朝焼け、君は見えない。 (skaira)
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プロローグ

 

 遠くの空を見ようとした。出来るだけ遠くを、出来るだけ高く。

 そうすれば少しでも気が紛れるんじゃないかと思って、無心にただ空を見つめた。

 朝五時の大気に、まだ朝日の落とす影は見えない。

 

 ベランダに降りて、冷たい風に当たろうと手を伸ばす。けれど夏の朝は厳かに、俺の身体に生暖かい風を纏わせた。涙が出るくらいに温もりを持った空気に、涙が出ないように唇を切るほどに噛んだ。

 喉の奥にまで伝わる痛みに一種の心地良さを感じる。こうでもしないと忘れられないと、この快感が教えてくれているような気がした。

 その時、ポケットの方から少しの振動を感じた。スマホのバイブレーションの音だろうか。

 はたしてそれはまさに着信音で、画面には"氷川 日菜"の文字がはっきりと映し出されていた。

 

 クラシックの着信音を鳴らしながら震える携帯を見つめ、今日あった出来事を振り返る。

「好きだ」と伝えたあの一言まで、どれだけ自分が相手のことを想っているのかを俺は知らなかった。中学の間、それこそ恋人かのように共に過ごしてきたから。何十回、何百回ものメールのやりとりもしてきたから。遊園地に行って、共にジェットコースターの風を笑いあったりもしたし、冬の公園で手を繋いで寒さを凌いだこともあったから。

 

 だから──俺の心のどこか奥底には、この告白は絶対に成功するだろうだとか、相手も俺のことが絶対に好きなんだろうだとか、そんな気持ちの悪い妄想がはたらいていたのだろう。

 

 全くもって、見当違いもいいところだ。

 

 自嘲気味に笑いポケットに手を突っ込み、脇目も降らず通話ボタンを押す。

 

「もしもし? こんな時間に何の用だよ」

「あれ? 用があるのは杠くんじゃないの?」

 

 生き生きとした声が心を完全に見透かしている事実に、今だけは心から信頼感を覚えた。

 

「……悪いな、いつもの場所で」

「うん、了解!」

 

 その言葉を最後に、通話を切る。

 もう夜は完全に終わりを迎えたようで、朝日が眩しい光と共に俺の前に堂々と姿を現していた。

 ──目が開けられないことに嫌気がさして、部屋に戻りカーテンを閉め、毛布をかけて二度寝に入った。

 

 

 中学一年生の時、俺はある特徴的な女の子が気になった。

 心からの音楽好きなようで、いつもヘッドホンかイヤホンを片手に、周囲からは孤立ぎみ。けれど、それを苦にしているような印象は無く。

 名前は、湊友希那といった。

 

 彼女と仲良くなるのに、そう時間は必要としなかった。

 俺たちがたまたま同じクラスで飼育委員という立場を任され、猫の世話をすることで彼女の意外な一面を見ることが出来て──なんて経緯はあるわけだが。

 とにかく、俺たちは中一の夏頃には既に、共に時間を過ごす回数が多くなっていた。

 

 彼女は猫カフェに行くことが好きだった。猫の何を考えているのかわからない姿や、人懐っこく肌を擦り寄せてくる姿に言葉にはし難い愛着を感じるのだと言う。

 俺にはその猫と戯れている姿が、いつも音楽に対してストイックに修練を重ねている彼女の、唯一の至福のひとときのように見えて仕方が無かった。

 けれどそんな鎖に縛られたような友希那でさえも、俺はそれこそ言葉にし難い可憐さを感じてしまっていた。

 

 いつか必ず告白しようと決心したのは、おそらくもうこの時だったのだと思う。

 

 

 全ては遠い夢の中にあったというのに。

 

 

 覚めない夢など、どこにも無い。




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第一話

こいつ屋上大好きだなとか思っちゃいけない。




 氷川日菜と知り合ったのは、友希那よりもっと前、まだ小学生だった頃。

 彼女とは出会いのきっかけなんてもう覚えちゃいない。ふと気付いたら日菜は俺の隣にいて、ふと気付いたら完全に打ち解けてしまっていた。日菜自身が、そんな魔力を持ったような人間だった。

