もしもかごめちゃんが完全に桔梗さまの生まれ変わりだったら (ろぼと)
しおりを挟む

二人の再会

 

 

 

 ────何故だ…

 

 

 人妖の世の境界、逢魔ヶ時。

 

 黄昏の斜陽に妖しく染まる草原に、ぽつりと浮かぶ鮮やかな紅白色が人目を引く。その白衣緋袴は乱世に喘ぐ無辜を救う救国の旅人、歩き巫女の身分を表す装束だ。しかし纏う女人の顔は蒼白で、瞳は救うべき民草と寸分違わぬ悲愴と絶望、そしてこの世の理不尽を呪う憎悪に淀んでいる。

 

 肩から胸へかけて白衣を己の血で染め、泥に塗れる草原の巫女はそれでも、美しかった。

 

 ふらふらと幽鬼のように歩む堕ちた傾城はただひたすら前を目指す。視線の先に佇むのは、国境いの寒村とは思えぬ見事な瓦葺きの御堂。その方形屋根より、小屋組を突き破り天を駆ける銀色の人影が飛び立った。

 御堂に納められていた欲望の宝珠、『四魂の玉』をその手に備え。

 

 ────何故だ…!

 

 突然の出来事を前に、巫女がその顔に浮かべたのは驚愕ではなく、悲憤。そんなモノのために、おまえは、私を。

 艶やかな睫を涙で濡らし、食い縛る激情が女の美貌を般若へと歪ませる。無事な左肩に担いだ破魔の弓は、主の心を映す必殺の一矢だ。

 ゆっくり、ゆっくりと巫女は弓の弦を引き絞る。十八年の生涯で何千何万と繰り返した動作は淀みない。だが番えた矢尻は宿る無数の感情にその鈍色を曇らせ、千鳥の如く震えていた。

 

 ────何故、私を裏切った…!

 

 銀色の人影は軽業師も仰天する身のこなしで村の外へと駆けてゆく。何度と目にし、何度と触れたその子供らしくも逞しい背中を見て、巫女は大きく心乱される。

 ああ、いっそ全てが悪い夢であったならばどれほど救われることか。だがその願いは届かない。巫女と少年、二人を繋げていたはずの心の糸は最早なく、肩の傷から流れ出る冷たい血潮が無言で現実を突き付ける。おまえはあいつに捨てられたのだ、と。

 それでも、この期に及んで尚、彼と自分の間に残された微かな糸屑さえも探してしまうのは何故だろう。いつでもあの憎き半妖の少年を射抜けるというのに、巫女は胸中で荒れ狂う万感の思いに呑まれ、引き絞った矢羽を手放せずにいた。

 

 そこで、女の時が止まる。

 村人に追い立てられ踵を返した銀色の少年の横顔に、彼らしい勝気な笑みに隠れた───悲痛を見た気がして。

 

 何故おまえがそんな顔をする。私を裏切った、他でもないおまえが。

 

 それは巫女が、憎しみに呑まれる般若が尚も捨てきれない、何よりも大切だった想いの残滓。「バカバカしい、見間違いだ」と一掃する憎悪の津波の中に垂らされた細い糸は、全てを失った女が最後に縋った救いであった。

 

 番えた矢尻はもう、震えていない。言霊の念珠に定めたかったその尊い言葉を、怨嗟の穢れに耐えたその僅かな美しい心を、女はたった一本の矢に込める。 

 彼に伝えたかった、その想いの名を。

 

 

 かくして女の矢は放たれ、少年は──

 

 

 

 

 

 

「────かごめ?」

 

 

 平成八年度の入学式が終わり、新学年最初の弓道部の部活動の心地よい疲労感が眠気を誘う、最終下校時刻の午後7時。

 電車のつり革に揺れていた帰宅途中の女子中学生、清水由香は目の前の席でうとうとしている校内一の有名人の名を呼んだ。

 

「ちょっとかごめ、大丈夫? なんか(うな)されてるわよ」

 

「わ、泣き顔初めて見た……って、感動してる場合じゃないわ! ハンカチ、ハンカチ」

 

 気付いた隣の友人、岡本あゆみと増田絵里の援護もあり、渦中の同級生───日暮かごめが目を覚ます。

 

 儚げな漆黒の瞳を、淵に浮かんだ涙のラメが彩る。入学した生徒は男女問わず誰もが一度は恋に落ちる、とまで謳われる彼女の人間離れした美貌に息を呑むこと少しして、未だ夢見心地な眠り姫より早く我に返った由香ら三人は慌てて友人の目元を拭ってあげた。

 

「こ、こは…」

 

「かごめ、しっかり。もう少しであんたの駅着くから」

 

 意外過ぎる友人の姿に戸惑いながら、甲斐甲斐しくその華奢な背中を摩る由香。心配が伝わったのか彼女の呆けた顔に、いつもの全国ジュニア五輪優勝者の微笑が戻る。

 

「…ああ、すまない。見苦しいものを見せたな」

 

 今日で十五歳になったばかりの少女とは思えない穏やかな声色で、硬く男勝りな口調の謝罪が紡がれた。白魚のように繊細な指でぶっきらぼうに目元を拭うそんな仕草もまた彼女らしく、かごめの調子が戻ったのを確認した三人はホッと胸を撫で下ろす。

 

「もー、びっくりしたんだから。学校だったら大騒ぎになってたところよ」

 

「でもお陰でママのお古のハンカチが、北条くんあたりに売れば万単位の値段が付くお宝にちょー進化したわ。洗濯せずに取っときましょ、うふふ」

 

「あっ、ズルい」

 

 ここぞとばかりに茶化す一同にかごめの端整な眉が山形を作る。困った顔も綺麗だなぁとそれに見惚れる由香は、ここ最近の彼女が立て続けに見せるらしくない振る舞いが気になるあまり、今度こそとその心中を追及した。

 

「…ねぇ、かごめ。あんたやっぱりヘンよ。近的(きんてき)もスランプ気味だし、なんか悩みあるなら私たちに相談しなさい。友達でしょ…?」

 

 由香はかごめへ向ける目に力を籠める。この神宮大会二連覇中の規格外な弓道部エース殿は容姿端麗文武両道才色兼備と文字通り完璧な女の子だが、完璧故に人を頼れない弱点があることを由香は知っていた。だからこそ、こうして就寝中のような無意識下でもなければ弱音を見せてくれず、このままでは誰にも気付かれないまま、学校はもちろん新聞テレビや女子弓道界など周囲からの高過ぎる要求にいつか潰れてしまうのではないか。そう不安でならないのだ。

 

 だが、苦笑する友人はやはり、今回も彼女を頼ってはくれなかった。

 

「…大事ない。最近少しばかり夢見が悪いだけさ」

 

「ッ! かごめ──」

 

「大丈夫」

 

 食い下がる由香は、そんなかごめの断言に思わず口を噤む。変わらない声色ながらその一言だけ、有無を言わせぬ迫力が籠っていた。

 

「…なに、心配するな。何かあれば遠慮なく私から寄りかからせて貰うよ。その時はちゃんと相談に乗ってくれるのだろう、由香?」

 

「──ッ」

 

 ドキリと胸が高鳴るほど大人びた、柔らかい微笑が美少女のかんばせに浮かぶ。苦手な冗談を自然に交え、こちらを落ち着かせるような諭し方。纏う雰囲気も合わさり、かごめの言葉には万人を絆す聖母の子守歌の如き慈愛が満ちていた。

 

 ずるい。由香は熱を持った頬を誤魔化すようにそっぽを向く。腹立たしいほどの子供扱いだと言うのに、彼女の配慮を嬉しいと感じてしまった時点でこちらの負け。また為すすべなく追及をはぐらかされた友人想いの少女は、今回も、渋々引き下がるしかなかった。

 

 そしてそのままもごもごと口籠る由香の鼓膜を、非情な停車アナウンスが震わせる。

 

「ああ、そろそろ駅か……絵里、あゆみ。おまえたちにも心配をかけたね、すまなかった。今夜は明日の部活紹介のために英気を養ってくれ」

 

 穏やかに「また明日」と友人の三人に言い残し、長身の少女の背中が電車の降車口より去っていく。変わらぬ毎日、時候の挨拶。だがトレードマークの白いリボンで結ばれた長い髪をゆらゆらと翻すかごめの後ろ姿に、由香は何故か言い知れぬ不安を抱いていた。

 

 閉じたドアの車窓から見える朧げな彼女が、まるで二度と届かない遠くへ行ってしまうような気がして。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 赤い夕焼けが紫紺に染まる中、かごめはぼんやりとした頭で通学路を歩む。脳裏に浮かぶのは先ほど電車で見た、いつもの忌々しい夢の記憶。この街に越してきてから、彼女は毎晩悪夢に侵され休まることがなかった。

 

 あの、今でも信じ難い驚天動地から早十五年。いつの世も変わらない宵闇の夜空を見つめていると、時折今の自分の生きる"時間"が分からなくなる。足下が心許ない学生服の感覚が無ければ、全てが狐に化かされた幻だと言われても信じてしまうだろう。それほど日暮かごめという少女はこの平成の時代において異端で、誰にも理解されない孤独な存在であった。

 

「ただいま──」

 

『お誕生日おめでとう、かごめっ!』

 

 そんな彼女が模範的な女子中学生として世間に紛れて暮らしていけるのは、偏に無条件な愛情をくれる心優しい日暮家の存在があるからこそ。

 暗い顔で帰宅したかごめを、今世の温かい家族が手放しで歓迎する。未だ慣れない厚意に少女は思わず目を瞬かせた。

 

「おじいさま、お母さま……草太まで…」

 

 驚くかごめが新鮮だからか、まるで自分のことのように盛り上がる一同。小柄な祖父とどこか浮世絵離れした母、素直でかわいい弟の皆がしみじみと彼女の半生の思い出を語り出した。

 

「うむうむ、かごめももう十五歳か。時が経つのは早いものじゃ」

 

「そうですねー。小さい頃と比べたら……比べてもあまり変わらないわね。昔から綺麗で賢くて、いつも通りの自慢の娘よ」

 

「ねーちゃん主役なのに遅いよー! ほら、お誕生日席こっちこっち。僕も料理作るの手伝ったんだよ」

 

 混乱から立ち直れないかごめはあれよあれよと居間のちゃぶ台に広がるご馳走を口に突っ込まれ、なすが儘に祝われる。常に遠慮してしまう彼女のために毎年行われる日暮家独特のお誕生日パーティーだ。

 かつての世では常に気丈に振る舞い、決して弱みを見せることの許されない日々を生きてきた。そんなかごめにとって、陽だまりのような新たな家族との触れ合いは気恥ずかしくて戸惑うことばかり。

 

 そして毎度の誕生日恒例行事。年長者らしく蘊蓄を語ることが趣味な祖父が徐に懐から一つの紙包みを取り出した。

 

「オホンっ! ではまずはわしからのプレゼントじゃな。かごめ、手を出しなさい」

 

「じいちゃん、またヘンなのあげたりしないでよ?」

 

「やかましい! たいへーん由緒ある一品じゃ!」

 

「それが不安なんだけど…」

 

 代々神社を管理してきた日暮家の子女は神秘の力、霊力に恵まれることがある。宮司を務める祖父もその一人。だがこの老人は時折、その道の「元本職」であるかごめとしては看過出来ない、危険な物品を紹介してくることが多かった。

 気配で無害を確認し、許可を頂いた誕生日少女は丁寧に包み紙を開封した。

 

「これは……鈴でしょうか」

 

「ただの鈴ではない。それは我が神社に伝わる伝説の宝珠じゃ! そもそもその玉の由来はな、1500年も前の古の巫女が──」

 

「あ、私と草太からはこれね。いい糸使ってるから大事にしなさい」

 

 祖父の長い御高説の予兆を察知したのか、母が無遠慮に割り込みかごめへ自分のプレゼントを差し出す。嫁入り娘に何かと頭の上がらない舅、という関係が生む老人との上下関係を理解しているようでそうでもない天然な母の手には、一本の美しいリボンがキラキラと輝いていた。

 

「赤い、髪紐…」

 

「ええ、草太と一緒に買いにいったのよ。あなた毎日いつもその丈長みたいなダサい髪留めで済ませてるじゃない? 女の子なんだからもっとおしゃれを楽しまないと人生損するわよー」

 

 ニッコリと笑顔でリボンを贈る母にかごめはたじろぐ。別に意識して華飾を控えているわけではない愛娘は、母の女性的な心遣いを紅い顔で受け取った。

 

「…ありがとうございます、お母さま、草太。大切に致します」

 

「他の家みたいに『ママ』でいいわよ、相変わらず仰々しい子ですこと。あ、気に入ったのなら付けて見せてくれる? あなたいつも巫女服か制服ばかり着てるんですもの、たまには女の子らしい姿の写真が撮りたいわー」

 

 髪紐の美しい光沢に見惚れていると母がそう興奮気味に要求してきた。幼い頃に着せ替え人形にされた苦い思い出があるかごめは思わず半歩ほど後退り、適当な言い訳で場を凌ぐことにした。

 

「いえ……今宵はまだ明日の部活動説明会に向けた鍛錬が残っております故、汗で汚れたら敵いませぬ。頂いた髪飾りは明朝にご覧に入れましょう」

 

「あらそう? 残念ねー。じゃあまた明日お願いね、かごめ」

 

「はい、必ずや。おじいさまも素敵な鈴をありがとうございます」

 

 髪紐姿をネタに寝るまでおもちゃにされる夜よりも、登校時間に急かされる朝のほうが幾らかマシだ。そんな思いもあったかごめは素直に頷き、嬉しくも気恥ずかしいお誕生日パーティーからそそくさと逃げ出した。

 

 折角祝ってくれたと言うのにあまり嬉しそうな態度を見せられなかった、と少女は席を立ってから後悔する。もっとも肝心の祝い手たちは、そんな長女の精一杯の努力の象徴である不器用なはにかみ笑顔を何よりも好ましく思う奇妙な人々だった。

 

 

「──はぁ、どこに嫁に出しても恥ずかしくないくらい良い娘だわ……誰に似たのかしらね」

 

「まあかーちゃんじゃあないよね」

 

「なーんですって?」

 

 かごめが席を立ってからも居間に残る日暮家三人衆による長女語りは終わらない。これ幸いと、本人の居ぬ間に勝手気ままな自慢話は続いていた。

 

 そしてこういった場で決まって上がるのが、宮司の祖父が主張する日暮一族の興味深い言い伝えだ。

 

「…よく聞きなさい、二人とも。かごめはおそらく……我が神社に代々伝わる"四魂の巫女"の先祖返りなのじゃ…!」

 

「はいはい、昨日もそのお話しましたよーおじいちゃん」

 

 最早何度聞かされたかもわからない、老宮司の一族伝説。かごめには内緒で三人の内輪でのみ語られるため、直接本人に尋ねない祖父のことを「ヘタレ」と失笑しつつも、何だかんだで話半分程度には聞いていた母と草太。それほど日暮家の面々にとってかごめという長女は、家族内で最も存在感がある人物だった。

 

 乳児の頃から人語を解し、気配り上手で、何でも出来た神童。特に神事や弓術においてはまるで生まれる前から天より与えられていたかのように完璧に熟し、弓道部の全国大会では連盟の範士に「武射の極み」とまで言わしめた超実戦的な射法で圧倒的優勝を勝ち取ったほど。

 しかしそんな長女の華々しい活躍を誇りに思う一方、家族にとってはどこか、形容し難い距離感を感じさせる不思議な少女でもあった。完璧すぎて一度も大人に甘えたことがない、言うならば子供の姿をした大人のよう。温厚で人当たりも良く、だが心の深いところで他者を越えさせない一線を引いている。祖父、母親、弟として長い年月を接して尚、未だその壁を崩すには至っていない。

 

 そして。

 

「…でもさ。ねーちゃん、ここに引っ越してきてからヘンだよね。なんかいっつも夜に御神木の前でボーっとしてるし、それによく朝に泣いたあとみたいに目を赤くしてたり……もしかしたらホントに誰かあの木のことを知ってる別の人の記憶があるのかな」

 

 最近になって表れた姉の不可解な行動の数々。

 故に幼い弟、草太少年が祖父の語る伝説を真に受けてしまうのも致し方なかった。

 

「これ草太、『ボーっとしてる』とは何じゃ、罰当たりな! …機会があれば一度よく見ておきなさい。あれは古より転生した巫女として御神木に祈りを捧げておるのじゃよ」

 

「えー、ホントかなぁ。だってねーちゃんもうずっと顔色悪いよ? もしかしたら前世であの木に何かイヤな思い出があって、それを思い出しちゃったとか…」

 

「うーむ…あの御神木には"時代樹"という別名も残っておるが、その由来は決して悪しきものではないぞ?」

 

「じゃあねーちゃんのほうが悪いコトしたの? た、確かにたまに凄い怖い顔で木を睨んでるときもあったし……ねーちゃん、その内あの太い幹を矢の的当てに使って御神木をいじめ始めるかも」

 

「そ、それは困る! 何とか荒ぶる巫女の魂を鎮める由緒ある品を用意しなくてはならんわい…!」

 

 家族である祖父と草太は、心優しい少女ながら稀に物騒な行動を取るかごめの油断ならない側面を良く知っている。一度妙な方向へ舵が逸れた思考はどんどん転がり落ち、気付けば二人の中でかごめの前世は恐ろしい鬼武者のような存在になっていた。

 

 そんな祖父と草太の想像を丸ごと吹き飛ばす意見が、呆れて聞いていた隣の女性陣代表から述べられる。

 

「はぁ、これだから男は。…あのですね、古今東西、年頃の女の子が何か奇妙なことをし出したら───それは恋わずらいって相場が決まってるんですよ」

 

『…………は?』

 

 自信満々な母の高説。キョトンとお互い呆けたまま見つめ合った男性陣は、続けて「はぁ!?」と同時に我に返った。

 

「『恋わずらい』って……あの"告白百人斬り"の伝説を持つねーちゃんが!? そんなまさかぁ」

 

「草太の言う通りじゃ。そこらの小娘と一緒にしては、かごめに無礼であろう!」

 

「無礼はあなたたちでしょ。ウチの長女を何だと思ってるんですかっ」

 

 年頃の娘をまるで隠者か何かと勘違いしている男衆を母親が叱る。ようやく訪れた長女の春を祝福するどころか笑い飛ばすなど万死に等しい。

 

 ああいう一見全てを達観しているように見えるおマセさんほど、情熱的な恋に巡り合えたりするものだ。たとえ家族との間にさえ壁を作ってしまう孤独な子でも、自分で見つけた運命の相手になら心を開けるかもしれない。そんな幸せが娘にありますようにと祈ることが、母のせめてもの責任というものだろう。

 

「まあ先祖返りでも何でも構いませんけど、私が生んだのだから私の娘に変わりはないわ。願わくば初恋を経験して、もう少しくらい年相応の可愛い姿を見せて欲しいものねー」

 

「…なんでねーちゃんのアレが恋だってわかるのさ」

 

「うふふっ。母親だからよ、草太」

 

 ふわりと微笑む彼女の笑顔には、不思議と相手を頷かせる魔法のような自信が満ち溢れていた。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

「────…」

 

 薄い桜色の唇が、何かを紡ぐように短く震える。

 それは誰かの、遠い、遠い場所に居る者の名。漏れ落ちた小さな呟きは、自身の耳にすら届くことなく、桜花舞い散る春風に儚く溶けていく。

 

「……どうだろう。初めての母と呼べる人に頂いた髪紐なのだが…似合っているだろうか…」

 

 視線の先にそびえ立つ、一本の巨木。結ったばかりの長い髪を拙い仕草で弄ぶ少女は、無人の大樹へぽつりとそう尋ねる。

 

 十五の年を迎えたかごめは、その日の夜も一人神社の御神木の前に佇んでいた。

 

 室町時代以前から記録が残る、日暮家が代々守り継いできた霊樹の下に、少女は毎日のように足を運んでいる。

 家庭の事情により、かごめは祖父が守るここ日暮神社へ家族と共に移り住んだ。そこで目にした大木の姿に、彼女の心は酷く掻き乱された。

 

 一目で悟ったのだ。この木が何であるかを。ここがどこであるのかを。

 

 脳裏に浮かぶのは、彼女のみが知る、時代に忘れ去られた記憶の泡沫。宿命に従い、尊人の魂を封じた宝珠を守る巫女として妹と共に歩んだ終わりなき旅のこと。妖怪に力を、人に願いを叶えると伝わる玉を狙う、人妖との戦いの日々のこと。

 

 そして。

 

 

「フ……我ながら何と女々しいことか…」

 

 夜闇の中、月明かりに淡く輝く美しい相貌が自嘲に陰る。

 既に封印が解かれていることなど、最初にこの身体で目にしたときからわかっていたと言うのに。どうして自分はいつまでも、あの幹に囚われているはずの人影を探してしまうのだろう。

 

 この樹のせいで、少女は永遠に過去の想いを捨て去ることが叶わない。かつての記憶が心を蝕み、"日暮かごめ"としての一生を送らせてくれない。

 自分はもう、巫女ではないのだ。なのに何故、こうして二度目の命を与えられたのか。未練も果たせぬ現代の世に生まれ変わったのか。その問いに答える者は未だ彼女の前に現れない。

 

 切れ長の黒曜石が切なげに揺れる。食い縛る歯の隙間から零れた声は、あの強く気高かった巫女のものとは思えぬ、一人の女の悲鳴であった。

 

「何故……何故あのときおまえは、私を…っ」

 

 押さえた胸の奥に秘められる、彼に付けられた裏切りの爪痕。未だ痛む見えない古傷は決して癒えず、魂に深く刻み込まれている。苦しむ心を支配するのは、ぐつぐつと煮え滾る、醜い憎悪だ。

 

 しかし。肩を震わせる彼女の小さな後ろ姿は、憎しみに捉われた修羅のものではない。握り締める学生服の皺だらけの胸元が、沈痛に歪んだ美貌が、その言葉に知らぬ間に籠っていた相反する想いの大きさを無言で語る。

 

 平和な時代に身も魂も清められ、新たな生、新たな体を得た今でも、少女の心は未だ切り裂かれたままだ。

 

 

「…全く、私も焼きが回ったな…」

 

 憎悪ばかりが胸中に溢れていた転生当初。だが今はただ、未来の世に独り生きる寂しさからか、思慕の思いが募るばかり。

 

 昔のように心を交わせずとも良い、封印のことで憎まれても良い。それでもただ、一目でいいから、おまえを…

 

 そんな叶わぬ願いを願い続ける日課も、春の夜風に急かされ終わりを迎える。これは毎晩の夢で乱れる気持ちを整える大事な儀式だ。最早何度繰り返したかもわからない、不毛な祈りを終えたかごめは冷えた体を抱き、溜息を残して社務所の自室へと戻る。

 

 

 その途中。

 

 少女はふと、境内の端にひっそりと佇む古い祠の前で立ち止まった。眠るように閉じられた、朽ちた隠し井戸を風雨から守るための、何の変哲もない木造の御堂だ。

 

 

 だが、そこでかごめは息を呑む。

 

「───バカな、これは。昨日までこんな気配はどこにも…!」

 

 祠から漂ってきたのは、この身体になって初めて感じる、忘れもしないあの虫唾が走るような不快な気配だった。

 巫女であった自分が明け暮れた殺戮の日々の記憶。怪異が駆逐された平成の日ノ本にあってはならない異形の獣。

 

 血と瘴気、人の膿が育む魑魅魍魎。妖怪の臭いだ。

 

 

 ザァッ、と頭の中で何かが翻る感覚にかごめは硬化する。だがそれも一瞬。乱れる"女"の心が凪のように静まり、妖気に当てられた彼女の"巫女"が目を覚ます。瞳は鋼の如く鋭利に輝き、即座に踵を返したかごめは転がるように神社の正殿へ飛び込んだ。

 五百年の時を経て尚錆一つない退魔の技は、巫女のさだめを忘れさせない天の意思だろうか。正殿の壁から神具の破魔の矢を弓ごと引っ手繰ると、古びた武器は己の身体の一部も等しく手に馴染む。風のように祠へ舞い戻ったかごめは矢を構え、枯れ井戸に潜む邪気の源へ殺意を向けた。

 

「…この時代にまだおまえのような者が残っていたとはな。姿を現せ、物の怪っ!」

 

 蓋の隙間から見える井戸の底はどこまでも深く、暗い闇が渦巻いている。だが深淵に狙いを定めるかごめの矢尻は微動だにしない。巫女が妖怪に恐怖を抱くことは許されないのだから。

 

 焦れるような沈黙が流れ、かごめは痺れを切らし井戸端の竪穴へと段差を降りる。

 その瞬間。突然枯れ井戸の木蓋が、内より生じた怪奇の暴風に吹き飛ばされた。

 

 

『────オオォォォ……』

 

 

 その呻きは、奈落の底から這い上がってきた。

 低く恐ろしい女の声が、荒れ狂う轟音に紛れ木霊する。炸裂する木屑から咄嗟に腕で目を守った巫女は、即座に後ろへ飛び退き距離を取った。

 

 だが直後。続いて響いた声に、かごめは視界が白むほどの衝撃を受ける。

 

『感じるゥゥ……感じるぞォォ……────"四魂の玉"の妖力をォォォ…ッ!』

 

「…な、に!?」 

 

 驚愕。

 常に冷静沈着、確固たる自我を保ち、如何なる事態にも澄ました顔で対処する冷徹無慈悲な巫女の仮面が硝子のように砕け散った。眼球が飛び出る勢いで瞠目し、かごめの身体は息一つ出来ないほど固く凍りつく。

 

 それは妖怪退治の戦場における致命的な数瞬であった。敵前で固まるかごめは赤子の如く無防備で、果て無き時を超え現代へと辿り着いた物の怪の執念は、その隙を逃すほど甘くはない。

 

 突然腹部を襲った凄まじい圧迫感がかごめの意識を叩き起こす。はたと我に返った彼女は、自分の腰に巻き付く巨大な蜈蚣(むかで)の蛇腹を目にした。

 

『おまえだなァァ……四魂の玉を持っているのはァァッ!!』

 

「な! しまっ───ッあぁっ!」

 

 無数の鋭利な爪脚が学生服を斬り裂き、シミ一つない白絹の肌から鮮血が迸る。久しく受けたことのない激痛に百戦錬磨の巫女も悲鳴を堪えきれない。

 

 苦しみに歪む麗容。淡く浮かび上がる白い肢体を這い回る蟲の群。成すすべなく蹂躙される美しき乙女は淫艶で倒錯的な姿を晒し、祠の中で血と妖気に染まりゆく。

 だが敵の意のままに穢される巫女は、化物がうわ言のように繰り返す因縁深きその名に囚われ反撃の一手を打てずにいた。

 

 そして蜈蚣妖怪の鎌の如き脚の一本が一際深く脇腹を抉った直後、かごめは自分の体から桃色に輝くナニカが零れ落ちる瞬間を目にする。

 

 

 それはまさに、本能と呼ぶべき一瞬の判断。

 

 気付けば巫女は己の根源に根差した宿命に従い、咄嗟に自由な右手でその光の玉を掴んでいた。

 

『おおォォ……オオおオォォォッ! それぞまさしく四魂の玉…! 行方を晦まし早五十年、ようやく見つけたぞォォ…!』

 

「ま、さか…」

 

 歓喜に震える妖怪の声も、体を苛む傷の痛みも、かごめには届かない。

 手にした妖しく輝く光の玉。巫女は目の前の宝珠に意識の全てを奪われ、ただひたすら己の瞳が、指先が訴える絶望の反芻と拒絶を繰り返す。

 

 嘘だ、ありえない。

 

「そんな……玉は四魂の巫女であった私があのとき、僅かな余命と共にあの世へ持って行ったはず。何故滅ぼしたはずのものが私の体の中に…!」

 

『さァさァ小娘、この百足上臈(むかでじょうろう)へ玉を寄越せェェッ!!』

 

「あっ──」

 

 百足妖怪が長い肢体を駆使し、信じ難い現実に戦慄くかごめを井戸の底へと引き摺り込む。

 

 だがたとえ如何ほどの動揺であっても、四魂の巫女がその宿命を忘れることは許されない。車窓の景色のように過ぎ去る井戸口を見向きもせず、落ちるかごめは慌てず珠を握る右手を妖怪へ翳した。

 

『おお、そうだァ。素直に渡し──』

 

「死ね、物の怪…ッ!」

 

 そして、巫女は生まれ変わって尚健在な退魔の霊力を解き放つ。

 その瞬間。

 

 

『───ッギャアアアァァァッ!?』

 

 

 醜い異形の絶叫を掻き消すほどの、強く清浄な光が狭い枯れ井戸を埋め尽くした。古の聖女の魂を封じたその宝珠は善なる主の願いに従い、百足上臈の体を散り散りに消し飛ばす。

 

 一瞬ふわりと宙に浮き、かごめは重力に逆らうように井戸の底で解放される。

 その体は傷だらけだった。久々の、新たな人生で初めての激戦を終えた安堵から緊張の緒が緩み、巫女はぺたんと妖怪の骸が散らばる排土に座り込む。最早、掌の宝珠を握る力もない。

 

「ハァッ……ハァ……ッ、随分と鈍ったものだ…」

 

 喘息のような荒い息は平穏に甘んじた少女の肉体の弱さの表れか、はたまた遠くの昔にかけられた呪いが今も尚己の霊力を蝕んでいるからか。あまりに拙い戦いに巫女は歯噛みする。

 

 ふと視線を動かすと、先ほどの認め難い現実が未だ足下に転がっていた。かごめは重い体に鞭を打ち、手に収めねばと腰を浮かす。

 

 四魂の玉。

 

 荒魂、和魂、奇魂、幸魂。古事に伝わる一霊四魂。千年前の偉大な巫女が幾億もの妖怪を己の四魂に封じ生まれた宝玉である。

 善悪を知らぬ永遠の無垢であり、ただ持ち主の心に沿う千変万化。玉はありとあらゆる願いを叶え、願いと共に穢れ、また清められると伝えられてきた。それはまさしく、人妖全てを惹き付ける欲望の坩堝だ。

 

 

「──何故だ」

 

 だが、かごめは誰もが望むはずの四魂の玉を掴んだ手を、力なく横たえる。

 

「何故、おまえはまた私の前に現れる…」

 

 ぽつり、と呟かれたその言葉は、一撃で強大な妖怪を屠った先ほどの誇り高い巫女とは思えぬ、迷子の子供のような声だった。淡く輝く宝珠に照らされる少女の瞳は漆の如く、深く淀んでいる。

 

 四魂の玉はかごめの問いに答えない。だがその本質を知る聡明な彼女は、玉が語る音無き言葉に気が付いた。

 

「…おまえが、私を生まれ変わらせたのか? 私が…ただの女として生きたいと、願ったから…」

 

 少女の濁った眼が見開かれる。思えばあまりに簡単な答えで、寧ろそれ以外の可能性が無いと断言出来るほど、かごめの追及は正鵠を射ていた。

 

 真相に至った少女の顔が歪む。浮かぶ感情は、無数の想いが渦巻く───怒り。

 

「…そんなことは望んでいない…! 私は、そんな大それたことなど望んでいないっ!」

 

 ようやく行き場を見つけた積年の鬱憤は嘔吐くような悲憤の叫びとなって、彼女の魂より溢れ出る。

 

「私の願いはもっと、もっと小さかった! 五百年もの時を超えることでも、平和な世に生まれ変わることでもなかった! 私はただ、ただ…っ!」

 

 一度口にしてしまえば、最早止めることなど出来なかった。飽和した暴れ川は、必死に堪えようとする巫女の強固な理性をいとも容易く突き崩す。

 

「私はただ…こんな私と共にありたいと願ってくれた、バカな半妖を、人間に…」

 

 

 そして。

 

 続いた蚊の鳴くような嗚咽は、生涯に一度で最後の、心の最も深くに封じられた、女の本当の願いであった。

 

 

「────あいつと、一緒に生きたいと…」

 

 

 それは、最早決して届くことのない、遥か昔に滅びた想い。

 全て終わったことだと、叶わぬ願いだと自身に言い聞かせ、二度目の人生を送る女は心の堤を築いてきた。

 

 だが呪われた宝珠は逸話を持つ。四魂の玉は、人の真の願いだけは叶えない。

 

 なんと遣る瀬無いことだろう。なんと理不尽で、口惜しいことだろう。

 死した女が時を超えて生まれ変わる神仏の如き奇跡を起こせて、何故四魂の玉は、彼の裏切りを──本当の妖怪になりたい思いを──女の情が上回る奇跡を起こせないのか。巫女と半妖。相反する二人が交わることは、それほどまでに許されぬ未来だったと言うのか。

 傷だらけの体を掻き抱く少女の頬に、虚ろな雫が伝わり落ちる。鼻孔を劈く刺痛も、噎ぶ吐息も、堪えることは叶わない。

 

 呪われた宝珠は逸話を持つ。四魂の玉は、人の真の願いだけは叶えない。

 

 濁流のような感情に呑まれる巫女は、生まれ変わった平和な世で、ようやく望んだ"女"を得た。

 望まぬ形で、焦がれた最愛の想いを失うことと引き換えに。

 

 

 だが。

 

 

 

 

 

 ────桔梗。

 

 

 

「…ッ!?」

 

 そのとき。不意にかごめの鼓膜を、魂を震わす声が耳に届いた。

 

 それは頭頂から四肢の先端、三魂七魄までもを焦がし尽くす、決して届かないはずの奇跡。何よりも望んだその声は、涙で濡れた想いの残火を再び燃え上がらせる。かつてないほど、強く。

 

 十五年。否、五百余年もの時を経て尚、女の魂はその声を忘れられなかった。

 憎く、憎く───愛しい者の、その声を。

 

「……ゃ…っ!」

 

 かごめは岩壁を這う(つる)をつかみ、井戸を登る。我武者羅に、縋るように、ただひたすらその声の下へ。

 

 幻聴だ、そうに決まってる。疲労困憊で心が弱ったのか、ついに気まで狂ってしまったようだ。落ち着いて、冷静にならなくてはいけない。

 

 ならなくては、いけないのに。

 

「……夜叉…っ!」

 

 垂れ下がる蔓が千切れれば岩壁を、壁が崩れれば釣瓶の縄を。爪は割れ、指は血に染まり、それでも女は天を目指す。たとえ幻であろうと、果てしなく長く遠い時空を越えて届いた、届けてくれた、四魂の巫女の自分を殺した少年の下へ。

 

 

「犬夜────」

 

 

 

 そこで、女は空に月光を見る。

 

 妖しく、されどどこか懐かしい、大きな大きな満月を。

 

 

「ここ、は…?」

 

 息も忘れ、かごめは登った井戸より見渡す光景に思わず目を疑った。

 久しく覚えのない澄み切った空気の中に広がる、辺り一面の雑木林。枯れ井戸の鎮座する日暮神社の祠の天井はどこにもなく、冷える夜風が、漂う湿った土の芳しい匂いが、戸惑う女に眼前の景色が現実であると訴える。

 

 ────とくん…

 

 そのとき、かごめの胸の奥で何かが跳ねた。

 思わず胸元を押さえる。それはその何かを逃がすまいとの咄嗟の行動だった。だが騒めく心は消えることなく、何かを少女に伝えようとする。

 

 音でも、匂いでも、霊気や妖気の神秘の類でもない。小さくて些細な、それでいて尊い何かが少女を突き動かす。

 足は自然に動いていた。一歩、また一歩と森の大地を踏み締める度、次の一歩は速くなる。

 

 知っている。少女はこの景色を知っている。

 林の木々を抜けた先の青々と輝く草原、秋には美しい紅色を野風に散らす一本楓、丘の麓に鎮座する大岩の洞窟。草木を掻き分け、渓流を踏み越え、気付いたら少女は全身全霊の力で疾走していた。

 

 肺が潰れようと、四肢が擦り切れようと、かごめの足は止まらない。

 

 引き返せ。惑わされるな。期待して裏切られて、これ以上傷付けば今度こそ心が壊れてしまう。そう守りに入れとしがみ付く理性の手を、女は死に物狂いで振り払う。

 

 自分はもう、ここで死んでもいい。たとえ慈悲なき結末だったとしても、最後くらい、一人の無力な"女"として、奇跡に縋り夢を見たい。

 

 全てを捨てた少女は、水面のように滲む視界に垂れ下がった救いの糸へ、必死に、必死に手を伸ばした。

 

 そして。 

 

 

 

 

「───────よぉ」

 

 

 目の前に巨大な樹がそびえ立つ。

 

