地獄の底のアリス <Alice in the Underground> (龍河 神音)
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Looking Lycoris Radiata 01

 まずは確実なことが一つある。銃火器弾けるこの町で,偶然にもその日は『イエローフラッグ』の周囲から銃声が絶えていたこと。二週に一度あるかないかで,バオにとっては安寧の日と言えた。朝から酔ってドンパチする輩もいない,奇妙な来客もいない。万々歳だ。

 昨日は大きな抗争があったと耳の速い客から聞いた。最近騒がしい輩は大人しく眠りについて,今日のこの日は騒ぎが起こるようなことはないだろう。嵐の前の静けさという言葉があるが,嵐の後の静けさという言葉があっても良いだろう。或いは台風一過。空も晴れて清々しい。

 こんな酒場に晴れが似つかわしくないのだから,似つかわしくない客も来るものだ。だからこそ今回の元凶といえる元凶は,いつものように外で騒ぐ悪漢では無く,空に輝く似つかわしくない太陽だろう。

 とてとてと音が聞こえるような歩き方で,カウンターまで歩いてくる幼い容姿。「お水,ちょーだい」と舌っ足らずに言ってぽすんと椅子に座る。身長は低く頭がぎりぎり防弾仕様のカウンターからひょこんと飛び出る程度。見れば見るほどにその子はこんな荒くれの集まる酒場に似合わない。

 「嬢ちゃん,どこの子だ? ママとパパはどうした」と水を出して問うバオ。女の子は聞いているのかいないのか水をくぴくぴ飲んで,にへらーっと気の抜けた笑顔を見せる。

「はっ,そうかい」

 聞いていないと判断したバオは食器を拭く作業に戻った。この町で最もやってはいけないことは,他人の家の便器をのぞき込むこと。中に入っているのが糞ならまだしも,血や肉に塗れているのかもしれないし,ましてやその便器の中に住むことになるかもしれないのだから。バオは女の子にこれ以上問わなかったし,それは正解だったのかもしれない。或いはもしかしたら不正解だったのかもしれない。だがそれはバオには分からないことだ。

 女の子は水一杯で一時間も居座った。何もすることがないとばかりにバオを見つめたり,椅子の背もたれを掴んで店内をのんびり見ていたりした。何が楽しいのか時折くすくす笑いもしたが,次第に飽きたのかゆーらゆーらと椅子を揺らして遊び始めた。バオはことここに至って女の子を煙たく思い始めた。「ここは託児所じゃないんだぞ」と言うも女の子の耳にも説法。やれやれとこれ見よがしに溜息をつく。

「おじちゃん,ありがとー」

 女の子が立ち去ったのはそれからまた一時間後のこと。水の入ったグラスが空になっていることに気づいて思わず注ぎ足し,仕方ないとばかりに軽い食べ物まで出したのはバオの一生の不覚だ。或いは女の子の無垢な姿が為せる業か。ようやくかと疲れ切った表情だが,バオの口角は上がっていた。女の子の残した食器を洗おうと持ち上げて,ひらりと何かが落ちてきたことに驚く。見れば紙幣が何枚か。数えてみると中々に良い額で,本来バオが請求するだろう金額までいかずとも,治安のいい飯屋での値段位はあるだろう。

 両親に渡されていたのだろうか。女の子の忘れ物かもしれないが,ここに残されているってことはこの料理の代金ってことだ。懐に収めるとバオは食器を洗い始める。同時に数人の男がイエローフラッグから出ていった。仕方のないことだろう。バオは静かに作業を続けた。他人の家の便器は覗きたくはない。

 案の定,店の外から銃声がいくつか。店に被害が無いのが幸いだ。

 しばらく待つと銃声は途絶えた。イエローフラッグの安寧を十三時間で終わらせた元凶だが,特段強い感情など抱いていない。バオとてこうした場面は何度も見たのだから,この程度で心を動かされていたらこの町で酒場など経営しない。せいぜいが血だまりを店の前で放置されると気分が悪い程度のものだ。少しだけ待てば元凶は死骸を連れて立ち去ってくれるだろう。或いは生きたままかもしれないが,大した違いではない。それから店の前の血を流そう。

