけのあのクソ女、姉だけでいい。あいつに俺を認めさせる。どうも厄介そうなお前はそのついでだな」

 見える方の顔が、普通の人間の……いかにもオタクらしい顔面が、勝ち誇ったようにニヤリと醜く口角を上げる。わざとなのか素なのか、それほど強く「それ」を持っているはずではない私でさえ、その欲望の化身には「共感性羞恥」を刺激される。彼は毎秒の行動が寒気がするほど芝居がかっている。グロテスクな化け物といってもこういった意味での物を想像してはいなかった。

「う……」

「む、やっとか」

 短いうめき声が聞こえたかと思うと、橋本の姉も目を覚ましたようで頭を抱えながら起き上がってくる。それを横目で確認した橋本の表情たるや、なるほど身内に向ける物とは思えない、相手の存在そのものに唾を吐き捨てるような顔をしていた。

「おい、二人ともよく聞けよ! この空間では俺のルールが絶対だ。だが俺は平等(フェア)なルールしか課さない。ここから無事に出たければルールに従って俺を倒すことだな。お前たちにはそれしかないのだ」

 あ? というドスの利いた声と共に弟をにらみつける姉。一度死んだからか、我ながら驚くほどすんなり状況を飲み込めている私。忌々しそうに舌打ちをするデザイア。和解という結論は見えそうもないこの三人とゲーム機だけの世界で、たったそれだけの他には暗闇しかない世界で、私たちがするべきことは何なのか。それが今から明らかになっていこうとしている……。

 私は少し後悔し始める。もちろん、今に至る選択の数々を。両の手のひらの中ではゲームのコントローラーが、生まれてから一度もゲーム機に触れたことのない私に握られて居心地悪そうにしていた。

 

 

 

 

 

 デザイアの説明を聞く限り、この空間を抜け出して無事に元の世界に帰る方法は一つだけ。それはデザイア本人にゲームで勝利すること。たった一度でも勝利すれば、その瞬間に我々はここを脱け出せ、デザイア自身は消滅するらしい。まさにその結末こそが私の目指すべき目標だった。

 ただし、その目標を達成する前に私たちがゲームで百回負けた場合、私と橋本姉は二人とも今後一生、橋本典行の命令に逆らえなくなるらしい。欲望の化身が言う「跪かせる」とはそういう意味らしかった。だから私たちの百連敗はそのまま人間としての死を……通り魔に刺されて死ぬよりもある種恐ろしい結末を意味している。デザイアが説明したルールはそんな、まるでフィクションみたいな話だった。カイジみたいな話だった。

 当然橋本の姉がそんな話に納得するわけもなかったのだけれど、デザイアの首根っこを掴んだ彼女は、電流でも流されたかのように悲鳴と共に体を痙攣させることとなったから、それでことごとくを信じて、ことごとく彼のルールに従うしか選択肢がなくなってしまった。自分自身がフィクションのような境遇にある私は、わざわざそんな経緯を挟まなくても直感的に、デザイアの話していることが全てこの場の真実なのだと理解できる。

 デザイアいわく、この空間ではお互いへの暴力行為が禁止されており、違反すると体罰的なペナルティが課せられるらしい。私ならば痛みとは無縁なのだろうけど、だからといってペナルティを受けた人を目の前で見てしまえば、その上でなおデザイアを拳でボコボコにできるような自信が湧いて来るわけもない。オタク相手とはいえ男と殴り合ったことなんかないし。

 拷問のような真似をして屈服させることは試みず、あくまでもゲームにこだわるところに欲望の化身の本質を見るような気持ちになるけれど、ともかく彼の姉とも相談した結果、私たちはルールの中で彼と勝負する覚悟を決めた。なので私たち女性チームは二人してすごすごと、コントローラーを握りしめてテレビの前に座ることになる。テレビやゲーム機は結局一人一台が用意された。

「本来は2on2のゲームだが、言った通り俺はフェアだ、ハンデをやる。そっちは二人でチームを組んで、俺は一人でいい。なんなら満足いくまで練習時間を取ってもいいぞ。とにかく二対一で戦い、一度でも俺に勝てばここから出してやる」

「チッ。あとで覚えとけよ」

 舌打ちをしながら橋本姉がコントローラーを操作する。味方のはずなのだけれどガラが悪いので隣に座っていて怖い。神様のくれた力があったとはいえ、こんな人にカマをかけていたのかと思うと冷や汗が出る。

 どんなタイトルにせよスマホゲーム以外のゲームは未プレイである私にとっては、どちらにせよ大差ない話なのかもしれないけれど、対戦するゲームとやらがせめてマリオカートのようなオープンな雰囲気のポピュラーな物ならよかったのに。目の前の画面に映るそれはいかにもオタク臭く、機動戦士ガンダムのゲームだった。使用キャラ選択画面の九割が見たことのない名前のロボットで埋め尽くされているそのゲームで、私たちは百回戦う内に彼に勝たなければならないらしい。

 しばらくの間説明書を見ながら操作練習をする。が、この時点で私は強烈な不安を覚え始める。なんとこのゲーム、ただ移動するだけでボタンを素早く二度押ししなければならないようなのだ。なぜそんな面倒な操作方法に……? 右へ移動したければ右に方向キーを押しながら、移動ボタンを二度押し。右へ移動したければ方向キーを……以下略。……なぜこんな面倒な操作方法に?

 コンピューターの動きを見本にする限り、このゲームは常に動き回っていなければあっという間に弾幕の餌食となってボコボコにされてしまうものらしい。相手に攻撃することを考えながら、あるいは相手から逃げることを考えながら、それはそうと常に移動ボタンを二回連打し続けねばならないわけだ。設計者は頭がおかしいのかと思う。ボタンは一度押せばいいように作ればいいのにと、橋本にそれを言うと、

「横軸の移動が一度押しだったら、上昇とかの縦軸移動はどうやってやるんだよ。専用にそのボタンを作りでもするのか?」

 と鼻で笑われた。専用のボタンを作れよクソオタクがと思った。意味もなく横文字を使いたがる馬鹿と同じで、オタクは物事を小難しくすることをかっこいいとでも思っているのだろうか?

 複雑かつ忙しい操作に姉共々キレそうになる私たちだったけれど、練習していればいつまでも成長しないというわけでもない。だんだんコントローラー捌きが体に馴染んできて、コンピューターといい勝負が出来るようになってきた。そして接戦の末に初めてコンピューターに勝利した時、「っしゃあ!」という気合の入った掛け声と共に彼女が言った。

「よし、一回本番やろう」

 私たちは2on2でコンピューターと互角に戦えるようになったので、自信満々の人間が相手になるとはいえ、数の有利が加わればそれなりに戦えるのではないかと踏んだのだ。

 橋本姉が「つよそう」と小学生並みの感想で選んだキャラはフルアーマーZZ(ダブルゼータ)ガンダムだった。それは素人目に見ても明らかに過剰な重装備を備えたキャラであり、選んだ彼女が言う「つよそう」の由来は、コンピューターが操る敵として現れた際に、他では見たこともないような極太のビームを浴びせかけてきたことにある。

 ビームと言っても、ガンダムを知らない私でさえ知っているビームライフルとは全然違う。ピストルのように撃ち出すのではなく、ホースで水を浴びせかけるようにしばらく照射し続けるビームなのだ。さんざんコンピューターからくらわされたので分かるけれど、まともに当たりさえすれば相手はひとたまりもない。

 一方、私が選んだのはガンダムデスサイズヘル。死神のような見た目のガンダムで、選んだ理由は「鎌を持ってるから」。……ガンダムに毛ほども興味がなくゲームにも同じくらい興味がない私たちは、つまるところそういった小学生みたいな理由でしかキャラを選ぶことが出来なかったのである。仮に私が神様から受け取った武器が大きな鎌ではなかったらとしたら、今頃私は別のキャラを選んでいたことだろう。

 コンピューター戦での経験的に、デスサイズヘルとやらはとにかく鎌を振り回すのが一番強い。だからきっと射撃武器が心もとないように思えるのは、これで遠距離戦までこなせたら最強すぎるからに違いない。が、今回ばかりは二対一の戦い。こちらは近距離最強の死神と、遠距離最強の重装備が組んだチームだ。普通に考えて条件は悪くないはず。一方が気を引いているうちにもう一方が敵をボコボコにすればいい。

「それでは一戦目。ここからは敗北数として容赦なくカウントするが、文句ないな?」

「いいからさっさと始めろ」

「ちっ……はいはい。じゃあほら、どっからでもかかってこいよ!」

 画面中央に「GO」の文字が映り、いよいよ運命の第一戦が開始された。私の方はとにかく近づかなければ話にならないので、移動ボタン連打でどんどん前方へ走っていく。

 表示を見ると、どうやら相手のキャラの名前はバンシィというらしい。何やら黒色の地味なデザインをしているけれど、これといって近接戦が強そうな風には見えない。デスサイズヘルがビームを撃つかわりに呼び出せる味方のガンダム(名前は知らないけど、なんか緑っぽい)を呼び出しながら一気に距離を詰めて……。

「……あぁっ!?」

 気が付いたら「ガキィン」という軽快な音が響き、私の操作する死神はキリモミ回転しながら空中に吹っ飛ばされていた。最強の鎌が、負けた……!?