 幹に絡み付く太い蔓を辿り、鮮やかな朱の衣に目を奪われ、その先に少女は、美しい銀色を見た。

 揺れる金色の双眸を細め──あのときと同じ──勝気な、されどどこか不自然に歪んだ悲しい笑みを浮かべる、一人の少年の銀色を。

 

 

 ああ、私は今、夢を見ている。

 何度も望み、そして叶わなかった、許されない奇跡の夢を。

 

 

「…まんまとてめえに(たぶら)かされた、バカな男を嗤いに来やがったのか? なぁ」

 

 

 彼は、そこにいた。

 何一つ変わらぬ、女の記憶の姿のままで…

 

 

 

 

「───────桔梗」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時を超える想い



 


 

 

 

 深く、深く潜った意識が浮き上がる。

 まるで幸せな夢を見ているような幸福感に包まれる少女は、遠くの人声に誘われるように、ゆっくりと瞳を開いた。

 

 久しく覚えのない穏やかな闇の微睡みから目覚めたかごめの視界に、巫女装束に身を包んだ隻眼の老婆の相貌が映り込んだ。

 

 

「────桔梗お姉さまっ!」

 

 

 嗄れた歓喜の悲鳴がかごめの意識を覚醒させる。同時に襲い掛かってきた体の痛みと疲労感に混乱し、事態がわからず慌てて周囲を見渡すと、自分はどこかで見覚えのある貧相な木造家屋の中で布団に横になっていた。外は曙の薄白に霞んでいる。家屋の住人は、安堵の表情を浮かべ手を握り締める老女だけのようだ。

 

「おお、桔梗さまがお目覚めになられた…!」

 

「よかった…! また言い伝えのように犬夜叉に襲われたのかと心配で心配で…」

 

「ああ、あのお美しいかんばせ。童であったワシの頭を撫でてくださった桔梗さまそのものじゃ…」

 

 ふいに外から幾つもの人声が聞こえ、かごめは土間のほうへ目を向ける。そこにはみすぼらしい和服姿の老若男女が亀のように首を伸ばしこちらを戸間口から窺っていた。

 十五年もの時を平成時代で過ごしてきたかごめにとっては初めての、されど彼女の深くに根付く記憶には覚えがある、古の光景。

 

 間違いない。ここはかつて"桔梗"の名で生きた己の前世の、五百年前の乱世の日ノ本だ。

 

「桔梗お姉さま、お体の具合はいかがですか? 傷は大方手当しましたがかなりの血が出ておりました。ただいま精の付く鍋物をお持ちします故、もうしばらくお休みになられたほうがよろしいでしょう」

 

「ここは…」

 

「村の私たち姉妹の家です。覚えては……まあ、無理もございませぬ。あれからもう五十年になりますからなぁ」

 

 残念そうに頬を膨らませる巫女装束の老女。その拗ねた笑みに強い既視感を覚えたかごめはしばしの間彼女の顔を凝視する。

 

「……かえ、で…?」

 

 ポツリ、と呟いた名が一つであったのは、まさしく本能に類する肉親の情故だろうか。かごめの声に息を呑む老婆の反応が何よりの証拠。固い表情が劇的に変化し、現れた彼女の素顔は、敬愛する姉に甘える無垢な童女のものだった。

 

「…ッ! ああっ、お姉さま、桔梗お姉さま…っ! 不詳、楓。あの日より五十年、おめおめと生き恥を晒して参りました…!」

 

「楓、楓なのか…? あんなに小さかった私の妹の、楓なのか…!?」

 

「はいっ、桔梗お姉さま! こうしてまたお会い出来る日が来ようとは、ううっ……よくぞ、よくぞ御無事でぇぇ…!」

 

 感無量で号泣する老婆の姿に戸惑いながらも、かごめは彼女の頭をそっと触れる。子供の艶やかさも温かさもない、当時とは真逆の白髪に覆われた薄い頭。だがそこには確かに、少女が幾度となく撫でた愛しい妹の面影があった。

 

 時代を超えた奇跡の出会い。逆転した年など細事と捨て、巫女の姉妹は涙を隠すことなく抱き合った。

 

 

 

「────そのようなことが…」

 

「…ああ。何とも振り回してくれる不愉快な石ころだよ、こいつは」

 

 妖しい桃色の光が屋内を淡く照らす。再会を喜び合った二人は素朴な鍋を囲みながら積もる話を存分に語り合い、この幸運をもたらしてくれた願いの宝珠の話に移っていた。

 

 四魂の玉。姉妹にとっては互いを引き裂いた因縁の象徴で、姉は全てを、妹は姉と人生を奪われた憎しみの対象でもある。老いた妹──楓は今後この災厄の復活にどう備えるべきかについて考えるも、残念なことに平凡な巫女の域を出ない自分の霊力では又もや大した役には立たないだろうと口惜しさに臍を噛んでいた。

 

 だが、楓はふと、玉の話を最後に押し黙った姉が気になった。板敷きの間で横になり、宝珠を手にしたままどこか遠い目で観衆の去った戸間口を見つめている若い娘。新たな生では数え十六歳と窺ったが、何かに思いを馳せる彼女の姿はより幼く見えた。目標としてきた記憶の中の姉よりも。今と同じ年頃の村娘たちよりも。

 

 無論、その「何か」など楓にはわかりきっている。かつての姉とそっくりの容姿を持つこの少女を見つけたのは“犬夜叉の森”と呼ばれる村外れの森林地帯。封印の大樹より少年の叫び声がすると物見の村人より報告を受けた老巫女は、そこで傷だらけの姿で倒れ伏す意識不明の彼女を見つけ、心臓が飛び出るほど驚愕した。隣で目覚めていたもう一人の人物と幾つか手荒い口論もあったが、何とか夜の内に事態を収拾し今に至る。

 

 そして、やはり。これまで意図的に避けていたあの半妖の話を持ち出した瞬間、自慢の姉は、ただの少女になった。

 

「…では犬夜叉の封印が解けかけているのもお姉さまの訪れによるものでしたか。あやつの小憎たらしい声なぞ五十年ぶりに聞きました」

 

「…ッ」

 

 目に見えて狼狽したかごめは数瞬ほど視線を彷徨わせ、一息の後に元の巫女の顔を作り直した。静かな声で「それは悪いことをしたな」と自嘲する彼女は儚げで、楓が姉の死に際に見たあの凄まじい憎悪の影は見当たらない。

 

「…お怒りはもう、鎮められたので?」

 

「フ……久々にあいつの間抜け面を見たせいか、どうやら昨夜に大分吹き飛んでしまったらしい。あの悪夢を見なかった夜などいつ以来か…」

 

「左様で…」

 

 そう自嘲するかごめの目は穏やかだった。だが聡い楓には至る所に姉の"巫女"の綻びが見て取れる。落ち着いている物腰は本心からくる姿だろう。しかしその中身は決して健全なものではない。陰る少女の懸珠が生前の彼女ものと重なり、妹は愛する姉の胸中に深く入り込む決意を固めた。

 

「では、犬夜叉の封印を解くのですか?」

 

「…ああ。愚かな巫女を騙した"おいた"の罰はもう十分だろう。なに、逃がすときは村を襲わぬようによく言い含めておく。おまえが心配する必要はないよ、楓」

 

 ニコ、と柔らかい笑顔を浮かべるかごめ。昔の記憶と変わらない頼れる優しい姉そっくりのそれが、やはり今の楓にはとても弱々しく見えた。

 幼い自分はこんなものに騙され、苦しむ彼女の背中にずっと負ぶさって生きていたのか。唇をかみしめる老巫女は、今度こそ過ちを犯さぬよう磨き上げた年長者の洞察力でかごめの秘めた痛みを見抜こうとする。

 

「…封印を解いた後は、どうなさるのです」

 

 その問いを投げた瞬間、目の前の少女の被る巫女の仮面がひび割れる音が聞こえた気がした。

 

「…解いた後、だと?」

 

「桔梗お姉さま、年寄りを見くびらないでくだされ。かつてはともかく今のお若いお姉さまのお気持ちなど手に取るようにわかりまする」

 

 かごめが小さく肩を竦めてたじろぐ。そんな姉のらしくない気弱な態度に心動くことなく、楓は正面から真摯に己の思いを打ち明けた。

 

「…未だあの半妖に心を寄せておられるお姉さまが、解き放ったあやつとこれからどう接していかれるのか。楓はただそれだけが心配でなりませぬ」

 

 

 沈黙が屋内を支配する。

 かごめは返答に窮し、ぼんやりと手元の宝珠へ視線を落とす。四魂の玉はまるで少女の更なる願いを欲しているかのように妖しく光っていた。その輝きに魅入りそうになるかごめは瞳を閉じて、己の心と向き合おうとする。

 

 あいつと、どう接していくのか、などと聞かれても。

 

「……わからない」

 

 少女はそう答えるしかなかった。

 

 元よりかごめは不可能を知った上で、せめて一目だけでも無事な姿を見たいと叶わぬ再会を想望する日々を送っていた。時を超えて生まれ変わる奇跡があるのなら、時を超えて二人が相まみえることもまた、あるいは奇跡とすら呼べない塵のような希望として縋ることも許されよう、と。

 しかし。かごめはそんな細やかな、されど決してあり得ないことを常の絶望の中で夢抱いていた少女だ。いざ夢が叶ったときに、これ幸いとその先の願いを望む傲慢さなど持ち合わせていなかった。

 

「お姉さま…」

 

「最初から成らぬ話だったのだ。今更あいつと一緒に生きたいなどと、言えるものか…」

 

 たとえどのような偶然が重なろうと、己の前世──桔梗が犬夜叉に絶死の傷を負わされ、彼を憎み、そして報復の封印で彼の五十年もの時を奪った事実は変わらない。

 

 考えれば考えるほど、あの少年との間に現状以上のことを求める不毛さに気付いてしまう。平和な世で暮らした十五年は憎悪に呑まれた女の魂を人の温もりで癒してくれた。だが相手の時間は、桔梗を捨て、四魂の玉を選んだときのままで止まっているのだ。封印されていた年月の分、むしろ敵意は増しているだろう。

 彼の心変わりなど、望むべくもない。

 

 ────また、逢えた。それで十分ではないか。

 

 かごめはまたこうして少年の顔を見られた、過ぎたる奇跡の幸せを何度も何度も噛み締め、泣き叫ぶ己の"女"を昨夜の甘露で慰め続けた。

 

 

「────はぁーっ、まこと年とは取りたくないものですなぁ」

 

 

 しばしの静寂の後、突然横から嗄れた呆れ声が聞こえて来た。

 かごめははたと振り向く。そこにいたのは、どこかこちらを小馬鹿にするような盛大な溜息と共に肩を落とす妹だった。幾度か目を瞬かせ、鼻で笑われたのだとようやく気付いた姉はむっと唇を尖らせる。

 

「……言うではないか、楓。それほど己の重ねた年に自信があるのなら、その功で私を正して見せろ」

 

「勘弁してくださいませ、お姉さまぁ。あれほど大きく見えていた偉大な姉の、昔の男と()りを戻せるか不安で右往左往している情けなーい姿など見とうございませんでしたよぉ、全く…」

 

「ッな…」

 

 楓の言葉がかごめの体を石化させる。

 この老婆は一体何を言っているのだろう。私は別に今更犬夜叉とまた情を通わせようなどと願っていないというのに、何故そんな物分かりの悪い面倒な童女を見るような目を向けてくるのか。勘違いも甚だしい。

 だが、そう内心憤慨するかごめの頬は燃えるように熱く、体の異常の原因がわからぬ彼女は咄嗟にそっぽを向く。委細はわからない。されど無性に恥ずかしく、かつてないほどの屈辱を与えられたことだけは理解出来た。

 

 混乱と羞恥で口を開閉する、初めて見る姉のあられもない姿。そんな尊敬する巫女の無様を見せられた楓もまた、落胆や失望以外の、訳がわからない感情に呑まれ身悶えしていた。

 

 ただ、目の前で紅潮する年頃の生娘のような姉が、如何なる美姫よりも愛らしいことだけは誰にも否定させたくなかった。

 

 

「…素直に生きなされ、桔梗お姉さま」

 

 

 だからだろうか。楓が無意識に呟いていたのは、どれほど幼い赤子にかけるものよりも深い慈しみに満ちた、安らかな声。

 

 名を呼ばれ振り向いたかごめの前に、前世の記憶に欠片もない、隻眼の聖母がいた。

 

「お姉さま亡き後、修行を重ね巫女として長く生きて、楓はお姉さまのお気持ちがよくわかりました。日々妖怪を退治し、白衣緋袴が彼奴らの血の臭いで染まる中、自分と同じ年の女子が紅を塗り、着物で着飾り、伴侶となる殿方と逢瀬を交わす幸せそうな姿を見るのは、苦行でした。…巫女とは、己の女を殺すこととはこれほどまでに辛いものなのか、と…」

 

 戸惑う姉にこれまでの過去を語る楓。沈痛なその姿からは当時の苦難が忍ばれ、少女は目を伏せる。頼るべき姉を亡くした彼女が一人取り残され、どのような日々を過ごす羽目になったか。同じ巫女として生きて来た桔梗の記憶を持つかごめにわからないはずがない。

 

「…すまない、楓。私のせいで、おまえには辛い思いをさせてばかりだ…」

 

「はぁ、この期に及んでまだ私の心配ですか。こちとらもう老い先短い婆ですぞ? 女の幸せなどと言われても最早欠片の興味すら湧きませぬ」

 

 だが当の本人は元姉の懺悔に呆れるばかりか、あっけらかんと笑い飛ばした。責めているのではないのか、と困惑するかごめを余所に、楓は胸に手を当て言葉を続ける。

 

「私は己の無力さを嘆き己でこの道を選びました故、村の女子を羨やむことこそすれど、己の生き様を後悔したことは今まで一度たりともございませぬ。…ですが────」

 

 そして。

 

「────ですが、桔梗お姉さまは、違う」

 

 その一言に、かごめの顔からあらゆる感情が消失した。

 

「お姉さまが巫女として生きて来られたのも、四魂の玉を浄化なされていたのも、全てが天の巡り合わせに過ぎませぬ。生きるために仕方なく、人々のために仕方なく、それがお姉さまの巫女としての生き様でした」

 

「……それは違う。私は全て、望んで四魂の巫女としての責務を果たしてきた」

 

「嘘をおっしゃいますな、今の私にはわかりまする。あの退治屋に四魂の玉を渡された日、お姉さまのお顔にはご自分の使命を果たせる喜びなどございませんでした。あの雨の日に見たお姉さまのお顔は、今のお姉さまのように……全てを諦めてしまわれた達観の如き能面だったではありませんか」

 

 楓の強い眼光がかごめの瞳を射抜く。

 見透かすような目が気に食わない。堅固な鎧の奥に守られた巫女の秘部が、曝け出されることを恐れて全ての表現機能を停止させる。

 

「お姉さま」

 

 だがかごめの冷たい視線に真正面からぶつかり、貫いたのは楓の柔らかい親愛の光であった。

 

「今の貴方さまには巫女としての使命も、足手まといの幼い妹もおりませぬ。お姉さまは、もう、何にも囚われずに生きることの許された────一人の"女"なのです」

 

 老女の切なげな、諭すような、訴えるような声がかごめの鼓膜を震わせる。それは少女の鎧を貫くに十分過ぎる、彼女の泣所とも言える一文字であった。辛うじて取り戻した巫女の顔があっという間に崩れそうになり、かごめは動揺を隠そうと視界が最初に捉えた手元の桃色を楓に見せ付ける。

 

「違う、私はまだ……私には新たな四魂の玉が────」

 

「四魂の玉なぞどこぞの犬の半妖のエサにでもなさればよいではありませぬか。あんなモノのために全てを失われたお姉さまが、どのように二度目のお命を生きようと誰も咎める者はおりませぬ。おるならこの楓が始末してご覧に入れましょう」

 

 年老いた妹は若い姉の言い分にゆっくりと首を振る。楓に薦められたのは独善的で、無責任で、巫女にあるまじき、自由な生き方。即座に否定しなくてはならないのに、かごめの用意した拒絶の言葉は喉に閊え、一つも口から出てくれなかった。

 

「ですので……楓にお教えくださいませ、お姉さま」

 

 そして、そんな揺れ動く少女を、長く生きた巫女の温かい瞳が見守っていた。

 

 

「貴方さまはこの戦国の世で、どのように生きることをお望みですか?」

 

 

 窓から差し込む朝日が、俯く少女を優しく照らしていた。まるで、彼女の進むべき道を示すように。

 

 妹の問掛に促され、喚起され、かごめの胸奥の封印が崩壊する。暁の陽光に照らされ、隠し続けてきた本当の願いが暴かれていく様を、少女はただ消える泡沫へ手を伸ばす思いで見つめ続ける。

 私はただ、一目でいいからあいつの無事な姿を見られれば、それでよかった。よかったはずなのに。

 

 

「────たい…」

 

 ポツリ、と零れた呟きは、言葉にならなかった願いの破片。

 

「────一緒に、生きたい…」

 

 重ねる破片に願いの輪郭が言霊を成す。形を得れば最早目を逸らすことは許されず、かごめはもう、自分の本音を認めることしか出来なかった。

 

 

 

「あいつと……いっしょに、生きたいんだ…」

 

 

 

 心の最奥に秘められていたのは、かごめの声なき“女”の嘆願。

 過去の悲劇を経て尚も滅びぬ悲愴の願いの、なんと惨めで未練なことだろう。憎み合い、殺し合った男と新たな未来を築く艱難辛苦に挑むその背中の、なんとか弱く頼りないことだろう。されど永遠にも等しい時を超え、遥か未来で二度目の命を生き続け、それでも陰らぬ恋慕の火は、姉の生涯を知る楓の目に、この世で最も尊いものに見えた。

 

 

「…はいっ。左様になさいませ────かごめさま」

 

 

 一人の巫女が、女になろうとしている。

 長きに亘る迷路の、ようやく正しい道筋を見つけたかごめの隣には、ただ姉の幸せだけを祈る妹の姿が。

 

 まるで自分のことのように幸せそうな笑顔で涙を流す、美しい老女がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 夜空の濃青を紅に染める太陽。朝焼けに色付く木々の中、かごめは神妙な面持ちで村外れの森の中を歩いていた。

 心中に渦巻くのは火傷するほどの高揚熱と、それを圧し潰さんばかりの、不安。原因は無論、この道の先に囚われている一人の半妖の少年だ。

 

 十五年ぶりの、五十年ぶりの、五百年ぶりの、再会。

 

 最初の第一声は未だ決まらない。どれほど思考を巡らせようと、言いたいことも知りたいことも、結局は一つに集約する。

 だが、それを知ってどうすると言うのか。最早欠片も価値を見出せない憎悪を彼に突き付けて、一体何の得があるというのか。既に終わったことを蒸し返すよりも先に、伝えなければいけないことが山ほどあるのだから。

 無論両者は殺し合うほど最悪の仲。自分にも矜持がある以上、前世に受けたあの非道を忘れるつもりはない。彼のほうも、四魂の玉への執着心を上回るほどの情をこちらに抱いてはいないはずだ。

 

 しかし、では何故あいつは。

 

 林を進むかごめの頭を支配するのは、楓から事前に伝えられた犬夜叉の話の中で最も不可解だったこと。

 聞けば犬夜叉は昨晩自分が不覚にも感極まり疲労と出血で倒れた際に、あの場の誰よりも動揺し「桔梗」の名を連呼していたと言う。だがそれは、前世であの贈り物の紅指しを踏み砕く彼の狂気的な素顔を見たかごめには到底信じ難いことであった。

 

「────ッ」

 

 懐かしい妖気を感じる。いつの間にか心臓が破裂しそうなほど高鳴っていた。木々の奥に親しんだ衣の朱色を捉えた少女は、勝手に動く両足に引き摺られてその人影の下へ駆け寄ってしまう。

 未だ覚悟も決まらず、考えもまとまっていない。こちらの身を案じるような彼の態度の真意はどこにあるのだろう。かごめは封印の大木が目前に迫っても、答えの出ない堂々巡りを繰り返す。

 

 だがもし、今の犬夜叉が自分を裏切る前の彼であれば。自分が想いを寄せた、好意を向けることも向けられることも苦手ないじらしい彼ならば。

 

 あるいは最初の挨拶代わりに、こう悪態吐いてくれるだろう。

 

 

「────チッ、なぁにが『一刻を争う傷』だ、楓のババア。桔梗のやつピンピンしてんじゃねーかっ」

 

 

 辿り着いた大樹の麓で見たのは昨夜の光景と変わらない、木の幹に囚われたままの、少年。

 それはかごめの良く知る、不器用で恥ずかしがり屋な彼らしい台詞だった。

 

 夢でも、幻でもない。

 つんと不機嫌そうな顔でこちらを見下ろす犬夜叉の姿は、少女がずっとずっと願い続けていた通りのもので、かごめは少年と言葉を交わせているこの奇跡に一瞬で身も心も溺れそうになる。

 

 愚かな考えは止めろ。己の受けた仕打ちを忘れたか。あの裏切りがやつの本性だ。目を覚ませ、騙されるな。ああ、でも、でも…

 

 彼女の胸中は無数の想いでぐちゃぐちゃで、ふと気を緩めた瞬間に泣きそうになってしまうほど。果たして自分は元からこれほど感情的な人間であったのか。もしくはこれが巫女としての生き方を捨てた代償なのか。かごめは乱れる心に振り回され、ただ茫然と少年の前で立ち尽くしていた。

 再会の挨拶一つ交わすことにすら、これほど臆してしまうとは。

 

 犬夜叉は口を噤んだまま尖り顔でこちらを睨んでいる。差し込む朝日の反射か、僅かに揺れているようにも見える彼の金色の瞳。そこに込められた思いを察することは、かごめにはもう出来ない。

 

 

「────五十年」

 

 

 無言で相対していた二人の沈黙は、少年の拗ねたような一声で霧散した。

 

「村のやつらに聞いた。あれから五十年も経ってやがるんだってな。あのちっこかった楓がババアになるほどの封印たぁ……ったく相変わらず容赦のねえ嫌な女だぜ」

 

 犬夜叉が口にした言葉は、覚悟していた通りの被弾だった。

 かごめは歯を食い縛る。たとえ心構えが出来ていたとしても、直接彼の声で紡がれれば如何なる聖人も穏やかではいられない。己の罪は認めよう。人間五十年、半妖の犬夜叉にとっても決して無価値な時間ではなかったことだろう。だがそもそもの発端はこの少年の裏切りだったはずだ。四魂の玉のために闇討ちまで企てておきながら、それを棚に上げてこちらを責めるなどあまりに一方的ではないか。憎悪の残滓が吹き上がり、かごめの喉元へ無数の激情が殺到する。

 

 しかし、それでも。

 

「……すまなかった」

 

「ッお、おう、何だぁ? …今更心変わりでもしやがったのか? 桔梗さんよぉ」

 

 少女の謝罪に犬夜叉は困惑を隠しきれない。

 

 かごめに昔のことを蒸し返す気は最早なかった。愛していたはずの女を殺すなど何か尋常ではない理由があったはず。幾度と交わした逢瀬の全てが演技であったのなら、尚のこと救えない。

 どうにもならない過去に拘り絶望するくらいなら、せめて僅かでも希望がある未来のほうへ目を向けたい。こうしてまた無事に出会えたのだから、昔のことより今のおまえを見ていたい。それがかごめの偽りなき望みだった。

 

 故に、少女は真っ先にその意思を少年に示したかった。

 

「……私は"桔梗"ではない」

 

「…!」

 

「私は、四魂の玉の復活と共に記憶と人格ごと未来に転生させられた……あの惨めな巫女の生まれ変わりの、"かごめ"だ」

 

 必ず伝えなくてはいけない、この身に起きた摩訶不思議。大きな覚悟を必要とした彼女の真実は少しだけ震えていた。

 こちらの緊張がうつったのか、犬夜叉が小さく唾を呑む音が耳に届く。鼻孔を鳴らしながら「確かに妙にキレーな匂いだ」などと恥ずかしいことを呟いているのは聞かなかったことにした。

 

 既に聡い楓から、考えうる限りの可能性と共に大方の状況を伝えられていたのだろう。かごめが述べた事実に過度な反応を示すことなく、犬夜叉は何かを言おうとして口を噤むことを繰り返すだけ。少なくとも話に耳を傾けてくれる程度の関心は持ってくれているようで、それが少女にとって何よりありがたかった。

 

 前世と今世。

 そうケジメを付けたかごめは意を決し、気丈に彼の下へ歩き出した。

 

「…な、なんだよ」

 

 距離を縮める意図が見えないのか、犬夜叉の警戒心が高まる。最初に出会った頃と同じ、手負いの野犬のように荒んだ彼の姿が酷く懐かしく、そして、哀しくもあった。

 

 やはり、互いを結ぶ糸など期待してはならないのだろうか。痛む心を無視し、少年に絡み付く蔓を上ったかごめは、遠慮がちに彼の胸に────体を預けた。

 

「少し、じっとしていろ…」

 

 話を聞いてくれる優しさが残っているのであれば、己が真っ先にやるべきことは決まっている。

 

「ッな、なな何してやがんだてめえっ!? 気安くおれに抱き着くなっ! おっ、おれはもう(たぶら)かされねぇぞ!」

 

「喧しい、こうでもせねば腕が届かぬ。すぐに済むから…」

 

 首を精一杯逸らし、身動き一つ取れない封印の中で必死に悶える犬夜叉。

 そこで、ふわりと甘美で懐かしい、草原の日向のような芳しい少年の匂いがかごめの鼻孔を擽った。このまま彼の胸に包まれて、秘めた想いの全てを吐き出せたらどれほど幸せか。そんな甘い誘惑を緩む涙腺と共に辛うじて耐え、かごめは彼の胸に刺さった矢を掴み、手に力を込めた。

 

 すると。

 

 

「封印が────」

 

 

 パキン、という硬質な何かが砕け散る音が二人きりの森に響き渡った。幾度か霊力の残滓が脈動し、犬夜叉の止まった時が動き出す。

 

 ふと、犬夜叉の視線を感じた。かごめは躊躇いつつも、潤む瞳でそれに応える。

 警戒と混乱の渦の中に、かつてのものと同じ思慕の熱を感じるのは都合のいい錯覚だろうか。本心を尋ねることなど天地が逆巻こうと不可能で、かごめは名残惜しさを何とか隠し、少年に預けていた体をそっと放した。

 

 見つめ合う二人の隣を一陣のそよ風が吹く。そして時の空白からはたと犬夜叉が先に我に返り、爪の一振りで蔓の拘束から抜け出した少年は一目散に距離を取った。

 

『……』

 

 散らばる蔦を挟み、お互いが無言で睨み合う。

 否、厳密には犬夜叉が一方的に睨んでくるだけで、かごめは瞳に敵意を宿しているつもりなどない。馴染み深い犬座りで切り株の上に油断なく陣取る犬夜叉は、()慳貪(けんどん)な近寄り難い空気を撒き散らしている。

 

 近くて遠く、届きそうで届かない、まるで互いを掠める平行線のよう。こうも不明瞭な心の距離を突き付けられたら、全ての希望が破滅の罠にしか見えなくなる。

 

 

「────寄越しな」

 

 

 だが歯痒い思いに苛まれる少女の心境を知ってか知らずか、犬夜叉が無遠慮に低く平坦な声を投げかけてきた。

 

 その要求の含意をかごめがわからぬはずはない。やはりか、と痛む胸に蓋をして、四魂の巫女であった女は恐る恐る少年の顔を窺った。

 

「…まだ四魂の玉が欲しいのか?」

 

「ったりめーだろ。てめえももう巫女じゃねーならおれに寄越せ、ありがたく使ってやらぁ」

 

 犬夜叉はさも当然のように言い放つ。鋭利な十指の爪を構える彼の姿からは、力尽くでも奪ってやらんとする強い意思が垣間見えた。

 どうか、違っていてくれ。そう祈る弱い自分を叱咤し、かごめはスカートに収めていた一つの宝玉を徐に取り出した。

 

 無数の妖怪の大軍勢にすら微塵も覚えなかった恐怖が湧水の如く吹き上がる。それでも、巫女の仮面を張り付けた女は半妖へ問い掛けるしかなかった。

 

「…妖怪に、なるためか?」

 

「けっ、今更人間になんてなってたまるかよ。本物の妖怪になって、今までおれをバカにしてきた連中全てに思い知らせてやるぜ───桔梗、てめえ含めてなぁっ」

 

 殺気立つ怒りの形相で、犬夜叉はそう声高々に宣言した。

 

 

 ああ────

 

 

「そう、か…」

 

 そんな消え入るような相槌が自分のものだったと気付くまで、かごめにはとても長い時間が必要だった。

 

 過分に過ぎると何度も己に言い聞かせておきながら、どうしても願わずにいられなかった切ない夢。縋った小さな希望がポロポロと手から零れ落ちていく感覚に耐え切れず、かごめは踵を返し少年に背を向ける。このまま彼の顔を見続けていられる心の強さが、少女には最早なかった。

 

「ッ、なんだ桔梗…っ。文句あっか!」

 

 幾度と胸を高鳴らせてくれた彼の声が、今は酷く空虚で冷たく聞こえてしまう。伏せた目に映る地面が墨のように滲み、世界から色が褪せる中、かごめに出来たのは、ただ無意識にふるふると肩を震わせることだけだった。

 

 堰き止めきれない悲痛の涙滴が頬を伝い、何かに落ちる。その先を茫然自失と見つめていたかごめは、ふと、微かに光るソレに目を奪われた。

 濡れた鏡面がキラキラと輝く、惨く醜い石ころに。

 

 

「……受け取れ」 

 

「なっ」

 

 言い放った自分に犬夜叉が瞠目するのを視界の端で感じ取る。振り向いたかごめは、下から無気力に、手元の宝珠を彼へ放り投げた。

 

 硬質な音を立てて足下に転がった四魂の玉へ、犬夜叉は手を伸ばそうとすらしなかった。

 

「…どうした、欲しいのだろう? 村を襲わぬと約束してくれるなら……こんなモノ、おまえの好きにすればいい」

 

「ッてめえ、何のつもりだ…」

 

「四魂の巫女ではなくなった私におまえの邪魔をする資格などない。昔のように無理に望みを押し付けても、“桔梗”のように夢破れ、果てるだけさ。あんな思いは……一度で十分だ…」

 

「資格、って桔梗───てっ、てめえはそれでいいのかよっ」

 

 そう叫ぶ犬夜叉の顔は苦く歪んでいた。望みが叶うはずの者に相応しからぬ、沈痛な声で何かを訴えようとする彼の姿からは、驚くほどこちらに対する悪意を感じない。あるのは不信と困惑、そしてそれを食い破らんばかりの、焦燥。前世の最期に見たどす黒い愉悦心や残虐性など影も形もなかった。

 その光景を見た、かごめの虚無に呑まれる魂が───僅かに震える。

 

 彼は断言した、人間になるなど御免だと。かごめ、否"桔梗"にとって、その言葉には言葉以上の特別な意味があった。

 

 「人間になる」という言葉は、過去に愛し合った二人の夢を示す記号である。ただの“女”になりたい、一人の“女”としておまえと共に生きたい。そう願った桔梗が犬夜叉に望んだことであり、犬夜叉は桔梗の望みを受け入れた。二人の物語はその言葉に始まり、その願いを叶えた先にある未来こそが、犬夜叉に懸想し霊力を失いつつあった桔梗にとっての全てだった。

 「人間になる」という言葉を否定することとは、互いの繋がりそのものを否定するに等しい行為なのだ。

 

 ならば自分は胸の内の全てを秘する他ないではないか。少女と少年は、ここで別れるのが(さだ)めなのだ。定めであるはずなのだ。

 

 だと言うのに。

 

「…そんなに私が気になるか?」

 

「バッ! べっ、別に気になんか…っ! てめえが簡単に死んだらてめえに封印されたおれが舐められちまうからムカつくってだけだ…!」

 

 昔から見てきた犬夜叉の傍若無人な振る舞いは、いつだって本心からのものではなかった。

 少女の虚ろな瞳の水面に風が吹く。淀む心の止水がゆらゆらと波打ち、溢れ出す感情の氾濫をかごめは止められない。

 

 まただ。また、おまえはそんな顔をして、私を惑わそうとする。昔も今も私に期待させ、おまえは最後の最後でその悉くを平然と裏切る。欲した宝珠を手に入れ、念願だった本当の妖怪になる道が開かれ尚も飽き足らず、終いには憎い女の心までへし折っていくつもりなのか。止めろ、見るな、そんな目で私を見るな。私はもう騙されない。夢など抱かない。だから。だから。

 

 無意味だとわかりきっているのに、自分と共に生きる未来を彼は選んではくれないのに。女はいつだって、彼の差し出すその手にどうしようもなく縋ってしまう。

 

「…なら」

 

 この期に及んでまだ未練を捨てきれない自分が惨めで、情けなくて。かごめは崩れゆく元巫女の鉄面皮を前髪の奥に隠し、必死に嗚咽を呑み込み────

 

「…なら、私の側にいろ」

 

 ────それでも尚抑えきれなかった感情を、遂に、自暴自棄に言葉にしてしまった。

 

 

「おまえが人間だろうと妖怪だろうと構わない。老いて生き恥晒す女子の私をおまえが殺し、死病に床伏す老婆の私をおまえが看取れ。私が死の縁に見る男の顔は、おまえのものだけだ」

 

 

 早朝の冷たい春風が互いの肌を撫でる。鳥の囀りも、裾野の村の活音もなく、まるで世界が二人だけのものになったかのよう。消え入るようなかごめの小さな小さな一言が大樹の麓に溶け込んだ後、向かい合う男女の間には草木の静かな騒めきだけが残っていた。

 

「き…桔梗……」

 

 震える少年の声が酷く遠く聞こえる。あらゆる「もしも」が行き着く歴史の屑籠へ捨て去られるはずだったその未来を、かごめは紡ぎ、欲してしまった。

 

 それは、砂上の楼閣だ。

 犬夜叉のために宿命の"巫女"を捨てた桔梗と、桔梗のために亡き父の血たる“妖怪”を捨てた犬夜叉。前世の一蓮托生な二人は故に永遠を誓い合えた。だが人間と妖怪とでは、生きる時間そのものが違うのだ。犬夜叉が一瞬でも好いてくれたこの姿は瞬く間に老い、死して屍へと朽ちていく。少年のまま変わらぬ彼へ、醜く皺だらけになる自分の姿を晒す恐怖に耐えられるのか。かつてのように裏切られ、見捨てられる絶望に耐えられるのか。果たして、かごめはその不安と向き合うことにすら耐えられなかった。

 

 もしこの気持ちが諦めきれるものであったなら、己の人生の山谷の一つであると割り切れるものであったなら。あるいは"日暮かごめ"としての生涯を、生まれた平成の世で送ることが出来ただろう。取り戻した霊力で、今一度巫女として戦国の世で生きることも出来ただろう。

 

 だが愛憎渦巻く桔梗の魂は犬夜叉の下に囚われ続け、かごめへ生まれ変わり憎悪が清められて、それでも女が彼への想いを捨て去ることは叶わなかった。五百年先の未来に生まれ変わり異なる人生を送りながらも、気付けば毎晩神社の御神木へ赴き、決してありえない再会を願い続ける有様。最早かごめに、犬夜叉のいない人生など何の価値も見出せない。

 

 たとえ砂上の楼閣だろうと構わない。どんな形であれ、犬夜叉が側にいてくれるなら、そこにかごめが生きる意味がある。そこにだけ、桔梗が生まれ変わった意味があるのだ。

 

 秘めてきた願いの全てを晒し、彼の秘めた胸奥へ向けて足を踏み出してしまった少女は、磔刑台へ登る心境で少年の下す沙汰を待ち続けた。

 

 

 

「────ったく、世話の焼ける女だぜ…っ」

 

 

 カサリ、と草を掻き分ける足音が聞こえ、かごめははたと顔を上げる。ぼやけた視界の中に、四魂の玉を手にした犬夜叉の仏頂面が浮かんでいた。

 

「…え?」

 

「こんな玻璃(はり)みてえに清められた四魂の玉に、おれを本物の妖怪に進化させる力なんかあるワケねえだろ。おれが妖怪として生まれ変わるためには、まずおれ自身の妖力で玉を完全に染め上げねえとダメだ」

 

「それは……そうだが…」

 