 きっかり十分後に店の前に出てバオが見たのは予想通りの血だまり。今回は何があったのやら先ほど店を出た荒くれの死骸が落ちていた。大方同じ狙いの者同士,悲しい巡りあわせでもあったのだろう。女の子の死骸が無いところを見るとそのまま連れ去られでもしたか。肉塊を路地へ蹴り飛ばして,バケツ一杯の水をぶちまける。血の匂いはどうしようもないし,別に気になりはしないから放置だ。

 やがてこの日の"日常"は頭から消えていく。人の命が消えるなんて当たり前,忘れても仕方ないことだ。

 

 

 翌日,女の子がイエローフラッグを訪れた。一切の傷跡は無く,笑顔の輝きは昨日の一割増。取り繕った笑顔でも無く純真無垢な子供そのもの。昨日に悪漢どもに捕まって捌け口にされたのか,或いは殺されてしまったのかと思っていたバオは,幽霊でも見た気分だった。女の子は無邪気に「お水ちょーだい」と言った。

 グラスに水を注ぎながらバオは思案する。確かに昨日,自分は死骸を目にしたはずで,掃除した覚えもある。それ以前に銃声を何発も聞いたはずだ。件の渦中にいたであろう女の子がこうも変わらぬ調子でいるなんてありうるのだろうか。

 今日が昨日ならばこの状況にも辻褄があうのだろう。女の子に会ったのは実は今日が初めてで,昨日は大きな抗争があった日。なるほどそれならば分からなくもない。

 小さく「んなこたねぇよ」と毒づいて,なみなみと限界まで注がれたグラスを差し出す。女の子はきらきらとした笑顔で受け取って,ちびちびと飲み始めた。やっぱり昨日と何一つ変わらない様子だ。服装は違うけれど,それ以外に何も変わったところなんて――。

 

 ――いや,ちょっと待て。

 

 バオは女の子の姿を改めて見た。そうだ,何一つ変わっちゃいない。身体が汚れているとか傷がついているとかそんなことは無い。何も変化が無さ過ぎる。それこそ昨日のドンパチなんて一切なかったみたいに。

 気が付けば他人の糞尿を覗きこんで,そこに死体が無いか探してしまっている。バオは自分の行為を顧みて,これ以上はいけないと思った。この女の子はただの無垢な幼い子どもではない。もっと得体のしれない怪物だ。だがそれ以外何だというのだろう。肥溜めだろうとマフィアだろうとイエローフラッグに来たならば共通の客だ。怪物が来たところで騒ぎを持ち込まなければ客には違いないだろう。

「嬢ちゃん,何か食っていくかい」

「んーっと,じゃあ昨日のちょーだい」

 返ってくるのは無邪気な声。分かったことは別に藪をつつかなければ女の子はお人形さんでいてくれるということ。マトリョーシカの中を開けて本当に同じ人形が入っているのか確認する必要なんてない。昨日みたく不愛想に「ほらよ」と渡せば何も言わずに太陽みたいな笑顔で受け取る。

 

 ――日陰者の地に太陽か。なるほど,こりゃ凶兆だわな。

 

 なんてナンセンス。どうにも格好はつかないらしい。

 女の子は今日も水一杯と軽い食べ物で一時間を費やした。昨日の焼き増しのような風景で最初に思った通り今日は昨日なのではとバオは何度も感じた。そのたびに何度も馬鹿かと自分に呟いて,女の子がけらけらと笑うところまでがセットである。

 今日はこっそりとではなく立ち去り際にしっかり分かるようにお代を置いた。それは昨日より多く,今回の注文の金額ぴったりだった。

「はいよ。確かにお代はもらったぜ」

 女の子が出ていけばやはりそれに続けて出ていく野郎どもがちらほら。女を捌け口としか思わないような輩ばかりで,鴨撃ちに出るような気分だろう。それで鰐に食われては意味が無いのだが,きっと彼らはそんなこと思いもしない。鳴り響く銃声に案の定だとバオは呟く。

 ゴミを片付けるのは自分なんだがなと愚痴を零しつつ,女の子の残していった食器を洗い始めた。おそらく女の子は明日も来るのだろう。




続きません。


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Looking Lycoris Radiata 02

ちょっとだけ。


 それからと言うもの女の子は毎日のようにイエローフラッグを訪れていた。バオも何も聞かずにいつものように水と軽い食事を提供した。軽食の内容は最初の二回こそ同じだったものの,それからは毎回別のものになった。あるときはカリカリに焼き上げたベーコンと少し古くなった硬い黒パン,具材がとけだして殆ど何も入っていないように見えるスープを出した。ぶーぶーと文句を言いたげな表情をして女の子は慣れた手つきで食べていた。あるときはスクランブルエッグに新鮮なサラダと肉汁たっぷりのウィンナーを出した。これは女の子にも好評で,普段と違ってお代わりまでしていた。

