ORCHO-PASS PAGES of MEMORY Page.1 「最弱の教官」 (マクギリシマ)
しおりを挟む

*Chapter.1

“拝啓
最弱の教官へ
あの時笑顔を見せたのは、「心配すんな。」と言いたかったのか、はたまた「バーカ。」と言いたかったのか。
どうか後者であってほしい。
だがもしそうなのだとしたら、どうせならばいつもみたくニッと歯を見せて、意地悪そうに笑ってほしかった。
アクアパッツァを真似て作ってみたが、なにせ料理なんて一度たりともしたことがなかったもんだから…でもまあ、初めてにしては及第点だったかな。冷蔵庫の食材を拝借したのは大目に見てくれ。ずっと放っておいて腐らせちまうのももったいないだろ?でもヒラメはちゃんと自分で取り寄せたんだぜ。
料理って難しいんだな。やっぱお前みたいにはできないや。
そういや、アトラっていう料理好きの女の子がいるんだ。きっと気が合うぞ。
今になって、あん時のことを思い出す。あん時もらった言葉が、あん時のお前とのくだらねぇやりとりが、全部きっちり俺の記憶になってやがる。もう忘れねぇよ。
正直なところ、お前があんな風に負けるなんて思ってもみなかった。きっとお前はあっちで、「ほら、最弱だろ?」ってヘラヘラするんだろう。だが俺からしてみりゃ、お前は今でもずっと、最強で最高の教官なんだぜ。

鉄華団の最弱団長 オルガ・イツカ”

そこまで綴ると、御留我はピンク色のキャンパスノートを閉じて丸テーブルの上に置き、薄暗い部屋を後にした。
誰もいなくなった静かな部屋の中、ビリヤードの4の球が微かに転がった。



「止まんねぇ止まんねぇ。飯が止まんねぇ。」

そう言わんばかりにスプーンを持つ手を動かし、熱々のガーリックチャーハンを頬張る夜7時。

公安局ビル刑事課フロア40階。狭縁のガラス窓から都心の夜景が一望できるカフェテリアのまさに窓際の特等席で、刑事課1係執行官の御留我威都華は夕食をとっていた。

黒地に青襟、胸元に公安局のエンブレムを施したいつものジャケットは椅子に掛け、赤いストールは緩めている。窓を見れば真上にかき上げた短い銀髪と顔を斜めに横切る長い前髪の、色黒な自分の顔が映る。

今日は11月5日。昨日の任務で三度パラライザーをくらった治療を終えたばかりの身で現場に駆り出され、ストレスの上昇した潜在犯の青年を連行するだけのはずが、重武装した危険人物と遭遇し激戦を繰り広げる羽目になった。

おかげで今日は書かねばならぬ報告書が山積みだ。ドミネーターの使用報告書、危険人物報告書、被害報告書、警備会社への引き継ぎ。おまけにその潜在犯は国民データベースに該当しない人物だったため、監視カメラに映った顔を割り出してフェイスレコグニション(顔認証)による指名手配の申請書も作成しなければならない。

公安局の仕事はこういったデスクワークも面倒極まりないのだ。

昼に観損ねたto-loveるダークネスの3話も、今日は到底視聴できそうにない。

「こんなんじゃこっちがストレス警報発令しちまうぜまったく。」

スプーンを片手にひとりぼやく。

人の生体力場をシビュラシステムという巨大人工知能が解析し犯罪を起こす可能性を数値化した“犯罪係数”。それを基準に犯罪を未然に取り締まることで治安を維持する社会。犯罪係数が規定値を超えた者は潜在犯と呼ばれ社会から隔離されるか、あるいは抹消される。

照準を合わせた相手の犯罪係数を計測しその数値によって異なる執行モードを起動し対象を制圧する特殊装備「携帯型心理診断鎮圧執行システム:ドミネーター」。それを駆使しシビュラシステムの指先として潜在犯を鎮圧するのが、厚生省管轄公安局刑事課の職務である。

「ご一緒していいっすか、監視官殿?」

カフェテリアの中央の方で聞き慣れた声がして、御留我はそちらへ目をやる。

そのテーブルでは昨日1係に配属されたばかりの新人監視官、常守朱が一人で座っており、そこに同じく1係執行官の縢秀星が相席を申し込んでいるところだった。黒い開襟シャツにワインレッドのネクタイを緩めに締めた風貌は、カフェテリアの洒落た雰囲気と調和していた。対して常守は黒のビジネススーツにタイトスカートでカレーうどんをすする。

「どうぞ…。」

常守が茶髪のおかっぱから疲れた目を覗かせてよそよそしくそう返すと、縢は席についてサンドイッチとコーヒーの乗ったプレートを置いた。彼の後ろにまとめたひっつめ髪が揺れる。

「今日はもう非番なんじゃ…」

そんな縢を見つめたままカレーうどんを数回すすってから常守がそう聞くと、

「ハッハッハ、俺ら執行官は囚われの身なんだぜ?オフだって刑事課フロアと宿舎の他には行き場所なんかねーの。」

と縢はヘラヘラと答えてコーヒーを一口飲んだ。

あまりジロジロ見るのも悪いと思い、御留我は目線を窓の方へやった。再び自分の顔と目が合う。

「しっかしまぁ、公安局監視官なんて、またとんでもない就職したもんだねぇ。なんでまた?」

縢がそんな質問を彼女に投げかけたものだから、御留我はスプーンを置き、会話に聞き耳を立ててみることにした。

「向いてない…かな?」

「昨日のあれを見た限りじゃね。誰だってそう思うんじゃない?」

「シビュラ判定の職能適正、公安局の採用基準にパスできたから。」

「そこんとこ不思議なんだけどさ、公安局の基準を通ったんなら、もっと他の適性もいい判定貰えてたんでしょ。別の仕事だって選べたんじゃね?」

縢が言葉通り不思議そうに問うた。

御留我も同感だった。

学生が卒業し就職するとき、シビュラシステムによる職能適正が割り出され、その人に適する職業が提案される。公安局は中でも最高に基準が高く、パスできる者はそうそういないと聞く。まあこれらはあくまで善良な一般市民の話であって、御留我や縢ら潜在犯とは無縁の話だ。

犯罪係数が規定値を超えた人間にも、しばしば適正が見出されるたった一つの職業がある。刑事課に所属し、監視官による徹底的な監視のもとで他の潜在犯を取り締まる猟犬、執行官だ。

「うん…でもね、他の仕事はどれも同じ判定をもらった子が、私以外にも一人か二人いたの。公安局のA判定が出たのは私だけだった。500人以上いた学生の中で、ただひとり私だけ。だから公安局にはね、私にしかできない仕事がきっとあるって思ってた。そこに行けば本当の私の人生が…」

常守の言葉の語尾が濁った。

「…この世界に生まれてきた意味が見つかるはずだって。」

数秒の沈黙に耐え切れなかったのか、常守は

「私の考え方、間違ってるかな?」

と縢に答えを求めた。縢はその答えを、不服そうな声色で返した。

「わかんねぇよ。俺なんかにわかるわけねぇじゃん。あんたは何にでもなれた。どんな人生を選ぶことだってできた。それで悩みさえしたんだろ?」

常守が何も言えずに俯いてしまったのが、見えていなくとも容易に想像できた。

「今じゃシビュラシステムがそいつの才能を読み取って、一番幸せになれる生き方を教えてくれるってのに。」

縢は呆れたような語調で話すが、語気は少しずつ荒ぶっていった。

「本当の人生?生まれてきた意味?そんなもんで悩む奴がいるなんて考えもしなかったよ。」

縢の機嫌が損なわれたのも無理はない。彼が幼少期から潜在犯として施設で生活させられていたというのは、聞いた当時は正直ピンとこないところではあったが、今思えばなかなかに酷い仕打ちだ。この社会では犯罪係数を基準に人々の善悪が判断される。それによって犯罪者を未然に減らし社会の秩序と市民の安全を保証するとはいえ、いかんせん潜在犯への処遇は劣悪で、改善の余地があるだろう。もちろん実際に犯罪を起こす者もいれば危険思想を持つ者もいる。しかし少なくとも縢に至っては、そのような側面は一切見せたことがない。飄々とした大雑把な性格でよく人を小馬鹿にするが、そのくらいはいたって平凡ではないのだろうか。いや、同じく潜在犯である御留我の考える「平凡」そのものがこの社会では異常なのかもしれない。

 

縢は御留我が二年前、1係に配属になったときにすでにそこにおり、御留我からすれば先輩にあたる存在だった。その時期はちょうど執行官が一人殉職し、狡嚙が監視官から執行官に降格したとかで1係の人事に一騒動あったあとだったらしい。

御留我は窓の外で綺羅びやかな街をぼんやりと眺めながら、ある記憶の1ページを顧みはじめた。

 

