クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!大正異聞鬼退治! (藤渚)
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【序】始まり、始まり

 

 

   時代(とき)は、大正。

 

 (かつ)て人の血肉を喰らう化生───『鬼』が存在していた頃のこと。

 

 

 人喰いの鬼が(もたら)す脅威に怯え、力無き者は只震える日々を送ることしか出来ない………そんな弱者を護り救うため、鬼を滅する者達がいた。

 

 

 彼らの名は、『鬼殺隊』───人の身でありながら、凶悪な鬼を狩り続ける勇ましき戦士達が集う、政府非公認の組織。

 

 

 数百に及ぶ強者が在籍する中で、最高位に立つ『柱』と称される九人の剣士達。

 

 

  『水柱』  『蟲柱』  『炎柱』

 

 

  『音柱』  『恋柱』  『岩柱』

 

 

  『霞柱』  『蛇柱』  『風柱』

 

 

 

 そして、この猛者達の中に並び立とうとしている、新たな柱の存在がもう一つ。

 

 

 数多の鬼に恐れられ、『伝説』と謳われたその柱が用いていた、奇妙奇天烈な能力(ちから)を継承せし者。

 

 

 その名は─────

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 

 雲一つない青空を悠々と飛行する、一羽の(とび)の姿。

 甲高い()き声が響き渡るその下には水田が広がり、時折吹く風が緑の稲を揺らしていた。

 

 思わず欠伸が出てしまいそうになるほどに、長閑(のどか)な光景。そんな中に、一人畦道(あぜみち)を歩く青年の姿。

 

 黒を基調とした詰襟の上に、左右が異なった色模様の羽織を(まと)った彼の腰には、六角形に似た(つば)の刀が(たすざ)えられていた。

 美丈夫と湛えられても不自然ではない顔に浮かぶ感情は無く、瑠璃色の瞳で正面を見据えたまま、青年は一定の歩幅で田舎道を歩み進んでいく。

 

「……………さーん!」

 

 ふと、草のささめきの中に混じる遠くからの声が耳を掠め、青年は足を止める。(おもむろ)に振り向くと、自分が通ってきた遥か後方の道から、少年が手を振りながらこちらへと駆け寄ってきた。

 

「やっぱりそうだ!冨岡さーんっ!」

 

 火傷に似た額の(あざ)と、花札のような耳飾りが特徴的なその少年は、先に述べた青年と同じ詰襟に加え帯刀をしており、藍墨と若竹の市松模様の羽織を追い風に(なび)かせながら、溌剌(はつらつ)とした声と共に接近してくる。

 冨岡……先程少年にそう呼ばれた青年は、歩いていた時と同様に感情を示さない(おもて)のまま、徐々に大きくなっていく少年の姿をただ見つめている。やがて彼の元へと到着した少年は暫し息を整えると、上げた顔に浮かべた朗らかな笑みを、冨岡へと向けた。

 

「お久しぶりです!冨岡さんもお勤めの帰りですか?」

 

 少年の曇り無い紅の瞳が、無表情のままの冨岡を映す。彼の背負っている大きな木箱の中から、カリカリと微かな音が聞こえた。

 

「……ああ。そちらも変わりは無いか?炭治郎。」

 

「はい!俺も『禰豆子(ねずこ)』も変わりはありません。実は俺もついさっき任務を終えて、今から『蝶屋敷』に向かうところで………あ、俺は別にそこまで深手を負ったわけではないんですけど、万が一っていうこともありますし、念の為()てもらったほうがいいかと思いまして……。」

 

 へへ、と八の字の眉で笑う、炭治郎と呼ばれた少年。よく見ればその顔には、幾つもの切り傷が見受けられ、彼の利き手らしき腕の羽織にも血が滲んでいる。冨岡は溜め息を一つ零すと、自身の(ふところ)から真新しい手拭いを取り出し、唐突に炭治郎の腕を掴んだ。

 

()たっ!あイテテテっ!と、冨岡さん⁉」

 

 困惑する炭治郎を余所(よそ)に、冨岡は黙々と手を動かしている。しばらくしてから漸く解放された炭治郎が見たものは、怪我を負った利き腕に丁寧に巻かれた手拭いであった。

 

「応急処置だ。剥き出しの状態でいるよりは、いくらか増しだろう………こうなる事態を想定して、今後はお前も手拭いを携帯しておくようにしろ。」

 

「冨岡さん………はいっ!了解しました!あっ、手当てしていただいてありがとうございます!」

 

 満面の笑みで感謝を述べる炭治郎。その間に冨岡は背を向け歩行を再開しており、すたすたと離れていく背中を炭治郎は慌てて追いかけた。

 

「冨岡さん、道中までご一緒してもよろしいですか?方角も同じことですし。」

 

「好きにしろ。」

 

「はい!では好きにさせていただきます!」

 

 つい先程まで風のそよぐ音しかしなかった、静かで物寂しい帰りの(みち)。今は二人分の草履の音と、炭治郎の明るい調子の声が賑やかな木霊となって辺りに響く。

 先程の任務でのこと、冨岡も認知している彼の同期達のこと、帰りに立ち寄った甘味処の団子が大変美味かったこと………そんな他愛もない話に冨岡が適当な相打ちをするだけの道中で、「あっ」と炭治郎が不意に短く声を発した。

 

「そういえば鬼の情報を集めていた時、他の隊士の方々にもお会いしたんですけど………その人達から妙な話を聞いたんです。『ここからずっと北にある海辺の村が、鬼によって支配されているらしい』とのことで。」

 

「……それに関しては、俺達も『お館様』より伝えられた。詳しい状況はまだ定かではないが、何でもその鬼………いや、鬼の集団はあの『鬼舞辻(きぶつじ) 無惨(むざん)』の元には属さない、別の勢力の連中であるという情報が、『お館様』の鎹鳥(かすがいがらす)より伝わってきたらしい。」

 

「『鬼舞辻』と………それは本当なんですか⁉」

 

 『鬼舞辻無惨』、冨岡の口からその名が出た途端、炭治郎は先程とは打って変わり、酷く狼狽した様子で富岡へと詰め寄る。

 

「もしもそうなら、『鬼舞辻』の他にも鬼を支配している鬼がいるということですか⁉もしかすれば、『十二鬼月』のような強大な存在だって………そんな鬼達から血を摂れば、きっと『禰豆子』を戻せる方法も……‼」

 

 見開かれた瞳に宿るのは、明らかな焦燥(しょうそう)。しかし冨岡は平静を保ったまま、静まり返る水面の如く蒼い双眸で眼前の少年を見つめる。

 

「……炭治郎、俺は今しがた言った筈だ。詳しいことは定かではない、と…………お前の気持ちが(はや)るのは分かる、だがその件については、俺達『柱』でも知り得ている情報はあまりに乏しい。いずれ『あのお方』より調査の任も下ることだろう、だからそれまで焦るな………いいか?」

 

 言うことを聞かない幼子を諭すような、そんな冨岡の声色と口調に炭治郎は我に返る。先までの自身の態度を恥じた彼が、冨岡から数歩距離を置きながら「すみません…」と小さく謝罪をすると、背中の木箱から引っ掻くような音が先程よりも強く聞こえてきた。

 

「ああ、ごめんな『禰豆子』………兄ちゃん、ちょっと気持ちが焦っちゃったみたいだ。」

 

 炭治郎の手が、ぽんぽんと箱を軽く叩く。すると中からの音はピタリと止み、返答代わりのように二、三度軽く小突かれるのを聞くと、炭治郎は小さく微笑んだ。

 

「冨岡さん、失礼しました。俺────」

 

「構わない。それより道を急ぐぞ、日が沈む前に戻る。」

 

「あ……は、はいっ!」

 

 足早に歩き出す冨岡の背を、炭治郎は駆け足で追いかけていく。

 ふとその時、視界の端を何かが通り過ぎたことに気が付き、炭治郎は足を止めた。気になって辺りを見回してみるも、視界に広がるのは一面の田圃(たんぼ)ばかり。

 

「(あれ……?気のせいだったかな?)」

 

 傾げた首を前へと戻すと、冨岡の羽織が大分小さくなっていることに気が付き、炭治郎は慌てて追いかけていった。

 

 

 

 

 ─────バサ、と羽音を立て、杉の並ぶ林の枝に()まったのは、一羽の(ふくろう)

 

 夜の闇を連想させるような漆黒の羽を畳むと、梟はギョロリと二つの大きな眼で真正面を見据える。

 

 

 

 暗紅色の瞳に映る、二匹の獲物─────畦道を並んで歩く冨岡と炭治郎の姿を、梟は一瞬たりとも目を逸らすことなく、『伝達(つた)え』続けていた。

 

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 

 ゆらゆらと、幽暗を照らす燭台の小さな火が、僅かな風に揺らめく。

 

 薄明りのみが灯るその空間内に集う『六人』は、皆一様に同じ方角────彼らの足下に存在する泉水の水面(みなも)を凝視している。

 

 

 そこに映し出されていたのは、『使い魔』の眼を通じた景色………田舎道を歩く、二人の『鬼狩り』の姿であった。

 

 

 

「………ふん。これが(ひと)の分際で鬼を狩っているという、厄介な連中か。」

 

 

 朱髪の鬼(ひとり)は頬杖をつき、忌々し気に吐き捨てながら、画面向こうの彼らを睨みつけている。

 

 

「何じゃ何じゃ、二匹共に随分と貧相な体つきではないか。(わらわ)の好みではないのぅ。」

 

 

 童女の鬼(ひとり)は吊り上がった眼で品定めをしながら、ケラケラと声を立てて(せせ)ら笑っている。

 

 

「…………………………。」

 

 

 巨体の鬼(ひとり)は先の彼女を自身の肩に乗せ、まるで石像のように微塵も動く様子を見せず、ひたすら直立の姿勢を保っている。

 

 

「ガッハハハ!じゃがのう、どちらもよい顔つきをしておるではないか。これは強者の匂いがするのう………むんっ!血が騒ぎよるわい!」

 

 

 屈強な身体の鬼(ひとり)は、八重歯を剥き出して豪快に哄笑(こうしょう)し、轟く声は一帯の空気を震わせている。

 

 

「あの………僕には、強そうとかそういうの、よく分からないや………でも、あの人達が持っている刀は、何となく嫌な感じはするけれど………。」

 

 

 細身の鬼(ひとり)は、その長身に似合わず弱気で消え入りそうな声でぼそぼそと呟くと、誰とも視線が交わらないよう目を伏せてしまう。

 

 

「恐らく、彼らはあの得物を用いて我々鬼を(ほふ)っているのでしょう………それにしても、彼らがあの『鬼舞辻無惨』の手を焼かせる程に至っているという、『鬼殺隊』の者達ですか。かねがね『母上様』からその存在を伺ってはおりましたが………よもや、これ程までに歳若いとは。」

 

 

 片眼鏡の鬼(ひとり)は、自身の放った『使い魔』の眼を通じて映される光景を眺め、静かに微笑む。

 しかし、細めた瞳の瞼から漏れた眼光は刃のように鋭く、その視線は水鏡越しの二人────特に、先頭を歩く冨岡へと注がれていた。

 

 

「のぅのぅ、神通(じんつう)よ。もしやこの半羽織の細っちぃほうが、『母様(かかさま)』の申していた『柱』という奴なのかぇ?」

 

 片眼鏡の鬼の目線を辿った童女の鬼が問うと、神通……そう呼ばれた彼は肯定の返事を示すように、朗らかな笑みを彼女へと送った。

 

「何とっ⁉鬼殺しの中でも特に秀でておるとされちょる、あの柱が目の前におるじゃとぉ⁉こりゃあ黙ってなんぞしとられん!今すぐに(わし)もあの場に行って鬼狩りと一戦─────」

 

「だあぁっ‼()めねぇかこの脳筋肉達磨っ‼ってか俺一人でコイツ押さえ込むとか無理だろ‼ちょっ誰か助けろ手伝って‼」

 

 無謀にも泉水へ飛び込もうとする屈強な鬼を、懸命に止めようとする朱髪の鬼。その傍らで、細身の鬼はまた喧騒(けんそう)に紛れてしまう程の小さな声で言葉を紡いでいく。

 

「ええっと………確か、『母様(かあさま)』が言ってたんだよ、ね?鬼狩りの一番強い人達、その………は、柱を集めるんだ、って────」

 

「ええ、その通りです。ちゃんと覚えていましたね、偉いですよ。」

 

 (まばた)きをした直後、すぐ目の前に出現した神通に、驚いた細身の鬼は「ぴゃっ⁉」と甲高い悲鳴を上げる。

 

「我らが愛しき、『母上様』の宿願を叶える。それが、私達『兄弟姉妹(きょうだい)』の最大の使命であり、悲願であり、存在する意義でもありますから………ね?皆さん?」

 

 細身の鬼の頭(長身の彼は、神通に合わせて屈んでいる)を慈しむように撫でながら、神通は鬼達に語りかける。柔らかな口調とは裏腹に、片眼鏡(モノクル)越しに妖しく光る深紅の瞳、その奥に(くすぶ)る得体の知れないものを即座に感じ取り、鬼達(きょうだい)は一斉に口を閉ざす。

 

「むう、そうじゃのぅ……神通の言う通りじゃ!母様(かかさま)の願いは妾らの願い、妾らがここにいる最もな理由であることは揺らがぬぞぇ!」

 

「…………………。」

 

「うむ、その通り!鬼殺しの柱も『鬼舞辻』の配下共も、まだ見ぬ猛者共と拳を交えたくはあるが、ここは一先(ひとま)ずグッと堪え………グッと、堪え………。」

 

「おい、握った拳に目ェ落としたまま固まってんじゃねえよ。言っとくが俺はもうお前の暴走止めたくねーぞ、こっちはさっきので手首一本イっちまってんだかんな………まあ何にせよ、鬼殺隊とかいう連中は『母上』の願いの為には邪魔で仕方ない存在ではあるが、また必要不可欠な『材料』でもある………まあ、(ひと)の身である鬼殺しなんざ、(ハナ)から俺達の敵ではないかな!ハハッ!」

 

「僕………あの、僕も、えっと………皆の力になれるかは全然分からない、んだけど……頑張るよ。母様の、ために………。」

 

 『母様(かあさま)』 『母様(かかさま)』 『母上』………。

 呼称は違えど、同じ存在を(あが)め奮起する兄弟姉妹(きょうだい)達。まるで無垢な(わらべ)のように目を輝かせる彼らの姿を眺め、神通は一人ほくそ笑んだ─────その時であった。

 

 

 

『何やら賑わっているな………この『(わたし)』も、そこに混ぜてはくれないか?』

 

 

 びりびりと、空間内を震わせる程の大声量。

 

 声の主は、姿を見せてはいない。しかし鬼達の表情(かお)には瞬時に緊張が走り、皆揃ってその場に膝を折る姿勢をとった。

 

「……お早うございます、『母上様』。本日のお加減は如何でしょうか?」

 

『うむ、悪くはない……神通はいつも(わたし)を気に掛けてくれるな、実に()い子だ。』

 

「はっ、はい!有難きお言葉……!」

 

 先刻までの沈着な様とは打って変わり、天井を(あお)いで破顔する神通。あまりの変貌振りに後方の朱髪と童女の鬼が同時に吹き出すも、運よく神通には気付かれていないようである。

 

『して、先の賑わいの元は何だったのだ?兄弟姉妹(きょうだい)仲睦まじいことは、母として喜ばしくはあるが……。』

 

「はっ!その件で『母上様』にご報告申し上げたいことが………この度、鬼殺隊の『柱』と思しき者の姿を、漸く見つけ出しました。」

 

 敬意を示す姿勢を崩さないまま、神通は利き手の指を軽く動かす。すると泉水の映像に変化が表れ、冨岡の姿のみが水面に大きく表示される。

 始めに映像を確認した時と変わらない、澄ました横顔がより鮮明に映し出されたその直後、空間が大きく揺れ始めた。

 