 

 

 

 〇

 

 

 

「今年の梅雨入りは大幅に遅れていて──」

 

 テレビから聞こえるニュースキャスターの声と、けたたましく響く蝉の鳴き声をBGMに朝食をとる。

 もう両親はともに仕事に出かけていて、テーブルの上には朝早くに作られて数時間放置された、腐りかけのご飯だけが無造作に置かれていた。

 窓から昼空を眺めてみると、そこには確かに梅雨を感じさせない群青が無限に広がっていて。逃げるように俺はスマホを開き、日菜からの連絡をただ待った。

 高校生活初めての夏休みにしては、いささか最低過ぎるスタートだった。

 

 そういえば今頃、友希那は何をしているのだろうか。

 また一人でスタジオにでも行って歌の練習か。それとも猫カフェで遊びに興じているのか。

 いや。もしかしたら、もしかしたらだ。俺が知らないだけで、彼女には実は恋人がいたのかもしれない。そうじゃないと、断る筈が無いじゃないか。

 あれだけ共に時間を過ごして、笑顔を見せ合った仲だろう? 

 ……いや、それならその恋人は誰なんだ。お互いを知り尽くして信頼を得た上で告白しても、断ってしまう程の大切なその恋人は、一体誰だ。

 君には俺が、(ゆずりは)進也(しんや)がいるじゃないか。誰よりも君を想っている人がいるじゃないか……。

 

 ──ああ、情けない。

 

 勢いのまま妄想を連ねて、いざ現実に引き戻されたとき俺に残っていたのは、両手では抱えきれない程の虚無感だった。

 溢れそうになる涙を抑えようと友希那とのチャットを開いても、そこにあるのは既読の文字と返信の無い画面。

 ちょうど、告白する数分前のチャットだった。

 

 告白に選んだ場所は、友希那といつも一緒に行っていた公園だった。

 寒いね、と冷たさからなのか相手がいるからなのかわからない赤く染まった頬を見て、手袋越しに手を繋いだ記憶が一分前のように甦る。

 出来るだけその淡い思い出を焼き付けようと、必死に友希那とのチャット画面をスクロールした。

 たまに絵文字を使って可愛らしさを見せてくる彼女が愛おしかった。猫のスタンプをプレゼントした時の喜びようは、画面の向こうからでもいつも使わない感嘆符を多用していることから手に取るようにわかった。

 

 何か言葉を発することすら出来ず、腑抜けた顔をして坦々と画面を眺めている時。それを上書きするかのように日菜からの着信が入った。

 

「もしもし、起きてる?」

「たった今起きたよ。ずっと落ち込んでた」

「あは。たしかにきつそうな声だね」

「……余計なお世話だって」

 

 憎まれ口を叩いてはいるものの、この苦しみを分かち合える存在がいることに救われている。今から俺は、日菜に自分の辛さを全て打ち明けて思い切り慰めてもらおうとするのだろう。

 ──そんな自分の姿を想像すると、吐き出しそうになった。

 

「……じゃあ、一時に来てね」

「わかった。今日は遅れないでくれよ」

 

 日菜がその問いに答えることは無く、電話越しに無機質な非連続音が聞こえてからやっと、彼女から電話を切られたことがわかった。ふと時計を見てみれば、針は一秒のずれも無く正午を指していた。

 もう一度窓から外の情景を眺める。さっきと変わらない、地面をただ照らしつけ燦々と光る太陽だけが存在感を持っていて、数少ない雲たちは散り散りになっていた。

 梅雨の兆しは、やはり僅かにも見えない。

 

 

 

 〇

 

 

 

 いつもの場所──今はもう廃校となってしまった、俺と日菜が通っていた小学校の屋上。まだ俺たちが小学生だった時からここは二人の溜まり場で、日々の生活で積もり積もった愚痴を語り合った回数は優に百を超えていた。

 

「時間通りに来たんだ。真面目ちゃんだね」

 