 気が付けば女の子のために新しく食材を仕入れることもあったし,それを見ていた糞溜めの無法者から同じ注文をされることもあった。もともと食事は酒のついで程度しか用意していなかったが,こうして出してみればその売り上げは悪くない。まったく何がどう転ぶのか分からないと苦笑しながら食材を受け取る日々だ。

 ああそういえば,バオは女の子についていろいろと分かっていた。他人の糞の臭いを嗅ぐ趣味なぞ無いのだが,こうしたバーをやっていれば自然と情報位は入って来る。それも小奇麗な常連客についてなのだから,他の糞野郎どもからわんさかと噂話を聞かされる。そのたびに御代を負けろだの勝手に話しただけだから一サタンも負けてやらねえだの言い合いになる。所詮猫のじゃれ合い程度でお互い本気じゃないのだから,適当な所で互いに折れるのが常だ。

 女の子について知ったからといってバオの対応が変わるわけではない。銃口が向かなければ黄金夜会の奴らにも酒を出すし,地獄の悪魔にだって料理を出してやるだろう。女の子が天使か悪魔かなんてことはさておいて,毎回しっかりと金を出して大人しく食事を楽しむなら客には違いない。上客には少し贔屓したくなる気持ちは誰にだってあるが,バオにとってそれは食事メニューの充実という形になっているだけだ。何も変わったことなどありやしない。

 きっと向こうさんも分かっているのだろう。このイエローフラッグではいっつもにへらーっと世の中の吐瀉物を何も知らないかのような純真無垢な笑顔で,狼に睨まれてなお呑気に草を食む羊のように食事をしている。それはそれはこんな世も末のバーに似つかわしくない風景で,名画に幼児が落書きでも描き足したかのような異物感があった。

「はい,おじちゃん」

「200バーツ、確かにあるな」

 これもいつものやり取り。この程度の料理にしてみれば高い買い物だろう。女の子は疑問に思っていない風に払っているが、相場がどの程度か知らないというわけではあるまい。それでも払う価値があるのだと毎日食べに来ているのだから、別に今更値段の高低なんて語る意味もない。

 置きっぱなしの皿を裏の流しへ持っていこうとして、女の子が立ったまま出ていかないのに気がついた。胡乱げな目でバオは女の子を眺める。

「どうした?」

「んー」

 くりくりとした可愛らしい瞳が宙を泳ぐ。言おうか言うまいか悩んでいるようで、うーんうーんと唸る姿だけ見れば庇護欲が大いに駆り立てられる。大人しくじっと庇護されるかと言うと、どちらの面でも頷けないのはご愛嬌。

「えっとねー、ご馳走さま! 美味しかったわ!」

「そうかい,そりゃよかった。にしてもなんだ,なんで急にそんなことを」

「ん! 明日はちょっと来れないと思うから、改めてのあいさつ!」

「なるほどな。明後日は来るつもりってことでいいか?」

「ん!」

 たとえそれが何者であれ、満面の笑顔は日陰者には眩しいものだ。ましてや幼い無垢な容姿をしているならばその破壊力、はかりしれたものではない。

 不覚。ああ、不覚だ。カウンター越しに女の子の頭をくしゃくしゃと撫でている自分の姿に気がついた。まったくの無意識で、まるで親戚の子供にやってやるかのような自然さだった。

 女の子にとっても予想外だったのだろう。だからこそずっとずっと奥に籠めていた本質が一瞬だけ表層に表れた。一瞬だけ、女の子は年不相応な表情を見せた。

 だから――だから何だと言うのだろうか。バオにとってその程度、重要なことではない。あくまでも一瞬だけの変貌で、そのあとは無邪気な女の子へと戻ったのだ。女の子をどうこうしようなんて思っていないバオにとっては何も問題にはなりえない。

 何事もなかったかのように手を放してやると,女の子も何もなかったかのように店から出ていった。それでいい。世はなべてことも無しだ。

 

 