 

『オ─────オオオオオオォォオオオオォッ‼』

 

 

 先程の比ではない、落雷のような衝撃が走る。

 轟くような叫びが示すのは歓喜か、(ある)いは激憤なのか………鬼達をも怯ませる時間が数十秒程続いた後、『母』の声は徐々に小さくなっていき、やがて静寂が訪れた。

 

『……………我が()らよ、お前達に今一度使命を下す。』

 

 幾ばくか冷静さを取り戻した、『母』の声が降り注ぐ。声色の中には、明らかに隠しきれない狂気が露骨に現れていた。

 

 

 

 

『我が前に、『鬼舞辻』同様に立ちはだかりし、『鬼殺隊』なる目障りな鬼狩り共………そ奴らの中でも特に力を持った者達、『柱』を全て捕らえるのだ。我が望みを果たす為には、『(やつら)』の存在は不可欠なものである……………よいな、必ずや(めい)を果たすのだぞ。(わたし)可愛(いとし)可愛(いとし)い子供達────『地獄柱』の六人衆よ。』

 

 

 

 

「「「お任せください、我らが母君(あるじ)─────『鬼子母神(きしぼじん)様』。」」」

 

 

 

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 

 『 ワーハッハッハッ! ワーハッハッハッ! 』

 

 

 設定された時間通りに響き渡る、目覚まし時計のアラーム音。

 開かれたカーテンからは陽光が差し込み、気持ちの良い目覚めの朝………なのだが。

 

「くか~……すや~……。」

 

 大小敷かれた四組の布団、既にもぬけの殻となっている三組に挟まれた布団の上で、くりくり頭の少年は寝息を立てていた。

 

 『 ワーハッハッハッ! ワーハッハッハッ! 』

 

 幾ら時計がアラームを鳴らそうと、少年は全く起きる気配がない。口の端から垂れた(よだれ)が頬を伝い、重力に従って垂れていく。あと僅かで枕へと着陸しようとしていたその時、パァン!と大きな音と共に(ふすま)が開けられた。

 

「しんのすけ~!いつまで寝てるの、早く起きなさいっ!」

 

 エプロン姿の女性はドカドカと足音を立てながら寝室へと入り、未だ目を覚まさない少年………しんのすけへと近付いていく。

 

「ほらもう、アンタ以外は皆起きてんのよ!だからあれ程早く寝なさいって言ったのに……起~き~ろ~ってのっ!」

 

 女性に激しく体を揺さぶられるしんのすけ、すると彼は小さく(うな)ってから、重い(まぶた)をゆっくりと持ち上げた。

 

「………あれ?何でかーちゃんがオラの夢に?」

 

「ここは夢じゃなくて現実よ。全くやっと起きてくれた……ほらほら、布団片付けちゃうから退()いて退いて。」

 

 かーちゃん、そう呼ばれた女性はしんのすけの母親であるらしく、息子の起床を確認した彼女は目覚まし時計を止めると、呆れ顔のまま立ち上がって周囲の布団をテキパキと片付けていく。まだ眠気の残る目を擦りながら漸く布団から立ち上がった時、不意にしんのすけが女性に問い掛けた。

 

「ねえ、かーちゃん………キサツタイってなぁに?」

 

「はぁ?何の話?」

 

「夢に出てきたんだゾ。オニギリのキサツタイが歩いてて、悪い鬼のキシボンボンが狙ってるって。」

 

「もう、まだ寝惚けてんの?どうせ昨日観たアクション仮面に出てきたキャラクターとごっちゃになってるんでしょ?」

 

「違うもん!昨日出たのは包丁を持って追いかけてくる、ひょっとこ怪人ハガネヅカだもん!」

 

「はいはい、ひょっとこ怪人でもキサツタイでもいいから、早く顔洗ってらっしゃい。パパ達もう朝ご飯食べてるわよ。」

 

 まともに話を聞かないまま、女性は畳んだしんのすけの布団をぎゅうぎゅうになった押入れの中に仕舞おうとする。力任せに無理矢理布団を押し込む彼女の背中に膨れっ面を向け、しんのすけは寝室を後にした。

 

「全く、かーちゃんったらオラの話を聞いてくれないんだから。夢の中にオニギリのイケメンが出てきたことも、ぜ~ったい教えてやんないゾ!ええと確かトミ、トミー………あれ?何て名前だったっけ?」

 

 最早朧気になった記憶を手繰(たぐ)りながら、しんのすけは濡れたタオルで顔面を拭く。目脂(めやに)を取り除き、さっぱりしたしんのすけが次に向かったのは、家族の揃うリビング。

 

「おっ、やっと起きたか寝坊助(ねぼすけ)。」

 

「たいやっ。」

 

 テレビの音が響く明るい部屋の中、テーブルの側に座っている髭面の男性と、彼の傍の床で寝転がっていた赤子が同時に声を掛けてくる。窓の向こうでは白いもこもこした飼い犬が尻尾を振っており、しんのすけも「おはようかんは栗がいい~…」と欠伸交じりで皆に朝の挨拶を返した。

 

「ほらしんのすけ、早く座って朝飯食え。美味いぞ~みさえのサンドイッチ。」

 

 男性が指差した先には、サラダと共にテーブルの上に並べられた色とりどりのサンドイッチ。卵、ツナ、レタス、きゅうり、ハム、ポテトサラダ、その他にはロール状になったジャムサンドまでが皿の上に乗っており、まるで宝箱の中身を覗いたかのように、しんのすけはまん丸の目を輝かせる。

 

「おお~!どうしたのコレ⁉おケチのかーちゃんがこんなゴーカな朝ご飯を………ハッ!もしかして、これがオラ達家族の最期のご飯なんじゃ─────」

 

「「縁起でもないことゆーなっ‼」」

 

 しんのすけの(ろく)でもない当て推量(ずっぽう)に、すかさず繰り出される両親からの突っ込み。片づけを終え寝室から出てきたかーちゃん、もといみさえもリビングへと戻り、漸く一家が同じ場所へ集合した。

 

「な~んだ、オラ焦っちゃったゾ。でもかーちゃん、何でオラん家の朝ご飯、今日に限ってこんなにゼータクなの?何かとーちゃんにやましいことでもあった?」

 

「も~何言ってんのよこの子は、そんなのあるわけないでしょ。別に贅沢って程のものでもないわよ。今日持っていくお弁当の残りを、こうして朝ご飯にしてるってだけなんだから。」

 

「みさえ……本当に無いか?俺に対してやましいコト。」

 

「へ?や、やぁね~アナタまで!そそそ、そんなのあるわけないってば!信じてよ~ひ・ろ・しぃ♪」

 

 猫撫で声で名前を呼ばれると、男性・ひろしはゾワリと総毛立っだが、これ以上の追求は後が怖いと考え、空笑いと共に持っていた残りのサンドイッチを口に放り込んだ。

 

「お弁当……?やだなぁかーちゃん、今日から幼稚園は何日もお休みだから、お弁当はいらないんだゾ?全くお間抜けなんだから。」

 

「お間抜けはどっちよ⁉ゴールデンウイークでアンタの幼稚園がお休みなのも、パパの会社か連休なのも、ちゃーんと知ってますぅ!」

 

「へ?じゃあ何のお弁当なの?」

 

「……おい、コイツ完全に忘れてやがんな。」

 

「全くもうこの子は……きっと変な夢を見たせいだわ。朝から困ったお兄ちゃんでちゅね~ひまわり。」

 

「たい?」

 

「変な夢じゃないもん!オニギリのキサツタイがイケメンのトミーで、オニがキシのボインボインだったもん……あれ?バインバインだっけ?」

 

 体全体を使ってまで夢を表現しようとするしんのすけだったが、当の本人の記憶もほぼ曖昧になっているため、その内容は両親に50%も伝わることはなく、両者と妹・ひまわり共に呆けた顔で奇怪な動きをする息子を眺めているしか出来なかった。

 

「と・に・か・く!早く朝ご飯食べちゃいなさい。どうせアンタのことだから、準備もしないで寝ちゃったんでしょ?」

 

「準備?準備って何の?」

 

「おいおい、本当に忘れちまったのか?昨日あんなに喜んでただろうが?」

 

「え~と、えぇっと……?」

 

「んもう、しょうがないわね。忘れたなら教えてあげるわ。よ~く聞きなさい!」

 

 するとみさえは(おもむろ)に立ち上がり、こちらを見上げるひろし、ひまわり、そしてしんのすけの顔を順に見た後、大きく息を吸いこみ、そして声高らかに告げた。

 

 

「今日から我が家は、二泊三日でキャンプをするのよ!豊かな木々に囲まれた、涼しい山の中!川では美味しい魚を釣って夜はバーベキュー!街中の喧騒も仕事の()さも全部忘れて、心も体もリフレッシュするの………さあっこうしちゃいられないわ、皆早く支度をして!楽しいゴールデンウイークの始まりよっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 時は大正、そして現代。

 

 異なる時代に存在する、異なる者達。

 

 摩訶不思議な(えにし)によって彼らが出会う時、果たしてどんな物譚(ものがたり)が幕を開けることやら。

 

 

 

 さあ皆々様、お立合いお立合い─────。

 

 

 

 

 

 

 



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【壱】キャンプ地は時を越えて(Ⅰ)

 

 

 埼玉県、春日部市。本日の天気は大変良好で、太陽は高く昇り青い空には雲一つ無い。正に今日は最高のお出かけ日和だ。

 

「ほっほ~い!」

 

 燦々(さんさん)と照る日光の下、『野原』と表記された一軒家から聞こえる元気な声。

 そう、ここはあの名高き野原家………日本を中心に最も知名度が高いファミリーとして、彼らはその存在を轟かせていることだろう(多分)。

 

 まあそれはさておき、先程の声を上げたのは野原家長男・野原しんのすけ。

 好きなものはチョコビを始めとしたお菓子、カレーに納豆などなど。逆にピーマンは大の苦手。チャームポイントは太眉とふくよかなお尻で、綺麗なお姉さんやピチピチのギャルには目がない、ちょっとおマセでお下品な五歳児だ。

 プロローグ序盤からパジャマ姿であったしんのすけだが、漸く定番の服装である赤いTシャツと黄色い半ズボンに着替えている。ぱんっぱんに膨れたリュックサックを背負った彼は、折り畳みのテーブルや椅子、バーベキュー用のグリルなどが置かれた軒先(のきさき)で、上機嫌に鼻唄と共にスキップをしていた。

 

「ほらしんのすけ、アンタも運ぶの手伝ってよ~。」

 

 そこへ両手に荷物を抱え、デカい(ケツ)……失礼、美尻で玄関の扉を閉めて出てきたのは、しんのすけのかーちゃんこと野原みさえ。

 野原家を支える良妻であり、厳しく優しく二児を育てる肝っ玉母ちゃん。ちょっとおケチでイイ男には弱い。割とスマートな体型に見えるが、しんのすけ(いわ)くケツデカ三段腹………あっごめんなさい睨まないで怖い怖い。

(※野原家コソコソ噂話……ケツデカオババみさえは、今日でお便秘二日目に突入らしいゾ[byしんのすけ])

 

「た~い、たいやっ。」

 

 そんなみさえの背中に()ぶさっているのは、しんのすけの妹・野原ひまわり。

 野原家待望の女の子で、天真爛漫純真無垢な0歳児………かと思いきや、まだ乳飲み子であるにも関わらず、既にイイ男や宝石などの光り物に目がない。親子ってホントに似るんだな。

 

「アンッ!アンアンッ!」

 

 と、ここでしんのすけは背後から聞こえてくる鳴き声に気が付き、後方へと振り向く。すると庭のある方角から一匹の白い犬がこちらへと駆け寄り、しんのすけに飛び掛かった。

 

「おおぅっ!シロ、よしよ~し。」

 

 しんのすけに受け止められ、綿飴のようにもこもことした毛並みを撫で回されるシロ。彼は(かつ)て捨て犬だったところをしんのすけに拾われ、今では野原家の一員。(ちな)みに性格の方は飼い主に似ず忠実で、とってもお利口さんなシロなのである。

 

「ねえかーちゃん、オラのチョコビとプスライトも持ってくれた?」

 

「ああ、それなら家から持って行かなくても大丈夫よ。途中のサービスエリアでバーベキューの食材と一緒に買ってあげるから。」

 

「えぇ~!車の中で食べるオツヤが無いと、オラやだ~!」

 

「ダメよ!大体お菓子なんて食べたら、お昼入らなくなっちゃうじゃない。我慢なさい……さて、とりあえず荷物はこのくらいでいいかしら?後はパパが来てからもう一度確認して────」

 

 みさえが呟いたその時、『プァッ』とクラクションの音が鳴り響く。一同がそちらの方角を向くと、住宅に挟まれた道路の向こうから、一台の大きな車がこちらへと近寄ってきた。

 

「おぉ~っ!何あれ何アレ!」

 

「きゃ~いっ!」

 

 興奮するしんのすけとひまわりの目の前で、車はゆっくりと停車する。みさえが呆気にとられポカンとしていると、運転席のドアが(おもむろ)に開けられた。

 

「どうだ?写真で見たのより凄いだろ、このキャンピングカー!」

 

 満面の笑みで降りてきたのは、しんのすけとひまわりの父親にしてみさえの夫、そして野原家の大黒柱・野原ひろし。

 双葉商事に務めるサラリーマンで、家族のために汗水流して一生懸命働くカッコいい大人。そんな彼の足の臭いは、最早兵器とまで称される程に強烈極まりない。それはきっと、毎日の労働の結晶なんだよ。だから許してやって……え、ダメ?だよね~。

 

「とーちゃん、こんなでっかい車どうしたの⁉家のローンもまだ残ってるのに!」

 

「おバカねえ、これは買ったんじゃなくて借りてきたのよ。昨日話したことも忘れちゃってるんだから……それにしても、随分立派なレンタカーね。」

 

「おう!会社の知り合いのコネで紹介されたレンタカーの店で借りたんだ。中も凄いんだぜ?広い車内のテーブルと椅子は折り畳んでベッドにもなるし、小さいけどキッチンと冷蔵庫も内蔵してあるんだ。それに上の天窓は開くようになってるからな、そこから見える星空なんかは、きっと格別だぜ~……。」

 

「おおっ!こんなところに自転車までついてるゾっ!」

 

「川口のやつから借りたマウンテンバイクだよ、後ろに荷台もついてるんだ。」

 

「凄い凄~い!オラ達こんなカッコいい車でキャンプに行くんだね!んん~ドキがムネムネしてきたぁ♪」

 

「たいたいっ、きゃ~あぅ♪」

 

「アンアンッ!」

 

「確かに凄いけど………でも高かったでしょ?無理したんじゃない?」

 

「まあ、多少割安にはしてもらったけど、それでも決して安くはなかったけどな。でも折角の家族で過ごすキャンプ、しかも二泊三日だぞ?俺達の足となり宿となってくれるキャンピングカーだ、少しでもいいモノを用意して、最高の思い出作りをしようと思ってな。」

 

「とーちゃん……。」

 

「あなた……。」

 

「へへっ、どうだ?俺だってやる時はやるん────」

 

「これだけいいお車だから、うっかり傷つけちゃったら大変なんじゃない?ヒソヒソ。」

 

「そうよね。まあいざとなったら、きっとパパの保険が働いてくれるから大丈夫よ。ヒソヒソ。」

 

「お前らなぁっ‼そういう聞こえちゃマズい話はちゃんとヒソヒソ声で話せよ!それじゃ(ただ)の露骨な悪口だからなっ全部丸聞こえだからなっ‼」

 

 怒っていいんだか嘆いていいんだか、悲痛に叫ぶひろしの姿に、顔を見合わせたひまわりとシロは、やれやれと同時に頭を振った。

 