 念願の宝珠をつまらなさそうに掌で弄ぶ少年へ、かごめは呆けた生返事を返す。直情的な犬夜叉らしくない計画性に富んだ台詞の真意がわからず、少女の脳はそれを表面的な単語の羅列としか捉えられない。

 

「だから、その、だな…」

 

 故に、続いた犬夜叉の言葉をかごめが表裏全てで理解出来たのは、天が哀れな彼女に授けた救いの祝福であった。

 

 

「そ、そんなにおれの側に居てえなら、玉が染まるまで────こいつを狙う雑魚妖怪どもの露払いとしてこき使ってやってもいいぜっ!」

 

 

 そう尊大に言い放ち、犬夜叉は鼻息荒く首を背けた。

 そんな子供っぽい彼の姿を目にし、かごめはようやく、少年の口から紡がれた提言を反芻する。

 

 聞き違いではない。断章截句の思い違いでも、ましては夢幻でもない。

 奈辺いかなる神仏の悪戯か、四魂の玉のために桔梗を殺したはずの犬夜叉が────また、桔梗の魂を持つ女と一緒に生きることを認めようとしていた。

 許そうと、しているのだ。

 

「な、なんか言えよっ! おれについて来んのか来ねーのか?」

 

 かごめは自分の耳が、頭が信じられず、はしたなく口を開けたまま唖然と佇むばかり。目の前で挙動不審に声を荒らげる犬夜叉の瞳に嘘はなく、紅潮する頬を、それを伝う汗も、彼を彼たらしめるもの徹頭徹尾が羞恥と不安に狼狽する、ただの一人の男の子だった。

 

 おまえは、私を捨て、四魂の玉を選んだのではなかったのか。四魂の巫女の私が目障りで、故に殺したのではなかったのか。おまえが本物の妖怪になる道と、私がおまえと一緒に生きる道は、決して交わらないのではなかったのか。

 

 何がどうなっているのかわからない。彼が何を考えているのかわからない。

 

 わからないが──たとえこの犬夜叉が幻であっても、感じた想いが錯覚であっても──これほどの夢を見せて貰ったかごめは、もう、地位も名誉も霊力も弓術も、身も心も命も魂も、己の持つもの余さず全部を捧げてでも、彼を信じたいと思った。

 

 

「……いいのか?」

 

「てっ、てめえが言い出したことだろ! 看取れって、死ぬまで側に居ろって…!」

 

 どれほどの覚悟でも押し殺せない不安に急かされ、かごめは啜り声で少年を見上げた。気に食わないのも当然。犬夜叉は赤い顔でこちらの非を捲し立て、遂には背中を向けてしまう。されどその後ろ姿にこちらを隔てる壁はなく、彼は殊勝に言葉の続きを待っている。

 そこで少女は、ようやく、彼の心に触れられた気がした。

 

 犬夜叉だ。

 人見知りで、素直じゃなくて、だけど本当は人一倍優しい、私が恋した犬夜叉そのものだ。

 

 

「私は……おまえに身勝手な望みを押し付けようとした巫女の生まれ変わりだぞ…?」

 

「…ふん」

 

 築き上げた堤防が音を立てて決壊する。

 

「ッ、私は…! 桔梗の記憶も人格も持つ、名と体が違うだけの……おまえの言う同じ"嫌な女"なのだぞ…?」

 

「…屁でもねえ」

 

 かごめは咽ぶ声も構わず彼の背中へ何度も何度も問い掛ける。十五年に亘り秘め続け、ボロボロになった巫女の仮面で隠していた涙も、赤い目も、悲痛に歪んだ口元も、必死に封じてきた狂うほどの慕情も。もう、堪えることなど無理だった。

 

 

「ほんとう、に……いいのか…?」

 

 こんな、恥も外聞もない無様な顔で、声で、彼へ想いを告げたかったはずもないのに。それでも、嗚咽の濁流に押し流される途切れ途切れな言葉を、少年の大きな背中は身動ぎ一つせずに受け止めてくれる。

 

「…記憶だの人格だのが同じだろうと、てめえは桔梗じゃねえんだろ? 生まれ変わって四魂の玉も手放したてめえは、あいつがずっとなりたがってた……『ただの女』だ」

 

「────ッ」

 

 頬を一筋の涕涙が流れ落ちる。目を閉じようと止まらない歓喜の泉は、憎悪と絶望で枯れ果てた桔梗の心を静かに癒していく。

 

 彼は覚えていてくれた。かごめが、桔梗が、何よりも彼のために欲したソレを、ずっと忘れずに。

 

 少女は万感の思いで、胸の奥に芽吹いた尊い熱を抱きしめる。こんなものを望んだせいで、と恨み憎むことしかなかった己の“女”が、今は果てしなく愛おしい。それは彼が見つけ、彼に育まれ、彼に捧げたかった、犬夜叉と桔梗だけの宝玉だった。

 

 ああ、これで。これでやっと。

 

 

 

 ────やっと、ただの女になれた。

 

 

 

 

「……いいだろう、おまえの好きなように使われてやる」

 

 こんな卑怯な返ししか出来ない自分が嫌になる。しかし先ほど晒した痴態のまま彼の顔を見るなど不可能で、何とか表情を取り繕ったかごめは落ち着いた声で少年を諭した。

 

「だが一つの地に留まれば妖怪が玉を狙い際限なく襲ってくる。楓と村の危機とならぬよう、玉が染まるまで、その……共に旅をすることになるが…」

 

「…ッ! そっ────」

 

 慎ましく述べた提案に喜色満面の犬夜叉が飛び付いた。かに思われた直前に自制した少年は、誤魔化すように不遜な態度で荒ぶり出す。

 

「────ッか、勘違いすんな、仕方なくだっ! 行先は全部おれが決める! てめえの意見なんざ米粒一つだって聞いてやんねえからな、覚悟しろよっ!」

 

「…あっ、ま、待て」

 

 居丈高にこちらへ人差し指を突き付けた後、くるりと反転した犬夜叉は勝手に林の小道をずんずん進み出す。唐突のことに目を瞬かせていたかごめは、木々の間に消えて行く少年の行動の意図に遅れて気付き慌てて彼の後を追い駆けた。枝葉に引っかかるスカートが少女の足を煩わせる。だが不思議と二人の距離が開くことはなく、気付けば彼女の隣には犬夜叉が寄り添うように歩いていた。

 そっぽを向く彼の顔は窺えない。代わりにぴこぴこと動く二つの獣耳が少年の心境を語り、それがあまりに可愛らしくて、微笑ましくて、嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。そんな男女の後ろ姿は、肩を触れ合わせるには至らない、初々しい恋人のようであった。

 

 

「…ふふっ。いつぞやの国越えを思い出すな」

 

「けっ! あんときよりは腕も戻ってるだろーな? 用心棒っ」

 

「あ……すまない。流石に呪いで衰えた前世の私よりは遥かにマシだと思うが、弓は実戦に慣れるまでしばらく満足に使えないかも知れないな…」

 

 折角の二人旅だと言うのに、昔と変わらぬ足手まといな自分が不甲斐ない。霊力だけならこの体は戦国有数の強者であった全盛の頃の桔梗さえ超えるが、平和な世に甘んじた女子の肉体の弱さは目を覆わんばかり。

 だが恥じ入るように下を向くかごめは、そこでふと、あることに気付いた。

 

 そうだ。私はもう、ただの女なのだ。ならばこう言う"甘え"も、許してもらえるのだろうか。

 

 かごめは控えめに隣の相方を見上げ、慣れないことへの動揺を押し殺し、小さな小さな声で彼に問い掛けた。

 

 

「……頼っても、いいか?」

 

「────ッッ! ったく、しゃーねーなっ!」

 

 

 不機嫌そうな台詞と、真逆の気持ちを隠しきれない声色。そう言い残した犬夜叉は飛ぶように獣道を先導し、生い茂る邪魔な草木を刈っていく。そして開けた道の先でムスっとこちらを流し見る彼の下へ、かごめは感慨深い笑顔を浮かべて走り出した。

 

 ツンと痛む鼻奥は、この胸に宿る積年の希望が結実した証だろうか。それともただ、清算すべき過去に蓋をして、異なる時間を生きる破綻の未来から目を逸らし、盲目に彼を信じているだけの、惨めな片思いだと察しているからなのか。

 

 わからない、わからないけれど、これが自惚れではないのだとしたら。

 

 

 温かく安らかな朝日が二人の足下を照らす。ふわふわとした現実味のない体の感覚に戸惑いながら、かごめはどうか、この幸せな夢が一秒でも長く続いて欲しいと、切に願った。

 

 奇跡を担う四魂の玉ではなく、何よりも大切なこの願いを叶えてくれる、唯一、たった一人の少年の心へ向けて…

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

何気ない二人の旅路

 

 

 深い森を通る細道。その脇に面妖な姿をした二人の男女がいた。女は南蛮風の小袖の上に丈が短い織部色の腰巻を身に付けた淑やかな美貌の持ち主で、対する男は燃えるような朱色の水干(すいかん)に袖を通した長い銀髪の美男子だ。

 だが似合いな両者に漂う空気に甘さは無く、向かい合う二人の眼つきは険呑そのもの。落ち着いた物腰が常であるはずの少女は特に険しく、強い感情を訴えようと対面の仏頂面の少年を睨み付けている。

 

「犬夜叉」

 

「な、何だてめー、ヤんのか?」

 

「犬夜叉」

 

「だっ、大体そんなひらひらしたヤツ捲ってくれって言ってるみてえなも──」

 

「犬夜叉」

 

「…わ、悪かったって」

 

 少女の有無を言わせぬ吹雪の眼光に耐え兼ね渋々頭を下げる少年。その頭部には二つの獣耳が犬のように垂れており、明らかな人外であると見て取れる。ここが無人の林道でなければ、言い争う二人はさぞ衆目を集めたことだろう。

 もっとも、臀部に手を添え相方を睨む女に周囲へ気を配る心の余裕はない。しばしの沈黙の後、胸に溜まった憤りの熱を大きな溜息で吐き出した少女──かごめは自分の腰に巻かれた布を摘み、その端正な桜色の唇を開いた。

 

「…この袴は"スカート"と言ってな。未来の学問所や寺子屋で学ぶ女子の正装なのだ。丈の長さはある程度好きに出来るが、私の通う所にこれ以下はあってもこれ以上に足が隠れるものはない」

 

「これ以下、ってこれでも膝下つんつるてんじゃねーか。未来の女共はマトモな着物も着れねーのかよ」

 

「未来ではおまえのような不埒者を罰する優秀な町奉行所がいたる所にあるから、女人の身なりは実に自由で千差万別なのだ。おまえのような恥知らずにスカートを捲られたら見廻り人に泣き付くだけで大抵は事なきを得る。おまえのようなケダモノにとって平成の日ノ本は生き難い世の中と言えるだろう。乱世を生きれてよかったな、発情犬」

 

「おまえのようなおまえのようなってプリプリうっせーよ生娘っ、ちょーっとそのヘンなふんどし見られたからってよお! んなに嫌だったらさっさと小袖に着替えちまえ」

 

 ちくちく、あるいはぶすぶす。受けた仕打ちの仕返しとばかりに相手の非を責めるかごめへ、少年──犬夜叉が懲りずに反論した。それが気に食わない少女は更に髪を逆立たせる。やはり見られていたかとスカートを押さえる彼女は頬に登りそうになる血を深呼吸で冷やし、思考を切り替えるため建設的な話題を持ち出した。

 

「…褌ではなく下着と言え。そもそもおまえが旅支度もさせてくれずに勝手に村を出たから着替えなどない。川や霊力で清めればいい衣類はともかく、笠も蓑も無いのは遠出に困るのだが…」

 

 かごめと犬夜叉。道行く者たちが彼女ら一行を奇妙な二人組と形容する理由は幾つもあるが、その最たるものが両者の旅装と呼べない手ぶらな身なりである。まるで散歩の途中のような緊張感の欠片もない準備で林道を歩む男女が、よもやかの名高き四魂の玉を持つ半妖と元巫女であるとは信じ難い。

 とは言え、かごめが頭を抱える理由はそれ以前の問題であり、このまま無防備に旅を続ければ雨風に打たれ平成少女の貧弱な肉体が悲鳴を上げ出すことは必至。先を歩む少年の足をこれ以上引っ張ることは避けたい彼女にとって、しっかりとした旅支度を整えることは急務だった。

 

 その思いが通じたのか、犬夜叉はいつも通りの態度でわかり辛い親切を見せてくれた。

 

「ったく弱っちい生き物だぜ人間ってのはよお。…旅装は次の村でその辺で狩った獣の皮と交換だ」

 

「弓矢もないが…」

 

「獲物はおれが仕留める。足手まといは下がってろ、いいなっ?」

 

 傲慢不遜に見えて、その根っこには相手を思いやる優しさを持つ半妖の少年。孤独で弱みを見せられない生涯を送って来た彼は、いつしか他者へ高圧的に振舞うことで自身の心を守る術を身に付けてしまったのだろう。何とも難儀な性格だと呆れるが、自分も似たようなものだとすぐに気付き、かごめはバツが悪そうにぽつりと気持ちを述べた。

 

「…助かる」

 

「ッ、ふんっ」

 

 素直になれない二人の仲は、過去の凄惨な仲違いを乗り越えつつも、やはりどこか気まずい空気が漂う修復途中な関係だった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「──中々でけー宿場だな。大名の城が近いからか?」

 

 道中のスカート事件から数刻の旅路。かごめと犬夜叉は道なりに営まれる立派な町へ訪れていた。流石にこの辺りまで来ると人通りが増え、余計な面倒を嫌った少女は相方の髪を束ねて一応の人間の(てい)を取り繕う。少年の感情豊かな頭部の犬耳は上手に隠されどこにも見当たらない。

 

「道行く人々が小田原の新たな税制について噂していた。十五……いや五十年ぶりだが、まさか上方の政所執事(まんどころのしつじ)家がこれほど関東で興隆するとはな。未来でも伊勢氏相模北条家は名君として知られているぞ」

 

「ほーん、よくわかんねえがここなら旅装も揃いそうだな。先いくぜ、遅れんなよっ」

 

「あ、こら」

 

 ソワソワしていた犬夜叉も我慢の限界だったのか、飛ぶように宿場へ入り店々を冷やかして遊んでいる。あれで二百年以上もの時を生きていると言うのだから、年の功とは積もうと思わねば積めないものなのかもしれない。かごめは美しく老いた妹の楓の姿を思いながらゆっくりと少年の後を追った。

 

「けっ! どこもかしこもシケてやがるぜ」

 

「おまえにまともな物欲があったとはな。何か欲しいものでもあったのか?」

 

「う、うるせー! おれにも色々あんだよ」

 

 不平不満を吐き捨てる犬夜叉の意見に反し、宿場の品揃えは中々のもの。消耗品である草履や蓑、笠などはどこの店でも売っており、特に問題なく揃えることが出来た。

 

 中央の寺院周辺の立地では反物や香、唐物などの高級品を並べた店が増え、付近には奥羽へ赴く商人たちが上方から持ち込まれる装飾豊かな着物を取引する姿もある。禁欲的な巫女の生活しか知らないかごめに布地の少ない未来の服装は到底親しめるものではなかったが、妖怪退治の依頼先で目にした武家の姫君の纏う絢爛豪華な打掛(うちかけ)には当時でも僅かばかりの羨望があった。責務から自由となった今ではその思いもより強く、美しい絹織物の前でつい足を止めて見惚れてしまうほど。

 

 特に意味もなく、物珍しそうに品々を物色する犬夜叉を窘めたり、時には自分が心動かされたり。まるで二人のいる界隈だけ、あの平成の世に舞い戻ったかのような平和な時間が過ぎていく。

 だからだろうか、かごめは店主が実演するシャボンの泡を面白そうに突いている犬夜叉の子供っぽい横顔を見つめながら、ふと現世の学友、由香たちが盛り上がっていた未来の逢瀬の作法の話を思い出した。街を意中の男と巡る"ショッピングデート"なる遊び。私服を彼氏の趣味に合わせるだの、腕を組み彼のエスコートを待つだの、中には学生特権"制服デート"などもあるらしい。いずれもよくわからない妙な文化の数々ではあったものの、そのことについて談笑する若い少女たちは実に楽しげであった。考えたくもないことだったが、かごめ自身もいつかは現世で生涯の伴侶となるどこぞの男と体験することになるのだろうなと義務的に漠然とした情景を思い描いた記憶はある。

 

 それが。

 

「──まさか初めてが元の乱世で、しかも相手があの犬夜叉とはな…」

 

「おれがどうかしたか、桔梗?」

 

「…ッ!」

 

 突然後ろから彼の声が聞こえ少女は肩を跳ねさせる。最近は気の緩みが酷く、自分でもどんな情けない顔をしているかわからないほど表情筋が勝手に理性の制御を離れてしまうのだ。慌てて手で頬の様子を直接確認し、大事ないと判断したかごめはようやく少年へ振り向いた。

 

「…何でもない。いきなり背後に現れるな、忙しないやつめ」

 

「て、てめえが呼んだんだろ…! ったく、話のわかる旅籠見っけたから先に部屋取っといたぜ。こっちだ」

 

「ほう、手際がいいな。では暗くなる前に参るとし──」

 

 何気ない話題、何気ない返事。だがかごめはそこに少し、否非常に引っ掛かる違和感を覚え、思わず足を止めた。

 

「…犬夜叉」

 

「あん?」

 

 気付いていないのか、それとも意識すらしていないのか。あるいは未成年の健全性に過敏な未来の日ノ本で新たな人生を送ってきた自分がこの時代では異質なのか、かごめは騒めく胸を押さえて少年の反応を窺う。

 

「『部屋』とは、その…私とおまえの、二人でか?」

 

「それ以外に何があるってんだ?」

 

「……いや、何でもない」

 

 まるで阿呆を見るような犬夜叉の表情から全てを察し、少女は大きく首を逸らして話を煙に巻く。空回りするかごめは内心身悶えしながら、訝しむ少年の追及を避けるように速足で宿の戸を潜った。

 

 宿場では旅籠が犬夜叉を不気味がることが多く、前世の二人旅のときは別泊が当たり前だった。だが変装させた此度はどうやら普通の男女だと宿の主人に思われたらしい。ちゃんとした茣蓙(ござ)に彼を寝かせてやれる安堵はあるものの、二人きりの密室という状況は、平成の価値観に慣れ親しんだかごめにとって到底穏やかでいられないことだった。

 

「な、何だよ」

 

「……己の巫女を捨てた弊害だ。しばらく経てば折り合いも付くだろう。今は許せ」

 

「お、おう…?」

 

 少女は唇を尖らせ、そして溜め息と共に肩をおとす。

 少しくらい、意識してくれなければ女の立つ瀬がない。かといって、彼に意識され強引に迫られる覚悟など出来るはずもない。これでは楓に呆れられるのも当然だ。

 自己嫌悪に内心項垂れるかごめは、複雑な思いをいつもの澄まし顔で隠し、隣合う二枚の茣蓙の片方に渋々腰掛けた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 パチリ。

 

 宵闇の中、犬夜叉は妙な胸騒ぎを覚え瞼を開けた。隣でスヤスヤと寝息を立てる元本職の少女に反応はない。起こさないよう静かに茣蓙から立ち、少年は雨戸の隙間から外を見る。

 星一つない暗天の丑三つ時。月の陰の気を好む妖怪の動きやすい夜ではないが、だからこそ油断を誘う。幼い頃に培った強い警戒心は五十年の封印を経ても揺るがず、今宵は夜襲を見越して起きているかと犬夜叉は懐の宝珠を軽く撫でた。

 

 念願の四魂の玉。だが願いを十全に叶えるには持ち主の妖力で染め上げる必要があり、犬夜叉は玉を狙う妖怪たちを避けるためこうして旅を始めた。拠点は変わらず封印されていた森の麓の村で、旅と言えるほど大それたものではないが、特に目指す目的地もなく流離う自由な日々は不思議と心躍る非日常であった。

 

 否。「不思議と」など、本当の理由を言葉にしたくない男の無意味な意地だ。

 

「…チッ、やっぱ無理してたんじゃねーか」

 

 隣で隙だらけな姿を晒す眠り姫へ犬夜叉は吐き捨てる。先日の傷も完全には癒えていないだろうに、弱音一つ言わず半妖の彼の足に合わせ歩いた少女。沈痛な声色は少年自身の意図しないもので、彼女へ抱く想いの大きさを物語っていた。

 

 桔梗。

 かつて少年が共に将来を誓い合った初恋の女で、同時にこの世で最も憎むべき巫女の名だ。裏切られ、感情の整理も付かないまま封印された彼は解放された五十年後に、生まれ変わりの少女"かごめ"と出会った。瓜二つの姿と記憶、そして人格を持つ、桔梗より少しだけ幼い彼女に。

 

「…変な服」

 

 そう形容する他ない、かごめの学生服なる奇妙な衣類。ほぼ初めて見る桔梗、あるいはかごめの巫女装束以外の姿がコレであったのは、彼女と再会した犬夜叉にとっての唯一の不幸だ。どうせならこんな、自分以外の男に太ももをチラチラ晒す挑発的な着物ではなく、昼間の彼女が微かに目を輝かせていたあの華やかな色打掛(いろうちかけ)を着て欲しい。

 もっとも、美人とはどんな珍妙な着物を着ても似合うもの。あの凛々しい桔梗が衣類を乱されたじろぐ姿は何とも新鮮で、スカート姿の彼女は危うい倒錯的な魅力を帯びていた。

 

 板の間で安らかな寝息を立てる彼女をボーっと見つめていると、隙間風に当てられたのか、姿勢よく眠るかごめが身じろぎした。犬夜叉は慌てて自身の緋色の水干を脱ぎ、冷える少女の体にそっと掛けてやる。

 すると少年の耳に、掠れた小さなうわ言が聞こえた。

 

「──犬、夜叉…」

 

 はたと声の彼女へ振り向く少年。そこで彼は硬化する。掛けられた火鼠の衣をきゅっと握り、口元を埋めるかごめの姿はまるでか弱い童女のようで、前世の桔梗に見た強く気高い"巫女"はどこにもいなかった。

 

「…ッ」

 

 ドクン、と男の体を血が巡る。意識を落とし、武器もなく、男の自分の衣類を寝具に羽織る、桔梗。そんな彼女の姿があまりに無防備で、犬夜叉は自分の中に生まれた衝動に耐え切れず、咄嗟に逃げるように雨戸の隙間から外へ飛び出してしまった。

 

 

 陰る月の下、犬夜叉は飛ぶように宿場の屋根を駆け回り、夜風で雑念を振り払う。

 

 桔梗と言う巫女は不思議な女だった。誰よりも強く、気高く、力が衰えて尚気丈に振舞い続け、誰にも弱みを見せない孤高な人間。しかし本当は心無い言葉で傷付き、己の非力に胸を痛め、そして想い人の抱擁に躊躇いがちに応えてくれる、優しい普通の娘。そんな彼女が稀に見せる弱さが、犬夜叉の知る桔梗の素顔の全てだった。

 だが、かごめとして、ただの女として生まれ変わった桔梗は、少年の知らない顔ばかりするようになっていた。巫女の仮面の奥にずっと隠してきた、脆く、今にも消えてしまいそうに儚げな彼女の本性。それが少年の古の記憶、病弱な母が息子の寝静まった夜に亡き夫の名を呼ぶ哀れな姿を思い出させ、犬夜叉の胸を締め付ける。

 

 あいつは何を思って四魂の玉を投げ渡し、また共に生きたいと言い出したのか。前世の非行の懺悔のつもりなのか。それともまた騙して油断を誘い、今度こそ仕留めようと企んでいるのか。訳もわからないまま桔梗に捨てられた犬夜叉には、今の彼女の一言一句、一挙手一投足が霞みがかったように捉え難く、少年は問い質すことの出来ない疑問に悶々とするばかり。

 

 彼は怖かったのだ。昔のように、昔以上に自分を隠さず見せてくれる彼女を失ってしまうことが。命に懸けてでも守りたいと思ってしまい、自分がもう取返しの付かないほど彼女に惹かれてしまっている現実が。そしてそんな彼女の愛おしい素顔が、また全て愚かな男を欺く嘘だったと突き付けられることが。

 

 

「…ったく、らしくねえのはお互い様ってか」

 

 寝静まった宿場を無心に走り抜け、気付いたら犬夜叉は町を離れ、はずれの森にまで遮二無二に飛び込んでいた。幸い、振り返れば未だ夜霧の奥に町がおぼろげに見える。だが急いで戻らねば宿まで四半刻はかかるだろう。

 何やってんだかと落ち込む少年はその場に溜息を残し、来た道を遡ろうと反転する。

 

 

 そこで、犬夜叉の鼻が微かな妖気を捉えた。

 

「ッ、やっぱ来やがったか…!」

 

 少年は無意識に懐の四魂の玉を握り締める。宿での胸騒ぎは彼の天性の生き抜く術。犬夜叉は感傷に浸る己を捨て、捉えた気配を目指し森の闇を駆け抜けた。

 

 

 妖気を辿った先にあったのは少々意外な光景だった。

 

「…あのデカブツか? でも人間共を襲うってこたぁ、四魂の玉が目当てじゃねーのか?」

 

 近くの木の上に陣取り見下ろした道の脇では、一人の巨漢が数名の男たちを嬲り殺しにしていた。恐らくは夜宿中の商人たちを喰らいに来た若い鬼か何かだろう。愚かにも護衛の法師一人連れずに夜の森へ入った者たちは、一人を残し全滅の憂いに遭っていた。

 

「…ん? あいつは確か…」

 

 惨めに散っていく商人たちを憐憫の眼差しで傍観していた犬夜叉は、最後に残った大柄な男の顔を見て、おっと目を見開いた。別に知人というほどの相手でもなく、更に商人自身には何の興味もない。

 ただ、彼が宿場で扱っていたとある商品に、少年は大きな価値を見出だしていた。

 

 重なる偶然、諦めるしかなかったものが押せも押されぬ命の恩と言う形で手の中に転がり込んでくる幸運。これも何かの縁というやつだろう。運命的な状況に犬夜叉は顔を上気させるが、痴態に気付くとすぐさま引き締め渋面を作る。

 

「──ひっ! あ、新手か…!?」

 

 認め難い感情を振り払うように半妖の少年は見事な軽業で空を駆け、絶体絶命な男の前に降り立った。

 

「ったくおめーもツいてねーな、おっさん。ホクホクの荒稼ぎから一転、夜には妖怪のエサたぁよお」

 

「お、お主は宿場であの美しい女子(おなご)と一緒にいた…! まさか助けを呼んで来てくれたのか!?」

 

 突然現れた冷やかし客に大柄な男が喜色をその絶望に歪んだ髭面に浮かべる。それを少年は無情にも否定した。

 

「生憎だがそりゃ買い被りってもんだ。おれの用はてめえの荷だけだぜ、駿河商人」

 

「なぁっ! お、おのれこの土壇場で荷荒らしが目的か!?」

 

「前見な、死ぬぞ?」

 

 突き落され怒り出す商人をトンと横に押すと、そこへ巨大な左腕が恐るべき速さで振るわれた。

 

 

『──おオきな、かラだ…よ、コせ…』

 

 

 巨漢の妖怪が不気味な片言を口にしながらノロノロと商人へ近付いてくる。あまりに唐突な出来事に唖然とすること少し、大柄な男は直後何が起きたのか理解し半狂乱に悲鳴を上げた。

 

「ひっ、ひひゃあああ誰か助けてくれええ!」

 

「チッ、世話の焼ける」

 

 腰が抜け震える隙だらけな商人。流石に無理を悟った犬夜叉は反撃に出るべく自身の鋭利な五爪を振るった。

 

「おらあっ!」

 

『!』

 

 傀儡のような不自然に鈍い動きの妖怪は少年の無造作な攻撃すら避けられず、直撃を喰らった肩は一瞬でただの肉片と化した。だが異様な巨漢は怯む素振りも見せない。ようやく存在に気付いたかのように犬夜叉のほうへ振り向いた化物は、生気のない眼球で彼の懐へ視線を移した。

 

『しコんの、タま…こっチ、きタ』

 

「…ありゃ"死舞烏(しぶがらす)"か。なるほどな、玉を狙う前に切り札の死体を新調したかったってワケかい」

 

 死屍累々な周りの惨状に紛れていたが、これほど近付けば当然相手の異常に気付く。感じる微弱な妖気とそれを隠さんばかりの強烈な腐臭を放つ妖怪に、犬夜叉は覚えがあった。

 

 死舞烏(しぶがらす)は妖鳥の一種で、格上と戦うため死者に巣食い体を操る戦術を取ることで知られている。とは言え、たとえ強者に宿り本体より強大になろうと所詮は動くだけの死体。多少の手応えの差が出来た程度で苦戦する犬夜叉ではない。

 もっともそうとは知らない商人にとって、目の前の銀髪の少年が軽やかに敵の腕を斬り落とした姿は驚愕と感嘆に値するものであった。光明を見出した男はすぐさま下手に出る。

 

「つ、強い…! ッわ、わかった! 礼なら存分に差し上げます故どうか助けてくだされ!」

 

 流石は商人、現金なものだ。変わり身の早さを失笑しながらも、少年は望んだ展開を歓迎する。

 

「ようやく尻に火が付きやがったか。ならその一番下の桐箱の中身で手を打ってやる、おめーの今夜の安全と取引だ」

 

「なっ、そ、それだけはいかん! こっ、こっちの三河木綿のほうが旅の方には相応しいかと…!」

 

「おいおい、どの道ここで死んじまったら他の連中の荷と同じくぜーんぶ野盗の糧になるだけだぜ? 素直におれに渡して命を拾うが吉ってもんだろ」

 

 よほどの値打ち物だったのか窮地においても手放すことを躊躇う大柄な男。往生際の悪さも商人の性なのだろうが、まさか自分の命まで値切り出すとは何とも筋金入りだ。

 だが巨漢の二度目の攻撃が右耳を掠った恐怖の前に、男も遂には張り続ける意地を手放した。

 

「ッひぃぃっ! わかっ、わかった! わかりました、お渡しします! だから助けてくださいいい!」

 

「へっ、約束忘れんなよっ」

 

 言質を取ったと犬夜叉は戦意を高め、自分自身の攻撃に振り回される愚鈍な動死体の前に躍り出た。

 

「くぉら、こっち来やがれ雑魚烏! てめえの相手はこのおれだあ!」

 

『…にガ、さネえ、ど…』

 

 程度の低い挑発で相手の注意を引き、森の中へ巨漢を誘導する。この妖怪の真に厄介なところは死体操作の力ではなく、その本体の俊敏性と強い執着心だ。妖鳥は飛行能力を持つ妖怪の中でも特に臆病で素早く、一度空に放てば仕留めるのは困難を極める。その後もずっと粘着質に狙われ続けるとあっては、ここで取り逃がす愚は犯せない。

 狙い目は仮初の肉体に囚われているまさに今。犬夜叉は逸らず、敵が飛べない木々の枝葉の天蓋の下で決殺の好機を窺った。

 

『よコせ……おデ、の…しコん、ノ…タま…!』

 

「はん、思い上がんなよ間抜けが! まんまと罠に引っ掛かりやがって、もう逃げ場はどこにもねぇぞ! ──喰らえっ!」

 

 少年の爪が巨漢の振るう最後の片腕とぶつかり、轟音を上げる。僅かな拮抗のあと、打ち勝ったのは犬夜叉。衝撃に耐えきれなかった巨漢の腐肉が瓦解し始めたのだ。

 

『あ、デ…? うまク…うゴかな、い…』

 

 抑揚のない声で狼狽する死舞烏。だが妖鳥が宿り木を放棄し逃げ出す決意を下す間を少年が待つはずもない。

 

「こいつはなぁ、あいつと心が繋がってる最後の証なんだよ! 妖力目当ての雑魚なんかにゃ指一本触れさせねえっ!」

 

 巣食う死体の胸の大穴から宿主が飛び立とうとした瞬間。優れた五感で敵を完全に捉えた犬夜叉は、羽ばたく黒い塊へ向けて渾身の一撃を振り下ろした。

 

 

「くたばりやがれっ──"散魂鉄爪(さんこんてっそう)"ッッ!!」

 

 

 大気を斬り裂く衝撃波が夜の森に散乱する。舞い上がる血霧、弾ける骨肉、吹き荒れる土煙が晴れた後。月光に佇む少年の相貌には、勝利の余韻に浸る彼らしい勝気な笑みが誇らしげに浮かんでいた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「ん…っ」

 

 微睡む眼が光を捉え、かごめは眠る意識をゆっくりと呼び起こす。開いた瞼の先には黒ずんだ古い板張りの天井、現世の日暮神社の自室とは似ても似つかない空間だ。目覚めと共に視界に飛び込んでくる非日常に驚くのも、最早日課となりつつある。どうやらこの幸せな夢はまだまだ続いてくれるらしい。

 昨夜に宿場の個室に泊まったことを曇った頭で思い出した少女は、はたと慌てて隣の茣蓙へ振り向いた。しかしそこにいるはずの人影はなく、代わりに雨戸の先の縁側から馴染み深い妖気を感じる。犬夜叉は先に起きて朝焼けの風情に浸っているようだ。

 

「…?」

 

 ほっと安堵したかごめは視線を下ろし、ふと、そこで簡素な旅籠に似つかわしくない鮮やかな色彩に目を奪われた。

 

「これは…」

 

 ぼんやりと眼前の極彩色を眺めていた少女は、その布に恐る恐る手を触れる。滑らかな手触り、高貴な光沢、そして未来の世でもまれにみる繊細かつ大胆な配色と金銀の輝き。

 

 間違いない、昼の宿場で見かけたあの上方の絹織物だ。

 

 何故これがここにあるのかわからず、昨日の記憶を隙間なく探るかごめ。だがどれほど思考を巡らせようと行き着く答えは一つだけで、少女は居ても立っても居られず着物を手に縁側へ転がり出た。

 

 どうやって手に入れたのか。何故これを眠る私に掛けてくれたのか。彼はそこにどんな意味を込めたのか。未だ素直に彼の好意を受け止められない少女は、その本心を知ることが怖くて足を踏み出せない。

 ただ、昨日の街歩きで美しい晴れ着に見惚れる自分を彼に見られていたことが恥ずかしく、されど彼があのような些細なことにまで気を配ってくれたことを喜んでしまう己の単純な心だけは、紛れもなく本物だった。

 

 

「──犬夜叉っ!」

 

 かごめの喚呼と共に部屋の雨戸が勢いよく開かれ、犬夜叉の額の冷汗がビクリと舞う。少年は不安と期待に揺れる胸中を秘めようと素知らぬ顔を作り、しかし肝心な彼女への第一声がどもったことで台無しとなった。

 

「…な、なんでぃ桔梗。朝っぱらからギャーギャー騒ぎやがって」

 

「この打掛…! おまえが、その…私に?」

 

 少年の横目に映ったかごめは戸惑うように愁眉し、着物を掲げこちらと交互に視線を彷徨わせていた。そんな彼女の切なげに狼狽える姿が無性に胸を揺さぶり、犬夜叉は咄嗟にいつもの照れ隠しの怒号を上げてしまう。

 

「だっ、だったらどうした。要らねえってんなら売り捌いて金にでも換えて来やがれっ。おまえの着物だ、おまえが好きにしろ!」

 

「ッ、誰も要らぬなどと…! だがこんな見事な一張羅…旅垢で汚れでもしたら、私…」

 

「うう、うるせえ知るかンなこと! よ、汚れんのが嫌なら鈍った霊力の鍛錬にでも使って毎日清めとけっ」

 

 欲しいのか欲しくないのか、受け取ってくれるのかくれないのか。優柔不断なかごめの態度に焦り、犬夜叉はなりふり構わず、もしものために準備しておいた口実で無理やり着物を押し付けた。

 

 それが決定打となったのかは定かではない。だが少年の言葉の後、しばらく無言で打掛を抱きしめていた少女が小声で、そして初めて、彼が望んだ言葉を述べた。

 

「……着てみても?」

 

「ッ! すっ、好きにしやがれっ」

 

 それは肯定の暗喩。

 清貧を貴ぶ彼女が初めて興味を示した物で、不透明で不確かな心の距離をせめて形あるものとして見たかった犬夜叉の精一杯の勇気が、この贈り物だった。それを受け入れる意味は、あの聡い桔梗ならわかっているはずだ。

 

 殊勝なかごめが徐にこちらへ背を向け、意図に気が付いた少年は慌ててそれに従う。

 