【挿絵表示】

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

*Chapter.2

冬晴れが鮮やかな午後、刑事課1係は任務を終え、公安局への帰路に着こうとしていた。

今日は朝から通報が入り、郊外のビルで人質をとって立てこもる潜在犯を確保した。シビュラシステムの管理下では犯罪は起こりにくい(らしい)が、稀にこのような事態に陥り、刑事課が鎮圧のため出動する。

御留我威都華ら執行官は宜野座監視官と別れ護送車に乗り込む。車内左右の硬い内壁が突出しただけの壁椅子に執行官5人で腰掛ける。全員が乗ると重い扉がゆっくりと閉まり、外側から厳重なロックがかけられた。

装備もない丸腰の執行官が壁を破って脱走でもすると思われているのか。

御留我はこの護送車のあまりある鉄壁さに毎度こう思う。

「なぁ御留我、今日はいくらなんでも死にすぎじゃねーの?」

左隣に座る縢秀星が顔を覗かせ、意地悪そうな笑みをたたえながら言った。

御留我には特殊な能力が一つあった。何度死んでも途端に再生し復活することができる、いわゆる不死身というやつだ。事故で記憶を失くし、執行官としての適性が見出されたときはすでにその能力はあったようで、初めは自他共に大いに戸惑った。しかし今では刑事課内で当たり前のこととなり、この能力も含めた執行官の適性判断だったのだろうと言われるようになった。

なぜこの能力を持ち合わせているのかはわからない。わかっているのは死ぬと数秒で生き返り、傷もすべて再生されということくらいだ。

亜人という漫画を読んだときには登場人物たちにある種のシンパシーを感じざるを得なかった。当初はかっこいいと思い込んで、技名として「希望の華(フリージア)」と名付けたものだ。ただ、この唯一無二の特殊能力を使いこなし大活躍を、などと異世界転生ライトノベルのように現実そう上手く行くものでもない。

残念ながら亜人のように黒い幽霊は出せないし、あいにくと主人公たちのように戦闘力も高くない。いやむしろここが大問題なのだ。

御留我はこのフリージアという能力を持っていたはいいものの、耐久力が異常なまでに低い。殴られては死亡し、体をぶつけては死亡し、転倒すれば死亡する。ここまでくれば刑事以前に平均的な人間よりも脆い。

刑事課に配属されて3ヶ月、これまで何度もチームの足を引っ張り、ときにはフリージアで結果的に助かったりもした。今回の事件も例外ではない。

「なんだ御留我、そんなに死んだのか?」

右に座る狡噛慎也が聞いた。

黒のスーツを着崩し、逆立った短い髪と鋭い眼光からは狼のような野生的なオーラを感じられる。以前まで監視官だったとはとても思えない。しかし刑事としては優秀で、猟犬の如き嗅覚で幾度となく事件を解決に導いてきた。

そんな彼が半ば呆れた顔で言うのだ。

「俺たちはビルの裏を張ってたからそっちは知らんが、まあいつものことなんだろ、縢?」

「いやそれがさ、コウちゃん。御留我の奴、犯人とタイマン張っておいてパンチ一発でKOされてんだぜ?そんで生き返ってはやられて、生き返ってはやられての繰り返しでさあ!」

縢は笑いをこらえきれない様子で喜々と語る。

「けどよ、人質は無事救出できたし、犯人だって逮捕できたんだからいいだろ。」

御留我はむっと口を尖らせ精一杯の反論をした。

二手に分かれて犯人を追っていた中、御留我と縢、宜野座監視官の三人が人質と犯人を発見。御留我が犯人と交戦している間に縢が人質を保護。

時間稼ぎに一躍買っていたと説明したが、結局犯人は宜野座がパラライザーで気絶させたことを縢にバラされ、御留我の面子は丸潰れしてしまった。

「それにしても、一人で奴さん取り押さえるくらいできても良かったんじゃないか?」

向かいに腰掛ける征陸智己がシワの深い顔を歪ませて言った。老年のベテラン刑事で、長年の刑事の経験からくる風格と貫禄はさすがといったところである。

「相手が強かったんだ。仕方ねぇだろ…」

「相手は平均的な一般男性よ。」

御留我の足掻きに六合塚弥生が追い打ちをかける。1係唯一の女性執行官で、長い黒髪を後ろで一つに結んでいる。冷静であるといえばよく聞こえるが、それを通り越して冷たい態度であるため、彼女の一言は常に心に刺さる。

「流石になんとかするべきだろうな。」

 

【挿絵表示】

 

狡噛がため息混じりに言った。

「ゲームに例えりゃ、御留我は防御力は高いけどHPは1って感じだね。」

縢の揶揄に「お前らはみんなライフが1だろ」と言い返してやりたいところだったが職が職だ。笑えない冗談になりそうだったのでやめた。

「そうだ縢、お前御留我に格闘の特訓つけてやったらどうだ?」

狡噛が唐突な提案をした。

「はあ?!なんで俺がそんなことしなきゃなんねぇの?!」

「俺ととっつぁんは先週の看護師暴行事件の残務整理任されてんだよ。お前とりあえず暇だろ?」

「暇な奴でいいんならクニっちでもいいじゃん!」

「それセクハラっていうのよ。」

六合塚が縢の言葉を遮ってそう言う。

そんなふうに認知されていたのか。

たしかに御留我はアニメや漫画が好きで時々際どい内容のものにも手を出すが、実際にハラスメントに手を染めた覚えはない。こうまで言われるのは心外だ。

御留我にはもう何かを言い返せるような気力は残っていなかった。オタクのメンタルは繊細なのだ。いっそ今すぐにでも死んでしまいたかった。

 

 

「ああ、違う違う。右で殴るのに右に重心乗せすぎ。体グラついちゃってんじゃん。」

「力、腕に移せてねーぞ。そんなんじゃすぐに押し返されて終わりー。」

御留我と縢は刑事課フロア内のトレーニングジムにいた。コンビニがニつ分といったほどの広さの部屋で、壁はコンクリート剥き出し。そこにところ狭しとトレーニング器具が並べられている。

今日は縢主導の格闘特訓の初日。朝7時に宿舎から引っ張り出され、そこから4時間、休憩をはさみながらサンドバッグのお相手だ。

縢は御留我に一通り基礎を教えると壁際のベンチでポータブルゲームをしだし、時折野次の如きアドバイスを投げかけてくる。もちろんゲーム画面から目を離さずにだ。いつもの黒い開襟シャツと、ダラダラに緩めたワインレッドのネクタイ。このトレーニングジムの雰囲気とは真逆の出で立ちだ。

教えてもらっているのはこちらであり、迷惑をかけているのもこちらだ。しかし人が懸命に訓練している横でゲームに夢中というのはいかがなものか。せめてイヤホンをはめるか消音にしてほしい。

御留我はいささか不機嫌になりつつも目の前のサンドバッグをひたすら殴り続け、パスン、パスンと間の抜けた音を響かせた。ダークグレーのタンクトップに汗が滲む。

「御留我ぁ、お前ほんとに訓練所通ってたのかよ?」

縢が呆れた顔で言う。

御留我はサンドバッグを殴る手を止めた。

「ああ、どうせ訓練所でもビリっけつだったよ。」

「お前どう見ても身体は出来上がってんのに、逆になんでそんなへなちょこになるかな。」

ドミネーターなどの装備の使用や戦闘を伴う刑事課の役職に就く人間は平均1年間、専門の訓練所に通ってから配属になる。

御留我も執行官の適性が出てから1年間訓練を受けたが、そこでも教官からは「身体のポテンシャルは高いが、能力が伴っていない。」と的確に評されたものだ。

「さあな。記憶があった頃は、なんかのスポーツでもしてたんじゃねぇの?」

御留我は投げやりな答えを返す。

「ふーん。でもなんか、磨きゃ良くなる気がするんだけどねぇ…。お前実はアクロバットとかできんじゃねえの?」

「知るかよ。あと秀星、ゲームの音は消してくれねえか?」

「だから、その呼び方やめろっつったろ?!」

食い気味で飛んできた怒号に御留我はビクリとした。

「何度言ったらわかんの?俺を下の名前で呼ぶな、気持ち悪い!お前、他人を必ず名前呼びする文化でもあったわけ?」

前々からだが、縢を「秀星」と下の名前で呼ぶと怒られる。御留我からしたら一体何が気に入らないのか理解し難いのだが、刑事課の他の面々も下の名前で呼ばれるのに一種の抵抗を抱くらしい。現状下の名前で呼ぶのを許容してくれているのは狡噛ぐらいだ。

「下の名前で呼ぶ文化」と言われると案外辻褄が合うのかもしれない。「御留我威都華」という自分の名も、日本人のそれとは思えない。誰かが当て字でつけたようで、もしこの名前をつける親なら、普段から和服をきて「兄弟の盃を交わそうぜ。」なんて小粋な日常を過ごしていそうなものだ。