 けれど後方にいる重装備ちゃんが極太ビームを当ててくれればそれでいい、それでこそ二対一というものだ、やってしまえ! ……と思ったのだけれど、極太ビームも普通のビームもミサイルの雨も何もかも、相手のバンシィにはかすりもしない。私はというもの彼に接近するたび、その場に残る雷みたいなビームとか、二本一気に投げてくるブーメランとか、あと普通に鎌による格闘攻撃をスッとかわされてからのカウンター等をくらったりした。そうやってボコボコにされるばかりだった。

 さらにバンシィというその機体は、一定時間ごとに第二形態へと変化し、少しの間さらに強くなるボーナスタイムみたいな機能が付いているらしい。黒いだけだったキャラがその強化モード時には金色の光を放ちだし、ただでさえ勝てそうもない強大な相手が見た目も変貌して「これが本気だ」と言わんばかりに襲い来る様は、ゲームとはいえども恐怖さえ感じるほどだった。

 試合の中にはごく稀に、流れ弾のような致命傷にはほど遠い攻撃が相手にカスることはあったけれど、ついに相手の体力を半分も減らせることはなく、私たちはあっという間に撃破されて負けてしまった。

「…………」

「…………」

 二人して言葉を失う。絶望……というには少し違う、なにこれ? という感じ。コンピューターと戦った時のことは何も参考にならなかった。あの時は互角かそれ以上に戦えていたのに、いざ人間を相手にするとこちらの攻撃が何も当たらないのだ。

「ちょ、ちょっと、もう一回」

 すかさず再戦が始まる。が、結果は同じだった。基本的に攻撃が当たらない。そして基本的に向こうの攻撃が躱せない。操作がややこしいせいである。そのせいで攻撃が来ると分かっているのに、こちらにビームが飛んでくるのが見えているのに、逃げるのが間に合わないことが多々あった。一方で向こうはまるで私たちの動きを予知するみたいに完璧な身のこなしで戦い続けている。

「……もう一回」

 また負け。

「もう一回!」

 またまた負け。

「次ぃ!」

 さらに負け。

「……ちょっと作戦タイム」

「ふっ」

 勝ち誇ったように鼻を鳴らす弟によほどカチンと来たのか、ものすごい形相で姉が彼の方を振り返っていた。私はなんだか、ポカンとしてしまって、今この瞬間に現実味を感じられずにテレビの前で正座している。

 ……百回やった程度では、とても橋本にゲームで勝てる気がしない。このまま負け続けたら私たちは、本当に橋本に一生逆らえなくなるのだろうか。これまでの口ぶりから考えても、そんな権限を得た彼が私たちをどう扱うのかなんて、想像しただけでもおぞましい。少なくとも「跪かせる」とは比喩だけの話ではないだろうし、そんなことが可愛く思えてくるほど、他に数えきれない非道な仕打ちをしてくることは目に見えている。それだけは何が何でも避けなければいけない。仮に私が神の力によってそれに耐えられる鋼のメンタルをすでに得ていたとしても、だからといって奴隷扱いは御免だし、普通の人間である彼の姉なんかなおさらだろう。

 けれども、しかし、ならどうすればいい……? 彼に勝てるようになるまでここで練習の日々を重ねるのか? コンピューターとのこれまでの練習は、彼との戦いに関してほとんど何の参考にもならず、ただ私たちが操作に慣れるためだけにあったような物だったのに。……それとも、いずれ九十と九回の敗北を喫した時、私たちは実質的に、ガンダムのゲーム以外何も存在しないこの空間に縛り付けられてしまうのだろうか。戦ってしまえば最後、彼の奴隷に落とされてしまうことが分かっているから、いつまでも無限に「練習」を続けるしかなくなるのか……? そんなのは、そんな未来は、死ぬことと同じかそれ以上に惨い。

 そこまで考えてふと私は、それこそが橋本のデザイアの思い描く筋書きなのではないかと悟った。化け物となった彼の欲望そのものは、確実に私たちから尊厳を奪う気でいるようだけれど、それとは別に「屈服させる」ということについては、強制的な力によるものではない形を狙っているのではないか。

 あと一回負ければ終わり……というところまで追い込まれて戦えなくなった私たちが、練習に逃げ続けて、ずっとこの空間に閉じ込められて、嫌になるまでこのゲームと向き合わされて。そしていつか精神が壊れかける限界になった時、私たちが自分の意思で「もう許してください」と泣きつくことを、彼は待っているに違いない。だから時間制限を設けないのだ。私たちを正しく屈服させるためにあえてそうしている。

 彼にとってゲームとは何なのか、彼にとって姉とは何なのか。欲望の化身と向かい合わされてしまうと、否応なしにそんなことを考えさせられて、なんだか悲しくなってくる。

 もちろん橋本の欲望の肩を持つわけではない。そんなわけではないけれど、でもどうして彼の欲望は、こんな物になってしまったのだろう。本人はあんなことを言っていたのに、その実彼の欲望の内容は、食欲でも睡眠欲でも性欲でも金銭欲でも、それらのどれでもないではないか。

「あなた、名前なんて言うんだっけ」

「え?」

 作戦会議と称して一時休戦となったゲーム大会。心の距離を表すように橋本から距離を取り背を向けて、彼の姉は私にひそひそ話しかけてきた。私はしびれかけた足を解いて応じる。

「名前、聞いてなかったでしょ」

「あぁ、名前。そうですね……」

 背中に背負った鎌を、悟られないように暗闇に乗じて一度消す。そしてそれを彼女の背後に出現させる。デザイアの支配する空間の中でも、鎌の使用は問題なく行えるようだった。だからそのまま手を触れずとも動かせるその鎌を、橋本の姉に向けて振りかざす。万が一にも違和感を抱かれないように。

 ちらりと確認すると、橋本は余裕げな表情で私のことを見ていた。暴力禁止の空間において私の鎌が使えるという状況に驚かないということは、彼には「想定外」のことがない自信があるのだろう。どんな超常現象が襲い掛かろうとも、ここでのルールを無視することはきっと出来ないのだと思われる。突如現れたり消えたりする鎌や、それを操る得体のしれない女でさえ、この空間を支配するルールの設立者である彼にとっては取るに足らないことなのだ。

「名前はないんです」

「え、そうなの。それは……不便ね」

「適当に呼んでください」

「うーん、じゃあ……」

 彼女は自分と同じようにぺたんと座り込んだ私のことを下から順に眺め見定める。何かあだ名のような物を考えているのだろう。私も改めて自分の姿を確認すると、この異常な状況にふさわしいそれ相応の「個性」というやつがそこにはあるように思えた。

 この場に溶け込むような、適度にだぶついた黒色のフード付きローブを身にまとい、髪は対照的に明るいピンク色、背中には一見物騒にも見える大きな鎌があって、顔も悪くはない。これであとはハッピーエンドの保証さえ合わさってくれれば、アニメの主人公にでもなれるだろう装いの私。その私に名前がないというのは、確かにもったいないように思えた。いつかは名乗れるようになりたいものだ、生前のそれよりずっと気に入る素敵な名前を。

「死神ちゃんで」

「えぇ」

 あまりにも安直すぎたが、同じ理由でゲームのキャラを選んだ手前何も言えず、とりあえず橋本姉にとって私の名前は死神ちゃんになった。他人に言われるまでもなく、あくまでもファッションの面では美少女と大鎌の組み合わせは意外性があって気に入っているけれども。魔法少女なんていうオタクでなくとも古臭いと分かる単語を持ち出す神様より全然良いセンスだろうと自負している。

「死神ちゃんは、このままやっててあいつに勝てると思う?」

「いやー、ちょっと、とてもじゃないですけど……」

「だよね、あたしも思う。……どうしよっか」

「うーん……」

 どうしようと言われても正直なところ八方ふさがり。ゲームで勝たなければどうにもならないのに、ゲームで勝てる気はまずしないという、単純に詰んでいる状況だ。

 試しに橋本姉に向かって「現実との繋がりはそのままに、この異空間との繋がりを断ち切る」ということを試してみたものの、案の定何の効果も得られなかった。デザイアの方を見やると、「俺にもやってみるか?」と言わんばかりの、腹が立つほど分かりやすい挑発ポーズで返された。どうせあいつに鎌を当てたって同じだろう。そしてもちろん私に当てても同じ。残念ながら今の状況では、この大きな鎌は何の役にも立てない。いくら神の力を持っていようと相手まで化け物ではこのザマだ……。

 ……ん? いや、ちょっと待てよ。

「……とりあえず、まだまだ余裕はあるんです。そのうち勝てることを信じて戦うしかありません」

「そうね……」

 デザイアに再戦の意思を告げ、私たちはコントローラーを握り直す。それは暗闇の中で近未来を感じさせる独特の色味の光を放っており、この闇の中に存在する唯一のコンテンツの一部としてふさわしい存在感を醸し出し続けている。

 そして、一息取り直して再開された戦いは、……やはり私たちが完膚なきまでに叩きのめされて一戦の幕を閉じた。これで敗北数は五になる。残りの命の二十分の一をあっさりと使い果たしてしまった。しかしこの戦いは、やるしかないのだ。勝つしかない。私たちは、ゲームで彼に勝つしかない。

「もう一回!」

 負ける。

「もう一回!」

 負ける。

「まだまだぁ!」

 負ける、負ける、負ける。負け続ける。何度も何度も何度も、何度でも、少しの希望さえ見い出せることなく負け続ける。まるで流れ作業のように敗北を重ねていくうちに、自分の体が疲れているのか心が疲れているのかも分からなくなってくる。

 体力とメンタル回復のためにまた休戦を要請すると、「ハッ」という癪に障る笑いと共に、どうぞ好きなだけと休憩が与えられた。その疲れなど微塵も感じさせない様子から察するにあの橋本はデザイア……つまり化け物であるわけだから、疲れとは無縁の、体力精神力共に無限大な存在なのだと思われる。消耗から来るミスに期待した勝負は現実的ではなさそうだ。

「死神ちゃん、あたしちょっとゲームが分かってきたよ」

「おお、奇遇ですね。私もです」

「覚醒だよね」

「そうそう」

 私たちは少しずつゲームを理解してきていた。まず「覚醒」というシステムの重要性について。このゲームはダメージを与えたり受けたりしているとゲージが増えていって、そのゲージが一定以上溜まると「覚醒」という、一定時間の間だけキャラが強くなる状態に突入できる。その一定時間を橋本は確実に活かしてくる。どうやらそれがこのゲームの肝らしいことは、何度も負けるうちになんとなく私たちでもわかってきた。

 けれど分かっただけですぐに何かが変わるなら苦労はしない。分かっているのに私たちは負け続けたのだ。こちらの覚醒は上手く逃げ切られて無駄にされ、向こうの覚醒では容赦なくボコボコにされる。それが実力差というものなのだ。一朝一夕でどうにかなるものではなく、百回の戦いで埋められる差とは思えない。

「橋本さん、そろそろ再戦お願いします」

「ふふん、言葉遣いがずいぶんしおらしくなったんじゃないか? 死神ちゃんとやら。もちろん受けて立つよ」

 私をを鼻で笑った彼はコントローラーを握りテレビに向き直る。すぐに対戦が始まった。

 休憩を挟んだあとの再戦でも、やはり私たちは負け続けることしか出来ない。それでもだんだんとゲームのセオリーが分かってきて、溜まる疲れと差し込む嫌気から度々休憩を申し出ては、体力もメンタルも回復して「次こそ」と再挑戦していく。そしてまた負ける、また休む、また挑む……。