 翌日のロアナプラはここ数日の静けさが嘘っぱちのように騒がしかった。誰も彼も拳銃を手に周囲を警戒しているのはいつも通り、怒声が飛び交い銃声が響くのもまあいつも通りといえばいつも通り。だが空気だけが違っていた。いつもと違う針詰めた空気。ぴんと張った糸ではない。触れれば刺さり、触れずとも飛び出してくる袋詰めのそれ。握り締めれば手は穴だらけとなるだろうよ。

 こんな日のイエローフラッグはいつもオープンカフェでの営業だ。改装屋が来て全自動でじめじめした薄暗から解放してくれる。改装屋に耳なんていう高尚なものは一切ない。キャンセルの声をあげても無視だ。改装の依頼は必ず成し遂げてくれる。たとえそれが依頼していないものでも。ああ、本当にありがたい(くそったれ)

 以前の騒ぎは確かあの女の子が来る前の日のことだ。人づてに聞いた話だと,このロアナプラに目をつけた台湾の梅聯幇が三合会とやり合ったという。結末は届いていないが,張のことだ,何事もなかったように片をつけたのだろう。今回はどこが関わっているのやら。静かにバオはため息をつく。

 こんな日に店を開くなど正気の沙汰ではないのだが,事前に予見できるわけでもなく,ことが終わって開店しなけりゃよかったと後悔してばかりだ。そこまで考えるに至りバオは名案が浮かんだ。そうだ,今日は閉店にしちまえばいいのか。これぞ天啓,かのジャンヌダルクのように神の啓示を受けた気分だった。

 『店主不在につき本日休業』の看板を入口に掲げて,ぐっと思い切り背伸びをする。急に降ってわいた休みだ,何をしようか。仕入れについては問題ない,新商品の開発も必要ない。売春宿にでも行って楽しむのも悪くない。いや,自室でのんべんだらりと過ごすのもいいだろう。下手に外に出て風穴だらけになっちゃ意味が無い。暇をつぶせるだけのものは十二分にある。二階の宿に置いてあるカメラの映像を楽しむも良し,趣味の利き酒をするのもよし,暇なんて来るはずもない。

 そんなことを考えながらも,結局その日やったことは色々な料理の研究だった。いくつか駄目になりそうな食材があり,勿体ないとばかりに始めてしまったが最後,存外熱中してしまったのである。太陽が中天を過ぎ地平線に差し掛かる段になってバオはようやく時間に気づいた。なんて勿体ない時間の使い方をしてしまったのかと思う反面,楽しめたから良いかと思う自分もいた。料理を楽しむなんてまったく自分らしくない。最近は自分のペースが乱されてばかりだと悪態をつくが,バオも心底そう思っているわけではなかった。ただただいつもの癖とばかりに口から出てしまっただけだ。

 いつからこんな平凡なことに楽しさを見出すようになったのか。確かに昔からその素質はあっただろう。だからこそこんな肥溜めでバーなんて開いて糞どもに酒を提供しているのだ。しかし今のバオがそれについて答えるならば,あの女の子がイエローフラッグに来てから――正確にはあの女の子に食事を提供するようになってからと言うだろう。毎回作るたびに輝かしいばかりの笑顔を見せられてはたまらないというものだ。

 あの女の子が来るのは明日だと言っていた。つまりはそういうことだろうと思っているが、敢えて深みに足を踏み入れる気もない。ただの客とバーテンダーでしかないし、その立ち位置で問題はない。ただ二日ぶりなのだから少しくらいは上等な料理を振る舞ってやるくらいはいいだろう。

 

 存外バオは女の子のことを気に入っていた。

 




続きません。


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Looking Lycoris Radiata 03

気が向いたので。続きません。


「この町にゃ触れちゃいけねえものがある」

 それは少し前に聞いたレヴィの言葉だ。世界の果ての糞溜めとも言えるこのロアナプラで過ごすようになるとは,かつてロックが岡島緑郎であった時には思いもよらなかった。一流企業である旭日重工に務めていた緑郎がそうとは知らぬうちに密輸に携わり,ラグーン商会なる組織に身代金目的で誘拐され,しかし重工から見捨てられてしまい,そのまま成り行きからラグーン商会に属するなど想像できるだろうか。出来るはずも無いだろう。目が覚めたら平和な日本で平和に過ごしている。最初の夜はどれだけそうなっていることを望んだことか。

 ロックがこの町で過ごすにあたり,レヴィからいくつかの注意を受けた。余所者の振る舞いをしてはならない,みだりに面倒に首を突っ込んではいけない,殺すなら躊躇うことなく一撃で,本当に色々だ。その中で特に印象的だったのは,冒頭の一言である。