 まさかあの面妖な学生服を脱いで素肌を晒すわけでもあるまいに、後ろから聞こえる衣擦れ音が犬夜叉の胸奥に眠るナニカを無性に駆り立てる。普通に着物を羽織るだけであろう相手の行動に何故ここまで動揺してしまうのかわからず、少年は耳を塞ぎたくなる思いと悶々と戦い続けていた。

 

 

「…お、おい桔梗。まだ終わんねえのか?」

 

 どれほど待たされただろう。じれったい沈黙に耐えかねた彼は容易く限界を迎え、躾のなっていない犬のように催促を始める。

 

「いや、終わりはしたが…」

 

「! じゃあ見るぜっ」

 

「なっ、待──」

 

 返って来たのは少女の恥じ入るような声。だが興味津々に振り返った犬夜叉は、そこで目にしたものに思わず鼻白む。

 

 着替えたかごめは両手で顔を覆い、背まで見せて少年の眼差しから逃げていた。

 美しい黒髪から覗く白い耳の紅潮が尚のこと期待を煽る。生殺しとなった犬夜叉はずんずん近付き、少女の華奢な両手首を掴み上げた。

 

「おい、なぁに顔隠してやがんだ桔梗! 袖どかしちまえっ」

 

「ッ頼む、後生だ。今だけは見ないでくれ…っ」

 

「いーや、見るね! キレーな着物着てはしゃいでるてめーのアホ面、是非とも拝ませて貰おうじゃねーかっ」

 

 如何に強大な霊力を持とうと体はひ弱な女の子。必死の抵抗も空しく、羞花閉月の晴れ姿は無体にも曝け出され…

 

 

「よ、よせ! ッあ──」

 

 

 暴かれた秘密の園に、一羽の鳳凰が舞い降りた。

 

 宛ら舶来の白磁のようなかごめの肌は、羞恥の紅に染まっていた。如何なる弘法にも描けぬ豊かな睫毛には真珠のような涙滴が浮かび、艶やかに輝く様はまるで細い螺鈿細工のよう。端正な鼻の下には桜貝を思わせる小ぶりな唇が何かを堪えるようにきゅっと固く結ばれている。そして、羽織る西陣の絹織物の上にゆったりと流れる腰長の黒髪は、まさに眩い極楽浄土を流れる天の川の如き神秘の美であった。

 

 当代一の名匠が彼女のために拵えられたかのような豪奢な色打掛。それは少年を虜にした傾城の麗の余さず全てを引き立て上げ、朝日を纏うかごめは天女も霞む輝きを放っていた。

 

 

「……放せ、犬夜叉」

 

「──ッぁ…」

 

 面映く俯きそっぽを向くかごめの抗議が、少年の止まった時を蘇らせる。呆ける犬夜叉は自然に手を放しつつも、目はふつむく彼女の打掛姿に奪われたまま。凝視されるかごめは火照る頬を再び袖で隠し、僅かに濡れる目元を覗かせ少年の無礼を咎めた。

 

「ッ、おまえは…っ、嫌がる女子をそうやって手籠めにするのか?」

 

「あ……ぃゃ…」

 

「…ふん、そんな顔でよくも人のアホ面がどうこうと抜かせたものだ。余程自分の贈った着物を纏う(わたし)が気に入ったと見える」

 

 不遜な台詞を口にするかごめも、微かに震える声のせいで隠れた本心が丸見えだ。犬夜叉はそんな意地っ張りな彼女の挑発が、まるで「私はおまえの女だ」と暗に主張しているような錯覚を覚え、一瞬で燃えるような赤に染まる。

 

「ばっ! だっ、だだ誰がてめえみてーな…っ!」

 

「喧しい、他の客に迷惑だ。…全く、荷造りは私がしておくから、おまえは先に朝餉を馳走になって来い」

 

「な…ぐ」

 

 実に彼らしい照れ隠し。それを見たかごめが勝ち誇ったように目を細める。つんと澄ました面持ちで宿の個室へと踵を返す少女の腹立たしい様を、犬夜叉は歯軋りしながら眺めることしか出来ない。

 

 だが敗北感に息巻く少年は厨房へ赴く途中、背中越しに彼女に名を呼ばれ、その足を止めた。

 

「…犬夜叉」

 

「ッな、何だっ」

 

 彼へ振り返ることなく、故に伝わらなくても良い。そんな天運に任すかのようなかごめの呟きは草花の声にも等しく繊細で、耳の良い彼にならあるいはと紡がれたその小さな言葉は、この世の誰よりも彼女を欲する犬夜叉の胸に、確かに届いていた。

 

 

「──ありがとう。生涯、大切にする」

 

 

 そう言い残して小走りに雨戸の奥へと消えたかごめの後ろ姿は、もう見えない。なのにまるでそこに漂う彼女の輝きの残滓を惜しむかのように、少年はその場で延々と立ち尽くしていた。

 

「……ズリいんだよ、ちくしょう」

 

 

 かくして朝食の握り飯を逃した犬夜叉は、クスクスと微笑むかごめの視線から逃れるように道端の木の実を頬張り、鳴り響く腹の虫と格闘する羽目になったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

妖刀・"鉄砕牙"(上)

 

 

 

 荒地の中央に武骨な石墳が鎮座する。月光を受け夜闇に浮かび上がる巨岩の列は、静かな眠りを欲する主の心の旋律か。だがその朽ちた大地は血に染まり、墓守の群狼たちは不埒な墓暴きが働く乱暴狼藉の憂き目に遭っていた。

 

 無数の獣の死骸が散らばる墓石の前に、膝丈の白銀の長髪が波打つ一人の偉丈夫が立っている。端正な美貌に映える鋭い金色の瞳は強者の自負に強く輝き、帯びるただならぬ妖気は男の格を表す覇者の証だ。

 その青年の下へ、墓石の頂より小さな影が平身低頭で近付いた。白銀の主人へ平伏す小者もまた人ではない。身の丈の倍ほどの奇妙な杖を掲げた、嘴口の小鬼。青年と同じ人外異様───妖怪だ。

 

「"人頭杖"の、女子の面が鳴きましてございまする。どうやらここも違うようで…」

 

 不興を買う覚悟で口にした言葉は怯えを孕み、小妖怪は面目なく頭を垂れる。しかし報告を耳にした主の青年は従者を一瞥もせず、石墳へ背を向け来た道を引き返した。

 

 "宝探し"の無駄足も二百年と続けば行住坐臥。長きを生きる超越者にとっては細事に等しく、青年と主の背を追う小鬼の二人は次なる地へと旅立った。

 

 

 

「────あのぅ、やはり犬夜叉を問い質すべきではないでしょうか。彼奴ならばあるいは…」

 

 荒地を離れ、一行は道中滅ぼした国人武将の渡し船を拝借し、悠々と深夜の渓流を下っていた。その最中、若輩の小妖怪がおずおずと主へ具申した。

 延々と続く不毛な旅への不満は主の心境を慮ってのことだろう。だが従者はそこで一つ、失言を犯した。

 

「犬夜叉…」

 

 寡黙の大妖怪がその名をなぞる様に繰り返す。声に浮かぶ色は、不快。

 

「───ッゲボ、ボッ!?」

 

「…あまり思い出したくない名だな」

 

 気付けば小鬼は川へ叩き落とされていた。失態を自覚した下僕は進む船へ慌てて泳ぎながら主に弁明する。

 

「おっ、お許しを…! ですが最近の杖の反応が気がかりでございまする。向こう五十年、一度たりとも動かなかった翁の面が忙しないのも何か関係があるかとっ」

 

「くだらん」

 

 だが悲しいかな。元より無価値な雑魚の言葉など聞く耳持たぬ強大な主に、彼の進言は微塵も届かない。

 

「第一あいつは生きてはいまい。どこぞの人間の女と相打ち封印されたと聞いている」

 

「お、おっしゃる通りで。なんでもあの四魂の玉を欲して守人の巫女を襲い、返り討ちにあったとか…」

 

「そのままくたばっておればこれ以上生き恥を晒さずに済んだものを」

 

 溺れながらヘコヘコと器用に頭を下げる小妖怪は、己で述べたその名の人物について想起する。

 

 犬夜叉。

 目の前の傍若無人な大妖怪にとっては従者自身と等しく無価値な雑魚でありながら、その身を流れる血に忌々しい因縁を持つ、半妖だ。

 

 半妖とは、蔑むべき弱者たる人間の血を引く、妖怪の紛い物である。異端にして異形な奴らは反吐が出るほど醜く面妖で、その有様は宛ら人語を解す猿のよう。

 

 しかし、そんな気色悪い化物であっても、半妖犬夜叉はこの大妖怪にとって無視出来ない存在であった。奴の話になると途端に機嫌が悪化し、口数も倍以上に増えるほど。特に先日近隣の妖怪たちの集いで耳にした例の話を知れば、尚のこと捨て置けない相手となるだろう。

 従者は偉大なる主のお役に立たんと恐怖を押し殺し、口を開く。

 

「で、ですが、その……最近になってあの辺りから、妙な噂が流れて参りまして…」

 

 すると、これまで大して関心を見せなかった大妖怪が、しつこく付き纏う自称従者の小妖怪を百余年ぶりに直視した。

 

 

「…ほう? 興味深い、詳しく申せ────」

 

 

 獲物を見つけた山犬。視線の舌なめずりに晒された小鬼の邪見(じゃけん)は、新たな大仕事の予感を覚え歓喜と恐怖にぶるりと体を震わせた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「────おい犬夜叉。お主、お姉さまに何をした」

 

 

 四魂の玉を手にし、宝珠を妖力で染める最初の旅を切り上げた少年少女───犬夜叉とかごめ。再会より三日が経った二人は共に妖怪を避けながら周辺の宿場を転々と回り、帰還した拠点の村で束の間の平穏を楽しんでいた。

 とは言え、そんな彼らを放っておかないのが如何ともし難い人間関係というもの。貧弱な生身の人間であるかごめの体調を案じた半妖の少年は、彼女に休息をとこの地へ舞い戻ったのだが、そこで小煩い老女、楓に捉まり村外れの草原でネチネチと小言を聞かされていた。

 話題のかごめが水浴びに側を離れているのがせめてもの気休めか。

 

「なんでぃ、楓ババア。おれぁ別に何もしてねえぞ」

 

「惚けるなっ。いくらお姉さまの悲願だったとは言え、あのような、その……羽目を外されてるお姿など見たことがない…」

 

「羽目を外す、ねえ…」

 

 渋面の老婆を横目にふてぶてしく草の上へ横になる犬夜叉。だがぶっきらぼうな態度に反し、少年の頬は嬉しそうにヒクヒクと締緩を繰り返している。何気なく装おうと励むも感情を隠しきれない、まさに想い人との関係が好転しつつあることにはしゃぐ初々しい思春期男子がそこにいた。

 

「…けっ、どーせまたアレに見惚れてみっともねえニヤついた面晒してんだろ。天下の桔梗サマも形無しだぜ、ザマーねーな」

 

「低俗な表現をするな、お姉さまに無礼であろう! ()()()()()()ではなく()()()と言いなさい」

 

 声を荒らげる楓の剣幕に、犬夜叉はどこ吹く風で話題の少女に思いを馳せる。

 

 少年の言う「アレ」とは、彼が先日かごめに贈ったあの絹織物の打掛のことを指す。日中は澄ました顔で彼の隣を歩いておきながら、毎晩こっそり起き出しては贈られた一張羅を羽織り緩頬する桔梗と瓜二つな少女。その幸せそうな姿は狸寝入りで見ているこちらが悶えるほど恥ずかしく、されど再会以来切なそうな暗い顔ばかりする彼女から笑顔を引き出した感動は一入で、年頃の女の子らしいその素顔は誰にも見せたくないほど可憐で愛らしかった。

 本来はかごめの心を惹くために贈った着物なのだが、結局犬夜叉自身が余計に彼女に魅了されているのは皮肉と言うべきか。こうして当人の意図せぬところでさえ少女に振り回されてしまうことが腹立たしく、負けず嫌いな彼はこうして彼女を陰でからかい不毛な意趣返しに勤しんでいる。

 

「ムフッ、ククク…」

 

「…その下品な笑いを止めんか、みっともない」

 

 そんな幼稚な犬夜叉に呆れかえる楓は、彼の義妹となるであろう自分の未来に溜息を吐くばかり。大切な家族を託される男ならば甘んじて受けよ、と老巫女は姉を奪っていく男につい嫌味を零してしまう。

 

「しかし…『朝起きたら冷えぬよう着物が体の上にかけられていた』とお姉さまに伺ったが、まさかお主にそのような風情ある贈り方が出来たとはな。どこぞの光源氏の入れ知恵ではないのか、んん?」

 

「何だてめー、ケンカ売ってんのか? ったく、小姑気取りのババアってのはうるさくていけねぇ」

 

「…なぁにぃぃ?」

 

 だが直後の犬夜叉の腹立たしい態度に年配者の太い忍耐の緒はあっという間にぶち切れた。

 

「ケンカ売っとるのはお主だろうが! ただでさえお姉さまの伴侶にまーったく相応しからぬ頼りない甲斐性無しだと言うに! あろうことか()りを戻したその日の夜に女子の寝床に忍び込むなどまさに犬の名に恥じぬケダモノ! この場で成敗してくれるっ!」

 

「なっ、ち、違えよ! あれは忍び込んだワケじゃ───」

 

「不埒者の弁明など聞きとうないわっ、今この場でお主の名に懸けて正直に申せ! お主はまこと着物を掛けて差し上げただけなのだな? 本当にお体に触れてはおらぬのだなっ? お眠りになられている間にお姉さまがお主に純潔を散らされていたなどという阿鼻叫喚な事実はないと信じてよいのだなァッ!?」

 

「はっ──はあぁ!? おおおれがあいつの、じゅじゅ純け───」

 

「死ねェ犬夜叉アァァッ!!」

 

 鬼も裸足で逃げ出す般若面で目の前の外道へ掴みかかる楓。老い先短い身も顧みず少年に馬乗りになりながら首を絞めにかかる老婆の姉妹愛は、されど彼女の言葉に仰天し既に大混乱に陥った犬夜叉へ然したる制裁とはならず。あの桔梗が自分との初夜の情事に乱れる様を想像して髪の毛先まで顔を赤くする犬耳の若造と、そんな彼の態度に親の仇を見るような形相で殺意を膨れ上がらせる未来の義妹の取っ組み合いという奇天烈な光景は、互いの息が切れるまで続くこととなった。

 

 

「────犬夜叉、私はお主に感謝しておる」

 

 荒い息を治め、背を向け合い草原に座る二人。

 その片割れの楓は燻る憤りに蓋をし、後ろの助平小僧へ悪態混じりにそう頭を下げる。横目に映った犬夜叉の顔は怫然としていた。

 

「…さっきおれを半殺しにしといて何言ってんだババア、遂にボケたか?」

 

「それとこれとは話が別だ! …まあとにかく、今のお姉さまの幸せそうなお姿は間違いなくお主がいたからこそ。心底気に食わぬが、せめて礼の一言くらい申すのが筋だろう」

 

 本心ではあるものの、同時に真逆の感情も込められた楓の感謝の言葉に犬夜叉が鼻を鳴らす。不愉快そうな彼の態度はケンカ相手への蟠り故か、はたまた老女の述べた「幸せそうな姉」という言葉にどこか釈然としない思いがあるのか。神妙な面持ちで首を逸らす犬夜叉に後者の感情を読んだ楓は、この機に臆病な姉に代わって目の前の少年の真意を探ろうと決意した。

 

「お姉さまは変わった」

 

「……」

 

「笑顔が増え、また涙も増えた。あれほど幸せそうなお顔も、再会した日の辛そうなお顔も、私はお側で過ごした十余年の年月で初めて見た。平和と聞く未来の世でお過ごしになられたからか、あるいはあれこそが妹の私でさえ知り得なかったお姉さまの本来のお姿なのか……いずれにせよ今のお姉さまは前世の巫女として生きて来られた日々より、ずっと生き生きとしておいでだ」

 

 小さな悔しさを忍ばせ、楓は感慨深げに遠くを見つめる。誰よりも側にいながら気付けず甘えるばかりであった愚かな自分では、犬夜叉のように姉を巫女のしがらみから解放することは出来なかっただろう。自由に笑い、自由に悩み、自由に悲しむ"ただの女"として生きる桔梗の姿は、彼だからこそ引き出せた。

 

 だが。

 

「だからこそ、解せぬ」

 

「…何がだよ」

 

 思わず硬くなった老女の声に犬夜叉が眉を顰める。踏み込むことを拒む少年の険しい眼に臆さず、楓は多くの妖怪たちを屠って来たその鋭い眼光で目の前の半妖を睨み付けた。

 

 

「────何故、それを五十年前にしてくれなかった」

 

 

 二人の座る草原から音が消えた。

 一切の誤魔化しを許さない老巫女の気迫を受け、犬夜叉の金色の双眸が不快げに細まる。しばしの沈黙の後、楓の耳に届いたのは、少年の吐き捨てるような返答だった。

 

「……んなのこっちが知りてぇよ、胸糞悪ぃこと蒸し返してくんな」

 

「ッ、何だと貴様…っ!」

 

 まるで他人事のような無責任さに姉思いの妹の胸中は一瞬で烈火の怒りに燃え上がる。だが殺気立つ楓へ振り向いた犬夜叉の顔は、やり場のない激情に憤慨する悲痛に染まっていた。

 

「てめえ……"何だ"はねえだろ、おれが悪いって言いてえのか!? 確かに四魂の玉を奪うため村を襲ったのはおれだ! だけどそれもこれも全部───あいつがあの日おれを裏切って殺そうとしたせいだっ!」

 

「……は?」

 

 荒れ狂う両者の間に、場違いなまでに呆けた声が木霊する。楓はそれが己の口から出たものだと気付くまで、何を言われたのか全く理解出来なかった。

 

「おれは、おれは本気だった…! 本気であいつを信じ、共に生きようと思って……なのにあいつはっ、約束の日におれに矢を向けて、おれを騙し討ちしようとしやがったんだ…っ!」

 

 弾けるように立ち上がり激昂する犬夜叉。幾度と彼の主張を反芻し、ようやく少年の言わんとしていることを把握した老巫女は、そのあまりの内容に自分か犬夜叉か、あるいは双方がおかしくなったのかと混乱する。

 

「…お主は、一体何を言っておる? あの清廉潔白で万人に尽くす心優しいお姉さまがあろうことか、あんなにも愛おしそうに接しておられた男を騙し討ちだと? …封印が効き過ぎて気でも狂うたか? 貴様は一体今までお姉さまの何を見て来たのだ!?」

 

「だからンなもんおれが知りてえっつっただろ! 大体おれに止めを刺そうと思えば刺せる機会なんざごまんとあったはずなんだ! おれがまだ四魂の玉を狙ってあいつに突っかかってたときも、国越えの依頼のときも、あいつはその度に"私に似ているおまえを殺せない"って自嘲するように笑ってた…」

 

 犬夜叉の怒声が竜頭蛇尾に萎れていく。憤懣だけではない、深い悲しみを感じさせる彼の沈痛な姿は思わず溜息が零れるほど哀れで、楓はつい少年の独白に聞き入ってしまう。

 

「それがあの日突然おれを殺そうとしやがって……だってのに結局最後の最後で破魔の矢じゃなくて封印の矢でおれを生かして……おまけに四魂の玉を道連れにあの後死んだとか、もうあいつが何考えてんのかさっぱりわかんねえ…」

 

 項垂れたまま「いっそ本当に狂ったと思いたいくらいだ」と頭を掻き毟る彼の瞳に嘘は見えない。こんな、当時を思い出すだけで混乱に苦悩する素直な少年が──先ほど述べたことが真実だったとして──反撃や報復であの肩の傷を恋人に刻むことなど出来るのだろうか。

 楓は全く噛み合わない両者の話にかつてない胸騒ぎを覚え、当時の出来事を詳しく問い質そうと口を開く。

 

 

 だがそんな彼女の言葉が喉を通り抜ける直前、邪魔者どころではない巨大な脅威が二人へ牙を向いた。

 

 

「────! な、何だこの妖気はっ!?」

 

 草木が騒めき、空気が水底に沈んだかのように重く冷える。

 それは穢れの気配、妖気。背筋が震えるほどの暗い予兆の後、突如二人の後ろの森から巨大な炎の塊が襲来した。

 

「ッ、伏せろ楓ババアっ!」

 

「なっ───」

 

 楓が少年の手で地べたに引き倒されるのと、吹き荒れる炎熱が彼女の頭上を掠ったのはまさに紙一重の差であった。爆風に乗り草原を焼き尽くす猛火を避け、犬夜叉は慎重に目と鼻で敵の位置を探る。

 だが襲い掛かる火柱は一つに非ず。二撃、三撃と立て続けに森の奥から放たれる爆炎から身を隠し、二人は強烈な熱気の渦に耐え続ける。"火鼠の衣"が無ければ今頃丸焼きとなっていただろう。

 

「チッ! おい、くたばってねえかババア!」

 

「ぐ……ッバカな、妖怪だと!? あのお姉さまの自慢の結界を破ったと言うのか!?」

 

「桔梗は未来で鍛錬サボりやがって腕がすんげえ鈍ってんだ! 今の力じゃそれなりの妖怪ならああして食い破んのだってワケねえだろうぜ、ちくしょう…っ!」

 

 激しい炎の弾幕がこちらの動きを阻害し、人間の楓を庇いながらじり貧に追い込まれる犬夜叉。そんな二人の背に親しんだ女の声が投げ掛けられた。

 

「────二人とも、無事か!」

 

『!!』

 

 咄嗟に振り返り見た光景に、年長の男女は思わず顎を垂らす。視線の先に居たのは、水浴びで濡れたままの襦袢を乱暴に纏っただけの、あられもない姿をした少女であった。

 

「桔梗!? バカ、来んじゃねえ───っておまえ何てカッコしてんだ!?」

 

「着替える暇が惜しい! 楓、弓矢を寄越せ!」

 

「な、なりませぬ! ここは私と犬夜叉が相手を…!」

 

「足手まとい扱いするな、弓でなら多少は戦える! もう二度と四魂の玉を巡っておまえたちを失ってなるものか…っ!」

 

 だが一度"桔梗"として耐え難い不幸を知ったかごめに、二人の危機を後ろで呑気に見守ることなど不可能。少女は犬夜叉と妹の反対を押し切り強引に戦線に合流する。

 

 その瞬間を見計らうかの如く。立ち上る炎の壁の奥から、悠々と大小二つの人影が現れた。

 

 

「────"四魂の巫女"。大層な使い手だと聞いていたがこの程度の結界とは、所詮は犬夜叉如きと相打った雑魚か」

 

 

 それは華やかな大鎧を着崩した長い銀髪の美青年と、巨大な杖を掲げるギョロ目の小鬼。

 背筋が凍えるほどの膨大な妖気が敵の並外れた力を情け容赦なく伝えてくる。特に目を引くのは膨大な妖力を帯びた敵の得物───青年の腰の妖刀と、小鬼の妖杖。両者共に油断ならない強敵だと即座に判断した巫女姉妹は身構える。

 その横で、現れた(もの)()たちへ一人だけ異なる反応を示す男がいた。

 

「ッ!? て、てめえは…!」

 

 咄嗟に声を上げたのは、犬夜叉であった。

 長い時を生き、己の実力に強い自信を持つ彼が恐れるほどの相手か。普段の勝気な笑みが陰り、明らかな動揺を見せる少年の態度にかごめの警戒心が跳ね上がる。

 

「…知り合いか?」

 

「チッ……おいこら、殺生丸(せっしょうまる)! 何の用か知らねえが、後ろのやつらに手ぇ出したら死んでも許さねえぞっ!」

 

 ジリジリと焦がすような殺気に耐え兼ね、犬夜叉が伏せていた丘から飛び出し眼前の二人組へ指を突き付けた。

 "殺生丸"と呼ばれた長髪の大妖怪が、その能面のような顔の眉間に小さな皺を寄せる。そして開かれた青年の口が紡いだ言葉は、瞠目に値する驚愕的な事実であった。

 

 

「────ほう。この兄を前にして老婆小娘を庇う余裕があるとは思い上がったな、愚弟よ」

 

 兄、愚弟。

 

 聞き間違いでなくば、この凶悪な妖気の物の怪は犬夜叉の兄を名乗ったのか。思わず隣の少年の横顔を凝視するかごめを余所に、大妖怪と半妖は侮蔑と嫌悪の視線をぶつけ合う。

 

「それとも、ただ貴様の半身を流れる血と同じ…卑しい人間共とつるむことが生き甲斐か。一族の恥さらしめ」

 

「ッ、何だと…っ!」

 

 兄弟を名乗る双方の瞳は一切の肉親の情を映さない。妖怪と半妖、かつて犬夜叉が実母を人間だと言ったことを覚えていたかごめは、両者の間を漂う険呑な空気に一瞬で全てを察した。

 同じ人間から外れた身でも、姉を慕う妹の楓がいてくれた自分とは異なり、犬夜叉には弟を半妖と蔑む妖怪の兄しかいなかったのだろう。殺伐とした戦場にありながらも、かごめはどこまでも孤独な彼を思い胸を痛める。

 

 そんな少女の前で、犬夜叉もまた惚れた女とその妹を守ろうと気丈に二人を背に庇っていた。

 

「殺生丸、てめえ…そんなくだらねえこと言うためにおれの前に現れたってのか?」

 

「己惚れるな半妖、私は下賤者の前に用なく足を運ぶほど暇ではない。…貴様に問いたき儀がある、偽りなく答えよ」

 

 人間の女たちなど見向きもせず、赴きを述べた大妖怪は眼下の弟を超然と見下ろしたまま冷ややかに問い掛けた。

 

 

「────父上の墓はどこにある」

 

 

 自分とよく似た金色の瞳が無遠慮に向けられる。それを腹立たしげに睨む犬夜叉は、片眉を持ち上げ兄へ問い返した。

 

「…親父の墓だぁ? 何でンなもん探してんだ、てめえが律儀に墓参りでもするタマか?」

 

「墓とは死者ではなく残された生者のためにこそある。貴様如き半妖には見ることさえ烏滸がましい父上の"牙"がその地に眠っているのだ」

 

「ッ半妖半妖うっせえんだよ、てめえっ! 大体親父の牙なんか抜き取ってどうしようってんだ! お守りにでもすんのか、父親離れ出来ねえおこちゃまがよお」

 

 負けじと挑発を返す弟。一触即発の険呑な空気が漂う中、かごめはふと、犬夜叉の兄を名乗る男の言葉に微かな既視感を覚えた。

 目の前の妖怪はかごめはもちろん、桔梗ですら初めて感じる凄まじい密度の妖気を纏う化物だ。間違いなく国を超えて名が知れ渡るほどの大物で、断じて父親の遺骨を形見に持ち歩くような人間らしい軟弱な思考はしていまい。ならば男の真意はその"牙"という喩の言葉にこそある。

 

 そこで、かごめはこの兄弟の父親に関する伝承を思い出した。巫女修行の旅の途中、都で陰陽寮の術師に聞いたとある古の大妖怪の逸話。犬夜叉の父がかの伝説の怪物であると本人から聞いたときは驚いたものだが、もし彼の兄の言う"牙"が犬妖怪族の武力を指す比喩であるのなら、彼が求める父の武力の象徴はおそらく一つ。青年の腰から感じる恐ろしい妖気の正体だ。

 

「…もしや、西国の妖刀伝説か?」

 

 かごめの呟きの直後。妖気をぶつけ合う兄弟が矛を収め振り向いた。

 

「ほう…」

 

「ッ、なんか知ってんのか桔梗!」

 

「お姉さま、それはもしや上方で聞いたあの…」

 

 三者三様の反応を受け、必要を感じた少女は徐に当時の記憶を綴り出す。

 

「…その昔。大樹公が鎌倉におられた治世に、畿内近国から鎮西一帯を縄張りとした巨大な化け犬がいたらしい。名は"闘牙王"(とうがのおう)とも"犬の大将"とも国によって様々だが、いずれの伝説も幾振りの強大な力を持つ妖刀を振るっていたとされる。主の死後の行方は知らぬが…」

 

「…それがおれの親父、だってのか…? 刀なら殺生丸がそれっぽいのを一本腰に持ってやがるが…」

 

「ああ。眉唾な御伽噺だと思っていたが、もしかしたらおまえの兄の刀と対になるものが父君の墓に納められているのやも知れぬ」

 

 かごめは途轍もない妖力を帯びた男の得物を指さす。当初より警戒していた妖刀だが、真実が伝説の通りならば未だ殺生丸が手にしていない幾振りが残っているはずだ。

 

「…なるほど、妖怪の間で知れ渡るほどの巫女ならばその知識も頷ける。かつて我らの偉大なる父が自らの牙から打ち出した二振りの片割れにして、一振りで百の妖怪をなぎ倒すと謳われる妖刀……名を"鉄砕牙"(てっさいが)。それが父上の墓に残されている我が一族の宝刀だ」

 

「ほーん、で? なんでその宝物の在りかをおれが知ってることになってんだ。親父のことなんてほとんど覚えてねえぞ」

 

「"見えるが見えぬ場所、真の墓守は決して見ることが出来ぬ場所"、それが墓の手がかりだ。真の墓守とやらが貴様なら知らぬのも道理。…故に────」

 

 心底興味がなさそうな犬夜叉へ、殺生丸が目を向ける。その瞳はまるで道端の蟻を見るかのように何気ない。

 

 

「────やれ、邪見(じゃけん)

 

 

 だがその指示が飛んだ瞬間、犬夜叉たち三人の目の前に巨大な炎の塊が現れる。

 それとほぼ同時。

 

「ッ、離れろ犬夜叉っ!」

 

 少年は突然横から受けた衝撃に突き飛ばされた。

 

「なっ、桔梗!?」

 

「お姉さまっ!」

 

 狙われた犬夜叉本人すら固まる一瞬の最中、その体を動かしたのは鈍った巫女の直観とは異なるもう一つの、女の力。されど身代わりとなった彼女は、殺生丸の側に侍る従者、邪見(じゃけん)の持つ"人頭杖"の妖炎の直撃を受けてしまう。

 

「あの甘い父上のことだ。己の恥とは言え実の息子、瀕死にまで追い詰めれば自ずと墓への道を開いてくれよう」

 

「ふっふっふ、年貢の納め時というやつよ───って、人の話を聞かぬか犬夜叉!」

 

 襤褸雑巾のような姿で転がる人間の女など見向きもせず、大妖怪とその従者が淡々と次の手を準備する。だが犬夜叉と楓は最早敵に備えるどころではない。

 

「桔梗!? おまえ……クソッ! しっかりしろ桔梗! 桔梗ォッ!」

 

「ッおのれぇ、よくもお姉さまを…っ!」

 

 二人は苦しげに体を抱くかごめの下へ殺到する。幸い意識が飛ぶほどの怪我ではなかったのか、かごめが動揺する少年と老女へ微笑み無事を主張した。

 

「くっ……だ、大事ない、掠り傷だ…! 楓は急いで村人たちの避難を頼む!」

 

「お姉さま…! ッ、わかりました。どうかご無事で…っ」

 

「頼んだぞ、私はやつらを村から遠ざける!」

 

「な、おい待ちやがれ桔梗っ!」

 

 悔しげに去る楓を見送り、よろよろと立ち上がったかごめは犬夜叉の制止を振り切り森の奥へと走り出す。だがその足は覚束ず、少女は飛び込んだ獣道を十歩といかない内にガクリと膝から倒れ込んだ。

 

「桔梗!? てめえまた無理しやがって───ほら、掴まってろ!」

 

「あっ」

 

 立ち上がろうとするかごめを横抱きに、犬夜叉は彼女を匿える安全な地を求め全力で森を疾走する。

 

 断じて認めやしない。しかし本物の妖怪になりたいと願う犬夜叉の理想の姿は常に、孤高にして最強、唯我独尊の妖怪らしい妖怪である長兄、殺生丸そのものだった。故に少年は、恐らく誰よりもあの大妖怪と己の埋め難い力の差を理解していた。

 

 以前のように独りであれば、いつもの意地で臆することなく迎え撃てただろう。その蛮勇がどのような結果であれ、自分を半妖と罵り侮る者へ抗う己の誇りを守れるのであれば、それでよかった。

 

 だが犬夜叉には、己の誇りより遥かに大切なものが出来てしまった。桔梗という、自分の強大な妖怪の血を捨ててでも共にいたいと思った巫女が。かごめという、そんな桔梗が願った"ただの女"として生まれ変わった奇跡の少女が。

 

 そんな惚れた女に身を挺して守られ、結果、腕の中の彼女は立てぬほどに傷だらけ。

 なんと、なんと不甲斐ないことか。

 

「は、放せ犬夜叉っ。少し転んだだけだ、一人で走れる…!」

 

 抵抗し暴れる彼女の四肢は手折れそうなほどに細く、胸板を叩く拳も非力な女のもの。あの一騎当千の巫女を巫女たらしめる力は破魔の霊力のみで、その残酷な事実が犬夜叉の心を搔き乱す。

 そして、生まれた感情は新たな決意へと昇華する。

 

「うるせえっ、"ただの女"なら大人しくおれに守られてろ!」

 

「…ッ!」

 

 犬夜叉の怒声に少女が押し黙る。

 たとえ霊力が優れていようと、弓の名人だろうと、多様な術に明るくとも。それら彼女の強さは何一つとして彼の意思を曲げる力になり得ない。何故ならその根幹にあるのは、理屈などという誰にでも導ける答えではなく、胸に抱く愛する女を手放したくない一人の男の矜持なのだから。

 

 しかし。

 

 

「────鬼事(おにごと)に興じる気はない」

 

 

 如何なる強き意思であっても、絶対的な力の差を覆すは修羅の道。

 

「なっ───ぐあァッ!?」

 

「犬夜叉!?」

 

 元より人一人抱えた彼の足で逃げ切れる相手ではない。気付いたら二人は追手に捕捉され、咄嗟に少女を庇った犬夜叉は鉄をも斬り裂く憎き兄の攻撃を喰らっていた。一瞬の異物感の後、強烈な熱が背中を焦がす。少年はかごめを抱き抱えたまま慌てて地面に転がり回避を図った。

 

 だが彼の試練は未だ始まったばかり。

 

「ほう、その人間ごと我が"毒華爪"(どっかそう)にて溶断するつもりだったが……少しは腕を上げたと見える」

 

「あ……が、か、体が…!」

 

 どろりと体中の筋肉が脱力し、即座に犬夜叉は自身に起きた異変の正体に思い当たる。しかし気付いたところで意味など無く、大切に抱えていた少女はいとも簡単に腕から零れ投げ出された。

 

「犬夜叉!」

 

 追撃。体が縦に真っ二つになったかのような激痛に、少年の視界が一瞬で闇へと引き摺り込まれる。だが犬夜叉は耳元に微かに届くかごめの悲鳴を聞いた瞬間、遠のく意識を必死に手繰り寄せた。

 

「ちくしょうッ……死んで、たまるか!」

 

「フン、()()()たまるか。父上にはさっさと墓の在りかを示して頂きたいものだ。此奴のような雑魚を殺さず痛めつけるのは難儀が故に」

 

「てめえェッ…!」

 

 路上の石ころが蹴り飛ばされるように身体が宙を舞う。半妖のことなど眼中にすらない殺生丸の圧倒的な力に晒され、犬夜叉はあまりの屈辱に怨嗟の念を撒き散らす。

 

 強くなりたい。誰にも負けない強い男に。目の前の傍若無人を超える、絶対的な力を持った強い自分に。

 

 そう願う彼の意思に、懐の宝珠が妖しい光を帯びた。

 

 

『!!?』

 

 

 直後、相対する四人は同時に驚愕の声を上げる。

 満身創痍の犬夜叉の、右目。彼の象徴とも言える金色の瞳から突如、謎の渦が発生したのだ。

 

「なっ───うわああァァッ!?」

 

「犬夜叉!? くっ、何だこれはッ!」

 

 それは一瞬の、抵抗する意思すら芽生えぬ須臾の出来事。目の錯覚かと己を疑ってしまった僅かな隙に、膝を突く犬夜叉と彼を抱き留めるかごめは開いた渦の引力に成すすべなく吸い込まれた。

 

 

 如何なる望みも叶えると伝わる四魂の玉。巫女の手を離れ半妖へと渡ったそれは、少年の最初の願いに応じ、最も身近な()の下へいざなう小さな一押しとなった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

妖刀・"鉄砕牙"(下)

 
感想・評価まことにありがとうございます。いつもニヤニヤ見させてもらってます

お待たせしました、鉄砕牙シーンの後編です。書き直しまくって展開がごっちゃになったので、幾つかの名シーンをカットしました、済まぬ…

ではどうぞ!
 