 ……そんな流れを繰り返して、気が付けば私たちの敗北数は五十を超えてしまっていた。敗北時にデスサイズヘルのパイロットが言う、

「まあそんなに気にすんなよ、これでも負け続ける戦いは得意でね」

 という台詞が悪夢のように、あるいは呪詛のように、耳に染みついて離れなくなってきた。きっと橋本姉の方でも、フルアーマーZZの敗北時の台詞で同じ現象が起きていることだろう。

 さすがに疲れが溜まってきたので休憩を挟む頻度が増える。そのたびに私たちは作戦会議を繰り返した。

「着地だよね、着地。着地する時に攻撃すれば当たるはず」

「ですね。でもいつ着地するのか全然わからない」

「それなんだよ! あの移動する時に使うゲージ、自分のしか見えないから。あとあのガード、あれズルすぎる。太いビーム当たったと思ったらガードとかさぁ」

「自分たちでは分かっていても真似出来ないのが余計悔しいですよね」

 さすがに五十回も負けていればゲームの仕組みや定石といったものを察してきた私たちだけれども、いかんせんその理論を実践することが出来ない。むしろそういったセオリーに気付いていくにつれて、相手が自分たちとは比べものにならないほど完璧な立ち回りをしていることが理解出来てきて、希望が生まれるどころか絶望が深まっていくようでさえある。

 そして敗北が七十回目に達した頃、不意に橋本が私たちに話しかけてきた。こちらから話しかけない限りは、無様に負ける私たちを時々鼻で笑うか、ゲームのBGMにもなっている歌を小声で口ずさみ余裕を見せつけてくるかしかしなかった橋本が、ゲーム開始後で見てほとんど初めて、向こうからアプローチをかけてきたのである。

「なぁお前たち、本当にここのルールを理解してるのか?」

「あ?」

 ヤンキー丸出しのガラの悪い返事はもちろん、彼の姉が返した物だった。

「あと三十回負けたら、お前ら俺の奴隷になるんだぞ。もう折り返し地点はとっくに過ぎてるんだ。それなのになんでそう、危機感がない?」

 ほら見ろ、と私は心の中で彼をなじる。やはり彼は私たちの絶望する様を見たがっているのだ。

「ないわけないでしょ、こんなわけのわからない状況になって、あんたが言ってることが嘘じゃないって嫌でも理解させられて」

「いいや理解していない。命令に逆らえないってことの意味がお前はわかってないんだ。……右手を上げろ」

「は? ……え、なっ……!?」

 対戦のセッティング画面でゲームは放置されたまま、橋本姉はコントローラーから手を離し、右手を上げた。言われた通り、命令された通りに、他人の意思で自分の右手を高々と。

 途端、今までとは非にならない緊張感が私たち二人の間に走る。確かに何か勘違いしていたのかもしれないと、横で見ていた私でさえ思った。

 私はここのルールを絶対の物だと思っていたけれど、もしかすると、それさえあの欲望の化け物のお遊びなのか……? そんな嫌な推測が生まれたことで、息が詰まるような感覚に襲われる。彼が本気になればゲームなんか、勝ち負けなんかどうにでもなるなんて、そんなことがあったら私たちは……。まさか、すでに詰んでいるとでもいうのか……?

「分かったか、「逆らえない」って意味が。別に俺が口に出す必要さえないんだぞ? ……こんな風に」

 今度は何の支持もないまま、姉が「んべっー」と舌を出す。行動がデザイアに操られているのは明らかだった。そしてゆっくりと、舌を出した状態のまま、開かれた彼女の口が閉じていく。その白い歯が、硬く丈夫そうなその歯が、彼女の舌を挟み込み……。

「な、ひ、卑怯ら……! おま、こんにゃ……!」

 何をしようと思ったわけでもなく、どうすればいいのかも分からず、とにかく私は背中の鎌の柄を握っていた。が、そこで橋本がアッハッハッハッと笑い始める。彼は心から愉快そうに、笑い狂ってしまいそうなほど底抜けに、手のひらを叩いて、腹をよじれさせて笑い続けた。

 そしてそれが収まると、ひーひー言いながら目じりの涙を拭って、

「馬鹿かよ姉貴、言っただろ、ルールは絶対だ。そりゃ多少俺はここで力を持ってるけどな、ゲームに百回負けない限り、本気で拒否すれば命令には「まだ」逆らえるんだよ。それが出来なかったってことはお前、拒否する気持ちが萎えて、今マジでビビってたんだ!」

 再び彼は笑う。お笑い番組を見て笑う子どものように、それは無邪気な笑みだった。事情を知らない者が一見して、彼が人の尊厳を踏みにじりたがる欲望の化身とは分からないだろう。

 ある意味の純粋さが彼の中にあるかのように、それこそが彼の本質であるかのように、私の目には見えてしまった。……邪悪だ。橋本の欲望はシンプルに、裏表のない単純な邪悪そのもの。けれど私にはわからない。私には欲望の赴くままに、人を自分の前に跪かせたいというただ一心の気持ちが理解できない。彼の欲望は、それは間違いなく私の中にはない類の物だ。似た物さえ私は持っていない。だから私には彼の気持ちが分からない。

 舌を口の中にしまった彼の姉は、拳を握りしめて震えていた。その表情が私からは見えなかったけれど、彼女は今の一件で急に自分の置かれた状況が恐ろしくなってしまったのだろうか、心が折れてしまったのだろうか。それとも頭に血が上って、無駄だと分かっていても弟に殴り掛からずにはいられないような、怒りの臨界点の秒読み状態なのだろうか。

 そのどれでもない感情が、おそらくその時の彼女にはあったのだと思う。それも私の中には無いものだったように思う。彼女は静かに、

「殺す」

 ……と低く呟いてから、自分を落ち着けるように深呼吸を繰り返した。

 それから十戦の敗北を重ねて、寿命の八割を私たちは失ってしまった。毎秒毎秒、橋本姉は怒りを超えた何かしらの感情を煮えたぎらせて、コントローラーを握りつぶしてしまいそうなほど強く握っていた。

 さて、いよいよだ。私は彼女に耳打ちする。

「作戦があるんです」

 耳を貸してくれた彼女に、かなり長い間こそこそとそれを話したように思う。橋本が顔の半分だけでニヤニヤと、普通の人間と変わらない方の顔でこちらを見ていたことも把握している。そしてそれを話し終えた時、彼の姉は私の目を真っすぐ見据えて問いかけてきた。

「本当にそんなことが出来るの……?」

 状況に怖気づくことなく、圧倒的な実力差に戦意を喪失することもなく、気丈に振る舞うどころか、好戦的とさえ言える態度でここに至るまでのゲームに励んできた彼女。しかしいくらそんな彼女であっても、実際のところは限界が見えてきているようだった。私に問いかける目に、うっすら絶望の影が見えた気がしたのだ。今の彼女はすでに、自分で自分を奮い立たせているだけの状態にあるのかもしれない。

 けれど勝てる。それでもきっと勝てる。私たちにはまだ、最後の希望が残っているのだ。最後でありなおかつ、はっきりとした形の明確な希望を。

「橋本さん」

 コントローラーを置いて彼に語りかける。

 私は自分を、図太い部類の人間だと自覚している。けれど何でも出来る天才というわけではない。鎌の力におんぶで抱っこの白々しい図々しさを持つことは出来ても、演技が上手いというわけではないように思う。けれども幸い、ここまで来る間にたまった疲労と、綱渡りをするような緊張感と、一筋の希望が見えていたところでなお消えない現状の絶望感が、私の声をちょうどよく震えさせた。

「私たちでは、無理です。あなたには勝てません」

 彼の口角が、今までで一番高く吊り上がるのを見た。

「どうかハンデをもらえませんか。このままでは、残りの回数戦うだけ無駄としか思えません」

 精神的な敗北を認めるように、私は頭を下げる。……これは簡単なことだった。プロのような演技が出来る人は少数派だろうけれど、私のような十代の子どもでさえ多くの人が、自分が悪いだなんてこれっぽっちも思っていないのに反省して見せ、頭を下げた経験があるだろう。それと何も変わらない。

 そして橋本という、所詮はゲームが上手いだけのオタクに、人の感情を見抜くような心眼が備わっているわけもないはずなのだ。自分のことを認めさせることに必死な自意識の塊が、他人の思惑に敏感なわけがない。……そうであってくれなければ困る。

「ふん、何か企んでいるようだな。さっきこそこそと話していた「作戦」とやらか」

「…………」

「そうだな、俺もさすがに飽きてきた。その作戦とやらも見てみたい。ハンデが必要ならくれてやるよ、どんな物がいい? 開始十秒はコントローラーに触れるな、とかか? さすがに足で操作しろとか、無茶苦茶な要求は勘弁してくれよ」

「……ありがとうございます。欲しいのは」

 私が申し出たハンデは、ノルマの軽減だった。

 このゲームで試合に勝つには、彼の場合私たち二人を合わせて、合計三回は倒さなければならない。どちらかを二回、もう一方を一回倒すのも、片方だけを三回倒すのも同じことだけれど、何にせよ三回は倒すこと、それが彼のノルマである。それが彼の、もう八十回も達成したノルマ。

 一方で私たちが彼に勝つには、同じく彼を三回倒さなければならない。この点においてはゲームの仕組み上たとえ二対一の構図だろうと変わらない。何にせよ三回も倒さなければいけないのだ、あの化け物を。それではあまりにも無理がある。私たちはこれまで戦ってきて、ようやくのことで一度だけ、幸運も重なって彼をほんの一度撃破することに成功したことがあるけれど、それは八十戦もやった中での、たった一度の出来事だ。それを残りあと二十戦の中で、一試合のうちに一気に三度も引き起こせというのは、どう考えたって不可能な話である。

 だからハンデを申し出る。今後の試合、一度でも彼の機体を撃破出来れば、それで試合に勝利したということにしてほしいと。たった一度とはいえ撃破されたことのある彼がこれを飲んでくれるどうかは賭けだったけれど……。

「いいだろう。ただし、さっき言ったように俺も飽きてきた、こちらからも交換条件を出させてもらう」

「なんでしょう」

「ハンデを与えるかわりに、残りはあと五回だ。五回負けたら、初めに話した通りの「ルール」に則ってお前たちの負けということにさせてもらう。……いいな?」

「……わかりました」

 ……こうして最後の五戦、泣いても笑っても最後の連戦が始まった。……そして最初の一戦は、成す術もなく負けた。それ自体は何も珍しいことじゃない。むしろ想定通りのことである。

 二戦目は少しいい線を行けたかもしれない。体力が一定値を下回ると、彼の使うバンシィは常時第二形態になる。一定時間の間ではなく、インターバルもクソもなく、死ぬまで永遠に金色の光を節々から放ち、永続的に最強の力を得るのだ。相手が金色に光っている時は逃げることを考えて、それが収まってから攻めるというセオリーさえ通用しないそんな最後の関門を、二戦目ではなんとか拝むことが出来た。が、常時強化状態のバンシィはおそろしく強く、私たちはそれに叩きのめされた。

 いよいよあとがなくなってきた三戦目。「LOSE」の文字が私の見るテレビ画面に表示された瞬間、私は渾身の力でテレビに向かってコントローラーをぶん投げる……ッ!