 

 

 

 

「ねえあなた、忘れ物はないわよね?」

 

「大丈夫大丈夫、入念にチェックしたし………それじゃ行くぞっ!」

 

「たいた~いっ!」

 

「アンッ!」

 

「よーし!出発おしんこ~!キュウリの(ぬか)漬け~!」

 

 

 

 

 かくして、四人と一匹を乗せた車は、我が家に見送られながら走り出す。

 

 

 こうして、野原家の楽しい楽しい連休は、幕を開けたのだった。

 

 

 

 

 

  ───これから起きる波乱など、誰一人として気付くことなく。

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 がやがやと、大勢の人が行き交うサービスエリア。

 こちらの建物に属したスーパーマーケットで、野原一家は早速キャンプ用の食品やら必要品の買い物を行っていた。

 

「えっと……バーベキューのお肉に野菜でしょ、後二日目の夜はカレーにするから、人参じゃがいも玉ねぎ、それから───」

 

「おーいみさえ、見てくれよ!缶ビールの箱売りがこんなに安いぜ!」

 

「もう、あなたったらそんなに買ったって………あらホント、サトーココノカドーよりずっと安いわ。」

 

「だろ?キャンプで余ったら持って帰ればいいからさ、なぁ~買ってもいいだろ?」

 

「しょうがないわねぇ。重いんだから、あなたが車まで運んでよね?」

 

「たいたっい、ん~マンマ!」

 

「はいはい、ひまちゃんにも美味ちいベビーフード買ってあげるわね~。」

 

「かーちゃんかーちゃん!オラのチョコビとプスライトも買って買って~!」

 

「ちょっと、チョコビ三つは多過ぎなんじゃない?ジュースだって大きいペットボトル三本は飲み過ぎよ。」

 

「いいじゃないかみさえ、折角のキャンプなんだし、あんまケチケチするなよ。しんのすけの分も俺が車まで運んでやるからさ、な?」

 

「うわ~い!とーちゃん太腿(ふともも)~!ついでにシロにも犬用ジャーキー買ってあげようよ!いいでしょかーちゃん?」

 

「太腿じゃなくて太っ腹でしょ……んもう、ホント仕方ないわね。だったら私もおやつ買っちゃうんだから!」

 

「よっし!じゃあ夜に皆で楽しむ花火も買っちゃうか!」

 

「ほっほ~い!いいゾとーちゃんかーちゃん!」

 

 

 

 

 

 

「あ~買った買った、流石に三日分ともなると量が凄いわね。」

 

 カートに山積みになった品物を眺めながら、みさえは改めてその重さとボリュームに圧倒される。彼女の後ろでは同じくカートを押すひろしが、はみ出るビールの箱やらプスライトのペットボトル、それとひまわりのオムツやらを落とさないよう注意を払っていた。

 

「ふんふんふ~…………ん?」

 

 ふと、買ってもらった棒付きキャンディーを舐めていたしんのすけは、少し離れた位置にある広場が何やら賑わっているのに気が付く。

 

「とーちゃんかーちゃん、あそこに人がいっぱいいるゾ!」

 

「え?あらホント、何かお祭りでもやってるのかしら?」

 

「どれどれ………『お買い得がいっぱい!わいわいフリーマーケット』って書いてあるな。」

 

 ひろしが(のぼり)に記された文字を読み上げるや否や、「お買い得ですって⁉」とみさえが声を上げ、瞳をキラリと光らせた。

 

「ねえあなた、ちょっと覗いてみましょうよ~?キャンプ場に着くにはまだ日が高いかもって、さっき車で言ってたじゃない?」

 

「別にいいけど………余計なモノ買うんじゃねえぞ?幾ら車が広いからって、荷物はあまり多くないに越したことは無いんだからな。」

 

「分かってるわよぉ♪そうと決まったら、早く車に荷物を運ばなくちゃ。急げ急げ~!」

 

 大はしゃぎでカートを押すみさえ、「かーちゃん!人参落としたゾ~!」とその後を追いかけるしんのすけの後ろ姿に、ひろしは一人苦笑しつつ車へと足を急がせたのであった。

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 『お買い得がいっぱい!わいわいフリーマーケット』

 

 そう掲げられた横断幕の(もと)の広場には、買う側も売る側も多くの人々が集まっている。

 日用雑貨に衣類や履物、電化製品やおもちゃ、それから(きら)びやかなアクセサリーや如何(いか)にも高価そうな骨董品などなど、右を見ても左を見ても飽きることの無い、様々な品物が商品として並んでいる光景に、みさえの表情(かお)は一層輝いた。

 

「こういうところに意外な掘り出し物があったりするのよね………うぅんっワクワクしちゃう!」

 

「きゃーい♪たたいのたいっ!」

 

「みさえ、何度も言っておくがな、安いからって何でもかんでも手ェ出すなよ?こういうところは手頃な値段と売り手側の巧妙な話術(トーク)についつい (だま)されて、その結果要らなくなるモノまで交わされちまうんだ。そこんとこ気をつけて────」

 

「とーちゃん。かーちゃんもひまも、もういないゾ。」

 

「って、人が忠告してやってる側からいないのかよぉ………。」

 

 がっくりと肩を落とすひろしを余所に、しんのすけは飴を(くわ)えた状態で、シロ(荷物を置いた際一緒に降りた)と共に面白いものは無いかと周囲を見回す。

 

「アンッ!」

 

「ん?どうしたシロ………おっ?おおおぉっ‼」

 

 シロが吠えた先を見るや否や、しんのすけの鼻息は荒くなる。

 子ども達が集まるその一画に、大きく書かれた『おもちゃくじ 一回10円』の文字。そこでしんのすけの目を最も釘付けにしたのは、一等の景品として展示されている、しんのすけの大好きなヒーロー・アクション仮面の黄金(ゴールド)バッジであった。

 

「欲しい、絶対欲しい!ねえとーちゃん、オラくじやりた~い!」

 

「くじ?やめとけって、ああいうのはどうせ当たりっこ無ぇんだから。」

 

「やりたいやりたい!やりたいったらやりた~いっ!」

 

「ったく、しょうがねえな………ほら、これでいいだろ?」

 

 ひろしが財布から取り出した100円玉を渡すと、受け取ったしんのすけは小躍りしながら「ありがとうじはカボチャを食べるぅ♪」と礼を言い、早速シロと共におもちゃくじへと駆け出していく。

 

「しんのすけ!父ちゃんこの辺の店にいるから、終わったらちゃんと来るんだぞ!」

 

 ひろしが声を張ると、しんのすけは手を振りながら「ほ~い!」と返答し、またすぐ正面を向いて走り出す。その小さい背中に健闘を祈りながら、ひろしは近くの店に並ぶ品々に目を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

「はい、また外れ賞~。残念だったねえボク。」

 

 来た時と変わらない接客スマイルで、おっちゃんは外れ賞である水風船(10個入)を渡す。それを貰おうと伸ばされた震える手の主は、同じものを幾つも抱え愕然としたしんのすけであった。

 十回の試み中、唯一水風船以外のものが当たったのは、五等の景品である蛍光色のフリスビー。それでも狙っていたアクション仮面バッジが手に入らなかったショックが大きく、しんのすけはがっくりと肩を落とし、大量の水風船が詰められたビニール袋と頭にフリスビーを乗せられたシロと共に、とぼとぼと歩き出す。

 

「シロ、そのフリスビーあげる。キャンプ場についたらそれで遊ぼうね………ハァ~。」

 

「くぅ~ん……。」

 

「むさえちゃんの言ってた通りだゾ、くじもガチャも勢いでやっちゃいけないって。そういえばむさえちゃんのいたお部屋、リンゴのついたカードが沢山あったけどアレって何だったんだろ………ま、どうでもいっか。」

 

 ポケットにしまっていた棒付き飴を取り出して、咥える瞬間にまた溜め息が漏れそうになる。しんのすけが大きく息を吸いこんだ、その時だった。

 

 

「よぉ坊主、どうしたどうした?ハレの日に浮かない顔だな。」

 

 

 突如聞こえてきた明るい調子の声に、しんのすけは目を丸くする。きょろきょろと辺りを見回していると、「アンッ!」とシロがとある方角に向かって吠えた。

 

 その先にあったのは、伸びた木の枝にすっぽりと覆われ、木陰になったとある露店。周囲の賑やかさから隔絶されたかのようなその場所には、古めかしい壺や大皿、薄汚れた鎧兜などなどが乱雑に置かれている。

 

 しんのすけとシロが近付いていくと、先程声をかけてきた主の正体が分かった……時代劇に出てくる侍のような、小袖に袴といった恰好をした一人の男が、品々に埋もれるようにしてそこに座っていた。

 

 だが最もしんのすけの興味を()いたのは、彼の顔の鼻から上を覆った面………能楽や神楽などで用いられるような、狐の面に似たデザインをしているが、よくよく見れば耳と鼻の形が違う………そう、男がつけているのは『豚』の面だった。

 

「オジさん、こんなところでお店やってるの?」

 

「ハッハハハ!オジさんとは失敬な坊主だなぁ、俺としては結構若い見た目のつもりなんだが。」

 

 からからと笑う男の声は張りがあり、確かに若々しくも捉えられる。着物から覗く肌にも(しわ)は刻まれておらず、一見から推測すれば二十代後半から三十手前、といったところであろうか。

 

「ん~……でもオラの中では、やっぱりオジさんはオジさんだな。」

 

「か~っ!厳しいな坊主ぅ、ショックで泣いちまいそうだよ………グスンッ。」

 

 おいおいと明らかな噓泣きをしてみせる豚面の男、そんな彼の元に近寄っていったしんのすけは、漁ったポケットの中から棒付きキャンディーを一本取り出す。

 

「ゴメンねオジさん、コレあげるから泣き止んでよ。」

 

「お……?あ~らら坊ちゃん、俺にくれるのかい?」

 

「うん。オラ野原しんのすけ、ニキビと吹き出物の違いが分かんない五歳児だゾ。こっちはオラんちの犬のシロ。」

 

「アンアンッ!」

 

「ハッハハハ!面白い子どもだなぁ、それじゃありがたく頂かせてもらうぜ。(ちな)みにニキビと吹き出物は呼び方が違うってだけでモノは一緒だ。」

 

 上機嫌に飴を受け取った豚面の男は、早速包装を剥がしにかかる。しんのすけも敷物の上に腰を下ろし、彼と同じ飴を口に入れた。

 

「ねえオジさん、その豚のお面ってなぁに?ファッション?」

 

「おう、『ふぁっしょん』だ。どうだ~カッコいいだろ?」

 

「オラとしては、そのおセンスはイマイチだと思うゾ。」

 

「か~っ!中々厳しい目をお持ちだねぇ、やっぱ今時の五歳児は進んでるってもんだい。」

 

「いや~それほどでも………ところでオジさん、何でこんな寂しいところでお店なんてやってるの?儲かってる?」

 

「正直なところ、儲かってはいないな。それどころか今日ココに来た奴は、お前とシロが初めてだ。まあ別に構わんさ、金を稼ぐ目的で開いてる店じゃないからな。」

 

「ふーん、じゃあ何のため?」

 

「それはな………あ、ところでしんのすけ、さっきは何でまたあんなに(へこ)んでたんだい?」

 

 唐突に話題を切り替えられ、泡を食うしんのすけ。同時に先程のおもちゃくじでの嫌な記憶が甦り、その表情に再び影が差し込んだ。

 

「オラね、さっき引いたおもちゃのくじで、どうしても欲しいモノがあったんだけど………当たらなかったんだゾ。」

 

「そうかい、そりゃあ残念だったなぁ………よしよし、それじゃあ俺がお前にいいモノをやろう!飴の礼だ!」

 

「えぇっホント⁉アクション仮面のバッジくれるの⁉」

 

「いんや、そのアクションなんたらじゃないんだけどな。」

 

「アクション仮面じゃないのか……じゃあいらないや。」

 

「まあ待て待て、それよりもっと魅力のある代物だ。きっとしんのすけも気に入るぞ?」

 

 期待を含ませた物言いをして、豚面の男は立ち上がり奥へと戻っていく。ガサゴソと漁る音と男の背中に、互いに顔を合わせたしんのすけとシロは揃って首を傾げた。

 

「あったあった。ホラしんのすけ、ぷれぜんとふぉ~ゆ~だ!」

 

 手で雑に(ほこり)を払い、豚面の男がしんのすけの前に置いたもの………それは、赤い(ひも)で封をされた桐の箱であった。埃を被っていた様子ではあったものの傷などは無く、保存状態は大変良い。日常であまり見かけることのない物体の登場に、しんのすけは目を輝かせた。

 

「おぉ~何コレ⁉昔話に出てくる箱みたい………はっ!もしかしてこの箱って、開けるとお爺さんになっちゃう玉手箱なんじゃ……⁉」

 

「どうかなぁ?箱を開いた途端に白い煙が………ドーンッ‼」

 

「いやぁ~んっ‼オラまだ生まれてから五年しか経ってないのにぃ!綺麗なおねいさんと一回もお付き合いしてないのにぃ!しわしわのお爺さんになっちゃうなんてやだぁぁ~助けてシロ~!」

 

「グェッ!ギュウゥ~……ッ!(ジタバタ)」

 

 狼狽したしんのすけに抱き着かれ、苦しさのあまりもがくシロ。慌てふためくその光景に、豚面の男は声を上げて笑った。

 

「ハッハハハ!そんなに慌てなくとも、(ハナ)からコレは玉手箱なんかじゃないぞ。」

 

「な~んだ、それならそうと早く言ってよ。オラびっくりしちゃったゾ!」

 

「く~ん……。」

 

「スマンすまん、だか貴重な物が入ってるのは本当だ。」

 

「ほうほう。んで、何が入ってるの?」

 

「この中にはな………と、ここで一つ昔話をするとしよう。」

 

 またしてもいきなり話題を切り替えられ、前のめりになっていたしんのすけはその体勢のままズッコケる。呆れ顔で見上げるしんのすけを尻目にし、豚面の男は昔話を語り始めた。

 

「むか~し昔……この国にはな、人を(だま)したり傷つけたり、果てには喰ってしまう、そりゃあ怖い『鬼』がいたんだ。」

 

「オラ知ってる!それで桃から生まれた桃太郎が、きび団子を(えさ)にして猿と犬とキジを釣って、鬼ヶ島に鬼退治に行くんだよね?」

 

「ハッハハ、残念ながらこの話は桃太郎じゃあないんだな………それで鬼に怯える弱き者を救うため、『鬼殺隊(きさつたい)』と呼ばれる鬼狩りの組織が生まれたのさ。」

 

 どこか楽し気に話す豚面の男。彼が発した二つの単語を耳にした時、しんのすけの脳裏に何かが浮かびそうになる。

 

「キサツタイの、オニギリ……?あれ?どっかで聞いたことあったような……?」

 

 しんのすけの眉間に寄った(しわ)の存在に気が付きながらも、豚面の男は中断することなく昔(ばなし)を紡ぎ続ける。自分の家の押入れのようになった記憶の整理を一時中断し、しんのすけも再び耳を傾けた。

 

「不死身の鬼を(たお)せるのは太陽の光と、彼らの持つ特別な力を秘めた刀のみ………全ては人を護るため、鬼狩り達は己の命を()けて、来る日も来る日も鬼を斬っていたってわけさ。」

 

「それじゃ、そのキサツタイの人達が頑張ってくれたお陰で、悪い鬼はいなくなったってことなんだね?でめたしでめたし。」

 

「それを言うならめでたしめでたし、だろ…………さあ、この後に鬼と鬼狩りがどうなったのかは、お前の想像に任せるとしよう。さて、ここまで来たらこの箱に何が入っているのか、大体の予想はついたな?」

 

「分かった!きび団子だ!」

 