 

 

「────犬夜叉が…消えた?」

 

 

 偉大なる主に仕える小鬼の従者、邪見(じゃけん)は目の前で起きた出来事に唖然と顎を垂らす。

 

 瀕死の犬夜叉を追い詰めることで、大層次男を──もといその母親を──贔屓していた父君の愛情を逆手に取り、奴の形見の類に仕組まれているであろう墓への道しるべを開かせる計画。その最中、倒れ伏す半妖が突如現れた謎の風穴に周囲の空間ごと呑み込まれ、気付けば主従の佇む森は二人を除く無人となっていた。

 

「み、巫女もおらぬ。彼奴らめ、一体どこへ…!」

 

 焦る邪見は、しかしふと無言の主人の様子が気になり姿を探す。そこには犬夜叉と四魂の巫女が消えた辺りへ近付き、地面の一点を見つめる彼がいた。

 

「…殺生丸さま?」

 

 叱咤を恐れこそこそと青年の下へと近付くと、視線の先には何やら輝く小さな玉が。およそ斯様な場に落ちているとは思えぬ美しい漆黒の宝珠に邪見は息を呑む。

 

「黒い、真珠…? 何故にこんなものが犬夜叉の消えたところに…」

 

「"人頭杖"を寄越せ」

 

「…へっ? あ、は、はいっ!」

 

 唐突な指示に慌てて手の大杖を差し出すと、殺生丸が突然、転がる黒真珠へその先端を突き立てた。 

 

 すると。

 

 

「こ、これは───翁の顔が笑った!?」

 

「フフ、ようやく見つけたぞ…!」

 

 

 "人頭杖"の頭部より「カッカッカッ」と不気味な嘲声が響くと同時、二人の正面に先ほどの渦が再現した。間違いない、犬夜叉を吸い込んだものと同じ宙の洞穴だ。

 

「なんと…! もしや犬夜叉はこの黒真珠の中に逃げ込んだのですか?」

 

「右目に封じられし冥道への入り口。まさかそんなところにあろうとは、父上も妙なところに隠したものよ」

 

「で、ではこの渦の先に父君の御墓が───って、あ、殺生丸さまお待ちを!」

 

 微塵の躊躇いなく異界の門を潜り消えて行く主を追う邪見。二百と余年もの"宝探し"を経、ようやく見つけた確かな手がかりを前にしても殺生丸の頬に綻びはない。愚弟に先越された憤りに眉間を顰める青年とその従者は脇目も振らず、渦の奥の暗闇へと姿を消した。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 微睡みの闇が、突如深い雲に覆われる。眩いばかりの世界で閉じたはずの目が眩み、犬夜叉は光を遮ろうと手を翳して瞼を開けた。

 その瞳に、安堵にほっと胸を撫で下ろす焦げた襦袢姿のかごめが映る。

 

「こ、こは…」

 

「…気付いたか、犬夜叉。話すよりその目で見たほうがいいだろう」

 

 視界が晴れ、直後強烈な突風と竦むような浮遊感を感じる。少女に促され慌てて辺りを見渡した少年は、あまりの天変地異に目を疑った。

 

 目の前に広がるは辺り一面の剣山。壮大な空を斬り裂く巨人の槍矛の如き山々は、その全貌を雲海の中に隠している。だが犬夜叉の見開いた眼が囚われているのは眼下の果て無き山脈でも、空飛ぶ無数の骨の鳳でもない。

 

「お、親父…!?」

 

 力を欲し、訳がわからぬままに連れてこられた少年は、見知らぬ地にて巨王の屍を刮目する。雲を貫く峰の上に、まるで畳床机(たたみしょうぎ)のように腰を下ろす、大きな大きな骸の武者を。

 

「まさかおまえの体の中に墓への入り口が隠されていたとはな。見事な結界だ、私ごときでは及びもつかぬ…」

 

 あれこそが父、"犬の大将"の霊廟。

 かつて母が愛おしそうに語ってくれた、この世で最も強かった大妖怪の、成れの果てであった。

 

「うおっ」

 

「ちゃんと掴まれ、わざわざ運んで貰っているのだから」

 

 父の威容に圧倒されていると、突如足下が大きく揺れた。羽毛を掻き分け顔を上げた犬夜叉は、周囲の空に隊列を作る骨の鳥たちの姿を捉える。その内の一羽の背に乗っていたのだと遅れて気付き、墳墓の主の息子は少女と共にそのまま父の遺骨の中へと歓迎された。

 

「静かに眠るおまえの父君には申し訳ないが、ここで態勢を立て直そう。楓や村のことを思えばあまり悠長にしていられぬが…」

 

「いや、殺生丸は敵に逃げられた腹いせに村を襲うようなヤツじゃねえ。おそらくおれが外の世に戻るのを待ってやがる」

 

「…ならまずは父君の妖刀を探すぞ。御墓のことと言い、おそらく殺生丸の欲する"鉄砕牙(てっさいが)"とやらは…おまえに授けられたものだ」

 

「おれに授けられた?」

 

 犬夜叉は思わず隣のかごめへ振り向く。言われてみれば、墓の鍵守と継承者を別とする理由など思い付かない。自分の体の中にあったのなら、それは自分のものになるのだろう。

 そう悶々と思考に耽る犬夜叉の耳を、かごめの優しげな声が包み込んだ。

 

「犬夜叉。おまえは兄には好かれなかったが……お父上には確と愛されていたのだろうな」

 

 まるで自分のことのように嬉しそうな微笑。泥煤に塗れど微塵も陰らぬその美しい相貌が少年の胸を高鳴らせる。肌着一枚の服装といい、直視に堪えなかった犬夜叉に出来たのは、自身の水干を彼女に手渡すことだけだった。

 

 一拍遅れて上着の礼を返したかごめは、すると何故か頻りに襦袢を弄り始めた。

 

「…しかし困った。こんなはしたない無礼な装いではとても、その…この場には…」

 

「女なら水浴び終わった直後に気付きやがれ! なんで今になっていきなり気にしだすんだ、変なやつ」

 

「……何でもない」

 

 恥じ入るように胸元の上衿を整える少女から目を逸らし、何とか雑念を振り払おうと少年は一足先に道の奥へと急ぐ。

 

 幾億の妖怪の髑髏が石畳を成す、巨王の腹の最奥。山一つ丸呑みにするほどの大顎を潜り、肋骨を這う蔓を掴み降り、辿り着いた先に、犬夜叉は豪奢な台座に突き刺さった一本の(なまくら)を目にした。

 

「…何だこれ?」

 

「強固な魔除けの結界を感じる。妖力を持つ者がこれを抜くのは至難だろう」

 

「何でこんなモンにそんな大それた守りが───まさかこのボロっちいのがその(てつ)ナントカとか言う親父の妖刀だってのか?」

 

 眼前の錆び刀を胡散臭そうに見つめながら、台座に立った犬夜叉は手垢で解れるボロボロの束を何気なく引き抜こうとした。

 

 だが。

 

「ぐっ!? ぬうううッッ!! な、何で…!」

 

 つっかえた力は捻る腰を伝い少年の素足を後退せる。突き刺さった刀は台座はおろか大地そのものにも等しくびくともしない。

 

「そんな手負いの体で無茶をするなっ、妖怪の血を持つおまえにこれは抜けぬと言っただろう」

 

「ぜー…ぜー……だったら人間のてめーがやってみろ。そんな棒切れみてえな細腕で抜けるか見ものだぜっ」

 

「私が?」

 

 ムキになった犬夜叉の嫌味にかごめがきょとんと目を丸くし、続けて首を竦めると小さく視線を彷徨わせた。

 

「人間相手に作用する術の類は見当たらぬが……その、いいのか? 私が勝手に…」

 

「ふん、そんなに抜ける自信があんなら見せて貰おうじゃねーか」

 

「…………失礼仕ります」

 

 台座へ静々と礼をするかごめの奇行に「誰にことわってんだ」と首を捻っていると、自身の苦戦が嘘のようにスッと刀が少女の華奢な手に引き抜かれた。

 

 

「ぁ…」

 

「嘘、だろ…?」

 

 

 感動も何もない。まるでそれが当然であるかのようにかごめの両手で掲げられた古刀を、二人はまじまじと見つめる。

 

「…親父のやろぉ、何で桔梗に…! "礼儀"か? 礼儀が足りねえってのか? まさか"女"だとか言うんじゃねえだろうな!?」

 

「そんなわけがあるまい。しかし……私がお父上殿からこの大役を…」

 

 大した労ではなかったはずなのに、妙に面映そうな顔で感慨に浸るかごめの姿が犬夜叉の神経を逆撫でする。

 

「けっ、ヤラセだヤラセ! 人間にしか抜けねえならてめえに抜けて当然だろ。とんだ茶番だぜ、ったく」

 

「わかっているさ。…ただ少しだけ……特別な意味を感じた気がしただけだ」

 

「特別な意味ぃ?」

 

 少女と、"鉄砕牙"を託した父。武器や死者と共に自分の世界を築く彼女が気に食わず、犬夜叉の声には棘が尖る。そんな彼にかごめは「忘れろ」と首を振り、そして一息の後、空気を一変させた巫女が恭しく刀を差し出した。

 

 

「────お納めくださいませ、彦君さま」

 

 

 父王の骸の中に、楚々と跪いた巫女の涼音が木霊する。焼け焦げ破れた肌着姿すら高貴に見せ、少女が傅くだけで景色は唐土(もろこし)の含元殿が如き厳かな空間へと変貌する。その両手に差し出された鈍のみすぼらしさは転じて真逆の神聖さすら覚え、まるで神器の宝剣のように見えた。

 

 美しく洗練された仕草で自分へこうべを垂れる桔梗。犬夜叉はそんな彼女の淑やかで神秘的な姿に息を呑み、暫しの間固まってしまう。

 

「…彦君さま?」

 

「え、あ。お、おうっ」

 

 思わず見惚れていた犬夜叉は少女の困惑げな声を耳にし慌てて姿勢を正す。そして、この瀟洒な乙女に敬われるに相応しい男たれと胸を張り、必死に厳顔を保ちながら鷹揚に宝刀を受け取った。

 

「たっ、大儀でありゅっ!」

 

「……フッ。まったく締まらぬやつだ。父君の墓前でくらいしゃきっとしなさい」

 

「う、ううるせえ! てめえがいきなりヘンなこと始めるからだろ!」

 

 照れ隠しに視線を逸らした犬夜叉は、元の"ただの女"に戻ったかごめの苦笑顔から逃げるように手元の妖刀を確かめる。

 

「…ただのボロ刀だな」

 

「まさか。その刀には妖力に呼応する封印がかけられている。妖怪の血を持つおまえなら解放出来るはずだ」

 

 呆れる声に従い自らの妖力を注ぐも、刀は無反応。何が足りないのだと苛立つ犬夜叉は、ポツリと後ろから聞こえた「犬夜叉の力と言えば…」のかごめの小さな呟きに思わず振り向いた。

 

「────"優しさ"…」

 

「えっ?」

 

「ッ、何でもない」

 

 まさか聞かれるとは思っていなかったのか、慌てて取り繕った少女は誤魔化すように歩みを早め、来た道を引き返そうとする。

 つい緊張が途切れ気が緩んでしまったが、これは父君の下さった束の間の平穏。あまりもたもたしていると追っ手が強引な手段を投じてくるだろう。半妖の犬夜叉と違い容易く傷を癒すことが出来ないかごめは体の調子を確認しつつ、再度気を引き締める。

 

「それよりさっさと"鉄砕牙"を使い熟せ。あの殺生丸が何の策も無く私たちを外界で待ち続けているわけが───」

 

 だが少女がその言葉を言い終えることはなかった。

 妖刀と睨めっこを続ける犬夜叉へ目掛け、突如とてつもない妖気が襲いかかったのである。

 

 

「────ありえん。貴様のような汚れた血の半妖に、父上の宝刀が抜けたと言うのか…!」

 

「ッ、殺生丸!?」

 

 

 咄嗟に刀を構え向かい合う犬夜叉。まさかの招かれざる来客に少年は顔を大きく歪める。

 

「てめえ、一体どうやってここまで…っ」

 

「封印破りの"人頭杖"、我が母より譲り受けた妖杖の力だ。封印の在りかさえわかれば道を開くなど容易いことよ」

 

「ぐっ!?」

 

 恐るべき速度。青年の指先が描いた軌跡に沿い、繰り出される光の鞭が犬夜叉の体を叩き飛ばす。

 

「父上の加護か、あるいはその懐の下賤な石ころの力か。多少傷が癒えようと体を侵した毒は容易く抜けぬ」

 

「くっ…犬夜叉、一旦下がれ! 此奴はお前ひとりでは倒せぬ!」

 

「ゲホッ、ゴホッ……うるせえ桔梗、てめえは引っ込んでろ! これはおれの戦いだッ!」

 

 かごめの制止を振り切り、意固地な犬夜叉は我武者羅に挑む。刀身に血と妖力を纏わせ宙を一閃。即席で妖術を応用するなど、手にした得物を何としてでも使い熟して見せると並みならぬ決意を胸に抱きながら。

 

「桔梗から受け取ったこの刀で…おれは殺生丸を超えて見せるッ!! 喰らいやがれ───"飛刃血刀(ひじんけっとう)"!!」

 

「貴様の穢れた血で"鉄砕牙"を汚すでない。父上の宝刀はそのような児戯のために存在せぬわ!」

 

「ッぐあァッ!!」

 

 自慢の武技も通用せず、毒爪の暴風を前に犬夜叉は成すすべなく甚振られるばかり。瞬く間に血と溶解毒に塗れた襤褸雑巾となり、少年は無様に父王の腹内に倒れ伏す。

 

「犬夜叉! おのれよくも…っ!」

 

「殺生丸さまっ、女子はこの邪見にお任せを! 巫女め、この翁面の妖炎を受けるがいい!」

 

「ッ、邪魔をするな小妖怪!」

 

 無理やり加勢しようとかごめは殺生丸へ弓を引くが、従者邪見の"人頭杖"の炎玉がそれを阻む。雑魚に挑発され感情のままに破魔の矢を解き放てば、炸裂する余波のみで敵は「ヒョアアァッ!?」と逃げ惑う。鎧袖一触で小者を追い払ったかごめは今度こそと犬夜叉の戦いへ急行した。

 

 だが、愚弟に長きの悲願を掠め取られた兄の怒りは、尋常に非ず。

 

 

「────そら見たことか。貴様如き弱者に父上の妖力が受け継がれるはずもなかろう」

 

「ぐ……ぁ…」

 

 大妖怪殺生丸と半妖犬夜叉。そこには大狼と子狗ほどの隔絶した差があった。猛毒の濃霧が両者の周囲を覆うその中心でかごめが目にしたのは、少年のかつてない危機。力なく"鉄砕牙"を手から零し、皮膚が暗苔色に毒付いた瀕死の犬夜叉がそこにいた。

 

「────ッ」

 

 視界が真っ白に染まる。後も先もなく、少女は我も忘れ毒霧の中へ飛び込み、倒れる犬夜叉へ必死に手を伸ばした。

 

「犬夜叉……しっかりしろ犬夜叉っ!」

 

 覆い被さる犬夜叉に半ば押し倒されながら、かごめは力の限りで彼を抱き留め盾となる。微かな鼓動が少年の命を繋ぎ止めていた。

 

「き……桔梗…」

 

 弱々しい声が鼓膜を震わせる。遠い昔、封印の矢で彼を射抜いたときと同じか細い声。

 かつての悲劇が頭を掠める。彼を抱きしめるかごめの胸奥で、ザアッ…と何かが翻った。

 

 その瞬間。女は近付く二体の妖怪へ、背負った弓を薙刀のように振るっていた。 

 

 

「…!」

 

「ッまたアアアッ!?」

 

 

 爆発的な光が辺りを照らし、あれほど渦巻いていた毒気があっと言う間に浄化される。

 

 霊峰の如き澄んだ空気の中、驚き身構える妖怪たち。その視線に晒されながら、かごめは抱きしめる重症の犬夜叉を優しく下ろし、ふらりと幽鬼のように立ち上がった。

 

 

「────許さぬぞ、妖怪共」

 

 

 かちり、かちりと脳裏で何かが噛み合う音が聞こえる。己の中にあった無数のズレが整い始め、捨てたはずの生き様が蘇っていく。焦がれた"女"をかつてのように封じ込め、弓を構え敵を睥睨するかごめは、かくして前世の死兵の如き"巫女"を取り戻した。

 

「だめ…だ………桔、梗…っ!」

 

 沈痛な声色で惚れた女の変わりようを嘆く犬夜叉の声は届かない。守るべき者を背に、今世の身に宿った膨大な力を呼び覚ました四魂の護り手が、遂に、想い人を傷付けた下手人へ弓を引く。

 

「…なるほど、長らく四魂の玉を守り抜いてきただけのことはある」

 

「な、なんという夥しい霊力…! 殺生丸様っ、この女子は危険です! 直ちに殺さなくては後の大いなる災いとなりまするぞ!」

 

 巫女の威圧に後退る従者を無視し、殺生丸は澄ました顔を改める。取るに足らないはずの鼠がまさかの牙を持っていた。金色の目を細める些細な仕草は、そのような油断を感じさせる大妖怪らしい変化であった。

 

「…よかろう、貴様はこの殺生丸が直々に殺してやる」

 

 初めて妖怪が女へ殺意を向ける。その気迫や、巫女の決死の覚悟をも呑み込む大妖怪の証。妖気が男の背後で鬼面を象り、それを見たかごめは即座に纏う霊力の密度を倍増させる。巫女が妖怪に怖気づくなどあってはならない。

 

「舐めるな(もの)()っ。おまえ如きに犬夜叉を殺させるものか…!」

 

「人間風情が半妖を守る片手間にこの私と戦うなど、その愚かさを知るがいい!」

 

 目にも留まらぬ速さで大地を駆け、一気に距離を詰める殺生丸。周囲に一切の余波を撒き散らさない卓越した技量は芸術の域にまで至っており、その僅か一歩の動きで、男が如何に己の半生を武力の研鑽に捧げてきたかが見て取れる。

 だがこと妖退治において天下無双を誇った巫女の直感は、並の人間なら残像すら見えぬ神速の縮地すら凌駕する。殺気を捉えたかごめは迫る敵へギョロリと瞳を向け、再度膨大な霊力を纏わせた弓を横へ薙ぎ払った。

 

 破裂音、そして続く砂塵を巻き上げる爆風。巫女の首筋へ迫った殺生丸の五指の毒爪が清浄な光に焼け爛れ、堪らず男は勢いそのまま弾かれるように距離を取った。

 

「…厄介な力だ。触れるだけで傷付き、毒まで浄化されるとは…!」

 

「破魔の霊力の前にはおまえたち妖魔の全てが無力! その野望ごとここで朽ちなさい!」

 

「朽ちるは貴様だ、我が毒爪にて屍と化せ!」

 

 妖怪の優れた回復力で瞬く間に殺生丸の傷が癒える。直後男の手からどす黒い緑色の毒霧が吹き出し、足下の骸畳が氷のように溶け出した。血縁の犬夜叉すら微量で体の自由を奪う、戦国最悪との呼び声高い殺生丸の毒華爪(どっかそう)。滴る体液は大地を腐らせ、その地の命を千年も奪い続けると言う即死の劇物だ。

 無論そのような不浄を周りに散らさせるかごめではない。一瞬で術を練り上げた巫女は男の攻撃を転がるように躱し、取った背後で自慢の切り札を行使した。

 

「捕らえたぞ…!」

 

「結界か、小賢しい真似を」

 

 眉間を顰め、男は無造作に腕を振るい自分を覆う不可視の檻を斬り裂こうとする。だが村を覆っていたものとは比べ物にならない"巫女"の結界は容易くその爪をはじき返した。

 

「ッ、何っ!?」

 

 そして大妖怪の顔から、今度こそ全ての余裕が消え去った。

 

「犬夜叉の兄君だろうと慈悲はかけぬっ! これで終いだ、殺生丸!!」

 

「────!!」

 

 気付いた時、既に遅し。ゾッとする尋常ならざる密度の霊力を感じた殺生丸は咄嗟に振り向き、そこで見事な姿勢で矢を番えるかごめの姿を瞠目した。

 あんな馬鹿げたものを真面に喰らえば如何な大妖怪とて肉片一つ残さず消し飛ばされる。だが結界に囚われた男に逃げる場所など皆無。

 

 傲慢を捨て死に物狂いで霊力の薄膜を突き破り、巫女が放った必殺の破魔の矢が男の胴に襲い掛かったのは、全くの同時であった。

 

 

「せっ、殺生丸様アァァッ!!」

 

 

 従者の絶叫を掻き消す炸裂音が轟き、せめぎ合う妖力と霊力が二人の争う巨王の腹内を照らし出す。

 

 そして一同は荒れ狂う光に呑まれ、白の世界に吸い込まれた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「────ハァッ……ハァッ……ッ何だ、その刀の結界は…っ」

 

 

 声が聞こえる。誰よりも愛おしい女の声が。

 

 霞む視界の中、犬夜叉は僅かに残った意識で瞳を動かし辺りを探る。兄の猛攻に成すすべなく倒れ、人間はもちろん並の妖怪なら瞬く間に溶け消えるほどの溶解毒に侵される彼はまだ、小さな命の灯火で生きていた。

 

「ま、まさか……"天生牙"(てんせいが)の結界が殺生丸様をお守りに…?」

 

 耳元に新たな声が響く。少年は片目でその嗄れ声の主の小柄な姿を捉え、続いて例の従者の視線の先を追った。

 そこには濛々と立ち込める土煙と、その奥を睨みながら膝を突く傷だらけの美しい少女がいた。

 

 咄嗟に彼女の名を叫ばなかったのは争う強者同士の戦いに水を差すことを恐れたからではない。単純に、口が、喉が、自分の体の全てが鉛のように重く、指先一つ動かせなかったからだ。

 

『!!』

 

 突如発生した強い妖気が辺りの粉塵を吹き飛ばす。その中に、憎き長兄殺生丸が佇んでいた。常の毅然とした面持ちを僅かに歪め、自分の抉れた血だらけの腹部を押さえながら。

 

 

「────くだらん」

 

 しばしの時の空白を置き、大妖怪が忌々しげに呟く。

 だが次の瞬間。

 

「ッ、しまっ!?」

 

「"天生牙"め、この殺生丸がたかが人間の巫女風情に後れを取ったと言いたいのか」

 

 瞬く間に少女の下まで飛翔した殺生丸は、声を上げる時も与えず彼女の首を掴み上げた。生きていることが不思議なまでの大怪我を物ともしない大妖怪は、正しく末法世界の魑魅魍魎の類。

 

「如何に霊力に長けようと所詮は脆弱な人間。このまま蹂躙してくれる…!」

 

「く、放───ッかはっ!?」

 

 無体を働く大妖怪へかごめが破魔の霊力をぶつけようとするも、男は容赦なくか弱い人間の腹へ膝蹴りを放つ。少女の端正な桜色の唇が鮮やかな血の紅に染まり、一撃で戦意を削ぎ落された彼女の顔が激痛に歪んだ。

 

「…き……きょう…ッ!」

 

「ほう、まだ息があったか犬夜叉」

 

 兄の非行に視界が一瞬で憤怒と焦燥の赤に染まり、犬夜叉は咄嗟に声を絞り出す。

 だが真の怒りの矛先は無様な自分自身。惚れた女の危機を前に惨めに倒れ伏し、一体自分は何をやっているのか。何も出来ない犬夜叉は己の側に刺さった宝刀へ死力で腕を伸ばすも、奮闘実らず父の"牙"には届かない。

 

「丁度いい。貴様ら纏めて"鉄砕牙"の試し切りに使うてやるわ」

 

 首の手を放されたかごめの体が糸の切れた傀儡の如く地面に崩れ落ち、幾度も鮮血を吐いている。一刻も早く手当をしなければ命に係わる大怪我だ。

 

 だが。

 

 

「────"鉄砕牙"に……触れる、な…っ」

 

 

 骸の石畳に刺さる宝刀へ踵を返す殺生丸。その袴の裾を、かごめの力ない指先が掴んでいた。

 

「それ、は…犬夜叉の……ものだ…! 触れれ、ば…討つ!」

 

 臓腑が潰れているのだろう。笛の音のような痛々しい呼吸音が紛れる彼女の細声は、無情にも大妖怪の慈悲を得ることはない。容易く蹴り飛ばされ、犬夜叉の片目に自分の側まで転がされるかごめの姿が映る。彼女の受けた仕打ちも、傷も、全てはこの自分の不甲斐なさが招いた結果であった。

 

 止めろ、もう十分だ、頼むから逃げてくれ。そう叫ぶ犬夜叉の声は意味なき擦れた吐息となり、猛毒に侵された喉から零れ出るだけ。何も出来ず、ただ愛した女が嬲られる様を見続ける少年に最早当初の威勢はなく、無力な彼にはただただ頭を垂れ、顔も知らない父へ慈悲を懇願することしか出来ない。

 兄を倒す、力が欲しいと。

 

 

「…理解出来んな。何故奴と殺し合った巫女の貴様が、そうまでしてその半妖のために私へ弓を引く」

 

 少年の想いも空しく、血涙浮かぶ眼で殺生丸へ抗うかごめ。犬夜叉と"鉄砕牙"を守ろうと体を投げ出す彼女の手には圧し折れた弓が。そんな瀕死の巫女の心中がわからない大妖怪が冷めた声で問いかける。

 奇しくもそれは犬夜叉自身が抱いていたもので、同時に問うことを恐れ続けていた疑問であった。何で戦おうとする。おまえは何でおれなんかのためにそこまでしてくれる。

 

 ───前世でおれを騙し殺そうとしたおまえは、何で今世もおれのそばに居ようとする。

 

 少年は今、身に過ぎた光景を見ていた。言葉の答えにすら臆していたと言うのに、彼の前には惚れた女が地べたに這い蹲りながらも男を守ろうと身を挺する姿が。言葉以上に強い意思を必要とする、行動による答えが、犬夜叉の前で示されていた。

 

「フッ、ククク…」

 

 そして。

 そんな彼女の意思は、人ならざる化物たる殺生丸ですら認識出来るほどに、純粋なものであった。

 

 

「そうか貴様ら。巫女と半妖の身で───恋を育んだか」

 

「…ッ!」

 

 

 かごめの息を呑む、痛ましい悲鳴のような音が聞こえた。秘めた想いを憎き物の怪に悟られた屈辱、失笑に対する怒りか、あるいはこの場にいる相手の少年へ心の内を知られてしまった動揺故か。倒れ伏す犬夜叉と桔梗、交差した二人の瞳は彼女の一瞥で別れ、悔い入るように沈痛なその麗容が俯き隠れる。

 まるで、許されない罪を暴かれた絶望に打ちひしがれるかのように。

 

「全く。父上も卦体(けたい)な嗜好をしておられたが、そこな畜生はそれに輪をかけて救いようがない。相容れぬ人間の中でも最たる仇敵に懸想するとは……反吐が出るほどに似合いではないか。のう、薄汚れた石ころの下婢(かひ)よ」

 

「…ッ、おまえに…っ、犬夜叉の何がわかる…!」

 

 血と泥に塗れながらも、屈するものかと大妖怪を睨み付ける少女。だがその険しい表情は悲愴の陰に覆われ、見せる反抗も弱々しい。そんなかごめの真意は、残された僅かな意地で声を荒げる哀れな彼女の姿が十分に語っている。

 

「わからんとも。穢れた血の雑種の考えることなど、何一つとしてわかりたくもない。そしてそんな貴様らの成す恋そのものが、我ら全ての妖怪に……いや、人妖全ての生きし者にとっての禁忌───」

 

 そして、止めとばかりに。冷酷非情な大妖怪は、二人を繋ぐ心の糸を両断した。

 

 

 

「────この世にあってはならない、唾棄すべき大罪だ」

 

 

 

 その言霊が両者の間を通り抜けた瞬間。犬夜叉を背に震えるかごめの身体が、凍った。

 

 彼がくれる優しさに泣きそうな思いで甘えながら、それを夢の泡沫のような危うい日常だと理解し、されどそのシャボン玉が弾け消えてしまうことを恐れるあまり、自ら一歩を踏み出せない。かごめは、そんな薄氷を履むが如き日々を命を挺して守ろうとする、気高い女の子だった。

 

 だが想い人の危機を前に、彼との日常を守るために戦わないといけない自分は満身創痍。そんな状況で、他ならぬ()()()()()()()()()()から左様な断罪を受けた彼女に、巫女の強固な仮面を維持する力はどこにもなかった。晒け出された女の心は、前世より根付く悲劇の恐怖にいとも容易く呑まれてしまう。

 

 全てを失い、生まれ変わった新たな人生で巡り合えた奇跡の再会。まるで夢のような日々を過ごすかごめは、次第に二つの想いを抱くようになっていた。

 このまま変わらぬ平穏に甘えるか、新たな一歩を踏み出すか。そんな何の変哲もない、ちゃちな恋歌の一節に出てくるような言葉で語れる想いではない。一度夢破れ、二度目の命に己の全てを懸けて彼と共に生きる日常を守ろうとするかごめにとって、それは死に至る傷よりも痛く、辛い苦悩であった。

 

 犬夜叉の願いは自己承認。誰からも愛されず、認められず、蔑まれるばかりの哀れな半妖は、故に完全な妖怪へと我が身を生まれ変わらせる欲望の宝珠、四魂の玉を欲し、そして手に入れた。かつては人間となって共に生きて欲しいと願った前世の自分"桔梗"も、彼の根深い孤独の闇を晴らすには至らず、裏切られた桔梗は憎しみと共にこの世を去った。だからこそ"かごめ"となった今世では、前世のように自分の願いを押し付けるのではなく、犬夜叉の妖怪になりたいという思いを理解し、それを尊重したかった。

 巫女を辞めたかごめは、力こそ是とする妖怪としての犬夜叉の生き方を、それもまた彼の一面だと、愛そうとしていた。

 

 だが。 

 

 

 ────わかってしまう。

 

 

 殺生丸は、未来の犬夜叉だ。

 

 本当の妖怪でありたいと願う彼の、願いの叶った姿こそがあの兄君に相違ない。妖怪を良く知る"桔梗"にとって、それは自然と生まれる発想であった。

 ならば、今の自分の想いを悟られ、それを歯牙にもかけずに両断する殺生丸を見て、どうして犬夜叉は違っていてくれると思えるのか。妖怪になっても彼だけは私を見て、かつてのように愛してくれると思えるのだろうか。

 

 "桔梗"は知っている。

 あの最期の日に見た、想いを交わした女を迷いなく斬り捨てる、彼の────妖怪らしい残虐性を。

 

 

「犬…夜叉…」

 

 

 少年の視界に、かごめの空虚な瞳が映り込む。火鼠の衣を握る震えた手も、固く結ばれ白んだ唇も、少年を呼ぶ声も、懸命に何かを堪えようとする彼女が纏った鎧の一つなのだろうか。そこに込められた思いを、犬夜叉は毒で動かぬ唇で否定する。

 

 違う。罪なんかじゃない。

 

 巫女を辞め、ただの女となった自分の想い人。己の弱さを隠さなくなった彼女の本性に触れる度に、犬夜叉は彼女をどこまでも好きになる。

 

 凛々しさの裏に隠れた、風に散る花のような儚さが。強くあれと生き続け、故に一人の女となった今も誰かに甘えることを躊躇ってしまう謙虚な不器用さが。少しずつ心を開き見せてくれる、澄ました仮面の奥に秘められた年相応の少女の素顔が。

 そんな桔梗の全てが、堪らなく愛おしい。

 

 ───お姉さまがお主を裏切るはずがない。

 

 先ほどの楓の言葉が頭を過る。だが犬夜叉はもう、理由など、真実など、五十年前の出来事などどうでもよかった。

 たとえ二人の絆が全て同床異夢の夢幻であっても、自分はいつだって桔梗を背にして敵と戦い、どんな相手からも守り抜き──そしていつか、その夢を真実に変えてやる。

 

 

「…ッ!?」

 

 

 そう胸の奥で叫んだ瞬間、ゾクッと得体の知れない妖気が体を走り抜けた。

 

 少年は思わずその元を見る。流れる力の先は古びた刀。変わらぬ惨めな鈍、"鉄砕牙"だ。

 だがその刀身から感じる気配は桁外れ。まるで虫籠の中に獅子が囚われているかのような、歪で異様な存在感を放つ宝刀がそこにあった。

 

 ドクン、ドクン。刀を握る犬夜叉の胸を強大な力が脈打つ。何かを少年に呼びかけるかのように。

 

「…何?」

 

 その鼓動は場にいる者全てを呑み込む、強大な妖力の津波。事態に気付いた殺生丸が常の鉄面皮を崩し目を見開いていた。

 

「これは……"鉄砕牙"が目覚めようとしているのか…?」

 

「せっ、殺生丸さま! 犬夜叉です! 犬夜叉めが"鉄砕牙"に触れておりまする!」

 

「…バカな、あり得ぬ」

 

 宝刀を握る半妖の少年へ目掛け、従者の言葉に眉間の皺を深めた主が神速の速さで強襲する。

 

 その先には不運にも、茫然自失と地べたに座るかごめの姿が。

 

「邪魔だ人間…!」

 

「ぁ…」

 

 呆け顔を上げる少女の目前に、無慈悲にも大妖怪の即死の毒爪が迫っていた。

 

 

「────ッッ!!」

 

 

 燃え上がるような激情が死毒に朽ちたはずの肉体を洪水のように巡っていく。

 己の弱さを認める、己の不甲斐なさも認める。だが、それでも、何も出来ない己でも、守りたいものがあるのだ。脈打つ父の宝刀に必死に噛み付き、犬夜叉は地より引き抜かんとなけなしの力を注ぐ。

 

 力が欲しい。最強の妖怪になるためでも、半妖と馬鹿にした連中を見返すためでもない。

 桔梗を、愛した女を守れるだけの、愛した女を泣かせないための、あいつのためだけの力が欲しい。

 

 

 それは少年が初めて望んだ類の力であった。

 殺生丸が持ち、かつての犬夜叉が欲した己の覇を成すための暴力ではない。孤高な道を歩む少年には必要ない、されどその孤独を癒せる唯一の、己を支えてくれる誰かを守るための、男という生き物に許されたもう一つ力。

 愛する者を守るために振るうその"牙"は、奇しくも少年の体の中に眠る、偉大なる父の妖力そのものであった。

 

 

 

「───好き勝手言ってくれやがったなァッ、殺生丸ッッ!!」

 

 

 

 渦巻く封印と少年の妖力が巨王の納骨堂に共鳴する。そして光の散った父の骸の中、得物を構えた犬夜叉は───

 

 

「貴様、まさかそれは…!」

 

 

 ───その巨大な"牙"で少女を背に立ち上がった。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「…犬……夜叉…?」

 

 擦れるような女の声が鼓膜を震わせる。少年は背中越しに振り返り、丸い大きな黒曜石を見た。幻のような美しい少女。しかしそれは紛れもなく本物の、桔梗であり、かごめであった。

 

 守れた。やっとこいつを守ることが出来た。犬夜叉の胸に一際熱いものが沸き上がる。かつてない全能感に血が滾り、猛毒に蝕まれた身体が復活する。いつもの勝気な笑みを取り戻した少年は、ぼんやりとこちらを見上げるかごめへ笑い掛けた。

 

「随分長いことおまえを不安にさせちまったな……だがもう心配いらねえっ!」

 

「ぁ…」

 

 身の丈に迫る巨大な刀身を担ぎ、頭上に構える。時代を超えて巡り合えた大切な女の、不安を恐怖を仇なす全てをぶった切る、一世一代の大袈裟切り。

 

「目ん玉かっぽじってよぉく見とけよ、桔梗ッ! こいつはおまえが抜き、おまえが託してくれた、おまえを守るためだけにある、おれの───」

 

 そして驚愕に固まる隙だらけの大妖怪殺生丸へ目掛け、半妖犬夜叉が渾身の一太刀を振り下ろした。

 

 

「───妖刀"鉄砕牙"だァァッ!!」

 

 

 紫電の三日月が照らす巨王の腹内。耳を劈く轟音が大気を震わせ、巨大な斬撃が放った爆風のような剣圧に正面全てが呑み込まれる。鮮血が舞う妖力の大渦の中、痛恨の表情を浮かべた殺生丸が光玉に変化し流星の如く空へと飛び去るのを犬夜叉は見送った。