「でも秀…縢、お前だって慎也のこと『コウちゃん』って呼んでんだろ。」

「あれは名字だしあだ名だから!俺の下の名前は可愛い女の子しか呼んじゃ駄目なの!」

「はぁ?なんだそれ。」

理不尽な理由に呆れそうになる。

「とにかく、次下の名前で呼んだらお前の前髪引っこ抜くからな!」

「わかったよ。気いつけるって。」

そう言って御留我はサンドバッグへ向き直る。流石に前髪を引っこ抜かれるのは御免被る。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter.3

 

 

翌朝、御留我は腕にはめた端末のけたたましい着信音で目覚めた。

昨日の午後は非番ではなかったため、特訓のあとオフィスで書類を片付けた。出動がなかっただけマシだったが、トレーニング後のデスクワークは身体に堪える。

今日はゆっくり寝ていられると思ったのに。

御留我はベッドから上体を起こし、電話に出る。相手は縢だった。

「公安局刑事課1係執行官、御留我威都華だぞ。」

「長い。俺からかけてんだから全部名乗らなくていーだろ。」

寝ぼけた御留我の声に対し、電話越しの縢の声はいつもどおりギャンギャンとしていた。

「早く支度してトレーニングホール来い。今日は俺と組むぞ。」

「いや、まだ6時だぞ?もう少しゆっくりさせてくれよ。」

「教官様のご命令は素直に聞くもんだぜ?」

縢が朝に強いのは正直意外だった。普段から仕事はサボり気味で常にゲームをしている。てっきり夜ふかしをして昼頃まで寝ているものだとばかり思っていた。

「わかった、今行く。」

御留我は一つ大きなあくびをして、のそのそとベッドから這い出た。

 

畳が敷き詰められた広いトレーニングホールに入ると、そこにはすでに縢の姿があった。

「遅ぇよ。どんだけ待たせんだ?」

黒いハーフパンツとライトグリーンのスポーツウェアを身にまとった彼は、足首を回しながらそう言った。彼にしては珍しく随分とスポーティな身だしなみであった。対して御留我は相変わらずグレーのタンクトップだ。

「悪りぃ。で、今日はお前も一緒にやるのか?」

「おう。やっぱちゃんと動きから教えなきゃいけねぇじゃん?だから今日は午前中俺とスパーリング、んで午後は筋トレな。」

「午後もやるのか?!」

御留我は思わず聞き返した。

「あったりめぇよ。俺もお前も、今日はちょうど非番だからな。」

たかが特訓で、しかも義務でもなくただ押し付けられただけの教官役に休日丸々返上する縢の思考が御留我にはわからなかった。

「いいから始めるぞ。ほら、正面立って両腕構えろ。まずは護身術レベルからじーっくり叩き込んでやっからな。」

ここで何を言おうと状況が変わらないことを悟った御留我は、何も言わず素直に教官に従うことにした。

 

「ああー、もう勘弁してくれよ。そろそろ限界だぞ。」

御留我はベンチにどすんと腰を落とし、息を切らしながら言った。

「そうだねー。まあ、今日の及第点には届いたかな。俺も疲れてきたし、午前は終わりにすっか。」

疲れたという言葉とは裏腹に涼しげな顔で御留我を見下ろす縢。多少の汗こそかいているものの、ノンストップで2時間組手をしていたとはとても思えない清々しさを見せつけていた。

 

あれから6時間。2時間ごとに数分の休憩を挟みつつ、二人はひたすら組手をこなしていた。基本の動作と技を教わり、四、五回実践。腕の引き、身体の向き、力の入れ方、足の運びなど事細かく、寸分の差も許されぬ正確さを叩き込まれた。

今日は防御、受け流し、避けを中心に行ったが、これがなかなか難しい。一通り訓練所でも教わったのだが、理論的に教わった動きを自然に実行するのは至難の技に思えた。例えるならば、全く知らない複雑なダンスを教え込まされているといったところだろうか。

「なあ縢、こんなに教わったはいいが、実戦で出来る気がしねぇんだが…。」

「そりゃ今のままじゃね。ちょっとやそっとでできるもんじゃないの。こういうのは頭で覚えんじゃなくて身体に覚えさせんだよ。」

「正直ピンと来ないんだが。」

「例えるならダンスだね。最初のうちは頭で考えててても、繰り返してりゃ身体に染みつくんだよ。」

御留我が先ほど考えていた比喩を持ち出され、思考を読まれでもしたのかと思った。

「実感わかねぇな…。」

ため息混じりで呟く。

「二日目でダウンたぁ、執行官が聞いて呆れるぜ?」

「…」

「まだまだこれから。今日やった動き、最初に比べたら慣れたもんだぜ。」

縢の励ましも、御留我にとってさほど助けにはなっていなかった。

午後の筋力トレーニングが憂鬱でならない。

 

 

アスファルト剥き出しの壁にかけられたデジタル時計は15時を指していた。

「ほえー…。お前、よくこんな重さの上げられるな。」

縢があんぐりと口を開いて感嘆の声を漏らす。

午前の組手から一変、御留我はトレーニングジムで110キロのバーベルを押し上げ、ベンチプレスというトレーニングをしていた。

「やっぱ御留我、身体はちゃんと出来上がってんだな…。」

黒い円盤状の重りがついた金属棒を押し上げる御留我の横で、腕組みをしながら縢が呟く。

「だな。どうやら昔は相当鍛えてたらしい。」

御留我はバーベルをガシャリと台に下ろし、ベンチから起き上がって答えた。

自分でもここまで筋力があるとは意外だった。

縢は軽く生返事のようなものをぼやきながら、御留我の上半身をまじまじと観察していた。

「御留我、何この背中のやつ?」

背中側に回り込んだとき、縢は御留我のうなじから伸びた金属の突起に目を留め驚いた様子で聞いた。

「これか?俺もよくわかんねぇんだが、どうやら作業用ドローンみたいなのを動かすための端子か何かなんだと。」

「へぇ…。インプラントみたいなもんってことか。けど、身体と接続して動かすドローンがあるなんて聞いたこともないぜ?」

縢は御留我の背中のそれを不思議そうに見ながら言った。

御留我自身、もちろんこれについての記憶も心当たりもない。縢の言うとおり、聞いたところ少なくともこの国にそんな操作をする機械の類は無いそうだ。おそらく御留我の過去にいた国かどこかでの産物だろうが、身体に埋め込んであると思うと気持ちの良いものではない。

「第一、身体と直接繋ぐほど高度な操作がいるドローンなんて何に使うんだろうな。」

「さあな。戦争用ドローンにでも使うんじゃねぇの?」

「まあ、今でも紛争国はあるからねぇ…。」

御留我は根も葉もない適当なことを言ったつもりだったが、案外的を射てしまっていたようだ。

「お前そういう国にいたんじゃね?」

「え…。」

縢の言葉に、なぜだか一瞬たじろいでしまった。

「まあ、そんな気がしないでもない。よく見りゃ身体は傷だらけだし、戦場を…経験した…のかもしれない…。」

「あー、わりいわりい、変なこと言って。」

途切れ途切れの御留我の返事に縢は何かを察したようで、咄嗟に語調を変えて言った。彼の気遣いのようなものを感じてしまい、御留我は慌ててこう返した。

「いや、もしほんとにそうだとしたら、こんなに弱いわけねぇだろ?」

二人の間にしばしの沈黙が訪れる。

縢は分が悪そうに頭の後ろを掻き、引っ詰めの赤茶髪が揺れる。

「さて、続きやるぞ、教官殿!」

御留我は自分の両膝をパンと叩きそう言った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter.4

腕時計端末が映し出した時刻はAM6:03。

御留我はだだっ広いトレーニングホールに一人でいた。通気性の良いロングパンツと白い七歩袖のウェアを身にまとい、足首のストレッチをしている。

彼以外誰もいないホールに、ウェアの擦れる音だけがかすかに響く。

十二月も半ば、外の気温はさぞ低そうだが、これから運動をする身としてはちょうどよいコンディションだ。

縢と特訓を始めて1ヶ月半ほど経ち、日進月歩ながらも成長が見えはじめていた。はじめこそは一連の動きにすらならなかった組手だったが、ある程度縢と渡り合えるようになってきた。もちろん縢も練習用に手加減しているのでまだまだ実戦は厳しそうだが、少なくとも一般人の護身術としては平均を超えていそうだ。