 しんのすけの突拍子もない回答に、今度は豚面の男がズッコケる。箱にぶつけた額を撫でながら、男は苦笑交じりに顔を上げた。

 

「痛たた………お前さんなぁ、俺の話ちゃんと聞いてたのか?」

 

「聞いてたもん、キサツタイのオニギリでしょ?オラ中身は梅干しがいいな。」

 

「オニギリでなく鬼狩りなんだが………ちなみに俺は筋子が好きだ、あのプチプチ感と磯香る塩味が堪らん。」

 

「んもう、オニギリの話はいいから早く箱の中見せてよオジさん。」

 

 下膨れの頬っぺたを膨らませるしんのすけに、「言い出しっぺはそっちだろう……」と呆れ笑う豚面の男。その時、遠くから聞こえる声が二人の耳に微かに届いた。

 

『……~い、お~いしんのすけ~!どこだ~?』

 

「おっと、この声はお前の親父さんかい?」

 

「うん、オラのとーちゃん………ゴメンねオジさん、オラ達もう行かなきゃ。中身は分かんないままだけど、コレありがとうございました。」

 

 ぺこりと(こうべ)を垂れてから立ち上がり、しんのすけはビニール袋と反対側の手で桐の箱を小脇に抱える。靴を履き、ひろしの元へ行くためシロと共に一歩を踏み出そうとしたその時、「しんのすけ」と不意に名を呼ぶその声に体は一時停止する。

 

「何?オジさ─────っお?」

 

 ぽふ、と頭の上に乗せられた、大きくて温かな手。少し雑な手つきで頭を撫でられていると、手の主………豚面の男の声が降ってくる。

 

 

 

「……いいか、しんのすけ。お前に託した『それ』は、いざという時に必ずお前を助けてくれる。使いこなせるようになるまでが何かと大変だろうが、なぁにお前さんは器用そうだからな。そこんとこは心配ないだろ。」

 

「?………オジさん?」

 

 

「それと、最後に一つ大事なこと………『それ』はお前さんの心次第で、どんな形にも変化する代物だ。強い心を持てばより強く、より大きな力となって反映される………大丈夫だしんのすけ、必ずやお前はきっと『そいつ』の真の力を発揮し、多くのものを守ることが出来るに違いない。この『俺』が言うんだから間違いなんか無いさっ!うん!」

 

 

 

 口角の端を上げ、歯を見せて笑う豚面の男。

 今までよりずっと穏やかな声色で話す彼に、しんのすけはただ呆気に取られている。ここに至るまでの説明内容が難しくて理解が追いつかず、ポカンと口を開けていることしか出来なかった刹那、突如二人と一匹の間に突風が吹き荒れた。

 

「うわぁっ!目がっ目がぁ~っ!」

 

 巻き上げられた砂埃が入ってしまい、しんのすけは咄嗟に目を(つむ)る。真っ暗な視界の中、ふと風によって騒めく草木の音に混じって、何かが聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

「─────『鬼殺隊』の命運、お前に預けた…………頼んだぞ、野原しんのすけ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

「アンッ!アンアンッ!」

 

「うぅ~ん、目が少し(かゆ)い…………お?」

 

 ゴシゴシと擦ってゴミを取り、漸くクリアになった視界を覗いた途端、しんのすけは目を白黒させた。

 

 

 今しがたまで、奇妙な骨董品が並べられた露店のあった場所。そこにいた不思議で胡散臭い、豚のお面のオジさんとお喋りをしていた場所の筈、なのに……………目の前に広がっている木陰には何もない草っ原ばかりで、彼がいたという痕跡は、少しも残ってはいなかった。

 

 

「シロ、豚のオジさんどこ行ったか知らない?」

 

「クゥーン……。」

 

 シロに尋ねてみても、彼は困ったように首を横に振るばかり。

 

 もしかして、あれは夢……?ううん違う、だってオジさんから貰った木の箱は、ちゃんと腕の中(ここ)に抱えてあるから。

 

 しんのすけとシロ、一人と一匹で暫くそこを眺めていた時、遠くから再びひろしの声が聞こえてくる。

 

『お~いしんのすけ!シロもどこだ~?そろそろ車に戻るぞ~!』

 

「お、父ちゃんだ…………行こっかシロ。」

 

「アンッ。」

 

 しんのすけはシロと共に(きびす)を返し、その場から走り出す。途中足を止めて振り返ってみるも、そこにある景色は何も変わらない。ほんのちょっとの寂しさを胸に仕舞い、しんのすけはまた走り出した。

 

 

 

 

 

 

 ────そよ風に(なび)く草花に混じり、残された飴の包み紙。

 

 カサカサと乾いた音を立てて地面を転がっていたそれは、やがて風に飛ばされ宙を舞い………どこかへと、消えていったのだった。

 

 

 

 

 

 

《続く》

 



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【壱】キャンプ地は時を越えて(Ⅱ)

 

 

『やらなくて後悔するより、やってから後悔したほうがいい。』

 

 

 こんな格言を作ったのは、一体どんな人間なのだろう。それはともかく、とても良い言葉だと私は思う。

 旅行先、同人イベント、そしてフリーマーケット………たまたま立ち寄った店で、見かけたサークルで、出店してた一画において、「あ、コレいいな~」と僅かでも感じた経験はないだろうか。買おうか買うまいか迷っているうちに、また今度来た時でいいや~などという理由をつけて、諦めてはいないだろうか?

 

 

 もしも、その旅行先に行く機会が今後二度となかったら?

 もしも、次のイベントで、そのサークルが参加していなかったら?

 もしも自分が去った後、その品物を他の客が購入してしまっていたら………?

 

 

 たった一つの選択を誤ることで、あなたは運命の巡り合わせを………素晴らしき一期一会の機会を、非情にも無下にしてしまっている可能性とてあることをお気付きだろうか。

 

 あの時買っていれば、迷ってさえいなければ………そんな後悔をしたところで、(まだ出番ではない水柱さんの言葉を借りれば)時を巻いて戻す(すべ)はないのだ。

 

 触れられない虚無感と、触れられる幸福感。どちらが幸せかを決めるのは、あなたの心次第であるが─────

 

 

 

「だからってね、ここまで無駄遣いしていいなんてことにはなりません!全く初っ端から長ったらしいモノローグまで流して、読む側も書く側も疲れるんだからね!」

 

 みさえの一喝により、地の文を使ってまでのひろしの苦しい弁解は強制終了する。あぁ書いてるこっちもしんどかった。

 仁王立ちする妻の目の前で、車内の床に正座をし項垂(うなだ)れるひろし。そんな両親の姿を離れた座席から眺めている、子ども二人と飼い犬一匹。

 

「プー♪プー♪」

 

「ひま、おもちゃのラッパ買ってもらったんだ。よかったな~。」

 

「アンッ。」

 

「たぁい!プップププー♪」

 

 仲睦まじいその光景とは対照的に、夫婦の間に流れる空気は重苦しい。腕を組み夫を見下ろすみさえの口から、溜め息交じりに怒声が飛び出した。

 

「大体何よ!人には無駄遣いするなとか言っておいて、あなただって結局はこ~んなに買ってるじゃないの!」

 

 みさえが指したのは、ひろしの横に積まれた箱達。出発時には見られなかった筈のそれらは、どうやら彼がフリーマーケットで購入してきたもののようである。

 

「ま、まあみさえ、そんなに怒るなよ。俺だってちゃんと考えに考えてから、実用的なものを買い物したんだからさ。」

 

「ふーん………例えば?」

 

「例えば、ええと…………ほら!このウォータージャグ、20ℓも入るんだぜ?凄いだろ?」

 

「飲み物なら、さっきスーパーで買ってきたばかりでしょ?しかもあなたの缶ビール以外は全部ペットボトルなんだけど。」

 

「うぐっ!じゃ、じゃあこれならどうだ?ほ~ら子ども用のプールだ!(うち)にあるのは去年破けて使えなくなっちまったし、しんのすけとひまわりもこれで水遊びが出来るぞ?」

 

「……キャンプ場の近くには川があるって、昨日あなたと話したじゃない。」

 

「ハッ‼そ、そうだったなあアハハハ!ハハ…………あ、あとはその………健康のために始めてみようかな~って思って……………ヌンチャク。」

 

「…………それ、本当に今日買わなくちゃいけないモノだったの?」

 

 次々と放たれる、みさえからの容赦のない指摘(ツッコミ)。最早どう言い訳をしても通用しない状況にあるが、ここで黙って(ののし)られるだけの男・ひろしではない。

 

「そっ、そういうお前だってなあ!何だよその積まれた袋の山は⁉人のコト散々責め立てといて、そっちこそ無駄遣いしたんじゃねーのかっ⁉」

 

「なっ!やや、やあねっ失礼なこと言わないでちょーだい!私はちゃんと家族の皆の役に立つものを買ったのよ!無駄遣いなんてこれっぽちもしてないんだからっ!」

 

 頬を膨らせ、真っ赤な顔で(いきどお)るみさえ。だがその声色に隠れた焦燥(しょうそう)をひろしが見抜けないほど、二人の夫婦人生は浅くはなかった。

 

「ふーん………そんなに自信があるってんなら、見せてもらおうじゃねーの。」

 

「い、いいわよぉ?それじゃまずは………ジャッジャ~ン!見て見てこのフライパン!どんなに使っても底にくっつかないし焦げつかない、しかもIH対応の優れモノよ!それにホラ、こ~んなに軽いんだから♪」

 

「あれ?でもかーちゃん、こないだサトーココノカドーのバーゲンでもフライパン買ってなかった?どんなに使っても底にくっつかなくて焦げなくて、しかもIH対応なのよ~って売ってたオバさんが言ってたヤツ。」

 

「……それに、(うち)はIHじゃなくてガスだろ。」

 

 息子と夫からの冷たい視線に、額や背中を伝う冷や汗が止まらない。しかしここで負けを認めるわけにはいかず、頭をブンブンと強く振ってから、みさえは次の袋へと手を伸ばす。

 

「つ、次はコレ!フリーマーケットのタイムセールで勝ち取った紳士用のTシャツよ!ほら、これからどんどん暑くなってくるでしょ?着替えは何枚あっても困らないし、それに一枚たったの200円!どう?安いでしょ~ぉ?」

 

 ドヤッという擬音を背後につけて、みさえは購入したという数枚のTシャツをひろし達の前に見せびらかす。だがひろしを始め、しんのすけやひまわりそしてシロまでが、そこに描かれていたものを目にするなり、その顔は苦い表情(もの)へと変貌した。

 

「……みさえ、いくら安かったからっていっても、もうちょっとセンスのある柄選んできてくれてもよかっただろ?」

 

「いくら何でも、これじゃとーちゃんがかわいそうだゾ……。」

 

「うえぇ~……。」

 

「くぅ~ん……。」

 

「べっ、別に何でもいいじゃない!Tシャツなんて上に何か着ちゃえば、柄なんて見えないわよ!」

 

「それじゃ何枚かお前にやるから、みさえも普段それ着て過ごせよ。」

 

「え……っ?そ、それはちょっと………だってこの柄、私のセンスじゃないし~アハハハハ!」

 

 苦し紛れの空笑いが、キャンピングカーの中に響く。だが冷蔵庫並みに冷え切った空気と家族からの眼差しからは逃げ切ることが出来ず、みさえは戦慄(わなな)く手を最後の袋の中へと入れた。

 

「じゃ、ジャジャジャジャーン!ほらしんちゃん、アクション仮面のなりきりパジャマよ!前からずっと欲しがってたでしょ?」

 

 みさえが最後の切り札として出したもの、それはしんのすけの大好きなヒーローであるアクション仮面を模したパジャマであった。上下に分かれたそのパジャマには、ご丁寧に頭部まで再現したパーカーもついており、正にアクション仮面になりきれるという子どもの夢を叶えてくれる夢のような代物に、しんのすけは真ん丸の目をいっぱいに輝かせた。

 

「おおぉ~っ!アクション仮面のパジャマだぁ~!」

 

「凄いでしょ~?早速着てみる?」

 

「着る着るぅ!かーちゃんありがとう西(ざい)南北ぅ♪」

 

 大はしゃぎでみさえからパジャマを受け取り、目にも止まらぬ速さで服を脱ぐしんのすけ。鼻唄混じりに上から着替えた彼だったが、途端にその表情は落胆と困惑の色で染まる。

 

「かーちゃん、このパジャマ………オラには(おっ)きすぎるゾ。」

 

 口を尖らせた彼の言う通り、そのパジャマは上だけでしんのすけの全身を覆ってしまい、袖もかなり長い。立て続けに犯した自身の失態に言葉が出てこず、呆然とするみさえの肩に、ポンとひろしが手を置いた。

 

「みさえ、もう何も言わなくていいぞ………俺も悪かったんだし、これからは二人で気をつけていこう?な?」

 

「あなたぁ………あ~ん私も!言い過ぎちゃってごめんなさい!愛してるわぁっ!」

 

 互いの非を認めて謝罪をし、仲直りのハグをする夫婦を遠くで眺めながら、しんのすけは元の普段着へと着替え終える。

 

「やれやれ、とーちゃんもかーちゃんもお買い物が下手だなぁ……それに比べてオラはほら、こ~んないいモノゲットしたんだもんね!エッヘヘヘ~♪」

 

 しんのすけが自慢げに掲げてみせたのは、あの豚面の男から渡された桐の箱。圧倒的な存在感を放つそれに、一家の興味はそちらへと集中する。

 

「え?おいしんのすけ、何だよその箱?」

 

「おもちゃくじの後に行ったお店で、豚のお面をつけたオジさんに貰ったんだゾ。いいでしょ~?」

 

「貰ったって………ちょっとアンタ、お金はどうしたのよ?」

 

「お金なんてかかってないもん。オラが飴あげたら、オジさんがお礼にってくれたの。」

 

「嘘おっしゃい!そんな如何(いか)にも高そうなモノ、タダ同然にくれる人なんているもんですか⁉」

 

「んも~タダじゃないってば!飴と交換したんだってば!」

 

 箱を取り上げようとするみさえの手を、頬を膨らせたしんのすけはひらりと回避する。そしてひまわりとシロのいる座席まで行くと、みさえに向かってあっかんべーをした。

 

「あなた、どう思う?子どもを利用した新手の詐欺じゃないかしら……?」

 

「そうだな……商品を開封した後に、返品不可能って難癖つけて代金を要求してくるってパターンも聞いたことあるぜ。なあしんのすけ、それ開けるのちょっと待っ─────」

 

 

「おぉ~っ何コレ⁉すっご~い!」

 

「たあぁ~!きゃ~い♪」

 

 

 ひろしの制止も時既にお寿司、あっ間違えた遅し。箱の(ふた)を放り投げ、中に入っていたものに歓喜するしんのすけとひまわりの下で、ヘッドスライディングをした両親が流れてきた。

 

「おバカっ‼何もう開けてんのよっ‼」

 

「あぁ~蓋までブン投げやがって、傷でもついたら大変─────ん?」

 

 床に落ちた木蓋を拾い上げた際、ふとひろしは内側に紙が貼られいることに気が付く。少し色褪せて黄ばんだ白いそれには筆の(たぐい)で字が書かれており、やや掠れたそれを声に出して読んでみる。

 

「日輪、刀………(ちん)(たけ)(すず)………何だこりゃ?」

 

 ひろしが首を傾げたその時、「あなた!」とみさえに呼ばれ振り返る。彼女の震える指が、しんのすけの手に握られたものを示していた。

 

 

 

 ───それは、丈が50センチほどの脇差(わきざし)によく似た、一本の刀。

 

 珊瑚(さんご)色の(さや)に、丸と三角の模様が並んだ菖蒲(あやめ)色の (つか)。そして何より特徴的なのは(つば)の形で、真ん中が(へこ)んだ楕円(だえん)型のそれは瓢箪(ひょうたん)にも、或いは豚の鼻にも似ていた。

