WORLD TRIGGER Beyond The Border 【完結】 (抱き猫)
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登場人物・用語解説 ※本編のネタバレを含みます

登場人物  ※本作オリジナルキャラのみ記載。ワールドトリガー並びに賢い犬リリエンタールの登場人物については、是非原作をお読みください。

 

エクリシアの人々

 

フィリア・イリニ     敵国ノマスの血を引く少女。母を救うべく騎士団に志願する。

パイデイア・イリニ    フィリアの養母。桁外れのトリオン機関の持ち主。

サロス・イリニ

アネシス・イリニ     フィリアの弟妹。

イダニコ・イリニ

ヌース          自律型トリオン兵。フィリアたち姉弟のお目付け役。

アルモニア・イリニ    イリニ家当主。イリニ騎士団総長。フィリアの伯父。

レギナ          フィリアの実母。ノマス出身。故人。

 

ドクサ・ディミオス    イリニ騎士団第一兵団長。豪放磊落な武人。

メリジャーナ・ディミオス ドクサの娘。穏やかながらも押しの強い女性。

テロス・グライペイン   イリニ騎士団第二兵団長。知勇兼備の美丈夫。

ネロミロス・スコトノ   イリニ騎士団の騎士。勇猛無比の猛将。

 

クレヴォ・フィロドクス  フィロドクス家当主。フィロドクス騎士団総長。

ジンゴ・フィロドクス   クレヴォの長男

カスタノ・フィロドクス  クレヴォの次男

オリュザ・フィロドクス  クレヴォの養女。感情表現に乏しい女性。

エンバシア・カナノス   フィロドクス家家令。

 

ニネミア・ゼーン     ゼーン家当主。ゼーン騎士団総長。才貌両全の女傑。

 

ステマ・プロゴロス    エクリシア枢機卿。

アヴリオ・エルピス    エクリシア教皇

 

 

ポレミケスの人々

 

バラノス         範士。国軍総長。老いて益々壮んな達人。

ロア・アゾトン      範士。パイデイアの兄。端然とした剣の達人。

オルヒデア・アゾトン   錬士。ロアの妹。戦争を忌避する心優しき女性。

トゥリパ         錬士。明るく一本気な少女。

ピニョン         錬士。口の悪いひねくれモノの少年。

ペタロ          錬士。常に気だるげな青年。

 

 

ノマスの人々

 

レクス          ドミヌス氏族の族長。レグルスの父、フィリアの伯父。

レグルス         レクスの子。生真面目な少年。

ユウェネス        レグルスのまたいとこ。剽軽な青年。

マラキア         レクスの部下にして旧友。謹厳実直な男。

モナカ          トリオン兵エンジニア。エクリシアへの復讐に燃える女性。

カルクス         ルーペス氏族の族長。百戦錬磨の老雄。

テララ          カルクスの部下。冷徹な少女。

カルボー         カルクスの部下。忠実な少年。

 

ウィタ          ノマスの市民。世話焼きな女性

ウェネフィカ       ウィタの娘。

 

 

用語解説  ※注意 あくまでも本作における設定です。原作とは乖離するおそれがあります。

 

 

基本用語

 

近界(ネイバーフッド)と国々

 近界(ネイバーフッド)は暗黒の海が果てしなく広がる宇宙のような世界。人々は(マザー)トリガーと呼ばれる機器によって星を作り、その上に国家を形成している。決まった周回軌道を持つ「惑星国家」と、定まった軌道を持たない「乱星国家」が存在する。

 

トリオン

 人間の持つ見えない内臓「トリオン機関」によって生成される生体エネルギー。個人によって強弱があり、また若年時はトレーニングによって成長する。

 

トリガー

 生体エネルギートリオンを様々な形で表出する器機の総称。軍事兵器から民生品まで用途は多岐に及ぶ。近界(ネイバーフッド)の文明の根幹を支える技術。

 

(ブラック)トリガー 

 優れたトリオン能力者が、自らの命とトリオンを注ぎ込んで作り出したトリガー。一般のトリガーとは隔絶した力を持つ。

 

(マザー)トリガー 

 近界(ネイバーフッド)の星を作り出す巨大なトリガー。内部には「神」と呼ばれる人間が取り込まれており、数百年の寿命が尽きるまで、星の運行を管理する。

 

トリオン体 

 トリガーによって作られたトリオン製の体。様々な面で肉体を凌駕する機能を持ち、主に戦争で用いられる。

 

トリオン兵 

 トリオンで作られた自動戦闘兵器の総称。近界での戦争で主力を担う。

 

 

RD(リアライズデバイス)

 現実化装置とも呼称される物体。「人の意識・心を現実世界に作用させる」という超常的な機能を持つ。

 

イメージ体

RD(リアライズデバイス)によって生み出された被造物。

 

 

 

 

国家

 

聖堂国家エクリシア 

 近界(ネイバーフッド)でも屈指の国土面積と人口を誇る軍事大国。国家元首として教皇を頂くが、実際の統治は三つの有力貴族とその配下の家々が行っている。

 国防軍として有力貴族が運営する騎士団があり、兵員数も多い。別けても騎士の精強さは近隣諸国に轟いている。

 近界(ネイバーフッド)でも珍しく、季節の変化がある国。温暖な気候に加えて広い耕地面積を持つが、それ以上に人口が多いため食糧事情が逼迫しており、最近はやや国内情勢が不穏である。

 近年、星を支える神に寿命が近づいており、貴族たちは代わりの神を見つけるために近隣諸国へと相次いで兵を送っている。

 

武侠国家ポレミケス

 風光明媚な山河と豊かな大地に恵まれた近界(ネイバーフッド)の国。国土面積、人口からは小国に分類され、トリガー技術、産業にも際立った特徴のない平凡な国である。

 とはいえ尚武の気風が強く、国防軍には精強な使い手が揃い、正規兵は錬士と呼称される。そして国防軍の中でも範士と呼ばれる達人たちは、大国のエースをも上回る技量を持つ。

 また、全ての国民が軍事教練を受けており、トリオン能力がそれなりの市民は戦闘用トリガーを持ち、予備役として防衛戦に参加する。このため、トリガー使いの総数は大国にも匹敵する。

 国情が安定し、民の団結意識も強いポレミケスは、小さいながらも侮り難い国家である。 

 

狩猟国家ノマス

 国土を広大な草原に覆われた近界(ネイバーフッド)の大国。彼らは草原を闊歩する巨大な城塞都市を所持し、部族単位で集住している。また、国の運営もそれぞれの部族の長による合議で決まる族長国家である。

 ノマスは国土面積に比して人口は少なめだが、精強な戦士と高いトリガー技術、そして高性能なトリオン兵を有している。トリガー使いとトリオン兵による連携攻撃が得意で、狩猟国家の名は獲物を狩りたてるような苛烈な戦いぶりに由来する。

 しかし、ノマスを強国足らしめている最大の理由は、彼らの文化に深く根付いた同朋意識である。ノマスに於いては血を分けた者は全て大切な家族であり、如何なる困難にも国民が一丸となって立ち向かう。

 

湖沼国家コロドラマ

 国土に多数の湖と沼地を抱える近界(ネイバーフッド)の小国。巨大な湖の中心に首都を構えており、そこへ繋がる橋は城塞となっている。防衛部隊は足場の悪い低湿地での戦闘を得意としており、大型トリオン兵が泥濘に足を取られたところに素早い連携攻撃で襲い掛かる。軌道の近い惑星国家リピスと二十年に亘る小競り合いを続けており、国民、国土ともに疲弊している模様。

 

 

トリガー

 

エクリシアのトリガー

 

(ブラック)トリガー

 

劫火の鼓(ヴェンジニ)

 桁違いの威力を有する砲撃トリガー。所有者はゼーン騎士団総長ニネミア。

 起動者の意思に応じて縦横無尽に飛び回る射撃ユニットを生成する。ユニット全てが独立した砲台であり、超威力の弾丸を連射することができる。

 また複数のユニットを連結させることで、さらに凄まじい威力での砲撃が可能となる。

 ユニットの数、チャージ時間、回転速度に応じて攻撃力は跳ね上がり、最大出力の砲撃は、巨大な城塞ですら跡かたもなく吹き飛ばす。

 

金剛の槌(スフィリ)

 超硬度の巨大な双腕を生成するトリガー。所有者はイリニ騎士団のドクサ。

 漆黒の巨腕は桁違いの硬度を持ち、凄まじい出力であらゆる器物を粉砕する。また数十メートルまでなら遠隔操縦も可能で、格闘武器としては破格の射程を誇る。

 殴りつけるだけではなく、手という形状を生かして物を掴んだり掌を壁にしたりといった小技も可能。

 単純な機能しか持たないトリガーだが、それだけにパワーは凄まじい。熟練した戦士が用いれば、近接戦で無類の強さを発揮するトリガーである。

 

光彩の影(カタフニア)

 微細なトリオンの霧を散布するトリガー。所有者はイリニ騎士団のテロス。

 霧は視覚・聴覚・トリオン反応へのジャミング能力を持ち、エリア内の敵の行動を攪乱する。通信の遮断やレーダーの無力化、トリオン兵のセンサーを誤作動させるほか、隠密状態の敵さえ容易く見つけ出す。

 効果は霧の密度によって変わるが、通信妨害・レーダー惑乱は最大十キロ圏内を射程に収める。また霧の濃度が一定以上の場合、実物と見まがうばかりの立体映像を投影することも可能。霧を介して味方の通信を繋ぐこともできる。

 強力な効果の反面、攻撃機能は一切持たず、直接戦闘には甚だ不向き。しかし、敵の連携を絶つ「光彩の影(カタフニア)」は、集団戦で圧倒的な威力を発揮するトリガーである。

 

懲罰の杖(ポルフィルン)

 あらゆるトリオンを吸収するトリガー。所有者はイリニ騎士団総長アルモニア。

 微細なトリオンキューブで構成された不定形の武器。形状は自在に組み換えが可能で、主に剣や槍、鞭や盾などが用いられる。

 ブレードや弾丸、実体に非実体の区別なく、「懲罰の杖(ポルフィルン)」は起動者が指定した以外に触れた全てのトリオンを吸収し消失させる。また、副次機能として吸収したトリオンを放出する事で強力な遠距離攻撃も行うことができる。

 トリオン以外の器物には何の影響も及ぼさないと言う欠点も持つものの、近界(ネイバーフッド)の戦場では無敵に近いトリガーである。

 

万鈞の糸(クロステール)

 超長射程・超高精度の狙撃トリガー。所有者はフィロドクス騎士団のオリュザ。後にクレヴォ。

 八面体の狙撃ビットから高威力のレーザーを照射する。レーザーは大気によっては殆ど減衰せず、起動者が指定した地点に寸分の誤差も無く着弾する。

 射撃ユニットの遠隔操作も可能であり、上空に展開させれば数キロ圏内を射界に収めることができる。また照射地点は必ずしも肉眼で指定する必要はなく、映像中継を用いれば安全地帯から一方的に狙撃を行える。

 反面、連射性能はさほど高くなく、加えてレーザーの径が狭いため急所を確実に射抜く必要がある。そのため、隠密トリガーや幻惑トリガーなどとは相性が悪い。

 

潜伏の縄(ヘスペラー)

 トリオンに潜行する弾丸を放つトリガー。所有者はフィロドクス騎士団のクレヴォ。後にジンゴ。

 節目の付いた荒縄のような形状をしており、分離した部位が弾丸になる。この弾丸はトリオン製の器物の中を泳ぐように進み、敵対者を自動的に追尾する。また目視での誘導や指定地点での待機、任意での起爆など細かな操作も可能。

 トリオンを透過するため通常の手段では防御できず、標的の内部に侵入してから爆発するため殺傷力も非常に高い。

 トリオンに潜行している間は推進力を消費せず、トリオン製の建築物の中では無限に等しい射程を持つ。こと屋内戦に限っては最強とも目されるトリガー。

 

不滅の灰(アナヴィオス)

 トリオンを生成するトリガー。エクリシアの国宝。所有者はエクリシア教皇アヴリオ。

 トリガーそのものが無尽蔵にトリオンを供給し続けるという規格外の機能を持つ。

 また、トリガー内に格納した肉体の時間を停滞させることで、起動者に不老の特性を授ける。

 神を守護し、祖国の行く末を見守る教皇に代々受け継がれてきた国家の至宝。

 

救済の筺(コーニア)

 反射盾を作り出すトリガー。所有者はイリニ騎士団のフィリア。

救済の筺(コーニア)」によって作り出された盾は、トリオン、物理を問わずあらゆるエネルギーを反射する。空間そのものを捻じ曲げているため、トリオンを透過、吸収する攻撃であっても問題なく防ぐことができる。

 展開速度も凄まじく、射程内であれば如何なる攻撃にも先んじて盾を張ることができる。その防御性能は近界(ネイバーフッド)でも最高峰。

 本来は一切の攻撃能力を持たないトリガーだが、展開地点にある物体を押しのけて出現するという性質を利用すれば、防御不可能の瞬間遠隔斬撃を繰り出すことができる。

 

ノーマルトリガー

 

誓願の鎧(パノプリア)

 トリオン体の上から纏う強化外骨格型のトリガー。鎧とトリオン体との伝達系を接続することで、着装者は重厚な鎧を自分の体のように動かすことができる。

 ノーマルトリガーでは破壊困難な程の防御力を有し、またパワーアシスト機能によって着装者のあらゆる動作を強力にサポートする。スラスターによる高速飛行も可能であり、技量抜群の騎士が装着すれば、正に一騎当千の勇士となる。

 製造コストが高過ぎる為、エクリシアでは技能優秀な騎士にしか装備が許されない。また、戦闘用のトリオンが無くなってしまうため、鎧は予め組み上がった物を基地や遠征艇内で装着する。

 極端に燃費が悪いことが欠点だが、この点は後述の「恩寵の油(バタリア)」によって解消された。

 桁違いの防御力を有し、攻撃力、機動力まで向上させる「誓願の鎧(パノプリア)」は、エクリシアを象徴するトリガーであり、また彼の国を軍事強国に押し上げた傑作兵器である。

 

恩寵の油(バタリア)」 

 トリオン増槽のトリガー。トリオンを蓄える機器は各国でも開発されているが、エクリシアが開発した「恩寵の油(バタリア)」は群を抜いて高性能。このトリガー無くして「誓願の鎧(パノプリア)」の運用は不可能である。

 また遠征に持ち込むトリオン量を飛躍的に増やすことができる為、エクリシアの軍事的優位を下支えしている。

 

鉄の鷲(グリパス)」 

 エクリシアで用いられている長剣トリガー。攻撃力と耐久性を高い次元で両立しており、多くの騎士、従士に愛用されている。

 刀身、柄は自由にカスタマイズ可能で、片刃、両刃、反りの有無や長短など、個々人の好みに応じて調整される。トリオンが物質化したブレードの為、一旦作り出せば破棄するまで消えない。

            

鷲の羽(プテラ)」    

 「鉄の鷲(グリパス)」専用オプショントリガー。刀身から猛烈な勢いでトリオンを噴出し、強力な加速を得る。通常は剣速を増すために使われるが、剣に引っ張られる形で空中を移動することもできる。

鷲の爪(オニュクス)

 「鉄の鷲(グリパス)」専用オプショントリガー。刀身を高速で振動させ、切れ味を大幅に強化する。

鷲の嘴(ランポス)

 「鉄の鷲(グリパス)」専用オプショントリガー。刀身から指向性を持たせてトリオンを爆発させる。面での攻撃を行えるほか、敵の防備を崩すのにも用いられる。

 

鉛の獣(ヒメラ)

 エクリシアで用いられている小銃トリガー。威力、精度、射程に優れるのは勿論、片手で射撃できるほど取り回しが良い。以下の三つの弾丸を切り替えられる他、「恩寵の油(バタリア)」と接続することで強力なチャージショットを放つことができる。

 

山羊(カツィカ)

 弾速が早く、速射性の高い通常弾。

獅子(リョダリ)

 着弾時に爆発し、広範囲を吹き飛ばす榴弾。

(フィズィ)

 敵トリオン反応を追いかける自動追尾弾。

 

錫の馬(モノケロース)

 エクリシアで用いられている狙撃銃トリガー。威力、射程共に優秀で、「恩寵の油(バタリア)」と接続することで強力なチャージショットを放つことができる。

 

馬の角(ケラス)」 

 「錫の馬(モノケロース)」専用オプショントリガー。弾丸のカバー部分を強化し、貫通力を高める。装甲の厚い大型トリオン兵などに用いる。

馬の蹄(オプリ)

 「錫の馬(モノケロース)」専用オプショントリガー。着弾点で弾丸を爆発させる。動きの速い敵や小さな目標に有効。

 

銀の竜(ドラコン)

 エクリシアで用いられている盾トリガー。通常は砲撃機構を持つオプショントリガー「竜の息(アナプノイ)」が取り付けられるため、砲盾とも呼称される。

 「誓願の鎧(パノプリア)」をも上回る防御力を持ち、ノーマルトリガーでの破壊はほぼ不可能なほどの耐久力を持つ。また物質化したトリオンの為、シールドを透過する攻撃も防ぐことができる。

 トリオンコストが高く、またかなりの重量だが、抜群の防御力は戦闘での安定感にも繋がるため、愛用する騎士、従士も多い。

 

竜の息(アナプノイ)

 「銀の竜(ドラコン)」専用オプショントリガー。強力な砲撃を放つ。射撃まで少々のチャージが必要になるが、その威力はエクリシアのノーマルトリガーでは随一。大型トリオン兵や、敵の陣地を攻略する際に用いられる。

竜の羽(プテラ)

 「銀の竜(ドラコン)」専用オプショントリガー。盾から猛烈な勢いでトリオンを噴出し、強力な加速を得る。加速のついた盾で相手の攻撃を弾くほか、身体ごと突撃を仕掛けるシールドチャージが強力。

 

玻璃の精(ネライダ)

 エクリシアで用いられている防御トリガー。半透明のシールドを展開する。「銀の竜(ドラコン)」ほどの防御力は無いが、任意の場所に素早く展開できる柔軟性が強み。

 展開距離は二十メートル程。シールドの強度は展開した面責に反比例する。一部のシールドを透過する攻撃は防ぐことができない。

 癖がなく扱いやすい「玻璃の精(ネライダ)」は、「銀の竜(ドラコン)」を持たない騎士、従士たちの標準装備となっている。

 

金の鯨(ケートス)

 エクリシアで用いられている砲撃トリガー。桁違いの威力を有する携行式の大砲。

 強固な外殻を有するノマスの機動城塞都市を攻略する為に開発された最新鋭のトリガー。瞬間的には(ブラック)トリガーのフルパワーに匹敵する出力の砲撃を行うことができる。

 個人ではトリオンを賄いきれない為、砲撃には「恩寵の油(バタリア)」を接続して用いる。重厚な鎧を数時間動かすトリオンを、只の一射に注ぎ込む規格外の兵器。

 

恐怖の軛(フォボス)

 エクリシアが有する本国防衛用の決戦兵器。身の丈二十メートルに及ぶ巨大な鎧甲冑で、トリガー使いが内部に入り、伝達系を接続して動かす。

 戦闘力の無い国宝トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」を戦場で運用するために開発された兵器であり、後にその技術を応用して傑作トリガー「誓願の鎧(パノプリア)」が生み出された。

 桁違いの装甲と火力を有し、(ブラック)トリガー以上の戦闘力を誇るが、莫大なトリオンを湯水のように消費することから、扱えるのは「不滅の灰(アナヴィオス)」を有する教皇ただ一人だけ。普段は教会の地下深くに秘蔵されている。

 

 

ポレミケスのトリガー

 

(ブラック)トリガー

 

静謐の火(ヘオース)

 トリオンを不活性化させる光を放つトリガー。所有者はポレミケスの範士バラノス。

 このトリガーによって作り出された球体は、起動者のトリオン体を除くあらゆるトリオンの働きを極端に低下させる光を放つ。その光はトリオン体やトリオン兵はもちろん、トリガーや弾丸などにも効果を発揮する。

 効果は距離と曝露時間に大きく影響し、二十メートル程度からの曝露なら機能が低下するもののしばらくは活動することも可能であるが、五メートル以内で曝露した場合、即座に全機能が停止する。

 影響を受けたトリオンは時間経過で機能を取り戻すことができる。とはいえトリオン体の復旧で数時間程掛かるため、実質的には敵戦力の完全な無力化が可能。

 トリオン兵器に対しては無敵に近い能力を持つものの、「静謐の火(ヘオース)」自体は一切の攻撃力を持たない為、無力化以上の戦果は期待できない。だが、拳法の達人であるバラノスは、素手であってもトリオン体を破壊することができる。

 また、対象物を選択することができないため、効果範囲内では敵味方全てのトリオンが不活性化してしまう。加えてトリオン製の建物など、既に個体として安定したトリオンには何の影響を及ぼすこともできない。

 

灼熱の華(ゼストス)

 広範囲を焼き尽くす砲撃トリガー。所有者はポレミケスの錬士オルヒデア。

 長銃身の砲を腕部に生成する。放たれたトリオン弾は着弾地点を中心にして、凄まじい衝撃波と爆風を巻き起こす。

 殺傷圏内は起爆点から直径百メートル余り。トリオンの充填によって範囲と威力はさらに向上する。稀有なトリオン機関を持つオルヒデアなら、威力・効果範囲は桁違いに増幅する。

 爆風はトリオン体はおろか、建造物にも充分な被害を与えることができる。こと制圧力に関しては、近界(ネイバーフッド)でも最高峰の能力を持つ(ブラック)トリガー。

 ただし、広範囲を無差別で焼却するため、敵味方が混戦している場合は使用に制限がかかる。加えて、威力を最小に抑えたとしても攻撃範囲が広すぎるため、近接戦に持ち込まれた場合には対抗手段が殆ど無い。

 

ノーマルトリガー

 

傍えの枝(デンドロ)

 グレイブ型の棹状トリガー。長柄武器のリーチと鋭利で強固なブレードを持ち、初心者から熟練者まで使い手を選ばない安定感を持つ。

 また、棹の先端部が砲身となっており、格闘用トリガーでありながら射撃が可能。連射が効かないことを除けば威力、精度ともに高い水準でまとまっており、射撃トリガーとしても及第点以上の性能を持つ。

 「傍えの枝(デンドロ)」は近・中距離の敵に柔軟な対応ができる傑作トリガーであり、製造コストも安い。武侠国家ポレミケスで最も量産されたトリガーである。

 

連鎖の塔(リネア)

 多節棍型の格闘トリガー。

 通常は六尺程度の長さの棒だが、使用者の意思に応じてフレイル状の二節棍、三節棍、九節棍など形状を様々に変化させる。継手はトリオンで構成されており、リーチは自由自在に変化させることができる。

 耐久力が高く、機器同士での打ち合いに強い。反面ブレードトリガーに比べて直接的な殺傷力は低いが、充分な速度が乗った場合の破壊力は相当な物となる。使用者の武芸の程が如実に出る上級者向けのトリガーである。

 特にトゥリパは「連鎖の塔(リネア)」に回転を加えた突きを得意としており、その威力はバムスターの頑強な装甲であっても易々と貫く。また二節棍にして敵のガードを掻い潜ったり、継手を伸ばすことで鞭のように一帯を薙ぎ払う事も可能。

 

随伴者(アコルティステ)

 起動者と同じ攻撃を繰り返す射撃ビットを生成するトリガー。ビットは複数設置可能だが、トリオン消費が多く意識が分散するため、通常は一基のみを用いることが多い。

 弾丸はシューターと同じくトリオンキューブで射出され、通常弾の他に誘導弾を撃つこともできる。起動者と合わせて二人分以上の火力を投射できるため、制圧力が非常に高い。近・中距離での撃ち合いならば殆どの射撃トリガーに引けを取らない。

 反面、消費トリオンが非常に重く、継戦能力が低い。余程のトリオン機関の持ち主でない限りは、全力で闘えば連戦は不可能とされる。強力だが扱いの難しいトリガーである。

 

波濤(キューマ)

 小型のトリオン弾を大量に作り出す射撃トリガー。起動者のイメージに合わせて弾丸を流体のように操作し、瀑布のような面での攻撃を可能とする。

 通常のシールドの防御範囲では遮断が難しく、またシールドを広範囲まで引き延ばした場合、強度の観点から防ぐのことが難しい。格闘武器で打ち合う事もできないため、近距離戦では無類の強さを誇る。

 近接格闘用に調整したトリガーのため、弾速、射程は他の射撃トリガーに比べて著しく劣り、中・遠距離戦ではまったく役に立たない。またトリオン消費が重いため、優秀なトリオン機関の持ち主でなければ十全に扱えない。

 

刑吏の杭(ラピス)

 直剣型の格闘トリガー。

 刃は非常に鋭利であり、また耐久性も及第点以上と非常に優秀なブレードトリガー。癖のない性能からポレミケスでは最も使用者が多い。

 シンプル故の高性能だが、奥の手として、柄にトリオンを圧縮させて刃を凄まじい勢いで射出する機能を有する。

 いわばパイルバンカーともいえるこの技の威力は絶大であり、強固な盾であっても紙のように貫くことができる。ただし、刃を使い捨てにするため、この機能を使用した後は再度トリオンを消費して刃を造る必要がある。

 

 

ノマスのトリガー

 

(ブラック)トリガー

 

万化の水(デュナミス)

 あらゆるトリオンを操作するトリガー。ノマスの国宝。所有者はユウェネス。

 このトリガーはトリオンを様々な形状・形質に指定して表出させることができる。ほぼ無制限ともいえる作成能力を有し、単純な構造体からトリオン兵、果てはトリガーそのものさえ造りだす事が可能。のみならず、作成に際しては一切の変換ロスを生じない。

 器物の創造には起動者が詳細な構造を理解している必要があり、また機構が複雑であればあるほど作成時間は長くなる。それでも製造機械を用いずあらゆる物品を生み出す能力はまさしく規格外。

 物資の積み込みが限られる遠征や、めまぐるしく状況が変化する戦場ではある意味最も頼りになるトリガー。

 

巨人の腱(メギストス)

 桁違いの出力のトリオン体を作り出すトリガー。所有者はレクス。

巨人の腱(メギストス)」によって構築されたトリオン体は、通常のトリオン体とは隔絶した能力を持つ。出力、耐久性はもちろん、伝達脳や伝達系の処理速度まで大幅に向上する為、人間の限界を超えた速度で駆動することが可能。

 攻撃方法が五体に限られることと、直接トリオンに干渉するような攻撃手段に弱いことが弱点だが、それを差し引いても格闘戦では最強を誇るトリガーである。

 

凱歌の旗(インシグネ)

 強靭なマントを作り出すトリガー。所有者はカルクス。

 作成されたマントは起動者の意思に応じて自由自在に動かすことが可能。斬撃、刺突による攻撃や、布の性質を生かした硬軟自在の防御、また瞬発力を利用した高速移動に、レーダーをかく乱する隠密機能など、様々な用途で活躍する。

 しかも、その性能は如何なる分野でもノーマルトリガーを上回り、無類の対応力を発揮する。

 突出した強みこそ無いものの、どのような戦場でも堅実な戦果を上げる万能トリガーである。

 

悪疫の苗(ミアズマ)

 トリオン製の器物の操縦権を奪うトリガー。所有者はモナカ。

悪疫の苗(ミアズマ)」によって作り出された杭は内部に伝達脳と供給機関を有し、突き立てられた器物の伝達網に干渉、操縦権を乗っ取る。

 敵のトリオン兵やトリガー使いを支配下に置くだけではなく、基地のネットワークに侵入できれば、敵拠点をシステムダウンさせることもできる。

 杭からのトリオン供給によって対象を強化することも可能。長時間はもたないが、覿面な出力向上が見込まれる。

 また、支配下に置いた器物への指令は杭の伝達脳から発せられるため、乗っ取られた器物を止めるには杭を破壊しなければならない。

 

報復の雷(フルメン)

 完全自動の防御陣を張るトリガー。所有者はマラキア。

報復の雷(フルメン)」は起動者の周囲に、圏内に入った全ての物を超高速で迎撃するトリオン弾を展開する。

 一連の動作は完全に自動化されており、起動者の意識外からの攻撃であっても即座に対応する。もちろんマニュアル操縦に切り替えこちらから攻撃することも可能だが、その際は弾速がかなり落ちる。

 また、生成されたトリオン弾は電気を纏っており、接触した器物に凄まじい電流を流す。たとえ直撃を避けたとしても、電流が流れれば通常のトリオン体なら伝達系を焼き切られることになる。

 

 

ノーマルトリガー

 

闇の手(シカリウス)

 ノマスが有する隠密トリガー。

 透明化とレーダー無効化を同時に行えるうえに、トリオン体の腕部をブレード上に変化させることでステルス状態を維持したまま攻撃も可能と、非情に優秀なトリガー。

 ただし、透明化には多少の難があり、動いているときは輪郭がうっすらと見えてしまう。また特殊戦に特化したトリガーのため、攻撃力と耐久力は低め。

 非武装時の敵を拉致、暗殺するための闇討ち専用トリガー。

 

猟師(アラネア)

 トリオン製の腕と目を作り出すトリガー。

 副腕は最大で三組六本を生成できる。腕を生やす箇所は任意に選べるが、基本的に肩口か胴体部からが多い。

 ヘルメット型のデバイスは三百六十度の視界を確保することが可能。

 視覚のエンハンスと武装の複数使用による対応力の向上を狙ったトリガーである。

 これ単体ではさほど強くないが、騎乗用トリオン兵ボースに騎乗することにより集団戦闘で効果を発揮する。

 

牧柵(サエペス)

 空間に対トリオンフィールドを展開するトリガー。

 ノマスの戦士とトリオン兵による襲撃をサポートする“狩場”を形成するトリガーである。

 フィールドの内と外はトリオン体での通行が不可能となる。標的を内部に閉じ込める他、敵からの緊急避難としても用いられる。

 フィールドは破壊可能なものの非常に強固であり、強行突破しようとすれば甚大なダメージを受ける。解除手段は起動者を戦闘不能にするしかない。

 トリオン消費は重く、頻繁な使用は不可能。また起動者を起点としてフィールドを張るため、起動者は必ずフィールド内に残らねばならない。

 欠点はいくつかあるものの、戦況の優位を固定し、“狩り”の成功率アップさせる「牧柵(サエペス)」は、ノマスを象徴するトリガーである。

 

牛飼い(フラゲルム)

 軟鞭状の格闘トリガー。

 紐状部分は鑢のように目が立っており、トリオン体程度ならば容易く切断する。またトリオンでできているため伸縮は自由自在。熟練者が用いれば格闘武器にはあり得ない間合いからの攻撃ができる。

 先端部はフックや鳥もち状に変化させることができ、「牛飼い(フラゲルム)」を伸縮させることにより立体的な機動や重量物の牽引なども可能となる。

 欠点としては、格闘武器としては攻撃力がやや低く、トリオン兵を相手取る場合は装甲を抜くことが困難で、的確にコアを狙えるだけの技量が求められる。

 また、その形状から武器同士の打ち合いには不向きで、防御にはシールドトリガーを用いる必要がある。

 

採集者(ブラキオン)

 トリオン体の腕部を戦闘用に換装するトリガー。

 腕部は銃弾やブレードを容易く弾く装甲と、鋭い鉤爪状の五指を備える。また腕力そのものも強化されるため、通常のトリオン体程度なら握りつぶすこともできる。

 最大で十メートル程度腕を伸縮させることもでき、遠間からの打突や腕を鞭のようにしならせての薙ぎ払い、また遠方の物を引き寄せたり、身体を引っ張って高速移動することも可能となる。

 また掌には射撃機構も備えており、中距離での戦闘にも対応する。

 トリオン効率がよく、バランスのいい「採集者(ブラキオン)」はノマスでも使用者の多いトリガーである。

 

その他のトリガー

 

水蜘蛛(スクリキ)

 湖沼国家コロドラマが有する機動用トリガー。足裏にトリオン壁を作り出し、泥濘の上を滑るように移動する。操縦には多少の慣れは必要だが、トリオン体で走るよりも速く動け、急制動や急旋回も自由自在。

 平地、湿地、雪上はもちろん、水上さえ滑走できる「水蜘蛛(スクリキ)」は、防衛隊員の機動力を大きく向上させるトリガーである。

 

夢の階(ペルフェクトゥス)

 近界(ネイバーフッド)の平和と発展を心より願ったレギナが残した(ブラック)トリガー。所有者はフィリア。

 能力はあらゆる○○○○の○○○○と○○○○。

 誰にも起動することができないトリガーであり、詳細は不明。娘のフィリア曰く、「本当に必要な時はきっと力を貸してくれる」らしい。

 

 

トリオン兵  ※本作オリジナルのみ記載

 

威力偵察・輸送用トリオン兵ボース 

 馬に似た姿、大きさのトリオン兵。戦闘用は頭にブレードが付く。主に敵地での偵察に用いられるが、機動力に優れ装甲もそこそこ厚いため、兵や物資の輸送にも役立つ。また人間が騎乗して戦うことも可能。

 脚力を生かした蹴りと突進が主な攻撃手段。しかしコンセプト的にそこまで戦闘向きではなく、弱くはないが強くもない。戦力としてはモールモッド以下。

 トリオン兵に騎乗しての機動戦を得意とするノマスでは、戦闘用に強化されたボースが存在する。

 

捕獲用トリオン兵 ワム

 ミミズに似た姿のトリオン兵。細めのビルぐらいの大きさ。通常は複数個体が連結して動く。デカくて硬くて優秀だが見た目が気持ち悪い。

 土中を進んで突然現れ、建造物ごと人間を飲み込んで捕まえる。また外殻には多数の触腕が付いており、素早く伸びて人間を捕らえては外殻各所にある開口部から内部へ取り込む。

 大きな損傷を受けると損傷個体を切り離して逃亡を図る。それぞれが独立して逃げようとするため捕虜の救出が非常に困難。

 他のトリオン兵を体内に格納して地下から強襲をかけるなど、戦術的にも有用なトリオン兵。

 

爆撃用トリオン兵 オルガ

 魚に似た姿のトリオン兵。長椅子ぐらいの大きさ。

 空中を泳ぐように進む飛行トリオン兵。同じく爆撃用トリオン兵であるイルガーとは違い、オルガはそれそのものが使い捨ての爆弾として設計されている。

 対空砲をセンサーで回避しながら目標へと高速で突撃し、着弾と同時に貯蔵トリオンを総動員して爆発する。いわば全自動の追尾ミサイル。

 頭部が鋭角にデザインされており貫通力が高い。また装甲もそれなりに硬いため少々の被弾では落ちない。そして爆発の威力は相当なもので、強固な城壁にも亀裂を入れることができる。

 割り切った設計コンセプトから威力に対してトリオンコストが安め。また、オルガはイルガーなどの大型トリオン兵に搭載することが可能。

 

集団戦闘用トリオン兵 ヴルフ

 狼に似た姿のトリオン兵。超大型犬ぐらいの大きさ。

 ノマスが戦闘用に開発したトリオン兵で、高い攻撃力と機動力を兼ね備えながらもコストパフォーマンスに優れた傑作機。

 牙・爪による格闘能力の他、射撃機構にシールド発生装置も備える。

 またプログラミングも優秀で、同型のみならず他の種類のトリオン兵、人間の兵士との連携も得意としている。

 以下は、ノマスがエクリシア侵攻の為に作り出した改良型。

 ヴルフ・ホニン  尾部に長大な斬撃鞭を搭載した近接格闘型。

 ヴルフ・レイグ  トリオンを探知する追尾弾を搭載した射撃特化型。

 ヴルフ・ベシリア 鳥もちのような粘着弾を発射する特殊戦型。

 

戦闘用トリオン兵 クリズリ

 二足歩行の人型トリオン兵。四畳半がぎゅうぎゅうになるぐらいの大きさ。

 仮想敵国であるエクリシアの騎士に対抗するために開発された、高コストのトリオン兵。鋭い鉤爪の生えた長腕と、分厚い装甲に覆われた短腕の二対四臂を持つ。

 圧倒的な腕力と超硬度の外殻を有し、高威力の砲撃やスラスターによる短時間の飛行機能まで備えている。その戦闘力は練達のトリガー使いにも匹敵する程。

 味方との連携攻撃や状況に応じた立ち回り、エクリシアのトリガー「誓願の鎧(パノプリア)」に対しては装甲の継ぎ目を狙って攻撃するなど、プログラミングも非常に優秀。

 ノマスが満を持して投入した、エクリシア攻略の要となるトリオン兵である。

 

制空戦闘用トリオン兵 レイ

 マンタに似た姿のトリオン兵。六畳間ぐらいの大きさ。

 爆撃用トリオン兵のイルガーを護衛する為にノマスが開発した、制空戦闘用トリオン兵。

 レイは他の飛行型トリオン兵とは一線を画す速度と機動力を有する。射撃機構と外縁に取り付けられたブレードが主武装であり、また機動力が大きく削がれるが、オルガを最大二体搭載することもできる。

 優秀なトリオン兵だが高機能ゆえに製造・運用コストが高い。コンセプト的に仕方がないものの、オルガを打ち尽くした場合には対地攻撃手段に欠けるのが欠点である。

 エクリシア侵攻では、突入部隊の撤退の為に卵のまま持ち込まれた。

 

量産型自律思考トリオン兵 デクー

 楕円球型のトリオン兵。ラグビーボールぐらいの大きさ。

 ノマスが開発した自律思考トリオン兵。プログラミング通りに行動する従来のトリオン兵とは異なり、自ら状況判断を行い、戦局に即して行動することが可能。

 トリオン兵を多用するノマスの戦術では、どうしても遠征時に小隊の指揮官が足りなくなる。その穴を埋める為に開発されたデクーは、付近のトリオン兵を指揮下に置き、作戦に従って部隊を運用する部隊長となる。

 高度な思考力、判断力を持ち人間と会話することも可能だが、機能のほぼすべてが戦闘行為に向けられているため、情緒的な機微を理解することはできない。戦闘に特化した殺戮兵器である。

 また、製造コストと技術的な面から、エルガテスなどが作り出した自律思考トリオン兵に比べて、性能は大きく劣っている。

 

拠点防衛用トリオン兵 カーラビーバ

 蛇に似た姿のトリオン兵。長大橋ぐらいの大きさ。

 規格外のサイズを持つ超巨大トリオン兵。本土防衛における決戦兵器として開発された。

 ノマスの技術力の粋を結集した超兵器で、圧倒的な装甲と出力、そして桁外れの火力を有する。主武装は口腔から発射する大威力のレーザーと、拡散し爆発するトリオンブレス。加えて長大な胴体からは数千にも及ぶ誘導弾を発射する。

 大質量を生かした体当たりや押し潰しも強力で、並みのトリオン兵なら挙動に巻き込まれただけで粉砕される。また、驚異的な再生能力まで有しており、トリオン供給機関を破壊するしか止める手立てはない。

 (ブラック)トリガーをも殲滅できる兵器として設計、開発されたカーラビーバは、近界(ネイバーフッド)でも最高峰の戦力を持つトリオン兵である。

 しかしその高性能の代償として、製造に掛かるコストは非常識なまでに高い。どれほど大量の捕虜を得たとしてもトリオンの収支が合わないので、遠征に投入されることはまずありえない。あくまでも、本国の窮地に用いられる非常用のトリオン兵である。

 

 

 



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第一章 ひび割れた世界
其の一 予兆


 一つの世界が滅びの時を迎えようとしていた。

 

 無限無窮に広がる常夜の世界「近界(ネイバーフッド)」。その暗闇の海には、数多の星の煌めきがある。

 それら全ての星には人々が住まい、国を起こし文明を育み、それぞれの営みを連綿と続けてきた。

 

 そんな星々の一つ、「エクリシア」と呼ばれる惑星国家に、破滅の足音が近づいていた。

 近界(ネイバーフッド)でも上位に位置する国土と人口を有し、それらを背景とした高い科学技術を持つ軍事大国である。

 近隣の星々からも恐れられているエクリシアが、なぜ今存亡の危機を迎えようとしているのか。

 その理由は、彼らが住まう星そのものにあった。

 

 太陽から放たれる光は大地に滋味と熱気を与え、星を覆う大気は雨や風となって万物を潤す。人間はその広大な星のサイクルの恩恵を受けて暮らしてきた。

 しかし、エクリシアを初めとする「近界(ネイバーフッド)」の星々では、星の営みに費やされる全てのエネルギーが一つの巨大な装置によって賄われていた。

 

 星の中心にあり、星の活動そのものを支える動力炉は「(マザー)トリガー」。

 人間が生み出す生体エネルギー「トリオン」を用いて星に活力を与え続ける存在である。

 

 そして炉心である(マザー)トリガーに燃料として焼べられたのは、ただ一人の人間。

 数百年前に(マザー)トリガーと同化した彼は、今日に至るまで星と人の営みを延々と支え続けてきた。

 彼のように星に一身を捧げた者を、人々は「神」と呼び讃える。

 

 その「神」の寿命が、あと僅かで尽きようとしているのだ。

 

 神が死ねば、星も死ぬ。

 光は消え失せ大地は渇き、空気は澱んで生き物は死に絶えていくだろう。

 

 それは一つの世界、一つの星の終焉を意味する。

近界(ネイバーフッド)」に浮かぶ星々は、人の叡智が作り上げた箱舟だった。

 しかし箱舟は安住の地にたどりつくことは決して無く、生贄を求めながら暗黒の海を永遠にさまよい続けている。

 

 

  ×    ×    ×

 

 

 エクリシアの中心部。その小高い丘の上に、陽光に照らされ燦然と輝く巨大な建築物が聳えている。

 数多の尖塔を有し、優美な彫刻で随所を飾られたその建物は、度重なる国難を乗り越え今日まで民を導いてきた、エクリシアの象徴にして国政を担う「大聖堂」である。

 トリオンを用いて築かれた大聖堂は、幾星霜の年月を重ねているにも関わらず、奇妙なほどに真新しい。だが、民の祈りと崇敬を一身に受けてきたその佇まいは、見る者すべてに畏敬の念を抱かせざるをえない荘厳な風情を纏っている。

 

 教会の鐘楼から眺望すれば、教会を取り巻くようにして、城塞の如き建造物が三つ立ち並ぶのが見える。

 大聖堂の壮麗な外観とは似ても似つかぬ無骨な城壁を持つこれらは、教会の藩屏たる三大貴族が運営する、騎士団の居城である。

 彼ら貴族は教皇より施政権を預かり、教会に代わって国土を統治する実質的な支配者だ。

 そして彼らは祖先より忠義の心を受け継ぎ、祖国の防衛を担う戦士たちでもある。

 

 視線をさらに先へ移せば、山手には貴族の別邸が立ち並び、丘の裾野からは教会を囲むようにして広大な都市が広がっているのが見えるだろう。

 貴族の所領とは異なり、教会の直轄地であるこの「聖都」は、エクリシアで最も多くの人口を有する首都である。

 目抜き通りには多くの商店が軒を連ね、行きかう多くの人々で賑わっていた。

 その喧騒の中で、一際声を張り上げて歩く男の姿がある。

 

「くそっ、どこ行きやがった! ただじゃおかねえぞ」

 

 買い物客の群れをかき分けて、憤激した様子の男が靴音荒く歩いていた。手には使い込まれたのし棒を握り、怒りにつり上がった目はせわしなく辺りの様子を窺っている。

 

 男はパン屋の店主である。彼が憤慨しているのは、軒先に並べていた商品が少し目を離した隙に忽然と消え去ったからだ。珍しいことではない。多くの人口を抱えるこの街には、日ごとの食事にも事欠く貧民が数多くいる。彼らが行う常習的な窃盗は、市民共通の悩みの種であった。

 

 とはいえ、男はひとくさり毒づくと肩を怒らせながら来た道を戻って行く。店を長時間空けておくわけにもいかないのだろう。

 

「追跡を断念したようです。フィリア」

 

 表通りから小道へ折れた路地裏。昼日中でも陽光の届かない暗がりの片隅で、ごみ箱の影から無機質な女の声がした。

 

「まだ、ダメ」

 

 憚るように小声で答えたのは、高く澄んだ少女の声。見れば、粗末な衣服を纏った小柄な人影が、ごみ箱に張り付くようにしゃがみこんでいる。

 その両手には、襤褸切れで巻いた一抱えほどある包み。仄かな温かみと、立ち上る麦の芳ばしい匂いが、それが件の盗難品であることを物語っていた。

 

「姿を人に見られるだけでも不味いの。もう少し、此処で待つわ」

 

 フィリアと呼ばれた少女はそう呟きながら、辺りの様子を窺うべく慎重に物陰から頭を出す。

 年の頃は十に届くかどうか。褐色の肌をした、整った顔立ちの少女である。

 

 劣悪な栄養状態のせいだろうか、手足は枝のように細く、頬は痛ましいほどにこけている。

 雪のように白く細い髪も手入れが行き届いておらず、ぼさぼさに乱れ、埃にまみれている。

 ただ爛々と輝く黄金の瞳が、あどけない顔に似合わない強い意思と、知性の光を湛えており、少女はどこか、外見にそぐわぬ老成した雰囲気を纏っていた。

 

「大丈夫。此処なら絶対に見つからない」

 

 追われる身である焦燥など欠片も感じていないように、フィリアはそう断言する。

 その根拠は、彼女が持つある種の超感覚だ。女の脳裏で囁く声が、身の安全を保障しているのだ。

 

「フィリアの意思を尊重します」

 

 再び頭を引っ込める少女に、女の声が応じる。

 不可解なことに、その声はフィリアの足元から発せられていた。店舗用のごみ箱とはいえ、人が二人も隠れられる大きさではない。

 

「ありがとうヌース。今夜はみんなでパンが食べられるね」

 

 フィリアが語りかける相手は、はたして人間ではなかった。

 

 蹲る少女の足元に浮いているのは、人の頭ほどの大きさをした白い楕円形の物体である。

 光沢のないエナメルのようにつるりとした外観をしたその器物は、正面に目のように見える二つの光点を持ち、背面には魚の尾びれを思わせる板状の突起を有している。

 それはトリオンで造られた命無き絡繰り人形「トリオン兵」と呼ばれる兵器であった。

 

 ここ近界(ネイバーフッド)では、人間の生み出すトリオンこそが、あらゆる社会活動を支える根幹技術となっている。

 トリオンは極めて効率のいい動力源であり、また不朽不滅の資材に変化するため、遠い過去より文明の勃興を助けてきた。

 

 また市民の生活のみならず、トリオンは軍事とも切り離すことのできないテクノロジーだ。トリオンはおよそほとんどの物理干渉を受け付けないため、これに抗するには同じくトリオンを用いるしかない。

 そして兵隊が持つ武器だけでなく、使い捨てのできる簡便な兵士として生み出されたのがトリオン兵だ。貴重な人的資材と異なり、損耗してもすぐに補充のできる無人兵器は、今では戦場の主役となっている。

 

 しかし、通常のトリオン兵はプログラムに沿って呵責なき戦闘を行うだけの機能しか持ち合わせておらず、こうして人語を解し、自発的に活動することはできない。

 

「引き続き周囲の走査を行います。……フィリア、足が辛くはありませんか」

 

 だが、ヌースと呼ばれたトリオン兵は少女に気遣いの言葉さえかけた。これはこの個体が近界でも数少ない、確固たる意思を持ち自ら行動を定めるトリオン兵『自律トリオン兵』であることを示している。

 自律トリオン兵を有する国は少なく、この大国エクリシアでも開発には成功していない。

 

「私は大丈夫。ヌースも隠れて」

 

 矮躯の少女が気丈にそう告げると、トリオン兵の輪郭が見る間に茫洋と崩れ、闇の中に溶け消えてしまう。体表を周囲の景色に合わせ、隠密モードへ移行したのだ。

 

「…………」

 

 盗んだパンを抱えたフィリアはそのまま、塑像のように身動き一つしなかった。

 足元の石畳は無残に剥がれていて、ぬかるんだ地面が少女の足元を汚す。掃除の行き届いていない側溝からはドブと汚物の匂いが漂い、折角のパンの香気を台無しにしていたが、それでも少女は泣き言一つ溢さず、ただひたすら忍耐強く待ち続けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうしてどれ程時間が経ったか、太陽は傾き、聖都を囲む城壁の向こうへ沈もうとしている。夕焼けに染まる街を、潜伏場所から抜け出したフィリアは足早に歩いていた。

 

 襤褸布をフードのように目深に被り、表通りを避け、人通りの少ない裏道を選んで通る。

 聖都の裏路地には職にあぶれたごろつきも多く、年端もいかない少女にとっては危険極まりない。

 

 それでも大通りが安全かと問われれば、フィリアに限っては否であった。

 ただの貧民の子供なら、市民から疎まれこそすれ直接的な被害を蒙ることは少ないだろう。しかし、フィリアはその特殊な出自から、特に市民からは姿を隠す必要があった。

 

 エクリシアでは数少ない褐色の肌を持つ者たちは、そのすべてが同じルーツを持つ。

 彼らは皆「ノマス」と呼ばれる別の国家の血を引く者たちなのである。

 

 狩猟国家ノマス。国土面積は中規模ながら、高いトリオン兵の製造技術と一騎当千の武勇を誇る戦士を擁する近界(ネイバーフッド)の有力国だ。

 このノマスはエクリシアと長きにわたる確執を抱えており、大規模な軍事衝突も過去に幾度となく発生した、いわば宿敵といえる国である。

 

 フィリアのようにノマスの血を受け継ぐ者は、その全員が戦利品としてエクリシアに連行された捕虜、ないしはその後に奴隷となった彼らが産んだ子供たちだ。

 フィリアもその例外ではなく、虜囚となった母から生まれた子供であった。もっとも、娘を産んですぐに彼女は亡くなったため、フィリアは生母の顔を覚えてはいない。

 

 これらの歴史的な経緯から、市民の多くはノマスの血縁者に拭いがたい忌避感と嫌悪を抱いている。

 通常は追い払われるだけの貧民も、ノマス縁の者というだけで市民から謂れのない暴行を受けたり、治安を担う騎士団に連行されたりすることもある。

 フィリアにとっては、人々の営みで賑わう街並みこそが油断ならない敵陣であった。

 

 少女は慎重に、しかし歩みを緩めずに家を目指す。ふとその時、彼女の耳に終業を告げる教会の鐘の音が聞こえた。

 折しも大通りを横断しようとしていたフィリアの目に、丘の上に聳え立つ教会の姿が映り込む。

 

 夕焼けに染まる世界に、清澄な鐘の音が響いている。荘厳華麗な教会は、聖都に住まう人々を慈しみ、導くかのように輝いていた。

 このエクリシアの中心にして聖地、そして地下に座す「神」を護る堅固な城塞。

 

 悠久の歴史をその身に刻み、終わりなき繁栄を誓う国家の象徴。

 この星に住まう者なら誰もが祖国への敬慕を新たにしてしまうような、完成された絵画の如き光景である。

 

「…………」

 

 だが、フィリアはどこか暗い眼差しでその情景を眇め見ると、足早に次の路地へと移動した。今はただ、早く我が家に帰りたいとの思いだけがあった。

 

「だいぶ遅くなっちゃった。急いで帰ろう」

「間もなく日没です。気を付けてください」

 

 フィリアが目指す我が家は、広い聖都の北部に位置する。城壁沿いに広がるその一画は、トリオン技術が発展する以前の姿を残した旧市街である。再開発の波に取り残されたその区画は、貧民たちの巣窟となっていた。

 

 複雑に入り組んだ石と木の建築群と、そこに住まう素性の定かではない貧民たち。

 聖都の中心部に住む市民たちは決して近づかず、貴族たちも処置に困るならず者の土地。

 

 悪評しか聞こえない貧民窟だが、その実、そこは市民が噂するほど危険な場所ではない。

 貧民窟には暴力を生業とする輩は殆どいない。なぜならそもそも奪う物がないからだ。

 

 この忘れ去れた街に住むのは身寄りのない子供や家族に捨てられた年寄、病人など、収奪され続けるしかない弱者ばかりだ。

 暴力で身を立てようとする者は、とうに都市の中心部へと移っている。

 

 それでもフィリアは、今日の収穫物を襤褸切れで厳重に覆い隠した。

 痩せっぽちの小柄な少女である。この街の疲れ切った住人でも、与し易い相手とみて襲い掛かるかもしれない。

 トリオン兵であるヌースの力を使えば撃退は難しくないが、そもそもヌースは存在自体が禁忌に属する。彼女はフィリア以上に人目を避けなければならない。

 

 始終辺りに気を配りながら、フィリアはようやく我が家へと帰ってきた。カビと埃の匂いが漂う、朽ちかけた石造りの家である。

 それでも、フィリアにとっては掛け替えのない、エクリシアで最も神聖な場所だった。

 

「いま帰ったよ」

 

 門前で声を掛けると、立てつけの悪い木戸がガタガタと音を立てて内側から開けられる。

 

「おかえり、フィリア姉!」

 

 元気によく少女を出迎えたのは、三人の少年少女たち。いずれもフィリアより幾分幼い子供たちだ。

 

 彼らはフィリアの弟妹である。とはいえ、実際に彼女と血が繋がっている訳ではない。その証拠に髪色や面立ちは誰一人として似通っていない。孤児であった彼女たちを引き取り養育した人物が同じなのだ。

 

 金髪の巻き毛が可愛らしい弟イダニコは七歳、黒髪で生意気盛りの弟サロス、赤毛でおしゃまな妹アネシスは共に八歳である。

 

「変わりは無かった? 今日はパンがあるから、テーブルで待ってなさい」

 

 フィリアが微笑みながらそう告げると、弟妹たちから歓声が上がった。

 

 最近は実入りが悪く、薄いスープだけの食事が続いていたためだろう。だが、弟たちの浮ついた様子はどうもそれだけが理由ではなさそうだ。

 

「姉ちゃん! ほら、早く入って!」

 

 サロスに腕を引っ張られ、フィリアは居間へと連行される。

 室内は丁寧に掃き清められ、調度品も綺麗に整頓されていた。いつもはフィリアか母が口うるさく言わねば片づけをしないのに、これはどうしたことだろう。

 古ぼけたテーブルの上には色とりどりの花が活けられており、湯気を立てるスープには申し訳程度の量でしかないものの肉が浮かんでいる。

 

「これは……」

「わたしが作ったのよ! 姉さんみたいに上手にできたか分からないけど……」

 

 そう言って、照れながらも自慢げに胸を張るのは妹のアネシスだ。

 だが、フィリアが疑問に思ったのはこの食事を整えた費用である。テーブルを彩る花は野に咲く物を摘んでできたのだろうが、この豪勢な料理はどうしたというのか。今の我が家にはほとんど金銭はないはずだ。

 それよりもフィリアを困惑させたのは、居間に座る女性の姿である。

 

「おかあさん、おねえちゃんかえってきたよ!」

 

 末の弟のイダニコが、イスに腰かける金髪の婦人へ歩み寄ってその膝へ抱きつく。

 彼女こそ、フィリアたちを引き取り養育した母、パイデイアであった。

 

「母さん! 起きだして大丈夫なんですか!?」

 

 端坐する母の姿を見るや、フィリアが狼狽した声を上げる。

 四人の子供を養うために働き続けた母パイデイア。

 もともと身体が弱かった彼女は重い病に倒れ、もう一年近くも床に臥せている。医者にかかることもできず、滋養の有る物も口にできない暮らしぶりでは、彼女の体調も一向に回復の兆しを見せないままだ。

 パイデイアは翡翠のように輝く瞳と、麦穂を思わせる豊かな金髪をした美しい女性だったが、今は見る影もなくやつれ、実年齢よりも遥かに高齢に見える。

 

「おかえりなさい、フィリア。それにヌースも」

 

 ベッドから起きて立ち上がることさえ辛いだろうにも関わらず、パイデイアは慈母のような微笑みをフィリアたちに向ける。

 

「ただ今戻りました。パイデイア」

 

 隠密を解いて姿を現したヌースが、フワフワとテーブルの上に浮かびながら答えた。

 存在そのものが禍を呼びかねない禁断のトリオン兵たるヌースだが、彼女もこの家の立派な一員である。我が家で姿を隠すことは誰も望まない。

 弟妹たちもヌースの立場は充分理解しており、彼女のことは決して外では漏らさない。少し御小言が多いところが玉に傷だが、彼女も愛すべき家族なのだ

 

 そもそも、ヌースは母パイデイアが所有するトリオン兵であった。

 元々は大貴族の令嬢であったパイデイアが実家を捨てて飛び出したとき、傍らにいたのがヌースである。パイデイアが出奔する理由となった乳飲み子のフィリアを、彼女と共に見守り育ててきた。

 

「あの、母さん。これだけの食べ物をどうして……」

 

 帰宅の挨拶もそこそこに、フィリアは卓上に並ぶ食事について問う。たかだか一食とはいえ、それにも事欠くのが我が家の窮状だ。

 

「さぁ、フィリアも席に着いて。みんな待ってるわ」

 

 やんわりと質問をいなされるが、フィリアの持つ超感覚は既に事の真相を察していた。

 母パイデイアは実家から持ち出した貴金属を現金に換えたのだろう。無論、本当に家族が困った時の非常用の資産であるから、換金したのはごく一部であろうが。

 そして、そうまでして現金を作り、今晩の食事に色を添えた理由は……。

 

「「「フィリアお姉ちゃん、お誕生日おめでとう!」」」

 

 フィリアが席に着くや、弟妹たちが一斉に寿ぎの声を上げる。

 我が家の異変を目にするまで、まるで覚えていなかった。今日は彼女の十歳の誕生日なのだ。

 

「――――」

 

 感極まって言葉に詰まるフィリアに、小さな紙包みを持ったイダニコが歩み寄ってきた。

 

「おねえちゃん。これ、みんなからのプレゼント!」

 

 受け取って開いてみると、中には細かな飾りが施された櫛が入っている。

 母が取り崩した蓄えだけではなく、弟妹たちが身を粉にして稼いだ金銭も用いたのだろう。その苦労と込められた思いを察し、少女の胸に熱いモノが込み上げる。

 フィリアは両手で櫛をそっと包み、愛おしそうに抱きかかえた。

 

「……ありがとう。本当に、お姉ちゃんとっても嬉しい!」

 

 目じりに涙を輝かせながらも、朗らかに笑うフィリア。

 今日、彼女が始めて見せた、年相応のあどけない笑顔であった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 皆で食前の祈りを済ませ、パンを裂く。

 

 普段は街で下働きをしたり、物売りをしたりして家計を助けている弟たちだが、今日ばかりは疲れた顔も見せず、笑顔で料理に舌鼓を打ち、フィリアの為に歌を歌う。

 

 フィリアが度々盗みを働いていることは、共犯のヌース以外誰も知らない。知らせるつもりもない。

 盗みに対する良心の呵責は、当の昔に擦り切れて無くなっていた。

 自らの行いを正当化する気はもちろんないが、日々を生き抜くことだけに腐心する毎日では、事の善悪など論じてはいられなかった。

 

 そうして、心温まる一時はすぐに過ぎて行く。

 誕生日会もお開きになると、フィリアはパイデイアをベッドまで介添えし、弟たちを寝かしつける。無理を押して動いたであろう母の体調が不安なため、ヌースには彼女の看病を頼んだ。

 

 家人の声が絶えた居間には、寂寞とした空気が立ち込める。

 フィリアは家の雑事を手早く片付けると、トリオンランプの薄明かりを頼りに針子の内職を始めた。

 随分旧式の照明器具だが、この界隈では貴重品である。盗難を避けるため、明かりが外に漏れないよう窓は厳重に閉めてある。

 

 音のない薄暗がりで、黙然と手を動かし続けるフィリア。

 

「――――っ」

 

 日もとっぷりと暮れ、成長期の少女には起きているのも辛い時間である。睡魔に気を取られた彼女は、過って針で指先を刺してしまった。

 

「…………」

 

 指先を咥えて止血する。布に血が付かないよう、しばらくは手を止めなければならない。

 

 ふとできてしまった空白の時間。

 誕生日という節目の日を迎えたためだろう。フィリアはぼんやりと、自らの半生について思いを馳せていた。

 

 年齢にそぐわぬ程に現実的な性格の少女である。普段なら、過去への思索など何の益体もないことと忌避するような彼女だが、やはり今日は感傷的になっているらしい。

 

 物心がついた時、既に実母はいなかった。彼女を養育したのは貴族の娘パイデイア。エクリシア三大貴族の一つ、イリニ家の子女である。

 フィリアはエクリシアがノマスとの戦争で獲得した捕虜から生まれた。パイデイアは黙して語らないが、実母と彼女の間には深い親交があったのだろう。

 

 母パイデイアは生まれつき体が弱く、子を成すことが難しかったため二十歳を超えても嫁ぎ先が無かった。また、彼女はエクリシアが国是とする強兵政策にも強く反対の意思を持っていたため、イリニ家では飼い殺しのように扱われていたらしい。

 

 それでも、大貴族の娘であったパイデイアには、悠々自適の暮らしが約束されていたはずだった。

 貴族の立場に加え、彼女のトリオン能力はエクリシアでも突出した物だったからだ。

 

 国家の運営に欠かせないトリオン。それを生み出す「見えない内蔵」トリオン機関は、ある程度の確率で遺伝する。

 トリオン能力の優劣で国力が決する近界においては、優生学的な手段に訴えてまでトリオン能力を増幅させようとする企ては珍しくない。

 それはこのエクリシアでも同様だ。貴族と称される一族は何百年もの長きに渡り、血を掛け合わせ選別し、優れたトリオン機関を持つ者を人為的に生み出してきた。

 

 そして、母パイデイアこそ、名門イリニ家が得た稀代の器であったのだ。

 病弱で子供が望めないといえ、破格のトリオン機関を持つ彼女の前途は、如何様にも開けたはずだったのだ。

 そんな母は、突如として貴族の立場を捨ててイリニ家を出て行った。

 

 理由は奴隷が産んだ娘、フィリアの為であった。価値のない劣等民として処分される運命にあった赤子を助けるため、パイデイアは生まれた家を捨てた。

 その後は誰に頼ることもなく、彼女はフィリアや同じような境遇であった孤児たちを養い、一人で育ててきた。

 世間知らずの貴族の女がどれ程の苦労を重ねてきたのか、フィリアには想像もつかない。だがそのために、彼女は一年前に重い病を得てしまった。

 

 それは唯一の働き手を失う事を意味しており、家族が飢えるのは時間の問題であった。

 イリニ家からの支援は、受けられそうにもない。出奔したパイデイアの名は、すでに一族の名からは消し去られており、また余程の理由があるのか、母はフィリアに決してイリニ家に近づくなと厳命していたからだ。

 

 このままでは、家族皆が飢えて死ぬ。

 しかし不幸中の幸いであったのは、当時僅か九つに過ぎなかったフィリアに、既に自活に足るだけの知性が育っていたことだ。

 

 フィリアの知育を促進したのは、彼女が生まれ持った異能力である。

 それは優れたトリオン能力が脳や神経系に働きかけることによって発現する様々な超感覚「サイドエフェクト」と呼ばれるものだ。

 

 彼女に備わったのは「直観智」のサイドエフェクト。

 ありとあらゆる事象に対して、即時に最適解を得る能力である。

 

 詳しく説明するなら、感じ得た情報を統合、検証して最適無謬の答えを一瞬ではじき出す能力。とでも言うべきものか。

 ようは限度を超えた察しの良さ、感の鋭さである。

 

 こう聞くとさぞかし万能で神懸かった能力に思えるかもしれないが、実際にそこまでの力はない。

 前提条件として判断材料が必要なため、まったく何でもかんでも分かるというわけではない。また導き出される答えもその事象に対するフィリアの知識と理解、知性から生ずるものであるから、答えが精密さに欠けることも多いのだ。

 

 ただし、この能力は即座に答えを導き出す上に、その答えが外れることが無い。

 とはいえ、サイドエフェクトを診断したヌースが言うには、この「直観智」はまだ発展途上の能力らしい。脳に極端な負荷がかかるため、無意識に力をセーブしているそうだ。 

 

 この異能に引きずられた結果、フィリアはすでに大人と変わらない判断と行動ができるようになっていた。

 少年期との早すぎる決別を終えた彼女は、知力と体力を振り絞って働き、家族の生活を支え続けた。

 

 最初は母の仕事先を頼って働いていたものの、子供であるフィリアではいくら能率よく働いても給金は雀の涙しか貰えず、家族の口を満たすことはできなかった。おまけに年齢にそぐわない態度が気味悪がられ、ノマスの出自の貧民ということもあって彼女はしばしば悪意の対象にも選ばれた。

 

 状況が好転したのは、篤志家として有名な大貴族ゼーン家の屋敷に出入りできるようになってからだ。

 エクリシアの三大貴族の一角であり、ここ聖都にも巨大な邸宅を構えるゼーン家。

 武闘派として名高い家であったが、時の当主は意外なほどに温厚善良な人物として知られており、貴族としては珍しく下層民の窮状に心を痛めていた。

 領地では貧民に寛大な施政を行い、教会にも支援政策を提言していると聞く。

 

 そのため屋敷で働く人々も貧民に理解があり、フィリアは知恵を絞って何とか知遇を得ることができた。

 一目でノマスの血を引くと分かる容姿が足を引っ張ったものの、サイドエフェクトを活用して働く彼女は屋敷の使用人たちに重宝がられた。

 現金収入こそ大したものではなかったが、施しとしてよく食べ物を貰えたので、食うや食わずやの生活からは脱出できたのだ。

 

 だが三か月前、その慈悲深い当主は遠征先の国家で戦死を遂げた。

 そして代替わりした当主は先代とはまったく考えの異なる人物で、エクリシアの国力を圧迫する貧民には強権でもって当たるべきとの考えだった。

 当然、屋敷内に貧民が出入りしていることを喜ぶはずがない。そして悪いことに、フィリアの容姿はエクリシアの仇敵、ノマス由来のものである。

 

 少女は問題が起こる前に先んじて屋敷を去ったが、そのためにまた生活は厳しいものになった。

 盗みを働くようになったのはその頃からである。そうでもしなければ、いよいよ暮らしていくこともままならなくなる。

 事実を知っているのはヌースだけで、家族には未だゼーン家で奉公していると嘘をついていた。

 

「…………ふぅ」

 

 知らずに、ため息が零れていた。

 

 何故、私たち家族はこんなに苦労しているのだろう。怨嗟の入り混じった疑問が、フィリアの胸の内で蟠る。

 サイドエフェクトがわかりきった答えを返す。

 それは世界が私たちの為にあるわけではないからだ。

 冷酷で取りつく島もない、世界の理。では、

 

 ――そんな世界で私が生きる意味は?

 フィリアの脳裏に、人生に対する当然の問いかけが思い浮かぶ。すると、

 

 それは母や弟妹が私の生を望んでいるから。私を思ってくれているから。

 いつもの答え。変わらない、そして最高の答えが彼女の脳裏に浮かぶ。

 

 暗黒の海に光り輝くしるべのように、フィリアを導く羅針盤。

 そう、私は家族の為に生きている。

 フィリアは静かに、そして力強く己の意思を確かめる。

 

(どんなことがあっても構わない。パイデイア母さんとサロス、アネシス、イダニコ。それにヌース。

 みんなが私の幸せを望んでくれている。

 生まれてくるべきではなかった子供。生かしておく価値も無かった私を、家族は優しく包んでくれる。

 辛いことなんて何もない。私はいくらでも進んでいける)

 

 テーブルに置かれた櫛が目に留まる。

 フィリアの生きる意味。人生の証。

 この良き日の思い出を胸に刻み込めば、フィリアは決して挫けはしないだろう。

 決意も新たに、内職の続きをしようと意気込むフィリア。そこへ、

 

「……フィリア、まだ起きているの?」

 

 奥の部屋からパイデイアの声が聞こえた。

 

「母さん、どうかしましたか?」

「いいえ、フィリアがあんまり根を詰めているのではないかと思って、ね?」

「もう寝るところでしたよ」

 

 フィリアは裁縫用具を仕舞い、パイデイアの寝室に顔を出す。そうしてベッドの側に立ち、母に寄り添った。

 

「じゃあ、久しぶりに一緒に寝ましょうか」

 

 すると、パイデイアがそんなことを言った。

 フィリアは何とも言い難い羞恥を感じ、俯いてしまう。

 

「ね、母さんのお願い」

「…………うん」

 

 だが、母は娘の葛藤を見透かしているように笑ってみせた。

 いくら聡明で大人びているとはいえ、彼女はまだ十歳の子供なのだ。

 しばらく照れていた様子のフィリアだったが、最後には居間の明かりを消して寝室へと戻ってきた。衣服の汚れを念入りに落とし、髪を櫛で梳かしてからベッドに潜りこむ。

 

「また何かお話をしましょうか。でも、賢いフィリアにはもう退屈かしら?」

「そんなことない! あ、えっと……母さん、私、また「玄界(ミデン)」の話が聴きたいです」

 

 優しく頭を撫でるパイデイアに、フィリアは何度も聴かせてもらった話をねだった。

 このエクリシアのように「近界(ネイバーフッド)」の国家は夜の暗黒に浮かぶそれぞれの星の上に根を下ろしている。

 

 だが、夜の暗黒の向こうには、果てしない海と広大な大地に恵まれた星が存在する。

 それが「玄界(ミデン)」。

 

 そして驚くべきことに、玄界(ミデン)(マザー)トリガーによって成り立っているのではなく、その存在は不変不朽であるというのだ。

 フィリアたちの住まう星の国は、(マザー)トリガーによって生かされている。

 星の規模や活動期間は、(マザー)トリガーと同化した神によって左右され、トリオン能力にすぐれた人物が神となれば国土が広がり、逆に先代より劣った人物が神となれば国土は小さくなる。

 

 必然的に、近界の星は人口に因む問題を抱えやすい。

 耕地面積はその時々の星の規模に左右されるため、人口の増加が妨げられる。しかし、産業・軍事の基幹となるトリオンは人間にしか生み出せないエネルギーであるため、国の人口はそのまま国力へと直結する。

 

 そのためエクリシアのような軍事国家は食糧事情が許すギリギリの人口を抱えることになってしまう。

 食糧自給に不安があるなら、他国との交易で不足分を埋めようとするのが自然な考えだ。しかし星々を渡る往還船を飛ばすには莫大なトリオンが必要で、コストの面からまったく現実的な手段ではない。

 

 軍事力と食糧生産の板挟み。

 エクリシアはその問題に対して、人口抑制で対処しようとしている。

 国にとって有益な者だけを残し、そうでない者は淘汰する。

 

 選定基準はトリオン能力と技能である。

 トリオン能力に優れた者、何がしかの分野で成功を収めた者は、貴族やそれに類する者として取り立てられ、国家から優遇を受ける。

 トリオン能力はある程度の確率で遺伝するため、優秀な人間には多くの子孫を残してもらおうとの措置なのだろう。

 

 だが、その制度ができたのは数百年前。宿敵ノマスによる台侵攻を受け、国家の立て直しが急務とされていた頃だ。

 そして何百年も経てば門閥が形成され階層は完全に固定化する。今のエクリシアでは、物資、権力、トリオンすべてを持つ貴族の周りに市民が侍り、貧民は彼らを支えてそのおこぼれを頼りに生活している有様だ。

 

 エクリシアの国民には日に一度、教会に参じてトリオンを供出する義務がある。いわばトリオン税といったもので、その際にトリオン能力も測定される。

 供出したトリオンの量に応じて幾らか金銭も出るので、貧民はこぞって列に並ぶ。しかし貧民は押し並べてトリオン能力が低く、回収量は悪いと聞く。今では例外的に生まれるトリオン優良児を逃さないための検査という意味が強い。

 

 しかし、フィリアはこの制度を利用したことが無い。

 母パイデイアから、絶対に使わないよう固く禁じられていたからだ。

 

 教会で供出を行えば身元がばれる。そうなれば、イリニ家の面々に見付かり家族がバラバラにされてしまうとの話であった。

 惜しい事には、フィリアのトリオン機関は稀に見るほどの能力を持っており、制度を利用できれば生活は格段に安定したであろうことだ。

 イリニ家とは何のかかわりも無い弟妹たちは毎日教会へと通い詰めているが、彼らのトリオン機関では、五人家族を養えるだけの謝礼は貰えない。

 才ある者を引き上げるための政策が、今では無力な人間を切り捨てるため試練と化しているのだ。

 

 そして、近年では産児制限まで導入されつつある。

 それも下層階級を標的にしたもので、建前上は「子供の為に計画的な」子育てを推奨するためらしいが、子供を産むためには貧民では到底払えない税を国に納める必要がある。

 法律がもう一歩進めば、子供の数に応じて税を取り立てるなど直接的な口減らしもあり得るかもしれない。

 淘汰の対象となるのは、やはり下層階級の人間である。

 

 そんな国に暮らすフィリアにとって、果てしない大地を持ち永遠に生き続ける星「玄界(ミデン)」はまさに理想郷のように思えた。

 

「家族みんなで行きましょう。私が連れて行きます」

「まあ、楽しみにしてるわね」

「母さん、私は本気です。きっと母さんの病気も治るから」

 

 玄界(ミデン)の話を母から聞くと、決まり事のようにフィリアはそう言う。

 

 勿論実現は難しいのだが、方法が無いわけではない。彼女のサイドエフェクトははっきりと道筋を示していた。

 母の病態がもう少し落ち着けば、騎士団へと志願する。

 

 国家の守護を担う貴族所有の軍事集団は、原則として全ての国民に門戸を開いている。

 貧民の、しかも敵国の血が混じったフィリアだが、トリオン能力は一級品である。イリニ家が持つ騎士団には流石に近寄ることはできないが、身元を隠せば他の騎士団に潜り込むことはできるだろう。そうすれば、家族を飢えさせずに済む。

 

 そして功を上げれば他の星へ行くこともできるはずだ。

 さらに出世すれば、往還船を手に入れることもできるかもしれない。そうすれば玄界(ミデン)へ行くことも夢ではない。

 気の遠くなるような話だが、そこまでいかなくても彼女が出世すれば確実に家族の暮らしぶりは良くなる。

 

 だが、フィリアはその計画を胸に秘め、決して母には漏らさなかった。

 パイデイアは他国民を拉致する国策に真っ向から反対している人だ。自分や家族の為に娘がその片棒を担ぐつもりと知れば、傷つくに決まっているだろう。

 

 フィリアはパイデイアの博愛精神を尊重していたが、同時に酷く哀れで虚しい願いだと思っていた。

 他国の人間を拉致してトリオンを絞り取る。それはどの国でも恒常的に行っていることである。資源に限りあるがあるのなら、余所から奪うしかない。

 それは厳然たる人の営みであり、倫理が介在する余地はない。

 

 この世界は、常に犠牲を必要としている。

 

 我と彼、「こちら」と「あちら」。大切な者とそれ以外。

 その線引きをどこに設けるのか、つまるところそれだけの話でしかないのだ。

 

 現にこのエクリシアでも、貴族は貧民からなけなしのトリオンと労働力を搾取し続けている。国の中でさえ虐げられる者と奪う者が存在するのだ。いまさらどうして国の外を慮らねばならないのか。

 フィリアは家族の為なら、どんなことでも厭わない。

 既に盗みも働いてしまった。殺人とて受け入れる覚悟はあるし、家族が幸せになるためなら命を惜しむつもりもない。

 彼女には守るべきものがある。その為には何を捨ててもいい。

 

「母さん、私がんばるね」

 

 ベッドの中でフィリアは赤子のようにパイデイアに抱き着いた。そんな少女を優しく撫でながら、

 

「可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたの枕に優しい夢を

 あなたの布団に素敵な星を

 銀の光が窓から差して

 金の光に変わるまで

 可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたに安らぎありますように

 あなたに幸せありますように」

 

 母は優しい声で、子守唄を口ずさむ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 それから数日後、フィリアは場末の食堂で朝から馬車馬のように働いていた。

 

「ちょっとアンタ! 店の掃除は終わったのかい?」

「はい、女将さん」

 

 テーブルを空拭きしていたフィリアを胴間声で呼びつけながら、恰幅のいい女将がカウンターから出てくる。

 女将は常に不機嫌そうに眉根を寄せているが、きょうは格別に虫の居所が悪いらしい。

 常連客には愛想よく振る舞うが、貧民の小娘相手にはイラつきを隠す必要も無いのだろう。今日はいつにもまして慎重に振る舞う必要がある。

 

「…………フンっ!」

「どうでしょうか?」

 

 一頻り店内を眺めてから、女将は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 然したる問題が見つからなかったのだろう。まずは一つ、叱責を免れたようだ。サイドエフェクトで確信しているとはいえ、その様子にフィリアも安堵の息をつく。

 

「終わったならもっと早く言いな。サボるつもりじゃなかったろうね!」

「すみません。女将さん」

 

 半ば難癖のような小言にも、少女は心底申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

 

「次は厨房のお手伝いをすればよろしいでしょうか」

「分かってるなら自分で動きな、いちいちアタシを煩わすんじゃないよ。ああ、言わずもがなだけど、お客の前に出るんじゃないよ。アンタみたいな呪われた子を使ってるのが知れたら、何て言われるか分かりゃしないんだから……」

 

 女将に追い払われるようにして、フィリアは厨房へ入る。

 

 彼女のこのような態度だが、世間一般の貧民に対する扱いに比べれば温情に満ちているといっていい。特にフィリアのようにノマスの血が混じっている者にとっては破格の待遇だろう。

 定期的に仕事をくれて、尚且つ仕事でミスをしたり不興を買ったりしない限りは給金も満額支払ってくれる。これ以上望みようのない条件であり、この店からの現金収入がフィリア達一家のか細い命綱となっている。

 

 そうして慌ただしい昼時を乗り切ると、今度は夜の営業まで仕込みに追われる。

 厨房は男所帯でミスをすれば口の前に手が飛んでくるような環境だが、裏を返せば仕事でしくじらない限り罰は受けない。

 

 フィリアの厨房での仕事は食材の下ごしらえだ。とはいえ、食材の数はあまりに多く、子供の体力では無理のある作業量だ。しかし、少女はサイドエフェクトを活用し、最適な段取りで仕事をこなしていく。

 大人以上の仕事をこなしても給金に色が付くことはないが、仕事を与えてくれる以上文句はいえない。支払いを反故にされて蹴り出されることなど珍しくもないからだ。

 

 夜も更けて酔客が帰り始めると、戦場のような騒がしさだった厨房もようやく落ち着きを見せる。

 とはいえ少女に休む暇は無く、洗い物の山を必死に片付け続けている。

 すると食器の触れ合う音に混じって、客同士の会話が聞こえてきた。

 

「それがよぉ、いまいち遠征が上手くいってねえらしいぜ」

(マザー)トリガーのお眼鏡に適う奴なんてそうは居ないだろうしなぁ……じゃあ次の神はウチの人間から出るのか?」

 

 話題はどうやら、エクリシアの次代の神についてらしい。

 (マザー)トリガーに捧げられ、星の動力源となった神。彼らは数百年もの長きに渡りその任を全うするのだが、決して永久不滅という訳ではない。

 神といえども元は人間。定命の存在なのだ。

 

 国家の存亡に係わる問題であるため、神の情報は一握りの指導層しか知りえない最重要機密である。

 それでも人の口に戸は立てられないもので、どうやらエクリシアの神の寿命が近いらしいことは、既に周知の噂となっていた。

 

「それについては貴族さま連中、いろいろ企んでるみたいだぜ。なんせ神を出せば向こう百年デカい顔できるってもんだ」

「上の事情なんて俺たちに関係あるかぁ? 貴族の面より国がデカくなるかどうかだろ」

「違いねえ。いい加減人が多くてうんざりだ。貧民窟なんて通りがかったらガキばっかだぜ。あいつら犬猫みたいに子供作ってんじゃねえだろうな」

 

 酔客たちの口さがない議論が続いている。

 

 神の代替わりは国家の命運を左右する問題だけに、一般市民の関心も非常に高い。今やどこに行ってもこの話題で持ちきりだ。

 神の交代は国家滅亡につながる危機だが、逆に国家が飛躍する好機でもある。

 先代を上回る能力を持つ神を見つけることができれば、星は一挙に豊かになる。経済や食糧事情など、逼塞したエクリシアの諸問題を解決することもできるだろう。

 

 そして、神の代替わりについて市民以上に熱心に取り組んでいるのが、貴族階級の者たちである。

 エクリシアの貴族たちは教会から領地と施政権を与えられており、立場上は教会に従属する存在である。

 

 しかも、次代の神を輩出した家の当主はその功績により、次の教皇の座を約束される。

 教会に君臨するということは、すなわちエクリシアの頂点に立つということである。

 その声望と権力は、如何な大貴族といえども及びもつかない。

 神の代替わりは貴族の権力闘争の一面を孕んでいるのだ。

 

(先代様はそれで亡くなったっけ……)

 

 以前にフィリアが屋敷で働いていた大貴族、ゼーン家にもその影響はあった。

 国家の指導層である大貴族にとって、優秀な神を見つけることはもはや責務といってもいい。

 ゼーン家の前当主は穏健な人物だったが、神を選出し教皇の座に就くことは一族郎党の悲願である。周囲に突き上げられるようにして国外へ出兵し、そしてあえなく討ち死にしてしまったのだ。

 

 数多の思惑と欲望が錯綜する政治の世界。

 けれど、フィリアにとってはどうでもいい話題の一つに過ぎなかった。

 

 確かに国家の一大事であり、影響は貧民の立場にも及ぶ。しかし、彼女にそれをどうこうすることはできないし、論じたからといって腹が膨れる訳でもない。

 神の候補についての噂話を統合すれば、国土の拡張は難しいまでも現状維持程度なら候補は揃っているらしい。それなら貧民の生活にもすぐ影響が出るようなことはなく、後は貴族様方の問題である。それこそフィリアには何の関係も無い。

 

(う、まだ居座る気なの……)

 

 少女の目下の懸念は、酒が入って気持ちよく議論を戦わせている酔客たちだ。

 閉店時間を過ぎても一向に帰る素振りを見せない客に「早く帰れ」とひたすら念を送る。

 

 ここの仕事は払いがいいものの拘束時間が長い。

 弟妹たちは積極的に家事をしてくれるものの、まだ子供である。ヌースが様子を見てくれてはいるが、母の介添えもフィリア以外では心もとない。

 

(帰れ。早く帰れ……)

 

 サイドエフェクトで穏当に帰らせる方法を探るが、答えが出ない。常連客で女将の覚えがいいのが致命的だ。

 結局、随分と夜も更けたところでようやく店じまいとなった。

 

 眠たそうな女将の機嫌を損ねないように給金を受け取り、夜道を足早に帰る。

 貧民窟の入り口に差し掛かったところで、フィリアはようやく異変に気付いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

(なに……静かすぎる……)

 

 旧市街に立ち入ってから、辺りに人の気配がない。

 

 もともと貧民窟は活気とは程遠い場所ではあるものの、今夜はまるで住人全てが死に絶えてしまったかのように静まり返っている。

 フィリアはこの街に暮らして十年近くになるが、こんなことは初めてだ。

 

 住人が居なくなった訳ではなかろう。誰もが息を殺して引きこもっているのだ。

 そしてサイドエフェクトに頼るまでもなく、静寂をもたらした原因はすぐに見つかった。

 

 通りに豪奢な車が留まっている。荒れ果てた街並みに似つかわしくないそれは明らかに貴族の所有物であり、牽引しているのは白い甲殻に覆われた馬のような存在である。

 威力偵察・輸送用トリオン兵「ボース」

 戦場ではその速力を生かし、主に物資の輸送や機動戦に用いられるトリオン兵である。しかし、純然たる戦闘兵器のトリオン兵が、何故貧民窟にいるのか。

 

 そして車の周りに立つ人々。

 揃いの礼式兵装を纏い、トリオン小銃「鉛の獣(ヒメラ)」を掲げる彼らの姿は見紛いようもない。エクリシアを守護する騎士たちである。

 

「な……」

 

 フィリアは言葉を失い、その場に立ち尽くした。

 狼狽も無理からぬことだった。彼らの正体には覚えがありすぎる。

 外套に縫いこまれた紋章を見れば明らかだ。母の生家、イリニ家の騎士が我が家の前を占拠しているのだ。

 

「――――っ」

 

 衝撃のあまり、少女はしばらく正体を失っていた。けれど、彼女は気を強く持ち直して男たちの前へと歩みを進める。

 サイドエフェクトは彼らから直接的な被害を受けることは無いと示している。

 

 それになにより、あそこは彼女の家なのだ。

 なぜ自宅に帰るのに、誰かの顔色を構う必要があるのだろうか。

 フィリアは半ば自棄になったようにズンズンと歩く。そうでもしなければ恐怖から逃げ出してしまいそうだった。

 

「おい、そこの子供。こっちに来るんじゃ――」

 

 お互いの顔がはっきりと視認できるところまで近付くと、騎士の一人が威圧するように声を上げる。

 だが彼は途中で言葉を切り、慌てたようにフィリアの家へと入っていく。

 

 数秒の後、兵士は我が家から一人の男を連れて出てきた。

 年は二十の中ほどで、スラリと背が高く端正な顔立ちをした金髪の青年であった。

 青年は嫌になるほど優美な仕草でフィリアの前まで歩みくると、仰々しく片膝をついて少女に視線を合わせる。そして、

 

「私はイリニ騎士団第二兵団隊長、テロス・グライペインと申します。――レディ、宜しければあなたの名前をお聞かせ願えませんか?」

 

 と、涼やかな声でそう尋ねた。

 グライペイン家といえば、イリニ家の直属の臣下となる有力貴族である。

 まかり間違っても、貧民窟に足を踏み入れる立場の人物ではない。

 

「……私はそこな家に住まう者で、パイデイアが娘フィリアと申します」

 

 フィリアはともかく、サイドエフェクトが導き出した最適解に従い、母に教わった貴人に対する作法でもって返答した。すると、

 

「おおやはり! 我々はあなたのお帰りを心待ちにしていたのですよ」

 

 テロスと名乗った男性はにこやかに笑みを浮かべ、恭しくフィリアの小さな手を取る。そして少女をエスコートするように歩き出した。

「あなた方に待ってもらう謂れなどない」そう口を突いて出そうになった罵声を寸でのところで飲み込み、フィリアは無表情で後に続く。

 今は何より、状況の把握を優先すべきであった。

 

「さあどうぞ。母御殿がお待ちですよ」

 

 テロスに連れられ、フィリアは我が家の玄関先に立たされる。青年は優麗な微笑を崩さぬまま、少女の手で木戸を開けるよう促した。

 

「…………」

 

 フィリアをいつも温かく包んでくれる家族。少女が生きる唯一の意味。

 

 我が家の扉は大聖堂の門よりも遥かに尊い、天国の扉だ。

 しかし、彼女は生まれて初めてその扉に手をかけるのを躊躇っていた。

 サイドエフェクトが警鐘を鳴らす。この扉の向こうには、彼女にとって最も望ましくない事態が起きていると。

 

「どうしたのです? さあ……」

 

 テロスがむずかる子供をあやすような声で囁く。

 フィリアはさながら自死を求められた罪人のような心地だった。

 この扉を開ければ少女は絶望に押しつぶされることになる。けれど彼女には、背後を囲む騎士たちの圧力を退けることなどできない。

 

「……いま、帰りました」

 

 絞り出した声は途切れ途切れで、か細く震えていた。

 だがそんな声でも、最愛の家族が聞き漏らすことは無かった。

 ガタガタと音を立て、木戸が勢いよく開く。

 そして少女は、母の腕に抱きしめられた。

 

「ああフィリア! お帰りなさい……」

 

 病み衰えた姿ではなく、パイデイアは過日の美しい姿を取り戻していた。

 痩せ衰えた肢体は健康的なふくよかさを取戻し、立ち上がることさえ苦痛を伴っていたにも関わらず、歩みには少しの淀みもない。

 長らく艶を無くしていた髪は黄金のように輝き、翡翠色に輝く瞳は、涙できらめきながらも揺らぐことなく娘を見詰めている。

 

 その瞬間に、フィリアは全ての状況を理解した。

 

 今まさに、少女の世界は滅びようとしているのだと。

 

 



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其の二 微かな希望

 白亜の外壁と数多の尖塔が立ち並ぶ優美で広壮な館。

 前庭は一分の隙も無く整えられており、咲き誇る花々は荘厳な邸宅と見事な調和を見せている。

 

 外縁を取り囲む柵にまで流麗な細工が施してあり、無骨な様子は微塵もない。

 敷地に面した通りには塵一つ落ちてはおらず、人の営みの匂いさえ希薄である。

 

 フィリアたちが暮らしていた猥雑で劣悪な貧民窟とは何もかもが異なる、まさに天上世界とでも例えるべき景観であった。

 教会を頂く丘の麓には、エクリシアを統治する貴族の別邸が立ち並んでいる。

 

 今、フィリアたちを乗せた車が向かっているのは、その貴族の中でも筆頭格の名門、イリニ家の邸宅である。

 母パイデイアの生家であり、彼女を捨てた者たちの家だ。

 イリニ家の擁する騎士たちが来訪したその翌日。フィリアたち家族はイリニ家の邸宅へと招かれることになった。

 

 そうして、家族を乗せた車は護衛の騎士たちに囲まれながら、遠く貧民窟を離れ、荘厳華麗なイリニ家の正門を潜ろうとしている。

 

「ねえ、フィリア。怖がらなくても大丈夫よ。もうあなたたちに辛い思いはさせないわ」

 

 晴れやかな微笑を浮かべ、パイデイアは対面に座る娘へと声を掛ける。

 

「………………はい、母さん」

 

 だが、対するフィリアは沈鬱な面持ちで、絞り出したような声で短く応じる。

 なぜ病み衰えた母が健康を取り戻したのか。なぜ母の存在を抹消したイリニ家が、突如として彼女たちを迎えに来たのか。

 フィリアのサイドエフェクトは、既に望まぬ答えを導き出していた。

 

「おかーさん、もうびょうきよくなったの? また苦しくなったりしない?」

 

 末の弟、イダニコが心配そうに母へとそう尋ねた。

 年少の弟妹達は、まだ事態を正しく飲み込めていないらしい。ただ、母が元気になり、かつての明るい笑顔を取り戻したことだけを純粋に喜んでいる。

 

「ありがとうイダニコ。もう大丈夫よ、母さんこれからどんどん元気になるからね」

 

 そういって、パイデイアはイダニコを膝の上へと抱き寄せる。

 

「今まで苦労をかけて、ごめんね……」

 

 母は優しい手つきでイダニコの柔らかな金髪を撫でる。

 それを見た上の弟サロス、妹のアネシスはそわそわと落ち着きがない様子だ。

 病状が重かった頃は、こうして母に甘えることもできなかった。

 

「うふふ。サロスもアネシスも、こっちへいらっしゃい」

「お、オレはいいよ。別にそんなガキじゃねえし……」

「お母さん寂しいなぁ」

「うぐぐ……」

「もう。お母さんのおねがいよ、聞かなくてどうするの」

 

 生意気盛りの弟が困惑していると、横から妹が助け舟を出した。そうして二人は母の両隣へと席を移す。

 こうして、パイデイアの向かいに座っているのはフィリアだけになった。

 

「フィリア……」

「…………」

 

 健康な体を取り戻した母を、フィリアは直視することができない。俯く少女に家族は戸惑うばかりだ。

 パイデイアに健康が戻った理由、それは都合の良い奇跡が起きたからではない。

 

 彼女は今「トリオン体」と呼ばれる仮想の体で娘たちと触れ合っている。

 生体エネルギーであるトリオンを、「トリガー」と呼ばれる機器で表出し、形作った仮初の姿をトリオン体と呼ぶ。起動者のイメージに合わせて成型されたトリオン体は、当然ながら病や怪我とは縁がない。過日の姿を取り戻すことも何ら難しくはないのだ。

 

 そうして換装された生身の肉体は、トリガーの内部へと格納されている。つまり、パイデイアの病が実際に癒えたわけではない。

 それでも母が自由に動かせる体を得たことに変わりはなく、娘としては喜ぶべきなのだろう。しかし、フィリアの憂鬱は一向に晴れなかった。

 

 そうこう煩悶しているうちに、車が止まる。

 扉が開けられ、護衛の任についていたテロス・グライペインが声を上げた。

 

「お疲れ様でした。パイデイア様、お嬢様方」

 

 騎士は礼を尽くして、母と子供たちを車外へとエスコートする。

 

 害虫同前の扱いを受けてきた貧民窟の一家が、国を代表する貴族に賓客として遇されている。

 吐き気がする。怖気が走る。フィリアは背筋に走る悪寒を止めることができない。

 

 外れることのない直感が、事態の真相を雄弁に突き付けている。

 この残酷な世界では、弱者は何も得ることができない。

 

 ならば、彼女たちへの厚遇は如何なる理由によるものなのか。

 当然、代価を支払ったのだ。母は彼らと取引を交わした。

 

 パイデイアは買い付けたのだ。子供の幸せな未来を、自分の命を手形にして。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 館へ足を踏み入れてすぐに、フィリアら親子は引き離された。何はさておき、パイデイアはイリニ家当主に謁見するよう求められていたからだ。

 ヌースも母に付き添って当主との会談に臨む。どうやらイリニ家はこの自律トリオン兵の存在を知っていた様子であり、供応役のグライペインはヌースを見ても過度な驚きを見せなかった。

 残された子供たちは使用人に案内され、迎賓室へと通される。

 

「どうぞ、お楽になさってください」

 

 使用人の女に恭しくそう勧められるが、フィリアも含めた姉弟たちは置物のように立ち尽くしてしまう。

 柔らかそうなソファに細緻な柄のカーペット。部屋中の調度品はどれも豪奢な細工が施されていて、貧民窟で暮らしていた少女たちでも一目で超のつく高級品だと分かる。

 

「……えっと、あのぅ」

「座らせていただきましょう」

 

 母とヌースが不在の今は、長女のフィリアが弟妹たちに範を示さねばならない。困惑する弟たちを尻目に、少女は泰然と、さも勝手知ったる風情でソファに腰を据えた。

 座面は身体が沈み込むほど柔らかく、生まれて初めて経験する極上の感触である。

 

 だが、弟妹たちは緊張から、フィリアは不快の念からその座り心地を素直に堪能することができない。

 子供たちが着座すると、部屋には菓子と飲み物を乗せたワゴンが入ってきた。

 配膳されるそのどれもが、見たこともないような逸品ばかりである。

 

「ご遠慮なさらずに、さあお召し上がりください」

 

 手を付けていいのか困惑する弟たちに、使用人が優しく語りかけた。

 弟妹たちの反応は鈍く、硬く緊張したままである。

 幼いなりに、彼らもこの厚遇に裏を感じているのだろう。そして使用人たちの恭しい態度に、ある種の侮蔑の感情が隠れていることにも薄々気付いているのだろう。

 

 そう、周囲を囲む使用人たちの殆どが、少年たちを蔑んでいる。

 市民にとって貧民の子供は無能で卑しく汚らわしい、国家の鼻つまみ者でしかない。

 特に敵国ノマスの血を引くフィリアには、嫌悪を超えた敵意に近しい感情さえ見え隠れしている有様だ。

 

「いただきましょうか。母さんがお戻りになるまで、お行儀よくね」

 

 母から引き離されて不安が募りだした弟たちに、フィリアは務めて優しく語りかけた。

 これらの歓待に、罠などありはしない。母パイデイアがイリニ家の人間と結んだ契約の履行に過ぎないからだ。

 

「みんな、お食事の前には?」

 

 フィリアが促すと、弟たちは謹厳な面持ちで祈りの言葉を口にした。

 礼儀作法の行き届いた子供たちに、使用人らが感心した様子を見せる。

 母の薫陶の賜だと、フィリアも少しは鼻を明かしてやった気になる。

 

 貧民の子供相手に阿らなければならない使用人の心中も察せられるが、それでも頭から蔑まれるのは癪に触る。

 何より弟妹たちの今後を考えれば、貧民窟の子供という印象はなるたけ早く払しょくせねばならないだろう。

 彼らは今後、このイリニ家で暮らすことになるのだ。

 

「――っ! おいしい!」

 

 居心地が悪そうにしていた弟たちも、ひとたび菓子を口にすればたちまち笑顔を見せる。

 彼らのはしゃぎ声に、フィリアも少しだけ心が軽くなるのを感じた。

 

 その後、食事を済ませた子供たちは豪奢な浴場へと案内された。

 使用人が付いての入浴を済ませると、今度は髪やら何やらを整えられ、用意されていた新しい服へと着替えさせられる。

 そうしてまた応接間に戻ると、そこには当主との会談を終えたパイデイアとヌースがいた。

 

「おかーさん!」

 

 イダニコたちが母の周りへと駆け寄る。

 貴族の装いに身を包んだパイデイアは、大粒の宝石のように玲瓏な美貌を湛えていた。

 フィリアはその姿に現実を弥が上にも突き付けられ、一人唇をかむ。

 パイデイアは一頻り子供たちの相手をすると、彼らに向き直った。

 

「みんな、大事なお話があるから聞いてくれる?」

 

 いつもと変わらぬ優しげな声で、しかしどこか粛然とした調子でそう告げる。

 母の真剣な様子に、弟妹たちは背筋を伸ばして応じる。

 フィリアだけが、先を聴くことを拒むように俯いていた。

 

「これからみんなは、このイリニ家の子供になります」

「――えっと、え?」

「今日からみんな、このお家に住むのよ。しばらくは慣れなくて大変だろうけど……」

 

 案の定、母から告げられたのはイリニ家への養子入りの話である。

 トリオン能力に優れた訳でもない最下層の市民が、一躍エクリシアの三大貴族の末席に迎え入れられたのだ。

 幸運どころの話ではない。血統に固執し、それに由来する能力主義に凝り固まったエクリシアでは、前代未聞の出来事といっていい。

 だが、状況を飲み込めていない弟たちは一向に歓喜の色を見せない。それどころかサロスは、

 

「えっと、それって……オレたち、母さんの子供じゃなくなるの?」

 

 あの元気で生意気な弟が、不安を隠しもしないでそう訴えた。

 パイデイアは翡翠色の目を見開き、息を呑んだ。そして、

 

「そんなことないわ。あなたたちは私の可愛い子供たちだもの。ずっと、ずーっと、私はみんなのお母さんよ」

 

 と、子供たちの頭を撫でながら答えた。

 その声が微かに震えていたことに気付いたのは、フィリアのみであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 今日の所は家族一緒に寝られるようにと、フィリアたちは豪勢な客間を与えられた。

 天蓋付きの巨大なベッドに興奮していた弟たちだが、高級布団の手触りと日中の気疲れから宵の口には眠ってしまう。

 パイデイアはベッドに腰掛け、すやすやと寝息を立てる子供たちを慈しむように眺めている。

 そんな光景を、フィリアは一人ベッドから離れて見ていた。

 

「お父様が、フィリアにはおじい様ね。しばらく前にお隠れになられたの」

 

 子供たちに布団を掛け直しながら、パイデイアが静かに語り始めた。

 

「……はい」

「今のイリニ家のご当主はアルモニア様。私のお兄さんで、あなたたちには伯父様にあたる人。母さん、おじい様とは仲良くできなくて、みんなには大変な暮らしをさせてしまったわ」

「私はそんなこと……一度も思ったこと、ないです」

「ありがとうフィリア。でも、もう大丈夫なのよ。イリニ家の人たちは私たちを迎え入れてくれたから。……もうあなたが痛い思いをすることも、酷い目に遭う事もないのよ」

 

 心と身体を強張らせ、一向に警戒を解かないフィリアを諭すように、パイデイアは言葉を続ける。

 これからあなたたちには貴族の子女としての新たな日々が始まると。大変なこともあるだろう、辛いこともあるだろう。それでも、虐げられることはもう二度とないのだと。

 

 だが、少女は知っていた。そう遠くない未来、彼女は殴られるよりも罵られるよりも辛い現実に直面するということを。

 

 パイデイアの話に偽りはない。ただ彼女はイリニ家と交わした取引を伏せている。

 大貴族イリニ家が絶縁した女と貧民の子供たちを受け入れた理由。それは単なる温情からだけではない。

 パイデイアは来たるべき「神」の選定の日に、(マザー)トリガーに捧げられる人柱となったのだ。

 

 それが、子供の未来と引き換えに母が支払う対価。

 フィリアのサイドエフェクトが、揺るぎない事実としてそう告げていた。

 

 元々、パイデイアはエクリシアでも指折りの名門イリニ家の令嬢である。その血筋の確かさは言うまでも無く、彼女の比類なきトリオン量は家族もよく知る所であった。

 そんな彼女を勘当し、ついぞ復縁も許さなかったのだから、パイデイアと先代当主との確執は相当な物であったことが窺える。エクリシアの国情を鑑みれば、優秀なトリオン能力者はどの貴族も喉から手が出るほど欲しいはずだ。

 

 やっかいな先代が死に、ようやくパイデイアの囲い込みができた。というところだろう。

 そんな契約を交わした彼女であるから、最早普通の生活は望めない。

 パイデイアはこれから病気療養の名目で、イリニ家の所領へと移されることになっている。

 もちろん療養と治療は行われる。神の代替わりまで身体が持たなければ意味がない。

 

 それより大きな理由は、加齢によって衰えていくトリオン機関を最盛期に近づけるための、いわばリハビリとしての訓練を施すためだ。

 (マザー)トリガーに相応しき生贄として、パイデイアはこれからの生涯、自らを肥え太らせることだけに費やさねばならない。

 また、彼女を領地に囲うのは、他貴族からの要らぬ干渉を防ぐためである。

 有力貴族たちは血眼になって候補者を探しているはずだ。教皇権という絶大な力を巡り、毒蛇たちが策謀を張り巡らせている。パイデイアの身に、いつ不幸な事故が起きないとも限らない。

 

 そしてそうした諸々の配慮を行う以上、パイデイアがイリニ家の擁する候補者の中でも最有力の位置にあるのは間違いない。

 このまま他の貴族が有力な候補を立てられなければ――そう遠くない未来、フィリアは母と永遠の別れを迎えることになる。

 

「……フィリア?」

「少し、夜風に当たってきます。今日はいろいろありすぎて、混乱してしまって」

 

 声をかけても返事をしない娘を心配したのだろう。パイデイアはベッドから降りようとする。

 けれどフィリアは笑みを浮かべて母に断りをいれると、足早に客間を出た。

 

「私もついていきます」

「いいの、ヌース。……一人に、させて」

 

 様子のおかしい少女を案じたヌースが付き添おうとするが、フィリアは硬い声でそれを拒んだ。

 

 本心を言えば、彼女は声を上げて泣き出してしまいたかった。

 家族さえいればそれでいいと、今からでも私たちの家へ帰ろうと、母に縋り付いて訴えたかった。

 しかし、フィリアはパイデイアの思いを拒めない。

 母の選択は娘たちの幸せを心から願った結果である。彼女の尊い願いが理解できるからこそ、少女は身を裂かれるような思いを味わっている。

 

 ともあれ、少女は当てもなくただ漠然と歩みを進めた。昂ぶった感情を鎮め、建設的な思考を取り戻さねばならない。

 分厚いカーペットを踏みしめ、フィリアはイリニ家の廊下を歩く。

 邸宅のそこかしこには明かりがついており、まだ多くの使用人たちが働いていた。

 屋敷内とはいえ、夜間に一人で出歩いているのを見とがめられると面倒である。

 

 なるべく人目に付かない場所を探して屋敷をさ迷っていると、窓から夜風にさざめく中庭の風景が見えた。

 切り取られた夜空には巨大な星々が煌めいている。その何れもが近界(ネイバーフッド)に数多ある星の国の姿だ。

 エクリシアの人々は夜空に輝く星々を見て心を震わせることは無い。他国とは極論してしまえば殺し奪い合う間柄に過ぎない。平和を乱す敵国の姿を目にして心が和む訳もない。

 

 フィリアも多分に漏れず、この星空を嫌悪していた。この世界は修羅が争う箱庭である。そして唯一の例外である理想郷玄界(ミデン)は、残念ながらエクリシアから遠く離れており、幾ら夜空をくまなく探しても見つけることはできない。

 

「――っ?」

 

 ふとその時、フィリアの脳裏に誰かの声が浮かんだ。

 明るく若々しい、華やぐような女の声。だが、発言者には心当たりがない。

 ただ、何時か誰かが、この夜空を美しいといった記憶がある。

 星々の輝きは数多の人の思いの証であると、それらが夜空に満ち満ちている世界は、きっと美しいに違いないのだと。

 

「ん……」

 

 正体の掴めない過去の記憶に、フィリアは額を抑えてよろめいた。

 眩暈のような軽い眠気。サイドエフェクトの暴走、或いは誤作動である。

 

 そもそもサイドエフェクトは意識的に制御できる能力ではないが、未成熟な少女は甚だその傾向が強い。

 

 本人が意識しない事象にまで「直観智」が働こうとするため、脳内が情報で溢れかえってしまうのだ。脳が酷使された結果、頭痛や酷い眠気を引き起こすこともしばしばである。思考を制限し、務めて考えないようにすることである程度は防げるが、ふと思い立った疑問などには際限なく動いてしまう。

 

 そもそも、あらゆる事象に答えを導く「直観智」のサイドエフェクトでも、遠い記憶の微かな断片だけでは解が出ないのだから、考えるだけ無駄な話である。

 これ以上脳に負担を掛けるのもよろしくないと、フィリアは過去への想念をすっぱりと断ち切った。

 

 そうして改めて窓から覗くと、星明りに照らされた中庭は様々な植物が夜風に揺られ、得も言われぬ風情が漂っていた。

 その光景に興味を惹かれたフィリアは、誘われるように中庭へ降り立った。

 

 そうしてしばらく庭園を眺めていると、少女は奇妙なことに気付く。

 屋敷の前庭と比べ、造景があまりに異なっているのだ。

 もちろん、フィリアには造園のことなど何一つ分からないが、それでも一分の乱れも無く整えられた前庭と、いっそ野放図なほど雑多に植物が生い茂っている中庭の違いは明らかだ。

 

 この中庭は、さながら小さな森であった。

 幾本も植えられた多様な木々。下草は豊かに茂り、そこかしこで花が咲いている。しかし雑然とした印象はまったく抱かせず、むしろ見事な調和を感じさせる。

 庭園には木々の合間を縫うように小道が敷かれており、回遊しながら景色を鑑賞することができる。

 なにやら奇妙で面白かったのは、畑打ちをしたような一角があったことだ。

 

 いや、実際に畑なのだろう。並んだ畝には芋やら根菜やらが植わっているのだから。

 

「――ふふっ」

 

 自然とフィリアが笑みをこぼす。鬱屈としていた気分が解けていくようだ。

 イリニ家に来て以降、気を張り続けてきた少女が初めて穏やかな表情を浮かべる。

 

 この屋敷にこのように素敵な場所があったとは、思いもしなかった。

 しばらく道なりに進んでいると、芝生敷きの広場に出た。

 東屋の椅子に腰かけ、フィリアは心穏やかに景色を眺める。

 夜風に乗って、花と緑の香が届いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 それからどれほどの時間が経ったか。

 思いのほか冷える夜気に、フィリアはくしゃみをして目が覚めた。

 迂闊にも転寝をしてしまったらしい。

 慌てて辺りを見回すが、時刻が分かりそうなものはなにもない。

 

「……しまった」

 

 少女は小声で悪態をついて、すぐに客間に戻るべく立ち上がった。間違いなくパイデイアは心配しているだろう。いや、すでに娘を探して出歩いているかもしれない。まだ病が治ったわけでもないのに。

 焦りのままに走り出そうとしたその時、彼女は向こうから歩みくる人影を見た。

 

「――――!」

 

 驚きはどちらのものだっただろうか。

 

 フィリアとその男性はお互いを見つめあったまま立ち尽くしていた。

 歳の頃は三十の半ばほど。長身で隆々とした体躯に洗練された衣服を身に着け、撫でつけた髪は麦穂のような金髪。理性と品格で磨かれた威厳ある容貌を、翡翠のような瞳が彩っている。

 少女は一目で理解した。彼こそ母パイデイアの実兄、イリニ家現当主アルモニアその人であると。

 

「君は……そうか、パイデイアの娘か」

「初めて御意を得ます。本日より当家に御厄介になる、フィリアと申します」

 

 男の粛然とした声に対し、フィリアは貴人への作法でもって挨拶し、深々と頭を下げた。

 今ひと時だけは、顔を見られては不味い。少女は地面を睨み付け、沸き上がる情動に必死に抗う。

 

 この男が、母を殺そうとする者だ。

 大病を得て困窮の底にあった妹を見捨て、今になって富貴栄華のためにその命を利用しようと手を差し伸べた男。

 怒りと憎しみでフィリアの頭蓋がはち切れそうになる。

 

 しかし、今この男の機嫌を損ねるのは不味い。少女は伏したままの姿で、必死に凶相を抑え込んだ。 

 

「私はアルモニア・イリニ。君の母パイデイアの兄だ」

「それは……ご当主様とは知らず、御無礼を」

「いや、いい。……顔を上げなさい」

「はい。ありがとうございます」

 

 少しの時間を稼いだフィリアは何とか自然な表情を取り繕い、改めて当主アルモニアの顔を見る。

 

(――――っ)

 

 沸き立っていた怒りが急速に冷め、そして困惑に置き換わっていく。

 

「君はもうイリニ家の者だ。そう構えることもない」

 

 落ち着いた声でそう告げるアルモニア。

 

 しかしフィリアのサイドエフェクトは、その怜悧で峻厳な容貌の裏に、濁流のような感情が渦巻いているのを感じ取った。

 喜びか、悲しみか、戸惑いか、怒りか。

 

 だがその強い感情の中に、嫌悪や侮蔑は欠片たりともない。

 敵国の血が流れる貧民の娘に、屋敷の殆どの人間が不快を感じていたというのに。

 それに何より少女を混乱させたのは、この男はきっと、フィリアの事を心の底から案じているのだろうと感じたことだ。

 

(――――なんでっ)

 

 胸中の困惑が、思わず口を突いて出そうになる。

 なぜ、そんな顔で私を見るのか。

 なぜ、そんなに私を気に掛けているのか。

 なぜ、そんなに思っているなら母を助けてくれなかったのか。

 

 揺れ動く感情を御すことができない。フィリアは癇癪を起した子供のように、今にも泣き叫びそうな顔をしていた。

 だが、そんな少女の悲憤にアルモニアが気付くことは無かった。

 彼はフィリアから視線を逸らして背を向けると、

 

「とはいえ、こんな時間に出歩くのは感心せんな。パイデイアも心配しているだろう」

 

 と、厳格ながらもどこか洒脱めいた調子でそう告げる。

 

「……すみません。お庭を眺めているうちに、寝入ってしまいました」

 

 フィリアの弁解に肩越しの一瞥を寄越すと、アルモニアはすぐにまた庭木へと視線を転じる。

 何か、接する距離を掴みかねているような気配である。

 

「まだ夜も冷える。風邪をひかぬうちに部屋に戻りなさい」

 

 だが、アルモニアはそれきり話の穂を継ぐこともなく、フィリアに就寝を申し付けた。

 

「はい。お心遣いありがとうございます」

 

 元よりそのつもりだった少女は、当主に礼を述べると急ぎ足で森の歩道へと向かう。すると、

 

「待ちなさい。少し……いいだろうか」

 

 アルモニアは幾分戸惑ったような声でフィリアを呼び止めた。

 

「――は、はい」

 

 振り返った少女は従容として男の言葉を待つ。

 

「この庭を、どう思う。……いや、君の感じたままに教えてほしい」

 

 質問の意図が読めず、フィリアはどう答えたものかと言葉に詰まった。しかしそれも一瞬の事、生気に満ちた中庭に思いを馳せると、少女の口からは思うがままの感想が滔々と溢れだした。

 

「とても、とても素敵な場所だと思います。いろんな草木がめいっぱいに枝や葉を伸ばして――でも少しも争うようなことがなくて。豊かで、温かくて、優しくて。……今日お館に来たばかりですけど、きっと一番好きな場所です」

「……そうか」

 

 少女の返答を聞くと、アルモニアは瞑目して小さく首肯する。

 

「呼び止めてすまなかった。ここでの生活には戸惑うこともあるだろうが、ゆっくりと馴染んでいけばいい」

 

 当主の声はどこまでも穏やかで、まさしく不憫な姪を気遣う伯父そのものであった。

 そのアルモニアの姿を見て、フィリアの脳裏に一筋の光明が浮かぶ。

 か細く不確かな、しかし家族を救いうる可能性を秘めた道。

 

「あの、厚かましくもお願いがあるのですが……」

「なんだろうか」

「このお庭に、また来てもいいですか」

「もちろんだ。ここは君の家だ、なにも気にすることはない。ただ、あまりパイデイアを心配させないように」

「ありがとうございます。母さんにもちゃんと謝ります」

 

 フィリアはぎこちないながらも笑顔を作り、アルモニアに礼を述べた。

 まずは彼と縁を繋ぐこと。それを梃子にして、事態に介入できる隙間を作る。

 

「あの……ご当主様。お先に休ませていただきます」

「ああ、ゆっくり休みなさい」

 

 就寝の挨拶を交わして、少女は帰途に就く。

 取るべき道筋ははっきりと見えた。しかしそれを実現させるには、並々ならぬ努力と幸運が必要だろう。

 けれど絶対に諦めない。決意の炎が轟然とフィリアの胸を焦がす。

 足に力を込めるあまり、少女は自然と走り出していた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その翌日から、フィリアたち家族の新しい生活が始まった。

 

 パイデイアは約定通り、聖都から遠く離れたイリニ家の所領へと移ることになった。

 次代の神の座を揺るぎない物とするため、彼女はこれからひたすらトリオン機関を酷使し、同時に病魔をその身体から追い出さねばならない。

 必然として、彼女の送る生活は徹底的に管理されたものとなる。子供たちとの面会は、一月に一度しか許されない。

 僅か一日の事とはいえ、それは過酷な運命を課せられた妹に報いるため、アルモニアが示したせめてもの温情であった。

 

 だが、幼い子供たちにそれを理解するのは酷というものである。

 

「やだっ! 絶対嫌だ! オレだって母さんといっしょに行くっ」

 

 恥も外聞もなく喚きたて、パイデイアの腰元に縋り付くサロス。

 同じくアネシスとイダニコも涙ながらに母のドレスにしがみついている。

 只一人、長女のフィリアだけが穏やかな表情でそんな弟たちを慰めていた。

 

「大丈夫。母さんとはすぐにまた会えるから」

 

 初日の張りつめた空気が嘘のように、フィリアはイリニ家の環境に順応しつつあった。

 無論ノマスの出自という宿業ゆえに、使用人からは未だに忌避されていたが、当の少女はそんなことは露ほども気にしていない様子である。

 

 フィリアたち姉弟は復縁したパイデイアの子供として、正式にイリニ家の一員となった。だが、フィリアは使用人たちを威圧するような真似は見せず、大貴族に拾われた幸福な貧民として、あくまで分を弁えたように振る舞っている。

 イリニ家での立場は弟たちと共に自力で勝ち取らねばならない。それこそが今の少女に科せられた戦いなのだ。

 

「そうよ。お母さんはこれから空気の綺麗なところに行って病気を治すの。そうすればもっとみんなと一緒にいられるわ」

 

 母の優しい嘘に、怒るでもなく悲しむでもなくフィリアは笑顔で応じた。

 心を曇らせる必要はない。なぜならパイデイアの言葉は嘘にはならないからだ。

 母と家族は、永劫離れることはない。フィリアが必ず繋ぎとめる。

 

「みんなのこと、頼むわね」

「お任せ下さい。パイデイア」

 

 抑揚の無い声でそう答えるのはヌースである。

 

 自律トリオン兵という特級の軍事機密である彼女はしかし、フィリアたちのお目付け役としてイリニ家への滞在を認められた。

 トリオン技術の開発を一手に引き受ける教会に知られれば、叱責を免れない背信行為である。軍事技術の独占など、エクリシアの全ての勢力を敵に回す行為に等しい。

 エクリシアの国力向上のためには、未知の技術の塊であるヌースはすぐさまリバースエンジニアリングを行い、製造過程を暴かねばならない。

 それを良しとせず、イリニ家の邸内に留め置くのは、偏に当主アルモニアの判断である。

 

 そうまでして一トリオン兵を庇う理由だが、どうやら当主とヌースは古くから面識があったためらしい。

 パイデイアの放逐時には既にヌースは誕生していたのだから、面識があるのも当然といえるが、子細な関係まではフィリアも知らされていない。

 どうやら話すつもりもないらしく、ヌースは過去について口にすることもない。

 

「サロス、アネシス、イダニコ。パイデイアが困っています」

 

 忠節なる家人にそう諭されても、子供たちはいやいやと頭を振るばかり。

 結局、少年たちが別離を受け入れるまでは長い時間がかかった。それでもパイデイアの言葉を尽くした説得を受けた彼らは、別れの時には笑顔を取り繕う程の気概を見せた。

 

 そうしてパイデイアは聖都を去り、残されたフィリア達には貴族の子弟としての暮らしが始まった。

 まず起こった変化は、少女たちに科せられた日々の勤めが労働ではなく、勉強へと変わったことだ。

 語学、数学、歴史にトリオン工学。また社会制度や貴族としての礼儀作法、はては武芸にいたるまで、授業はあらゆる分野に及ぶ。

 

 イリニ家の一員として相応しい教養を身に着けるため、専属の家庭教師たちが朝から晩まで付きっ切りで教鞭をとるのだ。

 エクリシアでは市民階級の子供たちは教会の運営する学校へと通うのだが、貴族の子弟はその限りではない。幼少期から実家で教育を施され、貴族として相応しい振る舞いと知識を徹底的に叩き込まれるのだ。

 

 その後の進路は個人の資質によって異なる。トリオン能力に秀でた者たちは騎士団へと入って国防を担い、利発な者は教会の指導部へと招かれ政争に参加する。特に秀でたところのない者であっても所領の運営という仕事が待っている。

 どちらにせよ、これは少女たちが正式にイリニ家の一門として扱われていることを意味する。

 

 養子相手に大層な力の入れようだが、フィリア達に高度な教育を受けさせるのは当主アルモニアの意向である。

 どういった理由があるのかアルモニアは未だ妻帯しておらず、イリニ家に世継ぎはいない。血の繋がりがないフィリアたちに家督が巡ってくることはまずありえないが、そのことも教育熱に影響しているのではないだろうか。

 

 とはいえ、それでも環境の大きな変化に子供たちは大層戸惑うことになった。

 サロスなどは勉強漬けの毎日にほとほと嫌気がさしており、アネシスは過剰なまでに周りに気を使う。末のイダニコは母を思って泣かない夜はない。

 

 そうした日々がしばらく続いたのだが、思いのほか屋敷の人間は子供たちに優しく、またパイデイアから基礎教育を受けていたこともあり勉強に付いていけなくなることもなく、柔軟な幼子たちは十日も経つ頃には新しい生活に馴染み始めていた。

 

 ――そして、フィリアといえば、

 

「採点をお願いします。先生」

「――え、ええ。そう、もうできたの」

 

 少女はその類まれな知性を以て、連日にわたって教師を瞠目させ続けていた。

 もともと一度見聞きしたことは殆ど忘れず、「直観智」のサイドエフェクトがある。

 初等教育は三日目にして不要と判断され、更なる高等教育が施されることとなった。

 この日の課題は教会に務めるトリオン技術者用の問題集であったが、大人であっても頭を悩ませる難問をフィリアは難なくこなしていく。

 少女は既に神童の評価をほしいままにしていた。

 

「だぁ~~もう! 姉ちゃんオレのも片付けてよ!」

「だめよサロス。自分でしないと意味ないじゃない!」

 

 恨めしそうにぼやくサロスを、アネシスが叱りつける。

 流石に弟妹たちにはそこまでは求められず、年相応の内容を学んでいるが、彼らにも今の所目立った問題はない。むしろ同年代と比べれば熱心に取り組んでいることもあり、優秀な生徒たちといえるだろう。これもパイデイアの教育の賜である。

 

「うん。アネシスは偉いね。イダニコはどうかな?」

「おねえちゃん。見て見て」

「良くできてるね、あと少しだよ。このままだとサロスがビリかな?」

「ちくしょー。やりゃいいんだろ、姉ちゃん」

 

 フィリアは弟たちの席を巡りながら声を掛けた。できれば彼らの勉強を見てやりたいところだが、彼女には成すべきことがある。

 

「では先生。午後の課業まで自由時間を取らせていただきます。ヌース、みんなをお願いね」

「承知しました」

 

 この時間は課題を片付けた者から昼の休憩を取ってもいいことになっている。フィリアは教師に断りを入れると、学習室から退席した。

 そうして彼女が向かった先は、屋敷の厨房である。

 使用人から漏れ訊く話では、今日は行動を起こすに絶好の機会のはずだ。

 

「なんだぁ? また来たのかお嬢様」

 

 伝法な口調でフィリアを迎えたのはこの屋敷の料理長である。脅かすような声音だが、何度か厨房を使わせてもらったこともあり、立ち入りを咎められることはない。

 

 以前から危惧していた使用人たちの態度は、この十日ほどで目に見えて改善されていた。

 当主であるアルモニアが家族同然に扱っていることが大きく、また弟妹たちの素直で愛らしい性格も幸いしたようだ。彼らも人の子、人の親である。貧民の出自とはいえ、可愛い子供に情が移らないはずがない。

 

 しかし、フィリアの場合は少し事情が異なっている。子供としての可愛げに欠け、ノマスの血を引く少女には、まだ抵抗を感じている者も少なくない。

 その点この料理長は、彼女にも分け隔てなく接してくれる数少ない一人であった。

 

「厨房の隅をお借りしてもよろしいでしょうか」

「今日は自分で作るのかい。そんなに俺の料理が食べたくないと見える。悲しいねぇ」

「そんなこと仰らないでください。今日はお天気がいいので外でお昼にしようかと。……また、お料理を教えていただけませんか?」

「朝の内に言っといてくれよ。こっちにも仕込みってもんがあるんだからな」

 

 既に何度か厨房に通い、料理を教わるのは馴染となっている。料理長は疑うことも無く、ローストした鶏肉と生野菜、芳ばしい焼き立てのパンを用意した。

 もともと家事全般をこなしていたフィリアである。昼食はそう時間もかからず出来上がった。味も上々であり、他のコックからも太鼓判を貰う。

 少女は礼を述べ、大きめのバスケットに料理を詰めると上機嫌で厨房を後にした。

 

「――さて」

 

 ここからが、計画の第一歩である。

 

 フィリアはバスケットを手にしたまま屋敷の通用門へと歩く。

 程なく屋敷の裏門が見えてくる。トリオン製の監視装置は常に起動しているものの、今日はこの時間、御用聞きが日用品の搬入を行う予定だ。詰所の人間はその対応の為、一時的に不在となる。その僅かな時間を衝けば、屋敷から出ることができる。

 

 たかが外出になぜここまで回りくどい手段を取らなければならないのか。

 それはフィリアたちがいわばパイデイアに対する人質であるためだ。

 パイデイアが神の贄となることを承諾したのは、偏に子供の幸福を願ったからだ。

 イリニ家に預けた子供たちに万が一のことがあれば、パイデイアがどういった行動に出るか分からない。一度は貴族の立場を捨てたほどの女性である。決して従順なだけの人物ではない。

 

 そうした次第から、フィリアたちの生活には常に監視の目が付いていた。

 使用人は片時も側を離れず、外出などは余程の理由が無ければ許されない。

 しかし、計画を実行するためには屋敷に閉じ込められていてはどうにもならない。

 そのため少女は屋敷を抜け出す機会を窺っていたのである。

 

 とはいえ「無断外出」はあくまでイリニ家の不興を買わないものでなければならない。イリニ家との関係を拗らせては元も子もないからだ。

 

「……えへへ」

 

 そう。つまり、自作の料理を褒められた子供が、つい養父にそれを届けたくなったかのような、そんな罪のない理由からでなくてはならない。

 

 フィリアは自然な素振りで監視装置の前に身を晒し、嬉しそうに笑みを浮かべ、バスケットを揺らしながら誰も居ない通用門を通り過ぎた。

 事前に警備環境と予定を調べ、偽の動機をでっちあげるため厨房に出入りし、監視役が不在の僅かな時間を用いての犯行。

 どれも自然にできたはずだ。後で受ける叱責もそう重くはならないだろう。

 

 そうまでしてフィリアが目指すのは、大聖堂を護る三つの騎士団が一つ、エクリシアが誇る勇武の名門、イリニ騎士団である。

 

 

 



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其の三 天才の目覚め

 一切の装飾をそぎ落とした、直線と平面で形作られた巨大な城塞。

 華美を尽くした貴族の屋敷とはまったく異なる無骨な建造物が、エクリシアの象徴にして心臓部たる大聖堂を取り囲むように建っている。

 

 その数は三つ。いずれも外壁はトリオンで構築されており、光沢のない樹脂のような質感が無機質さをより一層際立たせている。

 これらの建物はエクリシアの三大貴族が所有する騎士団の砦である。

 

 建国よりエクリシアを護り続けてきた精忠無二なるイリニ家。

 賢者を数多く輩出し国政を導いてきた神機妙算なるフィロドクス家。

 その武力で敵国を悉く打ち破ってきた勇猛無比なるゼーン家。

 

 それぞれの騎士団は各貴族の家名が冠せられており、一見すると私兵集団のように見える。しかし最高指揮権は教会が有しており、国難に当たっては教皇の名の下に統合して運用がなされる。

 そのため騎士団は事実上の国軍として位置づけられており、年齢とトリオン能力よる入団制限はあるものの、その門戸は国民すべてに開かれている。

 

「なんだお前は、ここは貧民の来る場所じゃないぞ。施しなら余所に行け」

 

 イリニ騎士団の砦へとやってきたフィリアは、門前の歩哨に誰何を受けていた。市民階層の出と思しき若い男は、明らかに少女を訝しんでいる。

 服装は身綺麗だが、敵国ノマスの肌色と顔立ちをした子供である。貧民の物乞いと判断されても仕方ないところではあろう。

 

「イリニ家にてご厄介になっておりますフィリアと申す者です。ご当主アルモニア様にお昼をお持ちしました」

 

 少女が礼を尽くして言葉を述べると、歩哨の男はさらに怪訝な表情を浮かべ、そして一転笑顔となった。

 

「――――ッ」

 

 乾いた音が辺りに響く。フィリアの左顔面を強い衝撃が襲った。

 男が少女の頬に張り手をみまったのだ。

 

「どこで覚えたのか知らんが、ノマスのガキが総長の名を口にするな。……これでわかったろう。早く失せないともっと痛い目をみるぞ」

 

 頬を強かに打たれた少女は大きくよろめくも、力強く足を踏ん張り、決して倒れることはなかった。

 サイドエフェクトはこの展開を予見していたからだ。それにこの程度の痛みで音を上げるような子供なら、少女はとっくの昔に壊れている。

 

「イリニ家のフィリアと申します。――今一度、お願いいたします。ご当主様か、第二兵団長グライペイン様にお取次ぎ願えませんか」

「………………!?」

 

 殴られても呻き声さえ上げず、それどころか射すくめるような視線を向けるフィリアに歩哨の男はたじろいだ。

 気迫で飲んでしまえば、後はこちらの優位に話を進められる。

 しかしその時、思いもよらぬ人物が砦から現れた。

 

「おい、一体何をしている」

 

 歩哨に声をかけたのは、五十に届くかどうかといった禿頭の男であった。背はそれほど高くないものの、肩幅が広く鍛えこまれた体をしている。

 日焼けした肌には深い皺が刻まれており、厳格そのものといった風貌である。ただ薄茶色の小さな瞳だけが、何処か少年のような茶目っ気を感じさせる。

 

「――ディ、ディミオス団長。いえ、これはその……」

「お初にお目にかかります。イリニ家のフィリアと申します」

 

 歩哨の言い訳がましい言葉を遮り、フィリアはディオミスと呼ばれた男に挨拶をする。

 その名には聞き覚えがあった。彼はイリニ騎士団の第一兵団長、ドクサ・ディミオスに間違いないだろう。

 イリニ家に使えるディミオス家の当主にして、アルモニアの信任厚い古強者である。

 

 ともあれ、フィリアにとってこのタイミングでの接触は望ましいものではなかった。

 目的の為には何は無くとも騎士団内部に通されなければならない。

 騎士の鑑と誉れ高く、女子供に優しいと評判のグライペインならば見学ぐらいは許してもらえるだろうとの腹積もりであったのだが、はたしてこのドクサなる人物はどうか。

 

「ほう――なるほど、確かに……」

 

 ドクサは何やら独言すると、無遠慮に少女を眺めまわした。

 パイデイアとその家族についての話は耳にしていて当然である。加えてフィリアの瞳や髪の色はノマスの血筋を引く人間の中でも極めて珍しい。

 ドクサは少女の言い分に納得したように厳めしく頷く。しかし彼は逞しい腕を胸の前で組むと、片眉を上げて問いかけた。

 

「お前さん一人かね。勝手に屋敷を抜け出したんじゃなかろうな」

「――あっ!」

 

 少女の立場を知る者なら当然の疑問である。想定通り、フィリアは大げさになりすぎないように声を上げ、今更気付いたかのように困惑してみせた。

 

「……お屋敷のどなたにも、言ってないです」

「そりゃいかんな。なんだってここまで来たんだ」

「それは……」

 

 少女はいじらしく視線を落とし、バスケットを揺らす。

 

「お昼を作ったら厨房の皆さんにも褒めていただいて……それで、ぜひご当主さまにも食べていただきたいと思って……」

 

 台本通りにセリフを述べる。子供らしく振る舞うのはどうも難しい。弟妹を参考に善良であどけない子供を装ってはいるが、はたして違和感を覚えさせずに済むかどうか。

 何とか、警戒されぬよう立ち回らねばならない。

 

「弁当の配達か。感心な嬢ちゃんだ。けど残念だったな、総長は不在だ。今日は教会の会合に出てらっしゃる」

「えっ、そうなんですか……」

 

 無論、フィリアは知っている。だからこそ今日動いたのだ。アルモニアに見つかればその時点で屋敷に連れ戻される。それでは騎士団まで来た意味がない。

 

「あの、いつこちらにお戻りになられますか」

「早くても夕方だろうなあ。まあ、せっかく持ってきてくれたんだ、総長には渡しておこう。お前さんは……」

「――お願いがあるんです!」

 

 ドクサの言葉を遮り、フィリアは大声を上げる。ここでたじろいでは希望の糸は途絶えてしまう。

 

「ご当主さまのお部屋には、私の手でお届けしたいんですっ!」

 

 少女の思わぬわがままに、ディミオスは困ったように頬を掻いた。

 砦の中に入れるかどうかは彼の胸三寸である。サイドエフェクトは成否両方の可能性を示していた。

 

「いや、いくら総長の姪御殿とはいえなぁ……」

 

 少女を宥めるような声。豪放磊落だが、目端の利きそうな男である。監視下にある子供を野放しにするはずもなさそうだ。

 フィリアが次善策を考えていると、そこへ思わぬ人物が現れた。

 

「おや、そこにいるのはフィリア殿ではありませんか」

 

 颯爽とした足取りで砦から現れたのは、イリニ騎士団第二兵団長、金髪の美青年テロス・グライペインだ。

 

「グライペイン様!」

 

 少女は知った顔に会えて心底喜び、また安心したように顔を綻ばせる。

 

「ディミオス殿、なぜここに彼女が?」

 

 テロスはドクサから事の経緯を説明される。幸いなことに、フィリアが書いた筋書に納得しているようだ。

「なるほど、感心なレディだ。そういうことなら私がお連れいたしましょう」

「本当ですか!」

 

 予想通り。この男なら子供の頼みを無碍に断りはしないだろうと直感していた。

「おい、テロス」

「大丈夫ですよディミオス殿。見学ならいつでも受け付けているではありませんか」

 

 門前では歩哨に厳しい誰何を受けたが、本来騎士団はある程度のエリアまでなら簡単な手続きさえ踏めば誰でも簡単に入ることができる。

 これは兵隊の確保の為の仕組みである。

 基本的に騎士団へ入団を志す者は、それぞれが住まう土地を収める領主の下へ志願することが多い。

 

 しかし、トリオン能力の高い者は何処の騎士団でも引く手あまたである。

 早いうちから目星をつけ、青田買いを行うのは半ば慣例となっていた。

 所属さえさせてしまえば、領民云々はもはや関係がない。有能な兵隊を多数確保した家は、議会でも強い発言権を持つことができる。

 

 そのような事情から、殆どの騎士団は志願者、見学者に大層好意的である。イリニ家も体験プログラムを組むなどして勧誘努力を怠らない。

 

「ちょうど今から見学会を引率するところですから、フィリア殿も一緒に回りましょう。総長の執務室の近くも通るので、その時に弁当を届けられるといい」

「ありがとうございます。グライペイン様、ディミオス様!」

 

 フィリアは大げさに頭を下げて礼を述べた。

 一時はどうなる事かと思ったが、無事に当初の目的、すなわち騎士団への侵入を果たすことができた。

 次は、いかにして騎士たちの目に留まるかだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 見学者の子供たちに混じる、一際小さな白髪の頭。

 

 テロスに引率された少年少女たちは興奮に顔を輝かせながらイリニ騎士団の砦を歩いている。

 彼らが連れてこられたのは、諸々の展示品が並べられた外部向けの広報コーナーである。

 実際の所、この砦は防衛目的で使用されている訳ではなく、騎士団の運営と兵士の訓練場として使われている。城塞としての機能は充分なものだが、そもそも聖都まで敵の侵攻を許した時点で劣勢の極みであるからだ。

 

 人口密集地である聖都を戦場にする訳にはいかないため、敵国の侵攻は郊外の不毛地に誘導し、そこで撃滅する。

 そうした理由から、砦の中は小奇麗に整えられており、戦場を感じさせるような物々しい雰囲気はどこにもない。

 

「さて、かつて我がエクリシアは平和を愛し勤勉に働く人々が住まう小国家に過ぎなかったのですが……」

 

 椅子に座って映像記録を鑑賞する子供たちに、テロスが良く通る声でエクリシアの建国史を語り聞かせている。

 内容は教会がミサで語り聞かせるものと同じく、エクリシアの苦難と復活の道程を謳うものだ。

 

 異なっているのは、イリニ家の活躍が少々大げさに潤色されていることだろうか。

 いずれにせよフィリアにとってはまるで興味がない題材である。膝に乗せたバスケットを抱えながら、少女は退屈な映像を瞳に映し続ける。

 鑑賞会が終わると、一同は展示室を出て砦の中央部へと連れられた。

 

「さあ御覧なさい。護国を担う若き戦士たちです」

 

 子供たちの眼下に広がるのは、総トリオン製のアリーナである。広大な空間は多数の闘技場として区切られており、透明のトリオンシールドで覆われている。

 

 その闘技場の中で、年若い少年少女たちが武器を手に鎬を削っている。

 彼ら「従士」は騎士団に所属する訓練生である。

 従士に与えられるトリガーは剣、砲盾、小銃、狙撃銃、シールドの五種類。

 それらの扱いに習熟した従士はやがて戦地にて功績を残し、教会での叙勲を受けることで晴れて一人前の「騎士」となる。

 

 トリオン体に換装した従士たちが剣や銃を手に熾烈な戦闘を繰り広げている。

 剣撃が宙を裂き、弾丸が地を穿つ。人体を遥かに凌駕したトリオン体による超常の戦い。

 敗北を喫した者はトリオン体が破損し、生身の肉体に戻される。すると敗北者は速やかに闘技場を出て、入れ替わりに新しい従士が立つ。

 

 何時終わるとも知れぬ激しい戦いに、見学者の子供たちから歓声の声が上がる。

 実戦さながらの熱気もさることながら、子供たちが目の当たりにしているのは彼らの未来の姿なのだ。興奮も一塩だろう。

 通常の戦闘訓練の他に、こうした実戦形式で行われる訓練を経て、従士は多くの経験と強靭なトリオン機関を獲得していく。

 

「――――」

 

 熱狂する子供たちの集団の中で、不気味なほどに静かに佇む少女の姿があった。

 フィリアは黄金の瞳を爛々と輝かせ、戦い続ける若き戦士たちの姿を凝視する。まるで一挙手一投足に至るまで見逃すまいという気迫である。

 

 やがて、少女の眼前で繰り広げられる戦いも徐々に終局が見えてきた。

 トリオン体での戦闘は当然ながら起動者のトリオンを消費して行われる。

 トリオンが枯渇すればいくら勝ち続けようとも戦闘は不可能であるし、トリオン体を全損させると再構築に数時間はかかる。

 

 戦闘体を破壊され、一人また一人とアリーナを後にする従士たち。

 各闘技場で最後まで勝ち残っていた従士たちも、やがてトリオン体を解いて退場した。

 

「さて、従士たちの訓練風景は如何だったろうか。次はいよいよ諸君らもお待ちかね――エクリシアが誇る「騎士」の出番です」

 

 テロスが見学者たちにそう告げると、アリーナの構造が大きく変化する。

 闘技場を隔てていたトリオンシールドが解除され、床面すべてを覆う巨大なものに張り直される。

 

 そして、一続きとなったアリーナ内に突如として漆黒の円が現れた。

 空間を押し広げるようにして広がったそれは「(ゲート)」。異なる空間を繋げるトリガーである。

 

 そこから現れたのは、カメの甲羅を思わせる白い楕円形の物体である。

 それは全長五メートルほどの大きさをしており、前後に虫のように細く鋭い二対の脚を生やしている。

 

 トリオン兵「モールモッド」。

 俊敏な動きと鋭利なブレードで獲物を切り裂く、純戦闘用のトリオン兵である。

 黒い(ゲート)は次々に現れ、アリーナ内にモールモッドを解き放っていく。

 

 その数は十体。

 捕獲用や偵察用のトリオン兵とは違い、モールモッドは下手なトリガー使いを凌駕する戦闘力を有する。諸外国も挙って戦争に投入する優秀なトリオン兵だ。

 

「ひっ……」

 

 見学者の子供たちから悲鳴や嫌悪の声が漏れる。

 巨大な昆虫を思わせるようなトリオン兵が眼前で大量に蠢く様は、精神に強烈な威圧を加える。トリオン兵が侵攻に使われる理由の一つだ。

 そんな子供たちの反応にテロスは満足そうに微笑を浮かべと、

 

「心配御無用。我が国には彼らがいます」

 

 爽やかに公言し、アリーナを指し示す。するとそこには何時の間に現れたのか一人の人影が立っていた。

 

「わあぁ!」

 

 子供たちの悲鳴が一転、歓声へと変わる。

「騎士」と「従士」を分けるモノ。それは実力であり功績であり爵位でもあるが、その最たるものは「鎧」である。

 

 モールモッドの群れに対する孤影は、猛々しくも流麗な全身鎧で覆われていた。

 一見モールモッドと相通ずる意匠や雰囲気は、その鎧がトリオンでできている事を意味する。

 

誓願の鎧(パノプリア)」――着装者を圧倒的な防御力の装甲で保護し、あらゆる動作を強力にアシストする外骨格型トリガーだ。

 エクリシアの軍事的優位を確固たるものにした傑作トリガーであり、このトリガーを教会より与えられることこそが騎士の最たる誉れとなる。

 

「さあ、我らの騎士を応援しましょう」

 

 子供たちの歓声を背中に受けた騎士が、片刃の長剣「鉄の鷲(グリパス)」をその手に表す。

 同時に、敵対者の存在を察知したモールモッドが一斉に騎士の方へと向き直り、背中に格納された三対六本の折り畳み式ブレードを展開する。

 

 食い入るようにアリーナを見詰めていた見物客が一斉に息を呑んだ。

 無機質なる眼球が騎士を捉え、ブレードを振りかざした巨体が突撃する。その姿は無情なる殺戮機械そのものだ。

 だが、対手の騎士は機動兵の殺気をものともせず、悠然と「鉄の鷲(グリパス)」を正眼に構える。刹那、

 

「――っ!」

 

 フィリアの双眸が驚愕の色に染まる。

 

 襲い掛かった二体のモールモッドが一瞬のうち弱点である口腔の単眼を切り裂かれ、機能を停止する。そしてその残骸が地面に倒れ伏すまでに、後続の四体が胴体を半切断されて破壊された。騎士は目にも止まらぬ弾丸のような速度で闘技場を滑空し、最後尾のトリオン兵たちに迫る。

 

 辛うじて反応の間に合ったモールモッドたちが多数のブレードを振り回し、網目のような剣閃で騎士を迎え撃つ。

 トリオン兵でも最高の硬度を持つモールモッドのブレードに対し、騎士はまるで怯む様子もなく正面から突貫する。

 

 そして一瞬の交錯の後に――全てのモールモッドが完全に沈黙した。

 残心を終え、闘技場に一人佇む騎士。トリオン兵のブレードを受けた筈の鎧には傷らしい傷もなく、変わらぬ威風を纏っている。

 

「皆さん、頼もしい騎士にぜひともご喝采を!」

 

 テロスの声に我へと返った少年少女たちが、一際大きな歓声を上げる。

 フィリアはおざなりに拍手を送りながら、今しがた繰り広げられた戦闘について仔細な検討を始めていた。

 

 エクリシアが誇るトリガー「誓願の鎧(パノプリア)」。

 噂に聞くのと実物を見るのでは大違いである。戦力で比すれば「騎士」一人で「従士」十人以上の戦力となるに違いない。通常のトリガーとは明らかに一線を画した能力である。

 

 そもそも、近界(ネイバーフッド)では防護服型のトリガーが採用されることは滅多にない。防御効果に対するトリオンコストが甚だ悪いからだ。

 確かに全身を強固な鎧で覆えば頼もしいに違いないが、それに費やされるトリオンは膨大なモノになり、そして重たい鎧は機動力を大きく削ぐ。

 

 そういった事情から、殆どの国で採用されている防御用トリガーは、必要なときに自由にシールドを張れるタイプのトリガーだ。トリガーによっては形も自在に変えられ、何よりトリオン体の行動を阻害しない。エクリシアでも、シールドタイプのトリガーは正式に採用されている。

 硬いだけで燃費が悪く重たい鎧は、トリガーを用いての戦争にはそもそも不向きなのだ。

 

 けれども、エクリシアの「誓願の鎧(パノプリア)」はそれらの欠点を全て解消し、圧倒的な防御力と絶大なスピードを両立させ、火力の向上までをも果たしている。

 これを成し遂げたのは「誓願の鎧(パノプリア)」に付属するオプショントリガー「恩寵の油(バタリア)」の効果である。

恩寵の油(バタリア)」はいわばトリオン増槽とでもいうべきトリガーであり、外部から「誓願の鎧(パノプリア)」にトリオンを供給することができる。

 

 普通、トリガー使いはトリオン体から攻撃に用いる弾丸まで、すべてを自前のトリオンで賄わなければならない。そのため搭載できる武装の量には限度があり、また消耗した場合は換装を解いて時間経過によるトリオンの自然回復を待たねばならない。

 だが「恩寵の油(バタリア)」を搭載した「誓願の鎧(パノプリア)」は違う。

 起動者がトリオンを負担するのはトリオン体の構築だけで、「誓願の鎧(パノプリア)」で消費されるトリオンは全て「恩寵の油(バタリア)」から賄われる。

 

 トリオンを携行するためのトリガーは諸外国でも研究開発が進められているが、性能に於いて「恩寵の油(バタリア)」を上回る物は存在しない。

 この革新的なトリガーの開発に成功したからこそ、エクリシアはトリオンコストが非常に重い「誓願の鎧(パノプリア)」を十全に運用することが可能となった。

 

 余剰トリオンの噴射による躯体の高速化は、超重量の鎧に颶風の速さを与え、破城槌の力を備えさせる。その威力は今まさに見た通りだ。

 

(あの力が私にあれば……)

 

 子供たちの歓声に腕を上げて応える騎士に、フィリアは抜き身の刃物のようにギラついた視線を送る。

 

「さて皆さん。それでは次へと参りましょう」

 

 見学者の熱狂も冷めやらぬなか、テロスは白い歯を見せてそう促す。

 一団はアリーナの上階席を後にする。次のプログラムは今しがた訓練を行っていたアリーナを生で見られるとのことだが、テロスは移動の前に休憩の時間を設けた。

 

「十分後に見学を再開しますよ。くれぐれも遅れないように」

 

 少年少女たちはラウンジのソファに腰かけて先ほどの訓練風景を語り合ったり、飲み物を飲んだりトイレを済ませたりと思い思いにくつろいでいる。

 すると、バスケットを抱えたフィリアにテロスが近づいてきた。

 

「お持たせしました。総長の執務室までご案内しましょう」

「ありがとうございます」

 

 フィリアは先ほどまでの冷厳な表情を引っ込め、晴れやかな子供らしい笑顔で青年騎士に応じる。猫を被るのも随分と手慣れてきた様子だ。

 

「いやアルモニア総長も幸せなお方だ。こんなに愛らしい娘さんに手ずから料理を届けてもらえるとは」

 

 執務室までの道すがら、テロスが朗らかにそういった。

 いつものリップサービスかと適当に流そうとしたフィリアだが、どうもこの男は彼女の出自をあまり気にしていないらしい。門閥や階層にこだわらず、高貴なる者の義務にのみ忠実なこの男は、なるほど貴族の鑑と呼ばれるだけのことはあるようだ。

 

「そんなこと……勝手にお屋敷を出てきてしまった、悪い娘です」

「はは、そうでしたね。あまり怒られないよう、私からも総長に伝えておきますよ

 ――さあ、着きました。残念ながら中までは案内できませんが」

 

 流石にアルモニア不在の執務室までは立ち入ることができず、手前の秘書室へと通されたフィリアは、事情を説明し秘書に昼食入りのバスケットを預ける。

 これで、表向きの用件は済ませた。

 

「あの、グライペイン様」

「どうぞテロスとお呼び下さい、レディ。総長の御子なら、私にとってもお仕えするべきお嬢様ですから」

「そんな……では、テロス様」

「どうなさいましたか。フィリアお嬢様」

「見学会、私もこのままご一緒させていただいてかまいませんか。皆様のお姿、とても頼もしくて、素敵でした」

「それは願ってもないこと。最後までエスコートさせていただきますよ」

 

 二人はラウンジへと戻り、見学会を再開する。

 一同は大階段を降り、殺風景な砦の中をぞろぞろと進む。

 アリーナへと出た少年少女たちを出迎えたのは、先ほどモールモッドを苦も無く打ち払ったあの騎士だ。

 

「流石のお手際、感服いたしました」

 

 テロスがそう声を掛けると、騎士は呆れたように肩をすくめ、兜を取り外す。

 

「お前さんが戦ったほうが、子供たちは喜ぶんじゃないのか」

 

 そう言って人懐こい笑みを浮かべる中年の男性は、第一兵団長ドクサ・ディミオスその人だ。

 

「おう、お嬢ちゃん。弁当は届けられたのか」

「はい! テロス様に案内していただきました」

 

 フィリアが元気よく答えると、ドクサも朗らかに頷いて応じる。

 二人が話しているうちに、アリーナには他の職員たちも入ってきた。

 彼らは何やらトリオン製の機材を広げ、準備に取り掛かっている。

 

「エクリシアの未来を担う皆さんには、本日最後の体験として、実際にトリガーに触っていただきましょう」

 

 テロスが言うやいなや、アリーナの形状が再び変化し、従士が競い合っていた時と同じく複数の闘技場が現れた。

 見学会の締めのイベントは、トリガーを用いての模擬戦闘だ。

 

 もともとイリニ騎士団の広報と人材の囲い込みを行うための見学会である。一連の訓練風景で心証を良くし、戦闘を体験させて参加者の資質を調べる。

 強制参加ではないものの、態々騎士団へ来るような子供たちがそれを拒むはずもなく、アリーナはこの日一番の熱狂と歓声に沸いた。

 

「では順番に、こちらの機械に手をかざしていってください」

 

 職員が持ち込んだ機材はトリオン能力の測定器である。これで参加者のトリオン量や諸々の身体データを収集する。

 フィリアも模擬戦闘を行うために列に並ぶ。そうしていざ自分の番となった時、

 

「――っ!」

 

 モニターを眺めていた職員の顔色が変わった。

 フィリアは胸の内で快哉を叫ぶ。未だ発展途上でありながら、彼女のトリオン能力はすでに一流の戦士に比肩する。これを知らしめた以上、騎士団が彼女を見逃すはずがない。

 

「登録を終えた方から、どうぞ集まってください」

 

 子供たちはいくつかのグループに分けられ、闘技場の前へと案内される。

 すると、薄緑色のシールドで保護された地面が振動し、あちこちが隆起する。

 見る間に、闘技場は山岳地帯を思わせる急峻な地形となった。

 

「一人ずつこの中へと入り、これらの標的を倒してもらいます」

 

 テロスがそう言うと、闘技場にゲートが開き、風船のようなトリオン球が放出される。宙に浮かびランダムにゆっくりと移動するそれらが模擬戦闘のターゲットである。

 

「標的は攻撃能力を持ちませんし、トリオン体では少々転んだり落ちたりしたところで怪我はしません。皆さん存分にトリオン体を動かしてみてください」

 

 実例としてテロスに付き添われた少年が闘技場へと入る。

 

「トリガー起動!」

 

 少年の浮ついた声と同時に簡易トリガーが起動し、起動者の実体を走査し戦闘体を生成、生身の肉体をトリオン体へと換装する。

 そして主武装として翡翠色の刃を持つブレードが少年の手に現れた。

 

「たあっ!」

 

 テロスに促されるまま、少年は大地を蹴ってターゲットに切りかかる。だが、

 

「うおっ!?」

 

 少年は勢い余って標的の頭上を飛び越え、岩肌に頭からぶつかってしまう。

 

 トリオン体は生身の肉体とはまさに桁違いのポテンシャルを持つ。素手で岩盤を砕き風のような速さで駆けることも容易いが、それ故にトリオン体の操縦は繊細なコントロールが要求される。

 トリオン体にはトリオンを循環させる供給機関と運動をコントロールする伝達脳、伝達系が備わっている。

 伝達脳や伝達系は生身の脳や神経系が置き換わったようなもので、トリオン体の操縦は生身の肉体を動かす感覚が元となる。

 

 とはいえ生身を上回るスペックを持つトリオン体を通常の運動の要領で扱ってもその真価は発揮できず、勢いのみで動かそうとすれば却って見当違いの暴走をしてしまう。

 肉体とトリオン体の違いを弁えた正確なボディコントロールよって初めて、トリオン体は精妙無比な動作を可能とするのだ。

 

「記録、二分三十二秒三」

 

 職員が計測タイムを読み上げる。

 結局少年は終始動きに戸惑い、闘技場内を漂うターゲットに翻弄されっぱなしであった。

 それでも初めてトリガーに触れ、トリオン体を操縦した少年の表情は満足感と高揚感で輝いている。

 

「それでは皆さん。張り切ってやってみましょう」

 

 テロスに促され、少年少女たちは次々と闘技場の中へ入っていく。

 人並みに揉まれたフィリアは、列の最後尾に並んだ。

 

「…………」

 

 待機列から闘技場を凝然と眺める少女。彼女が見ているのは果敢に挑戦する子供たちではなく、風にたなびくように動く十個のターゲットである。

 

「はい。次はフィリア・イリニ? さん」

 

 職員が怪訝な表情を浮かべ、フィリアに簡易トリガーを渡す。

 テロスやドクサなど騎士団の幹部はいざ知らず、末端の職員までイリニ家の養女の話は伝わっていないのだろう。

 ノマスの子供が何故ここに、何故総長と同じ名前を? との疑問が顔に書いてある。

 職員の猜疑の眼差しを無視し、フィリアはトリガーを受け取り闘技場内へと入った。

 戦場のあらゆる地形を再現できるトリオン製のフィールドによって、闘技場は岩屑を撒いたような荒れた足場となっている。

 

「トリガー機動」

 

 静かなる宣言と共に、フィリアの肉体が瞬時にトリオン体へと置き換わる。

 軽く足踏みをしてから、ブレードの剣柄を握る右手の感覚を改める。そして、

 

「始め!」

 

 開始の合図と共に、フィリアの身体が弾かれたように飛んだ。

 

「――なっ!」

 

 驚愕は、居並ぶ面々全ての口から洩れた。

 操縦を誤ったようにしか見えない勢いで飛び跳ねた少女は、すれ違いざまに空中を漂うターゲットを正確に両断していた。

 のみならず、少女は空中で身体を反転させて迫りくる岸壁を蹴ると、一直線に次のターゲットへ飛びかかり、瞬く間に切り捨てる。

 

 跳躍し、疾走し、悉くを切断する。

 その動きの精密さ、速度も異常ながら、真に理解を超えているのは判断の速さである。

 まるでターゲットが何処に動くか予め把握していたように、一連の動きにはまるで躊躇いがなく、そして過ちも無い。

 

「……き、記録、九秒八」

 

 職員が上擦った声で計測タイムを読み上げる。

 初心者のみと限定すれば、間違いなく歴代最速の記録である。

 トリオン体と肉体の齟齬の解消。

 浮遊するターゲットの未来位置の測定。

 先に見た従士・騎士の動きのトレース。

 そのすべてを、フィリアは直観智のサイドエフェクトを最大限に活用して成し遂げた。

 酷使された脳が休息を求め、凄まじい倦怠感と眠気が少女を襲う。しかし、彼女は何事も無かったかのようにトリオン体を解くと、しずしずと闘技場から出る。

 驚愕と羨望、そしてある種の恐怖の感情をないまぜにした視線が、少女の矮躯に多方から突き刺さる。

 

「――ありがとうございました」

 

 呆けた様子の職員に簡易トリガーを返却する。その瞳に垣間見える恐れは、フィリアを通じてノマスへの幻想を見るが故だろう。

 

「これは……」

「とんでもないな」

 

 見学者たちを監督していたテロスとドクサも言葉が見つからない様子だ。

 フィリアは仕上げとばかりに満面の笑みを浮かべ、子犬がすり寄るように二人の元へと歩み寄る。

 

「とても楽しかったです! 思ったより上手にできました」

 

 まるで料理や刺繍でも上手くいったかのように、屈託なく微笑む少女。

 多数の騎士を率いる歴戦の男たちは、その無垢な姿に困惑する。

 

「その……フィリアお嬢様。以前にトリガーを使ったことがあるのですか?」

「いいえ? 今日初めて触らせていただきました」

 

 まるで質問の意図が分からないかのように可愛らしく小首を傾げるフィリア。

「テロス……」

「はい」

 

 目配せを交わしてお互いに頷く兵団長たち。

 

 今この瞬間、直観智のサイドエフェクトは少女の企てが成功したことを示した。

 フィリアは安堵感から崩れそうになる膝を叱咤し、何食わぬ顔で見学者の群れへと戻る。

 周りを囲む市民階級の子供たちは、得体のしれない怪物を見るかのようにフィリアから遠ざかった。

 

 少女はまるで気にした様子もなく、ただ朗らかな笑みを湛えているだけであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

(できた。この上なく、完璧に)

 

 日が沈み、近界の夜空を星々が飾りつける頃。

 

 イリニ邸の二階、少女に宛がわれた個室にて、フィリアは倒れるようにベッドへ突っ伏していた。見学会を終えた少女は、そのままイリニ騎士団の護衛に自宅へと送り届けられたのだ。

 

 当然、フィリアの無断外出は大問題となっており、屋敷に帰るなり少女は教育係に手ひどく叱りつけられることになった。

 それでも叱責程度で済んだのは、事前に騎士団の人間が連絡を寄越していたことと、二人の兵団長が口添えをしてくれたことが原因だろう。

 実情としては、使用人も監督責任を責められる立場の為、なるべく大事にしたくはなかったに違いない。

 

 アルモニアは厳格な施政で知られる人物であるが、まるで情を介さない人物という訳ではなく、夕食の席でフィリアが丁寧に詫びを入れたところ、彼女も使用人たちも特に咎めは受けなかった。

 これも狙い通りの結果である。迂遠な工作をした甲斐はあった。

 

 フィリアの当座の目標は、イリニ騎士団へと入団する事であった。

 しかし今の立場ではイリニ家を離れることは難しい。そこでまず、彼女は騎士団の要人に、己の非凡な才能を喧伝することを企てた。

 

 国家の守護という共通目的を持つものの、それぞれの騎士団は決して友好的な訳ではなく、国内では常に相手を出し抜く機会を窺っている。

 フィリアのように類まれなトリオン能力を持つ者を放置することは考えられない。必ず取り込みに動くだろう。

 加えて、トリオン機関とはまさに原石のような物で、若い年代から鍛え磨けばさらにその輝きは増す。

 

(でも、まだ……)

 

 しかし、それでも入団が許されるかどうかは分からない。

 結局のところ、フィリアの身柄をどうするかは当主アルモニアの意向しだいである。今日行ったのは所詮外堀を埋めるための策にすぎない。

 アルモニアを直接口説き落とさなければ、何の意味も無いのだ。

 

(だめ……あたまがはたらかない……)

 

 とはいえ、今フィリアに必要なのは休息である。サイドエフェクトの酷使によって疲労困憊の極みにあった少女は、気絶するように意識を手放した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 それから数日後。

 

 フィリアはイリニ家の中庭で、椅子に腰掛けて木々を眺めていた。

 夜の一時をこの東屋で過ごすことは、少女が屋敷に来てからの日課となっていた。

 泰然と佇む樹木、風に揺れる花々、星明りの差し込む小道。

 美しい森をゆっくりと散策し、清澄な空気を胸いっぱいに吸い込めば、心にかかった霧が晴れ渡るように感じるのだ。

 

 無断外出以降、素行には最大限気を付けて過ごしてきた。日々の学業には今まで以上に励み、出過ぎた真似は行わず、常に周りを立てるように一歩引いて振る舞う。

 それもこれも、計画を動かす理想的なタイミングを見計らってのことだ。

 

「フィリアか」

「お帰りなさいませ。ご当主様」

 

 庭師以外の使用人は殆ど立ち入らぬこの中庭に、少女と同じく足しげく通う人物がいる。

 イリニ家当主、アルモニア・イリニその人である。

 領地と騎士団、そして国政と、アルモニアは数多の重職を兼任する要人だ。しかし彼はどれだけ激務をこなそうとも、帰宅した日には必ずこの中庭を巡り歩くのを習慣としていた。

 

「屋敷での暮らしに、少しは慣れただろうか」 

「はい。皆様にはとっても良くして頂いています。あ、今日の昼なんて、サロスがですね……」

 

 椅子に並んで座り、他愛ない会話に興じる伯父と姪。

 二人きりの秘密の夜話会は数度目となる。

 当初はぎこちなく会話を重ねていた二人も、今ではすっかり打ち解けた空気が流れており、実の親子のようにさえ見える。

 

「あの、母さんはお元気ですか? まだ夜は寒いので、具合が悪くなったり……」

「何も心配することはない。最近は体調も良くなって、今日は少し遠くまで歩いて出かけたそうだ」

 

 パイデイアの話題になると、アルモニアの声音が少し優しげになる。

 やはり、親子を引き離したことに負い目があるのだろう。

 それを知りつつ、フィリアは敢えて会うたびに母の近況を訊ねる。

 

「そういえば、その……ご当主様」

「なんだろうか」

 

 会話のネタが尽きたところで、フィリアは徐にそう切り出した。

 緊張に身体を強張らせた姿は、まるで不器用な娘が父におねだりをするような、初々しい可愛らしさがある。そして、

 

「騎士団に入るには、どうすればいいのでしょうか」

 

 と、無垢な笑顔で言い放った。少女の唐突な問いかけに、

 

「……君にはまだ早い。もう少し大きくなってからだな」

 

 アルモニアは素っ気なくそう答える。謹厳な表情を微塵も崩さないが、フィリアのサイドエフェクトは伯父が明らかに怒気を発しているのを感じ取った。だが、

 

「私、どうしても騎士団に入りたいんです!」

 

 フィリアは臆さず、面と向かってアルモニアに願いを告げる。

 

「……ディミオスやグライペインに何か言われたのか」

 

 すると、彼は眉根を微かに寄せてそう言う。

 

「それは、そうです。……でも、それだけじゃないんです」

 

 フィリアの類まれなる資質と才能は、二人の兵団長からアルモニアへと子細漏らさず伝わっているはずだ。

 トリオン機関を鍛えるのは若ければ若いほどいい。

 実際のところ、イリニ騎士団では有望な子供を騎士団預かりとし、幼少時より軍事教練を施している。フィリアが入団するにあたって、何の不都合もない筈だ。

 それでもアルモニアは不快の念も露わに、否定の構えを見せる。そんな伯父に、

 

「わ、私は……の、ノマスの子、です……。母さんやみんなは気にしなくても、やっぱり私は、この国に居ちゃいけないんだって……」

 

 胸に秘めた思いが堰を切って溢れたかのように、フィリアは目じりに涙を浮かべ、声を震わせながら訥々と言葉を吐き出す。

 

「バカな、何を――」

 

 アルモニアの怒りは急速に冷め、困惑にとって代わる。しかし、否定の言葉は咄嗟には出てこなかった。この少女が今日まで受けた仕打ちを思えば、そう思いつめるのも無理からぬことだろう。

 

「でも、こんな私でも、みんなのお役に立てることがあるんです! テロス様やディミオス様が仰っていました。私はきっと、凄い騎士になれるって。エクリシアを護ることができるって――だからっ! 

 そうすればきっと、私は此処に居ても大丈夫って、そう思えるんです……」

 

 金色の瞳から大粒の涙を溢し、輝く白髪を振り乱しながら、フィリアはアルモニアに縋りついて叫ぶ。

 それは生まれながらに罪科を背負わされた少女の、悲痛なまでに切実な自己肯定への道。

 天与の才に恵まれ、家族を愛する善良な心を持ちながらも、世界から何一つ認められなかった少女。

 

「…………」

 

 そんな彼女が抱いた願いを、誰が拒むことができようか。

 少女のすすり泣きが収まるのを待ってから、アルモニアは穏やかに語りかけた。

 

「落ち着いたかい」

「――あ、ごめ、申し訳ありません」

 

 思いがけぬ程優しい声を掛けられ、伯父の胸元から急いで離れるフィリア。

 赤く腫れぼった目を瞬かせ、羞恥にわたわたと手を振り、思い出したようにぺこりと頭を下げる。

 

「一つだけ、約束してほしい」

 

 そんなフィリアを正面から見据え、アルモニアは言葉を紡ぐ。

 

「この国で君は、今まで多くの醜悪なモノを見てきたのだろう。だが、どうか忘れないでほしい。――この世界は美しい。どれ程酷薄な運命が有ろうと、尊いモノは確かにあると。そのことを、知っていてほしい。見つけてほしい。そして、忘れないでほしい」

 

 ぎこちない微笑みを浮かべながら、戸惑いがちにフィリアの頭を撫でるアルモニア。

 

「え、――あれ……」

 

 その時、フィリアの頬を一筋の雫が伝う。

 止まったはずの、否、止めた筈の涙が、零れて落ちる。

 

「え、なんで……あれ……」

 

 名前の付けられない、理由の見当たらない感情。

 心の奥底より湧き出す衝動に突き動かされ、フィリアは嬰児のように声を上げて泣いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 アルモニアと別れ、自室へと戻ったフィリア。

 ソファに腰を据え、泣きはらした目を指で解しながら、少女は一人物思いにふける。

 

 騎士団への入団は無事に承諾された。

 彼女はようやく宿願の為のスタートラインに立つことができた。

 それもこれも、家族の仲を引き裂いたアルモニアの負い目を抉り、彼の良識につけ込み自らの不遇を嘆いて同情を買ったおかげである。

 

 己の所業の悪辣さと浅ましさに、フィリアは自嘲めいた笑みを口の端に浮かべる。

 これも全て、計算通りだ。この数日ひたすらに考え抜き、成功の可能性が最も高かった交渉方法が泣き落としであった。ただそれだけのことだ。

 

 泣くことも、さほど難しくはなかった。

 今までため込んできた涙を、ほんの少し放出すればいいだけだったからだ。だが、

 

(なんで、私はあの時……)

 

 アルモニアに言葉を掛けられたとき、意に反して溢れた涙。

 

 この世界は美しい。

 普段の少女なら一顧だにしない陳腐な言葉である。

 

 世界に美しいものがあったとして、それがいったい何の慰めになるというのか。個人の主観に左右される美意識で、どう世界の仕組みが変わるというのか。

 だが、その空疎な言葉は、確かにフィリアの胸の奥底を大きく揺さぶった。

 

 指の腹で目じりを抑える。熱い雫の源泉は、はたして己のどこにあったのか。

 その不可解な事象を解き明かそうと思索するが、一向に答えは出ない。

 

「……もう、休もう」

 

 ともあれ、当座の目標は達成できた。

 イリニ家からの通いになるとはいえ、彼女は正式に従士として訓練に励むこととなる。

 次なる課題を達成するために、体調は万全に整えなければならない。

 少女は寝巻に着替え、ベッドへと潜りこむ。その時、

 

「フィリア。まだ起きていますね」

 

 ドアの向こうから、抑揚の無い女の声が聞こえた。

 

「ヌース? どうしたの、こんな時間に」

 

 その予期せぬ来訪者に、フィリアは慌てた様子で明かりを灯し、ドアを開く。

 イリニ家に於いてヌースが与えられた役割は子供たちの監督と教育である。しかし、フィリアは保護者を必要とする時期はとうの昔に終えている。

 必然、ヌースは三人の弟妹たちの面倒を受け持っていた。

 家族としての繋がりが薄れた訳では決してないが、こうしてプライベートの時間まで干渉してくることは今までになかった。

 弟たちに何かあったのだろうか。そう不安になるフィリア。だが、

 

「フィリア。少し話をしませんか」

 

 ヌースの姿を見た瞬間、サイドエフェクトは訪問の真意を見抜いてしまった。

 

「……耳が早いね。分かった、入って」

 

 ヌースを迎え入れると、しっかりと扉に鍵をかけ、フィリアはベッドに腰掛けた。

 

「騎士団に志願したそうですね」

「ご当主様から聞いたんだね。うん、そうだよ」

「私はフィリアの意思を尊重します。ですが、相談が無かったことは悲しく思います」

「……ごめんね。勝手に決めちゃって」

 

 幼い弟妹と病んだ母を支え続けた暮らしの中、フィリアが唯一感情を吐き出すことができたのがヌースである。

 盗みの協力までさせていたヌースに、なぜ思いを打ち明けなかったのか。

 

 それは彼女がパイデイアと志を同じくする同士であるからだ。ヌースは母と同じく、子供たちの幸福のみを真剣に考え、母が神になろうとしているのを後押ししている。

 フィリアの企てに賛同しないことは、サイドエフェクトで分かっていた。

 

「何があっても、私たち家族はあなたの味方です。それを忘れないでください」

「ありがとう。忘れてないよ。私が一人じゃないってことは」

 

 愛する家族に心からの信頼を伝えると、フィリアは居住まいを正してヌースに向き合う。

 

「これからも、私たち家族をよろしくお願いします」

「もちろんです。それこそが私の存在意義ですから」

 

 少女の心よりの言葉に、静かな声で答えるヌース。

 反応を窺いながら、フィリアは内心で安堵の息をついていた。

 

 突如の来訪の理由は、純粋に少女の身を案じてのことらしい。

 貴族の子弟となって一月と立たないうちに、今度は軍事教練施設に入ろうというのだ。心配をして当たり前だろう。

 ともかく、ヌースはフィリアの真の目的にはまだ察しがついていないようだ。

 アルモニアにも述べた、ノマスの血筋ゆえの偏見を払拭したいという表向きの理由で納得してくれたらしい。

 

 この世界で唯一の味方である家族まで騙したことに、フィリアの心が切り裂かれるように痛む。

 だが、悲痛を笑顔で糊塗し、少女は家族と久方ぶりの会話を楽しむ。

 そうしてヌースを見送ると、フィリアは改めて身支度を整え床に就いた。

 

 明日からは新しい日常が始まる。

 家族が再び揃って暮らすための第一歩だ。

 誰一人欠けることのない温かい未来の為に、少女は迷うことなく突き進む。

 

「ごめんなさい、母さん。私は悪い娘です。でも……」

 

 天蓋を見上げ、フィリアはぼそりとそう呟いた。

 新たなる神として、その命をエクリシアに捧げる運命にある母。

 その残酷な運命に抗うため、幼い少女が下した決断。それは、

 

(代わりの生贄は、必ず私が見つけ出すから)

 

 ――購うべき血は、母のモノでなくともいい。

 

 他国からパイデイアを上回る生贄を連れてくる。そうすれば、母は神の候補としての呪縛を解かれる。

 親子が再び共に暮らすためには、それしか方法は無い。

 十歳の子供が外国へ押し寄せ、人をかどわかそうと言うのだ。誰かに話せば荒唐無稽な妄想だと笑われるのが落ちだろう。

 

 けれど、少女は己の全てを擲ってでも、必ず成し遂げると決意した。

 決して人任せにはできない。母は自分が助ける。

 悲壮な覚悟を胸に秘め、少女は暫し安息の眠りについた。

 

 



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其の四 一年を経て

 雨音のように絶え間なく響く、砲火と剣撃の音。

 破壊に耐えかねた建造物が軋み、地響きとともに崩れ落ちる。

 風に巻かれて舞い上がる粉塵は、霧のように街区を覆う。

 

 それでも、戦場には悲鳴一つ、怒号一つ聞こえない。

 軒の低い建物が密集する市街地にて、十数名の若者たちが武器を手に熾烈な戦闘を繰り広げていた。

 

 炸裂したトリオン弾に基部を破壊され、斜めに崩れ始める建物。その窓から疾風のように飛び出す人影があった。

 風に靡く雪のように白い髪。炯々と輝く金色の双眸。すべらかな褐色の肌。

 黒色の軍服とコートに身を包んだ少女はイリニ騎士団従士、フィリア・イリニである。

 

 しかしその姿はどうしたことか。スラリと伸びた長い手足とはっきりした目鼻立ちは、十五、六歳ほどの見た目である。

 過酷な戦場を駆け抜けるため、フィリアはトリオン体を作成するにあたり、未来の自分の姿を模した形状を選択していた。

 

 少女は長剣トリガー「鉄の鷲(グリパス)」を手に提げ、不安定な瓦礫に事も無げに着地すると、降り注ぐ粉塵を気にも留めず、同じく黒色の軍服を着た少年目がけて疾駆する。

 

「――なっ!」

 

 建物の倒壊に気を取られていた少年は、フィリアの接近に反応が遅れた。粉塵を切り裂いて飛び込んできた少女に、手にしたトリオン小銃「鉛の獣(ヒメラ)」の銃口を向けるが――

 

 颯、と一抹の風切り音と共に、少年の頭部がこめかみから上下に両断された。

 口元を驚愕に歪めたまま、伝達脳を破壊された少年のトリオン体が爆発、崩壊する。

 後には純白のボディスーツを着た生身の少年が取り残されるが、既にフィリアは「鉄の鷲(グリパス)」を引っ提げ、その場から駆け去っていた。

 

 ただ今行われているのは、イリニ騎士団の訓練、通称「乱戦・市街地」。

 大闘技場の模造戦場で行われる、バトルロイヤル形式の大規模な戦闘訓練だ。

 

 イリニ騎士団に所属する従士。その中でも序列百位までの者が一堂に会し、己以外の全てを敵にして最後の一人になるまで戦いを続ける。

 途中で脱落者が出たとしても、戦闘は止まらない。

 戦場で不覚を取りトリオン体を失った者は、次は生きて戦場を離れることを考えなければならない。この乱戦では、戦闘訓練と同時に離脱の訓練も行われる。

 

「――!」

 

 次なる獲物を求め闘技場を走っていたフィリアは、突如として進行方向を変え、横手の建物へと飛び込んだ。

 

 彼女が進んでいたはずの路上にトリオン弾が飛来し、壁面に風穴を開ける。

 トリオン狙撃銃「鈴の馬(モノケロース)」による狙撃である。

 

 視界外からの不意打ちを躱し得た理由は、フィリアの持つ「直観智」のサイドエフェクトのお蔭である。戦場に漂う僅かな殺気、微かな息遣い、そういった取るに足らない要素を根拠に、少女の脳は最適にして無謬の答えを瞬時に弾き出す。

 

 また、「直観智」によって狙撃手の潜伏場所を見抜いたフィリアは、そのまま内壁を「鉄の鷲(グリパス)」で切り崩し、連なる建物を利用して射線を切りながら追い迫る。

 居場所がばれた狙撃手は当然姿を晦まそうと逃走を図るが、その経路さえも、フィリアのサイドエフェクトは既に見通している。

 狙撃手を音も無く追走するフィリア。そして、

 

「――ぐっ!」

 

 屋上から飛び降りようとしていた狙撃手の青年を、横合いから飛びかかったフィリアが一刀の下に切り捨てた。

 

「うおぁぁっ!」

 

 空中で換装が解けた青年は受け身を取ることもままならず、生身のまま真っ逆さまに転落する。だが、

 

「お気をつけて」

 

 男が地面に血の花を咲かせる寸前、先んじて着地したフィリアがその身体を受け止め、そっと立たせてやる。

 呆気にとられる青年を尻目に、少女は再び破壊音の響く戦場へと舞い戻った。

 

「あと少し」

 

 ぼそりとそう呟いて、少女は高所から戦場を俯瞰する。

 

 百人いた従士たちも、残りはフィリアを入れて六人まで絞り込まれている。そしてその一団は市街地中央で苛烈な戦闘を繰り広げていた。

 生存戦のセオリーから考えれば、無用な戦闘は避け被弾のリスクを抑えるべきだろう。

 しかし、フィリアは一切の躊躇なく激戦地へとひた走った。

 

 これは訓練である。経験に勝る目的など存在しない。ここで積み重ねた手練こそが、来たるべき実戦にて勝利を手繰り寄せる。

 残敵は銃手が三人に剣士が二人。剣士の一人は砲盾トリガー「銀の竜(ドラコン)」で守りを固めた重武装だ。

 互いをけん制しつつ、機を窺う従士たち。しかし様子見で放たれた弾丸は容赦なく大地を抉り、剣撃の余波は建物を瓦礫へと変える。

 

「はあああぁぁっ!」

 

 戦闘圏内まで後数秒となった時、それまで無表情を貫いてきたフィリアが突如として裂帛の気合を上げ、「鉄の鷲(グリパス)」を上段に構えて突撃した。

 

「――ッ!」

 

 乱入者の存在に、従士たちが一斉にフィリアへと注意を向けた。次なる手立てを導き出すまで一瞬の空白が生まれる。

 だが、それこそ彼女の狙い通り。

 

 フィリアの視線の先で、「銀の竜(ドラコン)」を所持していた剣士が動いた。

 長大な凧型の楯の上部に仕込まれているのは、大威力の火砲だ。

 その砲口が、フィリアを含めた従士たちへと向いている。剣士が今か今かと窺っていたその好機を、フィリアが自らを囮にして作り出したのだ。

 

「「鷲の羽(プテラ)」起動ッ!」

 

銀の竜(ドラコン)」の火砲が放たれる直前、フィリアは「鉄の鷲(グリパス)」のオプショントリガーを起動する。「鷲の羽(プテラ)」は剣身からトリオンを噴射し、瞬間的に巨大な推力を得るトリガーだ。

 本来は剣撃を加速させ威力を増大させるトリガーだが、用途次第では、

 

「――っ!」

 

 ブレードに牽引されるようにして、凄まじい速度で宙を滑空するフィリア。横っ飛びに避けた彼女のすぐ隣を「銀の竜(ドラコン)」から放たれたトリオンの極光が通り抜ける。

 発射までに若干の隙があり、近接戦では放つタイミングを計りにくい砲撃だが、ノーマルトリガーとしては破格の威力を誇る。

 その砲撃を至近で受ければ、流石の従士たちもたまったものではない。

 

 直撃を受けて銃手の一人が墜ち、残りの従士たちも混乱に陥った。

 フィリアはすぐさま体勢を立て直すと、手近にいた剣士の首を刎ねる。

 同時に、砲撃を仕掛けた剣士も残った銃手を「銀の竜(ドラコン)」のシールドチャージで押しつぶし、「鉄の鷲(グリパス)」で胸を刺し貫いて撃破した。

 

 荒廃した市街地に残ったのは、フィリアと盾を持つ剣士のみ。

 脱落者を戦闘に巻き込まぬよう、フィリアと剣士は地を蹴ってその場を離れた。そして、

 

「…………」

 

 瓦礫の散乱する広場で改めて対峙する二人の生存者。

 主武装は互いにブレードトリガー「鉄の鷲(グリパス)」。フィリアの防御用トリガーは出し入れ自在の汎用シールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」だ。展開速度に優れる上、形状変化も可能で、ある程度遠方への展開も可能だが、対手の持つ「銀の竜(ドラコン)」ほどの防御力は無い。

 

 また、相手には「銀の竜(ドラコン)」のオプショントリガー「竜の息(アナプノイ)」による砲撃があるが、近接戦時に隙の大きな砲撃は自殺行為同然である。これは考慮せずともいいだろう。

 勝敗を決するのは、近接戦の技量のみ。

 

 フィリアは片刃の長剣を正眼に構えた。相手は剣先を後方へと流した車の構え。堅固な盾を前面に構え、剣身を完全に隠している。攻撃の手筋を読ませない腹積もりだ。

 

「――ふっ!」

 

 鋭い呼気と共にフィリアが踏み込み、長剣を振るう。「鷲の羽(プテラ)」によって加速した目にも止まらぬ剣閃は、大型トリオン兵の堅牢な外殻をも断ち割る威力を誇る。

 だが、剣士は他愛なくその一撃を盾で弾いた。のみならず、フィリアの渾身の斬撃を受け止めた「銀の竜(ドラコン)」には、掠り傷程度の損傷しか与えられていない。

 

銀の竜(ドラコン)」は重量とトリオンコストを犠牲にしてまで防御力に特化したトリガーである。その堅牢さは折り紙つきで、通常のトリガーで破壊することはまず不可能だ。

 逆にフィリアの振るった「鉄の鷲(グリパス)」の方こそ、刃に細かな欠けが生じる。

鉄の鷲(グリパス)」は決して耐久性に劣ったトリガーではないが、長剣どうしでの打ち合いならともかく、盾に全力で打ち込むのは流石に不味い。

 

 だが、フィリアは執拗に男の頭部めがけて剣を振るい続ける。

鷲の羽(プテラ)」の加速を利用した、反撃の暇さえ許さない疾風怒濤の連撃。一手たりとも受け損じれば致命傷を免れない、苛烈にして正確無比な剣閃の嵐。

 

 しかし、相手の従士も歴戦の強者である。

 急所狙いの攻撃など目を瞑っても防げるとばかりに、猛烈な剣撃を一撃も漏らさず盾で受け続ける。

 

 フィリアの振るう「鉄の鷲(グリパス)」にとうとう亀裂が走った。

 防御力の優位を生かし、持久戦に持ち込んだ剣士の戦略が図に当たる。

 

 遠からず、少女の振るう長剣は砕けるだろう。

 長剣はあくまでトリガーによって創出された器物に過ぎない為、トリオンさえあればすぐに新しい武器は用意できるのだが、その隙は致命的なものになる。

 防御に徹し、反撃の機会を眈々と窺う剣士。だが、

 

「――ハッ!」

 

 フィリアは突如として身体を捻転させると、膝をつくような姿勢から鋭い地摺りの斬撃を繰り出した。

 意識を急所に向けさせてから、虚を突いて足元を薙ぎ払う一撃。

 近接戦で足を奪えば勝利したも同然である。先ほどまでの攻撃は、全てこのための布石であった。しかし、

 

「舐めるなあぁ!」

 

 剣士は盾を地面に打ち付けるように突き立て、フィリアの剣撃を辛うじて防ぐ。

 渾身の一撃を阻まれた「鉄の鷲(グリパス)」が、とうとう半ばから二つに折れた。

 

「貰ったぞっ!」

 

 長剣の砕ける音を耳にした剣士は、獰猛な笑みを浮かべて猛然と踏み込んだ。

 もはや敵に武器は無し。抵抗の隙も与えず切り捨てんと剣を振りかざす。その時、

 

「――うお!?」

 

 突如として剣士が大きくバランスを崩し、前のめりに崩れる。

 下半身を置き去りにした腕は無様に虚空を泳ぎ、起死回生の一撃は虚しく空を切った。

 剣士の突撃を阻んだモノ。それは彼の足元に突如として生えた薄緑色のプレートだ。

 

玻璃の(ネライ)――」

 

 剣士は驚愕の正体を口にすることさえ許されなかった。

 男が足元に視線を向けたその瞬間、黄金の瞳を持つ死神が朽ち果てた剣で無防備な頭を叩き割ったからだ。

 

 ――爆風と共に、剣士のトリオン体が崩壊する。

 

 防御に優れた敵を仕留めるには、攻撃に転じた隙を狙う。

 長剣が砕けたその瞬間、フィリアは剣士の足元にシールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」を起動させた。地面からせり上がったシールドは壁となり、剣士の体勢を見事に崩した。「玻璃の精(ネライダ)」の展開速度の速さと、遠隔操縦の利点を生かした罠である。

 執拗な攻撃も、それに伴う武器の破損も、すべてはこの瞬間を導くためだ。

 

 生身へと戻った剣士に、フィリアは茫洋とした視線を送る。

 そこには勝利への歓喜も、敗者への憐憫も無い。

 まるで当然の帰結を見るような、氷のように無感情な瞳。

 

 異国風とはいえ目鼻立ちの整った少女がするその表情は、凄まじい威圧感を放つ。

 剣士はその顔をみて一瞬怯んだ様子であったが、すぐさま離脱行動に移った。

 それを見送ると、フィリアは廃墟と化した戦場を眺めながら、とぼとぼとと歩き出す。

 

 形だけを似せた、がらんどうの街。

 それでも、いたる所に刻まれた破壊の痕跡が、彼女の胸に鈍い痛みをもたらす。

 この光景は、いずれ彼女が目の当たりにする未来であり、この近界(ネイバーフッド)ではごく当たり前に繰り広げられている人の営みの一側面にすぎない。

 

「…………」

 

 廃墟を吹き抜ける風が、細く柔らかな白髪を揺らす。

 フィリアは込み上げる寂寥の念を胸の内から追い払い、闘技場の外へと向かった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 イリニ騎士団はエクリシアの護国を担う武力組織だが、教会の教えに従って国民を啓蒙する教育機関としての一面も有する。

 優良な国民が有するべき徳目とは、信仰や思慮、博愛に勇気といった清く正しい感情である。

 

 当然ながら、国民の規範となる騎士や従士には、武勇の手練だけではなく正しい徳目も求められる。

 厳しい訓練課程であってもそれは変わらず、たとえ敗北を喫したとしても相手を怨むことはせず、その武練の程を褒め称えることこそ模範的な従士の姿なのだ。

 

 とりわけ、同じイリニ騎士団の同朋であれば、戦地に於いては互いに轡を並べる頼もしい戦友となる。腕の磨き合いに暗い感情が挟まれることは無いはずだ。だが、

 

「模擬戦闘終了。従士各位は闘技場前に整列してください」

 

 闘技場から出てきたフィリアに従士たちの視線が一斉に集まる。

 歓声や賞賛は無く、畏怖と侮蔑が混じった気まずい沈黙がアリーナへと立ち込める。

 

「トリガー解除」

 

 フィリアはその視線を軽く受け流しながら、トリオン体を解いて生身の姿へと戻った。

 途端に、少女の視点ががっくりと下がる。

 トリオン体の身長は成人女性の平均よりもやや高い程度だが、今の彼女の身長はそれよりたっぷり二十センチは低い。

 身体のあちこちが未発達の、少女本来の肉体だ。

 

「うん、しょ……」

 

 ぼそぼそと掛け声を口にして、フィリアはその場で屈伸運動をしたり、手のひらの開閉運動を繰り返す。

 

 通常、トリオン体は起動者の肉体を基にデザインされ、なるべく精密にその形状を再現して構築される。

 トリオン体の操縦は起動者の肉体感覚が基準になるため、体型を弄ると操縦に不具合が起きやすい。また、よしんばトリオン体の操縦に慣れたとしても、生身に戻った時に体型の変化に感覚が追い付かなくなるなど、何かと不具合が多いためだ。

 そのため、視力の矯正といった生身の不都合の改善や、偽装といった任務上必要となるケースを除いて、トリオン体を生身から大幅に変更することは滅多にない。

 

 フィリアがトリオン体の設定を調整したのは、偏に先を見据えての事だ。

 従士の階梯に甘んじるつもりのない彼女は、叙勲に足るだけの勲功を上げ、いち早く騎士になることを望んでいる。

 

 だが、騎士の象徴たるトリガー「誓願の鎧(パノプリア)」には、着装に体格基準が設けてある。

 成人していれば女性でも特に問題のない数字だが、今のフィリアではその基準を満たすことができない。

 悠長に背が伸びるのを待つことができない少女は、ともかくトリオン体を適格体型に設定することにしたのだ。

 

 幸いにも「誓願の鎧(パノプリア)」はトリオン体の上から着込むトリガーであるため、生身の身長は基準の対象外である。とはいえ、そもそもそこまで小柄な人物が騎士となった前例はなく、フィリアの苦肉の策が通用するかは甚だ心もとない。

 

「うん……大丈夫」

 

 手足をバタバタと動かし、肉体の操縦に感覚を切り替えるフィリア。

 

 慣れないうちは手足の長さや重心の変化に戸惑いよく転んだりもしたが、今ではトリオン体と生身の両方を十全に扱うことができる。

 それでも切り替えた直後は混乱することがあるので、確認のための運動は怠らない。

 本人はいたって真剣だが、傍から見れば微笑ましい体操にしか見えないだろう。

 

 しかし、彼女を囲む従士たちの態度はあまりにも寒々しかった。

 入団僅か一年足らずで従士の首席へと上り詰めた天才少女、フィリア・イリニ。

 騎士団総長アルモニア・イリニの妹、パイデイアの娘となる彼女は、正式にイリニ家の一門に連なる令嬢である。

 

 イリニ騎士団に使える全ての騎士、従士にとって、彼女は同僚でありながらも主筋にあたる少女だ。

 高貴なる家柄にして天与の才に恵まれた少女。

 だが、それら全ての美質を打ち消す「ノマスの血族」という烙印。

 

 数百年の長きに渡り、エクリシアと闘争を繰り広げてきた敵性国家ノマス。十数年ごとの軌道接近時には、常に血で血を争う戦争が行われる。

 エクリシアが軍事国家として名を馳せたのは、恨み連なる宿敵と戦うためである。

 

 それだけに、エクリシアの民はノマスの血筋に連なる者に対して、並大抵ではない憎悪と恐怖の念を抱いている。

 国民は幼少よりノマスとの確執を教え込まれて育つ。ましてや騎士団に入ろうかという愛国心に溢れた若者たちにとって、ノマスとは邪悪の代名詞といっていい。

 奴隷や貧民として日陰で暮らす者なら知らず、国防の要たる騎士団に大手を振って出入りしているフィリアは極めつけの異物であった。

 

 それどころか、彼らの憧れである大貴族イリニ家の庇護を受け、尋常ならざる才覚で見る間に序列を駆けあがって行った幼い少女に、従士たちは忌避感を隠せない。

 若者たちは活躍するフィリアの姿を通じて、ノマスへの恐怖を感じているのだ。

 

「皆さん。お疲れ様でした」

 

 整列した従士の前に、華奢な女性が歩み出た。

 アメジストのように輝く薄紫の髪を下げ、どこかおっとりとした雰囲気を漂わせている彼女はメリジャーナ・ディミオス。

 第一兵団長ドクサ・ディミオスの娘に当たる人物だ。

 

 豪放磊落を絵に描いたような父親とは違い、柔和で優しい微笑みが特徴的な人物である。年齢は二十を超えているらしいが、童顔なこともあり実年齢よりも幼い印象を受ける。楚々とした立ち居振る舞いながらも、内には強い意志を秘めた、貴族の令嬢の何たるかを体現したような女性だ。

 そしてまた、彼女は若くして教会より叙勲され、騎士となった女傑でもある。

 

 その実力は本物であり、従士主席の地位に上ったフィリアでさえも、模擬戦闘では未だ勝ち越したことはない。

 メリジャーナは従士を監督する騎士の一人で、今日の訓練も彼女の指導の下に行われていた。

 

「本日の訓練はこれで終了です。来季の防衛任務の配置が決まりましたので、従士の皆さんは確認をお願いします」

 

 簡単な総評を述べた後、メリジャーナは業務連絡を以て訓練を締めくくった。

 これで、本日の課業は終了となる。

 訓練を終えた従士たちが闘技場から出ていく。後は皆、思い思いにプライベートな時間を過ごすのだろう。

 だが、フィリアは一人闘技場へと進むと、

 

「メリジャーナさん。個人訓練を行いたいので、闘技場を使ってもいいですか」

 

 と、退席しようとしていたメリジャーナに声を掛ける。

 本日の訓練で勝利者となったフィリアは、未だトリオン体を破損しておらず、トリオンにも多少の余力がある。

 トリオン機関は肉体と同じように酷使と回復とを繰り返すことによって成長する。

 少女はトリオン機関を鍛えるため、ありったけのトリオンを絞りつくすことを日課にしていた。

 

「もちろん構いませんよ、フィリアさん」

 

 フィリアの申し出を快諾するメリジャーナ。

 職員に頼んで訓練プログラムを起動してもらうまで、二人は他愛のない会話を交わす。

 父であるドクサと同じく、メリジャーナはフィリアを忌避せず付き合ってくれる数少ない人物の一人だ。

 その優しい性格も相まって、フィリアも多少は彼女に懐いており、こうして話をすることも多い。

 

「今日の訓練もすごかったですね。でも、あんまり頑張り過ぎは良くないですよ。父さんもテロス団長もあなたは頑張り過ぎだって、いつも心配そうにしてますよ」

「えっと……ありがとうございます」

「あなたはきっと、エクリシアでも一番の騎士になれるわ。だから、そんなに焦って訓練することもないのよ? ほら、小さいときは遊ぶのも仕事だもの」

 

 優しく微笑んで、メリジャーナはフィリアの頭を撫でる。

 騎士団総長アルモニアに近しい人物であるため、フィリアの表向きの志望動機を知っているのだろう。被差別階級の出自でありながら、国家に奉仕することで我が身を立てようとする少女に、彼女は出会った時から好意的だ。

 

「そう、ですね……でも」

「あ、今度お休みを一緒に申請して、二人でどこかに遊びに行きましょうか。お姉さん、こう見えても聖都に詳しいのよ。いろんなお店を知ってるんだから」

 

 メリジャーナはえへんと胸を反らし、大げさに意気込んでみせる。

 

「遊びに、ですか……」

 

 きょとんとした顔で、フィリアはメリジャーナを見上げる。

 正直なところ、母を助けることに身命を掛けた少女にとって、浪費できる時間は一秒たりとも存在しない。

 率直にいって、有難迷惑のお誘いではあった。だが、

 

「もし、よろしければ……是非に」

 

 家族以外から善意を受けたことのない少女にとって、メリジャーナの優しい誘いを断るのはあまりに難しかった。

 フィリアはもじもじと下を向き、小声でそう答える。

 

「準備が整いました。動目標射撃、市街地、難度は最高です」

 

 そうこうしているうちに、闘技場の準備ができたと技師から声がかかった。

 フィリアはメリジャーナに別れを告げ、トリガーを起動した。今日は武装を変更してトリオン小銃「鉛の獣(ヒメラ)」の訓練を行う。すると、

 

「まだ少し時間があるの。見させてもらってもいい?」

 

 と、メリジャーナが指導を申し出た。フィリアは戸惑いながらも、

 

「はい。お願いします」

 

 と、控え目な、それでも本心からの笑顔でそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「神」が作り出した疑似太陽が、地平の彼方に沈んで数時間。

 すっかり人通りの絶えた大通りを車車が走っている。

 イリニ家の紋章が刻まれたその車に乗っているのは、騎士団を後にしたフィリアだ。

 

 訓練でトリオンを使い果たした少女は、次は生身の体にハードなトレーニングを課した。

 筋力鍛錬に持久力の鍛錬は当たり前。バランス感覚を養うために平行棒や杭の上を飛び回り、反応速度を鍛えるため模擬弾の雨を掻い潜る。

 小さな体のいたる所には青痣が浮かび、疲労の余り吐き気を感じるほどだ。

 

 大の男でも根を上げかねない地獄のような訓練。

 それでも少女は泣き言一つ溢さず、己が作り上げたプログラムをこなし続ける。

 

 訓練で流す汗の一滴が彼女を高みへと導き、延いては家族の未来を掴むことになるのだと、少女はそう信じて疑わない。

 発育に悪影響が出ないギリギリまで肉体とトリオン機関を酷使したフィリアは、精も根も尽き果てて人形のようにシートにもたれかかっていた。

 騎士団へ入団してから恒例となっているハードワークである。全身を凄まじい疲労感が襲い、腕を動かすことさえ難しい。

 

 だが、それでも少女は決して休息を取ろうとはしなかった。

 

「……」

 

 少女は細い手首にはめられた腕輪を弄る。これはイリニ騎士団から支給された携帯端末である。

 

 投影装置を起動すると、空間をモニターにして薄暗い車内に映像が浮かぶ。

 少女はまず防衛任務の通達を一読すると、次にライブラリを選択し、トリオン工学の教本を呼び出した。

 大人でさえ頭を痛める専門用語の波を、少女の瞳は滑るように読み進めていく。

 

 身体を追い込んだあとは、頭脳を鍛える番である。

 移動の間など短い時間を見つけては、フィリアは貪欲に知識を蓄えていた。

 国防に係わる技術書を読むこともあれば、騎士団で公開されている戦闘映像を閲覧して自らの戦術に還元することもある。

 

 フィリアはその生活の全てを、自らを戦闘兵器に作り変えることに費やしていた。

 

「お帰りなさいませ。お嬢様」

 

 イリニ邸へ到着すると、夜番の守衛が小声で声を掛けてきた。

 

「ただいま戻りました」

 

 車の窓から頭を出して丁寧に応対するフィリア。

 帰宅時間が深夜になることは珍しくもないため、フィリアは使用人の出迎えを断っている。夜中まで拘束された挙句、小娘に頭を下げるのは誰だって嫌だろう。

 屋敷に来た当初から比べれば、少女に対する使用人の感情も随分改善されている。要らざることを強要して反感を買うのは御免であった。

 

「ありがとうございました」

 

 運転手に礼を述べると、フィリアは明かりの消えた館に入る。

 自宅に戻ったとしても、後は寝るだけである。

 それでも最低限の身支度は整えなければならないため、少女は疲労を押してバスルームへと直行する。

 

 身体を清めるだけの短い入浴をすませ、今度こそ自室へ向かうフィリア。

 もはや疲労困憊の極みにある少女は、ふらふらと足取りまで覚束ない。

 少しでも気を抜けば意識を手放してしまいそうになる。それでも、少女は小さな肩をそびやかし、毅然とした態度で廊下を歩く。

 

 もしフィリアが倒れでもした場合、計画の実現は大きく遠のく。

 いついかなる状況であっても、彼女は完璧に振る舞わなければならないのだ。

 

「――?」

 

 眠気をかみ殺しながら自室の前までたどり着いたフィリア。するとそこには、何者かの気配がある。

 

「お帰りなさい。フィリア。今日も大変だったようですね」

「ヌース? どうしたの、こんな時間に……」

 

 少女を出迎えたのはヌースである。彼女はいつからそこにいたのか、フィリアの部屋の前で静かに空中に浮かんでいた。

 

「――ああ、そっか……」

 

 訪問の理由を問おうとして、フィリアのサイドエフェクトはすぐさま答えを導き出した。

 ついで、自嘲めいた笑みが口の端に上る。

 

「今日、私の誕生日だったね」

「…………」

 

 そういえば、弟妹たちとはもう何日会っていないだろうか。

 

 イリニ家で厳格な暮らしを送っている弟妹と、騎士団で訓練漬けの毎日を送るフィリアとは、当然のように生活リズムが異なっており、顔を会わす時間は殆どない。

 それどころか、フィリアは多忙を理由に母パイデイアとの面会さえ拒んでいた。

 

 母との対面は、郊外のイリニ家本宅で行われる。

 普段は聖都の別宅で起居し騎士団の運営や国政に携わるアルモニアは、月に一日だけ本宅へと戻って家人らに施政の指示をする。

 フィリアら子供たちも、その車に同乗して母のいる本宅に向かうのだ。

 とはいえ、行きと帰りの移動時間を差し引けば、母との対面が許されるのはほんの僅かな時間だけである。

 

 その貴重な時間を、フィリアは悉くふいにしていた。

 最愛の母と会うことを、少女は心の底より恐れていたからだ。

 

 騎士団に志願したことを、母を生かすために他人の命を奪うことを、彼女は一片たりとも後悔していない。

 しかし、あの優しい母の、悲しみに染まる顔をみることだけは、未だに覚悟が定まらなかった。

 

「サロスたちから贈り物と言伝を預かっています。フィリア、疲れているようなら後日にしますが……」

「ううん、そんなことないよ。入って」

 

 フィリアは自室の扉を開け、ヌースを招き入れる。

 貴族の寝室に相応しい豪奢な設えだが、備え付けられた家具以外に物は殆どない。

 書架に難解な専門書が差さっているほかは、子供らしい玩具もなく、心休まる花やレースもなく、チェストに納められた衣類さえ最小限のものしかない。

 

 その空虚な部屋には、少女の苛烈な一年が詰まっていた。

 

「みんな、元気にしてたかな」

 

 寝支度を整えながら、フィリアはそう言って曖昧な笑みを浮かべる。

 誰よりも大切な家族を守るために、彼らを顧みることなく過ごした一年。

 果たして、未だに自分は家族の愛情を受けるに値しているのだろうか。

 そんな思いが少女の胸に去来する。その時、

 

「え、もうこれ撮ってんの?」

「録画中です」

「あ、やべ、みんな並べ並べ」

 

 殺風景な部屋に、場違いに明るい少年の声が響く。

 フィリアが振り返ると、そこにはサロス、アネシス、イダニコたちの姿がある。

 ヌースが撮影したビデオメッセージを立体映像で再生しているのだ。

 

「いくぞ、せーの」

「「「フィリアお姉ちゃん、お誕生日おめでとう!」」」

 

 サロスの掛け声に合わせ、弟妹たちが元気よく寿ぎの言葉を紡ぐ。

 彼らの笑顔は純真無垢そのもので、フィリアは一年前の、貧民街の我が家での楽しかった日を思い出した。母との別れや貴族としての厳しい生活も、彼らは柔靭な心で受け止め、必死に適応してきたのだろう。

 

 弟妹たちの純粋で優しい心は、何一つ損なわれてはいない。

 映像の中の弟妹たちは、口々にフィリアへの感謝の言葉を述べると、軍生活への心配を溢し、それでも激励の言葉を告げる。

 

「…………」

 

 フィリアは言葉も無く、ただ映像を眺め続ける。

 

「えっと、プレゼントは直接渡したかったけど、ヌースに頼みました。みんなで作ったの。姉さん、気に入ってくれると嬉しいな」

 

 控え目なはにかみ笑顔でそう言うのは妹のアネシスだ。この一年でみんな随分大きくなった。

 

「お姉ちゃん。お仕事大変だけど、がんばって!」

 

 そして、末の弟イダニコの晴れやかな笑顔で、ビデオメッセージは終了する。

 フィリアは着替えの手を止めたまま、映像の浮かんでいた空間をぼんやりと眺めていた。

 

「……フィリア?」

「――あ、ごめんね」

 

 ヌースの声で、ようやく少女は我に返る。

 

「体調がすぐれないのですか?」

「そんなことないよ。ちょっと、嬉しくなっちゃって」

 

 ベッドに腰掛けたフィリアは、どこか儚げな笑顔を浮かべる。

 ヌースはベッドまで浮遊すると、体表から万能索を伸ばして小箱を少女の膝の上に乗せる。

 

「開けていいかな?」

「どうぞ、是非」

 

 フィリアは恭しい手つきでプレゼントの小箱を開封する。リボンを解き、包み紙を剥がす。その一瞬ごとが、大切な宝物であるかのように。そうして、

 

「わぁ……」

 

 箱の中から出てきたのは、銀細工のペンダントであった。

 小さな鍵を模したデザインで、随所に六つ、控え目な大きさの宝石が散りばめてある。

 

「加工は私が行いましたが、デザインと材料の購入は、皆の努力の所産です」

 

 抑揚の無いヌースの声に、どこか誇らしげな響きが混じる。心から歓声を上げ、愛おしそうにペンダントを眺めるフィリアに、彼女も満足したようだ。

 実際、ペンダントに施された細緻な装飾は見事なもので、貴人の胸元を飾っても不思議ではない出来だ。

 それに磨き抜かれた銀の地金や、鍵を彩る宝石も本物である。

 モノが小さいため大した金額ではないだろうが、それでも弟妹たちにとっては大きな出費だったはずだ。

 

 イリニ家は国内有数の大貴族だが、それ故に教育は厳格だ。彼らに渡される小遣いなど、高が知れている。

 これを作るためには、三人は貯金を持ち寄らなければならなかっただろう。

 そして、何よりフィリアの心を強く打ったのは、そのデザインである。

 どれだけ瀟洒に飾り付けられようとも、決して見間違えることはない。この形は、フィリアたちが暮らしていた、あの貧民街の家の鍵だ。

 そしてそれを飾り付ける六つの宝石は――

 

「……」

 

 少女の細い指先が、そっとペンダントを撫でる。知らずと間に、目じりに涙が浮んだ。

 彼女の帰る場所、生きる意味。

 その思いを家族が共有していたことが、只々嬉しい。

 

「ヌース」

「はい」

「あのね。みんなに、えっと……」

 

 どんな言葉を紡げば、この感謝と歓喜を表すことができるのか。

 戦場では無謬の答えを導き出すサイドエフェクトでも、適切な言葉が見つからない。

 

「大丈夫です。フィリア。ちゃんと伝えますから」

 

 ヌースの温かな言葉に、フィリアは微笑みで答える。

 そう、言葉などいらない。こうして家族は心で繋がっているのだから。

 

「それじゃあ、もう休むね」

「暖かくしてください。フィリア」

 

 ヌースを見送ると、少女は長い一日を終えるべく、ようやくベッドに横になった。

 枕元に置いたペンダントを、小さな手でやさしく握りしめる。

 この一年間、疲弊しきった体と心を回復させるためだけに、気を失うように倒れ込むばかりだったマットレス。けれど今日だけは、その包み込むような温かさと柔らかさに、フィリアは心の底からの安らぎを得た。

 

 

 

 



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其の五 防衛任務

 雲一つない晴天の下、緑の草原が風に波打っている。

 可憐な野花には蝶が舞い踊り、小山のような牛はそこかしこで草を食んだり、のんびりと寝転がったりと、実に牧歌的な風情が漂っている。

 聖都より遠く離れた農場の、いつもと変わらぬ長閑な風景。

 

 その隣を、巨大な人工物が通り過ぎていく。

 農場に面した広い幹線道路を走っているのは、二十メートルを超えるトレーラー型のトリオン輸送車だ。

 

 そしてその前後左右を囲むように、無骨な造りの兵員輸送トラックが走っている。

 車列は沿道を埋めるように長大で、どの車両にもイリニ騎士団の紋章が大きく刻み込まれている。

 先頭を走る兵員輸送トラック、その簡素極まる車内には、年若い従士たちが整然と並んで座っている。その中にはフィリアの姿もあった。

 

 少女は既にトリオン体へと換装し、準戦闘態勢である。

 それもそのはず、これより少女たちは戦場へと向かうのだ。

 他国の侵略者からエクリシアを守るため、彼らは防衛任務に就く。

 

 広大な牧草地を抜け、なおも走り続けるトラック。

 やがて、地面は段々と草木がまばらになり、ごつごつとした岩肌が目に付くようになる。

 

 そこからさらに車を進ませると、もはや生き物の気配も感じられない荒涼とした大地が果てしなく広がっている。

 聖都から遠く離れたこの場所は、名をリスィ平野という。

 エクリシアに侵攻してきた諸外国を迎撃するための、大規模な軍事拠点だ。

 

 平野内に点在しているトリオン製の堅牢な建物は、それぞれの騎士団が持つ基地である。

 その中の一つ、イリニ騎士団の基地で車両の群れが停車する。

 

「各員降車。物資搬入に掛かってください」

 

 普段の優しげな物言いとは打って変わって、メリジャーナが威厳に満ちた声で従士たちに下知を飛ばす。

 まず初めに、基地内へ補給物資を運び込む。

 戦闘区域からは多少の距離があるが、基地は一般人の立ち入りを禁止している。戦闘以外の日常生活すべてを、従士は自分たちの手でこなさねばならない。

 

 だが、硬いシートに揺られ続けていた若者たちにとって、その程度の運動はむしろ歓迎すべきものである。

 二百人余りの従士たちは一斉にトラックから降りると、機敏な動作で荷物の搬入にかかった。

 そうして作業を終えると、従士たちは基地内の講堂に整列し、隊長のメリジャーナよりブリーフィングを受ける。

 

「現在我がエクリシアの接触軌道上にある国は洋上国家ナウタと農業国マギラス。また未確認の乱星国家が接近中とみられます。ナウタ、マギラスの保有戦力は我が国に及ぶべくもありませんが、総員気を引き締めて防衛に当たってください」

 

 隊長の凛然とした訓示に、従士たちは各々のトリガーを胸元に構え、一糸乱れぬ剣礼で答える。

 

 ナウタ、マギラスともに小規模な国家であり、過去に起きた衝突でもエクリシアが常に優位を占めていた。とはいえ、どの国々でも技術革新は盛んに行われており、弱小国家が一夜にして軍事強国になることは珍しくもない。油断は禁物だろう。

 だが、その二か国に関して言えば、大規模な攻撃を受ける可能性は低いと考えていい。

 

 現在エクリシアでは「神」の候補者を探し出すため、有力貴族は挙って外征を行っている。ナウタには三大騎士団の一角フィロドクス騎士団が、そしてマギラスには我らがイリニ騎士団の精兵が派遣されている。

 それも通常の遠征とは異なり、部隊は当主自らが率い、「(ブラック)トリガー」を投入しての大攻勢を仕掛けている。

 

 (ブラック)トリガー。

 それは優れたトリオン能力の持ち主が、自らの命とトリオンを注ぎ込んで創り出す特別なトリガーである。

 

 希少性もさることながら、(ブラック)トリガーが特別視されているのはその桁違いの性能故だ。通常のトリガーとは隔絶した性能を持つ(ブラック)トリガーは、僅か一本で戦局を塗り替えることができる戦略級の兵器として位置づけられている。

 

 近界(ネイバーフッド)では(ブラック)トリガーの所有数がその国の軍事力の指標になる、と言えば、その超絶の性能も想像しやすいだろうか。

 それらを惜しげもなく投入しての攻撃である。ナウタ、マギラスともに反撃に移るだけの余剰戦力は持ち合わせていないだろう。

 

 しかし、本来は国防の要となる(ブラック)トリガーを国外へ差し向けたため、現在のエクリシアの防備は平時よりも大幅に弱体化している。

 防衛部隊に課せられた責務は重大である。

 

「従士フィリア・イリニ。フィロドクス騎士団、ゼーン騎士団へ着任の挨拶に向かいます。同道してください」

 

 ブリーフィングを終えたメリジャーナが、そう言ってフィリアを呼び止めた。

 

 エクリシアの騎士団は相互不干渉が原則であり、他国との全面戦争など、教会が直接指揮を執るような事態でない限り協調することは滅多に無い。

 しかし、神の代替わりという国家の危局に際してまで、不干渉を貫くのは愚策極まる。

 戦力が心もとない以上、各騎士団が連携して防衛に当たるようにと、三大貴族の当主たちは事前に協定を結んでいた。

 

 メリジャーナとフィリアを乗せた車両が、荒涼とした大地を進む。

 少女の表情はやや硬い。他家の要人との会合に緊張しているのだろう。

 騎士の御付人は従士が務めるのが通例だ。主席のフィリアに声がかかったのは何も珍しいことではない。

 

 とはいえ、ノマスに連なる人間がその地位にいることは極めて異例である。

 特殊な事情ゆえにイリニ騎士団では他者と変わらぬ扱いを受けているものの、フィリアがエクリシアにとって唾棄すべき賤民であることに変わりはない。

 

 特に武闘派で知られるゼーン家は、一年前に家督を継いだ現当主が非常なタカ派として知られている。貧民時代、施し目当てで奉公していたフィリアも、それが原因で屋敷を去らざるをえなくなった。

 サイドエフェクトに頼ってみるが、まず歓待されることが無いのだけは確実である。ともあれ会合の主役はメリジャーナなのだから、己は置物になっていればいいと、フィリアは自分を鼓舞する。

 

「まずはフィロドクス騎士団へ向かいます。現在指揮を執っているのは宰領エンバシア・カナノス殿です」

 

 指揮官らしい威厳に満ちた声でそう説明しながら、メリジャーナは同乗するフィリアに「心配しないで」と優しい目線で語りかける。

 

 防衛部隊を率いる隊長として謹厳に振る舞っているメリジャーナだが、その心配りに満ちた性格は変わらない。

 会合にフィリアを同行させた理由も、少女の行く末を思ってのことだ。

 騎士として叙勲されれば、他家との会合にも否応なしに出席せねばならない。年若い内から雰囲気に慣れさせ、また他家の要人に少女を引き合せるつもりなのだろう。

 

 二人を乗せた車両の前に、広壮な建築物が見えてきた。

 フィロドクス騎士団の基地である。基本的な造りはイリニ騎士団のそれと大差ないが、家風の差だろうか、無骨な構えの中にもどこか雅やかな印象がある。

 

「よく来てくださいましたディミオス卿。直接お会いするのは久方ぶりですが、いやいや一段とお美しくなられた」

 

 応接室にてフィリアたちを出迎えた男性は、フィロドクス騎士団の大幹部、エンバシア・カナノスである。

 年の頃は六十の手前程で、背格好は中肉中背、目鼻立ちもエクリシアの貴族としてはごく平均的な造りで、どちらかといえば地味な印象を受ける。

 とはいえ見かけで判断するのは軽率だ。彼は三大貴族の一角、フィロドクス家に四十年以上も仕え、的確な指揮と政務で当主を支えてきた人物である。その能力の非凡さは語るまでもない。

 

「若輩者ではありますが、全霊を以て祖国防衛の任に当たる所存です。カナノス卿にも、是非お力添えを頂きたく思います」

「それは無論のこと。精強なるイリニ騎士団と轡を並べることができれば、我らとしてもこれほど頼もしいことはありますまい」

 

 典雅な物腰でメリジャーナの要請に応えるエンバシア。そもそも協力体制については当主の間で協定が結ばれている。訪問は顔繋ぎと確認に過ぎない。

 

「ところで、そちらに控えている彼女は……」

 

 協定について二三の確認事項を済ませると、エンバシアは壁際に不動の姿勢で立つ少女に視線を送った。

 

「紹介いたします。彼女は我が騎士団の筆頭従士、フィリア・イリニです」

「フィリア・イリニと申します。拝謁を賜り光栄の至りです」

 

 見事な作法で自己紹介をするフィリアを、エンバシアは興味深げな様子で眺める。

 イリニ家当主アルモニアが迎えたこの奇妙な少女のことは、エクリシア中で噂になっている。

 しばらく好奇の視線に曝されたフィリアだが、エンバシアはそれ以上何も訊ねることはなく、会合は平和裏に終わった。

 

 フィロドクス騎士団を後にした二人は、再び車に揺られること数十分。ゼーン騎士団の基地へと向かう。

 指揮を執るのはゼーン家当主、ニネミア・ゼーンだ。

 

 夭折した先代の跡を継ぎ、僅か十八歳の若さで当主の座に着いた美貌の少女である。

 ニネミアは若年ながらも並はずれた武勇を誇り、先代より受け継いだ(ブラック)トリガーを担って数々の華々しい戦功を挙げた護国の英雄である。

 

 道中、車内でフィリアがこれから訪ねる貴人の来歴を語ると、同席していたメリジャーナは困惑したように美しい顔を顰めた。

 その理由はゼーン騎士団の基地に着くと、すぐに明らかとなった。

 

「ノマスの人間を会議に同席させるなんて、イリニ騎士団は正気なの?」

 

 応接間に通されたフィリアとメリジャーナに対し、開口一番そう言い放ったのは、何を隠そう当主ニネミアその人である。

 

 絹のような黒髪を靡かせ、小作りながらも高く通った鼻梁に凛とむすばれた口元。つり目がちな瞳は紅玉のように赤く輝き、意思の強さを窺わせる。均整のとれた肢体は美しくしなやかで、若々しい活力に満ち溢れていた。

 大国エクリシアでも、稀にみる美女といっていい。

 

 そんな彼女が、嫌悪も露わにフィリアを睨みつけていた。

 容赦のない敵意に、さしものフィリアもたじろいでしまう。それでも少女は勇気を奮って抗弁しようと口を開きかける。その時、

 

「ゼーン閣下、どうか御言葉を撤回していただきますよう。これなる娘はイリニ騎士団の正統なる従士にして、我らが主君、アルモニアの姪御にあたります。彼女への侮辱は、我らの忠義にかけて看過できません」

 

 フィリアを庇うように歩み出たメリジャーナが、硬い声音でそう抗議した。

 ニネミアのあからさまな侮蔑に対し、メリジャーナは普段の温厚な姿からは想像もできない凄烈な怒気を発している。

 肌を刺すようなその迫力に、フィリアは騒動の当事者であることさえ忘れ、小さく身体を震わせた。そして、

 

「……余所の方針にまで口を出したのは謝るわ。撤回するから、その喋り方はよしてちょうだい。気味が悪いわ」

 

 メリジャーナの真剣な抗議が通じたのか、少女は軽く肩をすくめてそう謝罪する。

 

「ニネミア。何度も言ってるでしょう。人は生まれだけで決まるものじゃないよ!?」

「そうやって不穏分子を国内に抱え込むのがどれだけ危険か、分からないあなたではないでしょう?」

 

 お互い随分と気心の知れた間柄らしい。メリジャーナは指揮官としての謹厳な立ち居振る舞いをすっかり忘れ、行状の悪い妹を叱りつけるような調子である。一方ニネミアもフィリアに見せた敵意はどこへやら、妙にむきになった様子で喰ってかかる。

 先ほどまでの剣呑な空気は消え去り、二人の美女は喧しく主義主張を戦わせている。

 発端となったフィリアといえばほったらかしで、ヒートアップする二人を困ったように眺める始末だ。

 

「あの、私は退席したほうがいいのでしょうか……」

「フィリアさんはそこに居なさい。出て行っちゃダメですよ!」

「あら、少しは分を弁えているようね。次の間で控えてなさい」

「っ! あなたはまたそんなことを言って……」

「はぁ……あの、防衛任務の打ち合わせはよろしいのでしょうか」

 

 このままでは任務に支障がでると判断したフィリアは、二人の間に立ってまあまあと宥め役に回る。

 議論の内容は国富を圧迫する貧民問題と、労働力として酷使している諸外国からの虜囚についてと極めて真面目なのだが、いかんせんお互いの距離が近すぎるため感情的になり過ぎている。どことなく弟妹が喧嘩しているのを思い出す有様だ。

 

「――はあ、はあ。……そうね、今すべき話ではありませんでした」

「――ま、まあ、私も少し昂ぶり過ぎたみたいね。貴族として恥ずべき振る舞いだったわ」

 

 ようやく平静を取り戻した二人の美女を、少々あきれた様子で眺めるフィリア。

 

「では隊長。よろしくお願いします」

 

 排外主義のニネミアは自分が同席していては軍事機密を話したがらないだろうと、フィリアは恭しく一礼してから退席しようとする。すると、

 

「待ちなさい」

 

 と、当のニネミアから引き留められる。

 

「あなたがイリニ家の庇護下にあることは知っているわ。メリジャーナの言うとおりなら、恩を感じるだけの情義はあるようね」

 

 紅く輝く瞳は未だに猜疑の色が残っているが、それでも一先ずのところはメリジャーナの言を信じたらしい。

 会議に同席してよいと、遠回しにフィリアに伝える。

 

「……ありがとうございます。ご期待に沿えるよう全力を尽くします」

 

 そうしてようやく会合が行われたが、打ち合わせそのものはごく短時間で済んでしまった。もともと協定内容はお互い承知の上で、メリジャーナもニネミアもこれが初めての席という訳でもない。

 嘘のようにスムーズに会合を終えると、フィリアとメリジャーナは基地に戻るべく再び車へと乗り込んだ。その車内で、

 

「ゼーン閣下とは、御友人なのですか」

 

 あのやり取りを見れば一目瞭然だが、あえてフィリアはそう尋ねた。

 

「うん、そうなのよ。ごめんね、フィリアさん。嫌な気分にさせてしまって……あの子、本当はとってもいい子なのよ。ただ、その……」

「いいえ、私は別に。……お疑いになる気持ちも、分からなくはありませんから。ゼーン家の先代様は、確か遠征先で名誉の死を遂げられたと……」

 

 フィリアの言葉に、メリジャーナが美しい横顔を曇らせる

 

「ええ、その通りよ。昔から他国の捕虜や貧民を良くは思っていなかったみたいだけれど、ここまで意見を先鋭化させたのは、父君を亡くしてからね」

「そうでしたか……」

 

 フィリアとて、母を助けるために騎士団へと志願したのだ。肉親を亡くしたニネミアの怒りと悲しみ、憎しみを理解できない訳ではない。

 元より、フィリアは年齢不相応に大人びているだけで、感情の豊かな子供である。嫌悪を向けてきた相手でも、その境遇を思えば同情心が強く沸き起こる。

 

「……あの子のこと、許してあげてね」

 

 メリジャーナが困ったように弱々しく笑い、フィリアにそう頼んだ。

 

「もちろんです。家は違っても、志を同じくする御味方ですから。……いつか、ゼーン閣下にも認めていただけるよう、誠心誠意励みます」

 

 少女は心優しい隊長に向けて、誠実にそう宣言する。

 事実、フィリアはニネミアへの悪感情など一欠片も芽生えていなかった。

 それどころか、ゼーン家の活躍を応援する気持ちでさえあった。

 ニネミアの他国に対する怒りは、より一層ゼーン騎士団を狩り立て、遠征を強烈なものにするだろう。

 

 新たな神は、どの家から出ても構わない。

 彼女が母に代わる生贄を捕まえてくることを、少女は心から応援していた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 イリニ騎士団の駐屯地に戻ったフィリアはメリジャーナと別れ、兵舎で待機する。

 

 前任の部隊から引き継ぎが済むと、正式に防衛任務が開始となった。

 メリジャーナ率いる騎士の下、彼女たち従士はこの荒野で一か月の間、異国からの侵略者を撃退せねばならない。

 

 防衛任務には、予め決められた班ごとに分かれ四交代であたる。

 フィリアの班は防衛部隊の一番手である。前任部隊から引き継ぎを行うと、程なくして同僚と一丸になって前線へと赴く。

 

 数分ほど歩いて辿りついたのは、岩屑に覆われた荒野に聳える白亜の長城だ。

 陽光を受けて燦然と輝く城壁の内側には、すり鉢状の巨大な窪地がある。

 差し渡しが三キロメートル、高低差は最大で三十メートルはあろうかというこの巨大なクレーターは、教会と騎士団よって作られた戦闘用区画である。

 

 窪地の中には複雑な防御陣地が築かれ、周囲を取り囲む城壁には巨大な砲台が多数設けられている。

 遥か上空から眺めれば、荒野に巨大な白いサークルが現れたように見えるだろう。この場所こそが、エクリシアの国防の要となる「隔離戦場」だ。

 

 白亜の長城には、等間隔に十二本、天を衝くトリオン製の塔が伸びている。

 それらの塔は、(ゲート)の誘導装置である。

 近界(ネイバーフッド)の戦闘では、攻め手側は兵を送り込む際、空間を繋げる(ゲート)トリガーを用いる。しかし、この装置は(ゲート)の展開座標を強引に誘導し、強制的にこの窪地へと出現させることができるのだ。

 交戦地点の決定という敵方の最大アドバンテージを真正面から叩き潰すこの装置は、近界でもごく一部の国しか持ちえない特級の技術だ。

 

 エクリシアに降り立った敵兵は、哀れにも大地を踏んだ途端、砲火と精兵に取り囲まれるのだ。

 そして敵の侵攻場所の限定によって、市民の保護も非常に容易くなった。

 (ゲート)誘導装置の開発以降、エクリシアでは一般市民の死傷者は出ていないことからも、その効果は推して知るべきであろう。まさに救国の発明である。

 

 車両から降りたフィリアたちは、城壁内部の兵員待機所へと移動する。

 城壁内は強度を高める為に極限までトリオンを密集させており、人間の居場所は極端に狭い。それぞれの騎士団が機密を保持したがることもあって、指揮所や兵の宿舎は後方の基地に設けられている。

 

 少女たちは殺風景な待機所で、只々変事が起こるのを待つ。彼らの仕事は今のところ、敵を待つだけだ。

 接触軌道上にいる間、敵国はいつでも攻めて来ることができるが、何も肉眼で監視を行う必要はない。

 (ゲート)が出現する兆候があれば観測機器が真っ先に警告してくれる。機械類の操作、管理は技術班の仕事なので、現状彼らはすることがない。

 

 実働班である従士たちの出番は、敵がエクリシアに攻め込んだその瞬間から始まる。いざ実戦となるその時までは、長い待機時間が続くのだ。

 従士たちの殆どは待機室のベンチに座り、中空に浮かぶ立体投影モニターを眺めたり、手元の情報端末を操作したりしている。

 中空に浮かぶモニター群にはエクリシアを中心とした国家の軌道配置図や、戦闘区域の監視映像、洋上国家ナウタと農業国マギラスの過去の投入戦力などが映し出されている。

 

 また、過去の戦闘の映像記録も公開されているため、従士たちは携帯端末でそれらのチェックに勤しんでいる。

 しかし、従士たちの多くは再度の情報確認を済ませると、眠ったように目を瞑り、座ったまま微動だにしなくなった。壁に背を預けている者や、床に座り込んでいる者もいる。

 

 トリオン体は生身とは違い驚異的な耐久力と持久力を持つが、精神はその限りではない。

 長時間にわたる待機命令はどうしても心理的な負担が大きく、緩みも生まれやすい。

 有事が起こるまで最良のコンディションを保つための瞑想は、騎士団で施される訓練の一つだ。心身の平衡を保ち、如何なる状況にも即応するため、従士たちはただひたすら雑念を追い払い、精神を透明にしていく。

 

 夜のような静寂に包まれる待機所を、一人歩いて出たのはフィリアである。

 彼女は部屋を抜け出すと、人気のない倉庫の一角へと移動する。

 出動命令は城壁内のどこにいても聞こえるため、城壁から出なければ歩き回っても構わない。出撃に遅れれば相応の罰を受けることになるが、よほど遠くに行くか、寝こけてでもいない限りその心配はないだろう。

 

 薄暗い倉庫の中、少女は周りに誰も姿もないことを確認し、十分なスペースがあることを再三確かめると、ブレードトリガー「鉄の鷲(グリパス)」をその手に創出した。

 そして少女はトリオンの供給を止めて刃引きをすると、剣術の型取りを始める。

 騎士団に伝わる正統の武芸、イリニ流剣術だ。

 

 呼吸を整え、トリオン体の隅々にまで意識を張り巡らす。五体が万全に動くのを感じ取った少女は、緩やかに剣を執った。

 薄暗い倉庫内に、剣閃が文目を描く。少女は疾風の如き運足で倉庫内を飛び回ると、迅雷の如き一刀で虚空を薙ぎ払う。

 

 次第次第に、少女の心からは雑念が消え去り、精神が研ぎ澄まされていく。

 従士となったその日から、一日も欠かすことなく剣を振ってきた少女は、僅か一年足らずの間に、イリニ家に伝わる剣術を余すことなくその身に納めていた。

 フィリアには剣の天稟があり、狂気じみた目的意識があった。加えて「剣聖」と謳われるアルモニアから指導を受けられたこともあって、既にその技量はエクリシアでも指折りの高みにある。

 

 静かに、しかし速度と熱量を増していく剣の舞。

 その動きは殺生の集大成でありながら軽やかで美しく、同時に怖気を震う程に激しく呵責が無い。

 型が進むごとに少女の意識は希薄になり、手の中の一刀さえ、その重さを失っていく。

 

 家族を救う大願を立てたその日から、少女の人生は困難の連続だった。他国へと赴き、母の代わりとなる生贄を探すため、ひたすらに力を求め続けた。

 初めて剣を手にした時、フィリアはそれが驚くほど手に馴染んだことを覚えている。

 そしてイリニ流剣術を習った時、その動きの玄妙さ、奥深さに感銘を受けたのも間違いない。

 生来争いごとを嫌う性分に生まれた彼女が、何故こうまで剣に惹かれるのか分からない。

 

 ただ、剣を無心で振るうその時、少女は過酷な人生を暫し忘れることができるのだ。

 

「…………ふう」

 

 永遠に続くかと思われた剣術の修練も、やがては終わりを迎える。

 

 フィリアは呼吸を整えると「鉄の鷲(グリパス)」を床に置き、正座して瞑想を始めた。

 五体を用いて描き出した剣の術理を、今一度肉体に覚え込まさねばならない。

 極限まで磨き上げられた精神の中、少女はもはや自分が何処にいるのかも、どんな任務を課されていたかも覚えていない。

 

 意識は次第に輪郭を失い、自己の在り処さえ定かではなくなる。

 そうして深い瞑想の中に端坐するフィリア。

 彼女の意識を呼び起したのは、事務的な男の声で行われた放送だ。

 

「ああ、もうそんな時間」

 

 フィリアは瞼を開くと「鉄の鷲(グリパス)」を消去した。今しがたのアナウンスは敵の襲来を知らせるものではなく、守備隊の交代時間を知らせるものだ。

 

 結局、今回の任務中に敵の襲撃は無かった。まあ、予見されていたことではある。

 ナウタもマギラスも現在エクリシアが侵攻中であり、反撃するだけの余力は残していないだろう。トリオン兵での偵察もないところを見ると、よほど我が方が押し込んでいるらしい。

 

 少女は急ぎ足で倉庫を出ると、引き継ぎの為に待機所へと向かった。

 ちなみに、少女は八時間もの間、飲まず食わずでトイレにもいかなかったが、これはトリオン体が食物の吸収効率に極めて優れ、食事の回数を抑えられるうえに排泄の必要も殆どなくなるためである。

 トリオン体は戦闘行動を行わなければ非常に長期にわたって活動できるため、補給を最小限に抑えることができる。

 

 けれども、任務を終えて後方の兵舎に戻ったフィリアは、換装を解いて生身の体で休息を取った。これはトリオン体でいる間はトリオン機関が回復しない為である。防衛戦に阿万全の状態で臨むため、休憩時間はトリオンの消費が硬く禁じられているのだ。

 休憩時間とはいえそう暇ではない。食事や風呂、洗濯は集団で行うが、それ以外の身の回りのことは自分で行わなければならない。貴族の子弟は慣れるまでに随分と時間がかかる者もいる。

 

 無論、貧民としての暮らしの方が長いフィリアには無関係の話だが、彼女の場合はそもそも人生に休息そのものが存在しない。

 普通の兵士なら家族と連絡を交わしたり、気晴らしを行ったりと英気を養う一時を、フィリアはひたすら愚直に修練へと当てる。

 

 国土防衛の最前線だからこそ、得られる知識も膨大で貴重なモノばかりだ。少女は私用を僅かの内に片付けると、あとは自発的な手伝いと称して様々な部署に顔を出している。

 防衛の要である誘導装置を始め、各種砲台やトラップの維持管理。トリオン兵の製造と行動のプログラミング。また、騎士団全体に関する運営システムなど、知らなければならないことは山ほどある。

 

 当然、部外者の立ち入りを喜ぶ者などおらず、それもノマスの血に連なる者ならなおさらだ。しかしフィリアは顰蹙を買わぬ程度にイリニ家の名前をチラつかせ、反感を無視して入り込んでいた。

 

 これは以前の防衛任務から行っていたことであり、そのため今ではフィリアの手伝いを咎める者もいなくなっていた。彼女の仕事は出しゃばりが過ぎず、よく気が利いていて、およそ手伝いとしては非常に優秀であったことも、受け入れられた要因だろう。

 そして礼儀正しく熱意に溢れ、どんな技術も貪欲に学ぼうとするフィリアの姿は、彼女の血筋に嫌悪を持つ人々の心を、少しずつだが確実に解きほぐしていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうして、着任からはや一週間が過ぎた。

 敵の襲撃は二回だけで、それもトリオン兵のみを用いた小規模な偵察行動のみである。

 いずれもフィリアの受け持ち時間の出来事ではなかったが、その程度の攻撃で損害を出すようなエクリシアではない。

 

 トリオン兵は即座に殲滅され、また残骸を解析した結果から、送り込んできた国はナウタであることが分かった。

 エクリシアの防備の偵察と、後方のかく乱を狙った派兵とみられるが、騎士団の苛烈にして徹底的な迎撃を受けては、何の成果を上げることもできない。

 

「各種テスター異常なし。これで最後ですね」

 

 そんな情勢の中、フィリアは今日の休憩時間も基地には戻らず、技術班の男性たちに混じって城壁に据え付けられた砲台の稼働チェックを行っていた。

 

 防衛の主力は各騎士団の騎士、従士たちだが、戦闘区域内にはトラップが敷き詰められており、またクレーターの外縁部には自動砲台がずらりと設置されている。

 砲撃はトリオン消費が大きいため、小規模な戦闘では用いられないが、敵を頭上から一方的に攻撃できるこの兵器は驚異的な殲滅力を誇り、いざという時の切り札になる。

 

「すみません。では先にお昼を済ませてまいりますね」

 

 一通り作業が終わったところで、少女は周囲に頭を下げてトリオン製の堡塁を駆け下りる。見送る職員たちからは、控え目ながらも礼の言葉が投げかけられた。

 共に仕事をするようになってから、職員たちのフィリアに対する態度は目に見えて改善されている。だが、

 

「……御恵みを与えたもう我らが神に、感謝の祈りを捧げます」

 

 基地の食堂にて、昼食を受け取り席に着いたフィリアは、小さな声で食前の祈りを唱えていた。

 食堂は大して広くもなく、昼食時には多数の従士たちで混雑するのだが、フィリアの周囲には誰も座ろうとしない。

 

「……」

 

 従士たちが少女に向ける不信感、嫌悪感は一向に改まることはなかった。

 流石に入団当初のように露骨に絡んでくることはなくなったが、それでも時折故無く睨まれるし、すれ違いざまに舌打ちが聞こえることもある。

 従士たちの年齢が総じて若いことも理由の一つだろう。正義感に溢れ、未だ視野の狭い若者にとって、ノマスの名は邪悪と同義である。

 

 しかし、この居た堪れない空気を作りだした最大の原因は、フィリアの方にこそある。

 驚くべきことに、この少女は一年間、同僚である従士たちと殆ど口を利いたことが無い。

 別に彼女は極端な口下手という訳でもなく、人並み以上の教養も持ち合わせている。

 その証拠に、メリジャーナやテロス、技術班の職員のように、直接応対した者たちからは、悪い印象を払拭することに成功している。

 

 ならばなぜ、フィリアは関係改善のため同僚に歩み寄らないのか。

 その理由は簡単だ。彼女にとって益が無い。

 歩み寄り、言葉を交わし、お互いの意見を交換し合えば、確かに人間関係は新たな段階へと進む。物別れに終わることもあれば、友愛の情が生まれることもあるだろう。

 そうすれば、きっと少女を取り巻く環境は良い方向に変化する。フィリアの心に安息と喜びをもたらすこともあるだろう。

 

 だが、それは母を救う助けにはならない。

 この世界を支配し、事象全てを動かすのは、個々人の雑多な感情などではなく、純然たる「力」そのものである。

 思いは、力にはならない。

 

 感情で世界が変わるなら、母を失う定めを負った少女の悲痛が、なぜ何の影響ももたらさないのか。

 

 少女が敢えて悪評をそのままにしているのは、単純に改善する必要を感じていないからだ。歪な合理主義、苛烈なまでの目的意識をもつ彼女にとっては、自らの感情さえどうでもいい事柄に過ぎない。ましてや他者の思惑など、まさしく知ったことではない。

 

「……」

 

 少女は黙々とパンをちぎり、口へと運ぶ。消化を助けるため丁寧に咀嚼し、嚥下する。

 機械作業のように淡々と料理を平らげていく少女からは、食の喜びなどまるで感じられない。味さえ感じていないかのような無表情は不気味でさえある。

 こんな姿が悪評に繋がっていくのだが、無論彼女には何の関心も無い。一刻も早く栄養補給を終えて、訓練を再開することだけを考えている。すると、

 

「未知の国家が接触軌道圏内に入った。各員警戒を強めたし」

 

 と、食堂に放送が流れる。

 エクリシアに近づく三つの国家の内、正体不明であった乱星国家が、とうとう兵を送り込める距離にまでに迫ったのだ。

 

「――」

 

 昼食を楽しんでいた従士たちが一斉に表情を強張らせる。情報がある程度揃っているナウタ、マギラスとは異なり、この乱星国家は全く戦力が読めない。

 エクリシアほどの軍事力をもつ可能性は低いが、それでも遠征に戦力を裂いている現在、戦闘となれば苦戦を強いられる恐れがある。

 

「……」

 

 従士たちが口々に展望を論じる緊迫した空気の中、フィリアだけは黙々とスプーンを動かし、食事を平らげる。

 そもそも、すぐに戦闘が起こるという可能性はそう高くない。

 こちらに情報がまったく無いということは、向こうも同じと考えていい。

 

 相手国がどのような政体かは知らないが、国力も分からない相手にいきなり戦争を仕掛けるなど、通常はまずありえない。まずは儀礼的な接触か、強行に出てもトリオン兵での偵察程度だろう。

 

 それでも大規模な戦闘が起こるとすれば、接触軌道を抜けるギリギリの日程で仕掛けてくる可能性が高い。

 定期的に接近する惑星国家同士ならともかく、乱星国家はその性質上、捕虜を奪っての逃げ切りができる。国が離れすぎれば艇を飛ばすこともできない。反撃に移ろうとしても、二度と機会が巡ってこない可能性がある。

 

「ありがとうございます。美味しかったです」

 

 フィリアは食器を返却すると、騒がしくなってきた食堂を後にする。

 これで接触軌道上にある国家は三つに増えた。防衛計画はそれを踏まえて立てられているが、一層気合を入れて任務に取り組まなければならないだろう。

 

 少女は颯爽とした歩みで基地を出て、城壁内のトリオン兵保管倉庫へと向かう。この時間はトリオン兵の動作チェックを行っている筈だ。後学のために立ち会わせてもらおう。

 城壁の上に登ったフィリアは、眼下に広がる巨大なクレーターを眺めながら、堡塁を繋ぐ通路を歩く。

 するとその時、突如として彼女の脳にサイドエフェクトの警鐘が鳴り響いた。

 

(まさか、そんな!)

 

 愕然とした様子で空を仰ぐフィリア。

 その瞬間、雲一つない青空に黒い点が次々と浮かび上がった。

 

 



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其の六 イルガーを討て

(ゲート)発生! (ゲート)発生! 戦闘区域内に誘導成功。総員、直ちに迎撃を開始せよ」

 

 けたたましい警報と共にアナウンスが鳴り響く。

 敵の攻撃が始まったのだ。おそらく敵は正体不明の乱星国家だろう。この異常なまでの侵攻の速さ。接触軌道に入るまえから準備を整えていたに違いない。

 

「従士フィリア・イリニ。出ます!」

 

 フィリアは指揮所に連絡を入れると、即座に「鉄の鷲(グリパス)」を創出しクレーターへと飛び降りる。城壁内に詰めていた防衛部隊も既に展開しつつある。敵のトリオン兵が出そろう前に、すぐさま迎撃に移れるだろう。だが、

 

(ゲート)数、三十、三十一、三十二、依然増加中!」

 

 オペレーターの強張った声が響く。

 蒼天に巨大な黒い穴が幾つも穿たれ、中からは止めどなくトリオン兵が湧き出している。

 フィリアが驚愕するのも無理はない。早すぎる攻撃もさることながら、この規模の戦力投入は、明らかに制圧を意図したものだ。

 

 ここまで大胆な攻撃を仕掛けてくる以上、相手はエクリシアの国情を知っていると考えるべきだろう。いや、今はその思索をする意味はない。

 (ゲート)から溢れ出たモールモッドは百を超え、さらに数を増し続けている。それどころか、

 

「イルガー!」

 

 空を見上げた従士が大声を上げる。

 (ゲート)から現れたのは、甲冑魚のような大型トリオン兵だ。胸びれと臀びれ、そして尾びれを悠々とうねらせながら、空を海のように泳ぎ進んでいる。

 

 爆撃型トリオン兵、イルガー。

 全長五十メートルを超す巨体を持ち、その全能力を爆撃に特化したトリオン兵である。一体で小都市を灰塵に帰すことも可能な火力を持つが、イルガーの製造には高い技術力が必要なため、保有国は少ない。

 この一事をとっても、敵が相応の国力を持つ大国であることは明らかだ。

 

 そして恐るべきことに、イルガーの数はさらに増え続けている。

 瞬く間に二十体余りのイルガーが(ゲート)より姿を顕し、大地に巨影を落とした。しかも、

 

「イルガーは自爆モードに移行! 支援砲撃を要請!」

 

 フィリアが大声で司令部に通信を入れる。

 

 クレーターの上空を回遊するイルガーの頭部、センサーとなる目が収まっている部分が、人間の歯のような装甲に覆われる。そして背部には突起物が立ち並び、トリオンの臨界を示すように光り出した。

 

 トリオン兵イルガーは爆撃を主任務とするが、大ダメージを受けて任務の続行が困難となった場合、内臓トリオンの全てを用いて自爆するようにプログラミングされている。

 勿論トリオン兵の行動パターンは変更が可能であり、敵は地上部隊の露払いとしてこの巨大爆弾を突っ込ませるつもりなのだろう。しかも、

 

「敵の殆どがこちらに向かってきます。対処しきれません!」

 

 従士の一人が悲鳴を上げる。

 クレーターのほぼ中心部に出現したトリオン兵たちの殆どが、イリニ騎士団の受け持つ陣地一画を目がけて押し寄せてくるのだ。囲みの一部分だけ迅速に食い破るつもりである。戦法に迷いが無い。こちらの防備を事前に知っていたとしか思えない動きである。

 

「イルガーは騎士と砲撃で対処します。従士隊は地上のトリオン兵を討滅しなさい」

 

 その時、メリジャーナの凛々しい声で通信が届く。

 フィリアが背後に視線を移せば、「誓願の鎧(パノプリア)」に身を包んだ騎士たちが城壁から天空へと飛び立っていくところであった。

 

 定石を無視した強襲に虚を突かれたが、対応できない訳ではない。

 自爆モードのイルガーはトリオン密度が高まって凄まじい硬度となるが、騎士の一撃ならばその外殻も破ることができる。

 支援砲撃も始まった。イルガーは堅固だが速度に劣る。城壁に到達するまで大多数を撃ち落とせるだろう。だが、

 

「――っ、ダメ!」

 

 フィリアが小さく悲鳴を上げる。同時に、空を埋め尽くさんばかりのイルガーから一斉に多数の飛翔体が発射された。

 イルガーに比べれば針のように細いそれらは凄まじい速度で大気を切り裂き、攻撃を始めたばかりの砲台に次々と突き刺さる。そして、

 

「う、うわっ!」

「ぎゃああああ!」

 

 耳を聾する爆発音が連続して続き、通信越しに悲鳴が響く。

 

 自動砲台は点検中だった。まだ退避し損ねた職員が居たのだろう。フィリアが怒りに顔を顰める。

 

 あの飛翔体――おそらく新型トリオン兵――はイルガーに接近していた騎士にも狙いを定めた。弾丸のような速さで迫りくる数多のトリオン兵を、上空を飛翔していた六名の騎士が迎え撃つ。

 不意打ちを受け、形勢は不利かと思われたが、流石はエクリシアでも指折りの戦士たちだ。難しい空中戦にも関わらず、騎士たちは剣を振るい弾丸を放ち、銛のような形状をした飛行トリオン兵を次々に倒していく。だが、

 

「――っ、くそ!」

 

 トリオン兵の一体が、剣で斬られる前に爆発した。爆風を受け騎士の体勢が大きく崩れる。そこへ後続の一体が直撃し、爆発した。

 

「騎士バミアが被弾!」

 

 騎士の一人が上空から叩き落とされる。いかに強固な「誓願の鎧(パノプリア)」といえど、あの速度と爆発を受ければただでは済まない。着装者は一命を取り留めた様子だが、戦線に復帰できるかは分からない。

 

「イルガーが来るぞ!」

 

 新型トリオン兵の対処に追われて、騎士がイルガーになかなか取りつけない。それでも支援砲撃と合わせて半数ほどは堕としていたが、後続は騎士の迎撃をすり抜け城壁へと向かっている。城壁に風穴を開け、そこから地上トリオン兵を侵攻させる気だ。

 

「「銀の竜(ドラコン)」「鈴の馬(モノケロース)」を持つ従士はイルガーを狙撃。近接装備の者は彼らを援護しなさい」

 

 メリジャーナの指令が届く。確かに「銀の竜(ドラコン)」「鈴の馬(モノケロース)」の射程ならば、地上からもイルガーを堕とすことができるかもしれない。だがそれには火力の集中が不可欠だ。

 荒野を埋め尽くすようなモールモッドの群れは、すぐそこまで迫っている。

 従士たちは遠距離装備持ちを中央に置き、円陣を組んで彼らを護る。

 

 たとえ隔離戦場の外縁に到達したとしても、高い城壁を乗り越えるのは簡単ではあるまい。イルガーさえ堕とすことができれば挽回は可能だ。

 他の騎士団も直に戦線に加わるだろう。今は防壁を護りきることだけを考えなければ。

 

「撃て!」

 

 号令の下、砲が一斉に火を吹く。

 猛烈な集中砲火を受け、上空を進む数体のイルガーに風穴が開く。

 トリオンの黒煙を激しく噴出させたイルガーは、ぐらりと姿勢を崩し重力に抗う力を失う。トリオンを漏出させてしまえば、自爆はできない。

 だが、狙いが甘かったのか、火力が足りなかったのか、まだ五体のイルガーが健在だ。

 

「第二射急げ!」

 

 騎士は変わらず新型に絡まれていて、迎撃にはもう間に合わない。

 自動砲台は八割方が沈黙している。地上部隊だけが頼りだ。とはいえ、イルガーの硬い装甲を抜くには射撃を集中させなければならない。「銀の竜(ドラコン)」の射撃にはチャージが必要だ。はたして間に合うか。

 

「――っ!」

 

 迫りくるモールモッドを斬り倒し続けていたフィリアは、突如として踵を返すと、城壁に向けて猛烈な勢いで走り出した。

 そして凄まじいトリオン体の操縦を以て垂直に近い防壁を一気に駆け上がると、堡塁の突端まで走り、大跳躍。そして、

 

「「鷲の羽(プテラ)」!」

 

鉄の鷲(グリパス)」のオプショントリガーを用いて、剣に引っ張られるように空を飛ぶ。

 少女の眼前にはイルガーの巨大な頭部がある。既に敵は目と鼻の先だ。ここまで近付いているのなら、滑空程度の飛行で取りつくことができる。

 

鷲の爪(オニュクス)起動!」

 

 そしてフィリアは別のオプショントリガーを起動させる。

 同時に「鉄の鷲(グリパス)」から笛の音のように甲高い音が響く。「鷲の爪(オニュクス)」は剣身を超高速で振動させることにより、凄まじい切断力を付与するトリガーだ。

 人間の歯を思わせる不気味な装甲に、フィリアは真っ向から迫る。

 

「はああぁぁぁっ!」

 

 渾身の雄叫びと共に、少女が「鉄の鷲(グリパス)」を振り抜いた。

 刃は果実を割るかのように装甲を切り裂き、その奥に隠されたコアを見事に断ち割った。

 急所を破壊されたイルガーは一瞬で活動を停止し、自爆用のトリオン反応も消えていく。

 

「――ッ! 「鷲の羽(プテラ)」」

 

 だが、慣性までも消し去ることはできない。

 墜落を始めるトリオン兵の巨大な残骸。

 フィリアは押しつぶされないように再度オプショントリガーで滑空し、イルガーの墜落軌道から離れて着地する。

 城壁に頭からぶつかるイルガー。轟音と地響きが間近の少女を襲う。

 恐れていた爆発は無い。衝突を受け止めた城壁は悠然と聳え立っている。

 

「他はっ!」

 

 安堵の間もなく、フィリアは再び空を見上げる。自分が仕留めた敵を抜いて、イルガーは後四体だ。もう一度滑空して斬るには時間がない。

 

「全イルガーの撃墜を確認! 引き続き地上部隊を排除しなさい!」

 

 どうやら従士隊の再攻撃は上手くいったらしい。今まさに、墜落し始めたイルガーの巨体が見える。

 砲撃が間に合わなかったのは、フィリアが堕としたあの一体だけだったらしい。

 サイドエフェクトに従って無茶をしたが、その甲斐はあった。下手をすれば城壁に巨大な穴が開けられていたかもしれない。

 騎士に纏わりついていた新型トリオン兵も全て撃墜されたようだ。ゼーン騎士団、フィロドクス騎士団の援軍も、トリオン兵を背後から攻め始めている。

 

 潮目は変わった。後は残敵を一掃するだけだ。

 激闘を続けていた従士たちの顔にも、僅かながらに安堵の色が差す。だが、

 

(ゲート)発生! 座標西部八の二、トリオン兵団の中央です!」

 

 オペレーターの緊迫した声が響く。同時にモールモッドの群れの直上に複数の巨大な(ゲート)が開いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 大空に開いた漆黒の(ゲート)から、白い塔のようなモノが現れる。直径は目測で十メートル以上はあろうか。垂らされた糸のように地表を目指すそれの長さは、百メートルを優に超えている。

 その奇妙な物体が、二本、三本と(ゲート)から現れていく。

 戦場にいた全ての者が、その奇怪な姿に目を奪われる。

 

 あれは果たして何なのか。

 ただ一人フィリアだけが一目でその正体を看破し、大声で通信機に呼びかける。

 

「新型トリオン兵を確認。あれは捕獲型です! 土中に潜る前に対処を!」

 

 思えば不審な点はあった。

 

 近界(ネイバーフッド)における戦争の理由は、その多くが資源獲得のためである。ここでいう資源とはもちろんトリオン、そしてそれを生み出す人間の事を指す。

 敵兵と戦いながら人間を捉えるのはあまりに効率が悪く、リスクも大きい。その為、近界(ネイバーフッド)ではいずれの国も、人さらい専用の兵器を開発している。捕獲型と呼称されるトリオン兵だ。

 

 どの捕獲型トリオン兵も、人間からトリオン機関を摘出し、また優れたトリオンを持つ人間は生け捕りにする能力を持つ。

 通常の侵攻は、モールモッドなどの戦闘用のトリオン兵と、バムスターなどの捕獲型トリオン兵を併用することが多い。

 今回の侵攻に関して言えば、敵は今まで戦闘用のトリオン兵しか投入していなかった。

 

 故に、司令部も敵の目的がエクリシアに打撃を与えることだと判断した。しかし、

 

「道を、塞ぐなっ!」

 

 フィリアは手近なモールモッドを叩き斬りながら、白い塔へと猛進する。

 

 (ゲート)から地表までたどり着いた新型トリオン兵。その先端部がドリルのように回転し、凄まじい勢いで地面を掘削し始める。

 捕獲機能を持つトリオン兵は、基本的に戦闘能力が低い。そのため、通常は護衛としてトリガー使いや戦闘型トリオン兵を随行させるのだが、この新型は地中に潜ることで攻撃そのものから身を逃れるつもりなのだ。

 

 どれほど深くまで潜れるか分からないが、一度潜行されてしまえば追撃は難しい。

 攻撃するなら今の内である。だが、見た目の巨大さから推し量るに、あの新型は相当な防御力を持つだろう。

 砲台が殆ど機能していない現状、あれを破壊するには銃器型トリガーによる集中砲火か、近接戦で急所を狙うしかない。先の攻撃は、このトリオン兵を安全に展開させるための露払いだったのか。

 

「新たに(ゲート)の反応が有ります! 十、十一、十二!」

 

 長い身体をミミズのようにくねらせて地面を掘る新型の周りに、中小規模の(ゲート)が多数開く。中から現れたのは飛行型トリオン兵バドの大群、捕獲・砲撃用トリオン兵バンダー、モールモッドの追加もある。

 

 飛行型トリオン兵バドは一直線に騎士たちを目指している。

 地上部隊がトリオン兵団を駆逐して進まなければならない以上、最大の脅威は飛行能力を持つ騎士だ。無論、バド程度に苦戦する彼らではないが、敵は徹底的に騎士たちの進攻を妨げるように動いている。完全に時間稼ぎの策だ。

 

「くっ、邪魔しないで!」

 

 鬼神の如き剣技でトリオン兵を駆逐するフィリア。

 遅まきながらエクリシア側もトリオン兵を繰り出しているが、それでも敵の分厚い陣形を打ち破ることができない。

 

 あの敵を撃破できず、万一見失いでもすれば、トリオン兵は好きなタイミングで都市を襲うことができるだろう。

 絶対に逃してはならない。

 総員が持てる力すべてを投じて攻撃に掛かる。それでも、敵の布陣はあまりに分厚く堅固だ。しかも、

 

「そんな……」

 

 砲撃を受け続けていた新型トリオン兵の体が、中ほどからぶつりと千切れた。

 ようやく一体を仕留めたかと従士たちが歓声を上げるも、千切れたトリオン兵は活動を止めていない。

 風穴の開いた一部だけを切り捨て、その前後のパーツは変わらず土中に潜ろうとしている。

 

「群体型なんて……」

 

 あの長大なトリオン兵は一個体ではなく、節目ごとに独立した個体が数珠つなぎになって行動しているのだ。

 攻撃を受けても破損した部位を切り捨てるだけで、総体にはまったく影響がない。それどころか、切断部位から別れたパーツは別行動を取り始める。

 

「っ……」

 

 あの物量を逃さず殲滅できる手段は、今のイリニ騎士団にはない。さしものフィリアの心にも、絶望の影が差した。するとその時、

 

「総員戦闘行動を中止し、西武エリア八、九、十より退避しなさい」

 

 と、耳を疑う指令がメリジャーナより発せられた。

 戦闘を放棄し、離脱せよ。

 激闘を続ける従士たちにとっては、到底受け入れがたい指令である。フィリアだけが、その真意にいち早く気付いた、

 

「ゼーン閣下が砲撃を行います。全隊、当該区域から速やかに離れなさい」

 

 退避の理由を聞かされた従士たちの表情に希望が戻った。

 

 彼らはトリオン兵との戦いを適当に切り上げると、未だ離脱しきれていない負傷者を護衛しながら後方へと下がる。

 フィリアがイリニ騎士団の防塁を見上げれば、そこには純白の甲冑を纏った騎士が、敵勢を見下ろすように立っていた。

 

 イリニ騎士団のそれと比べて猛々しさを感じさせる意匠の「誓願の鎧(パノプリア)」。

 肩に彩られたゼーン家の紋章は、陽光を受けて燦然と輝いている。眼下に広がる激戦を目の当たりにしても、その立ち姿には微塵の動揺もない。

 彼女こそ、エクリシア三大貴族の一角ゼーン家の若き当主にて、我が国に七本存在する(ブラック)トリガーの担い手の一人、ニネミア・ゼーンである。

 

「御助力に感謝します。閣下」

「なんでもないわ、これしきの事。それより兵の離脱は?」

「間もなく全員が圏内より退避します」

「なら、もう初めていいわね」

 

 メリジャーナの通信に、平時と変わらぬ軽やかな声で応じるニネミア。

 彼女の周囲には男の掌ほどの大きさをした六角形のトリオン製の板が浮かんでいる。

 その数は十基。

 ニネミアがトリオン兵の群れに目を向けると、浮遊していたそれらのユニットが音も無く彼女の前に集まる。

 

「チャージ開始。カウント二十」

 

 鈴の転がるような美声でそう告げると、トリオンユニットが環状に並び、発光と共に回転を始める。

 

「カウント開始。二十、十九、十八……」

 

 オペレーターのカウントダウンに合わせるように、回転速度を増していくトリオンユニット。もはや一つながりの円にしか見えないその中心には、莫大なトリオンが集積され、加圧よって凄まじい密度となっていく。

 

「十、九、八、七……」

 

 トリオンユニットの回転速度は天井知らずに増していく。圧搾されたトリオンは目も眩むような極光を放ち、解き放たれるその瞬間を今か今かと待ちわびている。

 

「三、二、一――」

 

「「劫火の鼓(ヴェンジニ)」」

 

 そして、世界が白光に塗りつぶされた。

 

 限界まで圧縮され加速し続けていたトリオンが、光の奔流となって天地を切り裂く。

 陽光さえも塗りつぶす閃光は地に蠢くトリオン兵を飲み込み、その一欠けらさえ残さず焼き尽くしていく。

 数百のトリオン兵を飲み込んでも激流は一向に衰えを見せず、灼熱の衝撃は大地を抉り、大気を吹き飛ばしながら、不気味にうねる白亜の塔を直撃する。

 

「…………」

 

 後に残されたのは、徹底的な破壊の跡だけだ。

 

 防壁から一直線に大地は抉れ、射線上にあった万物は悉く消滅している。

 運よく直撃を免れたトリオン兵も、破滅の閃光がもたらした衝撃波をまともに浴びて大なり小なり損傷を負っている。

 そして主目標となった新型はといえば、潜りこもうとしていた土中ごと大部分を蒸発させられ、切れ端のような生き残りがもたもたと地面を掘り起こそうとしている有様だ。

 

 僅か一撃で戦局を塗り替える、超常の兵器。

 これこそ、国防の要、国威の象徴とも呼ばれる(ブラック)トリガーの力だ。

 別けてもニネミアが持つ「劫火の鼓(ヴェンジニ)」は、その火力に於いてエクリシア最強を誇る。

 これに比肩しうる威力のトリガーは近界(ネイバーフッド)広しといえども簡単には見つからないだろう。

 

「総員、残敵を殲滅してください。尚、新型トリオン兵を最優先目標に指定します」

 

 殺戮機械の犇めく地獄絵図から一転して、ガラクタの散らばる荒野と化した戦場。あまりの光景の落差に、従士たちも呆然とした者が少なくない。

 そんな彼らに、メリジャーナが淡々とした声で指示を飛ばす。

 我に返った従士たちは武器を構え直すと、一目散にトリオン兵へと向かっていく。

 

 フィリアも剣を携えその群れに混じって走る。新型は一体でも逃がす訳にはいかない。完全に殲滅しなければ。

 ふと、彼女は堡塁の上へと視線を投げる。

 

誓願の鎧(パノプリア)」の兜を脱ぎ、麗しいかんばせを露わにするニネミア。

 

 絹のような黒髪を戦場の風になびかせて佇むその姿は、絵画のように荘厳な美しさを纏っていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 勇猛果敢な従士たちが荒野を駆けまわり、トリオン兵の戦列を切り崩す。鎧を纏った騎士たちは規格外の力で戦場を飛び回り、病葉のようにトリオン兵を粉砕する。

 そして戦場を極光で飲み込み、雲霞の如き兵団を薙ぎ払った(ブラック)トリガー。

 エクリシアの地にて繰り広げられた闘争が映し出されているのは、薄暗い遠征艇の内部、ブリッジの投影モニターだ。

 

「……ふむ。当初の目的は無事に果たせた。皆ご苦労だった」

 

 苛烈極まる戦場の映像を眺めながら、平静そのものの声で男がそう呟いた。

 会議用のスツールに浅く腰掛けるその男は、狭苦しい室内であるにも関わらず、フードを目深に被り、頑なに顔を見せようとはしない。

 

「……は、話が違うぞ。マラキア殿!」

 

 うっすらと口元に笑みを浮かべるフードの男に、同じく戦闘映像を見ていた壮年の男が食って掛かる。その声は微かに震えており、狼狽のほどがうかがえる。

 

「何も違いませんな。全て計画通りに事は運びました。アンキッラの諸君には、協力に感謝する。この功績は、必ずや祖国に伝えよう」

 

 どうやら、その船には異なる立場の者たちが相乗りしているらしい。フードの男に対し、アンキッラ――この船の属する乱星国家の者たちは、一様に苛立ちを隠せない様子だ。

 

「あれほどの軍備を持つ国と、誰が好んで事を構えるかよ! それに送り込んだトリオン兵は全滅だ。何の戦利品もない」

 

 クルーの一人、若い男が声を荒げてマラキアと呼ばれたフード男に言い寄った。

 

「連中は本当に反撃してこないのか? アンタの国は遠く離れてる、援軍だって望めない。独力で撃退するなんてとても無理だ!」

 

 悲惨な未来予想に顔を歪ませながら、男がそう抗議する。

 

 無理からぬ反応だろう。それほどまでに、エクリシアの戦力は桁外れであった。

 先の戦闘、エクリシアに送り込まれた兵団は、小国なら傾きかねないほどのトリオンがつぎ込まれたものだった。

 

 にもかかわらず、戦果らしい戦果はまるでなく、捕虜一人さえ得られていない。

 そのうえ、防衛に当たったエクリシアの部隊は主戦力を大きく欠いた状態だったというではないか。

 もしエクリシアが兵馬を揃えて報復に出れば、小国アンキッラは一揉みで押しつぶされてしまう。政治的に断れぬ判断だったとはいえ、これでは虎の尾を踏みに行かされたも同然だ。

 

「……まず一つ。トリオン兵を負担したのは我が国だ。君らは船を出しただけにすぎない。もう一つ。今作戦の目的はエクリシアの制圧でも捕虜を得ることでもない。そもそも、君らは戦略に口を挿む立場にない」

 

 憎悪に染まったクルーに取り囲まれているにもかかわらず、マラキアは物分かりのわるい子供を諭すように、呆れたような声でそう話す。

 

「――ふん。どっちにしろエクリシアが攻めてくればアンタの逃げ場も無いぞ。いや待てよ。首謀者としてアンタの身柄を引き渡せば、交渉の余地ぐらいは生まれるかもな」

 

 若い男性クルーがそう言ってマラキアを嘲弄する。

 軽い冗談を叩くような口ぶりだが、目は明らかに座っている。見れば、周りを囲むクルーの大半から剣呑な気配が漂い始めている。

 

「お、おい。控えろっ! マラキア殿も、お気を悪くせぬように……」

 

 隊長である壮年の男が若衆を宥めるが、当のマラキアは動じた様子も無く、

 

「ふむ……では最後に一つ尋ねるが、エクリシアとウチと、滅ぼされるならどちらがいい?」

 

 と、昼食を訊ねるかのような気楽さでそう言い放った。

 

「っ……」

 

 そのあからさまな脅し文句に、怒気を発していたクルーたちも流石に押し黙る。

 彼らとて、状況が見えぬ訳ではない。

 アンキッラが破滅から逃れるには、この男の指示に従うよりほかに道はない。従属関係を結んでいる以上。歯向かって得るものなど何一つないからだ。

 

「だがまあ、報復の件は大丈夫だ。エクリシアは攻めてこない。よしんば目論見が狂ったとしたら――その時は私も出るよ」

 

 マラキアはクルーを一瞥して黙らせると、パネルを叩き、再び録画した戦闘映像をモニターに映した。

 

(しかし……いや、まさかな……)

 

 彼が眺めているのはエクリシアの誇る騎士でもなく、兵団を壊滅させた超火力の(ブラック)トリガーでもない。トリオン兵の群れと戦う歩兵の一人だ。

 望遠の上に偵察トリオン兵が損壊していたこともあり、画質は極めて悪いものだったが、それでもその特異さははっきりと見て取れる。

 

 雪のように白い髪を振り乱し、褐色の肌をした、おそらくは少女。

 エクリシアの地、ましてや騎士団には決してありえぬ容姿をした存在。

 彼、ないしは彼女が何故エクリシアを護るために戦っているのか。

 

 マラキアは沸き起こる疑念と動揺を胸に秘め、ただ映像を見詰め続けた。

 



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其の七 少女の宝物

 そこは広大にして壮麗、典雅にして崇高な空間であった。

 細緻な装飾が施された巨大な柱が林立し、壁にはエクリシアとその神を讃えるイコンが見事な調和を以て飾られている。

 ここはエクリシア聖都の中心にそびえたつ教会。その大聖堂である。

 

「嘗て我が国に危局が訪れた時、我らの祖先はその血を流し、幾千幾万もの民を救った。そして今日また、偉大なる英雄たちが去る。彼らの勇気と、その献身を心から讃えよう」

 

 今日は先の防衛線の戦死者の合同葬儀が執り行われていた。

 

 並べられた棺の数は二十二。そのほとんどが年若い従士だ。爆撃を受けた技術職員にも怪我人が多数出たが、幸い死傷者は少なかった。護身用トリガーでトリオン体に換装していたのが幸いしたらしい。

 民間人に被害は出なかったが、一度の会戦で出た死者としてはここ数十年で最も多い。

 

 正体不明の乱星国家は明らかにエクリシアの国勢を把握していたとみられ、現在教会によって調査が進められている。

 襲撃後の対応として、ゼーン騎士団はすぐさま反撃を行うよう主張し、教会にも働きかけた。多くの被害を受けたイリニ騎士団からも賛同の声が上がったが、これに反対したのはフィロドクス騎士団だ。

 

 敵国の情報があまりに少なく、またこれ以上遠征に軍団を裂けば国防に当てる部隊が無くなるとの理由だ。

 これには反論の余地も無く、大規模な派兵は見送りとなり、トリオン兵を用いた偵察のみに留まることになった。仇を討てない憤懣から、イリニ騎士団でもこの対応には意見が割れているようだ。

 

 ただ、今日この日に限っては、その諍いも棚上げである。

 教父の祈りの言葉に重なって、遺族たちの押し殺したすすり泣きが聞こえる。

 

「…………」

 

 フィリアも騎士団の一員として葬儀に列席していた。ただ、手袋で手を、濃い色のチュールで顔を隠し、肌を表に出さないよう厳重に気を使っている。

 どこまでいっても彼女は敵国の血を引く者だ。この肌の色で遺族が安らぎを得られないのなら、晒すべきではないのだろう。

 

 しかし、イリニ家の一員である彼女には、葬儀を欠席するという選択肢は無かった。

 フィリアの隣には、遠征から帰国を果たしたアルモニアが厳粛な面持ちで座っている。

 帰国からこちら、激務に次ぐ激務で休む間もないはずだが、それでも彼は騎士団の総長として威厳をもって儀式に臨んでいる。

 

 棺とその周りに座る遺族たちを見て、フィリアはつい、自分と家族をその光景に当てはめてしまった。自分が今日ここに座っていられるのは、ただの偶然なのかもしれない。

 ふとその時、フィリアの脳裏に奇妙な疑問が浮かんだ。

 

(私が死んだら、この人は泣くんだろうか)

 

 隣のアルモニアを見上げながら、そんな益体もないことを考えた。すると、

 

(えっ……)

 

 驚くべきことに、サイドエフェクトは然りと示している。

 

「――どうした?」

 

 フィリアの視線に気付いたのか、アルモニアが小声で彼女に話しかける。

 

「いえ……なんでも、ないです」

 

 フィリアが言葉を濁すと、アルモニアは再び視線を教壇へと向けた。

 彼は何故、自分に良くしてくれるのだろう。とフィリアは思う。

 この一年間、伯父との会話はそこまで多くはなかった。ただ、彼が情義に厚いだけなのではなく、明確に家族としての愛情を少女に向けていることは気付いていた。

 

「…………」

 

 このしめやかな空気がそうさせたのか、フィリアは思わず隣席に手を伸ばし、伯父の服の袖を摘まんでいた。

 アルモニアは何も問わず、ただその大きな手で少女の手を優しく握り返した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 合同葬儀の晩。フィリアは久々にイリニ家の屋敷に戻った。

 普段は時間ができれば鍛錬に勤しむ彼女も、今日だけは早々と家に戻り、弟妹やヌースと心行くまで楽しいひと時を過ごす。

 

 すすり泣く家族の手で、教会から送り出されたフィリアとそう変わらぬ年の従士たち。

 その姿が少女の目に焼き付いている。

 気分が滅入った時、決意が揺らぎそうになった時、フィリアは胸元へと手を伸ばし、その小さな指で銀細工の鍵に触れる。

 

(うん……大丈夫)

 

 これを護るためなら、彼女は何処までも戦うことができる。

 結局、この日のフィリアは弟妹たちの就寝時間まで彼らに付き合い、騒々しく夜を過ごした。

 そうして家族の寝静まった深夜。

 

「失礼します。ご当主様」

 

 小さな森を思わせる屋敷の中庭。その東屋で、フィリアは物思いにふけるアルモニアを訪ねた。

 

「まだ起きていたのか。今日は疲れただろう」

 

 アルモニアは困ったような表情で小さな来訪者を出迎える。だが、決して邪険にすることはない。

 

「ご当主様ほどではありません。ああ、百合が綺麗に咲きましたね」

「そうだな。ここしばらくが見ごろだろう」

 

 二人はベンチに並んで座り、咲き誇る花々について素朴な感想を述べ合う。

 エクリシアの国難にますます多忙の日々を極めるアルモニア。この一年間、鬼気迫る表情でひたすら訓練に打ち込むフィリア。

 この密やかな夜会も、最後に行ったのはいつの日だったか。

 

「ご当主様――ご無事の御帰りを、心よりお祝い申し上げます」

「ああ、ありがとう」

 

 少女は改めて伯父に向き合い、遠征よりの帰還を祝賀する。

 総長自ら率いる遠征隊が向かったのは、田園の国マギラスである。

 

 戦闘は我が方の大勝利に終わり、イリニ騎士団は五十人以上の捕虜を得て凱旋帰国した。

 フィリアにとっては残念なことに、母に代わるべき神の候補は見つからなかったようだが、それでも失敗して戦力を失うよりは随分といい結果だ。

 

「……君の方も、随分と活躍したそうだな。イルガーを墜とし城壁を護りきったと、メリジャーナの報告書に書いてあった」

 

 今回に限らず、フィリアの功績を賞賛するアルモニアの声はいつも暗い。

 そもそもこの伯父は、幼い姪が騎士団に在籍していること自体に強く反発している。

 稀有な資質を持つフィリアの事が幹部に知れ渡ってしまったため、体裁上しかたなく騎士団にいれたものの、まさか少女がここまで真摯に取り組むとは思っていなかったようだ。

 

「そんな、非力を嘆いてばっかりです。私にもっと力があれば、そう思わない日はありません」

「そうか……」

 

 フィリアの言に、アルモニアは重い息を吐く。

 庭木や花壇の話、食べ物や弟妹の話をする時、彼はとても優しい表情をフィリアに見せる。だがしかし、こと話が軍事に及ぶと、彼はいつも厭わしげな空気を纏う。

 

「ご当主様、私に鎧を頂けませんか」

 

 そんな伯父の態度を敢えて無視して、フィリアは言葉を紡いだ。

 エクリシアの武力の核たるトリガー「誓願の鎧(パノプリア)」が欲しいと言いだしたのだ。

 

「それは……あまりにも早すぎる」

 

 その無茶な要求に、流石のアルモニアも眉を顰めた。

誓願の鎧(パノプリア)」はただのトリガーではない。これを着装するには教会から叙勲を受け、正式に騎士としての爵位を得ねばならない。

 

 騎士は従士とは違い、エクリシアの国勢を差配する地位と権力が与えられる。

 そして権力には義務が付帯する。騎士となった者はエクリシアの中核戦力として、正当な理由が無い限りは軍役の義務を負うことになる。

 

 そうなればフィリアは戦場から離れられなくなる。

 それが例え、まだ十一歳の子供であったとしても。

 

「お願いします。私にもっと力があれば、今日あんな思いをせずに済んだかもしれないんです」

 

 万感を込めて、少女は頭を下げる。

 

「…………」

 

 アルモニアが苦渋の色を浮かべる。実の所、イリニ騎士団内部では、フィリアの騎士任命の話は既に出たことがある。

 

 既に半期以上もの間、主席従士の地位を護り続けている確かな技量。

 先の防衛線に限らず、戦場に立っては常に的確な判断を下し、従士の中では抜群の戦功を打ち立てている。

 技術も、功績も、既に叙勲を受けるには十分なモノを有している。

 

 残る問題は年齢と体格だが、叙勲に年齢は関係ない。

 また鎧の着装基準についても、少女はそれを見越したようにトリオン体を調整している。

 ノマスの血族という重大な欠点はあるが、彼女の騎士団とエクリシアに捧げる忠誠に、もはや疑いの余地はない。

 

 前例のないことには変わりないが、イリニ家が正式に後援の立場を取れば、教会も叙勲を断ることはあるまい。

 神の代替わりという国家の一大事に、優秀な人材を不当な地位に置くのは損失ではないか、との声は、テロス・グライペインなどを始め、幾人かの幹部から意見があった。

 だが、その悉くを退けてきたのがアルモニアなのだ。

 

「……いや、やはり駄目だ。認められない」

「っ、何故ですか!?」

「君はまだ、騎士に相応しいほどの腕前ではない」

 

 そう言って、アルモニアは会話を打ち切った。

 フィリアを武力から遠ざける本当の理由について、彼は終生語るつもりはない。だが、

 

「――でしたら、試してくださいご当主様。……私が戦えるかどうか」

 

 強い決意を金色の瞳に込めて、少女は真っ向からアルモニアに食い下がる。

 もとより、この程度の否定で退くような子供ではない。その意思の強さは、アルモニアも良く知る所だ。

 

「……いいだろう。久々に一手指南しよう。訓練用トリガーを取ってきなさい」

 

 木々がざわめく。森を通り抜けた風が若葉の匂いを運んできた。アルモニアは遠ざかる姪の背を見送り、

 

「ままならんな。何事も」

 

 と、静かにそう呟いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 近界(ネイバーフッド)の暗黒に浮かぶ国々が、眩い星明りとなって夜の闇を照らす。

 小さな森のように草木が生い茂るイリニ邸の中庭。その中央部、東屋の立つ一画は周囲が開けており、地面には芝生が敷かれている。

 その深閑とした景色に立つ二つの人影。

 フィリアとアルモニアは十メートルほどの間合いをとって対峙する。

 

「遠慮は無用だ。全力で来なさい」

「胸をお借りします。――トリガー起動」

 

 一瞬の閃光と共に、フィリアの肉体がトリオン体へと換装される。

 ありのままの体ではなく、もう少し年上の、大人と変わらぬ背丈まで成長した未来の姿。

 少女の姿を見て、対手のアルモニアが微かに目を細めた。そして、

 

「……トリガー起動」

 

 何かを追い払うように首を振ると、彼もトリオン体へと姿を変える。

 お互い用いているのは訓練用のトリガーだ。生体を殺傷できないよう調整されており、武装はブレードのみである。

 条件は五分と五分。だが、フィリアの前に立つ男はイリニ騎士団の総長にして、(ブラック)トリガー「懲罰の杖(ポルフェルン)」の担い手。「剣聖」の異名を取り、数々の武勲と栄光に彩られたエクリシア最強の騎士である。

 

「…………」

 

 フィリアは剣を正眼に構えた。対するアルモニアは緩く剣を提げたまま立ち尽くしている。

 少女を未熟者と侮っているのだろうか。そうではない。一見隙だらけに見える姿だが、フィリアは全く剣を打ち込めずにいた。

 

(勝ち筋が、まるで見えない……)

 

 常に正着手を導くサイドエフェクトが、一切の解を出さない。

 どこからどう斬り込もうとも、次の瞬間には敗北しているという確信だけがある。

 いつの間にかアルモニアの気配は輪郭を無くし、夜の空気に茫と溶けていく。

 

 まるで虚無と対峙し続けているような、先の見えない疲労感。

 緊張からか、トリオン体にもかかわらず少女の額に汗が浮かぶ。

 最後に手合せしてから、フィリアの剣は著しい進境を示したが、それでもこの伯父を前にしては、まるで勝算が立たない。

 

「どうした?」

 

 そんなフィリアを見兼ねたように、アルモニア声を掛けた。

 その穏やかな声。優しげな瞳。

 闘争の場にあるまじきその思いやりは、伯父としての真心から出た物だろう。

 それが却って、フィリアの戦士としての本能に火をつけた。

 

「参ります」

 

 少女は腰元に剣を運び、切っ先を後方へ流した車の構えを取る。

 勝ち目など最初からある相手ではない。それでも彼女は、どうしても彼に自分を認めさせねばならないのだ。

 

「――!」

 

 羽が舞い落ちるよりも静かな、無いに等しい風の音。

 次の瞬間、少女は十メートルの間合いを踏破し、アルモニアを刃圏に捉えていた。

 

 トリオン体の身体能力を最大限に引き出した、まさに神速の踏込。そしてそこから放たれるのは、全身全霊を込めた逆袈裟切りの一撃だ。

 戦術も駆け引きも無く、ただ身体に刻み付けた術理の求めるままに放たれた、それはまさに会心の一太刀であった。だが、

 

「――っ!」

 

 有るべきはずの手応えが、返ってこない。

 まさに空を切る、の言葉通りに、フィリアの剣は何もない宵闇を通り抜けた。

 彼女が間合いを読み違えたのではない。対手のアルモニアが踏込に応じて僅かに身を引いたのだ。それどころか、

 

「気付いたか。随分と腕を上げたな」

 

 アルモニアが賞賛の言葉を発する。

 渾身の一撃を躱されたフィリアは、しかし次の太刀を放つことも、仕切り直しを図るでもなく、呆然とした表情で首筋を抑えていた。

 

「斬った、んですか……」

 

 少女の首は胴と繋がっており、トリオン体にも何ら損傷はない。しかし、彼女は明らかに動揺し、戦慄に身を震わせている。

 

 フィリアが斬りかかった一刹那。どのように回避されたのかは判然としないが、その瞬間、アルモニアが見せた視線の配り方、微かな肩の動き。そういった気配としか呼べないような微かな変化。

 それだけで、彼が自分の首を刎ね飛ばそうと試みた。そしてそれが実際に可能なのだということを、肌身の感覚で理解した。

 

 リーチが違う、剣速が違う、経験が違う。

 そんな些末な要素では説明のつかない、あまりに大きな隔たり。

 

 まるで夢幻の如き剣。刃が触れ合う事さえなく、そうなることが自然な成り行きであったかのように、アルモニアの剣はフィリアを制した。

 身に納めた剣術すべてが、意に先んじて融通無碍に繰り出される。まさしく一刀即万刀の極意。剣聖と謳われる男が示した、至純の境地である。

 

「…………そうだな。最初の踏込は実に良かったが……」

 

 フィリアの沈黙を挫折の現れと捉えたのか、アルモニアは気まずそうに講評を述べようとする。しかし、

 

「――もう一回! もう一回お願いしますご当主様!」

 

 再起動したフィリアは声を興奮に昂ぶらせ、目には好奇の光を湛えて、この少女には珍しいほどのぼせた様子でアルモニアに訴えかける。

 その様は、まるで奇術を目の当たりにした子供そのものだ。

 

「ああ。まあ構わんが……」

「ありがとうございます。では、行きます!」

 

 アルモニアが答えたその瞬間、少女は段平を振りかざし躍りかかる。

 

 袈裟切り、横薙ぎ、刺突、小手うち、足払い。途切れることなき剣閃の乱舞。

 この一年間、血反吐を吐く思いで身体に教え込ませた剣術を、少女は思うままに繰り出す。

 

 対するアルモニアはその疾風の如き剣を無心で躱し、軽妙に往なし、あるいは故意に傲然と受け止める。

 そしてフィリアの防御に隙があれば意識のみでこれを斬り、その未熟を窘める。

 

 数百合を打ちあって尚、二人は疲労の色も見せない。それどころか、剣戟は徐々にさらに速度を増していく。

 

 フィリアの表情から、驚愕や興奮といった感情が徐々に薄れていく。

 次第に彼女は手にした一刀に心を委ね、刃の求めるままに身体を動かすようになる。

 

 するとどうだろうか。剣が空を切る回数が、僅かに減ったようだ。

 あのアルモニアに受け太刀を強いている。フィリアは一太刀ごとに心を研ぎ澄ませ、剣聖と呼ばれた男に追いすがる。

 

 それでも、少女の剣はなお届かない。

 相対するのは、彼女の収めた技術など及びもつかない境地に至った男。

 

 その境地に至れば、はたして何が見えるのだろうか。

 殺意や敵意といった感情とは無縁の、透明な衝動に突き動かされて剣を振り続ける。

 だがその時、

 

「――きゃっ!」

「なっ……」

 

 少女は突如として身を捻じり、あらぬ方向に勢いよく転んだ。

 丁度全力の踏み込みを躱された瞬間であったため、回避先のアルモニアに頭から突撃する格好となる。

 そのままどさりと音を立て、地面に倒れ込む二人。

 完全に予想外の動きであったため、彼も流石に避けられなかったようだ。

 

「「…………」」

 

 仰向けのアルモニアの胸に、抱きかかえられる格好となったフィリア。

 剣の極地を追い求めていた清澄な意識が、だんだんと我を取り戻していく。

 

「あっあの、これは、すみませ……」

 

 自分がとんでもない粗相をしでかしたことに気付いたフィリアは、わたわたと慌てながら急いでアルモニアから飛び退る。

 

「私は平気だ。君こそ大丈夫か」

 

 身を起こしたアルモニアは平時と変わらぬ謹厳さで少女を気遣った。

 

「あ、はい。どこも損傷はありません」

「……ふむ、まさか触れられるとは思わなかった」

 

 アルモニアは背中の土ぼこりを払いながら立ち上がり、座り込んでいたフィリアに手を延ばす。

 

「ありがとうございます」

 

 そうして少女を立ち上がらせると、

 

「足元に支障があったようにも見えなかったが、どうしたんだ」

 

 先ほどの不可解な行動の理由を尋ねた。

 

「えっと、その……」

 

 少女は逡巡してから、細い指でそれを指し示す。

 

「視界に入ってしまって、それでつい……」

 

 フィリアが指さしたのは、夜風に咲き誇る百合の花である。

 芝生の中央で始めた剣戟は激しさを増すにつれ、徐々にその位置を変えていった。丁度最後にフィリアが踏み込もうとした先は、もう花園にまで差し掛かっていたのだ。

 

「そうか」

 

 アルモニアは得心したように頷き、トリオン体を解除した。今晩の手合せはこれまでという事なのだろう。フィリアもトリオン体を解き、訓練用トリガーを仕舞い込む。

 

「すみません……」

 

 思わぬ幕切れを見せた勝負に、フィリアは意気消沈したように項垂れる。

 これは彼女の実力を知らしめるテストだったはずだ。こんな有様を見せて、今更どの面を下げて騎士にしてくれなどと頼めるだろうか。だが、

 

「また上手になったな。すごいぞ」

 

 と、アルモニアが晴れやかな笑顔と共に、称賛の言葉を投げかけた。

 

「あぅ……」

 

 不意を突かれて褒められた少女は、頬を赤く染め、照れたような笑みを浮かべた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「芝生、酷いことになっちゃいましたね……」

「そうだな。訓練室を使えばよかった。……そんな顔をするな。ちゃんと手入れをすれば、すぐに元通りになる」

 

 夜も随分と更けた頃。

 激闘を終えた二人は東屋のベンチに並んで腰掛け、夜空と木々を眺めていた。

 フィリアの手には、アルモニアが家人に命じて持ってこさせたホットミルクがある。

 少量をゆっくりと飲み干せば、昂ぶった気持ちが収まっていくようだ。

 

「剣が、好きなのか?」

 

 ワインを傾けながら、アルモニアは少女にそう尋ねた。

 

「……好きではありません。いえ……最初は大嫌いでした。触りたくもないくらい」

 

 人を殺めるためだけに存在する利器と、その意思を極め続けた術理。

 それらに拭い難い忌避感を抱いていた為、初めて剣に触れた時、己の手に馴染んだのをとても驚いた記憶がある。

 すっかり扱いに慣れてしまった今でも、刃が敵を裂く感触は、何時まで経っても好きになれる気がしない。

 

 フィリアが好むと好まざるとに関わらず剣の道に心血を注いだのは、それが純然たる「力」そのものだからだ。

 この世界を支配する、武力という名の強大無比な存在。

 それは唯一にして確かな、少女の儚い願いを叶える手段であった。

 

「ですが……」

 

 アルモニアと剣を交わしているとき、フィリアは確かに憎悪と怨嗟の念から解き放たれていた。

 

「ご当主様は、剣を振るっているときに何が見えるんですか?」

 

 少女はおずおずと、隣に座る伯父へと尋ねる。

 あれほどの領域に至った彼ならば、あるいは己が見る物とは違った世界を知っているのではないだろうか。事実、先ほどのフィリアは、その片鱗を垣間見た気がする。

 

「剣がもたらすものは栄誉と財貨と平和。その裏写しの死と荒廃と混乱だけだ」

 

 実直な面持ちにどこか自虐めいた色を浮かべて、アルモニアはそう言う。

 

「それでも、ご当主様に稽古をつけていただいてから、私は剣をそこまで嫌わないようになりました」

 

 フィリアがそう反駁すると、アルモニアは優しい笑みを浮かべて頷いた。

 

「剣術は争いの為に編み出されたものだ。人が営みを続けていく上で、諍いは避けられない。……けれど覚えておきなさい。争いを納める術は人の心にこそあるんだ。要は、それに気付けるかどうかなんだよ」

 

 視線の先に何を思い描いているのか、さびしそうにそう言って、アルモニアは再びワインを口にした。

 フィリアもそれ以上の質問は憚り、別の話を振ろうとする。

 けれども、この一年以上を訓練漬けで過ごした少女は、和やかな話題など到底持ち合わせていない。

 

 仕方なく、訓練の合間に起きた些細な出来事や、メリジャーナたちに良くしてもらった話、印象深い家族の思い出を語る。

 特に、アルモニアは貧民時代の家族の暮らしが気になったようだ。

 決して恵まれた生活ではなく、母が体調を崩してからは悲惨な毎日を送っていたが、フィリアは務めて楽しい思い出だけを伯父に話す。そうして――

 

「このペンダント、私たちの家の鍵にそっくりなんです。忙しくて会えなくても、みんな繋がってるんだって、そう思えるんです」

 

 フィリアは銀細工のペンダントを取り出し、アルモニアに見せた。家族以外は誰も信用しなかった彼女も、いつの間にか随分とこの伯父に心を開いていたようだ。

 

「ああ、小遣いを前借に来たのはこれを作るためか。……いや、よくできている」

「はい! 私の宝物です」

 

 アルモニアはペンダントをしげしげと眺める。はめ込まれた宝石の意図に気付いたようだ。

 

「この宝石は……ふむ。私も家長としてはまだまだらしい」

「あの、えっと、それは……」

 

 何も弟たちもアルモニアのことを嫌っている訳ではないだろうが、やはり相手が当主という立場であり、また伯父という関係であるため、強いてデザインに彼の事を組み込みはしなかったようだ。

 けれどアルモニアはさびしげな表情で、

 

「時間をかけて触れ合えば、いずれあの子たちも私を家族と認めてくれるだろうか」

 

 と、そう呟いた。

 アルモニアのその言葉に、フィリアは曰く言い難い罪悪感を覚える。

 

 彼は母を生贄に捧げる決断を下した、許しがたい罪人である。

 出会った当初は心の底から彼を憎んだものだ。そうして野望を果たすために、好意につけ込んで散々に利用もした。

 しかし、実際に戦場へと立ち、この世界の残酷な現実を味わったフィリアは、もう彼を心から憎むことができなくなっていた。

 

 この残酷な世界で生きるための「こちら」と「あちら」の線引き。

 フィリアは家族とその他で物事を切り分けていた。大人たちの場合、それが国とその他に変わっただけのことなのだろう。

 母は必ず助ける。その決意に変わりはない。

 けれど、一人の犠牲で皆が救われるという選択を、フィリアも非難することはできない。母と伯父が下した決断は、苦渋に満ちたものだったのだろう。

 

「……はい。きっと絶対、みんなご当主様を好きになると思います」

「そうか。そうだといいがな……」

 

 アルモニアは暫く銀の鍵を眺めていたが、ふと思い出したかのように、自らの胸元を探る。

 

「ああそうだ。君に渡しておかなければ」

 

 彼が取り出したのは、ひもで結わい付けられたトリオンの球体だ。少女の指先ほどの大きさをした純白の球は、真珠のように美しく輝いている。

 大粒の宝珠は吸い込まれるように深く尊貴な輝きを放っていた。しかし少女はなぜか、その輝きに胸が締め付けられるような切なさを感じる。

 

「いいだろうか」

 

 一言そう断ると、アルモニアはトリオン球からひもを外し、銀の鍵へと近づける。

 摘まみ部分の穴に押し当てると、まるで最初から一つであったかのように、トリオン球はするりと銀の鍵に嵌り込んだ。

 

「もし嫌でなければ、これを持っていてほしい。私からのお守りだ。これは常に君と共にあり、君の歩く道を祝福してくれるだろう」

 

 そう言って、アルモニアはフィリアに銀の鍵を返す。

 

「そんな……受け取れません。これはご当主様のお守りではないんですか?」

 

 急な展開に、少女は慌てて受け取りを拒否する。

 どんな由縁があるのか知らないが、アルモニアが肌身離さず持っていたということは、この宝珠はフィリアにとっての鍵と同じように大切なモノのはずだ。

 

「私はもう充分助けられた。これからは君が持つといい。困難な戦場に出るのであれば、なおさらだ」

「それはどういう……」

「フィリア。君が叙勲に相応しい功績を上げたとの旨、私から教会へと奏上しよう。流石にすぐには認められないだろうが……」

 

 アルモニアはそう言って、少女の首に銀の鍵をかける。

 叙勲を行うかどうか判断するのは教会だが、アルモニアほどの人物が直接申し込めば退けられることはない。それは確かに、少女の騎士就任を認める言葉であった。

 

「……ご当主様は、私が戦場に出るのを嫌っておられると思っていました」

「反対だな。絶対に認めたくはない。けれど、君は簡単に聞き入れるような子じゃないだろう」

「……ありがとう、ございます」

 

 フィリアは宝珠の収まった銀の鍵を握りしめ、声を掠れさせながら礼を述べた。

 家族以外から、ここまで思いを掛けてもらったことは一度も無い。胸に熱いものが込み上げ、少女は言葉を失う。

 

「もし君が本当にしたいことを見つけて、戦場から離れたくなったなら、迷わず私に言いなさい。必ず力になろう。約束する」

 

 感激に顔を伏せる姪に、伯父は凛然とした声でそう告げる。

 吹き抜ける夜風は冷気を増していたが、ここには暖かな思いが満ちている。

 夜空に冴え冴えと輝く星々が、二人を明るく照らしていた。

 

 

                            第二章へ続く

 



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第二章 指と引き金
其の一 騎士叙任式


遅ればせながら、お気に入り登録、評価、感想ありがとうございます。
拙い物語ですが、お付き合いいただければ幸いです。


 壮麗なステンドグラスから差し込む眩い光が、大聖堂の心臓たる祭壇を照らしている。

 七色の陽光を浴びて佇立するのは、荘厳な法衣を纏った老齢の司祭だ。深い皺の刻み込まれた面持ちは厳粛そのもので、手には黄金で装飾された豪奢な剣を提げている。

 そして、その前に拝跪しているのは、褐色の肌をしたあどけない少女だ。

 

「汝が神とその愛し子の守護者となるように。常に思慮深く、勇気に満ち溢れ、天秤の如く節度を守り、あらゆる暴悪に屈さぬ正義を抱く、真の騎士となるように」

 

 枢機卿ステマ・プロゴロスは祝別の言葉を述べながら、荘重なる動作で宝剣を少女の肩へと当てる。

 聖都の中央に位置する大聖堂では、国家の新たな守護者を任ずる儀式が執り行われていた。今日この日、騎士の叙任を受けるその者は、

 

「フィリア・イリニ。神とその愛し子に一命を捧げた者よ。汝の魂に祝福あれ。汝の道程に幸いあれ。神の御名において、汝を騎士に任命する」

 

 枢機卿より差し出された宝剣を恭しく受け取ると、その新たな騎士は堂々と立ち上がり、小さな身体を名一杯に動かして見事な作法で答礼を行う。

 

 エクリシアの長き歴史の中でも前例を見ない、僅か十一歳の叙任者。そしてその新たな騎士には、エクリシアの怨敵ノマスの血が流れている。

 異例尽くしの叙任式ではあったが、列席する貴族、騎士、従士たちはしわぶき一つ漏らさない。少女の出自に由来する嫌悪や侮蔑の感情はなりを潜め、居並ぶ皆が真剣に儀式を眺めていた。

 

 その理由、それは舞台の主役を務める少女の佇まいが、所作が、眼差しが、意思と希望の輝きに満ち溢れていたからだ。

 剣を受け取り、鞘に納めた少女が振り返る。降り注ぐ光の中に佇むフィリアの姿は、完成された名画のように皆の心を打つ。

 今このひと時だけは、祖国の新たな守護者の門出に誰もが心よりの祝福を祈った。

 