「うお!どうした御留我、今日早くねぇ?」

ホールの戸を開け入ってくるなり、縢は驚きの声を上げた。ハーフパンツに細めのウェア、しっかりいつもの身なりだった。もちろん、特訓のときに限った話だが。

「早起きに慣れちまったんだよ。教官殿がしごいてくれたんで。」

「そりゃ嬉しいこった。ほんじゃ、お前さんの熱意が冷めないうちに始めるとするか。」

御留我が少し皮肉めいて言うと、縢は軽く手首を回しながらいささか嬉しそうに答えた。

「今日も組手だろ?何からやる…」

「今日は俺と一回組んでもらう。」

縢は御留我の言葉を遮り言った。

「?」

縢が何を言っているのかわからなかった。組手ならいつもやっているし、なぜ改めて言ったのか。

「俺とスパーリングするんだよ。今まで結構組手教えてきたろ?その成果が出てるか抜き打ちテストだ。」

「え、いや、俺まだお前と本気じゃ無理だぞ!?」

「手加減はする!だからお前は全力でかかってこい。」

「けど…」

「細かいこと気にすんな!どうせお前の筋力をもってしても、技術じゃ俺に敵うはずないんだからな。」

この一言には苛立ちを覚えた。技術が劣っているのは自覚してているが、それを直接罵られたのは我慢ならない。男としてのプライドを傷つけられた気分だし、第一いままでのトレーニングの努力を否定されたようで仕方がない。

御留我のなけなしの闘争心に火がついた。

「ああわかったよ、やってやるよ!」

「その意気だぜ、御留我!」

縢は腰に手を当てふんぞり返りながら言った。

ここでようやく、縢が御留我の闘争心を煽るために敢えて挑発をしていたということに勘づいたが、こうなってしまった以上、もうあとには引けない。

二人はすぐに2メートルほどの距離を取り、互いに格闘の構えをとった。

御留我は両方の拳を顎あたりで握り、右足を後ろへ踏んだ。畳特有の絶妙な硬さが足先から伝わってくる。

まっすぐ互いの目を見つめ、じりじりと二人の間に流れる空気を掴もうとする。沈黙の張り詰めた空気を。

縢の目は先程の挑発的な態度とは打って変わって真剣だった。

御留我はつばを飲み込む。

たった数秒の時間が何分にも思える。

スッと短く息を吸う音が微かに聴こえたと思うと、縢が大きく踏み出してきた。御留我は飛んできた左フックを見切り、すんでのところで受けながす。しかし次の瞬間、御留我は全身を大きく揺さぶられ後方によろめいた。彼の間合にしっかりと入り込んだ縢が至近距離から右の膝蹴りを放ったのだ。

「くっ!」

御留我は数歩後退して体制を立て直す。

縢は2時の方向、両手を構えて迫ってくる。御留我は腰を引いて彼の突進に備えた。

その判断が間違いだった。彼の姿勢から、てっきりアッパーかストレート、あるいはタックルか、いずれにしても上半身で攻撃を繰り出すものだと思っていた。しかし御留我の目の前まで迫った縢の体は軽々と宙へ舞い、華麗なまでの回し蹴りが炸裂した。

「あがっ!!」

咄嗟に腕で防御したはいいものの、蹴りのエネルギーを相殺することなど到底できなかった。そのまま左へと倒れ込み、畳の上を4メートルほど転がった。

御留我は寝技を決められまいと余計に二度ほど転がって距離を取り、足を素早く運び立ち上がる。

縢は2メートル向こう、こちらの出方をうかがっている。

御留我は膝のバネを弾き、一気に間合いを詰める。縢は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに鋭い目に戻り、右ストレートで御留我を迎え撃つ。

御留我はそれを右手で受け止め、強靭な握力で縢の手首を握りしめる。

掴んだ。

そのしっかりとした感覚が御留我の脳裏をよぎった。

御留我は掴んだ縢の腕を目一杯引くと、間髪入れずにボディブローを叩き込んでいった。

縢は両腕で防御をするのが精一杯の様子で一向に反撃してこない。

少々違和感を感じつつも御留我は懸命に殴り続ける。

「あんま調子に乗んなよ…。」

防御する腕の中からボソリとそんな声がしたと思うと、鋭く睨む縢と目が合った。

「!」

その直後、縢が目にも止まらぬ速さで腕を操り、御留我の優勢は一気に崩されてしまった。いや、もとから優勢になどなっていなかったのだろう。されるがままに見えた縢のその表情には、痛みを感じていた気配など微塵も浮かんでいなかったのだ。

「おらよっ!」

次の瞬間、御留我は脇腹に力強い右フックをくらった。これだけでもう死んでしまいそうだった。一ヶ月前ならば確実に死んでいただろう。トレーニングの成果はこんなところにも現れていたらしい。

縢の両腕が御留我の肩をガッチリと捉える。そして体制を立て直す間も与えられず、2メートル弱の御留我の体は宙を一回転し、そのまま畳に叩きつけられた。

ドシンと低い音が響き渡り、御留我の背中には鈍い痛みが走った。死ななかったのが不思議なくらいだ。

見事なまでに投げ飛ばされてしまったらしい。

仰向けのまま声にならない唸り声を上げる御留我に、見下ろす縢が息を切らしながら言った。

「いやわりぃ…。俺つい本気になっちゃってさ…。」

フーっと長い吐息で呼吸を整えたあと、縢は続けた。

「俺執行官になったばっかの頃にさ、コウちゃんにスパーリング申し込んだのよ。」

縢が配属されたばかりとなると、狡噛はまだ監視官だったはずだ。

御留我は熱気が冷めていく中でやたらと冴えた頭で人づてに聞いた記憶をたどった。痛みはかなり和らいできた。

「んで、『こんな勉強ばっかしてたエリートお坊ちゃんなんかに負けるわけねぇ』って調子こいてたらさ、ボロ負け。そんときゃ肘の骨、折られたんだぜ?さすがにひでえことするよなぁコウちゃんも。」

狡噛が刑事課随一の格闘技術の持ち主だということは周知の事実だが、まさか監視官時代からだったとは。

「だからさ、俺刑事課内で最弱レッテルだったわけ。」

「皆からそう言われたのか?」

「違う違う。実際勝負したのは俺とコウちゃんだけだけど、裏を返せば刑事課の中で“負けた”のは俺だけだろ?」

縢は両手を広げ、滑稽な昔話を語るように言った。

「そんで今日。いくら手加減してたとはいえ御留我にも負けたんじゃさすがに格好つかないじゃん?正直、お前があそこまでできるとは思ってなかったよ。」

縢はそう言ったが、単に惨敗した御留我への労いとフォローの意味ではないように思えた。

いつもどおり飄々とした態度ではあったが、その横顔に悔しさのようなものがにじみ出ていたからだ。

「あ、あと御留我、お前やっぱ右に重心乗りすぎてる。ちょっとやりすぎなくらい左に乗せたみたほうがいいぜ。最弱教官からのアドバイス。」

彼はお調子者であるのは間違いないが、同時に義理堅く、勝負ごとに関しては絶対に負けたくないという熱い一面も持っているのだろうか。

御留我はゆっくりと体を起こしながら、こちらに手を差し伸べる彼を見てそんなことを考えた。

 

 

「なんかわりぃな、ご馳走になっちまって。」

「いいのいいの。今日は遅くまで付き合わせちまったから、もうカフェテリア閉まっちゃたしな。」

縢はキッチンでフライパンを振りながら黒の開襟シャツを身にまとった背中で上機嫌そうに答えた。

高級レストランばりに整えられたキッチンから、野菜を炒める軽やかな油の音が響く。

夜11時。二人は縢の部屋にいた。地下をくり抜きレンガ内装が施された薄暗く広い部屋に間接照明が柔らかく浮かぶ。シックなモダンルームとしてみれば洒落たデザインと言えるだろう。

執行官は潜在犯ゆえ、公安局の刑事課フロアを出ることが原則的に禁じられている。帰宅はもとより、外出ですら監視官同伴でなければろくにできない。その代わり執行官には専用の宿舎が用意され、一人ひとりに大きな自室が与えられる。支給された給料で通販を通して好きなものを買うこともできるし、食事に関しても刑事課フロアにカフェテリアが備え付けられており、生活にそこまでの不自由はない。

執行官の部屋はどこも同じような造りだが、稼いだ給料を使い各々好みのインテリアを揃えている。縢の場合はそれを豊富なゲーム台、そしてキッチン用品や食材に当てているらしい。それもかなり金がかかっているようで、生の食材にこだわり高級な野菜やら魚介類やらを輸入で取り寄せているというのだ。自動調理加工食品が主流となった今の時代、生の食材を一個人が入手するというのは中々に珍しいケースなのだ。

ゲーム好きなのは皆も知るところであったが、まさか料理が趣味だとは。デスクワークも適当で仕事に関して常に大雑把な印象の彼に料理というのは、先入観からしてあまりにもかけ離れていた。

「ほんとによかったのか?カフェテリア閉まってても、飯だったら売店で適当に買って済ませても良かったんだぜ。」

御留我は夕食に招いてもらったことに未だに一抹の罪悪感のようなものを抱き、縢に改めて聞いた。

「いいって言ってんだろ。お前ずっと公安にいて、手料理なんか食べたことないだろ?オート調理のやつなんかとは比べ物になんないからな。待っとけって。」

縢は自慢の料理をご馳走したいらしい。どうやら遠慮は必要なさそうだ。

そんなことを考えながら、御留我は部屋の中を見渡した。ビリヤード、ダーツ、ピンボール、そして壁には様々な銘柄の洋酒が置かれたラック、そして今縢のいる大きなダイニングバーカウンター。どれも高価そうで、大人の遊び人といったふうな人間像を思い浮かべさせるのに一躍買っているものばかりだった。