 

 ホテル・モスクワ,三合会,コーサ・ノストラと言ったマフィアだ。――っと待て。最初に言ったのは少し語弊があるか。別に触れても問題はねえよ。ただ報復に(タマ)取られるだけだ。それが嫌ならって奴さ。話を戻すぜ。んで,そうした組織と別でまあ触れたくねえ個人もいるわけだ。組織の報復がってもんじゃなくて,個人の脅威度が高い奴らだ。ホテル・モスクワの幹部バラライカ,三合会(トライアド)の幹部(チャン)維新(ワイサン)――。

 組織のトップが多いってか。まあ強いから幹部だっつう話さ。それと――ああ,それ以外にもいたな。お待ちかねの組織に属さねえ個人のやべえ奴だ。平和ボケしてるような甘ちゃんにゃ信じられねえと思うし,別にそれでもかまわねえよ。あたしだって最初聞いたときは耳を疑ったさ。

 【それ】はバラライカや張維新みてえに名前が通ってるわけじゃねえ。むしろ名前を知ってるやつなんていねえんじゃねえか? 気が付いたらこの町に居て,気がつけば当たり前のように恐れられてた。予兆はあったのかもしれねえが,まあ些細なことさ。で,だ。そんなやべえ奴を「やつ」だとか「それ」だとかで言い続けるわけにもいかねえってんで,いつからか名前が付けられたのさ。陶器製の殺戮人形,人喰いマトリョシカ,まあ色んな名前が出たんだが,少しずつ名前が統一されたのよ。良識もねえ悪人(Mad)どもの集まるイエローフラッグ(Tea-Party)の,純真無垢で小奇麗な少女――地獄の底のアリス(Alice in the Underground)ってな。

 

 その時は話半分に聞いていた。まさかこんな糞溜めにそのような少女がいるとは思えない。どこぞの悪党がどこぞの娼婦を孕ませた程度のことなら考えられなくもないのだが,聞くところによれば西洋の片田舎で自然と戯れるのが似合うほどには小奇麗で無邪気な少女だという。この街でそのような無警戒な兎がいれば周りの獣に狩られるに違いない。だからこそのアンタッチャブル。だからこそ組織ではなく個人としての要警戒対象であるとレヴィは言っていた。しかしそんな存在が果たしているのかと半信半疑だった。

 さて,ロックがこの話を何の脈絡もなく思い出したわけではない。前日夜遅くにラグーン商会の仕事を片付けたロックはこの日は全くのフリーだった。ラグーン商会に籠っていてもいいのだが,昼日中から酒をやるのもいいだろうと手近な酒場に向かった。それはダッチからの紹介でもあった。

「この辺りで酒ならそこが一番だ。品揃えも悪くねえ,つまみも旨え,値段も手ごろと三拍子そろってるからな。店主も多少は知った仲だ,まあ飲んで食らうだけ,いつも通りに過ごすだけなら何も問題はねえさ」

 イエローフラッグという店名にどこか聞き覚えがあった。その時のロックは特に気にもしなかったのだが,今なら分かる,あの時のレヴィの忠告にあったアリスのいる場所だ。勿論そんなことを思い出すことができたのもカウンターのど真ん中,ちょうど店主の目の前の位置に,これはこれは小奇麗で可憐な少女が座ってフレンチトーストに舌鼓を打っていたから。つまりはそういうことだ,ロックと少女は酒を飲みたいという気紛れ程度の軽い思いから出会うことになった。

 

 ロックとて無思慮ではない。アンタッチャブルに好んで触れようなどとレヴィの忠告を無視するはずもない。一人きりでテーブル席を占領するのは褒められたことでもないが,この時間のイエローフラッグは伽藍洞,別段おかしなことでもない。カウンターで店主のバオに酒を受け取り軽いつまみを注文し,素知らぬふりをして適当なテーブル席へと移った。あとは予定通り酒が切れたらそのまま帰ればいい。アリスなる少女と話す必要なんて一つもない。

 ロックの極めて冷静なロイヤルミルクティーのように甘い考えは,少女の無邪気さには一切通用しなかった。フレンチトーストを食べ終えた少女は周りをきょろきょろと見まわした後,何を思ったのかロックのいるテーブル席へと向かってきたのである。突然のことにロックは驚いて身動き一つ取れなかった。