「くそッッッッ! くそッ……!!」

 これは純粋に、負け続けた鬱憤を全てそこに込めた物だった。コントローラーから何か小さな部品が壊れて吹っ飛んでいったような気がした。

「おいおい……」

 呆れつつそれを見ていた橋本が、私の方へ向けて手をかざす。するとまるで魔法のように、私の目の前に新たなコントローラーがポンと現れる。起動していることの証として淡い光を放つそれは、私の手に取られることを待っているかのように宙に浮かんでいた。

「使えよ。まさか道具を壊せば逃れられるだなんて思ってないだろ?」

「……もちろん。すみません、取り乱してしまって」

 宙に浮かぶコントローラーを手に取り、深呼吸をして、肩の力を入れたり抜いたりしてがくがく揺らす。それを見た彼は、やはり私を貶すように小さく笑った。

 ……ここからが、事実上の最終決戦だ。奇跡を起こすピースは揃った、いよいよ運命の賭けに出る。全てを賭ける。賭けて、彼の姉と共に、彼に勝つ。

 大丈夫、バレていないはずだ。こちらの魂胆は悟られていないに決まっている。

「やりますよ、お姉さん」

「……うん、勝とう!」

 彼女の目を見て意気込むと、力強く頷き返してくれた。

 四戦目開始を告げるべく画面中央に映る「GO」の文字。相変わらず誰も使用キャラは変えていない。重装備のフルアーマーZZ、近接特化の死神デスサイズヘル、第二形態を備えた化け物バンシィ。この三機での最終決戦が開幕した。

 ZZとデスサイズが一度ずつ撃破されながらも、私たちはバンシィを永続する第二形態にまで追い込んでいく。その時点ですでに、ほぼ百戦において学んだ全てを活かした死闘だった。数の有利を活かしてL字型の配置に付き敵を攻撃する作戦がちゃんと機能していたように思う。

 しかしバンシィの本領はここからだ。撃破しない限り二度と消えない金色の輝きを放ち始めた奴は今までよりもさらに素早く、ただでさえ逃げ道を塞ぐように二本同時に投げてくるブーメランは倍の四本を投擲してくるようになり、敵を空に打ち上げる最強の拳は、敵を引きずり倒して蹂躙する悪魔の掌となる。

 そしてさらに、その強化形態を完璧な物とする「覚醒」の存在。体力の減った姉のZZに狙いを定め接近したバンシィが、とどめを刺すべく取っておきの覚醒を発動する。プレイヤーの殺意を表すかのようにバンシィをアップで映すカットインが入り、奴が放つ金色の光は、元々の金色へさらに緑色を混ぜたような特別な物へと変化する。それは私たちに絶望を突きつける光、覚醒時だけに奴が見せる色の光。敵ながらこちらの目にも綺麗に映る、神秘的な残光を伴う殺意の光だ。

 ……そう、本来ならそれが、絶望になるはずの光だった。けれどそれこそが、その色が現れた一瞬だけが、私たちの唯一の希望に変わる。

「今だああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」

 私はコントローラーから手を離し、背中の鎌に手をかける。さすがに少々驚いたらしい橋本が肩をびくつかせながらこちらを見た。

 私が使うべきは、ゲームの中の死神の鎌なんかじゃない。私に残された希望はそれじゃない。本当に全てを賭けるべきはこっち、自分の背負っている大きな鎌、神の力を持った鎌の方。神の力は、欲望の化け物を倒すためにもらったこの力は、最後まで無駄になんかならない……!

 少しも重さがないその鎌を、橋本のコントローラーに向けて振るった。呆気にとられた彼はそれを避けられない。ゲームしか取り柄がないオタクにそんな咄嗟の判断はできなかったのだ。鎌の刃はコントローラーをすり抜ける。

 その途端、画面の中でバンシィの動きが止まった。圧倒的力を象徴する光を放ったまま、ぷつんと糸が切れたようにその場で静止する。

「なっ、あっ……!? なに、なんだ!? はぁ!? 故障……なわけがっ」

 この空間において、彼の操作するゲーム機だけ運よく故障して私たちが勝つとか、そんな都合のいいことはまず起こり得ない。それはさっき一瞬で新しいコントローラーを出現させて見せた彼を見ても、改めて確実になった事実だ。仮に故障が起きたところで、彼はそれを一瞬で直してしまうだろう。

 けれど同時に、彼が私のコントローラーを直したことでさらに決定的になったことがある。この空間においても、ゲームとは正常なコントローラーがなければ操作できない物なのだ。たとえどんなに無残に破損したコントローラーでも一秒とかからず直せてしまうとしても、コントローラーが壊れていてはゲームが操作できないことに変わりはない……!

 彼は油断していたのだ。彼は、人間への暴力行為しか禁止しなかった。ゲーム機への暴力は徒労でしかないから、人間以外への暴力行為をわざわざ禁止する意味もないと思い込んでいたのだ。だからコントローラーを壊した私には何のお咎めもなかった。そこがつけいる隙だった。

 ゲーム機への暴力を、破壊工作を、「通常の人間が行える行為」の中でしか想定していなかった彼の、そのルールの穴こそが、唯一の希望だった。

 彼のコントローラーと、ゲーム機との繋がりを「断ち切った」! それが投げてよこせるくらい便利な現代の道具、起動の有無を知らせるランプが点灯するような最新機器……ワイヤレスな存在だったせいで、初めはコンセントと同じように「抜いてしまう」ということを発想できなかった。けれどやはり所詮はゲーム、ひとたび操作不能に陥ってしまえば、素人でもプロでも等しく無力だ。

「いけええええええお姉さん!! やれええええええええ!!」

「な、なにをした! おまっ、このっ、待て待て待て待て……!!」

 彼が元々持っていたコントローラーを投げ捨て、新しい物を即座に手元に出現させる。しかしあらかじめ全てを作戦として想定済みだった私たちの速さには敵わなかった。

「あああああああああ!! ハイ・メガ・キャノン!!!!!!!」

 美しい光を放つバンシィは、その輝きさえ見失われてしまうほど……極めて太いビームの激流の中へと飲み込まれていった。瞬間、私たちの見る画面に、初めてその文字が映る。そのたった一つの英単語を見るための戦いだった。欲望の化け物と化した彼が、今日の一日で八十回と少し見続けたであろう、私たちにとっては念願の文字。

 ただ「WIN」と。それが文字通り、それは私たちの勝利を証明していた。

「……………バカな」

 ちょうど良い合図であったことの他に、万が一今の不意打ちで仕留めそこなった時に後の戦いを有利にするために、私たちはバンシィの覚醒するタイミングを狙い撃ちにした。けれど結果として一瞬の一撃で勝負はついた。一撃で倒せるところまで彼を追い込んだのは私たちの純粋な努力だ。そして最後の一撃は、「ルール」に則った私たちの作戦勝ちである。

 私たちにとってのハッピーエンドがあるとすれば、彼がルールの設定を「通常の人間向け」にしていた時点で、この結末が決まっていたのかもしれない。だからこれは私たちの完全勝利なのである。

「嘘、嘘だ、こんなの。嘘だ……嘘だ…………」

 ……なのに、自分に言い聞かせるように嘘だ嘘だと繰り返す彼を見て、スカッとした気分になれないのはなぜだろう。

 対戦が終了したあとの画面で、現実を否定するためふるふると首を横に振るかのように、彼はカーソルを左右へ動かし続けていた。何度も何度も、無意味にカーソルの動く音がむなしく鳴り続ける。

 嘘だ……橋本がいつまでもそう繰り返す。彼の顔の半分を覆っていた闇は消えて、見た目だけなら、彼の全ては人間と同じになった。そしてやがて……少しずつ彼は光の粉になっていく。その光の粉は上へ上へと次第にばらけていって、それに従いみるみるうちに彼の体は薄くなる。透けていく。……デザイアの消滅。それもまた、ルールに組み込まれていたことだ。

「やったー!! よっしゃあ! いえーい! 死神ちゃんイエーイ!」

「あ、ああ、はい、やりましたね……! いえーい」

 弟の姿をした化け物が消えていく様を一瞥もせず、彼の姉は私と喜びを分かち合いたがっている。私はそのハイタッチに応えながら、どんどん透明度が増していきついには消えてしまったデザイアを見届ける。最後まで彼はコントローラーを手放さず、テレビ画面から目を離そうともしなかった。

 ……彼が私というイレギュラーな存在を想定したルールを作らなかったのは、彼の本体である橋本典行が、ただの人間でしかなかった橋本典行が、私の鎌の影響を受けていて私の危険性を正しく認識出来ていなかったからだろうか。彼のデザイアもその影響を受けたのだろうか。

 ……それとも、それとも彼はやっぱり、ただ姉に自分の技術を認めさせたかっただけなのだろうか。自分の存在を認めさせたかっただけのことだったのだろうか。だから彼の眼中には姉の存在しかなく、ルールもそんな彼に影響された……そんな可能性はこれっぽっちも存在しないのだろうか……?