 

 

「うわ~いうわ~いカッコいい!おサムライの剣だ~!」

 

 刀を両手で抱え、鼻息を荒くし大興奮するしんのすけ。その彼とは正反対に、ひろしとみさえはわなわなと全身を震わせ、まるでブルーハワイのかき氷のように真っ青な互いの顔を、首を(きし)ませて合わせる。

 

「あ……あああああああなた、かかか刀ってだだだ大体、いいいくらぐらいすすするのののの……⁉」

 

「ももも、模造品だとそそそ、そうでもないけど、ほほ本物だとだだだ大体、すす数百万からすす、数千万はするんじゃねえかかかか……⁉」

 

 畏縮する両親を傍目に、刀を大層気に入ったしんのすけはもちもちの頬っぺたを擦りつけている。そんな兄の姿を眺めていたひまわりだったが、窓から差した日光が柄へと当たり、それが反射して鮮やかに(きら)めいた途端、彼女は目を光らせた。

 

「きゃ~☆たたいたいやっ!」

 

「わっ⁉ちょっとひま、何すんの⁉」

 

 突然飛び掛かってきた妹を避けきれず、()し掛かる体重にしんのすけは座席の上に倒れる。

 その時、柄と鞘を握っていた別々の手に無意識に力が(こも)ってしまい、チャキッと小さな音と共に中の刃が僅かに姿を現した。

 

 

 

 

  ─────刹那、(まばゆ)い閃光が(ほとばし)り、車内は(またた)く間に白い光に覆われる。

 

 

 

「おわああぁっ!?」

 

「何だ何だ⁉何なんだよこりゃあ⁉」

 

「何なのよ~これっ‼」

 

「きゃ~っ⁉」

 

「キャゥンッ⁉」

 

 

 

 太陽を直視した時のように、少しも目を開けていられない。

 

 

 まるで烈日の強烈な日差しのような光は野原一家を包み込み、留まることを知らないそれは、やがて車全体をも覆いつくしていった─────

 

 

 

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

「ん………ううぅん……。」

 

 ぼやける視界と頭の中で、しんのすけは目を覚ます。

 どうやら意識を失っていたようで、まだチカチカする目を何度も(まばた)きさせていると、床や椅子に倒れ伏していた他の家族達も、小さく(うな)り体を起こした。

 

「うう~ん………一体さっきのは何だったの?」

 

「全くだぜ……おい皆、大丈夫か?」

 

「たやぃ、くあぁ~……。」

 

「くぅ~ん……。」

 

 一先(ひとま)ず全員が無事であることに安堵し、ふらつくみさえに手を貸しながら、ひろしも立ち上がる。視界が高くなったことにより、ここで彼は漸く外の異変に気が付くことが出来た。

 

「なあ……やけに外、暗くねえか?」

 

 ひろしのその言葉に、皆一斉に窓の方を向く。意識を失う前はちょうど昼に差し掛かろうとしていたのに、横に長いガラス越しに見えた外の景色は、空を覆う橙色と闇色が溶けあっているではないか。

 

「嘘でしょ⁉もう夜だなんて、私達そんな時間になるまで寝てたなんて─────あれ?」

 

「みさえ、どうした?」

 

「ううん、大したことじゃないんだけど………あなた、車についてる時計のほうも見てくれる?私の腕時計、調子がおかしいみたいなの。」

 

 みさえが差し出した腕の時計を確認すると、二本の針が示す時刻は自分達がフリーマーケットから戻ってきた際に、ちらりと横目で確認した時間から僅か数分しか経過していない。言いようのない不安に駆られ、みさえの言う通りに運転席側へと移動したその時、ひろしが声を張り上げた。

 

「お、おい……どうなってんだ?ここ、サービスエリアの駐車場じゃねえぞっ⁉」

 

 そこに含まれた狼狽の色に只事ではないことを察し、みさえも運転席側へと向かう。自分も行こうと体を向けたしんのすけの手に、こつんと当たる硬いものがあった。

 

「お……?おぉ~オラのおサムライ(ソード)ちゃん!無事だったんだね~♪」

 

 箱から開封した時のように、刀を抱きしめ頬擦りをするしんのすけ。ふとその時、彼はとある変化に気が付いた。

 

「あれ?何かコレ、ほんのり(あった)かいような……?」

 

 振って揉んで、暫くしてからじんわりと熱を孕み始めたホッカイロのように、刀がポカポカと温かいのだ。ついでによくよく見ると、鞘と柄のこの配色………どこかで見覚えがあるような。

 

「ひま、シロ、これ何かに似てると思うんだけど、分かる?」

 

「たぁ?」

 

「クゥン?」

 

 隣にいるひまわりとシロに尋ねてみるが、彼らも同時に首を傾げてみせるだけ。その時、バタバタとけたたましい足音が車内に響いた。

 

「ととと、とりあえず一旦外に出てみるから、みさえは子ども達と中で待ってろ!」

 

「分かったわ!気をつけてね、あなた!」

 

 しんのすけ達のほうへと駆け寄ってくるみさえの後方で、ひろしはエントランスに手を掛けている。

 

「とーちゃんばっかりズルい!オラもオラも~!」

 

「あっ、コラしんのすけ!」

 

 ひまわりを抱き上げるみさえの横をすり抜け、刀を持ったまましんのすけは走り出す。そして素早い身のこなしで、ひろしが開けたエントランスの隙間から外へと飛び出した。

 

「よっと………おおぅっ寒~い!」

 

 着地したのは、コンクリートの上………ではなく、ふかふかとした草の上。刺すような寒気が半袖半ズボンから露出した肌に触れ、暖替わりの刀を抱きしめ身震いするしんのすけの目にも、その光景は映った。

 

「お?ココって……………どこ?」

 

 

 

 ずらりと並んでいた車の代わりに自分達を囲んでいたのは、一帯に生い茂った沢山の木々や草。

 

 静まり返った森の中、高く伸びた林を見上げれば、既に瑠璃(るり)色へと移ろった空の真ん中に浮かんだ三日月が、幾つもの星と共にこちらを見下ろしていた。

 

 

「おいっ!勝手に外に出たら駄目だろ!」

 

「そうよおバカ!危ないでしょっ!」

 

 背後から叱責する声に振り向けば、慌てた様子で降車してくる両親と、みさえに抱かれた腕の中で好奇の目を辺りに向けるひまわり、そしてシロが遅れて車から飛び降りてくる。

 

「ほっほ~い!とーちゃん、オラ達もうキャンプ場についたの?」

 

「んなわけ無ぇだろ!サービスエリアから車なんて、一ミリも動かしてないんだから………くそっ、一体全体どうなってやがんだ?」

 

 理解し難い状況に頭が追いつかず、苛立ちながら頭を掻くひろし。腕の中のひまわりを一層抱き締め、不安げに周囲を見回すみさえ。警戒しながら辺りの匂いを()ぐシロ。そして、彼らを余所にはしゃぐしんのすけとひまわり兄妹。

 

 

 

 

 ─────そんな彼らを、(やぶ)の中から食い入るように見つめる、もう一人の存在。

 

 『それ』は、口元に笑みを浮かべたまま、一歩……また一歩と、確実にその距離を縮めていく。

 

 

 

「ねえあなた、警察呼びましょうよ!それかレスキュー隊!」

 

「まあ待てよ。ひょっとしたらキャンプ場付近の山かもしれないし、とりあえずGPSで場所を確認して………。」

 

 

「あのぅ、もし───」

 

 

「あ、あれ?電波が…………おいおいマジかよ、ひょっとしてココ圏外か?」

 

「えっ嘘……やだ、私のスマホも圏外になってる!ねえあなた、どうしましょう⁉」

 

 

「えっと、あのぅ───」

 

 

「どうしましょうって言ったって、いきなりこんな知らない山ン中に放り出されちゃ、どうしようもねえだろ。」

 

「そんな………そうだわ!確か方位磁石持ってきてたわよね?それと地図を使えばいいいんじゃない?」

 

 

「あのぅ、もしもし───」

 

 

「いや、それも無理だ……行き先や帰りの道は全部車のナビに登録しちゃってるし、それじゃあコレは要らないわよね~って地図が乗ってる雑誌を家に置いてきたの、お前だろ?」

 

「じゃあ何っ⁉まるで私が悪いみたいじゃない!あなただってあの時、別に地図なんて無くても最新式のナビがあるから平気だぜ~フフンみたいなこと、偉そうにいってたくせに!機械なんかに頼り切らないで、用心してでも持ってくるべきだったのよ!」

 

「今更過ぎたこと言ったって仕方ないだろっ‼」

 

「何よっ‼何か文句あるのっ⁉」

 

「あの───」

 

「「うるっさい(せぇ)わね(な)‼さっきから何なの(だよ)っ⁉」」

 

 先程から割り込んでこようとする声に堪忍袋の緒が切れ(+夫婦喧嘩の八つ当たり)、ひろしとみさえは鬼の形相をそちらへと向けて怒鳴る。

 するとその場所にはいつの間にか、(かさ)を深く被った男が一人、藪の中からこちらへと歩いてきた。

 まるで時代劇などでよく見る農民のように、古びた着物を(まと)った男が近付いてくると、不意にシロが唸り声を発する。

 

「ウウゥ………アンッ!アンアンッ‼」

 

「おっ?ど、どうしたシロ?落ち着け~どうどうっ!」

 

 しんのすけが(なだ)めようとするも、シロは男への威嚇(いかく)()めない。そんな彼に構うことなく接近してきた男は、穏やかな声色で話しかけてきた。

 

「もし、貴方がた。道に迷われたのですか?」

 

「へ?あ、ああそうです!どうしてこうなったかは分からないんですけど、気が付いたらこんな知らない山の中にいまして……。」

 

「そうですか、それは災難でしたな。でしたら私が道を案内いたしましょうか?夜の山は早々に降りなければ危険ですよ、何せ……………『人喰い鬼』が出ますから。」

 

 笠の下から見えない顔で、男はくつくつと笑う。彼の発した『人喰い鬼』という言葉とその不気味な雰囲気に怖気(おじけ)ながらも、顔を合わせたひろしとみさえは互いに頷いた。

 

「すみません、助かります!」

 

「本当にありがとうございます。この通り小さい子どももいるので、不安で仕方なくて……。」

 

 男の厚意に感謝を述べる二人に、「いえいえ」と変わらず穏やかに答える男。そんな彼を見ていたしんのすけが近くに寄ろうとしたその時、「アンッ!」とまたしてもシロが大きな声で()える。

 

「んもぅシロったら、さっきからどうしたの?」

 

 いつもとは違う様子のシロに、怪訝(けげん)な顔をするしんのすけ。落ち着かせるために頭を撫でようと手を伸ばしたその時、手の先とシロの距離が大きく開いた。

 

「おっ?」

 

 ふわりと体が持ち上がり、その拍子に手から刀を離してしまう。

 高くなった視界の先にはポカンと口を開けた両親と妹の姿、そして先程より大きな声で吠えたてるシロが眼前にいることから、今自分が何者かに持ち上げられたのだと、ここでしんのすけは理解した。

 

「クク………子供だ、久々の子供の肉…………しかもこの匂い、まさか『稀血(まれち)』に巡り合うことが出来ようとはっ‼」

 

 そう呟く男の声は、最早温厚なものではなくなっている。呆然とするしんのすけの目の前で、男の背中が膨らみ始めた。

 

「なっ……何だよアレ⁉」

 

 驚怖(きょうふ)するひろし達の前で、着物を裂いた男の背中から二本の腕が姿を現す。その一本が笠に手を掛け、投げ飛ばした次の瞬間、その場の誰もが悲鳴を上げた。

 

 

 額から生えた(つの)。 耳まで裂けた口に並ぶ、鋭い歯。

 ぎょろりとこちらを睨む、吊り上がった眼。 異様に長い爪と、首下まで伸びた、ねとついた長い舌────。

 

 

 

「だから言ったろ?『人喰い鬼』が出る、って………ヒヒ、ヒヒヒヒヒ!」

 

 

 明らかに人離れした風貌と男……否、鬼の恐ろしい嗤い声に震え上がり、足が(すく)んで動かない………立ち尽くしたままの大人二人を尻目にし、鬼はしんのすけを抱えたままこちらへと背を向ける。

 

「ハッ!ま、待て────」

 

 ひろしが叫ぶより僅かに早く、鬼はその場から走り去る。その姿を目で追う間も無く、あっという間に林の中へと消えていってしまう。

 

「アンッ!」

 

 するとシロはしんのすけが落とした刀を口に(くわ)え、鬼の走っていった方角へと駆け出した。

 

「あっ!おいシロ!」

 

 ひろしが呼び止める間も無く、シロの姿もまた闇の中へと消えていく。再び訪れた静寂の中、ひろしとみさえはへなへなとその場にへたり込んだ。

 

「嘘、だろ……夢だよな?コレ……。」

 

「しんちゃん………しんのすけぇっ‼」

 

「たーい!たいやぁっ‼」

 

 みさえとひまわりの悲痛な叫びは、すっかり濃くなった夜の暗がりへと溶けていく。みさえの(すす)り泣く声が暫く響いていたその場に、遠くから聞こえる別の音。

 

「?……何?何の音?」

 

 涙と鼻水で濡れた顔を上げ、みさえは音のした方を向く。

 草木を掻き分けるような音は次第に大きくなり、それがこちらへと近付いているのだと気が付いたのと同時に、突如藪から何かが飛び出してきた。

 

「わわっ‼な、何だよ今度はっ⁉」

 

 みさえとひまわりを背後にやり、ひろしが叫ぶ。すると『それ』は直ぐ様起き上がり、こちらへと駆け寄ってくる。

 

 

 

「大丈夫ですかっ⁉」

 

 

 

 三日月に照らされたその姿………藍墨と若竹の市松模様の羽織を纏い、背中に大きな箱を背負ったその『少年』の額には火傷に似た(あざ)があり、耳には花札のような耳飾りを揺らしていた

 

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 

 一方その頃、鬼に拉致(らち)されたしんのすけはというと………

 

 

「ほっほ~い!速い速~い♪でもちょっと風が冷た~い♪」

 

「……お前なあ、もうちょっと(さら)われてる自覚持ったらどうだ?」

 

 まるでジェットコースターに乗っているかのように、怖がる様子が全く無い上にはしゃぐしんのすけに呆れながら、鬼は山の斜面を下っていく。

 

「ねえ鬼さん、これからどこ行くの?」

 

「ああ?今からお前は俺の(ねぐら)に行くんだよ、そこでお前を頭からバリバリ食べてやるのさ、どうだ~怖いだろう?」

 

「ねぐらって何?小倉の親戚?オラ、小倉トーストの餡子(あんこ)はたっぷりがいいなぁ~。」

 

「ああもう、あんまり喋ってると舌噛むぞ………ったく、稀血(まれち)でなかったらあの場で喰ってやってもよかったってのに。」

 

 ぶつぶつと呟く男がまたも発した聞き慣れない単語、その意味を尋ねようとしんのすけが口を開こうとした時、フッと視界に影が差した。

 

「⁉────チッ、もう追いついてきたのか‼」

 

 鬼は足を止め、忌々し気に上空を見上げる。同じように顔を上げたしんのすけが見たもの、それは────(ちゅう)を舞い、暗闇の中で光る『何か』を振り(かざ)す、何者かの姿。

 しんのすけが瞬きをした次の瞬間、轟音と共に激しい衝撃が一帯を襲った。

 

「ぐおおおぉぉっ⁉」

 

 咄嗟のことに対応が遅れ、体勢を崩した鬼はうっかりしんのすけを離してしまう。

 

「おわああぁぁぁぁ~っ!」

 

 空中でくるくると回転しながら落下するしんのすけ。あと少しで地面とぶつかる寸前、彼は服の襟を何者かの手に掴まれ、惨事は回避された。

 