 

 

「…感謝するぜ、親父」

 

 

 残された半妖の少年は、得物の大剣を大地に突き刺し、取り戻した日常の陽だまりの中でどこまでも遠い青空を見上げ続けていた。

 

 その背に守りきった想い人の抱擁を受け止めながら。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

校門の銀髪ロン毛

 
いつもコメント&評価ありがたき候。
お待たせしました、現世編その1です。



 

 

 

「────やっぱ神隠しだよ」

 

 

 畳敷きの間にて、二人の男女がちゃぶ台を囲み座っている。片割れの童子の域を出ない幼い少年が零した呟きに、相席の女性はおっとりと首を傾げ手元のお茶を啜るだけ。対する少年の顔は神妙で、両者の間には奇妙な温度差があった。

 

「もう三日も帰ってない。ねーちゃん、神様に気に入られて攫われちゃったんだ…」

 

「まーあの子なら神様に求婚されても驚きませんけど」

 

「驚くよ! かーちゃんいつもは『年頃の女の子がー』とかうるさいくせに、何でこんなときに限ってそんな落ち着いてられるのさ」

 

 どこかズレている女性、母の論点に少年は肩を落とすばかり。

 少年の名は日暮草太。日暮神社の宮司一族に生まれた長男の彼は、現在人生を揺るがす大事件に直面していた。

 敬愛する姉、かごめの失踪だ。

 

 事の発端は先週金曜の晩。諸事情により祖父の管理するこの神社へ引っ越して以来何かと様子のおかしかった彼女が、十五歳の誕生日の夜に忽然と姿を消した。部活の練習を言い訳に誕生日祝いの席を立ったまま戻らず、残された日暮家三人で境内から近所周辺を探したものの未だ成果無し。気付けばもう三日が過ぎようとしている。

 大人顔負けの理性的な優等生として一目置かれていたかごめの突然の消失。非力な未成年の女の子、無論大いに心配されて然るべき事態だ。

 

 しかし、こと日暮一家における長女かごめの人物像は、その辺の無垢な女子中学生とは一線を画す異質なものであった。

 

「だってあの子見た目に似ず妙に逞しいし、誘拐事件程度なら自力で何とかするわよ」

 

「…確かにねーちゃんならついカッとなって逆に相手をボコボコにしちゃいそう」

 

 二人の脳裏に過るのは昨年の暮れ、神社に屯していた不良グループをかごめが半殺しにして追い出した事件だ。返り血を頬に垂らし「これで大丈夫でしょう」とニッコリ微笑むその姿はまさに鬼の仕事人。古の女傑の魂を身に宿すと密かに一族内で囁かれる彼女は温和な性格の裏に容赦ない激情家な面を隠し持ち、大の大人数人を容易く屈服させる生まれながらの優れた古武術使いであった。

 他にも小学校の遠足のとき、迷子の班員を探すため牧場の馬で鵯越の逆落としを再現したり、迷子を見つけた後もその辺の草や木の樹液を使った軟膏をねん挫した彼女に処方したりと謎のワイルドさを持つかごめは、今回のような大事件にも拘わらず家族からある意味絶大な信頼を寄せられていた。

 

「荒事になるとすぐ力で解決したがるのはかごめの悪い癖ね。女の子なんだから乱暴な振る舞いはダメよ」

 

「…女の子なら行方不明になったらもっと心配してあげるべきなんじゃないの?」

 

「もちろん心配はしてるわよ? どうせ自力で帰って来るでしょうから騒いでないだけ」

 

 座して長女の帰宅を待つ呑気な母に草太は首を捻る。こんな状況、家の超人娘を"年頃の女の子"として扱いたがるこの女親なら到底穏やかでいられないはずなのだが、当人は何やらニヤニヤしたままいつも通りの生活を続けている。その違和感が気掛かりで、されど少年の疑問は残るもう一人の家族が廊下から姿を現したことで棚上げされた。

 

「────ふー、疲れた疲れた」

 

「あらおかえりなさい、おじいちゃん。電話いかがでした?」

 

「うむ、三年の新担任の七瀬先生じゃった。かごめのその後の体調はどうかと心配しておられたので『まだ何とも言えません』と誤魔化してきたよ」

 

 蘊蓄が大好きな小柄な老人、草太の祖父である。深夜のサラリーマンのような草臥れた様子で座布団に座る老宮司は、日曜を挟み土月と無断欠席中の孫娘の尻拭いのため今日も鳴り止まない電話の応答で忙しい一日を送っていた。

 

 もっともその尻拭いの方法にも独特の個性があるらしく、常識人である草太は祖父の電話対応をあまり信用していない。

 

「でもじいちゃんが昨日の電話の言い訳に使ってた"ケッカク"ってやつ、いっぱい咳して血まで吐いちゃうすごい病気って辞書に載ってたよ? ただの風邪って言えば大事にならずに済んだんじゃ…」

 

「古今東西、佳人薄命の象徴と言えば結核と相場は決まっておるのじゃ。文句なら美しいかごめに言いなさい」

 

「…ねーちゃん、学校戻ったら苦労しそう」

 

 微妙に失礼な理由に草太は老人へ白い目を送る。そんな空回り気味の祖父は、長女失踪事件の真相が自慢の一族伝説に隠されていると信じ、時は来たりと宮司の使命感に燃えていた。

 

「孫の贔屓目なくともかごめは実にしっかり者のよく出来た娘じゃ。あの子が断りもせず家を出て以後音信不通だなど、それこそ古の巫女であった前世に関わるのっぴきならぬ事情があるに相違ない! やはりここは先祖代々伝わる由緒正しき神事で────」

 

「ご近所から苦情が来るので神頼みの御祈祷やるなら明日にしてください。もう夜なんですから」

 

「あ、はい…」

 

 貴重な頼れる家長アピールチャンスを嫁入り娘にピシャリと封殺された舅が項垂れる。

 とは言えそれでも老宮司が孫娘の身を案じていることに変わりはなく、またこれほど長い間行方知れずとなった以上、最早事実を隠し続けることは社会的に不可能。よってそれを三人のちゃぶ台で切り出したのは、やはり一家の長老である祖父だった。

 

「しかしのう、かごめが消えてからもう三日も経つのじゃ。一年二年と続けて皆勤賞を取っておったあの子が新学年早々休んだせいで学校でも騒ぎになっておると聞く。先生方や由香ちゃんたちから来る電話を誤魔化すのも限界。そろそろ警察に連絡せねばならぬのやも知れん」

 

「…うん、ぼくもそう思う。やっぱこのままじゃ不味いよかーちゃん…」

 

 交友関係は広く浅くを信条としていたかごめとて、それなりに親しい生徒は何人か居る。教師はもちろん、珍しいかごめの欠席に律儀にお見舞いの電話をかけてくれる学友たちのためにも、一刻も早く無事な姿を見せて欲しいと願う孫思いの祖父の願いは切実であった。

 

 

「────全く二人とも、神隠しだの誘拐だの勝手なことばっかり言って。大事にしちゃダメでしょ、かごめが困っちゃうわ」

 

 そんな弱気な男衆を窘めたのは、一人だけ何やら確信めいたものを態度に忍ばせる草太の母であった。頑なに長女を信じ、普段通り娘の帰りを待つだけの無責任な実親へ、長男が不満の声を上げる。

 

「三日も家出なんて十分大事だよ! なんでそんなにねーちゃんが大丈夫だって思うのさ」

 

「むっ、もしやママの夢枕に『かごめは無事』とのお告げがあったとか? いつの間に霊力を…!」

 

 息子は情けなく慌てふためき、舅は隙あらば神隠し説に拘る。これだから男は、と肩を落とす母は続いてニヤリと頬を崩し三日も温め続けた持説をようやく詳らかにした。

 

 

「お告げなんかなくても女親にはわかるんですよー。今あの子はおそらく────燃えるような"恋"に夢中なのですから、ふふっ」

 

『……は?』

 

 

 にこやかに「その内報告にひょっこり帰って来るわ」と言い残し、湯飲みに口を付ける母。ポカンといつぞやのように顔を見合わせる男性陣は、されど此度はただ呆れ返るだけで彼女の恋愛脳な極論には冷静だった。

 

「まーたそんなこと言って────」

 

 だが草太が口を開いたその瞬間、一同が集う社務所の玄関から物々しい音が聞こえてきた。

 そして何事かと腰を浮かせた祖父と草太の視線の先の廊下に、待ち焦がれた最後の家族が現れた。

 

 

 

「────只今帰参致しました、おじいさま、お母さま、草太。長らくご心配おかけした次第にて、まことに申し訳ございませんでした」

 

 

 

 突然の事態に唖然とする男衆の後ろで、母がいやらしい笑顔を浮かべながら娘の帰還を歓迎する。面目なさそうに三つ指突いて下座をする若い少女を凝視すること数瞬。ようやく目の前の光景を脳が許容した草太と祖父は、三日ぶりとなる喉が潰れるほどの大絶叫を解き放った。

 

『ホ、ホントにひょっこり帰って来たああっ!?』

 

 我に返った男たちの叫び声が社務所近隣に木霊したのは、斜陽差し込む黄昏の暮れ六つ。俗世と神秘が交差する酉の刻、逢魔が時であった。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 日暮神社の騒ぎより、時は戻りて五百と余年と、あと少し。

 

 戦国時代へタイムスリップしていた話題の少女かごめは、再会した想い人──犬夜叉と共に強敵殺生丸を退け、無事前世の故郷の村へと凱旋していた。避難中の村人たちから歓迎された彼女だったが、今は宴会に盛り上がる集会所の奥間で楓から怪我の治療を受けている。相方の半妖思春期小僧が不在なのは姉思いの老巫女の計らいだ。

 

「────ああ、お美しいお姉さまのお肌がこんなに……女一人守れぬとは犬夜叉め、痕になったらどうするつもりなのだ」

 

「そう言ってやるな、楓。あいつがいなければ私は殺生丸に殺されていた」

 

 鼻息荒く「次見かけたらとっちめてやるわ」とこの場にいない少年へ苛立ちを募らせる妹に、襦袢を脱いだかごめが苦笑する。その顔は楓の昔の記憶にあるとおりの、優しい穏やかな姉のものだ。

 だがその"桔梗"の顔が、今世の彼女の幸せそうな笑顔を知る老いた妹の目にはただならぬものに映った。

 

「助かった。楓は本当に癒術が上手になったな、もう私では敵わぬやも知れぬ」

 

「…なんの、姉の心の傷も癒せぬヤブにござりますれば」

 

 楓の拗ねる声に、軟膏を塗り終えいつもの学生服に着替えたかごめが困ったように眉を傾斜させる。

 

 元々桔梗の凛々しく気高い振る舞いの多くは、身を心を人妖魑魅魍魎から守るための仮面だ。

 無論全てが偽りの姿とまでは言えない。だが生まれながらの巫女などありえぬ以上、どちらがより彼女らしいかはさておき、どちらがより人間の女らしいかと言う問いならば、やはりかごめとして生きる今の姉の在り方こそが、桔梗という"女"が本当に望んだ姿なのだと楓は自信を持って答える。

 だからこそ老いた妹は"桔梗"の顔に戻った姉の、巫女の仮面を被らざるを得ないほどの苦悩を見逃さなかった。 

 

「…別に心の傷などないさ。なぜそう思う?」

 

「お姉さまがその巫女のお顔をなさるときは己の弱さを見せまいと強気に振舞っておられるときにございまする。私と別れた後に犬夜叉と何があったのかは存じませぬが、お姉さまはもう少し男に素直に甘えることを覚えませぬと……傍から見ればただのウジウジ悩む七面倒な小娘ですぞ」

 

「…ッ」

 

 思わず年の功で小言を口にしてしまったが、バツが悪そうに顔を逸らすかごめを見る限り彼女自身も自覚はあったらしい。楓は初めての恋煩いに悶々とする偉大な姉のいじらしい姿に、生暖かい溜息を零す。

 

「全く……よろしいですかお姉さま。男というものはちょーっとしなを作ってやれば犬のように懐くバカな生き物故、お姉さまはただご自分の美貌を武器に犬夜叉に甘えるだけでよいのです。あやつは既にお姉さまの虜にござりますれば、如何な理不尽なお願いとて向こうの方から喜んで折れましょう」

 

「……」

 

 投げ遣りな高説は当然のこと。楓にとっても姉との再会は奇跡を越えた神仏の御業に等しい幸運で、魂に染み付いた巫女のものとは真逆の、ただの女としての人生を慎ましく生きる"桔梗"の姿は目に入れても痛くないほどに愛おしかった。そんな彼女に笑顔を与え、また奪いもするあの半妖小僧の無礼非行にはどうしても辛辣になってしまう。

 

 とは言え桔梗の前世と今世を見て、尚も二人の仲を引き裂こうと考えるほど楓は外道ではない。複雑な事情に苦しみながらも、必死に想い人との絆を取り戻し守ろうとする、大切な姉の憔悴した姿。その背中に胸を痛める老巫女は妹としての使命に駆られ、助言を授けることにした。

 

「…犬夜叉が信じられませぬか?」

 

「ッ、そんな…!」

 

 沈痛な声で否定するかごめには、誰にも頼ることの許されない生涯を送り、一度だけ女の幸せを望んだ瞬間まるで報いの如く己の全てを失った哀れな前世がある。かつての悲劇の光景が脳裏に焼き付く彼女に、犬夜叉へ心中を余さず打ち明ける覚悟を決めさせるのは酷なこと。

 

 だが、楓には一つ妙案があった。

 

 

「でしたら、あやつを試してごらんなされ」

 

 唐突な進言にかごめは眉端を下ろす。額を垂れる冷や汗が、何やら一筋縄ではいかない問題の予兆を物語っていた。

 

「…試す?」

 

「ただ守ると誓っただけで女を射止めた気になっておる愚かな犬っころに、"女心のわからぬ小童め"と灸を据えるのです。…そうですなぁ、いっそのこと───」

 

 困惑に目を細めるかごめの瞳に、己の意地の悪そうな笑みが映る。

 

 

「────未来の世に、一度戻られてはいかがでしょうか」

 

 

 シン。そんな擬音が聞こえるほどに、目の前の少女は身動ぎ一つなく固まった。

 続いて、少しずつ動揺の色に染まりゆく彼女の顔を見つめていると、辛うじて開かれたその小さな唇がぽつりと掻き消えそうな問いを紡いだ。

 

「…戻、れるのか?」

 

「さてそこまでは。ですが件の父王の墓への入り口のように、門とは出入り双方のために作られるもの。それに時代樹より作り出された"骨喰いの井戸"には時の理を捻じ曲げる力が隠されていても不思議ではありませぬ。何かそれらしき切っ掛けがあれば、あるいは」

 

 不明瞭な返答ながら、その実楓は半ば確信していた。あの枯れ井戸は捨てた妖怪の骸を消失させる力があり、同時にかごめの成した時渡りとの因果関係を推理すれば自ずと答えは導かれる。

 だが、あの半妖の少年と過ごす日々を胡蝶の夢と戒めるかごめにとって、それは到底穏やかでいられないことだった。

 

「…私に、犬夜叉の側から一時でも離れろと申すのか? 現世へ戻れたとて、もしこの乱世への時渡りが此度一度きりの夢幻であれば…」

 

「あやつとお姉さまの絆はそんなか細いものではありますまい。見ている私が一番よくわかっておりまする」

 

 微かに震えるかごめの不安を、楓は自信に満ちた言葉で掃おうとする。

 何より老巫女は、唯一の家族だった姉に先立たれた妹として一つだけ物申さねばならなかった。

 

「それに、親姉弟とは互いを思い合うもの。未来の世ではお姉さまの今世のご家族が心配しておられるでしょう」

 

 父王が犬夜叉に授けた妖刀"鉄砕牙"の逸話をかごめから聞いた楓は、彼ら父子の家族愛が強く印象に残っていた。それは語り手の姉とて同じことだったらしく、致し方なかったとはいえ言伝も残さず住まいを離れた彼女は己の失態に遅れて気付き顔を青褪めている。

 

 それでも二の足を踏んでしまうのは、それほど犬夜叉と過ごした逢瀬の日々を愛しみ手放したくないからだろう。体を強く抱きしめるかごめの様子は、まるで身が引き裂かれる痛みに苦しんでいるかのようだった。

 

「なぁに、ご心配召されますな。何かあれば未来(そちら)の井戸より犬夜叉を呼べばよいのです。お姉さまが未来の世へ帰ったと聞けば大慌てで『桔梗ーっ!』と井戸へ名を叫びに飛んでいくことでしょう」

 

 あの不遜な犬夜叉が、犬らしく井戸の底を掘りながら惚れた女の下へ行こうとする姿がありありと脳裏に浮かび、楓は思わず吹き出し破顔する。そんな妹の明るさが、五里霧中のかごめの心に差し込む確かな光となった。

 

「…また、私を呼んでくれるだろうか。未来と乱世……五百年もの時を、繋げてくれるだろうか…」

 

「無論にございまする」

 

 いざとなれば二人には四魂の玉があるのだ。散々振り回してくれた災厄だが、愛し合う男女の橋渡しとなるのなら、正しい使い道として願いも叶うだろう。

 

「何よりこの楓。お姉さまの妹として───」

 

 そして老女はふてぶてしい勝気な笑みで、あっけらかんと宣言した。

 

 

「────愛する女のために時も渡れぬ無能な男に、大切な姉を渡すワケには参りませぬ」

 

 

 果たしてその言葉が決め手となったのか。目を丸くした後、憑き物が落ちたようにころころと一頻り笑ったかごめは、遂に老いた妹の説得に両手を上げた。

 

「わかった。ならおまえの知恵の通りに、私もあいつとの絆を信じるとしよう」

 

「では私は後日に犬夜叉めの尻を叩いてやります故、お姉さまはごゆるりと未来の世で彼奴の呼び声をお待ちくだいませ。そして見事五百年の時を繋げて見せた暁には、ご褒美とでも誤魔化してあやつに目一杯甘えてやるのです。それが必ずやお姉さまの心を晴らす一歩となりましょう」

 

「…ああ。女らしく出来るかどうかはわからぬが、あいつに『らしくない』と言われるくらいには励んで見せるさ」

 

 零れた苦笑は降参の意。元の強く気高い桔梗の顔に戻った姉は一言礼を残し、再会を約束して村の集会所を後にした。

 

 

 

「────お姉さま…」

 

 かごめの去った戸間口へ、楓の掠れる声が相手へ届くこと無く消えていく。老女の顔に浮かぶ表情は先程までの明るさとは真逆の、痛ましい憐憫。聡い楓は姉の目に晴れぬ闇があるのを見逃さなかった。

 桔梗の胸奥深くに刻まれたかつての傷は未だ癒えず、希望の光に照らされるほど、その陰に浸る傷は膿み続けている。彼女が気付かぬまま、ずっと。

 

 あの殺生丸との戦いで何があったのか、楓にはわからない。果たしてそれは件の兄君に起因するのか、はたまた新たな力で惚れた女を守りきったはずの犬夜叉に関わることなのか。彼に贈られた着物に頬を緩める、幸せそうなかごめの笑顔が消えるほどの苦悩とは何か。

 その答えは、今世を生きる姉の姿を思うだけで一目瞭然だった。

 

「……一度犬夜叉に、私の知る五十年前のあの日のことを伝えねばならぬな」

 

 やはりどれほど生まれ変わりのかごめと犬夜叉が心を通わせようと、"桔梗"と犬夜叉の心が引き裂かれたままである限り、少女は前世の悪夢に永遠に囚われ続けるのだろう。

 

 楓の呟きは去ったかごめの耳に届くことなく、遠くの祭囃子の喧騒に溶けていった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 新たな週が始まり、新学年が始まった生徒たちの緊張が解れつつある四月中旬。最後の葉桜が見ごろな中学校の並木道に、珍しい人だかりが出来ていた。一同の学生服の襟元を彩る三色全てのネクタイとリボンが話題の注目度を物語る。

 

「────かごめーっ!!」

 

 その輪に目をぱちくりさせていた三年生の清水由香は、直後騒ぎの理由に思い至り慌てて隣の二人の友人たちと一緒に渦中へ飛び込んだ。

 生徒三人集まれば彼女の話が語られる。そんな逸話が囁かれるほどこの学校の少年少女を虜にする人物は、全校六百余人でただ一人。

 

「…おはよう、由香。あゆみも絵里も久しぶり。心配をかけてすまなかった」

 

 輪の中央へ呼びかけた由香たちは、そこで待ち焦がれていた学友の登校姿を目にする。絹のように艶やかな長い黒髪を春風にたなびかせる、学校一の才色兼備───日暮かごめの絶世の麗容を。

 

「久しぶりっ! もう学校来ていいの? なんか結核になったとか凄い噂流れてるけど、冗談だよね…?」

 

「もー、いきなり土曜月曜連続で休んで学年中大騒ぎよ。部活説明会もあんたがいなかったせいであまり集まらなかったし」

 

「かごめが病欠なんて初めてよね。そんなに深刻だったなんて…」

 

 怒涛の質問攻めに少女が微かに愁眉する。以前より夢見が悪いと体の不調を訴えていたが、先日ついに体調を崩したかごめはその後何日にも亘り学校を欠席していた。担任の教師より難病だと聞いたせいか、やはり今の彼女は休む前より更に華奢で儚い印象を受ける。微かに火照る頬も合わさり、顔を伏せるかごめは映画に見る病床の令嬢そのものだった。

 

「…その、少しタチの悪い咳に悩まされてな。今は落ち着いているから試しに登校したんだ」

 

 俯いたまま片手を口に翳して小さく咳き込むかごめ。ただそれだけの仕草が絵画のように美しく、由香たちは不謹慎にも見惚れてしまう。

 

「だ、大丈夫? ダメだよ治りきってないのに学校来ちゃ」

 

「そうもいかぬ。うつる類のものでも無くば、何より授業に置いていかれたら事だから」

 

「かごめに限ってそれはないわよ、今日はもう保健室行っときなさい。 ──ほーら、あんたたちも。ウチのお姫さまにうじゃうじゃ(たか)らないのっ。退いた退いた」

 

『えぇーっ』

 

 我に返った三人は慌てて周囲の野次馬を追い払う。しつこい文句を素通りし、一同は病み上がりの友人を休ませるべく校舎へ歩き出した。

 

 その途中、背後から一際耳に通る凛々しい声が投げ掛けられた。

 

 

「────日暮さん!」

 

 

 振り返った先にいたのは、青い自転車を押す茶髪の美男子。途端に人込みから黄色い声が上がり場が更に色めき出す。

 校内において異性で唯一、あの日暮かごめと二人だけで言葉を交わすことが暗黙で認められている、学校一の好青年。三年B組の北条秋時だ。

 

「おはよう日暮さんっ。体はもういいの?」

 

「おはよう、北条。おまえも見舞いの電話をくれたそうだな、わざわざ忝い…」

 

「い、いいよ別に! おれが好きにやったことだしっ」

 

 申し訳なさそうにこうべを垂れるかごめに慌て、少年があたふた手振り身振りで彼女の憂いを晴らそうとする。いつもの爽やかな印象が台無しな痴態だが、周囲は真っ赤な彼を嗤うどころか緊張に喉を鳴らす共感者ばかり。

 皆の関心は満場一致。彼らの通う学校のヒーローが、高嶺の花のヒロインを射止められるかどうか。それ一つであった。

 

「あっ、そ、それでな。日暮さんに渡したいものが…」

 

「?」

 

 そんな場の異様な一体感に戸惑うヒロインは続かない会話に小さく首を傾げている。言葉に詰まった北条ははたと我に返り、大切に抱えていた手元の小包を差し出した。

 

「これ、健康サンダル。店のお婆さんに聞いたら是非にって言われて……よ、よかったら使ってくれ!」

 

 半ば押し付けるような形になりながら、少年は答えも聞かず「じゃ、また!」とドギマギ駐輪所まで去っていった。その後ろ姿をぼんやり見送り、かごめは改めて手元の物体へ目を向ける。困惑する彼女の内心は美男美女の語り合いに桃色眼鏡な外野の誰にも伝わらなかった。

 

「…はぁ~、いいなぁ。北条くんに心配してもらって」

 

「ホントに付き合う気ないの? いつもかごめと成績トップ争いしてるし運動も出来る、おまけにイケメンで実家もお金持ち! ちょー優良物件なのにもったいない」

 

「去年も人気あった先輩から告白されたの断ってたし、罪な女だなぁ。このこの」

 

「こらこらあんたたち、かごめを困らせないの」

 

 騒めく人の輪から離れ、由香たちは保健室へ向かいながらこのモテモテな友人を取り巻く色恋沙汰に小さく騒ぐ。何かとこの手の話題を避けたがる彼女のために、三人が集めた日暮かごめに関する噂は数知れず。

 

 曰く。気高く凛々しく、困っている人へ無条件に手を差し伸べる優しい日暮さんがステキだ。物思いに耽ってるときの切なげな美しさがドキドキする。おいおい硬派ぶるなよ、一番はあのゆったりしたセーラー服でも隠しきれない巨乳だろ。あの清楚な長いスカートと体育のブルマ姿のギャップも堪らない。日暮さんは顔も身体も性格も全て最高。

 

 そんな異性からの高い評価を心底興味なさそうに聞き流すかごめはどこまでも浮世離れしていて、されど頑なに同級生たちの恋バナに加わることを拒むその姿は、何故か、時折とても辛そうに見えることがあった。恋に恋する思春期真っ只中の由香たちが遠慮気味なのも、彼女の暗い顔から垣間見える秘めた痛痒に気付いているが故のこと。いつか悩みを相談してくれることを期待しつつも、決して人を頼らない友人は今もその胸の内を閉ざしたままだ。

 

「…ま、かごめに彼氏なんてそれこそ学校中が大混乱よ。全校男子が消沈して学級崩壊が起きるかもね、あはは」

 

「女子も、特にウチらのすぐ下の"かごめお姉さまー"ってきゃいきゃい騒いでる二年の子たちは男子より落ち込みそう」

 

「うふふ、でもウチの高嶺の花子さんの心を射止める王子さまはどんな人なんだろ。…そこんトコ好みとかどーなの、かごめ?」

 

「ちょっと絵里…」

 

 それでも気になるものは気になってしまうのが果敢なお年頃と言うもの。小声で尋ねる三人組の三人目、増田絵里を咎めようとする由香もチラチラとかごめの答えに興味津々。

 

 普段のかごめであれば曖昧に微笑み話題が終わるのを待つだけだった。だが今回も彼女との恋バナを内心諦めていた三人は、辿り着いた保健室の前でクスリと零れた彼女の笑みに目を丸くする。

 

 

「────そんな男、後にも先にもあいつだけさ」

 

 

 自嘲するような、それでいて確かな熱の籠った吐息と共に呟かれた独り言。保健室の奥へと消えるかごめを茫然と見送った由香たち三人は、けたたましい授業の予鈴でビクリと覚醒し、そして互いに顔を会わせた。

 

 

『…"あいつ"って、誰?』

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 四日ぶりの学校は緊張の連続であった。授業や部活の欠席の後始末以外にも清算するべきことは多く、この日かごめは登校から下校まで忙しなく駆け回り、一時ながら未来への不安を忘れることが出来た。

 

 

「えーっ! かごめ弓道部辞めちゃったの?」

 

 放課後の午後四時、申の刻。帰りは自宅の神社まで送る、と甲斐甲斐しく付き添ってくれている由香たち三人組がかごめの決断に惜しむ声をあげた。

 

「大会の補欠として籍だけ置くことと、出席時に部員たちの指導を行うOBのような扱いになる。…己で決めたとは言え、みんなには申し訳ないことをした」

 

「顔色良くないし、やっぱ病気辛いの…? 相談してって言ったのに、日頃から無茶ばっかりしてるから…」

 

 苦しい虚言を素直に信じる友人たちに、かごめは申し訳なさから内心頭を下げる。

 

 この数日、人生を左右する驚天動地に幾度も巻き込まれ続けたせいか、目まぐるしく動く状況に翻弄されるかごめ。それでも前世の未練を忘れられず、少女は戦国時代の生活を優先する決意を固めようとしていた。病気の自宅療養の話も、現世を離れる「日暮かごめ」を身軽にするための言い訳だ。

 

「でもそっかぁ、療養に専念するならもうあまり学校来れなくなるかもしれないんだよね。寂しくなるなぁ」

 

「お見舞いとかは迷惑だろうし、代わりに体調いい時は電話頂戴ね。声ぐらい聞きたいわ」

 

「そのときは登校するさ。中間期末テストは勿論、出席日数は必要だからな」

 

 我ながらとんだ不良生徒になったものだ、とかごめは苦笑する。真実を嘘で塗り固め、友達の心配を裏切るどこまでも身勝手な女。この時代に囚われないよう近付く人々を突っぱねて尚、側に居ようとしてくれた友達を、私は。

 

 でも、それでも…

 

 

「…あれ? 何だろ、校門が騒がしいね」

 

 いたたまれない思いに俯くかごめ。その耳に、ふと絵里の訝しむ声が聞こえた。

 顔を上げた先には、またもや校門の人だかり。常に囲まれてばかりのかごめは少しだけ新鮮な気持ちで外の視点で正面の集団を見つめる。

 

「お、幸子見っけ。ねぇねぇ何の集まりなの、これ?」

 

「もう、多すぎて見えない…! いいや突っ込んじゃえーっ」

 

「あ、こら」

 

 知り合いを見つけたのだろう。一人の女子生徒の元へ駆け寄るあゆみに続き、由香と絵里も瞬く間に輪の中へ突入していく。

 一人取り残され佇むかごめは、その容姿も合わさり非常に目立つ。少しずつ辺りの注目が自分に移っていく光景も、少女は前世から慣れたものだ。かごめは自分の前にぱっくり表れた人の道を進もうと遠慮なく一歩を踏み出す。

 

 

「───なんか銀髪ロン毛の不良が先生に食いかかってるんだって」

 

 

 そこでかごめは、ふと足を止めた。

 

「何ソレ、他校の番長? 学校抗争でもしようっての?」

 

「お、あの子かな───って、うわ凄いギンギラギン! あんなの初めて見た…!」

 

 このご時世稀に聞く珍事に沸き立つ由香ら三人が、切り開いた野次馬の隙間に犇めき合う。その肉壁に視線を遮られ、かごめに奥の様子は窺えない。

 

 だか、そんな彼女たちの会話がやけに耳に残った。

 胸が強く騒めき、かごめは何かに急かされるように速足で目の前に立ち塞がる友人たちの背中からはしたなく首を伸ばす。

 

 その直後。人込みから聞こえてきた苛立たしげな争い声に、かごめは己の耳を疑った。

 

 

「────ったく、この俺が桔梗の匂いを嗅ぎ間違えるワケねえだろ! 居んのはわかってんだ、さっさとあいつを出しやがれ!」

 

「…キキョウの花に香りなんかあったかしら? いえ、そんなことよりあなた何処の生徒? 他校生はこんなトコに寄り道せずに帰宅しなさい!」

 

 

 男女の怒声。少女はそのどちらにも聞き覚えがあった。

 

 片方はつい先ほどクラスで聞いた担任の女性教師のもの。今後は休みが増える旨を伝え、心配してくれた生徒思いの恩師だ。今日の下校の見守りは彼女の担当で、そこに違和感はない。

 だが、もう片方は。

 

「…ッ!」

 

「え? あ、ちょ、かごめっ!?」

 

 ありえない。かごめは強引に三人の間を掻き分けながら、驚くほど容易く崩れ出した自分の心に言い聞かせる。

 

 あいつは神魔の類が駆逐されたこの平成の世とは無縁の、妖怪の血を引く少年だ。心が彼の下に囚われ離れられない桔梗の生まれ変わりの自分とは異なる、戦国時代にいるべき半妖。井戸を通し呼びかけてくれるだけでも十五年も願い続けてやっとだったと言うのに、自らこんなところにまで来てくれるなど。

 

 だが何故だろう。考えれば考えるほど、己の耳が捉えた彼の声は確たる現実としてかごめの中に根を下ろす。

 時渡りの井戸の力か。あいつが四魂の玉に願ってくれたのか。もしくはそのどちらでもない、互いを繋ぐ───強い絆が新たな奇跡を齎してくれたのか。

 不安と期待に荒れ狂う胸を押さえ、少女は人だかりの開けた校門広場へ飛び込んだ。

 

 そして転がり出た輪の中心にいた学ラン姿の少年の顔を見た瞬間、かごめの唇は自然と彼の名を紡いでいた。

 

 

「────犬、夜叉?」

 

 互いの視線が絡み合う。金色の双眸が見開かれ、「あ゛ぁ!」と怒気をぶつけられたと思うと同時。

 かごめは、見知った長い銀髪を束ねて頭部の犬耳を隠した彼に、両肩を強く掴まれていた。

 

 

 

「くぉら、桔梗! なに勝手におれの側から離れてやがんだッ!!」

 

 

 

 六百人もの少年少女の多くが通る、放課後午後四時の校門前。

 時代を越えて二度目の再会を果たしたかごめの想い人は、全校生徒の目の前で、そんな爆弾を放り投げてきた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

現世

 

 

 

 

 国破れ草木の萌ゆる、戦国乱世の武蔵国。その荒れ果てた国境いの雑木林を、一人の少年が死に物狂いで掛けて行く。

 半妖犬夜叉。鮮やかな朱の水干をはためかせる若者の顔は、不遜な彼らしくない焦燥でいっぱいだ。

 

「───ちくしょうっ。桔梗のやつ、おれに断りもせず勝手に帰りやがって…!」

 

 少年の苛立ちも当然のこと。ほんの数刻前、父の残した宝刀を奪わんと襲来した兄殺生丸から想い人の少女かごめを守り抜いた犬夜叉は、戦いで傷付いた彼女に代わり村の見回りを引き受けた。村人たちに不審と怯えの目で見られながらもめげずに励んだのは、偏に惚れた女のため。しかし当のかごめが妹の老巫女楓に唆され、目を放した隙に一人で村を離れてしまったのである。

 

「…へっ! おれは諦めが悪ぃんだ、どこに行こうと逃がしてたまるかっ」

 

 摩訶不思議な身の上であるかごめの生国は、今より五百年も未来の世。父の宝刀"鉄砕牙"を介し、彼女に自分の想いを受け止めて貰えたと歓喜していた犬夜叉は、浴びせられた冷や水に怒りが一周回って恐怖した。

 時渡りは神秘蔓延る戦国乱世においても間違うことなき奇跡。常ならぬ出来事にて、あるいはこのまま二度とあいつに逢えなくなるのでは、と。

 

 疾走する少年の足取りに迷いはない。四魂の玉を守る二人旅の途中でかごめが語った彼女の経験談を、犬夜叉はしっかりと覚えていた。

 

「! あった、森の枯れ井戸!」

 

 この中にあいつの住む時代に繋がる入り口が。井戸端へ降り立った彼は、しかしそこで僅かに逡巡する。戸惑いの正体は不安。もし井戸に拒絶されたらと思うと普段の風切る肩肘も縮こまる。

 

「…ちっ、バカバカしい! おいコラ桔梗っ、今行ってやっから首洗って待ってろよ!」

 

 だが迷いもひとたび頭を振れば霧散する。単純なのが取り得な犬夜叉は無理やり自らを奮い立たせ、一思いに眼下の縦穴へと飛び込んだ。

 

 ゲン担ぎに握り締めた懐の四魂の玉が淡く輝いたのを最後に、半妖の少年は底なしの暗闇に飲み込まれた。

 

 

 

「────んあ?」

 

 水面に飛び込んだかのような、奇妙な感覚が体を走り抜ける。閉じた瞼の闇の中、僅かな光を捉えた犬夜叉はゆっくりと目を開け、そして思わず鼻を摘まんだ。

 微かな空気の動きに乗り、凄まじい数のニオイが鼻孔へ届く。燃える瀝青のような臭い、涎が垂れる香ばしい油のような匂い、芳しい香油のような香り。二百五十年もの生涯で初めて嗅ぐ多種多様なニオイが井戸底の土のそれに混じり彼を圧倒する。

 そこで犬夜叉は、本能で自らの居場所を理解した。

 

 間違いない。ここは今世の桔梗が生まれ育った未来の日ノ本だ。

 

「ッ、あいつの匂い…!」

 

 張り詰めた緊張が安堵と歓喜に解れ、続いて怒涛の激情が胸中に湧き上がる。こんなにも真摯に守ると誓って見せた男を捨て置き、一言の相談なく遠い時代の果てへと去るなど許すまじ。「絶対に逃がさねぇ」と息巻く彼は想い人の気配を追い、一軒ののっぺりとした漆喰の建物へ急行した。