 フィリアは胸を張って皆の視線に応え、毅然と歩み出す。

 自ら課した過酷極まる訓練の日々。それさえ陽だまりに感じるような地獄の戦場。

 それらを潜り抜けてきたのは、すべてこの日の為に。

 

 今日から、少女の本当の戦いが始まる。

 澄明な決意を秘めて、少女は更なる一歩を踏みしめた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「姉ちゃん格好良かったな! スゲェよ!」

「とっても綺麗だったよ姉さん! 母さんにも見せたかったぐらい!」

「お姉ちゃん。おめでとう!」

 

 叙任式も滞りなく終わり、フィリアは控室で礼装を脱ぎ化粧を落としていた。

 その横では、イリニ家の一員として式に列席した弟妹たちが大興奮ではしゃいでいた。彼らは口々に姉の晴れ姿を誉めそやしている。すると、

 

「な、ヌースも感動しただろ? ちゃんと撮っといてくれたよな!」

 

 と、長男のサロスが聞き捨てならないことを口走る。

 

「え、ちょっと待って、連れてきたの!?」

 

 それを聞いたフィリアは目を丸くして鏡台から振り返った。先ほど神秘的なまでの壮麗さはどこへやら、年相応の愛らしい驚き顔である。

 

「私から言い出したことなのです。サロスを責めないであげてください」

 

 にゅっ、とサロスの余所行き用の礼服から顔を出したのは自律型トリオン兵、ヌースである。彼女の有する多彩な機能の一つ、小型の分身を用いて式に同席したらしい。

 

「アルモニア殿には許可を得ています。案じることはありません。偽装は完ぺきでした」

 

 ヌースは存在自体が未知の軍事技術の塊である。通常は技術開発の下に分解されるべきところを、アルモニアの計らいでイリニ家に匿われているのだ。

 そんな彼女をエクリシアの中心部である教会に連れてくるなど言語道断の仕儀だ。見つかればどうなったことか。

 

「ご当主様は何を考えていらっしゃるんですか! 最近みんなを甘やかし過ぎです」

 

 と、少女が眦を決して問い詰めるのは、彼女の伯父アルモニアだ。

 イリニ家の当主として、騎士団の総長として、彼も当然ながら叙勲式に列席していた。

 

「ああ、いや、すまない。やはり家族の晴れ舞台は、皆で祝うべきだと思ってな」

 

 金髪の偉丈夫は白々しく謝罪するが、その態度に悪びれた様子は微塵もない。いつもの峻厳な容貌を崩し、翡翠色の瞳を細めて子供たちの様子を眺めている。

 

「~~もうっ!」

 

 相手が悪いと判断したフィリアは、小言の矛先をヌースたちに戻そうとする。しかし弟妹たちは気を見るに敏で、さっと伯父の後ろへと隠れた。

 

「お姉ちゃんごめんね。でもヌースも来たかったんだよ」

 

 末の弟イダニコが、アルモニアの後ろから顔を覗かせる。その純真無垢な視線を向けられると、どうにも怒りを削がれてしまう。

 

 この数か月というものの、アルモニアは暇を見つけては弟妹たちと積極的に交流するようになった。大貴族の当主という立場と、義理の伯父という微妙な間柄ゆえに一線を引いていたようだが、元々子供好きであったのだろう、弟妹たちとはすっかり打ち解け、実の家族のようだ。

 また弟たちも、母となかなか会えない寂しさを、この優しい伯父が埋めてくれることに心から喜んでいるようだ。

 

「とにかく、帰りも気を付けるのよ。絶対に見付からないように」

 

 フィリアが腰に手を当て胸を反らし、いかにも怒ってますとアピールしながら説教すると、弟妹たちも殊勝に反省の言葉を口にする。

 

「まったくもう……」

 

 とはいえ、少女も実際の所はそこまで腹を立てている訳ではない。家族総出で自分を祝おうとしてくれた彼らの心遣いを、どうして憎らしく感じようか。

 

 すっかり怒気を沈めた姉に、もう大丈夫だと思ったのか、弟たちがまたワイワイと騒ぎ出す。すると、

 

「姉さん。今日の映像をね、母さんに見せてもいい?」

 

 と、妹のアネシスがそんなことを言いだした。

 

「あのね、母さんも寂しがってると思うの。姉さんがお仕事で忙しくて、なかなか会えないのは知ってるけど、……だからね、姉さんの綺麗な姿を見せれば、きっと母さんも喜ぶと思うんだ」

「…………」

 

 見れば、サロスとアネシスも請うような眼差しを少女に向けている。

 

 フィリアは騎士団へ入って以降、一度も愛する母と会ってはいない。

 母の暮らしぶりや体調面の話は事細かに耳にしているものの、直接会うことは頑なに避けていた。

 もちろん、少女が多忙であったのは事実である。しかし、面会日の全てに都合がつかなかった筈がない。

 彼女は恐れていたのだ。愛する母の傷つく姿を見ることを。

 

 母パイデイアは聖母のように慈愛の心に満ち溢れた人物で、近界(ネイバーフッド)を取り巻く凄惨な争いに何時も心を痛めていた。

 特に戦争狂とまで仇名された彼女の実父、イリニ家の先代当主とは悉く意見が合わず、勘当を申し付けられたほどだ。

 

 騎士となったフィリアの姿を見ても、パイデイアは決して咎めないだろう。

 娘の決断と克己を称え、労苦を労い、優しく受け入れてくれるに違いない。

 ただそれでも、母が心の奥底で傷つくことに変わりはない。そんな彼女を目の当たりにする勇気を、フィリアはどうしても持てなかった。

 

「……それは良い考えだ。私から伝えておこう。どうかな」

 

 沈黙する少女に助け舟を出したのはアルモニアだ。彼は姪の複雑な心境を理解しているようで、意味ありげな視線を送る。

 娘が騎士になった。すなわち一生を戦場に捧げる選択をしたという事実は、遅かれ早かれ母の耳には入るのだ。

 アルモニアの口から婉曲に伝えてもらった方が、まだショックは小さく済むだろう。

 

「そう、ですね……ご当主様、よろしくお願いいたします」

「やった!」

 

 フィリアが頷くと、弟妹たちは歓声を上げる。母と姉が疎遠になっていることに、彼らも心を痛めているようだ。

 姉の騎士への叙勲は、彼らにとって一大快事である。エクリシアで育った弟妹たちにとって、やはり国家を守護する騎士は羨望の的なのだ。

 これを機会に母と姉の繋がりが戻ればと期待するのは、無理からぬことだろう。

 

「さて、これぐらいにしようか。フィリアはこれから鎧の調整をしなければならない。あまり引き留めると悪い。先に帰るとしよう。研究室ではドクサとメリジャーナが待っている。何か分からないことがあれば遠慮なく聞きなさい」

 

 この感じやすい姪を気遣ったのだろう。アルモニアは弟たちを連れて、控室を後にした。

 残されたフィリアは化粧を落とし、衣装も平時の軍服に着替えた。

 そうして騎士の象徴たるトリガー「誓願の鎧(パノプリア)」を受領するため、研究室へと向かう。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エクリシアの中枢たる「教会」には、三つの顔がある。

 一つは民の心を慰撫し、確固たる連帯を築く宗教的指導者としての姿。

 一つは近界(ネイバーフッド)の動向を睨み据え、自国を繁栄へと導く政治的指導者としての姿。

 もう一つは、あらゆる賢者を集め、絶えず技術の躍進を目指す科学者としての姿だ。

 

 一般市民には解放されていない教会の地下に、研究室と呼ばれるフロアがある。

 階を一つ隔てただけで様相は大きく異なり、大聖堂の荘厳で神秘的な雰囲気は微塵も残されていない。

 隔壁が随所に設けられた通路が迷路のように入り組むその様は、まるで巨大な地下城塞を思わせる。

 事実、これは侵入者を阻むために設計されたものだ。研究室よりもさらに地下深く降りたその先に、エクリシアの心臓部たる(マザー)トリガーがある。

 

 この教会そのものが、(マザー)トリガーを守護する目的で建てられた巨大な砦なのだ。

 地下階への出入りは非常に厳しく監視されており、入り口も一つしかない。そこには常に聖堂衛兵が詰めており、不審者に目を光らせている。

 フィリアは聖堂衛兵に所属と来訪の目的を告げ、本人証明のチェックを受ける。そうしてようやく研究フロアへと降りると、見知った顔が彼女を出迎えた。

 

「フィリアさん。待ってましたよ」

 

 朗らかな笑顔を浮かべて手を振っているのは薄紫色の髪をした朗らかな美女、メリジャーナ・ディミオスだ。

 第三研究区画の入り口で落ち合うはずだが、態々迎えに来てくれたらしい。

 

「遅参を謝罪いたします。騎士ディミオス」

「もう、今日は折角の一日ですよ。固いことは言いっこなしです」

 

 鯱場ったフィリアの態度を一笑に付し、メリジャーナが歩み寄る。

 少女の謹厳な振る舞いは出自に由来する反感を避けるためだ。良くも悪くもフィリアに慣れたイリニ騎士団ならともかく、教会には排外主義者も少なくない。

 

 大貴族イリニ家の後ろ盾を得たフィリアに噛みつくような者はいないだろうが、それでも用心に越したことは無いのだ。

 もっと愛嬌を振り撒ければと思うものの、生来真面目な彼女にとっては、なかなか難しい話である。

 

「叙任式、とても素敵だったわ。列席できて光栄よ」

 

 そんな少女の事情を知らぬわけではなかろうに、メリジャーナはフィリアの手を取ってぐいぐい歩き出す。

 穏やかな風貌からはうける印象とは裏腹に、彼女が意外なほどに押しが強い人物だということは知っている。しかし、それでも何か、手を引く態度に意図的なモノを感じる。

 

 フィリアの肩がピクリと震えた。

 これはメリジャーナの意思表示だ。イリニ騎士団はフィリアを完全に受け入れ同胞として扱っていると、教会の内外に喧伝する意図がある。

 もしも少女に不当な扱いをすれば、イリニ騎士団全体を敵に回すことになると、暗に警告しているのだ。

 

「……メリジャーナさんに、ご指導を賜ったおかげです」

 

 少女の胸に、じんわりと暖かな思いが込み上げる。

 家族以外に頼れる者がいなかった自分に、ここまで良くしてくれる人たちができるとは。

 

「またそんな謙遜を。あなたの努力が実ったのよ」

 

 フィリアを誉めそやすメリジャーナは、まるで自分の事のように嬉しそうだ。

 つられて少女も顔がほころぶ。

 

 まるで年の離れた姉妹のように手を繋いで歩く二人。

 花園を散策するかのように楽しげなその様子に、すれ違う人々はいったい何事かと訝しげな表情を向ける。

 気恥ずかしさも込み上げてくるが、今はそれさえも心地いい。

 フィリアは引かれた手をきゅっと握り返して、溢れる感謝の思いを伝えた。

 

 そうして二人が浮かれ調子で研究室までたどり着くと、

 

「おやお前たち、随分楽しそうじゃないか」

 

 と、禿頭で筋骨逞しい男性がからかうような調子で声を掛けてきた。

 

「お疲れ様です。ディミオス団長」

 

 礼法に則り、フィリアが優雅に一礼する。相手はメリジャーナの父にしてイリニ騎士団第一兵団長、ドクサ・ディミオスその人だ。

 

「うむうむ。元気そうで何よりだ。いい叙任式だったぞ。総長も鼻が高かろう」

 

 ドクサに促され、二人は研究室へと入る。

 エクリシアの軍事、産業、その他諸々の礎であるトリガーを開発する研究室は、華麗な装いとはまるで無縁の空間である。

 

 無骨で無機質なトリオン製の室内には多数のテーブルが並び、職員がせわしなくモニターと格闘している。整理整頓をする間もないのか、どこもかしこも雑然とした様子だ。

 何人かの職員がフィリアの方を見たが、すぐに興味を失ったように視線を手元に戻した。良くも悪くも噂の絶えない少女を相手にこの対応。よほど忙しいらしい。

 

「疲れているところ悪いが、鎧が無ければ騎士として始まらんのでな」

「いいえ、問題ありません」

 

 研究室を横目に奥へと進んでいくと、頑丈な造りの広い部屋が見えてくる。

 壁も床もトリオンで分厚く補強されたそこは、トリガーを試すための実験室だ。

 

「細かい調整は済んでるだろう。今日は最終確認だ」

 

 フィリアの前には、至る所に計測機器を取り付けられた甲冑が鎮座している。

 勇壮にして流麗な意匠、全身鎧にしてはシャープすぎる造形は、防御力と機動力の両輪をギリギリまで突き詰めた証であり、研ぎ澄まされた刃のように怪しい気を放っている。

 これが、エクリシアが誇る傑作トリガー「誓願の鎧(パノプリア)」、そのフィリア専用機だ。

 

「トリガー起動」

 

 トリオン体に換装した少女は、ゆっくりと鎧へ歩み寄る。

誓願の鎧(パノプリア)」は通常のトリガーとは異なり、その都度トリオンを用いて作り出すのではなく、既に構築済みの鎧を着装して運用する。

 これは「誓願の鎧(パノプリア)」の起動に要求するトリオンが非常に重く、個人で創出した場合は戦闘用のトリオンが残らないからだ。

 

「「誓願の鎧(パノプリア)」起動」

 

 フィリアが鎧に手を当て強く念じると、純白の甲冑に緑色の輝線が走る。

 そして前面部のパーツが開き、内部がむき出しになった。

 

「着装します」

 

 調整は叙任式以前から行われており、これが初めての着装という訳ではない。

 しかし、鎧に身を重ねるその瞬間は、何時になっても緊張する。

 

「――っ」

 

 少女の細い身体を甲冑が包み込んでいく。次の瞬間、首から背骨にかけて微かな疼痛が走った。

誓願の鎧(パノプリア)」の内部から突き出た針のような神経索が、フィリアのトリオン体に刺しこまれる。そしてすぐさま、甲冑を動かす神経網とトリオン体の伝達機関の接続が始まる。

 

 トリオン体と甲冑の境目が、徐々になくなっていく。

 重厚な鎧に神経が通い、まるで生まれ持った手足のようにクリアな感覚が芽生える。

 

 フィリアはメンテナンス用の計器類をパージすると、台座から立ち上がった。

 その動作はあまりに自然で、着装者の存在を感じさせない。まるで甲冑そのものが生きているかのように滑らかだ。

 

「全行程異常なし。着装完了です」

 

 少女の高く澄んだ声が、無骨な甲冑から発せられる。

 

「では、動作確認に移ってくれ」

「了解しました」

 

 トリオン体の伝達系と繋がった「誓願の鎧(パノプリア)」は、フィリアの感覚に合わせて遅延することなく自由自在に動く。

 淀みない調子で歩き、腕を動かす。地を蹴って高々と跳ね上がり、音も無く着地する。

 

「戦闘動作に移ります。「鉄の鷲(グリパス)」起動」

 

 刃引きされたブレードを創出し、剣柄を握る。

誓願の鎧(パノプリア)」は独立したトリガーであるため、着装者が本来持つトリガーを併用することができる。

 長剣「鉄の鷲(グリパス)」、小銃「鉛の獣(ヒメラ)」、狙撃銃「錫の馬(モノケロース)」、砲盾「銀の竜(ドラコン)」、シールド「玻璃の精(ネライダ)」といった基本トリガーに加えて、(ブラック)トリガーまでも装備することが可能だ。

 

「――参ります」

 

 軽やかな声と共に、甲冑姿が掻き消えた。

 一瞬のうちに五メートル余りを悠々と踏み込んだフィリア。視線が追い付くころには既に初太刀は放たれており、残心の型を構えている。

 

 少女の卓越した技量を差し引いても、その速度は尋常ではない。

 通常のトリオン体とは一線を画す高速機動。それを可能としているのは「誓願の鎧(パノプリア)」の有するパワーアシスト機能である。

 

 全身のいたる部位からトリオンを噴出し、着装者の動作を強力にサポートするこの機能は、重量級の「誓願の鎧(パノプリア)」に疾風の如き速度を与え、破城槌の攻撃力を備えさせる。

 これだけの性能を有すれば、当然ながらトリオン消費は凄まじいモノとなる。仮に着装者のトリオンで賄おうとした場合、十分と動くことはできないだろう。

 

「「恩寵の油(バタリア)」の調子はどうだ」

「供給に問題はありません」

 

 それを解決するのが、鎧の腰部に装着されたトリオン製の小箱である。

 一見すると鎧の一部にしか見えないそれこそ、エクリシアが開発した革新的トリガー「恩寵の油(バタリア)」である。

 

 トリオンの外部携行を可能とするバッテリーは近界(ネイバーフッド)各国で研究開発されているものの、その容量と小型化において「恩寵の油(バタリア)」に並ぶトリガーは存在しない。

 この「恩寵の油(バタリア)」開発によって、膨大なトリオンを消費する「誓願の鎧(パノプリア)」の実戦投入が可能となったのだ。

 

「――ふっ」

 

 鋭い呼気と共に、鎧が再度動き出す。

 目にも止まらぬ速度で繰り広げられるのは、イリニ騎士団正調の剣術の型だ。

 

 避けては薙ぎ、受け流しては突き、一瞬たりとも途切れることなく繰り広げられる剣の舞。巨大な剣が音も無く空間を切り裂いたかと思えば、次の瞬間には雷光の如く激しい刺突が繰り出される。

 意識が追い付くギリギリまで加速した「誓願の鎧(パノプリア)」の中で、なおも少女は限界を超えようと技を繰り出す。

 

「凄まじいな」

「……はい」

 

 その光景を眺めるドクサとメリジャーナは、そろって感嘆の言葉を口にした。

 

 フィリアの剣術の冴え、その技量のほどは、最早エクリシア全土でも最上層に位置するだろう。

「剣聖」アルモニアを除けば、剣の腕で彼女を明確に上回る者はおそらく居るまい。

 そして真に驚くべき事実は、驚愕の技量を身に着けたその少女は僅か十一歳、剣を取って未だ二年と経っていないことだ。

 

 どれ程の才能を、どれだけの執念で磨き上げればその歳でここまで至るのか。

 この日生まれた新たな騎士。エクリシアの未来を背負い立つその小さな姿に、ドクサとメリジャーナは畏敬と憐憫の入り混じった複雑な視線を向ける。

 

 そうして程なく最終調整と動作確認は終わり、フィリアは正式に「誓願の鎧(パノプリア)」を受領した。鎧はイリニ騎士団に運び込まれ、これから少女と戦場を共にすることになる。

 これで彼女は名実ともに騎士になった。もはや彼女は蔑まれる敵国の貧民ではなく、民衆を導く名誉ある貴族だ。

 しかし、少女に立身出世を喜ぶ思いは微塵も無い。ただ新たな力を手に入れたこと、そしてようやく自分が遠征に赴く資格を得たことに、安堵するばかりである。

 

 そう、フィリアの戦いはまだ始まったばかりなのだ。

 母を取り戻すその日まで、少女の歩みは止まらない。

 

 



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其の二 フィロドクス家の人々

 延々と続く無味乾燥とした研究フロアの通路。

 地下のため窓も無く、防衛上の観点から道幅も狭い。一向に代わり映えのしない景色の中を歩いていると、だんだんと壁が迫ってくるような圧迫感さえ感じる。

 フィリアは現在、研究室を探検している真っ最中であった。

 

 叙任式を無事に終え、騎士の証たる「誓願の鎧(パノプリア)」も受け取ることができた。今日の予定は全て終えたので、後は家に帰るだけとなった彼女だが、迎えが来るまでは少し時間がある。

 ドクサとメリジャーナ親子はイリニ騎士団での仕事があるため、立ち合いを終えるとすぐに教会を離れてしまった。

 

 一人残されてしまったフィリアだが、元々無為に時を過ごすのが苦手な性格である。

 ぽっかりと空いてしまった時間はだいたい勉強で潰すことが多いものの、今日は折角研究室まで来ている。これから度々訪れることもあるだろうし、見て回るのも悪くない。

 少女はそう考えて、フロアの散策を始めることにした。ところが、

 

「えっと、ここはさっき通ったかも……」

 

 どうも、道に迷ったらしい。

 

 意図的に曲がりくねった通路に似たような部屋がずらりと並び、むやみに広い敷地内には案内図など一切ないのだから、それも無理からぬことだろう。

 現在地さえ分からなくなったフィリアは、観念してサイドエフェクトに頼ることにした。

 上階へはどう行けばいいか、と真剣に念じれば、超感覚が階段への道順を明瞭に浮かび上がらせる。

 

 本当は研究室の様々な部署を覗いてみたかったが、もう迷うのはこりごりだと少女は逃げるように階段を目指す。

 サイドエフェクトに導かれるまま歩いていると、不意に開けた空間に出た。

 テーブルとソファが並び、奥には軽食と飲み物を出すカウンターがある。どうやらラウンジに出たらしい。その時、

 

「――ん、けほっ」

 

 急にフィリアは猛烈な喉の渇きを覚えた。

 そういえば、叙任式で粗相をせぬよう、今日は朝から水分を控えていた。思いもがけず歩き回ったせいで汗もかき、渇きは限界に達している。

 

 ラウンジでは研究員らしい人がまばらに座り、思い思いにくつろいでいた。

 別に彼ら専用という訳ではなく、金さえ払えば誰でもサービスを受けられるのだろう。

 何か飲み物を注文して渇きを潤し、迎えが来るまでここで時間を潰せばいい。

 

 そう思いながらも、少女はカウンターには近寄らず、じっと周囲を観察している。

 これは出自と貧民街での暮らしから、彼女に染み付いた癖のようなものだ。

 

 ノマスの血縁者には無条件で敵意を向ける者も多く、問答無用で暴力を振るおうとする者も少なくない。

 まさかこの場でそんな無法に及ぶ者はいないだろうが、それでもフィリアは接触しても大丈夫か、話しかけても害がないかを慎重に確認する。すると、

 

「えっ?」

 

 少女は自らに向けられた鋭い視線を感じた。驚いて視線の主を探すと、

 

「…………」

 

 テーブル席に座る一人の女性が、微動だにせずフィリアを見詰めていた。

 眼鏡をかけた、うら若い女性である。

 

 年の頃は二十に届くかどうか、セミロングの灰色の髪に茶色い瞳。肌は雪のように白く細やかだが、いささか白すぎて不健康そうに見える。

 目鼻立ちは整っているものの、何の感情も浮かべず、瞬きさえほとんどしないその顔はどこか作り物めいていて、まるで人形のようだ。

 

「……あの」

 

 十秒以上たっぷりと見つめ合ってから、フィリアはその女性におずおずと話しかけた。

 

「何か?」

 

 すると女性は首を傾げ、さも不思議そうに少女に問い返す。まるで話しかけられた理由に皆目見当がつかないような口ぶりだ。

 

「私の方を見られていたようなので……何か御用があるのではないかと」

「いいえ、特にはありません。騎士フィリア・イリニの姿を眺めていただけです」

「……そう、ですか」

 

 機械的なまでの女性の口ぶりに、フィリアも返す言葉を失う。

 女性はなおも少女から視線を外さない。そう言えば、この女性は先ほどから皆がくつろぐラウンジで飲み物も頼まず、背筋を伸ばして置物のように座っているだけだ。

 

 どうも、よほど変わった人らしい。

 少女はそう結論付け、これ以上関わるか否かを考え始めた。だが、

 

「あなたも先ほどから立ち尽くしていたようですが、何か問題がありましたか」

 

 と、その女性の方からフィリアへと話しかけてきた。

 

「いえ、その、喉が渇いたのですが、私も飲み物を頼んでいいのかな、と……」

「このラウンジはフロアに立ち入りが許可された者なら、無償で飲食が可能です。騎士フィリア・イリニ、あなたも例外ではありません」

 

 女性はそう言って立ち上がると、フィリアの前を歩き出した。付いて来い、という意味らしい。

 

「注文方法は分かりますか?」

「あ、はい。なんとなくですけど」

 

 謎の女性に促されるまま、フィリアはカウンターでミルクとチキンのグリルサンドを頼む。女性もミネラルウォーターを頼んだが、どうやら少女に手本を見せたつもりらしい。

 程なくして注文した品を受け取ると、二人はその流れで同じテーブルへと付いた。

 対面に座る女性は、変わらずフィリアを眺めている。

 この女性とは初対面のはずだ。少女は意を決し、謎の女性に話しかける。

 

「初めてお目にかかります。イリニ家のフィリアと申します」

「存じています。叙任式にも列席しました」

「…………」

 

 そう言って、女性は平然と座っている。何やら馬鹿馬鹿しくなってきたフィリアは、

 

「平に御容赦下さい。お名前を伺ってもよろしいですか」

 

 と、直截に尋ねることにした。すると女性は気を悪くした風もなく、

 

「フィロドクス家のオリュザです」

 

 と、平静そのものの顔で答える。

 

「――御無礼をお許しください。騎士オリュザ・フィロドクス」

 

 名前を訊くや、フィリアは恐縮したように頭を下げた。

 オリュザ・フィロドクスといえば、三大貴族の一角フィロドクス家の令嬢にして、(ブラック)トリガー「万鈞の糸(クロステール)」の担い手だ。若年ながらも抜群の武功を立て、エクリシアにその名を轟かせる騎士である。

 なぜ今まで気づかなかったか。騎士の身でありながら、(ブラック)トリガーの担い手を見知らぬなど、無知と詰られてもしかたがない。

 

「? 謝罪の意図が不明です」

「ああ、いえ……」

 

 だが、オリュザは気を悪くした様子も無く、小首を傾げて応じる。

 変わった人、という印象は、どうやら間違っていなかったらしい。

 ともかく叱責を免れたことに安堵したフィリアは、言葉を濁してサンドイッチを片付けることにした。物を口に入れている間は喋らなくてもいい。

 オリュザも少女の観察に飽きたのか、通路の方へと視線を向け、また置物のように固まってしまった。

 

「…………」

「…………」

 

 沈黙が辛い。

 パンをミルクで流し込みながら、フィリアは何とも居た堪れない空気を味わっていた。

 自分が社交に向いていないことは百も承知だが、それにしてもこの女性の態度はどうだろう。これで貴族としてやっていけるのだろうかと、少女は他人事ながら心配になる。

 とはいえ、注文できずに固まっていたフィリアに助け舟を出したことを考えると、まんざら悪い人でもないようだ。

 

「ナウタでは大戦果を挙げられたとお聞きしました。おめでとうございます」

 

 サンドイッチを食べきって間が持たなくなると、フィリアは緊張した面持ちでオリュザにそう切り出した。

 先の遠征にて、フィロドクス家は洋上国家ナウタへと派兵した。

 戦闘は終始優勢で、三十人を超える捕虜を得たと聞いている。

 

「ありがとうございます。あなたも、防衛戦では活躍したそうですね」

「そんな、私なんてまだまだで……」

「その功績が認められての叙勲です。誇るべきだと思いますが」

 

 オリュザは相変わらず無表情で少女に応えるものの、別に嫌悪や敵意といった悪感情も抱いていないようだ。

 なんとなく、彼女との会話のコツが分かってきたような気がする。

 

「はい。一層精進に務めます。ところで、騎士フィロドクスは……」

「当主と混同を避けるため、オリュザと呼ぶようお願いしています」

「えっと、騎士オリュザは研究室に何の御用があったんですか」

「解析の済んだ鹵獲トリガーの引き取りです」

「ああ、なるほど」

 

 遠征先で得たトリガーは他国の技術の塊であるため、一旦教会の研究室で隅々まで解析されることになる。教会はトリガーの研究開発に余念がなく、有用な機能が見つかればすぐさまそれを基に新たなトリガーが作られる。

 研究元となったトリガーは各騎士団の正統な戦利品であるため、解析が終われば返却される。場合によってはそのまま実戦で使われることもあるようだ。

 

「加えて、先の乱星国家についての解析情報も受け取りに参りました」

「何かわかったんですか!?」

 

 淡々と告げるオリュザに、フィリアは身を乗り出して尋ねる。

 先日エクリシアを強襲した謎の国家については防衛の観点から反攻作戦が見送られ、教会とフィロドクス家が主導しての偵察が行われていた。

 フィリアも随分と気にしていたのだが、騎士団の上からは情報が降りてこず、半ば諦めかけていたところだった。

 

「直に教会から正式な情報開示が行われるでしょうが、私に分かる範囲の事ならお教えしましょう」

 

 オリュザの語るところでは、偵察部隊が持ち帰った情報から乱星国家の名はアンキッラと判明したそうだ。国土面積は中規模程度、人口は国土に比してやや少なく、取り立てて優れた産業も見当たらない。乱星国家というあり方ぐらいしか特筆すべき点のない平凡な国のようだ。

 軍事力も国力相応のもので、エクリシアが派遣した様子見程度のトリオン兵団を相手に、アンキッラの防衛部隊はやや損害を出したらしい。

 

「それはつまり……」

 

 フィリアが形の良い眉を顰める。

 偵察部隊がもたらした情報が確かならば、そのアンキッラという国にあれほどの軍勢を送り出す国力があったとは考えられない。

 無意識にカップを持つ手に力が入る。

 エクリシアの国情を察知していたかのような襲撃のタイミング。国力からはありえないトリオン兵の大量投入。それらが導く事実は――

 

「アンキッラには何れかの有力国が影響を及ぼしていると推測されます。我が国に奇襲を仕掛けたのはその国の意向によるものでしょう。しかし残念ながら、アンキッラの同盟国、ないしは宗主国の特定には成功していません。接触軌道を離れたため、現段階ではこれ以上の調査は不可能です」

 

 オリュザは淡々とそう言い終えると、水の入ったグラスを口元に運ぶ。

 

「……そうでしたか」

 

 フィリアも一先ず頷くと、カップに残っていたミルクを飲み干した。

 エクリシアはこの数百年、近界(ネイバーフッド)中で様々な国々と交戦してきた。恨みつらみは方々で買っている。乱星国家を足掛かりにして攻めてきた国は何処なのか、特定するのは難しいだろう。

 どちらにせよ、神の代替わりという不安定な時期はまだ続く。

 教会は各騎士団と協議して、防衛体制の再検討を行っているらしい。

 

「あとは、先の戦闘で確認された新型トリオン兵の解析が完了したようです。遠からず試作機が製造されるでしょう」

「あの捕獲用ですか、それともイルガーに搭載されていた小型でしょうか」

「両方です。捕獲用をワム。爆撃用をオルガと呼称します。試作機は各騎士団に配備される見通しです」

 

 オリュザは急に話題を変え、鹵獲したトリオン兵について話し出した。

 土中に潜り、分裂機能も備えた捕獲用トリオン兵ワム。

 自爆を前提に、高速飛行する爆撃用トリオン兵オルガ。

 どちらも有用さは身を持って味わっている。自国でも生産の目途が立ったというなら、実に頼もしい話である。

 

「教会からの通達事項はこれぐらいのものでしょうか」

「いろいろとお教え下さって、ありがとうございます」

 

 丁寧に礼を述べるフィリア。

 本来ならばもう少し別の話を、具体的にはフィロドクス家の神の候補について尋ねてみたいところであったが、オリュザのこの性格なら、機密にかかわることは絶対に明かさないだろう。

 無駄な探りを入れて不信感を持たれても得が無いので、フィリアは質問をぐっと飲み込み、当たり障りのない話題を探す。

 

「騎士オリュザのかけていらっしゃる眼鏡、とても素敵ですね」

 

 なんとなく口から出た言葉だが、感想は偽らざるものである。ほっそりとした優美な銀色のフレームが、オリュザの知的な面立ちに良く似合っている。

 トリオン体は生身の不都合が解消されるので、視力も自動的に矯正される。その為、騎士団内ではあまり眼鏡をかけた人物を見ることがなかった。

 そのこともあってだろう。オリュザの眼鏡姿はとても印象的に見えた。

 

「そう。ありがとう」

「な……」

 

 フィリアの口から思わず間の抜けた声が出る。

 眼鏡を褒められたオリュザはやや俯いて目を伏せ、照れたように礼を述べた。

 いや、実際に恥ずかしがっているのだろう。病的に白い頬には、仄かに赤みがさしているのだから。

 初対面からずっと無表情を続けてきたオリュザの、初めて見せる感情の揺らぎ。

 木石のような人物だと思っていただけに、衝撃はかなりのものだ。

 

「どうかしましたか」

「ああ、いえ。何でもありません」

 

 フィリアが言葉を濁すと、オリュザは思考を纏めるかのように数拍置いて、訥々と語りだした。

 

「これは頂き物です。私が選んだ訳ではありません。良い品だというのなら、それは見立てた人の感性が優れていたのでしょう」

 

 相変わらず平静そのものの声だが、その表情にはどこか優しげ柔らかさがある。

 

「綺麗なだけじゃありません。その眼鏡は騎士オリュザにとってもお似合いです」

「ありがとう。でもこの話はもう止めましょうか」

 

 フィリアがそう褒めると、今度ははっきりとオリュザの頬が上気する。

 あれほど冷たい印象の人が、此処まで変わるとは。少女も何やら嬉しいやら楽しいやら、自然と顔がほころんでいく。

 

 よほど大事な人からの贈り物なのだろう。その気持ちはフィリアにもよく分かる。

 意外な共通点を見つけたためか、フィリアはオリュザにぐっと親近感を抱く。

 もう少しこの人のことを知りたいと、珍しく少女は積極的に他人と話そうという気になった。しかし、

 

「――!」

 

 眼前のオリュザがピクリと首を動かした。まるで何かを見つけた猫のような仕草である。

 彼女が見つめているのは通路の向こうだ。フィリアも何事かと顔を向けるが、

 

「……どうされたんですか?」

 

 通路に変わったものはない。通行人の姿さえなく、無愛想な壁と床が伸びているだけだ。

 

「お話できて光栄でした。騎士フィリア・イリニ」

 

 オリュザは立ち上がるとグラスを返却し、足早にラウンジから立ち去ろうとする。

 

「あの、ちょっと……」

 

 フィリアは戸惑いながらも、その後を追いかけることにした。

 オリュザが突然の奇行にはしった理由は、彼女のサイドエフェクトにある。彼女はおそらく聴覚系に関する何らかのサイドエフェクトを持っており、通路の奥から何事かを聴き取ったのだろう。

 足早に廊下を進むオリュザ。角をいくつも曲がり、五十メートル以上は歩いたところで、前方に人影が見えた。

 

「――お疲れ様です。お父様」

 

 その姿を見るや、小走りになるオリュザ。心なしか声も弾んでおりで、先ほどの機械のような印象は見る影もない。

 

「おお、ラウンジで待っていてくれてよかったのに」

「随分と会議が長引いたようで……何か懸案事項がありましたか」

 

 オリュザが話しかけているのは長身痩躯の老人だ。

 白髪で深い皺の刻まれた顔に、滝のように長い真っ白な髭を蓄えている。

 彫りが深く鼻梁が高く、とび色の小さな瞳は知性の光に輝いていて、一見すると酷く厳格そうな印象を受けるが、オリュザ相手に相好を崩すその様は、孫に出迎えられた好々爺のようだ。

 

「ああ、これはどうも、お久しぶりです騎士フィリア・イリニ」

 

 と、フィリアに声を掛けたのは、老人の隣に立つ男性だ。

 

「一別以来ご無沙汰を重ねております。カナノス卿」

 

 彼はフィロドクス家の宰領、エンバシア・カナノスだ。先の防衛戦では、彼がフィロドクス騎士団の指揮を執っており、彼とはその折に会ったことがある。

 

「おや、君は……」

 

 白髪の老人が少女に気付き、好奇心に溢れた視線を向けてくる。

 

「初めて御意を得ます。フィロドクス閣下。イリニ騎士団のフィリア・イリニと申します」

 

 フィリアは礼を尽くして自己紹介をする。

 万が一にも粗相があってはならない。目の前の老人こそ、フィロドクス家の当主「賢人」クレヴォ・フィロドクスその人だ。

 五十年以上の長きに亘ってエクリシアを導いてきた貴族の中の貴族である。

 

「素晴らしい叙任式だったよ。あれほど凛々しい騎士の誕生に立ち会ったのは初めてだ」

 

 クレヴォは穏やかな物腰で少女を褒めた。

 同じく大貴族の当主、ニネメア・ゼーンとの会談を思い出して身構えていたが、別段敵愾心を見せつけられることは無い。

 少女の出自について実際の所はどう思っているか分からないが、少なくとも表面的には非常に穏やかな印象を受ける。

 

 クレヴォは貴族の中でも穏健派として知られた人物である。

 またフィロドクス家は市民階級にも比較的寛容な施政しており、特にトリオン優良児を手厚く保護し、引き立てることで有名だ。フィリアも貧民時代には、フィロドクス家に自分を売り込もうと考えていたことがある。

 オリュザはクレヴォを父と呼んでいるが、年の差を考えると彼女も養子に迎えられた口だろう。なるほど忠誠心に溢れているのも理解できる。

 

「オリュザが人を連れて来るとは珍しい。この子はまあ、見た通りの子でなあ。仲良くしてやってくれると嬉しいのじゃが」

 

 クレヴォはオリュザとフィリアを眺め見て、何やら得心したように頷く。

 

「お、お父様。彼女と私は先ほどあったばかりで……」

 

 オリュザが困惑顔で経緯を説明しようとするが、

 

「騎士オリュザには困っていたところを親切に助けていただきました」

「おおそうか。この子がなぁ……」

「あ、あの……」

「はい。とても優しくしていただきました。もし友誼を結んでいただけるのなら、これほど嬉しいことはありません」

 

 フィリアは満面の笑顔でそう答えた。クレヴォは満足げにほほ笑んで、

 

「どうぞ娘をよろしく頼みます。イリニの小さな騎士よ」

 

 と、懇切丁寧に頼み込んだ。

 若すぎる騎士。それもノマスの出自の者に、過分な対応である。

 フィリアは恐縮も露わに応じるが、クレヴォは鷹揚な態度で笑うばかり。

 

 結局、フィリアは迎えの到着時間も忘れ、暫しフィロドクス家の人々と話し込んだ。

 長い歴史を誇る大貴族であるため、きっと厳格で保守的な考えの持ち主だろうとの少女の思い込みは、あっという間に覆された。

 少女は特に不快な思いをすることも無く、大いに歓迎されたのだ。

 彼女の属するイリニ家とは決して味方と言い切れる間柄ではないが、それでも彼らは同じ祖国を守護する誓いを立てた者たちだ。親交を深めることに何の問題もないだろう。

 

 名残惜しい談笑を終え、少女は帰途に就く。

 新たな立場、新たな力、そして新たな仲間を得て、フィリアはこの日を大いなる満足の内に終えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 教会の地下深くに広がる巨大な空間。近界(ネイバーフッド)の夜の闇を凝縮したようなそこに、エクリシアの神は座している。

 神を奉る至高の座から、一本の縦穴が地上へと延びている。そこに設けられた昇降機は、地の底から現世へと戻る唯一の手段だ。

 

 今まさに地上を目指して稼働する昇降機には、一人の男が乗っていた。

 大人の胸ほどの背丈しかなく、まだあどけなさの残った少年である。年の頃は十一、二といったところだろう。

 肌は白く透き通り、目鼻立ちも涼やかな美少年だ。ただ、少年の髪と瞳はエクリシアでも類を見ない、蒼天を映したかのような明るい青色をしている。

 

「ん~~っ!」

 

 少年は腕を天に突き上げ、大きく背伸びをする。近寄りがたい閑雅な雰囲気を纏った少年だが、その仕草は市中に住む悪戯好きな子供そのものだ。

 そもそもトリオン体とみられる少年の体に、如何ほどの疲労があるというのだろうか。それでも彼はぐるぐると首を回し、億劫そうに肩を揉み、仕事疲れが抜けない大人のように振る舞う。

 

 やがて、少年はいくつかのフロアを経由し、地下一階、研究室フロアへと立ち入った。

 防衛の為、故意に複雑な造りをした通路を、少年は勝手知ったる足取りで迷いなく進む。昼夜問わず常に人の詰めている研究室だが、流石に夜明けも近い時刻にうろついている者はいない。少年は上階へ進み、大聖堂へと出る。

 

「お勤めご苦労様」

 

 地下への出入り口を護る聖堂衛兵が、最敬礼を以て少年を迎える。

 ひらひらと手を振って衛兵を労うと、彼は足取り軽く聖堂を横切り、尖塔の基部へと向かう。

 

 トリオン体の脚力でらせん階段を三段飛ばしに駆け上がり、あっという間に頂上へと辿りつく。尖塔はエクリシアで最も高い建造物であり、そこからは聖都が一望できる。

 丁度夜明けの時間である。あるいは、この一時に居合わせる為に走ったのだろうか。

 

 深閑とした暗黒が、徐々に目も覚めるような群青色に変わっていく。

 薄明に染まる聖都の壮麗な街並み。

 

 空には近界(ネイバーフッド)の星々が、日の出を前に最後の輝きを放っている。

 数多の人々で賑わう都市が今だけは呼吸を止めて、ただ時の移りゆくままに光を浴び、様相を変えていく。

 

「――ああ」

 

 何度見ても、ため息を禁じ得ない。

 果て無き闘争を宿命づけられたこの残酷な世界で、それでも生き続ける人の営み。

 少年は晴れやかな笑みに一抹の寂しさを浮かべながら、明けゆく空を眺める。

 今日もまた、新たな一日が始まる。

 

「っ、おっと」

 

 その時、階下から足音が聞こえてきた。夜明けを知らせる鐘を鳴らすため、人が昇ってくるのだろう。

 見つかると面倒なことになる。少年は困ったように顎に手を当てると、

 

「うん。今日は休日にしようか。たまにはいいよね」

 

 悪だくみを思いついたようににやりと笑い、トンと床を蹴る。

 そうして高さ百メートルを超える尖塔から、真っ逆さまに飛び降りた。

 

 



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其の三 初めての休日

 騎士フィリア・イリニの誕生から十日ほどたったある日。

 件の少女はイリニ家の自室で、朝から衣類と格闘していた。

 

「……どうしよう。今から仕立てるのは無理だし、アネシスは外出中だよね。勝手に部屋に入るのは良くないし、そもそも大きさも合わないだろうし……」

 

 少女は右手に運動着、左手に部屋着を持ってうんうんと唸っている。

 小ぶりな書斎ほどの広さのウォークインクローゼットは、騎士団の軍服とパーティー用のドレス、冠婚葬祭用の礼服が吊られているぐらいで非常に閑散としている。

 

 ――事の始まりは、昨日の夜に遡る。

 正式に騎士となったフィリアは、地位の向上に伴い書類仕事も業務内容に加わり、多忙な日々を送っていた。

 当初は慣れない業務に大いに翻弄された少女だが、そんな彼女に助け舟を出したのは先輩の女騎士、メリジャーナ・ディミオスであった。

 彼女は自分も大量の仕事を抱えているにも関わらず、半ば付きっ切りで少女の面倒を見てくれたのだ。

 

 もともと学習能力が桁外れに高いこともあり、フィリアは綿が水を吸い取るように仕事を覚えていく。それでも騎士団の運営から教会への提言まで、騎士が決裁しなければならない事柄は多岐にわたる。

 昨夜も遅くまで、二人は砦の執務室で来季の防衛計画書を練っていたのだが、その時、

 

「ねえフィリアさん。確か明日はお休みだったよね」

「はい。休日を頂いておりますが……」

 

 と、急にメリジャーナからそんなことを尋ねられた。

 騎士団は護国を担う軍事集団であり、休業日は存在しない。しかし、当然ながら職員には休日があるし、様々な福利厚生も保障されている。

 とはいえ、フィリアに安息日など存在せず、休日はみっちりと訓練漬けで過ごすことを常としている。明日は丸一日を「誓願の鎧(パノプリア)」の慣熟に費やすつもりであった。だが、

 

「私も明日はお休みなの。ねえ、一緒に街までお出かけしましょう」

 

 と、メリジャーナが満面の笑みでそう誘ってきた。

 

「え、あの、街にというと……遊びにですか?」

「そうよ。フィリアさんも最近ずっと忙しかったでしょう? 息抜きしないと体に悪いわ。前から約束してたけど、なかなか日程が合わなくて。あ、もちろん予定が無ければだけど……」

 

 どうかな、と可愛らしく小首を傾げるメリジャーナ。

 享楽に時間を費やすことなど考えもつかなかったフィリアだが、他ならぬ先輩のお誘いである。彼女には公私ともに世話になっており、また随分前に口約束は交わしていた。

 

「はい。是非ご一緒させてください」

 

 流石に断る訳にもいかず、フィリアは笑顔でお誘いに応じることにした。

 ところが現在。

 

「どうしよう……着るものが何にもない……」

 

 フィリアは自室のクローゼットの前で、かつてないほど絶望的な戦いを強いられていた。

 

 宿願を叶えるため、常軌を逸した目的意識で突き進んできたフィリア。

 騎士団に入ってからは人生の全てを力の獲得と地位の向上に費やしてきた。

 当然、自宅には寝に帰るだけで、遊びに出かけたことなど一度も無い。家人も少女の鬼気迫る様子を察したようで、あまり干渉してこなかった。

 

 その結果、余所行き用の服が全くないのだ。

 クローゼットに有るのは運動着と寝巻ぐらいで、大部分が空っぽである。

 

 一応イリニ家の一員として貴族のパーティーに参加したことは何度かあるが、流石にドレスを着て出歩くのはおかしいだろう。

 妹のアネシスに服を借りようかとも考えたが、間の悪いことに彼女は今日、朝から外出中である。

 

「もうあんまり時間もないし……」

 

 だいたい気付くのが遅かった。残業から帰ってきた昨夜はそんなことを考える余裕もなく床に就き、目が覚めてから慌てだしたのだ。

 もうすぐメリジャーナが迎えに来る時間だ。フィリアはクローゼットと自室を慌ただしく往ったり来たりしている。すると、

 

「そうだ! トリオン体になればいいのよ」

 

 少女ははたと手を打った。

 

 トリオン体はデザインを自在に変えることができる。当然衣装も思いのままに変更することが可能だ。

 従士は市街地でのトリガーの使用、並びにトリオン体への換装は軍団規則で禁じられているが、騎士はこの限りではない。トリオン体で出歩いても咎めを受けることはない。

 

 今こそ、地位を存分に活用する好機ではないか。

 少女は喜び勇んでトリガーを取り出し、起動しようとする。だが、

 

「…………」

 

 肝心の、衣服のデザインがまるで思いつかない。

 同年代の少女は果たしてどんな格好で休日を過ごしていただろうか。参考にしようにも、その記憶がまるでない。そもそも、衣装については関心を持ったことさえなかった。

 

「まだよ。諦めるのはまだ早い」

 

 家人に事情を話して妹の部屋に入らせてもらおう。あの子なら可愛らしい服をたくさん持っている筈だ。それにトリオン体ならサイズ調整も簡単にできる。

 屋敷の鍵を預かる家政婦長を探そうと、少女はとりあえず部屋着を身に着けようとする。その時ドアがノックされ、

 

「フィリアお嬢様。メリジャーナ・ディミオス様がお見えになられました」

 

 少女を呼びに来たのだろう。部屋の前から女中がそう呼ばわった。

 

「え、あ……」

 

 部屋から顔だけを突きだしたフィリアは、狼狽えながらも侍女に家政婦長の所在を尋ねた。メリジャーナはまだ客間に通されたばかりだろう。迅速に身支度すれば充分間に合う。ところが、

 

「お部屋はこっちかしら」

 

 と、廊下の角からメリジャーナの声がする。忘れていたが、彼女はおっとりとした優しげな風貌に似合わず、非常に押しが強く行動的だ。

 親切心からフィリアの部屋まで迎えに来たのだろう。無礼ギリギリの、貴族の令嬢にあるまじきフットワークの軽さだ。

 

「――はっ!」

 

 呆然としている場合ではない。寝巻を脱いで服を選んでいた少女は現在、キャミソールとペティコートしか身に着けておらず、とても人前に出られる姿ではない。

 

「ごめんねフィリアさん。楽しみでつい早く来ちゃった」

 

 メリジャーナが喜色満面の顔で現れる。彼女はシックな色合いのカットソーとフレアスカートという出で立ちで、清楚ながらも大人らしい健全な色香を纏っていた。

 

「あら、どうしたのフィリアさん」

 

 彼女はドアから顔だけを覗かしている少女に気付き、浮かれた様子で近づいてくる。

 

「あうぅ」

 

 下着姿の所に押しかけられて混乱の渦中に陥ったフィリアは、ともかく肌を隠そうとトリガーを起動した。

 

「あらまあ」

 

 よろよろと部屋から出てきたフィリアの姿に、メリジャーナが当惑した声を上げる。

 丁度目の前にあった衣服を参考にトリオン体を構築したため、少女は可愛らしい女中服を纏っていたのだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 結局、フィリアがろくな服を持っていないことは、すぐにメリジャーナにも知れることになった。年頃の少女の部屋に遊び着が一枚も無いという事実は、彼女の心に火を点けてしまったらしい。

 

「フィリアさん。服を買いに行きましょう。いいですね」

 

 イリニ家の客間で接待をうけながら、メリジャーナは有無を言わさぬ強い気勢でフィリアに迫った。

 少女が苛烈なまでに修身に打ち込んでいることは知っていたが、まさかここまで日常の幸せを投げ捨てていたとは想像もしていなかったのだろう。

 幼い少女にそこまでの苦行を課してしまったという、大人としての罪悪感がメリジャーナに圧し掛かる。

 

「はい……」

 

 そして無様を晒した少女はというと、羞恥心から縮こまるようにして客間のソファーに座っていた。ちなみに今の彼女は生身の姿で、華やかな刺繍の入ったワンピースを着ている。事情を知った侍女が屋敷の衣裳部屋から出してきてくれた物だ。

 もとより広い邸宅である。服は種類を問わず売るほどあるのだ。最初から家人を頼っていればあんなことにはならなかったと、少女は後悔に頭を抱える。

 

「善は急げです。大丈夫。お姉さんに任せて!」

 

 豊かな胸をどんと叩き、メリジャーナが威勢よくソファーから乗り出す。このまま少女の腕を引っ張って走りだしそうな勢いだ。

 

「……お手柔らかに御願いします」

 

 あくまで遠慮がちなフィリアに、メリジャーナは不敵な笑みで答える。今日一日、逃がすつもりはないと目が語っている。すると、

 

「あ、そういえばフィリアさんには言ってなかったんだけど……今日はもう一人、一緒に遊びに行く人がいるの」

「え、あの……」

 

 と、メリジャーナがそんなことを言いだした。

 ただでさえ街遊びなどしたことがないのに、いきなり人数が増えるというのは随分と不安な話だ。知らない人との会話など、五分も間を持たせる自信が無い。だが、

 

「大丈夫、フィリアさんも知ってる人よ」

 

 メリジャーナはキリリとした表情でそう言い切った。連日の激務から解放されたせいか、どうも妙な盛り上がり方をしているようだ。

 

「さ、行きましょ行きましょ。あんまり待たせるとあの子にも悪いわ」

 

 お茶を飲み終えると、フィリアは鞄と帽子を持ち屋敷を出た。車寄せにはメリジャーナが乗ってきた自動車が止まっており、少女は助手席に案内される。

 天気は快晴。日差しは強いが風は涼しく、絶好の行楽日和だ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「その子が来るなんて聞いてないわよ。メリジャーナ」

「わざと言ってなかったからね。ニネミア」

 

 メリジャーナの運転する車が向かったのは、聖都でも有数の規模の敷地を誇るゼーン家の邸宅である。

 玄関で待ち構えていたのは黒髪紅眼の美女である。パンツ姿にジャケットを羽織り、凛々しい美貌に磨きをかけた彼女は、ニネミア・ゼーンだ。

 

「どういうつもり? 私の立場は知ってるでしょう。当て付けのつもりかしら」

「あら、今日は何も言わずに私に付き合ってくれる約束でしょう?」

「…………」

 

 とげとげしいニネミアの物言いを、嫌な顔一つせず受け流すメリジャーナ。

 喧嘩腰のような口調だが、飾らない物言いといい、肩が触れそうな立ち位置といい、この二人は余程仲がいいらしい。

 とはいえ、口論の火種になっているフィリアにとっては、御世辞にも居心地のいい空間とはいえない。少女が何も言えずに押し黙っていると、

 

「大丈夫よ。この子、口で言う程フィリアさんのことを嫌ってる訳じゃないから」

「な、何を言い出すの」

「折角だし、今日はニネミアにもフィリアさんとたっぷり仲良くなってもらおうと思ってね」

 

 そう言って、不安そうなフィリアに微笑みかけるメリジャーナ。

 ニネミアは露骨に嫌そうな顔をしているが、しかし予定をキャンセルすると言い出しはせず、黙って車の後部シートへと乗り込んだ。

 

 エクリシアの大貴族の娘たち、それも一人は現当主にも関わらず、護衛は誰もつかない。

 気軽に休暇を楽しむために当人たちが断ったのだが、それ以上に、彼女たちは当代一流の騎士たちである。トリガーを携行している彼女たちを害することはまず不可能だ。

 そもそも、聖都は一部の地域以外はおおむね良好な治安を誇っている。若い女性たちが出歩いても、早々トラブルに巻き込まれることはない。

 

「さあ、出発しますよ」

 

 三人を乗せた車は丘の麓の屋敷街を颯爽と走り出す。

 聖都で一番活気の溢れる市場といえば目抜き通りのアトレテス通りだが、丘の周辺エリアには、貴族向けの高級店が立ち並んでいる。

 まず彼女たちが訪れたのは、聖都でも指折りの服飾店が立ち並ぶ一角だ。

 メリジャーナは迷いのない足取りでその内の一つに入る。

 

「ようこそお越しくださいました。ディミオス様」

 

 すると妙齢の女性定員がすぐさま現れ、一行に同伴した。

 どうやらここは彼女の行きつけの店のようだ。

 貴族が服飾を仕立てる場合、大抵は屋敷まで職人を呼びつけるものだが、メリジャーナはこうして店を覗いて歩くのが趣味らしい。

 

「最近御無沙汰だったわね。何か新しいのはある?」

「はい。新作の生地が出そろったばかりで……」

 

 フィリアは帽子を目深に被り、メリジャーナの後ろに隠れるようにして歩く。

 壁や床、調度品は明るくモダンなデザインで統一されており、生地や衣類は一目でわかるほど高級品だ。既製品のデザインはカジュアルな物が多いが、おそらくは貴族相手にオーダーメイドも受けているに違いない。

 こんな高級店に来たことは生まれて初めての経験である。少女は場違いさを感じ、とにかく小さくなってやり過ごそうとする。しかし、

 

「それもいいけど、今日はこの子に服を見てあげようと思って」

「ふぁ、はい……」

 

 メリジャーナはパッと後ろを振り向くと、フィリアの両肩に手を当て店員へと紹介する。

 

 ほんの一瞬、女性店員の雰囲気が微かに変化した。

 鋭敏なフィリアの超感覚は、店員の感情の機微を正確に読み取ってしまう。

 

 老人のような白い髪に、猫のように不気味に輝く金色の瞳、それになにより、ノマスの血を色濃く映した褐色の肌。

 店員がフィリアに対して悪感情を抱いたのは確実だ。無理もない。ノマスの血族がこんな高級店の敷居を跨ごうというのが無茶な話なのだ。

 

 メリジャーナとニネミアがいなければ、文字通り叩き出されていたに違いない。

 もはや少女にとっては慣れ切ってしまった反応である。むしろ、すぐさま嫌悪を糊塗した店員の職業意識はなかなかのものだと感心する余裕さえある。

 とはいえ、少女の心が痛まなかった訳ではない。やはり来るべきではなかったろうか、無礼を承知でも誘いを断るべきだっただろうかと、益体も無い考えが浮かぶ。だが、

 

「彼女が騎士フィリア・イリニです」

 

 と、メリジャーナがいやにはっきりとした口調で定員に少女を紹介する。

 

「え、この子、いえこの方が……」

 

 すると店員の表情は一変して、フィリアに興味と興奮の入り混じった視線を向ける。

 

 エクリシア建国以来、最年少の騎士が誕生したという大ニュースは、既に全国に知れ渡っている。それもノマスの血を引く少女ということで、注目度は倍増しである。

 イリニ騎士団の広報はそれを利用して、フィリアが如何に克己勉励を重ねたか、如何にエクリシアに忠節を尽くしているか、如何に戦地にて苛烈に戦ったかを、誇大なまでに喧伝したのだ。

 

 その結果、フィリアは恵まれぬ出自でありながら、誠意と努力で地位を勝ち取った稀有な人物として、ちょっとした時の人となっている。

 無論、強硬な排外主義者からは憎まれていようが、今のフィリアは一般的な市民にとっては大注目の英雄なのだ。

 

「そうよ。いろいろと試してみたいから、お勧めを持ってきてくれる?」

「は、はい! ただちにお持ちいたします」

 

 店員が興奮も露わに奥へと引っ込む。

 驚愕、歓喜、賞賛。これまで市民から嫌悪以外の感情を向けられたことのない少女は、その変化に呆然としている。

 

「何よその気の抜けた姿は。あなたはもう騎士なのよ、シャンと立ちなさい。私たちに恥をかかせるつもり?」

 

 と、フィリアの隣に立っていたニネミアが、フンと顔を逸らしてそう言う。つんけんした物言いだが、激励の意味が込められているのは明らかだ。そして、

 

「ね、フィリアさん。あなたの頑張りは、ちゃんとみんなに伝わってるのよ」

 

 と、メリジャーナが困惑する少女の耳元で囁くようにそういう。

 

「あ、あの……」

「それじゃあ、今日は楽しみましょうか」

 

 未だ状況を受け入れられないフィリアに、メリジャーナは茶目っ気たっぷりのウインクを送った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ブラウスにベスト、バルーンスカートを合わせた少女らしい装い。

 ふんだんなレースと夢のようにフリルをあしらった、おとぎ話のようなワンピース。

 ジャケットとパンツを合わせ、硬質な魅力を引き立たせたスタイル。

 シャツとカーゴパンツを荒く着崩した、少年を思わせる取り合わせ。

 

「フィリアさん。次はこれとこれを合わせてみてくれる?」

「は、はい……」

「ちょっと立ち姿が悪いわよ。それじゃあ服に着られてるみたいじゃない」

「き、気を付けます……」

 

 元々顔の造形は整っており、手足も細く伸びやかなフィリアは、エクリシア人の受け付けない肌の色を除けば相当な美少女である。

 それが今まで、おしゃれの一つもしてこなかったのだ。

 

 試しにメリジャーナとニネミアが服を見繕ってやると、まさしく原石が輝きだしたように見違えるほど魅力的な姿になった。

 これに火が付いた貴族の美女二人は、服飾店の棚をひっくり返さんばかりの勢いで服を持ち出し、手当たり次第にフィリアへと着せていった。

 

「ど、どうでしょうか……」

「う~ん、シルエットは良いんだけど……」

「色が駄目ね。似合ってないわ」

 

 とうとう生地見本まで引っ張り出して、服を注文し始める二人。

 もはや何着目かも分からない衣装を着て、試着室から出てくるフィリア。

 二人の熱気に押され、訳も分からずひたすら着替え続けている少女は疲労困憊の極みにある。はたして自分の着ている服が似合っているのかどうか、可愛いのかどうかさえ判別できる状態ではない。

 

「それでしたら、こちらの生地は如何でしょうか」

「あら、いいんじゃないニネミア。涼しそうな色柄よ」

「手触りも悪くないし、そうね、これで仕立ててちょうだい」

 

 店員も熱心に協力し、積極的に商品をアピールしている。子供服などそう品数もおいていないだろうに、どこからかき集めて来るのだろうか。

 とはいえ、メリジャーナとニネミアが合格を出した服は、既にテーブルの上に小山を成している。出せば出すほど売れるのだから、これほど有難い客もいないだろう。

 

 ついでに言えば、代金は全てメリジャーナとニネミア持ちだ。正確にはフィロドクス家とゼーン家に請求書が行くことになる。

 ドレスや貴金属類とは異なり、所詮平服なので単価は知れている。貴族の彼女たちからすれば然したる金額ではないだろう。

 

 それでも、流石に買い込む量が多すぎる。未だに貧民時代の金銭感覚が抜けないフィリアにその総額を見せれば、目を廻して卒倒するにちがいない。

 

「あ、あの、私すぐ大きくなるので、そんなに買わなくても足りるんじゃないかと思うんですけど……」

「それは違うわフィリアさん。今しか着れない服は、今着なきゃダメなのよ」

「貴族たる者、服など余らせるぐらいで丁度いいのよ」

 

 少女の気弱な要求を真っ向から跳ね除けて、二人は服選びに没頭中だ。

 もはやどこから持ち出してきたのか、訳の分からない制服や民族服まで試着品の山に紛れている。

 

「服はもう少し時間がかかりそうだから、小物も適当に見繕っておいてくれる?」

 

 メリジャーナがそう申し付けると、店員は大喜びで鞄やアクセサリーを取りに行く。

 どうやら、この服の山が片付いてもお代わりがあるらしい。フィリアの張り付いた作り笑顔に、サッと暗い影が差した。

 

 



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其の四 先輩の悩み事

「ん~っ! 久しぶりにいい買い物したわ」

 

 服飾店で買い物を終えた一行は、その近所にあるレストランで昼食を取っていた。

 高級店の立ち並ぶ界隈では珍しくドレスコードが無く、家庭的で飾らない雰囲気が魅力の店である。気楽な休日を過ごすにはもってこいだ。

 

 テラス席に案内されたメリジャーナはさも心地よさそうに背伸びをする。

 百を超える服を品定めしたのだ。流石に疲れたことだろう。

 

「まあ、なかなか悪くない店だったわ」

 

 軽い食前酒を優雅に傾けながらニネミアが応じる。涼しげな態度だが、服の見立てについては間違いなく彼女の方が熱中していた。

 

「あはは……」

 

 数時間以上ひたすら着せ替え人形を続けたフィリアはというと、曖昧な笑みを浮かべるばかりだ。途中からは新手の訓練だと割り切って取り組んだので、幸いなことに疲労のほどはそこまででもなさそうだ。

 買い付けた大量の衣類は全てイリニ家へと運ばれる手筈となっている。仕立て服も遠からず届けられるため、フィリアのクローゼットは直ぐに一杯になるだろう。

 

「でもすみません。あんなに沢山買っていただいて……」

 

 代金を全て出してもらったことを気にしているのか、フィリアは恐縮した面持ちだ。

 

「そこはお礼の方がうれしいなあ」

 

 けれどメリジャーナは気にした風でもなく笑顔で応える。

 

「……はい。ありがとうございます。メリジャーナさん。ゼーン閣下」

「別になんてことはないわ。あなたに貴族としての嗜みを教えただけよ」

 

 少女の感謝を、ニネミアはつんとしたすまし顔で聞き流した。

 店の棚を総浚いにするような買い方がはたして貴族として相応しい振る舞いだったかはさておき、少女に物を買い与えることには何の抵抗もないらしい。

 

「お待たせしました。鱒のチャウダーとローストビーフです」

 

 三人が談笑していると、店員が料理を運んできた。

 大皿のスープは熱々の湯気を立て、スライスされた牛肉は豪快に山盛りにされている。

 

 貴族の御令嬢方が食べるには少々品が無い盛り付けだが、気にすることはない。今日は晩餐会ではないのだ。

 それに彼女たちは温室育ちの花ではない。戦場を駆ける騎士たちに、食について本気でとやかく言い立てる者は存在しない。

 

「御恵みを与えたもう我らが神に感謝の祈りを捧げます。今日の糧が、我らの心に誠実なる力をお与えくださいますよう」

 

 最年長のメリジャーナが食前の祈りを捧げ、ニネミアとフィリアもそれに倣う。

 

「――おいしい、です!」

「そう? よかったわ」

 

 魚介の旨みがたっぷりとしみ込んだスープに、噛めば噛むほど味がしみ出す牛肉。

 焼き立てのパンは芳ばしい匂いを漂わせ、外はぱりぱりと、中はしっとりと柔らかい。

 付け合せのサラダも新鮮で瑞々しく、ドレッシングの爽やかな酸味が効いている。

 あまり食べ物に頓着のないフィリアでも、素直に美味だと賞賛するほどだ。

 

「粗野だけど、そこそこまあまあね。食べられないほどではないわ」

 

 ニネミアも何やかやといいながら、食事の手は滞りなく進んでいる。

 貴族の会食ならば優雅に時間をかけて会話を楽しむところなのだが、あいにく三人とも現役の騎士である。戦場暮らしが体に染み付いているため、意識せずとも食事のペースが速まってしまう。

 結局、食事中は殆ど口を利かず、三人は猛烈な速さで料理を平らげてしまった。

 食後のデザートと飲み物が出される段になって、彼女たちもようやくそのことに気付く。

 

「慣れって、怖いわね」

「仕方ありませんよ。砦ではいつも時間に追われていますから」

「…………んんっ」

 

 皿を下げた時の店員の驚き顔に、メリジャーナは苦笑を浮かべる。フィリアは特に気にしていない風だが、ニネミアはほんのりと顔を赤らめて咳払いをした。照れ隠しのつもりらしい。

 反省を踏まえ、今度はゆっくりと味わってケーキとお茶を頂く三人。するとその時、

 

(――あれ?)

 

 フィリアは何やら視線を感じ、それとなく店内を窺う。

 すると先ほど配膳をしていた女性店員がテラス席を見ながら、何事かを同僚と囁き合っているようだ。

 

 直感が、自分たちについて語っているのだと断じる。

 別に不思議な事ではない。テラス席に座っているのはエクリシアでも指折りの美女二人だ。装いはカジュアルでも纏う雰囲気は変えられないため、貴族のお忍びだという事は先刻承知だろう。話の種には十分だ。

 

 ただ奇妙な事に、店員たちの視線はフィリアに集中しているようだ。

 貴族の御令嬢に連れられたノマスの少女、という取り合わせは確かに目を引くだろうが、その割には負の感情は見られない。どこか浮足立ったように、妙にそわそわした印象だ。

 

「あの、すみませんお客様」

 

 すると、お茶のお代わりを配膳に来た店員が、

 

「お客様は、ひょっとしてイリニ騎士団のフィリア様ではありませんか?」

 

 と、少女へ話しかけた。

 

「え、はい。そうですけれど……」

 

 まさか声をかけてくるとは思わなかったため、つい怪訝な表情で応えてしまうフィリア。

 自分の名前を知っているとはどういう事だろう。この店に来るのも初めてだし、店員とも初対面だ。もめごとの気配はないが、過去の経験から少女はつい構えてしまう。

 

「わ、わ、本物だ! あ、あの、私フィリア様のご活躍に感動して、えっと、あの……」

 

 ところが、店員はフィリアの返答を聞くやいなや、上擦った声ではしゃぎだした。

 

「え、えっと」

「もしよかったら、あ、握手していただけませんか?」

「――へっ?」

 

 おずおずと手を差し出す店員に、フィリアは呆然として成す術がない。

 百歩譲って、少女のファンだというのはまだ分かる。イリニ騎士団広報が作った宣伝映像は彼女も見たが、羞恥の余り逃げ出したくなるほどの持ち上げぶりであった。あの出来栄えなら騙されてしまう人もいるだろう。

 しかし、まさか握手を求められるとは。

 

 ノマスの血縁に対するエクリシアの民の嫌悪はあまりにも根深い。メリジャーナのように分け隔てない態度を取れる人物はごく僅かなのだ。

 多くの市民にとって、ノマスの血縁は視界にいれるのも忌まわしい存在だ。例えばこの店の店員が、フィリアの使っていた食器を裏でゴミ箱に捨てていたとしても、別に何も驚くようなことではない。

 

「……あの」

 

 少女が何も反応しないせいだろう。店員が不安そうに瞳を泳がせる。

 フィリアはチラリと同席の先輩たちを見る。

 ニネミアは無関心そうな表情だが、メリジャーナは小さな目配せを寄越してくれた。

 

「……私でよければ」

 

 心を決めたフィリアは、おっかなびっくりと店員の手を取った。

 壊れ物を扱うかのように優しく触れ、徐々に握る力を強める。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 店員は歓喜に打ち震えた様子で、ギュッと少女の小さな手を握り返した。その時、

 

(――あ)

 

 フィリアの直観が、ある事実を示した。

 わずかだが、この店員にもノマスの血が流れているのだろう。ほとんどエクリシアの民と区別がつかないが、面差し、目の色、肌の質感。それらの些細な特徴から察することができる。

 

 元より数多の対外戦争を行ったエクリシアには、他国の血を引く者は珍しくない。戦利品として連れてこられた捕虜の内、取り立てて才幹の無い者は奴隷として扱われるが、年季が開ければ市民としての権利を得ることができる。

 

 そうした奴隷上がりの市民は、ここ聖都でも珍しくはない。

 この店員も、そのような家の出身なのだろう。

 

「フィリア様、ずっと応援します。これからも頑張ってください!」

 

 店員は興奮冷めやらぬ様子でそう捲し立て、名残惜しそうに仕事へと戻って行った。

 

「…………」

 

 フィリアは未だ熱気の残る、小さな掌を無言で眺める。

 きっとあの店員も、出自に起因する困難を経験してきたのだろう。それ故に、フィリアの活躍を自分のことのように喜んでくれたのだ。

 

 いや、はたしてそれだけだろうか。

 エクリシア初となる、ノマスの血を引く騎士の誕生。

 出自に依ることなく、功績と忠誠を示した者には名誉が与えられることを、少女は確かに示したのだ。一命を賭して奉じる者に、国は必ず報いてくれる。

 

 その政治的な、社会的な意味は計り知れない。

 少女は秘めたる信念の為に我意を貫き通した。徹頭徹尾、利己的な行動である。

 

 それが巡り巡って、エクリシアの社会に変化を与えようとしている。おそらくは、彼女にとっても好ましい形へ。

 その事実をどう受け止めればいいのだろうか。

 思いもがけない状況に、少女はただ呆然と店員を見送るばかり。すると、

 

「言ったでしょ、みんなあなたの頑張りを見てるって。――ふふ、フィリアさんも、そろそろ自分の魅力に気付かないとね?」

 

 と、メリジャーナが悪戯っぽい微笑みと共にそう言った。

 フィリアは返す言葉も無く、顔を耳まで真っ赤に染めてただ俯くばかりであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――さて、それでどうするの」

 

 ゆったりとしたティータイムの空気が流れる中、それぞれのカップが空になった頃合いを見計らって、ニネミアがそう切り出した。

 

「午後の予定の話ですか。ゼーン閣下」

「今日の本題の話よ。何メリジャーナ。この子に言ってないの?」

 

 フィリアがそう尋ねると、ニネミアは呆れたようにメリジャーナへと向き直る。

 

「わざわざ休暇に引っ張りまわして、成果なしなんて許さないわよ」

「メリジャーナさん?」

「う~ん、ごめんね。ちょっと言い出し辛くて……」

 

 と、メリジャーナは薄紫の髪を指先で弄りながら、さも困ったような顔をする。

 彼女のこんな表情は今まで見たことが無い。

 

 思えば、今日は一緒に街まで出ようと誘われただけで、予定は何も聞いていない。服飾店の寄ることになったのは今朝決まったことで、これも本来の目的ではない。

 フィリアに加えてニネミアにも声を掛けていたということは、メリジャーナは何か相談したいことがあるのだろうか。

 

「何でも仰って下さい。私にできることなら何でも協力します!」

 

 席から立ち上がらんばかりに気合を込めて、フィリアがそう言う。敬愛する先輩に苦難が待ち構えているというなら、労を惜しむつもりはない。だが、

 

「そんなに熱くならなくても大丈夫よ。惚気話に付き合わされるだけだから」

 

 と、ニネミアが半目でメリジャーナを睨め付けた。何やら心底気だるげな様子である。

 

「のろけ、ですか……」

 

「婚約者への贈り物選びに付き合えって話よ。今日呼びつけられたのは」

「――えっ!?」

 

 思いもがけない話に、フィリアの顔がボッと茹ったように赤くなる。

 

「け、結婚なさるんですかメリジャーナさん!?」

「ちょ、ちょっと、声が大きいわフィリアさん!」

 

 大声を上げる少女を慌てて制するメリジャーナ。

 

「その、まだ内々だけで決まった話よ。でも、まあそう言うことなの……」

 

 いつも悠揚として、大人の女性としての魅力に満ち溢れた彼女が、困惑と羞恥に目を伏せている。その仕草には不思議な色気があった。

 

「それで、えっと、お相手はどなたなんですか?」

「あなたも良く知ってる人よ」

 

 フィリアが興奮冷めやらぬ様子で尋ねると、ニネミアがからかうように混ぜっ返した。メリジャーナは観念したように息を吐く。

 

「グライペイン家の当主、テロス殿です」

「――テロス様とですか! え、わ、おめでとうございます!」

 

 思いもがけない人物の名前に、フィリアが今度こそ歓声を上げる。

 

 イリニ騎士団第二兵団長テロス・グライペイン。彼とは少女がイリニ家に養子入りした時からの付き合いだ。

 (ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」を担う誉れ高き戦士であり、騎士の鑑とも称される高潔なる精神の持ち主だ。勇猛で思慮深く、公平で寛大で慈悲深い。特に女子供に対する優しさは極め付けで、彼は初対面のころから一度もフィリアを粗略に扱ったことが無い。

 

 家柄も三大貴族には劣るものの、その歴史の古さはエクリシアでも屈指のモノだ。

 容姿も端麗であり、男も女も見惚れるエクリシア随一の美男子ときている。

 おそらくエクリシアで最も人気の高い騎士の一人だろう。そんな彼と婚約するというのなら、これはもう手放しで喜ぶしかない。

 

「それがどうもこうも、面倒くさい話なのよ」

 

 お茶のお代わりを注文しつつ、ニネミアがさも詰まらなさそうに言う。

 

「だいたいなんで余所の家の話を私に持ってくるわけ? あなたの婚約者の好みなんて私が知る訳ないでしょう」

「そんなこと言わないで、友達でしょう?」

「何か問題があったんですか?」

 

 聞けば聞くほど非の打ちどころのない縁談だが、こうして相談してきた以上、何らかの懸念があるようだ。

 フィリアは戦場に臨むのと同じ気迫でメリジャーナに応じる。

 

「えっと、それはね……」

「ほんっと馬鹿らしい話よ。付き合いきれなくなったら帰ってもいいわ」

 

 メリジャーナの話を要約するとこうだ。

 

 元々、彼女のディミオス家とグライペイン家は同じイリニ家に使える貴族として、長年の交流があったそうだ。メリジャーナの父ドクサと、テロスの父も親友同士であったらしい。

 ところが、テロスの父が夭折し、若い青年貴族は天涯孤独の身となった。

 ドクサが親友の息子を捨て置く筈も無く、彼はテロスが成人するまで後見人を務め、無事に家督を継承できるように取り計らった。

 

 そんな訳で、ドクサはテロスにとって育ての親のような間柄なのだ。

 実際に長い間ディミオス家で暮らしたこともあり、実の家族のように繋がりは濃い。

 歳の近かったメリジャーナは特にテロスと馴染み、毎日盛大に遊び回って、まるで実の兄妹のように仲良くなった。

 

「それって、つまり……」

 

 どうにも歯切れが悪そうに、フィリアが尋ねる。

 

「兄みたいに思っていた相手と縁談が持ち上がって、どう接していいのか分からなくなって、それで困って私たちを呼びつけたのよ」

 

 凛呼とした雰囲気は何処へやら。心底げんなりした様子でニネミアが答える。

 

「だって、私の知ってるテロスは外向きの彼とはちょっと違うし……。別に嫌いな訳じゃないけど、結婚って話になると、やっぱり身構えちゃうっていうか……」

「小娘みたいなことを……」

 

 赤くなって俯くメリジャーナに、ニネミアは眉間を抑えて頭を振る。

 一人興奮気味に話を聞いていたフィリアは、

 

「あの、メリジャーナさんは、テロス様がお好きなんですか」

 

 と、思いついた疑問を直球で投げ込んだ。

 

「……それは……好きよ」

「――それじゃあ!」

「けどね、彼が私をどう思っているのか考えると、不安になるの。私は本当に彼の伴侶として相応しいのかどうか、よく分からなくなって……」

 

 メリジャーナはそう言って、物憂げにため息をつく。

 

「だから贈り物をして反応を窺おうって考え? 付き合わされる身にもなってほしいわ」

 

 ニネメアは湯気を立てるカップに口を付け、やれやれとぼやく。すると、

 

「意見を具申いたします!」

 

 フィリアがテーブルにぐっと手を付いて立ち上がった。

 

「対象の情報を集めるべきと考えます。諜報の許可を頂けますか」

 

 と、力強い口調でそんなことを言いだした。

 

「諜報って……あなたどうするつもりよ?」

 

 ニネミアが疑念を呈する。呆れたような口調だが、その紅い瞳は興味深そうに少女に向けられている。

 

「はっ! 私がテロス様に接触し、その御心を探ってまいります! 最終目標はテロス様の御婚約へのお考え、副次的目標としてテロス様の好物を調査いたします」

 

 フィリアのサイドエフェクトを用いれば、テロスの本心を探ることも可能だ。

 とはいえ、正確な答えを求めるなら、情報は多ければ多いほどいい。

 

 練度、つまりは慣れの問題なのだが、少女のサイドエフェクトは使えば使う程に答えが正確に、必要な情報が僅かで済むようになる。

 これが顕著に表れているのが戦闘時の状況判断で、こと戦闘に於いては微かな変化から予知のように戦況を見抜くことができるのだが、こうした人間関係の機微を扱った問いは、当人の人となりを知ったり表情を読んだりと、正確な答えを出すにはある程度の接触が必要となる。

 

「いかがでしょうか?」

「う~ん……」

 

 少女の提言に、メリジャーナは困ったように唸る。下手にテロスを突いて、余計に話が拗れることを警戒しているのだろう。フィリアがまさか、ここまで真剣に応じるとは思っていなかったようだ。

 

「許可します。全うしなさい」

「ちょっとニネミア!?」

 

 だが、ニネミアは二つ返事でフィリアの提言を採用した。

 

「ここでうじうじ愚痴を溢しているよりはるかに建設的だわ」

「そうは言っても……」

「拝命しました。では作戦行動に移ります」

「「えっ?」」

 

 フィリアはサッとテーブルを離れると、テラス席から街へと走り出していった。

 その行動の迅速さたるや、メリジャーナもニネミアも声を掛けることさえできない。

 

 ワンピースの裾を靡かせ、陽光の下を軽やかに走るフィリア。

 心臓の鼓動は高鳴り、頬はすっかりと上気している。

 

 今まで彼女が修めてきた技術・経験は、すべて他人を害し、奪うためのものである。

 どうしてもその行いには、ある種の冷徹さ、残酷さが求められる。こうしてただ善意だけを胸に動くことが何と心地よいことか。

 

 人の恋路を助けるという初めての体験に、少女はすっかり舞い上がっていた。

 

 

 



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其の五 極秘任務

 商業区画を抜けなだらかな坂道を上ると、やがて貴族の邸宅街に差し掛かる。

 天上世界のように壮麗な街区を抜けてさらに丘を登ると、勾配は徐々に急になり、純白の巨大な壁面がせり上がるように視界を塞ぎ始める。

 

 教会を護るように立ち並ぶ巨大で無骨な建築群は、エクリシアの国防を担う騎士団の砦だ。

 その一つ、イリニ騎士団の城門前で、流しの営業車が止まった。

 運賃を払い降りてきたのは、ワンピースに帽子姿のフィリアである。

 

「――よし」

 

 少女は軽く意気込んで、砦の正門へと向かう。

 

「お、お疲れ様です!」

 

 城門を護っていた従士が、フィリアの姿を見て驚いたように声を上げる。私服姿で砦を訪れるのは初めての為だろう。歩哨は困惑した様子で敬礼を行う。

 いつもなら軽く答礼をして通るが、今日は私人として来ている。少女は少し迷ってから、

 

「……はい。お勤めご苦労さまです」

「――っ!」

 

 朗らかな笑みと共に、貴族としての礼法に則った優美な挨拶を返した。

 華やかな衣装の影響か、それとも心境の変化の所為か、フィリアの貞淑で気品に溢れた振る舞いは、まさしく貴人に相応しい風格を備えていた。

 

「砦に所用が有りまして……入城しても構いませんか?」

「はっ、勿論です。騎士フィリア・イリニ」

 

 貴族の令嬢フィリア・イリニの来訪を受け、歩哨は改めて居住まいを正すと、緊張した面持ちで門を開いた。

 

 そうして城内に入ったフィリアは、一路執務室へと向かう。

 テロス・グライペインは朝から砦に詰めている筈だ。訓練の時間でもなければ、事務仕事を行っているだろう。

 

 通路を歩くフィリアの凛麗たる姿を見て、行き交う従士たちが一様に驚きの声を上げる。

 未だに一部の騎士以外には隔意を持たれている少女が、今日ばかりはまるで姫君の来訪を目の当たりにしたように感嘆を以て迎えられる。

 

「おや、どうされましたフィリア様。今日はお休みと聞いていましたが」

「私物を机に忘れてしまって、取りに参りました」

 

 執務室では数人の騎士たちが事務作業を行っており、その中にはテロス・グライペインの姿もあった。

 

 フィリアは適当な理由を付けて自分のデスクに座ると、引き出しを漁る。勿論忘れ物など嘘である。そもそも私物など碌に持っていない。テロスと接触する機会を窺うための演技である。

 肩から下げていた可愛らしいポーチを開けて、さも回収しましたと言わんばかりに仰々しく蓋を閉じる。

 そうして少女は投影モニターの電源を入れ、当たり前のように書類仕事を始めだした。

 

「お帰りになられないのですか?」

 

 斜め前の席に座るテロスが気にしたように声を掛ける。

 

「機材部からの伺い書にまだ目を通していなかったもので……」

「熱心なことは結構ですが、ほどほどになさらないと御身体に障りますよ」

「はい。お心遣いありがとうございます」

 

 笑顔で応じる少女に、執務室の騎士たちが面食らったようにたじろぐ。

 今日のフィリアはいつもと何かが違う。その纏う雰囲気の軽やかさ、麗しさは、はたしてあの触れがたいほどに苛烈な騎士と同一人物なのだろうか。

 

 これまで少女は、その特殊な出自から人付き合いには極端なまでに慎重を期していた。

 己が嫌われ者であることを十分すぎるほど理解し、波風を立てぬよう、嫌悪を持たれぬよう細心の注意を払って行動してきた。

 自然、彼女の言動は年齢にそぐわぬ程に礼儀正しく、機械的でさえあった。また滅多に感情を見せず、ただひたすら訓練に励むその姿は、どこか不気味な印象を人々に与えていたのだ。

 

 それが今日、少女は街に出て、自分という存在が社会に受け入れられ始めていることを初めて知った。

 他者からの信頼、尊敬の感情を受けて、少女に自己肯定の感情が芽生え始めていた。

 

 それは少女が生れ落ちて十一年以上、ついぞ持ちえなかった感情だ。

 その結果、フィリアは自然と肩の力が抜け、堅苦しい振る舞いではなく、もっと自然な、本来の在り方が面に出るようになった。

 

「どうされましたか?」

「いいえ。要らぬ気遣いだったようですね」

 

 テロスはそう言って、目の前の仕事に意識を戻した。

 それからしばらくの間、執務室は微かな作業音だけが流れた。

 

 四半時ほどして、

 

「ふう」

 

 微かな吐息がテロスの席から聞こえる。どうやら作業に一区切りがついたのだろう。

 フィリアもそれを見計らって筺体の電源を落とし、今しがた用事が済んだように見せかける。

 

「お疲れ様でした。それではお先に失礼いたします」

 

 少女はそう挨拶してデスクから立ち上がると、

 

「テロス様も、今からご休憩ですか?」

 

 斜め向かいの席まで歩き、気楽そうな調子でそう尋ねる。

 

「ええ、そうですよ」

「あの、良ければお時間を頂けないでしょうか」

 

 青年貴族が優雅に応えると、少女は一転してどこか心もとない表情を浮かべてそう切り出す。

 

「構いませんが、どうされましたか?」

「皆さまのいらっしゃるところでは、その……」

「わかりました。お茶でも如何ですか」

 

 相談を持ちかけられたと分かるや、テロスは直ぐに端末の電源を落とし、少女をエスコートする。

 まるで少女の不安を払拭するかのように、テロスは端正な顔に殊更爽やかな微笑を浮かべた。こんな顔を向けられれば、世の多くの女性は参ってしまうに違いない。

 そうして二人は砦のカフェラウンジへと向かった。丁度、見学会の時に来館者を休憩させる場所だ。

 

「何をお飲みになられますか?」

「ではホットチョコレートを……」

 

 飲み物を受けとり、二人は丸テーブルへと付く。

 まずは舌を湿らせるべく、フィリアはマシュマロの浮かんだカップに口を付ける。

 

 舌が焼けるような熱さ、顎が落ちるような甘さに、少女の頬は自然と緩んでしまう。

 サイドエフェクトで脳を極度に酷使するせいか、フィリアは大の甘党だ。もともと貧民生活が長かったので嫌いな食べ物はないが、菓子の類には目が無い。

 

「……ふっ」

 

 すると、隣に座っていたテロスが口元を緩めた。ホットチョコを啜るフィリアの姿が、何やら琴線に触れたらしい。

 

「その服、とても可愛らしいですね。フィリア様によくお似合いだ」

「え、あ、ありがとうございます」

 

 テロスはフィリアの衣装について言葉巧みに、しかし大げさに過ぎない程度に褒めていく。随分慣れた調子である。よほど女性を褒める機会が多いらしい。

 

「思えばフィリア様も随分とお代わりになられた」

 

 一通り衣装を誉めそやすと、テロスはぽつりとそんなことを言う。

 

「そうでしょうか。余り自分ではそう思ったことはないのですけれど」

 

 と、少女が異議を唱えれば、

 

「とても素晴らしい変化ですよ。騎士として、淑女として申し分ない成長ぶりかと」

 

 微塵の照れもなく、テロスはそう言う。

 

「そんなことありませんよ。今も未熟者のままです。でもテロス様。以前の私はそんなに駄目でしたか?」

 

 と、少女が小首を傾げて訊ねた。悪戯っぽい視線と仕草だが、手に持ったカップの所為で妙に間が抜けている。

 

「初めてお会いしたときは、もっと危うい、鋭利なガラスのような印象を受けました。ただ、あれは私が悪かったのかもしれません。フィリア様の聡明さに気付いていなかったのですから。子ども扱いをして、さぞお気を悪くされたことでしょう」

 

 テロスはそう言って、ハーブティーの入ったカップを口元に運ぶ。

 確かに、イリニ家に引き取られた当初のフィリアは、周り全ての人間を敵だとみなしていた。それが今では曲がりなりにも戦友として認識しているのだから、変化といえば大きな変化だろう。

 案外細かいところまで見られていたのだなと、少女は内心で苦笑する。

 

「それで、私に何かお話しがあるようでしたが」

 

 雑談も済むと、テロスは控え目な調子でそう切り出した。凛々しく引き締められた表情は、誠実さを体現したかのようだ。

 

「はい。あのですね……」

 

 そう言ってフィリアが語りだした内容は、当然ながらメリジャーナとの婚約に関することではない。

 騎士叙任という一つの節目を迎えたフィリアは、これまでのお礼の意味を込めて、アルモニアに贈り物をしたいという。

 ついては男性の好む品を知りたいので、テロスに相談を持ちかけた次第だとのことだ。

 

 別に口から出まかせという訳ではない。アルモニアに贈り物をしようと考えていたのは事実である。丁度いい口実だったので、テロスの好みを探る話題に利用させてもらった。

 

「ああなるほど。それは素晴らしいお考えだ」

 

 深刻な内容でないと知るや、テロスは持ち前の爽やかな微笑を浮かべて少女を賛美した。

 

「ありがとうございます。けれど私は物を知らないもので。殿方のお喜びになる品など皆目見当もつかず……」

「フィリア様の御心がこもった品なら、総長は何でもお喜びになられるでしょう」

 

 模範的なテロスの回答に、フィリアはわざと不満そうに唸ると、

 

「それでも、なるべくならご当主様に喜んでいただきたくて……例えば、テロス様はどんな物がお好きですか。参考にしたいんです」

 

 と、本題に入る。

 テロスは少女のいじらしい様子に感じ入ったように碧眼を細めると、

 

「そうですね。私ならただ贈り物をいただくよりは、やはり何か特別な、印象に残る日にしたいですね。そうすれば、頂いた品を見るたびにその時のことを思い出せますから」

 

 少女にそう告げる。そして、総長の休日に合わせてどこかに出かけるのはどうか、何かサプライズを仕掛けて見てはどうか、と具体案を提示する。

 物より思い出を重視するべきとの言葉。

 それが彼の本心から出たものであることを、フィリアのサイドエフェクトは看破した。

 

「なるほど勉強になります。それでですね……」

 

 アルモニアへのプレゼントに託けて、テロスの好みを探るという目論見は図に当たった。

 少女は贈り物の内容や、それを渡すシチュエーションを相談しながら、サイドエフェクトでテロスの反応を探る。

 典雅な面立ちに似あって、なかなかロマン主義な好みの持ち主らしい。彼の提示する素敵な一日のプランは、フィリアに少々気恥ずかしすぎるきらいがある。

 

「でも身に着ける物だと、好みに合わなければご迷惑になったりしそうですし……」

「男の小物はだいたい決まっていますので、そう邪魔になることはありませんよ。よければ私も一緒に選びましょうか」

 

 丁度いい話の取っ掛かりが来たので、フィリアは笑顔で頷くと、

 

「はい、宜しければ是非に。服飾の事はまるきり分からなくて……。服だって、メリジャーナさんに見立ててもらってるんですよ」

 

 と、彼の婚約者へと話題を移す。

 

「ほう。騎士メリジャーナが……」

「そうなんです。とてもお優しい方で、お世話になってばかりです」

 

 ここからは婚約に対するテロスの心情を探っていかねばならない。

 騎士団では同僚としての振る舞いを崩していないようだが、はたしてどのように話を誘導するべきか。

 フィリアの脳裏でサイドエフェクトが囁き、彼の本心を白日の下に曝すための道筋を示す。

 笑顔の裏であくどい策謀を練り上げた少女は、いざ実行に移さんと口を開いた。その時、

 

「ここに居たのねフィリアさんっ!」

 

 薄紫色の髪をなびかせ、メリジャーナがカフェラウンジに乗り込んできた。

 

「えっ、メリジャーナさん!?」

「な、どうしたんだメリジャーナ!」

 

 いつもの朗らかな雰囲気は何処へやら、血相を変えて飛び込んできた彼女はテーブルへと走りよると、

 

「わっ、ちょ……」

 

 フィリアの口と肩をがっちりと抑えて、半ば無理矢理気味に少女を立ち上がらせる。

 

「ごめんなさいね。フィリアさんに用事があるの!」

「待ちなさいメリジャーナ! いったい何が……」

 

 テロスの制止も聞き流し、メリジャーナはフィリアを拉致同然の強引さで連れ去っていく。悲しいかな、トリオン体でもない少女の小さな体では抵抗することさえできない。

 残されたテロスは呆然と二人の姿を見送るばかりだ。

 

 砦を大股で歩くメリジャーナと、それに引きずられるフィリア。

 騎士団でも有名な女騎士たちの卦体な姿は、しばらく従士たちの語り草となった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「もうちょっと! いくらなんでもいきなりすぎるでしょ!?」

 

 イリニ騎士団の正門横にある駐車場。停車した車内で、メリジャーナは悲鳴じみた声を上げる。

 

「はあ……しかしメリジャーナさん。お言葉ですが、作戦はおおむね順調に進行していました。もう少しでテロス様の御心を……」

「そういうことじゃなくて……ああもう!」

 

 フィリアのピントのずれた反論に、メリジャーナは今度こそ頭を抱えてハンドルに突っ伏した。そんな彼女の様子を見て、遠慮呵責なく笑っているのは後部座席のニネミアだ。

 

「ちょっと何がおかしいのよ!」

「だって面白すぎるわよ、これ」

 

 悪びれた風も無く、腹を抱えてくすくすと笑うニネミア。目には涙まで浮かべており、あの峻厳な戦乙女の印象は少しも残ってはいない。

 

「フィリアさんいくら連絡しても出ないし。本当に心配したのよ!」

 

 まさか服を買ったこともない少女が、流しの営業車を拾うとは思えなかったため、メリジャーナとニネミアは随分繁華街を探し歩いたのだ。

 連絡も一向に付かず本気で心配し始めたところに、メリジャーナの父ドクサから、フィリアが砦にいるとの連絡が入った。

 車を飛ばして駆けつけたところ、丁度あの現場に遭遇したのである。

 

「すみませんでした。御心配をおかけして……」

「何事も無かったからいいけれど」

「あったじゃない大事が」

 

 混ぜっ返すように笑うニネミアに、メリジャーナが猫の威嚇のような唸り声を向ける。

 

「それで? 成果を報告しなさいな。何か分かったの?」

 

 そしてメリジャーナの恨み節を気にも留めず、ニネミアはフィリアに事の顛末を話せと要求する。

 フィリアはテロスが好むであろう物品とシチュエーションを掻い摘んで説明した。

 よくあの短時間でこれだけ聞き出したものだが、肝心の婚約についての心情はまだ推し量れておらず、少女はそのことを二人に詫びる。

 

「あなた……それ本当なの?」

「はい。お好きな物に関しては間違いありません」

 

 いくら知人相手といえども調べが早すぎる。しかも口調は断定的で、調査内容には絶対の自信があるようだ。

 ニネミアは少女のその態度に、何らかの疑念を抱いたようだ。

 

「えっと、それじゃあまだ私の話は何もしてないのね?」

「はい。まだ何も」

「そうなの。よかったわ」

 

 すると、慌てたようにメリジャーナが会話に参加する。

 

 フィリアのサイドエフェクトについては、イリニ騎士団でも最高位の機密情報に指定されている。騎士団内でもその存在を知る者は僅かで、当然ながら他家に漏らすことは許されない。

 少女のサイドエフェクトは、当初は並はずれた勘の鋭さだと考えられていたものの、騎士団での度重なる実験の中で、その恐るべき能力が徐々に明らかとなっていた。

 

 たとえば、少女は実験中、本人が明らかに知りえない情報を言い当てたことも数知れずあった。これは明らかに勘で済ませられる領域の話ではない。

 さらに研究を進めた結果、フィリアのサイドエフェクトは、あらゆる事象について即座に知識を得る能力であることが明らかとなった。

 

 ヌースが名付けた「直観智」の名は、正にその能力を正確に表していた。

 知ろうと欲したことを、無条件で知ることができるという、ただでさえ希少なサイドエフェクトの中でも極めつけに珍しく、強力な力だ。

 少女が普段行使している能力はその一部に過ぎない。脳に莫大な負荷が掛かるため、無意識に制限がかかっているらしい。

 

「直観智」はまさに国防から研究開発まで、あらゆる分野に応用が利く万能の能力である。

 この力を自由自在に扱うことができるようになれば、少女は近界(ネイバーフッド)の覇権を握ることも可能となるだろう。

 

 この事実を重く見たアルモニア以下イリニ騎士団の幹部は、フィリアのサイドエフェクトを秘匿することにした。これは少女を護るための処置である。

 他家や教会にこの秘密が漏れれば、一刻も早く能力を開花させるべきだと主張する一団が必ず現れるだろう。

 無意識に能力を制限した現状でも、サイドエフェクトを酷使した場合には身体と精神に不調をきたすことがある。

 もし能力を引き出すために過度な負担を掛ければ、少女は狂死してしまう恐れさえあるのだ。

 

「メリジャーナ、この子……」

「テロスったらホント女の子に甘いんだから」

「……」

 

 ニネミアは違和感の正体をメリジャーナに尋ねようとするが、彼女に答える素振りが無いと知ると、それ以上の追及はすっぱりと諦めた。

 いかに親友といえども、話せないことはいくらでもある。それが家と騎士団に係わることならなおさらだ。

 

「今一度、テロス様にお心を聞いてまいります」

 

 フィリアはそんな大人の葛藤に気付いた様子も無く、首尾に満足がいかなかったのか、鼻息も荒く再調査を提言している。

 小さな握り拳をぶんぶんと振り、顔は興奮のあまり真っ赤になっている。

 

 幾らなんでも、のめり込みすぎではないだろうか。他人の色恋沙汰に少女は夢中の様子である。

 メリジャーナとニネミアはそんなフィリアを見て、ついつい笑みがこぼれてしまう。

 こんなに可愛らしい生き物は、近界(ネイバーフッド)中を探し回ったところで見つからないに違いない。

 

「大丈夫です。不肖フィリア・イリニ。必ず任務を全うします」

「ふふ、そうじゃないのよフィリアさん。ごめんね、もう調査はいいわ」

「――そ、そんな」

「一生懸命頑張ってくれてありがとう。でも、やっぱりこれは私の問題ね。他人に頼るのはきっと良くないわ。ようやく気付いたの」

 

 メリジャーナは優しくそういって、少女の頭をそっと撫でた。

 すると先ほどまでの威勢はどこへやら。フィリアは俯いて、意見をすぐに引っ込めてしまう。過酷な幼少期を過ごした少女は、どうも肉体的なスキンシップに弱いらしい。

 

 和やかな空気に包まれる車内。フィリアの暴走に一時はどうなることかと思ったが、何とか収拾はついたようだ。ところがその時、

 コンコン、と車の窓がノックされる。助手席に向いていたメリジャーナが驚いて振り返ると、

 

「テロス! あなたなんで……」

「それはこちらの台詞だメリジャーナ」

 

 話題の中心人物、テロス・グライペインが車外に立っていた。

 駐車場は広く、車両は疎らである。砦から追いかけてきたテロスは、労せずメリジャーナの車を見つけることができたのだろう。

 車外へと出たメリジャーナとフィリア。

 ニネミアはあくまで他家の人間なので、話には加わらない意向だ。

 

「いきなりフィリア様を連れ出してどういうつもりだ。総長の姪御殿に無礼が過ぎるぞ」

 

 青年貴族は美貌を強張らせ、険のある声で訊ねる。

 時には軟派な印象さえ持たれかねないほど女子供に甘いテロスだが、あくまでそれは彼の奉じる騎士道精神より発せられている。

 貴族の義務、その精神性については、誰よりも厳格なのだ。

 

「それは、えっと……」

 

 返答に窮するメリジャーナ。

 事情を話してしまえば、婚約に対する彼女の不安は表沙汰になってしまうし、それになによりフィリアを使って彼を探ろうとしたのがばれてしまう。

 テロスの性格上、そちらの方がより強い怒りを買ってしまうだろう。

 

「答えられないことを、フィリア様になさろうとしていたのか」

 

 テロスの声に、怒気が宿った。すると、

 

「御免なさいテロス様!」

 

 メリジャーナの隣に立っていたフィリアが、大声で謝罪する。

 

「全部私が勝手にしてしまったことなんです。メリジャーナさんは何も悪くありません」

 

 と、これまでの経緯を縷々と話し出した。

 メリジャーナの婚約を知り、彼女が抱いた不安を解消するために、テロスの心境を探るために独断で飛び出してしまったこと。

 おおよそメリジャーナが隠しておきたかったことを全て暴露するフィリア。

 しかも少女は必死の様相で語るため、とても止められる雰囲気ではない。

 

「テロス様を謀ろうとしたのは私の企てです。どうかメリジャーナ様を責めないでください」

 

 そういって、少女は地に頭を擦りつけんばかりに謝罪する。

 余りのその剣幕に、テロスもメリジャーナも唖然とした様子だ。

 

「……フィリア様。総長に贈り物をしようと仰っていたのは、あれも嘘ですか」

「ご当主様に贈り物をしようと思っていたのは本当です。でも、それをテロス様に近づく口実にしました」

 

 頭を下げたまま、テロスの追及に応えるフィリア。青年貴族は困ったように眉を顰めると、

 

「戦場ならいざ知らず、人を謀るのは感心しませんね。以後はお気を付け下さい」

 

 と、穏やかな口調で少女を窘めた。

 

「だいたい事情は分かりました。フィリア様。もうお顔を上げてください」

 

 それきり叱責もなく、テロスは少女を許したようだ。

 次いで、彼は秘密を暴露されて真っ赤なっているメリジャーナに向かい、

 

「その……メリジャーナ」

 

 なんとも気まずそうな様子だが、それでもテロスは背筋をただすと、誠実な言葉で話しかける。

 

「不安にさせたことを詫びさせてくれ。今は難しい時期だからと理由を付けて、話し合うことを避けてきた。君の思いに気付かなくてすまない」

 

 青年の誠意ある態度に、メリジャーナも感じ入った様子で、

 

「うん。私の方こそごめんね。今までずっと一緒だったから、この関係が崩れちゃうんじゃないかと思って、それであなたに言い出せなくて……」

 

 と、胸の内を吐露する。

 二人は互いを見つめ合い、その距離は徐々に縮まっていく。

 テロスがメリジャーナの肩に手を置き、そっと彼女を抱き寄せた。メリジャーナは一瞬驚いた表情を見せるが、すぐに晴れやかな笑顔となる。

 

 時に百万遍もの言葉より、一つの行動こそが雄弁に心を語る。

 互いを思い合う男女はやがて惹かれあうようにその顔を寄せていき、

 

「その辺にしてくれない?」

 

 と、そこへニネミア冷めきった声が差し挟まれた。

 

「ゼーン閣下! これは無礼を……」

「あ、あら? ニネミア、あの、これはその……」

「いい加減にしなさいよ。その子、今にも倒れそうよ」

 

 車の窓を開け、心底呆れたようにぼやくニネミア。

 彼女の視線の先には、ロマンスの空気に当てられ、息をするのも忘れて立ち尽くすフィリアの姿がある。

 

「~~~っ」

 

 両手を口元に当て、顔を真っ赤に染めて二人を凝視していたフィリアは、とうとう緊張のあまり、フラフラとその場にへたり込んでしまった。

 

「ちょっとフィリアさん! 大丈夫!?」

 

 流石に倒れそうな少女を目の当たりにしては、二人もいい雰囲気を続けることなどできない。フィリアを車の座席に座らせ、慌てふためいて介抱する。

 

「へ、へいちゃらですから……」

 

 目をぐるぐると回しながら、強がりを言うフィリア。仮にも主君の姪御に万一のことがあれば、テロスとメリジャーナは騎士団に居られなくなる。

 それを差し引いても、彼女は二人にとって可愛い後輩である。自分たちの睦む姿に当てられたというのは、いくらなんでもばつが悪すぎる。

 

「確かにどうも、暑くてかなわないわね」

 

 そんな二人を揶揄するように、ニネミアはにやにやと笑いながらのぼせた少女をひらひらと手で仰ぐ。

 

「あ、あの、お二人はとってもお似合いだと思います……」

「ああもうフィリアさん。わかったから、ありがとう」

 

 そうしてしばらく休ませていると、少女も幾分か落ち着きを取り戻した。それを見届けると、

 

「それでは私も仕事に戻らねばなりません。これで失礼します」

 

 テロスはそういって、駐車場から立ち去ろうとする。

 

「メリジャーナ。また今度、これからのことをゆっくり話そう」

「ええ」

 

 二人はまだぎくしゃくとした様子であったが、それでも互いを思う気持ちは確かに通じ合ったようだ。微笑みを交わす二人の姿は、初々しい喜びに満ち溢れている。その時、

 

「今夜、今夜は如何でしょうか!」

 

 そう言いだしたのは、ダウンから回復したばかりのフィリアである。

 

「きっと早い方がいいと思います。今夜ならメリジャーナさんもお休みですし、テロス様の都合が付けば是非!」

 

 と、少女は熱っぽく力説する。まだ浮ついているのか、それとも彼女のサイドエフェクトが何かを知らせているのか。

 どちらにせよ、彼女の発言にも理はある。

 現在、エクリシアの軌道上に派兵可能な惑星国家は存在しない。防衛体制も平常通りで、騎士にとっては安息が許される僅かな期間となっている。

 

 話をするなら、今を置いて他にはない。

 あと数日もすれば、エクリシアはまた厳戒態勢となる。戦場を駆ける彼らにとって、落ち着いて話せる時間は希少だ。

 

「そう……ですね」

 

 テロスもそのことに気付かぬはずはない。加えて、ここに至って「今度」と間を置くのは、未だに思いが定まらぬゆえの逃げ口上のようでもある。

 勇猛果敢を信条とする騎士にとっては、恥ずべき行いではないか。

 青年貴族は黙考したのち、改めてメリジャーナに向き合う。

 

「確かにフィリア様の仰る通り、早い方がいいだろう。どうかなメリジャーナ。よければ今夜、食事に行かないか」

 

 心を決めてしまえば、行動に移すのは早い。テロスの誘いに、メリジャーナは戸惑いながらも、

 

「はい。……お受けします」

 

 と、頬を染めて首肯した。

 

 



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其の六 雪解け間近

「ホントにいいの? ちゃんと送ってもらうのよ?」

「はい。分かりました!」

 

 テロスを見送った後、イリニ騎士団の駐車場ではメリジャーナが心配そうにフィリアへあれこれと指示を出していた。

 今夜すぐに恋人とのディナーが決まったメリジャーナ。あいにくテロスは仕事から離れられないので、レストランの予約やら何やらは彼女が行わなければならない。

 また彼女自身も服を選んだり、化粧を整えたりと身支度で忙しい。

 

 そのことに気を使ったフィリアとニネミアは、今日の街遊びはこれで終わりにして、メリジャーナに家へと帰るよう勧めたのだ。

 せめて二人を送ろうと申し出たメリジャーナだが、ニネミアは迎えを呼ぶと言い、フィリアも騎士団に車を出してもらうと言い張った。

 

「頑張ってくださいメリジャーナさん!」

「あはは……」

 

 フィリアはきらきらと瞳を輝かせて、メリジャーナの武運を祈る。男女の機微など何も分からないだろうに、とにかく二人の幸せを心から願っているようだ。

 そうしてメリジャーナを送り出すと、広い駐車場にはぽつんと二人が取り残された。

 

「まったく、バカな話に付き合わされたわね……」

 

 忌々しげに嘯くニネミア。だが、言葉ほどに腹を立てた様子ではない。口では憎まれ口を叩いても、彼女もまた友人の幸せを祈願しているに違いない。

 

「さ、今日の予定はこれで終わりよ。あなたもさっさと帰りなさいな」

 

 携帯端末を操作しながら、ニネミアが素気無くそう言う。

 隣のフィリアはもじもじと戸惑いつつも、

 

「ゼーン閣下。今日はとっても楽しかったです。ありがとうございました」

 

 と、折り目正しく礼をする。

 

「な、なによ。別に私は何もしてないわ」

「? 服を選んでいただきましたし、メリジャーナさんのお悩みを解決するのも手伝っていただきました」

 

 きょとんとした様子で見上げる少女に、ニネミアは露骨な渋面を作る。

 

「メリジャーナに付き合っただけよ。前にも言ったけれど、私はエクリシアに他国の人間を入れるのは反対なの」

「……私は生まれも育ちもエクリシアですが」

 

 珍しく、少女は控え目ながらも反論を試みた。大貴族の当主相手に口答えをするなど、以前の彼女なら考えられない行いである。

 ニネミアの人となりを知り、またフィリア自身の心境が様変わりした結果だろう。

 

「そうね。でもノマスの血を引いているわ」

「それは、そうですが……」

「別にノマスだけを嫌っている訳じゃないわ。単純に信用できないのよ。他国の人間も、その血の流れる人間も」

 

 話に集中するためだろう。ニネミアは携帯端末を仕舞うと、冷ややかな視線でフィリアを見据える。

 

「他国から連れられてきた人間がこの国でどう暮らしているか、その子供たちがどう扱われているか、あなたならよく知っているでしょう?」

 

 大粒の宝石のような美貌に酷薄な笑みを浮かべ、嘲笑うかのように問いを投げかけるニネミア。

 見る者すべてを恐怖させ屈服を強いる、まさに女帝の表情である。

 成人もしていない小娘とは思えぬ迫力だが、不思議とフィリアには、何かを無理に取り繕ったかのような、悲しげな表情に見えた。

 

「多くは奴隷として暮らし、市民となっても差別は消えず、子々孫々までその宿命は付いて回る。そんな彼らが、エクリシアに恨みを抱かないと思う? 忠誠を誓うといって、私たちがそれを信じられると思う?」

 

 この時、フィリアは唐突にある噂話を思い出した。

 

 ゼーン家の先代当主、トラペザ・ゼーン。遠征先で討ち死にしたという話だが、その死には不可解な点が多数あったらしい。

 彼は(ブラック)トリガー「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の担い手であった。本人の技量のほどは知らないが、それでもあの馬鹿げた威力を以てしても敗北したとは、俄かには信じがたい。

 

 そもそも、彼は当主、つまりは指揮官である。

 指揮官自らが、撤退もままならぬ程に敵地深くまで斬り込み、むざむざ殺されたというのは、戦略上の観点からも考えにくい。

 

 実はトラペザ・ゼーンは謀略に掛かり、それによって命を落としたのではないか。という噂は、一時市民の間に広く囁かれていた。

 凄まじい負け戦で、戦闘の記録が殆ど残っていないというのも噂が信ぴょう性を増した原因である。

 真偽のほどは定かではないが、生還者はおらず、無人航行モードの遠征艇だけがゼーン騎士団の砦に帰りつき、中には(ブラック)トリガーだけが残されていたという話らしい。

 

 ニネミアが造反者の存在を疑ったとしても、無理はないだろう。

 そして動機の面から考えれば、エクリシアに住む外国の民こそが怪しい。

 多くの者は貧民同然の暮らしをしているが、中には市民となって高位顕職に就いている者も少なくない。

 彼らは一般に共同体意識が非常に強く、エクリシアに馴染んでいても、出身国への思いを捨てる者は少ない。

 

 市民でさえそうなのだから、貧民や奴隷はなおさらで、むしろエクリシア人からの不当な扱いから、自らのルーツに傾倒していく者は後を絶たない。

 彼らが先代当主を後ろから刺した。という可能性を、笑って排することはとてもできない国情なのである。

 

「だから、私はあなたを信用しないのよ。他家のやり方にまで口は出さないけど、分かったら、あまり近寄らないで頂戴」

 

 断固とした口調でニネミアはそう言い捨てる。

 取りつく島もない拒絶だが、父を亡くした彼女の心境を思えば、むしろ理性的な対応といえるだろう。

 

「……」

 

 もはやこれ以上の問答は不要と考えたのか、返す言葉も無く項垂れる少女を置いて、ニネミアは颯爽と歩み去る。

 

「あ……あの」

 

 それでもフィリアはニネミアの後を恐々とした様子でついていく。掛ける言葉はなにも思いつかない。それでも、乙女の孤高な後姿を見ると、胸に迫る感情があった。

 

「……」

 

 二人は会話もないまま、イリニ騎士団の正門前まで戻ってくる。

 

 ニネミアはこのままゼーン騎士団の砦まで歩くつもりだろう。此処まで配下を迎えに越させれば、彼女がイリニ騎士団を訪れていたことが周囲に知れてしまう。三大騎士団はそれぞれをライバル視しているため、総長が非公式に別の騎士団を訪ねるのは、あまり体裁の良い話ではない。

 一方フィリアも、イリニ邸に帰るためには砦に入り、車両の手配を頼まねばならない。

 

 ここが二人の分かれ道となる。

 結局、ニネミアと親睦を深めることはできなかった。彼女の思いを知ることはできたが、それは結果として、決して埋まらぬ溝を再確認しただけであった。

 

「……それじゃあね」

 

 チラリと背後を振り返り、ニネミアがぽつりと言う。

 

「……はい。今日はありがとうございました」

 

 肩を落とし、フィリアは消沈した様子で答えた。

 するとその時、正門前の広間に荘重な造りの高級車が入ってくる。紋章を掲げたそれは、イリニ騎士団の公用車だ。

 駐車場に入るためだろう。車はゆっくりとカーブし、フィリアたちの前を横切ろうとする。その時、

 

「これはゼーン閣下。如何いたしましたか。我が騎士団に御用が?」

 

 車が停止し、窓が開いた。中から顔を覗かせたのは、イリニ騎士団総長、アルモニア・イリニその人だ。

 

「――――っ!」

 

 声を掛けられるや、ニネミアはびくりと身体を震わせ、石のように固まってしまった。

 

「それにフィリアもどうしたんだ。今日はメリジャーナと出かけるんじゃなかったのか?」

 

 車から降りたアルモニアが、不思議そうな表情でフィリアとニネミアを見比べる。確かに、事情を知らなければとても珍妙な組み合わせに見えるだろう。

 

「えっと、今日はゼーン閣下も御一緒くださったんです。メリジャーナさんは急用ができて……」

 

 奇妙なまでに沈黙を続けるニネミアの代わりに、フィリアは事情を掻い摘んで説明する。

 一通り話を聞き終えると、アルモニアは得心したように頷き、

 

「それはそれは……姪がお世話になりましたゼーン閣下。この子はなかなか人見知りが激しいもので、閣下のような素晴らしい方と知遇を得られたなら、嬉しい限りです」

 

 と、翠緑の瞳を細め、優しく微笑みかけた。

 姪に友人ができたことに加え、排外主義で有名なニネミアがフィリアを受け入れたことを心から喜んでいるらしい。

 

「え、ええ。そうですね。とても聡明な子で驚いていますわ。イリニ閣下もさぞ頼もしいことでしょう」

 

 立ち尽くしていたニネミアが、ようやくアルモニアに応じた。

 するとどういうことだろうか。普段の凛然たる佇まいとは打って変わり、彼女はしおらしく目を伏せ、白い頬を桜色に染めて、吐息のようなか細い声で切なげに話す。

 誰がどう見ても、極端な変貌ぶりである。

 

「これからも姪とお付き合いくださるよう。心よりお願いいたします」

「願っても無いことですわ。こんなにいい子でしたら、我が家にも迎えたいほどです」

 

 愛想笑いとするにはあまりに魅力的な微笑みを浮かべ、ニネミアはアルモニアと暫し談笑に興じる。

 乙女の豹変を目の当たりにしたフィリアは、ただ呆然とした様子でその成り行きを見守るばかりだ。

 

「それでは私はこれで。どうぞ良い休日をお過ごしください」

「……はい」

 

 簡単な挨拶を終えると、アルモニアはニネミアに挨拶して砦へと向かった。

 立ち話で済ませたのはアルモニアの心遣いだ。三大貴族の当主ともなれば、不意の訪問であってもそれなりに供応するのがマナーである。折角の休暇を堅苦しい物にしてはならないと、あえて無礼を承知で会話を終えたのだろう。

 

「…………」

 

 ニネミアはアルモニアの後姿に、輝きに満ちた眼差しを送っている。

 磨き抜かれた宝石のような美しさとはまた違った、年頃の乙女らしい可憐な横顔に、フィリアの目はくぎ付けになる。

 

「――なによ」

 

 その視線に気付いたのか、振り返ったニネミアが険しい顔で少女を睨み付ける。大の男も押し黙らせる女傑の憤怒も、今は可愛らしく拗ねたようにしか見えない。

 

「なんでもありませんよ?」

 

 諸々の経験に乏しいフィリアでも、ニネミアの豹変の理由はすぐに察しがついた。

 少女は晴れやかに笑って、わざとらしく恍けてみせる。

 

「……ちょっと生意気なんじゃないかしらっ」

 

 少女はトントンと軽やかに地を蹴って、乙女の前に周りこむ。先ほどの暗澹たる空気が嘘のようだ。彼女も決して、冷厳な為政者としての顔だけを持つ訳ではない。

 

「ただの社交辞令よ。あなた何か勘違いしてるんじゃなくて?」

「何を仰られているのか、よく分かりません」

「くっ……」

 

 苦々しく弁解するニネミアに、フィリアはニコニコと笑みを浮かべて応じる。

 ニネミアがアルモニアに特別な感情を抱いていることに、少女の胸にはほんの少し、しこりのように疼く思いがある。本人に自覚は無いが、それは小さな妬心であった。

 しかしそれよりも、敬愛する伯父を好いている人がいるという事実に、彼女は歓喜した。あるいは自分が褒められたことよりも嬉しいかもしれない。

 

「イリニ閣下は尊敬に値するお方よ」

「はい。存じ上げています」

 

 誤魔化すのは無理と判断したのだろう。ニネミアは羞恥と苛立ちの混ざった顔で、諄々と少女を諭しにかかる。

 

「彼こそ、騎士の美徳すべてを体現した、まさに万民が範とするべき人物よ。だからこそ、私も礼を尽くすことに異存はないの」

 

 と、ニネミアはアルモニアが如何に優れた人物かをフィリアに力説する。

 とはいえ、好意の理由はそれだけではあるまい。フィリアのサイドエフェクトは漠然と、ニネミアの胸にアルモニアとの思い出があることを示した。

 

「だから、あなたも決して彼を裏切るような真似はしないことね。もしそうなったら、私はあなたを決して許さないわ」

 

 はいはいと頷くフィリアに業を煮やしたのか、ニネミアは強い口調でそう言い放つ。

 他国民とその血を引く者を決して信用しないという、彼女の思いの表れだ。

 

「……ゼーン閣下」

 

 と、それまで頷くばかりだったフィリアが、急に態度を変えて、毅然とした様子でニネミアを見据える。

 金色の瞳は鋭く輝き、小娘とは思えぬ凄みを発している。

 

「閣下が私を信用なさらずとも、私は伯父様を、騎士団の同朋を、それにゼーン閣下の事も、我が身を預けるほどに信頼しています」

 

 誠実な声で、フィリアはそう宣言する。

 ニネミアはそんな少女をじっと見つめ、

 

「騎士フィリア・イリニ。あなたは何故、戦いに身を投じるの?」

 

 と、疑問を投げかける。嘘やごまかしは決して許さないという雰囲気だ。

 フィリアは一つ深呼吸をして、

 

「……こんな私にも、大切なモノがあります。戦うべき時に戦わず、背中を向けて逃げ出せば、私はきっと自分を許せなくなるでしょう。嫌われても謗られても構いません。でも失うのだけは嫌です。それを護るためなら、私は何だってします」

 

 小さな体に見合わぬ迫力と共に、少女は静かにそう告げる。

 彼女が成し遂げた前人未到の功績を考えれば、その言葉が偽りであろうはずがない。

 

「そう。分かったわ」

 

 ニネミアは小さく頷く。

 

「先にも言ったけれど、私はあなたを信用しない。でも、あなたの行いを決める権利もないの。――まあ、精々頑張りなさいな」

 

 少女の決意が伝わったのだろう。微笑みとは程遠いが、ニネミアは幾分穏やかな表情を浮かべる。

 そうして、乙女はフィリアの前から去って行った。

 砦の前広間に、少女は一人残される。時刻はまだ昼を少し回ったばかり。陽光はさんさんと輝き、地面に小さく濃い影を映していた。

 

 

 

 



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其の七 懐かしの我が家へ

 小高い丘の頂に建つ教会と、それを取り巻く騎士団の砦。

 

 丘の裾野には壮麗な貴族の邸宅が立ち並び、周辺は高級住宅街と、そこに住む富裕層を相手にした格式高い商店が軒を連ねている。

 教会を中心とした半径三キロメートルほどのエリアは、エクリシアのいわば特権階級が住まう街区である。街並みは手入れが行き届き、景観は常に美しく保たれている。

 

 丘を下りきって平野部に出れば、そこから先はエクリシアの市民たちが住まう区域だ。清閑とした貴族街とはちがい、住居と店舗が賑々しくひしめき、昼夜を問わず活気に溢れた街並みが、聖都を囲む城壁まで続いている。

 その中でも一際賑わいを見せているのが、聖都を貫くアトレテス通りである。

 

 喧騒に満ちたその大通りを、てくてくと小柄な人影が歩いている。

 刺繍の施されたワンピースと大きな帽子は見るからに上質な仕立てであり、それを着る少女の高い家柄を無言の内に証明している。

 

 ただ不思議な事に、少女はエクリシアでは忌み嫌われた肌をしていた。

 本来なら市民の最下層に位地するべき存在が、触れ難い高貴な雰囲気を纏って歩いているのだ。

 行き交う人々はその奇妙な少女に、揃って怪訝な視線を送る。

 

 件の少女――フィリア・イリニは市民の眼差しをどこ吹く風と受け流し、繁華街をマイペースに歩いていた。

 砦でニネミアと別れた少女は家へと帰らず、盛り場まで一人で繰り出すことを選んだ。

 

 貴族の子女、それも彼女のように年端もいかない少女がお供も連れずに出歩くなど、本来あってはならないことである。

 特にフィリアは出自故にトラブルを招きよせる可能性が高い。保護者も無しに外出するのは危険でさえある。

 

 そんなことは百も承知の少女だが、それでも彼女は此処へ来ることを望んだ。

 その理由は、今一度己の原点に立ち返るためである。

 

「……」

 

 騎士団に務める彼女はなかなかの高給取りで、また遊びとも縁遠い性格のため、給金は溜まる一方だ。今日ぐらいは散財しても、誰も文句は言わないだろう。

 だが彼女は店で買い物に興じることも無く、飲食店で美食に舌鼓を打つ訳でもなく、雑踏の賑わいの中をただ目的地へと歩いている。

 

 ふとその時、鼻をくすぐる芳ばしい匂いがした。

 そろそろ夕食の買い物客が来るのだろう。足を止めて出所を探ると、パン屋が軒先に商品を並べていた。何のことは無い、平和な市民の営みの一コマである。

 

 しかし少女は僅かに顔を顰めると、決まりが悪そうに早足で店の前を通り過ぎた。貧民時代、何度かパンを盗んだ店である。顔を見られたことは無いためトラブルにはならないだろうが、胸に沸き起こる罪悪感はどうしようもない。

 

(昔はそんなこと、思いもしなかったのにな……)

 

 貧民時代はいかにその日の糧を得るかで頭がいっぱいで、盗みに対する罪の意識はすぐに感じなくなってしまった。先の展望は何一つ見えず、辛い毎日を何とかやり過ごすために駆け回る日々。それを思えば、今こうして貴族の末席に加えられ、食べるに困らない生活の何と幸福なことか。

 

 大通りにごった返す市民たち。彼らの表情は皆生き生きと輝いていて、活力に満ち溢れている。

 路地裏に潜み物陰に隠れ、商品を盗み残飯を漁っていた当時の自分は、彼らから見ればいかに薄汚れていたことだろうか。

 

 振り返れば、大通りの向こうに天高くそびえる教会が見える。以前は何の関心も持ち合わせていなかったが、そこに務めるようになった今はどうだろう。陽光を浴びて白く輝くその威容を目の当たりにすると、何やら胸の内から湧き上がる感情がある。

 

(最低だな、私って……)

 

 しかし、少女は己の変容を増長の顕れだと心から軽蔑する。

 

 自分は無価値である。というのが少女の変わらぬ自己評価だ。呪われたノマスの血を引く自分は、そもそも生まれるべきではなかったと、彼女は本気でそう思っている。

 そんな己が運よく貴族に拾われ、人並みの暮らしを得た途端、鹿爪らしく世相を語ろうというのだ。これが傲慢でなくば何なのか。

 

 フィリアの認識がここまで歪んでしまったのは、幼少時から受け続けた差別によるものである。また国民一般に語られる歴史では、如何にエクリシアが苦難の道を歩んできたかが強調されるため、敵役のノマスはまさしく悪鬼羅刹のように描かれる。少女が自らに価値を見いだせないのも、無理のないことといえた。

 

 近界(ネイバーフッド)に漂う数多の星々は、定員が決まった箱舟である。それはこのエクリシアとて例外ではない。必要とされない人間は早々に席を譲るのが良心的な振る舞いだ。

 

 それでも少女が意地汚く生き続けている理由。それは偏に愛する家族の為だ。

 生きる価値のない、生まれるべきではなかった彼女に、惜しみない愛情をくれた家族。

 フィリアの人生は彼女たちの為に捧げると決めていた。

 

 ところが最近はどうか。環境と立場の変化で徐々にしがらみが増えていき、その分だけ家族を護る決意が薄れているのではないか。

 騎士に叙勲され、ようやく遠征に選ばれる立場までのし上がったのだ。

 全てはこれからの働きに掛かっている。今一度、従士時代の狂気じみた執念を取り戻さなくてはならない。

 

 少女は繁華街を抜けると、聖都の外縁部を目指して歩く。

 石畳は次第に痛みが目立つようになり、住居も古く手入れの行き届いていない家が多くなる。

 

 さらに歩を進めると、街並みがはっきりと異なる区画に出る。

 石と木で造られた前時代的な建物が、身を寄せ合うように密集した街。

 そこは様々な事情からまっとうに暮らせなくなった者たちが最後にたどりつく場所、貧民窟と呼ばれる地域である。

 

 聖都の北部の一角を占めるこの街は、高い城壁がすぐ側にあるせいで日照時間が短く、まだ昼日中だというのに既に薄暗い。

 暗く湿った印象を受けるのは、何も影がかかっているからだけではない。

 建物はどれも薄汚れてボロボロで、倒壊していないのが不思議な家屋さえ珍しくない。

 

 曲がりくねった道は地面がむき出しで、汚水が所々で水たまりを作っている。

 市民が挙ってエクリシアの恥部と蔑むその街に、フィリアは従容と足を踏み入れる。

 

 もはやここまでくれば、目を瞑ってでも歩ける。

 迷いなく少女が向かった先は、石造りの古ぼけた建物。

 彼女たちが長らく住んでいた、思い出溢れる家である。

 

「…………」

 

 目的の場所を前にして、少女は感慨にふける。

 最後の記憶よりも、少し老朽化が進んでいるようだ。何しろこの家を離れてもうすぐ二年になる。筆舌に尽くしがたい苦難と試練を成し遂げられたのも、この家で過ごした思い出があったからだ。

 

 フィリアは躊躇いながらも、木戸に手を掛けた。

 鍵は掛かっていないが、立て付けの悪さはそのままだ。

 少女は苦笑を浮かべながら、えいと小さな掛け声と共に戸を開いた。

 そうしてかつての我が家に足を踏み入れると、

 

「……えっ!?」

 

 少女の鼻を突いたのは、汗と垢の饐えた臭い。そこに酸化した安酒の臭いが加わって、耐えがたい悪臭が漂っている。

 暗い室内を見渡せば、調度はあちこちが破損し、完全に壊れている物もある。床には残飯や空き瓶が無遠慮に転がって、虫がたかっている。

 

 貧しいながらも清潔に整えられていたはずの我が家が、見るも無残に荒らされている。

 完膚なきまでに穢された我が家を目の当たりにして、少女の胸に怒りと動揺が湧き起こる。

 その所為だろう。少女は背後から近づく足音に気が付かなかった。

 

「手前ェここで何してやがるっ!」

 

 酒やけした怒声と共に、フィリアの後頭部を強い衝撃が襲った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 幸いにも、少女が意識を失っていた時間はそう長くは無かった。

 

「ん、うぅ……」

 

 二度三度瞬きをして、ぼやけた視界を正常に戻すと、汚れた床板が目に飛び込んだ。

 荒れ果てているが、そこは我が家の居間である。

 どうして床で寝てしまったんだろう。それにこの汚れ様、さては弟が何かひっくり返してしまったか。と、少女は焦点の定まらぬ思考でぼんやりとそう考える。だが、

 

「っ!」

 

 即座に状況を思い出したフィリアは、全身をバネのように用いて立ち上がろうとする。しかし、

 

「――ぐっ!」

 

 手足はきつく縛られていて、勢い余った少女は無様に床を転がってしまう。

 

「おい、なんだもう起きやがったぞ」

「ノマスのガキは頑丈だな」

 

 物音に気付いたのか、二人の男が立ち上がり、寝転がるフィリアに近づいてきた。

 

「おい糞ガキ! 勝手に人様の家に入って何のつもりだ」

 

 手入れの足らない頭髪に延ばし放題の髭をした中年男が、少女を見降ろしてそう凄む。息が酒臭い。かなり酔っているようだ。

 

「どうせ盗みに決まってんだろ。見ろよこれ、随分手癖が悪いみたいだぜ」

 

 もう一人の男は素面のようだが、痩せすぎた顔に眼だけがギラついていて、見るからに陰惨で酷薄そうな顔をしている。

 痩せた男がつまみあげているのはフィリアの財布だ。彼らはダイニングテーブルに少女のポーチを広げ、中身を検分していたらしい。

 

「大した腕じゃねえか。いったいどこから盗んできたんだ? これだからノマスの奴は信用ならねえ」

 

 口ぶりは非難がましいが、痩せ男は下卑た笑いを浮かべながら財布を眺めている。子供の小遣いとはいえ、財布には貧民なら一月は余裕で暮らせる額が入っている。

 彼らがそれを奪おうと考えているのは明らかだ。

 

(なんて無様を……)

 

 少女は内心で歯噛みする。

 少し考えれば予想できたはずだ。貧民街では居住権など存在しない。程度のよさそうな無人の建物があれば、新たに誰かが居就くことなど珍しくも無い。久しぶりに実家へ帰る嬉しさの余り、そのことを失念していた。貧民時代のフィリアなら、決して犯さなかったミスである。

 

 おまけに彼らは、フィリアの事を頭から貧民の盗人だと判断しているようだ。

 ポーチはともかく、着用している衣服も高級品なのだから、少女がやんごとなき身分の者だと判りそうなものである。しかし、ノマスの血筋の者は貧民ないしは奴隷というイメージが強すぎるのだろう。

 

 騎士団の広報によってフィリアの顔はそこそこ売れている筈だが、彼らに気付いた様子は無い。我が身を鑑みれば、貧民時代は時事ネタや流行の話題などまるで頓着がなかった。住む世界が違う話題に、人は興味を持たない。

 

「どこから盗んだんだぁ? 言ってみろ。そうすりゃ仕置きは軽く済むと思うぜ」

 

 髭面の男がしゃがみこみ、気持ち悪い猫なで声でそう言う。

 どうせ金目のものは懐に入れるのだろう。ついでに窃盗犯を騎士団に突き出して、貴族から謝礼金もせしめるつもりに違いない。

 勿論、消え失せた金品は少女が隠したと主張するつもりだろう。ノマスの貧民よりは、酒浸りのエクリシア人の方がまだ社会的な地位は上だ。

 

「……イリニ家の、お屋敷からです」

 

 フィリアは掠れ声でそう呟く。

 

 連中がフィリアを騎士団に突き出すつもりなら、話は簡単に済む。イリニ騎士団で少女の顔を見知らぬ者はいない。拘束されたフィリアを目にした時点で、この男たちは簀巻きにされるだろう。

 当然ながら、アルモニアやメリジャーナには心配を掛けるし、フィリアのキャリアも地に落ちる。遠征の選抜にも影響が出るかもしれない。ただし、現状考え得る最悪の事態、此処で命を落とす事だけは避けられる。

 

 冗談ではない。こうした連中は恐ろしく短絡的に行動する。もし少しでも面倒事の気配を感じれば、少女を殺して事態の隠ぺいを図ろうとするだろう。

 つくづく不意打ちを許したのが悔やまれる。トリガーさえ起動できていれば、こんな輩など二秒でこの家から叩き出せただろうに。手足を縛られた現状、テーブル上のトリガーを奪取するのはリスクが高過ぎる。彼らの不見識につけ込むのが確実だ。

 

 元より彼女に過分なプライドなど存在しない。目的の為ならば泥水を啜る事さえ辞さない少女である。ごろつきに頭を下げ、命乞いをするなど何ほどの事でもない。

 

「おいおい嘘だろ。あのイリニ家から盗むとか、とんでもないガキだな」

 

 痩せ男が大げさに驚いて見せる。動作が不自然なまでに大仰だ。目もどこか虚ろである。何か怪しい薬でも服用しているのだろうか。

 

「……」

 

 フィリアは怒りを押し隠し、男たちの反応を待つ。

 

「おい、これってトリガーじゃねえか?」

 

 痩せ男がトリガーに気付いたようだ。二人は醜悪な笑みを一層濃くする。

 市民の戦闘用トリガーの所持は法で固く禁じられている。トリガーを所持、携帯できるのは従士あるいは騎士だけだ。つまり、少女の主張に裏付けが取れたことになる。

 

「これで誰を殺すつもりだったんだ? ノマスの奴はこれだから見逃しちゃなんねえんだ」

 

 酒臭い息を撒き散らしながら、髭面の男が唸る。市民の通例通り、彼もノマスの血族に強い憎悪を抱いているらしい。

 もはや少女にとってはどうでもいいことだ。もうしばらく屈辱に耐えれば、彼らは正当な裁きを受ける。

 

 フィリアは無言で身じろぎ一つしない。男たちからは恐怖で身動きが取れないように見えるだろう。この窮地にあっても、あくまで少女は冷静そのものであった。

 ――次の瞬間までは。

 

「このペンダントはどうするよ?」

「――っ!」

 

 痩せ男がこれ見よがしに手から提げているのは、宝石に彩られた銀細工の鍵である。

 ようやく少女は己の違和感に気付いた。肌身離さず身に着けていた大切なペンダントを、失神中に奪われていたのだ。

 

「いいじゃねえか。値が張りそうだ」

「バカお前ェ、こんなん足が付くに決まってんだろ。もし俺らが売ったってばれりゃ、縛り首になるぜ」

「じゃあどうすんだよ、貴族に返すか? 褒美に色が付くかもな」

「もしくは、潰して地金にしちまうかだな」

 

 下卑た声で盗品の始末を検討する男たち。

 それを耳にした時、フィリアの頭から一切の見境が消し飛んだ。

 

「それに触るなっ!!」

 

 怒号を放ちながら、少女は跳ね起きるように地面から立ち上がる。両足を縛られていながらよろけもしない。

 騎士団で苛め抜いた少女の身体は、生身であっても驚異的な運動能力を持つ。

 床板を蹴ったフィリアは、放たれた矢のように痩せ男へと飛びかかった。そして、

 

「ひぃぃぃっ!」

 

 狼が得物に襲い掛かるように、ペンダントを摘まむ指に喰らいつく。

 

「い、痛え、痛えよぉ! 何しやがるこのガキぃ!」

 

 痩せ男の喉から情けない悲鳴が零れる。

 少女の白い歯が薄汚れた男の指に食い込み、鮮血を滴らせる。

 家族の愛の証であるペンダントは彼女の生きる意味であり、魂の尊厳そのものだ。

 心の奥底を泥足で踏みにじられ、フィリアは過去にないほど激昂していた。

 

 その怒りのほどは、あるいは殺意の域にまで達しているかもしれない。

 普段の冷静沈着な態度はあくまで処世の為。彼女はまだほんの子供である。感情を完全にコントロールするなど不可能だ。

 

 もし彼女に一片の理性でも残っていたなら、テーブルの上にあるトリガーを奪取しようとしただろう。ただしその場合、おそらくフィリアはごろつき共を殴り殺していたに違いない。

 少女は悪鬼の形相を浮かべ、指を噛み千切らんばかりに力を込める。痩せ男はパニックになって腕を振り回すが、いたずらに傷を広げるばかり。だが、

 

「ノマスの雌犬がっ!」

 

 髭面の男が駆け寄り、フィリアの腹を思いきり殴りつけた。

 

「――がっ」

 

 幾ら鍛えた身体とはいえ、体格差は如何ともしがたい。少女の細い身体がくの字に折れ曲がり、肺の空気が絞り出される。

 そうして顎の力が緩んだところに、痩せ男が思いきり腕を振り払った。

 

「――く、ぁ」

 

 吹き飛ばされた少女は床をはね転がって壁に激突し、ピクリとも動かなくなった。

 

「っ痛ぇ、噛みやがった、噛みやがったぞこいつ!」

「殺されてェのか糞ガキぃ!」

 

 思わぬ少女の反撃を受け、ごろつき二人は完全に怒り心頭に発していた。

 痩せ男は泣き喚きながら呪いの言葉を吐き、髭面の男は怒りの余り意味不明となった罵声を少女に浴びせる。

 

「か……えせ、かえし……て」

 

 床に伏したまま動かないフィリアは、それでも目だけを爛と光らせ、うわごとのようにそう呟き続ける。

 

「手前ェ自分が何したか分かってんだろうな、ああ!?」

「――ぅ」

 

 怒り狂った髭面は床を踏み抜かんばかりの勢いで少女に詰め寄ると、頭髪を掴んで乱暴に引きずり起こす。目は血走り口の端には泡を吹かせ、最早正気の様相ではない。

 

「売女が盾突きやがって! ぶっ殺してやる!」

「ぐっ」

 

 髭面は掴んだ頭を地面に叩きつけ、少女を再び這いつくばらせると、太い脚を高々と持ち上げた。

 このまま全体重をかけ、思いきり踏みつけるつもりだ。

 大男のストンピングを受ければ、少女の細い骨などひとたまりもなく砕け、内臓は破裂するだろう。しかし、朦朧としたフィリアには、それを避けることなどできるはずもない。

 もはや少女の運命は風前の灯かと思われた。その時、

 

「そこまでにしなよ」

 

 険を含んだ少年の声が、荒れ果てた室内に響いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 闖入者の声に、髭面の男は驚いたように振り返る。戸口に立っていたのは異様な風体の少年だ。

 着衣は平民のそれだが、凛々しい顔だちは高貴な生まれを思わせる。また蛮行の現場に居合わせて怯むこともなく、その立ち姿は年齢にそぐわぬ程に堂々としている。

 

 そして何より目を引くのが、澄み切った蒼天のように青く輝く髪と瞳だ。

 エクリシアでも類を見ない容姿の少年だ。姿から出身階層を推し量るのは難しい。

 少年は不快そうに顔を顰め、男たちを眇め見ている。

 

「手前ぇこのガキの仲間か!」

 

 興奮とアルコールの為か、はたまた暴行の現場を押さえられたことへの恐怖か。

 髭面の男は怒鳴り声を上げ、大股で少年へと歩み寄る。

 

「通りすがりだよ。それよりその子をすぐ医者に連れて行かなきゃ」

 

 大男の圧力を平然と受け流し、少年は淡々とした口調でそう言う。

 

「うるせえ! ノマスのガキなんざ殺したって何の問題もねえだろうが」

 

 少年の異様な態度に怯んだのか、髭面が虚勢を張るかのように吠える。

 

「死んでいい人なんて、何処にもいやしないよ」

 

 そんな男を心底憐れむように、少年はどこか悲しげにそう呟く。

 

「なあ、おいアンタ……」

 

 すると、成り行きを見守っていた痩せ男が、

 

「こいつは盗人なんだ。勝手に家に入り込んで荒らしてやがった。それにほら、見ろよこれ。あのイリニ家から盗んだって白状したんだぜ」

 

 テーブルのポーチを持ち上げ、自らの正統性を主張する。少年の身分が分からぬ以上、とにかく抱き込もうという判断だろう。

 

「……それをイリニ騎士団に持っていけば、君たちは縛り首になるだろうね」

 

 だが少年はより嫌悪の表情を強めて、そう吐き捨てる。

 

「ああ!? 何言ってんだ。俺たちは被害者だぞ。この傷を見ろ。この雌ガキが噛みやがったんだ」

「まあ、それはいいよ。とにかく荷物をその子に返してあげなよ。それから……」

 

 傷跡を見せびらかす痩せ男に素気無く応じ、少年は縛められたフィリアへ向かって歩き出す。その時、

 

「――ガキが指図するんじゃねえっ!」

 

 一向に主張を受け入れられないことに腹を立てたのだろう。髭面の大男が少年の顔面を思いきり殴りつけた。

 

「――!」

 

 少年は木端の如く吹き飛び、椅子をなぎ倒しながら食器棚へとぶつかる。

 フィリアの時とは異なり、まともに顔に入っている。頬骨が砕けるどころか、下手をすれば首の骨が折れていてもおかしくない倒れ方だ。だが、

 

「~~あ、ああ、がああっ!」

 

 悲鳴を上げてのたうっているのは、髭面の大男の方であった。見れば、少年を殴りつけた右手の指はあらぬ方向に曲がり、赤黒くはれ上がり始めている。

 

「むやみに暴力を振るうから、そういうことになるんだよ」

 

 服の埃を払いながら、少年が何事も無かったかのように立ち上がる。痛みにすすり泣く大男を、侮蔑と憐憫と諦念が混ざったような複雑な視線で眺めている。

 明らかに大怪我を免れない暴行を受けながら、少年が平然としている理由。それは、

 

「と、トリオン体……」

 

 痩せ男が驚愕も露わに後じさる。

 トリオン体は物理的な衝撃には非常識なまでの耐久力を持つ。すなわち髭面の男は、少年の形をした鉄塊を本気で殴りつけたも同然だ。拳が壊れるのも当然の結果だろう。

 

「な、なんで、お前は……」

 

 そしてこのエクリシアに於いてトリオン体で活動できる者は、治安維持を司る騎士団関係者だけだ。このごろつきたちは、法の執行者に手を挙げたことになる。

 

「っ――う、動くな!」

 

 痩せ男がフィリアのトリガーを掴んだ。

 このままでは牢屋行きになるのは明らかだ。破れかぶれで最後の抵抗を試みるつもりだろう。

 

「……それを起動(つか)えば、流石に見逃せなくなるな」

 

 すると少年は物憂げにそう呟き、ゆっくりと歩を進める。まるで馬鹿馬鹿しい悪戯を咎めるような表情と口調だが、震えあがるほどに凄絶な威圧感を発している。

 見た目は子供だが、トリオン体はそのものが強大な兵器である。銃口を突きつけられているのと何ら変わりない。

 

「ひ、ひぃ!」

「もういいでしょ。それを置いて、彼を医者に連れてってやりなよ。追い掛けたりしないからさ」

 

 無様に悲鳴を上げる痩せ男に、少年は一転して優しい調子で話しかける。

 それで意地も尽きたのか、痩せ男は痛みで失神しかけている髭面を無理やり立たせると、這う這うの体で家から逃げ出していく。

 

「――さて」

 

 ごろつきを追い払うと、少年は一転して真面目な表情となり、未だ地に伏せるフィリアへ急ぎ足で向かった。

 

「あなたは……」

「意識はあるね。ちょっと御免よ」

 

 少年はフィリアの目元に指を当て、瞼を開いて瞳を覗き込む。瞳孔の収縮を調べているのだろう。

 

「~~っ!」

 

 凪いだ湖面を思わせる、吸い込まれそうなほど深く澄んだ青い瞳。

 気が付けば、額が触れそうなほど近くに異性の顔がある。フィリアの霞がかった思考が、羞恥によって急速に鮮明となる。

 

「このトリガーは君のだね。起動できるかい」

 

 打撲痕を調べるなど、一通りの触診を行うと、少年は痩せ男から奪い返したトリガーをフィリアの手に握らせた。

 

「それと、はいコレ。大事な物なんだね」

 

 それから少年は思い出したように、フィリアの首に銀の鍵のペンダントを掛けてやる。

 

「あ、ありがとうございます……」

「どういたしまして。さ、トリガーを起動して」

「は、はい……」

 

 促されるままにフィリアはトリガーを起動し、トリオン体となる。

 トリオン体に換装した際、生身の体はトリガーへと格納される。外部からの干渉を遮断するため、いたずらに傷を悪化させずに済むのだ。

 

「さて、失礼するよ」

「わっ、ひゃっ!」

 

 フィリアの胸にポーチを預けると、少年は少女の身体をヒョイと横抱きに持ち上げた。

 戦闘用のトリオン体は十五・六歳をイメージしてデザインされている。首一つ大きいフィリアを少年が抱き上げるという少々不格好な体勢となったが、トリオン体の彼にとって華奢な少女の体重などどうということもない。

 

「あ、あの、降ろしてください! 私はなんとも――」

「はいはい大丈夫だよ。すぐに着くから安心してね」

 

 フィリアの抗議を聞き流すと、少年は足早にフィリアの生家を出て、貧民街の通りに彼女を連れ出す。

 

「ひ、人に見られます! あの、ちょっと」

「見られると困るのかい? わかった。じゃあ舌を噛まないように気を付けてね」

 

 言うやいなや、少年はフィリアを抱えたまま超人的な脚力で地面を蹴り、瞬く間に建物の上へと飛び上がる。

 

「~~っ!!」

 

 そうして、少年は猛烈な勢いで屋根伝いに走り出した。

 まだ日も高い。波のように広がる赤い瓦屋根が、陽光を受けて燦然と輝いている。

 陰惨な諍いなどまるでなかったかのように、聖都は変わらずその威容を誇っていた。

 

 



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其の八 空色の少年

「そんなに大した怪我では無かったよ。お腹の痣も一週間もすれば治るだろう。ただ、しばらく安静にして、あまり動き回らないようになさい」

「はい。承知しました先生」

 

 優しい色合いで統一され、清潔に整えられた病室。そのベッドの上で、フィリアは老齢の医師から診察結果を聞かされていた。

 

 謎の少年はフィリアを抱えるや、一目散に市街地にあるこの病院へと彼女を連れてきた。

 大男に強かに殴られており、一時は意識も失っていた。何はさておき、まずは身体を調べなければならない。

 

 病院を訪れたのは、戦闘用トリガーを持ったノマスの少女に、世にも奇妙な風貌の少年という取り合わせである。

 一悶着があって当然の訪問者だが、老齢の医師と少年は顔見知りであったらしい。特に何も問題は起きず、フィリアは速やかに検査室へと運ばれた。

 

 また、医師はフィリアの身元にも気付いたようだが、余計な詮索を受けることも無かった。あるいは、少年はそれを知っていてこの医院に彼女を連れてきたのだろう。

 

「何から何まで、本当にありがとうございました」

「いやなに、それが仕事だからねえ」

 

 腹の痛々しい痣には湿布をべたりと張ってもらった。

 医療用トリガーで精密な透過写真も撮影してもらったところ、骨にも内蔵にも異常はないとのこと。

 ただ、軽い脳震盪を起こしていたらしく、しばらくは絶対安静を言い渡された。

 

()()()()()()()()()、本当にお家の方に言わなくていいのかね」

「……はい。要らぬ心配を掛けてしまいますので」

 

 医師の探るような視線に、フィリアは粛々と答える。

 拳の形の痣など、医者が見間違えよう筈もないのだが、フィリアはこの怪我を一貫して転んだ所為だと主張していた。

 

「そうかね……分かったよ」

「……ありがとうございます」

 

 正直なところ、フィリアは我が家を占拠していたならず者たちには、本気で怒りを覚えていた。ただ、憎み切っていたかといえば、必ずしもそうではない。

 

 彼らとて、生きるのに必死なのだ。

 それは他ならぬフィリアだからこそ、身に染みて分かる。

 もしイリニ家に拾われることがなければ、病んだ母を抱えたまま暮らしが困窮していたならば、はたして自分は他人を傷つけられずにいただろうか。

 

 彼らは、ありえたかもしれないフィリア自身の姿なのだ。

 それを思えば、ただただ虚しさだけが心を吹き荒び、身体の痛みさえどうでも良くなってしまった。

 

 そして、この事件は既に政治問題となっている。

 貴族の子弟が、貧民のならず者に白昼堂々襲われたのだ。一つ間違えれば殺されていたかもしれない。

 これを公表するかどうかで、イリニ家の施政方針は大きく変わるだろう。

 

 無論、彼らは法を破った犯罪者だ。貴族としての立場からすれば、彼らを捕まえることは義務である。

 ただしその結果、間違いなく貧民への風当たりはより強くなる。過酷な生活を強いられた彼らを、その境遇から抜け出したフィリアが追い詰めることになる。

 

 そしてなにより、フィリアが襲われたことを知れば、アルモニアやメリジャーナも激昂するに違いない。

 あの優しい人たちの怒りに染まった顔を、少女はどうしても見たくなかった。

 ならば、今日の出来事は胸に秘してしまうべきだと、少女はそう考えた。

 

「もし、急にめまいがしたり気分が悪くなったり、お腹が痛くなったりしたら、すぐお医者に掛かるんだよ」

「はい。分かりました」

 

 検査結果を知らせ終え、医師は退室した。

 もう病院から帰っても問題は無いのだろう。少女はベッドから降り、身支度を整える。そこへ、

 

「や、お疲れさま」

 

 青髪の少年が医師と入れ替わるように入室してきた。

 

「――あ、あの」

「そんなに酷い怪我は無かったんだって? よかった、一安心だね」

 

 少年はそう言いながら、気軽な足取りで少女へと近づく。そうして手にしていたフィリアの帽子を、そっとベッドの上へと乗せた。

 

「これは……どうして?」

「いやぁ持ってくるのを忘れてね。さっき取りにいったんだ」

 

 晴れやかな笑みを浮かべる少年に、フィリアは怪訝そうに眉根を寄せる。素性も知れない彼に、此処まで良くしてもらう意味が分からない。

 それでも少女は帽子を恭しく受け取ると、

 

「……助けていただいて、ありがとうございました」

 

 と、素直に礼を述べる。

 

「私の事を御存じのようでしたが、改めまして、フィリア・イリニと申します」

「ああ、ご丁寧にどうも。僕はアヴリオっていうんだ。よろしくね」

 

 少年は屈託なく微笑みながら、ベッドに腰を落とす。

 

「……アヴリオ様は、教会にお仕えしてらっしゃるのですか?」

 

 と、少女は幾分自信なさげに尋ねる。立て続けに起こった騒動で、彼女の頭はパンク寸前だ。サイドエフェクトも今一つ働かない。

 彼はトリガーを所持し、街中で起動している。エクリシアの要職に就いている人物に間違いない。

 

 とはいえ、フィリアは少年の事をまったく知らない。このように目立つ容姿で、尚且つ少女と同世代というなら、余所の騎士団に所属していても風聞くらいは耳にするだろう。

 他にエクリシアでトリガーの携行を許されているのは、教会の研究員や聖堂衛兵たちぐらいのものだ。

 彼らとは面識が薄いため、フィリアの知らぬ顔がいても不思議ではない。

 

「そうそう。教会に出入りしてるんだ。今日は久しぶりのお休みだったんだけど……」

「それは、御迷惑をおかけしました」

 

 生真面目な性格のフィリアが謝罪の言葉を口にすると、アヴリオはいやいやと大げさに手を振ると、それまでの経緯を語りだす。

 

 曰く、街を散策していた少年は、偶然にも今を時めくフィリアの姿を見かけ、興味本位から後をつけることにしたらしい。しかし、貧民窟で少女を見失い、諦めて帰ろうとしたところであの騒動の音を聞きつけたそうだ。

 その後の展開はフィリアも知る通りだ。

 

「だから、謝るとしたら僕の方かな? こっそり追いかけてたなんて気持ち悪いよね」

 

 言葉とは裏腹に、アヴリオはまるで悪びれた様子も無く声を上げて笑う。まるで悪戯がばれた子供のような仕草だ。

 フィリアからすれば、少年は命の恩人であるためそう粗略にもできないのだが、こうも邪気のない姿を見ていると、何やら肩肘を張って対応するのが馬鹿らしくなる。

 少女の顔に、知らず知らずに笑みが浮かぶ。

 

「追跡に気付かなかったとは、随分な不覚です」

「そこは僕の腕前かな。気配を隠すのは得意でね。教会から抜け出すのもしょっちゅうさ」

「お仕事を蔑ろにするのは、あまり感心できませんね」

「だから叱られてばっかりでさ。最近はろくすっぽ休みも貰えなくてね嫌になっちゃうよ。まあ今日は出歩いててよかった。フィリアさんのピンチに間に合ったからね」

「はい。本当にありがとうございます」

 

 他愛のない世間話を続けながら、フィリアは所持品を改める。アヴリオのおかげで無くなった物はない。ワンピースは少し汚れてしまったが、家人には言い訳できる程度だ。

 

「さて。じゃあこれからどうしよっか?」

 

 少女の身支度が済むのを見計らって、アヴリオが気楽な声でそう言った。

 

「え?」

「もう一回あそこに行く? それともどこか遊びに行こうか。この近くなら美味しいクレープの屋台があるなあ。今日も出てるといいけど」

 

 もう今日は大人しく自室で寝ていようと考えていたフィリアだが、少年の意見は違うらしい。アヴリオは勢いをつけてベッドから立ち上がると、うきうきとしたように微笑む。

 

「……あ、はい。そうですね……」

 

 少年のあまりに人懐こい仕草に、フィリアは胸中困惑を隠せない。

 危局を助けてもらったとはいえ、彼とは初対面だ。基本的に人見知りの少女にとって、少年の気さくに過ぎる態度はちょっとした恐怖でさえある。

 だが、アヴリオはフィリアの相槌を快諾と捉えたようで、

 

「よっし! それじゃあ行こうか」

 

 と、大手を振って病室から飛び出していく。

 

「あ、待ってください!」

 

 フィリアは慌てて帽子を被り、少年の後を追いかける。

 

「もう! 病院では走ってはいけません!」

 

 暴悪に晒され身も心もボロボロであったはずの少女。しかし、この不思議な少年に振り回されていると、つい痛みを忘れてしまったようだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 結局、行動力の塊のようなアヴリオに引っ張られ、フィリアは聖都中を練り歩くことになった。

 

 屋台街では菓子やジュースを食べ歩き、商店街では雑貨店や本屋を冷かして回る。公園の野外劇場では喜劇を観劇し、大いに盛り上がった。

 

 恒常的に戦争を続けている近界(ネイバーフッド)は娯楽が極端に少ない。それでも、アヴリオはこのエクリシアで知らぬことなど無いかのように、フィリアを一時も休むことなく楽しませる。

 長らく貧しい暮らしを続けてきた少女にとって、立ち並ぶ商店はただの箱に過ぎなかった。また懐に余裕ができてからも、遊興に費やす時間などありはしなかった。

 

 私欲の為に時間とお金を費やすことは、堕落の始まりだとさえ思っていた彼女だ。買い食い一つとっても、最初は強い抵抗を覚えた。

 

 それが今、少女は飲み物を片手に喜劇を眺め、声を立てぬよう顔を真っ赤にして笑いを堪えている。

 

 彼女一人でなら、きっとこうはならなかっただろう。

 蒼穹のように輝く髪と瞳を持つ不思議な少年、アヴリオ。

 

 彼は聖都のあらゆる場所に詳しく、また至る場所に知人がいて、それも職種や階層に隔たりが無い。ノマスの子のフィリアを連れていても、不思議と誰も嫌な顔をしなかった。きっと少年の底抜けの明るさが、嫌悪の心を塗り潰してしまったのだろう。

 

 そんな彼にエスコートされると、それまで舞台の書き割りでしかなかった街並みに陰影が添えられ、鮮やかに色付いていくように見える。

 少女の固く閉ざされた心に、新たな世界の姿が曙光のように差し込む。

 

 家族と過ごす心地よさとはまた違った感覚。

 フィリアは生まれて初めて、楽しさというモノを知りつつあった。

 

「いや~傑作だったねぇ! 最近じゃ一番良かったよ」

「ふ、くく……はい。そうですね」

 

 劇が幕を下ろしても、興奮はまだ冷めやらない。

 フィリアとアヴリオは感想を述べ合いながら、市民公園を散策する。

 

「笑い過ぎてお腹減っちゃったよ。あ、そうだ。此処からだとオルニス通りのカモメ亭がお勧めだよ。あそこのパンケーキは蜂蜜が絶品なんだ。もうちょっとすると酒飲みのオッチャンたちが来るから、行くなら今の内だね」

 

 まだまだ遊び足りないとばかりに、アヴリオは笑顔でフィリアに振りむく。しかし少女は名残惜しそうな表情で、

 

「その……すみません。そろそろ門限の時間が近くて……」

 

 と、そういって詫びる。

 すでに日はだいぶ傾き始めている。これからイリニ邸まで戻る時間を考えれば、そろそろ家路につかねばならないだろう。

 元々今日はメリジャーナと同伴で外出する予定だった。それも夕刻までには帰ると家人に告げている。

 

 いくら騎士とはいえ、フィリアは未成年である。貴族の子女が一人で出歩くなど以ての外であり、本来ならメリジャーナと別れた時点で帰宅しなければならなかった。

 それがついこんな時間まで遊びほうけてしまった。

 叱責はともかく、これ以上遅くなれば家人の追及も厳しくなる。そうなれば、あのトラブルに感づかれないとも限らない。

 

「そっか、それならしょうがないな。あ、よかったら一緒に怒られようか?」

 

 アヴリオは気楽な様子で、冗談交じりにそう応じる。フィリアはくすりと笑って、

 

「そこまでご迷惑はかけられません。今日は本当に楽しかったです」

 

 と、少年に礼を述べる。

 

「う~ん……あ、そうだ。フィリアさんイリニのお屋敷に帰るんだよね」

 

 ここでお別れ、との雰囲気になりかけたその時、アヴリオがそんなことを言いだした。

 

「はい。そうですけれど……」

「じゃあ、最後の場所は決まりだね」

 

 少年はにこやかに笑って、フィリアの手を引いて走り出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうして二人がやってきたのはエクリシアの中心部、教会である。

 辺りには荘厳な鐘の音が鳴り響いている。終業を報せる鐘だ。

 空は既に暮れ初めており、荘厳な建物が茜色に染まっている。

 大聖堂では夜のミサの準備が行われていた。教父たちが出入りする中を、こっそり人目を避けるように身を隠しているのは、アヴリオとフィリアだ。

 

「こっち気付くなよ~……よし。さ、行こう行こう」

 

 柱の陰に身を隠していた少年は、少女の手を引いて教会の奥へと走る。

 

「あの、この先は関係者以外立ち入り禁止では?」

「何言ってんのさ。僕は関係者だよ」

「そうではなくてですね……」

 

 要領を得ない少年の回答に呆れながらも、少女は少年に連れられるまま回廊を走る。

 教会は広く市民に開かれているが、それは聖堂内だけのこと。教会には関係者以外立ち入り禁止の区域が多数ある。見つかれば咎めを免れないだろう。

 理性的で堅物ないつもの彼女なら、絶対に立ち入りを拒む筈だ。

 

 しかし、フィリアは苦笑いを浮かべ、どこか浮かれたようにこの状況を楽しんでいる。

 羽目を外して気が大きくなっている。というだけではない。何やら少年の持つ明るさに、少女も感化されつつあるようだ。

 

「さあこの上だよ。早く早く」

 

 尖塔の基部にフィリアを連れてきたアヴリオは、トリオン認証式の扉を手慣れた様子で開ける。教会の塔はエクリシアで最も高い。そこから眺望を楽しもうというのが、少年の最後のプランだろう。

 なるほど悪くない。イリニ家の屋敷も近いため、そう長居しなければ門限にも間に合いそうだ。

 

「結構階段キツイよ、生身で大丈夫?」

「ご心配なく。鍛えてますから」

 

 大の男でも膝が笑う長さのらせん階段を、苦も無く駆け上がる少年と少女。

 程なく彼らは塔の頂上へと辿りつき――

 

「わぁ……」

 

 眼下に広がる絶景に、揃って言葉を失った。

 

 世界が、金色に輝いている。

 

 丘陵の向こうに沈む太陽。その優しい光に照らされて、聖都の街並みは幻想的な影絵のようだ。

 あれほどの活気に満ちた大都市がこんなに小さく、愛おしい箱庭のように見える。

 それは市中では決して見られなかった光景だ。

 

 そして、その絶景に見蕩れる間もなく、世界は刻一刻と色を移し替えていく。

 金色から赤みがかった紫へ、深く静かな濃紺へ。

 光の諧調が織りなす神秘的な空は、その下に広がる街の風景さえも変えていく。

 

 ぽつり、と街に灯りがともされる。

 夜の気配が立ち込めると、まるで花が一斉に咲き乱れるかのように、聖都の街が光に染まっていく。

 

「ほら、ごらんよ」

 

 陶然とその景色を眺める少女に、少年はそっと指で空を指す。

 見れば、藍色の空には近界(ネイバーフッド)の星々が姿を顕し始めていた。

 

 大小さまざまな人造の星が、夜空を彩るように瞬く。

 エクリシアの民ならだれもが嫌忌する戦乱の凶星が、この時ばかりは世界を慈しむように輝いている。

 

 その絶景を前にして、一体どれ程の時間が経っただろう。

 フィリアは未だ夢から抜け出せないように、熱いため息を吐く。

 

「……すごい、です。こんなの、初めて見ました」

「それはよかったよ。僕もここから見る景色が一番好きなんだ」

 

 人好きのする笑顔を浮かべて、アヴリオがそう言う。

 この景色をフィリアに見せることができて、心底喜んでいるようだ。しかし、

 

「ってあれ、ちょっとどうしたのさ!?」

 

 少年が驚いたように声を上げる。

 

「え――?」

 

 振り向いたフィリアはそこでようやく、自分が涙を流していることに気付いた。

 

「あ、あれ……これは……」

 

 目じりを伝い、止めどなく流れる涙滴を、少女は困惑した様子で慌てて拭う。

 

「大丈夫かい、どこか痛むの?」

「い、いえ。そんなことは……」

 

 アヴリオは気遣わしげにフィリアの様子を窺うが、少女はただ溢れる涙に困惑するばかり。

 一先ず体の不調によるものではないと分かると、少年は少女を床に座らせ気持ちが落ち着くのをじっと待つことにした。

 

「どう? 少しはマシになったかい」

「……はい」

 

 ハンカチを握りしめ、フィリアは俯いて答える。

 いつしか日は完全に沈み、エクリシアには夜の帷が下りている。

 

「すみません。またご迷惑を掛けてしまいました」

「なんてことないよ。ただビックリしただけさ――ただ」

 

 少女の謝罪を飄々といなして、少年は茶目っ気たっぷりに肩をすくめる。そして、

 

「もし、君の心を傷つけてしまったのなら、心から謝らせて欲しい」

 

 思いもがけないほど真摯な態度で、彼はそう頭を下げる。

 その眼差しと表情には輝く知性と荘重な品格が溢れていて、あの陽気な少年と同一人物であるとは思えないほどだ。

 

「――そんな、違います!」

 

 真剣に詫びるアヴリオに、フィリアは声を大にして異を唱える。

 

「本当に、何でもないんです。ただ、……ただ」

 

 あまりも綺麗で。と少女は溢す。

 

 暗黒の海を巡る近界(ネイバーフッド)の星々は、人の生き血を動力にして、終わりなき航海を続ける呪われた箱舟だ。

 それは、このエクリシアも例外ではない。

 この残酷な世界では、個人の抱いた喜びや悲しみ、怒りといった感情など、泡沫のように儚い事象に過ぎない。

 闘争という名の支配者が、脱落者を犠牲にしてこの世界を動かし続けていく。

 

 世界は私の為にあるわけではない。

 フィリアはとっくの昔に、そんな当たり前の事実に気付いていた。

 だからこそ、彼女はその定理を重く受け止め、世界の法則に従って生きてきたのだ。

 

 全ては、彼女の小さな幸福の為に。

 それなのに、

 

「なんで……こんなにきれいなんですか?」

 

 この世界は、途方も無く美しい。

 

 身を打ちふるわす喜びに、胸の奥から溢れる愛しさに、少女は引き裂かれるような嘆きを感じる。

 この世界が汚泥に塗れ、悲嘆の上に成り立っているのというのなら、我慢もできる。納得もできる。それは純然たる生存競争なのだろう。

 

 けれど、この美しさはなんだろうか。

 もし美が善性を体現するというのなら、この世界は愛に満ち溢れていることになる。

 

 そうなれば彼女の、否、近界(ネイバーフッド)中で繰り広げられる争いは、只の悲劇に堕してしまう。

 その事実に思い至った時、フィリアの胸にどうしようもない虚無感が押し寄せ、嬰児の如く涙が溢れてしまった。

 

 いつか、アルモニアが言っていた。世界は斯くも美しいと。

 それがこんなにも残酷な美であるならば、気付かぬ方がまだしも幸せだった。

 

「すみません。だから、決してアヴリオ様の所為ではないんです」

 

 たどたどしい口調でそう弁解するフィリア。

 少年は一先ず少女を落ち着かせようと、そっと背中を撫でる。そして、

 

「綺麗なのは、きっとそこに人がいるからさ」

 

 と、優しい笑みを浮かべてそう言った。

 

「……えっ?」

 

 少女は怪訝そうに聞き返す。

 人がいるからこそ、世界は美しい。

 それは記憶の奥底で、何時か誰かが口にしていた言葉ではなかっただろうか。

 

「ほら、見てごらんよ」

 

 アヴリオに促され、フィリアは街灯りの広がる夜景を望む。

 

「この一つ一つに人が暮らしてる。数えきれない命があるんだ。そりゃあ綺麗に決まってるさ。今日僕らがあった人の数なんて、ほんのちょっとだろ? それでもあんなに楽しかったんだから」

 

 少年は誇らしげ胸を張り、そう言ってフィリアを元気づける。

 

「そう……ですね」

 

 しかし、少女は未だ浮かない顔だ。

 彼女の心を曇らせているのは、人の営みを無慈悲に奪い去るこの戦乱の世界だ。

 

「こんなにも人がいるんだからさ――だから大丈夫だよ。その内きっと、誰かがいい方法を見つけてくれるさ」

「――えっ?」

 

 すると、少年は困ったように頬を掻き、蒼く煌めく瞳を細めてそう言う。

 

「君みたいな優しい子だと、やっぱり嫌になるよね。こんなに戦いばっかりしてちゃさ」

 

 まるでフィリアの心情を見透かすかのように、少年は朗々と言葉を続ける。

 

 闘争を宿命づけられた近界(ネイバーフッド)

 程度の差はあれど、そこに暮らすほぼすべて人々は戦いを肯定している。相争い、奪い合うことは、当たり前の日常として受け入れられているのだ。

 

 そんな近界(ネイバーフッド)でも、暴力に馴染むことができない、受け入れることができない人間は時折現れてしまう。

 恒久の平和を願う彼らは一様に、この世界の残酷な仕組みに心を痛めてしまう。

 彼は、そんな人間がいることを知っているのだろう。

 

「もっと、世の中が良くなればいいんだけどなぁ」

 

 少年は遠い目をしてそう呟く。

 

「……アヴリオ様は諦めたんですか?」

 

 どこか他人任せなその言い草に、フィリアは猛然と腹を立てた。

 少なくとも、少女は母を救うために必死に努力してきたつもりだ。少年が本当にこの世界を憂いているというのなら、彼はいったい何をしてきたというのか。

 

「僕は駄目だよ。馬鹿だからさ」

「そんなこと、やりもしないうちから決めつけるんですか!?」

 

 フィリアがそう非難すると、アヴリオはにやりと笑って、

 

「あ、よかった。ちょっと元気でてきたかな」

 

 と、混ぜっ返す。

 

「な、何を……」

「そうだね。……その通りだ。僕も頑張らなきゃいけないか」

 

 少年はそう独言すると、改めて眼下の絶景を眺めた。吹き込む夜風が蒼い髪を弄ぶ。

 

「世界を、良くする方法ですか……」

「よかったらフィリアさんも一緒に考えてよ。僕はどうにも自信無いしね」

「そんな方法があったら……」

 

 いつの間にか涙も収まったフィリアは、アヴリオと並んで壮麗な夜景に見入る。

 アルモニアはこうも言っていた。世界は残酷だが、それでも尊いモノは確かにあると。

 

 フィリアにとって、それは家族の絆に他ならない。家族を護るためなら、フィリアは何であろうと敵に回す覚悟だ。

 それは少女にとって揺らぐことのない、「こちら」と「あちら」を隔てる基準である。

 

 けれどもし、この近界(ネイバーフッド)の皆が、同じモノを尊いと思う日が来ればどうか。

 

 きっと世界は、別の姿を見せるのではないか。

 まるで現実味のない夢想に、少女は思いを馳せる。

 ついそんなことを考えてしまう程、目の前に広がる光景は美しさに満ちていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 不思議な少年アヴリオと教会で別れ、フィリアはイリニ邸へと帰ってきた。

 

 随分長居をしてしまったため、門限はとっくの昔に過ぎている。

 家政婦長にこってりと怒られたが、幸いにも事細かに追及されることはなかった。しでかした不品行は、門限破りだけで済みそうだ。

 アルモニアはまだ帰宅していない。騎士団で幹部たちと会議をしているはずだ。

 

「……疲れた」

 

 湯あみを済ませ、自室へと戻ってきたフィリア。緊張が解けると、どっと疲労感が押し寄せる。

 今日はフィリアの人生でも稀に見る濃密な一日であった。

 朝方に服選びを迷っていたのが、遠い昔に感じるほどだ。

 

 そう、服といえば、まだやるべきことがある。メリジャーナとニネミアに買ってもらった服は、既に屋敷に届けられていた。

 それらを検品して、クローゼットに収めねばならない。

 ワードローブの管理など、別に女中に頼んでおけば事足りる用事だが、折角二人に選んでもらった衣服である。

 

 他人任せにするのはなんとなく義理を欠く思いがある。少女は衣服を受け取りに、のそのそと廊下へ出た。すると、

 

「あれ、姉さん帰ってきてたの!?」

「お帰りなさいフィリア。今日は楽しかったですか」

 

 アネシスとヌースに鉢合わせた。

 妹は風呂上りなのだろう。赤毛を緩く束ね、体中からほかほかと湯気を立てている。

 彼女たちの世話を焼くヌースは、いつもと変わらぬ様子で側に付き従っている。

 

「姉さん姉さん! すっごい沢山服が来てたよ!? あれ全部姉さんの? 今日買ったの?」

 

 既に大量の衣類を目にしていたのだろう。アネシスが飛び跳ねるようによってくる。彼女はフィリアと違い、おしゃれに興味深々の年頃だ。綺麗な服が気になって仕方ないのだろう。

 

「ああ、うん。一応目を通しておこうと思って……」

「わ! それじゃあサロスとイダニコも呼んでくるね。ちょっと待ってて姉さん!」

 

 それに、ここしばらくは弟妹と過ごす時間も無かった。きっとフィリアと同じく、彼女も寂しい思いをしていたに違いない。

 アネシスは喜び勇んで兄弟たちの部屋へと駆けていく。

 どうやら、まだ休む訳にはいかなくなったらしい。それでもフィリアに不満を感じた様子はなかった。

 家族と過ごす一時は、何にも増して彼女に活力をもたらす特効薬なのだ。

 

 それからフィリアの部屋で、アネシスがプロデュースするファッションショーが開かれることになった。

 観客はちょっと照れて不服そうなサロスと、ニコニコと満面の笑みを浮かべるイダニコ。

 モデルはもちろんフィリアその人。撮影記録係はヌースである。

 

「さ~てぇ、まずはこれだっ!」

 

 アネシスの見立てで服を着させられ、ウォークインクローゼットから突き飛ばされるように出てくるフィリア。

 モデルとしての技能には甚だ欠けるが、スラリと長い手足と小さな顔は、衣装を十分に引き立てている。

 

「お姉ちゃん、すごくキレイだよ! お姫様みたい」

「……あ~、まあ、いいんじゃねぇの?」

 

 イダニコは手放しで賞賛するが、サロスはそっぽを向いておざなりに褒める。それでも頬が仄かに赤い処を見ると、姉のイメージチェンジは充分衝撃的だったらしい。

 

「姉さん姉さん、戻って戻って! あ、そこでくるっとターンして、そうそう!」

 

 衣裳部屋からアネシスが小声でモデルに指示を飛ばす。

 フィリアは気恥ずかしそうに身を捩りながらも、律儀に妹の要求に応えてやる。

 

 そんなこんなで、新しい姉のお披露目会はどんどん続く。

 衣装はまだまだ沢山ある。これを全部着る機会は流石になさそうだ。少し大きいが、気に入った物があればアネシスに譲ってあげればいいかもしれない。

 

 フィリアはそんなことを考えながら、ヒートアップする妹にせっつかれるように衣装を着替えていく。

 するとその時、場違いに冷たい電子音が部屋に響いた。

 

「――っ!」

 

 音の出所は、ベッド横のサイドテーブルだ。

 騎士団支給の腕輪型端末が、着信を知らせている。

 

「ちょっとごめんね」

 

 フィリアは着替えの途中のまま、早足でベッドへと向かう。

 そうして端末を起動し、投影モニターで通信内容に目を通す。

 そんな姉を見守る弟妹たちは、不安そうに表情を曇らせている。

 彼らにとって、最年少で騎士となった姉は自慢の存在だ。それでも、愛する姉が危険な任務へと赴くことを、心配しない訳がない。

 

「うん。お待たせ。次は何を着ればよかったかな?」

 

 しかし、フィリアは通信にサッと目を通すと、何事も無かったかのように弟たちに向き直った。

 姉の変わらぬ様子に、弟たちもホッと胸をなでおろす。

 そうして、再び家族の和やかな時間が動き出す。

 温かい笑顔に囲まれながら、フィリアは騎士団からの通達に考えを巡らせていた。

 

 イリニ騎士団の次なる派兵先は、武侠国家ポレミケス。

 ――その遠征員に、フィリアも抜擢された。

 いよいよ、彼女の真の戦いが幕を開けたのだ。

 

 

 

 



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其の九 武侠国家ポレミケス

 雲一つない蒼天を、鳶が悠然と羽ばたいていく。

 

 その飛びゆく先には、屹立した巨岩を思わせる峻厳な山々が連なってそびえている。

 疎らに緑の茂った峰々は、薄霞を絹衣のように纏い、幻想的な風情を見せていた。

 

 不思議な山脈の裾野からは、大地に線を引くように長大な河が流れている。

 川幅が数キロもありそうなその大河は、地を縫うように緩やかに蛇行し、平野の彼方まで流れている。

 

 川沿いの土地は、灌漑が施された豊かな農地だ。マス目状に区切られた田畑が見渡す限り何処までも広がっている。

 麦の若穂が降り注ぐ陽光を浴びて輝き、緑が目に眩しい。

 

 近界(ネイバーフッド)に浮かぶ数多の星々の一つ、武侠国家ポレミケス。

 国土と人口からは小国に分類されるポレミケスであるが、土地は肥沃であり多くの作物を産出する。食糧事情が安定しているためトリガー開発も盛んであり、小国ながら侮りがたい技術力を有している。

 

 政体は王を頂く中央集権制だ。ただしその統制は緩やかで、全国から集められた優れた官僚が王の政を補佐し、善政を敷いている。

 近界(ネイバーフッド)でも珍しく、目立った問題も無く着実に発展を続けてきた国だ。

 

 その首都となる城郭都市は、平野を貫く大河に寄り添うように広がっていた。

 王宮を中心とした質実剛健な街並み。それを一分の隙も無く取り巻くのは、高く堅固なトリオン城壁だ。

 首都の周りには長閑な田園風景が広がっており、ポレミケスの民が輝く汗を流している。

 

 そんな平和な情景に、漆黒の雷光が亀裂をもたらした。

 突如として開かれた(ゲート)から、甲殻を纏った自動兵器の群れが湧き出す。

 異国からの侵略者、その先兵となるトリオン兵だ。

 

 家屋ほどの巨体に、トカゲを思わせる形状しているのは捕獲用トリオン兵バムスター。

 そのバムスターの首を伸ばし、細めたような個体は捕獲・砲撃用トリオン兵バンダー。

 全長四、五メートルほどの、丸い甲虫のような個体は戦闘用トリオン兵モールモッド。

 

 それらのトリオン兵数十体が大地に溢れ、田畑を踏み荒らす。

 目的は、農作業をしていたポレミケスの民の拉致だ。

 

「うわぁぁあっ!」

 

 悲鳴と共に逃げ惑う農民たち。彼らは農具を捨て城壁へと駆けだす。

 だが、トリオン兵はその巨体故に移動速度も速い。生身の人間の脚では逃げおおせることなど不可能だ。

 足をもつれさせた男性を丸呑みにせんと、バムスターが大口を開けて迫る。そこへ、

 

「トリガー起動!」

 

 トリオン体となった農夫の一人が、薙刀状のトリガーを振るってバムスターを横合いから殴りつけた。

 

「ここは俺たちが凌ぐ! 早く錬士たちを呼んで来てくれ!」

 

 見れば、農民たちの一部がトリガーを起動し、果敢にトリオン兵と切り結んでいる。

 ポレミケスは武侠国家の通り名が示す通り、尚武の気風を最大の特色としている。

 トリオン能力の如何によらず、国民すべてが戦闘訓練を義務付けられた、いわば国民皆兵の国家なのだ。

 予備役にもトリガーの携行が義務付けられており、有事の際には戦士として雄々しく戦う。今まさに、トリオン兵と戦っている彼らがそうだ。だが、

 

「――ぐ、こいつら動きが速いぞ!」

 

 機敏に動き回り、苛烈な攻撃を繰り出すモールモッドに、予備役の戦士たちは苦戦する。

 彼らが実戦から離れて久しいこともあるだろうが、それよりもトリオン兵の動きが鋭い。

 戦闘機械たるトリオン兵はプログラムに従って行動する。同じトリオン兵でも組まれた行動ルーチンによって戦闘力は様々だ。

 動きがいいということは、それだけ技術力の高い国家が送り込んだトリオン兵だと考えていいだろう。

 

「下がれ下がれっ! 深追いするな!」

 

 戦士たちは一塊になり、トリオン兵団から距離を取る。彼らの目的はあくまで時間稼ぎだ。直に街から正規の防衛部隊「錬士」が駆けつける。

 そうして彼らは一斉に薙刀トリガーの先端をトリオン兵に向けると、

 

「狙えっ――放てぇ!」

 

 猛然と射撃を浴びせかけた。

 予備役に貸与される薙刀型トリガー「傍えの枝(デンドロ)」は、製造コストが低いながらも剛健な造りを持つ。また柄の先端には射撃機構を備えており、遠距離、近距離どちらにも対応が可能な万能トリガーだ。

 

 戦士たちは火力を集中させ、トリオン兵を一体ずつ確実に仕留めていく。

 モールモッドのブレードは強力だが、近寄らなければ脅威ではない。遠距離ではバンダーの砲撃があるが、予兆さえ見落とさなければ回避はできる。バムスターは捕獲用のため、然したる攻撃手段を持たない。

 引き撃ちに徹すれば、損害を出さずに敵の撃破が可能だ。

 

 徐々に数を減らしていくトリオン兵。元々数が頼りのトリオン兵だ。頭数を減らせれば、脅威度は格段に下がる。

 直ぐに援軍も来るだろう。戦士たちの緊迫した表情に、多少の余裕が生まれる

 だからこそだろう。トリオン兵の一部の動きが変わったことに、彼らは気付かなかった。

 

「砲撃が来るぞ、散れっ!」

 

 長大な首を高々と上げ、バンダーが砲撃の体勢を取る。

 口腔に潜む巨大な目から、トリオンがレーザーのように放たれた。

 バンダーの砲撃は家屋を数軒まとめて吹き飛ばすほどの威力を持つが、狙いは愚直なまでに単純で、射線を読むのは容易い。

 戦士たちは冷静にタイミングを推し量り、一斉に散開してこれを回避する。だが――

 

「なっ――!」

 

 散らばった戦士の一部に、砲撃が直撃した。

 トリオン体はひとたまりもなく破壊され、生身の体で地面に転がる戦士たち。

 バンダーが射撃タイミングをずらし、戦士たちの回避先に的確な砲撃を撃ち込んだのだ。

 

「っ、直ぐ助ける!」

 

 無事な戦士たちが体勢を立て直し、負傷者を回収するべく動き出す。流石に正規の訓練を受けているだけあって、判断に迷いが無い。

 

「モールモッドが来るぞ!」

 

 しかし、救援を阻むようにモールモッドが殺到する。それもブレードで急所を隠し、三方に分かれて猛烈な勢いで押し迫る。生身の人間は完全に無視だ。後方のバムスターに回収させるつもりだろう。

 先ほどまでの戦局に完全に対応している。陣形の崩れた戦士たちは一瞬でトリオン兵の群れに呑み込まれ、壮絶な乱戦が始まった。

 

「――こ、こいつらっ!」

 

 戦士が悲鳴を上げる。

 ブレードを振りかざすモールモッドの動きが、先ほどまでと明らかに違う。

 機械的な反射運動ではなく、明らかに相手の対応を見越した、まるで人間が操縦しているかのような巧緻極まる動きだ。

 それも複数体が緊密に連携を取り、仮借なき攻撃を繰り出してくる。

 戦士たちは一方的な防戦に追い込まれた。我が身を守ることに必死で、もはや味方の救助に心を裂いている余裕さえない。

 

「ぐ、くそっ!」

 

 モールモッドの猛攻に戦士たちが耐え兼ね、徐々に傷を負っていく。

 形勢は完全に敵方に傾いた。もはや挽回は不可能と、戦士たちが悲壮な決意を固める。

 するとその時、戦士たちの後方、城壁の方角で光が瞬いた。

 

「吹っ飛びやがれっ!」

 

 少年の声と共に、二百を優に超えるトリオン弾が雨のように戦場へと降り注ぐ。

 それら大粒の弾丸は、乱戦の真っただ中にも関わらず、狙い澄ましたかのようにトリオン兵を正確に撃ち抜き、破壊していく。

 

「みんな伏せてっ!」

 

 と同時に、凛呼たる少女の声が辺りに響く。

 

「せやあぁぁぁあっ!」

 

 戦士たちが身を屈めた瞬間、一条の輝線が戦場を奔り、モールモッドを打ち据える。

 弾雨に曝され半壊したトリオン兵は、その一撃で止めをさされ、完全に活動を停止した。

 明るい栗色の髪を結いあげた少女トゥリパが、残骸となったモールモッドを蹴って空へと舞う。

 少女が手にしてるのは棒型のトリガー「連鎖の塔(リネア)」だ。

 

「二つ目っ!」

 

 襲い来るモールモッドのブレードを捻転で華麗に交わし、トゥリパは手にしたトリガーをクルリと回転させる。

 すると棒が数多の節に分かれ、トリオンの継手で結ばれた。

 少女は鞭のように変化した多節棍を一閃し、別のモールモッドのコアを正確に叩き割る。

 

「っ!」

 

 見事な手練で二体を撃破したトゥリパだが、敵の勢いは一向に衰えない。

 着地を狙い澄ましたように、モールモッドがブレードを振るう。

 少女は多節棍を棒状に戻してこれを堅実に防ぐが、

 

「ちょ、こいつっ、鬱陶しい!」

 

 苛烈な攻撃に曝され、反撃に転じることができない。モールモッドは各所に大穴を開けながらもまったく攻撃を衰えさせない。明らかに通常の個体では考えられない動きだ。

 少女の脚が止まるや、崩れた戦線を埋めるように後方から無傷のモールモッドが押し寄せてくる。これで増援は頭打ちだが、窮地に陥ったことに変わりはない。

 

「畜生っ、バムスターが逃げやがる!」

 

 戦士が悲鳴を上げる。見れば、隊列の中ほどに居たバムスターが後退を始めている。バンダーの砲撃で昏倒した戦士たちを飲み込んだ個体だ。

 

「まかせて――っ!」

 

 トゥリパは救出の為に駆けだすが、それを阻むようにモールモッドが立ちはだかる。

 明らかにバムスターの撤退を支援する動きだ。少女の攻撃を的確に防ぎ、進路を阻むように立ち回っている。通常のトリオン兵はここまで細かく動かない。

 

「――こんのっ!」

 

 苛立ちと怒りに眉を逆立て、トゥリパが力任せに「連鎖の塔(リネア)」を振るう。

 ブレードの一本を基部から叩き折るが、致命傷ではない。こうしているまにバムスターはどんどん後方へ引き下がる。

 

「――っ」

「何してる。さっさと突っ込めよ棒バカ」

 

 すると、歯噛みするトゥリパをからかうような少年の声。

 同時に車軸を流すかのようなトリオン弾の雨が再び戦場を襲う。

 豪雨はしかし、敵味方を正確に区別し、吸い込まれるようにトリオン兵のみを打ち据えていく。

 

 トゥリパの対峙していたモールモッドにも風穴が空き、大きく揺らいだ。だが、少女はその個体に止めをさすこと無く、足元を潜り抜けて疾風のようにひた走る。

 

 逃走するバムスターの前に巨大な(ゲート)が開いている。あれに逃げ込まれればアウトだ。

 トゥリパは「連鎖の塔(リネア)」を多節棍に形状を変え、継手を硬質化させて長い棒を作る。そして走りながら地面にそれを突き立て、棒高跳びのように跳躍する。

 

「はあぁぁぁっ!」

 

 一瞬でバムスターの頭上まで飛び上がったトゥリパは、裂帛の気合と共に「連鎖の塔(リネア)」を頭頂部へと突き出した。

 回転を加えられた棍は装甲を焼き菓子ように突き破り、正確に口中のコアを貫く。

 (ゲート)を目前にして、バムスターの巨体が力なく地に崩れ落ちた。

 

「――ぃよし!」

 

 一先ず捕虜の身柄は確保できた。トゥリパはバムスターの上で小さくガッツポーズをする。だが、それさえ戦場では致命的な隙となる。

 次の瞬間、巨大な影が少女を覆った。

 

「ま、まずっ!」

 

 間近まで迫っていたトリオン兵バンダーが、巨大な口を開けて少女に襲い掛かったのだ。

 咄嗟に「連鎖の塔(リネア)」をつっかえ棒にして飲み込まれるのを防いだが、棒が口蓋に突き刺さるのを意にも解せず、バンダーは凄まじい力で顎を閉じようとしている。

 少女は手足をバンダーの両唇に掛け、必死の抵抗を試みるが、明らかに分が悪い。このままでは噛み潰されるのを待つだけだ。

 

「ちょ、ちょっと誰か助けてよ!」

「仕方のない奴だな……」

 

 トゥリパの声に応じたのは、気だるげな青年の声。同時に、バンダーの太い首が一瞬で薙ぎ払われる。

 

「うぉっとっ!」

 

 バンダーの生首から「連鎖の塔(リネア)」を抱えて飛び降りるトゥリパ。

 その着地点を見計らうかのように、別のバンダーが砲撃を放った。一息つく暇さえ与えない、殺意に溢れた攻撃である。

 だが、迫りくる極光は少女に何の害ももたらさなかった。

 

「まったく、詰めが甘いのは何時になっても治らないな」

「ごめんごめん。助かったってば」

 

 少女を取り巻くように、濃密な霧のような物体が宙を舞っている。

 その正体は、密集した微細なトリオン弾である。雲のように分厚いトリオン弾がバンダーの砲撃を相殺し、トゥリパを救ったのだ。

 

「向こうをピニョンに任せきりだ。早く戻るぞ」

 

 射撃用トリガー「波濤(キューマ)」を操るのは、長身痩躯の青年ペタロだ。青年はくせ毛を掻き、心底煩わしそうにため息をつく。

 そこへ、先ほど砲撃を防がれたバンダーが猛烈な勢いで突進してきた。口を閉じてコアを隠し、質量で押しつぶす構えである。

 

「――ちっ」

 

 ペタロは舌うちと共に「波濤(キューマ)」を操り、バンダーの頭部を破壊しようと試みる。流体の如き密度の微小トリオン弾は、トリオン兵の強固な装甲であっても、朽木を鑢で削るかのように寸断する。だが、

 

「何っ!」

 

 バンダーは襲い掛かる直前、自ら身体を捻って横倒しになった。

 猛烈な勢いで迫りくるバンダーの巨体。流石の「波濤(キューマ)」でも破壊は不可能だ。正攻法では敵わぬとみたのだろう、トリオン兵を捨て駒にして、ペタロを土中に埋めるつもりだ。

 迎撃態勢を取ってしまった青年は、咄嗟の回避が間に合わない。

 だが、眼前に押し迫る壁が突如として減速し、急停止する。

 

「さっきの分は、これでチャラだからね」

 

 バンダーの突撃を防いだのは、トゥリパの持つ「連鎖の塔(リネア)」だ。

 継手を伸ばし十メートル以上となったトリガーを、先ほど倒したバムスターの残骸に宛がい、またしても突っ張り棒として用いたのだ。

 

 背中を棒で押さえつけられ、くの字に折れ曲がるバンダー。当然まだ活動可能だが、復帰を許す錬士たちではない。

波濤(キューマ)」でさっくりと顔面を削り取り、バンダーを始末すると、ペタロとトゥリパは踵を返して仲間の元へと向かう。

 

 今倒した分で、バンダーは打ち止めだ。あとはモールモッドが三体とバムスターが一体。

 トリオン兵は殆ど全滅寸前だが、それでも気は抜けない。今回送り込まれてきた敵の動きは異常だ。本来、モールモッド程度ならば、予備役の戦士でも連携すれば十分に戦える相手である。

 現役の国防部隊、錬士であっても不覚を取りかねないトリオン兵など、前例にない。

 

「おい、お前ら油売ってんじゃねえよ!」

 

 防衛線まで駆け戻ると、戦闘音に混ざって怒声が聞こえる。

 見れば、短髪の少年がモールモッドと乱戦の真っ最中だ。

 いや、正確に言えば戦闘ではない。少年ピニョンは必死にモールモッドのブレードを掻い潜るばかりで、一向に反撃できていないからだ。

 

 少年の持つトリガー「随伴者(アコルティステ)」は、起動者の射撃に追随して同様のトリオン弾を放つ補助トリガーである。ピニョンが六十四分割のトリオンキューブを二つ作れば、「随伴者(アコルティステ)」も同数の弾丸を生成し、少年の狙い追随して射撃を行う。

 単純に火力を二倍に高めることができる強力なトリガーだが、近接戦に持ち込まれてしまってはその強みも生かせない。

 

 倒けつ転びつモールモッドから逃げるピニョン。

 無様といって差し支えない逃げっぷりだが、尋常ならざる動きの敵を相手に致命傷を避け続けていることからも、彼の技量が並々ならぬことが窺える。彼とて誇りある錬士の一人なのだ。

 

「うっさいわね! 弾バカが近接戦してどうすんのよ!」

 

 大声で毒づきながらも、トゥリパはトリガーを振るってモールモッドに挑みかかる。

 ペタロも面倒そうな顔をしながらも、慣れた様子でその補助に回る。

 ピニョンは大急ぎで離脱すると、中間距離から弾丸の雨を見舞った。

 

 単独なら苦戦を免れない相手でも、仲間が揃えばその限りではない。

 錬士の見事な連係を前に、トリオン兵は成す術なく打ち倒されていく。

 僅か数分で敵は完全に掃討され、辺りには残骸が散らばるばかりとなった。

 

「よっし、これでお終い! みんなお疲れぇい!」

 

 トゥリパが晴れ晴れとした笑顔で戦闘の終結を宣言する。

 予備役の男たちから歓声の声が上がる。何はさておき、当面の危機は脱したのだ。

 

「戻って来るのが遅っせぇんだよ。バンダー相手に何手こずってたんだ」

「ごめんねー。アンタにモールモッドの相手はきつかったかしら?」

 

 顔を会わせるなり、いつもの調子でトゥリパとピニョンが角を突き合わせ始める。一見険悪な雰囲気だが、この幼馴染たちの喧嘩はいつものことだ。じゃれ合っているだけなので、周りの誰も取り合わない。戦場ではぴったりの呼吸を見せる二人である。本気で揉めることは滅多にない。

 

「バカやってないでバムスターの腹を裂きに行くぞ」

 

 年長のペタロが、子供じみた喧嘩をする二人を仲裁する。この終始気だるげな青年も、彼らとは幼少からの付き合いだ。

 

「あっと、そうだ、ね、大丈夫だよね」

「死体は戦場に残ってない。多分生きてるはずだ」

「早く助けてやらねぇと……」

 

 若い錬士たちは心配した面持ちで目配せを交わし、トゥリパが倒したバムスターへと走る。

 トリオン兵に捕獲された人間の末路は二種類あり、それはトリオン機関の優劣によって決まる。

 

 トリオン機関は目に見えない内蔵である。

 優秀なトリオン機関を持つ人間は、その能力を活用させるために生け捕りにされる。しかし、割に合わないと判断された、すなわちトリオン能力に劣る者は、トリオン機関そのものを摘出されることになる。

 トリオン兵の劫掠を受けた後には、臓器を引きずりだされた死体が、ごみのように転がるばかりとなる。

 

 そう言った意味では、今回は正に不幸中の幸いであった。

 捕らえられたのはトリガー使いばかりである。彼らは秀でたトリオン機関を持つため、バムスターに呑み込まれた時点では息があった筈だ。

 ただし、負傷していないとも限らないため、早急に助け出さねばならない。

 

「おい、もっと気を付けてやれよ。ブレードが当たったらイチコロだぞ」

 

 欠員を確認しながら、戦士たちがバムスターを解体していく。既に医療班はこちらに向かっているだろう。

 バムスターの外殻を開き、中から喰われた戦士たちを運び出す。

 意識は失っているが、命に別状はなさそうだ。

 今度こそ、一同はほっと胸をなでおろす。

 

「よかった、よかったよぉ~」

 

 安堵感から、トゥリパは今にも泣き出さんばかりの表情をして、医療班に運ばれていく男たちを眺める。

 一時はどうなることかと思ったが、何とか死者を出さずに済んだ。

 

「でもよ、今回のトリオン兵の強さ、ちょっと異常だぜ……」

「確かにな。操縦されていたか、トリガーで強化されていたか。……どちらにせよ二十体以上を同時に運用できるとなると、本格的な脅威になるぞ」

 

 一方、ピニョンとペタロは侵攻してきた敵について話し合っている。

 ポレミケスは小国といえども、精兵で知られている。

 僅かあれしきのトリオン兵で押し込まれかけるとは、敵は一体どこの国か。

 

「やっぱ、こいつらの飼い主、エクリシアだよな」

「……多分な」

 

 苦々しい表情で呟く少年たち。

「聖堂国家エクリシア」煌びやかなその名前とは裏腹に、圧倒的な武力を以て近界(ネイバーフッド)諸国を荒らしまわる大国である。

 その悪名高き軍事国家が、先日よりポレミケスの接触軌道上にあるのだ。

 

「前回は、何とかなったんだよな。俺まだガキだったから、何にもできなかったけど」

「辛勝だったな。だいぶ死人も出た」

 

 ピニョンとペタロは沈鬱な会話をつづけながら、元気よくトリオン兵の後片付けをしているトゥリパを見る。

 

「何回来たって叩き返してやる。俺はその為に錬士になったんだ」

 

 少女を見詰める少年の瞳には、一方ならぬ決意が浮かんでいる。

 

「……まあ、そう言うことにしといてやるよ。お前らいい加減面倒くさいしな」

 

 ペタロが気だるげにそう返すと、ピニョンがそばかすの浮いた顔を真っ赤にする。

 

「――なっ! 俺は別にあのバカのことなんかだなっ!」

 

 そう抗議する少年に、くせ毛の青年は今日幾度目ともしれないため息で応える。

 

「こらーそこの二人! 何油売ってるのよ、ちゃっちゃと手伝いなさいな!」

 

 すると、栗毛の少女が目を三角に釣り上げ、そんな少年たちを怒鳴りつける。

 きっと一人でも死人が出ていれば、トゥリパはこんなふうに笑えていなかっただろう。

 一先ずの勝利を、少年たちは切に噛みしめる。だが、

 

「え、ちょ、ちょっと何よ!」

 

 バチバチと放電のような音と共に、蒼天に再び漆黒の(ゲート)が開く。

 そこから現れたのは、巨大な甲冑魚を思わせる爆撃型トリオン兵イルガーだ。

 飛行トリオン兵バドの編隊を連れた三体の巨影が、悠々と城塞に向かって天空を泳ぎ始める。

 まだ、戦いは終結していなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「嘘でしょ!? 何なのアレっ!」

「イルガーだ。クソ、面倒な奴を……」

 

 巨大な飛行トリオン兵の襲来に混乱するトゥリパ。ペタロは焦燥に駆られて空を睨む。

 

「ちょ、ちょっとピニョン! アレ撃ち堕とせないの!?」

「距離が遠すぎる! こっからじゃ装甲抜けねぇよ!!」

 

 思いもがけなかった敵の増援である。それも近界(ネイバーフッド)でも珍しい大型飛行トリオン兵に、戦士たちは咄嗟の対応が思いつかない。

 

「走れ! 住民を避難させるぞ! ピニョン! お前は高台に上ってバドを墜とせ!」

 

 古株の錬士であるペタロが指示を下す。いつものぼんやりとした気だるげな態度は微塵もない。それほど状況がひっ迫しているのだ。

 ともかく大急ぎで市街へと向かう戦士たち。

 

 トリオン体の脚力なら数分もかからない。だが、その間にイルガーは容易く城壁を超え、市街地へと侵入を果たす。

 砲台と防衛部隊が弾丸の嵐を見舞っているが、高高度を飛んでいるため効果が薄い。撃墜には今しばらくかかるだろう。

 

「――っ!」

 

 地響きとともに轟音が響く。

 イルガーが爆弾を投下し始めたのだ。まだ市民の非難は完了していないはず。少なからぬ死傷者が出るだろう。

 

「クソっ!」

「……っ」

 

 ピニョンが怒りに顔を歪ませて毒づく。トゥリパは顔面蒼白で言葉もない。

 技術は一級品とはいえ、まだ年端もゆかぬ少年少女たちは、目の前で繰り広げられる大破壊に一様にショックを受けている。

 ペタロ率いる一団は、城壁を潜って市街へと駆け込む。

 射撃トリガー持ちは迎撃に参加し、それ以外の戦士は取り残された市民を避難所へと誘導する。

 

「皆さん! 練兵館まで走ってください。あそこなら安全です!」

「取り残された者はいないか! 声を上げてくれっ!」

 

 その時、救助と避難誘導に当たる戦士たちの頭上で破裂音がする。

 見れば、砲撃を集中されたイルガーの一体が、トリオンを噴出しながら見る間に高度を下げていく。

 

「自爆モードに移行しやがった! 不味いぞっ!」

 

 だが、撃墜に成功した訳ではない。

 イルガーは航行不能になった際、人口密集地目がけて突っ込み、内臓トリオンを用いて自爆する行動パターンが存在する。

 まだほとんど避難は進んでいない。あれが落ちれば、とてつもない被害が出るだろう。

 戦士たちの表情が絶望に強張る。

 

 ――その時、一陣の旋風が地上より放たれた。

 イルガーの巨体に比べてゴマ粒のように小さいそれは、両手に二刀を携えた人の姿だ。

 地上から凄まじい勢いで射出された人影が、急降下するイルガーと交錯する。

 刹那の後、イルガーの顔面が真っ二つに分かたれ、轟音と共に空中で大爆発を起こした。

 

「うおおおっ!」

 

 防衛部隊、市民から歓声が上がる。

 自爆モードの強固なイルガーを、一太刀のもとに切って捨てる凄まじい腕前。

 

「範士ロアがやってくれたぞ!」

 

 その者こそ、ポレミケスの武勇の象徴、国軍のエースを務める達人、範士の称号を賜る戦士である。

 

 だが、喜びも長くは続かない。

 未だに二体のイルガーは健在で、高高度に陣取って爆弾を落としている。

 

 いくら範士とは言え、あの高さまで飛び上がるのは不可能だ。あと二体を落とすまでに、どれほどの被害がでるか。

 だがその時、全ての防衛隊員に吉報が届く、彼らは市民を連れて手近な建物へと素早く避難した。もはや、爆撃を恐れる必要はなくなった。

 

 次の瞬間、蒼穹に一筋の光芒が奔り、巨大な火球が天を焦がした。

 直径百メートルを超える光の球は、凄まじい熱量でイルガーのみならず周囲のバドをも一瞬で飲み込んだ。大輪の花のような火球が消え去ったあとには、辛うじて溶け残ったイルガーの残骸がバラバラと地上に振り注ぐばかりだ。

 

 初弾を免れたもう一体のイルガーは、大きく身をひるがえして進行方向を変えようとする。しかし逃げる間は与えぬと、再び光芒が空を裂く。

 極光に包まれ、焼き尽くされるイルガーとバドの編隊。

 二度の花火が消える頃には、武都の空を占有する不届きものは跡形も無く姿を消していた。

 

 これを成したのは、ポレミケスが誇る(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」だ。その絶大な火力の前には、人形兵など物の数にも入らない。

 

 歓喜の声が武都に響く。その声は徐々に雄々しい勝鬨となって、天地を震わせる。

 武侠の精神は此処に在り。たとえどのような敵が来ようとも、国民が一丸となって当たれば、挫けぬ相手などいない。

 

 近界(ネイバーフッド)に生きる民の本能が、この攻撃が先触れに過ぎないことを理解している。しかし、恐るべき敵の姿を想像しながらも、彼らの士気は高まり続けている。

 来るなら来い。必ず叩き返してやる。抜けるような青空に、市民の歓呼する声が雄々しく響いた。

 

 



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其の十 開戦

 林立するモニターの仄明かりが照らす、薄暗く狭い部屋。

 気密された空気は深閑として、室内に奇妙な圧迫感をもたらしている。

 エクリシアの雄、イリニ騎士団が所有する遠征艇。

 そのブリッジで、現在ポレミケス侵攻の作戦会議が行われていた。

 

「以上が、先の威力偵察により判明した敵戦力の概要となります」

 

 円卓に座る一同を見回し、凛とした声でそう述べるのは、騎士団が誇る最年少の騎士、フィリア・イリニである。

 今回のポレミケス遠征は、隊長をドクサ・ディミオス、副長をテロス・グライペインが務め、旗下にメリジャーナ・ディミオス、ネロミロス・スコトノ、フィリア・イリニを加えた五人で行われる。そして、

 

「それを踏まえたうえで、本作戦の説明を行います。ヌース。資料をお願い」

「承知いたしました」

 

 円卓の中央に鎮座するのは、イリニ家が秘蔵してきた自律トリオン兵ヌースである。

 イリニ騎士団総長アルモニアが、本国防衛の兼ね合いから遠征参加を見送らざるを得なくなったため、その代替として彼女に白羽の矢が立った。

 

 文字通り人智を超えた処理能力と記憶容量を持つ彼女は、オペレーターとして、アドバイザーとして、またトリオン兵の操縦者として、申し分ない能力を持つ。

 ヌースの存在が露見せぬよう、遠征の人員は彼女の存在を知るイリニ家直属の家から選ばれた。

 一同は投影モニターを操作し、フィリアとヌースが苦心惨憺して作り上げた資料に目を通す。すると、

 

「随分と回りくどい作戦だな。あまり小細工を弄しては、破綻した時に収拾がつかないのではないか?」

 

 そう険を含んだ声でフィリアに問い掛けたのは、騎士ネロミロス・スコトノである。

 年の頃は二十の前半。天を衝く長身に隆々とした筋骨、逆立った短い金髪に顎髭、炯々と輝く猛獣のような瞳を持つ彼は、勇猛果敢な騎士を体現するかのような容姿だ。

 

 スコトノ家はディミオス家、グライペイン家と共にイリニ家を支え続けてきた普代の家で、一時期は騎士団の兵団長をも務めていた。しかし、スコトノ家の先代当主とアルモニアには何らかの確執があったようで、現在の騎士団での地位はそう高くない。

 それだけではなく、彼は個人としてもノマスの血を引くフィリアを嫌っており、しばしば目の敵にされることがある。

 

「ヌースと意見を出し合い、想定外の事態にも対応できるよう複数の計画を用意しています。煩雑なのは、堅実さの裏返しとご理解ください」

 

 フィリアも知れたことで、ネロミロスとは義理一遍の付き合いを通している。

 直情な性向の男だが愚鈍ではないので、理をもって説けば強硬に反対はしないだろう。

 

「そのヌースだが、トリオン兵の操縦は何体程度可能だ?」

 

 ドクサが確認の意味でそう問う。作戦そのものは隊長である彼の承認を得ており、この会議は細部を詰める為のものだ。

 

「理論上はトリオンの供給が続く限り可能ですが、船内のトリオン量と推定作戦時間の兼ね合いから、二百体程度になると思われます」

 

 ヌースが小気味よく回答する。

 彼女はトリオンを用いて自らの仮想複製体を作成し、それを用いたトリオン兵の遠隔操縦を得意としている。トリオン兵の機能そのものが向上するわけではないが、通常の個体とは比べ物にならない柔軟な運用が可能となる。

 その有用性は、先の偵察任務でも十分に証明された。

 

「よし。強襲部隊は全て操縦しろ。後の分は騎士に付けて作戦遂行を手伝ってくれ。切所となれば備蓄トリオンは使い切っても構わん」

 

 イリニ騎士団の目的は、次代の「神」を捜索し、本国へ連れ帰る事である。

 この遠征には通常の小競り合いとは比べ物にならないほどのトリオンがつぎ込まれている。失敗は許されない。そしてその為には、

 

「作戦目標はこの四か所です」

 

 円卓の上に、ポレミケス首都の詳細な立体映像が投影される。

 その中央。王宮付近に赤くマーカーされた建築群がある。それはポレミケス国防軍の砦にして、有事の際に市民が駆け込む避難所である。

 偵察時の空撮映像を基にフィリアのサイドエフェクトを用いた結果、そこを攻めるのが最もリターンが大きいと確定した。

 とはいえ、曲がりなりにも敵の根拠地である。防備の硬さは推して知るべしだろう。

 

 その無理を通すため、フィリアは水も漏らさぬ戦略を組み上げた。

 作戦の詳細を説明すると、居並ぶ騎士たちは神妙に頷く。

 一見すると無謀な攻撃目標にしか思えないが、フィリアの立案した計画なら、リスクを最小限に抑えつつ、十分な勝算が見込める。

 同輩の承認を取り付け、作戦は無事決定された。ただ、不確定要素はいくらでもある。

 

「懸念事項といえば、やはりあの砲撃ですね……」

 

 メリジャーナが強張った声でそう言う。

 その最たるものは、イルガーを撃ち落としたあの砲撃だ。

 計測された出力とその連射速度から、(ブラック)トリガーの可能性が濃厚である。

 

「未知のトリガーか……もう少し情報が得られればいいんだが……」

 

 テロスが話の穂を継ぐ。

 エクリシアが持つ最新のポレミケスの情報は、八年前のフィロドクス騎士団遠征時の記録である。その際に確認された(ブラック)トリガーは一本のみ。光球を生み出すトリガーで、光に曝露したトリオンの活動を強制的に停止させるという代物だ。

 イルガーを葬り去ったトリガーは、明らかにそれとは別物だ。ただ、

 

「作戦通り速やかに市街地まで侵攻できれば、砲撃についてはさほど気にする必要はありません」

 

 着弾点に巨大な爆発を引き起こすトリガーである。威力の調整はできるだろうが、それでも効果範囲が広すぎる。民の避難が済まない内に市街地へ入れれば、敵も攻撃は手控えるだろう。

 その為には、速やかな進軍が必須となる。

 

 ポレミケスは首都に(ゲート)遮断装置を配備しており、城壁内に直接兵士を送り込むことは不可能だ。侵攻も撤退も、城郭の外側から行わなければならない。

 どうしたところで城攻めになる。

 飛行能力を有する「誓願の鎧(パノプリア)」なら城壁を超えることも容易いが、それでは後が続かない。やはり城壁を破壊しトリオン兵を送り込まなければならない。

 

 とはいえ、その為の装備は既に整えてあるので問題はない。

 国家の命運がかかった遠征である。イリニ騎士団も備蓄を吐き出し、トリオンは潤沢にある。城壁に穴を空けるぐらいは力押しで事足りる。

 やはり問題は、戦略兵器たる(ブラック)トリガーの存在だ。

 

「もう一方の(ブラック)トリガーも気になりますね……」

 

 テロスが懸念を述べると、

 

「そちらが出てきた場合は騎士ドクサに対応をお願いします。相性の関係から「金剛の槌(スフィリ)」で当たるのが最適解でしょう。他の騎士がこれと当たった場合は、戦闘を避け速やかに離脱してください」

 

 フィリアが淀みなくそう答える。

 ここ近界(ネイバーフッド)では(ブラック)トリガーの有無、運用の成否が戦争の趨勢を決する。

 確認されているポレミケスの(ブラック)トリガーは二本。イリニ騎士団が投入した(ブラック)トリガーも同数である。しかし、テロスの持つ「光彩の影(カタフニア)」は、今作戦の中核となるトリガーなので、迂闊にその能力を晒すことはできない。

 

「ポレミケスは小国なれど侮りがたい戦力を有しています」

 

 フィリアはそう言って手元のコンソールを操作し、記録映像を再生する。

 ポレミケスは国民すべてに兵役があり、予備役にもトリガーが貸与される。戦力としては数段劣るものの、トリガー使いの数なら大国にも匹敵するのだ。

 

 またトリオン能力に劣る市民でも、各家庭に簡易トリオン銃が支給されており、有事の際には戦闘に加わる。

 前回遠征したフィロドクス騎士団は、城壁を打ち破り市内には侵攻できたものの、徹底したゲリラ戦によって苦杯を舐めた。

 

「本作戦の成功は、皆様の御助力抜きではありえません。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 居並ぶ面々に、赤心より頭を下げるフィリア。

 攻撃開始の日程、時刻も定まり、会議は終了となった。

 

 そうして皆が退室する中、ブリッジにはフィリアとヌースだけが残る。

 船の操縦を任されているヌースはともかく、フィリアに居座る理由が無い。

 遠征艇はトリオン節約の為、極限まで機能性を突き詰めた造りをしている。居住スペースは極端に狭いが、それでも寝室ぐらいは流石に用意されている。メリジャーナと同室だが、一応扉は付いているため、最低限のプライバシーは確保済みだ。

 

「フィリアも、休んだ方がいいのではないですか」

 

 計器類のチェックを行いながら、ヌースが少女に話しかける。

 この数日は作戦を練るのに掛かりきりで、流石に疲労が蓄積している。彼女の言う通り、休息を取った方がいいだろう。

 

「うん、そうする。でもちょっと、ヌースと話したくて……」

 

 会議の時の凛々しさはなりを潜め、少女は柔らかな物腰で家族に話しかける。

 

「……その、ごめんね?」

 

 他では見せたことのない気弱な表情で、フィリアはヌースに詫びを入れる。

 

「謝罪の意図が不明ですよ。フィリア」

 

 声こそ冷淡だが、トリオン兵の家族は少女を気遣うような調子で意図を問う。

 

「私が伯父様にちゃんと言えば、ヌースは来なくて済んだかもしれないのに……」

「そのことでしたら謝罪は不要です。当主アルモニアの要請は、私にとっても願っても無い事でした」

 

 侵略戦争にヌースを巻き込んでしまったことを、フィリアは深く悔やんでいた。しかしヌース当人は何の感慨も抱いていないかのように平然とした様子だ。

 

「私はあなたの後見として、友として造られました。フィリアの望みを叶えることが、私の存在理由です。同道できるのならば、断る理由がありません」

「でも……ヌースは、どう思ってるの? 戦争は、嫌じゃない?」

「あなたを失うことを想像すれば、如何ほどのことでもありません」

 

 少女の問いかけに、ヌースははっきりとそう答えた。

 家族を思っているのは、決してフィリアだけではない。その当たり前の事実を今更ながらに教えられ、少女は言葉に詰まる。

 

「私の望みはただ一つだけです。……フィリア、必ず生きて帰ってきてください」

「うん……約束、する」

 

 静寂に包まれたブリッジに、誓いの声が響く。

 それは戦火の絶えない世界に生まれ落ちた誰しもが願う、儚く崇高な祈りであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ポレミケスの中央に位置する広壮華麗な王宮。

 

 総トリオン製の建物ながらも、外観は古色蒼然たる様式に整えられており、荘重な風格を漂わせている。積み重ねられてきた歴史の重みを形にしたような、ポレミケスの誇りを象徴する場所だ。

 文部百官集う謁見の間では、ただいま会議が行われている。議題は、早晩本格的に侵攻を行うとみられる軍事大国エクリシアへの対応策だ。

 

 その隣、香をたきつめられた控えの間に、物憂げな美女の姿があった。

 年の頃は二十歳前後か。絹のような長い黒髪に、濡れたような切れ長の瞳。形の良い鼻梁に、艶やかな唇。旗袍に似た衣を纏った肢体は細く優美で、所作は浮世離れしたに美貌に相応しい気品に溢れている。

 

 この深窓の姫君の名はオルヒデア・アゾトン。

 ポレミケスが有する(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」の担い手である。

 

 心痛に顔を顰めたまま、彼女は白い指で所在無げに卓を撫でている。するとその時、格子戸の向こうから多数の足音が聞こえてきた。どうやら会議が終わったらしい。

 そして颯々とした男性の足音が、オルヒデアの控える部屋の前で止まった。

 

「――兄様!」

 

 入室を請う声が聞こえる前に戸を開け、訪問者に駆け寄るオルヒデア。

 

「済まない。随分と長引いてしまった」

 

 現れたのは白皙の偉丈夫、ロア・アゾトン。

 年齢は二十の中ほど、意思の強そうな瞳に引き締まった口元、艶やかな黒髪が印象的な美男子である。

 顔の造作がオルヒデアと似ているのは、彼らが血を分けた兄妹だからだ。

 

「それで、評定はどのようになりましたか?」

 

 オルヒデアが恐々とした様子で兄に尋ねる。彼女は(ブラック)トリガーの適合者とはいえ未だ若輩者であり、ポレミケスの首脳陣が集う会議に参加できる立場にはない。

 一方、兄のロアは抜群の武勇を以て国中に知られており、武人として最高位に当たる範士の位を授かった名士である。

 首脳会議にも、当然の如く列席が許されていた。

 

「やはり、先日の襲撃はエクリシアの仕業だった。明朝、総動員が掛けられる。彼の国が接触軌道を離れるまで、最高度の防衛体制が敷かれることになる」

 

 トリオン兵の残骸を調査した結果、やはり送り主はエクリシアであると判明した。貪婪に他国を襲い、トリオンをかき集めるその国情から考えても、先の攻撃は本侵攻の前触れであると考えるべきだろう。

 

 脳裏に去来するのは、八年前の惨禍だ。

 武都を散々に蹂躙した甲冑の軍団。ノーマルトリガーとは一線を画したその戦力に、ポレミケスは大苦戦を強いられた。捕虜に取られた者こそ少なかったものの、市街は荒らしに荒らされ、多くの死傷者を出した。

 この国に深い傷跡を残した狂猛な国家が、今また攻め寄せてくる。

 

「そんな……」

「……すまない。お前にも苦労を掛けることになる」

 

 砲撃型ブラックトリガー「灼熱の華(ゼストス)」を持つオルヒデアは、ポレミケスにとって掛け替えのない防衛戦力である。

 余りの火力故に味方をも巻き込みかねないため、「灼熱の華(ゼストス)」は普段の防衛体制では投入されることはない。

 しかし、相手がエクリシアとなれば話は別である。すでに都の周囲の住居、農地の放棄は決定しており、オルヒデアには敵の出現と同時に砲撃を叩き込み、敵を減殺する任務が与えられる見通しだ。

 

「何よりも争いを厭うお前に、こんなことを頼むのは心苦しいが……」

 

 ロアは渋面を浮かべ、励ますように妹の肩に手を乗せる。

 

「覚悟はできております。私もこの国の一員ですから」

 

 オルヒデアは兄の手に白い指を添わせ、決然とそう言う。

 言葉こそ勇壮だが、不安と恐怖を隠すことはできない。身体は凍えたように震え、瞳は悲しげに伏せられている。

 彼女は稀有なトリオン能力を持ち、また(ブラック)トリガーに適性を見せたために軍に身を置くことになったのだが、その性状は虫も殺せないほどに心優しい。

 音曲を奏でるのが何よりの趣味という、争いには全く不向きな女性なのだ。

 

「それよりも……兄様の方こそ心配でなりません」

 

 しかし、彼女が案じているのは、たった一人の家族の身である。

 

「相手はあの……悪鬼のような鎧武者たちなのでしょう? 兄様がいくらお強いとはいえ、万が一のことがあれば……」

 

 ロアは範士の位を授かった、ポレミケスでも最高の戦士の一人である。

 当然、戦闘では先陣を切って敵に突撃する。それはこの武侠国家においては、最も誉れ高き役目だ。だが、先陣は損耗率も高い。大国を相手取った激戦となれば、無事に帰ってこられる保証はどこにもないのだ。

 

「それこそ、兄の役目というものだ。守るべき者を背負えばこそ、義侠は魂を研ぎ澄ませ、剣は無心の域に至る。……むしろ、俺の方こそ心配だ。お前はどうも、この歳になっても間が抜けたところがあるからなぁ」

 

「もう、兄様! 私は真面目な話をしているんですよ!」

 

 妹の悲痛な心境を、下手な冗談で晴らそうとするロア。

 堅物な兄の精一杯の思いやりに、オルヒデアは怒りと喜びを混ぜたような、微妙な表情を作る。

 そうして涙目となった彼女は兄の胸に縋りつき、

 

「お願いします兄様。……私を、一人にしないで」

 

 と、そう呟いた。

 

「……ああ。約束する、必ずだ」

 

 妹の震える背中をそっと撫でてやりながら、ロアは力強くそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 玉の雫となった汗を、捻りを加えて突き出された棍が打ち抜く。

 全身の捻転を用いて振り抜かれた木の棒が、大気を燕のように切り裂いた。そして振り回した勢いをそのまま用いて、強烈な回し蹴りを宙に放つ。

 薙ぎ、打ち、突き、払う。ひと時も留まることなく型を繰り出す栗毛の少女を、そばかす顔の少年と、長躯の青年が眺めていた。

 

「あいつ、最近ずっとああだぜ……」

「身体を動かしてないと落ち着かないんだろ」

 

 ポレミケス防衛軍の砦、「練兵館」の訓練室。その一画で、ピニョンとペタロが過酷な訓練に励むトゥリパを案じていた。

 

「それにしたって限度があるぜ。ぶっ倒れるんじゃないか、あいつ」

「そんなに心配なら直接言って来いよ」

「はぁ!? 誰が心配したってんだよ。潰れられると困るんだよ」

 

 エクリシアの襲撃を受け、現在ポレミケスには最高度の警戒態勢が敷かれている。錬士たちは一人残らず招集され、防衛任務に就いている。

 ピニョンたちは現在休憩時間中だが、砦から出ることは許されない。もし敵襲があれば、彼らもすぐさま出撃する。

 しかし、トゥリパは防衛シフトから帰っても一向に休まず、訓練室で型取りを始めた。

 トリオン回復のためトリガーの使用は禁じられているが、彼女は生身で棍を振り、一心不乱に汗を流し続けている。

 

「だいたいアイツは気負いすぎなんだよ。この前だって俺らがミスした訳じゃねえんだし……」

「それでも責任はあるだろ。俺たちは錬士なんだ」

 

 先の防衛戦で、イルガーの爆撃により多くの犠牲者が出た。それ以来、トゥリパは己を追い込むように訓練に明け暮れている。

 一見平然とした様子の少年たちも、胸の内は少なからず動揺している。

 小競り合いは日常茶飯事の近界(ネイバーフッド)だが、彼らは未だ大戦を知らない。いつ攻め寄せるとも分からぬエクリシアの影に、凄まじい重圧を感じているのだ。

 

「お、やっと終わった」

 

 見れば、型取りを終えたトゥリパが残心の体勢で調息をしている。

 

「ほら、持って行け」

 

 ペタロはピニョンにタオルを渡し、顎でしゃくるように少女を指す。

 

「な、何で俺がだよ!」

「飯食う時間がなくなるだろうが、さっさと行け」

 

 先輩に問答無用で命令され、不承不承と少年は訓練室へ向かう。

 

「あ、ごめんね。ありがと」

 

 そんなピニョンを、道着姿のトゥリパが出迎えた。花が咲くような笑顔に何処か陰が差しているのを、付き合いの長い少年は見逃さない。

 

「おう。ペタロが腹減ってしゃあねえってさ。食堂行こうぜ」

「あ~もうそんな時間だったか……」

「お前さ、もうちょっと落ち着いた方がいいんじゃねえか。その、見ててなんつーか、調子が狂うってか、いやべつに心配してる訳じゃねえけど……」

 

 昨日以来、トゥリパが気を張り続けているのは明白だ。ピニョンは不器用ながらも励まそうと、何とか言葉を探す。

 そんな少年の気持ちが届いたのか、トゥリパは困り顔を浮かべ、

 

「やっぱりさ、怖いよ。いっくら棒を振っても全然吹っ切れない。情けないよね。みんなの盾になるのが私たち錬士なのにさ……」

 

 と、弱音を吐く。

 勝気な幼馴染の弱り果てた姿に、少年は勢い込んで、

 

「そんなの俺だっ……誰だってそうだろ! ぐっと前向いて、必死に気張って何とかするしかねえじゃんか!」

 

 と、大声で励ました。てっきり嘲り混じりでからかわれると思ったトゥリパは、目を丸くして少年を見詰める。

 

「お前がそんなんでどうすんだよ。確かに俺たちはまだひよっこだし、ロア師兄やバラノス師父に比べりゃ全然雑魚だけどさ。……俺だっているし、ペテロもいる。三人で組めば今まで負けなしだっただろ?」

 

 柄にもない激励に顔を真っ赤に染めながら、それでも少年は力強くそう言う。

 そんな少年にトゥリパは莞爾として笑うと、

 

「そうだよね、私は暴れるしか能がないもん! うだうだするのは止め止め。とにかく不埒者をぶっ叩いて回るのが、私の仕事だよね」

 

 と、多分に空元気だが、それでも英気を取り戻す。

 

「じゃ、早速腹ごしらえと行きますか。お腹ペコペコだ」

「……汗まみれで行くのかよ。トリオン体になっとけよ。臭うぞ」

「なっ、最低だ、酷い奴だ! 折角ちょっと見直したのにっ!」

 

 と、二人はいつものように口喧嘩を始めながら、ペタロも加えて訓練室を後にする。

 

 そうして食事を済ませると、三人は練兵館の物見塔へと登った。

 別に考え合っての事ではなく、腹ごなしに階段を上り、外の風に当たろうというだけである。しかし、そこには意外な先客がいた。

 年の頃は七十がらみの、痩せて小柄な男性である。柔和な顔立ちをした老人は、物見塔からジッと城壁の彼方を眺めている。

 

「師父!」

 

 口の悪いピニョンまでもが、低頭して礼を尽くす。

 この老人こそポレミケスでもその人ありと謳われた範士、その名をバラノスという。

 (ブラック)トリガー「静謐の火(ヘオース)」の担い手にして、多くの武人たちを鍛え上げてきた伝説的な教官だ。トゥリパたちも例外ではなく、彼らが若くして錬士となれたのも、バラノスの教導の賜であった。

 

「おや、お前たちか。相変わらず騒々しいの」

「はっ。申し訳ありません」

 

 普段は口をきくのも面倒くさがるペタロが、ハキハキと礼儀正しく応じる。師弟の関係は絶対であるが、それ以上にバラノスはその人徳で皆から慕われている。

 

「いやいや責めとりゃせんよ。楽になさい」

 

 白髪頭の男性は糸のような目を殊更に細めて、少年たちに優しく語りかける。

 体格に恵まれず、老境の域にあるバラノスだが、培った技術はまったく錆びついていない。トリオン体での戦闘となれば、ポレミケスでも未だに最強の武人である。

 

「まあゆっくりしていきなさい。一人で空を睨むのも虚しくていかん」

 

 と、少年たちの師匠はまるで孫でも迎えるかのような調子でそう言う。

 

「師父、それではすぐにも敵が現れるとお考えですか」

「いやいや、砦に居ても手持無沙汰でな。儂が居ると皆も落ち着かんだろうしの」

 

 緊迫した様子で訊ねるペテロに、老人は頭を振って答える。

 動員が掛けられて以降、平時の業務は全て休止している。バラノスは(ブラック)トリガーの担い手のため、防衛シフトにも入っていない。ひたすら待機で暇なのだろう。

 

「……先生。この度の戦の展望を、どうお考えでしょうか」

「ちょ、ちょっとピニョン!」

 

 すると、ピニョンがそう問う。トゥリパは師匠に対する不敬を咎めるが、少年は撤回する気は微塵も無い。

 バラノスはこの国で最も経験豊富な戦士である。八年前のエクリシア襲撃にも防衛に参加し、勝利をもぎ取った立役者だ。

 どんな助言でも、少年たちの糧になるはずだ。

 

「そうさなぁ……お前たちなら話しても構わんか」

 

 師父は恬淡とした気配はそのままに、眼光だけを鋭く尖らせる。

 

「お上は今回、勝てぬことも視野に入れて作戦を立てておる」

「なっ――」

 

 開かされた真実に、若い錬士たちの顔が驚愕に染まる。

 

「そ、それはどういうことですか老師! 勝てないって、降伏でもするつもりですかっ!」

 

 血気盛んなピニョンが噛みつかんばかりの勢いで捲し立てるが、老人は揺るぎない視線で少年を射抜き、押し黙らせる。

 

「エクリシアは先の戦を上回る戦力を送り込んでこよう。激戦は必定。そして国を残すためには、勝つためではなく負けぬための算段が要る」

 

 明かされたポレミケス指導部の計画は、少年たちにとって衝撃的なものだった。

 骨子は基本にして確実な作戦、すなわち籠城だ。

 こちらからは打って出ず、防壁を盾にして敵を食い止める。市民は街の中心部の王宮と砦に避難させ、もし城壁が破れられた場合、防衛ラインを砦まで引き下げる。

 ここまでは至って常道の作戦だ。しかし、

 

「防ぎきれぬと判断した場合、敵を市街地まで引き入れ「灼熱の華(ゼストス)」でこれを焼き払う」

「――――」

 

 バラノスの言葉に、ピニョンたちは絶句する。

 守るべき街を自らの手で破壊するという非道の計略だが、これには明確な理由がある。

 

 この近界(ネイバーフッド)で何より重要な資産は、人間が生み出すトリオンに他ならない。確かに市街地を焼き払うことは莫大な損失だが、それはあくまで金銭的な事象にすぎない。

 

 トリガー技術は王宮が管理し、食料は郊外で産出される。

 人さえ無事ならば、トリオンを用いて街を造りなおすことはそう難しくない。もちろん文化や個人の思い出といった、失われるモノの価値は計り知れないが、それでも人民を拉致され国力を大幅に削がれるよりは遥かにいい。

 国を残すための策、とはこういうことだ。そして。

 

「出鼻さえ挫ければ、エクリシアは引き上げざるをえん」

 

 戦略上の観点からも理由はある。

 まず、エクリシアが短期決戦を仕掛けてくることは確実だ。

 ポレミケスとは軌道の接近周期が長いため、仮に支配できたとしても統治が難しく、エクリシア側に旨みが無い。派兵目的は制圧ではなく市民の拉致に間違いないだろう。

 となれば、送り込まれる戦力は限定的になる。本国から増援を寄越し、腰を据えて事を構える気はないだろう。そして何より、

 

「敵のトリガーはその強力さ故に、トリオン消費が凄まじいはずだ」

 

 エクリシアが誇る鎧トリガーは、継戦能力に難がある。

 通常トリガーとは一線を画すその能力は、膨大なトリオンをつぎ込むことで成立している。その事実を、ポレミケスは八年前の侵攻データから解析していた。

 もちろん現在では装備も更新されているだろうが、それでも二度も三度も攻撃を行う余裕はない筈だ。

 最初の侵攻さえ凌げれば、エクリシアは撤退するほかない。

 その為の確実なる策が、市街を囮にしての爆撃であった。

 

「なら、敵を防げれば街は守れるんですよねっ!」

 

 と、それまで無言を貫いてきたトゥリパが、願うようにそう言う。

 

「もちろんだとも。街を傷つけたいと思う者など誰もおらぬ。ただ、国の行く末の為ならば、時には非情な決断も迫られるものだ」

「簡単な話じゃないですか。俺らが気張ってエクリシアの連中をぶちのめしますよっ!」

 

 バラノスの言葉に、ピニョンは勇んで拳を握る。

 

「それでですか。不利になったら無理せず撤退するように指示が出てたのは……」

 

 ペタロだけが冷静に、師父から明かされた作戦内容を吟味する。

 

「実際のところ、エクリシアの「鎧」は生半な相手ではない。錬士であっても単独ではまず勝ち目はないだろう。お前たち次代を担う若者こそ、なんとしても生き延びねばならんのだ。決して無茶はするんじゃないぞ」

「はい。肝に銘じます」

 

 師父に礼を述べ、三人は物見塔から降りようとする。

 もうすぐ昼の休憩が終わる。防衛シフトの交代の為、三人は城壁へ向かわねばならない。

 まさにそのタイミングを見計らったのだろう。

 ポレミケスの天地に、激震が走った。

 

 

 



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其の十一 騎士勇躍

 風景画に墨汁を落としたかのように、漆黒の風穴がポレミケスの遠景に穿たれる。

 

 武都を囲む城壁、その東西南北に開いた(ゲート)は、五十を超えてもなおも増え続ける。

 穴から現れたのは、何百体というトリオン兵の大群である。バムスター、モールモッド、バンダー。そして空中に展開した(ゲート)からは、二十を超えるイルガーと、それに付き従うバドの群れが現れる。

 田畑を踏みにじり、トリオン兵の群れが一斉に城壁を目指す。

 

 そこへ、トリオン弾が豪雨の如く降り注いだ。

 城壁が火山のように火を吹いている。エクリシアの襲撃を予見していたポレミケスの防衛隊が、即座に攻撃を始めたのだ。

 

 しかし、津波のようなトリオン兵の大群は、弾丸の嵐を受けても一向に速度を緩めない。そして、空に浮かぶイルガーは速度を増し、城壁を超えようとしている。

 上空と地上、双方から攻め立てられた防衛軍。だが彼らは迷うことなく眼下の敵だけに射撃を集中させる。

 

 その時、天を光芒が切り裂き、巨大な火球がイルガーを飲み込む。ブラックトリガー「灼熱の華(ゼストス)」の砲撃だ。

 堅牢な装甲を持つイルガーを一撃で破壊するその火力。しかも、砲撃は休むことなく続けざまに放たれ、取り巻きのバドを跡形も無く消し去る。

 

 とはいえ、エクリシアも「灼熱の華(ゼストス)」の存在は把握しており、対策は立てていた。

 イルガーはそれぞれ十分な距離を取り、尚且つ都市の八方から押し寄せてくる。どうあがいても、一射につき一体を堕とすのが限度だ。

 

 しかも射撃ポイントを移動せねばならない為、イルガーを全滅させるにはさらに時間がかかるだろう。

 大部分のイルガーは、市内に到達してしまう。

 

 トリオン兵の数が想定よりも大幅に多い。これはポレミケス側の誤算であった。

 それも仕方のないことで、基本的にトリオン兵は使い捨てであり、行動時間を過ぎた個体の再利用もできず、残骸をトリオンに還元するぐらいしか方法が無い。

 

 つまり、トリオン兵は人間に比べて甚だ効率の悪い兵器なのだ。トリオン兵を大量に用いれば、たとえ捕虜を得ることができたとしても、トータルで損をすることがある。

 それらの事情から、捕虜を目的とする通常の遠征の場合、投入されるトリオン兵の数はある程度上限が決まってくる。

 

 まさかエクリシアが「神」の候補を探すために損益を度外視して攻めてくるなど、流石のポレミケスも想定はしていなかった。

 

「くそ、城壁を超えるぞっ!」

 

 都市まで間近に迫ったイルガーに、流石の防衛隊も焦って攻撃を加える。

 ところがイルガーは一向に爆撃を行わず、それどころか城壁を超えるやいなや、急に高度を下げだした。

 民家の屋根に腹が擦るほどの低空飛行。これは家屋を盾にして「灼熱の華(ゼストス)」の砲撃を避けるためだろう。

 

 しかし、高度を下げたため、トリオン弾の威力も減衰することなく届く。

 これを好機と見た城壁の防衛隊は、挙って集中砲火をイルガーに加える。

 陸戦型のトリオン兵が防壁に取りつくが、このままイルガーに向背を脅かされるわけにはいかない。

 

 市内に展開している防衛隊も火砲を浴びせかけ、イルガーは次々にトリオンを噴出させて堕ちていく。トリオンの漏出が多く、自爆モードにさえ移行できない。市街地に入り込んだ十数体のイルガーは何の戦果も上げられぬまま、家屋を押しつぶし、打ち上げられた鯨のように地に付した。

 

 ポレミケス側としては、この采配ミスに喜ぶほかない。まるで的になるために降りてきたようなものだ。

 いや、事実、イルガーはその為に高度を下げたのだ。

 

「な、何だこいつらっ!」

 

 防衛部隊が喜ぶのもつかの間、堕ちたイルガーの装甲が爆ぜ、中から小型のトリオン兵が次々と現れた。

 馬のように細く伸びやかなデザインをしたそれは、エクリシアが有する偵察用トリオン兵ボースだ。

 

 イルガーから湧いて出たボースたちは、驚愕する防衛隊を歯牙にも掛けず、脱兎のごとく市街地へ向けて逃げ出す。

 機動力に特化したトリオン兵は、あっという間にイルガーの墜落地点から八方へと走り去った。トリオン兵の市街への侵入を許したのだ。

 

「くそ、やられたっ! 市民を逃がせ!」

 

 市内に配置された隊員が通信を飛ばす。だが、城外ではさらに深刻な事態が起こっていた。

 

「砲撃が来るぞ! 総員シールドを張れっ!」

 

 防衛部隊がイルガーにかまけていた間に、バンダーが射程圏内まで近付いていた。城壁の各所で、バンダーの大群が鎌首をもたげ、城壁に集中砲撃を加える。

 凄まじい轟音と震動。

 堅牢な城壁にひびが入る。だが幸いなことに、何処も崩れてはいない。

 首都を護るために膨大なトリオンを注ぎ込んだ城壁だ。その頑強さは並大抵のものではない。とはいえ、

 

「撃て撃て! バンダーを止めろ!」

 

 防衛部隊が砲撃を再開する。いくら城壁が硬いとはいえ、そう何度も砲撃を食らう訳にはいかない。城壁さえ無事ならば、陸戦型のモールモッドやバムスターは後回しにしても対処できる。

 逆に城壁を抜かれてしまえば、数の猛威に押しつぶされるしかないのだ。

 

 優先目標のバンダーに火力を集中させ、徹底して砲撃体勢を取らせない。だがしかし、彼らが注目すべきは仕事を終えたバンダーではなかった。

 次の瞬間、押し寄せるバムスターの外殻から、多数の細長い何かが発射された。

 

 それはエクリシアが投入した新型、爆撃用トリオン兵オルガの群れだ。

 オルガは破壊力に特化したトリオン兵である。長椅子程の大きさの彼らは、三角錐の強固な頭部に滑らかな流線型の身体を持ち、高速で飛翔する。

 そしてその体躯を目標に突き立てると、内蔵トリオンを全て動員して自爆を図る。

 

 迎撃の弾丸の嵐を潜り抜け、ミサイルの如きトリオン兵が城壁へと殺到する。

 ひび割れた壁面に硬質化した頭部を突き立てると、オルガが一斉に爆発した。

 

「やられた! 崩れるぞっ!」

 

 城壁が崩落し、地面に吸い込まれていく。囮用に繰り出したイルガーからオルガの自爆攻撃まで、完璧にタイミングを合わせた波状攻撃だ。

 同様の攻撃は、東西南北全てで行われていた。

 

 城壁の各所に、巨大な風穴が開く。

 そしてこの時を待っていたと言わんばかりに、トリオン兵の群れが速度を上げて押し寄せる。

 しかし、防衛隊もただでは通さない。すぐさま城壁の崩落個所に飛び降りると、白兵でトリオン兵の群れを押しとどめようと構える。だがその時、

 

「なっ――」

 

 トリオン兵の群れから風のように飛び出した巨大な人影が、すれ違いざまにポレミケスの戦士を車切りにした。

 

「ひっ――」

 

 悲鳴を上げる暇も無く、数人の戦士が長剣で斬り裂かれる。

 彼らの前に現れたのは、猛々しくも流麗な白亜の鎧だ。

 エクリシアの主戦力「騎士」たちが、戦線に投入されたのである。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「市街地への侵攻は成功。作戦を次の段階へ進めます」

 

 抑揚の無いヌースの声と共に、フィリアの視界に武都の地図が映し出される。

 地図にはバドの空撮から得た敵味方の動向が、リアルタイムに表示されている。また先んじて投入したボースの調査によって、有力なトリオン機関の持ち主も次々に捕捉しつつある。

 

「了解。トリガー使いを排除します」

 

 そう交信しながら、フィリアは「鉄の鷲(グリパス)」を無雑作に振るい、進路上の敵を唐竹割りに切り捨てる。

 戦士の携えていた「傍えの枝(デンドロ)」は、何の役にも立たずに両断された。少女の技量と「誓願の鎧(パノプリア)」の力を持ってすれば、予備役の戦士など敵にもならない。

 

 そして彼女はトリオン兵の一部を引き連れ、敵勢の盛んな方角へと高速で飛翔する。

 少女の役割は捕獲用トリオン兵のサポートだ。障害となるトリガー使いたちを襲撃し、注意を引き付ければ、それだけ捕獲用トリオン兵の仕事がし易くなる。

 

「こちら騎士メリジャーナ。市街地へ侵入。トリガー使いの排除を行います」

 

 同僚たちからの通信が間をおかずに届く。皆滞りなく市街地へ入れたようだ。あとはそれぞれの職分を果たすだけだ。

 

「うぁっ――」

 

 行きがけの駄賃とばかりに、フィリアは視界に入った戦士をすれ違いざまに斬る。弾丸が肩を掠めたが、「誓願の鎧(パノプリア)」には傷一つついていない。エクリシアの誇る鎧は(ブラック)トリガーでもなければ破壊できないほどの防御力を持つ。

 

「敵の動きに変化があります。どうやら合流を優先する模様」

 

 ヌースから通信が入った。分散を誘うためにボースをばら撒き、突入させたトリオン兵を各所に散らしているが、敵は誘いに乗らず、戦力の集中を図るらしい。

 単独ではエクリシアの騎士に適わない以上、当然の措置といえる。しかしそれ故に、

 

「ヌース」

「はい。プランを変更。トリオン兵に市民の避難路を寸断させます」

 

 フィリアも対応策は用意してある。

 ヌースによって設定を変えられたトリオン兵は、市民の残った家屋を壊し、主要な道路を扼するために動き出す。

 

 敵の奥の手が砲撃型(ブラック)トリガーによる爆撃であることは、「直観智」のサイドエフェクトによって既に判明している。

 市民と戦士の収容が終われば、頭上からは(ブラック)トリガーの砲撃が降り注ぐことだろう。それを防ぐ為、トリオン兵で市民の避難を足止めする。無論、防衛隊はその救援に動くほかない。一石二鳥である。

 

 ただし、当然ながら全ての市民を釘付けにすることはできない。普段から訓練を積んでいたのだろう。ほとんどの市民は迅速に避難場所へと向かっている。

 とはいえ、まったく好都合な展開だ。

 エクリシアの最終攻撃目標は市民の避難場所である。獲物が自ら纏まってくれるというのなら、これほど有難いことは無い。

 

「東部三―九、西部六―二、南部五―三。敵の集合地点です。マークして情報を共有」

「承知しました。フィリアは?」

「南部の敵が揃う前に、襲撃を掛けます」

 

 サイドエフェクトを用い敵の合流地点を一瞬で見抜くと、フィリアは「誓願の鎧(パノプリア)」のスラスターを吹かし、風のように街区を飛翔する。

 ポレミケス側もトリオン兵を繰り出しているが、数が少ない。まだまだ戦力はエクリシア側が圧倒的な優位にある。

 

 ――しかし、ここで攻めすぎてはいけない。

 敵にはまだ逆転の目があると、勘違いしてもらわねばならない。彼らには、まだこの戦場から足抜けしてもらっては困るのだ。

 

 その為に、エクリシア側は心を砕いて攻撃の指揮を執った。敵の無力化を優先するならば、イルガーとオルガを市街地で自爆させるだけで事は足りたのだ。

 それをしなかったのは、(ブラック)トリガーの誕生を恐れたからだ。

 

 もし敗北が濃厚となれば、敵方から命を捨てて抵抗を試みる者が現れる。過去、そういった死兵が(ブラック)トリガーとなり、勝利目前だった国家が敗走した例は幾度となくある。

 そのような事態を防ぐためには、敵に真意を隠しつつ、ほどほどに相手をしなければならない。

 

「こちらメリジャーナ。敵上級兵を捕捉。交戦を開始」

「スコトノだ。なかなかの使い手が出てきた。遊ばせてもらうぞ」

 

 騎士たちから相次いで、敵の主力と遭遇したとの報告が届く。狙い通り、敵は戦闘を放棄していない。ただ、

 

「北部に展開中のトリオン兵の反応が一斉に途絶。敵(ブラック)トリガーの疑いが濃厚です」

 

 そう上手くいくばかりではない。懸念通り、敵のが(ブラック)トリガー現れたらしい。

 

「騎士ドクサ」

「分かっとる。――抑えに回る。後は頼むぞ」

 

 戦場の各地でエクリシアとポレミケス、双方の主力部隊が激突を始めた。

 まだ、戦いは始まったばかりだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エクリシアが戦端を開いて僅か数十分で、ポレミケスは地獄の底へと化した。

 

「なんで、こんな……酷い……」

「うっせぇ! 早く走れっ!」

 

 惨状にショックを受けるトゥリパを叱りつけ、ピニョンたちは市街地を走る。

 避難所である練兵館を目がけて市民たちが走っていく。その人波に逆らって錬士たちが目指すのは、まだ多くの市民が残る東部地区だ。

 次第に戦闘音と地響きが大きくなる。みれば、防衛隊がトリオン兵と交戦中だ。

 

「加勢に来たぞっ!」

 

 掛け声とともにピニョンが「随伴者(アコルティステ)」を起動する。二基の正八面体ビットが空中に浮かび、少年と共に射撃用トリオンキューブを作る。

 そして放たれた弾丸が、雨あられとトリオン兵の群れを打ち据えた。

 

「ぼさっとすんな、突っ込め!」

「――分かってるって!」

 

 涙をぬぐったトゥリパが「連鎖の塔(リネア)」を振るい、敵陣へと駆けていく。同じく「波濤(キューマ)」を操るペタロもトリオン兵の殲滅に加わる。

 精鋭たる錬士の助成を得て、防衛隊は一気に盛り返す。

 しかし、トリオン兵は不利を悟るや、潮が引くように退却しだした。殿にはモールモッドを置き、先頭切って逃げ出したのはバムスターだ。捕らえた市民を一先ず回収しようという肚に違いない。

 

「くそ、あいつら逃げるぞ!」

「待てお前たち! 何か変だ!」

 

 算を乱したトリオン兵に防衛隊が追撃をかける。違和感を覚えたペタロが制止するも、勢いづいた彼らは止まらない。

 隊列の一部が突出した。そこへ、

 

「う、うおっ!」

 

 家屋に隠れていたバンダー複数体が、建物越しに砲撃を打ち込んだ。

 爆炎に呑み込まれ、ひとたまりも無くトリオン体を破壊される戦士たち。すると、背を向けていたトリオン兵たちが一斉に反転する。

 

「釣りだと……」

 

 ペタロが驚愕に顔を歪ませる。このトリオン兵たちは劣勢を利用して罠を張ったのだ。

 通常のトリオン兵の動きではない。先の戦闘と同じく、明らかに操縦者がいる。

 

「負傷者を回収! 急げっ!」

 

 ペタロの下知に、砲撃を免れた戦士たちが一斉に動く。トリオン体の解けた戦士たちではモールモッドの足から逃れられない。彼らが離脱するまで時間を稼がねば。

 

「ピニョン! トゥリパ! 食い止めるぞッ!」

 

 もはや戦局はこちらの大幅な劣勢だ。だが、それでも錬士たちの実力ならば、強化されたトリオン兵であっても殲滅は可能だ。ペタロは群がるトリオン兵を「波濤(キューマ)」で薙ぎ払い、戦士たちの救助をフォローする。

 次の瞬間、救助を行っていた戦士たちの頭が、次々と弾け飛んだ。

 

「――っ」

 

 驚愕の前に体が動いた。三人の錬士たちは咄嗟に頭部を護るようにシールドを展開する。絶え間ない修練によって体に染み込ませた、半ば反射の行動だ。

 次の瞬間、けたたましい被弾音が直近で鳴り響く。

 間一髪である。戦士たちを襲った弾丸が、ペタロたちにも叩き込まれたのだ。

 

「くそっ、とうとう出てきやがった……」

 

 ペタロが冷や汗をかいて毒づく。

 半壊した家屋の上に、佇む孤影がある。

 両手に巨大な機関銃を二丁下げた、純白の鎧。

 エクリシアの象徴たる悪鬼、騎士が錬士たちを睥睨していた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 武都の西部地区。最もエクリシアの攻撃が激しかったこの地区では、数百メートルにわたって城壁が崩落し、トリオン兵が大量に市街地へと侵入していた。

 しかし、ポレミケス防衛隊の奮迅もあり、市民の避難は他の地区に比較して、順調に進んでいた。

 

「その家屋の下にまだ誰かいる。トリオン体の者は瓦礫を撤去してくれ。崩れないように気を付けるんだ」

「ありがとうございます! ありがとうございますロア様!」

「礼は無用です。焦らず、急いで練兵館へと向かいなさい」

 

 取り乱す市民に堂々と対応している黒髪の美丈夫は、範士ロアだ。

 彼は錬士たち精兵を率いて一先ず付近のトリオン兵を制圧した。現在は防衛隊と共に、取り残された住民の救助を行っている。しかし、

 

「また(ゲート)が開きました。トリオン兵が来ます!」

 

 敵は城壁の向こうから切れ目なくトリオン兵を送り込んでいる。また、南部、東部は未だトリオン兵が跋扈しており、一向に市民の避難が進んでいない。

 

「錬士たちは市民の避難が完了するまでトリオン兵を迎撃せよ。私は南部の援護に向かう」

 

 救助に拘泥するわけにもいかず、錬士たちは次なる戦地へと急ぐ。

 ロアのみは一団から離れ、単身で他の戦線の救援に回る。範士である彼の技量は突出しており、一人で一部隊に匹敵する戦力を持つ。

 

 ロアはブレードトリガー「刑吏の杭(ラピス)」を二刀提げ、音も無く荒れ果てた道路を疾走する。南部地区の敵を駆逐し、市民の避難を促さねばならない。

 もはや市街地の奪還は不可能だろう。エクリシアを撃退するには、予ての作戦通り「灼熱の華(ゼストス)」による砲撃を行うしかない。

 

「……くそっ」

 

 破壊の限りを尽くされた街並みを見て、ロアの端正な顔が苦悶に歪む。

 彼の脳裏に浮かぶのは、妹オルヒデアの姿だ。

 

 彼女はポレミケスでも最高のトリオン機関を持ち、何の因果か(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」にも適合を見せた、まさに運命に見初められた女である。

 そして稀有な資質に胡坐をかかず、絶え間なく武術の修練を積む彼女を、人々は挙って護国の女神だと褒め称えた。

 

 しかし兄であるロアは、妹がそんな重荷を到底背負える人物ではないことを、痛いほどに知っていた。

 戦場に立つには、オルヒデアはあまりにも臆病で、優しすぎる。

 

 虫も殺せず、花が散ることにさえ儚さを感じる彼女に、どうして人を討つことができようか。ロアはそんな妹を戦場に立たせぬため、血の滲む修練を重ねてきた。

 しかし、目の前の惨状はどうだ。一個人の戦力など、押し迫る軍勢には何の役にも立たない。結局、妹は街を灰塵に帰する引き金を引くしかないのだ。

 

 途上、戦列を離れたモールモッドがロアの前に立ちはだかった。

 両者がすれ違った後、コアを切り裂かれたモールモッドが音も無く崩れ落ちる。

 

 胸中はいかに複雑な感情が渦巻いていようとも、達人の域にまで達したロアの剣は、意識とは無関係に万象を切り裂く。

 それほどの技量が有りながらも、戦局は覆せない。戦略兵器たる(ブラック)トリガーが己の手にこそあれば、とロアは改めて歯噛みする。するとその時、

 

「――っ!」

 

 狂猛な殺気を感じ取り、ロアの足がピタリと止まった。

 トリオン兵の蹂躙で更地となった広場に、巨大な人影がある。

 真っ白な鎧を纏い、長剣と大盾で武装したその姿は、エクリシアの騎士だ。

 

「名のある戦士とお見受けする。俺はネロミロス・スコトノ。立ち合いが所望だ」

 

 そして騎士は堂々と名乗りを上げると、長剣を振りかざしてロアへと躍りかかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そこは戦場でありながら、場違いに静かな一画であった。

 

 モールモッドは壁に張り付いたまま、バムスターは家屋に首を突っ込んだまま、身動き一つ取らない。街を破壊し市民を襲っていたトリオン兵たちは、今では巨大な置物として転がるばかりだ。

 まるで時が止まったかのような光景。しかし、多くの市民たちは恐れ慄きながら道路を走り、避難所へと逃げていく。

 

 高層建築の上に陣取り、それを眺める矮躯の老人がいる。

 彼の名はバラノス。(ブラック)トリガー「静謐の火(ヘオース)」の担い手にして範士の位を持つ、ポレミケスの伝説的な戦士だ。

 

 胴衣を着た老人の足元から、ガシャガシャと耳障りな音が聞こえる。

 音はどんどん近づき、ついには壁面をよじ登ったモールモッドがバラノスの前に現れる。

 しかし、老人は何の変化も無かったかのように虚空を見詰めつづけている。モールモッドはブレードを振りかざし、バラノスの首を刎ねんと突撃する。

 

 その瞬間、眩い光が空間を塗りつぶした。

 目も眩むような発光は僅か一瞬のこと。ホワイトアウトした世界は直ぐに元に戻る。

 すると、老人に襲い掛かろうとしていたモールモッドは、塑像のようにピクリとも動かなくなっていた。

 

 バラノスの背後に、人の頭ほどの大きさをした光球が浮かんでいる。

 これこそポレミケスが誇る「静謐の火(ヘオース)」の光。曝露した全てのトリオンを不活性化し、問答無用で機能停止に追い込む(ブラック)トリガーだ。

 

静謐の火(ヘオース)」の光に曝されれば、トリオン体やトリオン兵は言うに及ばず、飛翔中のトリオン弾まで推力を喪う。

 対象の大きさと距離で効果は減衰するが、モールモッドなら十メートル圏内であれば一秒も満たずに行動不能にすることができる。

 バラノスは置物と化したトリオン兵に歩み寄り、口中のコアに拳を添える。そして、

 

「――!」

 

 パンッ、と乾いた音が響き、コアが内側から破裂するように壊れた。

 零距離からの打撃。いわゆる寸勁を以て、行動不能のモールモッドを破壊したのだ。

静謐の火(ヘオース)」は直接的な攻撃力を持ち合わせていない。しかし、それを操るバラノスはポレミケスでも最高峰の武芸者だ。たとえ武器を携えていなくとも、彼の全身は余すところなく凶器である。

 

「ここいらの避難は済んだか……」

 

 広範囲を無差別に無力化する(ブラック)トリガーによって、北部地区のトリオン兵は粗方片付いていた。

 既にバラノスの立つ場所より城壁側に、逃げ遅れた市民はいない。

 

 老人は通信ログを辿り、各地の情報を纏める。西部地区は精鋭部隊の活躍でトリオン兵を駆逐しつつあるが、東部、南部は未だに敵勢が盛んだ。

 助成に行きたいが、「静謐の火(ヘオース)」から放たれる光は敵味方を問わず行動不能にする。防衛隊の退却とタイミングを合わせねば、味方側にも被害が出かねない。

 

 またその兼ね合いから、北部地区には最小限の人員しか配備されていない。敵の増援を抑えるには、もう少し兵力の補強が必要だろう。

 防衛作戦の指揮を執る王宮に意見を述べようと、バラノスは通信を開く。その時、

 

「――」

 

 突如バラノスは横っ飛びに跳躍すると、高層建築の屋上から飛び降りた。

 

 数瞬遅れて、建物の上層部が発破を掛けたかのように吹き飛ぶ。それを成したのは砲撃ではない。高速で飛来したモールモッドの残骸だ。

 百戦錬磨の老人は地上へと落下しながらも、冷徹に敵の存在を見定めた。

 

 目測三百メートル先の民家の屋上。

 白い鎧を纏ったエクリシアの騎士が、悠然と佇んでいる。

 

 彼の獲物は剣でも銃でもない。騎士の左右の空間に、長さ十メートル以上はあろうかという、人間の肘から先を模した漆黒の双腕が浮かんでいる。

 その奇怪な腕が掴んでいるのは、バラノスが始末したモールモッドの残骸だ。

 

「――っ!」

 

 先の展開を予見した老人は、追尾してきた「静謐の火(ヘオース)」の光球を足場にし、空中で軌道を変える。

 回避軌道をとったバラノスのすぐ側を、砲弾も同然の速度でトリオン兵が通り過ぎる。

 

「まったく、面倒な相手を寄越すの」

 

 見れば、漆黒の巨腕は瓦礫の山を両手に掴み、既に投擲体勢に入っている。

 バラノスは着地と同時に横道へと転がり込む。榴散弾が爆裂したかのように、辺り一帯が吹き飛んだ。

 この長距離でこの威力。騎士が有するのは(ブラック)トリガーに違いない。

 

 おまけに敵は「静謐の火(ヘオース)」の特性を知り尽くしている。「静謐の火(ヘオース)」はあくまでトリオンを不活性化するトリガーであり、固形化したトリオンやただの物質。あるいは物体に働く慣性などを消し去ることはできない。

 また、あれほど距離を取られては光も届かない。敵は安全圏からひたすらに瓦礫を投げつけ、バラノスを生き埋めにする腹積もりだ。

 

「どうやらエクリシアも本気らしい……」

 

 苦々しくそう呟くも、老人の口角は上がり、眼はギラギラと輝いている。

 敵は(ブラック)トリガー。しかもこちらの手の内を知り尽くしており、おそらくは相性も悪い。だが、

 

「相手にとって不足なし」

 

 武人としての魂が騒ぐのだろう。バラノスは気焔を上げて走り出した。

 

 



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其の十二 決死の抵抗

(想定よりも、兵の質が高いわね)

 

 激戦の続く東部地区。トリオン兵を率い市街を荒らしまわっていたメリジャーナは、ここで思わぬ足止めを食らっていた。

 

「出過ぎるなトゥリパ。ピニョンを援護しろ!」

 

 先ほど接敵した錬士の一隊、くせ毛の青年ペタロに率いられた僅か三人の部隊を、メリジャーナは未だに始末できていない。

 

 騎士は小銃トリガー「鉛の獣(ヒメラ)」を二丁構え、錬士たちに向けて引き金を引く。

 本来は両手で保持する小銃を片手で操りながら、その照準には毛ほどの揺らぎもない。「誓願の鎧(パノプリア)」の腕力は銃の反動を完全に抑え込み、小銃にあるまじき精度で大威力のトリオン弾を見舞う。

 

 集弾率が極めて高く、通常のシールドでは防げない攻撃だ。

 しかし、密集したトリオン弾は、錬士たちに何の被害ももたらさない。

 弾丸を止めたのは、濃密な霧のような微細トリオン弾だ。「波濤(キューマ)」の分厚いトリオン弾の膜が、猛烈な射撃を相殺していた。

 

「くたばりやがれっ!」

 

 お返しとばかりに二百を超えるトリオン弾が放たれる。そばかす顔の少年ピニョンは「随伴者(アコルティステ)」を用いて、切れ目ない攻撃を騎士に加えていた。

 

 メリジャーナは追尾してくる弾丸の嵐を飛翔して躱す。保険の為にシールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」も張り、被弾を極力抑える。

 もちろん絶大な防御力を誇る「誓願の鎧(パノプリア)」を持ってすれば、たとえ全弾受けきったところで着装者は無事であろうが、それでも幾らかの損壊は免れない。先のことを考えれば、ここで無用のダメージを負う訳にはいかない。

 

(優秀なトリオン能力者ね。何とか確保できないものか……)

 

 高い火力と膨大な量の弾丸。それを何度も繰り出していることからも、あの少年のトリオン機関は相当なモノだろう。

 流石に「神」の候補とまではいくまいが、是非捕虜にしたいところだ。

 メリジャーナはスラスターを噴射し、飛び上がって距離を取る。上空は包囲射撃を受けかねないが、彼ら以外の防衛部隊は付近におらず、現状その恐れはない。

 

「くそっ逃げんな!」

「追うなこっちだ!」

(判断も早い。なかなかいい指揮官がいますね)

 

 騎士が頭上に陣取ったとみるや、錬士たちは即座に建物の中へと避難した。

 通常、銃手と射手では銃手の側に射程の優位がある。十分な距離をとれば、メリジャーナが一方的に攻撃を加えることができる。錬士たちの行動はそれを嫌ったものだ。

 彼らは個々の能力では騎士に太刀打ちできないものの、連携と地形を熟知した立ち回りで見事に騎士に食い下がっている。敵ながら見事というほかない。

 

(さて、こういう場合は……焼きだしましょうか)

 

 メリジャーナは「鉛の獣(ヒメラ)」のセレクターを「山羊(カツィカ)」から「獅子(リョダリ)」へと切り替える。途端に銃口が牙を剥いた猛獣のように変形する。

 トリオンが集束し、銃口が眩い光を放つ。

 そして放たれた二発の弾丸は錬士たちの籠る建物に突き刺さり、大爆発を引き起こした。

 

(流石にこれでは仕留められませんか)

 

 手の内を読んでいたか、あるいは殺気を感じ取ったのか。錬士たちは三人共に爆発の寸前で建物から飛び出し、難を逃れていた。だが、

 

(まずは浮いた駒から……)

 

 脱出の方向が異なっていた一人、ペタロに向けてメリジャーナが急降下する。

 

「くっ!」

 

 青年は咄嗟に「波濤(キューマ)」を展開し防御膜を張るが、

「素晴らしい健闘でした。誇りなさい」

 

 至近距離から「獅子(リョダリ)」の炸裂弾を連続で撃ち込まれては防げるはずもない。ペタロはトリオン体を破壊され、生身となって街路に膝をつく。

 

(指揮官は除いた。後は遠間からの射撃で撃破できる)

 

 残敵を処理するため、メリジャーナが再度飛翔しようと地を蹴る。その時、

 

「ペタロから離れろぉぉっ!」

 

 怒号と共に、頭上から人影が躍りかかる。

 

「――ッ!」

 

 トゥリパの突き出した「連鎖の塔(リネア)」を、騎士が身を捻って回避する。

 落下速度に体重が加わり、尚且つ渾身の勁が込められた棍は、地面を突き穿ち放射状に罅を入れる。

 その威力の程は、あるいは「誓願の鎧(パノプリア)」に傷をつけることも可能かもしれない。

 

「はあぁぁぁっ!」

 

 仲間の窮地をいち早く感じ取り、無謀を承知で突っ込んできたのだろう。しかし、トゥリパと騎士の相性はそう悪くない。

 少女は騎士に張り付くようにして棍を振るっている。メリジャーナは射撃トリガーしか装備しておらず、ここまで懐に入られては対処の仕様が無い。

 

「――!」

 

 故に騎士は機動力を生かして距離を取ろうとするが、

 

「逃がさないっ!」

 

 トゥリパは鬼気迫る表情でそう叫び、一瞬で間合いを詰める。踏込の速さも凄まじいが、驚くべきはメリジャーナの回避先を見抜いた読みの鋭さだろう。あるいは理性ではなく、本能の成せる技かもしれない。

 

「せああっ!」

 

 疾風怒濤の連撃が騎士へと繰り出される。小銃を盾に幾らかは防ぐが、とても全てを凌ぎきれるものではない。

 打突が鎧へと打ちこまれる。通常のトリオン体なら一撃で破壊されるような威力の攻撃だ。しかし、少女の渾身の打撃を以てしても、エクリシアが誇る「誓願の鎧(パノプリア)」を貫くことはできない。

 表層には多少の傷が付いたものの、着装者には何の損害も無く、鎧の機能も何一つ失ってはいない。

 

「――くっ!」

 

 息をもつかせぬ攻撃を見せていた少女が、突如苦悶の声を上げる。

 防御に徹していた騎士が、スラスターを噴かせて猛然と体当たりを仕掛けたのだ。

 その質量、速度に抗えるはずもなく、トゥリパはボールのように軽々と弾き飛ばされる。

 間合いが開いた。騎士の銃口が少女を捉える。その時、

 

「うおおぉぉぉっ!」

 

 瀑布のようなトリオン弾が、騎士の頭上に降り注いだ。

 

「っ!」

 

 咄嗟に出した「玻璃の精(ネライダ)」は弾雨を凌げず叩き割られ、メリジャーナは腕をかざして急所への直撃を何とか防ぐ。貫通こそしなかったものの、度重なる攻撃で鎧には無視できぬダメージが蓄積している。

 

「一人で闘ってんじゃねえよバカっ!」

 

 けん制にトリオン弾を放ちながら、ピニョンが倒れたトゥリパを抱え起こす。

 

「バカって、なによ……」

 

 少年の横顔を見て、少女の狂気じみた相貌が見る間に穏やかになる。

 

「ペタロはもう逃げた。あいつ足速えから大丈夫だ。俺ら二人でコイツをやるぞ。気合入れろ!」

「――うん!」

 

 二人は体勢を立て直し、毅然と騎士に立ち向かう。

 

「いいでしょう。掛かってきなさい」

 

 メリジャーナは冷厳な声で若き錬士たちにそう告げ、銃を構え直す。

 圧倒的な戦力差にも関わらず、此処まで騎士に手傷を負わせるとは、彼らは畏敬すべき技量の持ち主である。相手を格下と侮り、余力を残そうとしたのは間違いであった。

 鎧は傷だらけになったものの、機能は十全に働いている。

 メリジャーナは冷徹に戦局を推し量り、勝利を手繰り寄せるべく全力で動き出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 武都の南西地区。味方の救援に向かう範士ロアの前に立ちはだかったのは、エクリシアの騎士ネロミロス・スコトノ。

 廃墟と化した街並みの中、二人の剣豪は苛烈な戦いを続けている。

 

「どうしたその程度かっ! 俺を楽しませてみせろっ!」

 

 長剣「鉄の鷲(グリパス)」と大盾「銀の竜(ドラコン)」で武装したネロミロスが砲弾の如き速度で突進する。重武装ながら「誓願の鎧(パノプリア)」の補助もあり、その剣速は凄まじい。

 対するロアは嵐のような剣舞を前に守勢に徹している。二本の直刀トリガー「刑吏の杭(ラピス)」を用いて騎士の猛攻を躱し、逸らし、防ぎ続けている。

 

 動作速度では圧倒的にロアを上回る騎士の攻撃が、一発たりとも有効打にならない。

 ロアはせめぎ合う剣の軋みから相手の次の動作を正確に読み切り、常にネロミロスに先んじて動いているのだ。

 

「ポレミケスは勇武の国と聞いていたが、逃げ回るしか能がないらしいな!」

 

 勢いよく攻めたてるネロミロスも、ロアの尋常ではない技量には気付いている。

 潮目を変えようと挑発を挟んでみるが、ロアは一向に動じない。

 

「ちっ――」

 

 変化しない戦局に苛立ちを覚え始めたネロミロス。

 彼の率いる西部戦線はポレミケスの精兵によって半壊した。無論少なくない戦士を撃破したが、形勢で言えば敗北したと言っていい。

 

 ポレミケス側に余裕を持たせるため、適度にトリオン兵を撃退させてやるのは当初の作戦から決まっていたことだが、功名心の強いネロミロスにとっては甚だ面白くない展開である。

 彼は腕の立つ戦士を捕虜にして勲功を上げようと、まだ激戦を続けている南部への道で網を張ることにしたのだ。

 

 ネロミロスの誤算は、そこに掛かったのがポレミケスでも最強格の戦士である範士ロアであったことだ。

 ロアは異常なまでの技量でネロミロスの攻撃を捌き、騎士をこの場所に釘付けにしている。トリオン兵の数はエクリシア側の方が多いが、指揮官の数は圧倒的に少ない。騎士を足止めするということは、それだけで他方の戦線の援護になる。

 

「ふんっ!」

 

 一刻も早く決着を付けたいネロミロスは、ここで一手仕掛けることにした。

鉄の鷲(グリパス)」を上段から袈裟掛けに振り抜く。

 ロアは軽妙なバックステップで危なげなくそれを躱す。

 標的を失った長剣は大地を断ち割り、刀身の中ほどまでを地に埋める。剣を引き抜くための一瞬、ネロミロスは致命的な隙を晒した。だが、

 

「「鷲の嘴(ランポス)」」

 

 轟音と共に、地面が発破をかけたように爆発した。

 土煙が舞い上がり、土くれが散弾となってロアへと襲い掛かる。

 

鉄の鷲(グリパス)」専用オプショントリガー「鷲の嘴(ランポス))」。刀身にため込んだトリオンを爆発させ、面での攻撃を可能とするトリガーだ。

 本来は敏捷性の高い敵に用いるトリガーだが、今回は地面を爆発させることで目くらましを行った。同時に、

 

「「竜の羽(プテラ)」」

 

 ネロミロスは「銀の竜(ドラコン)」のオプショントリガー「竜の羽(プテラ)」を起動する。

 その効果は「鉄の鷲(グリパス)」のオプショントリガーと同じく、トリオンを噴出して強大な推進力を得るというものだ。

 

 巨大な盾に牽引されるようにして、ネロミロスの巨体が猛進する。

 目くらましの直後に間髪入れずにシールドチャージを叩き込む。「誓願の鎧(パノプリア)」の硬度と質量にかかれば、掠めただけでも損傷は免れまい。停滞した戦局を覆すため、ネロミロスはまさしく体当たりで勝負を仕掛けた。だが、

 

「な――」

 

 確実にくるはずの手応えが、何処にもない。

 ネロミロスはただ土煙を素通りし、何にも触れることなく伽藍堂の空間を突き進んだ。

 一瞬で十メートル余りを移動し、ネロミロスは急停止する。

 

 盾を構えて振り向くと、視線の先には黒髪の美丈夫が悠然と立っていた。

 タイミング、間合いともに回避不可能の突撃を、果たして如何なる手段で躱したというのか。だが、ネロミロスが真に驚愕したのは――

 

「なんだと……」

 

 右のわき腹から、薄く黒煙が靡いている。

 いつの間にか、鎧には定規を当てて引いたかのような細く鋭い切れ込みが走っていた。

 

「貴様、「誓願の鎧(パノプリア)」を……」

 

 鎧の中のネロミロスが、微かな痛痒を感じる。その場所はまさしく右のわき腹、鎧の損傷個所と同じ部位だ。

 (ブラック)トリガーでもなければ破壊できない「誓願の鎧(パノプリア)」を、ロアは僅か一太刀で、しかもノーマルトリガーで切り裂いたのだ。

 

「エクリシアの鎧は噂程の物でもないらしい。……それとも使い手が未熟に過ぎるのか」

 

 それまで沈黙を保っていたロアが、不敵な笑みを浮かべてそう揶揄する。

 あからさまな挑発だが、それ故に自尊心の強いネロミロスには強烈に効いた。

 

「もはや生かしては返さん……」

 

 屈辱に身を震わせながら、ネロミロスは力強く剣柄を握りしめる。

 ロアの手練に畏敬しながらも、より強い怒りが騎士の胸を焦がす。

 

「いくぞ」

 

 それでも、ネロミロスはエクリシアが誇る騎士の一人だ。

 怒り心頭に発しても、激情に我を忘れることは無い。精神を氷のように研ぎ澄まし、強敵を打ち破る手段を冷徹に探し出す。

 

「はあッ!」

 

 却って冷静さを取り戻したネロミロスは、「誓願の鎧(パノプリア)」の圧倒的な基礎能力を生かして堅実にロアを攻め立てた。

 正道なるイリニ騎士団の剣術には、流石のロアも剣を以て防ぐしかない。

 

「くっ……」

 

 ロアが初めて苦悶の表情を作る。ここにきて問題になったのは、両者が持つブレードトリガーの性質の差だ。

 攻撃力と耐久性を高いレベルで両立させた「鉄の鷲(グリパス)」とは違い、ロアの持つ「刑吏の杭(ラピス)」はやや攻撃力に偏重した造りをしている。

 ネロミロスの剛刀を受け続けた結果、「刑吏の杭(ラピス)」の刃は欠け、刀身には罅が入り始めていた。

 

「しっ!」

 

 長期戦は不利と考えたロアは反撃の一刀を繰り出すが、周到に待ち構えていた「銀の竜(ドラコン)」がその斬撃を素気無く弾き返す。

 武装の性能差を生かし、入念に敵を押し潰そうというネロミロスの企ては、見事に図に当たった。

 

 ロアの直刀の一本が、音を立てて鍔元から折れる。

 しかしネロミロスは油断せず、堅実な技でさらに攻め立てる。

誓願の鎧(パノプリア)」を纏うネロミロスの出力は通常のトリオン体とは比べ物にならない。ロアは二刀を駆使し、優れた技量で相手の力を受け流すことで、辛うじて拮抗まで持ち込んでいたのだ。得物が僅か一刀となった時点で、形勢は加速度的に悪くなる。

 

 とうとう、ロアのもう一本の刀が騎士の暴虐に屈服した。

 バラバラに砕け散る「刑吏の杭(ラピス)」の刀身。もはや打つ手も無くなった美剣士に、騎士が止めを刺さんと猛進する。

 

「死ねぃ!」

 

 大上段から振り下ろされる長剣の一撃。もはや避けることはできず、受けることも逸らすことも不可能だ。

 だがこの瞬間こそ、ロアが薄氷を踏む思いで待ちかねていた好機であった。

 

「シィっ――」

 

 ロアは迫りくる騎士へと踏込み、敵の内懐へと潜りこむ。

 間合いを零距離まで詰められ、ネロミロスの刃は虚しく空を切った。一先ず、敗北だけは免れた。だが、密着状態のロアには次の行動を起こす余地がない。

 

「苦し紛れの抵抗を……」

 

 ロアの突飛な行動に虚を突かれたネロミロスだが、再始動は早かった。

 騎士は長剣と大盾を手放すと、諸手を上げてロアを抱きすくめる。敵に鎧を撃ち抜く手段はない。翻って、騎士は素手でもトリオン体を容易く破壊できるパワーを持つ。

 抵抗の暇も与えず、ベアハッグで胴体をへし折るつもりだ。だが、

 

「なっ!」

 

 キンと、珠を打ち鳴らすような甲高く澄んだ音が辺りに響く。次いで、ネロミロスの驚愕に染まった呻き声。

 見れば、「誓願の鎧(パノプリア)」背中から細長い半透明の薄板が生えている。

 

 ロアの持つブレードトリガー「刑吏の杭(ラピス)」は、ノーマルトリガーとしては突出した攻撃力を持つ。それ故に余分な機能を持たないトリガーだが、一つだけ奥の手とも呼べる機能を有している。

 それは刀身を射出するという特殊機能。

 柄に莫大なトリオンを凝縮させ、爆発的な速度でブレードを打ち出す技だ。ロアは新たに作り出した刀身を、即座に使い捨ての弾丸として用いた。

 

「そんな……バカな……」

 

 作り出したばかりの「刑吏の杭(ラピス)」の刀身が、過負荷に耐え兼ねボロボロに崩れて消える。

 同時に、「誓願の鎧(パノプリア)」の背中に空いた穴から、間欠泉のようにトリオンが噴き出した。

 ロアの放った乾坤一擲の攻撃は、正確にネロミロスの胸部、トリオン供給機関を刺し貫いていた。

 

誓願の鎧(パノプリア)」の内部で、ネロミロスのトリオン体が崩壊する。

 鎧との接続を失ったネロミロスは身動きもとれず、真っ暗な甲冑の中に取り残された。緊急脱出機構は生きているが、鎧から出たところで目の前の戦士から逃れる術は無い。

 

「この勝負。俺の勝ちだ」

 

 安堵の吐息と共に、ロアがそう告げる。

 廃墟と化した街には、今や奇怪なオブジェと化した鎧が虚しく立ち尽くしていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エクリシアとポレミケスの(ブラック)トリガーが激突する武都の北部地区は、会戦直後の凄まじい戦闘から一転して、現在はこう着状態が続いていた。

 

「このまま何事も無ければ楽でいいんだがな……」

 

 エクリシア遠征軍の指揮官、騎士ドクサは鎧の中でそう独言した。

 

 彼の持つ(ブラック)トリガー「金剛の槌(スフィリ)」は、超硬度の巨大な腕を造りだし、精密無比に操ることができるトリガーだ。

 巨腕から繰り出される打撃は凄まじい威力を誇り、およそあらゆる防御トリガーを紙細工のように拉ぎ潰すことができる。

 全力で暴れれば一刻と経たずに街区を更地にすることができる、純火力タイプの(ブラック)トリガーである。

 

 対してバラノスの持つ(ブラック)トリガー「静謐の火(ヘオース)」はトリオン球を造り出し、放たれる光に曝露した全てのトリオンを不活性化する能力を持つ。

 トリオン体やトリオン兵は、内部まで光が浸透した時点でトリオンの循環を止められて行動不能になり、トリオン弾は弾体を飛ばす噴進剤が不活性化することによって、標的に辿りつく前に推進力を失い墜落する。

 

 しかも光は上下左右全ての方向に発せられ、死角は全く無い。

 距離によって効果が著しく減衰すること、数時間程度で不活性化は解けること、固形化したトリオンや通常の物質には効果が無いことなど、欠点は多数あるが、それでも反則的な能力を持つトリガーだ。

 

(トリオン体に影響が出始めるのは、およそ五十メートル圏内からか)

 

 八年前のフィロドクス騎士団遠征時にも、「静謐の火(ヘオース)」は防衛戦に参加し、散々に遠征軍を悩ませた。その時の被害情報から、安全圏は判明済みである。

 

(さてさて、余り派手にやると狙撃が怖いが、そうも言ってはいられんか)

 

 ドクサは巨腕をゆるりと動かすと、虫を払うかのように軽く振り抜いた。

 軌道上にあった数軒の家屋が基部から吹き飛び、他の建造物を巻き込んで倒壊する。

 

 僅か腕の一薙ぎで、街区が一つ更地になった。

 騎士は異国を散策するかのような足取りで荒れ果てた道路を進み、目に付いた建物を片端から粉砕していく。

 

 バラノスは市街地に潜み、「静謐の火(ヘオース)」の光を浴びせる機会を窺っている。市街地を破壊して回るのは敵をあぶり出すためだ。

 (ブラック)トリガーは単一の機能しか持たないが、敵は別のトリガーを用いてレーダー対策を行っているらしく、潜伏地を割り出せない。

 余り空白地を作りすぎると高台から射線を通すことになるが、脅威度で言えば隠れ潜んでいる「静謐の火(ヘオース)」の方が圧倒的に上だ。

 

 本来、トリガーの相性からすればドクサの大幅に有利な対戦である。

 

静謐の火(ヘオース)」は反則的な能力を持つが、それはあくまでトリオンに対してのみ働く。ドクサが接敵時に瓦礫を投げつけたように、ただの物理法則には何の効果ももたらさない。

 近付いてくるバラノスに瓦礫を投げ続ければ、それだけで完封勝利も可能だろう。

 

 何となれば市街地を完全に更地にしてしまえば、物陰に隠れて距離を詰めることもできなくなる。

 それどころか「誓願の鎧(パノプリア)」の飛行能力を活用して上空に陣取れば、もはや敵方に攻撃の手段は無くなるだろう。

 

 ドクサがその戦法を取れないのは、ポレミケスが持つもう一つの(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」を警戒しての事である。

 市民の巻き添えを出さぬよう砲撃は止んでいるが、この地域の避難はすでに完了しつつある。

 

 上空に飛び上がって迂闊に姿を晒せば、大威力の砲撃が飛んでくるのは明白だ。

 同じ理由から、市街地を潰して遮蔽を完全に失うのも不味い。

 

 今はバラノスが付近にいるが、彼が離脱してしまえば滅多撃ちにされかねない。

 故に、ドクサは細心の注意を払いながら挑発を続ける。

 

 張り手一つで家が空を飛び、拳一つで地面が陥没する。

 騎士は二本の巨大な腕を振り回し、見せつけるかのように家屋を破壊していく。

 住民の大部分は避難したようだが、それでもまだ逃げ遅れている者はいるだろう。

 

(役目とはいえ、難儀なことだ……)

 

 誇り高き騎士にとっては業腹なことだが、近界(ネイバーフッド)では市街地を攻撃して敵の動きを引き付けるのは当たり前に行われる戦術である。

 特にドクサは、何としてもバラノスを引きずり出さねばならない。

 

 今回の侵攻戦を成功に導くためには、各々の騎士たちの緊密な連携が必須となる。

 問答無用でトリオン体を行動不能にする「静謐の火(ヘオース)」に、戦線を引っ掻き回させる訳にはいかない。敵の(ブラック)トリガーを釘付けにするのがドクサに与えられた役目だ。

 

「物に当たり散らすとは、ずいぶん躾のなってない子供だの」

「戦場ゆえ、不調法お許しあれ。ともかく、お出ましくださったか」

 

 露骨な挑発が効いたのか、倒壊した家屋の影から矮躯の老人がひょっこりと現れる。

 傍らに浮かんでいるのは人間の頭ほどの球体だ。今はただのトリオン球にしか見えないが、あれが光を放てば付近のトリオン体は一瞬で行動不能になる。

 

「ふっ――」

 

 一陣の風となって街路を疾駆するバラノス。「静謐の火(ヘオース)」の有効範囲まで近付き、一瞬で勝負を付ける腹積もりだろう。

 彼我の距離は百メートル余り。トリオン体の脚力であれば、僅か数秒で踏破できる間合いだ。

 

 ドクサは即座に「金剛の槌(スフィリ)」を操り瓦礫の山を引っ掴むと、バラノスに向けて投擲する。

 砲弾も同然の速度となった瓦礫の散弾が、壁のような密度で老人に迫る。

 

 トリオン体は物理ダメージをほぼ無効化するが、砲弾も同然の投擲を食らえば体勢は必ず崩れる。追い打ちで生き埋めにすることは容易い。

 だが老雄は足を止めず、それどころか更なる加速で持って死の弾雨へと突き進む。

 

「――ひゅっ!」

 

 鋭い呼気と共に片足を前へと伸ばし、股が地に着くほど体を落とす。同時に上体を地に伏せるほど屈め、正面から見える面積を最小限にする。

 瓦礫の散弾はバラノスを捕らえることなく素通りした。いきなり対象が猫ほどの大きさになったのだから無理もない。

 しかも驚くべきことに、老人はそのような無理な姿勢を取ったにもかかわらず、二歩目には体勢を立て直し、騎士目がけて疾走している。

 

「ちっ!」

 

 ドクサは鎧の内で舌打ちをする。初弾は見事にスカを喰った。やはりあの老人の身のこなしはただ事ではない。英雄と持て囃された技前は、一向に錆びついていないようだ。

 

(これは……不格好などとは言ってられんな)

 

 ドクサはスラスターを噴かして後方へと引き下がり、バラノスとの間合いを取る。

 同時に瓦礫を掴んでは投げ続け、弾幕を張る。

 

 一発でも当たれば形勢は大きく傾く。ドクサは引き撃ちに徹して相手のミスを待つ。

 しかし、バラノスは瓦礫の雨を悉く躱しながら、猛スピードで騎士に追い縋る。

 正確さを欠いた投擲など、達人には何の障害にも当たらない。

 

「流石は老雄バラノス。楽に勝たせてはくれんか……」

 

 ドクサが苦々しく呟く。とはいえ、狙い通りの状況に持ち込めた。

 いくら相手が達人といえども、通常のトリオン体では逃げに徹する「誓願の鎧(パノプリア)」の速度には追いつけないだろう。そして距離さえ保てば「静謐の火(ヘオース)」は無効化できる。

 

 このまま適当に相手をすれば、一先ず当初の目的通りに足止めは可能だ。

 ドクサは瓦礫をばら撒きつつ、命懸けの鬼ごっこを始めることにした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 武都の東部地区。

 防衛部隊とトリオン兵は互いに甚大な被害を出し、戦線はこう着状態に陥っていた。

 しかし、騎士メリジャーナと錬士トゥリパ、ピニョンの戦いは、苛烈さを増す一方だ。

 

「トゥリパ!」

「うん!」

 

 掛け声一つ、目配せ一つで見事な連携を取り、基礎能力で圧倒的に上回る騎士を相手に奮戦する若き錬士たち。

 変幻自在の棍が荒れ狂い、雨のようなトリオン弾が降り注ぐ。

 トゥリパは騎士に張り付くようにして接近戦を続けている。射撃用トリガーしか持たぬメリジャーナは何とか間合いを開けようとするが、そのたびにピニョンの射撃が周到に逃げ道を塞ぐ。

 

(そろそろ、流れを変えたいところね)

 

 零距離で小銃を放つが、栗毛の少女は素早く身を躱し、あるいは器用に棍の先端で銃口を逸らしてこれを免れる。

 飽くことのない攻撃を受けて、メリジャーナの「誓願の鎧(パノプリア)」もそろそろ限界が近づいている。

 

(陽動の任は充分に果たしたし、もういいでしょう)

 

 メリジャーナはスラスターを噴かせると、「玻璃の精(ネライダ)」を張りつつ強引に敵の射程から離脱する。何はともあれ、射界を確保せねばならない。

 機動力では上回っているが、錬士たちは市街地を熟知しており、抜け道を用いて追い縋ってくる。徹頭徹尾、相手の土俵では戦わないつもりだろう。

 

(本当に、優秀な子たちね)

 

 メリジャーナは鎧の中で薄く笑みを浮かる。

 早くも距離を詰めてきた錬士たち。だが、家屋を突き破って現れたトリオン兵たちが、そんな彼らに襲い掛かった。

 

「う、うわっ!」

「くっそ、うぜぇ!」

 

 メリジャーナの要請で、ヌースはトリオン兵の幾らかを援護に寄越した。

 不意打ちを食らい、錬士たちの連携が乱れる。

 反撃には絶好の好機だが、メリジャーナは敢えて離脱を優先し、彼らに捕捉されぬよう建物の中に入った。そして、

 

「「恩寵の油(バタリア))」を「鉛の獣(ヒメラ)」に臨時接続」

 

 腰だめに構えた二丁の小銃に、凄まじいトリオンが集中する。

 メリジャーナのトリオン機関とは別に、「誓願の鎧(パノプリア)」の内臓電池「恩寵の油(バタリア)」からもトリオンを供給することで、一時的にトリガーを強化することができる。

 

 トリガーに負担がかかり、また「誓願の鎧(パノプリア)」の駆動時間が減少することから、本来はあまり用いられることのない裏技的な機能だ。

 二丁の小銃の内、片側を炸裂弾の「獅子(リョダリ)」へと、もう一方を追尾弾の「(フィズィ)」へとセレクターを切り替える。

 

 打ち合わせ通り、ヌースはトリオン兵を操り錬士たちを引き付けている。

 メリジャーナは慎重に機を窺い、そして静かにトリガーを引き絞った。

 

「な――」

 

 家屋を突き破った炸裂弾が、錬士と切り結ぶモールモッドに着弾し、周囲一帯を巻き込んで爆炎を放つ。

 ピニョンとトゥリパは咄嗟にシールドを張って爆風から逃れるが、次いで放たれた追尾段「(フィズィ)」が、猟犬のように襲い掛かる。

 強化された弾丸は、薄く引き伸ばされたシールドを紙のように打ち破り、二人のトリオン体をズタズタに引き裂いた。

 

「健闘しましたが、此処までです」

 

 瓦礫を踏み越えながら、メリジャーナが表通りへと出る。

 惨憺たる情景となった路上には、生身で立ち尽くす二人の姿がある。

 

「……トゥリパ、走れるか?」

「――っそんな、やだよ!」

 

 小声で逃走の算段を話し合うピニョンとトゥリパに、メリジャーナは警戒を怠らずに近づく。

 爆発に巻き込まれ、トリオン兵は残らず大破している。騎士の目さえ逸らせれば、どちらか片方なら逃げおおせる可能性もあるだろう。

 

「命を無駄にすることはありません。大人しく投降しなさい」

 

 メリジャーナは幾分柔らかい声で投降を進める。

 優秀なトリオン能力と技前を持った若者だ。配下にできればエクリシアにとって大きな利益となるだろう。

 

 また感情面からも、出来ることなら流血を見ずに終わらせたいと彼女は考えていた。

 戦いの最中とはいえ、若い二人の仲に気付かぬ彼女ではない。初々しい男女の仲を裂くのは、余り気分のいいものではない。

 

 実際問題として、二人揃って捕虜にしたほうが、後々の登用が楽だろう。一人ならばつまらない意地を張ることもあるが、同朋を交渉材料に使えば比較的楽に堕とせるものだ。 

 メリジャーナは至急バムスターを手配するようヌースに通信を入れる。だが、

 

「敵影多数接近。警戒を。騎士メリジャーナ」

 

 地図データに敵の光点が多数投影される。防衛部隊が体勢を立て直したらしい。

 

「いたぞ! 火力を集中させろっ!」

 

 すぐさま一団が到着し、「傍えの枝(デンドロ)」を揃えてメリジャーナに一斉射撃を加える。

 

「――っ!」

 

 騎士はシールドを張って弾丸を防ぐ。鎧は損傷が激しく、トリオンも心もとない。あくまで彼女の任務は敵の陽動である。無理に敵を殲滅する必要はない。

 

「……残念ね」

 

 メリジャーナはスラスターを噴かして戦線を離脱する。

 間もなく戦局は次の段階へと移る。ここで余力を使い切る訳にはいかない。

 

「おい、大丈夫か!」

 

 後退する騎士と入れ替わるようにして、ピニョンとトゥリパの下へ駆けつける防衛隊。その中に、

 

「ペ、ペタロ!? あなた何でこんなとこに……」

 

 撤退していたはずのペタロの姿がある。彼は簡易トリオン銃を引っ提げて、さも当然のように部隊を指揮している。

 

「もうどこもかしこも戦線はガタガタだ。範士ロアも連絡が取れない。防衛隊は市民を連れて砦まで引くよう通達があった」

 

 どうやら彼はメリジャーナに破れた後、防衛隊を纏めて付近の避難民を助けて回っていたらしい。

 

「おい待てよ、ってことは……」

「……予定通り砲撃で市街地を焼く。さっさと逃げないと巻き添えを喰らうぞ」

 

 ペタロの言葉を聴き、ピニョンとトゥリパの顔から血の気が失せる。

 とうとう上層部は、市街を捨てる決断を下したのだ。

 

 



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其の十三 流血

 武都の各地で戦闘が佳境に差し掛かっている。

 両国の(ブラック)トリガーが激突する北部地区でも、戦局に変化が起きていた。

 

「惰弱なモノだなエクリシアの騎士よ!」

 

 バラノスが上空を飛翔するドクサに侮蔑の言葉を吐く。

 市街地でひたすら追いかけっこを続けていた二人の戦士だが、時間が経つにつれて徐々にドクサの旗色が悪くなってきた。

 

 バラノスは超常的なトリオン体操作で縦横無尽に市街を駆け抜け、騎士へと追い縋る。ドクサは瓦礫を投げてけん制するも、その分速度を鈍らせ、距離を詰められてしまう。

 いよいよ「静謐の火(ヘオース)」の影響範囲が近づいてくると、ドクサは双腕を地面に突き立て、座卓をひっくり返すかのように地盤を覆した。

 

 そうしてできた隙をついて、ドクサはスラスターを噴かして上空へと避難したのだ。

 まさかただのトリオン体、それも老境の男がこれほどの機動力を見せるとは。騎士は敵の技量を見誤っていた。

 卑怯と謗られようとも相性の差ではドクサの有利だ。敵のトリガーに遠距離戦の手段はない。だが、

 

「やはり来るかっ!」

 

 王宮の物見塔で、巨大な発火炎が光る。

 ドクサは咄嗟に「金剛の槌(スフィリ)」を操作し、掌で一分の隙も無く「誓願の鎧(パノプリア)」を覆い尽くす。

 

 極光と共に、膨大な熱量がドクサを中心に撒き散らされた。

 天に咲き誇る巨大な火球は、(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」が放った砲弾である。

 遮蔽の無い上空へと逃げた騎士へ、オルヒデアが砲撃を加えたのだ。

 

「ぐおっ!」

 

 凄まじい衝撃に制御を失い、ドクサの駆る「誓願の鎧(パノプリア)」は地表へと落下する。

 しかし歴戦の騎士は墜落までの僅か数秒で体勢を立て直し、着陸を成功させた。

 

 鎧に目立った損傷はない。イルガーを焼き溶かす砲撃といえども、ただの一射では近界(ネイバーフッド)でも最高峰の頑強さ誇る「金剛の槌(スフィリ)」を破壊することはできない。

 漆黒の巨腕は表面こそ幾らか焼け溶けたものの、動作に一切の支障はない。

 

 それでも、生き残れたのは奇跡といってもいい。少しでも隙間が有れば、あの熱波は鎧さえも溶かしてしまっただろう。

 やはり、上空へ逃げたのは迂闊であった。いや、そこまで追い込んだ敵の手腕が見事なのだ。

 

「ちぃ!」

 

 舌うちと共に、ドクサは再び「金剛の槌(スフィリ)」で「誓願の鎧(パノプリア)」を覆い隠す。

 次の瞬間、眩い光が世界を白く塗りつぶした。

 光を浴びた瞬間、巨腕との接続がブツリと途絶え、全く操作を受け付けなくなる。

 いつの間にか接近していたバラノスが、「静謐の火(ヘオース)」の光を放ったのだ。

 

「おおおっ!」

 

 ドクサは雄叫びを上げて、置物となった巨腕を鎧の腕で殴りつける。

金剛の槌(スフィリ)」の巨腕が前方へ跳ね転がると同時に、スラスターを全開にして後方へと飛び下がる。発光は一瞬だったが、完全に遮ることはできなかった。曝露した鎧は明らかに動作が鈍くなっている。

 