「こんにちは,お兄さん!」

「君は――」

 ぴょんと椅子に飛び上がって,ロックが固まっているのをいいことにつまみを一切れ掻っ攫う少女。怖いもの知らずの無邪気な西洋人形はガラスのような碧眼でロックを見つめていた。

「私は……えっと,アリスっていうの。アリス=リデルよ。お兄さんは?」

「――ロック」

 そういえばダッチは特別忠告などしていなかったと思い出す。アンタッチャブルがこのイエローフラッグにいることなどダッチは承知しているはずだ。それでも何も言わなかったのはどういうことか。――言っていた,何も問題はないと。

 レヴィも言っていたはずだ。純真無垢な少女,マトリョシカ。外面(そとづら)は無害な兎の皮を被っていると。

「……そういうことか」

「どうしたの,お兄さん」

「何でもないよ。俺はロック,えっと……アリスちゃんだっけ。どうしたのかな」

「えっとね,初めて見るお兄さんだったから珍しいなあって思ったわ。それでね,少し気になって話しかけたの!」

 少女は(わら)ってつまみをぱくり。笑顔を大輪の花と表現することは多々あるが,少女のそれはリコリスみたいなものだ。取って食わなければ毒はない。ああ,ダッチの言っていたことはそういうことなのだろう。ロックは別に少女趣味(アリス・コンプレックス)じゃあない。

「確かにここに来るのは初めてだね」

「ん。お兄さんは最近来たのかしら?」

「まあ,うん。そうなるね」

「そうなの。お兄さんは――」

「そこらへんにしとけ,嬢ちゃん。分かっちゃいるだろうがうちの常連の新入りだ,あんまり矢継ぎ早に構わないでやってくれ」

 頼んでもいないつまみを持ってきてバオが少女の肩を軽く叩いた。

「こいつが食っちまった分だ,お代はこいつにツケておくから安心しろ」

 少女は不満そうに唸るものの気に障った様子は無く。ロックとしては命綱無しの綱渡りを渡り切った気分で,そうとは気づかれないようにほうと息を吐く。

 バオの置いたつまみは飾りっ気のないただの腸詰肉を無造作に皿に乗せただけの品だ。それでこそ果ての酒場にゃ相応しい。一口ぷちりと噛みしめれば肉汁が無遠慮に口内を蹂躙して襲い掛かってきた。ああ,美味い。

「嬢ちゃんが邪魔したな。――そういうこった,嬢ちゃん。まあ次の機会にな」

 それだけ言ってバオはカウンターへ戻る。少女を連れていくようなことはしなかったが,少女はバオに従ってとてとてと歩いていく。

「ん,じゃあね,お兄さん。お話楽しかったわ」

「ああ」

「それと,綺麗なお兄さん。お船には気を付けてね!」

 ロックが何かを言う前に少女はカウンターまで行ってしまった。ロックはつまみ片手に静かにグラスを傾ける。

 アリスと名乗る少女はまったく普通の幼い少女だった。アリス=リデル――ああ,なるほどまさしくその通りだ。それでこそ不思議の国の少女(Alice in Wonderland)に違いない。彼女は無邪気なアリス――それでいい,それだけだ。

 気が付けばグラスは空っぽ,つまみももう殆どない。今日はもうお腹がいっぱいだ。飲むもの食うものが無くなりゃもう酒場に用はない。ロックはお代を置いてイエローフラッグを立ち去った。

 

 

 糞塗れの肥溜めには似つかわしくないお人形は今日もまたあの場所にいるのだろう。ロックはあの碧い硝子の瞳があまり好きではなかった。何もかも見透かされていそうで,無垢の中に一切の光は無くて。ああ,小奇麗な西洋人形はあの酒場に似つかわしくない。