 周囲が今までの闇との帳尻を合わせるように、過剰に白い輝きに包まれていく。デザイア本人と共に、彼が作った空間も消滅していく。私たちは元いた場所に戻るのだろう。黒い沼に飲み込まれたあの部屋へ、私が詳しい事情を知らない、ある一組の姉と弟が住むあの家へ。

 あの時は緊張感のあまり味がしなかったけれど、私は二人と一緒にお昼を食べたのだった。橋本典行の友人を騙って、食卓を囲ったのだった。それがすごく遠い過去のことのように思えてしまうけれど……彼は、鎌の影響下だったとはいえ私をかばってくれた。

 目が痛いほどまぶしい空間の中に、志半ばに敗北を味わったデザイアの姿はもうどこにもない。見ている方が恥ずかしくなる自信過剰で演技臭い振る舞いをする、彼の本性の姿はもうここにはない。ことあるごとに私たちを馬鹿にする彼の姿は、もうどこにもない。自分の得意なことで存分に腕を振るう、平等(フェア)を自称する彼の姿はもう、勝利を祝福するかのようなこの光の中には、どこにもないのだ。

 ……ズルをしなければ、勝てない勝負だった。

 

 

 

 

 

 気が付くと玄関に立っていた。橋本家の玄関だ。ローブに備えられたポケットが震える。私のスマホが震える理由なんて一つしかない。見計らったかのように迅速な連絡だった。

「もしもし」

「デザイア討伐おめでとう」

 どうやってそれを把握しているのか。そこまで出来るのに自分たちではデザイア退治が出来ない理屈とは何なのだろう。神様なら、純粋にゲームの腕で彼に勝つことだって出来そうな物なのに。

「どうも」

「さて、それでは最後のチュートリアルだ」

「は、はぁ? チュートリアル?」

「ああ、チュートリアル。これで最後だ。デザイア討伐後の処理について教えよう」

 耳元で鳴っているはずの神様の声が、どこか他人事のように聞こえてくる。途方にでも暮れたかのように玄関で棒立ちする私の視界には、この家の二階に続く階段が映っていた。その階段だけがひときわ目立って見えて、まるで私を呼んでいるように思えてくる。……いや、むしろ私が、呼びに行かなければならないような気がしてくる。

「デザイア討伐後、一連の件に関わる全ての記憶が魔法少女以外の……魔法少女と神以外の全ての存在から消去され、消滅したデザイア以外の時間が、君がデザイア討伐のため地上に降り立つ寸前にまで巻き戻される。この後処理こそが誰もデザイアの存在を知らない理由なんだけど、……聞いてる?」

「聞いてますよ。記憶が消えちゃって、時間が巻き戻るんですよね」

「うむ、そうだ。デザイアだけが消えて、世界が元に戻る」

「何もなかったことになるんですね」

 なるほどそれは納得だった。

 一段一段噛みしめるようにゆっくりと階段を上りながら、欲望の化身が誰にも認知されない理由を知った私は、今にもスマホを床に叩き付けたい衝動に駆られている。なぜだろう、気に入らないのだ。

 彼の欲望の化身は、欲望の発露は初めから無かったことになる。私が彼に会ったことさえなかったことになる。それはそうだ、そうでなければ私の知っている通りの「現実」が成り立たない。だからそれは私も最初から、頭の隅っこでは分かっていたことのように思う。

 何も起こらなかった現実で彼、橋本典行は、いったい今後どんな風に姉と関わっていくのだろう。どんな風に生きていくんだろう。お願いだから、誰かの尊厳を踏みにじることだけは、それを試みることだけは思いとどまってほしいけれど。

 ノックするまでもなく彼の部屋のドアは開いていた。

「こんにちは」

「ああ」

 目が合うと彼は力なく笑う。

「化け物退治、終わったんだろう」

「ええ、はい」

「……記憶が残ってるんだ、化け物としての」

 彼の部屋には別に、プラモデルが所狭しと飾ってあるわけではない。美少女の映る大きなポスターが壁にかかっているわけでもなければ、漫画やライトノベルで埋め尽くされた本棚もない。一見してこの部屋はオタク臭くもない、普通の男の子の部屋だった。

 ただ、ゲーム機が置いてあるテレビ台の近くに、さっきまで私と彼の姉が命がけでプレイしていた、ガンダムのゲームのパッケージが少しだけ姿を覗かせている。それはゲームソフトの押し詰められた棚の中、数々のソフトが積み重なるその頂上に置いてあった。

「橋本さんは、ゲーム上手かったです。誇っていいと思います」

「……ははっ」

 彼は笑った。化け物とは対照的に、自分を嘲るみたいに。

「ありがとう。……何も女の人がみんな、ゲームに否定的なわけじゃないんだなあ」

「そりゃそうですよ」

「だよなぁ。人それぞれだ、何もかも。……全部人それぞれだ」

 窓の外で、鳥が飛んで行ったのを見た。尻尾の方に向かって、不自然に斜め上へ、本来の軌跡を巻き戻るように鳥が飛んでいた。……時が巻き戻るんだ、神様の言う通り。

「橋本さん、私に何かいい名前をくれませんか」

「え?」

 時間がないことが感覚でわかった。

「死神ちゃんはちょっとアレなので」

「あぁ……」

 目を閉じて、彼は思考を深めるためか完全に静止する。私の体が勝手にふわりと浮き上がった。

「デイズっていうのはどう?」

「ほう、デイズ?」

「デスサイズヘル、略してデイズ」

「あ、なるほど」

 初めに思い浮かべたdaysとはまったく違う意味、由来の、安直といえば安直な名前。けれどそれは、私では思いつかないタイプのセンスだった。

 なるほどあのガンダムから名前を取るというのは、私の第二の人生の初陣を名前の由来にするというアイデアは、全然悪くないように思えた。私はあの死神のようなガンダムが、原作アニメの劇中でどんな活躍をしていたのかなんて全く知らないけれど、けれど確かに、名前なんてそんな物でいいのかもしれない。何せここで言う名前とは、所詮は偽名なのだから。二度と名乗らないとしても私には「人間」としての本名がある以上、魔法少女なんてふざけた役職としてのハンドルネームくらいは、思い入れのあるところから適当に取ってきて然るべきだろう。

「じゃあ全部合わせると、死神JKデイズって感じですね」

「あ、女子高生だったのか」

「そうですよ」

「女子高生にガンダムのゲームで挑んでもなぁ」

「あはは」

 私の体はどんどん浮かび上がって、ある時ついに天井をすり抜けてしまった。体の色が消滅していった彼のデザイアと同じように、だんだん透けて色が薄くなっていく。自分が使う鎌の刃と同じように全てをすり抜ける体で屋根を突き抜け外に出ると、空には異様なスピードで雲が流れていた。きっと全部逆向きに流れている。だって道を歩く人は後ろ歩きだったから。

 ある地点まで上昇すると途端に景色は様変わりした。いかにも現実らしい物は全て見えなくなって、青や赤や紫の暗めのグラデーションが揺らぐ、この世ならざる光に照らされ続ける通路のような場所に出た私の体は、依然として浮遊感に支配されたままでいる。あぁ、ここはつまり、青い狸みたいな猫型ロボットがタイムマシンに乗る時に通るトンネルみたいな場所なのだなと、なんとなく理解した。

 神様の声で、遊園地に行きたければ元の場所に降ろすけど……と聞こえて来る。私はそれを断った。

 ずっとゲームをしていて疲れたので寝かせてほしい、そう伝えると、さすがは神様、どこなのかは知らないけれど、見たこともないほど大きくふかふかのベッドがある部屋に私は瞬時に移動していた。

 何も考えずそのベッドに飛び込んで眠気に身を任せる。実はこれが人生初めてのベッドだった。家ではずっと布団だったから。……これからも今日の日のようなことがずっと続くなら、私の欲望のうち多くを占めるのは、第一位が生存欲で、次いで第二位が睡眠欲となってしまいそうである。

 そんな欲望を満たすだけで良い人生の。なんと幸運なことだろう。そんな風に自力で満たすことの出来る欲望だけが全てである心の、何と幸福なことだろう。失ってから初めて気が付くことがあるとはよく言うけれど、一度死んでから初めて気付くことも、どうやらあるようだった。

 

 あの二人が仲良く出来ますように……。

 



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05 初めての友達9.8

 私にデイズという名前が付いてから少なくとももう半年は過ぎて、魔法少女一周年記念とも呼べる日が近づきつつあるくらいだった。

 つまりその日は私のもう一つの誕生日ということになるわけだけれども、誰かにそれを祝って欲しいとは少しも思わない。っていうのは、私のことを「デイズ」として記憶している知り合いなんてものは、あの軽薄な神様以外に誰一人として存在しないからだ。

 ある昼近くの東京。人でごった返す交差点の上空を漂うように飛びながら、私は魔法少女の休暇を満喫していた。飛行能力使用時は誰からも存在を認識されない……という魔法少女の特性にも、もうすっかり慣れてしまって使いこなしている。それはもう、もしも急に普通の人間に戻されてしまったとしたら、空が飛べないことをひどく不便に感じてしまいそうなくらいに馴染んでいる。

 デザイア討伐の使命に追われることのない束の間の休息期間。その期間にわざわざ空を飛んでいるのは、別に私が人嫌いになったとか、そういう理由があるわけではない。地上に降りれば私の格好は確かに悪目立ちするかもしれないけれど、そんなことは承知の上で今の容姿を選んだのだし、それを後悔しているというわけでもない。

 ではなぜどこにも遊びに行かず、ただ空を飛んでいるのかといえば……それは私があろうことか、モチベーションという物をほとんど全て失いつつあったからだった。

 今の私の命は、普通の人間が誰も手にしたことのない「自らで望んで授かった命」だけれども、自ら望んだ割には、私は、この人生で何をするべきなのかを見失ってしまっている。

 神の計らい(というか魔法少女の仕事に対する給与に当たる待遇)によって金銭の縛りがなくなったことに、健全な金銭感覚を持つ女子高生であった私は最初大いに感動したものである。映画は見放題、服は買い放題、カラオケは歌い放題で、飲食店だってどこにでも行き放題食べ放題飲み放題、遊園地だって普通に並ぶとはいえ遊び放題。……そんな待遇の中で遊び回ることはそりゃ楽しかった。最初の三か月くらいは夢のようだった。デザイアとの戦いに見合った対価だと確信していた。