 時刻は丁度一時半。日菜は()()()()()、三十分の遅刻をして来た。

 

「……で、振られちゃったんでしょ?」

 

 鋭い針で傷口を抉るように、目に暗い影を落として日菜が尋ねる。

 

「そう」

「そっか」

 

 屋上には避雷針も兼ねた何かを観測するような建物があって、そこの日陰に入っていれば地上よりかなり涼める空間が作られる。

 だだっ広いその日陰の中、俺と日菜は冷え切ったスポーツドリンクを片手に、二人座って揺れ動く空を眺めた。

 無言の間が流れる。けれど、居心地は悪くなかった。あまり多くない雲の流れだけが、時間が進んでいるのを教えてくれた。

 

「けっこう、あたしも協力してあげたんだけどな」

「……ああ、全くその通りだよ。ごめん」

 

 横から香る日菜の匂いに、何の抵抗も出来ず癒されてしまう。彼女から貰ってばかりで何も果たせなかった俺には、力無く答えること以外に選択肢が無かった。

 

「思ったよりショック受けてんだね」

 

 そう言うと日菜は冷たい空気に大きく伸びをして、そのまま俺の膝を枕にするように寝転んだ。彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。そしてそれは、いつも以上に落ち着いていた。

 

「あんなに三年間仲良くしてたんだけどな」

「杠くんがそう思ってただけじゃない?」

「かもな」

 

 未練がましく何かを言って変えられない過去をいくら悔やんでも、眼前の現実に光が灯らないことはわかっていた。

 やけに甘く感じるスポーツドリンクが失恋の辛さを溶かしてくれそうで、本来溢れ出る涙のように勢いのまま飲み干した。

 

「いったん友希那ちゃんのことは忘れてさ、新しい恋でも始めたらどう?」

「……他に誰かいるのかよ」

「いやいや。こんな可愛いJKアイドルがお膝元にいるのにそれは無いでしょうよ」

「冗談は頭だけにしてくれ」

「ええ、酷いなあ」

 

 そう言って日菜はフッと笑うと、頭を膝から外しゆっくりと立ち上がった。

 横目に見える、ぴんと伸びた背筋が眩しい。彼女はいつも自信を持っていて、常に前だけ見て進めているから。アイドルに選ばれたと伝えられた時も、不思議と意外には思わなかった。彼女のようになれたなら、友希那と付き合うことも出来たのだろうか。

 そんな思考に浸っていた時、ふっと建物の隙間から強風が吹いた。

 空のペットボトルが倒れ、カランコロンという音だけが寂しく周囲に響く。日菜の方にちらりと目をやると、彼女の下腹部から色付いた下着が露わになっていた。

 

「……水色?」

「エッチだねえ」

「少しは恥じらいを持ってくれよ」

「てへ。友希那ちゃんは何色なの?」

「知らねえ」

「多分黒だよ。猫柄の」

「……かもな」

「あれっ、大きくなってる」

「なんで服の上から気付くんだよ」

「さっき場所確認しちゃったから」

「サラっとえぐいことするのやめてくれ」

 

 俺の言葉を受けて、日菜は笑顔でその場にまた座った。

 身体を魂ごと吹き飛ばしてしまいそうだった風は、いつの間にか心地良く緩やかになっていて、自然と俺の顔も綻びが起きているのを感じた。

 

「うん、進也くんはやっぱり笑ってるのが良いよ」

 

 こちらのさらに奥を見つめるように目を開いて、どこか儚げに日菜は呟く。

 少しだけその悲しそうな表情の理由が気になった。姉のことだろうか、それとも──いや、ここから先は恋人たちの領分だろう。

 気持ちに区切りをつけて、無理に日菜から目を逸らす。目の前に来た彼女の手の甲の震えに、心の引っ掛かりと後悔を感じた。

 

 その、次の瞬間。首筋に冷たい感触が走った。驚いて横を見ると、いつの間にか笑顔になった日菜がドリンクを押し当てていた。

 