 ドクサは恥も外聞も無く逃げの一手を打った。

 (ブラック)トリガーに挟撃されては強がりを言う暇もない。スラスターを噴かしてとにかくバラノスから距離を取り、砲撃を浴びないよう家屋の影へと入る。

 

 通常ならば撤退もやむなしの状況。しかし、ドクサの戦意はまだ萎えてはいない。

 操作不能になった「金剛の槌(スフィリ)」を放棄し、新たに双腕を造りだす。

 トリオンの消費が大きく長期戦は不可能となるが、得物が無ければ敵を打ち破れない。

 

 ドクサは街路を疾走し、それなりの大きさの広場まで移動する。

 そして掌を上に向け、漆黒の巨腕で誘うように手招きをした。

 

「おや……もう逃げ回るのは止めたのかね」

 

 そう揶揄しながら、矮躯の老人が街路の彼方から現れる。

 

「柄でもないことをするもんじゃないと反省したのさ」

 

 ドクサは巨腕で小石を拾うかのように瓦礫を掴む。

 

「何にせよやる気になってくれたのはありがたい。そろそろ時間も惜しいでな」

 

 光球を背後に引き連れ、バラノスは飄々とした様子で歩を進める。

 

 各地で戦況が大きく動いている。

 凄絶な市街戦の結果、エクリシアはトリオン兵の大半を失い、ポレミケスも戦線を維持できないほど疲弊した。

 現在ポレミケスの将兵には砦まで撤退するよう命令が出ている。当初の予定通り砲撃を行い、市街地に巣食う残敵を追い散らす予定だ。

 

 バラノスは騎士の一挙一動を注意深く観察する。敵の(ブラック)トリガーは「灼熱の華(ゼストス)」の砲撃にも耐えた。あれを生かしておけば作戦に支障をきたす。

 そしてドクサにとっても、今後の展開を優位に進める為にも「静謐の火(ヘオース)」は必ず除いておかねばならない難敵である。

 総身に殺意を滾らせて、二人の(ブラック)トリガー使いが静かに対峙する。そして、

 

「しっ――」

 

 迅雷の如き速度でバラノスが駆ける。「静謐の火(ヘオース)」は既に発光状態であり、距離を詰めるだけで勝敗は決する。

 ドクサは片腕で瓦礫を投げつけ、もう片方の瓦礫は山なりに放り上げる。

 

「っ……」

 

 時間差の投擲で進路を防がれ、さしものバラノスも回避の為に速度が鈍った。その瞬間、

 

「押し潰せッ!」

 

 ドクサはバラノスを握り潰さんと、「金剛の槌(スフィリ)」の片腕を飛びかからせる。「静謐の火(ヘオース))」の光を浴びて見る間に制御が効かなくなるが、慣性そのものを消し去ることはできない。だが、

 

「それしきかっ!」

 

 砲弾の如く迫る漆黒の掌を、バラノスは体術の極みを以て軽やかに避ける。

 もはや騎士は目と鼻の先。あと数メートル「静謐の火(ヘオース)」を近づければ完全な置物と化すだろう。しかし、

 

「とことん厄介な爺さんだ」

 

 あろうことか、騎士はスラスターを猛然と噴かし、残った巨腕を振りかざしてバラノスへと突進してきた。

 

「何っ!」

 

 老雄は危なげなくその一撃を避けるが、困惑は隠せない。もはや敵は「静謐の火(ヘオース)」の射程内だ。あれほど俊敏に動けるはずがない。

 瞬時に状況を悟ったバラノスは、肩越しに後方を見る。すると避けたはずの「金剛の槌(スフィリ)」の掌が、まるで虫を捕まえるかのように「静謐の火(ヘオース)」の光球を握りしめている。

 

「さぁて、あとは殴り合いといこうか!」

「なるほど……思ったよりは小知恵が回るようだの」

 

 ドクサが「金剛の槌(スフィリ)」を繰り出したのは、最初から「静謐の火(ヘオース)」を封じるためだ。

 作戦は図に当たり、光を遮断することに成功した。あとはバラノスを叩き潰すだけだ。

 矮躯の老人を亡き者にせんと、漆黒の巨腕が暴風のように荒れ狂う。

 その速度、威力は尋常ではなく、トリオン体など掠めただけでも原型を残さず破壊されるだろう。

 しかしバラノスはその猛攻を風にそよぐ柳のように受け流し、一撃たりともクリーンヒットを許さない。それどころか、

 

「墳っ!」

 

 老雄は掌打をもって鎧を滅多打ちにする。頑強な鎧を破壊することはできないが、浸透した衝撃は内部のドクサまで届く。

 無論、鎧越しの衝撃でトリオン体が破壊されることはないものの、トリオン体は人体の機能を忠実に再現するが故に、振動によってある種の酔いが引き起こされる。

 

「ぬぅ……」

 

 衝撃と震動で鎧がぐらりと揺れる。トリオン兵をも破壊する豪打の嵐に、内部のドクサは酩酊にも似た状態に襲われる。

 徒手での戦闘は比べるまでも無くバラノスが上手だ。流石は他国にまで名を轟かせる達人である。ドクサは鎧を纏っていながら防戦に追い込まれている。

 しかも密着されてしまっては「金剛の槌(スフィリ)」で薙ぎ払う事も難しい。

 

「これしきでは倒れんぞ!」

 

 ドクサは 「誓願の鎧(パノプリア)」の重量と速度を生かし、強烈な拳打をバラノスに見舞う。

 エクリシアの騎士は剣や銃を専門とするが、戦場で起こる万が一の事態に備えて、徒手格闘の訓練も積んでいる。しかし、

 

「ぬおっ!?」

 

 バラノスはドクサの豪拳を紙一重で避けると、踏み込んだ騎士の膝を斜めから踏みつけた。

 鎧の硬度のおかげでへし折れはしなかったものの、ドクサが大きく体勢を崩す。

 同時に老人は甲冑の内懐に潜りこみ、渾身の掌打を胸へと打ち込む。

 

「がっ――」

 

 重量級の「誓願の鎧(パノプリア)」が、ボールのように跳ね飛ばされて家屋へと激突する。

 猛烈な一撃だが、幸いにも内部のドクサのトリオン体には、そこまでのダメージは通っていない。右ひざの関節を破壊されたことを除けば、ほぼ無傷といっていいだろう。

 とはいえ、徒手空拳での戦いでは明らかにバラノスの方が上手だ。鎧を着込んでいたとしても到底勝ち目はないだろう。

 

「薙ぎ払えっ!」

 

 瓦礫の山に埋もれながら、ドクサは巨腕を操作してバラノスを攻撃する。

 ここで不味いのは、老人に再び「静謐の火(ヘオース)」の展開を許すことだ。

 光球を捕らえただけでは敵のトリガーを完全に無力化した訳ではない。先ほどドクサが新たに巨腕を造りだしたように、光球を消して造りなおせば済む話だからだ。

 故に、ドクサはひと時もバラノスを休ませる訳にはいかない。

 

「まだまだこれからよっ!」

 

 スラスターを噴かして、騎士は半壊した家屋から勢いよく飛び出す。

 だがそれを待ち構えていたかのようにバラノスが動いた。

 老人は音も無く踏み込みつつ、体を地面すれすれまで下げる。そしてあろうことか突進する騎士の股を抜けて、背後へと回り込んだ。

 

「な――」

 

 瞬く間に視界から消えた老人。騎士が次に感じたのは、己の首と頭部に絡み付いた手足の感触だ。

 エクリシアの誇る鎧を素手で攻略するには、関節を攻めるよりほかない。

 バラノスは強烈な打撃を囮にして、組みつく好機を窺っていたのだ。

 老雄が騎士の首を捻り挫くまでほんの数瞬。だが、ドクサは鎧の内部で獰猛な笑みを浮かべると、

 

「ありがとよ」

 

 と、そう呟く。

 同時に、異様な音と共に鎧の首があらぬ方向へと捩じれ曲がる。

 バラノスが見事に騎士の首を折ったのだ。

 エクリシアの騎士にして(ブラック)トリガーの担い手。おそらくは今回の敵でも最強の敵を、ポレミケスの老雄は見事に退けた。しかし、

 

「ぬ――」

 

 バラノスが苦悶に満ちた表情を浮かべる。

 鎧の腕が、彼の足を力強く押さえつけているのだ。

 トリオン体は致命的なダメージを受けても、すぐさま崩壊するわけではない。その僅かな時間さえあれば、

 

「っ――」

 

 騎士へと目がけ、「金剛の槌(スフィリ)」の巨腕が真っ向から迫る。おそらくはバラノスが組みつきを狙った時には既に軌道を設定していたのだろう。

 

 岩盤をも砕く鉄槌が、ドクサごとバラノスを殴り潰した。

 巨大な爆発が起こり、辺り一帯が土煙とトリオンで覆い隠される。

 そうして視界が晴れると、そこには生身となった二人の戦士が立っている。

 バラノスは土煙に塗れ、ドクサは粉々になった鎧の残骸を払う。

 

「……」

 

 対峙する両名は互いに無言。

 戦場においてトリオン体を失うことは死に直結しかねない危機だ。しかもお互いに戦略兵器たる(ブラック)トリガーを所持している。

 (ブラック)トリガーを鹵獲できれば、まず第一級の戦果となる。このまま生身で殺し合いが始まったとしても、何も不思議ではない。

 次の行動を慎重に探る二人。すると、バラノスが徐に片足を上げた。そして、

 

「墳っ!」

 

 パンっ、と巨大な破裂音が響く。震脚で地面を打ち鳴らした老人に、ドクサは思わず身構えた。だが、

 

「な――」

 

 騎士が身体を強張らせたと見るや、老人は踵を返して雲を霞と逃げ去ってしまった。

 

「……なるほど、最後まで喰えない爺さんだ」

 

 ドクサが呆気にとられていると、廃墟と化した街の向こうから馬蹄が聞こえる。

 ヌースの操るトリオン兵ボースが、ドクサの救援に来たのだ。

 

「おおご苦労。やはりお主がいると何かと助かるな」

「恐縮です。北方方面に敵の姿はありません。脱出地点までお運びいたします」

 

 耳に納めた通信機で、ヌースと連絡を取る。

 トリオン兵を操縦して騎士を援護する任務を与えられていた彼女だが、「静謐の火(ヘオース)」の特性上戦場に近づくことができなかった。幸い付近に待機させていたトリオン兵はいくらか残っているので、ドクサを安全に撤退させることができるだろう。

 

「状況はどうなっておる」

「間もなく騎士グライペインと強襲部隊が配置に着きます」

「正念場で引き下がるのは無念だが……」

「御身は代替なき騎士団の要。ここは御自重をお願いいたします」

「分かっとる。ただ、嬢ちゃんに任せるのが心苦しくてな……」

 

 ドクサは渋面を浮かべながらボースに跨った。

 (ブラック)トリガーを堕とした以上、彼の仕事は完遂している。これ以上戦場に居ては味方の邪魔にしかならない。

 廃墟と化した街並みを駆け抜け、ドクサは一路城壁の外へと向かった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 武都の南方で防衛部隊を撫で切りにしていたフィリアは、ヌースからネロミロス敗北の報を受けるやいなや、戦闘を中断して同僚の元へと向かった。

 

「ヌース。敵の情報を頂戴」

「解析の済んだ情報から逐次送信しています」

 

 管制担当のヌースは、ネロミロスの戦闘映像から敵の装備と能力を解析し、疾走するフィリアへと送る。

 エクリシアの誇る「誓願の鎧(パノプリア)」が撃破されたとの知らせは、俄かには信じがたいほどの衝撃をもたらした。しかし、映像を見れば納得せざるを得ない。

 

 敵の技量は明らかに達人の域に達している。

 黒髪の青年は、ポレミケスのエースと考えてまず間違いあるまい。

 ネロミロスもイリニ騎士団では十指に入る腕前を持ち、また「誓願の鎧(パノプリア)」を纏ってはいたが、それでもアレを相手にしては、不覚を取ったことを責められはしないだろう。

 

「鎧はまだ、敵の手には渡っていない?」

「付近のトリオン兵に時間を稼がせています。騎士スコトノはまだ離脱していない模様」

 

 敵地にて味方が敗北した場合、何よりも優先されるのがトリガーの回収である。戦略兵器である(ブラック)トリガーはもちろん、エクリシアの軍事的優位を確固たるモノにした「誓願の鎧(パノプリア)」は、絶対に他国へ渡す訳にはいかない。

 

 トリガーの確保、隠滅は最優先事項であり、団員の生命よりも優先される。

 その為「誓願の鎧(パノプリア)」には自爆装置がついているのだが、ネロミロスは未だに鎧を破棄していない。敵が付近にいる為、鎧を脱ぐことができないのだろう。

 現在はヌースがトリオン兵を操り、ネロミロスを撃破した戦士と交戦している。しかし、敵の技量は相当なモノで、ヌースの操るトリオン兵でも時間稼ぎが精一杯といった様子だ。

 

「もうすぐ接敵します。ヌースも援護をお願い」

「承知しました。フィリア。どうか気を付けて」

「……うん。分かってる。でも後少しで準備が整うの。此処が正念場だから」

 

 荒れ果てた街路を疾駆しながら、少女は長剣の重みを今一度確かめる。

 戦闘音が徐々に大きくなる。

 ヌースからの情報により、戦闘地点付近の地形は全て把握済みだ。鎧を纏った少女はスラスターを噴射し、倒壊しかかった家屋へと飛び込む。

 そうして体当たりで壁を突き破ると、今まさにトリオン兵と戦闘中のロアに、背後から斬りかかった。

 

「――っ!」

 

 ヌースが操るモールモッドと連携した、完全なる不意打ち。しかし、

 

(浅いっ……)

 

 必殺のタイミングであったにも関わらず、フィリアの剣はロアの左腕を掠めたのみ。切断できたが、致命傷には程遠い。

 

「はっ!」

 

 鋭い呼気と共に、ロアは残った右手でモールモッドの顔面を鮮やかに切り捨てる。

 敵の増援に不意打ちされたというのに、動揺した様子は一切ない。技術のみならず、精神面でも入神の域にある。

 フィリアは初撃を凌がれたとみるや、トリオン兵の頭上を飛び越え戦線を離脱する。

 

「ヌース。もう少し時間を稼いで」

 

 戦闘をトリオン兵に任せ、フィリアは擱座した「誓願の鎧(パノプリア)」へと向かう。

 彫像のように立ち尽くす鎧に近づくと、フィリアはその肩に手を添えた。

 

「トリガー臨時接続」

 

 フィリアの「誓願の鎧(パノプリア)」とネロミロスの鎧を接続し、機能を回復する。

 即座に外殻解除コマンドを入力すると、鎧の背面が速やかに開いた。

 

「騎士スコトノ。動けますね」

「あ、ああ。騎士フィリアか……」

 

 消沈した様子のネロミロスを鎧から引きはがし、ヌースに指示してトリオン兵ボースを呼び寄せる。

 

「南から離脱してください。敵は部隊を再編中のはずです」

「分かった。だが……」

「私はアレの相手をします」

 

 馬型トリオン兵にネロミロスを跨らせ、有無を言わさず尻を叩いて走らせる。

 武都の南部地区はフィリアが荒らしまわったため、防衛隊の数は少ない。またトリオン兵も十分残っているため、比較的安全に城壁の外まで出られるだろう。

 

「後は……」

 

 抜け殻となった鎧に、自爆コマンドを入力する。「誓願の鎧(パノプリア)」の製造には莫大なコストがかかるが、技術の漏えいに比べれば微々たる損失だ。最後の指令を打ち込まれた鎧は、緑の輝線を体に奔らせて指示に応える。

 一先ず最大の懸念事項であった鎧の始末を完了し、安堵の息をつくフィリア。だが、

 

「フィリア。注意してください」

 

 そんな彼女に、ヌースが警鐘を鳴らす。

 見れば、黒髪の美剣士がトリオン兵の包囲を破り、疾風のように少女へと迫っていた。

 

「――っ!」

 

 繰り出された鋭い斬撃を、フィリアは長剣を翻して寸でのところで受け止める。

 首を刎ねんとする殺意に満ちた一撃だ。報告によれば、この男は鎧さえも切り裂く技量を持っている。首や胸など、致命傷に至る部位への攻撃は無視できない。

 ロアは素早い身のこなしでフィリアの内懐に入り込むと、変幻自在の剣舞を一時も休むことなく繰り出す。

 

(厄介な……)

 

 フィリアは猛攻を凌ぎながら内心で毒づく。

 少女と密着しているロアに、ヌースの操るトリオン兵は手が出せない。

 ヌースと連携し、物量で押しつぶすつもりだったが、まんまと一対一の状況へと追い込まれてしまった。

 だが、それしきの事で怯む少女ではない。

 

「はっ!」

 

 裂帛の気合と共に、フィリアが「鉄の鷲(グリパス)」を振るう。

 幼い少女とはいえ、彼女もエクリシアでは名の知れた剣士だ。手負い相手に尻尾を撒いて逃げ出すような鍛え方はしていない。

 それに何より、彼女は「剣聖」アルモニアの愛弟子である。

 彼に比べれば、如何なる達人といえども決して太刀打ちできぬ相手ではない。

 

「っ……」

 

 フィリアが反撃に移ると、天秤は見る間に少女へと傾いていった。

 技量に関してはロアの方がやや上回っているが、彼は隻腕であり、何よりフィリアには「誓願の鎧(パノプリア)」がある。鎧の強度に訴えて、決め技以外は無視することができる。

 真正面から打ち合っては、流石の範士といえども勝ち目はない。にもかかわらず、

 

「シっ!」

 

 ロアの瞳には闘志が漲っており、勝負を諦めた様子はまったく見受けられない。

 

(…………)

 

 やはり、一方ならぬ相手である。フィリアは「直観智」のサイドエフェクトを用いて、勝利への道筋を探る。

 剣戟の嵐の中、ついにその時は訪れた。

 激戦に耐え兼ね、ロアの操る孤剣が鍔元から折れたのだ。だが、

 

「おおおっ!」

 

 柄だけになったトリガーを握りしめ、美剣士は雄叫びを上げてフィリアへと突撃する。

 

(それはもう見た)

 

 一見無防備に見えるロアだが、彼の奥の手が「誓願の鎧(パノプリア)」に届くことは判明している。

 フィリアは迫りくるロアの拳を、神速の手刀で迎撃する。その時、

 

「シィッ!」

 

 ロアは「刑吏の杭(ラピス))」の柄を手から落とし、地を蹴って跳躍する。

 そしてフィリアの手刀を掻い潜り、肩車をされるかのように鎧の頭部へと取りついた。

 

(なるほど…)

 

 鎧を攻略する手段は、何も正面からの力押しだけとは限らない。いかに全身を強固に固めていても、関節部は柔軟性を確保しなければならない。

 ロアは見事にその弱点を突いた。

 青年は残った右腕をフィリアの顔面に巻きつけ、首を捻じり折ろうとする。しかし、

 

(それでも、一手遅い)

 

 突如として沸き起こった閃光と爆風が、ロアとフィリアを飲み込んだ。

 

「何だと……」

 

 トリオン体を破壊され、地面に投げ出された範士ロア。

 千載一遇の好機を遮ったのは、彼が破壊した鎧の残骸だ。

 フィリアによって自爆モードに移行していたネロミロスの「誓願の鎧(パノプリア)」が、まさに絶妙のタイミングで爆発したのだ。

 

 ロアのトリオン体は爆風に巻き込まれてひとたまりも無く四散した。一方、フィリアの纏う「誓願の鎧(パノプリア)」には傷一つない。

 全ては少女の掌の上。「直観智」が示した事象に則り、もっとも確実な方法で勝利を掴んだに過ぎない。

 

「捕縛します。無意味な抵抗はしないように」

「……」

 

 敗者を睥睨し、無慈悲な声を掛けるフィリア。ロアを捕らえるべくバムスターが地響きを立てて近づいてくる。

 ここでロアを捕らえることができたのは大きな戦果だ。

 

 トリオン能力に関して言えば並より上といったところで、残念ながら遠征の目的である「神」の候補にすることはできないが、彼がポレミケスでも最上位の使い手であることに疑いはない。

 懐柔しエクリシアに仕えさせることができればよし。

 

 それが叶わずとも、人質としての価値は素晴らしく高い。

 彼をエサにすれば、ポレミケスには大幅な譲歩を迫れるだろう。上手くいけば、彼の身代りに「神」の候補を得ることも可能かもしれない。

 しかし、フィリアのその構想を、思いもがけぬ出来事が打ち砕いた。

 

 ――乾いた発砲音が響く。同時に、目の前の青年が鮮血を撒き散らしながら崩れ落ちた。

 

「な――」

 

 少女は驚愕に言葉を失うが、身体は染み付いた訓練通りに「玻璃の精(ネライダ)」を張り、射撃先へと警戒姿勢を取る。

 果たしてそこ居たのは、離脱したはずのネロミロスであった。

 

「何をなさるのですか騎士スコトノ!」

 

 ボースに跨り、簡易トリオン銃を構えた大男は激情に顔を歪ませてフィリアを睨む。

 

「何をするだと? それはこちらの台詞だ騎士フィリア! その男を生かしておいてはならん! まして祖国に連れ帰るなど以ての外だ!」

 

 ネロミロスは狂気じみたヒステリックな声で、忌々しげにそう叫んだ。

 この男狂ったか。とフィリアは疑うものの、「直観智」のサイドエフェクトは同輩が凶行に走った理由を明らかにしていた。

 彼が捕虜に銃を向けた理由。それは常日頃から抱いている他国民への嫌悪感と、自らが敗北したというやり場のない怒りによるものだ。

 

「あなたは……」

 

 あまりにも幼稚で短絡的な行動に、フィリアの胸に怒りが込み上げる。

 だが、今は作戦行動中である。曲がりなりにも同輩相手に争う愚は避けねばならない。

 

「~~っ!」

 

 フィリアは無理矢理ネロミロスから視線を背けると、膝を付いて倒れ伏すロアを見る。

 弾丸は全身のいたる所を貫通しており、夥しい量の血液が流れだしている。即死していないのが不思議な傷だ。

 最早手の施しようがない。辛うじて意識はあるようだが、長くは持たないだろう。

 

「……何か、言い残すことはありませんか」

 

 フィリアはロアを抱き起し、優しい声で語りかける。

 戦場には無用の感情だが、少女は情動に突き動かされるままに青年を介抱する。

 

「おる……ひであ? どうした、こんなところで……」

 

 もはや出血で視力も失い、事の前後も混濁しているのだろう。ロアはフィリアを何者かと間違え、場違いに優しげな声を掛ける。

 

「くらい……さむい。ちゃんと、ふくをきこんでいるか? かぜを……ひいてしまう。おまえは、からだが……よわいん、だから……」

 

 ごぼりと血を吐きだし、ロアは弱々しく手を伸ばす。

 咄嗟にフィリアは「誓願の鎧(パノプリア)」の兜を解除した。

 血にまみれたロアの指先が、フィリアの頬を撫でる。

 

「さあ……かえろうか。とうさまも、かあさまも、きっとしんぱいなさって……」

 

 不意に言葉が途切れ、腕が力なく地面へと落ちる。

 

「……」

 

 フィリアは青年の息が止まる瞬間を、瞳から光が失われていく様を、ただひたすらに見つめ続ける。

 そうして少女は無骨な鎧の指先で青年の瞼を閉じてやると、亡骸を大地に横たえさせる。

 少女は再び兜を被り直し、その表情は窺えない。

 ただ、未だに怒気を滾らせるネロミロスへと向き直り、

 

「騎士スコトノ。もはや敗残兵の貴方に、この場所に立つ資格はありません。命が有るうちに疾くと失せなさい」

 

 一切の感情を排した底響きする声で、冷厳にそう告げる。

 

「な、何をぬかすか新参者が……」

 

 少女の気迫に呑まれ、ネロミロスも語勢を弱める。

 フィリアはそれ以上言い合うつもりも無く、次なる戦場へと歩を進める。

 

「ヌース。状況はどうなってるの?」

「……襲撃部隊、騎士グライペイン共に配置に着きました」

 

 母船へと通信を繋ぐ。応じるヌースの声はいつも通り冷静だが、付き合いの長い少女は、その声に微かな沈鬱さを感じ取った。

 ヌースは各々の騎士の行動を全て把握している。

 当然、先ほどのフィリアが直面した出来事も見ていたはずだ。

 

「わかった。すぐに作戦を始めて」

「了解しました。……フィリア、大丈夫ですか?」

「……平気だよ。損傷も全然ない」

 

 少女は務めて無感情に応えた。今は感傷に浸っている暇はない。

 別働隊の準備が整った。作戦は次の段階へと移る。

 

 これからさらに多くの人が死ぬ。いや、フィリアたちが殺すのだ。

 いまさら躊躇うことなど、許されはしない。

 

 



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其の十四 遠征の顛末

 涙で滲む目で、栗毛の少女が荒れ果てた街並みを眺める。

 これから失われる光景を心に焼き付ける為、弱さに涙したことを決して忘れぬため、トゥリパは走りながら流れゆく景色を見詰める。

 

 此処は武都の東部地区。メリジャーナに敗北を喫したトゥリパたち一行は、避難民を引き連れ防衛部隊と共に砦へと撤退している最中であった。

 まだトリオン体を保っている二十人余りの戦士を前後に分け、間に避難民を挟んだ隊列である。

 

「おい、何か通信おかしいぞ。状況はどうなってんだ!」

 

 すると、先頭部隊に混じって指揮を執るピニョンがそう叫んだ。

 

「俺の方も繋がらない。おい誰か、王宮と通信できる奴はいるか!」

 

 一行のまとめ役となっているペタロが、大声で皆に問いかける。

 その声で我に返ったトゥリパも通信を試みるが、ノイズばかりでまともに繋がらない。

 結局、防衛部隊の全員が、本部へ連絡を取りつけることはできなかった。

 

「このタイミングで通信妨害だと……エクリシアめ、何を企んでいる?」

 

 ペタロが歯噛みする。本部だけでなく、他の防衛部隊とも連絡が付かない。

 通信機の故障の線はあり得ない。何らかの方法で敵が通信を遮断したと考えるべきだろう。どちらにせよ通信は部隊の命綱である。もはや彼らは敵地に取り残されたに等しい。

 

「何か、霧みたいなの掛かってない?」

 

 後列を力なく走っていたトゥリパが、若干怯えを含んだ声でそう言った。

 景色を眺め続けていた彼女だからこそいち早く気付いた。

 街全体に霧のようなモノが立ち込め、辺りをうっすらと白く染めている。

 

「な、これはトリオンです! トリオンの霧が……くそっ!」

 

 防衛部隊の一人が悲鳴を上げる。

 どうやら通信を阻害しているのはこれらしい。だが、まだ情報が足りない。

 ペタロはトリオン体の戦士に、

 

「高台に上がって、霧の分布状況を見てきてくれ」

 

 と、そう指示を出す。

 程なくしてもたらされた情報は、霧の尋常ならざる進行速度であった。

 霧は王宮のある中央区画を起点にして、武都の外周へと止めどなく広がっている。

 通信妨害の予兆があれば、上層部からすぐに連絡があったはずだ。それさえなかったという事は、この霧は極短期間で立ち込めたことになる。そして、

 

「馬鹿なッ、いくらなんでも範囲が広すぎるぞ!」

 

 一つの都市を覆い尽くさんばかりの霧の量。そんなことを可能にするのは……

 

「まさか、(ブラック)トリガー……」

 

 ペタロのみならず、防衛部隊全員の顔から血の気が引く。

 敵はここにきて、切り札を投入したのだ。

 

「れ、レーダーに敵影多数。囲まれてます!」

 

 そして、驚愕はまだ続く。トリオン体の隊員たちが挙って報告するのは、レーダーを埋め尽くさんばかりの赤い光点だ。

 敵がいつの間にか、霧の中から現れたらしい。或いは、この霧がレーダーに細工をしたか。

 

「落ち着け! 火力を集中させれば敵じゃない!」

 

 ペタロが大声でそう叫び、部隊の鎮静化を図る。恐怖は避難民たちにも伝播し、緊張がどんどん高まっていく。そして、

 

「う、うわあっ!」

 

 街路の角から長い首を覗かせたのは、捕獲・砲撃用トリオン兵バンダー。その足元にはモールモッドが群れを成して行進している。

 進行方向を塞ぐように現れたトリオン兵を目にして、恐慌を来たす避難民たち。

 ペタロたち防衛隊は、声を枯らして彼らの離散を防ぐのに精一杯だ。

 

「撃て撃て! とにかく撃ちまくれ!」

 

 ピニョンがトリオン兵の群れを指さし、防衛部隊にそう叫ぶ。

 彼らは「傍えの枝(デンドロ)」の筒先を並べ、猛然と射撃を始めた。すると、

 

「おいちょっと待て、嘘だろこいつら幻だ!」

 

 弾丸はトリオン兵の群れを素通りし、後方の建物へと着弾する。

 このトリオン兵たちは霧が投影した映像だ。しかしレーダーにはトリオン反応がはっきりとあり、目視でも本物と見紛う出来である。

 

「くっそ、まんまと引っ掛かった。突っ切ろうペタロ。こいつら足止めだ」

 

 ピニョンの憤慨する声に、パニックを起こしていた避難民たちも、幾らかは正気を取り戻す。実害がないなら、迂回せずに最短距離で砦まで迎える。

 

「よし。警戒を怠らずに進むぞ。市民の安全が最優先だ」

 

 ペタロの指揮の下、一向は霧の中をひた走る。

 途中、道を塞ぐバムスターに触れれば、何の支障も無く通り抜けられてしまう。

 

「何だ、虚仮脅しかよ……」

 

 先導する戦士が、安堵に息をつく。

 初めて目の当たりにした時は全滅をも覚悟したが、種が割れてしまえば何という事も無い。ただ通信妨害も含めて、各戦線では大混乱が起きているだろう。

 トリオン兵の幻影を通り過ぎて、一行は砦への道を急ぐ。

 すると、道の角からモールモッドが現れ、隊列へと向かってくる。

 

「動きまでそっくりだな……」

 

 戦士は念のため「傍えの枝(デンドロ)」で射撃し、トリオン兵が幻影かどうか確かめる。すると、

 

「うおっ、こいつ本物だぞ!」

 

 装甲が弾丸を弾いた。このモールモッドは実体がある。

 ブレードを掲げて襲い来るトリオン兵に、戦士たちが慌てて防御陣形を敷く。だが、

 

「お、おいもっと来たぞ! あいつらも本物なのか!?」

 

 新手のトリオン兵がどんどん現れる。彼らは幻影のトリオン兵と混ざり合い、どれが実体なのか判別がつかない。

 

「これってかなり不味い状況じゃあ……」

 

 戦士たちが冷や汗を流す。幻影に気を取られれば即座に攻撃を喰らう。

 隊列の足はすっかり止まってしまった。足止めが敵の狙いとあれば、これ以上なく術中に陥ってしまったことになる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ポレミケスの防衛軍が詰める砦「練兵館」。

 膨大なトリオンを注ぎ込んで造られた堅牢な建物は、王宮とその地下に眠る神を護るための最期の防壁だ。

 

 だが現在、防衛部隊はトリオン兵の撃退、市民の救出の為に各方面へと散っており、砦には最小限の戦士しか残っていない。

 砦の内部は訓練用の大広間から錬士の執務室まで避難民で溢れかえっている。平時は市民の立ち入りが許されない王宮も解放され、収容しきれない避難民を受け入れている。

 混乱と悲鳴と恐怖が支配するその建物を、高空から見下ろす人影がある。

 

「ここまでは狙い通りに推移するとは……末恐ろしいな、フィリア殿は」

 

 レーダー対策を施した「誓願の鎧(パノプリア)」を纏い、悠然とスラスターを噴かして宙に浮いているのは騎士テロス・グライペインだ。

 彼は戦闘に参加せず、トリオン兵に紛れて武都の中心部まで潜入した。そして別働隊の動きに合わせて行動を開始したのだ。

 

 テロスの掌には、蓋の空いた薬壺のようなトリガーが浮かんでいる。そしてその器機からは霧のような微細トリオンが滔々と流れだし、凄まじい速度で市街地に広がっている。

 これこそエクリシアが誇る(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」だ。

 

 トリオンの霧を展開し、範囲内の戦況を支配下に置くトリガーである。

 敵の通信の妨害、レーダーのかく乱が主な機能だが、鮮明な立体映像を投影し、敵を惑乱させることも可能だ。戦闘向きの機能こそ無いものの、敵の動きを丸裸にし、尚且つ相互の連携を絶つこのトリガーは、こと集団戦では無類の効力を発揮する。

 

 霧に包まれた市街からは、敵勢の混乱する様子がはっきりと伝わってくる。

 支援能力に特化した(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」を緒戦から投入しなかったのは、その威力を最大に発揮できるタイミングをフィリアが指示していたからだ。

 

「さて、いよいよだ」

 

 敵の(ブラック)トリガーに砲撃されぬよう、テロスは市街地を縫うように飛翔し、トリオンの霧をばら撒く。

 時を同じくして、避難民の籠る砦を激震が襲った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 最初は、遠方の激戦の余波が避難所まで届いているのだろうと誰もが思った。

 だが、地面の揺れは徐々に大きくなり、また轟々と異様な音が近づくように響いてくる。

 防衛隊へ不安を訴えた避難民も多くいたが、彼らは突如として立ち込めた霧によって通信が遮断されたと大騒ぎしており、取りつく島もない。

 

 そして市民の恐怖は正に的中し、地下よりソレが現れた。

 避難民の密集する訓練用広間。その床が、突如として円形に陥没した。

 

 その上に居た数十人の市民が、差し渡し十メートルはあろうかという巨大な穴に音も無く吸い込まれる。

 周囲の市民が悲鳴を上げる。次の瞬間、地下より白亜の塔がせり上がってきた。

 巨大なミミズを思わせるそれは、エクリシアの新型捕獲用トリオン兵ワムだ。

 

「ひっ……」

「きゃああぁぁぁっ!」

 

 思いもかけなかったトリオン兵の侵入に、避難民たちはパニックを起こした。

 安全かと思われていた砦だが、床や基礎部分には外壁ほどの強度はない。

 ステルス処理されたワムは秘密裏に土中を掘り進み、たった今得物の棲家へと辿りついたのだ。

 

「うわあああっ!」

「た、助けてっ」

 

 ワムは身体をくねらせ、逃げ惑う市民を床や壁ごと飲み込んでいく。

 外殻からは細長い触手を何本も伸ばし、市民を捕らえては巨大な口へと運ぶ。

 

 室内の警護に当たっていた戦士が攻撃を加えるが、毛ほども効いた様子はない。そして応援を呼ぼうにも、通信は妨害されている。

 ワムはトリオン能力に優れた人間を的確に見分け、次々と捕らえていく。

 

 この瞬間を導くため、エクリシアの騎士たちは陽動や時間稼ぎなど、様々な手練手管を講じて敵の目を欺いてきた。

 その成果が実り、避難所は阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。

 

 正しく入れ食い状態だ。また襲撃は王宮を囲む四つの砦すべてで同時に行われており、捕虜は莫大な人数になるだろう。

 めぼしいトリオン機関の持ち主を捕らえると、ワムは侵入した穴から再び土中へと潜った。欲を掻いて離脱できなければ元も子もない。防衛隊に襲撃が伝わるまで今しばらく時間がかかるが、長居は禁物である。

 

 ヌースによって操作されたトリオン兵は、熟練兵も同然の素早さで現場から撤退を始めた。

 城壁の外まで辿りつければ、(ゲート)を潜って完全に離脱できる。

 追っ手は掛かるだろうが、捕虜の救出にはワムが彫り抜いた地下トンネルを進まなければならない。生き埋めの危険が付いて回り、また人数も揃わぬ以上、無理には追跡してこないだろう。

 

 この時点で、エクリシア側の勝利はほぼ確定したといっていい。

 近界(ネイバーフッド)でも稀に見る大勝利である。この戦略を立てたのが、僅か十一歳の少女であることを、誰が信じられるだろうか。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「襲撃は成功。ワムは現在撤退中。追跡者の反応はありません」

「分かった。次は――」

「残りのトリオン兵を投入し、騎士の撤退を援護します」

「うん、お願い。くれぐれも攻めすぎないようにね」

 

 荒れ果てた武都の南部。薄く霧がかかった廃墟の街並みに、フィリアは一人立ち尽くしていた。

 周囲に敵影はなく、破壊されたトリオン兵があちこちに無残な姿となって転がっている。

 塵煙が風に巻かれ、鎧の表面を洗っていく。

 

 今回の侵攻戦、既に大勢は決した。

 ポレミケスには捕虜を奪還するだけの戦力は残っていないだろう。それどころか、避難所が襲撃されたという情報を共有できているかも怪しい。

 

 騎士たちはその任を終えたので、「光彩の影(カタフニア)」を維持する必要のあるテロス以外は母船に帰還させる。

 あとは擾乱目的でトリオン兵を投入し、ワムが離脱地点まで帰ってくるのを待つばかりとなった。

 だが、果たしてこれで作戦は完了したと言えるだろうか。

 

「どうしましたかフィリア? あなたもすぐに撤退を。ルートをナビします」

「ああ、うん」

 

 母船から届けられるヌースの声に、少女は力なく応える。

 今回の遠征の目的が、「神」の候補を見つけるためのものだとすれば……

 

「ごめんなさいヌース。私、まだ戻れない」

 本当の目的は、まだ達していない。フィリアのサイドエフェクトが、そう語りかける。

 

「……行くね」

 

 少女はスラスターを噴かし、瓦礫の山を飛び越える。

 目指すは武都の中心部。そこに、彼女の求める敵がいる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 王宮の物見塔に、オルヒデアは立っていた。

 絹糸のような黒髪を風に靡かせた美しい乙女。白く透き通った肌と、柳のように細い腰、見るからに華奢で繊細な肢体は、とても戦場には似つかわしくない。

 

 そんな深窓の姫君に相応しい気品を漂わせた彼女は、今や異形の姿となっている。

 彼女の右腕が、身長ほどもある長砲身へと置き換わっていた。肩から胸、首から顔に掛けて、どこか生物的なフォルムをした武器が乙女を浸食するかのように纏わりついている。

 

「ああ兄様、私はどうしたら……」

 

 眼下には濃密な霧の海が広がっている。

 高所に陣取り、(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」で長距離砲撃を行っていた彼女は、現在困惑の渦中にあった。

 

 本部と通信が途絶え、一行に復旧の兆しを見せない。

 (ブラック)トリガーの担い手として戦場に出てはいるものの、彼女は戦士としてのキャリアが浅く、砲撃は本部の指示に従って行っていた。

 その本部と連絡がつかなくなった今、彼女は果たしてどう動いたものか、思案に暮れていた。

 

「ええと、一旦中に戻って……でも持ち場を勝手に離れてしまっていいのかしら……」

 

 恐ろしい見た目にも関わらず、童女のように慌てふためくオルヒデア。

 兄と連絡がつかなくなったことも、彼女の動揺を一層深めている。

 

「伝令、伝令です!」

 

 そんな彼女を呼ぶ声。見れば、階下から王宮警護の戦士が階段を駆け上ってくる。

 兵士が早口に語る内容は、オルヒデアから言葉を失わせるに十分なものであった。

 新型トリオン兵の強襲により、避難所から多数の市民が拉致されたこと。また霧状トリオンによって通信が遮断され、各地の部隊が窮地に陥っていること。

 

「この霧は敵の(ブラック)トリガーによる可能性が濃厚とのこと。オルヒデア様には御出陣いただき、トリガー使いを排除するよう指令が下されました!」

「そ、そんな……お言葉ですが、私は……」

 

 戦士の通達に、オルヒデアは目に見えて狼狽する。

 彼女には対人戦闘の経験が殆どない。確かに「灼熱の華(ゼストス)」は強力無比だが、果たして自分にそんな大役が務まるのだろうか。そしてなにより――

 

「それに、まだ皆さまの避難は終えられていないのでは……」

 

灼熱の華(ゼストス)」の効果範囲は恐ろしく広く、どれほど威力を絞っても市街を巻き込んでしまう。最後の手段として市街地を爆撃する作戦は聞かされていたが、それも市民と防衛部隊の避難が済んでからのはずだ。

 

「如何なる犠牲を払ってでも、敵のトリガー使いを撃破せよとの命令です。もはや一刻の猶予もありません。この霧が晴れねば味方の救出もままならず……オルヒデア様。どうか御出陣を!」

 

 沈痛な面持ちで戦士は頭を下げる。伝令役の彼は指令を持ってきただけだ。その心境はオルヒデアと同じなのだろう。

 

「……分かりました」

 

 反論の余地が無いことを悟り、オルヒデアは硬い声で答える。

 身体の震えを隠すように、乙女は毅然とした眼差しを市街へと向ける。

 その視線の先、霧に呑み込まれた市街の空を、悠々と我が物顔で飛翔する人影がいる。

 エクリシアの騎士が、まさにオルヒデアに挑むかのように姿を現していた。

 

「――っ!」

 

 咄嗟に砲身となった右腕を構え、オルヒデアが砲撃を放つ。

 天を切り裂く光芒は、しかし騎士を捉えることなく素通りし、遥か彼方で大輪の花を咲かせる。

 まるで砲撃を見越していたように華麗な回避を見せた騎士は、そのまま霧深い市街へと降りていく。

 あの騎士が霧を操っているかどうかは不明だが、その確率は決して低くはないだろう。

 

「い、行きますっ!」

 

 オルヒデアは恐れを振り切り、高台から身を投げた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 南方へと逃げた騎士を追いかけ、オルヒデアは霧の立ち込める市街を疾走する。

 視界は悪いが、トリオン体の補正でなら十分先を見通せる。敵味方を間違えることはないだろう。

 

 厄介なのは、道を塞ぐトリオン兵の幻影である。

 霧によって投影されたこの立体映像は、見た目では本物と区別できぬ精密さを持ち、尚且つレーダーにも反応する。移動の際に音がしないので注意を払えばそれと気付くが、本物のトリオン兵と混成で出てきたときは始末に負えない。

 だがそれも、ノーマルトリガーが相手であった場合の話である。

 

「消えて下さい!」

 

灼熱の華(ゼストス)」から放たれた弾丸が炸裂し、球状の光が市街地を飲み込む。

 爆発が収まった後には、すべてを焼き尽くされた空間だけが残った。

 

 幻影も実体も関係なく、建物やトリオンの霧さえも呑み込むその威力は、まさに(ブラック)トリガーに相応しい。

 ただその高位力の反面、「灼熱の華(ゼストス)」には重大な欠点がある。いくら威力を絞っても、火球のサイズは直径二十メートルを下回ることが無い。

 

 近距離の相手に撃てば己をも巻き込むため、位置取りには常に気を配らねばならない。

 そして問題なのが、担い手であるオルヒデアにそこまでの技量が無いことだ。

 

 かといって、彼女を前線に投入した上層部の判断も、間違いとは言い切れない。

 敵が纏う鎧の頑強さは尋常ではなく、ノーマルトリガーでの破壊はほぼ不可能と見ていい。霧を排除せねば被害状況すら纏めることができない状況だ。未熟であろうとも(ブラック)トリガーを用いねば、局面を打破することができない。

 

 彼女を補佐するために、王宮警護に当たっているトリガー使いが距離を置いて付いてきている。最悪、オルヒデアは敵の騎士と相打ちになっても構わない。後の事は彼らが上手く計らってくれるだろう。

 それでも、乙女の心から恐怖は消えない。

 

(兄様、私に勇気をください……)

 

 敬愛する兄の姿を胸に思い描き、乙女は先の見えない廃墟をひた走る。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「言った通りの手筈でお願い」

 

 朽ち果てた商店のカウンターに身を隠し、フィリアは通信越しに指示を出す。

 

「敵(ブラック)トリガーの火力は「誓願の鎧(パノプリア)」を以てしても防げるものではありません。今一度、再考を願います」

 

 母船から返答するヌースの声は、何時にも増して硬く冷たい。彼女がここまで怒っているのは、フィリアにとっても初めての経験だ。

「神」の候補として最も相応しい者は誰か。少女のサイドエフェクト「直観智」が示した相手は、砲撃型(ブラック)トリガーの担い手である。

 フィリアはそのトリガー使いを狩るため、待ち伏せを行っているのだ。

 

 エクリシア側は既に撤収段階に移っており、市内には敵の足止め用のトリオン兵が展開しているばかりで、主戦力の騎士はテロス・グライペインしか残っていない。

 その彼も、城市の外縁部まで引きさがり、ワムが離脱ポイントに到達するのを待っている。

 つまり、フィリアはほぼ独力で(ブラック)トリガーの担い手を打ち取らなければならない。ヌースが反対するのも当然だ。

 

「大丈夫。もし悪い目が出ても、私はきっと無事に帰れるよ。約束するから」

 

 務めて明るい声で、少女はそう言う。

 サイドエフェクトのお墨付きがあるかのような物言いだが、実際の所、彼女の「直観智」は成否両方の可能性を示していた。

 敵を討ちとれる可能性も高いが、フィリアが捕虜になる、ないしは命を落とす可能性も十分にあった。

 

 しかし、勝負から降りるという選択肢はない。

 母を助けるため、家族の幸せな未来を掴むためなら、少女は我が身すべてを掛け金にすることも厭わない。

 

「……フィリアの意思を尊重します」

「ありがとう」

 

 ヌースが折れたところで、テロスから通信があった。

 敵の(ブラック)トリガー使いはフィリアを追って、想定通りのコースを進んでいるらしい。

 

「感謝いたします、騎士グライペイン。――それでは、状況を開始します」

 

 フィリアは「鉄の鷲(グリパス)」の剣柄を握りしめ、静かに襲撃地点へと移動する。

 テロスの「光彩の影(カタフニア)」の効果で、少女は敵のレーダーに掛からない。逆に敵の行動はこちらに筒抜けである。奇襲はいとも容易く成功するだろう。

 とはいえ、戦力的にこちらが不利という事に変わりはない。奇襲のアドバンテージを失わぬ間に(ブラック)トリガーを討ち、捕虜を連れて戦線から離脱せねばならない。

 

「――ふぅ」

 

 鎧の中で、フィリアは静かに息を吐く。

 目的を果たすためには、猛りも恐れも必要ない。

 少女は己の精神を、鋭く透明に研ぎ澄ましていく。

 そして、一瞬の好機は訪れた。

 スラスターを全開にして、フィリアは路地より躍り出た。

 標的は(ブラック)トリガー使いではなく、後詰の兵隊だ。

 

「な――」

「って、敵――」

 

 長剣が閃き、声を上げる暇さえ与えず二人の戦士の首が落ちた。

 

「「鷲の爪(オニュクス)」」

 

 距離が遠かった幸運な数名は、武器を構えるだけの猶予があった。

 しかし、オプショントリガーによって凄まじい切れ味となったフィリアの剣は、対手を受けた武器ごとを容易く切り裂く。

 僅か数秒で、五名いた戦士たちはトリオン体を失った。

 幾ら奇襲を許したとはいえ、彼らとて王宮を守護する腕利きの戦士たちだ。それを一瞬で葬り去ったフィリアの剣技は、もはや尋常の域には収まらない。

 

「さて……」

 

 フィリアは剣を提げ、街路の先でこちらに砲口を向けているオルヒデアを見る。

 右腕が変化した長大な砲身を除けば、息を呑むほど美しい女性である。後方で起こった戦闘に、遅まきながら気付いたのだろう。彼女は恐怖と混乱に美貌を歪めながらも、揺らぐことのない意思で砲身を構えている。

 すぐさま撃ってこないのは、周りに生身の戦士たちがいるからだ。

 フィリアの予見通り、敵の(ブラック)トリガーは効果範囲が広すぎるのだろう。

 

「……」

 

 少女は首を動かさず、視線だけで膝を付く戦士を見る。

 彼らを人質にして、オルヒデアを武装解除させるのも一つの選択肢だ。

 見たところ、彼女の振る舞いはあまりに軍人らしくない。おそらくは(ブラック)トリガーと適合したが故に戦場へと狩り出されたのだろう。

 それに、気優しそうな性格が透けて見えるような顔をしている。人命を交換条件に出せば、投降する可能性も十分にありそうだ。

 

(いや、駄目だ)

 

 しかし、フィリアのサイドエフェクトはその方針を却下した。オルヒデアは良くとも、戦士たちがその展開を許すまい。

 彼らはオルヒデアとは異なり、戦士としての覚悟を備えている。人質に取れば、即座に自害するだろう。そうなれば、フィリアは盾なしで砲火の前に曝されることになる。

 

「仕方ない、か」

 

 フィリアは嘆息一つで覚悟を決め、もう一つのプランを実行するためスラスターを全開にする。そして、

 

「「鷲の羽(プテラ)」」

 

 長剣のオプショントリガーをも起動し、弾丸を上回る速度で一直線にオルヒデアへと飛翔する。

 少女の剣が届くまで、もはや一秒とかからない。だが、

 目を焼くような極光が轟然と沸き起こり、フィリアとオルヒデアを飲み込んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 膨大な熱量が「誓願の鎧(パノプリア)」の外殻を一瞬で熔かし、内部のフィリアのトリオン体をも焼き尽くす。

 技量に乏しいオルヒデアが、エクリシアの騎士を討つべく密かに考えていた戦法。それは己をも巻き込んでのゼロ距離射撃、つまりは自爆であった。

 

 灼熱の極光に塗りつぶされた二人は、痛苦を感じる間もなくトリオン体を失う。

 光が消え去ると、街は円形に削られ、地面には巨大なクレーターが穿たれていた。

 そしてすり鉢の底には、換装の解けたオルヒデアと、最早原型も分からぬ程に焼け溶けた、「誓願の鎧(パノプリア)」の残骸がある。

 

「…………」

 

 トリオン体を失った戦士が次に取るべき行動は、逃走一択である。特にオルヒデアは国防の要となる(ブラック)トリガーを持つのだから、そのことについては耳にタコができるほど聞かされている。

 

 戦士となってからこちら、毎日走り込みだけはひたすら続けさせられてきた。生来鈍くさい彼女でも、今なら休みなしで都を一周できるほどの体力は付いている。

 そんな彼女が、逃げ出すのも忘れて奇妙なオブジェとなった鎧を凝視している。彼女の注意を引いたのは、鎧の残骸から伸びた褐色の小さな手だ。

 

「そんな、なぜ……」

 

 狼狽も露わにオルヒデアが鎧へと近づく。熔解した鎧の前面から覗くのは、褐色の肌と白い髪をした十かそこらの子供である。

 トリオン体の体格は変更が可能であることは知識としては弁えているものの、二メートル近くはある「誓願の鎧(パノプリア)」を操縦していたのが、こんな幼い子供だったとは。

 

 彼女の脳は咄嗟にその事実を受け入れられなかった。

 戦場に居るべきではない幼子の姿。それに憐憫の情を抱いたことが、彼女の命運を分けることになった。

 

「ねえあなた! しっかりして、眼を開け――」

 

 死んだように動かない子供に、オルヒデアは今にも泣き出しそうな顔で声を掛ける。

 その瞬間、金色の双眸が、乙女を射抜いた。

 

「お、おおおあぁぁっ!」

 

 獣の咆哮にも似た絶叫を喉から迸らせ、褐色の少女フィリアが鎧の残骸から躍り出る。

 雄叫びに肝を潰して立ち尽くしたオルヒデアへと飛びかかった少女は、その小さな腕を乙女の首に巻きつけ、裸締めを決める。

 

「が、――くぁ」

 

 少女は非力を補うため、全体重をかけて乙女の首からぶら下がる。

 気管を潰さんばかりの容赦ない絞め技に、オルヒデアはたまらず地面に倒れ込むと、本能的な危機感から必死の抵抗を試みる。

 

 少女の腕に爪を立て、力の限り掻き毟る。

 鮮血が迸るが、フィリアの拘束は一向に緩まない。

 

 狂乱に陥ったオルヒデアは、背後にある少女の頭を殴りつけ、引っ掻き、それでも効果が無いと分かるや、細い腕を掴んで強引に振り解こうとする。

 もはや意識を失いかけている乙女は、生存本能の導くまま少女に容赦ない攻撃を加える。

 

「――っ、く!」

 

 体格差、筋力差から、徐々にフィリアの拘束が緩んでいく。元々大人と子供である。本気になって抵抗されれば、少女に制する術はない。

 

「ヌースっ!」

 

 不利を悟ったフィリアが、怒声にも似た大声でそう叫んだ。

 あと数秒で失神させられるところだったが、オルヒデアは必死の抵抗で少女の腕を振り払うことに成功した。

 

「かひゅ――ごほ、かは……」

 

 地面に膝を付き、呼吸に咽ぶオルヒデア。

 突如として我が身に降りかかった暴力に、まるで意識が追い付いていない様子だ。

 

「ああぁぁっ!」

 

 再び聞こえてきた雄叫びに、乙女が怯えた様子で振り向く。

 すると、鬼の形相をした少女が地を蹴ってオルヒデアへと突進してくる。

 小さな体の一体どこにそんな力があるのか、フィリアは乙女に組みつくと、そのままクレーターの外縁部まで押し出そうとする。

 

「はな……やめ――さい!」

 

 オルヒデアも少女を引きはがそうと足掻き、二人はもつれ合いながら地面に転がる。

 そんな二人を、巨大な影が覆い隠す。

 

「な――きゃっ!」

 

 フィリアの要請を受けて駆けつけたのは、ヌースが操るトリオン兵バムスターだ。

 オルヒデアは大口を開けて迫りくるバムスターから逃れようともがくが、腰にしがみついた少女がそれを許さない。

 そしてトリオン兵に呑み込まれところで、二人の意識は途絶えた。

 

 ――ポレミケスで行われた最後のトリガー使いの戦いは、こうして幕を下ろした。

 その後、トリオン兵によるかく乱、「光彩の影(カタフニア)」の霧による援護が功を奏し、ワムは一体もかけることなく城壁の外へと到達。(ゲート)で速やかに回収された。

 捕獲用トリオン兵の回収を確認すると、テロス・グライペインは霧を引き払い、遠征艇へと帰還する。

 

 イリニ騎士団の駆る遠征亭は、本国エクリシアを目指して撤退を始めた。

 彼らが去った後のポレミケスには、破壊の限りを尽くされた街並みと、打ち捨てられた亡骸だけが残された。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ん……う?」

 

 寝とぼけた自分の声で、フィリアの目は覚めた。金色の瞳を瞬かせ、睡魔の残滓を追い払う。

 すると、視界いっぱいに広がるのはオリーブグリーンの板壁だ。

 少女の脳が、徐々に覚醒していく。

 前後の記憶を鮮明に思い出したフィリアは、慌てて上体を起こした。そして、

 

「――ぁ痛!」

 

 ごちんと頭を天井にぶつけ、少女は声にならない悲鳴を上げる。

 ここは遠征艇内でフィリアとメリジャーナに当てられた個室。その狭い二段ベッドの上段である。

 

 少女の記憶は、(ブラック)トリガー使いと組み打ちし、諸共にバムスターに呑み込まれたところで途切れている。

 こうして自室で寝かされているということは、なんとか無事に撤退できたらしい。

 

 どれだけ気を失っていたかは分からないが、ともかく詳しい情報を集めようと、少女はベッドから降りようとする。すると、

 ばさばさと、物が床に落ちる音がする。

 何事かと、狭いベッドからフィリアは顔を出す。すると、

 

「――!」

 

 そんな少女を力強く抱きしめたのは、薄紫色の髪をした女性、騎士メリジャーナだ。

 

「…………あ、あの」

 

 無言で抱き着いてくる同僚に、フィリアは困惑した声を出す。

 というより、少々苦しい。

 彼女は男女問わず羨むような豊満な体型の上、軍隊暮らしで力も強い。そんなに思いきり抱き着かれては、窒息しそうになる。

 

「よかった……本当に……」

 

 けれど、涙混じりの声でそう呟かれては、フィリアも抱擁を受け入れるほかない。

 小さな部屋の中で、二人は暫しの間、お互いの生存を喜び合った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「あんな無茶をするなんて、私そんなこと教えてませんからねっ!」

 

 ようやくメリジャーナが落ち着きを取り戻し、解放されたフィリアであったが、今度は長いお説教が待っていた。

 彼女は少女が単身と(ブラック)トリガー戦ったことに、強い不満があるらしい。

 

 隊長であるドクサの了承を取りつけた上での行動であり、別に作戦違反という訳ではない。また人選に関しても、あの時まともに動けたのはフィリアとメリジャーナだけで、尚且つメリジャーナの鎧は損傷が著しく、距離も遠かった。

 妥当な判断であっただろう。それに危険度は高かったが、試すだけの価値がある作戦だった。

 

「こんなに怪我をして……」

 

 だが、メリジャーナはそんなことを議論したいわけではない。

 フィリアの両手と顔には、ガーゼや包帯が巻かれている。

 敵の(ブラック)トリガー使いを抑え込んだとき、抵抗を受けてできた傷だ。

 

 取っ組み合いをしていた時は何も感じなかったが、今となってはなかなかに痛い。傷は思ったよりも深かったらしい。

 少女が寝ている間に、船内の医療機械で負傷の具合を調べたそうだ。

 ひっかき傷と打撲の他に問題は発見できなかったが、念のため本国に戻ってからは精密検査をうける必要がある。

 ともあれ、相手が女性でよかった。あれが屈強な男性であれば、逃げられるどころか逆に捕らえられていたかもしれない。

 

「ホントにフィリアさん分かってるの!?」

 

 眦を釣り上げて怒るメリジャーナ。しかし、その目は赤く腫れぼったい。

 

「……はい。御心配をおかけしました」

 

 フィリアは透き通るような笑顔を浮かべて、メリジャーナに応える。

 体調も安定していると分かると、二人は伴ってブリッジへと向かった。

 

「おや、小さな英雄様の御帰還だぞ」

 

 入室するやいなや、野太い声でそう囃し立てたのはドクサ・ディミオスだ。彼は豪快に笑いながら、フィリアの目覚めを祝う。

 

「フィリア様、お気分は如何ですか? もし体調が優れないようでしたら、お休みになられていてもかまいませんよ」

 

 金髪の美男子テロス・グライペインは、紳士然とした口調で少女の体調を気遣う。

 もう一人の騎士、ネロミロス・スコトノの姿は無い。メリジャーナに道すがら聞いたところ、彼も多少の負傷があり、自室で休養しているらしい。

 あの出来事があったため、フィリアとしてもあまり会いたくない相手だ。顔を会わす機会が減ったのならば、まあ喜ばしいことだろう。そして、

 

「フィリア……とても、心配していました」

 

 円卓の中央に座しているのは、少女の掛け替えのない家族、自律トリオン兵ヌースだ。

 

「うん。……ごめんね。ありがと」

 

 フィリアはヌースのボディをそっと撫で、言葉では語り尽くせない感謝の思いを告げる。

 そうして他の同僚へと向き直ると、

 

「ご迷惑をおかけしました。皆さまの御助力のおかげで、再びエクリシアへと帰ることができます」

 

 丁寧に頭を下げ、礼を述べた。

 それから、フィリアは自らの席に腰を据え、ポレミケス侵攻戦の詳細な成果を確認する。

 

 捕虜の数は二百人以上。加えてこちらの人的損害はなし。

 大国エクリシアでもほとんど記録にない、桁外れの大勝利である。

 

 それに加えて、本遠征ではポレミケスの砲撃型(ブラック)トリガーを鹵獲することができた。これだけでも、捕虜百人に勝る戦果だろう。

 近界(ネイバーフッド)では(ブラック)トリガーは軍事力の象徴とされる。今回入手したトリガーを加えると、エクリシアが保有する(ブラック)トリガーは全部で八本となる。

 これは近界(ネイバーフッド)全域を見渡しても稀有な所有数だ。エクリシアの武名は諸国に轟くことだろう。

 

「本遠征の勲功第一は、間違いなくお嬢ちゃんだな」

 

 ドクサは笑いながら、ぐりぐりとフィリアの頭を撫でる。

 

「ちょっとお父さ……隊長! フィリアさんはまだ怪我が治っていないのよ!」

 

 慌ててメリジャーナが父のごつい掌を引きはがす。

 

「おおすまん。つい嬉しくなってな」

「スキンシップが過剰なのよ! フィリアさん。こっちにおいでなさいな」

「――ふふっ」

 

 ドクサとメリジャーナ親子のやり取りに、知らずとフィリアの顔がほころぶ。

 そんな少女の気持ちが伝染したのか、ブリッジに集う騎士たちは一様に和やかな表情を浮かべる。

 会戦前の緊張が嘘のような、平和で満ち足りた時間が流れた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 夕焼けに染まり、宝石のように輝くエクリシアの街並み。

 教会の尖塔からその光景を眺めるのは、空色の髪と瞳をした少年アヴリオ・エルピスだ。

 少年は朗らかな笑みをたたえ、幾度となく目にした眼下の景色を飽くことなく見つめる。

 

「――おや?」

 

 そんな彼の至福の一時に、無粋な電子音が水を差す。

 アヴリオは腕輪型の端末を操作し、立体映像を投影する。

 

 そうして報告書を読み進めるうちに、彼の表情から感情が抜け落ちていく。

 普段は人懐こい笑顔を欠かすことが無いだけに、無表情となった少年の顔は、その異相もあって何か底知れぬ凄みがある。

 

 一通り通信内容に目を通すと、少年は厭わしげな仕草で投影モニターを消し去った。

 再び胸壁へと腕を掛け、絶景へと目を向けるものの、その表情に笑みが戻ることは無い。

 

「……ふう」

 

 アヴリオは心から潤いが失われたことを悟ると、ため息をついて階段へと歩く。

 丁度その時、階下から足音が聞こえた。

 

「またこのような場所に居られたのですか」

 

 大儀そうに階段を上ってきたのは、顔中に深い皺の刻まれた老齢の男性だ。

 彼は枢機卿ステマ・プロゴロス。

 枢機卿とは、教皇の補佐を職務とする最高顧問である。

 教会ではナンバー2、すなわちこのエクリシアおいては国権の次席に座る貴人の中の貴人だ。

 

 特に、教皇の存在が一般市民に秘匿されている現在では、国事行為の全てを担うこの老人は、実質的にエクリシアの元首であるといってもいい。

 寒風吹きすさぶ高台に、供も連れずに来ていい立場の人物ではない。

 

「ああ、ごめんね。やっぱりここが落ち着くんだ。見てごらんよ。いい景色だ」

 

 そんな要人を相手に、アヴリオは常と変らぬ軽い調子で言葉を吐く。

 

「さようなことは結構。また勝手に教会を抜け出したそうですな」

 

 ステマはその不敬を咎めることもせず、孫を叱りつけるような調子で声を尖らせる。

 

「御身は掛け替えのないエクリシアの至宝であると、常々申している筈ですぞ」

「あはは……」

 

 苦笑を浮かべて素直に頭を下げるアヴリオ。

 

「せめてお勤めだけは忘れないようにしていただきたい。今エクリシアが重大な局面にあることは、あなた様も良くご存じでしょう」

「うん。返す言葉もないよ」

 

 余り悪びれた様子も見せず、少年は気楽に手を振って答える。

 

「そう言えば、イリニ騎士団が遠征から帰ってくるようですな。何でも途轍もない戦果を挙げたとか……」

「報告書は今しがた読んだよ。(ブラック)トリガーまで鹵獲したってさ」

「それは何と! 流石はイリニ騎士団ですな。いや実に目出度い!」

 

 衒いも無く相好を崩し喜ぶステマを尻目に、アヴリオは胸壁へと向かい、複雑な表情で聖都の街並みを眺める。

 

「そうかな。まあ、目出度いことなんだろう。きっとね」

 

 少年の脳裏に浮かぶのは、世の不条理にたった一人で抗い続ける少女の姿。

 

「まったく、嫌な世界だなぁ」

 

 吐息と共に吐き出した小さな声は、風に紛れて夕焼けの中に消えた。

 あの健気で心優しい少女に、せめてもの幸福があらんことを。

 少年は叶わぬ望みと知りながら、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

                                 第三章へ続く

 

 



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第三章 ボタンの掛け違い
其の一 凱旋


 流れる水の音と、苦しげな息遣いが聞こえる。

 間接照明の仄明かりに照らされた洗面化粧室。華やかな細工が施された大理石調の洗面台に、小柄な人影が縋りついている。

 

「――っはぁはぁ……う、ぷっ」

 

 エクリシアが誇る若き英雄フィリア・イリニは、蒼白な顔で嘔吐くと、胃液を流し台へとぶちまけた。

 胃の中の物をそっくり吐くと、少女は荒い息遣いを整え、小さな手で身体を支えてどうにか顔を上げた。

 

 曇り一つない鏡に映っているのは、憔悴しきった己の姿。

 頬は痩せこけ髪は乱れ、落ち窪んだ金色の瞳だけが怪しく輝いている。

 鏡に映る見慣れた顔が、まるで別人のように感じる。少女は居た堪れなさを覚え、視線を手元へと落とす。

 褐色の肌に、未だうっすらと残る傷跡。体に残る、確かな繋がり。

 

「――っ!」

 

 沸き起こった吐き気に耐え兼ね、少女は再び洗面台へと突っ伏す。

 

「そう仰ってくださるのは、きっとフィリア様が誰よりもお優しい人だからですよ」

 

 鈴を転がしたかのような典雅な声が、脳裏に蘇る。

 止むことのない吐き気に、体中から嫌な汗が噴き出す。

 

 張り裂けそうな心臓の鼓動を止めようと、フィリアは咄嗟に寝巻の胸元へと手を伸ばす。

 煌めく銀色の鍵は少女の心の拠り所である。どんなに辛い時も、これに指を添えて家族との思い出に浸れば、彼女はすぐさま心の平穏取り戻すことができた。

 しかし、細い指先は針にでも触れたかのように引っ込められる。

 

 己の手から、鉄の匂いがする。

 

「う……う……」

 

 血に染まった両手を幻視すると、少女は喉の奥から呻き声を漏らす。

 もはや自分には、暖かな家族との絆に縋る資格はない。

 床が抜け落ちるような喪失感に、少女は力なく洗面台の床にへたり込む。

 懊悩は繊細な心を蝕み、絶望の色に染め上げていく。

 

「……我らが誓い、我らが祈り、我らが喜び」

 

 寄る辺の無くなった少女は、半ば無意識で祈るように手を組み合わせると、虚ろな声で聖句を唱え始めた。

 

「我らは恩寵の玉座に侍る者、峻厳たる館を護る者

 我らは苦難の道を歩む同朋の為、剣を取り血河を拓く

 我らは死も滅びをも恐れず、ただ神を畏れ、汝に祈りの歌を捧ぐ

 我らの慰めは汝の恵みの翼、憩いの日は要らず、終わりなき彷徨に身を捧ぐ

 光栄の衣が、汝とその愛し子に掛かるその日まで……」

 

 エクリシアに使える騎士。その心構えを示す聖句を唱え続けるも、フィリアの心には一欠けらの安らぎも訪れない。

 思考の焦点は一向に定まらず、無意味で無価値で、ただ己を責め苛む思考だけが頭蓋を満たす。

 少女の心をここまで追い詰めた一連の出来事。それは彼女がポレミケスから帰国を果たした日から始まった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 雲一つない快晴に恵まれた聖都では、陽光に照らされ赤瓦の屋根が煌めいている。

 目抜き通りのアトレテス通りは多くの人でごった返している。けれど、聖都一の繁華街を訪れている市民たちの目的は、買い物に興じる為ではない。

 見れば、市民たちは大通りの両端に集まり、道の中央を大きく開けている。

 ポレミケスにて国史にも稀な大戦果を挙げたイリニ騎士団が、今日凱旋を果たしたのだ。

 エクリシアの守り神たる騎士を一目見ようと国中から人が集まっており、中には屋根の上にまで登っている者もいる。

 

 そしてどれほど時間が経ったか。

 城門にほど近い沿道から、割れるような拍手と歓声が上がる。

 トリオン兵ボースに騎乗する騎士の姿は、僅か五人。その誰もが鎧を纏わず、簡素な軍服を纏っただけのトリオン体である。

 しかし、騎士たちは堂々たる威風を纏い、民衆の熱気を受け止めながら、颯爽と騎馬を進めている。

 

 先頭を行くは、百戦錬磨を誇る古豪、イリニ騎士団の重鎮ドクサ・ディミオス。

 その後ろには、知勇兼備の美丈夫、騎士の鑑と誉れ高いテロス・グライペインが続く。

 嫋やかな美貌で苛烈な武技を振るう女傑、メリジャーナ・ディミオス。

 勇猛さではエクリシア随一とも謳われる豪傑、ネロミロス・スコトノ。

 いずれも綺羅星の如き騎士たちが粛々と都の大路を行進している。

 わけても耳目を集めるのは、最後尾を行く褐色白髪の少女の姿だ。

 忌むべき生まれでありながら、類まれな克己心と愛国心で最年少の騎士となった、イリニ騎士団が誇る若き英雄。

 ポレミケスとの会戦では鎧が砕けても奮戦し、(ブラック)トリガーをエクリシアへともたらした彼女こそ――

 

「フィリア様~! こっち向いてくださ~い!」

「騎士様ぁ! これからも俺たちをお守りください!」

 

 フィリア・イリニは民衆の熱気に当てられ、鞍上でコチコチに固まっていた。

 ポレミケスから帰国を果たした彼女たちは、その報告のために教会へ向かっている次第であり、別段凱旋パレードなどを企てた訳ではない。

 多少は市民の出迎えもあるだろうとは思っていたが、この街路を埋め尽くさんばかりの人だかりはどうだろう。少女の想像を遥かに超えている。

 延々と続く人の群れは、まるで聖都中の人間が集まったのではないだろうかと錯覚するほどだ。その市民たちが口々に、騎士に向けて賞賛の言葉を投げかける。

 

 視覚と聴覚に押し寄せる膨大な情報量に、フィリアは平静を保つので精一杯だ。

 しかし、歴戦の騎士たちは慣れたモノで、群衆に笑顔で答え、時折軽く手を振っている。

 ドクサやネロミロスといった武人肌の男は、老若男女問わず人気がある。戦乱極まる近界(ネイバーフッド)では、強い男というのはそれだけで尊敬を受ける。

 メリジャーナは特に男性の視線を集めているようだ。紫水晶を思わせる美貌の彼女なら、それも当然と言える。それだけでなく、年若い女性からも熱い声援が飛んでいる。女性の身でありながら国防の要職に就く彼女は、淑女たちの憧れの的だ。

 そして女性からの支持といえば、やはりテロスが群を抜いている。

 実も花もあるエクリシア一の美男子が甘く微笑むと、若い女性たちの中には失神する者まで現れる始末だ。

 威風を崩さず市民と交流する騎士たち。ただ一人、フィリアだけが仏頂面を提げて馬を進めている。

 

『ねえフィリアさん。ひょっとして緊張してる?』

 

 そんな彼女に、メリジャーナから無声通信が入った。

 

『え、あ、分かりますか!』

 

 少女はビクリと身体を震わせる。動揺が顔に出なかったのは幸いだが、前方を行くメリジャーナが何故フィリアの状況に気が付いたのだろうか。

 

『私も最初はそうだったもの。これだけの人に囲まれちゃうと、どうしえても委縮しちゃうわよね』

 

 苦笑いを声に滲ませて、メリジャーナがそう言う。

 

『でもね。もしよかったら、みんなの歓声に少しでも答えてあげて。こういうのは参加しちゃえば、案外気にならなくなるのよ』

 

 朗らかな先輩の声に押されて、フィリアはおずおずと首を沿道へと向ける。

 市民の熱気はいや増して、騎士たちに飛びかからんばかりだ。

 そんな群衆に向かって、フィリアはぎこちなく微笑み、控え目に手を振ってみる。

 すると帰ってきたのは爆竹を鳴らしたかのような凄まじい歓声。

 余りの反応に少女は肝を潰しかけるが、行進を続けるうちに市民たちの歓声にも次第に慣れていく。

 

 そして余裕が生まれると、群衆の中でもとりわけ少女に熱い声援を送る者たちの姿が目に付くようになる。

 彼らの多くは、容貌が一般的なエクリシアの民とは少し異なっている。

 フィリアを挙って褒め称える彼らこそ、聖都に住む他国人の血を引く者たちだ。

 彼らはエクリシアによって連れ去られた捕虜をルーツに持つ。世代が変わり、エクリシアの市民となった今でも、彼らは真の意味で国に受け入れられているとは言い難い。

 仇敵ノマスの血を引き、しかし護国の英雄となったフィリアは、彼らにとっての希望の星なのだ。

 

「…………」

 

 少女は顎を引いて背筋を伸ばし、さらに凛々しい面持ちで群衆に臨む。

 

『どう? こそばゆいけれど、慣れてくると嬉しいものでしょう?』

 

 そんなフィリアの気配が伝わったのか、メリジャーナは自分の事のように弾んだ声で少女に語りかける。

 

『……嬉しいかどうかは、よくわかりません。……いえ、やっぱりちょっとは嬉しいです。……でも、なんていうか、身が引き締まるというか、晴れがましいというか、もっと頑張ろうという気になります』

 

 群衆の声援を受けて、フィリアの胸に今まで感じたことのない感情が湧き起こる。

 体がふわふわと浮き上がりそうな、それでいて心の芯に重みが増したような、まったくもって不思議な感情。正体の掴めない情動に戸惑う少女に、

 

『それはきっと、誇らしい。っていうのよ』

 

 と、メリジャーナは優しく語りかけた。

 忌まわしきノマスの子として、また貧民として蔑まれ続けてきた少女にとって、誇りという感情は全く未知のものであった。だが、

 

『……はい。この気持ちは、大事にしようと思います』

 

 少女は静かに頷き、胸に芽生えた崇高な思いを愛おしむ。

 抜けるような空の下、沿道に集まった人々に縁どられ、道は何処までも続いている。

 その終着点。丘の上に聳え立つ教会は、フィリアたちを歓迎するかのように、変わらぬ威容を見せていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「よくぞ無事に帰還を果たした。貴公らのもたらしたトリガーによって、我が国の技術は更なる躍進を遂げることだろう」

 

 ステンドグラスを透して七色の光が差し込む広壮な大聖堂。

 豪奢な僧衣を纏った老人、枢機卿ステマ・プロゴロスは拝跪する騎士たちに向かって、穏やかな声で語りかけた。

 フィリアたち騎士団の面々は、遠征から帰還した旨を報告するため謁見を行っていた。

 教会へと赴いた理由は他にもあり、ポレミケスにて入手したトリガーを教会の地下にある研究所へと引き渡さねばならない。

 鹵獲したトリガーは他国の技術の塊であり、研究所で入念に解析が行われる。

 解析が済んだあとは所有者である騎士団へと返されるのだが、今回イリニ騎士団が入手した(ブラック)トリガーは、しばらくは教会預かりとなる。

 

 これは適合者を探すための処置だ。

 (ブラック)トリガーは通常のトリガーとはことなり、人間がその命を賭して造るトリガーである。その為、(ブラック)トリガーは製造者の人格や歓声が色濃く反映され、相性のいい人間でなければ起動することさえできない。

 なるべく多くの起動者を確保するため、エクリシアの騎士・従士すべてが適合検査を受けることになる。

 (ブラック)トリガーは国家の命運を左右する兵器であるため、遊ばせておくわけにはいかない。こればかりは騎士団の所有権も関係なく、教会によって規則が定められている。

 

 幸い、所有権のある騎士団から適合者が出た場合には、優先的にそちらに配備されることになっている。従士まで含めれば、一人二人は起動できる者もいるだろう。

 また、騎士団が獲得した捕虜についてだが、これは基本的に所有権が騎士団から離れることはない。取扱いについての法は定められているが、各々の領地で管理運営して構わないことになっている。

 

「貴公らの活躍は国民にも知れ渡っておる。これからも我が国の為、忠勤に励んでくれ」

 

 ステマから激励を受け、帰国の謁見報告はこれにて終了となった。

 慣例に則り、次は騎士団に戻って総長アルモニアに帰還の挨拶を行う。

 それが済むと、フィリアは教会へと取って返した。

 ポレミケスでの激戦で、彼女のトリガー「誓願の鎧(パノプリア)」は全損している。

 研究所に依頼し、早急に新しい鎧を用意してもらう必要があった。

 どちらにせよ装備の更新、申請はイリニ騎士団から行われるのだが、鎧は個人の体格や反応速度に合わせて一つ一つ調整が必要となる。前もって研究所の予定に、調整の日程を入れておいてもらわねばならない。

 

「ふう……」

 

 研究員にはどこか風変わりな者が多い。

 腕は確かなのだが、こちらの都合を聞いてもらうのはなかなか大変だ。彼らとやりあい、無理から予定をねじ込んだフィリアは、疲れた様子で殺風景な地下通路を歩いていた。

 ついでに言えば、今のフィリアは生身の姿である。

 トリオン体で長く活動すると、どうしても肉体は運動不足になる。成長期真っただ中の少女にとって、それはあまりよろしいことではない。

 健全な発育を促すため、取り立てて必要のない限り、少女は生身の体で過ごすように心がけている。

 

(そういえば、アヴリオ様はどこだろう……)

 

 そうして小さな歩幅でトコトコと通路を歩いていると、ふと、彼女は以前に会った空色の瞳を持つ少年を思い出した。

 彼は教会に務めている筈だ。少し探せば、会えるかもしれない。

 

(……いえ。やめておこう)

 

 しかし、少女はその考えをすぐに改めた。教会といってもセクションは多数に分かれ、敷地は広大だ。探し回るのも大変だし、仕事中なら相手にも悪い。

 用事は済ませたので砦へと帰ろうと昇降口を目指す。

 途上、少女はラウンジを通りかかった。

 すると、よく知った顔を見つけた。眼鏡をかけた怜悧な顔立ちで、人形のように椅子に座っているのはフィロドクス家の騎士オリュザだ。

 

「おつかれさまです。騎士オリュザ」

 

 フィリアはオリュザの座るテーブル席に近付くと、気さくな調子で声を掛けた。

 

「どうも」

 

 オリュザは面に何の感情も浮かべず、一瞥してそう答える。

 無礼千万な態度であるが、これが彼女にとっては普通のやり取りである。

 少女もそのことは先刻承知なので、別に気を悪くした風も無く会話を続ける。

 

「その後如何ですか。フィロドクス騎士団は今回防衛任務に当たっておられましたよね」

「はい。山岳国家アクラーよりけん制の兵団が二度にわたって送り込まれましたが、問題なく撃破しました。イリニ騎士団のアルモニア閣下も勇戦なさいました」

 

 オリュザとコミュニケーションをとる場合は、こちらから積極的に質問すると丁寧に答えてくれる。

 フィリアの問いかけに、オリュザは頼まれてもいないのに彼女の留守中の出来事を縷々とはなしてくれた。

 

 今回、留守を預かったのはフィロドクス騎士団だ。

 本国防衛は全ての騎士団の責務だが、遠征とかち合うと戦力が分散してしまう。

 別けても(ブラック)トリガーは本国防衛の要であり、なるべくなら国元に温存するのが望ましい。

 

 その為、三大騎士団の持ち回りで遠征を行い、常に一つの騎士団が主戦力を防衛任務に当てるように協定が結ばれている。

 オリュザが持つ「万鈞の糸(クロステール)」と、フィロドクス騎士団総長クレヴォの持つ「潜伏の縄(ヘスペラー)」。

 そして今回は、イリニ騎士団から「懲罰の杖(ポルフィルン)」の担い手、総長アルモニアも防衛に参加していた。

 先の乱星国家による襲撃を受け、多大な被害を蒙ったための処置である。

 三本の(ブラック)トリガーによる盤石の布陣の前では、トリオン兵での偵察部隊など、敵にすらならなかったことだろう。

 

「イリニ騎士団の活躍も耳にしています。特に騎士フィリア。あなたの抜群の功績には、私も驚いています」

 

 言葉とは裏腹に、毛ほども表情を変えずに淡々と告げるオリュザ。

 しかし、それが彼女なりの賞賛だと気付くと、フィリアは顔をほころばせ、

 

「――はい。頑張りました」

 

 と、照れたようにそう答えた。

 それから二人は同じテーブルに着き、飲み物を片手に談笑を始めた。

 例によって、オリュザは会議に出ているクレヴォを待っているらしい。

 折角なので、フィリアもクレヴォに挨拶してから引き上げることにした。今日は帰還の挨拶回りが済めば、それで予定は終了だ。少々遅くなっても構わないだろう。

 

 フィリアは積極的に話題を振って、オリュザの長く説明的な返答に耳を傾ける。

 声には抑揚も無く、表情すら変えない彼女だが、飽かずに話し続けていることを考えると、会話自体は嫌いではないらしい。

 聞き上手のフィリアを相手に、オリュザの舌は休むことなく回り続ける。ところが、

 

「――!」

「あ、会議が終わりましたか?」

 

 オリュザは唐突に話を止めると、猫が物音を聞きつけた時のような仕草で、通路の奥へと視線をむけた。

 彼女の養父クレヴォが、用事を終えて出てきたのだろう。

 

「騎士フィリア」

「はい。私もお迎えに御一緒して構いませんか?」

「……無論です」

 

 フィリアはいかにも慣れたようにオリュザの台詞に先回りして応え、席から腰を浮かしかけている彼女に付いていく。

 道々談笑しながら歩いていると、すれ違った研究員たちは一様に怪訝な表情を浮かべる。

 変わり者として有名なオリュザに、近頃何かと話題のフィリア。妙な取り合わせの二人が仲良くしていることが意外なのだろう。しかし、

 

「おやオリュザ。今日はフィリア君と一緒かね」

 

 滝髭の老人クレヴォ・フィロドクスは、そんな二人を見て暖かく微笑む。

 

「御無沙汰しております閣下」

「うむうむ。遠征では大活躍だったそうだのう」

 

 まるで遊びに来た孫に接するかのように、クレヴォは衒いもなく相好を崩す。

 

「エクリシアで君の話を聞かない日はないよ。アルモニア殿もお喜びだろう」

「いえそんな……武運に恵まれただけの事です。それに、私一人ではとても成し遂げられることではありませんでした」

 

 二言三言挨拶を交わすと、フィリアはクレヴォたちに付き添って研究所を後にする。

 

「オリュザによくしてくれているようで、私も嬉しいよ」

 

 道すがら、白髭の老人はそんなことを言いだした。

 

「いえ、私こそ騎士オリュザには色々と教えていただいて……」

 

 あくまで謙遜する少女に、老人は長躯を屈めて顔を寄せると、

 

「いやいや。アレは良い子なんだが……如何せん人付き合いが苦手での。君のように怒らず付き合ってくれる子はおらんかった」

 

 と、フィリアの耳元でささやく。

 

「よければ、あの子に社交を教えてやってはくれんか」

「――えっ」

「いやなに、そう難しいことではないよ。遊興に出かけるときにでも、誘ってやってくれれば嬉しい。……人は誰しも、友人が必要だからの」

 

 まさに孫を気遣う祖父そのものの声で、クレヴォは少女にそう頼みこむ。

 

「はい……勿論です!」

 

 胸の前で両手を握りしめ、フィリアは力強くそう答えた。

 エクリシアでも一二を争う名門貴族、フィロドクス家がフィリアに友誼を求めている。これは彼女にとっても国家にとっても、計り知れない意味がある。

 無論、そんな影響を抜きにしても、オリュザと仲を深めることに何ら異存はない。

 見れば、前を歩くオリュザの耳が微かに赤く染まっている。優れた聴覚を持つ彼女には、内緒話など筒抜けなのだろう。

 それでも気付かない振りをしているのは、照れ隠しに他ならない。

 

「……なにか?」

「いえ。何でもありませんよ?」

 

 小走りでオリュザの隣に並び、横目で表情を窺おうとするフィリア。

 オリュザは眼鏡をくいっとかけ直し、少女を振り切るように足を速める。

 そんな彼女を見ると、フィリアとクレヴォは顔を見合わせ、どちらからともなく微笑みを交わした。

 

 



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其の二 戦果確認

 数日後、フィリアを乗せた軍用車両は聖都を離れ、イリニ家の所領へと向かっていた。

 運転を部下に任せ、後席で資料を読み込んでいた少女は、軽く肩をゆすると外の景色へと視線を移す。

 長閑な農場の風景が、先ほどから延々と続いている。

 直ぐに飽きが来そうな単調な景色だが、緑の色が目に心地よい。

 

 腕輪型の端末から投影されたモニターには、ポレミケスで得た捕虜の個人情報が映し出されている。まだ詳細な情報は記載されていないが、騎士団の職員たちが連日徹夜して作成した資料だ。一読しておくのが礼儀だろう。

 

 しかし、二百人以上の人間のパーソナルデータに目を通すのはなかなかに骨が折れる。

 少女は暫しの休憩を終えると、再び資料の山と格闘を始めた。

 この日、フィリアは捕虜を検分するため、イリニ家の所領にある収容施設を訪れることになっていた。ちなみに、今日は公務の為トリオン体である。

 

(あれがそうね……)

 

 農地が途切れてしばらく進むと、茫漠とした荒野に高い壁で囲まれた堅牢な建物が見えてくる。総トリオン製で造られた建物は、丁度刑務所のような外観である。

 戦争で得た捕虜は貴族の所有物であり、家々によって管理がなされる。

 どんな捕虜も最初は奴隷であり、個人の職能や性格に合わせて領内で働かされる。

 

 とはいえ無慈悲に使い潰される訳ではなく、強制労働はいわば新しい暮らしに慣れさせるための暫定的な処置であり、その扱いは比較的寛大だ。

 当人にエクリシアへの帰属の意思が芽生え、また十分な功績を上げた者には帰化の道が開かれる。

 貴族の所領に建てられたこれらの収容所は、彼らがいち早く新しい生活に馴染むために建てられた、いわば訓練所といっていい。

 

 門を潜り抜け、車両が収容所の敷地内で止まった。

 フィリアは資料読みを中断し、待ち構えていた職員に案内されて収容所へと立ち入った。

 

「いや、余りの捕虜に職員の数が足りておりませんで……御無礼が有りましたら平に御容赦ください」

「お気遣いは無用です。早速ですが、案内をお願いいたします」

 

 領主であるイリニ家の子女、フィリア直々の視察に、所長自らが対応に出てきた。

 人のよさそうな顔をした中年の男性だが、重要施設を預かるだけあって本来一筋縄ではいかない人物だろう。

 しかし、アルモニアは捕虜の厚遇を厳命しており、査察も頻繁に行われているため、後ろ暗いことはなさそうだ。

 

「国史にも稀な大戦果ですからな。受け入れ体制を整えるのが大変でした。……ですがご安心ください。者どもにはすぐさまエクリシアへの忠誠が芽生えることでしょう」

 

 所長は意気揚々とした足取りでフィリアを先導する。

 そうして連れられた捕虜の居室では、残念ながらエクリシアへの好意などは一欠けらも見つけることができなかった。

 

「…………」

 

 少女は無言で格子窓から室内を覗く。

 捕虜の多くは虚ろな表情で床を眺め、時折すすり泣く声が聞こえる。

 無理もないだろう。住み慣れた故国から無理矢理拉致され、まだ十日と経っていないのだ。また何人かは、一目で高級将校と分かるフィリアの姿を目の当たりにして、怯えた表情を見せる。

 一先ず健康状態や衛生状態に問題はなさそうだが、あまり健全とは言い難い光景だ。

 

「彼らが現実を受け入れるのに、そう時間もかからんでしょう」

 

 しかし、所長は楽観的な様子でフィリアに告げる。彼にとってはこの光景も見慣れたものなのだろう。

 事実として、捕虜たちに活力が戻るのはそう遠くないことと思われる。

 戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)では、他国の捕虜となることはそう珍しいことではない。ある意味では、事故で死ぬことよりも確率の高い出来事といえる。

 そうした世界で暮らしていれば、自然に覚悟も定まるのだろう。

 

 また、彼らには故国へ戻る術も無い。惑星国家はお互いの距離が接近せねば行き来できず、ポレミケスは既にエクリシアの接触軌道から離れた。

 今後両国が交わるのは八年後だ。国伝いに帰ろうとも、往還船は個人で入手できるものではない。

 この狭い惑星国家には、彼らの逃げ場所など何処にも存在しない。

 

 そして現実を受け入れてしまえば、後は生活に追われることとなる。

 エクリシアではそうした心理を見越して、懸命に働けば奴隷暮らしから脱せるように法整備がなされている。

 二、三年もすれば、彼らも一先ずは従順になることだろう。捕虜の本格的な登用は、それから行われることになる。

 

(……相身互いだ。私だって、こうなる未来はあったんだから)

 

 力なく項垂れる捕虜たちを目の当たりにして、フィリアの胸に動揺が起きなかった訳ではない。

 しかし、少女は波立つ心を鎮めようと試みる。

 強者がすべてを手にし、弱者は己の身さえ護ることができない。

 それがこの近界(ネイバーフッド)を支配する力の(ことわり)である。

 フィリアは自分と家族を護るため、まさに血を吐くような努力を積み重ねてきた。

 

 そうして得た力が、彼らと自分との立場を分けたのだ。

 彼らにとっては残念なことだが、命が有っただけ幸いと言うほかない。

 ありふれた一般論だが、しかしこれは世界の真実を言い表している。

 奪われたくないから、奪う側に回る。

 フィリアはそうして生きてきたのだ。覚悟はとうの昔にできている。

 

「では、次に案内してください」

 

 もうここは充分だと所長に伝え、フィリアは視察を続行する。

 背中に注がれた恨みの視線を振り払うように、少女は毅然と歩みを進めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 捕虜収容所の視察を終えたフィリアは、所長の軽い接待を受けた後、急いで車へと戻った。

 今日の予定はこれで終わりではない。車両に乗り込み、次なる目的地へと向かう。

 

「ふう……」

 

 フィリアの顔に緊張の色が差す。

 次なる目的地は、イリニ家の本宅である。

 捕虜の中でも「神」の候補になり得る人材は、その重要度から収容所ではなくイリニ家の本宅で管理されることになっている。

 フィリアが捕らえた(ブラック)トリガーの使い手。黒髪の乙女との面会が、聖都から出張してきた本当の目的である。

 

 穏やかな農園の彼方に、豪壮華麗な館が見えてきた。

 敷地の広さは聖都の別邸の数倍はあろうか。トリオン製の広壮な邸宅の側にはいくつも建屋が立ち並び、その周りには見事に手入れされた庭園が広がっている。

 エクリシアが土地不足で喘いでいる事を忘れてしまいそうな、絢爛たる大豪邸である。

 豪奢な門をくぐっても、まだ館までの道のりは遠い。

 しばらく車を走らせ、ようやく館の前までたどり着くと、そこには使用人と思しき人の群れが整然と列を成していた。そして、

 

「お帰りなさいませ。フィリアお嬢様」

 

 降車したフィリアに向かって、彼らは一糸乱れぬ所作で歓迎の挨拶を述べる。

 

「……ありがとうございます」

 

 思いがけない丁重な出迎えに、フィリアは咄嗟に言葉が出ない。

 しかし、考えてみれば何も不思議なことではない。養子とはいえ、少女は正式にイリニ家の一門に連なる者なのだ。出迎えを怠れば、家人の方に問題があると言える。

 そして人の群れの中から、一際背の高い初老の男性がフィリアの側へと近づいてきた。

 顔と名前だけは見知っている。彼は屋敷を切り盛りする家令だ。

 その男性に案内されて、フィリアは豪邸の中へと足を踏み入れた。

 

 聖都の別宅と比べてもなお広く、調度類は豪奢ながらも華美に過ぎぬよう一部の隙も無く整えられている。

 歴史で磨き抜かれた品格が漂う、まさに大貴族の居城に相応しい崇高な空間である。

 そんな豪邸を、無骨な軍服を纏った少女は早足に進む。

 

「……母は、いま不在でしたね」

「はい。パイデイア様は荘園をご視察なさっております。お嬢様の申し付け通り、パイデイア様に今日のご訪問の予定はお伝えしておりません」

「……感謝します」

 

 イリニ家の養女となったフィリアが一度もこの屋敷に寄りつかなかったのは、此処が母パイデイアの療養所であるからだ。

 騎士団へと志願し、他国を蹂躙する生き方を選んだ娘は、どうしても博愛主義者の母に会う勇気が持てなかった。

 そのため事前に屋敷へと連絡し、母と鉢合わせをせずに済むように段取りを組んだのだ。

 

 最大の懸案事項は無事に片付いていた。しかし、少女は硬く表情を強張らせ、黙然と足を進める。

 投影モニターには、これから面会する捕虜のデータが記されている。

 激戦の末に、フィリアが捕らえた黒髪の乙女。

 その麗しい顔写真の横に記された名前は、オルヒデア・アゾトン。

 

「…………」

 

 忘れようとしても、決して忘れぬことのできぬ名だ。

 ポレミケスにて、フィリアの前に立ちはだかった黒髪の勇士。

 戦場の暴威に曝された青年は、勇戦虚しく少女に看取られて息を引き取った。

 その彼が、今際の際で譫言のように呼んでいた名前がオルヒデアである。

 

「この扉の向こうが、御客人が起居なさる空間となっています」

 

 家令に案内され、フィリアは地下階へと降りてきた。

 彼女の前には、厳重に施錠された防壁のような扉がある。

 この扉は許可されたトリオンの持ち主以外では決して開けることができない。窓も無い以上、中から逃げ出すことは不可能だ。

「神」の候補を保護するためなら仕方ないが、まさに牢獄といった趣である。

 

 そしてロックが外され、分厚い扉がゆっくりと開く。

 館の意匠とかけ離れていた扉だが、その先に見える廊下は上階と殆ど変わりない。

 窓が無い分、調度には気を使っているらしく、廊下には絵画や彫刻が並んでいる。空調も行き届いており、地下室にありがちな空気の淀みは微塵も感じられない。

 フィリアにとっては少々落ち着かない空間だが、少なくとも捕虜が健康を崩さぬように細心の注意が払われていることはよく分かる。

 

「御客人の部屋はこの通路の先を右に……」

 

 地下階の説明を続けていた家令が、唐突に口を閉ざした。

 廊下の奥から、何やらくぐもった音が聞こえる。耳を澄ませてみると、それが韻律に則った撥弦楽器の音色であることが分かった。

 

「あれは?」

 

 フィリアが問い掛けると、謹厳な家令は僅かに焦った様子を見せる。

 

「はっ。御客人に何か御所望のものは無いかとお聞きしたところ、楽器をお求めになられましたもので……」

 

 軟禁生活で体調を崩さぬように、神の候補には最大限の配慮がなされる。嗜好品や遊具の類も、別に禁止されている訳ではない。楽器を与えたからといって、特に問題は無いだろう。

 

「今日フィリア様がお尋ねになることは、御客人には確とお伝えしましたが……」

「構いません。案内は此処までで結構です」

「お言葉ですが、しかし……」

「部屋はもうわかります。捕虜との会話は機密となりますので、どうかお引き取りを」

 

 フィリアは家令に案内の礼を述べ、一人でさっさと廊下を歩きだした。

 途切れ途切れだった音色が、徐々にはっきりと聞こえてくる。

 

「…………」

 

 まさか少女を歓迎するために音曲を奏でている訳ではあるまい。余裕を見せているつもりか、またはエクリシアの暴虐に対する可憐な抗議のつもりか。

 どちらにせよ、相手の英気が充実しているというのなら有難い。

 正直なところ、フィリアは捕虜収容所でみた光景に随分参っていた。絶望に顔を曇らせ、落ち窪んだ瞳でじっと見つめられるぐらいなら、いっそのこと食って掛かられた方がまだしも気分が楽でいい。

 

(……あれ?)

 

 しかし、音曲の流れ出る扉の前に立つと、どうも様子が違う。

 楽器はエクリシアでもよくみられるリュートだが、どうにも曲調が異なっている。霞が山間に棚引くような嫋々とした響きは、エクリシアの楽曲の調べではない。

 芸術に関心の薄いフィリアは音楽の事などまるでわからないのだが、奏でられている音曲が、怒りや恨みとは無縁のものなのはよく分かる。

 深々と心に染み入るような、どこか物寂しく、そして優しい曲だ。

 

「……あ、いけない」

 

 優美な調べに聞き惚れたフィリアは、ついつい曲が終わるまで扉の前で立ち尽くしてしまった。

 時間を無駄にするわけにはいかないと、少女は意を決して扉をノックする。すると、

 

「な――」

 

 突如として、ガラガラと調度品を倒したようなけたたましい音が室内で鳴り響いた。

 

「――失礼します!」

 

 異変を感じ取ったフィリアは扉を開き、即座に室内へと踏み込む。

 

「…………なにこれ」

 

 少女が目にしたのは、豪奢な部屋の真ん中、精緻な織り模様の絨毯の上で、うつぶせに倒れている乙女の姿だ。

 純白の長衣に身を包んだ彼女は、床の上に身体を投げ出してピクリともしない。絹のような長い黒髪が、床に渦を描いている。

 椅子とサイドテーブルが横倒しになり、床には譜面が散らばっている。そして何故か、演奏に使っていたはずのリュートはベッドの上に転がっている有様だ。

 

「はあ、なるほど」

 

 サイドエフェクトが知らせた事実に、フィリアは思わず気の抜けた声を出す。

 この女性はどうやら、来訪者の事をすっかり忘れていたとみえる。

 演奏に夢中になっていた彼女は急なノックに慌てて対応しようとした挙句、立ち上がった拍子に服の裾を踏んづけ、転んでしまったらしい。

 しかも楽器を両手に抱えていたため、受け身も取れなかったようだ。

 リュートがベッドの上に載っているのは、借り物の楽器を壊すまいと、咄嗟に柔らかい場所へと投げたためだろう。

 お蔭で彼女は鼻面から地面に激突する羽目になったようだ。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 フィリアは急いで倒れ伏す乙女へと近づき、安否を確かめる。

 頭を打っていては大変だ。人間の頭骨は部位によっては意外なほどに脆い。転倒といえども決して軽視してはならない。

 

「……いたいです」

 

 フィリアの呼びかけに、蚊の鳴くようなか細い声が床から返ってきた。

 

「起きられますか」

「はい……」

 

 少女の問いかけに、黒髪の乙女はおずおずと顔を上げた。厚手の絨毯がクッションになったようだ。鼻が少し赤くなっている程度で、怪我らしい怪我は無い。

 身動きしなかったのは、醜態を曝して気恥ずかしかったかららしい。

 

「……」

 

 間近で顔を眺めれば、眼の冴えるような美女である。

 透けるように白い肌に、濡れたように輝く漆黒の髪。

 秀でた眉に、通った鼻筋。顎は小ぶりながらも形が良く、薄めの唇は艶やかな桜色をしている。

 そして何より目を引くのが、切れ長の美しい目元である。

 長い睫毛に縁どられた黒曜石のような瞳は、どこか憂いを帯びたような怪しい雰囲気を纏っている。

 未だ少女の瑞々しさを残しながらも、女の色気を滲ませる淑やか容貌。そしてその中に何処か退廃的な空気を漂わせた、男を虜にして止まない傾城傾国の美しさである。

 

 ただ、同性のフィリアにそこまでのことは分からない。

 どちらかといえば、目も眩むような美人でありながら、ぶつけて赤くなった鼻を涙目で擦っている乙女に、奇妙な愛嬌を感じているようだ。

 

「どうぞ、座って落ち着いてください。いま冷やす物を持ってきますから」

「……すみません」

 

 オルヒデアを椅子に座らせると、少女は急いで部屋から出ていく。

 使用人を呼べば住むだけの話だが、貧民時代の癖が抜けない彼女は、何か用があるとついつい自分で動いてしまう。

 それに三人の弟妹を持つ姉としては、他人の世話を焼くのも慣れたものだ。

 

 地下階を隔てる扉まで戻り、控えていた家令に事の次第を告げる。

 すると壮年の男性はまたかといった様子で頭を振り、館の常勤医にアイスバッグを持ってくるように指示を出す。

 

「彼女はいつもあのような調子で?」

「ええ、まあ……」

 

 家令に聞いたところ、オルヒデアは館に連れてこられたその日から、一日も欠かすことなくドジを踏み、怪我をしたり調度を壊したりしているそうだ。

 当人には罪の意識もあり、また気を付けると何度も口にしてはいるようだが、一向に改善する様子はないらしい。

 

「心根の善い方ではあるのですが……」

 

 あまりに面倒を掛ける為、最初は迂遠な反抗のつもりかと疑っていたらしいが、物を壊すたびに哀れなほどに狼狽して謝罪する彼女の姿に、屋敷の使用人たちはすっかり毒気を抜かれてしまったらしい。

 程なくすると、要請を受けた医師が上階から降りてきた。

 フィリアは彼を連れて、オルヒデアの部屋まで戻る。

 

「……またしてもご迷惑をおかけして、本当にすみません」

 

 医師の診断を受けながら、乙女は心底申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。

 人を連れてくる間に掃除したのだろう。物が散らばっていた居室は丁寧に整理整頓されている。

 奇妙なほどに鈍くさいことを除けば、根は几帳面で潔癖な性格らしい。

 育ちの良さが窺える。ただ、軍人には絶対になってはいけないタイプだろう。

 

「お約束を失念していました。お詫びの言葉もございません……」

 

 そして彼女はフィリアに向かって深々と頭を下げた。

 無聊を慰めるために音曲を奏でていたら随分と興が乗ってしまい、時が経つのを忘れていたらしい。

 約束を違えたことを本当に後悔しているようだ。彼女は端正な顔を真っ青にして、見ているフィリアが恐縮するほどにペコペコ頭を下げている。

 反抗的だったり無気力だったりされるよりはマシだが、憎き敵軍の将校を相手にこの態度とは、いったい如何なる人物なのだろうか。

 

「構いません。では予定通り面談を始めたいと思いますが……」

「は、はい! よろしくお願いします」

 

 フィリアが平然とした様子で応接テーブルに着くと、オルヒデアは背筋を伸ばし、緊張した面持ちで応じた。

 

 

 



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其の三 不思議な捕虜

 家令と医者が下がり、部屋には二人が残される。

 

「私はイリニ騎士団所属の騎士フィリア・イリニと申します。オルヒデア・アゾトンさん。本日は貴方の今後の暮らしについて、説明に参りました」

 

 今日はオルヒデアの身柄を預かるイリニ騎士団から、正式に彼女の扱いが申し渡されることとなっている。

 

「一先ず、貴方にはトリオンの供給業務に従事していただくことになります」

 

 フィリアは紙に印刷した資料をテーブルの上に広げ、オルヒデアへと渡す。

 彼女にはイリニ家の擁する神の候補として、これからトリオン機関を鍛え上げてもらう必要がある。

 しかし、神の候補者とは生贄と同義である。

 生まれ育った国ならまだしも、自分をかどわかした国に人柱として捧げられるなど、普通の人間なら到底容認できることではない。

 

 過去には他国の生贄になることを良しとせず、自ら命を絶ってしまった捕虜もいた。

 その為、彼女には神の代替わりのその日まで、事実を伏せておくことになっている。

 イリニ邸の地下に軟禁しているのも、外界との接触を絶ち、エクリシアの国情を悟られないようにするためである。

 

「それだけでいいのですか? もっと、こう、大変なお仕事を言い付けられるものとばかり……」

 

 これからの生活を聞かされたオルヒデアは、イリニ騎士団の提示した労働環境の良さに困惑を浮かべている。

 一日に一回、トリオンバッテリーに向かってトリオンを注ぎ込めば、後は仕事らしい仕事も無く、精々職業訓練が課されるだけなのだ。

 いくらなんでも出来過ぎな話である。見るからに警戒感の薄そうな彼女でも、流石に不審に思うようだ。

 

「稀有なトリオン能力を無駄にしない為の、一時的な処置です。貴方にはその間、職業訓練も並行して行ってもらいます」

 

 フィリアの卒のない対応に、オルヒデアはふむふむと納得したように頷く。

 あまり疑念を抱かれないように、彼女には段階を踏んで仮初の仕事を与え続ける予定となっている。

 大人しく騙され続けてくれることが、彼女にとっても幸福なのだ。

 

 仮にオルヒデアが事実に気付き、反抗の兆しが見えた場合、彼女は指一本も動かせぬよう拘束され、神の選定の日まで無理矢理にでも生かされ続けることになるだろう。

 事実に気付くことさえ無ければ、彼女には安穏とした日常が約束される。

 

「わかりました。ただ、その……少しお聞きしたいのですが」

「どうぞ」

 

 オルヒデアは書類に目を通し終えると、恐れをにじませた声でフィリアに問い掛ける。

 

「私のトリオンは、戦争に使われるのでしょうか?」

(ああ、この人は……)

 

 黒髪の乙女の真剣な眼差しに、フィリアの直感が鋭敏に働く。

 この女性は、類型で言えば母パイデイアに近い人種だ。

 戦火の絶えない近界(ネイバーフッド)に於いて、頑なまでに暴力を受け入れることができない人間。

 平和主義者、理想主義者、博愛主義者。あるいは夢想家、臆病者、裏切者と呼ばれる人々である。

 

「確約はできませんが、貴方がそれを望まぬと言うなら、上にその旨を伝えておきましょう」

 

 フィリアは淡々とした口調でオルヒデアにそう答えた。

 彼女にトリオン供出を課す目的は、トリオン機関を鍛えるためである。トリオンの使い道そのものについては、別にどうでもいい。

 何も軍事利用だけがトリオンの使い道ではない。民生用にも大量のトリオンは必要となる。意見を申請しておけば、そちらに回されることもあるだろう。

 

「そうですか……ありがとうございます」

 

 オルヒデアは優美な仕草で礼を述べる。

 そんな彼女を見詰めて、フィリアは小さく息を吐いた。

 少女がオルヒデアを訪ねたのは、彼女に偽りの希望を持たせるためではない。

 騎士団がわざわざフィリアを寄越したのは、「直観智」のサイドエフェクトを用いて、オルヒデアが神の候補として大成するかを調べるためである。

 

 身体検査の結果、オルヒデアのトリオン機関はやはり稀有な出力を持つと判明したのだが、次代を担う神としてはやや能力が足りていなかった。

 残念ながら彼女が神となった場合、エクリシアの国土は現在よりも縮小することになるだろう。

 最低でも国土面積の維持を目標とするイリニ騎士団にとって、オルヒデアはあくまで次点の候補となった。

 

 しかし、彼女はまだ若く、トリオン機関が育つ可能性は十分にある。

 神の選定までトリオン機関を鍛えればどうなるか。その伸び白を調べる為に、フィリアが送り込まれたのである。

 そして少女のサイドエフェクトは、

 

(母さんの代わりになる可能性は、十分にある)

 

 との事実を示した。

 フィリアの母パイデイアは、現在イリニ騎士団が要する神の第一候補である。

 国土維持には十分なトリオン機関を持ち、逃亡や抵抗を企てる危険性もない。

 エクリシアから有望な才能が失われることは遺憾だが、国土の維持はそれを上回る重要事項である。このまま候補者が見つからなければ、次代の神はパイデイアになるだろう。

 

 だが、オルヒデアが同格となればどうか。

 能力的に遜色が無ければ、同郷の貴族より他国の捕虜のほうが生贄には相応しい。

 母パイデイアが生き残る可能性が、確かに生まれたのである。

 フィリアは流暢に言葉を操り、オルヒデアを騙しにかかる。

 彼女に信頼され、やる気を出してもらわねばならない。すべては家族の幸福の為に。

 

「フィリア様。少しよろしいでしょうか」

「何でしょうか」

 

 一通り質疑応答も尽きた頃、オルヒデアが恐々とした風に尋ねてきた。

 

「ひょっとして、フィリア様には妹様がいらっしゃいませんか?」

「……確かにいますが、それがどうかしましたか?」

 

 突拍子もない質問に、フィリアは警戒感を抱いた。彼女は外界との情報を絶たれているはずだ。なぜアネシスの存在を知っているのだろうか。

 

「ああやっぱり! 私、妹様にぜひ謝りたいと思っていて……」

「謝罪? 一体何について――」

 

 言い掛けて、フィリアはオルヒデアの話に合点がいった。彼女はおそらく――

 

「きっと、妹様には酷い怪我をさせてしまったと思います。フィリア様も、胸中穏やかではいらっしゃらないのでは……」

 

 フィリアは現在トリオン体であり、外見年齢は十五・六歳ぐらいだ。

 イリニ騎士団からの正式な使者であり、また捕虜との対面には多少の危険が伴うため、トリオン体での行動は当然の処置であった。

 

 だが、ポレミケスの戦場にてオルヒデアと組み打ちした時、既にフィリアのトリオン体は崩壊していた。故に彼女は少女の生身の姿しか知らないはずだ。

 つまり、彼女は現在のフィリアを、あの時戦った少女の姉だと勘違いしているのだ。

 

「申し遅れましたが、私は次の誕生日で十二歳になります」

「――え?」

「戦地にて貴方と相対したのは私です。――トリガー解除」

 

 そう言って、フィリアは換装を解いた。

 途端に体がぐんと縮み、椅子の上にはあどけない少女の姿が現れる。

 命の取り合いをした相手を前に丸腰となるのは不用心に過ぎるが、オルヒデア相手ならその心配も無用だろう。

 

「…………」

「この身体では不便なことも多いので、トリオン体の外観を調整しています。それで、お話とは何でしょうか」

 

 驚きの余り、口元に手を添え言葉も出ない乙女。そんな彼女にフィリアは淡々と問いかける。

 

「あ、ええと、……戦場での折、フィリア様を酷く引っ掻いてしまったことを、どうしても謝りたくて……すみませんでした」

 

 オルヒデアは訥々と謝罪を述べると、年端もゆかない少女に仰々しく頭を下げた。

 

「戦場で傷付けあうのは当然のことです。私も貴方に危害を加えました。謝罪の必要はありません」

「それでも、フィリア様のような小さな子に、私は……」

 

 謝罪を退ける少女に、乙女は消え入りそうな声でなおも取りすがる。

 彼女の視線は、包帯の巻かれた小さな手に釘付けとなっている。

 余程フィリアに怪我を負わせたことを悔やんでいるらしい。これは彼女の性分による所だろう。少女に喉を潰されんばかりに首を絞められたにも関わらず、そんなことに気を病んでいるなど、よほどのお人好しと言うほかない。

 

「……分かりました。双方痛み分けということで、あの時の事は水に流しましょう」

 

 埒が明かないと見て取ったフィリアは、早々に謝罪を受け入れることにした。するとオルヒデアは、

 

「ありがとうございます。フィリア様はお優しいのですね」

 

 と、花が咲くような可憐な微笑みを浮かべた。

 

「戦場でのことはもういいでしょう。これからの事をお話したく思います。建設的な、実りある未来のために、協力をお願いしたのです。私も可能な限り便宜を図りましょう」

「……はい。不束者ですが、どうぞよしなにお願いします」

 

 フィリアが作り笑顔を浮かべてそう語りかけると、オルヒデアはさも安心したように表情を緩めた。

 乗せやすい性格で有難い限りだ。彼女には立派な神として成長してもらわねばならない。その為には、どんなに豪奢な生活をさせても構わないとイリニ騎士団からは仰せつかっている。

 そんなフィリアの冷徹な心算を知ってか知らずか、オルヒデアは晴れやかな表情に憂いの色を浮かべ、少女に向かって言葉を紡ぐ。

 

「ところで、フィリア様には他にもお聞きしたいことがありまして……」

「私にお応えできることでしたら、どうぞ」

「はい。私の兄も、この国の捕虜となっているのか知りたいのです」

「――」

 

 フィリアの鼓動が跳ね上がる。

 動揺を辛うじて面に出さなかったのは、日ごろの過酷な訓練の賜だろう。

 予想はしていたが、やはり彼女はあの剣士の肉親であるらしい。

 

「……他の捕虜については、共謀を防ぐために情報をお伝えすることはできません」

「ああいえ、そういうつもりは無くてですね。……ただ、兄は頑固な所のある人で、ひょっとしたら、皆さんにもご迷惑をおかけしているかもしれません。私がこの国にいると知ってくれれば、そう無茶なことはしないでしょうし……」

 

 兄について語るオルヒデアの表情からは、深い親愛の情を読み取ることができる。

 よほど、仲のいい家族だったのだろう。

 

「あ、名前はロア・アゾトンと申します。私と同じ髪と瞳の色で、戦場では二本の剣を用いていたはずです」

 

 オルヒデアは縋るような表情で、フィリアへ嘆願する。

 少女は無表情のまま手元の端末を操作し、空々しく名簿を調べる。そして、

 

「残念ながら、そのような名前の捕虜は我が国にはいません」

 

 ロアはエクリシアの毒牙にかかっていないと、乙女に嘘をついた。

 あるがままの事実を語ろうかと迷ったフィリアであったが、サイドエフェクトは危険な可能性を示していた。仮に兄が死んだことを告げた場合、彼女との関係が決定的に決裂し、協力を望めない可能性が高い。

 

「そうですか……よかった」

 

 兄は国元で無事だと結論付けたのだろう。オルヒデアは心から安堵した様子で面持ちを緩める。

 今にも涙を溢しそうなその仕草に、フィリアの胸が罪悪感で焦がされる。

 

「……ポレミケスに帰ろうなどとは思わないでください。彼の国は既に遠く離れており、次の接触機会は何年も先です」

「はい。それは分かっています。ただ、兄様が無事なのが嬉しくて」

 

 己の嘘に耐えられなくなったフィリアは、面会を終えるために話をさっさと終わらせることにした。

 今後課される業務を事務的に指示し、また進捗を調べに定期的に査察に訪れる旨を伝える。するとオルヒデアは、

 

「まあ。それではまたフィリア様とお会いできるのですね!」

 

 と、両手を顔の前で打ちあわせて喜んだ。

 

「……あの、私は貴方を捕まえた張本人ですよ? なぜそうまで好意的に振る舞えるのか、理解しかねます」

 

 無邪気極まる態度の乙女を、フィリアは半眼で睨みつける。

 こうまで楽天的な風だと、何やら己が馬鹿にされたように感じる。少女は戦場に赴くため、死に物狂いで己を鍛え上げた。

 それは敵方も同じであるべきだ。祖国の為に心身を賭し、全力を以て戦う。だからこそ、命のやり取りさえも許容することができるのだ。

 

「だって、フィリア様はとても優しいお方ですもの。仲良くしたいと思うのは自然な人情ですわ」

 

 だが、オルヒデアは恬然としてそう言う。

 真正面から投げかけられた褒め言葉に、フィリアの頬が動揺して赤く染まる。

 

「な……貴方に私の何が分かるというのですか」

「ふふ、お気を悪くしたら御免なさいね」

 

 口をとがらせて抗議するフィリアを見詰め、オルヒデアはニコニコと笑うばかり。

 座には何やら弛緩した空気が漂い始めている。乙女の能天気な雰囲気に、少女も呑まれかけているようだ。

 

「とにかく、私はこれで失礼します。何か要望があれば、館の者に遠慮なく申し付けてください」

「あ、でしたら最後に、一曲お聞き下さいませんか。実は、フィリア様にお聞かせするために練習していたのです」

 

 そう言いながら、オルヒデアはベッドに置いていたリュートを拾い上げる。

 

「私にはそんな時間などありません」

「そんな……どうしてもいけませんか?」

 

 退室しようと腰を浮かしかけたフィリアを、オルヒデアは子犬のようにうるんだ瞳で見つめる。

 

「~~っ、仕方ありません。一曲だけですよ」

 

 弟妹に駄々をこねられたような気分になったフィリアは、椅子に座りなおして鑑賞の姿勢を取る。

 オルヒデアは満面の笑みを浮かべると、いそいそとリュートの音を確かめ始めた。

 

 調弦が済むまで、取り留めのない雑談が交わされる。

 曰く、オルヒデアは祖国では王族の傍流に当たる名家に生を受けたそうだ。何不自由ない幼少期を過ごした彼女だが、数年前に両親が他界し、その際に父が(ブラック)トリガーを残した。(ブラック)トリガーに適合を見せた彼女は、国土を護るために戦士にならざるを得なかったと寂しげに語る。

 

「でも、私は昔から間が抜けていたもので……」

 

 図抜けたトリオン能力以外に、戦士としての適性を何一つ持ち合わせていなかったオルヒデアは、それでも彼女なりに必死の努力を行ったそうだ。

 もちろん自分の国を護るため、そして何より、彼女の敬愛する兄の力となるために。

 

「兄様は、お前は家で音曲を奏でていればいい。と常々仰っていたのですけれど……やっぱり、向いていないことは駄目みたいですね」

 

 音合わせが済んだらしい。オルヒデアは苦笑いを浮かべて、リュートを抱えた。

 

「それでも、音楽だけは上手だと、皆さまに褒めていただけるんですよ」

 

 そう言って、乙女は演奏を始めた。

 

 川のせせらぎのようなリュートの調べが、豪奢な客間に深々と響く。

 徐々に音調は色彩を増し、幽玄かつ壮大な世界を作り上げていく。

 まるで深山幽谷が立ち現れたかのような、凄まじい表現力である。

 

 目の前で奏でられるオルヒデアの演奏に、感受性の強いフィリアはただ感動に身を震わせるばかりで、ともすれば息をするのも忘れてしまう有様だ。

 そして演奏が終わると、フィリアは知らずと間に小さな手を打ちならしていた。

 時間にして僅か数分の演奏であったが、まるで異国の景勝地を旅したかのような、奇妙な興奮と充足感が少女の胸を満たしていた。

 

「……素晴らしかった、です」

「良かったぁ。ありがとうございます」

 

 オルヒデアはリュートを脇に置き、満面の笑みを浮かべる。技能を誇示しようとした訳ではなく、純粋に自分の音楽を聴いてもらったことが嬉しいらしい。

 それにしても驚くのは、彼女がリュートを触ってまだ三日と経っていないことだ。

 彼女はエクリシアに捕虜として連れられてから初めてこの楽器に触ったらしい。にも関わらず、彼女はまるで長年親しんだ相棒のように音曲を奏でて見せた。

 

 これには彼女の持つサイドエフェクトが影響している。

 彼女はあらゆる音階を正確に聞き分け、再現することができる超感覚を持っている。演奏に関して言えば、非常に有利な特性だろう。

 ただ楽器の操作そのものは、彼女の弛まぬ努力の賜である。いくら音階が全て把握できるからといって、円熟した演奏には長い修練が必要となる。

 それを僅か数日で成し遂げたということからも、彼女の非凡な才能が窺える。

 

「……本当にすごかったです。私は音楽の事は何もわかりませんが、きっと何処の国でも最高の評価を得られると思います」

 

 フィリアの素直な賞賛に、オルヒデアは照れて頬を桜色に染める。

 これだけの才能を生贄に捧げなければならないとは、本当に惜しい。少女は改めてこの世界の無情さを呪いたくなった。

 今度視察に来るときは、何か手土産を持ってくると約束し、フィリアはオルヒデアと別れた。

 

 使用人たちに見送られ、イリニ家の本邸を後にする。

 待たせていた部下を労い、車へと乗り込んだ。

 既に時刻は夕刻に差し掛かっている。これから聖都に帰れば真夜中になるだろう。残務を片付けることを考えれば、今日は家に帰れないかもしれない。ただ、

 

「ふふ……」

 

 フィリアの胸の内は不思議なほどに軽やかだった。

 捕虜の視察は色々な意味で気遣わしい仕事であったが、最後に聞いた音楽が、彼女の疲れを吹き飛ばしている。

 少女は奇妙に満ち足りた心で帰路に付いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 来訪者の去ったオルヒデアの居室には、うら寂しい空気が流れていた。

 イリニ本邸の地下階は、元は倉庫や貯蔵室として用いられていたのだが、先代の当主によって、不届き者を収容するための座敷牢へと改修された。

 外部との関係が遮断された地下階には、家人の立ち入りも制限されており、食事の運搬や清掃などの業務以外で人が訪れることは無い。

 

 必要があれば地下から連絡を入れることができるが、幽閉された身で意味も無く人を煩わせることはできない。

 必然、オルヒデアは豪奢な調度に囲まれた部屋で、一人寂しくリュートの弦を爪弾くばかりであった。

 

「…………」

 

 己の不幸を嘆く思いは確かにあるが、それでも乙女に絶望はなかった。

 祖国ポレミケスは目を覆いたくなるほどの被害を受けたが、それでも彼女の最愛の兄は無事であったのだ。

 生きてさえいれば、きっとまた会える。

 その思いが、彼女の軟禁生活に希望を与えていた。それに、

 

「いい子でしたね……」

 

 初めて言葉を交わした、あの少女。

 ポレミケスを蹂躙した悪鬼の如き兵士の一人であり、己を異国へと連れ去った張本人。そして彼女から父の形見である(ブラック)トリガーを奪った少女である。

 恐怖もあった。憎悪もあった。しかし、実際に会ってみると、その思いは朝靄が晴れるかのように消え去ってしまった。

 

 少女は決して、人の心を失った怪物などではなかった。

 凪いだ湖面のように無表情を装っていても、オルヒデアにはよく分かる。彼女はとても感情が豊かで、他人の痛みが分かる善良な娘であったのだ。

 年端もゆかないそんな少女が、苛烈な戦場に身を投じているのだから、きっと何かただ事ならぬ事情があるのだろう。

 

 かくいうオルヒデアも、(ブラック)トリガーの適性によって戦場に立たざるを得なくなった身である。

 好むと好まざるとに関わらず、この世界は戦乱と流血を求めている。

 その無慈悲な運命に、オルヒデアは繊細な心を痛めるばかりであった。

 

「ごめんください。少しいいですか」

「え、は、はい!」

 

 物思いにふける乙女に、突如として柔らかな女性の声が聞こえた。

 どうやら随分前から扉をノックしていたらしい。オルヒデアは思いもがけなかった急な来訪者に、わたわたと慌てて対応する。

 

「良かった。もうお休みになられているのかと思ったわ」

 

 ドアを開けると、薄暗い廊下には妙齢の貴婦人が立っていた。

 黄金を溶かして梳いたかのような金髪と、翠玉のように輝く瞳をした美しい女性である。その典雅な物腰と纏う風格から、一目でこの屋敷に住まう貴族であることが窺えた。

 ゆったりとしたナイトガウンを纏ったその女性は、困惑に目を瞬かせるオルヒデアへ、

 

「私はパイデイア・イリニと申します。よければお話などいたしませんか」

 

 と、慈母のような微笑みを浮かべてそう言った。

 

 



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其の四 適合者探し

 雲一つない晴天に恵まれた聖都。

 小高い丘の中腹にあるイリニ騎士団の砦、その正門前には少年少女たちの人だかりができていた。

 彼らは今日行われるイリニ騎士団の見学会に参加するため、聖都全域から集まった出身も階層も異なる子供たちである。

 

「さあ皆さんお揃いですか? では早速我らが城を案内いたしましょう!」

 

 慣れた様子で子供たちを引率するのは、金髪碧眼の美丈夫、騎士テロス・グライペインである。

 爽やかな青年貴族に連れられて、子供たちの期待もどんどんと高まっている。

 そうして彼らは巨大な砦へと吸い込まれるように入っていく。

 

 まず案内された広報コーナーでは、エクリシアの建国史とイリニ騎士団の活躍が大迫力の映像資料で語られる。

 広報部の迅速な働きで、先のポレミケスでの大勝利も既に映像化されていた。

 生々しさを極力排除し、英雄戦記へと仕立て上げられた戦場映像を、子供たちは食い入るように眺めている。

 

 それが済むと、今度は大演習場で行われている従士たちの訓練の見学だ。

 目の前で繰り広げられる激しい戦いに、見学者は息を呑んでいる。

 そしてその後に控えるのは、見学会のメーンイベント、騎士による模範演武である。

 

「きゃあっ!」

 

 訓練場に現れたモールモッドの群れに、子供たちが悲鳴を上げる。

 実の所、このモールモッドはトリガーの威力テスト用に調整された型であり、製造に掛かるトリオンを下げているため戦闘力は皆無である。

 しかし、その動きの不気味さ、人ならぬ異形が発する圧迫感は、何一つ損なわれていない。子供たちが悲鳴を上げるのは無理からぬところだろう。

 

「御安心なさい諸君。我が国には彼女たちがいます」

 

 そんな見学者の反応を待ちかねていたとばかりに、テロスが芝居がかった仕草で闘技場を指し示す。

 流麗にして猛々しい白亜の鎧を纏った騎士が、闘技場に屹立していた。

 わっと、観客席から歓声が上がる。

 少年少女たちにとって、騎士とは武勇の象徴であり、護国を担う絶対不敗の英雄である。

 

「……ん、あれ?」

 

 だが、子供たちの歓声が困惑に変わる。

 闘技場の騎士は長剣「鉄の鷲(グリパス)」を手に提げたまま、茫然と立ち尽くしている。

 

「む……」

 

 迫りくるモールモッドにまったく気が付いていないかのような騎士に、何かトラブルでも発生したかと、流石のテロスも眉を顰める。だが、

 

「え――」

 

 見学者の口から、驚嘆の声が漏れた。

 

「当たって……ないの?」

 

 モールモッドが棒立ちの騎士へとブレードを振り下ろしたその刹那、純白の鎧が陽炎のように掻き消えた。

 同時にコアを両断されたモールモッドが、黒煙を噴き上げながら崩れ落ちる。

 

 騎士はトリオン兵の残骸を後にして、緩やかに歩を進めている。

 果たしていつブレードを避けたのか、そしてどのように反撃を打ち込んだのか、歴戦の騎士たるテロスの目を以てしても、一連の動作を鮮明には捉えられない。

 尋常ならざる着装者の技量と、「誓願の鎧(パノプリア)」の機動力を合わせた、正に神速の剣技である。

 

 無論、観客席の子供たちにその技が見えるはずもない。

 ただ騎士が悠然と闘技場を歩み、すれ違っただけで恐ろしいトリオン兵が倒れ伏す。

 一見すると地味で摩訶不思議な光景は、理解が追い付くにつれて熱狂へと変わっていった。

 

 子供たちの声援を背に受けて、騎士は最後のモールモッドへと立ち向かう。

 仲間を破壊され尽くしても、戦闘機械に臆するという感情は芽生えない。

 鈍らのブレードを振りかざし、モールモッドは騎士へと突進を仕掛ける。だが、

 

「「鷲の羽(プテラ)」起動」

 

 騎士は鎧のスラスターと合わせ、長剣からもトリオンを噴出した。

 そうして凄まじい加速を得た騎士は、一陣の風となって闘技場を飛び抜ける。

 

 十メートル余りの距離を瞬く間に飛翔した騎士は、モールモッドを飛び越えて、音も無く闘技場の地面へと降り立った。

 騎士は残心を終えると、長剣トリガーを消し去りゆっくりと振り向く。

 するとブレードを振りかざしたまま固まっていたモールモッドが、縦に両断されて地面へと吸い寄せられた。

 眼前で繰り広げられた魔法のような剣舞に、観戦席の少年少女たちは割れんばかりの歓声を送る。そして、

 

「恐ろしきトリオン兵を倒した彼女こそ、我が騎士団が誇る勇士、騎士フィリア・イリニです。どうぞ皆様、今一度大きな拍手を!」

 

 テロスの説明に、子供たちの興奮は最高潮に達した。

 同年輩でありながら騎士に叙勲され、ポレミケスにて大戦果をあげたフィリアは、少年少女たちの目には、今を時めく英雄として映っている。

 見学会が過去に例を見ないほど盛況なのも、彼女の人気があってこそだ。

 

「~~っ!」

 

 見学席から、テロスが茶目っ気たっぷりに目配せを寄越す。それの意図するところを悟って、フィリアは鎧の中で羞恥に顔を赤く染めた。

 このプログラムは騎士の凄まじさを見せつけるためだけのもので、ただトリオン兵を適当に相手にすればいいだけのはずだった。

 

 新しい鎧の慣らしに丁度いいからと、少女は軽い気持ちで引き受けたのだ。

 しかし、興奮した少年少女たちは口々にフィリアを囃し立て、このままではどうにも引き下がれない雰囲気である。

 何か、サービスの一つも必要だろう。

 

「……はぁ」

 

 観念したフィリアは、「誓願の鎧(パノプリア)」の兜部分の展開を解いた。

 

 雪のように白い髪が風に靡き、褐色の滑らかな肌が露わとなる。

 現われたのは、十五・六歳の姿をした少女である。

 エクリシアでは忌み嫌われる肌色ながら、それ故に整った顔立ちが良く目立つ。

 麗しい目鼻立ちに加えて、過酷な戦場を潜り抜けた経験だろうか、彼女の纏う雰囲気は何処か凛々しく張りつめていて、それが美貌により一層の光彩を添えている。

 

「……」

 

 そんな彼女が観客席へと顔を向けると、ぎこちないながらも笑顔を作る。

 そうして控え目に手を振ると、見学者から爆音のような喜びの声が上がった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「まったくもう。打ち合わせと違うじゃありませんか、テロス様」

「ははは。ですが皆大喜びでしたよ」

 

 砦の中にある騎士の執務室。

 見学会を終えたフィリアとテロスは、事務仕事を片付ける為モニターに向かっていた。

 現在の所、エクリシアの接触軌道上に他の国家の姿は無い。見学会のようなイベントは、だいたいこうした平穏な時期を選んで行われる。

 

「それにしても今回は大盛況でしたね。志願者が多すぎて、流石に全員は受け入れられないでしょう。心苦しいかぎりです」

 

 事務方から上げられてきた入団希望者のリストを眺めながら、テロスは顎に手を添え神妙な面持ちを浮かべる。

 先のポレミケスでの大勝以降、エクリシアでは急速に尚武の気風が高まっている。

 特に、その立役者となったイリニ騎士団の人気は奔騰しており、志願者は後を絶たない状況だ。

 

「今度の見学会は、フィリア様に引率をお願いしましょうか」

「な、あの、それはちょっと……私は人見知りですし、テロス様のようにお喋りも上手ではなくて」

「いやいや。フィリア様が直々に案内してくれるというだけで、きっと皆は喜びますよ」

 

 入団希望者が増えた理由は、ポレミケスでの大勝だけでなく、フィリアが騎士に叙勲されたという事実も大きい。

 騎士団の門戸は広く開かれているが、やはりその中で出世し要職へ就くのは、門閥貴族出身の者が圧倒的に多い。

 

 そういう意味で言えば、フィリアの叙勲もイリニ家の後押しがあってこそ実現したのだが、世間一般に流布している話では少々事情が異なっている。

 ノマスの血筋にも関わらず克己勉励に励むフィリアを、イリニ家が感心して養子に迎え入れ、そして努力を重ねた少女はついには騎士の位を掴みとった。と、話の順序が逆になって伝わっているのだ。

 

 その為、フィリアは異民族の血が流れる市民にとっては、まさにお手本のような成功者として見られている。

 そんな市民たちが、自分の運命を切り開こうと騎士団へと殺到するのは当然のことといえた。

 

「どちらにせよ、兵が増えるのは良いことです」

 

 テロスが作業を続けながらそう言った。

 騎士団の強化による影響は、何も対外的な事象だけに留まらない。

 

 一見盤石に見えるエクリシアも、内部は一枚岩ではない。三大貴族が友好的なのは表層だけのことで、各家は常に権力を奪取するべく権謀術数を巡らしている。

 動員できる兵隊の数というのは、もっとも直接的な影響力の一つだ。

 元よりエクリシアでは三大貴族として権勢を誇るイリニ家だが、今後はさらに他家を上回る発言力を得ることができるだろう。そして、

 

(ブラック)トリガーも、無事に適合者が出ればいいのですが……」

 

 と、フィリアが報告書を作成しながらぽつりと溢す。

 ポレミケスで鹵獲した(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」は、現在教会で保管され、解析が行われている真っ最中だ。それが済めば、エクリシア全土から適合者を探し出し、相応しい者に授けられることとなる。

 武力の象徴である(ブラック)トリガーが増えれば、騎士団の影響力はさらに増すだろう。

 

 ただ、フィリアは政治面での効果ではなく、純粋に軍事的見地から「灼熱の華(ゼストス))」を欲している。あの強烈な火力があれば、取り得る戦術はさらに増える。

 次の戦場の為に、さらに次の戦場の為に。

 母の代わりを見つけ出すためには、戦力は多ければ多いほどいい。

 少女がそんなことを考えていると、軽快な電子音が響いた。イリニ騎士団から支給された携帯端末が、着信を告げている。

 

「……」

 

 見れば、フィリアだけではなくテロスにも連絡があったようだ。

 いったい何事かと、少女は作業を中断して通達を読む。

 

「ちょうど、今話していたところでしたね」

 

 少女と青年は顔を見合わせる。

 教会からイリニ騎士団に、(ブラック)トリガーの適性を調べる為、教会を訪れるようにと通達があったらしい。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 木の根が絡み合ったかのような歪な形状をした、掌に余るほどの漆黒の円柱。

 その小さな物体に奇妙な威圧感を感じるのは、封じられた真の姿を知る故か。

 

 大聖堂の祭壇に恭しく安置されているのは、(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」である。

 信徒席にはイリニ騎士団の騎士、従士たちが並んで座り、審判の時を待っている。

 この日、教会では(ブラック)トリガーの適合者を探すための起動実験が行われていた。

 

「では次、騎士フィリア・イリニ殿」

「はい」

 

 名前を呼ばれ、フィリアが祭壇の前へと歩み出る。

 教会は元の担い手であるオルヒデアのデータを解析し、「灼熱の華(ゼストス)」の適合者をある程度まで絞りこんではいるのだが、やはり最も確実な手段である起動実験は欠かせない。

 

 また、適合者探しをここまで仰々しく行うのは、これが一種のセレモニーであるからだ。

 (ブラック)トリガーは普通のトリガーとは異なり、それそのものがある種の権威となる。

 例えば、エクリシアに於ける貴族の家督継承権は、その家に伝わる(ブラック)トリガーを起動できるか否かによって大きく左右される。

 (ブラック)トリガーに選ばれた者は、その時点で一般人ではなくなるのだ。

 

「トリガー起動」

 

 フィリアは気負いもせず「灼熱の華(ゼストス)」を掴むと、鳥のさえずるような声で軽やかに起動を宣言する。だが、

 

「…………」

 

灼熱の華(ゼストス)」は何の反応も寄越さない。

 規則に従って二度ほど起動を繰り返すが、(ブラック)トリガーは沈黙したままだ。

 

「……ご苦労でした。では次――」

 

 係りの者に促され、フィリアは「灼熱の華(ゼストス)」を置いて自分の席へと戻る。

 残念ながら、(ブラック)トリガーは少女を担い手として認めなかったようだ。

 だが、別段少女に気落ちした様子はない。

 

 そもそも事前の検査結果からして望み薄であったし、実際に「灼熱の華(ゼストス)」を前にした瞬間、サイドエフェクトが無理だと教えてくれた。

 それに何より、「灼熱の華(ゼストス)」は既にメリジャーナを適合者として認めている。

 イリニ騎士団の中でも最有力の候補であった彼女は、フィリアの少し前に実験に望み、無事(ブラック)トリガーの起動に成功していた。

 

 これで一先ず、「灼熱の華(ゼストス)」が他家に流れることは避けられることになった。

 そしてメリジャーナなら、(ブラック)トリガーの担い手としては申し分がない。銃器の扱いに秀でた彼女に、砲撃型トリガーは打ってつけの武器だろう。

 

「ふう……」

 

 とはいえ面倒なのは、起動実験が終わるまで教会から出られないことだろう。信徒席に腰を据えたフィリアは、誰にも聞き咎められないよう小さくため息をついた。

 業務の都合から全員が集まった訳ではないが、今日この教会にはイリニ騎士団の騎士と従士、合わせて三百人以上が来ている。

 従士の上役たる騎士フィリアは、当然彼ら全ての検査が終わるまでこの場を離れることができない。

 仕方がないので、フィリアは式典をぼんやりと眺めながら、新しい(ブラック)トリガーの運用方法に思考を巡らせることにした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 適合検査が終わると、騎士と従士たちはイリニ騎士団の砦へと戻った。

 騎士団が抱える兵員は膨大であり、まだ全員が検査を終えた訳ではない。他の団員たちの検査は、日を改めて行う事となっている。

 

(ブラック)トリガー適合、おめでとうございます」

「ふふ、ありがとうフィリアさん。けど不安だわ。あんな大威力のトリガー、上手く扱えるかしら?」

「メリジャーナさんなら大丈夫ですよ。私もヌースと一緒に、活用できるよう知恵を絞りますから」

 

 だが、フィリアとメリジャーナは教会に残り、地下の研究所で所要を済ませていた。

 メリジャーナは適合者としての詳細なデータ取り、フィリアは新しい鎧の反応速度に若干の不満があったため、再調整を施すためだ。

 

「でも結局、今日は私しか適合者がでなかったのよね……」

「選り好みの強いトリガーなのかもしれませんね。まあ、メリジャーナさん以上の適任者がいるとは思いませんが」

 

 (ブラック)トリガーは通常のトリガーとは異なり、相性の良い人間にしか起動することができない。適合者が三百人に一人というのは別段酷い数字でもないが、好き嫌いが激しくないトリガーでは五人に一人が起動できたケースもあるらしい。

 研究者たちは熱心に調査を続けているが、(ブラック)トリガーが起動者を選ぶ基準は正確には判明しておらず、相性などという曖昧な表現が用いられるのが現状である。

 

 一般的には、(ブラック)トリガーを残した人間と親交の深かった人物や、血縁者が起動に成功することが多いらしい。

 (ブラック)トリガーには人格が宿っており、起動者の人物を見定めているのだと噂されるのはその所為だ。

 

 思えば、メリジャーナは一見すると、オルヒデアに雰囲気が似ていないことも無い。

 どちら柔和な性格でありながら、芯のところでは他者に譲らない頑固な気質を持っている。もちろん違う所の方が多いが、少なくともフィリアよりは良く似ているだろう。

 

「もうすっかりいい時間ね。今日はいろいろあって肩が凝っちゃったわ。ねえフィリアさん。一緒にご飯でも食べて帰らない?」

「……はい。喜んでご一緒します」

 

 研究所の通路を並んで歩きながら、二人は談笑に興じる。

 最近ではフィリアも随分と性格が丸くなり、騎士団の同輩ともよく話すようになった。特にメリジャーナにはとても可愛がられており、実の姉妹のように仲が良い。

 

 また騎士という責任ある立場に付いたためか、人当たりも随分と柔らかくなった。物腰が丁寧で、怒りを露わにするようなことが滅多に無く、どんな話であっても真摯に応じる彼女の姿に、部下である従士からの評判も上々だ。

 そんなフィリアの変化もあり、騎士団内ではあれほど根が深かった、少女の出自に起因する従士の不信感や敵愾心も、今では随分と影が薄くなってきている。

 

「あれ、何かあったのでしょうか?」

 

 二人が昇降口を目指して歩いていると、通路の向こうから慌てた様子の研究員が早足で向かってくる。それも一人や二人ではない。

 フィリアが怪訝な表情を浮かべると、彼女たちに気付いた研究員の男が、

 

「――あっ! メリジャーナ様、フィリア様! 良い処にいらっしゃいました」

 

 と、死地で援軍でも見たかのような表情で呼びかけた。

 

「一体何事ですか。説明を願います」

 

 緊迫した気配を感じ取ったメリジャーナが、張りつめた表情で問いかける。すると男は気まずそうに逡巡してから、

 

「ラウンジでニネミア・ゼーン閣下とオリュザ・フィロドクス様が……」

 

 と、さも言いにくそうに口を開いた。

 

「な――」

 

 それだけ聞いて事情を察したのだろう。メリジャーナは美人が形無しの凄まじい表情を浮かべて絶句してしまう。

 後ろに居たフィリアは、何事かときょとんと小首をかしげている。間の抜けた顔を少女に見られずに済んだのは、メリジャーナにとっては幸いだっただろう。

 

 

 



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其の五 大喧嘩

「そう、それであなたは私の失策を、ご丁寧に指摘してくれると言う訳ね」

「詳細な戦闘ログを頂ければ可能です。双方の騎士団にとって有益な話かと思います」

 

 いつもは英気を養う研究員の姿で賑わうラウンジには、今はカウンターで働く従業員の姿さえ見受けられない。

 だだっ広い部屋の真ん中で、顔を突き合わせるように立っているのは、黒髪紅眼の美女ニネミアと、眼鏡姿が印象的な美女オリュザだ。

 

「ああもう……」

 

 二人の姿を見るや、メリジャーナが頭を抱えてため息をついた。

 今にも手が出かねないような一触即発の空気である。研究員たちが退散するのは賢明な判断だろう。何しろ二人は共に(ブラック)トリガーの持ち主である。本気で暴れれば、教会そのものが倒壊しかねない。

 

 エクリシアが誇る女傑ニネミアとオリュザの仲が悪いのは、実の所エクリシアの貴族たちにとっては周知の事実である。

 貴族の見本のように気位が高いニネミアに、少々異常なほどに直截な物言いをするオリュザ。

 

 二人は初対面の時から激しい言い争いを行い、それ以来は会うたびに険悪な雰囲気を作るようになっていた。普段はお互いが顔を合わせないよう周囲が尽力しているらしいが、どういう訳か今日は予定がかち合ってしまったらしい。

 

 二人とも家格が高く、また実力も秀でているため、一度喧嘩が始まってしまえば、仲裁できる者もざらには居ない。

 研究員が喜ぶのも無理はない。その数少ない一人が、ここに居合わせたメリジャーナ・ディミオスなのである。

 女性騎士として先輩である彼女は、二人を真っ向から叱りつけることができる立場の人物だ。

 また、メリジャーナは貴族としては珍しいほど親しみやすい性格をしているため、この二人が喧嘩をするたび、何度となく仲裁に呼び出されてきた。

 

「まったくもう。今回は何よ……」

 

 喧嘩に慣れっこのメリジャーナは、げんなりとした表情でそう呟く。その時、

 

「あ、あの、お二人はどうして……何を……」

 

 背後から、震えた声が聞こえた。

 

「――っ!」

 

 驚いて振り返ったメリジャーナの顔から、サッと血の気が引いた。

 そこに居たのは、まるで親の喧嘩を目の当たりにしたような、無力で弱々しく、哀れを催す子供の姿であった。

 フィリアは顔面を蒼白にし、身体を小刻みに震えさせ、今にも泣き出しそうな表情で立ち尽くしている。

 年齢不相応に大人びて優秀な、普段の少女からは考えられない姿だ。

 

 両名とも、フィリアにとっては友人といえる間柄の人物である。

 その二人が本気で諍いあっている姿に、少女はパニックを起こしていた。

 以前、メリジャーナとニネミアが言い争いをしたのを見たことはあるが、その時の両名はただ昂ぶっていただけで、このように険悪な雰囲気と言う訳ではなかった。

 

 おそらく彼女にとって、親しい人間、それも年上同士の喧嘩に立ち会うのは初めてのことなのだろう。貧民街という特殊な環境で、周りが敵ばかりであった彼女にとって、心を許せる人たちが争う姿は、並や大抵の衝撃ではなかったらしい。

 

「あの、やめて……なんで……」

 

 本気で狼狽した様子の少女は、剣呑な気配を振り撒くニネミアとオリュザに、懇願するような声で話しかけようとする。

 そんなフィリアの姿に、メリジャーナの頭は一瞬でクールダウンした。

 

「二人とも止めなさい!! 子供の前よ!」

「なっ――!」

「――!」

 

 メリジャーナの一喝に、争っていた二人の美女は揃って言葉を失い、通路の方へと向き直った。

 喧嘩の仲裁にメリジャーナが出てくることは珍しくも無い。ただ、今日の彼女の声音は普段とは明らかに異なっており、まるで戦場で下知を飛ばすかのような緊迫感である。

 

「な、あなたたち何処から……」

「騎士メリジャーナ……と、騎士フィリア?」

 

 ニネミアとオリュザは激憤するメリジャーナに気付いた後、彼女の隣で立ち尽くす少女に目を吸い寄せられた。

 普段の姿を知る者からは想像もできない、動揺も露わなフィリアである。

 その理由が自分たちの諍いにあると気付くと、流石の二人も舌鋒を引っ込め、気まずそうに互いの顔を視線で探る。

 

「そ、そう。それじゃあ私はもう帰るわ」

「待ちなさい」

 

 息苦しさに耐えられず逃げ出そうとしたニネミアを、メリジャーナの有無を言わせぬ声が制した。

 

「な、なによ……」

「座りなさい。オリュザさん、あなたもよ」

「……はい」

 

 地獄の底から響くような声で命令されて、さしもの二人も反抗の気力を失った。

 ニネミアとオリュザは大人しく丸テーブルを囲む椅子に腰を下ろし、

 

「フィリアさん、大丈夫?」

「……はい」

 

 メリジャーナとフィリアも、椅子を寄せて席に着いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「さて、それじゃあどういう事か説明してもらえるかしら」

 

 足を組んで椅子に腰かけるメリジャーナは、氷河のように冷酷な眼差しでニネミアとオリュザを見遣る。

 普段は温和で朗らかな印象の強い彼女だが、こうして眦を決すると、さながら女帝の如き壮絶な威圧感を纏うようになる。

 

「あ……そ、そうよ、この子が悪いのよ」

「ことの善悪は主観の問題のはずですが。少なくとも、急に声を荒げだしたのはゼーン閣下が先です」

「っ、あなたが無礼なことを言うからでしょうに!」

「二人とも、そろそろ本気で怒るわよ?」

「「~~っ!」」

 

 又しても言い争いを始めたニネミアとオリュザに、メリジャーナが恐ろしいほどドスを利かせた声で凄む。眉一つ動かさず人を殺しそうなその表情に、流石の二人も口を紡ぐ。

 

「貴方たち軍人でしょう。時系列に則って事実のみを話しなさい」

 

 観念した二人が話すところによれば、こうだ。

 研究所に所用があった二人は、偶然ラウンジで鉢合わせをしたらしい。

 普段は碌に挨拶もしない仲だが、今回はオリュザの方からニネミアに話しかけた。

 内容は、先日ゼーン家が行った「山岳国家アクラー」への遠征記録を、フィロドクス騎士団に提供してくれないか。との要望である。

 

 だがニネミアはその申し出をにべもなく断ったそうだ。

 これに気を悪くしたのがオリュザである。遠征の記録は国の共有すべき情報であり、秘匿するのは協定に反すると、理詰めで反論にかかった。

 そこから先は、いつも通りの罵り合い、貶し合いである。

 

「……はあ」

 

 メリジャーナは白い指先でこめかみを抑え、さも呆れたようにため息を吐く。

 結局、二人の相性の不味さが引き起こした、いつも通りの喧嘩である。

 

 確かに、理屈の上ではオリュザの言い分は正しい。遠征の記録は国の共有財産である。諸外国の情報は教会で取りまとめられ、必要に応じて各騎士団が情報開示を求めることになっているが、騎士団同士で検討会を開くことも多い。

 フィロドクス騎士団は特に情報の収集と解析に熱心で、イリニ騎士団やゼーン騎士団も遠征に際して助言を求めたことは少なくない。そのフィロドクス騎士団から情報提供を求められたのならば、応えるのが筋というものだろう。

 

 ただし、今回のゼーン騎士団の遠征は、散々な負け戦であった。

 山岳国家アクラーに攻め入ったニネミア率いる精鋭部隊は、しかし急峻な地形を用いた敵の防御陣地に手古摺り、殆ど戦果を挙げることができずに撤退した。

 数名の捕虜を捕らえ、また味方に人的損害は無かったものの、遠征に投入したトリオンは莫大で、とても回収の目途は立たない。

 

 トリオン目的の遠征としては、まず大失敗といっていい。

 誰よりも貴族としての矜持が高く、また若いながらも騎士団の総長を務めるニネミアは、随分と自責の念に苛まれていたことだろう。

 そんな彼女の事情に思い至れば、まだ失敗の記憶も新しいこの時期に、負け戦の記録を寄越せなどとは口が裂けても言えないのだが、難儀な性格のオリュザはそれを言ってしまったのである。

 

 ニネミアも、余り自制の効く性格ではない。

 日頃の悪感情も手伝って、過剰に反応してしまったのだろう。

 

「……」

「……」

 

 二人は大人しく椅子に座っているが、今も怒りは収まっていない様子だ。

 それでも喧嘩を再開しないのは、先輩であるメリジャーナが睨みを利かせているのと、

 

「フィリアさん、平気? 無理しなくてもいいのよ。辛いなら言ってね」

「…………はい」

 

 今にも泣きだしそうな顔で俯いている少女の存在があるからだ。

 フィリアと知り合って二年近く立つが、彼女が喧嘩一つでここまで狼狽えるとは、メリジャーナも困惑を隠せない。

 それは喧嘩の当事者たちも同感であるらしく、弱々しい少女の姿を目にして、ばつが悪そうに視線を虚空にさ迷わせている。

 

「あの、ゼーン閣下、騎士オリュザ、その、あの……」

 

 フィリアがつっかえつっかえに、喉の奥から言葉を絞り出す。その声は震えていて、今にも涙声に変わりそうである。

 

「な、なにかしら……」

「……何でしょうか」

 

 ある意味では座の空気を支配している少女の呟きに、二人の美女は判決を言い渡される罪人のように面持ちを固くする。

 

「わ、私にできることなら、なんでもします。……お二人が、喧嘩をなさらないよう、どうすればいいのか、教えて下さい」

 

 とにかく場を修めたい一心なのだろう。そう言って、フィリアは健気にも頭を下げた。

 

「……」

 

 メリジャーナの冷たい視線が二人に突き刺さる。

 関係のない子供にここまで言わせておいて、まだ我を張るつもりかと、無言のままに詰問している。

 

「……あなたには関係のないことよ。私とその子がしでかしたんだから。……でも、そうね、反省したわ」

 

 ニネミアがそう言って詫びる。オリュザも、

 

「騎士フィリアが気に病むことはありません。どうぞ顔を上げてください。あなたにふさぎ込まれると、私も心苦しいです」

 

 無表情はそのままに、しかし声には幾分心配の色をにじませてそう言う。

 お互い相手の事を許したわけではないが、一先ずフィリアの顔を立ててここは引き下がることにしたらしい。

 

「貴族としての立場やしがらみもあるでしょうが、その前に、二人ともいい大人なんですから、言動には気を付けてください」

 

 メリジャーナがそう纏めると、二人は不承不承と返事をした。

 そして一応の決着がついたとみるや、二人は椅子から立ち上がり、そそくさとラウンジを後にした。これ以上もめごとが起きぬよう、二人は別々の方向へと歩いていく。

 残されたメリジャーナはラウンジのカウンターに入ると、慣れた手つきでフィリアの好物であるホットチョコレートを淹れてやった。

 

「はいどうぞ」

「……ありがとうございます」

 

 少女は湯気を立てるカップを両手で持ち、少しずつ口を付ける。

 だいぶ落ち着いたようで、いつもの気丈で冷静な佇まいを取り戻しつつある。

 

「ごめんなさいね。大変な現場に立ち会わせてしまって……」

「……いえ。メリジャーナさんも、お疲れ様でした」

 

 愛想笑いが浮かべられる程度に回復したフィリアに、メリジャーナは大げさな仕草で項垂れ、ニネミアとオリュザの仲の悪さを説明する。

 なるべく気楽な調子を装い、軽い言葉を選んで務めて明るく話すのは、少女がことを重く受け止めないようにするためだ。

 

「結局、相互理解が乏しいのよね。まあ、所属する家が違うから、接点が無いのはしかたないんだけど……」

 

 気位が高過ぎるニネミアに、愛想がまるでないオリュザ。両者の性格の不一致が、仲たがいの原因だ。

 灰汁の強い性格同士である。これはもう仕方のないことで、彼女たちの仲は初めて会った時からずっと険悪なままだ。

 メリジャーナやフィリアなどは、その両名の性格を把握しているので、仲良く付き合うこともできるのだが、今まで一度も歩み寄った事のない両者に、お互いを理解しろというのは無理な話だろう。

 

「あの子たちも、喧嘩ばかりしていてはダメなのはわかっているはずよ」

 

 そう言って、紫髪の美女は冷えた炭酸水を口にする。

 ニネミアとオリュザは、ゆくゆくはエクリシアの柱石となる人物である。

 騎士団同士の功名争いや切磋琢磨は当然のことだが、同じ国に住まう以上、度を越して不仲というのはいかにも不味い。

 苦手意識や悪感情というモノは、年月を重ねるほどに凝り固まっていくものだ。

 

「何か、仲直りさせる方法があればいいのにね」

 

 メリジャーナがそうぼやくと、フィリアはじっと手元のカップへと視線を落とす。

 

「分かりました。私も何か考えてみます」

 

 金色の瞳に光を宿らせ、少女は力強くそう言った。

 

 



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其の六 穏やかな午後

 

 一面に広がる畑では、青々とした麦の穂がそよ風に揺れていた。

 何処までも続く麦畑の海を渡るように、無骨な車両が進んでいる。

 フィリアを乗せた車両は聖都を離れ、一路イリニ家の本宅を目指して進んでいた。

 

(今年の出来はどうなるのかな……)

 

 車中のフィリアは、後席の窓からイリニ家の荘園をぼんやりと眺める。

 エクリシアは国土に比べて人口が過密気味で、食料自給に余裕があるとは言い難い。凶作が続くと麦価は恐ろしく値上がりし、市民の財布を直撃することになる。

 

 貴族としては税収の減少を憂うべきなのだが、未だ貧民時代の感覚が抜けない少女は、ついそんなことを心配してしまう。

 

 今日もまた、フィリアはオルヒデアの経過観察を行うため、イリニ家本宅を訪れようとしていた。

 ちなみに、彼女は現在生身である。イリニ騎士団の正式な公務だが、他ならぬオルヒデアがトリオン体よりも生身の方が好ましいと言っていたためだ。

 

「ふう……」

 

 聖都からイリニ家の所領までは結構な距離があり、往復するだけでも一苦労である。

 イリニ家の子女として、フィリアは神の候補という機密事項に触れても問題のない立場におり、またオルヒデア自身が少女のことを気に入っていることなどから、視察は半ば彼女の担当業務になりつつあった。

 

 どちらにせよ、捕虜の細かな変化を観察するのに少女のサイドエフェクトほど役に立つものはない。下手に視察員を変える必要はないだろうとの判断である。

 少女としてもオルヒデアの暮らしぶりは気になるので、様子を見に行くのに不満は無い。面倒な書類仕事も減らしてくれるので、どちらかといえば有難い話でもある。

 

 ただ、彼女にとって困るのは、本宅には母パイデイアが起居していることだ。

 彼女との対面を頑なに避ける少女は、今回も本宅に連絡して、事前に母の在宅時間と砲門が重ならないよう調整してもらった。

 実の所、パイデイアは表向きには神の候補としては扱われていない。本宅では病気療養中の当主の妹という立場で日々を過ごしている。

 

 (マザー)トリガーに捧げる生贄は、他国の人間を用いるのが通例である。

 身内から生贄を出すというのは余り外聞がよろしくないため、可能な限り情報は秘匿される。

 

 かく言うフィリアも、パイデイアが神の候補であるとはまったく聞かされていない。

 おそらく事実を知る者は当主アルモニアと当事者であるパイデイア、それに相談役のヌース。後は騎士団でも古参の幹部であるドクサぐらいのものだろう。

 

 そもそもパイデイアはずば抜けたトリオン能力の割に、エクリシアでは全くの無名である。一時はイリニ家から抹消された人物のため、彼女のことを知る人間はほとんどいない。

 おそらく身の回りの世話をする使用人たちも、パイデイアが神の候補であるとは気付いていないだろう。

 唯一の例外は、サイドエフェクトでその事実を知り得たフィリアだけだ。

 

「……やっぱり、時間がかかりますね」

 

 延々と続く麦畑の向こうに、ようやく巨大な邸宅が見えてきた。

 フィリアは視線を車内へと戻し、隣の座席に置いてあるトリオン製の長櫃にそっと手を乗せた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ふわああ! ありがとうございますフィリア様!」

 

 イリニ本宅の地下。豪奢な家具で飾られた一室に、歓喜の声が響き渡る。

 部屋の主、黒髪の乙女オルヒデアが瞳を輝かせて見詰めているのは、ケースに収まった真新しいバイオリンと、その横に積み重ねられた楽譜の山だ。

 

「喜んでいただけて、何よりです」

 

 前回の別れ際の約束通り、フィリアはオルヒデアに手土産として、これらの品々を持参していた。

 彼女がいくら音楽好きだからといって、幾分安直なチョイスではないかと思ったが、もとより捕虜に与えられる品には制限がある。

 いろいろ悩んだ末での贈り物だが、大層気に入ってくれたらしい。

 

「あ、御免なさい。お客様にお茶もお出しせず……どうぞお掛けになって下さい」

 

 しばらくはバイオリンを嬉しそうに眺めていたオルヒデアであったが、フィリアが立ちっぱなしなのに気付くと慌てて席を勧め、隣接する厨房へと歩いて行った。

 基本的に捕虜の食事は屋敷の者が用意するため、地下の調理場に食材は置かれていないものの、茶や嗜好品などは多種多様に取り揃えられている。

 

 フィリアは優美な椅子に腰を据え、オルヒデアが戻ってくるのを待つ。

 今日の目的は、彼女に課した課題の達成具合と、それを含めたミーティングである。

 少女は随分気楽な気分で、すわり心地のいい椅子に身体を預けていた。だが、

 

「きゃああっ!」

 

 絹を裂くような悲鳴と、がしゃんと陶器の割れる音が調理場から聞こえてきた。

 

「――っ!」

 

 フィリアは放たれた矢のように飛び出し、隣室へと踏み込む。するとそこには、

 

「ああ大変! えっと、どうしましょう、えっと……」

 

 広い調理場の真ん中で、右往左往しているオルヒデアの姿があった。

 ティーカップを落としたのだろう。床には陶器の破片が散らばり、テーブルの上には茶葉が撒き散らされ、トレーの上の焼き菓子に掛かっている。

 

 そして水を入れ過ぎたのだろうか。火にかけられたケトルは盛んに湯気を立て、噴きこぼれを起こしている。

 オルヒデアに怪我がないことを確認すると、フィリアは何はさておき調理場の火を落とした。

 

「あの、フィリア様、これはその……」

「危ないですので破片にお手を触れないように。いま箒を持ってきます」

 

 狼狽するオルヒデアを尻目に、フィリアは足早に部屋を後にした。

 地下階には一通りの家具や設備は揃っている。少女は物置へ迷いなくたどり着くと、箒と塵取りを掴んで戻ってきた。

 

 本来ならばメイドに任せる仕事だが、それをしてしまうとオルヒデアのヘマが明るみになってしまう。

 少女はさっそく証拠隠滅に取り掛かった。

 

「私もお手伝いを……」

「そうですね。ではテーブルの上をお願いします」

 

 気まずそうなオルヒデアにも作業を言い付け、床に散らばった破片を箒で集める。

 作業は直ぐに済んだ。床を掃き清め、テーブルを拭けばそれで終わりである。

 

 どちらにせよカップの数が減ってしまっているので、家人に報告はしておかねばならない。怠れば食器を管理している使用人の責任になってしまう。

 

 自分の不手際から割ってしまったと伝えておこうとフィリアは考える。まあ家人も気付くだろうが、オルヒデアは何というか、つい庇い立てをしてしまいたくなる雰囲気がある。そこまで酷くは責められないだろう。

 

「…………」

 

 乙女は美しい顔を曇らせ、俯いている。

 

「さて。ではもう一度始めましょう」

 

 少女は何事も無かったようにケトルを火にかけ、ティーカップを並べる。

 

「フィリア様にそんなことをさせるわけには……」

「私はどうも、何かしていないと落ち着かないのです。一緒にさせてくださいませんか」

「……はい。それでは是非に!」

 

 二人は並んで調理場に立ち、お茶の用意を始める。

 案の定、オルヒデアはこちらの銘柄には詳しくなく、茶葉を入れ過ぎそうになったり、湯音を間違えかけたりする。

 それでもフィリアの補助もあり、何とか美味しいお茶を淹れることができた。

 

 二人は応接室までティーセットを運び、ようやく席に着く。

 華やかな香気を漂わせるお茶と、贅を凝らした焼き菓子を前に、フィリアはようやく来訪の目的である面談を始めた。

 

「さて……では早速、オルヒデアさんの技能試験の結果についてですが……」

 

 仕事を割り当てる為、エクリシアに連れてこられた捕虜には例外なく技能試験が課させられる。オルヒデアも数日前にその試験を受けていた。

 

「抜きんでて適性があった業種は、その……」

「無いんですね……覚悟していました」

 

 散々たる結果をどう伝えたものかと少女が言いよどんでいると、乙女は暗い影を落とし、力なく微笑んだ。

 オルヒデアは身体も健康で、頭のめぐりも人並み以上ではあるのだが、何につけてもとにかく間の抜けたところがある。

 

 技能試験も筆記は好成績を収めたのだが、実技訓練では何か反抗の意思でもあるのかという程に失敗ばかりを繰り返していた。

 特に専門的な知識も無く、技能面では最も低いランクの捕虜との判定が下された。

 

「私はいっつもこうなんです。何をしてもダメで、人様に迷惑ばかりかけて……」

「でも、素晴らしいトリオン機関をお持ちではないですか」

「……ありがとうございます。でも、それは授かりものですから」

 

 何か嫌な記憶でも思い出したのか、オルヒデアは笑顔のままに大きなため息をつく。

 実の所、神の候補である彼女は、職業適性がどうあれこの館から出されることはない。

 

「お気を落とすことはありません。オルヒデアさんは、素晴らしい演奏の腕をお持ちではないですか」

 

 それでも、少女は落ち込む乙女を何とか元気づけようと、音楽の才能を褒める。

 残念なことに、エクリシアに連れてこられた捕虜は年季が明けるまでは奴隷も同じで、職業選択の自由は無い。

 彼らは強制的に製造、生産職に割り当てられ、演奏家や画家といった、国力とは無関係な仕事に就くことは許されない。

 

「私はオルヒデアさんの音楽は素敵だと思いますよ」

「本当ですか?」

「本当です。感動は力に変わります。音楽は立派な仕事になりますよ」

 

 フィリアに励まされると、オルヒデアもだんだんと力が湧いてきたようだ。

 明るさを取り戻した乙女は、フィリアの褒め言葉に照れたように微笑む。

 

「ありがとうございます。本当にフィリア様はお優しいのですね」

 

 そう言われて、少女は内心で己の浅ましい所業に恐れ慄く。

 オルヒデアが音楽家として活躍する日は、未来永劫やってこない。

 

 育成が間に合えば、彼女は(マザー)トリガーへ生贄として捧げられる。

 たとえそうはならなかったとしても、これほどのトリオン機関を持つ人間を、エクリシアがみすみす放っておくはずがない。

 

 おそらく彼女は適当な貴族の男と娶せられ、子供を産むことを強制させられるだろう。

 他国の女という立場なら、妾として扱われるかもしれない。

 

 大事なのは、彼女のトリオン能力を次代に引き継ぐことだ。

 トリオン機関はある程度の確率で遺伝する。子供は多ければ多いほどいい。

 優生学的な手法に則ってでも、優秀なトリオン能力者を確保する。エクリシアの貴族階級では当たり前に行われていることだ。

 

 勿論、彼女は大事な母体であるから、至極丁重に扱われることだろう。

 美しい彼女のことだ。相手となる男も本気で熱を上げるかもしれない。

 運命次第では、ある種の幸福も手に入れられるだろう。

 

 ただし、そこには彼女の自由意思、選択の余地は微塵も無い。

 オルヒデアには、神となって朽ち果てるまでエクリシアの礎となるか、籠の鳥となって一生飼われ続けるか、そのどちらかの未来しか待っていない。

 

「あの、御気分でも悪いのですか、フィリアさん?」

 

 急に言葉を失い、心なしか唇を青ざめさせたフィリアに、オルヒデアがさも心配そうに声を掛けた。

 

「ああいえ、大丈夫です。少し、面白くもないことを思い出しただけです」

 

 軽く頭を振って応える少女に、乙女は何やら思い当ったように頷く。

 年端もいかない少女が軍で働いていれば、嫌な目にあうこともあるのだろう。そう納得したオルヒデアは、

 

「でしたら、今日は御存分に休憩なさったらどうですか?」

 

 と、そんなことを言いだした。

 

「仰る意味が分かりかねますが、どうしてそんな話に?」

「嫌なことは忘れるに限ります。ぐっと羽を伸ばしてお休みになられれば、きっと気分もよろしくなりますよ」

「いえ、お気持ちは嬉しいですが、そう言う訳にもいかないので……」

「まあまあ。私の我儘に付き合わされているということにすればいいんです」

 

 オルヒデアは善は急げと言わんばかりに立ち上がると、壁掛けの通信装置に向かって話しかける。相手は家令だ。彼はこの屋敷でオルヒデアの生活を監督している。

 捕虜には健康を保つため、日に数時間の外出と運動が許されている。その許可を、今取り付けようとしているらしい。

 

「はい。ええ、ありがとうございます」

 

 無事に許可が下りたのだろう。通話を終えると、乙女は花も恥じらうような笑顔を浮かべ、フィリアへと寄ってくる。

 

「私のお目付けとして、付いて来ていただきたいんです。お願いします。ね?」

「……分かりました。でもそんなに長くは駄目ですよ」

 

 その邪気のない笑顔には、フィリアといえど抗うことはできない。オルヒデアの細くしなやかな手に引かれ、少女は地上を目指して歩き出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そこは光と色彩に溢れた、いとも美しい空間であった。

 イリニ本宅の中庭には、広大な敷地に様々な植物を集め、それらを見事に用いた幾何学式庭園が広がっている。

 

 丁寧に刈り込まれた生垣は流麗な文様を描き、花壇には色とりどりの花が咲き乱れている。まるで絵画の世界に踏み込んだような、何処を向いてもため息が出る完成された空間である。

 軟禁中のオルヒデアは敷地の外に出ることを許されないため、気晴らしによく中庭を散策するらしい。

 

「フィリア様。向こうに噴水があるんです。とても綺麗なんですよ」

「はい。お供します」

 

 長衣の裾を棚引かせ、乙女は浮かれたように足を進める。純白の衣が日の光に輝き、まるで妖精が緑の園で戯れているが如き光景だ。

 対照的に、無骨な軍服姿のフィリアは颯爽とした足取りでその後をついていく。

 

「あ、そう言えばフィリア様はこのお家の人でしたね。お庭のことなど、当然ご存じでしたか?」

「いえ。そんなことはありませんよ」

 

 フィリアが本宅に出入りし始めたのはごく最近の事で、中庭に立ち入ったのもこれが初めてである。

 庭園は確かに美しく整えられており、イリニ家の並々ならぬ富強ぶりがうかがえる。

 

 しかし正直なところ、少女は大庭園の威容に感心はするものの、あまり感動したという風ではなかった。

 思い起こすのは聖都の別宅の中庭。あの雑多な植物が生い茂った小さな森の姿である。

 

 自分はあの場所が本当に好きなのだな、と少女は胸の内で笑みを溢す。

 

 そうして庭園を散策するうちに、二人は広場へとたどり着いた。丁度庭園の中心に当たる広場には壮麗な噴水が設置してある。

 噴水を眺めながらさらに奥へ進むと、芝生敷きの広大な空間が広がっている。

 

 オルヒデアは枝ぶりの良い広葉樹へと進むと、その根元にポンと腰を下ろした。

 そして隣の地面を軽く叩き、フィリアを招待する。

 もとより乙女の我儘に付き合うつもりであった少女は、特に嫌がりもせず芝生に座った。

 

(なるほどこれは……)

 

 日差しをたっぷりと受けた芝生は暖かく、頬を撫でる風は心地いい。

 また木陰から辺りを見渡せば、庭園はより一層明るく煌めいている。

 ぼんやりと時間を過ごすなら、まさに打ってつけの場所だろう。

 

「これは確かに、心地がいいですね」

 

 フィリアが目を細め、芝の感触と花の香りを楽しんでいると、隣のオルヒデアが急に立ち上がった。そして少女の前に進むと、透き通った声で歌い出す。

 同時に手足を優美に動かして、ポレミケス伝統の舞踊を始めた。

 

 オルヒデアは朗々と、春の息吹を祝う歌を口ずさむ。

 無伴奏でありながら、オルヒデアの歌声は一つも音を外すことがなく、それでいて情感豊かで胸に迫るものがある。

 

 また雲の上を進むような不思議な足運びと、躍動的な腕の動きは見事に歌詞を表現していて、歌い踊る乙女はまるで春を告げに来た妖精のようだ。

 フィリアはぽかんと口を開けて、優美華麗な舞踊に見蕩れるばかりである。

 

「すごい、すごいです」

 

 一曲終わると、少女はぱちぱちと両手を打ち鳴らしてオルヒデアを褒め称える。

 乙女は運動として、庭に出ては故国の曲を舞い踊ることを日課としていた。

 

 踊りながら歌うのはなかなか過酷で、いい運動になる。

 しかし、今日の彼女はフィリアを慰撫ずるために、舞いを披露したようだ。

 

「ありがとうございます。騒がしかったらどうしようかとおもったのですけれど……」

「そんなことありません。他にもお聞きしたいぐらいです」

「まあ、本当ですか!」

 

 少女の反応に嬉しくなったのか、乙女は別の曲を口ずさみ、舞の手を続ける。

 なかなかに激しい舞の最中でも、歌声は途切れも擦れもせず、音も外さない。

 

 幼少時に蒲柳の質であったオルヒデアは、舞踊を通して気力体力を養った。

 また軍に入ってからは随分鍛え上げたこともあり、舞の一曲や二曲では疲れることもない。

 

 久しぶりの観客を得て嬉しかったのだろう。

 オルヒデアは二曲、三曲と続けて踊り、興が乗ってきたのかさらに別の曲を舞いだした。

 

 これに参ったのがフィリアである。

 彼女は木陰に座って鑑賞しているだけで、別に疲れるようなことは何もしていない。

 

 しかし、感受性の強い少女は、乙女の舞の圧倒的な表現力に見事に当てられ、三曲目が終わるころには早くも頭がパンクしそうになっていた。

 それでもフィリアは、生来の真面目さと純粋な感動によって、オルヒデアの舞から目を離すことができない。その結果、

 

「――あら?」

 

 気持ちよくレパートリーの何割かを舞い終えたオルヒデアは、木陰に座るフィリアが安らかな寝息を立てているのに気付いた。

 感動の余り、気疲れから寝入ってしまったのである。

 

 そんなことを知らぬオルヒデアからは、或いは無礼な態度に映ったかもしれない。

 しかし乙女は優しげな微笑みを浮かべると、少女の隣へと座りこんだ。

 

 火照った体に、吹き抜ける風が心地いい。

 オルヒデアが横を向くと、フィリアのあどけない寝顔がすぐそこにある。

 雪のように白い髪が風にそよぎ、褐色の頬はつやつやと輝いている。

 

 必死の形相で乙女に喰らい付いてきた戦場の鬼、そして冷厳な態度で捕虜を扱う騎士。それらの印象からは考えもつかない、可憐で愛らしい寝姿である。

 

「……あら、いけない」

 

 見れば、フィリアは膝を崩し、木に縁りかかっている状態である。

 そんな不安定な体勢であるから、体が徐々にずり落ちかけている。

 

 オルヒデアは優しく少女を抱きかかえると、小さな頭を己の膝の上へと乗せた。

 それから乙女は小さな声で、

 

「可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたの枕に優しい夢を

 あなたの布団に素敵な星を

 銀の光が窓から差して

 金の光に変わるまで

 可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたに安らぎありますように

 あなたに幸せありますように」

 

 と、少女の頭を撫でながら、子守り歌を口ずさんだ。

 



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其の七 名案?

 初夏の涼風がそよそよと、少女の肌を優しく撫でる。

 

 おぼろげな視界に映るのは庭園の緑。それもまだ造園の途中と思しき風景で、あちらこちらに掘り返した土が積み上げられ、苗木や種などが置いてある。

 周囲の景色から察するに、そこはイリニ家本宅の中庭だろう。近くに噴水があるということは、ここはあの芝生の広場だろうか。

 少女はもっと周りを良く見ようと身を捩るが、身体が全然言うことを効かない。

 

 それでも不思議と、少女には一欠けらの不安も無く、春の日だまりに抱かれたように、ただ暖かな安らぎだけがある。

 諸々の疑念は、押し寄せた睡魔にあえなく追い散らされてしまった。

 少女はあくびを一つして、夢の世界へと旅立とうとする。その時、すっと彼女の顔に影が差した。

 

 金色に輝く豊かな髪と、翡翠のように輝く瞳をした美しい女性が、蕩けそうな笑顔で少女を覗き込んでいる。

 年の頃は二十に届くかどうかといったところか。未だ少女期の瑞々しさを残した女性は、この世の全てを祝福するかのように少女に微笑みかけている。

 

 ついで聞こえたのは、低く張りのある男の声。

 今にも睡魔で落ちそうな瞼を必死に開き、声の方を眺めて見れば、女性と同じ髪色と瞳をした凛々しい男性がいる。

 その彼は女性に何か揶揄されたようで、困ったように頬を掻きながら近づいてくる。

 

 若い男性は何事かをぼやきながら、大きな掌で少女の頭を撫でた。

 温かくごつごつした手は、少女にえも言われぬ幸福と平穏をもたらす。

 

 ただ力加減に慣れていないようで、ぐりぐりと撫でくり廻された少女は、眠気も相まって非常に不愉快な気持ちになった。

 その思いを言葉にすることもできず、喉から泣き声を迸らせて不快感を表明する。

 

 すると凛々しい若者は驚いて固まってしまい、美しい女性はわたわたと慌てふためいて、少女の機嫌を取ろうとする。

 そんな二人の仕草が余計に癇に障ったのか、少女はさらに力を込めて泣き喚く。

 

 小さな小さな暴君に、若い二人は為す術もなく狼狽えてしまう。

 少女は両手足をもじもじと動かして、傍若無人の限りを尽くす。

 

 だがその時、彼女の耳に美しい歌声が響いた。

 小鳥がさえずるような、花が風にそよぐような、何処までも可憐で優しく、それでいて力強さを感じさせる不思議な声。

 同時に、少女の身体が波間に漂う小船のように、緩やかに揺すられる。

 

 優しい歌声に包まれ、ゆらゆらと揺れ動くうちに、何に機嫌を損ねていたのかも思い出せなくなってしまう。

 身体を包む暖かさ。訳もなく心が落ち着く匂いに、再び眠気が湧き起こってくる。

 

 みゃごみゃごと言葉にならない声を上げて、少女は睡魔に身を任せることにした。

 そうして眠りに落ちる刹那、彼女の瞳にとある人物が映った。

 

 雪のように白い髪を下げ、褐色の肌をした美しい大人の女性である。

 子守唄を口ずさみ、幼子を腕に抱いた彼女は、金色の瞳を柔らかく細めると、寝息を立て始めた少女をいつまでも見つめ続けていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ん……うゅ」

「あ、目が覚められましたか?」

 

 目を覚ますと、フィリアの目の前には黒髪の乙女、オルヒデアの笑顔があった。

 二三度瞬きをすると、次第に頭がはっきりとしてくる。

 頭の下に柔らかく暖かな感触がある。どうやら彼女に膝枕をされているらしい。

 

「……え、あ、すみません!」

 

 前後の記憶を思い出した少女は、慌てて上体を起こす。

 観劇をしながら寝入ってしまうなど、失礼にも程がある。

 捕虜と監督官という立場を忘れ、少女は居た堪れなさに身を硬くする。だが、

 

「少しは気分転換になられましたか?」

 

 オルヒデアは柔和な笑顔を浮かべ、さも満足そうにフィリアへと問いかける。

 

「それは、あの……はい」

 

 心安らかに睡眠をとれたのは事実である。最近は何故か眠りの質が悪いことが多かった。これほど安らかに眠ったのは、果たしていつ以来だろうか。

 

 それに何か、とてもいい夢を見たような気がする。

 五体の隅々まで気力が満ち溢れている、とても気持ち良くすがすがしい目覚めだ。

 

「でも……不覚です。こんな時間までご迷惑をかけてしまって」

 

 端末を起動して時刻を確かめれば、フィリアはたっぷり二時間も寝ていたことになる。

 太陽はだいぶ傾き、既に夕刻に差し掛かろうという時間だ。

 

 今日の予定はオルヒデアの様子見だけだが、帰りの時間を考えるとそろそろ発たねばならない。車番をしている部下も待ちくたびれていることだろう。

 フィリアは上体を起こし、膝を揃えて座りなおすと、背筋を伸ばして正座をしているオルヒデアに、ぺこりと頭を下げた。

 

「ありがとうございました。お蔭で心地よい一睡を得ることができました」

「それは何よりです。フィリア様、随分とお疲れのようでしたから」

「……そんなに顔に出ていましたか?」

 

 確かに最近は睡眠時間もあまり取れず、疲労がたまっている自覚はあった。他人には気取られぬよう振る舞っていたつもりだが、彼女には見抜かれてしまったらしい。

 

「なんとなく、です。身近に頑張り屋さんがいたので、分かってしまうみたいですね」

 

 そういって、オルヒデアはあっけらかんと笑う。

 今は接触軌道上に他国が存在しない、いわば自然的な休戦期なのだが、その分、騎士団には書類仕事が山積している。騎士となったフィリアもその例外ではなく、事務作業に忙殺される毎日だ。

 

 尚悪い事に、向上心の塊のような少女はそんな時期であっても自らのトレーニングを欠かさない。必然、睡眠時間はごりごりと削られることになる。

 特に最近は私事でも悩みがあり、険悪な友人の仲をどうにかして取り持てないかと、夜も眠れずに悩む日々だ。

 

「私などでよければ、何でもお話してくださいね」

 

 何故か瞳を爛々と輝かせ、両手を胸の前でぐっと握りしめると、オルヒデアは愚痴や悩みがあれば何でも相談してくれと意気込む。

 乙女の思いがけない押しの強さに、フィリアはぽつりと、

 

「喧嘩した人を仲直りさせるには、どうすればいいのでしょうか」

 

 と、少女を散々に悩ませている問題について口を滑らせてしまった。

 言ってから後悔するが、もう遅い。オルヒデアはぐいと前のめりになり、

 

「まあ、それは大変ですね! 詳しいお話をお聞かせ願えませんか?」

 

 と、尋ねてくる。

 フィリアも口にした以上は途中で止める訳にもいかず、事の経緯を掻い摘んで話すことにした。

 

「なるほど……その御友人二人が、いつも仲違いばかりされているのですね」

 

 話を聞くと、オルヒデアは顎に手を当て視線を落とし、さも思案していますといった顔を作る。元が凄まじい美人にも関わらず、どことなく似合っていないように見えるのは、彼女の性格を知るがためだろうか。

 

「お二人とも、決して悪い方ではないのですが、もう相互理解を諦めているようなありさまで……」

 

 あの時の光景を思い出すと、未だにフィリアは胃の中のものがせり上がってくるような悪寒を感じる。我ながら恥ずかしいことだが、友人の諍いにあれほどショックを受けるとは思ってもみなかった。

 それだけに、少女は何としても彼女たちの仲を取り持ちたいと願っている。

 

「――ふふっ、名案を思い付きました」

 

 ピンと人差し指をたて、オルヒデアはさも得意そうな顔を浮かべる。

 黙っていれば臈長けた美人なのだが、浮かれ気分の彼女は随分と幼い印象を受ける。

 あるいはこれが彼女の生来の姿なのかもしれない。少しは心を開いてくれたようで、フィリアもなんとなく嬉しくなる。

 

「私の実体験からですので、まず間違いないかと。……フィリア様。ここは一つ、皆様で御同衾なされてはどうでしょう」

「はい?」

 

 思わず少女は間の抜けた声で聞き返した。

 

「あの、えっ……同衾、といいましたか?」

「はい。一緒のお布団で寝るのです」

 

 聞き間違いであってくれ、との少女の願いは虚しく、乙女は満面の笑みでそう言う。

 ニネミアとオリュザ。あの二人を、同じ寝台に寝かせる。

 想像するだけで胃に穴が開きそうな光景だ。同衾はおろか、同じ部屋に入れただけで、五分と待たず喧嘩を始める二人である。

 

「その案は少し、難しいかと思いますが……」

「いえいえ、確かにいきなりは無理ですよ。でも休日を同じ家で過ごして、いろいろ遊びやお喋りをして、最後に布団を並べて眠るのです。同じ時間と体験を共有すれば、自然とお互いの事が分かりますよ」

「合わない相手とすると、苦痛にしかならないような……」

「そんなことはありません。きっとうまくいきます! ……多分」

 

 難しい顔をするフィリアに、オルヒデアが力強く太鼓判を押す。

 何でも彼女が祖国に居た時、同じようなことを友人たちとしていたそうだ。

 

 気心の知れた友を家に招いて、一晩思い思いに語り明かす。

 近況の報告から胸を悩ます相談事、華やかな色恋の話や、日ごろ溜まった鬱憤を気が済むまで吐き出すこともある。

 当然男子禁制であり、彼女の兄はお泊り会の度に知人の家へと避難していたらしい。

 

「胸襟を開いて話し合うことが肝要なのです。菓子や飲み物、遊びを用意するのは、身も心も寛げるようにするためですね」

「……ふむ。なるほど」

 

 そこまで聞けば、なかなか悪くない話にも思えてくる。

 ニネミアとオリュザの仲の悪さは生半可なモノではない。ちょっとやそっとのお膳立てでは焼け石に水だろう。いっそ無理からでも逃げ場のない場所に閉じ込めてしまった方が、まだしも進展が見込めそうである。

 

「そうですね。検討してみようと思います。ご意見、ありがとうございます」

「それは良かったです。御友人方が仲良くなれるよう、私もお祈りしますね」

 

 フィリアが丁寧に礼を述べると、オルヒデアは晴れやかに応じる。

 二人が座る木陰を、清涼な風が吹き抜けた。

 

 思えば随分長話をしてしまった。フィリアはズボンを軽く叩きながら、芝の上へと立ち上がる。

 いくらなんでも、そろそろ屋敷を発たねば帰りが遅くなりすぎる。

 

「あの、私はもう帰らねばなりません。申し上げにくいのですが、オルヒデアさんにも館に戻っていただきたく……」

「はい。それは勿論、なのですが……」

 

 オルヒデアが笑顔のまま、若干たじろいだ様子を見せる。

 貴重な外での時間を、フィリアのために潰してしまったのだ。何か心残りが有るのだろうかと、少女は申し訳なさそうに視線で窺う。

 だが、乙女は両手を少女の前に差し出すと、

 

「足がすっかり痺れてしまって……フィリア様。どうか立たせて頂けませんか」

 

 よっぽど辛いのか、目じりに涙まで浮かべてそう言った。

 

 そうして二人は中庭を縦断し、館への入り口近くまで戻った。

 別れる前に、面談の仕上げを行わねばならない。

 一応は仕事で来たので、形だけでもそれらしく取り繕っておく必要がある。

 

「では、しばらくは職業訓練を受けていただくということで。トリオン供出はこれまで通り続けてください」

「はい。承りました」

 

 予定を再確認し、投影モニターにメモを書きつけると、それで視察は終了である。

 

「……随分時間を取らせてしまいました。謝罪いたします」

「とんでもありません。私も楽しかったですから」

 

 居眠りが余程恥ずかしかったのだろう。小さくなって謝るフィリアに対し、オルヒデアは毛ほども気にした様子もなく応える。

 

「あの、オルヒデアさん」

「はい。なんでしょうか」

「常々疑問ではあったのですが、なぜあなたは私にここまで良くしてくださるのですか? あなたからすれば、私は許しがたい仇敵のはずです」

 

 乙女の泰然とした態度に常々不審を抱いていた少女は、ついそのことについて尋ねてしまった。彼女の温和な性格と、フィリアが未だ少女に過ぎないことを加味しても、いくらなんでも好意的すぎる扱いだ。

 以前ははぐらかされたが、今回ばかりは答えを聞いておきたい。

 

「……そう、ですね。恨みや怒りが無いと言えば、きっと嘘になります」

 

 すると、オルヒデアは悲しそうな微笑みを浮かべてそう呟く。

 

「踏みにじられた故国の姿を思うと、今でも胸の内に暗い憎しみがこみ上げてきます。いえ、たぶんきっと、この思いは終生消え去ることはないでしょう」

「……では、なぜ?」

 

 続きを聞くことを恐れながらも、フィリアは敢えて問う。

 彼女はあくまで捕虜で、しかも神の候補者だ。

 ここで彼女の恨みつらみを聞くことなど、今後に何のメリットもない。しかし、少女はこの風変わりな異国人の心が、どうしても知りたかった。

 

「フィリア様が、お辛そうだったからです」

「えっ――」

 

 まるで予期していなかった答えに、少女は言葉を失う。

 いったい彼女は自分の何を見て、そんな思い違いをしたのだろうか。フィリアは家族を救うため、覚悟して戦場に立ったのだ。今更何を――

 

「悔悟の情、敗者への憐憫。フィリア様にお会いしたとき、あなたがそれらに苦しんでいることはすぐにわかりました。だから、私は怒ることは止めようと決めたのです」

「っ――」

「この世界で、他国を侵したことのない国など一つもありません。そんな修羅の巷でも、――フィリア様。あなたのように心優しい人はいるのです。どうして嫌いになれましょうか」

 

 オルヒデアはそういって、莞爾として笑ってみせる。

 その引き込まれるような笑顔に、フィリアは言葉を失ってしまう。

 

 殺し合いが常態化してしまった近界(ネイバーフッド)で、それでも命を尊ぶ思いを忘れてはいない。

 それだけのことで、乙女は自らが受けた暴虐を許すという。

 

「本当に忌まわしいのは、他者の血を求め続けるこの世界。最近はそう思うようにしています」

 

 笑顔に寂しげな影を差し、オルヒデアはそう言う。

 

「いつかこの世界から、争いが無くなればいいのですけれど……私は無力で、何もできませんから」

 

 夢物語と知りつつも、そう願わずにはいられないのだろう。そう呟く乙女の横顔は、今にも消えてしまいそうに儚い。

 

「――そんなことありません! オルヒデアさんには歌が、音楽があります」

 

 そんな彼女の切ない思いに、フィリアは我知らず声を上げていた。

 

「――え?」

「あの、えっと……オルヒデアさんの演奏を聞いたら、身体が震えて、頭がじんとして、とにかくとても感動しました。だから、あの音楽が皆に届いたらきっと……」

 

 人の心の中から、戦争が消えてしまうのではないか。

 続きを言葉にすることは、流石にできなかった。

 

 近界(ネイバーフッド)で起こる争いは、トリオンを巡っての資源戦争である。

 国家の構造そのものに由来する問題が、終わりなき戦火の原因なのだ。

 人々の心が厭戦気分に染まったとしても、戦争が終わることは決してない。

 

 むしろ、反戦を匂わせるような歌を歌い続ければ、遅からず統治者から弾圧を受けることになるだろう。

 オルヒデアの言った通り、近界(ネイバーフッド)は修羅の世界だ。

 

 この世界で暮らすほぼ全ての人間が、戦争は避けることのできない人の営みであり、なればこそ自らの国を勝たせるべきだと硬く信じている。

 平和を希求する者、博愛を縹渺する者は、反体制的な人間として社会から抹消されるほかない。

 オルヒデアに平和ために歌えというのは、それほどに酷なことであった。

 

「ありがとうございますフィリア様。私の粗末な芸を、そこまで褒めていただいて……そうですね。歌は人の為に歌うもの。私にできることも、何かあるかもしれませんね」

 

 だが、乙女は少女の必死の励ましを素直に受け取ったようだ。

 

「いろいろ至らないところも御座いますが、これからもどうぞ良しなにお願いします」

「……はい。できるだけご要望に沿えるよう、私も努力いたします」

 

 どちらからともなく、二人は手を伸ばして握手をする。

 捕虜と監視官に芽生えた奇妙な友情に、くすりと忍び笑いが零れる。

 春風が心地よく吹き抜け、二人の頬をそっと撫でる。

 ふと、爽やかな緑の香りが漂った。

 

 



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其の八 女子会大作戦 前篇

大変多くの方に読んでいただき、感激しております。
拙い作品ですが、これからもお付き合いいただければ幸いです。


 茫漠と広がる砂の大地。

 吹き荒ぶ風は砂塵を巻き上げ、視界を靄のように遮る。

 大量の砂は幾重にも積み重なり、朽ちかけた街を貪婪に飲み込もうとしていた。

 

 生物の息吹が存在しない死の世界。

 その静寂に満ちた空間を、けたたましい戦闘音が打ち破った。

 

「全周警戒! 銃手を中心に円陣を組め」

 

 大地に刻まれた優美な砂紋を踏み散らし、黒い軍服を着た十人の一団が、砂に沈んだ廃墟の街を駆け抜ける。

 彼らはイリニ騎士団に所属する従士たちだ。

 

 小銃や剣で武装した年若い戦士たちは、半ば砂に埋もれた建造物の屋根へと飛び上がり、緊迫した面持ちで周囲を警戒する。

 

「っ、三時方向から来ます!」

 

 恐怖を押し殺した声で、一際若い少年兵が叫ぶ。

 

 その視線の先、砂に埋もれた街路には、猛々しくも流麗な鎧を纏う騎士の姿がある。

 長剣を携えた騎士は背面のスラスターを轟然と噴かし、凄まじい速度で従士たちへと接近しつつある。

 

「火力を集中させろ! 剣士は斬り込みに備えるぞっ!」

 

 年嵩の男性の指示を受け、従士たちは一斉に迎撃の陣を敷く。

 

 小銃トリガー「鉛の獣(ヒメラ)」、狙撃銃トリガー「錫の馬(モノケロース)」を構えた従士たちが飛来する騎士へと猛烈な射撃を加え、長剣トリガー「鉄の鷲(グリパス)」、大盾トリガー「銀の竜(ドラコン)」で武装した従士たちは、騎士の突撃を阻むべく構える。

 

 しかし、地面すれすれを高速で飛翔する騎士は、まるで全ての弾丸の軌道を予見しているかのように、最小限の回避機動で飛来する弾雨を躱す。

 また被弾を免れない攻撃には、シールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」を用いて確実にこれを防ぐ。結果、オーバーキルも甚だしい攻撃を浴びたにも関わらず、騎士の純白の鎧には傷一つついていない。そして、

 

「来るぞっ!」

 

 飛翔する騎士は、従士たちの一団を射程内に捉えた。

 刹那の交錯で、従士たちの幾人かは騎士の刀の錆となる事だろう。だが、ここまで騎士が接近すれば、彼らにも痛撃を与えるチャンスはある。

 

「構えろっ!」

 

 近接装備の従士たちは裂帛の気合を込めて長剣を握る。だが、

 

「な――!」

 

 あろうことか、騎士はさらに高度を下げ、従士たちの陣取る建物の階下へと突入した。

 

「しまっ――!」

 

 隊長各の男性が言葉を失う。一斉攻撃で騎士を仕留めるつもりが、完全に姿を見失ってしまった。

 

 そして一瞬の間をおいて轟音が響く。

 階下から屋根をぶち破って現れた白亜の巨影が、瞬く間に隊長各の男を含めた数人を長剣で切り裂いた。

 

「撃て、撃てえっ!」

 

 銃手と狙撃手たちが咄嗟に射撃を浴びせかけるも、エクリシアが誇る「誓願の鎧(パノプリア)」は、少々の攻撃ではビクともしない。

 

 頑強な鎧に防御を任せ、騎士はなおも長剣を振るって従士たちを切り捨てる。

 鎧のパワーアシスト機能とオプショントリガーによって、長剣は目にも止まらぬ速度を得ている。そしてそれを振るうのは、エクリシアでも指折りの剣士、若き英雄フィリア・イリニだ。

 

 六人ばかりが瞬時に切り捨てられたところで、残りの従士たちは逃走を選択した。

 だがその判断さえも、最早遅きに失している。

 陣形が崩れた時点で、従士たちに勝ち目はなくなっていた。騎士は背を向けた従士にすぐさま追い縋り、据え物を斬るかのように両断していく。

 

 結局、騎士の突撃から一分と持たずに、従士たちは全滅となった。

 

「そこまで。勝者、騎士フィリア・イリニ」

 

 荒涼とした砂漠の街に、場違いに涼やかなオペレーターの声が響く。

 

 この砂漠の街は、トリオンで造られた仮想戦場である。風に舞う細かな砂も、朽ちかけた街並みも、すべては他国の情景を再現したものだ。

 イリニ騎士団の大闘技場で行われていたのは、騎士と従士の合同戦闘訓練である。

 

 騎士は多数を相手にしての経験を、従士は自分を上回る強敵と戦う経験を積むための訓練だ。出場者は騎士が一人に対して従士は十名となる。

 これは戦場におけるおおよその戦力比から算出された数字だ。熟練した騎士は、一人で十名の戦士に匹敵する戦力となる。

 それでもここまで一方的な試合展開は稀である。フィリアは入団僅か二年足らずにして、すでに一流を超える技量を身に着けていた。

 

「ふう……」

 

 少女は兜を解除すると、緩やかに息を吐く。多少の疲労は感じているが、十分に余力を残した勝利だ。

 彼女は瓦礫の山を飛び越えると、軽やかに闘技場を後にする。

 

 防護フィールドを抜けると、試合を観戦していた従士たちから一斉に拍手が沸き起こった。数百人を超える群衆に誉めそやされ、少女は困ったように笑みを浮かべる。

 それから、大スクリーンに試合内容を映し、検討会を行う。

 

 従士を教導するのも、騎士の大事な仕事の一つだ。

 昔は彼らに紛れて必死に剣を振るっていた少女も、今では彼らに教える側である。

 

 従士時代は散々だった評判も、今は嘘のように回復している。

 流石にかつての同輩には刺々しい態度を取る者も少なくないが、フィリアの武勲につられて入団してきた若者たちは、少女を信奉するかのように慕っている。

 

 従士たちに戦場の心得を説くフィリアの姿も、随分と堂に入ったものである。

 入団当初は抜き身の刃物のような危うさをしていた少女だが、様々な人との触れ合いを通じて、少女も人間的に随分と丸くなった。

 一通り解説を終えると、今度は従士同士の戦闘訓練が行われる。

 

 こうしてフィリアは滞りなく、日々の業務をこなしていった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その日の夕方。従士の訓練を監督し終えたフィリアは、執務室で熱心にモニターへと向かっていた。

 

「お疲れ様。今日はもう上がりじゃないの?」

 

 隣の席からそう話しかけてきたのは、薄紫色の髪をした同僚メリジャーナだ。

 

「日報の作成は終わったのですが、折角仮想戦場で訓練をしたので、来季の遠征計画を考えようかなと思いまして……」

 

 フィリアは作業を中断し、行儀よく身体ごとメリジャーナへと向き直って答える。

 

 今回の訓練フィールドは、イリニ騎士団が次に遠征を行う惑星国家、砂塵の国アンモスの風土を再現したものである。

 先の訓練は、騎士の遠征の予行演習をも兼ねていたのだ。

 

 そして実際に砂漠で戦ってみると、思いのほか多数の問題点が見つかった。

 重たい鎧を着込んだ騎士は、砂上では想像以上に機動力を奪われる。

 スラスターを用いて飛行すれば問題ないが、その場合はトリオンの浪費が著しく、作戦時間が大幅に短くなる。

 また砂に足を取られるため近接武器での格闘戦は非常に難度が高い。

 

 そもそも砂漠では遮蔽物が少ないため、戦場は射撃武器が支配することになるだろう。

 とりあえずそれらの難点を踏まえたうえで、フィリアは教会から過去の遠征ログを取り寄せ、アンモス攻略の作戦を練っていた。

 

「私も主武装を「鉛の獣(ヒメラ)」に換装したほうがいいかもしれません」

 

 得手としているのは長剣だが、フィリアは小銃や狙撃銃の扱いにも長じている。

 これは少女の才が突出しているという訳ではなく、騎士として叙勲される条件の一つに、主要なトリガー全ての扱いに習熟する必要があるためだ。

 

 とはいえ、まだ遠征員の選抜も済んでいない時期からご苦労なことである。

 遠征員の選定は、総長アルモニアと軍団長によって行われる。フィリアがいくら志願したとしても、決めるのは彼らだ。

 

 しかし、フィリアは自分が次回の遠征に選ばれる可能性は非常に高いと睨んでいた。

 遠征には最精鋭の人員を当てるのが常道だ。技量の面から言えば、フィリアは申し分ない。またポレミケス侵攻では確かな実績を打ち立てており、市民からの期待も高い。

 

 それになにより、彼女のサイドエフェクト「直観智」は、敵情定かならぬ遠征においては命綱にも等しい能力だ。

 少女が遠征に呼ばれない理由は、無いと言ってしまって構わない。

 

「「灼熱の華(ゼストス)」も持ち込めればいいんですけれど……」

 

 ムムムと唸りながら、少女はモニターを眺める。

 新たに入手した大火力の砲撃トリガーがあれば、敵地の攻略は随分と容易になる。

 ただし、(ブラック)トリガーは本国の防衛にも廻さねばならないため、確実に投入できるとは限らない。

 

「来季の防衛はゼーン騎士団が主力ですか……」

「そうね。ただあそこは(ブラック)トリガーが一本しかないから、うちからも何本か出すことになるでしょうね」

 

 メリジャーナの返答に、フィリアは顎に指を添えて黙考する。

 

 イリニ騎士団の所有するブラックトリガーの数は三本。鹵獲した「灼熱の華(ゼストス)」が教会から戻ってくれば四本となる。これはエクリシアの諸勢力のなかでは突出した所持数だ。

 ゼーン騎士団は当主ニネミアの持つ「劫火の鼓(ヴェンジニ)」一本のみ。

 フィロドクス騎士団は「万鈞の糸(クロステール)」「潜伏の縄(ヘスペラー)」の二本。

 教会の奥深くに秘蔵されている(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」は、滅多な事でもない限り戦場に投入されることはない。

 

 防衛には最低でも二本、できれば三本以上の(ブラック)トリガーで当たるのが望ましい。

 必然的に、数に余裕があるイリニ騎士団が不足分を補うことになる。

 本国防衛が優先されるのは理解できるのだが、やはり少女としては遠征にも十分な戦力を投入してもらいたい。

 

「意見書を提出してみます」

 

 その為には、とにかく自分の意見、計画を形にすることだ。

 過去のアンモスの戦力と戦法を調べ上げ、攻略作戦を練り上げる。判断は上がすることだが、出来ることは全て行わねばならない。

 

「……あまり無理はしないでね、フィリアさん」

 

 意気込む少女に、メリジャーナはやんわりと注意する。

 ただでさえ大人顔負けの仕事量をこなすのに、最近は自主的に残業まで行っている。

 

 卓越した仕事ぶりからついつい忘れてしまいがちだが、フィリアはまだほんの子供である。体力はどうしても大人に及ぶところではない。無理を押して働き続ければ、何時限界が来るともわからない。

 

 自分の事にはとんと無頓着な少女である。

 メリジャーナはそんな彼女を気遣って、定期的に遊びに連れ出したりして息抜きをさせているのだが、やはり少女のワーカーホリックぶりはなかなか治らない。

 

「あ、そういえば……例の話、何かいい考えはおもいついた?」

 

 話題を変えようと、メリジャーナは急にフィリアに向かってそう尋ねた。

 例の話とは、ニネミアとオリュザを仲直りさせるための画期的な方法のことである。

 

「そのことでしたら……」

「あら、何か名案かしら?」

 

 フィリアはオルヒデアに吹き込まれたお泊り会の件を話す。

 正直なところ甚だ怪しいプランであったが、以外にもサイドエフェクトは成功の可能性が高いことを示していた。

 

 ただ、こうした遊びに関してフィリアは全くの無知である。内容を詰める為、メリジャーナに相談を持ちかけようと思っていたところだ。

 

「いいじゃない! 素敵ね」

 

 お泊り会の概要を聞くと、メリジャーナは手を打って喜んだ。

 それからとんとん拍子に話は進む。

 まず会場はディミオス家の屋敷に決まった。寝具を初めとした一式は、すべてメリジャーナが用意してくれるとのこと。

 

「でも、皆様お休みを合わせられるでしょうか?」

「一日まるまるでなくともいいわ。終業後にでも集まればいいのよ。幸い今の時期なら、そう難しくもないでしょうし」

 

 ニネミアの呼出はメリジャーナが、オリュザを誘うのはフィリアが行うことになった。

 きつい性格で有名なニネミアだが、あれで友人相手には義理堅い。そしてオリュザは約束事には極めて厳格だ。以前遊ぶ約束を交わしていたフィリアからの誘いなら、まず断ることはないだろう。

 

「でも、お会いになってすぐに険悪になってしまわれては……」

 

 あの時の情景を思い出したのか、フィリアが不安そうに呟く。

 

「う~ん……あの子たちも反省はしてるから、すぐに喧嘩になることはないでしょう。どちらかといえば、私たちに不満が向きそうね」

 

 メリジャーナはフィリアを励ますように、明るく笑ってそう言う。

 実際、憔悴したフィリアを目の当たりにして、あの二人も随分ショックを受けたようすである。少女がいれば、すぐさま喧嘩を起こすようなことはないだろう。

 

「というわけで、作戦が必要ね。綿密なプランを練りましょう。有無を言わさずこちらのペースに引き込むわよ」

 

 メリジャーナがにやりとフィリアに笑いかける。

 どうやら遊び心に火がついてしまったらしい。少女は書きかけの意見書を保存すると、

 

「承知しました。共にがんばりましょう」

 

 と、力強く頷いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ありえない、本っ当ありえないわ。なに? 私のことがそんなに嫌いな訳?」

「騎士フィリアのたっての願いということでまかり越しましたが、流石にこの状況は……」

 

 お泊り会当日。広壮なディミオス家の門前で、ニネミアとオリュザは互いの顔を見るなり、そろって渋面を浮かべていた。

 

 双方共に、自分以外の参加者については聞かされていない。

 大嫌いな相手の顔を見たことで、発起人の意図を察したのだろう。怒りの矛先は、歓迎の笑みを浮かべているメリジャーナに向けられている。

 

「お誘いを受けていただき感謝の言葉もありませんわ。さあさ、どうぞ中へ。案内いたします」

 

 紫髪の麗人は刺すような視線をさらりと受け流し、ゲストを案内しようとする。だが、

 

「……魂胆は分かったわ。折角だけど、今日はもう帰らせてもらうわよ」

「……私も引き上げさせていただきます。このままではご迷惑をおかけしそうなので」

 

 だまし討ちが余程腹に据えかねたのだろう。ニネミアとメリジャーナは憤懣やるかたない様子で、さっと踵を返そうとする。

 

「あの、ゼーン閣下、オリュザさん……」

 

 そんな二人を弱々しく呼び止めたのは、褐色の少女フィリアである。

 

「騙すようなことをして、本当に申し訳ありません。けど……私、今日のお泊り会はきっと楽しくなると思うんです。だから、その、良ければ……」

 

 少女も二人と同じく、仕事上がりにお泊りセットを提げてディミオス家まで来ていた。

 黒い軍服を纏った少女からは、いつもの凛々しい気配は少しも感じられない。

 慌てたような表情で、身振り手振りを交えてニネミアとオリュザを慰留する姿はいじらしいの一言に尽きる。

 

 そんな彼女の姿を見てしまっては、流石の二人も誘いを無碍に断ることはできない。

 

「わかったわ。これは貸しにしておくからね」

「仕方ありません。今回だけですよ」

「――ありがとうございます!」

 

 パッと笑顔を浮かべたフィリアに、二人は観念したように首を振ると、揃って屋敷の門を潜った。

 

「お腹も空いたでしょう? まずは食事にしましょうか」

 

 メリジャーナの先導を受け、フィリアたちはまずディミオス家の食堂へと案内された。

 大貴族の邸宅に相応しく、室内は豪奢絢爛な調度品で飾り付けられている。女性たちはそれぞれ、装飾の施された天然木の椅子に腰を据えた。

 

 ほどなくして料理が運ばれてくる。

 これも贅を尽くした見事なコース料理で、メリジャーナの歓待のほどがうかがえる。

 

「――! とっても美味しいです」

「そう? よかったわ」

 

 そして、味も当然の如く素晴らしい。

 目を丸くして驚くフィリアに、メリジャーナは喜色を浮かべる。

 

 少女とてイリニ家では豪奢な宮廷料理を飽くほどに食べているのだが、それと比べても一段上、のように感じる。

 もっとも少女は極貧時代が長かったため、食べられる物なら大体美味しいと感じてしまうので、味についてはあまり当てにならないが。

 

 しかし、これだけの美食に舌鼓を打っているにも関わらず、食堂内の空気は冷え冷えと凍っていた。

 理由は勿論、冷戦状態にあるニネミアとオリュザの存在である。

 

 彼女たちは着席から一言も口を利かず、黙々と料理を片付けることに専念している。

 和やかな会食など、頭からする気がないといった風情だ。

 

 これではいくらフィリアとメリジャーナが気を使ってお膳立てしてもどうしようもない。ついには二人も言葉を失い、食堂には食器が触れ合う音だけが響くようになった。

 

「あの、オリュザさんはトリオン体を解かれないんですね」

 

 座の暗い空気に耐えられなくなったのか、フィリアが唐突にそんな話題を口にした。

 

 他の三人は仕事上がりからは生身で過ごしているが、オリュザだけはトリオン体で通している。

 トリオン体は極めて消化効率が良いのだが、満腹感を覚えにくく、気を付けないとすぐに身体に脂肪がついてしまうことになる。

 

 その為か、彼女は食べる量を随分とセーブしているようだ。

 節制をするつもりなら、生身の方が都合がいいはずである。それを不思議に感じたフィリアは、つい尋ねてしまった。

 

 声に出してから、すぐに失言であったことに気付く。

 

「警戒してるんでしょう? 臆病なことね。自分が食べられる訳でもないのに」

 

 と、それまで無言であったニネミアが、嘲るような調子でそう言った。

 

「……」

「――あ、あの」

「ちょっとニネミア!」

 

 オリュザは聞こえなかったかのように無言。フィリアは不穏な気配に慄き、メリジャーナは挑発的なニネミアを窘めようとする。

 

「別に何も間違ったことは言ってないわ。招待にあずかっておきながらトリオン体で来るなんて、フィロドクス家はどんな教育をしているのかしら?」

「――っ!」

 

 家の名を出されて、流石のオリュザも顔色が変わる。

 

 しかしこの場合、ニネミアの主張は正しい。礼を失しているのはオリュザの方だ。

 

 基本的にトリオン体は戦闘に用いるものであり、特別な事情でもない限り、私的な催しでは避けるべきとされている。

 

 帯剣をしたまま舞踏会に乗り込む者はいないのと同じで、人を軽く殺傷できるような出で立ちで相手を訪ねる礼儀作法は存在しない。

 マナーの観点から見れば、彼女の行為は無礼千万だといって間違いない。メリジャーナは何も問わなかったものの、相手次第では門前払いをされても何らおかしくはない所業だ。

 

「…………」

 

 そのことはオリュザも重々承知しているのだろう。

 彼女はニネミアの揶揄に何ら反論することなく、黙って俯いてしまった。

 無表情のままだが、握りしめたフォークが小刻みに揺れている。

 

「わ、私が変なことをお尋ねしたのが悪いんです。ごめんなさい」

 

 気まずい空気に反応したフィリアが、ぺこぺこと頭を下げて謝る。

 

「止めなさい。貴方が謝る事でもないし、そもそも貴族たる者がそんなに簡単に頭を下げるものではないわ」

 

 だが、ニネミアはさらに気を悪くした様子で今度はフィリアを窘める。

 場を取り成そうとする一心からでた行動だが、貴族としての自覚に満ち、体面が如何に重要かを知る彼女にとっては、少女の行動は許しがたいモノに見えたのだろう。

 

「~~っ!」

 

 フィリアは返す言葉も無く項垂れてしまう。

 メリジャーナが取り成すことでその場は何とか収まったが、晩餐会の雰囲気は最後まで良くならず、少女は折角の御馳走を砂を噛むような思いで味わうことになった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ま、まあ気を取り直していきましょう。皆さんお仕事お疲れ様でした。ゆっくり汗を流してくださいね」

 

 険悪な晩餐会が済むと、メリジャーナはフィリアたちを大浴場まで案内した。

 予定では、次は皆で入浴することになっている。

 フィリアはゲスト二人の反発を危惧したのだが、メリジャーナは強気に予定へと組み込んでしまった。

 

「はぁ? 一緒に入れっていうの? あなた、ちょっと頭でも打ったの?」

 

 予想通り、ニネミアは端正な顔を歪めて猛反対する。

 入浴は心身の汚れや凝りを洗い流し、穏やかな心地を与えてくれる。湯船にとっぷりと浸かりリラックスすれば、自然と仲も深まろうというものだ。とはメリジャーナの弁。

 しかし、それは元々気心の知れた間柄に限るのではないか。

 

 騎士団に務めている彼女たちは、他の人間と風呂に入るという事態には慣れている。

 とはいえ、入浴を通じて友情を深めようという試みは初めてである。人見知りの気があるフィリアにとっては、いささか難度が高過ぎる。だが、

 

「そんなこと言わないでニネミア。昔はよく一緒に入ったじゃない」

「ちょっ、何年前の話よ! ってバカ、触らないで頂戴!」

 

 メリジャーナはニコニコと笑顔でニネミアに絡み、服を脱がしにかかっている。温和な風貌に似あわず押しの強い幼馴染に掛かっては、勝気な彼女も形無しだ。

 

(すごい……)

 

 自分のペースに巻き込むことで気まずい空気をうやむやにしてしまったメリジャーナに、フィリアは素直に感心する。とても自分には真似できない芸当だ。

 

(……あれ?)

 

 フィリアは軍服を脱ぎながら、騒がしくする二人から視線を逸らす。

 

 すると脱衣所の隅に立ちすくんでいるオリュザの姿があった。

 いつも通り無表情だが、どこか緊迫しているような気配を感じる。

 彼女も気を悪くしていたのかと、少女は慌てて近づいた。

 

「オリュザさんも、御一緒にお風呂は嫌でしたか?」

 

 フィリアが申し訳なさそうに尋ねると、

 

「いえ、そう言う訳ではないのです」

 

 オリュザは困ったように弁解する。そして、

 

「なんとか、大丈夫でしょう」

 

 少女が聞き取れないほどの小声で呟くと、彼女はトリオン体を解き、服を脱ぎ始めた。

 

 大理石を用いて造られた浴場は、貴族の邸宅ということを差し引いても豪華極まる出来であった。三十人は楽に入れそうな湯船に、雅趣溢れる細工が施された壁や柱。

 まるで古代の神殿に迷い込んだような、家風呂としては些かやりすぎの感がある浴場だ。

 家格としては上位にあたるイリニ家にも、ここまでの設備は無い。

 

「相変わらず、あなたの家の浴場は凄いわね」

「でしょう? こればっかりは自慢なのよね」

 

 家主とその幼馴染は流石に慣れたもので、すたすたと浴場を歩いていく。

 威容に呆然としていたフィリアも、すぐに気を取り直して後に続いた。ただ、

 

「あの、どうかされましたか?」

 

 振り返ってみると、オリュザはまだ浴場の入り口に立ったままだ。

 怪訝に思った少女が声を掛けると、灰色の髪の乙女は何食わぬ顔で歩き出す。

 

 そうして四人は横並びに座り、身体を洗い始めた。

 

「フィリアさん。随分背が伸びたわね」

 

 メリジャーナが丁寧に髪を泡立てながら、フィリアにそう言う。

 

 成長期真っただ中の少女は、この二年で驚くほど大きくなった。

 貧民時代は栄養が足りていないこともあって同年代よりも小柄だったが、今では平均より少し高いぐらいである。ただ、

 

「はい。でも、手足ばかりが枝みたいに伸びてしまって……」

 

 と、少女は困り顔で返す。

 

 ぐんぐん伸びた骨に肉が追い付かず、少女の身体は針金細工のように細い。

 その上騎士団ではトレーニングに励むのだから、一見すると少年のような体つきである。

 

 妹のアネシスに影響されて身だしなみにも気を使いだし、また密かにパイデイアやメリジャーナのような母性豊かな女性に憧れを抱いている少女にとって、今の自分の身体は満足には程遠いものであった。

 とはいえ、自分の命さえ顧みなかった少女が、成長途中の身体にコンプレックスを抱くようになったのは、疑いようもなく大きな変化だろう。

 

「まだまだこれからですよ。もう一、二年もすればもっと綺麗になるわ」

 

 いずれは少女のトリオン体のように、しなやかで均整のとれた美しい身体になると、メリジャーナは見てきたように太鼓判を押す。

 

「でもやっぱり、メリジャーナさんみたいにお綺麗には……」

「え~そんなことないわよ?」

 

 泡だらけの髪を丁寧に洗い流す同僚を、フィリアは横目でそれとなく見る。

 しっとりと滑らかな肌に、豊満でありながら気品のある肢体。エクリシア中に男性ファンがいるのも頷ける美貌である。

 少女は純粋な感嘆と共に同僚を眺める。その時、

 

「…………」

 

 同じくメリジャーナを見ていたらしいニネミアと、ばっちり視線があった。

 

「――っ!」

「え、わ、すみません!」

「え、なに、どうしたの?」

 

 ニネミアにキッと睨まれてしまったフィリアは、反射的に謝ってしまう。

 丁度髪を流していたメリジャーナは何事かと驚くが、

 

「な、なんでもないです……」

 

 少女は慌てて誤魔化した。黒髪の乙女が鋭い視線で制したからだ。

 

「もうっ、さてはまたニネミアが何かしたわね!」

 

 だが、幼馴染には先刻承知らしい。

 メリジャーナは急いで髪を流し終えると、右隣の乙女を叱りつける。

 

「ちょっと、言いがかりよ。私は別に……」

「ち、違います。ゼーン閣下はメリジャーナさんを見ていらしただけです!」

「な――!」

 

 咄嗟に言い放った少女の言い訳に、ニネミアは顔色を変える。

 

「え、なにどうしたの?」

 

 メリジャーナは不思議そうにニネミアを眺める。

 

「別に何でもないわよ、ただ偶然そっちを向いたら、その子と目が合っちゃっただけよ」

 

 とはいうが、真っ赤な嘘だ。

 彼女もそれとなく、メリジャーナの様子を眺めていたのである。

 

 別段やましい思いがあっての事ではない。

 ただ、姉のように親しんでいた幼馴染の変化に、すこし目を奪われただけの事。

 

 二人は家の派閥こそ違うが、父親が刎頸の友であり、また年も近かったため幼いころから交流があった。

 昔はよくお互いの家に泊まったりもしたが、彼女たちが騎士団に入ってからはその機会も無くなってしまった。やはりゼーン騎士団の跡取りと、イリニ騎士団の重鎮の娘という立場では、そう軽々しく付き合うこともできない。

 

 状況が変わったのは、イリニ騎士団にフィリアが入ってからだ。

 いろいろな意味で注目を集める彼女の世話をメリジャーナが焼き始め、その流れから再びニネミアとも交流が生まれた。

 

「そうです、その通りなんです」

「ええそうよ。まったくそれだけのことだわ」

「え、なに二人して。私何か変なことしてたかしら?」

 

 両隣からステレオで否定され、困惑するメリジャーナ。

 彼女は不思議そうな顔をしながら、ボディソープを泡立て始めた。ともかく、彼女の豊麗な裸身に見惚れていたという事実を覆い隠すことには成功したようだ。

 

 ホッと息をついたフィリアは、自分も体を洗おうと洗剤のボトルへと手を伸ばす。

 だが眼にお湯が入ってしまい、誤ってボトルを倒してしまう。

 

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます。オリュザさん」

 

 すると、少女の左隣にいたオリュザがそのボトルを拾ってくれた。

 礼を言って受け取る。少し中身が床に零れてしまったようだ。

 さっと湯を掛けて洗剤を流し、体を洗い始める。

 

 淑女たるべしと育てられた貴族の三人娘はともかく、貧民から軍隊に入ったフィリアは入浴に時間をかけるという習慣が無い。

 体を美しく磨き上げるというよりは、ただ清潔を保つのが目的といった、甚だがさつな洗い方になってしまう。

 

 とはいえ、今日は折角皆で入浴しているのだ。一人だけさっさと湯船に飛び込んでしまうというのは良くないだろうと、少女は周りのペースに合わせてゆっくりと、丹念に体を洗うことにした。そして、

 

「じゃあお先に入るわね」

 

 と、メリジャーナが洗い場から湯船へと移った。

 もうよかろうと、フィリアも泡でもこもこになった全身を洗い流して立ち上がる。

 そうして大理石の湯船に体を沈めると、思わず声が出そうになるほどの悦楽が全身を包み込んだ。疲労が湯に溶けだしていくような、えも言われぬ天上の心地である。

 

 ふと洗い場の方を見れば、ニネミアも体を洗い終えてやってくる。

 一拍おいて、オリュザも立ち上がった。几帳面な彼女らしく、タオルやソープを桶に入れている。わざわざ湯船の側まで持って歩くつもりらしい。

 と、その時、

 

「――っ!」

 

 声にならない悲鳴が浴場に響く。

 同時に、桶が床を転がるけたたましい音が聞こえる。

 

 流しきれていなかった洗剤に足を滑らせ、オリュザが転倒したのだ。

 

「ちょっと、大丈夫!」

 

 流石に軍に務めるだけあって判断が速い。フィリアたち三人は弾かれたように動き出した。

 

 別けても位置的に近かったニネミアが、真っ先にオリュザへと駆け寄る。

 普段は険悪な二人だが、緊急事態にまで諍いを持ち込むことはしない。これは同じ祖国、同朋を護る彼女たちにとっては、ごく当たり前の対応だ。

 

「っ、問題ありません。構わないでください!」

 

 しかし、浴場に横たわるオリュザは介抱の為に伸ばされた手を跳ね除けた。

 

「なっ!」

 

 余りに無礼な振る舞いに、ニネミアが血相を変える。

 彼女は憤然と立ち上がり、怒りに燃えた瞳でオリュザを見下ろす。

 そして罵声を浴びせかけようとしたところで、彼女の動きがぴたりと止まった。

 

「大変! 何処を打ったの? 大丈夫?」

「ごめんなさい! 私の所為です!」

 

 メリジャーナとフィリアも湯船から飛び上がり、オリュザの元へと駆けつけてきた。

 

 だが、灰髪の乙女は気遣わしげな二人の声に苦悶の表情を浮かべる。

 いつもは能面のように無表情な彼女が、明らかに拒絶の意を示している。

 

 それも、相手は彼女の唯一の友人といっていいフィリアである。いくら失態を見られたからといっても、これは尋常の反応ではない。

 

「ちょっと待って。すぐ医務室に連絡するから」

 

 と言って、メリジャーナが浴室の出口へと向かう。

 

 それなりの家格の貴族の家なら、屋敷内には医師を常勤させている。

 見たところ、足を滑らせたとはいえ受け身は間に合ったようで、打ちつけたのは肩と腕だけらしい。しかし、いつまでたってもオリュザが立ち上がらないので、メリジャーナは不安になったようだ。

 

「浴室まで人を立ち入らせる気? 本人が平気だといってるならいいじゃない」

 

 だが、ニネミアは尖った声でメリジャーナを制した。

 貴族の肌を、使用人に見せるなどもってのほかだと言わんばかりの口ぶりである。

 

「――あなたね、こんな時までどういうつもり!」

「オリュザさん御免なさい。私が洗剤を溢したから……」

 

 メリジャーナはニネミアの高慢な態度に怒りを露わにし、フィリアは居た堪れないほど狼狽したようすでオリュザに話しかけている。

 

「ほら! あなたがしゃんとしないから、皆迷惑してるわよ」

 

 ニネミアはオリュザの腕を掴むと、引き上げるようにして立ちあがらせた。

 そしてフィリアに散らばった入浴道具を集めるよう指示する。

 

「どこも怪我なんてしていないんでしょう? なら早く来なさい」

 

 少女から桶を受け取ると、ニネミアはオリュザの手を引いたまま浴室を歩いていく。

 

「ほら、さっさ入りなさいな」

 

 風呂桶を浴槽の縁にコンコンと音を立てて置くと、自分はさっさと湯船に入ってしまう。

 

 その強引なやり口に、フィリアとメリジャーナはぽかんと口を開けてしまう。

 だが、オリュザは無遠慮に扱われたことに不平を述べることもなく、従容と湯船に足を差し入れた。

 

「あなたたちも戻りなさい。湯冷めするわよ」

 

 てっきり大ゲンカを始めるものと身構えていた二人は、そろって狐につままれたような顔をする。

 

 ニネミアもオリュザも湯船に肩まで浸かり、ほうっと息を吐いている。

 はや極楽の気分を堪能し始めた彼女たちの姿をみて、フィリアとメリジャーナも釈然としない様子で戻ってくる。

 

「オリュザさん。本当に大丈夫ですか」

「はい。ご迷惑をおかけしました」

 

 なおも心配そうなフィリアに、オリュザはいつも通りの平坦な口調で答える。

 先ほどのトラブルなど、きれいさっぱり記憶から無くしてしまったかのような態度だ。

 

 当人たちが問題にしないなら、口を挿むこともできない。

 フィリアはどうも腑に落ちないまま、湯船に体を沈めた。

 

 内なる不満の表れだろうか。少女は無意識に口を湯船に付けて、ぶくぶくと泡を立ててしまう。己の子供じみた所作に気付くと、少女はのぼせてもいないのに真っ赤になってしまった。

 

 

 

 



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其の九 女子会大作戦 後編

 湯あみを終えた一同は、メリジャーナに案内されて、ディミオス家でもっとも広いゲストルームに通された。

 

 寝室にリビング、応接間にキッチンなどが一揃いになった部屋は、四人が入っても十分な余裕がある。

 壁紙や家具は落ち着いた雰囲気で統一され、間接照明の柔らかな光に照らされた室内は実に過ごしやすそうだ。

 

 フィリアは他人の家ということもあって、入り口付近で固まってしまう。オリュザも遠慮しているようで、少女の隣で様子を窺っている。

 だが寝間着姿のニネミアは、まるで自室にでもいるかのような自然さで、本革張りのソファに腰を据えた。そして、

 

「ちょっとメリジャーナ。何か嫌なモノが見えるんだけど」

 

 と、げっそりとした表情でぼやく。

 

 彼女の視界を塞ぐように横たわっているのは、凄まじく巨大なベッドである。キングサイズを二つ並べてもまだお釣りがくるような大きさで、明らかに市販品ではない。メリジャーナが今日の為に、態々特注したのだろう。

 

「大丈夫よ。昨日確かめたけど、寝心地はばっちりだったから」

 

 ゲストルームに据え付けられた簡易キッチンから、メリジャーナが声を掛ける。彼女は来客に飲み物を用意しているところだ。

 

「私もお手伝いします」

「あら、ありがとう」

 

 そんな彼女を見て、所在なげにしていたフィリアが早足でキッチンに向かう。

 

「まさか部屋まで一緒なの? それも同じ寝台で寝かせる気? 何これ、新手の嫌がらせか何かかしら?」

「そんな寂しいことを言われると悲しいわ。昔は枕を持って、ニネミアの方から訪ねて来てくれたのに」

「ちょ、だから昔の話は止めなさいったら!」

 

 憎まれ口を利きながらも、ニネミアは部屋から去ろうとはしない。何やかやと言っても、義理堅い彼女は最後までお泊り会に付き合うつもりらしい。

 

「はあ、まったく。……ちょっと、あなたもそんな所に立ってないで、早く座りなさい」

 

 ニネミアは眉間に皺を寄せて物憂げに息を吐く。

 そしてローテーブルをトントンと指で叩き、未だ入口で立ち尽くしているオリュザへと声を掛けた。

 

「オリュザさんも遠慮しなくていいのよ。自分の家にみたいに寛いでちょうだい」

 

 ワインと肴を乗せたプレートを持ち、メリジャーナとフィリアがやってくる。

 オリュザはゆっくりとした調子で歩を進め、ソファへと腰かけた。

 ローテーブルを挟むように並べられたソファに、ニネミアとメリジャーナ、オリュザとフィリアの組み合わせで座る。

 

「さて皆さん。本日もお仕事お疲れ様でした」

 

 皆に飲み物が行き渡ったのを確かめると、メリジャーナがワイングラスを掲げ、乾杯の音頭を取った。

 これから眠くなるまでお酒を楽しみつつ、親睦を深める予定となっている。ちなみに子供のフィリアは、砂糖をたっぷりと入れたホットチョコレートを淹れてもらった。

 

「おつまみもいろいろ用意したから。遠慮なく過ごしてね」

 

 ワインはフィロドクス家の農園で造られた当たり年のモノを開け、肴は定番のチーズや生ハムに加えて様々な小皿料理が並べられている。準備は万端だ。

 

「かなり、まあまあね。飲めなくはないわ」

 

 ワインをテイスティングして、ニネミアがそう言う。

 オリュザも素直にグラスを傾ける。幸いなことに、彼女たちは揃って上戸である。旨い酒と肴があれば、自然と場は温まることだろう。

 

「オリュザさん、これも美味しいですよ」

 

 世話焼きのフィリアは甲斐甲斐しくワインを注いだり、肴を取り分けたりと忙しい。

 呑むばかりは良くないと、グラスを傾けるばかりで何も食べないオリュザにあれやこれやとおつまみを進める。

 

「ええ、ありがとうございます」

 

 だが、オリュザは礼こそ言うが、一向に料理には手を付けない。すると、

 

「まったく、しょうがないわね」

 

 あろうことかニネミアが小皿に肴を乗せ、オリュザの前に差し出した。

 フィリアとメリジャーナは揃って目を丸くする。

 あれほど気位の高いニネミアが、それも大嫌いな相手に給仕をするなど、いったい何が起こったというのか。

 

「……感謝します」

 

 オリュザも礼を述べ、素直に料理を口に運ぶ。

 俄かには信じがたい光景に、少女たちは呆けた表情を晒している。

 確かに親睦を深めるために二人を呼びつけたのだが、これといった進展は無かったように見られる。いつの間に二人の溝が埋まったというのか。

 

「あ、そうそう、この間のブティックから手紙が来てたわよ。是非また御三方でご来店ください、だって。今度はオリュザさんも一緒にどうかしら。きっと楽しいと思うわ」

 

 どちらにせよ二人の蟠りが氷解しつつあるというのなら願ってもないことだ。

 メリジャーナは務めて楽しげな話題を振り、フィリアも慣れないながらも場を盛り上げようと、懸命に話に乗ってくる。

 些か空々しい騒ぎ方だが、ほろ酔い加減には丁度いい昂ぶり方である。

 

 だんだんと遠慮が無くなり、お互い好き勝手に話し出す。

 当たり障りのない話題から、それぞれが気に入っている娯楽や趣味の話。次は少々下世話な噂話に花を咲かせる。

 

 そして何より楽しいのが、仕事やら私生活やらの不平不満の告白、すなわち愚痴の投げ合いである。

 

「あいっつらもう、態度で見え見えなのよ!」

 

 ワインを呷りつつ管を巻いているのはニネミアだ。随分酔いが回ってきたようで、彼女は騎士団の部下が己を軽んじていると憤慨している。

 

「そうよぉ、女だからってみんな舐めすぎよねえ」

 

 同じく頬を桜色に上気させたメリジャーナも、口を尖らせて応じる。

 そして言葉こそ発していないが、オリュザもうんうんと頷いて意見を同じくしている様子である。

 

 軍に務める女性同士、悩みや怒りの種は共通しているようだ。

 本来トリオン能力は男女で差がつくことは無いが、騎士団は厳然とした男社会であり、女性騎士の数はごく少ない。

 また性差から何かと面白くない扱いを受けることが多く、普段は淑女として余裕を持って受け流している彼女たちでも、腹に据えかねていることは随分と多い。

 

「私がどれだけ大変な仕事をこなしているのか、ちっとも理解してないのよ」

 

 別けても若くして騎士団の総長を務めるニネミアは、相当怒りをため込んでいるようだ。

 ワインを豪快に飲み干し、憤懣やるかたない様子で吐き捨てる。

 

「そうよねえ。それどころか女ってだけで露骨に見下すような男もいるし」

 

 応じるニネミアも、だいぶ酔いが回ってきたようだ。

 頬を桜色に上気させ、ナイトガウンを着崩した彼女は、その豊満な肢体も相まって、どこか妖艶な魅力を発している。

 

 ちなみに、彼女の言う女性騎士を蔑視する男というのは、イリニ騎士団の猛将ネロミロス・スコトノの事だ。

 戦争は男の仕事だと自負している彼は、そもそも女子供というモノを頭から格下に見ている。

 

 しかも、ネロミロスの如何にも男性的な振る舞いというのが案外人を引き付けるもので、彼に感化された従士の数は少なくない。

 もちろん、彼らとて上司である騎士の前では謹直な態度を取るが、それでも態度の端々には、彼女たちを軽んじるような態度が見え隠れする。なまじ礼儀を取り繕っているため、それが余計に腹立たしい。

 

「フィリアさんなんてホント大変なのよ! 代わりに私が怒鳴りつけてやろうかって、もう何回思ったことか!」

 

 女で子供で、おまけにノマスの血筋に連なるフィリアは特に扱いが悪い。実力では敵わない分、彼らの振る舞いは余計に陰湿である。

 

「まあまあ。メリジャーナさんにそう言っていただけるだけで、私は果報者ですよ」

 

 フィリアはにこにこと笑みを浮かべながら、空になったグラスにワインを注ぐ。

 貧民時代に受けた仕打ちを思えば、彼らの小癪な態度など少女にとっては笑殺する程度のものでしかない。団の規律を乱すところまで行けば粛々と対応するが、そうでなければ捨て置くだけだ。

 

「もうフィリアさんったら~!」

 

 ただ、少女のそんな冷徹な対応が、メリジャーナには健気に耐え忍んでいるようにみえるらしい。

 彼女はぐたっと体を倒すと、横に座るフィリアへと抱き着いた。

 

「はいはい。ふふっ、お水も飲んでくださいね」

 

 ぎゅうぎゅうと圧迫されながらも、フィリアは泰然と抱擁を受け止め、笑顔を一向に崩さない。

 頬ずりしてくるメリジャーナをよしよしと撫でて落ち着かせると、手早くニネミアやオリュザのグラスにもワインを注いで回る。

 

 よくよく見れば、少女は先ほどから酒席を一人で切り盛りしている。

 自然に酒を進め、気付かぬうちに肴を出し、先輩たちの愚痴には親身になって耳を傾ける。すっかり出来上がってしまったメリジャーナたちは、もはや全員がフィリアに甘えるような格好となっており、どちらが年上か分かったものではない。

 

 いや、果たして少女とて、まともであるかどうか。

 濃密な酒気に当てられたのか、それとも場の雰囲気に酔ってしまったのか、どちらにせよフィリアも褐色の頬をうっすらと染め上げ、尋常の様子ではない。

 

 しかもどうやら、少女は酒席では世話焼きが前面に出るタイプらしい。

 四人兄弟の長女として、まさに本領発揮である。

 

 その姉っぷりは凄まじいの一言だ。

 普段のお堅く冷静な性格はどこへやら、底抜けに穏やかで優しく、それでいて機知と茶目っ気を覗かせる少女に、先輩たちはもうメロメロである。

 

 酔うと動作が大きくなり、甘えたがりになるメリジャーナ。

 段々と激しながらも、終いには鬱っぽくなるニネミア。

 見た目は変わらないもの、ポヤポヤとした反応になるオリュザ。

 そんな先輩たちを餌付けするかのように世話を焼くフィリア。

 

 残念なことに、この飲み会にはブレーキ役が誰一人として存在しない。

 少女が片付けてしまった空ボトルは既に相当な数になっているが、そもそも彼女に酒の適量など分かる筈もない。

 先輩たちはいよいよ勢いづいて、今度はヴィンテージのボトルまで開け始めた。

 夜はまだまだこれかららしい。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「その時、不思議な静寂が二人を包んだの。そうしたら、彼の暖かな手が私の肩を引き寄せて……そうね。あとは言葉なんていらなかったわ。お互いが望むままに、瞳を閉じて、顔を寄せ合い……」

「「「――っ!」」」

 

 しどけなく足を組み、ワイングラスを弄びながら、メリジャーナは濡れた瞳で恋人との一幕を語る。

 

 愚痴の吐き合いが一先ず落ち着くと、今度は自然な流れで色恋へと話題が移った。

 年頃の娘ばかりである。そちらの方面に興味が無い者は一人もいない。

 皆は当然、この中では唯一の男持ちであるメリジャーナの話を聞きたがった。

 

 彼女の幼馴染にして婚約者であるテロス・グライペインとは、一時期気まずい空気になったこともあったものの、フィリアとニネミアの骨折りで仲は一躍進展した。

 今では結婚前の思い出づくりと、二人して休日を合わせては方々へと小旅行を楽しんでいるらしい。

 

 そんな旅先で起こった艶話を、メリジャーナが湿った吐息と共に語るのだ。

 居並ぶ娘たちは、大人の恋愛模様に息をするのも忘れて聞き入っている。

 

 たかがキスとはいえ、貴族の令嬢として育った彼女たちには、十分すぎるほど過激な行為である。勝気なニネミアや冷静なオリュザも、この手の話題にはなれておらず、顔を真っ赤にしてのめり込んでいる。ましてや知人の生々しい告白など、動じるなというのが無理な話だ。

 

 しかし、最も艶話に弱いフィリアはというと、うんうんと頷きながら案外平気そうにしている。場酔いが極まってきて、難しいことが考えられなくなっているようだ。

 

「あの、質問があります。よろしいでしょうか」

 

 メリジャーナの話がひと段落すると、オリュザがそう言って手を挙げた。

 随分飲んでいるくせに、謹直な仕草は少しも崩れていない。

 

「なにかしら、オリュザさん」

 

 メリジャーナが艶然と微笑んで応じる。

 

「男女が同衾するいうのは、如何なる感覚なのでしょうか」

 

 ごほごほと、隣席のニネミアが噎せ込んだ。いくらなんでも質問が直球すぎる。淑女としてあるまじき発言だ。

 

「私もいずれは経験することかと思います。その時に失態を演じぬよう、ぜひ助言を頂きたいと……」

「ちょっとあなた、いくら女しかいないからって羽目を外し過ぎよ!」

 

 大真面目で尋ねるオリュザを、ニネミアが慌てて制する。

 どうやらオリュザも相当酔っているらしく、自分がとんでもないことを口走っていることにまるで気付いていない。

 

「そんなことはありません。ゼーン閣下も、いずれは婿を迎えられるはずです。先達に話を伺うことに、何を躊躇うことがあるのです」

「ぐぬっ、この子はもう……」

 

 しゃあしゃあとのたまうオリュザに、ニネミアは頭を抱える。酔客を説得しようなどというのが、どだい無理な話なのだ。

 

「う~ん、話してもいいんだけど……今日はちょっと、ね?」

 

 すると、メリジャーナは婀娜っぽく唇に指を当てて、話せないと仕草で応える。

 

 その視線の先には、新たに調達してきた肴を取り分けているフィリアの姿がある。

 いくら酒の席でも、子供の前では遠慮するべき話題だろう。

 

「むう……わかりました」

「まったく……」

 

 オリュザが不承不承と引き下がると、ニネミアもげんなりと肩を落とした。

 

「また今度、別の機会に取っておきましょうか」

 

 と、メリジャーナは余裕たっぷりに言う。

 実際の所、彼女にしても話せるほどの経験があるわけではないのだが、年長者としての見得がある。幸い、後輩たちは上手く騙されてくれたようだ。

 

「そういえば、ゼーン閣下は男女の交際について経験はあるのですか?」

「な――」

 

 メリジャーナが語り終えると、オリュザは唐突にニネミアへとそう切り出した。

 いきなり水を向けられた乙女は、酒で赤くなった顔をさらに耳まで朱に染めて、

 

「ばっ、そんなものある訳ないでしょう! 私は貴族の娘なのよ」

 

 と、声を荒げて否定する。

 

 貴族にとって婚姻は政治的手段の一つである。市井の娘のように、嫁入り前に男と遊ぶような真似は許されない。

 また婚姻は家の連帯の為に行うものであり、そこに当人たちの意向が介在する余地はない。貴族の娘なら、顔も知らぬ男の元に嫁がされることなど珍しくも無いのだ。

 

 メリジャーナのように、好いた相手と結ばれるのは、極めて稀な例である。

 

 ただ、ニネミアの場合は少々事情が異なる。

 父から家督を継いだ彼女は、ゼーン家の支配者なのだ。貴族社会において、当主の意向は絶対である。家の運営上、外戚の意見も多少は聞かねばならないだろうが、他家の娘に比べれば、結婚相手はかなり自由に決められるだろう。

 

 それに三大貴族の一角に婿入りとくれば、大抵の男にとっては望むべくもない話である。ましてやエクリシアでも随一の美貌を謳われるニネミアが相手ならば、国中の男が手を上げることだろう。

 

「どなたか、意中の方はいらっしゃらないのですか?」

 

 オリュザもそういった事情を知っていて尋ねたのだろう。

 相変わらず真面目くさった口ぶりだが、どこか楽しげな調子である。乙女をからかっているのではなく、純粋に好奇心を抑えられないような声だ。

 

「……別に、そんなのいないわよ。結婚だって、どうせ周りが適当な話を持ってきて決まるわよ。私はそれに従うだけ」

 

 だが、ニネミアはさもつまらなさそうにそう言い捨て、ワインを呷った。

 彼女には十年以上前から思いを寄せている男性がいるのだが、その人物と結ばれるであろう未来は永劫来ることがない。

 報われぬ恋心を抱き続けている彼女にとって、己に関わる色恋の話は苦痛でしかない。

 

「あ~、そう言うオリュザさんはどうなの? どなたか良い人はいらっしゃるのかしら」

 

 そんなニネミアの心情を知るメリジャーナが、慌てて話を逸らした。

 

「私、ですか?」

 

 まさか自分が聞かれるとは思っていなかったのか、オリュザはきょとんと首を傾げる。

 

「そうそう。この際、みんな公平に話しましょうよ」

 

 と、メリジャーナが尋ねる。すると、

 

「私は、お父様が選ばれた相手と結婚するだけです」

 

 オリュザは当然の事のようにそう言った。

 他人の恋愛譚には興味津々だったくせに、自分の事については全く頓着がないような口ぶりである。

 

「えっと、その、別に今好きな人がいなくてもいいのよ。ただ、こんな殿方がいいとか、漠然とした好みを教えてくれたら……」

「別に何も。強いて言うなら、お父様がお喜びになる相手なら満足です」

 

 メリジャーナが言葉を付けたすも、オリュザの回答は変わらない。

 

 変わった娘ということは知っていたが、こうまで情のないこと言われてしまうと、流石に困惑してしまう。

 メリジャーナとニネミアは、興ざめして顔を見合わせる。すると、

 

「オリュザさんは、本当にクレヴォ様がお好きなんですね」

 

 と、それまでじっと聞き手に回っていたフィリアが、感心したようにそう言った。

 

「お父様はとても素晴らしいお方です。あの人は、私を救ってくださいました」

 

 敬愛する当主を褒められて嬉しくなったのだろう。オリュザは自分と当主との出会いを、切々と、縷々と話し始めた。

 

 オリュザはエクリシアの市民、それもやや貧しい家に生を受けた。

 玉のような可愛らしい赤ん坊であったが、娘が難しい持病を抱えていると判明すると、両親は次第に彼女を厭うようになった。

 

 まともに世話をせず、食事も殆ど与えない。

 何とか幼年まで生き延びることはできたものの、オリュザは狭い家の奥に閉じ込められ、日の光に当たる事さえほとんどない暮らしぶりを余儀なくされた。

 

 口を開けば両親に怒鳴られるため、幼いオリュザは極度に内向的な性格になった。そのおどおどした態度が余計に気に障るのか、両親からは虐待じみた言動を常に浴びせかけられたという。

 おそらく、親の仕事が上手くいかなかったことも関与しているのだろう。

 

 そして家計が窮迫してくると、少女の食事は無いも同然になった。

 幼いオリュザはどんどん衰弱していく。しかし、両親は娘を一向に顧みない。

 

 難病を理由に衰弱死を待っているのだと、幼いながらに感じ取ったオリュザは、ある日とうとう牢獄も同然だった我が家を飛び出した。

 当てがあった訳でもない。ただ静かに死を待つだけの時間に耐えかねた、半ば発作的な家出であった。

 

「どうせ死ぬのならば、せめてあの家ではないところで。その時の私は、そう考えていたと思います」

 

 もう二度と家には帰るまいと決意していた彼女は、呑まず食わずで数日間路地裏をさ迷った。

 

 しかし、そんな無茶が続く筈もない。

 もともと衰弱しきっていた幼女である。限界はすぐに訪れた。

 栄養失調で意識が朦朧とし、夢と現の区別もつかなくなった彼女は、夢遊病のような足取りで路地裏を歩いていた。

 

「大通りの向こうに見えた教会が、とても綺麗だったことを良く覚えています」

 

 丘の頂に聳える教会の威光に引き寄せられるように、オリュザはふらふらと表通りに迷い出た。

 しかし、行き交う人並みに揉まれた彼女は、転倒して道の真ん中へと倒れ込んでしまう。

 

「そこで私は、お父様とお会いしたのです」

 

 倒れ伏す幼女の眼前で、車が止まった。

 三大貴族の一角にして、最古の系譜を誇るフィロドクス家の車両である。

 

 豪華な車からは慌てた運転手が下りてきて、道に寝転がったオリュザを退かそうとする。

 今もそうだが、聖都ではストリートチルドレンは珍しいものではない。

 市民の子供ならば周りの人間も手を差し伸べるが、やせ細り、襤褸をまとったオリュザは浮浪児そのものの姿であった。周りの大人たちも胡乱な目で眺めるばかりである。

 

 運転手は通行を妨げるオリュザを叱りつけ、それでも動かないと見ると力ずくで排除にかかった。

 骨と皮ばかりの子供だというのに、よほど垢じみた体に触りたくないのか、男は少女の足を掴んで引きずろうとする。

 そんな非道にも、当時のオリュザは為されるがままであった。

 

 だが、そんな男を鋭く叱責する声が聞こえた。

 車の後席から現れたのは、真っ白な滝髭を蓄えた老人であった。

 老人は運転手を下がらせると、オリュザの側へと近づき、膝を付いて容態を確かめる。

 そして少女が危険な状態にあることを見て取ると、垢に塗れ、泥で汚れた体を抱きかかえ、車へと運んだ。

 

「しばらくして、お父様はあの家から正式に私を引き取ってくれました」

 

 オリュザのトリオン機関は同世代の水準を大きく超えており、それ故に保護施設ではなくフィロドクス家が直々に迎え入れることになった。

 養子といっても家督の継承権はなく、いわば子飼いの兵隊ともいうべき立場であったが、それでもオリュザの胸は歓喜に満ち溢れていた。

 

 初めて誰かから必要とされた。初めて存在することを認められた。

 それが兵士としての生き方であっても、オリュザには拒むつもりなど毛頭なかった。

 しかし、クレヴォはまるで血のつながった家族のように、オリュザに深い愛情を以て接した。兵士になる未来を強要せず、彼女に教育を施し、貴族の令嬢になれるよう万事を取り計らった。

 

 フィリアたちには話せることではないが、フィロドクス家の内情はかなり複雑であり、クレヴォの二人の息子は家督継承権を巡って陰湿な対立を続けている。孫ほど年の離れたオリュザを可愛がっている理由には、そんな息子たちへの失望もあったのだろう。

 

「病気も随分と良くなった私は、お父様から受けた大恩に少しでも報いる為、騎士団へと志願しました」

 

 父によって幾つもの選択肢を与えられたオリュザであったが、結局彼女は騎士団への道を選んだ。

 

 理由は勿論、クレヴォの力となるためである。

 優秀なトリオン能力と聴覚系サイドエフェクト以外に秀でたところのなかったオリュザは、しかし努力に努力を重ねて騎士の座を掴みとった。

 またフィロドクス家伝来のブラックトリガー「万鈞の糸(クロステール)」の起動にも成功した彼女は、念願かなってクレヴォの腹心ともいえる地位まで上り詰めたのである。

 

「私が人がましい生活を送れているのは、すべてお父様のお蔭です。ですから、私の望みはお父様の笑顔を見ることだけなのです」

「……」

 

 話を終えると、オリュザはワインを一口含み、渇いたのどを潤わせた。

 思いもがけなかった自分語り、それも随分と重い話に、ニネミアとメリジャーナは言葉を失う。

 

 彼女たちは生粋の貴族として生まれ、暖衣飽食を当たり前のように享受して育った。もちろん身分に伴う苦労はあったが、オリュザのように親から捨てられたなどという巨大な不幸は降りかかったことがない。

 返すべき言葉を探し出せずにいる二人。すると、

 

「そのお気持ち、とてもよく分かります」

 

 と、フィリアが穏やかにそう告げる。

 貧民にして被差別民の少女にとって、オリュザの経験した苦痛というのはごく身近にあったものだ。

 

「私も家族の為なら、何だってしようと思いますから」

 

 そしてフィリアもオリュザも、家族を心から愛し、心の拠り所としている点ではまったく同じである。共感できるというのは本心だろう。しかし、

 

「ただ、それでしたら、オリュザさんの先ほどのお話はいただけませんね。ご結婚相手は、ご自身でも納得できる方を選ぶべきだと思いますよ」

 

 と、フィリアは茶目っ気を覗かせながらそう言う。

 

「……それは、どういう意味でしょうか」

 

 オリュザは当然、不平を込めてそう尋ねる。

 

「私はクレヴォ様から親しくお声を掛けていただいますが、いつもオリュザさんの事ばかりがお話になります。……ですが、それだけ大切に思われているのなら、きっとクレヴォ様もオリュザさんの幸福を心より願われているはずです。ましてや結婚などという人生の一大事。オリュザさんが幸せにならなければ、クレヴォ様もさぞお悔みになられることでしょう」

 

 娘が幸せにならなければ、父も心から喜ぶことなどできはしない。と、フィリアは諄々と諭す。

 

 もっとも、家族の幸せを願うなら自分も幸せにならねばならない。という理屈はフィリアにとっても同じであり、年相応の平和な暮らしを投げ捨てた少女が言うのは、少々臆面もない話である。

 ただ、少女の場合は背負っている物が違う。母の命を助ける為なら、少女は喜んで地獄にも落ちる所存である。

 

「むぅ……それは確かに」

 

 少女の正鵠を射た指摘に、オリュザは唸り声を上げた。そして数拍の間をおいて、

 

「ただ、その、私はこのような性格ですから、人の言う幸せというモノがよく分からないのです」

 

 と、顔を曇らせ不安を吐露する。

 オリュザはその生い立ち故か、感性が人とはずいぶん異なっている。本人にも自覚はあり、悩みの種であったらしい。

 そうしてフィリアは体面に座るオリュザへ、

 

「それはこれから、ゆっくり探していけばいいんですよ。私もお手伝いしますから」

 

 と、微笑みかけながら優しくそう言った。

 

「ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします」

「はい。こちらこそ、よろしくです」

 

 一時はどうなる事かと思われたオリュザの独白であったが、最後にはフィリアが綺麗に場を収めてしまった。

 ニネミアとメリジャーナはホッと胸をなでおろし、フィリアを感心の眼差しで見る。

 そしてオリュザへの理解も深まったのだろう。彼女を眺める二人の表情は今までにないほど好意的で安らかだ。

 

「それでは、次はフィリア様の番ですね。どなたか、お好きな方はいらっしゃるのですか」

「え?」

 

 と、オリュザはそうフィリアへと問いかける。

 

 そういえば、恋愛話については皆が公平に話すことになっていた。なるほど順番で言えば、最後はフィリアの番である。

 見れば、メリジャーナとニネミアも興味津々といった顔をしている。

 彼女たちも、この小さな後輩の私生活には関心があるのだろう。

 

「私ですか? う~ん……私は別に……」

 

 とはいえ、訓練漬けで日々を過ごしている少女には、浮いた話など一つも無い。

 そもそも恋愛感情といったモノがあまりよく分からず、また年齢的にも婚約はまだ早いため、家中でもそういった話は出ていない。

 

 それに何より、彼女はノマスの血を引く人間である。

 憎悪と恐怖の対象である自分が、人並みに恋愛をして結婚するなどとは、とてもではないが想像できることではなかった。

 

 自分は社会の嫌われ者である。というのは、少女の変わらぬ自己評価だ。

 たとえ自分が誰かに恋心を抱いたとしても、こんな娘に言い寄られる男性はさぞ迷惑するだろうと、少女はそう思っている。

 

 他人の話だから、素直に心を躍らせることができるのだ。少女は自分の恋愛については、早々に考えることを止めていた。だが、

 

「あっ……」

 

 その時ふと、少女の脳裏に一人の少年の顔が思い浮かんだ。

 

 抜けるような青空を映したかのような、紺碧の髪と瞳を持つ彼。

 フィリアの窮地に現れ、颯爽と彼女を救い、そして何の躊躇もなく、呪われた肌に手を触れた少年。

 

 賑わう雑踏の中で少女の手を引きながら見せた、心に染み透るような陽だまりの笑顔。

 大鐘楼の上で聖都の街並みを眺めながら見せた、胸をかき乱されるような寂しい横顔。

 

「えっ、誰かいるの? フィリアさん!」

 

 言葉に詰まり、何やら物思いに耽りだした少女に、メリジャーナが興奮した様子で話しかけた。他の面々も興味をそそられているようだが、彼女だけが嫌に勢いよく食いついてくる。

 メリジャーナはフィリアを実の妹のように思っている。好きな人はいるのかと尋ねてみたものの、まさか本当に思い人がいるなどとは考えもしなかった。

 

「だ、誰なの? どんな人? 私も知ってる人かしら?」

 

 酒臭い息を振り撒きながら、メリジャーナがフィリアの両肩を掴み、がくがくと揺らしながら尋ねる。

 

 妹分に思い人がいるだけで相当なショックだが、呆けてはいられない。

 フィリアは名門貴族の子女にして、ノマスの血を引く特殊な存在である。

 

 その立場や境遇に付けこんで、悪い男が寄り付かないとも限らない。

 ここで名前を聞き出して、何から何まで徹底的に調べなければならないのだ。

 

「いえそんな、違いますよ。ただ……その、親切にしていただいただけです」

 

 だが、フィリアはそう言ってはぐらかす。

 メリジャーナは不満をぶーぶーと口にしながら絡むが、少女は笑っていなすのみ。

 

 実際、フィリアもそう口にして、初めて彼への不思議な感情に気が付いた。

 恋慕ではない。異性への憧れなど、そんなふうに高尚な感情は、自分は抱くことも無いだろう。

 とはいえ友情、というのも少し違う気がする。彼とはあれ以来会っておらず、信義を育む時間もなかった。

 

 ただ、あの大鐘楼での一時、彼とは心の繋がりを確かに感じた。

 それは奇妙な、ある種の連帯感とでも言うべき思いであった。

 

 この悲しみに満ちた世界に対する義憤と、抗おうとする決意。

 そんな思いを、確かに彼とは共有できた気がする。

 

(もう一度、会ってみたいな)

 

 そうすれば、今度は確かに彼と友達になれるのではないか。彼女は強くそう思う。

 

「フィリアさんダメよ! いえ、いけない訳じゃなんだけど、そう節度! 男女の御付き合いには節度が大事で……」

 

 とはいえ、今は何故かひどく狼狽した先輩を宥めなければならない。

 メリジャーナを抱きしめて背中をぽんぽんと撫でてやりながら横を見ると、ニネミアとオリュザは何が楽しいのか大笑いをしている。

 つられてフィリアも笑みを溢す。そうして、夜はとっぷりと更けていった。

 

 

 

 



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其の十 手作りプレゼント

 目を薄く開けると、細工飾りの施された美しい天井が見えた。

 

「うゅ……ん?」

 

 至福の心地のマットレスに体を横たえながら、フィリアはぼんやりと瞼を擦り、違和感の正体に思い当る。

 彼女が今寝ているのは、イリニ家の自室ではない。

 

 むくりと上体を起こし、未だにしゃんとしない頭で周りを見る。

 少女のいるベッドは、大人が五人は並んで寝られるような巨大な代物である。にもかかわらず、彼女以外には誰の寝姿もない。そして、

 

「……お酒くさい」

 

 部屋に充満する噎せ返るような酒気に、少女は思わず顔を顰める。

 

 そこでようやく、フィリアは昨日ディミオス家にお泊りに来たのを思い出した。

 自分からベッドに入った覚えがないので、寝入ってしまった彼女を誰かが運んでくれたのだろう。

 

「……」

 

 フィリアはベッドから降りると、ゲストルームを頼りない足取りで歩き始めた。

 メリジャーナたち三人は、フィリアが寝入ってからも酒盛りを続けたらしい。

 床のそこいらに、飲み干した酒瓶やら、肴の取り皿やなにやらが転がっている。

 

「――っ!」

 

 とその時、足の裏に異様な感触を覚え、フィリアがビクリと体を強張らせる。どうやら彼女は誰かの髪の毛を踏んでしまったらしい。

 

 彼女の小さな足の横には、誰かの頭がある。

 目を凝らせば、床で丸まって寝入っているのはメリジャーナであった。

 

 ナイトガウンをあられもなく着崩し、ワインボトルを抱えた彼女は、良い夢でもみているのだろうか、にやにやと些か締まりのない笑顔で寝息を立てている。

 いつもの淑やかな彼女は何処へやら、貴族の令嬢にとってあってはならない姿である。しかし、フィリアはそんなメリジャーナに幻滅する訳でもなく、ただその寝顔に笑みを溢すばかりである。

 

 視線を転じれば、残りの二人も直ぐに見つかった。

 ニネミアとオリュザは酒盛りをしていたソファで寝入ってしまったようだ。

 肩を寄せ合い穏やかに眠る二人の姿は、一見仲のいい姉妹にも見える。

 部屋の惨状はともかく、皆は心地よさそうに眠っている。それだけで、お泊り会は成功だったといえるだろう。

 

 しかし、どうもこの部屋に漂う濃密な酒気は耐え難い。

 換気をしようと窓の方を向いた少女は、カーテンの隙間から曙光が差し込んでいるのに気付いた。

 サッと、フィリアの顔から笑みが消える。

 

「メリジャーナさん起きてください! 朝、朝です!」

「ううん……」

 

 少女に呼び声に、メリジャーナが間の抜けた声を上げて目覚める。

 今日休みを貰っているのはニネミアとオリュザだけで、メリジャーナとフィリアは出勤日である。

 腕輪型の携帯端末を起動し時刻を確認すると、かなり切羽詰まった時間だ。身支度で手間取れば、遅刻してしまうかもしれない。

 

「ふえ、どうしたの? って……頭痛ぁ」

 

 酒瓶を胸元に抱いたまま、メリジャーナがうっそりと起き上がる。髪は寝癖でぼさぼさで、声は酒やけで擦れている。おまけに見事な二日酔いで、彼女は頭を押さえてうんうん唸り声を上げる始末だ。

 

「早く支度をしないとまずいです!」

 

 フィリアはバタバタと部屋を走り回り、持ち込んだ着替えを鞄から引っ張り出す。

 そんな騒動に、ソファで寝ていた二人も目を覚ましたようだ。

 

「っ、もう朝……寝ちゃったのね」

「ん、おはようございます」

「はいおはようございますゼーン閣下、オリュザさん」

 

 慌ただしく身支度をしながら、フィリアは二人に自分たちは出勤せねばならない旨を伝える。メリジャーナもようやく寝坊に気付いて慌て始めた。

 ちょうどその時、ゲストルームの扉がノックされ、フィロドクス家の家人が様子を見に来た。流石に教育が行き届いており、風呂の支度や食事の用意は全て整っているらしい。

 

「ごめんね二人とも、家の者には言いつけておくからゆっくりしていって頂戴」

 

 メリジャーナとフィリアは寝汗を流すため慌ただしく部屋を飛び出していく。後に残された二人は頭が覚醒するにつれて、がっくりと項垂れた。

 

「あーもう頭痛い。酷い酒だわ」

「……」

 

 ニネミアはソファから起き上がり、がちがちになった体を伸ばす。

 彼女も随分飲んだため、当然の如く二日酔いである。頭は痛いし胃もむかむかする。

 おまけに昨日の醜態をありありと思いだし、羞恥と後悔でどうにかなってしまいそうな気分だ。恥を晒したのはあの場にいた全員であったのが、せめてもの慰めである。

 

「はあ、まさかこんなことになるなんて……」

 

 ニネミアはぼやきながらゲストルームを歩き、宿泊用の鞄をごそごそと漁る。

 一方、オリュザは目覚めたにも関わらず、一向にソファから腰を上げようとしない。

 

「はい。トリガーよ」

 

 すると、戻ってきたニネミアがオリュザの手に彼女のトリガーを握らせた。触っていたのはオリュザの鞄だったらしい。

 

「……気付いていたのですか?」

「何の事かしら。早くトリオン体になりなさいな。あなたも相当酷い格好よ」

 

 ニネミアはトリガーをオリュザに押し付けると、さっさと自分の鞄から着替えを探し始めた。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 オリュザは俯き、絞り出したような声で礼を述べる。

 ニネミアは一瞬手を止めるが、聞こえなかったかのように作業に戻った。

 オリュザはトリガーを起動し、肉体をトリオン体へと換装する。

 

 ――すると、彼女の視界に鮮やかな景色が再び戻った。

 

 オリュザの生身には殆ど視力がなく、辛うじて明暗を判別することしかできない。

 これは彼女が抱える進行性の病によるもので、完治は難しく、いずれは完全に失明するだろうことが医師によって予見されている。

 そんな彼女が生身にも関わらず昨晩を大過なく過ごせたのは、彼女が持つサイドエフェクト「強化音響探知」のお蔭である。

 

 オリュザは音や振動を感じ取る能力が極めて優れており、音の反射によって周囲の物体や位置関係を映像のように知覚することができる。

 しかしそれでも限界はあり、室内を歩く程度ならともかく、食事などの細かい作業を行えるわけではない。また音がしなければ何も感じないため、静かな部屋や風呂場などの音が籠る場所は苦手としている。

 

 ともかく、オリュザの目が不自由なことは、フィロドクス家でも知る者が殆どいないトップシークレットであった。

 彼女は(ブラック)トリガー「万鈞の糸(クロステール)」の担い手である。国家の帰趨を左右する超兵器の持ち主が盲目であることなど、他家の人間に知られれば格好の政治的弱点になる。

 

 もし遠征先で不覚を取った場合、盲目の女が戦場を切り抜けて(ブラック)トリガーを死守することができるのか、といった突き上げを喰らえば、フィロドクス家としても返答に窮するだろう。

 他家の人間には絶対に知られてはならない、致命的な弱みであった。

 

 だが、その代表格であるゼーン家当主ニネミアは、オリュザが視力に異常を抱えていると気付いたにも関わらず、素知らぬ風を装っている。

 後で攻撃に用いる為とは思えない。ニネミアは彼女なりの仁義として、その事実を黙殺してくれているのだろう。

 

「あの……ゼーン閣下」

「何かしら?」

「昨日は、楽しかったですね」

 

 と、オリュザがそう言えば、

 

「そうね。当分はごめんだけど」

 

 ニネミアもそっぽを向きながらそう答える。

 

 二人が不仲であったのは、ただ相性が悪かったからだけではない。彼女たちの属する家には、エクリシアの施政を巡って争いを繰り返してきた凄惨な歴史がある。

 歩み寄りはすなわち弱みを晒すことに他ならないと、交流そのものを忌避する風潮があったのだ。

 

 しかし、それは過去の益体もない風習に過ぎないのではないか。

 奇しくも各家の未来を担う若者たちが揃い、友情の種を芽吹かせようとしている。

 家門の枠組みを超えた友誼は、エクリシアの未来に新しい光景をもたらすかもしれない。

 

(なんて……バカね。絆され過ぎよ)

 

 ニネミアはディミオス家のメイドに朝風呂の支度を申し付けながら、そんなことを考える。

 若くしてゼーン家の当主となり、虚勢を張り続けるしかない彼女にとって、気の置けない友人というのは何にも代えがたい財産だ。

 一廉の指導者として、他者に依存するわけにはいかないことは分かっているものの、それでも心の清涼剤として、友人の存在は何より有難い。

 

「ああそう、オリュザ」

「――はい。何でしょうか。ゼーン閣下」

 

 何気なく名前を呼ばれ、オリュザが緊張を滲ませた声で答える。

 

「この間の遠征データの件、後でフィロドクス騎士団に送っておくわ。そちらならどう攻略するか、レポートを頂戴」

「な――」

 

 諍いの原因となった遠征の記録について、ニネミアは融通する旨をあっけらかんと告げた。オリュザは困惑と恐縮に身を強張らせ、

 

「あの折は、無礼をはたらきすみませんでした」

 

 と頭を下げる。だがニネミアは飄然と肩を竦め、

 

「その話はお互いさまよ。まあ……これからはよろしく頼むわ」

 

 と、苦笑交じりにそう言う。

 

「はい。承知しました。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 

 オリュザは相変わらず無表情で、しかし声だけは歓喜の色を浮かべてそう答える。そして、

 

「これからも、御無礼を働いてしまうかもしれませんが、どうぞご寛恕くださいますようお願いいたします」

 

 と、言葉を付け加える。するとニネミアは一転して真顔となり、

 

「いや、それは別の話よ。これからも貴方が失礼なことを言ったら、正面からばんばん指摘させてもらうから」

 

 と、きっぱりと言う。

 ゲストルームに妙な静寂が過る。一拍おいて、

 

「ふふ」

 

 どちらからともなく笑い声が漏れた。

 正反対の性格なら、いっそのこと正面からぶつかってみるべきだと、今更ながらにお互い気付いたらしい。

 

「それにしても酒臭いわね。酷い二日酔いだわ」

 

 和やかな空気に気恥ずかしくなったのか、ニネミアはさっさと風呂の準備を整える。オリュザも同行するつもりらしく、鞄を弄っている。

 すると、バタバタと慌ただしい足音が廊下側から聞こえ、前触れもなくゲストルームの扉が開かれた。

 

「ごめんなさい二人とも。私たちもう出なきゃならないから」

 

 見れば、メリジャーナが扉から首を突き出してそう言う。

 身支度は綺麗に整っており、いつもの気品溢れる才媛そのものである。

 あれほど飲んだにも関わらず、酒の匂いがすっかり消えている。察するに、今日はトリオン体で通すつもりらしい。

 

「あの、すみません。私もこれで失礼します」

 

 フィリアもひょっこりと顔を出し、ニネミアとオリュザに謝意を伝える。

 彼女は生身のままである。酒は飲んでいないので二日酔いの心配はない。また若さの表れか、夜通し騒いだにも関わらず少しも疲れを残していないようだ。

 

「オリュザも、風呂は後でいいわね」

 

 そう言いながら、ニネミアはトリガーを起動すると、トリオン体へと換装する。

 寝起きでいささか精彩を欠いていた美貌が、一瞬で壮麗な輝きを取り戻した。

 そうして彼女はオリュザを率いてゲストルームを出る。

 門前までフィリアとメリジャーナを見送るつもりらしい。

 

「ま、頑張ってらっしゃい」

「メリジャーナ様。フィリアさん。どうぞよい一日を」

 

 車寄せまで連れ立って歩くと、ニネミアとオリュザがそう声を掛ける。

 

「ごめんねバタバタになっちゃって。よかったら朝食だけでも食べて行ってね」

「ゼーン閣下。オリュザさん。昨日は本当に楽しかったです」

 

 メリジャーナとフィリアは揃って感謝の言葉を告げる。すると、

 

「……いつまでも閣下呼ばわりしなくてもいいわよ。フィリアも、オリュザも、名前で呼ぶことを許すわ」

 

 と、照れたような、拗ねたような調子でニネミアがそういう。

 

 フィリアは驚愕に目を丸くする。オリュザも表情には出さないものの、大層驚いているらしい。

 困惑した少女はメリジャーナに助けを請うような視線を送る。すると、頼りになる先輩は穏やかな微笑みで応える。

 フィリアは沸き起こる驚きと喜びに顔を綻ばせると、

 

「はい。ありがとうございますニネミアさん!」

 

 満面の笑顔で礼を述べた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 春風吹き抜ける緑の園。

 イリニ家本宅が誇る壮麗な中庭。トリオン製の瀟洒な東屋で、フィリアとオルヒデアは午後のティータイムを楽しんでいた。

 

「では、御友人方はすっかり仲良しになられたのですか?」

「はい。御二方とも随分距離を詰められたようで。今でも喧嘩はなさいますが、前みたいに険悪な風ではなくて、どこか親しげに意見を交わしておられます」

 

 ガーデンチェアに腰かけたフィリアは、オルヒデアに先日催したお泊り会の結果を語る。

 いろいろ表沙汰にはできない場面はあったが、それでも当初の目的通り、友人たちの仲を深めることには成功した。

 案を出してくれたオルヒデアには、成功した旨と感謝の言葉を伝えねばなるまいと、少女は定期視察の日を心待ちにしていたのだ。

 

 健康状態とトリオン機関の発育チェックを終え、表向きの用事である職業訓練の結果に目を通すと、後はもう習慣となっている茶話会へと移った。今日は天気がいいので、中庭までティーセットを持ち出して歓談することになった、

 

「これも全てオルヒデアさんの助言のお蔭です。感謝に堪えません」

「いえそんな。フィリアさんの真心が伝わったんですよ」

 

 焼き菓子を摘まみ、お茶を飲みながら穏やかな時間が過ぎる。

 最近はオルヒデアもここでの暮らしに慣れてきたそうで、家人と話す機会も増えたらしい。また職業訓練にも身が入っており、近々イリニ家領内の食料品加工工場で働きに出ることが決まっている。

 

 もちろんこれは偽装であり、オルヒデアはあくまで神の候補として厳重な監視下にある。

 しかし、長い間屋敷で幽閉されていた彼女は、仕事とはいえ外に出られることが余程嬉しいらしく、無邪気に喜んでいる。

 

「そういえば、この間フィリア様の弟さんたちをお見かけしましたよ。皆さま元気で、可愛らしいお子さんですね」

 

 オルヒデアがそう言う。

 彼女が弟妹を見たのは、月に一度設けられている母パイデイアとの面会日のことだろう。聖都から車を出して、この本宅で丸一日母との時間を過ごすのだ。あいにくフィリアは同行したことは無いが、母も弟妹たちも毎月その日を心待ちにしている。

 

「金髪の凛々しいお方がいらっしゃいましたが、あの方がご当主様ですか?」

 

 と、オルヒデアはフィリアにそう尋ねる。

 少年少女たちを引率して、壮年の偉丈夫が館を訪ねてきたらしい。家人たちがよほど緊張して対応していたので、要人と知れたのだろう。

 

「はい。その人がイリニ家当主、アルモニアです。私たちには伯父上に当たる人ですね」

 

 アルモニアは騎士団の指揮や国政への参加のため、一年の殆どを聖都の別宅で過ごしている。通信技術の発達した現代であれば、領地の施政は聖都からでも問題なく行えるのだが、それでも時々は領地に帰らねばならない。

 それが月一の帰宅であり、弟妹たちはその時にアルモニアにくっついて母に会いに来るのだ。

 

「随分弟さんたちと親しそうにしていらして……さぞかし優しいお方なのでしょうね」

 

 と、オルヒデアが言う。

 弟妹たちは今や、アルモニアを実の父のように慕っている。あくまで養子の身であり、当主に対して馴れ馴れし過ぎると思うのだが、当のアルモニア自身が彼らを甘やかしているため手の施しようがない。

 フィリアもそんなアルモニアには随分懐いていて、今では家族と同じように心から親愛の情を抱いている。

 

「はい。とても素晴らしい方です」

 

 虜囚の姫君として思う所はあるのだろうが、それでも家族を褒めてくれたオルヒデアに、フィリアは柄にもなく照れてしまう。

 

「ご家族は何にも代えがたいものです。どうぞお大事になさってください」

 

 オルヒデアは寂しそうにそう言ってから、失言に気付いたように口元を手で隠す。

 見れば、嬉しそうにしていたフィリアが一変して、暗く沈んだ顔をしている。

 オルヒデアを祖国から拉致したこと、彼女の父の形見である(ブラック)トリガーを奪ったこと。そして彼女は知る由もないが、彼女の兄についての隠し事が、少女の胸を責め苛んでいるのだろう。

 

「あ、いえ、そういうわけではなくてですね。昨今は冷え切った仲のご家族も多いと聞いて、えっと、長幼の序を大事にというか、その……」

 

 わたわたと慌てて弁解の言葉を並べるオルヒデアに、

 

「まったく、オルヒデアさんにお気遣いされるとは、これではあべこべではありませんか」

 

 と、フィリアは困ったような顔をして言う。

 悲境にあるオルヒデアから慰められては、加害者のフィリアとしては立つ瀬がない。

 

「フィリアさん。そんなにお気になさらないでくださいね」

「……まったく、敵いませんね」

 

 気遣うオルヒデアに、フィリアは力のない笑顔で応える。

 しかし、少女には彼女の兄の末路の他に、乙女を生贄として育て上げる任務まで課されている。気にするなといわれても、とても割り切れるものではない。

 

 それでも表面上は平静を取り繕い、再び雑談に興じる。

 話題は自然と、少女の伯父アルモニアについてとなった。

 

「実は、ご当主様に日頃のお礼を差し上げたいと思っているのですが、何をお渡しすればいいのやら、思い悩んでおりまして……」

「まあ。それは一大事です!」

 

 フィリアが伯父への贈り物に悩んでいると告げると、オルヒデアは目を爛々と輝かせて話に乗ってきた。刺激に飢えているのか、世話焼きが好きなのか、それともフィリアの悩みだからだろうか。乙女はぐいと顔を近づけ、真剣に話を聞く構えだ。

 

「他の方にも助言を頂いて何点か小物を用意したのですが、どうもしっくりとこなくて」

 

 テロスに薦められた装身具や、メリジャーナに選んでもらった文具なども買いそろえたのだが、どうも決め手に欠ける気がする。サイドエフェクトにも頼ってみたものの、アルモニアなら何を渡しても喜ぶとしか出ず、少女は困り果てていた。すると、

 

「なるほど……それはつまり、フィリア様ご自身が満足していないのでしょう。やはり、贈り物は自分で選んだ物が一番ですよ」

 

 と、オルヒデアはさも当然のようにそう言う。

 

「それはもちろん、そうですが……」

 

 少女は育ちの所為か、兎角他人の顔色を窺い過ぎる気がある。

 贈り物などはその最たるもので、相手が嫌がらないように気を使い過ぎて、自縄自縛に陥ってしまっている。

 

「もちろん、お相手の好みは考えねばなりません。けれど、自分が心から気に入った物でなければ、どうして自信が持てましょうか」

 

 と、オルヒデアはそんなフィリアを諭すように、朗々と言葉を続ける。

 

「ですが、私はその……」

 

 しかし、フィリアはなおも自信な下げに項垂れる。少女の生涯はひたすら苦労の連続で、風雅の心得などまるで持ち合わせてはいない。

 自分で選んでみろ、と言われても、何も思い浮かばないのだ。

 そのことを正直に打ち明けると、

 

「なら、私にもお手伝いさせてください」

 

 と、オルヒデアは力強くそう言った。

 

「そんな、そこまでご迷惑をおかけする訳にはいきません」

 

 と、フィリアが両手を振って拒むと、

 

「そんなことを言わないでください。フィリア様にはお世話になってばかりなのですから。少しでも、お力添えをさせてください」

 

 オルヒデアは眼差しに強い光を湛えてそう言った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「さて、それでは伯父様についてお教え願えませんか?」

 

 すっかりやる気になったオルヒデアは、ガーデンテーブルにぐっと乗り出してフィリアにそう問い掛ける。

 まずは相手の好みを探っていこう。そうして候補を並べてから、フィリアがピンと来る物を探せばいい。

 

「ええと、ご当主様は……」

 

 フィリアが語りだす。

 エクリシア三大貴族の一角、忠勇なるイリニ家の当主アルモニア・イリニ。

 (ブラック)トリガー「懲罰の杖(ポルフィルン)」の担い手にして、「剣聖」の異名を持つエクリシア最強の武人。謹厳実直にして勇猛果敢、博学多才にして公明正大な、正に稀代の傑物である。

 

 だが、そんな表層の情報はどうでもいい。

 フィリアが知る、家族だけが知る彼の本当の姿。それは――

 

「ご当主様は、とてもお優しい方なんです。こんな私にも、とても良くしてくれて」

 

 彼は敵国ノマスの血を引くフィリアに、惜しみない情愛を注いでくれる。

 そして何より、アルモニアは近界(ネイバーフッド)に生きる者でありながら、戦争の悲惨さと暴虐を、悪性と罪業を知る人間である。

 

 騎士団を率いて他国を侵略することは、国を治める立場故の事。彼の本質はパイデイアやオルヒデアと同じ、平和を希求してやまない人物である。

 

 そんな彼であるから、剣聖と謳われるほどの武を持ちながらも、暴力的に振る舞うことは少しも無い。そんな彼が率いるからこそ、イリニ騎士団は戦場にあっても常に高潔な精神を忘れないのだ。

 気高い志を持ち、国家万民の為に身を尽くすアルモニアは、フィリアが心から尊敬してやまない、自慢の伯父である。

 

「ご当主様は、お酒もそんなに飲みませんし、遊興もあまり……」

 

 そんな伯父は謹厳な性格もあって、普段は大貴族とは思えぬ程質素な暮らしぶりをしている。また一人身であるが、多忙故に遊びに時間を費やしている様子も無い。

 

「趣味といえば、土いじりをなさることぐらいでしょうか」

 

 そんな鉄人のような彼が唯一娯楽としているのは、以外にも庭木弄りである。

 聖都の別宅の中庭は、彼によって手ずから造園されたものである。今では細かな手入れは家人に任せているが、それでも時折自ら道具を取り、枝を払い花を植えている。

 

「素敵な御趣味ですね。そこから考えてみてはいかがですか?」

 

 と、オルヒデアが言う。

 

「なるほど……」

 

 確かに趣味の面から贈り物を考えるのは常道である。

 ただ、苗木や花を贈るのは考えものだ。造園にあたっては色々とこだわりがあるだろう。意に沿わない植物を送られては迷惑かもしれない。

 また道具類に関しては既に最高級の物が揃っている。態々送っても印象は薄い。

 

「とはいえ趣味になさっているだけに、却って難しいですね……」

 

 フィリアは顎に手を当て、可愛らしく悩む。

 そんな年相応の少女の姿に、オルヒデアは穏やかな視線を注ぐ。

 

「まあまあ。じっくり考えればいいんですよ。さ、どうぞ」

 

 そういって、乙女はフィリアに茶菓子を配膳する。

 少女は礼を言ってから、ハーブが練り込まれた焼き菓子を摘まみあげた。すると、

 

「あ――」

 

 と、頓狂な声を上げる。どうやら何か思いついたらしい。

 

「どうかされましたか?」

「はい。その、ポプリをお贈りするのはどうかなと思いました。邪魔にもなりませんし、お部屋に置けばしばらくは香りを楽しめますし……」

 

 おずおずと意見を述べるフィリア。軍議では物怖じせずに発言する彼女が、ひどく気弱な様子である。

 

「それは良い考えです! 折角ですから、フィリアさんのお手で御造りになればなおよろしいかと思いますよ」

 

 オルヒデアは両手をぽんと打ち鳴らして同意する。

 案そのものに感心したというより、この歪な少女が苦心惨憺して贈り物を考え出したことが嬉しいらしい。

 

「手作り、ですか? 生憎ですが、私では贈り物に相応しい品を作れるかどうか……」

「そんなことはありません。きっと伯父上様もお喜びになりますよ」

 

 創作活動などしたことのないフィリアは難色を示すが、オルヒデアは明るい調子で強く手作りを勧める。

 話を聞けば、少女とアルモニアの仲は思った以上に親密そうだ。大事な姪が手作りしたというなら、少々不出来でも喜ぶに違いない。そして、

 

「ちょうど、お部屋にそういった本が沢山あったんです」

 

 と、乙女は言う。

 彼女の幽閉されている地下室には小ぶりな書棚があり、そこにはなぜか園芸関係の本が多数収められていた。

 乙女は手持無沙汰の余りその何冊かに目を通していたが、まさにその中に、ポプリやドライフラワーの作り方を記した本もあったのだ。

 

「早速今から作りましょう。本を取ってきますね」

 

 善は急げとばかりに、オルヒデアが東屋から出ていく。深窓の令嬢でありながら、大した腰の軽さである。

 

「わぷ!」

「オルヒデアさん!?」

 

 が、粗忽者の彼女が勢い込むとろくなことにならない。

 駆けだした乙女は些細な段差に足を引っ掛けて転び、フィリアは慌てて介抱に走る事となった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 何時しか太陽も随分と傾き、世界を茜色に染め上げていた。

 東屋のガーデンテーブルには、瓶詰されたばかりのポプリが三つ置かれている。

 

 あれからフィリアとオルヒデアは中庭を巡り、薔薇を中心に花びらやハーブを採取すると、厨房に押し入ってオーブンを占拠し、ドライフラワーを作った。

 それからエッセンシャルオイルやフレグランスオイルを探して屋敷中を駆けずり回り、何とか完成にこぎつけた次第である。

 

「お時間を取らせてしまって、どうもすみません……」

「そんなことありませんよ。御蔭で随分いい物ができたではありませんか」

 

 夕暮れの中庭で、作業を終えた二人は和やかに言葉を交わしていた。

 折角だからと、プレゼント用以外にもオルヒデアとフィリアの分もポプリを作ったため、思惑時間がかかってしまった。

 

 だが、二人に疲労の色はない。

 瓶詰された色鮮やかな花々を見ると、自然と頬が笑み崩れる。自分の手で作品を作り上げたときの、得も言えぬ充足感が二人を満たしていた。

 

「本によると、暫く置いて熟成させなければならないみたいですね」

「はい。丁度、私の誕生日くらいにできそうですね」

「えっ?」

 

 ふと少女が溢した言葉に、オルヒデアが反応する。

 

「フィリア様、もうすぐ誕生日なのですか?」

「はい。そうですけれど……」

 

 きょとんとした少女に、乙女は目をきらりと輝かせ、

 

「それは素晴らしいです! 私からも是非お祝いをさせてくださいね」

 

 と、大げさに喜んだ。

 

「あの、ええと、その……あはは」

 

 まるで身内の慶事に立ち会ったかのようなオルヒデアのはしゃぎぶりに、フィリアは曖昧な笑顔で応じるしかない。

 どこの世界に監督役を祝う捕虜がいるのか、という話だが、そもそも彼女たちの親密ぶりからして普通ではない。

 

 フィリアが役職を外されないのは、彼女の持つサイドエフェクトが有用なことと、オルヒデアの精神状態を慮ってのことである。

 ただし、あくまで大目に見られているのであって、今後捕虜の取り扱いに不利益が出ると判断された場合には、少女は役目を解かれることになるだろう。

 

「ありがとうございます。お気持ちだけでも、とっても嬉しいです」

 

 そんな事情はともかくとして、フィリアは丁寧に感謝の念を述べる。

 忌み子として生まれた少女を祝ってくれたのは、今まで家族だけであった。乙女の思いやりは素直に喜ばしいものである。

 

「それでは、今日はもう失礼します。くれぐれもお体にはお気を付けください」

 

 視察の時間というには長居しすぎている。フィリアはポプリの瓶を鞄に納めると、オルヒデアに見送られて中庭を後にした。

 

 夕焼けに染まる庭園に、一人立ち尽くすオルヒデア。

 少女の姿が見えなくなると、入れ替わりに数人の侍女が館から出てきた。彼女たちはこの館での監視役である。フィリアとは違い、彼女たちは態度こそ恭しいものの、捕虜であるオルヒデアには決して心を許さず、機械のような対応しかしない。

 

 乙女の運動時間はとうに過ぎているため、地下へと連れ戻しに来たのだろう。

 

「オルヒデア様。そろそろお時間です」

「……はい。承知いたしました」

 

 冷厳な侍女たちに囲まれ、乙女の顔から表情が消える。

 

 器物を扱われるような態度で接せられると、乙女は否応なしに己の虚しい立場を自覚せざるを得ない。

 前後を侍女に挟まれ、まるで罪人のように館へと歩くオルヒデア。

 

 このエクリシアに、彼女の味方と呼べる人間は果たしてどれだけいるのだろうか。

 外で働かされることになれば、同郷の人間とも会えるかもしれない。だが、果たして彼らはオルヒデアを受け入れてくれるだろうか。

 (ブラック)トリガーを担いながら祖国を守りきれず、むざむざ虜囚となった彼女は、ポレミケスの民に会うことを恐れていた。

 

「――っ!」

 

 その時、沈鬱な乙女の表情が一転して花の綻ぶような笑顔となった。見れば、彼女を出迎えるように金髪の貴婦人が立っている。彼女こそ、この国で彼女を受け入れてくれた数少ない友人の一人、パイデイア・イリニだ。

 乙女と友誼を結んだフィリアの母であり、孤独な捕虜生活を支えてくれた恩人である。

 

 オルヒデアは満々と笑みを浮かべ、パイデイアの元へと駆け寄った。

 なぜか愛する娘と疎遠になっている彼女は、オルヒデアの口からフィリアの様子を聞くのを何よりの楽しみにしている。そしてオルヒデアも、複雑な事情を抱える母娘の橋渡しができるのを嬉しく思っている。

 

 今日は色々と楽しい出来事が沢山あった。そして話題はそれだけではない。

 少女の誕生日がもうすぐなのだ。

 乙女は胸をときめかせ、パイデイアへと語りかけた。

 

 

 

 



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其の十一 十二回目の誕生日

 

 風格漂う重厚な調度品で整えられた、イリニ騎士団総長の執務室。

 

 主人の質実剛健な人柄を反映しているかのように、室内は埃一つなく清潔で、また重役室にはつきものの華美な装飾は少しも見受けられない。

 書架には歴代の資料が整然と並び、棚には教会から送られた宝剣や感状が何気なく置かれている。

 

 立ち入る者の身を自然と引き締まらせるような、凛冽な空気に満ちた部屋である。

 

「今季の従士団の訓練記録をお持ちしました。総長閣下」

「ああ」

 

 この総長室に立ち入る時、フィリアは柄にもなくいつも緊張してしまう。

 なぜならこの執務室は砦の建設当時から、歴代の総長が何代にも亘って過ごしてきた、いわば騎士団の歴史そのものともいえる部屋なのだ。

 隅々まで染み透った歴史の重みには、思わず委縮してしまう。

 

 しかし、今日この日。当主の机へと歩み寄ったフィリアは自然と頬を綻ばせた。

 重厚謹厳な雰囲気には似つかわしくない、華やかで心安らぐ香りが鼻をくすぐる。

 

 見れば、当主の執務机の上には、香しい芳香を漂わせるポプリが置かれている。

 つい先日、フィリアが手渡した贈り物を、総長アルモニアは早速用いているのだ。

 

「どうした?」

「はっ――何も問題はありません」

 

 謹直な態度で答えつつも、フィリアはふへへと顔が緩むのを抑えられない。

 

 アルモニアはポプリのみならず、小物やペンまで、少女が贈った全ての品を身に着けてくれている。それもただ礼儀として使っている訳ではなく、実用品として気に入ったらしい扱い方だ。

 

 自分の思いが受け入れられたことが、何より嬉しい。

 また贈り物には散々頭を悩ましたこともあり、喜びも一塩である。

 

「ふむ。ご苦労だった」

 

 アルモニアはそんな少女の変化に気付いた風もなく、報告書を受け取ると自分の仕事に戻るべく、視線を手元に戻した。そして、

 

「フィリア。明日は君の誕生日だったな」

 

 と、不意にそう言った。

 

「は。はい。そうです」

 

 伯父と姪という密接な間柄であり、また総長と騎士という立場に就く二人は、他者からの誤解や偏見を招かぬように、団内では務めて事務的に付き合っている。

 公私の峻別は別にお互いに取り決めたことではなく、どちらからともなく自然とそうなった、いわば不文律のようなものだ。

 しかし、アルモニアは今日、初めてプライベートな事柄を口にした。それだけでなく、

 

「サロスたちがうるさくてな。勝手ですまないが、明日は半休にしておいた。午後はゆっくりするといい」

 

 とまで言う。

 

「――あ、ありがとうございます」

 

 咄嗟に言葉が出てこなかったフィリアは、ともかくか細い声で礼を述べた。

 歓喜と気恥ずかしさが湧き起こり、少女は目を伏せ縮こまってしまう。

 伯父と姪という関係でありながら、体面を気にしてことさら他人のように振る舞ってきた二人。そんな歪な関係を解消しようという、アルモニアの強い意思を感じる。

 

 呪われたノマスの子でありながら、騎士として華々しい戦果を挙げるフィリアを、世間や騎士団は徐々に受け入れつつある。

 しかしそれでも、エクリシアの民は少女を同朋と見なしているかは怪しいものである。

 

 アルモニアはそんなフィリアの行く末を心から案じているのだろう。

 伯父の暖かな心遣いに、少女は照れた顔を戻せずにいる。そして、

 

「明日は私もなるべく早く帰ろう。楽しい誕生日になるといいな」

 

 と、敬愛する伯父がそんなことまで口にしたので、フィリアはいよいよ顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうして、フィリアの十二回目となる誕生日が来た。

 

 午前上がりで騎士団から帰ってきたフィリアは、多少落ち着きのない様子でイリニ家の正門をくぐる。

 弟妹たちは暫く前から姉の盛大な誕生日会を企画していたらしい。用意をしている現場にも遭遇し、そのたびに素知らぬ風を装うのに苦労したものだ。

 

 しかも弟妹たちは、今年は屋敷の使用人やアルモニアをも抱き込んでしまったらしく、何やら屋敷全体が祝賀ムードとなっている。

 どれだけ生活が苦しくとも、フィリアたちは家族の誕生日を毎年欠かさず祝ってきた。しかし、これだけ大仰になってしまうと、主賓としては少々身構えてしまう。

 それでもフィリアは喜びに浮かれながら、屋敷の中へと入る。すると、

 

「げっ、姉ちゃんもう帰ってきたのかよ!」

 

 と、上の弟のサロスが、驚愕した表情で姉を出迎えた。

 

「ただいま。今日は早く帰れたの」

「え~……伯父さん確かに頼んだけどさぁ」

 

 サロスは大荷物を抱えたまま唸り声を上げる。思いもがけないフィリアの帰宅に困惑しているようだ。

 どうやらまだ誕生会の用意は整っていないらしい。

 

 弟妹たちはアルモニアに、誕生日だけは姉を残業させずに帰らせるよう頼んだのだが、それを半休にしてしまったため、このような事態になってしまったのだ。

 

「もう。遅っーい! サロス何してんのよ! って姉さん!?」

 

 そして妹のアネシスが大広間の扉から顔を出し、姉の姿を見て目を丸くする。

 

「え、お姉ちゃんもう帰ってきたの?」

 

 下の弟イダニコも扉からひょっこりと顔を出し、フィリアはあっという間に弟妹に囲まれた。兄弟そろって作業服を着ており、慌ただしく飾り付けをしていたらしい。

 

「えっと……もう少し外に出てた方がいいかな」

「そんなことないよ姉さん! でもまだいろいろ準備中だから、もうちょっと待っててね。あ、ほらヌース、姉さん帰ってきたよ」

 

 気を使って外出していようかというフィリアを、妹たちが強く引き留める。

 そして弟妹たちの背中からヌースが現れ、

 

「おかえりなさいフィリア。まずは汗を流してはどうですか」

 

 と、声を掛けた。

 弟妹たちに背中を押されるように湯殿へ連れていかれ、そのあとまっすぐ自室へ向かうよう促される。

 誕生日会は日が暮れてから開始する予定のため、主賓のフィリアはそれまで大人しく待っていることになった。だが、

 

「う~ん……」

 

 どうにもこうにも、暇を持て余す。

 

 仕事人間のフィリアにとって、何もしなくてもいい時間というのはなかなかに苦痛である。趣味らしい趣味もなく、家には寝に帰るだけの暮らしぶりであったため、部屋には暇を潰せるようなものはなにもない。

 

 さりとて仕事の続きをするのは義理を欠いているような気がするし、風呂に入ったばかりでトレーニングをするわけにもいかない。

 ただ惰眠を貪るという手もあるが、少女の性格的にはどうしても難しい。できるなら弟妹たちに混じって作業を手伝いたいのだが、それは流石に不味いだろう。

 

「……」

 

 手持無沙汰に耐え兼ねたフィリアは、うろうろと部屋の中を歩き回ったり、特に意味も無く飛び跳ねてみたりと奇行に走りだした。

 それにも飽きると、少女はベッドにうつぶせで倒れ込む。

 

「あ~」

 

 マットレスに顔を埋め、間の抜けた声を出す。

 そうしてなんとなく首だけ横に向けると、サイドテーブルが目に入る。その上には瓶詰にされたままのポプリが置いてある。

 

「そうだ」

 

 アルモニアに送る事ばかりに気を取られて、自分の為に作ったポプリをすっかり忘れていた。

 少女は早速ベッドから飛び起きると、ポプリの瓶を開封する。と同時に、華やかな芳香が立ち上った。

 

 少女は暫し目をつぶり、その素敵な香りに陶酔する。

 オルヒデアと苦労しながら行ったポプリ造り。アルモニアとの執務室での会話。そういった思い出が、匂いと共に鮮やかに蘇ってくる。

 一頻り香りを楽しむと、フィリアはふと部屋の中をぐるりと見渡した。ポプリを移す器を探すためである。

 