「……お?」

 

 きょとんと丸い目で、しんのすけは窮地(ピンチ)を救ってくれた存在────自身の隣に立つ、一人の『青年』を見上げる。

 

 

 

 

 左右異なる模様の羽織、片手に持った刀の刀身が、月光を受けて青く光を放っている。

 

 しんのすけを見下ろすその瞳は、彼がこの世界(ばしょ)に降り立った時に見た空の色と同じ、鮮やかな瑠璃色をしていた。

 

 

 

 

 

《続く》

 

 



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【壱】キャンプ地は時を越えて(Ⅲ)

 

 

「あ、あなたは……?」

 

 (やぶ)から飛び出してきた少年に、唖然とするひろし達。いそいそとことらに駆け寄ってくる彼の腰には、漆黒の(さや)に収められた刀が(たずさ)えられていた。

 恐怖や驚き、そして緊張のあまりに硬直する夫婦に、少年は話しかける。

 

「安心してください、貴方がたに危害は加えません………俺は竈門(かまど) 炭治郎(たんじろう)、悪い鬼を退治する『鬼殺隊(きさつたい)』の者です!」

 

 澱んだ空気を吹き飛ばす清風のように、少年・炭治郎の明るい調子の声と太陽を連想する(ほが)らかな笑顔に、ひろし達の強張った身体からは少しずつ力が抜け、緊張も僅かに(ほぐ)れていく。

 

「え、えーと………野原ひろしです。こっちは家内のみさえと、娘のひまわりです。」

 

「どうも、初めまして……。」

 

 ひろしに紹介されるがままに、(こうべ)を垂れるみさえ。彼女の腕の中にいるひまわりが「やぁっ」と軽い挨拶と共に手を挙げると、炭治郎も(にこ)やかに微笑み手を振り返した。

 

「鬼殺隊………確かしんのすけも、そんなこと言ってたよな?」

 

「しんのすけ……そうよ、しんちゃんっ‼」

 

 名を口にした途端、我に返るひろしとみさえ。向かい合っていた顔は同時に炭治郎へと方向を変え、必死の形相で彼に(すが)る。

 

「大変なの!しんちゃん……私達の息子が、変な怪物みたいなのに(さら)われて‼」

 

「たやっ!たやぁいっ!」

 

「ハッ!そ、そうなんだ!頭に(つの)が生えて、口が耳まで裂けてて、それから腕……腕がよ、四本もあった………何だったんだよアレ、あんなの…………あんなの、まるで────」

 

 化け物じゃないか。ひろしの口からそう飛び出る(はず)だった言葉は、喉の奥へと下がっていく…………ただ慌てふためく自分達とは対照に、目の前にいる少年は至って平静を保った状態で、ひろし達の話に耳を傾け何度も頷き返していたのだ。一見の判断だが、恐らく歳はまだ十代半ば頃だろう。(よわい)に釣り合わぬ大人びた態度に一驚(いっきょう)(きっ)する野原夫婦に、炭治郎は開口する。

 

「大丈夫ですよ、野原さん。息子さんを攫ったと(おぼ)しき『鬼』は、もう一人の鬼殺隊の(かた)が追跡してくれています。その人は凄く……物凄く強いんです。なので心配しないで、野原さん達はどうかここで待っていてください。」

 

 そう言いながら、炭治郎は背中の箱を地面へと下ろす。古めかしいデザインのそれは見た目に反して軽いようで、木箱を扱う炭治郎の手付きはどこか細やかさを感じさせた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!えっと、炭治郎君……だったよな?君今、『鬼』って言わなかったか?」

 

「鬼って、御伽噺(おとぎばなし)とか節分とかに出てくるあの鬼でしょ?いくら何でも、そんなのが本当にいるわけ────」

 

 

「いいえ………いいえ、野原さん。鬼は存在するんです、本当に。」

 

 

 みさえの否定を(さえぎ)った、炭治郎の声。そこには今しがたまでの快活さは含まれておらず、一点を見つめる(あかね)色の瞳の奥には、微かな(うれ)いが揺らいでいるようだった。

 

「鬼は………本来『人であった』ために、人と同じ見た目をしているんです。ですが、その本質は人とはまるで異なります。圧倒的な身体能力、それに加えて手足や頭を損失しても、すぐに再生してしまう……太陽の光と、俺達鬼殺隊の使う『特別な刀』でない限り、ほぼ不死となった鬼は(たお)すことが出来ません。そして、そして何より………鬼の主食は(ほか)でもない、『人間』なんです。」

 

 

 告げられた驚愕の事実に、ひろしもみさえも開いた口から言葉が出てこない。木箱に添えられた炭治郎の手が、僅かに戦慄(わなな)いているようにも見えた。

 

「……(まれ)ではありますが、中には一切人を喰わない鬼も存在します。ですが、野原さん達の息子さんを連れ去ったその鬼は、恐らく………。」

 

 歯切れの悪い炭治郎が皆まで言うこともなく、そこに続く内容を察したひろしとみさえ、そしてひまわりは互いに顔を合わせ、そして力強く頷き合う。

 

「今から俺も鬼のいるところへ向かいます。危険ですので、野原さん達は決してここから動かないでください。もしも何かあっても、この『箱』が必ず守─────って、あれ?」

 

 思わず口から漏れ出た、()頓狂(とんきょう)な声。箱から顔を上げた彼の前から、ひろし達の姿が忽然(こつぜん)と消えていたのだ。

 何が起きたのか分からず、唖然とする炭治郎。するとどこからか、ガサゴソと何かを漁る音がする。そちらに顔を向けたのと同時に、彼にとって見慣れない大きな箱……キャンピングカーの中から、ひろし達が姿を現した。

 

「炭治郎君にゃ悪いが、しんのすけの危機って時に大人しく待ってられる俺達じゃねぇんだ!」

 

「そうよ!人喰い鬼なんかが怖くて、子どもを守れるもんですか!」

 

「たいっ!たやぃっ!」

 

「行くぞぉっ!野原一家(※長男と飼い犬不在)、ファイヤー‼」

 

「ファイヤーっ!」

 

「たいたーいっ!」

 

 ヤケクソ気味に叫ぶひろしに続いて、みさえとひまわりも拳を上げる。各々(おのおの)がその手に持つ得物(えもの)(かか)げ、 愛息子(まなむすこ)を誘拐した鬼と刀を咥えたシロが消えていった山の斜面へと、赤子を連れた夫婦は我武者(がむしゃ)らに走り出す。

 あまりに唐突な出来事に、脳の理解が遅れ呆然とする炭治郎。だが木箱の中から聞こえてきたカリカリと引っかく音を切っ掛けに、彼は直ぐ様我に返る。

 

「え……ええぇっ⁉ちょちょ、ちょっと!危ないから行っちゃ駄目ですって!戻ってください野原さん!野原さーんっ‼」

 

 慌てて木箱を背負い直し、暗い(やぶ)の向こうに小さくなっていく姿を見失わないよう、駆け出した炭治郎の振り立てる大きな声が、宵の山間に広く木霊(こだま)していった。

 

 

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 ぽふ、と小さな靴底が数秒振りに芝生と対面を果たす。

 しんのすけが口を開けたまま呆けていると、不意に彼の足元から飛び出してきた白いモフモフが、こちらへと突進してきた。

 

「おっととと!おお~シロっ、一話振りだなぁ~元気だったか?」

 

「アンッ!アンアンッ!」

 

 無事だったことへの安堵と再び会えた喜びに、シロは脇に落とした刀に目もくれることなく、受け止められたしんのすけの腕の中で千切れんばかりに尻尾を振り続ける。そんないじらしく愛おしい飼い犬をモフモフと撫でていると、半羽織の青年が(おもむろ)に膝を折り、しんのすけと目線を合わせた。

 

「無事か………怪我は、無いようだな。」

 

 開かれた口から紡がれた声は、波一つ立たない静穏な水面(みなも)を思わせる。端整な顔が表す感情は読み取れないものの、短いその問い掛けが自分を案じてくれていると気付いたしんのすけは、いつもの調子(ペース)で答えを返した。

 

「オラは平気!もうちょっとジェットコースターごっこしたかったなぁ~………あれ?そういえばシロ、何でこのお兄さんと一緒にいるの?ひょっとしてお(シリ)合い~?」

 

 (シリ)、のところで自らの尻も突き出し、小気味よいリズムで左右に振るしんのすけ。こんな状況下にも関わらずいつも通りな飼い主の様子に、やれやれとシロが頭を振る。

 一方で、いきなり臀部(でんぶ)を露出した見知らぬ子どもと、動きに合わせて愉快に揺れる彼の尻の動きに、澄んだ水底(みなそこ)のような目が一瞬だけ丸くなったような気がした。

 

「………知り合いでも、尻でもない。その犬が俺をここまで導いてきた。」

 

「ほうほう。てことは、シロはこのお兄さんをオラのとこまでご案内したんだな。よしよし偉いゾ~シロ、後でご褒美のジャーキーあげるからな。」

 

 わしゃわしゃとシロを撫でていたしんのすけが、ふと青年へと顔を上げる。彼の人形の様に無機質な顔の頬が、僅かに緩んでいる………ような気がしたのだが、それより何よりしんのすけの興味を()いたのは、彼の(まと)う奇抜な柄模様の羽織。片や鮮やかな臙脂(えんじ)色、片や幾何学(きかがく)模様にも似た不思議なその羽織の存在は、しんのすけの頭の中で眠る記憶の鼻先を(くすぐ)っていた。

 

「ねえお兄さん、やっぱりオラ達おシリ合いなんじゃない?だってオラ、お兄さんのそのカッコいいお着物、どこかで見た気がするもん!」

 

 鼻息を荒くして迫ってくるしんのすけを手で制しながら、青年は自身の記憶回路を巡らせる………が、やはり彼の頭の中には、尻を出して踊る膝丈下程の小さな少年の記録など一切存在しない。無言で首を横に振ると、しんのすけは「そっかぁ~…」と、()も残念そうに太い眉を八の字に下げた。

 

「それじゃ、オラ達今が初めましてなんだね。オラ野原しんのすけ、粒餡(つぶあん)()し餡かの好みはその日の気分で決めちゃう五歳児。こっちはオラん()の家族のシロ。どうぞお見(シリ)置きを~♪」

 

 くるりと体を反転させ、またも向けられたまん丸の尻。意図の分からない自己紹介と幾度も見せつけられる臀部(ヒップ)に混乱しながらも、青年はそれを(おもて)に出すことなく、静かに口を開く。

 

「俺は………俺の名は、冨岡(とみおか) 義勇(ぎゆう)だ。」

 

「ほーぅ、トミオカギューなんて変わったお名前だね。そんじゃ今後も一つよろしく、トミー!」

 

「いや、ギューではなく義勇……………トミー?」

 

 聞き間違いかと自身の耳を疑い、しんのすけへと向き直る。尻に当たる夜風が冷たかったらしく、いそいそとズボンを上げていた彼は、青年……冨岡義勇の視線に漸く気が付く。

 

「そうだよ。タピオカ、じゃなくてトミオカだから、お兄さんはトミーって呼ぶことにしたの。ということで、まずはお友達からスタートし・ま・しょ?トミー♪」

 

 にへら~と浮かべる薄笑いは(いささ)か不気味ではあるものの、そこに侮蔑(ぶべつ)嘲弄(ちょうろう)などは一切含まれていない。とすれば、この頓痴気(とんちき)渾名(あだな)は幼い彼なりに、懸命に頭を(ひね)って考えだしてくれたものなのだろう。ならばその厚意を無下にしてはいけない、まあ色々と言いたいことはあるのだけれど。

 

「………そうか。」

 

 以上の数十秒間に(わた)る葛藤を経て、口を開いた義勇が発した短い一言。それを了承(りょうしょう)と受け取ったしんのすけは、「トミー♪トミー♪」とつけたばかりの渾名を連呼しながら、上機嫌で腰を振っていた。

 

「ところでトミーはおサムライなの?それってオラが持ってるのと(おんな)じおサムライの剣だよね?」

 

「いや……帯刀こそしているが、俺は(さむらい)では────」

 

 そこまで言い()した義勇の目線は、しんのすけの顔から彼が拾い上げた刀へと移る。

 一見だと面妖な配色というだけで何の変哲(へんてつ)もない、長さが一尺程しかない小さな刀………しかし義勇ほどに『実力を備えた者』は、それが(まと)い放つ異様な情調(オーラ)を察することが可能であった。

 

「お前、その刀は──────っ‼」

 

 全身を刺し貫く程の鋭い殺気を肌で感じたと同時に、義勇は利き手の刀を素早く振り上げる。

 ザシュッ、と刃が肉を断つ音と共に、赤黒い飛沫(しぶき)を散らして宙を舞う物体。それが伸ばされた鬼の腕であることをしんのすけが気付く前に、(ちり)と化した肉塊は風に吹かれて消えていった。

 

「お前らなぁ、俺の存在を綺麗さっぱり忘れてくれてるんじゃねえぞぉっ‼今話主要(メイン)の悪役だってのにずっと放置されてさ、特に台詞も無い状態で既に予定文字数の半分切ってるんだからな!」

 

 草を掻き分け、現れた鬼の額には幾つもの青筋が浮き出している。見るからにご立腹な彼の背中から、斬られた代わりの腕が新たに姿を現していた。

 

「おおっ鬼さん、そんなトコにいたの?こってり忘れてたゾ。」

 

「お前らから声掛けられるの待ってたんだよ!でもいつまで経っても素振りすら無いから、悔しいけど自分から仕掛けたの!そしてそれを言うならすっかりだろ!にしても、鬼狩りに追いつかれるたぁ俺もツイてない………やっぱり早々に『稀血(まれち)』を喰っておくべきだったなぁ……。」

 

 ひっくり返したバケツの如く不平不満をぶちまけた後、ぼそりと鬼が零したその単語を、義勇は聞き逃さなかった。

 

「………しんのすけ。」

 

「お?何なにトミー?」

 

 初めて名前を呼ばれ、しんのすけの小さな(ハート)は軽く弾む。だがそんな軽やかな心情とは裏腹に、ゆっくりと立ち上がった義勇は沈着した様子で鬼から視線を逸らさない。

 

「あの鬼の狙いはお前だ、早く(やぶ)の中に隠れろ。」

 

「えっ?何でオラが狙われてるの?思い当たる原因としては、オラがケ〇ン〇スナーもびっくりの世界的美少年だからかな?」

 

 その自身と根拠は一体どこから出てくるのだろうか、的外れな推測をするしんのすけに呆れ果てつつも、義勇は刀を構え直してから続ける。

 

「…………シロ。」

 

「クゥン?」

 

「飼い主……いや、家族を何より大切と思うなら………しんのすけを頼む。」

 

 鬼からは一寸も目を逸らさない状態のまま、義勇はシロに声を掛ける。口調は淡々としているが、そこに込められた彼の想いや温もりを、賢いシロはしっかりと汲み取っていた。

 

「アンッ!」

 

「おわあぁっ何すんのシロ⁉いやぁ~んケダモノ~!」

 

 返事代わりに力強く吠えたシロは、しんのすけを連れていこうと彼の衣服を咥える。ズボンをパンツごと引っ張られ、またしても尻が剥き出しの状態になったまま、あれよあれよと藪へ引きずり込まれる。

 しんのすけの視界が完全に草木に覆われてしまうのと同時に、鬼が動きだした。

 

「目障りな鬼狩りめが‼邪魔をするなああァァァッ‼」

 

 爪を尖らせ、牙の並ぶ口を吊り上げ、鬼は義勇目掛け飛び掛かる。地面を強く蹴った僅か数秒の間に、鬼は義勇のすぐ目の前まで距離を縮めていた。

 忌々(いまいま)しい鬼狩り、まずはその澄ました顔を(えぐ)ってやろうと四本の腕を振り上げる────刹那、血走った目に映っていた義勇の姿は、瞬時に消え去った。

 