「もうちょっと良い反応してよね」

「大分外に置いてたからな。そんなに冷たくなかった」

「汗かなりかいてるよ。飲む?」

「……そうさせてもらおうかな」

「──ああ、間接キス」

「今まで何回してきたと思ってんだよ」

「……ふ。はは。あたしたち、ずいぶんと仲良くなっちゃったんだね」

 

 涙目になるほどに笑いながら、真っ青の空を見上げて日菜は言った。

 ──俺にはその笑いを、これ以上無視することは出来そうにも無かった。

 

「……なあ、日菜。前から思ってた」

「どうしたの?」

「なんで、俺とこんな関係でいてくれるんだ?」

「なんでって、なんで?」

 

 また、強く風が吹いた。今度はそれが日菜に当たることは無く、ただ俺にその先を言ってはいけないと警告しているようで。

 

「──だってお前、()()()()()()

 

 数瞬の間、風が止んだ。

 

 




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第二話

時系列的に話を書いても良かったのかもしれない。やっと友希那が書けた。



 まだ、中学一年生の頃。

 

「好きな人ができたんだ」

 

 そう初めに伝えようと思ったのは、他でもない小学校からの親友だった。いつも笑顔で周りを輝かせて、人に好かれて、あらゆることに天賦の才を発揮する──日菜ならば俺の相談を快く受け入れてくれて、なんらかの有益なアドバイスをしてくれるのだろう。そう信じ切っていたからだ。

 

 伝えられた時の日菜の反応は、完全な予想通りとは行かないまでも概ね俺が考えていたようなものだった。少し目を丸くして、バカにするような笑いを見せて、それでも真剣に向き合ってくれて。

 湊友希那という名前を出した時、彼女が何を思ったのかはわからない。けれどあの時紛れもなく確かだったのは、俺に好きな人が出来たという事実に彼女が心から喜んでくれたということ。

 

 新緑から注がれる柔らかな日差しに、ゆっくりと頬から垂れる汗。心臓を駆りたてるような、ウグイスのさえずり。その全てから祝服を受けているような気がして、どこから来るのかわからない──それでも確かにそこにある自信を持って、友希那に友達になろうと話しかける気持ちになれた、十三の夏だった。

 まだ五月のゴールデンウィークが過ぎた頃。青臭い子供が感じるにしては、およそ他と測れない程の幸福感を俺は覚えていたに違いない。

 

 それからは、俺は友希那と生活の大半を共に過ごした。心のどこかに日菜への感謝は常に置いていて、それだけは忘れないようにと魂に刻みながら。

 それでも、それが日を経ていくうちにだんだんと小さくなってしまっているのは、反対に友希那への情が肥大化していくのは、何となく感じていた。

 

 そんな(もや)がかかったような関係が続いて、数週間後。唐突に日菜から連絡があった。例の屋上で会えないかというものだった。

 

 

 

 〇

 

 

 

「久しぶりだね、ここで会うのは」

 

 夏の暑さにやられたのか、はっきりしない声で日菜が言う。

 日菜は()()()()()()、遅刻もせずに時間通り約束を守っていた。

 季節はもう梅雨入りとなっていたので、空にはどこか白く怪しげな積乱雲だけが広く漂いを見せていて、本来なら冷たく気持ちの良いはずの空気が妙に俺に悪寒を感じさせた。

 日陰に座る日菜を見ると、スポーツドリンクを二本持ちだらしなく脚を広げていて、瞼はどこか上の空となっている。口は少し半開きになっていた。

 

 たった数週間しか会っていない。本当に、たったそれだけの間。

 だというのに、日菜は随分と変わり果てたように見えた。外見がどうとかじゃなく、親友がどこか変になってしまった。そう、俺だけが感じられるような変化だった。

 

 俺と話さないうちに──そんなことをうっかりと喋りそうになってしまい、直前で口を塞いだ記憶がある。別に、日菜と俺の関係に上下なんてないはずだ。関わらないからと言って何かが急変してしまったり、互いに依存するよう求めてしまうような関係ではないから。

 

 だから俺も不自然に思っているのを悟られないように、「ああ、久しぶり」と当たり障りのない言葉を返す。日菜の口元がピクリとも動かなかったことに、幾らかの寂寥感を覚えた。