 しかし、部屋には気の利いた器など一つも無い。伽藍堂の自室を眺めて、少女は言い知れぬ寂しさを覚えた。

 この美しい香りが、殺風景な自室にはどうにも不釣り合いなのだ。

 少女は今更ながらに、自分の暮らしぶりの侘しさに気付いた様子で、

 

(もう少し、飾り付けたほうがいいのかな……)

 

 と、胸中でそう呟いた。

 自室の飾りつけなど、以前の彼女なら時間と手間の無駄と切って捨てただろう事柄である。だが、他者との触れ合いで情操が芽生えた今となっては、この殺伐とした部屋が、如何にも寒々しい自分の心を表しているようで嫌なのだ。

 そうして少女が物思いに耽っていると、

 

「フィリア。入っても構いませんか」

 

 と、廊下からヌースの声が聞こえた。

 

「どうしたのヌース。準備はもういいの?」

「子機を付けています。あなたが暇を持て余しているだろうと思ったので」

 

 扉を開けると、ヌースはそんなことを言う。

 一言も反論できないフィリアは、苦笑いを浮かべて彼女を迎え入れた。

 一人ではどうしようもない手持無沙汰も、家族といるなら話は別だ。少女はベッドに腰掛け、ヌースと取り留めのない会話を始めた。

 

 話題は弟妹たちの日々の暮らしぶりについてである。

 母が不在なため、本来なら家族を監督するのは長女であるフィリアの役目なのだが、騎士団に勤める彼女に家族を顧みる時間は殆ど無い。

 そんな少女に変わって、弟妹たちの面倒を見てくれているのがヌースなのだ。

 

「サロスたちも最近は目標ができたようで、日々の暮らしにも身が入っています」

 

 ヌースの言葉に、フィリアはへえと感心の声を上げる。

 

 この二年で弟妹たちはすっかりイリニ家に馴染み、今では家名を汚さぬようにと懸命に課業に励んでいる。これは姉の活躍に影響された面も大きいのだが、フィリアはただ弟たちの頑張りを素直に喜ぶばかりである。

 

 サロスは姉に続いて騎士団に入ることを夢見て、日夜訓練に励んでいる。そう恵まれたトリオン機関を持っている訳ではないものの、今から努力すれば人並み以上には十分になれるだろう。

 姉として、弟に戦場に立ってほしいとは思わないが、それでも自分が目標にされるというのは面はゆい気持ちである。

 

 アネシスはトリオン工学に興味を持っているらしい。トリオン技術は軍事面だけではなく、この世界の基盤となっている技術だ。トリオンはあらゆる民生品となり、それらを動かすエネルギーでもある。

 もともと手先が器用で、創造性に富んだ娘である。人の役に立つ物を作りたいという妹の思いは、家族として是非応援したい。

 

 末の弟イダニコは、まだ色々と学んでいる最中である。けれど最近は家庭教師も驚くほどの俊秀ぶりを発揮しているそうだ。学習意欲が旺盛で、世界のことを知りたくてしょうがないといった様子らしい。

 天使のように心優しい弟は、いったいどんな夢を思い描くのか。姉として今から楽しみでならない。

 

 フィリアは満ち足りた思いで、ヌースの口から語られる家族の暮らしに耳を傾ける。

 彼らの幸福こそ、少女の生きる意義である。

 そんな掛け替えのない宝物である彼らが、自分を祝うために心を尽くしてくれている。

 

 その歓喜、その幸福。

 

 呪われた出自も、苦難に満ちた人生も関係ない。フィリアは己こそが世界一の果報者であると、心から信じていた。

 

「姉さ~ん、入っていい?」

 

 それからどれ程たったか。夕闇が世界を染め上げ始めた頃、フィリアの部屋を弟妹たちが訪ねてきた。

 

「お疲れ様。もう準備ができたの?」

 

 フィリアは満面の笑みを浮かべて彼らを部屋に招き入れる。

 弟妹たちは礼服やドレスに着替えており、既に準備は万端だ。彼らはフィリアを取り囲むと、口々に話し出す。

 

「はぁ~疲れた。こいつ力仕事は俺にばっかさせるんだぜ」

 

 と、早速サロスが口を尖らせ妹の暴虐をフィリアに訴えた。

 

「適材適所よ。元気が有り余ってるアンタには丁度いいでしょ」

 

 アネシスも慣れたもので、茶目っ気たっぷりの仕草で混ぜっ返す。

 そんな弟妹のじゃれ合う姿も、殊更に愛おしい。フィリアは慈母のような笑みをうかべながら、彼らの話に耳を傾け、労をねぎらう。

 

「お姉ちゃん。すっごく綺麗にできたよ。楽しみにしててね」

 

 と、サロスが待ちかねたようにフィリアの手を引いた。するとアネシスが、

 

「ちょっと待った! 姉さんはこれから御粧しの時間よ。男どもは出てった出てった」

 

 と言って、弟たちを追い払ってしまう。

 確かに、今のフィリアは何の飾り気も無い部屋着姿である。誕生日会の主賓として、流石にこのままでは出られないだろう。

 

「ああ、うん。少し待ってね。すぐに用意するから」

 

 といって、フィリアはクローゼットへと向かう。貴族の端くれとして、パーティ用のドレスは何着か持っている。ただし仕立てたのは随分前なので、サイズが合わなくなっているかもしれない。だが、

 

「あら、姉さん駄目よ。折角の誕生日会なのよ。ちゃんとオシャレしなきゃ」

 

 と、アネシスが可愛らしく通せんぼをする。そして、

 

「すみません、お願いします!」

 

 と、廊下の外へと大声で呼ばわった。すると、

 

「は~い!」

 

 と、呑気な返事と共に部屋へ入ってきたのは、薄紫色に輝くパーティドレスに身を包み、化粧もばっちりと整えたメリジャーナである。

 

「な――」

 

 絶句するフィリアをよそに、メリジャーナに続いて侍女たちが入室してきた。彼女たちが押しているカートには、真っ新のドレスやらコスメやらが山と積まれている。

 

「さ、フィリアさん。私に任せてね! ばっちり綺麗にしてあげるから」

 

 目を爛々と輝かせ、メリジャーナが少女に押し迫る。

 見れば、アネシスも息を荒くして姉へとにじり寄ってくる。同じ家に属するとはいえ、いったいいつの間にこの二人は知遇を得たのだろうか。

 ただ一つ確かなのは、この二人に服を選ばせては、只では済まないということだ。

 

「あ、あ……」

 

 フィリアは思わず後ずさるも、背後に回った侍女に肩を抑えられてしまう。

 そうして、情け容赦のない少女の改造計画が始まった。

 

 その頃、廊下に追いやられた弟たちはというと、

 

「何時間ぐらいかかると思うよ?」

「う~ん。わかんないや」

 

 漏れ聞こえる姦しい声を聴きながら、姉の身支度が整うのを、疲れた顔をして待つばかりであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 妹と同僚によって散々に着せ替え人形にされたフィリア。結局彼女の装いは、髪の色と同じ純白のドレスに決まった。

 

 清楚ながらも可愛らしい仕立てのドレスは、珠のような褐色の肌を美しく引き立てる。雪のように白く輝く髪は梳いて纏められ、少し大人びた印象を与える。

 アクセサリーは敢えて控え目にして、胸元を飾る銀の鍵を目立たせることにする。

 

 そしてメリジャーナの手によってほんのりと薄く化粧を施されると、少女は見る者を引き付けてやまない、清冽で可憐な玲瓏たる姫君へと変身した。

 

 黄金に煌めく瞳と、可憐ながらも清冽な面立ち。

 立ち居振る舞いから放たれる凛呼とした気品は、貴族の一員として相応しいどころではない。

 

 まるで一葉の絵画のように、少女はどこか触れ難いほどの神聖な風格を纏っていた。

 

「どう、かな……」

「……」

 

 まずは彼らにお披露目と、部屋に招き入れられたサロスとイダニコは、姉の神々しいばかりの晴れ姿に揃って言葉を失ってしまう。

 

「えっと、やっぱり変かな?」

「い、いやっ、そんなことねーよ」

「お姉ちゃんすごく、綺麗」

 

 羞恥に頬を染め、自信なげに目を伏せるフィリアに、弟たちは慌てたように賞賛の言葉を口にする。

 

「いい。すごくいいわ。ホントに最高」

「姉さんすごい……お姫様みたい」

 

 メリジャーナとアネシスも、少女の意外なまでの変貌ぶりに、陶酔したような視線を送るばかりである。元々器量の良い娘であったが、着飾るだけでここまで変わるとは。

 支度を手伝った侍女たちも、少女の品格に只々圧倒されている。

 

「さて、それじゃあそろそろ行きましょうか」

 

 準備は万端整った。誕生日会を始めようとメリジャーナが言う。

 弟妹たちは揃って頷き、褒め殺しで真っ赤になっているフィリアを取り囲んだ。

 

「じゃあ、私は先に会場に行ってるわね。みんな頑張って!」

 

 と、そういってメリジャーナは先に部屋を出て行ってしまう。彼女はあくまで衣装合わせに手を貸してくれただけで、本来は来賓である。

 

「さ、エスコートはイダニコよ!」

「うん。分かってる」

 

 アネシスに命じられ、イダニコが恭しくフィリアの手を取った。ここから会場までは、弟妹たちが介添人として案内する手はずだ。

 フィリアは家族に囲まれながら、部屋を後にする。だが、

 

「ヌース?」

 

 もう一人の家族が、少女たちについてこない。

 

「私は此処で待っています。どうぞ、皆で楽しんできてください」

 

 例年、誕生日は家族みんなで過ごしてきた。当然今年もそうなるものとばかり思っていたのだが、ヌースは部屋に残ると言う。

 

「っ――」

 

 怪訝に思うより先に、フィリアの超感覚が囁きかけた。弟妹たちは少女の誕生日会にあたって、屋敷に出入りする他家の人間にも声を掛けたらしい。

 

 アルモニアも養子たちを今まで以上に強く後見すると決めたばかりであり、そのことを咎めなかった。

 旗下の家への所信表明として、フィリアの誕生日会は絶好の好機である。要人たちを一堂に集め、フィリアたちと実の家族のように接する姿を見せれば、彼らもアルモニアの胸中を察することだろう。

 

 そんな思惑もあって、今日行われるフィリアの誕生日会は、イリニ家に属する家々の要人が詰めかけている。

 自律トリオン兵のヌースは依然としてイリニ家の抱える重要機密である。当然ながら、衆目に曝すことはできない。彼女はフィリアの誕生日会には参加できないのだ。

 

「そういうことです。どうぞ私のことは気にせずに……」

「――嫌だ」

 

 硬く強張った声が響いた。

 それは発したフィリア自身、思いもよらずに口を突いて出た言葉であった。

 

 家族の成長を祝うこの日に、弟たちが心を込めて整えた場所に、ヌースがいない。そのことがどうしようもなく胸をかき乱し、少女は反射的に声を出していた。

 言ってから、子供じみた我儘だと思い至る。

 

 ヌースの配慮は当然のことであるし、そもそも家族を顧みない自分にそんなことを言う資格はない。去年の誕生日とて、自分は家族と共に過ごさなかったのだ。

 フィリアは不用意な発言を撤回しようと口を開く。だが、

 

「仕方ありません。フィリアの意思を尊重します」

「え?」

 

 ヌースがさらりとそう言い、姉弟たちの元へと飛んできた。

 

「サロス。例の作戦で行きましょう」

「お、おう! 任せといてくれよ」

 

 言うやいなや、ヌースの体表の一部が滲むように変化し、雫のようなものが落ちる。

 涙滴型をした掌に収まるほどの大きさのそれには、ヌースと同じく二つの目がついている。これは彼女が意識を共有する、子機とよばれる端末である。

 

 ヌースの子機はふよふよと宙を進むと、形状を変化させサロスの胸元へと張り付いた。白く艶やかな見た目も相まって、一見すると礼服の飾りにしか見えない。

 どうやらヌースの列席については、事前に入念な打ち合わせがあったらしい。

 

「これで全員参加です」

 

 親機の方のヌースが、何処か楽しげな声でそう言う。

 彼女は自分も列席できることよりも、フィリアがそれを望んだことを喜んでいるようだ。

 

「そうそう。やっぱりお祝い事はみんなでしないと!」

 

 階下へと向かいながら、アネシスがそう言う。

 その声に、何処か含みがある。

 

「お姉ちゃん、行こう!」

 

 フィリアの腕を取るイダニコも、妙に急いた様子である。

 

「さ、早く早く!」

 

 後ろを歩くサロスなど、今にも駆け出しそうな有様だ。そのはしゃぎようは、ただパーティーを前に浮かれているだけのものではない。

 

 一同は大階段を降り、式場となる大広間へと向かう。

 使用人たちはフィリアたちの到着を見ると、大扉を開け放った。

 

「――っ!」

 

 麗しい旋律と、来賓の歓声が少女たちを出迎える。

 

 目に飛び込むのは、豪華絢爛に飾り付けられた会場の光景だ。

 

 見事に設えられた調度品の数々。式場の一角には楽隊が座り、生演奏で会場に楽の音を添えている。

 並べられたテーブルには豪奢な料理と飲み物が並び、そして正面に据えられているのは、主賓の到着を今か今かと待つ巨大なケーキだ。

 

 そしてテーブルの側に立ち、フィリアに祝賀を述べているのは、イリニ家に属する大小さまざまの貴族、その当主や名代たちである。

 この煌びやかな景色をどう例えたものか。ここまで贅を尽くし、心を込めて祝われる人間が、エクリシアの一体どこにいるというのだろうか。

 

 だが、フィリアから言葉を奪ったのは、絢爛たる式場でも、来賓の豪華さでもない。

 フィリアの正面。会場の中心に立つ人影。

 

 当主であるアルモニアを差し置いて、今まさにフィリアの視線を一身に集めるその人物。

 

 麦穂のように美しい金髪と、翡翠のように輝く瞳をした妙齢の貴婦人が、陽だまりのように暖かな笑顔を浮かべ、少女を出迎えている。

 彼女はパイデイア・イリニ。

 

 ずっと面会を拒み続けていた母の姿が、そこにあった。

 

 



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其の十二 黄金の時

 およそ二年ぶりとなる、最愛の母との再開。

 思いがけぬ対面に、フィリアは動揺の余り言葉を失い立ち尽くしてしまう。

 今まで重ねてきた不義理と、母の心を裏切ったという罪悪感が、少女の胸を締め付ける。

 

「――っ」

 

 居た堪れなさの余り、衝動的にその場から逃げ出したくなるフィリア。

 だが、そんな彼女を支えたのは――

 

「お姉ちゃん……」

 

 イダニコが決意に満ちた目で少女を見詰める。

 振り返れば、後ろに立つサロスとアネシスも、強い眼差しでフィリアを見詰めている。

 

 彼らはフィリアとパイデイアが抱える事情を何も知らない。

 なぜ、あれほど仲の良かった母娘が二年もの間お互いを避けているのか、その故は分からない。

 しかし二人の思いが、家族の絆が消えてしまったとは微塵も感じてはいなかった。

 

 毎月一日だけ許された母との面会日。

 パイデイアがフィリアのことを話題にしない日があっただろうか。

 そして面会から帰るたび、姉は待ちかねたかのように母の様子を弟妹たちに尋ねるのだ。

 

 幼い彼らとて、何か事情があるだろうことは察していた。

 それでも、弟妹たちにとって母と姉、大切な家族がいつまでも虚しくすれ違い続けていることは、胸を痛めてやまない出来事であった。

 ただ、彼らは固く信じてもいた。母と姉のすれ違いは、きっと容易く解消できるだろうと。

 

 血の繋がりではなく、心で通じ合った家族である。お互いに向かい合い、直接言葉を交わせば、蟠りなどは淡雪のように消えてしまうに違いない。

 それ故に、彼らは大きな決断を下した。

 敬愛してやまない姉の誕生日に、とっておきの贈り物を用意しようと考えたのだ。

 

 今日この日の為だけに、彼らはヌースと協議を重ね、アルモニアに何度となく頼み込み、そうしてようやく、母を聖都へ連れ出すことに成功した。

 

「…………」

 

 弟妹たちが、張りつめた表情でフィリアを見詰めている。

 家族の絆を信じているとしても、やはりこの対面は彼らにとっても勇気を振り絞った賭けだった。

 もし、このことで母と姉の仲が決定的に壊れてしまったら……

 そんな恐怖を、弟たちは歯を食いしばって堪えている。

 

 その健気な姿に、姉としての心が動いた。フィリアは自分の動揺を棚に上げて、まずは弟妹たちを宥めるために、ぎこちなくも微笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。……母さんと、お話してくるね」

 

 そう言って、少女は颯爽とした足取りで大広間へと進む。

 居並ぶ来賓たちも母子の間の奇妙な緊張感に気付いたようで、怪訝な表情を浮かべて成り行きを見詰めるばかりだ。

 そうして豪奢に飾り付けられた大広間に、妖精のように可憐なフィリアと、宝石のように美しいパイデイアが向かい合った。

 

「…………母、さん」

 

 それは、親子が語らうにはあまりに遠い距離。

 

 立ち止まったフィリアは、なんとか言葉を紡ごうとする。

 長きにわたる不義理を詫びるべきだろうか、それとも息災な姿を祝うべきだろうか。

 様々な思いが勃然と沸き上がり、小さな胸の中で濁流のように入り混じる。

 

 フィリアの前に佇む母は、まるで時を巻き戻したかのように、かつての美しい姿を取り戻していた。

 いつかに見た、トリオン体で形作った偽りの姿ではない。母は病との戦いに打ち勝ったのだ。

 市民から蔑まれながら、必死に病み衰える母を介抱した貧民時代が思い起こされる。

 あの絶望に閉ざされた日々。幾度となく夢想した健康な母が、目の前にいる。

 

 けれど、その体はやがて神の生贄として捧げられることになる。

 

「…………」

 

 改めて目の当たりにした残酷な現実に、フィリアは胸が痞えて言葉も出ない。

 何時まで経っても立ち尽くすだけの二人に、来賓たちも次第にざわめきだした。

 不穏な空気を払わなければならないと、少女は無理にでも行動を起こそうとする。すると、

 

「お誕生日おめでとう。フィリア」

 

 パイデイアが緩やかに歩を進め、狼狽える少女を優しくその腕で抱きしめた。

 

「ぁ……」

 

 およそ二年ぶりとなる母の抱擁。

 

 伝わる鼓動、体温、柔らかさ、そのすべてが遠い記憶と何一つ違わない。

 言葉を費やす必要などない。ただ触れるだけで、母娘は固い絆を再確認する。

 

「かあさん」

 

 フィリアの視界が涙に滲む。そうして少女は、そっと、遠慮がちに母へと抱き着いた。

 

 流麗な音曲が大広間を満たす。

 母と子の抱擁。その妙なる情景が、居並ぶ人々の胸を深く打った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 しばらく抱擁を交わしていた母娘は、その後何事も無かったかのように並んで席に着いた。

 

 そうして誕生日会は始まり、式次が滞りなく進んでいく。

 盛大に飾り付けが行われ、来賓も豪華極まる顔ぶれだが、今日はあくまで身内の誕生日会であり、晩餐会のように格式高い場ではない。

 ほどなく宴席となり、フィリアは来賓からの祝賀を受けることとなった。

 

「おめでとうフィリアさん」

「この良き日を共に過ごせることを、光栄に思います」

 

 止めどなくやってくる来賓相手に、愛想笑いで頬が釣りそうになったころ、メリジャーナとテロスが連れ立ってフィリアの元へとやってきた。

 残念ながら、ディミオス家当主ドクサは所用で欠席している。そのため、今日はメリジャーナがディミオス家の名代である。

 

 華やかな礼装に身を包んだ二人は、正しく美男美女の見本のような姿だ。

 そして彼らが輝いているように見えるのは、ただ美しく着飾ったからだけではない。

 

「メリジャーナさん、テロス様。お二人の方こそ、御婚約おめでとうございます!」

 

 フィリアは気品に満ちた振る舞いで答礼すると、今度は一転無邪気な笑顔で二人に話しかけた。

 

 このほど、テロスとメリジャーナは正式に婚約し、教会にも受理された。

 彼らが生気に満ち溢れているのは、そんな幸せのただ中にあるからだろう。

 暫しフィリアと談笑した後、彼らはさっとテーブルから離れた。まだまだ順番を待っている来賓たちは沢山いる。

 

 フィリアは心と言葉を尽くし、来賓たち一人一人に丁寧に応対する。

 この会場にはイリニ家に属する貴族たちの中でも、主だった面々が一堂に会している。

 

 彼らの中には未だにフィリアを拾い子として軽んじる者も少なくなかったが、誕生日会の力の入れようと、そして何よりパイデイアとの絆を目の当たりにして認識を改めたようだ。彼らは慇懃丁重な態度で少女に祝賀を述べていく。ただ、そんな中で、

 

「――――ふん」

 

 会場の隅に座り、さぞつまらなさそうな表情で酒を傾けている金髪の偉丈夫がいる。

 

 彼はスコトノ家当主、ネロミロスだ。

 イリニ騎士団の重鎮でありながら、人もなげな態度を取るネロミロスに、来賓たちは気まずそうに目配せを交わし、素知らぬ風を装うばかり。

 

 どういった経緯があったのかフィリアは聞かされていないが、スコトノ家は既に鬼籍に入った先代当主の折り、アルモニアによって騎士団団長の役職をはく奪されている。

 そのこともあってか、ネロミロスはイリニ家について度々不満を漏らしているらしい。加えて先の遠征時でフィリアとも諍いを起こしている。

 礼儀としては出席したが、必要以上に阿るつもりはないということだろう。

 少女としても、余り好き好んで相手をしたい人物ではないので、あまり関心を払わなかった。流石に彼も、この場で狼藉を行うことはないだろう。

 

 延々と続くかと思われた祝賀の嵐もようやく納まり、フィリアは自らの席に戻った。

 気疲れをおくびにも出さず、少女は凛とした佇まいを保っている。何しろ隣には母がいるのだ。気の抜けた姿は晒せない。

 少女は淑女たる気品をそのままに、しずしずとナイフとフォークに手を伸ばした。来賓の応対に追われ、折角の豪華絢爛な食事に殆ど手を付けていなかった。昼から何も食べていなかったため、空腹は限界に近い。

 

 しかしその時、会場に流れていた音楽が途切れた。

 司会の者が言うには、これからダンスパーティーが始まるらしい。大広間の中央にスペースを取っていたのはその為だろう。

 フィリアは一瞬物悲しげな表情を浮かべ、おずおずと食器をテーブルに戻した。

 皆がこれから踊るというのに、主賓がいつまでも食べていては格好がつかない。

 

「残念ね、フィリア」

 

 無念さをぐっと飲み込む少女に、パイデイアが小声で話しかけた。

 

「大丈夫よ。後でお部屋に持ってきてもらえば」

「い、いえ母さん。そんなことは……」

「ふふ、見てれば分かるわよ。こういう時、主役は損よね」

「あぅ……」

 

 母と密やかに言葉を交わし、照れて俯くフィリア。そんな彼女に、

 

「でも、良ければ一緒に踊りましょう。きっとあなたも喜んでくれると思うわ」

 

 と、パイデイアはそんなことを言う。

 母に促されるまま、フィリアは会場の中央へと進んだ。

 貴族の嗜みとしてダンスの心得はある。ただ久しぶり過ぎて、ステップを覚えているか不安である。

 そんなことを考える少女に、母は悪戯っぽく微笑み、

 

「後ろを見てごらんなさい」

 

 と、そんなことを言う。何ごとだろうかと振り返り、

 

「――――っ!」

 そして、フィリアは言葉を失った。

 

 楽団が占める大広間の一角。そこに静々と歩み出てきたのは、艶やかな黒髪を靡かせた玲瓏たる女性だ。

 簡素ながらも美しいドレスを纏い、手には一挺のヴァイオリンを提げ、淑女が歩く。

 ただそれだけで、列席者の視線が彼女へと吸い寄せられた。彼女の纏う気品が、この会場の主役たるフィリアにも劣らぬものであったからだ。

 満座からの注目を泰然と受け止め、彼女、オルヒデア・アゾトンは楽団の中央に立った。

 

「――な、なんで」

 

 フィリアが困惑の声を漏らす。

 オルヒデアはイリニ家が抱える秘中の秘、神の候補である。

 それがこのような公の場に姿を現すなど、いったい如何なる理由があるというのか。

 そこまで思い至って、少女はその当たり前の事実に気付いた。

 

「――ふふ」

 

 フィリアと目の合ったオルヒデアは、微笑みと共にウィンクを送る。

 この場に彼女がいる理由など、一つしかない。

 オルヒデアはそっと弦に弓を添え、寿ぎの曲を奏で始めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 音楽こそ、ありとあらゆる人種を超える万能の言葉だという。

 それが揺るぎない真実であることを、居並ぶ人々は湧き上がる情動と共に思い知った。

 

「…………」

 

 大広間に響き渡る音曲、その圧倒的な表現力に、誰しもが言葉を失っていた。

 舞踏会が始まったというのに、誰もそのことに思い至らない。黒髪の乙女の見事な演奏に、魂を奪われたかのように聞き惚れるばかりである。

 

 しかし、それも長くは続かない。

 軽快なテンポの曲を耳にして、胸の内から律動が湧き起こってくる。

 意味も無く高揚し、身体を動かさずにはいられないような気分。喜びに満ち溢れた音曲に乗せられ、皆が手をとって踊り始めた。

 

「ほら、私たちも踊りましょう!」

 

 パイデイアに手を引かれ、フィリアも広間の中央に飛び込んだ。

 

 そうして始まった舞踏会は、貴族の催しにあるまじき光景となった。

 洗練された優美さも、上流階級の煩雑なルールも無い。

 下手でも構わない、間違えても平気。今この時を全力で楽しむことが正解であるかのような、笑顔と喧騒に満ちた一時。

 それを成している理由は、オルヒデアの奏でる音曲だけではない。

 

 広間の中央、まるで花の開くような満面の笑みを湛え、褐色の妖精が舞い踊っている。

 生命の息吹を感じさせるような、晴れやかで力強いステップ。

 それでいて、磨き上げられた宝石のような気品は少しも損なわれていない。

 

 少女が異国の呪われし子供という事など、一体誰が覚えていようか。

 母の健康を喜び、家族の絆を尊び、我が身の幸福に感謝する。

 一点の曇りも無いフィリアの満ち足りた姿に、皆が目を奪われ、息を呑む。

 

 少女は母から弟妹へ、そして当主アルモニアへとパートナーを変え、なおも爛漫と踊り続ける。

 

「少しはしゃぎ過ぎじゃないか」

「ごめんなさいご当主さま。でも、とっても楽しくて!」

 

 くるりとターンを決めて、少女が朗らかに言う。

 暴走気味の少女を見事にリードしつつ、アルモニアは慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

 

 招かれた来賓たちは、自らたちも踊りつつ、そんな二人を横目で窺っている。

 これほど親しい中を見せつければ、もはや誰しもがフィリアを完全にイリニ家の一員として扱うことだろう。当主アルモニアの目論見通り、少女のお披露目は無事に成功したといえる。

 

 ただ、そんな外野の評価など、今の彼女たちにとっては取るに足らぬ些末事に過ぎない。

 このひと時が永遠であるかのように、その喜びが無限であるかのように、少女と家族たちは舞踏会に心から興じる。

 

 そうして、楽しい時間も何時かは終わりを迎える。

 皆の興奮が心地よい疲労に変わった頃、楽団が緩やかに演奏を終えた。

 

 気が付けば、夜はとっぷりと暮れている。子供の誕生日会であることを思えば、少々遅すぎる時間である。

 フィリアたちや来賓の皆も、まるで夢から覚めたように我に返り、歯目を外し過ぎたことを今更ながらに恥じ入る。

 

 しかし、誰もが心から沸き起こる、純粋な感動と充足感を覚えていた。まるで子供時分に感じたような、心地よい疲労に包まれた一点の曇りも無い快楽だ。

 忘我の心地に浸るのもつかの間、会場には何処からともなく拍手の音が鳴り響く。

 それはこの素晴らしい誕生日会への賛美であり、そしてその主役であるフィリアに向けられた、惜しみない祝福の証である。

 

「あ、あの……」

 

 爆音のような拍手に我に返ったフィリアは、自らに向けられた祝福の激しさに戸惑ってしまう。パーティーの主役として、何か礼を述べねばならないだろう。

 そんな少女の背中に、パイデイアがそっと手を添えて勇気づける。

 フィリアは意を決し、列席者へと向き合った。

 

「……私、こんなふうに皆さんにお祝いしていただけるなんて、思ってもみませんでした。――暖かくて、綺麗で、優しくて、……私、今日のことを絶対に忘れません。これからもずっと、イリニのお家の為に頑張ります。ですから皆様。こんな私ですが、これからもどうかお力添えを頂きますよう、心よりお願いいたします。今日は、本当に、本当にありがとうございました」

 

 少女は主賓として列席者に挨拶を述べ、優美な作法で辞儀をする。

 来賓たちは堂々たるイリニの姫君に向かって、より一層激しい拍手と祝福を送った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 誕生日会を無事に終えたフィリアは、イリニ家の客室で遅めの夕食を済ませていた。

 

 弟妹たちは既に自室で休んでいる。彼らは誕生日会の準備に精魂を使い果たしていたようで、宴席が成功裏に終わるやいなや、糸が切れたように寝入ってしまった。

 ヌースも弟妹たちを寝かしつける為に離れている。今、イリニ家で最も広い客間にいるのは、フィリアとパイデイアの二人のみだ。

 

 母が今晩を過ごすその部屋は、奇しくも少女が初めてイリニ家を訪れた時に泊まった部屋である。

 

「すっかり大きくなって……それに、とっても綺麗になったわね」

 

 食事を終えて人心地が付いた少女に、母パイデイアが微笑みかけた。二人は椅子に座り、食後の温かい飲み物を喫している。

 

「あの――母さん」

 

 両手に抱えたホットチョコレートに視線を落としていた少女が、意を決したように口を開いた。相談も無く騎士団に入ったこと、二年もの間母を避け続けたことを、何はともかく詫びねばならない。

 

「ごめんなさいね。フィリア」

 

 だが、少女が言葉を継ぐ前に、パイデイアは神妙な口調で謝罪を切り出した。

 

「許して欲しい……なんて、とても言えないのは分かっています。こんなに長くあなたたちを放っておいて、いまさら母親ぶる資格なんて、無いことも……」

「なっ――そんなこと!」

 

 反駁しようとするフィリアに、パイデイアは力なく頭を振る。

「フィリアは賢いから、きっと沢山考えて、自分で道を選んだのでしょう? ……でもきっと、それをさせてしまったのは、私の所為よね」

「あ――ぅ……」

 

 悲しみを堪えるかのような母の困り笑顔に、フィリアは言葉に詰まってしまう。

 

 彼女はきっと、少女が騎士団に志願した真の理由に気付いている。

 すなわち、母の代わりの生贄を自らの手で探そうという企てを。

 

「ねえフィリア。母さん、とっても幸せなのよ? こんなにかわいい子供たちに囲まれて、今日まで暮らすことができて」

 

 まるで人生を振り返るような母の言葉に、フィリアの鼓動が跳ね上がる。そして、

 

「だ、駄目です母さんっ! 母さんはもっと幸せに、わ、私たちも、――みんなで幸せにならなくちゃいけないんですっ!」

 

 フィリアは顔を真っ赤にして立ち上がり、大声を上げる。

 その剣幕に、パイデイアは目を見開いて驚いた。

 とにかく大人びていて、自制の効いた子であったフィリアが、母の前でここまで感情を露わにしたことなど、果たしていつ以来だろうか。

 

「わ、私のことなんて……家族が幸せになれるならどうでもいいんです。いいえ、むしろ全然平気、へいちゃらです。騎士団に入ってよかったんです。皆さんに良くしてもらえて、今日みたいにお祝いまでしてもらえて。――それに、私、街の人たちから手を振ってもらえたんです。こんな私でも、頑張ればみんなが褒めてくれるんです」

 

 少女は熱に浮かされたように言葉を続ける。自分の選択を母が悔やむことはないと、自分は今満ち足りているのだと、母に懸命に伝えようとする。すると、

 

「――っ!」

 

 パイデイアが立ち上がり、フィリアをそっと抱きしめた。

 柔らかな感触と温かい体温が少女の全身を包み、安らぎの匂いが鼻孔を満たす。

 頭蓋を満たしていた熱い血が、急速に冷めていくのを感じる。

 

「あ、あの、母さん?」

 

 母は無言で娘を抱きしめ、優しく頭を撫で、髪を指で梳いた。

 ゆっくりと、丹念に、まるで二年の歳月を埋めるかのようなパイデイアの抱擁に、フィリアは次第に気恥ずかしさが込み上げてくる。

 

 それでもフィリアは控え目に母の腰へと手を廻し、火照った顔を母の胸へと埋める。

 母の顔が近い。伸びた身長を、成長した身体を知ってもらおうと、少女は無意識に胸を張り、踵を浮かしてみる。

 

 そうして暫し抱き合っていた二人は、やがてどちらともなく離れた。互いの温もりが、まだ身体に残っている。

 

「ねえフィリア。忘れないで。母さんは何時でもあなたの味方よ。……ううん、母さんだけじゃないわ。サロスにアネシス、イダニコ。もちろんヌース。それに、兄さんや、あなたの……」

 

 言いさして、パイデイアはフィリアの頬に手を添える。

 

「あなたが生まれてくれて、生きていてくれて、救われている人がこんなにもいるの。だから、自分がどうなってもいいなんて言わないで――あなたたちの幸せだけが、母さんの願いなの」

「っ……」

 

 母の赤心よりの願いに、フィリアは感極まって言葉を失ってしまう。

 本当は訴えたいこともあった。母が自らの幸せを願うように、娘もそう思っているのだと、声を限りに伝えたかった。

 だが、フィリアはただ俯き、か細い肩を震わせるばかりである。

 

 言葉にしたところで、解決する話ではない。

 貴族となった今なら分かる。「神」の選定は、もはや家族の問題などという矮小な話ではないのだ。

 万民の上に立つ権力者として、貴族に課された高貴なる義務。それが国家の保全であり、民の安全の保障である。

 

 フィリアの取り得る選択肢は何も変わらない。

 ただ、母の代わりとなる生贄を探し出すのみである。そんなことを、今更パイデイアに伝える利点は一つも無い。

 少女はただ、母の深い愛情に感激し、家族の心が繋がっていたことをひたすらに喜ぶばかりであった。

 

 自分の声など、世界にはきっと何ももたらさない。

 この残酷なる世界を唯一変革しうるのは、純粋なる力のみ。

 幼いフィリアは傲慢にも、そう信じて疑わなかった。

 

 



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其の十三 世界の仕組み

「それでですね母さん! メリジャーナさんとニネミアさんはどんどん服を持ってこられてしまって、もちろん嬉しかったんですけれど、装いに疎い私はもう大変で……」

「あらまあ! ふふふ」

 

 久しぶりに親子水入らずの入浴を楽しんだフィリアたちは、寝巻に着替えて屋敷の廊下を歩いていた。

 二年もの間離れていた母娘である。会話の種は尽きることが無い。

 フィリアは務めて楽しい話題ばかりを選んで、熱心に母へと語りかける。パイデイアも娘に友人ができたことが心底嬉しいのだろう。顔をほころばせて応じる。

 

 パイデイアは一晩泊まり、明日の朝にイリニ家の本邸へと戻ることになっている。

 今日は久しぶりに母娘二人で眠るのだ。弟妹たちには悪いが、今晩だけは母を独占させてもらいたい。

 フィリアが恥ずかしそうにそんなことを言うと、パイデイアは上の弟サロスが最近は一緒に寝てくれないと可愛らしく不満を漏らす。

 

「それじゃあ、私はみんなを覗いて来るわ」

 

 そういって、母は弟妹たちの私室を訪ねるべくフィリアと別れた。

 毛足の長い絨毯を踏みしめ、少女は一人客間へと向かう。母に話したい事柄が、頭の中に次々と湧いて出る。

 幸福な想像に包まれながら客間へと戻ると、扉の前に立ち尽くす人影があった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「オルヒデアさん!?」

 

 フィリアが声を上げる。

 広い廊下でさぞ寂しそうに立っていたのは、武侠国家ポレミケスの捕虜、黒髪の麗人オルヒデアの姿である。

 彼女はフィリアの姿を認めると、憂いを帯びた端正な顔をへにゃりと崩し、泣き笑いのような表情になった。

 

「フィリア様。……よかった、私がお部屋を間違えたのではなかったんですね」

 

 よよよと声に出そうな様子でフィリアたちに歩み寄る黒髪の乙女。

 どうやら彼女はパイデイアたちに用事があり部屋を訪れたのだが、二人が入浴で席を外していたため途方に暮れていたらしい。

 

「オルヒデアさんは、その……」

 

 尋ねる前に、フィリアの超感覚は事態をつまびらかに解き明かした。

 

 オルヒデアとパイデイアはイリニ家の本邸で出会い、友人となったのだろう。そしてフィリアの誕生日を祝うため、無理を通して聖都の別邸へと二人してやってきたのだ。

 ただ、おそらくオルヒデアは素性を隠し、使用人として誕生日会に出席したはずだ。神の候補としての警備もあるため、今日の内に本邸へと帰るに違いない。

 客間へと来たのは、二人に別れの挨拶を述べる為だろう。

 

「お待たせをしてしまってすみません! さあどうぞ中に」

 

 少女はともかく客室の扉を開け、半泣きの乙女を中へ通そうとする。

 誕生日会に華を添えてくれた恩人である。本来ならフィリアの方から出向き、丁重に感謝の意を伝えるべきところだ。だが、

 

「ありがとうございます。ですけど、御車に待っていただいているもので……」

 

 オルヒデアはやんわりとそう言う。

 確かに今からイリニ家の領地へと帰るのであれば、到着は夜更けになる。そう長く話している時間はないだろう。

 

「あの、今日は本当にありがとうございました。あんな素敵な演奏を頂いて……とっても嬉しかったです。私、本当に感動しました」

 

 フィリアはオルヒデアへと歩み寄り、感謝の言葉を告げる。

 すると彼女は大輪の花が咲くかのような笑顔を浮かべ、

 

「お誕生日、おめでとうございますフィリア様。この目出度き日に列席できたことを、本当に嬉しく思います」

 

 と、フィリアの両手を取ってそう言った。

 

「あの、お手が、その……」

 

 少女は気恥ずかしそうにしながらも、ふとそんなことを言う。

 白魚のように細く美しいオルヒデアの指は、しかし触れてみるとガサガサと硬く、それどころか怪我をしているらしき指もある。

 乙女はフィリアの驚きに気付くと、

 

「はい。実はこっそり猛練習をしたんです。フィリア様に喜んで頂けて、頑張った甲斐がありました」

 

 と、はにかんで見せる。

 

「……っ」

 

 まさか自分のためにここまで心を砕き、思いを尽くしてくれる人が家族以外にいようとは。フィリアは感激の余り、顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 

「傷といえば、フィリア様のお手、随分良くなられましたね」

 

 ふと、オルヒデアがそんなことを言う。

 ポレミケス遠征の折りに彼女がフィリアにつけた傷は、今では殆ど完治しており、うっすらとその痕跡を残すのみとなっている。

 

「……良かったです。傷が残るようなことにならなくて」

 

 乙女は少女の手をしげしげと眺め、安堵の息を吐く。

 

「まだそんなことを……お気になさらずともいいのに」

 

 フィリアが困り顔でそう言うと、

「でも、お友達のことですから。ついつい、心配してしまって」

 

 と、オルヒデアは頬を赤らめてそう言った。

 改めて友人と宣言されて、フィリアも気恥ずかしさが込み上げてくる。

 

「あの、どうも、ありがとうございます……」

 

 ぼそりとそう言って、二人は手を握り合ったまま固まってしまった。

 

「それじゃあせめて、お見送りさせてください」

 

 我に返った少女がそう言うと、二人はようやく結んだ手を解いた。お互いの体温が、ほんのりと掌に残っている。

 どこか気まずそうに視線を交わした後、二人はどちらからともなく微笑みを溢した。

 

 そうして、少女たちは並んでイリニ家の廊下を歩きだした。

 盛大な宴の後ということもあり、広大な館は何時にもまして人の気配がない。トリオンの節約の為、照明は光量が落とされており、よりいっそう物寂しさが漂う。

 

 しかし、二人はそんな寂寞さなど無縁のように、玄関までの道すがら、取り留めのない雑談を楽しげに交わす。

 曰く、共にイリニの本邸で暮らすパイデイアとオルヒデアは直ぐに打ち解け、今では昵懇の仲になったという。

 

 二人は毎日のように談笑し、屋敷暮らしの無聊を慰め合ったそうだ。

 特に、オルヒデアの視察の為、フィリアがイリニ本邸に来てからというものの、少女の話題は何よりの楽しみとなったらしい。

 

 フィリアの誕生日会の話が弟妹たちから持ち込まれてからは、二人も揃って少女を祝うために、不自由な暮らしながらもあれこれと心を砕いたそうだ。

 特にオルヒデアにいたっては、昼夜を問わず一日中ヴァイオリンの練習に励んだため、流石に家人が嫌がり、地下室に急きょ防音処置が施されたほどである。

 

「本当に、パイデイア様とフィリア様には助けてもらってばかりです」

 

 澄み切った笑みを浮かべながら、オルヒデアが礼を言う。

 

「まさか異国の地で、こんなに優しい方々と出会えるなんて、思いもよりませんでした」

「それは……私も、同じです」

 

 フィリアがそう呟く。

 

 星の営みすらトリオンに依って立つ近界(ネイバーフッド)において、人間という存在は、なにはさておき貴重な資源として扱われる。

 

 限りある資源としての人間を、誰がどのように扱うか。

 万民には決して行き渡らない幸福を、如何にすれば自分たちだけは享受できるのか。

 国家という枠組みは、人々の生存権を保証するために生まれたものである。

 

 此方と彼方に世界を分け、ただ我らが生きるために彼らから奪う。

 そんな世界に暮らす人間にとって、他国人は恐怖を齎す存在に他ならない。

 彼らは常に自分たちを害そうと企み、その機会を虎視眈々と窺っている。どの国であっても自国の民にはそう教え、警戒を怠らぬよう、決して心を許さぬよう戒める。

 

 それがどうだろう。実際に目の当たりにした他国人は、決して悪鬼羅刹の如き敵ではない。己たちと何ら変わる所のない、心を持つ人間であったのだ。

 

「境界って、何なのでしょうね」

「え?」

 

 オルヒデアはふと立ち止まり、神秘的な横顔でそう呟いた。

 

「時々、パイデイア様とお話するんです。なぜ私たちは、延々と悲しい争いを続けているのだろうかと。もちろん、益のない世迷言なのは分かっているんですよ。誰も彼もが、幸せに生きられるほど、この世界は優しくありません。――でも、それでも、何故私たちは、敵を作ってしまうのでしょう」

 

 清冽な夜気が満ちる廊下。窓から差し込む月の光が、黒髪の麗人を冴え冴えと照らす。

 

「こちら側とあちら側、そう境界線を引いてしまうから、相手が恐ろしく見えてしまうのではないでしょうか。だから、私たちは最初からお互いを知ることを諦めてしまうのかもしれません。本当はきっと、手を取り合うこともできるはずなのに」

 

 玲瓏な声で紡がれるオルヒデアの言葉に、ふと、フィリアの脳裏に色鮮やかな情景が甦った。不思議な少年アヴリオと語らった、あの夕暮れの光景。

 哀しみばかり溢れるこの世界に、それでも善美なるものは確かにあると知った日。

 アヴリオやオルヒデア、そして母パイデイアたちが信じてやまない、世界の尊さ。

 

「……難しいことだと思います。やっぱり、そう簡単に他人を信じられるようにはなりませんから」

 

 しかし、フィリアは緩く頭を振って応える。

 

 敵国ノマスの子として、いわれなき悪意に曝され続けた半生。投げかけられる呪いの言葉の真意に、少女は幼いなりに理解を深めていた。

 そもそも、悪意に理由などない。物を口にしなければ生きていけぬように、人は不満のはけ口を必要としているのだ。それがたまたま己であっただけのこと。仮に自分が標的から外れたとしても、今度は他の誰かが憎悪の対象になるだけなのだろう。

 

 愛することと同じように、憎むことは人間の本性である。

 憎むな、争うな。愛せよ、語らえ。そう訴えるのは容易いけれど、実際に出来る人は滅多にいない。

 それでも――

 

「けど、その想いは、きっと素敵なことだと思います」

 

 月光に照らされる黒髪の乙女に、フィリアはそう言う。

 そして少女はオルヒデアと母パイデイアに向き直り、

 

「私には、誰も彼もに優しくするのは、ちょっと無理かもしれません。――でも、そんな優しい人たちを、心から護りたいと思います」

 

 寂しげな、しかし強い意思を秘めた表情で、フィリアがそう告げる。

 それは家族にも明かしたことのない、少女が抱く決意の欠片。

 自分の愛する世界を、己を愛してくれた人々を護りたい、その切なる願い。

 

「――だから、私はオルヒデアさんも護ります。あなたはどうか、優しいままでいてください」

 

 この世の悲しみは、すべて呪われた自分が引き受ける。愛する人々に幸せな暮らしを送ってほしい。その為には、少女は命さえ捧げる覚悟である。すると、

 

「私が優しいと、そう仰ってくださるのは、きっとフィリア様が誰よりもお優しい人だからですよ」

 

 決意を披瀝する少女に、乙女が鈴を転がすような声でそう告げる。

 

「え?」

「私は、フィリア様が思うように出来た人ではありません。いくら心がけを良くしようと努めても、悪い考えは次から次へと沸き起こって……だから、そんな私が良い人のままでいられるのは、お相手の方が真実良い人だからです」

 

「母さんならともかく、私は……そんな……」

「いいえ、そんなことありません。ドジでのろまで、何をしても人様に迷惑ばかりかけてしまう私に、あなたはこんなにもよくしてくださいました。――フィリア様。私、夢ができたんです。私の奏でる音楽で、皆様を幸せにしたい。今日のお誕生日会のような、素敵な時間を多くの人にお贈りしたい。そうすればきっと、こんな私でも、世の中を良くする一助になれると思うのです」

 

 そう言って、フィリアの頬にオルヒデアの嫋やかな指が触れた。

 

「だから、そんな素敵で優しいフィリア様にも、笑顔でいてほしいのです」

「――ふぇ」

 

 頬を優しくつままれ、口の端を持ち上げられるフィリア。

 間抜けな声を出す少女に、乙女は慈しみに満ちた表情を送る。

 

「きっとフィリア様には、大変な御事情と固い決意が御有りになるのでしょう。私ではお力添えは叶わないやもしれません。ですが、それでも、フィリア様には幸せになっていただきたいのです」

 

 大輪の花が開くような微笑みと共に、オルヒデアがそう告げる。

 

「……はい。頑張ります」

「うふふ。鋭意努力なさってください」

 

 どこまでも真面目に応えるフィリアに、乙女は満足そうに応じる。

 

 環境に依らず運命に依らず、真なる幸福とは、つまるところ個々人がそれぞれ見い出していくものに他ならない。

 この危ういほどに純粋で直向きな少女に、少しでもそれを分かってほしい。

 

 世に生まれ出でたことに、人と紡いだ縁に、そして自らを取り巻く世界に、感謝と喜びを告げる。誕生日という節目の日に、その本当の意義を知ってもらいたい。

 それは少女を愛した全ての人々からの、崇高な贈り物であった。

 

 心地よいひと時は瞬く間に過ぎ去っていく。やがて二人は屋敷の大門を潜り、車寄せまで歩み出た。すると、待ち構えていた本邸の使用人が二人に近づいてくる。車両もライトを点灯させたまま停まっており、直ぐにも出立するつもりらしい。

 

「それではフィリア様、お見送りありがとうございました。どうぞお達者で」

 

 使用人たちの姿を見て取るや、オルヒデアは謹直な面持ちとなり、恭しく別辞を述べた。

 彼女はあくまで他国の人間、イリニ家の虜囚である。一門に連なるフィリアを前に、不遜な態度は許されない。

 

「――オルヒデアさんっ!」

 

 使用人に促され、従容と歩み出した乙女に、少女が思わず声を上げる。

 切迫した少女の声音に一同が振り向いた。

 

「また……またすぐに、会いにいきますから!」

 

 物のように扱われるオルヒデアの姿に堪えられず、喉を突いて出た言葉。

 彼女の味方は確かにここに居るのだと、言葉足らずもそう伝えたかった。

 

「……はい。また今度、です」

 

 その思いは、確かに乙女へ届いたようだ。

 オルヒデアは驚愕の表情を浮かべ、そして見る者すべてを虜にするような、絶世の笑顔で答えた。歓喜の一滴が、乙女の眦で真珠のように煌めく。

 

 そうして、オルヒデアを乗せた車両はイリニ家の別邸を後にした。

 残されたフィリアは名残惜しそうに遠くを眺めていたが、やがて一つくしゃみをすると、いそいそと屋敷の中に戻った。

 湯冷めをしてしまったかもしれない。そういえば少女は風呂上りであった。

 

 そして母を待たせていることを思い出し、フィリアは客間へと戻るべく足を速める。すると、

 

「オルヒデアさんに、ちゃんとお礼は言えた?」

 

 玄関ホールの柱の陰から、パイデイアがひょっこりと姿を現した。どうやら何時からか二人の後をこっそりと付け、会話を盗み聞きしていたらしい。高貴な育ちの割に、案外茶目っ気のある母だ。

 

「はい。……ちゃんと伝えられたか、自信がありませんけれど」

「大丈夫よ。きっと。お母さんが保証します」

 

 客間への帰り道を、母子二人はゆっくりと歩く。

 それは二年の月日を取り戻すような、何物にも代えられぬ時間であった。

 

「話すことがいっぱいあって困っちゃうわ。今晩は夜更かししちゃいましょうか」

「はい。今日は特別です」

「ふふふ、いつも口酸っぱく叱られてるサロスたちに知れたら、怒られちゃいそうね」

「秘密にしておけばいいんです。あの子たちったら、何時までたっても言うことを聞いてくれないんですから……」

「フィリアは何か、お話ししたいことはある?」

「それじゃあ、母さん。……私もう一度、玄界(ミデン)の話が聞きたいです」

 

 自然と重なる歩調も、何気ない会話も、懐かしい母の匂いも、何もかもが愛おしい。

 少女は生涯で最も幸福な今日という日を、決して忘れぬよう心に刻み込んだ。

 そして――

 

(大丈夫。私ならきっと出来る。次こそ文句ない候補者を捕まえられれば、母さんもオルヒデアさんも、みんなを護れるんだ。――私が戦って、勝って、そうすれば、みんなで幸せに……)

 

 少女の深奥に秘められた決意が、鈍く鋼色に輝いた。

 

 

 



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其の十四 約束と誓い

 澄み渡る夜空に大粒の宝石を散りばめたように、近界(ネイバーフッド)の星々が輝いている。

 夜風はまだ昼の熱気を残し、夏草の匂いを遠く彼方へと運んでいく。

 

 イリニ家別邸の中庭。小さな森を思わせる不思議な庭園に設けられた、芝生敷きの一画。

 星明りに照らされた幻想的な空間を、風に巻かれた木の葉が飛んでいく。

 

 転瞬、宙を舞う一枚の木の葉が、四つに裂けた。

 風に浚われる木の葉を、寸毫の内に十文字に断ち割る迅疾の剣技。それを成したのは、褐色の肌に白髪の少女、フィリア・イリニである。

 

(……うん)

 

 剣尖が葉脈を断ち切る微かな手ごたえを感じ取ったフィリアは、気息を充溢させ、さらに流麗軽捷に長剣を振るう。

 膝が抜け落ちたかのように体を脱力させ、地を滑るような運足から放たれるのは、急所を狙い澄ました連撃。

 

 次いで少女は、小鳥が梢から羽ばたくような、重量を感じさせない跳躍を見せる。

 瞬く間に十メートル以上の間合いを詰め、音も無く芝生を踏んだ少女は、既に三手に及ぶ斬撃を虚空へと放っていた。いずれも、対手を確実に仕留めんとする必殺の一撃である。

 

 優雅な所作で、二手、三手と型取りを続けるフィリア。

 

 重心を一所に置かない軽やかな体捌きは、対手に攻撃の契機を掴ませないため。

 時折クルリと軽やかに身を捻るのは、飛び道具を避けるための動作だ。

 

 そして、空を裂いた剣が大上段へと跳ね上がると、少女は総身の力を込めて神速で踏み込んだ。

 

 放たれるのは、如何なる防備も断ち斬らんとする渾身の袈裟切りである。 

 雄渾無比な一太刀は夜の空気を真っ二つに切り裂き、逆巻く風が芝生を波打たせた。

 

「全行程の終了を確認。お疲れ様でした、フィリア」

 

 長剣を正眼に構え残心を取る少女に、抑揚の欠けた女の声が語りかけた。

 広場の隅に立つ東屋から現れたのは、魚の尾のようなひれがついた、人の頭ほどの大きさの自律型トリオン兵、ヌースである。

 

「ありがとう。今日はなかなか調子が良かったかな」

 

 ヌースから水の入ったボトルを受け取り、喉を潤す。

 もはや習慣となった鍛錬とはいえ、少女が剣を執るときは常に全身全霊であり、そこに遊びは一欠けらもない。肉体的な疲労はともかく、精神にかかる負担は相当である。

 

 生身の肉体とは隔絶した能力を持つトリオン体。

 イリニ騎士団正調の剣術は、トリオン体のポテンシャルを十全に引き出すために編み出され、改良され続けてきた武術だ。

 剣速、体捌き、反応速度。技に求められる動作の苛烈さは、どれをとっても生身のそれとは比べ物にならない。

 

 しかし、トリオン体の機能を真に引き出すためには、生身の感覚を研ぎ澄ます必要がある。肉体では不可能な動きを、まるで生来可能であったかのように認識しなければ、トリオン体は真価を発揮しないのだ。

 その難行をクリアして、ようやく戦士としてスタートラインに立つことができる。そこから一廉の戦士になるには、さらなる訓練を積まなければならない。

 

 にもかかわらず、フィリアはトリガーを手にして僅か二年で、並み居る戦士を上回る技量を身に着けていた。

 稀有なトリオン能力と破格のサイドエフェクト、もちろん少女に宿った確かな剣の才能も、著しい進境の理由ではあっただろう。

 だが、それ以上に少女に力をもたらしたのは、狂気に近しい目的意識に他ならない。

 

「……」

 

 人心地ついたフィリアはボトルをヌースへと返すと、再びブレードトリガー「鉄の鷲(グリパス)」を掌に現出させる。

 しかし、少女は剣を振るうでもなく、ぼんやりとした様子で刃を眺めるばかり。

 

「何か問題でも起きましたか?」

 

 と、訝しんだヌースが尋ねると、

 

「ううん。ご当主様には、全然追いつけそうにないなぁ、と思って」

 

 フィリアは気の抜けたような声でそう呟く。

 

 剣聖と謳われるアルモニア・イリニに剣を師事するようになって二年近く経つ。

 不世出の剣士の指導を受け、少女の剣は著しい進境を示した。しかし、少女は未だに師匠の伯父から、一本たりとも勝ちを拾ったことが無い。

 

「観測する限り、瞬発力や反応速度の数値に大きな差はありません」

「そうなの。だから不思議。私はサイドエフェクトも使ってるのにね」

 

 ヌースの指摘にフィリアが応える。

 少女のサイドエフェクト「直観智」が導き出す、戦闘に於いては最適解であろう苛烈な打ち込みが、何故だかアルモニアには通じないのだ。

 

「本当に、ご当主様には何が見えていらっしゃるのでしょう」

 

 技術や速度といった些末な点ではなく、己の剣とは何かが根本的に違う。

 

 まるで対手の全てを理解しているかのような無謬の剣技。命のやり取り、技の競い合いではなく、さながら対話を求められているかのような、世にも不思議な感覚。

 アルモニアと立ち会うと、剣の道程を表すのに、境地、あるいは位といった言葉が用いられる意味がよく分かる。

 

「フィリアはアルモニア殿の話をするときは、いつも嬉しそうですね」

「――えっ、そ、そうかな」

 

 ヌースに指摘されて、フィリアの頬が淡く紅潮する。

 

 思えば、不祥の器として剣を忌み嫌っていたはずの少女である。それがアルモニアに指導を請うようになって以来、何時しかその深奥なる世界に惹きこまれている。

 戦いには慣れてしまったが、好きになった訳ではない。

 

 しかし、アルモニアと剣を交えているときだけは、浮世のしがらみを忘れ、心が自由に解き放たれる気がするのだ。

 

「最近はアルモニア殿もお忙しいようですね。余り家にも帰っておられないのではないですか」

「うん。もうすぐ自然休戦期が終わるからね」

 

 ブレードを消し去り、トリオン体を解いたフィリアが軽い調子でそう言った。

 

 程なく、エクリシアはまた他の惑星国家の軌道上と交差することになる。捕虜を得るための侵攻計画や、水も漏らさぬ防衛計画と、騎士団の抱える案件は山積みだ。

 次に接触する国家は、砂塵の国アンモスと密林国家ダセイア。それが終われば――

 

「それに、もうすぐノマスが来る」

 

 聖堂国家エクリシアに待ち受ける最大の障壁。

 十余年ぶりとなる、狩猟国家ノマスとの邂逅が間近に控えているのだ。

 過去、幾度となくエクリシアと激戦を交わした強国にして、少女の生母の出身国である。

 

「フィリア。貴方は……」

「心配してくれてありがとう。でも、へいちゃらだよ。――私は、エクリシアの騎士だから。戦って、みんなを護るよ」

 

 務めて明るい表情を浮かべ、フィリアはヌースに話しかける。

 今の少女には、多くの人とつないだ縁がある。剣を振るうことに、何の迷いも無い。

 

「ならば、私が貴方を護ります。それが、友である私の存在意義です」

 

 凛然と決意を述べた少女に、ヌースが語りかける。しかし、

 

「ううん。私のことは大丈夫」

 

 少女は小さな体をぐっと反らし、ことさら壮健さをアピールすると、

 

「だから、ヌースには私の一番大事な、家族を護ってほしい。私の帰る場所、生きる意味を、どうか……」

 

 祈るように掌を組み、謳うようにそう呟いた。

 

「……分かりました。約束します。だから、貴方も必ず帰ってきてください」

「わかった。約束だよ」

 

 夜空に輝く満天の星々が見守る中、固い絆で結ばれた家族が約束を交わす。

 未来に如何なる困難が待ち受けようと、互いの幸せを願う彼女たちは決して屈することなく、懸命に運命へと立ち向かうだろう。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 端末を叩く微かな指の音、座りなおした椅子の軋む音が、静寂に包まれた部屋に嫌に大きく響く。

 

 イリニ騎士団の砦内にある、騎士たちの執務室。

 整然と事務用デスクが並べられた大広間には、どこか張りつめたような、刺々しく澱んだ空気が満ちている。

 

「えぇ~、聞いてないわよそんなの……」

 

 擦れた呻き声をもらし、薄紫の髪をした美女が苛立った様子で頭を掻く。

 

「どうされましたか、メリジャーナさん」

 

 隣のデスクに座っていた銀髪の少女、フィリア・イリニが顔を上げ、同僚のメリジャーナ・ディミオスに声を掛けた。

 

 心なしか少女の褐色の肌は色艶が悪く、金色に輝く瞳の下にはうっすらと隈が浮いている。それもそのはず、少女は昨日の晩から泊まり込みで事務仕事を片付けており、碌に睡眠を取っていない。

 今日も午前一杯働きづめだが、仕事の山は片付く見込みがない。

 

「教会から訓練用モールモッドの更新プログラムを取りに来いって、催促が来てるのよ。随分前から通達があったみたいだけど、私初耳よ」

 

 恨みがましい声で応じるメリジャーナは、少女に輪をかけて酷い有様である。どうやら二三日、家には帰っていないらしい。

 自然休戦期も残すところあと僅か。騎士団は来期の戦闘を控え、準備に追われている。

 

「誰が受け取って……って、騎士スコトノか! 申し送りなんて受けてないわよ」

 

 メリジャーナが忌々しげに声を荒らげる。

 

 広大な執務室にはしかし、殆ど騎士の姿が無い。

 デスクの多くは空席で、事務仕事と格闘している人間は僅か数人に過ぎない。

 スコトノ家のネロミロスだけでなく、メリジャーナの父ドクサ・ディミオス。またテロス・グライペインといった騎士団の幹部も砦にはいない。

 

 彼らは領地を有する貴族の当主である。戦時体制に移行するにあたって、施政を行うため所領へと帰っているのだ。

 騎士団に残っているのは、フィリアやメリジャーナといった比較的身の軽い者ばかり。ただでさえ慌ただしい時期に人手が抜けるものだから、その多忙さは目を回さんばかりである。

 

「あ~もう、面倒な……」

 

 トリガーやトリオン兵そのものは原則として各騎士団のプラントで生成されるが、それらの開発や更新は主に教会のラボが行う。

 トリオン兵の動作プログラムなどは重要な軍事機密の為、騎士団の責任者が直接教会へと受け取りに赴かねばならない。

 

 別に教会までそう大した距離がある訳でもないが、人の仕事の尻拭いというのは、誰だって面白くないだろう。

 

「よければ私が行きましょうか? そろそろ一段落つきそうですし」

 

 すると、フィリアがそんなことを言いだした。

 

「ホント? ごめんなさい助かるわ。午後は従士の訓練に立ち会わないといけないから、体が空かずに困ってたの」

「いえそんな、直ぐに帰って手伝いますね」

「別に監督するのは一人で大丈夫よ。お昼もまだなんでしょ? こっちはいいから、ゆっくり休憩してらっしゃい」

 

 フィリアはデスクから立ち上がり大きく伸びをすると、同僚に挨拶をして執務室を出た。

 時計をチラリと確認すると、そろそろ昼休みに差し掛かろうという時間である。

 

 実は教会の話が出た時、少女の頭にピンと閃くことがあった。

 

(えっと、ちょっと急いだほうがいいかな……あ、先に顔を洗わないと)

 

 外見は威風堂々たる騎士のまま、胸の内は浮かれ気分で、少女はいそいそと砦を後にした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 車窓から視線を上へと向ければ、教会の白く壮麗な外壁が聳え立っている。フィリアを乗せた車両は、丘を周るように敷かれた坂道を登って行く。

 

 騎士団の砦から教会までは車両で僅か数分程。丘を登りきると、目の前には壮麗な大門が現れた。

 だが、少女を乗せた車両は敷地内の側道へと進路を変えると、教会の横手にある関係者出入り口へと進む。聖堂内からも地下の研究所へと進むことはできるが、教会には一般市民の姿も多いため、出入りは基本的にこちら側から行う。

 

 それに、フィリアはエクリシアではそこそこ顔が売れてしまっている。出自から彼女を嫌う者もまだまだ多いが、まあ一般的には人気者といってもいいかもしれない。

 人見知りの気が抜けない少女は、なるべくなら市民に囲まれるような事態は避けたいと思っているため、関係者入口が設けられているのはかえってありがたい。

 

 駐車場に降りると、丁度昼を告げる鐘が鳴った。

 

「――」

 

 中天に輝く太陽が、白亜の鐘楼を眩く照らす。フィリアは目を細めて鐘楼を眺め、もう一度あそこから景色を見たいなと、ぼんやり思う。

 

 鐘の音に聞き入っていたのも少しのこと。少女は教会へ入ると、昇降機で地下の研究所を目指した。

 初めて来たときは迷ってしまった研究所も、今では目をつぶってでも歩くことができる程には慣れている。

 

 トリオン兵開発局へと顔を出し、更新プログラムを受け取る。職員と他愛ない雑談を一言二言交わすと、少女は早々に辞去した。彼らの昼休みを潰すのは忍びない。

 

(さて……)

 

 表向きの用事を済ましてしまったフィリアは、浮足立った子供のように、きょろきょろとせわしなく辺りを窺い始めた。

 サイドエフェクトの導きに従い、研究所を早足で進む。すると、

 

「あら、フィリアじゃない」

 

 ラウンジのソファに、絢爛たる黒髪の美女が腰かけている。(ブラック)トリガー「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の担い手にして、三大貴族ゼーン家当主ニネミアだ。

 

「お疲れ様です。ニネミア様」

 

 少女は子犬のように美女へと近づき、気安く話しかける。

 曲がりなりにも他家の当主に馴れ馴れしすぎるが、当のニネミアに気にした様子はない。気位の高い彼女だが、友人と認めた相手には寛容である。

 

「ご休憩中でしたか?」

「見ての通りよ」

 

 ニネミアは端末を操作し投影モニターを消し去ると、フィリアへと向き直った。

 

 今日、教会の地下深くにある会議場では、各騎士団の総長が集まって、来期の戦略会議が開かれている。

 各騎士団が防衛任務に当てる(ブラック)トリガーと人員の選定。遠征に伴い教会から給付されるトリオンの分配など、紛糾する議題が山盛りである。

 

 丁度昼時分ということもあり、会議を一時中断とし、休憩になったのだろう。

 

「あなたこそどうしたのよ。教会に何か用事?」

「はい。訓練用モールモッドの更新プログラムの受領に」

「それ大分前に来てなかったかしら」

 

 二人は自然に距離を詰め、親しげに雑談を交わす。

 

 今回ゼーン騎士団は防衛任務の主力を担うことになっており、遠征は行わない。

 自国の防衛には最優先でトリオンと人材が回されるため、会議でも比較的楽な立場ではあったとみられる。

 

 ただ、彼女は騎士団と領地の運営という二重の責務を背負っている。尚且つゼーン家は先代当主戦没の折り、信頼できる腹心たちの多くを失っていた。

 先ほど端末を操作していたのは、些事を自ら部下に指示していたに違いない。

 地下階の会議室は、防諜の為通信制限がなされている。態々上階まで上がってきたのもその所為だろう。

 

 おくびにも出さないが、彼女の抱える心労と負担は相当なもののはずだ。

 

「……なによ、言いたいことがあるなら言いなさいな」

 

 じっと見つめるフィリアに、ニネミアが不服そうに問いかける。すると少女は、

 

「あの、諸々落ち着きましたら、また一緒にお買いものに御付き合いいただけませんか」

 

 懸命に絞り出したような声で、そんなことを言いだした。

 イリニ家に属する少女はゼーン家の問題に口を差し挟み、労苦を分かち合うことはできない。せめて友人として慰労したいと、彼女なりに考えた結果なのだろう。

 

「あなた……」

 

 ニネミアが驚きに目を開く。

 

 フィリアがエクリシアで最も過酷に己を追い込む修練者であることは、騎士団関係者の間ではもはや周知の事実となっている。

 

 親しく付き合いだしたのは最近の事だが、メリジャーナからそのことについて相談を受けたことは幾度となくあった。

 尋常ならざる取組姿勢と、実力に裏打ちされた早すぎる立身出世は、ノマスの出自と相まって、騎士団の者たちにある種の恐怖の念さえ植え付けたものである。

 

 そのフィリアが今、まるで普通の少女のように、自ら進んでニネミアを遊びに誘っているのだ。メリジャーナが聞けば、滂沱の涙を流して喜ぶに違いない。

 

「……随分と気楽な話ね。そんな心構えでイリニの遠征は大丈夫なのかしら?」

 

 だが、ニネミアはつんと澄まして憎まれ口で応える。

 

「ですから、全て終わってから、ということで。……約束を違えぬよう、奮励いたしますので」

 

 素直に喜びを表せる性質でないことは、先刻承知済みである。一先ず否定の言が出なかったことに、少女は安堵の笑みを見せる。すると、

 

「それに……あなた、その、大丈夫なの?」

 

 と、ニネミアが珍しく言葉を濁してそう尋ねてきた。

 漠然とした質問だが、フィリアは直ぐに意図を察した。

 

 来期の戦闘についてではない。砂塵の国アンモス、密林国家ダセイアは所詮小国であり、エクリシアの難敵たりえない

 ニネミアはその後に控えるノマスとの邂逅について、フィリアに戦えるのかと問うているのだ。

 他国人については強圧的な考えを持つ彼女だが、やはり友人の事は心配らしい。

 

「はい。私はイリニの騎士ですから。皆の盾となり、剣となる覚悟はできています」

 

 フィリアはニネミアの心遣いに感じ入ったように眼を瞑ると、胸に手を添え、決然とそう言い切った。

 

「そう。ならいいわ。先々予定が空いたら出かけることにしましょう。それに丁度いい機会だわ。かねがねあなたには、貴族のなんたるかをみっちり教え込む必要があると思っていたのよ」

「……どうぞ、お手柔らかにお願いしますね」

 

 騎士として、この国を導く貴族としての自覚が芽生えたフィリアに、ニネミアは艶やかな笑みを溢す。

 ほんの僅かの時間ではあるが、二人は取り留めのない会話を楽しみ、積もり積もった仕事の疲れを癒した。

 

「あの、そう言えば、うちのご当主様がどちらに居られるか、ご存知ではありませんか」

 

 ふと話が途切れると、フィリアがそんなことを言いだした。

 今日の会合には、当然イリニ家当主アルモニアも参加している。会議が再開していないなら、彼も教会のどこかで休憩している筈だ。

 激務続きで、伯父とはもう十日近く顔を合わせていない。

 

 実の所、フィリアがメリジャーナに代わって教会に来ると言い出したのは、アルモニアに会えないかという下心もあってのことだった。

 

「え、ああ、そう閣下ね。……あの人なら、まだ下の階に居るんじゃないかしら」

 

 すると、途端にニネミアは端麗な顔貌を伏せ、しどろもどろにそう答えた。

 戦場では誰より勇猛果敢に戦う戦姫も、懸想する相手には形無しらしい。

 

「――わかりました! ありがとうございます」

 

 フィリアはそんなニネミアを好ましく思うと、木漏れ日のような笑顔で礼を述べ、ラウンジを後にした。

 

 



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其の十五 悪寒

 教会の深層は(マザー)トリガーへ至る道程であり、貴族の有力者や教会の上級職員でもなければ立ち入ることのできないエクリシアの最重要区画である。

 

 研究区画にもまして無味乾燥な廊下は、トリオンで分厚く補強され、侵入者を阻むための隔壁がそこかしこに設けられている。

 まるで地下墳墓のように凝った空気が立ち込める廊下を、フィリアは一人歩いていた。

 

 イリニ家に連なる者として権限は与えられていたものの、少女が実際に深層へと立ち入るのはこれが初めての事だ。

 訪れる用事も無かったのだが、エクリシアの中枢にして神の御坐に近づくことに、少女が抵抗を感じていたのも事実である。

 

 昇降機を護る聖堂衛兵には何も言われなかったが、おそらくノマスの血を引く人間が深層へ降りることは前代未聞なのだろう。彼らの表情には、拭いがたい緊張と困惑の色があった。

 そしてフィリアも、(マザー)トリガーへ近づくことに説明しがたい後ろめたさを感じていた。ノマスの血を引く呪われた子だという自意識は、一朝一夕に解消できるものではない。

 

 それでも少女は意気揚々と、足取り軽く教会の中枢を行く。そうして、

 

「ご当主様!」

 

 休憩スペースの一角で、一人佇むアルモニアを見つけた。御付の者たちは、所用で席を外しているらしい。

 

「フィリア? いったい何故ここに? 何かあったのか」

 

 と、金髪の偉丈夫が怪訝そうな声を出した。姪が来る予定などないのだから、当然の質問である。

 

「えっと、あの……」

 

 喜び勇んで駆け寄ったはいいものの、アルモニアにそう問われてフィリアは答えに詰まってしまう。やはり徹夜明けで妙な調子になっていたのか、伯父に会いに行こうと思い立つや、半ば勢いだけでここまで来てしまったのだ。

 

「トリオン兵の更新プログラムを受領しに……その、それで……」

 

 神経をすり減らす難しい会議中に、能天気な顔をしてやってきた相手を、一体誰が歓迎しようというのか。

 平時なら、相手方の事情などは気を回し過ぎるほどに配慮する少女である。

 自分の仕出かした不始末に蒼白になりながら、それでも少女は言葉を継いだ。

 

「ご当主様に、お会いできないかな、と思いまして……」

 

 叱責を覚悟していたフィリアは、しかしアルモニアの反応が返ってこないことに気付く。

 見れば、伯父は翡翠色の目を見開き、明らかに驚愕した様子である。

 

「……ご当主様?」

 

 初めて見る伯父の表情に、フィリアの口から訝しげな声が漏れた。すると、

 

「――あ、ああ。そうか。ありがとう。いや、ご苦労だった」

 

 伯父ははたと我に返って謹厳な表情を取り繕うと、ともかく少女の来訪を歓迎する。

 

「すみません。ご休憩中に押しかけて迷惑ではなかったでしょうか」

「いや、そんなことはない。ただ、君の顔をみて驚いただけだ」

 

 罪悪感から体を縮こめて呟くフィリアに、アルモニアは優しく語りかける。

 

「そうだな。ああ、君の提出してくれた遠征計画書は実に役に立っている。あれだけ微に入り細を穿った内容なら、教会もトリオンの給付を渋る訳にはいくまい。とても助かっているよ」

 

 当座の話題として、アルモニアは無難に仕事の事を口にした。

 フィリアが打ち立てた砂塵の国アンモス攻略作戦を褒めつつも、アルモニアの精悍な顔には僅かな陰りがある。そもそも姪には安穏に暮らしてもらいたかった伯父である。順調に騎士団に染まりつつある少女に、複雑な思いを抱いているのだろう。

 

「そんな、たたき台にでもなればと思っただけで……」

 

 ただ、当のフィリアは敬愛する伯父から賞賛されたことに、頬を赤くして恥じらいを見せるばかり。だが――

 

「そうだ、まだ時間はあるだろうか。もし昼食がまだなら……」

 

 そう言いさして、アルモニアは異変に気付いた。

 少女はさっと周囲を視線で探り、人通りが無いことを確かめると、ギュッと目をつぶり、小さな頭をぐいと押し出してきたのだ。

 

「「…………」」

 

 静寂が空間を支配する。

 

 顔を真っ赤にしながら小刻みに震えるフィリアの意図は明白だ。頭を撫でて、褒めてもらいたいのだろう。

 だが、アルモニアは突き出された白髪を眺めたまま、当惑の表情で固まってしまう。

 

 もはや家族同然の間柄となった二人だが、今まで頭を撫でてやるなどしたことがない。

 少女はその出自故にイリニ家では謙抑に振る舞っていたし、伯父の方は、この姪に対しては意図的に関係を深め過ぎぬよう努めていた。

 

「……」

 

 やがて、意を決したようにアルモニアが動く。

 

 そろそろと右手を挙げ、ゆっくりとフィリアの頭へと近づける。その気配を鋭敏に感じ取った少女が、びくりと肩を震わせた。

 苦み走った秀抜な顔貌に似合わず、アルモニアの掌はごつごつと節くれだち、まるで巌を削りだして造ったかのようだ。

 物心ついた時から剣把を握り、国家の為にすべてを捧げ続けた男の手である。

 

(いや……)

 

 アルモニアの頬が微かに緩む。

 十余年前、彼の歩んできた人生の意義は大きく変わった。彼が絶望と後悔、憎悪と憤怒の時を耐え忍んできたその意味は、国家ではなく――

 

「フィリア様? 珍しい所でお会いしましたね」

 

 すると、アルモニアの掌がフィリアの頭に触れるその寸前、澄んだ女の声が響いた。

 

「「――ッ!」」

 

 伯父は慌てて手をひっこめ、姪は即座に声の方へと向き直ると、何事も無かった風を装った。別に疚しいことをしていた訳ではないが、身内に甘い姿を人に見られるのは、あまり体裁のいいものではない。

 

「おお、誰かと思えば小さな騎士殿ではないかな?」

 

 現れたのは、白い滝髭が印象的な鷲鼻の老人と、眼鏡をかけた怜悧な風貌の若い女性だ。

 フィロドクス家当主クレヴォ翁と、その養女オリュザである。

 

「一別以来御無沙汰を重ねております。フィロドクス閣下」

 

 エクリシアでも有数の貴人に、フィリアは丁重な挨拶を述べる。

 

 考えるまでもなく当たり前のことだが、教会で行われているのは三大貴族が一堂に集まっての会議である。フィロドクス家の当主とその付き人が、付近をうろついていたとしても何らおかしくはない。

 訪問者を前にして、アルモニアとフィリアはすぐに騎士としての仮面を被りなおした。

 伯父と姪が醸し出していたぎこちない空気など、最初から無かったかのようである。

 

 そして雑談もそこそこに、アルモニアとクレヴォは会議の場外戦を始めてしまった。社交辞令に覆い隠された会話は一見すると和やかだが、他家の内情を推し量り、要請と妥協、譲歩と協力を混ぜ込んだ裏取引そのものの会話である。

 会話についていけないフィリアは、オリュザと並んで長椅子に腰掛け、手持無沙汰に伯父の姿を眺めることになった。

 

 と、少女のお腹がくぅくぅと小さく鳴った。

 そう言えば、折角アルモニアと昼食を一緒にできるところだったのだ。この分では、昼の休憩が終わってしまうかもしれない。

 

「さきほど遠目でお見かけしたのですが、フィリア様とイリニ閣下はじっと立ち尽くされていたご様子。一体何をなさっていたのですか?」

 

 と、隣に座るオリュザが、さも不思議そうな表情でそう尋ねてきた。

 

「~~~っ!」

 

 フィリアは知らずと頬を膨らまし、この少女にしては実に珍しいことに、恨みがましい目線で友人を睨め付けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その日の夜。アルモニアと短い昼食を共にして英気を養ったフィリアは、騎士団の砦へ戻り、相も変わらず仕事の山と格闘を続けていた。

 

「それじゃあ先に帰るから。フィリアさんも適当に休むのよ~」

 

 よよよと語尾を引き延ばして、ふらふらのメリジャーナが執務室から出ていく。午後になって、家の仕事で席を空けていた騎士たちがぼつぼつと砦に戻り始めた。メリジャーナは婚約者のテロスに仕事をおっ被せるように引き継いで、四日ぶりの帰宅である。

 

「フィリア様も、もうお戻り下さい。後は私が片付けておきますから」

 

 金髪碧眼の美男子、テロス・グライペインが透き通る笑顔で少女へと告げた。

 

「お心遣いありがとうございます。でも、私はまだ元気いっぱいですから」

 

 だがフィリアはそう言って、頑なにデスクから離れようとしない。敬愛する伯父に褒められて、やる気に満ちているらしい。

 ただ、いくら気力が充実しているとはいえ、肉体的な疲労は隠せるべくもない。

 まだ十二歳になったばかりの少女である。トリオン体ならいざ知らず、生身の体ではどうしても体力的に限界がある。

 

「なりません。休める時に休んでおくのも騎士たる者の心得です。フィリア様が体調を崩されれば、総長も悲しまれますよ」

 

 婚約してからというものの、この青年貴族は蕩けるような美貌にどっしりとした貫禄を備えつつあり、言葉の端々に重みが宿っている。

 主家の娘として、また一人前のレディとして丁重に扱ってくれるテロスに、フィリアも強く抗弁することはできない。

 

「では、最後にこれを総長室まで届けていただけますか。それが済んだら、お屋敷に戻ってゆっくりお休みください」

 

 尚も不服そうな少女に、テロスは来期の防衛計画を纏めたメモリーチップを渡すと、優しい口調でそういった。

 

「……分かりました。それではお先に失礼いたします」

 

 上役にそうまで言われては断れない。フィリアは辞儀を述べ、執務室を後にした。

 

 そうして少女は人も疎らな砦の中を進み、主が不在の総長室へとやってきた。

 アルモニアはまだ教会から帰っていないが、代わりに秘書が部屋に詰めている筈だ。

 

 しかし、ノックを鳴らすも返事が無い。 

 

「フィリア・イリニ。入室します」

 

 総長室に鍵が掛かっていない。怪訝に思った少女は部屋へと立ち入る。

 

「まったく不用心な」

 

 部屋には明かりが点いたままだ。少女のサイドエフェクトが、直ぐに単なる秘書の不在だと教えてくれる。

 メモリーチップを机の上に放置するわけにもいかないので、フィリアは秘書が戻ってくるまで部屋で待たせてもらうことにした。

 

「…………」

 

 荘重な調度で飾られた厳粛な総長室には、フィリアが贈ったポプリの華やかな香が漂っている。

 少女は立ち尽くすのに飽きると、しげしげと部屋を眺めまわし、それにも退屈すると、

 

「――ちょっとだけなら」

 

 と、アルモニアの執務席に腰掛けてみる。

 

「……」

 

 何処からともなく湧いてくる気恥ずかしさに、フィリアは頬を赤らめる。

 

 ただ、こうして椅子に浅く腰掛け、机の天板を指でなぞると、少女の胸に得も言えぬ感情が込み上げてくる。

 

 慈愛に満ちた伯父、誉れ高き貴族、並び立つ者なき剣士。

 思慕でもなく、畏敬でもなく、憧憬でもない。

 

 泣き喚きたくなるような切なさと、陽だまりに包まれたような安らかさと、何にも増して抑えがたい喜びが入り混じったような、まったくもって不可思議な感情。

 アルモニアへの思いに胸を膨らませる少女。だがその時、

 

「――っ! あ、あの、これは……ち、違うんです!」

 

 総長室の扉が開かれ、秘書が戻ってきた。

 イリニ家に長年仕えている壮年の男性は、主の執務室に座るフィリアに目を丸くして驚いている。

 

 その後、フィリアは言葉を尽くして自分の所業を弁解する羽目になった。

 事実を言ってしまえば、伯父の職場で姪っ子が遊んだだけの話であり、秘書もそのことは重々承知している。

 

 ただし、イリニ騎士団総長の椅子を、ノマスの血を引く養子が弄んだという事実は、捉えようによってはかなりの面倒事を引き起こしかねない。

 特に、フィリアの早すぎる昇進を快く思わない一部の人間にこの事が知れれば、嬉々として攻撃材料に用いるだろう。

 

 結局、秘書も鍵を掛けずに用足しに行った負い目もあり、双方が何も見なかったことにすることで話は纏まった。

 

「それでは、確かにお受けとりいたしましたので」

「はい。総長にもよろしくお伝えください」

 

 できれば伯父が帰ってくるまで待ちたかったが、理由もなく居座る訳にもいかない。後ろ髪をひかれながら、フィリアは秘書に防衛計画書を渡した。するとその時、

 

「――?」

 

 執務室にコール音が鳴り響く。何か通信が入ったようだ。

 秘書が端末を操作し、内容を確認する。退室の機を逃してしまったフィリアは、ぽつりと立ち尽くしたままだ。

 

「ああ、騎士フィリアがいてくれて丁度良かった」

 

 と、通信を確認した秘書が少女を見てそんなことを言う。

 

「何か、私に関係することでしょうか?」

「イリニ家の本邸からの通信でして。ご当主様は教会ですから、こちらに送ってきたのでしょう。家の運営に関する報告書なのですが、私ではどうにも裁可できないもので、よければ騎士フィリアにも御一読いただけたら……」

「そんなことを言われても、私には何の権限もありませんし……」

「いやなに、明らかに問題がありそうな箇所が無いか、見ていただくだけですから」

 

 そう言って、秘書は投影モニターを起動した端末をフィリアへと渡す。

 少女は困惑しながらもそれを受け取り、データにざっと目を通した。

 

 今期の収支見込みや荘園、領民の管理状況。はては家財道具の更新費用や、使用人の給与明細に至るまで、細々とした報告が並んでいる。

 イリニ家の一員として内外に認められたフィリアだが、家の運営など、内向きの用事は今まで担当したことが無い。

 そもそも、子供に家の切り盛りをさせる必要などないのだから当たり前である。

 

「……ふむ」

 

 だが、全く初めての仕事であるにも関わらず、フィリアは神妙な面持ちで次々と資料を読み込んでいく。

 書かれている数字に間違いはないか、判断に誤りが無いかは、少女の持つサイドエフェクトが教えてくれる。正誤を確認するだけなら、彼女以上の適任者はいない。

 

 驚くべき速度でデータチェックを済ませるフィリア。だがそれでも、この分量にはいささか閉口せざるを得ない。

 騎士団に加えて領地の運営まで行うなど、体がいくつあっても足りる仕事ではない。大貴族とは如何に過酷な立場であることか。

 

 フィリアは伯父の負担を少しでも減らすため、これからは内向きの仕事も覚えてみようと、半ば本気でそう決意した。

 

「ざっと見た限り、特に問題はなさそうでした」

 

 データに目を通し終え、少女がそう言う。

 計画書を届けるだけの予定が、随分遅くなってしまった。フィリアは今度こそ秘書に挨拶し、退室しようとする。すると、

 

「今度は何でしょう」

 

 又しても、総長室に通信が入った。自分にも関係する事かと、少女は居住まいを正す。

 

「いや、大したことはありませんよ」

 

 だが、内容を確認するなり秘書が手を振ってそう言った。

 壮年の秘書はまったく些末事のように、軽い調子で口を開く。

 

「ただの業務連絡です。本日行われるスコトノ家のパーティーに、イリニ家から楽団を手配したとの報告です」

 

 ――その報せを耳にした途端、フィリアの顔から音を立てて血の気が引いた。少女のサイドエフェクトが、理由の分からない異常な警告を発したのだ。

 

 総身が粟立つほどの異常な悪寒。何か、決定的な何かを間違えてしまったという、根拠のない確信。

 あるいはそれは、底なし沼に首まで浸かっていたことにようやく気付いた絶望にも似て――

 

「う、ぁ……」

 

 フィリアは説明のできない恐怖と緊張、憤怒と悲嘆に言葉を失う。

 もはやここが尊貴な総長室であることすら覚えていない。

 サイドエフェクトがかき鳴らす警鐘に突き動かされ、少女は狂った獣のような勢いで部屋を飛び出していった。

 

 



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其の十六 惨劇

 エクリシア有力貴族の一つスコトノ家は、国土の西方に広大な領地を持つ名家である。

 古くからイリニ家に忠誠を誓うスコトノ家は、剽悍無比な騎士を代々輩出することで有名で、先代はイリニ騎士団の団長職をも務めていた。

 

 尚武の気風を貴ぶスコトノ家の本宅は、まるで城塞を思わせるような猛々しい外観をしている。

 そのスコトノ邸では今夜、来たるべき遠征に向けての決起集会が行われようとしていた。

 

「……はぁ」

 

 艶やかな桜色の唇から、悩ましげな吐息が漏れる。

 

 鏡の中に映るのは、簡素な意匠ながらも上質なドレスを纏った、黒髪黒瞳の美女である。

 邸宅の一室、楽人の為に割り当てられた控えの間にて、オルヒデア・アゾトンは化粧を施しながら、物憂げな表情をしていた。

 

(いやいや、頑張らないといけません。フィリア様があんなにも骨を折ってくださったのですから)

 

 黒髪の乙女は化粧台の前でぶんぶんと首を振る。

 周りの楽人たちは新人の奇妙な振る舞いに怪訝な表情を浮かべるものの、もう慣れたと言わんばかりに自らの用事に戻った。

 

 イリニ家がポレミケス戦役で得た捕虜オルヒデアは、その稀有な楽才を認められ、特例的にイリニ家が抱える楽隊に召し抱えられることになった女性である。

 戦火の絶えない近界(ネイバーフッド)では、国力の増産に関与しない技芸職は殆ど顧みられず、それはこのエクリシアでも同様であった。

 

 ただ例外として、有力な貴族に限っては、必ず自前の楽団や芸術家を抱えている。これは貴族の華やかな生活に、麗しき芸術が必要不可欠であるためだ。

 当然、貴族のお抱えとなるからには技芸優秀は勿論のこと、人品骨柄まで正しくあらねばならない。降ってきたばかりの捕虜がその一員になるなど、前例のない出来事である。

 

 横車を押したのは、今をときめく新鋭の騎士、フィリア・イリニである。

 

 当主の姪御の強い口利きで、オルヒデアは例外的に楽団の一員として認められることになった。

 未だ忠誠定かならぬ捕虜であるからか、イリニ本邸からは常に二人の監視が付いている。

 

 楽団も最初はその奇態な女を扱い兼ねたが、善良な性格と確かな腕前に、何度か公演を行った後にはすっかり馴染んでしまった。

 そんな彼女が物憂げな表情をしているのは、今日の舞台となるスコトノ家に、含むところがあるからだ。

 

(……悪い心を起こしては、いけません)

 

 オルヒデアはスコトノ家の当主、ネロミロスと面識がある。

 

 ポレミケスで拉致した捕虜をエクリシアで選別する際、その任に当たった者の中にネロミロスがいたのだ。

 

 バムスターの腹から出され、意識を取り戻したオルヒデアは、同じく捕虜となった数多のポレミケスの民を目の当たりにした。

 異国の地に怯え、未来を嘆く同胞たちを、エクリシアの戦士たちはまるで家畜を扱うかのように冷酷に取り扱った。

 

 その中でも、容貌魁偉なネロミロスの姿は嫌でも目に付いた。

 あたりを払う威容もさることながら、彼は機械のように振る舞う他の騎士とは違い、大声で捕虜を恫喝し、力ずくで屈服させようとしたのだ。

 その時の言説から、オルヒデアはネロミロスがポレミケス襲撃の実行部隊に属していたことを知った。

 

 戦場では相見えることはなかったが、故郷を滅茶苦茶にした男を目の当たりにして、憎悪の念が湧いたのは事実である。

 仇敵ともいえる男を囲む会に、自ら音曲を添えねばならないというのだから、苦悩するのは当然の反応だった。

 

 だが、オルヒデアが当惑していたのはそれが理由ではない。

 元々恨みや怒りを溜めこむのが苦手な気質である。務めて相手の美質を探そうという性格もあり、そもそも他者を心から憎めない人間である。

 

 乙女が感じているのはもっと漠然とした、予感めいた不安だった。

 今日このひと時で、何かが大きく変わってしまう、崩れてしまうことのではないかという、根拠のない恐怖。

 

「そろそろ時間です」

「――っ、はい!」

 

 時計の針を、誰も戻すことはできない。

 オルヒデアは友から贈られたヴァイオリンを愛おしげに手にすると、楽人たちとともに宴席へと向かった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「約束しよう諸君! 来るべきノマスとの闘争に於いて、我らは必ずや彼奴らの首を捩じ切り、積年の因縁に終止符を打つと!」

 

 豪奢に飾り付けられた大広間に、勇壮な声が響く。

 宴席の中央に立ち、居並ぶ聴衆に向けて演説をぶっているのは、獅子のように逆立つ金髪をした猛々しい偉丈夫、ネロミロス・スコトノである。

 

 エクリシアの仇敵ノマスを駆逐するという当主の剛胆な宣言に、会場に集う者たちは一斉に快哉を叫んだ。

 招待客の多くは男性で、それも年若い者たちの姿が目立つ。

 

 彼らはスコトノ家に属する従士、あるいは与する者たちで、言わばイリニ騎士団におけるスコトノ派閥の人間が、一堂に会している状況である。

 貴族としての地位を盤石にするため、配下との紐帯を強めるため、自然休戦期にはこのような催しは頻繁に行われる。ただ、

 

「その前に、まずは些事を片付けねばならぬ。砂塵の国アンモスなる弱小国家を踏み潰し、我らの猛々しい武魂を、無類なる精強さを遍く知らしめるのだ! さすればイリニの若殿も、我らこそが騎士団の背骨であることに気付かれるだろう!」

 

 演説の過激さ、聴衆の熱狂ぶりはやや異常に過ぎる。

 

 これは彼らスコトノ派閥の騎士団での立ち位置に理由がある。

 かつてイリニ家の先代当主、ディマルコが健在であった頃、スコトノ家はイリニ騎士団の第一軍団長として名誉をほしいままにしていた。

 それが、イリニ家の当主が代替わりした途端にその職を解かれ、今では無役の騎士として、一平卒に甘んじている始末である。

 

 ディマルコとその息子アルモニアは抜き差しならない軋轢を抱えていたようで、凄絶な家督闘争の末、アルモニアは父を押込にしてイリニ家の当主となった。

 スコトノ家はディマルコ側についたため、解職の煽りを受けたのである。

 

 ネロミロスはこれをアルモニアの報復と捉えており、主家に対して少なからぬ反発心を抱いている。

 そのため彼は、失墜したスコトノ家の威信を取り戻すため、武功を立てることに躍起になっているのだ。

 

 若き当主の狂おしい熱情が伝播したように、聴衆たちは口々に歓声と賞賛をネロミロスへと浴びせる。

 その一種異様な光景を、オルヒデアは会場の片隅から眺めていた。

 

「…………」

 

 スピーチを妨げぬよう演奏を中断した楽団席で、黒髪の乙女はただ一心に楽譜を読み進めていた。

 エクリシアの政治事情など、もとより関与する立場にない彼女である。友人が八方手を尽くして宛がってくれた仕事を全うするため、全力を尽くすばかりである。

 

 しかし、それでも耳朶を討つ雄々しい演説に、乙女の胸は刃物で切られるように痛んだ。

 生来暴力的な話が苦手な上に、敗北して虜囚になった身としては、蹂躙されようという他国に、どうしても己の境遇を重ねてしまう。

 

 ただし、乙女の悲嘆もそう長くは続かなかった。

 ネロミロスが演説を終え、皆が会食へと移ったからだ。

 

 オルヒデアはヴァイオリンの弓を握り直し、指揮者の振るうタクトを注視する。列席者が豊かなひと時を過ごせるよう、今は心を込めて演奏するばかりだ。

 そうして宴席もたけなわとなった頃、問題は起こった。

 

「え……私と、ですか?」

 

 楽人の入れ替えの為席を立ったオルヒデアに、配膳をしていたボーイが話しかけてきた。

 ネロミロスが是非オルヒデアと話がしたいというのだ。

 

「それは……ですが……」

 

 乙女は困惑した様子で言葉を濁す。

 そもそも彼女は楽団に所属しているものの、本来は虜囚の身である。

 

 演奏を行えるのは特例で、彼女に行動の自由はない。勝手な事をすれば、イリニ家から派遣された監視役が飛んでくるだろう。

 だが、乙女が助けを求めて会場の隅を窺うも、そこに控えている筈の監視役の姿が無い。どうやらスコトノ家の若党に絡まれ、何処かへ誘導されたらしい。

 

「……承知いたしました」

 

 穏当に断る手立てがない以上、受けるよりほかに道はない。

 イリニ家の楽人としてこの場にいる以上、無碍に誘いを断ってネロミロスの不興を買ってしまえば、両家の関係を損ねることになってしまう。

 

 そうなれば、折角フィリアが苦労して斡旋してくれたこの仕事を続けることができなくなるかもしれない。

 己のことは構わないが、あの少女に迷惑を掛けることだけは何としてでも避けたい。

 

(大丈夫です……少し、お話をするだけ)

 

 オルヒデアは意を決し、祖国の敵である騎士の元へと赴いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 乙女の抱いた不安は、残念なことに的中することとなった。

 

「さて、まずは一献」

「ありがとうございます」

 

 オルヒデアは勧められた席に着くと、注がれたワインに礼儀程度に口を付ける。

 

 ホストのネロミロスは随分と酔っていたが、まだ理性はしっかりと残しているようで、座に迎えた乙女を郎党に紹介すると、その比類なき楽才を惜しみなく賞賛し、また自身の芸術に対する造詣の深さを得々と語った。

 

 それだけならば、音曲を愛でるだけの他愛ない席になっただろう。

 しかし、ネロミロスと郎党たちは、次第に会話の中に嗜虐的な揶揄を差し挟み、また無遠慮に肢体を舐め回すような視線を乙女に投げかけだした。

 

 男たちは明らかにオルヒデアの抱える事情に通じている。彼らは表面的には紳士然として振る舞っているが、敗軍の将である彼女を嘲る思いが言葉の端々に滲んでいた。

 

 そんな悪意に曝されても、乙女は終始謙抑に振る舞い、まるで嫌がらせに気付かぬ風に、ともかく波風を立てぬよう努めた。

 そうして暫く意地の悪い酒に付き合っていると、

 

「それにしてもイリニ家も酷いことをなさる。いくら楽才があるとはいえ、貴女ほどの稀有なトリオン能力の持ち主を、奴婢同然に扱うとは……」

 

 と、ワイングラスを弄びながら、ネロミロスが如何にも嘆息したように言いだした。

 

「確かに貴女の音曲は素晴らしいが、請われて人に披露するものでもありますまい。奏楽は趣味としてなさればよろしい。天与の才を腐らせるなど愚の骨頂であろうに」

 

 朗々と言葉を続けるネロミロスに、オルヒデアは面持ちを固くする。

 この勇壮なる貴族の男は、乙女の技芸の深遠さを認めつつも、所詮は卑賤の仕事と傲岸に断じたのだ。

 

 持って生まれたトリオンの力と、それを如何に国家の為に役立てるか。それこそが人間の価値を決める唯一にして絶対の基準であると、この男は認識している。

 彼の思想は近界(ネイバーフッド)ではごく当たり前もので、誰にも咎めることはできない。

 

 オルヒデアはただ、鬱々と黙するばかりである。

 そんな乙女の沈黙を肯定的な反応と受け取ったのか、ネロミロスはさらに上機嫌に舌を回す。

 

「貴女のような才女が、籠の鳥として飼われているのは余りに不憫だ。我がスコトノ家なら、そんな真似は決して行わないというのに」

 

 そしてネロミロスは、得物を狙う蛇のような眼光でオルヒデアを見ると、

 

「私なら、貴女の悲境を救うことができる。どうだろう、我がスコトノ家に身柄を移されては」

 

 と、にじり寄るようにそう言った。

 

「……私はイリニ家の虜囚です。そのように申されましても、困ってしまいます」

 

 あまりに露骨な勧誘に、乙女は息も絶え絶えに言葉を絞り出す。態々彼女を宴席へと呼んだのは、自陣営への引き抜きが目的であったらしい。

 乙女の遠回しな拒否に、男は嘲るように鼻を鳴らすと、

 

「敗軍の将としては殊勝な心がけだな。――だが心配は無用だ。私が意見をすれば、イリニのご当主殿も無碍にはできまいよ」

 

 と、総身に自信を漲らせて詰め寄る。

 

 見れば、周りの郎党たちもオルヒデアを囲むかのように立ち位置を変え、乙女に無言の圧力を加えている。

 ネロミロスはなおも乙女が返答に窮している様子を見てとると、

 

「勘違いしているようだが、イリニ家に居ても今後の栄達は見込めんぞ。あの小娘、いやフィリア殿()、か。アレは一見上手く立ち回っているように見えるが、所詮は人寄せの為の広告塔に過ぎん。二人目になれるなどとは思わぬ方がいい」

 

 と、いささか機嫌を損ねたように吐き捨てる。

 

 少女の名が出た途端、座の空気が危ういほどに張りつめた。酒気を帯びた郎党たちが、一斉に怒気を放ったのだ。それが派閥の対立によるものか、それともノマス憎しの感情から来ているのかは分からないが、彼らは少女に強い敵愾心を抱いているらしい。

 

 針の筵に座るような空気の中、オルヒデアは一つ深呼吸をすると、凛冽な気迫を身に纏わせた。友人を辱められた以上、心は固く決まっている。

 

「――いえ、やはり私の一存では決められぬことです。加えて申し上げれば、私はイリニ家での暮らしに何の不自由も感じてはいません。有難いお申し出とは存じ上げますが、謹んでお断りいたします」

 

 と、乙女は眦を決して昂然とそう言い放った。

 

「――ッ!」

 

 ネロミロスの酔眼に、激情の色が差す。

 ここまではっきりと拒絶されるなど思いもしなかったのだろう。居並ぶ郎党たちも怒りの余り言葉を失って立ち尽くした。

 

 座に異様な空気が漂う。物別れに終わった和平交渉のような、一触即発の気配である。するとその時、

 

「いや申し訳ありませんスコトノ卿!」

 

 イリニ本邸から使わされた監視役が、剣呑な空気に割って入った。

 痩身で肌の白い如何にも吏僚めいた男が、作り笑顔に脂汗を浮かべながらやってくる。

 スコトノ家の郎党から接待を受けているうちに、監視対象が騒動を起こしかけているのだから、動揺も無理からぬことだろう。

 

 いまいち頼りにならない人物でも、オルヒデアにとっては待ち焦がれた援軍である。

 

「すみません。不調法故、酔ってしまいました。放言の程、平に御容赦頂きますよう……」

 

 もはやここは敵地も同然。一刻も早くイリニ邸へと戻らねば。乙女はこれを切欠とばかりに、宴席から抜け出すべく立ち上がる。だが――

 

「なっ!?」

 

 突如として視界がぼやけ、平衡感覚を失う。

 オルヒデアは咄嗟にテーブルに手を付いて転倒を免れようとするも、体が鉛のように重く、まるで言うことを効かない。

 

 酒精ではない何かが、脳を麻痺させている。

 気付いた時には既に遅く、必死に意識を保とうとするも、思考は千々に乱れ、暗黒の淵へと吸い込まれていく。

 

「――ぁ」

 

 全てが二重輪郭となった視界で、未だ憤怒の瞳をしたネロミロスが酷薄にほほ笑むのが見えた。

 乙女は酒杯と食器を巻き添えに、音を立てて床へと倒れ伏した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 昏倒したオルヒデアはスコトノ家の医務室へと運ばれ、診察を受けることになった。

 

 だが、医師は予め言い含められていた通りに軽い貧血だと診断すると、患者を残してそそくさと部屋から出て行く。

 そうして無機質なベッドに寝かされた乙女は――

 

「うう、ん……」

 

 瞼を開けると、乳白色の天井が見えた。

 霞がかった意識の中、オルヒデアは反射的に体を起こそうとするも、強い嘔気と眩暈に咽いでしまう。

 

「っ、けほっ」

 乙女は口元を抑えながら、それでも気力を振り絞って上体を起こした。

 

 寝台に敷かれた清潔なシーツと、乳白色の壁、そして鼻を突く医薬品の匂いが、此処が医務室であることを教えてくれる。

 そこまで思い至って、ようやく彼女は己の身に降りかかった出来事を思い出した。

 

「――っ!」

 

 咄嗟に周囲を見渡すオルヒデア。すると、

 

「ようやく目を覚ましたか。どこまでも鈍重な女だ」

 

 診察用の椅子に腰かけたネロミロスが、酒の入ったグラスを片手に乙女を睥睨していた。

 

「ぅ……」

 

 沸き起こる恐怖心から、乙女は思わずベッドの上で後ずさる。

 大男は女の反応に嗜虐的な笑みを浮かべると、グラスに残った酒を一息に飲み干す。

 

「あ、あなたは……」

 

 恐怖と混乱で取り乱しそうになる心を紙一重で抑え、乙女は冷静に状況を掴もうとする。

 

 それとなく着衣を調べるが、乱れはない。吐き気と気だるさを除けば身体にも異常はなく、どうやら最悪の事態は免れたらしい。

 だが、飲み物に何か薬物を盛られたのは確実であり、また状況から察するに、ネロミロスは最初から彼女を嵌めるつもりだったと考える他ない。

 

 そしてそこまで直接的な手段に訴えた以上、乙女をこのまま返すつもりはないだろう。

 

「あの役立たず共に助けを求めるなら無駄だ。お前が医務室から出てくるのを大人しく待っているだろうよ。まあ奴ら愚民とて、俺と事を構えるのがどういう意味かは弁えているからな」

 

 監視役や楽団員とどうにか接触できないかという乙女の思考を読んだように、ネロミロスがそう嘯く。

 イリニ家の人間たちは、患者の安静を理由に医務室から遠ざけられている。スコトノ家が責任を持つと断じたのでは、彼らもそれ以上強気に出ることはできない。

 

「このようなご無体をなさるなど、およそ人の上に立つ者の行いではありません」

 

 震える声でそう咎めつつ、オルヒデアは医務室のドアを注視する。なんとかこの部屋を抜け出して、助けを求めなければならない。

 

「ふん、何を言うかと思えば世迷言を。世を動かしているのは一握りの力ある人間だ。無能な雑魚共に何の権利がある。羊は皮を剥ぎ、肉を取るために飼われているのだ。市民を生かしているのは、我らの温情に過ぎん」

 

 そう嘲笑いながら、ネロミロスは椅子から立ち上がった。

 息が酒臭い。乙女がこん睡している間も飲んでいたのか、かなり酔いが回っている。もともと粗暴の気質はあっただろうが、酒でタガが外れかかっているらしい。

 

 大男の発する圧力に、乙女は思わず身を竦めた。

 まだ眩暈のする体調で、男を躱して扉まで走れるとは思えない。また大声を出すことも考えたが、防音と人払いは入念に済ませているだろう。

 

「先程も言いましたように、スコトノ家に御厄介になる気はありません。……そもそも私は楽人としての生き方に満足しています。再び戦場に立つつもりはありません」

 

 乙女は自らの至誠が通じるものと、一縷の望みを託してそう言葉を紡ぐ。

 だが、ネロミロスは返答替わりに哄笑を上げると、

 

「いいぞ。愚かさもここまで来ると、なかなかに愛い」

 

 そう言いながら、オルヒデアの座るベッドへとにじり寄る。

 

(ブラック)トリガーを担いながら虜囚となったお前に、戦士としての価値など見い出すと思っていたのか。俺が必要としているのはお前の(はら)だけだ」

 

 余りの暴言に、乙女は瞬刻の間我を失ってしまう。

 

 ネロミロスが求めていたのは、オルヒデアの稀有なトリオン能力であった。主家と諍いを起こすリスクを冒してもなおここまで強引な手段に出たのは、彼女の血を家系に組み込む為である。

 

「妾として飼うてやる。望み通り、戦場から離れて音曲と戯れる日々が送れるぞ」

「――い、嫌っ!」

 

 悍ましい貞操の危機に、オルヒデアは思わず悲鳴を上げる。

 その悲痛な声に興を削がれたのか、ネロミロスは立ち止まって鼻を鳴らすと、

 

「物分かりの悪い女だ。どの道お前が生きながらえようというのなら、俺に傅くほかは無いものを……」

 

 と、さも小馬鹿にしたように言う。

 

「それは、どういう……」

 

 怯えた子猫のようにベッドの隅で震える乙女に、大男は嫌らしく口辺を釣り上げ、

 

「お前がイリニ家で後生大事に飼われているのは、エクリシアの新たな神にするためだ。後何年かで、お前は(マザー)トリガーの生贄にされるのよ」

 

 と、禁断の言葉を口にする。

 

「――っ!」

 

 だが、オルヒデアは苦渋に満ちた表情を浮かべただけで、然程の動揺は見せなかった。

 

 明らかに通常の捕虜とは異なる厚遇から、半ば予測がついていたことである。

 ともすれば、フィリアやパイデイアが時折見せていた罪悪感の正体に合点がいき、彼女たちの苦悩に惻隠の情が湧いたほどだ。

 

「これで分かっただろう。あのノマスの穢れた小娘が、如何にお前を上手く騙していたかを。――イリニに居てはお前に未来はない。だが俺なら、お前が神とならぬよう手を廻すことも可能だ」

 

 ネロミロスは弄うように言葉を続ける。

 

 実際の所、オルヒデアが神の候補として選ばれるかどうかは未知数であり、これは露骨な誘導であり、恫喝であった。

 

 そもそも、この猛々しい青年貴族は女を気遣うという感覚をまるで持ち合わせていない。

 トリオン能力を血統に組み入れたいという望みは本物だが、仮にオルヒデアの能力を引き継いだ子供が生まれれば、用済みになった彼女を生贄に捧げるぐらいは平然と行うだろう。

 

 とはいえ、今ネロミロスの内にあるのは、オルヒデアの気品に溢れる美貌を、瑞々しい肉体を凌辱せんという欲望だけである

 

「俺の物になれ。それが賢明な選択だ」

 

 勝ち誇った笑みを浮かべ、男は乙女の身体へと手を伸ばす。

 

「お断りです。もしこれ以上無体をなさるなら、私は精一杯抵抗します」

 

 だが、乙女は欲望に塗れた手を跳ね除けるように、決然とそう言い放った

 先ほどまで恐怖に震えていたはずの細い身体に、清澄な決意と闘志が漲っている。

 

「――なんだと?」

 

 気勢を削がれた男を尻目に、オルヒデアはベッドから降りて力強く立ち上がった。

 そしてネロミロスに面と向かい合い、

 

「あなたがどれ程の武勇を誇り、高位高官にあるかは関係ありません。誰が命惜しさに、友人を侮辱した方へと傅きましょうか。人を侮るのもいい加減になさいませ!」

 

 凛然とした佇まいで、乙女がそう吠えた。

 その気高い姿と身に纏う気風は、武侠国家ポレミケスの姫君に相応しい力強さである。しかし、

 

「――くっ!」

「その強がりが何処まで持つか見ものだ。すぐに泣きながら許しを請わせてやる」

 

 乙女の清廉な決意は、却って大男の獣性に火を点ける結果となった。

 ネロミロスはオルヒデアの肩を鷲掴みにし、壁へと押し付けた。片手で乙女の顔を無理やり上向かせ、得物を喰らわんばかりに顔を近づける。

 

 その時、ぱしっと、乾いた音が響く。

 オルヒデアが平手でネロミロスの頬を張ったのだ。

 

「っ、この阿婆擦れが!」

「――あっ!」

 

 乙女は大男の太い腕に薙ぎ払われ、医務室の備品棚に衝突して倒れた。

 

 ネロミロスの顔貌が憤怒に赤黒く染まっている。痛みなどあろうはずがない。己が下等と断じた女に、顔を打たれたという屈辱に激怒しているのだ。

 

「雌犬如きがこともあろうにこの俺に手を上げるとは、万死に値するぞ!」

「……女を手籠めにしようとする卑劣漢に、何を遠慮いたしましょう。抵抗すると、申し上げたはずです」

 

 よろよろと立ち上がりながら、乙女はなおも闘志に満ちた瞳でネロミロスを睨む。

 その手には、備品棚から落下した大振りの鋏が握られていた。

 

「これ以上、私に触れることは許しません」

 

 そういってネロミロスに切っ先を向けるも、手は細かく震えている。猛り狂う大男と真っ向から対決する勇気はあれど、もとより暴力を苦手としている女性である。

 しかも相手は生身の身だ。トリオン体とは違い、もしもということがある。オルヒデアはこれほどの悪意を向けられてもなお、他者を傷つけることを恐れていた。

 

「はっ、虚勢を張るのはよせ。お前の臆病ぶりは俺の耳にも入っているぞ。どうした、手が震えているぞ。それで俺が刺せるのか?」

 

 フィリアが記したオルヒデアのレポートを、イリニ騎士団の幹部であるネロミロスは閲覧することができた。

 乙女の可憐な威嚇に、大男はひとまず怒りを鎮め、代わりに残虐な笑みを浮かべる。

 

「私もポレミケスの女です。武侠の国と呼ばれる所以を、知らぬとは言わせません」

 

 鋏を構えながら、乙女は横目で医務室のドアを確認する。錠を外し、何とか外に逃げ出すことができれば、この状況を切り抜けられるはずだ。

 主家の虜囚に手を付けようという、ただでさえ際どい橋を渡っているのだ。いかに粗暴なこの男でも、人前では狼藉を続けられまい。

 

(兄様、私に勇気をください……)

 

 脳裏に浮かぶは、故郷に一人残った愛する家族の顔。だが、

 

「武侠の国? 雑魚ばかりの弱小国家が、恥ずかしげもなく良く名乗れたものだ。――ああ、そうだ。あの小娘がお前に隠していたことがまだあったぞ」

 

 レポートに記された禁忌。

 

「お前の兄は、この俺が縊り殺してやった」

 

 絶対に告げてはいけないその事実を、ネロミロスは高らかに謳い上げた。

 

「――えっ?」

 

 間の抜けた声が、辺りに響いた。

 

「え、今、……なん、と?」

 

 オルヒデアから、一瞬にして覇気が消え失せた。

 端正な顔は青ざめ、瞳は動揺に揺れ動いている。耳にした言葉の意味が分からない。理解したくないと、本能が拒んでいる。

 

「あの二刀の剣士なら、俺が手ずから始末してやったわ。あの小娘も狡猾なものよ。懐柔に障りがあるからと、態とお前に知らせぬようにしていたのだからな」

 

 乙女の意気喪失した姿に、ネロミロスは企てが図に当たったとほくそ笑んだ。

 

「……う、うそ、嘘よ、そんな、嘘に決まっていますっ!」

 

 オルヒデアが取り乱したように大声を上げる。

 事実、彼女は混乱の極みにあった。

 只でさえ、野獣のような大男に暴力的に迫られるという窮地にあるのだ。その上、自らが寄る辺としていた唯一の肉親の死を、どうして受け入れられようか。

 

「分かったか。お前にはもはや帰る場所などないのだ」

 

 小生意気な女が狼狽する様に、ネロミロスの胸にどす黒い歓喜が湧き起こる。

 

 女を屈服せしめ、凌辱し、尊厳を奪う。

 悪い意味で男性的かつ貴族的な男は、ようやく理想通りの状況が整ったと感じると、思うままに欲望を滾らせ、乙女に襲い掛かった。だが、

 

「――痛ぁっ!?」

 

 オルヒデアを床に押し倒し、ドレスを荒々しく破いたネロミロスが、突如として苦悶の声を漏らして飛び下がった。

 床には紅い斑点が打たれている。見れば、大男の左頬が縦にざっくりと裂かれている。呆然自失としていたはずのオルヒデアが、鋏を振るって抵抗したのだ。

 

「貴様! よくもこの俺に……貴様あぁぁぁっ!」

 

 面を傷つけられた屈辱に、今度こそネロミロスが激昂した。

 言葉にならぬ呪詛を喚きたて、凶相の大男が女へと飛びかからんとする。しかし、

 

「――っ!」

 

 もはや事の前後を忘れ、乙女への狂猛な殺意に支配された筈のネロミロスが、ぴたりと足を止めた。

 

 その視線の先に、オルヒデアは端然と立っていた。

 裂けたドレスから覗く肌を隠しもせず、長く艶やかな黒髪は無残に乱れている。

 それでも尚、乙女から発せられる品格と気迫は、獣と化したネロミロスを押しとどめるほどの力があった。

 

「あなたのような臆病者に、兄が敗北する筈がありません」

 

 凛然とそう言い放つオルヒデアの瞳に、もはや動揺の色は微塵も残っていない。

 ネロミロスに押し倒されたその刹那、乙女は既に何もかもを諦めていた。

 

 だがその時、彼女の脳裏に浮かんだのは、このエクリシアで得た掛け替えのない友、フィリアの姿であった。

 

 あまりも聡明であったため、不器用にしか振る舞えない女の子。

 どこまでも優し過ぎるが故に、一人で抱え込むことばかりしてしまう、小さなお友達。

 

 兄の死について、あの少女が如何に苦しんだだろうかを、乙女はありありと思い浮かべることができた。

 もし願いが叶うなら、あの子の重荷を降ろしてやりたい。他ならぬ友人だからこそ、その罪を分かち合ってあげたい。

 

 他者への痛切な哀惜が、己の不幸を嘆く心を吹き飛す。

 そうして乙女は、強靭な意志を取り戻したのだ。

 

「私は誰のものにもなりません。下がりなさい下郎!」

 

 けれど、その切なる願いが叶うことはない。

 オルヒデアに面罵されたネロミロスは、最早人とも思えぬ形相で乙女へと躍りかかる。

 

(大好きですよ。フィリア様)

 

 自らの運命を悟った乙女は、春の木漏れ日のように穏やかな笑顔を浮かべると、胸中でそう呟いた。

 

 そして残された己の尊厳を護るため、手にした鋏を――

 

 



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其の十七 領解(りょうげ)違い

 軍用車両の荒々しい駆動音が、夜の静寂を打ち破る。

 聖都から西方に広がる大穀倉地は、古くからイリニ家とその郎党が治める所領として知られている。

 広大な農地を貫く道路に照明灯は疎らで、深夜ともなれば行き交う者も無く、凝り固まった闇が世界を覆い隠しているかのようだ。

 

 その夜の海を、眩い光芒が真っ二つに切り裂いて進んでいる。

 イリニ騎士団の紋章を付けた車両が、暴走とも呼べる速度で道路を疾駆しているのだ。

 

「もっと速く、急いでくださいッ!」

 

 車両の後席から、叱責にも似たフィリアの声が放たれる。

 

 理由も知らされぬまま少女に運転を命じられた従士の男は、恐懼に身を竦めながらハンドルを握る。事態がただ事ならぬのは、少女の鬼気迫る態度で明らかだ。しかし速度計はとうに振り切っており、運転手は事故を起こさぬよう運転するのに精一杯である。

 

「~~~~っ!」

 

 焦燥の余り、知らずと歯を噛みしめるフィリア。両ひざの上で揃えられた握り拳は、爪が食い込むほど硬く握りしめられている。

 法定速度違反の暴走もあって、目的地のスコトノ本邸まであと少しの所まで来ている。

 けれども、一向に少女の胸騒ぎは収まらない。

 

 イリニ家が所有する戦争捕虜、オルヒデア・アゾトンがスコトノ家の夜会へと呼ばれたことを知ったフィリアは、ともかく手を尽くして彼女とネロミロスの接触を阻もうとした。

 イリニ本邸に連絡を入れ、すぐさまオルヒデアを連れ戻すように指図をしたが、未だ彼女を保護したとの連絡はない。

 

 そして何より彼女に絶望感を与えたのは、スコトノ家の対応である。

 少女は真っ先にスコトノ家へと連絡を取り、今すぐオルヒデアをイリニ本邸へ返せと強談したのだが、応対した家令は不得要領な返事でこちらを惑わすばかり。

 

 何事かの企みを確信した少女は、もはや事態に一刻の猶予も無いことを悟った。

 

「…………」

 

 後部シートに座るフィリアは無言でトリガーを起動し、トリオン体へと換装した。

 

 夜会に軍服姿のトリオン体で押しかけるなど侮辱にも等しい非礼だが、そんなことを気に掛けている余裕はない。

 必要とあれば武力を行使することさえ覚悟の上だ。それが後にどんな面倒事を引き起こそうとも構わない。

 

 緩やかな丘陵を超えると視界が豁然と開け、城塞の如きスコトノ本邸が見えてきた。

 

 しかし、フィリアを乗せた車両は門前で足止めを喰らう事になった。予定に無い訪問客を守衛が通さなかったのである。

 フィリアはすぐさまイリニ家の名を出し、恫喝に近い調子で守衛に迫った。

 流石に主家の名前は絶大で、守衛は哀れを催すほどに狼狽した様子で家令へと連絡を取った。

 

 が、屋敷の中から応答がない。

 守衛が内線が繋がらぬことを言い訳にした途端、フィリアは車両から飛び出し、稲妻のような速度で屋敷へと走る。

 

 そうして少女は案内も請わず、スコトノ本邸へと踏み込んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――な、なぜあの娘が何故ここに!?」

 

 スコトノ家の広壮な玄関ホールに、軍服姿の少女が立つ。

 

 帰り支度を始めていた招待客らは、一様に闖入者の姿に仰天した。

 スコトノ派閥には、イリニ家による現行の騎士団運営に不満を抱く者が少なくない。そんな彼らに最も嫌われているのが、件のフィリア・イリニなのである。

 身内だけで行われるスコトノ家の夜会に、この少女が呼ばれる訳がない。

 

 それだけでも甚だ不審であるのに、少女はあろうことか軍服姿のトリオン体という、晩餐会に有るまじき姿で押しかけたのだ。

 

「っ、騎士フィリア・イリニ! トリオン体で他家へと押しかけるなど無礼であろう!」

 

 もはや狼藉ともいえる少女の所業に、スコトノ家の郎党が声を上げて抗議する。

 

「下がれ慮外者! 私をイリニの娘と知っての放言かッ!」

 

 しかし、少女は轟然と一喝し、熾火のように炯々と輝く瞳で周囲を睥睨する。

 

 烈火の如き形相と、あたりを払う威風に、居合わせた者どもは揃って気を呑まれてしまった。普段は冷静沈着で通し、部下に対しても丁重な態度を崩さない少女が、明らかに激憤している。

 フィリアの異常な振る舞いに、帰り支度を始めていた招待客らが訝しげな視線を送る。

 

「誰か、誰かあるか! 当家の楽人オルヒデア・アゾトンは何処にいる」

 

 爆発寸前の感情を寸でのところで抑えて、少女が周囲へと問うた。

 

「……」

 

 だが、招待客は不審そうに顔を見合わせるばかり。

 

 一楽人の名前など、いちいち覚えている筈がないと言わんばかりの困惑ぶりである。目端の利く者は、演奏席で目立っていた黒髪の乙女の姿を思い浮かべたようだが、所詮はそれまでのこと。

 

 ホールに居るのはネロミロスに招かれた中小貴族ばかりである。重要機密である神の候補の情報に、触れられる者はいない。

 にも関わらず、明らかに動揺した者が数名。いずれも年若い男ばかりだ。

 この貴族の子弟たちはネロミロスに心酔すること特に厚く、彼の側仕えのようなことをしている者たちである。

 

 フィリアは彼らの一人に詰め寄ると、

 

「彼女を何処へやった。遅疑なく応えよッ!」

 

 峻烈極まる態度で詰問する。

 

「――――」

 

 フィリアの気迫に恐れをなしたのか、それともネロミロスへの忠誠心が上回ったのか、青年たちは少女の問いに黙して答えない。

 

 このままでは埒があかない。

 少女は青年たちの頬桁を殴りつけたい衝動を抑え込むと、サイドエフェクトでオルヒデアの居場所を探ろうとする。

 

「ふぃ、フィリア様。オルヒデア・アゾトンは医務室です」

 

 とその時、怯えた男の声が聞こえた。

 

 群衆をかき分けて出てきたのは、細面の神経質そうな中年男だ。

 その顔には見覚えがあった。イリニ本邸の使用人である。つまりは今晩の外出におけるオルヒデアの監視役だ。

 

「彼女はその、宴席の最中に貧血で倒れまして……」

 

 仕事を放棄した監視役に一瞥もくれず、フィリアは医務室へと向かうべく歩き出した。サイドエフェクトは既に道順を弾き出している。案内はいらない。

 

 すると、スコトノ家の郎党たちが行く手を阻もうと少女に纏わりつきだした。

 彼らを鬼の気迫だけで一蹴すると、少女はもはや居ても立ってもいられず、スコトノ邸の廊下を走りだした。

 

 そしてたどり着いた医務室は、スコトノ家の郎党によって厳重に封鎖がなされていた。

 部屋の前はおろか、そこに続く廊下にいたるまで見張りが立っている。

 

「――ッ!」

 

 絶望的な予感に身を震わせながら、しかしフィリアは立ち止まらなかった。

 

「……退け」

 

 手を尽くして押しとどめようとする郎党を、聞くだけで殺せるような声で押しのけ、少女は進む。

 尚も縋り付いてきた何人かは、トリオン体の力で躊躇なく床を舐めさせた。

 そして――

 

 開け放しとなった医務室の前で、少女は膝から崩れ落ちた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 白を基調にした簡素な部屋に、紅い色彩が咲いている。

 

 目も眩むような紅の中に、オルヒデア・アゾトンは横たわっていた。

 

 真珠のように輝いていた肌は、白蝋のように冷たい色をしている。

 

 床に渦を描く絹のような黒髪は、紅色と溶け合い不思議な色目をおりなしていた。

 

 そして、嘗て魔法のように楽器を扱い、フィリアを夢幻の世界へといざなった手。

 

 白魚のように美しくも、弛まぬ努力によって固くなってしまった指。

 

 少女に傷を刻み、そして優しく癒してくれたその指先は、ピクリとも動かなかった。

 

 それなのに、彼女は微笑みさえ浮かべて、まるで眠っているように穏やかで――

 

「…………」

 

 見開かれた金色の瞳が、オルヒデアの亡骸を映し続けている。

 

 喉元を染める鮮血。床に落ちた鋏。そして無残に引き裂かれた純白のドレス。

 フィリアのサイドエフェクトは、オルヒデアの身に起きた出来事を委細漏らさず明らかにしていた。

 

 けれども少女は呆然と腰を抜かしたまま、身動ぎ一つしない。

 慌てた様子の郎党たちは、ともかく少女を現場から引き離そうと、両脇を抱えて無理矢理引きずろうとする。

 

 視界から遠ざかっていく友の亡骸を、フィリアは何の表情も浮かべずに眺めていた。

 するとその時、遠雷のようにくぐもった男の声が聞こえてきた。

 

「――」

 

 廊下の彼方から断続的に聞こえる声は、不鮮明ながらもはっきりと怒気を孕んでいる。

 動物が音源を探るかのように、フィリアは機械的に首を動かした。

 

 そして少女は、廊下の彼方にその男の姿を見つける。

 獅子のように逆立つ金髪をした大男、ネロミロス・スコトノが、白衣を着た年配の男性の胸ぐらをつかみ、何事かを大声で喚いていた。

 

 彼自身も顔を負傷しているようで、侍女が怯えながらも流れる血を拭こうとしている。

 だがそんな侍女の献身さえ癇に障ったのか、大男が侍女を殴り倒すのが見えた。

 

 ネロミロスは混乱と激憤の渦中にあった。何せ主家が要する神の候補を、まったく無益に死なせてしまったのである。失態どころの話ではない。

 彼はオルヒデアへの呪詛を吐きながら、家付きの医師に何故助けられなかったかを詰問している。

 

 そもそも、彼はこのような事態に陥るなど少しも想定してはいなかった。

 神の候補とはいえ相手はただの捕虜、つまりは奴隷である。貴族が戯れに奴隷に手を付けることなど珍しくも無い。

 

 相手とて貴族の寵を得るまたとない機会なのだから、喜んで体を差し出すのが当然であった。よしんば拒んだとしても、逆らうことなどできはしないのだから、女は泣き寝入りするしかない。

 

 たとえ事が明るみになったとしても、所詮は実害のない話である。他家の奴隷に手を出したことは問題だが、それとて軽い注意で済む筈であった。

 それがまさか、オルヒデアが自ら命を絶つなどという、全く想定外の出来事が起こったのである。

 

 遠くに見えるネロミロスは、まだ大声で何かを叫んでいる。

 それは何とか乙女の死を事故に偽装しろという、まったく恥知らずな要求であったが、フィリアは内容など一切耳に入っていなかった。

 

 ただ、サイドエフェクトが示したことの顛末。その元凶を目の当たりにして、彼女の中で何かが千切れた。

 

「あ、あ、あああああああああああああっ!」

 

 喉奥から獣のような絶叫を迸らせ、少女が廊下を激走する。

 

 理性も分別もすべて頭から消え去ったフィリアは、ただ全身を支配する衝動に突き動かされ、ネロミロス目がけて突進する。

 疾風のような速度と身の毛もよだつ叫び声に、居並ぶ郎党は腰を抜かすばかり。

 

 異常に気付いたネロミロスが、驚愕した表情で迫りくる少女を見た。

 

 剣を抜くことさえ思い至らなかった少女だが、その身体はトリオン体である。拳一つ振るえば、男の顔面など一瞬で血煙に変わるだろう。

 生身のネロミロスに、抗する術など有りはしない。だが――

 

「――!」

 

 転瞬、フィリアの視界の半分が、突如として消失した。

 

 トリオン体を破壊できるのはトリオンによる攻撃のみ。何者かが、フィリアの半身を縦に切り裂いたのだ。

 

 一瞬の後、少女のトリオン体が黒煙を噴き上げて爆発する。

 立ち込める黒煙の中に、小さくなったフィリアがいた。トリオン体が破壊されたことで、トリガーに格納されていた生身の肉体が廊下へと現出したのだ。

 

「っう、あ、あああああっ!」

 

 それでも、少女の暴走は止まらない。

 

 フィリアは我が身に起こった出来事さえ認識できていないのか、雄叫びと共に再びネロミロスへと躍りかかった。

 

 トリオン体から生身への変化に感覚が切り替わっていないのか、少女は何もないところで足を縺れさせて転ぶ。

 彼女はすぐに立ちあがると、狂ったようにネロミロスへと挑みかかった。

 

 小柄な少女が大男に挑みかかる様は、滑稽を通り越して悲痛でさえあった。

 骨格も筋力も、何もかもが違い過ぎる。少女が必死になって攻撃を加えたところで、大男には何の痛痒も与えられないだろう。

 

 それすら分からないほどに、少女の心は絶望でどす黒く染まっていた。

 

 けれども、突如として少女の進撃は止まってしまう。

 何者かが背後からフィリアを抱きかかえ、身動きを封じたのだ。

 

「――はなせ、はなせっ! はなしてようっ!」

 

 少女は甲高い悲鳴を上げつつ、自らを拘束する腕に爪を立て、噛みつこうとする。

 腹と胸に回された腕は万力のように力強く、まったく振り解けない。少女は遮二無二後ろに手を伸ばすと、拘束者の髪の毛を毟り、耳を引っ張った。

 

 呼びかける痛切な声も、抱きしめる腕の優しさにも、少女はまるで気付かない。

 

「フィリア、落ち着くんだフィリア!」

 

 少女の暴走を止めたのは金髪碧眼の偉丈夫であった。

 

 イリニ家当主アルモニア・イリニが、悲痛な表情で姪を抱き留めているのだ。

 

 アルモニアがフィリアの暴走を知ったのは、彼女がイリニ騎士団を飛び出して直ぐのことだ。余りに突飛な少女の行動に戸惑った秘書が、ともかく教会へと直行し主人にその事実を伝えたのである。

 

 その後、アルモニアは全ての予定をキャンセルし、急いでフィリアの後を追った。事後の対応に追われ、少女に連絡できなかったことが今となっては悔やまれる。

 

 アルモニアがスコトノ家へ駆けつけた時、少女の異様な叫び声が聞こえた。

 そしてネロミロスに襲い掛かる彼女を「懲罰の杖(ポルフィルン)」で両断し、寸でのところで凶行を阻んだのである。

 

「っ……」

 

 アルモニアは精悍な顔を苦渋に歪め、なおも暴れ続ける少女を抱きしめ続ける。

 フィリアは駄々っ子のように手を振り回し、怒りと呪いの言葉を誰彼かまわず喚き散らしている。

 

 それはまさしく、癇癪を起した子供であった。

 過酷な貧民生活を生き抜くため、そして家族を護るために、早熟せざるを得なかった少女が、今初めて幼児のように感情を爆発させている。

 見るに堪えない、哀れを催すほどに悲痛な叫び声。

 

 いくら少女が暴れようと、アルモニアのトリオン体が傷つくことは無い。しかし、その胸の内には、身を切り刻むような自責の念が湧き起こっている。

 

 いつしか、少女の怒声に涙の色が混じり始める。

 訴える言葉を知らぬ嬰児のような泣き声が、長く尾を引いて屋敷中に響いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 スコトノ本邸で起きた騒動は、程なくエクリシア全土に知れ渡ることとなった。

 

 何しろ現場に居合わせた人間が多すぎた。スコトノ家の郎党はともかく、パーティーの招待客や使用人といった無関係な者の口を塞ぐには、あまりにも事件がセンセーショナルに過ぎた。

 

 死亡した奴隷の楽人がイリニ家の神の候補であったという事実は秘匿されたが、今となっては詮無い事である。

 

 民衆の間では、少女騎士フィリア・イリニに対する同情の声が圧倒的に高く上がった。

 奴隷の女を手籠めにしようとした挙句、死に至らしめたというネロミロスに非難が集まったのは当然のことだが、巷間に噂されたフィリアと被害者との友情譚も、この世論を大きく後押ししたらしい。

 

 だが、エクリシアを賑わせた騒動は思いもよらぬ展開を見せた。

 事件後、ネロミロスは捕虜を不当に虐待した廉で、アルモニアから強い譴責を受けた。

 罰則が不当に軽いように思えるが、これは法に則った順当な処分である。

 

 被害者オルヒデアの身分は奴隷であり、市民のように権利を有している訳ではない。また彼女の死因も自害であるため、ネロミロスにそこまでの罪を問うことはできなかった。

 加えて、多数の問題を抱えるとはいえネロミロスはイリニ家の柱石の一人である。これから警戒期に入ろうという時期に、スコトノ派閥の戦力を失う訳にはいかない。

 そうした政治的な向きからも、ネロミロスへの処分は寛大なものとなった。

 

 逆に、重罰を下されたのはフィリアである。

 

 彼女は他家に押し入り狼藉を働いたとして停職処分を下され、屋敷での謹慎が申し付けられることになった。

 少女への過酷な処分は、当主アルモニアの意向によるものだ。配下の家々や市民に対して、身贔屓を行わない厳格な為政者であることを示したのである。

 

 奴隷を死に追いやるより、貴族の家で狼藉を働く罪の方が重い。

 

 イリニ家の迅速で果断な裁きに、市民の事件への関心も次第に薄れていった。

 

 もうすぐ警戒期に入れば諸々忙しくなるため、市民もゴシップに現を抜かしていらなかったのだろう。

 不幸な奴隷の死は、直ぐにエクリシアから忘れられた。

 

 だが、その消せない事実に苦しみ続ける者がいる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「フィリア。少しでも構いません。何か口にしてください。サロスたちも心配しています」

 

 聖都にあるイリニ邸、そのフィリアの私室前。

 扉に向かって話しかけるのは、少女の家族のトリオン兵ヌースである。

 

 スコトノ本邸での騒動の後、フィリアはしばらく精神の平衡を失った状態にあった。

 事件を想起すれば瘧を起こしたかのように震えだし、所構わず泣き喚いたかと思えば、怒りを露わにして自傷行為に走り出す。

 

 アルモニアが謹慎処分を下したのは、彼女を人前に出さない為でもあった。少女の心は平穏を必要としていた。屋敷に収容したのは、彼女を少しでも安楽な環境に置きたいが故である。

 

「……食事を置いておきます。どうか、身体を大事にしてください」

 

 扉からはいくら経っても返事が返ってこない。

 食事を乗せたカートを部屋の前に置くと、ヌースはどこか悄然とした様子で廊下を去っていく。

 

「…………」

 

 その扉の向こう、照明の落とされた薄暗い部屋の中に少女の姿はあった。

 

 貴族の居室としては調度品の少なすぎる部屋。天蓋付きの豪奢なベッドの上で、フィリアは膝を抱えて座っている。

 

 食事は喉を通らず、胃液だけを吐き続けた頬はげっそりとこけ、ひと時の安眠さえ得られない毎日に、目元には深いくまができている。

 もう幾日風呂に入っていないのか、油の浮いた髪はぼさぼさに乱れ、顔色は死人のように悪い。

 

 アルモニアによって保護されたフィリアは、ともかく聖都のイリニ邸へと連れ帰られた。

 その後、少女はしばらく混乱状態が続き、しばしば錯乱を引き起こした。

 

 現在は何とか落ち着きを取り戻したが、今度は陰鬱とふさぎ込み、食事もとらずに部屋に引きこもっている。

 少女は誰とも口を利かず、アルモニアが手配した医師はおろか、パイデイアら家族の面会にさえ応じようとしない。

 

 家族を誰よりも愛し、心の拠り所としている少女が、何故彼らを顧みないのか。

 それは少女が、己が家族と触れ合う資格を失ってしまったと認識しているからに他ならない。

 

「…………」

 

 生気を感じさせない落ち窪んだ瞳で、フィリアは茫洋と扉を眺めた。

 食欲はまるでなく、また胃に物を入れたところですぐに吐き戻してしまうのだが、それでも一応は食事に手を付けようと少女は立ちあがる。

 

 すると視界の端、サイドテーブルの上に、瓶詰のポプリが見えた。

 

「~~~~ッ!」

 

 脳裏にオルヒデアとの思い出が鮮明に浮かび、少女は途端に口元を抑えてえずきだした。

 沸き起こる吐き気を抑えながら、部屋付きの洗面所へと駆け込み、胃液をぶちまける。

 最早何度目かも分からない嘔吐に、なけなしの理性と気力が持ち去られていく。

 

「っはぁはぁ……」

 

 洗面所の床に力なく座り込む。

 

 少女の心がここまで追い詰められてしまったのは、オルヒデアの死を通して、自らが成した罪科に気付いてしまったからだ。

 

 混乱から我を取り戻したフィリアは、当然のように友人に死をもたらしたネロミロスを激しく憎んだ。だが、その死の遠因を考えていくにつれ、少女は自らの身体が氷のように冷えていくのを感じた。

 

 ――オルヒデアの死は、すべてフィリアに責がある。

 

 彼女が惨死したのは、楽人になったからでも、少女と友誼を結んだからでも、エクリシアに捕らわれたからでもない。

 彼女の兄ロア・アゾトンが死んだとき、オルヒデアの死は確定した未来となったのだ。

 

 もし彼女がフィリアの攻撃を凌ぎ切り、ポレミケスに残ったとしても、兄の死を知った彼女は緩やかな死を選んだだろう。

 それは命よりも大切な家族を持つ、他ならぬフィリアだからこそ分かる。家族を失えば、フィリアとて生きていられる筈がない。オルヒデアが最後に尊厳を護ったのは、それ以外のすべてを失っていたからだ。

 

 ポレミケスへの侵攻を立案し、推し進めたのは紛れもないフィリアである。

 少女が運命に関わってしまったが故に、乙女は非業の死を遂げることになったのだ。

 

 そしてオルヒデアの死は、フィリアにもう一つの真実を突きつけた。

 すなわち、少女が引き起こした数々の死、その揺るがし難い罪咎である。

 

「うあっ、――ぐぷっ」

 

 遠征から帰って数日後、フィリアはバムスターやワムから取り出され、小山のように積まれたトリオン機関を見た。

 

 ――あの白いキューブの一つ一つに、人の命が宿っていたのだ。

 

 彼らはオルヒデアと同じく、少女にとって何の恨みも因果もない、それどころか戦う力さえ持たない人々であった。

 彼らにも幸福な人生があり、掛け替えのない家族がいたはずだ。

 彼らもオルヒデアと何ら変わらぬ、善き人々であったはずなのだ。

 

 それをフィリアは、何の思慮も巡らせることなく、まるで草を刈り集めるかのように無慈悲に奪った。

 

 己の成した罪科に慄然となった少女は、それきり何も考えられなくなった。

 ただ沸き起こるのは、血に塗れた己に対する深い嫌悪と、家族との縁に縋れなくなった絶望だけであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうしてどれ程の時間が流れただろうか。

 

 吐く物も吐きつくし、流す涙も尽きたフィリアは、洗面所へと座り込み、ただガラス玉のような瞳で茫漠と中空を眺めていた。

 

 栄養失調に不眠を重ねた脳は、まともに思考を結ばない。

 家族との絆も、教会の聖句も、彼女の心を救ってはくれなかった。

 夢と現が曖昧になった少女の脳裏には、今までの記憶が断片のように蘇る。

 

 それは彼女が受けた、痛みと屈辱の日々であった。

 

 ただ肌の色が違うというだけで手ひどく殴られ、口汚く罵られた。

 やがて人目につかぬことを学習し、鼠のように薄暗い路地をはいずり回るようになった。

 食べられそうな物ならなんでも口にした。空腹を紛らわせるため泥水を啜ったこともあった。

 そんなみすぼらしく、惨めで汚い少女に、記憶の中の誰しもは嫌悪の眼差しを送り、侮蔑の言葉を吐きかけていた。

 

 ――何故?

 

 その疑問の答えは、既に知っている。

 それはフィリアがノマスの血を引く、呪われた子供だからだ。

 

 生んでくれた母を喪い、育ての親まで病気にした。

 友人から最愛の家族を奪い、命まで捨てさせた。

 無辜の人間を数多く殺め、その上まだ屍の山を築こうとしている。

 少女は関わる者を不幸にし、死と破壊だけを振り撒いてきた。

 

「ああ、なんだ……」

 

 擦れた声が、乾いた唇から零れる。

 

「何を勘違いしてたんだろう。私は……」

 

 彼らは何も間違っていなかった。フィリアは呪われた、忌むべき人間だったのだ。

 だからこそ、少女は家族の為に尽くしてきた。

 少女を受け入れてくれた最愛の家族。その幸せだけを願って、今日までを生きてきた。

 

「私は……幸せになるべきじゃなかった」

 

 少女の喉奥から、くぐもった声が絞り出される。

 血が滲むような、乾いてひび割れた奇怪な声。

 

 段々と音量を増し、狭い洗面室を揺るがすそれは、少女の哄笑であった。

 

「私なんかが、何も貰っちゃいけなかった」

 

 黄金の瞳に、鈍く澱んだ光が灯る。

 

 少女は今、自分の進むべき道をはっきりと見出した。

 彼女が求めるものは、愛する家族の幸せな未来。

 それ以外は何もいらない。近界(ネイバーフッド)の全ては、その願いのために使い潰されるべきなのだ。

 

 家族に幸せな未来を齎すためには、世界を「こちら」と「あちら」に分けなければならない。そして、罪なき人々を傷つけた自分は、もう「こちら」側には居られない。

 

「私は、ただの剣になればよかったんだ」

 

 家族の未来を妨げる者は、全て斬る。もし己自身がその道に立ちはだかるのなら、それすら斬って捨てればいい。

 

 誤った悟道に達した少女は、顔を喜悦に歪め、何時までも高らかに笑い続けた。

 

 

 

                                    第四章へ続く

 

 

 



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第四章 「こちら」の話
其の一 決戦前夜 少女の決意


 そこに住まう人々に如何なる悲喜劇が起きようとも、惑星国家は常と変らぬ運行を続ける。そうしてエクリシアにも、また新たな一日が訪れた。

 

 稜線から顔を出した人工の太陽が、柔らかな光で聖都の街並みを淡く照らし出す。

 雲一つなく晴れた空。清澄な空気が徐々に熱を帯びていく。

 

 窓から差し込む白い曙光に照らされ、フィリア・イリニは金色の瞳を微かに細めた。

 調度品の極端に少ない、それでも貴族の邸宅らしい豪奢な造りの私室。窓際に置かれた文机の前に、少女は一人で立ち尽くしている。

 

 オルヒデアの死に幼い心を軋ませた彼女は、一時は精神の平衡を失い、体調を崩すほどに憔悴していた。

 しかし今、陽だまりに立つ少女は瑞々しい活力に満ち、所作や佇まいも年齢にそぐわぬ落ち着きぶりを取り戻している。

 まるで過去の懊悩などなかったかのように、清冽な威風を纏った少女。

 

 だが、その表情からは、重大な何かがごっそりと抜け落ちていた。

 滑らかな褐色の肌に、雪のように白く繊細な髪、そして長い睫毛に彩られた黄金の瞳。多分に幼さを残しながらも、それゆえに神秘的な美しさを宿した少女の顔かたち。

 

 その稀有な美貌が、まるで不出来な人形のように不気味な印象を発しているのだ。

 ただ無表情なだけではない。何か人間としてあって然るべきモノがない。そういった違和感から来る恐ろしさが少女にはあった。

 

「…………」

 

 その時、塑像のように固まっていたフィリアの顔に、俄かに感情の色が差した。

 紛れもない哀切の情を浮かべた少女は、手元をそっと顔へと近づける。

 

 掌にあるのは、六つの宝石と真珠のように輝くトリオン球で彩られた銀の鍵。

 家族との絆の象徴であるペンダントに、フィリアはそっと口づけをする。

 

 名残惜しそうにその輝きを眺めるも、やがて彼女はペンダントを机の引き出しの中へと収めてしまう。

 穢れ呪われた己が、もう二度と家族の絆に縋らぬように。それは少女の悲痛な誓いであった。

 

 スコトノ家の騒動で科せられた謹慎が、今日を以て解ける。

 長き煩悶の末に、少女は戦場に立つ決意と意義を取り戻していた。

 己の為ではない。すべては愛する家族の為に、彼らの幸福に満ちた未来の為に。

 

 少女の顔から、再び感情が消失する。

 もはや一個の機械と化したフィリアは、颯々たる足取りで私室を後にした。

 主の去った物寂しい部屋を、日光が伸びやかに照らしていく。サイドテーブルの上に置かれたポプリの小瓶が、光を受けて美しく輝いていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 復帰したフィリアはイリニ騎士団の砦に着くや、まずネロミロスの元へと向かうと、己の所業を深々と謝罪した。

 ネロミロスとその一党の感情はともかく、衆目の前で詫びを入れることで、一応の義理を果たした形である。

 

 とはいえ、騒動についての世評は圧倒的にフィリアへの同情が勝っており、ネロミロスの風評は非常に悪い。処分が軽く澄んだとはいえ、彼らにとって面白い話ではない。

 

 フィリアもそのことは承知しているようで、騒動についてはまるで遠い過去の出来事のように、深入りをせずに淡々と話を済ませた。

 実際の所、仇敵ノマスとの邂逅が近づいたこの時期に、味方同士で諍いを起こしている余裕はない。

 早晩来たるノマスとの決戦に向けて、エクリシア全土が緊張に包まれているのだ。

 

「フィリアさん。もう出てきても大丈夫なの?」

 

 同僚への挨拶回りを終えて執務席に戻ったフィリアに、紫髪の麗人メリジャーナ・ディミオスが心配そうに話しかけた。

 

「はい。大変なご迷惑をおかけしました。体調はばっちりです」

 

 答える少女の眩い笑顔は、まるで絵に描いたように美しい。

 

「そう。それは……良かったわ」

 

 しかし、フィリアと付き合いの長いメリジャーナはその笑顔に怖気を感じ、知らずと声を震えさせた。

 

 彼女の知る少女は、決してこんな笑い方をしない。

 一片の陰りのない笑顔はしかし、まるで木を彫って拵えた人形を無理に撓めたような、歪で虚無的な印象を発しているのだ。

 少女は決して大仰な反応をする子供ではなかったが、それでも感情量は人並み外れて豊かである。そんな彼女の胸の内から溢れた尊い一滴が、見る者を蕩けさせる美しさとなったのだ。

 

 難しい立場故に、努めて感情を抑えて振る舞っていたことはあっただろう。だが断じて、少女はこのように作り物めいた顔をしたことはない。

 

「……フィリアさん。私や父様、テロスはあなたの味方だから、何でも相談してくれて、もっと頼ってくれていいのよ」

 

 少女の心が未だに癒えていないことを確信したメリジャーナは、真摯な態度でそう呼びかける。

 

「はい。皆さまのことは何時も頼りに思っています」

 

 だが、少女はあくまでも空疎な声で応える。

 

「……うん。それだけは忘れないでね」

 

 この近界(ネイバーフッド)では、人の死は日常茶飯事に起こる出来事である。

 親しい人が理不尽な災禍によって命を失うことも、逆に己が見ず知らずの他者の命を奪うことも、この残酷な世界では何ら珍しい事ではない。

 

 だからといって、近界(ネイバーフッド)に住まう人々が冷血な殺戮機械だということはない。彼らとて血の通った人の子である。死を悼み、恐れ、嫌う感情は、誰しもが持ち合わせている。

 

 だが、死と触れる機会の多さが、やがて彼らを死に慣らしていく。

 死は誰しもに理不尽に訪れる仕方のないものであると、そう体得することが、延々と続く戦乱の世界で暮らす彼らの処方なのだ。

 

 その意味では、程度はともかくフィリアが来たした変質は珍しいことではない。

 過酷な戦場を駆け抜けるトリガー使いは、誰もが否応なく人の死に直面することになる。

 生死について思いを馳せるあまり、出口のない思考の迷宮に閉じ込められる者や、殺人に対する罪悪感に耐えかねて心を壊してしまう者も多い。

 

 かくいうメリジャーナも、初陣を果たした日の夜は遠征艇で一晩中嘔吐し、その後しばらくは精神に変調をきたした。今でも時々、命を奪った人間の夢を見る。

 善良な人間であるほど、殺人への罪の意識は重く圧し掛かり、容易には拭い去れない。

 ましてやフィリアはまだ年端もいかない子供である。それも友誼を結んだという捕虜の死を引き金にして罪の意識に目覚めたというのだ。耐えられる訳がない。

 

 それでも、少女が騎士としての生を望むのなら、他者の死を乗り越えていかねばならない。こちらとあちらを峻別し、我を生かすために他を殺すのが騎士の責務なのだ。

 

「でも、復帰おめでとう。ゆっくり慣らしていけばいいからね」

 

 一言二言の会話では、到底少女の心は解きほぐせない。メリジャーナは心痛を覚えながらも職務に戻った。

 

 そうして復職したフィリアであったが、その働きぶりは見事の一言に過ぎた。

 午前に参加した戦闘訓練では、十人がかりの従士をかすり傷一つ負わずに圧倒し、その後の検討会では従士一人ずつに丁寧で的確な指導を行うなど、戦士としての練達ぶりを申し分なく発揮した。

 揉め事を起こして謹慎していたなどと誰が信じようか。辺りを払う凛々しい威風は、イリニ騎士団が誇る天才騎士に相応しいものであった。

 

 そして事務仕事に対しても、少女は謹慎以前よりも精力的に取り組んだ。自分の受け持ちだけではなく、執務室内の細々したことにも気を回すため、同僚の仕事まで捗らせる始末である。

 フィリアがここまで熱心に仕事に取り組むのは、やはりノマスの接近が近いからだ。

 少女が謹慎中に行われた砂塵の国アンモスへの遠征では、残念ながら神の候補となる逸材を捕らえることはできなかった。

 

 神の代替わりまで、もう然程の時間は残されていない。

 あと数年のうちに、パイデイアを上回る神の候補を探し出さなければならない。大国ノマスは格好の標的である。彼の国ならば、条件に適うトリオン機関の持ち主もいるだろう。

 だが、フィリアは謹慎が解けたばかりの身である。遠征に参加できるかは甚だ怪しい。

 ともすれば、具申を聞き入れてもらうことさえ怪しい立場なのだ。

 

 一刻も早い失地回復のため、少女は功績を積む必要があった。その為には誠実な仕事を積み上げていくほかない。そして――

 

「ねえフィリアさん。復職祝いにどこか食事にでも行かない?」

 

 退勤時間も間近に迫った夕刻。

 執務室へ続く通路をフィリアと連れ立って歩いていたメリジャーナは、明るい調子でそう誘った。

 今少女が必要としているのは、日常への回帰であろうと彼女は考えている。

 心の傷を癒すのは時間でしかないが、それでも何事かをしていれば気は紛れる。

 

 フィリアが復帰するなり激務をこなしているのは、まさしくその為だろうとメリジャーナは見当をつけていた。せめて楽しい経験を積ませてやれば、少しでも慰めになるだろうとの気遣いである。だが、

 

「ありがとうございます。ですが残務を少しでも処理しようと思いまして……」

 

 と、フィリアは遠回しに拒絶する。

 出会ったばかりの頃のような儀礼的な物言いに、メリジャーナの胸が針で刺されたように痛んだ。

 

「だ、大丈夫よ。まだそんなに急ぐような案件はなかったじゃない」

 

 彼女はめげずに声を掛け続けるも、少女は頑なに首を縦に振らない。

 

「そ、そう……なら、また今度にしましょう。ね?」

 

 誘いを断られたメリジャーナは、消沈したように肩を落とした。無表情で隣を歩く少女を見て、まだ外出できるほど落ち着いていないのだと己を勇気づける。すると、

 

「……お疲れ様です」

 

 二人は年若い男性の従士と通路で行き違う形になった。

 当然従士は道の端により、敬礼を以て騎士たちを迎えている。

 部下の前で緩んだ姿を見せられない騎士二人は、雑談を止めると威儀を正して返礼をする。だが、横を通り過ぎるその刹那、

 

「――奴隷の子め」

 

 と、若い従士が小声でそう呟くのが聞こえた。

 

 入団以降確実に声望を増しているフィリアであったが、その活躍が輝かしいほどに、生み出す影も濃くなる。

 先のスコトノ邸での一件についても、多くの者は弱者への慈愛を示したフィリアに肯定的であったが、そもそも彼女を忌み嫌う一部の人間は、他家の邸宅に踏み込んで狼藉を働いた少女を、僭上著しい成り上がり者としてしか捉えていない。

 

 そもそも彼自身もスコトノ派閥の一員なのだろう。イリニ騎士団でも屈指の大派閥で多数の権益をもつ彼らからすれば、先の騒動など如何ほどのことでもないはずなのだが、面子を潰されたという恨みは早々抜けるものではない。

 

 今までフィリアに対する蔭口は少なからずあったが、此処まで露骨な悪罵は初めてである。目下の者にも礼儀正しい少女を知っていて、敢えて聞こえるように口にしたのだろう。

 

「~~~~っ!」

 

 メリジャーナの端正な顔が憤怒に染まる。

 今までは少女の顔を立てて黙ってきたが、流石にこれほどの無礼は許せない。

 

「あなた――」

 

 従士を叱責するためメリジャーナが振り返る。

 そこで彼女が見たのは、薄笑いを浮かべたまま宙を舞う従士の生首であった。

 

「――えっ?」

 

 間の抜けた声とともに、従士のトリオン体が黒煙を噴き上げて爆発する。

 見れば、隣を歩いていたフィリアがブレードトリガー「鉄の鷲(グリパス)」を振り抜いていた。

 何時の間に現出させたのか、そしてどのように首を刎ねたのか。同じ騎士であるメリジャーナにしても定かではない、正に神速の斬撃である。

 

「あ――ひっ……」

 

 生身に戻った従士が事態を理解するのには、数瞬の時を要した。

 その間に、フィリアはうすら寒いほどゆっくりと従士に向き直り、顔を覗き込む。

 

「仕置きの理由、説明は不要ですね?」

 

 まるで野に咲く可憐な花を見つけたような微笑みを浮かべ、少女がそう尋ねる。

 

「貴族、上官への不敬。どれ程の罪にあたるかも、御承知の上ですか?」

 

 恐れおののく従士に向かい、弄うような声で囁くフィリア。

 少女が手に提げた剣を無雑作に動かすと、従士は短い悲鳴を上げて全身を硬直させる。

 少女は変わらず美しい笑みを浮かべているが、底知れぬ洞穴を覗き込んだかのような不気味さに、従士は恐怖の余り失禁さえしかねない様子である。

 

「――じ、自分は……そ、そんな――っ!?」

 

 命の危機を如実に感じ取った従士は、悲鳴にも似た声で弁解と謝罪を述べようとする。

 それを阻んだのは、従士の頬を撫でたフィリアの細い指だ。

 

「――ふふっ」

 

 驚愕に目を見開く従士に、フィリアがわざとらしい笑い声を上げる。そして、

 

「聞かなかったことにします。今回だけですよ」

 

 凄絶な笑みを浮かべて、噛んで含めるようにそう言う。

 

「あ……あ……」

 

 プレッシャーの余り、言葉の意味を解することさえできない従士を尻目に、フィリアは悠然と通路を歩き始めた。

 一拍おいて、我に返ったメリジャーナが急いで後を追う。

 

「ちょ、ちょっとフィリアさん! いくらなんでもあれは……」

「やり過ぎ、と思われますか?」

 

 非難しようとしたメリジャーナに、フィリアは恬然とした様子で問いかける。

 

「う……そ、それは……」

 

 どう解釈しても、先の少女の行為は温情に溢れた処置に他ならない。

 貴族への面罵など、表沙汰になればよくて騎士団からの放逐、悪くすれば即座に手打ちにされても文句の言えない大罪である。

 少々脅しつけただけで不問に処すというのは、寛大に過ぎる判断であろう。

 

 メリジャーナが慄然としたのは、トリオン体とはいえ躊躇いなく首を刎ねた少女の行いについてである。

 行為に問題はない。貴族の面目を護るためなら、むしろ賞賛されるべき行いである。

 しかし、他ならぬフィリアが、あの心優しい少女がそれを成したとは、俄かに信じがたい思いがあった。

 

「でもフィリアさん、らしくないわ。あなたはあんなことをする子じゃ……」

 

 痞えがちに、それでも懸命に言葉を紡ぐメリジャーナ。そんな友人に、フィリアは緩く頭を振って口を開く。

 

「嬉しいと弱いんです。楽しいと脆いんです。幸せだと、壊れるんです」

 

 少女が唐突に何事かを呟き始めた。

 メリジャーナは少女の平静な声に、狂おしいまでの情動が隠れ潜んでいることを鋭敏に感じ取った。

 

「な、なにを……」

 

 乞い縋るようなメリジャーナに、フィリアは張り付いた作り笑顔を向け、

 

「私、メリジャーナさんには一杯、いろんなことを教えていただきました。私に姉さんがいたら、きっとこんな風なんだろうなって、いつも思っていました。

大好きですよメリジャーナさん。でも――もう私に、これ以上良くしないでください」

 

 と、そう告げる。

 

「――――ッ!」

 

 少女は言い終えると、一礼してその場から立ち去った。あまりの告白に絶句したメリジャーナは、小さくなっていく背中を見送る事しかできない。

 

虚ろな笑顔と、機械のような声。

メリジャーナは気付いてしまった。フィリアの傷心は、時と共に快癒するようなものではない。幼い心には深々と亀裂が走り、今まさに砕け散る寸前なのだと。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 格調高い調度の数々で飾り付けられた、イリニ騎士団の総長室。

 麦穂のような金髪と翡翠のような瞳をした偉丈夫が、豪奢な袖付きの椅子に腰掛け、投影モニターを眺めている。

 イリニ騎士団総長アルモニア・イリニは、花の香りが漂う荘厳な執務室で、来たるノマスとの邂逅に向けた計画書を読んでいた。

 

「やはり、こちらから打っては出られんか……まあ、当然だわな」

 

 執務室に響いた低い声は、応接用のソファーから発せられた。

 焼けた肌に薄茶色の瞳をした禿頭の男性は、イリニ騎士団第一兵団長ドクサ・ディミオスである。

 まるで我が家のように寛いだ様子のドクサは、しかし眼だけは真剣そのもので、アルモニアと同じ計画書を眺めている。

 

「神の代替わりを控えた時期だ。無用の危険を冒す訳にはいくまい」

 

 アルモニアがそう言って、モニターから視線をドクサへと移す。

 総長室で行われているのはノマスへの対策とその確認のための会議である。

 二人きりで意見を交わしているのは、ドクサがアルモニアにとってもっとも信任厚い腹心であるからだ。

 

「とはいえ、下の者には騒ぐ輩も出ような。近頃勝ち戦続きで、少々浮かれすぎている」

 

 と、ドクサがひょうげた口調でそう呟く。

 

 三大騎士団首領によって、幾度となく行われたノマス対策会議の結果、次回の邂逅期には、エクリシアはノマスに遠征を行わず、鉄桶の陣を敷いて迎撃に徹することに決まった。

 神の代替わりということを考えれば当然の判断だが、血気盛んな従士の中にはこれを弱腰と判断する者も出るだろう。

 

「若い世代はノマスの脅威を知らない。……前回は、余りに勝ち過ぎた」

 

 アルモニアは何処か遠い目をしてそう呟く。

 十余年前の邂逅期には、エクリシアは大部隊を編成してノマスへと侵攻し、史上にも稀な凄まじい戦果を挙げた。それ故だろうか、若年世代にはノマスの脅威を過去の話と断じ、侮っている者も少なくない。

 

「あの激戦からもう十年以上か。月日が経つのが早い。俺も齢を喰う訳だな」

 

 苦笑するドクサに、アルモニアの険しい顔も幾分緩む。

 

「そう老け込む齢でもあるまいに……ともかく、万全の態勢を期さねばならん」

 

 ノマスの強みは、突出した技術力によって生み出されるトリオン兵にある。

 戦士たちもトリオン兵との連携を前提としたトリガーを装備しており、狩猟国家の名が示す通り、敵を集団で追い立てる猛獣のような戦術を基本としている。

誓願の鎧(パノプリア)」によって個の戦力を高めるエクリシアとは対照的な戦術だが、その精強さは近界(ネイバーフッド)に轟いている。

 

「先の戦争よりも、一層強化されたトリオン兵が出てくるだろうな」

 

 ドクサがうんざりとしたようにぼやく。

 

 ノマスは近界(ネイバーフッド)で普及しているトリオン兵に加え、独自開発した多種多様のトリオン兵を有する。その中でも特に傑作機とされているのが、超大型犬ほどの大きさをした集団戦闘用トリオン兵ヴルフである。先の遠征ではこのトリオン兵に熟練の騎士たちが大層手古摺らされた。

 そして、先の大戦には間に合わなかったようだが、当時開発中であったとされる新型トリオン兵も、今回の戦闘には投入されることだろう。

 

「問題は(ブラック)トリガーだ。何本投入してくるかで戦況は大きく変わる」

 

 アルモニアの指摘に、ドクサはもっともだと頷いて返す。

 (ブラック)トリガーは用い方次第で戦局を覆すことができる戦略兵器だ。いくらエクリシアの誇る「誓願の鎧(パノプリア)」といえど、(ブラック)トリガーを抑えることは容易ではない。

 

 前回から増減が無ければ、ノマスが所有する(ブラック)トリガーは五本である。大国と呼ばれるに相応しい数だ。

 基本的には本国の守りに使われる(ブラック)トリガーだが、ことノマス限って言えばその理屈は当てはめられない。エクリシアとの確執は、もはや利害損得の埒外にあるからだ。

 

「判明している四本については、対策は協議済みだ」

 

 アルモニアが資料をスクリーンに映しながらそう言う。

 

 度重なるノマスとの交戦の結果、彼の国が有する(ブラック)トリガー「万化の水(デュナミス)」「巨人の腱(メギストス)」「凱歌の旗(インシグネ)」「報復の雷(フルメン)」「悪疫の苗(ミアズマ)」五本のうち、国宝たる「万化の水(デュナミス)」以外の性能、特性は既に明らかとなっている。

 

 いずれ劣らぬ難敵揃いだが、有効な対処方法は検討され尽くしている。有利な相性のトリガーを当てることができれば、勝算は十二分に立つ。

 また(ブラック)トリガーの数でいえば、エクリシアは八本もの数を有しており、ノマスに大差をつけている。

 そもそも国力自体もエクリシアが大幅に上回っており、動因できる兵力は明らかに我が方が上だ。本国に引き入れての防衛線ということもあり、エクリシアの優位は揺るがないだろう。

 

「砲撃型が増えたのは嬉しい誤算だったな」

 

 と、ドクサが防衛計画書を眺めながら呟く。

 

 ノマス侵攻に対するエクリシアの防衛計画は、有無を言わさぬ物量戦である。

 エクリシアが開発した(ゲート)誘導装置のお蔭で、ノマスの出現位置は国土の端に設けられた隔離戦場に限定される。

 すり鉢状の荒野となった隔離戦場の周りには、十重二十重の防御陣地が築かれており、多数の砲台が設けられている。荒野の中央に出現を余儀なくされた敵兵は、雨あられと降り注ぐ砲火の前になすすべもなく吹き飛ぶことになる。

 

 敵の(ブラック)トリガーの中に、砲撃戦に特化したタイプは確認されていない。爆撃で敵の頭を押さえてしまえば、如何にノマスが精兵を送り込もうとも成す術が無いだろう。

 加えて、エクリシアには「劫火の鼓(ヴェンジニ)」と「灼熱の華(ゼストス)」という絶大な火力を誇る砲撃型(ブラック)トリガーがある。

 これらに間断なく撃ちこまれては、如何な大国であろうとまともに進軍できる筈がない。

 不測の事態に対する細かな計画も練られており、一先ずの所、本国防衛策は万全のように思えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 そうして一通り防衛計画の確認が済むと、

 

「それで、我らが姫君はどうするつもりだね?」

 

 と、ドクサは大げさなため息と共に、さも気乗りしないように呟いた。

 

「下の連中は当然あの子が出ると思っとるし、事情を知らぬ騎士も同じ考えだろう。実際、あの子の技量とサイドエフェクトの有用さは、内外に知れ渡っとる」

 

 イリニ騎士団の重鎮が話題にしたのは、復帰したばかりのフィリアの処遇についてである。未だ精神状態の不安定な彼女を、ノマス防衛戦に投入するかどうかをアルモニアに問うているのだ。

 

「……防衛計画は、フィリアを用いずとも十全に機能するはずだ」

 

 アルモニアは暫しの黙考の後、静かに口を開いた。

 

「それでも「直観智」のサイドエフェクトがあれば、不測の事態にもすぐに対応できるはずだ。引っ込めておく理由にはならん」

 

 ドクサが忌々しげに言い捨てる。そして、

 

「それに、外向けの話としても如何にも不味い。我々が煽った面もあるが、あの子は市民の間で有名になりすぎた。折角あの子がこの国に受け入れ始められたんだ。ノマスとの戦いに不参加とくれば、要らぬ風評が立たぬはずがない」

 

 そのまま言葉を続け、総長の反応を窺う。

 ノマスとの戦いは、フィリアがエクリシアで生きるためには避けて通れぬ道である。

 敵国の血を引くが故の人気である。ここでノマスと戦わねば、市民たちは一斉に少女へ猜疑の目を向けるだろう。

 

「あの子は、レギナの娘だ」

 

 と、それまで聴くに徹していたアルモニアが、冷厳な声でそう言う。

 

「フィリアの姿を目にすれば、ノマスの兵たちは必ず二人を結びつけるだろう。その時、彼らがどういう行動に移るかは予想できない」

 

 ドミヌス氏族、モナルカの子レギナ。

 彼女はイリニ騎士団が誇る天才騎士フィリア・イリニの生母である。

 レギナはノマスで最も有力な氏族の娘にして、同国のトリオン兵技術を飛躍的に発展させた天才エンジニアだ。彼女は十余年前に行われたエクリシアのノマス遠征にて、イリニ騎士団によって捕らえられた。

 

 高貴な血筋と優秀なトリオン能力、そして優れた技術を持つ才媛の獲得は、先の戦争のエクリシア勝利を象徴する出来事であった。

 しかし当然ながら、自国の姫君を奪われたことは、ノマスにとっては忘れぬことのできぬ屈辱と憎悪の過去である。

 

 レギナはもうこの世にいないが、その娘のフィリアは健在だ。

 そして悪い事に、成長したフィリアは正にレギナの生き写しのような容姿となっている。

 フィリアの存在がノマスに知られれば、彼女が何らかの策謀の標的となることは充分に考えられた。

 故に、アルモニアは少女を前線に出すべきではないと言う。

 

「フィリアは予備兵力として聖都の防備に回す。それが一番穏当だろう」

 

 形式として参戦はさせるが、最前線となる隔離戦場には出さない。それがアルモニアの下した判断である。少女をノマスから遠ざけつつ、市民や騎士団からの不審の目を躱すとなるとそれしかない。

 

「まあ、そうするしかあるまいな。……だがそもそも、本当にあの子を戦わせるつもりかね?」

 

 総長の判断に一応は賛同しながらも、ドクサはそう問い掛ける。

 

「メリジャーナとテロスがな、あの子を休職させるべきだと談判しに来おった。これ以上フィリア嬢を戦場に立たせれば、早晩取り返しのつかないことになるとな。……なあ、それはお前さんが一番分かってるんじゃないのかね」

 

 ドクサは両の手のひらを組み、神妙にアルモニアへと問いかける。上司と部下ではなく、三十余年来の付き合いとなる、気の置けない友人としての忠言である。

 

「人の生き死にに思い悩むのは、この世界では誰もが患う麻疹のようなものだ。だが、中には麻疹で命を落とす者もいる。あの子の事を思えば、ここいらが良い潮時ではないかね」

 

 ドクサの言葉に、アルモニアは秀麗な容貌をわずかに歪め、

 

「ああ、その通りだ。……けれど、あの子は承服すまい」

 

 ため息とともにそう言う。

 

「あれはパイデイアの代わりが見つかるまで、決して戦いを止めないだろう」

 

 アルモニアが渋面と共に指摘するのは、フィリアが胸に秘めた堅固な決意だ。

 

「騎士団にあの子を入れたのは、その方が彼女のためになると考えたからだ。……あの子は苦難多き生を受けた。体力を付け、戦う術を覚えておいても、これから先に邪魔になることはないだろうと思っていた」

 

 アルモニアは訥々と言葉を続ける。それは大貴族の当主として、騎士団の総長としては決して吐くことのできない、家族を思う一人の男としての弱音である。

 

「あの子は最初から気付いていたんだ。二人目の母を喪う未来を。そしてそれ故に、運命を覆す力を求めた。その結果がこれだ」

 

 アルモニアの眉間に、深い縦皺が刻まれる。

 

「やはりあの子はレギナの子だよ。意志の強さも、心の有り様も、本当に瓜二つだ」

 

 もはや苦悩を隠しもせず、アルモニアがそう吐露する。

 

「だが、あの子がこれからどう生きるとしても、ノマスとの対峙は避けて通れないだろう。武器を取り上げることはできない。少なくとも、今は」

 

 そう言って、金髪の偉丈夫は言葉を切る。

 もしもフィリアを強権的に軍から遠ざけるとしても、それはノマスとの邂逅を終えてからだ。ノマスの苛烈極まる侵略を前にして、自衛手段を持たせない訳にはいかない。

 

 そしてそれが済めば、彼女と未来について話し合わなくてはならない。

 パイデイアがなぜ己の身を捧げるに至る決心をしたのか。アルモニアが何故それを認めたのか。そして、彼女の生母であるレギナが最期に何を願ったのかを、少女に改めて伝えねばならない。

 

 フィリアはこれから先も、決して近界(ネイバーフッド)の残酷な掟を受け入れることはできないだろう。それは彼女が二人の母より受け継いだ、人としての変えられない性質だ。

 

 故に、少女は選択しなければならない。

 世界の残酷さに目を瞑り、耳を塞いで安寧な暮らしを得るのか。それとも、自らの足で立ち、苦難と悲哀に満ちた世界を歩んでいくのか。

 

「……子供の面倒を見るのがこうまで大変だとは、思いもしなかった」

 

 アルモニアが乾いた笑声とともにそうぼやく。ドクサは喉奥からくぐもった笑い声を漏らし、

 

「何年人の親をしていても、年頃の娘の事なんぞ男親にはさっぱりわからんよ。それに、お前さんはまだ新米もいい所じゃないか。お嬢ちゃんとはこれから仲良くなればいい。遅すぎることなんて何もないさ」

 

 と、茶目っ気たっぷりにそう言う。

 

「……そうだな。少しは気が楽になった。だが、すべてはノマスを退けてからだ」

 

 アルモニアは投影モニターの電源を落とし、肘掛け椅子から立ち上がる。

 国家の命運も、少女の未来も、すべては戦場を超えた先にある。

 上着に袖を通し、アルモニアはドクサを伴って執務室を後にした。来たる地獄へ向けて、男たちは決然と歩を進める。

 

 

 



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其の二 決戦前夜 諸人の祈り

「はぁ……」

 

 真新しい家具が並べられた豪奢な部屋に、悩ましげなため息が溶ける。

 聖都の貴族街に立ち並ぶ大邸宅の一つ、グライペイン家の一室で、ゆったりとした部屋着に身を包んだメリジャーナが、ソファーに力なく腰掛け、鬱々と物思いに耽っていた。

 

「ともかく、フィリア様に休息が必要なことは、アルモニア総長も御承知の上だろう。ただそれでも、彼女には参陣していただかなくてはならない」

 

 そんな彼女に話しかけたのは、眉目秀麗な金髪の若者、イリニ騎士団第二兵団長テロス・グライペインである。

 

「それはわかってるわよ。ノマスとの戦いに出ないと、フィリアさんの立場が危うくなるってことぐらいは……」

 

 程なく婚礼を控えたメリジャーナとテロスは、時折こうして二人きりの時間を過ごすようになっていた。

 

 だが今日は、恋人同士の甘い語らいは無い。

 グライペイン家に新たに設けられたメリジャーナの私室。家財道具が運び込まれ、新生活に向けて万端整えられた部屋には、重苦しい空気が立ち込めている。

 彼女を悩ませているのは、友人にして妹分の少女、フィリア・イリニの変貌である。

 

「でも、あの子は普通の状態じゃないわ。……あんな事を言い出すなんて、どれだけ追い詰められているのか、もう今にも壊れてしまいそうで……」

 

 フィリアに絶縁を宣告されたメリジャーナは、顔面を蒼白にして呟く。

 少女の変貌は、騎士なら誰もが経験する思い煩いではなく、もっと根の深い病だ。あれは自暴自棄になった人間の姿である。

 早急に戦いから遠ざけねば、彼女は秋風に吹かれた木の葉のように命を落としてしまうだろう。己の生に頓着せぬものが、どうして戦地で生き抜くことができようか。

 

「フィリア様に手を汚させぬよう、私たちが守ればいい。あの子は聖都の防備に回された。隔離戦場に敵を押し留めれば、これ以上あの方が傷つくことはない」

 

 テロスはメリジャーナの隣に座ると、恋人を優しく勇気づける。

 その凛々しい横顔には一点の曇りもなく、少女を一心に案じているのが窺える。

 

「私たちが気をしっかり持たなくてどうするんだ。式にはフィリア様に介添えを頼むんだろう?」

 

 どこまでも爽やかで誠実なテロスの語調に、メリジャーナの胸の痞えも少しは和らぐ。

 二人の結婚式は、ノマス邂逅後の休戦期に行われる予定だ。その二人の晴れの日には、是非ともフィリアに列席してもらいたい。

 

「そうね……あの子は私の事、お姉さんみたいだって言ってくれたもの。妹の為に、私が頑張らないと」

 

 ぐっと両手を握りしめ、毅然と前を向くメリジャーナ。多分に空元気とはいえ、恋人の励ましは何よりの薬になったらしい。

 

「いいや、頑張るのは私たち、だよ」

 

 テロスはそう言って、婚約者の手に己の手をそっと重ねる。

 

「……うん」

 

 テロスとメリジャーナは頷きを交わし、恋人と心が通じあう喜びに浸る。

 そうして二人は、ノマス襲来を控えた最期の休暇を静かに過ごした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 貴族街の中でも一際目立つ、広壮なゼーン家の館。

 当主の執務室に、大粒の宝石を思わせる美貌の女性がいた。

 ゼーン家の若き当主にして、ゼーン騎士団総長ニネミア・ゼーンは、夜も更けたと言うのに、一人で書類の山と格闘している真っ最中であった。

 

「……ふう」

 

 投影モニターを操作する手が止まる。

 ニネミアは手を伸ばして机の上のグラスを手に取ると、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。

 

 それなりの度数の酒だが、飲まずにはやっていられない。

 大貴族の領地運営と騎士団の切り盛りは、個人の手には負えない激職である。決裁を付けねばならない用務が山積しており、ろくに睡眠時間も取ることができない。

 

 本来ならば些事は部下に任せればいいのだが、ゼーン家は先代急死の折りに譜代の家臣を同時に失っている。未だに後釜は見いだせておらず、重要書類の殆どに、当主自らが目を通さなければならない有様だ。

 

「流石に、ずっとこのままって訳にはいかないわね」

 

 以前のニネミアは、その苛烈な性格と高い気位が災いして、部下に仕事を任すのを極端に嫌がっていた。他人を信用できなかったといってもいい。

 しかし、最近は彼女の態度も随分と和らぎ、それに伴って指導者たる貫禄も出てきた。配下の家々からも、徐々に信頼を集め始めている。

 

 今では騎士団の中にも彼女を認め、力になろうとする者も多い。そんな彼らの中から側近を育てることを、ニネミアもようやく考え始めている。

 この心境の変化は、彼女の私生活に起きた出来事と無関係ではないだろう。

 

「む、何よこんな時間に……」

 

 ニネミアがグラスを干したその時、モニターに着信が入った。

 私用回線で、送り主はメリジャーナである。

ざっと目を通すと、婚約者との胸焼けする惚気が少しと、あとは共通の友人である少女、フィリア・イリニの心境を案じた内容である。

 

「私にどうしろっていうのよ」

 

 酒の所為か、思考がつい口を突いて出る。

 

 フィリアの起こした騒動のあらましは、ゼーン家でも把握している。

 女を道具のように扱う相手貴族の粗暴なやり口に、ニネミアも当然ながら義憤を覚えたのだが、所詮は他家で起きたこと。彼女に口を差し挟む権利はない。

 また、胸の痛む出来事ではあるが、事件そのものは近界(ネイバーフッド)では珍しい話ではない。他国に連れ去られた捕虜が自ら命を絶つことは、この世界では間々ある事なのだ。

 

「……まあ、あの子なら気にするわよね」

 

 とはいえ、当事者がフィリアだということが問題だ。

 少女が一際繊細な心の持ち主だと言うことは、付き合いの短いニネミアとて十分に知っている。知人同士の喧嘩に立ち会っただけで、身も世も無く取り乱す子供なのだ。

 

「っていうか、私に話しちゃダメでしょうに」

 

 メリジャーナが持ちかけた相談は、イリニ騎士団が誇るエースの不調という軍事機密である。それを他家のニネミアに話すと言うのは、本来なら許されることではない。

 彼女とてそれを分かったうえで相談しているのだから、ニネミアを友人として深く信頼しているのだろう。乙女は面はゆさに頬を掻く。

 

「そういえば……」

 

 と、ニネミアは思い出したように投影モニターを操作し、過去の通信ログを表示する。

 同じく友人であるフィロドクス家のオリュザから、少女を案ずる旨の通信を受け取っていたのだ。

 オリュザとは一時は顔を合わせると喧嘩ばかりする仲であった。それが今や、不思議と馬が合う友人になっている。

 

 それもこれも、フィリアが骨を折って仲を取り持ってくれたお蔭だ。

 

「…………」

 

 ニネミアは暫し黙考し、丁寧に返信を認めた。

 自らも少女を案じている事。そしてどうにかして彼女の心労を取り除いてやりたい旨を、美文で記す。

 ニネミアは少女に服を見立ててやる約束をしており、会うための口実ならいくらでも作れる。ただ、肝心の少女を元気づける内容が思い浮かばない。

 

「――まったく、暇みたいで羨ましいわ」

 

 返信を送ると、すぐさまメリジャーナとオリュザが長文を書いて寄越してきた。

 ニネミアは苦笑いを浮かべて通信を読む。酒を注ごうと思ったが、自然とその手は止まってしまった。友人の苦境に思いを馳せると、自然と身が引き締まる。

 

「全部、ノマスを何とかしてからよ」

 

 ニネミアはそう呟くと、頬杖をついて投影モニターを眺めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エクリシアでも最古の家柄を誇るフィロドクス家。

 風格漂う品々に彩られた荘厳な正餐室で遅めの夕食を取っているのは、フィロドクス家当主クレヴォと、養女オリュザである。

 

「オリュザ、浮かぬ面持ちだがどうしたのかね?」

 

 鷲鼻に白い滝髭を蓄えた老人クレヴォは、眼鏡をかけた灰色の髪の女性に声を掛ける。

 

「大丈夫かね。また具合が悪くなったのか?」

 

 食事の手を止め、虚空を茫と眺めているオリュザに、クレヴォは心配そうな眼差しを向ける。この若い女性は進行性の病を抱えており、突如として眩暈や吐き気を起こして倒れることも少なくない。

 トリオン体ならその心配も無いはずだが、不調の兆しはどのように表れるか分からない

 クレヴォが常勤医を呼びつけようと腰を浮かしかけたところで、やっとオリュザが我に返った。

 

「いえお父様。私は至って健勝です」

 

 と、オリュザが平静な声で応える。

 

「ただ、少し考え事をしていたもので……」

 

 乙女の表情は能面のように微動だにしないが、実の父親のように彼女を養育してきたクレヴォには、彼女が明らかに心配事を抱いているのがはっきりと分かった。

 

「さて、どうしたんだねオリュザ。私では力になれぬことかな?」

 

 一先ず健康面での問題ではないことを確かめると、クレヴォは小さな目を細め、孫娘に接する好々爺のように優しく話しかけた。

 

「イリニ家のフィリア様について……あの方を、どうにか元気づける手段はないだろうかと考えていました」

 

 騒動の後、騎士団に復帰したフィリアが、未だに精神の安定を欠いている事を、オリュザは友人のメリジャーナから聞かされた。

 同じく友であるゼーン家のニネミアと共に、少女を元気づけるための方策を練っているのだが、あいにく社交性の著しく欠如したオリュザには、これといって上手い手段が思い浮かばない。

 ノマスとの大戦を控えた時期にも関わらず、彼女の頭は小さな友人のことで一杯になってしまっている。

 

 訥々と胸の内を吐露するオリュザを、クレヴォは暖かな眼差しで見守る。

 情緒が欠落していると方々で陰口を叩かれた彼女が、今では友の傷心に頭を悩ませ、何とかその心情に寄り添おうとしている。

 

「フィリア殿とは本当に善き友情を築いたのだな」

 

 感慨深げに呟くクレヴォに、

 

「はい。大切なお友達ですから」

 

 オリュザは平然とした様子でそう告げる。その耳が微かに赤く染まっているのは、改めて友という言葉を使ったことに、気恥ずかしさを感じているからだろうか。

 

「うむ。戦場で負った心の傷というのは、身体の傷にも劣らぬ程に厄介だ。アルモニア殿が知らぬはずもあるまいが、それを専門としている医者も我が国にもいる。まずは彼ら専門家に相談したうえで……」

 

 と、クレヴォは経験と知識に裏打ちされた所見を縷々と述べる。それはあくまで一般的な症例に対する見解であったが、オリュザは熱心に耳を傾ける。と、その時、

 

「失礼いたします。ご当主様」

 

 クレヴォが話している途中、正餐室に訪問者が現れた。

 現れたのは四十半ばほどの怜悧そうな男性である。彼はクレヴォの嫡男、ジンゴ・フィロドクスだ。

 

「お食事中の所失礼いたします。早急にお耳に入れていただきたき議が御座います」

 

 血のつながった息子にしては余りにも事務的な態度で、エンバシアがそう言う。

 クレヴォとその息子は、領地と騎士団の運営に関して反目を抱えており、親子の仲は冷め切って久しい。

 クレヴォが老齢にも関わらず、未だに家督をジンゴに譲らないのはそのためだ。とはいえ、彼が有能であることには変わりなく、フィロドクス家を実質切り盛りしているのはこの息子である。

 

「……うむ。分かった。ではオリュザ、話の続きはまた今度にしよう。あまり思いつめて、お前まで身体を壊すことのないように」

 

 クレヴォはオリュザに優しくそう言って、正餐室を後にした。

 不仲で有名なクレヴォとジンゴだが、最近は二人きりで膝を交え、秘密裏に意見を交わす事も多い。

 エクリシアを取り巻く情勢の緊迫化がそうさせているのか、それとも二人の仲に雪解けが訪れたのかは定かではないが、オリュザはそれを悪い事とは思わなかった。

 

「……」

 

 一人きりとなったオリュザは、豪勢な食事を黙々と片付け始めた。

 無心にナイフとフォークを動かしながら、脳内では様々な考えが湧いては消えていく。

 

 彼女が戦場に立つのは、自らに人生を与えてくれたクレヴォに報いるためだ。だが、フィリアを初めとした友人たちを得てからというものの、彼らと、彼らの属する国を護りたいとの思いが生まれ始めた。

 恩人と国家を護るため、友と戦場に轡を並べる。

 

 それは先の短い己にとって、望むべくもない幸せではないかとオリュザは思った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その日、聖都のイリニ屋敷は上を下への大騒ぎであった。

 

 はしゃぎまわっているのは、この屋敷に住む三人の子供、サロス、アネシス、イダニコたちだ。

 彼らは稼業が終わるや否や、そろって家人に外出のおねだりをして街へと繰り出した。買い求めるのは自分用の品ではなく、贈り物や飾り付けのである。

 彼らが大騒ぎをしているのは、およそ二年ぶりに、母パイデイアが聖都へと帰ってくるからだ。

 

「え~お前が作るのかよ。大丈夫?」

「失礼ね、ちゃんとできるわよ! まあ、シェフさんに教えてもらいながらだけど……」

「お姉ちゃん、僕も手伝うよ」

 

 イリニ家の広い厨房で、黒髪の元気な少年と赤髪の可愛らしい少女、そして金髪の和やかな少年が、和気あいあいと夕食の準備に取り掛かっていた。

 神の候補パイデイアは病気療養の為、郊外のイリニ家本邸で暮らしている。少年たちは月に一度、車両に乗って母に会いに行くのを何よりの楽しみとしていた。

 フィリアの誕生日を祝うという特例を除いては、パイデイアはイリニ家の所領を出ることなく暮らしていた。

 

 そんな彼女が聖都へと戻ってきた理由。それはノマスとの邂逅を前に、神の候補者を安全地帯へ避難させるためである。

 有り得べからざる事態だが、万が一にも敵の攻勢を支えきれず、隔離戦場を突破された場合、地方に駐屯している戦力ではこれを迎え撃つことができない。

 聖都は堅牢な城壁と無数の防衛装置を有する城塞都市である。騎士団の本営もあり、有事の際はすぐさま騎士が駆けつける。その防御力は正に金城鉄壁だ。

 代替の効かない神の候補の安全を確保するなら、聖都に留め置くのが最善と言えた。

 

 以上の理由から、イリニ家のみならず他の騎士団が擁する神の候補も、続々と聖都に集まってきている。そしていざノマスとの邂逅となれば、神の候補の身柄は揃って教会へと移されることになっていた。エクリシアの中心であり、(マザー)を護る教会は、この国で最も堅固な城塞である。

 

 だが、未だ幼い三人の子供たちに、そうした事情は関係ない。

 母がしばらくの間、自分たちと同じ家で寝泊まりをするという事実だけで、歓喜雀躍するには充分である。

 少年たちは母を出迎えるべく、一日がかりで準備万端を整えた。

 そしてその夜。

 

「「「お母さん、お帰りなさい!」」」

 

 仲良く重なった声が、屋敷のエントランスに響く。

 

「ありがとう。みんな」

 

 子供たちの歓待を受け、喜びの声を上げるのは、麦穂のような金髪と、翡翠のような瞳を持つ麗人、パイデイア・イリニである。

 彼女は子供たちを抱擁し、久々の再開を心より祝う。

 

「ね、お母さん、今日の夕食は私たちで作ったの」

「まあ本当に? 楽しみだわ」

 

 子供たちに引っ張られるようにして、パイデイアは正餐室へと連れて行かれる。

 喜びと愛情に満ちた家族の一時。だが、フィリアの姿はどこにも無かった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 子供たちとの夕食を終えたパイデイアは、宛がわれた客室へと向かっていた。

 荷物の運び込みは家人が行ってくれたので、身一つでの移動である。サロスたちは会場の後片付けがあるため、後から部屋に来ることになっていた。すると、

 

「壮健でなによりです。パイデイア」

 

 客室の前に、人の頭ほどの大きさをした白いトリオン兵が浮かんでいた。魚の尾ヒレのような突起を持つそれは、彼女たちの家族、自律型トリオン兵ヌースである。

 

「ごめんなさいヌース。あなたに色々と押し付けてしまって……」

 

 この古い友人に会うなり、パイデイアは心痛に顔を歪めて謝罪の言葉を口にする。

 神の候補として訓練に励む彼女に代わって、ヌースには子供たちの世話を頼んできた。

 

「いいえ。謝るのは私の方です。私では、フィリアの力になることができませんでした」

 

 そう言って、ヌースは客室への入室を請う。サロスたちが来る前に、フィリアの今後について詳しい話をしなければならない。

 そして二人は密室で、少女の身に起きた悲劇を語らう。

 

「そう、そこまであの子は……」

 

 ヌースから詳しい事情を耳にすると、パイデイアは顔を伏せ、沈鬱な声を漏らした。

 フィリアの計らいで楽隊の仕事に就いたオルヒデアが、物言わぬ遺体となって帰ってきたことは知っている。また、その騒動の渦中に娘がいたことも聞かされていた。

 少女がその事件を切欠に心の平衡を崩してしまったことも、アルモニアを通じて伝えられてはいたのだが、ヌースの口から語られる生々しい実情に、母の胸は千々に乱れた。

 

「フィリア……」

 

 家族との接触すら拒み続け、痩せ衰えた娘の姿を想像すると、パイデイアは今にも涙を溢さんばかりに顔を歪めた。

 しかも、現在フィリアは何事も無かったかのように騎士団に復帰し、以前にもまして精力的に働いているという。

 

「気鬱の反動だろうと言うのが医者の見立てですが、ともかくフィリアの精神が未だ完治していないのは確かでしょう」

 

 平静な、しかしどこか気落ちしたような声でヌースが言う。

 

「彼女は謹慎が解けて以降、私やサロスたちの誰にも面会しようとしていません。現在は騎士団の砦で寝泊まりし、この館にさえ戻ってこない状況です」

 

 あれほど家族を大事にしていた少女からは考えられない行いである。

弟妹たちも姉の振る舞いには大層ショックを受けたようだが、姉の抱える事情を慮り、じっと耐え忍んでいるという。

 

「なんとか、騎士団に行けないかしら?」

「訪れることはできるでしょう。ただフィリアがあなたに会うかどうかはわかりません」

 

 娘の苦悩に何かできないかと思うのは、母親として当然の感情だろう。だが、パイデイアの切なる問いかけに、ヌースは抑揚のない声で応えた。

 

「ですが、手は尽くすべきです。私もあの子には笑顔でいてもらいたい。それにはパイデイア。あなたの力が必要です。機械人形の私では、あの子の心を解きほぐすことはできませんから」

「ヌース……」

 

 二人は頷きあい、少女の心を救うべく方策を練りあった。

 とはいえ、何はなくとも娘に直接会わなければ始まらない。一先ず聖都滞在の挨拶も兼ねて、遠からぬうちに騎士団を訪れるべきだろう。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ええと、勝手に入っていいものかしら?」

「家人が行っていることを、母親のあなたが遠慮する必要はないでしょう」

「いえ、でも、母親だからというか何というか……」

 

 その翌朝、パイデイアとヌースは、フィリアの私室の前にいた。

 ロックを外し、無人の部屋へと立ち入る二人。

 あれこれ話し合ったのだが、面と向かって騎士団に会いに行っても、フィリアに避けられることは間違いない。

 

 とすると、娘に会うためには策を弄する必要がある。

 一切家に寄り付かなくなったフィリアだが、着替えやらの何やらの生活用品は家付きの女中に騎士団まで運ばせている。

 その役目に成り代われば、娘とも自然に会う事ができるに違いない。そう考えた二人は、早速実行に移したのである。しかし――

 

「…………」

 

 娘の私室に立ち入ったパイデイアは、呆然として立ち尽くした。

 部屋は貴族の令嬢に相応しく、壁には精緻な飾りが施され、豪奢な家具が設けられている。また、主が不在でも女中は完璧に仕事を行っているようで、ベッドは整然と整えられ、室内には塵一つなく、花瓶には瑞々しい花が活けてある。

 だが、その部屋にはあって当たり前の、生活の匂いが無かった。

 

「フィリアはこの二年間、安息の時間を殆ど持ちませんでした。この部屋には寝に帰るだけ。それさえ叶えられぬ日も多かったのです」

 

 母の驚愕を察したヌースが、滔々と説明する。

 此処まで空疎な部屋の主人が、僅か十二の幼子だろうとは、一体誰が信じるだろうか。

 パイデイアは改めて、フィリアの過ごした二年の歳月の酷烈さを思い知った。

 

「……ともかく、服を用意しましょう」

 

 そう言って、二人はウォークインクローゼットに入ると、チェストから肌着など替えの衣類を物色する。女中に纏めさせれば間違い無いのだが、少しでも母親らしいことをしたいというパイデイアの希望である。

 

「他には……あの子、化粧品やオイルは使ってるのかしら?」

「以前はメリジャーナ・ディミオス様に教わっていたようですが、女中へ要望した品目に記載はありません」

 

 静々と部屋を巡り、頼まれた品を整える二人。

 ふとパイデイアが、ベッドの隣、サイドテーブルに置かれたポプリの小瓶に気付いた。

 

「これは……」

 

 その小瓶は、嘗てオルヒデアが見せてくれた物と同じであった。

 この部屋で、フィリアは一人でオルヒデアの死と、世界の残酷さに向き合ったのだろう。煩悶の末に、彼女は何を思い、どんな考えに至ったというのか。

 埒も無い想像に捕らわれるオルヒデア。するとその時、彼女はまるで何かに呼ばれたかのように、窓際の机へと視線を向けた。

 

「…………」

 

 母親の感というには、余りに不明瞭な動機。

 机には特に少女の必要としている物はなく、またいくら娘であろうと、無闇に部屋を漁るべきでないことは重々承知している。

 しかし、パイデイアは机へと進み、誘われるかのように引き出しに手を掛けた。

 そこに納められていたのは、鍵を模した銀のペンダントである。

 

「――っ!」

 

 パイデイアは口元に手を当て、言葉を失う。

 それはサロスたち弟妹が、フィリア為に手ずから作った贈り物だ。

 少女が如何にそのペンダントを大切にし、肌身離さず身に着けていたかは知っている。それを部屋に置き去りにした意味。その不吉さに、母は慄然となった。

 

 そして、それ以上にパイデイアを驚愕させたのは、銀の鍵にはめ込まれた真珠のようなトリオン球だ。それは十余年前のあの日、涙と希望と共に生まれた――

 

「お願いレギナ。あの子を護って……」

 

 パイデイアは銀の鍵を胸に抱き、祈るようにそう呟いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 墨を流したような暗黒が、茫漠と広がっている。

 時折、まるで拍動のように淡い緑の燐光が空間を照らす。毛細血管のように壁中を走る輝線は、トリオンを供給するラインだ。

 

 教会の地下深く、神の御座所にして(マザー)トリガーへと通ずる縦坑の最奥に設けられた、広大な円球状の広間。

 エクリシアで最も厳重に警備された大深度地下区画。

 その中央、直下にある(マザー)トリガーに拝跪するかのように、片膝を付いて座る巨大な人型があった。

 

 膝を付いていても尚十メートルを超える高さ、立ち上がれば二十メートルに届くだろうという巨神像は、当然の如くトリオンで形作られており、一切の虚飾を排した無骨な拵えは、古代の甲冑を纏った軍神を思わせる。

 

 否、それは正しく鎧であった。

 エクリシアが誇る騎士甲冑「誓願の鎧(パノプリア)」にも相通じる意匠のそれは、(マザー)トリガーを守護するために造られた決戦用トリガー「恐怖の軛(フォボス)」である。

 

「お前の出番が無ければいいんだけどなぁ……」

 

 その時、安穏とした少年の声が広間に響いた。

 見れば、強大無比な巨神の前に、不釣り合いに小柄な人影がある。

 冴えわたる蒼穹のように青い髪と瞳をした十二、三歳ほどの少年が、虚空を眺めるような遠い目で、物言わぬ巨神を見上げていた。

 

「ここに御出ででしたか。猊下」

 

 少年に背後から声を掛けたのは、荘厳な僧衣を纏った老齢の男性、枢機卿ステマ・プロゴロスである。

 

「鐘楼から地下まで歩かされましたぞ。少しは老骨の身を慮ってもらいたいものですな。誰も彼も、あなたのように若々しい訳ではないのですから」

 

 ステマは深い皺の刻まれた顔をさらに顰め、少年へと苦言を呈す。

 

「御免ね。久々にコイツを見てやろうと思ってさ」

 

 御小言に首をすくめながら、少年は軽く謝罪する。

 

「ともあれ通信機はお持ち下され。あなたはこの国で最も尊貴な立場に在らせられるのを、未だに理解しておられんようだ」

「だから御免って。通信機は持ってるけど、操作の仕方がよく分かんないんだよ」

 

 まるで孫を叱る爺のようなステマと、頭を掻きながら言い訳交じりに弁解する少年。寒々しい地下空間で、妙に和んだ会話が繰り広げられる。

 

「それで、何の用だっけ?」

「対ノマスの防衛計画書に、あなたの一筆がいるのですよ」

「そんなの机に置いといてくれればいいのに」

「最後に執務室に入ったのは何時のことでしたかな?」

「……ごめんなさい」

 

 皺だらけの老人と空色の少年は、巨神の前で他愛のない雑談を続ける。すると、

 

「此度のノマスとの邂逅……「恐怖の軛(フォボス)」が必要になりますか?」

 

 と、緊張を面に滲ませてステマが尋ねた。少年は緩く頭を振って、

 

「もう世俗を離れて久しいんだ、僕には何も分からないよ。表向きの事はみんな君と騎士団がやってくれてる。――ただ、僕はこの国の為に、義務を尽くすだけさ」

 

 と、老人のように凪いだ瞳でそう呟く。

 

「ああ、ノマスとの戦争も、もう何回目になるんだったかな。駄目だなあ、ちゃんと覚えていなきゃといつも思うんだけど……」

 

 少年はそう言って、寂しげに笑う。

 

「いつまで続くんだろうね。この憎しみと流血の連鎖は」

「……執務室にお戻りください。猊下」

 

 ステマに促され、教皇アヴリオ・エルピスは地上へと続く昇降機に向けて歩き出した。

 教会へと戻るその途上、少年の脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。

 夕焼けに染まる世界を眺め、近界(ネイバーフッド)の酷薄さに涙を流した、無垢なる彼女。

 アヴリオは大戦に身を投じるであろうフィリア・イリニに、せめてもの救いがあることを切に願った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 深更の聖都。人の気配も絶えたイリニ騎士団の修練場で、舞うように剣を振るうフィリアの姿があった。

 薄明かりに照らされた大広間の空間を、白刃の軌跡が縦横に奔る。闇色の軍服を身に纏い、雪のように白い髪を靡かせる少女は、まるで戦女神のようにどこか侵しがたい、神聖な気を発している。

 

「――っ!」

 

 鋭い呼気と共に、フィリアが踏み込んだ。横薙ぎに放たれた紫電の一閃は、目で追う事さえ不可能な速度に達している。

 速度、精密さ、威力。そのどれもが昔日の剣ではない。ほんの僅かの内に、少女の剣は更なる進化を遂げていた。

 

 トリオン体の構造を熟知し、限界まで能力を引き出して操縦する。理屈としては余りに単純だが、数多のトリガー使いが挑み、遂には成し遂げられなかった難行である。

その超常の技術を、僅か十二歳の少女は見事に体得していた。

もはや少女を上回る技量の持ち主は、近界(ネイバーフッド)中を見渡してもそうざらにはいないだろう。(ブラック)トリガーでもなければ、彼女を止めることはできない。

 

「……」

 

 少女は残心の構えを取り、型稽古を終える。

 ここまでトリオン体を動かせるようになったのは、長きにわたる煩悶を乗り越えてからのことだ。自らを機械と定義し、家族の幸せ以外の望みを捨て去った時、少女は剣の理に開眼した。

 

 型が存在する意味。それは一片の呵責容赦なく、対手を確実に斬るためだ。数々の技と体捌きは、全てそれを実現するためにある。その要求に、機械となったフィリアは完全に応えることができた。

 一見すると流麗な剣舞は、そのすべてが冷酷無情な殺し技である。一切の思索を捨て去り、剣の理に身を委ねれば、ただ斬ったという結果だけが世に現れる。

 これこそ、無謬にして至高の剣。少女が願った己の有り様そのものだ。

 

「……」

 

 静寂に包まれた訓練場。

 全ての人々との繋がりを捨てたフィリアは、祈るように両手で剣を構え、静かに瞑目する。そして、

 

「――全て、斬ってしまえばいい」

 

 ノマスへの、世界への狂猛な敵意を漲らせ、少女は一人そう呟いた。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 雲一つない蒼天を、一羽の鷹が悠々と風を切って飛んでいく。

 太陽は眩しく輝き、大地は青々とした草原が見渡す限りに広がっている。

 緑の海に浮かぶ白い点々は、長閑に草を食む羊の群れだ。如何にも牧歌的なその情景を眺めながら、ユウェネスは誰に憚ることなく大きな欠伸をした。

 

 馬を模したトリオン兵ボースの背にあおむけで寝転がっているのは、褐色の肌に癖のある黒髪をした二十そこそこの若者である。

 ユウェネスは手だけでボースの鞍袋を探り、揚げ饅頭を取り出すと、寝ころんだまま大口を開けて齧り付く。

 

 照りつける陽光は暑いほどだが、吹き抜ける風が肌に心地良い。

 饅頭を食べ終えた青年は油の付いた指を舐めると、腰に掛かっていた刺繍布をぞんざいに顔に被せ、日差し除けにした。どうやらこれからひと眠りするらしい。

 腹がくちくなった青年は、すぐに軽いいびきを立て始めた。

 暫くして、だらしなく腹を掻いて眠るユウェネスに、同じくボースに騎乗した人影が音も無く近寄った。そして、

 

「何やってるんですかユウェネスさんっ!」

「――うおッ、何だ」

 

 青年の耳元に口を寄せ大声で怒鳴りつけたのは、青年と同じ褐色の肌をした十五歳ほどの凛々しい少年である。

 ユウェネスは驚いて目を覚ますが、勢い余ってボースからまっ逆さまに落ちる。

 

「今日はノマス中の部族長が集まる会議なんですよ! こんなところで油を売っている暇がありますか!」

「だからって怒鳴らなくてもいいだろうが! 下手すりゃ首の骨折って死んでるぞ」

 

 立ち上がった青年が、たれ目がちな金色の瞳に涙を浮かべて抗議する。

 

「さっさと城市に帰りますよ! 会議をさぼろうとしたなんて知れたら、我がドミヌス氏族末代までの恥になります!」

 

 だが、少年は眦を決し、なおも語調を強めて青年を叱責した。

「レグルスよぅ、お前本っ当に頭コチコチだよなあ」

「ユウェネスさんが緩すぎるんですよ!」

 

 能天気に反論するユウェネスに、レグルスと呼ばれた少年が憤激する。

 

 少年の雪のように白く輝く髪と、黄金で拵えたかのような瞳は、ノマス最大の勢力を誇るドミヌス氏族の直系たる証である。同じく黄金の瞳を持つユウェネスもまた、傍流ではあるがドミヌス氏族に名を連ねる者だ。

 

 この日、ノマスの首都では主な部族長すべてを招集しての会議が執り行われることとなっていた。

 議題は勿論、邂逅差し迫った怨敵、聖堂国家エクリシアへの対策である。

 

「会議っても親父さんの一声で仕舞じゃねえか。態々端っこに座っとく意味もないだろ」

 

 と、ユウェネスが口を尖らせてそう言う。

 ドミヌス氏族は既に、エクリシアへの総攻撃を決定している。ノマスの事実上の盟主であるドミヌス氏族が提言すれば、諸部族はほぼ間違いなくその案を承認するだろう。

 

「「国宝」の担い手が会議に不参加とか、言い訳できると思ってるんですか」

 

 少年レグルスはユウェネスの荷物を勝手にまとめて鞍袋に突っ込むと、ボースの自動運転機能を操作し、行先を首都へと決定する。

 

「あ~、出兵に散々っぱら反対した手前、あんまり親父さんに会いたくねえんだよなぁ。あんな馬鹿みたいにトリオンつぎ込んで、勝っても負けてもしばらく極貧生活間違いなしなんだぜ」

 

 動き出したボースの上で、ユウェネスが身体を伸ばしながらそう言う。

 そんな青年に、馬を並べたレグルスは不服そうに声を尖らせ、

 

「……そりゃあ、言い分もわかりますよ。でも、トリオンを費やすならなおの事勝たなきゃ意味ないじゃないですか。相手はあのエクリシアですよ。ノマス百年の安泰の為には、全身全霊を尽くさないと」

 

 と、真面目くさった表情でそう言う。

 ドミヌス氏族は今回のエクリシアとの邂逅にあたって、史上類を見ない大掛かりな侵攻計画を立てている。遠征につぎ込まれるトリオン量はノマスそのものを傾かせかねないほど膨大で、今後の市民生活にも間違いなく悪影響が出るだろう。

 しかし、当の市民たちはエクリシアへの侵攻に極めて肯定的であり、積極的に計画を後押ししている。ユウェネスのような反対意見の持ち主はごく僅かであった。

 

「まあ何せ、前回の負け戦が酷過ぎた。刺し違えてでも殺してやろうって皆が考えるのは、分からなくもないんだけどな」

 

 その理由は、先の戦争でエクリシアが働いた暴虐の凄まじさである。

 ノマスに攻め込んだエクリシアは、その強大な兵力を以て寇掠の限りを尽くした。

 侵されなかった土地は寸土として無く、人死にの出なかった家は存在しないほどの被害を受けたのだ。市民たちこの十余年もの間、ひたすらエクリシアへの憎悪を滾らせ、復讐の機会を待ち焦がれていたのである。

 

「レギナ様も、彼の国の捕虜となられたんですよね……」

 

 沈鬱な面持ちで、レグルスが呟く。

 少年の叔母にあたるレギナも、先の戦役の被害者の一人だ。

 ノマスを代表するドミヌス氏族の、それもトリオン工学の天才と名高い才媛の喪失は、国家と国民の全てを深く傷つけた事件である。

 

「お前は小さかったから覚えてないだろうけど、滅茶苦茶いい人だったぜ。……親父さんだって妹の事は忘れらんないだろうし、モナカなんか、あれ以来すっかり人が変わっちまった。まあ、因縁積る相手ってのは事実なんだが、それでもな……」

 

 ユウェネスは遠い目をして呟くと、馬腹を蹴ってボースを襲歩で走らせる。

 

「だったら尚更勝たなきゃ駄目じゃないですか。レギナ様を探して連れ帰らないと!」

 

 青年の背を追いながら、レグルスは大声で呼びかける。

 そうしてボースを走らせていると、広大な草原に不釣り合いな物体が見えてきた。

 

 緑の海に現われたのは、トリオンでできた巨大な建築群である。

 円柱状の壁に丸屋根が乗った形状は、一般的な遊牧民が起居するテントを思わせたが、その大きさが異常であった。

 

 周囲に比べる物が無いため実寸を量りにくいが、差し渡しは小さい物でも数百メートル、高さも百メートル近くはあろうか。

 それらの巨大な建築物が、見渡す限りの草原に、十、二十と点在しているのだ。遠目からみれば、白い亀の甲羅が並んでいるようにも見えよう。

 

 しかもそれらの建築物は、ユウェネスたちの目の前で、ゆっくりと草原を移動しているではないか。

 それを可能にしているのは、建築物の外縁から伸びる、これもまた亀の足を思わせるような巨大な円柱である。

 これらの建物群こそ、ノマスが誇る機動城塞都市である。

 

「まったく、動かすだけでもトリオン喰うだろうに……」

 

 ボースの歩度を落としながら、ユウェネスがぼやく。

 本来、この城市に移動機能が付いているのは家畜の放牧地を変えるためだ。このように一所に集まっているのは、敵の襲撃に備えて戦力を集中する為である。

 

「誰も彼もが本気です。ノマスの皆が、エクリシアに鉄槌を下す事を望んでるんです」

 

 青年の隣に馬を進めたレグルスが、真剣な面持ちでそう言う。

 既にエクリシアに対する工作活動は一年も前から行われている。戦争への準備という意味であれば、あの屈辱の敗北からの十余年すべてがそうだ。

 塗炭の暮らしを耐え忍び、爪に火をともしてトリオンをかき集め、血を吐くような不断の努力で戦力を高めてきたのは、偏にエクリシアに復仇する為だ。

 

「まあ、ここから和平って話はないよな」

「はい。僕たちで、忌まわしい歴史に終止符を打つんです」

 

 嘆息と共にそう言うユウェネスに、レグルスが凛々しく同意する。

 

「でもよ、(ブラック)トリガーあるだけ突っ込んで戦争ってのは、いくらなんでも思いきりが良すぎねえかな」

 

 やる気に満ち溢れた少年を横目に、青年は肩をすくめてため息をついた。

 

 

 

 



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其の三 前哨戦 奇襲

 ノマス邂逅がいよいよ間近に迫ったある日。

 聖都のメインストリートであるアトレテス通りには、防衛に赴く戦士たちを見送るために多くの市民が集まっていた。

 天気は生憎の曇り空で、夏が近いにも関わらず奇妙に肌寒い一日であったが、街路を埋め尽くす民衆の熱気は、そんな気候をものともしないほどに高まっている。

 

 従士たちは各々が命を預けるトリガーを整然と掲げると、一部の乱れも無い隊伍を組んで雄々しく街路を行進していく。

 そして防衛の主役にしてエクリシアの誇りたる騎士は、重厚な騎士甲冑「誓願の鎧(パノプリア)」に身を包み、馬型トリオン兵ボースに跨って隊列の中央を悠々と進む。

 圧倒的に勇壮な騎士たちと、彼らに付き従う気高き従士たちの姿を目の当たりにして、市民たちは惜しげもない歓声と声援を送る。

 

 市民の熱気はいや増し、歓喜の声は地鳴りのように聖都を響もす。

 過剰なまでの彼らの反応は、ある意味ではノマスへの恐怖と憎悪の裏返しでもあった。

 何百年もの間、数え切れぬ程の戦いを繰り広げてきたエクリシアの怨敵ノマス。

 彼らと戦う騎士団は、市民にとっては守護神そのものである。信奉するかのような熱狂ぶりも、無理からぬことと言えた。

 そして騎士団もそんな市民の心情を知るがゆえに、殊更仰々しく装備を整え、威風を払って行軍しているのだ。すべては民を安心させるためである。

 

「皆さまが無事に戻られますように……」

 

 丘の中腹にある邸宅からアトレテス通りの喧騒を眺めているのは、イリニ家のパイデイアだ。彼女は知らずと間に手を組み、騎士たちの生還を祈る。

 

「そろそろ時間です。準備はよろしいですか」

 

 窓から景色を眺めるパイデイアに声を掛けたのは、自律型トリオン兵ヌースである。

 ノマスが接触軌道に入るまで間がない。この日、パイデイアは身柄を教会へと移し、避難生活に入る予定であった。

 

「お母さん、もうお迎え来てるよ!」

 

 と、パイデイア話しかけたのは、末の子イダニコである。彼はヌースを両手で抱え、肩から大きなカバンをぶら下げて余所行きの格好をしている。

 少々事情が変わったのは、教会への避難生活に、三人の子供とヌースが同行することになったことだ。

 息が詰まるであろう母の避難生活を案じた子供たちが、半ばやけっぱちに申し出た話に、当主アルモニアが許可を出したのである。

 

 ヌースがパイデイアたちについていくのは、もしもの場合の護衛である。

 先だっての事、アルモニアは教会幹部にヌースの存在を公表し、その機構を調査する代わりに、彼女の権利を保障する約束を取りつけた。

 桁外れの演算能力を有し、部隊のオペレートやトリオン兵の操縦といった多彩な力を持つヌースであるが、今回の防衛戦は大火力での殲滅が作戦の主眼であり、彼女を活用する機会は少ない。

 また一般に存在が知られていないため、戦地で無用な混乱を招きかねないとして、要人警護のために教会の防衛に当たる事となったのである。

 

「ありがとうイダニコ。お家の人たちに挨拶してくるから、先に玄関で待ってて頂戴ね」

 

 パイデイアは胸の内の鬱々とした気分をおくびにも出さず、愛息へと優しく語りかける。

 彼女を追いこんでいるのは、間近に迫った戦争の足音だけではない。

 

「フィリア……」

 

 イダニコが部屋から去ったのを確かめると、彼女は憂いを帯びたため息をもらす。

 

 イリニ邸に滞在中、結局パイデイアは愛娘フィリアと会うことができなかった。

 数度にわたって少女の起居する騎士団へと赴いたが、まるで行動を見透かされているかのように悉くが空振りに終わってしまった。

 結局、パイデイアは娘の心を救うどころか、痛みを分かち合う事さえできなかった。

 砦の中で一人佇むフィリアの姿を想像すると、心痛で胸が潰れそうになる。

 せめてもの救いは、少女がアルモニアの配慮で聖都防衛に回されたことだろう。出征する若人の中に娘の姿が無いことに、パイデイアは浅ましいとは自覚しながらも安堵せざるを得ない。

 

 とその時、吹き付けた風が、窓を揺らして大きな音を立てた。

 見れば、空には分厚い雲が立ち込め、今にも嵐になりそうな気配である。

 日光が遮られ、退色した絵画のように不気味な様子となった聖都に、今なお民衆の熱狂した声が響く。

 その現実離れした異様な光景は、果たしてエクリシアに降りかかる戦乱の、如何なる予兆であったのだろうか。

 未来を見通すことの出来る人間は、残念ながらこの国にはいなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エクリシアの僻地に位置するリスィ平野。

 

 そこには差し渡しが三キロメートルほどはあろうかという真円状の盆地が広がっている。雑草すら生えぬ荒涼とした大地は、教会と騎士団によって造成された隔離戦場だ。

 盆地の縁にはトリオン製の分厚く高い城壁がぐるりと取り囲み、その上には夥しい火砲が並べられている。

 

 そして円周上に等間隔に並ぶ十二の塔は、エクリシアに攻め込んだ他国の軍勢を、この盆地へと強制的に呼び寄せる(ゲート)誘導装置である。

 城壁にたどり着くまでには何十にも張り巡らされた防御陣地を越えねばならず、また当然ながら、陣地には精強無比なエクリシアの騎士と従士たちが常時詰めている。

 

 隔離戦場へと出現を余儀なくされた敵は、雨あられと飛んでくる砲撃に曝されながら、絶望的な包囲網を突破せねばならないのだ。

 いくら剽悍として知られるノマスの戦士でも、ひとたびこの戦場に降り立てば全滅は免れないだろう。トリオン兵の大群を送り込んできたとしても、結果は同じことだ。

 

 そして隔離戦場の城壁から少し離れた場所には、各々の騎士団が持つ前線基地がある。ここは隔離戦場全体を管理運営する指揮所であり、また騎士たちが休息を取る兵舎でもある。

 その前線基地の指揮所にて、テロス・グライペインは端麗な美貌に陰りを浮かべていた。

 

「……未だ敵影は見えず、か」

 

 ノマスがエクリシアとの接触軌道に差し掛かって、既に一か月が経つ。

 しかし、予想されていた敵の侵攻は一度も起きず、隔離戦場は不気味なまでの静けさに包まれていた。

 勿論、敵が何らかの策謀を練っている可能性は十分にある。また単純に、エクリシアの反撃を避ける為、軌道が離れる間際まで侵攻を遅らせていることも考えられた。或いは、エクリシアの防備の厳重さに、迂闊に手を出しかねているのかもしれない。

 

 とはいえ、トリオン兵での偵察すらないというのは、流石に異常であった。

 敵国への情報収集やけん制、はたまた嫌がらせのためにトリオン兵団を送り込むのは、近界(ネイバーフッド)の戦争では定石手である。

 特に事を構えるつもりのない相手にもトリオン兵ぐらいは派兵するのだから、遺恨積もるエクリシア相手にそれを行わないのは考えにくい。

 騎士団首脳部もノマスにトリオン兵団を何度も送り、敵の思惑を躍起になって探ろうとしているものの、現在の所めぼしい収穫は得られていない。騎士の焦慮は募るばかりであった。

 

 反対に、末端の兵士の間では、何やら弛緩した空気が漂い始めていた。

 出所は不明だが、ノマスは今回、エクリシアと同じく籠城策を取っているのではないかという推論まで流れている。

 確かに、そう考えれば一応の辻褄は会う。

 こちらから送り込んだトリオン兵団が持ち帰った情報によると、ノマスは機動城塞都市を平野部に結集し、鉄桶の陣を敷いているらしい。

 エクリシアのトリオン兵団は、ノマスに到達するや都市群からの砲撃によってすぐに全滅させられてしまった。

 

 前回、エクリシアの寇掠によって削られた国力は、十年程度で回復するものではない。無理な遠征は避け、自国に引きこもって少しでも有利な条件で敵を迎え撃とうとするのは自然な成り行きだろう。

 となれば、トリオン兵を送り込まないのも、こちらを疑心暗鬼にするための策略の一手と考えられる。

 血気旺盛な従士の中には、早くも痺れを切らせ、こちらからノマスへと打って出るべきだと口にする者もいるようだ。

 だが今回の邂逅期、エクリシアは防御に徹することが決まっている。

 

「レーダーの感度は今のままを維持しなさい。どんな些細な反応も見逃さぬよう、細心の注意を払って監視を続けるように」

 

 椅子に腰を据えるだけの日々を過ごすテロスは、ともかくオペレーターにもっともらしい指示を出すと、胸の内で嘆息した。

 テロスを初めとした騎士団上層部は、従士たちが口にする楽観論など頭から信じていない。ノマスは間違いなくエクリシア近隣まで遠征艇を出している筈だ。攻めてこないのは策を練っているためだろう。

 しかし、肝心の敵の策略が読めない以上、こちらに打てる手だてはない。精々防備を固め、警戒を厳にするのが精一杯だ。

 

「グライペイン殿、交代の時間だ」

 

 黙考するテロスに声を掛けたのは、イリニ騎士団第一兵団長のドクサ・ディミオスだ。

 前線基地は二十四時間厳戒態勢が敷かれており、士官は三交代で任務に当たっている。 代わり映えのしないレーダーを睨み続けるうちに、知らずと間に時間が経っていたらしい。

 

「さて諸君、気を張って行こうじゃないか」

 

 交代して席に付くオペレーターたちに、ドクサが軽やかに声を掛ける。

 そしてさりげなくテロスへと顔を向け、早く休むよう目顔で伝えた。

 

 従士たちは比較的安穏としているが、騎士団上層部は現状にはかなり参っている。

 なにせ、ノマスの陣容と動向が全くと言っていいほど掴めていないのだ。送り込んだトリオン兵は碌に情報を集められずに破壊され、敵の本隊も一向に動きを見せない。ノマスの連中が何を企んでいるか、予測する材料さえ入手できていない状態なのである。

 戦闘が起きていないとはいえ、騎士たちは神経をすり減らす日々を送っている。

 

「わかりました。後をよろしくお願いします」

 

 テロスはいずれ義父になる壮漢に丁寧に礼を述べ、指令室を後にした。

 彼には指揮官としての職務だけではなく、(ブラック)トリガーの担い手としての使命がある。防衛戦を左右する彼らは、万全の状態で戦場に挑まなければならない。

 

 テロスは前線基地の通路を進み、士官用の仮眠室へと向かう。

 休める時には休んでおく。これは軍人の鉄則である。

 

 とその時、テロスは突然足を止めた。何か、名状しがたい違和を覚えたのである。

 視界の端が、一瞬だけ型板ガラスを通したかのようにぼやけた。それだけなら、只の疲労と断じることもできただろう。

 しかし、一流の騎士であるテロスは、己の直観に従ってトリガーを起動する。まさにその瞬間、

 

「――ッ!」

 

 鋭刃が空気を裂いた。

 

 首を狙ったその一撃を、トリオン体となったテロスは仰け反るようにして躱す。

 まさに紙一重。浅く一文字についた傷から、トリオンの黒煙が立ち上る。

 

「馬鹿な! 基地内に侵入を許しただと!?」

 

 端正な顔に驚愕の色を浮かべ、テロスが叫ぶ。

 薄暗い通路に透明の人型が浮かんでいる。

 ノマスの隠密トリガー「闇の手(シカリウス)」の使い手が、テロスの眼前に立っていた。

 

 

   ×    ×   ×

 

 

 同時刻。隔離戦場の一角を担うゼーン騎士団の前線基地にて、変事は起きた。

 建物には警報が鳴り響いている。未登録のトリガー反応が、突如として基地内に出現したのである。

 ゼーン騎士団総長ニネミアは状況を確かめるべく、旗下の騎士と従士を急行させた。しかし、不審なトリガー反応に接触するや否や、怒号と悲鳴と共に彼らの通信は途絶えた。

 

 監視映像から、敵が基地内に侵入したことはすぐに明らかとなった。

 敵は漆黒のマントを纏った老人である。その褐色の肌から、明らかにノマスの手の者と知れた。

 

「騎士オノス、騎士パンテル、私に続きなさい。総員戦闘準備! 敵の襲撃に備えよ!」

 

 通信映像を見るや、ニネミアは凛とした声で下知を飛ばし、指揮所を飛び出した。

 (ゲート)が発生していないにも関わらず、なぜノマスの戦士がエクリシアの地を踏めたのか。また敵が全線基地へと乗り込んできた思惑は?

 諸々の疑問は尽きないが、最も重要なのは、映像で判明した敵のトリガーである。

 

 生き物のように蠢く漆黒の外套。それも「誓願の鎧(パノプリア)」を身に着けていないとはいえ、騎士を圧倒するほどの武力を有するとなれば、ノマスが有する(ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」に間違いない。

 

「トリガー起動」

 

 ニネミアは自身も「劫火の鼓(ヴェンジニ)」を起動した。「誓願の鎧(パノプリア)」を着装している余裕はないが、今は何よりも現場に急行せねばならない。(ブラック)トリガーに対抗するには、(ブラック)トリガーを以て当たるほかないからだ。

 

 彼女の周囲に現れたのは、円錐型をした十基の射撃ユニットである。彼女の思考によって自在に操られるこれらのユニットは、強固な防壁さえ貫く高出力のレーザーを放つ。

 また、複数基を連動させて威力を高めることも可能で、全ユニットを用いての砲撃は、城塞を吹き飛ばすほどの威力を誇る。

 

 火力型のトリガーの通例として屋内戦闘にはやや不向きだが、基地の損壊に頓着するニネミアではない。侵入者を区画ごと吹き飛ばしてやる腹積もりである。だが、

 

「――っ指令室! 医療班を急行させなさい! くれぐれも侵入者と鉢合わせしないように誘導して!」

 

 到着した基地のラウンジには、濃密な血臭が立ち込めていた。

 血だまりに伏すのは、先行した騎士と従士たちだ。

 

 彼らはトリオン体を失っても尚侵入者の攻撃を受けたらしい。ある者は手足を切断され、またある者は胴体を深々と抉られている。室内の至る所に飛び散った血糊が、如何に凄惨な戦闘が起こったかを如実に物語っていた。

 

「~~ッ、絶対に許さない!」

 

 まだ息のある者も何人かいたが、ここでニネミアが立ち止れば更なる被害者が出る。あるいはそれこそ敵の狙いかもしれない。ニネミアは憤怒に顔を歪めると、断腸の思いでトリガー使いの追跡に戻った。そして、

 

「くっ……」

 

 行く先々に、従士たちの死体が転がっていた。辛うじて息の有る者は、嗚咽とも悲鳴ともつかない声で助けを求めている。

 敵は凄まじい速度で基地内を駆け巡り、手当たり次第に兵士を殺傷しているらしい。

 だが、それももう終わりだ。

 

「追い詰めたわよ!」

 

 基地の地下。諸々の物資を納めたコンテナが山積みとなった倉庫に、敵のトリガー使いの反応はあった。

 広大な倉庫に立ち入った瞬間、翻る黒いマントを目にしたニネミアは、躊躇なく「劫火の鼓(ヴェンジニ)」をぶっ放した。閃光がトリオン製のコンテナを蝋のように融解させる。

 

「――!」

 

 通路から飛び出してきたのは、褐色の肌に深い皺を刻み込んだ老人だ。

 真っ白な蓬髪に炯々と輝く瞳、顔の半分を覆う白い髭。生物のように波打つ漆黒のマントを纏い、老人は悠々とニネミアたちを見据える。

 ただ事ならぬ威風を発しながらも、敵意や殺意は微塵も感じとられない。殺しを日常の一つにまで昇華させた、まさに達人の佇まいである。

 

「「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の担い手か」

 

 鋼を思わせるような、底響きのする声で老人が呟く。

 彼は教会のデータバンクに登録されており、要注意人物としてニネミアも見知っていた。

 

 ルーペス氏族のカルクス。

 ブラックトリガー「凱歌の旗(インシグネ)」を担う、ノマスの伝説的な老雄である。

 

「先代より気概はあるようだな。いいだろう。相手をしてやる」

 

 老人は何の感情も窺わせない声で、ニネミアに声を掛ける。

 この戦い初となる(ブラック)トリガー同士の戦闘の火ぶたが、ここに切って落とされた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――はっ!」

 

 裂帛の気合と共に、テロスはブレードトリガー「鉄の鷲(グリパス)」を横薙ぎに振り抜いた。

 何もない中空に火花が散ったかと思うと、突如としてトリオンの黒煙が噴き出す。

 青年は追撃の為に剣を振りかぶるが、繰り出された姿なき鋭刃に踏込を阻まれた。

 

(ッ、話に聞くよりはるかに厄介だな……)

 

 テロスの視界に映るのは、殺風景な基地の通路である。

 しかし、何もないはずの中空からはトリオンの黒煙が棚引いていた。良く見れば、その出所からは、うっすらと人間の輪郭を確認することができるだろう。

 

 ノマスが有する隠密トリガー「闇の手(シカリウス)」は、レーダーの無効化とトリオン体の透明化を両立させた恐るべきトリガーだ。しかも、己の両手をブレード状に変形させることで、隠密状態からの攻撃まで可能としている。

 

 完全な奇襲であったにも関わらず初撃を避け得たのは、テロスの騎士としての弛まぬ努力の賜であっただろう。

 青年は即座に「鉄の鷲(グリパス)」を起動し、この不可解な侵入者と戦闘に入った。(ブラック)トリガーを用いなかったのは、「光彩の影(カタフニア)」に攻撃能力が無いためである。

 

(だが、――もう見切った!)

 

 テロスは再び鋭く踏み込むと、渾身の袈裟切りを放った。

 甲高い破砕音と共に、先より多量の黒煙が噴き出す。見れば、隠密化の解けた侵入者の前腕が宙を舞っている。

 

闇の手(シカリウス)」はその高性能な隠密能力の代償に、戦闘能力はノーマルトリガーを下回る性能しか有していない。

 また、レーダー対策はともかく、透明化には多少の難があり、動いている最中には型板ガラスを通したように輪郭が見えてしまう。

 

 見えぬ敵に惑わされたのも暫しの事。間合いを把握してしまえば、騎士たるテロスに負ける要素はない。

 なぜ(ゲート)を介さずにノマスがエクリシアに侵入できたのか、また基地に潜入した目的は何か。諸々の疑念を、この敵からは聞き出さねばならない。

 

 その焦りが、隙を生んだ。

 

「なっ――」

 

 止めを刺すべく剣を翻したテロス。その一撃に先んじて、青年の背後に鋭刃が振り下ろされた。

 

(新手だと!?)

 

 テロスの左腕が宙を舞う。

 背後から現れたもう一人の暗殺者が、ブレード状の腕を振りかざしてテロスに襲い掛かったのだ。

 微細な音響の変化、あるいは空気の微かな流れに違和感を覚えた青年は、辛うじて身を捩じり致命傷を免れた。もう少し前掛かりに攻めていれば、まず助からなかったはずである。

 

「舐めるなッ!」

 

 片腕となった青年は、それでも即座に体勢を立て直すと、二人に増えた透明な敵を相手に、剣を振るって勇戦する。

 

「――ッ!」

 

 しかし、片腕となった青年は旋風のように襲い掛かる二人の対手に、次々と手傷を負わされていく。隻腕の不利もあるが、それ以上に敵の攻撃が凄まじい。

 まさに一心同体を体現するかのような、見事な連携である。訓練された猟犬の如き獰猛さと正確さは、「闇の手(シカリウス)」の攻撃性能が水準以下であることを微塵も感じさせない。

 

「く……」

 

 テロスの端正な容貌にも、流石に苦渋の色が差す。

 このまま戦い続ければ敗北は必定であろう。しかしその時、

 

「彼から離れなさいっ!」

 

 けたたましい発砲音と共に、青年の救いの女神が現れた。

 

「「――!」」

 

 ばら撒かれた弾丸の何発かは襲撃者に命中し、攻勢を鈍らせた。その隙に、テロスは飛び下がって体勢を立て直す。

 通路の奥から現れたのは、小銃トリガー「鉛の獣(ヒメラ)」を抱えたメリジャーナだ。そして彼女の後ろには、武装をした従士たちが続いている。

 テロスが発した通信を受け、援軍が到着したのだ。

 

「全隊敵を殲滅せよ。決して逃がしてはなりません!」

 

 メリジャーナの鋭い下知を受けて、従士たちが姿なき侵入者へ猛然と射撃を加える。

 形勢の不利を悟った敵は通路の奥へと逃げ込むも、勢いづいた従士たちが即座に追撃を始めた。基地で待機している他の従士たちも、侵入者の報を知らされ次々と集まっている。いくら隠密トリガーを持とうとも逃亡は叶わないだろう。

 

「テロス、怪我はない?」

 

 奇襲を受けた婚約者にメリジャーナが駆け寄る。しかし、青年騎士は厳しい面持ちを崩さず、

 

「まだだ。ノマスがこれしきで退く筈がない!」

 

 そう言って「鉄の鷲(グリパス)」を構え直した。次の瞬間、

 

「――うわあああっ!」

 

 年若い従士の悲鳴が耳朶を打つ。

 通路の奥の曲がり角から、追撃に出た従士たちが凄まじい勢いで吹き飛ばされるのが見える。

 木屑か何かのように壁や床に叩き付けられた従士たちが悲痛なうめき声を上げている。

 

「あ、あ……ぎゃああああっ!」

 

 トリオン体が解け、生身のまま這い縋って逃げようとする従士たちを、巨人の足が踏みつぶした。

 現れたのは、身の丈三メートルを上回る二足歩行のトリオン兵であった。

 

 蜥蜴のような頭部と、その口腔内に収まる一つ目。瞬発力に優れた逆関節の脚部。そして何より目を引くのは、肩口から生えた二対の巨大な腕である。

 そのトリオン兵は、五指を揃えた丸太のように太い腕とは別に、先端に鋭いブレードを搭載した長大なアームを背中から伸ばしていた。

 

 全身を見るからに頑強な装甲で覆われたトリオン兵は、何の躊躇もなく泣き叫ぶ従士の胸をブレードで刺し貫く。

 

「な――」

 

 テロスとメリジャーナに戦慄が走る。

 新型トリオン兵は無雑作に従士の遺骸を放り捨てると、テロスら目がけて突進を行う。

 メリジャーナや後続の従士たちがトリオン弾を浴びせかけるも、新型のトリオン兵は小揺るぎもしない。そして、

 

「ぐ――」

「――テロスッ!」

 

 長腕の薙ぎ払いを受けたテロスが、基地内の壁を突き破り彼方へと吹き飛ばされた。

 弾雨をものともしない重装甲と、人を木端のように扱う凄まじい膂力、

 モールモッドやバムスターと比べればはるかに小柄だが、このトリオン兵は明らかに従来のそれらを凌駕する戦闘力を秘めている。

 

 これこそ、ノマスが満を持して投入した新型トリオン兵クリズリだ。

 クリズリはエクリシアが誇る騎士を相手取るために開発された純戦闘用トリオン兵であり、他のトリオン兵とは隔絶した性能を持つ。

 クリズリを相手取れば、練達のトリガー使いであっても苦戦は免れないだろう。ましてや――

 

「うおおッ!」

 

 銃撃では効果薄と判断した従士たちが、ブレードを掲げて突貫する。しかし、全身くまなく重装甲のクリズリに、有効打を与えることができない。

 一人の従士が弱点となる目を狙うべく、振り回される長腕を掻い潜り、クリズリの懐へともぐりこんだ。すると、

 

「うわっ――」

 

 斬撃を放とうとした従士が、穴だらけになって吹き飛ぶ。

 クリズリの短腕、その開いた五指から、機関銃のようにトリオン弾が放たれたのだ。

 

「――隊伍を組み直しなさい! 距離を取って削り倒します! 前衛は負傷者を回収し後方へ下げなさい!」

 

 遠近対応したクリズリの戦闘力に、メリジャーナは遮二無二攻める従士たちを下がらせた。侵入者はまだ健在だ。たかだかトリオン兵一体に、これ以上手古摺る訳にはいかない。

 メリジャーナは「鉛の獣(ヒメラ)」を構え直し、従士と連携してクリズリの頭部に一斉射撃を叩きこもうとする。だが、

 

「っ、増援!?」

 

 放電のような音と共に、通路内に漆黒の(ゲート)が開いた。

 

 (ゲート)から現れたのは、超大型犬ほどの大きさをした、四足歩行トリオン兵ヴルフの群れである。

 ヴルフは集団戦闘用に開発されたノマスの主力トリオン兵であるが、ゲートを潜って現れたそれらは、従来の物より性能を強化した改良型だ。

 黒、白、茶色のヴルフが、次々と従士たちに襲い掛かる。

 さして広くも無い通路に、トリオン兵と従士たちが入り乱れての混戦となった。

 

「く――」

 

 襲い掛かるヴルフを的確に撃ち抜きながら、メリジャーナが唇を噛む。

 ヴルフの乱入によって、味方は四分五裂の状況に陥った。別けても面倒な新型は依然野放しのままで、浮足立った従士たちを次々と屠っている。

 

(まずい……)

 

 援軍も次々に戦闘に加わっているが、狭い通路では数の優位を生かせない。このままでは被害者が続出するだろう。それに、この混乱では侵入者を追うこともできない。

 

「――そんなっ!」

 

 焦燥ゆえに、メリジャーナに隙が生じた。

 襲い掛かるヴルフの一体。茶色の体色をしたヴルフ・ベシリアが口から放ったのは、単なるレーザーではなかった。

 弾丸のように吐き出されたそれは、極めて粘度の高い液状トリオンである。

 その粘着弾はシールドトリガー「瑠璃の精(ネライダ)」を貫通し、メリジャーナの身体へと纏わりついた。

 右半身の自由を奪われたメリジャーナは咄嗟に小銃を持ちかえ、左手一本で襲い掛かるヴルフを狙い撃つ。

 だが、難敵の弱体を明確に見定めたのだろうか。クリズリが長腕を振りかざすと、群がる従士を蹴散らしメリジャーナへと突撃を仕掛けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ゼーン騎士団の地下倉庫では、(ブラック)トリガー同士による苛烈な戦闘が繰り広げられていた。

劫火の鼓(ヴェンジニ)」から放たれたレーザーが、壁面を飴細工のように貫き溶かす。

凱歌の旗(インシグネ)」がはためくや、コンテナが寸断されて木の葉のように宙を舞う。

 圧倒的なパワーを誇る(ブラック)トリガーのせめぎ合いで、広大な地下倉庫は僅か数分足らずで無残な廃墟と化していた。

 

「――鬱陶しいのよ!」

 

 ニネミアの怒声に応じるように、倉庫内に飛び交っていたユニットが一斉射撃の構えを取った。

 掠めるだけでトリオン体を焼き尽くすであろう高出力のレーザーが、様々な角度から放たれる。しかしその刹那、黒マントを棚引かせた老雄カルクスは凄まじい勢いで跳ね飛び、死の閃光を軽々と躱した。

 そしてカルクスついでとばかりに「凱歌の旗(インシグネ)」の裾を翻し、直近にあった「劫火の鼓(ヴェンジニ)」のユニットの一つを両断する。

 

「くっ……」

 

 ニネミアの顔貌に苦渋の色が差す。戦闘に入ってから破壊されたユニットは三つ目だ。

 (ブラック)トリガー同士、互角に戦っているかのように見えるのは上辺だけの事。

 ニネミアは中間距離から絶え間なく射撃を浴びせかけることで敵を追い立てているが、その実、敵に懐に潜り込まれないようにするので精一杯である。

 技量でいえば、明らかに敵の方が上手であった。

 

「ふむ」

 

凱歌の旗(インシグネ)」を壁面に突き立て、悠然と空中に浮かんだまま、カルクスは値踏みするようにニネミアを睥睨する。

 (ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」は長大なマントの形状を取るほか、取り立てて特殊な能力を持たないトリガーである。火力も、特殊性も、それぞれに特化した(ブラック)トリガーには遠く及ばない。

 

 しかし、「凱歌の旗(インシグネ))」の強みはその万能性にある。

 出力、強度、そして操縦性。どれをとってもノーマルトリガーとは比べ物にならない能力を有し、伸縮、形状ともに自由自在の布状のトリガーは、堅固な盾にもなれば鋭利な刃の役目も果たす。果ては手のひらのように物を掴み取る、また色調を変えて迷彩効果を得るなど、多岐にわたる運用が可能である。

 

 先にニネミアの砲撃を躱した高速移動もその能力の一端だ。折り重ねた「凱歌の旗(インシグネ)」をバネのように弾くことで、瞬間的に凄まじい推力を得たのである。

 とはいえ当然のことながら、多様な機能を持つトリガーを使いこなすには、とてつもなく繊細なトリオンコントロールが求められる。

 

 カルクスの尋常ならざる技量は、正に達人と呼ぶに相応しいものであった。数十年を掛けて練磨した技の厚みは、到底若輩者のニネミアの及ぶところではない。だが、

 

「全隊、総長を援護しろ!」

 

 彼女は一人ではない。

 最初に引き連れてきた二人の騎士の他にも、続々と騎士と従士がこの地下倉庫へと駆けつけてきている。

 (ブラック)トリガー同士の激烈な戦闘を前にして、迂闊に介入できなかった彼らだが、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」のユニットが三基も破壊されたことで流石に劣勢を悟ったのだろう。我らが総長を助けるべく、猛然と射撃を敢行した。

 

「――っ!」

 

 ノーマルトリガーの火力では「凱歌の旗(インシグネ)」の防備を貫くことはできないが、雨あられと降り注ぐ弾丸は、然しもの達人であっても足を鈍らせざるを得ない。そして足が止まれば、

 

「撃てっ!」

 

 凄まじい熱量を秘めた閃光が、地下倉庫を奔る。

劫火の鼓(ヴェンジニ)」から放たれたレーザーが、はためく「凱歌の旗(インシグネ)」に見事風穴を空けた。

 マント越しの射撃の為、カルクスに直撃こそしなかったが、それでも初の命中弾である。

 いくら腕が立つとはいえ、相手は只の一人。集の力で押し込めば、如何ほどでもない。

 

 そして(ブラック)トリガー強しと言えども、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の超火力を防ぐことはできないとはっきり証明されたのである。

 戦士たちの意気は大いに上がり、カルクスへと間断なき射撃を加える。すべてはニネミアの一撃へと繋ぐためだ。

 

「ふん……」

 

 カルクスは侮蔑とも落胆とも取れるような声を漏らすと、弾雨へと自ら飛び込んだ。いくら「凱歌の旗(インシグネ)」が頑丈とはいえ、射撃を受け続ければいずれは破れるはずである。しかし、カルクスはトリオン弾を浴びるに任せながら、強引に従士たちの防御陣へと突進する。

 

「……駄目っ! 逃げなさい!」

 

 敵の目論見に気付いたニネミアが、悲鳴にも似た声を上げる。

 カルクスは従士たちへと肉薄すると、「凱歌の旗(インシグネ)」を生き物のように蠢かせ、瞬く間に彼らのトリオン体を破壊した。そして、

 

「――卑怯な! 恥を知れ!」

 

 トリオン体を失い生身となった従士たちを、カルクスは「凱歌の旗(インシグネ)」で捕らえ、肉の壁にしたのである。

 

「くそっ――」

 

 たちまち従士たちの攻撃が止まった。撃てば同朋が血肉をぶちまけることになるのだから、躊躇うのも当然だろう。

 しかし、その隙を逃すカルクスではない。

 

「う、うわああっ!」

 

 黒いマントをはためかせ、カルクスが騎士、従士へと猛進する。攻撃を手控える彼らを据え物でも斬るかのように両断すると、突如として進行方向を変えて跳躍する。

 狙いは、間近まで迫ったニネミアだ。

 

 射撃トリガーの常として、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」は懐に潜り込まれた際の対応手段に乏しい。

 ましてや相手は達人カルクスだ。「凱歌の旗(インシグネ)」の刃から逃れるのは不可能に近いだろう。

 それでもニネミアはこの窮地を逆手に取るべく、最も近くに展開していた射撃ユニットを呼び寄せた。向こうから寄って来るなら、差し違えてでも当ててやる。

 

「――くっ!」

 

 だが、ニネミアが銃口を向けたその瞬間、カルクスは彼女の鼻先に捕らえた従士の身体を突きだした。ニネミアの動きが微かに鈍る。

 凄まじい加速度で意識を失った少年の向こうに、酷薄なカルクスの瞳が光った。

 

「甘い。戦士としては未熟に過ぎるな」

 

 一瞬の交錯の後、ニネミアは左腕を根元から斬り飛ばされた。

 

 

 



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其の四 前哨戦 ノマスの策略

 メリジャーナに振り下ろされたクリズリのブレードが、空中でピタリと制止する。

 殺戮者の一撃を発止と受け止めたのは、「鉄の鷲(グリパス)」を掲げたテロスだ。戦線に復帰した美貌の青年は片腕の不利をものともせず、メリジャーナの窮地を見事に救った。

 だが、無慈悲なる人形兵士は冷然と次なる攻撃を繰り出す。

 

「――させない!」

 

 テロスへ目がけ、クリズリが短腕からトリオン弾を発射する。機敏に反応したメリジャーナは、シールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」を起動し青年を護った。

 

「はっ!」

 

 鋭い呼気とともに、隻腕の青年が風のように踏み込んだ。

 襲い来るクリズリの刃を紙一重で躱すと、オプショントリガー「鷲の羽(プテラ)」を起動。テロスはさらに速度を増した斬撃を敵に叩き込む。

 

 一閃の後、クリズリがゆっくりと巨体を揺らし、前のめりに崩れ落ちた。テロスの放った横薙ぎの一撃が、見事に口腔内のコアを切り裂いたのである。

 

「各員残敵を処理せよ! 連携を取らせねば脅威ではない!」

 

 テロスがブレードを振りかざし、従士たちを激励する。

 クリズリを破壊した今、残るトリオン兵はヴルフのみだ。ヴルフは単体でもそれなりの戦闘力を有するが、それでもモールモッドよりは劣る。各個撃破を心がければ、従士でも十分に対処が可能だ。

 

「指令室。状況はどうなっている?」

 

 難敵クリズリを排除すると、テロスは指令室へ通信を繋いだ。

 ノマスが人員を送り込んでいた以上、この襲撃が単なる偵察や暗殺であるはずがない。必ずや後に続く計画がある。

 テロスは基地機能や防衛機構に異変はないか、オペレーターに確認の指示を下す。

 その判断が、致命的な隙となった。

 

「なっ――」

「テロスっ!?」

 

 青年貴族の胸から、突如としてトリオンの黒煙が噴出する。

 テロスの胸からは、輪郭の歪んだ透明な刃が生えている。「闇の手(シカリウス)」を起動したノマスの暗殺者が、クリズリを囮にして奇襲を仕掛けたのだ。

 

「ば、かな……」

 

 トリオン供給機関を貫かれ、テロスのトリオン体が噴煙と共に崩壊する。

 

「団長っ!」

 

 従士たちが咄嗟に小銃を向けるが、残存のヴルフたちが身を挺して攻撃を阻む。

 残敵はすぐさま従士たちによって倒されたが、その隙をついて、ノマスの暗殺者は生身となったテロス目がけて再び襲い掛かったのだ。だが、

 

「させないっ!」

 

 メリジャーナが小銃を抱えたまま、不可視の暗殺者へ身体ごとぶち当たる。ヴルフ・ベシリアの粘着糸によりトリオン体の右半身は自由を失っているものの、そんなことはお構いなしだ。

 

「っ――」

 

 暗殺者の刃がメリジャーナの喉を深々と抉る。だが同時に、メリジャーナは「鉛の獣(ヒメラ)」の引き金を絞り、敵の胴体部を蜂の巣にしていた。

 爆発と共に、二人のトリオン体が崩壊する。

 黒煙が晴れた通路に現れたのは、十五歳見当の褐色肌をした少女であった。

 

「トリガー使いはもう一人いる。警戒を怠るな!」

 

 テロスが部下にそう指示する。

 

 まさか、敵のトリガー使いがこの期に及んで襲い掛かってくるとは思いもしなかった。二人が不覚を取った原因はその思い違いだ。

 増援の従士たちが到達した時点で、敵のトリガー使いの勝ち目はほぼなくなった。新型トリオン兵の出現という予想外の出来事はあったが、それでも数の優位を覆すことが不可能なことは、敵とて理解していたはずだ。

 

 トリオン兵の群れに従士たちが応戦している間が、敵の唯一の脱出機会であったのだ。このトリガー使いの少女は、その機会を捨ててまで攻撃を優先したのである。

 全くの失態である。これでエクリシア側は二人の(ブラック)トリガー使いを早々に脱落させてしまった。今後の戦闘にどれ程の悪影響がでるか、想像もつかない。

 

「……彼女を捕縛しなさい。無用の傷は与えぬように」

 

 メリジャーナが苦々しい面持ちで従士たちに告げる。

 殺気だった従士たちに囲まれたて尚、トリガー使いの少女は平然とした態度を崩さない。まるで人形のように無表情な少女は、顔かたちがまるで違うにも関わらず、何処かフィリアの姿を思い起こさせ、メリジャーナの神経を酷く参らせる。とその時、

 

「――えっ?」

 

 ノマスの少女が軽やかに跳んだ。

 彼女は軽快なステップで床を蹴ると、まるで親しい友人にそうするかのように、メリジャーナへと抱き着いた。

 その仕草が余りに自然で、およそ戦場での行為には見えなかったために、従士たちはおろかテロスまでもが呆気にとられ、反応に遅れてしまう。

 皆が我に返った時には既に、メリジャーナの腹に深々とナイフが突き刺さっていた。

 

「あ、え……?」

 

 我が身に起こった出来事を理解できないかのように、メリジャーナの瞳がノマスの少女を見詰める。

 ノマスの少女はそんな彼女に頓着せず、まったくの無表情のまま、ナイフの柄を思いきり捻った。

 

「ぐ――」

 

 ごぽり、とメリジャーナの口から鮮血が漏れる。

 尚もナイフに込める力を強めようとする少女に、従士が反射的に銃撃を浴びせかけた。

 鮮血を撒き散らしながら、ノマスの少女が人形のように吹き飛ぶ。

 同時に、メリジャーナも力なくその場に膝を付いた。

 

「救護班をっ! 早くっ!」

 

 そのまま倒れそうになるメリジャーナを、テロスが咄嗟に抱き留めた。

 腹にはナイフが依然突き刺さったままで、しかも捩じられたことで傷口が無残に歪んでいる。既に出血はかなりの量におよび、床には血だまりが広がり始めていた。一刻も早く処置を行わなければ命に係わるだろう。

 

「メリジャーナ! しっかりしろ、気を強く持つんだ。すぐに助けが来る!」

「て、ろす?」

 

 ショックで自失したメリジャーナに、テロスが大声で語りかける。居並ぶ従士たちも、降ってわいた惨状に呆然と立ち尽くすばかりだ。

 故に、ノマスの次なる攻撃に、誰も対応することができなかった。

 

「っ、うわっ――」

 

 轟音と共に、通路の壁が吹き飛んだ。

 地響きとともに現れたのは、捕獲型トリオン兵バムスターである。

 大量のトリオンで外殻を強化された改良型のバムスターが、外から基地へと突撃を仕掛けたのだ。

 そのバムスターの肩に立つのは、凶行を働いた少女と同じ年頃をした褐色肌の少年である。左腕が欠損しているのは、彼がテロスに斬られた暗殺者の一人であることを意味している。

 

 二人組の暗殺者の内、戦場に残ったのは少女のみで、この少年は外部へと逃れ、再度の攻撃準備を整えていたらしい。

 或いは、少年は少女を救出するために動いていたのだろうか。

 少年は襤褸切れのように捨てられた少女の亡骸を見つけると、微かに目を細め、すぐさま騎乗用トリオン兵ボースに跨って逃走に移った。

 

「ま、待てっ!」

 

 壁面に穿たれた風穴から飛び出す少年を、従士たちが追いかけようとする。

 だがその時、バムスターが徐に巨大な顎を開いた。

 捕虜を捕らえるための巨大な口腔内には、びっしりと三角錐の物体が詰まっている。

 それらは爆撃用トリオン兵、オルガの頭部であった。

 

「――っ!」

 

 テロスは咄嗟に傷ついたメリジャーナを抱え、隣室へと飛び込んだ。

 一拍おいて、バムスターからオルガが射出される。

 世界が極光に塗りつぶされる。

 大地を揺るがす凄まじい爆発が、イリニ騎士団の前線基地を襲った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 最初に覚悟を固めたのは、やはり歴戦の騎士たちだ。

 (ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」によって蹂躙されたゼーン騎士団の前線基地。

 廃墟と化した地下倉庫に、怨敵は未だ健在であった。

 人質を取ることで騎士たちの攻撃を阻害したノマスの老雄カルクスは、悠揚迫らぬ態度で居並ぶ戦士たちを眺める。

 

 頼みの(ブラック)トリガー使いであるニネミアは、後衛に下がって指揮に専念していた。

 カルクスとの激しい射撃戦に加え、左腕を切り落とされたことによるトリオン漏出が甚大である。継戦は可能だが、無用な攻撃を行うだけの余力はない。

 こう着が続く。敵が無理に攻めてこないのは、時間稼ぎと戦力の誘因の為だろうか。どちらにせよ、このまま時間を潰すのは敵の思惑に乗ることになる。しかし、

 

(っ……)

 

 ニネミアは焦りを面に出さぬよう、胸の内で毒づいた。

 動物のように蠢くマントに絡め取られた年若い従士の姿が、嫌でも目に入る。失神した少年兵を犠牲にしてでも攻撃するべきか否かを、彼女は未だに決断を下せないでいる。

 そんな彼女に、秘匿通信が入った。

 相手は古株の騎士である。彼は現状を打破する為、従士を犠牲にしても攻撃をすると、半ば一方的に伝えてきたのだ。

 

「な――」

 

 ニネミアの制止よりも早く、騎士の小銃が火を吹いた。

 次いで起こったのは、当然の結末である。

 降りかかる弾丸をカルクスは従士を盾として防いだ。従士の体が奇天烈に躍ると同時に、血しぶきが撒き散らされる。

 

 そしてカルクスは用をなさなくなった従士の亡骸を、何の躊躇も無く放り捨てた。所詮は時間稼ぎの策としてしか考えていなかったのだろう。むしろ、ここまで覿面に効果を発揮したことを嘲っているような気配さえ纏っている。

 

「~~っ! 全隊、掛かれッ!」

 

 ニネミアはその光景に打ちのめされながらも、鋭い声で部下に指示を下す。

 国防に携わる者として、騎士の判断は間違ってはいない。味方の足手まといになるくらいなら、潔く自決するのが戦士の心得というものだ。

 しかし、若輩者のニネミアには、まだそこまでの割り切りはできない。

 部下を死に追いやった敵に対しただ事ならぬ憎悪を抱くとともに、もう二度と誰も殺させないと、深く静かに決意する。

 

「……そろそろ潮時か」

 

 再び激しい攻勢に出たゼーン騎士団に、カルクスは平然とそう呟く。

 もう間もなく、「誓願の鎧(パノプリア)」を着装した騎士も戦場に到着する事だろう。この軍勢に完全武装の騎士たちが加われば、流石の(ブラック)トリガーといえども苦戦は免れない。

 

 当初の作戦目標は十分に達した。ぐずぐずしていては脱出の機を逃す。

 カルクスは復讐の念に燃える兵たちを適当にあしらいながら、高速機動で倉庫内を飛び跳ねた。

 (ブラック)トリガーの出力を以てすれば壁や天井などは紙きれのようなものだ。地下から抜け出すのは問題ない。ただ、その隙を見出すのが容易ではないのだ。

 敵の執拗な攻撃を躱しつつ、カルクスは慎重に離脱のタイミングを計る。だがその時、

 

「逃がすか卑怯者っ!」

 

劫火の鼓(ヴェンジニ)」の射撃ユニットを引き連れたニネミアが、カルクスの眼前へと飛び出してきた。

 ゼーン騎士団の若き総長は、端麗な美貌を凄まじい憤怒に染めている。

 好き勝手に暴れ回った挙句、勝手に撤退しようと動いたカルクスを見て、とうとう抑えが利かなくなったのだろうか。

 

「――愚か者め」

 

 怒り心頭に発したニネミアを前に、カルクスはあからさまな侮蔑の言葉を口にする。

 近距離且つ機動戦この状況で、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」が「凱歌の旗(インシグネ)」に敵う道理がない。

 おまけにニネミアは手負いであり、技量もカルクスには遠く及ばない。自棄になったとしか思えない突撃である。

 

 ここでカルクスは、さも当然の如くニネミアを殺すことを決めた。

 総長を切り刻めば流石に敵の追撃も止むだろう。それに(ブラック)トリガーを排除できれば後々の作戦にも好都合だ。無理押しするつもりはなかったが、向こうから首を差し出しに来るなら遠慮はするまい。

 

「てぇ!」

 

 射撃ユニットから放たれたレーザーを、カルクスは伸縮自在のマントを用いて紙一重で躱す。一発だけタイミングをずらしたために直撃を許したが、その一射は幾重にも折り畳んだマントで完全に防ぎ切った。

 最後の一斉掃射も、カルクスに傷をつけることは叶わなかった。そして再発射まで一呼吸の間に、ニネミアの首は飛んでいることだろう。が、

 

(一射、足りない?)