「?」

御留我はふと、部屋の隅の小さな丸テーブルの上に目を留めた。なぜなら、そこにあったそれだけがこの部屋に似つかわしくなかったからだ。とはいえとりわけなんの変哲もない、平凡なキャンパスノートだった。

ただ、洒落た物で埋め尽くされたこの部屋の中において、そのいかにもオフィスのデスクに置いてありそうなそれは、ひときわ異彩を放っていたのだ。

キッチンにいる縢がこちらに背を向けているのを横目で確認してから、御留我はさり気ない素振りで部屋の隅へ歩いて行った。

「遊んでもいいけど壊すなよ?それ全部ビンテージ物なんだぜ。」

ピンボールを触ろうとしたと思ったのか、縢が背を向けたまま言ってきた。

「あ、おう。そうなんだな!」

ぎこち無い相槌を打ちつつ、御留我は丸テーブルの上のノートに手を伸ばした。ピンク色の表紙には何も書いていない。

縢が背を向けているのをもう一度確認すると、そっとノートを開いた。

“特訓スケジュール”

ちょうど開いたページの上部にボールペンで書かれていた。その下には恐らく縢が非番である日と御留我の非番の日にち、そしてその横には訓練のメニューであろう概要が記してあった。その中の過去の日付では、二人がこれまでこなしてきた訓練内容があった。

これは御留我の特訓のためのノートだ。

御留我はそう確信すると同時に目を丸くした。

縢がノートを作っていたのだ。デスクワークの嫌いな彼がだ。

さらにページをめくり読み進める。

“重心右寄り→体幹バランス修正の必要性あり”、“ベンチプレス130kg、アームカール75kg”、“筋力、筋持久力はアドバンテージ”…。

その日の訓練の所見、御留我の身体能力、戦闘時の癖、さらには訓練指導の反省などが何ページにも渡り殴り書きで書かれていた。

御留我のための特訓なんて、押し付けられて嫌々やっていたのだろうと思っていた。せっかくの非番を自分には何一つメリットのない特訓のために返上するのだ。喜んで引き受ける者はそうそういない。

しかし思い返してみれば、引っかかる点はいくつもあった。毎朝早くから訓練の準備をし、乗り気でない御留我を叩き起こした。初めこそは投げやりだったものの、彼は訓練中終始御留我に付きっきりだった。訓練内容はどれも御留我に合わせたものだった。

あいつはきっとそういう奴なんだ。

そう感じたとき、御留我はこれまでの自分の不甲斐なさが恥ずかしく思えてきた。この特訓に向けてきた意識が、熱意が、明らかに劣っていた気がした。

「俺ももっと頑張らねぇと…。」

自分にしか聞こえぬ声でそうつぶやくと、持っていたノートをそっと閉じて元あった場所へ戻した。

「ほーら、出来たぞー。」

縢の明るい声に、御留我ははっと我に返った。

湯気の上る料理の盛られた皿とベルガモット酒の瓶を持った縢がキッチンから出てきた。ヒラメとトマトの香りが鼻をくすぐる。

「俺のことは刑事課のクッキングアイドルと呼んでくれ。」

「なんだそりゃ。ってか、お前まだ未成年だろ。」

「1年くらい早くたって問題ねーよ。」

上機嫌な縢はテーブルに自慢のイタリアンを並べ、御留我を座らせた。

「ほんじゃあ、冷めないうちに!」

促されるままに御留我はフォークを手にとり、遠慮がちに料理へと手を伸ばした。

「じゃあ、イタダキマス。」

鮮やかに彩られたヒラメのアクアパッツァは程よい塩気とトマトの酸味が効き、驚くほど美味しく、そしてどこか懐かしい味がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter.5

 

 

壁にかけたアナログ時計の秒針の音が刻む、一定のリズムだけが淡々と響く。そして針は2時17分を指していた。

「やっぱ左が弱いな…。」

照明を一箇所だけ灯らせた薄暗い部屋の中、御留我はひとり呟いた。

十二月も末。年の瀬が近づいてきた真夜中、御留我は自室で数日前に買ったばかりの新品のサンドバッグと対峙していた。夜は冷え込むが、御留我はネイビーのトレーニングウェアに汗を滲ませていた。

縢と特訓を始めてからしばらく経ち、身体訓練の習慣が御留我の生活の中に染み付いてきていた。最近は深夜に時間を取り、自主トレーニングをするようになった。いつも使うトレーニングジムは夜中は閉まってしまうため、御留我はサンドバッグを購入し、自室の天井から吊り下げた。思いの外高価で、今月末発売だったコードギアスのアニメ新章スペシャル視聴パッケージの予約を泣く泣く諦めることになった。

今日は日勤で夜には職場を上がり、カフェテリアで夕飯を済ませたあとは宿舎に戻り、そこから今まで延々と自主トレーニングをしていた。縢が毎度訓練のたびにくれるアドバイスや、自身で見つけた反省点を復習することにしたのだ。御留我の特訓に向き合ってくれている縢の期待に少しでも応えなければ筋が通らない。そう思い始めていた。

明日は朝から捜査会議が待っている。早く寝なくてはと思いつつも、ここでやめるとすべてが無駄になってしまうような根拠のない不安が絶えず付きまとい、御留我の背中を押していた。

ここで足を止めるわけにはいかない。

「もう一回やってみるか…。」

腕ではなく、肩から動かす。

出したら引く。

殴る方と逆に重心。

視線は常に相手へ。

縢に教わったコツを意識しながらサンドバッグを殴りこむ。

ボスン、パスンと重い音と抜けた音がまばらに鳴り続けた。

ひときわ強い力を込めて右フックを繰り出す。すると直後、体が右によろめき足が縺れてしまった。

「っとっと!」

転ばないよう、右足で何度かケンケンを踏むような状態で体制を戻した。

やはり重心が右に寄っているのが直らない。特訓を始めた時期からずっと見えていた課題で、未だに克服できていない。

まだ微かに揺れるサンドバッグを睨み、御留我は深い溜め息をついた。

何度意識して練習しても変わらないことへの苛立ちと、縢に迷惑をかけ続けることへの後ろめたさに頭を犯されそうだ。

これさえ直ってくれれば、これさえ克服できればどんなに気が楽だったろう。

そんなことを考え始めやり場のない怒りを覚えたことを自覚すると、御留我は一つ深呼吸をした。

深夜だからだろうか。情緒が不安定になり始めている。

休憩しよう。一度水を飲んで、汗を拭いて…それからもう一度練習しよう。

足元に無造作に置いたタオルを拾い上げ、冷蔵庫の方へ歩いていった。

2時52分。御留我の頭の中に、今夜はもう切り上げるという選択肢は浮かんでもいなかった。

 

 

「…ルガ」

ぼんやりする意識の中、遠くから微かに声が聞こえた気がした。

「御留我、聞いているのか!?」

鋭い怒号で御留我ははっと我に返った。顔を上げると、オフィスの奥からこちらを睨みつける宜野座監視官が目に入る。シワ一つ無い黒のスーツをピシッと着こなし、堅苦しそうにネクタイを上まで締めている。

どうやら居眠りをしてしまったようだ。

会議中の緊張感が漂う刑事課オフィスの中、御留我は冷ややかな視線を浴びる。

「ああ、聞いてた聞いてた。ちゃんとわかってるぜ。」

わかっているわけがない。聞いていなかったのだから。

確か最近台東区で増えている火災に放火の可能性が出てきたという話だったか。

刑事課1係は朝から呼び出されて捜査会議だ。呼び出されたとは言っても、今日はどのみち皆勤務日だったため、なにか損があるわけではないのだが。

「寝不足なのか?」

向こうのデスクに座る狡噛が聞いた。

「いや、まあな。ちょっと深夜番組があって。」

「アニメなら配信でいつでも見られるだろ。」

「リアタイがいいんだよリアタイが。」

呆れた様子で口を挟んだ宜野座に、御留我は大きなあくびを交えて反論をした。

しかしこれは真っ赤な嘘だ。寝不足の原因は明白。最近の自主トレーニングのための夜更しだ。第一アニメはリアタイ派なわけでもないし、ニコニコのプレミアム会員であるため宜野座の言うとおりいつでも見られる。勤務中でもだ。