 

「……友希那ちゃんとは、あれからどう?」

 

 俺がまだ隣に座らないうちに、日菜は口を開いた。ちょうど建物の影に入ろうとしていたところだった。

 ──明るい場所から、暗い場所は見えない。写真では映えそうな白と黒のコントラストは、あの時は俺と日菜を隔てる壁でしか無かった。

 

「だいぶ、仲良くなれたよ」

 

 少し考えて、呟いた。これが正解の答えなのかはわからないけれど、日菜に嘘をつくのが不正解だということははっきりとわかっていたから。

 そっか、と日菜は笑って答えた。その笑いに俺は安心して、いつも通り日菜の隣に座った。

 

「いいよね、恋は」

「……日菜もしてみたら?」

「そうだね」

 

 淡々と日菜が答える。そのどこを見据えているのかわからない彼女の目線に、少しの苛立ちを覚えた。

 ──どうして、そんな顔をするんだよ。好きな人ができたと伝えた時は、あんなにも喜んでくれたじゃないか。

 

 今考えれば、おそらくは彼女の心はずっと仲の良かった友人が急に自分の隣から消えてしまったことに、幼いながらも寂しさを感じていたのだと思う。けれどあの時の俺にそこまで彼女を慮ることは出来ず、ただ生返事を繰り返す日菜に対して不満は募る一方だった。

 

 何かを言おうと口を開いた、その時。それを遮るかのように日菜が呟いた。

 

「──あたしね、彼氏できたんだ」

「えっ?」

「だから、彼氏だよ。彼氏。一つ年上の、サッカー部の人」

 

 それはあまりに唐突な一言で、まるで日菜がその言葉を放った瞬間、時が止まってしまったような錯覚を感じた。 今まで「好きな人がいる」すらも言わなかった日菜が、急に「恋人ができた」と言ったのだから、落ち着こうと心を宥めても身体から溢れる驚きは一つも隠せなかった。

 

 再び、時が動く。腐った葉が空気に沿って流れているのが目に入った。

 

「恋、してたんだな。おめでとう」

「うん。ありがとね」

 

 日菜は、少し照れ臭そうに笑って鼻の下を指で擦る。

 俺たちの中学校のサッカー部はいわゆる強豪で、彼らは学校中でも人気者となっていて、簡単に言えば凄くモテた。

 日菜に聞けば、その彼氏は二年生ながらレギュラーに選ばれている有望な選手らしい。恋人のことを話しているというのにそんなに楽しそうには見えなかったが、それでも自分が恋をして恋人ができたという事実には安堵しているように見えた。

 

 そうか。日菜も恋人ができたのか。これから俺たちは別の人を好きになって、別の道を進んでいって、二人の仲は離れていくのだろう。

 ──本当に心からそう思ったのかはわからない。けれど、日菜に恋人ができて、俺にも友希那がいる。その事実が存在している限り、ここで会うことは少なくなっていく。それに理由付けをしなければ、ずるずると日菜に依存してしまいそうな気がしていた。それだけは本当に心から駄目なことだとわかっていた。

 

「じゃあ、もうここでは会えなくなるな」

「え、なんで?」

「なんでって……もう日菜には彼氏がいるだろ。俺じゃなくて」

「あの人も進也くんもいる。それはダメなの?」

「彼氏いるのに他の男と二人きりで会うってのはまずいだろ……」

 

 その言葉がどうも不服だったようで、日菜は頬を膨らましながら強い足取りで帰って行った。

 これがこの屋上での最後の会話になるのならば、随分と()()()()()()会話だったような気もする。それでも、これはいつか経験しなければならない別れだったのだと。

 ──そう、強く思った。強く信じた。空はもう直ぐに、雨が降りそうだ。

 

 

 あれから、数ヶ月後。学校でたまに日菜を見かけることはあっても、彼女の隣には彼氏らしき端正な顔つきの男がいつもいて、俺の隣には友希那がいて。

 俺と日菜は最初からお互いが知り合いで無かったかのように、目を合わせることすら無くなった。

 