 

 ニネミアに跳びかかりながら、カルクスは己の抱いた違和感の正体に思い当った。

劫火の鼓(ヴェンジニ)」の射撃ユニットは残り七つの筈である。しかし、カルクスが捌いた射撃は六発のみ。しかし、その肝心の七つ目のユニットが、視界の何処にも存在しないのだ。

 

「――っ!」

 

 己がまんまと釣られたことに気付くも、もう遅い。

 眼前まで迫った憤怒のニネミア。しかし、彼女の瞳には確かな理性の光が宿っている。

凱歌の旗(インシグネ)」が首を刎ねんと鋭くはためくが、その寸前、ニネミアの腹を貫き、一条の閃光が奔った。

 射線が見えなければ、避けることも防ぐことも適うまい。

 ニネミアはユニットの一基を自らの背に貼り付け、自分ごとカルクスを撃ち抜いたのだ。

 

「くっ――」

 

 トリオン体の崩壊により、生身のまま落下したニネミアは、それでも何とか受け身を取って立ち上がる。

 

「私に構わないでッ! 敵に止めを刺しなさい!」

 

 介抱に駆けつける騎士たちを制し、気迫を込めた視線で敵を見遣る。

 

「…………」

 

 塵煙が立ちこめる倉庫内。カルクスは未だにトリオン体を保っていた。

 しかし、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の火力は「凱歌の旗(インシグネ)」を以てしても防げなかったようだ。老人の腹部には巨大な風穴が空き、トリオンが黒煙となって止めどなく漏れ出している。

 黒いマントもボロボロで、動きさえも緩慢でぎこちない。もはやトリガーを操縦する事さえ難しい深手である。遠からず、トリオン体も崩壊するだろう。

 

「一手読み違えた……いや、今回は私に侮りがあったか」

 

 トリオン体は半壊状態。周囲には敵意に満ちた兵という危機的な状況にありながら、カルクスは平然とした様子でそう呟く。

 

「奴を捕らえなさい!」

 

 ニネミアの下知を受けるまでもなく、従士たちはカルクスに弾丸を浴びせかけた。

凱歌の旗(インシグネ)」は辛うじて弾雨を防ぐが、トリオンの尽きた今となっては何時破れても不思議ではない。

 しかしカルクスは眉一つ動かさず、後方に飛び下がって距離を取る。

 

「この勝負、一先ず預けておくとしよう」

 

 そう言うや否や、凄まじい地揺れと轟音が起こった。

 

「な――」

 

 僅か数秒の後、地下倉庫の床板をぶち破って現れたのは、巨大な円柱状のトリオン兵である。捕獲型トリオン兵ワム。レーダー対策を施されたその改良型が、基地の直下まで潜行していたのだ。

 

「待ちなさい――」

 

 ニネミアの怒声を尻目に、手負いのカルクスはワムの口腔内へと飛び込んだ。

 追い縋ろうとした兵たちはしかし、代わりにワムの口から現れたトリオン兵に進行を阻まれる。

 狼型トリオン兵ヴルフの群れと、二対の腕を持った二足歩行の新型トリオン兵が、ゼーン騎士団の兵たちに襲い掛かった。

 

「くっ――」

「お下がりください総長っ!」

 

 新手のトリオン兵の思わぬ精強さに、地下倉庫は再び激戦地となった。

 トリオン体を失ったニネミアは、騎士たちに抱えられるようにして後方に下げられる。混乱の隙を突いて、カルクスを飲み込んだワムは悠々と地中へと潜って行った。

 

「~~っ!」

 

 口惜しさの余り、砕けんばかりに強く歯を噛みしめるニネミア。

 結局、敵はゼーン騎士団の若党を殺戮し、大した損害も受けぬままに引き上げていったのだ。これが屈辱的な敗北でなければ何だと言うのか。

 激情に身を焦がすニネミアであったが、騎士としての理性は、敵の不可解な行動の意図を冷静に推し量ろうとしていた。

 (ゲート)を用いずして如何にエクリシアに潜入したは不思議だが、基地を襲撃してからの敵の立ち回りは、明らかに擾乱と陽動を狙ったものである。

 

 次に控えるのは敵本隊の侵攻に間違いない。

 敵の(ブラック)トリガーを抑えるためとはいえ、防衛の一角を担うニネミアがトリオン体を失ってしまったことは相当な痛手だろう。

 ニネミアは端末を操作し、指揮所に通信を繋ごうとする。その時、基地内に緊急警報が鳴り響いた。

 

(ゲート)誘導装置、一番から六番、九番から十二番まで機能を停止しました! 誘導率は二十・五パーセントまで低下っ!」

 

 悲鳴にも似たオペレーターの声が基地内に響く。

 隔離戦場を囲む十二基の(ゲート)誘導装置の内、その十基が突如としてダウンしたと言うのだ。

 ニネミアが愕然と言葉を失う。そして敵の思惑に気付くと、戦慄に身を粟立たせた。

 防衛計画の要となる誘導装置が沈黙したとなれば、敵はエクリシアの如何なる場所にでも自在に兵を送り込むことができる。

 

 となれば、彼らが狙う場所は一つしかない。

 エクリシアの中枢たる地、神の御座所を有する聖都に、ノマスは大軍を送り込むつもりなのだ。

 その事実に気付いた面々は顔面を蒼白にする。しかし、彼女たちには動揺する時間さえ与えられなかった。

 空間を震わせて、多数の(ゲート)が隔離戦場の空に開いたのだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 薄暗い室内に、計器の低い駆動音が響いている。

 トリオンの拍動に照らされるその部屋は、ノマスの雄、ドミヌス氏族が有する遠征艇の戦闘指揮所である。

 決して広くはないその部屋には、投影モニター付きのテーブルを囲んで五人の男女が座っていた。

 

「カルクス老は戦線からの離脱に成功。カルボーは追跡部隊を躱しながら撤退中です。またテララは……勇戦し、敵の(ブラック)トリガー使い二人を戦闘不能に追い込んだものの、戦死を遂げたようです」

 

 モニターに戦況を映しながらそう口にするのは、三十見当の筋骨たくましい褐色肌の壮漢である。彼はアーエル氏族のマラキア。(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」の担い手にして、今遠征におけるノマス連合軍の副指令を務める。

 

「そうか。だが彼女たちは見事に勤めを果たしてくれた。その仕事に応えることが、我らにできる唯一の贐だ」

 

 凛冽な声でそう告げるのは、一座の最奥に座る男性である。

 年の頃は四十過ぎ。雪のように白い髪と、同色の口髭を蓄えた、黄金の瞳を持つ男性である。

 深沈重厚な風格を持つその男は瞳を閉じ、束の間、年若い戦士の死に弔意を示した。

 彼はノマス最大の勢力を誇るドミヌス氏族の長レクス。

 (ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」を持つノマス最強の戦士であり、また今遠征におけるノマスの総指揮官だ。

 

「では、いよいよ我らも出撃ですね」

 

 勢い込んでそう言ったのは、末席に座るレグルスである。

 仲間の死に心を乱されたのか、少年は幼さの残る顔を苦渋に歪め、固く拳を握りしめている。

 老雄カルクス、カルボー、そしてテララは、ノマスでも特殊な一族として知られるルーペス氏族の者たちである。彼らは物心もつかない時分から過酷な訓練を受け、潜入や暗殺、情報収集や破壊工作など、およそ戦場において求められる全ての技能を叩きこまれて育つ、ノマスで最も剽悍な部族である。

 

 彼らは一年前、ノマスの属国である遊星国家アンキッラの侵攻に紛れてエクリシアに侵入を果たした。以来、彼らはトリオン体のスリープ機能を用いて潜伏し、持ち込んだ隠密トリガーと変装トリガーを駆使してエクリシア攻略への下準備を進めてきたのだ。

 

「誘導装置を破壊したといえども、そう長くは持ちません」

 

 レグルスは真摯な声で、父であるカルクスにそう告げる。

 エクリシア攻略の前提としてどうしても避けられなかったのが、彼の国が開発した(ゲート)誘導装置の存在である。

 そもそもの国力でいえば、ノマスはその人員、物資、トリオンの全てにおいてエクリシアを下回っている。

 

 特に補給のない遠征となれば、本国で迎え撃つエクリシアが圧倒的優位に立つだろう。

 その上、交戦地点の決定権すらエクリシア側にあるとなれば、これはもう話にもならない。いくらノマスの兵が精強とはいえ、周囲を敵と砲台に囲まれた隔離戦場に降り立つとなれば、どれ程のトリオンをつぎ込んだとしても勝ち目はない。

 

 カルクスら潜入班に課せられたのは、何はなくとも誘導装置を無力化することである。

 しかし幸いなことに、ノマス側には有効な手立てがあった。

 ノマスが有する(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」、その機能を移植した新型トリオン兵を用いることで、誘導装置のシステムに介入することができたのだ。

 

 そして見事に、潜入班は(ゲート)誘導装置を機能停止に追い込んだ。

 のみならず、エクリシアが各地に設けた自軍用の(ゲート)中継装置も無力化に成功。これで隔離戦場の敵軍は聖都まで徒歩で移動せねばならない。

 かく乱のために敵の前線基地へと攻撃をしかけたカルクスらの内、少女テララが戦死を遂げることになったが、その損失を補って余りある成果である。

 

 だが、その功績を確かなものにするためには、速やかに本隊が進軍せねばならない。

 システムを破壊しただけで、誘導装置そのものは健在である。敵方に時間を与えれば、装置を復旧させてしまうからだ。

 

「勿論だ。総員戦闘準備。他の遠征艇にも総攻撃の指令を出す」

 

 眉間に深い皺を刻んだまま、レクスが深沈たる態度でそう指示する。

 副官のマラキアはすぐさま僚艦に連絡を取り、若いレグルスはいてもたってもいられないとばかりに座席から腰を浮かせた。するとその時、

 

「待ってください司令官。まだ議論は終わっていません!」

 

 切迫した声が指揮所に響いた。

 発言したのは唯一の女性隊員、シビッラ氏族のモナカである。

 年齢は三十を少し過ぎたほどの、栗毛を下げた女性だ。顔立ちは丸く柔らかいが、その眼光は刃物のように鋭く、神経質そうな印象を受ける。

 

「……()()については、捜索は行わないと言ったはずだ」

「で、ですが!」

「抗命するつもりか?」

「――ッ!」

 

 意見を述べようとするモナカを、レグルスは冷厳なる一瞥で制した。

 彼女が言う議とは、潜入班から送られた情報に記載されていたとある人物に関することである。

 エクリシアの装備、戦略、国情などを調査していた潜入班は、また先の戦争の折りに捕虜となったノマスの民たちの行方についても調べを進めていた。別けても優先されたのは、ノマスの姫君レギナについてである。

 一年にも及ぶ操作も虚しく、レギナの消息は杳として知れなかった。しかし潜入班は、代わりにレギナと生き写しの少女を見つけたのだ。

 

 少女の名はフィリア・イリニ。

 エクリシアは三大貴族の一角、イリニ家に迎え入れられたという若き騎士である。

 無論、報告を受けたノマスの面々は直ぐに両者を結びつけた。その容貌、そして年齢からして、フィリアはレギナの娘であると誰もが推測した。

 ノマスの姫君レギナの喪失は、先の戦争の苦い敗北を象徴する出来事である。その彼女が見つからない以上、娘と思しきフィリアを捕らえようとの意見が出たのは当然の成り行きであった。

 

 しかし、指揮官のレグルスはその意見を一顧だにせず却下した。

 今回の作戦目標にノマスの民の奪還は含まれておらず、また件の少女はエクリシアでは騎士の地位にあることから、最早ノマスの民としては扱えないとの理由である。

 それでもモナカが拘るのは、彼女がレギナとは姉妹のように育った間柄であるためだ。

 親友に関わる情報なら、何であっても欲している彼女である。娘と思しきフィリアに執着しない筈がない。

 だが、今遠征においてモナカはトリオン兵全般の調整と指揮を請け負う立場にある。また彼女自身も(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」を用い、前線へと赴く予定である。

 ノマスの命運を賭けた一戦に、人探しなど行う余裕はない。

 

「…………」

 

 そのことについてはモナカも重々承知している。それでも言わざるを得ないのは、レギナの存在が、この部屋に集う全ての面々に関わることだからだ。

 当時はまだ幼かったレグルスはともかく、この遠征に参加した者の中で、レギナを家族同然に思わなかった者はいない。

 彼女の明るさと優しさに、誰も彼もが救われた筈だ。彼女がノマスから連れ去られた時に抱いた激情は、熾火のように皆の胸に残っていることだろう。

 しかし、実兄のレクスは冷然とその提案を却下した。身内の消息を確かめる為だけに、作戦を変更することなどできない。

 国家の行く末を差配する者としては当然の判断といえた。だが、

 

「……彼の娘とは戦地で(まみ)えることになるだろう。捕虜を取ることは禁じてはいない。僥倖を願うことだ」

 

 と、レクスは唇を噛みしめるモナカにそう言う。

 もしフィリアを戦場で発見すれば、捕らえることは問題ない。それがレクスの示した最大限の譲歩であることは、モナカにもすぐに分かった。

 

「――は、はい。我が国の勝利の為、奮励努力いたします」

 

 彼女は居住まいを正すと、凛呼たる声で指揮官へと忠誠を誓った。

 

「さて、もう意見は無いな」

 

 モナカの頭が冷えたことを確認すると、レクスは視線を指揮所の奥へと向けた。

 彼が見据えているのは、会議用テーブルに肘を突き、さも気だるげに顎を手で支えている青年である。

 

「この期に及んで何も言いやしませんって。ちゃんと仕事はしますよ。さもなきゃ生きて帰れないじゃないですか」

 

 くせ毛の黒髪に、金色の瞳をした彼は、ノマスの国宝「万化の水(デュナミス)」の担い手ユウェネスである。

 エクリシア侵攻作戦に当初から反対していた青年であるが、流石に事ここに至っては覚悟を決めたらしい。不本意そうにため息をつきながらも、その顔は真剣そのものだ。

 一同の意思を確認したレクスは鷹揚に頷き、言葉を紡ぐ。

 

「マラキアは手筈通り潜入班の回収と敵の惑乱を行え。後の者は私と共に聖都へ降りる。――忘れるな。我々の目的はエクリシアの占領でも支配でもない」

 

 レクスに続いて、居並ぶ面々が次々に立ち上がった。

 

「此度の一戦でエクリシアの命脈を絶つ。主目標は(マザー)トリガーの破壊。副次目標は次代の神の殺害だ」

 

 滾るような殺意を身に纏い、ノマスの戦士たちは戦場へと歩み出した。

 

 

 

 



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其の五 聖都防衛戦 強襲部隊

 その日、聖都の空にはどんよりと厚い雲が立ち込めていた。気温は朝から奇妙なほどに高く、昼を過ぎるころには息苦しいほどの蒸し暑さとなっている。

 ノマス接近によって厳戒態勢が敷かれた聖都には行き交う人の姿も疎らで、平時の活気が嘘のように静まり返っていた。

 聖都の丘の中腹に建つイリニ騎士団の砦。その中に設けられた「誓願の鎧(パノプリア)」の格納庫に、フィリア・イリニの姿はあった。

 

「…………」

 

 白髪金瞳の少女は、格納庫に据え付けられた長椅子に立て膝で座り、手にした鶏肉のサンドイッチを無言で口に運んでいる。

 少女は此度のノマスとの邂逅に於いて、イリニ騎士団総長アルモニアから聖都守護の任を与えられていた。後方待機も同然の命令であったが、彼女は一言の意義も唱えることはなかった。

 それは今回の戦が、フィリアの意向に沿うものではなかったからである。

 

 今のフィリアにとっての唯一の望みは、母の代わりとなる神の候補を見つけだし、家族の安寧を得ることである。

 その願いからすれば、今回エクリシアがノマスに対して打ち立てた戦略、すなわち徹底的な防衛策は、甚だ都合が悪いものであった。

 

 敵が遠征に送り込んでくる人員は、確かに腕が立ちトリオン能力に優れた者ばかりだろう。しかし、神の候補になるほどのトリオン能力の持ち主ともなれば、危険な遠征に投入されることは考えにくい。

 優れたトリオン能力を持つからといって、その者が必ずしも戦士として優秀な訳はない。それは彼女の友人であったオルヒデア・アゾトンの例でも明らかだ。

 ずば抜けたトリオン能力の持ち主なら、本国で厳重に管理するのが当たり前である。

 ノマスが送り込んだ兵たちを捕らえたとしても、母の代わりとすることは難しいだろう。

 

 また防衛計画そのものも、ケチを付けることができない完璧な出来であった。

 隔離戦場へと敵を誘導し、圧倒的な火力で殲滅するというプランは、単純だがそれ故に対抗手段が見当たらない。

 敵を我が国に寄せ付けないという意味では、まず間違いのない計画だ。

 

 そして火力戦となれば、途端にフィリアの出番はなくなってしまう。主力を担うのはニネミアとメリジャーナの砲撃トリガーで、隙を埋めるためにはテロスの幻惑トリガーが用いられるだろう。また難敵が出てきたとしても、オリュザの狙撃トリガーで遠間から一方的に排除することができる。

 一騎駆けの剣士など、砲弾雨あられと降り注ぐ戦場では何の役にも立たない。

 ならば、母のいる聖都の護りについた方が、まだしも有意義だといえた。

 

「…………」

 

 機械的な反復運動でサンドイッチを食べ終えたフィリアは、包み紙を丁寧に畳んで脇に置く。その内、部下の従士が様子を見に来るだろう。その時に捨てさせればいい。

 ノマスが接触軌道に入って早一か月。

 少女は警戒態勢に入ってから、殆どすべての時間をこの格納庫で過ごしていた。

 

 フィリアの目の前には、彼女専用に調整された「誓願の鎧(パノプリア)」が蹲っている。

 エクリシアの勇名を知らしめた精強無比な鎧はしかし、それ相応の欠点も有している。着装にやや時間がかかる事と、燃費が非常に悪い事だ。

 特に燃費の問題は深刻で、動き回るだけでも途轍もないトリオンを喰う。平時の警備に用いるのはまず無理で、下手をすれば、敵が襲い掛かってきたときにはトリオンが空になっていることもあり得るのだ。

 

 トリオンバッテリー「恩寵の油(バタリア)」を交換すれば稼働時間を延ばすことも可能ではあるが、原則としては敵の襲撃に合わせて着装することになる。

 前線基地は勿論、聖都を囲む防壁で指揮を執っている騎士たちも、基本は通常のトリオン体のままで活動している。

 それぞれに調整された「誓願の鎧(パノプリア)」は騎士のすぐそばに置かれ、敵襲を今か今かと待ち構えている。

 

 スコトノ邸での一件か未だ尾を引くフィリアは、騎士であるにも関わらず城壁の警備シフトに組み込まれていなかった。

 アルモニアは彼女をあくまで補助人員として扱い、戦闘には極力出さないつもりでいるのだろう。

 それでも彼女が格納庫に居続けるのは、万が一の事態に備えての事だ。

 ノマスは強力な国家だが、エクリシアはそれに勝る国力を持つ。味方の布陣は盤石で、おそらく防衛戦は優勢の内に終わるだろう。

 

 とはいえ、戦争に絶対は存在しない。敵が何らかの方法で包囲を打ち破り、この聖都へ進軍してくる可能性も考えられるのだ。

 分厚く高い城壁、一分の隙もなく並べられた砲門、そして騎士と従士に守られた聖都であっても、何ら油断はできない。

 

「――ッ!」

 

 とその時、塑像のように座り込んでいた少女が豁然と目を見開き、弾かれたかのように立ち上がった。

 そしてフィリアは何の躊躇もなく「誓願の鎧(パノプリア)」を起動し、鎧へと身を滑りこませる。

 

「騎士フィリア・イリニのトリオン反応を確認。トリオン体伝達系接続、開始」

 

 鎧の起動シークエンスを聞き流しながら、少女は全チャンネルに通信回線を開く。

 

「こちら騎士フィリア・イリニ。聖都に敵が来ます!」

 

 襲来を察知できたのは、少女が有する「直観智」のサイドエフェクトの効果である。

 しかし、その警告は果たしてどの程度役に立ったか。

 フィリアが鎧の着装に成功したその瞬間、聖都に激震が奔った。

 堅固な砦の奥深くにある格納庫にまで響く、凄まじい空間の振動である。

 

「――騎士フィリア、出ます!」

 

 少女は命令を待たずして格納庫から飛び出すと、スラスターを猛然と噴かせ、直通通路から砦の上空へと飛び上がった。

 目に映るは曇天の下に広がる聖都。

 果て無く広がるその景色には、墨を落としたかのような漆黒の点が穿たれている。

 聖都の城壁を取り囲むように現れた何百もの(ゲート)

 その地獄のように暗い穴から、トリオン兵が雲霞の如く湧き出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「各自持ち場を離れるな! 粛々と敵を討て!」

 

 聖都を取り囲む巨大な城壁、その歩廊にて、ネロミロス・スコトノは声を枯らして従士たちを督励していた。

 

「痴れ者どもが。誘導装置を破壊されるなど、一体何をしていた」

 

 ネロミロスはせわしなく歩きながら、部下には聞こえぬほどの声でそう吐き捨てる。

 隔離戦場にて侵入者騒ぎがあったことは聖都の防衛部隊にも通達があった。しかし、それから殆ど間を置かぬうちに敵が聖都へと侵攻してきたのだ。

 空や大地に穿たれる異常な数の(ゲート)。そしてそこから湧き出るトリオン兵は、エクリシアの天地を埋め尽くさんばかりだ。

 勇猛随一として知られるネロミロスも、流石に怖気を振るう光景である。しかし、

 

「狼狽えるな者ども! (ゲート)の強制封鎖は行われている。敵は聖都の中には現れん!」

 

 金髪の大男は大声で吼える。

 万が一に備えて、聖都には強力な(ゲート)遮断装置が設けられている。

 トリオン障壁をはることで敵の(ゲート)発生を防ぐこの機構は、聖都全域をカバーすることが可能である。多大なトリオンを消費するためそう長くは持たないが、押し寄せたノマスの軍勢は城壁を突破せずして聖都内に侵入することはできない。

 

「トリオンが尽きるまで撃て! 何処へ撃っても当たる、狙いなど付けるな!」

 

誓願の鎧(パノプリア)」を着装しながら、ネロミロスは矢継ぎ早に従士に指示を出す。そして、

 

「ふん、この俺にもようやく武運が巡ってきたか」

 

 と、大男は鎧の中で獰猛な笑みを浮かべた。

 勤務体制の都合から、ネロミロスは数日前より聖都防衛の指揮を執っていた。

 前線である隔離戦場から離れざるを得なかったことに歯噛みした彼だが、それが却って幸いした。

 当初の防衛計画は、まったく機能しなくなったと言っていい。

 この難局を見事乗り切れば、ネロミロスの名望は近界(ネイバーフッド)中に響き渡る事だろう。権勢欲の極めて強い彼にとっては願っても無い好機である。

 

「い、イルガーです。イルガーが出ました」

「火力を集中して撃ち落とせ! 陸の敵は城壁を越えられん!」

 

 曇天の空に穿たれた(ゲート)から現われた爆撃型トリオン兵イルガーは、総数百を超える大軍である。ネロミロスは遅疑なくそれらの迎撃を部下へと命じた。

 飛行能力を持つトリオン兵が最優先の排除対象である。聖都を囲む頑強な城壁は少々の攻撃では小揺るぎもしないため、陸上型トリオン兵は後回しでも構わない。

 堅牢な城壁を頼り、砲台の火力を敵に浴びせ続ければ、勝算は十分に立つ。よしんば城壁が破られたとしても、そのころには敵の戦力は大幅に減じていることだろう。とても市内で暴れられるほどではない。

 

 楽観視はできないが、決して勝てぬ戦ではない。ネロミロスはそう予見した。

 その展望は間違いではなかっただろう。近界(ネイバーフッド)に名だたる強国であるエクリシアは、それだけの力を有していた。だが、

 

「じょ、城壁が、――と、溶けて、崩れますっ!」

「何だとっ!? ば、馬鹿なっ!」

 

 敵勢が最も集結した一画。

 敵の激しい攻撃を支えていた堅牢無比な城壁が、突如として崩壊した。

 分厚く高い城壁が、数十メートルにもわたって忽然と姿を消したのである。

 城壁は物理的に破壊された訳ではない。城壁を構成する膨大なトリオンが、まるで氷が水へと変じるように、液体となって地に流れ出したのである。

 

「て、敵が市街地に入りますっ! うわ、城壁に登ってきました!」

 

 通信越しに、従士たちの狂乱した声が響き渡る。

 がら空きとなった城壁の裂け目から、凄まじい勢いでトリオン兵がなだれ込んだ。

 ネロミロスには誤算があった。

 ノマスがこの戦につぎ込んだ戦力の総数、彼らが研ぎ澄ましてきた刃の鋭さ、滾る殺意の熱量を、完全に量り違えていたのだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 状況把握の為に上空にまで飛び上がったフィリアは、輝かしき聖都が地獄へと変貌したことを一瞬で悟った。

 空を埋め尽くさんばかりに展開するイルガー、バドら飛行トリオン兵が、聖都を囲む城壁を乗り越えんと迫っている。

 防衛部隊は飛行トリオン兵の侵入を阻むため、猛烈な射撃を加えている最中だ。

 それで幾らかのトリオン兵は落ちたが、その穴を埋めるように後から後からトリオン兵が湧いて出てくる。

 

 そのうちに、百を超すイルガーの群れが、一斉に爆撃用トリオン兵オルガを射出した。

 数百を数えるオルガは城壁の上層部、防衛隊と砲台に狙い澄まして突撃すると、轟音と共に爆発する。

 この爆撃で砲台の稼働率が一気に下がった。

 飛行型トリオン兵は砲撃を避け、悠々と市街地へ侵入を果たす。さらに、

 

「なっ――」

 

 さしものフィリアでさえ、言葉を失う出来事が起こった。

 聖都を囲む堅牢な城壁の一角が、まるで飴のように溶けて消えてしまったのである。

 見渡せば、規模こそ遥かに小さいものの、城壁のそこかしこで同じように城壁が崩落している。

 そして虫食いのようになった城壁からは、凄まじい数のトリオン兵が侵入を始めている。

 

「騎士フィリア・イリニが報告! ノマスの狙いは(マザー)トリガーの攻略の模様! 全隊至急教会の防衛に当たられたしっ!」

 

 敵の動向を一目見たフィリアは、サイドエフェクトの導きによって即座に敵の狙いを見抜いた。

 ノマスは電撃戦でエクリシアの母(マザー)トリガーを堕とすつもりである。フィリアは全ての通信チャンネルを開いて、味方にその事実を告げる。

 少女のサイドエフェクトを知る者はイリニ騎士団でも一部の者に限られるが、それでも問題ない。この状況下では誰しもが教会の防衛に回る筈である。少女の通信はその後押しをしたに過ぎない。

 

 (マザー)トリガー抑えられれば、エクリシアの全ての民はノマスに屈さざるを得なくなる。騎士、従士たちは必死にそれを阻むだろう。

 だが、少女にとって(マザー)トリガーは二の次だ。教会には彼女の家族がいる。絶対にそこまで戦火を広げてはならない。

 

「――よし!」

 

 とその時、鎧の内側でフィリアが快哉を上げた。

 今しがた飛び出した騎士団の砦の周囲に、次々に(ゲート)が開いている。

 中から出てくるのは、イルガーやバドといった飛行トリオン兵、またモールモッドやボーズといった戦闘用トリオン兵である。

 

 これらはエクリシア側のトリオン兵だ。隔離戦場にトリガー使いたちを送ったため、聖都を護る兵はそう多くない。数の不利を補うためにも、トリオン兵は出し惜しみなく投入すべきだ。

 別けても航空戦力は有難い。敵に制空権を握られた状況では、おちおち地上部隊を撃退することもできないからだ。

 

 トリオン兵の性能に関して言えばノマス側に多少の分があるだろうが、遠征側の弱みは投入できる戦力量にある。

 いくら大量にトリオン兵を持ち込んだとしても、いずれは限界が来る。本国で防衛を行うエクリシア側を、総数で上回ることはできないはずだ。

 ノマスの軍勢に押し込まれたとしても、最悪の場合、教会までの道をトリオン兵で塞いでしまえば、人的被害はともかく教会の防衛は可能だ。だが、

 

「――っ!」

 

 フィリアの目が驚愕に見開かれた。

 城壁を超えた敵のイルガーが、突如として速度を上げたのだ。

 従来のイルガーにはあり得ない凄まじいまでの加速。飛行速度を向上させた改良型イルガーは、損傷が無いにも関わらず自爆モードに移行し、まっしぐらに騎士団の砦目がけて突っ込んでくる。

 

「はっ!」

 

誓願の鎧(パノプリア)」によって飛翔したフィリアは、迫りくるイルガーを一刀のもとに斬り捨てた。自爆モードに移行した堅牢なイルガーを、まるで紙でも斬るかのように易々と葬るその腕前は、まさにエクリシアのエースに相応しい。

 しかし、百に届こうかというイルガーの群れには、フィリア一人ではとても対処することなどできない。

 

 ましてや距離の問題もある。一方のイルガーを切り捨てているうちに、他の個体はどんどん砦へ近づいていく。

 敵の狙いに気付いた騎士たちも、城壁から飛び立ってイルガーを追いかけてはいるが、小型の飛行トリオン兵バドの執拗な妨害を受け、なかなかイルガーを落とすことができない。そして、

 

「――っ!」

 

 イルガーの群れが、騎士団の砦へと激突した。

 天地を揺るがす大爆発が立て続けに起こる。

 いくら堅牢な砦とはいえ、数十体のイルガーに突撃されてはどうしようもない。

 目が潰れるような閃光の後、イリニ、ゼーン、フィロドクス、三大騎士団すべての砦は瓦礫の山と化していた。

 

 砦に残っていた兵、職員には夥しい死傷者が出ただろう。トリオン体を構築できた者は助かったかもしれないが、今は救出に裂いている時間など誰にもない。

 砦が崩壊したということは、そこにあった兵とトリガー、トリオン兵が根こそぎ失われたことを意味する。

 当然ながら、指揮系統も滅茶苦茶である。

 これでは殺到するノマスの兵団に対処できるはずがない。

 

「っ……」

 

 フィリアの顔面から血の気が引く。

 現状、ノマスとの戦力差をひっくり返す手段はない。教会も幾らかの兵とトリオン兵を所有しているが、焼け石に水だ。

 隔離戦場から主力部隊が戻ってくればノマスを殲滅できるだろうが、その時間を稼ぐことが困難になってしまった。

 

 上空から聖都の状況を見遣る。

 群衆が半狂乱になりながら道々を駆けている。聖都には市民を匿うためのシェルターが設けられているが、避難は殆ど完了しておらず、いたる所でパニックが発生しているのだ。

 敵の侵攻が余りに突然で、しかも城壁が崩れるのが早すぎた。勿論、混乱を収拾する人員などいようはずがない。

 

 見れば、侵入したトリオン兵の群れは分散し、市街地をくまなく舐め回すように動いている。逃げ遅れた市民がトリオン兵に襲われる様子が遠目でもはっきりと見える。

 しかし、これらのトリオン兵を迂闊に追いかけることはできない。エクリシア側の兵力の分散を誘う陽動策に乗ることになるからだ。

 敵の本命は、城壁の切れ目から弾丸のように突き進んでくるいくつかの集団だ。

 

「――落ち着け。冷静になるんだ」

 

 眼下に広がる絶望的な光景を前にして、フィリアは感情を切り替える為、鎧の中で一つ息を付いた。すると途端に、少女の胸に鋼の冷たさが戻ってくる。

 恐れても嘆いても、事態は何も変わらない。

 少女に出来ることは、ただ一振りの刃となって襲い来る敵を斬るだけだ。

 フィリアはブレードトリガー「鉄の鷲(グリパス)」を掲げ、サイドエフェクトの導くままに、津波の如く押し寄せる敵軍へと飛翔した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――危ねっ! くそ、トラップ生きてんじゃねえかっ!」

 

 ボースの背に顔をうずめ、亀のように身を縮こまらせた不格好な騎乗姿で、ユウェネスは悲鳴にも似た声を上げる。

 地面から現れた自動砲台からの砲撃が、彼のすぐそばを通り過ぎたのだ。

 

 大量のイルガー投入により、首尾よく敵の本拠地である砦を破壊するまではよかったのだが、流石は強国エクリシア。聖都のいたる所に仕掛けられたトラップは健在で、進軍するノマスのトリオン兵を見事に足止めしている。

 

 また、エクリシアの兵の練度もやはり相当の物だ。不意打ちで浴びせかけた爆撃にも関わらず、脱落者は思いのほかに少ない。

 既に混乱を脱したエクリシアの兵たちは、市街地に侵入したノマス勢を狩り立てるように攻撃を始めている。

 しかもノマス側の狙いは早くも看破されたようで、エクリシアの部隊は陽動のトリオン兵には目もくれず、襲撃の主力たる部隊を抑えようと動いている。

 

「いちいち潰してる暇なんてありませんよ。このまま突っ切りますっ!」

 

 ボースを並走させていたレグルスが、戦場の喧騒に負けぬ大声でそう叫んだ。

 ノマスの遠征艇すべてを用いた今回の作戦。参加したトリガー使いは二十余名にもおよぶ。かれらは四つの部隊に分かれ、聖都の四方から(マザー)トリガー目がけて進軍していた。

 その中でも、総指揮官レクスの率いるこの最精鋭の部隊は、まさに疾風迅雷の速度で聖都を縦断していた。

 

「勘弁してくれよ! 俺シールドも張れないんだぜっ」

「ヴルフが護りますから大丈夫です! 絶対教会まで脱落させませんから」

「お前肝座りすぎだ、ホントに初陣かよ!」

 

 レクス、モナカ、ユウェネスにカルクス。強襲部隊は皆ボースに騎乗し、逃げ惑うエクリシアの民も降り注ぐ砲弾も気に留めずに、一心不乱に教会を目指している。

 速度こそが勝機だ。実際の所、国力に関して言えば、ノマスは到底エクリシアには叶わない。敵地での戦闘となれば言わずもがなである。

 隔離戦場に詰めているエクリシアの主力が聖都へと戻ってくれば、ノマスの兵たちは物量によって押し潰されてしまう。

 奇襲のアドバンテージを消化するまでが、ノマスに残された手持ちの時間だ。

 

 強襲部隊には速度が求められた。

 彼らに付き従うのは、三種類のヴルフとクリズリからなるトリオン兵団である。

 大型トリオン兵は足が遅く、この強行軍にはとても付いていくことができない。代わりにそれらのトリオン兵は、市街地の惑乱と追っ手の阻止に当てられている。

 小型とはいえヴルフとクリズリは侮りがたい戦力を持つ。別けてもクリズリの性能は別格だ。エクリシアの騎士にさえ太刀打ちできるこのトリオン兵を大量に用いれば、敵陣を突き崩すに十分な戦力となるだろう。

 

「馬鹿な事言ってないで集中なさい! あなたがこの作戦の要よ!」

 

 鋭い声でユウェネスを叱咤するのは、彼のすぐ前でボースを駆るモナカだ。年上の女性から叱りつけられ、青年は砲弾が掠めた時よりも深く首をひっこめる。

 ユウェネスの持つ(ブラック)トリガー、ノマスの国宝たる「万化の水(デュナミス)」は、一切の戦闘能力を持たないトリガーである。彼がぼやいたように、単独では飛来する弾丸さえ防ぐことができない。

 しかし、その強力無比な機能は、運用次第では戦局を一変させることが可能だ。

 

万化の水(デュナミス)」の機能は、あらゆるトリオンの自由自在な操作である。

 この(ブラック)トリガーは、人間の生体エネルギーであるトリオンを、起動者の思うままの形に作り変えることができる。しかも、変形にあたっては一切のロスを生じさせない。

 これを用いれば、スクラップとなったトリオン兵を素材にして、新たなトリオン兵やトリガーを作ることができる。

 

 勿論、創出には使い手の器物に対する詳細なイメージが必要となり、また複雑な物を作り出すにはそれなりの時間がかかる。

 しかし、例えばトリオンの結合を解くだけなら、個体のトリオンを液体に変化させるだけならば、対象に触れた瞬間に操作することが可能だ。

 

 エクリシアが誇る堅牢な城壁を溶かしたのは、他ならぬこの「万化の水(デュナミス)」であった。

 そしてこのトリガーを用いれば、マザートリガーに到るまでに設けられた十重二十重の障壁を簡単に突破することができるだろう。

 ユウェネスが戦闘能力を持たないにも関わらず強襲部隊に組み込まれたのは、彼こそがエクリシアの急所を刺し貫く切り札であるからだ。

 

「っとに鬱陶しいな!」

 

 エクリシア側のトリオン兵が、襲撃部隊の前を塞ぐように立ちはだかった。バンダーから放たれた砲撃を、一同は見事な馬術で避ける。

 

 とその時、エクリシアのトリオン兵に、ノマスのトリオン兵団が猛然と突っ込んだ。

 尾部に長大なトリオン鞭を仕込んだ黒色のヴルフ・ホニンが近接戦闘を仕掛け、追尾弾を発射可能な白色のヴルフ・レイグがそれを援護する。

 粘着弾の発射機能を持つヴルフ・ベシリアは、シールドを張ってトリガー使いたちの安全を確保する。

 優秀な人工知能を持つノマスのトリオン兵は、作戦への影響を最小限に抑える動作を選択した。すなわち、敵のトリオン兵の脚部を狙うことで、機動力のみを削いだのだ。

 

 しかし、比較的小さいモールモッドはともかく、バンダーやバムスターといった大型トリオン兵の脚部は容易に切断することはできない。

 勿論そのことは承知の上だ。ヴルフが敵トリオン兵の陣形を乱したところに、凄まじい速度でクリズリが突撃を仕掛けた。

 背中のスラスターを噴かせて飛び込んだクリズリが、規格外の腕力を用いてエクリシアのトリオン兵を殴り飛ばす。

 質量差で数十倍はあろうかという大型トリオン兵が、まるで木の葉のように吹き飛び、家屋をなぎ倒していく。

 

 大道が開けると、ノマスの強襲部隊はボースを駆って再び走り出した。

 ことトリオン兵同士の戦いならば、ノマスがエクリシアに後れを取る道理はない。

 レクス率いる強襲部隊は早くも道程の半ばを踏破している。エクリシアの兵の多くは、ノマスの放ったトリオン兵に足止めされ、追いついてくる気配さえない。

 このまま兵が集結する前に教会を攻撃できれば、勝機は十分にあるだろう。だが、

 

「――直上!」

 

 レクスが轟然と叫んだ。と同時に、ノマスの戦士たちを乗せたボースは四方八方に散開する。

 上空から降り注いだトリオンの奔流が、彼らが直前までいた場所を焼き払った。

 この凄まじい砲撃は、エクリシアの砲盾トリガー「銀の竜(ドラコン)」によるものだ。

 放たれた矢のような速度で行軍するノマスの部隊も、流石に空を飛ぶ者には敵わない。

 レクスたちの頭上を悠々と飛び越え、「誓願の鎧(パノプリア)」纏った騎士が大通りの向こうへと着地する。

 長剣と大盾を携えた騎士、ネロミロス・スコトノが強襲部隊の前に立ちはだかった。

 

 

 

 



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其の六 聖都防衛戦 怪物

 教会の鐘楼へと延びる長い螺旋階段を、妙齢の貴婦人が息せき切らせて駆け上っていた。麦穂のように輝く金髪と、翡翠のように深緑の瞳をした彼女はパイデイア・イリニである。

 神の候補として教会で保護を受けていた彼女は、しかしノマスの襲来の報に接すると、ともかく戦況を一目でも確認しようと思い立った。

 安全な地下シェルターで、それも最愛の家族と過ごしていたにも関わらず、彼女が居ても立ってもいられなくなったのは、この聖都の防衛に愛娘フィリアが携わっているからに他ならない。

 

「きゃ! な、何、今の爆発は……」

 

 塔の頂へと辿りつかんとしたその時、鼓膜を破らんばかりの轟音と、地の底が抜け落ちたかのような振動が立て続けに起こった。

 手すりにしがみつき辛うじて転倒を免れたパイデイアは、不吉な予感に胸を締め上げられながらも最後の階段に足を掛ける。

 果たしてそこに広がっていたのは、掛け値なしの地獄絵図であった。

 

「――っ!」

 

 パイデイアが言葉にならない悲鳴を上げてよろめく。

 丘の上に立つ教会から見下ろせば、聖都の全てが一望できる。しかし、最早聖都は彼女の知る姿ではなくなっていた。

 

 丘の中腹にある筈の騎士団の砦が、見るも無残な瓦礫の山と化している。

 教会へと避難しようとしていた群衆が攻撃に巻き込まれたのだろうか。吹き付ける強風に紛れて、怒号と悲鳴が聞こえてくる。

 

 余りの惨状に視線を遠方へと逸らすも、そこに広がっているのも別の地獄だ。

 おそらくはノマスの爆撃によるものだろう。優麗典雅な聖都の街並みは、もはや見る影もなく荒廃している。あちこちから火の手が上がり、まだシェルターに避難できていない多くの市民たちが、街路を当てもなく逃げ惑っている。

 

 さらに目を凝らして遠くを見れば、地平のように大地に線を引くそれ、聖都を囲む長大な城壁の所々が、まるで断線したかのように途切れていた。

 エクリシアの市民が全幅の信頼を置いていた鉄壁の城壁が、無残にも破られたのである。

 既にトリオン兵は大挙して市内に侵入しているらしい。

 

 何故ここまで早く城壁が破られたのか、騎士団はノマスを撃退できるのか。そもそも敵は遠方の戦場に現れるのではなかったのか。

 背筋が凍るような恐怖と共に、諸々の想念がパイデイアの頭に沸き起こる。それは生物として、命の危機に瀕した者として当然の反応と言えた。

 しかし、パイデイアは顔色を蒼白にしたまま、口元を真一文字に引き締めた。

 

 彼女は母親である。今考えることは、子供たちの安全のみ。

 まずは情報を得なければ何の指針も立てられない。騎士団の指揮所は確認するまでも無く機能停止しているだろう。この場合、指揮権は教会を護る聖堂衛兵団に移っている筈。彼らから詳しい状況を聞かねばならない。

 意を決したパイデイアは、鐘楼を降りるために踵を返した。すると、

 

「敵の狙いは(マザー)トリガーみたいだ。一目散に此処を目指しているよ」

 

 戦場と化した聖都の空気とはまるで不釣り合いな、爽然とした声が響いた。

 パイデイアの前に立っていたのは、澄み渡る蒼穹を思わせる髪と瞳をした、十二、三歳ぐらいの少年である。

 

「エルピス、猊下……」

「や、久しぶりだね。パイデイアさん」

 

 驚愕するパイデイアに、少年アヴリオ・エルピスは晴れやかに話しかける。

 このエクリシアで最高の地位である教皇にして、国宝の(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」を担う少年は、まるで気負いなく歩を進めると、眼下に広がる聖都の惨状を眺めた。

 

「フィリアさんもアルモニア君も、今のところは無事みたい」

 

 まるでパイデイアの胸中を見透かしていたかのように、アヴリオが説明する。

 

「敵は速攻戦の構えだと思う。多分、隔離戦場からうちの主力部隊が戻ってくるまでには撤退するんじゃないかな。まあ、それまで持つかどうかだけどね」

 

 穏やかな表情のまま、アヴリオはまるで他人事のようにそう言葉を続ける。

 先代の神の弟君にして齢数百を数えるこの男は、これほどの惨劇を前にしてさえ一切の動揺を面に顕さない。

 怪物のような少年の精神性に、パイデイアは知らずと間に後ずさる。だが、

 

「どっちにせよ、この教会が激戦地になるのは間違いない。今ならまだお子さんを逃がすこともできるよ」

 

 そうパイデイアに提案したアヴリオの顔には、確かな哀切の念があった。

 この少年は長きにわたるその生に於いて、近界(ネイバーフッド)を襲う様々な悲劇を目の当たりにしてきたのだろう。張り付いたかのような笑顔は、あるいはその悲しみを隠す為の物なのかもしれない。

 

「逃げるなら早い方がいい。北の方はまだそこまで敵のトリオン兵が侵入していないらしいから、シェルターに逃げ込めれば此処より安全だと思う」

 

 アヴリオはそう言って胸壁の上へと登った。そして、

 

「どうか、誰しもにせめてもの救いがありますように」

 

 誰ともなしにそう呟くと、少年は鐘楼から真っ逆さまに飛び降りた。

 パイデイアは驚愕して塔の下を見下ろすと、小さくなった青色の頭が、何の問題も無かったかのように教会へと入っていく。

 彼女は知らぬことだが、戦況の不利を我が目で確かめたアヴリオは、いよいよ自らも戦場に赴くことを決意した。地下に座する専用の鎧「恐怖の鎧(フォボス)」へと、少年は向かったのだ。

 そして残されたパイデイアも、階段を滑り落ちるような速度で駆けおり、テロスたちの待つ地下階へと急いだ。

 

 途中で通り抜けた大聖堂は、避難してきた市民で溢れかえっていた。

 武威の象徴であった騎士団の砦が破壊された事実は、続々とやってくる避難民によって知らされたらしい。となれば、絶対安全と思われていたこの教会も怪しい。恐怖に駆られた避難民は聖堂衛兵に詰め寄り、埒も無い問答を繰り広げている。

 このままでは避難民たちが恐慌状態に陥るのもそう遠くない。

 パイデイアは速やかに子供たちを避難させるべきだと、胸の内で決断した。

 

 教会の有する戦力は精鋭なれども、その数は少ない。堅牢な教会に拠って戦うとはいえ、押し寄せるトリオン兵を撃退できるという保証はない。

 その上、抱え込んだ避難民は恐懼の余りヒステリーを起こしかけている。下手をすれば防戦中に内側から崩れるかもしれない。そうなれば、教会に籠る人間は皆殺しにされるだろう。

 

 パイデイアは一般人立ち入り禁止の昇降機に飛び込むと、一目散に地下階を目指す。

 教皇アヴリオの言うことが確かなら、今ならまだ家族を落ち延びさせることも可能だ。

 敵の目的はこの教会の深部にある(マザー)トリガー。彼らも無用な破壊をしている暇はないだろうから。たとえシェルターに入れなかったとしても、どこか別の堅牢な建物に潜伏することができれば、助かる可能性は十分にある。

 

「母さんっ、どこ行ってたんだよ!」

 

 地下に着くや、愛息サロスが息せき切らせてパイデイアの下へと駆け寄ってきた。傍らには妹のアネシス、弟のイダニコの姿もある。

 地下に居た彼らも、聖都を取り巻く不穏な空気は察しているのだろう。一様に不安な表情を浮かべていたが、それでも気丈に母を見据えている。

 そんな息子たちを呼び集めると、パイデイアは彼らを確と抱きしめた。

 

「ノマスの、敵の国のトリオン兵が教会を目指してそこまで来ているの。ここはもうすぐ戦場になるわ」

「なっ――なら、俺がみんなを護るよっ!」

 

 母の切迫した声に、サロスがいち早く反応した。彼だけではない。アネシスとイダニコも、己ができることをすると口々に応え、母を支えようとしている。

 

「……っ」

 

 パイデイアは沸き起こる感情に胸を詰まらせ、子供たちを痛いほどに強く抱擁する。

 

「ううん。それよりも此処から逃げないといけないの。……兵隊さんたちの、戦う邪魔になるからね」

 

 彼女はそう嘘を付き、子供たちの表情を眺める。皆恐怖を感じつつも、母の言うことをはっきりと理解しているらしい。

 

「教会の通用口から出て、北へ向かって丘を降りていくのよ。詳しい場所はヌースに伝えておくから、言う事をしっかり聞いてね」

 

 パイデイアがそう言うと、イダニコが肩から下げていた鞄から、自律トリオン兵ヌースが出てきた。彼女はパイデイアから外の詳しい状況と、今後のプランを簡潔に伝えられる。

 

「……分かりました。必ず、この子たちを護ります」

「頼れるのはあなただけなの。お願いね、ヌース」

 

 ヌースが抑揚のない、しかし普段よりも重々しい声で承知する。パイデイアはそっと手を伸してヌースのボディを撫で、この古い友人に感謝の念を伝える。

 

「あれ、ちょっと待って、母さんはどうするの?」

 

 母とヌースが交わした会話の違和感の理由に思い当ったのだろう。娘のアネシスが、不安な声でそう言った。

 パイデイアは一言たりとも、子供たちと同道すると口にしていない。

 

「私は、教会に残らなくちゃいけないの」

「そんなっ!」

 

 母の告白に、子供たちが悲痛な叫び声を上げる。

 血よりも濃い絆で結ばれた家族である。逃げる時は皆一緒だろうと、彼らがそう思い込むのも当然だ。

 子供たちは血相を変え、母にその理由を問う。

 

「大丈夫。私は大丈夫だから……」

 

 けれど、パイデイアは子供たちの質問には答えず、ただ彼らを元気づけるのみ。

 彼女が教会に残る理由。否、残らねばならない理由。それは彼女の桁外れのトリオン能力にある。

 トリオン兵の中には、対象のトリオン能力を検知し、追跡する機能を持つ物がいる。

 パイデイアが有する稀有なトリオン機関は、必ずやそれらのトリオン兵を誘蛾灯のように引きつけることになるだろう。シェルターまで彼女が付き添えば、道中の危険度が跳ね上がることは確実と言えた。

 

 幸か不幸か、子供たちのトリオン機関は並以下の出力しか持ち合わせていない。息を潜めて慎重に動けば、敵の探知を免れることは十分に可能だろう。

 神の候補としての立場も、貴族の子女としての肩書も関係ない。

 彼女は母であるがゆえに、ここで子供たちと別れねばならなかった。

 

「お母さん、僕嫌だよッ!」

 

 末の弟イダニコが、涙で双頬を濡らしながら痛切な声でそう訴える。

 彼だけではない。サロスもアネシスもパイデイアに縋り付き、一緒に逃げようと泣訴している。

 そして彼らは、それができないなら自分たちも教会に残るとまで言い出した。

 何者にも絶ちがたい親子の情。しかしパイデイアは子供たちの訴えを退け、毅然と教会から脱出することを言い付けた。

 

「母さん……」

「大丈夫。もし本当に危なくなったら、私も逃げちゃうから。それに、ご当主様や――フィリアも、頑張って戦ってくれている筈よ。私たちが危なくなれば、きっと助けに来てくれるわ」

 

 そう言って、パイデイアは不安気な子供たちの頭を優しく撫で、勇気づける。

 

「パイデイア、ではまた、後で」

「うん。子供たちをお願いね。ヌース」

 

 自律型トリオン兵は相変わらず平坦な、しかし切実な思いを宿した声で旧友に語りかける。

 パイデイアはヌースに供給索を出すよう頼むと、選別とばかりに膨大なトリオンを提供した。ヌースには非常用として幾らかトリオン兵の卵を搭載している。有事となれば、それらを孵化させて手勢として操ることができる。

 

 また子供たちにも緊急用のトリガーは持たせてある。武装は持たないが、トリオン体になるだけで生存率は格段に上がるだろう。

 シェルターまで向かうのはそう難しくないはずだ。

 

「お母さん、絶対にまた会えるよね」

 

 気丈に涙を堪えながら、イダニコがそう尋ねる。パイデイアは慈母の微笑みを浮かべ、

 

「勿論よ。今まで母さんが嘘をついたことがあった?」

 

 と言って、子供たちと再会の約束を交わす。

 そうして何とか聞き分けた子供たちは、ヌースに連れられて教会を後にした。

 残ったパイデイアは一つ深呼吸をすると、意識を切り替える。

 

 これから先は、己が生き延びることを考えねばならない。家族の為なら、彼女は武器を手にし、戦場に立つことも覚悟できる。

 博愛の心では、降りかかる火の粉を払うことはできない。母として幸福な十余年を過ごした彼女は最早、理想に殉じて死ぬことは許されない。

 

「レギナ……ごめんね。でも、できることは全部しなきゃいけいの。私は、あの子たちの親だから」

 

 ふと、パイデイアの脳裏に在りし日の親友の姿が浮かぶ。

 彼女は懊悩を胸に秘めたまま、教会の防衛に加わるべく走り出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 市街地を疾風のように駆け抜ける敵集団を捕捉した時、ネロミロス・スコトノは知らずと間に凄絶な笑みを浮かべていた。

 頼みとする城壁が飴細工のように溶かされ、イルガー特攻によって騎士団の本拠地たる砦も破壊されるという未曽有の危機にありながら、それでもこの狂猛な騎士の闘志は萎えることを知らない。

 

 ノマスの目標は(マザー)トリガーである。またその為に敵はトリガー使いで構成された四つの強襲部隊を分進させ、教会を合撃する腹積もりであるらしい。

 これらの情報は――ネロミロスにとっては甚だ業腹なことながら――イリニ騎士団の騎士フィリアによって、聖都防衛軍の全部隊に伝えられていた。

 

 聖都に侵入した敵部隊は、トリオン兵をばら撒いて惑乱を行いつつ、一路教会を目指している。北部はフィロドクス騎士団総長クレヴォが指揮を執っている御蔭で、城壁が崩落したにも関わらず、未だ市街地への敵の侵攻を許していない。

 教会へ攻めかかる敵部隊は三つ。

 そのうちの一隊をネロミロスが見つけたのは、まったくの僥倖であった。

 

 城壁が崩落し、イルガーの爆撃によって防衛部隊は算を乱した。戦力を結集させようにも、指揮所は沈黙している。そんな折に入ったのがフィリアの通信だ。

 ネロミロスはその知らせに接するや否や、即座に聖都の上空へと飛び上がり、敵の主力を探し求めた。

 本来ならば、ネロミロスは部下の従士たちを取りまとめねばならない立場ではあったが、それより敵の侵攻を挫くのが先決との判断を下したのだ。

 

 とはいえ、ネロミロスには下心もあった。

 ノマスが投入したトリオン兵の数は膨大だが、教会を攻め落とすためのトリガー使いは少数のはずだ。これは遠征を仕掛けた側が避けられないハンデである。勿論、敵のトリガー使いは手練れ揃いだろうが、それ故にどれも値千金の首級だ。

 

 ネロミロスはもともと名誉欲の極めて強い男である。

 聖都防衛に回されたときは切歯扼腕したものだが、現状それが幸いした。

 騎士の殆どは隔離戦場にあり、聖都に駆けつけるまではどう頑張っても数時間はかかる。功名を立てるなら今をおいて他にはない。

 

誓願の鎧(パノプリア)」を纏った騎士ならば、只のトリガー使いに後れを取る道理は微塵もない。何となれば、五人や十人を相手にしても十分に戦うことができる。

 そしてまたネロミロスは、その目論見が自惚れにならぬ程の武勇を有していた。

 そうして彼が見つけたのが、レクス率いる部隊であったのだ。

 

「ノマスの賊共よ。よくも分際を弁えず我が国を汚してくれたな。もはや許さん。ここが貴様らの墓場と知れ!」

 

 荒れ果てた街路へと降り立ったネロミロスが、剣と大盾を構えて吼える。

 敵のトリガー使いは四名。取り巻きのトリオン兵が厄介だが、やれぬ数ではない。猛き騎士は裂帛の気合と共に、騎乗したトリガー使いへと斬りかかる。だが、

 

「っ、臆したかっ!」

 

 レクスたちは見事な馬術で散開して攻撃を躱すと、猛然と進軍を再開した。まるでネロミロスの存在など眼中に無いかのような振る舞いである。

 当然、大兵の騎士は憤激してその後を追う。

 

 ネロミロスの追撃を阻むべく襲い掛かったのは、護衛のトリオン兵たちだ。

 ヴルフ・ホニンは尾部のブレードを振り回し、ヴルフ・レイグはトリオン弾を乱射する。

 見事な連携によって四方から浴びせかけられる攻撃は、練達のトリガー使いであっても容易には回避できない密度である。機械仕掛けで動いているとは思えないその動作は、トリオン兵の精強さで知られるノマスの面目躍如といったところか。

 

 が、エクリシアのトリガー技術も負けてはいない。

 通常のトリオン体なら一溜まりもなく破壊される攻撃を、ネロミロスの纏う「誓願の鎧(パノプリア)」は完全に遮断した。

 と同時に振るわれたネロミロスの長剣が、狼型トリオン兵数体を両断する。

 堅牢な鎧には微かな跡が付いているだけで、機能には何の問題も無い。(ブラック)トリガークラスの出力でもなければ、エクリシアが誇る「誓願の鎧(パノプリア)」を貫くことは不可能である。

 

「――ぬっ!」

 

 ただ唯一効果があったのは、ヴルフ・ベシリアが放った粘着弾だ。敵の行動を阻害するための弾丸に、装甲の硬軟は関係ない。

 堅牢無比なエクリシアの鎧といえども、この武器は十全に効果を発揮する。

 

 しかし、ネロミロスが幸運であったのは、彼が大盾トリガー「銀の竜(ドラコン)」を有していたことだろう。ヴルフ・ベシリアの放つ粘着弾は、「玻璃の精(ネライダ)」のような通常のシールドトリガーであれば干渉せずに通り抜けるが、「銀の竜(ドラコン)」のように物質化したトリオンならば普通に防ぐことができる。

 放たれた粘着弾をネロミロスは反射的に大盾で防御した。盾にへばりついた鳥もち状のトリオン弾を見て、すぐさまその効果を解した大男は、舌打ちと共に弾丸の届かない上空へと飛翔する。

 

「雑魚に構っていられるか」

 

 そう吐き捨てながら、騎士は猛然とスラスターを噴かして先行するレクスたちを追う。

 いくら騎乗用トリオン兵ボースが優秀だとしても、空を飛ぶ騎士から逃れることはできない。ノマスの兵団を追い越したネロミロスは、またしても彼らの眼前に立ちふさがるように地に降り立つ。

 

「鼠賊どもが、逃げられると思うなよ」

 

 憤然と恫喝する大兵の騎士を前に、然しものノマスの精兵たちも足を止める。その時、

 

「面倒だ。此処で打ち殺しておくか」

 

 と、そう呟いたのは先頭を駆るレクスだ。彼は吼える犬を見るかのような厭わしい目で、立ちはだかる騎士を見遣る。

 その蔑みの視線に、気位の高いネロミロスが反応しない訳がない。

 

「――死ね」

 

 激昂したネロミロスは、レクスたちへ突撃を仕掛けた。大盾を前面に構え、長剣を振りかざし、鎧の質量と機動力を最大限に利用したシールドチャージである。

 生半な攻撃では盾を貫くことなどできはすまい。哀れな敵は盾で押しつぶされるか、たとえ耐えたとしても、振り下ろされる長剣に両断されるしかない。

 数多の戦士を屠ってきた、ネロミロスが誇る必勝の攻撃である。だが、

 

「な――」

 

 大盾を構えた騎士がレクスへとぶち当たるその刹那。稲妻が直近に落ちたかのような凄まじい轟音が響いた。

 と同時に、突進を仕掛けたはずの騎士の体躯が、進行方向と真逆に弾き飛ばされる。

 街路の舗装を削り取りながら、ネロミロスは建物の壁に激突してめり込んだ。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 塵煙が立ち込める中、瓦礫の山より体を起こしたネロミロスは慄然とした声で呟く。

 交錯の刹那、果たして何が起きたのか。

 事実は余りにも単純であった。騎士の大盾が触れようとした瞬間、レクスは拳で大盾を殴りつけたのだ。

 ただそれだけで、重量と速度に勝る筈のネロミロスは、まるでボールを弾き返されたかのように彼方へと吹き飛ばされたのである。

 

 体感しても尚、俄かには信じがたい出来事であった。しかし、彼の手にある大盾は、取っ手を残して完全に砕け散ってしまっている。ノーマルトリガーではおよそ破壊不可能とされる「銀の竜(ドラコン)」が、たかだか素手の一撃で完膚なきまでに破壊されたのだ。

 

「耐えたか。やはり以前よりも格段に性能が増しているらしいな」

 

 ボースに騎乗したまま、白髪金瞳の壮漢が冷然と言葉を紡ぐ。

 遅まきながらに、ネロミロスは己の失策を理解した。

 この不条理極まる事態を引き起こした原因について、心当たりは一つしかない。

 

 ノマスが有する(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」。

 その能力は、規格外の性能を持つトリオン体を作り出すことだ。

巨人の腱(メギストス)」によって構築されたトリオン体は、出力、強度、反応速度など、あらゆる面で通常のトリオン体と比べ物にならない性能を持つ。

銀の竜(ドラコン)」を歯牙にも掛けぬ威力は、今しがた証明された通り。正に反則級のトリガーである。

 およそ近接格闘に於いては最強を誇るトリガーであり、その脅威についてはエクリシアの騎士ならば誰もが知っている。

 

 単身では決して挑んではならない難敵に行き当ってしまった事実に、倨傲なネロミロスも流石に色を失う。

 もはや一も二も無く離脱するより手はない。幸いにして、「巨人の腱(メギストス)」はその五体以外による攻撃手段を持たないはずだ。上空へ逃れてしまえば逃れるのは容易い。だが、

 

「く、くそっ!」

 

 飛翔しようとしたネロミロスに襲い掛かったのは、二足歩行の新型トリオン兵クリズリだ。その数は二体。周りにはヴルフの群れも迫りつつある。

 まるで騎士が強引に逃げようとするのを見越したかのように、クリズリの一体はスラスターを猛然と噴かせて飛び上がり、ネロミロスの頭上から襲い掛かる。

 

 地上のクリズリと連携した凄まじい攻撃。降り注ぐトリオン弾の間隙を縫って、鋭利なブレードが襲い来る。

 特に、地上のクリズリが振るうブレードは厄介だ。トリオン弾なら余程の事が無い限り「誓願の鎧(パノプリア)」の装甲を貫くことはできないが、ブレードは正確に鎧の継ぎ目を狙っている。まともに喰らえば、内部のトリオン体にまで届くだろう。

 

「舐めるなああっ!」

 

 だがそれでも、ネロミロスは騎士であった。たとえ激昂していたとしても、身に着けた武芸には一点の曇りも無い。その剣は極めて迅速に動いた。

 ネロミロスは首筋を狙った斬撃を掻い潜ると、ブレードの基部、クリズリの肩から生えた長腕の一本を斬り飛ばした。次なる一手を失ったクリズリの懐に飛び込み、長剣「鉄の鷲(グリパス)」を渾身の力で横薙ぎに振るう。

 

 いくら頑強なクリズリといえども、「誓願の鎧(パノプリア)」によって増幅された剣の威力を防ぐことは叶わず、胴を両断されて崩れ落ちた。

 まずは一体。騎士は己の技量を確かめ、萎えかけた闘志を昂ぶらせる。しかし、次の瞬間、

 

「がっ――なんだとっ!」

 

 ネロミロスが苦悶の声を上げる。

 頭上に陣取っていたもう一体のクリズリが凄まじい勢いで急降下し、四本の腕と巨体を以て騎士を地に組み伏せたのだ。

 必死にもがいて抵抗するが、ビクともしない。クリズリは桁外れの膂力に加え、背面のスラスターを噴かせることで、騎士を押しつぶさんばかりに圧迫している。

 間合いを潰され、長剣を振るうこともできない。混乱の余り、ネロミロスの頭からは一時、全ての思考が失せた。

 

 とす、と奇妙な音を耳にしたのはその時だ。

 クリズリの巨体に阻まれ、視界も何もあった物ではないネロミロスには、その音の意味するところを理解することができなかった。

 

 異変は急速に顕れた。

 突如として、ネロミロスの右脚が動かなくなったのだ。クリズリに抑えられているからではない。それどころか、右脚はクリズリの圧迫から逃れた部位である。それが、まるでトリオン体の伝達系が切断されたかのように、感覚そのものが消え去っているのだ。

 

 まるで氷と化したかのような己の下腿部。そこから冷気がせり上がってくるかのように、上腿部が動かなくなり、そして氷の冷たさは腰部にまで及ぶ。

 首から下が動かなくなるまで、数秒しかかからなかった。

 

 もはや拘束の必要もなくなったと見たのか、クリズリがのそりと立ち上がる。

 辛うじて自由の効く首を動かして、ネロミロスは己の右脚に突き刺さっている漆黒の杭を目の当たりにした。

 

 鎧の中で、傲岸不遜の騎士が驚愕に目を見開く。

 

 ノマスが有する(ブラック)トリガーの一本「悪疫の苗(ミアズマ)」。

 その機能はあらゆるトリオン製の器物の支配だ。小枝にも似た漆黒の杭を打ち立てられたが最後。機械、トリガー、トリオン兵、トリオン体に至るまで、トリオンでできた全ての物の操縦権が、この小さな杭に奪われることとなる。

 

 彼の纏う「誓願の鎧(パノプリア)」の全身に、右脚の杭から広がった漆黒の線がまるで葉脈のように走っていた。

 のみならず、鎧の下のトリオン体にまでその支配は及んでいることだろう。

 何時の間にあらわれたのか、顔面を蒼白にするネロミロスを見下ろすようにして女が立っていた。

 女はその場に屈みこみ、何の気負いもなく甲冑に手を触れる。途端に「誓願の鎧(パノプリア)」が着装者の意に反して動き、頭部を覆う兜が開いた。

 

「き、貴様、俺をどうするつもりだ!」

 

 露わになったネロミロスは憤怒の表情で女に喰ってかかる。もはや形勢を逆転する術などないが、虚勢を張ることで最後の意地を通すつもりなのだろう。

 だが、女は男の歪んだ顔見るや、侮蔑も露わに一つ舌打ちを溢す。

 彼女にとってはあくまで念のための確認である。発せられる声は明らかに男のものだったが、万に一つもこの鎧の中に探し求める少女がいないとも限らない。

 予想通りの結果と分かると、女は背後を振り返り、

 

「打ち殺すよりは、ケダモノ同士食い合わせた方がよろしいかと」

 

 柔らかな顔立ちに似合わぬ程に酷薄な目をした女、シビッラ氏族のモナカは憎悪の滲む声でそう言った。

 

「許す。擾乱程度には使えるだろう」

 

 モナカの後方、騎乗したままのレクスが泰然と答える。

 

「ふざけるなっ! ――や、やめろっ! 貴様には戦士の誇りは無いのか!」

 

 恐慌を来たしたネロミロスが泡を飛ばして叫ぶ。この期に及んで、彼の頭にあるのは名誉のことだけだ。まだ戦死なら構わない。(ブラック)トリガー二本に挑んで破れたというのなら家としての体面は十分に守れる。しかし、敵に操られた挙句、味方に斬りかかったとなれば、武名で鳴らしたスコトノ家の家名は地に落ちることになるだろう。

 

「あら、あなたのような狂った獣が、まともに死ねると思って?」

 

 モナカは嘲弄するかのようにそう謳うと、支配の最期の工程を執り行う。

 

「があああああああっ!」

 

 葉脈のような漆黒の線が、ネロミロスの顔面と甲冑の兜を覆い尽くした。大男が絶叫を喉から迸らせる。

 本来、「悪疫の苗(ミアズマ)」による支配は何の苦痛も齎さないが、この男の粗暴傲慢な態度はとにかくモナカの勘に触った。このような下劣な男に親友が汚されたのかもしれないという想像を頭に巡らせてしまったがために、半ば八つ当たりも同然にトリオン体の痛覚を常に刺激してやることにしたのだ。

 

「他人の苦痛は碌に解さない輩でしょうに、自分の痛みにはしっかり反応するのね」

 

 叫び続けるネロミロスの顔が、閉じた兜によって覆い隠される。外部音声出力もオフにした。彼は人型の棺桶となった「誓願の鎧(パノプリア)」の中で、総身を焼くような痛みに苛まれ続けることになる。

 

「さて、このまま教会にでも突撃させましょうか」

 

 操り人形となった騎士を前にしてモナカが呟く。エクリシアの「誓願の鎧(パノプリア)」ともなれば、一体でも相当な戦力に勘定することができるだろう。しかし、

 

「少し時間をかけすぎたな。後続の部隊が迫っている」

 

 と、レクスが街路の彼方を見据えながらそう言う。

 戦況は上空を飛ぶトリオン兵バドから、全ての戦士にリアルタイムで伝えられている。

 どうやらエクリシア勢はノマスの狙いに気付いたようで、市街を襲うトリオン兵は捨て置き、進行する襲撃部隊を優先目標に定めたらしい。

 ネロミロスの処理にかまけていた間に、騎士に率いられた敵の一団がレクスたちを猛追してきていた。

 

「レグルス。兵団三個を率いて敵の足止めをしろ。モナカ、()()も付けてやってくれ」

 

 これ以上敵に足止めされる訳にはいかない。

 レクスは実子レグルスにトリオン兵の群れを分け与え、遅滞戦闘を行うように命じた。捨て駒として鹵獲した騎士も用いる。敵の動揺を誘えれば儲けものだ。

 

「はい。必ずや任を果たします」

 

 押し寄せる敵軍を相手に時間稼ぎを行うのは、これが初陣となる少年には過酷極まる役割である。しかし、生真面目な少年は固い面持ちのまま、凛とした声で答えた。

 他の三人は(ブラック)トリガーの使い手で、教会攻略には欠くことのできない人員だ。ここでレグルスが分かれるのは当然の判断だろう。そして彼が追っ手を引きつければ、それだけ本隊の作戦成功率が上がる。まさに戦の正念場だ。

 

「間違っても捕まるんじゃねえぞ。捕虜を奪還する予定なんてないんだからな」

 

 激戦に赴く少年に、ユウェネスが忠告の言葉を投げかけた。口調は軽くとも、彼の総身からは真摯な態度がありありと伝わってくる。

 

「分かってますよ。ユウェネスさんこそ、仕事をする前に流れ弾に当たらないでくださいね」

「こいつ……そんだけ生意気言うならちゃんと帰ってこいよ。時間厳守だからな」

「はい。了解しました」

 

 そう言って、レグルスはボースの背を叩き、馬首を返した。

 背後に付き従うのは三体のクリズリと百を超そうかというヴルフの群れ。そして幽鬼のように歩みを進める「誓願の鎧(パノプリア)」だ。

 一同は散開し、それぞれ再び進軍を始めた。タイムリミットまではまだ遠い。戦は始まったばかりである。

 

 

 

 



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其の七 聖都防衛戦 孤軍奮闘

 戦場の喧騒を切り裂いて天空から降り立ったのは、人の形をした死であった。

 聖都攻略を急ぐノマスの強襲部隊。その一隊は今や、壊滅寸前の様相を呈していた。

 

「くそっ、何なんだあれはっ!」

 

 ヴルフの群れを引き連れ、ボースに跨り市街地を疾駆するノマスの戦士。

 彼が頭部に被る特殊なヘルメットは視界拡張トリガー「猟師(アラネア)」。疑似的に三百六十度すべての視界を得ることができる特殊兵装だ。そして肩から生えた三対六臂の腕は、それぞれが小型の簡易トリオンライフルを掴んでいる。

 

 ノマスの「猟師(アラネア)」は、視覚のエンハンスと副腕の生成によって対応力の向上を狙ったトリガーだ。単体では然程強くはないが、ボースに騎乗したうえで、武装を複数携行すれば、個人で多勢を相手取ることが可能となる。

 

 勿論、「猟師(アラネア)」によって構築されたトリオン体は生身からかけ離れた姿になるため、操作はかなりの難度となる。とはいえ、エクリシア遠征部隊に選ばれた一員が、技量未熟であるはずもない。

 しかし現在、ノマスでも一廉の戦士であるはずの男が、恐怖も露わにトリオンライフルを撃ちまくっていた。

 

 弾丸が狙うのは、猛烈な勢いで迫りくる白い人型だ。

 長剣トリガー「鉄の鷲(グリパス)」を引っ提げ、「誓願の鎧(パノプリア)」のスラスターを轟然と噴かせて飛翔するエクリシアの騎士が、ノマスの騎士へと喰らいついていた。

 

 ノマスの戦士は手にした全てのトリオンライフルで弾幕を張る。敵の未来位置はおろか、回避軌道まで見越した熟練の射撃である。流石に強固な鎧を貫くことはできないだろうが、雨あられと弾丸を叩きこまれれば、突進を続ける訳にはいくまい。

 

 だが、騎士はまるで戦士の打つ手の全て予め知っていたかのように、豪雨のように降り注ぐ弾丸を凄まじい機動で潜り抜けていく。

 最小限の回避と防御で、速度を一切落とさぬまま飛翔する騎士。その動きは異常の一言である。もはやどう見ても、意識して動作を制御できる速度ではない。

 

「く――」

 

 そしてとうとう、死神の手が追い付く。

 超高速で飛翔したエクリシアの騎士が、一瞬の交錯の内にノマスの戦士の首を刎ねた。

 爆発と共に黒煙が立ち込め、戦士はトリオン体を失った。護衛のトリオン兵の反応さえ許さない、正に神速の一撃である。

 しかし、騎士は生身となった戦士に追撃を――すなわち止めを刺さずに、そのまま彼方へと飛び去った。残された戦士は命拾いしたことに気付くと、蒼白のままボースを駆って撤退行動に移った。

 

(違う。この人たちじゃ……ない)

 

 高速で流れる景色を見ながら、エクリシアの若きエース、フィリア・イリニは鎧の中で唇を噛む。

 

 ノマスの目的が判明するとすぐに、彼女はそれを阻止するべく動き出した。そうして彼女は敵の主力部隊を捕捉し攻撃を仕掛けたのだが、サイドエフェクトによれば、この部隊には敵の狙いを挫くための標的は含まれていないらしい。

 さりとて無視できる相手でもない。野放しにした彼らが教会へと辿りつけば、それはそれで容易ならざる脅威になるからだ。

 

 ノマスの精兵部隊に単騎で襲撃を掛けたフィリア。

 そして、彼女はまったく無傷のままに敵部隊を壊滅にまで追い込んだ。

 無念無想の位に至った剣技と「誓願の鎧(パノプリア)」の並はずれた性能。そして人智を超えたサイドエフェクトを持ち合わせた少女を、何人たりとも阻むことはできない。

 新たな標的を求めて聖都の上空を飛翔するフィリア。その時、

 

(――っ!)

 

 少女は超感覚の導きに従い、鎧のスラスターを操作して身を翻した。

 

 転瞬、眼前に淡緑色の透明な壁が出現する。

 突如として地面から生えたのは、差し渡し百メートル余りはあろうかというドーム状のトリオン障壁である。

 ノマスの「牧柵(サエペス)」は、起動者を中心としたエリアにトリオン製の器物の通行を阻む結界を展開する機能を持つ。敵を誘い込み、配下のトリオン兵と共に襲撃を仕掛ける狩場を形成する、狩猟国家ノマスを象徴するトリガーの一つだ。

 障壁の強度はノーマルトリガーとしてはかなりのもので、無理に押し通ろうとすれば「誓願の鎧(パノプリア)」であってもそれなりの損害を受けるだろう。

 

(面倒な……)

 

 フィリアは胸の内で舌打ちをして敵の所在を探る。「牧柵(サエペス)」はその性質上、起動者がフィールドの内側に居なければ発動できない。起動者を倒すのが最も手っ取り早い脱出方法なのだ。

 すると探すまでも無く、荒れ果てた民家の屋上に、ボースに跨ったノマスの戦士の姿があった。

 褐色の肌をした壮漢は、緊迫した面持ちのまま、それでも刃のように鋭い眼光で騎士を睨め付けている。

 

 フィリアはスラスターを噴かせて急降下し、眼下の敵へと襲い掛かった。

 しかし、ノマスの戦士はボースの馬腹を蹴るや、一目散に逃走を図った。

 街路を疾駆し、崩れた建物の上を飛び越え、とにかくフィリアから距離を取るノマスの戦士。

 一合たりとも騎士と鉾を交えようという気配がない。ノマスの戦士は、徹頭徹尾逃げに徹する構えである。

 

 意図はこの上なく明白だ。敵はここでフィリアの足止めを行うつもりなのだろう。

 ノマスの精兵をいともたやすく屠った騎士を、敵はエクリシア最大戦力の一人と見量ったに違いない。

 ノマスの戦士はこの難敵を他の部隊の下へ向かわせぬために、勝ち目が薄いにも関わらず「牧柵(サエペス)」を用いて時間稼ぎを謀ったのだ。

 

 だが、その悲壮な決意は果たしてどれ程の効果を上げるものだろうか。

 フィリアの超感覚は、ひたすら逃亡に徹するノマスの戦士の動向を完全に捕捉していた。

 土台、空を飛ぶ騎士を相手に逃げ切ろうというのが無理な話なのである。少女はノマスの戦士の行く手に先回りすると、燕のように急旋回して攻撃を仕掛けた。が、

 

「今だ掛かれっ!」

 

 ノマスの戦士が低い声で叫ぶ。

 

 騎士の反応の速さは、敵も織り込み済みであったようだ。剣を振りかざしたフィリアを阻むように、二体のクリズリが廃屋から飛び出してきた。

 最初からこの展開を見越して、逃げ道に潜伏させていたらしい。トリガー使いが囮役となるのは、トリオン兵との共闘に長けたノマスの特徴的な戦法だ。

 二体の新型トリオン兵はブレードの付いた長い腕を振りかざし、不可避のタイミングで前後から騎士に斬撃を加えた。だが――

 

「「鷲の羽(プテラ)」」

 

 鎧と長剣、双方のスラスターを用いて目にも止まらぬ速度で翻身すると、騎士は死の斬撃を易々と躱す。のみならず、回避と同時に振り抜かれた剣は、過たずに二体のクリズリを両断していた。

 フィリアは敵が仕掛けたこの釣りを当然のように読んでいた。敢えて正面から捻じ伏せることを選んだのは、そちらの方が早く片付くからに他ならない。

 

「な――」

 

 ノマスの戦士の顔面が驚愕に引き攣る。

 練達のトリガー使いをも凌ぐ傑作トリオン兵クリズリ――それも二体が、僅か一刀で倒されたという衝撃的な光景。上手く罠にはめた筈の敵が、容易く仕掛けを食い破ったという事実に、ノマスの戦士は慄然となる。

 

 それでも、男は遠征に選ばれるだけの技量と覚悟を持った精兵だった。

 ノマスの戦士は精神の動揺を捻じ伏せると、次のプランを実行に移す。

 ボースを止め、戦闘用トリガーを起動する。どうせこの狭いスペースで飛行能力を有する騎士から逃れるのは不可能だ。クリズリによる奇襲が失敗した今、取り得る手段は一つしかない。

 

 男が両手に現出させたのは、斬撃鞭のトリガー「牛飼い(フラゲルム)」だ。

 最大二十メートルほどの長さとなる伸縮自在の鞭は鑢のように目が立ち、掠めるだけでトリオン体を削り斬る威力を持つ。また先端部はフックや鳥もち状に変化させることができ、伸縮を利用して立体的な機動を行う事や、器物の牽引なども可能だ。

 取扱いには熟練が求められるが、格闘武器にはあり得ないほどの遠間から必殺の一撃を繰り出すことができる、極めて攻撃力の高いトリガーである。

 ボースに騎乗すれば防御面での不利をも補えるため、ノマスでは広く用いられている武器である。

 

 ノマスの戦士は騎士と対峙するや、手にした鞭を凄まじい勢いで振り抜いた。

 騎士が軽く身を捻ると、すぐ隣の廃屋に真一文字の亀裂が走る。「誓願の鎧(パノプリア)」なら数発程度なら問題なく耐えられるだろうが、それでも相当な威力である。

 戦士はひと時も手を休めず、二本の鞭を振り回す。充分な遠心力の乗った鞭は、もはや先端部が目で追う事のできない速度に達している。

 

 フィリアをけん制するかのようにノマスの戦士は鞭の結界を張る。

 風を切り、地を穿つ鞭の連撃。刃圏に踏み入れば即座に撃ちすえてやると、戦士は縦横無尽に双鞭を操る。

 トリオンの淡緑色の輝線が、目まぐるしく空間を切り刻む。その暴風の結界に、フィリアは何の躊躇いもなく従容と足を踏み入れた。

 間境いを踏み越えた途端に、「牛飼い(フラゲルム)」が紫電の速さで襲い掛かる。だが、その鞭頭が彼女に触れることは無かった。

 

「な――」

 

 ノマスの戦士が、何度目とも分からぬ驚愕の声を漏らした。

 大気を裂いて騎士へと迫った鞭が、寸前で長剣の閃きによって斬り飛ばされたのである。

 重さを失った鞭の一つを、戦士は慌てて手元に引き戻す。その寸毫の隙を、見逃すフィリアではない。

 

 とん、と余りに軽い音。まるで小鳥が梢から飛び立つかのような、およそ質量を感じさせぬ跳躍。

 一瞬のうちに、フィリアはノマスの戦士の内懐まで詰め寄っていた。

誓願の鎧(パノプリア)」の凄まじい機動力と、少女の度外れた体術の合わせ技による、超常の踏込である。

 

 全身甲冑の騎士に有るまじき軽捷さに虚を突かれたノマスの戦士は、咄嗟に応手を見出すことができなかった。

 そもそも、「牛飼い(フラゲルム)」は鞭という性質上、機器同士の打ち合いを不得手としている。また高い攻撃力を生かすには、どうしても十分な間合いが必要となる武器だ。

 こうまで密着されては、挽回の手立てが無い。

 

 当然の結末として――まずボースの首が斬り落とされた。

 そして体勢を崩したノマスの戦士は乗騎から振り落とされ、しかし地に伏すことはなかった。

 閃いた騎士の長剣が戦士の両腕を斬り飛ばし、返す刀でその腹を、まるで芋に串を通すかのように刺し貫いたのだ。

 

「流石はエクリシアの騎士。我らの怨敵よ……」

 

 瞬きする間もなく放たれた四連続の斬撃刺突。精妙にして迅疾の剣を前に、ノマスの戦士は全く抗することができなかった。

 両手と腹からは止めどなくトリオンの黒煙が噴き上げる。もはや男には万に一つも勝ち目はない。だが、

 

「お前は此処で、俺と共に朽ちるのだ」

 

 戦士はそう嘯き、獰猛に笑う。

 と、次の瞬間、フィリアの周囲に散らばる瓦礫の山が崩れ、その下から狼型トリオン兵ヴルフの群れが現れた。

 茶色の体色をした四体のウルフ・ベシリアが、騎士目がけて一斉に粘着弾を浴びせかける。ノマスの戦士は我が身を囮として、またしても釣りの戦法を用いたのだ。だが、

 

「――馬鹿な」

 

 我が身を犠牲にした最後の抵抗さえ、フィリアには届かない。

 少女は串刺しにした戦士の体を掲げ、もう片方の手では地に伏せたボースの残骸を掴み上げ、四方から迫る粘着弾への盾とした。

 そのままぐるりと回転し、騎士は手にした盾を用いて弾丸の悉くを退ける。

 戦士もろともに騎士を戦闘不能に追い込む筈の粘着弾は、とうとう飛沫の一滴さえ純白の鎧を汚すことはなかった。

 

 少女はこの展開を見越していたからこそ、伝達脳やトリオン供給機関といった急所は狙わず、弾除けに使えるように加減して敵を斬ったのだ。

 驚愕に顔を歪める戦士のトリオン体が、今度こそトリオン漏出によって崩壊する。

 位相のずれた空間に現出した壮漢は、長剣の刃から離れて地に尻もちをついた。

 そして立ち込める黒煙が晴れぬ間に、騎士はスラスターを噴かせて空へと飛びあがった。

 

 もはや、この場に長居は無用。

 ドーム状に展開し、進路を塞いでいた「牧柵(サエペス)」は跡形もなく消滅している。

 フィリアは地上から放たれるヴルフの弾丸を余裕で躱しながら、聖都の中心、教会を頂く丘へ向けて飛翔した。

 

 こうして空を飛んでいる間にも、聖都の各所では激闘が繰り広げられている。そしてどうやら、敵は教会の襲撃を微塵も諦めていないらしい。

 少女の胸に焦燥が滲む。倒すべき敵は他にもまだ居るのに、いらぬ時間とトリオンを費やしてしまった。

 

誓願の鎧(パノプリア)」はその並はずれた性能と引き換えに莫大な量のトリオンを喰う。それを解消するのが鎧に装着されたトリオンバッテリー「恩寵の油(バタリア)」なのだが、フィリアの全力の戦闘機動に付き合わされた結果、早くも残量が心もとないものとなっていた。

 補給に戻る時間はない。そもそも基地は壊滅している。他の騎士たちも、融通できるほどの余力は残していないだろう。

 それでも、フィリアはスラスターを全開にして空を駆ける。

 少女には培った剣技がある。いざとなれば鎧は捨ててでも戦える。今は一分一秒の時間が惜しい。

 

(――捉えたっ!)

 

 教会を頂く丘の麓、ほどなく貴族街に差し掛かろうかという街路を、ノマスの強襲部隊が疾駆していた。

 フィリアのサイドエフェクトが明瞭に告げる。あの一団に、この戦争の帰趨を決める人物が居るのだと。

 

 同時に、少女の脳裏に嘗てないほどに激しい警鐘が響く。背筋を凍らせるような、明白なる死の予感。サイドエフェクトは同時に、あの集団に近づくことをはっきりと縛めていた。あそこには、少女を遥かに上回る化け物が居る。

 だが、少女は眦を決して敵の直中へと突き進んだ。彼女の胸に残された、只一つの切なる願い。それを成す為ならば、強大な敵も命の危機も、何ほどのことはない。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ユウェネスが高空より襲い来る死の一撃を躱し得たのは、まったくの幸運によるものであった。

 レクス率いる強襲部隊の中心で、警護のトリオン兵らに囲まれていた青年は、それでもボースの背に身を伏せ、小心な子供のように忙しなく辺りを窺いながら進軍していた。

 

 こうまで無様な態度を取るのは、決して我が身かわいさの怯懦からではない。彼は友レグルスとの約定を果たすため、すなわち(マザー)トリガー破壊という大任を果たすため、絶対にトリオン体を失えない立場にあるのだ。

 

 敵味方の入り乱れる戦場では、トリオン反応はそこかしこから発せられており、レーダーはいまいち頼りにならない。

 目視に頼った方がまだしも確実と、そうしてふと上空を見上げたことが、彼の命、延いてはノマス全軍を救うこととなった。

 

「――うおッ!」

 

 曇天に、豆粒のような異物が浮かんでいるのが見えた。

 急速に輪郭を巨大化させるソレが、己に向けて急降下するエクリシアの騎士であることに気付いた瞬間、ユウェネスの全身はあらゆる判断を棚上げにして動いていた。

 

 青年は何の躊躇もなく乗騎から身を投げ出し、周囲を並走するヴルフの直中へと転がり込む。

 死の斬撃が降り注いだのは、まったくの同時だった。

 騎士はユウェネスが騎乗していたボースを胴切りにすると、そのまま滑空して再び上空へと飛び上がる。

 

「っ――」

 

 先行していたレクス、モナカも異変に気付き、馬首を返した。

 一同は決して警戒を行っていた訳ではない。第一、警戒中のヴルフらが、敵の接近にはいち早く反応するはずである。

 

 騎士はトリオン兵の探査を逃れる為、なんとスラスターを停止させ、自由落下に身を任せてユウェネスを狙ったのである。

 トリオン反応を抑えれば、レーダーに頼る敵の目を幾らかは誤魔化すことができる。

 理屈の上では尤もだが、敵の直中にシールドも張らずに飛び込むなど、狂気の沙汰と言うほかない。

 しかも、敵は地面に激突する寸前にスラスターを噴かせ、見事に体勢を立て直して離脱した。それだけでも、この騎士が非凡な力量を持つことがありありと分かる。

 

「っておい、また来るのかよっ!」

 

 奇襲に失敗した騎士はしかし、上空で燕のように旋回すると、またしてもユウェネス目がけて突っ込んできた。

 今度の機動はさらに直線的で、殺意に満ち溢れている。

 ヴルフ・ベシリアの放つ粘着弾だけを器用に躱し、他のトリオン兵が放つ弾丸はシールドと鎧で防ぎながら、騎士は最短距離で青年へと襲い掛かる。

 転倒からようやく体を起こしつつあるユウェネスに、第二撃を躱す余裕など有る筈がない。たとえ両の足で立っていたとしても、騎士の機動力を前にしては逃げ切れるかどうかさえ怪しいのだ。

 

「――!」

 

 だが、騎士の刃がユウェネスに届くことはなかった。

 護衛のクリズリが、何と三体がかりで騎士の前に立ちはだかったのだ。

 小型とはいえ三メートルを超えるトリオン兵が壁を組めば、然しもの騎士もこれを押しのけることは叶わない。

 ただし、それは単純な押し比べに限った話ではあったが。

 

「嘘だろ、おい……」

 

 ようやっと立ち上がったユウェネスの目の前で、壁となったクリズリ全てが膝をつき、泣き別れとなった上半身が緩慢に大地へと落下した。

 モールモッドの二十倍以上のトリオンを注ぎ込んで造られた堅牢無比なクリズリが、僅か一太刀で、それも三体同時に胴切りにされるという異常事態。

 その信じがたい光景を目の当たりにして、しかしユウェネスは恐慌を来たす事もなく、冷静に最善手を打った。すなわち――

 

「やばいやばい、何なんだよコイツっ!」

 

 騎士に背を向けての、一目散の逃走である。

 もはや恥も外聞もない。この異常な敵を前にして、逃げを打つことが何の問題だというのか。

 ユウェネスは背後を振り返ることさえせず、先行する味方の元へと全力疾走する。

 とその時、疾走する青年と人影がすれ違った。

 

「私の馬を使え」

 

 低く、落ち着き払った声が響く。平時は余人を圧する威厳に満ちた声が、こうして戦場で耳にすればこの上なく頼もしいことに、ユウェネスは何やら複雑な思いを抱く。

 青年と入れ替わるようにして騎士の前に立ったのは、今遠征の総指揮官レクスだ。

 

「モナカと共に教会へ向かえ。ここは私が受け持つ」

 

 レクスは有無を言わさぬ声音でユウェネスにそう命じる。

 いくらエクリシアが強兵を以て鳴らしているとしても、この騎士の技量は尋常ではない。

 折しも、東方から聖都に侵入を果たしたフォリウム氏族の強襲部隊が、只一人の騎士によって壊滅したという、信じがたい報告を受けたばかりである。

 

 この騎士がそれを為したというのなら、理解できる。

 故に、レクスは自らがこの敵に当たる事を決断した。

 教会まではもう何分もかからない距離である。

 道中にそびえる騎士団の砦は空爆によって壊滅しており、丘を登りきるまで障害はない。そして教会の攻略には、ユウェネスとモナカのトリガーこそ必要不可欠である。

 

「分かりました。先行ってるんで!」

 

 ユウェネスがそう言って、レクスが乗り捨てたボースに跨って駆けだした。後を追ってトリオン兵団も動き出す。

 しかしなんと、トリオン兵は一体残らず騎士を無視して去っていくではないか。

 一見すると、精強無比なる騎士を前に、時間稼ぎのためにレクスが置き去りにされたかのような形となる。

 

 だが、真相は違う。

 (ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」の担い手にして、ノマス最強の戦士であるレクスに、トリオン兵の援護など不要。小手先の戦力など、足手まといに他ならない。

 騎士がいくら度外れた技量を有していようが関係ない。(ブラック)トリガーを有した達人は、個人で城塞を制圧できるほどの戦力を持つ、正真正銘の怪物なのだ。

 近界(ネイバーフッド)でも屈指の猛者を、止めることのできる者などいない。

 レクスの秘めたる戦力を推し量ったのか、眼前の騎士は長剣を構えたまま動かない。

 

「…………」

 

 事実として、鎧を纏った騎士、フィリア・イリニは総身を奔る戦慄に止めどなく冷や汗を流していた。

 少女ほどの境地に至った武人ならば、対手の技量は目にしただけでそれと分かる。

 この男は明らかに己より格上の存在だ。サイドエフェクトが今すぐ遁走するようにと、喧しいほどに騒ぎ立てている。

 だが、鋼の刃と化した少女の心には、恐怖も絶望も無い。

 嘗てない強敵を前にして、フィリアは雄々しく果敢に挑みかかった。

 

 

 



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其の八 聖都防衛戦 血縁

 

 聖都の中央。教会を頂く丘の麓には、優美華麗な大邸宅が立ち並ぶ貴族街がある。

 しかし今、エクリシアの市民が誇る閑静な街並みは、戦火によって見るも無残な様相へと変わり果てていた。

 騎士団を狙って特攻をかけた数十体のイルガーが、置き土産とばかりに落としていった大量の爆弾が、貴族街を滅茶苦茶に破壊したのだ。

 

 辺り一帯は瓦礫の山と化し、いたる所で黒煙が立ち上っている。

 貴族の邸宅に務めていただろう多くの人々は、当然トリガーなど所持してはいない。救助に動くべき騎士団さえ半壊の状態となれば、どれ程の死傷者が出ているのかは想像もつかない。

 

 爆撃によって荒廃した邸宅の一角が、塵煙を撒き散らせて倒壊した。

 次の瞬間、崩れた邸宅から飛び出したのは、「誓願の鎧(パノプリア)」を纏い長剣トリガー「鉄の鷲(グリパス)」を携えた騎士である。

 

 フィリア・イリニはスラスターを轟然と噴かせ、倒壊した屋敷から飛び下がって距離を取る。

 彼女の纏う純白の鎧はいたる所に亀裂が奔り、場所によっては戦槌に打ち込まれたかのような陥没痕まで付いていた。抜群の技量を有する少女が――それも無双と謳われる鎧を纏っても尚、窮地に追い詰められている。

 

 屋敷の前庭で片膝を付いた少女は、濛々と土煙を噴き上げる廃墟を見据える。

 手にした長剣は至るところに罅が入り、既に武器としての用を成していない。それでも彼女は剣把を力強く握りしめると、再び両の足で立ち上がった。

 兜の奥で炯々と輝く双眸は、未だ衰えぬ闘志に燃えている。

 フィリアは長剣を正眼に構えると、無念無想の境地で対手を待ち構えた。

 

 倒壊した屋敷から、悠然とした足取りでソレが現れる。

 褐色の肌をした白髪金瞳の壮漢は、(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」の担い手にして、ノマスの遠征部隊の総指揮官、ドミヌス氏族のレクスだ。

 

 傷だらけの甲冑を纏うフィリアとは異なり、男のトリオン体は未だに毛ほどのダメージも負った様子が無い。精々が、逆巻く塵埃に服を汚した程度である。

 戦闘中とは思えぬほどに緩慢に歩むレクス。だがそれが一種の擬態であることを、少女は嫌と言う程に知っている。

 転瞬、レクスの姿が視界から忽然と消え失せた。

 

「――ッ!」

 

 鋼と鋼が噛み合う轟音が響く。

 まるで瞬間移動でもしたかのように、レクスはフィリアの内懐へと潜りこんでいた。

 そして騎士目がけて放たれたのは、城壁をも打ち砕く凄まじい拳打である。

 

 目で追う事さえできない神速の拳を、フィリアは身を大きく捩り、長剣を用いて軌道を逸らすことで何とか躱した。

 それでも完全に回避することは叶わず、レクスの拳が掠めた鎧のわき腹が、まるで土壁でも削るかのように削ぎ飛ばされる。

 

「ふっ――」

 

 次いでレクスは鋭く息を吐くと、大跳躍して騎士の顔面目がけて飛び回し蹴りを放った。

 その速度は、もはや異常という言葉でさえ片付けられるものではない。

 余りの挙動の速さに、男のトリオン体はまるで宙に掻き消えたかのように、一瞬その姿をぼやけさせる。

 そうして放たれた蹴りは、まさに空前絶後の破壊力を秘めていた。

 

 直撃すれば、堅牢無比な「誓願の鎧(パノプリア)」といえども一溜まりもなく破壊される絶対の一撃。

 フィリアはその必殺の一撃を、股を開いて大きく身体を伏せることで辛うじて躱した。

 頭上を擦過した足が、一瞬遅れて少女の背中に爆風を浴びせかける。

 

 トリオン体の知覚能力を以てしても反応不可能な攻撃を、フィリアは極限まで研ぎ澄まされた感覚と、「直観智」のサイドエフェクトを駆使して辛うじて躱し続けていた。

巨人の腱(メギストス)」によって創出されたトリオン体は、その膂力、瞬発力もさることながら、頑強さにおいてさえ「誓願の鎧(パノプリア)」を遥かに凌駕する。

 

 別けても恐るべきは、感覚系と伝達系、情報の処理速度までもが通常のトリオン体とは比べ物にならないほどに強化されることだろう。普通ならば感覚が追い付かないほどの出力で動き回っても、「巨人の腱(メギストス)」の起動者はまったく支障なくトリオン体を操縦することができる。

 近接格闘に限っては近界(ネイバーフッド)でも最高峰の一つであろう超絶の(ブラック)トリガーを相手にして、しかしフィリアは未だに命を長らえていた。

 

(まだ、私はやれるっ……)

 

 一打たりとも直撃を許せば戦闘不能を免れない打撃を前に、少女は怖じることなく敢然と立ち向かい続ける。

 (ブラック)トリガーに加えて達人級の技量。この敵は間違いなくノマスの最高戦力だ。

 敵の大駒を釘付けにすることは、それだけで十分な戦果となる。

 フィリアがレクスを相手に粘れば粘るほど、ノマスの戦略目標を挫くことに繋がるのだ。

 

 また戦略云々は別にしても、これほどの手練れを教会へと向かわせることは、絶対に許してはならない事だった。

 あそこには母がいる。この暴威が人の形を取ったかのような男を、決して近づける訳にはいかない。

 どれ程の時間が経っただろうか。少女は極限まで高めた集中力を維持しながら、なおも紙一重で瀑布のような連撃を躱し続ける。

 だが、少女の勇戦も虚しく、崩壊の兆しは現れた。

 

「――っ!」

 

 レクスの打撃に曝され続けたブレードが、刀身の中ほどから砕けるようにしてへし折れた。打撃を逸らすための手段を失った騎士に、追撃の拳が迫る。が、

 

「む……」

 

 レクスの追撃が微かに遅れる。

 フィリアはシールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」を、自らの防御ではなく敵の攻撃を阻害するため、彼の足元に展開した。

 当然、ただのシールドでは「巨人の腱(メギストス)」の出力に抗することなどできず、「玻璃の精(ネライダ)」はまるで薄ガラスを蹴破るかのようにレクスに砕かれた。だが、その際にできた僅かな隙を突いて、騎士は死の間合いから離脱する。

 

「見事な技量だ。よくぞここまで練り上げた。称賛を受け取れ、エクリシアの騎士よ」

 

 掌中に新たなブレードを作り出し、徹底抗戦の構えを見せる騎士に、レクスは賞嘆の言葉を放つ。

 

「その太刀筋、イリニ騎士団の手の者と見るが……名乗るがいい。私はドミヌス氏族、ケレベルの子レクス。この戦の指揮権を預かる者だ」

 

 低く厳かな声でレクスはそう告げる。

 一旦は戦闘を中断する腹積もりなのか、レクスは構えを解き、フィリアへと向き直る。

 対手が敵の総指揮官と知れても、少女には一片たりとも動揺はない。逆に、ここで彼を足止めすることの意義が倍増しになったことに、烈々たる気迫を滾らせる。

 

「…………」

 

 時間稼ぎを狙うなら、ここで相手と言葉を交わすことは十分に利がある。だが、少女はレクスの問いに対して無言を貫いた。

 サイドエフェクトが、応えるべきではないと警鐘を鳴らしていたからだ。

 

「あの男、アルモニアにも迫ろうかという技量。貴様はもしや……」

 

 威風辺りを払うかのような英傑が、どこか困惑したように言葉尻を濁す。

 

「……」

「まあいい。詮無い話だ」

 

 だが、だんまりを決め込む騎士を前に、レクスは緩く頭を振って会話を切り上げた。

 彼とて聖都攻略を急ぐ身である。無駄話に興じる時間など一秒もありはしない。

 レクスは脳裏に浮かんだ益体も無い想念をきれいさっぱり断ち切ると、再び騎士を打倒すべく総身に力を込めた。

 そうして再び、激闘の火蓋が切って落とされる。

 

 そこから先の戦いは、正に壮烈を極めるものだった。

 精妙無類のフィリアの武技は、死の奔流たるレクスの攻撃を懸命に凌ぎ続ける。

 一分一秒でも長く、この難敵を足止めする。

 積み重ねた経験、身体に染み込ませた技術を総動員して、少女は死の運命に抗い続ける。

 ほんの一瞬のような、それでいて永劫とも思えるような、濃密に圧縮された時間が過ぎていく。

 幾百の拳と剣が交わり、軋り、虚空に大輪の火花を咲かせる。

 そして熾烈を極めた戦いの決着は、唐突に訪れた。

 

「――っ!」

 

 レクスの苛烈極まる猛攻を捌き続けていたフィリアの軽捷な動きが、突如として鈍化した。

 鎧の中で、フィリアは総身の血が音を立てて引くのを感じる。

 少女のトリオン体に張り巡らされた伝達系と接続し、持って生まれた肉体のような随意さで操ることのできた「誓願の鎧(パノプリア)」が、急速に反応を鈍らせる。

 原因は明らかだ。鎧を動かすトリオンが、底を尽きかけているのだ。

 

 鎧に搭載されたバッテリー「恩寵の油(バタリア)」は、一戦闘程度ならば十分に持つだけのトリオンを蓄えている。しかし、フィリアの常軌を逸した超絶の機動と、連戦に次ぐ連戦、そしてレクスと対峙してからの更に激しい戦闘で、鎧を動かすためのトリオンは凄まじい勢いで消費され尽くしてしまったのだ。

 

恩寵の油(バタリア)」のトリオン残量が危ういと言う警告は発せられていた。だが一時も気を抜けない激闘の最中にあったフィリアには、その警告に気付くだけの余裕はなかった。

 とはいえ、鎧は反応速度が減衰しただけで、まだ全機能を停止した訳ではない。それでもやはり、レクス程の猛者を前にして、その微かな変化は致命的な隙となった。

 

「健闘したな。だがここまでだ」

「~~っ!」

 

 レクスの拳が、鎧の腹部を捉えた。

 フィリアは咄嗟に長剣を破棄するとシールド二重に展開し、「恩寵の油(バタリア)」に残ったトリオンを総動員して後方へと飛び下がる。少しでも打撃の威力を抑えようとする判断だ。

 堅牢な城壁さえも打ち砕く必滅の拳が、重量級の「誓願の鎧(パノプリア)」を軽々と殴り飛ばす。

 フィリアは荒廃した庭先を真横に吹っ飛び、柵を突き破って隣の邸宅へと突っ込んだ。

 

「損傷甚大。「誓願の鎧(パノプリア)」強制解除」

 

 隣家の正餐室。古風なテーブルや豪奢な椅子をなぎ倒し、鎧を纏ったフィリアはうち捨てられた置物のように仰臥していた。

 レクスとの戦闘によって傷だらけとなっていた「誓願の鎧(パノプリア)」には、最後に放たれた直撃打を耐えきるだけの強度は残っていなかった。

 鎧の腹部は完全に消失し、衝撃の余波によって全身の装甲にも深い亀裂が走っている。

 もはや機能を果たせなくなったことを自己診断した「誓願の鎧(パノプリア)」は、着装者を逃がすため、自動的にフィリアとの伝達系接続を切り、装甲の展開を解いた。

 

「か――あっ」

 

 少女は喉奥から何とか息を絞り出すと、崩れた蛹からはい出る虫のように、力なく鎧の残骸から身を起こした。

 加速と衝撃によって眩んだ頭を何とか落ち着けようと、少女は額を手で押さえ、大きくかぶりを振る。

 そして何とか平静を取り戻すと、少女は即座に戦意を蘇らせた。

 

 拳打を受ける直前に講じた策が功を奏したらしい。鎧は全損したが、彼女のトリオン体はまだ万全の状態である。

 フィリアは三度「鉄の鷲(グリパス)」を掌中に創り出すと、外へと一直線に続く打ち崩れた壁を見遣る。

 視線の先には、自らの不覚によってできた巨大な風穴がある。

 激闘の痕跡を軽やかに跳び越え、白髪金瞳の偉丈夫が荒れ果てた正餐室へと音も無く少女の眼前へと現れた。

 

「ある種の予感はあったが、やはりそうか……お前がフィリア・イリニか」

 

 よろめきながらも長剣を正眼に構え、切っ先を突きつける少女を目にするや、レクスはそう呟いた。面持ちは凪いだ湖面のように平静そのものだが、その皮一枚下では、狂おしいほどの感情が蟠っているのが見て取れる。

 

「今一度名乗ろう。私はドミヌス氏族、ケレベルの子レクスだ。フィリア・イリニよ。お前の母の名は、レギナと言うのではないか」

 

 半ば確認を取るかのような強い語調でレクスが問う。

 少女の外見年齢は十五、六歳ほど。レギナの子とするには年齢が合わないが、フィリア・イリニの実年齢は、カルクスら潜入部隊から事前に知らされている。

 またそれらの疑問点を棚上げにしてしまうほどに、フィリアの外見はレギナと瓜二つであった。絶対に二人が無関係の筈がない。レクス程の冷厳な指揮官がそう確信してしまうほどの、ある種の霊性さえ感じる相似なのだ。

 

「…………」

 

 尚も口を開かず、双眸に闘志を宿らせ射るような視線を向けるフィリアに、しかしレクスは気を悪くした様子もなく、むしろ幾分声を和やかな調子にして言葉を続ける。

 

「その戦いぶりから、今まで重ねてきた修練の程は窺える。この(エクリシア)にも、一方ならぬ思い入れがあるのだろう。……易々と靡くとは思わない。だが、その身に流れるのは、確かに我らノマスの血脈だ。暫し武器を置き、私の話に耳を傾けてはくれないか」

 

 偉丈夫はそう語りながら瓦礫を踏みしめ少女へと近づく。害意がないことを殊更に示すように、両手は何の構えも取らず、ただ広げたまま両腿の隣に垂らしている。

 

「あなたと話す事など……私には何一つありません」

 

 歩み寄るレクスをけん制するかのように、フィリアは剣柄を握りしめ、鋭くそう言い捨てた。

 少女のにべもない拒絶を聞くや、偉丈夫はピタリと歩みを止める。会話をするにはあまりにも遠いが、一足一刀の間合いは既に踏み越えている。交渉が決裂するや、すぐさま戦闘が始まる距離だ。

 

「……母親がレギナで間違いなければ、私はお前の伯父に当たる。フィリア。もしノマスに来るならば、私は全ての権能を用いてお前を護るつもりだ」

 

 真摯な声で告げるレクスに、しかしフィリアは昏く冷淡な眼差しを送り、

 

「私とあなたは敵同士。それ以外にどんな間柄でもありません」

 

 と断言する。

 冷静に状況を推し量れば、ここで交渉を決裂させるのは愚策だ。

 レクスとフィリアの戦力差は明白である。

誓願の鎧(パノプリア)」の補助があって尚、防戦一方に追い込まれた相手なのだ。鎧を失った以上、この達人と正面からやりあうのは余りにも無謀だ。戦闘となれば、おそらく数手と持たずに少女は完全な敗北を喫することになるだろう。むざむざ敵を煽る手はない。

 

 それでもフィリアの口から衝動的に言葉が出たのは、冷め切った胸中に埋め火のように残る感情の所為だ。

 少女の生涯は決して幸多くはなかったかもしれないが、決して無為な時間ではなかった。

 家族と過ごした掛け替えのない日々。友と歩んだ喜びと悲しみの道。人々から浴びた歓声と冷罵。すべての出来事が、今のフィリアを形作った欠片である。

 家族の為に人間性をかなぐり捨てた今でも、その事実は変わらない。

 良くも悪くも、エクリシアは思い出が詰まった故郷なのだ。顔も覚えていない生母を引き合いに出されたところで、故郷を裏切れる訳がない。

 

「……この国でお前がどのように過ごしてきたかは、簡単にだが調べさせてもらった。

その上で断言しよう。お前が真の意味でエクリシアに受け入れられることはない。順風の内は皆が認め、口々に誉めそやすだろうが、内に入り込んだ異分子を認めることができるほど、この国の民の度量は広くない。もしも不平不満が起これば、彼らは真っ先にお前を吊し上げ、残忍に命を奪うだろう」

 

 レクスはそんな少女の考えを見透かしたように、無慈悲な声でそう宣告する。

 

「――なにを!」

 

 少女は柳眉を逆立て、さらに険しく男を睨みつけるが、一言も反論はしなかった。

 彼の言葉は一面では真実を突いている。フィリアは何処まで行っても宿敵ノマスの人間だ。人がましい生活を送れているのは、彼女が国益を齎すからに他ならない。

 

「ノマスは違う。血は水よりも濃いのだ。ノマスの民はお前を同朋として迎え入れ、喜びも苦しみも共に分かち合うだろう。

 我々は決して、家族を見捨てたりはしない」

 

 ――或いはレクスの最後の一言こそ、深く痛切に少女の心を傷つけたのかもしれない。

 

「お断りだっ! 私の家族はこの(エクリシア)に居る。他の誰も代わりになんてならない! レギナなんて人、私には何の関係も無い!」

 

 烈火の如き怒りを双眸に宿らせ、フィリアが吼える。

 心の奥底に秘められた、最も繊細で穢れのない思い。家族への愛情という、彼女を彼女足らしめる存在理由に異を唱えられ、フィリアは怒り心頭に発していた。

 これ以上は言葉を耳にするのも厭わしいと、少女は示威するように長剣を構え直す。

 

「そうか、残念だ。……だが身柄は連れ帰らせてもらう」

 

 レクスは深々と嘆息するや、猛然と瓦礫を蹴り、瞬息の内に少女へと押し迫った。

 

「――っ!」

 

 レクスは「巨人の腱(メギストス)」の性能を十全に発揮し、トリオン体でも反応できないほどの凄まじい速度で間合いを詰める。対手のフィリアはサイドエフェクトで辛うじて攻撃箇所を読み切るが、防御のための動作がまるで追いつかない。

 少女の胸に、トリオン供給機関を打ち抜くべく神速の拳が迫る。だが――

 

「な――」

 

 刹那の後、フィリアのトリオン体はまだ形を保っていた。

 驚愕の声を漏らしたのは、あろうことか攻めかかっていたレクスである。

 見れば、彼の右腕は肘から先が消失し、切断面からは黒煙となったトリオンが止めどなく噴出している。

 打撃の瞬間、斬撃によって右腕を斬られたのだろう。斬り飛ばされたレクスの右拳は砲弾のような速度で吹っ飛び、正餐室の壁を貫いて遥か彼方へと消え去っていた。

 

「まさか――おのれっ!」

 

 切断面を左手で抑えてトリオン漏出を防ぎながら、レクスが忌々しげに叫ぶ。

 威厳に満ち溢れ、常に沈着な偉丈夫が、憎悪の念を隠しもせずに表している。

 彼には襲撃者についての心当たりがあった。そもそも「巨人の腱(メギストス)」によって生成された金剛不壊のトリオン体を僅か一刀のもとに切断するなど、如何なるトリガーを以てしても容易ではない芸当だ。

 エクリシアでそれが叶うのは、接触したあらゆるトリオンを吸収する機能を持つ(ブラック)トリガー「懲罰の杖(ポルフィルン)」ただ一つ。そしてその担い手は――

 

「――っ!」

 

 レクスは緊迫した面持ちでフィリアの側から飛び下がる。同時に、少女の眼前を走り抜ける一条の輝線。

 首を向ければ、正餐室の大扉が十文字に切り裂かれて倒れる。

 現れたのは、麦穂のように輝く金髪と翡翠色の瞳を持つ男。イリニ騎士団総長アルモニア・イリニであった。

 

「ご当主様っ!?」

 

 敬愛する伯父の姿を目の当たりにした途端、フィリアの口から驚愕の声が漏れる。

 

「フィリア。無事でよかった……」

 

 安堵の息を漏らすアルモニアは、しかしトリオン体のそこかしこが煤け、土埃に汚れている。

 ノマスの強襲時、騎士団の砦で指揮を執っていたアルモニアは、想像を絶する規模のイルガー特攻に巻き込まれ、倒壊した砦に生き埋めにされてしまったのだ。

 何とか瓦礫の山を圧しのけ脱出に成功した時には、既にノマスの兵団は教会へと迫りつつあった。通信によって戦況を確認した彼は、ノマスの最高戦力であるレクスを抑える為、交戦中のフィリアの元へと駆けつけたのである。

 

「下がりなさい。この男は私が相手をする」

 

 超常の性能を誇るレクスの「巨人の腱(メギストス)」を前にして、アルモニアは泰然たる面持ちを微塵も崩さず、フィリアにそう指示を下す。

 砦の壊滅により「誓願の鎧(パノプリア)」を着込むことができなかったアルモニアだが、彼の手には「懲罰の杖(ポルフィルン)」がある。

 

懲罰の杖(ポルフィルン)」は多数の極小トリオンキューブによって構成される近接格闘トリガーだ。起動者の意思に従い幾通りもの形状に変化することが可能で、今まさにアルモニアが手にするそれは、リーチを重視した軟鞭から、刃渡り一メートル程の長剣へと形状変化を遂げている。

 

 このトリガーの最大の特徴は、起動者のトリオン体を除いたあらゆるトリオンを接触によって吸収することにある。この機能によって、「懲罰の杖(ポルフィルン)」はトリオンに依る一切の防御手段を無効化する最強の矛となり得るのだ。

 

 その性質上、トリオン体による攻撃手段しか持たないノマスの「巨人の腱(メギストス)」には、天敵ともいえるトリガーである。

 別けてもそれを振るうのが最強の誉れ高き「剣聖」とくれば、如何に凶悪な敵を相手にしても五分以上に戦うことができるだろう。

 

『敵の一団が教会を襲撃している。フィリア、まだ動けるなら救援を頼む。――家族を助けに行ってくれ』

『――っ! 了解しました!』

 

 無声通信でアルモニアにそう指示されると、フィリアは弾かれたように動き出した。

 この場の一切を全幅の信頼を寄せる伯父に託し、少女はわき目も振らずに邸宅から飛び出すと、教会に向かってひた走る。

 後に残されたアルモニアは、長剣状の「懲罰の杖(ポルフィルン)」をだらりと右手に下げ、底なしの憎悪を双眸に宿したレクスと対峙する。そして、

 

「あの子に、何を吹き込んだ?」

 

 レクスから向けられる強烈な殺気をそよ風のように受け流しながら、氷のような声で詰問する。

 だがレクスは憤然と床を踏みしめ、

 

「問いを投げるのは私の方だ。――アルモニア・イリニ。貴様が拐かした我が妹、レギナは何処にいる!」

 

 逆に吼えるような語調でそう問う。

 

「……あれは死んだよ。あの子を残してな」

 

 一拍の沈黙を挟んでから、アルモニアは感情を排した声でそう答えた。

 彼の瞳には紛れもない悲嘆の色が宿っていたが、妹の死を仇敵の口から知らされたレクスに、それに気付くだけの余裕はない。

 

「ならばお前も死ね。そしてあの娘は必ずノマスに連れ帰る」

 

 憤怒を全身に滾らせ、猛獣のようにレクスが跳んだ。アルモニアも剣を振りかざして応じる。

 エクリシア、ノマスが誇る両雄の、実に十余年ぶりとなる戦いがここに始まった。

 

 

 

 



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其の九 教会攻防戦 国宝トリガー

 聖都の中央、小高い丘に聳え立つ優美にして広壮な教会は、エクリシアの心臓部にして、国民統合の象徴である。

 幾星霜の年月を経た建物は重厚な風格を備えながらも、トリオンによって造られた外壁には一点の曇りもない。

 

 それもそのはず、この教会は民草がただ安息を得るために祈りを捧げる場所ではない。地下深くには星の運行の一切を担う(マザー)トリガーと、その為に捧げられた神が座している。途轍もないトリオンを投じて建てられた教会は、(マザー)トリガーを護る金城鉄壁の城塞なのだ。

 

 その教会が今、噴煙を撒き散らす火山のように燃えている。

 教会の正面に位置する広大な広場には、バリケードトリガーによって堅牢な防御陣地が構築され、教会を護る聖堂衛兵たちが小銃を携えて迫りくるトリオン兵団と激しい交戦を繰り広げている。

 

 それだけではない。教会の上層部、普段は市民が景色を眺めるための屋外回廊にもトリオンによって狭間胸壁が設けられ、城塞の一部として機能している。

 そこから群がるトリオン兵に射撃を浴びせかけているのは有志の市民たちだ。

 避難民の内、トリオン能力に比較的優れた者、また戦う意思のある者には、教会からトリガーと簡易トリオン銃が支給され、戦力として運用されることになった。

 

 夥しい銃口から発せられたマズルフラッシュは、そこかしこで花火が打ちあがっているかのように眩く教会を照らす。

 頭上から、そして地上から撒き散らされた弾丸は、丘を駆けのぼり教会へと殺到する異形の兵器たちを次々に打ち破っていく。

 

 激戦地と化した教会から数百メートルほど離れた地点、崩れた建物の陰に隠れるようにして、ノマス襲撃部隊のユウェネスとモナカの姿があった。

 

「拙いって。トリオン兵削られまくってんじゃねーか」

「泣き言を垂れる前に卵を孵しなさい!」

 

 携帯端末で旗色の悪い戦況を眺めながら、巻き毛の青年は狼狽した声を上げる。

 二人は現在(ブラック)トリガーを解除し、ガントレット型の孵卵器トリガーでひたすらに持ち込んだトリオン兵の卵を孵し続けている。

 

 エクリシアが展開する(ゲート)遮断装置は未だ健在であり、教会に戦力を投入するには外部から進行中の増援を待つか、現場で兵を揃えるしかないのだ。

 また二人の持つ(ブラック)トリガーは揃って直接戦闘にはまるで向かず、手駒のトリオン兵を確保しなければ攻めかかることもできない。

 

 とはいえ、戦場で悠長にトリオン兵を孵すなど、可能ならば極力避けたい下策である。

 本来ならば、教会には聖都の各所から分進したノマスの精鋭部隊が一堂に会している筈であった。

 練達のトリガー使いたちと、彼らに率いられた大量のトリオン兵が護衛の兵を相手にし、その間隙をついてユウェネスとモナカが堅牢な教会の防備を突破するというのが、ノマスが当初に立てた計画である。

 

 だが、初動こそ完璧に近い展開を演じることができたものの、エクリシア側の抵抗が思いのほか激しく、教会までたどり着けたのはユウェネスらの一隊だけである。

 教会を堕とそうとしても、これでは敵の護衛に当てる兵力すら足りない。

 

「くそ、親父さんが居てくれりゃあなぁ」

「逆に考えるべきよ。「懲罰の杖(ポルフィルン)」の使い手を足止めできているのは、大きな戦果だわ」

 

 ユウェネスのぼやきに、モナカが沈鬱な表情で応える。

 こと近接戦闘に於いては近界(ネイバーフッド)でも最高峰の力をもつレクスがいれば、護衛の兵隊など何の障害にもならなかったのだろうが、彼はエクリシアが誇る最強戦力、「剣聖」アルモニアを相手に壮絶な戦いを繰り広げている真っ最中だ。

 

「あとあの子、フィリア・イリニを見つけたって話だけど、いくらなんでも確保に裂く手なんてないだろ。モナカもそこは分かってるよな」

「……ええ。任務を優先するわ」

 

 またレクスの通信からは、ユウェネスたちに奇襲を仕掛けたあの騎士が、レギナの娘フィリア・イリニであることが伝えられた。

 レクスは彼女を追い詰めたものの、アルモニアの介入によって捕獲には至らなかったらしい。

 少女にただ事ならぬ執着を見せるモナカは、その知らせに衝撃を受けていたらしいが、流石に取り乱すことなく目先の仕事に黙然と取り組んでいる。

 

 そもそも捕獲に赴くとしても、少女が広い戦場の何処に行ったかも定かではない。それこそ戦線を離脱していれば捜索はまったくの徒労に終わってしまう。

 二人が優先すべきは、一刻も早い教会の攻略である。だが、

 

「弾幕がきつ過ぎる。このままじゃ護衛を排除する前に手持ちの駒が尽きるぞ」

 

 聖堂衛兵が籠る防御陣地は堅固で、ユウェネスたちが繰り出すトリオン兵を的確な集中砲火で破壊していく。

 加えて教会には「誓願の鎧(パノプリア)」を纏った聖堂騎士が十人余りもいる。飛行能力を持つ騎士を放置すれば、展開したトリオン兵の陣形が寸断されるため、これを抑えるために虎の子のクリズリを大量投入する羽目となっている。

 

「合撃はもう無理ね。これ以上ここで拘泥していられない。私たちだけで仕掛けるわ」

 

 戦況をモニターしていたモナカの双眸に、固い決意の光が宿る。もはや援軍は無いものとして、二人の(ブラック)トリガーを用いて強硬策に打って出るべきだと主張する。

 

「……たった二人で城取りか。ぞっとしねえな」

「ユウェネス。貴方もノマスの一員なら……」

「分かってる。まあ、一つ頑張るとしますか。死なない程度にな」

 

 軽口混じりでモナカの決断に頷くと、ユウェネスは決然とした手つきで、ここ一番の為に取っておいたトリオン兵の卵を孵化させる。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 教会の正面広場に設けられた防御陣地は出城とでも呼ぶべき規模で構築されており、また教会の備蓄トリオンを用いて張り巡らされた防壁は、急造とは思えないほどの強度を有している。

 

 丘の頂を占めるかのように建てられた教会で、大規模な兵力を展開できるのはこの正面広場のみ。

 あとは急峻な崖をよじ登るようにしてしか教会に取りつくことはできない。

 勿論モールモッドなどのトリオン兵であればそれも可能であろうが、避難民の有志部隊が監視に当たっており、周囲の警戒も万全だ。

 

 有事に備えて教会には途方もない量のトリオンが備蓄されており、また研究所を構えている都合上、トリガーや簡易トリオン銃といった武器も豊富に備えられている。

 兵隊の少なさこそが教会の弱点であったが、避難民を動員することでその問題も解決された。

 市民たちは自らの信仰の拠り所であり、国の象徴である教会を護ろうと、こぞって戦闘に参加している。

 

 一定の威力を発揮する簡易トリオン銃と、堅固な防御陣があれば、たとえ個々人のトリオン能力は低くとも侮りがたい戦力になる。押し寄せるトリオン兵の群れも、一先ずは問題なく撃退することができた。

 

 防衛戦に市民の参加を呼び掛けたのは、イリニ家のパイデイアである。

 子供たちを避難させた彼女は大聖堂の演壇へ立つと、ノマスの襲来に怯えパニックを起こしかけた市民たちに、堂々たる声で徹底抗戦を呼びかけた。

 

 諸々の事情から一度は離縁された身とはいえ、パイデイアはイリニ家で帝王学を受けて育った才媛である。

 普段は貞淑で慈愛に満ちた、正に慈母を体現するかのような彼女であるが、眦を決して力強く語りかければ、たちまち一党を率いる女帝としての貫録を示す。

 

 或いはそれは、我が子を護りたいという母の一心から生じた必死さだったのかもしれない。卑劣の謗りを受けようとも構わない。教会に敵を引きつけることができれば、それだけ逃がした子供たちは安全になるのだ。

 

 ともかく、パイデイアの演説に心を打たれた市民たちは、各々が手に武器を持ち、教会防衛の戦列に加わった。

 人員が多いというのはそれだけで圧倒的な優位性となる。

 兵員に余裕があれば切れ目なく防衛陣を組め、また直接戦闘を行わない者も、弾薬の運搬や負傷者の搬送といったサポートで戦線維持に協力できる。

 

 果たしてその結果、教会防衛戦は現在のところ、エクリシアの圧倒的優位のままに推移していた。

 防衛陣地に押し寄せるモールモッドやバムスターを、聖堂衛兵と市民兵らは的確に火力を集中させて撃滅していく。

 

 ヴルフのような小型で足の速いトリオン兵の幾らかは、弾雨を潜り抜け陣地に迫ることができるものの、今度はそのサイズの小ささゆえに防壁を登攀するのに手間取り、結局は残さず破壊されていく。

 

 飛行型トリオン兵バドによる上空からの攻撃も、教会の上層に設けられた屋外回廊に詰める狙撃兵によって悉く撃墜されている。

 

 未だ、エクリシア側は教会の内部はおろか、防御陣地内にさえ敵の侵入を許してはいない。敵の兵力がどれほどの規模かは未知数だが、それでも市街地から騎士団が駆けつければ相手にはなるまい。ただ時間を稼ぐだけで、勝利は確実に近づいてくる。

 何波目かの攻勢を退け、トリオン兵の追加が途切れたのを認めると、陣地に詰める兵たちは安堵の息を漏らし、また自分たちの奮戦ぶりに大いに気勢を上げる。が――

 

「っ! バンダーを確認。何だ、普通のと違うぞ……」

 

 観測役の兵士が声を上げた。

 見れば、前方の彼方、貴族街から続く大通りを踏みしめながら、十体余りのバンダーの群れが進軍してくる。

 

 蜥蜴を思わせるフォルムの、民家ほどの大きさをしたバンダーは、砲撃・捕獲を主任務とするトリオン兵である。

 様子がおかしいのは、迫りくるバンダーは体色が淡い黄色味がかっており、通常の個体よりも一回り程大きいことだ。

 新手のトリオン兵に警戒を新たにする防衛部隊。すると、バンダーの群れは防衛陣地よりはるか遠方で進軍を停止した。

 

「なんだ?」

 

 観測手が怪訝な顔をする。バンダーは口腔内のコアから強力な光線を放つ機能を有するが、この距離は完全な射程外だ。よしんば砲撃を敢行したとしても、十分な威力を発揮することはできないだろう。

 

 訝しげに眼を眇め、バンダーの挙動を注視する観測手。高々と首を掲げたバンダーから灼熱の閃光が放たれたのは次の瞬間だった。

 

「な――う、うわっ!」

 

 耳を聾する爆音と共に、地を揺るがすかのような激震が起こる。

 バンダーから一斉に放たれた光線は、陣地を囲む防壁や胸壁に立つ兵士らに直撃し、炸裂した。

 

 流石に数発程度の砲撃では堅牢な防壁はビクともしなかったものの、兵士には幾らかの損害が出た。だがそれ以上に防衛部隊に混乱をもたらしたのは、バンダーがおよそ射程圏外と思われる位置から、高威力の砲撃を行ったことだ。

 

 このバンダーはノマスのトリオン兵エンジニア、モナカの手による特製品である。

 通常のバンダーの数倍のコストを掛けて製造された強化バンダーは、捕獲機能をオミットし、装甲と射撃能力に注力した砲撃特化の調整を施されている。

 

 射程、威力、速射性。どれをとってもノーマルのそれを遥かに凌駕している。

 これらの強化トリオン兵は、新型トリオン兵クリズリと共に、ここぞという局面の為に温存していた隠し玉だ。その性能は、数合わせの汎用品とは物が違う。

 

「く、くそ――!」

 

 兵士らは反射的にバンダーへと銃を向け、豆粒ほどの敵影に向けて引き金を絞る。だが小銃型トリガーは連射力に注力した設計を行われているため、放たれた弾丸は敵トリオン兵に届くころには、用をなさないほどに威力を減衰させてしまう。

 

 そして次の瞬間、再び強化バンダーによる一斉砲撃が行われる。

 二度目の砲撃はより精密に、防壁の一点を狙った集中攻撃であった。

 直撃弾を立て続けに受け、然しもの強固な防壁にも亀裂が走った。すると、戦場をはい回っていたトリオン兵の残党が、群れを成して罅の入った防壁へと殺到する。

 

「狙撃班、アレを黙らせろっ!」

 

 群がるトリオン兵を撃退しつつ、防衛部隊の長が叫ぶ。

 あの距離に陣取るバンダーに有効打を与えることができるのは、狙撃銃トリガー「錫の馬(モノケロース)」のみ。

 狙撃銃を持つ兵士たちは隊長からの命令を待つまでも無く、挙って胸壁から身を乗り出すと、彼方のバンダーへと射撃を加える。練達のトリガー使いたちの放った弾丸は、遥か遠方のトリオン兵のコアを見事に捉えた――かに見えた。

 

「な――」

 

 驚愕が兵士たちの喉を突いて出る。

 バンダーのコアを射抜くかに見えた弾丸は、突如として現われたトリオン障壁によって素気無く阻まれてしまった。

 

 それを為したのは、狼型トリオン兵ヴルフの群れである。

 なんと、バンダーの背中や周囲に隠れ潜んでいたヴルフが、幾重にもシールドを張ってトリオン弾を防いだのだ。

 狙撃手たちはなおも猛然と攻撃を加えるが、全ての弾丸は護衛役のヴルフに防がれる。

 

 その間にも、バンダーの砲撃は止まらない。

 既に何十発目とも知れない光線が防壁に直撃する。

 トリオン体を構築できない市民兵の中には、爆発に巻き込まれて死傷する者も出ている。陣中は正に混乱の渦中にあった。

 そして頼みの防壁も度重なる砲撃を受け、とうとう崩落寸前の有様となっている。

 さらに凶報は重なる。

 

「敵の新手です! ――っ、また様子が違うぞっ!」

 

 砲台に徹するバンダーの横をすり抜けて、モールモッドやバムスターの増援が大挙して現れた。

 モールモッドは青色、バムスターは薄紅色の体色をしており、双方とも細部が通常個体と異なっている。明らかにバンダーと同じく強化された特別製だ。

 地を蹴立てて防御陣地へと押し寄せる強化トリオン兵は、どれも尋常ではない重装甲を備えており、火線の雨に怯みもしない。

 

 別けても強化バムスターの突破力は異常の一言に尽きる。

 只でさえ分厚い外殻を濃縮トリオンでさらに強化したバムスターは、コアの収まる口腔部をも固く閉ざし、重戦車の如き突進で陣地へと突き進んでくる。

 センサーも兼ねるコアを格納しているため、バムスターはただ愚直に直進するのみだが、最短経路を猛進してくるため迎撃の時間がない。

 

「火力を集中させろ!」

 

 それでも防衛部隊は奮励し、寸でのところまで押し迫った強化バムスターを撃破する。

 脚部を破壊され、どうと地に伏す巨体のトリオン兵。

 だが、本当の脅威は未だ健在であった。

 

 固く閉ざされていたバムスターの口が大きく開く。するとそこには、鏨を思わせる鋭利な三角錐の物体がみっちりと詰め込まれている。

 何十体もの爆撃用トリオン兵オルガが、バムスターの腹に搭載されていたのだ。

 

 解き放たれたオルガの群れが、猛烈な勢いでトリオンを噴出して飛翔すると、砲撃によって亀裂の広がった防壁へと突き刺さっていく。

 転瞬、目も眩む極光とともにオルガが一斉に自爆した。

 轟音と激震によって前後を失った兵たちが立ち直ったときには、彼らが拠るべき防壁の一角は完全に崩壊していた。

 

「く、来るぞっ!」

 

 防御陣の切れ目を目指し、強化モールモッドやヴルフら戦闘用トリオン兵が押し迫る。

 既に何体かは陣地内へと侵入し、防衛部隊と苛烈な戦いを繰り広げている。

 戦局は一気に劣勢へと傾いた。それでも兵士たちは奮起し、これ以上の敵の侵入を阻むべく武器を執る。

 

 防壁が破られたのは僅か一画のみ。まだ凌ぐことは可能だ。また陣地に入り込んだトリオン兵を駆逐できれば、バリケードトリガーで壁を修復することも可能だろう。

 だが、兵士たちの淡い希望の芽を摘むかのように、敵は苛烈な攻勢を緩めない。

 

 先の一体に続いて投入された強化バムスターらが、続々と迫りつつある。

 今度は防壁まで確実に辿りつけるよう、護衛役のヴルフと連携しての進軍だ。

 ただでさえ侵入したトリオン兵の対処に人員を割り当てざるを得ない状況に追い込まれている。防衛部隊は必死に射撃を叩きこむが、盾役を伴った強化バムスターを止めることができない。

 

 もはやこれまでか。兵士らの脳裏に諦念が過ったその刹那――

 一条の閃光が、戦塵の舞う空を貫いて奔った。

 

 トリオンの極光は吸い込まれるように驀進するバムスターへと突き進む。護衛のヴルフは機械そのものの正確さで幾重にもシールドを展開するが、迸る光は薄ガラスを突き破るかのように、何の抵抗も無くその障壁を貫いた。

 

 そして――解き放たれたトリオンは巨大な火球となり、膨大な熱量によって堅牢な装甲を有するバムスターを欠片も残さず焼き払った。

 のみならず、爆発の余波は周囲一帯を薙ぎ払い、護衛役のヴルフをも破壊する。

 矢継ぎ早に放たれる破壊の閃光は、防壁を目がけて進軍するバムスターを次々と打ち据え、粉々に吹き飛ばした。

 

 穿たれた大地に残るは焼け溶けた敵の残骸のみ。破城槌を失ったモールモッドらは、プログラムに突き動かされるまま無意味な攻撃を続行するが、勢いを取り戻した兵士たちに一体、また一体と迅速に処理されていく。

 

 戦況を塗り替えた一射が放たれたのは教会の頂点、天高く聳える大鐘楼からだ。

 強力無比な援軍の参戦に、兵士たちは雄々しく鬨の声を張り上げた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「……当たっ、た?」

 

 眼下で繰り広げられる激戦を照準機越しに眺めるのは、豊かな金髪と翡翠色の目をした貴婦人、パイデイア・イリニであった。

 彼女は胸壁に固定した狙撃銃トリガー「錫の馬(モノケロース)」の照準機から顔を離し、今しがた弾丸を撃ち込んだ地点を見遣る。

 

 濛々と立ち上る土煙が戦場の旋風に吹き消されると、地には巨大なクレーターが穿たれているばかりであった。標的としたバムスターの痕跡は、もうどこにも見つけ出すことはできない。

 ノマスの接近に伴い、避難民を鼓舞して徹底抗戦を訴えたパイデイアは、しかし神の候補という立場故に、戦闘に参加することを教会の人間に止められてしまった。

 

 発起人がのうのうと隠れさせられるという屈辱的な扱いに当然反発した彼女は、教会の地下から抜け出すと、志願兵から狙撃銃トリガーを受け取り鐘楼へと登り、勝手に戦列へと加わったのだ。

 神の候補にも推される彼女のトリオン機関は別格の性能を有する。ブラックトリガーにも比肩する出力でトリガーを用いれば、只の狙撃が砲撃も同然の威力になるのだ。

 

「……大丈夫、よね」

 

 自らの砲撃が敵のトリオン兵のみを排除したことを、パイデイアはしつこいほどに目視で確認する。

 トリガーの出力は起動者のトリオン機関の強弱に比例し、原則として威力の調整は効かない。桁外れに強力なトリオン機関を持つがゆえに、パイデイアの砲撃は味方をも巻き込んでしまう恐れがあった。

 

 加えて、彼女自身も戦闘用トリガーの扱いに長けている訳ではない。貴族の子女として遠い昔に覚えさせられた操作を、何とか思い出しつつ扱っているに過ぎない。

 家屋ほどの大きさのバムスターとはいえ、動目標を相手に一発も外れ玉が出なかったのは奇跡というほかないだろう。

 

「次は……」

 

 パイデイアは再び照準器を覗き込み、レティクルの先に敵を捉える。

 今度の標的は、彼方から教会へと射撃を加え続けるバンダーの群れだ。

 防衛部隊の狙撃班の奮戦により多少は数を減じているが、それでも脅威は健在だ。パイデイアの砲撃ならば、ヴルフが張るシールドごとバンダーを吹き飛ばすことができるだろう。

 

 ただ、敵までの距離が遠すぎる。バムスターと違い動きはしないが、照準の向こうに見える小さな標的を射抜くのは、彼女の腕では至難の業だ。

 それでもパイデイアはしっかりと銃床を肩に当て、細くゆっくりと息を吐きつつ、引き金を絞る機を窺う。

 

 トリオンの弾丸は大気の影響を受けずに直進する。集中すれば不可能な狙撃ではない。何となれば、付近に着弾させるだけでもいい。爆発の余波ではバンダーを破壊することはできないかもしれないが、砲撃を滞らせるぐらいの効果は見込めるだろう。

 

 首を高々と掲げるバンダーに、静かに狙いを定めるパイデイア。次の瞬間、彼女は標的の口腔から閃光が放たれるのを見た。

 

「――っ!」

 

 戦慄が背骨を貫いて奔る。実戦経験の乏しい彼女は、スナイパーの金科玉条を完全に失念していた。すなわち、居場所を悟られることなかれ、の鉄則である。

 

 強化バムスターを仕留めた狙撃手の存在を、敵が放置しておく道理が無い。急ぎ指令を下されたバムスターは、鐘楼に籠ったパイデイアに向けて一斉射撃を加えたのだ。

 

 殲滅の光線が教会の大鐘楼を直撃する。

 莫大なトリオンを用いて建てられた尖塔はバムスターの砲撃を受けたところでビクともしないが、衝撃だけでも人間を殺傷するには十分すぎる威力だ。

 

 だが、鐘楼に籠るパイデイアは無事であった。

 砲撃を目の当たりにした彼女は咄嗟にシールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」を展開し、全身を包み込むように覆ったのだ。

 砲撃のつるべ打ちなど、普通のトリガー使いならどう足掻いたところで助かる術もないが、桁外れのトリオン能力が生み出した障壁は、城壁にも匹敵する強度でパイデイアを守り切った。

 

 そして胸壁から顔を上げたパイデイアは、再び狙撃銃トリガーを作り出すと、お返しとばかりにバンダー目がけて引き金を絞った。

 鐘楼を襲った閃光とは比べ物にならないトリオンの奔流が、一直線に戦場の空を切り裂き、遥か彼方のトリオン兵へと着弾する。

 

 大爆発に巻き込まれ、体の半分を失って頽れるバンダー。だが、破壊の閃光は一向に止まない。

 パイデイアの連続砲撃が次々と着弾し、展開するトリオン兵はおろか、辺りの区画一帯が吹き飛ばされる。

 

「――はぁ、はぁ……」

 

 バンダーの砲撃が止まっていることにようやっと気付いた時には、敵が陣取っていた辺りの地形は殆ど更地同然の有様となっていた。

 命の危機に曝されたことで半ば恐慌を来たしていたパイデイアも、何とか落ち着きを取り戻したようだ。荒い息を整えながら、己が受け持つべき敵の姿を探し求める。

 

 一見すると、残敵はそれほど見受けられない。

 ノマスの繰り出した強化トリオン兵は殆ど破壊することができた。残っているのは、中型、小型のトリオン兵ばかりである。

 

 一部が崩落したとはいえ、まだ陣地機能は健在である。モールモッドやヴルフは敏捷な動きでパイデイアの砲撃を躱したようだが、そのサイズ故に防壁を乗り越えることができない。程なく片が付くだろう。

 パイデイアが安堵の息を吐く。その時、

 

「――な、あれは」

 

 トリオン兵の残骸が散らばる戦場を、凄まじい速度で何かが飛翔するのが見えた。

 三メートル余りの大きさをした四臂の人型は、ノマスが此度の遠征に投入した新型トリオン兵クリズリだ。二十を超えるクリズリの群れが、スラスターを轟然と噴かして教会へと迫りくる。

 

「――っ!」

 

 敵の新型についてはパイデイアも耳にしている。それどころか、先ほどからの戦闘にも投入されたクリズリは、持ち前の戦闘力で防衛部隊が頼みとする聖堂騎士たちを掛かりきりにさせていたのだ。

 

 パイデイアは咄嗟に狙撃しようとするものの、彼女の腕前では高速で宙を飛ぶクリズリを捕捉することができない。それにしても、投入されたクリズリの速度は異常に過ぎる。いくら精兵といえど、ここまで度外れた動きをするはずがない。

 

「まさか、そんな……」

 

 敵の姿をはっきりと見捉えた彼女は、愕然とした表情で声を詰まらせる。

 持ち前の飛行能力で防壁を軽々と飛び越し、陣地の中へと降り立ったクリズリたち。

 彼らの体表にはびっしりと、黒い葉脈の如きトリオンの輝線が奔っている。

 

 その怪現象について、パイデイアには心当たりがあった。

 ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」によるトリオン兵の超強化。

 これを受けたトリオン兵は、あらゆる能力が通常の個体から跳ね上がり、躯体が融解するまで決して戦闘を止めないという。

 

 只でさえ強力なクリズリに、(ブラック)トリガーによる強化が乗った結果、

 

「う、うわぁああ!」

 

 鬼神の如き戦力となったクリズリに、陣地内の防衛部隊が見るも無残に蹂躙されていく。

 膂力、装甲、敏捷性、そのどれもが通常の個体とは比べ物にならない。

 

 普通のクリズリが騎士にも対抗できるという強さなら、強化されたクリズリは騎士でなければ勝負にならないほどの戦闘力となる。

 

誓願の鎧(パノプリア)」も纏わぬ一般の兵士には、欠片ほどの勝ち目もない。

 眼下で繰り広げられる一方的な虐殺を目の当たりにして、しかしパイデイアは恐れ慄く暇も無かった。

 彼女の籠る鐘楼へと、強化されたクリズリが飛翔してきたのだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 冷酷無情な殺人兵器の侵入を許した防御陣地は、酸鼻極まる光景を晒していた。

 

 防壁を飛び越えたクリズリに防衛部隊は敢然と立ち向かった。しかし、(ブラック)トリガーによって強化されたトリオン兵は想像を絶する脅威と化した。

 強化クリズリは疾風のような速度で駆動し、その剛腕は堅牢な防壁をも易々と打ち砕く。元々頑強だった装甲はさらに強化され、生半な攻撃ではかすり傷一つつかない。それどころか、通常弱点とされるコアすらも、弾丸が通らないほどの硬度となっている。

 

 クリズリの振るうブレードに切り裂かれ、弾丸に打ち抜かれ、兵士らが次々とトリオン体を失っていく。

 生身となって戦闘力を失った兵士にも、クリズリは追撃の手をまるで緩めず、仮借無き攻撃を加え続ける。

 

 刺し貫かれ、叩き潰され、蜂の巣にされ、鮮血の花が戦場に咲き乱れる。

 嘗てない強敵に圧倒的な劣勢に立たされた兵士たちは、それでも戦意を失わず、敢闘を続ける。

 負傷者を下げ、隊伍を組み直し、雄々しく吼えながら戦士たちは戦う。

 

 遊撃に当たっていた聖堂騎士たちも陣地へと舞い戻った。「誓願の鎧(パノプリア)」を纏った練達のトリガー使いたちは、強化クリズリ相手にも一歩も引かずに真っ向から立ち向かう。

 教会の上層から援護射撃を行っていた市民兵たちは、流石に襲い来るクリズリの狂猛さに算を乱したが、それでも少なくない人間が抵抗を続けている。

 

 教会を巡る攻防戦は、入り混じった敵味方が死力を尽くして鬩ぎあう、まさに激闘の様相を呈している。

 誰もが目の前の敵を打倒し、己の命を拾う事のみに執心するばかりとなった混沌の戦場。

 主戦場から離れた防御陣地の外、トリオン兵の残骸が地を埋め尽くさんばかりに散らばり、そこかしこに砲撃跡が残る荒涼とした場所に、人目を避けるように動く二人の人影があった。

 

「急ぎなさい。そう長くは持たないわ!」

「分かってるからあんまり焦らせんなよ。それなりに大変なんだぜ!」

 

 ノマス強襲部隊のモナカとユウェネスが、戦場の片隅に陣取って何かを行っている。

 地面に突き立てられた杭は、小規模なエリアステルスを展開するトリオンデバイスだ。

 

 防衛部隊の注意が陣地内に向いた隙に、二人は陣地の外に広がる戦場跡へと姿を現していた。共に直接的な戦闘能力を持たない(ブラック)トリガーの持ち主である。エクリシア側に捕捉されれば、容易く撃破されることだろう。

 

「つーか、砲撃型の(ブラック)トリガーは全部隔離戦場(むこう)行ってるはずだよな? 何なんだよあのバカみたいな大砲は!?」

「反応は、通常のトリガーのはずよ」

「どっちにしろ(ブラック)トリガー並の奴が立てこもってるってことだろ? ちゃんと抑えられんのか?」

 

 地面に手を付き、トリオンの輝線を四方八方へと伸ばしながら、ユウェネスが泣きそうな声でそうぼやく。

 

「問題ないわ。私のトリオン兵は最強よ。連中が後生大事に崇めているあの教会を、そのまま奴らの墓石にしてやるわ」

 

 モナカは情けない青年の姿に苛立ちを滲ませながらも、力強く断言する。

 手持ちのクリズリを全機投入し、その上(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」による超強化を施した最後の攻勢である。

 

 僅か二名しか教会にたどり着けなかった以上、展開できる兵力には限界がある。退却時の殿に用いる予定だった予備兵力も既に使い潰しており、今投入したのが正真正銘最後の戦闘用トリオン兵だ。

 

 加えて、クリズリらに加えた「悪疫の苗(ミアズマ)」による強化によって、モナカのトリオンも残りわずかとなっている。

悪疫の苗(ミアズマ)」はトリオン製の器物のコントロール権を奪うという非常に強力な能力を持つが、その性能故に燃費もかなり悪い。モナカは元々トリオン機関に恵まれている訳でもないため、乱発すればすぐに限界が来る。

 

「尖塔からの砲撃も止んでいるわ。形勢はこちらが有利。あとは貴方の働き次第よ」

 

 それでも、モナカには一片の焦りも恐れも見せず、双眸に烈々たる闘志を燃やしている。

 彼女が半生を掛けて作り出した傑作機クリズリは、エクリシアへの怨嗟と憤怒の結晶である。ただの兵卒や市民兵相手に後れを取る筈がない。

 

「だからちょっと待てって、もうすぐだからさ」

 

 もはや攻略部隊の残弾は底をついている。唯一余力を残しているのは、このいまいち頼りない青年ユウェネスだけだ。

 

 くせ毛の青年の持つブラックトリガー「万化の水(デュナミス)」は、あらゆるトリオンの自由自在な形態変化を可能とする。

 彼が戦場跡へと伸ばす輝線は幾重にも枝分かれし、毛細血管のように緻密で複雑な文様を地面に描いている。

 

 見れば、辺りに散らばるトリオン兵の残骸や敵の堡塁が、日差しに解ける雪像のように形を失っていくではないか。

 ユウェネスは「万化の水(デュナミス)」の能力を用いて戦地に散らばるトリオンを溶かし、一所に集積しているのだ。

 

「ほら、手ぇ出せって。空っけつだと後が続かないだろ」

 

 作業を続けながら、ユウェネスは問答無用にモナカの手を握った。

 途端に彼女へと流れ込む潤沢なトリオン。

 モナカは驚愕に眉根を寄せるが、そのまま静かに供給を受け続けた。ややあって、

 

「……そうね。あなたの盾ぐらいにはならないと。エクリシアを堕とすまでは、死んでも死にきれないもの」

 

 と、険しい表情のままそう呟く。

 その独言を聞きとがめたユウェネスは苦りきった表情を浮かべ、

 

「あのな、縁起でもないこと言うんじゃねえよ。お前の死体担いで逃げるなんて、俺は絶対に御免だからな。……もうこれ以上、身内が死ぬのは懲り懲りだ」

 

 軽薄な彼にとっては意外なほどに真摯な声で、そう返す。

 今回の遠征では、すでにルーペス氏族の少女テララが、その若い命を散らしている。

 そもそもエクリシアへの侵攻を愚策と断じていた青年は、この戦争でノマスの民を死なせることなど、断じて許容できることではなかった。

 

「……聞いておくわ。でも、生きて帰れるかどうかはあなたの活躍次第よ。ユウェネス」

 

 そんな青年の主張に、モナカは粛然とした面持ちで頷くも、必要とあらば命を駆けるという覚悟が揺らいだ様子はない。

 我が身を惜しむような情念を抱こうにも、十余年を経て育ったエクリシアへの憎しみは余りにも深すぎた。

 

「難儀な話だな」

 

 同朋の頑なさに辟易しつつも、抱く想いの程を理解できる青年は、それ以上言葉を続けはしなかった。

 何より今は、目の前の仕事に全霊を尽くさねばならない。此処は戦場の真っただ中、地獄の一丁目である。一つでもミスを犯せば、先の話通り命を失いかねない。

 

「――よし。十分だ」

 

 戦場に散逸したトリオンを集めきったユウェネスは、眼前に浮かぶ人の背丈を超えるトリオンキューブを見遣った。

 そして彼が巨大トリオンキューブに手を触れると、柔らかな光と共にトリオンが新たな形へと変化していく。

 

「城取り、始めるぞ」

 

 ノマスが当初に立てた教会突入プランは、「万化の水(デュナミス)」を用いて教会の城壁を液状化するというものであった。

 大量のトリオンを変形させるには、担い手のユウェネスが直接教会の壁面に触れる必要がある。作戦通りに戦況が推移していれば、レクスや他の襲撃部隊が警護の兵を相手取り、彼の接近をサポートする予定であった。

 

 だが現在、教会へと辿りつけた人員は僅か二名。これでは教会に近づけるはずもない。

 そこで彼らが選択した作戦とは、力任せの正面突破であった。

 

 再構築されたトリオンが、巨大な器物を形作る。

 荒涼とした戦場に忽然と姿を現したのは、砲長数十メートルはあろうかという桁外れに巨大な大砲であった。

 

 勝てぬと判りながらも遮二無二トリオン兵を繰り出した理由は二つ。

 一つは戦線を防御陣地内まで下げ、ユウェネスが安全に砲を展開する空白地帯を作る事。

 もう一つは敵味方双方に、とにかく大量のトリオンを戦場にばら撒かせる事だ。

 

 敵が放棄した防塁やトリオン兵の残骸から得たトリオンを、すべてこの一射に注ぎ込む。

 エクリシア側もユウェネスたちの企みに気付いたらしく、陣地が俄かに騒がしくなった。強化クリズリ相手に苦戦しているだろうに、砲撃を止めるべく兵員を送り込んでくる。

 だが、最早砲撃を止めることはできない。

 

「――戦争なんでな、悪く思わないでくれよ」

 

 教会の正門へと照準を定め、巨砲が火を吹く。

 光が迸る。大気が絶叫を上げる。大地が炎熱に焼け焦がされる。

 極限まで集積され圧搾されたトリオンが、いま力の奔流となって荒れ狂う。

 一直線に突き進んだ閃光は、射線上にあった防壁を飴板のように溶かし、教会の大正門へと直撃する。

 

「おおおぉぉぁぁっ!」

 

 知らずに、ユウェネスは雄叫びを上げていた。

 莫大なトリオンを用いて建造された、エクリシアの象徴たる教会。

 

 正攻法ではおよそ破壊不可能であろう堅牢無類の城壁を、極光が焼け溶かしていく。

 無限の時にも感じられた、一瞬の鬩ぎあい。

 

 最初に音を上げたのは、ユウェネスが作り出した巨砲であった。

 威力を限界まで上げる為、大砲を構築するトリオンを出来る限り抑えたためだろう。規格外の出力の砲撃を行った結果、砲身は見るも無残に融解し、只の一射で用をなさなくなった。

 

 この一撃には戦場から回収したトリオンの殆どを注ぎ込んでいる。ユウェネス個人のトリオン機関では、どうあがいても二射目は不可能だ。

 

 焼け溶けた大砲の横で、ユウェネスが目を眇める。

 空と大地を抉り取った破壊の痕跡は、真一文字に教会へと続いている。

 数多のトリオン兵をガラクタに変えた防御陣地を突っ切り、なおも彼方へ。

 そして聳え立つ教会の大扉には、巨大な風穴が空いていた。

 

 執念によって研がれたノマスの牙が、遂にエクリシアの喉へと突き立てられたのだ。

 

 

 



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其の十 教会攻防戦 それぞれの道

 聖都の北方。教会を頂く丘を下った先には、多くの市民が暮らす住宅地が広がっている。

 フィロドクス騎士団の奮戦により、北部の城壁は未だにノマスの軍勢の侵入を許していない。市民の避難が順調に進んだためだろう。広大な街並みに、人の気配は絶えてなかった。

 

 不気味なほどに静まり返った街路を、小さな人影が息せき切らして駆けている。

 それぞれ髪の色も目鼻立ちも異なる三人の子供は、サロス、アネシス、イダニコたちだ。

 

「後少しです。頑張ってください」

「う、うん!」

 

 そして少年少女たちを先導するように、自律型トリオン兵ヌースが宙を飛んでいる。

 母パイデイアの勧めで教会を抜け出した子供たちは、未だ安全と目される北部地区のシェルターを目指して移動を続けていた。

 

「大丈夫かイダニコ、辛くないか?」

「へ、へいちゃらだよ。お兄ちゃん」

 

 長兄のサロスが、一団から遅れがちの末弟イダニコを気遣う。

 彼らは母より授かったトリガーで肉体をトリオン体に換装しているが、ここに来るまでの道程は、僅か九つの子供には困難極まるものだった。

 

 丘の急峻な斜面を下り、瓦礫と化した貴族街を踏破し、流れ弾やトリオン兵の探索から身を隠す。

 トリガーに付属していたレーダー無効化のマントと、ヌースの的確なナビゲートが無ければ、彼らだけで無事に市街地までたどり着くことは不可能だっただろう。

 

「――! 皆、そこで止まりなさい」

 

 目的地となる建物まであと少しという所で、ヌースが鋭い声を上げた。お目付け役の緊迫した様子に、サロスたちは慌てて建物の影へと身を隠し、息をひそめる。

 

 はたして前方の曲がり角から街路へと躍り出たのは、強襲・偵察型トリオン兵ボースであった。

 この馬型トリオン兵はエクリシアも所持しているが、識別信号はノマスの所属であることを示している。おそらく騎士団の惑乱を狙って放たれた兵だろう。

 

「……見つかりました。迎撃行動に移ります。皆、一塊になって距離を取りなさい」

 

 レーダー対策を施しているにも関わらず、ボースはサロスたちの存在を目ざとく捕捉したようだ。トリオン体の探知以外にも、熱感知や音響センサーなどの機能を搭載しているらしい。

 

 ボースが地を蹴立てて猛スピードで街路を疾駆する。さほど戦闘能力に秀でたトリオン兵ではないものの、それでも一般市民が敵う相手ではない。

 

 しかし、ヌースが居れば話は別だ。

 宙に浮かぶヌースの背後に、漆黒の(ゲート)が開く。

 そこから現れたのは純戦闘用トリオン兵モールモッドだ。パイデイアから分け与えられたトリオンを用いて、彼女は己の手駒となる兵を作り出したのだ。

 

「排除開始」

 

 そして只の汎用型でも、自律型多目的トリオン兵であるヌースが操れば、練達のトリガー使いにも匹敵する戦力となる。

 

 眼前の敵を馬蹄に掛けんとするボースを、モールモッドのブレードが迎え撃つ。

 左右から挟み込む斬撃によって、ボースはあっけなく首を刎ねられ行動を停止した。

 指揮者もいない単独行動のトリオン兵など、ヌースにとってはさほどの脅威ではない。

 

「急ぎましょう。近辺にもまだ敵の反応があります」

 

 しかし、今は出来る限り交戦を避けなければならない。子供たちの安全こそが最優先事項である。

 命を持たぬ器物として造られたヌースだが、今やその魂は家族と共にある。子供たちを安寧と、健やかなる成長こそが彼女の存在する意義だ。

 

 ヌースたちは街路を進み、やがて目的地となるアカデミーへとたどり着いた。

 総トリオン製の広壮な建物は、北部地区の市民たちに教育を施すための学舎である。また有事の際には市民たちが逃げ込むシェルターとしての機能を有しており、現在も避難民たちを受け入れている筈だ。

 

「着いた、着いたよ!」

 

 決死の逃亡が終わりを迎えたことに、アネシスが歓声を上げる。気丈に振る舞ってはいたものの、やはり小さな女の子である。戦場を歩む恐怖は相当なものだったに違いない。

 サロスやイダニコも流石に顔をほころばせ、駈足で学舎へと近寄った。

 

「僕たちも入れてもらえるよね」

「当たり前だろ! 開けなかったら扉を蹴破ってやるさ」

 

 男の子たちは先を争うようにして敷地内へと入り、正門横の端末を操作して内部と通信を図ろうとしている。

 後方の警戒を行っていたヌースは、それ故に反応が遅れた。

 

「二人とも、そこから離れなさい!」

 

 いかなる時も冷静沈着なヌースが、狼狽も明らかに声を上げた。刹那、

 

「――えっ?」

 

 翠緑の輝線が奔り、正門の大扉がバターのように切り裂かれる。

 とその時、イダニコの小さな体からトリオンの黒煙が噴き出した。

 倒れた扉の向こうから、黒い体色をした狼型のトリオン兵が現れる。ヴルフ・ホニンが尾部に備える斬撃鞭で、イダニコを袈裟がけに斬ったのだ。

 

「わ、うわあああぁぁぁっ!」

 

 トリオン体の換装が解けたイダニコは、忽然と現れた死神に悲鳴を上げる。

 血の通わぬ人形兵は悲痛な叫び声など意にも解さず、鋭利な詰めを振りかざして怯える少年へと襲い掛かった。が。

 

「危ねえっ!」

 

 致命の一撃は、寸でのところで空を切った。

 いち早く事態に気付いたサロスが、勇敢にも弟の身体を抱きしめて横っ飛びに跳んだのだ。

 尚も子供たちを殺めようと襲いかかるヴルフだが、その身体は空中でピタリと制止する。ヌースの操るモールモッドのブレードが、ヴルフを刺し貫いたのだ。

 

「イダニコ! サロス!」

 

 ヌースが少年たちの元へと飛んでくる。

 子供たちの安否を確認すると同時に、彼女はモールモッドを操作すると学舎の正門へと突っ込ませ、建物の出入り口を封鎖した。

 シェルターとして設計された学舎は中の様子を探られないようレーダー対策も施されている。その所為で察知が遅れた。

 既にあの建物の内部には、ノマスのトリオン兵が相当数入り込んでいる。

 

「怪我はありませんね。立ちなさい。急ぎこの場所を離れます」

 

 未だ事態が呑み込めておらず、困惑を隠せない子供たちを無理やり叱咤し、ヌースらは学舎から離脱する。

 

 生身となったイダニコはサロスが背負い、解析したヴルフを生成して護衛にする。

 街路を飛翔し、子供たちを導きながら、ヌースは状況について考察する。

 

 敵はおそらく捕獲用トリオン兵ワムを用い、地下からシェルターを襲撃したのだろう。かつてエクリシアがポレミケス相手に行った戦術そのものである。違いといえば、ワムを他のトリオン兵のキャリアーとして用いたことか。

 

 建物の入り口にまで敵兵が居たということは、避難民はほぼ全滅したとみて間違いない。

 危惧すべきは、他のシェルターにまで敵の手が回っているという可能性だ。

 事ここに至っては、もはやシェルターでさえ安全という保障はなくなった。

 

「北の城壁まで向かいます。皆、大変ですがついてきてください」

 

 現在最も戦力が整っているのは、フィロドクス騎士団によって守られている聖都の北門だ。そこで保護を求めるのが確実だろう。

 ヌースはロケータを起動し北門までのルートを探る。途中、彼女たちが半生を過ごしてきた貧民窟がある。トリオン能力に秀でた者のいない貧民窟ならば、敵のトリオン兵の探索も緩いだろう。経由地点として登録する。

 

 敵のトリオン兵といえば、シェルターの襲撃には不可解な点があった。

 如何にして敵は、避難民が集まるシェルターをピンポイントで攻撃できたのだろうか?

 通常のトリオン兵はそこまで複雑な指令をこなせない。いくらノマスの人工知能が優秀とはいえ、それはあくまで戦術規模の行動に限定されるはずだ。

 

 トリオン兵を有機的に活用するには、必ず指示を出す者がいる。

 その点、シェルターはレーダー対策を施されており、事前に情報が抜かれてでもいない限りは、その建物に人が集まっているとは分からないはずだ。

 

 よしんば市民の避難先を特定できたとしても、そこへ大型トリオン兵を隠密裏に移動させると言うのは、かなりの高度なオペレーションを必要とする。

 それを実際に行った、他ならぬヌースが判断するのだから間違いない。

 敵はトリオン兵をここまで細かく動かせるだけの人員を配備しているのだろうか。持ち込める物資に限りのある遠征で、それは考えにくい。

 

 ヌースは瞬時にそこまで思考したあと、それら全ての疑問点を全て棚上げにした。情報が不足している推測に意味はない。

 今はともかく、子供たちの安全に気を配らねば。とその時、

 

「きゃっ、な、何、今の音……」

 

 大気を打ちふるわす凄まじい振動に、アネシスが悲鳴を上げた。

 サロスとイダニコも不安そうに周囲を見渡す。ただ一人、人ならざる感覚器官を持つヌースだけが、衝撃波の発生した地点を正確に観測することができた。

 

 途轍もないトリオンのパルスは、聖都の中心、彼女たちが逃げ出した教会より発せられている。

 そしてトリオンの反応パターンは、ヌースにとっても未知のモノであった。教会に隠し玉でもない限りは、ノマス側が行った行為と判断するしかない。

 彼女たちは知る由もないが、先の衝撃波の正体は、教会の大門を打ち破るべく放たれたノマスによる砲撃であった。

 

「……行きましょう。振り返らないで、走って」

 

 ヌースは飽く迄平静を保ったまま、子供たちに指示を下す。

 懸命に家族を導きながらも、ヌースの論理的な人工知能には、消しがたいノイズが発生していた。

 

(どうか無事でいてください、パイデイア……)

 

 盟友を思う埒のない思考。それは紛れもない彼女の魂の叫びであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 曇天を純白に塗りつぶす極光と、大地をどよもす砲音。

 

 丘の頂で起きた変事を仰ぎ見て、フィリア・イリニは驚愕に言葉を失った。

 ノマスの(ブラック)トリガー使いレクスとの戦闘をアルモニアに預けた少女は、母の籠る教会を救援するために一路教会へと向かっていた。

 

 少女は既に丘の麓の貴族街を抜け、廃墟となった騎士団の砦が立ち並ぶ中腹へと差し掛かっている。

 トリオン体であることを加味しても驚異的な俊足だが、それでも少女の顔には焦燥が色濃く浮かんでいる。

 

 あの光と震動はノマスによる攻撃だ。少女のサイドエフェクトがそう断定する。

 いよいよ教会の防衛が切羽詰まったことを悟ったフィリアは、焦りを叩きつけるかのように強く路面を蹴り、進路を塞ぐ瓦礫の山を飛び越える。

 

 せめて「誓願の鎧(パノプリア)」があれば。少女の脳裏に詮無い思考が過る。

 鎧の機動力があれば既に教会までたどり着いているはずだった。それに鎧の補助を失った今、一介の剣士でしかない自分に不利な戦況を覆せるかどうか。

 今更自分が教会へと馳せ参じたところで、大勢は変わらない。そう理解していても、フィリアの足は止まらなかった。

 

 出来る、出来ないではない。自分がそうすべきだと思っているから動くのだ。

 母を、弟妹たちを護る。家族に幸せな未来を供する。それだけが少女の存在理由である。その理想を成し遂げるために、己の手を血で染め上げると決めた。

 

「――っ!」

 

 とその時、廃墟を疾走していたフィリアが急停止した。

 戦場の騒音に紛れて馬蹄の音が聞こえてくる。それも少女を目指してどんどん近づきつつある。

 少女は胸を焦がす焦燥と煩悶を即座に捨て去り、ただ鋼の心で長剣を構えた。

 教会から迎撃に出てきたか、それとも逆に教会へと向かう増援か。いずれにせよ、敵が向かってくるなら全て斬るのみ。だが――

 

「待ってください。こちらに敵対の意図はありません!」

 

 現れた人物は、フィリアを目の当たりにするなりそう叫んだ。

 

 瓦礫の散乱する街路。辛うじて残った建屋の基礎に、ボースに騎乗した少年の姿があった。

 年の頃は十四、五歳。深雪のように白い髪と、黄金に輝く瞳をした端麗な若者である。

 その褐色の肌から、ノマスの手の者であることに間違いはない。遠征に選ばれるにしてはかなり若いが、教会攻略の任を帯びた部隊の一員なのだろう。

 

 少年の両腕は巨大な籠手を纏ったかのように変形している。ノマスのトリガー「採集者(ブラキオン)」だ。

 フィリアはしなやかな動作で剣を構える。敵はボースに騎乗しているほか、ヴルフを三体連れているだけだ。供回りが不自然に少ないが、周囲にトリオン兵を伏せている気配はない。道中で使い潰したか、追っ手を防ぐために切り離したか。あるいは卵を所持していても、孵しているだけの時間がなかったのだろう。

 

「話をしたいだけなんだ。君は、フィリア・イリニだろう? 僕はドミヌス氏族、レクスの子レグルス。……君の、従兄なんだ」

 

 敵国にて生まれ育った血縁に思う所があるのだろう。少年は緊張に強張った面持ちの中に、悲しみと喜びの色を浮かべている。

 

「こんな状況で言われても困惑してしまうだろうけれど……僕たちは君と、君の母君のことを、ずっと心配していたんだ。だから……」

 

 真摯な口調で語りかけながら、レグルスは目の前の少女が何の返答も寄越さないことに気付く。

 

 改めて眺めれば、フィリアは構えていた剣を下げ、じっと少年の言葉に耳を傾けている。その眼差しに先ほどまでの険しさはなく、どこか和やかな表情へと変化していることに、少年は安堵と期待を抱いた。

 

「僕たちと一緒に来てくれないか? 君に、僕らの故国の事を知ってもらいたい。貴方に会わせたい人がたくさんいるんだ。きっとみんな、とても喜ぶと――」

 

 熱っぽく言葉を続けるレグルス。

 そんな少年の視界から、少女の姿が忽然と消え去った。

 

「――っ!?」

 

 聞こえたのは、微かな風切音のみ。

 フィリアはレグルスの意識が緩んだ隙を逃さず、疾風のような速さで踏み込むと、少年を亡き者とするべく長剣を振るったのだ。

 

 少年がなおも思考を続けることができたのは、その身を挺して彼を庇ったヴルフとボースのお蔭だろう。

 同朋の少女への攻撃を禁じられていたトリオン兵は、指揮者の護衛を最優先に行動した。フィリアの接近に反応したボースが、棹立ちになって迫りくる鋭刃からレグルスを護る。

 切り飛ばされたボースの首が、少年の代わりに宙を舞った。少女の明白な敵対行動に、展開していたヴルフが即座に襲い掛かる。

 しかし、少女は冴えわたる剣技で三方から飛びかかるヴルフを一刀の下に切り捨てた。

 

「く――」

 

 配下のトリオン兵が身を挺して作り出した寸毫の間に、レグルスは精神を切り替えた。

 

 彼も若くして遠征部隊入りした手練れである。少女の敵対の意図を推し量るよりも先に、身体が戦闘態勢を取っていた。

 対手に先手を許してしまったときは、まずは仕切り直しを図らねばならない。

 少年は崩れ落ちるボースの背から飛び跳ね、後方へと大きく身を翻す。だが、

 

「な――!」

 

 宙を飛んだ少年の背中を、壁のような何かが阻んだ。

 

 たとえ会話に気を取られていたとしても、周囲の状況を見誤るほどの素人ではない。少年の背後には、確かに十分な空間があったはずだ。

 しかし、レグルスはある筈のない壁に強かに背面を打ちつけ、体勢を崩して背中から地面に落ちる。

 

 天を仰ぎ見る体制となった少年は、己の機動を阻んだモノの正体を見た。

 空中に翠緑のトリオン障壁が浮かんでいる。エクリシアのシールドトリガー「玻璃の精(ネライダ)」だ。フィリアはレグルスの回避行動を読み切って、彼の行動を阻むために予めシールドを展開したのである。

 

 そして少年がシールドを確認した致命的な隙に、少女は次の行動に移っていた。

 フィリアは尻もちをついたレグルスに突進し馬乗りになると、その胸を目がけて長剣を勢いよく突き下ろした。

 

「ぐ――」

 

 刃の軋る音が響く。

 

 少年は咄嗟に両手を十字に組み、致命傷となる刺突を阻んだ。

 近接格闘にも耐えうる頑強な「採集者(ブラキオン)」だが、受けた刃は上に組んだ左手を貫通し、右手の半ばまで食い込んでいる。

 少女の凄まじい手練の程と、トリオン機関の優秀さをまざまざと見せつけられ、少年は脂汗を流す。

 

「な、なぜ……僕は、君を……」

 

 それでもレグルスの喉からは、嗄れた声が漏れた。

 尚も少年を刺し貫かんと渾身の力を込めて剣を押し込むフィリアに、彼は請い縋るような眼差しを向ける。

 

「君と争うつもりなんてない。ただ僕は、君にノマスを――」

「あなたの弄言に、耳を貸すつもりはない」

 

 鈴を鳴らしたように可愛らしく典雅な、それでいて氷のように冷たい囁きが、レグルスの耳朶に染み込む。

 ようやく口を開いた従妹の少女は、まるで虫を潰すかのように無感情な瞳で少年を見下ろしている。

 

「あなたの身柄を押さえ、教会の部隊に取引を持ちかける。五体満足でいたければ、抵抗は考えないように」

 

 雑務の手順でも説明するかのような、まるで感情を窺わせない声で少女が告げる。

 

 レグルスは今遠征を率いるレクスの子であり、ノマスで権勢を誇るドミヌス氏族の嫡男である。フィリアは少年が貴種であることを理解した上で、彼を人質にしようというのだ。

 勿論、エクリシアを攻め落とすために莫大な資源を費やしたノマスが、高々子供一人の為に攻撃を断念するとは思えない。

 

 だが、彼らが血族に対して異常に甘いのは周知の事実だ。

 部族の大事な跡取りの命ともなれば、敵勢に動揺が生まれるのは確実だ。敵の侵攻を食い止める手としては、覿面な効果を発揮するだろう。

 

 下劣、非道な手段であることなど、もはや考慮する必要も無い。

 少女はこの場所、タイミングでレグルスに巡り合った幸運を、天に感謝したい思いであった。

 

「ぐ、くっ……」

 

 じりじりと腕を裂いて突き進む刃。少年の両腕は刃を凌ぐのに懸命で、反撃に移ることはできない。また全身も完全に抑え込まれており、馬乗りになった少女を跳ね除けることさえ難しい。

 端正な容姿が苦悶に滲む。このまま味方の足を引っ張るならば、潔く自死を選ぶべきか。少年が悲壮な覚悟を固めたその時、

 

「「鷲の爪(オニュクス)」機動」

 

 フィリアが「鉄の鷲(グリパス)」のオプショントリガーを起動した。

 虫の羽音のような甲高い音が響き、ブレードが高速振動を始める。斬撃の威力を大幅に向上させる機能によって、均衡はあっさりと崩れた。

 まるで果実にナイフを突き立てるように、刃がレグルスの「採集者(ブラキオン)」を切り裂いていく。

 易々と両腕を貫通し、胸の供給機関へと迫るフィリアの剣。だが、

 

「――っ!」

 

切っ先が衣服に触れたその刹那、少女は即座に剣を引き抜くと、横っ飛びに跳躍して少年から離れた。

 転瞬、高空から飛翔した物体が少女の居た空間を掠めて通り過ぎる。

鷲の爪(オニュクス)」の駆動音に紛れて聞こえたスラスターの轟音。それは彼女にとっては余りに馴染み深い音であった。

 

「厄介な……」

 

レグルスを庇うかのようにフィリアの眼前に降り立ったのは、「誓願の鎧(パノプリア)」を纏ったエクリシアの騎士であった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 騎士団が誇る騎士の登場は、しかし少女にとって利する事態ではなかった。

 携えた長剣と共に傷だらけとなった「誓願の鎧(パノプリア)」は、葉脈の如き漆黒の輝線に全身をくまなく浸食されている。

 少女は一瞥しただけで状況を察した。ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」についての知識は持ち合わせている。この騎士は件のトリガーによって敵の傀儡にされたのだろう。

 

「――っ、待て!」

 

 騎士の襲撃をフィリアが躱した隙に、レグルスは脱兎のごとく逃走を開始した。少女は声を上げるが、すでに姿を目で追う事すらできない。

 

 少女の攻撃によって少年の両腕は半切断となっている。伝達系はズタズタのはずだ。トリオン体と融合した武装は、手持ち武器のように造りなおす事ができない。如何な手練れといえども、撤退するしかないだろう。

 

 フィリアはレグルスの追跡が不可能と悟ると、それきり彼への執着を捨て去り、眼前の敵へと意識を戻した。

 方々の戦闘に投入されたのだろう。鎧は塵埃に塗れ、いたる所に深い亀裂が走っている。だが、その程度の損傷で鎧が機能に支障をきたすことは無い。それは他ならぬ騎士フィリアだからこそ断言できる。

誓願の鎧(パノプリア)」はノーマルトリガーでは間違いなく最高峰の戦闘力を持つ。同等の条件ならともかく、鎧を失った今の少女では厳しい相手だ。

 

(――来るッ!)

 

 サイドエフェクトの導きに従い、少女は滑るように地を走る。

 穢れた騎士が剣を振りかざして襲い掛かるのは全くの同時だった。

 騎士は猛然とスラスターを噴かせて間合いを詰め、鎧のアシスト機能によって凄まじい加速を加えた斬撃を放つ。

 

 が、その展開を読み切っていたフィリアは、十分な余裕をもって死の一閃を躱した。

 一撃、二撃と繰り出される斬撃を、少女は軽捷な剣技と体術で避け、受け流し、危なげなく捌いていく。

 

 傀儡騎士の繰り出す攻撃は、一見すると隙の見当たらない完璧な剣術に見える。

 しかし、剣の深奥を極めんとする少女からすれば、騎士の動作は教科書通りの型を愚直に繰り返しているに過ぎない。

 傀儡騎士もトリオン兵と同じで、プログラムされた行動ルーチンでしか戦闘を行えないのだろう。付け入る隙があるとすれば、正しく此処だ。

 

 とはいえ、「誓願の鎧(パノプリア)」の出力で振るわれる剣は、それだけで凄まじい脅威となる。

 面打ち、胴薙ぎ、刺突。

 兵隊人形特有の、一瞬たりとも留まる事をしらない苛烈な攻撃を凌ぎながら、フィリアは冷静に反撃の機を窺う。

 

 少女の技量とトリオン出力ならば、堅牢な鎧を切り裂くこともできるだろう。しかし、一撃で行動不能にできなければ手痛い反撃を貰うことになる。相打ちは断じて避けなければならない。

 大上段から振り下ろされる袈裟がけの一刀。

 フィリアは軽やかに旋転して騎士の右側面へと回る。

 剣を振り抜いてしまった騎士は、脇へと位置取った少女に次なる一太刀を繰り出せない。

 打つ手なし。そう思いきや、騎士は背面のスラスターを用い、フィリアに向かって猛烈なタックルを仕掛けた。

 

 圧倒的な質量差と速度で少女を轢殺せんと、砲弾の如き加速で騎士が迫る。

 が、対するフィリアは口辺に笑みさえ浮かべ、泰然自若とこれを迎え撃った。

 

 待ち望んだ好機が訪れた。

 少女は迫りくる傀儡騎士目がけ、自らも疾風のように踏み込む。

 脚を大きく前後に広げ、上体を深く折り曲げ、可能な限り身体を細長く伸ばす。一瞬にして膝丈以下にまで体躯を沈みこませた少女は、軽業じみた動作で騎士の股下をするりと潜り抜けた。そして、

 

「――はっ!」

 

 敵の背後を取ったフィリアは、鋭い呼気と共に長剣を振るう。

 狙いは騎士の背面腰部。手のひらほどの大きさをした長方形のパーツだ。

誓願の鎧(パノプリア)」の一部に巧妙に偽装されたそれは、トリオンバッテリー「恩寵の油(バタリア)」の格納部である。針の穴を通すような精密さで、少女の剣はその急所を切り裂いた。

 

「――――」

 

 圧力に耐えかね、「恩寵の油(バタリア)」がトリオンの黒煙を噴き上げて爆発する。

 駆動に膨大な量のトリオンを必要とする「誓願の鎧(パノプリア)」は、「恩寵の油(バタリア)」なしでは満足に歩くことさえできない。少女は鎧の恐ろしさを誰よりも知るが故に、制し方にも通じていた。

 刹那の交錯の後、傀儡騎士はぴたりと制止し、石像のようにその場に立ち尽くす。

 狙い通り、敵をトリオン切れによる機能停止に追い込んだ。少女が思った次の瞬間、

 

「――っ!?」

 

 凄まじい衝撃がフィリアを襲った。

 なんと行動不能に陥ったはずの傀儡騎士が突如として再起動を果たし、横殴りの剣撃を少女に叩き付けたのである。

 辛うじて受け太刀は間に合ったものの、質量差は如何ともしがたい。

 猛烈な一撃を受けた少女は蹴られたボールのように吹っ飛ぶと、街路を跳ね転びながら廃墟の一角へと突っ込んだ。

 

「く、ぁ」

 

 少女は即座に瓦礫の山から立ち上がる。

 だが思考の焦点が定まらない。全身に浴びた衝撃の所為で平衡感覚が乱れている。頭を緩く振り、呼吸を整えようとするが、少女は無様にえずくばかり。

恩寵の油(バタリア)」は間違いなく破壊した。たとえ着装者からトリオンを搾り取ったところで、機敏な動作などできる筈がない。

 にもかかわらず、傀儡騎士は先にも増した速度と膂力で少女へと襲い掛かったのだ。

 朦朧とした頭に疑念の数々が浮かぶ。しかし、敵を前にしてそれは致命的な隙だった。

 

「がっ――!?」

 

 いつの間にか近づいていた傀儡騎士がフィリアに突撃し、彼女を瓦礫の山へと押し倒した。突然の出来事に虚を突かれた少女は、さしたる抵抗もできずに地面に組み伏せられる。

 そして騎士は両手を少女の細首に掛け、渾身の力で締め上げる。

 騎士の所持していた傷だらけの長剣は、先の一撃で完全に崩壊したらしい。しかしフィリアの剣もまた、衝撃で吹き飛ばされて手元にはない。

 

「ぐ――げっ」

 

 喉から空気が絞り出され、奇妙な音を立てる。

 少女は反射的に騎士の手を振りほどこうとするが、腕力に差がありすぎる。か細い指先は虚しく籠手の表面を掻くのみ。

 

 口の端に泡を浮かべながら、少女は決死の抵抗を続ける。

 トリオン体は酸素を必要としない為、気道を塞がれても窒息することは無いが、凄まじい膂力で締め上げられれば首そのものがへし折れ、断裂しかねない。

 

 身を焼かれるような焦燥の中、懸命に事態の打開策を探る。

 そもそも、トリオン供給が途絶えたにも関わらず、何故敵は未だに行動を続けていられるのか。

 その疑問に、サイドエフェクトが即座に回答を示した。

 

「~~っ!」

 

 フィリアは擦れ始めた瞳で騎士の右脚を見た。鎧の脛の部分に、数センチほどの小さな黒い突起がある。少女は渾身の力を込めて、その漆黒の物体を踵で蹴りつける。

 少女が狙うべきだったのは「恩寵の油(バタリア)」ではなく、この黒い釘の方だったのだ。

 

悪疫の苗(ミアズマ)」によって作り出された釘には、伝達脳とトリオン供給機関が内蔵されている。これの浸食によって、トリオン製の器物は制御権を乗っ取られる。

 騎士が未だに駆動を続けている秘密はここにあった。「恩寵の油(バタリア)」が破壊された時点で、「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘からのトリオン供給に回路が切り替わったのだ。

 

 勿論、いくら(ブラック)トリガーといえども「恩寵の油(バタリア)」程の容量は持ち合わせていないだろう。釘に蓄えられたトリオンが尽きた時点で、騎士は今度こそ動作を止める筈だ。

 だが、その僅かな時間を待たずして、フィリアの首は確実にへし折られることになる。

 

「ぁ……っ!」

 

 ミシミシと、己の首が軋む異音が聞こえる。少女は酸欠の金魚のように口をパクつかせながら、何度も何度も漆黒の釘に踵蹴りを加える。

 釘がへし折れるのが先か、少女の首が千切れるのが先か。

 

 枯れ枝が折れるかのような、軽い破断音が響く。

 幾度とない渾身の蹴り込みにより、到頭「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘が砕け散った。少女の気迫が、傀儡騎士の執念を上回ったのだ。

 

 途端に、首に掛けられていた騎士の手が緩む。

 フィリアはがむしゃらに籠手を振り解くと、圧し掛かっていた鎧を蹴り上げるようにして横に転がした。

 

「か、ひゅ――けほっ……」

 

 辛くも絞殺を免れた少女は、四つん這いになり大きく咽びこむ。

 目じりに涙が浮かぶ。肺が破れんばかりに空気を求める。

 機動者の肉体を基に構築されている以上、トリオン体といえども生理的な反応を免れることはできない。

 

 嘗てないほど間近に迫った死の気配を思い返すと、少女の全身に震えが走る。

 最後の揉み合いで、彼女が勝ったのは只の偶然に過ぎない。あの釘が背中にでも生えていたら、少女は為すすべもなく首を捩じ切られ、殺されていただろう。

 

「行かなきゃ……」

 

 辛うじて命を拾った少女は、よろめきながらも立ち上がった。

 地面に仰臥する鎧を見遣る。そこでようやく、彼女は操られていたのが因縁積るネロミロス・スコトノであることに気付いた。

 

「……」

 

 が、彼女は一瞥をくれただけで、鎧に捕らわれた同朋を助けようともしなかった。

 別段、嫌悪の情に駆られた訳ではない。単純に、彼はもう使い物にならないとサイドエフェクトが告げている。この先何の役にも立たなければ、助けるだけ時間の無駄だ。運がよければ、誰かが通りかかるだろう。

 

「くっ……」

 

 結局、レグルスを人質にすることは叶わなかった。費やしたのは無駄なトリオンと時間だけだ。

 フィリアは焦燥に顔を歪めると、わき目も振らずに教会へと駆けだした。

 

 

 

 



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其の十一 神の御坐にて 虐殺

 神の御家に、赤い雨が降る。

 

 麗しいステンドグラスを打ち振るわせるのは、荘厳な賛歌ではなく魂切る絶叫。

 善良なる神の僕らが憩うはずの大聖堂には、心を持たぬ殺戮機械が跋扈する。

 ノマスの砲撃によって陥落した教会では、侵入したトリオン兵によって、情け容赦ない虐殺が行われていた。

 

 市民たちは迫りくる敵の手から逃れようと、算を乱して逃げ惑う。

 ある者はさらに教会の深部へと逃げ込もうとし、またある者は教会に見切りをつけて外を目指そうとする。

 

 だが、教会へ避難した市民たちの数は余りにも多く、円滑な逃走などできようはずが無かった。そこかしこで将棋倒しが起こり、また市民兵の一部が恐怖に駆られて銃を乱射し、避難民が誤射されるという事態が起きている。

 

 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。

 防衛陣地に詰める筈の衛兵たちは、この危局にも一向に姿を現さない。先の砲撃によって陣形が崩れたところを強化クリズリ率いるトリオン兵に襲撃され、衛兵たちはほぼ全滅の有様となっていた。

 そして、市民の希望である騎士はといえば――

 

「な、なんだあれ……」

 

 市民の口から驚愕の呻きが漏れる。

 

 教会に空いた大穴から入ってきたのは、確かに「誓願の鎧(パノプリア)」を纏った騎士たちだ。だが、純白の鎧には漆黒の輝線が葉脈のように走り、その歩みは人形のようにちぐはぐだ。

 何より市民たちを絶望へと追い込んだのは、護国の戦士であるはずの騎士たちが、なんと敵のトリオン兵と並び立っていることだ。

 

 知識の無い一般人でも、事態の異常性は直ぐに感じ取れた。彼らは最早、市民の守護者ではない。

 長剣や銃を掲げて襲い掛かる騎士に、市民たちが悲鳴を上げて逃げだす。

 

 奮戦虚しく敗北した騎士は、ノマスのブラックトリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」によって敵の傀儡へとなり下がった。

 防衛部隊は壊滅である。教会にまともな戦力はもう残っていない。

 にもかかわらず、ノマスのトリオン兵たちは無害な市民たちを執拗に追いまわし、次々に殺害していく。

 これは(ブラック)トリガーの出現を防止するための処置だ。

 

 原則として、近界(ネイバーフッド)では互いの国の存続が危ぶまれるような絶滅戦争は行われない。

 たとえ一方が明らかに優勢であっても、窮地になれば、敵方にも命を捨てて抵抗する者が現れる。

 そうして造られた(ブラック)トリガーは、仮初の優位など容易くひっくり返すほどの戦力を持つ。

 勝利寸前まで攻め込んだ大国が、敗北の憂き目にあう事など珍しくも無いのだ。

 

 また長期的な観点から見ても、他国に戦略級の兵器が増えることは望ましいことではない。人間やトリオンはどこででも得られるが、(ブラック)トリガーは滅多な事では手に入らない。みすみす敵に利するような真似は、どこの国も行わない。

 これらの事情から、近界(ネイバーフッド)の戦争にはある種の暗黙の了解があり、限定的な規模の紛争になることが多い。

 

 だが今回、ノマスがエクリシアに仕掛けた戦争は、紛うことなき全面戦争であった。

 怨敵の命脈を絶つため、ノマスは敵の中枢を掌握するべく国庫が空になるほどの大軍を繰り出した。エクリシア側に余裕を残してやるように、などという配慮がある筈がない。

 となれば、敵方に(ブラック)トリガーを造らせない手段は只一つ。皆殺しである。

 

 死人は何も生み出さない。

 敵を捕虜に取ることさえ考えず、とにかく出会った者は全て殺す。特に、(ブラック)トリガーを作れそうな優秀なトリオン能力者は逃さない。

 まともな人間なら精神的に耐えがたいような任務でも、人形兵器であるトリオン兵には関係ない。彼らは組み込まれたプログラムに忠実に従い、エクリシアの民を丹念に殺していく。

 それが、教会で行われた虐殺の理由であった。

 

「…………」

 

 酸鼻極まる有様となった大聖堂に、従容と足を踏み入れる二人の人影がある。

 視界を埋め尽くさんばかりに散らばった大量の人間の残骸。そして噎せ返るほどに濃密な血糊と臓物の臭いに、ユウェネスは盛大に顔を顰めた。

 

「時間が惜しいわ。早く取り掛かって頂戴」

 

 一方、モナカは凄惨な光景に眉一つ動かさず――むしろどこか昂揚した面持ちで――死体の山を踏み分けて進んでいく。

 トリオン兵による徹底的な蹂躙によって、聖堂内には彼ら以外の生存者の姿はない。

 避難民たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったし、生き残ったであろう衛兵たちも、教会の地下区画へと撤退したようだ。戦列を立て直し、地形戦で敵を迎え撃つつもりに違いない。

 

「……」

「今更、気が乗らないなんて言わないわよね」

 

 死体の山に触れぬよう歩度を緩めて歩く青年に、モナカが鋭い声で叱責する。

 

「……分かってるよ。どっちみち、此処で死ぬか後で死ぬかの差しかないんだ」

 

 ユウェネスは吐き捨てるようにそう言うと、聖堂の中央へと急ぐ。

 

 ノマスの作戦目標は、エクリシアの(マザー)トリガーの奪取ないし破壊である。

 首尾よく(マザー)トリガーを抑えられれば、星の命を人質にしてエクリシアを属国化し、長期的なスパンで国力を削いでいく。

 奪取が不可能となった場合は、とにかく(マザー)トリガーを破壊し、エクリシアという国そのものを完膚なきまでに破壊するという計画だ。

 

 星の命脈が絶たれれば、その上で暮らす人々も息絶えるしかない。

 近界(ネイバーフッド)でも有数の人口を抱えるエクリシアの民の全てが、他の惑星国家に移住するなど不可能だ。

 また、たとえ占領が上手くいったとしても、ノマスはエクリシアの反抗の芽を摘むため、国土を矮小化するつもりでいる。

 

 どちらの未来に進んでも、エクリシアは膨大な数の死者を出すだろう。

 つまり、ユウェネスはこの作戦が成功裏に終わったその瞬間、史上類を見ない大量殺人者として歴史に名を刻むことになるのだ。

 

「……憐れんでやる必要なんてどこにもないわ。こいつらは生かしておく価値もない連中よ。この国が私たちに何をしたか、忘れた訳じゃないでしょう?」

 

 エクリシアにただ事ならぬ怨念を抱いているモナカでも、ユウェネスの任務の過酷さには同情せざるを得ない。

 祖国では燦々たる英雄として扱われるだろうが、この気優しい青年にとっては、そんな名声など何の慰めにもならないことだろう。

 

「この選択は私たちの、いいえ、ノマスの民の総意よ。決してあなただけが、責任を負う訳じゃない」

 

 ユウェネスの重荷を少しでも分かち合おうと、モナカは先を行く青年の背中に語りかける。

 だが、彼は力なく頭を振ると、

 

「なんか、行きつくとこまで行っちゃたんだよな、ノマスとエクリシアって。どっちから始めたのかも分かんねえほど昔から殺し合いしてさ。――んで、もうお互い我慢できなくなっちまったんだな」

 

 と、諦念を滲ませた言葉を吐く。

 

「ユウェネス、あなた……」

 

 悄然とした青年に、駆ける言葉が見つからないモナカ。だが、

 

「まあ、どっちか選ぶってんなら、自分()取るさ。……大丈夫。やれるよ」

 

 ユウェネスはそう言って、寂しげな笑みを見せる。

 

 そうして彼は、死体が小山を成す大聖堂の中央へと陣取った。

 その場にしゃがみ、辛うじて見えている床面に両手を付ける。そして暫し瞑目の後――

 教会を構築するトリオンの流れを掌握した青年は、目的地までの最短経路を探り出した。

 

 ユウェネスの両手が輝くと同時に、大聖堂の床面が砂のような粒子へと変化した。否、大聖堂だけではない。教会の最深部まで続く数十もの階層を構築するトリオンが、一斉に砂と化したのだ。

 

 まるで砂時計を反したかのように、砂になった床が奈落へと滑り落ちていく。

 その上に乗せていた信徒席や祭壇、はたまた神の僕たちの遺体が、音も立てずに何処までも続く立坑の中に消えていく。

 見る間に、青年が蹲る地点とそこに繋がる床の一角を残して、大聖堂には真円状の巨大な穴が穿たれていた。

 

「ここまで、だな。ちょっと距離が有りすぎて、流石に(マザー)トリガーまでは一発で開けられねえや。もう少し下まで降りねえと」

 

 一仕事終えたユウェネスがそう言って立ち上がり、大深度地下へと続く直通経路を見遣る。

 

 敵の防衛部隊がどんな防備を整えていようと、これで全部ご破算だ。面倒な隔壁や罠はほとんど全て解除した。教会に立てこもる兵力で、強化トリオン兵を防ぎきることはまず不可能だろう。

 

 佇むユウェネスを尻目に、強化クリズリや傀儡騎士が次々に縦抗へと飛び降りていく。

 まずはトリオン兵によって地下階を偵察。そして制圧の後に、ユウェネス、モナカが続く手筈だ。

 護衛用のクリズリを二体だけ残し、粗方のトリオン兵が降下を終える。

 ――その瞬間を、息を殺して待ち続ける者がいた。

 

 大聖堂の静寂を打ち破るけたたましい発砲音。

 突如として放たれたトリオン弾の雨が、屹立するユウェネスへと浴びせかけられる。

 

「な……!」

 

 残敵はいないと思い込んでいた青年にとって、その攻撃は完全な奇襲となった。

 身を屈めることもできぬまま、弾丸が右ひじと右腿の付け根に撃ち込まれる。その瞬間、異変は起きた。

 

「――っ!」

 

 トリオン体にめり込んだ弾丸が、膨大なトリオンを撒き散らして爆発したのだ。

 余りの威力に、ユウェネスの右腕は肩ごと吹き飛び、胴体部は臍から下が完全に失われる。

 壁や柱に当たった流れ弾も、ただのトリオン弾とは思えぬ規模の破壊をもたらしている。

 

 炸裂弾でも用いられたかと思いきや、実はそうではない。ただ、異常な出力のトリオンで撃たれただけなのだ。

 大聖堂の片隅にうず高く積まれた死体の山。人々の亡骸の下から、漆黒の銃口が覗いている。

 小銃トリガーを抱えたパイデイア・イリニが、同朋の血に塗れてそこに居た。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――ユウェネスっ!」

 

 思いもよらない襲撃に、モナカが悲鳴を上げる。

 強烈な弾丸をまともに喰らった青年は、まるで木の葉のように吹き飛んで足場から転落する。

 が、強化クリズリが凄まじい反応速度で飛翔し、奈落に落ちんとする青年を救い出した。

 

「っ、仕留めなさい!」

 

 モナカの下知を待つまでも無く、銃撃の方角に向けてもう一体のクリズリが突進する。

 死体の山から現れた金髪の女は灰色のマントを羽織っている。レーダーを無効化するトリガーだろう。あれを用いて、女は不意打ちの機会を窺っていたに違いない。

 

 女はクリズリの襲来に気付くと、小銃を乱射しながら側廊へと走り出した。どうやら奥の通路へと逃げ込むつもりらしい。

 猛追するクリズリだが、流石に飛来するトリオン弾を無視することはできず、回避行動に動作を切り替える。いくら頑強な装甲を有するとはいえ、あの超絶威力の弾丸をまともに受けては一溜まりもない。

 

 その隙に、金髪の女――パイデイアは大聖堂の隅にある非常扉の前までたどり着いた。

 鐘楼から狙撃を行っていた彼女はしかし、殺到するクリズリの猛攻に耐えかね教会内部へと避難した。

 凄まじい轟音と共に、教会の正門が消し飛んだのは直後の事だ。

 彼女はオーバーパワーの狙撃銃から小銃へとトリガーを換装し、内部に侵入したトリオン兵を相手に抵抗を続けた。

 

 だが、所詮はトリオン機関に恵まれただけの素人に過ぎないパイデイアに、悪鬼のようなトリオン兵たちを止めることなど不可能だった。

 殺害される市民たちに混じって右往左往する最中、彼女の脳裏に一つの策略が閃いた。

 幾ら優秀とはいえ、トリオン兵のみで母(マザー)トリガーを攻略することはできない。戦闘が一段落すれば、敵の主力トリガー使いが現れるだろう。

 その人物を撃破すれば、敵の作戦目標を挫けるかもしれない。

 

 民草の亡骸に身を隠し、敵の隙を襲うという非道にも、パイデイアは頓着しなかった。

 ここで彼らを撃退できなければ、エクリシアの未来が、子供たちの将来が潰えてしまう。それは子を持つ親として、断じて受け入れられることではなかった。

 

(――やった、当たった、これで……)

 

 パイデイアは息せき切らせて、非常扉に手を掛ける。

 困難な狙撃ではあったが、弾丸は確かに黒髪の青年を捉えた。

 胸や頭といった重要部位には命中しなかったが、それでも胴体の三分の一を吹き飛ばすことには成功した。トリオン漏出によって、間違いなく戦闘不能に追い込んだはずだ。

 

 彼らの交わしていた会話を盗み聞き、そして床面を砂へと変える能力を目の当たりにすれば、あの青年がノマスの切り札であることは明白だ。

 これで敵は撤退せざるを得ない。あとは彼女自身が逃げ延びるだけだ。だが、

 

「――そ、そんな!?」

 

 非常扉を勢いよく開いたパイデイアの表情が、驚愕に染まる。

 扉の先には、ただ真っ白な壁が聳えているだけだった。

 避難路に続く道が完全に塞がれている。それも即席でバリケードを組んだ訳でもなく、扉が付いていたことが設計上の誤りであったかのように、非常扉が忽然と消え去ってしまったのだ。

 

「――っ!」

 

 勢い余って拳を叩きつけるパイデイア。しかし、壁はビクともしない。

 咄嗟に彼女は小銃を向け、引き金を引き絞った。

 閃光が間近で弾け、穴だらけになった壁面が残される。その弾痕の後には、確かに先へと続く通路が見て取れた。しかし、

 

「な、どうして……」

 

 彼女の眼前で、壁に空いた風穴が見る間に塞がっていく。

 パイデイアは咄嗟に背後を振り返り、怪現象の理由を知った。

 

 視線の先、聖堂の入り口側の床に、半身を失ったユウェネスの姿がある。彼は残った左手を床に付き、彼女へと鋭い視線を送っていた。

 青年の持つ「万化の水(デュナミス)」の能力は知らずとも、教会の床を消失させた場面ははっきりと目にしている。

 彼が何らかのトリガーを用いて教会の構造を変化させ、彼女の逃走を阻んだのだ。

 

「くっ――」

 

 パイデイアは焦燥に奥歯を噛みしめる。

 俄かに信じがたいことだが、あの青年は未だにトリオン体を保っている。

 

 彼女は知り得ぬことだが、あらゆるトリオンの操作を可能とする「万化の水(デュナミス)」は、当然ながら起動者のトリオン体をも自在に操ることができる。

 ユウェネスは射撃を受けた瞬間にトリオン体を操作し、欠損部分を塞ぐことでトリオンの漏出を最小限に抑えたのだ。

 

 伝達脳と供給機関さえ無事ならば、手足がいくらもげようとも行動は可能である。

 そして「万化の水(デュナミス)」の能力を以てすれば、トリオン体の修復さえ容易い。

 青年の身体が緑色の燐光を放つ。教会の壁からトリオンを収奪し、見る間に何の瑕疵もない五体を取り戻していく。

 パイデイアは決死の攻撃がまったくの無駄に終わったことを悟る。それでも、絶望に打ちひしがれている暇はない。

 

「……っ!」

 

 注意をそらした数秒の間に、先ほど追い払った強化クリズリが間近まで迫っていた。

 咄嗟に小銃を向ける。動目標とはいえ、敵は三メートル余りの大きさをしている。これだけ大きな的なら、外す心配はない。

 

 銃口を察知したクリズリが、巨体をピクリと反応させる。回避行動に移るか、それともシールドを張るか。どちらにせよ毎秒数十発、しかも超常の威力で放たれる弾丸の嵐を、この距離で防ぐことなどできない。

 パイデイアは必殺の意思を秘めて引き金を絞る。しかしその時、

 

「――きゃあっ!」

 

 聖堂内に突如として凄まじい突風が巻き起こった。ジェット噴射もかくやという殺人的な気流は、パイデイアの身体をまるで木の葉のように吹き飛ばす。

 彼女は小銃を取り落とし、荒れ果てた床面を跳ね転がると、教会の壁へと強かに身体を打ちつける。

 ――と同時に、彼女の体を弾丸の雨が引き裂いた。

 

「な…………」

 

 爆風と共にトリオン体が四散し、生身となったパイデイアが地面に投げ出された。

 我が身を襲った出来事に咄嗟の理解が及ばず、彼女は瞬時我を忘れてしまう。

 そんな彼女の前に、クリズリが悠然と歩を進める。

 

 パイデイアを襲った一連の攻撃は、すべてクリズリが行ったものだ。

 二対ある腕の内、下に生える短腕。

 五指を揃えた太い腕は、相手の攻撃を防ぐ盾となるほか、掌からトリオン弾を発射する砲門にもなる。そしてまた、掌から圧縮されたトリオンを噴出することで、強力な衝撃波を放つ機能を有していた。

 

 トリオンを用いて起こした衝撃波とはいえ、結局はただの気流である。いかに高性能なシールドでも、ただの空気塊を完全に防ぐことはできない。敵の体勢を不意打ちで崩せるという、近接格闘に於いて非常に高い効果を発揮する武装である。

 

 衝撃波をまともに浴びたパイデイアは、続く射撃によってトリオン体を失ってしまった。

 彼女は迫りくるトリオン兵から逃れようと、尻もちをついた姿勢まま後退るが、到底逃げおおせるものではない。

 

 得物の息の根を確実に止めんと、クリズリが鋭利なブレードを備えた長腕が振りかざす。

 まさに万事休す。数秒の後に訪れる死を前にして、パイデイアの脳裏に浮かんだのは、やはり愛する家族の姿であった。

 

「~~っ!」

 

 彼女は恐怖に硬く身を強張らせる。しかし死の刃は一向に振り下ろされない。

 みれば、眼前に立つ人形兵士は蜥蜴のような頭部を真横に向け、聖堂に空いた大穴を凝視しているではないか。

 

 そこでようやくパイデイアも異変に気付いた。

 早鐘のような心臓の鼓動に紛れて、怪鳥の鳴き声のような甲高い異音が聞こえる。

 猛烈な勢いで大きくなるその音は、「誓願の鎧(パノプリア)」のスラスターの駆動音に似ている。しかし、耳をつんざく轟音、空気を震わす振動は騎士の纏う鎧の比ではない。

 神の御家を揺るがす轟音と共に、奈落へと続く立坑からソレは現れた。

 

 

 



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其の十二 神の御坐にて 軍神降臨

「聞いてねえぞ、おい……」

 

 トリオン体の損傷部を何とか修復したユウェネスは、地下から飛び出してきたソレを目の当たりにするなり、絶望の呻き声を漏らした。

 

 立坑から現れたのは、古代の戦神を思わせるような巨大な人型である。

 身の丈二十メートルに届こうかという巨人は、無骨でありながらも生物的な優美さを感じさせる全身鎧を纏っている。

 エクリシアが誇る騎士甲冑「誓願の鎧(パノプリア)」をそのままスケールアップしたようなそれは、彼の国が秘めおきし決戦兵器「恐怖の軛(フォボス)」だ。

 

 背面のスラスターを轟然と噴かして空中に浮かび上がる巨神に、ユウェネスの頬を冷や汗が流れる。

 優秀な技術者である青年は、巨神が内蔵するトリオン量の膨大さを瞬時に察した。

 巨大とはいえ、たかだか捕獲型トリオン兵のサイズでしかない機動兵器の一つ。しかし、構築に用いられたトリオン量はこの教会の建物をも上回るだろう。

 (マザー)トリガーの座する教会の地下から現れたことからも、巨神がエクリシアの有する最大の切り札であることは間違いない。

 

 どれ程低く見積もっても、戦力は(ブラック)トリガー級だろう。

 

「っ、掛かりなさいクリズリ!」

「おい待て駄目だ!」

 

 突如として出現した新手に、モナカが配下のトリオン兵に迎撃を命じる。ユウェネスが止める間もなく、二体の強化クリズリが巨神へと襲い掛かる。だが、

 

「――やばい!」

 

 巨神の両肩に幾つもの光点が浮かび上がる。背筋を走る悪寒に従った青年は、咄嗟にモナカへと飛びかかって彼女を押し倒すと、「万化の水(デュナミス)」を用いて分厚い防壁を作り出した。

 

 刹那、巨神から放たれるトリオン弾の嵐。

 弾丸は得物に追いすがる毒蛇のように空間を屈折し、幾重にも重なった軌跡は光の文目を織りなす。

 そして弾頭は猟犬の如く貪欲に、敵対者のトリオン反応を追尾する。

 

恐怖の軛(フォボス)」に挑みかかったクリズリが、最初の生贄となった。

 トリオン兵の腹部を貫いた弾丸が一瞬の後に胴体部を完全に消し飛ばす。「悪疫の苗(ミアズマ)」によって強化された装甲が、紙ほどの役にも立たない。

 瞬く間にスクラップになったクリズリが、教会の床に残骸を撒き散らした。

 そしてユウェネスらトリガー使いは――

 

「くそっ!」

 

 巨神の放った弾丸が、度外れた威力で青年の拵えたバリケードを一瞬で融解させる。

 辛うじて追尾を逸らす程度の効果はあったのか、地に伏せたユウェネスらは何とか弾丸の直撃を避けることができた。

 

「もう無理だ。逃げるぞ!」

「なっ――何を言ってるの、やっとここまで来たのよ!?」

 

 腕を取ってモナカを立ち上がらせながら、ユウェネスがそう叫ぶ。

 しかし彼女は承服しない。当然だ。数多の犠牲と資源を払って、ようやく怨敵の喉元まで迫ることができたのである。ここで退くなど、死んでもできることではない。だが、

 

「下降した兵も全滅してる! このままじゃただの無駄死にだぞ!」

 

 尚も青年はそう言って同僚を説得する。

 パイデイアの奇襲を受けたために戦況を確認するのが遅れた。少し目を離した隙に、地下階を制圧する為に送り込んだトリオン兵、並びに傀儡騎士たちの反応が途絶えている。

 巨神に殲滅されたに違いない。教会攻略に持ち込んだ兵力は、これで完全に潰えてしまった。どう足掻いたところで、目標達成の見込みはない。

 

「――やべぇ!」

 

 議論を交わしている間に、巨神が再び動き出した。

恐怖の軛(フォボス)」は右手にトリオンを集中させ、巨大なブレードを作り出す。

 巨体からは想像もつかない疾風の横薙ぎに、ユウェネスは大急ぎでバリケードを再構築する。トリオン差は歴然であり、盾としての役割は望むべくもない。直撃を避けるための目くらましだ。だが、

 

「痛ぁ!」

 

恐怖の軛(フォボス)」の振るうブレードが、突如として刃を根元から数十本に分裂させた。

 扇状に広がった刃の輝線がバリケードを寸断し、青年らの立つ床面を薙ぎ払う。射撃を凌いだ敵を確実に葬るべく、巨神は面での爆撃を選択したのである。

 

 思いもよらぬ攻撃に、流石の精兵たちも反応する事ができなかった。

 モナカは右腕を切り飛ばされ、胸部にブレードの直撃を受けたユウェネスは、トリオン体を完全に崩壊させる。

 

「っ――わかったわ、撤退よ!」

 

 今度ばかりは、モナカも継戦を主張しなかった。「万化の水(デュナミス)」の使用が不可能になった時点で、どの道作戦遂行は不可能だ。

 

 二人は踵を返すと一目散に大聖堂の外を目指した。生身のユウェネスがやや遅れるが、肌身に迫った危機感からか、それでもかなりの速度で走る。

 巨神が無慈悲なる追撃を放ったのは、次の瞬間であった。

 

「がっ――」

 

恐怖の軛(フォボス)」の両肩から放たれた死の閃光を、無様に転びながらも何とか躱す二人。しかし、流れ弾によって吹き飛んだ教会の瓦礫が、青年の右脚へと直撃する。

 

「――ユウェネス!」

 

 たまらず転倒した青年に、モナカが悲鳴を上げて駆け寄る。

 凄まじい速度で飛来した鋭利な建材は、なんと青年の右脚を膝下から切断していた。

 止めどなく溢れ出る鮮血が、荒れ果てた床面に広がっていく。

 

「ぁ……っ……」

「しっかりして、気を保ちなさいユウェネス!」

 

 衝突の衝撃と出血性ショックで、既にユウェネスの意識は定かではない。モナカは逃走も忘れると、必死に青年へと声を掛けながら、ともかく傷口の緊縛に掛かる。

 だが、そんな尊い行為が許されるほどの慈悲は、戦場には残されていない。

 

 モナカの背後で、巨神が再び巨大なブレードを掲げる。彼女のトリオン体が健在な以上、見逃すという選択肢はない。生身の青年を巻き込んでしまうことなど、彼らが為した暴虐に比べれば、如何ほどの罪科でもないだろう。

 淡緑色に輝く巨剣が振り下ろされる。とその時、

 

「お待ちください猊下!」

 

 凛然たる声が、血と破壊に埋め尽くされた大聖堂に響いた。

 巨神がその手を止める。モナカが驚愕に振り返る。

 果たしてそこに居たのは、金髪の貴婦人パイデイア・イリニであった。

 

「どうぞ彼らに投降の機会を!」

 

 瀟洒な衣服は無残に汚れ、美貌は戦塵を浴びても尚、その身に纏った気品には些かの陰りも無い。

 大貴族イリニ家の息女に相応しい堂々たる佇まいに、巨神の動作がピタリと止まる。

 彼女は家柄故に「恐怖の軛(フォボス)」の存在と、その操縦者について知識があった。

 

 エクリシアの守護神たる空前絶後の超兵器を扱えるのは、教皇アヴリオ・エルピスただ一人。

 この国の最高権力者を前にして怯むことなく意見を述べるパイデイアに、巨神が僅かに首肯して応える。

 それを許可と取ったパイデイアは、成り行きを見守っているモナカに向け、

 

「換装を解いて投降なさい。そうすれば、すぐにでもその男性を治療いたします」

 

 と、真摯な声で語りかける。

 

「っ…………」

 

 モナカは唇を噛みしめ逡巡する。

 残された左腕と口を用いて何とかユウェネスに止血を施したが、傷は余りにも深い。直ぐにでも本格的な治療を受けさせねば命に係わる。

 

 エクリシアへの憎悪のみに突き動かされてきたモナカの胸中で、天秤が揺れ動く。

 生意気な弟分との思い出が、走馬灯のように脳裏を駆ける。

 手勢は全て使い潰してしまった。彼女の能力では、負傷者を抱えてこの場を切り抜けることは不可能だろう。このまま犬死するぐらいなら、いっそ投降することも……

 弱気に駆られた思考を遮ったのは、衣服を掻いた指先だ。

 

「モ……ナ、カ」

 

 意識を取り戻したユウェネスが、弱々しく彼女の左手を触る。とその時、硬質な感触が指先に触れた。

 視線を落としてみれば、彼女の掌には漆黒の指輪が握らされている。

 ノマスの国宝「万化の水(デュナミス)」だ。青年は何時の間にか己の指から(ブラック)トリガーを外し、モナカへと託していたのだ。

 そして、彼は茫洋と焦点を結ばぬ瞳で彼女を見遣る。

 

 言葉は無くとも、過たず理解できる。ユウェネスははっきりと「逃げろ」と告げていた。

 考えれば当たり前の事である。

 ここでモナカとユウェネスが捕虜になるということは、すなわち国宝を含めたノマスの(ブラック)トリガーが二つもエクリシアの手にわたると言う事だ。

 

 近界(ネイバーフッド)に於いては(ブラック)トリガーこそが国力の証だ。ここで二人が敵の手に落ちることは、ノマスの基を危うくすることに繋がる。

 また、エクリシアが(ブラック)トリガーを手に入れれば、いよいよ彼の国は驚異的な戦力を有することになる。ノマスにとって看過できることではない。

 

 故に、この場で彼女たちが取り得る選択肢は只一つ。

 何を犠牲にしても、二本の(ブラック)トリガーを本国へと送り返さねばならない。

 命に係わる重傷を負いながらも、ユウェネスは冷徹にその事実を受け入れた。だからこそ、信頼する朋友に己のトリガーを託したのだ。

 

「~~っ」

 

 モナカの顔が悲痛に染まる。

 確かに、青年の選択は理にかなっている。だが、いくら理屈として正しくとも、感情として受け入れられるかどうか。

 迷い悩む一秒が、ノマスの未来を、青年の命を遠ざけていく。とその時、

 

「モナカ……あなた、モナカというの?」

 

 困惑する彼女に話しかけたのは、降伏を持ちかけたパイデイアだ。

 金髪の貴婦人は呆気にとられたようにモナカを見詰め、そして絞り出すように言葉を続ける。

 

「レギナの親友の、モナカさん? べそかきの……」

「っ――」

 

 思いもよらない名前を耳にして、モナカの思考が一瞬停止する。何故、このエクリシア人の口から、彼女の最も大切な人の名が出て来るのか。

 

「あの子が何度も言ってた。モナカは私の家族だって、自慢の妹なんだって……」

「な、なにを……」

 

 冷静に考えれば、モナカとて目の前の人物がレギナを攫った貴族の縁者であることに、容易く察しはついただろう。

 しかし、彼女に語りかけるパイデイアのその表情。

 惨禍を招いたモナカに対する激しい憤りと、人命を尊重しようという固い決意。その決然とした眼差しの中に、確かに宿る信頼の情。

 

「……レギナを、知っているの?」

 

 呆然とするモナカの口から、疑問が零れる。

 パイデイアははっきりと首肯し、その質問に答えた。

 彼女の表情からは険しさが消え、代わりに哀しみと喜びが入り混じったような、形容しがたい面持ちを浮かべている。

 

「約束します――投降に応じてくれるなら、私は力を尽くしてあなたたちを護ります」

 

 金髪の貴婦人は荘重なる態度で、ノマスの戦士らにそう告げる。

 

「…………」

 

 モナカは視線を落とし、再び意識を失ったユウェネスの顔を眺める。

 レギナを喪失した時に味わった、我が身を切り裂かれるかのような痛み。千々に乱れていた胸中が、次第に落ち着きを取り戻していく。そして、

 

「……私は」

 

 心を決めたモナカが、ゆっくりと口を開く。そうして言葉を述べようとしたその時、

 

「――――っ!」

 

 突如として響いた馬蹄の音が、居並ぶ面々の意識を引きつけた。

 見れば、今は跡形もなく消え去った教会の大扉から、五体余りのボースが聖堂内へと飛び込んでくる。

 

「なっ……敵!?」

 

 パイデイアが声を上げる。生身となった彼女にトリオン兵の所属を確認することはできないが、背後に聳え立つ「恐怖の軛(フォボス)」はいち早く迎撃態勢をとった。ノマスの手勢と考えて間違いないだろう。

 

「くっ……」

 

 脚力を生かして瞬く間に距離を詰めるボースたち。然して戦闘力に秀でた兵種ではないが、それでも非武装の人間が勝てる相手ではない。一瞬の後に、ボースはパイデイアを容易く轢き潰すだろう。

 もちろん、傍らに「恐怖の軛(フォボス)」が居なければの話だが。

 目も眩むようなトリオンの閃光が聖堂内を奔り、迫りくるボースを次々と打ち据える。

 巨神から放たれた弾丸は、一瞬でトリオン兵の群れを葬り去った。が、

 

「っ――煙幕?」

 

 機能停止したボースが次々と爆発し、トリオンの黒煙を辺り一面に撒き散らす。

 途端に、聖堂内は一切の視界が効かぬほどの煙に覆われた。通常のトリオン兵は破壊されても爆発することはない。これは意図的な自爆だろう。

 そして、この状況で目晦ましを行う意図は――

 

「モナカさん! ユウェネスさん!」

 

 切羽詰まった声が教会に響く。未だ幼さを残した少年の声は、明らかに第三者のものだ。

 

「――待って!」

 

 パイデイアは反射的にモナカらが居た方向へ向き直る。纏わりつくような黒煙は一向に晴れず、彼女らの姿はまるで見えない。

 

「あなたに伝えたいことがあるの! レギナの事を、あの子がどうやって生きたのかを!」

 

 喉も裂けんばかりに叫ぶパイデイア。

 しかし、黒煙の向こうからは何の言葉も返ってこない。そして、

 

「――っ!」

 

 黒煙を切り裂くように、「恐怖の軛(フォボス)」の巨剣が振り下ろされた。

 轟音と共に教会の一角が吹き飛び、壁面を完全に消失させる。

 ついで巨神は背面のスラスターを噴かし、豪風を用いて黒煙を強制的に排出する。

 ものの数秒で、教会に立ち込めていた煙幕はきれいさっぱり消え去った。後に残るのは、先にも増して荒廃した神の御家の有様のみ。

 

 けれど、そこにはノマスの戦士たちの姿は残されていなかった。生身であったユウェネスは吹き飛んでいてもおかしくないが、トリオン体を維持していたモナカはまだ存命のはずである。煙幕に紛れて逃走したに違いない。

 

「…………」

 

 悄然と肩を落とすパイデイア。そんな彼女の横で、巨神が地響きを立てて歩き出す。教会の脅威は一先ず過ぎ去った。外へと打って出て、残敵を掃討するつもりなのだろう。

 

「――」

 

 とその時、振り返った巨神がパイデイアに視線を呉れる。その意図を解した彼女は、力なく頷いて答えた。

 投降を拒否した以上、彼らは殲滅するよりほかにない。

 巨神の中にいるアヴリオは、態々そのことでパイデイアに確認を取ったのだ。

 

「御武運を……」

 

 パイデイアの呟きに見送られ、屋外へ出た「恐怖の軛(フォボス)」が天空へと飛翔する。

 あの巨神こそ、エクリシアが有する最高最大の戦力だ。

 城塞をも上回る防御力。万軍を消し去る攻撃力。そして、教皇の有する(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」によって、()()()()()()()()()()()()

 

 あの規格外の超兵器を打ち破ることは、何人たりとも出来はすまい。

 巨神が地下の頸木より離れ、天空に舞ったこの時、戦の趨勢は決したのだ。

 

「ふう……」

 

 あり得ないほどの僥倖に恵まれ、何とか死線を潜り抜けたパイデイアは、そっと疲労の息を吐く。

 しかし彼女はその場で休むでもなく、毅然とした様子で聖堂を歩き出した。

 

 まだ、愛する子供たちの安全が確保できていない。戦争は続いているのだ。

 我が身などどうでもいい。ただ子供たちの事だけが気がかりだ。

 

 ヌースに預けたサロスたちは、無事にシェルターへと着いただろうか。教会が安全になった以上、今からでもここに移らせた方がいいだろうか。それにはともかく、通信機を借りてヌースと連絡を取らなければならない。

 

 そして、この地獄の釜のような戦場と化した聖都で、フィリアは、あの子は無事でいてくれているのだろうか。

 少女が騎士として如何に腕利きか知っていても、それで母の心配が晴れることは無い。

 アルモニアはパイデイアと同じか、それ以上の思いでフィリアを護ろうとするだろう。しかし、戦場に於いて確たることなど何もありはしない。

 

 あの子に何とか連絡を取りたい。もう一度、声が聞きたい。

 己が生身であることなど気にも留めない。まずは地下階を目指し、防衛部隊に戦況を伝えなければ。

 逸る気持ちを抑えきれず、小走りで聖堂を横切るパイデイア。

 

 ――そんな彼女の背中を、突如として何者かが突き飛ばした。

 

「……えっ?」

 

 我が身を襲った衝撃に、パイデイアが首を捻って背後を見遣る。

 彼女の視線の先には、床に転がるトリオン兵クリズリの残骸があった。

 奇妙なのは、巨神の射撃を浴びて上半身だけとなったトリオン兵が、なぜかパイデイアの方を向いていることだ。瓦礫となったクリズリの腕が、なぜ宙へと伸びているのだろうか。

 

 彼女は知る由もなかった。ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」によって強化されたトリオン兵が、その身にもう一つの伝達脳と供給機関を持つことを。通常では行動不能になるほど損壊しても尚、しばらくは破壊と死を振り撒くことを。

 

「あっ……」

 

 背中に感じた衝撃が、やがて腹の中で巨大な熱の塊に変化する。

 視線を正面に戻し、ようやくパイデイアは違和の正体に気付いた。

 

 赤黒く染まる滑らかな切っ先が、彼女の腹から宙へと伸びている。

 トリオン兵のブレードが、背中からパイデイアを刺し貫いていた。

 

 

 



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其の十三 神の御坐にて 別離

 立ち込める戦塵を吹き飛ばし、白亜のトリオン馬が荒れ果てた戦場を疾駆する。

 背には三人の男女を乗せながらも、ボースはまるで重量を気にすることなく、力強い脚力で地面を蹴り進む。

 

「ユウェネスさんの様態は? 大丈夫なんですかっ!?」

 

 騎乗する面々の内、手綱を取る年少のレグルスが背後に向けてそう叫んだ。

 

「意識が戻らない! 脈拍もだいぶ弱くなってきてるわ!」

 

 トリオン兵ボースの後方に座るモナカは、右脚を失った青年ユウェネスを抱えながら、悲痛な声を上げる。

 

 ドミヌス氏族が率いる強襲部隊はエクリシア攻略を断念し、今まさに決死の撤退を行っている最中であった。

 教会にて絶体絶命の危機に瀕していたモナカ、ユウェネスを救い出したのは、遅ればせながら参戦したレグルスである。

 

 彼は道中でエクリシアの騎士と交戦し、トリオン体を手ひどく損壊させていたが、それでも味方を援護するため教会へと急いだ。

 レグルスは手勢のトリオン兵を用いて先遣隊の両名を教会から脱出させると、戦況の不利を察し、彼女らを回収して撤退行動を開始したのだ。

 

「……ごめんなさい。私たちは、任務を成し遂げることができなかったわ」

「反省は後です。今は生き延びることだけに集中してください!」

 

 弱音を吐くモナカを、レグルスは凛々しい声で叱咤する。

 

 教会で行われた激闘の痕を見れば、モナカらが如何に奮戦したかは手に取るように理解できた。(ブラック)トリガーの担い手とはいえ、僅か二人で大国の中枢を襲撃し、並み居る敵兵を打ち破って内部にまで到達したというのだから、これは誇るべき偉業だろう。

 

「あの巨人はいったい何なんですか! 参照情報がまるでありませんよ!」

 

 ただ想定外だったのは、突如として教会に現れた巨神である。

 

 アレが(ブラック)トリガー級の、あるいはそれを凌駕する戦力であることは疑いようも無い。モナカらが敗北を喫したというのも、無理からぬことではあろう。

 加えて言うなら、あれほどの超兵器でありながら、巨神の情報はノマスのデータバンクに記されてはいなかった。エクリシアが秘匿し続けてきた、正真正銘の切り札なのだろう。

 

 何の事前情報もなくアレと行きあたることになったモナカらの不覚を、誰も咎めることなどできはしない。敢えていうなら、当初の計画通りに戦力を結集できなかった、ノマスの遠征部隊全ての責任である。

 

 エクリシア攻略失敗の報は、展開中の全部隊に通達済みだ。各員戦闘を中止し、撤退行動に移っただろう。

 聖都の(ゲート)遮断装置は未だに機能している為、母船に帰還するには街を囲む城壁の外に出なければならない。

 当然ながら、街の中心部に近い部隊ほど撤退は厳しいものとなる。戦闘体はボロボロで、意識不明の負傷者をも抱えているレグルスらの道行は、限りなく困難であった。

 

「不整地に入ります。ユウェネスさんをお願いします」

 

 教会と貴族街との中ほどにて、レグルスはボースの腹を蹴り進路を急に変えると、打ち崩れた壁を飛び越え、屋根の落ちた廃屋へと立ち入る。

 

「……よし。まだ大丈夫」

 

 周囲をレーダーで走査し、安全を確認したレグルスはほっと息を付いた。

 

 この一画には、レグルスが教会へと急行する際に展開しておいたエリアステルスがある。

 不測の事態に備えておいて正解だった。ここならば、敵の追撃を気にせず逃走の準備ができる。

 

 レグルスはボースから降りると、モナカと協力してユウェネスの身体を馬上から降ろす。

 そして応急処置キットを取り出すと、二人掛かりで青年の右脚に処置を施す。トリオン製のギブスで出血を完全に抑え、強心剤を投与し輸液を行う。モナカが医療の心得があったため、処置は然したる時間も経たずに完了する。

 だが、依然として青年が重篤であることに変わりない。早急にこの場から離脱する必要がある。

 

「出ろ、レイ」

 

 ユウェネスの処置が済むや、レグルスは孵卵器トリガーへと装備を換装し、取り出したトリオン兵の卵を孵す。

 途端に白亜の外殻を纏った異形の姿が家屋の床に現れた。横幅は四メートル程度、縦幅は三メートルほどの、ひし形をした平たいトリオン兵である。

 

 これこそ、ノマスが開発した新型、空中戦闘用トリオン兵レイである。

 爆撃用トリオン兵イルガーを護衛するために開発されたレイは、同じく飛行型トリオン兵であるバドを遥かに上回る空戦能力を有する。

 

 レイは今回のエクリシア攻略にも投入されるはずだったが、量産が間に合わず、本来の用途での使用は断念された。しかし、高速での飛行能力に着目したノマスの戦士たちは、レイに隠密機能とレーダー対策を施し、乗騎として運用することを思いついた。

 速度が速すぎて他のトリオン兵と連携が取れなくなるため、侵攻時の足には用いられなかったものの、撤退時となれば話は別だ。

 

 もしもの為にレイの卵を携帯しておいて正解だった。レグルスはトリオン兵の背面にユウェネスを横たえると、慎重にその身体をベルトで固定する。

 三人もの人間を乗せることなど想定していないが、やるしかない。設計図通りの出力なら、レイは十分飛翔できるはずだ。

 

 幸い、モナカとレグルスはトリオン体を維持している。取っ手に片手でも引っ掛かっていれば、振り落とされることはない。

 意識のない青年が落下せぬよう、最大限に注意を払って身体をトリオン兵に結わえつける。とその時、

 

「――動体反応を捕捉しました!」

 

 レグルスのレーダーが、付近を移動するトリオン体の反応を検知した。

 一同は慌てて廃屋の影に身を隠す。エリアステルスで敵のレーダーは欺けている筈だが、今の彼らは格好の標的だ。間違っても目視される訳にはいかない。

 

 再度の探査で、詳細が明らかになった。街路を凄まじい勢いで疾駆する反応の識別は、エクリシアの兵だ。そして、そのトリオンパターンは既知のものである。

 

「フィリア・イリニ……」

 

 レグルスが絶望に染まった声を漏らす。

 その少女こそ、この戦地にて彼らドミヌス氏族の者たちが挙って探し求めた人物である。

 フィリアの名を聞いて、モナカが驚愕に目を見開く。

 

『な――そんな、ならその子を』

『駄目です!』

 

 当然の如くフィリアの確保を申し出ようとしたモナカを、レグルスが鋭い声で制す。

 

 無用の混乱を避ける為、敢えてモナカらには伝えていなかったが、レグルスは教会までの道すがら、件の少女と一戦を交えることとなった。

 フィリアはレグルスの再三の説得にも一切耳を貸さず、狂猛な刃を以て返答としたのだ。傀儡騎士を当てることで何とかその場は脱することができたものの、少年の技量では彼女に毛ほどの傷も負わせることはできなかった。恐るべき手練れである。

 

 そんな危険な少女に、こちらから存在を明かすなど自殺行為も同然である。

 なおも無声通信で少女の確保を訴えるモナカを、レグルスは以上の経緯を交えて徹底的に跳ねつけた。

 流石のモナカも、その剣幕には引き下がるほかない。もとより撤退行動中なのだ。不必要なリスクを犯せる訳も無い。

 

 だがそれでも、モナカの思いは強烈だった。

 トリオン反応が付近を通過するほんの数秒、彼女は堪えきれずに廃屋の影から顔を覗かせた。あるいはそれは、本人の意思を離れた行為だったのかもしれない。それほどに、彼女はレギナの、その娘の事を案じていた。

 

『な、何を――』

 

 慌ててレグルスがモナカの肩を掴んで引き戻す。

 幸い一瞬の事で、フィリア・イリニはレグルスたちに気付くことはなかったらしい。

 

『馬鹿なことは止めてください! みんなを殺す気で――』

 

 流石に肝を冷やしたレグルスが、強い口調でモナカを咎める。だが、彼女の表情を見て、少年は言葉を失った。

 

 モナカの瞳には、煌めく涙の粒が浮かんでいる。

 なぜ敵の姿を見て涙を流すのか、レグルスにはまるで理解できなかっただろう。しかし、トリオン体となったフィリアの姿は、あまりにも昔日のレギナに似すぎていた。

 二人の繋がりを確信したモナカは、昂ぶる感情に肩を震わせている。

 レグルスはそれ以上モナカを糾弾することはせず、ただ彼女を支え、レイの傍らにまで連れて行った。

 

 そうしてフィリアの反応が十分に遠ざかると、ようやくレイに飛行の命令が下された。

 飛行用のトリオンリングを両端に展開し、トリオン兵が宙へ浮かび上がる。

 教会から現れた巨神の追撃を避ける為、奴の展開する場所とは反対側へ、それもなるべく低空を飛んで建物の影を通って進む。

 

 ステルスこそ用いていないが、レーダー対策は万全である。敵の視界に収まらない限りは、捕捉されることはないだろう。

 息をもつかせぬ低空飛行を続けた一行は、ようやくのことで丘の中腹から抜け出す。

 そうして巨神から十分な距離を稼いだと判断できると、レグルスはレイに指令を出し、本格的な逃走を開始した。

 

 凄まじい加速を得たレイは、見る間に教会を頂く丘から遠ざかっていく。

 本来ならば敵の対空砲火の射程外まで高度を稼ぎたかったのだが、生身のユウェネスを抱えている以上、無理はできない。

 

 レグルスは一度だけ背後を振り返り、ノマスの怨敵の姿をしっかりと目に焼き付けた。

 そしてそれきり前を向くと、少年はレイに手をあて操縦に精神を集中させる。

 敵兵は未だ多数健在。放火の嵐を掻い潜って、母船まで帰還せねばならない。

 

 誰も脱落はさせない。必ず生きてノマスの地を踏み、今日の失態を未来に繋げて見せる。

 今日が初陣となる少年は、双眸に決意の光を宿らせ、茫漠たる空を睨んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 曇天に浮かぶ「恐怖の軛(フォボス)」の姿を目の当たりにして、フィリア・イリニは全身を恐怖に粟立てた。

 

 少女はエクリシアの秘中の秘である超兵器の存在を知りはしなかったが、それでも「誓願の鎧(パノプリア)」と相通ずる意匠をした巨神が味方であることは直観的に理解できた。

 そして巨神が有する戦力の程も、彼女は過たず把握していた。アレが出てきた時点で、聖都の防衛戦は味方側の勝利に終わるだろう。

 

 だが、その超抜の兵器が現れたという事態が意味することに、フィリアは身の毛もよだつ悪寒を禁じ得なかった。秘匿し続けていた切り札を出さねばならぬ程の戦況となれば、果たして彼女の家族は無事でいるのだろうか。

 

「ふ……うっ……」

 

 心を苛む不安と恐怖を懸命に抑え込み、少女は荒れ果てた道を駆け続ける。

 そうして丘を登り切った彼女は、眼前に広がる酸鼻極まる光景に、思わず息を呑んだ。

 

「っ……」

 

 教会へと続く閑静な大通りは、どこもかしこも爆発によって抉られ、まるで巨大な犂で地面を掘り起こしたような有様となっている。

 

 そして滅茶苦茶になった街路に散らばっているのは、ノマスの物と思しきトリオン兵の残骸であった。一瞥しただけでもはっきりと分かるほどの異常な数だ。教会に投入された敵の兵力は如何ほどだったのか。

 

 教会へと近づくごとに、トリオン兵の残骸に混じってエクリシア人の遺体が目に付くようになる。フィリアは良心の呵責に耐えながら、同朋の亡骸を無視して進む。

 

 やがて、彼女の目の前に聳え立つ防壁が現れた。

 教会の広大な前庭を名一杯に使って防御陣地を造ったのだろう。戦力に劣る防衛部隊はこの陣地に拠って戦ったに違いない。

 

 しかし、奮闘も長くは続かなかったらしい。

 防御陣地を真一文字に切り裂いて、教会の大扉へと続く破壊の痕跡。(ブラック)トリガーか、それに匹敵する火力によって薙ぎ払われたか。どちらにせよ、先ほど天を焦がした光と震動の正体はコレなのだろう。

 

 破られた防御陣地は、正に地獄の様相を呈していた。

 乗り込んできたトリオン兵らと、果敢に迎え撃ったエクリシアの兵。それらの成れの果てが、地を埋め尽くさんばかりに転がっている。まるで人形も人間も、戦場では一切の区別が無いかのように。

 残敵に備えて慎重に行動していたフィリアであったが、惨憺たる情景に到頭抑えが効かなくなった。

 

「誰かっ! 誰かいませんか!」

 

 この骸の中に、少女の大切な人がいるかもしれない。恐怖に駆られた彼女は危険も顧みず大声を上げる。

 

 そうして教会の中へと立ち入った少女は、絶望に身を凍らせた。

 暴虐の限りが尽くされた無残な大聖堂。なぎ倒された信徒席やへし折られた飾り柱に混じって、かつて人だったモノが床に転がっている。

 そして如何なる手段によって作られたのか、神の御家の中心には巨大な立坑が穿たれていた。側には虐殺を行ったと思しきトリオン兵の残骸。

 

 そこでフィリアは、場違いなほどに鮮やかな紅色を目にする。

 少女の脳裏に去来するのは、異国の友人の最期の光景。

 

 上半身だけとなったクリズリが力なく投げ出した腕。だらりと伸ばされたブレードの先端に、人の形をした何かが付いている。

 打ち崩された外壁から差し込む光に煌めいているのは、麦穂のような黄金の髪。

 

 ――一切の思考が吹き飛んだフィリアは、倒れ伏す母の下へと走り出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「母さん! 母さんっ!! 目を開けて、お願いっ!」

 

 静寂を切り裂く少女の悲鳴。

 

 血だまりに伏すパイデイアを見つけたフィリアは、半狂乱の様相で母を抱き上げ、声を掛け続ける。

 脈拍は弱いがある。しかし、流れ出た血の量が多すぎる。腹部を貫くブレードは、間違いなく主要な臓器を傷つけているだろう。

 

 フィリアは長剣を閃かせ、音も無くクリズリのアームを寸断する。大出血を防ぐために、ブレードを抜くことはできない。このまま医師の下へと連れていくほかない。

 医療設備が整い、医師が常勤している最も近い場所は、この教会の地下にある医務室だ。

 パイデイアの容態の深刻さに辛うじて平静を取り戻した少女は、慎重に母の身体を抱き起し、抱え上げようとする。その時、

 

「……レギ、ナ?」

 

 か細い声が少女の耳を打つ。

 

「か、母さんっ!」

「あれ……なぁん、だ……おおき、く、なったね……フィリア。……やっぱり、おやこなの、ね……あのこに、そっくり……」

 

 意識を取り戻したパイデイアが、翡翠色の目を細めて娘に語りかける。

 穏やかな顔に浮かんだ微笑みは余りに美しく、そして儚げであったため、フィリアの焦燥は極限にまで達した。

 

「喋らないで母さんっ! すぐ、すぐにお医者の所に連れていくからっ!」

 

 少女は朦朧とする母に呼びかけを続けながら、身体を抱き上げようとする。

 パイデイアは力なく手を伸ばすと、血に塗れた手でそっと娘の頭を撫でた。

 

「あの、ね……サロスたちは、ここにいない、の……ヌースが、にがしてくれた、から……フィリア、は、みんなのところ、に、いってあげて、ね?」

 

 愛おしむように少女の白髪を手で梳いて、パイデイアは言葉を続ける。

 満ちたりたかのような母の表情を目の当たりにして、フィリアの心に絶望が湧き起こる。恐怖に駆られた少女は、希うかのような声で母へと叫んだ。

 

「駄目だよ諦めないで! こんなのへいちゃらだからっ! きっと助かるから!」

 

 パイデイアは困ったような笑顔を浮かべ、泣き叫ぶ娘の頬に指を添える。

 

「おかあさん、しあわ、せ……だったよ? あなたた、ちの、ははおやに、なれて……だから、これから、も、みんななかよ、く……それだけが……わたし、の――」

 

 喘鳴によって、パイデイアの言葉が途切れた。

 せき込んだ口からは鮮血が溢れ、彼女は血泡に大きく咽びこむ。

 

「母さんっ! 母さんっ!!」

 

 苦しむパイデイアの姿を目の当たりにしたフィリアは、もはや正気を保っている事などできなかった。彼女は怯えた子供のように、大声で喚きながら母を抱きしめる。

 

「ほんとう、の……おとうさんと、おかあさんも……フィリア、のことを、……こころ、から……あいして、たの。だから、あなたは……」

「嫌だっ! 嫌だ嫌だ嫌だっ! 死んじゃ嫌だ母さんっ! 私を、みんなを置いてかないでっ! いなくなったりしないで! ずっといっしょにいてよっ!」

 

 末期の言葉を告げようとするパイデイアに、フィリアは駄々をこねる子供のように涙を流して訴えかける。

 泣きじゃくる娘の姿を、パイデイアは困ったような、それでいてどこか喜んでいるかのような表情で見つめると、

 

「もちろん、よ。……かあさんは、ずっと……いっしょにいるから、ね……」

 

 優しくそう言って、フィリアの手を握りしめた。

 

 そして次の瞬間、聖堂内に光が溢れた。

 目も眩むほどに眩く、それでいて暖かな光が、世界を真白色に染め上げる。

 光の源は、地に伏すパイデイアだ。

 極光の直中に位置するにも関わらず、フィリアの瞳は母の姿を明瞭に捉えていた。

 

 純白の世界に、ただ佇む母子。

 母と繋いだ掌に、暖かなモノが溢れる。

 フィリアはその熱の正体が、パイデイアの命そのものであることに気付いた。

 

 優れたトリオン能力の持ち主が、己の全てを擲つことを決意したとき、この世に奇跡が顕れる。

 

「――ぁ」

 

 不可思議な現象の正体に理解が及んだとき、フィリアの喉から声が漏れた。だが、口を突いて出てきた音は、確たる言葉を形作ることはなかった。

 

 永遠にも思えた一瞬の後、純白の光は跡形もなく消え失せた。世界は再び元の景観を取戻し、母子は荒れ果てた神の御家に残される。

 

 生じていたのは、ほんの小さな変化だった。

 フィリアの手のひらに残されていたのは、黒いトリオンの指輪。

 

 そして少女の眼前に横たわっているのは、あらゆる色素が抜け落ちた、砂像のような母の姿。

 己の死を悟ったパイデイアは、身命を賭して娘の為に(ブラック)トリガーを生み出した。

 金色の瞳を呆然と見開き、声も無く母を見詰め続けるフィリア。

 

 

 聖堂に一陣の風が吹く。愛娘の眼前で、パイデイアは塵となって崩れて死んだ。

 

 

 

 



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其の十四 終結 エクリシアの落日

 聖都から遠く離れたリスィ平原。そこに設けられた隔離戦場では、死と破壊の協奏が止むことなく奏で続けられていた。

 (ゲート)誘導装置の破壊工作に合わせて行われたノマスの侵攻。ほとんどの(ゲート)は聖都付近に開かれたが、一部は隔離戦場に引きつけることができた。

 

 すり鉢状に広がる荒野の上空に、漆黒の門が開く。

 ノマスの本命は聖都の攻略のはずであったが、ここ隔離戦場にも途轍もない数のトリオン兵が投入された。

 エクリシアに降り立った人形兵士らは、一路隔離戦場の外を目指して進軍を始める。

 狙いは防衛陣地の突破。そしてエクリシアの全土に散らばり、防衛軍を分散させるつもりである。

 

 それを座して見送るエクリシアではなかったのだが、この時問題が起こった。

 ノマスの手は(ゲート)誘導装置のみならず、防衛陣地に張り巡らせた防衛兵器にまで伸びていた。先手を打って敵兵を吹き飛ばすための砲台はダウンし、瞬く間にエクリシアの騎士、従士たちとトリオン兵が入り乱れての凄まじい乱戦が始まった。

 

 加えて、ノマスの本隊が(マザー)トリガーの位置する聖都へと進軍したため、防衛部隊は主力の大部分を聖都へと向けざるを得なくなった。

 砲台の援護も無く、敵に劣る兵数での防衛戦。然しものエクリシアの精兵たちでも、苦戦は免れない戦いである。

 

 そして、戦闘を続けること早数時間。

 現在、エクリシア防衛軍は劣勢に陥りながらも、辛うじて敵軍を隔離戦場に釘付けにすることに成功していた。

 

「全隊、損害を報告しろっ!」

 

 横薙ぎに振るわれた漆黒の巨拳が、ブレードを掲げて襲い掛かるクリズリを粉々に打ち砕く。

 光線を放つ寸前のバンダーの首が、巨大な手刀によって叩き切られる。

 混沌と化した隔離戦場に舞う漆黒の双腕は、イリニ騎士団が誇る騎士、第一兵団長ドクサ・ディミオスが有する(ブラック)トリガー「金剛の槌(スフィリ)」である。

 

 ノマスによる聖都急襲の報を受け、エクリシア防衛軍は迅速な決断を下した。(マザー)トリガー防衛を第一目標に設定し、兵力の殆どを聖都救援へと差し向けたのである。

 救援部隊を率いることになったのは、フィロドクス騎士団のジンゴ・フィロドクスだ。

 肩書からいえばゼーン騎士団総長のニネミアが最も上なのだが、彼女はノマスの先遣部隊との戦闘によってトリオン体を失っており、戦闘は不可能な状況であった。

 

 また、ノマスの奇襲を受けたイリニ騎士団、ゼーン騎士団は将兵に少なくない死傷者を出している。

 比較的損耗の軽微であったフィロドクス騎士団が、聖都救援の主力を担うことになったのは当然の流れであった。

 再編された防衛部隊は負傷者を収容し、一目散に聖都へと急行した。もうそろそろ、聖都へと辿りついている事だろう。

 

 そして、隔離戦場で敵を防ぐ役目を負ったのが、ドクサ率いる部隊であった。

 本来ならば戦線を放棄するのも仕方のない緊急事態である。だが、それでは自由になった敵兵に後方を脅かされる。それを防ぐための抑えとして、隔離戦場に残しておく兵が必要だった。

 

 捨て駒も同然のこの役割に、しかし多くの騎士、従士らが志願者した。彼らは任務の危険さを知りながらも、それ故に戦場に留まる事を希望した。

 決死の兵らを率いて殿を務める将は、ドクサが名乗りを上げた。

 イリニ騎士団が誇る古参の騎士なら家格、実力ともに申し分ない。生還が絶望的な戦場に貴重な(ブラック)トリガーを投入することを危ぶむ声もあったが、ドクサは「金剛の槌(スフィリ)」を騎士団に返還し、ノーマルトリガーで出撃するとまで言い切った。

 

 ノマスの奇襲によって、彼の娘メリジャーナと娘婿のテロスは重傷を負っていた。前線基地に収容された彼らは、現在緊急手術を受けている最中である。また彼らだけでなく、緒戦で傷を負った兵たちも基地で治療を施されている。

 

 隔離戦場を完全に放棄するとなれば、彼らも捨てていかなくてはならない。

 ドクサは娘と娘婿を助けるために、地獄の戦場に残ることを希望した。他の騎士たちも事情は同じである。傷ついた同朋を救わんがために、自ら捨石になることを決意した。

 

 そうして始まった絶望的な戦闘。しかしエクリシアの騎士たちは大いに奮闘していた。

 ドクサは戦端が開かれるや鬼神の如き活躍を見せ、群がる敵を次々と撃破していった。

 別けても凄まじかったのは、ノマスの(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」を撃退したことだろう。トリガーの相性で有利だったとはいえ、雲霞の如きトリオン兵を相手取りながら、敵方のエースを撃破するのは並や大抵の戦果ではない。

 

 彼が敵の(ブラック)トリガーを撃破したことで、戦場の潮目は完全に変わった。

 死力を尽くして防衛に当たる騎士たち。そして戦闘能力を持たないエンジニアらも、懸命に己の職分を全うする。

 

 エンジニアが復旧させた砲台が、津波のように押し寄せるトリオン兵に、雨あられと砲弾を叩きこみ始めた。

 恐怖を持たない人形兵士も、嵐のような弾雨を前にしては足が鈍る。そこを一体、また一体とエクリシアの戦士が刈り取っていく。

 

「よしっ! 敵の増援が途絶え始めた、あと少しだぞ!」

 

 傷だらけとなった「誓願の鎧(パノプリア)」を纏ったドクサが、塩辛声を張り上げる。

 敵勢は明らかに勢いを失ってきている。トリオン兵の追加も殆どない。もはや撤退を始めたと判断するのが妥当だろう。

 

「聖都は無事だ! 後は各々が命を拾えいッ!」

 

 仮に聖都が落とされ、(マザー)トリガーが占拠されたとすれば、敵はすぐさま降伏を勧告してくるはずである。

 こうして退き始めたということは、聖都の守備部隊はノマスの本体を撃退することに成功したのだろう。

 

 かつてないほどの危機に曝されたエクリシアだが、何とか命脈は保てたらしい。

 後は被害を抑えることだけに専心しなければならない。

 ドクサは「金剛の槌(スフィリ)」の双腕を振り回し、抵抗を続けるトリオン兵を薙ぎ払う。

 

「さあ最後の仕上げだ! 連中をこの国から叩きだすぞっ!」

 

 気焔を吐き、同朋を勇気づける古豪の騎士。

 そんな彼が聖都の惨状を知るのは、暫し後の事であった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 曇天に浮かびあがった巨影を見咎め、レクスは此度の遠征が失敗に終わったことを冷静に悟った。

 

「……」

 

 丘の裾野に広がる廃墟と化した貴族街。その一画で、激しい戦闘を続けていたレクスとアルモニア両名。

 互いに国の威信を背負った(ブラック)トリガーの担い手は、しかし示し合せたかのように戦いの手を止め、瓦礫の山に立ち尽くしていた。

 

「……あれが、エクリシアの隠し玉か」

 

 レクスが忌々しげに呟く。

 高空を飛翔するのは、古代の神像を思わせる巨大な人型である。

 鎧を纏った巨神は聖都の上空を我が物顔で飛び回りながら、信じがたいほどの威力の光線を全身から八方へと放っていた。

 

 巨神の身体が輝くたびに、市中に展開しているノマスのトリオン兵がごっそりと消え失せる。次々に減じていくレーダー上の光点を、レクスは諦念と共に眺めることしかできない。せめて最新技術を搭載した兵器だけは回収せねばと、彼は母船に通信を入れる。

 

 一方、レクスの前に立つアルモニアは、長剣形態の「懲罰の杖(ポルフィルン)」を構えたまま、油断なく仇敵の姿を視界に捉えていた。

 一髪千鈞を引く二人の戦いは既に四半時にも及ぼうかとしていたが、結局どちらも決め手を欠いたまま、こう着状態に陥っていた。

 

 アルモニアはほぼ無傷。レクスも不意打ちで落とされた右腕以外は万全の状態である。

 規格外のトリオン体を創出するレクスの「巨人の腱(メギストス)」に、あらゆるトリオンを接触吸収するアルモニアの「懲罰の杖(ポルフィルン)」。

 

 トリガーの相性ではアルモニアに分があったが、純粋な出力ではレクスが圧倒的に上回る。互いの手を知る達人同士は、それ故に深く踏み込む機会を見出せずにいた。

 両者のトリガーは共に即死級の威力を持ち、一手でも間違えればたちまち勝敗が決する。互いに相手のエースを抑えあっているという状況にあっては、勝つことよりも負けぬことが要求されたのだ。

 

「潮時か……」

 

 レクスが独りごちる。

 今しがた息子のレグルスから通信があった。巨神の攻撃を受けて敗走したモナカ、ユウェネスと共に、聖都から撤退を始めたとの報である。

 

 彼が仇敵との戦闘にかまけていた間に、教会攻略は失敗に終わってしまった。

 今から戦況を巻き返すのは不可能である。レクスも撤退に移らなければならない。

 彼は憎悪に満ちた眼差しを、対手であるアルモニアへと向ける。

 

「その命、今日の所は預けておく。ゆめ忘れるな。貴様を八つ裂きにし、その首を祖霊に捧げることこそ、ノマスの民の悲願であることを」

 

 レクスは呪いの言葉を吐くと、地を蹴って風のように飛び去った。

 爆撃によって崩れた邸宅の上を飛び跳ね、ノマスの指揮官は見る間にその姿を小さくしていく。

 

 元より超絶の身体能力を有するレクスを追走することは不可能だ。またそうでなくとも、アルモニアは彼を追いはしなかっただろう。

 レクスがアルモニアに足止めされたように、彼もまた、宿敵によって貴重な時間を浪費させられていたのである。

 

「……くそっ!」

 

 宿敵の逃亡を見送ったアルモニアは、戦況を確かめるべく通信チャンネルを開き、そして苛立ちの言葉を吐いた。

 情報が錯綜し、何一つ戦況がつかめない。

 何より彼を焦らせたのが、パイデイアとフィリア、激闘が行われていた教会に居る筈の家族に、連絡もつかないことであった。

 

「無事でいてくれ……」

 

 アルモニアは焦燥に顔を歪め、廃墟と化した街を走り出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 聖都の北部に位置する貧民街には、トリオンを用いた簡便な建築技法が普及する以前の、石壁と木組みの街並みが広がっている。

 元は聖都繁栄の基礎となった歴史ある街だったが、時の流れに取り残された現在では、下層民が身を寄せ合って暮らす不穏な地域となっている。

 

 うら寂れ、どこもかしこも薄汚れた貧民街ではあったが、この非常時にあっても殆ど戦災を受けていない。これは敵の攻撃目標が、トリオンを基準に判断されるからだ。

 かび臭い街に住んでいるのは、ろくなトリオン能力を持たない下層民。

 

 ノマスのトリオン兵は、貧民街を攻撃する意義を見出せなかったのだろう。被害を齎すのは時折飛んでくる流れ弾程度のもので、どこもかしこも地獄の様相を呈した聖都にあって、貧民街は明らかに戦火を免れていた。

 

「此処を抜ければ北門です。皆、辛いでしょうが足を止めないでください」

 

 貧民街の入り組んだ路地を滑るように飛びながら、ヌースは後続の子供たちを懸命に励ましていた。

 当初逃げ込む予定であったシェルターは、トリオン兵によって無残に蹂躙されており、行くあてを失った彼女たちは、フィロドクス騎士団が防衛を続ける聖都北壁を目指して避難を続けていた。

 ここ貧民街を経由地点としたのも、敵の手が回っていない可能性が高かったからだ。

 

「……なあ、もう大丈夫じゃないか」

 

 荒れ果てた石畳の上を走りながら、サロスがぼそりとそう溢した。

 

「どっかこの辺で隠れて、やり過ごした方がいいんじゃないかな……」

 

 黒髪の少年は幾分憔悴した面持ちで、保護者であるヌースを窺う。

 彼は背中に弟のイダニコを背負っている。金髪の末弟はシェルターでのいざこざの際に、ヴルフによってトリオン体を失っていた。

 サロスが貧民街に隠れ潜むことを提案したのは、弟を案ずる思いからだろう。それに、

 

「ねえヌース……覚えてる? ここ、私たちの家の近くだよ」

 

 兄の話の穂を継いだのは、赤髪の少女アネシスだ。過酷極まる道程に、少女は隠しきれない疲労を浮かべている。

 強弁こそしなかったが、彼らは揃って此処に留まりたいと考えているらしい。

 

 それも無理からぬことだった。この貧民街は、彼らが人生の殆どを過ごしてきた場所である。土地勘があるから、敵の姿が見えないからといった、ただ安全面からの提案ではない。この危局にあって、家族と過ごした思い出の地ほど彼らを安心させるものはない。

 

「……」

 

 ヌースは人工知能をフル回転させ、彼らの提案を検める。

 

 教会を脱出してから既にかなりの時間が経つ。先ほどノマスの攻撃と思しき強力なトリオンのパルスを検知したが、戦闘は未だに続いている。(マザー)トリガーはまだ落ちていない。教会はギリギリのところで敵の侵攻を防いでいるのだろう。

 

 隔離戦場に展開していたエクリシアの軍勢も、そろそろ聖都へと帰りつくころだ。増援が来れば、ノマスもこれ以上の攻撃は不可能と判断し、撤退に掛かるだろう。

 戦闘は程なくして終結する筈である。

 身を晒して避難を続けるよりは、目立たぬ建物で息を潜めるほうが、生存の可能性は高いかもしれない。

 

「予断は許しませんが……そうですね。少し休憩しましょう」

 

 ヌースは子供たちに向かってそう告げると、潜伏場所を見繕うべく付近のエリアをスキャンした。

 

「やった! ありがとうヌース」

 

 アネシスが歓声を上げる。サロスもイダニコも安堵の息を付いた。

 

「そこの家屋が無人のようです。窓から中に入ってください。怪我をしないように気を付けて」

 

 ヌースは比較的頑丈そうな建物を示し、少年らを誘導する。しかし、

 

「え、私たちの家に帰らないの?」

 

 アネシスはつぶらな瞳を驚きに見開いてそう言った。彼らはてっきり、懐かしの我が家に帰ることができると思い込んでいたらしい。

 何せ、彼らの自宅は角を曲がったすぐそこにある。けれども、ヌースはその判断を良しとはしなかった。

 

 かつての自宅に赴けば、確かに彼らは安心するだろう。だが愛着の余り居着いてしまう可能性がある。もしその場を離れなければならなくなったとき、動きが鈍ってしまっては命に係わる。

 

「駄目です。今は何より貴方たちの安全が最優先です」

 

 毅然とした口調でヌースは命じるが、子供たちは硬い面持ちで地面を見詰め、一向に動こうとはしない。

 

「そうだ、俺が安全かどうか見て来るよ。アネシス、イダニコ頼む」

 

 と、サロスがそんな事を言い出した。

 ヌースが制止する間もなく、黒髪の少年は弟を地面に立たせ、路地を駆けだした。

 彼らの消耗は予想以上に大きかったらしい。安住の地を目前にしていても経ってもいられなかったのだろう。

 

「サロス、待ちなさい」

 

 ヌースは慌ててサロスの後を追って路地を飛翔する。

 どん、と物がぶつかる音がした。

 路地を曲がったその瞬間、なんとヌースは立ち尽くしていたサロスの背に身体をぶつけてしまったのである。

 勢い込んで飛び出した少年が、なぜ呆然と立ち尽くしているのか。

 その理由を、ヌースはたちまち知ることになる。

 

「サロス、アネシスとイダニコの下に戻りなさい」

 

 如何なる感情も窺わせない冷淡な声で、ヌースが少年に命令する。

 数十メートル先の路地。まさしく家族が暮らしていた家の前に、奇妙な物体が転がっている。それがバラバラにされた人間の残骸であることに、サロスは一拍おいて気付いた。

 

「うわぁ――」

 

 思わず悲鳴を漏らしそうになった少年の口を、ヌースが身体から伸ばした触腕で塞ぐ。

 

「落ち着いてくださいサロス。貴方はお兄さんです。大丈夫ですね。みんなの為に、頑張れますね」

 

 抑揚のない、それでいて思いやりに満ちた声で、ヌースが少年に語りかける。

 如何なるときにも頼りになる家族の励ましに、少年は涙目になりながらもはっきりと頷いて答える。

 

「当初の計画通り北門を目指します。あれが皆の目に止まらぬよう、迂回しましょう」

 

 少年にそう語り聞かせながら、ヌースは状況を把握しようと努めていた。

 人間をあれほど無残に引き裂くことができるのは、トリガー使いかトリオン兵を措いてほかにない。トリガー使いが戦術的に無価値な貧民街にいる理由はないので、犯人は市街地を惑乱する任を帯びたトリオン兵で間違いないだろう。

 

 気がかりなのは、敵トリオン兵がヌースの探知に引っ掛からなかったことだ。

 凶行に及んだトリオン兵は、レーダー対策を施されているのだろう。

 となれば、敵はまだ貧民街を徘徊している可能性は十分にある。敵の種別も規模もまるで分からない。不意に遭遇すれば、子供たちを護ることは難しい。

 

「落ち着いて、取り乱さないでください。大丈夫ですから」

 

 ヌースは惨死体を目の当たりにしたサロスを気遣いながら、今来た道を引き返す。

 貧民街の住人は付近のシェルターに避難したか、自分の家に閉じこもっているのだろう。協力を仰ぐことはできそうにない。ましてや、路地に転がっている死体をどうこうしている時間など一秒たりともない。

 恐怖の表情のまま朽ち果てているこの男たちは、実は彼女らの家を不法に占拠していたごろつきであったのだが、彼女たちには知る由もないことであった。

 

「急ぎ戻りましょう。何としても、皆で助かります」

 

 弟妹の下へと戻った二人は、弟妹たちに休憩ができなくなった旨を伝える。

 アネシス、イダニコは二人の様子にただならぬ事態を感じ取ったようで、落胆を懸命に押し殺し、指示に従った。

 

 そうして再び避難を始めた一向。

 細く入り組んだ迷路のような路地を通り、貧民街を北に向けて抜ける。

 やがて、彼らは比較的道幅の広い道路へと出た。

 視線を向ければ、曇天に聳え立つ城壁が見える。古くは主要道だったこの道を進めば、程なくして北門にたどり着くことができる。

 少年少女たちの表情に希望の光が灯る。絶望の影が立ち現われたのは、まさにその時であった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「皆、路地に戻りなさい!」

 

 街路を塞ぐように立つトリオン兵を見咎めたヌースは、緊迫した声で子供たちに避難を命じると、(ゲート)より手勢を出現させた。

 

 現れたのはノマスの新型ヴルフが三種それぞれ三体ずつ、計九体。これらの新型ヴルフは小型ながらも高い戦闘力を持ち、とくに機動力を必要とする市街戦では抜群の働きを見せる。ヌースは戦場に散らばる残骸から、新型ヴルフの機構の解析に成功していた。

 

 彼女たちの眼前に現れたのは、三メートル余りの体躯をした二足歩行のトリオン兵。通信の端々で耳にした、ノマスの新型トリオン兵クリズリに違いない。

 この新型は、エクリシアの騎士と渡り合えるほどの戦力を有しているらしい。如何にヌースが操っているとはいえ、ヴルフとの性能差は明白だ。

 

 しかし、ここで引くわけにはいかない。完全に捕捉された以上、下がっても後ろから襲い掛かられるだけだ。それに、ゴールはもう目と鼻の先である。北門まで送り届けることができれば、間違いなく子供たちは助かる。

 

『……サロス、貴方のトリオン体にルートマップを送りました。皆を連れて、北門を目指してください』

 

 ここでヌースは自らが囮になることを決断した。北門が破られたという報告は効いていない。付近に展開する敵トリオン兵は少数の筈。

 戦闘を行えば、それらのトリオン兵をも引きつけることができるだろう。上手く迂回すれば、子供たちは安全に城壁までたどり着けるはずだ。

 

『な――でもっ!』

 

 反論する子供たちの声。彼らが難色を示しているのは、自分たちの不安ではなく、一人残されるヌースのことを案じているからだ。

 

『聞き分けてください。私はパイデイアとフィリアに、貴方たちを護ると誓いました』

 

 家族の暖かな思いやりに感動しながらも、ヌースは決然と子供たちに言い放つ。

 

『さあ早くっ!』

 

 もはや議論を交わしている時間などありはしない。クリズリは二対の腕を大きく広げ、猛烈な突進を仕掛けてきた。

 ヌースはクリズリを迎撃すべくヴルフを散開させる。

 出力、装甲共に別格の能力を持つクリズリは、機動力に於いてもヴルフを上回っている。

 

 しかし、小型とはいえ三メートルを超える体躯を持つクリズリは、ヴルフに比べると小回りが利かない。

 兵を常に動かし続け、敵に的を絞らせなければ、クリズリの攻撃がヴルフを捉えることはできない。どれほど攻撃力が高くとも、当たらなければ無いのと同じだ、

 

 そして分厚い装甲に関しても、ヌースには攻略の手立てがある。

 近接戦闘用の黒いウルフ・ホニン、射撃特化の白いウルフ・レイグが、クリズリの周りを駆けずって注意を引きつける。その隙に、指令を受けた茶色の狼、ヴルフ・ベシリアが粘着弾を浴びせかけた。

 

 いかに強力な性能を有していようと、動きを封じてしまえば発揮の仕様が無い。

 致命打を与えることは難しくとも、粘着弾で塗り固めてしまえば無力化したも同然だ。

 ヌースが指揮するトリオン兵の巧みな連係は、ただの人形兵士が見切る事などとても不可能であっただろう。

 

 必勝を確信していただけに、クリズリの動きを目の当たりにしたヌースは強い衝撃を受けた。

 誘い込まれていたかに見えたクリズリは、何と背面のブースターを噴かし、短腕から衝撃波を発すると、強引に姿勢を翻して粘着弾を紙一重で回避した。

 

 そしてブレードを搭載した長腕を一気に伸ばし、ヴルフ・ベシリアを刺し貫く。

 続けてクリズリは短腕から光弾をばら撒き、同じくヴルフ・ベシリアを狙い撃ちにする。

 

「……!!」

 

 想いも寄らないクリズリの反撃に、ヌースは兵を率いて後退する。

 

 敵は明らかに、ヴルフ・ベシリアを最優先の排除対象とみなしていた。もちろん、元は同じノマスの兵なのだから、武装を知っていたとしても不思議はない。

 しかし、一見こちらの手の内に乗ったかのように見せかけ、そこから鋭い反撃を繰り出すというのは、いくら高性能とはいえただのトリオン兵に為し得ることではない。

 

 まるで腕のいいトリガー使いのような動きである。

 不穏な気配を感じ取ったヌースは、(ゲート)を開くと五十を超すヴルフの群れを展開した。

 内蔵トリオンは使い切ってしまっても構わない。何としても、ここで敵を引きつける。

 

 ヌースは己が心に従い、全身全霊を以て戦いに挑もうとした。そんな彼女に向かって、不気味な声が投げかけられる。

 

「其処ナ自律型トリオン兵ニ告グ。所属ヲ明ラカニサレタシ」

 

 音声サンプルをつぎはぎしたような、滑らかさとは程遠い滑舌。性別も年頃も定かではない機械音のようなその声が、人気の絶えた貧民街に響く。

 

「登録データ無シ。ナレド、トリオン反応ハ我ラニ酷似。汝ハノマスノ兵ヤ否ヤ」

 

 立ちはだかるクリズリの後方。朽ちかけた木造家屋の影からそれは現れた。

 人の頭ほどの大きさをしたトリオンの球体が、宙に浮いている。

 中央には目を思わせる感覚器官が搭載され、下方には魚の腹ヒレを思わせるような突起が付いている。

 

 どうしてヌースが見誤ることができようか、眼前に現れたそれは、間違いなく彼女と同じ自律思考型トリオン兵であった。

 

「まさか、完成していたとは……」

 

 ヌースが驚愕に言葉を漏らす。

 自律思考型トリオン兵は製造に非常に高度な技術を必要とするため、トロポイやエルガテスといった一部の国家でしか運用されていない。

 同じく高いトリオン兵の製造技術を持つノマスでも、未だ開発には成功していなかった。基礎研究は済んでおり、試作段階までは進んでいたものの、開発を先導していたレギナが拉致されたため、研究が頓挫したからだ。

 ノマスはレギナの喪失にもめげずに研究を進めていたらしい。そして到頭開発に成功し、今回の遠征に投入してきたのだ。

 

「返答セヨ。猶予期間十秒」

 

 自律型トリオン兵が耳障りな金切り声でそう告げる。

 敵はトリオン反応の酷似したヌースを、敵か味方か図りかねているらしい。レギナによって生み出されたヌースと、彼女の残したデータに基づいて造られた彼らが、似通った機構を持つのは当たり前だろう。

 

「……」

 

 ヌースは思考をフル回転させて戦局を読む。

 

 敵の自律型トリオン兵は、市街地を惑乱させるトリオン兵団の指揮者としての任を負っているのだろう。そう考えれば、奇妙なまでに的確な兵の動きが腑に落ちる。

 レーダー対策を施されていることからも、彼らが立派なノマスの将の一人だと考えられる。ギリギリまで姿を現さなかったことも、無用な情報をエクリシアに与えぬよう指示されていたに違いない。

 

 冷静に彼我の戦力差を推し量る。

 度重なる戦闘と避難で、パイデイアから供給されたトリオンは底を尽きかけている。ヌースの手駒は先ほど展開した分で打ち止めだ。あとは運用する方にトリオンを回さねばならない。

 

 敵の自律トリオン兵がどれほどの能力を持つかは不明だが、嵩にかかって数で攻めればクリズリの一体は撃破できるだろう。

 しかし、敵が他に兵力を伏せていない保証はない。

 

「私は、ノマスの技術者レギナによって製造されました」

 

 ヌースは会話で事態の打開を図った。別段撃破する必要はない。彼女にとっての勝利とは、子供たちが無事に北門までたどり着くことなのである。

 会話で時間が稼げるならば、それに越したことは無い。

 

「然ラバ、何故我ガ方ニ敵対スルノカ」

 

 敵が会話に乗ってきた。ヌースは戦闘シミュレーションを別回路で行いながら、言葉を続ける。

 

「製造者と命令者が異なることに、何か疑問があるでしょうか」

「ナラバ旗幟ヲ鮮明ニセヨ。投降スルカ、破壊サレルカ、ドチラカ選ベ」

 

 いくばくかの皮肉を交えて応えるヌースに、敵は血の通わぬ人形兵らしい無感情さで選択を突きつける。

 勿論、彼女に敵軍に降るという選択肢はない。こうして会話を続けている間にも、彼女は虎視眈々と付け入る隙を窺っている。

 

「投降の条件は? 私の身柄は保障されますか?」

「トリオン兵ハ如何ナル権利モ有シナイ。汝ニ蓄積サレタデータハ今後ノ戦地ニテ活用サレルダロウ」

 

 言葉を続けるヌースに、しかし敵の自律トリオン兵は話の意味が分からないと言った風に応える。

 どうやら彼とヌースとは、情緒面に著しい隔たりがあるらしい。

 彼にとっては、自我意識など課せられた任務を遂行するためのツールでしかないのだろう。任務遂行のために一切を顧みないその姿は、魂を持たぬトリオン兵に相応しい。

 

「投降ノ意思ハ認メラレズ。ナレド有益ナデータヲ有スルト判断。鹵獲スル」

 

 これ以上の問答は無意味と判断したのか、敵トリオン兵は一方的に交渉を打ち切った。確かにデータを吸出し、構造を解析するならば、ヌースの残骸で事足りる。

 敵は新たにヴルフを十体余り展開すると、クリズリとともに襲い掛かった。

 

「――そうは、させません」

 

 ヌースは手勢の全てをマニュアル操作に切り替え、敵の群れへと立ち向かった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 決着は、それほどの時間を待たずに着いた。

 荒れ果てた石畳に散らばるトリオン兵の破片。

 敵味方の入り混じったその中で、最後まで残っていたのはヌースの操るヴルフであった。

 

「――――」

 

 トリオン弾によって風穴の空いた敵の自律トリオン兵が、浮力を失って街路に転がっている。

 結局の所、トリオン兵の運用能力とそれらを支える諸々の機能に於いて、ヌースは敵を完全に凌駕していた。

 

 難敵であったクリズリも、機能と動作パターンを把握してしまえば対抗手段はいくらでも見つけられる。囮を用いて行動を誘導し、粘着弾で足を止め、コアを破壊する。そうして手勢がヴルフだけになってしまえば、数で劣る敵に勝ち目はない。

 

「早く、あの子たちに合流しなければ……」

 

 勝つには勝ったが、こちらの手勢もそれなりの損害を受けた。五十余りいたヴルフの内、残っているのは三十七体。その半数程度も、大なり小なりの傷を負っている。

 そう何度も敵と交戦するのは不可能だろう。速やかに子供たちを連れ、北門まで向かわねば。ヌースは再び移動を始めようとした。その時、

 

「――!!」

 

 路面に転がる敵自律トリオン兵から、何らかの信号が発せられた。

 ヌースは即座にヴルフを動かし、今度こそ敵トリオン兵に止めを刺す。

 敵の散り際の行動に邪悪な意思を感じたヌースは、焼けつくような焦燥を感じて辺りを窺う。

 と次の瞬間、凄まじい騒音と共に地面が大きく揺れた。

 

「これは……」

 

 ヌースはすぐさま、地震の原因を知ることになった。

 古めかしい建物を飲み込みながら、土中から巨大な円柱が姿を現した。捕獲・運搬用トリオン兵ワム。地中を掘り進んで奇襲を仕掛ける大型のトリオン兵である。

 出現したワムは一体や二体ではない。貧民街を含めた聖都の北部のあらゆる場所に巨大トリオン兵が現われ、不気味な身体をのたくらせている。

 

 そしてワムの身体から飛び出したのは、中、小型のトリオン兵の群れである。

 北壁を越えられなかった敵は、なんと地中を通って兵を送り込んできたらしい。

 今さら兵を展開したところで聖都攻略の役には立つまいが、それでも敵のトリガー使いの撤退を援護することぐらいはできる。完全に嫌がらせの為の用兵だ。

 そしてヌースにとっては、このタイミングで敵の増援が現われるなど、悪夢以外の何物でもなかった。

 

「っ!」

 

 スラスターを噴かしてヌースが飛翔する。

 サロスたちの反応は逐一追い続けており、すぐにでも合流できるはずだ。彼らはまだトリオン体を失っていない。

 配下のヴルフを置き去りにして、限界まで速度を上げる。

 

 必ず間に合う。あの子たちを護る。

 魂の無い器物として生まれた己に、存在する意味を与えてくれた人たち。愛する家族の為、彼女は我が身を省みずに飛翔を続ける。だが、

 

「――!?」

 

 突如として飛来したトリオン弾が、彼女の進行を阻んだ。

 空中を猛回転しながら制止した彼女は、攻撃の出所を探る。

 果たして民家の屋根に居たのは、またしてもクリズリであった。否、それだけではない。クリズリの横には、あの自律トリオン兵が浮かんでいる。

 

 一分一秒を争うこの局面で、再び難敵に見付かるとは。

 現存戦力で当たるのは心もとない。そして何より戦っている暇はない。ここは逃げに徹するべきだ。路地に逃げ込んでしまえば撒くことも不可能ではない。ヌースはそう己を鼓舞する。

 しかし、本物の絶望は深く静かに彼女を取り囲んでいた。

 

「敵自律トリオン兵ヲ鹵獲スル。総員掛カレ」

 

 さびついた声がしたのは、屋根の上からではなかった。

 街路の前方に、クリズリを含めたトリオン兵団が現われる。その奥に浮かんでいるのは、またしてもあの自律トリオン兵だ。

 

 それだけではない。ヌースが逃げ込もうとした路地からは、ヴルフの群れが現われた。指揮しているはこれまた同じ自律トリオン兵。

 いつの間にか彼女を取り囲むように展開していたノマスのトリオン兵団。見れば、六体にも及ぶ自律トリオン兵がそれらを率いている。

 通常ならば考えられない事態である。自律トリオン兵はその高機能の代償に、製造に掛かるコストが桁違いに高い。こうまで容易く数を揃えることは、如何な大国であっても不可能な筈であった。

 

 けれど、ヌースは知らない。

 

 ノマスが開発したのは量産型自律トリオン兵デクー。

 その名が示す通り、自律トリオン兵としての性能を保ちながらも、製造コストの著しい削減に成功した傑作兵器なのだ。

 デクーはノマスの戦法の弱点である、トリオン兵の指揮官不足を補うために開発された秘密兵器だ。

 技術漏えいを防ぐため、デクーは此度の戦争でもなるべく秘密裏に運用されてきた。

 

 しかし今、彼らは堂々と姿を現し、虫のように冷酷な瞳でヌースを見詰めている。

 彼らの目的は只一つ。稀代の技術者であるレギナが残したトリオン兵を、本国へと持ち帰る事だ。ヌースが迂闊にも自らの由緒を明かしてしまったがために、彼らは大挙して兵を送り込んできたのだ。

 

「皆……」

 

 激しい戦闘音が、伽藍堂の町に響き渡る。

 市内に侵入したトリオン兵を迎撃すべく、フィロドクス騎士団が機敏に動き出していた。

 戦闘はもう間もなく終結するだろう。土中から現れたトリオン兵の数は、流石にそう多くはない。しかし、それまでの間、この分厚い包囲から逃げ切れるかどうか。

 ヌースは助かる見込みなど欠片もないことを認めつつも、決死の抵抗を始めた。

 

 

 



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其の十五 終結 壊れた世界

 どこをどう歩いたのか、何も覚えていない。

 

 数えきれないほどの命の輝きで満たされていた聖都は、今や死と破壊の暗黒に塗れ、怨嗟と悲嘆に溢れかえっていた。

 

 争いは終わることなく続いている。

 遠く近くから聞こえる殺し合いの音。吸い込む空気は肺を焼かんばかりに熱く、塵埃によって何度もむせ返ってしまう。

 けれど、そんなことは彼女にとって、もう何の関係も無かった。

 

 地獄が顕現したかのような聖都に、小さな少女の姿がある。

 白髪金瞳の少女フィリア・イリニは、荒れ果てた地面を何とか踏み分けながら、夢遊病患者のような力ない足取りで街路を歩いていた。

 

 少女の身体は調整されたトリオン体ではなく、年齢そのままの姿である。教会にて母パイデイアが残した(ブラック)トリガーを起動していたからだ。

 ただ、彼女にその自覚があるかどうかは怪しい。

 少女の黄金色の瞳は茫洋として焦点を結ばず、表情からは人形のように感情が抜け落ちている。

 

「たのまれたから……母さんに……」

 

 ぼそりと、フィリアの口から独り言が漏れる。

 少女はもはや正気ではなかった。母が目の前で命を落としたという事実を、彼女は受け止めることができずにいた。

 

「みんなの……所に、行かないと……」

 

 パイデイアが最期に願った、家族と共にいてほしいという言葉。それだけを支えにして、少女は崩壊寸前の心を辛うじて縫い止めていた。

 

「わたしが、かんばらないと……がんばって……がんばって、それで?」

 

 難しいことを考えると、頭が痛くなる。

 

 少女はうんうんと首を振って唸ると、何はともかく細い足を前へと出す。

 弟妹たちのいる場所は、サイドエフェクトが教えてくれた。

 何か、色々な物が彼女を邪魔した気もするが、手の中にあったトリガーを使えば、みんな静かになった。

 

 何故、こんなトリガーを持っているのだろうか?

 その疑問が浮かぶと頭がひび割れるように痛むので、フィリアはこのことを考えないようにした。

 

 とぼとぼと、頼りない足取りで廃墟を進む。

 途中、奇妙な振動が聖都を包んだ。そしてどんよりと空を覆っていた雲が晴れ、夕焼け空が姿を現した。

 その現象はノマスの兵団がエクリシアから撤退したことを意味するのだが、忘我のフィリアは終ぞ気付かなかった。

 

 そうしてどれほど歩いたか。少女は懐かしい貧民街へと辿りついていた。

 家族と共に半生を過ごした街。弟妹たちはきっとこの近くにいると、直感が訴えている。

 記憶にあるそのままの街並みを、少女は何者かに誘われるように辿って行く。

 大通りから脇道に入り、いつもの小道を右に曲がって暫く進むと、あの暖かで希望に溢れた我が家がある。

 

「いま、かえったよ」

 

 思い出のままの我が家にたどり着いた少女は、立て付けの悪い木戸を小さな手で叩く。

 

 けれども返事はなく、扉は固く閉ざされたままだ。

 きっとまだ誰も帰っていないのだろう。いったい何処をほっつき歩いているのやら。日が暮れるまでは家に帰るようにと、あれほど言いつけているのに。

 

 少女の頭は、もはや事象を正しく認識することさえ怪しくなっていた。

 今、彼女は思い出の中にいた。

 辛いことも、苦しいことも、嫌なことも全部、その扉の向こうでは意味を失う。

 弟妹たちがいつもはしゃいで騒いで、ヌースが御小言をいって、そしてその側では、母が笑顔で座っている。

 

 愛と喜びに溢れた、この世で最も美しい世界。

 けれど、そこへ続く扉は開かない。鍵を取り出そうとして、持っていないことに気付く。

 

 あれほど大事にしていた鍵が、何故無いのだろう。肌身離さず持っていたはずなのに。

 困り果てたフィリアは、外出しているだろう家族を探しに再び歩き出した。

 足元に転がっている何か――赤黒い肉の塊――のことは、気に留めることさえなかった。

 

「ヌース、ヌース。どこにいるの?」

 

 童女のような声で呼ばわりながら、フィリアは石造りの街をさ迷い歩く。

 いつも彼女たちを見守り、慈しんでくれた家族。きっと彼女に聞けば、すべては解決するはずだ。

 

 でも、ヌースの姿は一向に見付からない。

 きっと弟たちに頼み込まれて、一緒に遊んでいるのだろう。いつもそうなんだ。厳しいようでいて、結局家族にはどこまでも甘く優しいんだから。

 

 そうしてフィリアは凄まじい破壊の痕跡が残る大通りへと出た。

 倒壊した建物も、地面に散らばるトリオン兵の残骸も、少女にとっては何の意味も持たない。直感に導かれるまま、漠然と荒れ果てた道を進む。

 

 そうして、ようやく彼女は探し求めていた家族に出会った。

 サロス、アネシス、イダニコは揃って地面に寝転がっていた。

 

「もう、こんなところで、なにしてるの?」

 

 昼寝でもしているのだろうか。気持ちいいのは分かるけど、服が汚れてしまうし、危ないから駄目だといっているのに。

 フィリアは地に伏せる弟妹たちの下へと歩み寄り、順々にその肩を揺する。

 

「おきて、もうおうちにかえらないと。ばんごはんのじかんだよ」

 

 喉から出た声は、からからに擦れていて、まるで嗄れた老婆のようだった。

 

「……ねえ、起きて……みんな……寝ちゃったら、駄目、だよ……」

 

 声が震える。涙の色が混じる。

 

 三人の胸に広がる深紅の色。その衝撃が、少女を夢から覚ましていた。

 トリオン機関を取り出された弟妹たちは、もう何も話してはくれなかった。

 

 もはやすべては手遅れだった。取り戻せるものなど何一つ残ってはいなかった。

 フィリアはようやく気付いた。

 世界は、取り返しが付かないほどに壊れてしまったのだと。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 コンソールの淡い光に照らされた室内。ドミヌス氏族が所有する遠征艇の戦闘指揮所には、エクリシアから帰還を遂げた戦士らが一堂に会していた。

 

「皆、ご苦労だった」

 

 投影モニター付きのテーブルに居並ぶ男女の内、最奥に座るレクスが威厳に満ちた声で一同を労った。

 ノマスの遠征部隊は既に人員の収容を終え、現在祖国へと帰還している最中である。

 遠征にはノマスの主だった氏族の殆どが参加したが、幸か不幸か、聖都の奥深くまで進攻したドミヌス氏族以外の部隊は、エクリシアの防衛部隊に早々に撃破されてしまったため、人的損害を殆ど出さずに撤退することができた。

 

「ユウェネスの傷はどうなんだ?」

 

 そう切り出したのは、今遠征の副官を務めるアーエル氏族のマラキアだ。

 彼は隔離戦場に誘導された兵の指揮を執っていたため、聖都攻略には参加していない。

 

「……容態は安定しました。ノマスに戻り次第、医療施設に搬送します」

 

 質問に応えたのはモナカだ。彼女とレグルスは負傷したユウェネスを連れ、聖都の中心地から決死の逃亡を行った。そして遠征艇にたどり着いてからは、彼女は一睡もせずにユウェネスの治療に当たっていた。

 

「私たちは作戦を成功に導くことができませんでした……申し訳ありません」

 

 疲労しきった顔で、モナカは力なく謝罪の言葉を口にする。

 だが、一座の誰も彼女を責めることはしなかった。

 

「責があるとするならば皆がそうだ」

 

 レクスが諭すようにそう言う。

 そもそも成功の可能性が低い作戦であったのだ。生きて帰れただけで御の字である。

 

「あの巨神は一体なんだったんでしょう。あれさえなければ、きっとユウェネスさんたちは(マザー)トリガーを堕とせていたはずなんです」

 

 さも悔しそうに呟くのは、最年少の戦士レグルスだ。

 

 彼が言うのは、教会の奥から現れたエクリシアの秘密兵器「恐怖の軛(フォボス)」である。

 戦闘に不向きとはいえ、ノマスが誇る二本の(ブラック)トリガーを一蹴してのけた超兵器。

 一時は(マザー)トリガーの喉元まで迫ったユウェネスたちは、その巨神によって散々に打ち破られた。

 のみならず、巨神は聖都の上空へと飛翔するや、市内に展開するノマスのトリオン兵を箒で塵を掃くかのように破壊していった。その圧倒的な殲滅力は、(ブラック)トリガーをも超越している。

 

「彼の国の奥の手だろう。見ることができたのは僥倖だった。次に備えることができる」

 

 冷厳にそう言い放ったのは、ルーペス氏族のカルクスだ。

 (ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」の担い手たる老雄は、前段階の潜入部隊の指揮を執り、ゼーン騎士団総長ニネミア・ゼーンと相打ちになった後は、マラキアに伴われて戦場を脱出していた。

 

 同じく潜入部隊のカルボーは、撤退時に手傷を負ったため休んでいる。

 奇襲作戦で命を落としたテララの亡骸は、とうとう回収することができなかった。

 

「良く戦ってくれた諸君。残念ながらエクリシアの命脈を絶つことは叶わなかったが、それでも深手を負わせることはできた。此度の遠征は、決して我が方の敗北ではない」

 

 レクスはそう言って、今一度ノマスの戦士たちに声を掛ける。

 遠征の主目標である(マザー)トリガーの制圧は為し得なかったが、副目標は達成することができた。

 

「彼の国のトリオン資源は半減したはずだ。次代の神は矮小なものとなろう。向こう数百年に及ぶ災禍の芽を、我らは摘むことができたのだ」

 

 ノマスの掲げた副目標。それはエクリシアの有望なトリオン能力者を、片端から殺していくというものであった。

 このため、ノマスはトリガー使いからなる(マザー)トリガー攻略部隊とは別に、新兵器の量産型自律トリオン兵デクーを核とした、人間狩りの部隊を聖都へとばら撒いた。

 彼らは混乱に乗じて、軍属民間人を問わず、優れたトリオン能力の持ち主を次々に殺害していった。

 

 別けても、神の候補となる人間は最大の標的であった。

 神の代替わりを控えるという時期に、ノマスとエクリシアの軌道が重なったのは、最早天佑である。

 事前にその情報を察知したノマス遠征部隊は、仮に(マザー)トリガー攻略が失敗に終わった場合に備え、エクリシアの国力を確実に削ぐ計画を立てたのだ。

 

 結果として、その計画は見事に図に当たった。

 神の候補として使えるような人間は殆ど全滅したはずである。のみならず、トリオン能力に優れた人間も数多く排除できた。これほどの被害を受ければ、今後の遠征にも支障をきたすだろう。

 

 広大な国土を維持できなくなれば、当然ながらエクリシアは国力を大きく減ずることになる。以後も続くであろうノマスとエクリシアの戦争で、この事がどれほどの益になるかは計り知れない。

 

「国に帰るまで、暫し身体を休めておけ。まだ、戦は終わった訳ではない」

 

 ブリーフィングが一息つくと、レクスは列席者に向けてそう言い放った。

 

「やはり、エクリシアは反撃を行うとお考えですか」

 

 と、レグルスは神妙な面持ちで父に問いかける。

 エクリシアとの邂逅にあたって、ノマスは戦争を二段階に分けて計画を立てていた。

 

 すなわち、エクリシアへの侵攻と、エクリシアからの自国の防衛である。

 しかし、今回の侵攻はかなりの戦果を挙げることができた。彼の国は手痛いダメージを受けたはずである。その傷を押してまで、コストのかかる遠征を行うだろうか。

 

「必ずエクリシアは来る。我らはそれに備えねばならぬ。――敵は傷を負った獣だ。死に物狂いで襲い掛かってくるだろう。決して気を緩めてはならない」

 

 その疑問に対して、レクスは断固たる口調で答えた。

 近界(ネイバーフッド)に広がる暗黒の海で、何百年と続けられてきた二つの国の争い。

 どちらかが死に絶えるまで、決して戦いは終わらない。凄惨な歴史がそう教えている。

 

 

    ×   ×   ×

 

 

 山の稜線に沈みつつある太陽は、晴れ渡ったエクリシアの空を茜色に染め上げていた。

 聖都の中央、小高い丘の上に位置する教会も、夕日に照らされていた。

 全ての市民が心に描く壮麗な教会は、しかし尖塔はへし折れ、壁という壁には無残な傷が走り、大門は焼け落ちるという、惨憺たる姿を晒していた。

 

 ノマスの遠征艇がエクリシアを離れてしばらく経った頃。

 聖都の上空を飛び回っていた巨大な人影が、教会の前に設けられた防御陣地の一画に降り立った。

 二十メートルを超える巨大な甲冑は、エクリシアの守護神「恐怖の軛(フォボス)」である。

 

 (マザー)トリガー攻略を目論むノマスの強襲部隊を撃破した巨神は、隔離戦場から駆けつけた騎士団と共に、聖都を跳梁するトリオン兵の排除に当たっていた。

 残敵の反応が完全に消え去ったのを確認し、巨神は再び神の御坐を護るために教会へと戻ってきたのである。

 

「おお、猊下よ。我らをお救い下さり、言葉も御座いませぬ」

 

 巨神の眼前に並び、膝を付いて出迎えたのは、枢機卿ステマ・プロゴロスを初めとした教会の幹部たちだ。

 彼らは教会防衛戦の折り、地下深くのシェルターに避難していたため命を長らえることができた。防衛部隊、市民に出た死傷者の数を考えれば惰弱の誹りを受けかねないが、国政を差配する重鎮たちであることを考えれば、それも仕方のないことだろう。

 

「もう医療部隊を動かしても大丈夫なはずだよ。市民たちには出来る限りの事をしてあげてほしい」

 

 とその時、聳え立つ巨神の胸部ハッチが開き、中から空色の髪と瞳をした少年が現われた。

 彼はエクリシア教皇アヴリオ・エルピス。(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」の担い手にして、エクリシアの秘密兵器「恐怖の軛(フォボス)」の操縦者である。

 

「…………」

 

 アヴリオはハッチの上に立ったまま、眼下に広がる聖都の惨状を無言で眺めていた。数百年にも及ぶ長き生の中、ただひたすらに祖国に尽くしてきた彼は、この光景を如何な思いで受け止めているのだろうか。

 

「教会の警護はもういいよ。ごめんね、時間を取らせちゃって」

 

 暫しの間黄昏に佇んでいた少年は、視線を足元へと向けると、そこに立つ金髪の偉丈夫に声を掛けた。

 

「いえ、危局に馳せ参じることができず、申し開きもありません」

 

 応えたのは、イリニ騎士団総長アルモニア・イリニである。

 アヴリオの出撃と入れ違いに教会へと駆けつけた彼は、そのまま防衛部隊を再編し、市内のトリオン兵が駆逐されるまで教会の守備に就いていた。

 

「君たちも市民の救出に向かってほしい。一人でも多くの命が救われるように、全力を尽くしてください」

「はい」

 

 教皇の命に首肯して応えると、アルモニアは手勢を連れて教会を後にした。

 そんな彼の姿を見送りながら、アヴリオは再び荒廃した世界に目を向ける。

 彼が愛してやまなかった命の輝きは、もうどこにも見出すことはできなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 教会を離れたアルモニアは、隔離戦場から駆けつけたイリニ騎士団の兵と合流し、救助部隊を再編した。

 そして他の騎士団と連携して、速やかに救助活動を開始する。

 しかし、総長たるアルモニアは直接現場に赴く訳にはいかず、仮の指揮所で部隊の指揮を執ることになった。

 

 聖都全域に散らばった兵士たちが、市民の救助を行う。すると、次第にエクリシアが受けた被害が明らかになってきた。

 次々と上がってくる報告は、指揮所に詰める者たちの顔色を失わせるに十分なモノであった。

 

 死人の数が、尋常ではない。

 聖都まで侵攻を許してしまったことで、市民たちに多大な被害が出ただろうことは誰しも覚悟していた。

 しかし、実際に判明した死者数は、現時点で既に予想を遥かに超えている。

 

 防衛部隊の報告から、どうやらノマスは惑乱に用いたトリオン兵の他に、レーダー対策を施したトリオン兵を多数聖都に放っていたらしい。

 それらが何と、市民たちを見境なしに殺し回っていたと言うのだ。

 

「……」

 

 然しものアルモニアも、渋面を隠すことはできなかった。

 近界(ネイバーフッド)の戦争は、人的資源であるトリオンを奪い合う争いだ。その為、無用な殺人は控えるのが通例である。打ち倒した敵は捕虜とし、相応の代価を頂く。死人が出るのは致し方ないことだが、虐殺は滅多に行われない。それをすれば、今度は自国が敗北した時に同じ目に遭うからだ。

 

 その不文律を、ノマスは完全に破った。

 ただ、アルモニアにそれを責める資格はなかっただろう。十余年前の戦争では、エクリシアの方がノマスに同じことをしたのだから。

 

「……ともかく、負傷者の救助が優先だ。遺体は捨て置いても構わない。一人でも多くを助けるんだ」

 

 アルモニアは務めて平静な様子でオペレーターに指示を下す。

 責任者が狼狽を見せれば、下々の者にも動揺が広まってしまう。

 救助活動は、ある意味では戦闘よりも過酷な作業だ。迅速に、円滑に、そして辛抱強く救助を進めていかなければならない。

 

 暗澹たる報告ばかりが届き、指揮所の空気は鉛のように重い。それでも、彼らは人々を助けようと懸命に動き続けていた。

 そうして暫くの時間が過ぎた頃、

 

「総長! 騎士フィリアが見つかったとのことですっ!」

 

 オペレーターの一人がそう叫んだ。

 

「――っ! ……そうか。生死は?」

 

 アルモニアは驚愕に目を見開き、そして一拍の内に動揺を押し殺すと、厳粛な声でオペレーターに問うた。

 彼の家族は、今まで誰一人として安否が判明していなかった。

 だが、責任ある立場の者として私心に駆られる訳にはいかず、捜索を優先させることはできなかったのだ。

 

「無事です。トリオン体も維持しており、負傷した様子はないとのことです」

 

 その報告に、アルモニアは謹厳な面持ちで頷いた。

内心では腰が抜けるほどの安堵を覚え、今すぐにでも指揮所を飛び出したい思いに駆られたのだが、懸命にその情動を押しとどめ、おくびにも出さないように振る舞う。

 

「その、しかし、騎士フィリアは確かに無事なのですが……」

「――なに?」

 

 だが、困惑した面持ちで報告を続けようとするオペレーターに、不吉な気配を感じ取ったアルモニアは思わず眉を顰めて問い返した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 時が止まったかのような静寂の中、少女の口ずさむ歌が紅の世界に解けて消えていく。

 それは、母が子を寝かしつけるための子守唄。幾度となく耳にした、遠い記憶の中の歌。

 

 聖都の北部、貧民街の外れに位置するその場所に、フィリア・イリニの姿はあった。

 瓦礫の散乱する古い道路は西日を浴びて血の色に染まっており、その中心に座して歌う少女は、まるで一幅の絵画のような美しさであった。

 

「……」

 

 そんな彼女を遠巻きに囲んでいるのは、市民の救助に当たっている騎士団の兵たちだ。しかし、彼らは要救助者と思しき少女を前にして、困惑した様子で立ち尽くすばかり。

 

「……済まない。通してくれ」

 

 そんな兵たちを退かせたのは、アルモニア・イリニだ。

 彼はフィリアの異常な様子を耳にするや、部下に指揮を預けて現場へと急行した。

 

「な――危険です総長っ!」

 

 座り込むフィリアへ近寄ろうとしたアルモニアを、兵の一人が慌てて制止する。

 フィリアを保護しようとして、既に数名の兵がトリオン体を失っていた。

 正気を失ったと思しき少女は、周囲に近づく者を無差別に攻撃しているのだ。

 しかも、攻撃手段はまるで不明。少女に近づいただけで瞬時にトリオン体が破壊されるため、兵たちも彼女を保護することができないでいた。

 

「構わない。行かせてくれ」

 

 しかし、アルモニアは決然とそう言って、少女へ歩みを進めていく。と次の瞬間、

 

「――っ!」

 

 爆音と共に、アルモニアのトリオン体が四散した。

 だがそれでも彼は引くことなく、歌を口ずさむ少女の背に向け、暖かな言葉を掛ける。

 

「フィリア。迎えに来たよ」

 

 その言葉が通じたのか、フィリアは首を逸らして伯父の姿を眺め見る。

 

「ご当主、様……?」

 

 きょとんとしたその表情は、まるで年端もいかぬ童女のようで――如何に今までの少女が歪な日々を歩んでいたのかを、アルモニアは思い知らされることになった。

 

「怪我はないか? よく無事でいてくれた」

 

 優しくそう語りかけながらも、彼は少女の痛ましい姿に思わず目を背けそうになった。

 フィリアの膝元には、三人の子供たちが横たわっていた。

 サロス、アネシス、イダニコ。彼女の弟妹たちは、まるで春の花園で昼寝でもしているかのように、仲良く並んで眠っている。

 フィリアは彼らの頭を膝の上に乗せ、髪を手で梳いてやりながら、子守唄を聞かせていたのである。

 

「みんな……みんな……死んで、いなくなって……」

 

 茫とした眼差しのまま、少女が譫言のように呟く。今にも泣き出しそうに顔を歪め、それでも一滴の涙も流れない。総身を苛む哀しみと絶望を、吐き出すことさえできないかのように。

 

「――っ!」

 

 思わず、アルモニアは駆けだしていた。

 周囲を囲む兵らが息を呑む。生身となった彼が再び攻撃を受ければ、待ち受けているのは確実な死だ。

 けれども、少女は彼を拒むことはなかった。

 アルモニアはフィリアの小さな身体を抱きしめ、その顔に頬を寄せる。

 

「でもお前は生きている。生きていてくれたんだ……」

 

 激情を押し殺した声で、彼は少女に言葉を紡ぐ。

 この地獄と化した戦場で、誰も彼もが生死の境をさまよって、それでもなお、少女の命は此処に脈打っている。

 全てを取りこぼしたかに思えた。だが、残されたものはあった。

 痛いほどの力強い抱擁に、フィリアは困惑したように伯父の横顔を見遣る。

 

「……帰ろうフィリア。みんなを連れて」

 

 アルモニアが熱を帯びた声でそう囁く。けれど、

 

「帰る……どこに、帰ればいいの?」

 

 フィリアは茫然としてそう呟いた。

 もう世界は壊れてしまったのに、一体どこに行けばいいのか。

 少女は訳も分からぬまま、己を抱きしめ続ける男をぼんやりと眺めていた。

 

 

 

                                 第五章へ続く

 

 



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第五章 「あちら」の話
其の一 幕間 ノマスの覚悟 前篇


 薫風吹き抜ける緑の園。穏やかな日差しに包まれた芝生敷きの広間に、嬰児の泣き声が響き渡る。

 力一杯に声を張り上げているのは、珠のように滑らかな褐色の肌をした、まだ髪の毛も生えそろわない赤子である。

 

 何がそんなに気に障ったのか、わんわんと大声で泣き続ける赤子。

 その姿は、草木が萌えいずるような瑞々しい生命力に満ち溢れていた。

 そして、赤子の泣き声に重なるように、優しい歌声が緑の園に響く。

 

「可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたの枕に優しい夢を

 あなたの布団に素敵な星を

 銀の光が窓から差して

 金の光に変わるまで

 可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたに安らぎありますように

 あなたに幸せありますように」

 

 穏やかな声で紡がれる歌が、初夏の陽だまりに溶けていく。

 いつしか赤子の泣き声は止み、広場は小さな小さな寝息と、それを慈しみ見守る人々の歓喜の吐息で包まれていた。

 火のついたように泣き喚いていた赤子は、にゃむにゃむと寝言を呟きながら、夢の世界に遊んでいる。

 

 まるでこの世に奇跡が有る事を証明するかのような、無垢で愛らしい赤子の姿。

 善美の象徴たる赤子を前にすれば、誰しもが頬を緩め、暖かな気持ちに包まれることだろう。しかし、

 

「眠ったのか? もう、大丈夫だろうか……」

 

 赤子を目の前にして、そう不安気に呟く男がいる。

 恐る恐るといった風に赤子に近づいてきたのは、麦穂のような金髪と、翡翠のように輝く瞳をした端正な若者だ。

 彼は産着にくるまれた褐色の赤子をおっかなびっくり覗き込み、安らかな寝息を立てている姿に心底安堵する。

 

「もう兄さん! 撫でる時は力を入れちゃダメって言ってるでしょ! 剣ばっかり握ってるから加減ができないのよ。そんなんじゃ、何時までたってもフィリアに泣かれるばっかりよ」

 

 と、青年を小声で叱責するのは、彼と同じ金髪翠眼をしたうら若き女性だ。齢の頃は二十に届くかどうか。青年とは、どうやら兄妹であるらしい。

 黄金のように煌めく長髪をなびかせた女性は、狼狽える青年を尻目に、寝入った赤子に飽くことなく慈愛の眼差しを送っている。

 

「い、いや、ちゃんと加減はしたんだぞ。なるべく優しく触ったつもりだったんだが……」

「ふーん、そう。じゃあなんでこの子は兄さんの抱っこの時だけ泣くのかしら?」

 

 たじろいだ様子で言い訳を並べる青年に、しかし金髪の女性は非難がましい視線を送るのみ。とその時、

 

「――ふふっ!」

 

 そんな二人の様子が面白かったのか、噴き出すような笑い声がする。

 

「アルは人に触るの下手っぴだからね。変に力みすぎたり、くすぐったかったり。ごついなりして気にしぃなのよ。お~よしよし、ぶきっちょなパパで大変でちゅね~」

 

 そう言って幼子に語りかけるのは、ゆったりとしたワンピースを着た二十歳そこそこの女性である。

 艶やかに輝く褐色の肌は健康的そのもので、深雪のように白く繊細な髪はざっくりと結い上げられており、見るからに活動的な雰囲気を発している。

 顔立ちは誰しもが目を見張るほど優美であり、また挙措動作からは、高貴な出自を窺わせる気品が漂っている。

 

 ただ、その黄金で拵えたかのような瞳は、まるであどけない少女のように輝いていた。

 白い歯を覗かせ茶目っ気たっぷりにほほ笑む姿は、初夏の日差しに負けぬ程に眩く、鈴を転がすような愛らしい声は、聴く者すべてを明るく元気づける。

 

 遠い異国。草原の国ノマスからやってきた女性は、太陽のように明るく暖かな心を、すこしも損なわずにソコにいた。

 

「……この子は多分、アルがいっぱい悩んで、苦しんでるのが分かるんじゃないかな。だから、お父さんの分まで泣いちゃうんだと思う。それでちょっとでも、アルの気が楽になってくれるように、って」

 

 膝の上に抱いた幼子を愛おしむように撫で、白髪金瞳の女性はそっと呟く。

 そうして寝入った我が子を、彼女は慈愛に満ちた表情で見守る。

 

「何時かこの子が、泣かずに済む日は来るのかな……」

 

 その表情に一抹の不安を感じ取ったのか、金髪翠眼の女性が切なげにそう呟く。

 赤子とその母親は、極めて危うい立場にある。この世の全ての幸福に満たされたかのような光景は、しかしいつ崩れるとも知れない薄氷の上に成り立っている。

 彼女の呟きは、一向に晴れない前途を案じてのものだ。しかし、

 

「来るよ。――ううん、私たちで、この子を連れていかないと」

 

 我が子を腕に抱く母は、力強い声で断言する。

 愛娘の待ち受ける未来を、必ず輝かしく優しいものに変えてみせる。それは彼女ならずとも、親となった誰もが抱く願いだろう。

 

「でも、やっぱり不安だよ。今がこんなに幸せだと、いつか壊れてしまうんじゃないかって思って……」

 

 晴れやかな宣言を聞いても、金髪の乙女の面持ちは未だ曇ったままだ。そんな彼女に、

 

「だいじょーぶだって。見たまえこの子の愛らしさを! まずはアルのお父様を落として、それから私の家族を籠絡しちゃえばいいんだよ。一度抱っこさせちゃえばきっと皆メロメロだよ。――なんせ、この堅物ぶきっちょのアルを骨抜きにしたんだから」

 

 銀髪の母は朗らかに笑ってそう言う。

 その邪気の無い笑顔に、金髪の乙女も釣られて笑い出す。

 引き合いに出された青年は一人ばつが悪そうに頬を掻いていたが、やがて女性二人の笑い声が収まると、愛する妻と子に寄り添うように芝生へと腰を下ろした。

 

「ああ――約束する。お前とこの子を、きっと幸せにしてみせる。必ずだ」

 

 そう言って、青年は妻の肩に腕を回し、力強く抱きよせた。

 愛する夫の不器用な、それでも真摯な告白に、妻は一層笑顔を輝かせると、

 

「うん――頼りにしてるよ、旦那さま!」

 

 と、この世の全てを寿ぐようにそう言った。そして――

 

「勿論、あなたも一緒だよ」

 

 彼女は我が子を抱いたまま、すっと手を差し延ばす。

 細い指先が撫でたのは、彼女たちの歓談を眺め続けていた撮影者だ。

 

「私たち家族をこれからもよろしくね! ヌース」

 

 ノマスの姫君レギナはそう言って、満面の笑みを浮かべる。

 うららかな初夏の陽光に包まれ、家族は優しい時間を過ごした。

 何者にも侵せない澄明な幸せが、確かにそこには存在していた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 投影モニターとコンソールの薄明かりに照らされた室内。

 さして広くも無い部屋には様々な機械が詰め込まれ、息苦しいほどの狭さとなっている。

 

 固い面持ちで椅子に座っているのは、栗毛の編み込みを下げた褐色肌の女性だ。

 年齢は三十を少し過ぎたほど。柔らかな面立ちにも関わらず、発している雰囲気は神経質そうで、どこかガラスのような危うさがある。

 

 彼女は狩猟国家ノマスの技術顧問、シビッラ氏族のモナカだ。

 勤務服の上に白衣を纏ったモナカは、気遣わしげな様子で背後を振り返る。

 彼女個人の執務室には、もう一人の人物がいた。

 

「見せたいものというのはこれか? 時間を無駄にするな」

 

 彼女の背後に腕組みをして立っていたのは、四十ほどの年頃と見える白髪金瞳の偉丈夫だ。冷厳な瞳でモナカを見遣るのは、ドミヌス氏族ケレベルの子レクス。

 ここ狩猟国家ノマスにて、最大の権勢を誇る大氏族の長である。

 

「必要なのはエクリシアのトリガー、トリオン兵、戦術、それら諸々の情報だ。関係のない映像記録など、検めている暇はない」

 

 にべもなくそう言って、レクスは視線を投影モニターの奥へと投げかける。

 

 トリオン製の機械に囲まれた台座の上に、人の頭ほどの大きさをした白い物体が鎮座していた。涙滴型の胴体に、魚の尾びれを思わせる突起を付けたそれは、ノマスが先の遠征時、エクリシアから鹵獲した自律型多目的トリオン兵ヌースである。

 

 プログラムに従って破壊活動を行うだけの通常のトリオン兵とは異なり、自律型トリオン兵は、自ら思考し、判断し、言葉を発することができる。

 しかし、何本ものケーブルに繋がれたヌースは、まるで置物のように身動きひとつせず、意思を表明することもない。

 これは活動に必要なトリオンが、彼女に供給されていないからだ。

 

 ヌースはノマス本国に連れ去られるや、即座に全機能を停止させられ、モナカによって機構を解析されていた。

 不世出の天才科学者レギナによって造られたヌースは、ノマスがやっとのことで開発にこぎ着けた自律型トリオン兵を遥かに上回る性能を有している。

 またそれだけではなく、ヌースはエクリシアの重要な軍事機密を多数保存しており、それらデータの抽出と解析が急ピッチで進められていた。

 

 ノマスの指導者たるレクスは、その進捗状況を聴くためにモナカの執務室まで足を運んでいた。しかしそこで彼が見せられたのは、遠い過去の映像記憶であった。

 

「ですが、このトリオン兵はレギナの事を知っているんです。私たちから奪われてしまったあの子の、それからの日々を……」

 

 十余年前、エクリシアによって拉致されたノマスの姫君レギナ。レクスの妹に当たり、モナカにとっては無二の親友であった彼女。

 ヌースの映像記憶の中には、彼女が彼の国で如何に生き、そしてどのような最期を遂げたのかが、克明に記録されていた。

 モナカは彼女の兄であるレクスに、その詳細を伝えようとしたのだ。だが、

 

「アレは死んだ。死んだ人間に囚われつづけることは許されない。我々には国を護る使命がある」

 

 レクスは諄々と諭すような調子で、モナカにそう告げる。

 つい先日、ノマスはエクリシアに空前絶後の規模の攻撃を仕掛け、そして彼の国に未曽有の大損害を与えることに成功した。

 

 しかし、エクリシアがこのまま泣き寝入りをすることなど考えられない。必ずや兵馬を揃え、ノマスに逆襲を行うことだろう。

 来たる敵襲に備え、ノマスでは昼夜をおかずに防衛戦の準備が進められている。

 モナカに与えられた任務は、速やかなる敵戦力の究明だ。故人の面影を偲んでいる時間など、どこにもありはしない。

 

「防衛はかねてより練られていた計画通りに行う。お前に与えられた仕事はこれだけではない。急ぎ情報を取りまとめよ」

 

 レクスは峻厳な面持ちでそう命じると、執務室の扉を開けて退出した。

 部屋に残されたモナカは逡巡した後、作業を進めようとコンソールに手を伸ばし、そして何度も視聴した親友の映像記録を再生する。

 

「……私は、間違っていたの?」

 

 唇を噛みしめながら、モナカは暗い部屋で独りごちる。

 

 親友を連れ戻すため、そして彼女を辱めた連中に報いを受けさせるために、モナカはこの十余年余りの年月を憎悪と憤怒に塗り固めてきた。

 元は何の学識も無い侍女だった彼女が、艱難辛苦を乗り越えノマスの技術開発室チーフにまで上り詰めることができたのは、その胸にエクリシアへの怒りが滾っていたからだ。

 しかし記録の中にあるレギナの姿は、復讐に血道を上げてきたモナカを困惑させるに十分なものだった。

 

 酷烈なる責苦を受けたはずの親友は、何者をも怨んではいなかった。

 彼女はモナカが知る天真爛漫な心根のままに、誰も彼もに幸福が有らんことを願い、そして愛する我が子と世界の為に、鮮烈なる生を送ったのである。

 

「どうすればいいの。どうすれば、よかったのよ……」

 

 レギナは尊い志を貫いて生きた。それはモナカが愛してやまなかった、親友の有り方そのものである。

 けれども、己はどうか。失ったモノを取り戻そうと死に物狂いで足掻き、そして今、彼女は果たして親友に顔向けできる自分であるのだろうか。

 

 薄暗い執務室に、陰鬱なため息が溶ける。

 暫くの間、モナカは声も上げずに映像記録を眺めていた。しかし、やがて彼女は緩慢な動きで、己に課せられた責務に取り掛かる。

 レクスの言った通り、これは過去の記憶に過ぎない。何度見直したところで、これから先の未来は変わらない。

 

 レギナの祈りは届かなかった。世界は依然、残酷なままだ。

 虚無感に心を苛まれながら、モナカはただコンソールを操作し続けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 惑星国家ノマスは、国土のほぼ全域を広大な草原が占める緑の星だ。

 

 近界(ネイバーフッド)の他国と比して広い国土を持つノマスだが、年間を通して降水量は少なく、土地が肥沃とは言い難い。条件の良い場所では畑作も行われているが、国民の口を満たしているのは主に牧畜である。

 食糧事情に余裕が無いことから、ノマスは国土面積に比べて総人口はやや少ない。人的資源トリオンが何を差し置いても求められる近界(ネイバーフッド)では、不利な国家形態と言えるだろう。

 

 しかし、ノマスの民はそれぞれの血族が共同体を作り、固い紐帯で結ばれている。のみならず、彼らはノマスという国家そのものに強い帰属意識を抱いており、他国にありがちな、権力を巡って血なまぐさい内部抗争を起こすことが殆ど無い。

 全ては部族間の協議によって決められ、また一度決まったことに対しては、家族が助け合うように、全ての部族が力を尽くして事に当たる。

 

 食糧生産と人口に乏しいノマスが近界(ネイバーフッド)でも有数の大国になれたのは、この独自の気風に拠る所が大きい。一頭地を抜く技術力と、精強で鳴らしたトリガー使いたちは、国民の団結力の賜であった。

 そして今、彼らは不倶戴天の怨敵、聖堂国家エクリシアと対峙している。

 

 どこまでも広がる草原に、巨大な建造物が建っている。

 緑の海に忽然と現れたるのは、亀の甲羅を思わせるようなドーム状の建物だ。大小合わせて三十余りの建物が、まるで羊が群れるかのように並んでいる。

 

 付近に比較物が無いため分かり辛いが、桁外れに巨大な建造物である。

 比較的小さいドームでも、差し渡しは三百メートル余り。高さは七十メートルに近い。群れの中央に位置する最大のものでは、何と全長は一キロにも届き、高さ二百メートルはあろうかという威容を誇っている。

 

 さらに驚くべきことに、それらの建物は草原を悠々と移動しているのである。

 ドーム状の建物の外縁部からは、象の足を思わせるような巨大な足が三対六本生えている。それらが大地を踏みしめ、遠目にはゆっくりと、実際にはかなりの速度で草原を移動している。

 

 これらの巨大建築群こそ、ノマスが誇る「機動城塞都市」である。

 

 この巨大な船にはノマスの民が部族単位で住み、それぞれの生活を営んでいる。都市が移動するのは家畜の遊牧の為であり、普段は都市同士が一堂に会することはないのだが、現在はエクリシア迎撃のために全ての都市が集結していた。

 各都市は緊密な連携を取り、防衛準備に勤しんでいる。怨敵の襲来を待ち受ける都市は、緊迫した空気に包まれていた。

 

「――よっ!」

 

 最も巨大な機動都市、ドミヌス氏族が持つ「パトリア号」の内部を、軽快な足取りで駆ける少年の姿があった。

 ドミヌス氏族の直系であることを示す、白い髪と金色の瞳。

 年の頃は十四・五歳ほどの、凛々しい面立ちをした彼は、ドミヌス氏族レクスの子レグルス。ノマスで最高の権勢を誇る部族の嫡男である。

 

 都市の内部は複数の階層に分けられており、そのうちの上層部には市民が暮らす数多くのコンパートメントがある。

 吹き抜けに面して設けられた部屋の数々は、まるで巨大な集合住宅を思わせる。

 

 それらを結びつけるため空中に張り巡らされた回廊を、レグルスは急ぎ足で進んでいた。

 彼は若年ながらも防衛部隊に名を連ねる有力な戦士である。

 エクリシア襲来を間近に控え、防衛計画を滞りなく遂行させるための作業が夜を徹して行われており、少年も司令部付の兵として、朝から晩まで休むことなく都市を駆けずり回っていた。今も、機動都市の城壁に備え付けられた砲台の動作確認を終えてきたばかりである。

 

「お~い、レグルスちゃん!」

 

 司令部に戻ろうと急ぐ少年を、賑やかな声が呼び止めた。

 見れば、少年がいる場所よりさらに上層の居住区画から、恰幅の良い中年の女性が親しげに手を振っている。

 

「なんですかーウィタおばさん!」

 

 レグルスは足を止めて女性へと声を張り上げると、同時にトリオン体の腕部を変形させた。近接格闘トリガー「採集者(ブラキオン)」を起動した少年の両腕が、白亜の籠手に包まれる。

 レグルスはトリオン体の腕を二十メートル余りも伸ばすと、上部デッキの手すりをしっかりと掴んだ。そして腕の長さを定寸に縮め、瞬く間に階上へと移動する。

 

「何か困りごとですか?」

 

 危なげなく回廊へと着地した少年は、知人の女性に親しげに声を掛ける。

 ノマスの民にとって、同じ船に暮らす人間は家族も同然だ。問題が起きたというのなら、手を貸すのに何の躊躇いもない。

 しかし、ウィタおばさんは快活に笑うと、少年の胸に大きな布包みを押しつけてくる。

 

「あたしたちは大丈夫だよ。自分の事は自分でできるさ。それよりもレグルスちゃん! 忙しくてあんまり食べれてないでしょ? 皆でパンを焼いたのよ。ちょっと持っていきなさいな」

 

 暖かい布包みからは、焼き立てパンの香ばしい香りが立ち上ってくる。

 彼女たち市民も、エクリシア襲来に備えて懸命に働いている。こうして炊事を行ってくれるのも、有難い協力である。

 

「ありがとうございます。指揮所の皆で頂きますね」

 

 陣中見舞いに思わず顔を綻ばせると、レグルスはウィタおばさんに折り目正しく礼を述べた。

 そうして布包みを胸に抱いたままアトリウムを飛び降りようとする。と、

 

「ああ、ちょいと待っとくれ」

 

 少年はウィタに引きとめられた。何事かと振り向けば、彼女の背中からおずおずとした様子で、十二歳ぐらいの女の子が姿を現す。

 

「ほらウェネフィカ。お兄ちゃんに挨拶したかったんでしょ?」

 

 ウェネフィカと呼ばれた少女は、恥ずかしそうにウィタの裾に掴まって俯いている。

 そうして何度か母親に促されると、少女は意を決した様子で顔を上げ、レグルスをしっかり見詰めると、

 

「が、頑張ってねレグルス君!」

 

 と、大きな声でそう言った。

 戦争に於いて矢面に立つトリガー使いは、どの国でも崇敬の念を集める。それは優れたトリオン能力を持つ彼らが、国家の上部に君臨するからだ。

 

 しかし、ここノマスでは少し事情が異なる。ノマスの民にとっては、外敵と戦う者も、羊を追う者も、子供を育てる者も、等しく立派な人物として扱われる。

 もちろん、地位の上下や権力の大小は存在するが、それは建前だけの事で、胸の内には何の隔意も無い。彼らは巨大な家族なのだ。

 

 だからこそ、我が身を張って皆を護る戦士には、格別の信頼と尊敬が寄せられる。

 家族を護る同朋の、勝利と無事を祈って。少女は心から少年に声援を送る。

 

「ありがとう。頑張るよ!」

 

 レグルスは少女の頭を優しく撫でると、満面の笑みを浮かべてそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 アトリウムを飛び降りて居住区画の大通りへと着地したレグルスは、そのまま戦闘指揮所がある階下へと向かった。

 機動城塞都市「パトリア号」の中層は、ノマスの中枢たる施設が軒を連ねている。

 トリガーの研究開発区画に、防衛部隊の基地区画。重鎮らが寄りあい、国家の行方を定める議事堂もある。また都市の運行を行うブリッジもこの中心部の下層に位置し、現在そこが戦闘指揮所となっていた。

 

 開放的な造りの居住区画とは異なり、中層以下は狭い通路で複雑な区分けがなされ、迷路のような作りとなっている。

 殺風景な通路は、まるで巨大生物の体内に迷い込んだかのようだ。

 しかし、この都市で生まれ育った少年にとっては勝手知ったる我が家も同然だ。レグルスは軽やかな足取りで通路を進んでいく。とその時、

 

「……」

 

 少年の足が不意に止まった。

 彼が通りかかったのは、中層に設けられた医療区画である。

 来たる戦闘に向けて準備を行っているのは此処も例外ではなく、医療スタッフたちが慌ただしく駆け回っているのが見える。

 

「耳に入れておかない訳にも、いかないよな……」

 

 今の所レグルスには医療区画に用事はない。しかし、少年は暫し迷った後、スタッフに断りを入れて病室の一つに足を踏み入れた。

 小さな個室には窓も無く、無機質なトリオンの壁が四方を囲んでいる。

 

 ベッドの上にごろりと寝転がっているのは、くせ毛の黒髪をした二十そこそこの青年だ。

 彼はドミヌス氏族のユウェネス。レグルスのはとこに当たる人物だ。

 レグルスと共にエクリシア侵攻に加わったユウェネスは、撤退戦の折りに吹き飛んできた瓦礫に右脚を切断された。

 レグルス、モナカらの懸命の応急処置で辛くも一命を取り留めた青年だが、重症には変わりなく、本国に戻り次第こうして入院生活を続けている。

 

「お、レグルスじゃん、お疲れ」

「あ、起きてましたか」

 

 少年が入室するや、青年は大儀そうに上体を起こして声を掛ける。どうやら寝ころんでいただけで、寝入っていた訳ではなかったらしい。

 青年は何気ない手振りでブランケットを掛け直し、ひざ下の失せた右脚を隠した。

 

「……お加減はどうですか。何か、入用の物はありませんか?」

 

 介添え用の椅子に腰を下ろしたレグルスが、柔らかな調子で尋ねる。

 

「薬効いてるから痛みはマシだよ。まあ頭ぼーっとするけどな」

 

 対してユウェネスは、ごく軽い声で答えた。

 平時と変わらぬ飄々とした態度だが、目元は落ち窪み、頬はこけ、肌艶が悪い。

足を切断するほどの重症がそう簡単に癒える訳がない。のみならず、五体の一部を永遠に失ったという事実は、彼の精神に深い傷を与えているだろう。

 

「暇過ぎてどうにかなりそうだぜ。何か面白そうな話とかないのかよ?」

 

 しかし、青年は憔悴した様子などおくびにも出さず、暢気な声で問いかける。

 

「今は皆忙しくて、そんなこと言ってられませんよ。暇しているのはユウェネスさんだけですから」

 

 ユウェネスの明るい調子につられて、レグルスも思わず軽口を叩いてしまった。

 重傷を負った同朋をどう慰めればいいのか。そんな少年の心配を、青年は涼風のような爽やかさで吹き飛ばしてしまう。

 

「ちゃんと傷病休暇扱いなんだぜ。堂々と休んで何が悪いってんだ」

「お医者様に聞きましたよ。看護師さんをからかったり、勝手に病室から抜け出したりしてるそうですね。怪我人の自覚があるならちゃんと休んでくださいよ」

 

 大げさに非難声を上げる青年を、少年は半眼で睨みつける。

 この男は余程退屈が嫌いなのか、意識を取り戻したその日の内に病室を抜け出そうとして取り押さえられ、また外出できないとなると、自分の病室に他の入院患者を呼びつけ、盛大に賭けカードに興じるなどして、スタッフを散々に困らせているらしい。

 これが僅か数日前に片足を失った重症者などと、一体誰が信じるだろうかという放蕩ぶりである。

 

「いやいや、こう不安なご時世だと、みんな鬱屈としちまうわけさ。病は気からっていうだろ? みんなでパッと気晴らしするのも、養生の一つじゃないすかね」

「それ、カルクス翁や父さんの前で言ってみたらどうですか?」

 

 揉み手で弁解を並べ立てるユウェネスに、レグルスは冷笑で答える。

 けんもほろろな態度の少年だが、その胸中では、青年への尊敬の念が溢れていた。

 

 彼は、心身に負った傷と懸命に戦っている。

 普通なら再起不能の怪我を負いながらも、青年は己を見失わず、その事実と向き合おうとしている。

 自分が彼と同じ目に遭ったとして、果たしてこのように振る舞えるかどうか。

 レグルスは改めて、ユウェネスの中に近界(ネイバーフッド)に生きる戦士としての覚悟を見た。だが、

 

「まあいいや。ところでさっきから滅茶苦茶いい匂いがするんだけど。……そろそろ、我慢するのもきつくなってきたなぁ」

 

 折角少年が見直したというのに、青年はだらしのない顔つきで、小鼻をひくひくと膨らませている。どうやら布包みのパンを、目ざとく見つけていたらしい。

 

「あ、これは指揮所に持っていく分です。ユウェネスさんのはありませんよ」

「はぁ!? 嘘だろおい!!」

 

 余りに意地汚い顔をしていた青年に、少年が冷や水を浴びせかけた。

 

「おい頼むよ。こっちは三食点滴と不味い流動食ばっかりなんだぜ。そろそろ固形物食わねえと顎の使い方忘れちまうよ」

「……まったく、仕方ないなあ」

 

 みっともなく懇願するユウェネスに、レグルスは大げさに嘆息してみせると、布包みからパンを取り出した。青年の大好物の揚げパンである。

 

「こっそり食べて下さいよ。あと、もし具合が悪くなったりしたら、ちゃんとお医者さんに……」

「おう、分かってる分かってる」

 

 ユウェネスはひったくるようにパンを掴むと、早速齧り付き始めた。レグルスが小言を続けている間にも、揚げパンが胃袋へと消えていく。

 その間、青年の片手は抜け目なく布包みをまさぐり、二つ目を掴もうとしていたが、これは少年が無言でセーブし、失敗に終わった。

 

「いや旨かった。生きてるって素晴らしいよな」

 

 瞬く間に揚げパンを食し終えたユウェネスは、名残惜しそうに指を舐め、どっかりとベッドに背中を預ける。

 レグルスはそんなはとこの姿を、どこか複雑な表情で見つめていた。少年が見舞いに訪れたのは、ただ差し入れを渡すためだけではない。

 どう会話を切り出したものかと、少年は逡巡する。とその時、

 

「そういや、「万化の水(デュナミス)持つことになったんだって?」

 

 ユウェネスは何の気負いもない表情でそう呟いた。

 

「――っ、は、はい。ユウェネスさんの「万化の水(デュナミス)を、僕が預かることになりました」

 虚を突かれたレグルスが、緊張した面持ちで答える。

 

 ノマスの国宝「万化の水(デュナミス)」は、あらゆるトリオンを自由自在に変化させる機能を持つ超絶の(ブラック)トリガーである。

 

 以前はユウェネスが扱っていたこの(ブラック)トリガーを、彼の負傷に伴ってレグルスが用いることが先日の族長会議で決められた。「万化の水(デュナミス)」は適合者の選り好みが激しく、他に起動できる者がいなかったからだ。

 少年はこの事を知らせるために、激務の合間を縫って青年の病室を訪れたのである。

 

「ユウェネスさんには遠く及びませんが、それでも全霊を尽くして任を全うしますので、どうか了承いただきたく……」

 

 レグルスは固い声音で、青年に己の覚悟を述べる。

 近界(ネイバーフッド)の戦争では、(ブラック)トリガーは戦略兵器として扱われる。所有数が国力の指標にされるのだから、その強力さは推して知るべしであろう。

 

 そして(ブラック)トリガーの担い手に選ばれることは、国を代表する戦士になることだ。その双肩には自国の命運が賭けられる。護国の盾として、彼らは決して敗北の許されない立場に立たされる。

 未だ少年のレグルスにとって、それがどれ程の重圧であるかは想像もつかない。ましてや彼は、ユウェネスから引き継ぐ形で国宝を預かってしまった。 

 

 また、(ブラック)トリガーが与えるのは力と責任だけではない。その担い手には、全ての国民から惜しげもない名誉と尊敬が贈られる。

 少年は青年が得ていたそれら諸々を、心ならずも奪ってしまったことを気にしているのだ。だが、

 

「悪ぃな。面倒掛けちまって」

 

 逆にユウェネスはレグルスを気遣うように、申し訳なさそうな声でそう呟いた。

 

「いけるって親父さんに頼んだんだけど、却下されちまった。お前にはキツイ仕事ばっか押し付けちまうな……」

 

 自嘲めいた笑みを浮かべ、ユウェネスはレグルスを見遣る。

 

「別にできる範囲でいいんだ。あんまり無茶なことはするんじゃないぞ。命あっての物種なんだからな。ただでさえ、あのトリガー扱いにくいんだから」

 

 レグルスに重責を負わせることを心から悔いているのだろう。ユウェネスはそう言って、恐縮する少年の頭を乱暴に撫でた。

 

「なんかあったら遠慮なく聞けよ。何だったらこっそり俺にトリガー返してくれてもいいんだぜ。――あ、試しに今貸してみろよ。扱い方教えてやるからさ」

 

 青年はそう言って、陽気に笑う。少年もつられて笑うと、一拍おいて真顔になり、

 

「病室を抜け出したのも、同じ手口でしたよね。トリオン体になると逃げだすから、ユウェネスさんにはトリガーを絶対渡さないよう、看護師さんに言われました」

 

 と、冷たい目で青年を睨みつけた。

 

 

 

 

 



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其の二 幕間 ノマスの覚悟 後編

 澄みきった蒼穹の下、地平の彼方まで広がるノマスの草原。

 緑の絨毯の上には、機動城塞都市が羊の群れのように寄り集っている。

 平原に臨む小高い丘陵から、眼下の光景を眺めている人影があった。

 

 佇立しているのは、褐色の肌に深い皺を刻み込んだ老人だ。真っ白な蓬髪に、顔の半分を覆う白い髭。一見すると老木のように物静かな雰囲気だが、前髪から覗く瞳は炯々と輝き、抜き身の刃のような光を放っている。

 

 彼はルーペス氏族の長カルクス。(ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」を有する、ノマス最古参の達人である。

 カルクスは鷹のような眼光で城塞都市を子細に検分している。都市の駆動に問題は無いか、城壁や兵装に異常は無いか。防衛計画に如何なる綻びも生じさせぬよう、外部から確認しているのだ。

 

「進捗はどうだ」

 

 とその時、老人が視線を動かさぬまま低い声で呟いた。

 何時の間に近づいたのか、カルクスの背後には、十五、六見当の少年が跪いている。

 

「監視網の構築および転送門の敷設、いずれも万事滞りなく」

 

 無感情な声でそう述べたのは、カルクスと同じルーペス氏族の少年カルボーだ。

 彼は同族の者を率いて、ノマスの国土のいたる所に監視装置と(ゲート)発生装置を敷設してきたのである。

 

 これらは敵の侵攻をいち早く察知し、また自軍を素早く展開するための仕掛けだ。

 ノマスは(ゲート)誘導装置を有していないため、敵軍は国土の如何なる場所にでも、好きなように部隊を送り込むことができてしまう。

 機動都市には(ゲート)遮断装置が搭載されているため、都市内部に直接に敵が乗り込んでくることはないものの、それでも敵が自在に部隊を展開できるのは重大な脅威である。

 

 敵がどの位置に出現したか、どのように動いているかを把握できなければ、防衛のしようもない。

 元々ノマスの国土にはある程度の監視網が築かれていたのだが、カルボーらはエクリシアの襲来に備え、それらをより一層強化したのである。

 

「そうか。では手の空いている者を迎撃装置の整備に回せ。人選は一任する」

 

 膨大な作業をこなした少年に労いの言葉一つ掛けず、老人は冷然とした口調で命令する。

 彼らルーペス氏族は、ノマスでもやや特殊な立場にある一族だ。

 元はドミヌス氏族に端を発するルーペス氏族は、長い年月を経るうちに国土の防衛を専任とする部族へと変化していった。

 

 彼らは物心がついた頃より訓練を施され、少年期にも差し掛かれば一廉の戦士へと育て上げられる。それも、ただ単に戦闘トリガーの扱いに秀でているだけではなく、トリオン工学は勿論のこと、敵地への潜入や諜報、工作活動至るまで、およそ戦争に必要な全ての技能を叩きこまれて成長する。

 ルーペス氏族は長年にわたってノマスの行く手を阻む敵を除き続けてきた武闘派の一族なのである。

 彼らは祖国と民の為ならば、眉一つ動かさずに敵を殺し、そして迷いなく死ぬことができる。

 

 一見すると冷酷無情にも見えるルーペス氏族の者たちだが、彼らはノマスに暮らす民からは格別の畏怖と尊敬とを以て遇されている。自国に住まう全ての民を、血を分けた尊い家族と見なすのは、ノマスの深奥に根差した美風だ。