「なっ⁉くそっ、どこに行き………………あ?」

 

 ぽたり、ぽたり。

 足の先端に水滴が落ちた感覚に、鬼は下を向き………そして、手首から先が無くなった四本の己の腕へと、目線を映していく。

 

「あ、あぁ、ギャアアアァァァァッ‼」

 

 遅れてやってきた激痛に、耐え切れず鬼は絶叫する。手はすぐに再生を始めたものの、与えられた痛みに対する憤怨(ふんえん)はふつふつと湧き上がり、満面朱を(そそ)ぐという成句のままに怒りを剥き出し、周囲にいるであろう義勇を探す。

 

「どこだ⁉どこにいる⁉よくもこの俺を斬りつけてくれたな、稀血の前に貴様から喰ってやるっ‼」

 

 右を見ても、左を見ても、義勇の姿はどこにもない。怒りと同時に生まれた焦燥感が膨らんでいったその時、降り注いでいた月明かりが不意に(さえぎ)られる。

 

 

 

 ───青白い月光を全身に受け、高く跳躍する義勇の振り上げた刀が爛々(らんらん)と妖光を放つ。

 

 

 薄く開いた彼の口が、細く息を吸い込んだその直後、深縹(みはなだ)色の刀身に水流のような紋様が纏わりつく様を、地上の鬼を始め藪からこっそりと顔を覗かせたしんのすけとシロも、驚愕に見開いた目に映していた。

 

「おおっ!何アレ~⁉」

 

「キャン!キャンキャンッ!」

 

「しまった、上か……‼」

 

 (おもて)を上げ、治癒の終わった腕を上空へと勢いをつけて伸ばしていく。しかし、その手が義勇を切り裂くよりも早く、刃が振り下ろされた。

 

 

 

「『 水の呼吸 ()の型──打ち潮 』」

 

 

 

 まるで剣舞を奏でるように(たお)やかで、それでいて荒々しく打ち付ける波のように力強く、義勇の刃が斬撃を繰り出す。

 

 鬼の腕は瞬時に(こま)切れとなり、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)する間も与えられぬまま、青い刃の先が鬼の首元へと突き立てられた。

 

「っ………畜生、畜生畜生っ‼せっかく稀血を見つけたってのに!まだまだ人間を喰い足りないのに‼」

 

 恨みを言葉として吐き出され、それを正面から浴びせかけられても、義勇の表情は眉一つ動く様子はない。

 力を込めた刀が、鬼の首に食い込み始めた時だった。

 

 

 

「ああ、『あのお方』のためにも、もっと喰わなければ……もっと殺さなければ‼俺は力をつけなくてはならない………‼『鬼舞辻(きぶつじ) 無惨(むざん)』と、その配下の鬼共をも越えられる程にっ‼」

 

 

 

「─────⁉」

 

 

 『鬼舞辻無惨』、その言葉が鬼の口から飛び出した直後、不意に義勇の動きが鈍くなる。

 

 見開かれた瑠璃の眼の中に浮かんだ、一瞬の動揺………首にかかる刀の力が緩んだその隙を、鬼は見逃すことはなかった。

 

「ハハハハハッ!鬼狩りめ、これでも………喰らえェっ‼」

 

 大きく開いた鬼の口から、濁った紫紺(しこん)色の煙が吐き出される。咄嗟に体を()じり鬼から距離を置くも、既に微量の煙が義勇の肺へと流れ込んでしまう。

 

「(⁉……しまった、『血鬼術(けっきじゅつ)』か………‼)」

 

 ぐらりと視界が揺れ、刀を握る腕からは力が抜けていく。立っていることもままならず、義勇はその場に(ひざ)をついた。

 

「トミー⁉どしたのトミーっ⁉」

 

「アンアンッ‼」

 

 麻痺(まひ)していく意識の中で、必死に呼びかけてくる幼い声。(なまり)のように重くなった眼球を動かした先には、藪から頭を出したしんのすけとシロが映っている。

 ああもう、隠れていろと言ったのに………感覚の薄れていく手を動かし、隊服の胸ポケットへと指を入れる。震える指で小さな小瓶(こびん)を掴んだその時、腹部に衝撃が走った。

 

「がは………っ‼」

 

 吹き飛ばされ、仰向けに倒れた義勇の身体。取り落とした小瓶を拾おうと伸ばした手を、裸足の足が強く踏みつける。

 

「ハハッ、いい格好だなぁ?ざまあみろ!」

 

 蹴り飛ばされた刀が、離れた草叢(くさむら)へと転がっていく。満身に痺れが広がっている上に、得物までも失った義勇。形勢が逆転したことに鬼は笑みを浮かべ、先程の仕返しと言わんばかりに暴行を加え始めた。

 

「ぐっ………ぅ……っ‼」

 

 抵抗する(すべ)を失い、一方的に蹴られ続ける最中でも、義勇は身体にかかる負荷を最低限に治めようと、一定の『呼吸』を繰り返す。

 

 

 守らなければ………そうだ、自分は彼らを守らなくてはならない。

 

 鬼殺(きさつ)の剣士として、鬼に抗う力を持つ者として………それ以前に、一人の大人として、あの子ども(しんのすけ)を────

 

 

 

 

 

「クゥーン………。」

 

 藪の隙間から、しんのすけと共に顔を覗かせるシロ。

 しんのすけを助けてくれた冨岡が、異形の化け物に蹂躙(じゅうりん)されているその光景に、思わず目を背けたくなる。

 ふと、薄く開いた目でしんのすけを見れば、何も言葉を発さぬまま微動だにしていない。ただ、刀を握る小さなその手が、恐怖のためか僅かに震えている。

 

「……シロ。」

 

 不意に名前を呼ばれ、そして振り向いたしんのすけに、シロは思わず瞠目(どうもく)する。

 彼のその声も、その表情(かお)にも、恐れの色は一切見受けられない。それどころか、吊り上がった太い眉と彼の団栗眼(どんぐりまなこ)の奥に宿る輝きが、強い決意を表していた。

 

「シロ、オラ達でトミーをお助けするゾ!オラがあの悪い鬼と戦うから、その間にシロはトミーの剣を探して持ってきて!」

 

「キャウッ⁉クウゥン……!」

 

 唐突に何を言い出すのだろうか、この飼い主は。シロが左右に首を振るにもお構いなしに、しんのすけは続ける。

 

「んもう、ワガママ言わないの!後でジャーキー増やしてあげるから!」

 

 そういう問題ではない。いや、ジャーキーは欲しいのだが………無論、シロとて義勇を助けたい想いは同じだ。しかし恐怖で体が強張っているのと、彼にしんのすけを守るよう言いつけられた使命感が(かせ)となり、中々踏み切れない。

 (うつむ)き、ひたすらに葛藤するシロ。するとそんな彼の頭に、ポンと置かれたしんのすけの手。

 

「シロ、このままだとトミーが悪い鬼にやっつけられちゃうんだよ?本当にそれでもいいの?」

 

「クゥン……。」

 

「オラはそんなのやだ!だってトミーはもう、オラの友達だから!困ってる友達はお助けしなくちゃいけないって、かーちゃんもよしなが先生もいつも言ってるんだゾ!」

 

「!……アゥン!」

 

「シロ……オラと一緒に、頑張ってくれる?」

 

「アンッ!」

 

 真っ直ぐに見つめる無垢(むく)な瞳には、一点の迷いもない。そんな飼い主の勇ましい姿に背中を押され、漸く決意出来たシロは力強く頷いた。

 

「よ~し行くぞォ!野原一家(※父・母・妹不在)、ファイヤー!」

 

「アンアーンッ!」

 

 

 

 

 

「が……っ‼」

 

 大きく吹き飛ばされた体が木にぶつかり、義勇は背中の痛みに(あえ)ぐ。既に痺れは全身へと広がり、最早指の一本さえ動かすことは困難であった。

 

「いたぶるのも、そろそろ飽きたな………それじゃあ稀血(ごちそう)にありつく前に、前菜といこうか。」

 

 舌舐めずりをしながら、一歩一歩と鬼が接近してくる。自身が食われるやもしれない危機だというのに、義勇の頭の中にはしんのすけを案ずることだけしか残っていなかった。

 

「(………もうじき、『炭治郎』も駆けつけてくる(はず)。だからしんのすけ、どうかそれまでは、大人しく身を潜めて─────)」

 

 

 

「ワ~ハッハッハ!ワ~ハッハッハ!」

 

 

 

「⁉───だ、誰だっ⁉」

 

 突如、夜の森に響き渡った高笑いに、鬼の意識は冨岡から()らされる。警戒しながら周囲を見回していたその時、茂みから何かが飛び出してきた。

 

 

「悪い鬼め、覚悟しろ!正義のミタカ、ケツだけ星人参上~!」

 

 

 青白い月光を受け、照らされたプリップリのお尻。二本の足が地面に華麗に着地を決めた次の瞬間、それは素早い動きでこちらへと接近してきた。

 

「え?う、うわあああぁぁっ⁉ななな、何じゃこりゃあ⁉」

 

 得体の知れない存在の出現に、激しく動揺する鬼。表面にこそ出さないものの、それは義勇もまた同じ心情であった。

 

「ブリブリ~!ブリブリ~!ブリブリ~!」

 

「あっちょ、速い!何だコイツ、滅茶苦茶すばしっこ───いてっ‼」

 

 捕まえようと四本ある腕を伸ばし動かすも、トリッキーな動きで縦横無尽に移動しまくるケツだけ星人に触れることは容易ではなく、絡まった腕にうっかり足を取られた鬼は、顔面から地面へと転倒した。

 

「ブリブリ~!ブリブ………お?何だコレ?」

 

 コツン、と足先に何かが当たり、しんのすけは動きを止める。その正体である小さな瓶を拾った時、近くからの(うめ)く声に顔を上げた。

 

「トミー!」

 

 近くで見た傷だらけの彼の姿に衝撃を受けながらも、しんのすけは尻を仕舞い忘れていることなどお構いなしに彼の元へと駆け寄っていく。

 

「しん……のすけ………。」

 

「トミー、お怪我大丈夫⁉オラのかーちゃんが珍しく忘れずキューキュー箱持ってきてるから、後でお手当してもらって────」

 

「そ、の……瓶………中身を、飲ませ……早く……‼」

 

「え?もしかしてコレのこと?」

 

 拾った瓶を顔の前まで上げると、義勇は苦し気に呼吸を繰り返しながら頷く。一見瓢箪(ひょうたん)のような小さな瓶の蓋を開けると、そこから(ただよ)う強烈な薬の臭いに、しんのすけは顔を(しか)めた。

 

「うげぇ、ピーマンみたいな臭い………トミー、ホントにコレ飲むの?」

 

「急げ……‼早く、それを口に────」

 

「分かった、ほい。」

 

 まだ喋ってる最中にも関わらず、開いた口に躊躇なく突っ込まれる小瓶。()き込みそうになりながらも、何とか瓶の中身を飲み干した義勇は、空になった容器を地面へと吐き捨てた。

 

「おお~、よく飲めたねトミー。流石は大人────おわぁっ⁉」

 

 突然体を掴まれ、乱暴に持ち上げられるしんのすけ。義勇が顔を上げたその先には、幾本もの腕でしんのすけを捕らえ哄笑(こうしょう)する鬼がいた。

 

「やっと捕まえたぜ……まさかお前の方から来てくれるとはな、稀血(ごちそう)ちゃん♪」

 

「放せ~!オラ食べても美味しくなんかないゾ!」

 

「ハハッ何を言っている?こんなに美味そうな匂いの獲物は初めてだ。ああもう、我慢出来ない……まずはその柔らかそうな尻から、喰ってやるとするかぁっ!」

 

 出しっぱなしになったしんのすけの尻目掛け、鬼は鋭い牙を突き立てようとする。未だ麻痺の残る体を強引に動かそうとしながら、冨岡は叫んだ。

 

「しんのすけ────‼」

 

 

 

 

  ぷうぅ~

 

 

「………あ?」

 

 狭い隙間から空気が漏れる、何とも間抜けな音と共に、鬼の鼻腔(びこう)へと潜り込んでくる強烈な臭気。

 顔は瞬時に青ざめ、だらだらと垂れる汗が滝のように全身へと流れ、堪らず鬼は鼻を押さえて絶叫した。

 

「んぎゃあああぁぁぁっ‼くっせええぇぇぇっ‼」

 

 その拍子に投げ出されたしんのすけは、空中で二回転を決めた(のち)に義勇の前で着地。その際に背中にしょっていた彼の刀が、ぽとりと落ちた。

 

「やれやれ助かった~。これぞ屁機一髪、ってやつですな。」

 

 それを言うなら危機一髪だろう……と義勇が口に出そうとしたのと同時に、鬼が()せ込みながらもこちらへと向かって来る。

 

「ゲホッ………このガキ、普段から何食ってやがんだ⁉」

 

「んも~大袈裟だなぁ。こんなのなんか、オラのとーちゃんの靴下に比べたら可愛いもんですぞ?」

 

「知らねーよお前の親父のことなんか‼よくも舐めた真似してくれたな、今度こそ鬼狩り共々、骨までしゃぶりつくしてやるぅっ‼」

 

 怒り狂い、突進してくる異形の鬼。するとしんのすけは落ちた刀を拾い、義勇を庇う形で前へと立ち塞がった。

 

「⁉……何をしている、早く逃げ……ゴホッ!」

 

「やだ!オラは逃げない、トミーを見捨てて逃げたりなんてしないゾ!」

 

「馬鹿を言うな‼お前に何が────」

 

「だってトミーはもう、オラの友達だから!友達が困ってる時は、お助けしなきゃいけないから!」

 

「………友、達?」

 

 あまりに真っ直ぐな言葉と、強い決意の宿った瞳。そして自分を『友』と呼んだ目の前の少年に、義勇は胸を突かれる。

 

 

 

「よ~し………オラの友達をいじめた悪い鬼め、覚悟しろ!てりゃあ~!」

 

 

 

 鞘にかけた小さな手は、もう震えてなどいない。

 

 新しく出来た友を守る為、しんのすけは一気に刀を引き抜いた。

 

 

 

 

 

 

《続く》

 



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【壱】キャンプ地は時を越えて(Ⅳ)

 

 

 カラン、と乾いた音を立てて、(さや)が地面へと落ちる。

 

 木々に囲まれた夜凪(よなぎ)の森で、(あらわ)になったその刀身に、その場の誰もが言葉を失った────色んな意味で。

 

 

「…………お?」

 

 くりくりの目を何度か(しばた)かせ、しんのすけは引き抜いた刀へと目を向ける。

 

 

 三日月の光を受け、暗夜の中に(きら)めく柔らかな、乳白(ミルク)色の刀身。

 

 鬼へと向けられた刃の先端………しかし、そこには切り裂くための鋭さは存在せず、なだらかな丸みを帯びている。

 

 この形を、何か間近なものに例えるならば───

 

 

 

「ぶっ………ギャッハハハハ!何だよその変ちくりんな刀、まるで千歳飴(ちとせあめ)だな!ハハハハハッ!」

 

 堪えきれず吹き出し、頭と腹を抱えて笑い()ける鬼。彼の言うことに賛同したいわけではないのだか、千歳飴という例えには義勇も思わず心中で頷く。

 刀の持つ役割とは主に、対象を斬ることにある。だが今、しんのすけが構えているコレはどうだろうか………敵を斬り裂く鋭さもなければ、一切の殺気や覇気さえ微塵(みじん)も感じられない。

 

「言われてみれば確かに………どれどれ、ベロ~ンッ。」

 

「ってコラ!本当に舐める奴がどこにいる⁉」

 