「今日朝からだってのは知ってただろ。寝とかなきゃ堪えるって思わなかったのかい?」

宜野座と同じく呆れた様子で征陸が聞く。

「マッさん、夜更しってのは気づかないうちに時間がすぎるもんだ。時計見たときはもう3時半なんだよ。」

本当のことを言うつもりはない。縢本人にもこのことは伝えていないし、もしここで言ってしまえば、縢の責任問題にもされかねないからだ。

しかしそれにしても、昨日は流石に遅くまでやりすぎた。今とてつもなく強い睡魔に襲われて初めて後悔する。

「話に戻るぞ。御留我、寝るなよ。」

宜野座が静かに言い放つと、一同は正面に向き直った。

「今月二つ目の火災現場では可燃性ガスが充満していたが、その成分を分析したところ都市ガスとは異なることが…」

宜野座が再び話し始めるとすぐに、御留我は再びうたた寝を始めた。

頭をコクリコクリとさせる御留我を横目に、

「毎晩聴こえてんだぜ、サンドバッグの音。俺の部屋隣だって忘れんなよ?」

と囁いたが、そんな縢の声は、舟を漕ぐ御留我の耳には届いていなかった。もちろん、その時縢がどことなく嬉しそうな表情をしていたのも。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Chapter.6

 

 

腕にはめた携帯端末のけたたましいコールサイレンに、御留我は一瞬ビクリとした。

それもそのはず、今の時刻は夜中の1時34分。とうに勤務は終わり、皆就寝している頃だったからだ。

着信は宜野座監視官からだった。汗の滴る首にタオルをかけ、電話に出る。

「公安局刑事課1係執行官、御留我威都華だぞ。」

「いちいち自己紹介するな。」

「何かあったのか?」

「街頭スキャナに細川俊輔が引っかかった。夜中で悪いが出動するぞ。」

早口でそう言った宜野座の声は不機嫌そうであった。御留我は起きていたからいいものの、宜野座は眠っているところを無理やり起こされたに違いない。

ところが御留我は別のことが気になっていた。

「えっと、細川…?」

「やっぱり聞いていなかったのか…。細川は台東区の連続火災事件の容疑者の一人に上がっていた男だ。ここしばらく検診も受けず、行方をくらましていた。」

「え、ええ。わかってますわかってます!で…どういうことだ?」

恐らくは数日前1係の捜査会議で上がった件だろう。御留我は居眠りをしていたため、ほとんど概要を知らなかった。

宜野座はさぞ面倒くさそうに舌打ちをしてから言った。

「スキャナに引っかかったのは犯罪係数が高かったからだ。細川が一連の事件の犯人である可能性は高いし、仮にそうでなかったとしても潜在犯であることに違いはない。早急に身柄を確保する必要があるということだ!!」

夜中に起こされて苛立っているのが電話越しにしっかりと伝わってきた。

仕方のないこととはいえ、御留我はいつも高圧的な態度で接してくる監視官に少しばかり哀れみを覚えた。

「わかった、5分で行く。」

そう簡潔に伝えると、御留我は汗の滲むトレーニングウェアを脱ぎ捨て、至るところがへこんだサンドバッグを後にした。

 

 

都心から離れた閑静な住宅街。スキャナや巡回ドローン、交通照明ホログラムは整備されているものの、都市部の華々しさとは程遠い。周囲の住居は高層ビルではなく、せいぜい十数階建てのマンションばかり。決して廃れているわけではないのだが、未だに少し時代に取り残された雰囲気が漂う。

御留我ら三人は現場に到着し、あるマンションの駐車場で潜在犯追跡の準備をしていた。御留我は黒地に青襟のジャケットに身を包み、赤いストールを少しきつめに首に巻いていた。

「あーあ。明日は非番だから一晩中スマブラやりこもうと思ってたのに。なんでこんな真夜中に出なきゃなんないんすか、ギノさん。」

キャリアからポップアップしたドミネーターを抜き取りながら縢がそうこぼした。黒シャツに赤ネクタイ、その上に黒いジャケットと青いコートを羽織りながらも、冬の夜の寒さに身を震わせていた。

「つべこべ言うな。当直の日のうちは最後まで勤務する覚悟でいろ。」

「もう日付変わってんじゃん。明日勤務の奴呼べば…」

「当直切り替えの規定時間は朝6時だ。」

冷たく言い放つ宜野座は明らかに不服といった様子だった。

当直は宜野座、縢、御留我の3人。どうやら縢も起きていたようでピンピンしていたが、やはりどう見ても宜野座監視官は寝起きだった。いつも以上に目つきは悪い上に急いで支度をしたのだろう。真っ黒のスーツとコートはきっちりとさせているものの、髪には寝癖がちらほらと見受けられた。

御留我は「当直の日は最後まで勤務する覚悟でいろ」という先ほどの台詞をそのまま宜野座に投げ返してやりたかったが、逆鱗に触れてしまうのが想像に容易い。

縢もそのことは言わずとも心得ているようで、これ以上軽口をたたこうとはしなかった。

「このマンション内のスキャナが最後に細川を捉えた。住民は退避したはずだが、人質を取られている可能性もある。1階から慎重に行くぞ。縢と御留我は裏から回れ。俺は正面から入る。いいな?」

街頭スキャナが容疑者の細川の姿を捉えた直後からこのエリア一帯に非常線が敷かれ、住民はあらかた退避させられていた。しかし全員かどうかは定かではない。このエリア全体の居住者データと非常線を抜けたログ、遠出の人間がいるかどうかの記録を照らし合わせる時間がないからだ。それも夜中、退避指示に気づかず眠っている住人や、あるいは人質が残っていてもおかしくはない。

風の音すら聞こえない静けさに、御留我は胸騒ぎを覚えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

***Chapter.7

「1階はクリア、誰もいない。俺はいるぞ。」

無線通信で宜野座に伝える。

「了解。お前がいることは言わなくていい。2階に行くぞ。」

宜野座がそう応答した。

御留我は廊下の向こう側にいた縢と合流し、非常階段へ向かう。

二人で階段を駆け上がっていると、縢が口を開いた。

「お前、なんでそんなに熱心になったわけ?」

「何にだ?」

「特訓だよ。最初あんな渋々だったくせに。1週間でリタイアすると思ってたんだけど。」

唐突な問いに御留我はきょとんとした。

「え、そりゃあ…縢が特訓に本気だったからだよ。」

縢のノートを盗み見たことを知られまいと、御留我は言葉を濁した。

「はぁ?んなわけねぇだろ。」

縢がそう否定した途端、御留我は堪忍袋の緒が切れような気がした。憤ってはいないのだが、納得がいかない。御留我の特訓に縢が本気ではなかったということに対してではない。むしろそれは嘘だと思うし、縢がそういうふうに彼自身の努力を否定したことが気に入らない。

「それは違うな。」

後ろにいた縢の顔は見えなかったが、驚いて目を見開いたのがわかった。

御留我は続ける。

「お前は普段不真面目に見える。だが誰かが必要としたとき、それに本気で応えてくれる。真正面からぶつかって、向き合ってくれる。どっかに辿り着かせてくれようと全力で引っ張ってくれるんだ。だから俺は…」

「るせーな、ごちゃごちゃと。」

縢がそう遮り、今度は御留我が目を見開いた。

「御留我、一つ聞いとくけど、先に本気で来たのはお前の方だって自覚ねぇの?」

「?」

御留我は唖然とした。

「お前はすぐ死ぬし、致命的に弱くて特訓でどうにかなる見込みだって低かった。それお前だってわかってたくせに、格闘なんてわかんないくせに、がむしゃらに足掻いてしがみついてきやがって。そんなことされちゃこっちも後戻り出来ねぇのよ。」

縢は一見苛立っているような口調で話していた。しかしその言葉には確かに、それとは相反する感情が込められていた。

「俺はガキの頃からずっと厚生施設に閉じ込められて、そこよりはマシだから執行官になった。それでも潜在犯って格付けされてる限りそれ以上何も求められないって踏ん切りはつけてるつもりだった。けどお前を見てると行ける気がしてしょーがなくなる。ここじゃないどっかへ行けるんじゃないかってな。お前の無茶のおかげで俺も夢が見れるんじゃないかって思っちまうんだよ。」

昔どこかで朧げに聞いたことのあるような言葉。記憶の中から引っ張り出せないが、大切な奴に、心から信じられる仲間に言われた気がする。

「そうやってお前は…。」

御留我はふっと口元を緩めそう呟いた。

二人が2階につき、廊下を移動し始めた時だった。

「おいコラかかってこいよ公安のおまわりさんよぉ!!」

マンションの表の方、それも階下から荒々しい男の声が響いた。

御留我はすぐに宜野座と連絡をとった。

「ギノ、何があった?!」

「細川がマンションの外にいる!ベランダから避難梯子を伝って降りたらしい。」

切羽詰まった声で宜野座が答えた。

御留我と縢は同時に走り出した。

「オラァ、そこにらへんにいんだろぉ?!撃ってみろよ。俺がこのライター落としゃここ一瞬で焼けるぜぇ!!」

避難梯子とは不覚だった。だがそれならば、なぜ逃げずに痰呵を切っているのだろうか。

その疑問は縢の推察ですぐに解消した。

「野郎、俺たちがまだ潜入する前だと勘違いしてるらしい。刑事の姿が見えないもんだからどっかに隠れて待機してるとでも思って、ああやって脅しにかかろうとしてるんだろうよ。」