 そしてまた、ルーペス氏族の者たちも民草の心を知るが故に、祖国への揺るぎなき忠誠を胸に抱くことができる。

 彼らは如何なる艱難辛苦にも耐え抜き、護国の役目を果たす最高の戦士たちなのだ。

 

「……どうした? 存念があるなら述べよ」

 

 報告を終えたにも関わらず未だ拝跪を続けるカルボーに、カルクスが背を向けたまま問いかける。

 エクリシア襲来を前にして、こなさねばならない作業は山積みとなっている。徹底した合理主義者として育てられたカルボーが、時間を無駄にするのは如何にも奇妙だ。

 何か別に報告すべき事柄があるのか、それとも提言があるのか。

 

「……テララの髪留めを、先生にお渡ししたく存じます」

 

 すると、カルボーは面を伏せたままそう言った。

 

 ――テララ。それはカルボーと共に育った、ルーペス氏族の娘の名である。

 若輩ながらも抜群の技量を身に着けたカルボーとテララは、ノマスのエクリシア侵攻に向けての工作活動の為、カルクスと共に一年も前から共に彼の国へと潜入していた。

 

 敵地での潜伏生活は並大抵の苦労ではなかったが、それでも彼らは己の職務に忠実に励み、敵防衛施設の破壊と、(ブラック)トリガー使いの排除という難行を成し遂げた。

 潜入部隊の活躍なくして、ノマスの攻撃部隊があれほどの大戦果を挙げることは不可能だっただろう。

 

 しかし、敵の(ブラック)トリガー使いとの戦闘で、テララは生身に弾丸を浴びて帰らぬ人となった。敵基地内での戦いだったため、遺体を回収することもできなかった。

 

「これを、遺髪と共に納めていただきたく……」

 

 そう言ってカルボーが恭しく取り出したのは、何の変哲もないバレッタである。

 エクリシアでの潜入生活に当たって、彼らは専用のトリガーを用いて姿形を全くの別物に変化させていた。

 

 この飾り気のない髪留めは、その潜入生活の折りに彼女が購入したモノだ。

 最初は只の偽装のつもりで買い求めたのだろう。けれども少女は一日と欠かさず、このバレッタを使い続けていた。

 言葉数の少ない少女であったが、琴線に触れるものがあったのだろう。カルボーは時折、テララがその髪飾りをじっと眺めていたことを知っている。

 

 しかし、彼女はエクリシアへと戦いを挑むその日。バレッタを身に着けることはしなかった。

 敵地で得た物を祖国に持ち帰るべきではないと考えたのか。それとも、物への執着が任務遂行を危うくすると考えたのか。少女が何を考えていたかはついぞ分からない。

 カルボーはテララの捨てた髪飾りを、何とは無しに懐へと収めていた。

 無事に任務を果たし、祖国へと帰還した暁には、彼女に渡してやろう。そんな軽い気持ちがあったのかもしれない。

 

 果たして、テララは二度とノマスの地を踏むことはなかった。

 ルーペス氏族の生き様を体現した少女は、トリオン体を失いながらも敵の主力と差し違えたのである。

 そうして、カルボーの手には髪飾りだけが残された。

 少年はその髪飾りを、少女の墓に入れてほしいとカルクスに頼んだのだ。

 

「…………」

 

 蓬髪の老人が振り返り、鋭い眼光で少年を射抜く。

 敵国への侵攻や、さらに危険な潜入任務が日常的に課されるルーペス氏族には、生前に一房の髪を国元に残しておく風習がある。遺体が祖国に帰らなかったとき、それが墓へと収められるのだ。

 テララの遺髪が眠る墓所に、せめて彼女が愛用していた髪留めを供えたいというのが、カルボーの抱いた願いであった。

 

「どうか、御認め下さいますよう」

 

 少年は深く頭を下げて、カルクスに頼み込む。しかし老人は目を眇めたまま、軽々には口を開かない。

 別段、墓所に遺品を納めることは咎め立てされるような行いではない。育ての親であるカルクスに相談するのは尤もなことだが、それとて二つ返事で了承されて然るべき話だ。

 ここまで重々しい会話になるのは、偏に時期の問題である。

 

「ならん。戦を控えしこの局面で、軽率な真似は出来ぬ」

 

 カルクスは固い声音でカルボーの願いを退けた。

 彼らは今、ノマスの墓所へと立ち入れない事情があった。

 

「万が一にも、彼の国に気取られる訳にはいかぬ。その髪留め、お前が確と預かっておけ」

 

 ノマスの民が眠る地下墳墓は、(マザー)トリガーにほど近い地中に設けられている。

 しかし現在、ノマスの民は(マザー)トリガーの近辺に立ち入ることを禁じられていた。

 それは、来たるエクリシアとの決戦に備えての策謀に関係する。

 

 (マザー)トリガーは近界(ネイバーフッド)に存在するあらゆる国家共通の弱点だ。これを落とされれば星の全機能が停止するため、何を差し置いても防衛せねばならない。

 国家の命運を賭けた戦争は(マザー)トリガーを巡って行われ、またそれ故に、近界(ネイバーフッド)の国々は星の心臓を護るために堅牢無比な城塞を築く。

 

 しかし、此処ノマスの場合は事情が異なっていた。

 通常は国土の中心に位置する(マザー)トリガーだが、ノマスの場合は違う。

 この国の(マザー)トリガーは如何なる城塞や兵隊にも守護されることなく、国土の何処かに人知れず埋まっているのだ。

 

 その正確な位置を知る者は、国中を探しても二十人といない。

 上部を大量の土砂で覆われ、茫漠と広がる草原の直中に放置された(マザー)トリガーを、目視で見つけ出すことはまず不可能だ。

 そして周辺の土中に幾重にも埋設された機器は、巨大なトリオン反応を完全に隠蔽することに成功している。

 

 国家の成立にまで遡る防衛策に基づき、ノマスは(マザー)トリガーの所在を徹底的に隠匿してきた。彼らは弱点を護るのではなく、隠し通すことで敵を遠ざけてきたのだ。

 エクリシアの逆襲が予想される現在、その所在を敵方に知らせかねないような行動は厳に慎まねばならなかった。

 これらの事情から、カルクスはカルボーの望みを退けたのだ。

 

「承りました。戯言を述べたることをお許しください」

 

 少年は平静な声でカルクスの決定を受け入れると、深々と頭を下げた。失意の色はない。彼としても、ノマスの国情は十分に理解している。己の言い分が通らぬことは予想していた。

 それでも彼がテララの遺品を墓所に納めたいと言い出したのには、理由があった。

 カルボーはノマスでもっとも勇敢なルーペス氏族の一員である。祖国の為ならば、命を擲つことに何の迷いも無い。

 来たるエクリシアとの戦いでも、少年は己の誇りに殉じる心積もりだ。

 

 しかし、もし己が死んでしまったら、誰がこの髪飾りをテララに返してやれるのか。

 幼少より共に育った少女。カルボーより先に祖国への義務を果たしたテララ。彼女の忠心に報いてやりたい。

 そう思うと居ても立ってもいられなくなった。カルボーは自分が生きているうちに、彼女の魂を慰めたいと強く思ったのだ。

 

「今だけだ。戦が終われば墓所を訪うことはできる。――その時は、お前が手ずから納めてやればいい」

「――!」

 

 面を伏せるカルボーに、カルクスがそう言った。

 常と変らぬ冷厳な声だが、その言葉の意味するところを理解した少年は、驚愕に目を見開く。

 ノマスの墓所は(マザー)トリガー近隣の地下に位置する。

 故に、その所在を知る者は各部族の長などの極一部の有力者に限られ、一般国民は墓所に立ち入ることができない。

 例えば葬儀の場合でも、式は一族郎党総出で行われるが、野辺送りは部族の長がひっそりと行うのが習わしとなっている。

 

 しかし、カルクスはカルボーに墓所へ参れと言う。

 ノマスの民の魂が安らう墓所、延いては星の心臓たる(マザー)トリガーの所在を知らせると言う事。これはカルボーを部族の跡目として扱うことに他ならない。

 

「テララは本当によくやってくれた。我らには命を賭しても為さねばならぬことがある。だが、生き延びて国に尽くすことも、より困難な戦いであると知れ」

「――お心遣い、深く感じ入りました。そのお言葉、確かに胸に刻みます」

 

 どこか寂しげに告げるカルクスに、カルボーは肩を小さく震わせながら、掠れた声でそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 地平の果てに、太陽が沈もうとしている。

 藍を流したような紺碧の空が、夕日と混ざり合って鮮やかな藤色に染まっていく。

 どこまでも広がる草原を吹き抜ける風は、早くも夜の冷気と湿り気を帯びている。

 濃密な、それでいて爽やかな緑の香りが鼻を突く。ノマスに暮らす全ての民が、生まれた時からずっと慣れ親しんできた祖国の香りだ。

 

 平原の上に立つ三百メートル級の起動城塞都市。ドーム状の堅牢な外殻の頂点、七十メートルにも及ぼうかと言う吹きさらしの高所に立っているのは、三十半ばほどの年齢の、筋骨たくましい褐色肌の壮漢である。

 彼、アーエル氏族のマラキアは、高所を吹き荒ぶ風に身を晒しながらも、泰然とした面持ちで沈みゆく夕日を眺めている。

 

「……よし」

 

 暫し美しい光景に心を奪われていた男性であったが、やがて我に返ると、手元の計器に視線を落とし、砲門の稼働状態の確認作業に戻る。

 そして仕事を終えたマラキアは、屋内に戻るべく外壁を移動し始めた。

 

 機動城塞都市のドーム状の外壁は、採光と換気の為に上層部の開閉が可能になっている。

 楕円状に大きく開け放たれた開口部から、マラキアが都市内部へと飛び降りた。

 都市の上層デッキは市民の為の居住区画に当てられている。巨大な集合住宅にも似た建物の屋上に着地したマラキアは、さらに柵から身を翻し、階下へと跳躍する。

 

 宅地を繋ぐ空中回廊の上に、マラキアは猫のようにしなやかな身のこなしで降り立つ。

 夕暮れ時にも関わらず、辺りに人の姿はまったく見えない。廃墟のように閑散とした居住区を、彼は静かに見渡す。

 

 エクリシア攻略に膨大な量のトリオンをつぎ込んだノマスは、国内に備蓄していたトリオンの殆どを使い切ってしまっていた。

 人的資源であるトリオンは、その国に住まう人間が無事であれば時と共に補充される。しかし、エクリシアの逆襲が確実視されるこの時期に、悠長にトリオンを溜めている時間は無い。

 

 ノマスは対応策として機動都市の幾つかを解体し、都市を構築していたトリオンを国土防衛に回すことを決定していた。

 今マラキアが作業を行っていた「スタブルム号」並びに「ウィークス号」「ポーンス号」が解体される三都市となっている。

 

 解体作業は以前から行われており、ここに住まう住民は、既に他の機動都市へと立ち退いている。

 家畜や家禽、市民が所持する動産は全て持ち去られており、また中層部、下層部の機材もとっくに搬出済みだ。都市の内部には何も残されておらず、ここで数多くの人間が暮らしていたという痕跡は、もうどこにも見付けることはできない。

 

 ノマスでは比較的小さな部類の都市とはいえ、構築に用いられているトリオンは半端な量ではない。これらを転用すれば、十分に防備は整うだろう。

 とその時、マラキアは伽藍堂の都市に響く微かな足音を耳にした。

 

「どうだ。朝までには片付きそうか」

 

 吹き抜けの真下。居住区の最下層の広場に悠然と現れたのは、白髪の偉丈夫レクスだ。

 マラキアは回廊から飛び降りると、ノマスの盟主たる男に歩み寄る。

 

「粗方トリオンに還元しておいたし、カーラビーバの卵も一応仕込んでおいた。後は最終調整だけだ。何とか間に合うだろう。……忙しいだろうに、態々尻を叩きにきたのか?」

 

 マラキアはそう言って、軽く肩をすくめて見せる。

 彼とレクスは幼少時よりの友人で、気の置けない間柄である。人前ではレクスの立場を尊重する為謹直な態度をとるが、二人だけならば肩肘を張る必要はない。

 

「当然だ。お前が作業を終えねば兵が揃わない。エクリシアが攻め寄せて来るまで日が無いからな」

 

 レクスは重々しげにそう言って、彼には珍しいことにため息までつく。

 

「レグルス待ちだ。「万化の水(デュナミス)」が無ければ仕上げができないからな」

 

 マラキアはそう言って、広間のベンチに腰を据える。

 機動都市をトリオンに還元するには、「万化の水(デュナミス)」を用いるのが最も効率がいい。

 とはいえ、都市全てを溶かしてしまう訳ではなく、解体するのは戦闘に不要な区画のみである。駆動系と迎撃システムは残しておき、量産型自律トリオン兵デクーに操作させ、都市そのものは戦闘に参加させる。

 

 無人の機動都市は何かと使い道がある。囮や盾にしても問題ないし、いざとなれば敵に突っ込ませて自爆させてもいい。

 都市には「万化の水(デュナミス)」の機構を用いた仕掛けが施してあり、遠隔操作で都市をトリオンに還元することもできる。戦闘中にトリオンの備蓄が切れれば、その時点で都市を丸ごと溶かしてしまっても構わない。

 

「ユウェネスが使えぬ以上は仕方ないが、作業は遅らせられん。マラキア、息子の補佐を頼む」

 

 レクスはベンチの前へと歩を進め、信任厚い副官にそう言う。

 (ブラック)トリガー「万化の水(デュナミス)」はあらゆるトリオンを自由自在に変形させることができるが、その機能を十全に活用するためには、起動者にトリオン工学の深い知識が求められる。

 

 いわば研究者向けのトリガーであり、戦闘員としての訓練しか受けていないレグルスでは、どうしても扱いかねてしまう。マラキアは技術方面にも明るいため、少年の足りない知識を補ってやることができるのだ。

 

「レグルスはあの歳でよくやってくれてる。偉い子だよ、本当に」

 

 マラキアがしみじみとそう呟く。

 少年の昨今の働きぶりは目を見張るほどだ。レグルスは若輩ながらも堅実で迅速に仕事をこなし、誰よりも成果を上げている。

 

 そしてまた、少年の明るく人好きのする性格は、ノマスの全ての民から愛されている。気難しい族長たちですら、少年の誠実さには篤い信頼を置いているほどだ。

 

「まだ子供だ。アレには学ばねばならんことが山ほどある」

 

 息子が褒められているにも関わらず、レクスは眉間に皺を寄せてさもつまらなさそうに言う。レグルスの能力を認めていないのではなく、そんな子供を使わざるを得ない状況を、やるせなく思っているのだろう。

 

「ああ。だからこそ、護ってやらないとな」

 

 マラキアはそう言って、レクスを力強い眼差しで見つめる。

 

「子供たちは国の宝だ。これからノマスを引っ張っていくのはあの子たちなんだからな」

「……ああ」

 

 レクスは短く首肯して答えると、広間の向こうを見遣る。

 耳を澄ませば、中層階に繋がる階段から、息せき切らせて駆けてくる足音が聞こえる。

 

「すみませんマラキアさん。遅れちゃいました!」

 

 猛スピードで広間を走ってきたのは、先ほどまで話題となっていた白髪金瞳の少年だ。

 

「――って、父さん!?」

 

 レグルスはそこにレクスの姿を見付けると、驚愕も露わに急ブレーキを掛けて立ち止まる。

 レクスはノマスを導く厳格な為政者にして、近界(ネイバーフッド)でも最高峰の戦士である。また、家庭では、口数が少ないながらも少年を常に気に掛けてくれる優しい父だ。

 憧れの父に無様な姿を晒してしまったと、少年は緊張に身体を強張らせる。しかし、

 

「マラキアが段取りを整えている。彼の言うことをよく聴き、仕事に励め」

 

 レクスはそう言って、息子の前をさっさと通り過ぎてしまう。

 

「――は、はい!」

 

 大慌てで返事をするレグルスに、父は振り返りもせず無言で去っていく。

 その後ろ姿を、マラキアは苦笑を浮かべて見送る。あれで息子への照れ隠しのつもりなのだろう。不器用な父親である。

 

「――? どうしたんですかマラキアさん?」

「いや、なんでもないよ。早速で悪いけど、始めようか」

 

 きょとんとした様子のレグルスに、マラキアはそう誤魔化して指示を与える。

 ノマスの明日を繋ぐため、今は一刻も早く作業を進めなければならない。

 

 

 

 

 



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其の三 幕間 エクリシアの憤怒 前篇

 見るも無残に打ち崩された街並み。物のように雑然と並べられた遺体。

 聖堂国家エクリシア。近界(ネイバーフッド)でも有数の大国は、死と破壊に覆い尽くされていた。

 狩猟国家ノマスの侵攻から早数日。壊滅的な被害を受けた聖都では、騎士団によって夜を徹しての救助活動が続けられている。

 

 徐々に明らかになっていくのは、今回の戦争の人的被害の大きさだ。

 市民の遺体は日を追うごとに増えていき、今では埋葬することはおろか、安置する場所にも困るほどの数となっている。

 

 しかも遺体の状態からは、ノマスの冷酷残忍な戦術が判明することとなった。

 通常、トリオン兵に襲われた市民は拉致されるか、或いは心臓の隣にあるトリオン機関を抜き取られて殺される。この対応は被害者のトリオン機関の強弱によって異なるが、共通しているのはトリオンを集めるという目的である。

 

 しかし、今回ノマスによって害された市民の多くは、トリオン機関を抜き取られることなく、ただ斬られ、或いは撃たれて死んでいた。

 ノマスは捕獲用トリオン兵のほかに、純戦闘用トリオン兵をエクリシア市民にけしかけたのだ。トリオンを奪うためではなく、ただ市民を殺すために。

 

 殺戮に徹したトリオン兵の働きは凄まじいものだった。逃げ遅れた市民はおろか、市民が立て籠もるシェルターにまで押し入り、虐殺の限りを尽くしたのである。

 また、破壊された建物の撤去は遅々として進んでおらず、瓦礫の下には多くの遺体が埋まっていると考えられる。

 最終的な死者数はどれ程になるか、もう誰にも予想できないほどの惨状であった。

 

 そんな中、エクリシアの国政を司る大貴族の長たちは、深い傷跡の残る教会で善後策を協議していた。

 驚くべきは、その内容が市民の救助、復興に関する事ではなかったことだ。

 

「すぐに部隊を再編し、ノマスへ攻め入るべきだ! 接触軌道を外れるまでもう時間がない。このままでは奴らに逃亡を許してしまう!」

 

 教会の深部に位置する、優麗にして荘重な大議事堂。

 ノマスの侵攻による被害を辛くも免れたそこで、エクリシアを代表する貴族たちが一堂に会していた。

 

 巨大な円卓に居並ぶ貴族たちの中で、一際大声を張り上げてそう主張しているのは、黒髪を撫でつけた四十見当の怜悧そうな男性である。

 彼はエクリシアが誇る三大貴族の一画、フィロドクス家のジンゴだ。

 今この会議室では、エクリシアに甚大な被害をもたらしたノマスへの、報復のための討議が行われているのだ。

 

「奴らは一線を越えた! 我が国の国力を削ぐためだけに、無辜の市民を虐殺したのだ! 復仇せねば彼らの魂が浮かばれぬ!」

 

 普段は非情にさえ見えるほどに冷静沈着なジンゴが、口角に泡を浮かべんばかりにそう叫ぶ。そして、

 

「いや実際のところ、受けた被害が大きすぎるよ。連中、トリオン機関の強い奴から殺していったみたいだ。たぶん、トリオンの徴収率は三割以上減るだろうね。不足分は、ノマスの連中に補ってもらわないとさぁ」

 

 場違いなほど軽薄な口調でそう言うのは、年の頃は三十半ば程の、くすんだ金髪の男性である。彼はフィロドクス家の次男、カスタノ・フィロドクスだ。

 ジンゴとカスタノ。普段から不仲で知られているフィロドクス家の跡取り二人が、揃ってノマスへの出兵を強弁している。

 

「……今、第一に考えねばならぬのは故国の防衛だ。我が国は多大なる損害を受け、市民の救出さえ未だ完遂していない。大兵を率いてノマスに攻め入るのは危険だ。ここは耐え忍ぶ時ではないか」

 

 二人の貴族の主張に、厳かな声でそう反論したのは、麦穂のような金髪と、翡翠のように輝く瞳をした偉丈夫だ。

 同じくエクリシア三大貴族の一角、イリニ家当主アルモニアは、深沈としてそう告げる。

 

「これはこれは……勇猛無比なるアルモニア閣下とは思えぬことを仰る。剣聖と謳われたあなたが、まさか弱気に駆られたとでも言うのですか!」

 

 アルモニアの唱える慎重論に、主戦論を張るジンゴが嘲りを交えて非難する。

 人もなげな挑発に、同席していたイリニ家傘下の貴族たちが憤怒の形相へと変化する。しかしアルモニアは鷹揚な態度で首を振ると、

 

「勝算の立たない戦をするべきではないと申している。こちらが疲弊しているのならなおさらだ。ノマスの軍事力は明らかに過日のソレではない。……なるほど確かに、個の武力では未だに我ら騎士の方が上だろう。しかし、送り込める人員に限りのある遠征で、ノマスを相手に臨みうる戦果を挙げられる保証はどこにもない。莫大なトリオンを費やして遠征を敢行した挙句、空振りに終わったとなれば、今度こそ国の興廃に関わる事態となろう」

 

 威風辺りを払うアルモニアの発言に、列席する貴族が一斉に押し黙る。

 果たして遠征を行ったところで勝つことができるのか。根本的な問いだが、誰も確信を持って答えることはできない。

 

 そもそもエクリシアは、ノマスの正確な国勢さえ把握できていないのだ。

 接触軌道に入ってからというものの、何度となく偵察のためのトリオン兵を送り込んではいるのだが、その悉くが展開した直後に破壊され、碌に情報を集めることができていない。

 

 ノマスの人口、技術力、戦法。トリオン備蓄量やトリガー使いの数に、トリオン兵の性能。攻略の要となるそれらの情報が、決定的に不足している。

 例えば、ノマスがエクリシアに投入した新型トリオン兵。残骸の解析が急ピッチで進められているが、現段階でも、その凄まじい性能は明らかになっている。

 敵の本拠地で、これらが大量に展開されたとなれば、エクリシアの騎士とて苦戦は免れないだろう。

 

 また敵地へと攻め込めば、間違いなく(ブラック)トリガーと相対することになる。先の戦いで確認できた数は五本。いずれ劣らぬ難敵揃いである。

 それらを潜り抜け、ノマスの民を捕虜にできるかどうか。

 アルモニアの発言に対する沈黙が、その答えを雄弁に語っている。

 

「……優先すべきは故国。それは間違いないだろう」

 

 しわぶき一つ聞こえない議事堂に、訥々と響く声。

 発言したのは、ジンゴとカスタノの隣に座る、白い滝髭を生やした鷲鼻の老人である。

 

「となれば、やはり兵を出さねばならぬ。我々には時間が残されておらぬ故に」

 

 それまで議論を息子に任せ、沈黙を保っていたフィロドクス家当主、賢者クレヴォが、低い声でそう切り出した。

 

「皆の衆、祖国の存亡がかかっておる。腹蔵なく話そう、我らが今最も慮らねばならぬのは、次代の神についてだろう」

 

 老人の言葉に、居並ぶ貴族たちが一斉にざわめいた。

 

 近界(ネイバーフッド)の夜の海に浮かぶ星々。エクリシアやノマスといった国家は、その星の上で営みを続けている。

 そして星の動力源となるのが(マザー)トリガーであり、その巨大トリガーを動かしているのは、(マザー)と同化した只一人の人間、彼らが「神」と呼ぶ人物である。

 神は数百年の長きに渡り、寿命が尽きるまで星を動かし続ける。すなわち神が死ねば、星の命脈もまた尽きる。風は絶え、雨も振らず、夜が空けることもなくなる。

 

 エクリシアの神が、死の予兆を見せ始めたのは数年前だ。

 それ以来、彼らは挙って次代の神の候補者を探してきた。

 莫大なトリオンを費やし、国防を手薄にしてまで他国へと遠征し、捕虜をかき集めた。だが、成果はそう芳しいものではなかった。

 

 (マザー)トリガーと融合した神によって、星の国土は増減する。神となる者のトリオン機関が強ければ強いほど、星は巨大になる。

 近界(ネイバーフッド)でも有数の大国として知られるエクリシアは、抱える人口も膨大だ。国土が縮小してしまえば、民を養うことができなくなってしまう。

 必然、神に求められるトリオン機関は強大なものになってしまう。そしてそれほど強いトリオン機関の持ち主は、そう簡単には見つけることができない。

 

 それでも、エクリシアを支える大貴族たちは、手を尽くして候補者をかき集めていた。次代の神を輩出すれば、国の最高位たる教皇の地位を継ぐことができるという理由もあっただろう。しかし、なにより彼らを突き動かしたのは、祖国の没落を避けたいという切実な思いであった。

 

「我らフィロドクス家の擁する神の候補も死亡した。残る候補者では、国土の縮小は免れぬだろう」

 

 切々とした声でクレヴォが語る。

 ノマスの襲撃に当たって、神の候補者たちは聖都へと集められていた。堅牢な城壁を有する聖都なら、絶対安全だと思われていたからだ。

 しかし、その思惑は見事に外れ、ノマスの軍勢は大挙して聖都へと雪崩込んだ。避難させていた神の候補者も、多くが帰らぬ人となった。

 

「な、それは……」

「よい。最早隠し立てすることではあるまい」

 

 狼狽えるジンゴを、クレヴォが制する。

 神の擁立はエクリシア貴族たちの政争でもあり、機密事項となっている。しかしクレヴォは自家の内情を詳らに明らかにすると、その上で、

 

「諸君らはいかがか。次代の神に相応しき候補者を、抱えておられるだろうか。もし、おられるなら、フィロドクス家はノマス出兵を見送ろう。しかし、候補者がいないとなれば、無理を押してでも彼の国に兵を送らねばならぬ」

 

 とび色の瞳を鋭く光らせ、居並ぶ貴族たちのそう問うた。

 返答はない。それぞれの貴族たちも、なけなしの候補者を失ってしまったばかりなのだ。

 となれば、ノマス遠征には格別の意味が出てくる。

 ノマスは近界(ネイバーフッド)に名を馳せる大国だ。神に相応しいトリオン機関の持ち主がいる可能性は十分にある。(マザー)の停止まで猶予の無い時期に、この国を見逃す訳にはいかない。

 

「……クレヴォ翁の意見は尤もだ。されど、ノマスを落とす肝心の策がない。補給の難しい遠征で、彼の国の防備を打ち破り、神の候補を見つけ出すことができるかどうか。加えて、それを為し得るだけの戦力を送るとすれば、本国の防備が薄くなる」

 

 水を打ったように静まりかえる議事堂で、一人反論の声を上げたのはアルモニアだ。

 彼は飽く迄実務面から、ノマス攻略は難しいと主張し続ける。しかし、

 

「エルピス猊下に御承諾を頂いた。国土の防衛は猊下の「恐怖の軛(フォボス)」が受け持ってくださる。残る(ブラック)トリガー全てをノマスの攻略に用いれば、勝算は十分に立つだろう」

 

 クレヴォは冷厳にそう告げる。

 エクリシアが有する(ブラック)トリガーの数は八本。先の戦争で新たに生まれた物も加えれば九本になる。近界(ネイバーフッド)全域を見渡しても、これだけの数を有する国は稀だろう。

 

「――っ!」

 

 アルモニアを始め、居並ぶ貴族たちが視線を議事堂の奥へと向ける。

 円卓を見下ろすようにして設えられた豪奢な席。普段は誰の姿も無いそこに、小さな人影があった。

 澄み渡る空を思わせるような紺碧色の髪と瞳をした、十二・三歳の少年が、いつの間にか豪華な肘掛椅子に腰を下ろしていた。

 

「うん。クレヴォ君に頼まれたら断れないしね」

 

 透き通るような声でそう言うのは、エクリシア教皇アヴリオ・エルピスだ。

 彼の有する(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」は、無限にトリオンを生み出し続ける能力を持ち、また起動者に不老の性質を授ける。

 齢数百を数える少年は、朗らかな面持ちながらもどこか暗澹とした様子で、紛糾する会議を眺めている。

 

「慣例は無視して構わないよ。僕も駒の一つだ。君たちが納得して決めたのなら、僕は何も拒むつもりはないよ」

 

 国宝たる「不滅の灰(アナヴィオス)」と、それを担う教皇は原則として政治、戦に関与しない。教会はただ民の心に安寧を授けるのみ。俗世界の諸々を引き受けるのは、教会の藩屏たる貴族たちの役儀だ。

 しかし、賢者クレヴォはその慣例を破るべきと進言し、またアヴリオもそれを容れたというのだ。

 

「猊下、お言葉ですが……」

「既に禁は破られておる。他でもない、我らの無力が故にな」

 

 アヴリオを諌めようとするアルモニアを、クレヴォが重々しい声で制した。

 教皇は既に、戦塵に塗れている。

 過日のノマス侵略の折り、敵の進撃を許したのは騎士団の落ち度だ。

 教会まで攻め入った侵略者を迎撃する為、アヴリオは「恐怖の軛(フォボス)」を纏って戦場に立った。今更、彼の手を借りないという理屈は通らない。

 

「謗りは後でいくらでも受けよう。だが、今はエクリシア建国以来の国難の時だ。我らの持てる全ての力で、未来を取り戻さねばなるまい」

 

 クレヴォの厳粛なる言葉に、議事堂に居並ぶ貴族たちは一様に押し黙る。だが、彼らの居住まいからは、熱く滾る戦意がふつふつと立ち上っている。

 誰しもがノマスの蛮行に傷ついた。復仇の念に燃えるのは皆同じ。

 ノマスに報いを受けさせる。そしてエクリシアに繁栄を取り戻す。

 教皇猊下までもが戦地に立つというのだから、これはエクリシアの民の総意と言ってもいい。

 貴族たちは復讐の念に燃え、今にも行動を起こしたい衝動に駆られている者さえいる。

 一人慎重論を述べていたアルモニアだが、彼らを制する言葉を思い浮かべることができなかった。

 

「ゼーン家は、どう思われる?」

 

 そうしてクレヴォは、円卓の向こうに座る人物へと水を向けた。

 そこに座るのは、絹のように輝く黒髪をした、目を見張るほどの美女であった。

 彼女はニネミア・ゼーン。二十に届かぬ年齢ながら、エクリシア三大貴族の一つ、ゼーン家の当主を務める女傑である。

 それまで沈黙を貫いてきた若き大貴族は、議事堂を包む緊張感に毫ほど臆した様子もなく、静かに口を開く。

 

「我がゼーン家は、ノマスへの遠征を全面的に支持します。彼の国を打ち倒すことなくして、我が国の繁栄はあり得ぬでしょう。加えて、我らには民草を護るという責務があります。責務を果たさずして何が貴族と言えましょう。今こそ、我らは戦うべき時なのです」

 

 凛呼とした口調で、黒髪の美女はそう告げる。

 誇り高きニネミアの宣言に、居並ぶ貴族たちは今度こそ快哉を叫ぶ。

 ノマス討つべし。議事堂に唱和が轟いた。

 貴族たちの熱気は天を焦がさんばかり。最早、方針を覆すことなど誰にも不可能である。

 アルモニアは椅子に深く腰掛けたまま固く瞼を閉じ、止まぬ歓声をただ静かに聞き続けていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 貴族たちが国の行く末を討議していたのと同じ頃。

 聖都の北側にある比較的被害の少なかった病院。集中治療室に面した廊下に、五十見当の男性が立っていた。

 

 中背ながらも隆々とした体躯をした禿頭の男は、イリニ騎士団第一兵団長ドクサ・ディミオスだ。イリニ家に使える大貴族、ディミオス家の当主にして、(ブラック)トリガー「金剛の槌(スフィリ)」を担う古豪である。

 本来ならば彼もまた、教会で行われている会議に出席しなければならない身分の人間だ。

 

 しかし、ノマスの侵攻から数日しか経っておらず、聖都は未だに混乱が続いている。

 救助活動や支援活動など、騎士団は不眠不休で事態の収拾に当たっている。総長アルモニアに代わって指揮を執っているのが、この男であった。

 そして連日連夜働き詰めのドクサであったが、ようやくの事で少しの間だけ休息を取ることができた。

 彼はほんの僅かの時間を使い、娘と娘婿の搬送された病院を訪れたのである。

 

「…………」

 

 窓から看護師が行き来する病室が見える。

 紫水晶のように輝く髪を下げた柔和な面持ちの女性と、輝く金髪をした――包帯に覆われて見ることはできないが――端正な若者が、並んでベッドに横たわっている。

 ドクサの娘、メリジャーナ・ディミオスと、その婚約者、テロス・グライペインは、呼吸器に繋がれたまま、一向に目を覚ます様子がない。

 

 ノマスの奇襲部隊と交戦した彼らは、敵を撃退するも共に深手を負う事となった。

 メリジャーナは腹部をナイフで刺されて重体。一命は取り留めたが、未だに意識は戻らない。

 テロスの方は、敵が撤退時に仕掛けた爆撃から負傷したメリジャーナを庇い、頭部に瓦礫の直撃を受けていた。彼の方が容態は重く、このまま意識が戻らないことも覚悟しなければならないとのこと。

 

 娘のメリジャーナは勿論、ドクサにとってはテロスも実の息子同然に目を掛けてきた青年である。

 そればかりではない。この程二人は婚約を交わし、あとは結婚式を挙げるばかりとなった幸福絶頂の時期であったのだ。

 無残に横たわる二人の若者を目の当たりにして、ドクサの眉間に深い皺が刻み込まれる。

 

 どれ程そうして立っていたか。やがて彼は悄然とした様子で踵を返した。

 そろそろ指揮所に戻らねばならない時間だ。彼には貴族として市民を救う責務がある。我が子にかまけている訳にはいかない。

 そうして廊下を歩き始めたドクサは、はたと足を止めた。

 向こうから見知った顔が近づいてきたからだ。

 

 一部の関係者にしか立ち入りが許されない集中治療室へと現れたのは、二十に届くかどうかといった年頃の女性である。

 セミロングの灰色の髪に、茶色い瞳。眼鏡をかけた怜悧な印象を受ける女性である。

 彼女はオリュザ・フィロドクス。三大貴族の一角フィロドクス家の養女である。彼女がメリジャーナと友人付き合いをしていることは、ドクサも当然知っている。

 

「御無沙汰しておりますディミオス卿……」

 

 眼鏡姿の女性はドクサの姿を認めるや、不安気な様子で歩み寄ってきた。過日の人形めいた彼女を知る者なら誰しもが驚くような悲痛な面持ちである。

 

「これは、騎士オリュザ。娘を見舞いに来て下さったのですか」

 

 そんな彼女に、ドクサは朗らかな様子で応じる。いつも通りの磊落な口ぶりだが、やはり態度の端々には心痛の様子が表れている。

 

「はい。メリジャーナ様が、こちらに搬送されたと耳にしたもので」

 

 オリュザは視線を伏せ、覇気のない口調でそう言う。大怪我を負った娘を前にした父親に、どういった言葉を掛けたらいいのか分からないのだろう。

 これも、以前の彼女からは考えられないような変化である。

 

「ええ。命に別状はないようですが、まだ意識が戻っておらん様子でしてな。折角来ていただいたというのに困った奴です」

「いえそんな。私はただ、いてもたってもいられなくなり……」

 

 軽口を叩くドクサに、オリュザは恐縮するばかり。

 フィロドクス騎士団は先のノマス侵攻において、イリニ、ゼーン騎士団ほどには被害を受けなかった。

 元々三大騎士団の中でももっとも構成員の多い騎士団であるため、フィロドクス騎士団は救援活動の主力として活動している。

 オリュザも多忙に違いないだろうに、こうして娘の見舞いに来てくれたことに、ドクサは篤く礼を述べる。

 

「病室には入れませんが、良ければ顔を見てやってください」

 

 そう彼に促されたオリュザは、

 

「ディミオス卿は、大丈夫でしょうか?」

 

 と、逆にドクサの顔を覗き込みながら尋ねる。

 

「随分、お疲れの御様子です。ディミオス卿まで体調を崩されては、メリジャーナ様もお悲しみになるのでは……いえ、すみません。思慮を欠いた発言でした。御容赦下さい」

 

 余りに憔悴した様子のドクサに、ついオリュザがそう口走る。

 思ったことをストレートに口にしてしまうのは、彼女の癖である。

 しかしドクサは一瞬虚を突かれたように目を見開くと、別に気を悪くした風もなく、苦笑を浮かべて長椅子に腰を下ろす。

 

「いやいや、仰る通りです。騎士オリュザの御慧眼には敵いませんな。娘と娘婿にそろって大怪我をされると、なかなかに堪えます」

 

 視線を宙に注ぎながら、ドクサが枯れた声でそう言う。

 オリュザは数旬、困ったように立ち尽くしていたが、意を決して彼の隣へと座った。

 

「騎士オリュザも、どうかお気を付けなさい。子供に怪我をされるのは、自分の事よりも辛い。貴方に何かあれば、フィロドクス閣下も大層悲しまれるでしょう」

「……はい。お言葉、心に刻んでおきます」

 

 ドクサが口にした忠言に、オリュザは強く首肯して答える。

 そんな彼女を見ると、消沈していた彼は幾ばくかの力を取り戻したように、大きく息を吐いた。

 とその時、病院の静寂に不釣り合いな電子音が響く。

 見れば、ドクサの腕輪型端末に通信が入ったらしい。

 

「どうやら、ノマスに打って出ることに決まったらしいですな。騎士オリュザも、あまり無理はなさらぬように。これから忙しくなるでしょうからな」

 

 内容は、教会で行われていた会議の結果であった。ドクサは低い声でそう言うと、オリュザに一礼し病室から去って行った。

 

「…………」

 

 一人残された彼女は、病室の窓へと近寄ると、ベッドに横たわる友人とその婚約者の姿をじっと見つめる。

 

「ノマス……許さない」

 

 痛ましい二人の有様に、オリュザの表情が憤怒に歪む。

 思わず固く握りしめていた拳を、彼女はそっと窓に押し当てた。

 友達の仇は必ず取る。彼女は胸の内でそう誓う。そして、

 

「フィリアさん……」

 

 彼女は年下の友人の名を口にした。

 オリュザの耳に、少女の安否は届いていない。ただ、伝え聞くところによれば、とても戦場に臨める状態ではないという。

 ノマスへの侵攻。(ブラック)トリガー「万鈞の糸(クロステール)」の担い手たるオリュザにも、きっと要請はかかるだろう。

 大切な友人を傷つけた怨敵を思い描くと、彼女の双眸は静かな怒りに燃えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その日の夜半。教会での会合を終えたアルモニアは、部下の運転する車両の後席に、固い表情で座っていた。

 教会を頂く丘は空襲によって特に酷い被害を受けたが、何はともかく騎士団の働きによって、道路の瓦礫だけは取り除かれていた。

 だが、中腹に並ぶ騎士団の砦は未だ無残なまま。裾野に広がる貴族街も、殆ど復興の手は入っていない。

 

 廃墟と化した街並みを横目で眺めながら、金髪の偉丈夫は物憂げな息を吐く。

 会議では、結局ノマスへの遠征が可決されてしまった。一人慎重論を唱えていたアルモニアであるが、出席した貴族たちのほぼすべてが侵攻論を支持した以上、決定を覆すことは不可能だった。

 そして侵攻するとなれば、イリニ騎士団としても兵を出さざるを得ない。この非常時に、戦力の出し惜しみはできないからだ。

 

 ノマスとの軌道が離れるまで、もう余り時間がない。

 早ければ数日後にでも、遠征へ出立と相成るだろう。

 遠征艇の発着はそれぞれの騎士団が持つ郊外の施設から行われるため、幸いにも各騎士団の船は被害を免れていた。

 

 資材の積み込みは既に指示してある。砦は破壊されたが、それでも本邸や隔離戦場の基地などに物資は十分にある。食料などの消耗品を積み込み、あとはトリオンを限界まで積載する。高機能なトリオンバッテリー「恩寵の油(バタリア)」を有するエクリシアは、他国に比べて大量のトリオンを遠征先に持って行ける。

 

 トリオンが多ければ、それだけ運用できるトリオン兵も増える。

 今回の遠征にあたっては、教会の研究所が作成した新型トリガーも投入される。

 また研究班の不断の働きで、ノマスがエクリシアに持ち込んだトリオン兵のリバースエンジニアリングも完了していた。

 戦闘用トリオン兵クリズリ。並びにヴルフの各種強化形態。

 少数ではあるが、それらのトリオン兵も既に生産が始まっている。製造された分は、全てノマスに持ち込まれるだろう。

 

「お帰りなさいませ。旦那様」

 

 アルモニアを乗せた車両が、イリニ家の邸宅に着いた。

 門前には使用人たちが整列し、当主の帰りを出迎える。緊急時故に不要と申し付けたのだが、長年の習慣はそう容易く止められないらしい。

 

 屋敷は空爆によって建物の一部が崩落していたが、騎士団の砦に比べれば遥かに軽微な損害と言っていい。総トリオン製の建築物であるため、穴の開いた天井、崩れた外壁を治すのは、然程困難な事でもない。

 爆撃によって滅茶苦茶になった室内も、家人によって寝起きに不自由のない程度には片付けられていた。

 

「ご苦労だった。あまり無理はせぬように」

 

 家人に労わりの声を掛けながら、アルモニアは屋敷へと足を踏み入れる。

 そうして家人に先導されて歩きながらも、彼は遠征について思索を巡らせていた。

 イリニ騎士団はトリオン、物資ともに潤沢な備蓄を抱えている。しかし、問題は遠征に投入する人員だ。

 

 先の防衛戦で最も人的被害が大きかったのはイリニ騎士団だ。

 (ブラック)トリガーの担い手たるテロス・グライペイン、メリジャーナ・ディミオス両名も重傷を負い、未だに意識が戻らない。

 彼らが所持していた「光彩の影(カタフニア)」と「灼熱の華(ゼストス)」は、遠征に当たってフィロドクス騎士団に貸与されることになった。イリニ騎士団には他にも(ブラック)トリガーの適格者はいるが、彼らの内、経験豊富な者たちは軒並み負傷している。

 

 加えて、ノーマルトリガーの人員も不足気味だ。

 実力的にテロス、メリジャーナに次ぐネロミロス・スコトノは、防衛戦では怪我こそ負わなかったが、敵のトリガーによって精神に不調をきたしている。

 

 また彼だけではなく、騎士たちの多くが大なり小なり傷を負っていた。

 これも全て、騎士たちの勇敢さと敢闘精神の証明ではあったのだが、それ故に遠征に投入できる人材が払底している。

 個人の武力で敵を圧倒するエクリシアの戦術では、技量未熟な者は却って足手まといになる。遠征に選ばれるからには、単騎で敵の集団と伍する実力が求められる。

 

 いっそ、トリガー使いを減らしてその分トリオン兵を持ち込むか。

 そんなことを考えているうちに、アルモニアの足が止まる。彼を先導していた家人が、屋敷の一画で立ち止まったからだ。

 彼の前には、中庭へと続く扉がある。

 

「……あの子に、変わりは無かったか」

「はい。お嬢様は、未だ塞ぎこまれております……おいたわしい」

 

 硬い声音で尋ねるアルモニアに、家人が恐縮して答える。

 ある意味では、今最も彼を悩ませている存在が、この扉の先にいるのだ。

 

 

 

 



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其の四 幕間 エクリシアの憤怒 後編

 日中の熱気が仄かに残る、ぬるく湿った夜の空気。

 吹き抜ける風はどこか埃っぽく、何かが焼け焦げたような匂いが微かに香る。

 イリニ邸の中庭は、草木が鬱蒼と生い茂る小さな森のような空間だ。

 曲がりくねった小道をそぞろに歩けば、直ぐに周囲を囲む建物は見えなくなり、天を仰げば林冠に切り取られた夜空だけが見える。

 

 聖都の喧騒からかけ離れた静謐の小世界は、しかしどこも命の息吹に満ち溢れ、一年を通じて片時も同じ姿を見せることが無い。

 イリニ家当主アルモニアが、手ずから造園してきた美しい庭園は、幸いにも空爆の被害を殆ど受けていなかった。

 

「…………」

 

 アルモニアは家人を連れず、一人で庭の歩道を歩んでいく。

 多様な表情を見せる草木に何度となく慰められてきたアルモニアであったが、今宵の彼は瑞々しい新緑には目もくれず、ただ沈鬱な表情を浮かべるのみ。

 小道を曲がると、生い茂る木々が一斉に途切れ、豁然と視界が開ける。

 中庭の中心に設けられた芝生敷きの小広場。そこに建つ東屋に、小さな人影があった。

 

「いま帰ったよ」

 

 アルモニアは東屋へと近寄ると、長椅子に腰掛ける矮躯の少女に優しく声を掛ける。

 そこに居たのは、雪のように白く繊細な髪と、黄金を溶かしたような瞳をした、褐色肌の少女、フィリア・イリニであった。

 

「…………」

 

 エクリシア史上でも類を見ない天才児。最年少で騎士叙勲を果たした気鋭の少女は、しかし現在、完全に心を失っていた。

 

「フィリア、寒くはないか? 何か、物は食べているかい?」

 

 茫漠とした瞳で庭園を眺めつづけていた少女は、ようやく来訪者の存在に気付いたように、伯父の方へゆっくりと顔を向ける。

 その瞳に精彩は無い。ただ音がしたから首が動いただけといった、まるで壊れかけた機械のような反応である。

 

「……ご当主さま?」

 

 顔を向けてからやや置いて、ようやく目の前の人物を認識したらしい。フィリアは虫の鳴くように小さな、それも痛ましいほどに擦れた声で呟く。

 

「ヌースは、見つかりましたか?」

 

 一言一言、たどたどしく言葉を探しながら、少女は言葉を続ける。

 げっそりと痩けた頬、色艶の悪い肌。言葉は不明瞭で、視線さえ一点に定まらない。

 

 少女はこの数日、まるで人形のように一切の生命活動を放棄していた。

 食事もとらず、排泄も行わず、風呂にも入らない。気絶するようにして意識を失うまで、睡眠さえ取らないのだ。侍女が身の回りの世話をしているが、それにさえ何の反応も示さない。されるがままに着替えさせられ、無理やりにでも口に食事をねじ込まれ、それで何とか命を繋いでいる。

 

 少女の心が砕け散ってしまったのは、先のノマス襲撃によって、最愛の家族を失ってしまったからだ。

 少女の人生の全て。心の支えそのものであった家族は、既にこの世に無い。

 彼女の母パイデイアは(ブラック)トリガーとなって死に、サロス、アネシス、イダニコら三人の弟妹はトリオン兵に襲われて命を落とした。

 

 唯一、行方が分かっていないのは自律型トリオン兵のヌースだが、彼女が護衛していたはずの弟妹たちが助からなかった以上、無事でいる可能性は低いだろう。

 復旧作業を行っている騎士団員に申し付けてあるが、未だにヌースは見つからない。瓦礫に紛れてしまったか、それとも残骸も分からぬ程に破壊されてしまったか。

 フィリアは朦朧としながらも、頑なにヌースを探し行こうとしたが、虚ろな状態の彼女を表に出す訳にもいかず、アルモニアが責任をもって見つけ出すと説得して、何とか屋敷に留めていたのだ。

 

「ヌースは、見つかりましたか?」

 

 先と同じ言葉を、無感情で少女が呟く。

 今や彼女の関心事はそれしかない。彼女の自我を繋ぎ止めているのは、家族の最期を見届けることだけだ。

 

 三人の弟妹たちは、既に埋葬が済んでいる。

 葬儀はまだ執り行われていないが、何日も遺体を放置しておく訳にはいかず、イリニ家の墓所へと早々に納められた。

 塵となったパイデイアの亡骸も、同じ墓へと埋葬された。

 

 フィリアは虚脱状態に陥りながらも、弔いの現場に立ち会い委細すべてを見届けた。

 家族皆が、同じ場所で眠れるように。

 それは、残された自分が行わなければならないことだ。

 故にフィリアは、ヌースの行方を探し求めていた。彼女たちを安らかに眠らせてあげなければならない。

 

 それが、彼女の生きる上での最後の目的である。

 

「済まない。懸命に探しているが、まだ見つかってはいない」

「…………」

 

 ヌースの捜索状況を告げると、フィリアはそれで納得したのか、また虚空へと視線を向けた。

 悲しむことも、怒ることも無い。人形のように座る少女を目の当たりにして、アルモニアは慙愧に歯を噛みしめる。

 

「私は……」

 

 フィリアに言葉を掛けようとして、しかし伯父は押し黙った。

 今更彼女に何を話せばいいというのだろうか。慰めも、励ましも、真の絶望には何の救いももたらさない。

 アルモニアは己の無力さに打ちひしがれ、ただ項垂れる。

 

 フィリアの現状を知らぬ騎士団員の中からは、ノマスへの侵攻に彼女の参戦を期待する声も上がっている。

 少女は聖都防衛線で格別の戦功を立て、また新たに誕生した(ブラック)トリガーの担い手となった。ノマスへの復讐に燃える者たちがそう騒ぎ立てるのは、当然の事と言えた。

 

 だが勿論、アルモニアにフィリアを遠征に連れていく気は毛頭ない。

 また、パイデイアが残した(ブラック)トリガーも、遠征への投入は見送る考えだ。

 取り上げようとした際にフィリアが狂乱したこともあるが、そもそも彼女以外の適格者が見つかっていない。

 いちいちテストを行う時間もなく、また技術者が解析した限りでは、かなり選り好みの強いトリガーであることが分かっている。

 乏しいデータで照合を行った限りでは、フィリアの他に起動できそうなのは、既に亡くなった彼女の三人の弟妹たちだけということだ。

 

「…………」

 

 アルモニアは無意識の内に、ズボンのポケットに手を添える。指先に触れる硬質な感触を確かめるも、彼は逡巡した後にソレを取り出さずに手を放した。

 フィリアに渡すよう、パイデイアから預かった物。しかし、不安定な少女に今それを見せるのは、余りにも危険であった。

 

「もう、部屋で休みなさい」

 

 アルモニアは絞り出した声でそう告げ、手元の端末で使用人を呼びつけた。

 中庭を吹き抜ける風が木々をざわめかせ、濃密な緑の香を運ぶ。

 二人は押し黙ったまま、視線を合わす事さえせずに東屋に立ち尽くした。

 

 結局、アルモニアは少女に何一つしてやることができなかった。

 それは今までも同じだった。何よりフィリアの幸せを願いつつも、それを為せない己の不甲斐無さを呪ってきた。

 

 この手は、少女の頭を撫でてやることさえできない。

 せめて迫り来る災厄から彼女を護ろうと誓いを立てた。だが、それさえも果たせなかった。

 アルモニアは知らずと間に、拳を強く握りしめたいた。

 今度こそ、この子の命だけは護ってみせる。男は天を仰いで固く誓った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「何故ですかお父様! 私も遠征に参加させてくださいっ!」

 

 重厚な調度品に囲まれたフィロドクス家の当主執務室に、悲痛な女の声が響く。

 執務机に両手を付き、身を乗り出して声を張り上げているのは、眼鏡を掛けた若い女性、オリュザ・フィロドクスである。

 滅多な事では感情を表に顕さず、口さがない者からは機械のようだと言われる彼女が、端正な顔を驚愕と憤怒に歪め、泣き喚かんばかりに訴えている。

 

「もう決まったことなんじゃ。お主をノマスに連れていくことはできん」

 

 オリュザの泣訴を冷徹に退けるのは、豪奢な肘掛椅子に腰かける滝髭の老人だ。

 フィロドクス家当主「賢者」クレヴォは、鷹のように鋭い眼光で義理の娘を押し黙らせる。

 

「今回ばかりは事情が違う。自力で戦場を脱せられぬ者に、(ブラック)トリガーを預ける訳にはいかぬ」

 

 尚も食い下がろうとするオリュザに、クレヴォは止めの一言を放つ。

 現在フィロドクス邸では、ノマスへの侵攻について内々での会議が行われていた。

 聖都防衛線で最も被害の少なかったフィロドクス騎士団は、来たる遠征では主力を務めることになっている。イリニ騎士団から二本の(ブラック)トリガーを預かったのもその為だ。

 トリガー使いをノマスへ送るのは、主にフィロドクス騎士団の受け持ちになる。その人員から外されたことに、オリュザは不服を申し立てているのだ。

 

「当主の決定に異議を申し立てるのか? 不遜が過ぎるぞ」

 

 冷然とした声でそう告げたのは、黒髪を撫でつけた四十見当の男性、クレヴォの嫡子ジンゴだ。

 冷ややかな視線で不敬を咎めるジンゴに、オリュザは言葉を失って項垂れる。

 養女という立場の彼女には、会議に於いて何の発言権もない。当主クレヴォが溺愛していなければ、所詮は只の小娘である。

 

「まあ、親父もオリュザちゃんを心配してるのさ。大丈夫だって、俺らに任せておきなよ」

 

 どこか嘲るような調子でそう言うのは、くすんだ金髪の軽薄そうな男性、カスタノだ。

 ジンゴの弟である彼は、なおも不服そうなオリュザを眺め、わざとらしく肩をすくめる。

 

「なあオリュザ、何もお主が力不足だなどと考えてはおらんよ。国元で復興の指揮を執る者も必要なんじゃ。どうか聞き分けてはくれんかね」

 

 クレヴォ翁は飽く迄も穏やかに、重ねてオリュザを諭す。

 ノマスへの出征に当たり、彼女を連れていくことはどうしてもできない。

 彼女は(ブラック)トリガー「万鈞の糸(クロステール)」を操る練達の騎士だが、生身の身体に持病を抱えている。

 

 進行性の脳腫瘍である。この病によって、生身のオリュザには視力が殆ど無い。また眩暈や立ちくらみといった不調を来たすこともしばしばである。

 この事実はフィロドクス家の重要機密であり、知る者は家中でも殆どいない。

 盲目の彼女がトリオン体を失ってしまえば、敵から逃げおおせることなど不可能である。それも、味方の援護が望めない敵地なら尚更だ。

 

 とはいえ、「万鈞の糸(クロステール)」は遠距離狙撃に特化した能力を持ち、また担い手のオリュザがその性能を十全に引き出せるということもあり、彼女は病を隠して騎士団に在籍する事を許されていた。

 最前線には出ないと言う条件付きで、何度か遠征にも参加したことがある。

 しかし今回、オリュザはノマスへの遠征からは外されるという。勿論、「万鈞の糸(クロステール)」も没収される。

 オリュザはこの決定をどうしても承服できなかった。今の彼女には、戦う理由が明白にあったからだ。

 

「お願いです。私にもノマスと戦わせてください。戦場に立てなくとも構いません。オペレーターでもなんでも、私に出来ることなら何でもいたします」

 

 再度頭を下げて頼み込むオリュザに、居並ぶ面々は困惑を隠せない。

 クレヴォに格別の恩義を感じている彼女は、老父に極めて献身的に尽くしている。彼の指示なら事の是非すら問わない。盲従と言っていいほどに忠実だ。

 それが今、彼女は面と向かってクレヴォに異を唱え、自らを戦いにつれて行ってほしいと懇願している。

 以前の彼女ならあり得ぬ光景だ。

 

「何か、事情が御有りの様子。お嬢様のお考えを聞いてみてはいかがでしょうか」

 

 そう言って仲裁に入ったのは、会議に列席している最後の一人、六十手前の年頃の、実直そうな風貌の男性だ。

 彼はエンバシア・カナノス。フィロドクス騎士団の軍団長にして、フィロドクス家の家令を務める古参の騎士である。

 エンバシアは恭しい態度でクレヴォに話しかけ、オリュザの存念を聴くように具申する。

 滝髭の老人は難しい表情のまま首肯し、愛娘に目顔で問いかける。

 そうして彼女は、訥々と胸の内を語りだした。

 

「此度の戦で、多くの人が死傷しました。家中の皆さまだけでなく、他家の人たちも。……私は、彼らの代わりに戦いたいのです。彼らの無念を、怒りを、ノマスに刻み付けてやりたいと、心からそう思うのです。私情で戦に臨むなど、お許しいただけないのは尤もだと存じます。私が「万鈞の糸(クロステール)」を担うに相応しくないことも承知しております。……ですがそれでも私は、あの国を許せないのです」

 

 感情を表さない人形のような美貌から、静かな調子で紡がれる言葉。

 しかし、そこに込められた鬼気迫る情念は、居並ぶ誰もがはっきりと感じ取れた。

 今まで命じられるがままに戦っていた彼女が、初めて自ら敵を見定め、打ち倒したいと言う。

 それでも、クレヴォは首を縦に振らなかった。

 

「…………分かりました。無理を申し上げたこと、どうぞお許しください」

 

 心情を披瀝するも、それが受け入れられなかったことを悟ると、オリュザは悄然と肩を落とし、クレヴォの前に指貫型のトリガーを置いた。

 

「うむ。彼らの無念は必ずや晴らす。もう下がってよろしい」

「はい、お父様……」

 

 オリュザに申し渡されたのは、本国の復興指揮を執ることと(ブラック)トリガーの返納だけである。要件が済んだ彼女は、もう会議に立ち会う理由が無い。

 居並ぶ面々に頭を下げ、彼女はクレヴォの執務室を後にした。

 去り際の表情は哀切を極め、今にも泣き出さんばかりであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「さて、ようやくこれで本題に移れますな」

 

 オリュザが去った後の執務室にて、ジンゴが忌々しそうに息を吐きながらそう言った。

 壁際に控えるエンバシアに目配せをすると、彼は部屋付きのコンソールを手早く操作した。壁のトリオン構成が変化し、より防音性が高められる。

 もともと機密性に配慮した執務室だが、これで完全に外部からの聞き耳を防ぐことができる。

 

 これから先の会話は、絶対に外部に漏らすことはできない。

 別けてもオリュザには気を付けなければならない。聴覚系のサイドエフェクトを持つ彼女は、望むと望まざるとに関わらず音を拾ってしまう。

 

「オリュザちゃんがあんなに反対するとはねぇ。いや可愛げがあって結構結構。親父も娘の成長が嬉しいでしょ」

 

 相変わらず軽い口調でカスタノが言う。ただでさえ軽薄な物言いだが、言葉の端々には隠す気も無い嘲りの気配がある。

 

「……話を詰めるぞ」

 

 クレヴォが鋭い視線で息子二人を睨みつける。

 元々、巷間で取りざたされるほどに仲の悪い親子である。さらに扱う話題の陰険さに、老人の顔も固くならざるを得ない。

 

「まずはトリガーの分配です。これは付いては相性が有るので仕方ありませんが……」

 

 ジンゴに促され、エンバシアが書類をクレヴォに渡す。

 態々紙を使っているのは、後々火にくべて抹消する為だ。この計画は、フィロドクス騎士団の公式記録に残されることはない。

 

「我がフィロドクス騎士団が所蔵する(ブラック)トリガーの内、「万鈞の糸(クロステール)」は父上が、「潜伏の縄(ヘスペラー)」は私が所持することになります。そしてイリニ騎士団から提供された二本は、カスタノが「光彩の影(カタフニア)」を持ち、エンバシアが「灼熱の華(ゼストス)」を用います」

 

 そう言いながら、ジンゴは書類のページをめくる。

 そこにはフィロドクス騎士団で検討されたノマスの攻略方だけでなく、それとはまったく別の計画が記されている。

 

「我ら全員が(ブラック)トリガーを持てたことはこの上ない僥倖。父上、この機会を逃してはなりませんぞ」

 

 氷の如く冷たい表情で、ジンゴがクレヴォに念を押す。

 

「ま、親父も頑張ってくれるでしょ。可愛い子供の為だもんなぁ」

 

 険しい表情で書類を読み進めるクレヴォに、カスタノが弄うような声を掛ける。

 

「……構わん。これで進めろ」

 

 老人は夜叉のように鋭い眼光で息子たちを睨みつけながらも、低く平静な声で呟いた。

 

「かしこまりました。では早速準備に取り掛かります」

「分かっておるな、万が一にも外部に漏れるようなことがあってはならんぞ」

「それは勿論、気を付けますとも。父上は安心して待っておられればいい」

 

 当主からの了承を貰うと、ジンゴとカスタノは笑みを浮かべて執務室を後にした。

 二人の息子が退室すると、クレヴォは目頭を押さえて深いため息をつく。

 それは賢者と呼ばれる普段の印象からは程遠い、疲れ果てた老人の姿だった。

 

「わしを軽蔑するか、エンバシア?」

「いえ、御主人様。私は貴方にお仕えするのみです」

 

 自嘲の言葉を吐く老人に、家令は変わらぬ忠誠の言葉を述べる。そして、

 

「加えて申し上げるならば、たとえ道理に外れていようとも、子を思う親心に勝るものなどありはしません。私はそう理解しています」

「……どの道、地獄に落ちる身だ。せめて何かを残してやらねばな」

 

 クレヴォは手を動かし、トリオンで大きめの灰皿を作った。

 書類をその上に乗せ、火をつける。

 揺らめく炎を眺める老人の瞳は、只々侘しさに染まっていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 夏の強い日差しが容赦なくエクリシアに降り注いでいる。

 未だ瓦礫の撤去も済んでいない聖都では、茹だるような暑さと風に舞う塵灰で、市民の健康状況の悪化が案じられ始めている。

 

 そんな聖都の惨状に比べれば、イリニ邸の中庭はまるで別天地のようであった。

 市街の喧騒から切り取られた小さな森では、草木が変わることなく風に靡いている。

 芝の上に立つ東屋は風が良く通り、日陰の中にいれば酷暑も然程気にならない。

 

 どこまでも静謐で、清浄な小世界。

 そこに人形のように座しているのは、少女フィリアだ。

 

「…………」

 

 フィリアは相変わらず生気を失った瞳で、ただ漠然と空中を眺めている。

 自発的にこの場所に来たわけではない。

 ただイリニ邸に仕える家人が、彼女を慮って連れてきただけの事。中庭は奇跡的に無事だったが、屋敷はいたる所が損壊している。それらの修理で慌ただしくしている邸内は、心神を失ってしまった彼女の療養にはよろしくないだろうと考えたのである。

 

 一方、当のフィリアにとっては、自分のいる場所などどうでもよかった。

 最早彼女には、まともな思考能力さえ残されてはいない。

 彼女の望みはヌースを見つけ、家族の最期を見届けることだ。それだけが、彼女が未だに息を続けている理由である。

 

 自分で探しに行きたかったが、それは止められた。アルモニアが――敬愛する伯父が待っていろというから、只々じっと待っているのだ。

 しかしアルモニアはこの日、騎士団を率いてノマス侵攻へと出立したのだが、フィリアにそのことは知らされていない。

 眩い日差しに照らされた中庭で、抜け殻となった少女は流れる時に身を任せていた。

 

「~~~~!」

 

 とその時、深閑とした中庭に、何やら人の話し声らしき音が響いた。

 少女の居る東屋からは何を話しているか聞き取れないが、その人物はこちらに近づいているようで、徐々に声は大きくなっている。

 とはいえ、たとえ会話の内容を聞き取れたとしても、心を失った少女にとっては何の意味も無い。少女は置物のように身じろぎひとつしないままだ。

 

「分かっています。少し話をするだけよ」

 

 中庭の小道を通り抜け、来訪者はフィリアの居る東屋へと歩を進める。

イリニ邸の使用人に案内されて現れたのは、眼光鋭い黒髪紅瞳の美女、ニネミア・ゼーンである。

彼女は困惑顔の使用人と、二言三言言葉を交わす。

 

 心の平衡を失ったフィリアに外部の人間を合わせぬよう、家人にはアルモニアから指示がなされている。仮にもイリニ騎士団のエースが心神喪失状態なのだ。秘匿は当然と言えるだろう。

 

 加えて言うならば、少女は家族を失った際に暴走し、味方である騎士たちにも牙をむいた。精神を安定させるため、パイデイアの(ブラック)トリガーは少女に持たせたままである。可能性は低いだろうが、まかり間違って再び暴れ出さないとも限らない。余計な刺激は与えるべきではないとの判断である。

 

「案内ご苦労でした。下がりなさい。二人で話がしたいの」

 

 しかし、ニネミアはそう言って使用人を追い払う。

 未だに心配顔の使用人であったが、反論せずに引き下がった。この年若い大貴族の当主がフィリアの友人であることは周知の事実である。念のためアルモニアにも連絡を取り、面会の了承は得ている。

 

 使用人が一礼して引き下がると、芝生敷きの広間にはニネミアとフィリアだけが残された。

 だが依然として、少女の瞳は中空に向けられたままだ。

 

「……あなた、こんなところで一体何をしているの?」

 

 数秒の沈黙を挟み、ニネミアが刺々しい口調でそう言った。

 今日はエクリシアの騎士団がノマスへと出立する日である。ゼーン騎士団を率いるニネミアも、領地へと赴き遠征艇に乗り込む手筈となっている。

 そんな彼女がイリニ邸を訪れたのは、ぎりぎりになって渡された作戦計画の中に、フィリアの名前が記載されていなかったからである。

 しかし、そんな彼女の問いかけにも、少女は無言を貫いている。

 今の少女にとっては、外界の全ての出来事は、自分とは関わりあいの無い事なのだ。

 

「随分と生意気な態度ね。何とか言ったらどうなの、フィリア」

 

 あくまで厳しい口調で、しかし声音には隠しきれない憐憫の情を匂わせて、ニネミアが問う。

 するとフィリアは首をゆっくりと動かし、傍らに立つニネミアへと顔を向けた。

 自分の名前を呼ばれた事は、辛うじて判別が付いたのだろう。

 しかし、少女はガラス玉のような瞳を向けるのみ。話しかけたのがニネミアであることに、はたして気付いているのかどうか。

 

「…………」

 

 ニネミアが言葉に詰まる。

 彼女がフィリアを訪れたのは、遠征不参加の理由を糾すためである。同じく友人の内、メリジャーナとオリュザも人員から外されているが、メリジャーナは重傷を負ったため、オリュザは本国防衛に回されたことになっているが、持病が理由だと察しはついた。

 ただフィリアだけが、確たる理由も分からないまま本国に残されているのだ。

 

 少女が精神の平衡を失ったらしいという噂は耳にしていた。

 だが、エクリシアの興廃を賭けた戦を控えた今、フィリア程の使い手が不参加というのは巨大な戦力の喪失である。ニネミアは友人の状況を我が目で確かめるために、イリニ邸を訪れたのだ。

 

 果たして、少女は彼女が予想していた以上に――完膚なきまでに壊れていた。

 生気の消えた瞳。痩せこけた頬、芯の抜けた居住まい。

 胸中に渦巻いていた疑念と怒りが、急速に嵩を下げていく。かつての英気溌剌としたフィリアの姿は何処にも見られない。ここに座っているのは、憐れむべき小娘に過ぎない。

 

「……私はこれから戦いに赴くわ。あなたは何故、時間を無為にしているの?」

 

 それでも、ニネミアは絞り出すように言葉を吐いた。

 

「ノマスへの遠征よ。立ちなさいフィリア。――立って、戦いなさい」

 

 ニネミアは膝を突き、少女の細い肩を両手でしっかりと掴んでそう言う。

 ノマスへの遠征の事は、フィリアに伝えぬよう使用人から言い含められていた。けれど構わない。抜け殻となった彼女に、再び活力を与えられるならば。

 

「…………」

 

 だが、少女はまるで言葉の意味が分からないといった風に、能面のような無表情でニネミアを見詰めるのみ。

 

「メリジャーナも、騎士グライペインも、まだ目を覚まさないわ。あなたは騎士なのよ。この国を護ると、私に言ったでしょう? ――義務を果たしなさい。あなたは、誇りあるエクリシアの貴族なんだから」

 

 指が食い込むほどに強く少女の肩を掴みながら、ニネミアが言葉を続ける。

 少女を見詰める赤い瞳が、微かに濡れている。

 無理なことを口にしているのは理解している。道理に外れていることも分かっている。それでも彼女は、少女を戦場に立たせるために説得する。

 

「ご家族を亡くして辛いのはわかるわ。……でも、だからこそ、あなたは戦わないといけない。ここで何もしなければ、きっと一生後悔する。……私が、そうだったから」

 

 ニネミアも、父であるトラペザ・ゼーンを亡くしている。それも、異国での戦死である。

 急ぎ家督を継いだ彼女だが、とうとう仇の国への侵攻は叶わなかった。

 報復が為されなかったことは、ニネミアを大きく傷つけた。貴族としての面目を失っただけではない。胸に抱いた悲しみも、怒りも、それら諸々の激情を、彼女は吐き出すこともできなかったのである。

 

 織火のように彼女の胸中に燻る感情。父の死を前にして立ち竦んでしまった己を、今でも彼女は許せていない。

 フィリアの傷心は、ニネミアがその時に負った傷より尚深いのだろう。けれど、ここ諦めてはならない。残された者は、前に進むしかないのだ。この残酷な世界では、立ち止まることは死を意味するからだ。

 

「…………」

 

 ニネミアの切なる願いも虚しく、フィリアの表情には漣ほどの変化も見られない。

 黒髪の乙女は唇を噛み、初めて端正な表情を歪ませた。

 

「あなたはっ! あなたは悔しくないの!? 憎らしく思わないの!? あなたの家族だけじゃない、皆、皆死んでいったわ! 私の部下も、多くの民も。私たちの他に誰が、彼らの無念を、恨みを晴らしてやれるというのよ!?」

 

 憤怒に声を荒らげ、ニネミアがそう叫ぶ。

 しかし、その怒声とは裏腹に、彼女は今にも涙を溢さんばかりの表情をしている。

 歳若いニネミアは、惨禍に見舞われた民の心を、誰よりも痛切に感じ取ってしまったのだろう。高潔な貴族たらんと己を律してきた彼女は、民の庇護者として、代弁者としてノマスへの復仇に燃えている。

 だが、痛切な乙女の言葉も、心を失った少女には響かない

 

「…………」

 

 フィリアは相変わらずガラス玉のような瞳で、虚しくニネミアを見詰めるのみ。

 

「~~~~!」

 

 乙女は思わず少女の頬を打とうとして、そして寸での所で思いとどまった。

 この少女もまた、戦禍の犠牲者なのだ。ならば彼女は貴族として、少女の分まで戦わねばならない。

 

「……もういいわ。ゆっくり養生なさい」

 

 ニネミアは肩を落とすと、悄然とした様子で東屋を後にした。

 森の小道に消えていく友人の姿を、フィリアは茫洋とした瞳で見送った。

 

 

 

 

 

 



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其の五 開戦 機動城塞都市

 空の青と草原の緑に別たれた天地が、遥か彼方まで広がっている。

 地平から登ったばかりの太陽が、穏やかな光で世界を照らす。

 狩猟国家ノマスに、新しい一日が訪れた。

 

 時刻は早朝。人々は未だ夢から覚めておらず、ただ吹き抜ける風だけが、夜気を地平の彼方へと運んでいく。

 人々が日々の営みを始める前の、ほんのわずかな静寂の一時。

 しかしこの日、ノマスの安らかな睡眠は、荒々しい来訪者によって妨げられることになった。

 

 雷雲の直中に飛び込んだような、凄まじい放電音が轟く。次いで、緑の大地に、青の空に、漆黒の風穴が空く。

 ノマスの大地に現れたのは、侵略者が開いた(ゲート)だ。

 その数は見る間に増加し、早くも数十を超えた。

 

 そして漆黒の風穴から姿を覗かせたのは、甲冑のような白い外皮をした大小様々の異形――近界(ネイバーフッド)における戦場の主役、トリオン兵である。

 陸を、そして空を埋め尽くさんばかりに展開するトリオン兵の群れ。

 

 聖堂国家エクリシアによる、ノマスへの逆襲が始まったのだ。

 

(ゲート)展開に成功。イリニ騎士団、ゼーン騎士団も順次トリオン兵を送り込んでいます」

 

 フィロドクス騎士団の遠征艇。

 戦闘指揮所で戦況をモニターしながら、エンバシア・カナノスがそう告げる。

 指揮所の投影モニターでは、千を超えるトリオン兵が草原を踏みしめ、ノマスの機動城塞都市目がけて進軍を始めている。

 

「さて、まずは小手調べと行こうか。情報収集を第一とせよ。委細漏らさず全て記録するのだ」

 

 冷厳にそう指示するのは、フィロドクス家の長子ジンゴだ。

 エクリシアの全国力を注いでのノマス侵攻。緒戦は敵勢の戦力を図るのが定石だ。膨大の数のトリオン兵を投入したように見えるが、まだまだ兵力は十分に残している。この一戦でノマスの戦力の底を見抜き、本格的な攻略作戦を組み立てる。

 

「何だよ兄貴、まだ出ちゃ駄目なのかい?」

 

 軽薄な口調でそう告げるのは、二男のカスタノだ。

 三大騎士団がそろい踏みしての侵攻だが、未だにどの騎士団もトリガー使いはノマスに送り込んでいない。

 エクリシアの主力トリガー「誓願の鎧(パノプリア)」は堅牢な装甲と凄まじい機動力を有するが、継戦能力に一抹の不安がある。緒戦から用いるよりは、ここぞという局面で集中投入するのが適切な運用方だ。

 

 加えて、今回の遠征にはエクリシアの(ブラック)トリガーが七本投入されている。これらのトリガーは「誓願の鎧(パノプリア)」との併用が可能なため、その戦力は正に一騎当千である。

 トリオン兵によってノマスの備えが明らかになれば、(ブラック)トリガーの猛威に訴えて無理やりにでも敵陣を切り崩すことも可能だろう。それまで、敵にはなるべくこちらの手札を見せないほうがいい。

 

「敵も兵を繰り出してきたようじゃ。さて、どれほどトリオンを残しているか……」

 

 指揮所の最奥に座る老人、クレヴォ・フィロドクスがモニターを眺めながらそう言った。

 

 ノマスは(ゲート)誘導装置の開発には成功していないものの、(ゲート)遮断装置はそれぞれの機動都市に配備されている。

 機動都市から半径数キロ圏内は(ゲート)の展開が不可能な為、トリオン兵団が都市に取りつくまでは多少の時間がかかる。

 その隙に、ノマスも迎撃態勢に移ったようだ。一塊になった三十余りの巨大な機動都市群から、トリオン兵が次々に現れる。

 

 だが、その数はエクリシアの先兵には遠く及ばない。

 エクリシアへ攻め入った際に、ノマスが用いたトリオン兵の数は大国の尺度を以てしても桁違いであった。やはり相当無理をしてトリオンを捻出したのだろう。敵のトリオン備蓄は、そう多くないのかもしれない。

 

「はっ、おいおいそんな数で大丈夫かよ。ヤル気あるのか?」

 

 展開する敵兵を見て、カスタノが鼻で笑う。

 見たところ、敵が繰り出したトリオン兵はモールモッドやバンダーなどの汎用型が殆どで、聖都で騎士を苦しめたクリズリなどの高コストトリオン兵の姿はない。

 ノマスのトリオン兵は近界(ネイバーフッド)でも指折りの性能を持つが、こと汎用型ならそこまでの差はない。このまま当たれば、数に勝るエクリシアのトリオン兵団が優勢だろう。

 

 緑の海をかき分けて、トリオン兵団が進む。

 一足先に、紺碧の空では空戦型トリオン兵同士の戦闘が始まった。これも、数ではエクリシア側が勝っている。制空権を確保できれば戦の趨勢は決まったも同然だ。

 

 とその時、エクリシアのトリオン兵団を待ち受けるように、ノマスの軍団の足が止まった。

 狙いは明らかだ。過去の交戦データを参照するに、敵の兵団は機動都市からの射撃圏内に留まっている。都市群からの援護砲撃で、数の不利を補う考えだろう。

 

「構わない。このまま一当てさせろ」

 

 指揮を執るジンゴは冷静にそう言う。

 ノマスのトリオン備蓄が潤沢でないのは確定的だ。都市に住む市民らがトリオンを供出しているだろうが、決して無限と言う訳ではない。長距離の砲撃は特にトリオンを喰う。限りある資源を浪費させるのは悪くない。

 モニターの向こうで、二大国のトリオン兵団が激突を始めた。すると、

 

「――っ! 都市群に動きあり! これは……戦場より離脱を始めました!」

 

 家令のエンバシアが緊迫した声でそう叫ぶ。

 戦局を映しているモニターを見れば、ノマスの機動都市を表すマーカーが凄まじい速度で動き始めている。

 それも、前線のトリオン兵団を盾にするようにして、まったく逆方向へと動いているのだ。

 

「……そう来たか。厄介なことになったの」

 

 クレヴォが静かに呟く。

 見れば、敵のトリオン兵団の戦い方は消極的だ。自らは攻めかからず、エクリシア側のトリオン兵の攻撃をいなすようにして防戦に努めている。

 遅まきながらノマスの意図を悟ったジンゴとカスタノも、揃って顔を顰める。

 ノマスはエクリシアとまともに戦わず、時間切れを狙う戦略を取ったのだ。

 

「くそ、臆病者どもめ」

 

 思わず、ジンゴが悪態をつく。

 此度の遠征でのエクリシアの作戦目標は、神の候補者の獲得である。

 ノマスに痛撃を与えればこの上無い戦果だが、それは飽く迄副目標であり、ノマスの支配や占領は考えられていない。

 

 ノマスは征服するのが極めて困難な国である。(マザー)トリガーが国土の中心に無く、しかも徹底的に秘匿されているという特殊な国情の為、国を屈服させるには最後の一兵までをも倒さねばならない。当然、その戦闘に掛かるコストは膨大で、また殲滅戦となれば敵方に大量の(ブラック)トリガーを生成される恐れがある。

 

 その為エクリシアが立てた基本方針は、機動都市の幾つかを擱座させ、そこに住む住人たちを人質にして、ノマスに神の候補者を出すよう取引を迫るというものであった。

 敵の機動都市が羊のように群れているなら、その中の弱い個体を狙えばいい。

 勿論ノマスは徹底抗戦するだろうが、一騎当千の騎士たちを以てすれば、機動都市の一つや二つは楽に攻め落とせる筈であった。

 しかし、ノマスはエクリシアとの交戦を避け、全力で逃走を開始したのだ。

 

「イルガーを投入せよ。敵の足を止めるのだ」

 

 ジンゴがエンバシアにそう命じる。

 この展開を想定していなかったエクリシアではないが、それでも虚を突かれた感は否めない。

 ノマスの立場に立てば、なるほど理にかなった戦略である。

 

 兵を派遣していられるのは、お互いの星が接触軌道上にいる間だけで、それを過ぎれば本国への帰還ができなくなる。既に最接近を過ぎた今、エクリシアに残された時間は多くない。トリオン備蓄に乏しいノマスとしては、真っ向衝突を避けて時間切れを狙う方が被害を抑えられると判断したのだろう。

 或いは、エクリシアへの侵攻を遅らせたのも、最初からこの防衛策を踏まえての戦略だったのかもしれない。

 

「ふん、無駄な事を……一つでも都市を潰せば、こちらの勝ちだ」

 

 モニターを睨みながら、ジンゴが不快気に鼻を鳴らす。

 敵が逃げを打ったところで戦略は変わらない。都市を運行停止にすれば、それで中の市民は捕まえられる。共同体意識が極めて強いノマスの気質から考えれば、まさか同朋を見捨てて逃げることはしないだろう。

 

 ノマスの機動都市はその巨体故に相当な速度で移動でき、陸戦型トリオン兵では追いつくことができないが、それでも空中を飛行するトリオン兵からは逃げられない。

 すでに爆撃型トリオン兵オルガを搭載した多数のイルガーが、自爆モードで都市群に追いすがっている。

 いくら堅牢な都市とはいえ、イルガーの爆発に巻き込まれては足を止めざるを得まい。そして動きが止まれば、エクリシアの描いた絵図面通りに戦局は進む。だが、

 

「――っ! 敵の新型トリオン兵を確認、イルガーが堕とされます!」

 

 ノマスは対応策を用意していた。

 空中を猛進するイルガーの群れに、ひし形をした平たいトリオン兵が挑みかかる。

 機動都市の上空を旋回するこれらのトリオン兵は、ノマスが開発した新型空戦用トリオン兵レイだ。

 

 空対空戦闘に特化してデザインされたレイは、同じく飛行型トリオン兵バドとは比べ物にならない格闘能力を持つ。

 レイは高空を縦横無尽に飛び回り、目まぐるしい機動でエクリシアの空戦トリオン兵に襲い掛かる。主武装である側面の鋭利なブレードで、すれ違いざまにバドを切り裂いて撃墜する。

 流石に重装甲のイルガーには歯が立たないが、腹びれや尾びれなど、操舵に必要な個所を狙って切り裂いていく。これによって制御を失ったイルガーは、都市に命中することなく虚しく地面に吸い寄せられていく。

 

 都市から飛び立つレイは引きも切らず、エクリシアの空戦部隊を次々に撃破していく。

 のみならず、機動都市群は上空に向けて凄まじい対空射撃を敢行した。

 レイの迎撃から何とか逃れたイルガーも、空を覆わんばかりの濃密な弾幕を前にしては形無しだ。

 結局、エクリシアが投入した空戦部隊は、ノマスの機動都市に何の損害も与えられずに全滅した。

 

「敵地上部隊の殲滅を確認。ですが……」

 

 空中戦に注視しているうちに、地上戦も一先ずの終結を見たようだ。

 こちらは流石にエクリシアの軍勢が勝利をおさめたが、それでもほぼ同数のトリオン兵が破壊されている。総数で勝っていたのだから、手放しの勝利とは言い難い。

 そして敵勢を打ち破ったとはいえ、陸戦型トリオン兵の速度では、逃げ回る機動都市に追いつくことができない。

 

 エクリシアの中で逃走に徹する機動都市に迫ることができるのは、空戦型トリオン兵を除けば「誓願の鎧(パノプリア)」を纏った騎士のみ。

 しかし、トリオン兵の援護がない状況で、敵の拠点に突撃を仕掛けるのは余りにリスクが高い。いくら一騎当千の騎士たちといえども、ノマスの全兵力を相手にしては、勝ち目は皆無に等しい。

 

「やはり、ノマスの技術力は侮れんな……さて、次の手はどうするね?」

 

 想定外の苦戦に沈黙が立ち込めるブリッジ。クレヴォだけが、まるで他人事のような口ぶりでそう言った。

 実際の所、ノマスを戦闘に引きずり込む手立ては今の所見当たらない。それほどまでに水際立った逃亡だった。

 

「……イリニ、ゼーン騎士団と通信を繋げ。善後策を協議する」

 

 ジンゴは渋い口調でエンバシアに命令すると、シートに背中を預けた。

 手をこまねいている間にも、貴重な時間は過ぎていく。

 エクリシアとノマスの軌道が離れる前に、果たして敵を捉えることができるのか。

 ジンゴは渋面を浮かべ、草原の彼方に消え去る巨大都市群を睨みつけた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 果たして、エクリシア遠征部隊は機動都市群を捕捉することができなかった。

 

 ノマスの草原に点在する丘陵。その一つが要塞と化している。

 簡素ではあるがトリオン製の防壁が丘を取り囲み、地面を削って造られた塹壕が何条も張り巡らされている。丘の内部は掘削され、トリオンによって即席の戦闘指揮所と、物資集積所が設けられていた。

 

 緒戦でノマスの機動都市群にまんまと逃げられたエクリシアは、ここに至って持久戦を覚悟し、敵地で野戦築城を行ったのである。

 敵からの襲撃のリスクや、撤退時の円滑さを考慮すれば、停泊させた遠征艇から兵を繰り出す方がいい。

 

 しかし現在、遠征艇は全て本国へ向けて帰還している。ノマスの機動都市群を攻略するにあたって、追加の人員と武装、そしてトリオンを補給しに戻ったのだ。

 補給部隊の指揮はゼーン騎士団のニネミアが執っている。手続き上、教会にも話を通さねばならないため、総長の誰かは本国に戻らねばならない。

 そして丘の内部、簡単な区分けが為されただけの部屋の一つで、イリニ騎士団の面々が会議を行っていた。と言っても、参加者は僅か二人だけである。

 

「さて。実際の所、あのデカブツをどう攻略するね?」

 

 開口一番、うんざりした調子で言葉を発したのは、ドクサ・ディミオスである。禿頭の男性は粗末な椅子に腰かけ、対面に座する上官へ問いかける。

 

「ともかく、敵の足を止めねば話にならない。とはいえ、あれだけの質量を持つ集団だ。まともに当たったところで勝ち目はないだろう」

 

 眉根を寄せて沈鬱に呟くのはアルモニア・イリニだ。

 遠征に選抜された他の騎士たちは基地の整備に走り回っている。二人だけで秘密裏に会議を行うなら、今の内だ。

 

「何か、いい案はあるかね?」

「思い浮かべばもう話している」

 

 実際の所、ノマスの機動都市を堕とすのはかなりの難事である。

 圧倒的な装甲と質量を持つ都市が、三十余りも群れているのだ。近寄る敵にはハリネズミのように砲撃を加え、精強なトリオン兵団が常に護衛についている。

 しかも、彼らは徹底的に交戦を避け、広大な草原を逃げ回るのだ。

 機動都市は巨体故に足も速いため、追いつくことさえ一苦労である。

 

「隘路への誘導や、足止めの策は?」

「難しいな。相手も警戒している。孤立の危険がある場所には近づかない」

 

 あれから何度か攻撃を仕掛けているが、全て躱されてしまった。ノマスは本拠地の利点を大いに生かし、エクリシア勢を翻弄し続けている。

 

(マザー)トリガーの位置が分かれば簡単なんだがな……」

 

 と、ドクサが忌々しげにぼやく。

 ノマスがこうまで逃げに徹していられるのも、(マザー)トリガーの徹底的な隠匿のお蔭だ。もし所在を突き止めることができれば、エクリシアは望み通り正面切っての全面戦争を始めることができるだろう。

 

「補給物資が来るまで、今しばらく時間がある。何か上手い手立てはないか、他の騎士団とも検討してみよう」

 

 アルモニアはそう言って、こめかみを指で突く。

 機動都市群に挑みかかるには、どうあっても大量の兵力がいる。どちらにせよ、行動を開始するのはニネミアが本国から戻ってからだ。

 二人は揃って固い表情のまま、鉛のように重いため息をついた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その夜。エクリシアが築いた堡塁に、音も無く忍び寄る集団があった。

 隠密トリガーによってガラスのように透明化し、完全に闇夜に溶け込んだ集団は、張り巡らされた警戒網を容易く潜り抜け、空堀を飛び越え防壁を駆けのぼる。

 彼らはノマスの戦闘部族、ルーペス氏族の戦士たちだ。

 

 そろって隠密トリガー「闇の手(シカリウス)」を起動した二十人余りの部隊が、足音一つ立てずにエクリシアの堡塁と忍び込んでいた。

 彼らは何の感知も受けずに施設内部へと続くハッチまで辿り着くと、手元から別種のトリガーを取り出し、壁面に貼り付けた。

 これはノマスが開発した潜入用の装置で、トリオン製の壁や床をある程度の厚さまでなら一瞬で溶かすことができる。

 

 ブン、と小さな音がなり、壁面に直径二メートル足らずの穴が開く。

 ルーペス氏族の戦士たちは透明化を維持したまま、施設内へと立ち入ろうとする。次の瞬間、

 

「――!」

 

 壁面をぶち破って現れた漆黒の巨腕が、ノマスの戦士たちを紙屑のように殴り飛ばした。

 

「――っ」

 

 奇襲を受けたルーペス氏族の戦士たちは、一斉にその場から大きく散開する。

 巨腕の直撃を受けた戦士たちは一瞬でトリオン体を破壊され、勢い余って施設を取り囲む防壁に叩き付けられた。咄嗟に防御姿勢を取ってはいたが、交通事故にも匹敵する衝撃である。よしんば即死を免れたとしても、重傷は間違いないだろう。

 

「そちらから出向いてくれて助かるよ。とはいえ、不埒なこそ泥には灸をすえてやらんとな」

 

 施設の壁面を打ち砕き、漆黒の巨腕が夜空に浮かび上がる。

 エクリシアが有する(ブラック)トリガーの一本「金剛の槌(スフィリ)」。その担い手ドクサ・ディミオスが、悠然と屋外へ姿を現したのだ。

 ドクサは口の端に笑みを浮かべた飄々たる面持ちで、しかし双眸には燃え盛る闘志を露わに歩み出る。

 彼にとって、ルーペス氏族の戦士は娘と娘婿の仇だ。復讐に燃える古強者は、姿なき襲撃者を睥睨する。

 

「――!」

 

 強敵の出現を前にしても、ルーペス氏族の戦士たちには寸毫ほどの動揺もなかった。彼らの命は故国に捧げられている。我が身かわいさに任務を放棄する者はいない。

 彼らは短い無声通信を交わすと、見事な連携でドクサに襲い掛かった。

 

 どのようにして潜入を察知したのかは定かではないが、流石に「誓願の鎧(パノプリア)」を纏う時間は無かったらしい。(ブラック)トリガーは強力無比だが、鎧さえなければ、「闇の手(シカリウス)」でも十分に致命傷を与えることができる。

 

 むしろ、ここで(ブラック)トリガーの使い手を殺すことができれば、それは二十人の部隊が全滅したとしてもお釣りがくる戦果となる。

 四方八方から連携して襲い掛かる不可視の刃。いかな達人といえども防げまい。だが、

 

「消え失せい木端どもッ!」

 

 怒声一喝。疾風の如き速度で振り回された漆黒の双腕が、飛びかかった戦士たちを残さず打ち据え、吹き飛ばす。

 

「――っ!」

 

 トリオン体を失い、襤褸切れのように地面に倒れ伏す戦士たち。

 今度は流石に、彼らの表情にも驚愕と焦燥の色が浮かんだ。

 ドクサは明らかに隠密状態の戦士たちを捕捉している。「闇の手(シカリウス)」の透明化には多少の難があり、動いている最中には輪郭が明らかになってしまうが、それでもこの闇夜で、しかも複数の標的を同時に捌ける筈がない。

 

「……っ!!」

 

 そこまで思いを巡らせて、ようやく彼らも絡繰りに気付いた。エクリシアの基地に、いつの間にか霞が立ち込めている。

 この霧は只の水蒸気ではない。エクリシアが有する(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」によって散布された微細なトリオン粒子だ。

 

 撒き散らされたトリオンの霧は、一帯のあらゆるトリオン活動を子細に暴き出す。

 レーダーを無効化し透明になる「闇の手(シカリウス)」でも、人型の物体が其処にあることまでは隠せない。

 ルーペス氏族の戦士たちは、エクリシアの堡塁に侵入した時から、或いはそれ以前から存在を捕捉されていたのだろう。

 そしてその情報は、視覚情報としてドクサに共有されていた。だからこそ、彼は不可視の襲撃者を一掃できたのだ。

 

光彩の影(カタフニア)」の幻惑結界。戦闘能力は皆無だが、その特殊性故に、ノマスでは最大限の警戒を要するとされていたトリガーだ。

 エクリシア防衛戦にて潜入部隊に痛手を蒙った騎士たちは、ノマスの隠密トリガーに徹底的な対策を講じていた。二度と同じ轍を踏むつもりはない。

 

「――!」

「逃すかっ!」

 

 ルーペス氏族の戦士たちの判断は迅速だった。潜入が失敗に終わったとみるや、彼らは即座に撤退行動へと移った。

 地に伏した兵たちを抱きかかえ、不可視の戦士が後退を始める。

 無論、それを見逃すドクサと、エクリシアの騎士たちではない。

 

 堡塁の防壁を飛び越えようとした戦士たちを銃弾の雨が襲う。いつの間にか「誓願の鎧(パノプリア)」を纏ったエクリシアの騎士たちが上空へと展開している。

 彼らは仲間を連れて逃げるノマスの戦士たちに、遠慮会釈のない苛烈な攻撃を加え始めた。ここで捕虜を得ることができれば、こう着した都市攻略戦の新たな糸口になる。

 

 脱兎の如く逃走する戦士だが、頭を押さえられては流石に分が悪い。

闇の手(シカリウス)」は隠密機能に特化するが故に、通常の戦闘体よりも出力に劣る。加えて生身の人間を抱えているのだから、とても飛行能力を有する騎士には敵わない。

 このままでは全滅は時間の問題と思われた。しかし、

 

「――増援か!」

 

 ドクサが忌々しげに吐き捨てる。

 エクリシアの堡塁目がけ、大量のトリオン兵が津波のように押し寄せてきたのだ。その中にはクリズリら、高性能の戦闘用も含まれている。外部に控えていた連中が潜入部隊の救出に動いたらしい。

 即座に堡塁の防衛装置が起動し、押し寄せるトリオン兵に猛烈な攻撃を加え始める。そして騎士たちも、こうなっては兎狩りにかまけていることはできず、トリオン兵の排除に動き出す。

 

「この程度の軍兵で我らを倒せると思うかっ!」

 

 しかし、ノマスの強襲にもエクリシア勢は昂然として応じる。むしろ戦闘を臨んでいたのは彼らの方だ。正面切っての殴り合いなら、エクリシアの精兵に敵う国は無い。

 ドクサは「金剛の槌(スフィリ)」を振り回し、防壁に迫り来る敵を文字通り千切っては投げ捨てる。

 そして「灼熱の華(ゼストス)」を起動したフィロドクス騎士団のエンバシアが、堡塁から砲撃を始めた。

 砲撃型(ブラック)トリガーから放たれる弾丸が、闇夜に巨大な火球を生み出す。

 密集したトリオン兵団は絶好の標的だ。絶大威力の砲撃で、ノマスの軍勢は見る間に数を減じていく。

 

 そうして敵勢が疎らになった間隙を突いて、騎士が上空から突撃を仕掛ける。

 圧倒的な攻撃力を前にして、ノマスのトリオン兵団はあっという間に四分五裂の状態となった。

 そして、騎士たちは統制を失ったトリオン兵には目もくれず、夜闇の更なる奥を目指して飛ぶ。狙いはやはりノマスのトリガー使いだ。

 撤退した潜入部隊の他に、トリオン兵を運用する部隊。これらの兵員を捉えるべく、騎士たちは猛然と敵陣へと切り込んでいく。だがその時、

 

「総員、追撃を中止せよ」

 

 今遠征の総指揮官、クレヴォ・フィロドクスの通信がそれを阻んだ。

 

「地下振動を確認。ワムと推測される。位置座標を転送する。最優先で排除せよ」

 

 エクリシアの堡塁目がけ、捕獲型トリオン兵ワムが押し迫っているのだ。

 ワムは地中を掘り進み、標的の直下から奇襲を掛ける大型トリオン兵だ。地下に潜るため地上からは砲撃が届かない。堡塁にたどり着く前に撃破しなければ、基地内部を蹂躙されてしまう。

 

 しかも、ノマスのワムはレーダー対策を施されており、通常の方法では探知できない。とはいえ、幸いなことにエクリシアは振動から位置を測定することに成功している。騎士が総がかりになれば、地下を掘り進むワムを駆逐することができるだろう。

 

「了解した。直ぐにミミズを叩く」

 

 前線で指揮を執っていたドクサが忌々しげに答える。

 敵がワムを投入したのは、潜入部隊が撤退する時間を稼ぐためだ。それでも、ドクサたちはワムを放置することはできない。仮に陣地に蓄えられた物資、トリオンを失ってしまえば、遠征そのものが続行不可能になるからだ。

 

 やはり、ノマスは時間切れを狙っている。

 堡塁に忍び込んだのも、騎士を倒すためではなく破壊工作を行うためだろう。そうしてエクリシアをトリオン切れにして、本国へと撤退させる腹積もりだ。

 

 悔しいことに、その目論見通りに事は推移している。

 今夜の小競り合いにしても、一見エクリシア側が勝ちを収めたように見えるが、実態は真逆だ。膨大な人口を擁するノマスと異なり、エクリシア側の人員は僅か二十名ほど。現地でトリオンを補給することなど到底かなわない。持ち込んだトリオンが尽きれば、手も足も出なくなる。ノマスはそれを見越して、今後も手勢を送り込んで嫌がらせを続けるだろう。

 

「くそ、敵の思うままに動かされているな」

 

 通信をオフにして、ドクサが独り呟く。

 

「メリジャーナ、テロス……」

 

 娘と娘婿の復仇を。その一念で彼はこの戦場に臨んでいる。

 エクリシアの未来も、貴族としての義務も建前に過ぎない。

 親しき者を害された。その恨みと怒りを晴らすことが、この戦いの意義なのだ。

 未だ戦闘音が鳴りやまぬ夜闇の中に、ドクサは躊躇なく飛び込んでいった。

 

 

 

 

 



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其の六 開戦 争いの連鎖

 遠征部隊が遠い異国で苦戦を強いられている頃。

 エクリシアの聖都では、騎士団による懸命な復興活動が夜を日に継いで行われていた。

 フィロドクス騎士団のオリュザも、多忙な日々を過ごしている。ノマス遠征に参加できなかった彼女は、本国での復興指揮を執っていた。

 

 只でさえ人員が不足しているのに、遠征に大量のトリオンを投入してしまったために、作業は捗々しくない。それでも彼女は、一日でも早く国を立ち直らせ、市民に生活を取り戻させようと日夜精勤している。

 

 その鬼気迫る働きぶりは、ノマスへの復仇が叶わなかった悔しさを誤魔化すためだ。

 それでも、彼女は決して不貞腐れるようなことはなかった。

 国元には、助けを求める多くの人がいる。自分がすべきことは山ほどある。

 

 ただ、殺人的なスケジュールの中でも、休息の時間は必要だ。

 どれ程振りかで半休を貰ったオリュザは、友人の家を訪ねていた。

 フィロドクス家に勝るとも劣らぬ大邸宅は、エクリシアの大貴族イリニ家の屋敷だ。

 オリュザは長らく会えていなかった友人、フィリア・イリニを見舞うため、邸宅の門を潜った。

 

「……それほど、フィリア様のお加減は悪いのですか」

 

 使用人に案内されてイリニ邸を進むオリュザは、少女の容態を知らされると、思わず端正な顔を曇らせた。

 聖都防衛線では赫々たる戦果を挙げたフィリアが、どうしたことかそれ以降は全く公の場に姿を現さないことは、市井でも噂になっていた。

 

 勿論、ノマスへの遠征にも不参加である。

 オリュザも少女が不調を来たしていることは人づてに聞いていた。しかもそれが肉体の負傷ではなく、精神的なモノであるらしいことも耳にしていた。

 だが、使用人から聞かされたのは、オリュザの予想を遥かに超える悲惨な話だった。

 

 少女は聖都防衛線の折り、家族全員を失ったと言うのだ。

 それがどれ程の衝撃であったかは、同じ養い子である彼女だからこそよく分かる。

 以前、友人同士で集まって夜を過ごした時、フィリアが己の家族について語る姿は良く覚えている。

 

 エクリシアでは忌み嫌われる血を引く少女にとって、家族は彼女の心の拠り所であったのだろう。それが、全て奪われた。

 我が身に置き換えて考えれば、それだけで背筋が凍る。

 少女の私室の前へと着いた。侍女が呼びかけるも、当然のように返答はない。

 

「……失礼いたします」

 

 侍女を廊下で待たせると、オリュザは意を決して入室した。

 

「フィリア様。御無沙汰をしております。私です。オリュザ、です」

 

 貴族の私室としては奇妙に調度品の少ない部屋がオリュザを出迎える。長らく使用していないゲストルームのように、清潔ではあるが生活の痕跡が見当たらない。

 年頃の少女の部屋とは思えない、ただ闇雲に広いだけの閑散とした空間。

 

 その侘しい世界に溶け込むように、件の少女はいた。

 フィリアはキングサイズのベッドに腰掛け、オリュザに背を向けていた。

 

「あの、……フィリア様?」

 

 寝間着姿の少女は窓を向いたまま、オリュザの呼びかけにも何の反応も示さない。

 

「…………」

 

 まるで人形のように生気を感じない少女の姿に慄然としながらも、オリュザは懸命に足を進める。

 そうしてベッドの横へと回り込み、フィリアの姿をはっきりと見据える。そして――

 

「――っ」

 

 今度こそ、オリュザは衝撃に言葉を失った。

 そこに居たのは、彼女の知るフィリア・イリニではなかった。

 そこにあったのは、無残な抜け殻だった。

 

 フィリアはオリュザの接近にも何の反応も示さない。

 窓の方を向いていたのも、別に風景を眺めている訳ではなかった。その証拠に、視線は宙の一点に注がれたまま動きもしない。

 オリュザは余りの少女の変貌ぶりに、一瞬自分は人形を見ているのではないかと疑いを起こした。

 けれども、よくよく見れば少女の胸は呼吸によって上下し、時折瞬きもしている。間違いなく、生きた人間であった。

 

「フィリア、様……」

 

 オリュザの脳裏に、津波のように少女との思い出がよみがえる。

 フィリアは変わり者として有名だったオリュザに、初めてできた友達だ。

 溌剌としながらも礼儀正しく、どこまでも心優しい少女。

 彼女との交流で、自分は間違いなく良い方向に変われたという実感がある。

 その恩人が、魂を失ったように座している。あの愛らしい面影は、どこにも見出すことができない。

 

「――――」

 

 思わず全身の力が抜け、オリュザはベッドサイドに膝をついた。

 何も言葉が思い浮かばない。慰めも激励も、少女の無残な姿を見れば決して届かないことは明らかだ。

 オリュザは声を詰まらせながらも、それでも胸に蟠る思いを絞り出そうとする。そして、

 

「……ごめん、なさい」

 

 喉を突いて出てきたのは、なんと謝罪の言葉だった。

 

「ごめんなさい……フィリアさん」

 

 言葉を紡ぐと同時に、オリュザの瞳に涙が溢れてきた。

 何故謝るのか、何故泣くのか。

 その理由は、彼女にも判然としない。

 強いて言うならば、廃人も同然になった少女の姿を目の当たりにして、その責任の一端が自分にもあると考えてしまったのだろう。

 

「私が、私たちが不甲斐無かったから……」

 

 止めどなく流れる涙が、オリュザの頬を濡らす。

 聖都が危機に瀕していた時、彼女は何の力にもなれなかった。

 オリュザはノマスの奇襲を見抜くこともできず、事が起こってから慌てて聖都の救援へと動いた。しかも、彼女が兵を率いて聖都にたどり着いた時には、既に粗方の戦闘は集結していたのだ。

 護国の要たる(ブラック)トリガーを預かりながら、彼女は敵と戦う事すらできなかった。

 

 それに比べて、フィリアは正に死力を尽くして戦った。

 五人ものトリガー使いを撃破し、数え切れないほどのトリオン兵を打ち倒した。のみならず、彼女はノーマルトリガーしか持たぬ身でありながら、敵の(ブラック)トリガーに真っ向から挑みかかり、我が身を省みずに足止めを果たした。

 

 彼女の奮闘が無ければ、(マザー)トリガーを守り切ることができたかどうか。

 しかし、その代償として、彼女は掛け替えのない家族を失ったのだ。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 もし、自分がその場にいられたら。もし、自分が敵の目論見に気付けていたら。

 一つでも歯車が違えば、少女は壊れずに済んだのかもしれない。

 それを思うと、オリュザの胸は刃物で斬り裂かれたように痛む。

 ノマスへの復仇が叶わなかったことも、彼女の罪悪感をさらに煽り立てた。

 

 国を護る騎士でありながら、何一つ成し遂げられなかった自分。

 身命を賭して国を護り抜き、そして全てを失ってしまった少女。

 

 己の情けなさと、友への申し訳なさに、オリュザは涙を流して詫び続ける。と、

 

「――っ!?」

 

 涙に暮れる彼女の頬に、柔らかなモノが触れる。

 

「な――フィリアさん!?」

 

 驚いて顔を上げるオリュザ。

 彼女の頬に触れているのは、細く小さなフィリアの指だ。

 少女は相変わらず生気を失った無表情。しかしその指先には、オリュザの涙を止めようとする確かな意思があった。

 驚愕に謝罪の言葉も引っ込むオリュザ。そんな彼女に更なる衝撃を与えたのは、頭の上に感じた暖かな温もりだ。

 

 フィリアの小さな掌が、オリュザの髪を優しく梳る。

 慌てて少女を見るが、相変わらず視線は茫として定まらず、表情は少しも変わらない。

 少女は心を失ったまま、彼女を慰めようとしているのだ。

 

「う、うわぁ……」

 

 フィリアの示した慈愛の心には、オリュザもとうとう耐えかねてしまい、声を上げて泣き出してしまう。

 すると少女は、そんな友人をそっと胸に掻き抱いた。

 少女の胸に顔をうずめ、嬰児のように涙を流すオリュザ。フィリアは無表情のままに、そんな彼女をあやし続ける。

 

 そうしてどれ程時間が過ぎたか。何時しかオリュザ胸に吹き荒れていた哀しみも、滂沱の涙に溶けて流れる。

 

「…………っ、ひっく」

 

 ようやくオリュザは少女の胸元から顔を上げる。しゃくりあげるが、涙は流石に止まったようだ。泣きはらした目元が赤い。ぐちゃぐちゃに崩れた表情は、普段の彼女からは想像もつかないほど人間味に溢れている。

 

「私は、その、なんというご迷惑を……」

 

 目元をぬぐい、次いで涙滴の着いた眼鏡を拭くオリュザ。

 顔全体が紅潮しているのは、自分の醜態に気付いたからだろう。

 傷心の友を励ますために訪れたのに、己の方が恥も外聞もなく泣いてしまった。

 彼女は羞恥に顔を伏せ、消え入りそうに小さくなる。とその時、

 

「……オリュザ、さん?」

 

 か細い声が、静寂の室内に響いた。

 

「フィリア様!? ――ああそんな、私がお分かりになりますか!?」

 

 突如として発せられた声に、オリュザは涙に塗れた顔を上げて少女を見遣る。

 依然、フィリアは置物のようにベッドに腰掛けている。

 しかし、その瞳には生気が宿り、表情には微かな困惑と含羞の色を浮かべている。

 

「あ、あの、私は、その……」

 

 少女の突然の回復に、オリュザはしどろもどろに言葉を濁す。

 

「大丈夫。へいちゃらですよ」

 

 するとフィリアはそう言って、再びオリュザの頭を優しく撫でた。

 

「何も怖くないですよ。何も、辛くないですよ」

 

 少女の声はどこまでも優しく清らかで、今まで心を失っていたとは思えぬほど明瞭だ。

 

「…………はい」

 

 年下の少女に慰められたオリュザは、ただ顔を真っ赤にするのみ。

 

 フィリアが心を取り戻せたのは、オリュザの涙に触れたからだ。

 オリュザが身も世も無く泣き出したのは、少女の心に寄り添ったが為。彼女があれほどまでに取り乱したのは、少女の心を埋め尽くす絶望と哀しみを感じ取ったからだ。

 オリュザはフィリアの代わりに涙を流した。そしてそのことが、フィリアの魂を絶望の淵から引き戻した。

 

「どうしたんですか? なんでも、話してくださいね」

 

 泣き喚くオリュザの姿を、フィリアは無意識の内に弟妹と重ねあわせていた。

 貧民街での塗炭の生活。小さな喜びを噛みしめ、家族との絆を心に刻みながらも、やはり世界は苦しみと痛みで溢れていた。

 別けても少女を傷つけたのは、愛する家族の涙である。

 

 自分はどれほど痛めつけられようとも構わない。しかし、泣いて帰ってくる弟妹たちを見るのが、何よりも少女には辛い体験だった。

 世の理不尽に曝され、耐えきれなくなって涙を溢す弟たち。

 フィリアはそんな時、決まって弟妹たちを優しく抱きしめ、何時までも何時までも慰め続けた。彼女は姉だから、下の子たちを護り、元気づけるのは当然のことだ。

 

 泣き崩れたオリュザを目の当たりにして、思わず体が動いてしまったのも、過去の記憶が身体を動かしたからだろう。

 そして姉であった頃を思い出すと、フィリアの瞳は急速に光を取り戻した。

 己が何者であったかを、少女は確かに覚えていた。

 

「オリュザさん。大丈夫、大丈夫ですよ。もっと泣いてもいいんです」

「あの、私は……」

 

 尚も優しく抱きしめられ、オリュザは流石に居た堪れない思いになった。

 身体に回された細い腕をそっと解き、彼女は少女に向き直る。

 

「お見苦しいところをお見せしました。あの、どこかお体に優れぬところはありませんか? 誰かお呼びしたほうがいいでしょうか」

 

 今更ながらに居住まいを正し、フィリアの体調を気遣う。

 

「いえ、至って健勝です。少しお腹が空いていますけれど」

 

 しかし、少女は穏やかな微笑を湛えてそう言う。つい先ほどまで精神の平衡を失っていたとは思えない、いつも通りの姿である。

 

「……ありがとうございます。私、ちょっと変になっていたみたいですね」

 

 フィリアはぼうっと辺りを見渡してそう呟く。どうやら、心を失っていた時の事は、おぼろげながら記憶があるらしい。

 

「今はお昼でしょうか。よければオリュザ様も、何かお召し上がりになりませんか」

 

 フィリアに椅子を進められたオリュザは、少女の余りの変貌ぶりに言葉を失う。哀しみと絶望の淵から舞い戻ったにしても、余りに平然とした振る舞いである。

 

「お時間がよろしければ、いろいろお話を聞かせてください」

 

 少女はそう言うと、室内の端末を操作し使用人に食事の支度を言い付けた。

 フィリアの突然の回復に、当然ながら使用人たちは大層驚いた。

 真っ先に部屋へと駆けつけたのは侍女ではなく、屋敷の留守を預かる家令に屋敷付きの医者だ。

 医者は少女にあれこれ質問をし、慌ただしく検査を行いだした。

 当然、オリュザは退席しようとしたのだが、少女は乞うて同席を求める。

 

「長い間、夢を見ていたようで……あの日から何日経ちましたか? 今はどんな状況でしょうか?」

 

 医者に身体を調べられながら、泰然とした様子でフィリアがオリュザに尋ねる。

 聖都防衛線から今に至るまでの経緯を、果たして心を病んでいた少女に話していいものか。オリュザがイリニ家の家令に目顔で問うと、彼は困惑した面持ちながらも首肯した。どうせ、少女が本気で情報を求めれば隠し通す事などできない。友人の口から婉曲に伝えてもらった方が、まだしも心労は軽く済むかもしれない。

 

 ――そうして、オリュザは聖都が受けた壊滅的被害と、現在エクリシアがノマスへ大規模な反攻作戦を行っていることを少女に伝えた。

 

「……そうでしたか。大変な時に、呆けていてしまってお詫びの言葉もありません」

 

 今までの出来事を教わると、少女は深々と頭を下げてオリュザに謝罪した。

 途中、友人であるメリジャーナとテロスが負傷し、入院していることも伝えたが、少女は僅かに顔を翳らせただけで、大きな動揺は見せなかった。

 

 余りに平然とした少女の様子に、オリュザは拭いきれない違和感を抱いた。

 フィリアは歳からは考えられないほどに冷静沈着な子供だが、感情量は人一倍に豊かだ。友人が傷ついたという知らせに接し、この平静さは明らかにおかしい。しかし、

 

「折角来て頂いたのに、満足なおもてなしもできなくてすみません。よければ、お昼だけでも食べて行ってください」

 

 医者の診察を終えたフィリアが、朗らかな笑みを浮かべてそう言った。

 一見すると、少女は以前の快活さを完全に取り戻しているように見える。

 

「え、ええ。それでは御馳走になります。フィリア様も、ともかく栄養を取った方がよろしいでしょうし……」

 

 邪気の無い笑顔に釣られ、オリュザも微かに頬を緩めて答えた。

 

「はい。用事も残っていますし、まずは体力を付けないと、ですね」

 

 そう言って、衣服を整えた少女は嫣然と笑う。

 痩せ衰えた少女が見せる、凄絶なまでに美しい表情。その顔貌を目の当たりにして、オリュザはようやく違和感の正体に気付いた。

 

 少女の双眸の奥に宿る、禍々しい光。

 全てを焼き尽くさんとする烈々たる炎が、金色の瞳に燃えている。

 

「フィリア、様……」

 

 言葉を失って立ち尽くすオリュザに、フィリアははたと気づいたように向き直ると、

 

「私のことを思ってくださって、ありがとうございます。――オリュザさんとの友誼、私は絶対に忘れません」

 

 触れれば消えてしまいそうな、まるで泣き笑いのように儚げな表情で、感謝の言葉を口にした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 窓の無い殺風景な通路を、燦然と輝く黒髪の美女が歩いている。

 大聖堂の地下にある研究区画。迷路のように入り組んだ廊下を、ゼーン騎士団総長ニネミア・ゼーンは足早に進んでいた。

 

 ニネミアがノマスから帰国したのは、本国から装備とトリオン、人員を追加で輸送するためだ。

 ノマスの思いがけない防備の硬さに、遠征部隊は未だに有効な攻略方を見出せていなかった。加えて敵の散発的な攻撃によって、遠征部隊のトリオンは日ごとに削られている始末である。

 

 停滞した状況を打破するために、本国から更なる戦力を引っ張る必要があった。

 そうして帰国したニネミアはまっすぐに教会へと向かい、諸々の物資を都合するよう申し立てた。申請は直ぐ通り、既に物資の輸送は始まっている。

 ニネミアは作業の監督を行うため、郊外の発着場へと取って返そうとしている最中であった。

 

(教会の船を借りられたのはよかったけれど……)

 

 地下通路を歩きながら、ニネミアは秀麗な顔を気難しげに歪める。

 今回、遠征に用いた船は各騎士団が持つ三隻のみであったが、遠征部隊が思わぬ苦戦を強いられていると聞き、教会が所有する船も急きょ遠征に投じられることとなった。

 

 船には膨大なトリオンと、研究室で製造されたばかりの新型トリガー、並びに大量のトリオン兵が積み込まれ、教会に所属する聖堂騎士の精兵らも乗り込む。

 他の船にも物資は山のように積み込まれる手筈となっている。これで戦力的にはノマスと十分以上に渡り合う事ができるだろう。

 通常の遠征では考えられないコストの掛け方だが、この戦いにはエクリシアの興亡が掛かっている。トリオンを惜しむことはない。

 

 しかし、それだけの戦力を揃えながらも、ニネミアの憂いは晴れなかった。

 

 結局のところ、ノマス攻略に有効な手立ては見つかっていない。徒に戦力を揃えたところで、活用できなければ意味が無い。

 そもそも、この遠征自体が止むに止まれぬ選択であったのだ。

 入念な事前工作を行ったノマスとはことなり、エクリシアは前段階の情報戦で既に敗北を喫している。邂逅初期に送り込んだ偵察部隊はノマスに撃破され、碌に情報収集もできなかった。

 

 例えば、ノマスの機動都市の巡航速度の向上などはその最たる例だ。

 前回の遠征時、都市の移動は非常にゆっくりとしたものであった。大型の陸戦トリオン兵を用いれば簡単に足止めが可能だったため、作戦はそのデータを基に立てられていた。

 それが今や、彼らの都市は非常識なまでの速度で動き回り、陸上部隊の追随を許さない。それどころか、鉄壁の対空砲火と空戦型トリオン兵のお蔭で、空からの攻撃さえ凌ぎきっている。

 

 初期の作戦プランは軒並み見直しを余儀なくされ、こうして泥縄式に戦力の確保に走らされている有様だ。

 

「……ふぅ」

 

 見通しの立たない戦況に、ニネミアが暗澹たる息を吐く。

 それでも、遠征は絶対に成功させなければならない。エクリシアがノマスに大敗を喫したとなれば、他の惑星国家も黙ってはいない。落ち目のエクリシアを叩こうと、挙って襲い掛かってくるだろう。

 

 ここは無理を押してでも、エクリシアの精強さを近界(ネイバーフッド)中に喧伝する必要があるのだ。

 ともかく、一刻も早く戦場に戻らなければならない。抑えきれない苛立ちからか、ニネミアの歩みが早まる。その時、

 

「――っ!」

 

 思いもがけない光景を目の当たりにして、彼女は思わず足を止めた。

 研究区画から地上階へと向かう途中に設けられたラウンジ。平時なら人々で賑わう広間も、復興に追われる今は人影も無い。

そこに、端座する人影があった。

 

「フィリア……あなた、なぜ此処に?」

 

 椅子に腰かけていたのは、イリニ騎士団が誇る天才騎士、フィリア・イリニである。

 先の戦闘で精神に深い傷を負った筈の少女が、騎士団の軍服に身を包み座っている。

 

「お疲れ様ですニネミアさん。先日は無礼を働き、申し訳ありませんでした」

 

 ニネミアの姿を見るや、少女はすぐさま立ち上がって謝罪の言葉を述べる。

 生身の姿の為、面持ちは痛々しくやつれているが、その凛呼とした挙措と晴れやかな声音は、以前の印象そのままだ。

 

「……具合は、よくなったようね」

 

 思わず、ニネミアの口から警戒を含んだ声が出る。

 最後に会ったとき、フィリアの心は完全に壊れていた。完治に長い時間がかかるだろうことは明白で、このように普通に会話できる筈がない。

 

「はい。長らくご迷惑をおかけしました」

 

 だが、少女はそんな病状など露ほども見せず、如才なく受け答えする。

 

「……ここで私を待っていたのでしょう。ただ謝罪をしに来た訳でもなさそうね」

 

 そんな少女の振る舞いを訝しげに思いながらも、ともかくニネミアは話を先に進める。補給任務を任されている彼女には、無駄にできる時間は一秒たりともない。すると、

 

「はい。今日はお願いがあってまいりました。――ニネミアさん。いえ、ゼーン閣下。どうか、私をノマス遠征の末席にお加えください」

 

 フィリアは凛々しい面差しでそう述べた。

 

「…………」

 

 流石のニネミアも、即座に返答することができない。

 予想していたとはいえ、やはり少女は戦場に立つことを望んでいる。どこかで補給部隊がエクリシアに帰ったことを聴きつけたのだろう。

 

「それは、難しいわ」

 

 やや置いて、ニネミアが否定の言葉を告げる。

 

「あなたが回復したのは重畳の至りよ。けれど、あなたはまだ本調子ではないはず。足手まといを連れていくことはできないわ」

 

 にべもない拒絶だが、その口調はいつもの断固としたものではなく、思いやりに満ちている。

 実際の所、フィリアに発破をかけたのは他ならぬニネミアだ。

 少女が戦場に赴きたいというなら、叶えてやるのが筋だろう。

 

 しかし、今や事情が異なる。遠征部隊は既に選出され、出兵している。所属する騎士団の違う少女を、彼女が連れていくのは重大な盟約違反になる。

 加えて、少女は明らかに病み上がりだ。心神喪失状態にあった彼女を戦場に連れて行った挙句、万が一のことがあっては、彼女の伯父であるアルモニアにも顔が立たない。

 

「必ずや、お役に立ちます。ですからどうか……」

 

 ニネミアの苦衷を知ってか知らずか、フィリアは縋るような視線で頼み込む。

 

「あなたの心意気は、とても嬉しいわ。でも……」

 

 懇願を持て余すように、ニネミアは言葉を濁す。だが、

 

「お願いしますニネミアさん。――私は、戦いたいんです」

「っ――」

 

 少女の双眸に宿る烈々たる闘志が、彼女の心を揺り動かした。

 

「……フィリア・イリニ。あなたが戦場に赴く故を述べなさい」

 

 少女の胸に潜む狂おしいまでの激情を感じ取ったニネミアは、厳粛なる面持ちでそう問いかける。

 死と破壊の坩堝たる戦場に、何故踏み入ろうとするのか。人が当然の如く求める筈の安寧を捨ててまで、戦いを望む理由は何か。

 威儀を正した黒髪の麗人は、一切の虚言を許さぬ鋭い眼光で少女を見据える。

 

「……あの人たちが、憎いからです」

 

 そしてフィリアはぽつりと、絞り出すような声でそう言った。

 貴族としての義務を果たす訳でもなく、騎士としての誓いを護るためでもない。

 少女はまったくの個人的な感情から、戦いを望んでいる。

 

「……出立は払暁よ。装備は予備があるから、身一つでゼーンの駐機場に来なさい。遅れたら置いていくわよ」

 

 果たして、ニネミアはその動機を良しとした。

 勿論、フィリアの精神が極めて不安定な状態にあるのは言うまでもない。戦場に心を病んだ人間を連れていくのが、どれほど愚かな行為かは指摘されるまでもなく理解している。

 

 それでも、少女は自らの心の傷と向き合おうとしている。

 ニネミアはそんなフィリアを、貴族として、騎士として、そして友として捨て置く訳にはいかない。

 一時の激情に駆られた行動であっても、手を束ねているよりは遥かにマシだ。個人的な復讐も大いに結構。所詮、復仇は残された人間の為の行いだ。

 

それさえできなかった者がどんな苦しみを背負うのか、彼女は嫌と言う程知っている。

 

「――ありがとうございます」

 

 己の申し入れが聞き入れられ、フィリアは低頭して礼を述べる。

 

「さて、もういいわね。私も忙しいのよ」

 

 大仰な少女の謝意に、ニネミアはそっぽを向いてラウンジを出ていく。羞恥もあったが、それ以上に時間が惜しい。人間が一人増えたので、遠征艇への物資の積み込み方を変えねばならない。

 フィリアは立ち去るニネミアを、頭を下げたまま見送った。

 伏せられた幼い面持ちには、微かな微笑が張り付いている。その内側に潜む狂気は、静かにうねりを増し続けていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ニネミアを見送った後、フィリアは一人教会の地下区画を歩き出した。

 目指すは研究区画だ。装備はニネミアが用立ててくれるが、「誓願の鎧(パノプリア)」の詳細な設定データはこちらから持っていく必要がある。

 エクリシアが誇る甲冑トリガー「誓願の鎧(パノプリア)」は、着装者の癖や反応速度に合わせて個々に調整が行われる。基本的な状態でも使えなくはないが、それではフィリアの戦闘力を十分には発揮できない。

 

 少女は窓のない通路を黙々と歩く。

 先の防衛戦時、教会もかなり損害を受けたはずなのだが、そこはやはり国家の中枢部。修復は真っ先に行われたらしく、激闘の痕跡はもう殆ど残されていない。

 

 ただ、建物はトリオンで簡単に修復できるが、失った人員はそう簡単には補充できない。

 訪れた研究室では、職員達が疲労も明らかな顔で一心不乱に仕事をしていた。

 復興、遠征の同時進行という非常時であるのに、働く人間の数は妙に少ない。やはり、先の戦闘では研究所の職員も相当数被害にあったとみられる。

 

 フィリアは適当な職員を捕まえ、自分の鎧のデータを要求する。

 本来ならばそれなりの手続きを要する作業だが、激務に次ぐ激務で職員たちの頭も茹っていたのだろう。フィリアの訪問に驚きもせず、なんやかんやと悪態をつきながらデータを寄越してくれた。

 細かな調整は鎧を実際に着装して行わなければならないが、一先ずこれで用件は済んだ。

 

 少女は丁重に礼を述べ、研究室を後にする。

 後は郊外にあるゼーン騎士団の駐機場まで赴き、遠征艇に潜りこむだけだ。イリニ邸へ帰ったら、車両の手配を行わなければならない。

 フィリアは地下区画から昇降機を用いて、地上階へと戻った。

 

「…………」

 

 大聖堂を横切った少女の足が止まる。

 ノマスの襲撃部隊によって散々に荒らされた聖堂は、既に粗方の修復が済んでいた。

 巨砲によって吹き飛ばされた大門も、地下に向けて穿たれた大穴も、今ではその痕跡を見つけることさえ難しい。

 流石に信徒席や内部の彫刻といった細かな場所までは手が入っていないようだが、それも直ぐに治され、過日の姿を取り戻すのだろう。

 

 だが、少女は決して忘れない。

 ここで何が起き、そしてどれだけの血が流されたかを。

 

 無意識に、フィリアは右手の人差し指につけた黒い指輪を左手で抑えた。

 この場所で、母パイデイアは命を落とした。

 余りに神々しく、そして悪夢のような光景を思い返し、少女は知らずと間に奥歯を噛みしめる。

 

 とその時、フィリアは荘厳な大聖堂に、透き通るような蒼の色を見つける。

 礼拝堂の奥、祭壇の影からひょっこりと姿を現したのは、抜けるような空色の髪と瞳を持つ少年だ。

 

「アヴリオさん……」

 

 フィリアが思わずその名を呟く。

 彼とフィリアは、以前奇妙な縁を結ぶ機会があった。

 しかし、お互いそれ以来会う機会はなく、フィリアはこの少年アヴリオ・エルピスが、エクリシア教皇であることも知らない。

 それでも少女がその名前をはっきりと覚えていたのは、少年と過ごした一時が、深く心に刻み込まれていたからだ。

 

「や、フィリアさん、久しぶり。教会になにか要事?」

 

 少年も少女の存在に気付いたようで、そう明るく呼びかけてくる。

 厳粛な聖堂の雰囲気からすれば場違いなほどに軽い調子だが、不思議とこの少年がすると不遜な態度には見えない。

 

「御無事だったのですね。本当によかった」

 

 こちらに歩み寄ってくる少年に、フィリアは安堵の声を漏らす。たった一度会っただけの相手にも関わらず、本気で安心をしてしまったのは何故だろうか。彼に感じる奇妙な親しみの正体を、少女はまだ測り兼ねている。

 

「うん。僕はね。……でも、フィリアさんは大変だったみたいだね」

 

 小鳥のような足取りで側まで依ってきた少年は、しかし少女の前で急に態度をしおらしくさせる。

 

「……はい。でも、もう大丈夫です。これから仕事に復帰します」

 

 聖都防衛線以降、フィリアが臥せっていたことを知っていたのだろう。少女はアヴリオを励ますように穏やかな調子で話す。だが、

 

「そうなんだ。――それで、早速教会に来たのは、補給部隊に随行してノマスに行くためかな」

 

 アヴリオは平然とした様子で、そんなことを口にした。

 

「――っ!」

 

 フィリアが凝然と目を見開く。彼女がニネミアに遠征同行を申し出たのは、つい先ほどのことだ。それを何故、その場に居合わせもしなかった少年が知っているのか。

 

「――あなた、は……」

 

 少女のサイドエフェクト「直観智」が、すぐさまその疑問を明らかにした。

 アヴリオは、只不思議なだけの少年ではない。彼の立場、そしてその知性の程を悟ったフィリアは、驚愕に言葉を失う。

 

「改めて、自己紹介をしようか。僕はアヴリオ・エルピス。(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」を預かる、この国の教皇だ」

 

 そう語る少年の態度は重々しく、普段の飄逸な気配は何処にもない。

 数百年にもわたってエクリシアに君臨し、近界(ネイバーフッド)の騒乱を見詰め続けてきた男が、哀切に満ちた表情で少女を見詰める。

 微動だにしないフィリアを前に、少年は淡々と言葉を続けた。

 

「教会での防衛戦で、「恐怖の軛(フォボス)」を纏って戦ったのは僕だ。君の母、パイデイアがあの時どう振る舞ったのか、君に話しておかなければならないと思う」

 

 そう言いながら、少年はゆっくりと歩を進め、フィリアの正面に立つ。

 そうして彼は、パイデイアが如何に戦ったのかを語りだした。

 恐るべき敵のトリオン兵の群れを相手に、懸命に戦ったこと。そして敵のトリガー使いに情けを掛け、その命を救おうとしたこと。

 

「……彼女を死なせてしまったのは僕の失態だ。僕がもう少し注意深く振る舞っていたら、彼女も死なずに済んだかもしれない。君にはそのことを、詫びねばならないと思っていた」

 

 そう言って、アヴリオは静かに頭を下げる。

 そして長い謝罪を済ませると、少年はくるりと方向転換し、フィリアに背を向けた。

 

「高い地位にいると、色々と聞かされるものでさ。君があれから調子を崩していたことも知ってたよ。なのに、君が今日いきなり此処に現れたものだから。つい気になって耳をそばだててたんだ。……やっぱり、君もノマスに攻め入るのかい?」

 

 壮麗なステンドグラスを眺めながら、少女にそう問いかけた。

 

「まさか、お止めになるつもりですか?」

 

 フィリアはアヴリオの背に向け、低い声でそう問い返す。

 少年が母と同じ、平和を希求してやまない人物であることは知っている。

 そんな彼が、このタイミングで少女を呼び止めたのだから、言いたいことにも察しがつく。

 

「……僕は、生前のパイデイアさんと少しは面識があった。家族の君に告げるのも烏滸がましいけれど、きっと彼女は、復讐なんて望んでいないと思う」

 

 少年はどこまでも誠実な声で、フィリアにノマスへの遠征を思いとどまるよう告げる。すると少女は、

 

「そうですね。きっと母さんは、そのように思うでしょう」

 

 一見すると、冷静な様子でそう答える。だが、

 

「アヴリオさんは思い違いをなされています。私は、家族の復讐をしようとは思っていません。そんなことをしても、みんなは絶対に喜ばない。

 ――遠征に参加するのは私怨です。あの人たちが憎いから、殺しに行くんです」

 

 漆黒の殺意を総身に漲らせ、少女はそう言葉を続ける。

 

「……それが、家族の望みに反していても?」

 

 返答は予期していたのだろうが、それでもアヴリオは沈鬱な声で重ねて問う。

 

「母さんを殺して、サロスたちにあんな酷いことをした連中が、まだ生きてるんですよ? しかもあの人たちは、私の事を仲間だ、身内だなんて言って、懐柔しようとしたんです。私からすべてを奪っておいて、ぬけぬけと……」

 

 フィリアの声が、肩が、拳が、烈火の如き怒りに震える。

 あどけない面差しは湖面のように凪いでいたが、それでも刺し貫くような金色の双眸は、鬼面の如き威圧感を放っている。

 

「私は悪い子です。結局、家族には何一つしてあげることができませんでした。だからもう、私はどうなったっていいんです。――ただ、あいつらだけは、許せない」

 

 フィリアは恨みの限りを込めて、そう吐き捨てる。

 少女は絶望の底から自我を取り戻すことができた。だが、生きる意味そのものであった家族を失った彼女の胸には、底抜けに深く暗い孔だけが残った。

 その虚無感、喪失感を埋めるものなど有る筈がない。

 

 そうして何もかも失った少女には、ただ純粋な憎しみだけが残った。

 彼女は初めて、自分の為に戦いを欲した。近界(ネイバーフッド)の諸人に己の絶望を知らしめ、残酷なる世界を呪うために。

 

「君もやっぱり、争いの連鎖に囚われるのかい?」

 

 今にも爆発せんばかりの憎悪と憤怒に身を震わせるフィリアに、アヴリオは淡々と、すべてを諦めたかのような声で語りかける。

 

「…………」

 

 少年の問いかけに、少女は何も答えなかった。

 フィリアは少年に背を向け、鬼気迫る形相で教会を後にする。

 アヴリオはただ瞑目し、遠ざかる足音を聞くだけであった。

 

 

 

 

 



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其の七 突破口 草原の国で

 計器類が整然と並ぶ広大な一室。

 ドミヌス氏族が持つ最大の機動都市「パトリア号」の操縦室にして、エクリシアに対する戦闘指揮所を兼ねるその部屋には、各部族を束ねる長老たちが一堂に会していた。

 

「以上が、今朝までの戦況推移の概要です」

 

 戦闘映像と諸々のデータを映しだす投影モニターを背にして、白髪金瞳の少年レグルスは、凛然たる面持ちでそう告げる。

 現在、指揮所では族長たちを相手に、ノマス国防軍による戦況の説明が行われていた。

 

「エクリシアは我が領内に堡塁を建造し、それに籠っています。これは遠征艇を本国に戻し、さらなる物資、兵器を輸送するためと予想されます。我が方は軍を繰り出し、攻撃を仕掛けていますが、現在のところ確たる成果は上がっていません」

 

 神妙な空気の中、揃って険しい表情をする古老たちを相手に、レグルスは毛ほどの気おくれも見せず、堂々たる態度で議事を進行する。

 

 エクリシアがノマスに兵を進めて早十日余り。戦況は完全にこう着していた。

 勿論、時間切れによる撤退を狙うノマスにとっては、望み通りの展開である。

 敵勢は何とか機動都市を捉えようと策を巡らせているが、ノマスは陽動や偽装には見向きもせず、ただひたすらに広大な草原を逃げ回っている。

 またそれだけではなく、ノマスはエクリシア勢の依る堡塁に、昼夜を分かたず散発的な攻撃を仕掛け続けている。

 

「ルーペス氏族の潜入作戦が失敗して以来、襲撃はトリオン兵のみで行っています。流石に敵の防備を破ることはできませんが、擾乱攻撃としては十分な成果を上げています」

 

 エクリシアの弱点は人員の少なさだ。

 トリオン体での活動は肉体に負荷を掛けないが、脳や精神は別だ。限られた人員で陣地を防衛せざるをえない敵に、執拗な攻撃は覿面な嫌がらせになる。

 そういった事態を避けるため、遠征を仕掛けた側は船に籠って機会を窺うのだが、今回エクリシアは敵地に陣地を築いた。

 接触周期が短く、継続的に戦争を行えるならまだしも、エクリシアがノマスに堡塁を築くメリットは皆無である。増援を運ぶべく船を本国へと戻したに違いない。

 

「いずれにせよ、彼らは必ず仕掛けてきます。軌道が離れるまであと五日足らず。ここからが正念場です」

 

 このまま敵が黙っているはずがない。とレグルスが断言する。

 続いて、少年は国防軍が立てたエクリシアへの方策を示し、族長たちに懇切丁寧に説明していく。

 明朗な弁舌と、頼もしげな態度で作戦を説明するレグルスに、族長たちが感心の視線を向ける。

 そうして数十分後、会議は平穏裡に終了した。

 退室する族長たちを見送ると、レグルスは大きく息を付く。

 

「ふう、き、緊張した……」

 

 先ほどまでの凛とした姿はどこへやら。少年はオペレーター席に力なく腰掛け、肩をがっくりと落とす。

 

「格好良かったぞ、レグルス。もうお父さんの代わりが立派に勤まるな」

 

 笑いを含んだ声でそう語りかけたのはマラキアだ。

 レグルスの父、レクスの盟友である彼は、疲労困憊の少年の肩を労うように叩く。

 今回の会議にレクスは参加しておらず、本来の肩書ならマラキアが会議を取りまとめる筈だったのだが、何を思ったか彼は急きょレグルスにその役を命じたのだ。

 

「茶化さないでくださいよ。僕なんかができる訳ないじゃないですか」

 

 何とか議事進行を成し遂げた少年は、口を尖らせて非難がましくそう言う。

 現在、指揮所にはドミヌス氏族とその縁の者しかいない。峻厳なレクスが居るならともかく、身内だけならば多少は緊張を解いても許される。

 

「でも実際、エクリシアの戦力は脅威ですよ。特に(ブラック)トリガーの性能は桁違いです。軍勢を整えて、本気で攻勢に出られたらどうなることやら……」

 

 マラキアと二、三他愛ない会話をしていたレグルスは、急に改まった様子でそう言った。

 先ほどの会議では、族長相手に戦局は万事順調に推移していると説明したが、勿論そんな都合のいい展開ばかりではない。

 初手に送り込んだルーペス氏族の決死隊は苦も無く蹴散らされ、危うく捕虜を取られるところだった。それ以降はトリオン兵のみでの襲撃に切り替えたが、送り込んだ兵隊の悉くが撃墜されている。

 

「「悪疫の苗(ミアズマ)」で強化したクリズリまで簡単にやられてるんですよ。エクリシアの騎士がそこまで強いなんて、流石に想定外です」

 

 ノマスのトリオン兵団を撃退したのは、エクリシアが誇る(ブラック)トリガーたちである。

 彼らの戦闘力は、正に異常の一言に尽きた。雲海の如きトリオン兵を単騎で薙ぎ払い、それどころか強化された高性能トリオン兵さえ一蹴してのける。

 万軍にも匹敵する戦力を持つ彼らが一斉に挑みかかってくれば、ノマスといえども確実に勝てる保証はない。

 

「そのために、色々と手を打っているんだろう? トリオン兵での嫌がらせだって悪い手じゃない。疲労がたまれば判断力も鈍る。敵の失策を誘うこともあるかもしれない」

 

 不安気なレグルスを励ますように、マラキアがそう言う。

 

「どちらにせよ、今は敵の出方待ちだ。我々は万全の備えで迎え撃つしかない。……レグルスも少しは休んでおかないと、有事の時に動けないぞ。今日はもう下がりなさい」

「はい。了解しました」

 

 マラキアに促され、レグルスは椅子から立ち上がった。緊張と責任感から目がさえ、とても眠れそうにないが、それでも休める時には休んでおかねばならない。

 

「君もそろそろ休め。倒れられてはたまらないからな」

 

 するとマラキアはそう言って、オペレーターデスクに座る栗毛の女性にも声を掛けた。

 シビッラ氏族のモナカである。会議で投影モニターを操作していたのが彼女であった。

 モナカはそもそもトリオン兵の指揮が仕事なのだが、それ以外にも率先して仕事を求め、指揮所に入り浸っている。

 (ブラック)トリガーの担い手でもある彼女を酷使する訳にもいかないが、本人が乞うて働くのだから下の者には止めようがない。

 そんな彼女を見かねて、上役のマラキアが声を掛けたのだ。

 

「え……」

 

 しかし、当のモナカは呼びかけられたことに今更気付いたようで、呆然と声の主を探している。

 

「休めと言っているのだモナカ。君には明朝までの休息を命じる」

「あ……ええ、はい」

 

 マラキアに再びそう告げられ、彼女はようやく席を立つ。

 

「モナカさん、どうかされましたか?」

 

 どこかおぼつかない足取りの女性に、レグルスが心配そうに歩み寄る。

 激務の所為か、モナカは明らかに体調が優れないようだ。目元には濃い隈が浮かび、心なしかやつれているようにも見える。

 

「大丈夫、何でもないわ。平気よ……」

 

 そんな少年の気遣いを拒むように、モナカは曖昧に笑うと足早に指揮所を出て行った。

 

「モナカさん、どうしちゃったんでしょうか……」

 

 残された少年は、困惑した様子でその背を見送るばかりであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 モナカは殺風景な通路を力なく歩み、指揮所から研究区画内の自室へとたどり着いた。

 トリオン承認でロックを解除すると、自動で戸が開く。

 さして広くもない室内は、研究開発に用いる様々な機材で埋め尽くされており、身体を横にしなければ通れないほどに狭い。

 部屋の奥には仮眠用のベッドが設えられているのだが、モナカは仕事用の椅子に腰かけると、デスクに突っ伏した。

 

「…………」

 

 数拍の沈黙の後、彼女の指は無意識の内にデスクをさ迷い、コンソールのキーに触れる。

 途端に、待機状態であった機械が目を覚まし、各種モニターが明かりを灯した。

 現れたのはエクリシアの兵器群に関する報告書や、それに応じたノマスのトリオン兵の動作プログラムの更新案など、作業途中の仕事の山だ。

 いくつものモニターに津波のような情報が示される中、モニカが一心に眺めているのは、目の前にある小さな記録映像だ。

 

「……ありがとう。本当に、お姉ちゃんとっても嬉しい!」

 

 画面の中では、褐色肌をした少女が輝く笑みを浮かべている。

 何度となく視聴したフィリアの記録映像を、モナカはまったく無意識の内に再生する。

 親友の面影を強く感じさせる少女の、幸福に満ちた過去。

 それを眺めながら、モナカは鉛のように重いため息をつく。

 

「今更、後悔を感じているのですか」

 

 とその時、明朗な女の声が暗い沈黙を断ち切った。

 

「――っ!」

 

 項垂れていたモナカが勢いよく頭を上げ、声の出所を探る。

 声の主は執務机の奥、機械類が鎮座する一画に居た。

 

「状況の説明を求めます。シビッラ氏族、クレルスの子モナカ」

 

 エクリシアで鹵獲した自律型トリオン兵ヌースが、感情の無い声でそう告げる。

 

「……私も相当疲れているのね」

 

 モナカは慌てて計器類を確認し、自嘲気味にそう呟く。

 休眠状態であったはずのヌースが目覚めたのは、モナカの誤操作の所為だ。コンソールを触る内に、ヌースにトリオンが供給されてしまったらしい。

 幸い、躯体の制御機能は停止させたままなので、ヌースは身動ぎ一つすることもできない。暴走を許して都市内に被害を出させずに済み、モナカは安堵の息を吐く。

 

「今の所、あなたに用はないわ。眠りなさい」

 

 モナカはコンソールを操作し、ヌースへのトリオン供給を遮断しようとする。必要な情報はすでに粗方回収し終えており、強いて彼女を稼働させる理由はない。無様な姿を見られたが、置物にしてしまえば特に問題はない。だが、

 

「恨み言を耳にするのが怖いのですか?」

 

 ヌースは冷淡な声で、モナカにそう問いかけた。

 

「――な、なにを……」

「会う機会には恵まれませんでしたが、貴方の事はレギナから詳しく聞かされていました。最も、想像していた印象とは大きく異なりますが……」

 

 抑揚のない声でまくしたてられ、モナカの手が止まる。

 思えば、このトリオン兵はレギナに最も近しい存在かもしれない。データを吸い出しに忙しく、まともに会話もしなかったのだが、モナカはヌースに俄然興味を抱いた。

 

「機械人形の癖に、随分感情的なセリフを吐くのね?」

 

 トリオン兵とは使い捨ての兵器でしかない。自律型トリオン兵といえどもそれは同じだ。それどころか、過酷な戦場に於いては情緒など無用の長物に過ぎない。戦闘機械に要求されるのは、冷酷なまでの合理性だ。

 ノマスが開発した量産型自律トリオン兵デクーも、情緒を再現するような機能は排除している。そもそも思考機能を搭載するだけでも難事なのに、そこに人間のような自由意思と情緒を組み込もうというのは、技術的にも極めて難しい試みだ。

 

「そう振る舞えるよう、レギナが私を造りました」

 

 だが、眼前に転がる人形兵は、自らの意思と感情を誇るようにそう言う。

 

「レギナは私に戦いを望みませんでした。彼女から頼まれたのは只一つ。娘の友達になってほしいとの願いでした。感情を与えられたのも、それ故です」

「なら、私たちのことも当然恨んでいるのでしょう。悪態など聞かされたくないわ」

 

 モナカは改めて椅子に座り直し、諦念の混じったような声で呟く。

 

「知りたいのは、私の家族の消息です」

 

 するとヌースは粛々とした様子でそう問いかける。

 彼女は聖都防衛戦時、サロス、アネシス、イダニコらを連れて避難を行っていた。しかし、ノマスのトリオン兵団に捕捉され、子供らを逃がして囮となって奮戦した。

 勇戦するも衆寡敵せず、損傷してノマスの虜になってしまったヌースは、子供たちがどうなったかを知らない。

 

「先の遠征では殆ど捕虜を取っていないのよ。あなたの家族の安否など、私たちが関知するところではないわ」

 

 とはいえ、モナカにしても答えられる問いではない。

 あの混戦の最中、子供数人の行方など知れたものではない。生きているか死んでいるかは分からないが、どちらにせよノマスには居ないとしか答えようがない。

 

「ただ……付け加えるなら、フィリア・イリニはおそらく無事よ。私たちが撤退する間際まで、彼女は戦闘を続けていたわ」

「情報提供に感謝します」

 

 モナカの囁くような返答に、ヌースは固い声で謝辞を述べる。

 そうして再び、室内には重い沈黙が立ち込める。

 

「……話はそれで終わりかしら? あなたのお友達が生きていて満足?」

 

 淀んだ空気を嫌うように、どこか苛立った調子でモナカがそう尋ねる。

 しかしヌースはトリオン兵ならではの冷静さで、

 

「交換条件を提示します。私を家族の下に返してくれるなら、あなた方の要請に一つ応えましょう」

 

 と、そう言った。

 

「囚われの身で何を言い出すの? 私たちが一体あなたに何を求めると言うのよ」

 

 思いがけない申し出に、モナカが頓狂な声で聞き返す。

 しかしヌースは泰然とした様子で、

 

「内蔵データは取りだせたようですが、私の機構の解明にまでは至っていない様子。私なら、それを提示することも可能です」

 

 と、そう主張する。

 

「――っ!」

 

 その言葉に、モナカは顔色を変える。

 ヌースは未知のトリオン技術の集合体であり、革新技術の宝庫だ。当然、モナカはありとあらゆる手法で調査を行ったのだが、肝心要の内部構造と人工知能については完全なブラックボックスで、とうとう解析することができなかった。

 不世出の天才エンジニア、レギナが全霊を込めて創り上げたヌースを再現するのは、今のノマスの技術力では不可能だ。

 しかし、ヌース自身が協力するというのなら、話は違う。

 

「……あなた、分かっているの? それは明白な利敵行為よ。自分の国を売るつもり?」

 

 モナカは底意の読めないヌースの言に、幾ばくかの嫌悪とあからさまな懐疑を混ぜた表情を浮かべる。

 

「私は家族の味方です。あの子たちの命と心を救えるのならば、事の是非は問いません」

 

 しかし、ヌースは飽く迄も冷静にそう告げる。

 

「…………」

 

 モナカは暫し黙考する。

 ヌースの機構を解明できれば、ノマスのトリオン兵技術は飛躍的な進歩を遂げるだろう。

 人間の代わりが務まる自律型トリオン兵は、近界(ネイバーフッド)の戦争を根本から変えかねない革新的な兵器である。人員の絞られる遠征は勿論、ノマスのように国土に比べて人口の少ない国なら防衛部隊の代わりにもなる。その有用性は計り知れない。

 

 しかも、ヌースの演算能力は他のどの人工知能と比べても桁違いに優秀だ。トリオンさえあればいくらでも機能を増幅できるというのだから、理論上は彼女一体で戦場にある全てのトリオン兵を操縦させることもできる。

 技術者として、国を護る戦士としては、一も二も無くこの提案に乗るべきだろう。だが、

 

「悪いけど、それは無理ね」

 

 モナカはふいと視線を虚空に向け、気の抜けた声でそう言う。

 

「どれだけ時間がかかっても、あなたが手元にあれば解析は進められるわ。それに何より、あなたがエクリシアに接触することはできない。彼らはこの地を這いずり回った挙句、散々に苦杯を舐めて、祖国に逃げ帰るのよ」

 

 モナカは嘲りを込めてそう嘯く。だが、

 

「ということは、エクリシアはこの国に攻め入っているのですね」

 

 ヌースが冷や水を浴びせるように問う。

 モナカは苛立った様子を見せるが、暫く沈黙を挟んだ後、

 

「……少しだけなら、まあいいでしょう。あなたも諦めが付くでしょうし」

 

 そう言って、防衛戦の現在までの戦況をヌースに説明し始めた。

 

「どう? わかったかしら。彼らは私たちの都市には指一本触れることはできないわ。もう軌道が離れるまで時間もない。結局彼らは尻尾を巻いて逃げ帰るしかないのよ。――だから、あなたも家族に会うなんてできやしない」

「…………」

「恨みたければ恨みなさい。でもね、家族と引き裂かれたのは、あなただけじゃないのよ」

 

 モナカの切実な声が、狭い部屋に反響する。

 ヌースはそれ以上何も問い掛けず、何かから逃れるかのように仕事を始めた彼女を、ただ黙って見つめ続けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エクリシアがノマスに建築した堡塁。戦場に必要な設備しか整えられていない砦は、どこもかしこも飾り気のない壁で覆われている。

 堡塁の内部に設けられた遠征の指揮所。

 殺風景な大広間では、現在ノマス攻略のための作戦会議が開かれていた。

 

「――以上の理由から、ゼーン騎士団はトリオン兵団による上述地点での(マザー)トリガー探索を実行します」

 

 居並ぶ騎士たちを相手に凛呼とした声でそう告げるのは、艶やかな黒髪の美女ニネミア・ゼーンだ。

 本国から補給物資を携えて戻った彼女は、その日の会議で開口一番に兵を繰り出すことを提言した。

 

「それは、しかし……本当に確かなのか?」

 

 議事を進行していたフィロドクス騎士団のジンゴが、訝しげに呟く。

 ニネミアの突飛な提言に、遠征部隊の面々は困惑を隠せない様子だ。そして、そんな彼らをさらに驚かせたのは、突如として会議の席に現れた少女の姿だ。

 

「事実かどうかは、イリニ騎士団の方々がよくご存じでしょう。どちらにせよ、我々に手を束ねている時間はありません。こうしている間にも、血にも等しい時間は失われ続けているのですから」

 

 ニネミアの堂々たる弁に、騎士たちは返す言葉が見つからない。そして彼らは胸中の疑念を代弁するように、ニネミアの後ろに佇む少女――フィリア・イリニを見遣る。

 

「……まず、我が騎士団のフィリアが何故この場所にいるか、説明を願いたい」

 

 とその時、冷え冷えとした声が困惑した会議室に響いた。

 

「療養中であった筈の彼女を、何故ゼーン騎士団は我らに断りなく戦地へと連れてきたのか。これは明確な協定違反ではないか」

 

 あくまで平静な様子で、しかし聞く者の心胆を寒からしめる声でそう言ったのは、イリニ騎士団総長アルモニア・イリニだ。

 無骨な椅子に腰かけた金髪緑眼の偉丈夫は、ゆっくりと腕を組むとニネミアに鋭い視線を送る。

 

「私が本国へと戻ったのは、必勝を期するための物資、人材を整える為。先の会議でそう決まったではありませんか。私はその任を果たしたにすぎませんわ」

 

 しかしニネミアはアルモニアの威圧に微塵も怯むことなく、冗談めかしてそう答える。そして、

 

「加えて言うなら、我らこそイリニ騎士団に問い質すべきことがありますわ。フィリア・イリニの有する(ブラック)トリガー、そして「直観智」のサイドエフェクト。戦略そのものを覆しかねないこれらの大事を、なぜあなた方は秘匿なされたのですか?」

 

 と、ニネミアは眦を決してアルモニアを問い詰める。

 彼女にはこう着した戦況を打開する方策があった。

 それをもたらしたのは、遠征に同行することになったフィリアだ。

 

 補給物資を満載してノマスへ向かう道中、現在までの詳細な戦闘記録に目を通していた少女は、突如としてノマスの(マザー)トリガーの位置が判明したと言い出した。

 突拍子もない主張に、ニネミアは又してもフィリアが精神の平衡を崩したのではないかと心配したのだが、少女は至極冷静な口調で戦局を覆す方策を口にする。

 

 そこで初めて、ニネミアはフィリアの持つサイドエフェクト「直観智」の存在を知った。

 少女の有する超感覚は、草原を動き回る機動都市の軌跡を目にするや、彼らが最も遠ざけたがっている(マザー)トリガーの位置を即座に明らかにしてみせた。

 フィリアが報せた地点は広大な草原の数キロ四方という大雑把な区切りでしかなかったが、それでも戦略を根本から変更せざるを得ない情報である。

 

 あまりに都合のいい展開に、ニネミアはフィリアが虚言を弄しているのではないかと疑ったのだが、少女は底なしの虚のような瞳で、己の情報が誤りでないことを告げるのみ。

 少女に宿った超抜のサイドエフェクト「直観智」については、その有用性と危険性から、存在を知るのはイリニ騎士団でも一部の幹部のみである。ニネミアが俄かには信じられなかったのも無理からぬことだ。

 

 だが、フィリアは己の言が認められていないことを知ると、二三他愛のない実例を挙げ、その能力を実証して見せた。

 これには流石のニネミアも納得せざるを得なかった。

 

 そもそも少女の性格からして、戦地で冗談を言うようなことは考えられない。歳に見合わぬ優秀さと、歪ながらも大人びた精神もまた、サイドエフェクトの持ち主に共通して見られる性質だ。

 こうして対ノマス最大の切り札を得たニネミアは、早速会議の席でそれを提示したのだ。

 

「騎士フィリアのサイドエフェクトについては認めよう。……だが、彼女をここに連れてきた説明にはならない。彼女はとても戦地に臨める状態ではなかった。故に国元に残したのだ」

「それなら、今の騎士フィリアは問題ないでしょう。体調はまだ万全ではないようですが、意気軒昂で、直ぐにでも戦地を踏みたいと望んでいますわ」

 

 明らかに咎める様子のアルモニアに、ニネミアは何の痛痒も感じていないかのように嫣然と答える。

 理由はともかく、所属の違うフィリアを断りもなしに連れてきたのだから、これは完全にニネミア側に非がある。

 ともすれば遠征部隊が空中分解しかねない火種だが、彼女は徹底して少女の肩を持つ腹積もりであった。

 

 フィリアには復讐の機会が与えられるべきだ。と彼女は考えている。

 アルモニアが少女を戦地に立たせたくない理由は良く分かる。しかし、ニネミアはフィリアの友として、万難を排してもその願いを叶えてやる所存だ。

 そんな彼女の思いに気付いているのか、当のフィリアはニネミアに全てを任せ、顔を伏せてただじっと立ち尽くしている。

 

「……ともかく、今更送り返す訳にもいくまい。建設的な話をせねばの」

 

 ニネミアとアルモニアがいよいよ険悪な雰囲気になりかけたところで、軽妙な口調で言葉を差し挟んだのは、滝髭の老人、クレヴォ・フィロドクスだ。

 遠征の総指揮官を務める彼の発現には、然しもの二人も耳を貸さねばならない。

 

「騎士フィリアのもたらした情報が確かなら、言い争っておる場合ではあるまい。今我らが考えるべきは、ノマスを如何にして打ち破るべきかじゃ。協定云々の話は国元に帰ってからでも遅くはないだろう」

「クレヴォ翁、それは……」

 

 実質的にはニネミアの側に立つクレヴォの発言に、アルモニアは眉を顰める。

 とはいえ、ニネミアの提言には戦略としての過りは無く、これ以上反論するべき理由は見当たらない。

 

「わかった。偵察は承認しよう。イリニからも兵を出す。ただし、騎士フィリアを前線に送る訳にはいかない。彼女には砦での待機を命じる」

「……感謝いたしますわ。閣下」

 

 フィリアの参戦については、流石のニネミアでも口を差し挟むことは難しい。一先ず偵察部隊を繰り出すことで話が纏まったところで、会議は終了となった。

 部隊を率いるニネミアは諸々の準備に取り掛かるため、会議室を足早に後にした。

 

 去り際に、彼女は横目でフィリアの表情を窺う。

 少女はその視線に気付くと、目礼して感謝の意を示した。出立の際に見せた激情は、湖面のように凪いだ表情からは読み取れない。

 

「先陣は私が切るわ。あなたも自分に出来ることをなさい」

「はい」

 

 ともあれ、ようやく戦争が始まる。ようやくノマスに牙を突き立てることができる。ニネミアは目の前の任務を成し遂げる為、意識を切り替えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 雲一つない夜空に、近界(ネイバーフッド)の星々が煌めいている。

 宝石を散りばめたような満天の星の中、一際大きく見えるのは聖堂国家エクリシアの惑星だ。祖国が負った深い傷もここからでは見えず、幻想的なまでに美しい惑星の輝きが、夜を明るく照らしている。

 

 そんな絶景も、フィリアの胸には何の感慨も呼び起さない。

 城壁の上に立つ少女は、鋭い双眸で風に波打つ夜の草原を見詰めている。

 

 既にニネミアの率いる偵察部隊は堡塁から出撃した。目的地付近にはマーカーを設置できておらず、(ゲート)での移動は不可能だが、騎士の速度なら小一時間もかからずにたどり着くだろう。

 少女が見据えているのは地平の果て、草原の海の遥か彼方に存在する怨敵の姿だ。

 

「――」

 

 とその時、じっと風景を睨んでいたフィリアが軽やかに反転した。

 暗闇の中、城壁の通路の上を歩いてくる人影がある。

 ゆっくりとした歩調で少女の前に現れたのは、アルモニア・イリニだ。

 

「何故、来たんだ」

 

 アルモニアは少女の眼前に立つと、固い声でそう問う。

 

「もちろん、戦うためです」

 

 真正面から詰問されたにも関わらず、少女は躊躇いも無く即答する。

 

「必ずやお力になります。どうぞ、私も戦列にお加えください」

 

 そしてフィリアは逆にアルモニアを見詰め返し、そう懇願する。

 

「駄目だ。お前を戦場に出すつもりはない」

 

 しかし、アルモニアは冷ややかな声で少女の願いを切って捨てる。

 

「……いくらご当主様の決定とはいえ、皆様は納得なされるでしょうか」

 

 すると少女は、別段ショックを受けた様子も無く、平然とそう口にする。

 ノマスの地を踏んだ以上、フィリアも重大な戦力の一つである。ただでさえ物資、人員が限られる遠征で、(ブラック)トリガーを有し、聖都防衛線では赫々たる戦果を挙げた少女を戦場に出さないなど考えられない。

 

 たとえアルモニアが拒んでも、他の騎士団の面々は納得しないだろう。

 また、彼は騎士団の総長である。公私の峻別を付けねば、下々の団員に示しがつかない。

 どちらにせよ、アルモニアは折れざるを得ないだろう。フィリアが戦場に立つのは、半ば確定した未来である。

 

「それに……ヌースのこともあります。夢から覚めて、ようやく気付きました。彼女はこの国にいます」

「――っ、鹵獲されたのか」

「はい。生きているかどうかまでは、分かりかねますが」

 

 そして少女は、そう言葉を続ける。

 唯一残された家族、自律トリオン兵のヌースがノマスの虜になっていることを、少女のサイドエフェクトは明らかにした。

 家族の身柄を取り戻す。戦いに望む動機としては十分である。

 

「ヌースの奪還については全力を尽くそう。他の騎士団にも協力を仰ぐ」

「それだけ、ですか?」

 

 尚もフィリアの参戦を認めないアルモニアに、少女は小首を傾げて問いかける。

 あどけない仕草だが、その表情には暗く凝った感情が浮かび上がる。

 

「ご当主様は、何故平気でいらっしゃるんですか?」

 

 鳥のさえずるような軽やかな声で、少女はそう尋ねる。

 

「母さんを、サロスを、アネシスを、イダニコを……みんなを殺したあいつらが、ご当主様は憎くないんですか? なんで、なんで私を止めようとするんですか!? どうして私に戦わせてくれないんですか!? どうして私に、あいつらを殺させてくれないんですかっ!!」

 

 疑問はやがて泣訴になり、最後には怒号へと変わる。

 

「私が、本当に、何も感じていないと思うのか?」

 

 夜気を震わす少女の叫びに、アルモニアは沈鬱な表情を浮かべて応える。

 

「――っ!」

 

 近界(ネイバーフッド)に冠絶する武芸を誇り、また常に冷静沈着で一国を率いるに相応しい貫禄を備えたアルモニアが見せた、悲嘆と後悔に満ちた表情。

 それを目の当たりにして、フィリアの怒気も一時的に静まる。

 思えば、アルモニアはまるで本物の家族のようにフィリアたちに接してくれていた。パイデイアは実の妹であり、また彼はサロスたちをとても可愛がってくれていた。

 心痛の程は、アルモニアとて同じなのだ。

 

「なら、なんで私に戦わせてくれないんですか? 一緒にノマスを倒そうと、そう仰ってくれないんですか?」

 

 それでも我慢ならないフィリアは伯父を問い詰める。するとアルモニアは頭を振って、

 

「パイデイアも、あの子たちも、いつもフィリアを心配していた。誰も彼もが、君には危険な目に遭ってほしくないと思っていたんだ。……勿論、私もそうだ」

 

 そう寂しげな眼で語りかける。

 

「そんなこと知っています。でも、じゃあ、私の思いはどうなるんですかッ!」

 

 だが、フィリアの憤りは収まらない。

 

「家族を、みんなを奪われて、それで黙って泣いていろと言うんですか!? 母さんに起きたことを、あの子たちがどんな目にあったかを……忘れられる訳ないじゃないですかっ!」

 

 再び激したフィリアは、アルモニアに向けてそう吼える。

 すると、金髪の偉丈夫は沈鬱な表情を浮かべたまま少女の肩に両手を添えると、

 

「それでも、それでもだ。……君に剣を教えたのは、殺すためじゃない。生きるためだ。皆が、フィリアが生きることを望んでいたんだ」

 

 真摯にそう語りかける。

 

「……なら、もう無意味です」

 

 アルモニアの切情に触れたフィリアは、肩を落とすと力なく首を振る。

 

「私にはもう、生きている理由なんてないんです。きっと、ヌースが無事でいても同じ。

 ――全部、手遅れなんです。私はもう、死人も同然なんです」

 

 そう言って、少女は両肩に置かれたアルモニアの手を躊躇いがちに押しのける。

 

「私の頑張りなんて、結局無駄でしかなかった。誰も守れず、何も為せず、ただ徒に他人を傷つけただけ」

 

 そして、少女は凪いだ湖面のように穏やかな、しかし狂おしいまでの感情を内に秘めた微笑みを浮かべ、

 

「――だから、もういいんです。私にはもう、誰もいないから。……私はとうとう、良い子にはなれなかった。だからもう、我慢することなんてないんです。私は死人だから、誰かを罵って、何かを壊してやるんです。こんな世界を、目一杯に呪ってやるんです」

 

 訥々と、そう言葉を紡ぐ。

 

「フィリア……それは違う」

 

 絶望の淵に沈んだ少女に、アルモニアはその両手を取って語りかける。

 

「君は生きている。それは揺るぎない事実だ。君を思う者はたくさんいる。皆が望み、繋いだ命なんだ。決して、粗末にしてはいけない」

「…………」

 

 翡翠の瞳と、黄金の瞳が宙で交わる。

 どこまでも穏やかに、優しく諭すアルモニアに、フィリアの顔が微かに歪む。

 まるで泣けばいいのか、微笑めばいいのか、それさえも分からないといった困惑の表情。

 

「……わかり、ました。でも、約束はできません」

 

 結局、少女は何とかそう言葉を絞り出すと、黙って俯いてしまった。

 己の赤心が届いたことに、アルモニアは安堵の息を付く。

 復讐の念が和らいだ訳ではないだろうが、ともかく自暴自棄な行動は慎んでくれるだろう。この上少女に何かあれば、彼は本当に全てを失ってしまう。

 

「戻って休みなさい。まだ万全ではないのだろう」

「……いえ、許されるなら指揮所に居させてください。ニネミアさんに、少しでも協力したいんです」

 

 表面的には落ち着きを取り戻したフィリアに、アルモニアは休息を促す。

 しかし、少女は戦争から背を向ける気などさらさらないようだ。

 

「……わかった。だが出撃を認めた訳ではないぞ」

「はい。どのみち鎧の調整がまだ済んでいませんから。払暁までには仕上げます」

 

 どこかずれた会話を行いながら、二人は夜風の吹き荒ぶ城壁の上を並んで歩き出した。

 

 

 

 

 



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其の八 突破口 会敵

 白亜の鎧をまとった騎士が、闇夜を切り裂いて飛ぶ。

 一糸乱れぬ隊列を組み、草原の海を猛烈な速度で飛翔するのは、ゼーン騎士団総長ニネミア・ゼーンが率いる偵察部隊である。

 部隊を構成するのは、イリニ騎士団のドクサ・ディミオス、フィロドクス騎士団のカスタノ・フィロドクスとエンバシア・カナノスら四人の(ブラック)トリガー使いと、それに随行する六人の騎士だ。

 

 総数十名からなる部隊は、遠征に参加したトリガー使いの役半数を投入したことになる。

 (マザー)トリガーの捜索と制圧を目的とするなら別におかしな采配ではないが、部隊を動かす元となった情報は、煎じ詰めれば一人の少女の勘である。

 

 フィロドクス騎士団はフィリアの提示した情報を俄かには信じかねていた様子であったが、イリニ騎士団総長アルモニアのお墨付きに加え、作戦の責任は全て自らが引き受けると明言したニネミアの気迫に押され、出兵を容認した。

 そうして、逼塞した戦況を打破するための反攻作戦が決行されたのだ。

 

「全隊一時停止、「恩寵の油(バタリア)」の交換を行います。騎士ファルマ、レーダーの感度を上げて周囲を警戒なさい」

 

 風のように飛翔する鎧の中で、ニネミアがゼーン騎士団の部下にそう指示を出す。

 既に砦を出発して一時間程、目的地点はもう目と鼻の先だ。本格的な調査を行う前に、トリオンを補充しておく必要がある。

 

 偵察部隊は草原に着地し、淀みない動作で「誓願の鎧(パノプリア)」に新しい「恩寵の油(バタリア)」を装着していく。

 仮に目標地点に(マザー)トリガーが存在した場合、ノマスは総力を挙げて防衛を行うだろう。大規模な戦闘が予想される。

 一応レーダー対策は行っているがそれも完全ではない。ノマスは偵察部隊の行動を既に察知していると考えるべきだ。

 

「こちらニネミア・ゼーン。基地本部、応答せよ」

『こちら基地本部、フィリア・イリニ』

「間もなく目標地点に到達するわ。トリオン兵の準備は万全でしょうね?」

『はい。マーカーは正常に機能しています。直ぐにでも(ゲート)を開き、そちらに送り込むことが可能です』

 

 ニネミアは部隊の補給が済むまでの間に、砦との通信を行う。

 トリオン兵は騎士の行軍速度についていけず、また移動だけで内蔵トリオンを消耗してしまうため、部隊には随行させていない。現地で(ゲート)を開き、速やかに砦から送り込む手筈となっている。

 

「当該区域に入ります。総員警戒を厳にせよ」

 

 補給を済ませた一行は、再びスラスターを轟然と噴かせて夜空を飛ぶ。

 そうしてついに、目的の場所が見えてきた。

 そこは一見すると、何の変哲もないただの平野だった。

 茫漠と広がるノマスの平原の一画。目印になるような物などなにもない、地図と照らしあわさなければ素通りしかねないような場所である。

 だが、騎士たちは円陣を組み、慎重に周囲を警戒しながら大地へと降り立った。

 

「やはり、レーダーには何の反応もありませんな」

 

 通信機越しにそう話しかけたのは、イリニ騎士団のドクサだ。

 

「その為の実地調査です。――フィリア、トリオン兵を送りなさい」

『了解しました』

 

 ニネミアはそう答え、砦のフィリアに兵の派遣を請う。

 間を置かずして、ノマスの広大な草原に漆黒の穴が幾つも穿たれると、白亜の人形兵たちが躍り出てくる。

 戦闘用トリオン兵各種に砲撃型、少数だがバムスターなどの大型捕獲トリオン兵たちが大地を踏みしめる。

 

 しかしもっとも重要なのは、土中への潜行が可能なトリオン兵ワムだ。

 ゲートから身をくねらせて現れたワムは、着地するなり地表の掘削を始める。実際にワムを地下に潜らせることで、(マザー)トリガーの有無を調査するのだ。

 

 砦からは次々にトリオン兵が送り込まれてくる。他の兵の仕事は、調査に要らぬ横槍を入れさせないことだ。

 ここまで大規模に(ゲート)を展開した以上、ノマスも座してはいないだろう。どちらにせよ、必ず戦闘にはなる。

 騎士たちはトリオン兵を草原へと展開させながら、油断なく武器を構えて周囲を警戒する。とその時、

 

『ノマスの(ゲート)反応を確認! ――これは……しまった!』

 

 砦でオペレーションを行っていたフィリアが、切迫した様子で悪態をつく。

 ノマスの迎撃は織り込み済みの展開だが、何事かのイレギュラーが起こったらしい。偵察部隊の面々は少女の声に緊迫感を高める。

 

「フィリア、何が起きるというの!?」

 

 ニネミアが無線越しに鋭く問う。同時に彼女はスラスターを吹かして上空へと飛び上がり「劫火の鼓(ヴェンジニ)」を展開。砲撃準備を整える。

 時を同じくして、夜の草原にエクリシアのものとは異なる(ゲート)が開いた。

 

 異常なのは、その大きさである。

 まるで風景画の一部にインクをぶちまけたように、直径百メートルはあろうかという巨大な(ゲート)が、黒い閃電を撒き散らしながら開かれる。

 

『敵は、都市そのものを送り込むつもりです!!』

 

 フィリアの声と共に、城壁とでも見紛わんばかりの巨大な脚が、漆黒の穴を跨ぐようにして現われた。

 同時に、大小様々の(ゲート)が辺り一面に開く。そこからはノマスの中・大型トリオン兵が群れを成して這い出してくる。

 雲霞の如きトリオン兵を引き連れ、ノマスの機動都市が、エクリシアの騎士の前に立ちはだかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 轟々たる地響きが草原に満ち、巨影が騎士の上に落ちる。

 特大の(ゲート)から現れたのは、ノマスが有する三百メートル級の機動都市「ポーンス号」だ。巨大な脚を大地に突き立て、都市は展開する騎士たちの正面に立ちはだかる。

 ノマスの中では小型の都市とはいえ、その大きさと質量、纏う威圧感は並大抵のものではない。

 

「総員、戦闘を開始せよ!」

 

 しかし、エクリシアの誇る騎士には臆した様子は微塵もなく、ニネミアの下知を受けると昂然と武器を掲げて都市に攻撃を仕掛ける。

 ノマス一国を相手にしようとしている彼らにとって、小型の都市一つなど恐れるまでも無い。(ゲート)を用いて送り込んできたことは驚きだが、裏を返せばそれだけ相手が追い詰められたということだ。最早(マザー)トリガーの存在は確実視していい。騎士の意気が上がるのも当然だろう。だがその時、

 

『駄目ですっ! 敵の狙いに乗ってはいけません!』

 

 と、通信回線から切迫したフィリアの声が流れてくる。

 

「――フィリア! ノマスは何を狙っているの!?」

 

 鬼気迫る少女の呼びかけに、砲撃のチャージを始めていたニネミアが慌てて問い返す。

 

『敵は都市を――』

 

 しかし、突如として通信に凄まじいノイズが入り、少女の声はぶつりと途絶えてしまう。

 

「っ、都市がトリオン障壁を展開したぞ!」

 

 そう声を上げたのは、フィロドクス騎士団のカスタノだ。

 眼下を見渡せば、それまで威勢よく味方トリオン兵を吐き出していた(ゲート)が、跡形もなく消え失せている。

 

 草原に乗りつけた敵の機動都市が、トリオン障壁による(ゲート)封鎖を行ったのだ。

 加えて彼らは通信妨害も行ったらしい。部隊同士の通信など、短距離通信なら行えるが、長距離の通信は完全に封じられた。おそらく基地からもニネミアたちの動向はモニターできていないだろう。

 

「騎士ファルマ。この場を離れて本部との通信を回復させなさい!」

 

 ニネミアは即断し、騎士の一人をトリオン障壁の外まで向かわせる。障壁の展開エリアは半径数キロ。騎士の速度ならすぐに離脱できる。

 主力を一名欠くことになるが致し方ない。トリオン兵の展開が済んでいないうちに障壁を張られてしまったのは痛恨事である。

 ノマスがどんな隠し玉を持っているかはわからない以上、速やかに砦との通信を回復し、戦力を整える必要がある。

 

「――っ、いいわ。始めてやろうじゃない」

 

 それでも、一騎当千の騎士たちに恐れはない。

 スラスターを噴かせて宙に浮かぶニネミアの前では、(ブラック)トリガー「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の十基のビットが、猛烈な勢いで円を描いて回転していた。光の輪の中心では、限界にまで圧搾されたトリオンが、解放の時を今か今かと待ち続けている。

 

「いけえぇぇっ!」

 

 裂帛の気合と共に、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」から極光が迸った。

 夜の闇を真白に染め上げ、光の奔流が猛る。漆黒の天地を二分する光の帯が、小山のような機動都市に直撃する。

 そして――まるで薄紙を破るかのように、巨大なレーザーは容易く機動都市を貫いた。

 

 と同時に、フィロドクス騎士団のエンバシアが(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」による砲撃を叩きこんだ。

 放たれた弾丸は機動都市の脚の付け根に着弾し、巨大な灼熱の火球を生み出す。

 威力と貫通力ではニネミアの「劫火の鼓(ヴェンジニ)」には及ばないものの、「灼熱の華(ゼストス)」の強みは範囲の広さと連射性だ。エンバシアは続けざまに、都市の脚に第二射、三射を打ち込む。

 

 中腹に巨大な風穴を空けられ、脚部を吹き飛ばされた都市はその場に頽れた。

 凄まじい振動が地を揺るがし、衝撃波が土ぼこりを巻き上げる。

 圧倒的質量を誇る金城鉄壁の機動都市が、然したる抵抗もできずに地に伏せてしまう。これが近界(ネイバーフッド)に轟くエクリシアの武力だ。

 

 だがしかし、ノマスも無策でこの強敵と渡り合っている訳ではない。

 擱座した機動都市からは雨あられと砲撃が繰り出され、頂上部からは飛行型トリオン兵が次々と飛び立つ。そしてニネミアが空けた風穴からは、クリズリ、ヴルフら小型トリオン兵が群れを成して現れる。

 

「私はこのまま航空戦力を撃破します」

 

 既に地上では敵味方が混戦状態になっている。味方を巻き込む恐れのある「灼熱の華(ゼストス)」は使えない。その為エンバシアは、上空を飛び回るバド、レイに狙いを絞った。

 

「そこそこの数は揃えているようね。けどそれしきで、私たちに敵うと思って?」

 

 一方、ニネミアの「劫火の鼓(ヴェンジニ)」は単体を相手取っても戦える。彼女は十基の射撃ビットを自由自在に動かし、次から次へと湧き出てくるトリオン兵を片っ端から撃ち抜いていく。

 そして他の騎士たちもまた、長きに渉る鬱憤を爆発させるかのような目覚ましい働きを見せていた。

 

「諸君、白い犬には注意せよ。粘着弾は確実に躱せ!」

 

 宙に浮かぶ漆黒の巨腕が、モールモッドを紙風船のように叩き壊し、むらがるヴルフを平手で薙ぎ払う。

 (ブラック)トリガー「金剛の槌(スフィリ)」を携えたドクサは、四方八方から押し寄せるトリオン兵の群れを、何の苦も無く殲滅している。

 

「ヴルフ・ベシリアとクリズリをタグ付して視界情報に共有。皆さん方気を付けてくれよ」

 

 場違いに軽い声でそう言うのは、フィロドクス騎士団のカスタノだ。

 (ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」を有する彼は、トリオンの霧を戦場へと広め、味方のサポートと敵の感覚系への妨害を行う。

 元々はワムと組んで地下の(ゲート)を探索する予定であったのだが、敵のトリオン兵は真っ先にワムを破壊してしまった。

 

「こりゃどうも、敵さんも本気らしいな」

「どちらにせよ、敵勢を削がねば(マザー)トリガーの調査は叶いません」

 

 ぼやくカスタノを、エンバシアが平静な調子で窘める。

 直接戦闘に不向きな「光彩の影(カタフニア)」を持つカスタノは、霧を巻きながら後方へと下がる。そして入れ違いになるように、精鋭の騎士たちがトリオン兵を引き連れて突撃を仕掛けた。

 

「トリオン兵は混乱してるぜ。一気に突き破れ!」

 

 カスタノの号令を待つまでも無く、スラスターを噴かせた騎士が猛然と敵陣に飛び込んでいく。飛行速度は一切緩めず、神業のような技巧で手当たり次第に敵を破壊する。

 見る間に、分厚い敵陣が真一文字に切り裂かれていく。五名の騎士による突撃によって、ノマスのトリオン兵団は巨大な爪で切り裂かれたように四分五裂の有様となった。

 

 そして統制を失った敵の群れに、エクリシアのトリオン兵団が山津波のように襲い掛かる。人形兵は迅速に、無感情に、騎士が撃ち漏らした敵をしらみつぶしに殲滅していく。

 性能面ではエクリシアのそれに優越するノマスのトリオン兵だが、「光彩の影(カタフニア)」によってレーダーを狂わされ、また騎士の強襲によって連携を崩されては、とてもではないが本来の性能を発揮できない。

 膨大なトリオン兵を投入したノマスであるが、戦況は完全にエクリシア側に傾いていた。

 

「それで、騎士フィリアは何を言おうとしておったのですか!?」

 

 襲い掛かるクリズリを木端微塵に殴り飛ばしながら、ドクサがそう問いかける。

 

「分からない! ただ切迫した様子ではあったわ。騎士ファルマがもうすぐ封鎖圏内から出る筈よ。直ぐに知らせてくれるはずよ!」

 

 ニネミアは装甲の厚い大型トリオン兵を苦も無く屠りながら、通信機越しに応える。

 機動都市ごと戦場に乗りつけるという思いがけない事態に遭遇した彼女たちだが、現在の所、戦況は我が方に優位である。

 (ゲート)が展開できないため戦力の追加は望めないが、それは敵も同じこと。

 個の武力が物を言う局面なら、エクリシアに負けは無い。だが――

 

「敵がどんな手を隠しているか分からないわ。あまり前掛かりに攻めすぎないで!」

 

 ニネミアは騎士たちにそう指令を出す。

 あのフィリアが、態々危機を伝えてきたのだ。このまま楽に勝てるとは思わない。最大限の警戒を続けるべきだろう。

 果たして、その判断は正しかった。

 

「――っ、新手の反応だ! トリガー使いが出てきたぞっ!」

 

 戦況をモニターしていたカスタノが、緊迫した声で叫ぶ。

 機動都市の下部から、三十名余りのトリオン反応が現れる。

 都市に搭載されていたのはトリオン兵だけではなかった。練達のトリガー使いたちが、弾かれたように戦場へと展開していく。

 その中には、機知のトリオン反応もあった。

 

(ブラック)トリガーが来るっ! 警戒を緩めるな」

 

 カスタノが叫ぶ。

 混沌の坩堝と化した戦場に、颯爽と現れた敵トリガー使いたち。

 その中には、「凱歌の旗(インシグネ)」と「報復の雷(フルメン)」、ノマスの誇る二本の(ブラック)トリガーの反応があった。

 

 

 

 



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其の九 突破口 騎士と戦士

 ノマスのトリガー使いの参戦で、戦闘の潮目は大きく変わった。

 馬型トリオン兵ボースに騎乗した彼らは、見事な手腕で分断されたトリオン兵をまとめ上げると、一転してエクリシアの騎士たちに猛攻撃を仕掛けた。

 

光彩の影(カタフニア)」によるセンサー類への幻惑は続いているが、戦士からの直接指示を受けたトリオン兵は、正確無比に標的へと襲い掛かる。

 一個の獣のように動くトリオン兵の群れは、一騎当千の実力を誇る騎士にとっても容易な相手ではない。

 

 ボースに騎乗する戦士は、陸上に限っては騎士の機動力にも匹敵し、また鞭状トリガー「牛飼い(フラゲルム)」や、伸縮自在の手甲トリガー「採集者(ブラキオン)」といったリーチの長い得物を用いて騎士を近寄らせない。

 戦士に率いられたトリオン兵団は、一瞬にして凶悪無比な狼の群れへと変貌した。

 

「おい気を付けろっ! ステルスの連中が来てるっ!」

 

 霧によって戦場を観察していたカスタノが、騎士に注意を喚起する。

 と同時に、今まさにトリオン兵の群れに突撃を仕掛けようとしていた騎士の一人が、背面のスラスターを吹かして横っ飛びに逃れる。

 

 颯、と空気を切り裂いたのは、透明な刃だ。

 見れば、板ガラスを通したような人型が、夜闇に紛れて揺らめいている。

 ノマスが誇る戦闘部族、ルーペス氏族の戦士たちが、隠密トリガー「闇の手(シカリウス)」を用いて闇討ちを仕掛けたのだ。

 

 騎士はともかく間合いを空けるが、ルーペス氏族の戦士たちは死を恐れぬかのように、突っ込んでくる。

 もちろん、その存在はすぐさま「光彩の影(カタフニア)」によって捕捉され、視覚情報として騎士に共有される。それでも練達のトリガー使いがトリオン兵の群れと連携して攻撃を仕掛ければ、いかな騎士といえども苦戦は免れない。

 

「全隊、いったん空に上がりなさい。地上を薙ぎ払います!」

 

 眼下の混戦を目の当たりにして、ニネミアがそう指示を出す。

 エクリシアの騎士がノマスの戦士に勝る点の一つが、長時間の航行を可能とする飛行能力である。

 地上で戦闘を行っていた彼らが空へと上がれば、ニネミアとエンバシアによる地上への砲撃が可能になる。圧倒的な火力は、眼下に広がる有象無象を分け隔てなく焼き尽くすだろう。勿論、味方のトリオン兵も無事には済まないが、それで敵のトリガー使いを撃破できればまったく損にはならない。

 

 ノマスが集団による連携を得意とするなら、エクリシアの強みは圧倒的な個の武力である。態々、敵の土俵の上で戦ってやる必要はない。

 ニネミアの意を組んだ騎士たちは、周囲を囲むトリオン兵を打ち倒し、高空へと逃れようとする。

 だがその時、騎士に先んじて星空へと飛び上がる隻影があった。

 

「なっ――」

 

 驚愕は、誰の口から洩れたものだったか。

 上空から砲撃の機を窺っていたエンバシアが、突如として眼下から飛来した漆黒の物体に襲われたのだ。

 

「ぐっ……よ、鎧をやられましたっ!」

 

 エンバシアの苦悶の声と共に、「誓願の鎧(パノプリア)」の背面スラスターが機能を停止する。

 そして重力に絡め取られた白亜の鎧は、混沌渦巻く戦場へと力なく落下を始める。

 弾丸ではない。たかが銃弾では「誓願の鎧(パノプリア)」を一撃で破壊することなど不可能だ。エクリシアの誇る騎士甲冑を切り裂いたのは――

 

「「凱歌の旗(インシグネ)」……」

 

 ノマスが誇る達人(ブラック)トリガー使い、ルーペス氏族のカルクスが、漆黒のマントをはためかせながら、ニネミアの前に現れた。

 猛烈な跳躍で空中へと舞い上がった老人は、怪鳥のようにマントを広げて姿勢制御を行うと、飛行型トリオン兵レイの上へと着地する。

 

「っ――」

 

 怨敵の姿を認めるや、ニネミアが即座に射撃を叩きこむ。

 しかし、枯れ木のような老人は異常な素早さでトリオン兵から飛び降りると、マントを用いて宙を滑空して攻撃を躱す。

 そして身を投げたカルクスを待ち構えていたかのように、新たなトリオン兵が彼の足場となった。このノマスの老雄は、エクリシアの騎士を相手に空中戦を挑むつもりらしい。

 

「――逃がさない!」

 

 ニネミアはビットを空中に展開し、カルクスに猛然と射撃を加える。

 しかし、老人の乗るトリオン兵は見事な空中機動で弾雨を避ける。そして攻撃が届いたかと思いきや、彼は別のトリオン兵へと乗り移っている。

 

 空戦型トリオン兵が、群鳥のようにカルクスの周りを旋回する。そしてトリオン兵の背を移動しながら、彼は着々とニネミアへと近づき、攻撃の機会を窺っている。

 カルクスがエンバシアを最優先で狙ったのは、「灼熱の華(ゼストス)」の殲滅力を恐れてのことだ。同じく砲撃型トリガーを持つニネミアを逃がす筈がない。

 

「――っ!」

 

 ニネミアに焦燥の色が浮かぶ。

 こちらは鎧によって自在に空を飛ぶことができ、尚且つ中間距離から一方的に射撃を加えているにも関わらず、カルクスを撃退することができない。

 枯れ木のような老人は、恐ろしい精度でマントを操作し、未来でも見えているのではないかという洞察力で火箭を潜り抜ける。

 この男は正しく達人だ。その技量の程は、前回嫌と言う程に味合わされている。だが、

 

「ぬ――」

 

 老人が苛立ちの声を上げる。

 何度目とも分からない跳躍を行ったカルクスであったが、足場と見定めていたレイが突如として破損し、墜落したのだ。

 彼はすぐさまマントを操作し、近くのバドへ裾を突き立てると、宙返りで着地を成功させる。だが、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」のレーザーが即座に襲い掛かり、再度の跳躍を余儀なくされた。

 

 すると、今度は手近に飛び移れるトリオン兵が居ない。彼は宙を滑空して、遠方のトリオン兵に何とか着地する。

 老人は瞳を刃のように輝かせると、ノマスの夜空を我が物顔で飛ぶ騎士を睨みつける。

 

 ニネミアの気高さと戦意は、この難敵を前にしても全く衰えなかった。

 彼女はカルクスに射撃を加える一方、彼が足場とするトリオン兵を片端から落としにかかったのだ。

 高出力の「劫火の鼓(ヴェンジニ)」は、装甲の薄い空戦型トリオン兵を訳もなく貫く。それどころか、貫通したレーザーは殆ど威力を落とさず、射線上のトリオン兵を次々と葬り去っていく。そして融解、爆発した敵は乱気流を起こし、他のトリオン兵の機動をも妨げる。

 

 周囲のトリオン兵を全滅させる勢いで、ニネミアは手当たり次第にレーザーを放つ。勿論トリオン消費は甚大だが、持久戦は考えていない。刺し違えてでも敵の(ブラック)トリガーを排除するつもりだ。

 ニネミアの怒涛の攻撃によって、飛行トリオン兵が見る間に減じていく。

 カルクスはなおも空中戦を続けようとするが、もはや足場は数えるほどしか残っていない。そして如何に敏捷に動こうとも、着地点を見切られてしまえば砲撃は避けられない。

 

「エクリシアを、舐めるな」

 

 決然とそう言い放ち、ニネミアが止めの一撃を放とうとする。「凱歌の旗(インシグネ)」の防御力では、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の砲撃は防げない。

 だが、射撃ビットからレーザーが放たれんとする刹那、老木のようなカルクスの面持ちに、空恐ろしい笑みが浮かぶ。

 

「我々が貴様らを侮るだと? 度し難き傲慢さだ」

 

 夜空を焦がす熱線が、老人を貫かんと一直線に走る。

 次の瞬間、突如として落雷のような轟音が轟き、夜闇が白光に塗りつぶされた。

 目も眩むような光は一瞬で収まったが、果たしてカルクスは悠然とレイの上に佇んでいる。ニネミア渾身の砲撃は、掠りもしなかったらしい。

 

「貴様ら悪鬼を屠るに、手立ては選ばん。ここからは二人で掛からせてもらおう」

 

 不可避のタイミングで放たれた砲撃を、カルクスが凌ぐことができた理由。それは――

 

「突出しすぎですカルクス翁。流石に肝が冷えましたよ」

 

 何時の間にか、空中に新たな人影が現れていた。

 レイの上に立ち、ニネミアとカルクスの間に割って入ったのは、筋骨たくましい褐色肌の壮漢だ。

 彼はアーエル氏族のマラキア。(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」の担い手が、空中の戦場へと馳せ参じたのだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「――っ!」

 

 思いもよらない新手の参戦に、ニネミアはともかく速攻を仕掛けた。

 堅牢な城壁をも貫くレーザーが、四方八方からマラキアを襲う。

 超人的なトリオン体の操縦能力を持つカルクスとは異なり、流石に彼は全方位からの砲撃を避けることはできなかったようだ。射撃ビットから放たれたレーザーは、狙い過たずマラキアに直撃する。かに見えた。

 

 次の瞬間、またしても稲妻のような轟音と発光が湧き起こった。

 そして光が掻き消えれば、マラキアは何の損害も無くトリオン兵の上に立っている。

 

「な――」

 

 威力に於いては近界(ネイバーフッド)でも最高峰の一つである「劫火の鼓(ヴェンジニ)」を退けたのは、マラキアの周囲に浮かぶ蛍火のような光球である。握り拳ほどの大きさをした二十余りの光球が、起動者を中心にしてゆっくりと円運動を行っている。

 ニネミアは先ほど目にした光景をまざまざと思い返す。

 彼女が撃ち込んだレーザーは、凄まじい反応速度を見せた敵のトリオン球に阻まれ、相殺されたのだ。

 

 これこそ、ノマスが有する(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」による完全自動防御だ。

 

報復の雷(フルメン)」によって展開された高威力のトリオン弾は、起動者への攻撃に対して即座に反応し、これを的確に防ぐ。その速度は雷にも等しく、どんな弾丸や剣技を以てしても先んじる事は不可能である。

 また、このトリガーは起動者が認識せずとも攻撃を防ぐため、不意打ちすら通じない。

 

「っ……」

 

 己の天敵ともいえるトリガーの出現に、ニネミアが鎧の中で歯を噛みしめる。

 本来であれば、マラキアは他の騎士が抑える手筈であった。しかしこの混戦の最中ではそれも限界があったのだろう。彼はカルクスを救援する為、上空にまで上がってきたのだ。

 

「高々二人で、私を落とせると思うなっ!」

 

 ニネミアは怖気を振り払うように吼え、再度射撃を行う。

 狙いは徹底して彼らの足場となる飛行トリオン兵だ。空中で戦う以上、まだニネミアには十分なアドバンテージがある。だが、

 

「カルクス翁、私の側を離れませんよう」

 

 マラキアは距離を詰め、「報復の雷(フルメン)」の防御圏内にカルクスを迎え入れてしまう。当然、彼らを狙ったニネミアの砲撃は、悉くトリオン球に防がれてしまう。

 

「――」

 

 カルクスの瞳が刃の輝きを放つ。彼は「凱歌の旗(インシグネ)」を烈風にはためかせ、必殺の機を窺っている。

 

「くっ……」

 

 猛進する二人の(ブラック)トリガー使いを前に、然しものニネミアも苦悶の声を漏らす。

劫火の鼓(ヴェンジニ)」の通常射撃では「報復の雷(フルメン)」を防御を貫けず、また砲撃をチャージする隙も見出せない。もはや目の前まで迫り来る敵に、ニネミアには迎撃手段が残されていない。

 

 しかも、上空にエクリシアの空戦トリオン兵は殆ど残っておらず、彼女が撤退すれば制空権をノマスに奪われてしまう。そうなれば、地上部隊も戦闘を続けることは不可能だ。

 彼女が退けば、(マザー)トリガーを確保する千載一遇の好機を逃してしまう。

 

 つくづく、エンバシアを落とされたのが痛手である。

 広範囲を一気に焼き払うことができる「灼熱の華(ゼストス)」なら、「報復の雷(フルメン)」の防御陣ごとマラキアを消し飛ばすことができただろう。もちろん、トリオン兵の間を飛び回るカルクスとて一溜まりもない。

 

 或いは、敵はそれを承知でエンバシアを最優先で狙ったのだろう。そしてそれは見事に図に当たった。彼が「灼熱の華(ゼストス)」に習熟していないことも、敵にとっては好都合だったはずだ。只でさえ制御の難しい(ブラック)トリガーである。いくら騎士と言えど、不慣れなトリガーを用いては挙動に隙ができる。

 

 これが、元の持ち主のメリジャーナであれば。

 戦闘中にも関わらず、ニネミアの脳裏にそんな詮無い考えが浮かぶ。

 視線の先で、カルクスのマントが揺らめいた。かつての戦闘経験から、ニネミアはそれが跳躍の予備動作だと瞬時に察知する。

 ニネミアは無意識の内に回避運動を取っていた。

 

 それでも、ノマスの達人は迅かった。

 折り畳んだ「凱歌の旗(インシグネ)」をバネのように弾かせ、老雄が突撃を仕掛ける。その突進力は発射台となったトリオン兵を一撃で破壊するほどだ。

 そしてカルクスはマントを紡錘状へと変形させた。鋭利で強固な漆黒の槍は、騎士の装甲をも容易く貫くだろう。

 

 しかも、カルクスはニネミアの回避運動すら読んでいた。スラスターを噴かせて身を翻す騎士の未来位置に、切っ先は吸い込まれるように進んでいく。

 万事休す。己の敗北を悟ったニネミアが、兜の中で悪態をつく。

 ――その時、耳を聾する衝撃音が辺り一帯に響いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「どうにか間に合いましたな、ゼーン閣下」

 

 絶体絶命と思われたニネミアを助けたのは、漆黒の巨大な腕だった。

 (ブラック)トリガー「金剛の槌(スフィリ)」の担い手であるドクサが、間一髪でカルクスの突撃を防いだのである。

 

「――ッ」

 

 攻撃を弾かれたカルクスは、咄嗟にマントを広げて滑空し、手近なトリオン兵の上へと降り立った。ニネミアが追撃を行うが、これは間に入ったマラキアに防がれる。

 

「申し訳ない。「報復の雷(フルメン)」を抑える筈が、まんまと逃げられましてな」

 

 通信機から聞こえるドクサの声は、激戦の直中に在ることを忘れさせるほどに飄然としている。しかし、その裏には隠しきれない戦意が満ちていることを、ニネミアは確かに感じ取った。

 

「なに、今度はしくじりませんとも。ゼーン閣下に御助力いただければ、直ぐにでも連中を粉みじんにできますからな」

 

 そう嘯きながら、ドクサは無双の鉄腕を微塵の隙もなく構える。

 

 彼にとっても、これは特別な一戦だ。

 対手のマラキアとカルクスは、両名ともドクサに因縁がある。

 先の聖都防衛線に於いて、ドクサは直接マラキアと矛を交えている。そしてカルクスは、彼の娘メリジャーナと娘婿テロスを瀕死に追いやったルーペス氏族の長老だ。意気込むのも当然といえるだろう。

 

 だが、流石は古強者のドクサである。仇敵を前にしても軽々に挑みかかることはなく、ニネミアが体勢を立て直すまで冷静に周囲を警戒する。

 

「そうね。貴方が居れば百人力よ。身の程知らずに鉄槌を喰らわせてやりましょう」

 

 そうして二人の騎士は軽口を叩きあうと、ノマスの勇士へと突進を仕掛けた。

 強風吹き荒ぶ上空で、四本の(ブラック)トリガーが激突する。

 

 先陣を切るのは、漆黒の巨腕を従えたドクサだ。彼の「金剛の槌(スフィリ)」は「灼熱の華(ゼストス)」と並んで「報復の雷(フルメン)」に優位を取れるトリガーである。

 

 純粋な質量兵器である「金剛の槌(スフィリ)」なら、神速の自動防御を力押しで貫くことが可能だ。加えて、遠隔操作が可能な巨腕は、「報復の雷(フルメン)」のもう一つの脅威を無効化することができる。

 

劫火の鼓(ヴェンジニ)」にとっての天敵が「報復の雷(フルメン)」なら、「報復の雷(フルメン)」の天敵こそ「金剛の槌(スフィリ)」だ。それ故に、ドクサはマラキアの抑えを任されていたのだ。

 加えてドクサの技量なら、カルクスの「凱歌の旗(インシグネ)」を相手にしても、早々に後れを取ることはない。

 

「敵を追い込みます! ディミオス卿、合わせなさい!」

 

 そして突進するドクサの背後からは、ニネミアが対手に向けて苛烈な砲撃を加える。

 連携に優れているのはノマスの戦士だけではない。単騎での戦闘を前提にしているとはいえ、エクリシアの騎士の練度は抜群であり、集団戦闘を苦手としている訳ではない。

 寧ろ個々人の技量が優れているからこそ、少人数での連携攻撃はノマスの戦士たちをも上回る冴えを見せるのだ。

 

「――っ!」

 

 雄渾にして精緻なドクサの攻撃に加え、周囲からはニネミアの超威力の砲撃が止むことなく浴びせかけられる。

 流石のノマスの(ブラック)トリガー使いたちも、暴風もかくやという激烈な攻めには太刀打ちできず、ただひたすらに距離を稼いで凌ぐのみである。

 ドクサとニネミアは常に互いを補助できる理想的な位置を取り、見事な連携を以て対手を追い詰めていく。

 そしてついに、騎士の猛撃が敵を捉えた。

 

「覚悟せい!」

 

 漆黒の巨腕が直下に振り下ろされる。狙いは足場を求めて滑空していたカルクスだ。

 如何な達人と言えども、身動きの制限された空中では流星の如き速度で迫る巨拳を避けることなどできない。

 

「――っ!」

 

 老雄は咄嗟に「凱歌の旗(インシグネ)」を何層にも折り重ね、巨拳を包み込むようにして衝撃を散らそうと試みたが、ドクサ渾身の一撃を前にしては余りに虚しい抵抗に過ぎない。

 漆黒のマントごと巨拳に打ち抜かれたカルクスは、真っ逆さまに大地へと落下する。

 地表への激突寸前にマントを広げて耐衝撃姿勢を取ったことから、トリオン体は健在のようだが、流石にあの攻撃を受けては無傷ではいられまい。戦闘体、武器共々に相当なダメージを負っている筈だ。これ以上の戦闘は困難だろう。

 

 そして厄介な前衛が片付けば、あとは狩りの時間である。

 レイを操って逃れようとするマラキアに、ドクサとニネミアは狙いを定める。

 (ブラック)トリガー使いの危機を察知したのか、地上からはクリズリがスラスターを噴かして上昇してくるが、その何れもが、地上で戦闘を続けている騎士に阻まれ、或いはニネミアの射撃によって落とされていく。

 

「次は貴様だ」

 

 孤立無援となったマラキアに、一切の仮借なくドクサが攻撃を仕掛ける。

 すると突然、マラキアは騎乗するレイを反転させ、騎士たちの方へと突っ込んできた。

 逃げを打つ訳でもなく、ここにきて攻勢に転じるとは。敵の思いがけない行動に、練達の騎士たちは警戒の色を露わにする。

 

「ここで奴も落とします。構いませんな!」

「ええ、援護するわ」

 

 しかし、ドクサとニネミアは武器を構え直すと、突撃を仕掛けるマラキアを冷静に迎え撃つ。

 乾坤一擲の攻撃は確かに脅威だが、気迫に押されてミスを犯すような騎士ではない。

 ここでマラキアを仕留めれば、ノマスの(ブラック)トリガーは全滅だ。戦局は一気にエクリシア側に傾くことになる。

 

「おおおおぉっ!」

 

 歴戦のトリガー使いには似つかわしくない鬨の声を上げ、マラキアが迫り来る。

 エクリシアの有するデータでは、「報復の雷(フルメン)」は防御機能に特化したトリガーであり、攻撃能力はそう高くないとされている。破壊力抜群のトリオン球は射撃武器としても用いることができるが、射程と弾速は並の性能しかない。

 

報復の雷(フルメン)」の脅威はやはり、自動防御に於ける凄まじい反応速度にある。

 マラキアはトリオン球の旋回半径を二十メートル程度まで広げている。

 自ら距離を詰めることで、騎士たちを自動防御の結界に巻き込む腹積もりだ。

 

 勿論、その目論見に乗ってやる必要はない。

 二十メートル程度の距離であれば、ドクサの「金剛の槌(スフィリ)」は十分に遠隔操縦が可能だ。射程範囲の外から悠々攻撃ができる。

 仮にドクサの攻撃が躱されたとしても、結界を突き破った巨腕には敵のトリオン球が殺到するだろう。その防御の隙をついてニネミアが飽和射撃を叩きこむことができる。

 

 よしんばそれさえ防がれたとしても、敵のトリオン球は底を尽き、騎士たちに攻撃を加える余力は残らないだろう。

 必勝の展開を脳裏に描いて、騎士たちが攻撃のタイミングを計る。だがその時、

 

「――っ!」

 

 ニネミアとドクサが同時に息を呑んだ。

 猛然と突進を仕掛けていたマラキアが、なんと乗騎とするレイから虚空へと身を投げたのだ。

 重力に引かれ、大地へと真っ逆さまに落下していくマラキア。

 

 しかし、二人の騎士は敵を追いかけることができなかった。主人を失ったレイが、さらに速度を上げて突っ込んできたからだ。

 放たれた矢のように進み来るトリオン兵は、もはや眼前にまで迫っている。回避の暇はない。ただちに迎撃か防御かを選ばねばならない。

 その時漸く、二人の騎士はマラキアの仕掛けた悪辣な罠に気付いた。

 

「――置き弾ッ!」

 

 まるで卵を抱く魚のように、扁平なレイの下面に「報復の雷(フルメン)」のトリオン球がびっしりと張り付いている。

 自動防御の結界は只の囮。トリオン兵による自爆突撃が本命の攻撃だったのだ。

 

「っ、いかん!」

「堕ちなさい!」

 

 ドクサは防御の為に「金剛の槌(スフィリ)」を引き戻し、ニネミアは「劫火の鼓(ヴェンジニ)」で迎撃を行う。

 固定されたトリオン球に防御機能はない。射撃ビットから放たれたレーザーは狙い過たずレイに直撃し、薄い身体に風穴を空けた。

 極光が夜空を真白に染め上げ、雷が落ちたかのような轟音が夜気を震わす。

 

「っぁ!」

 

 光と音は一瞬で収まり、ニネミアは直ぐに視覚と聴覚を取り戻した。かに思えた。

 彼女の視界は暗黒に塗り固められ、戦場の騒音は不明瞭にしか聞こえない。加えて、彼女は己が平衡感覚を失った不快な状態であることに気付いた。

 内臓が浮き上がるようなこの感覚は、彼女にとって既知のものだ。

 

 落下している。その事実に思い当ったニネミアは、即座に体勢を立て直そうと試みた。だが、「誓願の鎧(パノプリア)」はまったく彼女の操縦を受け付けない。

 鎧には各種の感覚器が備えられており、それらはトリオン体の伝達網と直結している。故に、騎士は自らの身体のように鎧を操ることができるのだ。

 

 つまり、視界がブラックアウトしたということは、鎧が機能を停止したことを意味している。ニネミアは人型の棺となった鎧ごと、敵味方入り乱れる戦場へと墜落した。

 

「ぐっ……」

 

 大地に叩き付けられたニネミアが苦悶の声を漏らす。

 トリオン体、それも戦闘体ならばただの落下程度で損壊することも無いが、身体を襲った凄まじい衝撃は無視できるものではない。

 

「迂闊、だったわ……」

 

 機能停止した鎧から脱出するための操作を行いながら、乙女は歯を噛みしめる。

 堅牢無比な「誓願の鎧(パノプリア)」を一撃で無力化したのは、勿論マラキアが突っ込ませたトリオン兵の自爆攻撃である。

 しかし奇妙なことに、あれほどの爆発を受けても、鎧の外観には殆ど損傷が見られない。

 

 これはマラキアの有する(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」の、もう一つの恐るべき効果による現象だ。

報復の雷(フルメン)」によって創出されたトリオン球は、その膨大なエネルギーを電力に変換することができる。先の爆発の際、レイに仕掛けられた大量のトリオン球は一斉に雷撃と化し、空中で凄まじい放電を引き起こしたのだ。

 

 トリオン体の伝達網をズタズタに焼き切る高電圧の雷撃を、ニネミアはまともに受けてしまった。その所為で、彼女の「誓願の鎧(パノプリア)」は完全に機能を停止してしまったのだ。

 

「もう一度「劫火の鼓(ヴェンジニ)」を起動しないと……トリオンが厳しいわね」

 

 射撃ビットも雷撃の嵐に巻かれて機能を停止している。破棄して新たに作り直さねばならない。

 鎧を失い、残されたトリオンも心もとない。完全にマラキアの掌に乗せられてしまい、戦局をひっくり返されてしまった。

 

「駄目よ、こんなところで終われない」

 

 それでもニネミアは勇を鼓舞し、気合を入れ直す。

 トリオン体は幸い無傷であり、まだ戦闘の継続は十分に可能だ。

 ともかく彼女は緊急脱出装置を起動させると、ガラクタになった「誓願の鎧(パノプリア)」を脱ぎ捨てる。

 地上は敵味方が入り乱れての混戦模様の筈だ。射撃型トリガーの彼女はともかく距離をとり、味方と連携を取らねばならない。

 

 やっとの思い出鎧から這い出た彼女に、敵トリオン兵の群れが襲い掛かる。

 群がる敵を「劫火の鼓(ヴェンジニ)」で焼き払い、苛烈な攻撃を紙一重で躱し、鬼神のように戦いを継続するニネミア。

 だが、そんな彼女に緊迫した様子の通信が入った。

 声の主は、後方から支援を行っていたフィロドクス騎士団のカスタノである。

 

「総員、今すぐその場から撤退しろ! 敵は都市を自爆させる気だ!」

 

 激闘を繰り広げるニネミアにもたらされたのは、恐るべき敵の策略であった。

 

 

 

 

 



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其の十 突破口 不破の盾

「くそ、ぬかったわ……」

 

 目を焼く閃光と耳を聾する爆発音が止んだあと、ドクサは鎧の中でそう吐き捨てた。

報復の雷(フルメン)」の特性を知っていた騎士たちはそれ故に十分な距離を取って戦っていたのだが、レイの突撃による放電攻撃には完全に虚を突かれてしまった。

 

 ニネミアが即座に迎撃したものの、雷の嵐を避けることはできなかった。

 ドクサは「金剛の槌(スフィリ)」の巨腕で己を包み込むように防御を行ったのだが、それでも鎧には少なくないダメージを負ってしまった。左腕の伝達系が完全に機能を停止し、スラスターの挙動も怪しい。

 

 それでも彼は衝撃から体勢を立て直し、空から戦局を見極める。

 同じく直撃を受けたニネミアは地上へと墜落したらしい。トリオン体が無事なら死ぬことはないだろうが、それでも早急に救助が必要だ。

 

 また、彼らに一杯食わせたマラキアは、未だ健在のはずである。(ブラック)トリガーを抑えるのは、他の騎士たちでは荷が勝ちすぎる。

 眼下では相変わらず敵味方入り乱れての混戦が続いている。だが、ドクサの慧眼は敵の動きが変わったことをすぐさま見抜いた。

 

「奴ら、一塊になって何をするつもりだ?」

 

 激しい戦闘の最中、ノマスの主力であるトリガー使いたちが移動を始めている。それも示し合せたように、一所へ向けて動き始めている。

 トリオン兵の攻撃は未だ活発なため、地上の騎士たちはそれに気付いていない。ドクサは通信装置越しに仲間へと呼びかける。

 

「敵のトリガー使いが集結し始めている。気を付けよ、何か企んでいるぞ!」

 

 そう発言した直後、空中に浮かぶドクサに巨大な影が近づいた。

 

「っ、雑魚が……」

 

 地上から飛び上がってきたのは三体のクリズリである。「金剛の槌(スフィリ)」を有するドクサなら歯牙にもかけない相手だが、手傷を負った今では油断ならない難敵である。

 さっそく空中戦を始めたドクサだが、やはり鎧の反応がおかしく、苦戦を強いられる。周りを囲むクリズリたちもなぜか守勢に寄った行動をとり、一向に戦局を打破できない。

 とその時、彼の視界の端に、突如として巨大な翠緑のドームが出現する。

 

「「牧柵(サエペス)」だと……」

 

 それはノマスの有する結界トリガー「牧柵(サエペス)」であった。

 このトリガーは起動者を中心とした百メートルほどのエリアに、あらゆるトリオンを遮断する障壁を展開する機能を持つ。

 

 解せないのは、その運用方法だ。

 本来「牧柵(サエペス)」は敵を誘い込み、配下のトリオン兵と共に襲撃を仕掛ける狩場を形成するために用いる。

 しかしマーカーを見るに、敵が結界を張った地点にはエクリシアの騎士は誰もいない。

 さらによく見れば、障壁は十層以上も重ねて展開されている。

 明らかに様子がおかしい。

 

「っちい、このポンコツが」

 

 異変に気を取られているうちに潮目が変わった。クリズリと戦闘を繰り広げていたドクサだが、とうとう鎧が動作不良を起こしたのだ。

 スラスターが異様な音を上げて機能を停止する。

 推進力を失って地上へと落下する鎧に、クリズリたちが一斉に襲い掛かる。

 

「人形風情が調子にのるなよ」

 

 だが、一直線に攻撃を仕掛けたのが仇となった。

金剛の槌(スフィリ)」の横薙ぎの一撃が、三体のトリオン兵を纏めて瓦礫に変える。

 

「くそ、動け、動かんかっ!」

 

 そしてドクサは何とかスラスターを再起動させ、地に激突する寸前で空中へと飛び上がる。しかし鎧の挙動は未だ不安定で、とてもではないがこのまま戦闘を続けることはできそうにない。とその時、

 

「総員、今すぐその場から撤退しろ! 敵は都市を自爆させる気だ!」

 

 と、カスタノから通信が入る。

 

「そういうことかっ!」

 

 敵の奇怪な動きに合点がいき、ドクサの顔色が変わる。

 只でさえ強力な「牧柵(サエペス)」を、十層以上も多重展開する理由。それはノマスのトリガー使いたちを爆破から護るためである。

 

 長さは三百メートル、高さは七十メートルに届こうかというノマスの機動城塞都市。仮にこれが爆発するとなれば、質量とトリオン量からに計算するに、威力はイルガーの自爆の二百倍以上になるだろう。

 これは戦場となったこの草原を丸ごと焼き払うことができる火力である。無論、「誓願の鎧(パノプリア)」を纏った騎士とて一溜まりも無い。

 

「総員、急ぎ撤退をっ!」

 

 通信機越しに緊迫した声が響く。

 騎士たちが生き残る道は只一つ、爆発の殺傷圏内から速やかに離脱することだ。

 通信を受け取った騎士たちは戦闘を切り上げると、都市に背を向け一目散に撤退を始めている。だが、

 

「誰かゼーン閣下の救援をっ! 彼女は鎧を失っておられる!」

 

 ドクサは墜落したニネミアを助けるよう、声を荒らげて呼びかける。爆破の殺傷圏内は半径二キロほど。徒歩では離脱困難だ。本当なら己が行くところだが、鎧がいつ機能停止してもおかしくない現状では、ただの足手まといにしかならない。

 

「救助は無用よ! トリオン体はまだ健在です。一撃なら問題ないわ」

 

 だが、帰ってきたのはニネミアの拒絶の声。

 彼女は地上で足止めのトリオン兵と戦闘を行いながら、まったく臆した様子もなく騎士たちに向けてそう告げる。

 

「なりません閣下! あなたはエクリシアにとり代替無き御方っ!」

 

 ニネミアの返答に、ドクサが顔色を変えてそう叫ぶ。

 古強者の彼が動揺するのは珍しいが、実の娘が大怪我を負ったばかりである。近い年頃で、しかも娘の友人であるニネミアの事を案じるのは、無理からぬ心情だろう。

 

「今は先を見据えることこそ肝要! 爆破が終われば敵味方が再び入り乱れます。その時にあなたたちが動けなければどうしますっ!」

 

 しかしニネミアは冷厳にそう告げると、改めて味方に撤退を命令する。

 

 ノマスが都市を自爆させるのは、エクリシアのトリガー使いを拿捕するためだ。トリオン兵を展開し、騎士たちを十分引きつけたところで爆発に巻き込み、トリオン体を失った彼らを悠々捕らえる腹積もりなのだろう。

 爆発が起きた後、動ける騎士が居なければ、今度こそエクリシアの完全敗北だ。それを避けるためには、多少の犠牲を払ってでも兵を逃がさねばならない。

 

「っ、御武運を……」

 

 その道理が分からぬドクサではない。彼は詰まった声でニネミアにそう語りかけると、スラスターを全開にして都市から離れていく。

誓願の鎧(パノプリア)」の飛行能力なら、自爆までに逃げ切ることは可能なはずだ。

 ノマスもそれを案じていたために、兵を出して騎士の鎧を壊しにかかったのだろう。結局、それが叶ったのはニネミアだけだ。

 

 彼女は襲い掛かってくるトリオン兵を迎撃しながら、永遠とも思える長き時を耐え続ける。

 トリオン兵は避難など意中に無く、ただ冷徹にニネミアに攻撃を加え続ける。それも当然だ。彼女がトリオン体を失えば、爆破から生き延びられる可能性はない。すなわち、エクリシアの騎士と(ブラック)トリガーを完全に消し去ることができるのだ。

 

 しかし、今や救いとなるはずの爆破はまだ訪れない。

 そして到頭、ニネミアが先に力尽きた。

 

「くっ……」

 

 既に右腕を欠損していた彼女の腹に、トリオンの弾丸が直撃する。

 いかに優秀なトリオン機関を有していようと、激闘による損耗と、負傷に次ぐ負傷を受けては持つはずもない。

 

 トリオン体が黒煙を上げて崩壊し、生身となったニネミアが戦場に放りだされる。

 周囲のトリオン兵は未だ健在であり、一切の仮借なく彼女に襲い掛かった。

 無情なる刃と弾丸がニネミアへと迫る。

 その時、目を潰さんばかりの極光が草原を呑み込んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 これまでの爆発とは全く規模の違う、天地を呑み込まんばかりの凄まじい火球がノマスの草原に出現する。

 戦地にあった全ての器物が、破滅の閃光に呑み込まれて消えていく。

 極光は地の果てまでをも真昼のように照らしだし、爆風は巨大な空気の壁となってあらゆるものをなぎ倒していく。

 戦闘区域から撤退を行っていた騎士たちも、爆発の凄まじさには顔色を失うほかない。

 

「全隊、被害を報告せよ!」

 

 爆風に背中を叩かれながらも間一髪で死地を免れたドクサが、通信機に向けてそう怒鳴りつける。

 

「ゼーン閣下以外は無事です。皆撤退に成功しました。ですが……」

 

 返答を寄越したのは、フィロドクス騎士団のエンバシアだ。緒戦でカルクスに堕とされた彼は、真っ先に後方へと下がり、全体の支援を行っていたはずだ。

 

「何だ、何があったっ!?」

 

 含みのあるエンバシアの物言いに、ドクサが苛立ったように尋ねる。

 爆発が収まり次第、ニネミアの救出に赴かねばならないのだ。今は一分一秒が惜しい。

 

「救援に来た騎士フィリアが、ゼーン閣下の下へと赴いたきり通信が途絶えたのです」

「な、なんだと……」

 

 エンバシアの返答に、ドクサの全身から血の気が音を立てて引く。

 

「どういうことだ! 何故あの子がこの場所にいるっ!」

「騎士ファルマが通信を回復させてすぐに、援軍と共にこちらに参られたのです」

 

 怒鳴りつけるドクサに、エンバシアが冷静な口調で答える。

 機動都市による(ゲート)遮断と通信妨害を受けたエクリシア調査隊は、本部との通信を回復させるために騎士の一人をエリア外に派遣した。

 そして本部との通信が復旧するや否や、フィリア・イリニが(ゲート)を通ってこの戦場までやってきたと言うのだ。

 

「敵の狙いが都市の自爆と判明したのも、騎士フィリアの指摘によるものです」

「ぬぅ……」

 

 思えば通信が途絶する刹那、少女は騎士たちに何か警告を発しようとしていた。彼女の性格なら、自らが乗り込んできても何の不思議も無い。

 

「――全隊、再結集せよ。直ぐに爆心地へ向かうぞ」

 

 少女の安否は気がかりだが、ともかく今は立ち止まっている時間はない。

 ドクサは鋼の胆力で動揺を押し殺し、残存勢力の取りまとめに掛かった

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 瞼を開けたニネミアは、己がまだ生きているという事実を数瞬の後に受け入れた。

 彼女の眼前に広がっているのは、淡い輝きを放つ透明な壁。その向こう透けて見えるのは、夜空の下に広がる白亜の大地だ。

 

「私は、なぜ……」

 

 困惑を口にするニネミアは、そこで自分の肩に回された腕に気付いた。

 視線を動かせば、そこには見慣れた造形のゼーン騎士団の鎧がある。倒れ伏した彼女は、忽然と現れた騎士に抱き抱えられているのだ。

 

「お怪我はありませんか、ニネミアさん」

 

 誰何をする前に、鈴を転がしたような声が彼女の耳に響いた。その可憐な声を、彼女が聞き違える筈がない。

 

「な、あなた、フィリア! 何故ここにいるのよ!」

「救援に参りました。本当に、間に合ってよかったです」

 

 驚きの余りつい声を張り上げるニネミアに、甲冑を纏った少女は清らかな声で答える。

 首を巡らせて辺りを窺えば、美しく輝く透明な壁は二人を包み込むようにドーム状に広がっている。いや、正しくは球形だろうか。なぜなら二人のいる足元は爆発によって吹き飛ばされておらず、瑞々しい青草が生い茂っているのだから。

 

 あの凄まじい爆発をまともに受けたにも関わらず、ニネミアが命を長らえる事ができたのは、この煌めくトリオン壁のお蔭に他ならない。

 

「そう……これが、あなたの母君の……」

「はい。母さんが残してくれた(ブラック)トリガーです」

 

 一聴すると穏やかな調子で、少女が肯定する。

 

 フィリアの母パイデイアが作り出した(ブラック)トリガー。イリニ騎士団では「救済の筺(コーニア)」と仮称されるこのトリガーは、物理、トリオンを問わずあらゆるエネルギーを跳ね返す、完全なる反射壁を展開する機能を有している。

 

 大地を抉り取るほどの爆風と、大量の土砂すら焼き尽くす熱量を前にして、生身のニネミアが全くの無傷で要られたことからも、その凄まじい性能は明らかだ。

 閃光と轟音を浴びせかけられたにも関わらず耳目が無事であったのも、「救済の筺(コーニア)」のお蔭だろう。このトリガーは光や大気すら、その気になれば完全に遮断することができるらしい。

 

「ありがとう。助かったわ」

「いえ。駆けつけるのが遅くなってすみません」

 

 九死に一生を得たことを悟ったニネミアの口から、驚くほど素直に感謝の言葉が零れた。

 おそらくはアルモニアの待機命令を破っただろうことや、態々死地に飛び込んで来たことなど、小言はいくらでも思いついたが、今はただフィリアの献身に感謝するばかりである。

 思えば、この少女は如何なる時も真剣に、そして直向きであり続けた。だからこそ、ニネミアを含めた大勢の者たちが彼女に惹かれ、親愛の情を抱いたのではないか。

 

「ところで、この白い地面は……」

「はい。すべてトリオンでできています。……やはり、此処が()()()です」

 

 頭によぎった柄でもない考えを振り払うように、ニネミアがそう問う。

 

 吹き飛ばされた地面の下から現れたのは、果てしなく続くトリオンの平野である。

 もちろん、只の草原にこんな物が埋まっている筈がない。これは間違いなく地下にある施設を護るための外装だ。

 フィリアの予見した通り、直下にノマスの(マザー)トリガーがあるに違いない。

 しかし、敵の心臓部を見つけ出したことを喜んでいる暇はなかった。

 

 むき出しとなったトリオンの平野の上に、巨大な漆黒の(ゲート)が開く。

 未だ陽炎の立ち上る爆心地に現れたのは、先ほど大爆発を起こしたのと同じ型の機動都市である。ノマスが即座に追加の兵力を送り込んできたのだ。

 

「先を越されたようね」

 

 次々と穿たれる(ゲート)から、雲霞の如く湧き出すトリオン兵。加えてノマスのトリガー使いたちも、現れた機動都市を護るように展開を始める。

牧柵(サエペス)」で爆発を凌いだ戦士たちも加わり、瞬く間にノマスは陣容を整えていく。

 その陣頭指揮をとるのは、フィリアと同じ白髪金瞳の偉丈夫だ。

 

「一先ず撤退するわ。いいわね、フィリア?」

「……」

 

 敵の大軍勢に加え、ノマスの最高戦力であるレクスが現れた。

 強気一辺倒なニネミアも、流石に撤退以外の選択肢は選べない。また、たとえ引いたとしても、作戦目標である(マザー)トリガーの発見は達成している。

 ノマスは運動戦を捨て、この地を護らざるを得ないだろう。これでようやく、エクリシアは望み通り正面切っての大会戦を挑むことができる。

 

「フィリア、返事は?」

「……了解しました」

 

 返答を寄越さないフィリアに、ニネミアが念を押すように問いかける。

 少女が兜の下で憎悪を滾らせているだろうことは見るまでもなく分かる。だからこそ、今は速やかに退かなければならない。

 

「全速力で後退します。申し訳ありませんが……」

「舌を噛まないように黙ってろ、ね」

「……ちゃんと、無事に連れ帰りますから」

 

 余裕たっぷりに微笑みかけるニネミアに、少女も幾らか落ち着きを取り戻したようだ。フィリアはニネミアを横抱きに抱え直すと、「救済の筺(コーニア)」を解除して夜空へと飛び上がる。

 

「大丈夫。必ず報いを受けさせるわ。私たちの手でね」

「――はい」

 

 ノマスの軍勢に恨みを込めた一瞥を送る少女に、黒髪の乙女は力強くそう語りかける。

 そして二人は一条の流星となって、地の果てへと消え去った。

 

 

 

 

 



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其の十一 総力戦 遠い日の夢

 ノマスの天地に止むことのない轟音が響く。

 近界(ネイバーフッド)の国家には決してありえない地震を引き起こしているのは、夜の草原を進む巨大な構造体の群れだ。

 

 ノマスの民が住まう起動城塞都市。首都である「パトリア号」を含めた三十余りの巨大な都市群が、凄まじい速度で大地を移動している。

 天地を貫く柱のような脚を絶え間なく動かす巨大都市。その内部、都市の運行の一切を制御するブリッジは、夜半とも思えぬ喧騒に包まれていた。

 

「はい。到着次第、現地の「ウィークス号」を解体しトリオンを分配します。急ぎ、戦闘準備を行ってください」

 

 映像通信で各部族の族長たちにそう指示を出すのは、凛然たる気品を漂わせた少年、ドミヌス氏族のレグルスだ。

 

 彼は現在、各々の機動都市を預かるノマスの重鎮たちを相手に、今後の戦略を説明している。

 この夜、堡塁に籠っていたはずのエクリシアが突如として部隊を動かし、なんとノマスの(マザー)トリガーへと一直線に進軍を開始した。

 事前に強化しておいた監視網のお蔭で、すぐさま迎撃の部隊を送り込むことができたものの、敵の主力には撤退を許してしまう。

 

 今後、エクリシアは(マザー)トリガーを標的に大攻勢を仕掛けることが予想される。全軍を挙げて防衛を行わなければならない。

 その為、ノマスの所有する全ての機動都市が、(マザー)トリガーに向けて大移動を行っているのだ。

 

「ふう……」

 

 部族長との通信会議を終えたレグルスは、シートに深く腰を掛け重いため息をついた。先ほどまでの自信に溢れた態度はすっかり鳴りを潜め、少年は深刻な表情で戦況モニターを眺める。

 厳重に秘匿していたはずの(マザー)トリガーの所在を、敵はどのようにして突き止めたのか。

 順調に推移していた防衛戦が、突如として喉元に刃を突きつけられた格好となり、族長を含めたノマスの全ての民は大混乱をきたしていた。

 

 しかし、そんな彼らをまとめ上げ、即座に防衛策を実行しなければ、ノマスに明日は無い。どう考えても年端もゆかぬレグルスには荷が勝ちすぎる役割だが、先ほどまで指揮を執っていた父レクスが出撃してしまったのだから仕方ない。これもノマスの盟主たるドミヌス氏族が故の責務である。

 

「お疲れ様。レグルス」

 

 そう労いの声を掛けるのは、オペレーター席に座る栗毛の女性モナカだ。

 

「いえそんな……大変なのはこれからですから」

 

 緊迫した面持ちでそう答えるレグルス。

 実際の所、ノマスの置かれた状況は決して楽観視できるものではない。(マザー)トリガーの所在が敵に知れたことも不味いが、それ以上に防衛戦を継続するだけのトリオンが無いのだ。

 

「トリオンのやりくりは付きそうですか?」

 

 外部への通信が遮断されていることを確認し、レグルスが問う。

 

「規模にもよるけれど、次の一戦はなんとか持つわ。でもそれ以上は……」

 

 答えるモナカの声は重々しい。

 元よりエクリシアへの侵攻で備蓄の殆どを使い切っていたノマスである。防衛用にトリオンをかき集めてはいるが、それでも敵の苛烈な攻撃に備えるには甚だ心もとない。

 

「過ぎたことを言っても仕方ないけど、なんとか「ポーンス号」を残せていれば……」

 

 モナカが言うのは、先ほどの防衛戦で自爆させた都市の事だ。

 エクリシアの攻勢が思いのほか激しく、また敵の増援が近づいていたために爆破せざるを得なかったが、元々「ポーンス号」は防御用のトリオンに還元する予定の都市であった。それを丸々一つ使い潰してしまったのだから、資源が不足するのも当然だろう。

 

 加えて都市そのものを(ゲート)で転移させるのは、トリオン効率が甚だ悪い。

 自爆させた「ポーンス号」に加えて「ウィークス号」まで送り込んでしまったため、備蓄トリオンは深刻な水準にまで下がっている。

 

 全ての市民にはトリオンを供出させているものの、現状では焼け石に水である。そもそも都市の運行にもトリオンが必要なのだから、破れ鍋に水を注ぐようなものだ。

 

「たぶん、次の戦いで全てが決まります。後の事は考えなくてもいいでしょう」

 

 眉根を寄せて思案するモナカに、レグルスが冷静にそう告げる。

 エクリシアとノマスの両国は、あと数日で接触軌道圏から離れる。

 敵は持てる限りの戦力を投じて来るだろう。次の一戦さえ凌げれば、それで戦争は終結するはずだ。問題は、ノマスに攻撃を防ぎきる保証が無い事だが。

 

「…………」

 

 昨晩の戦闘を見た以上、誰もエクリシアの騎士を侮ることなどできない。待ち受ける戦いが血で血を洗う激闘になるであろうことは明白だ。

 重苦しい沈黙がブリッジに立ち込める。とその時、

 

「よう、差し入れもってきたぜ。食えるときに食っとけよ」

 

 場違いに軽い声が辺りに響いた。

 

「ユウェネスさん!?」

 

 大扉を開けて入ってきたのは、くせ毛の黒髪をした青年ユウェネスだ。

 右脚を失い療養中のはずの青年だが、トリオン体となった彼は軽快な足取りでブリッジへと立ち入ると、両手に提げたバスケットをテーブルの上へと置く。

 

「ちょっと何を出歩いているの! 安静にしてなきゃ駄目でしょう!」

「おいおい、こんだけ騒がしいのに安静も何もないだろ」

 

 突然の訪問者に色をなすモナカだが、当の青年は飄然と肩をすくめて見せるのみ。

 

「人、足りてねえんだろ。手伝いにきたぜ」

 

 ユウェネスはそう言うと、有無を言わさずオペレーター席の一つへと腰かける。

 いつもと変わらぬ調子の青年に、レグルスも思わず肩の力が抜けてしまう。

 

「……じゃあ食事でもしててくださいよ。目的地に着くまでしばらく用事ないですよ」

「え、マジで? やったぜ」

 

 そう揶揄されると、ユウェネスは座ったばかりの椅子から勢いよく立ち上がると、ブリッジに詰める職員を呼び集めて食事を配る。

 給食班が作ってくれたのは、羊肉を挟んだサンドイッチと温かいスープだ。

 レグルスも空腹には抗えず、紙包みとカップを受け取り暫しの休息を取る。

 スパイシーな炙り肉が食欲を掻き立て、スープの程よい塩味が身体に染み入る。戦闘による緊張で空腹も忘れていたのだろう。レグルスを含めた指揮所の面々は、瞬く間に差し入れの食事を平らげてしまう。

 そうして人心地ついた彼らであったが、休む間もなく指揮所に通信が入った。

 

「レグルス。状況を説明せよ」

 

 モニター越しに現れたのは、現地で(マザー)トリガー防衛の指揮を執っているレクスだ。

 厳格を絵に描いたような父の登場に、レグルスを含めた全ての職員が慌てて背筋を正す。

 寒空の下で作戦を続けている彼らに、ぬくぬくと食事を取っているところなど見られては、どんな叱責を受けるや分からない。

 

「――は、はい。各部族の長老方への通達は完了しました。また機動都市は順調に行軍中、程なく現着し、払暁までには陣を整えられる見込みです」

「わかった。こちらは引き続き周囲の警戒に当たる。お前たちも気を緩めるな。エクリシアが移動中の都市を狙うやもしれぬ」

 

 その後、同じく防衛任務に当たっているマラキアやカルクスも交え、対エクリシアの方策が話し合われた。

 とはいえ、出来ることと言えば戦力を結集し、敵が撤退するまで守りを固めるよりほかにない。ありうべからざる事態だが、敵に(マザー)トリガーの所在を見抜かれた場合の計画も作成してある。機動都市群を用いた防御陣の構築や、迎撃部隊の運用などは滞りなく行えるだろう。問題となるのは、やはり底を尽きかけているトリオンだ。

 

「砲の稼働率は二十パーセント程度まで下がります。それも、開戦から二時間までが限度です」

 

 沈鬱な表情でそう告げるのはモナカだ。

 本来ならば都市に取り付けられた防衛装置がハリネズミのように砲撃を行い、敵勢を寄せつけないのだが、現状ではそれも難しい。

 

「トリオン兵が揃うならば戦える。敵の突破力は(ブラック)トリガーあってのものだ。連中さえ落とせれば防衛は可能だ」

 

 レクスはモニター越しにそう述べる。

 エクリシアの強大な軍事力は、規格外の性能を有する(ブラック)トリガーと、それを補助する騎士甲冑「誓願の鎧(パノプリア)」によって支えられている。

 

 逆に言えば、一騎当千の騎士さえ撃破できれば、戦局は一気にノマス優位へと傾くのだ。

 起動都市の外殻は非常に堅固であり、生半な事では破壊できない。イルガーの自爆突撃を受けたとしても、二・三発ならば十分に耐えきれる。さらに巨大なこの「パトリア号」ならば、よほどの攻撃を受けない限り外殻を破られることはない。

 

 しかし、先の戦闘が示す通り、エクリシアの(ブラック)トリガーは都市の外殻を破壊するだけの火力を備えている。最大の懸念はそこなのだ。

 

「精鋭部隊を率い、(ブラック)トリガーを始末する。それで宜しいな」

 

 冷厳にそう呟くのは、眼光鋭い老雄カルクスだ。百戦錬磨の達人は、言われるまでもなく己の取るべき役割を弁えている。

 ノマスに残された勝ち筋は、死に物狂いになって敵の主力を落とすことだ。

 

「しかし、敵もそれは弁えているでしょう。連中が市民を優先的に攻撃すればどうします。彼らを守り切るだけの兵力は、流石に捻出できない」

 

 そう思案顔で切りだすのはマラキアだ。

 エクリシア勢が都市を切り崩し、市民たちを優先的に狙えば、守備兵はそれを護らざるを得ない。兵力が分散すれば、それだけ敵の主力を討つことが難しくなる。

 

「……陽動、分散の手に乗ることはできない。ある程度の被害は甘受し、速やかに敵を討つことが肝要だ」

「――そんな、それでは市民が……」

 

 レクスの冷徹な判断に、思わずレグルスが抗議の声を上げる。

 理屈でいえば父の言は正しい。(マザー)トリガーが制圧されれば国そのものが滅亡する。市民の命であっても天秤を動かすことはできない。

 それでも年若いレグルスは、非常な決断を受け入れることに抵抗があった。すると、

 

「あの、ちょっといいスかね」

 

 ブリッジの緊迫した空気をかき消すかのように、ユウェネスが能天気な声を上げた。

 

「どうした」

「いえあの、皆さん戦う方向で話進めてらっしゃいますけどね。これ当初の予定通り逃げまわりゃいいんじゃないですか」

 

 そして青年は、なんと大方針に真っ向から逆らう旨の発言をする。

 

「ちょ、ちょっと不遜よユウェネス。下がりなさい」

「構わん。考えがあるなら述べてみよ」

 

 慌てて制止しようとするモナカであったが、レクスは低い声で先を促す。

 

「位置がばれたところで、連中が(マザー)トリガーを制圧、ないしは破壊できるかって話なんですよ」

 

 (マザー)トリガーは草原の大深度地下に位置し、その上には堅牢なトリオン壁と大量の土砂が層状に積み重ねられている。巧妙に隠された直通通路を除けば、地下まで降りる手立ては存在しない。

 

「軌道が離れるまで後三日でしょ? 今から土木工事したところで間に合いますかね。トリオン壁は馬鹿みたいに硬いんですから、連中の砲撃型(ブラック)トリガーだってそう簡単には抜けませんよ」

 

 (マザー)トリガーを護る外装を頼りにして、防衛を放棄し市民と共に撤退するべきだと、ユウェネスは献策しているのだ。しかし、

 

「エクリシアにはトリオンを吸収する「懲罰の杖(ポルフィルン)」がある。壁の硬度は関係ない。そして土砂はワムの掘削能力があれば取り除ける。連中を(マザー)トリガーに近づける訳にはいかない」

 

 レクスは冷静に作戦の穴を指摘する。ノマスが防衛を諦めれば、敵は手立てを選ばず(マザー)トリガーの制圧に挑むだろう。

 国の命運を賭けるには余りにもリスキーな策だ。指導者としては到底認められない。

 

「いえ、そのまんま敵に呉れてやろうって訳じゃないんですよ。要は連中が(マザー)トリガーにたどり着けないようにすればいいって話でして。――現地に着き次第、外装を強化するんです。三日以内には絶対掘削できないように」

 

 しかしユウェネスは真剣な表情で先を続ける。

 彼は只でさえ強固な外装に包まれた(マザー)トリガーを護るために、平原の一画を巨大な障壁で隔離してしまうべきだと述べる。

 

「草原とその地下を分厚いトリオン壁で覆ってしまうんですよ。あと、随所に電磁障壁を用いたトラップを組み込んどきます。「報復の雷(フルメン)」を再現した機構はもう実戦に投入できますから。ワムも「懲罰の杖(ポルフィルン)」も、致死性の罠があれば手が止まるでしょう」

「……」

 

 ユウェネスの流れるような説明を、皆は神妙な面持ちで聞き入る。

 通常そこまでの大規模な工事となれば、いくら非常識なトリオン工学を以てしても長い工期が必要になる。しかし、あらゆるトリオンの自由自在な操作を可能とするノマスの国宝「万化の水(デュナミス)」があれば話は別だ。

 絵図面さえ引くことができれば、施工そのものは極めて短時間で済む。だが、

 

「まて、その策には重大な欠陥がある。それだけのトリオンを、一体どこから用意するつもりだ」

 

 肝心の材料となるトリオンが、今のノマスには決定的に不足しているのだ。如何な国宝「万化の水(デュナミス)」といえども、資材が無ければ何も作ることはできない。

 レクスの当然ともいえる指摘に、ユウェネスは悪戯っ子のような笑みを浮かべると、

 

「トリオンなら有るじゃないスか。此処に」

 

 そう言って、自らの足元を指差した。

 

「な……」

 

 青年の発現に、居合わせた全ての面々が言葉を失う。彼はノマスの首都たる「パトリア号」を分解し、(マザー)トリガー閉鎖の資材にすると言うのだ。

 

「ドミヌスの都市だからって、残しておく理由にはならんでしょう。雨風凌ぐ建物ぐらいならすぐ作れます。食い物だけ持って逃げれば、再起は可能です」

 

 確かに、全長一キロを超すこの超巨大都市を解体すれば、十分な資材が得られることだろう。また彼の言うとおり、食料備蓄は十分にあり、市民を退去させても何とか生きていくことはできる。

 しかし国の象徴ともいえる首都を放棄するのは、心情的に余りにも抵抗がある。(マザー)トリガーを放置するというのも如何にも不味い。

 初期の防衛プランは、敵に消耗戦を強いると言ういわば攻めの撤退であったが、これでは怨敵を前に全てを投げ出して逃げるようではないか。

 

「ユウェネスさん、それはいくらなんでも……」

 

 レグルスが困惑した様子で声を上げる。市民に犠牲を強いることには耐えられないが、彼の言う完全な逃走もまた、少年にとっては受け入れがたい。

 これは少年のみならず、ノマスの総意といってもいい。怨念積もるエクリシアを相手に膝を屈するぐらいなら、ノマスの民の誰しもが戦って散る方を選ぶだろう。しかし、

 

「モナカ。仮にその計画を実行するとして、図面はどれ程で出来上がる」

 

 レクスは暫しの思案の後、真剣な面持ちでそう尋ねる。

 

「え、は、はい……あの、構造は単純ですが、余りに巨大なのですぐには……」

「ユウェネスと協力し、今から作成に当たれ。予備計画に組み込む」

 

 そして有無をも言わさぬ口調で裁可してしまう。

 

「と、父さん!?」

 

 思いがけないレクスの判断に、レグルスはつい頓狂な声を挙げてしまう。

 

「国が無ければ民は生きられぬが、民の消えた国も滅びゆくのみ。都市一つで片が付くなら安い買い物だ」

 

 そんな息子を諭すように、レクスは幾分穏やかな表情でそう告げる。

 

「どの道、エクリシアと一戦を交えずには終われまい。ここが興廃の瀬戸際だ。総員奮励せよ」

 

 そうして、会議は一旦終了となった。

 

 ノマスの人々を乗せた都市は草原を進み、夜明け前に(マザー)トリガーの直上へと到着する。

 即座に都市の布陣が行われ、首都「パトリア号」を中心にして三十ほどの都市が円陣を造り、其々の都市を回廊で繋いでゆく。

 瞬く間に、差し渡し三キロメートルほどはあろうかと言う巨大な防御陣地が、広大な草原に出現した。

 

 そしてその時を待ちかねていたように、防衛部隊が迅速に展開する

 卵から孵ったトリオン兵が都市の外周を囲むように蠢き、隊伍を組んだトリガー使いは油断なく地平の先を睨んでいる。

 迎撃の準備は整った。今こそ怨敵エクリシアとの決着を付ける時。

 

 地平の果てより現れた太陽が、漆黒の世界を白々と染め上げていく。

 運命の一日が、ここに幕を開けた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「作戦目標となる神の候補は、ノマスの首都都市「パトリア号」に存在すると推測されます」

 

 投影モニターの薄明かりに照らされた狭い室内。

 イリニ騎士団が有する遠征艇のブリッジでそう述べるのは、白髪金瞳の少女フィリアだ。

 モニターには各騎士団の重鎮たちが揃って並び、作戦会議が行われている。

 

 ニネミア率いる偵察部隊の働きにより、ノマスの(マザー)トリガーの所在が明らかとなった。敵は現在拠点を防御すべく、機動都市を終結させている。

 エクリシアは急ぎ部隊を回収すると、堡塁を放棄して其々の遠征艇へと乗り込んだ。

 もはや持久戦を行う意味はない。最大の戦力を以てして、敵に大攻勢を仕掛けるのだ。

 

「ノマスは二つの機動都市を転送し、また他の都市も長距離の移動を行っています。先の戦闘と合わせれば消費したトリオンは計り知れないはず。敵に回復の暇を与える必要はありません。この一戦が勝負です」

 

 アルモニアの命令を無視して偵察部隊の救援に向かったフィリアであるが、彼女の働きが無ければニネミアと「劫火の鼓(ヴェンジニ)」を諸共に失っていた事実もあり、処分は帰国するまで保留となった。

 のみならず、彼女の有するサイドエフェクトの有用性が明らかになったことで、各騎士団はノマス攻略作戦の立案に彼女の協力を強く求めた。

 そしてフィリアは僅か数時間の内に、委細漏らさぬ計画を打ち立てたのである。

 

「まず、新型砲撃トリガー「金の鯨(ケートス)」によって周囲に点在する都市外殻を破壊、捕獲型を投入します。我々騎士はトリオン兵の仕事を援護する為、各所に散って敵の迎撃部隊を誘引します」

 

 トリガー使いが敵を引きつけ、トリオン兵によって市街地を襲う、近界(ネイバーフッド)では珍しくも無い市民を標的とした捕獲作戦である。

 ただし、今回の作戦目標は凡百の市民ではない。大国エクリシアが勢力を挙げて狙うのは、次代を担う神の候補だ。

 

「これらは全て後段階への布石です。敵の防備が十分乱れたところで首都都市の外殻を破壊し、(ブラック)トリガーを集中投入します。その他の人員は、突入部隊に邪魔が入らぬよう援護をお願いします」

 

 神の候補となるほどの強力なトリオン能力者なら、ノマスは最も防備の厚い首都都市に囲うだろう。堅牢極まる外殻を打ち砕き、巨大で複雑な都市内部へと切り込むことができるのは、(ブラック)トリガーを担う最高の騎士たち以外には考えられない。

 そして敵の首都に強襲を仕掛けるのは、神の候補を拉致する為だけではない。

 

「道中で神の候補が得られれば撤退を。そうでなければ、速やかに指揮所の制圧を目指してください」

 

 最終目標はノマス首都都市「パトリア号」の制圧、延いては地下の(マザー)トリガーの奪取だ。

 例え神の候補者を捕らえられずとも、(マザー)トリガーを確保すればノマスの全ての資産を掌中に収めたことになる。候補者など向こうから差し出してくるはずだ。

 それを拒めば、(マザー)トリガーを破壊し、長きに亘るノマスとの因縁に蹴りを付けることができる。どちらにせよ、目標は敵の首都都市である。

 

 ノマスに聖都を踏みにじられ、エクリシアの国威は大きく損なわれた。ここでエクリシアが確たる戦果を挙げられなければ、凋落の噂を聞きつけた近界(ネイバーフッド)の国々が、餓狼のように攻め寄せて来るだろう。

 祖国の興廃が掛かった一戦だ。速やかに汚辱を雪ぎ、我が国の武威を遍く世界に知らしめねばならない。

 

「では、作戦開始は払暁とします。皆さまに御武運が有らんことを」

 

 質疑応答で細部を詰めると、ようやく会議は終了となった。

 投影モニターの幾つかが閉じられると、只でさえ暗いブリッジがさらに薄暗くなる。

 夜明けまでには然程時間も残されておらず、まだ諸々の準備が残っている。騎士たちは一人、二人と退出を始め、其々の業務に取り掛かった。

 

 そしてフィリアといえば、ブリッジに一人残りコンソールに向き直ったまま作戦の見直しに余念がない。時間があるなら少しでも休んでおくべきだが、今の彼女は眠気も感じないほどに精神が昂ぶっている。

 

 家族を殺めた怨敵を、ようやくこの手に掛けることができるのだ。一見平静を保って見える少女の胸の内には、業火の如き殺意が燃えている。

 少女は双眸を炯々と輝かせながら、来たる戦争に向けて牙を研ぐ。

 とその時、フィリアの前に飲み物と軍用レーションが差し出された。

 

「――ご当主さま」

 

 彼女の不意を突いたのは、アルモニア・イリニだ。先ほど何も言わずに退出した彼が、少女の為に軽食を用意して戻ったのだ。

 

「大変だろう。少し食べておきなさい」

 

 金髪の偉丈夫は優しげな表情で少女を見詰め、そう進める。

 兎角自分の事は棚上げにする少女である。特に今の彼女の心境では、飲まず食わずだろうが何日徹夜しようが働き続けるに違いない。

 

「その……ご当主様、私は……」

 

 ノマスに来てから、微妙な距離感を修復できていない二人である。フィリアは伯父の変わらぬ優しさに、戸惑ったような表情をする。すると、

 

「もう戦うなとは言わない」

 

 アルモニアは諦めと寂しさの入り混じったような声でそう言う。

 

「ノマスとの決戦には、君にも出撃してもらう」

「――本当ですか! あ、ありがとうございます」

 

 参戦を許可するアルモニアに、フィリアが上ずった声で礼を述べる。

 あれほどフィリアを戦場に出したがらなかったアルモニアだが、少女の今の精神状態を鑑みれば、制止は無意味どころか悪影響にしかならない。

 復讐心に逸る彼女は誰が止めようが戦場に赴くだろう。暴走されるぐらいなら、最初から指揮下に置いておく方がいい。

 

 また動かしがたい事実として、少女はエクリシアの最高戦力の一つなのだ。国の興廃が掛かった一戦で、遊ばせておくことはできない。

 加えて、戦場の機微を読み取り、最善の選択を選び取る「直観智」のサイドエフェクトを持つ彼女が居れば、不測の事態にも迅速に対応できる。フィリアを戦場に出すよう、アルモニアはフィロドクス、ゼーン両騎士団から強い要請を受けていた。

 

「あの、私、頑張りますから。絶対にあいつらを――」

「フィリア」

 

 勢い込んで話し出した少女を、アルモニアが穏やかな声で遮る。

 

「君に戦う術を教えたのは私だ。……殺すことを咎める資格など、私にはない」

 

 そして彼は声に悔恨を滲ませてそう続ける。

 

「ち、違います。戦いを望んだのは、求めたのは私です。ご当主様の咎では……」

 

 沈痛な面持ちのアルモニアに、フィリアが慌てふためいてそう弁護する。

 そんな少女に限りない慈愛の眼差しを向け、

 

「それでもフィリア。君にお願いがある。――どうか、死なないでほしい。決して命を粗末にしないと、誓ってくれ」

 

 アルモニアはそう告げた。

 

「…………それは、でも」

 

 長い静寂が、ブリッジを満たす。

 ただ生きていてほしい。アルモニアの願いに、フィリアは頷くことができない。

 少女の命は、とっくに尽きているのだ。命より大切な家族を失った時、フィリアの生はその意義を失った。今の彼女は只の残骸だ。身を焼き焦がすような怒りと恨みが、少女の亡骸を無理やりに動かしているに過ぎない。

 

 仮に、自らの命と引き換えに復讐が為せるなら、少女は躊躇うことなく命を擲つだろう。

 直向きに己を思ってくれるアルモニアに、虚偽の返答はできない。すると、

 

「私では、君の家族にはなれないだろうか」

 

 アルモニアが切実な様子で少女にそう問う。

 

「――っ!」

 

 思いもがけない問いかけに、フィリアの金色の瞳が大きく見開かれる。

 今更ながらに少女は気付いた。家族を亡くしたのは、自分だけではない。

 ゼーン家に引き取られたこの二年、アルモニアはフィリアたちに惜しみない愛情を注ぎ、実の家族のように接してくれた。

 

 弟妹たちが貴族の生活に慣れることができたのは、アルモニアが時に厳しく、時に優しく導いてくれたお蔭だ。

 一度は絶縁されたはずの母も、彼を悪く言ったことは一度も無かった。復縁してからはより一層アルモニアに深い信頼を寄せ、子供たちの事を相談していたらしい。

 

 そしてフィリアも、溢れるほど愛情を彼から受けてきた。

 アルモニアには妻子がいない。もし己が死ねば、彼は本当に一人ぼっちになってしまう。

 その事実に今更思い当ったフィリアは、羞恥と罪悪感に頬を真っ赤に染める。

 

「そんなこと、ありません。ご当主様は――伯父様は、私の本当の家族です」

 

 少女は一言一言に満腔の喜びを込めてそう囁く。

 そう言うと、耳まで赤くなったフィリアは気恥ずかしげに俯いてしまう。

 先ほどの会議で見せた凛呼たる気迫は何処にもない。華も恥じらう可憐な少女にアルモニアが微笑みかける。

 

「それでは、少し食べて休むといい。体調を整えておかねば、満足に動けなくなる」

「――はい!」

 

 隣に座る伯父に笑顔を返すと、フィリアは早速レーションバーを齧る。

 彼女の大好物のチョコ味だ。舌が痺れるほどの猛烈な甘さが、疲れた脳に心地よい。

 

「そんなに美味しいかい?」

「はい。カカオレーションは素晴らしい発明品です」

 

 食事を取りながら、二人は取り留めの無い会話を楽しむ。

 お互い戦争の話題は避け、趣味の話や日常で起きた他愛ない笑い話などを繰り広げる。

 

 暗く狭いブリッジに響く、フィリアとアルモニアの忍び笑い。

 何の変哲もなく、それゆえに尊い家族の会話。

 

「それで、玄界(ミデン)の海は何と塩水でできているそうなんです。これには大地の岩石が関係しているとか。……やっぱり、塩水で育つとお魚の味も変わってくるのでしょうか」

「どうだろう。うちの国で養殖するのは難しいだろうな」

「やっぱり、現地で食べてみないと分かりませんね」

 

 様々な話題を経て、二人は玄界(ミデン)について話し込んでいた。

 

「フィリアは、そんなに玄界(ミデン)に行ってみたいのかい?」

「……はい。母さんや弟たちに、ずっと一緒に行こうって話してました」

「そうか……」

 

 果て無く広がる大陸と、それを取り囲む大洋に恵まれた玄界(ミデン)は、貧民時代のフィリアにとって憧れの存在だった。

 エクリシアでは塗炭の暮らしを余儀なくされていた下層民の彼らも、豊かさの象徴である玄界(ミデン)に赴けば、きっと人生を変えることができる。

 

 或いは玄界(ミデン)の存在があったから、少女は世界と戦うことを決意したのではなかったか。

 

「……もっと早く、伯父様とこんな風にお話すればよかった」

 

 話の種が尽きた頃、フィリアがぽつりとそんなことを呟く。

 イリニ家に迎え入れられてから直ぐに軍属になった彼女にとって、アルモニアは家族というよりは雲の上の上司という存在であった。

 また彼は大貴族の当主であり、聡明なフィリアはどうしても付き合い方に距離を置いてしまう。

 こんなに親しく言葉を交わしたのは、今日が初めてかもしれない。

 

「帰ってから、幾らでも話せばいい」

「……はい」

 

 どこまでも優しく語りかけるアルモニアに、フィリアは照れ笑いを浮かべて頷いた。

 明日を捨てた少女が、未来に目を向けた。彼女の心を救うことはまだ無理だが、それでも希望を抱いてくれたことに、アルモニアは心から安堵する。

 

「それで、ええと……」

 

 それからもう少し雑談を交わしていた二人であるが、段々フィリアの口ぶりが重たくなり、目をしばしばと瞬かせだした。

 

「眠いのだろう。少し横になったらどうだ」

「いえそんな……私は、全然へいちゃら、です」

 

 そう強がりつつも、既に少女はうつらうつらと舟をこぎ出した。

 ノマスでの精力的な働きからついつい忘れてしまうが、彼女は数日前まで精神の平衡を失っていたのだ。食事も碌にとっていなかったので、体力も落ちている筈だ。

 今日とて少女は朝から働き詰めだ。腹がくちくなったところで、急に睡魔が襲ってきたのだろう。

 

「まだ、しごとが……残ってるので……」

「代わりに片付けておく。少し寝ておきなさい」

「ううん……でも……」

 

 口ではそう言うが、フィリアはもう半分夢うつつだ。

 

「大丈夫だ。ゆっくりお休み、フィリア」

 

 アルモニアは少女を椅子から抱き上げる。もう彼女には反論する意識もない。

 そして彼はブリッジの後方にある長椅子に彼女を横たえた。船内は他の騎士たちが戦闘準備の為に走り回っている。無声通信に切り替えれば、此処が今の所一番静かだ。

 

 静かに寝息を立てる少女に、アルモニアは自分の上着をそっと掛ける。

 そうして少女の寝顔を愛おしげに眺めていた彼は、不意に手を伸ばすとその小さな頭を撫でようとする。

 

「…………」

 

 だが、アルモニアは逡巡すると、少女に触れずに手を引き戻した。寝入ってしまったばかりである。起こしてしまうことを危惧したのだろう。

 

「……君だけは、必ず」

 

 そして彼は、何事かを決意した強い眼差しを少女に向け、小さくそう呟いた。

 この残酷な近界(ネイバーフッド)では、幸福は他者の血を持って贖わなければならない。それが定められた世界の摂理である。

 彼は多くの人を殺め、今日までの時を過ごしてきた。

 

 いくつもの願いを犠牲にして、それでも護ろうと誓ったモノ――

 

「フィリア。どうか、君に未来を……」

 

 孤独な男の切なる祈りが、薄闇に溶けて消えていく。

 

 

 

 

 



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其の十二 総力戦 復仇の刃

 地平から顔を覗かせた人造太陽が、雲一つない蒼天へと登って行く。

 濃密な闇を切り裂く曙光に照らし出されるのは、どこまでも続く広大な草原だ。

 彼方まで広がる緑の海に、まるで島のように浮かんでいる白い物体は、ノマスの民が暮らす起動城塞都市である。

 

 遠景からは縮尺が掴みにくいが、亀の甲羅のような身体から三対、乃至四対の獣脚を生やした都市の大きさは、小型のものでも長さが三百メートル、高さが七十メートルほどはある。中でも一際巨大なそれは、ノマスの首都都市「パトリア号」である。

 

 長さは一キロメートルを上回り、高さは優に二百メートルを超える「パトリア号」は、昨夜「ポーンス号」が自爆した爆心地――(マザー)トリガーの直上に陣取っていた。

 そして三十余りの小都市群は、小山のような威容を誇る超巨大都市を囲むように佇んでいる。

 それぞれの都市は空中に張り巡らされた回廊で連結され、相互に援護を可能とする強固な防御陣地を形成している。

 

 巨大都市で作られた堅陣を護るように配置されているのは、トリオン兵の軍団だ。

 流石に差し渡し数キロにもなる陣地を全て埋めることはできないが、万を軽く超える自動兵器の群れは、無機質なセンサーアイで虚空を油断なく睨みつけていた。

 

 とその時、地平の果てから一陣の風が吹く。

 微かな湿り気と青草の香りを漂わせた爽風が、緑の海に漣を引き起こす。

 夜明けをもたらす喜びの風が、臨戦態勢の都市群を優しく撫でていく。

 

 朝日に照らされた大草原の、言葉を失う程に美しい眺め。

 如何なる名画も及ばない黄金の風景に、漆黒の風穴が穿たれたのは次の瞬間だった。

 バチバチと耳障りな放電音を撒き散らし、空と大地に(ゲート)が開く。

 そこから現れたのは、大小様々な種類のトリオン兵の軍団だ。

 

 都市に搭載された遮断装置によって、エクリシアは都市から数キロ離れた位置にしか(ゲート)を展開できない。しかし、漆黒の風穴から吐き出されていくトリオン兵は嘗てないほどの数で、機動都市群の周縁に展開していく。

 

 その総数は、ノマスが用意した迎撃用トリオン兵の数を明らかに上回る。資源目的で行われる近界(ネイバーフッド)の戦争で、ここまでの兵力が投入されることは過去に例がない。

 損得など頭から度外視した、狂おしいまでの敵意がありありと伝わってくる。

 

 次々と現れるエクリシアのトリオン兵。陣容が整うまでにはしばらくかかり、先制攻撃を仕掛けるには絶好の好機であったが、しかしノマスは静観して動かない。

 長距離の砲撃はトリオン効率が悪く、心もとない備蓄をさらにすり減らすことになる。また味方に迎撃させるにしても、都市から支援が行える距離の方が望ましい。

 

 それに何より、ノマスが打ち破るべき敵は、まだ姿を現していない。

 草原を塗りつぶさんばかりに展開していた(ゲート)が、やっとのことで消えていく。

 

 地平を埋め尽くす雲霞の如きトリオン兵。

 戦闘態勢を取ったまま不気味な沈黙を保っているそれらの前に、小さな(ゲート)が開いた。

 

 そこから現れたのは、巨大な都市と比べれば芥子粒ほどの大きさしかない人型である。

 悠然と草原に踏みしめた二十余りの人型は、トリオン兵の眼前に一列横隊で並び立つ。

 彼らは揃って猛々しくも流麗な鎧を纏い、ノマスの都市群を真正面から見詰めている。

 

 彼らこそ、近界(ネイバーフッド)にその名を轟かせるエクリシアの騎士たちだ。

 曙光を浴びて燦然と輝く白亜の騎士たちは、まるで絵物語を彩る華々しい英雄のようだ。

 しかしノマスにとってエクリシアの騎士とは、子供時分から寝物語に聞かされてきた悪鬼にほかならない。

 

 エクリシアの騎士たちが碧空へと飛び上がる。

 ノマスの戦士たちが力強く大地を蹴りつける。

 

 近界(ネイバーフッド)で後々まで語り継がれる激闘。今、その火蓋が切られた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 開戦劈頭、青空に多数の巨大(ゲート)が数珠つなぎのように現れる。

 エクリシアが満を持して投入したのは、二百体を超す爆撃型トリオン兵イルガーの大群だ。

 家屋数棟ほどの大きさをしたイルガーが、巨大な鰭を動かして蒼天を悠々と泳いでいる。

 目指すはノマスの機動都市群だ。

 

 (ゲート)から吐き出されるのはイルガーだけではない。爆撃型を援護し、上空から戦況をモニターするため、大量の飛行トリオン兵バドも現れる。

 地上部隊に先駆けて都市へと向かう飛行トリオン兵たち。勿論、ノマスも黙って見ている筈がない。

 射程圏内に入るや、都市に据え付けられた砲台が猛烈な対空射撃を始める。

 同時に、ノマスの飛行トリオン兵が次々と空に上がっていく。エクリシアに比べて数では劣るが、新型機レイを筆頭に、性能面では負けていない。

 

 しかし、幾ら空戦能力に優れたレイでも、イルガーの頑強な装甲を打ち破ることはとても不可能だ。

 鰭を切り裂いて制御不能にすることはできるが、周囲一帯はノマスの都市と兵によって埋め尽くされている。仮にイルガーが自爆した場合、何処に落ちても甚大な被害が出るだろう。

 何としてでも空中で撃破する必要がある。その為、都市は砲撃をイルガーに集中させた。

 となれば勿論、地上への砲撃はおろそかになる。

 

 エクリシアの繰り出した地上部隊は狂ったように都市へ向けて突撃を仕掛ける。途中、ノマスの仕掛けた地雷や捕獲罠に引っ掛かるものもいたが、怒涛の如きトリオン兵の大群にとっては損害の内にも入らない。

 

 両陣営の繰り出したトリオン兵が草原で激突する。

 性能面ではノマスに分があるが、数ではエクリシアが圧倒的に優位だ。

 しかも、エクリシアのトリオン兵には都市攻略を優先する命令が与えられており、ノマスの防御を巧みに躱して進んでいく。本来ならば都市の砲撃で進軍を止める筈が、イルガーの大群に掛かりきりの今、彼らの脚を止める手立ては何もない。

 

 エクリシアのトリオン兵たちは、ノマスの最終防衛ラインまでいともたやすく侵攻を果たした。そして巨大な都市の脚部に組みつくと、擱座させるべく攻撃を加え始める。都市が如何に強固な外殻を持とうと、攻撃を続ければ必ず破ることができるのだ。

 

 まるで甲虫に集る蟻のように、都市へと纏わりつくトリオン兵たち。

 このまま外殻を破られれば、中の市民たちは抵抗も出来ずに毒牙に掛かることになる。だが、ノマスの戦士たちがそれを許すはずもない。

 

「総員、敵を排除せよ。都市に取りつかせるな」

 

 鋭利なブレードを振りかざし、都市外殻を攻撃していたモールモッドが、突如として弾けた豆のように吹き飛んだ。

 次いで、巨大な口で都市の脚部に噛みついていたバムスターが、轟音と共に木端微塵に砕け散る。

 破砕音は連なって一つの長音となり、僅か数十秒の内に辺りに蠢いていたトリオン兵が瓦礫の山と化す。

 

 それを成し遂げたのは、ノマスが誇る最強の戦士――(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」の担い手レクスだ。桁違いの出力を有するトリオン体を以てすれば、トリオン兵など焼き菓子を砕くも同然に打ち破ることができる。

 

「連携を乱すな。前衛が敵の進行を押しとどめている。数が増えぬうちに各個撃破せよ」

 

 付近の敵兵を粗方片付けると、白髪金瞳の偉丈夫は落ち着き払った声で防衛部隊に指示を出す。

 エクリシアのトリオン兵団は都市襲撃を急ぐあまり、隊列が伸びきっている。敵を減殺するには今が好機だ。

 号令を受けるまでも無く、ノマスのトリガー使いたちは都市を護るため、全力で戦いを行っていた。

 

 都市外縁のそこかしこで激しい戦闘が繰り広げられている。

 次から次へと押し寄せるエクリシアのトリオン兵を、ノマスの戦士たちは緊密な連携を以て着実に破壊していく。

 レクスと同じ(ブラック)トリガー使いのマラキアとカルクスも、単騎で敵の兵団を全滅させるという桁違いの戦果を挙げていた。

 

 また、ノマスの秘密兵器である量産型トリオン兵デクーに率いられたトリオン兵団も、ここにきて目覚ましい活躍をみせていた。

 強化クリズリを主力とするトリオン兵団は、まるで腕のいい人間の部隊のように、敵の兵団を手際よく狩っていく。

 所詮はプログラム通りの行動しかできないエクリシアの人形兵は、ノマスの精兵を前にして次々と敗北を喫していく。

 

 怒涛の如きエクリシアの兵団を、ノマスは懸命に凌ぎ、捌き続ける。

 外殻の度外れた強固さもあり、都市は現在の所敵の侵入を許していない。だが、

 

「イルガーが都市に到達します! 各員爆撃に注意してください!」

 

 指揮所で戦況をモニターしているレグルスが、緊迫した声でそう通達を出す。

 砲撃と迎撃トリオン兵で足止めをしていたエクリシアのイルガーが、とうとう機動都市を射程に収めたのだ。

 二百を超すイルガーの大群の内、およそ半数は砲撃で落とすことができた。だがもう半数は未だ健在であり、砲撃用のトリオンは完全に底を突いている。

 

「――」

 

 その中の一体、レイに鰭を切り裂かれ操舵不能になったイルガーが、レクスの側の都市目がけて自爆モードで突っ込んでくる。

 それを目にするや、レクスは都市の外殻を風のように駆け登ると頂点で跳躍。弾丸の如き速度でイルガーに飛びかかった。

 

 大地に向けて迫り来るイルガーの顔面に、レクスが真正面からぶち当たる。

 鉄腕はイルガーの歯を粉々に打ち砕き、口腔に隠されたコアを一撃で叩き割る。

 速度は微塵も衰えず、レクスはそのままイルガーの体内を尾部まで突き破り、高空へと躍り出た。

 コアを破壊されたイルガーは自爆することもできず、残骸を撒き散らしながら大地に吸い寄せられていく。

 

 しかし、都市に飛来するイルガーは未だ百を数える。いくら超絶の武勇を誇るレクスとはいえ、一人でそれらを落とすのは不可能だ。

 都市の堅牢な外殻は一発や二発の自爆なら耐えるだろうが、それ以上となれば流石に保証はできない。

 

「レグルス。騎士はまだ攻めてこないのか」

 

 自由落下に身を任せるもどかしい時間の中、レクスは指揮所の息子へと通信を繋いだ。

 エクリシアの攻撃は苛烈を極めており、都市に被害が出るのは時間の問題だ。

 敵を早期に撤退させるには、主力たる騎士を早々に撃破する必要がある。

 

 しかし、レーダーで肝心の騎士たちを探ってみれば、彼らは展開したトリオン兵団の後方に陣取り、未だ動きを見せていない。

 ノマスのトリガー使いたちは敵勢を防ぐのに手いっぱいである。こちらから攻撃部隊を繰り出す余裕はない。

 

「は、はい! 依然、騎士たちは都市周縁部から動きません」

「……不味いな」

 

 レグルスが寄越した返答に、レクスは峻厳な顔を思わず顰める。

 エクリシアが投入したトリオン兵は膨大だが、流石にそれだけでは都市を落とせない。精々、ノマスのトリオン兵団と共倒れになるのが関の山だろう。そして手駒が尽き、トリガー使い同士の戦いとなれば、都市の援護を受けられるノマス側が有利になる。

 

 エクリシアがそれしきのことに気付かぬ筈がない。となれば、騎士の不気味な沈黙は、何らかの意図があってのことになる。

 百戦錬磨のレクスの総身に、名状しがたい怖気が走る。

 

「……レグルス。ユウェネスらと協力し、(マザー)トリガー封鎖を実行せよ」

「な――で、ですがっ!」

 

 レクスが突然下した命令に、レグルスの動揺した声が帰ってくる。

 (マザー)トリガーの封鎖は、いよいよ戦況が劣勢になった時の最後の策である。

 戦はまだ序盤であり、今の所ノマスはエクリシアの攻勢を完全に凌げているのだ。早々に逃げの策を取っていい筈がない。

 レグルスの抗議の声はしかし、戦場に轟く轟音と共にぷつりと途絶えてしまう。

 

「これが狙いか……」

 

 ようやく都市の外殻に着地したレクスが、空を見上げて悪態をつく。

 大地を揺るがす振動と轟音は、都市近辺にまで飛来したイルガーが同時に起こした自爆によってもたらされた。

 百を超えるイルガーの内、僅かな例外を除いたすべての個体が高空で大爆発する。勿論空には、何一つとして標的となる物はない。

 イルガーが自爆した理由、それは――

 

「「光彩の影(カタフニア)」の散布は成功しました。作戦を次の段階に進めます」

 

 機動都市の周縁部。青草を踏みしめ、塑像のように屹立するエクリシアの騎士たち。その兜の中で、鈴を転がすような愛らしい声が響いた。

 彼らの眼前では、山のような威容を誇るノマスの機動都市群が、突如として沸き起こった霧に包まれている。

 

 大爆発を起こしたイルガーから撒き散らされたのは、敵の通信を妨害し、付近の状況を探知する微細なトリオン粒子である。

 エクリシアの(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」による幻惑の霧。

 これの散布は、ノマスの優れた連携を絶つために必須の一手であった。しかし、広大な敵陣全てを霧で覆い尽くすには時間がかかりすぎる。

 そこでエクリシアはイルガーに予めトリオン粒子を仕込み、都市上空で自爆させることで一挙に敵陣全体に霧を撒き散らしたのだ。

 

「皆さま、長らくお待たせをいたしました。それでは戦を始めましょう」

 

 朗々と歌うように告げるのは、少女フィリア・イリニ。

 天使のように可憐な少女の声を耳にするや、騎士たちは烈々たる戦意の命じるままに、戦場へと飛び立っていった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 戦場を覆う濃密な霧は一帯を乳白色に染め上げ、視界は百メートルもない。

 突如として一切の通信を絶たれたノマスの部隊は、当然ながら惑乱状態に陥った。

 戦闘指揮所どころか短距離の通信さえ繋がらず、レーダーも正常に働かない。目の前に蠢くトリオン兵が敵か味方かさえ、瞬時には判断できないのだ。

 そんな混乱の最中にあっても、敢然と戦闘を続ける者がいる。

 

「狼狽えるな! 霧はじきに消える。隊伍を組み直し敵に備えろ! この混乱に乗じて騎士が来るぞっ!」

 

 そう防衛部隊を叱咤するのは、(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」の使い手マラキアだ

 

 長きに渉るエクリシアとの戦争で、ノマスは「光彩の影(カタフニア)」の性能を十分に把握している。

 マラキアがそう言うや否や、機動都市群はその巨体の下腹部から強風を地面に吹き付けはじめた。

 微細なトリオン粒子はあらゆる通信を妨害する凄まじい性能を持つものの、起動者が意図して動かせる範囲には限度がある。そして霧という性質上、大気の流れには逆らえないため、強風に吹かれれば簡単に散ってしまう。

 

 防衛策の中には当然「光彩の影(カタフニア)」への対処方も盛り込まれている。もとより地形は草原で風通しがいい。都市が全力で送風すれば、霧が晴れるまで然程時間はかからないだろう。

 だが、短時間とはいえ通信とレーダーがやられたのは痛手である。

 エクリシアが仕掛けて来るなら、今を置いてない。

 

「っ、市民の避難もまだだというに……」

 

 トリオン兵を撃滅しつつ、マラキアが歯を噛みしめる。

 

 通信が途絶する直前、総指揮官のレクスは(マザー)トリガー封鎖を命じた。レグルスらは急いで準備に取り掛かっているだろうが、「パトリア号」の中にはまだ多くの市民が残っている。そもそも(マザー)トリガー封鎖案が作戦に組み込まれたのは昨夜の事だ。防御陣地の作成やら兵の配置やらで、市民を避難させる猶予はまったくなかった。

 

 他の都市には「パトリア号」から連絡通路が設けられているため、戦闘の真っただ中であっても市民を移動させることは可能だが、やはりトリガー使いたちを護衛に回さねばスムーズな避難は難しいだろう。

 

 エクリシアの二の手、三の手が繰り出されるであろう時に、貴重な戦力を差し向けることができるかどうか。

 迎撃を続行するか避難誘導を優先するか。本部からの指示が仰げない今、現場の指揮官が判断するしかない。

 マラキアが思考に費やしたほんの僅かな時間に、戦場は次の局面へと移っていた。

 

「な――」

 

 突如として甲高い破砕音が耳朶を打つ。次いで凄まじい地鳴りと共に、霧の向こうに長大な影が現れる。

 

「と、都市が、都市外殻が破られましたっ!」

 

 そして耳に飛び込んで来たのは、悲鳴にも似た戦士の叫び声だ。

 マラキアは驚愕しながらも即座に視線を動かし、濃密な霧の向こうを透かして見る。すると最も近くにあった都市の外殻に、直径二十メートルほどの風穴が空いている。

 

 考えられない事態である。都市の外殻は堅牢無比で、(ブラック)トリガーでもなければ破壊不可能な代物だ。それがこうまで容易く破られるとは。

 そして次の瞬間、都市の中腹に空いた穴に細長い何かが取りついた。

 地鳴りと共に現れた細長い影、捕獲型トリオン兵ワムが都市を襲ったのである。

 

「ワムを破壊せよ! 都市への侵入を許すな!」

 

 怒声と共にマラキアが疾駆する。

 土中から飛び出したワムは、まるで吸血ヒルのように都市の腹へと顔面を突き刺すと、身体をうねらせて内部へと入り込もうとする。

 おそらく体内からは小型トリオン兵も送り込まれているだろう。トリガー使いたちは外部で防衛に当たっており、都市内に殆ど戦力は残されていない。このままでは虐殺が起こる。

 

 ワムの下へと駆けつけたマラキアは、即座に「報復の雷(フルメン)」の電撃弾を叩きこむ。

 このトリオン兵の長大な身体は、複数の同型機が連結することで形作られている。そのため一部位が機能停止しても、その個体を斬り捨てることで残る部位は問題なく活動を続けることができる。

 しかし、「報復の雷(フルメン)」の凄まじい電撃は一瞬で連結した全ての個体に伝導し、それらの伝達網を隅々まで焼き切った。

 

 芋虫型の巨大トリオン兵が、全身をおぞましく震わせて活動を停止する。

 

「パッセル隊! 都市内の残敵を討滅せよ」

「了解しましたっ!」

 

 ワムの侵攻は止めることができたが、都市内部ではワムによって送り込まれたトリオン兵が暴れている。

 マラキアは部下の一隊にその救援を命じる。だがその時、

 

「――狙撃だ、シールドを張れ!」

 

 直上から高速で飛来したレーザーに、部下の一人が頭を吹き飛ばされた。

 折悪しくも、都市内部へ戻るため外壁をよじ登っていた最中である。トリオン体を失ったノマスの戦士は、バランスを崩して数十メートル下の地面へと叩きつけられた。

 

「「万鈞の糸(クロステール)」に狙われているぞ! 急所を護れ!」

 

 真上からの狙撃というあり得ぬ攻撃に、マラキアは即座に敵の正体を看破した。

 エクリシアが所有する(ブラック)トリガーの一つ「万鈞の糸(クロステール)」。

 ただ一つだけの射撃ビットを操り、任意の地点にレーザーを照射するという、一見すると極めて単純な機能しか持たないトリガーである。

 

 しかし、驚嘆すべきはその射程にある。

 ノマスの戦闘データによれば、「万鈞の糸(クロステール)」の射撃ビットの操縦可能距離は、最低でも二十キロメートルを上回ると予測されている。

 そして射撃ビットから放たれるレーザーは、その威力もさることながら、如何なる距離を隔てても殆ど減衰しない。

 

 加えて「万鈞の糸(クロステール)」の起動者は、目視に依らずともレーダーや観測映像を用いて間接射撃を行うことができる。

 つまり、詳細な位置情報さえ把握できれば、「万鈞の糸(クロステール)」の起動者は戦闘エリアの完全な外側から一方的に狙撃を行うことができるのだ。

 

「連射はできないはずだ。霧が晴れるまで持ちこたえよ」

 

 マラキアは天を見上げながら部下を激励する。

 おそらく「万鈞の糸(クロステール)」の射撃ビットか陣取っているのは、戦場全てを見渡せる高空だろう。そして目の役割を行っているのは、戦場に充満した「光彩の影(カタフニア)」の霧に他ならない。

 

 起動者の位置も分からない今、狙撃を止めるのは不可能だ。しかし、不幸中の幸いなことに「万鈞の糸(クロステール)」は一射ごとにリロードが必要であり、また貫通力は高いが攻撃範囲はそれほどでもない為、伝達脳や供給機関を破壊されなければ戦闘の継続は可能だ。

 

 ノマスの戦士たちは何時撃たれるか分からない恐怖に苛まれながら、それでも押し寄せるトリオン兵相手に奮闘を続ける。

 

「しかし、ここで拘泥するわけには……」

 

 マラキアの頬に冷や汗が伝う。

 指揮所との通信は未だ回復せず、エクリシアが如何なる手段で都市の外殻を破壊したかもわからない。

 しかも、被害を受けた都市はこの一つだけではないはずだ。同時に都市への襲撃が行われたとすれば、ノマスの防衛部隊の処理能力はとても追いつかない。

 この状況を打破するには、ともかくエクリシアの主力である騎士を排除する必要がある。

 マラキアは濃密な霧の彼方に怨敵の姿を探す。

 そして――

 

「さて、何処を援護するべきかな」

 

 霧に覆われた都市を見下ろすようにして、スラスターを噴かせた騎士が遥か上空に陣取っている。老人の横に浮かぶのは、特徴的な八面体の狙撃ビットだ。

 フィロドクス騎士団の長老、エクリシア遠征部隊の総指揮官クレヴォは、トリオン体のヘッドアップディスプレイに示された洪水の如き戦況報告を子細に眺めながらそう呟いた。

 

 現在の所、作戦は滞りなく進行している。久しぶりに手にした「万鈞の糸(クロステール)」も、勘所は直ぐ取り戻した。戦況は「光彩の影(カタフニア)」を有する息子のカスタノから逐一送られてくる。的に困ることはない。

 取りあえず敵の手を止める為にトリガー使いを片端から撃破しているのだが、ノマスの(ブラック)トリガーには相性上から狙撃が通りにくい。

 そういった事情から、クレヴォは一般のトリガー使いや、敵の主力トリオン兵クリズリを優先的に始末している。

 

「あの子なら、もっと上手くやるのだろうが……」

 

 老人の脳裏に、長らく「万鈞の糸(クロステール)」を預けていた娘の姿が思い浮かぶ。強化反響定位のサイドエフェクトを持ち、そして桁外れの空間認識力を持つ彼女は、まるで針の穴に糸を通すような精密さで長距離狙撃を成功させてきた。彼女であれば、(ブラック)トリガーの隙を突いて痛撃を与えることも可能だっただろう。

 

「――失礼します。フィロドクス閣下」

 

 戦場には相応しくない感傷を抱いていたクレヴォに、可憐な少女の声が語りかけてきた。

 

「騎士フィリア。どうしたね」

 

 眼下で激闘を繰り広げているであろう少女が通信を繋いできたのだ。何か不測の事態が起きたかと、老人は鎧の中で身構える。が、

 

「敵の新型トリオン兵を発見しました。サイズは人の頭部程。おそらく自律トリオン兵と目されます。一部惑乱から脱しているトリオン兵団が確認できますが、それはこの新型が指揮しているものと考えられます。畏れながら閣下には――」

「分かった。最優先で排除しよう」

「感謝いたします」

 

 と、少女はそう言って件の敵兵のデータを転送してきた。

 自身も敵兵と苛烈な戦闘を繰り広げているだろうに、全体の戦況にまで目が行き届いている。

 

「……やはり、優秀な子だ」

 

 僅か十二歳の子供とは思えない少女の才覚に、クレヴォは我知らず讃嘆の言葉を呟く。

 しかし、その声にはどこか苦渋と諦念を匂わせていた。

 

「ともあれ、まずは目先のことを片付けんとな」

 

 クレヴォがそう溢すや、遥か彼方の蒼空から一条の輝線が地面へと降り注ぐ。

万鈞の糸(クロステール)」から放たれたレーザーがまずは一体、ノマスの自律トリオン兵を葬り去った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 幻惑の霧が撒き散らされたその瞬間、カルクスは(ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」を翻らせ、機動都市の上部へと駆け上った。

 ミルクのように濃い霧の彼方を、炯々と輝く老雄の目が射抜く。

 

 戦場の騒音に紛れて聞こえてくるのは甲高い噴射音。騎士のスラスターの轟だ。

 百戦錬磨の老雄は突然の通信妨害に何ら怯むことなく、冷徹に敵の行動を読み切った。

 果たして、雲海の如き霧を潜り抜けて現れたのは、白亜の鎧を纏った騎士だ。

 

 飛翔する騎士は都市の近辺で旋回すると、滞空して腰だめに巨大な砲を構える。

 長らくエクリシアで諜報活動を行っていたカルクスでも目にしたことのないトリガーである。ただ、意匠から察するにはノーマルトリガーだろう。おそらくこの戦の為に開発された新型だ。

 カルクスは黒いマントを層状に折り重ね、高速移動の構えを取る。どちらにせよ騎士が行動を起こす前に始末する。

 

 しかし、マントを弾いて突進を行おうとした刹那、カルクスの鋭敏な五感が新たな敵影を感じ取った。

 

「っ――」

 

 霧を打ち破って迫る漆黒の巨腕。

 カルクスは即座に「凱歌の旗(インシグネ)」の形状を変化させ、突き出された巨拳を包み込むようにして受け止める。

 だが、打ち込まれた拳は正に桁外れの威力を有していた。カルクスは咄嗟に都市の外殻にマントの裾を突き立てるが、威力を減殺しきれず外殻を抉り取りながら数十メートルをも吹き飛ばされる。

 

 これほどの暴虐を成し得るのは、(ブラック)トリガーを置いて他にない。

 漆黒の双腕を携えた騎士、「金剛の槌(スフィリ)」の担い手ドクサ・ディミオスが、悠然とカルクスの前に現れた。

 

「老骨殿、またしても相見えましたな」

「……」

 

 総腕の騎士が弄うような口調で話しかける。ドクサとカルクスは、昨夜(マザー)トリガーを巡って激闘を繰り広げており、お互い技量の程は十分に把握している。

 

「ふん――」

 

 ノマスの最優先攻撃目標である(ブラック)トリガーが現れた。しかし、カルクスは都市の外殻を足場に高速移動を行うと、ドクサを躱して大砲を抱える騎士へと飛びかかった。

 

「流石に判断が正確だ。だが、やらせはせんぞ」

 

 そんなカルクスを阻むように、巨大な双腕が襲い掛かる。

 ただ巨大な腕を作り出すと言う単純な機能しか持たない「金剛の槌(スフィリ)」であるが、単純なだけにその威力は絶大だ。

 同じ(ブラック)トリガーとはいえ、対応力に強みを持つ万能型の「凱歌の旗(インシグネ)」では、パワー型の「金剛の槌(スフィリ)」の拳打を防ぎきることはできない。

 

「っ――」

 

 巨拳を浴びせかけられたカルクスが、急旋回して身を躱す。

 標的を見失って振り下ろされた拳が、都市外殻に巨大な陥没痕を穿つ。三百メートルの巨体を誇る機動都市が、大きく揺れるほどの凄まじい衝撃だ。

 だが、(ブラック)トリガーの一撃を受けても尚、都市の外殻は健在だ。陥没痕は痛々しく、いたる所に亀裂が走っているが、それでもまだ崩壊する様子はない。

 市民を護るために何度も改良を加えられた防壁である。流石に同じ箇所に何発も喰らえば持たないだろうが、そう易々と破られはしない。

 

「――」

 

 流石に無視できる相手ではないと悟り、カルクスが反撃に転じた。漆黒のマントが生き物のように蠢き、槍の如き形状となって鋭い突きを放つ。

 エクリシアの「誓願の鎧(パノプリア)」は非常に堅固な鎧だが、(ブラック)トリガーの出力を以てすれば貫くことは容易い。

 当然、ドクサは「金剛の槌(スフィリ)」でカルクスの攻撃を防ぐよりほかない。これで、ドクサの都市への攻撃は封じることができた、だがその隙を突いて、先ほど取り逃がしたエクリシアの騎士が、都市に向けて大砲を放った。

 

「――ぬかったか」

 

 如何なる時にも冷徹なカルクスが、驚愕の声を漏らす。

 騎士が放った大砲の威力は、老雄の想像を遥かに上回るものだった。先の「金剛の槌(スフィリ)」の一撃を上回る激震が機動都市を駆け抜け、堅牢無比な都市の外殻が、何とただの一撃で破られてしまったのだ。

 

 ノーマルトリガーと高を括ったのが裏目に出た。

 カルクスは知る由もないが、エクリシアが持ち込んだ砲撃トリガー「金の鯨(ケートス)」は、そもそもノマスの都市を擱座させるために開発されたトリガーだ。

 

 一撃の破壊力を極限まで追及して造られた「金の鯨(ケートス)」は、そもそも通常のトリガー使いが運用することを想定していない。

 砲撃に使用される膨大なトリオンは、エクリシアが誇るトリオンバッテリー「恩寵の油(バタリア)」によって賄われる。重厚な鎧を何時間も動かし続けるトリオンが、只の一射に凝縮されて放たれるのだ。 

 

 その威力は今見た通り。瞬間的には(ブラック)トリガーのフルパワーにも匹敵する。

 都市に風穴を空けた騎士は、腰部から新たな「恩寵の油(バタリア)」を取り出し「金の鯨(ケートス)」に装填すると、スラスターを噴かせて彼方へと飛び去ってしまう。

 

「悪いが、貴公とやりあうつもりはない」

 

 そして砲撃が成功するや否や、ドクサもカルクスとの戦闘を切り上げ、スラスターを噴かせて離脱する。もとより、彼らにはノマスの戦士と戦うつもりなどないのだ。

 如何なカルクスとはいえ、宙を飛ぶ騎士に追いすがることはできない。

 しかも地上では、防壁が破れたのを見計らったように現れたトリオン兵が、大挙して都市へと襲い掛かっている。

 

 遠く、近くから、先ほどと同じ砲撃音が聞こえる。

 エクリシアの騎士が幻惑の霧に乗じ、都市の外殻を破壊して回っているのだ。

 そして防備が綻んだところを、大量のトリオン兵が襲う。

 

 ノマスの戦士たちはどうしても対応に手を分散させざるを得ない。本部から指令が無ければ尚更目の前の敵に拘泥してしまうだろう。

 事前に市民の保護よりも敵主力を討つよう訓示されているが、同胞愛の強いノマスの兵が、それに従えるとは思えない。

 

 エクリシアの陽動策に、ノマスはまんまと引っ掛かってしまったのだ。

 そして陽動策を打つなら、その陰には本命の攻撃が有る筈だ。カルクスの峻厳な顔貌に、隠しきれない焦燥が浮かんだ。

 

 

 

 

 



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其の十三 総力戦 人と機械と

 混乱の度合いでは、前線を遥かに上回っていただろう。

 

光彩の影(カタフニア)」の一斉散布によって無線通信が全て途絶し、レーダー各種も用を成さなくなった現在、ノマスの首都都市「パトリア号」、そのブリッジ兼戦闘指揮所では、オペレーターや技術職員が必死の形相で情報をかき集めていた。

 

「とにかくエアブローを全開にするよう各都市に通達を出せ。霧を吹き飛ばすんだ」

 

 そうオペレーターに指示を出すのはユウェネスだ。何時も飄々とした態度を崩さない青年だが、流石に表情が強張っている。

 防衛部隊との通信は途絶えたが、「パトリア号」と各都市の間に張り巡らされた連絡通路と、それに併設された通信回線は生きている。

 戦闘指揮所は各都市に指令を出しながら、一刻も早い戦況把握に努めている。

 

「「セクリス号」「サリサ号」「ペルティカ号」の外殻が崩落! 敵トリオン兵が内部に侵入したとのことです!」

 

 とその時、オペレーターの一人が動揺も露わに通信を読み上げた。

 

「な――それは確かですかっ!」

 

 思わず声を荒らげたのは少年レグルスだ。

 ノマスは都市の防御力に絶対の自信を置いており、防衛策もそれに依拠して立てられている。(ブラック)トリガーの集中攻撃を受けでもすれば別だが、その場合でもここまで立て続けに防壁が破られる筈がない。

 

 レグルスが誤報を疑うのも無理からぬことだろう。

 しかし、戦闘指揮所には次々に都市の被害報告が飛び込んでくる。防壁を破られた都市は十を越え、さらに増え続けていく。小型の都市の殆どがトリオン兵の侵入を許してしまったことになる。

 

「そんなっ……バカな……」

 

 レグルスの顔から血の気が引く。

 エクリシアが都市外殻を打ち破る手段を持っているというなら、ノマスの防衛戦略は根底から覆される。只でさえ防衛部隊との連絡が途絶え、戦況すら判然としないのだ。少年は緊張の余り、数瞬の間我を忘れてしまう。が、

 

「都市は捨てても構わない。迎撃装置を起動して時間を稼ぐんだ。市民の避難を最優先させろ。受け入れ先は「グランディア号」「サギタリウス号」ら中規模都市だ。見たところ、敵は小都市にしか攻撃を仕掛けていない。中都市の外殻なら敵の攻撃を凌げる公算が高い」

 

 淀みなくオペレーターに指示を出すのはユウェネスだ。

 黒髪の青年は緊迫した面持ちで、絶望的な戦況を真正面から見詰め続けている。

 

「おいレグルス。これでいいな、発令すっぞ!」

「――は、はい」

「……親父さんや他の長老と連絡が付かねぇ以上、形だけでもお前が指揮を取らなきゃなんねえ。――キツイけど、気合入れろよ」

 

 我を失っていたレグルスに、ユウェネスが力強く語りかける。

 彼は少年の方に顔を向けると、殊更に茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。

 はとこの激励に、レグルスの萎えかけた気力が勃然と湧きおこる。

 

「わかりました。では、我が「パトリア号」の市民も中規模都市に避難させます。館内に放送を行ってください。また指揮所以外の職員も順次退避を。(マザー)トリガー封鎖計画を実行します」

「な、おいおい」

 

 昂然とそう言い放つレグルスに、ユウェネスが虚を突かれたように声を上げる。いくらなんでも、職員まで避難させるのは時期尚早だ。

 しかし少年は凛々しい面差しを従兄に向けると、

 

「盟主レクスの命令通りです。敵がどのような奥の手を隠しているかわかりません。最悪を見据えて手を打ちましょう。人命を最優先に行動します」

 

 断固たる口調でそう言い放ち、オペレーターに指示を出す。

 

「けどよ、(マザー)トリガーの封鎖までどう凌ぐんだ!? 図面は引いたが、調整やら何やらで時間が滅茶苦茶かかるぞ!」

 

 ユウェネスは尚も困惑した表情で問う。

 いくら国宝「万化の水(デュナミス)」を用いたとしても、「パトリア号」の解体と(マザー)トリガー封鎖にはかなりの時間がかかる。その間、エクリシアの猛攻を凌げなければ、首都陥落、延いては(マザー)トリガー制圧という、取り返しのつかない事態を招いてしまう。

 

「作業時間の短縮については、モナカさんに案があると伺いました」

 

 が、答えるレグルスは飽く迄も平静だ。絶体絶命の危機を前にして、この少年は腹を決めてしまったらしい。

 

「そういや、あいつ何処に行ったんだ? この忙しい時に……」

「研究室に戻ると仰っていましたよ」

 

 同じく指揮所に詰めていたモナカは、レクスの(マザー)トリガー封鎖命令を耳にするや、席を蹴立てるようにして退出してしまった。何でも封鎖を実行するに当たり、自身の研究室に必要な機材を取りに戻ったらしい。

 

「モナカさんを信じましょう。きっと封鎖は上手くいきます」

「いや、でも状況が不味いのに変わりはねえぞ。何とか敵を押し返さねえと、市民を避難させるのも難しい」

「「スタブルム号」を解体してカーラビーバを投入します」

 

 撤退行動に移るにしても、敵の勢力を削がねばそのまま押し潰されてしまう。ユウェネスの当然の疑念に対し、レグルスは淡々とそう答えた。

 

「な――おい、マジか……」

「どうせ他の小都市も放棄するんです。なら有効に活用すべきでしょう」

 

 ノマスが開発した超巨大トリオン兵カーラビーバ。卵から孵化させるだけで都市一つ分のトリオンを食いつぶすという、まさに規格外の兵器である。

 コストの悪さからとても侵略兵器としては使えず、防衛用の決戦兵器として死蔵されていたトリオン兵だが、その戦闘力は(ブラック)トリガーをも上回る。

 万が一の為に用意だけはしてあったそのトリオン兵を、レグルスは用いようと言うのだ。

 

「……分かった。まあ、後で何か言われたら一緒に頭下げてやるよ」

「ありがとうございます」

 

 他の都市にまで被害を与えかねないトリオン兵の投入は、本来ならば長老会の承認を得る必要がある。

 それを知りつつ断行しようとする弟分を、ユウェネスは呆れたような、感心したような面持ちで眺める。

 

「やっぱお前は親父さんの子だよ。いざとなるとおっかねえな」

「何ですかそれ。皮肉なら後にしてください。今大変なんですから」

 

 二人は軽口を交わしつつ、モニターへと向き直った。

 彼らはもう迷わない。如何なる手段を以てしても、国と民を護ると心に決めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 覚醒は何の前触れもなく訪れた。

 意識が回復したその瞬間、自動で躯体のシステムチェックが行われる。が、殆ど全ての項目でエラーが起き、満足に起動できたのは各種感覚器官と思考プログラムのみ。

 自身に施された各機関へのロックが未だ解除されていないことを平静に受け止めつつ、彼女――自律型多目的トリオン兵ヌースは全ての起動工程を終了した。

 

「起きたわね」

 

 周囲を確認する暇もなく、ヌースに硬い声が投げかけられる。彼女は声聞認識を行うと、

 