「うへ~まじぃ……んもう全然甘くないじゃんか!鬼さんの嘘つきっ!」

 

「えぇ~っ何で⁉何故に俺が悪いことになっている⁉第一それが本物の飴だとは一言も言ってないだろバカタレェ!」

 

 あろうことか刀身に舌を()わせ、案の定顔を(しか)めるしんのすけ。理不尽な言い掛かりを受けてもすかさず注意をする鬼の姿に、実はお人好しなんじゃないかと一瞬思ったものの、決してそれを口に出そうとしないのが、この冨岡義勇という男であった。

 

「は~やれやれ。笑って怒鳴って、腹も程よく空いてきたな……………残念だが、(たわむ)れの時間はここまでだ。小僧。」

 

 不意に落とされた声の音調(トーン)。しんのすけの背中を冷たい汗が伝い落ちたその刹那、自身の頭上を通過する風を切る音の直後に、「がは…っ‼」と背後から義勇の(うめ)く声が漏れる。

 

「トミーっ‼」

 

 振り返ったしんのすけが(まなこ)に映したもの、それは頸部(けいぶ)を掴む鬼の手によって体を持ち上げられ、顔を歪ませる義勇の姿。先程の薬の効果が表れてきたのか、震える手を何とか動かして引き剥がそうとするも、指の先は(くう)を虚しく掻き(むし)るだけであった。

 

「コラ~!お前の相手はオラでしょーがっ!」

 

「ハッ、関係ないな。腹が減ったから目の前にある手頃な餌を喰う、それだけのことだ………なぁに心配するな、お前も後からコイツと会わせてやるよ………俺の、腹の中でな。」

 

 吊り上がった口元から覗く牙を伝う唾液が、薄く開いた口の間から筋を描いて垂れていく。鬼の形相と恐ろしい言葉に全身が(すく)み上がり、改めて目の前の対象に感じた恐怖に、しんのすけの身体は硬直してしまう。

 

「オラ……オラ………。」

 

 義勇を助けたい。助けなきゃいけないのに、怖くて逃げだしてしまいたい。戦慄は徐々に全身へと伝染していき、遂にはそれが刀を握る手にまで到達しようとしたその時、「しんのすけ!」と義勇の声が彼の名を叫んだ。

 

「……もう、いい……逃げろ…………(じき)にもう一人、隊士がここに来る……それまで、は……俺が時間を……っ!」

 

「そんなのやだゾ!トミーも一緒に───」

 

「いいから早く行け‼俺に構うなっ‼」

 

 喉を圧迫されているとは思えない程の声量が辺りに響き、ビリビリと震える空気がしんのすけの肌にも伝わってくる。

 苦悶に歪んだ義勇の表情(かお)。薄く開いたその瞳が映したのは、しんのすけの姿たけではなかった。

 

 

 

 いつでも温かく包み込み、自身の命を()してまで守ってくれた、優しい(ひと)

 

 

 生きる望みを失い、暗く深い沼のそこに沈んでいた自分の手を掴み、強引に引き上げ再び光り差す世界へと戻してくれた、無二の友である少年(ひと)

 

 

 

 そして、まだ共に刻んだ時間は僅かであれど、初対面の自分のことを友と呼び、そして果敢(かかん)にも人喰い鬼の前へと立ちはだかった、不思議な幼子(おさなご)の、この少年………。

 

 

 

 

「(逃げてくれ、しんのすけ………もうこれ以上、俺と関わった誰かがいなくなるのは────)」

 

 

 

 

「やだっ‼」

 

 

 義勇の中に広がっていく晦冥(かいめい)を突如切り裂いた、光の刃────それは、しんのすけが発した力強い一声(ひとこえ)

 

「オラは………オラは絶対に、トミーを置いて逃げたりなんかしないゾっ‼」

 

「ハハッ、なぁにいっちょ前に格好つけてやがんだ。自分の足を見てみろ、(ひざ)が大爆笑してるぞ?」

 

「ち、違うもん!これはえーと、んーと………そうだ!ムシャムシャ震いだゾ!」

 

 鬼が(あざけ)(わら)った通り、しんのすけの膝や背中はまるで産まれたての仔山羊(こやぎ)さながらにがくがくと震えている。それでも彼の二つ並んだまん丸の瞳は、眼前の鬼から少しも逸らされる様子は無かった。

 

「オラ、お前なんかちぃ~っとも怖くなんてないもんね!オラもトミーも、お前の晩ご飯になんかなるもんかぁっ‼」

 

 義勇の膝丈程しかない小さな身体、そのどこに秘められているのか疑問に思うほどパワフルな大声量が、びりびりと森の空気を僅かに振動させる。

 

「行っくぞぉ!くらえ~()()()()()()!てりゃああぁ~っ‼」

 

 それを言うなら()()()()………心の中で静かに訂正を入れる義勇の眼前で、両手でしっかりと鞘を握った刀を振りかぶり、しんのすけは悪鬼目掛け果敢(かかん)に駆け出す。

 

 

  が、

 

 

「おっ?おわっ!おとととっとっとぉっ⁉」

 

 それは、大きく足を踏み出した直後の出来事。突然バランスの崩れたしんのすけの体はぐらりと揺れる。

 一体、しんのすけに何が起きたというのか…………その原因(こたえ)は、体勢を戻そうと体を揺らし、ついでにプリプリと尻も揺らす彼の(くるぶし)辺りに絡まった衣服(モノ)にあった。

 ズボンやパンツのゴムの伸縮性にだって、限度というものがある。普段から物臭(ものぐさ)な人、(ある)いは着替えの途中で用を思い出したorアクシデントが発生した、などなど理由はエトセトラ。とはいえ、足下にそんなモノが絡んだ状態で足を思いっきり開いたりなどしたら、どうなることか。

 

「おわあああぁぁっ‼」

 

 転ぶまいと励んだ努力も虚しく、しんのすけは刀を振りかざした状態のまま、正面から地面へと倒れていったのであった。

 

「しんのすけ……っ‼」

 

「ギャッハハハハ!おいおい何てザマだ、見ていられないな!」

 

 叫ぶ義勇、目元を掌で押さえ哄笑(こうしょう)する鬼。

 片や(まばた)きを、片や笑い泣きで濡れた目を拭おうと己の手を取り払った────それは、刹那の間のことであった。

 

 

 

「あ───?」

 

 

 

 開けた鬼の視界に映ったのは、目と鼻の先の距離に突如現れた『何か』。

 

 

 丸っこい先端、夜闇に映える乳白(ミルク)色。

 見覚えがある。と鬼が脳で認識する前に、ゴツッ‼と鈍い音と共に頭に衝撃が走った。

 

「あ(イタ)っ!」

 

 同時にやってくる鈍い痛み、『それ』が自身の額に直撃したのだと漸く理解出来た鬼の目が見たものは、顔面から派手に転倒するしんのすけの姿。

 赤く擦りむいた額と鼻先に顔を(しか)め、それでも利き手にはしっかりと刀の柄を握りしめている。

 

 

「な───っ⁉」

 

 

 ここで、鬼は漸く異変に気が付いた。

 

 しんのすけの持っている刀───まるで千歳飴の様だと、つい先刻己が散々(けな)した、あの刀。

 

 

 その真っ白な刀身が、()()()()()…………そして特徴的だった丸い刃先は、今も尚自身の額とピッタリ接触した状態にあるのだ。

 

 

「どうなってやが───ん?何だこの(にお)い?」

 

 不意に鼻腔(びこう)(くすぐ)ったのは、香ばしい………否、香ばしいを通り越して焦げてしまったような、胸がムカムカする不快な臭い。

 続いて、ジュゥッと熱した鉄板が肉を焼く時のような音、そして額の鈍い痛みが徐々に熱へと変化していったその時、開いた鬼の大きな口から絶叫が轟いた。

 

「ギャアアアァァァァッ‼(あっち)い‼アチチチチ‼」

 

 あまりの熱さと火傷の激痛に飛び上がり、鬼は剣の先端から離れ両手で額を押さえ、叫びながら悶え苦しむ。

 

 

 

「(あれは、しんのすけの刀か……?一体何が起きている?)」

 

 一方、目の前の光景に唖然としていた義勇であったが、自身を掴む手の圧迫が緩くなった隙をつき、すかさず鬼の腕を蹴り上げる。薬の効き目が(ようや)く表れた義勇の体は、多少ふらつきながらも地面へと着地することが出来た。

 

「アンッ!」

 

「!………お前は。」

 

 下を見れば、あの綿飴のようなしんのすけの飼い犬がこちらを見上げている。少しだけ驚いたのも束の間、彼の傍に転がる深縹(みはなだ)色の刃の刀に、義勇は我が目を疑った。

 

「アンッ!アンアンッ!」

 

「……そうか、お前が見つけてきてくれたのか。」

 

 義勇は屈んだ体勢のままシロを見下ろし、小さな切り傷の残る頬を緩ませる。そして彼は手を伸ばし、己の得物であるその日輪刀の柄を力強く掴んだ。

 

 

 

「う~ん、いててて~………鼻とおデコ擦りむいちゃったゾ……。」

 

 目の前で起きていることなど(つゆ)知らずに、ここで漸くしんのすけが顔を上げる。未だ絡まったままのズボンとパンツをそのままにゆっくり立ち上がった時、彼は手に握った自分の刀の変化にやっと気が付いた。

 

「おぉ~っ何コレ⁉オラのおサムライ(ソード)ちゃんが長くなってるぅっ!」

 

 従来の何倍もの長さになった刀に興奮し、どこまで伸びているのかを目で追っていると、しんのすけは自分のいる数m先で(うずくま)っている鬼の後ろ姿を発見する。

 

「鬼さんどしたの?お腹痛い?」

 

「痛ぇのは俺のデコだ‼よくもやってくれたなクソガキ‼」

 

「えぇ~そんなこと言われたって、オラよく分かんないもん。()()()なこと言わないでよね~もう。」

 

「それを言うなら()()()だろうが…………()つつ、何でこの傷だけ治りが遅いんだ……?」

 

 痛みの引かない額の火傷を撫でながら、鬼は拭いきれない疑問を口に出す。するとそんな彼に追い討ちをかけるように、先程の伸びた刀身が頭に直撃した。

 

(いだ)っ‼今度は何だ⁉」

 

「うう~ん、この剣重いゾ………おわっととと!」

 

 伸び切った刀の重量を扱えず、しんのすけは何度もよろめく。刀身はまるで剥き出しになった魚肉ソーセージのようにぐにゃりぐにゃりと曲がっては歪み、その動きに合わせてベチベチと刀が鬼へと容赦ない攻撃を当てていた。

 

「痛い!また痛っ、今度は(あっつ)い‼お前なぁっもういい加減に────ふべらっ⁉」

 

 抗議をしようと口を開いたのと同時に、頬に叩きこまれた強烈な一撃。鬼が地面へと倒れた向こうでは、刀を何とかしようとしんのすけが苦戦していた。

 

「重いぃ~ぬおおおおおぉ……‼」

 

 このままでは鞘に納めることも出来ないし、持ち運ぶことも出来ない。ましてやキャンピングカーに持ち込むなど(もっ)ての外、このままではみさえに「捨ててきなさい!」と叱られるに違いない。どうしたものかと脳ミソをミキサーの如くフル回転させていた時、とある人物の姿と言葉が頭の中に浮かぶ。

 

 

『 『それ』はお前さんの心次第で、どんな形にも変化する代物だ。強い心を持てばより強く、より大きな力となって反映される 』

 

 

「んーと、それってつまり……………あれ?えっと、どゆこと?」

 

 ちょくちょく忘れそうになるけど、彼はまだ生まれて五年しか経過していないスーパー幼稚園児。ヒントとなる台詞を思い出しても尚、言葉の意味が理解出来ず首を傾げてしまう。そんな彼の頭上でモコモコと浮かぶイメージの中で、台詞を述べた本人であるあの豚面の男が、ズザーッ!と頭からスライディング形式でズッコケていった。

 

「そうだ!こないだのアクション仮面で出てきた、おサル怪人ソンゴクーもこんな風に長く伸び~る棒使ってたゾ。えっと確か、元に戻す呪文は………思い出した!縮めニョイボー!」

 

 しんのすけがそう叫んだ直後、刀身はみるみるうちにその丈を縮めていき、やがて彼が二、三度瞬きをした時には、何事もなかったかのように元の長さに戻っていた。

 

「おおっ戻った!凄いぞオラのおサムライ(ソード)ちゃん!」

 

 思いつきの呪文で本当に効果があったのか……といった疑問は拭えずとも、ともあれ一先(ひとま)ず結果オーライということで。

 

「あれ?そいや何か忘れてるような……?」

 

 しんのすけが呟いた直後、ドンッ‼と凄まじい音が一帯に響き渡る。彼が刀から顔を上げたその先には、踏み出した片足を地面へとめり込ませたあの鬼が、憤怒の形相でこちらを睨みつけていた。

 

「そりゃあきっと俺のことじゃねえのかなぁ?馬鈴薯(ジャガイモ)頭のクソガキよぉっ‼」

 

 鬼の体は先程よりも大きく膨れ上がり、振り上げた腕も四本から六本へと増えている。ぎょろぎょろとした眼球には明確な殺意が込められ、そこにはしんのすけの姿が映しだされていた。

 

「ギャハハハハッ‼散々コケにしてくれた礼だ!好物は後回しなんて言ってられねえ!一吞みで喰ってやらぁっ‼」

 

「おわあああぁぁっ!どうしよどうし─────お?」

 

 再びしんのすけが刀を構えようとしたその時、不意に掴まれた襟首を後方へと引っ張られる。

 そのまま尻餅をついたしんのすけの目の前を、左右柄の違う()()()()()羽織がふわりと風に揺れた。

 

「遅くなってすまない………しんのすけ、よく頑張った。」

 

「!────トミー!」

 

 団栗眼(どんぐりまなこ)をキラキラと輝かせ、しんのすけは義勇の姿に歓喜する。

 

「アンアンッ!」

 

「おお~シロ!ちゃんとトミーの剣見っけられたんだな、偉いぞ~さすがオラん家の犬。」

 

 無邪気にじゃれつくシロと戯れるしんのすけの姿に、義勇の頬も僅かに緩む………だがそれも、ほんの一瞬の間だけのもの。

 

「しんのすけ、シロ─────俺がいいと言うまで、目を(つむ)っていてくれ。」

 

「アンッ!」

 

「ほ……ほいっ!」

 

 何故そんなことをするのか、という疑問はしんのすけの頭には無かった。友達の頼みとして、彼は素直にシロと共に(まぶた)をギュッと固く閉ざす。

 

「………いい子だ、お前達。」

 

 少年と仔犬の頭に優しく触れた後、義勇は地面を強く蹴る。

 一歩………彼が鬼との間合いに入るには、たったそれだけで充分だった。

 

「クソッ!邪魔するなぁっ‼」

 

 伸ばされた鬼の腕が、全て義勇へと襲い掛かる………しかし、それらが彼に触れることは、一本たりとて無かった。

 

 

 

「 『水の呼吸 参ノ型────流流舞い』」

 

 

 

 川の水が流れるように、滑らかに……そして鋭く、義勇の剣戟は鬼の腕を全て切り落としていく。

 

「な………っ⁉」

 

 動揺し、目を(しばた)かせる鬼………しかし彼が次に瞼を持ち上げた時、離れていた筈の義勇の姿は目の前にあった。

 

 

 

「─────終わりだ。」

 

 

 

 抑揚のない、だが僅かに怒気を孕んだ声。

 

 それが鬼の耳に届く前に、深縹の刃は首へと当てられる。

 

 

 

 血飛沫(しぶき)を上げて刎ね飛ぶ、鬼の首。その光景を見ている者は義勇と、そして夜の森を静かに見守り照らす、空の三日月のみであった。

 

 

 

 

 

《続く》

 



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