 けれども、つまりまあ今となっては、そんな豪遊生活に飽きてしまったのである。ブランド物をかき集める趣味があるわけでもなく、創作作品に惹き付けられる感性を持っているわけでもなく、美味しい物を食べている時にこそ生まれてきた意味を感じるということもなく、とにかく私はいろいろなことに音速で飽きてしまって、自分の趣味を司る価値観の、何と浅いことかを知ってしまったのだ。

 ズルをして遊んでもつまらないと誰か大人が言っていた気がするけれど、あれは真実だったのだ。通常の人間から逸脱したやり方でこの世を楽しもうとしても、なぜだか全て上手く楽しめなくなってしまう。

 逆に言えば、それは私がまだまだ、人間らしい心を持ってしまっているせいなのだとも思う。中途半端に馴染んだ生活の中で、魔法少女らしい心はまだ持てていないということだ。魔法少女ではなく人間らしく、人並みに様々なことへ飽きている。

 けれど魔法少女らしい心とはいったい何なのだろう? どうすれば楽しくなれる? 空中から見下ろす人混みの中に不真面目そうなチャラい男を見つけて、私は苦い経験を思い出してしまった。

「お姉さん、いま暇?」

 あの日そう声をかけてきた男も似たような見た目をしていた。ナンパされた経験は生前になかったわけでもないから、普通に無視して立ち去ろうとしたのだけれども、その一瞬で、

「ねぇちょっと」

 と、あの種の男に手首を掴まれるという経験を、その時私は初めてしたのだった。……いや、男の人に腕を引かれること自体が初めてだったかもしれない。だからなおさら悪い。

 思わず振り返りその男の顔を見ると、彼が私に対するリスペクトの類を一切胸中に持ち合わせていないことが察せられた。顔に「こいつチョロそう」と書いてあるくらいなのだから、よほどひどい人間性をしている男なのだと思う。

 しかしなぜ、よりにもよって私狙いなのか。うつむきがちに歩くような……好意的な言い回しをするなら「文学少女タイプ」である人ではなく、奇抜な恰好で自己肯定感に溢れていそうな(実際溢れている)私をなぜ「チョロそう」と判断したのだろうか。それが不可解だった。

 まあ彼の中にある理屈が何だったところで、そんなことはどうでもいい。「男性の欲望」とでも呼ぶべき内容のデザイアにも何度か対峙した経験がある私にとっては、それは「憎むべき欲望である」ということだけが確かで、だからそれ以外のことなんてどうでもよかった。

 そうなのだけれども、舌打ち混じりにその手を振り解こうとすると、これが思ったより男の力が強くて、そのことに気が付いて私は初めて、自分の身に危機感を抱かされた。

 そしてその瞬間になって気付いたことがある。それはデザイアのことだった。欲望の化け物デザイアたちは、思い返してみれば、単純な膂力で勝負するタイプがほとんどいなかったのである。

 あの漠然とした「モテたい気持ち」が巨人の姿を成した山本くんのデザイアを「単純な膂力」と呼ぶなら別かもしれないけれど、要するに私は敵対した相手に、シンプルに「女の力じゃ勝てない」と直感したことが一度もなかったのだ。化け物と戦い続ける使命を負った私が、ただのナンパ男相手に初めてそれを直感させられた。……正直、かなり怖かった。

 私は思わず、反対の手のひらの中に鎌を出しそうになった。すぐにそれを振るって、用が済めば鎌を消してしまえばいい、それで血が出るわけでも倒れる人が出るわけでもなく、誰もが鎌の存在を見間違いだとしか思わないだろう。……というところまで考えて、そこで、さて私は彼から何を断ち切ればいいのだろう? という疑問に突き当たった。

 当たり前だけれどデザイア相手の時と違って、彼に必要以上の危害を加えてはならないのだ。私が妙な面倒に巻き込まれないためにもそれは絶対である。相手の存在をこの世から断ち切るとか、そういうことは絶対に出来ない。

 忌むべき化け物討伐を生業にしていた私は、ちょうどよい正当防衛の手段について考えたこともなかった。そうして判断が遅れたことが、向こうの視点では「あっけに取られている」という風に映ったのか、人を舐め腐ったようなナンパ男はより一層その手に力を込めて言う。

「奢るからお茶しない? カラオケでもいいけど」

「いや、あの……」

 金銭に縛られない私にとってこの世で一番魅力のない誘い文句だと思い、やはりこの手の男は多少痛い目を見るべきだとも思ったけれど、だからといって暴力に頼ってしまっては、まるで倫理的には私の手首を離そうとしない彼のやり方を肯定してしまうかのようで憚られる。

 そこで私は「非暴力、精神攻撃」の心情を掲げた。もちろんナンパ男に対してのみ特例的に適用される心情である。その心情に従い、空いている方の手で出現させた鎌を握り彼に刃を通した。鎌はすぐに消す。

 ぎょっとした顔をした彼の腕を振り払うと、あっけなく私は解放された。

「さよなら」

 言って踵を返してしまえば、もう彼が私を追ってくることはなかった。

 彼から断ち切った物は「女性への興味」である。今後彼が独り身で生きていくのか、興味があるフリを装って誰かと付き合うのか、あるいは……一部の人たちが喜ぶ方面へ行くのか? 私の知ったことではないけれど、あの手の男にそういう仕打ちをすることは、むしろ正義だろうと自分に言い聞かせることにする。

 もちろん私だって男性のそういう気持ちを頭ごなしに否定するわけじゃない。いくら欲望の化け物と戦っていたってそんなことはしない。山本くんのあれはまだ可愛い方だと思うし、それに私だって人並みに、彼氏は欲しいのだ。

 ……ちなみにこの話のオチとしては、

「そのローブに、透明人間になれる機能でも付けてあげようか?」

 と、後々神様からそんなことを言われたことがある。

 それで、あぁこの人は私の身に起こったことを全部知っているのか……と確信した時の方が、ナンパに遭った時よりよほど気持ち悪かった。だから私は、誰に第二の誕生日を祝ってほしいとも思えないのだ。

 

 

 

 

 

 

 要するに必要なのは、友達なのでは?

 数日間空中を漂った私が依然として空に浮きながら、そのへんで売っていたたこ焼きを食べつつ思い至ったのはそんな結論だった。

 第二の人生における生活を振り返ってみれば、生前の私の趣味は、楽しいという気持ちは、全て友達ありきの物だったように思えてくる。なんでも好き放題出来ることを初めの三か月は楽しく感じていたけれど、その後の三か月でそれらにほとんど飽きてしまったのは、私の孤独が原因なのだ、きっと。

 そのことに気が付くと、途端に、涙が出そうなほど寂しくなってきた。そうだ、そうだよ、今まで贅沢と散財に溺れて誤魔化していたけれど、知り合いがあの神様しかいないなんて、そんなのは悲しすぎる。彼氏が欲しいどころの話じゃない、私には今、会って話せる友達も家族もいないのだ。それで幸せになれると思っていた今日までの方がどうかしていた。

 けれども魔法少女という使命は、その仕組み上孤独が約束されてしまっているような物だ。デザイア関連で知り合った人たちの記憶には残れず、各地のデザイアを狩るため神の力で北へ南へあちこち飛ばされる。これで友達を作れというのが無理な話で、転勤族の家に生まれた子どものさらに上を行くつらい境遇がここにある。いいヤツとは言い難いけれど悪いヤツでもなかった山本くんのことを覚えているのは私だけで、きっと彼は今も、デザイアを生み出すには至らない程度に弱まった欲望で、それでもモテたいモテたいと思っていることだろう。……私という存在については綺麗さっぱりすっかり忘れて、そんなことを思っているに違いない。

 だんだんと、洒落にならないレベルで悲観的になってくる自分がいた。いや、本当に泣きそう。実際には一滴たりとも涙なんか出ないけれど、涙が出なくたって心で泣きそうだ。望んで得た命を自ら捨てるだとか、そんな皮肉めいた結末にだけは絶対になりたくないけれど、しかしこのままではモチベーションという物が本当に危うい。

 ……まさか、あの時ナンパに応じてみるべきだったのか? 危なくなればすぐに鎌の力で逃げられるのだ。あんな男だってれっきとした人間で、もしかすると彼が、実は、私の友となってくれる存在だったなんてことは……。

 ……いや、ないな。それは絶対にない。まずい、寂しさで思考がやられつつある、もしや彼はその「思考のやられ」を私に見出して……!? だから気弱そうな人ではなくて私に声をかけたのか……!?

「ねぇ、あなたもしかして魔法少女?」

「え?」

 私がネガティブ思考スパイラルに陥っている間に、いつの間にか隣に人がいた。それは一目見て年下だと分かる、やや幼い見た目の少女だった。ただその少女の恰好は私に負けず劣らずの奇抜さで、西洋の方の人形を模倣したかのように、彼女は白黒ツートンカラーの、見事なゴスロリファッションに身を包んでいた。

 かわいい! という感想と、布の表面積がすげぇ! という感想が同時に湧いてくる。

「浮いてるからそうかなって」

「え、あぁ、うん」

 あっけに取られながら、ほとんど無意識のオートパイロットで私はたこ焼きをまた一つ口に入れた。少女がそれをものすごく真剣に見つめていたことを、オートパイロットながら私の方も見逃さない。

 試しに「食べる?」と言ってみると、「いいの!?」とやけに大きなリアクションをした彼女が「あーん」と大きく口を開ける。もうそんなに熱くはないはずだけれど、熱を持ったたこ焼きの殺人性は半端じゃないので、よく冷ましてから一つ彼女の口に放り込む。

「おいしい~!」

「そ、よかった。もっと食べる?」

「ん……待って、まだ口の中にある」

「それは見れば分かるけども」

 もぐもぐ口を動かす彼女に残りのたこ焼きを容器ごと渡した。ちなみに、例えばその際うっかり手を滑らせて、我々の眼下の人々に突然たこ焼きが降り注ぐとか、そんな間抜けなことは絶対に起こったりしない。魔女の触れる物にもある程度浮遊能力は共有されるのだ。