 

 

 〇

 

 

 

 友希那と出会って、二回目の新緑の芽吹きを経験する。俺は中学二年へと進級した。

 中一の頃の、お互いをまだ少し探りあっていたような関係はようやく終わりを迎え、俺は友希那と共にいることを楽しいと思えるようになった。

 会話が途切れ途切れになっても、特に気まずいと思うことは無くなった。少し彼女が不機嫌になっても、だからと言ってこの関係が終わりになるような心配はしなくなった。

 

 朝会えば当然のように一緒に登校して、帰りに彼女を待つことも全く不自然じゃない。クラス全員と仲を深めようとするタイプじゃない彼女とこんな関係が築けたことを、俺は少なからず誇りに思っていた。

 俺だけが友希那のころころ変わる表情を独り占め出来ていることが、どうしようもなく幸せだった。

 

 

「今日の帰り、少し公園に寄っていい?」

 

 四月の、まだ冬が完全に春になりきっていない頃。手袋を頬に当てながら友希那は言った。

 放課後、さらに友希那の歌練習が終わってからの帰り道だったので、もう日は完全に暮れてしまっていて、弱々しく光る月だけが俺たちを照らす。

 

「公園?」

「そう、公園」

 

 何があるのか、とは聞かなかった。

 友希那は今まで、俺から誘われてどこかへ行くことはあっても、自分から何かを誘うようなことはあまり無かった。あったとしても猫カフェくらいのものだ。

 だからきっと、俺は嬉しかったのだと思う。行ってからのお楽しみだという期待が、俺たちが()()()()()()であることを示してくれているような気がしていたのだと、思う。

 

「もう四月なのにまだ寒いわね」

「そうだなあ。手袋はまだ外せないや」

「……もうちょっと、気が利くことは言えないのかしら」

 

 手をヒラヒラさせて、友希那が不貞腐れたように言った。暗がりに頬の色までは見えなかったけれど、月の淡い光が彼女の耳だけを辛うじて照らしてくれて、寒さのせいか、あるいは。それは赤く冷たそうだった。

 その行為に少しの心当たりを感じて、それでもその行為にまで及んでいいのかわからず自分の手をぎこちなく動かす。

 あと一歩を踏み出すことが出来たなら、友希那との距離は何歩分にも縮まるだろうに。そんなことはわかっていても、ヒラヒラと舞う彼女の手はまるで蝶のようで、俺の心からは遠ざかっていくばかりだった。

 

「じれったいわね……!」

 

 そんな時、友希那が少しピリついた口調で呟く。同時に、どこかを彷徨っていた俺の手が強くぎゅっと握られた。

 

 ──暖かい。

 

 手袋越しで、彼女の手の暖かさを感じることは出来なかった。それでも、どこか心の中から暖められるような、そんな言葉には表現し難い暖かさを感じたのを覚えている。

 とにかく、暖かいのだ。この二人を凍りつかせるような寒空に負けない程の熱を、俺たちははっきりと帯びていた。

 

 それでもやはり、一度縮まってしまった距離。喉から出てくる欲望を止めるようなことは出来ず、意識した瞬間にもう言葉は出てしまっていた。

 

「手袋、脱がない?」

 

 その言葉が発せられた時、友希那の頬が赤くなっていたのは今度こそわかった。無言でボソボソと何かを呟きながらゆっくりと手袋を脱ぐ彼女が、こんなに可愛いひとが隣にいてくれるんだと俺に改めて感じさせてくれて。示し合わせたように、俺と友希那の手袋を脱ぐタイミングは同じだった。

 

「暖かいね」

「……ええ。とても、とても暖かいわ」

 

 公園に着いたのは、それから数分歩いてからだった。はだかの手は繋がれたままで、汗が溢れるほどに堅く結ばれた指先を、そっとやさしく握り返す。

 壊れてしまいそうなこの彼女の小さい手のひらに、あの聴衆が慄く歌声を絞り出すマイクが握られている。そう思うと、庇護欲をかき立てられて仕方がなかった。隣に歩く友希那の幸せそうな表情は一生忘れまいと、俺はかたく心に誓った。