 愚者どもの船団(ring-ding ships)と踊る刺青女(レヴィ)を見ながらロックは思った。

 ああ,それでも。不気味な人形を差し引きゃ,イエローフラッグは悪くはない。ダッチの言う通りだ。飲んで食らうにゃ悪かない。




ダッチは得体のしれない人質をアンタッチャブルと接触させるほど馬鹿じゃない。だから岡島緑郎がイエローフラッグを訪れることはなかった。それだけ。

続きません。


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Substory _ Zelma Ancel

Lunatic girl/bright girl


 ゼルマ=アンチェルは今日も青い空を夢見る。ゼルマ=アンチェルは今日も穏やかな日差しを夢見る。

 ヒンノムの谷に落とされアケローン川を越えさせられ,ゼルマは絶望の淵に立たされた。

 抱けるものならば希望の一片だけでも抱きたい。叶うならばハルピュイアに己が身を捧げたい。しかしすべて叶わぬ願いなのだ。

 今日も悪魔に呼び出される。フレジェトンタへの(いざな)いはゼルマの心を苛んだ。右手には命の重み。朱殷(しゅあん)の切っ先はゼルマが積み重ねた罪の色。今日も今日とてゼルマは死神の鎌を振るわねばならない。死神と化せば死神に命を獲られる道理はないのだから。

 叶うのならばマーレボルジェに落ちてしまえ。不快な笑みを浮かべ悪徳に染まる快楽主義者どもに悪鬼どもの鞭を与えたまえ。

 ゼルマ=アンチェルだけではない。ゼルマの隣で壊れた笑いを浮かべる少年も,ゼルマの前でゼルマの鎌を凍った眼で眺める少女も,ゼルマの後ろですすり泣く少年も。誰も彼もが悪魔どもに殺意を抱いている。恐怖に身を竦めようとも憤怒は一切失われない。敵わないから従わざるをえない,それだけのこと。叶わないから嘆くことすら忘れ,意思をすべて捨て去って人形となるしかないのだ。

 そう,それだけ。ゼルマたちは一生このままこのゲエンナに縛られ続けるだけ。そう思っていた。

 

 ゼルマの周りに人形が増えてきた。ゼルマも人形になりかけていた。既に心と躰は乖離していた。想うことに苦労し哀しむことに苦労し悼むことに苦労する。無感動に無感情に己の腕は動くのに,心を動かすことは難行と化していた。

 諦めれば楽になれる。それでもなぜかゼルマは感情をすべて捨て去ることは出来なかった。生来の気性だろうか。如何なる奇跡だろうか。苦しむことは理解っていたのに,ゼルマは苦しみを自ら受け入れていた。

 

 

 人間であることを辞められない少女がいた。悪鬼は嘲笑って人形に鎌を渡した。

 人間であることを辞められない少年がいた。悪鬼は嘲笑って人形に斧を渡した。

 人間であることを辞められない少女がいた。悪鬼は嗤ってゼルマに鉈を渡した。

 人間であることを辞められない少年がいた。悪鬼は嗤ってゼルマに銃を渡した。

 

 人形は無感動に鎌を振り下ろす。人形は無感情に斧を振り下ろす。

 ゼルマは無感動になれなかった。無感動を装いつつもどこか違和感を抱いていた。あるいはありもしない罪悪感か。わずかに残った善性の発露か。それでもゼルマは処刑を執行する。

 

 

 あるとき,ゼルマは気づいた。腑抜けた悪鬼どもの油断傲慢慢心驕心。警戒は無いわけではない。武器は携えている。それでも悪鬼はゼルマを人形と確信し,己が玩具を宛ら己が身のように扱っていると過信している。

 

 殺せる。

 

 それは確信だった。彼らの抵抗は無意味に終わる。無為に無価値に無惨に無用な無駄として彼らは地獄に打ち棄てられる。慈悲などありはせず,断罪は一切の躊躇いなく履行される。

 人形を閉じ込める牢獄はスティージュの沼となった。悪鬼どもは人間だった。不死の怪物ではなかった。抵抗する(ごみ)を殺し,抵抗する人形(もの)を壊し,遁走する(ごみ)を殺し,すべてすべてすべて,動くものすべて(みなごろし)にしていく。

 

 笑え。嗤え。哂え。腐れた糞尿どもの断末魔に幸あれ。(いか)れた絡繰どもに祝福あれ。絶望に溢れたこの世界に希望あれ。

 

 嘲笑(わら)え。

 

 

 

 穏やかな光に目を擦る。窓から覗くのは雲一つない青空,今日もいい天気だ。

 少女は大きく背伸びをする。こんなにもいい天気なのだから少女の心も晴れやかに違いない。

 少女は笑う。無垢に無邪気に輝かんばかりに笑う。大輪の花が咲いたかのように,空に浮かぶ太陽のように晴れやかに(わら)

 空想の少女(アリス=リデル)は今日も可愛らしい。




Zelma slaughtered sinners.

I won't write a sequel.


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