 ……で、なぜこの少女には私の姿が見えていて、なぜこの少女は私と同じく宙に浮いていて、なぜ私に「魔法少女か?」と聞いてきたのか。その理由が察せないほど私も馬鹿ではないけれど、しかしそれほどではないにしたって、ついさっきまでの私はそれなり馬鹿だったように思う。

 魔法少女がこの世に自分一人だけだと信じ込んでいるつもりはなかったはずなのに、それがいつか目の前に現れるだろうとは少しも想像していなかったのだ。

「質問に質問を返すようで悪いけど、あなたは魔法少女なの?」

 この半年の間に私の中で「驚き」の感情は相当衰えてしまったのか、なんだか自分でも不可解なほど冷静にそう聞くことが出来た。口の中の物を飲み込んだ少女が答える。

「うん、そうだよ。わたしはナインエイト、重力の魔法少女。あなたは?」

「私? えーと、名前はデイズ。何の魔法少女かと言われると、うーん…………死神?」

 死神らしさが分かりやすいように、大鎌を背中に背負う形で出現させる。思えばこれをいつも出現させたままにして生活していたのは、最初の一か月くらいのものだったような気がする。

「わっ、かっこいい~!」

 人の機嫌を良くさせるのが上手い子だなと思った。

「わたしの武器はこれだよ」

 言ってナインエイトが両手に小さな何かを出現させる。サイズ的に一瞬マイクかと思ったそれは、よく見ると形からして杖のような物らしかった。上側の先端が鉤型に曲がっている棒状の物は、きっと杖だろう。魔法の杖とは、なるほど順当に魔法少女らしい。

 彼女の出した杖は片方が黒色、もう片方が白色のわかりやすいコントラストを発揮している。けれどその杖の何が一番印象深いかと言われれば、それは鉤型以外の部分の形、デザイン性だった。なんというかこう、あざといというか、女児向けアニメに登場するアイテムを連想させられるような、適度にゴテゴテした「可愛さ」がそのデザインの特徴だった。

 ゴスロリ衣装と合わせて考えて、早くも彼女の趣味が大体わかってきたような気がしている。私としてもなかなか嫌いじゃない趣味だった。

「こっちがラスルで、こっちがイナン」

「えっ?」

「武器の名前」

「……名前?」

 自分自身の魔法少女としての名前が便宜上必要だとは早い段階で思ったものだけれど、武器に名前を付けようという発想まではなかった。今言われるまで、この半年ちょっとの間で一度も、その必要性を感じなかったのだ。

 つまり、あなたは誰ですか? と聞いてくる人は当然ながらたくさんいたけれど、その鎌の名前はなんですか? と聞いてきた人は一人もいなかったのだ。……まぁそれが普通だとも思うけれど。

「決めてないの……?」

「決めてない」

「もったいない!」

 人生の半分を損している! と言わんばかりの勢いだった。

「せっかく魔法少女になったのに、そんなの絶対もったいないよ!」

「そ、そう……?」

 そんな「女の子に生まれたのにおしゃれしないなんて勿体ない!」的な話なのか……?

 そう困惑せざるを得ないけれども、しかし何も、これっぽっちも分からない話ではないようにも思う。というのも、自分が大きな鎌一つしか持っていなかったから、今まで疑問に思う日はなかったけれど、幼い顔つきに似合わぬものすごい迫力で力説する彼女の手の中にある杖を見ると、確かにそれを「黒い方」「白い方」と呼ぶのは味気ない気もしてくるのだ。

 だからといって、自分の鎌に名前がないことを恥じるほどではないけれど。

「黒い方がラスル、白い方がイナン。ラスル&イナンだよ、素敵じゃない?」

「いやまあ素敵だけれども。……ちなみに由来は?」

「由来? ……じゃあ、ちょっとこれ持って」

 たこ焼きを食べるための串を渡される。何のこっちゃと思いながらとりあえず受け取ると、彼女は黒い方の杖……ラスルを胸の前に掲げた。

「グラビデラスル!」

「わっ」

 途端、串が鋼鉄にでもなったかのように重くなった。見た目は何も変わらないのに、明らかに単なる細い木の棒が有する重さではない。……が、まあそれ自体はそこまで驚くことでもなかった。私は彼女の自己紹介を聞き逃したわけではないのだ。重力の魔法少女ナインエイト……彼女が操るのは当然重力、つまり重さだろう。

「グラビデイナン」

 白い杖が掲げられると、串はもとの重さに戻った。一度見せてもらえば何も難しいことはなく理解できる。黒い杖が重力を増やし、白い杖が減らす。重力の増減は大雑把な範囲指定ではなく、特定の対象に対してだけのピンポイントでも有効。大体そんな感じのことが、彼女の魔法少女としての能力だと思われる。

 けれどもそれは、その程度の説明は、どのあたりが私の質問の答えになっているのだろう? 私は彼女に「武器名の由来は?」と聞いたはずなのだけれど、魔法の杖のその力を披露してもらったところで、由来の方にはまったくピンと来ない。

「どう? すごいでしょ?」

「うん、びっくりした」

 褒めてくれと彼女の顔に書いてあったので、ぱちぱちと手を叩いておく。すると重力の魔法少女は満足げにニコニコと笑うのだった。

 ……生前、私がまだ普通に学校へ通う高校生だった時も、クラスにこんな愛されキャラがいたなぁと思い出す。一生誰かしらから愛され続けて生きていけるのだろうな……とあらゆる人物に確信させるような人間だったあの子は、しかしテスト成績が壊滅的なことにより定期的に見る者を不安にさせる人物だった。そこまで含めて、無意識に周囲の人間を保護者目線にさせる才能の持ち主だったのかもしれない。

 ……そうやってかつての友達を思い出してみると、なんだかあまり楽しい気持ちではなくなってしまう。私が死んだと知った時、あの小動物みたいな子はどんな顔をしたんだろう……? なんて、そんなことを知ることが仮に出来たとしても、何にもならないはずなのに。

 そう、それよりも魔法少女としての私にとっては、目の前の少女の存在の方が重要であるに決まっている。

「……で、ラスル&イナンの由来は?」

「あ、うん。だから、こっちが重さの増える杖でしょ? で、こっちは減る杖。だからこっちがプラスの杖で、こっちがマイナスの杖ってこと」

「うん」

「ということは?」

「……は?」

「ほらいたでしょ、あの赤と青の姉妹みたいなポケモン。ピカチュウに似てるやつ!」

「……………………あっ、あぁ~! えっ、そういうこと?」

「そういうこと」

 理解した。確かにいた、そんな名前のポケモンが。つまり「(プ)ラスル」と「(マ)イナン」だ。

 ……な、なんてくだらないネーミング。わかってしまうとあまりにもくだらなさすぎて、そりゃノーヒントで考えても答えにたどり着けるわけがないだろうと、彼女のセンスに対して敗北感に近い感覚を持った。

 大体元ネタがそれなら、どうして杖の色は赤と青じゃないんだろう? という疑問については、彼女の服装が全てを物語っている。よほど白黒のツートンカラーが好きなのだろう。そしてネーミングセンスのくだらなさについても同じことだ。ナインエイトって、それはつまり重力加速度「9.8」のことじゃないか。……まああの日ゲームで適当な理由により偶然使ったガンダム「デスサイズヘル」の略称を名乗る私、死神の魔法少女デイズが「くだらない」なんて言えた立場ではないことは重々承知しているつもりだけれども。

「くだらな~って思ったでしょ」

「えっ? 思ってません」

「うそだぁ~」

「ホントホント」

「んー、まあどっちでもいいんだけどさ。でもね、とにかくわたしが言いたいのは、名前なんて響きが良ければくだらなくてもいいんだよってこと」

 期待と御教授の眼差しが目の前にあった。私は、ファッションには若干こだわりがあるけれども、ネーミングについては何もないのに。そんな女を捕まえて、そんな目をして何になる。

「だからほら、デイズちゃんもその鎌の名前決めようよ! 今!」

 やっぱり……。そうため息が出そうになったところを、努めて我慢した。悪気のない愛され系少女に、擦れた女の悪意を向けることは大罪であるように思えてならなかったのだ。

 ……どう見てもナインエイトは私より年下である。それは容姿だけでなく、話し方やその内容からも察せられることだ。これは私の思い違いであってくれた方が良いのだけれど、だから彼女は見たところ、まだ中学生くらいなんじゃないだろうか……? ナインエイトという名前自体、最近知ったばかりの言葉を無邪気に使いたがる子どものような物を感じてしまう。……これまたデイズを名乗る私が言えた立場ではないけれど。

「名前ねぇ。私そういうの考えるの苦手だから、あなたが決めてくれない?」

 ナインエイトという名前はそのままでは長く、どう略していいものかも分からなかったので、私はひとまず彼女のことを「あなた」と呼んだ。今後が思いやられるので、私は私で鎌の名前よりも早く彼女のあだ名を早く考えるべきなのだと思う。

「わたしが? ダメだよー、そういうのは自分で考えないと。自分で考えるからいいんだよ?」

「……じゃあお言葉を返すようですけど、ナインエイト様のことは何とお呼びすればよろしいのでしょうか。そのままだと長いんですけど」

「ナインでいいよ」

「決めるのはやっ」

 あわよくば重力の魔法少女のあだ名決め大会で鎌のネーミングの件を流してしまえやしないかなと考えたのだけれど、そんな姑息な企みはまるで通用してくれなかった。

「名前ねぇ……。名前、鎌、……サイズ。…………うーん?」

 デスサイズ、という言葉が真っ先に思い浮かんだけれど、それは却下した。デイズという名前の元ネタを示唆するという点では面白いかもしれないけれど、形のない物を断ち切る鎌にその響きは似合わないような気がした。さっきはナインにそっちが考えてくれなんて言ったけれど、いざ自力で考え始めてみると、苦手とはいえ自分が「違う」と思う名前は付けたくないという、己のこだわりの気持ちに気が付かされる。

 そもそも私は死神モチーフを自称したけれど、だからといって本気で死を司る存在を自称したいわけではない。いつの頃だったかネカフェでちょっと調べてみたのだけれど、あのデスサイズヘルというガンダムだって、死神を名乗りながらも正義の存在として仲間と共に戦っていたらしいし、私もニュアンス的にはそれと同じような物なのである。

 スマホを取り出して検索してみる。「デスサイズヘル 武器 名前」。……出てきた答えは「ビームシザース」だった。確かにデスサイズヘルの鎌はビームで形成されていたけれど、私の鎌にビーム要素は皆無だし、その名前をそのまま採用する案も却下するしかない。……というかシザースって鋏の意味だったと思うのだけれど、なんでそれがあの鎌の名前なのだろう? まあいいか。

「サイズ……サイズ……デイズ?」

「おお、なんかいい調子そうじゃない!?」

 鎌を表す英語サイズと自分の名前デイズで韻が踏めることに気が付いた。しかし、それだけではただラップが始まりそうな予感がしてくるだけだった。デイズ! サイズ! なんとかズ! みたいな。

 ……と、その時私の頭の中に突然、ネーミングの神が舞い降りてきた。それはもちろん、何度も話したことのあるようなあの神様とは全然違う、概念としての神、天才的な閃きのことだ。名探偵が事件の全貌をある時一瞬のうちに理解するように、まさに電流が走るような「正解」が私の中に流れ込んできたのだ。

「決まった。決まったよナイン」

「おお、なになに? どんなの?」

「私の鎌の名前は、……デイズ・サイズ・ヘヴンだ!」

 今までの流れからするに、重要なのはくだらなさだと思っていた。くだらなさと響きの良さ、その融合が求められているのだと。そして私の中にこんな問いが降ってきたのである。「その鎌は何物だ?」と。

 これは神の力で作られた鎌だ、そしてこれは私が死んだあと、あの死後の世界……つまり天国で作られた物だ。つまりそう、この鎌は、メイドインヘヴン!