 

 

「少し、座りましょう。話したいことがあるの」

 

 公園は町外れにあって、簡素な電灯と住宅街に囲まれた和やかな場所だった。友希那は、木で作られた二人がけのベンチに座って、雲に隠れた月の光だけをじっと眺めている。切るような風の音だけが、やけに耳に入ってきた。

 

「……話って?」

 

 おそるおそる、友希那に訊いた。きっとこれは、良い話では無いのだろう。けれど、手は依然として繋がれたままだ。だから最悪の展開にはならない。そう、信じた。

 

「進也は私といて楽しい?」

 

 質問の意味がわからない。楽しくない筈などあるわけがないというのに。考える間もなく即答した。

 友希那はそれを聞いて安心したように、フッと笑った。そのまま、続ける。

 

「最近──いや、もっと言うと数ヶ月前から。あなたの調子は何となくおかしかったのよ。私の方を見ていても、心の一部はどこかに囚われてしまっているような。それがちょっと気になって、不安になっただけ」

「数ヶ月前────ああ、そうだったのか……」

 

 数ヶ月前。日菜と会話をしなくなった、ちょうどその日だ。

 

「やっぱり心当たりがあるようね。隠し事でもないなら話して」

 

 真っ直ぐとこちらを見つめる友希那に、嘘を言えるような度胸は欠片も俺には無かった。もともと隠すようなものでもない。ただ、俺の中であの出来事は本当に大きかったのだと、そう再認識せざるを得なかった。

 

 それから俺は、友希那に全てを話した。

 日菜と知り合ったのは友希那より前だということ。

 氷川日菜という存在がずっと俺の中にいたこと。

 屋上で毎日のように話していたこと。

 友希那のことを相談していたこと。

 日菜が彼氏を作ったこと。

 それに後ろめたさを感じて関わらなくなったこと。

 全部を話し終えた頃には、それがまるで当然だったかのように目から涙が溢れ出た。友希那にこんな姿を見せてはならないと頭ではわかっていても、とめどなく流れるこの雫を止める術を俺は持たなかった。

 

 話を全て聞き終わったあと、友希那がゆっくりと口を開く。決して責めようとするものではなく、怒りの声色も混ざっておらず。ただ諭すように、ただ柔らかな口調だった。

 

「多分ね。多分、あなたには彼女が必要なのよ。恋人とかそういうのじゃなくて、一個人として必要としてる。おそらくそれは、小さい頃からあなたが全てを氷川さんと分かちあってきたから。私はあなたのそんな顔をそれ以上見たくないし、あなたとこれからも一緒にいたいわ。私は止めない。氷川さんに連絡しなさい」

 

 厳しい目だった。できることならあなたを離したくないと、他の女のところへなんて行かせたくないと、裏にはそんな気持ちが隠れているんだとわかった。そんな言葉だった。そんな声だった。そんな、目だった。

 俺は何もすることが出来ずに、ただありがとうとごめんだけを言って、日菜のところへ行こうと身体を動かした。そうするしか無かった。何か言葉を探そうとしても、今一番正しい言葉なんてものは存在しなくて、俺が行動することが最善なんだと思うしか無かった。

 

「待って」

 

 友希那に呼び止められ、振り返る。柔らかな感触が唇に広がって、身体全体に浸透するような心地がする。

 何をされたのかは、一秒後。彼女の大きな瞳が目の前に来ていることでようやくわかった。息が出来ずに、それでも友希那を離したくなくて。右手を彼女の頭に添えて、この幸福が永遠に続けばいいとそう願う。軽く火照った彼女の身体を強く抱いて、ゆっくりと瞼を閉じる。最後に目に入ったのは、風に棚引く友希那の銀髪だった。

 ──過ぎ去る一秒の、その中の一瞬でさえ手放したくない。その一瞬ですら、俺と友希那を繋げる大切な時間なのだから。そう思って、余計に身体を強く抱く。自然と唇も近くなり、電灯で作られる二人の影は、より一層濃く、一つとなった。