「シビッラ氏族のモナカ。今度は何用ですか」

 

 自らを拘禁し続けるノマスの技術者に問いかける。

 

「……貴方の取引に応じることにしたのよ」

 

 すると、モナカは神経質そうな顔立ちを殊更険しくし、絞り出したかのような声でそう言う。

 

「取引の前に状況の説明を願います。何か事情が変わったのでしょう。前提条件を伏せられたままでは応じられません」

 

 モナカの緊迫した面持ちを見て取ったヌースは、そう言って申し出を断る。

 彼女が機能を停止している間にどれ程の時間が経ったかも分からない。おまけに、制限された感覚器官でも微かに感じ取れるのは戦場の喧騒だ。

 戦闘の真っ最中に、顔色を失ったモナカが取引を持ちかけてきたのだ。並々ならぬ事情があるものと、即座にヌースは見抜いた。

 

「……いえ、そうね。どのみち隠す事ではないわ」

 

 ヌースの不遜な物言いに眉を顰めたモナカだが、苛立ち紛れに息を吐き捨てると、掻い摘んで状況の説明を始める。

 エクリシアとノマスの戦端が開かれてからこれまでの推移を手短に説明し、ヌースが納得したことを確認すると、モナカはいよいよ取引の内容を打ち明ける。

 

「我々はこの機動都市「パトリア号」を解体し、(マザー)トリガーを封鎖することを決定したわ。ただし、「万化の水(デュナミス)」だけで全ての作業を行うには時間が掛かりすぎる。……あなたには、その演算力で都市の解体を手伝ってほしいのよ」

 

 トリオンのリサイクルと修理の簡便化の為、ノマスの機動都市のほぼ全ての部品にはトリオンへの還元機構が備えられている。

 これは「万化の水(デュナミス)」の機能の一部を再現した機構で、箇所さえ指定すればボタン一つでトリオンを液体状態にすることができる。

 その機能を用いて「パトリア号」を溶かしてしまおうというのだ。

 

 しかし、全長一キロを超える超巨大都市となれば構造は複雑を極め、また力学上極めて緻密なバランスの上で成り立っている。

 考えなしに建材を溶かしてしまえば、都市そのものが即座に倒壊しかねない。

 そのため、トリオンへの還元は緻密な計算に基づいて慎重に行わなければならないのだが、それを行うには時間も人員もまるで足りない。

 

 このままでは封鎖計画が画餅に帰する。その時モナカが思いついたのが、自律トリオン兵ヌースの利用である。

 只でさえ規格外の処理能力を有するヌースは、さらにトリオンを消費することで無尽蔵に子機を造ることができる。彼女の協力を得られたならば、作業は飛躍的に進むだろう。

 

「……」

 

 要求を聞かされたヌースは、暫し黙考すると、

 

「この状況下で、私があなたに協力する理由が薄いことは、理解の上ですね」

 

 淡々とした声でモナカに問う。

 戦況はエクリシアが圧倒的優位に立ち、ノマスを屈服寸前にまで追い込んでいる。

 (マザー)トリガーを護るために首都都市を放棄せねばならないというのだから、エクリシアは乾坤一擲の大攻勢を仕掛けているのだろう。

 

 となれば、ここでヌースが敗色濃厚なノマスに手を貸す意義は殆ど無い。家族との再会を目的とするヌースにすれば、ここで救助を待ち続ければいいだけの話だからだ。

 モナカもヌースがそう判断するだろうことは予想している筈だ。その上で協力を要請してきたと言うなら――

 

「ええ。だからこれは取引ではなく脅迫よ。あなたが承諾しなくても、私たちは作業を進めるわ。……もっとも、その時は多忙の私に代わって、あなたに戦場に出てもらうことになるけれど」

 

 そう言って、モナカは手のひらに漆黒の杭を作り出す。

 ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」は、あらゆるトリオン製の器物を乗っ取り、支配下に置く能力を持つ。

 彼女はこのトリガーでヌースの自我を奪い、エクリシアの軍勢と戦わせようと言うのだ。

 当然ながら、傀儡になったヌースは本来の能力を発揮できない。勿論、都市解体を手伝わせることも不可能だ。ただの鉄砲玉として使い潰してやるという、明白な脅しである。

 

「そういう話なら、なおの事頷く訳にはいきません」

 

 だが、ヌースはモナカの要請を峻拒した。

 

「私が件の計画に協力したとして、その後の無事が保証されるとも限りません。……ならば、大人しく壊されたほうがはるかにいい」

 

 と、あくまで平静な、それでいて強い決意を込めて宣言する。

 

「な――馬鹿にしないで。取引を持ちかけたのは私よ。あなたが私たちに協力してくれるなら、もちろん身の安全は保障するわ。……いえ、それだけじゃない。この戦で私たちに敵対しないと約束できるなら、あなたを解放してもいい」

 

 するとモナカは柳眉を逆立て、ヌースに向かってそう告げる。

 

「私は、貴方を信じることができません」

 

 しかしトリオン兵は止めとばかりにそう言い放った。

 

「この危機を脱する為なら、貴方はどのような虚言でも弄するでしょう。協力はできません」

「…………」

 

 取りつく島も無い完全な拒絶に、モナカは言葉を失って顔を伏せる。

 対して、ヌースには毛ほどの動揺も無い。激怒したモナカに如何なる仕打ちを受けようとも、彼女は従容として受け入れるつもりだ。

 鉛のように重い沈黙が、狭苦しい部屋に立ち込める。すると、

 

「約定を果たせば必ずあなたを解放する。エクリシアに引き渡しても構わない。

 ……レギナに誓うわ」

 

 胸に手を当て、決然とモナカがそう告げる。

 

「どうすれば、あなたに信じてもらえるか分からない。だから、私は自分の一番大切な人に掛けて誓う。……あの子の友として、契約完了後の解放を約束します」

 

 雑然とした狭い研究室が、まるで清らかな聖堂に思えるほどに、誓いを立てるモナカの姿は廉潔にして荘厳であった。

 

「……もし件の計画が成功すれば、戦闘は終息に向かいますね」

 

 モナカの姿をじっと見つめていたヌースが、ぽつりとそう呟く。

 

「いいでしょう。取引をお受けします。作業データと都市へのアクセス権を頂けますか」

「――え、ええ、ありがとう」

 

 ヌースにさらりと承諾され、半ば諦めの境地にあったモナカは困惑した声を出す。

 彼女はモナカの赤心に触れ、約束を信じることにしたらしい。トリオン兵の理路整然とした思考回路からはあり得ない、明らかな情動の発露である。

 

 ヌースの規格外の性能には感服していたモナカだが、心のどこかでは、所詮プログラムによって動く人形兵器に過ぎないという侮りがあった。

 だが、目の前の彼女は――

 

「あなたは、本当にレギナによって命を与えられたのね……」

 

 感嘆の息が漏れる。

 技術者として己が未だ届かぬ領域に、十余年も前にたどり着いた親友への惜しみない称賛が、胸の内に沸き起こる。

 そして亡き友の姿を思い返せば、同時に彼女の心を責め苛む、もう一人の人物が脳裏に浮かぶ。

 

「どうしました。可能ならばすぐにでも作業に取り掛かりたいのですが」

 

 そんなモナカの胸中を、ヌースは知る由もない。

 

「そうね、急いで頂戴。間に合わずに都市が落とされれば、もちろん取引は不成立よ。私も不本意な手を取らざるを得なくなるわ」

 

 催促されたモナカは慌てて不機嫌そうな顔を取り作ると、ヌースの機能制限を解除し、諸々のデータと権限を貸与した。

 都市の解体作業は、内部ネットワークに繋がっていれば何処でも可能なので、態々場所を移動する必要はない。

 トリオンが供給されたヌースは即座に都市ネットワークに自らを接続すると、山積みのタスクを凄まじい勢いで片付けだした。

 

「そういえば……モナカ。レギナの友として、貴方には聞いてみたいことがありました」

 

 そうして作業に没頭しながらも、ヌースが小さな声で問いかけた。

 

「何かしら?」

 

 唐突な質問に、モナカの顔に警戒の色が浮かぶ。このトリオン兵は、この期に及んで何を問い質そうと言うのか。すると、

 

「いえ、そう大した話ではありません。……レギナはノマスにいた時から、()()()()だったのですか?」

 

 ヌースは相変わらず抑揚のない、それでいながらどこか茶目っ気を感じさせる声でそう尋ねた。

 思いもかけない質問に、モナカは虚を突かれたように口ごもる。そして、質問の意味を解した途端に思い出したのは、親友の型破りで奔放な行状の数々だ。

 

「――く、ふっ」

 

 知らずの内に、モナカの喉から妙な声が漏れ出た。

 眉間に刻まれた深い皺が消え、口辺が自然と緩む。

 

 この世の何者をも恐れないかのような、手の付けられない暴君。

 それでいて、生きとし生けるものに愛情を注いだ、優しき姫君。

 

 あの天真爛漫な少女に付き合い、いったいモナカは何度泣きを見たかことか。

 記録映像を全て見た訳ではないが、目の前のトリオン兵も、きっと自分と同じような目に遭ったのだろう。子供まで出来たのに、彼女のお転婆はとうとう治らなかったらしい。

 

「そうね。全然変わってないわ。ホントにあの子、昔っから()()()だったのよ」

 

 呆れたような、懐かしむかのような声でモナカが答える。

 彼女の顔貌に浮かぶのは、おそらくは十余年ぶりとなる笑顔。

 

「……ねえ、今更だけどあなたの声、レギナにそっくりね」

 

 どちらにせよ、ヌースが作業を終えるまで自室を離れることはできない。

 苛烈を極める戦闘のただ中で、モナカはほんの一時、過去の麗しい思い出に浸ることを己に許すことにした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 都市群の周縁部。両軍のトリオン兵が激闘を繰り広げている戦線の更に外側。戦塵も届かぬ草原に、捕獲用トリオン兵バムスターがぽつりと立ち尽くしている。

 バムスターは戦場の喧騒など己にはまるで関係ないかのように、鎌首をもたげて遠く霧にけぶる都市を眺めている。

 そしてその頭頂部には、白亜の鎧を纏った騎士の姿が。

 

 エクリシアはゼーン騎士団の総長、(ブラック)トリガー「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の担い手ニネミア・ゼーンは、吹き荒ぶ風に身を晒しながら、微動だにせず彼方の戦場を睨みつけていた。

 

「霧はかなり晴れてきたようね。……ノマスも流石に対策は施しているか」

 

 各戦線からリアルタイムで送られてくる戦況を子細に検分しながら、黒髪の麗人は兜の中で呟く。

 

「とはいえ、作戦は順調に推移している。……私の出番もそろそろね」

 

 幻惑の霧は消されつつあるが、その隙に味方は粗方の仕事を終えている。

 新型トリガー「金の鯨(ケートス)」を装備した騎士は、既に十を越える小都市の外殻破壊に成功している。そのほとんどに捕獲型トリオン兵ワムが取りついた。送り込まれた小型のトリオン兵が都市内部で暴れ回っている事だろう。

 

 ノマスの防衛部隊は目の前のトリオン兵に掛かりきりだ。たとえ通信が回復しても、陣形は散々に乱れている。もはや隊伍を組んで騎士に挑むことは不可能だ。

 そして騎士を単騎で相手取れる(ブラック)トリガーも、そもそも戦闘を避ければ何の問題も無い。

 難敵の位置は逐次「光彩の影(カタフニア)」で追跡している。仮に騎士が捕捉されたとしても、上空へ逃れれば簡単に振り切ることができる。

 

「全部、あの子の引いた絵図面通り。……絶対にしくじれないわね」

 

 敵の通信妨害から市街地への急襲、防衛部隊の誘引。鮮やかに決まった一連の作戦を――たとえ先達の助言を受けながらとはいえ――年端もいかぬ少女が立案したとは誰も信じないだろう。

 

 ニネミアは細く息を吐き、改めて気を引き締める。

 この作戦で彼女に割り振られたのは、首都都市を陥落させる破城槌の役割だ。

 作戦目標である「パトリア号」は、全長一キロを超す規格外の巨大都市だ。勿論、外殻の堅牢さも小規模都市の比ではない。

 

 いくら最新鋭のトリガー「金の鯨(ケートス)」とはいえ、あの巨大都市の防備を打ち破るには出力不足だ。エクリシアのトリガーでそれを可能とするのは、彼女の担う「劫火の鼓(ヴェンジニ)」を措いて他にない。

 故にニネミアは戦闘には参加せず、極力トリオンを温存する必要があった。作戦開始も、彼女のトリオンが完全回復する時刻で決められたほどだ。

 

 気位が高く、またそれ故に敢闘精神の強い彼女にとって、ただ手を束ねて戦況の推移を見守るだけというのは想像以上の忍耐を必要としたが、それでも彼女は任務を忠実に守り続けた。

 小さな友人が、砕け散った心を無理やり縫い止め、痩せ衰えた体に鞭を打って戦っているのだ。

 それもこれも、怨敵の喉笛を切り裂き、その血で同胞たちの痛みを贖わせる為。自らに課せられた責務を思えば、多少の我慢など如何ほどの事でもない。

 

「「劫火の鼓(ヴェンジニ)」」

 

 ニネミアがいよいよ射撃ビットを展開する。

 霧はかなり薄れてきているが、通信妨害はまだ効いている。敵の混乱は極みに達していることだろう。

 都市周縁で行われているトリオン兵同士の戦いも、エクリシア側が押し込み始めている。

 彼女の乗るバムスターが、ゆっくりと歩を進める。可能な限り、「パトリア号」まで距離を詰めておく必要がある。

 

 全トリオンをただ一射に注ぎ込み、最大威力の砲撃を叩き込む。

 チャンスは一度きり。最適なタイミングを計らねばならない。

 

「――っ!?」

 

 とその時、各種センサーに異常なトリオン反応が現れる。

 最初は都市の一つが移動を始めたように見えた。だがそれは突如として形態を変化させ、(ブラック)トリガーをも上回る出力で活動を始める。

 

「な――何よあれ!」

 

 異常はすぐさま現実の光景となって現れた。

 機動都市によって作られた、丘陵の如き防御陣地。

 薄霞のかかった都市群から、突如として長大な影が天へと伸びる。

 

 おかしいのは縮尺だ。その影は、巨大都市とさして変わらないスケールを有している。

誓願の鎧(パノプリア)」の兜に備わった解析装置が、即座にその物体の大きさを弾き出す。

 直径はおよそ三十メートル余り。長さに至っては、見えている部分だけで三百メートル以上。フォルムから推測すれば、さらに体躯は長大だろう。

 ニネミアをして絶句せしめたモノ。それは――

 

「あれが、トリオン兵だと言うの……」

 

 天を突く巨大な白亜の蛇。霧の中から悠然と現れたそれは、或いは玄界(ミデン)の文化を知る者なら「竜」とでも形容するかもしれない。

 

 ノマスが繰り出した決戦兵器。超巨大トリオン兵カーラビーバが、戦場に産声を上げたのだ。

 

 

 

 

 



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其の十四 総力戦 巨竜咆哮

 異変が起きたのは、防御陣地の外縁部に位置する都市「スタブルム号」だ。

 

 トリオン不足を解消する為、還元予定であった「スタブルム号」には、住民はおろか防衛隊員さえ搭乗していない。

 しかし、都市の砲台は正常に稼働し、「光彩の影(カタフニア)」の霧によってレーダーを封じられるまでは、的確な射撃で防衛部隊を援護していた。これは量産型自律トリオン兵デクーが、防衛部隊に代わって都市を運行していたからだ。

 

 そして現在、砲撃を止めた「スタブルム号」には、奇妙な変化が起きていた。

 都市を支える三対の巨大な脚部が、力なく頽れる。

 大地に腹を付けた巨大都市。堅牢無比な外殻が、ぐずぐずに溶けていく。

 

 突如機能停止した都市に、エクリシアのトリオン兵がえたりやおうと襲い掛かる。だが、都市に取りついたトリオン兵は、粘着質に変性した外殻に絡め取られ、身動きが取れなくなる。

 のみならず、それらのトリオン兵が次々に活動を停止する。

 外殻の編成に巻き込まれ、流体トリオンに還元されていくのだ。

 

 数多くのトリオン兵を取り込み、見る間に巨大都市が一塊のトリオン球となる。

 そして卵を思わせる巨大なトリオン球に、罅が入った。

 

 卵殻を突き破って現れたのは、楕円球の巨大な頭部。

 後頭部からは一対の角の如き感覚器官(センサー)が生え、亀裂のように巨大な口には単眼が収まっている。

 頭部に続いて現われたのは、純白の装甲に覆われた長大な蛇体だ。

 

 都市のトリオンを余すところなく吸収し、巨大な身体を構築しながら、ソレは天を目指して伸び続ける。

 そして「パトリア号」をも見下ろす高みに至ったトリオン兵カーラビーバが、鎌首を擡げて戦場を睥睨する。

 戦闘の騒音を圧して響くのは、奇怪な鳴き声にも聞こえるカーラビーバの駆動音だ。

 

 最強無敵のトリオン兵は無事に孵った。ノマス決死の反攻が始まる。

 

「何という大きさだ……ノマスはあんなものを開発していたというのか」

 

 超兵器の威容を目の当たりにして、そう呟いたのはアルモニアだ。

 イリニ騎士団の長たる彼は、敵の目を引き付ける為(ブラック)トリガー「懲罰の杖(ポルフィルン)」を振るってノマスのトリガー使いたちを次々に撃破していた。

 都市外殻の破壊、並びにトリオン兵の侵攻による敵防衛部隊の誘引はこの上なく順調に進んでいた。しかし作戦を後段階に進めようとした矢先に、防陣の外縁に位置する都市の一つから、規格外の巨大トリオン兵が現れたのだ。

 

「どちらにせよ、捨て置く訳にはいかんな」

 

 アルモニアはスラスターを噴かせて高空へと飛び上がる。

 カーラビーバまでの距離はさほど遠くはない。天を突くように聳え立つ様は、まるで巨大な塔のようだ。あれの戦闘力がサイズに見合ったモノならば、間違いなく今後の作戦の障害になる。

 巨大トリオン兵を排除するべく、アルモニアが移動を始める。とその時、

 

「――全隊、回避行動をとって下さいっ! 今すぐに!」

 

 通信機越しに、逼迫したフィリアの声が響く。 

 

「なに! フィリア、一体どうした!」

 

 と同時に、彼方に聳えるカーラビーバの背面が眩く発光する。

 長大な背中から放たれたのは、何百発ものトリオン弾だ。

 弾丸は輝線を引きながら天まで上昇すると、軌道を変えて放射状に散開する。

 転瞬、凄まじい速度のトリオン弾が、宙を飛ぶアルモニアへと襲い掛かる。

 

「――ッ!」

 

 アルモニアは即座に身体を翻転させると、手にした長剣形態の「懲罰の杖(ポルフィルン)」を振るい、直上から迫り来る弾丸を薙ぎ払った。

 あらゆるトリオンを吸収する「懲罰の杖(ポルフィルン)」が、カーラビーバの放った巨大なトリオン弾を一瞬で消し去る。

 死角から飛来する高速弾を切り払う一刀。まさに剣聖の名に恥じない絶技である。

 

「全隊、被害を報告せよ!」

 

 カーラビーバが放った弾丸は、おそらく都市に展開する全ての騎士を狙った攻撃だろう。あの不意打ちを、彼以外の騎士が凌げたかどうか。

 アルモニアの呼びかけに対し、即座に応答が帰ってくる。

 フィリアの注意喚起が功を奏したのか、ほぼすべての騎士が攻撃を回避乃至防御していた。ただ、教会所属の騎士の一人が弾丸を受け、「誓願の鎧(パノプリア)」を破損したとの報が入る。

 

「――そうか。付近の者は離脱を援護せよ。いや、戦闘の継続は認めない」

 

 騎士はトリオン体の無事を理由に戦場に残ると上申したが、アルモニアはそれを退けた。

 地上は敵味方のトリオン兵とノマスのトリガー使いが入り乱れ、地獄のような混戦模様となっている。

 飛行能力を失った徒の兵では、とてもではないが切り抜けられる状況ではない。仮にトリオン体まで破損してしまえば、回収は非常に困難になる。動けるうちに自分の脚で戦闘エリアから離脱してもらわねばならない。

 

 尚も渋る騎士には、フィロドクス騎士団のクレヴォが改めて撤退を命じた。遠征指揮官直々の命令には逆らえない。エクリシアは戦闘開始以来、初めて騎士を撤退させることとなった。

 

「第二射、来ますっ!」

 

 被害確認を終えた途端、またしてもフィリアが警告を発する。

 見れば、カーラビーバの背面が再び真白く発光している。

 次いで放たれるのは、先と同じ破壊の閃光だ。

 

「まだレーダーは回復していないはず。アレはどのように我々を捕捉しているんだ?」

 

 飛来する高速弾を苦も無く切り払いながら、アルモニアが訝しげに呟く。

 流石に手練れ揃いの騎士である。二射目となれば当然のように回避・防御し、手傷を負った者は誰もいない。

 

 けれども、カーラビーバの攻撃は騎士だけに向けられたわけではない。

 数百発ものトリオン弾は都市の隅々にまで降り注ぎ、的確にエクリシアのトリオン兵を射抜いていく。

 僅か二射で、都市に張り付いていたトリオン兵の多数が損壊してしまった。このままでは都市を攻撃し、ノマスの防衛部隊を誘引する策が水泡に帰してしまう。

 

「目視です。体表のあらゆる場所に視覚センサーが埋め込まれているものと思われます。レーダー阻害をものともしていません」

 

 アルモニアの呟きに応じるように、フィリアがそう通信を寄越してくる。

 又してもサイドエフェクトが報せたのだろう。つまり事実と考えていい。

 

「――っ、いけない!」

 

 その時、フィリアが小さく息を呑んだ。見れば、カーラビーバの頭部を巨大な火球が呑み込んでいる。(ブラック)トリガー「灼熱の華(ゼストス)」の砲撃が炸裂したのだ。

 

「私がアレを相手します。皆様は都市の攻略を進めてください」

 

 砲撃を行ったのはフィロドクス騎士団のエンバシアだ。最もカーラビーバに近い位置に居た彼は、この厄介極まるトリオン兵を早速排除に掛かった。だが――

 

「駄目っ、逃げてください!」

 

 フィリアが通信機越しに叫ぶ。

 果たして、火球が消え去った後には、カーラビーバの巨頭が変わりなく現れた。

 凄まじい熱波に曝され外殻はかなり焼け溶けているが、巨大トリオン兵は何の痛痒も感じなかったかのように、閉じていた口を開ける。

 空中で「灼熱の華(ゼストス)」を構えるエンバシアを、カーラビーバの巨大な単眼が凝然と睨みつけた。

 

「っ、何度でも撃ち込んでやる」

 

 怯むことなく砲撃を敢行しようとするエンバシア。しかし彼の追撃に先んじて、カーラビーバの口腔から光が迸った。

 

「な――」

 

 まるで霧吹きで水を撒くように、数百を数えるトリオンキューブが空間一帯に噴霧される。それらはエンバシアを完全に包み込み、寸毫の間をおいて一斉に爆発した。

 こちらを狙う弾丸ならば、まだ避けようもある。しかし空間一帯を焼き払う爆撃など、どう足掻いたところで躱しようがない。

 

「ぐっ……不覚を取りました」

 

 (ブラック)トリガーは桁外れの性能を有するが、防御機能を持たぬ物も多い。

灼熱の華(ゼストス)」も正にその一つであり、大爆発をまともに受けたエンバシアは、黒煙を突っ切りながら後方へと下がる。

 

「……損傷甚大。ですが、幸いにして飛行機能は無事です」

 

 カーラビーバの推測射程から逃れたエンバシアが、そう通信を送る。

 直撃は免れたため、彼の「誓願の鎧(パノプリア)」は機能停止せずに済んだらしい。しかし、鎧の防御力が著しく削がれたことには変わりない。

 

「エンバシア。下がって地上の敵を殲滅せよ。くれぐれもあのトリオン兵の攻撃には気をつけるように」

 

 そう指示するのは、直接の上司に当たるクレヴォだ。エンバシアは命令を従容と受け入れ、即座に後退を始める。

 砲撃型は致命傷を受けない限り戦闘に貢献できる。エクリシアとしては、まだ戦力を失ったわけではない。だが――

 

「さて、騎士フィリア。君の知恵を貸してもらいたい。アレを倒す方策はあるかね」

 

 と、深刻そうな声でクレヴォが問うてきた。

 カーラビーバを仕留め損ねた「灼熱の華(ゼストス)」だが、決してこのトリガーの火力が劣っていると言う訳ではない。

 広範囲への攻撃に特化しているため貫通力には欠けるが、本来「灼熱の華(ゼストス)」の砲撃は城壁さえ容易く融解させるほどの威力を持つ。

 それが通じなかったという事実が、この超巨大トリオン兵の度外れた頑強さを如実に物語っている。

 

 エクリシアの所持するトリガーの内、「灼熱の華(ゼストス)」を火力で上回るのは「劫火の鼓(ヴェンジニ)」だけだ。しかし、ニネミアは作戦の後段階に備え、トリオンを温存する必要がある。

 また、アルモニアの「懲罰の杖(ポルフィルン)」も吸収したトリオンを放出することで疑似的な砲撃を行うことができるのだが、それにはまだ吸収量が足りていない。

 

「……「潜伏の縄(ヘスペラー)」で供給機関を内部から破壊するのが最善かと。私と騎士アルモニアでジンゴ卿が取りつく隙を造ります。ノマスのトリガー使いは必ずやこの機に乗じて我々を狙うでしょう。皆様には援護をお願いします」

 

 フィリアはすぐさま明瞭な声でカーラビーバへの対処策を提示する。

 反論はない。誰が検討しても妥当な策戦と結論付けるだろう。

 

「採用する。ではすぐさまかかろうぞ。あまりゼーン閣下を待たせても悪いのでな」

 

 クレヴォが裁可するや、都市の各方面に散った騎士たちが一斉に大蛇へと向かう。

 そしてノマスの戦士の中でも機を見るに敏な者たちは、騎士を落とす絶好の機会とばかりにカーラビーバを目指す。

 

 混沌渦巻く戦場に、一つの明確な流れができた。

 誰もかれもが、未来を変えようと必死に足掻く。

 しかし、戦闘の終結はまだ遠い。戦場はさらに多くの血を求めている。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 エンバシアの次にカーラビーバの下にたどり着いたのは、イリニ騎士団のアルモニアであった。

 カーラビーバの巨体は機動都市の合間を縫うように伸びており、全長は数キロメートルにも達するだろう。長大な背面からは絶え間なくレーザーが放たれ、エクリシアの将兵を狙い撃ちにしている。

 

 アルモニアは四方八方から襲い来る弾丸を苦も無く躱し、また切り払いながら一陣の風となって戦場を飛び進む。

 迷路のようなノマスの防御陣地を凄まじい機動で潜り抜けたアルモニアは、一転してスラスターを猛然と吹かして急上昇を始める。カーラビーバを一撃で無力化する為、コアの収まる頭部を叩く腹積もりだ。

 

 あくまで本命はジンゴの「潜伏の縄(ヘスペラー)」による攻撃だが、どちらにせよカーラビーバの注意は引きつけておかねばならない。急所を攻めるのはそのためだ。

 切り立った崖のようなカーラビーバの巨体を横目に、アルモニアは放たれた矢のように突き進む。

 流星雨のように降り注ぐトリオン弾も、剣聖の突撃を防ぐ事はできない。

 

 急接近する敵影に危機感を覚えたのか、カーラビーバは頭部を動かしてアルモニアの存在を直接確認しようとする。

 そして迫り来る騎士を確実に爆殺すべく、トリオン弾を噴霧しようと口を大きく開くが――アルモニアの速さには敵わない。

 

 長剣形態の「懲罰の杖(ポルフィルン)」を構え、騎士が吶喊する。

 迎撃が間に合わないと悟ったカーラビーバは、急ぎコアを護ろうと口を閉じるが、光り輝く長剣には如何なる防御も通用しない。

 

「――っ!」

 

 鋭い呼気と共に放たれた神速の斬撃が、カーラビーバの頭部を唐竹割りに断ち切った。

 如何に強力なトリオン兵といえど、駆動系を統括するコアを破壊されては一溜まりも無い。ノマスが繰り出した切り札は確かに強力だったが、戦局を覆される前に処理できたことは幸いだった。と、その時、

 

「即応してください伯父様、それはまだ生きていますっ!」

 

 少女の叫びが兜に響く。

 見れば、顔を半分に割られたカーラビーバが再び口を開いている。そして放たれるのは、(ブラック)トリガーのフルパワーにも匹敵するレーザーだ。

 

「――」

 

 極光が、ノマスの蒼天を真一文字に切り裂く。

 破滅の光線の破壊力は「誓願の鎧(パノプリア)」の防御力を以てしても耐えることなど不可能だ。鎧は消し飛び、内部のトリオン体も一瞬で破壊されるだろう。

 そして高度数百メートルから生身で投げ出されれば、待ち受けているのは確実な死だ。

 衝撃の光景を目の当たりにした騎士たちが、揃って息を呑む。

 ――しかし次の瞬間、数条の輝線が空間を断ち割ってカーラビーバへと奔った。

 

「――伯父様!」

「私は大丈夫だ。フィリア」

 

 安堵に染まる少女の声を耳にしながら、アルモニアは油断なく巨大トリオン兵を見遣る。

 歴戦の騎士は少女の警告を受けるまでも無くカーラビーバの特異さを感じ取っていた。「懲罰の杖(ポルフィルン)」を薄膜状に形態変化させることで反撃の砲撃を凌いでいたのだ。

 

「――諸君。新型は再生機能を有している。コアへの攻撃は効果が薄い。トリオンの供給元か供給機関の破壊を願いたい。私はここで新型の攻撃を引き付ける」

 

 果物のように切り裂かれたカーラビーバの頭部が、燐光を発しながら見る間に癒着していく。見れば、「灼熱の華(ゼストス)」によって焼け溶けた外殻も、いつの間にか元通りになっている。

 

「新型に拘泥することはできない。諸君らが頼みだ」

 

 カーラビーバがトリオン弾を噴霧し、凄まじい爆発を引き起こす。

 しかしアルモニアは「懲罰の杖(ポルフィルン)」の防御膜で全身を包み込んでこれを防ぐ。

 巨大トリオン兵の熾烈な攻撃は止まることを知らない。

 

 いくら再生能力を持つとはいえ、供給されるトリオンは無尽蔵ではないはずだ。防御を無効化する「懲罰の杖(ポルフィルン)」を難敵と認め、アルモニアを優先排除目標に定めたのだろう。

 そして、目の前の騎士に攻撃を集中させているためか、カーラビーバの背中から放たれる広域誘導弾の頻度が明らかに低くなっている。

 この機を逃さず、敵の急所を探し出さねばならない。カーラビーバの下へと集結しつつあった騎士たちが一斉に散開する。だが、

 

「っ――」

 

 突如として、戦闘エリアのいたる所に翠緑のドームが現れる。ノマスの結界トリガー「牧柵(サエペス)」だ。

 

「追いつかれたか……」

 

 兜の中で、アルモニアが苦々しく呟く。

 次いで通信機から流れてくるのは、切迫した騎士たちの報告だ。

 カーラビーバを仕留めるべく散った騎士たちが、ノマスのトリガー使いたちに捕捉されたのだ。

 

 そして焦燥の念を抱く間もなく、狂猛な殺意が襲い来る。

 カーラビーバは首を後方へ反らすと、巨大な頭部を横薙ぎに振り抜いた。

 無論、狙いは宙を舞うアルモニアだ。

 

「く……」

 

 再三にわたる射撃が通じなかったことから、カーラビーバは物理的な攻撃手段に訴えることにしたらしい。

 膨大な質量を有する頭部が、信じがたいほどの速度と正確さでアルモニアを襲う。トリオン兵の巨大さも相まって、鎧の機動力を以てしても避けきれない一撃だ。

 

 しかし、超絶の性能を有する「懲罰の杖(ポルフィルン)」にとっては、怯むほどの攻撃ではない。

 カーラビーバの頭部がぶち当たる直前、アルモニアは長剣を再び薄膜状に変形させた。

 するとまるで熱湯を注がれた雪像のように、通過したトリオン兵の頭部がごっそりと削り取られる。

 

 接触さえすれば、「懲罰の杖(ポルフィルン)」はどれ程のトリオンだろうと一瞬で吸収することができる。体当たりは自殺行為に他ならない。

 しかし、カーラビーバの抉り取られた頭部は、すぐさま燐光を放つトリオンによって修復されていく。

 

 やはり、再生機能は頭部のコアを破壊しても止まらない。供給元を絶つか、全身にトリオンを送り込む供給機関を破壊するしかないだろう。だが――

 

「こちらジンゴ・フィロドクス。ノマスの戦士と交戦中! 「牧柵(サエペス)」を張られた!」

 

 おそらくカーラビーバにとって天敵となるだろう「潜伏の縄(ヘスペラー)」が足止めを喰らっている。

 しかもノマスに捕らえられたのは彼だけではない。イリニ騎士団のドクサは「巨人の腱(メギストス)」のレクスに、フィリアは「凱歌の旗(インシグネ)」のカルクスと共に「牧柵(サエペス)」に閉じ込められている。

 およそ戦闘向きの(ブラック)トリガーが全て封じ込められてしまったのだ。そして、

 

「新型は陣地中に供給索を張り巡らせ、都市からトリオン補給を受けている模様! ――くそ、供給索そのものも新たに作ってやがる。切断が追い付かないぞ!」

 

 と、「光彩の影(カタフニア)」で戦況をモニターしているカスタノから通信が入る。

 カーラビーバはその長大な腹部から供給索を何百本と伸ばし、都市からトリオンを吸い上げているというのだ。

 

 トリオン兵やフリーの騎士たちが躍起になって攻撃を仕掛けているが、供給索は蜘蛛の巣状に分岐しており、切断は困難を極める。また破壊されても直ぐに新たな供給索が都市に向けて伸ばされるため、一向に数が減らない。

 

「なんという馬鹿げた兵器だ……」

 

 幾度目とも分からぬ砲撃を切り払い、返す刀で敵の頭部を寸断しながら、アルモニアがそう呟く。

 確かにカーラビーバの戦力は凄まじく、(ブラック)トリガーをも上回るだろう。だが、貴重な資源であるトリオンを無尽蔵に吸い上げ、浪費にも近い形でばら撒き続けるその姿は、明らかに尋常の兵器ではない。

 我が身を裂いてでも怨敵を葬らんという、ノマスの怨念が形となったかのような巨獣を前にして、然しものアルモニアにも戦慄が走る。とその時、

 

「私が新型の供給機関を破壊します。総長閣下は止めをお願いします」

 

 凛呼とした少女の声が、耳朶を打つ。

 

「な――フィリア。君は……」

 

 言いさしたところで、アルモニアはレーダーの変化に気付いた。

 ノマスの「牧柵(サエペス)」を表す光円の一つが、忽然と消え失せている。少女はどのような手を使ったのか、敵の足止めを早々に破ったらしい。

 

「分かった。頼むぞ」

 

 死中に活を見出したアルモニアは、光の剣を振りかざして巨竜へと挑みかかった。

 

 

 

 

 

 



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其の十五 総力戦 死地へ赴く

誤字報告ありがとうございました。


 カーラビーバの出現時、フィリアは正反対の位置で敵の誘因を行っていた。

 彼女は新型の脅威を即座に見抜くと、クレヴォの指示に先んじて移動を始める。

 ノマスの防御陣地は差し渡し数キロメートルにもなるが、「誓願の鎧(パノプリア)」の機動力なら数分とかからずに到着できるだろう。

 

 戦闘エリア一帯に断続的に降り注ぐ、雨のような砲撃。

 少女は驟雨の如きトリオン弾を反射盾の(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」で防ぎながら、アルモニアに助勢すべく空を駆ける。

 

 その途上、フィリアは標的となるカーラビーバを子細に観察する。

 新型トリオン兵が八方に伸ばした供給索が、まだ市民が残っているであろう都市や、朽ち果てたトリオン兵の残骸などに張り付き、拍動と共にトリオンを吸い取っている。

 あらゆる器物からトリオンを奪い、攻撃どころか自己修復まで行うカーラビーバは、まさしく無敵の怪物だ。

 

 エクリシアのトリオン兵や騎士が供給索を断ち切ろうとしているが、カーラビーバは次から次へと新たな索を伸ばしている。泥沼に穴を穿つようなもので、まったく切断が追い付いていない。

 しかし、フィリアはそんな絶望的な光景を目の当たりにしても、少しも冷静さを失わなかった。寧ろ、少女はさらに戦意を滾らせ、長大なトリオン兵の体躯をくまなく探る。

 

(――見つけた)

 

 そして、少女の「直観智」はカーラビーバの急所となるトリオン供給機関の位置を探り当てた。それは蛇体の中央、最も装甲の厚い位置にある。

 供給機関さえ破壊すれば、どれ程非常識な兵器であろうと沈黙せざるを得ない。ただ、「灼熱の華(ゼストス)」でさえ貫けなかった装甲だ。正攻法で破壊するのはまず無理だろう。

 

 エクリシアのトリガーでそれが可能なのは、火力と貫通力に特化した、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」あらゆるトリオンを吸収する「懲罰の杖(ポルフィルン)」、トリオンに潜行し内部から破壊できる「潜伏の縄(ヘスペラー)」、そして、フィリアの「救済の筺(コーニア)」ぐらいのものだろう。

 

 少女は意を決すると、進路を変更し、弾幕を撒き散らすカーラビーバへと接近する。

 供給機関に最も近い位置にいるのは彼女だ。一分一秒でも時間が惜しい今、逡巡することはできない。

 だが、少女が標的の目前にまで迫った時、突如として行く手を遮るかのように、翠緑のドームが現れた。

 

「――っ」

 

牧柵(サエペス)」に捕らえられたことを悟ったフィリアは、即座に「救済の筺(コーニア)」を半球状に展開し、自身の下方を護る。

 と同時に、眼下から襲い来る銃弾の嵐。

 カーラビーバの攻略法を探るのに気が逸ったか、ノマスのトリガー使いに包囲を許してしまったのだ。しかし、

 

「――う、ぐあっ!」

 

 悲鳴を上げたのは、彼らの方だ。

救済の筺(コーニア)」の煌めく障壁によって軌道を反転させられた弾丸が、トリガー使い、トリオン兵に浴びせかけられる。撃ちだされた弾が一切の遅延なく発砲者へと帰ってくるのだ。とても防御が間に合うものではない。

 雨のような弾丸に曝され、地上に潜んでいた敵勢が次々に行動不能になる。

 だが、「牧柵(サエペス)」は一向に解ける様子が無い。起動者はどこかに隠れているらしい。

 

「…………」

 

 フィリアは冷徹な眼差しで敵の姿を探す。

 こうして足止めを受けている間にも、カーラビーバの砲撃によって味方が削られている。早急に「牧柵(サエペス)」の起動者を排除せねばならない。

 フィリアが意識を地上の敵兵に向ける。とその時、視界の端に、黒い影が舞った。

 

「――っ!」

 

 少女は己の直観に従い、障壁を左方へと展開する。

 と同時に、甲高い破砕音が響く。

 

「やはり……新手の(ブラック)トリガーか」

 

 低く嗄れた声が、少女の耳を打つ。

 今しがたフィリアに奇襲を仕掛け、そして地上へと落下していくのは、漆黒のマントを纏った老人。(ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」の担い手カルクスだ。

 

 先の地上からの一斉射撃は、目晦ましの手であったらしい。

 ノマスの老雄は「牧柵(サエペス)」の内側に位置する都市外殻を駆け登ると、マントを用いて大跳躍し、フィリアへと襲い掛かったのだ。

 

 しかし、少女は天才的な反応速度で奇襲を防いだ。硬質化したマントは反射壁に触れるや、突きかかった力と同等のエネルギーを受けて粉々に砕け散る。

 カルクスは破損したマントを器用に操り、グライダーのように滑空して草原へと降り立つ。

 そして空中に浮かぶフィリアを油断なく睨みつけながら、秘匿通信で何やら部下へと指示を出し始めた。

 

 只でさえ時間が惜しいと言うのに、敵の(ブラック)トリガーにまで捕捉されてしまった。

 しかも、この老人はノマスでも有数の手練れだ。ニネミアやドクサが散々に苦戦させられたのは記憶に新しい。

 

「「凱歌の旗(インシグネ)」と会敵。戦闘に移ります」

 

 しかし、フィリアは平静な声で通信を済ませるや、強敵に臆することなく昂然と攻めかかった。

 得物に飛びかかる鷹のように、騎士がスラスターを噴かして地上へと急降下する。

 

 これに驚いたのがカルクスだ。昨夜のニネミアの救出時、そして先ほどまでの戦いから、フィリアの持つ(ブラック)トリガーが防御性能に特化していることまでは把握していた。

 だからこそ、「牧柵(サエペス)」で孤立させたことに意義がある。防御・援護型トリガーは厄介窮まりないが、それも攻撃役と連携しての話である。

 上手く孤立させれば、仕留めるのは容易い。

 にも関わらず、騎士は放たれた矢のようにカルクスへと迫り来る。

 

 何か攻撃手段があるのか、それともそう見せかけるためのブラフか。

 迎撃するか、一旦距離をとるか。しかし、百戦錬磨のカルクスは迷わなかった。

 

「ここで仕留める。援護せよっ!」

 

 決然と言い捨てるや、漆黒のマントをはためかせて真正面から騎士へとぶち当たる。

 都市の自爆を受けても傷一つ付かない反射壁。たとえ攻撃手段があったとしても、然程のものではないはず。

 加えて敵のトリガーの秘密を暴くには、結局は誰かが交戦せねばならない。

 数十年にも及ぶ戦闘経験と、それに裏打ちされた超絶の武芸。

 カルクスは焦ることなく、昂ぶることもなく、達人に相応しい明澄な精神で騎士と対峙する。だが――

 

「な――」

 

 突如として体内に感じた違和。

 それがトリオン体の異常を知らせる痛みだと気付くには、カルクスほどの手練れを以てしても一瞬の間を要した。

 

「馬鹿な……」

 

 呟きと共に、カルクスのトリオン体が黒煙を上げて破裂する。

 トリオン供給機関への致命的な一撃。

 しかし、騎士はただ愚直にこちらに向かってきただけで、攻撃体勢に移った様子は見られなかった。

 

「――全隊散開せよっ! 距離を取れ!」

 

 騎士はカルクスを撃破するや、スラスターを噴かせて力任せに進路を捻じ曲げると、他のトリガー使いたちへと襲い掛かる。

 地上五メートルの位置でトリオン体を失ったカルクスは、強かに地面に打ち付けられながらも嗄れ声で警告を叫ぶ。

 騎士は悪魔の如き軌道でノマスの戦士たちに追いすがると、正体不明の攻撃で次々に彼らを撃破していく。

 

 その有様は、まさに奇怪の一言に尽きる。

 騎士は決してノマスの戦士たちに触れてはいない。ただ高速で空を飛びながら傍らを通り過ぎるのみ。しかし、次の瞬間には戦士のトリオン体は致命傷を受けているのだ。

 

「っ、抜かれたか……」

 

 そして、騎士はとうとう「牧柵(サエペス)」の起動者をその手に掛けた。

 天地を覆っていた翠緑のドームが、陽光を浴びた淡雪のように消え失せる。

 すると、白亜の人影は流星のような速度で光の檻から飛び去る。

 

(要らぬ時間を取られた……けど、敵の(ブラック)トリガーを落とせたのは大きい)

 

 高速で流れる景色を見ながら、フィリアはカーラビーバの供給機関へと急行する。

 一秒を争う状況で「牧柵(サエペス)」に掴まったのは痛恨の極みだが、僥倖にもノマスの最大戦力の一人、「凱歌の旗(インシグネ)」の使い手を撃破することができた。

 まともに遣り合えば苦戦は免れないであろう達人だったが、こちらの手札を把握していなかったのが運の尽きだ。

 

 母パイデイアが残した(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」は、何物にも打ち破れない無敵の反射盾を形成する機能を持つ。

 シールド前面の空間を歪曲させることで、物質・トリオンを問わず、起動者が指定すれば光や音まで遮断することができる。原理上、「懲罰の杖(ポルフィルン)」などのトリオン無効化や、シールドを透過する攻撃さえ完全に防ぐという、正に鉄壁のトリガーである。

 

 展開可能距離こそ十メートル足らずだが、展開速度はコンマ零秒以下、それもサイズや形状は自由自在に変化させることができる。

 しかし超絶の防御力を有する「救済の筺(コーニア)」は、その高性能の代償ゆえか、本来は一切の攻撃能力を持たない。

 ただ無敵の盾を張るだけのトリガーで、如何にしてフィリアはカルクスを退けたのか。

 

 それは「救済の筺(コーニア)」に隠されたもう一つの特性に起因する。このトリガーは、反射盾を如何なる場所にでも創出することができるのだ。

 

 通常のシールドトリガーは空気中や水中など、障害物のない空間にしか展開できないが、「救済の筺(コーニア)」は展開座標に如何なる物体があろうとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ――勿論シールドが現れれば、その座標にあった物体は綺麗に二分されることになる。

 

 万難を排してでも我が子を護ろうという、母の愛が形となったかのような特性。フィリアはそれを攻撃に転用したのである。

 いくら頑強であろうと、いくら稠密であろうと、空間を押しのけて現れるシールドには関係ない。そして刹那の瞬間に現れる以上、逃れることもできない。

 射程に入った万物を即座に両断する、防御も回避も不可能な斬撃。

 

 フィリアの天才は、母の愛情を殺戮の刃へと変える術を見出したのだ。

 無敵の盾と最強の剣を備えた少女を、誰も止めることはできない。そして「救済の筺(コーニア)」の能力を以てすれば、規格外の超巨大トリオン兵カーラビーバとて恐れるに足りない。

 

「私が新型の供給機関を破壊します。総長閣下は止めをお願いします」

 

 少女はアルモニアへ通信を繋ぐと、弾雨を掻い潜りながら巨大な蛇体へと急行する。

 カーラビーバの背面から放たれた弾丸が、反射盾によって跳ねかえされる。弾雨を浴びせられた蛇体が白煙を上げて砕け散った。

 そして攻撃が止まった寸毫の間に、フィリアは巨大な蛇体へと取りついていた。

 

「此処までです」

 

 カーラビーバの外殻に手を触れ、少女が冷厳に呟く。

 転瞬、分厚い装甲の奥深くに位置するトリオン供給機関に、薄板状の異物が発生。巨大兵器の心臓部を果実のように断ち割った。

 

 戦場の喧騒を圧して響く轟音。突如として急所を両断されたカーラビーバが、長大な体躯をのた打ち回らせ始めたのだ。

 ただの生き物なら、死に瀕した際の反射運動と捉えることもできるだろう。しかし、カーラビーバは冷酷無情の殺人兵器トリオン兵だ。機能停止を目前にしても、その行動には明確な目的がある。

 

 カーラビーバの背面に黒い柱列が現れた。不気味な光と共に拍動する柱には、桁違いの密度のトリオンが集められる。

 再生機能を破壊され、継戦が不可能となったカーラビーバは、内蔵トリオンを全て用いて自爆するつもりなのだ。

 

 只でさえ都市一つ分のトリオンを食いつぶして生まれたカーラビーバである。加えて戦場に転がる残骸や、放棄された都市からもトリオンを吸い上げつづけていたのだから、蓄えられたトリオン量はどれ程になるか想像もつかない。

 それら全てを燃料にすれば、戦場をまるごと吹き飛ばすほどの大爆発が起きるだろう。

 まったくもって正気の沙汰ではないが、それでもエクリシアの軍勢に爆発を凌ぐ手立てはない。

 

「――総長閣下」

 

 しかし、空中を遊弋するフィリアは毛ほどの動揺も見せずに通信を繋ぐ。彼女にとって、カーラビーバが自爆を企てる事は既定の事実であったからだ。

 

「ああ、後は任せなさい」

 

 そんな少女に力強く語りかけるのは、高空でカーラビーバの攻撃を一手に引き受けていたアルモニアだ。

 厄介な再生能力さえ封じられれば、如何な超巨大トリオン兵といえども彼の敵ではない。

 また、カーラビーバは未だに頭部を天高く擡げている。御誂え向きのシチュエーションだ。アルモニアが少々派手に力を振るったとしても、味方を巻きこまずに済む。

 

「「懲罰の杖(ポルフィルン)」」

 

 厳かな声でそう呟くと、アルモニアが手にした武器が淡い燐光を発しながら形状を変える。細長い軟鞭を構成する極小のトリオンキューブが解れ、再び結集すると、彼の手には皓々と輝く大剣が握られていた。

 先のカーラビーバとの攻防で、「懲罰の杖(ポルフィルン)」には膨大な量のトリオンが蓄えられている。

 

 今こそ、難敵を葬り去る好機。アルモニアは光輝く大剣を高々と掲げる。

 輝く大剣に脅威を感じたのか、それとも自爆前の規定プロセスをこなすためか、大蛇は即座に口腔を閉じ、弱点のコアを格納する。

 自爆形態に移行したことで、カーラビーバの外殻はまさに空前絶後の強度となる。だが、剣聖が振るう至高の一撃には及ばない。

 

「――」

 

 鋭い呼気と共に振り抜かれる光の剣。

 そこから放たれたのは、太陽をも欺く極光だ。

 アルモニアが用いたのは「懲罰の杖(ポルフィルン)」が有する機能の一つ、蓄積されたトリオン全てを攻撃に転換する技である。

 

 カーラビーバの苛烈極まる攻撃によって得られたトリオンが、今まさに彼の敵を討つ。

 空を切り裂く光の奔流は、鎌首を擡げる大蛇の頭部を一瞬で呑み込んだ。

 

 そして一瞬の後に光が消え去ると、後には頭部を失った大蛇の残骸が残される。

 コアを消し飛ばされたカーラビーバは自爆することもできず、完全に機能を停止した。

 そして残された巨体がゆっくりと傾ぎ、地響きを立てながら戦場へと崩れ伏す。

 

 ノマスが起死回生を目論んで投入した超兵器カーラビーバは、ここに命脈を絶たれた。

 エクリシアの騎士を足止めしていたノマスの兵は、切り札の敗北に周章狼狽する。未だ本部との通信が途絶えている以上、次の手など打ちようもない。

 一旦はノマス優位にまで傾いた天秤が、再び水平へと戻される。エクリシアはこの機を逃さず、追撃を行う。

 

「ゼーン閣下。敵は壊乱状態にあります。今こそ砲撃を」

 

 難敵を葬り去ったアルモニアが通信機に向けて語りかける。

 彼方から戦況を窺い続けていたニネミアに、出番が訪れたことを伝えたのだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 都市群から遠く離れた草原でも、大蛇が地に伏す姿ははっきりと見えた。

 草原に立っていたニネミアは軽やかに跳躍すると、転がっていたバムスターの残骸へと駆け上る。

 カーラビーバの長距離砲撃は都市周縁までをも射程に収めており、彼女は先ほどまで降り注ぐ弾雨から身を躱し続けていたのだ。

 

「これで、ようやく……」

 

 ニネミアの周囲に浮かんでいるのは、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の射撃ビットだ。

 ヘッドアップディスプレイに上げられた情報を見るに、イリニ騎士団のフィリアとアルモニアが共同で敵の新型トリオン兵を撃破したらしい。

 加えて、ノマスの防衛部隊も未だ陣を立て直せておらず、騎士たちに翻弄されている。

 

 待ち望んでいた砲撃のチャンスだ。

 ニネミアは機能停止したバムスターの頭部に着地すると、前方に射撃ビットを呼び寄せ、円状に配置する。

 狙いは彼方に聳える白亜の巨城、ノマスの首都都市「パトリア号」だ。

 周囲に配置された中小都市に射線が被らぬよう位置取りを心がける。距離はかなりあるが、最大出力の「劫火の鼓(ヴェンジニ)」なら減衰分を考慮しても十分都市の外殻を貫くことができるだろう。

 

「こちらゼーン騎士団ニネミア。これより砲撃を行う」

 

 他の騎士たちに通信を入れると、ニネミアは足元のバムスターの残骸をしっかりと踏みしめ、砲撃のシークエンスを開始する。

 六角型の射撃ビットが回転を始め、虚空に光の輪ができる。

 そして光輪の中央には目も眩まんばかりの光球が現れた。ニネミアは温存し続けたトリオンを、ただ一射の為だけに注ぎ込む。

 

 十秒余りが経過する。砲撃はまだ行われない。

 射撃ビットの回転数はいや増し、光球は危険なばかりに輝きを強める。エクリシアでも屈指の出力を誇るニネミアのトリオン機関から、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」はトリオンを極限まで吸い上げ、限界まで圧搾していく。

 

 さらに数十秒の時が流れた。

 大気が震え、草原が揺れる。

劫火の鼓(ヴェンジニ)」は限界を知らぬかのようにトリオンを凝縮し続け、まるで地上にもう一つの太陽が現れたかのように燦然と輝く。

 ニネミアの全身全霊を込めた究極の一射。近界(ネイバーフッド)広しといえども、威力に於いてこれを上回るものはそう幾つもないだろう。

 

 時は満ちた。今こそ勝負の時。

 ニネミアは「誓願の鎧(パノプリア)」の機能を十全に生かして、緻密な弾道計算を行う。

 トリオンによる射撃は実弾と違い気流の影響を受けないが、如何せん目標まで距離がある。少しの誤差が致命的な過ちを招きかねない。

 

「「劫火の鼓(ヴェンジニ)」――発射」

 

 彼方に聳える「パトリア号」を見据え、ニネミアが言葉を紡ぐ。

 ――その瞬間、彼女の身体を衝撃が襲った。

 

「な――」

 

 突如として、ニネミアの視界が暗黒に染まる。

 彼女は咄嗟に砲撃を中止した。衝撃で体制が崩れ、射撃体勢のビットが有らぬ方向を向いてしまった。

 

「――伏兵!」

 

 彼女は即座に不測の出来事の正体を悟った。砲撃の瞬間を狙って、ノマスの兵が彼女に襲い掛かったのだ。

 

「っ……」

 

 ニネミアの視界が闇に閉ざされたのは、彼女の纏う「誓願の鎧(パノプリア)」へのトリオン供給が絶たれたからだ。

 敵は鎧の弱点である腰部のトリオンバッテリー「恩寵の油(バタリア)」へと、狙い澄ました一撃を加えたのである。

 

 暗闇の中、身に纏った鎧は只の重しとなり、ニネミアの身体はバランスを失う。

 鎧の機能を回復させるには、彼女のトリオン体から鎧へとトリオンを供給すればいい。しかし、砲撃体勢を解除しないことにはそれも不可能。よしんば鎧の機能を回復させたとしても、今のニネミアには鎧を満足に動かせるだけのトリオンは残されていない。

 

 万事休す。と誰もが思うであろう状況。――それでも、ニネミアの心には毛ほどの揺らぎもなかった。

 国の守護者たる騎士として、万民を導く貴族として、彼女は負けられない。

 

「これしきで、私を止められると思うな!」

 

 彼女は漆黒の闇の中、傾ぐ身体を無理に支え、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の狙いをつける。

 見えずとも構わない。彼我の位置関係は頭に叩き込んでいる。一流の射手にとって、これしきの状況など妨害の内に入らない。

 

「いっけぇぇぇぇっ!」

 

 裂帛の気迫と共に、光がはじけた。

 極限まで高められたトリオンが、光の奔流となってノマスの天地を二つに切り裂く。

 あらゆる事物を薙ぎ払い、如何なる事象にも留め立てされぬ光の帯。それは正に雷神の赫怒、暴力と破壊の顕現であった。

 放たれた光線は一瞬で宙を駆け抜けると、狙い過たず白亜の壁に直撃する。

 

 ノマスの国威の象徴、護国の要として築き上げられた巨大都市「パトリア号」の外殻は、しかし「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の猛威に抗することなく破られた。

 分厚い装甲が一瞬で融解し、二十メートルを超える風穴が空く。のみならず、ニネミアが射線を横にずらした為、光線は都市内部を焼き払いながらさらに数百メートルの外殻を焼き切る。

 

 瞬く間に「パトリア号」は胴部を半切断される痛手を負った。勿論被害は建物だけにはとどまらない。人的被害も相当数出ている筈だ。

 そして外殻に走った亀裂からは、早くもエクリシアのトリオン兵が内部へ入り込もうとしている。「パトリア号」は内部に幾層もの隔壁があるが、損傷個所は余りに広く、侵入を防ぐのは不可能だ。

 

 戦局は完全にエクリシアへと傾いた。

 ここからは如何にしてノマスを屈服させるかという、詰めの段階に入っている。

 

「狙いはよかった。意表をつかれたわ。けど……残念だったわね」

 

 己の役目を完全に果たし終えたニネミアは、「誓願の鎧(パノプリア)」を脱ぎ捨てると、虚空に向けて傲然とそう呟く。

 彼女の視線の先には、ただ草原が広がるのみ。しかし目を凝らせば、バムスターの残骸の上に奇妙な違和を見つけることができる。

 型板ガラスを通したような滲んだ景色が、人の形をしている。

 ノマスの隠密トリガー「闇の手(シカリウス)」の使い手が、ニネミアの目と鼻の先に居るのだ。

 

「…………」

 

 人影の正体は、ルーペス氏族の若き戦士カルボーである。

 エクリシアと苛烈な戦闘を繰り広げていた彼は、不意に戦闘エリアの外に待機するエクリシアの騎士に気付いた。

 そこで彼は隠密状態で近づき、排除の機を窺ったのだ。

 果たして読みは的中した。騎士は戦局を決定づける重要任務を負った(ブラック)トリガー使いだったのだ。

 そして彼は完璧なタイミングで妨害に乗り出し、攻撃力に劣る「闇の手(シカリウス)」で騎士甲冑「誓願の鎧(パノプリア)」を無力化することに成功した。

 

 ――ただ一つの誤算は、ニネミアが不屈の精神力を発揮し射撃を敢行したことであった。しかも彼女は視界を奪われながらも、曲芸じみた砲撃を見事にこなしてのけた。

 真一文字に亀裂の走った「パトリア号」を視界に捉えながら、カルボーは無言で奥歯を噛みしめる。結局自分は、またしても成し遂げられなかった。

 

「さて――邪魔をしてくれた礼をしなければ、ね」

 

 ニネミアはそう言って、「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の射撃ビットを呼び寄せる。

 実際の所、彼女のトリオンは先ほどの砲撃で完全に底を突いており、一射たりとも撃つことはできない。苦し紛れのブラフである。

 

 しかし、カルボーは隠密形態を維持したまま、速やかにその場を離脱した。

 もはやニネミアにかかずらっている場合ではない。消耗した彼女は何の脅威にもならず、捨て置いても問題ない。今は「パトリア号」の救援が先だ。ここで首都都市とその直下にある母(マザー)トリガーが落とされれば、ノマスはエクリシアに完全に屈服させられてしまう。

 そうなれば、幾ら捕虜を取ろうとも何の意味も無い。

 カルボーは焦燥と悔恨の念に胸を焦がされつつ、ひたすら地を蹴って戦場へと舞い戻る。そして、

 

「…………引き下がったか」

 

 遠ざかる敵の気配に注意を向けながら、ニネミアはほっと息を付く。

 戦闘はこれからが佳境だが、トリオンの尽きた彼女は何の役にも立たない。現在彼女に課せられた使命はとにかく無事に戦場を離脱することだ。遠征艇まで戻れば、戦闘部隊のサポートができる。

 

「後は任せるしかない。口惜しいわね」

 

 脳裏に浮かぶのは、白髪の少女の姿。

 ニネミアの友人は、今まさに敵の中枢に向けて進軍しているのだろう。

 彼女は少女の武功と、無事の帰還を祈ると、苛烈さを増す戦場の狂騒を背に、(ゲート)の封鎖区域外を目指して走り出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 水平に奔る稲妻が、聳え立つ巨城を打ち据える。

 天が裂け、地が震える。天変地異にも等しき規格外のエネルギーが、ノマスの首都都市「パトリア号」の堅牢無比な外殻を、紙のように焼き切る。

 巨大なレーザーはそのまま横へと滑り、外殻の中ほどを一文字に薙ぎ払った。

 如何なる敵をも阻むべしと、ノマスが精力を傾けて創り上げた城塞都市が、エクリシアの暴威によって打ち破られる。

 

 破壊の極光を、フィリアは光量調整された視界ではっきりと見届けた。

 一瞬の光が過ぎ去ると、後には深く長い亀裂が残される。個人が為したとは俄かには信じがたいほどの、凄まじい破壊の痕跡だ。

 その痛ましい傷跡を、少女は爛々と輝く瞳で見つめる。

 

「ゼーン閣下が成し遂げたぞ。総員、仕上げに掛かれぃ!」

 

 耳朶を打つ嗄れた声は、エクリシアの遠征指揮官クレヴォの命令だ。

 巨大な城塞都市がレーザーに切り裂かれるという空前絶後の情景を目の当たりにして、然しもの賢者も興奮を隠せないようだ。

 それは勿論、フィリアも同じだ。

 

「フィリア・イリニ、吶喊します!」

 

 凛と声を張り上げ、少女がスラスターを噴かせて宙へと舞い上がる。

 ニネミアの砲撃の成功によって、エクリシアのノマス攻略作戦は後段階に移った。

 今次遠征はノマスの命脈を絶つことが目的である。その為に、祖国の復興を後回しにしてまで膨大なトリオンをつぎ込み、八本もの(ブラック)トリガー投入したのだ。

 

 首都外殻を破壊した今、狙いは「パトリア号」の中枢、戦闘指揮所の制圧だ。

「パトリア号」はノマスの(マザー)トリガーの直上に位置し、腹を地面につけて大地に蓋をしている。

 地中深くに位置する(マザー)トリガーとはいえ、点検のための通路は必ずある。「パトリア号」を制圧し、その通路を見つけ出すことができれば、次はそこに兵を送り込む。

 

 (マザー)トリガーを抑えることができれば、エクリシアの完全なる勝利だ。

 たとえそこまで叶わずとも、首都を制圧すれば大勢は決したも同然だ。

 これほどのコストを掛けた巨大都市が破壊されれば相当な痛手だろう。捕虜の獲得も順調だ。ノマスの国力は今後数十年大きく減退するはず。

 また首都を制圧すれば、それと引き換えに交渉を迫ることもできる。

 いちいち神の候補を探して回るよりは、相手から出させた方が確実だ。

 

「パトリア号」に突入するのは(ブラック)トリガーを担うエクリシアの最精鋭たちだ。部隊は彼らと小型のトリオン兵のみ。その他の騎士たちは、都市外部でノマスの戦士たちを防ぐ。

 ノマスの戦力の殆どは都市の外に出ており、内部の防備は薄いはず。それでも貴重な(ブラック)トリガーを敵の本拠地に送り込むというのは、本来なら余りにリスクが高い。

 エクリシアがノマスへ抱く殺意の程が、ありありと窺える。

 

「指揮所は都市の中心部に存在する模様。先行します」

 

 フィリアは通信機にそう呟くと、巨大な亀裂から「パトリア号」の中へと入った。

 騎士はそれぞれ単独で中枢を目指すことになっている。都市内部の構造は不明だ。分進することで、一刻も早い制圧を目指す。各個撃破の危険は伴うが、それ故にエースを投入するのだ。

 カーラビーバを葬ったアルモニアや、都市上空に陣取るクレヴォも程なく侵入を果たすだろう。「牧柵(サエペス)」に捕らえられたドクサやジンゴは遅れるかもしれない。戦闘能力に劣るカスタノは、誰かに同道するはずだ。

 

 援護の望めない状況下で、道も分からぬ敵地に飛び込む。

 しかし、フィリアの闘志はこの上なく高まっていた。兜の内側、少女の面には隠しようもない喜悦が浮かんでいる。

 いや、果たしてそれは闘志の顕れであっただろうか。

 少女の金色の瞳には淀んだ光が宿り、口元には禍々しい笑みが刻まれる。

 

「やっと、やっとあいつらを――殺せる」

 

 小鳥が歌うような、喜びと希望に満ちた声が戦場の喧騒に交る。

 少女がこの地を踏んだ意味。

 彼女から全てを奪った、ノマスの人々。

 彼らに絶望を与えるこの時を、フィリアは今か今かと待ち望んでいたのだ。

 

 双眸に宿るのは、今にも決壊しそうな激情の色。

 狂気に取りつかれた少女は、放たれた矢のように都市の奥へと消えていった。

 

 

 

 

 



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其の十六 死闘 更なる戦い

 機械と配線に埋め尽くされた室内を、激震が襲った。

 揺れはほんの一瞬であったが、机や棚からは諸々の機材が雪崩をうって床に落ちる。

 移動を前提に設計された機動都市の室内には、当然の如く制震機能が備わっている。

 にもかかわらず、その機構がまるで用を為さないほどの衝撃と破壊音を、モナカははっきりと感じ取った。

 

「な――これは……」

 

 自らの研究室でヌースと共に(マザー)トリガー封鎖の準備を進めていた彼女は、立っていられないほどの揺れを感じると、ともかくコンソールを操作し状況の確認を行う。

 散布された「光彩の影(カタフニア)」によって未だに防衛部隊との通信は不安定だが、有線で繋がれた都市の情報なら常に把握することができる。

 

「っ――」

 

 果たして、モナカは「パトリア号」にもたらされた甚大な被害を目の当たりにすることとなった。

 エクリシアが放った長距離砲撃――トリオン反応から劫火の鼓(ヴェンジニ)」と推定――が都市の第二十階層付近に直撃。着弾点は一瞬で融解し、さらにそこから水平方向に二百メートル余りの外殻が焼き切られた。

 

 無論、被害は外だけではない。内部にあった居住区画、倉庫区画、そして医療区画の一画が熱線によって吹き飛んだ。

 人的被害の状況は不明。救助を送ろうとも――

 

「侵入者!? それにクリズリまで……」

 

 間髪入れず、エクリシアの騎士が亀裂から都市内部に乗り込んでくる。しかも、彼らの後を追うようにして飛行能力を有するクリズリが続く。彼の国はノマスの新型トリオン兵を、いとも容易く複製してしまったらしい。

 

「モナカさん、大変です!」

 

 その時、指揮所より通信が入る。緊迫した声で呼びかけるのはレグルスだ。

 

「敵の侵入を許しました。作業の進行状況はどうなっていますか!」

 

 少年は何とか平静を取り繕いながら、モナカに問う。

 

「――っ、完了まであと十分程度よ」

 

 彼女は横目で機械の上に鎮座するヌースを見遣り、固い声音で返す。

「パトリア号」をトリオンに還元するための細工と、(マザー)トリガー封鎖壁を自動で構築するためのプログラム。

 

 通常なら数日はかかるであろう難行を、僅か数十分で成し遂げつつあるのは、偏に自律トリオン兵ヌースが有する桁違いの演算能力のお蔭だ。

 しかしそれでも、敵の侵入を許した状態での十分は余りに長い。

 

 防衛部隊は全て外に出払っている。都市内に予備兵力は残っていない。

 

「指揮所でモニターできるようにするわ。作業が済み次第、封鎖を進めてちょうだい。――レグルス。私は敵の迎撃に出ます」

 

 数瞬の沈黙を挟み、モナカは固い決意を秘めた様子でそう言う。

 

「な――何を言ってるんですかモナカさんっ!」

「平気よ。後の作業は私が居なくても大丈夫だから」

「そういうことじゃありません。トリオンがまだ回復していないでしょうっ!」

 

 レグルスの抗議は、モナカが持ち場を離れる事ではなく、彼女の状態を指してのものだ。

 (ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」によるトリオンの強制支配、並びにトリオンの強化は極めて強力な能力だが、肝心の担い手たるモナカには、現在殆どトリオンが残されていない。

 

 防衛に際して、モナカは事前に「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘を量産し、其々のトリオン兵や一部のトリガー使いに配布したのだ。操作対象に複雑な命令を要求しないなら、「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘は誰が用いても同様の効果を発揮する。

 一人で全てを持つよりは、現場の人間に使いどころを判断させた方がいい。

 モナカが指揮所に居たのはそう言った事情からである。

 

「少しぐらいならトリオンも回復したわ。クリズリの数も揃ってる。間近で指揮を執れれば、私のトリオン兵は騎士相手でも遅れは取らないのよ」

「ですが――」

「動けるトリガー使いは殆どいない。議論している時間は無いわ」

 

 尚も渋るレグルスに、彼女は断固として出陣の意思を伝える。

 

「わかりました。封鎖のタイミングはアナウンスで知らせます。撤退の機会を逃さないでください。……どうか、御武運を」

 

 逡巡の後、少年は絞り出した声でそう言う。そして、

 

「おい。危なくなったらすぐ避難艇に行くんだぞ。間違えて一緒に壁になるなよ。後で掘り出すの面倒だからな」

 

 と、ユウェネスの軽快な声が通信に割って入る。

 

「ふん。あなたこそ妙なドジを踏まないでね。レグルス、ユウェネスが馬鹿な真似を仕出かさないか、しっかり見張っておくのよ」

 

 モナカは殊更軽い口調で同僚たちにそう答え、通信を切った。

 そして、室内は再び静寂に包まれる。

 モナカはトリオン体を再び構築し、トリオン兵の卵を机から取り出す。

 準備を万端整えると、彼女は床に散乱した機材を踏まぬよう歩を進める。

 

「……そう言う訳で、ごめんなさい。後はあなたに頼ることになってしまったわ」

 

 扉の前で立ち止まり、彼女は切々とそう呟く。

 相手は勿論、今まさに(マザー)トリガー封鎖の為に苦心しているヌースだ。

 モナカは去るが、後の仕事はすべて彼女が成し遂げてくれる。

 

「構いません。レギナに誓って、契約は必ず果たします」

 

 鹵獲したトリオン兵に大事を任せるなど正気の沙汰とは思えないが、しかしモナカは彼女を信用し、全てを託した。

 また飽く迄保険としての処置だが、ヌースが拘束された装置には、指示した以外の行動を取ろうとした場合、即座に彼女を破壊する機構が備わっている。

 

「……ありがとう。作業が済み次第、あなたに掛けられたロックは全て解除されるわ。それで、お別れね」

「モナカ。――貴女に謝意を表すつもりはありません。しかし、たとえどういった形であれ、私は貴女に会えてよかったと思っています」

「私もそうよ。……でも、もし許されるなら、あなたと、いえ、あなたたちとは、もっと違った形で出会いたかった」

 

 モナカはどこか寂しげな表情でそう呟き、部屋を後にする。

 残されたヌースはモニターに表示される戦況を眺めながら、作業の仕上げにかかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 今にも切れそうな弓弦の如き緊迫感が、「パトリア号」の指揮所を覆っていた。

 エクリシアの砲撃によって都市外殻が破られ、騎士とトリオン兵の侵入を許してより僅か数分。指揮所に詰める職員達は、緊張も憤怒も悲壮も全て呑み込み、しわぶき一つ漏らさず職務に没頭している。

 

「データ来ました。封鎖決行までの所要時間を表示します。騎士の狙いはこの指揮所です。進行ルート上にトリオン兵を先回りさせてください」

「連絡橋に敵が取りついてる。逃げ遅れた市民は避難艇に誘導しろ。他の都市にトリオン障壁解除の通達を出せ。収容でき次第(ゲート)で逃がす」

 

 矢継ぎ早に指示を出すのは、年若い二人の男性、レグルスとユウェネスだ。

 指揮所には現在数十人のオペレーターが詰め、戦場全体のサポートを行っている。

 

「外の様子はどうなってる? くそ、まだ通信安定しねぇのか」

 

 ユウェネスがそう毒づき、乱れた画像で各戦線の状況を確認する。

 エクリシアが散布した「光彩の影(カタフニア)」は未だに効果を発揮し続けており、無線での通信には凄まじいノイズが入る。

 満足に情報支援ができず、またカーラビーバ敗北の余波もあり、防衛部隊の統制は乱れに乱れている。

 幾らかの部隊は自発的に「パトリア号」の周囲に集まり、敵の侵入を阻もうとしているが、成果は捗々しくない。

 

「何か、手立てを考えないと……」

 

 レグルスが苦々しく呟く。

 都市に侵入したエクリシアの騎士たちは、迎撃に向かわせたトリオン兵を事も無くさばき、幾重にも設置した防壁を軽々と破って進軍を続ける。

 

 しかも、トリガー反応から察するに、敵は(ブラック)トリガー使いたちだ。

 都市内部に彼らを迎撃できるほどの戦力は残されていない。モナカが強化クリズリを繰り出して防衛に向かったが、それとて全ての騎士は相手出来まい。いくらかは迎撃をすり抜けてこの指揮所までたどり着くだろう。

 

 そして指揮所が制圧されれば、勿論(マザー)トリガーの封鎖など不可能だ。

 脳裏に過るのは、滅亡の二文字。

 レグルスは焦げ付くような焦燥に、思わず奥歯を噛みしめる。とその時、

 

「侵入者を追う。封鎖を急げ」

 

 ノイズ混じりの不明瞭な、それでも頼もしい声が指揮所に響く。

 

「と、父さんっ!」

 

 発信者は外部で敵の迎撃に当たっていたレクスだ。

 ノマス最強の戦士は崖のような都市外壁を軽々と駆け上り、亀裂から内部へと躍り込む。

 その知らせを受け、俄かにオペレーターたちが活気づいた。

 レクスの技量には誰もが絶対の信頼を置いている。その彼が騎士を追撃するというなら、勝ちの目は十分に出てくる。

 

「急ぎ市民の避難を完了させます。皆さん。最後まで戦い抜きましょう」

 

 凛呼としたレクスの激励に、指揮所の皆は口々に歓声を上げて応えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 遡ること数分前。「パトリア号」にほど近き草原で、(ブラック)トリガー同士による壮絶な戦いが繰り広げられていた。

 弾丸飛び交う戦場に輝く翠緑のドームは、ノマスの捕獲用トリガー「牧柵(サエペス)」だ。

 カーラビーバを巡っての攻防の際、ノマスの戦士は幾人かのエクリシアの騎士を捕らえることに成功した。カーラビーバは破れたが、折角捕らえた彼らを解放する理由はない。

 ノマスの戦士は決死の覚悟で、エクリシアの騎士に打って掛かる。そして、

 

「やれやれ、難儀な相手だな」

 

 翠緑のドームで嘆息するのは、(ブラック)トリガー「金剛の槌(スフィリ)」の担い手、騎士ドクサだ。

 スラスターを噴かせて空中に陣取るドクサは、二本の巨腕を油断なく構えながら、眼下に立つ白髪金瞳の壮漢を眺める。

 ノマスの「牧柵(サエペス)」は獲物の逃げ場をなくし、効率よく追い立てる狩場を形成するトリガーだ。当然、その中には凄腕の狩人が潜む。

 

「っ――」

 

 幽かな風切り音と共に、地上の人影が掻き消えた。

 と同時に、ドクサは巨腕を掲げて防御姿勢を執る。

 転瞬、耳を劈くような轟音と、凄まじい衝撃が湧き起こった。

 地上から跳躍した人影が、なんと一瞬で滞空するドクサの側まで近付き、拳打を浴びせかけたのだ。

 

 咄嗟に受け止めた巨腕が、衝撃で吹き飛びそうになる。

 ドクサは辛うじて「金剛の槌(スフィリ)」をコントロールし、スラスターを噴かせて距離を取る。

 彼が相手取っているのは、ノマス最強のトリガー使い、「巨人の腱(メギストス)」の担い手レクスだ。

 

「まったく、自信が無くなってしまいそうだな」

 

 磊落な口調はそのままに、しかし頬には冷や汗が流れる。

 レクスのトリオン体の性能は異常の一言に尽きる。目に映らないほどの速度で動き回り、打撃の威力は城塞をも穿つほど。加えて耐久性まで規格外であり、生半な攻撃では傷一つ付けられない。

 

 百戦錬磨のドクサですら戦慄を禁じ得ない、まさに最強の使い手である。

 近接戦闘ではまず勝てない。エクリシアでレクスの機動に対応できるのは、超絶の武芸を有するアルモニアか、サイドエフェクトで攻撃を予見できるフィリアぐらいのものだろう。

 しかしドクサは上手く空中に陣取ることで、レクスの攻撃を巧みに誘導することに成功した。加えて、彼が操る「金剛の槌(スフィリ)」はあらゆるトリガーの中でも最高峰の硬度を有するため、護りに徹すれば簡単には破られない。

 

 (ブラック)トリガー同士の戦いはこう着状態へと陥った。

 しかし、状況としてはドクサの方が優位に立っている。レクスはノマスの有する最強の駒だ。ここで釘付けにすることには十分に意味がある。

 ドクサは今一度気合を入れ直し、怪物との戦いを続けようとする。

 

 極光がノマスの天地を眩く塗りつぶしたのは、次の瞬間であった。

 

「――っ!」

「ははっ!」

 

 天地を二分する閃光が、白亜の巨城を切り裂く。

 ニネミアの放った砲撃が「パトリア号」の外殻を焼き払ったのだ。すると、

 

「――っ、流石に判断が早いな」

 

 ドクサが砲撃の成功を喜ぶ暇もなく、目の前の状況が変化した。

 突如として、彼を取りこめていた翠緑のドームが跡形もなく消え失せたのだ。

 外殻が破れた以上、エクリシア勢は津波のように「パトリア号」へと殺到するだろう。切り札であるレクスを、ここに留める訳にはいかない。

 

「――」

 

牧柵(サエペス)」が解けるや否や、ドクサはスラスターを全開にして高度を取る。

 途端に、彼の足元に再び翠緑のドームが出現する。

 味方は出すが、態々捕らえた敵を逃がす道理はない。

 とはいえ、経験豊富なドクサはその行動を先読みし、見事にトリオンの結界から脱出する。

 

 そして彼は高速で戦場を飛翔し、先んじて離脱したレクスを追いかけた。

 いくら超常的な機動力を持とうとも、レクスは障害物の多い地上を走破せねばならない。ドクサは僅か十秒足らずで、その背中を捉えた。

 

「悪いが、まだ付き合ってもらうぞ」

 

 漆黒の巨腕を振りあげ、ドクサが強襲を仕掛ける。

 この難敵を都市に向かわせる訳にはいかない。たとえ戦力的に敵わずとも、味方が中枢を制圧するまでの時間を稼ぐ。

 速度を十分に乗せ、ドクサは「金剛の槌(スフィリ)」の巨腕を砲弾のように撃ち込む。

 間合い、拍子ともに会心の一撃だ。然しものレクスも、無視はできまい。――だが、

 

「な――」

 

 バチリ、と不気味な音と共に、ドクサの纏う「誓願の鎧(パノプリア)」が急激に動作を鈍らせる。

 そして――ドクサを見詰める金色の瞳。

 

「うおおぉぉっ!」

 

 己の失策を悟りながらも、ドクサは喊声と共に相打ち覚悟の突撃を仕掛ける。

 しかし、ノマスの英雄は稲妻をも凌ぐ敏捷さで騎士を迎え撃つ。

 

 交錯は一瞬。レクスの拳が、漆黒の巨腕を躱してドクサの胸を打ち抜いた。

 轟音と共に、騎士が弾かれたように吹き飛ぶ。

 重厚な鎧を纏った騎士が軽石のように宙を舞い、小規模都市の外殻にぶち当たる。

巨人の腱(メギストス)」による絶対の拳打を受け、鎧は一瞬で全損。内部のトリオン体も諸共に崩壊する。

 ドクサは生身の状態のまま、都市の外殻へ凄まじい勢いで叩きつけられた。

 

「……」

 

 レクスは残心を取り、対手の動向を探る。

 騎士はピクリとも動かない。鎧はいくらかの耐衝撃機能を備えているだろうが、間違いなく無事では済まないだろう。

 状況を察知したのか、数人の騎士がドクサを回収するために接近してきた。

 レクスは敵の無力化を確認すると、再び地を蹴って「パトリア号」へと進む。

 

「助かった」

 

 そして、彼は傍らを走る人影に、言葉少なく語りかけた。

 

「ああ、「金剛の槌(スフィリ)」を排除できたのは大きい」

 

 いつの間にかレクスと共に戦場を駆けていたのは、(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」の担い手マラキアだ。

 先の戦闘で、ドクサを行動不能に追い込んだのは彼の仕業である。

 マラキアは「報復の雷(フルメン)」の自動迎撃の結界を展開し、レクスを囮にして騎士に電撃弾を叩きつけたのだ。

 竹馬の友の二人だ。言葉など交わす必要もなく、互いの呼吸だけで完璧な連携が取れる。

 

「侵入者は私が仕留める。外の指揮を頼みたい」

 

 そして草原を疾駆しながら、レクスはマラキアに向けてそう命じる。

 

「本気か? いくらお前でも一人では無理だ。「パトリア号」には碌に戦力が残っていない。おまけに入り込んだ連中は(ブラック)トリガーばかりだぞ!」

 

 当然自らも追撃を行うつもりであったマラキアは、レクスに真っ向から反駁する。

 先行したフィリアとアルモニア以外に、都市外部で戦闘を行っていたクレヴォ、カスタノ、ジンゴらフィロドクス騎士団の(ブラック)トリガー使いも都市に侵入を果たしている。

 加えてエクリシアは多数のクリズリまで投入してる模様だ。いくらレクスの技量を以てしても、数の猛威は覆しようがない。

 

「封鎖までの時間を稼ぐだけだ。それより、民と兵を逃がさねばならん。――難しい役目だ。お前以外の誰に務まる」

 

 だが、レクスは固い声でマラキアにそう告げる。

 峻厳な面持ちだが、その裏には心服の友への確固たる信頼がある。

 

「封鎖が為らなければどうする? 指揮所がやられればレグルスも無事には……」

「アレは必ず成し遂げる」

 

 尚も懸念を述べるマラキアに、レクスは断固たる口調でそう言い切った。

 

「案ずるな。ユウェネスやモナカもいる。奴らはそう簡単に諦めはせん」

「……ああ、そうだな」

 

 話が付くや否や、レクスは急加速して『パトリア号」へと向かった。

 エクリシアの攻撃は止まる所を知らない。周囲に群がるトリオン兵を、マラキアは「報復の雷(フルメン)」で殲滅する。

 ノマスの戦士たちは散り散りになりながらも果敢に戦闘を続けており、市民たちは都市に侵入したトリオン兵に必死で抗っている。

 マラキアは彼らの命を繋ぐため、「パトリア号」に背を向けて走り出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ちょっと、嘘……どういうことよっ!」

 

 遠征艇の薄暗いブリッジに、甲高い女性の声が響く。

 身を乗り出してモニターを怒鳴りつけているのは、黒髪紅瞳の麗人ニネミアだ。

 都市砲撃の大任を果たした後、戦場から無事に離脱した彼女は、休むことなく遠征艇から騎士たちのサポートを行おうとしていた。だが、

 

「誰でもいい……答えなさいっ!」

 

「パトリア号」に突入した面々との通信が、突如として途絶えたのだ。

 戦場は未だに「光彩の影(カタフニア)」の霧に支配されている。ノマスが通信を封鎖しようとしても無駄なはず。現に、

 

「ゼーン閣下! ディミオス卿が重傷を負いました。即刻回収し撤退しますっ!」

「っ、了解! 救命機材を準備します」

 

 都市外部で繰り広げられる戦況は、逐次遠征艇へと届けられている。

 戦闘は佳境を迎え、遠征艇に届く通信は切迫したものばかりだ。

 戦闘が始まって数時間が経過している。ノマスへ与えた損害は凄まじいが、徐々にエクリシアの騎士たちも負傷し、撤退に追い込まれている。

 双方が繰り出したトリオン兵も底を突き、もはや消耗戦の様相を呈し始めている。

 

「っ……」

 

 ニネミアの面に動揺の色が浮かぶ。

 今最も注視すべきは、「パトリア号」内部で繰り広げられている戦闘だ。

 エクリシアの送り込んだ騎士がノマスの指揮所を陥落させられるか否かで、この戦いの勝敗が決まる。

 まさに乾坤一擲の勝負所、全ての作戦はこの時の為に編まれた。

 

 だが、肝心の都市内部の情報がまるで分からない。突入部隊の力になろうとも、通信が完全に途絶しているのだ。これでは個人のモニターすらできず、騎士の誰が無事か、誰が危険な状況かも分からない。

 

「この期に及んでノマスが何かしているの? けど「光彩の影(カタフニア)」を抑えるなんて……」

 

 仮に通常の無線が封鎖されたとしても、「光彩の影(カタフニア)」が散布した霧を介しての通信は可能なはずだ。しかし、あらゆる手段を試してみても、やはり都市内に通信は繋がらない。

 

「ゼーン閣下、敵中小都市が起動を始めました。戦場から撤退する模様!」

「追う必要はないわ! 今は突入部隊の援護を優先しなさい。敵のトリガー使いを「パトリア号」に近づけないで」

 

 焦慮に駆られる時間も無く、戦場は刻々と変化していく。

 

「捕虜を獲得したバムスター、ワムを回収します。戦闘型は都市への襲撃を続行。トリガー使いを一人でも引き付けさせなさい」

 

 ニネミアは矢継ぎ早にトリオン兵へと指示を出し、出来る限りのサポートを行う。

 トリオンの尽きた彼女は戦場に戻ることはできない。突入した同胞たちを信じるのみ。

 

(なぜ? 何か引っかかる。嫌な予感が消えない……)

 

 けれど、彼女の胸中には拭うことのできない不安が蟠っていた。

 

 

 

 

 



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其の十七 死闘 絶叫

「パトリア号」内部に張り巡らされた通路はとても狭く、また意図的に入り組んだ造りになっており、その様はまるで巨大な生物の体内に迷い込んだようだ。

 

 風に舞う燕のように、曲がりくねった通路を猛スピードで飛び進む人影がある。

 白亜の残像だけを残して「パトリア号」を飛翔するのは、誰よりも先んじて突入を果たしたフィリアだ。

 

 少女は冷厳な眼差しで、流れゆく景色を油断なく見遣る。

 侵入者を迎撃するための仕掛けだろう。迷路のように狭い通路には、随所に無人の銃座が備え付けられえており、フィリアの姿を発見するや、猛烈な射撃を加えてくる。

 

 また、明らかに進行を阻害するための隔壁や、こちらの身動きを妨げようとする罠も多数設置されている。

 しかし、フィリアは巧妙に設置されたそれらの装置を、一切速度を落とすことなく、最小限の動きで切り抜ける。

 八方から襲い来る弾丸も、刃のように研ぎ澄まされた五感と、「直観智」のサイドエフェクトを以てすれば恐れるに足りない。

 

「う、うわあっ!」

 

 時折、逃げ遅れたと思しき市民が視界の隅を通り抜ける。しかし、少女は一顧だにしない。指揮所を制圧すれば、彼らの命は掌の上だ。

 そして通路を邁進していたフィリアは、低層へと続く吹き抜けへと到達した。少女は躊躇うことなくスラスターの出力を全開にして、更なる加速と共に急降下する。

 

「パトリア号」の内部情報は一切不明だが、少女のサイドエフェクトは指揮所までの最短経路を正確に示してくれる。

 ルートは間違っていない。だがその時、少女の直感が警鐘を鳴らす。

 

 回廊で囲まれた吹き抜け広間。待ち伏せにはうってつけの地形だ。

 少女が地面に降り立つや否や、案の定複数のトリオン反応が現れた。

 

「――」

 

 上方の回廊から飛び出したのは、狼に似たトリオン兵、ヴルフ・ベシリアたち。

 滝のように浴びせかけるのは、シールドを透過する粘着弾だ。

 が、少女は襲撃を予め知っていたかのように「救済の筺(コーニア)」を展開。光り輝く反射盾は、何の問題も無く粘着弾を跳ね返す。

 自らが放った粘着弾を顔面から浴び、もんどりうって倒れるヴルフ・ベシリアたち。だが、敵はそれらだけではなかった。

 

「……」

 

 騎士の前進を阻むように、広場には大量のトリオン兵が現れた。

 先のヴルフ・ベシリアに加え、尾部にブレードを仕込んだ近接格闘型のヴルフ・ホニン、追尾弾を発射可能なヴルフ・レイグと、小型だが厄介な強化型ばかりだ。

 

 フィリアは寸毫の迷いもなく、それらのトリオン兵を破壊に掛かった。

救済の筺(コーニア)」の絶対防御を用いれば強行突破は容易いが、流石にこの数は振り切れず、後ろから追われることになるだろう。彼らを引き連れて進めば、指揮所を制圧する際に邪魔になる。

 後々の事を考えれば、ここでトリオン兵を削っておくのが正解だ。どちらにせよ、そこまで時間はかからない。

 

 狼型トリオン兵の群れが一斉にフィリアへと襲い掛かる。

 だが次の瞬間、猛り狂ったように飛びかかる数十体ものヴルフが、突如として動作を停止した。

 見れば、それら全ての機体を横切るように、「救済の筺(コーニア)」のシールドが展開している。

 輝く透明な板は広間を二分するほど巨大で、しかもヴルフの位置に合わせて複雑に形状を変えている。

 

 一拍の間をおいて、ヴルフの切断された胴や首が地に落ちる。空間を押しのけて現れたシールドによって、トリオン兵の群れは一瞬のうちに壊滅した。

 まだ幾らかのヴルフは残っているが、連携を取られなければ然程の脅威ではない。

 フィリアは残敵を適当にあしらいつつ、先を急ごうとする。その時、

 

「っ――」

 

 上方、左右から急接近する複数のトリオン反応を検知。フィリアは新手を迎え撃つため、戦闘態勢を取る。

 瞬間、少女の研ぎ澄まされた超感覚が異変を察知した。今度の敵はトリオン兵だけではない。

 視界の片隅、上方の回廊で人影が動く。その人物の正体に思い当った瞬間、――少女の思考は煮え爆ぜた。

 

「お前かあぁぁッ!!」

 

 それまでの冷静さは跡形もなく消え失せ、少女の喉から獣のような怒号が迸る。

 上空からフィリアに向かい来るのは五体のクリズリ。そのどれもが、全身を漆黒の葉脈に覆われている。

 ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」による強化トリオン兵。

 フィリアの母パイデイアを殺害した、直接の加害者だ。

 

 怨敵との遭遇に、フィリア頭からは一切の思慮が吹き飛んだ。もはや指揮所の制圧も、勝敗の行方も関係ない。

 少女は即座に「救済の筺(コーニア)」を展開し、襲い来るクリズリを胴切りにする。だが、

 

「っ――」

 

 上半身だけになっても、クリズリは止まらない。ブレード付きの長腕を振り上げ、少女へと襲い掛かる。

 トリオンを強化する「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘には、それそのものに伝達脳と供給機関が存在する。釘自体を破壊せねば、クリズリは止まらない。

 そして強化クリズリたちはフィリアの周囲から示し合せたようにタイミングをずらして波状攻撃を仕掛ける。

 

 展開速度、形状操作ともに凄まじい性能を持つ「救済の筺(コーニア)」だが、唯一の欠点は一度に一枚しか反射盾を展開できないことだ。攻撃に用いれば、その間防御はできなくなる。

 フィリアは身体を捩じってクリズリの攻撃を躱しながら、ともかく別の一体を真っ二つに切り裂き、行動不能にする。

 

 さらに別の一体が短腕からトリオン弾を放つが、それをも見越していた少女は真上に飛翔して弾雨を躱す。

 怒りに我を忘れていても、少女が身に着けた技量は本物だ。いくら強化されたクリズリといえど、彼女の敵ではない。

 そしてフィリアのサイドエフェクトは、真に倒すべき敵の姿を捉えていた。

 

「あああぁぁっ!」

 

 雄叫びを上げながら、少女は上階の回廊を目指して飛ぶ。

 階下の戦況を窺っていたのは、茶髪の編み込みを下げた女性モナカだ。

 彼女こそが「悪疫の苗(ミアズマ)」の使い手、母の仇だと悟ったフィリアは、ぶち当たるようにモナカへと襲い掛かる。

 少女はもはや栄光に彩られた騎士ではなく、ただ血を求めて猛り狂う一匹の獣であった。

 

 回廊の手すりを体当たりで破り、鎧を纏った悪鬼が怨敵へと襲い掛かる。

 尋常ならざる気迫の突撃を目の当たりにして、然しものモナカの表情が凍りつく。

 元々、争いごとの才覚に乏しく、戦士としては一流に及ばない人物だ。度外れた暴力を前にして、圧倒されてしまうのも無理はない。

 それでも、積年の努力は彼女を裏切らなかった。

 

「――」

 

 忘我の瞬間にあっても、彼女のトリオン体は覚え込ませた型通りに動く。

 掌中に「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘を出現させ、それを眼前に迫り来る敵に投げつける。

 長年の訓練による、洗練された瞬息の投擲。だが、漆黒の釘が手から離れたその瞬間、彼女の視界が斜めにずれた。

 

「な――」

 

 フィリアが展開した「救済の筺(コーニア)」が、モナカの顔面を果物のように両断する。

 供給脳を破壊され、トリオン体が瞬時に崩壊する。生身となったモナカは後方へとよろめくと、体勢を崩して廊下に尻もちをついた。

 そして衝撃から立ち直った彼女が目にしたのは、悪魔の如き形相で向かい来る、白髪金瞳の少女の姿だ。

 

 モナカが投擲した釘は、過たず鎧の肩に突き刺さっていた。「悪疫の苗(ミアズマ)」による支配は、即座に全身に及ぶはず。

 だが、ケダモノと化しても尚、フィリアの天稟は健在であった。

 

 少女は肩口に衝撃を受けた瞬間、反射的に「誓願の鎧(パノプリア)」との伝達系接続を解除し、鎧を完全に放棄したのだ。

 結果、「悪疫の苗(ミアズマ)」による浸食は鎧の一部位で止まり、内部のトリオン体にはまったく及んでいない。

 抜け殻となった「誓願の鎧(パノプリア)」から飛び出すフィリア。血走った瞳が仇の姿を捕らえる。

 そして少女はモナカを力ずくで地面に押し倒すと、殺意と共に拳を振り上げた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 鮮やかな紅色が、フィリアの視界に広がった。

 それは命の輝きが消える間際の、残忍なる血の色。――だが、フィリアの掲げた拳は、未だ振り下ろされてはいなかった。

 

「…………なぜ、兵を止める」

 

 フィリアがモナカに馬乗りになってから、どれ程の時が流れたか。

 荒い呼吸を整えた少女が、初めて口を開いた。幼く可憐な声でありながら、その問いには抑えきれない殺意が滲んでいる。

 

 二人が組み合っている回廊には、先ほどフィリアを襲った三体の強化クリズリと、始末し損ねたヴルフらが集まっている。

 だがそれらのトリオン兵は、主であるモナカの窮地を傍観するかのように、距離を置いて茫然と立ち尽くしている。

 

「答えろ」

 

 胸中に湧き上がる苛立ちを誤魔化すかのように、少女は左手でモナカの首を圧迫する。

 

「……私は、ずっと……あなたと、話がしたかったの。……フィリア・イリニ」

 

 呼吸を妨害され、喘鳴を漏らしながらも、モナカははっきりとした声でそう答える。

 悪鬼のような凶相を浮かべる少女に対し、彼女は歓喜と悲痛が入り混じったかのような複雑な表情を向ける。

 

「…………私は、私には、お前と話すことなんて何もないっ」

 

 まるで尊い何かに出会ったかのような、愛しい誰かを思うようなモナカの眼差しに、フィリアの言葉尻が思わず震える。

 何故、そんな表情をするのか。何故、そんな穏やかな声で語るのか。

 目の前の仇敵が、紛れもなく己を慈しんでいるという事実に、少女は激しく困惑する。

 

「そんな顔をするな……そんな目で、私を見るなっ!」

 

 およそ敵に向けるものとは思えないモナカの態度に、フィリアの喉から悲鳴じみた罵言が迸る。

 

「お前が、お前が母さんを殺したんだ! サロスを、アネシスを、イダニコを――お前が、お前の所為で、皆……」

 

 少女は力の限り喚きながら、両手でモナカの喉首をつかみ、容赦なく締め上げる。

 トリオン体の力は生身のそれとは比べ物にならない。フィリアの細腕とはいえ、加減を誤れば簡単に首の骨など折れてしまうだろう。

 モナカの喉から奇妙な音が漏れ、表情が苦悶に歪む。それでも彼女は、

 

「ぐっ……あなたに、何を言えば、いいのか……ずっと考えていた……」

 

 途切れ途切れに言葉を続ける。

 その切なる訴えに、フィリアが微かに手を緩める。同情ではない。こいつは絶対に殺す。

 ただ、この期に及んで何を言い出すつもりなのか、少し気になっただけだ。

 

「ねえ……あなたは、お母さんを覚えてる? レギナのことを、あの子があなたに何を語りかけていたか、知ってる?」

 

 死の瀬戸際にいるとは思えないほど、穏やかな声で尋ねるモナカ。

 だが、その問いを投げられた瞬間、フィリアの頭蓋は怒りではち切れんばかりになった。

 

「いい加減に、しろ……」

 

 数瞬の間をおいて、フィリアはようやっと怒りに震えた声を溢す。

 この期に及んで何を言い出すかと思えば、何のことはない。このノマスの女は、フィリアに同族意識を求めているのだ。

 それで命乞いのつもりなのだろうか。それとも本気で、己を誑かせるとおもっているのだろうか。

 

 思えば、彼女の親玉レクスにも同じセリフを吐かれた。

 高々血の繋がりを持ち出しただけで、なぜ己が都合よく彼らに靡くと、そんな夢想にふけることができるのか。

 

 フィリアにとって家族とは、血ではなく心で結ばれた掛け替えのない存在だ。

 少女にとって家族との絆は、何物にも侵せない神聖な宝物である。

 心の奥底の至尊の領域を、この女は言葉で汚そうとしている。――許せるはずがない。

 

 その思い違いを、糾してやる。

 己の怒りを、知らしめてやる。

 フィリアは煮えたぎる憎悪を、隠すこともなく言葉に込める。

 

「――ふざけるなッ! 私はイリニ家のフィリア、誇り高きエクリシアの民だ! 

 お前たちケダモノなんかと一緒にするなッ!」

 

 少女はあらん限りの声を張り上げ、モナカに食って掛かる。

 

「お前たちの血なんて、私にはこれっぽちも関係ない! 私の母さんは一人だけだっ! レギナなんて女、私の親じゃないッ!」

 

 肩を震わせ、フィリアは怒りと共に吐き捨てる。

 昂ぶりはトリオン体にまで伝わり、モナカの首に掛けられた繊手がギリギリと食い込む。

 

「……待って……違う、の……私は、あなたに……レギナの思いを……」

 

 息も絶え絶えになりながら、なおもモナカは言葉を紡ぐ。

 彼女は当初、ただ親友の忘れ形見としてフィリアに執着していた。

 だが、ヌースの記憶によって、少女が如何に過酷な人生を歩んできたかを知った今となっては、ただ直向きに少女の幸せを願っている。

 会敵した騎士がフィリアだと分かった瞬間、トリオン兵を止めたのはその為だ。

 

 聡明なモナカは、少女のただ事ならぬ剣幕を見て即座に事情を察した。

 聖都での激戦の折り、少女の母は助からなかったのだろう。加えて、少女の弟妹たちも皆、命を落としたらしい。

 直接の加害者でなくとも、トリオン兵を指揮していたのはモナカだ。少女は未来永劫、ノマスと彼女を許さないだろう。

 

 それでも、彼女がレギナの事を伝えようとするのは、偏にフィリアを案じての事だ。今は聞き入れられなくとも、生母の言葉はきっと、無明に堕ちた少女の助けとなる筈。

 

「何度言えば分かるんだ! 私はそんな女知らない! 知りたくも無いっ!!」

 

 しかし、激情に駆られた少女は対話を拒否する。

 まるでモナカがノマスの代表であるかのように、呪いの言葉を叩きつける。

 

「私が……私がお前たちの仲間に見られて、どんな目にあったと思う! 

 何もしていないのに罵られ、殴られて、一緒に居れば家族まで同じ目にあった! 

 私にノマスの血が流れていなければと何度思ったことか! 

 私は断じてお前たちの仲間じゃないっ! 

 

 ――私は、私はこんな肌の色になんて生まれたくなかったんだッ!」

 

 心を切り裂くような絶叫が、荒れ果てた吹き抜け広間に響く。

 

「…………」

 

 心に溜まった澱を吐き出したためだろうか、モナカの首に掛かる手が僅かに緩む。

 それでも、彼女は少女に掛ける言葉を見つけられない。

 モナカは知っている。敵国ノマスの血を引くフィリアが、エクリシアで如何なる扱いを受けたかを。年端もいかない少女に浴びせられた悪意の数々。それでも彼女が生きていくことができたのは――

 

「受け入れてくれたのは家族だけ。なのに、お前は私から皆を奪った。

 母さんを、あの子たちを、……私の全部を、お前たちが奪ったんだ!」

 

 少女は壮絶な努力の果てに、自らの手で祖国での地位を勝ち取った。名門貴族の子女として、祖国を護る騎士として、市民から敬仰される立場となった。

 しかしそれでも、少女の心を支えていたのは、愛する家族の存在だ。

 

「だから、私もお前たちから全て奪ってやる。殺して壊して、全部終わらせてやる!」

 

 話は終わりだと言わんばかりに、フィリアは殺意を滾らせモナカの首を締め上げる。

 周囲にはトリオン兵がいる。彼らが襲い掛かってきても「救済の筺(コーニア)」で防ぐことは容易い。家族の仇を、まず一人。少女の金色の瞳が、大きく見開かれる。が――

 

「っ……」

 

 くぐもった呻き声を上げると、少女はモナカの首から手を放し、胸ぐらを掴んで上体を引き起こした。

 

「何故、何故抵抗しないっ!?」

 

 フィリアは憤怒と困惑をないまぜにした声で怒鳴りつける。

 首の骨を折られかけながらも、モナカの表情は至って穏やかなまま、従容と死を受け入れようとしている。

 

「…………」

 

 が、モナカは何も答えない。

 フィリアの真情を知り、その絶望の深さを知ったモナカは、せめて少女の手に掛かる事で、一時でも救いを与えられればと考えたのだ。

 勿論、国を守護する戦士として許される選択ではない。また少女が己を殺したことで、更なる闇を抱えるだろうことも確かだ。

 

 しかし、(マザー)トリガーの封鎖は間もなく成る。戦いは終わりを迎える。

 そして少女の周りには、ヌースを含めまだ理解者がいる。どれ程の時が掛かろうとも、少女が立ち直る未来は残されている。

 

 或いはモナカは、疲れていたのかもしれない。

 エクリシアへの憎悪だけを胸に、ひたすら牙を研ぎ続けた十余年。それがレギナの願いに反することと知りながら、立ち止まることはできなかった。

 だから今、親友の娘の手に掛かることを、己に下された罰だと受け入れようとしていた。だが、

 

「笑うな! そんな、そんな顔をするな! 私は……私は、何で……」

 

 フィリアは狼狽した様子で、両の掌で顔を覆う。

 家族の仇を、憎い敵を目の前にしながら、少女は最後の一線を越えることができない。

 何度も何度も殺そうとした。けれど、少女の手はまるで言うことを聞かない。

 

「……それは、きっと、あなたが優しい子だからよ」

 

 己の殺害を躊躇するフィリアに、モナカが穏やかな声で語りかける。彼女は少女が戸惑う理由を、はっきりと知っていた。

 ――その時、

 

『私が優しいと、そう仰ってくださるのは、きっとフィリア様が誰よりもお優しい人だからですよ』

 

 少女の耳に、鈴を転がすような澄んだ声が甦る。

 

「あ……あぁ……」

 

 脳裏に浮かぶのは、さやかな月に照らされて微笑む、黒髪の乙女。

 今は亡き友、オルヒデア・アゾトンが、何時か少女に送った言葉。

 美しく儚い乙女の姿を思い返し、少女の心は千々に乱れる。

 

 思い返せば、フィリアがモナカを殴り殺さんと挑みかかったとき、少女の瞼に映し出されたのは、オルヒデアの無残な最期ではなかったか。

 拳を止め、首を締め上げたのはそのためだ。血を見なければいいと、少女は無意識に考えた。

 だが、それでもフィリアはモナカを殺すことができなかった。殺人の決意を固める度に、まるで少女を諌めるかのように、オルヒデアの姿が意識の片隅に現れたからだ。

 

「……嘘をつくな、出鱈目をいうなっ! 私は、私は優しくなんて、ない……」

 

 大切な人を護るためなら、どれだけ人から呪われても、どれほど辛い道を歩むことになっても構わない。そう誓いを立てた。

 だから自分は、どこまでも残酷になれる。否、ならなければいけない。そう思っていた。

 だが、不意に掛けられた優しい言葉と、過去の幻影が重なる。

 続いて想起されるのは、家族との暖かな、喜びに満ち溢れた思い出。

 

「うぁ……」

 

 何故、己はこんな地獄にいるのか? 何故、己はあれほど嫌った血を求めているのか?

 少女は俄かに自らの行動に疑念を抱く。

 

「ねえ、もうすぐ、戦いは終わるわ。……もし、もしも許されるなら……」

 

 困惑する少女に、モナカは懸命に語りかける。

 フィリアの苦悩を耳にして、ようやく彼女は自らの過ちに気付いた。

 彼女は己の罪を償うため、フィリアに命を捧げようとした。だが、もし生き延びることができるなら、別の形での贖罪が叶うかもしれない。

 

「う、嘘だ……私はそんな言葉で、騙されたり、するもんか……」

 

 少女はモナカの言葉から逃れるように、彼女の上から退く。

 

「大丈夫、平気よ。きっと、きっと……」

 

 自由になった体を起こし、少女へと向き直るモナカ。自分の言葉が届き始めたと、彼女は希望に瞳を輝かす。その時、

 

「え――?」

 

 小さな破裂音と共に、フィリアの顔面が弾け飛んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 トリオン体が黒煙を上げて爆散すると、そこには本来の姿となった小さなフィリアが現れる。だが、少女は我が身に起きた出来事を直ぐには理解できず、呆然と床に座り込んだままだ。

 そして困惑の程では、命拾いをしたはずのモナカの方が上だった。

 

「な――」

 

 トリオン兵には待機命令を出している。少女への攻撃は彼女が指示したものではない。

 或いは味方が現れたのか。しかしトリオン体を失ったモナカでは、レーダーを参照することはできない。

 

「っ――」

 

 余りに唐突な事態に、状況が掴めない。しかしその時、モナカの背筋に凄まじい悪寒が走った。

 彼女は弾かれたように起き上がると、呆けたままのフィリアに飛びつき、その身体を床へと押し倒す。すると、

 

「――あぁっ!」

 

 直後、モナカの横腹を焼けるような感覚が襲う。

 何処からか再び放たれたレーザーが、生身を掠めたのだ。

 

「く……うぅ……、私たちを護りなさいっ!」

 

 モナカは焼き鏝を押し当てられたかのような痛みに耐え、口頭でトリオン兵に指示を出す。途端に、待機していた強化クリズリやヴルフが、即座に彼女たちの下へと集結し、狙撃への壁になる。

 

「なぜ、一体誰が?」

 

 二射目のレーザーも、狙いは確実にフィリアだった。モナカが押し倒さなければ、少女は脳漿をぶちまけて死んでいただろう。

 ノマスの戦士とは考えにくい。明らかにモナカと敵対していたとはいえ、少女の姿を見ればノマスの係累と分かる筈。生身に対して容赦ない攻撃は行わないだろう。

 では、考えられるとすれば――

 

「っ、また……」

 

 三度奔った閃光は、強化クリズリの口中、動作を司るコアを正確に射抜いた。

 だが、即座に「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘に仕組まれた伝達脳に回路が切り替わり、クリズリは再起動を果たす。

 目にも止まらぬ速度のレーザー。そしてなにより、余りに正確無比なその弾道。

 

「まさか、「万鈞の糸(クロステール)」……」

 

 モナカの呟きに応じるかのように、吹き抜けの上方から白亜の鎧を纏った騎士がゆっくりと下降してくる。

 そしてその隣には、特徴的な八面体の射撃ビットが付き従う。

 もはや疑いようも無い。フィリアに狙撃を行ったのは、フィロドクス騎士団総長、クレヴォだ。

 

 しかし何故仲間を? モナカの思考が乱れる。

 誤射の可能性はあり得ない。「万鈞の糸(クロステール)」を(ブラック)トリガー足らしめるのは、指定した箇所に必ずレーザーが当たるという超常の精度にある。

 先ほど少女を助けられたのは、ほとんど奇跡である。回廊の上階が庇となったため、モナカが庇おうとしたのが見えなかったのだろう。

 

「っ、掛かりなさい!」

 

 湧き上がる疑念とわき腹の痛みを押し殺し、ニネミアはトリオン兵に下知を下す。

万鈞の糸(クロステール)」の強みは遠距離からの超精密狙撃。屋内での撃ちあいは得意としていない筈。

 フィリアにかなりの数が仕留められたが、トリオン兵はまだ揃っている。回廊から飛び出したヴルフ・レイグが、追尾弾を雨あられと叩き込む。だが、

 

「そんな……」

 

 騎士に殺到した弾丸が、突然現れた多数のシールドに素気無く阻まれる。

 

「これだけの数を、もう投入してくるなんて……」

 

万鈞の糸(クロステール)」にシールド機能は確認されていない。騎士を護ったのは、吹き抜けを降下するエクリシア製のクリズリだ。

 聖都攻略線でノマスが投入した最新鋭のトリオン兵を、エクリシア技術部はすぐさま解析し、量産を成功させていたのだ。

 飛行能力を持つクリズリは、「パトリア号」攻略の鍵として集中投入された。

 そして今、二十体を数えるクリズリの群れが、ノマスのトリオン兵へと襲い掛かる。

 

「っ――」

 

 モナカのいる回廊にもクリズリが大挙して押し寄せる。

 ヴルフが果敢に迎撃するが、性能が違い過ぎて勝負にならない。

 対抗可能な強化クリズリはまだ三体残っているが、「万鈞の糸(クロステール)」の狙撃を躱すための盾として、周辺からは動かせない。

 

「くっ……」

 

 このままでは圧殺されてしまう。モナカは焦燥に歯を噛みしめる。とその時、

 

「なんで……なんで……クレヴォ閣下!! どうして私をっ!?」

 

 忘我の境にあったフィリアが、悲痛な声でそう叫ぶ。

 思えば当然の反応だ。モナカを狙ったならまだしも、クレヴォは明確に少女を殺害しようとした。祖国に身命を捧げた少女が、同朋に裏切られたのだ。

 

「――ダメっ!」

 

 無防備に乗り出した少女を、モナカが慌てて引き戻す。

 転瞬、「万鈞の糸(クロステール)」の閃光が煌めく。先んじて射線を遮った強化クリズリの腕に風穴が空き、減衰しながらも貫通したレーザーが少女の白髪の一房を焼き切った。

 

「~~~~っ!」

 

 クレヴォが示した紛れもない殺意に、フィリアが言葉にならない悲鳴を上げる。

 命を狙われたからではない。己の依って立つ足場が丸ごと崩れ落ちたのだ。

 今や少女が唯一信じていたモノ。祖国エクリシアに裏切られ、少女はパニックに陥る。

 

「この子を避難艇まで逃がしなさい!」

 

 狂乱したフィリアを目の当たりにするや、モナカは鋭い声でそう叫んだ。

 たちまち、下知を受けたクリズリが少女を抱え、スラスターを噴かせて後方の通路へと飛び去る。

 フィリアは尚も何事かを叫んでいたが、もはやそれは言葉をなしていなかった。

 

「敵トリガー使いを最優先目標に指定! ここで仕留めなさいっ!」

 

 トリオン体を失ったことも、劣勢にあることも関係ない。

 敵はエクリシアの将にして、親友の娘の命を狙った。戦う理由は十分にある。

 遠ざかる少女の叫び声を耳にしながら、モナカは敢然とクレヴォに立ち向かう。

 

 

 

 

 



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其の十八 死闘 両雄再び

 分厚い隔壁が、矩形に斬り抜かれて地に落ちる。

 銃座から吐き出された弾雨が、水面に落ちた淡雪のように解け消える。

 そして襲い来る冷酷無情のトリオン兵は、刹那の後に両断されて役目を終える。

 

 エクリシアの雄、アルモニア・イリニが「パトリア号」に突入して早数分。彼は順調に都市内部へと侵攻し、着実に指揮所へと近づいていた。

 

「――」

 

 曲がりくねった通路を飛び進むアルモニアの前に、数体のヴルフが現れる。

 遠方から射撃を浴びせかけるトリオン兵に、彼は手にした「懲罰の杖(ポルフィルン)」を軟鞭状に変形させると、一閃でそれらの首を切り落とす。

 しかし、それらのトリオン兵は囮だった。

 

「――!」

 

 通路の側壁をぶち破って現れたのは、全身に葉脈の如き漆黒の文様を走らせた強化クリズリだ。ノマス最強のトリオン兵が、鋭利なブレードを振りかざして突撃する。

 

 が、一抹の風切り音が聞こえたかと思いきや、クリズリは標的を素通りして壁にぶち当たる。

 何時の間に斬撃を見舞ったのか、トリオン兵の胴体が切断され、上半身がずるりと地に落ちる。しかも、如何にして急所を見抜いたのか、体内に納められていた「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘までもが、一刀のもとに両断されている。

 

 エクリシアの騎士を相手に真っ向から戦える強化クリズリが、剣聖の前では足止めにもならない。

 その技量はまさしく近界(ネイバーフッド)最高峰。エクリシアが誇る最強戦力である。

 しかし精妙無比なる剣技とは裏腹に、兜の奥のアルモニアの表情は硬く強張っていた。

 

「……どういうことだ。なぜ繋がらない」

 

 彼が当惑しているのは、「パトリア号」に突入してから味方との通信が途絶えたことだ。

 ノマス側が通信封鎖を行っている可能性はあったが、それを踏まえてエクリシアはカスタノ・フィロドクスと「光彩の影(カタフニア)」を都市に突入させる計画を立てていた。

 

光彩の影(カタフニア)」のトリオン粒子は敵の機器の妨害だけではなく、味方用の通信網としても機能する。トリオン粒子を介して直接情報をやり取りするのだから、基本的に封鎖の手立てはない。

 散布された粒子は微量でも通信機能を有するため、こうまで完全に通信が途絶することは考えにくい。或いは、カスタノは「パトリア号」に突入できなかったのかもしれない。

 そして味方との交信ができないということは、遠征艇からのサポートも受けられないということだ。

 

 フィリアの「直観智」のサイドエフェクトによって、「パトリア号」の指揮所は都市の中央下層に位置することまでは判明しているものの、如何にエクリシアといえども敵の首都都市の詳細な内部情報までは持ち合わせていない。

 

 迅速な侵攻には遠征艇からのナビゲートが必要不可欠である。

 にもかかわらず、今のアルモニアは現在地さえ分からぬ状況なのだ。

 そして通信が途絶しているということは、

 

「フィリア……何処にいる?」

 

 アルモニアが何よりも気に掛けている少女の安否も分からない。

 カーラビーバを撃破した際、両者の位置はかなり離れていた。都市外殻が破られ、突入する段となった時、フィリアは合流を待たずに単独で先行したのだ。

 当然アルモニアは少女を追い掛けたが、通信が使えなければ追いかけようもない。サイドエフェクトを有する彼女のことだ。既に都市深部に達していても不思議ではない。

 

「っ……」

 

 アルモニアは焦燥に胸を焦がしながら、ともかく先を急ぐ。此処まで来た以上、後に引くことはできない。

 延々と続く通路を抜けると、豁然と視界が開けた。

 

 広大な一続きの空間に、回廊で繋がった高層のコンパートメント。「パトリア号」内部に設けられた市民の居住区画の一つに行き当ったらしい。

 距離データを参照するに、確実に中心部には近づいている。だが、此処からどのルートを選べば指揮所へと辿りつけるのか、確証が持てない。

 

 広間に出てしまったが故に、却って脚が止まる。

 いっそ「懲罰の杖(ポルフィルン)」の猛威に訴えて、下層まで床を抜くか。アルモニアは半ば本気でそう考える。

 狂猛な殺意が騎士へと襲い掛かったのは、次の瞬間であった。

 

「――」

 

 諸々の思念を全て消し去り、アルモニアが軟鞭形態の「懲罰の杖(ポルフィルン)」を迅速に振るう。

 あらゆるトリオンを吸収し、切断する絶対の刃は、しかし硬質な音と共に跳ね返された。

 

「――」

 

 焦りも恐れもなく、騎士は即座に身を翻して後方へと下がる。

 転瞬、それまでアルモニアが立っていた地面が、発破を掛けられたかのように吹き飛ぶ。

 陥没した地面に立っているのは、白髪金瞳の壮漢だ。

 

「これ以上、進ませはせん」

 

 あくまでも緩やかな挙措で騎士へと向き直るのは、ノマスはドミヌス氏族の長、彼の国最強の使い手、「巨人の腱(メギストス)」のレクスだ。

 

「……悪いが、押し通らせてもらう」

 

 考え得る限り最悪の敵に捕捉された事実を、アルモニアは冷静に受け入れた。

 どの道、ノマスを屈服させるには避けて通れぬ相手だ。

 積怨で結ばれた両者はそれ以上口を利くことも無く、苛烈極ま戦いを始めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 真の達人がトリオン体を操れば、最早その動きは人智を超えた領域に達する。

 

 かたや、規格外の性能のトリオン体を構築する「巨人の腱(メギストス)」のレクス。

 こなた、あらゆる動作を補助する鎧「誓願の鎧(パノプリア)」を纏ったアルモニア。

 

 共に桁外れの機動力を有する二人の争いは、常人では目で追う事さえ不可能だ。

 広大な「パトリア号」の居住区画に、火花を散らしながら人影が錯綜する。刃物が噛み合うような金属音が散発的に響き、戦闘の余波で住居の一部が吹き飛ぶ。

 高速で繰り広げられる格闘戦は、現在の所レクスが優勢となっていた。

 

「――」

 

 床が拉げるほどの力で踏込み、稲妻をも欺く速度でレクスが跳びかかる。

 アルモニアはスラスターを噴かせて後方へ下がりながら、「懲罰の杖(ポルフィルン)」を振るう。極小のトリオンキューブによって形作られた鞭が、迫り来るレクスの胴を過たず打ち据えた。

 

 が、ノマスの戦士は止まらず、砲弾の如き威力の拳を撃ちだす。

 城壁をも容易く打ち崩す一撃だ。然しもの「誓願の鎧(パノプリア)」といえども、直撃すれば一溜まりも無い。

 それでも、先んじて飛び下がったアルモニアは、紙一重でその拳打を躱す。

 

「……」

 

 そして追撃を避けるべく、騎士はそのまま空中へと舞い上がる。

 レクスも無理押しはせず、壁を蹴って住居の上層へと登り、着かず離れずの距離で好機を窺う。

 

 奇妙なことに、先ほどの交戦で斬撃を受けたにも関わらず、レクスは全くの無傷である。

巨人の腱(メギストス)」によって構築されたトリオン体は桁違いの硬度を誇るものの、如何なるトリオンをも吸収する「懲罰の杖(ポルフィルン)」には意味がない。

 

 では、レクスは如何にして胴切りを免れたのか。

 それは対策と呼ぶには余りに単純な手立てであった。

 

「――」

 

 兜の内側で、アルモニアは翠緑の瞳を微かに細める。

 レクスはトリオン体の上に通常の衣服を纏っていた。

 

 あらゆるトリオンを吸収する「懲罰の杖(ポルフィルン)」は、しかしトリオンに接触しなければ一切の効果を発揮できない。薄布一枚隔てただけで、致命の斬撃を防ぐことができるのだ。

 勿論、衣服の耐久性などたかが知れており、斬撃を受けた箇所は大きく裂け、下のトリオン体は丸見えになっている。

 とはいえ、レクスは精密なトリオン体の操作で、巧みに同一箇所への攻撃を避けている。

 

 互いに一撃必殺の威力を有する(ブラック)トリガーの戦いで、この差は非常に大きい。

 レクスは被弾を覚悟で果敢に攻め込むことができるが、アルモニアはどうしても守勢に回らざるをえない。「誓願の鎧(パノプリア)」の飛行機能を駆使して空中に陣取ることで、騎士は何とか戦士の勢いを削ごうとしているのだ。

 

「……」

 

 トリガーの相性から見れば、「懲罰の杖(ポルフィルン)」を持つアルモニアが依然として優位に立っている。時間を掛ければ如何様にでも勝ち筋を見出すことはできるだろう。

 だが、味方との通信が取れない現状、敵の本拠地で足止めを受けるのは不味い。

 アルモニアは意を決し、リスクを覚悟で宿敵に挑む。

 

「――」

 

 対手のレクスは居住区に張り巡らされた回廊を目まぐるしく飛び回りながら、痛撃を叩き込む機会を窺っている。

 騎士は敢えて空中の有利を捨て、居住区画の中央を通り抜ける広い通路へと着地する。

 レクスは抜け道や潜伏に適した家屋など、都市の構造を熟知している。地形戦になれば、意想外からの攻撃を受けるだろう。

 

 周囲に何もない通路なら、小細工を仕掛ける余地は少ない。

 アルモニアが真っ向切っての短期決戦の構えを取るや、レクスも回廊から身を躍らせて通路へと降り立った。

 彼とて、「パトリア号」に侵入した他の騎士を叩かねばならず、アルモニア一人に拘泥している時間は無い。早期決着は望むところだろう。

 

 二十メートル余りの距離を隔て並び立つ両雄。先に仕掛けたのはアルモニアだ。

 

「――!」

 

 重厚な鎧を纏った騎士の姿が、朧のように掻き消える。

巨人の腱(メギストス)」によって強化された感覚器官を有するレクスですら、明瞭には捕らえられないほどの超加速。

 超常の域に達したトリオン体の操縦能力と、十全に発揮された「誓願の鎧(パノプリア)」のアシスト機能によって生み出されたのは、正に神速の踏み込みだ。

 

 だが、対するレクスも達人の中の達人。刹那で間合いを詰める騎士に即座に対応する。

 身に着けた衣服の損傷は激しいが、それでもまだ防具としては役に立つ。致命部位への攻撃だけは凌ぎ、カウンターで騎士を仕留めんとする。しかし――

 

「っ――」

 

 レクスが驚愕に目を見開く。

 両者が交錯するかに見えた瞬間、なんと騎士が直前で急停止したのだ。

 既に迎撃の構えをとっており、また徒手空拳のレクスが攻撃に転じるには、どうしても一歩踏み込む必要がある。

 

(――釣られた)

 

 そして眼前のアルモニアが全力を込めて振るうのは、光り輝く大剣だ。

懲罰の杖(ポルフィルン)」に蓄えられたトリオンが、灼熱の閃光となって解き放たれる。

 放たれた熱線はレクスを呑み込み、その延長線上の通路や建物を広範囲にわたって焼き尽くす。アルモニア決死のフェイントは、見事に功を奏した。

 

 ――にもかかわらず、騎士は剣を振り抜いた直後に後方へと飛び下がった。

 閃光によって真一文字に焼き払われた居住区画。しかし、惨憺たる破壊の跡に、レクスは何の損害も受けずに立っている。

 

「……やはり、そう易々とは取れんか」

 

 アルモニアが淡々と呟く。

懲罰の杖(ポルフィルン)」による砲撃の破壊力は、事前に吸収したトリオンの量によって決定される。カーラビーバを葬った時とは違い、「パトリア号」に突入してからは速度を重視する余りなるべく戦闘を避けてきた。当然、吸収したトリオンは僅かで、砲撃の威力も然程ではない。

 

 それでも通常のトリオン体なら苦も無く破壊し、少々の防壁ならまるごと吹き飛ばすほどの威力ではあるのだが、相手は(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」。その堅牢さは並大抵ではない。

 

「……」

 

 とはいえ、アルモニアにとってこの結果は想定通り。騎士は落胆した風もなく、再度剣を構え直す。

 レクスのトリオン体にダメージを与えることはできなかったが、彼が纏っていた衣服は焼き払えた。もう「懲罰の杖(ポルフィルン)」を防ぐ術はない。

 しかし騎士は軽々に攻めかからず、慎重に対手の様子を窺う。

 焼け溶けた通路に佇むレクス。彼の身に纏う空気が、明らかに変質していたからだ。

 

「貴様を相手に、余力を残そうとしたが過ちか。……我が国に厄災を齎す悪鬼よ。もはや躊躇わぬ。全霊を以て排除する」

 

 壮漢は決然とそう口にするや、やにわに右の掌を己の胸へと打ち付ける。

 

「――っ!」

 

 思いもがけないレクスの奇行。だが、それを見たアルモニアの背筋に凄まじい悪寒が走る。百戦錬磨の騎士としての直感が、最大級の警鐘を鳴らしているのだ。

 変化は、ほんの数秒で完了した。

 

 俯いていたレクスが面を上げる。

 その褐色の相貌に広がるのは、葉脈の如き漆黒の輝線。

 そして顔のみならず、漆黒の輝線は彼の全身にくまなく張り巡らされている。

 胸元に深々と突き刺さっているのは、ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘だ。

 

 レクスは「巨人の腱(メギストス)」によって創造された最強のトリオン体を、モナカから預かった「悪疫の苗(ミアズマ)」でさらに強化したのだ。

 釘の浸食によって、レクスの双眸が漆黒に染まる。

 ただ金色の瞳だけが、灼熱の殺意に煌めく。

 

「――滅びよ。悪鬼」

 

 耳を弄する轟音と共に、レクスが地を蹴って騎士へと襲い掛かる。

 アルモニアは培った技術を総動員して、魔神と化した戦士を迎え撃つ。

 近界(ネイバーフッド)に冠絶する二人の達人の戦いは、此処に前人未到の境地へと突入した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「離せ、離せ! 離せぇぇえええっ!」

 

 絹を裂くような悲鳴が、薄暗い通路に木霊する。

「パトリア号」下層周縁部へと続く入り組んだ連絡路を、三メートル余りの巨大な人型が猛進している。肩や頭を壁に擦りながら走っているのは、ノマスの新型戦闘用トリオン兵クリズリだ。

 

 黒い葉脈のような文様を浮かべたクリズリは満身創痍の有様だ。手足や動体には向こうが見えそうな貫通痕が穿たれ、頭部には斜めに一文字の亀裂が入っている。

 そしてそのトリオン兵からは、怒声とも悲鳴ともつかない唸り声が聞こえてくる。

 

「ううぅぁあああぁっ!」

 

 意味さえ不確かな叫び声を張り上げているのは、クリズリが胸元に抱きかかえている小さな人影だ。

 白髪金瞳、矮躯の少女は狂乱した様子で身を捩り、手足をばたつかせてクリズリの拘束から逃れようとしている。

 彼女の名はフィリア・イリニ。ノマスを滅ぼさんと攻め寄せたエクリシアの騎士である。

 

 フィリアは今次遠征の指揮官たるクレヴォ・フィロドクスの唐突な裏切りに遭い、トリオン体を失った。そして命を失いかけたところを、少女に執着を見せるノマスのトリガー使い、モナカによって助けられたのだ。

 

 信じていた同朋に裏切られ、憎むべき怨敵に命を救われ、少女はパニックに陥っていた。

 元々、家族の死によって精神の平衡を失っていたところを、復讐の一念だけで身体を支えていたのである。

 

 敵味方さえ分からなくなったフィリアは、完全に正気を失っていた。

 そんな状態の少女が、それでも己を保護しようとしているクリズリに抵抗するのは、このトリオン兵が母を殺した直接の加害者だからだ。

 もはや正常な思考力も無い少女は、ただ母の仇に触れられているという嫌悪と憤怒から、力の限り暴れ続ける。

 

 しかし半壊状態といえど、生身の子供がトリオン兵から逃れられるはずもない。

 少女を抱えたクリズリは、命令を達するために走り続けている。

 このトリオン兵が目指しているのは、「パトリア号」内縁部に格納されている緊急用の脱出艇だ。

 

 エクリシアの攻撃が激化し、都市を繋ぐ連絡橋は寸断されている。

 ノマスは逃げ遅れた市民を脱出艇に誘導した後、トリオン障壁を一時的に解除することで、(ゲート)を開いて市民を逃がすつもりなのだ。

 市民の避難を促すアナウンスは喧しいほどに鳴り響いているが、それでも少女の耳には届かない。彼女は救い主であるクリズリを、手の革がすりむけるほどに殴りつけている。だがその時、

 

「っ――ぐ、うっ……」

 

 フィリアを抱えていたクリズリが、突如としてバランスを崩して転倒する。突如として投げ出された少女は、床を転がって通路の側面へと強かに打ち付けられた。

 このクリズリはフィリアによってコアを破壊されている。「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘によって再起動を果たしたものの、損傷が激しいこともあり、ここまでの移動で到頭内蔵トリオンが尽き果てたのだ。

 トリオン兵はなおも課せられた使命を果たすべく立ち上がろうとするが、全身を弱々しく痙攣させ、起き上がることができない。

 

「う、うううぅぅうっ!」

 

 すると、起き上がった少女は、なんと倒れ伏すクリズリへと走り寄り、唸り声を上げながらその頭部を思いきり踏みつけ始めた。

 クリズリは抵抗もせず、されるがままになっている。もとより何の痛みも感じない機械仕掛けの兵士である。保護対象が錯乱した事情など、理解できよう筈も無い。

 そして少女の足蹴とは何の関係も無く、トリオンが尽きたクリズリは完全に機能を停止した。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 フィリアは肩で息をしながら、糸が切れた人形のように横たわるトリオン兵を見遣る。

 余りに様々な出来事に見舞われ、それらによって深く傷つけられた少女には、まともな判断力は残されていなかった。

 

 頭に酷い霧がかかる。濁流のように押し寄せる感情に、思考の焦点がまるで合わない。時間が意味を失い、事の繋がりがあやふやになる。

 ともかく先刻まで感じていた怒りと恐怖を吐き出したフィリアは、それですっかり疲れ果ててしまった。

 ここが敵地であることも忘れ、自分が何故戦いを望んだかも思い出せず、フィリアは力なくその場に座り込んだ。

 

 もう何もしたくない。する意味さえ分からない。

 なぜそうなったのか、考えるのも疎ましい。

 呆然とした表情でへたり込む少女は、まさに戦禍に見舞われた無力な子供そのもであった。護国の英雄と称えられ、戦場を駆け抜けた栄えある騎士の姿は、どこにも見出すことはできない。

 

 いや、そもそも彼女は本当に英雄だったのだろうか。

 大人の胸元ほどしかない背丈に、触れれば折れてしまいそうな華奢な手足。痩せ衰えた面差しは、どこからどう見ても年端もいかない童女のソレだ。

 

 トリオン体になって背を伸ばし、重厚な鎧を身に着け、大きな剣を軽々と振ったところで、何も変わりはしない。

 人々を瞠目させる聡明さと、身に宿った桁外れの才能。そして異常なまでの目的意識を備えた少女は確かに天才で、誰もが彼女を一廉の騎士だと認めた。

 

 だが、彼女をそんな風に作り上げたのは、苦難に満ちた人生だった。

 生まれた時からいわれなき差別に苦しみ、終わりの見えない貧困と戦い続け、そして愛する人を失う恐怖に真っ向から立ち向かった。

 

 少女は残酷な世界を相手に、幸せを掴み取ろうと必死に足掻いたのだ。

 過酷な年月は少女を育て、強くした。胸の奥底にあるガラスのように繊細な心を、強靭な鎧で幾重にも覆い隠して。

 

 けれど、結局フィリアは只の子供だった。

 大人のように振る舞わざるを得なかった、哀れな少女に過ぎなかった。

 そして今、全ての鎧を失った彼女は、むき出しの心を戦場に晒している。

 

 もはや抵抗する力も、意思さえない。

 ほんの一発の銃弾で、ほんの一欠けらの悪意で、少女の命は儚く散るだろう。

 

「ねえ、ねえ、ねえってば! 大丈夫? 何処か怪我してない? おかーさん、おかーさん! 大変だよ!」

 

 その時、忘我の少女に緊迫しつつも暖かな声が掛けられる。

 肩を揺さぶりながら顔を覗き込んできたのは、フィリアと同じ年頃の、そして同じ肌の色をした女の子であった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「パトリア号」を縦に貫く吹き抜け回廊。その下層広場は壮絶な破壊に見舞われていた。

 付近の設備は無残に壊され、壁や床には至る所に亀裂や弾痕が刻まれている。

 そして辺り一帯に散らばっているのは、バラバラになったトリオン兵の残骸だ。

 

「まさか、ここまで粘るとはな」

 

 惨憺たる戦場に立っていたのは、甲冑を纏った騎士クレヴォ・フィロドクスと、供回りのエクリシア製クリズリだ。

 同胞であるフィリア・イリニを暗殺しようとした彼は、ノマスの(ブラック)トリガー使いモナカにそれを阻止され、彼女が指揮するトリオン兵団と交戦に移った。

 激闘の後、広間に立っていたのは彼らだけだ。クレヴォは敵兵団の殲滅に成功した。

 

「恐るべきトリガーだ。……あの子が使い手のトリオン体を破壊していなければ、危うかったやもしれん」

 

 それでも死に物狂いの抵抗を受け、かなりの損害が出た。

 モナカ率いるトリオン兵団との戦闘で、エクリシアが「パトリア号」攻略に投入した二十体のクリズリの内、実に十四体が破壊された。

 ノマスの兵団はヴルフこそ数が揃っていたが、クリズリは僅か二体のみ。にもかかわらず、エクリシア側が大損害を被ったのだ。

 

 原因は、ノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」だ。

悪疫の苗(ミアズマ)」によって強化されたクリズリは、モナカの的確な指揮の下、凄まじい働きを見せた。その猛攻は凄まじく、数で勝るエクリシアのクリズリを紙のように打ち破り、一時は(ブラック)トリガー有するクレヴォを追い込んだほどだ。

 

 しかし、ノマスは後が続かなかった。トリオン不足から援軍を投入することができず、またモナカが生身に戻っていたため、「悪疫の苗(ミアズマ)」で兵を強化することもできない。

 強化クリズリの一体が破壊され、天秤は完全にエクリシアへと傾いた。そして程なくして、ノマスの兵団は一体残らず殲滅された・

 不可解だったのは、敗勢が濃厚となってもモナカが撤退しなかったことだ。

 

「時間は取られたが、戦果としては上々か」

 

 クレヴォは広間の一画へと静かに歩を進める。

 そこには、クリズリのブレードに胸を刺し貫かれ、血だまりに倒れ伏すモナカの姿があった。

 騎士はこと切れたモナカの手首から「悪疫の苗(ミアズマ)」を奪い取る。

 

 (ブラック)トリガーを鹵獲できたのは、並みの捕虜百人よりも価値がある。「悪疫の苗(ミアズマ)」の機能であるトリオン兵の強化はどんな局面でも必ず力になるため、エクリシアの軍事力を格段に引き上げる事だろう。

 流石にこの場で扱うことは不可能だが、膨大な人口を有するエクリシアなら、適合者は必ず見つかる。まずは第一級の戦果と言えるだろう。

 

 とはいえ、あまりにも容易く(ブラック)トリガーを得られたことをクレヴォは訝しむ。

 (ブラック)トリガーは国防の要となる重要戦力であり、極論すれば適合者の命よりも優先される。生身となった使い手が、逃げずに立ち向かってくることなど考えられない。

 まさかモナカがフィリアを護るため、本当に命を擲ったとは、然しもの賢者でも見抜くことはできなかったようだ。

 

「さて、後はあの子だが……」

 

悪疫の苗(ミアズマ)」を鎧の中に収納し、周囲に敵影が無いことを確認すると、クレヴォは冷え冷えとした声でそう呟いた。

 彼がフィリア・イリニを殺そうとしたのは、彼女が「直観智」のサイドエフェクトを有するためだ。

 

 今回のノマスへの遠征で、フィロドクス家は内密にとある計画を企てていた。

 それはイリニ騎士団総長、アルモニア・イリニの暗殺である。

 

 (マザー)トリガーを支える神が代替わりする時、エクリシアでは国家の象徴たる教皇が新たに選ばれる。そして新教皇を輩出した家は、国内で一頭地を抜く立場を得ることができるのだ。

 フィロドクス家のジンゴ・カスタノ両名は、これを家門の更なる雄飛の機会と捉えた。

 彼らが目指したのは国内の完全な統一だ。三大貴族などと言わせておくことはない。エクリシアの全てを、フィロドクス家の名のもとに支配する。

 

 その為には、次代の教皇をフィロドクス家から出すのは前提として、イリニ家・ゼーン家の弱体化が望ましい。

 既にゼーン家の前当主トラペザ・ゼーンは、彼らの策謀によって遠征先の異国で命を落とした。後を継いだ若輩のニネミアは、未だに家中を取りまとめることさえできていない。

 

 とはいえ、ゼーン家への工作こそ首尾よく行ったものの、イリニ家の勢力を削ぐことは容易ではなかった。

 政争の域を超えた同朋への攻撃である。明るみに出れば、フィロドクス家こそ立場を失う。工作は慎重に慎重を期す必要があった。

 

 そしてイリニ家そのものも、当主アルモニアの堅実な施政と、譜代の家臣たちの忠勤ぶりから、なかなか切り崩す隙を見出せなかった。

 前当主ディマルコとアルモニアとの確執を探ろうとするも失敗。

 配下の貴族、スコトノ家の当主ネロミロスを離反させるため、アルモニアへの猜疑心を植え付けようと企むも、聖都防衛線で当人が廃人になってしまった。

 

 そこでフィロドクス家は、ノマスへの遠征という大舞台を利用して、アルモニアを直接暗殺しようという強硬策に打って出たのだ。

 首都都市「パトリア号」の制圧を強く主張したのも、突入する人員を最小限に絞ったのもこの為だ。上手く都市内で片を付けられれば、真相が本国に知られることはない。

 

 しかし、ここでフィロドクス家にとって不測の事態が生じた。

 イリニ家の養女、フィリアの参戦である。

 彼女のサイドエフェクト「直観智」は、あらゆる道理や過程を無視して事象の本質を明らかにする超感覚である。

 余りに度外れた能力故に、未だ完全に扱いこなせてはいないようだが、その超常性は少女が此度のノマス攻略作戦を打ち立てたことからも明らかだ。

 

 ここに、クレヴォが少女を殺そうとした理由がある。

 仮にアルモニアを始末できたとしても、その顛末にフィリアが不審を抱けば、フィロドクス家の犯行に気付いてしまう可能性がある。

 どうしても、少女の口を封じる必要ができてしまったのだ。

 

「…………」

 

 五十年余りも戦場を駆け抜けてきた老騎士が、珍しくも判断に迷う。

 クレヴォにとって、フィリア・イリニは決して憎い相手ではなかった。

 イリニ家を転覆させる為の切り札として早くから目を付けてはいたものの、実際に言葉を交わすにいたって、少女の純真さと誠実さには素直に好感を抱いた。

 最初は少女もクレヴォの事を警戒していた様子であったが、交流を深めるにつれ、少女は彼に敬慕を示してくれた。

 

 まるで親類に接するかのような、無垢なる信頼。

 権勢欲に狂った息子たちからは、とうの昔に消え去った感情である。

 しかし、クレヴォは少女を撃った。撃たねばならなかった。その理由は――

 

「……そうか。分かった。私もそちらに向かう。慎重に機を窺え。軽々しく手は出すな」

 

 とその時、老騎士に息子のジンゴから通信が入った。

 彼は弟のカスタノと協力し、アルモニアを葬る手筈となっている。しかし現在、標的はノマスの「巨人の腱(メギストス)」と交戦中であり、彼らは物陰から戦況を見守っているとの事だ。

 

「ついて来い」

 

 クレヴォはフィリアの追跡を打ち切り、残る六体のクリズリと共に息子たちとの合流を選んだ。

 飽く迄本命はアルモニア・イリニだ。彼は何を差し置いても始末しなければならない。

 しかし、彼は近界(ネイバーフッド)にその名を轟かすエクリシア最強の騎士である。如何に不意を討ったとしても、倒せるかどうかは怪しい。ジンゴとカスタノにクレヴォも加わり、(ブラック)トリガー三人掛かりで確実に仕留める。

 

 トリオン体を失ったフィリアは、この際捨て置いても構わない。

 都市内には相当数のトリオン兵が入り込んでいる。カスタノの「光彩の影(カタフニア)」で、それらにフィリアを追跡、殺害するよう指令を出す。

 

 放ったトリオン兵が仕留められれば良し。仮に逃げ延びたとしても、生身のままでは遠征艇まではたどり着けない。この場さえ切り抜けてしまえば、ノマスが再びエクリシアと邂逅するのは十余年後。本国での政争はとっくに片が付いているだろう。

 

 よしんば少女がエクリシアに帰還できたとしても、アルモニアの後ろ盾さえなければ、彼女はノマスの血を引く小娘に過ぎない。モナカとのやり取りを過剰に味付けし、敵に通じていたとして民衆を煽れば、排除するのは容易い。

 

「……必ず成し遂げる。その為なら、外道にでも畜生にでもなろう」

 

 クレヴォは自らに言い聞かせるようにそう嘯くと、クリズリを引き連れ吹き抜け通路の上層へと舞い戻る。

 兜の内側、老騎士の瞳には鋼の決意が宿っていた。

 

 

 

 

 




それでは皆様、よいお年をお迎えください。


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其の十九 死闘 遅すぎた尋ね人

あけましておめでとうございます。
本年も拙作をどうぞよろしくお願いします。


「頑張って。もうちょっとだよ!」

「ぁ……」

 

「パトリア号」内縁に続く通路を、小さな足が連なって駆けていく。

 褐色肌に栗色の髪をしたノマスの少女、ウェネフィカが手を引いているのは、同じく褐色の肌を持つ、白髪金瞳の少女フィリアだ。

 

「アンタ、この街では見たことない子だね。その髪の色、レクス様の親戚かい?」

 

 少女たちの前を駆け足で進みながら、息を切らせてそう問いかけるのは、恰幅のいい中年の婦人、ウィタだ。

 

「もう! おかーさん今そんな事どうでもいいでしょ! 早く避難しないと!」

 

 そう窘めるウェネフィカの声は、戦場には似つかわしくないほど明るく、はいはいと応じるウィタもまた朗らかだ。

 しかし、その面差しは真剣そのもので、声には隠しきれない緊張が滲んでいる。

 

 彼女たち母娘は「パトリア号」に住む一般市民である。

 生来情に厚く世話好きなこの二人は、指揮所からの避難指示が下されてから自発的に市民の避難誘導を行っていたのだが、その為自分たちは脱出の機会を逃し、最期の頼みの綱である避難艇へと向かっていたのだ。

 

 そんな二人がフィリアを見つけたのは、全くの偶然であった。

 通路の真ん中で、ノマスのトリオン兵の残骸の側にへたり込んでいた少女を目撃した時は、既に手遅れの状態かと思われた。

 しかしウェネフィカが勇気を奮って話しかければ、少女は虚脱状態に陥っているだけで命に別状はない。

 彼女たちは迷うことなく同朋と思しき少女を保護すると、共に避難艇へと移動を始めた。

 

「そういえば、レグルスちゃん心配だねぇ。まあレクス様がいらっしゃれば大丈夫だとは思うけど……ウェネフィカも気が気じゃないでしょう」

「おかーさん。今ホントにそういうのいいから」

 

 破壊音や振動など、激しい戦闘の余波は此処でもはっきりと感じられる。危機的状況にも関わらず、彼女たちが軽口を交わしているのは、一つは恐怖を紛れさせるため。そしてもう一つは、保護した少女を元気づけるためだ。

 

「ぅぁ……わ、わたし、はッ…………」

 

 ウェネフィカに手を引かれ、おぼつかない足取りで走るフィリア。未だに動揺が収まらない少女は、降って湧いた状況についていくことができない。

 

「あのね、私はウェネフィカっていうの。シビッラ氏族、クストスの子ウェネフィカ。――ね、落ち着いたら。あなたの名前も教えてね」

 

 そんな彼女を心から労わるように、ウェネフィカは優しく語りかける。結局、フィリアは自分がなぜ走っているかも定かでないまま、母娘に引きずられるようにして付いていく。

 そして、避難艇へと続く最後の通路で、変事は起きた。

 

「と、トリオン兵っ!?」

 

 ウェネフィカたちの後ろから、重い足音を響かせ二足歩行のトリオン兵クリズリが走ってくる。

 

「だ、大丈夫、味方だよ! 味方、じゃないかな……」

 

 虚を突かれた一行だが、よくよく見ればそれはノマスの新型だ。避難民を護衛しにきたものと納得し、動揺を抑えようとする。

 ただフィリアだけが、直感で脅威を感じ取った。

 

「だ……だめっ!」

 

 虚脱状態に陥った少女であったが、騎士団で積んだ鍛錬、身に着けた武芸は彼女を裏切らなかった。

 

「っ――!!」

 

 クリズリが一切速度を落とさずに突っ込んでくるのが見え、ウィタとウェネフィカの表情が青ざめる。

 フィリアは殆ど無意識の内に彼女たちの腕を引っ張り、諸共に横道へと倒れ込んだ。

 トリオン兵は肩から伸びたブレード付きの長腕で壁を切り裂きながら、勢い余って通路の奥へと駆け抜けた。どう見ても、少女たちを轢き殺す動きである。

 

「う、嘘……な、なんで!」

 

 起き上がったウェネフィカが悲鳴を上げる。味方かと思われたトリオン兵が殺意を向けてきたのだ。困惑も当然だろう。

 だが、クリズリは通路の奥で反転し、なおも口腔の単眼でじっと彼女たちを見詰めている。彼女たちを標的としているのは明らかだ。

 

「――!」

 

 そして次の瞬間、弾かれたように動き出したのはフィリアだ。

 死の瀬戸際に追い込まれたことで、彼女の意識は急速に覚醒へと向かった。

 少女は一か八か通路へと飛び出し、腰部のポシェットからエクリシアの正規トリガーを取り出す。

 ノマスの民を殺そうとしたのなら、このクリズリは間違いなくエクリシアの兵だ。味方の反応を察知すれば、攻撃を止めるかもしれない。

 

「くっ……」

 

 しかし、クリズリはトリガーを掲げるフィリアを目の当たりにするや、突進して高々と掲げたブレードを躊躇なく振り下ろす。

 この展開を予期していたフィリアは、小さな身体を素早く翻らせ死の斬撃を辛うじて躱す。

 

 やはり、このクリズリはフィリアを味方と認識せず、それどころか優先的に攻撃を仕掛けてきた。クレヴォ、或いはフィロドクス騎士団によってプログラムが書き換えられているのだろう。

 フィリアは生身とは思えないほど敏捷な動きでクリズリの真横を抜け、背後へと回る。

 

 己が標的とされたことを悟った少女は、ともかく敵から母娘を引き離そうと考えるが、通路は見通しが良く逃げも隠れもできない。しかも、相手は自分より圧倒的に早い人形兵器だ。

 おおよそ逃げられる可能性などないが、それでも少女は決然と走り出す。しかし――

 

「あっ――」

 

 クリズリが振り向きざまに薙ぎ払ったブレードが、フィリアの背中を斜めに切り裂いた。

 少女は衝撃につんのめり、地面に前のめりに倒れ込む。

 一拍おいて、熱湯を浴びせかけられたような熱が背中を襲う。

 

「痛ぁ……」

 

 少女が苦悶の呻きを上げる。追撃を躱すべく立ち上がろうとするが、身体が言うことを聞かない。

 クリズリは倒れ伏す少女に何の感慨も抱いた様子も無く、止めを刺さんとブレードを振り上げる。その時、

 

「その子から離れなっ!」

 

 喊声と共に、トリオン兵の顔面へ布包みが叩きつけられる。

 フィリアが切りつけられたのを見て、ウィタが手荷物を投げつけたのだ。そして彼女は手近にあったトリオン製の資材を手にすると、なんとクリズリに打って掛かった。

 娘と同じ年頃のフィリアを助ける為、ウィタが無謀な突撃を行う。が、

 

「あぁっ!」

「お母さんっ!!」

 

 純然たる戦闘機械に敵うはずもなく、ウィタはクリズリの腕の一薙ぎで吹き飛ばされた。

 地面を転がって倒れ伏す母を目の当たりにして、娘のウェネフィカが悲鳴を上げる。

 

「っ――」

 

 その光景は、倒れていたフィリアにも見えていた。

 自らを助けようとしたウィタの献身。そして母を思う娘の悲痛な叫びに、少女の頭に掛かった霧が瞬時に晴れていく。

 そして少女が完全に正気を取り戻すや、「直観智」のサイドエフェクトがこの絶望的な状況を覆す方法を囁いた。

 

「ウェネフィカさん! これを使って!」

 

 フィリアは震える身体に喝を入れ、渾身の力で手にしたエクリシアのトリガーをウェネフィカへと投げる。

 

「っ、え、え!?」

「トリガーを起動して! 早くっ!!」

 

 混乱の渦中にあったウェネフィカの足元に、狙い過たずトリガーが転がる。そしてフィリアの凛呼たる命令を受け、少女はトリガーを急いで拾い上げた。

 

「――トリガー起動」

 

 即座にウェネフィカの身体をトリガーがスキャンし、戦闘体を構築する。

 一瞬の後に、少女のトリオン体が通路に現れる。その手に提げられているのは、長大な騎士剣「鉄の鷲(グリパス)」だ。

 

「――!!」

 

 戦闘員の出現に反応したクリズリが、即座に攻撃体勢に移った。

 しかし、対するウェネフィカは何の訓練も受けていない素人だ。襲い来るトリオン兵に、どうしても身がすくんでしまう。

 

「何処でもいい! とにかく剣を叩き付けて!」

 

 ブレードを掲げてクリズリが突撃する。フィリアに叱咤されたウェネフィカは、瞳に決意の光を宿らせると、

 

「うあぁああああっ!」

 

 雄叫びと共に敵へと飛びかかる。

 交錯は僅か数秒。

 クリズリのブレードはウェネフィカの胸を深々と貫き、トリオン供給機関を断ち割った。

 だが、トリオン体が崩壊するその一瞬、少女は手にしたブレードを全力でクリズリへと投げつける。

 狭い通路に爆音が響き渡った。

 

「あうっ! うぅ……」

 

 生身に戻ったウェネフィカが通路に尻もちをつく。そして自分を刺し貫いた敵を探すと、目の前にはバラバラになったトリオンの破片が散らばっている。

 

「あ、あれ……えっと……」

「――――っ」

 

 困惑顔のウェネフィカを余所に、フィリアは戦慄に言葉を失っていた。

 騎士として己を極限まで鍛え上げたフィリアは、刹那の内に終わった戦闘を委細漏らさず見届けていた。

 ウェネフィカが投げつけた「鉄の鷲(グリパス)」は正確にクリズリの頭部へと直撃し、()()()()()()()()()()()()

 

 通常では考えられない出来事である。

 最新鋭の兵器であるクリズリには、同じ戦闘用のトリオン兵モールモッドの二十倍強のコストが掛けられている。その装甲の堅牢さは、並大抵のものではない。

 

 しかも、コアの収まる頭部は最重要部位として特に強靭に作ってある。

 ノーマルトリガーで打ち破るならば、よほどのトリオン機関と非凡な技量が必要だ。

 その強固極まるクリズリを、乱雑な一太刀で粉々に打ち砕いた力とは何か?

 

「神の候補……こんな小さな子、だったんだ……」

 

 フィリアが呆然と呟く。

 彼女はサイドエフェクトに導かれるまま、理由も分からずウェネフィカにトリガーを預けた。そうすれば、状況を打開できるという確信だけがあった。

 

 果たしてウェネフィカのトリオン機関は、正しく桁違いの力を有していた。

 その出力は間違いなく母パイデイアをも凌ぐ。エクリシアが、フィリアが探し求めていた新たな「神」が、目の前にいる。

 

「お母さんっ! お母さんっ!!」

 

 そんなフィリアの胸中など知る由もなく、ウェネフィカは倒れ伏したウィタの下へ駆け寄り、泣き声交じりで母を呼ばわっている。

 程なくして、ウィタは何事も無かったかのように意識を取戻し、身体を起こした。

 

 クリズリは飽く迄フィリアの排除を最優先としていたため、戦闘力の無い一般市民を適当にあしらったのだろう。仮にトリオン兵が本気で殴りつけていたなら即死していてもおかしくない。

 そして起き上がったウィタは、クリズリが消え去っていることを知るとウェネフィカを力強く抱きしめた。

 

「…………」

 

 涙を流しながら互いの無事を確かめる母娘に、フィリアは悲痛と安堵の入り混じった、今にも泣き出しそうな表情を向ける。

 少女にとって何よりも尊い家族の愛。彼女は思わず目の前の二人に、自分と母の姿を重ね合わしてしまう。

 

「ウェネフィカ! 荷物から布を持っといで! あんた、しっかりするんだよ!」

「頑張って! すぐお医者に連れていくから!」

 

 そして立ち上がった二人は、今度はフィリアの下へとやってくる。クリズリに切りつけられた少女を手当てしようというのだ。だが、

 

「――近づかないで」

 

 フィリアはよろめきながらも立ち上がると、決然とした表情でそう告げる。

 

「そのトリガーは速やかに放棄しなさい。追っ手がトリオン反応を捉えたやもしれません」

 

 先ほどの悄然とした姿とは打って変わり、凛然とした面差しで少女が言葉を続ける。

 あまりの変貌ぶりに、ウェネフィカら親子も驚いて歩みを止める。

 

「……私はあなたたちと同道する気はありません。ここで、お別れです」

 

 フィリアはそう言い捨てると、踵を返して都市の中央方向へと立ち去ろうとする。

 

「ま、待って! あなた怪我してるよ。手当てしないと!」

 

 だが、ウェネフィカがそう言って引きとめる。

 

「然程の傷ではありません。気遣いは無用です」

 

 フィリアの小さな背中には、右肩から腰まで一文字に裂傷が走り、鮮血が滲んでいる。

 痛々しくみえるが、倒れ込みながら切られたせいか傷はそれほど深くない。とはいえ、血が止まる浅さでもない為、早急に治療が必要だろう。

 少女はウェネフィカの申し出を言下に断ると、すぐさま歩き出そうとする。

 

「待って! ねえ、何処へ行くの? 何か忘れたの? 一人じゃ危ないよ。私たちも手伝うから……どうしたのか、教えて?」

「…………」

 

 ウェネフィカは立ち去ろうとするフィリアの手を取ると、熱を込めてそう尋ねる。

 しかし、同年輩の少女に優しく語りかけられても、フィリアこれ以上語ることなどないと言わんばかりに沈黙する。すると、

 

「ねえあんた、このトリガーは、いったいどうやって手に入れたんだい。……そもそも、こんなトリガー、私は見たことないけど……」

 

 それまで成り行きを見守っていたウィタが、微かに緊張を滲ませた声でそう尋ねた。

 彼女は娘から預かっていたフィリアのトリガーを子細に眺め、それがノマスのトリガーでないことに気付いたのだ。

 

「…………」

 

 尚も沈黙を貫くフィリア。ウィタはたじろぐウェネフィカの肩を掴み、少女から離れさせる。

 

「……もう二度と、会わないことを祈りなさい」

 

 フィリアは冷然とそう告げ、母娘を置き去りにして歩き出す。

 尚も事情の呑み込めないウェネフィカは少女を追いかけようとするが、ウィタがそれを許さない。

 

「待ってよ! 私まだ、あなたに助けてもらったお礼も言ってない! 

 ねえ、なんで!? 私もあなたの力になりたいのに! あなたと友達になりたいのに! 

 ――あなたの名前も教えてもらってないのに!」

 

 むざむざ死地へと赴こうとするフィリアに、ウェネフィカが困惑と非難の混ざった声を浴びせる。

 すると、件の少女はつと立ち止まり、

 

「私はイリニ家のフィリア。あなたたちの国を侵した、エクリシアの騎士です」

 

 背を向けたまま、何の感情も窺わせない声でそう言い捨てた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

(これで……これでよかったんだ……)

 

 激戦地となった「パトリア号」中央部へ向け、おぼつかない足取りでフィリアは歩く。

 結局、少女の出自を知ったノマスの母娘は、彼女を引きとめようとはしなかった。

 そしてフィリアも、神の候補に相応しいトリオン機関を有するウェネフィカを、強いて捕らえようとはしなかった。

 

 生身の身体で二人を制圧できないだろうことは明白で、またエクリシアのトリオン兵に自らが狙われている状況では、援軍を呼ぶのは自殺行為に等しい。

 それになにより、涙を流して互いの無事を確かめあう親子を引き離すことなど、少女にできることではなかった。

 

 騎士としては失格なのかもしれない。けれどもうフィリアは、神を捕らえる事に然程の意味を見出せなかった。

 ウェネフィカを生贄にしても、パイデイアは帰ってこない。

 弟妹たちと過ごす穏やかで喜びに満ちた未来は、永劫訪れることはない。

 

「伯父様に、伝えないと……」

 

 通路を進むフィリアの口から、かすれ声で独り言が零れる。

 混乱から立ち直った少女は、当然の疑問としてクレヴォの裏切りを思い起こした。

 政治的、個人的双方の理由があるだろうことはサイドエフェクトが教えてくれた。加えて、クレヴォとフィロドクス騎士団の本当の狙いがアルモニアの暗殺であることも、彼女の「直観智」は解き明かしてくれた。

 

「ぐっ……」

 

 背中の痛みと積み重なった疲労に耐えかね、少女は荒い息を付きながら壁に寄り掛かる。

 クリズリに切りつけられた傷は見た目より軽いとはいえ、未だに出血は収まっていない。

 それだけでなく、都市に侵入したエクリシアのトリオン兵を避ける為に、サイドエフェクトを酷使し続け、耐え難い眠気まで襲い掛かってくる。

 

 途切れそうになる意識を懸命に繋ぎ止め、少女は再び歩を進める。

 何としてでもアルモニアの下へとたどり着き、フィロドクス騎士団の裏切りを伝えねばならない。その一念が、少女を動かし続ける。

 だが、極度の疲労と少なくない出血。そして精神的なストレスに、とうとう少女の身体が音を上げた。

 

「うっ……」

 

 前に進もうという意思とは裏腹に、少女の体が無意識に頽れる。

 懸命に立ち上がろうとするが、全身が鉛に変わってしまったように重い。

 倒れ伏してなお足掻くも、結局フィリアの意識は底なしの暗黒へと飲み込まれていく。

 

 そして、少女が意識を失って数分後、昏倒した彼女の下に、重い足音が近づいてきた。

 通路の奥から猛スピードで近寄ってくるのは、少女に傷を与えたモノと同型のトリオン兵クリズリだ。数体のヴルフを連れた兵団が、すぐさま少女を取り囲む。

 そのトリオン兵がノマス、エクリシアどちらのモノであっても、フィリアの敵であることに変わりはない。少女の命は風前の灯火かと思われた。その時――

 

「フィリア! フィリア!! 私の声が聞こえますか! 返答してください! ――お願いします、目を開けて!」

 

 奇妙なほどに抑揚のない、それでいて身を裂かれるように緊迫した女性の声が、通路に木霊する。

 少女を見下ろすクリズリの陰から現れたのは、魚の尾びれのような突起を持つ、人の頭ほどの大きさをした物体――自律型トリオン兵ヌースだ。

 

「パトリア号」解体と(マザー)トリガー封鎖のプログラムをくみ上げ、モナカとの契約を果たした彼女は、すぐさまエクリシアの軍勢と接触すべく行動を始めた。

 都市内部はエクリシアが散布した「光彩の影(カタフニア)」の影響によるものか、通信状態が頗る悪かったが、それでも彼女のレーダーはフィリアのトリガー反応を検知した。

 ノマスから拝借したトリオン兵を引き連れ、全速力で現場へと向かう途上、ヌースは傷つき倒れ伏す家族の姿を見つけたのだ。

 

「…………」

 

 フィリアの息があることを確認すると、ヌースは持ち前の冷静さと合理性を如何なく発揮し、速やかに少女の治療を始める。

 万能索を伸ばし、背中の裂傷にトリオンを接着剤のように塗布する。トリオンは無菌で人体に影響を与えないため、止血を施すならこれで一先ず用足りる。

 見たところ、主要な血管に傷はついていないようだが、かなり動き回ったらしく出血が激しい。意識レベルも依然低いままであり、早急に治療を受けさせねばならない。

 

「大丈夫ですよフィリア。きっと、必ず助けますから。だから、どうか……」

 

 機械人形であるヌースから、祈りの如き言葉が零れる。

 少女を抱き上げたトリオン兵と共に、ヌースともかく味方と合流しようと動き出した。

 

 

 

 

 



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其の二十 死闘 謀略

 あらゆる事象を葬り去る暴虐の嵐が、「パトリア号」居住区画に吹き荒れる。

 吹き抜け広間の両面にびっしりと並ぶ居室。高層部の一画が、突如として爆発する。

 のみならず、コンパートメントを繋ぐ回廊や、広間に渡された連絡路が次々と崩れ落ちていく。

 

 まるでそこらかしこに仕掛けられた爆弾が、連鎖して炸裂したかのような光景。それが二人のトリガー使いによる格闘戦の余波だとは、俄かには信じられないだろう。

 さらに奇妙なのは、今まさに壮絶な戦いを繰り広げている両名の姿を、まともに見ることができないことだ。

 

 (ブラック)トリガーの使い手たる二人の戦士は、常人の目では捉えきれないほどの速さで居住区画を飛び回りながら戦っていた。

 

「っ――!」

 

 そして今また一つの住居が吹き飛ぶと、次は吹き抜け広間に激震と共に巨大なクレーターが穿たれる。

 

 陥没した床に立っているのは、「巨人の腱(メギストス)」の担い手レクス。彼の全身には葉脈の如き漆黒の模様が広がり、そして白目が黒く染まっている。

 彼の胸に突き刺さっているのは、あらゆるトリオンの支配と強化を行うノマスの(ブラック)トリガー「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘だ。

 

巨人の腱(メギストス)」によって生成された桁外れのトリオン体に、「悪疫の苗(ミアズマ)」による強化を加えた結果、レクスは近界(ネイバーフッド)の常識では考えられないほどの身体能力を獲得した。

 その拳は掠めただけで堅牢な防壁を紙のように削り取り、その機動はトリオン体の感覚を以てしても目で追う事さえできない。

 

 爆撃を受けたかのような居住区画の有様は、人型の災害と化したレクスによってもたらされた。

 けれども、彼が強化を温存していたのにはそれなりの理由がある。まず、凄まじい力を得られるとはいえ、それは「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘の内蔵トリオンが尽きるまでのほんの短い間のみ。

 

 また出力が余りに強くなりすぎる為、レクスほどの達人を以てしてもトリオン体の制御が難しくなる。

 最後に、別のトリガーを伝達機関に接続させるため、強化が解けた後はトリオン体に不具合が出る可能性が高い。

 

 モナカより預かった「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘は、ここぞという局面で用いる切り札であった。

 ノマス最強の戦士であるレクスが、その手札を切らなければならなかったのは、彼が対峙している男が近界(ネイバーフッド)屈指の実力者であるからだ。

 

「…………」

 

 半壊した連絡橋の手すりに、白亜の鎧騎士が音も無く着地する。

 不安定な足場に、重量を感じさせない身ごなしで立つのは、エクリシアはイリニ騎士団総長、アルモニア・イリニだ。

 

 鬼神と化したレクスを相手取り、しかし彼の騎士は五分の戦いを演じていた。

 身に纏う「誓願の鎧(パノプリア)」には大小さまざまの傷が走っているが、直撃打は未だ貰っていない。とはいえ、ただ掠めただけで堅牢無比な鎧がここまで損傷するのだから、レクスの出鱈目な力の程がよく分かる。

 

「…………」

 

 ほんの数拍、無言で対峙する両雄。

 そして二人の姿がまたも掻き消えると、広場に烈風が逆巻く。

 

 強化トリオン体のレクスが神速で踏込み、剛腕でアルモニアを撃つ。

 目にも映らぬ速度で迫る敵を前にしては、鎧のサポートを受けたアルモニアとて逃れられるものではない。しかし、彼はまるでレクスの攻撃を予め知っていたかのように、大剣形態の「懲罰の杖(ポルフィルン)」を振るってカウンターを狙う。

 

「っ――」

 

 突撃を阻まれたレクスは、しかし空中で身を捩って剣閃を躱しつつ、不安定な体勢から凄まじい威力の蹴りを繰り出す。

 顔面を狙った予想外の攻撃を、アルモニアは首を逸らしてこともなげに躱す。蹴り脚が掠めた兜の一部が、鑢を掛けられたかのように削りとられた。直撃していれば、兜ごと顔面が吹き飛んでいただろう。

 

「――」

 

 カウンターが決まらなかったとみるや、アルモニアは即座にスラスターを噴かせて中空へと逃れる。

 武の深奥に至った彼は、対手の動きを見るまでも無く、自らの意に先んじて最適無謬の剣を振るうことができる。

 

 しかし、極限まで強化されたレクスのトリオン体を相手にしては流石に分が悪い。

 いくらアルモニアが無念無想の境地で剣を扱おうとも、根本的な速度が違い過ぎる為、攻撃が追い付かないのだ。

 密着しての打ち合いでは回転率で押し切られる。

 乱戦に持ち込もうとするレクスに対して、アルモニアは徹底して距離を取り、カウンターを狙う。

 

 逃げるアルモニアと追うレクス。両者の激闘の余波で、小奇麗に整えられていた居住区画が見る間に無残な廃墟と化す。

 アルモニアにとっても意外だったのは、レクスが都市の破壊を躊躇わなくなったことだ。それどころか、トリオン吸収能力をもつ「懲罰の杖(ポルフィルン)」の隙を突くため、積極的に都市を破壊し、瓦礫を散弾のように浴びせかけてくる。

 

「…………」

 

 騎士の相貌に焦燥が浮かぶ。

 レクスに追い立てられ、防戦一方になってはいるものの、お互い一撃必殺のトリガーを持つ以上、形勢は五分といっていい。

 一つのミスが即座に勝敗を決する、綱渡りのような戦いだ。

 

 それがここまで長引いているのは、双方の技量が余りに高い次元にあるからだ。

 手練れ同士の戦いでは少しの綻びから戦局が傾くが、真の達人は如何なる状況でもミスを犯さない。

 実力伯仲の両者がなかなか決着を付けられないのは、いわば当然の成り行きと言えた。

 だが、その状況にも終わりが見えてくる。

 

「っ――」

 

 アルモニアの視界の片隅に表示されるのは、鎧のトリオン残量を示す警告文だ。

 都市外部での戦闘、カーラビーバとの激闘。そしてレクスとの死闘で、「誓願の鎧(パノプリア)」を動かすトリオンが底を尽きかけている。

 特に、レクスとの戦いでは常に全開の機動を強いられるため、消耗が著しく増加した。このままでは数分と持たずに、鎧は機能を停止するだろう。

 

誓願の鎧(パノプリア)」のアシスト機能があって初めて互角に持ち込める相手だ。鎧を失ってしまえば、アルモニアに勝ち目はない。

 焦燥が彼の剣を鈍らせることはないものの、レクスは迅雷そのものの速度で苛烈に騎士を攻め立てる。体勢を立て直す機会など見出すこともできない。そして――

 

「――!!」

 

 幾度目とも分からぬ交錯の後、回廊に着地した騎士の動きが微かに鈍った。

 それは隙と呼ぶには余りにも些細な硬直。しかし、レクスの強化された視神経はその好機を逃さなかった。

 

「っ!」

 

 床を、回廊を踏み砕き、音を置き去りにするかの如き加速でレクスが一直線に騎士へと迫る。

 アルモニアは回避行動に移ろうとするが、反応が一瞬遅れる。明らかに、鎧が伝達脳の指令に置き去りにされ始めている。

 漆黒に染まった瞳が殺意に燃える。レクスは獣の如き形相で、騎士の脳天に拳を打ち下ろす。だがその時、

 

「ぬぅっ!!」

 

 レクスの眼前で光が弾ける。

 

 轟音と共に彼へと向かってくるのは、バラバラになった騎士甲冑だ。

 アルモニアは鎧が動かなくなる前に、残るトリオンを用いて全身の装甲を瞬時に投棄したのだ。

 

 またしても釣られた。そう気付いた時にはもう遅い。

 圧縮トリオンによって弾き出された装甲は、砲弾のような速度でレクスに迫る。

 然しものレクスでも、不意を突かれた上に、攻撃体勢を取っていては躱しようがない。数発の装甲板が頭部と腹部に命中する。

 

「っ――!」

 

 衝突そのものは問題ない。強化されたレクスのトリオン体に、この程度で傷をつけることはできない。それより彼が恐れたのは、迫り来る装甲板によって視界が塞がれ、仇敵の姿を一瞬見失ってしまったことだ。

 

「く――」

 

 レクスは戦士の直感に従い、攻撃を中止して無理やりにでもその場を逃れようとする。

 刹那、彼の右脚に鈍い痛みが走った。

 

「…………」

 

 回廊より大跳躍したレクスは、眼下の広間へと降り立つ。その表情は苦悶に満ちていた。

 見れば、彼の右脚はふくらはぎの中ほどから切断されている。だが彼は、失った脚には頓着せず、掌で胸元を押さえている。

 

 彼の全身を覆っていた漆黒の文様は、いつの間にか輝きを失っていた。

 胸元に突き刺さっていた「悪疫の苗(ミアズマ)」の釘が、削り取られているのだ。

 

「…………」

 

 上層の回廊から、鎧を脱ぎ捨てたアルモニアが姿を現す。

 彼の両手には双剣の形状となった「懲罰の杖(ポルフィルン)」が提げられている。

 

 鎧を投棄し、対手の視界を奪ったその瞬間、アルモニアは弾かれたように飛び出すと、二刀を閃かせ鋭い斬撃をレクスに放った。

 あらゆる意思に先んじて、無念無想の境地から繰り出される剣閃は、レクスの反応速度さえも凌駕した。

 

 残念ながら急所を切り裂くことはできなかったものの、機動力を奪い、尚且つ対手の強化を解くことができた。達人相手に油断はできないが、トリガーの相性ではアルモニアが有利。鎧の損失を上回って余りある戦果である。

 

 鎧を先んじて放棄するという、一つ間違えれば自ら墓穴を掘りかねない危険な賭けであったが、アルモニアは見事勝利した。そして――

 

『イリニ閣下。配置につきました。気奴に不意打ちを仕掛けます』

『ああ。私が奴を追い込む』

 

 ()()()()()()()()()()()

 フィロドクス騎士団のジンゴ、カスタノ両名から連絡が入ったのはつい先ほどの事だ。

 遅ればせながら「パトリア号」に侵入を果たした彼らは、アルモニアとレクスが激闘を繰り広げる居住区へとたどり着き、物陰から奇襲の好機を窺っている。

 

 加えてアルモニアを安堵させたのは、フィリアの消息が掴めたことだ。彼女はフィロドクス騎士団のクレヴォと合流し、指揮所を目指して侵攻中らしい。

 

『次が控えている。確実に仕留めるぞ』

 

 アルモニアは双剣を振りかざし、電光石火の踏み込みでレクスへと挑みかかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 まさに最適のタイミングで、悪意は獰猛な牙を剥いた。

 

 疾風怒濤の勢いで攻勢に出たアルモニア。

 騎士の手にする「懲罰の杖(ポルフィルン)」は、大剣、軟鞭、槍、双剣、果ては形容しがたい異形へと目まぐるしく変化して対手を狙う。

 そして様々な器機を用いながらも、騎士の振るう技は迅速にして精密、一切の過誤なく、一片の容赦なく対手に襲い掛かる。

 

 連綿と途切れることなく、神速で舞い踊る刃の光。

 最強の騎士が振るう無謬の剣を前に、片足を失ったレクスは後退を余儀なくされ、到頭居住区画の一隅へと追い詰められた。

 

 されど、レクスもまた超一流の戦士。劣勢に追い込まれて尚、その闘志は微塵も揺らがない。「懲罰の杖(ポルフィルン)」を前に防御は無意味。かくなる上は、誘い込んで騎士にカウンターを喰らわせる。差し違えることも覚悟の上だ。

 

 レクスは敢えて袋小路へ飛び退ると、体勢を崩した風を装ってアルモニアの攻撃を誘う。

 だが、それまで苛烈極まる攻撃を続けていたはずの騎士は、何故か絶好の機会を前にして攻め手を緩めた。

 対手の異変に、レクスの直感が警鐘を鳴らす。この状況、己こそが謀られたのでは?

 

「――っ!」

 

 隙を晒すのも厭わず、戦士が大跳躍して距離を取る。狭隘な地形に障害物の数々、待ち伏せにはうってつけだ。

 レクスの予感は正しかった。まさにこの瞬間、物陰から隙を窺っていたエクリシアのジンゴ・フィロドクスは、必殺の一撃を放っていた。

 

 ただし――標的はレクスではない。

 

「な――!?」

 

 驚愕の表情を見せたのはアルモニアだ。

 最適なタイミングでありながら、レクスへの不意打ちが行われない。

 そのことに不穏な気配を感じとった彼は、反射的に身を反らした。

 すると、突如として壁面から現れた漆黒の物体が、彼の左腕へと直撃し、有ろうことか腕の中に入り込んだのだ。

 

「――っ!」

 

 即座に騎士は手にした剣を宙へと投げると、左腕を光の剣に叩き付ける。

懲罰の杖(ポルフィルン)」は指定したトリオン反応を吸収しないように設定できるが、彼はその機能を解除し、入り込んだ異物を左腕ごと消し去ったのだ。

 

『馬鹿な! いったいどういうつもりだジンゴ卿!!』

 

 残る右手で「懲罰の杖(ポルフィルン)」を掴み取りながら、アルモニアが通信機に向けて吼える。

 しかし、返答の代わりと言わんばかりに、彼の周囲の床や壁面から、紡錘形のトリオン弾が次々に飛び出してくる。

 

「っ――」

 

 アルモニアは凄まじい技量を以て光の剣を振り回し、周囲から飛び来る漆黒の高速弾を防ぎ、躱し、紙一重で凌ぎきる。

 絶世の剣士たるアルモニアでなければ、間違いなく被弾していただろう多重飽和攻撃。断じて誤射などではない。ジンゴは確実に彼を殺しにきた。

 

『この局面で裏切るとは……くそッ、フィリア!』

 

 驚愕は未だ収まらないが、明晰なるアルモニアの頭脳は冷静に事の真相を解き明かす。

 エクリシアが宿痾とする政治闘争。その中でも最も過激な手段である暗殺を、あろうことかフィロドクス騎士団は敵の陣中で仕掛けてきたのだ。

 

 無謀極まる試みだが、それでも実行に移したからには相応の計画があるのだろう。そして彼らが裏切ったとなれば、フィリアの安否も依然不明のままだ。

 いや、間違いなく魔の手は少女にも伸びているだろう。都市内でけりを付け、犯行をノマスに被せるつもりなら、フィロドクス家以外の突入班は全て標的のはずだ。

 

「くっ……」

 

 アルモニアは焦燥に奥歯を噛みしめながら、四方八方より襲い来る弾丸を超人的な業前で斬り防ぎ、避ける。

 この漆黒の弾丸は、エクリシアの(ブラック)トリガー「潜伏の縄(ヘスペラー)」による攻撃だ。

 

潜伏の縄(ヘスペラー)」の能力は、トリオンに潜行する追尾弾である。

 このトリガーによって生成された弾丸は、あらゆるトリオン製の器物の中を自由自在に進み、敵対者へと自動的に襲い掛かる。

 

 威力、弾速ともに申し分なく、またトリオンを介した手段では防御不可能で、内部に侵入してから炸裂するため、対象の耐久力も関係ない。

 しかも完全自動で動くため、トリガー使いが誘導する必要がない。おまけにトリオンに潜行している間は推進力を必要としない為、トリオン製の建築物の中では無限に等しい射程を持つ。

 

 加えて任意で追跡や潜伏、その場で炸裂など細かな指令も可能。

 あらゆる方向からの攻撃に加え、トラップとしての機能も果たす、屋内戦では最強とも目されるトリガーである。

 

 しかし、頼もしい味方は今や最悪の敵と化した。

 それでもアルモニアは懸命に攻撃を凌ぎながら、事態を打開する機を窺う。

 

(奴はどこだ? ここまで複雑に弾丸を操作しているなら、必ず近くにいる筈)

 

潜伏の縄(ヘスペラー)」は遠距離からでも攻撃を行えるが、アルモニアを確実に殺害するなら目視圏内まで近付くだろう。いずれにしても、ジンゴが暗殺を諦めた気配はない。ならば、見つけ出して速やかに始末する。

 

 不幸中の幸いなのは、レクスがまだ健在であるということだ。

 おそらくアルモニアを確実に始末するため、あえてレクスに止めを刺す瞬間を狙ったのだろうが、結局その策は成功しなかった。

 

 レクスも横槍を入れた者の姿を探し求め、荒れ果てた居住区を飛び回っている。「潜伏の縄(ヘスペラー)」のデータはノマスも有しているだろうから、エクリシアが仲間割れを起こしたことには気づいているだろう。

 ジンゴはレクスも抑えねばならぬため、そちらにも攻撃を仕掛けている。結果、アルモニアに襲い掛かる弾丸の量が何とか捌ける程度まで減っている。

 

 期せずして戦況は三つ巴の様相となった。

 とはいえ、各々の動きははっきりしており、腹の内を読み合って手を出しあぐねているという訳ではない。

 

 アルモニアとレクスは互いの動きを警戒しながらも、明確にジンゴを主目標と定めて索敵を行っている。双方に攻撃を加え、しかも圧倒的優位を占めているのだから当然だ。

 壁や床、散らばる瓦礫に潜伏した弾丸が容赦なく襲い掛かる。通常の使い手なら防ぎきれない密度の弾丸を、アルモニアは入神の剣技で、レクスは超絶の体術で悉く防ぎ、躱していく。

 

 そして彼らは、無礼なる闖入者の姿を捉えた。

 居住区の上層。比較的損傷の少ないコンパートメントの陰に、鎧騎士が潜んでいる。

 

 手にしているのは、等間隔に節目が付いた漆黒の荒縄「潜伏の縄(ヘスペラー)」だ。

 彼が手を掲げると、節目ごとに縄が切断され、バラバラになったパーツが地面へ落ちる。

 しかしそれらは床面に接した瞬間、まるで水の中へと入り込んだように、音も無く地面に潜行する。そして漆黒の弾丸は壁や床を自由自在に遊泳しながら八方へと散っていく。狙いは勿論、迫り来るアルモニアとレクスだ。

 

「っ――」

 

 両名に捕捉されたことを察すると、ジンゴはスラスターを噴かせて中空へと飛び上がった。「潜伏の縄(ヘスペラー)」は強力なトリガーだが、格闘戦は不得意としている。

 アルモニアは鎧を失い、レクスは片足が切断されている。空中に逃れれば殆どの攻撃を躱せる。

 もちろん、彼がそのように考えているだろうことは、アルモニアにはお見通しだ。

 

「ハッ!」

 

 鋭い呼気と共に、騎士が長剣を振るう。

懲罰の杖(ポルフィルン)」を用いた砲撃だ。眩い光線が一直線に突き進み、空中に舞いあがったジンゴに直撃する。

 蓄えられたトリオンは乏しく、威力は然程でもない。堅牢な「誓願の鎧(パノプリア)」を貫いて着装者を仕留めることはできないだろう。とはいえ、鎧の一部機能だけでも破損させることができれば十分だ。上手く飛行機能にでもダメージを与えられれば、俄然仕留めやすくなる。

 

「っ――!」

 

 だがその時、光線の直撃を受けた筈のジンゴが、跡形もなく掻き消えた。

 

「虚像!? 幻惑迷彩か!」

 

 異変を目の当たりにするや、即座にアルモニアは地を蹴って翻転。直後、彼の背後を漆黒のトリオン弾が通り過ぎる。

 着地するや否や、騎士は居住区の上層を仰ぎ見る。

 するとそこには、無傷のジンゴが平然と建物の上に立っている。

 ――その数、目算で二十人余り。

 増殖した騎士たちが、弾丸に追い立てられるアルモニアを睥睨していた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ッ!」

 

 標的の増殖に、思わず舌打ちを漏らしたのはレクスだ。

 怨敵アルモニアとの死闘に水を差した新手の騎士を、彼は真っ先に仕留めようとした。エクリシア勢の仲間割れは、彼にとっては特に考慮すべき事柄ではない。どのみち、都市に侵入した敵は全て排除するのだ。ただ、面倒な「潜伏の縄(ヘスペラー)」から優先的に片付けるに過ぎない。それまで、アルモニアは弾除けとして使うだけだ。

 

「――っ!」

 

 地を蹴って潜伏する弾丸から逃れるレクス。「潜伏の縄(ヘスペラー)」に対して有効な防御手段を持たない彼だが、「巨人の腱(メギストス)」によって強化された反射神経と運動能力ならば、飛び来る弾丸であっても避けることはできる。

 そうしてジンゴ・フィロドクスを追っていた彼であったが、ここにきて攻撃を中断せざるを得なくなった。

 

 敵が増殖した理由は明らかである。エクリシアの(ブラック)トリガー「光彩の影(カタフニア)」による幻影だ。

 彼のトリガーは霧を散布することで広範囲の通信妨害を行うことができるが、霧の濃度を上げることで、空間に虚像を投影することが可能となる。

 

 しかも、投影された虚像は驚くほど精緻で、トリオン体の視力を以てしても、よほど近づかなければ映像とは見抜けない。

 おまけにそれぞれが独立した動きをするため、挙動から本物を見付けるのも難しい。

 レーダーまで攪乱されるため、真偽の判別は極めて困難だ。

 

「小癪な真似を……」

 

 よほど自信があるのか、それともブラフか、「光彩の影(カタフニア)」の担い手であるカスタノ・フィロドクスまでもが居住区に姿を現している。

 蓋の空いたガラス小瓶のようなトリガーを手にし、そこから滔々と霧を流しながら、騎士は居住区を飛び回っている。

 勿論、その数は一人や二人ではない。二十人余りのカスタノが、「潜伏の縄(ヘスペラー)」のジンゴと肩を並べてアルモニアとレクスを見下ろしている。

 

「っ――!」

 

 そして「光彩の影(カタフニア)」の幻影は防御だけでなく、攻撃においても覿面の効果を発揮する。

 レクスに四方八方から襲い掛かる「潜伏の縄(ヘスペラー)」の弾丸。なんとその数が倍増しになっている。通常の弾丸を覆い隠すように、幻影の弾丸が混ざっているのだ。

 

 瞬時に本物を見極めることはまず不可能。レクスは無理矢理に身を捩って、紙一重で弾雨を躱す。

 しかし、何度もこの密度の射撃を受け続ければ被弾は免れない。レクスは片足の不利をものともせず、高速機動で追尾弾を引き離しにかかる。

 

 住居の壁面を蹴りあげ、上層の回廊へと避難する。逃げ場は少なくなるが、同時に「潜伏の縄(ヘスペラー)」が潜行する壁や床も狭くなる。攻撃の方向さえ限定すれば、多少なりとも回避は楽になる。

 だが、逃げてばかりでは埒が明かない。何とか攻める糸口を見つけなければ。レクスの表に焦燥が浮かぶ。

 

 とその時、一条の閃光が居住区画を奔る。

 見れば、アルモニアがジンゴたちに向けて「懲罰の杖(ポルフィルン)」で砲撃を放っていた。しかし、トリオンは殆ど吸収できていない為、虚仮威し程度の威力しかない。

 

「――ふん」

 

 その攻撃の意図を察したレクスは不機嫌そうに息を吐くと、手近にあった壁面の一つを軽く殴りつけた。

 堅固な壁が焼き菓子のように砕け、宙に舞う。レクスは腕を勢いよく振ると、砕けた複数の破片を弾き飛ばす。

 レクスのトリオン体に殴られ、弾丸の如き加速を得た瓦礫は、吸い込まれるように空中のカスタノを捕らえる。が、それは虚像であり、瓦礫は騎士をすり抜けて彼方へと飛んでいく。

 

「虱潰しだ」

 

 それでもレクスに落胆した様子はなく、当たりに散らばる破片を次々に弾き飛ばし、投げつけては空中の敵に叩き付ける。

 小さな瓦礫を散弾のように浴びせかけ、敵の本体をあぶり出す。単純だが間違いのない攻略法だ。

 アルモニアが効果の薄い砲撃を繰り返すのも同様の理由からだ。

 

光彩の影(カタフニア)」の幻惑は極めて高性能だが、それそのものに攻撃力はない。「潜伏の縄(ヘスペラー)」の弾丸に注意を払いつつ片端から幻影を削って行けば、何時かは本体に行き当る。

 アルモニアとレクスは居住区内を飛び回りながら、凄まじい勢いで幻影を打ち払っていく。互いに立ち位置を変え、時には相手をフォローしながら、まるで背中を預けるかのような動きまで見せた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「っ……馬鹿な、いったいどうなってやがるっ!」

 

 達人二人の思わぬ共闘に、苦渋の声を発したのはカスタノだ。

 二人の攻撃の苛烈さに、幻影の生成が追い付かない。ただでさえ緻密な虚像を映すには神経を使う上、彼は「光彩の影(カタフニア)」の扱いに習熟していない。

 ダミーは数を減らす一方だ。手負いのレクスに鎧を失ったアルモニア。与し易いと思われた相手に手痛い反撃を受け、カスタノは頭に血を上らせる。

 

『落ち着け。苦し紛れの抵抗だ。それより弾丸の方にリソースを回せ。「潜伏の縄(ヘスペラー)」が一発でも当たれば我々の勝利だ』

 

 ジンゴは至極冷静な口調で弟を窘める。とはいえ、想像以上に粘られているのは否めない。アルモニアを確実に始末しようとして、レクスの撃破を後回しにしたのが悔やまれる。

 とにかく彼らの鋭気を挫くのが先決と、ジンゴは回遊させている弾丸をも集めて総攻撃を仕掛ける。カスタノに虚像を仕掛けさせることも忘れない。

 

 ターゲットはレクスだ。驚異的な身体操作で弾丸すら躱す難敵だが、物理的に避ける隙間さえ与えなければ必ず当たる。

 フィロドクス騎士団の二人は呼吸を合わせ、標的が着地した瞬間を狙って弾丸を浴びせかける。

 

「――!!」

 

 レクスの全周を漆黒の弾丸が取り囲む。その量、密度は今までにないほどで、突如として巨大な鳥かごに取り込められたかのようだ。

 半分程は「光彩の影(カタフニア)」の幻影だが、それでも身を躱すような隙間はどこにもない。

 確実に殺った。とジンゴが兜の奥で会心の笑みを浮かべる。

 だが、なんとレクスは一切の躊躇なく包囲の一画へと突進するではないか。

 

「な――」

 

 閃く剣光が、漆黒の鳥かごを切り裂いたのは次の瞬間だ。アルモニアが軟鞭形態の「懲罰の杖(ポルフィルン)」を振るって、「潜伏の縄(ヘスペラー)」の弾幕の一画を消し去ったのだ。

 

「――」

 

 まるで示し合せていたかのように、レクスが包囲の切れ目から脱出する。と同時に瓦礫を投擲し、ジンゴたちの虚像をかき消した。

 

「く……」

 

 流石のジンゴも言葉を失う。対手が攻めに転じたとみるや、アルモニアはレクスに攻撃を任せ、自らは両者を狙う弾丸を消せる位置を保つ。

 二人の連携には一分の乱れもない。これが怨恨積もる宿敵同士だと、一体誰が信じられるだろうか。

 

 ジンゴは知る由も無い。超一流の武芸者たるアルモニアとレクスは、相手への感情はともかく、互いの力量だけは疑いようもなく認めている。

 図らずも共闘することとなった両名は、信じがたいほどに巧緻な連携を見せた。

 

「っ――」

 

 そして到頭、レクスが放った飛礫がカスタノを捉えた。

 鈍い音が辺りに響く。鎧を纏っているためダメージはないが、幻影ではない本体を探り当てられた。

 カスタノは当然逃げようとするが、それを阻むかのようにアルモニアが遠距離から目くらましの砲撃を繰り出す。

 閃光で奪われた視界を取り戻した時にはもう遅い。レクスが既にあと一歩の距離まで間合いを詰めている。

 

「くそ――」

 

 カスタノの口から思わず悪態が零れる。だが、

 

「なんちゃって、な」

 

 その時、空を切り裂く大出力のレーザーが、レクスの頭部目がけて照射された。

 

「っ!!」

 

 超人的な反射神経で左手を顔の前に翳すレクス。だがレーザーは彼の掌を融解させ、左耳を削ぎ飛ばす。

 

「ここで新手か……」

 

 突撃を阻止されたレクスはそれでも体勢を崩さず回廊へと着地する。

 居住区画の上層に現れたのは、「誓願の鎧(パノプリア)」を纏った新たな騎士。

 

「クレヴォ翁。やはり貴方まで……」

 

 アルモニアが苦々しく呟く。

 特徴的な八面体の狙撃ビットが騎士の傍らに寄り添う。

 (ブラック)トリガー「万鈞の糸(クロステール)」を携えて戦場に現れたのは、エクリシア遠征部隊総指揮官、賢者クレヴォ・フィロドクスその人であった。

 

 

 



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其の二十一 死闘 争いの果てに

「パトリア号」中央下層に位置するノマス戦闘指揮所では、職員たちが火のついたような慌ただしさで働いていた。

 

「二十二番避難艇が脱出しました。他の脱出艇に市民はいない模様! おそらく市民の避難は完了したと思われます」

「避難指示はそのまま継続してください。トリガー使いはどうなっていますか?」

「エクリシアの通信妨害で正確な情報は把握できませんが、レクス様も含め十名以上が敵兵と交戦している模様です」

「即刻戦闘を中止し、都市外へ離脱するよう通達をお願いします! 無線が繋がらなければスピーカーで伝えてください。離脱が無理でもトリオン体は維持するように厳命を!」

 

 オペレーターへと指令を下すのは、白髪金瞳の少年レグルス。彼は目まぐるしく変動する戦局を前に、それでも懸命に指揮を執っていた。

 

「おい、封鎖の準備がもうすぐ出来るぞ! 始めていいのか!?」

 

 コンソールを叩きながらレグルスにそう問いかけるのはユウェネスだ。

 彼はモナカから送られた都市解体、並び防護壁作成プログラムの最終確認を行っている。

 

「構いません。準備が整い次第、カウントダウンを始めてください。都市内外に聞こえるようにアナウンスを行います」

「トリガー使いはどうするんだよ! 離脱を待たないのか?」

(マザー)トリガーの封鎖を優先します。最悪、トリオン体さえ残っていれば封鎖に巻き込まれても死にはしません」

 

 凛然たる面持ちで言い切るレグルス。

 ノマス全軍を差配する大任に当初は委縮していた少年も、苛烈な戦場を肌で感じるや、すぐさま覚悟を決めて己の任務に励んだ。若年ながらも堂々たる采配を振るい、一廉の戦士としての風格を滲ませている。

 

「お前なぁ、後で掘り出すのどんだけ大変だと……まあいい。進めるぞ」

 

 都市を崩壊させてしまえば、勿論内部に残った人間は残らず巻き込まれることになる。

 桁違いの質量のトリオンによって地面と一つにされてしまうのだから、生身の体では万に一つも助かる見込みはない。

 しかし、トリオン体であれば話は別だ。隔壁の中に取りこめられてしまっても体は損壊せず、また休眠機能が付いているため、酸素の供給が無くとも死ぬことはない。後々助け出すことができる。

 

「オペレーターの皆さんも直に脱出してもらいます。もう少しだけ、付き合ってください」

 

 レグルスは職員らを勇気づけるように声を掛ける。

 一時は絶望的かと思われた戦況も、モナカが封鎖プログラムを完成させたことで光明が見えてきた。(マザー)トリガーを封鎖できれば、エクリシアは撤退を余儀なくされる。職員たちは少年の激励に、首肯して答える。だが、

 

「って、ちょっと待て。やっぱりお前が残る気か」

 

 決意を秘めた様子のレグルスに、非難がましい声を浴びせたのはユウェネスだ。

 封鎖は間もなく成るが、最大の懸念はまだ解決していない。

 その懸念とは、封鎖に当たって一体誰がこの指揮所に残るかということだ。

 封鎖の前段階である都市解体は、ボタン一つで自動的に行われる。しかし、防護壁を構築する段階では、どうしても細かな指示を出すオペレーターが必要になる。

 

光彩の影(カタフニア)」の霧により無線は未だ不安定で、外部から操作するのは難しい。

 自律型トリオン兵デクーも、量産型故に戦闘以外の機能は乏しく、万民の命が掛かった封鎖を実行させるには甚だ心許ない

 どうしても、実行役の人間が指令室に残る必要がある。

 それを、レグルスは自らが行うつもりなのだ。

 

「はい。僕は指揮を預かる身ですから」

 

 ユウェネスの問いかけに、少年は事も無げにそう答える。

 確かにトリオン体を維持していれば命を落とす心配はないが、危険な役目に変わりはない。(マザー)トリガーを封鎖した後、ノマス全軍は戦闘を放棄し、エクリシアの撤退まで市民と共に逃走を行う予定だ。放置されたレグルスは、味方に助け出される前に敵に捕らえられる恐れがある。

 

「もちろん「万化の水(デュナミス)」は退避させますよ。元々僕では満足に扱えませんから、ユウェネスさんにお返しするつもりでしたし……」

「いや、そういう話じゃねぇんだよ」

 

 平然と言葉を続けるレグルスに、苛立ちと呆れをないまぜにした様子でユウェネスが食って掛かる。

 

「ここはアレだ。――あー、なんつうか、流れ的に俺が残るって感じじゃねえか? いや、俺だって生き埋めとか勘弁だけどさ。流石に年下のお前ほっぽいてとんずらかますっつーのは、幾らなんでもダサすぎるっていうか……」

 

 少年の挺身に怒るでもなく、悲しむでもなく、如何にもきまりが悪そうに頬を掻きながら諭すユウェネスに、指揮所内の何処からともなく忍び笑いが零れる。

 

「はあ……ユウェネスさんがそんなカッコいいことを言うなんて、ちょっと驚きました」

 

 ユウェネスの満腔からの気遣いに、レグルスは軽口を叩いて応じる。いつもの二人の掛け合いに、張りつめていた指揮所の空気が少しだけ緩む。

 

「あのな、俺は真面目な話をしてんだよ。あと、俺は何時だってカッコいいだろ? こんな美味しい役目、俺以外に誰が適任だってんだよ」

 

 悲壮な雰囲気を鼻で笑うかのように、青年が明るい口調で嘯く。

 しかし、少年は笑みを浮かべながらも首を振り、

 

「でも、やっぱり残るべきなのは僕ですよ。ユウェネスさんなら撤退した後でも出来る事は山ほどありますけど、僕は……何の役にも立てないですから」

 

 と、微かな自嘲を含んでそう溢す。

 トリオンエンジニアとして卓越した技術を持つユウェネスと、戦闘以外には大した特技を持たないレグルスなら、どちらを残すべきかは明らかだ。

 この戦でも、レグルスは国宝(ブラック)トリガー「万化の水(デュナミス)」を預かりながら、戦闘では然したる活躍もできていない。精々が、迎撃準備の為に走り回った程度だ。

 

 技術者としてはユウェネスに遠く及ばず、戦士としての技能でさえ、単身で敵の主力を抑えている父レクスに比べれば凡庸そのもの。

 責任感の強い少年が、身を捨ててでも封鎖を成功させようと考えているのは明白だ。

 

「あのな、役に立つとかどうとかじゃなくて、体面の話してんの。――わかる? 俺の顔立ててくんないかって頼んでんだけど!?」

 

 悲壮な決意を述べる少年に、なぜかユウェネスは憤慨したように絡む。ちぐはぐなやり取りに、もはや職員は笑い声を隠さない。

 何とかレグルスを翻意させようという思いは、指揮所の皆が抱いている。

 族長の息子だからという理由だけではない。この利発で誠実な少年は誰からも愛されており、皆が家族のように思っている。むざむざ命を危険にさらそうとするのを、見過ごす訳にはいかない。

 

「でも……」

「でもも何でもねーんだよ。年功序列だ。黙って言う事聞け」

 

 ユウェネスはそう言って弟分を無理やり黙らせようとする。しかし、尚もレグルスは不満げな表情で口を尖らせ、反論を述べようとする。その時、

 

「敵トリオン兵の反応を検知! 指揮所へと接近しています!」

 

 オペレーターの緊迫した声が、指揮所に響いた。

 

「話は後だ。――モニターに映像を出せ。位置と敵の種別、数を報告しろ!」

 

 和やかだった指揮所の空気は、再び鉄火場の緊張感に満たされる。

 別人かと思うほどに表情を引き締めたユウェネスが、鋭い声で命令する。

 

 メインモニターに現れたのはエクリシアのトリオン兵団だ。クリズリが三体、ヴルフが十六体。それらの兵団が、指揮所へと続く通路を邁進している。

 動きに迷いは見られない。どうやら、彼らは通路の先に指揮所があることを知っているらしい。

 

「パトリア号」の内部は、侵入者を拒むために迷路のように複雑な構造となっているが、エクリシアは「光彩の影(カタフニア)」の散布によっておおよそのマッピングを完了させており、指令を受けたトリオン兵らが指揮所へと殺到し始めていた。

 

「トリオン兵の進行ルート上の隔壁を全て降ろしてください。トラップも起動してこれ以上近付けさせないように! オペレーターの皆さんも護身用トリガーを起動してください。何としてでも封鎖までココを護り抜きます!」

 

 詳細な報告を受けるや、レグルスが矢継ぎ早に指示を下す。

 ここが正念場だ。指揮所が落とされれば、ノマスの命運も尽きる。職員たちは先ほどまでの会話も忘れ、全員がここで死ぬ覚悟を固める。

 

「隔壁展開完了しました。砲台も順次敵を捕捉。兵団にダメージを与えています」

 

 とはいえ、都市の最深部ともなれば備えは十分。分厚い隔壁が十メートルおきに通路を寸断し、稼働した迎撃装置が敵に弾幕を浴びせかける。

 それでもエクリシアの兵団は果敢に突撃を仕掛けるが、砲台を破壊したところで隔壁の突破にはかなりの時間がかかる。(マザー)トリガー封鎖までの時間は楽々稼げるだろう。

 

 敵の足止めが無事成功したと分かると、オペレーターたちの悲壮感も少しは和らぐ。

 指揮所の真下には避難艇が用意してあるため、封鎖が始まれば職員たちはすぐさま(ゲート)を通って都市から離れることができる。

 生還、の二文字が彼らの脳裏に浮かぶ。だが、エクリシアの怒りの程を、彼らは読み違えていた。

 

「え? あのトリオン兵はなにを……」

 

 オペレーターが呟く。

 見れば、隔壁の前で立ち往生していたクリズリの一体が、奇妙な体勢を取っていた。

 短腕と両足を床につけ、蹲った四足獣のような姿勢。肩から伸びた長腕は、先端のブレードを深々と床面に突き立てている。

 土下座をしているかのような格好。しかし、頭部は地面と水平に持ち上げられ、口腔の単眼は屹立する隔壁を見据えている。

 

「っ、ヤバい!」

 

 機械仕掛けの戦闘兵器であるトリオン兵は、決して無駄な動きを行わない。トリオンエンジニアとしての直感が、ユウェネスの総身に怖気を走らせる。

 

「総員、対ショック姿勢を――」

 

 異変を感じ取ったレグルスが指示を出す。その瞬間、指揮所のモニターがホワイトアウトした。

 

「な――なにが起きた!」

 

 指揮所にまで届く轟音と激震。ユウェネスらは原因を探ろうとするが、衝撃でカメラが破壊され、映像が映らない。

 オペレーターが別のカメラに切り替えれば、そこには隔壁が融解した通路と、疾走するトリオン兵団が映っている。

 

「レグルス! 「万化の水(デュナミス)」で通路を埋めろ! 早くッ!」

「は、はい!」

 

 頼みとしていた隔壁が、いとも容易く破られた。

 ユウェネスは迷わずレグルスに通路を完全封鎖するよう指示を出す。少年は機敏に応じるが、トリオン兵の方がはるかに速い。

 

「クリズリがまた例の姿勢を取りました!」

 

 悲鳴のようなオペレーターの報告が響く。

 モニターを見れば、新たな隔壁を前にしたクリズリが、先ほどと同じ四つん這いの姿勢を取っている。

 彼らは知る由もなかったが、エクリシアの優秀な研究者たちは、ノマスの最新型トリオン兵をすぐさま解析、生産するには飽き足らず、切り札として新たな機構を組み込んでいた。

 

 それは騎士用の新鋭トリガー「金の鯨(ケートス)」を基にした、桁違いの砲撃能力である。

 内蔵トリオンの全てを攻撃に転換する一度限りの砲撃。砲撃を行ったクリズリは、その一射で全てのトリオンを使い果たし機能を停止する。

 只でさえ高コストのクリズリを、使い捨てにするかの如き狂気の機構。

 されど、その威力は(ブラック)トリガーの一撃にも比肩する。如何に堅牢な隔壁だろうと一溜まりも無い。

 

「総員武器を執ってください! 敵が来ます!!」

 

 再度の激震。クリズリの捨て身の砲撃によって、遂に指揮所までの全隔壁が焼け落ちた。

万化の水(デュナミス)」で通路を封鎖する暇も無い。トリオン兵はすでに指揮所の扉へと到達し、力任せにこじ開けようとしている。

 

「っ――」

 

 指揮所に詰めている人員の内、戦闘用トリガーを有しているのはレグルスとユウェネスだけだ。その他の職員は、護身用トリガーでトリオン体にこそ換装しているが、武装は簡易トリオン銃のみである。

 

「構えっ!」

 

 ユウェネスが号令を掛けると、職員たちが一斉に筒先を歪んだ扉へと向ける。

 そして、到頭扉がこじ開けられると、クリズリが指揮所へと身体をねじ込んできた。

 

「撃てえ!!」

 

 トリオン機関は弱くとも、職員らは軍人としての訓練を受けている。数十の火箭が、扉の隙間から覗くクリズリの頭部へと殺到する。だが、

 

「っ――」

 

 出会いがしらの攻撃を予期していたかのように、クリズリは短腕を眼前に掲げ、集中砲火を防ぎきる。

 戦闘用のトリガーならまだしも、一定の出力しか出せない簡易トリオン銃では、強靭な装甲を打ち破ることができない。

 歪んだ扉をぶち抜き、クリズリが指揮所へと躍り込む。その速度、装甲、膂力。一体だけでも、指揮所の人員を皆殺しにするに十分な戦力だ。だが、

 

「やらせない!」

 

 突如として地面から出現した複数の杭が、トリオン兵の全身を刺し貫いた。

 レグルスが「万化の水(デュナミス)」を用いて床のトリオンを変形させ、クリズリを串刺しにしたのだ。

 戦闘向きでないとはいえ、(ブラック)トリガーの出力にただのトリオン兵が耐えられる道理も無い。しかしそれでも、クリズリは長腕を振り回してなおも暴れ続ける。

 

「――」

 

 トリオン兵のコアを断ち割り止めを刺したのは、軟鞭トリガー「牛飼い(フラゲルム)」を振るうユウェネスだ。

 

「ぼさっとすんな! まだ来るぞ!」

 

 難敵を無事処理することができたが、破れた扉からはヴルフが殺到してくる。

 とはいえ、このトリオン兵なら簡易トリオン銃でも十分装甲を貫ける。職員らは自らを鼓舞し、敵に銃を向ける。

 だが次の瞬間、指揮所に突入したヴルフらが一斉に大爆発を引き起こした。

 爆発が連鎖し、大量の破片が狭い室内に撒き散らされる。

 

 エクリシアはヴルフの行動パターンを変化させ、まずはノマスの指揮能力を奪う事を優先させたのだ。

 あまりに入念で、偏執的なまでの殺意。エクリシアとノマスの間に積み重ねられた怨恨が形となったかのような戦法。

 

 ヴルフらが影も形もなくなると、指揮所の中でトリオン体を維持している者は誰も残っていなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 建物の中であるにも関わらず、「パトリア号」居住区には深い霧が立ち込めていた。

 

 荒れ果てた住居の壁や床を、まるで水面に映った魚影のように漆黒の弾丸が泳ぎ進む。

 時折、空間を切り裂いて閃く光は、大出力のレーザーだ。

 そしてその空間を、迅雷の如き速さで飛び交う人影がある。

 

 五本の(ブラック)トリガーによる壮絶な戦いは、ここに佳境を迎えていた。

 戦局を優位に進めているのは、フィロドクス騎士団の面々である。

 

『よいか、彼らを見くびってはならん。軽挙は慎め。時間はいくら使っても構わぬ。確実に追い詰めよ』

 

 白髪白髯の老人クレヴォが、兜の内で冷徹に指示を下す。

 アルモニアとレクスの思いがけぬ共闘に手を焼いていたジンゴ、カスタノ両名であったが、父であるクレヴォが合流したことで、俄かに勢いを盛り返した。

 

 クレヴォが有する「万鈞の糸(クロステール)」は、桁外れの射程と精密さを誇る狙撃型の(ブラック)トリガーであり、屋内戦に適した武器ではない。

 しかし、「万鈞の糸(クロステール)」は最大までチャージすることで、レクスの「巨人の腱(メギストス)」を撃ち貫くことができる。またレーザーの速度は、アルモニアの剣速さえも上回る。

 

潜伏の縄(ヘスペラー)」による追尾弾だけでは決め手を欠いていたところに、この援軍は大きい。

 レクス、アルモニアは二種類の攻撃から身を護るため、攻めに転じることができない。

 そうしている間に、カスタノ操る「光彩の影(カタフニア)」が、次々に騎士たちの虚像を作り出していく。もはや、どれが本体かは判別不可能。アルモニアたちはまたしても防戦一方に追い詰められる。

 

 しかも、半世紀以上にわたって戦場を駆け抜けたクレヴォには、微塵の油断もない。

 詰将棋のように一つ一つ反撃の目を潰し、逃げ道を削っていく。無理押しは絶対にせず、奇手、奇策を巡らす隙さえ与えない。

 賢者とあだ名された老雄が、非情酷薄に攻め手をかける。アルモニア、レクスほどの達人たちが、離脱することさえ許されず、辺りを逃げ惑うしかない。そして、

 

「っ――!!」

 

 アルモニアが身を寄せていた住居を貫いて、「万鈞の糸(クロステール))」の光線が奔った。

 射線が分からねば、然しもの剣聖であっても狙撃を防ぐことは叶わない。それでも壁抜きを警戒し「懲罰の杖(ポルフィルン)」で胴体部をカバーしていたのだが、クレヴォはそれさえ見越していたかのように、彼の右足首を吹き飛ばした。

 

 いや、事実として、この老人は物陰に隠るアルモニアの姿を正確に捉えていた。

光彩の影(カタフニア)」の霧によって、居住区画の詳細な地形、観測データは把握済みだ。クレヴォは射撃ビットを縦横無尽に動かすことで、本人は身動き一つせずとも、エリア全てを射界に納めることができる。

 

『迷いなく機動力を選んだか。流石だな』

 

 クレヴォが平然と呟く。

 右の足首から下を失ったアルモニアは、即座に長剣を閃かせると、左の足先を同様に切り落とした。明らかな自傷行為だが、トリオンを失うより体のバランスを損なう方が不味い。フィロドクス騎士団の攻撃は、「万鈞の糸(クロステール)」による狙撃だけでなく、「潜伏の縄(ヘスペラー)」の追尾弾もある。両足で走れなければ、次はそちらに掴まる。

 

『今です! 弾幕を集中させましょう!』

 

 久方ぶりのダメージに、ジンゴが勢い込んで追撃を提言する。

 

『ならん。砲撃と「巨人の腱(メギストス)」の使い手を警戒しろ』

 

 だが、クレヴォは氷のような態度で言下に拒否する。と、次の瞬間、

 

『な――』

 

 手負いとなったアルモニアが、「懲罰の杖(ポルフィルン)」で薙ぎ払うような砲撃を行う。光の奔流に、フィロドクス騎士団の面々が視界を奪われた。

 と同時に、空中へと跳躍しざまにレクスが散弾のように細かな砂を投げかける。砲撃も相まって、騎士の虚像の半数近くが消されてしまう。

 

「――」

 

 クレヴォが即座にけん制の狙撃を放つも、レクスは手首を失った左腕でそれを防ぐ。やはり、最大威力でなければ手傷を負わせることはできない。

 

『カスタノ。ダミーの生成に注力せよ。遮蔽が少なくなればこちらが勝つ。重ねて言うが、彼らを見くびるな』

『……了解』

 

 腹の底に響くようなクレヴォの命令に、カスタノは軽口を挟むことさえできずに頷く。

 

『ここで確実に殺す。ぬかるなよ』

 

 自らを慕う少女を背中から撃った時、クレヴォは鬼と化した。

 慈悲なく、容赦なく、ただ冷酷に標的を撃ち抜く。とび色の目が、刃の輝きで戦場を睨みつける。

 執拗極まる攻撃に、アルモニアとレクスは徐々に追い詰められていく。壁や床を泳ぎ進む誘導弾と、高所からこちらを狙い続ける狙撃ビット。どうあがいても逃げ場はない。

 もはや被弾も秒読みかと思われた、その時、

 

『む――新手か?』

 

 突如として新たなトリオン反応が、霧を突っ切って居住区へと現れる。

 此処はノマスの本拠地である。援軍が来たとしても不思議ではない。クレヴォは射撃ビットを移動させると、すぐさま飛翔体に狙撃を叩き込む。だが、

 

『な――』

 

 老人の喉から、驚愕の声が漏れる。

 侵入者を焼き尽くさんと放たれたレーザーが、何故か対象の手前でその向きを反転させ、「万鈞の糸(クロステール)」の狙撃ビットを撃ち抜いたのだ。

 

『馬鹿な、何故そのトリガーが……いや、そもそもアレはなんだ?』

 

 クレヴォの明晰な頭脳を以てしても、目の前の出来事を即座には理解できなかった。

 煌めく透明な反射盾は、フィリアが所持していた(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」のモノに間違いない。だが、霧の向こうから現れたのは少女ではなく、魚の尾びれのような突起を持つ、見たことのないトリオン兵である。

 

「無事でしたかアルモニア。フィリアが危険な状態にあります。直ぐにこの場から撤退を」

 

 (ブラック)トリガーを起動していたのは、自律思考型トリオン兵ヌースである。

 愛する少女を護るため、トリオン兵は地獄と化した戦場に現れた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 フィリアを保護したヌースは、ともかくエクリシアの兵と合流すべく、音と振動を頼りに戦闘が繰り広げられていると思しき場所へと向かった。

 モナカの権限で都市解体プログラムを組んでいたヌースは、「パトリア号」の構造を熟知していたため、移動は至極スムーズにいった。

 

 ただ、問題であったのは、都市内の無線通信が妨害され、また監視網もかなりの損害を受けていたことだ。

 おそらくはエクリシアの「光彩の影(カタフニア)」の影響だろうが、このためヌースは都市で行われていた戦闘の詳細を殆ど知ることができなかった。

 

 フィリアが一体誰と戦い、どのようにして傷を負ったのか。またエクリシアの軍勢は健在なのかどうか。まったく手がかりも無いままに、それでもヌースは少女を連れて移動を続ける。

 

 そして居住区画にたどり着いた時、全ての疑問はたちどころに氷解した。

 アルモニアとレクスが、フィロドクス騎士団の面々に攻撃されている。その一事で、ヌースはこれまでの事情を察した。

 

 もともとヌースは、イリニ家に迎えられて以降、アルモニアの顧問としての役割を与えられていた。感情を差し挟まず公平な意見を述べるヌースは、フィリアら子供には聞かせられないような、表沙汰にできないような相談事をするには打ってつけだった。

 

 その為彼女は、エクリシアの裏で行われていた政治闘争にも詳しかった。フィロドクス騎士団が他家の配下の家々に秋波を送り、切り崩しを狙っていることなども、証拠こそ挙がっていないが把握している。

 

 しかしまさか、敵陣で直接要人の暗殺を行おうとしているとは。

 俄かには信じがたい光景であったが、そう考えれば負傷した少女が都市の外れにいたことも納得がいく。味方に裏切られ、なんとか逃げてきたのだろう。

 

 ヌースは即座にアルモニアを救援するため、居住区画に突入した。

 (ブラック)トリガー同士の激闘に、只のトリオン兵が介入するなど自殺行為も同然である。

 

 しかし、ヌースには十分な勝算があった。

 意識を失ったフィリアを検査した時に見つけた、データにない(ブラック)トリガー。

 ――そのトリガーが何と、ヌースにも適合したのだ。

 

 そもそも、普通のトリオン兵にトリガーを起動させることは技術的に極めて難しく、ノマスでさえも実用化には至っていない。

 だが、不世出の技術者であるレギナが心血を注いで創り上げたヌースには、その機能が備わっていた。

 

 とはいえ、(ブラック)トリガーはある種の適性が無ければ起動することさえできない。しかも、フィリアが所持していた「救済の筺(コーニア)」は、極端に選り好みの激しいトリガーであり、誰しもがおいそれと扱える代物ではない。

 

 ヌースが適合した理由。それは(ブラック)トリガーを残したのがパイデイアであったからだ。

 友として、家族として、共に子供たちの健やかなる成長を願い、懸命に守り育ててきたヌースに、パイデイアが力を貸さない訳がない。

 

 もちろん、ヌースはそのトリガーか彼女の形見であることなど知る由もない。ただ、少女が新たな(ブラック)トリガーを手にしていたという事実に、ある種の予感はあっただろう。

 ともかく、「救済の筺(コーニア)」の起動に成功したヌースは、その超絶の性能を十全に用いてフィリアを護り、居住区画までたどり着いた。

 

「フィロドクス家が裏切ったとしても、ゼーン騎士団や聖堂衛兵団までは掌握していないでしょう。都市から脱出すれば、攻撃は不可能なはずです」

 

 そして戦場へと舞い降りたヌースは、アルモニアの側に寄り添い、彼を弾雨から護りつつ情報を交換する。

 

「無事でよかった。フィリアは何処にいる? 容態は?」

「護衛のトリオン兵を付け、付近に潜伏させています。背中に裂傷あり、意識不明。止血は施しましたが、一刻も早く医療設備の整った場所に移送する必要があります」

「くっ……」

「アルモニア。どうか冷静に。今あの子を助けられるのは、あなただけです」

「大丈夫だ。わかっている。何とか隙を作りこの場から脱出しよう」

 

 会話をしている最中にも、レーザーや追尾弾が間断なく彼らを襲う。だが、空間を歪曲させる「救済の筺(コーニア)」の反射盾は、トリオンに潜行する「潜伏の縄(ヘスペラー)」であっても通り抜けることはできない。

 

「なぜ、お前が此処にいる?」

 

 すると、相談する二人の側へレクスがやってきた。

 彼はヌースがモナカの研究所に軟禁されていたことを知っている。どうして逃げ出すことができたのか、そして何故戦闘に介入してきたのか、疑問は尽きない。

 

「モナカと契約を交わしました。この戦闘が終結するまで、私にあなた方と敵対する意思はありません」

「……そうか」

 

 端的に事情を説明するヌースに、レクスは静かに首肯する。

 このトリオン兵がモナカとどのような取引を行ったかは知らないが、彼は部下に全幅の信頼を置いている。ノマスに不利になるようなことはしないだろう。

 

「我々の当面の敵はフィロドクス家の裏切り者。……この場を切り抜ける為に、あなたにも手を貸していただきたい」

 

 そうしてヌースは、何とレクスに共闘を持ちかけた。

 エクリシアの不倶戴天の怨敵は、鋭い眼光でアルモニアとヌースを睨みつける。が、

 

「……いいだろう。どうせ順序を変えるだけだ」

 

 拍子抜けするほど容易く要請を聞き容れた。

 彼とて超一流の戦士である。この局面を打ち破るには、ヌースの手を借りるのが最善だと判断したのだろう。

 

「私の子機をあなたたちのトリオン体に接続すれば、「光彩の影(カタフニア)」の迷彩を無効化できます」

 

 ヌースは説明を続けながら、自らの体から涙滴状の小さな物体を出現させる。

 彼女と同じ丸い二つの目が付いたそれは、一部の機能を複製した子機とよばれる端末だ。

 

「――礼はせん」

「謝意は無用。私もあなたを利用するだけです」

 

 レクスは奪うように子機を掴み取り、トリオン体に同化させる。

 アルモニアも、速やかに小さな旧友を自らの身体に収めた。そして――

 

「「敵の位置を教えろ」」

 

 二人の達人は静かな、それでいて戦意を漲らせた声でヌースに命じた。

 

 

 

 視覚情報が更新され、居住区画を満たす霧が透過される。

 

 フィロドクス家の騎士たち、床や壁を先行する「潜伏の縄(ヘスペラー)」の弾丸、「万鈞の糸(クロステール)」の射撃ビットら「光彩の影(カタフニア)」によって生成されたダミーも画像処理が施され、本体が一目瞭然となる。

 もともと「光彩の影(カタフニア)」はイリニ騎士団のテロスが所有していたトリガーであり、ヌースはその性能を委細漏らさず知っている。彼女の演算能力を以てすれば、虚像を見抜くことは容易い。

 

「助かった」

「――ふん」

 

 幻惑の霧を完全に無効化するや、アルモニアとレクスは追い立てられていた鬱憤を晴らすかのように、凄まじい勢いでフィロドクスの騎士へと襲い掛かった。

潜伏の縄(ヘスペラー)」「万鈞の糸(クロステール)」ともに射撃戦用のトリガーで、内懐に入り込まれればたちまち優位性を失う。また防御を完全に幻影に頼り切っていたために、それが破られた時の衝撃は大きい。

 

 明らかに幻影を無効化した様子の二人に、クレヴォたちはともかくスラスターを噴かせて距離を取る。

 なにより達人たちが連携しているのが不味い。さきほどまでの消極的な協力とは違い、今度は互いに全幅の信頼を置いた緊密な連携攻撃である。

 まさか敵対関係にあったアルモニアとレクスが、こうまで速やかに手を結ぶとは。

 

 達人二人に攻め込まれ、クレヴォらは一転して窮地に追いやられる。

 鎧の機動力を生かして空中を逃げ回るが、アルモニアとレクスは手負いとは思えない動きで騎士へと迫る。

 

 幻惑が無効化されたことで、「潜伏の縄(ヘスペラー)」の弾丸も先ほどのまでの圧力を失っており、彼らの突撃を妨げることができない。

 クレヴォが狙い澄ました狙撃を撃ち込むも、絶妙なタイミングでヌースが反射盾を張ってそれを防ぐ。

 

 数分前の展開とは打って変わって、今度はフィロドクス騎士団が逃げ回ることになった。だが、

 

『なんだ? 十時の方角にトリオン兵の反応がある。生身の人間もいるぞ』

 

光彩の影(カタフニア)」を操っていたカスタノが、居住区画から少し離れた通路に不自然な一団を見付ける。ノマスのモノと思しき数体のトリオン兵が、人間と共に潜伏しているのだ。

 市民とその護衛ならば早々に戦場から逃れている筈で、隠れ潜むように動かないのは如何にも怪しい。

 そのことをクレヴォに伝えるや、

 

『「潜伏の縄(ヘスペラー)」で狙い撃て。おそらく彼らの急所だ』

 

 と、老人は平然とジンゴに命ずる。

 生身の非戦闘員を攻撃すると言う冷酷無情なその策は、果たして覿面の効果を上げた。

 

「――フィリアが攻撃を受けました!」

 

 緊迫した声を発したのはヌースだ。彼女はフィリアの傍らにも子機を置いており、それを通じて少女を護衛していたクリズリが破壊されたことを感知した。

 

「っ――」

 

 この報せに誰よりも動揺を見せたのがアルモニアだ。

 彼は即座に「懲罰の杖(ポルフィルン)」を三叉戟へと形態変化させると、「潜伏の縄(ヘスペラー)」の使い手ジンゴに向けて、凄まじい勢いで投擲する。

 

「な、しまっ――」

 

 唐突な遠距離攻撃に逃れることも叶わず、ジンゴの胴体を三叉戟が刺し貫く。

誓願の鎧(パノプリア)」を貫通し、中のトリオン体まで破壊され、ジンゴは一瞬で生身となって回廊へと落下する。

 

 敵の不意を突いた見事な一撃だが、完全無欠の剣聖は、ここで初めてミスを犯した。

 使い手のトリオン体が破壊されたからといって、既に放たれた弾丸まで消滅する訳ではない。地面を回遊する「潜伏の縄(ヘスペラー)」の弾丸が、アルモニアへと襲い掛かる。

 

「――危ない!」

 

 ヌースが機敏に反応するも、「救済の筺(コーニア)」の展開射程から僅かに遠い。「懲罰の杖(ポルフィルン)」はジンゴを貫いて遥か彼方まで消え去った。再構築の時間もない。

 結果、「潜伏の縄(ヘスペラー)」がついにアルモニアを捕らえた。

 弾丸が彼のトリオン体に潜行し、供給機関で炸裂する。

 

「くっ……」

 

 内部からの破壊に耐えられる筈もなく、アルモニアのトリオン体が崩壊する。荒れ果てた地面に落下した彼は、受け身をとってすぐさま立ち上がると、居住区の外へと向けて走り出す。

 

「逃さん」

 

 その背中に向け、クレヴォが「万鈞の糸(クロステール)」の狙撃を放とうとする。だが、

 

「――」

 

 回廊から弾丸の如き勢いで跳躍したレクスが、老人へと襲い掛かった。

 

「ぬぅっ――」

 

 辛うじて反応したクレヴォが、射撃ビットの筒先を逸らし、迫り来る敵に最大威力のレーザーを見舞う。

 レクスは空中で身を捩って回避を試みるも、右腕を肩口から吹き飛ばされる。

 しかし、ノマス最強の戦士は一切気力を損なわず、凄まじい身体操作で体勢を立て直すと、唯一残った左足でクレヴォに蹴りを叩き込んだ。

 

「がっ――」

 

 重厚な鎧騎士が吹き飛び、回廊を突き破って壁にぶち当たる。

 不安定な体勢からとはいえ、「巨人の腱(メギストス)」の一撃をまともに受けたのだ。鎧は間違いなく全損。内部のトリオン体も破壊されたことだろう。

 

「くそっ、掛かれっ!」

 

 レクスが地面に着地するや、カスタノが何やら叫ぶ。すると、霧を打ち破って六体のクリズリが襲い掛かってきた。どうやら待機させていた兵を投入したらしい。

 

「ふん、雑兵程度で、どうにかできるつもりか」

 

 片足しか残っていないとはいえ、レクスの全身は余すところなく凶器。

 振り降ろされる鋭刃を容易く掻い潜り、彼は数十秒の内に襲い来るクリズリの全てを蹴り砕く。だが、

 

「……逃げ足の速いことだ」

 

 トリオン兵がその身を挺して稼いだ隙に、カスタノはジンゴとクレヴォを確保し、居住区画から飛び去っていた。

 攻撃役を失った以上、撤退は妥当だろう。しかし、レクスは彼らを追いはしなかった。

 

「流石に、限界か……」

 

 最後に右腕を吹き飛ばされたのが不味かった。「巨人の腱(メギストス)」は耐久力においても通常の戦闘体を凌駕するが、さすがにトリオン漏出が甚大である。

 このままではいつトリオン体が崩壊してもおかしくない。これ以上の戦闘は避けるべきだろう。

 見れば、アルモニアは既にヌースと共に姿を消している。戦闘中に言葉を交わしていたところを見るに、何か変事があったらしい。

 

「どうやら、凌ぎきったようだな」

 

 結局、アルモニアを含めエクリシアの(ブラック)トリガー使い三人を撃破。一人を撤退に追い込んだ。一先ずの山場は越えたとみていいだろう。

 だが、まだ戦いが集結した訳ではない。

 

「間もなく(マザー)トリガー封鎖作戦を実行します。「パトリア号」内の戦士は早急に外部へ離脱するか、トリオン体を維持したまま安全な場所に避難してください」

 

 原型を留めないほどに破壊された居住区から通路に戻ると、スピーカーから息子の声がエンドレスで流れている。

 レクスは再び気合を入れ直すと、指揮所に向けて移動を始めた。

 

 

 

 



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其の二十二 決着 託す者

 涼風吹き抜ける広大な草原は、血と泥濘と瓦礫に覆われた地獄の底と化していた。

 都市周辺の大地に散らばるのは、エクリシア、ノマス双方が繰り出したトリオン兵の夥しい残骸だ。そしてそれらに混じって、数多くの死体があった。

 

 亡骸は、ノマスの戦士、市民両方のものだ。

 故国を護るために奮戦し、遂には命を落とした者。トリオン兵に捕らえられ、食い散らかされたかのようにトリオン機関を抜き取られた者。

 

 それらの死体は戦闘の余波によって、踏み砕かれ、磨り潰され、焼き焦がされ、そして掘り起こされた土に塗れて物のように転がっている。

 酸鼻極まる戦場の光景。しかし、それでもまだ戦闘は終わらない。

 

「しっ――」

 

 馬蹄を轟かせながら、ノマスの騎乗用トリオン兵ボースが戦場を駆ける。鞍上の少年が鋭い呼気と共に振るうのは、軟鞭トリガー「牛飼い(フラゲルム)」だ。

 空を切り裂く鞭頭は、エクリシアのモールモッドのコアを見事に断ち割り、一撃でその機能を停止させる。

 

 非凡な業前を見せた少年は、ルーペス氏族の戦士カルボーだ。

 (ブラック)トリガー「劫火の鼓(ヴェンジニ)」の使い手ニネミアに奇襲を仕掛けた少年は、しかし「パトリア号」への砲撃を防ぐことができず、急ぎ都市の救援へと馳せ参じた。

『パトリア号』内部には複数の騎士が侵入したらしいが、都市からはトリガー使いと市民の退去を促すアナウンスが流れ続けている。

 

 ノマス最強の戦士レクスが救援に赴いたとの報せも聞こえてくるため、内部は何とか敵を防げているのだろう。

 しかし、都市外部では予断を許さない激闘が続いている。

 猛威を振るった騎士たちは、ノマスの防衛部隊が多大な犠牲を払うことで大方撤退に追い込むことができた。

 

 だが、エクリシアのトリオン兵は未だ多数が健在で、各地で戦士や市民を襲っている。

 カルボーはボースで戦場を駆け抜けながら、とにかく敵の数を減らすべく手当たり次第に鞭を振るう。

 

「っ――」

 

 無口な少年の相貌が、憤怒の色に染まる。

 多数の市民を呑み込んだと思しき捕獲型トリオン兵ワムが、不気味な蠕動運動で眼前を這い進んでいる。

 

 少年は馬腹を蹴ってボースを跳躍させると、渾身の斬撃を醜悪なトリオン兵へと叩き込む。――が、ワムは複数の個体が連結して長大な身体を構成しており、たとえ一部位が破壊されたとしても、その個体を切り離すことができる。

 カルボーの攻撃も虚しく、二つに千切れたワムは、何事も無かったかのように別々の方向へと進み出した。しかも、その進行方向には漆黒の(ゲート)が開いている。

 

「くっ……」

 

 市民を避難させるため、ノマスは(ゲート)封鎖装置を一時的に解除したのだが、それがエクリシアにも利する展開にもなってしまった。

 通常は封鎖の外にまで逃走しなければならない捕獲型が、(ゲート)を用いてすぐさま逃亡できるようになったのだ。

 

 戦闘型の攻撃を凌ぎつつ、四方八方に散らばった捕獲型を破壊するのは不可能に近い。ノマスの戦士たちは死に物狂いで捕獲型を追いかけるが、既に多数の市民が連れ去られてしまった。

 カルボーは襲い掛かるモールモッドを巧みに躱しながら、ワムを一個体ずつ破壊しようとするが、結局分離したもう片方には逃げられてしまう。

 

「くそ……」

 

 だが、少年には憤る時間も悔やむ暇も無い。新たな敵を追い求めてボースを走らせる。

 そうして戦場を疾駆するうち、彼は特に激戦が繰り広げられたであろう一画へと辿りついた。草原を覆い隠すほどのトリオン兵の残骸に、数十を超えるであろうノマスの戦士の遺体が散らばっている。

 カルボーは強靭な精神力で胸中の動揺を抑えると、敵、味方共に生存者無しと判断し、先を急ごうとする。

 

 だがその時、小山のように蹲るバムスターの陰から、微かに己の名を呼ぶ声がする。

 

「――先生っ!」

 

 その声を、少年が聞き違える筈も無い。

 カルボーはボースの背から飛び降りると、声の主を求めて敵味方の死体の上をひた走る。

 

「先生っ! 御無事ですか先生っ!」

 

 バムスターの残骸に背を預け、座り込んでいたのはルーペス氏族のカルクスだ。

 歳は孫子ほど違うが、カルボーにとっては育ての親であり、あらゆる技術を授けてくれた師匠でもある。

 

「っ――」

 

 恩師の姿を目の当たりにしたカルボーは、衝撃に言葉を失う。

 カルクスは生きているのが不思議なほどの重傷を負っていた。

 全身はくまなく血に濡れ、左肩には折れたブレードが突き刺さり、右脚は膝から先が消失している。

 

 エクリシアの騎士、フィリア・イリニに敗北し、トリオン体を失った老雄は、しかし撤退を良しとせず、配下の適合者に(ブラック)トリガー「凱歌の旗(インシグネ)」を譲渡すると、自らは部隊を率いてエクリシアの兵に徹底抗戦した。

 

 彼に率いられた部隊の活躍は目覚ましく、騎士数人を撃退し、数多のトリオン兵を破壊した上、市民の避難誘導まで行った。

 天を突かんばかりの士気でエクリシア勢を駆逐していった彼らだが、しかし衆寡敵せず、次第に人数を減らしていく。

 生身のカルクスも苛烈な攻撃に手傷を負ったが、それでも彼は最低限の血止めを施しただけで、指揮を取り続けた。

 

 そして戦士たちが最期を迎えたのが、カルボーの辿りついた戦場であった。

 辺りに動く者はなく、老雄は依然腰を落としたまま身動き一つしない。だが、

 

「寄れ」

 

 老人の鷹の如き眼光がカルボーを射抜く。

 言葉短く、しかし衰えぬ覇気を纏った声で呼び付けられ、少年は思わず背筋を正す。

 

「――先生。すぐに救護班を連れて参ります。どうか、御気を強く保ち下さいますよう」

「無用だ。私を侮るか?」

 

 少年の気遣いに、老雄は重傷人とは思えぬほどの凄みを見せる。

 

「はっ! 失礼いたしました」

 

 カルボーは謹直な態度で師に詫びを述べた。親も同然のカルクスが半死半生の有様なのだから、少年が動揺するのも無理からぬことである。しかし、ルーペス氏族の一員である彼には、たとえ親の死に直面しようとも心を乱すことは許されない。

 

(マザー)トリガー封鎖に合わせて都市群が離脱を行う。マラキア殿が兵を纏めている。お前も合流し、民を護れ」

 

 カルクスは己の状態などまるで眼中に無いかの如く、カルボーに指示を下す。

 

「……了解しました」

 

 少年はその意を汲むと、絞り出したような声で答える。そして彼が踵を返そうとすると、

 

「待て」

 

 カルクスが呼び止める。

 何事かとカルボーが恩師の下へと近づくと、彼は小さな、それでもはっきりとした声で、

 

「お前をルーペス氏族の跡目とする」

 

 少年へとそう告げる。

 

「っ――」

 

 カルクスの遺言に、少年は辛うじて無表情を保つものの、思わず俯いてしまう。

 

「私、には……」

 

 先生の代わりは務まらない。との言葉が喉を突いて出そうになる。

 エクリシアの砲撃を阻止できる位置にいながら、ニネミアを仕留めそこなったという自責の念が、年若いカルボーの胸に蟠っている。

 妹分として共に育ったテララの死を受け入れらぬまま、そして今、父と仰ぐカルクスの死に目に立ち会う。いくらカルボーが幼少より訓練を受けていようとも、その心は千々に乱れている。

 

「カルボー。我らは何者だ」

 

 すると、項垂れる少年にカルクスが声を掛けた。その眼光は変わらず鋭いが、髭に覆われた面差しは、どこか柔和な印象へと変わっている。

 

「……我らルーペス氏族は、ノマスの風と共に生まれ、礎として死ぬ者也」

 

 無感情な、それでいて震える声で紡がれるのは、幼少時より語り聞かされてきた一族の心構えだ。

 それを耳にしたカルクスは小さく首肯すると、右腕を伸ばし、カルボーの手を取る。

 

「務めを果たせ」

 

 そう言うと、彼は少年の掌に、己の命と全てのトリオンを注ぎ込んだ。

 

「先生――」

 

 眩い光は一瞬で収まった。

 後に残されるのは、人の形をした塵の塊。それさえも、戦場を吹き荒ぶ風に攫われ、彼方へと消えていく。

 

「…………」

 

 カルボーは己の手に残されたトリガーをしばらく眺めると、師の遺命を果たすため死屍累々たる草原へと駆け出して行った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 怒号も悲鳴も呻き声も、何時しか絶えて聞こえなくなる。

 戦場に最後まで残るのは、ただ弾丸を吐き出し続ける銃の音。

「パトリア号」指揮所に籠城するノマスの職員たちは、切れ目なく襲い来るエクリシアのトリオン兵を相手に、凄惨な防衛戦を行っていた。

 

「弾を再分配します。これで最後です! ユウェネスさん! 機材が直せ次第封鎖を始めてください!」

 

 指揮所の入り口に組んだ即席のバリケードから、そう叫ぶのはレグルスだ。

 ヴルフの自爆攻撃を受けた指揮所では、設備にかなりの損害が出ていた。

 (マザー)トリガー封鎖を確実なモノとするためには、破損個所を修理しシステムの再点検を行わねばならず、そのために職員たちは決死の時間稼ぎを行っているのである。

 

「待て、もう出来る。ほんと直ぐだ! 何とか凌いでくれっ!」

 

 指揮所の奥から、ユウェネスの切羽詰まった声が帰ってくる。

 しかし、そうして言葉を交わしている間にも、通路の向こうから新手のヴルフが現れ、指揮所目指して突っ込んでくる。

 

「ホニン一! レイグ二! 曲射に注意してください!」

 

 レグルスはバリケードから身を乗り出すと、手にした簡易トリオン銃で、敵兵に精密な射撃を浴びせかける。

 先ほどの自爆攻撃によって、指揮所の人員は皆トリオン体を失ってしまった。生身のまま抗戦を続けているため、ノマス側には死傷者が続出している。

 

「ぐっ――」

 

 そして、今また一人の職員が、ヴルフの放ったトリオン弾を受けて倒れ伏す。

 

「――!!」

 

 レグルスは遮蔽から身を乗り出すと、敵兵に猛烈な射撃を叩き込む。簡易トリオン銃の出力であっても、ヴルフ程度の装甲ならば十分に効く。

 とはいえ相手は敏捷な小型トリオン兵。バリケードの隙間からでは狙いにくい。

 レグルスの放った銃弾が、ヴルフ・ホニンと、ヴルフ・レイグを一体ずつ始末する。だが、打ち漏らした最後のレイグが、少年目がけて弾丸を放つ。

 

「っ――!」

 

 少年は生身の体で横っ飛びに跳躍して弾丸を躱すと、倒れ込みながらフルオート射撃をヴルフに叩き込む。

 

「弾切れか……」

 

 敵は全て打ち倒したが、残り少ない銃弾を使い切ってしまった。

 少年はヴルフに撃たれた職員の側へと近寄り安否確認を行うも、心臓付近に弾丸を受け、既にこと切れている。

 

「お借りします」

 

 死者を悼む暇もなく、少年は職員の手から小銃を奪い、次なる敵に備える。すると、

 

「っ……クリズリ一! 全火力を集中してください!」

 

 次に指揮所に到達したのは、最新型トリオン兵クリズリだ。

 職員たちの顔が紙のように白くなる。

 元々ノマスが開発したトリオン兵だからこそ、その規格外の性能は誰しもが知っている。同じ小型でもヴルフとはモノが違う。桁違いの装甲は簡易トリオン銃の弾丸など悉く弾き返すだろう。

 しかも、死傷者が相次いだ結果、防衛に参加している職員はレグルスを含めて僅か五名。火力を寄せ集めたとして撃破できるかどうか。

 

「く……」

 

 大股で通路を突進してくるクリズリに、五条の火箭が浴びせられる。しかし、危惧していた通りまともにダメージが通らない。

 狙うべきは口腔のコアだが、それさえも短腕で防御されている。

 見る間にトリオン兵が指揮所に近づいてくる。

 焼けつくような焦燥が、徐々に絶望へと塗り替わっていく。だがそれでも、

 

「倒れろおっ!」

 

 レグルスは最後まで諦めず、咆哮と共に弾丸を叩き込んだ。

 その気迫が幸運を呼び寄せたのか、或いはバリケードから飛び出した少年を捕捉しようとしたのか、一瞬クリズリが顔面から短腕をずらした。

 そしてガードの隙間を縫って、レグルスの弾丸がコアを撃ち抜く。

 

「やった!」

 

 口腔から黒煙を吐き散らし、大きく体勢を崩すクリズリ。難敵を排除できたことに、職員らが快哉を叫ぶ。だが、

 

「な――」

 

 クリズリは機能停止する直前、狂ったように手足を振り回しながら、背面のスラスターを噴かせて指揮所へと体当たりを仕掛けた。

 トリオン兵の突撃に、俄か仕立てのバリケードは抗することもできず突破される。幸いクリズリは指揮所へなだれ込むやすぐさま機能を停止したが、防衛を行っていた職員たちが残らず跳ね飛ばされてしまった。そして、

 

「おいレグルス! マジか、くそっ!」

 

 ユウェネスが叫ぶ。最前線で戦闘を行っていた少年は、クリズリの突撃をまともに受けていた。職員が指揮所まで連れ戻すが、少年は頭から血を流し意識を失っている。

 

「――新手が来ます! ヴルフ三、クリズリ一っ!」

 

 尚も悪い報せは続く。

 通路の向こうから新手のトリオン兵団が姿を現した。

 指揮所の人員は満身創痍で、銃弾すら底を尽きかけており、頼みのバリケードは先ほど完膚なきまでに破壊されたばかりだ。

 

「~~っ!」

 

 奮闘を続けていた職員たちも、今度ばかりは絶望に言葉も出ない。

 それでも彼らは武器を手に、指揮所の入り口を固める。撃退は不可能だとしても、一分一秒でも時間を稼ぐ。だがその時、

 

「えっ……」

 

 悲壮な決意を抱いた職員たちの視線の先で、クリズリが粉みじんに砕けた。

 次いで、瞬き一つする間に随伴のヴルフらが何の抵抗もできずに破壊される。

 通路の奥に突如として現われた人影が、トリオン兵の群れを一蹴したのだ。

 

「あ、ああ……」

 

 飛燕の速度で指揮所へと走り寄る人影に、職員たちの喉から歓喜の声が零れる。

 白髪金瞳の壮漢の名はレクス。ノマスの誰もが知る護国の英雄である。

 両腕と右脚を失う程の傷を負いながらも、彼の纏う威風には少しの陰りも無い。

 (ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」を前にしては、どんなトリオン兵も雑魚同然だ。

 

「封鎖の進捗はどうだ」

 

 指揮所に脚を踏み入れるや、レクスは厳かな口調でユウェネスにそう尋ねる。

 職員たちの遺体や、意識を失った息子の姿を目にしたとしても、一党の指導者である彼は毛ほどの動揺も見せない。

 

「はい。直ぐにでも取りかかれます」

 

 オペレーターシートに腰かけたまま、打てば響くようにユウェネスが答える。

 ここに至るまでの諸々の難事や、指揮所が受けた被害などは一切報告せず、青年は淀みない口調で、(マザー)トリガー封鎖の為の具体的な手順と所要時間を淡々と述べる。

 

「そうか。皆よくやった」

 

 ユウェネスの説明を聞きながら、レクスは再び指揮所の外へと出る。

 

「付近のトリオン兵は粗方始末したが、まだ多少は徘徊しているようだ。この指揮所を封鎖する」

 

 通路のかなり遠方へと移動した彼は、軽く跳躍すると、残された左脚で通路の天井を蹴り穿った。

 天井に放射状の罅が入ると、堅固な建材が焼き菓子のように砕け、大量の構造材が瓦礫となって通路へとなだれ込む。

 

 レクスは同様の行為を数か所で行い、指揮所へと続く一本道の通路を、大量の瓦礫で埋めてしまった。

 幾らトリオン兵といえど、通常の手段で掘削するのは不可能。クリズリが砲撃を行ったとしても、上部の瓦礫がすぐさま穴を埋めてしまうだろう。

 これで、指揮所へ敵兵が侵入することはない。すると、

 

「モナカが、まだ戻っていませんが……」

 

 ユウェネスが低い声でそう呟く。

 トリオン兵エンジニアのモナカは、自分の研究室で(マザー)トリガー封鎖プログラムを完成させるや、エクリシア勢の迎撃に出向いた。

 霧の影響で戦況がモニターできず、彼女の行方は分からなかった。

 

「道中亡骸を見つけた。彼女は戻らない」

 

 心配を隠しきれないユウェネスに、レクスは硬い表情でそう告げる。

 

「っ――」

「「悪疫の苗(ミアズマ)」も奪われていたが、追跡はできなかった。――彼女に限らず、遺体を収容する必要はない。封鎖を急ぐ」

「……了解」

 

 ユウェネスは思わず天を仰ぎ、血が滲むほど強く拳を握りしめる。

 

「怪我人を連れて速やかに「パトリア号」より退避せよ」

 

 レクスは生き残った職員らへと命令を下す。

 万が一の事態に備えて、指揮所の真下には避難艇を納めた格納庫がある。(ゲート)を通って悠々と脱出することが可能だ。だが、

 

「…………」

 

 直通のハッチが開いたにも関わらず、職員の誰もが格納庫へ移動しようとしない。

 彼らは一様に決意を秘めた面持ちでレクスを見詰めている。その内、職員らの一人が、沈黙に耐えかねたかのように口を開く。すると、その言葉を遮るようにして、

 

「皆聞いただろ。早く避難しろ。後は俺がやる」

 

 ユウェネスが朗々と宣言する。

 避難にあたって問題なのは、誰が(マザー)トリガー封鎖の為に指揮所に残るかという事だ。

 職員は戦闘によって皆トリオン体を失っている。唯一トリオン体を維持しているレクスも、両手を失っておりコンソールの操作はできない。加えてトリオン漏出が夥しく、戦闘体は何時崩壊しても不思議ではない状況だ。とても封鎖に耐えられるコンディションではない。

 

 誰かが命を捨てなければ、(マザー)トリガー封鎖は実行不可能である。

 職員たちが避難しないのは、我こそがその任を担わんと志願しているからだ。

 エクリシアに攻め入られ、多くの同胞たちが命を落とした今、誰が命惜しさに逃げ出そうというのか。

 そんな職員たちの心情を理解しながらも、敢えてユウェネスは自らが指揮所に残ると宣言する。

 

「封鎖を提案したのは俺なんだ。言いだしっぺが責任取るのは当然だろう? ほら、早く行ってくれよ。レグルスが目ぇ覚ましたら説得するのが面倒だ」

 

 と、彼はまったくいつもの調子で、涼やかな笑みまで浮かべてそう言う。

 その飄々とした態度の裏に秘められた覚悟と熱意は、職員たちにもはっきりと伝わった。

 彼らは目に涙を浮かべてユウェネスに黙礼すると、怪我人を連れて避難艇へと移動を始める。

 尚も意識が戻らないレグルスは、職員らに抱きかかえられて慎重に避難艇へと運ばれた。

 

「さ、親父さんも行ってください。レグルスの奴、頭打ったみたいで結構ヤバいんです。早いとこ検査してやらないと……」

 

 職員たちが粗方退避し終わると、ユウェネスはまだ指揮所に居残るレクスにも避難を促す。すると、

 

「いいや、残るのは私だ。お前も避難せよ」

 

 レクスは青年の肩を掌で軽く叩いてそう言う。

 

「な――」

 

 みれば、レクスはトリガーを解除し生身の体に戻っていた。

 それどころか、彼がユウェネスの前に差し出している指輪は、ドミヌス氏族の至宝、(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」だ。

 

「何言ってんスか親父さん! そんなの今更通る訳ないでしょう!」

 

 思いがけない横槍に、半ば本気の怒りと共にユウェネスが叫ぶ。

 

「いや、通す。通さねばならん。――お前は優秀な技術者だ。これからのノマスに、欠いてはならぬ人間だ」

 

 しかし、レクスは冷然とそう告げ、有ろうことか他の職員に指示してユウェネスを遠征艇へ押し込もうとする。片足を失った青年では彼らに抵抗できず、腰を据えていたシートから引きずり降ろされてしまう。

 

「ふざけんなよ! そんなら誰がアンタの代わりを務めるっていうんだ!?」

 

 職員らに両腕を掴まれ、床を引きずられるという格好で、ユウェネスが吼える。

 屈辱的な体勢を取らされたことによる怒りではない。身内であるレクスへの敬慕故の、私心無き純粋な怒りである。

 

「どんだけの民が殺され、連れ去られたと思ってるんです! 「パトリア号」を捨てて、(マザー)トリガーまで放置して、尻に帆を掛けて逃げなきゃなんねぇ! おまけに(ブラック)トリガーまで奪われた! どっからどう見ても言い逃れのできねぇ負け戦じゃねえですか! これから先、ノマスがどんな苦境に立たされるか分からねえ訳じゃねえでしょう! アンタ以外の誰に、民が纏められるっていうんスか!」

 

 満腔の怒りをぶつけるユウェネスに、レクスは只瞑目して答える。

 青年の主張はおおむね理に適っている。(マザー)トリガーの封鎖でエクリシアとの戦は終結するだろうが、より大変なのは終戦後のかじ取りだ。

 

 国力が大きく減退したノマスは、近界(ネイバーフッド)のあらゆる国から侮られ、狙われることになるだろう。

 それを防ぐには、有能な指導者の下、ノマスの国民が今まで以上に一致団結する必要がある。ドミヌス氏族の長であり、超人的な武勇を誇るレクス以外に務まる役ではない。

 

「私は過ちを犯した。責任は取らねばならん」

 

 だが、レクスは憤激するユウェネスを諭すように、静かに言葉を紡ぐ。

 

「エクリシアへの怨恨に囚われ、大局を見誤った。勝てぬ戦に踏み切り、多くの民を犠牲にした。……せめて敵を喰い止めねば、彼らの霊に顔向けできぬ」

「そんなの、只の逃げじゃねえか……」

 

 レクスの説得に、ユウェネスは吐き捨てるように溢す。

 エクリシアとの戦が過ちだったと言うなら、罪を背負わねばならないのはノマス全ての民だ。彼の国を滅ぼさんとの思いは、ノマスの民の総意であった。レクスだけが責任を感じることではない。

 それに過去にエクリシアが働いた暴虐を思えば、復讐心を抱くなと言う方が無理だ。両国の血で血を洗う戦いは、半ば運命づけられていたといっていい。

 まして勝敗の行方など、とても個人で背負えるものではない。

 

 現に、ノマスのエクリシアへの方策は殆ど完璧だった。敵国への奇襲といい、その後の防衛策といい、悉くが図に当たったのだ。

 ノマスの(マザー)トリガーの位置が敵に掴まれる、という不測の事態が起こらなければ、ノマスが完全に勝利していた可能性は高かっただろう。殊更、レクスを責める事などできない。

 

「否定はしない。だが、それでもお前を犠牲にすることはできない。お前たち新しい世代こそ、これからのノマスの希望なのだ」

「……つって、親父さんそんな齢でもねーじゃねえか。面倒事押し付けられるのなんざ、ゴメンですよ」

 

 言葉を重ねるレクスに、いく分落ち着いたユウェネスが拗ねたように口を差し挟む。

 

「大体、レグルスの奴はどーするんスか? 父一人子一人なのに。ええ? 俺に説明させる気なんですかね? だから身内のいない俺が涙を呑んで志願したのに、そこら辺の決意も汲んでくれないんすね? つーか、親父さん封鎖プログラムちゃんと動かせるんすか? コンソール触ってんの見たことないんですけど?」

 

 と、青年は立て板に水でまくしたてる。

 その軽快な調子と明るい語調に、彼の腕を曳く職員らも、自分たちが窮地にあることも忘れて思わず苦笑を浮かべてしまう、

 

「お前には苦労を掛ける」

 

 だが、レクスは何も言わずにユウェネスの不平不満を一頻り聞くと、ポツリとそう一言だけ口にする。

 

「あのさぁ、親父さん…………ああ、もういいや畜生」

 

 如何なる時にも威厳に満ちたレクスから発せられた、思いがけない謝意。

 それだけで、ユウェネスは何も言う気が無くなってしまった。

 幼き頃に戦争で両親を失い、以来父親代わりに育ててくれたレクス。この恐ろしくも尊敬できる男との思い出が脳裏に浮かび、不意に目頭が熱くなる。

 そうして彼の手から「巨人の腱(メギストス)」を受け取ると、職員の手を借りて立ち上がる。

 介添えをしてもらいながら、救助艇へと続くハッチを潜る。すると。

 

息子(アレ)に伝えてくれぬか。私はお前を誇りに思っている。と」

 

 青年の背に向け、レクスがそう頼む。

 

「そんなの、自分の口で言ってくださいよ……」

 

 するとユウェネスは背を向けたまま、不貞腐れたように口を尖らせて答える。

 

「柄ではなくてな。ああ、それと――お前のことも誇りに思っているよ」

 

 返ってきたのは、今までに聞いたこともないような穏やかな声。

 驚き振り返ったユウェネスは、ハッチが閉じる瞬間、確かに含羞の色を浮かべて微笑むレクスの姿を見た。

 

「――親父さんッ!!」

 

 思わず声を荒らげ、ハッチに縋りつくユウェネス。

 滂沱の涙を流す青年の叫びは、しかし彼に届くことはなかった。

 

 

 

 



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其の二十三 決着 祈る者

 降り注ぐ柔らかな日差しと、風に乗って運ばれる爽やかな緑の香。

 優しく暖かな歌声と、どこか遠慮がちなごつごつとした掌。

 言葉にできない感覚の中、それでも疑いようのない安らぎを感じる至福の時間。

 まどろみの中、過ぎ去りし日の幸福な思い出に包まれていた少女は、しかし、凄惨な争いの音で目を覚ました。

 

「うぅ……」

「――フィリア!」

 

 呻き声を上げる少女に、傍らにいた自律型トリオン兵ヌースが声を掛ける。

 

「あ……ぬーす?」

「私が分かりますか? ここが何処か、今が何時かは分かりますか」

 

 起き抜けの寝ぼけた声で問いかける少女に、ヌースは飽く迄平静な声で、意識レベルのチェックを行う。すると、

 

「ヌース! ヌース!! ――嘘、そんな、ヌース、やっぱり生きて――けほっ」

「はい。はい。私は此処にいます。落ち着いてくださいフィリア。無理に話しては、だめ」

 

 探し求めていた家族の姿を見つけたフィリアは、歓喜の余り大声を上げ、噎せてしまう。

 そんな少女を優しく窘めながら、ヌースは簡易の検査を続ける。

 

「えっと、私は……え?」

 

 覚醒し、五体の感覚が戻ってくると、フィリアは自分が何者かに背負われている事に気付いた。

 視界を塞いでいるのは、麦穂のように煌めく金色の髪。

 小さな体をしっかりと受け止めているのは、広くたくましい背中。

 

「よく頑張ったなフィリア」

 

 そう少女に語りかけるのは、伯父のアルモニア・イリニだ。

 軽く、連続して上下に揺さぶられる感覚がある。彼は少女を背負い、長い階段を延々と登り続けていた。

 

「伯父様! そうだ、クレヴォ閣下が、フィロドクス騎士団が裏切りました! 一刻も早く本隊と連絡を取り――」

「いいんだ。それは終わった。もう大丈夫だよ」

 

 失血と疲労で思考が纏まらないにも関わらず、少女はアルモニアに警告を発する。

 だが、彼は穏やかな声で少女を制した。それから、少女を保護するまでの経緯を簡単に説明し、危機は去ったと安心させる。

 

「もうすぐ脱出地点に到着する。ヌース。間違いないな?」

「はい。急ぎましょう。……辛いでしょうが、お願いします」

 

「パトリア号」を縦に貫く百数十メートルの非常階段を、子供とはいえ人を一人背負って登り続けるのは、鍛え抜いた騎士であっても簡単な事ではない。

 

 それでもアルモニアはペースを落とさず脚を動かし続ける。遠く近くから聞こえてくるのは、(マザー)トリガーを封鎖するというノマスのアナウンスである。

 アルモニアはヌースから封鎖計画の詳細を聞かされている。苦し紛れのはったりではない。一刻も早く都市を出なければ生き埋めにされてしまう。だが、

 

「上に、行くんですか?」

 

 フィリアが不安気な声で尋ねる。

 都市の出入り口は、下層に設置されたタラップと、中層に設けられた外部都市との連絡橋だけだ。

 とはいえ、タラップは格納されており、また連絡橋は殆どがエクリシアによって切断されたため、実際には外殻を突き破るしか都市の外部へ逃げ出す方法はない。

 

 ヌースならシステムに介入してタラップを降ろすことも可能だろうが、どちらにせよ、脱出を考えるなら下層を目指すのが常道だ。

 

「ああ。心配しなくていい。ヌースが都市の見取り図を教えてくれた。もう少しだけ、頑張ってくれ」

 

 ヌースはモナカと取引を交わし、(マザー)トリガー封鎖の下準備を行った。当然、彼女は「パトリア号」の詳細な構造を把握している。

 トリオン体を失ったアルモニアでは、都市の外殻を打ち破ることは不可能。フィリアを脱出させるため、彼はヌースと協議し策を練った。

 

「此処だ。着いたぞ」

 

 そして彼らがたどり着いたのは、「パトリア号」の最上層に位置する一画。分厚い隔壁で閉ざされたその場所は、ノマスが所有する遠征艇の格納庫だ。

 

「ロックを解除しました。さあ中へ」

 

 操作パネルに万能索を伸ばし、ヌースがすぐさま隔壁を開ける。

 扉の先には巨大な空間が広がり、そこには大小様々の遠征艇が鎮座している。

「パトリア号」からの脱出が困難と判断したアルモニアたちは、遠征艇を奪取し、直接ノマスから撤退しようと考えたのだ。

 

「少しだけ待っていて下さい」

 

 広大な格納庫へと立ち入るや、ヌースはフィリアたちの側から離れ、管制室へと向かう。暫くして戻ってくると、彼女はアルモニアに耳打ちをし、何事かを相談する。そして、

 

「急ぎましょう」

 

 ヌースとの話が纏まると、アルモニアは整然と並ぶ遠征艇の中から、五メートルほどの大きさの小型船を見つけだし、迷いのない足取りで近いた。

 ヌースがロックを解除し、キャノピーが開くと、アルモニアはフィリアを慎重に抱きかかえ、二人乗りのコックピットの後方シートへと乗せる。

 

「機体のチェックを頼む。私は物資を探してくる」

 

 そしてヌースはパイロット席に乗り込むと、万能索を伸ばして機体を制御下に置き、発進の準備を始める。

 また同時にフィリア共々機体にトリオン供給を行う。すると、

 

「ねえ、ヌース……私、私……」

 

 シートに身を横たえた少女は、前方で作業を行っているヌースへと話しかけた。

 聖都での惨劇によって生き別れた家族に、話したいことや聞きたいことが沢山ある。

 だが、出血と疲労によって、少女の思考は酷く散漫になっている。折角取り戻した意識が、徐々に黒い靄に覆われていくようだ。

 

「はい。はい。なんでも話してください。私は、此処に居ますから」

 

 ヌースは高速で作業を続けながら、そんな少女に優しく答える。覚醒を維持させるには、とにかく会話を続けるのがいい。

 フィリアはヌースと別れてからの出来事を、たどたどしくも切々と語っていく。

 母の最期。弟妹の死。故国が受けた深い傷。それから己が如何なる思いを抱いて、ノマスの地で戦ったのか。

 

「…………」

 

 ヌースは時折相槌を挟むだけで、少女の独白に耳を傾け続けている。

 フィリアの語る内容は、ヌースにとっても知らぬ出来事ばかりだ。別けても家族の死は深い衝撃であったが、それでも彼女は一人残された少女を慮り、取り乱すようなことはなかった。

 そうして幾らかの時間が過ぎた。ヌースは機体のチェックを完了させると、器機を操作しすぐさま発進できるよう準備を整える。すると、

 

「食料と水だ。それと、医療キットも見つかった」

 

 両手に鞄を下げたアルモニアが船へと戻ってきた。

 格納庫内を漁り、航行に必要な物資を入手してきた彼は、それらを手早く船に積み込む。

 

「ありがとうございます。安全圏まで離脱してから、直ぐにフィリアの傷を処置します」

「頼む。機体はどうだ?」

「機体に問題はありません。酸素も十分に搭載されています。ただ……やはり、トリオンは全く残されていません」

「そうか……私も管制室で調べたが、備蓄は根こそぎ使い切ったようだな」

 

 遠征艇が星々の間を航行するには、莫大な量のトリオンが必要になる。

 ノマスはエクリシアとの決戦に、国内のあらゆる備蓄をつぎ込んだ。その上、今回は自国での防衛戦である。遠征艇のトリオンなど真っ先に使い込まれたのだろう。

 

「離陸はできるか?」

「私たちのトリオンを全て用いれば、おそらく」

「……確実な手段を取る」

「では…」

「ああ。話していたように頼む」

 

 言いよどむヌースに、アルモニアは淡々と次善の策を指示する。

 船に貯蔵してあるトリオンでは、ノマス国内を脱出するのが精々で、とてもエクリシアまで帰還することはできない。

 

 ならば、持久策だ。

 船の中で搭乗者からトリオンを集め、それを用いて船を動かす。

 一旦ノマスを脱出した後、暗黒の海を漂いながら燃料を溜めるのだ。

 当然、船を動かせるようになるまで日数が掛かる為、エクリシアに帰還することは不可能になる。トリオンが溜まった時点で、軌道上の近い国家を目指すことになるだろう。

 

「次にこの軌道上に接近するのは氷の国パゲトンです」

「無事に辿りつけるか?」

「不測の事態が無ければ、ほぼ間違いなく」

「分かった。それでいこう」

 

 淡々と話を続けるアルモニアとヌース。そんな二人の姿を、呆然とした様子で眺めていたのはフィリアだ。

 

「ああそうだ。忘れないうちに渡しておかないと」

 

 どこか不安そうな眼差しの少女に気付くや、アルモニアはヌースとの会話を一旦中断すると、穏やかな笑顔を浮かべながら己の懐を探る。

 

「――!!」

 

 アルモニアが差し出した物に、驚愕したフィリアが金色の瞳を大きく見開く。

 

「忘れ物だよ」

 

 それは六つの宝石と真珠のようなトリオン球に彩られた、世にも美しい銀の鍵であった。

 

「あぁ……」

 

 フィリアの口から、嗚咽にも似たため息が零れる。

 忘れもしない。この銀の鍵こそ、彼女がイリニ家に迎えられてから初めて迎えた誕生日に、弟妹たちから贈られた祝いの品だった。

 

 六つの宝石は家族の証。中央に輝くトリオン球は、アルモニアからの贈り物だ。

 少女はこの銀の鍵のペンダントを、何時如何なる時でも肌身離さず身に着けていた。家族の象徴である銀の鍵は、どんなに辛い時でも、彼女に生きる意味を思い出させてくれた。

 

 しかし、己の手が罪なき人々の血に塗れていると気付いた時、少女は家族との縁に縋ることを禁じ、この鍵を自室の机に仕舞い込んだ。

 

「何故、伯父様がそれを……」

 

 疑問が浮かぶも、少女はすぐさまその答えに思い当る。

 

「パイデイアから預かったんだ。返すのが遅れてすまない」

 

 鬼気迫る形相で戦い続ける少女に、何とか心の平穏を取り戻してほしいと、少女の母パイデイアは銀の鍵をアルモニアへと託していた。

 だが、直後に聖都防衛戦が勃発し、終結後のフィリアは心身の平衡を失った。

 渡す機会を得られなかったアルモニアは、銀の鍵を御守りとして携えてノマス遠征に赴いた。そこへ、図らずも回復したフィリアがやってきたのだ。

 

「このペンダントを、君が重荷に感じているのは知っている。けれど、どうか忘れないでほしい。フィリア。君の幸せを願う人は確かに居た。君がこの世に生まれてくれて、心から喜んだ人は居るんだ」

 

 限りない慈愛を込めて、アルモニアがフィリアに言葉を掛ける。

 そうして彼は少女の首に銀の鍵を掛けてやると、次いで小さな掌に何かを握らせる。

 

「君にも間違いなく起動できるはずだ。ただ、これの為に危険が及ぶようなら、捨ててしまっても構わない」

 

 少女の指には大きすぎる漆黒のシグネットリング。アルモニアが所持していた「懲罰の杖(ポルフィルン)」だ。

 イリニ家伝来の家宝たる(ブラック)トリガーを、彼は少女に授けたのだ。

 

「お、伯父様――」

 

 呆然としていた少女が、辛うじて上ずった声を出す。

 この状況で彼が(ブラック)トリガーを手渡す理由など、どう考えても一つしかない。

 

「い、嫌っ! 嫌です! 伯父様も一緒に逃げましょうっ!!」

 

 アルモニアはフィリアたちを逃がし、自らは「パトリア号」に残るつもりなのだ。

 そのことに気付いたフィリアが、悲鳴のような声で抗議する。

 

「なんで、なんでですかっ!? いや、嫌です! もう一人は嫌っ! 誰かが居なくなるのは嫌っ! 折角仲良くなったのに、やっと家族になれたのに、伯父様まで私を置いて、私の前から居なくなってしまうんですか!?」

 

 遠征艇のシートから身を乗り出し、今にも涙を溢さんばかりに顔をくしゃくしゃにして、フィリアが吼える。

 

「…………」

 

 だが、アルモニアは困ったような笑みを浮かべ、癇癪を起こす少女の肩に両手を添え、優しく制するのみ。

 

「ヌース! ヌースも何とか言って! 伯父様が、伯父様が……」

 

 アルモニアが効く耳を持たないと気付くや、少女は姉でありお目付け役のトリオン兵に助勢を求める。

 

「フィリア……それしか、方法がないのです」

 

 だが、ヌースから返ってきたのは、少女をさらに絶望へと追い込む言葉だ。

 ノマスの格納庫にトリオンは全く残されていなかった。

 フィリア、アルモニア、そしてヌースに残されたトリオンを用いて発進させることができるのは、最も小さなこの船のみ。

 それでも必要最低量には足りず、ノマスから離脱することさえ確実性に欠ける。しかし、ヌースに計算させた結果、遠征艇に乗るのが一人だけなら、ほぼ間違いなく離脱が可能だろうとの結論が出た。

 

 何とかトリオンに融通が付けばアルモニアも共に脱出できるのだが、何時都市解体が始まるか分からない以上、他の部屋からトリオンを探すことも、トリオン機関の自然回復を待つこともできない。

 もとよりアルモニアとヌースは、少女の命を何より優先するつもりであった。たとえ犠牲になるのがアルモニアではなくヌースであったとしても、彼女は自ら望んでその身を捧げただろう。

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」

 

 だが、そんな事情など、フィリアに分かる筈も無い。

 少女は怒りと悲しみの余り取り乱し、コックピットの窓枠を両手で力いっぱい叩く。

 

「なら私も残る! また誰かが居なくなるなら、また家族と別れることになるなら、私も此処で皆といっしょに死ぬ!!」

 

 激憤して声を荒らげる少女を、アルモニアは困ったようにあやす。まるで駄々っ子に手を焼いているかのような、穏やかな表情である。

 

「ヌース。済まない。この子の事をよろしく頼む」

「はい。必ず、必ず護ります」

 

 もう時間がないとばかりに、アルモニアはヌースに出発するよう促す。

 尚も納得しないフィリアは抵抗を続け、有ろうことかコックピットから身を乗り出して船から降りようとする。

 そんな少女をアルモニアは軽々と制し、シートに無理矢理座らせる。それでも手を振り回して抵抗する少女を眺めているうちに、彼の内に抑えがたい愛情が込み上げてくる。

 そして――

 

「え――」

 

 そっと、アルモニアの手がフィリアの頭に触れた。

 

 白く柔らかな髪を、太く硬い指が梳る。

 壊れ物に触るかのようにぎこちなく、それでも心からの慈しみを込めて、アルモニアが少女の頭を撫でた。

 

 思いがけずアルモニアに触れられて、フィリアは喚くのを止めて身体を硬直させる。

 

 驚いただけではない。このごつごつとした感触に、少女は覚えがあった。

 どこか遠慮がちで、なのに力加減を間違えた、ひどく不器用な掌。

 

 快感や安心とは程遠く、それでも情愛の念だけは確かに籠った愛撫。

 この思いは、この気持ちは、一体誰から貰ったものだったか。

 

 遠い過去の記憶から、少女のサイドエフェクトが一瞬で答えを導き出す。

 

「……おとう、さん?」

 

 フィリアの口から零れた言葉に、アルモニアが目を見開いた。

 その仕草に、少女は己の直感が正しかったことを知る。

 

「うそ……なんで、なんで、いってくれなかったの?」

 

 呟くフィリア。その金色の瞳から、一筋の涙が零れる。

 

「フィリア。私も……そしてレギナも、ずっと君の事を思っていたよ。エクリシアにも、ノマスにも縛られることはない。君は自由だ。どうか、幸せに――」

 

 少女の父は困ったような笑みを浮かべ、フィリアへと語りかける。

 だが彼が積もり積もった思いを言葉にしようとしたその時、格納庫に激震が走った。

 

「ッ――」

「都市の解体が始まります!」

 

 それまで成り行きを見守っていたヌースが、緊迫した声でそう告げる。いよいよ、ノマスが(マザー)トリガー封鎖作戦を決行したのだ。

 

「発進するんだ! さあ早く!!」

「ま、待ってっ!」

 

 フィリアは機体の外へと身を乗り出そうとするが、それより一瞬早く、キャノピーが下りた。透明な壁が、少女と父を隔てる。

 

「お父さん! お父さん!! お父さんッ!!」

 

 フィリアは風防を何度も叩きながら、涙に塗れた顔で叫ぶ。

 アルモニアは優しい微笑みを浮かべ、そっと少女の掌に己の手を重ねる。

 だが、何時までもこうしては居られない。振動はさらに強まり、ミシミシと格納庫全隊が悲鳴を上げている。

 

「行け!」

 

 アルモニアは機体から手を放し、鋭くそう言い放つ。

 甲高いリアクターの駆動音と共に、船が空中に浮かび上がった。

 前方に放電音と共に現れるのは、漆黒の(ゲート)だ。

 そしてフィリアとヌースを乗せた小型船は勢いよく発進し、(ゲート)を潜り抜けてノマスの軌道から離脱する。

 

「…………」

 

 娘と旧友を無事に送り出せると、アルモニアは安堵の息を吐く。

 そして彼は何をするでも無く、崩壊が始まった格納庫のど真ん中に、落ち着き払った様子で腰を下ろした。

 

 思えば、この「パトリア号」は彼が心の底から愛した女性が生まれ育った街である。

 高貴な出自とは思えぬ程利かん気な彼女は、毎日都市の方々で遊び回り、多くの人々に可愛がられたと言う。

 きっとこの格納庫にも、何度も足を運んだことだろう。

 

「まさか、こんな形で来ることになるとはな……」

 

 そう溢すアルモニア。彼の脳裏には、妻と娘と過ごした掛け替えのない日々が甦る。

 

 過ちの多い人生だった。悔いが残らないと言えば嘘になる。娘の苦難に満ちた将来を思えば尚更だ。

 だがそれでも、アルモニアの面には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 彼はようやく、己を欺かずに娘の名を呼ぶことができたのだ。

 

「私が頭を撫でると、どうしても泣かせてしまうんだな。……またレギナに笑われる」

 

 ただ残念なのは、最期に見る娘の姿が泣き顔であったことか。

 

「なあ、あの子を護ってやってくれ」

 

 誰に聞こえるでもない祈りの声が、空漠とした格納庫に溶けてゆく。

「パトリア号」が完全に崩壊したのは、それから程なくしてのことだった。

 

 

 

 

 



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其の二十四 余燼 憎悪の埋火(うずみび)

 ノマスの中規模都市「グランディア号」の倉庫区画は、他の都市から避難した大勢の市民で溢れかえっていた。

 床には市民が持ち寄った布で簡易寝台が拵えられ、市民、兵士を問わず多数の負傷者が寝かされている。

 負傷者は余りに多く、医療スタッフは全く足りない。それでも、多くの市民たちは自発的に医師を手伝い、懸命に同朋の命を救おうとしていた。

 

「じゃあお母さん。広間のほうで兵隊さんのお手伝いしてくるね」

「気を付けるんだよ。皆さんのご迷惑にならないようにね」

 

 倉庫区画の一隅で、明るい栗毛をした快活な少女と、恰幅のいい婦人が話をしている。彼女たちはシビッラ氏族のウィタ、ウェネフィカ親子だ。

 彼女たちは何とか「パトリア号」の避難艇に乗り込むことができ、この「グランディア号」に無事収容された。

 途中、エクリシアのトリオン兵に襲われるなど危うい出来事があったが、それでもこの情に厚い親子は自らの疲労など頓着せず、「グランディア号」に収容されるや負傷者の世話に奔走した。

 

 今もウィタは医師の側に付きっ切りで、負傷者に包帯を巻くなど治療を手伝っている。肝っ玉の据わった彼女は凄惨な傷にもひるまず、それどころか力強い言葉で若い戦士を励ましている。

 娘のウェネフィカも、母と共に医師団の手伝いを行っていたのだが、つい先ほど館内に新たな避難艇を収容するとのアナウンスが流れた。

 新たな負傷者や物資の収容に伴い諸々の作業が発生する。動ける者は誰でもいいから手伝いに来いとの報せである。

 

 比較的手の空いていたウェネフィカは、自ら望んで収容作業を手伝うことにした。

 慌ただしく人が行き交う倉庫区画を抜け、都市下層の格納庫へと移動する。

 既に「グランディア号」は戦場を離れ、エクリシアの部隊から逃走を行っていた。

 避難艇は移動中の都市には直接着艦できず、進行ルート上の草原に現れる。

 その為、収容には一旦都市を停止させ、回収部隊を繰り出す必要がある。勿論、後方から追いかけてきているエクリシアのトリオン兵も足止めせねばならない。

 

「いいか! 追っ手のトリオン兵はルーペス氏族の者たちに任せよ! 我らは速やかに避難艇を確保するぞ!」

 

 地下の格納庫で声を張り上げ、職員らに指示を与えているのは、筋骨逞しい壮漢、アーエル氏族のマラキアである。

 

「諸君らは必ず護る。焦らず、迅速に作業を行ってくれ」

 

 よく見れば、作業車の前に並んでいるのは、トリガー使いでもない一般市民である。

 彼らのトリオン機関ではトリオン体を作り出すのが精一杯で、戦闘は行えない。それでも、緊張に面持ちを強張らせながらも、怖気づいた者は誰もいない。

 

「あの! お手伝いに来ました!」

 

 緊迫した空気の漂う格納庫ではあったが、ウェネフィカは作業中と思しき職員の一人を捕まえると、持ち前の社交性の高さで物怖じせず話しかける。

 そうして医療班に回された彼女は、医薬品を整理しながら避難艇を待つことになった。

 

「っ……」

 

 格納庫の壁には大型のモニターが複数設置され、都市外部の様子が望遠カメラで映し出されている。

 その一つ、都市の後方を撮影するモニターには、草原の彼方に蠢く影が映っている。エクリシアの繰り出したトリオン兵が、諦めもせずに都市を追跡しているのだ。

 クリズリに襲われた時の事を思い出し、ウェネフィカは思わず身を竦める。

 そうこうしている間にも、徐々に都市の速度が落ちていく。前方を映すモニターに小さな(ゲート)が見えた。避難艇は無事に草原へ着陸したらしい。

 

「よし。出るぞ! 船は放棄して構わない! 人命を最優先だ」

 

 十分な距離まで近づいたところで、いよいよ都市が停止した。

 格納庫のハッチが開き、タラップが降ろされる。職員たちは救護車や作業車に乗り込むと、草原へと降りていく。

 ウェネフィカはそんな彼らを、祈るような面持ちで見送った。

 

「頑張って、みんな……」

 

 都市の後方では、追いついてきたトリオン兵と、護衛のルーペス氏族の戦士らが戦闘を始めている。

 もし彼らが敵を討ち漏らせば、避難艇とその収容に赴いた職員たちが殺されてしまう。

 ウェネフィカは息をするのも忘れてモニターを見詰める。

 幸いなことに、収容作業はスムーズに進行した。職員たちが避難艇へと辿りつくや、ハッチすぐさま解放され、乗組員が救護車へと移される。

 

 後方のトリオン兵団も、ルーペス氏族の戦士たちによって完全に抑えられている。

 ウェネフィカは知る由もないが、護衛部隊の指揮を執るルーペス氏族のカルクスは、先ほど恩師が残した(ブラック)トリガーの起動に成功していた。汎用型のトリオン兵など敵ではない。

 また、避難艇には同じく(ブラック)トリガー「報復の雷(フルメン)」の使い手であるマラキアが付いている。万一敵が護衛部隊を抜けても、避難民たちが犠牲になる可能性は絶無だ。

 

「よし。ブリッジに連絡! すぐに発進させるんだ!」

 

 万事滞りなく作業は進行し、格納庫に救護車が入ってくる。護衛の戦士たちも、トリオン兵の追撃を躱して鮮やかに撤退する。

 都市が再び動き出した。六本の巨大な脚で大地を踏みしめ、超重量の体躯が驚くべき速さで草原を疾駆する。

 それまで都市に纏わりついていたトリオン兵が、見る間に引き離されていく。飛行型でもなければ、都市に追いつくことはできないだろう。

 

「負傷者多数! 医療班急げ!」

 

 しかし、安心してはいられない。格納庫に戻るやマラキアの緊迫した声が響く。

 避難民たちは多数が傷を負っているらしく、早急に処置しなければならない。

 

「は、はい!」

 

 ウェネフィカも職員たちに混じって走る。医療の知識はないが、荷物持ちぐらいならできる。人手はあって困るものではない。

 そうして救護車の前まで来た少女は、そこで見知った顔を見付けた。

 

「レグルス君!!」

 

 担架に乗せられて現れたのは、白髪金瞳の少年、ドミヌス氏族のレグルスだ。

 同じ「パトリア号」に住み、また年頃も近いこともあって少女とは親しい間柄の少年だ。

 先ほど収容した避難民たちは、「パトリア号」の指揮所から脱出した最後の生存者だったのだ。だが、

 

「落ち着けレグルス! お前は怪我人なんだぞ!」

「離してくださいマラキアさん! 父さんは、「パトリア号」はどうなったんですか!」

 

 少年はウェネフィカの存在など眼中になく、傍らのマラキアに食って掛かる。その頭には包帯が巻かれ、鮮血が滲んでいる。

 彼は指揮所での防衛戦時、敵トリオン兵の攻撃を受け昏倒した。意識が戻った時には既に「パトリア号」から離脱した後で、彼はそこでようやく事の顛末を聞かされたのだ。

 

「戻って父さんを助けないと! マラキアさん、兵を出してください! いや、僕だけでも、ボースを一体貸してくれれば……」

「馬鹿なことを言うな! お前は父親の覚悟を無碍にするつもりか!」

「でも……」

 

 強行に戦場へと戻ろうとするレグルスを、マラキアが強く叱責する。

 だが少年は一向に収まらず、担架から無理にでも降りようとする。するとその時、

 

「あっ――」

 

 格納庫に居た群衆の一人が、驚愕の声を上げた。

 そのただならぬ声音に、レグルスらは口論を止めて辺りを見回す。

 異変があったのは、主戦場を望遠で映し続けるモニターだ。

 

「都市が……「パトリア号」が……」

 

 彼方まで広がる草原の海に、島のように浮かぶノマスの機動都市。その中でも一際巨大な「パトリア号」に、奇妙な変化が起きていた。

 塔のように聳え立つ六本の脚が折り曲げられ、胴体部にピタリとくっつく。すると次の瞬間、都市の脚部がまるで粘土のように形を失い、胴体部に吸収された。

 変化は「パトリア号」の全体に及ぶ。脚を失ったばかりの都市の胴体部、そのごつごつとした輪郭線が、凹凸の欠片も無い滑らかな形状に整えられていく。

 僅か数十秒の内に、直径が一キロを超す巨大な卵のような物体が草原に現れた。

 

「っ――」

 

 格納庫に居合わせた誰もが息を呑む。

 (マザー)トリガーを護るため、「パトリア号」を解体する。

 予めそう聞かされていたとしても、やはり実際の光景を目の当たりにすれば、衝撃の度合いは凄まじい。

 彼らが自国の象徴として親しんできた超巨大都市が、今まさに終焉を迎えようとしているのだ。

 そして、大勢の市民が固唾をのんで見守る中、「パトリア号」に新たな変化が起きた。

 巨大なトリオン球と化した都市が、水滴のように弾けたのだ。

 

「~~~~!!」

 

 液状に変化した大量のトリオンが、自ら意思を持つかのごとく、凄まじい速度で草原へと染み込んでいく。

 見る間に、草原の一画が白亜のトリオンで完全に覆いつくされた。

 モニターでは分からないが、変化は地下深くまで及んでいるだろう。

 

 都市を構築する大量のトリオンが幾層もの隔壁となって、(マザー)トリガーを包み込んだのだ。

 エクリシア勢が残された時間とリソースの全てを投じても、掘削は絶対に不可能だ。ここに(マザー)トリガー封鎖作戦は全ての工程を滞りなく完遂した。

 だがその代償として、「パトリア号」は永久に失われた。草原に聳え立つ威容の大都市は、何処を探しても見つけることができない。

 

「…………」

 

 格納庫に重い沈黙が立ち込める。

 (マザー)トリガーを攻略できないエクリシアには、撤退以外の選択肢は残されていない。過酷な戦いは終結するのだ。

 だが、そこに至るまでにノマスは何を失ったのか。

 

「パトリア号」だけではない。中小の機動都市のおよそ半数が大破し、戦場へと残されている。修理するとしても、再び市民が住めるようになるには長い時間が掛かるだろう。

 それどころか、犠牲となった市民の数さえ把握できていない。

 ただ、夥しい数の死者、捕虜を出したであろうことは間違いない。ノマス建国以来の最悪の戦禍である。

 受けた傷を癒すまで、どれ程の年月がかかる事か。それまで民に強いる忍耐が、どれ程辛いものになるだろうか。

 

 端的に言って、ノマスは完敗を喫したのだ。

 それも国を傾けかねないほどの、歴史的な敗北を。

 

「…………」

 

 それを理解しているからこそ、モニターを眺める市民たちの表情は一様に暗い。戦争が終結したことを、喜ぶことさえできない。だが、

 

「……さない」

 

 ポツリ、と格納庫に小さな声が響く。

 声の主は、担架に座る少年レグルスだ。

 

「許さないぞ、エクリシア」

 

 今度ははっきりと、少年の声が聞こえる。彼は瞬き一つせず、モニターを食い入るように見つめている。まるでこの敗北の光景を、魂に刻み付けるかのように。

 

「今日のことは死んでも忘れない。……絶対に、絶対に滅ぼしてやる」

 

 格納庫に居合わせた面々が、思わず少年を見遣る。すると、

 

「滅ぼしてやるぞエクリシアっ!! 何年かかっても、何十年かかっても、お前たちを絶対に逃がさない。誰一人として残さず、皆殺しにしてやるッ!!」

 

 レグルスは固く握り絞めた拳を振り上げ、喉が裂けんばかりに絶叫する。

 そして少年の叫び声が消えてなくなると、一瞬の間をおいて、今度は更なる咆哮が格納庫に轟く。

 

「そうだ! 俺たちは忘れない! 必ずエクリシアに復讐するんだ!」

 

 市民の一人がレグルスの叫びに呼応するように、声を張り上げる。

 それが呼び水になったかのように、格納庫に居合わせた人々が口々にエクリシアへの復讐を叫びだした。

 憤怒と憎悪の雄叫びは格納庫に留まらず、津波のように「グランディア号」船内を駆け巡る。 

 誰もがエクリシアへの復讐を誓い、犯した罪を血で贖わせることを願う。

 

 エクリシア滅ぼすべし。憎悪の唱和が轟く。

 まるで船全体が吼え猛るかのような、異様な雰囲気。

 冷静さを保っていたマラキアも、狂気に浮かされた市民たちを鎮めることができず、固い面持ちで口を引き締めるばかり。

 強い怒りは敗北感を打消し、喪失感を埋めてくれる。今後の復興を考えれば、市民たちの感情を無闇に押さえつけることはできない。

 しかし、船内がエクリシアへの復讐に沸く中、一人怯えた様子で佇む少女が居る。

 

「み、皆どうしたの……れ、レグルス君、怖いよ……」

 

 ウェネフィカは狂ったように叫ぶ少年に、近づくことすらできない。

 あれほど聡明で優しく勇敢であった少年が、少女が淡い恋情を寄せていた彼が、とても恐ろしい化け物に変わってしまったかのようだ。

 

「う……」

 

 いや増す熱狂の中、少女は反射的に自らの懐に手をやる。

 そこに納められていたのは、フィリアという少女から預かったトリガーだ。

 窮地に陥ったウェネフィカたちを救ってくれたのは、自分と変わらぬ年頃の少女だった。

 

 エクリシアの騎士と名乗った少女はしかし、自分たちと同じ肌をしていた。それになにより、母と自分が無事な姿を見た時、心から安堵してくれたのだ。

 だからだろうか。ウェネフィカはこれほどの惨状に遭いながらも、どこかエクリシアを憎み切ることができなかった。彼女たちにも、何かの事情があるのではと思えてしまったからだ。

 

「やだ、……こんなの、嫌だよ」

 

 狂ったように憎しみを叫ぶ同胞たちに囲まれ、少女はか細い声で呟く。

 しかし、数百年にも及ぶエクリシアとノマスの因果は、こうして次代へと引き継がれていく。血が血を呼び、破壊が更なる破壊を招き、恨みはより一層深まっていく。

 非力な少女一人に、殺戮の連鎖を止めることは不可能だった。

 

 

 

 



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其の二十五 余燼 夜の海の片隅で

「捜索を打ち切るですって!? 恥を知りなさい! あなたたちはそれでも誇りあるエクリシアの騎士ですかッ!!」

 

 薄暗い遠征艇のブリッジに、憤激した女の声が響く。

 柳眉を逆立ててモニターに怒鳴りつけているのは、エクリシアはゼーン騎士団総長、ニネミア・ゼーンだ。

 彼女の前の投影モニターには、フィロドクス騎士団のジンゴとカスタノが映っている。

 

 ノマスが「パトリア号」を解体し、(マザー)トリガーを封鎖してから、既に一両日が経過している。

 戦闘そのものは、(マザー)トリガーが封鎖されてから半時と経たないうちに集結していた。

 ノマスは比較的損傷の少なかった起動都市群に市民を乗せると、エクリシアの軍勢を置き去りにして、一目散に戦場から離脱を始めたのだ。

 

 こうなれば、状況は緒戦の焼き直しになる。

 トリオン障壁によって(ゲート)が封じられた以上、エクリシアの兵団は逃げ回る機動都市軍を捉えることができない。

 

 さりとて(マザー)トリガーを制圧しようとしても、地下深くまで張り巡らされた防壁がそれを阻む。

 大量の土砂に加えて、防壁には電撃を発生させる迎撃機能が備わっており、投入したワムは防壁に触れるや即座に破壊された。

 

 エクリシアの装備では、撤退期限までに(マザー)トリガーを制圧することは不可能だ。

 完全な手詰まりである。フィロドクス騎士団はその日の内に本国への撤退を提言したが、それも当然と言えた。だが、

 

「ふざけないで頂戴! あの子たちを、イリニ騎士団の朋友を、こんな場所に置き去りにしていくというの!?」

 

 只一人、ゼーン騎士団のニネミアだけが、頑なに撤退を拒否していた。

 イリニ騎士団のアルモニア、フィリア両名はノマスの首都都市「パトリア号」へと突入し、深部まで到達したのだが、都市の崩壊に巻き込まれて消息を絶った。

 彼女は行方不明となった二人を、ギリギリまで捜索し続けるべきだと主張しているのだ。

 

「お気持ちは分かります閣下。ですが、あれほどの広大な範囲からお二人を探すには、時間も機材も、何もかもが余りに不足しています」

「だからと言って、諦めていい理由にはならないでしょう!!」

 

 沈痛な面持ちを浮かべながら諌めるジンゴに、ニネミアはなおも食って掛かる。しかし、

 

「残念ですが、「光彩の影(カタフニア)」で消息を掴めたときには二人ともトリオン体を失っていました。あの崩壊に巻き込まれてしまっては、生存は絶望的でしょう」

 

 ジンゴの主張を補足するように、カスタノがそう語りかける。

 フィロドクス騎士団の説明によれば、「パトリア号」の内部は、ノマスの手によってほぼ完全な通信封鎖が行われていたらしい。ニネミアが突入班の動向を探れなかったのも、それが原因だという。

 侵入が遅れたフィロドクス騎士団は、先行したアルモニア、フィリアに到頭追いつくことができなかった。

 

 深部まで到達した二人は、しかし(ブラック)トリガーを含めた敵の精鋭と交戦し、奮戦虚しく撃破された。フィロドクス騎士団の面々も敵からの思わぬ反撃を受け、彼らを回収できずに撤退する羽目になったという。

 

「確かに(ブラック)トリガーを失ったのは痛恨事ですが、これ以上損失を出してはなりません。深入りは避けるべきかと」

 

 生身のまま「パトリア号」に取り残されたアルモニアとフィリアが生き延びている可能性は皆無だ。その事実は、彼らが所持していた二本の(ブラック)トリガーの損失をも意味する。

 国威の象徴である(ブラック)トリガーの喪失は、或いはその使い手の命より重い。

 

「そんな事を論じているのではありません! 貴族の沽券に、人間の尊厳に係わる問題を話しているのよ! 故国に身命を捧げた人たちを置き去りにするなんて、許されることではないわ! ……たとえ、たとえ、それが遺体であっても、連れて帰ってあげるのが情けと言うものでしょう!」

 

 しかし、ニネミアにとって(ブラック)トリガーの話は二の次である。彼女はただひたすらに同朋たちを国元に連れ帰ることだけを念頭に、捜索を主張している。

 彼女が密かに思いを寄せていたアルモニア。そして彼女が妹のように可愛がっていた友人フィリア。

 

 特に、フィリアについての思いは殊更に強い。少女を戦地へと連れてきたのは彼女だ。ならば、どんな形であっても彼女が連れて帰らなければならない。

 貴族たらんと己を作り上げてきたニネミアにとって、同朋を見捨てて逃げ帰るなど、誇りに掛けて許すことはできない。だが、

 

「……ゼーン閣下のお気持ちは御尤も。されど、どうかお聞き入れ願いませぬか」

 

 議論を遮るようにして、しゃがれた声が通信に混じる。

 会話に割って入ったのは、白髭鷲鼻の老人、クレヴォ・フィロドクスである。

 

「閣下! お怪我はよろしいのですか? 御無理をなさらないでください」

 

 エクリシアの最長老にして、今遠征の指揮官でもある老人の登場に、然しものニネミアも怒気を納めて尋ねる。

 彼は「パトリア号」内でノマスの(ブラック)トリガー「巨人の腱(メギストス)」と交戦し、トリオン体を破壊された。衝撃は生身の体にも及び、壁面に叩き付けられたことで右腕とわき腹の骨を折る重傷を負っている。

 顔面が蒼白なのは痛み止めの効き目が薄れてきているためだろう。そんな有様でありながら、クレヴォはテーブルに左手を付き、ニネミアへ深々と頭を下げる。

 

「彼らを助け出せなんだのは、偏に我らフィロドクス家の落ち度。国元に帰ったのちは、如何なる叱責でも甘んじて受け入れよう。……ただ、我らは既に満身創痍。これ以上の戦闘は、残った騎士たちにをも危険に晒すじゃろう。ゼーン閣下にはどうか、撤退に御理解を頂きたい」

 

 苦しげに呻きながら、クレヴォは切々と騎士団の窮状を訴える。

 先の決戦で、エクリシアが持ち込んだトリオンは殆ど使い切ってしまった。「誓願の鎧(パノプリア)」の損耗も激しく、トリオン兵も残り少ない。

 

 只でさえ湯水の如くトリオンを消費するエクリシアの騎士である。

 遠征に投入された人員では、回復できるトリオンなど焼け石に水。次に大規模な戦闘が起こればとても持たない。

 これ以上ノマスの地に留まること自体が、看過できないリスクなのだ。

 

「っ~~」

 

 その辺りの事情が分からないニネミアではない。

 死者の尊厳を保つより、生者の今後を考えるべきとのフィロドクス家の意見は、指導者としてはまったく理に適っている。

 しかも、それを述べているは重傷を負った老人である。

 ニネミアは頭を下げるクレヴォを見ると、途端に自責の念に駆られる。

 

「……承知しました。ゼーン騎士団は、本国への帰還に同意します」

 