 そしてそれをさっきのラップに組み合わせると響きが完璧に良くなった。ラップとダジャレは違う!と力説していた内容を何かの漫画で読んだけれど、今日初めてその意味を理解した気がする。デイズとサイズに比べて、デイズとヘヴン、サイズとヘヴンはまったくダジャレでも何でもないのに、なぜか全部合わせるとすごく響きが良くなる。これがラップなんですね、そうなんですね……!

「…………」

「……あ、あの? ナインさん……?」

 と、個人的には渾身の傑作が爆誕したと思ったのに、名付けを勧めてきた当のナインはポカーンとした表情で、魂が抜けたように呆然としていた。……彼女のファッションの趣味は嫌いじゃないけれど、いやちょっと残念ながら、今の私のネーミングをディスるようならやっていけないかもしれない。

 そんな敵意の卵みたいな感情を抱いたはずの私は、しかしなぜだろう、まだ純粋な感性しか持っていなかった小学生の頃に、担任の先生が目の前で自分の書いた作文に目を通している時のような、心臓が喉を上がって来そうなほどの尋常ではない緊張を感じていた。

 私は今、ナインエイトから採点を受けている。

「デイズちゃん」

「はい」

「……天才じゃない?」

「……マジ?」

「天才だよ!! すごい!!」

「マジ~!? ふぉぅ~!!」

 こうして、死神JKデイズちゃんもとい死神の魔法少女デイズが持つ武器の名は、デイズ・サイズ・ヘヴンで決定したのだった。直訳して「デイズの鎌(天国製)」。

 そしてやっぱり私の人生に必要なのは、友達以外の何ものでもないのだと確信した。だからそれ以外の余計なことは、今の楽しい気持ちを邪魔するだけの無粋な物だから、意識的に思考の隅へ隅へと追いやった。出来るだけ目立たない場所へと、限りなく無に近い場所へと追いやった。

 なぜ半年もの間一度も見なかった他の魔法少女……つまり「同業者」が今突然現れたのか、そこに意味はあるのだろうか。例えば一人では到底太刀打ちできないようなデザイアが現れる前兆だとか……なんて思考も、いらないいらない……と、ポイと捨て去る。

 私の考えが正しければ、魔法少女という存在は皆「すでに一度死んだ存在」のはずで、だとすれば私よりもずいぶん幼そうなナインは、無邪気で幼気で愛らしい彼女は、かつて私と同じように…………なんて想像もいらない、いらない、必要ない。今は楽しい気持ちだけがあればいい。半年間も一人でいて、ようやく、ようやくの同業者、ようやくの友達なのだ。

 私が彼女に望むのは、私のことを忘れないでいてくれることだけ。きっと同業者ならそれが可能なはず、そうに違いない。だってデザイアの存在を認識している我々は、それに関わる全てをわざわざ忘れる必要だってないはずなのだから。

 だから彼女は、私の初めての友達になってくれるに違いない。二度目の人生で初めての友達に。

 きっとそれは向こうも同じことを考えていてくれたのだと思う。そういうこともあってなおさら仲良くなれるだろうと確信した。私たちは本当にどちらからともなく連絡先の交換を申し出た。これは魔法少女特有の行動原理なのだ。私たちはいつ次のデザイア討伐に駆り出されるか分からず、いつどれだけ離れた地に飛ばされるか分かったものじゃない。だから「連絡先を聞いてもいいものだろうか……」なんて奥ゆかしい大和撫子を気取っていられる余裕が一切ないのである。今連絡先を知らなければ、二度と会えなくなっても確率的に当然だということを知っているから。

 初めて神様以外の連絡先がスマホの中に登録された時、私は人生の始まりを感じた。一度目の人生で初めて友達が出来た時の気持ちなんてすっかり忘れてしまったけれど、それでも当時は、今ほどの喜びと希望を覚えてはいなかっただろう。

「ね、デイズちゃん、今度映画を見に行かない? 時間がある時でいいから」

「いいよ。映画好き」

「やった! わたし、友達と映画を見に行くのが夢なの。死ぬまでにやりたい百のことの一つ!」

「……ふふ、なにそれ」

 一瞬だけ、暗い気持ちになる。せっかくの友達からの誘いに、それを悟られないようにする。

 無邪気な彼女は、神様とどんなやり取りをして魔法少女になり、空に放り出されたのだろう。そんなことを考えてしまった。「死ぬまでにやりたいこと」なんて言われてしまったら、そういう想像をしてしまうのも仕方がない。

 私たちはそういう意味でなら、まだ一度も死んでいない。「死ぬまでにやりたいこと」のチェックシートを埋めていくことが出来る限り、私たちはまだ死んでいない。私もナインも、道中ちょっとしたアクシデントはあったかもしれないけれど、取り巻く環境や境遇は大きく変わってしまったかもしれないけれど、それでも昔からずっと生きている。

 私も、百とは言わないまでも、やりたいことをいくつかリスト化してみてもいいのかもしれない。それくらいの物があった方が、きっと生きることに張り合いが出るというものだ。

「今度と言わずに今から行っちゃえばいいじゃん。ナインもデザイア相手にするのはまだでしょ?」

「え、うん。……いいの!?」

「いいのいいの。あのね、空飛びながらたこ焼き食ってる女はね、大抵暇なんだよ」

「やったー!」

 ナインが両手を上げて喜んだかと思ったその瞬間、彼女はつむじを地表に向けて落下していった。ぎょっとして目で追うと、着地の瞬間に上手く体を回転させたのか、彼女はすんなり足の側から地面に降りている。

 空は飛べるし、仮に死んだとして蘇ることが出来る魔法少女の私でさえ、そんなスリリングな着陸を試みたことは一度もなかったんだけどな……と胸をなでおろした。

 けれど思えばそう、半年で娯楽の大半に飽きたと感じていた私は、ああいう意味のないことをして楽しむ気持ちに欠けていたのかもしれない。映画を見に行くならわざわざ人混みの中を通っていかなくても、映画館まで飛行して行けばいいじゃないかという感覚が、そういう味気ない考え方が、私自身の人生をつまらなくしていたのかもしれない。

 私も地上に降りる。空っぽになったたこ焼きの容器その他は鎌で「この世との繋がり」を断って消滅させた。この世との繋がりがなくなった物は、この世の存在である私からすれば消えたように見えるけれど、実際それがどこへ行くのか、それとも本当に綺麗さっぱり消えてしまっているのか、デザイア相手に何度もそれを断ち切ってきた私だけれど、その効果の本当の意味というやつは実は一切知らなかったりする。……まあ少なくとも死んだ人間が蘇ることが真実であった世界で、何かが綺麗さっぱり消えてしまうということは上手く想像できないけれども。

 すでに行くべき映画館でも決めていたのだろうか、ナインは人混みの中を器用にすり抜け、遠く遠くへ走って行って、私の目に映る分にはあっという間に小さくなってしまう。大通りにて大声を出すことも憚られた私が、気合だけを込めて「待ってよー」の意味で手を振ると、この距離で雰囲気だけを頼りに察知したとでもいうのか即座に振り返った彼女が、嬉しそうに満面の笑みで手を振り返してくれた。「早く早く!」の意味のように思えた。

 が、いくら人混みに慣れているらしい彼女でも、前方不注意となってしまったことは良くなかった。私から視線を外して再び前を向いた彼女は、それまで通りの猛スピードで走りだそうとして、その初動で人にぶつかってしまったのだ。しかもぶつかった相手が、絵に描いたような怖いお兄さんだった。間違いなく人を殴りなれているであろうタイプのガタイのいいヤンキーだった。

 遠くい距離でも雰囲気というものは痛いほど察知できる物だ……ということを、それで私も知った。ナインの視点からはバラ色に見えていたであろう世界が、急に心臓を掴まれたみたいに死と隣り合わせになったことが私にまで伝わってきた。震えて声になりきらない謝罪の言葉がこちらにまで聞こえて来るような、それほどの悲壮な雰囲気が、ナインの小さな背中から放たれている。

 私は、たぶん今までの人生一番の全力で走った。助けなければと思った。粗暴な男から「怒り」という概念を断ち切ってしまうことは私にとって造作もないことだけれど、あの少女が重力の魔法で自分の身を正しく守れるのか、守れたとして自分の心まで上手く守りきれるのか、申し訳ないけれど、会って一時間程度の仲ではまだそこまで信頼してあげることが出来ない。

 なんとなく、ナインは怖いことがあればすぐ泣いてしまうような子である気がした。だから私が守ろうと思った。あの子に変なトラウマなんか絶対植え付けさせない。今日は絶対に、楽しく映画を見に行くんだ。それ以外のことは必要ない。

 ……けれど不謹慎な話、そうして人混みを縫い駆けている時にこそ、私には今までで一番「生きている」という実感があったのだった。

 



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