 

 清潔に管理された神社の境内の端。少年はそこで、一人の奇妙な服装の人間の女と出会う。

 

「おい女、桔梗を出せ」

 

 不思議な道具を片手に庭へ水を撒くその人物から漂う残り香は、紛れもなくあいつの匂い。犬夜叉は妖気を隠さずズイと迫り、家主らしきその女を威圧する。

 

 だが相手の人間が返した反応はおよそ彼の想像とは真逆のものだった。

 

 

「あらまぁ……まぁまぁまぁまぁ!」

 

 

 ポカンと呆けていたかと思えば一瞬で童女のように顔を綻ばせた水やり女が、殺生丸の神速の縮地すら霞む速度で襲い掛かって来た。

 

「犬耳に長い銀髪、赤い着物の男の子! あなたがかごめの言ってた犬夜叉くんねっ」

 

「…お、おう?」

 

 脅そうと迫ったはずが気付けば逆に迫られている事実に思わず身構える犬夜叉。そんな少年の警戒を無視し、一通り犬耳を揉んで満足した女が流れるように彼の両手を握り締めた。

 

「かごめから聞いてるわ、あの子の前世の彼氏さんだったんですってねっ。ごめんなさい、わざわざ会いに来てくれたのにあの子今学校に行ってるのよ。もう一時間くらいしたら帰って来ると思うけど───あ、そうだ! あなた折角ですし迎えに行ってきてくれないかしら。あの子ったら昔から凄い男子に人気あるし、牽制を兼ねて校門で待ってたら絶対かごめも喜ぶわ。ささ、上がって上がって。その恰好じゃ職質されるからまずは着替えましょう。耳は束ねた髪の毛で隠して、あとは確か旦那の中高時代の学ランがまだ押入れに…」

 

 そう捲し立てる彼女の瞳は、娘に向けるものに等しい、温かい慈愛に満ちていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 世にも珍しい戦国タイムトラベラーの転生女子中学生、日暮かごめは冷静沈着な人間である。かつて人々を守るため数多の妖怪と戦い倒れた哀れな巫女は、己の弱さを封じ込め、常に心の鎧を纏ってきた。

 

 だか如何に不屈の巫女と言えど女は女。人の身には耐え難い宿命に押し潰された彼女は、同じ孤独を知る半妖の少年に身を委ね、そして全てを失った。一度女の幸せを知った少女が二度目の孤独に耐えられるはずもなく、奇跡の再会を果たした元恋人のことを想うだけで、巫女の鎧はいとも容易く崩れ去ってしまう。

 

 鎧が剥がれた"女"の心は、あるべき明鏡止水からかけ離れた秋の空。沈痛、悲愴。沸き上がる感情はいつだって胸が張り裂けるほどの切なさばかり。

 

 だが巫女を虜にするその少年は、ときに思いがけない頼もしさで、鬱ぐ彼女を歓天喜地へと連れ出すのだ。

 

 

「───犬、夜叉…」

 

 

 全国帰宅部諸君の待ち望んだ終礼時刻の15時15分。校門に集まる有象無象が凍りつく中、かごめは一人、蕩けるような甘い幸せに膝が崩れそうになるのを必死に堪えていた。

 

「ったく、勝手におれの側を離れやがってっ。どんだけ肝を冷やしたか…!」

 

 潤む瞳の見つめる先には、少女の肩を掴みながらこちらを咎める銀髪の美男子。怒りで歪んだ相貌に浮かぶ確かな思慕の色は、気のせいと落胆するにはあまりにも強く情熱的で。

 

「な、なんでぃ桔梗。その情けねえ面は」

 

「…ッ」

 

 見間違えるものか。そのふてぶてしくもどこか愛嬌のある彼の顔を。彼の両手から伝わる温かさを、目と鼻の先の距離が届ける彼の芳しい草原のような匂いを。ほかならぬ桔梗の生まれ変わりである彼女が違えるはずがない。

 

 まさか、まさか本当にここまで。

 

 

「来て、くれたのか…」

 

 

 自分のものとは思えない、濡れた艶のある声が目の前の少年の名を愛おしそうに綴る。

 だが彼女自身も驚くそれは、日暮かごめの気高い姿しか知らない母校の生徒たちにとっては最早、天変地異の域だった。

 

「だ、誰!? 誰なのその子!? "勝手におれの側を離れて"って、ええええっ!?」

 

「かごめに男の影が!? いつの間にあんな危なそうな人とただならぬご関係を!?」

 

「よりにもよってソッチ系って、まさかあんたその清楚なキャラでちょいワル男子に憧れが!? 止めなさいかごめっ、あれは関わっちゃいけないタイプよ!」

 

『日暮さんから離れろ銀髪野郎ッ!!』

 

 見つめ合う男女を囲むように陣取った学友たちが次々勝手気ままに叫び出す。周囲からは他の下校中の生徒たちが虫のように集まりとんでもない騒ぎになっていた。

 

「…なんだこいつら、人サマのことジロジロと」

 

「!」

 

 あまりの熱気に思わず顔を顰めたのを気付かれたのか、かごめは犬夜叉の胸元へ群衆から守るように体を抱き寄せられた。途端に「きゃあっ!」と周囲の人海が色めき立ち、遅れて状況を理解したかごめの頬には隠し難い紅潮が浮かぶ。

 

 別に他人に犬夜叉との関係を疑われるのは構わない。それは己の最も大切な感情で、かごめ自身も叶うことなら彼にこの想いの丈を余さず全て伝えたいと、常に自分の臆病な心で願っている。

 

 だがこうして友人たちはもちろん、教師や名も知らない生徒大勢に注目される中、まるでか弱い生娘のように彼の胸に抱かれる自分の無様は、あまり見られたくなかった。

 

「…お騒がせいたしました、先生。こちらの男子は私のこい──いえ、知人…です」

 

「ひ、日暮さん?」

 

「その、本日は旅行中の彼と放課後に町を案内する約束を交わしておりまして…ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。直ちに離れます」

 

 顔の熱を何とか誤魔化し、犬夜叉の胸元から抜け出したかごめは見回りの女性教師に謝罪し適当な嘘で言い包めた。

 

「えっ、ほ、本当にこんな子があの日暮さんの…」

 

「何か?」 

 

「ッあ、いえ。そうね、他ならない貴方が言うなら大丈夫でしょう。次回からは学外で待ち合わせしてくださいね」

 

「はい、重ね重ね失礼いたしました」

 

 かごめは教師の失言に睨みで返し、解いた犬夜叉の腕を掴み直す。

 

「…犬夜叉、場所を移すぞ」

 

「あ? お、おう」

 

 強引に犬夜叉を引き摺り校門へと踵を返すと、気圧されたのか二人を囲む群衆がサッと道を開けた。

 

「すまない由香、少し外せない用事が出来た。休み中は心配してくれてありがとう、またね」

 

『……えっ』

 

 これ以上何も知らぬ連中に彼が奇異の目で見られるなど我慢ならない。茫然自失と立ち尽くす由香たち三人に礼と断りを入れ、かごめは犬夜叉を引き連れ速足で校門を潜り抜けた。

 

「…えっ、ちょ! ちょっと待ってかごめ! 説明してよ!」

 

「こんな学校中がひっくり返る特ダネ逃がせるワケないでしょ! しかも北条くんに西園寺先輩までフッといて選んだのがそのヤンキー!?」

 

「そ、そんな日暮さん…! おれよりその人が良いってことなのか? お、おれは日暮さんのことこんなにもずっと…っ!」

 

「親衛隊の連中何やってたんだよ! あの清楚な日暮先輩が不良に誑かされちゃうなんて…」

 

「うるさいですよあんたたちっ! 校門で騒いでないで生徒は真っすぐお家に帰りなさいッッ!!」

 

 渦中の男女が去った校門は阿鼻叫喚の大混乱。薄情を自覚しつつも、その背に投げ掛けられる無数の必死な声に構っていられる余裕はかごめにはなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

「お、おい桔梗。どこまで行く気だ?」

 

 人影寂れた学校裏手の住宅街。かごめは少年を引き連れずんずん進み、二人きりとなれる場所で彼を離し振り向いた。

 

 

「…犬夜叉、何故おまえがここにいる」

 

 

 他に言うべきことがあるというのに、つい責めるような声色になったのは照れ隠しか。骨喰いの井戸を越えられるのは自分だけだと先入観に囚われていたかごめは、学校での騒ぎも合わさり、犬夜叉が時代を越えて逢いに来てくれた喜ぶべき事実を噛み締める間を完全に逃していた。

 感慨に浸れずに拗ねる彼女の姿を悪く勘違いしたのか、少年は受けた不当な扱いに眉を吊り上げる。

 

「何故って、てめえが勝手に未来に帰りやがったから連れ戻しに来たんだろーが! ったく、楓のババアに傷の手当があるからって二人きりにさせて見りゃよお…!」

 

「それは…」

 

 腹立たしげに「おれがどれだけ心配したか…」と小声で安堵の溜息を吐く犬夜叉。存在を確かめるかのように繋いだ彼女の手をにぎにぎ弄る彼はまるで捨てられた子犬のようで、はたと我に返ったかごめは罪悪感に思わず首を垂れる。

 

 

 ───素直に犬夜叉に甘えなされ。

 

 それは先日、楓に傷を治療してもらっていたときのこと。巫女と半妖の恋を大罪と唾棄する殺生丸の中に未来の犬夜叉の姿を見てしまったかごめが、老いた妹より授かった年の功だ。

 

 柄にもなく恋の駆け引きを仕掛けたかごめに対し、犬夜叉は見事彼女の望み通りの、否、望み以上のことをして見せた。井戸から声を届け、また互いの時代を繋げてくれるとは信じていたが、まさか井戸を通り直接迎えに来てくれるなど想定外もいいところ。思わず"昨日の今日で心構えなど出来るものか"と理不尽な怒りを溜め込んでしまうほど、少女は歓喜と羞恥に混乱していた。

 

 巫女であった桔梗に男への甘え方など知る由もない。生まれ変わり犬夜叉を失ってからは更に恋事を忌避するようになり、女子の恋バナも彼を思い出してしまうため出来るだけ周囲のそれらしい会話から耳を逸らし続けてきた。

 

 自ら望み定めたこととは言え、そんな初心な少女にとって異性の扇情など難題の極みである。

 

 

「…その、すまなかった。こちらの家族に何も言わずにおまえのところへ行ってしまったものでな、一度事情を説明しに戻る必要があったのだ」

 

 よって。またもや怖気付いてしまったかごめは、自己嫌悪に項垂れながらも楓との約束の履行を少しだけ先延ばしにすることにした。

 

「おまえのこっちの家族ってのは、あの忙しねえ水やり女のことか。けっ、あいつに"変装だ"って着せられたこの南蛮着物も結局目立っちまって意味ねぇじゃねーか。騙しやがって」

 

「…母に会ったのか?」

 

「ああ、桔梗を出せって脅したら逆に家に引き摺り込まれてひでー目に遭ったぜ。妖怪に全くビビらねぇのは確かにおまえの血縁だ」

 

 学ランと束ねた長髪を不快げに弄る犬夜叉。

 なるほど、彼の現代風な服装にはそんな理由があったのか。母の心遣いをありがたく思った彼女は、そこでふと、目の前の少年の学生服姿に不満を覚えた。

 

 周囲に浮かないための洋装だと言うのに、詰襟が全開でこれっぽっちも真面な学生に見えない。長い銀髪も合わさりどこからどう見てもただの不良だ。コレを遣わした母はやはりどこかズレている。

 あるいは敢えて彼の存在を校門で目立たせたのかもしれないが、いずれにせよ品がないのはいただけない。

 

「全く、おまえが目立っているのは制服をだらしなく着崩しているからだ。…どれ、私が直してやる」

 

「お、おい」

 

 かごめは犬夜叉の胸元へ手を伸ばし、ぷつり、ぷつりと制服の前立てにボタンを留めていく。少年の強張る肩と赤い顔は、好意的な緊張の証だろうか。抵抗しない彼を見る限り、少なくともあの封印を解いた再会のときよりは気を許してくれている。その大きな違いが、これまでの自身の情けない優柔不断な右往左往が上げた確かな成果だった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 襟のホックを留め、思考を切り替えたかごめは少年へ寄せていた体を放す。遠ざかる彼の温もりを惜しみながら、少女は整った犬夜叉の装いを今一度確認する。

 

「…うん。粗暴なおまえに似合うか不安だったが、存外悪くないな」

 

「う、うるせえっ。二度とこんな窮屈な服着てやるもんか!」

 

 嫌そうに首元を弄りながら道を進む犬夜叉はつんとそっぽを向いている。弓剣など兵法に明るいわけではないようだが、犬夜叉の持つ半妖の体はクラスの男子たちと比較しても群を抜いて屈強だ。元は軍人が着ていたものと聞く黒い詰襟は逞しい彼の肢体に抜群に似合っていた。

 

 ちらり、とかごめは気付かれないよう横目で彼を窺う。本来であれば決して交わることのない世界を生きる犬夜叉が、現世の男子制服を身に纏い、こうして共に町を歩いている。そんな日常の中に何気なく加わった非日常に、かごめは形容し難い不思議な感覚を覚えていた。

 

 もし、同じ平成の世に人間として生まれ変わった彼と共に学校へ通う未来があれば、それはこのような感じになるのだろうか。元の乱世に戻って再会を果たすなど露ほども考えていなかった数日前。あり得たかもしれない奇跡の一つとして、不毛な妄想に浸っては色褪せた世界で滲む涙を拭っていた哀れな少女にとって、今の自分の状況は怖くて震えてしまいそうなほどに、幸せだった。

 

 

「…さて、折角の未来の世だ。帰りは少し物見遊山に遠回りをするとしよう。帰宅途中の生徒たちに囲まれても困るからな」

 

「けっ、随分ご機嫌じゃねーか。いつもの澄ました面がアホみてぇに弛んでるぜ?」

 

「構うものか、楓との約束だ」

 

 訝しむ犬夜叉へ「気にするな」と笑顔で返し、かごめは遠慮がちに彼の手を掴んだまま道を先導する。

 

 乱世の宿場町で騒いでいたこの珍し物好きに、現世の商店街を見せてやろう。豊富な品揃えに興奮している彼にならば、少しくらい大胆に甘えても気付かず許してくれるかもしれない。そう小さな打算を忍ばせるかごめの笑顔は、どこまでも明るかった。

 

 

 

 ───わかっている。

 

 妖怪になりたいと願う彼との逢瀬で、こんな幸せが長く続くことはないだろう。あの殺生丸のように、彼はいずれ人の絆の大切さを忘れ、守ると誓った女を捨てるのだろう。またいつかのように、彼の妖怪の血は私を裏切り、そして殺すのだろう。

 

 でも。

 

 

 

「…桔梗?」

 

「ふふっ。何でもないよ、犬夜叉」

 

 

 でも、たとえその先に死より恐ろしい絶望が待ち構えていようと、私の心はもう、彼から離れることなど出来ないのだ。再会したあの日から──否、桔梗が彼に恋した前世から、私の心はずっと、ずっと。

 

 ならば、私は今の幸せを精一杯楽しもう。かごめは慕う少年がくれたこの掛け替えのない温かさに包まれながら、心からの笑みを浮かべ続ける。

 

 

 

 胸奥のどこかで大事な何かが壊死していくのを、少女は気付かぬふりをした。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少年の一歩

 

上下編を訂正。
中々納得いく文にならなかったのでおまけに挿絵挟みました


【挿絵表示】


3話のいちゃいちゃおめかし桔梗さま




 

 

 

 

 

「──すげぇ人だな」

 

 

 遊び歩く放課後の制服姿、夕食前のタイムセールに勇み足な主婦、足早に駅へと向かうスーツの勤め人。雑多な往来に賑わう現代の街並みは、戦国時代の先人の目にさぞ異様な光景に映ることだろう。

 

 人目を避け、隣町へと足を運んだ犬夜叉とかごめは、現世観光に駅前の商店街へと訪れていた。

 

「神秘の信仰を止めた人間の未来…と言えば元巫女として些か複雑だが、行楽にはなるだろう? かく言う私も転生当初は随分と驚いたものだ」

 

「ああ、旨そうな匂いばっかで涎が出るぜ…!」

 

 手を離せば即座に屋台へ突撃していきそうな犬夜叉を宥めながら、かごめはクスリと苦笑を溢す。

 

「全く、そう急かさずとも店は逃げぬ。近くに美味しい揚げ物屋があるから一先ずそれで我慢なさい」

 

「! 揚げ物ってこたぁこっちだな。先行くぜっ、メシだメシー!」

 

「あっ、犬夜叉! …もう」

 

 子供のように人混みを爆走する二五〇歳児。鼻敏く油の匂いを嗅ぎ付けた食いしん坊に躊躇いもなく放置され、一人残された少女は呆れ返る。勝手知らぬ未来の世でよくああも自由奔放に振る舞えるものだ。騒ぎを治める身にもなってほしい。

 

 腹立ちに身を任せ後を追うと、犬夜叉は早速出店のメンチカツを豪快に頬張っていた。無遠慮にガツガツ食い荒らす少年の野生児っぷりに慌て、かごめは頭を抱えながら店先へと急ぐ。

 

「犬夜叉っ、財布も無しに勝手に馳走になるな!」

 

「うめーなこれ! おい店主、もう一個だ!」

 

「いい食べっぷりねぇ、お兄さん。またいらしてねー」

 

 かごめが店主へ代金を支払っているうちに、相方の犬夜叉は次だとばかりに横のたこ焼き屋へ吸い込まれていく。その首根っこを寸前で掴まえ、少女は花より団子な半妖小僧を何とか引き摺って近くのベンチに座り込んだ。

 

 開始早々の脱力感。悲願の現世デートが、よもやこんなことで躓いてしまうとは。

 

「ったく、ずりーぞてめえ。一人だけ十五年もこんなイイもん味わいやがって。今度から旅の区切りにまたこっちの国までメシ食いに行くぞ」

 

「…おかしい、こんなはずでは」

 

「おい聞いてんのか、桔梗?」

 

 鼻息荒く肩を揺さぶってくる少年に、濁った眼のかごめはされるがまま。男女関係の作法は詳しくないが、たとえ狭量な女でなくともこのぞんざいな扱いには不満を覚えて当然だろう。

 だが落胆に内心膝を抱くかごめの受難は未だ終わらない。

 

 

「──あーっ、かごめお姉さんが知らない男の人と一緒にいるー!」

 

 突然、かごめは聞き覚えのある幼い声に名を呼ばれた。はたと顔を上げると、そこには恰幅のよい女性に連れられた童女の姿。買い物帰りと思しき二人は、驚きの表情の中に満面のいやらしい笑みを器用に浮かべていた。

 

「まぁこんにちは、かごめちゃん。しばらく見ない内にまた綺麗になったわねー。…もしかしてそちらのハンサムな彼のお陰かしら、うふふ」

 

「もーっ、かごめお姉さん恋愛なんて興味ないとか言ってたのにウソつき! あたしお姉さんのステキな恋バナずっと聞きたかったんだからっ」

 

 隣町に来てまで避けたかった、知人とのまさかの遭遇である。

 

「…ご無沙汰しております、おばさま。ひとみもこんにちは、いつも草太と遊んでくれてありがとう」

 

 この二人は弟の草太と同じ小学校に通う娘、湖南ひとみとその母親だ。家族ぐるみで付き合いのあるかごめは落ち着いて親子へ挨拶を返す。しかし彼女のらしくない微かな動揺は目敏く見抜かれ、母娘の下世話は更に熱を帯びてしまった。

 

「あの大和撫子なかごめちゃんが男の子と一緒にデートだなんて、まさかの大ニュースよ! でもおばさん安心したわ。硬派も美徳だけど、やっぱり若い娘は恋をしなきゃね」

 

「ね! ね! かごめお姉さんカレシとどれくらいラブラブなのっ? キスはまだ? どんな味なの? きゃーっ、ステキ!」

 

「いや、別に私たちは、その…そういった関係では、もう…」

 

 隣の犬夜叉を背に隠し、かごめはしどろもどろに親子の勘繰りをはぐらかす。

 肯定も否定もせず、ただ今の曖昧な関係に甘んじ続ける。そんな弱気が滲んだかごめの言葉に、恋に足踏みするいじらしい乙女の姿を見た年長の母君は、一目で二人の繊細な間柄を悟った。

 かくして。

 

「…ちょっとちょっと、お兄さん」

 

「あん?」

 

 小学生の愛娘が憧れる、美人で優しいかごめお姉さん。大人びた彼女の年相応の悩みを解決してあげたいと思うのは、同性の子を持つ母として当然の老婆心だった。

 

「いい? かごめちゃんみたいなオマセな子は意外と恥ずかしがり屋さんだったりすることが多いの。もしちゃんと捉まえたいなら男の子のほうからグイグイ引っ張ってあげなさい。おばさんのアドバイスよ」

 

「…いきなり何だ」

 

「お、おばさま。どうかそれ以上はご容赦のほどを…っ」

 

 小声で微妙な話を始めた二人にかごめは慌てて割り込む。切実な思いで首を振ると、有難迷惑を察した湖南母が苦笑いで謝罪した。

 

「やだごめんなさい、お喋りはこの辺にしましょうか。ほらひとみ、お邪魔虫は退散するわよ」

 

「ちぇっ…あとで草太くんに詳しく聞いちゃうからねっ」

 

 湖南親子へ「失礼します」と手短に別れを告げたかごめは、反応の鈍い犬夜叉を掴んで足早に商店街を後にした。

 

 

「…すまぬ、犬夜叉」

 

 アーケードを小走りで走り抜けることしばらく。立ち止まった人気のない裏通りで息を整えたかごめは、横で不機嫌そうに佇む犬夜叉へチラリと目を向ける。生前、何度も見た彼が拗ねているときの顔だ。

 

「何謝ってんだ、いきなり」

 

「いや…先程もそうだが、母にもその学生服に着替える際に色々と茶化されただろうと思ってな。せっかく此方まで来てくれたというのに、嫌な思いばかりさせてしまった…」

 

 校門に商店街、加え日暮家でのことも予想が付く。初めての現代で、戦国時代とは比べ物にならない数の人混みに奇異の目で見られる一日を過ごした彼の不愉快は如何程のものか。

 

 人間が栄華を極める未来の世を見せ、また犬夜叉に人間へ興味を持って貰いたかった。だが、見上げた空は既に茜色に染まりつつある。これ以上の長居は部活帰りの生徒たちにまで捕まるだろう。残念ながら、時間切れだ。

 

 

「おい」

 

 だが落ち込むかごめの耳に、ふと少年の固い声が届く。恐る恐る顔を上げた少女は、そこで彼の強い──男の視線に心を絡め捕られた。

 

「…!」

 

 商店街での幼稚さが影も形もない真剣な金色の虹彩には、戸惑う自分の姿が妖しく揺れて映っていた。そんな犬夜叉の瞳に揺蕩う陽炎が、かごめには不意に、まるで目の前の女を求める慕情の炎のように見えて…

 

「──帰るぞ、桔梗」

 

 ドキリと跳ね上がった心臓が下りる間もなく。次の瞬間、気付けばかごめは犬夜叉の胸元で横抱きに抱えられていた。

 

「なっ」

 

「いくぜ。振り落とされんなよっ」

 

 立て続けの急展開に狼狽していると、突然足が竦む強い浮遊感に襲われた。驚き辺りを見渡すかごめは、犬夜叉に抱えられたまま俯瞰で模型のように小さくなった駅前のビル群の上を縦横無尽に飛んでいた。

 

「よ、よせ犬夜叉! 現代の世でこんな目立つマネをしては…っ」

 

「うるせえっ。ウジウジ萎れるくれぇならずっと大人しくおれの腕の中で抱かれてやがれ!」

 

「…ッ」

 

 文句を口にすることも許されない。何を考えたのか、唐突にいつも以上に強引になった犬夜叉に逆らえず、かごめに出来たのはただ空駆ける自分たちが他人に見つからないよう祈るだけ。少年の急な変化に困惑しながらも、彼の両腕に包まれる少女の胸は切ない鼓動を激しく刻んでいく。

 

 気にしているのだろうか、先程の湖南親子のお節介を。不本意そうな犬夜叉の表情に擽ったい焦燥を見付けたかごめは、意固地な彼に自然と身を委ねていた。

 

 ──ああ。

 

 駆け抜ける肌寒い春風でも冷やせない犬夜叉の体温が、かごめの肢体を甘く燻す。こうして彼に包まれるだけで心が満たされていくのだから、あれほど望んだ"ただの女"とはかくも単純で度し難い。

 

 ──でも。

 

 

「…お、おい。桔梗…?」

 

 あとどれ程の月日を、犬夜叉は私を大切に思い続けてくれるのだろう。

 

 少年の持つ四魂の玉。日々増していく宝珠の妖力から目を逸らしながら、かごめは躊躇いがちに彼の大きな胸元に顔を埋める。そして無意識に求めるように伸ばされた彼女の腕は、ゆっくりと少年の(うなじ)に回り…

 

「…許せ、犬夜叉」

 

 それが楓の助言に反した、後ろ向きな感情に起因することなど気付いている。だけど臆病な少女には、未来のことを考えないようにするだけで精一杯で。

 

「もう少しだけ、このままでいさせてくれ…」

 

 

 小さな、されど残酷な因果に囚われた二人にとっては何よりも大きな願いと共に、かごめは犬夜叉に縋るように抱き着いた。

 

 晴れぬ憂いのせいか。想い人に甘えるという心踊るはずの体験は、思っていたよりも虚しいものだった。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 空の散歩を終え自宅の日暮神社に戻ったかごめと犬夜叉は、母から昼間の騒動を遅れて知った祖父と草太を交えた日暮家三人に囲まれ夕餉の食卓に着いていた。

 

「よ、妖怪だ! じーちゃんホントに妖怪がいるよ!」

 

「だから年寄りの言葉は聞きなさいと言ったじゃろう? 魑魅魍魎蔓延る戦国乱世はこの日本の古き姿! 犬夜叉くんの存在が何よりもその証拠じゃ」

 

「うん! 昨日はねーちゃんの話聞いても良くわからなかったけど、不思議なことってホントにあるんだね!」

 

 初めて目にする伝説上の生物に大興奮な男性陣。それを冷めた目で遠巻きに見つめるのは、盛り上がりの焦点が気に入らないかごめの母だ。

 

「ウチの長女が初めて男を連れて帰ってきたってのに、なんでそっちの話が先に出るのよ。全くもう」

 

「ケッ、妖怪を見てこれっぽっちも動じねぇおめーのほうがズレてやがんだよ」

 

「だってかごめが選んだ相手なら妖怪だろうと神様だろうと同じウチの大切な家族よ。…それに、ちゃんと()()してくれた人だもの、ねぇ?」

 

「…おいこら、その『ねぇ?』のどさくさに紛れて人の耳触ってくんな」

 

 こちらはこちらで夕食のおでんを頬張る犬夜叉を弄るのに忙しいようで、かごめは一人蚊帳の外で静かに食事を進めていた。

 先日骨喰いの井戸から戻ったときに家族へ事情を説明する必要に迫られたが、聡い母はすぐに二人の複雑な関係を察してくれた。前世のことを深く追及せず、娘の幸せをただ優しく見守ってくれる母の配慮は、危うい天秤のような犬夜叉との関係をこれ以上揺さぶられては堪らないかごめにとって何よりも有難かった。

 

「…あ、そうそう。かごめ?」

 

 ふと名を呼ばれ少女は振り向く。おもちゃにされるのに拗ねて窓から逃げ出した犬夜叉を見送っていた母が、含むような笑みを浮かべていた。

 

「はい。何でしょう、お母さま」

 

「あんたまた戦国時代へ遊びに行くなら今夜中に行ったほうがいいわよ。かごめが犬夜叉くんとのデートで留守にしてたときに由香ちゃんたちがたくさん電話くれてね。みんな凄いはしゃいでたわぁ、うふふ」

 

 満足そうに「校門は大騒ぎになったみたいね」と目を細める彼女の様子は何やらとても楽しそうだ。あれほど好奇心旺盛な由香たちなら、間違いなく早朝にかごめを問い詰めるべく自宅までやってくる。言外にそう述べる母の忠告を素直に受け取ったかごめは、一日足らずの家族との触れ合いを存分に楽しみ、三人に惜しまれながら住まいの社務所を後にした。

 

「…では、行って参ります」

 

 

 

 

 夜の帳が降りた日暮神社。あの奇跡の夜と変わらない静かな境内を、かごめは同じく変わらない暗い顔で歩いていく。かつてとは何もかもが違う、長年の悲願が結実した奇跡の日々を過ごしつつも、その胸奥の闇の底は深まる一方だ。

 

「──醜いな、人の心は…」

 

 あれほどちっぽけな願いを身を滅ぼす思いで祈り続けていたというのに、再会したあいつにまた"桔梗"の望みを押し付けたくてたまらない今の自分の、なんと愚かで恥知らずなことか。馴染み深い妖気を感じる方角を見つめ、終わりなき女の強欲に少女は自嘲の笑みを零す。

 

 かごめとして転生し、平和な世で惰眠を貪る年月を過ごしてきたからか。あるいは──古今の歌人たちが詠うように──初めて恋をし、悲恋のまま一生を終えたからか。果たして今世の自分の落魄が何れのせいであろうと、どれも己の無様を開き直る免罪符とはなり得ない。

 ほんの数日前の自分であれば憎悪と嫉妬に怒り狂うほどの、傲慢不遜で滑稽腑抜けな小娘。それがかごめが自覚する今の彼女自身の有様だった。

 

「犬夜叉…」

 

 気配を辿った先で、少年は神社の御神木の前に佇んでいた。

 桔梗と犬夜叉、二人の愛憎渦巻く因縁の象徴。夜風の中、聳える大樹を無言で見上げる彼の内心は、かごめにはわからない。

 そして、それはどうしようもないほど恐ろしいことで…

 

「…ッ」

 

 ほら、まただ。己の忌々しい臆病は意図も容易く四肢の自由を奪い、恐怖に震えるかごめは足下を見つめたまま立ち尽くす。こうして彼の心に踏み込む勇気も出せないクセに、叶うはずもない浅ましい願いばかりが増えていく自分のことが、少女は心底嫌いだった。

 

 

「──この木、おまえの時代にも残ってんだな」

 

 思わず跳ねた両肩が情けない。唐突な犬夜叉の独り言に言葉に詰まったかごめは視線を彷徨わせながら、徐に相槌を返した。

 

「…ああ。骨喰いの井戸の基になった、"時代樹"だ」

 

「…そうか」

 

 互いに言わずとも察している。そう形容したのは、触れたくないもう一つの逸話を避けるため。視界の端に映る犬夜叉は少女と同じ、複雑な葛藤が浮かぶ渋面だ。

 

「…この日暮神社に引っ越してきたのは最近でな、祖母が無くなり祖父を独りに出来ぬと家族四人で暮らすことになったのだ」

 

「…」

 

「私もまさか、五百年前の時代樹がまだ生きているとは思いもよらなかったよ。それも木を代々守り継いで来た一族に生まれ変わるとはな」

 

 小さく「不思議なものだ」と続けるかごめ。だが沈黙の間を持たせようと始めた昔話も、気もそぞろな語り手では然したる慰めにはならず。

 転生と言う奇跡を経ても、否、経たからこそか。刺激に溢れる未来の世の十五年。大層な自分語りになるかと思いきや、如何に話の風呂敷を広げようと、結局少女の人生の全てはあの前世の悪夢へと収束してしまう。その救いのない袋小路が己の惨めさを突き付け、かごめの首は口を開く度に垂れ下がっていく。

 

 過去を振り返らず、前世の過ちを繰り返す。過去そのものに身が竦み、今を失う恐怖に蹲る。果たして愚か者はどちらなのか、愚かな少女にはわからない。

 

「…さて、そろそろ乱世へ戻るか。神秘の乏しいこちらの世では四魂の玉もおまえに馴染み難いだろう」

 

「…」

 

 話題が尽きたかごめは時代樹を背にし、毅然と骨食いの井戸へ歩き出した。口を噤んだままの犬夜叉を尻目に、少女は逸る。ただひたすら、今の二人のつぎはぎだらけな馴れ合いを守るために。

 

 

「──桔梗!」

 

 だが嫌な話題から逃げることに腐心するかごめとは異なり、犬夜叉は惚れた女へ手を伸ばすことを諦めなかった。

 

「おまえ、妖怪は嫌いか…?」

 

 沈痛な声で紡がれた問い掛けは、自分以上に拙い彼が前へ進まんと必死に踏み出した一歩。その短い一言に一体どれほどの想いが込もっているのか。

 

 強い。羨ましいほどに強い。四魂の巫女の定めから逃れるため、己の幸せのためだけに生き、そして夢破れた"桔梗"の自業自得に怯える私とは違う。決して素直ではないけれど、犬夜叉はいつだって、どんな苦境にも負けず前に進もうとしている。

 

「私は…」

 

 かごめは返答に窮し臍を噛む。

 

 ここで恥も外聞もなく、この秘めた慕情を言葉にする勇気があれば、彼はどんな顔をするのだろう。薄汚い乞食のように縋り付き、妖怪にならないでくれと願い倒せば。人間となって私と共に生きてくれと、ひたすら頭を下げれば。彼はどのような答えをくれるのだろう。

 とうの昔に捨て去ったはずなのに、何かを求めるように揺れる犬夜叉の強い眼差しを見ていると、浅はかにもかつての希望を抱いてしまいそうになる。

 

 また、あの小さな桟橋でしてくれたように、私を抱きしめ二人の未来を囁いてくれるだろうか、なんて。

 

 

「…私は、半妖のおまえが嫌いじゃないよ」

 

 

 出来るはずがない。口惜しさに歯噛みするかごめの唇が零したのは、そんな卑怯な返事だった。

 

 

 

***

 

 

 

 ──かごめを、助けてあげて。

 

 

 愁眉し悲しそうな笑みを浮かべる少女を見つめながら、犬夜叉はかごめの母と交わした約束を呼び起こしていた。

 

 

『あの子、本当に幸せそうにあなたのことを話すのに……何でかしら、ずっと怯えてるように見えるのよ…』

 

 

 痛ましい彼女の言葉が少年の耳に木霊する。誰にも気を許さず自ら孤独を選び、毎日毎晩あの大樹を見つめては陰で涙を流す、生まれ変わった想い人の惨めな半生。苦しみ続ける今世の少女の過去を知った犬夜叉は、もう逃げることなど出来なかった。

 

 

「…おれは人間が嫌いだ」

 

 起伏に乏しく、それでいて強い決意の籠った声が神社の静寂に溶けていく。悲痛な面持ちでこちらを見つめ返すかごめへ、犬夜叉はそう宣言した。

 紡ぐ言葉は刺々しい。己の気に食わない記憶が怒涛の如く想起され、籠る憎悪と敵意は凄まじかった。自分でも驚くほどに。

 

「弱っちいクセに蝗みてぇにいつもウジャウジャ群れて図に乗りやがる。感謝した次の日には徒党を組んで平然と裏切り、全部おれのせいだと非を押し付ける。人間ってのは恩も礼儀も知らねえクズばかりだ。おれは村のヤツらも未来の連中も誰も信じねぇ」

 

「…ッ」

 

 本心を聞かされた少女は俯いたまま、微かに震えていた。違う時代の同じ場所で見た、鏡写しの彼女の姿が脳裏にちらつく。犬夜叉は悪態を続けたい気持ちをぐっと呑み込み、何とか心を落ち着かせた。

 

「──だけど、おまえだけは別だ」

 

 そして、もう一つの本音を、そう告白した。

 

「…え?」

 

 呆けるかごめの理解を待たず、少年はこの来世の桔梗と過ごした不思議な四日間を振り返る。

 

「おまえの封印が解かれてから、おれはずっとおまえのことを見てた。笑ったと思えば直ぐに辛そうな顔になったり、照れて耳赤くしてらぁってからかおうと思えば一瞬で泣きそうな悲しい顔になったり…」

 

「…」

 

「ったく、ビビったぜ。全部おれの知る桔梗なら絶対しねえ顔だからよ」

 

 正直なところ、わからない。五十年も意識がなかったからか、はたまた新たに自らの弱さを見せるようになった今の彼女の印象が大きいからか。桔梗が本当に犬夜叉の記憶通りの常に気高く強い女だったのか、彼には未だ確証が持てずにいる。

 

 だが。

 

「おまえは別人みてぇに変わったが、おまえがおれを見る目は…やっぱり、桔梗の目だった」

 

 犬夜叉には一つだけ、桔梗との思い出で絶対に疑えないものがあった。

 

「散々人間にも妖怪にも疎まれてばっかだからわかっちまうんだ、てめえの嫌なモンを見る目ってのはな。殺生丸は当然、村のヤツらも、おまえの妹だって程度は別だが結局同じだ」

 

 人でも妖怪でもない、半端者。常に蔑まれる立場にあった彼は周囲の敵意に目敏い。如何に上手に隠そうと、不本意にも豊富な経験に恵まれた半妖の少年には、他者の悪感情を容易く見抜くことが出来た。

 

「けど、おまえの目は全然違う。昔の、一人だけおれに優しかったお袋だってそんな目はしなかった。桔梗だけがおれに向けてきやがった、小恥ずかしいヘンな目だ」

 

「…そんなもの、知らぬ…」

 

 戸惑いながら瞳を右往左往させるかごめ。交差しては逸らされる彼女の視線の中にも、その目は確かに残っている。濡れた鏡面のように艶やかで、勾玉の曲線ように柔らかで、優しく、そして身を焦がすほどに熱っぽい。女が男を見る、特別な目だ。

 無論、死んでもそんなこと口にして堪るものか。だが、どんな宝石よりも美しいその懸珠を我が物としたい思いだけは、決して誤魔化せるものではなかった。

 

「…だからおれは、おまえのその目だけは見間違えねえ」

 

 犬夜叉は正面からかごめを見つめる。

 

 少年は決して口が上手い訳ではない。桔梗以上に孤独な人生を送って来た彼に優しく女を励ます方法など持ち合わせているはずもなく、また自分の気持ちを容易く言葉に出来るほど素直にもなれなかった。

 

「…ッぁ」

 

 荒治療。故に不器用な犬夜叉が選んだのは、少女を逃がさぬよう強く抱きしめ、秘める全てを四の五の言わさず無理やり彼女の口から吐き出させることだった。

 

「桔梗…」

 

 突然の抱擁にたじろぐかごめの耳元で、少年は真摯に囁く。

 

 

 …これから問うのは、過去の二人を引き裂いた触れ難い禁忌だ。

 

 考えぬよう蓋をし、暴くことを恐れて来た真実。未来のこの世でただの女になった彼女となら、無理に触れずとも新たな絆を結ぶことだって出来るだろう。らしくないと思いつつも送った着物を幸せそうに羽織ってくれる彼女となら、清算せずともまた昔のように寄り添い合えるだろう。全てなかったことにしてしまえば、すれ違う二人はまた一つになれるはずなのだ。

 

 だが、それでは桔梗を救えない。

 

 殺生丸との争いで惚れた女を守る誓いを新たにした自分とは異なり、桔梗は未だにあの日の悪夢に囚われ苦悩している。忌々しい兄に前世の想いを嘲笑われてから、より酷く、深く。

 

「犬夜叉…」

 

 青褪めたかごめが、閉じた腕の中でゆっくりと頭を振っている。頼む、止めてくれ。そんな懇願が聞こえてくる悲愴な声色。その哀れな様に挫けず、犬夜叉は有り丈の覚悟を声に乗せた。

 

「…昔、一度だけおまえのおれを見る目が違ったときがあった。最初に会ったときよりも、ずっと、ずっと嫌な感じがした、あの初めて見た目だ」

 

 あの日、何かがあったのだ。犬夜叉の知らない、桔梗が自ら命を捨てるほどの、彼女の笑顔を奪い続ける、悍ましいナニカが。

 

「なあ、桔梗───」

 

 おれはもう逃げない。犬夜叉は震えるかごめの体を抱き締め、ついに、惚れた女を救う大きな一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 ────五十年前のあの日のおまえは、誰だったんだ?