 

 数秒──いや、もしかしたら数時間、数年かもしれない。蕩けた顔で離れていく友希那の顔を、繋がれた薄い銀の糸が途切れないように再び近付けた。

 今度は深く、今度こそ離さないように。まだ知識のない十三の晩冬。絡み合う舌が、今の二人には言葉に出来ない神秘さを備えていることが直感的に分かる。雨垂れのように響く音が、未だ達したことのない快楽へと誘っていた。

 

「……もう一度、言うわ。私はあなたとこれからも一緒にいたい」

「ああ。俺もいたいよ。……ごめん、行ってくる」

 

 走りながら無我夢中で、まだ雰囲気が抜けないまま、日菜の電話番号を押した。いつの間にか周囲はネオンの光に包まれていて、必死に走るうちに友希那からかなり離れてしまったことがわかる。一コール目で日菜は出て、俺は頭にある限りの謝意の言葉を述べた。そして屋上で待ってると、それだけ伝えて。電話を切る。

 

 俺が屋上に来た時、驚くべきか既に日菜は着いていた。

 珍しく彼女は陰に座っておらず、屋上へ通ずるドアのすぐ目の前に呆然と立ち尽くしていて。暗闇でもわかるほどの暗い表情をして、はっきりと開いてはいるものの何もかもが見えていないような、そんな目をして。俺を待っていた。

 何かを喋ろうとしても、その目に全てが吸い込まれそうな気がして、ただ頭を下げることしか俺には出来なかった。

 

 実際、虫の良すぎる話なのだ。自分で関係を切っておいて、いざ寂しくなればまた関係を戻してくれと言う。十三歳だからだとか、そんな言い訳が出来るものじゃない。

 ただ俺には、謝ることしか出来なかった。

 

 ──不意に、頬に静電気のような痛みが走る。

 何をされたかはわかっていた。こうなることは、ここに来る前から予想していたから。

 叩かれた頬を擦りながら、俺はさらに頭を下げた。

 

 日菜からは散々な罵倒を受けた。最悪だと、寂しかったと、訳がわからなかったと、その他にも様々なものを吐かれて。ついには二人揃って泣き出したりもした。まだ十三歳の成熟しきっていない俺たちの精神には今までの出来事の負荷は重すぎたようで、ただ辛く沈んでいく気持ちを互いに引っ張り合うような涙だった。

 周りに人は誰一人としておらず、月だけが静かに見守ってくれている。その事実がまたいっそう、暗闇に零れ落ちる雫の量を増やしていた。

 

 

「疲れたよ」

「……ああ、俺も」

「けど、今までの人生で一番楽しい時間だったかも」

 

 涙が垂れて広がった場所を枕のようにして、日菜が笑いながら言った。

 つられて俺も笑顔になってしまう。本当に彼女には、そんな魔力が秘められていた。

 

「最近彼氏とはどうなんだ?」

「わかんないや。上手くいってるのかとかって、経験が無いと何とも言えないもんでしょ」

「……確かに、そうなのかもな」

「けど、上手くいったこともあるよ」

「彼氏と?」

「いや、彼氏じゃないよ。この気持ちは、まだよくわかってないんだ」

 

 

 その日はそれきりにして、俺たちは帰路についた。

 帰り道、ふと空を見上げると雲は完全に消えてしまったようで、孤独になった月がポツンとただそこに存在していた。けれどそれだけに、光の弱々しさなど微塵も感じさせない力強い存在感を醸していた。

 

 気まぐれで、月に手を合わせた。

 友希那とこれからも一緒に居られますようにだとか、日菜と仲良くいられますようにだとか、だいたいそんなところだ。

 

 

 ──そういえば、日菜が決まって屋上の約束に三十分の遅刻をしてくるようになったのは、この頃からだったか。

 

 

 

 

 






少し文字数が多くなりました。
前話の続きをさらにここから書こうとしたのですが、一万字を超えそうだったので分割。近いうちに投稿するんで、待って頂ければと思います。
良ければ感想評価等、お願いします。


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