流石の洞察力といったところか。こういった瞬時の現場の判断においては、狡噛にも劣らぬ刑事の勘を備え始めているのだろう。御留我にはまだまだ真似できない芸当のようだ。

階段を降りきりマンションの正面へ出ると、そこにはグレーのパーカーを着る男が右手に火のついたライターを掲げる姿があった。そしてその先にはドミネーターを構える宜野座監視官。

「ライターの火を消して投降しろ!!」

すかさずこちらも銃口を向ける。網膜投影画面に犯人の犯罪係数が表示され、ドミネーターの淡々とした指向性音声が耳に響いた。

 

【挿絵表示】

 

<犯罪係数:オーバー300。執行対象です。執行モード:リーサル・エリミネーター。>

300を超えた高い犯罪係数を計測し、ドミネーターは青緑色の光を発しながら変形を始めた。薄い箱状だった簡体が展開しながら、幾何学型に切り取られた形状の部品が次々とスライドし、回転する。およそ3秒もしないうちに、重黒い銃は棘を露わにして殺人兵器へと変貌した。このエリミネーターに変形したそのときは、執行対象を撃って身体を細切れにし、確実な死を与えるということを意味する。

だが御留我も縢も、そして犯人を挟んだ向こう側にいる宜野座もその引き金を引くことを踏みとどまった。その理由は共通だった。

ライター火をちらつかせて威嚇する男の足元には大量のガソリンのようなものの水溜りが広がっていた。そしてマンションの正面側には可燃性ガスが充満しているのがホログラム照明のおかげでかろうじて目視できた。そして何より、わめき立てる男の遥か頭上、マンションの3階に親子が見えたのだ。

「ホラホラァ!!撃ったら俺と一緒にあの親子死ぬよ?善良な市民もろとも殺すんですかァ?!」

3階のベランダから顔を出す親子。母親と娘だ。恐らく人質にされ部屋に立てこもられていたのだ。娘はまだ五歳ほど。母親に抱かれて大きな泣き声を上げている。

「くそっ…。」

まだ切っていなかった無線通信越しに宜野座の声が聞こえる。

とんでもない膠着状態に陥ってしまった。できることならあの母娘に静かに部屋から避難して裏口から脱出してもらいたいところだが、娘があんな状態だ。犯人に気づかれて火をつけられでもしたらひとたまりもない。

「私はいいです!だからこの子だけでも助けてやってください!!」

母親は恐怖に耐えながらも毅然とした態度で犯人に訴えた。しかし母としての勇ましさも凶悪犯の前では無意味だった。細川は聞く耳すら立てずにこちらを睨みつけている。

「ギノさん、俺が裏からこっそり助けに行く。だから二人はもう少しこの場を保たせられるかい?」

「よし、こっちは奴の気を引く。慎重に行けよ。」

縢が小声で宜野座に通信すると、三人は事態の打開へと踏み出した。縢はドミネーターをそっと降ろし、ゆっくりとマンション内へ引き返し始めた。

「そちらの要求はなんだ?!」

犯人の気を引くためそう宜野座が叫んだとき、三人は目を疑った。

細川が火のついたままのライターを後方へ投げ捨てて一気に駆け出した。こちらが隙を突かれたのだ。

油の中に落ちた小さな火は立ち上るガスを伝ってまたたく間にマンション全体に広がり、夜の闇に大きな炎を浮かび上がらせた。

宜野座は一瞬うろたえる素振りを見せたが、すぐに逃げた犯人を全速力で追っていった。

「御留我、俺たちも追うぞ!」

「ああ。」

そう答えて走りだそうとした御留我の耳に悲鳴が届き、驚いてその声の方を見上げた。

視界の先には燃えさかるマンションの3階のベランダ。炎の向こう側で声を上げる母娘の姿があった。

「助けてください!!この子だけでも、この子だけでも助けてやってください!!」

御留我は目を見張った。まだ生きていたのだ。

束の間の安堵感を抱くと同時に、絶望的な状況に息を呑んだ。

「おい御留我、早く追いかけるぞ!」

「まだあの親子が上にいる!」

「消防に任せりゃいい!俺たちも早いとこ離れないとやばいぞ。」

縢も親子の姿をみとめてはいたようだが、救助するという選択肢はないと言った。消防の到着まで親子の命が持つはずもない。それを承知の上で縢はそういう判断をしたのだ。

御留我は納得がいかなかった。

いますぐそこで助けを求めている人を置いていって何が町の治安維持だ。

御留我は炎の壁を見上げ、出し得る限りの知恵を絞り出した。

「ここからベランダを登って3階まで行って、親子の抱えて飛び降りればなんとか…」

「馬鹿かてめぇ?!そんなことできるやつがどこにいるんだよ!?」

自分でも無茶苦茶だとはわかっている。プランなんて到底呼べる代物ではない。今隣にスパイダーマンがいるか、あるいは右手に寄生獣の相棒が住みついていたりでもしない限り。

縢は踏み留まろうとする御留我に急くように言った。

「階段からダッシュで行ったとしてもどのみちこの火の回りじゃ間に合わねぇ。ましてお前の言った方法は無謀なんだよ!第一誰が出来るんだ?お前か?お前がやるのか?!3階から飛び降りるなんて、お前は生き返っても親子が無事なわけないだろ!!だったらせめて被害を最小限に…」

「少しでも助かる可能性があるかもしれねぇ命を諦めて、それで俺たちは刑事を名乗るってのか!?」

 

【挿絵表示】

 

御留我は思わず、縢の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。縢はあまりの唐突さに言葉を失い、唖然とした。

「お前はそこで待ってろ!俺が親子を連れ出したら、安全圏まで運べ!!」

そう口走ると、御留我はポカンとする縢を放してマンションの方へ駆けていった。

炎はいよいよマンション全体を飲み込み始め、夜空に緋色の壁を立てたようになっていた。

御留我はもう一度目測をする。

まず火の回りが少ない角の方からベランダを伝って3階までよじ登る。母娘を抱えたら、そのまま自分の背中を下にして飛び降りる。それも直下に広がる火の海を避けられるだけ遠くの地面まで。

言葉にしてしまうのは簡単、いやその言葉でさえも不完全すぎる。実現できるビジョンが全く見えない。しかしもう時間はない。

娘は相変わらず大声で泣き叫び、母親は地上にいる御留我を不安そうな目で見下ろしていた。

御留我はここに来て気が動転し始めた。頭の中の整理がつかない。思考が停止する。頭上の母娘を見つめたまま身体が動こうとしない。視界が狭くなっていく。妙な汗が湧き出てくる。呼吸が荒くなる。

その時だった。

「助けてください!!この子だけでも、お願いします!!」

「御留我!!下で俺が受け止める!」

母親のひときわ強い声と、背中からの縢の声が同時に響き渡った。

「だから一瞬でいい、俺が入り込める隙を作れ!!」

刹那、御留我の心臓が大きく脈打った。今まさに覆いかぶさろうとしている炎は、さながら斧を振り下ろさんとする巨大な死神のように見えた。炎の中の母娘に別の人物の姿が重なった。長い金髪の女性と小さな女の子。どこか見覚えのあるその背中は、勇ましかった。

ガッ。

気がつくと御留我は、硬い地面を力一杯蹴り出していた。凄まじい熱気の中、塀をひとっ跳びで跨ぎ、コンクリートの壁面に飛び移った。ベランダの縁に手をかけ両膝のバネを最大限に伸縮させ、地を駆ける獣のごとく垂直の壁を登っていった。

思考は驚くほどはっきりしていた。しかし御留我は敢えて何も考えないようにした。

自分でもどうやってこんな動きをしているのかわからない。ただ頭で考えるよりも先に、身体が目にも止まらぬ速さで動く。骨がひしめき、筋肉が張り裂けそうになる。

一瞬たりとも止まってはいけない。

そう強く感じていた。止まってしまえば、そこからもう二度と動けないような気がしてならなかった。

御留我は数秒のうちに3階にたどり着き、炎の中を進んだ。

「あ、あの、この子だけでも、お願いします!」

御留我の姿をみとめた母親は声を震わせながら、泣きじゃくる娘を差し出そうとした。母娘の周囲は完全に火が回り、残された人一人分ほどの空間にかろうじて立っていた。可燃性ガスが絶えず燃焼する中で、スプリンクラーはもはや役目を果たせていなかった。

御留我は聞く耳を一切立てずに、そして立ち止まる間もなく二人を抱えてベランダの端まで移動した。

人間二人分は想像以上にずっしりと重い。

母娘を抱えた両腕をきつく締めた。ベランダに背を向け両脚にぐっと力を込める。

「重心はちょっとやりすぎなくらい左に…。」

御留我は下に広がる火の海を横目に、そう口ずさんだ。

「ぐおおっ!!」

全身の力を両脚から解き放ち、御留我は母娘を抱え空中に身を投げた。灼熱の煙の中、空が急激に遠ざかっていく。気が飛んでしまいそうなのを歯を食いしばり必死にこらえながら、御留我は背中が着地するタイミングを待った。