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巡り合う二人の運命恋歌(上)

 

アニオリ過去編(147―148話)のラブロマ増し増し再構成。


 


 

 

 

 

 ───力が必要だ。

 

 

 最初にその渇望に身を委ねた理由は何であったか。己を異形と蔑む世の中を見返したい承認欲よりも、ずっと原始的な感情。あるいはそれはただ、頼るべき母を亡くした孤児の純粋な生存本能だったのかも知れない。

 

 斜陽に染まる深い森を、一人の半妖の少年が傷だらけで駆け抜ける。無数の妖怪が潜む木々の狭間で、血潮の滴る肩を押さえる彼はその端正な顔を焦燥に歪めていた。

 

「…ちくしょうっ、急がねえと今夜は…!」

 

 人と妖の雑種。侮蔑の悪意に苛まれる彼ら半妖は月に一度、半端者であるが故に人外の力の源たる妖力を失う夜がある。自衛の手段が封じられる新月の宵は、己以外の全てが敵と言っても過言ではない苛酷な定めを持つ少年にとって屈辱の鬼門だった。

 

 だが強者たる自分が弱者へと落ちぶれる忌むべき宿命の夜も、今思えば、それは少年───犬夜叉を二百年の孤独から救うために必要な廻り合わせだったのだろう。

 

 

「ッ何…!?」

 

 

 突如、森の奥で強烈な光が爆ぜた。犬夜叉は咄嗟に伏せ先の方角を警戒する。この地は何故か異様に妖怪の数が多くそちらの襲撃は覚悟していた。だがこのチリチリと肌を焦がす清浄な空気は連中の妖気ではない。時折見かける恐るべき退魔の神秘、人間の強者が使う"霊力"だ。

 

「凄ぇ浄気…都の陰陽師でも妖怪退治に来てんのか? …癪だが妖怪除けには使えるか」

 

 妖力を失う朔の日の犬夜叉は、半妖からただの人間へと変化する。そのため正体に気付かれねばあの光の主に敵対されることはなく、逆に庇護下に入ることさえ可能だろう。無論、此度のように切実な危機に瀕していなくば意地でも甘えぬ慈悲であるが。

 

 降り始めた夜雨の中。自慢の銀髪が人の黒髪に変わった少年は、気配を消して慎重に森の奥へと進む。周囲には妖怪の死骸が散乱しており、目当ての気配に近付くにつれ増える肉塊は足場もないほど犇めいていた。斯様な惨劇を一人で起こしたのなら、この先にいる人間は最早人の枠から外れた妖怪以上のバケモノだ。

 しかし、噎せ返る血臭に紛れ、犬夜叉はこの鉄火場に似ても似つかない意外な匂いを捉える。

 

 若い、女の匂いだ。

 

 女で妖怪退治と言えばまず"巫女"が思い浮かぶ。連中は破魔働きなら一人で武者百騎に匹敵する生粋の人外と聞くが、実際にそれほどの大立ち回りが出来る者は決して多くない。まして犬夜叉の知る若い女などあの非力で儚かった病床の母親のみ。好奇心に負けた少年は草木の陰から開けた戦場跡へこっそりと顔を覗かせる。

 そして雨の簾の先で。

 

 

「──いつまで隠れているつもりだ」 

 

 

 そいつと目が合った。

 バカな、妖力は夕暮れと共に途切れ完全に気配を絶ったはず。動揺する少年は鋭い黒曜石の眼光に射竦められ、かくして瞬く稲妻に照らし出された女の全容を垣間見た。

 

「…貴様も、四魂の玉を狙っているのか」

 

 そこに居たのは、長い黒髪の女。

 折れた弓を片手に、巫女の身分を表す白衣緋袴をどす黒い返り血で染めあげた風容はまるで修羅の如く。競うように日焼けのない白さを求められるはずの女肌は煤焦げ地色もわからぬほど。落ち武者すら霞む満身創痍のその姿は、女どころか人間にすら見えぬ凄まじい有様だった。

 

「……殺されたくなかったら、二度と私に近付くな」

 

 落雷と雨音に紛れ、背を向けた女の無機質な忠告が耳に届く。去り行く彼女を唖然と見送る犬夜叉だったが、そこで彼ははたと我に返った。

 

「…ッ、く…」

 

「!」

 

 荒れた地面に蹴躓いたのか、毅然とした後ろ姿が突如乱れ巫女が膝から崩れ落ちた。

 

「お、おい…」

 

 様子を訝しむ少年は隠れるのを止め、横たわる彼女の下へ恐る恐る近付く。やはり大軍相手の死闘でとうの昔に限界を超えていたのだろう。息はか細く、石ころを放り当ててもピクリとすら動かない。もし女が本当に人間なら、このまま雨に打たれ血を流せば直に死に至る。

 

 そして、こういうときに何とかしてやりたいと思ってしまうのは、犬夜叉自身が悪癖だと戒める彼の人間としての本性であった。

 

「…勘違いすんなよ、敵じゃねえヤツに目の前で死なれちゃ寝覚めが悪ぃだけだ」

 

 誰に言っているのかすらわからない言い訳で自らを納得させた少年。だがひとまず雨風を凌げる藪の中へ運ぼうと女を抱き抱えた直後、犬夜叉は間近で見た彼女の顔に心を奪われた。

 

 

「─────ッ」

 

 

 美しい。

 

 そんな、生まれて初めて使う形容句が浮かぶほど、女の容姿は端麗だった。雨で解け落ちた煤土の下には白絹のような素肌が輝き、抱えた肩は驚くほど華奢で頼りない。冷え切った身体は今にも消えてしまいそうで、気付けば犬夜叉は反射的に彼女を救うべく傷を手当していた。

 金瘡医でもない半妖の少年に出来ることなど微々たるもの。血の滲みが酷い患部へ破いた白衣の袖を巻き付け止血するくらいしか手はなく…

 

「……さ……!」

 

「き……ょうさま……っ!」

 

 無力感に臍を噛む犬夜叉は遠くから近付く大勢の人間の気配に追い立てられ、悔いを残したまま瀕死の巫女の側から立ち去った。

 

 何故、あれほど真摯にあの女を救おうと思ったのか。何故、たった一人の人間を救う術を知らなかっただけのことが、こうも悔しく思えてしまうのか。幾度も繰り返した問いは最後まで解けることはなかった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 その後、松明の群れを避けた犬夜叉は森の端に潜み日の出を待っていた。枝葉の天蓋でじっと雷雨に耐えていると、一瞬の雷光の中、ふと目先に広がる草原の丘陵にお誂え向きの横穴を見つけた。熊の冬眠穴だろうか、いよいよ寒さに体が震えて来た人間の犬夜叉は迷うことなく奥へ飛び込んだ。

 

 だが今夜の寝床に選んだ洞穴には、奇妙な先客がいた。

 

 

「───あぁ? 見ねぇ顔だな小僧、どっから来た」

 

 

 粘着くような低い男の声。ホッと一息付こうとしていた犬夜叉は即座に身構え声の主を威嚇する。

 

 死人か。その男の姿を見た少年は思わずそう呟いた。藁衾に寝かせられていたのは、清潔なサラシを体中に巻き付けた重症人。ギョロリと布の隙間から覗かせる片目は脂で濁り、嗤うように細まる様は不気味そのもの。妖力を感じないのに、それはまるで、幾百もの年月を経た大妖怪の如き悍ましい邪気を孕んだ目であった。

 

「……夜明けには出ていく。寝ろ、その怪我ではしゃぐと死ぬぞ」

 

「ンな邪険にすんなよ、旅の話でも聞かせて無聊を慰めてくれや。冷てえ雨夜は四肢が軋んで堪らねぇ…」

 

「人間に話すことなんか何もねぇよ」

 

 今日はよく怪我人に会う日だ、それも人間らしくない人間の。あの巫女が悪鬼羅刹ならさしずめこいつは魑魅魍魎。異常な妖怪の数も含め、この地は明らかに何らかの呪いの類を受けた忌み地だ。そして斯様な地獄を生き抜くバケモノ共は、得てして余所者の正体を容易く見抜く。

 

「おまえ、半妖だろ」

 

「…!」

 

 驚きも一瞬。男の声に嘲りの色を感じた犬夜叉は睨み返す。敵意や恐怖ではなく、悪意と興味が感情を占める様は、どちらかと言えば人より物の怪に近い。自分やあの巫女とは異なる"人でなし"であるこの男に、少年は普通の人間や妖怪共よりずっと嫌なものを感じた。

 

「そう殺気立つな、おれはおまえらを軽蔑しねぇよ。四魂の玉に焦がれるのは人も妖怪も半妖も同じだからなァ、クックックッ…」

 

 犬夜叉は眉を顰める。

 

「…てめぇもその"四魂の玉"か。何なんだソイツは」

 

「あぁ? おまえそんなことも知らずにここへやってきたのか?」

 

 バカにされ更に顔を顰めるも事実は事実。しかし巫女の言葉にあったその名を立て続けに耳にしては、少年も無関心でいられない。目で続きを促すと男は包帯の奥でニヤリと口角を吊り上げた。

 

「なぁに、男なら一度は思い描いたことがあるだろう? 億万長者、酒池肉林、不老不死。一国一城の主となり家臣領民共を平伏させたい、蔵の底が抜けるほどの銭で美女美酒美食に豪遊したい、怪我に病に老いに怯えぬ不滅の体を手にいれたい、ってな」

 

「くだらねぇ…」

 

「まあ妖怪にとってはそうだろう、おまえらが玉を狙うのは妖力のためだ。…何せ『半妖を本物の妖怪にする』ほどの代物なんだからよォ、ヒヒヒ」

 

 一瞬の硬直。瞠目と同時に男の言葉を何度も反芻し、犬夜叉はゆっくりと振り向く。一聞の価値ある大変興味深い話だった。

 

「……おいてめえ、ふざけて言ってんじゃねえだろうな?」

 

「ところがどっこい。そんなどんな願いでも叶えちまう欲望の宝珠がこの地にはあるんだよ。鬼のようにおっかなく、かぐや姫のように美しい、四魂の巫女──"桔梗"の手中になァ。ヒッヒッヒッ…」

 

「…!」

 

 男の話で今日の出来事全てが一つに繋がった。蠢く無数の妖怪共、並の退魔師とは一線を画す凄腕の巫女、あらゆる願いを叶える謎の宝珠。先ほどの戦場跡は四魂の玉を狙う敵と、奴らを迎え撃つ玉の守り人との戦いだったのだろう。そして守り人の問いに「四魂の玉など知らない」と返答したあのときの自分は、図らずも彼女に見逃してもらった。

 

 信憑性のある男の情報に少年の胸が高鳴る。そのような夢の宝があるなら是非とも手に入れたい。さすれば自分は完全な妖怪となり、これまでの虐げられる定めから解放される。今まで蔑んできた愚か者共に、このおれの恐ろしさを思い知らせてやれる。己の野望の全てが叶うのだ。

 だが。四魂の玉を奪わんと意気込む犬夜叉の脳裏に浮かんだのは、まだ見ぬ欲望の宝珠ではなく、一人の少女の顔だった。

 

「…そうか。あの女、"桔梗"って言うのか…」

 

 あいつに相応しい、綺麗で儚げな名前。恐ろしい守護者の二面性が彼女のか弱い姿をより強く印象付かせ、心配する犬夜叉は思わずその名を呟いた。かなりの怪我だったが、探しに来た人間共にちゃんと救われたのだろうか。

 

 すると、そんな犬夜叉の顔を見た洞穴の主が、纏う空気を一変させた。

 

「──なんだ、おまえも桔梗に心奪われた哀れな道化だったのか」

 

「は?」

 

 藪から棒に何だというのか。見当違いなことを言われ犬夜叉は目を瞬かせる。あの巫女は確かによく見れば大変見目麗しい娘だったが、人を喰うことも子孫を残す必要もない半妖の彼にとって人間の女など無価値な存在だ。もっとも、可能なら彼女に生きていて欲しいと思う感情の源が何なのかは彼にもわからない。例の四魂の玉とやらを守る巫女であろうと、別に奪う際に殺すつもりもないのだから当然と言えるが。

 

「クク…隠すな隠すな。わかるぜぇ、あれは良ぃ女だ。美しく気高く慈悲深い。そんな澄ました女が、例えば───絶望に瀕したときどんなソソる顔をしてくれるんだろうなァ?」

 

「…何だそりゃ」

 

 対し人間である洞穴の主は異なる価値観を持っているようで、されど上機嫌に語り出したそれは聞くにも悍ましい、一人のオスの野望であった。

 

「あぁ、想像するだけでゾクゾクしやがる…! あの凛とした目を涙に赤らめ、微笑の唇が嫌悪と嘆願に歪み…『いやだ』、『やめろ』、『許してくれ』と叫びながら、いつもの隙のねぇ巫女装束がはだけるほど乱れた姿…! さぞかし良い声で鳴いてくれるんだろうなァ…クヒッ、クヒヒヒヒ」

 

「…ッ」

 

 ゆらゆらと唄うように己の獣欲を吐露するズタ襤褸の下種野郎。女の気持ちなど欠片も知らぬ犬夜叉すら我が身の如く青褪めるその劣情には、尋常ならざる執念があった。昂る人間、後退る半妖、これではどちらが化物かわからない。

 こんな気味の悪いヤツに執着されるとは美人も考え物だ。正しく他人事な少年の気にも留めない脳内の覚書である。

 血の滴る体を捩り、不気味な調子で笑う狂人を視界から追いやりながらの一夜は、随分と長く感じられた。

 

 

 最悪な同居人と過ごした朔の夜が明け、暁が犬夜叉を淡く照らす。眩い銀髪を取り戻した半妖は体の様子を確かめた後、無言で横穴の外へと向かった。

 その背に「小僧」と男の呼掛が届く。

 

 

「おまえとはどこか、また別の形で会えそうだ。そのときを楽しみにしてるぜ、半妖」

 

 

 下品な嗤い声に紛れるその言葉が、妙に耳に残った。

 

 

 

***

 

 

 

 日が昇る正午の頃、犬夜叉は軽い足取りで昨夜の森を進んでいた。半妖を本物の妖怪にする四魂の玉。永遠に晴れぬ未来が大きく開けた彼の進むべき道はたった一つ。守り人の巫女から宝珠を奪うことだ。

 

「──やい、桔梗ッ!!」

 

 いた。服に残る微かな匂いを辿った先で、少年は目当ての人物と再会する。あのときの傷も手当てされ、見る限りでは足取りも揺らぎ無い。そして明るい陽光の下で見る彼女の素顔は、やはり、思わず襲撃を躊躇いそうになるほど美しかった。

 

「…その声、聞き覚えがある」

 

「はん、昨日とは違うぜっ。四魂の玉ってのは妖力を高める妖の玉なんだってなァ!」

 

 少年の勝気な大声に暫しして、巫女が彼の正体に思い至る。

 

「そうか、あのとき森で逃げ隠れしていたヤツか」

 

「ッ、うっせぇ! 大人しく寄こしやがれっ!」

 

「面倒な…」

 

 歯牙にもかけない反応に苛立ち、犬夜叉は威勢よく襲い掛かる。以前とは違い半妖の力を取り戻した今なら脆弱な人間の女など鎧袖一触だ。

 だが爪を振りかぶった直後。

 

「あぐ…ッ! な、なにっ…!」

 

「全く、彼我の力の差がわかっていたからコソコソしてたのではないのか? 獣ですら身に染みた恐怖を一晩で忘れたりはせぬぞ」

 

 何が起きたのかすらわからない。突然磔にされ、犬夜叉は自分が巫女の弓矢で射たれたと遅れて理解した。それも体を傷付けることなく、丁寧に衣類の袖や裾だけを木の幹に射縫い付けて。

 これが四魂の巫女の実力。戦慄する犬夜叉を、感情の籠らない全てを見透かす清んだ目が見つめる。

 

「…なるほど。変わった妖気だと思ったが……おまえ、半妖だな」

 

「!」

 

 蔑みも慣れたもの。だが彼が周囲の悪意を跳ね返さんと睨み付けた女は、いつもの人間や妖怪のそれとは異なる、不思議な目をしていた。

 敵意も悪意も嘲りもなく、ただ目の前の人物だけを見つめる醒めた目。微かな憐憫の籠ったそれは、長い時を生きる半妖の少年にとって初めてのものだった。

 

「四魂の玉を得れば、おまえは完全な妖怪になれるだろう。…哀れな男。そうまでして己の居場所が欲しいのか。玉に与えられた借りものの力が、本物の強さだと思っているのか」

 

「ッ、喧しい! おれは最強の妖怪になるっ、そう決めたんだ!」

 

 そのときはまずてめえから血祭にあげてやる。見抜かれた己の本心を、犬夜叉は強気な宣言で塗り潰す。だが桔梗は変わらぬ澄まし顔で少年の決意を鼻で嗤った。

 

「フ……私が玉を清め、守る限り、おまえの望みは叶わない。笑止なこと」

 

 興味を失い立ち去ろうとする巫女。犬夜叉は相手にされない屈辱に怒るも、動けぬ身に出来るのはがむしゃらに女を罵倒することだけ。

 

 だが存外、少年にはその才能があったらしく。

 

「『玉を清める』だぁ? ヘッ、体中から妖怪の血の臭いプンプンさせてる穢れまみれの女が一体何を清めるってんだ、笑わせるぜ!」

 

「…!」

 

 瞬間、犬夜叉は巫女の目元が微かに動いたのを見逃さなかった。意外と挑発に弱いのか、繊細なのか。まさかただの生娘のように体臭が気になった訳ではあるまい。いずれにせよ首だけ振り向き睨んでくる彼女の顔は、確かにこちらに注意を向ける程度には気に障った様子だった。

 

「…殺されたくなかったら私に近付くな。三度目はないと思え」

 

 不機嫌を滲ませた桔梗はぷいと背を向け、硬い声の忠告を残して去って行った。木に吊られ手は出せずとも口なら出せる犬夜叉は、勝ち逃げなど断じて許さぬとしばらくの間その背に有り丈の負け惜しみを投げ続けた。

 

「けっ、逃げたってすぐに見つけてやるぜ! てめえの鼻持ちならねえ匂いはどこに居ても嗅ぎ付けられるからなァ!」

 

 犬夜叉と桔梗。両者の初戦は一勝一敗の引き分けと、磔の少年は満足そうに頷いた。

 

 

 

 そして初戦以降、翌日、翌々日と。犬夜叉は巫女の矢から抜け出す度に彼女へ挑み続けた。

 桔梗は森の端にある小さな村を拠点にしているらしく、薬草の採取や子供たちの遊び相手、男衆の弓の鍛錬など、四魂の巫女としての務めを行う傍ら村のまとめ役として精力的に励んでいた。近隣に轟く"桔梗さま"の名は村以外の人間たちにも頼りにされ、彼らに分け隔てなく尽くす少女の姿は犬夜叉の目にも気高い理想の強者として映っていた。

 自分とは真逆の、誰からも求められ親しまれる桔梗のことが気に入らず、犬夜叉は四魂の玉の因縁も忘れるほど、そんな人気者な彼女がただただ羨やましかった。

 

 

「──ひとつ、聞きたい」

 

「何だっ」

 

 その日の朝も、少年は桔梗の妹の弓の鍛錬が終わったのを見計らい、玉の奪い合いに彼女へ決闘を挑んでいた。

 

「…あの最初の夜、何故おまえは私を助けた」

 

 だが変わらぬ無感情な巫女はこのとき、まるで気紛れのように彼へいつもの口上以外の問いを投げ掛けて来た。

 

「毎度まいど、飽きずに私に突っかかって来るほど四魂の玉が欲しいのだろう。あのときの私なら楽に殺せたはずだ。それをおまえは拙い腕で癒そうとし、かと思えばこうして幾度も愚直に無駄な勝負を挑んでくる。何故だ、バカなのか?」

 

「誰がバカだ! 意地汚ねぇてめえら人間や妖怪共と一緒にすんじゃねえっ!」

 

 今更な、そして無礼極まりない問いだった。

 

「…おれはおまえらとは違う。このおれさまが女の寝首を搔くようなマネ出来るかよ」

 

 自分でも驚くほど冷たい声。これが相手を侮蔑するときの気分なのか、と犬夜叉は目の前の女を睥睨する傍ら他人事のように感心する。

 しかし侮辱された女の反応は、瞠目。彼女の崩れた鉄面皮が少年へ伝えるのは純粋たる驚きのみで、それは彼にとって不可解なことだった。

 

「フ……ではいつも楓を下げさせるのも正々堂々たる一騎打ちのためか。存外、誇り高い半妖のようだ」

 

「ッ、半妖半妖と何が可笑しい! 半妖が堂々としてたら悪いかよっ!」

 

 さも意外なことのように感心する失礼な巫女に犬夜叉は怒号で返す。桔梗は、妖怪の血を引く半妖なら目の前の男も同じく恥知らずな外道だと決めつけている。そのことが何故か、少年は酷く腹立たしく、悲しかった。

 だが。

 

「ならば名乗れ。そうすれば二度とおまえを"半妖"などと呼ばぬ」

 

 故に桔梗が口にしたその言葉を彼が理解出来たのは、長い沈黙の間が過ぎた後であった。

 

 最後に誰かに名を聞かれたのはいつだったか。ともすれば生まれて初めてかもしれない経験に困惑する少年を、巫女は静かに見つめている。彼女の目に浮かぶ、吹けば飛ぶような小さな情の種火は、人の悪意しか知らない荒んだ彼にとっては十分すぎる温かさ。桔梗の視線の朧げな温もりに誘われ、少年は母が死んだ二百年前以来一度たりとも紡いだことのないその名を、ようやく名乗った。

 

 

「──犬夜叉だ」

 

 

 不審、感慨、疑念、自尊。万感の思いが込められた彼の名乗りを、桔梗は変わらぬ澄まし顔で受け止めてくれた。

 

「…犬夜叉か、覚えておこう」

 

 

 風の騒めきが静まるまでの、僅かな沈黙が二人を包む。奇妙な充足感を噛み締め、犬夜叉は張り詰める緊張を引き裂き巫女へ突撃した。ここから先は名乗りを交わした強者同士の果し合い。全身全霊の力を振り絞り、少年は磨き上げた十指の鋭爪を相手へ振り下ろした。

 

「覚悟しやがれッ──"散魂鉄爪"!!」

 

 だが欲望の宝珠が守護者に選んだ巫女はかくも精強なり。目にも留まらぬ速さで衣服を木に射留められ、犬夜叉は傷一つ負うことなく毎度のように無力化される。触れさえすればたかが人間の女を組み伏せることなど赤子の手をひねるに等しいのに、彼女との間に立ち塞がる僅か十間の距離が果てしなく遠い。桔梗の番えた矢尻が眉間を狙い定め、囚われの少年は死の恐怖にゴクリと喉を鳴らす。

 

 だが睨み合うこと数舜。長い残心を解いた相手が無言で踵を返した。

 

「ッ、待てよてめえっ! 何でいつも止めを刺さねぇんだ!」

 

 また見逃された。屈辱に叫ぶ犬夜叉に、キッと振り返った桔梗が強い口調で毎度の忠告を残す。

 

 

「もうウロチョロするな、犬夜叉。おまえに撃ち込む矢が惜しい」

 

 

 変わらない二人の様式美。されどそこに加わった一つの名前が、少年少女を繋ぐ新たな絆となっていた。

 

 

 

***

 

 

 

 桔梗には一人、楓という妹がいた。

 齢十にも満たない幼い少女。健気に姉のような優れた巫女になりたいと日夜弓術や霊力、癒術の研鑽を頑張る彼女のことを巫女は心から大切に思っていた。

 

 桔梗との、四魂の玉を巡る決闘を繰り返す一方的な関係が変化したのは、そんな童女に迫った危機を偶然追い払ったあのときからだった。

 

 

「──犬夜叉、そこに居るんだろう? 降りて来ないか?」

 

 

 森はずれの草原。聞いたこともないほど優しい声色で名を呼ぶその日の桔梗に、犬夜叉はかつてない警戒心で近付いた。

 

「…おまえとこうして近くで話すのは、初めてだな」

 

「あぁ?」

 

 気持ち悪い、誰だコイツは。名乗りを交わしてから妙に当たりが柔らかいと思っていたが、今日は輪にかけて様子がおかしい。彼女の意図がわからず、横に腰掛けた少年の相槌には強い不信が滲む。

 だが草原に座る桔梗は彼の態度を意に介すことなく、ゆっくりと頭を下げた。

 

「楓を助けてくれたそうだな。礼を言う」

 

 巫女の殊勝な態度を受け、少年はようやく「ああ」と思い出す。あれは別にあのチビを助けたわけでも桔梗に感謝されたかったからでもない。目障りな雑魚妖怪が彼女の妹を人質に四魂の玉を奪おうとしていたから阻止しただけのこと。

 だが桔梗は妙な勘違いをしているようで、馴れ馴れしい彼女の距離感は犬夜叉を更に混乱させる。本人の言う通り、こうして戦意のない穏やかな空気で言葉を交わすなど思いも寄らなかった。

 

 草原の丘に腰掛ける二人を初夏の涼風が優しく撫でる。すると不意に「犬夜叉」と名を呼ばれ、少年は渋々彼女へ目を向けた。

 

「私がどう見える。人間に見えるか」

 

「…はぁ?」

 

 思わず顔を顰める犬夜叉。唐突に過ぎる不可解な問いにいよいよ熱でもあるのかと疑い出す少年だったが、隣で遠くを見つめる桔梗の横顔は平静で理性的だった。

 

 静かに語られたのは、未だ年若い巫女の、孤高な生き様。

 

「私は誰にも弱みを見せてはならない。迷ってはいけない。妖怪に付け込まれるからだ」

 

「…」

 

「巫女とは人間であって、人間であってはならない。その定めが少しだけ…おまえと似ている気がした」

 

 独白する桔梗の、少しだけ困ったような目に見つめられ、犬夜叉は戸惑いながら問い返した。

 

「…おれと?」

 

「半妖のおまえと、巫女の私。立場も宿命もまるで違うのに、何故か…他人のように思えなかった」

 

 だから、おまえを殺せなかった。そう終えた桔梗が自嘲の笑みを零し、二人の間に沈黙が舞い戻る。

 

 犬夜叉はワケがわからなかった。藪から棒に始めた自分語りをただの愚痴で終わらせるなど、桔梗らしくないにも程がある。今日の彼女は絶対に普通じゃない。だが「とっとと帰って寝ろ」と呆れて帰り支度を始めた犬夜叉の目に、あり得ないものが映り込んだ。

 

「…やはり、私らしくないか」

 

「──ッ」

 

 哀切。まるで縋った手を振り払われた童女のような、寂しそうな顔をした桔梗がそこにいた。

 

「ありがとう。おまえに話せて少しだけ楽になった」

 

 明るい声で礼を言い、桔梗は振り返ることなく二人の草原を後にした。その背中は常に毅然としている彼女に似つかず儚げで、そんな少女の後ろ姿を見つめる犬夜叉は、生まれて初めて悪いことをした気分になった。

 

 あの独白は彼女なりに心を開いてくれた証だったのではないか。弱みを見せないと自ら戒めながらもそれを二人きりのときに言葉にしてくれたのは、血塗られた道を歩む巫女の、精一杯の弱音だったのではないか。

 誰にも頼ることを許されず、妹を、村人たちを、四魂の玉を守り一人で戦い続ける桔梗。皆に求められ、親しまれ、頼られる彼女は間違う事なき英雄だ。気高く凛々しい人間の強者なのだ。

 

 だが、全てを一人で背負う、未だ若い彼女自身を支えてくれる者は…

 

 

「…そうか」

 

 犬夜叉は知ってしまった。見てしまった。巫女の弱音を。寂しそうな顔を。気丈な彼女のもう一つの姿を。否、巫女の仮面に隠された、桔梗の本当の素顔を。

 

 

 ──あいつも、独りなんだ。

 

 

 

***

 

 

 

 それからと言うもの、犬夜叉は桔梗のことばかり考えるようになっていった。

 何が好きで、何が嫌いなのか。何を思い、何を望んでいるのか。常に彼女の様子が気になり、気付けば遠目でその姿を追いかける日々。

 

『桔梗っ、今日も来てやったぜ!』

 

『懲りないヤツめ…』

 

 日課の決闘も本来の目的は遥か忘却の果てへ消え、戦うことしか知らない彼が彼女と関わるための手段に代わった。少年が挑み、少女が応える。だが殺伐とした触れ合いしか出来ないもどかしさは積もるばかり。

 もっとあいつのことが知りたい。もっとあいつの顔を見ていたい。彼女の心を傷付けてしまった切ない負い目のようなものから始まった興味は、いつしか彼の知らない別の名を持つ感情へと変わっていった。

 

 

「──桔梗」

 

 月日は流れ、燃えるような紅に色付く中秋の日。犬夜叉は大きな覚悟と共に桔梗の下へと訪れていた。

 

「おはよう。おまえも飽きぬな、犬夜叉」

 

 いつもの決闘かと呆れながらもどこか楽しそうに微笑む巫女。見惚れそうになる単純な自分を律し、少年は水干の懐に手を入れる。

 

「お、おめーに渡してえモンがある。手ぇ出せ」

 

「渡したいもの?」

 

 キョトンと小首を傾げる、そんな些細な仕草すらも艶っぽく見えてしまう。重症だと内心身悶えしながらも、意を決した犬夜叉は少女に小さな合せ貝の小物を手渡した。男の自分には無意味なものだが、ただ捨てるには惜しい大事な宝物だった。

 

「これは…」

 

「ずっと昔に亡くなったお袋の形見だ。女なら使い道もあんだろ、おめーにやるっ」

 

 唐物の口紅、それが桔梗に渡した贈り物の中身だ。

 少女の手に収まった合せ貝を見ながら、犬夜叉は元の持ち主の亡き母十六夜(いざよい)に思いを馳せる。都の屋敷でも、一人立ちしてからも、自分に味方してくれたのは彼女だけだった。あるいはそんな優しく美しい母の面影を見ていたからこそ、桔梗へ形見を託そうと思ったのかもしれない。

 所以を知り、まじまじと手に平のそれを見つめていた彼女がはたと顔を上げる。

 

「亡くなった、と言うことは…おまえの母は人間だったのか?」

 

「…ん、まあな」

 

「そんな、大切なものを…」

 

 殊勝な面持ちで贈り物を撫でる桔梗。申し訳なさそうな彼女に遠慮されることを恐れた犬夜叉は、それらしい言い訳で無理やり押し付けることにした。

 

「お、おれが持ってても何の役にも立たねえ。要らねぇなら捨てるか売るでもしろ、ソイツはもうおめーのモンだっ」

 

「でも…」

 

「気にすんな、それがなくたってお袋の思い出はこっちに残ってる」

 

 恐縮する桔梗の前で、袖を持ち上げ纏う鮮やかな朱の衣を見せ付ける。だが幾度も少年と矢爪を交わした桔梗にとって彼の気遣いは逆効果だった。

 

「…すまなかった。その服、大切なものだったのだな。そうとは知らず何度も射抜いてしまった…」

 

「あんなのへでもねえよ。火山に放り投げても次の日には元通りに戻ってる代物だからな」

 

 面目なさそうに袖を労わる桔梗の謝罪を、少年は明るく笑い飛ばす。"火鼠の衣"と名付けられたその水干は炎に強い妖獣の毛で編まれ、いくら破けようと妖力で回復する優れた衣類防具であった。殺気も霊力も籠っていない桔梗の矢で傷付くほどヤワではない。

 安堵の溜息を零した桔梗は、少しだけ何かを惜しむような顔をしていた。

 

「私もおまえに渡したいものがあったのだが……やめておこう。不義理に過ぎる」

 

「渡したいもの? …お、まさか遂に四魂の玉を渡す気になったのか!?」

 

「そんなワケがあるまい」

 

「ちぇっ、だろうと思ったぜ…」

 

 些細な茶化し合いで戯れる二人。苦笑する桔梗は掌の紅に優しく触れ、最後にもう一度贈り主へ控えめに尋ねた。

 

「…その、本当に私が頂いてもいいのか…?」

 

「おっ、おう! 好きにしやがれっ」

 

 彼の言葉に巫女が頬を綻ばせる。そこに微かな朱が指しているように見えるのは気のせいだろうか。初めて見る桔梗の年相応な少女の笑顔は、無垢な少年にその積日の甘い感情の正体を自覚させるに余りある、天女の如き美しさであった。

 

 

「──ありがとう。大切にする」

 

 

 ドキリと跳ねた心臓に狼狽え、脳裏に焼き付いてしまった彼女の可憐な微笑を忘れようとあくせく必死な犬夜叉は、その日の昼夜一日中、顔が熱くて堪らなかった。

 

 

 

 

 

 




 
下編は月末あたり更新予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。