何があっても離しちゃならねぇ。

両腕をさらにきつく締めようとしたその時だった。

娘がもがいた拍子に、母の腕からするりと抜け出してしまった。

「!!」

御留我は凍りついた。この瞬間時間が止められたような感覚が走った。しかしどうしようもできない。本当に時間が止まっていればどれほど良かっただろうか。

そんな思いも虚しく、小さな女の子はまたたく間に御留我の視界から消えていった。

そのまま背中から地面に激突し耐えられないほどの衝撃と激痛が全身を走ったのと、すぐ横から鈍い落下音が聴こえてきたのはほぼ同時だった。しかしその直後、そこからは女の子のわめき声が響いてきた。

全身の骨が粉々になった感覚の中、御留我は恐る恐るそちらに目をやった。

「くっそ…背中、痛ってぇ…」

朦朧とする意識の中、御留我は驚くべき光景を目にした。空中で離れたはずの娘はわんわんと泣きわめきながら、仰向けになる縢の腕の中にいた。縢は痛みに顔を歪めて唸っていた。

落下する娘を、縢はとっさにあの火の海に飛び込んで受け止めたのだ。

母親が縢のところへ駆け寄り、泣きながら娘を受け取り、しっかりと抱きかかえたのが見えた。

状況を呑み込み、押し寄せる安堵感に溺れそうになりながら、御留我はふっと笑って呟いた。

「なんだよ…結構できんじゃねぇか…。」

消防ドローンのサイレンがすぐそばで鳴り響き、消防隊のせわしない声が聴こえてきた。

仰向けのまま見上げた夜空が明るくなり始めたのが見えた。御留我は明け方の風のなか希望の華を咲き誇らせ、そのまま意識を失った。

 

【挿絵表示】

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

*Chapter.8

 

年が明けたある冬晴れの日。とは言っても朝の天気予報のバーチャルビューで見ただけで、実際の空はまだ拝んでいない。

畳が敷き詰めたれたトレーニングホールの中、二人の男が一戦交えていた。

「オラッ!」

縢の回し上段蹴りが迫りくる。御留我はその高々と上がった蹴りを華麗に跳び超え、二回転半して着地した。直後着地する縢の足を、こちらは下半身全体を床に沿ってぐるりと振り回して払った。

「くっ!」

見事に転ばされたものの、縢は受け身をとりすぐさま体制を立て直して立ち上がった。しかしその時点ですでに遅かった。御留我はとうに間合いを詰め、ハンドスプリングを繰り出して勢いをつけたかと思うと、そのままの全身の動きで縢を押し倒した。

バタァンと大きな音が鳴り響く。

縢はまだ動こうとしていたが、それは不可能だった。御留我は仰向けに倒した状態の縢の上半身をがっちりと抑え込み、ついでに両肩に腕を絡めて微動だにさせない固め技を決めていたのだ。

そして身動きのできない縢の視界の端には、何にも触れず自由に動く御留我の左腕が映った。

「…完敗だよ、御留我。」

縢がため息混じりにそう言うと、御留我は彼を放し、手を差し伸べて引き起こした。

「ほらね、コウちゃん。御留我はこのとおりバケモンみたいになっちまった。」

「ああ、とても人間業とは思えない。」

二人のスパーリングを横で見ていた狡噛は驚きを隠せないといった様子でそう答えた。

「で、縢。俺を呼んだのはなぜだ?」

「コウちゃんもやってみなよ。コウちゃんなら勝てんじゃない?」

「やめておこう。まるで勝ち目がない。俺まで負け犬にされるのは御免だぜ。」

縢の誘いに、狡噛は両手を上げて首を横に振った。トレーニングウェアを身にまとう二人に対して狡噛はスーツ。端から動くつもりはなかったようだ。

年末の台東区連続放火事件。あの夜から御留我は何か枷が外れたかのように並外れた身体能力を開花させた。

あのあと犯人の細川は宜野座によって執行され、火災も数十分で消し止められた。人質となっていた親子に重い怪我はなく、現在はセラピーを受診中だそうだ。

あの母娘を助けたとき、御留我の身に一体何が起こったのかは全くわからない。だが恐らく御留我にはもともと高い身体能力と技術があり、それが消えた記憶の中に眠っていたのだ。言わずもがな身体の動きと脳は直結している。何らかの刺激で記憶の一部が戻るのはよくある話らしい。あのとき御留我の中に戦闘の感覚がプログラムとして戻ってきて、身体とあるべきリンクが正常に構築されたとしてもおかしくない。

しかしながら記憶が戻ってきたわけではなかった。昔のことは相変わらず思い出せないし、なぜ自分がこれほどの身体能力を備えていたのかもわからないままなのだ。

「あーあ。これで俺は晴れて刑事課最弱に逆戻りだぜ。」

「お前の特訓の成果じゃないのか?」

「言ったでしょ、コウちゃん。こいつははじめっから戦える奴だったんだよ。その感覚をこないだ思い出したんだってさ。俺の特訓なんざ元から要らなかったってわけ。」

縢りがやってられないといったふうにそう語ったため、御留我はとっさに口を開いた。

「いやそんな、お前が積み上げてくれたもんは全部無駄じゃなかった!重心が右寄りだったのだって…」

「はいはいもうごちゃごちゃ言わないの!これにて特訓生活は終了。お前さんは晴れて卒業。」

縢が素っ気なくそう言って遮ると、御留我は口をつぐんでしまった。

縢はこちらを振り返ることなくホールの出口へと歩き始めた。気だるそうに振る舞っているが、その背中からは悔しさと一抹の寂しさのようなものがにじみ出ていたように見えた。

ここまでやってもらったのに、俺は何も返せないままなんだな…。

御留我がやるせない気持ちでうなだれていると、縢が急にこちらへ戻ってきた。

「一つだけ言っとくけどな、そんぐらい見てりゃ分かんだよ!」

御留我はきょとんとした。

「左に重心乗っけんの、ちゃんと意識してたじゃんよ。お前のことずっと見てきた教官様の目を侮るなよ、バーカ。」

そう言うと縢はニンマリと歯を見せ、意地悪そうな笑顔を向けた。

 

 

 

「俺、別にあんたに意地悪するつもりはなかったんだけどさ、」

そう言った縢がバンとテーブルを叩いた音で、御留我は我に返った。食べかけのガーリックチャーハンはとうに冷めきってしまっていた。

「気が変わったわ。だから改めて聞いてやる。あんた、なんで監視官なんかになったんだ?」

縢は呆然とする常守監視官に向かってしたたかにそう聞いた。

御留我はそんな二人を遠目で見ながらこう思った。

彼は自分の過去の人生経験から、常守のこの職業への甘んじた考えを真っ向から否定したかったのだろう。それはもちろんこの社会への恨みと、彼女に対する妬みの現れでもあったはずだ。だがそれ以上に、縢は彼なりに常守を見定め警告をしている。もちろん彼自身にその自覚はないのだろう。しかし縢は、昨日と今日という短い時間で常守朱という人間をできる限り理解しようとし、そして今、不真面目な態度を見せながらも彼女と真正面から向き合い、真正面からぶつかろうとしている。

少なくとも御留我にはそう思えた。いやそうでなければあいつではないだろう。

あいつはやっぱり、“そういう奴”なんだ。

御留我は沈黙の中席を立ち、そして二人のテーブルまで歩いていった。

「邪魔するぜぇ。」

そう言って重苦しい二人の空気の中に割り込む。縢があからさまに迷惑だとでも言いたげな顔をした。

「まだ配属二日目だ。そんなにいじめなくてもいいんじゃねぇの?なあ、秀星。」

ニンマリと歯を見せ、意地悪そうな笑顔を見せてやった。

しばしの沈黙が流れた後、縢が口を開いた。

「おい御留我…。」

「?」

「下の名前で呼ぶんじゃねぇ!前髪引っこ抜くぞ!!」

そう叫んだかと思うと、御留我は長い前髪をむんずと掴まれ、思い切り引っ張られた。

「いででででででで!!死ぬ死ぬ死ぬ!またぶっ倒されてぇのか?!」

御留我は痛みに顔を歪めながら騒ぎ立てた。

「ああ?!元教官様に言ってくれるじゃんよ。今度は負けねぇかんなぁ!!」

縢も負けじと言い返す。

公安局ビル刑事課フロアのカフェテリア。周囲の職員の呆れた視線がちらほらと向く中、刑事が二人騒々しく口喧嘩を繰り広げる。

髪を引っ張られながらも相手を睨みつけて挑発的な態度を取る御留我。前髪をガッチリと掴んだまま相手を見下ろしてまくし立てる縢。

いがみ合っているはずの二人の表情には、だが紛れもなく、不思議と少年の無邪気さのようなものが浮かんでいた。

 

 

【挿絵表示】

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。