 感情と理屈の板挟みに煩悶していた彼女は、無念を滲ませた声で撤退に賛同する。

 手短に諸々のスケジュールを確認すると、彼女はフィロドクス騎士団との通信を終えた。

 面を伏せたまま、遠征艇のブリッジに立ち尽くすニネミア。

 彼女の紅い瞳が涙に濡れていたことに、気付いた者はいなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 ゼーン騎士団との会議を終え、本国への撤退が決定されるや、フィロドクス騎士団の遠征艇ブリッジは安堵の息で満たされた。

 居並ぶ面々は当主のクレヴォに、二人の息子ジンゴとカスタノ、それに家令のエンバシアだけだ。騎士団の他の面々には撤退の為の作業を行わせており、当面の間ブリッジに立ち入ることはない。すると、

 

「想定外のこともありましたが、当初の目標は概ね達成しました。今回の遠征は成功と言っていいでしょう」

 

 先ほどまでの沈痛な面持ちとは打って変わって、明らかに上機嫌な様子でジンゴがそう述べた。

 

「口を慎め。誰が聞いているか分からんぞ」

 

 そんな息子の豹変ぶりに、クレヴォは疲れた表情で苦言を呈す。だが、

 

「はは、親父殿は心配性だな。配下の連中に咎めるような輩はいねえよ。ちゃんと、道理を弁えた奴を選んで連れてきたからな」

 

 次男のカスタノは酷薄な笑みを浮かべて混ぜっ返す。

 

「……イリニ閣下は姪御殿と共に戦死。羽翼たるディミオス卿も意識不明の重体とあっては、イリニ騎士団は立ち行きますまい」

 

 控え目にそう呟いたのは、コンソールを操っていたエンバシアだ。

 当主アルモニアと姪のフィリアが死亡したことで、イリニ家には直系の継承者がいなくなった。傍流から後継ぎを出すにしても、揉めに揉めるだろう。

 

 加えて、配下の家々を取りまとめていた譜代の家臣、ディミオス家のドクサもこの戦で重傷を負っている。

巨人の腱(メギストス)」の使い手レクスによる拳打をまともに喰らった彼は、生身となった状態で都市外殻へと叩きつけられた。

 すぐさま同朋が救出し、遠征艇で治療が行われたが、胸骨と背骨が砕け、内蔵にも深い傷を負っている。一命こそ取り留めたものの意識が戻るかは不明であり、仮に目覚めたとしても、重い後遺症が残るだろうとのことだ。

 

 当主、跡継ぎ、そして股肱の臣を失ったイリニ騎士団は、今後衰退を余儀なくされるだろう。

 そして動員できる兵隊が居なくなれば、勿論貴族としても立ち行かなくなる。

 エクリシアの国勢を預かる三大貴族の一角、イリニ家の没落。

 これこそ、ノマス遠征に当たってフィロドクス騎士団が秘密裏に企てた計画の目的である。多少の損害や想定外の事件は出来したものの、全体としては完璧に近い仕上がりになった。

 

 当主が居なくなれば、イリニ騎士団に属する家々を切り崩すのは容易い。主家が没落したとなれば、彼らは寝技を使うまでも無くフィロドクス家へと靡くだろう。

 同じく三大貴族の一つゼーン家も、配下の調略は順調に進んでいる。知勇兼備のアルモニアに比べれば、若輩者のニネミアは与し易い相手だ。

 これで、エクリシアの覇権はフィロドクス家が握ることとなる。首謀者の兄弟が喜びを隠しきれないのも無理はない。

 

「それにしても流石はノマス。質、量ともに申し分ない捕虜が得られたな」

 

 投影モニターに映し出された戦果を眺めつつ、ジンゴが得意げに笑う。

 今回の遠征の()()()()であるトリオン能力者の獲得も、大成功に終わった。

 捕虜としたノマスの民は莫大な数におよび、また優秀なトリオン機関を持つ者も数多くいる。彼らを絞り上げれば、先の防衛戦で蒙った被害を補うに十分なトリオンが得られるだろう。

 

「大国の名に恥じないねぇ。俺たちに使われるために、精魂込めて育ててくれた訳だ」

 

 陰惨にそう嘯くのはカスタノだ。

 膨大なトリオンを投じて行われた遠征が無事成功したことは、エクリシアの民を大いに喜ばせることだろう。発表の際に上手く味付けをすれば、アルモニアたちの戦死さえも覆い隠して大勝利と喧伝できる。だが、

 

「……(ブラック)トリガーが回収できなかったことは、痛手ではあったがな」

 

 歓喜に沸く息子たちに冷や水を浴びせるように、クレヴォがそう呟く。

 イリニ家伝来の「懲罰の杖(ポルフィルン)」と新造の(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」は、結局「パトリア号」と共に失われてしまった。アルモニアたちが破壊していればいいが、ノマスの手に渉ってしまえば厄介だ。

 

「はっ! あれだけ痛めつけてやれば満足に運用もできんでしょ。それにこっちだってあの「悪疫の苗(ミアズマ)」を鹵獲したんだ。直接扱える(ブラック)トリガーが増えたんだぜ? フィロドクス家(うち)にとって損な話でもないでしょうよ」

 

 クレヴォの危惧を、カスタノが笑い飛ばす。

 確かに(ブラック)トリガーを二本も失ったのは言い訳のしようも無い大失態だが、エクリシアはノマスの(ブラック)トリガーを一つ奪い取ることに成功している。

 

 しかも、鹵獲したトリガーはその騎士団に所有権がある。エクリシアで最も多くの兵員を抱えるフィロドクス騎士団なら、適合者は難なく見つかるだろう。

 カスタノの言う通り、イリニ家を弱体化させフィロドクス家の力を高めるなら悪くない展開だ。

 どの道、ノマスと再び軌道が接近するのは十余年後。それまでには、エクリシアはフィロドクス家によって更なる発展を遂げていることだろう。

 

「……もういい。ともかくお主ら、忘れてはおらんだろうな」

 

 笑み崩れる息子たちを冷めた目で見つめながら、クレヴォがそう切り出す。

 ジンゴとカスタノがアルモニア暗殺計画を立てたのはエクリシアの大権を握るためであったが、クレヴォがその陰謀に加担したのは全く別の理由からだ。

 

「分かっていますとも。次の教皇は間違いなく我らが義妹、オリュザが務めることになるでしょう」

 

 謹厳な面持ちで答えたのはジンゴだ。そして、

 

「安心しなよ親父殿。俺たちはお飾りの教皇になんてなるつもりはないさ。あの子が変わりにやってくれるなら、阻む理由なんてない」

 

 カスタノも浮ついた笑みをひっこめ、真面目な様子でそう言う。

 クレヴォがアルモニア暗殺計画を裁可したのは、偏に養女のオリュザの為だ。

 

 フィロドクス家の主だった者しか知らぬことだが、オリュザは進行性の脳腫瘍を患っており、余命は数年と申告されている。

 エクリシアの医療技術では根治不可能な病である。

 愛娘に降りかかった不幸を嘆くしかなかったクレヴォだが、そんな彼に一縷の光明が差したのはつい先日の事だ。

 

 神の代替わりに備えて諸々の準備が進められる中、オリュザが(ブラック)トリガー「不滅の灰(アナヴィオス)」の適合者であることが判明したのだ。

 エクリシアの国宝「不滅の灰(アナヴィオス)」は、トリガーそのものが無限にトリオンを生み出すという規格外の性能を有する。

 また、このトリガーの超絶の機能はそれだけではない。驚くべきことに、「不滅の灰(アナヴィオス)」を機動した者の肉体は齢を取らなくなるのだ。

 

 トリガーを用いてトリオン体を生成した場合、肉体はそのトリガーへと収納される。

 しかし、「不滅の灰(アナヴィオス)」のトリガー内では時間の進みが極限にまで停滞しているらしく、肉体は収納された瞬間からまったく変化しないと言うのだ。

 その証拠として、現教皇アヴリオ・エルピスは在位二百年を超えながらも、少年の姿を保ち続けている。

 不老不死の身となり、悠久の年月を(マザー)トリガーの護り手として過ごす。その為に、エクリシアの教皇には「不滅の灰(アナヴィオス)」の適合者であることが求められた。

 

 そして図らずも、難病を抱えるオリュザにその適性が認められたのだ。

 クレヴォはこれを運命だと感じ取った。老いさらばえた己より先に身罷る運命にあった愛娘に、延命の可能性が生まれたのだ。

 

 是が非でもオリュザを次期教皇に仕立て上げる。その為に、彼は悪辣な策謀を巡らせた。

 アルモニアを暗殺し、イリニ家の勢力を削いだのも計画の一つだ。

 

「よいか。まだ全てが成し遂げられた訳ではない。油断なく今後も動向を探れ」

 

 モニターの薄明かりに照らされながら、クレヴォが刃のように鋭い眼光で息子らを見る。

 

「ええ。此処までしておいて他家に神を輩出されては、すべてが水の泡ですのでね」

 

 言われるまでも無いとばかりに、ジンゴが頷く。

 

フィロドクス家(うち)の候補以上の奴がそうそう見つかるとは思えないが、まあ、手は尽くすとしますか」

 

 カスタノはわざとらしく肩をすくめてそう言う。

 オリュザを教皇の座につかせるには、フィロドクス家から神を出さねばならない。そのことについても、彼らには十分な勝算があった。

 ノマスの侵攻で候補者が殺されたというのは他家を欺くための嘘で、フィロドクス家は、次代の神に相応しいトリオン機関の持ち主を既に確保していたのだ。

 

 国土の維持どころか、拡張まで可能とする新たな神。

 神を出せば、フィロドクス家は次の数百年間エクリシアを牛耳ることができるだろう。もちろんオリュザが教皇となるのも確実だ。

 だが、神の代替わりまでにはまだ幾らかの猶予がある。幸運に恵まれた他家が、更なる適格者を見つけ出さないとも限らない。

 イリニ騎士団、ゼーン騎士団の力を削ぐのはそのためだ。

 

「父上。そろそろ休まれてはいかがですか? 些事は我々が片付けますので」

 

 知らずと間に険しい表情を浮かべていたクレヴォに、ジンゴが丁重にそう進める。

 孝行息子を絵に描いたような口ぶりだが、別に父を慮ってのことではない。此処でクレヴォに万が一のことがあれば、ジンゴらにとっても面倒なことになる。

 

「……ああ。そうさせてもらう」

 

 クレヴォは特に反論もせず、エンバシアに介添えされてブリッジを後にした。

 

「…………」

 

 救護室への途上、老人の脳裏に戦場での光景が甦る。

 クレヴォに裏切られ、驚愕の表情を浮かべるフィリア・イリニ。少女の叫び声が、彼の耳に木霊する。

 

「何故、何故か……」

「如何なされましたか? 旦那様」

 

 思わず呟いたクレヴォに、エンバシアが訝しげに問いかける。だが、

 

「いや、少し疲れただけだ」

 

 クレヴォは苦りきった表情でそう答えるのみ。

 自分を慕ってくれた幼子を、愛娘の友人であった少女を、クレヴォは卑劣にも背中から撃った。

 七十年以上生きた老人にとっても、これほど後味の悪い経験は稀だ。

 

「相も変わらず、この世界は残酷であることよ」

 

 クレヴォが誰に告げるともなくそう溢す。

 近界(ネイバーフッド)に浮かぶ全ての星は、常に人間の血を求めている。

 誰かの幸せを願うならば、他者の不幸でそれを贖わねばならない。その為に、近界(ネイバーフッド)に住まう民は「こちら」と「あちら」を峻別する。

 あまりにも無慈悲で残酷な、動かしがたい世界の摂理。

 そんな世界を長きにわたって見続けたクレヴォの、それは偽らざる嘆きであった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 唸り狂う猛吹雪が、世界を真っ白に染め上げていた。

 視界は数メートルも無く、ただ茫漠とした景色の中、吹き付ける風の音だけが響く。

 

 ノマスから発進した小型艇は、近界(ネイバーフッド)の暗黒の海を十日余り漂った後、無事に氷の国パゲトンへと辿りついていた。

 

 だが、折悪しく着陸直後に猛吹雪に見舞われ、搭乗者たちは船から降りることができないでいた。

 いや、そもそも彼女たちに、行動する意思があったかどうか。

 

「レーションを温めておきました。……少しずつで構いませんから、食べてください」

 

 二人乗りの小型艇の中で、優しく囁くのは自律型トリオン兵ヌースだ。

 彼女は万能索で吸い口のついた銀色のパウチを持ち、操縦席の後方シートへと差し出している。だが、何時まで経ってもレーションは受け取られない。

 

「フィリア……」

 

 後部シートに座る少女フィリアは、両膝を抱えて俯いたまま声一つ漏らさない。

 エクリシアとノマスの激闘で、少女は余りに多くのモノを失った。

 母と弟妹を亡くし、同朋から裏切られ、そしてようやく父と知ったアルモニアさえ失った。見ず知らずの異国に命からがら逃げ延びた彼女に、どんな言葉が届くというのか。

 

「……では休みましょうか。大丈夫です。私はずっと、そばにいますから」

 

 フィリアの状態が思わしくないと悟ったヌースは、食料を脇に置くとコックピットを浮遊し、少女の足元へと近づく。

 

「…………」

 

 とその時、フィリアは俯いたまま、無言で膝を抱えていた手を解いた。

 ヌースはその意を察し、少女の胸元へと浮遊する。少女はヌースを両手で抱き寄せると、滑らかな体表に額を押し付け、力いっぱい抱きしめた。

 

「……私、がんばったんだよ」

 

 涙を滲ませた声で、フィリアが呟く。

 

「いっぱい痛かったり、辛かったり、悲しかったりしたけど、それでも私、精一杯がんばったんだよ」

「はい……はい。よく知っています。ずっと見ていましたから」

 

 イリニ家の使者が貧民街に訪れたあの日、フィリアの世界は変わった。

 愛する家族を護るため、幸福な未来へと至るため、少女は修羅の世界に自ら足を踏み入れた。

 それから過ごした二年余りの月日が、彼女にとって如何に過酷であったか。

 安寧など何処にもなく、貪欲に力を求め続けた。母の代わりを探すため、遠い異国に押し入って、命を掛けて戦った。だが、

 

「でも、何にも、何にもならなかった……」

 

 悲鳴のような囁き声が、ヌースの聴覚に届く。

 

「私には何にもできなかった! 何一つ、誰一人助けられなかった! お母さんも、サロスもアネシスも、イダニコも――お父さんだって!」

 

 喉から絞り出したかのような、小さく擦れた声でフィリアが叫ぶ。

 

「沢山人を傷つけたのに――殺して、荒らして、壊して……オルヒデアさんだって、私が殺したも同然なのに……なのに、私は、私は何もできなかった! ううん、それだけじゃない。私は復讐さえできなかったんだ! 母さんの、みんなの仇をやっと見つけたのに、私は、私は結局……」

「……フィリア、落ち着いてください。私はあなたが生きていてくれた。それだけで、本当に救われています」

 

 悔恨の情を吐き捨てる少女に、ヌースは寄り添い続ける。

 

「冷えますね。ヒーターの温度を上げましょうか」

 

 項垂れるフィリアを宥めながら、ヌースはそう言って器機を操作する。

 トリオン体の少女に暑さ寒さは直接的な害にならないが、染み入るような寒さは精神をも疲弊させる。治療は施したといえ、少女は生身に大怪我を負ったのだ。少しの負担でも掛けるべきではない。

 ただ、船に残された食糧、トリオンは残り少ない。数日中に行動を起こす必要がある。フィリアが回復しなければ、最悪ヌース単独ででも、この国の民に接触しなければならないだろう。

 

 それから、しばらくの時が過ぎた。

 夜半、吹雪はようやく収まり、周囲は夜の静けさに包まれていた。

 深閑とした闇の気配。雪に音が吸われ、目を瞑っていれば世界に誰もいなくなったかのような錯覚を覚える。

 

 微睡んでいたフィリアは、ふとした拍子に目を覚ました。

 少女が感じた違和は、辺りが妙に明るいことだ。

 トリオンを節約する為、船は照明を消してヒーターのみを付けている。計器類のぼんやりとした灯り以外に光源は無いはずだ。

 

 にも関わらず、少女のいるコックピットは奇妙な光にぼんやりと照らし出されていた。

 様々な色が溶け合ったかのような、淡く柔らかな白光。

 何気なく天を見上げたフィリアは、驚きに息を呑んだ。

 

「ッ――」

 

 晴れ渡った夜空には、まるで漆黒の緞帳に宝石をちりばめたように、満天の星が輝いていた。

 色も大きさも異なる様々な星々は、近界(ネイバーフッド)の夜の海を行き交う国の姿だ。

 それらが放つ光が積もった雪に反射して、幻想的な光景を作り出していたのだ。

 

「……なんで」

 

 だが、その美しい景色を目の当たりにしたフィリアの口から零れたのは、悔しさに滲んだ問いかけだった。

 

「どこの国でも、酷い事しかないのに。どんな人でも、辛い思いばっかりしてるのに 

 ……なんで、世界はこんなに綺麗なの?」

 

 フィリアは思わず嗚咽を漏らし、顔を覆って蹲った。

 この無情なる世界で、これからどうすればいいのか。

 護るべき人も、帰るべき場所も、生きる意味さえ見失った。

 

 絶望に責め苛まれた少女は、ただ涙を流すことしかできなかった。

 

 

                                  第六章へ続く

 

 

 



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第六章 境を越えて
其の零 しんじつ善き人々


 雲一つない青空に、肌を焦がさんばかりに輝く太陽。

 蒼茫たる海原と白い砂浜が、目もあやなコントラストを描いている。

 

 聞こえてくるのは、寄せては返す波の音と、遠く近くの蝉時雨。

 彼方まで広がるのは空と海に二分された世界。海風に煽られながら見渡せば、清々しい解放感が湧きあがってくる。

 

 日本は四塚市(しづかし)にある海水浴場。しかし夏真っ盛りに関わらず、人の姿は殆ど見られない。

 浜辺を歩いているのは、十代と思しき男女数人のグループのみだ。

 

「四塚市まで来たのに、マリンワールドには行かないんすね」

 

 その一団の中で、ビーチパラソルを抱えていた黒髪の少年が呟いた。すると、

 

「うん。みんな海に行きたかったみたいでね。さくらくんはプールのほうがよかったかな」

 

 と、栗色の髪をした柔和な風貌の青年が、レジャーシートを広げながら答える。

 

「いえ。俺は別にどっちでもいいですけど……まあ、あいつも喜んでるみたいですし」

 

 さくらと呼ばれた少年の視線の先には、ほあああと頓狂な声を上げる奇妙な何かが。

 

「大きいですな~。広いですな~」

 

 大海原を目の当たりにして感嘆の声を上げていたのは、何と二足歩行の犬である。

 大人の膝丈程度の大きさをした黄色い犬が、二本の脚で砂浜を踏みしめ、子供のようにはしゃいでいるではないか。

 

 頭と体が大きく、手足が小さい様はまるでぬいぐるみのよう。

 犬らしからぬ立派な眉毛に大きな鼻、きらきらと輝く黒い瞳。可愛いかどうかは好みの別れるところかもしれないが、実に愛嬌のある顔立ちである。

 

 そして子供用の浮き輪を付けた犬は、黒いゴム風船のような物を取り出すと、器用に口を付けて、ぷうぷうと膨らませ始めた。

 すると息を吹き込まれた風船は、途端に手足を備えた人型へと膨らんだ。

 

 のっぺりとした体躯に大きな目が一つ。デフォルメの効いたデザインのゴム人形は、しかしモギューと不可思議な鳴き声を上げると、当然の権利のようにのそのそと歩き出す。

 

「よし、ゆくぞごむぞう! わたくしめにつづくのです!」

 

 海原を前に意気軒昂と命じる犬に、ゴム人形が答えるように腕を突き上げた。とその時、

 

「モギュ~」

「ごむぞう――!!」

 

 突如として伸びてきた白い手が、ゴム人形の栓を引っこ抜いた。

 空気の抜けてしまった人形は、たちまち元の大きさへと戻ってしまう。

 

「外で出さないようにって、あたし言ったわよね」

 

 狼狽する犬に話しかけたのは、長い黒髪を二つに結った、釣り目がちな少女だ。

 少女は慌てふためく犬を白い目で見つめながら、ゴム風船を摘まみ上げる。

 

「あはは、周りに誰もいないしいいんじゃない? ほら、おっきいゴムボートみたいなもんでしょ」

 

 すると、今度は黒髪ショートヘアの可愛らしい少女が現れ、調子の良い口調で話に加わった。どうやら犬とゴム人形を擁護してやるつもりらしい。

 

「ゴムボートは歩かないのよ」

 

 だが、二つ結いの少女は凄みを帯びた声でバッサリと斬り捨てる。

 

「おわわ……でも、ごむぞうも海にはいってみたいのでは……」

「そーだそーだ! 仲間外れは可哀想だぞ! ていうか私もごむぞうに乗ってみたいんだけど。すっごく楽しそう」

 

 そんな少女の剣幕に気圧されながらも、犬はおずおずと意見し、ショートヘアの少女は無責任に囃し立てる。

 

「あーもー分かったわよ。でも絶対動かしたり、喋らせたりしないこと! そいつはでっかいゴムボート。いいわね!」

 

 二人の懸命な抗議に、二つ結いの少女は深々とため息をつきながらも、渋々といった様子で頷いた。

 途端に犬が表情を輝かせ、嬉しそうに再びゴム人形を膨らませ始める。だが、

 

「ていうか、泳ぐのはまだよ。荷物も置いてないし」

「あ、そうだね。お兄さん手伝わないと」

 

 二人の少女はそう言って、砂浜にパラソルを立てている少年たちの方を見遣った。見れば、少女たちもそれぞれ肩掛けに荷物を下げている。

 

「む? おてつだいならわたくしめも……」

 

 背を向けて歩き出す少女たちを、はたと手を止めた犬が追いかける。すると、

 

「ノーーーー!!」

 

 しっかりと口を持っておかなかった所為か、膨らみかけていたゴム風船が犬の手から勢いよく飛び出してしまった。

 

「ごむぞう!!」

 

 波打ち際へと飛んでいくゴム風船を、犬が血相を変えて追いかける。

 短い脚を懸命に動かし、砂浜にヘッドスライディングをして何とかゴム風船を掴み取る。

 手にした風船を今度はしっかりと握りしめ、犬が一安心の息を付く。だがその時、

 

「のわわわわーー!!」

 

 折悪しく大きめの波が押し寄せてきて、犬の顔面へと直撃する。

 のみならず、浮き輪をつけて腹ばいになっていた犬は、何の抵抗もできずに引き波に攫われてしまった。

 

「ちょ、なにやってんのよあのバカ!」

 

 二つ結びの少女たちが気付くも、既に犬は自分では足の届かない沖にまで流されてしまっている。

 犬はパニックに陥り手足をじたばたと動かしている。浮き輪を付けているが、あれでは体が抜けてしまうかもしれない。

 二つ結びの少女は荷物を砂浜に置き捨てて走り出した。華奢で小柄な体躯からは想像もつかない敏捷な動きである。

 

 だが、そんな少女を追い抜いて、波打ち際へと走る人影がもう一つ。

 

 

 黄金を溶かしたような金色の瞳が、犬の姿をはっきりと見つめる。

 

 

 

「リリエンタール!!」

 

 

 

 緊迫した声で犬の名を叫ぶのは、雪のように煌めく白髪をした褐色肌の少女だ。

 

「リリエンタール! 大丈夫、お水飲んでない!?」

 

 褐色肌の少女は波に翻弄されている犬に追いつき抱き上ると、心配した様子で話しかける。

 リリエンタールと呼ばれた犬は鼻をずびずびと鳴らし、うぶぶと唸りながら、

 

「へ、へいきなのです。ごむぞうもたすけたのです」

 

 と、強がって見せた。

 

「ちょっともう気を付けなさいよ!」

 

 二つ結いの少女もすぐに駆けつけて、リリエンタールを叱りつける。とはいえ、きつい声音とは裏腹に、表情には心配の色がありありと浮かんでいる。

 

「も、もうしわけない……」

 

 少女たちに気遣われ、リリエンタールもしょんぼりと項垂れる。

 

「ふふ。まあまあ、御無事でよかったです。ごむぞうさんを助けたのは格好良かったですよ」

 

 そんなリリエンタールを励ますように、褐色肌の少女が優しげな微笑みを浮かべて語りかけた。

 

「ちょっと、あんまり調子に乗せるようなこと言わないでね」

 

 二つ結びの少女は不機嫌そうにそう言いながら、そそくさと浜へと戻ってしまう。そっけない態度だが、それが先ほどの狼狽した姿を隠すための照れ隠しなのは明らかだ。

 褐色肌の少女もリリエンタールを抱いたまま浜へと向かう。まだ海水が抜けていないのか、黄色い犬はすんすんと鼻を鳴らしている。

 

「本当に、何ともありませんか?」

 

 と、褐色肌の少女が問いかける。

 

「うぶぶ……じつはちょっとだけお水のんでしまったのです。すごくしょっぱいのです」

 

 リリエンタールは恥ずかしそうにそう答えた。

 

「むむ? どうかしたのですかな?」

 

 それを聞いた少女の足が、ぴたりと止まる。

 訝しげに問いかける犬を抱いたまま、少女は波打ち際で立ち尽くす。

 すると彼女はゆっくりと膝を曲げ、片手で海水を掬い上げた。

 そうして一掬の海水を顔の前に持ってくると、暫し逡巡した後、ぐっと一息で飲み干す。

 

「――けほっ」

 

 案の定と言うべきか、海水を勢いよく飲み込んだ少女は思わず噎せてしまう。そんな彼女の暴挙を目の当たりにするや、

 

 

 

「フィリア! 海の水にはしおがはいってるのです! わざとのんだらだめだのです!」

 

 

 

 と、リリエンタールが驚いて注意する。

 

 だが少女――フィリアは白い歯を見せ莞爾と笑うと

 

「ホントだ。しょっぱいね!」

 

 と、心の底から楽しそうにリリエンタールへと語りかけた。

 

 

 

 

 




少しだけ未来のお話です。


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其の一 慈悲無く、意味無く

 人の命を糧にして、終わりなき彷徨を続ける人造の星々が、暗黒の海に輝いている。

 

 近界(ネイバーフッド)に散らばる無数の惑星国家。その一つ、湖沼国家コロドラマでは、今まさに国の興廃を賭けた熾烈な戦いが繰り広げられていた。

 攻め寄せてきたのは惑星国家リピス。コロドラマとは因縁深い敵国である。

 

 既に開戦から五十日余りが経過していた。リピスは本国から途切れなく援軍を送り込み、着実にコロドラマの国土を浸食している。

 そして現在、劣勢に追い込まれたコロドラマは、巨大な湖の中心に位置する首都都市に立て籠もり、決死の抵抗を続けていた。

 

「くそ、バンダーが止められん! 兵を後退させろ! 防衛線を引き下げるぞ!」

 

 コロドラマの防衛指揮官の一人がそう叫ぶ。

 

 彼らが護っているのは、湖岸と首都都市を結ぶ幾本かの長大な橋の一つである。

 湖の上に浮かぶ首都都市は、周囲を巨大な水郷で囲まれているも同然であり、敵方は何とかして橋を抑え首都への足掛かりを得ようと兵を送り込んでいる。

 

 差し渡し三キロメートルを超える橋は幅も広く、また各所に防御陣地が設けられており、さながら延々と続く城塞のようである。

 コロドラマはこの橋に防衛部隊を集中させ、強固な縦深防御の陣を敷いていた。

 

 だが、飽くことのないリピスの攻撃により、防御陣地は一つ、また一つと破壊され、敵軍はひたひたと首都都市へと押し迫りつつある。

 そしてまた、砲撃型トリオン兵バンダーによる一斉射撃で、陣地の一つが吹き飛ばされてしまった。

 

「トリオン兵を早く回せ! トリガー使いが敵に補足されてるぞ!」

 

 予想より早く陣地が落とされてしまったため、コロドラマの防衛部隊が混乱している。遅滞なく防衛戦を継続するには、速やかに次なる陣地へ兵員を移さねばならないが、味方が進撃してきた敵の部隊に捕捉され、交戦状態に陥っている。

 このままでは連鎖的に陣地を抜かれかねない。指揮官の表情が焦燥に歪む。

 

 だがその時、一陣の風が橋の上を通り抜けた。

 

「な――」

 

 驚愕は誰の声であっただろうか。橋の都市側から湖岸側へと、姿も判然としない速さで人影が奔る。

 転瞬、押し寄せる敵軍に異変が起こった。

 

 後退するコロドラマの兵に襲い掛かっていたリピスのトリガー使いたちが、寸毫の間にトリオン体を破壊され、生身となって橋板の上に転がる。

 次いで、後詰を務めていたモールモッドら戦闘型トリオン兵が、何の抵抗もできないまま破壊されていく。

 

 まるで自らトリオン体を放棄したかのようなトリガー使いたち。そして自壊でもしたかと思われるほどにあっけなくやられるトリオン兵。

 敵を倒したのはコロドラマの兵ではない。彼らは逃亡に精一杯だ。

 

 最前線へと切り込み、殺到する敵を瞬く間に排除したのは、十五、六見当と思しき少女であった。

 コロドラマの物とは異なる黒い軍装に身を包んだ、褐色肌の少女。

 軍帽から覗く髪は雪のように白く、鋭い瞳は黄金を溶かしたような金色をしている。

 

 少女が振るうのは、剣、槍、鞭と千変万化に形状を変化させる純白の武器。剣光が閃くたびに、トリオン兵が寸断され、トリガー使いが地に伏す。

 その剣技は迅速無類にして精緻を極める。

 降り注ぐ弾雨も、襲い来る刀槍も、少女には如何ほどの脅威にもならない。殺意の込められた敵の猛撃を悉く躱し、受け、捌き、そして的確に反撃を加える。

 

 およそ戦場の光景とは思えないほどに流麗な、舞踊の如き体捌き。

 かと思いきや、次の瞬間には雷光をも欺く速度で踏み込み、敵兵を薙ぎ払う。

 

 彼女こそ、コロドラマが此度の戦のために雇った手練れの傭兵であった。

 ――少女の名はフィリア。

 特徴的な白髪と、光り輝く大剣を縦横無尽に揮う姿から、「白魔」の異名を轟かせる(ブラック)トリガー使いである。

 

「……突出した敵は始末した。負傷者を回収するなら今だ」

 

 リピスのトリガー使いたちを粗方始末すると、少女が無線機にそう呼びかけた。

 うら若き少女から発せられたとは思えない、ざらつき、掠れた、何の感情も帯びていないかのような声である。

 

「っ――お前たち続け! 他の者は援護せよ! 敵を近づけさせるな」

 

 その知らせを受けるや、フィリアの背後から猛烈な射撃が行われる。

 前線指揮官が自らトリガー使いを引き連れて、捕虜と負傷者の回収に動いたのだ。

 

「…………」

 

 フィリアは手近な障害物に背を預け、引き潮のように後退するリピスの兵団を見遣る。

 彼女の持つ直観智のサイドエフェクトが、今日の戦いはこれで終結すると告げていた。

 また一日、命を長らえることができた。少女は疲れ果てたように溜め息を溢す。だが、

 

「畜生! 畜生!! しっかりしろ! 死ぬんじゃない!」

 

 戦場となった橋に悲痛な叫びが木霊する。

 リピスの突撃によって防御陣地が落とされたコロドラマは、少なくない人的被害が出ていた。救助に駆け付けた隊員たちは、負傷した同胞たちを励ましながら、後方へと搬送していく。

 フィリアは救助活動の手助けはしない。(ブラック)トリガーを有する彼女は、此処で敵兵に睨みを利かせておく必要がある。

 

「っ――」

 

 その最中、フィリアは若い防衛隊員の一人と目が合った。

 眼差しから窺えるのは、幾ばくかの畏敬が混じった、恐怖と猜疑の色。

 否定的な感情が勝っているのは、おそらく激戦地に遅れてきたためだろう。傭兵が何をぐずぐずしていたのか、と目顔で訴えている。

 

 とはいえ、彼女も遊んでいた訳ではない。彼女は大攻勢を隠れ蓑にして首都への侵入を図ったリピスの主力部隊への対処を行っていたのだ。

 都市に破壊工作を行おうとしていた敵の精兵を蹴散らし、それから最前線の救援へと駆けつけたのだ。雇われ人の働きとしては充分以上だろう。

 

『フィリア。次はどのように動きますか?』

 

 とその時、襟首から伸びた小さなトリオン索が、フィリアの耳元でささやいた。

 少女へと話しかけたのは、今や彼女に残された唯一の家族である自律トリオン兵ヌースだ。

 ヌースはフィリアのトリオン体に同化し、少女の戦闘を補佐していた。

 

『敵は撤退に移った。完了まで待つ』

 

 だが、フィリアは冷淡な声で答えるのみ。少女を健気に支え続ける家族に掛ける言葉にしては、あまりにも素っ気ない。

 

 エクリシアとノマス、近界(ネイバーフッド)に名だたる二大国の決戦から、既に三年余りが経過していた。

 幼かった少女も美しく成長し、肢体は以前に思い描いたトリオン体と変わらぬ姿になっている。

 だが、家族を失い、祖国の同胞に裏切られた少女の心の傷は、どれだけ時が過ぎても癒える事はなかった。

 

 近界(ネイバーフッド)を彷徨いながら過ごした終わりなき戦いの日々。

 苛烈なる戦乱の中で、少女は自らの天稟を存分に開花させた。

 

 彼女の剣技は更なる進境を示し、如何なる戦場をも独力で切り抜けるほどの高みに至った。

 そして生まれ持った超感覚「直観智」のサイドエフェクトは完成の域に達し、あらゆる不可解な状況を即座に解き明かす至高の武器と化した。

 

 そして、父親であるアルモニア・イリニから授かったのは、あらゆるトリオンを吸収する最強の剣「懲罰の杖(ポルフィルン)」。

 養母であるパイデイア・イリニが残したのは、如何なる事象をも跳ね返し、起動者を護る無敵の盾「救済の筺(コーニア)」。

 

 近界(ネイバーフッド)では国力の指標ともされる(ブラック)トリガーを、フィリアは二本も所持している。

 このうち「懲罰の杖(ポルフィルン)」は自らが振るい、「救済の筺(コーニア)」はトリオン体に同化したヌースが操ることで、少女は強力無比な(ブラック)トリガーを二本同時に運用する戦術を編み出した。

 

 フィリアが有する武力は、個人が持つものとしては近界(ネイバーフッド)でも最高峰に位置する。それ故に、少女は地獄のような戦乱の世界を生き抜くことができた。

 

 ――だが、その三年余りの旅路で、少女の精神は確実に壊れていった。

 

『レーダーに敵影なし。こちらの索敵外まで撤退したようです』

『…………』

 

 ヌースの報告に無言を貫きながら、フィリアは破壊の痕跡が刻まれた戦場を茫とした様子で見遣る。

 誰もが目を引かれる端麗な顔貌は、しかし抜き身の刃のような剣呑さと、罅の入ったガラスのような危うさを纏っている。

 肌艶は悪く、口元は常に固く引き締められ、眉間には深い皺。ただ金色の瞳だけが、油断なく輝いている。

 

 戦乱打ち続く近界(ネイバーフッド)で、少女が心安らぐ日は一日たりとて無かった。

 悪意と敵意、憤怒と悲嘆、破壊と死は常に少女の傍らにあり、隙あらば彼女を呑み込もうと襲い掛かる。

 そんな世界を渡り歩いたフィリアの心は、限界寸前まで磨耗していた。

 

『今日も……』

 

 やがて、コロドラマの指揮所からリピスの撤退が通達されると、立ち尽くしていたフィリアが誰ともなしに口を開く。

 

『どうしましたか?』

『今日も、生き延びたよ』

 

 少女は生気の失せた表情で、虚空を見詰めながらそう呟いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その日の夜。防衛を終えたフィリアはコロドラマの首都都市を当て所なくふらつき歩いていた。

 

 広大な湖に浮かぶ島の上に立てられた都市は、外周を堅牢な城壁でぐるりと囲まれており、城壁内部が防衛部隊の駐屯所となっている。

 

 傭兵として雇われたフィリアも砦で寝起きしているのだが、コロドラマの将兵もこの余所者を扱いかねているのだろう。誰かれなく好奇や畏怖、或いは嫌悪の視線を向けてくるので、あまり居心地がいいとは言えなかった。

 

 将兵らと交流を深めるのも、今のフィリアの精神状態では難しかった。どの道、彼らが少女らに心を許す筈もない。条件次第でどの国にも付く傭兵は、結局いずれの国にも受け入れられることはないからだ。

 

 とはいえ、私室に籠るというのも気が進まない。

 只でさえ息の詰まる籠城中なのに、狭苦しい部屋に閉じこもっていれば、いよいよ頭がどうにかなりそうだ。

 加えて、フィリアはこの国に来てまだ日が浅く、コロドラマの国情を正確には把握できていない。少しでも情報収集を行わなければ、不測の事態が起きた時対応を誤る恐れがある。

 

 そんな理由から少女は市街地を散策していたのだが、実態としては只の逃避であった。

 少女は己を蝕む孤独感と絶望を何とか紛らわせようと、無意識に人の活気を追い求めていたのだ。

 

「…………」

 

 何処に行くでもなく、何を買うでもなく、フィリアは悄然とした様子で石畳を歩く。

 行き交う人々は目鼻立ちが明らかに異なる異国の少女に不審の眼差しを向け、事情を知る者は後難を恐れてそそくさと立ち去る。

 そうして少女は誘われるようにして、多くの市民が集まる広場へと足を踏み入れた。だが――

 

「っ……」

 

 辺りに漂う異質な気配を感じ取ったフィリアは、自分が過ちを犯したことに気付いた。

 

 広場は人々の活気とは程遠い、粛然とした空気に覆われている。

 そうして悲痛なすすり泣きが聞こえて来るや、少女ははたと面を上げる。

 広場では、今日の戦闘で命を落とした人々の合同葬儀が執り行われていたのだ。

 夫を亡くした妻や、親を亡くした子らが、棺に取り縋って号泣している。

 

「――」

 

 途端に、少女は踵を返して広場から立ち去った。

 愛する者との最後の別れの場に、異国人の自分が居ることは許されない。

 のみならず、遺族らの嘆き悲しむ声を聴くことそのものが、彼女の胸に蟠る感情をさらに煽り立てる。

 

 結局、少女は逃げ帰るようにしてコロドラマの砦へと戻った。すると、

 

「これはこれはフィリア殿。昼間は素晴らしい活躍でしたな」

 

 私室へと急ぐ少女を、中年の男性が呼び止める。

 

「今日も何とかリピスの攻勢を退けられました。これも貴女のお蔭です。いやはや、将兵一同、貴女には感謝してもしきれません」

 

 そう親しげに話しかけてくるのは、コロドラマの将ムシコス。十日ほど前にこの星に流れ着いたフィリアを、傭兵として雇い入れた男だ。

 

「…………」

 

 いわば恩人ともいえる男に、フィリアは沈黙を保ったまま目顔で挨拶を済ませる。

 余りにも礼を失した少女に、しかしムシコスは気を悪くした風も無く、柔和な笑顔を浮かべて歩み寄る。そして、

 

「どうでしょう。考えはお変わりになられませんか?」

 

 あくまで穏やかな調子で、しかし声を潜めてフィリアにそう尋ねた。

 少女はその超絶の武芸を買われ、コロドラマに帰化しないかと勧められていたのだ。

 

「…………ええ」

 

 だが、少女は言葉少なに拒否する。

 

「……そうですか。いえ、私はまだ諦めてはおりません。何か質問や要望があれば、是非お聞かせください」

 

 その返答を予期していたのか、ムシコスは然して落胆することも無く、鷹揚にそう言って少女の前から立ち去る。

 フィリアは遠ざかる男を見送ると、再び私室へ向けて歩き出した。

 

 首都を囲む城壁には勿論窓など無く、内部は狭い通路が延々と続いている。

 しばらく道なりに進むと、円形の開けた場所に出る。城壁の各所に設けられた側防塔の内側である。

 広間には壁沿いにらせん階段が設けてあり、これを通じて城壁内を上下に移動することができる。フィリアはたむろする兵士らの側を抜け、階段を降りていく。

 

 そうして少女がたどり着いたのは、城壁の最下層に位置する地下区画だ。

 本来は物資の貯蔵や捕虜の監禁などを目的とする階層に、フィリアが宛がわれた部屋はある。

 

 日の光も届かず、出入りにも不便な地下に押し込められた形だが、特に少女に不服は無かった。地下区画は人通りも少なく、わずらわしい兵と接触を最小限に抑えられる。有事の際に退路が限られることは難点だが、それも彼女の持つ(ブラック)トリガーなら何の問題にもならない。

 

 あからさまに扱いが悪いが、今更何をか言わんや。

 あれこれと理由を付けていたが、結局少女を信用していないのだろう。条件次第で何処の国にも肩入れする傭兵だ。無理も無い。

 

「……!」

 

 だがこの日、地下区画へと階段を降りた少女は、辺りに多数の気配を感じた。

 通路の奥から話し声と足音が聞こえる。

 フィリアが構わず自室へと戻れば、そこには数名の兵が立っていた。

 

「お疲れ様です」

 

 屈強なトリガー使いたちが少女へと敬礼を行う。面差しが強張っているのは、戦場での彼女の苛烈な働きぶりを知る故だろうか。

 兵らはフィリアの入室を阻むように佇立したまま、

 

「急な申し出で恐れ入りますが、フィリア殿に居室を変更していただきたく、お願いに参りました」

 

 と、堅苦しい態度でそう告げる。

 フィリアは唐突な要請に驚いた様子もなく、氷のように冷たい面差しで、

 

「分かりました。此処で待ちなさい」

 

 兵士たちにそう答える。

 部屋替えの意図は、問わずとも明らかだ。

 

 少女が間借りしている砦の地下区画は、元来捕虜の収容所として扱われていた。

 今日の戦いで、コロドラマはリピスのトリガー使いを複数名捕虜にした。彼らを拘禁するのに、雇われ者のフィリアが近くに居ては邪魔になる。部屋の移動を請うてきたのはそのためだ。

 

 簡易ベッドと小さな机のみが置かれただけの狭い部屋に入ると、少女はベッド脇に置いてあった雑嚢を手に取る。中にたいしたものは入っていない。着替えが幾らかと、サバイバルに必要な品が少々、あとは近界(ネイバーフッド)を放浪する中で手に入れたトリガーの内、重要度の低い物が数点だけだ。

 

 そうして部屋を出た少女は、トリガー使いに先導されながら移動を始める。

 その途上、地下区画の薄暗い通路で、数名のコロドラマの兵士と行き違った。

 

「…………」

 

 能面のように無表情であったフィリアが、微かに眉根を寄せる。

 通り過ぎた年若い兵たちは、何れもあからさまに昂揚した様子で、ニタニタと不快な笑みを浮かべていた。

 

 フィリアの姿に気付いた彼らは一様に態度を改めたが、もう遅い。

 少女のサイドエフェクトは、彼らの喜悦の理由を解き明かしてしまった。

 

 ――彼らは随分と楽しく、()()()()()を行っていたらしい。

 

 少女は昏く澱んだ瞳を伏せ、誰にも気づかれぬほど小さく息を付く。

 戦乱打ち続く近界(ネイバーフッド)では、敵味方を問わずトリガー使いが捕虜になることは珍しくなく、彼らに対する尋問もまた、当たり前のように行われている。

 

 大抵の場合、捕虜は大事な情報源として、それなりの待遇で扱われる。

 トリオン兵が主力となる近界(ネイバーフッド)の戦場で人間は希少である。それが主力ともなる使い手なら尚更だ。

 

 敵方の目的、戦略、装備等々、聞き出すべき情報はいくらでもある。

 また、たとえ情報が得られなくとも、捕虜は敵方への交渉材料として、或いは将来の手駒としての使い道がある。いずれにしても、そこまで酷な扱いを受けることはない。

 

 ただし、今回の捕虜に関しては別である。

 コロドラマとリピスは相争うこと二十年余りの間柄。互いへの憎悪は骨の髄にまで達している。

 

 そんな彼らが捕虜を得ればどうするか。

 尋問という名目で拷問が行われているのは明らかである。

 先ほどすれ違った面々も、さっそく尋問を楽しんだに違いない。

 

「……」

 

 フィリアは捕虜のことを意識せぬよう、無心で脚を動かす。何せ、リピスのトリガー使いの大部分を捉えたのは彼女なのだ。自分の所為で彼らが酷刑を受けているなど、考えただけで慄然となる。

 そもそも、近界(ネイバーフッド)では情報目的の拷問は殆ど行われない。苦し紛れに出まかせを言うこともあり、どうしても情報のすり合わせが必要になるからだ。

 

 とはいえ、今回は多数の捕虜が居る。憂さ晴らし目的の拷問でも、情報を得ることは可能だ。

 故に、責苦もより一層酷烈なものとなるだろう。長い防衛戦で兵たちの気も立っている。捕虜への暴行は当然の帰結といえた。

 

 フィリアは捕虜の怨嗟から逃れるように、地下区画から足早に立ち去った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「どうぞ。こちらがフィリア殿の新しい個室です。勿論、調度は全て自由にお使いいただいて構いません。何か不足の品があれば、遠慮なくお申し付けください」

 

 コロドラマの兵に案内されてフィリアがやってきたのは、城壁の中ほどに位置する最も堅牢な場所、士官用の個室が並ぶ区画である。

 案内役の兵を下がらせ新たな居室に足を踏み入れると、豪華とまではいかないが、品の良い家具が揃えられた清潔な部屋に出迎えられる。

 

 城壁の中であることからそう広くは無いものの、地下の部屋とは比べ物にならないほど上等だ。十日ほど前に雇われたばかりの傭兵には過分な扱いのようにも感じられるが、フィリアの打ち立てた戦功を考えれば不思議ではない。

 

 だが、少女は新しい居室に喜んだ様子もなく、すぐさま備え付けのベッドや調度をひっくり返し、室内を検め始めた。

 雑嚢から探査用トリガーを取り出し壁の裏まで精査すると、少女はようやくベッドに腰を下ろした。そして、

 

「監視も盗聴も無い。出てきても平気」

 

 虚空に向けてそう呟く。

 すると、彼女の体から人の頭ほどの大きさをした物体が現れる。

 涙滴状のフォルムに魚の尾びれを思わせる突起が付いたソレは、自律思考型トリオン兵ヌースだ。

 

「……今日も、大変でしたね」

 

 今や少女に残されたただ一人の家族であるヌースは、しかしどこか距離感を掴みかねているかのように、遠慮がちに話しかける。

 

「うん。少し休むから、警戒をお願い」

 

 そして少女も言葉少なにそう頼むだけで、換装を解くと早々ベッドに横になる。

 

 近界(ネイバーフッド)を放浪し、数多の戦場を渡り歩く暮らしの中で、フィリアの精神は確実に磨耗していった。勿論ヌースはそんな少女を案じてはいたのだが、何の後ろ盾もない彼女たちが過酷な環境から抜け出すのはそう簡単なことではない。

 

 今や少女は日常会話さえ満足に行えないほど追いつめられていた。

 

「帰化の話を検討する気はやはりありませんか? いえ、しばらくこの国に逗留するだけでも構いません。あちらも了承してくれるでしょう」

 

 壁を向いて寝転がるフィリアに、ヌースがムシコスから打診されていた件について問いかける。

 コロドラマは少女の桁違いの戦闘力を目の当たりにするや、彼女を囲い込もうと躍起になって勧誘を行っている。

 

 だが、当のフィリアにまったくその気はなく、リピス撃退の契約が済めばさっさと別の国へと旅立つつもりでいるらしい。

 一つの国に長居すればするほど、後で立ち去るのが難しくなる。一所に居着く気のないフィリアにとっては避けたい事態だ

 

 ヌースがその意向に反して逗留を勧めるのは、少女の精神状態がいよいよ限界に近づいているからだ。

 既に影響は体調面にまで現れている。不眠、食欲減退のみならず、感情が希薄になり、外部からの呼びかけにも反応が鈍い。このままではいずれ致命的な事態を招くのは火を見るより明らかだ。

 

 旅烏の身では休むこともできない。多少の面倒は起こるだろうが、コロドラマにしばらく留まり、ゆっくりと心身を癒すべきだと、ヌースは優しく諭す。だが、

 

「どこの国の世話にもならない」

 

 と、フィリアはにべも無くそう断じる。

 

「そこを曲げてお願いします……貴方には休息が必要なのです」

 

 ヌースはなおも嘆願するが、少女は頑なに頷こうとはしない。

 

「前にも話したでしょう。私たちを受け入れてくれる場所なんて、もう何処にもない」

 

 フィリアはそう言うと、会話を打ちきり毛布にくるまってしまう。

 取りつく島も無い少女の言い分だが、理屈はヌースとて重々承知している。

 

 フィリアたちはあくまで傭兵としての腕を買われ、帰化を打診されている。つまり、世話になる以上は戦力として働かねばならない。

 だが、今やフィリアは戦争そのものを嫌忌していた。

 

 漂泊の身である少女が見知らぬ国で糧を得るのは簡単な事ではない。あれやこれやと方策を講じてみたものの、結局、彼女は己が持ちうる唯一の技術、殺しの手管を売ることでしか身を立てられなかった。

 

 そうして近界(ネイバーフッド)で繰り返され続ける凄惨な戦いを見続けてきた少女は、何時しかその無意味さと悪辣さを心の底から憎み抜くようになっていた。

 

 祖国に忠を尽くし、家族の為に戦っていたころとは違う。

 縁もゆかりもない人間を、ただその日の糧を得る為だけに傷つける。

 己の所業に恐れ慄き、流される血潮に悲嘆し、それを強いる世界を恨んだ。

 

 積み重ねられる罪科に耐えかね、少女は何度も死の救済を望んだが、しかしどうしても実行には移せなかった。

 己の命を無碍にすることは、とりもなおさず己の生を願った家族の思いを踏みにじることになるからだ。

 

 故に少女は、ただ少しでも命を長らえるべく日々を過ごしてきた。

 その過酷極まる暮らしの中で、皮肉にも彼女の異名は近界(ネイバーフッド)中に轟くこととなった。だが、今更都合よく戦場から足抜けすることなどできはしない。

 

 フィリアがコロドラマに帰化するとしても、平凡な一市民として暮らすことはまず不可能なのだ。

 例えその要望が認められたとしても、彼らは交換条件に彼女の(ブラック)トリガーを求めるだろう。加えて先端技術の塊である自律型トリオン兵をも強請るに違いない。

 

 ヌースと父母の形見である(ブラック)トリガーは、今や彼女に唯一残された心の拠り所である。手放す事などできる筈がない。

 それらの事情から、少女はどの国にも決して過度に肩入れせず、報酬分だけ働く傭兵として過ごしてきたのだ。

 

「…………」

 

 ヌースは背を向ける少女に何も言うことができず、不寝番を行うしかなかった。

 そして数時間後。新しい居室のドアを、誰かが控え目にノックした。

 

「――っ!」

 

 フィリアはベッドから跳ね起きるとトリガーを起動。数瞬の内に戦闘態勢を取る。

 余りに反応が早いが、それは睡眠の浅さを物語っている。この数年間、少女が熟睡できた日は数えるほどしかない。

 

「誰か?」

 

 如何なる状況にも即応できるよう身構えたまま、少女は戸口越しに誰何する。すると、

 

「は、はい! フィリア様に御夕食をお持ちしました」

 

 返ってきたのは、緊張を滲ませた少年と思しき声。

 横目で時計を確認すれば、既に夜半に差し掛かっている。

 フィリアは士官用の食堂の使用を許されていたが、何時まで経っても来ないので誰かが気を回して食事を運ばせたのだろう。

 

「少し待ちなさい」

 

 来訪者の意図が知れると、少女は目顔でヌースに身を隠すよう指示する。

 そうして戸を開ければ、砦の小間使いとして働いているのだろう十二・三歳の少年が、強張った表情で食事を乗せたプレートを手に立っている。

 フィリアは無言で食事を受け取り、少年を下がらせる。

 

「…………」

 

 そうして作り付けのテーブルにプレートを置くと、フィリアは暫し逡巡の後、それらには一切手を付けずヌースの側へと歩み寄る。

 

「予定が変わった。今すぐこの国から脱出する」

 

 手荷物を纏めた雑嚢を掴むと、少女は鋼のように冷たい声でそう告げる。

 

「フィリア? 何か変事がありましたか?」

 

 訝しげに尋ねるヌース。だが少女は黄金の瞳を刃のように煌めかせ、

 

「食事に薬が盛られてる。連中、思っていたより気が短かったみたい」

 

 全てを諦観したかのような冷笑を浮かべてそう呟いた。

 

 

 



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其の二 逃避の果て

 窓のない無機質な廊下を、フィリアが常と変らぬ様子で歩いている。

 

 砦の中を行き交う人は疎らだ。昼に激戦があったため、夜番の兵以外は既に休んでいるのだろう。

 偶に兵と出くわしても、彼らは少女におざなりな礼をして早々に立ち去るのみ。近界(ネイバーフッド)中に名を轟かせる傭兵に、態々自分から近づく者はいない。だが、

 

「これはフィリア殿。まだお休みではなかったのですか」

 

 側防塔の広間まで来ると、まるでフィリアを待ち受けていたかのようにコロドラマの将ムシコスが親しげに話しかけてきた。

 護衛を引き連れ、さも夜の見回りをしていた風だが、勿論偶然ではない。彼らは少女の動向を監視するために、移動の際に必ず通らねばならない広間を見張っていたのだ。

 

「……先に湯浴みを済ませようと」

「ああ、それはどうも不便をおかけします。あなたのようなうら若い女性に共同浴場を使わせるのは忍びないのですが、戦時故にお許しください」

「いえ」

 

 フィリアの無礼な態度に腹を立てるでもなく、ムシコスは朗らかに雑談を持ちかける。

 だが、その張り付いたような笑顔の裏に、黒く澱んだ感情が潜んでいることを、少女は過たず看破していた。

 

「すみません。少し、眠いので」

「おお、これは失礼を……どうか今晩はゆっくり休んで、英気を養ってください」

 

 少女が話の腰を折ると、ムシコスはそれ以上引きとめなかった。彼の護衛の兵たちも、黙って道を開ける。

 先ほどの食事に盛られていた睡眠薬は遅効性だ。一度寝入ってしまえば、何をされても目が覚めることはない。

 彼らはフィリアが床に就いてから事を起こすつもりだ。今しばらくは静観の構えを取るだろう。

 

 少女は素知らぬ風を装って、共同浴場へと進んでいく。遠巻きにムシコスの護衛の一人が付いて来るが、あえて気付かぬふりをする。

 

 そうして浴場へとやってきたフィリア。

 防衛隊員は殆どが男性だが、一応女性の隊員用に小さいながらも専用の浴場が設けられている。

 さしもの監視者も女湯の中までは入れない。少女は悠々と追っ手を躱すことに成功する。

 

 遅い時間と言うこともあり、入浴者は誰も居ない。フィリアは服を着たまま脱衣所から浴場へと足を踏み入れる。

 そうして部屋の隅へとやってくると、

 

「――ふっ!」

 

 掌に現出させた「懲罰の杖(ポルフィルン)」を一閃。壁に人が通れるほどの穴を開ける。

 その穴を潜り抜けた先は、浴場に湯を供給するための給湯室だ。

 

「ヌース。案内をお願い」

「了解しました」

 

 誰も居ない給湯室に入り込んだフィリアは、ボイラーの陰に身を隠しながらトリオン体に同化したヌースへと話しかける。

 用心深い少女はコロドラマに雇われたその日から、いざという時の為の脱出プランを練っていた。当然、砦内部の見取り図も作成済みだ。

 

 すぐさまヌースが最適な脱出経路を提示する。少女はそれを頼りに砦の壁を破り、点検用通路やダクトを使って移動を始めた。

 ヌースの的確なナビゲートと直観智サイドエフェクトに従い、少女は誰とも遭遇することなく城塞の地下にある倉庫まで辿りつく。

 

 コロドラマから逃げ出すには、郊外に隠してある小型艇まで辿りつかねばならない。

 しかし、城門は固く閉ざされ通行不可能、城壁を乗り越えようとしても歩哨に見付かる。

 

 そこで彼女は、内部から城壁を切り破っての脱出を企てた。

 倉庫の四方は分厚い壁に囲まれており、蟻の逃げ出す隙間も見当たらないが、「懲罰の杖(ポルフィルン)」の前にはどれ程堅牢な壁であろうと無いも同然だ。

 

 とはいえ、城壁の様子は指令室で逐一モニタリングされている。このまま穴を開ければ、たちまち逃亡が露見してしまう。追っ手を撒くための工作が必要だ。

 フィリアは室内に設置された端末を見つけると、

 

「リピス襲撃の警報を鳴らしてから、基地機能を停止させて」

 

 ヌースにそう指示する。

 

「分かりました。直ぐにでも可能です」

 

 超抜の性能を有する自律トリオン兵ヌースならば、システムへの侵入、操作など赤子の手を捻るようなものだ。そもそも、コロドラマの防衛機構については、城塞で寝起きしている間に調べ尽くしている。

 

 ヌースが端末に万能索を貼り付けてから十秒と経たないうちに、耳を聾する警報が城塞中に鳴り響いた。

 次いで、オペレーターたちが緊迫した声でリピス襲撃の報をアナウンスする。

 だが、詳細を述べる前に突如として通信が途絶した。のみならず、次の瞬間には照明が落ち、室内が暗黒に支配される。城塞全体のシステムが強制的に停止させられたのだ。

 

「……」

 

 そうして基地機能が完全に沈黙したことを確認すると、少女はようやく「懲罰の杖(ポルフィルン)」を抜き放ち、倉庫の壁に風穴を空けた。

 数メートルのトンネルを潜り抜ければ、そこは首都都市を取り囲む城塞の外縁部、湖へと続く浅瀬である。

 

「探知を受けた形跡はありません」

 

 ぬかりなく周囲を走査していたヌースがそう告げる。

 

 遠く近くからは兵たちの混乱した声が聞こえてくる。敵襲来の警報が鳴り響いたあと、すぐさま基地機能がダウンしたのだ。蜂の巣をつついたような騒ぎだろう。

 浅瀬は城壁の陰になっており、兵たちから見つかる心配はない。このまま湖を泳いで渡り、闇夜と混乱に乗じて動けば、小型艇の隠し場所まで無事に辿りつけるだろう。

 

「トリガー解除」

 

 すると、フィリアは一旦「懲罰の杖(ポルフィルン)」を解除し、懐から取り出した別のトリガーを起動した。

 起動したのはコロドラマの防衛部隊に配られている戦闘用トリガーだ。

 

 首都を取り囲む湖には、コロドラマの水中戦闘用トリオン兵が大量に放たれている。それらのトリオン兵は味方以外のトリオン反応を検知するや、即座に襲い掛かるようにプログラミングされているため、このままでは湖を渡れない。

 コロドラマに裏切られることも予想していたフィリアは、防衛戦のどさくさに紛れてトリガーをくすねていたのだ。

 

「……」

 

 コロドラマのトリガーを起動し、もう一度周囲を油断なく見渡して兵士らに見られていないことを確認すると、フィリアは黒くうねる不気味な湖面へと飛び込んだ。

 

 そのまま、少女は湖の深くへ潜る。トリオン体への酸素供給は最小限でいい。対岸まで三キロほどあるが、問題なく潜水したまま泳ぎきれるだろう。

 ただ、コロドラマのトリガーには暗視機能が付いていない為、視界は頗る悪い。

 フィリアは天地も知れぬ暗黒の中、ヌースの導きに従って水中を泳ぎ続ける。と、

 

「――!!」

 

 少女の眼前を、巨大な甲冑魚の如きトリオン兵が通り過ぎた。

 反射で戦闘姿勢を取りかけるが、甲冑魚はフィリアを尻目に悠々と泳ぎ去る。

 

 反応を示さなかったということは、目論見通り味方と識別されているのだろう。また、行動ルーチンが警戒状態のままから見るに、城塞内部のシステムもまだ復旧していないらしい。

 

 トリオン体の身体能力を如何なく発揮し、フィリアは僅か十数分で対岸まで辿りついた。

 少女は浅瀬に上がるや、すぐさま手近な灌木まで走って身を潜める。

 

 そして再びトリオン体を解除すると、改めて「懲罰の杖(ポルフィルン)」を起動し直す。

 次いで、少女は光の剣を閃かせると、コロドラマのトリガーを完全に消し去った。基地機能が戻れば、水中のトリオン兵からトリガーの起動ログを辿られるおそれがある。放棄していくべきだろう。

 フィリアは一つ息を付くと、猫のようにしなやかな動きで夜の闇へと姿を晦ませた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 湖沼国家の名が示す通り、コロドラマの大地には数多くの沼沢がある。

 これらの水辺は、民にとっては豊かな恵みをもたらす漁場となるほか、侵略者に対しては進行を妨げる障害物としても活用される。

 

 城塞から逃亡を企てて一時間余りが過ぎた。

 だが、フィリアは未だに小型艇まで辿りつけていない。

 

「っ――」

 

 葦の陰に身を隠しながら進んでいた少女が、不意に脚を止める。ヌースが探知機の存在を報せてきたのだ。

 

 コロドラマの国土には、外敵の侵入を探知するための装置が至る所に仕掛けられている。それらは土中や水中に巧妙に隠されており、簡単に見つけ出すことはできない。

 リピスとの戦闘によってかなりの数が無力化されたようだが、それでも探知網は未だに健在であり、それらを避けるためフィリアは遠回りを強いられていた。

 

 焦慮に顔を顰めるフィリア。只でさえ湿地に足を取られて速度が出ないのに、何度も迂回を余儀なくされたため、時間だけが虚しく過ぎていく。

 既にコロドラマは少女の逃走に気付き、追っ手を差し向けているだろう。足跡は辿られていないはずだが、何時捕捉されるとも限らない。

 

 慎重、かつ迅速に沼沢地を駆け抜けると、ようやく目的地となる大きな湖が見えてきた。

 藻が浮かぶ凪いだ湖面は、星明りを受けててらてらと不気味に輝いている。

 

 コロドラマに到着した際、少女は小型艇をこの湖の底へと沈めておいた。

 トリオンの貯蔵は充分。食料もなんとか次の惑星国家まで持つだろう。

 

 そもそも備蓄に乏しかった訳ではなく、少女は偶々この国に立ち寄っただけで、傭兵として働くつもりは無かった。

 

 だが、コロドラマに到着するやリピスとの戦闘に巻き込まれてしまい、なんとか船を湖に隠したところで、フィリア自身はこの国の将兵に見付かってしまった。

 殺気立った兵たちを前にしては、条件次第でどちらにも付く傭兵は敵も同然である。当面の衝突を避ける為、なし崩し的に手を貸さざるを得なくなったのだ。

 

 先に禁を破ったのはコロドラマの連中だ。契約不履行には当たるまい。

 ここまで近付けば、湖底の船に指令が届く。あとは船に乗り込み、この国から脱出するだけだ。

 

「――!?」

 

 しかし、その目論見はあえなく崩れた。

 湖へと走り出そうとしたフィリアは、ふと人の気配を感じて立木の側に屈みこむ。

 見れば、湖岸を中心に複数の人間が徘徊している。装備からするに、間違いなくコロドラマのトリガー使いたちだ。

 

「……」

 

 周辺を子細に探れば、行き交う兵らの間にムシコスの姿もあった。指揮を執っているのは間違いなく彼だろう。

 おそらく城塞での変事が終息した後、ムシコスはすぐにフィリアの不在に気付いたのだ。そして二つの異変を結びつけた彼は、速やかに兵を動かした。

 

 誤算だったのは、彼らが首都周辺での探索を行わず、即座にフィリアが逃げを打つと見抜いたことだ。少女がコロドラマを訪れた際、(ゲート)が開いた座標付近に先回りして兵を送り込み、周囲一帯を封鎖したのだ。

 

『どうしますかフィリア。これ以上湖に近づけば、彼らの探知に掛かります』

 

 歯を噛みしめる少女に、ヌースが無声通信で問いかける。

 まだコロドラマの兵は少女の接近に気付いていない。また、広範囲を探索するために小部隊に分かれて行動しているらしく、数は然程でもない。

 コロドラマの武装と兵の練度は熟知している。フィリアの実力ならば、彼らを無力化するのは簡単だ。

 

 とはいえ、彼らを倒しても続々と援軍が現れることだろう。

 船を起動して乗り込み、発進させるまでの間はどうしても無防備になる。その間に攻撃を受け、船を壊されてしまえば、フィリアは完全に逃げる手段を失ってしまう。

 しかも、敵は新たに探知機をばら撒いている。どうあっても、少女を逃がす気はないらしい。

 

『トリオン兵で陽動する。準備を』

 

 フィリアが決断を下す。

 

 コロドラマに雇われることになってからも、ヌースに関する情報は徹底して隠してきた。

 彼らはフィリアがトリオン兵を扱えるなど思いもつかないはずだ。近隣で暴れさせれば、リピスの侵攻と勘違いして兵を差し向ける筈。混乱に乗じれば敵の追撃を躱して船を発進させることも難しくないだろう。

 ヌースがトリオン兵の生成準備を始める。だがその時、

 

「――ッ!」

 

 フィリアの総身に、死の直感が電流のように走った。

 疑いようのない危険な予感に、少女は即座に木立の陰から飛び逃れる。転瞬、光弾が雨の如く降り注ぎ、立木を粉々に撃ち砕いた。

 

「避けたぞ! 逃がすな囲え!!」

 

 闇夜に響くのはコロドラマの将兵の叫び声。

 暗視機能を用いたか、それとも特殊なレーダーでも持ち出してきたか。

 手段は定かではないが、彼らは潜伏しているフィリアの姿をとっくに見捉えており、不意打ちの機会を窺っていたらしい。

 

「不用意に近づくな。遠巻きに撃ち竦めろ!」

 

 一際大きく聞こえるのはムシコスの声だ。

 彼の号令に呼応するように、フィリアに向かってトリオン弾が浴びせかけられる。

 

「――」

 

 少女は「懲罰の杖(ポルフィルン)」を現出させて飛来する弾丸を切り払うと、身を潜めていた林から勢いよく飛び出した。

 

『フィリア!?』

 

 自ら敵の真っただ中へと飛び込んだ少女に、ヌースが声を上げる。すると、

 

『ムシコスを人質にする。援護をお願い』

 

 フィリアは事も無げにそう答え、光輝く大剣を振りかざして敵陣へと吶喊した。

 敵兵と戦うなら障害物の多い林が有利だが、時間を掛ければさらに兵が集まってしまう。これ以上敵が増える前に、指揮官の身柄を押さえようというのだ。

 

「来たぞ! 撃ち殺せ!」

 

 姿を現したフィリアに、コロドラマのトリガー使いたちが猛然と射撃を浴びせかける。

 少女は「懲罰の杖(ポルフィルン)」で弾丸を防ぎながら、立ちふさがる部隊に鷹のように襲い掛かる。

 

「――っ!」

 

 だが、少女が放った神速の剣は、紙一重の所で敵兵を捕らえることができない。

 コロドラマのトリガー使いたちは淀みなく隊伍を組み直し、再び猛烈な射撃で少女をけん制する。

 

「……」

 

 無双の技前を持つ少女が敵を斬り損ねた理由。それは足元の悪さにあった。

 湖のほとりは極端な泥濘であり、力を籠めれば足がくるぶしまで埋まってしまう程だ。これでは少女の得意とする瞬息の踏み込みも効果が半減してしまう。

 

 対して、条件は同じながらコロドラマの将兵の足運びには少しの淀みも無い。

 

 湿地は彼らのホームグラウンドである。コロドラマのトリガー「水蜘蛛(スクリキ)」は、足裏に小さなトリオン製の反発壁を展開し、地面や水面を滑るように移動する機能を持つ。

 さながら氷上でスケート靴を履いたかのように泥濘を高速で移動し、急停止や急旋回まで可能とするコロドラマのトリガー使いたちには、然しものフィリアも容易く追いつくことはできない。

 

「よーし。徹底して距離を取れ! そう何時までも防ぎ続けることはできん!」

 

 同じく「水蜘蛛(スクリキ)」を装備したムシコスが、兵団の後方を逃げ回りながら得意げに指示を飛ばす。

 如何なるトリオンをも吸収する「懲罰の杖(ポルフィルン)」であっても、射程外に陣取る敵には斬り込めない。コロドラマのトリガー使いたちは徹底して距離を取り、フィリアを封殺せんと射撃を浴びせ続ける。

 

「…………」

 

 フィリアは「懲罰の杖(ポルフィルン)」を薄膜状に形態変化させて飛び来る弾丸を防ぐが、極小のトリオンキューブの集合体という性質上、完全な全周防御は不可能である。

 防御膜を潜り抜けた弾丸が、徐々にフィリアのトリオン体を掠め始める。

 このままでは遠からず致命傷を受けてしまう。だが、フィリアは愚直に敵へと突っかかるのみ。当然、敵は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまう。

 

「今のうちに投降すれば命だけは助けてやるぞ。お前のトリオン機関は優秀だ。殺してしまうのは惜しい」

 

 勝利を確信したムシコスが、居丈高に投降を呼びかける。

 だが、フィリアは勧告を完全に無視し、闇雲に泥濘を飛び回ってトリガー使いを追いかけ回す。

 

「愚かな。この期に及んで無駄な抵抗を……」

 

 聞く耳を持たない少女を見て、ムシコスの面に侮蔑の色が浮かぶ。

 彼にとっては、元より甚だ気に食わない小娘である。陰気な性格、身にまとう凄惨な気配。こんな子供が近界(ネイバーフッド)に名を轟かせる使い手だなどと、正体が明らかになってからも俄かには信じられなかった。

 

 とはいえ、(ブラック)トリガーを有する腕利きの傭兵がリピスに雇われては不味い。ムシコスはあの手この手を用いて陣営に招こうとしたのだが、それでも気に入らないものは気に入らない。

 

 やがて、彼はどうにかして(ブラック)トリガーを奪ってしまおうと周到に機会を窺い始めた。腕は立つが、何時裏切るとも限らない余所者を抱え込むなど愚の骨頂である。

 だが、この小娘はその企てを察知して逃げた。ご丁寧に基地機能に重大なダメージまで与えて。

 

「小娘一人に何をしている! 早く殺せ!」

 

 ムシコスは憎悪に顔を歪ませ、部下を叱りつける。

 ――彼の顔面が縦に割られたのは、一瞬の出来事であった。

 

「え……」

 

 忘我の声が、トリガー使いたちの喉から漏れた。

 沼地を右往左往していたフィリアが、忽然と彼らの視界から姿を消したのだ。

 消え失せた標的の姿を探し求めた彼らが見つけたのは、黒煙を噴き上げて爆散する指揮官ムシコスの姿。

 そして傍らに佇んでいた少女は、生身となった指揮官の首に腕を回すと、その身体を盾にするかのように突き出した。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「下がれ。首をへし折るぞ」

 

 凍てついた少女の声が、闇夜に響く。

 生身となったムシコスを人質にしたフィリアが、周囲を囲むコロドラマのトリガー使いたちを睥睨する。爛々と光る金色の目は、まるで血に飢えた獣のようだ。

 

「く、くそ……お、お前たち! 私のことは構うな!」

 

 ムシコスは気丈に叫ぶが、兵たちは判断に窮したように動きを止める。一先ず、人質ごと撃ち殺すような真似には及ばないだろう。

 

「お前は包囲されている。人質は無意味だ。大人しく投降しろ」

 

 しかし、兵らもむざむざと言いなりにはならない。

 包囲を継続しつつ、副官らしき男がフィリアににじり寄りながら語りかける。すると、

 

「な、なああぁぁあっ!」

 

 ぺきり、と乾いた音と共にムシコスが悲鳴を上げた。

 フィリアが後ろから彼の足に蹴りを入れ、骨を折ったのだ。

 

「ぐ、ぐうぅぅっ!」

 

 痛みと衝撃に頽れるムシコスを、首に回した少女の腕が無理矢理引き上げる。

 喉首を締め上げられ、息も絶え絶えに立ち尽くす将校の背後から、

 

「別に、お前たち全員を相手にしてもいいんだ。私を殺すまでに、何人死ぬか試してみるか?」

 

 凪いだ湖面のような無表情で、フィリアがそう嘯く。

 

「……ま、待て! 交渉の余地はある筈だ。要求は何だ!」

 

 少女に気圧されたのか、副官が慌てた様子で声を掛ける。だが、

 

「時間稼ぎに付き合うつもりはない。即刻兵を引き下げろ。そうすればこいつは解放する」

 

 と、フィリアは一方的に条件を突きつけた。

 

「ぐ……」

 

 取りつく島も無い少女に、副官が言葉を詰まらせる。

 まるで既定事項を確認するかのような冷静極まる態度。

 これはやると言えば必ずやる。要求が受け入れられなかった場合、フィリアはコロドラマの全兵を相手に死ぬまで戦い続けるだろう。

 

「そうか……」

 

 返答が無い事を答えと判断したのか、フィリアが小さく頷く。

 戦闘の気配に、周囲のトリガー使いたちの緊張感が一気に高まる。

 だが、最も動揺したのは命の瀬戸際に立たされていたムシコスであった。

 

「ひ、ひぃぃいいいっ!」

 

 首に回された少女の腕に微かな力が入る。いよいよ己の命が危ういと感じたムシコスの中で、辛うじて保たれていた理性の弦が切れた。

 

「や、やめろ! い、嫌だ! 死にたくない!」

 

 悲鳴を上げながら、身を捩って暴れるムシコス。多数の部下を預かる将の姿に有るまじき醜態だが、必死の抵抗には意味があった。

 

「――っ!」

 

 思いがけないムシコスの狂態に、フィリアの拘束が微かに緩む。

 元々、少女は交渉がどのような結末を迎えようともムシコスを殺すつもりなどなかった。その為に、正体を失った人質を制するのが遅れた。

 

「ああぁぁああっ!」

 

 フィリアが躊躇った一瞬のうちに、ムシコスは拘束から逃れて走り出す。

 よほど興奮しているのだろう。折れた足の痛みさえ気に解さず、倒けつ転びつとにかく少女から離れようとする。

 

 己の失策を悟った時にはもう遅い。フィリアは人質に十分な距離を取られていた。

 彼女には十数名のトリガー使いたちの銃口がぴたりと狙いを定めている。最早、ムシコスを追いかけている時間はない。

 

「撃て! 今だ撃ち殺せッ!!」

 

 宵闇に発火炎が星のように瞬き、四方八方からトリオン弾がフィリアへと殺到する。

 だが、少女は手にした「懲罰の杖(ポルフィルン)」を力なく下げ、棒立ちしたまま動かない。

 火箭がフィリアの体を蜂の巣に変える。――かに思えた次の瞬間、

 

「な――」

 

 驚愕に呻いたのはコロドラマのトリガー使いたちだ。

 少女を亡き者にすべく放った弾丸が、あろうことか方向を真逆に変えて発砲者へと返ってきたのだ。

 防御など間に合うはずもない。周囲に展開していた全てのトリガー使いたちは、残さずトリオン体を破壊される。

 

「何が……起こった?」

 

 充満するトリオンの煙が風に巻かれて消え去ると、生身となったコロドラマの副官が呆然自失の体で呟いた。

 見れば、標的となった少女の周りには、淡く煌めく透明な壁が球状に広がっている。

 

 彼らは知る由も無い。少女を死の弾雨から救い、また敵対者を返り討ちにしたこの障壁こそ、(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」による絶対無敵の反射盾である。

 フィリアは自律型トリオン兵ヌースと、彼女に預けた母の形見「救済の筺(コーニア)」の存在を徹底的にコロドラマから秘匿してきた。

 

 そして今、少女に襲い来る弾丸をヌースが絶妙のタイミングで跳ね返したのである。

 先にムシコスを屠った斬撃も、「救済の筺(コーニア)」の力を借りてのものだ。ヌースが展開した反射盾を足場にして、沼地を超高速で跳躍したのである。

懲罰の杖(ポルフィルン)」と「救済の筺(コーニア)」。フィリアとヌースによる二本の(ブラック)トリガーの連携攻撃は、如何なる敵にも破られたことがない。

 

「…………」

 

 茫洋と広がる黒々とした湖を背に、金色の瞳を炯々と輝かせて少女が佇立する。

 

「ば、化け物め!」

 

 腰を抜かしたムシコスが悲鳴にも似た悪罵を投げる。他のコロドラマの兵たちも、逃げ出すこともできずに立ち尽くしている。

 

『今が好機です。フィリア』

『うん……』

 

 恐れ慄くコロドラマの将兵らの視線を一身に浴びながら、少女は昏く沈んだ表情で頷く。

 期せずして敵を一網打尽にすることができた。この好機を逃す手はない。増援が駆けつけるまでに船を起動し、出発する。

 ヌースが湖底に沈めた小型艇に信号を送る。すると休眠状態の船が即座に起動し、湖面を波立たせて現れる。

 

「……」

 

 中空に制止し、キャノピーを開いた小型艇に、フィリアが軽やかな跳躍で乗り込む。

 トリオン反応はすぐさまコロドラマの部隊に察知されるだろうが、いざ動き出してしまえば早々撃ち落とされることはない。

 

 フィリアはシートに腰掛け、操縦桿を握りしめる。

 これで、この国とも縁切れだ。二度と訪れることもないだろう。

 

 だが、少女が船を発進させようとしたその時、周囲に耳障りな放電音が響き、宵闇を塗り潰す漆黒の(ゲート)が開いた。

 

「な、まさか――」

 

 いかなる時も冷静であったフィリアが、驚愕に目を見開く。

 まだ脱出用の(ゲート)は開いていない。しかも、検知したトリオン反応はコロドラマの物でもない。

 

 (ゲート)から現れたのは、モールモッドやバムスターといったトリオン兵の混成部隊。

 続々と湖畔へと降り立つ人形兵士たち。そしてそれらのトリオン兵が、生身となったトリガー使いたちへと襲い掛かる。

 

「これは――リピス!」

 

 想像だにしなかった第三勢力の登場に、少女が声を荒らげる。

 コロドラマの敵国リピスが、このタイミングで奇襲を仕掛けてきたのだ。

 

『早く発進を! こちらも狙われています!』

 

 どこからか今夜の騒動を監視していたに違いない。リピスはコロドラマの将兵が壊滅したのを見計らって、横合いから殴り掛かったのだ。

 ヌースに急き立てられながらも、フィリアは思わず身を乗り出して船の外を見る。

 

 眼下で繰り広げられているのは、一方的な殺戮であった。

 フィリアとの戦闘でトリオン体を失ったコロドラマの将兵が、リピスのトリオン兵から這う這うの体で逃げ回っている。

 

 トリオン兵らは沼地に足を取られて動きが極端に鈍いが、それでも生身の体で逃げ切ることは難しい。

 ある者はバムスターに呑み込まれ、ある者はモールモッドのブレードに刺し貫かれ、湖畔には絶叫が響き渡っている。

 そして少女の視線の先で、泥濘を這いずり回っていたムシコスが、バムスターの柱のような足に踏みつぶされた。

 

「っ……」

 

 降って湧いた惨状に、フィリアの面から音を立てて血の気が引く。

 

「しっかりしてください! 早くこの場から離脱を!」

 

 だが、狼狽えている暇はない。リピスのトリオン兵はフィリアたちの乗る小型艇にも襲い掛かろうとしている。

 ヌースに叱責され、少女は無我夢中で操縦桿を押し倒す。

 急加速した小型艇は宵闇を流星のように切り裂いて飛翔すると、泥土にのたうち悲鳴を上げるコロドラマの将兵を背にして虚空の彼方へと飛び去った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「…………」

 

 無事にコロドラマを離脱し、惑星間の航路に乗ることができたフィリア。

 だが、少女は狭苦しい小型艇のコックピット内で、膝を抱えて鬱々と項垂れていた。

 

「フィリア。あれは仕方のない事でした」

 

 船体のチェックと自動航行の設定を終えたヌースが、俯く少女へと話しかける。

 

「先に害を成そうとしたのは彼らです。あなたは、身に掛かる火の粉を払っただけ。……何も気に病むことはありません」

 

 数多の戦場を渡り歩いたフィリアは、しかし人死に慣れることは決してなかった。

 それどころか、彼女は如何なる暴力をも徹底的に嫌忌するようになっていた。

 

 祖国で家族の為に戦っていた頃とは違う。ただ日々を生きながらえる為だけの、無意味で無価値な戦争は、少女の心を責め苛み続けた。

 交渉を有利に運ぶためとはいえ、ムシコスに怪我を負わせたことにさえ耐え難い罪の意識を感じていたのだ。その負傷が彼の死の一因となったことは、少女を深く傷つけた。

 

 いやそれだけではない。他のトリガー使いとて、フィリアが攻撃を防がねばトリオン体を失うこともなく、リピスのトリオン兵から逃げられたかもしれない。

 フィリアは破壊工作を仕掛けて基地機能を麻痺させ、追っ手の防衛部隊を撃破した。弱体化したコロドラマはリピスの侵攻によって大きな被害を出すことだろう。

 

 大人しく彼らに殺されていれば、流れる血は自分一人のもので済んだ筈だ。フィリアは己が身の可愛さのために、またしても多くの人間を死に追いやったのだ。

 

「もう、嫌だ……」

 

 塞ぎこむ少女から、悲痛な弱音が漏れる。

 

 殺すのも、殺されるのも、すべてが嫌だ。

 流血を許容する世界も、その上で成り立つ暮らしにも耐えられない。

 それに何より、依るべきものも護るべき人もいないのに、死と破壊を振り撒いて生き続ける自分が許せない。

 

 これではまるで死神だ。何時か祖国エクリシアで罵られた通り、自分は生きているだけで他者を不幸にする呪われた人間ではないのか。

 世界への悲憤と己への罪悪感が、少女の心を絶望に染め上げる。

 

「……あなたは誰も殺めてはいません。そう自分を責めないでください」

 

 ヌースの慰めにも、フィリアは駄々っ子のように首を振るばかり。

 

 彼女の言うように、長きに亘る戦場生活のなかでも、少女が直接人を殺めたことは一度も無い。それは主義主張の為ではなく、少女の精神に刻み込まれたトラウマに拠るものであった。

 人を殺めなければ己が危うい場面は何度もあった。だが行為に及ぼうとする度に、フィリアの脳裏にある光景が浮かぶのだ。

 

 それは、血だまりに仰臥する友人オルヒデアの姿。

 少女が人を殺めようとした瞬間、まるでそれを咎めるかのように、友人の最期が、あの鮮やかな紅色が鮮明に想い起こされる。

 

 とはいえ、直接人を殺さないからといって、少女の手が汚れていない訳ではない。

 戦場で働いてきた以上、間接的には多数の人間を殺めている。撃破したトリガー使いや、トリオン兵に襲われた市民たち。

 彼らの死骸を踏み台にして生き長らえている事実に、何ら変わりはない。

 

「とにかく今は休んでください。あなたに必要なのは休息です」

 

 少女の心を救うことができないヌースは、無力感に打ちひしがれながらも優しく語りかける。

 実際、過酷な一日を過ごしたフィリアの精神は限界近くまで疲弊していた。トリオン体の換装を解けば、程なく睡魔が押し寄せる。

 一時とはいえ、少女は苦悩から逃れることができた。

 

 それから数時間後。フィリアは寝入った時と同じ、膝を抱えて座り込んだ状態で目を覚ました。

 珍しく、眠りの質がよかった。まだ覚醒しきっていないのか、少女はとろんとした瞳でぼんやりと船内を見渡す。

 

 まるで誰かを探しているかのように、視線が虚空をさ迷う。

 少女は夢と現の合間に居た。

 

 久しぶりに見た夢の中で、少女は在りし日の家族との団らんを楽しんでいた。

 埃っぽくも懐かしい貧民窟の家で、少女は母と弟妹たちとヌースに囲まれていた。そこには来たことがないはずの父アルモニアの姿もあったように思う。

 そうして幼いフィリアは家族の前で胸を張り、自信たっぷりにある計画を披露していた。

 

 曰く、渡航の準備が整った。と。

 私はとうとう成し遂げた。皆と一緒に玄界(ミデン)に行けるのだ。と。

 

「――!!」

 

 夢の内容をそこまで思い出したところで、途端にフィリアの意識が明瞭となる。

 

「目が覚めましたか?」

 

 前席にいたヌースが声を掛けるも、少女は答えない。

 訝しんだ彼女が様子を窺うために後席を覗き込む。

 

「そうだ……何で、忘れてたんだろ」

 

 すると、フィリアは茫然とした表情で虚空に向けて独り言を呟いていた。

 

「私が、みんなを連れていくって言ったんだ」

「……フィリア?」

 

 生贄を求めることも無く、永久不滅に存在する大地と、それを取り巻く果ての無い海。

 数えきれないほどの人々が、トリオンを用いず、トリガーを使わず、それでいて豊かに暮らしているという信じがたい場所。

 おとぎ話に出てくる理想郷のような世界には、きっと自分たちの居場所もある筈。

 

 そこに行こうと、みんなで暮らそうと、幼き日のフィリアは家族にそう約束したのではなかったか。

 もう果たせなくなった約束とはいえ、その誓いは忘れてもいいものだっただろうか。

 フィリアの指が、思わず胸元へと伸びる。

 そこにあったのは、家族から贈られ、父に託された銀の鍵。

 

「大丈夫ですか? どうしたのですフィリア?」

 

 尋常ならざる少女の様子に、ヌースが心配気に話しかける。

 

「……ヌース。私、玄界(ミデン)に行きたい。ううん、行かなくちゃ」

 

 すると、少女は銀の鍵をしっかりと握りしめ、逼迫した声でそう宣言する。

 爛々と輝く瞳には、隠しようのない狂気が宿っていた。

 

 

 



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其の三 玄界(ミデン)

 玄界(ミデン)――地球は東の果てに位置する島国、日本。

 地球でも有数の経済的繁栄を遂げたこの国は、しかし現在、終わることのない戦争を強いられていた。

 

 二十八万人の人口を抱える地方都市、三門市。

 ある日、この街に異世界への(ゲート)が開いた。

 

 異次元からの侵略者「近界民(ネイバー)」の蹂躙により、街は甚大な被害を受け、多くの人命が失われた。

 地球上の兵器では効果の薄い近界民(ネイバー)の軍勢に、三門市の壊滅も時間の問題かと思われたその時、突如として現われた謎の一団が侵略者を撃退し、街を救う。

 

 彼らは界境防衛機関「ボーダー」

 近界民(ネイバー)の技術を独自に研究し、こちら側の世界を守るため戦う組織である。

 彼らは廃墟と化した三門市の一画に巨大な基地を作り上げ、境界を侵す異次元の兵隊を相手に、日夜過酷な防衛戦を続けている。

 

 そして――粉雪が舞うある冬の夜。

 

(ゲート)発生。(ゲート)発生。座標誘導誤差八・三二。近隣の皆さまはご注意ください」

 

 人の気配の絶えた街に、警報が鳴り響く。

 

 近界民(ネイバー)の侵攻によって廃墟と化した三門市東部地区。その中央に位置するのは、差し渡し三百メートルを超える巨大な建築物だ。

 聳え立つ小山のようなその施設は、界境防衛機関ボーダーの本部基地である。

 異次元から絶え間なく襲い来る敵から街を守るため、基地には近界民(ネイバー)が開く転移(ゲート)を誘導する装置が備え付けられてある。

 

 放棄された三門市の一部分はボーダーが管理する警戒区域になっており、(ゲート)から降り立った侵略者はこの廃墟都市で撃滅される手筈となっていた。

 だがこの日、三門市の上空に開いた(ゲート)から現れたのは、近界民(ネイバー)近の尖兵トリオン兵ではなく、小さな飛翔体であった。

 

 放たれた矢のように夜気を切り裂いて空を飛ぶのは、所属不明の小さな飛行艇。その船を追いかけるように、続いて開いた(ゲート)からトリオン兵の群れが現れる。

 後方から猛烈な射撃を浴びせかけられ、飛行艇が黒煙を上げる。見る間に失速した船は、警戒区域の外縁部に墜落した。

 

 思いがけない近界民(ネイバー)による同士討ち。だが、トリオン兵は後から後から群れをなして現れ、界境防衛機関ボーダーは、この日夜を徹しての防衛任務に追われることとなった。

 

「こちら東。不審船の墜落現場に到着した。搭乗者は不明」

 

 そうして夜も白み始めた頃、ようやくトリオン兵の一団を駆逐し終えたボーダーは、件の小型船の調査を行っていた。

 先着した一隊が、慎重に船の残骸へと近づく。

 

「これって、どう見ても人が乗り込むタイプの船よね」

 

 部隊の一人、口元の黒子が印象的な、華麗な美貌の女性がそう呟く。

 墜落した船はアスファルトを削りながら減速し、路面の片隅に打ち捨てられていた。後方のエンジン部分に被弾の痕跡が見られるが、トリオン製の機器の為、墜落による被害は殆ど無い。搭乗者がトリオン体に換装していれば、おそらく怪我一つないだろう。

 

「二宮、加古。周囲に潜伏している人間が居ないか調べろ」

 

 キャノピーは開け放たれており、二人乗りのシートには誰もいない。

 部隊の指揮を執っているらしき、長身痩躯で長髪の男性が、落ち着き払って部下の隊員たちに指示を下す。

 そうして自身は船へと歩み寄り、罠が仕掛けられていないか警戒しながら、慎重に船内を調べ始めた。

 

「東さん。俺も行かせてください。近界民(ネイバー)はまだそこまで遠くには行ってないかもしれない。少しでも人手が多い方がいい」

 

 すると、指揮官である東に年若い男性隊員が提言する。

 

「いや、秀次は付近を警戒してくれ。奇襲を受けた場合、お前が居てくれた方が心強い」

 

 だが、東はやんわりとした口調で部下の進言を退ける。

 

「っ……了解しました」

 

 年若い隊員三輪秀次は、不服そうな面持ちながらも命令を許諾する。近界民(ネイバー)に対して如何なる恨みがあるのか、彼の眉間には深い皺が刻まれ、双眸には隠しがたい憤怒と憎悪が宿っている。

 

「ログは……消去されてるな。エンジニアが復元できるかどうかだが……食料や水も置いて逃げたか。判断が早い」

 

 東と三輪は小型船の捜査を進めるが、搭乗者の身元に繋がる情報や、足跡を辿れそうな手がかりは何も見つからない。そして、

 

「こちら二宮。近隣を捜索したが、それらしい人影は見当たらない」

 

 と、洒脱な男の声で両名に通信が入る。周囲を調べていた隊員からの報告だ。

 

「たぶん、痕跡も残してなさそうね。基地のオペレーターにも確認をとったけど、警戒区域全域に、もうボーダー(ウチ)以外のトリオン反応は無いみたいよ」

 

 同じく周囲を調べていた女性隊員の加古が、そう補足する。

 

「そうか、ご苦労。一旦合流してくれ」

 

 部下からの報告を聞いた東は、冷静な面持ちでそう指示する。

 彼ら防衛部隊の装備では、これ以上の調査は不可能である。

 東は本部に秘匿通信を繋ぐと、事態の報告と技術班の出動を要請する。そして、

 

「本部。近界民(ネイバー)が市街地に逃亡した可能性あり。メディア対策室に連絡し、情報統制の手配をお願いします」

 

 と、本部と善後策を協議し始めた。

 一方、その場に残された三輪隊員は、無言で奥歯を噛みしめると、刃のように鋭い眼差しで払暁の街を見詰める。

 異次元からの侵略者、地球人の不倶戴天の敵である近界民(ネイバー)を取り逃した。

 

「何処へ逃げようが、絶対に見つけ出して始末してやる」

 

 曙光に照らされ始めた廃墟都市に、煮えたぎる憎悪の呟きが解け消えていく。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 三門市に隣接する蓮乃辺(はすのべ)市。その商店街は、朝から多くの人々で賑わっていた。

 

 広場に設置された樅の木には煌びやかなオーナメントが所狭しと飾り付けられ、電飾がキラキラと輝いている。玄界(ミデン)の祝祭、クリスマスを祝うためのツリーだ。

 クリスマスの飾りつけは広場だけにとどまらず、商店街の各所でも行われている。

 

 リースやベルが軒先に飾り付けられ、聖人サンタクロースの衣装に身を包んだ店員たちが慌ただしくも楽しそうに働いており、多くの家族連れやカップルたちが買い物を楽しんでいる。

 

 その商店街から少し離れた場所に、天林堂という書店があった。

 

「はぁ~~」

 

 店内でレジ番をしているのは、黒髪を二つ団子にした大きな眼の少女だ。

 彼女、宇佐美(うさみ)(あや)はこの書店の娘で、配達に出た父の代わりに店番を務めている。

 だが、カウンターに腰掛ける少女は、心ここに在らずと言った風にため息をついていた。

 

 友人の家で開かれる予定のクリスマスパーティーに招かれたのだが、その催しに彼女が思いを寄せている少年も参加するのだ。

 片思い中の彼女は、これをきっかけになんとか少年と距離を縮めたいと考えているのだが、上手い方策が出てこない。

 

「直接プレゼントを渡すのは……無理無理。なにか料理を持っていくとか……あ、でもてつこちゃんのお兄さんすごく料理上手らしいし……」

 

 考えが纏まらないことを嘆きながらも、文はきょろきょろと辺りを窺う。あまり店番をさぼる訳にもいかない。だが、彼女が窺っているのは店内ではなく店の外だ。

 

「う~ん、まだいる……」

 

 文が困惑顔で呟く。

 書店の軒先には雑誌類が陳列されたマガジンラックが置かれているのだが、そこに二時間ほど前からずっと立ち読み客が居座っているのだ。

 

「声かけたほうがいいのかな。でも外国の人みたいだしなぁ……」

 

 先ほどから雑誌を読み漁っているのは、十五、六歳と思しき若い女性である。

 朝方まで粉雪がちらついていたほど寒いのに、薄手のシャツとパンツだけを身にまとった軽装。広げた紙面で顔は見えないものの、肌の色は艶やかな褐色で、髪は雪のように真っ白だ。また手足もスラリと長く、どう見ても日本人の体形ではない。

 

 少々の立ち読みぐらいなら大目に見てもいいが、あまり長居するのなら店員として一声掛けるべきだろう。ただ、言葉が通じるか分からない異国人相手だと、どうしても気後れしてしまう。

 

「お父さん早く帰ってこないかなぁ……」

 

 思わず文は恨めし気にそう呟く。只でさえ年末のイベント目白押しの時期に店番など頼まれたのだ。面倒そうな客の応対など、完全に業務範疇外である。

 力なくテーブルに突っ伏す文。次の瞬間、彼女の大きな瞳がさらに見開かれた。

 

「な、ちょっと……」

 

 驚愕の理由は、やはり店頭で立読みをしている女性だ。

 彼女が広げている雑誌。その手にした部分がぐしゃりと歪んでいるではないか。

 何が気にくわなかったのか、褐色肌の女性は手が小刻みに震えるほど、力いっぱい雑誌を握りしめているのだ。

 

「っ……」

 

 商品を傷ものにされては、流石に黙っている訳にもいかない。

 文は迷惑な客に一言注意すべく、意を決してカウンターから立ち上がる。

 

「うわ寒っ!」

 

 そうして店の外に出た途端、吹き付けた寒風が針のように肌を刺す。

 

「……あ、あのー」

 

 早く暖かい店内に戻りたい。文は勇気を振り絞り、顔を覆い隠すように雑誌を広げている女性に話しかけた。

 だが、彼女からは何の返答も無い。日本語が分からないのだろうか。それともどこか具合でも悪いのだろうか。

 彼女の手指は青ざめており、寒さの所為か小刻みに震えている。それだけでなく、何やら息遣いも乱れているようだ。

 

「ちょっと、すみませーん……」

 

 そもそもこんな気候の中、薄着で何時間も立ち読みをするなんて、少しおかしい人ではないのだろうか。一人で話しかけたのは失敗だったか。文の脳裏に後悔が過る。

 

「長時間の立ち読みは御遠慮いただけませんか、なんて……あのー」

「――ッ!!」

 

 三度目の呼びかけにして、ようやく女性が反応を示した。

 褐色肌の女性はビクリと大きく身体を震わせ、今まさに文の存在に気が付いたように勢いよく顔を向ける。

 目の当たりにしたその顔貌に、文は暫し言葉を失った。

 

 美しい、のは間違いない。黄金を溶かしたように輝く瞳と、形の良い眉、小作りながらも高く通った鼻梁に、薄く柔らかな唇。

 モデルのようなプロポーションも当然と思えるほど稀有な美貌である。

 だが、文の思考を停止させたのは映画雑誌でしか見られないような端麗な容姿ではない。

 

 その相貌に浮かんでいた激情。美貌をおぞましく歪めていた、恐怖と悲嘆と絶望の感情である。

 

「――!!」

「わっ! ちょ、ちょっと!」

 

 自分が話しかけられたと気付くや、褐色肌の女性は茫然としていた文に雑誌を押し付け、脱兎の如く駆けだした。

 まさか声を掛けただけで逃げ出されるとは思わない文は、とっさのことで身動きができない。

 見る間に女性の姿は小さくなり、路地へと入り込まれて姿を見失ってしまう。

 

「……もしかして、万引きっ!?」

 

 女性を見送って数十秒、我に返った文は、盗まれた本がないかともかくマガジンラックを検める。

 しかし、予想に反して紛失した商品は見当たらない。彼女が最後に読んでいた雑誌がぐしゃぐしゃに歪んでいるぐらいで、後は綺麗なものである。

 

「な、なんだったの?」

 

 結局、褐色肌の女性の奇行の理由は分からず、気疲れした文はがっくりと肩を落とす。

 ともあれ、妙な客を追い払うことはできた。店番を続けねばと、入れ替えられた雑誌の位置を整える。

 

「別に、変な本とか扱ってないと思うんだけどなぁ」

 

 褐色肌の女性が読んでいたのは、雑多なゴシップ誌やお堅い経済雑誌など、どれもありふれたものばかりである。

 

「まあ、フリーペーパーだからいいんだけど……」

 

 唯一、女性が損壊した雑誌だけは、この蓮乃辺市近辺でしか見られない本だ。

 

「あ、ひょっとして被害者の人だったのかな。昔のことを思い出しちゃったとか……」

 

 奇行の理由にはたと思い当った文は、気の毒そうな表情で女性から押し付けられた雑誌を見遣る。

 文の手元に残されていたのは、界境防衛機関ボーダーが発行しているフリーペーパーであった。

 

 丁度、年に三回ある入隊式を控えた時期であり、いつものものより冊子が厚い。

 内容は、数年前に起きた近界民(ネイバー)の侵攻を改めて振り返るというものだった。表紙には爽やかな男性隊員が映っているが、ページを捲れば街を破壊する近界民(ネイバー)の姿が大きく掲載されている。

 

「あんなに酷い事件だったし、仕方ないよね……」

 

 東三門を襲った近界民(ネイバー)は、僅か二日で千二百人以上もの死者を出し、未だ四百人以上が行方不明となっている。その他けが人も多数、家屋などの物的被害も計り知れない。隣街の蓮乃辺市に住む文であっても、あの日の恐怖ははっきりと覚えている。

 直接の被害にあった人なら、未だに立ち直れていなくとも無理はない。文は立ち読み魔の女性に、俄かに憐憫の情を抱く。すると、

 

「あ、冷たっ! また振ってきた」

 

 空には鈍色の雲が広がりっており、粉雪が再び舞い始めてきた。

 文は奇妙な客の存在を心の片隅に留めながらも、暖房の効いた店内に早々に引っ込んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 イルミネーションの煌めきも、人々のさんざめく喜びの声も、寒天の下を行く少女には、何の感慨ももたらさなかった。

 少女――フィリアは書店から離れると、疲弊しきった表情で当て所なく蓮乃辺市内を放浪する。

 

 心身を削りながら戦場を渡り歩き、念願かなって玄界(ミデン)へと辿りついたフィリア。しかし、先に滞在した国の玄界(ミデン)侵攻から足抜けしようとしたのが露見し、追っ手が掛かった。

 追撃を振り切ろうと足掻くも、小型艇は破損。

 

 (ゲート)誘導装置によって航路を捻じ曲げられ、軍事施設の直中へと不時着陸した彼女は、玄界(ミデン)の兵らに拘束されることを恐れ、市街地へと遁走した。

 小型艇から物資を持ち出す余裕も無く、着の身着のままで見知らぬ街をさ迷う。玄界(ミデン)の貨幣は持ち合わせておらず、丸一日以上食事もとっていない。

 身を斬るような寒気に当てられ、少女の体力は限界に近づいていた。

 

『フィリア。どうか気を落ち着けてください』

 

 蹌踉として彷徨う少女に、鞄に擬態したヌースが心配気に声を掛ける。

 だが、当のフィリアに聞こえた様子はない。落ち窪んだ目は焦点さえ定まらず、息は荒く乱れ、全身は寒さに震えている。

 万難を排して憧れの玄界(ミデン)に着いたというのに、少女の狂態は一向に治らず、それどころか明らかに悪化している。

 

 無限の大地と大海に恵まれた理想郷。そう信じていたのに、玄界(ミデン)の民は彼女たち近界民(ネイバー)への防備を十分に整え、迅速に兵を繰り出してきた。

 街で情報収集を行うにつれ、その理由はすぐに明らかとなった。

 

 数年前に起こった近界民(ネイバー)による玄界(ミデン)への侵攻。

 引き起こされた災禍と、それを鎮めた組織の存在。

 情報を集めるにしたがって、少女の疑念は悪い形で確信となっていった。

 

 玄界(ミデン)――地球は少女が思い描いていたような理想郷ではなかったのだ。

 地球にも多くの国々があり、それぞれの思惑や利害損得から戦争を繰り広げている。そんな中現れた近界民(ネイバー)は、只々厄介な侵略者として憎悪の対象となっている。

 

 思えば当然のことだ。完全に満たされた人の営みなど、どの世界にもある筈がない。

 玄界(ミデン)の民は決して近界民(ネイバー)を許さず、受け入れないだろう。

 

 フィリアの居場所は、何処にもない。

 務めて考えないようにしていた暗然たる事実が、少女の最後の希望を粉々に撃ち砕いた。

 

『追っ手が放たれている筈です。今は少しでも玄界(ミデン)の砦から離れましょう』

 

 ヌースの献策も、少女の耳には届かない。

 フィリアは何時しか買い物客で賑わう商店街へと足を踏み入れていた。

 人々の視線が集まる。只でさえ人目を引く容姿に加え、明らかに体調を崩していると思しき彼女に、幾人かが声を掛ける。

 

 だが、フィリアは上の空で素通りするばかり。通行人は訝しげに異国人を見詰める。

 玄界(ミデン)の民は近界(ネイバーフッド)にも人間が住んでいることを知らない。彼らが近界民(ネイバー)と認識しているのは、戦闘人形のトリオン兵だ。

 幸いにも、ボーダーは市街地に近界民(ネイバー)が潜伏しているとの情報は明らかにしていない。いくらフィリアが不審な振る舞いをみせても、市民が近界民(ネイバー)と結び付けるおそれはなさそうだ。

 

「書籍から地図を入手しました。ともかくこの街を出ましょう」

 

 それでもヌースは早々に街から立ち去るべきだとフィリアに呼びかける。

 ボーダーの探知を避ける為トリオン体にはなれず、また金銭を持たない為公共機関も使えない。体調、精神ともに不調の極みにあるフィリアに、どこまで逃走が可能かどうか。

 

 しかし、ボーダーに捕らえられた時の事を想定すれば、少女を休ませることはできない。

 断片的な情報しか入手できていないが、ボーダーという組織には不審な点がある。

 誠実で潔白な印象を前面に押し出してはいるが、国の支援を受けているとはいえ、侵略者の相手を一民間団体が行っていることがそもそもおかしいのだ。

 

 僅か数年で内外に知れ渡るほどに組織の規模を拡充したことも、真っ当な手段では難しい。近界民(ネイバー)の排除を掲げ、民を守ろうという主張に嘘はないだろうが、独自の思惑もある団体と考えた方がいいだろう。

 何の後ろ盾も無い近界民(ネイバー)のフィリアが捕らえられれば、どんな目に遭わされても不思議ではない。

 

 フィリアの精神面が心配ではあるが、それでもヌースは最悪の状況を見据えて必死に移動を訴える。

 

「…………」

 

 が、少女は無言を貫く。いや、そもそも言葉が耳に届いているのかどうか。

 そうして闇雲に歩いていたフィリアは、はたと電気店の前で足を止める。

 

 ガラス越しに展示されているテレビに映っているのは、雑誌の表紙を務めていた爽やかな風貌の青年と鷲鼻の中年男性だ。

 ボーダーの広報番組である。内容は年末の奉仕活動として、近隣の市町村の清掃活動を行うと言うものだ。

 明らかに、フィリアを探すための方便である。

 

 だが、当の少女は相変わらず茫洋とした表情のまま、落ち窪んだ瞳でガラスを眺めている。ヌースの必死の呼びかけにも、まったく耳を貸さない。

 結局、少女はボーダーの広報番組が終わるまで電気屋の前で佇み、その後はまた力なく街をさ迷い歩いた。

 

 冬の夜の訪れは早い。夕刻には玄界(ミデン)の太陽は完全に地平へ沈み、白々と輝く月が夜空に登り始めた。

 仕事や学業を終えた人々が、駅から街へと溢れ出す。

 まだまだ一日は終わっていないと、彼らは年末の慌ただしさをむしろ楽しむかのように街へと繰り出す。

 昼にも勝る人々の喧騒に答えるように、イルミネーションはますます輝きを増し、幻想的な光景を作り出している。

 

 玄界(ミデン)の平和と豊かさを象徴するかのような日常の一コマ。だが、そこにフィリアの姿は見られない。

 商業地区から離れた少女は、蓮乃辺市内に掛かる橋の上にいた。

 

「…………」

 

 市街地の賑わいも届かない川の上。街灯の明かりと、時折行き交う車のライトだけが夜闇を照らす。

 

「辛いでしょうが、今夜のうちに出来るだけ移動しましょう」

 

 日暮れに差し掛かって、ようやく少女はヌースの指示に従いのろのろと移動を始めた。

 

 フィリアの不審な行状は多くの人に目撃されている。今までボーダーに見付からなかったことは奇跡に近い。彼の組織がどれほど人員を抱えているかは分からないが、少しでも距離と時間を稼ぐ必要がある。潜伏先を探すのはそれからだ。

 しかし、フィリアは橋の中ほどまでくるとピタリと足を止める。

 

「……フィリア?」

 

 憔悴しきった表情で橋の欄干に背を預ける少女。そのただ事ならぬ様子に、ヌースが気遣わしげに声を掛ける。

 

「あと少しです。ようやく玄界(ミデン)に来たのです。ここなら、あなたが静かに暮らすことも夢ではないのですよ」

 

 擬態を解き、本来の丸い姿となったヌースが、項垂れる少女を懸命に励ます。

 

「もう、あなたが戦争に思い悩む必要はありません。これだけ豊かな国なら、戦わずとも生きていける筈です」

 

 平静な、それでいて熱意を込めて声で語りかけるヌース。

 そんな彼女を、そっと少女の手が撫でる。

 

「……私の為に、ありがとう」

 

 疲れ切った掠れ声で、フィリアが礼を述べる。

 家族を失い、戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)を渡り歩く中、唯一支えとなってくれたのがヌースだ。彼女が居なければ、フィリアは玄界(ミデン)に辿りつくことなく命を落としていただろう。

 だからこそ、少女は友であり家族であるヌースに心から謝意を告げる。そして、

 

「ごめんね」

 

 そう呟くや、フィリアは指先を閃かせヌースのボディを突いた。

 

「――フィリ」

 

 理由を問う暇も無く、ヌースは強制的に機能を停止させられる。浮力を失い落下する友を、フィリアはやせ細った腕でしっかりと抱きとめた。

 

「ごめんねヌース。……もう、耐えられないの」

 

 震える声でそう詫びると、少女はヌースをしっかりと胸に抱き、欄干の上によじ登った。

 

「無理なんだ。私、もう歩けない。……何処に行けばいいのかも分からないの。ううん。きっと、何処に行っても駄目なんだと思う」

 

 眼前に広がるのは、どこまでも続く玄界(ミデン)の夜空と、滔々と流れつづける川。

 

「ありがとうヌース。私を愛してくれて。私を守ってくれて。でも、私……この世界に居るのが辛いの」

 

 少女は悲痛な声でそう呟くと、胸元の銀の鍵にそっと触れる。

 忌子として生まれたフィリアを、家族はずっと愛してくれた。

 家族が消えてしまっても、その思い出は心に残っている。それに何より、ヌースはこんなにも己の事を案じてくれている。

 

 けれど、フィリアはもう、この世界を愛することができなくなっていた。

 憧れの玄界(ミデン)も、理想郷とは程遠い場所だった。遠からず、近界(ネイバーフッド)の国々とも戦争を繰り広げることになるのだろう。

 

 どこに居ようと、争いから逃れることはできない。なぜならそれは人の営みの一部だからだ。

 故に、少女が抱く戦争への忌避感と、其処で犯した罪は永劫消えることはない。

 その考えに思い至った時、フィリアの心はついに限界を迎えた。

 

「みんなの所に行けるか分からないけど……でも、また会いたいなぁ」

 

 涙の滲んだ声でそう呟き、少女は暗い川面へと身を投げた。

 

 着水まではほんの一瞬。身を斬るような冷たい水が、フィリアの全身を包む。

 ヌースを抱きかかえているため、浮力は効かない。少女は何の抵抗もせず、見る間に水底へと沈んでいく。

 

 やがて視界からは全ての光が消え、四肢の感覚も鈍っていく。

 薄れていく意識の中、フィリアは家族との幸福に包まれていた記憶を思い返していた。けれど少女が最後に意識したのは、どこからか聞こえてきた「ほああああ!!」という間の抜けた声であった。

 

 

 

 



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其の四 賢い犬リリエンタールとまいごのネイバー

 茜色の空に、深い藍色が混じって溶けていく。

 眼下に広がるのは、聖都の麗しい街並み。

 天上に見えるのは、近界(ネイバーフッド)の輝く星々。

 

 教会の尖塔からの眺望は刻一刻と移り変わり、少しも飽きるところが無い。

 夜のとばりが聖都に降りると、ポツリポツリと街明かりが灯っていく。

 やがて街は溢れんばかりに光に包まれ、まるで砂金を撒いたかのように輝いている。

 そして大地の輝きに負けじとばかりに、天空を飾る星々も一層きらめきを増す。

 

 天と地の狭間から眺める幻想的な光景に、フィリアは息をすることさえ忘れてしまう。

 だが、胸壁に寄り掛かって絶景を楽しんでいた彼女は、不意に背後に気配を感じた。

 

「――っ!」

 

 振り返ってみれば、そこには空色の髪と瞳の色をした少年が立っている。

 エクリシア教皇アヴリオ・エルピス。彼は幼い顔立ちに似合わない、悲嘆と諦観の入り混じった表情でフィリアを見詰めている。

 

「あ、貴方は……何故……」

 

 問い掛けの言葉は、喉奥に詰まってなかなか出てこない。

 驚愕に立ち尽くしているうちに、少女の背後で変化が。

 

「な――!」

 

 耳を聾する轟音と、異様な熱気を感じたフィリアが、慌てて尖塔から身を乗り出す。

 そこに広がっていたのは、幻想的な故国の風景ではなかった。

 逆巻く炎が、夜空を怪しく染め上げる。麗しい街並みは瓦礫と見紛わんばかりに破壊され、風に乗って人々の悲鳴が聞こえてくる。

 

 我が目を疑うような地獄絵図。

 いや、或いはこの光景こそが、嘘偽りのない現実だったのかもしれない。

 吹き荒れる戦火に呑み込まれる近界(ネイバーフッド)の国々。それはフィリアが何年も眺めつづけてきた世界の有様そのものだ。

 

「あ……あぁ……」

 

 惨憺たる光景から逃れるように、少女は後ずさりする。

 しかし、尖塔にはもうアヴリオの姿はない。それどころか、地上へと続く階段までもが跡形もなく消え去っている。

 

 紅蓮の炎は地上全てを焼きつくし、大聖堂にまで舌を這わせてきた。

 尖塔が火に巻かれる。身を焦がすような熱気が地上から吹き付ける。

 どこからともなく聞こえてきた人々の悲鳴は、今や少女の耳元にまで近付いているかのように音量を増している。

 

 逃げ場など、何処にもない。

 半狂乱になりながら炎から逃れようと足掻くも、炎はすぐさま尖塔を呑み込み、フィリアの体を焼き焦がした。

 声にならない絶叫を上げ、のたうちまわる少女。

 

 ――そこで、ようやく彼女は夢から覚めた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 荒い息と共に目覚めたフィリア。悪夢にうなされるのは日常茶飯事であったが、ここまで真に迫る夢は久々だ。

 額に滲んだ汗を手でぬぐい、呼吸を整えるのに数秒。

 ようやく頭がはっきりした彼女は、意識を失う直前の行動を思い出した。

 

「…………」

 

 何故己がまだ生きているのか。そう疑問に思うも、憔悴しきった少女には、事の次第を確かめようという意志さえ残されてはいなかった。

 

「……」

 

 ぼんやりと霞がかった頭のまま、少女が上半身を起こす。

 

 彼女が寝かされていたのはシンプルな、それでいて可愛らしいデザインのベッドだ。部屋には同じような意匠のチェストやテーブル、ソファーにテレビなどが置かれている。

 奇妙なのは、そのどれもが継ぎ目のない単一素材でできているように見えることだ。

 丁度トリオンで作った器物のような見た目だが、掛布団を触ってみたところ、どうもそうではないらしい。

 

 どうやら誰かに捕らえられたらしいが、少女には恐怖も焦燥感もない。もう生きることは諦めたのだ。我が身がどうなろうと、どうでもいい。だが、

 

「――っ!」

 

 無意識に胸元へと手を伸ばした少女は、そこにあるべき感触が無いことに慄然とする。

 家族の形見である銀の鍵のペンダントが、何者かに奪われているのだ。

 それだけではない。父と母が残したトリガーも、しっかりと両手で抱いていたはずのヌースの姿さえない。

 

「あ――」

 

 足元が抜け落ちるかのような恐怖に見舞われ、半ば恐慌をきたしたように少女は布団を蹴立ててベッドから跳ね起きる。

 自分の命はどうなってもかまわない。だが、家族の形見とヌースだけは無くせない。

 少女はベッドを降り、部屋から脱出を図ろうとする。――その時、

 

「え……」

 

 フィリアの視線の先に、奇妙な生き物がいた。

 

「な、なわ!」

 

 出入り口であろう扉の前にいたのは、二本足で立つ黄色い犬だ。

 

 つぶらな黒い瞳に、凛々しい眉に大きな鼻をした、ぬいぐるみのように愛嬌ある顔つきの犬である。大きさは小型犬ほどで、首にはRの文字の入った赤いスカーフを巻いており、両手で水の入ったコップを乗せたお盆を持っている。

 

「…………犬?」

 

 得体の知れない生物と邂逅したフィリアの口から、思わず間の抜けた声が出る。

 すると、件の犬は少女が急に起き上がったのに驚いたのか、あたふたと狼狽してその場で脚踏みをする。そして思い出したようにお盆を床に置くと、背筋をぴんと伸ばし、片腕を胸に当て、

 

「はじめまして! 日野リリエンタールともうします! よろしくおねがいます!」

 

 と、ハキハキとした声で自己紹介を始めた。

 

「………………え?」

 

 二足歩行の犬が、流暢に言葉を発した。

 降って湧いた出来事に、フィリアの昂ぶっていた気が急速に冷めていく。

 

「これはお水とあにうえがつくってくれたゼリーです。どうぞ」

 

 立ち尽くすフィリアを尻目に、リリエンタールと名乗った犬はわたわたとお盆を持ち直し、椅子の上に器用に登るとテーブルに水とゼリーを配膳する。

 

「……あなた、は?」

 

 一先ず害意が見受けられないと分かると、フィリアは思わず珍妙な犬に話しかけていた。

 すると、リリエンタールはニコリとどこか得意げな笑顔を浮かべ、

 

「わたくしめはこのおうちのおとうと、リリエンタールともうします。どうぞごゆっくりください」

 

 と、フィリアに着席を促す。なにやら一人で応接しているのがご満悦らしい。

 暫し当惑していた少女は、意を決した表情でテーブルへと歩み寄ると、椅子に座っていたリリエンタールの体をひょいと抱き上げた。

 

「なわ?」

 

 フィリアは困惑するリリエンタールを黄金の双眸で睨みつけると、

 

「私の持ち物を、何処へやったの?」

 

 と、剣呑な声で尋ねる。

 

「の、ノーーーー!!」

「答えなさい! 答えて! もし嘘や誤魔化しをするなら……」

 

 己が犬に話しかけるという奇行を演じている自覚さえない。不安定な少女は今にも爆発しそうな感情を押さえつけるように、必死に尋ねる。

 

「ままままちたまえ、おちついてはなしあおうじゃないか」

 

 まさかいきなり脅されるとは思いもよらなかったリリエンタールは、わたわたと手足を動かし、怯えた声で答える。

 

「……ちゃんと答えてくれれば、危害は加えません」

 

 邪気のない幼児のような反応に、流石のフィリアも気勢を削がれた様子で拘束を緩める。

 彼女としても、本気でこの犬をどうこうしようと思ってはいない。ただ、家族の形見を返してほしいだけなのだ。

 

 自分が玄界(ミデン)の民間人に捕らえられたということはサイドエフェクトで理解している。だが、そこまでの経緯と彼らの思惑についてはまだよく分からない。如何に直観智のサイドエフェクトといえど、顔も見たことのない人間の考えまでは読めないからだ。

 

 玄界(ミデン)の犬が人語を解するのには驚いたが、幸いにして素直な性質らしい。彼女を捕らえた人間と会う前に、得られる情報は聞き出しておきたい。

 

「むむむ、それではいったんおすわりください。あにうえがつくってくれたゼリーは、とてもおいしいですので」

 

 少女に対話の意思があると知るや、リリエンタールは気の抜けたような顔になり、再び着席を促した。

 これ以上ことを荒立てる必要を感じなかったフィリアは、素直にその提案に従う。

 毒が入っていないことはサイドエフェクトで知れたので、水で喉を潤してからゼリーを口に運ぶ。

 

「……」

 

 久方ぶりの水分と栄養だが、フィリアの舌には何の味も感じられない。

 ただ、匙を動かす少女を眺めてリリエンタールがにんまりと嬉しそうにしているところをみると、きっとこの菓子は美味なのだろう。

 

「……菓子は頂きました。私の質問に答えてくれますね」

 

 何故か調子に乗った風の犬を見遣り、少女は硬い声音でそう切り出す。

 あなたたちは何者で、自分は何故ここにいるのか。ヌースと所持品は何処へやったのか。

 フィリアの質問に、リリエンタールはたどたどしくも誠実に答える。

 

 説明を聞けば、概ね想像通りの顛末ではあった。

 昨夜、橋から身投げを図ったフィリアを、偶然この日野家の面々が目撃し、救助したらしい。

 そうして無事に引き上げたものの、少女は意識を失っていた。警察と医者を呼ぶべきだと主張したてつこなる女の意見を、何らかの事情を察した兄上とやらが退け、自宅に運んだという。

 

「いまはさむいので、およぐのは夏にしたほうがいいのです。それによるはくらいから、おぼれてしまうかもしれないのです」

 

 とはいえ、リリエンタールはフィリアが自殺を図ったことには気付いていないらしく、真面目な表情でそう忠告する。

 適当に流して所持品の在り処を尋ねると、それらは濡れていたので別の場所で乾かしているとのこと。

 

「あとでちゃんともってくるので、あんしんしてほしいのです」

 

 嘘偽りのないリリエンタールの言葉に、フィリアはほっと胸をなでおろす。だが、どうやら日野家の面々が本当に親切心から少女を助けたらしいことを悟ると、彼女は思わず痛切な表情を浮かべた。

 己の罪業を嘆き自殺を図った少女にとって、掛け値なしの善意はどんなに鋭い刃物よりも深く心を傷つける。

 

「……概ね、理解しました」

 

 フィリアは小さく頷くと、それきり黙ってしまう。これからどうするかを考えなければならないのだが、何一つとして展望が浮かばない。

 彼女にはもう、生きる上での目的は無くなってしまったのだ。

 望みと言えば、一刻も早く死の安らぎを得る事だけ。

 

 その為には、ともかくヌースと所持品を取り戻さねばならない。

 彼女が近界民(ネイバー)であることに日野家の面々はまだ気付いていないだろうが、どの道不審者であることに変わりはない。あまり時間はかけられないだろう。

 

 そしてヌースと形見が無事に戻れば――と、そこまで考えた時、リリエンタールが何やら興奮した様子で話しかけてきた。

 

「そういえば、おなまえをきいておりませんでしたな!」

 

 瞳をきらきらと輝かせ、小さな犬がフィリアを覗き込む。少女は事態の把握を急ぐあまり、自己紹介さえしていなかったのだ。

 

「あ……フィリ、ア。……そう、私はフィリアといいます」

 

 身元を明かすかどうか数瞬迷うも、玄界(ミデン)に来てまで隠す意味も無いとフィリアは己の名前を告げる。するとリリエンタールは、

 

「フィリア! どうぞよろしくおねがいます」

 

 と、先と同じように直立姿勢を取り、胸にビシリと右手を添えてそういった。

 

「…………ええ」

 

 真っ直ぐな視線を向けられ、たじろぐフィリア。

 居た堪れなさを覚えた彼女は、早々に会話を切り上げてしまった。まずはなにより、家主の兄上とやらに話を付けなければならない。

 

 少女は行動を始めようと椅子から腰を上げる。その時、部屋に新たな来訪者が。

 

「マリー!」

 

 リリエンタールが声を上げる。

 扉を開けて部屋に入ってきたのは、手足や髪の毛、身に着けているワンピースまでもが真っ白な女の子であった。

 

「リリエンタールがおそいから、ようすを見に来たの。……お姉さん、目がさめたのね」

 

 人見知りなのか、少女は手にした人形を抱きかかえ、照れた様子でフィリアを見遣る。

 マリーと呼ばれた少女と視線が合ったフィリア。すると、彼女の顔から音を立てて血の気が引く。

 

「な――あ――」

 

 驚愕の理由はマリーの容姿にあった。

 少女の後ろにある筈の扉が、身体越しに透けて見えている。

 マリーは実体を持たないかのように、全身が半透明なのだ。

 

「嘘……嫌……そんな」

 

 何らかのトリガーによる現象ではない。フィリアのサイドエフェクトは、直ぐにその理由を解き明かした。

 

「はっ! ちがいますぞフィリア! マリーはわるい()()()ではないのです!」

 

 リリエンタールが慌てたように語りかける。

 そう、幽霊。目の前の小さな女の子は、肉体を持たない本物の幽霊だというのだ

 

「――い、嫌! 来ないで! 私の側に近寄らないでッ!!」

 

 マリーの正体が明らかになるや、フィリアは全身を恐怖に戦慄かせ、狼狽も露わに大声で叫ぶ。

 そして衝動のままにテーブル上のコップを掴むと、マリー目がけて投げつけた。

 

「なわーーーー!!」

「きゃっ!!」

 

 リリエンタールが叫び、マリーが身を強張らせる。

 幸いにして、フィリアが投げつけたコップはマリーを傷つけることなく、身体を素通りして扉にぶつかった。

 だが、突如として凄まじい剣幕で怒鳴られたことに変わりはない。

 

「ッ――!!」

「マリーーー!!」

 

 マリーは我に返るや、一目散に扉を開けて部屋を出て行った。リリエンタールも、そんな少女を心配して追いかける。

 一人残されたフィリアは、荒い息を付きながら蒼白の表情で身体を震わせる。

 

「幽霊なんて……そんな……そんなものが、いるなら……」

 

 数多の人々を死に追いやってきたフィリアにとって、死者の霊魂が存在することはこの上ない恐怖である。

 それは死者に己が責め苛まれるからという理由だけではなく、救済と信じていた死後の安寧すらも否定されたに等しいからだ。

 

 やはり、己には一片の救いも残されてはいない。

 フィリアの全身に悪寒が走る。やがて震えはぞろりとした熱へと変わり、体を責め苛む。目の前が急に真っ暗になった少女は、膝から床へと崩れ落ちた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 蓮乃辺市は庭崎町にある日野家は、二階建ての母屋とガレージ、広い庭を有する一軒家である。

 世帯主は世界的に有名な学者夫婦だが、彼らは外国を飛び回っておりなかなか家には帰ってこず、暮らしているのは息子と娘の兄妹、そして最近新しく弟になった賢い犬と、その友人たちである。

 

 一癖も二癖もある変わった家族ではあるが、おおらかで優しい兄と、頑固ながらも面倒見の良い妹、そして素直で明るい弟は、街の住民からも大いに愛されている。

 しかし、そんな日野家の居間には現在、重苦しい雰囲気が立ち込めていた。

 

「あにうえ! フィリアはだいじょうぶですかな?」

 

 心配顔のリリエンタールが話しかけたのは、栗色の髪をした柔和な風貌の青年だ。

 

「うん。まだ熱はあるけど、今は落ち着いて寝てるよ」

 

 兄と呼ばれた青年は、足元に駆け寄る弟に落ち着いた声で説明する。

 

 昨夜、川へ身投げした少女を助けた日野一家。件の少女は先刻目覚めたのだが、同居人のマリーを目の当たりにするやひどく取り乱し、リリエンタールが再び部屋を訪れた時には昏倒していたのだ。

 極度の緊張状態と疲労、そして入水によって身体を冷やしたために、風邪をひいてしまったらしい。

 報せを受けた兄が介抱に向かい、ようやく居間へと戻ってきたのだ。

 

「それで、結局あの人なんなのよ。警察とか呼ばないの?」

 

 非難がましい声で兄に問うのは、ソファーに腰掛ける少女だ。長い黒髪を二つ結びにした目つきの鋭い彼女は、日野家の長女てつこ。カンフーが達者で、溺れたフィリアを助けた張本人である。

 

「う~ん、でも何か事情があるみたいだしなぁ」

「また兄貴はそうやって……いつまでも居座らせる訳にはいかないでしょ。ていうか危ない人だったらどうするのよ」

 

 のほほんと構える兄に、てつこは苛立ったように詰問する。

 てつこは兄とは違い、変わった出来事や奇妙な人間と関わりあいになるのを嫌う性格である。如何にも事情の有りそうな人間、それも自殺未遂者を家に泊まらせるなど、到底許容できないのだろう。

 

「危ない人だったら困るなあ。けど外は寒いし、風邪が良くなるまでは居てもらった方がいいと思うよ」

 

 だが、兄は平然と不審者を家に置くと宣言する。なおも納得がいかないてつこは、

 

「でもあの子、マリーにいきなりコップを投げつけたんでしょ?」

 

 と、先ほどのフィリアの暴挙を訴える。

 

「てつこだって、最初はマリーちゃんのことを怖がっていただろう? きっと混乱してたんだよ」

「うっ……それはそうだけど」

 

 兄に窘められたてつこは、なおも不服そうな面持ちでマリーを見遣る。

 真っ白な幽霊少女は人形のシャーロットを抱き抱え、深刻そうな表情を浮かべてソファーに座っている。

 

「へいきですぞマリー。きっとフィリアもすぐにマリーがやさしいおばけだとわかってくれるのです」

 

 そう慰めるのはリリエンタールだ。

 

「っていうかアンタは何でそんなにあの人を家に置きたがるのよ」

 

 一貫してフィリアの肩を持つリリエンタールに、てつこが呆れ顔で尋ねる。話を聞く限りでは、件の女は彼に決して友好的とは言い難い態度で接したらしい。すると、

 

「フィリアはねているあいだずっとくるしそうだったのです。きっとなにかたいへんなことがあったのです」

 

 と、リリエンタールは断固たる口調で答える。

 

「あんたねぇ……」

 

 お人好し極まる弟の返答に、てつこは額を抑えてため息をつく。

 

「何か困っていることがあったら、助けになりたいよね」

「さすがはあにうえ、ほんもののおとこなのです」

 

 さも当然の如くフィリアを助けると宣言する兄に、リリエンタールが尊敬のまなざしを向ける。すると、

 

「だから、事情があればちゃんと聞いておくべきだと思う。みんなも、それでいいね」

 

 突如として兄は居並ぶ面々へと語りかけた。

 

「え、兄貴どうしたのよ……」

 

 てつこが訝る間もなく、兄は居間の一画へと足を運ぶ。

 そこには、件の少女が身に着けていた衣類や装飾品などが丁寧に並べられている。兄はその中から、炊飯器ほどの大きさをした球状の物体を取り上げた。

 

 魚の尾ヒレのような突起のついたソレは、フィリアの所持品の中でも用途不明の物品として皆が首を捻っていたモノだ。

 しかし、兄は手にしたその球体を、慣れた手つきで弄り回す。

 すると、純白の表面に翠緑の輝線が走り、()()は再び目を覚ました。

 

「システムチェック完了」

 

 抑揚のない女の声が居間に響く。そして次の瞬間、球体は兄の手を離れ、ふわりと宙に浮きあがった。

 

「な、何よこれ!」

 

 警戒心の強いてつこはすぐさまソファーから立ち上がり、浮遊体を睨みつける。

 宙に浮いたソレは、瞳のように見える円形のくぼみを光らせると、

 

「……フィリアの容態はどうですか?」

 

 どこか切迫した様子で兄にそう尋ねた。

 

「……ちょっと兄貴、こいつなんなの?」

 

 突如として現われた奇怪な人物。しかし、日野家では不思議な出来事が起きるのは珍しいことではない。

 てつこはどうやら面識があるらしい兄に、非難めいた視線を送る。

 

「ああ、こちらはヌースさん。あの子、フィリアさんの保護者の方だよ」

 

 と、兄は事も無げにそう話す。

 

 昨夜保護した少女の荷物の中にあった、見慣れぬ球状の物体。

 機械工学者として天才的な才能を持つ兄は、すぐさまそれが未知の機械装置であることに気付いた。

 水に浸かっていたこともあり故障していては不味いと、まったくの善意からその機械を調べた結果、偶然にもヌースを再起動させてしまったのだ。

 

 しかし、温厚な兄と理性的なヌースは特に諍いを起こすことも無く、互いの事情を簡単に話し合い、直ぐに打ち解けてしまった。

 お人好しの兄は、一先ずフィリアの体調が整うまで面倒をみることを約束する。

 ただ、家族の了解を得なければならないので、一度話し合いの席を設けることをヌースに約束させた。

 

「あなた方のご厚情に感謝します」

 

 フィリアは一度目を覚ましたものの、熱を出して寝込んでおり、今は容態が落ち着いていることを兄から説明されると、ヌースは日野家の面々に改めて礼を述べた。

 出来る事ならすぐさまフィリアに合いたいヌースではあったが、自分に何の相談もないまま自死を図った少女と対面するには決意が定まらない。

 

 兄から経過を聞いた限りでは、幸いなことに少女は衝動的な行動をとりかねない様子はない。しばらくは刺激せずに様子を見るべきだろう。

 

「勝手に感謝されても困るのよ。そもそもアンタたちは何なの? リリエンタール。アンタまた勝手に光ったりしてないでしょうね」

「おぶぶ、こころあたりはありませんが……」

 

 てつこは露骨にヌースに嫌な顔をすると、ソファーに腰掛けるリリエンタールを睨みつける。日野家で起こる不思議な現象は、おおかたこの犬が原因であるとの認識だ。だが、

 

「私たちは、こことは違う世界からやってきました。……我々は、あなた方の言う所の近界民(ネイバー)です」

 

 と、ヌースが淡々とした口調でそう告げる。

 

「な――」

 

 それを耳にするや、てつこは即座に腰を落として拳法の構えを取った。

 近界民(ネイバー)といえば、突如として異世界より現れ、隣町の三門市を壊滅に追いやった血も涙も無い侵略者である。

 

 人類の不倶戴天の敵が、我が家にいる。

 てつこは怖気を震うより先に、家族を守らねばと闘志を顕にする。だが、

 

「待っててつこ。ヌースさんの話を聞こう」

 

 と、今にも拳を繰り出しそうな妹を、兄が制止する。

 

「は? 何言ってんの兄貴。よりにもよって近界民(ネイバー)を家に上げるなんてどういうつもり?」

 

 だが、てつこは依然として鉄拳を構えたまま、ヌースを睨みつける。すると、

 

「ま、まつのですてつこ! このひとはまだなにもわるいことはしていませんぞ!」

 

 と、リリエンタールも擁護に回った。

 

近界民(ネイバー)ってだけで十分悪いのよ。あんたは知らないでしょうけど、こいつら大勢の人を殺したんだからね」

 

 けれど、てつこは一向に折れる気配が無い。

 三門市への近界民(ネイバー)侵攻時は、蓮乃辺市も大混乱に見舞われた。あの時の恐怖を実体験として覚えている以上、ヌースを易々と信頼することなどできない。フィリア共々捕らえて、即刻ボーダーに引き渡す。それがてつこの意見だ。

 

「ねえてつこ。わたしからもおねがい」

 

 その時、一触即発の剣呑な空気に割って入る声が。

 

「その人のお話をちゃんと聞いてあげて。どうするかはそれからでもいいとおもうの」

 

 てつこを諌めたのは、それまで沈黙を保っていたマリーだ。

 消え入りそうに儚げな幽霊少女は、けれど決然とした面持ちでそう頼む。

 フィリアに直接危害を加えられたはずのマリーにまで庇われれば、流石のてつこも節を折らざるを得ない。

 

「……少しでも怪しいと思えばボーダーに通報するからね」

 

 不機嫌そうに眉を寄せながらも、てつこは腕組みして拝聴の姿勢を取る。

 日野家の意思統一を確認すると、ヌースは静かに言葉を紡いだ。

 

「ありがとうございます。最初に申し上げておきたいのは、我々が玄界(ミデン)に――地球にやってきたのは、侵略ではなく亡命の為です」

 

 そうして語られたのは、少女フィリアの破壊と死、憎悪と絶望に塗り固められた半生であった。

 

「…………」

 

 どれほどの時間が流れたか。ヌースはフィリアが玄界(ミデン)へと辿りつき、そして自殺を図ったことまでを淡々と語り終えた。

 話を聞き終えた日野家の面々は、あまりの内容にしわぶき一つ立てることができない。

 

「フィリアは、あの子には、最早戦う意思はありません。玄界(ミデン)に被害をもたらす事はないでしょう。いえ、私があの子の心を正しく汲み取れているかは、今となってはわかりませんが……」

 

 自虐的な弁を述べたヌースは、皆から質問がないかを確認すると、次いで一つの要望を口にした。

 

「烏滸がましい要求なのは理解しています。ですが、なにとぞフィリアをもう少しこの家に置いてはくれませんか。身体が癒えるまでで結構です。不都合になるようなら、その後直ぐに立ち去ります。どうか……あの子が、あの子だけが、私の生きる全てなのです」

 

 ヌースの哀願に、ようやくてつこたちは顔を見合わせて息を付く。

 

「僕は構わないよ。落ち着くまで、いくらでもこの家にいてくれればいい」

 

 早速意見を表明したのは兄だ。相変わらず何を考えているか分からない温容だが、その言葉や態度には揺るがしがたい決意が秘められている。

 

「わ、わたくしめもさんせいですな!」

「わたしも、いいと思うわ」

 

 リリエンタールにマリーも、相次いで賛成票を投じた。

 もともと子供らしい鋭敏さでフィリアを案じていた二人である。ヌースの話が詳しく理解できたわけではないだろうが、ただならぬ事情を抱え、心身共に傷ついた少女を見捨てるつもりはまるでない。

 

「アンタたち、ちゃんと脳みそ使ってんの?」

 

 ただ、てつこだけが相変わらず慎重な立場をとっている。

 

「この人たちを保護すれば、面倒事がわんさかくるわよ。ボーダーも探し回ってるでしょうし、あのフィリアって子を狙って、近界民(ネイバー)がやってこないとも限らないじゃない」

 

 と、フィリアを日野家で保護するのは危険だと言う。

 平穏に憧れ、奇妙な出来事を嫌うてつこだが、別段情が薄い訳ではない。フィリアの境遇には多分に同情しているだろう。しかし、この件に関しては家族の安否が関わっている。意地っ張りだが家族を深く愛している彼女にとって、容易く受け入れられる話ではない。

 

「…………」

 

 ヌースは反論も嘆願も行わない。無理な依頼であることは百も承知である。日野家の皆が納得してくれなければ、無理を押すつもりはない。

 

「ご、ごしんぱいなく! わたくしめとマリーがせんぱいとしてめんどうをみるので!」

「そういう問題じゃないのよ」

 

 リリエンタールが力説するが、てつこに聞き入れるつもりはない。

 

「そのフィリアって子は方々で戦争してきたんでしょ? 色んな人から恨みを買ってるはずよ。第一、三門市の人だって近界民(ネイバー)を許しちゃいないわ。もしあの人を匿ってるのがばれたら、私たちだって危ないのよ」

 

 憤然と反論するてつこ。

 兄やマリーも諌めようとするが、正論の上に家族の安否を気遣っての上での発言だから、返す言葉が見つからない。

 重い沈黙が立ち込める。話が破談に終わりそうな予感が、皆の胸に芽生える。だが、

 

「――? それはちがいますぞてつこ。フィリアがまちにきたのはついきのう。わるいことをしたネイバーとはなんのかんけいもありませんぞ」

 

 リリエンタールだけが、心底不思議そうな表情でそう反駁する。

 

「な――アンタね……」

 

 真率な態度で尋ねられて、てつこも気勢を削がれる。すると、

 

「そうよてつこ。あの人は何もわるいことはしていないわ」

「そうだね。なのにとっても困ってるみたいだから、大変だよね」

 

 得たりとばかりにマリーと兄が援護する。

 

「ぐ……そんな事言ったって、私は認めないからね!」

 

 けれども、てつこは頑なにフィリアの保護を認めない。さらに頑なになって、首をぷいと背ける始末だ。

 

「てつこ……どうか、フィリアをおうちにすまわせてやってほしいのです」

 

 意地を張る姉を見て、リリエンタールが改めて頭を下げてそう頼む。

 

「ひとりぼっちでいるのはつらいのです。さびしくてもだれともおはなしできないし、どこにいってもぜんぜんたのしくないのです」

「…………」

 

 リリエンタールはその特殊な出自故に、日野家に来る前は監禁生活を強いられていた。

 そんな経験を持つ弟からの訴えに、てつこも怒気を納めざるを得ない。

 

「きっと、ネイバーの人にもいろいろなじじょうがあるとおもうの」

 

 そして、幽霊少女マリーもてつこの足元へと立ち、

 

「わたしはリリエンタールやてつこにあってすくわれたわ。だから、こまっている人がいたら、わたしもたすけてあげたいの」

 

 と、直向きに告げる。二人の無垢な瞳に見詰められたてつこは、

 

「……わかったわよ。でも、何か変なことやらかしたらすぐボーダーに突き出すからね」

 

 不満を隠さない口ぶりで、それでもフィリアらの受け入れを認めた。

 

「ありがとうございます」

 

 リリエンタールやマリーの歓呼の声を聞きながら、ヌースが改めて日野家の面々に世話になる旨と礼を述べる。

 これで何とか、フィリアを休ませてやることができる。

 

 だが、肝心の少女の心の傷は、どうすれば癒すことができるのだろうか。

 所詮機械人形でしかない己には、人の心を理解することはできないのではないか。沸き起こる無力感が、ヌースをじわじわと蝕んだ。

 

 

 

 



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其の五 家族の幻影

 日野家での時間は、緩やかに流れた。

 数日経って熱が下がったフィリアは、それでも部屋から出ようとはせず、ベッドの上につくねんと座り込み、ぼんやりと壁を眺めて過ごしていた。

 

 兄、てつことの対面は済んだ。兄は多くを問わず、ゆっくり療養してくれればいいと語り、てつこも警戒心こそ隠しもしなかったものの、異論を挟むことはなかった。

 どうやらヌースからこちらの事情を聞いたらしいと察したフィリア。だが、少女は家族に会おうとはしなかった。無理心中に巻き込んだ相手に、どんな顔をして合えばいいのかわからない。

 

 ヌースも同じ思いようで、彼女がフィリアを訪うことはなかった。ただ、

 

「これはシチューですな。おにくややさいをおなべでにこんだりょうりなのです」

 

 リリエンタールだけが、フィリアの様子を見に足しげくやってくる。

 フィリアの世話役に立候補したらしく、部屋から出たがらない少女に三度の食事を届けるのは彼の役目だ。

 

「おいしいですぞ! あたたかいうちにぜひ」

 

 いちいち配膳の度に献立を説明し、つぶらな瞳で少女を見詰めるリリエンタール。

 気鬱を病み、食欲などまるでわかないフィリアだが、幼児のように纏わりついてくる犬を邪険にすることもできず、渋々匙を手に取る。

 

 物を食べ、身体を癒し、果たしてそれでどうなるのか。

 無意味な生を過ごすことは耐え難い。しかし、死に安寧が得られないと知った以上、命を擲つことも躊躇われる。

 

 休息と栄養を取ることで、次第に体力は戻っていく。

 けれども、茫漠と過ごす時間は際限のない苦悩と絶望を産み、少女の精神を責め苛んでいた。

 

「……御馳走、さまでした」

「おそまつさまでした」

 

 食事を終えると、リリエンタールはあれやこれやと熱心にフィリアへと話しかける。

 幼いながらも少女の傷心を察して、何とか元気づけようとしているらしい。

 

 身振り手振りを交えて一生懸命話すリリエンタール。フィリアは静かに話を聞き、時折相槌や質問を差し挟む。

 何の打算も思惑も無く、赤心より紡がれるリリエンタールの言葉に、少女も幾らか苦悩を忘れ、取り留めのない会話に応じられるようになった。そうして食後の一時を過ごしていると、

 

「え、なになに新しい扉できてるじゃない」

 

 と、可愛らしい少女の声が廊下から聞こえる。

 

「入るよ~! 今度は何の部屋作ったの?」

 

 入室の許可も取らず扉を開けたのは、黒髪をショートカットにした可愛らしい女の子だった。年の頃はてつこと同じくらいか。少女はフィリアの姿を目の当たりにするや、

 

「って、え!? ……どちら様?」

 

 目を大きく見開いて尋ねる。すると、

 

「何処繋がってんだか分からないんだから、いきなり部屋入んなって」

 

 今度は少女の後ろからは、目つきの鋭いくせ毛の少年が現れた。

 唐突な訪問者にたじろぐも、すぐにリリエンタールが説明してくれた。

 彼女たちは日野家のお隣、春永家の双子の姉弟ゆきとさくらである。

 日野家とは昵懇の仲で、こうしてよく遊びに来るそうだ。

 

「えーっと、外国の方? は、ハロー」

「いや、犬が日本語で話してんだから言葉通じてんだろ」

 

 ゆきたちは見慣れぬ人物に興味津々で話しかける。だが、当のフィリアはうすぼんやりとしたまま、碌に返事もしない。

 

「あ、あれ~」

 

 明るく社交的なゆきも、流石にフィリアの冷淡な態度には面食らったようだ。何か不興を買うようなことをしたのかと、焦慮に眉を寄せる。

 

「おわわわ、ちがうのですゆき! フィリアはきのうまでかぜでねこんでいたので、まだぐあいがよくないのです!」

 

 大慌てでリリエンタールが弁解を並べ立てる。とはいえ、フィリアの来歴は伏せておくよう家族会議で決まっていたので、肝心なところは話せない。

 嘘や誤魔化しの苦手なリリエンタールの説明は、しどろもどろで怪しいものになる。

 

「ふ~ん、そっか。病み上がりのところいきなりお邪魔してごめんなさい。元気になったら色々お話しましょうね」

 

 ただ、ゆきとさくらは和やかにそう非礼を詫びる。

 フィリアに何らかの事情があることは察したようだが、強いて尋ねるつもりもない。二人は適当に会話を切り上げ、フィリアの部屋から辞去した。

 

「ほ、ほひ~」

 

 何とかフィリアの秘密を守れたと、リリエンタールが汗まみれで息を付く。

 そんな彼を茫漠とした目で眺める少女に、

 

「フィリアのひみつはわたくしめがまもりますぞ! ひのけのせんぱいなので!」

 

 と、犬はにっこり笑って見せる。

 

「でも、ゆきもさくらもフィリアがネイバーだとわかっても、そんなにおこらないとはおもうのです……きっとすぐともだちになれるのです」

 

 反応の鈍いフィリアを案じてか、リリエンタールがそう付け加える。

 彼がそこまで信頼を寄せているということは、春永姉弟はきっと疑うことなく善人なのだろう。

 

「きょうはクリスマスなので、ゆきやさくらにあやもきて、みんなでパーティーをするのです。きっとのたのしいので、よければフィリアもいっしょに……」

 

 そしてリリエンタールは、友人らが訪ねてきた理由を述べる。

 今日は玄界(ミデン)の祭日であり、皆で祝いの席を囲むと言うのだ。

 

「……私は、いい」

 

 だが、フィリアはその誘いを断った。

 気の置けない友人たちと過ごす一時に、どうして余所者の自分が参加できようか。

 戦乱に怯えることもなく、穏やかで豊かな暮らしを営む玄界(ミデン)の人々に、戦塵と血に塗れた近界民(ネイバー)が近づくべきではない。

 己の酸鼻極まる人生に思いを馳せると、フィリアの胸はさらに塞いだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その翌日。日野家の居間ではリリエンタールが椅子に腰かけ、神妙な顔で唸り声を上げていた。

 

「ふむう……」

 

 顎に手をあて眉根を寄せ、さも思案投げ首といった風を装ってはいるが、ぬいぐるみのような見た目の所為で、どこか珍妙な光景である。

 

「あまりあせって考えないほうがいいんじゃないかしら」

「ですが、フィリアはぜんぜんげんきがもどらないのです」

 

 そんなリリエンタールに優しく語りかけるのは幽霊少女のマリーだ。二人は日野家の新たな居候を、如何にして元気づけるかの相談をしていたのだ。

 

「みんなともそうだんしましょう? そうしたらいい考えが出てくるかも」

 

 兄はヌースを伴って所用に出かけており、てつこも学校の関係で外出したため、今日はリリエンタールとマリーの二人で留守番である。

 

「それもそうですな。わたくしめとしては、なにかたのしいことをして、フィリアの気もちをあかるくしたいのです」

「すてきだとおもうわ。リリエンタールのふしぎな力をつかえば、きっとあの人もよろこぶはずよ」

 

 二人は和気あいあいとフィリアを喜ばせるサプライズを相談する。彼らがここまで少女を気に掛けるのは、心根が優しいという理由からだけではない。

 リリエンタールは特殊な出自とその身に宿した力によって、長い間拘禁生活を余儀なくされていた。そしてマリーも、幽霊となった経緯は悲惨なものであり、日野家に迎えられるまでは孤独な日々を過ごしていた。

 

 そんな彼らにとって、フィリアの痛みや苦しみは我が事のように感じられるのだろう。

 幼いながらも直向きに、リリエンタールたちは少女を救う方法を模索する。

 とはいえ、容易く名案が浮かぶはずも無く、会議はそうそうに行き詰る。日野家のインターホンが鳴らされたのは、そんな時であった。

 

「む? はーい! どなたですかなー」

 

 兄たちが不在な今、日野家の代表は自分である。

 常々立派な弟に成らんこと心がけているリリエンタールは、喜び勇んで訪問者を出迎える。そうして玄関扉を開けると、

 

「む、紳士! ロン毛ししょう!」

 

 そこに立っていたのは、黒服に身を包んだ二人の壮年男性であった。

 

「おや? わんちゃんがお出迎えとは……お兄さんは不在ですかな?」

 

 端正な容貌をした金髪碧眼の男が、丁重ながらももったいぶった口調でそう話しかける。瀟洒な佇まいと、どこか胡散臭い雰囲気を纏った彼は紳士ウィルバー。自ら紳士であると宣言し、また実際に紳士たらんと務める酔狂人である。

 

「昨日は悪かったっスね。組織も年末は忙しいもんで……」

 

 もう一人の男は、やたらと丈の短い黒服を着た、長い黒髪の男だ。彼はローライズ・ロンリー・ロン毛。本名は不詳で、紳士の部下である。

 

「あにうえにようじですかな?」

 

 ふざけた格好の二人に、リリエンタールが尋ねる。

 

 不審者丸出しの二人だが、実は彼らは国際的な非合法組織の構成員である。冗談のような話だが、この世界を裏から支配する「組織」は実在するのだ。

 彼らと日野家はとある縁から知り合いになり、今でも交友関係は続いている。一時期は居候していたこともあり、日野家には頻繁に顔を出す。

 

「ええまあ。クリスマスパーティーに参加できなかった埋め合わせを、と思いましてね」

 

 犬の質問に答えながら、二人は日野家の居間へと通される。

 紳士らは当然の如く紅茶セットを携帯しており、ロン毛に茶を淹れさせると、紳士は優雅に一服を始める。普段はこうしてお茶を飲んだりお菓子を食べたり、リリエンタールやマリーを相手にチェスに興じるのだが、今日は一息つくと、来訪の目的を果たすべく荷物を取り出した。

 

「ささやかですが、我々からの贈り物です」

 

 二人の前に差し出されたのは、綺麗にラッピングされた箱である。

 彼らは友人たちの為に、一日遅れのクリスマスプレゼントを用意してきたのだ。

 

「ほわぁぁああ!」

「わあ!」

 

 リリエンタールとマリーが歓声を上げ、子供らしい純真さで贈り物を見つめる。

 

「は――しかし紳士にこれをもらうのは……」

 

 けれども、ふと我に返ったリリエンタールはそう呟き、うぬぬと頭を抱える。

 リリエンタールと紳士はライバル関係を結んでおり、日夜鎬を削る間柄である。そんな相手から贈り物をもらうのに、リリエンタールが抵抗を感じるのは当然だ。

 

「ご安心を。敵に塩を送る。という格言がありましてな。敢えて贈り物をして相手を磨かせるのも、ライバルの特権なのです」

 

 そんな犬を見た紳士は、紅茶を片手に得意げに嘯く。

 紳士の余裕の言に、ふむふむと納得したリリエンタールは遠慮なく包み紙を破いた。

 

「――こ、これは!」

 

 すると中から出てきたのは、樹脂でできたおもちゃの剣である。

 華美な装飾を排した質実剛健な意匠。歴戦の風格を漂わせたその一振りは、寸こそ子供の手に扱えるほどの大きさしかないが――

 

「ライトニングみつひこのけん!」

 

 リリエンタールが瞳を輝かせて叫ぶ。

 彼が愛してやまないテレビ番組、ちょんまげ騎士(ナイト)の主人公、王国最強の戦士、吉良ライトニング光彦の佩剣なのだ。

 憧れのヒーローと同じ剣を得て、リリエンタールは大興奮だ。

 

「ありがとうごます!」

 

 と、熱っぽく紳士に礼を述べる。そして、

 

「――とってもすてきよ。ありがとう」

 

 マリーも喜色満面で紳士らに感謝を伝える。

 彼女が受け取ったのは、フリルが沢山ついた夢のようなドレスだ。だが、大きさは随分と小さい。マリーの友人、人形シャーロットの為の服だ。

 

 先ほどまで深刻な相談をしていたのも忘れて、子供たちは新しい玩具に夢中になる。

 紳士らも満足そうにその光景を眺めている。と思いきや、子供たちの間に入って遊び始めた。兄やてつこらが帰るまで待つつもりなのだろう。しかし、

 

「あら? こまったわ……」

 

 と、マリーが声を上げる。

 早速シャーロットに新しい服を着せてやろうとしたのだが、今着ている服がなかなか脱がせられないのだ。

 

「どうしたのです?」

 

 と、リリエンタールがかっこいいポーズの練習を止めて駆けつける。

 どうやらボタンか何かが引っ掛かって上手く外せないらしい。

 

「このぎ、わたくしめが!」

 

 と、二人して人形の服を脱がせにかかった。紳士らは手伝わない。不精なのではなく、レディの着替えを見るのは紳士的ではないとの理由らしい。

 

「うでがぬけましたぞ。もうすこしです」

 

 人形の服と格闘するリリエンタールとマリー。上手くボタンが外せ、あと少しで脱がすことができる。と思われたその時、

 

「ノ、ノーーーー!!」

 

 誤って力を入れてしまったのか、ビリリと音を立ててシャーロットの服が破けてしまう。

 

「――!!」

 

 驚愕に目を見開き、白い肌をさらに白くするマリー。

 リリエンタールは狼狽も露わに、あわあわと右往左往する。

 紳士たちも変事に気付いたようで、何事かと慌てて覗き込む。

 突如出来した大事件に、日野家の居間は阿鼻叫喚の騒動に陥った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 この日、フィリアは昼過ぎに目を覚ました。

 自律神経が完全に狂っているらしく、最近は睡眠が極度に不安定になり、寝つきも悪い。クリスマスの夜は明け方までまんじりともせず過ごし、気が付いた時には太陽は高く昇っていた。

 

「……」

 

 霞がかった頭のままベッドから抜け出すフィリア。

 しばらくうっそりと佇んでいると、テーブルの上に食事が置いてあることに気付く。

 リリエンタールが運んできたのだろう。拙い字でメモ書きが添えてある。

 

 別段空腹を覚えた訳でもないが、フィリアは席に付いてブランチを取る。食べないと犬が心配する為だ。

 そうして食事を終えると、今度は当然の身体活動として催してくる。

 フィリアは億劫そうに部屋を出ると、一階のトイレを目指して廊下を歩いた。

 

 思えば、不自然極まる造りをした家である。

 

 建物そのものは二階建てのはずなのに、少女の部屋は三階にある。しかも窓から外を見れば、空中に直接首を出すことになるという、物理法則を無視した現象が起きる。

 同じ階には広い浴場があるが、これも母屋の建坪からして明らかにおかしい。まるで三階部分が丸ごと特殊な空間になっているかのようだ。

 

 ただ、材質や反応を見るにトリオンでできている訳でもないらしい。

 窓から庭を見ると、ゴムで出来たような黒くて大きな人型が洗濯物を干している。喋る犬にしてもそうだが、まるで童話の中のような風景である。

 

 いくら玄界(ミデン)の事情に昏いとはいえ、流石にこれが平均的な家庭ということはないだろう。日野家は明らかに異常なモノが多すぎる。

 ただ、フィリアには特に関心を抱いた様子はない。彼女の頭にあるのは、己への罪悪感と世界への絶望だけである。

 

「…………」

 

 赤い階段を降りながら、取り留めの無い考えを巡らせる。

 いつまでも無為徒食を続けることはできない。何時か終わりの時は来る。勢いに任せて死ねればよかったのだが、生き延びてしまったがゆえに少女には恐れが芽生えていた。果たして己は、今度こそ死ぬことができるのだろうか。

 

 知らず知らずのうちに思考が死に塗りつぶされるフィリア。とその時、

 

「ぎゃわ――――!!」

 

 悲痛な叫び声が、階下から聞こえた。

 

「――ッ!」

 

 声の主は、問うまでも無くリリエンタールである。絶叫を耳にしたフィリアは懊悩を忘れ、弾かれたように走り出した。

 三段跳びで階段を駆け下り、悲鳴の発信源であろう居間の扉を開く。

 

 気鬱など関係ない。あれほど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた犬の危機を見過ごすなど、少女の性格からして出来る事ではない。

 勢いよく居間に踏み込んだフィリア。しかし、そこで彼女が見たのは、想像とはずいぶん異なった光景だった。

 

「うぶぶ、うぶ……あれ、ふぃりあ?」

 

 目に涙を浮かべ、ずびずびと鼻を鳴らしながらフローリングに蹲っているのはリリエンタールだ。その周りには、黒ずくめの男が二人と、深刻そうな表情の幽霊少女マリーが座っている。

 

「…………?」

 

 初対面の男二人に警戒を向けるが、彼らも怪訝な表情でフィリアを眺めている。場の気配からして、彼らが狼藉に及んだ訳でもないらしい。

 ならば悲鳴の原因は? サイドエフェクトに頼るまでもなく、理由は一目で明らかとなった。

 

 リリエンタールが手にしているのは裁縫針だ。それで突いてしまったのだろう。小さな手には血が滲んでいる。

 マリーが絆創膏を貼ってやっているが、どうも一度や二度ではないらしい。リリエンタールの手は絆創膏で覆われそうになっている。

 

「びず……どうしたのですかフィリア。げんきになったのですか!」

 

 それでも少女が居間へとやってきたのが嬉しいのか、リリエンタールは涙を浮かべたまま笑顔になる。

 

「あ……」

 

 長らくまともに言葉を発していなかったせいか、咄嗟に返事ができない。

 

「その……悲鳴が、聞こえたから……」

 

 それでも何とか呟くと、途端にリリエンタールは恥じ入ったように小さくなり、

 

「おさいほうをしていたら、ちょっとしっぱいしてしまったのです」

 

 と、たどたどしく事情を説明する。話を纏めるに、どうやら彼らは人形の服を修繕しようとしていたらしい。

 

「――ッ!」

 

 人形の持ち主がすぐそばにいることに改めて気付き、フィリアが蒼白となる。

 件の少女マリーも、初対面の時の記憶がよみがえったのか、表情を強張らせてサッとソファーの後ろへと隠れる。

 

「ああ! ちがうのですぞフィリア! マリーはこわいおばけではないのです!」

 

 両者の反応を目の当たりにするや、リリエンタールは傷の痛みなど忘れたかのように仲裁に乗り出した。すると、

 

「こちらの御嬢さんはどなたか、ご紹介を頂けますかな?」

 

 ややこしくなりそうな気配を察知してか、紳士がリリエンタールにそう水を向ける。

 フィリアとしても初対面の二人組は気になるため、自然とマリーから注意が離れた。

 

 そうしてリリエンタールが互いを紹介するのだが、フィリアは出自を伏せねばならず、紳士らはそもそも来歴が不明なため、どうにも要領を得ない。

 一先ず危険のない事だけを確認すると、フィリアと紳士らはなおも怪訝そうに顔を見合わせる。

 

「……あ、その……リリエンタールは、何を?」

 

 気まずい空気の中、ともかくフィリアは悲鳴を上げた件について尋ねることにした。

 返ってきたのは、人形の服を破いてしまい、みんなで繕おうとしたのだが、誤って針で手指を刺してしまった。と、見たままの事情である。

 

「うぶぶ……どうしてもうまくいかないのです」

 

 自らの力不足を嘆くリリエンタール。

 

「シャーロットには新しいおようふくを着せたからへいきよ。あとでお兄さんにたのんでみましょう?」

 

 マリーはそう言って犬を慰めるが、彼は一刻も早く服を治そうと躍起になっている。自分が服を破いてしまったという罪悪感もあるのだろう。

 ならば紳士たちはどうしたのだろうかとフィリアが視線を向けると、

 

「いやあ……お恥ずかしい話ですが、(わたくし)、わんちゃんが手から血を流しているのを見て、貧血を起こしかけましてね」

 

 と、紳士が輝く笑顔でそう宣う。

 

「できなくはないんスけど、たぶん綺麗には仕上がんないと思うんスよね」

 

 そしてロン毛のほうも、自信たっぷりに手に余ると答える。

 この上なく駄目な返事を聞かされ、フィリアは思わず非難がましい眼差しを向けるも、当の二人は困った困ったと首を振るばかり。そして、

 

「……その服を、見せてくれますか?」

 

 数拍の間を置いて、意を決したフィリアが口を開いた。

 思いがけない提案に、皆の視線が集まる。

 フィリアは膝を折ってフローリングに座ると、リリエンタールからシャーロットの服を受け取り、損傷個所を子細に検めた。

 

「うん。これなら……」

 

 破断面は綺麗でほつれも無く、布地が薄くなっている様子も無い。どうやら縫い合わせていた古い糸が弾みで切れてしまっただけらしい。

 別段難しい処置も必要無く、この場にあるソーイングセットで間に合うだろう。

 

「……少し、お借りしますね」

 

 フィリアはリリエンタールの手から針と糸を受け取ると、縫い代から古い糸を丁寧に抜き取り、淀みない手つきで破れを繕い始めた。

 

「おおーー!!」

 

 その様を見ていたリリエンタールとマリー、紳士にロン毛までもが、揃って感嘆の声を漏らす。

 少女の手は流麗に、迷いなく動き、見る間に服を直していく。縫い目の細緻さ、目の揃い方はミシンも斯くやという程で、繕われた箇所は何処が破れていたかも分からない。

 

 貧民時代に様々な仕事を掛け持ちしていたフィリアは、針子の内職もしていたことがある。また弟妹たちにも服を余り買ってやれなかったため、彼らの着古した服を繕ってやるのもフィリアの勤めだった。

 戦場に身を置くようになってからは久しく手にしていなかった針と糸だが、身体に染み付いた技術はそう簡単に忘れられるものではない。

 

「これで……はい。できました」

 

 パチリと糸を切り、埃を払ってやると、シャーロットの服は見事に元の装いを取り戻した。目の前で繰り広げられた華麗な技に、リリエンタールたちが歓声を上げる。

 

「すっかりもとどおりなのです! ありがとうごます!」

 

 そしていつの間にか近くにやってきたマリーは、

 

「すごい……まほうのゆびだわ!」

 

 と、嬉しそうに修繕された服を覗き込む。

 

「――!!」

「あ――」

 

 幽霊少女の接近に、思わず身を強張らせるフィリア。マリーもそれに気付いて、慌てて引っ込もうとする。そんな二人を、

 

「ま、まつのです!」

 

 と、リリエンタールが引きとめる。

 小さな手を伸ばし、フィリアの手とマリーの腕を掴む。

 

「おはなしあいを、するのです!」

 

 彼はフィリアとマリーの確執を、誰にも増して気に病んでいた。この機を逃せばさらに和解が遠のいてしまうと必死の形相で叫ぶ。

 リリエンタールの嘆願に、二人は思わず居住まいを正す。そして、

 

「…………あの、シャーロットの服をなおしてくれてありがとう。この子もとてもよろこんでいると思うわ」

 

 長い沈黙の後、マリーがそう呟いた。

 まだ恐怖が消えていないのだろう。消え入りそうに小さく、儚げな声。それでも心からの感謝は、ありありと伝わる。

 

「……その子、シャーロットっていうの? 素敵な名前、だね」

 

 そしてフィリアも、穏やかな表情でそう答える。彼女が怯えていたのは、幽霊という存在についてだ。大人しく可愛らしいマリーには、何の嫌悪も無い。

 

「ほわぁぁあ!」

 

 初めてまともに言葉を交わした二人を見て、リリエンタールが快哉を叫ぶ。

 

「この間は……いきなり暴力を振るってしまって、ごめんなさい」

 

 そしてフィリアは、マリーに初対面の時の非礼を詫びた。

 

「ううん、いいの。わたしも、びっくりさせてしまったかしらって、ずっと気になっていたの」

 

 マリーは喜色を浮かべ、謝罪を快く受け入れる。

 無事に蟠りを解いた二人にリリエンタールは大喜びし、事情を知らない紳士にロン毛もなぜか満足げに頷いている。

 

「……あなたは、本当に幽霊なの?」

 

 お互いに改めて自己紹介を交わすと、フィリアが躊躇ったようにマリーにそう尋ねた。

 

「ええ。わたしはずっと前にしんでしまったみたいなの。でも、リリエンタールに、てんごくにいくのはあとでもいいっていわれて、このお家にきたのよ」

 

「……そう」

 

 マリーの回答に、フィリアは複雑そうな表情で頷く。幽霊少女への抵抗は消えたが、死者の魂がその後も残り続けるというのは、彼女にとって恐怖すべき事実である。すると、

 

「いちどフィリアもおばけになってみるといいのです。そうすればきっとこわくなくなるのです」

 

 と、リリエンタールがそんなことを言い出した。

 

「え?」

 

 言葉の意味を正しく理解できないフィリア。

 だが、リリエンタールはさも名案を思い付いたと言わんばかりに、マリーに何やら頼みごとをする。

 そして幽霊少女がフィリアの手に触れた次の瞬間、

 

「――な!?」

 

 ふわりと、重力が消え去ったかのようにフィリアの身体が軽くなった。

 まるで宇宙空間にでも放り出されたかのように、全身が空中へと浮かびあがる。

 

 変化はそれだけではない。少女の体が衣類も含めて半透明に透けているのだ。いや、正しく実体が消えている。何か掴める物はないかと振り回した手足が、ソファーをすり抜けたのだ。

 異常事態に驚くフィリア。だが、彼女を幽霊にしたマリーや、それを嗾けたリリエンタールは楽しそうに笑っている。それどころか、

 

「もっとたくさんおばけをだすのです!」

 

 と、さらに煽る始末。

 そしてマリーが手を振ると、テーブルやぬいぐるみ、紅茶セットといった器物から、その形の幽霊が抜け出して、縦横無尽に居間の中を飛び回りだした。

 

 幽霊少女マリーは様々な器物から幽霊を取り出すことができる。それが生き物の場合は、身体ごと幽霊にしてしまうのだ。

 

「すごいでしょう! たのしいでしょう! おばけになるのはこわくないのです!」

 

 いつの間にか幽霊化したリリエンタールが、くるくる回りながらフィリアの側を飛んでいく。

 居間は幽霊化したあらゆる物が飛び交い、収拾のつかない騒動になってしまった。

 

「わかった! わかりましたから! もう元に戻して!!」

 

 混乱したフィリアが大声で叫ぶ。

 すると、窓際に居たロン毛がさっとカーテンを開いた。

 

 陽光が差し込むや、幽霊はたちまち淡雪のように消え去っていく。

 そしてフィリアとリリエンタールも幽霊化が解け、フローリングの上にどさりと落ちる。

 

「どうでしたかな!? おもしろかったですかな!?」

 

 未だ興奮冷めやらない様子で、リリエンタールが問いかける。だが、

 

「………………」

 

 むくりと立ち上がったフィリアは腰に手を当て仁王立ちすると、犬を真上から見下ろし、

 

「そこに、座りなさい」

 

 氷のように冷たい声でそう命じた。

 

「おわわ……」

「元気づけようとしてくれたことには感謝します。――でも、やり方というものがありますね?」

 

 そうして怯えるリリエンタールを相手に、フィリアは厳然とした態度で御小言を述べる。

 威風辺りを払うフィリアのお説教に、自然とマリーも紳士もロン毛も粛然と背筋を伸ばして聞き入る。

 

「うぶぶ。もうしわけないのです。そういえばひとをおばけにするのはてつこにもきんしされていたのです」

「まったくもう……せめて相手に何をするか、説明してからになさってください」

 

 縮こまって詫びをいれるリリエンタールに、フィリアが呆れたように息を吐く。

 もとより全くの善意から出た行動なので、本気で怒っている訳ではない。しかし、リリエンタールのはしゃぎぶりが如何にも子供らしく無軌道なので、つい小言を垂れずにはいられなくなったのだ。

 

「さあ、お説教はこれで終わりです。立っても構いませんよ」

 

 そう言うフィリアは、今までになく柔らかで血が通った表情をしている。

 

「うぶぶ……てつこに、いいますかな?」

「内緒にしておいてあげます」

 

 べそをかくリリエンタールを眺め、フィリアの口辺に思わず微笑みが浮かぶ。だが、

 

「――ッ!」

 

 春の日差しのように穏やかだった少女の顔貌が、突如として険しく強張った。

 

「ふむ? どうしたのですかフィリア?」

 

 少女の急激な変化に戸惑うリリエンタール。

 何やら様子がおかしいと、マリーや紳士らも心配そうな視線を向ける。

 

「……いえ、なんでも、ありません」

 

 少女は能面のような無表情を取り繕うと、そそくさと居間から出て行ってしまう。

 廊下に出るや、彼女は端正な面立ちを苦悶に歪ませる。

 

「私は……何を……」

 

 フィリアの胸にどす黒い感情が湧き起こる。

 少女はリリエンタールやマリーに、亡き弟妹たちの姿を重ねあわせていたことに気付いたのだ。

 

 もう取り戻すことのできない、家族との暖かな日々。

 自ら望んで遠ざけ、そして永久に失った宝物。

 家族を顧みなかった自分が、今更他人に姉のように振る舞うなど、どれだけ愚かで罪深い所業であることか。

 

「はっ……くぅっ……」

 

 思わず、フィリアは胸を押さえて壁に寄り掛かった。

 息が乱れる。心臓が早鐘を打つ。様々な思い出が無作為に脳裏に浮かび、思考がまったく定まらない。

 かつてないほどに強烈な罪悪感と絶望が、刃物のように少女の心を切り裂いた。

 

 

 

 



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其の六 生まれてくるべきじゃなかった

 それからさらに数日後。

 フィリアの容態は、一時に比べれば随分と落ち着いていた。

 

 三食をきちんと取り、夜には休み、そして昼間は日野家と少しずつコミュニケーションを取るようになった。

 年末の忙しい時期、兄やてつこは方々の用事で家を留守にする。幼いリリエンタールやマリーの面倒を、フィリアが代わりに見るのだ。

 

 てつこは余りいい顔をしなかったが、子供たちはすっかり近界民(ネイバー)の少女に心を許しており、実際に何日か共に過ごさせてみても問題は起きなかった。

 むしろ、少女は細かいことによく気が付き、不在の兄に変わって幾らか家事までこなしてくれた。それも、てつこが不快に思わぬ絶妙な塩梅で、である。

 

 応対こそ相変わらず冷淡なものの、初対面の頃のような危うさは成りを潜めている。相変わらずヌースとはまともに顔を合わせないが、それ以外は概ね良好な経過とみていいだろう。

 

 そしてさらに日は過ぎ、大晦日の夜。

 

「ふんほ! ふんほ!」

 

 両手を高々と天に掲げ、短い足を懸命に動かして、前後に行ったり来たりをしているのはリリエンタールだ。

 

「……それは?」

 

 居間でいきなり珍妙な踊りを披露し始めた犬に、フィリアが小首をかしげる。すると、

 

「じょやのかねをつくれんしゅうをしているのです!」

 

 と、犬は大真面目にそう答えた。

 彼はこれから兄たちと共に、近所の寺院に参拝に行く。そこで年越しの祭事に参加するらしく、イメージトレーニングに余念がない。

 

「ゆきたち来たわよー!」

「はーい!」

 

 玄関から呼ばうてつこの声に、リリエンタールが小走りで駆けていく。

 フィリアも後を追って玄関に向かい、突っ掛けを履いて犬と共に外へ出る。

 

「おまたせました!」

 

 玄関先でリリエンタールを待っていたのは、兄にてつこ、春永家のゆきとさくらに、紳士とロン毛である。

 

「それじゃあフィリアさん。後をお願いします」

 

 見送りに出た少女に声を掛ける兄。フィリアは行事に参加するつもりはなく、日野家で留守番である。

 

「いってらっしゃい。くらいから気をつけてね」

 

 同じく留守番組のマリーが手を振る。

 彼女は幽霊という事情もあり、また人混みが苦手なため家で大人しくしているつもりだ。それに夜も遅いので眠いのだろう。マリーはどこかぼんやりとした表情をしている。

 

「はーい!」

 

 元気よく返事をして、リリエンタールらは出かけて行った。

 

「……そろそろ、休みましょうか」

「うん。すこし、ねむたくなってきたわ」

 

 一行を見送ったフィリアはマリーを連れて家に戻ると、共に三階へと上がる。

 マリーは自分の部屋に入ると、人形のシャーロットと一緒にベッドへと潜りこんだ。

 

「……今日は、何の本を読もうか?」

 

 フィリアはベッドのわきに椅子を寄せ、本棚から絵本を探す。

 

「くじらごうがいいわ!」

 

 リクエスト通りの本を取り出すと、部屋の電気を消す。サイドランプの薄明かりの下、少女は朗読を始めた。

 

「くじら号はきれいなさんごしょうのうみをいきます。きれいなさかながたくさんついておよぎます」

 

 穏やかで優しく、心に染み入るような声。

 マリーは幻想的な絵物語を心に思い描きながら、静かに瞼を閉じる。

 そうしてフィリアが絵本を読み終わる頃には、マリーはすっかり寝入っていた。

 

「…………」

 

 この世の浄福を体現するかのような、安らかで愛らしいマリーの寝顔。幽霊少女をしばし黙然と眺めていたフィリアは、やがて明かりを消すと部屋を後にした。

 居間へと戻ってきた彼女は、迷いなく部屋の片隅へと歩を進める。そして、

 

「この家を出る。準備して」

 

 と、座布団に端坐するヌースへと語りかけた。

 

「何故、ですか……」

 

 長らく会話の無かった少女から唐突にそう切り出され、ヌースが困惑する。

 

「私たちの痕跡を残さないように注意して。ここで作ったものは無い? 全部処分する」

 

 フィリアは淡々とそう告げると、トリガーや種々の品々を雑嚢に放り込み、日野家から渡された衣類も脱ぎ、己の物と着替える。

 

「此処を離れ、何処に行くと言うのです?」

 

 少女の指示に反駁するヌース。

 

「…………」

 

 彼女は沈黙で答える。見れば、日野家にある食料や金銭には一切手を付けていない。何を考えているかは明らかだ。

 近界(ネイバーフッド)由来の品を全て回収し終えると、フィリアはヌースを置き去りにするように居間を後にする。

 

「考え直してください。この家の人間は我々に友好的です。私たちを売り渡すようなことは決してないと、あなたも分かっている筈です」

 

 少女の背を追いながら、ヌースは懸命に翻意を促す。

 けれど、フィリアは説得に一切耳を貸さず、靴を履いて外へと出る。

 

「――」

 

 吹き荒ぶ寒風が容赦なく吹き付け、薄着のフィリアは思わず顔を顰めた。

 

 だが、日野家を離れる好機は今を措いては他にない。この家には常に誰かしらが居て、また銘々が少女の動向に鋭く意識を向けている。

 年越しの祭事に参加する為、日野家の一同は今晩二か所の宗教施設を周るらしい。蓮乃辺市から離れる時間は充分にあるだろう。

 

「お願いです。早まった真似は止めてください。あなたはこの家の者たちとも親しくなったのでしょう? 彼らが心配するとは思わないのですか?」

 

 抑揚のない、それでいて悲痛な声でヌースが語りかける。とその時、

 

「私たちが居座り続ければ、それだけこの家に迷惑が掛かる」

 

 余りにしつこく話しかけられた為か、フィリアが足を止めてそう答える。

 

「違います。彼らは心からあなたの事を案じているのですよ。何も伝えずに黙って姿を晦ますなど、受けた恩義に背く行いです」

 

 ヌースは道理と感情の両様から少女を押し留めようとする。

 

「……そんなの、どうだっていい」

 

 懸命の説得に苛立ったのか、フィリアがそう吐き捨てた。

 

「私はもう疲れたの。……毎日、寝ても覚めても悪夢を見てるよう。リリエンタールたちの、この家の人の優しさに触れるのが辛い。私が失ってしまったものを、見せつけられているようで……」

 

 胸を押さえ、苦悶に顔を歪めながらフィリアが述懐する。

 

「私たちがいた世界にも、この玄界(ミデン)にも、居場所なんて無かった。私が安らげる場所は、家族の皆がいる所だけだったんだ。……ヌース。あなたには本当に感謝している。でも、もう限界なの。これ以上、耐えられないよ」

 

 痞えながらも、少女は言葉を振り絞る。

 

「死んでも、救われることはないのかもしれない。それどころか、幽霊になってずっと苦しむことになるのかもしれない。でも、このまま無為に生きていても、きっと同じ」

 

 家族を失い、祖国から裏切られた彼女が、戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)で如何に過酷な日々を過ごしてきたか。積み重ねられる憎悪と悲嘆が、どのように彼女の心をどす黒く染め上げていったのかを、ヌースは全て知っている。

 友として、後見人としてフィリアを生誕から見守ってきたヌースは、助言を与えることがあっても、常に少女の意思を尊重してきた。けれど、

 

「駄目です。それだけは、それだけは認められません」

 

 今日ばかりは、少女の想いを真っ向から否定する。

 

「命を粗末にするような真似をして、あなたの家族が喜ぶと思うのですか? パイデイア、サロス、アネシス、イダニコ、アルモニア。彼らの顔を思い出しなさいフィリア。あなたは彼らの想いを、レギナの願いを否定するつもりですか!」

 

 思わず声を荒らげ、ヌースは少女を叱りつける。

 機械に有るまじき感情の発露に面食らったフィリア。今まで共に過ごしてきて、彼女がここまで怒りを露わにしたことはない。

 だが、それが却って少女の感情を昂ぶらせることになった。

 

「うるさい! 私に指図しないで!」

 

 箍が外れたように怒鳴りつけるフィリア。だが、

 

「いいえ。言わせてもらいます! あなたは家族の想いを裏切っています。今のあなたをみれば、あの子たちはさぞ嘆き悲しむでしょう!」

 

 ヌースも負けじと言い返す。

 胸に蟠る澱を吐き出すかのように口論する二人。彼女たちは憤怒も露わに、己の主張を声高に叫び、相手の無理解を詰る。そして、

 

「今更家族を引き合いに出すのはやめて! 母さんも父さんも死んだ! だいたいあなただって約束を破ったじゃない! サロスたちを護ってくれるよう頼んだのに、あの子たちは助からなかったっ!!」

「――ッ!!」

 

 最後にフィリアが放った一言が、痛烈にヌースへと突き刺さった。

 自律トリオン兵は返す言葉を失い、悄然として空中に浮かぶ。

 

「…………」

 

 無益な舌戦を終えたフィリアは、乱れた息を整えると再び歩き出した ヌースは力なくその後を付いていく。その時、

 

「……人ん()の庭で大声出さないでくれる? 近所迷惑なのよ」

 

 日野家の門前に立つ人影が、不快気にそう謗る。

 長い黒髪を二つ結びにした目つきの鋭い少女は、日野家の長女てつこだ。

 彼女はフィリアを凝然と見つめ、さも面倒臭そうに息を吐いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「何故……まさか!」

 

 予想だにしなかったてつこの帰宅に、フィリアは動揺を顕にする。

 長距離を全力で駆けてきたのだろう。彼女はうっすらと額に汗をかいている。明らかに出奔を知って戻ってきた様子だ。

 何故てつこはフィリアの動向を知ることができたのか。理由はサイドエフェクトで直ぐ明らかとなった。少女は背後のヌースへ刺すような視線を向ける。

 

「挨拶もせずに出ていくつもり? 近界民(ネイバー)には礼儀ってもんがないのかしら」

 

 てつこの隣には、ヌースの子機が浮いている。自分ではフィリアの説得が難しいと考えたヌースが、万が一の事態に備えて日野家に預けていたモノだ。

 

「礼を失したことはお詫びします。……長らく世話になりました」

 

 フィリアはそう言って、日野家の敷地から出ようと歩き始める。だが、

 

「話はまだ終わってない。アンタ、これから何処に行くつもり?」

 

 立ちふさがったてつこが問い詰める。

 

「……あなたには、関係のないことです」

「大ありよ。誰が濡れ鼠になってアンタを引き上げたと思ってるの? 勝手に死なれちゃこっちも寝覚めが悪いのよ」

「…………」

 

 自殺願望を直截に詰られ、フィリアが歯を強く噛みしめる。

 

「とにかく、一度家に戻りなさいよ。……あたしでも、兄貴でも、話なら聞くから」

 

 語気を緩め、気遣わしげに語りかけるてつこ。だが、

 

「私の、邪魔をするな」

 

 フィリアは憤怒を宿した双眸でてつこを睨みつけ、

 

「あなたたちに引きとめられる謂れはない。怪我をしたくなければ、道を開けなさい」

 

 抜き身の刃のように硬く冷たい声で、そう告げる。

 

「……そう。まあ、言って聞くとは思ってなかったけど」

 

 決裂の言葉を耳にするや、てつこは腰を落として拳法の構えを取り、

 

「そっちがその気なら、殴ってでも止めるわよ。どっちにしろ、話し合いよりこっちの方が得意だし」

 

 決然とそう述べる。

 

「…………」

 

 衝突は不可避と感じ取ると、フィリアも体を軽く開き、戦闘態勢を取った。

 

 事ここに至った以上、武力を行使してでも速やかにこの場を離れる。

 てつこに危害を加えれば、お人好しな日野家でもボーダーへの通報を躊躇わないだろう。だが、追っ手が掛かる前に自分を始末してしまえば済む話だ。

 

 これ以上、日野家に関わるのは御免だった。善良無垢な彼らと付き合うと、己の劫罰を眼前に突きつけられる思いがするのだ。

 てつこの佇まいは明らかに実力者のソレだが、トリガーは使用しない。ボーダーに検知される恐れがあるし、加減を誤って大怪我をさせかねないからだ。そして、

 

「――!」

 

 弾指の間をおいて、先に動いたのはフィリアだった。

 生身でありながら飛燕の如き速度で踏み込んだ少女は、てつこを一撃で昏倒させるべく、顎を狙って拳打を繰り出す。だが、

 

「な――」

 

 まるで狙いを予期していたかのように、てつこが掌で打撃を弾いた。

 しかも、ただ防いだだけではない。絶妙な角度で釣り込むように力を加えることで、フィリアの体勢まで崩したのだ。

 

「ッ!」

 

 次いでてつこが繰り出したのは、腹部を狙う砲弾のような拳。

 百戦錬磨のフィリアは瞬時に防御姿勢をとるが、転瞬、てつこの拳が突如として掌へと変じ、防御の為に翳した左手首を掴み取る。

 

(――擒拿術!)

 

 関節技を仕掛けられると察知したフィリアは、身体を捻りながら後方に宙返りして、力尽くで拘束を解いた。

 そして体勢を立て直すべく後方へと距離を取ろうとするが、てつこは影のように纏わりついて離れない。

 迅雷の如き鋭さで、てつこが回し蹴りを放つ。フィリアは両腕で防御するが、受けても尚、骨の髄に響くほど重い。

 

「っ……」

 

 手練れと予想はしていたが、まさかこれ程の猛者だったとは。

 いくら卓越した腕前を持とうと、安寧の日々を過ごしていた玄界(ミデン)の民が、戦乱打ち続く近界(ネイバーフッド)で生き延びた己に及ぶ筈がないと高を括っていた。

 

 しかし、驚駭はてつこも同じだった。

 自惚れではなく客観的な事実として、同年輩で己に比肩する武術家などそうは居ないだろうと思っていた彼女は、フィリアの並はずれた技量に危機感を新たにする。

 

「悪いけど、手加減できないわよ!」

 

 てつこは攻勢へと転じ、猛烈な拳打の嵐をフィリアへと浴びせかける。

 豊富な戦闘経験と超絶のサイドエフェクトを以てしても、猛攻を防ぐのは至難である。

 

 玄界(ミデン)の長い歴史の中で紡がれた拳法は、雄渾ながらも軽捷、犀利にして精妙を極め、千変万態の変化を内に秘めている。

 

 対して、フィリアの揮う近界(ネイバーフッド)の武術は、あくまでトリオン体での戦闘を前提に編み出されたものだ。戦場で行使される技術のため、剣や銃といった武器を扱うのが主となり、徒手での格闘は補助的な技に留まる。

 

「く……」

 

 十手、二十手と交わすうちに、形勢が明らかにてつこへと傾いていく。

 フィリアは攻撃を凌ぐのに精一杯で、徐々に追い詰められていく。

 

 解せないのは、「直観智」のサイドエフェクトを用いているにも関わらず、状況が一向に打破できないことだ。

 サイドエフェクトに従い最適な行動を取ろうとするも、てつこはこちらの動きを予期していたかのように技を変化させ、機先を制することができない。

 

(まさか、動きが読まれている!?)

 

 まるで予知能力者を相手にしているかのようなやり辛さ。この感覚は、少女の父にして剣の師匠であるアルモニアと立ち会った時に近い。

 

 フィリアは知る由もないが、玄界(ミデン)の深遠なる拳法には、目視に頼らずとも全身から放たれる気配を察知することで、対手の動きを先読みする超絶の技能が存在する。

 十代前半でその奥義を会得したてつこは、正に天才といっていい。

 

「ぐッ!」

 

 打撃戦では勝ち目がないとみて組みつきにかかったフィリア。だが、てつこは密着状態にもかかわらず背面から勁力を放ち、少女を毬のように弾き飛ばす。

 

「……ちょっとは頭冷えた?」

 

 母屋の玄関付近にまで吹き飛ばされたフィリアに、てつこが労わるように声を掛ける。

 しかし、少女は無言のまま立ち上がると、玄関の引き戸をずらし、隙間から一本の傘を抜きとった。

 

「これしきで、私を止めるつもりですか」

 

 一向に萎えぬ闘志と共に、フィリアがそう吐き捨てる。

 

「頑固そうとは思ってたけど、よっぽどね」

 

 ため息をつきながらも、てつこは対手の変化を鋭敏に読み取り、さらに警戒を強めた。

 傘を正眼に構えたフィリアは、身に纏う雰囲気が一変していた。同じく達人のてつこだから分かる。彼女の本来の流儀は剣だ。

 

 つまり、ここからが本番。てつこは集中して拳を構える。

 転瞬、フィリアの姿が掻き消えた。

 

「――!」

 

 先ほどの疾風のような踏み込みとは異なる、動きの掴めない幻のような歩法。

 毫の間も無く、瞠目するてつこの首筋に、雲耀の速度で傘が撃ち込まれる。

 

「ッ!」

 

 超人的な反射速度で辛うじて斬撃から逃れるてつこ。

 いくら柔く脆い傘といえども、あの速度で殴られれば大怪我、昏倒は免れない。

 レンガを砕くほどの剛拳を容赦なく打ち込んでいるてつこが言えた義理ではないが、いよいよフィリアも本気になったらしい。

 

 今までの小手調べとは違う。本気で互いを傷つけあう、或いは命の取り合いにまで発展しかねない段階へと、闘いは進んだのだ。

 

「この!」

 

 リーチに差がある。受けに回っては不利と、てつこは果敢に拳打を打ち込む。

 だが、得物を手にしたフィリアは、先ほどまでとは比べ物にならない技の冴えを見せた。

 何も相手の動きを読むのはてつこの専売特許ではない。フィリアにはサイドエフェクトがある。条件は五分だ。

 

 ならば、後は身に着けた技量、積み重ねた手練が勝敗を別つ。

 不慣れな徒手格闘とは異なり、曲がりなりにも獲物を手にしたフィリアは、イリニ家伝来の剣術を十全に揮い、怒涛の如きてつこの攻撃を凌いでいく。

 

 のみならず、鋭い返し技でてつこの技に綻びを作ると、一瞬の間隙を突いて強烈な反撃を叩き込む。

 腕や足を雨傘が強かに打つ。これが本身の剣なら斬り飛ばしているところだが、それでも痛打は免れない。

 

「っ痛いわね!」

 

 だが、てつこも負けてはいない。打たれた数だけ、フィリアに拳を叩き込む。その威力はフィリアの筋骨を軋ませ、内臓を震わす。

 二人の少女は凄まじい形相で、凄絶な打ち合いを始める。

 

 お互い必殺の威力を有する攻撃を警戒してか、前掛かりには攻めかからない。決定打を欠いたまま、一髪千鈞を引く攻防が目まぐるしく繰り広げられる。

 

 錯綜する秘剣と絶技が、夜気を切り裂き地を穿つ。

 若くして入神の域に達した武芸者二人。本来ならば出会うはずもなかった異なる世界の住人が、今ここに魂を賭けて鎬を削る。

 

 しかし、激闘が決着を見ることはなかった。

 

「フィリア! てつこ!」

 

 庭で争っている二人を見るなり、大声でそう呼びかけたのはリリエンタールだ。

 祭事に出かけていた日野家の面々らが、今になって戻ってきたのだ。

 

「二人ともやめないか!」

 

 暴風のように入り乱れ、本気の拳打と斬撃を交わしている少女らを目の当たりにしては、温厚な兄も流石に顔色を変える。

 

「これはこれは……由々しい事態ですな」

「てつこちゃんとまともに渡り合うとか、あの子何者なんスかね……」

 

 紳士の表情からも飄逸さが消え、ロン毛も目の前の争いに呆けている。

 

「な、何? てつこが喧嘩してるの? 嘘!!」

「ってかあいつ足早すぎだろ。何しに帰ったかと思ったら……」

 

 隣家の春永家の姉弟、ゆきとさくらも驚愕の表情を浮かべている。そして、

 

「……フィリア? てつこと何してるの?」

 

 騒動の所為で目が覚めたのだろう。母屋の玄関からは、幽霊少女のマリーが姿を現した。

 

「くっ……」

 

 危惧していた事態が起きてしまった。フィリアは眉を顰めると、てつことの打ち合いを中断し大きく間合いを離す。

 

「なにをしているのですてつこ! さきにいってフィリアをひきとめるのではなかったのですかな!?」

「だから引きとめてるじゃない。危ないからふん縛るまで近寄るんじゃないわよ」

 

 狼狽も露わに二人を仲裁しようとするリリエンタールに、てつこが冷厳に答える。このままで終わる筈がないと感じているのだろう。てつこは構えを崩さぬまま、フィリアの一挙手一投足を油断なく見据えている。

 

「そこまでだ二人とも! 女の子が喧嘩なんてするんじゃない」

 

 兄も慌てて間に入る。紳士らや春永家の二人も、心配そうに彼女の周りに駆けつける。

 

「わ、痣になってるよ。痛そう」

「痛いわよ。まだあいつに一発分貸しがあるの」

 

 身体を改めるゆきに、苛立たしげに答えるてつこ。

 そしてフィリアと言えば、すっかり場の空気が白けてしまったことに焦慮したのか、

 

「私はこの家を出ていきたいだけです。邪魔立てしないでください。……あなた方に、無用の危害は加えたくありません」

 

 切々とそう告げる。

 

「…………」

 

 途轍もない騒動を引き起こしたフィリアに、居合わせた面々が訝しげな視線を送る。日野家の面々以外は、彼女が近界民(ネイバー)であることさえ知らないので、事の成り行きを判じかねている様子だ。

 誰もが軽々しく口を開けず、辺りに静寂が満ちる。とその時、

 

「あ……ぅ……」

 

 苦しげな少女の呻き声が聞こえる。

 

「ふたりとも……けんかは、だめ、よ……」

 

 消え入りそうな声でそう呟くのはマリーだ。

 夜闇に茫と浮かぶ真っ白な少女。その顔貌が、見て分かるほどに痛ましく歪んでいる。

 

 家族として慕うてつこと、ようやく打ち解けてきたフィリア。二人の激し過ぎる喧嘩を目の当たりにして、動揺が収まらないのだろう。

 人形シャーロットを固く抱きしめたマリーは、今にも泣き出しそうだ。

 

 意思表示の乏しい少女がここまで感情を面にするのは滅多なことではない。衝撃の程は推して知るべしだろう。

 

「ねえフィリア。かさは人たたくものじゃないわ。……てつこも、ね?」

 

 蹌踉として歩み来るマリーを、皆が気遣わしげに見遣る。

 

「そ、そうですぞ! ふたりともおちつくのです!」

 

 異様な空気を打ち消そうとするかのように、リリエンタールがそう叫ぶ。

 

「フィリア……もう、いいのではないですか?」

 

 子供たちの無垢な言葉に勇気づけられたかのように、それまで傍観を貫いていたヌースが言葉を掛けた。ただ、先の口論が余程堪えているのだろう。態度こそ平静だが、壊れ物に触れるような気遣いがある。

 

「…………さい」

 

 項垂れて仲裁を聞いていたフィリアが、ぼそりと何事かを呟いた。

 顔を上げた少女の瞳に、瞋恚の炎が宿っている。

 

「うるさいっ! 知ったような口を利くな! 誰も助けてなんて頼んでない! 構って欲しいだなんて望んでない! 私の事を思うなら、どうして放っておいてくれないの!?」

 

 激昂して叫んだフィリアは、手にした傘を再び構え直す。

 

「――ッ! みんな離れて!」

 

 戦闘の気配を感じ取ったてつこは、即座に迎撃態勢を取る。

 刹那、フィリアが再び飛燕のように踏み込み、神速の斬撃を打ち込む。が、機敏に反応したてつこは、掌打を振るってその一撃を払う。その時、

 

「おぶッ!」

 

 予期せぬ乱入者が、交錯する二人の間に踊り込んだ。

 

「「な――」」

 

 驚愕は、フィリアとてつこ双方の喉から漏れた。

 衝突する二人の間に割って入ったのはリリエンタールだ。咄嗟に動作を止めようとするがもう遅い。傘と掌は小さな犬にぶち当たり、勢いよく吹き飛ばす。

 

「ちょ、リリエンタール!」

 

 ぬいぐるみのように庭を跳ね転がり、ガレージのシャッターに打ち付けられた犬を見て、てつこが我を忘れて駆け寄る。最早、フィリアとの戦いなど眼中に無い様子だ。

 

「た、大変だ!」

 

 兄やゆきとさくら、紳士にロン毛にマリーまで駆けつけ、容態を窺う。

 

「うぶ、うぶぶ……ふたりとも、けんかはやめるのです」

 

 技を中断したためか、それとも当たり方が良かったのか、幸いにもリリエンタールは軽傷で済んだらしく、ふらつきながらも直ぐに立ち上がった。

 

「はなせばきっとわかるのです。かんたんに、ぼうりょくをふるってはいけないのです」

 

 痛ましく鼻血を出しながら、土まみれの犬が懸命に訴える。

 てつこや兄が犬の体を探るが、大きな怪我はなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす一同。しかし、リリエンタールはまだぼんやりとした様子で、仲直りをするよう二人に頼み込んでいる。

 

「アンタねえ……いきなり飛び出してくるなんて何考えてるのよ」

 

 てつこが呆れ顔で叱るも、犬はうぶうぶと唸るばかり。

 一先ず鼻血を拭いてやったところで、一同はようやくフィリアの事を思い出し、庭へと視線を向ける。

 すると、少女の様子が一変している。

 

「あ……ぁ……」

 

 先ほどまでの凛呼たる立ち姿は何処へやら、フィリアは手にした傘を取り落とし、狼狽も露わに立ち竦んでいる。

 顔からは血の気が引き、黄金の目は虚ろに虚空を泳いでいる。

 

「わ、わたしは……そんな……」

 

 少女の変貌に、てつこたちが息を呑む。暴力的な気配は見る影も無く消え去り、ただ彼女は恐怖に打ち震えている。尋常の様子ではない。

 

「あ……わたくしめは、へいきですぞ……」

 

 そんなフィリアに、よろめきながらもリリエンタールが歩み寄る。が、少女は怯えたように後ずさり、低く呻き声を漏らす。

 

「……たしは……いつも、そうだ」

 

 独白を溢す少女に、皆が視線を送る。

 戦場暮らしで荒みきってしまったとはいえ、元より善良で心優しい性格であったフィリアが、日野家に恩義を感じていなかった筈がない。

 

 別けても、初対面から一貫して好意的な感情を向け、何くれとなく世話を焼いてくれたリリエンタールには、並々ならぬ感謝の思いを抱いていた。

 

 その犬を、彼女は力の限り殴りつけた。父から教わった技で、痛めつけた。

 

「いつも、誰かを……傷つけて……」

 

 危ういバランスで保たれていた精神の均衡が、この一事で完全に崩れた。

 脳を支配していた憤怒が淡雪のように消え去り、代わりに沸き起こった自己嫌悪が思考をどす黒く染めていく。

 

「いるだけで……周りを、不幸に……」

 

 正気を失ったフィリアに、一同が心配そうに顔を見合わせる。彼らもまた善良な性向の人々である。てつこと大喧嘩を繰り広げたとはいえ、明らかに狼狽した少女を責める者はいない。それどころか、

 

「ちょっと……うちのバカ犬は平気よ。どうしちゃったのよ」

 

 と、てつこが気遣わしげに声を掛ける。

 だが、フィリアはそんな言葉など耳に入っていないかのように首を振り、己の頭を両手で抱え込むと、

 

「生きているのが、間違いだったんだ。

 

 ――私は、生まれてくるべきじゃなかったんだ!!」

 

 喉も裂けんばかりに絶叫する。

 

「な、ちょっとアンタ……」

 

 呪いの言葉を吐き散らすフィリアに、てつこが駆け寄ろうとする。だがその時、

 

「おいちょっと待て! また光ってんぞコイツ!」

 

 と、春永家のさくらがリリエンタールを指差して叫ぶ。

 

「なわ!?」

 

 見れば、リリエンタールの小さな体が、ぼんやりと発光している。しかも、その光は見る間に強くなり、

 

「嘘でしょこんな時にッ!」

 

 眩い閃光となって夜闇を白く塗りつぶした。そして――

 

 

 

 

 

「ああ……」

 

 フィリアが呆然と嘆息する。

 

 目を開けた時、一同が立っていたのは日野家の庭先ではなかった。

 

 天には灼熱の太陽が輝き、足元には青々とした草が生い茂っている。

 彼らが居たのは、広大な草原を見下ろす丘の上であった。土埃の混じった熱風が、容赦なく吹き寄せる。

 異様な熱気の原因は、眼下に広がる光景にあった。

 

 麗しい緑の大地を、白亜の外殻に身を包んだ異形が蹂躙している。

 それは巨大な蜥蜴や、或いは虫や、はたまた魚や哺乳類、或いは人の形を取っている物さえあった。

 

 近界(ネイバーフッド)の国々が戦争に用いる機械人形、トリオン兵。

 地上を埋め尽くさんばかりのトリオン兵が、敵も味方もないかのように、互いを攻撃し合っているのだ。

 

 いや、それだけではない。巨大なトリオン兵の陰に見え隠れするのは、明らかに人間と思しき兵隊たちだ。

 服装も人種もことなる彼らは、やはりそれぞれが武器を持ち、終わる事のない殺し合いを繰り広げている。

 

「やっぱり、私は戦争(ここ)から逃げられないんだ」

 

 近界(ネイバーフッド)を覆い尽くす戦乱を、縮図にしたような光景。

 

 誰かの血で、誰かの命を贖い続けるこの世の地獄。

 

 フィリアが幼少より目の当たりにしてきた世界が、今ここに顕現した。

 

 

 

 



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其の七 心の世界

 それが発見された物なのか、開発された物なのかは定かではないが、ある研究所にとある装置があった。

 

 人の意識。すなわち「心」を現実世界に作用させるという超常的な機能を有するその装置は、「RD(リアライズデバイス)」「現実化装置」の名を与えられ、日夜研究が進められた。

 だが、RD(リアライズデバイス)が余りに強大な力を持つことが分かると、研究者たちはその力の悪用を恐れ、途轍もない方法で装置の隠匿を図った。

 

 それは、装置そのものに命を与え、追っ手を欺くという奇策。

 命を与えられたその装置は、紆余曲折を経た後、日本のとある家庭に引き取られ、新しい生活を始めることとなった。

 

「あ、あわわ、またやってしまったのです!!」

 

 小さな手を口に当て、失態にわなわなと身体を震えさせているのは、二足歩行の黄色い犬、リリエンタールだ。

 彼の内側に宿るRD(リアライズデバイス)は、周囲の人間の心の変化を感じ取り、それを実体として様々な形で現出させる。

 

 困るのは、リリエンタール本人に装置の制御ができないことだ。しかも発動だけではなく、それによって実体化した人や物品、通称「イメージ体」も、独自の意思を持ち、決してリリエンタールの意のままにならない。

 

 犬が光ると、不思議な出来事が起こる。

 それが日野家で時々起きる、変わった日常の一コマであった。だが、

 

「ちょ……これ、ヤバいんじゃないの……」

 

 肝の据わったてつこでも、流石に冷や汗を流す。

 

 過去に、リリエンタールが産み出したイメージ体が引き起こした騒動は数多くあった。また、心象世界そのものを生み出してしまい、脱出に苦労する羽目に陥ったこともある。

 人間の心の産物たるイメージ体は、健全な精神で用いればどこまでも便利で素晴らしい物が生まれるが、悪しき心に反応すれば際限なく獰悪な現象が現れる。

 

 以前、内罰的な思いからイメージ体を生み出してしまったてつこだからこそ分かる。

 広大な草原を埋め尽くす数千ものトリオン兵。武器を手に喊声を上げている人影も数百人はいようか。

 

 ありとあらゆる人間と器物が、ただひたすらに破壊と殺戮に没頭する地獄絵図。

 どれほど病んだ心なら、この破滅的な光景を生み出すことができるのか。

 てつこは蠢く近界民(ネイバー)より、それを生じた心の闇に戦慄する。とその時、

 

「こ、これって近界民(ネイバー)!?」

 

 ゆきが恐怖に上擦った声を出す。春永家の姉弟に紳士らはフィリアが近界民(ネイバー)であることを知らない。困惑も当然だろう。が、

 

「こいつらを呼び出した犯人って、どう考えても……」

 

 怜悧な頭脳を持つ少年さくらは、直ぐに原因がフィリアだと気付いた。

 日野家と春永家の面々は詳細な近界民(ネイバー)の知識を持ち合わせていない。裏社会の人間である紳士らなら可能性はあるだろうが、彼らも降って湧いた事態に驚愕している。

 

 消去法で行けば、この心象世界を作り出したのはフィリアとなる。

 そもそも、彼女の叫び声に反応してリリエンタールが光ったのだから、まず間違いない。が、犯人が分かったからと言ってどうにもならない。

 

「ちょ、ちょっとどうするのよ!」

 

 てつこの叫びは、その場に居合わせた面々の総意であった。

 眼下のトリオン兵らは闘争に夢中で、未だ彼女らに気付いた様子はないが、一たび狙われてしまえば、広大な草原の何処にも逃げ場はない。

 三門市を襲った近界民(ネイバー)禍を知らぬ者はいない。化け物の巣にいきなり放り込まれたも同然である。生還の可能性は絶無に近い。

 

「これは……不味いですね」

 

 珍しくも紳士が真剣な表情で苦言を呈し、

 

「お兄さん。わんちゃんの能力への対処法は……」

 

 と、兄と善後策を協議しようとする。だがその時、

 

「何か来るッスよ!」

 

 ロン毛が警告を発する。

 途端に凄まじい地揺れが起こり、土中から巨大な何かが姿を現した。

 突如として草原に出現したのは、太さは三十メートル、長さに至っては数百メートルを超す純白の塔であった。

 

 否、それは塔ではない。鳴き声の如き奇妙な駆動音と共に、先端部が大きく裂けた。その亀裂は巨大な口である。口腔には単眼が収まり、頭部には一対の角に似た機関が生えている。

 近界(ネイバーフッド)の軍事大国、狩猟国家ノマスが作り出した最大最強のトリオン兵カーラビーバが、フィリアの記憶を基に顕現したのだ。

 

「みんな伏せて!」

 

 兄が叫ぶ。カーラビーバは数キロにも及ぶ長大な蛇体をくねらせ、トリオン兵やトリガー使いらを引き潰しながら一直線に丘へとやってくる。

 逃げなければならないが、激震に立ち上がることもできない。

 

 丘へと辿りついたカーラビーバが鎌首を擡げた。巨体が天を覆い隠し、不気味な影が頭上に落ちる。

 何の感情も窺わせない単眼に睥睨され、皆が死を覚悟した。

 

 だが、その中で独り佇立する人影が。

 

 昂然と顔を上げ、巨大トリオン兵に真っ向から対峙するのはフィリアだ。

 しかし、どこか様子がおかしい。少女は死を齎す大蛇を陶然と見つめ、口の端には微笑さえ浮かべている。

 フィリアはカーラビーバに近づくように静々と歩を進め、地に伏せる一同から距離を取る。そして丘の端へと至った時、

 

「あぶない!」

 

 マリーの悲痛な声が響く。

 カーラビーバが頭を直下に振りおろし、大口を開けてフィリアを呑み込んだのだ。

 

「の、のわああぁぁぁ!!」

 

 リリエンタールが絶叫と共に走り出そうとするが、てつこに襟首を掴まれ引きとめられる。桁違いの質量を持つトリオン兵は、近付くだけで命の危険がある。

 カーラビーバが再び首をもたげると、丘の表面がごっそりと抉り取られている。フィリアは土砂と共に、あの大蛇に呑み込まれたのだ。

 

「よくもフィリアを! はきだせいはきだせい!」

 

 尚も憤激してカーラビーバを怒鳴りつけるリリエンタール。

 口を閉じた大蛇は彼らに見向きもせず、ゆっくりと方向転換して丘から離れ始めた。他のトリオン兵を轢殺しながら、大蛇は悠々と草原の彼方へと消え去る。その進行方向にうっすらと見えるのは、人工物と思しき真っ白な壁だ。

 

 草原の海に浮かぶ小島のようなそれは、巨大な城郭都市であった。

 堅牢な城壁に取り囲まれ、天高く聳える教会を頂くその街は、

 

「聖都……」

 

 成り行きを見守るしかなかったヌースが呆然と呟く。

 

「ねえ……これが、フィリアのいたばしょなの?」

 

 マリーの問いかけに、皆が改めて眼前に広がる光景を眺める。

 陽光を浴びて燦然と輝く都市に、彼方まで広がる美しい草原。そしてそれらに完膚なきまでに蹂躙する人々と戦闘兵器の姿。

 想像もしなかった近界(ネイバーフッド)の凄惨な有り様に、誰も言葉を発することはできなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 カーラビーバが完全に姿を消し去ると、リリエンタールたちは今後の相談を始めた。

 奇妙なことに、草原を埋め尽くすトリオン兵らは彼らに見向きもせず、丘の上へと登ってくる気配はない。下手に動かなければ一先ずは安全とみられた。

 

 ただ、トリオン兵らは互いに激しく争いながらも、一向にその数が減らない。どうやら次々に新手が顕現しているらしく、共倒れは期待できそうにない。

 

「それで、あのフィリアって人は何なんだ? それにこっちの炊飯器みたいなのも……」

 

 事情を知らない春永家のさくらが問いかける。

 

「私からも、現状について質問があります」

 

 また、リリエンタールの力を知らないヌースも、降って湧いた事態に疑問を呈する。

 

「わかった。ちゃんと説明するよ。みんなで知恵を出し合おう」

 

 双方を良く知る兄が、取りまとめ役を買って出た。明瞭ながらも簡潔に事情を伝え、お互いの情報を共有させる。

 

「なんだか妙な人だなとは思ってたけど……まさか近界民(ネイバー)さんだったなんて」

 

 明かされた事実にゆきが絶句する。そしてヌースも、

 

「精神の具現化……俄かには信じがたい話ですが、観測機器が用を成さないのも頷けます」

 

 と、物理法則を超越したリリエンタールの力に驚愕する。

 

「なるほど。ではこの世界を作り出したのは、やはりフィリア嬢で間違いなさそうですな」

 

 と、紳士が話を本筋に戻す。如何にしてこの危険な空間から脱出するか、手立てを考えなければならない。だが、

 

「はなしあいをしているばあいではないのです! はやくフィリアをたすけにいかなくては! のんびりしているとしょうかされてしまうのです!!」

 

 と、興奮したリリエンタールが口を挟む。

 

「落ち着けよ。この世界がなんともないんだから、まだあの人も無事だろ」

 

 居ても立っても居られないと騒ぐ犬を、さくらが冷静に窘める。

 

「そもそも、どうすりゃ元の世界に戻れるのか考えねえと。闇雲に動くとよけい危ないぞ」

 

 と、少年らしからぬドライさで議事を進行する。

 リリエンタールが産み出したイメージ体を消すには、通常二つの方法がある。

 

 まず一つは、具現化した心象の持ち主が心を改めることである。現在の場合だと、騒動の原因であるフィリアが改心すれば、精神世界を消し去ることができる。

 ただし、人間の心というのは頑なで、なかなか思うように制御できるものではない。仮に彼女を見つけて説得したとしても、上手くいくかは疑念が残る。

 

 そしてもう一つの方法。こちらは遥かに簡単で、フィリアの精神を具現させているリリエンタールの意識を無くしてしまえばいい。

 

「は! そうですてつこ。わたくしめをなぐるのです!」

「馬鹿言ってんじゃないわよ!」

 

 名案だとばかりに頭を突き出すリリエンタールに、目を三角にして怒鳴るてつこ。だが、

 

「それでちゃんと元に戻れるんならいいんだけどな……」

 

 さくらは険しい表情で呟く。

 リリエンタールの失神によるイメージ体の喪失は、実の所余り例が無い。一旦生み出されたイメージ体が、リリエンタールの睡眠中も元気に動き回っていることは珍しくもない。マリーがその実例だ。

 

 加えて今回のケースのような精神世界そのものが具現してしまった場合、強制的に崩壊させても安全なのか保証が無いのだ。

 

「今まではどうだったんだ」

「えっと……」

 

 騒動に巻き込まれた経験が一番多いてつこに、さくらが尋ねる。

 

「やっぱり、基本的には原因になった人の心をどうにかするしかない……と思う」

「そうか……」

 

 やはり、一同が無事に現実世界へと帰還するには、フィリアを改心させるのが最善の手段というのが結論となった。

 

「ではすぐにゆきましょうぞ!」

 

 方針が少女の捜索、救出と決まると、リリエンタールがそう急き立てる。

 だが、誰も動き出そうとはしない。

 あの巨大蛇、カーラビーバを追いかけるには、トリオン兵が蠢く草原を抜けなければならない。

 

 近界(ネイバーフッド)の殺戮兵器群は今の所一同を無視しているが、目を付けられれば一溜まりもなくやられてしまう。また、例え攻撃を受けなくとも、無秩序に暴れ回るそれらの側を進むのは非常に危険だ。

 そして仮に草原を抜けられたとしても、怪獣のような大蛇を相手に、果たして少女を助け出すことができるかどうか。

 

「なにか、上手い方法はないかな……」

 

 兄がそう呟く。皆も思案するが、やはりそう簡単には思いつかない。すると、

 

「……皆様は此処に居てください。私があの子の所へ参ります」

 

 と、ヌースがそう宣言する。

 

「皆様には多大な迷惑を掛け、謝罪の言葉もありません。……元を正せば、私たちが招いた危局です。私だけなら、トリオン兵を避けて街まで行けるでしょう。カーラビーバに対処できるかは分かりませんが……とにかく、皆様をこの世界から解放するよう、あの子を探して説得してみます」

 

 ヌースは覚悟を秘めた声で、居並ぶ人々にそう告げる。だが、

 

「いや、僕たちも行くよ?」

 

 さも当然のことのように、兄がそう言う。

 

「ちょ、兄貴! 自分が何言ってるか分かってんの!?」

 

 すかさずてつこが抗議するが、

 

「もちろん危ないのは知ってるよ。でも此処に居ても事態は収まらないし、フィリアさんは可哀想だし――何より、僕らの弟は行く気満々だからね」

 

 兄は恬然とした態度で受け流す。

 

「そ、そうですあにうえ! フィリアこそいちばんたいへんなのです! みんなでちからをあわせれば、きっとたすけられるのです!」

 

 兄に心情をずばりと言い当てられて、喜色満面となったリリエンタールが気焔を上げる。

 

「……わたしも行くわ。少しでも、力になれるかもしれない」

 

 それまで聞き役に徹していたマリーも、決然と意思を表明する。

 

「ふむ。わんちゃんが行くのなら、ライバルたる(わたくし)も後れを取る訳にはまいりませんな」

「マジすかウィルバーさん」

「女性の危機に手を束ねているようで、紳士を名乗れるかな?」

 

 話が纏まると見るや、紳士にロン毛も参加を表明した。とはいえ、

 

「いや、具体的な問題は何も解決してねーぞ……」

「え、私はどうしようかな。あ、でも此処に残ったほうが危ないのかな」

「勢いだけじゃどうにもなんないでしょ」

 

 さくらとゆきは未だに不安そうな表情をしており、てつこも慎重論のままだ。何も有効な手立てが考え出せていない以上、当然の反応だろう。しかし、

 

「ヌースさん。この間から話していた件、実行できないですかね」

 

 と、兄が唐突にそんなことを言い出した。

 

「それは可能ですが……しかし、動くかどうかも怪しいのですよ?」

「大丈夫。設計図通りなら動きます。細かな調整はこの場でしますので」

 

 ヌースと兄が何事か相談を始める。訝しむばかりの一同だったが、

 

「すみません。皆様のトリオンをお借りしたく思います」

 

 と、唐突に呼び集められ、訳も分からないままヌースに生体エネルギートリオンを供出することになった。そして、

 

「これだけあれば……いけます」

 

 ヌースがそう呟くや、草原に異変が。

 地面から緑色の燐光が発するや、見る間にその光が輪郭を作っていく。

 虚空に突如として現われたのは、ワゴン車ほど大きさの胴体に翼を付けた、小さな飛行機械である。

 

「よし。フライヤー28号そのものだ」

 

 兄は興奮した様子で珍奇な乗り物の中に入ると、ヌースと共に早速内部を弄り始めた。

 

「な――何よこれ!」

 

 てつこが頓狂な声を発する。

 兄が考案した飛行機械を、ヌースがトリオンで作り出しただけなのだが、知らぬ人間からすれば魔法のように見えるだろう。

 

 日野家の兄は、十代前半で大学を飛び級で卒業した、機械工学の天才である。

 フィリアを保護し、心身の回復を待つ間、彼は持ち前の知的好奇心を存分に発揮し、ヌースから近界民(ネイバー)の持つトリガー技術を存分に教わった。

 

 それだけでなく、彼は少女のことで塞ぎこむヌースを元気づける為、地球の技術を惜しみなく教授した。その折に、兄が趣味にしている飛行機械の作成に、トリオンを用いることはできないかという話が出たのだ。

 

「できた! これで飛んでいこう。さ、みんな乗って!」

 

 兄は信じがたいほど迅速な手際で各種調整を終えると、外で待っていた皆に声を掛けた。

 そして動力機関を起動させると、軽やかにフライヤー号が垂直離陸する。

 丘を飛び立った一同は、地上の惨状を尻目に一路聖都を目指す。と、

 

「……感謝に堪えません」

 

 操縦席に座る兄に、ヌースが声を掛けた。

 

 実の所、フィリアが抱えていた心の闇をまざまざと見せつけられたヌースには、少女を説得する自信はまるでなかった。

 自分一人が行くと言い出したのも、無関係の人間を危険から遠ざけようとの考え以上に、少女の最期に寄り添いたいという思いの方が強かったからだ。

 

 にもかかわらず、彼らは一丸となってフィリアを救おうと動いている。

 それが生き延びる為だとしても、彼らは一言半句もフィリアとヌースに悪意を吐かない。

 

 この善き人々の声なら、或いは絶望の淵に沈んだ少女にも届くかもしれない。

 一縷の希望を見出したヌースは、赤心より彼らに謝意を述べる。すると、

 

「フィリアさんを心配する気持ちはよく分かります。――僕も、兄ですから」

 

 兄は朗らかに笑ってそう応じる。

 フライヤー号はさらに速度を増し、放たれた矢のように蒼天を突き進んでいった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 近付くにつれ、聖都の威容が徐々に鮮明になっていく。

 草原の彼方に霞んでいた城壁は、今や大地を截然と隔てる白亜の長城となり、その内側には優美な街並みがどこまでも広がる。

 

 別けても荘厳華麗な建物は、小高い丘の上に聳える大聖堂であった。

 陽光を受けて燦然と輝く大聖堂は、見る者に自然と畏敬の念を抱かせてしまう神秘的な美しさがある。

 裾野に広がる街と合わせれば、まるで完成された一枚の絵画のようだ。

 

 だが、その麗しい都市には似つかわしくない異形の姿が。

 超巨大トリオン兵カーラビーバが、都市を蹂躙し大聖堂を頂く丘に巻きついているのだ。カーラビーバは大聖堂を守るように鎌首を擡げ、油断なく周囲を睥睨している。

 

「ぐむむむ……」

 

 怪獣映画も斯くやという光景に、リリエンタールが眉間に皺を寄せて唸る。フィリアを呑み込んだ怪物に憤っているのだろう。

 

「あいつ、何であそこに陣取ってんだ? あの建物に何かあるのか……」

 

 冷静にそう指摘するのはさくらだ。眼下で相争うトリオン兵とは異なり、カーラビーバの行動にある種の意思が感じられることを訝しんでいる。

 

「きっと大丈夫。みんな一緒に帰れるよ」

 

 持ち前の明るさでリリエンタールとマリーを元気づけているのはゆきだ。

 予断を許さない状況が続くが、今の所フライヤー号は問題なく飛行を続けている。一時はどうなる事かと思ったが、皆の顔にも余裕が戻り始めている。

 

「うーん。後はどうやってフィリアさんを助けるかだなぁ」

 

 操縦席で首を捻るのは兄だ。目標のカーラビーバまで辿りついたところで、あの怪獣の腹から少女を助ける難題が残っている。しかも、ヌースの話によればカーラビーバは全身に強力な火器を搭載しており、一国の軍隊にも匹敵する攻撃力を持つと言う。

 

「カーラビーバの目的が分かりません。聖都の城壁沿いに旋回して様子を窺いましょう。アレが攻撃体勢を取れば、即座に離れられるようにしてください」

 

 ヌースが兄に助言する。

 トリオン兵を顕現させたのがフィリアであるなら、カーラビーバが大聖堂から動かないのも何らかの意味がある筈。

 フライヤー号はいよいよ聖都へと近づいた。あと数分で、城壁の内側へ入ることができるだろう。

 

「がんばるのですぞ、すぐたすけますゆえ!」

 

 リリエンタールが鼻息荒く意気込む。とその時、

 

「――敵が来ます!」

 

 ヌースが叫んだ。

 聖都の上空に、放電音と共に数多くの(ゲート)が開く。

 そこから現れたのは、イルガー、バド、レイといった飛行トリオン兵の群れだ。

 

「な、ここまで何ともなかったのに!」

「近寄ったのが不味かったのか」

 

 てつこが憤慨し、さくらが冷や汗を流す。

 蒼空を泳ぐトリオン兵の群れは、明らかにフライヤー号目がけて進んでいる。それどころか、

 

「うわ! 撃ってきた!」

 

 兄の声と共に、機内が大きく揺れる。

 トリオン兵バドが、フライヤー号に射撃を浴びせかけてきたのだ。

 

「みんなしっかり掴まって!」

 

 兄は操縦桿を握り、右へ左へフライヤー号を旋回させ、弾丸を回避する。

 そしてそのまま都市から距離を取る。幸い、飛行速度はフライヤー号が圧倒的に上回っている。トリオン兵の弾丸もそこまで長射程ではないので、引き離せば安全だ。だが、

 

「下からも撃ってきてるわよ!」

 

 てつこの焦り声が機内に響く。

 相争っていたはずのトリオン兵やトリガー使いたちが、一斉にフライヤー号に猛烈な攻撃を加え始めたのだ。

 

「一旦退避を! とにかくカーラビーバから離れてください!」

 

 ヌースがそう命じる。フィリアの事は気がかりだが、巻き込まれた彼らの安全が最優先だ。接近したのが迎撃の理由なら、離れれば攻撃も弱まるかもしれない。しかし、

 

「そ、外に何かいるよ!」

「翼に取りつかれたッス!」

 

 ゆきとロン毛が悲鳴を上げる。

 見れば、四本の腕を持った二本脚のトリオン兵クリズリが、フライヤー号の左主翼にしがみついている。地上からスラスターで飛翔し、直接飛行機に襲い掛かったのだ。

 汎用型とは一線を画す戦闘力を持つクリズリが、フライヤー号の主翼を紙のように引き裂く。

 途端に、機体がバランスを崩して錐揉みに落下し始めた。

 

「きゃああああ!」

 

 機内に悲鳴が響く。兄は必死にフライヤー号を安定させようとするが、翼を片方もぎ取られてはどうしようもならない。

 フライヤー号は数百メートルの高さから、地上へと叩きつけられた。

 

 トリオンで作られた器物は物理的な衝撃には極端に強い。地上へと墜落したフライヤー号は、ほぼ完全に原型を保っていた。

 だが、それで機内の衝撃が和らいだわけではない。搭乗者の生存は絶望的かと思われた。とその時、

 

「おぶぶ、もうだめかとおもったのです」

 

 情けない呟きが、機体の中から聞こえる。

 次の瞬間、機体の壁からひょっこりと生首が突き出た。半透明に透けているのはリリエンタールである。

 

「ちょっと、危ないから勝手な行動するんじゃないの!」

 

 犬が中へと引き戻されると、今度はてつこの生首が壁から生える。

 

「今の所大丈夫。みんな外に出て!」

 

 次から次へと壁を抜けて草原へと出てきた搭乗者は、全員身体が透けているものの、外傷を負った様子はない。

 墜落が不可避と悟るや、マリーが機転を利かせて皆を幽霊化させたのだ。幽霊状態であれば物理的な干渉は無効化できるため、皆怪我一つなく着陸することができた。

 

「いやぁ、本当に間一髪でした」

「ふつーに死んだと思ったッス」

 

 紳士とロン毛が最後に機体から飛び出した。日差しに曝されたことで幽霊化は解けてしまったが、全員無事に機体からの脱出は成功だ。

 

「ありがとうマリー。お蔭で助かったわ」

「ううん。みんながぶじでなによりよ」

 

 てつこや皆から感謝され、マリーが透き通る笑顔で答える。だが、

 

「さすがに羽がなくなっちゃうと、修理は難しいなぁ……」

 

 フライヤー号の残骸を一目見て、兄がそう嘆息する。カーラビーバへ近づくための唯一の手段が潰えてしまった。善後策は容易に思いつかない。

 

「議論は後です。皆様、直ぐにこの場を離れましょう」

 

 と、ヌースが緊迫した様子でそう言った。

 聖都からはかなり離れた位置に落下したが、草原にはトリオン兵らがひしめいている。一刻も早く身の安全を確保せねばならない。その時、

 

「――走って下さい! 早く!」

 

 ヌースがそう叫ぶ。彼女のセンサーが接近する敵影を捕らえたのだ。

 車ほどの大きさをした甲殻虫の如きモールモッドに、家屋ほどの大きさの巨大蜥蜴バムスターが、地響きを立てて墜落現場に殺到する。

 

「ま、不味くないこれ!」

 

 てつこらは懸命に駆けだすも、表情には恐怖と混乱がありありと浮かんでいる。

 尚もトリオン兵は四方から陸続と押し寄せる。このままでは直ぐに捕捉されてしまう。

 

「判断を、誤りましたか……」

 

 てつこらを先導するヌースが、悔恨と共に呟く。

 

 まさか、フライヤー号がここまで容易く落とされるとは想定していなかったのだ。

 この世界のトリオン兵は、リリエンタールが産み出したイメージ体である。故に、トリオンで作られたフライヤー号は防御力で優越すると早合点してしまった。

 フライヤー号の作成に内蔵トリオンは殆どを使い切ってしまった。今のヌースは手駒のトリオン兵を作り出すどころか、シールドを張る事さえ可能か怪しい。

 

「く……」

 

 理論的な思考を行うはずの自律型トリオン兵が、思わず苦悶の声を上げる。

 限界まで人工知能を稼働させるが、事態打開の妙策は見つからない。

 

「だ、駄目! 回り込まれてる!」

 

 てつこが叫ぶ。トリオン兵にトリガー使いらは、既に一同を完全に包囲してしまった。

 このままでは、リリエンタールたちが殺されてしまう。

 

 彼らは行くあての無かったフィリアとヌースを受け入れ、我が事のように親身に助けてくれた。人間の善性を体現したかのような人々が、悪意の具現たるトリオン兵の手に掛かる。絶望の光景を想像すると、ヌースは我知らず叫んでいた。

 

「誰か、この人たちを助けて下さい!」

 

 ――群がり来るトリオン兵の一団を、漆黒の巨腕が薙ぎ払ったのは次の瞬間であった。

 

「え……」

 

 忘我の呟きは、誰の口から発せられたか。

 

 転瞬、トリオン兵の包囲網の一画に、灼熱の火球が生まれた。

 大地で爆ぜた火球は大輪の花を咲かせ、密集していた敵兵を凄まじい熱量で跡形も無く焼き払う。

 

 次いで、リリエンタールらは周囲に霧のようなものが立ち込めていることに気付いた。

 その霧に立ち入るや、敵のトリオン兵らは困惑したように歩みを止め、動きが極端に鈍くなる。

 

「ああ……」

 

 ヌースが思わず感嘆を漏らす。

 

 リリエンタールが産み出す精神世界では、強い思いは何にも増して力を発揮する。

 心から祈れば、願いは必ず叶うのだ。

 

 そして、心を持つのは人間だけではない。

 命を持たぬ機械人形とはいえ、娘を思う母から生み出され、そして自らも家族に惜しみない愛情を注ぎ続けてきた彼女に、どうして心がないと言えようか。

 

 今、ヌースの切なる願いを聞き届け、最強の軍団が精神世界に顕現する。

 

 猛々しくも流麗な、白亜の鎧に身を包んだ騎士たちが、リリエンタールらを守護するように大地へと降り立つ。

 数十、数百と数を増すイリニ騎士団のイメージ体は、武器を掲げてトリオン兵の群れへと突撃を仕掛けた。

 

 

 



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其の八 罪に追われて

 白亜の鎧を纏った騎士たちが、猛然とトリオン兵らを駆逐する。

 雲霞の如く湧き出す敵兵らを、斬り捨て、撃ち抜き、叩き伏せ、一匹たりともリリエンタールたちの側に寄せ付けない。

 

 突然現れた剽悍無類の騎士たちに、一同は安堵より先に疑念を抱く。どうやら味方らしいことは分かるが、何者なのかは誰も知らないのだ。

 

「安心してください。彼らは私の心が産み出した存在、我々を護ってくれます」

 

 と、ヌースが説明する。

 

「彼らはエクリシアの騎士。……かつてのフィリアの同胞たちです」

 

 騎士は鉄壁の陣を敷き、一同を重厚な盾で護る。小型トリオン兵の一匹、流れ弾の一発すら通さない。

 

「彼らが護衛してくれます。この場を離れましょう」

 

 皆に怪我がないことを確認すると、ヌースがそう提案する。が、

 

「ふむ? フィリアのところにいくのではないのですかな?」

 

 と、リリエンタールがさも不思議そうに問う。

 

「ライトニングみつひこのような、りっぱなせんしがたすけてくれるのです。これでひゃくにんりきなのです」

「ですが……」

 

 あくまで一同の避難を優先しようとするヌースに、リリエンタールは昂然と打って出るべきだと主張する。

 

「私の内蔵トリオンは底を尽きかけています。あなた方をフィリアの元まで連れていけるかどうか、自信がありません」

 

 と、ヌースは否定的な反応を示す。

 確かにイメージ体の騎士は強力な戦力だが、彼女にはまったく戦闘力が残されていない。聖都までは目算十キロメートル以上あるのに、足代わりのトリオン兵すら作り出せないのだ。

 

 しかし、リリエンタールはその説明を聞くと、

 

「それならば! よし、でばんですぞごむぞう!」

 

 首に提げた巾着袋から、真っ黒なゴム風船を取り出すと、それを膨らませ始めた。

 

「アンタごむぞう連れて来てたの!?」

 

 てつこが呆れた声を出す。

 リリエンタールがゴム風船を膨らませると、なんとそれは身の丈二メートルを優に超える一つ目の巨人へと変身する。

 

「モギュー!」

 

 と、奇怪な声で鳴くこの巨人は風船兵士13号。息を吹き込んだ人間に忠誠を誓う魔法の風船である。

 ひょんなことからリリエンタールによって生み出されたこの巨人は、彼にごむぞうの名を与えられ、相棒として日野家に住むこととなった。

 いつもは家で留守番をしているごむぞうだが、今夜は年越しを一緒に過ごそうと考えたリリエンタールが、空気を抜いて懐に入れていたのだ。

 

「ごむぞう、「ながいうま」モード!」

「モギュー!」

 

 リリエンタールが一言命じるや、ごむぞうはその巨躯をぐにゃりと変形させ、バナナボートに四本足を生やしたような姿へと変身する。

 

「みんなごむぞうにのるのです!」

 

 一見奇怪な姿に見えるが、この形態のごむぞうは馬並の速さで駆けることができる。それを知る日野家の面々は、速やかにごむぞうへと騎乗する。

 二メートル半ばの体躯に、リリエンタールとマリー含め八人が何とか乗りきった。

 

「こんなんなにんむだが、おまえならきっとやれるのです!」

 

 と、リリエンタールの激励を受けてごむぞうが走り出す。

 

「……皆様。本当にありがとうございます」

 

 兄に抱えられたヌースは、彼らの好意に只々感謝するばかりだ。そして、

 

「行きましょう。あの子の所へ!」

 

 ヌースが決然と言い放つと、数百の騎士たちが一斉に敵陣へと突撃を仕掛け、見事に前途を切り開いた。

 

 疾風のように草原を進み、聖都まで邁進する一同。

 騎士団は凄まじい働きで立ちふさがるトリオン兵を噴き飛ばし、追い縋るトリガー使いを食い止める。

 

 別けても凄まじい活躍を見せているのが、上空から強烈な火砲で敵陣を焼き払う「灼熱の華(ゼストス)」と、格闘戦で群がる敵兵を一蹴する巨大な双腕「金剛の槌(スフィリ)」、霧によって多数の敵兵を混乱させる「光彩の影(カタフニア)」。これら(ブラック)トリガーを基にした三人の騎士たちだ。

 

 度外れた騎士たちの戦いぶりに一同は驚愕を隠せない。近界民(ネイバー)同士の戦争がここまで激しいとは思ってもみなかったのだろう。

 とはいえ、直接弾が飛んでくる訳でもないため、ごむぞうの背に跨る皆は、比較的のんびりと雑談を交わしたりしている。

 

「えっと、じゃあ、失礼しますねお兄さん」

「ごめんねゆきちゃん。落ちると危ないから、しっかり掴まってて」

 

 ゆきは頬を赤く染めて、前に座る兄の背にしがみ付く。大変な状況だが、思い人とスキンシップができてご満悦の様子だ。そして、

 

「にしても、何でこいつら襲い掛かってきたのかしら」

 

 と、愚痴るのはてつこだ。

 

「さっきまでお互いに喧嘩してたのに、いきなり私たちを狙うなんて……」

「そりゃあ、俺らがあの人を助けようとしてるからだろ」

「え……」

 

 その疑問に答えたのはさくらだ。

 明晰な頭脳を持つ少年は、戦場を冷静に観察しながら言葉を続ける。

 

「そもそも初めて会った時入水しようとしてたんだろ? 犬を光らせた一言だって内罰的だったし……この世界がどんな思いで作られたかは一目瞭然だろ」

「そんな、それじゃあ……」

 

 さくらの意見に、てつこのみならず皆が息を呑む。

 フィリアがこの世界を生み出したのは、再び自殺を図るためだと言うのだ。

 

「だから、あの人を助けようとする俺らを排除に掛かるんだ。しかも、どうも俺たちに本気で敵意があるって感じでもないらしい」

 

 トリオン兵は一同を殺害するのではなく、行動不能にしようとしているのではないかとさくらは主張する。

 大型トリオン兵は愚直に進路を塞ごうとするし、一同に直接襲い掛かろうとするのは、粘着弾を吐く犬型のトリオン兵ばかりだ。

 

「え、何言ってんの。飛行機落とされたじゃない」

「まあ完璧ではないんだろうけどな。……心から生まれたモノが思い通りにならないのは、お前が一番よく知ってんだろ」

「うっ……」

 

 さくらの指摘に、てつこは急所を突かれたように押し黙る。

 負の心から生まれたイメージ体の制御が如何に難しいか、てつこはその身を以て経験している。

 

「俺としちゃ、まだこの世界が崩れてない理由の方が気になるけどな」

「どういうこと?」

「さっきの理屈が正しけりゃ、この世界の近界民(ネイバー)はフィリアさんを狙うのが道理だろ。それが、あの大蛇は呑み込んだだけでまだ何もしていない。……きっと何か理由があるんだ」

 

 と、さくらが自説を述べる。

 この世界がフィリアの自殺願望によって生み出されたのなら、直ぐにその望みは叶えられて然るべきだ。

 にもかかわらず、精神世界は未だに健在である。フィリアが命を捨てるのに、何か手間取る理由があるのだろうか。

 

「まあ、考えてもわかんねえけど、たぶんそんなに時間は無えぞ」

 

 さくらがそう締めくくる。

 

「…………」

 

 少女の自死という願いを改めて突き付けられ、一同が重い空気に包まれた。

 この精神世界を見れば、彼女の自殺願望が如何に強いかは嫌でも分かる。果たして彼女の元に辿りつけたとして、どのような言葉を掛ければいいのか。すると、

 

「……でも、そんなのまちがってるわ。だって、フィリアはとってもやさしい人なのに」

 

 静かに話を聞いていたマリーが、思いを打ち明ける。

 

「シャーロットの服をなおしてくれたし、たくさんえほんもよんでくれたわ。……それに、よる私がねるときは、ずっとそばにいてくれるのよ」

 

 日野家に馴染んだとは言い難いフィリアであったが、マリーとリリエンタール、幼い二人には心を開いていたようで、何くれとなく世話を焼いていた。

 子供たちもまた、そんな彼女にとても懐いていたのだ。

 

「だからたすけるのです。じぶんをころしてしまうなんて、そんなかなしいことは、ぜったいにさせてはいけないのです!」

 

 マリーの想いを代弁するかのように、リリエンタールが決然と述べる。

 真率な言葉を受け、皆の思いが一つとなる。

 そしていよいよ、聖都の巨大な城壁がはっきりと見えてきた。だが、

 

「え? ちょっとこれ、何処にも入口無いじゃない!」

 

 と、てつこが焦り声で叫ぶ。

 見れば、聳え立つ純白の城壁には全く切れ目が無い。出入り口であろう巨大な門も完全に閉ざされ、蟻一匹通り抜けることもできなさそうだ。

 おそらく城壁をぐるりと回っても同じだろう。しかも、高さが数十メートルもあるため、壁を乗り越えるのも不可能だ。だが、

 

「問題ありません。このまま直進してください」

 

 と、ヌースが断言する。

 

 聖都に近づくにつれ、敵の数は増大している。騎士団は問題なく敵を防いでいるが、このまま敵の圧力が増せばどうなるかは分からない。また、城壁に近づいてしまえば逃げ場が制限される。進入路を探しているうちに磨り潰されかねない。

 

「進は必ず開けます。皆様、身を伏せて衝撃に備えてください」

 

 ヌースが言うが早いか、凄まじい光が彼らの上空を迸った。

 

「きゃっ! 今度は何よ!」

 

 気丈なてつこでさえも取り乱すほどの極光。まるで巨大な雷が真横に走ったかのような衝撃と轟音だ。

 天地を真っ二つに切り裂いた閃光が、白亜の城壁を直撃する。

 数瞬の内に光が収まると、城壁には巨大な風穴が穿たれていた。途轍もない出力のレーザーが、分厚い壁を焼き切ったのだ。

 

 いったい何が起きたというのか。てつこらは無意識に首を後ろに向け、原因を探る。

 すると彼らの後方上空には、十基の射撃ビットを円形に構えた騎士がいる。

 (ブラック)トリガー「劫火の鼓(ヴェンジニ)」のイメージ体が、彼らの道を切り開くために砲撃を行ったのだ。

 

「市街地に突入します。振り落とされないよう注意してください!」

「がんばれごむぞう! あとすこしなのです!」

 

 そしてついに、彼らは聖都の内部へと侵入を果たした。

 遥かに仰ぎ見るのは丘の頂に立つ大聖堂と、それを護る大蛇の姿。

 圧倒的な威圧感の怪獣を前に、リリエンタールらは今一度勇気を振るい立たせた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 大聖堂の門前広場。神の御家へと続く道に、一山の土塊があった。

 

「……ん……ぅ」

 

 赤茶けた土の山から見える、雪のように白い髪。

 土砂の山から起き上がったのは、カーラビーバに呑み込まれたフィリアだ。

 少女は数度咳き込み口の中に入った砂を吐き出すと、蹌踉として立ち上がる。

 

 遠くから風に乗って聞こえてくるのは、戦場の喧騒だ。

 眼前には荘厳な大聖堂が屹立し、さらに上空には怪獣の如き大蛇の姿が見える。

 

 だが、当のフィリアは身体に掛かった土を叩き落とす事さえせず、うすぼんやりと立ち尽くたままだ。

 虚ろな目は宙空を泳ぎ、何処にも焦点が定まらない。自分がここにいる理由すらも判然としない様子だ。

 

「っ……ぁ……」

 

 只でさえ磨耗した思考が、沸き起こるどす黒い感情によってさらに支離滅裂となる。

 

 何故自分がまだ生きているのか、理解できない。

 近界(ネイバーフッド)の縮図のような世界が顕現した時、少女は己の死に場所を見つけたと確信した。カーラビーバと対峙した時でさえ、待ち望んでいた死がようやく訪れると歓喜したほどだ。

 

 なのに、自分はまだ生きている。

 少女の脳裏に、過去の映像がフラッシュバックする。

 それは家族の最期であり、また酸鼻極まる戦乱の光景であり、そして己が為した罪業の記憶だ。

 

「う……あぁ……」

 

 悪寒に身を震わせながら、夢遊病患者のように歩き出すフィリア。大聖堂の大扉は開け放たれている。少女は炎に惹かれる羽虫のように、教会へと誘われた。

 鎌首を擡げるカーラビーバは、少女の動向にはまるで関心が無いかのように、虚空の彼方を睨んでいる。否、少女を教会に立ち入らすことこそが、怪物の目的であったらしい。

 

 大扉を潜ると、荘厳華麗な礼拝堂が広がっている。

 フィリアにとっては、騎士の叙勲を受けた栄光の場であり、母の臨終に立ち会った悲劇の地でもある。

 神聖で侵しがたい空気に呑まれ、少女の歩みがつと止まる。だがその時、

 

「可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたの枕に優しい夢を

 あなたの布団に素敵な星を

 銀の光が窓から差して

 金の光に変わるまで

 可愛いぼうや

 愛しいぼうや

 あなたに安らぎありますように

 あなたに幸せありますように」

 

 優美で儚げな歌声が、大聖堂に響いた。

 その曲は、遠い昔に幾度となく母が歌ってくれた子守唄である。

 厳粛な祈りの場にはどこか不釣り合いながらも、子守唄は優しく暖かな調べで、聞く者の心に染み入るようだ。

 だが、その歌を耳にした途端、フィリアの顔からは血の気が引き、恐怖に全身が戦慄いた。

 

「――あ、あぁ……」

 

 彼女は歌に怯えたのではない。歌声の主が誰であるかに気付いてしまったのだ。

 祭壇の上方に設置された巨大なステンドグラスから、七色の光が降り注ぐ。

 祭壇の前に背を向けて立っていたのは、白いドレスを身にまとった、艶やかな黒髪の女性である。

 

「うそ、そんな……」

 

 フィリアが狼狽も露わに頭を振る。だが、件の女性はその呟きを耳にしたかのように、歌唱を止めて振り向いた。

 絹のような長い黒髪に、濡れたような切れ長の瞳。形の良い鼻梁に、艶やかな唇。男女の別を問わず、見る者全てを虜にしてしまう魔性の美貌。

 それでありながら、仕草や声音は何処か子供然としていて、明るく邪気が無い。

 音楽と平和をこよなく愛し、戦争をついに許容することができなかった女性。

 

「なんで、……なんで、あなたが……」

 

 フィリアが呆然と呟く。

 

「まあ、フィリア様! 大きくなられましたね」

 

 かつての友人オルヒデア・アゾトンが、少女に嫣然とほほ笑んだ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 オルヒデアは、近界(ネイバーフッド)の惑星国家の一つ、武侠国家ポレミケスで生まれた女性だ。

 

 たった一人の肉親である兄と穏やかに暮らしていた彼女はしかし、生まれ持った桁外れのトリオン能力のため、争いを嫌う本人の意思とは裏腹に軍に所属することとなった。

 

 彼女に転機が訪れたのは四年前。祖国ポレミケスに、聖堂国家エクリシアが攻め寄せてきた時だ。

 祖国防衛の要となる(ブラック)トリガーの適合者であったオルヒデアも、当然防衛に参加した。

 

 だが、近界(ネイバーフッド)有数の軍事国家エクリシアの猛攻を支えきることができず、ポレミケスは大敗を喫した。多くの市民が捕虜となり、オルヒデアもまたエクリシアへと連れ去られることになった。

 

 そこで彼女が奇妙な縁を結んだのが、当時十一歳であったフィリアである。

 少女は捕虜の管理官としてオルヒデアを監督したのだが、不思議な巡り会わせによって二人は意気投合し、友人となった。

 

 けれども、その後オルヒデアはとある事件に巻き込まれて、自ら命を絶った。

 フィリアが己の罪科に気付き、修羅の道へ進む契機となった人物である。

 

「御無沙汰しております。……えっと、あの、話したいことが沢山あるのに、なんだか思いつきませんね」

 

 だが、目の前に佇むオルヒデアは往時の姿そのままに、人懐っこくはにかんで見せる。

 

「う、あ……」

 

 フィリアは蒼白の表情で、まともに言葉を発することさえできない。今すぐ背を向けて逃げ去りたい衝動に駆られるが、金縛りにあったように体が動かない。

 悲鳴こそ辛うじて堪えられたが、心臓の鼓動は張り裂けそうなほど早まり、全身には生ぬるい汗が吹き出している。

 

「どうぞ。宜しければ、こちらに」

 

 黒髪の麗人は少女の異変になど気が付かぬように、喜色を満面に浮かべて手招きする。

 

「っ――」

 

 と、それまで棒に変じてしまったかのように微動だにしなかった足が、少女の意思とは裏腹に動き出した。

 オルヒデアに促されるまま、少女は信徒席の端へと腰かける。

 

「あれからずいぶん経ちましたね。……フィリア様は、その後如何お過ごしでしたでしょうか」

 

 オルヒデアはフィリアの隣に座ると、世間話でも始めるかのようにそう問いかける。

 

「あ……あ……」

 

 少女は歯の根が合わないほどに震え、かつての友人から逃れるように顔を俯けた。

 

「フィリア様は、これまで何を為されてきたのですか?」

 

 春の日差しのように暖かく柔らかな声で、オルヒデアが再度問う。

 耳朶を打つ甘い声は、恐ろしいほどの強制力を秘めていた。

 

「わ、わたし、は……」

 

 フィリアは震える声で、己の来し方を語りだす。

 

 オルヒデアの死体をどのように埋葬したか。

 彼女の尊厳を踏みにじろうとした男がどうなったか。

 

 一通り彼女の死後の経緯を話し終えると、それから少女は自らが送った戦いの日々を語りだした。

 家族を失い、復讐に駆られ、祖国を追われ、流浪を強いられ、数え切れない戦場を渡り歩いてきた。

 

 フィリアは動揺のあまり酷く訥弁になり、また時系列や因果関係も滅茶苦茶で、話は酷く理解しがたい。

 それでもオルヒデアは静かに独白を聞き続け、時折少女に相槌さえ打ち、話を先に進めさせる。

 

 そうしてどれ程時間が経ったか。フィリアはオルヒデアに求められた話を全て語り終えた。余りに悲惨で陰鬱な、死と破壊に満ち、憤怒と慟哭に溢れた少女の半生。

 

 フィリアの額に、汗で前髪が張り付いている。罪の告白は、少女の気力体力を根こそぎ奪い去っていた。

 

「そうでしたか。そのようなことが……」

 

 全てを聞き終えたオルヒデアは、抑揚のない声でそう呟く。

 何時しか陽光は傾き、教会のステンドグラスから差し込んだ清らかな光が、二人を照らしている。

 

「フィリア様……」

 

 オルヒデアは身体ごとフィリアに向き直ると、膝上に合わせた少女の両手に、己の両手をそっと重ねた。

 少女はびくりと肩を震わすが、その掌の暖かさと柔らかさは、記憶のソレと寸分も変わらない。

 

「もう少しだけ、お尋ねしたいことがあるのです」

 

 だが、オルヒデアは辛い告白を終えたばかりの少女に寄り添う事も無く、恬然と話しかける。

 

「あなたが何を為さったかは分かりました。今度は、何故それを為したのかを、私に教えてくださいませんか」

 

 紡がれる可憐な言葉には、氷の如き冷たさが宿っていた、

 

「ッ――」

 

 オルヒデアの変貌に総毛だったフィリアは、思わず面を上げ、友人を凝視する。

 そこに居たのは、友の顔をした別の何かであった。

 張り付いたような笑顔の下に潜む、隠しようのない敵意と憎悪。

 

「あ、う……」

 

 何故思い至らなかったのか。

 死を得たところで、己の罪業が消え去る訳ではない。

 己が本当に望んでいたのは、断罪だったのだ。

 

 ならば、大聖堂に連れてこられたのも理解できる。此処は己の人殺しとしての人生が始まった場所だ。

 そして、オルヒデアが出迎えた理由も明らかだ。少女が犯した罪を裁くのに、彼女ほどの適任者は居ない。

 怪物と化したオルヒデアの双眸が、怯えるフィリアを射抜く。

 

「――痛っ」

 

 がりり、と気味の悪い音が響き、少女が苦悶の表情を浮かべる。

 オルヒデアがフィリアの両手に力一杯爪を立て、手の肉を抉ったのだ。

 鮮血が流れ、腿を濡らす。けれど、少女は抵抗する素振りも見せない。

 

「ねえ、教えてください。兄さんは何故殺されたのですか? 私は何故あんな辱めをうけたのですか? 私の国は何故荒らされたのですか? 

 ――あなたは何故、沢山の人々を不幸に陥れたのですか?」

 

 狂気を宿した眼差しで、切々と訴えるオルヒデア。

 

「…………」

 

 少女は何も答えない。否、答えられない。

 家族の未来を護るため、国に忠を尽くすため、己の命を繋ぐため。

 理由ならいくらでも思いついた。事実、そのために戦ってきた。

 

 けれど、煎じ詰めればそれらは全て自分の為の行いに過ぎない。

 己の願いを叶える為に、他の誰かに犠牲を強いる。

 命を、尊厳を、それら全てを奪い去られた人間が、どうしてそんな身勝手極まる理屈で納得するというのだろう。

 

「お答え、いただけないのですね……」

 

 オルヒデアは失望の吐息と共に、繊手を少女の膝元から離した。

 鮮血に染まった指先が、そっとフィリアの喉元に迫る。

 

「ねえ、フィリア様」

 

 魔法のように楽器を操り、フィリアの心を歓喜で満たしたオルヒデアの指が、少女の首を締め上げる。

 

「かっ――は――」

 

 徐々に力が込められ、白魚のような指が褐色の肌に食い込む。

 だが、少女はその場から逃げようともせず、両手を力なく投げだし、されるがままになっている。

 復讐の権利はオルヒデアにこそある。己の罪が許されなくとも、彼女が己を手に掛け満足するなら、それでいい。

 

「私は、あなたが憎かった。ずっとずっと、殺したいほどに」

 

 喜悦と共にそう囁くオルヒデア。顔貌は狂気に歪み別人のようだ。

 いや、本当に彼女かどうかも判然としない。まるで何人もの人間の顔が入り混じってしまったかのように、印象がぼやけてしまっている。

 

 脳への酸素が遮断され、意識が次第に薄れていく。

 とその時、礼拝堂が震え、耳障りな破壊音が遠く近くから聞こえた。

 きっと誰かがまた戦争をしているのだろうと、フィリアは気にも留めない。

 

 少女はせめて友の変貌を見ないで済むよう、静かに目を閉じた。

 

 

 



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其の九 想いは永久(とわ)

 崩れた城壁を抜けた先には、壮麗な街並みが広がっていた。

 眩いばかりの白壁の建物には、雅な赤瓦が吹かれており、紺碧の空の下で目も綾なコントラストを描いている。

 それらが軒を連ねる大通りは、軒先に花が植えられ、石畳には塵一つ落ちていない。

 

 まるで異国の景勝地にでも迷い込んだかのような絶景。

 しかし、大通りには人っ子一人見当たらない。

 店先には様々な商品が並んでおり、道には車も停まっているというのに、忽然と人々だけが消え去ってしまったかのようだ。

 

「通りを道なりに進んでください。教会まで続いています」

 

 疾駆するごむぞうに、ヌースがそう指示を出す。

 城壁を抜けた一同は、順調なペースで道を進んでいた。

 都市内に敵トリオン兵やトリガー使いの姿は無く、城壁の切れ目も騎士のイメージ体が封鎖した為、追っ手は掛かっていない。

 

「で、あのデカブツからどうやって助けるの?」

 

 人心地着いたところで、てつこが教会に陣取るカーラビーバを見上げて問いかける。

 

「……騎士を総動員すれば、勝機を見出せる筈です」

 

 そう答えるものの、ヌースはどこか自信がなさそうだ。

 ノマスのネットワークにアクセスした際、カーラビーバのデータは入手している。フィリアの心から生まれたソレがまったく同じ性能とは思わないが、途轍もない戦闘力を有していることに変わりはない。

 

 一同に付き従う騎士は二百人を超えるが、あの怪獣に手傷を与えられるのは(ブラック)トリガーのイメージ体だけだろう。

 果たしてカーラビーバから少女を助け出すことができるのか。ヌースはここに至るまでの道中何度もシミュレートを重ねたが、不確定要素が多すぎて答えが出ない。

 そもそも、心を具現化する世界で、計算が何の役に立つというのか。

 

「へいきですぞ。きっとなんとかなるのです」

 

 そんなヌースの不安に気付いたかのように、リリエンタールがそう励ます。

 

「あきらめずにみんなでかんばれば、きっとうまくいくのです」

「流石、わんちゃんは良いことを言う」

「金言っスね」

「アンタらは何でそんなに楽観的なの?」

 

 リリエンタールの言葉に、紳士とロン毛が賛同する。てつこは呆れ顔だが、それでも事態を憂いている様子はない。きっと活路は開けると信じているのだろう。

 

「……そうですね。行う前から、諦める訳にはいきません」

 

 ヌースは人々の心の強さに讃嘆しながら、決意も新たにそう誓う。

 大通りが緩やかな坂になってきた。丘の上へ続く道に入ったのだ。

 フィリアの元まであと少し。皆が気を引き締める。とその時、

 

「――ごむぞう様! 右の脇道へ!」

 

 ヌースが鋭い声を放つ。

 転瞬、進行方向の道路が炸裂し、石畳の破片が辺りに散らばる。

 

「わっ! 今度は何!?」

「おい上見てみろ、やばいぞ!」

 

 ゆきとさくらが声を張り上げる。

 いつの間にか、上空には数えきれんばかりの飛行型トリオン兵が集まっていた。城壁を越えることができない陸戦型に変わって、一同を追いかけてきたのだ。

 

「爆撃が来ます! 皆様身を低くしてください!」

 

 ヌースが警告するや否や、背後の建物がイルガーの爆弾によって倒壊する。

 そして一同目がけてバドが直上から弾丸を浴びせるも、これは随行する騎士の大盾に防がれた。 

 

「少しの間の辛抱です。敵は直ぐに排除できます!」

 

 護衛の騎士たちがスラスターを噴かせて上空へと飛び上がる。

 飛行トリオン兵は多勢だが、騎士に掛かれば敵ではない。(ブラック)トリガーも動員すれば、直ぐに討滅できるだろう。

 

「わっと! マリーちゃん平気かい?」

「なんともないわお兄さん」

 

 ごむぞうは上空からの射線を切るため裏道に逃げ込む。道の状態が悪い上に、頻繁に急カーブするので、騎乗している一同は必死に背にしがみ付いている。

 

「次を左に折れてください。大通りに合流します」

 

 騎士の奮闘もあり、次第に上空の敵影は数を減じていく。

 ヌースは増援が現われる前に先を急ごうと、ごむぞうを本来のルートへと誘導する。だがその時、

 

「ちょっと、蛇が光ってるわよ!」

 

 一人丘の上を見詰めていたてつこが叫んだ。

 見れば、カーラビーバの長大な蛇体が眩く発光している。

 

「――防御せよ!」

 

 それが攻撃の予備動作であることを見抜いたヌースは、即座に騎士に一同を護るよう命じる。

 転瞬、カーラビーバの背面から、数千条もの光の帯が放たれた。

 

「な――」

 

 一同が驚愕する。

 陽光を欺くばかりに輝く光の帯は、一発一発が極めて強力な弾丸である。一旦聖都の上空へと放たれた弾丸は、大輪の華が咲くかのように四方八方に軌道を変えて飛翔する。

 狙いは、飛行トリオン兵を迎撃していた騎士たちだ。

 

「く――」

 

 弾丸が上空の騎士を次々に撃ち抜いていく。堅牢無類の甲冑を纏っていても、巨大トリオン兵の一撃をまともに喰らえば大破は免れない。

 砲撃の回避に成功した騎士もいたが、僅か一射で騎士団は半壊に追い込まれた。そして、

 

「停まってください! 第二射が来ます!」

 

 間髪を入れず、カーラビーバが追撃を加える。

 しかも、今度の狙いはリリエンタールら一同だ。

 数千発もの光の弾丸が、街区の一画に雨のように降り注ぐ。

 

「のわわわわっ!」

 

 まるで流星雨が局所に落ちたかのような光景。

 弾丸は四、五階建ての建造物を、天上から地面まで容易く貫く。まるで爆撃でも受けたかのように街が崩れていく。

 二十騎余りの騎士が、一同の上空で大盾を構え、シールドを張って防御陣を組むが、弾丸は掠めただけで騎士を吹き飛ばした。

 

 数秒後、リリエンタールらの居た付近は瓦礫の山と化していた。彼らを護っていた騎士たちも、殆どが大破して動けない。

 もはや彼らの生存は絶望的か。そう思われた時、

 

「モギュー!」

 

 奇怪な鳴き声と共に、瓦礫の一部が吹き飛んだ。現れたのは二メートルを優に超す一つ目の巨人、ごむぞうである。

 大きく腕を広げた彼の下にはリリエンタールたちの姿が。

 

「ほひー……ごむぞうができるやつでたすかったのです」

 

 騎士たちの防御陣が崩れ、瓦礫の山が雪崩れてきた時、ごむぞうが機転を利かせて一同をその巨体で庇ったのだ。

 お蔭で一同には怪我一つなく弾雨を凌ぐことができた。だが、状況が悪化したことに変わりはない。

 

「これは、いよいよヤバいかも……」

 

 瓦礫を取り除き、皆を引き起こしながらてつこが呟く。

 教会に陣取るカーラビーバは鎌首を擡げ、更地となった街の一画を単眼ではっきりと捉えている。

 また第二射によって、頼みの綱の騎士たちも壊滅してしまった。生き残りが再集結を図っているが、その数は十人にも満たない。

 

 とりわけ(ブラック)トリガーのイメージ体がやられてしまったのは痛恨事である。

 ヌースの心から生まれた彼らは、トリガーの性能こそほぼ完全に再現されているが、個々人の技量はその限りではない。カーラビーバの猛攻を防ぐことができなかったのもそのためだ。

 

「く、今度は何よ!」

 

 てつこが毒突く。一同の方角を向いたカーラビーバの、今度は口腔が光っている。

 しかも、その光は先ほどよりも数段眩い。

 

「あれは、なにかだすのでは?」

 

 誰もが抱いていた最悪の想像を、リリエンタールがズバリと口にする。

 事実、それは砲撃の予備動作であった。数秒後、追尾弾とは桁違いの威力のレーザーが、一同を瓦礫の山ごと消し去るだろう。だが、

 

「ご安心を。私はまだ、諦めてはいません」

 

 ヌースが決然と言い放つ。

 転瞬、世界が白光に塗りつぶされる。カーラビーバが凄まじい光線を放ったのだ。

 

「私は絶対に、あの子を連れて帰ります。――皆様と一緒に」

 

 光線は途中で何かに遮られ、四分五裂して聖都の各所を吹き飛ばす。リリエンタールらの居る場所には、毛ほどの被害もない。

 

 見れば、聖都の上空に忽然と巨大な人型が現れていた。

 身の丈二十メートルを超える巨体。一切の虚飾を排した無骨な姿は、甲冑を纏った太古の戦神を思わせる。

 

 破滅の閃光を悠々と防いだ巨神は、右手から翠緑の大剣を生み出すと、カーラビーバを真正面から睨みつける。

 精神世界では、強い思いは必ず形を成す。無敵のトリオン兵を相手に、ヌースは己の知る最強の兵器を生み出すことで対抗したのだ。

 

 エクリシアの守護神「恐怖の軛(フォボス)」は大剣を振りかざし、カーラビーバへと挑みかかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 巨神と怪獣が、聖都の中央で壮絶な戦いを始める。

 カーラビーバに比すれば体格に格段の差がある「恐怖の軛(フォボス)」だが、巨神は圧倒的な出力を以て怪獣に打ち掛かる。(ブラック)トリガーの最大出力にさえ耐え抜く堅牢な装甲を、巨神が振るう大剣は紙のように切り裂いた。

 

 だが、巨体を誇るカーラビーバにとっては微々たる傷。それどころか、大蛇は損傷個所を即座に修復すると、蛇体をしならせ「恐怖の軛(フォボス)」へと飛びかかる。

 巨神は真っ向から突進を受け止め、両者が力比べを始める。

 

 教会の直上で行われるその戦いを、リリエンタールらは呆けた面持ちで眺めていた。現実離れが過ぎて、俄かには理解できないのだ。だが、

 

「おい、あの蛇倒したらそれはそれで不味いんじゃないか?」

 

 比較的動揺の少ないさくらが、ヌースにそう問う。

 カーラビーバの腹の中にはフィリアが居る筈だ。戦闘の余波で彼女に危険が及ぶのではないかと危惧しているのだ。

 

「はい。とにかくカーラビーバまで接近しましょう。何とか救出の機を窺うのです」

 

 ヌースがそう答えると、一同の周りに騎士たちが集い始めた。彼女の決意に感応し、再び騎士団が顕現したのだ。だが、

 

「ひゃ、向こうから近界民(ネイバー)がやってくるよ!」

 

 と、ゆきが言う。

 草原にたむろしていたトリオン兵らが、都市内部へと入り込んできたのだ。

 

「移動します。ごむぞう様に騎乗してください。「恐怖の軛(フォボス)」が攻めかかっている間は、カーラビーバも砲撃はできないはずです」

 

 トリオン兵らは執拗に一同を追いかけてくる。騎士を迎撃に向かわせるが、広大な都市では完全に敵を塞ぎ止めるのは難しい。

 どのみち、カーラビーバには近づくつもりである。敵影の無い丘へと登り、距離を取ろうとの判断だ。

 

 再び彼らは形態変化したごむぞうに乗り、大通りを進む。

 フォルムからは想像もできないほど機敏に駆けるごむぞうは、丘の麓に広がる貴族街を早くも踏破し、程なくして丘の頂にある大聖堂へと辿り着いた。

 

「ふおおおお!」

 

 リリエンタールが恐怖とも興奮ともつかない声を上げる。

 此処まで接近すれば、肉弾戦を繰り広げる「恐怖の軛(フォボス)」とカーラビーバの姿がはっきりと見える。桁違いの大きさをした怪物の戦いだ。戦闘の余波で空気がひび割れ、大地は止むことなく鳴動している。気を抜けばごむぞうから転げ落ちてしまいそうな程だ。

 

「カーラビーバの装甲に亀裂が入れば、騎士を侵入させて中を探らせることができます」

 

 ヌースの説明に応じるかのように、随行する騎士らがスラスターを噴かせて怪獣へと向かう。だがその時、

 

「な――」

 

 一同が声を上げる。

 距離を取ってカーラビーバの攻撃を避けていた「恐怖の軛(フォボス)」が、背面のスラスターを噴かせ轟然と体当たりを仕掛けたのだ。

 凄まじいぶちかましを喰らい、大蛇の首が仰け反る。

 のみならず、カーラビーバは貴族の邸宅をなぎ倒しながら、そのまま仰向けに倒れてしまった。

 

「――いけない!」

 

 態々丘の上にまで移動したにも関わらず、かえって標的と距離が離れてしまった。

 とはいえ「恐怖の軛(フォボス)」が優位に立ったのは間違いない。ヌースは早急に騎士たちを大蛇の元へ急行させる。

 

「どうするの、私たちも戻る?」

 

 そう尋ねるのはてつこだ。

 判断に迷う所だ。巨神と怪獣の足元に近づけばそれだけで危険だが、騎士に細かな指図をするには彼らの近くにいる必要がある。

恐怖の軛(フォボス)」は大剣を突き立てカーラビーバの腹を裂こうとしている。今を逃せば、フィリアを助ける好機は訪れないかもしれない。とその時、

 

「むむむ?」

 

 煩悶するヌースを余所に、リリエンタールが奇妙な唸り声を上げる。

 

「あっちからフィリアのにおいがするのです」

 

 と、大聖堂の方を指差しながら、そんな事を口にする。

 

「えっ!? あ、そう言えばアンタ犬だったわね」

 

 一瞬訝しむも、直ぐに納得するてつこ。

 リリエンタールはふんふん鼻を鳴らしながら、大聖堂へと進んでいく。

 

「待って、そっちにいるの?」

 

 確信を持ってフィリアを追っているらしい犬を、慌てて一同が追いかけた。

 まさか、少女が自力でカーラビーバの腹から脱出した訳ではあるまい。彼女が教会にいるとすれば、それはあの怪獣が吐き出したからだ。

 

「やっぱり、誰かの意図を感じるね」

 

 兄が不穏な表情でそう呟く。

 フィリアを態々この場所へと運んだとすれば、それを命じた者がいる筈。

 

 果たして大聖堂へと踏み込んだ一同は、そこに見慣れぬ人影を見つけた。

 荘厳華麗な礼拝堂の内部、祭壇にほど近き信徒席に、二人の女性が寄り添うように並んでいる。

 ステンドグラスから差し込む光に白髪を輝かせるのは、探し求めていた少女フィリアだ。では、その隣に座る黒髪の女性は一体誰なのか。

 

 しかし、胸中に浮かんだ諸々の疑問は、衝撃的な光景を目の当たりにしたことで消え失せてしまう。

 なんと、黒髪の女はフィリアの首に手を掛け、力の限り締め上げているではないか。

 予想だにしなかった展開に、一同は数瞬パニックに陥ってしまう。ただ、

 

「なにをするのです! やめなされい!!」

 

 リリエンタールだけが、弾かれたように少女の元へと駆けだした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 薄れていく意識の中、フィリアは何者かの叫び声を聞いた。

 緊迫感に満ちながらも、どこか間の抜けた可愛らしい声。

 耳になじみのある声は、以前もどこかで耳にした覚えがある。

 

 そう、確かあの時も、自分は死を望んでいたのではなかったか。

 

「――ッ!」

 

 死の淵から引き戻された少女は、瞼を開けて驚愕する。

 己の首に伸びるオルヒデアの腕に、リリエンタールが噛みついているではないか。

 

「ほぬー! はなせい! はなせい!!」

 

 黄色い犬は短い腕を振り回し、ぽかぽかとオルヒデアの腕を殴りつけている。フィリアの解放を求めたが無視されたため、実力行使にでたのだ。

 

「――」

 

 少女は何事かを叫ぼうとしたが、喉を締め上げられており全く息ができない。

 苦悶の表情を目の当たりにしたリリエンタールは、もはや一刻の猶予もないとばかりに大暴れする。すると、

 

「――おぶっ!」

 

 それまで無反応を決め込んでいたオルヒデアがやにわに腕を一振りし、リリエンタールを吹き飛ばした。

 教会の床を転がり、犬が信徒席へと打ち付けられる。

 その様を見せつけられたフィリアは、矢も盾もたまらずオルヒデアの手を振りほどいた。

 

「――か、ひゅ――え、ほ……はぁはぁ……」

 

 陸に打ち上げられた魚のように口を開き、必死で酸素を取り込みながら、倒けつ転びつ犬の元へと近寄る。

 如何なる時も凛然とした少女からは考えられない、無様で哀れな姿。

 

「……リリエン、タール」

 

 オルヒデアに糾問され、最後の自矜心さえ粉々に砕かれたフィリアに、もはやまともな理性は残されていなかった。だがそれでも、この小さな恩人の危機には無意識に身体が動いた。

 

「フィリア! よかった、まにあったのです!」

 

 膝を付き、震える声で呼びかける少女に、むくりと起き上がったリリエンタールが元気よく答えた。勢いよく吹き飛ばされたものの、幸い大きな怪我はなかったらしい。

 

「ぁ……なんで、ここに……」

「たすけにきたのです! ――ぬお! てからちが! けがをしたのですか!?」

 

 犬は血まみれのフィリアの手を心配そうに掴む。見れば、兄やてつこら一同も、二人の元へと駆け寄ってくる。

 

「アイツにやられたの!?」

「立てるかい? 早く此処から逃げよう」

 

 てつこと兄がそう話しかける。

 だが、フィリアは彼女らに目もくれず、怯えた瞳で祭壇側を見詰める。

 

「ごめ、ごめんなさい……私は、逃げるつもりなんて……」

 

 彼女がそう訴えかけるのはオルヒデアだ。

 黒髪の乙女は突如として現われたリリエンタールら一同を、何の感情も窺わせない瞳で眺める。

 

「コイツ、なんかヤバい」

 

 取り乱したフィリアを庇うように、てつこが前へ出る。腰を落とし、何時でも動ける構えを取る。

 

「…………」

 

 一同がフィリアを庇い立てするとみるや、黒髪の乙女は人形のような無表情で緩く手を振る。すると、突如として礼拝堂内に黒い影が幾つも盛り上がった。

 

「な――この人もイメージ体を……」

 

 兄が絶句する。

 少女の招きに応じるように現れたのは。二対四本の腕を持つ二足歩行のトリオン兵クリズリだ。何十体ものクリズリが、口腔の単眼で一同を睨む。

 

「待って……待ってください! この人たちは違うんです。私とは、何の関係もない人たちなんです! 殺すなら、私だけを……どうか……」

 

 狂を発したかのようにフィリアが叫び、脚を縺れさせながらオルヒデアの元へ舞い戻ろうとする。

 

「ちょ、バカ! あんた何やって……」

「離して! 離してください!」

 

 見るからに獰猛なクリズリの群れに飛び込もうとするフィリアを、てつこが抱きかかえて止める。すると、

 

「落ち着いてくださいフィリア! あれは、オルヒデア・アゾトンではありません!」

 

 と、少女の側へやってきたヌースが叫ぶ。

 

「あれはあなたの心が生み出した存在です。――あなたは、自分の心に殺されようとしているのです!」

 

 リリエンタールの不思議な力を知らぬフィリアに、ヌースがそう説明する。

 

「え……」

 

 言葉の意味を理解した途端、少女が間の抜けた声を発する。

 

 そう、確かに少しでも冷静に考えれば、おかしなことだらけであった。

 なぜノマスの草原が、エクリシアの聖都が、死んだ筈のオルヒデアが突然現れたのか。

 

 いや、そもそも、目の前の女は本当に、フィリアの知るオルヒデアなのだろうか。

 たとえ彼女が少女に深い恨みを抱いていたとしても、果たしてあの心優しき女性が、リリエンタールのような小さな命を無碍に扱うだろうか。

 

「あ……」

 

 凝視すればするほど、オルヒデアの顔貌が印象を失っていく。

 乙女の輪郭が薄れ、人種も年齢も、性別すら異なる様々な顔が入り混じっていく。黒髪を靡かせたソレは、今や誰でもない無貌の存在にしか見えない。

 

 いや、片時もなく変化し続けるその顔に、フィリアは見覚えがあった。それは近界(ネイバーフッド)の戦乱を渡り歩く中で、少女が関わった人々の顔である。

 この異形の怪物こそ、フィリアの罪悪感が生み出した、少女に罰を与える処刑人だ。

 

「う、あ……」

 

 目の前の悍ましい怪物は、己の心から生まれた。

 卒然とその事実を悟ったフィリア。だが、彼女の心に生まれた感情は、怒りでも嘆きでもなく、痛烈な自己嫌悪である。

 

 自死を願っていた少女は、オルヒデアの手に掛かることに安堵していた。

 己の罪が許されずとも、憎悪をぶつけられるのならば、それはまだしも救いであると。

 だが、このオルヒデアが生み出したのが自分だとすればどうか。

 

「わたし、は……」

 

 込み上げる吐き気に、フィリアが口元を抑える。

 

 私は救いを求める為に、愚劣な妄想で友の面影を穢した。

 

「ああ……」

 

 己の浅ましい所業に、恐れ慄き、この上ない嫌悪を抱く。

 罪悪感が少女の心を責め苛み、絶望が思考をより黒く塗りつぶす。

 

「ちょっと、しっかりしなさい!」

 

 てつこやリリエンタール、ヌースが必死に話しかけるが、少女は茫然自失と床に座り込み、がたがたと震えるばかり。

 そんな少女を追い詰めるように、ブレードを振りかざしたクリズリが歩み寄る。

 

「く――とにかく逃げないと……」

 

 てつこが焦燥とともに呟く。

 フィリアはもう自力で動くこともできない。だが、彼女を連れてトリオン兵の魔の手から逃れることができるかどうか。とその時、

 

「な――こんどは何よ!」

 

 耳を聾する轟音と、立つことさえままならない激震が一同を襲う。

 

「ロボットがやられちゃったよ!?」

 

 いち早く異変に気付いたのはゆきだ。

 開け放たれた大扉から外を見れば、教会の前の広間に、カーラビーバと激闘を繰り広げていたはずの「恐怖の軛(フォボス)」が横たわっている。

 

 地面を削りながら墜落した巨神は、全身に深い損傷を負っており、ぴくりとも動かない。

 彼方に見えるカーラビーバが、天に向けて勝鬨を上げるかのように、耳障りな鳴き声を発している。

 

「負の念で蛇が強くなったんだ……早くその人の心を晴らさないと不味い」

 

 冷や汗を浮かべながらさくらがそう言う。

 

 リリエンタールを通して顕現する精神世界では、意思の強さがイメージ体の力に直結する。表層意識より深層意識に根差した思いの方が強力なのだ。

 その点、絶望に染まり切ったフィリアが生み出したイメージ体はこの上なく獰悪だ。

 

「フィリア! あかるいことをかんがえるのです! せかいにはたのしいことが、まだまだいっぱいあるのです!」

 

 リリエンタールが懸命に励ますが、フィリアは子供のように嫌々と首を振るばかり。そんな少女の態度に、てつこは業を煮やしたように近づく。そして、

 

「――ッ!?」

 

 てつこは膝を付いて座ると、項垂れるフィリアの両肩に優しく手を添える。

 

「ねえ聞いて。自分の心なんて、簡単にどうにかできるようなものじゃない。でも、お願い。そんな時は他の人のことを考えて。――うちのバカ犬やマリー、あなたの事をずっと心配してきた、ヌースのことを……」

 

 切々と、そう語りかけるてつこ。

 その真摯な態度に、フィリアはと胸を突かれたように顔を上げる。

 てつこは凛々しい面差しに、どこか同情めいた色を浮かべて少女を見詰めている。だが、

 

「無理、だよ……だって、私なんて、ほんとうに……生まれてきたのが間違いだったんだから」

 

 今にも涙を溢しそうな表情で、フィリアがそう答える。

 

「ッ……」

 

 てつこは苦悶の表情を浮かべるも、無言で少女の背を撫でる。絶望に身を焼かれるような思いは彼女も知っている。フィリアを責めようとは思わない。だが、

 

「皆、気を付けて!」

 

 そう叫んだのは兄だ。フィリアの告白を判決文と受け取ったかのように、無貌の怪物がいよいよクリズリを動かした。

 

「ああっ!」

 

 皆が悲鳴を上げる。

 クリズリが巨体に似合わぬ疾風のような速さで迫り来る。そもそも戦闘用の兵器から生身の人間が逃れることなど不可能だ。

 フィリアに寄り添うてつこも、抵抗の無駄を悟り目をつぶる。鋭利なブレードが、情け容赦なく振り下ろされる。

 その時、少女の胸元から淡い光が零れた。

 

「な――」

 

 惨劇の予感に身を竦ませていた一同から、驚愕の声が漏れる。

 フィリアを刺し殺さんと襲い掛かったクリズリが、縦に両断されて倒れ伏す。

 少女の前に突如として現われたのは、白亜の甲冑を纏った騎士だ。

 

「な――彼は……」

 

 ヌースが呆然と呟く。

 あの騎士は、彼女が生み出した者ではない。ヌースはもちろん助力を請おうとしたのだが、何故だが彼のイメージ体は現れなかったのだ。

 

 微細なトリオンキューブで構成された、白く輝く光の剣。

 四方八方から殺到するクリズリを、騎士は超絶の剣技で瞬く間に斬り伏せていく。

 

 何も、心を持つのは生き物だけではない。

 リリエンタールによって生み出されたイメージ体も、確固たる命と心を持っている。

 人間によって作られた機械人形のヌースであっても、その意思は具現化したではないか。

 

 ならば、人がその命を注ぎ込んで作った物に、魂が宿らぬと誰が断言できよう。

 少女の胸に提げられた銀の鍵。そこに填め込まれた真珠の如きトリオン球が、淡い光を放つ。

 ――フィリアの生母、レギナが命を賭して作り出した(ブラック)トリガーが。

 

 数秒の内にクリズリを全滅させた騎士は、一陣の風となって礼拝堂を突き進むと、無貌の怪物を袈裟掛けに斬り捨てた。

 

「ぎぃぃぃいいっ!」

 

 この世のモノとは思えない金切り声を上げながら、怪物が塵と消える。

 後に残されたのは、フィリアたち一同と騎士の姿だけ。礼拝堂は静謐で荘厳な気配を再び取り戻した。

 

「あなたは、まさか……」

 

 ヌースが信じられないといった風に問いかける。

 近界(ネイバーフッド)に冠絶する神技に、千変万化する光の剣「懲罰の杖(ポルフィルン)」。もはや疑いようも無い。

 

 祭壇前に佇立していた騎士が、兜を脱いで振り返る。

 差し込む光に照らされるのは、麦穂のように輝く金髪。

 少女を慈しむような瞳は、翡翠のような深い緑。

 理性と品格で磨かれた威厳ある容貌に、どこか困ったような表情を浮かべたその男性。

 

 フィリアの父、アルモニア・イリニの姿がそこにあった。

 

 

 

 



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其の十 ただいま

「う、あぁ……」

 

 フィリアの喉から嗚咽が漏れる。

 

 静けさを取り戻した礼拝堂には、いつの間にか新たな人物の姿があった。

 鎧を脱いだアルモニアの隣には、彼と同じ金髪で、翠緑の瞳をした女性が立っている。

 春風のように柔らかで優しいその面差し、生けとし生けるものすべてを慈しむかのように微笑む女性は、フィリアの養母パイデイアだ。

 

「うそ……」

 

 夢にまで見た家族と、思いがけぬ再開を果たしたフィリアは、自分の目が信じられぬかのように呆然としている。

 だが、足だけは吸い寄せられるかのように彼らの元へと進んだ。

 

「あ、ちょ――」

 

 いきなり立ち上がり、魂を奪われたように歩き出した少女を、てつこが制止しようとするも、

 

「……行かせてあげてください。てつこ」

 

 と、ヌースが止める。

 

「あの人たちは誰なの? 敵ってわけじゃなさそうだけど……」

 

 事情の呑み込めない日野家の面々が、気を揉んで尋ねる。

 

「彼らはあの子の親です」

 

 端的にそう答えるヌース。

 

「でも、さっきの女みたいに危ない人かもしれないし……そもそも、あの人たちは誰の心から生まれたの? やっぱりフィリア?」

「いえ、その心配は無用です。それに、おそらく彼らは……」

 

 尚も怪訝な表情のてつこに、気遣い無用とヌースが言う。

 

「すみません。この場をお願いします」

 

 そしてヌースは飛翔し、フィリアの背を追う。

 

 蹌踉とした足取りの少女は、それでもなんとか祭壇前へと辿りつく。

 己が見ているのは幻ではないのかと疑うフィリア。しかし、不安気な表情を浮かべる少女を、アルモニアとパイデイアはそっと抱きしめた。

 

「あ、あぁぁ」

 

 その暖かさ。優しさ。肌から伝わる温もりや、匂いまでもが記憶と寸分も違わない。

 

「おとうさん! おかあさん!!」

 

 この三年間、懸命に押さえつけてきた感情が、遂に堰を切って溢れる。

 少女は滂沱の涙を流しながら、絶叫して二親に抱きついた。

 

「うぁああああああ!」

 

 母の胸に顔をうずめ、父に背を撫でられながら、フィリアは言葉にならない声を上げて泣き続ける。

 これまで大人びた印象しかなかった少女が、身も世も無く啼泣する姿に、日野家の面々は驚きながらも、深く心を打たれる。

 

 大して事情も分かっていないだろうに、感受性の強いリリエンタールなどは、少女の泣き声に釣られて涙を浮かべている。

 

「なんでわたしをおいってたの!? もうひとりはいやだよう!!」

 

 号泣はやがて泣訴へと変わった。

 少女は癇癪をおこしたように、二親に己の悲境を訴える。

 

「わたしだめだった! ひとりじゃなんにもできなかった! いきていくのもつらいの!」

 

 戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)を生き抜くためには、誰にも弱みを見せてはいけなかった。

 心に鉄の仮面を被り、脆弱な心をひた隠しにして戦い続けた少女は、愛する家族を前にした今、傷だらけの泣き虫な、ただの子供へと戻る。

 

「そうですか。やはりあなたたちを生み出したのは……」

 

 と、少女に追いついたヌースが、アルモニアとパイデイアを見てそう呟く。少女の二親はこの忠実なる友に手を触れ、長年の労苦を感謝する。 

 フィリアは依然、母の腕に抱かれながら嬰児のように泣き続ける。今までの苦労を必死に訴え、己や世間への悪罵を考え得る限り並べ立て、気が済むまで喚き散らす。

 

 次第に喉が枯れて来ると、今度は延々とすすり泣きを始めた。胸に蟠る感情が、尽きぬ涙と共に溢れていくようだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔には、あの年齢にそぐわぬ凛々しさは何処にもない。

 

 すると、いつの間にか少女の周りに新たな人影が生まれていた。

 小柄で華奢な三人の子供が、少女の背にそっと抱きつく。

 黒髪の少年はサロス。赤髪の少女はアネシス。金髪の少年はイダニコ。

 

 いずれも三年前に命を落とした、フィリアの弟妹たちである。

 涙に暮れる少女を励ますかのように、その身体に触れる子供たち。

 その時、フィリアの脳裏に卒然と様々なイメージが浮かんだ。

 

「――ッ!?」

 

 映像記録のように脳に風景が流れ込み、様々な感情が勃然と心に沸き起こる。その奇妙な体験に、フィリアは泣き濡れながらも混乱に陥る。

 そのイメージは、家族が過ごした様々な日々の記憶であった。沸き起こる感情も、その時に感じた思いそのままである。

 

 ただ不思議であったのは、何れの記憶も少女にはまったく覚えがない事であった。

 それが何時で、何をしていたのかははっきり分かる。ただし、見え方やその時に抱いた感情がまったく異なるのだ。

 

「――あ、あぁ」

 

 違和感の理由に思い当った時、フィリアは吾知れず嗚咽を漏らしていた。

 

 この煌めく映像と感情の波は、弟妹たち、そして父と母の記憶だ。

 少女と共に過ごした日々。彼らが何を見て、如何なることを考えていたのかが、まるで我がことのように感じられる。

 そして、何よりフィリアの心を打ち震えさせたのは、家族の記憶の中心に、常に自分の姿があったことだ。

 

「ふ、うぇ……」

 

 少女は感動の余りしゃくりあげ、あれほど流したはずの涙がさらに零れる。

 父が、母が、弟妹たちが、如何に自分を大切に想い、惜しみない愛情を注いでくれたことか。

 

「うぇえぇぇぇぇ」

 

 己が紛れも無く愛されていたことを再確認した少女は、嬰児のように泣き喚く。

 歓喜の想いが強ければ強いほど、家族を永劫失ってしまった事実が少女を苦しめるのだ。

 

「わたしもつれていって。ヌースといっしょに、みんなのところにいきたい」

 

 すすり泣きながら、幼子のように家族に訴えるフィリア。

 そんな少女を、アルモニアやパイデイア、サロスにアネシス、イダニコは、困ったような、それでいて愛おしげな表情で見つめる。

 しっかりと前を向き、生きて欲しいという家族の想いは伝わっているのだろう。けれど、少女は子供のように嫌々と駄々を捏ね、皆を困らせる。

 

 そうして泣き続けたフィリアは、暫くしてようやく多少落ち着きを取り戻した。

 家族を代わる代わる抱きしめ、意地でも離れないといった様子の少女に、弟妹たちが悪戯っぽい笑顔を向ける。

 

「……ぅ?」

 

 弟妹たちに背中を抱きかかえられ、腕を引かれて無理やり立たされる。泣き疲れた少女は然したる抵抗もできない。

 すると、今度はフィリアを慰めていたアルモニアとパイデイアが示し合せたかのように身体を脇へ避けた。

 

「え……」

 

 フィリアが呆然と呟く。豁然と開けた視界に、見知らぬ人物が立っていた。

 果たして何時の間に現れたのだろう。礼拝堂の最奥、祭壇の前に立っていたのは、少女と同じ褐色の肌をした女性であった。

 

「フィリアが、ふたり?」

 

 離れた場所から成り行きを見守っていたリリエンタールが、怪訝そうに呟く。

 

 彼が驚くのも無理はない。その女性は見れば見るほど、少女によく似ていたのだ。

 雪のように真っ白な髪に、黄金を溶かしたかのように輝く瞳。目鼻立ちや体格さえもが、フィリアに生き写しである。

 

 ただ、年齢と身に纏う雰囲気だけが明確に違う。

 祭壇の前に佇立する女性の齢頃は二十過ぎ。フィリアと比べれば姉のようにも見える。そして清冽で凛然とした佇まいのフィリアとは異なり、眼前の女性はすまし顔で立ち尽くしていながらも、隠し難い陽気さと茶目っ気を覗かせている。

 

 体に流れるノマスの血が教える。眼前の人物が誰なのか、少女は直ぐに合点がいった。

 

「あ……ぅ……」

 

 女性の正体が分かると、フィリアは尚更戸惑った。

 なぜ今、なぜこの場に彼女は現れたのか。

 自分と瓜二つの容姿をしたこの女性こそ、ノマスはドミヌス氏族の姫君レギナである。

 少女を産んだ、実の母親だ。

 

「ぅ……」

 

 夢にまでみた家族との再会を果たし、得難いひと時を過ごしていたというのに、彼女はいったい何用で現れたのか。

 血の繋がりは確かにある。けれど、レギナはフィリアを産んですぐに亡くなったと聞いている。事実として、フィリアは彼女の顔さえ覚えていない。

 

「あ、まって……」

 

 だが、弟妹たちは少女を急かすように引っ張り、レギナと対面させようとする。

 救いを求めてアルモニアとパイデイアを見るや、彼らも笑顔で頷くばかり。

 あれよあれよと言う間に、少女はレギナの前へと引き立てられた。弟妹は用事が済むや、さっさと後ろに下がってしまう。

 

「……う、あ……えっと……」

 

 感情を爆発させ、あれほど泣きじゃくった後である。心は乱れきっており、まともな言葉が一つも出てこない。

 そもそも、例え冷静な時に会ったとしても、今まで碌に気にもかけなかった人間相手に、何を喋れというのか。

 

「その……」

 

 もじもじと立ち尽くしているうちに、フィリアは多少の冷静さを取り戻した。すると、今度は己の狂態を思い出し、恥じ入るように赤くなる。袖でぐしゃぐしゃになった顔を拭くが、目元は腫れ、頬は涙痕でてらてらと光っており、酷い有様である。

 

 と、その時、何時まで経っても動かない少女に変わって、レギナが颯爽と歩き出した。

 彼女はフィリアの眼前に立つと、真正面から娘と向き合う。

 

「あ、うぅ……」

 

 一点の曇りも無い眼に見詰められ、フィリアは思わず首を竦める。だが、

 

「あ、あの!」

 

 逃げてばかりいては駄目だと、少女は勇気を振り絞って話しかけた。だが次の瞬間――

 

「――ぁ痛っ!」

 

 ゴチン、と凄まじい打撃音が礼拝堂に響いた。

 

 目の奥で星がチラつくような凄まじい衝撃。遅れてきたのは、文字通り頭が割れんばかりの痛みである。

 

「痛ぅ~~」

 

 咄嗟の事に、フィリアは何が起こったかも分からない。反射的に頭を押さえて蹲るうちに、ようやくレギナに拳骨を喰らわされたことに気付いた。

 

「な、何するのいきな――」

 

 怒り心頭に発した少女は憤然と立ち上がり、当然の権利として抗議しようとする。が、

 

「わ――きゃ――う――」

 

 発言を許した覚えはないと言わんばかりに、続けざまに三発の拳骨が容赦なくフィリアの頭に振り下ろされた。

 

「い、いたそうですな……」

 

 その様子を遠くから見ていたリリエンタールが、顔面を蒼白にして震えあがる。他の面々も、愁嘆場がいきなりどたばた劇(スラップスティック)に変わってしまい、困惑を隠せない。

 

「ううぅぅぅぅぅ」

 

 猛烈な痛みに、フィリアは頭を押さえて蹲るばかり。対して、娘を力いっぱいぶん殴った母親レギナは、腰に手を当て満足そうにフンと息をつく。

 

「わ、私が、何を……」

 

 ようやく立ち直ったフィリアが、目に涙を浮かべて抗議する。いきなり手加減なしの暴力に曝されたせいか、非難しつつも明らかに怯えている。すると、

 

「わ、こ、今度はなに……」

 

 レギナは両手を伸ばし、フィリアの両頬をがっしりと挟み込んだ。

 

「わ、わ、わ……」

 

 そしてぐいぐいと少女の首をねじり、身体を真後ろへと向けさせる。抵抗しようものなら首の骨を折ってやるぞと言わんばかりの強制ぶりだ。

 

「な、何! いったいなんなのこの人!」

 

 余りの暴虐ぶりにフィリアが思わず悲鳴を上げる。だが、振り返った先にいたパイデイアたちは、苦笑を浮かべて見物している。

 

「ちょ、ちょっと! いい加減怒りますよ!」

 

 家族の助勢が得られぬと悟ると、フィリアは勇を振るって暴君に抗議する。だがレギナは娘の言葉には一切耳を貸さず、かえってその後頭部を鷲掴みにする。そして、

 

「え――」

 

 レギナは教会の信徒席側へ向けて、フィリアの頭を無理やり下げさせた。勿論、自らも共に深く腰を折っている。

 

「あ…………」

 

 今更ながらに行為の意図を察したフィリアが、間の抜けた声を出す。

 

 この一連の騒動で、もっとも迷惑を蒙った者は誰か。

 言うまでもない。フィリアの自殺願望の巻き添えを食ったリリエンタールたちだ。それなのに彼らは、万難を排して少女を助けようと駆けつけてくれた。

 にもかかわらず、フィリアは彼らを突き離し、家族との再会に現を抜かしていた。とんだ恩知らずと謗られても仕方のないところだ。

 

 まずは親として、理非曲直を明らかにする。

 その為にレギナは、フィリアに痛烈な仕置きを加えたのだ。

 

「あ……あの!」

 

 少女は意を決して口を開く。すると、頭を押さえつけていた手は直ぐに離れた。

 

「皆様をこのような仕儀に巻き込んでしまい、お詫びの言葉もありません。本当に、本当にすみませんでした」

 

 と、リリエンタールらに向けて真摯に謝罪を述べる。すると、

 

「ほ、ほわぁああ! フィリアがげんきになったのです!」

 

 正気を取り戻した少女に、犬が歓声を上げる。他の面々も、ともかく少女が無事でよかったと胸を撫で下ろすばかりだ。

 

「別に、アンタが全部悪いって訳じゃないわよ。半分はうちのバカ犬の所為なんだから」

「おぶぶ、そうなのでした……」

 

 ただ、てつこだけがそっぽを向いて混ぜっ返す。何やら含羞の色を浮かべているのは、先ほど柄にもなく少女を励ましたのを思い出したのだろう。

 

「皆様……ありがとう、ございます」

 

 落命しかねないほどの危険に遭わせたのに、彼らは純粋に少女の無事を喜んでいる。

 その純粋さと善良さに、フィリアは顔を上げて心から感謝の意を述べる。すると、

 

「あ――」

 

 感動に立ち尽くす少女を、レギナがそっと背後から抱きしめた。

 その腕はどこまでも優しく、悲しいほどに力強い。

 きっと、こうして娘を抱擁することをずっと待ち望んでいたのだろう。

 

「…………」

 

 胸元に回されたレギナの手に、そっとフィリアが手を重ねる。途端に、母の想いが娘の心へと流れ込んだ。

 

「あぁ――」

 

 フィリアの誕生からレギナの死までは、一年にも満たない。だが、その短すぎる時間の中で、彼女が如何に娘を慈しみ、愛したか。

 母から受けた無限の愛情を知ったフィリアは、今ひとたび涙を溢す。

 それは先ほどまでの嘆きと怒りによるものではない。この上なく満ち足りた歓喜に伴う涙であった。

 

 そして、存分に娘を抱きしめたレギナは、一転してフィリアを再度振り返らせた。

 

「おかあ、さん」

 

 照れくさそうにそう呼ばう少女に、レギナは太陽のような笑みで答える。そして、

 

「はい。……はい」

 

 母に頭を撫でられながら、フィリアは真剣な面持ちで頷く。

 レギナが愛娘に、最後の教えを伝えているのだ。

 

 そこに言葉は必要ない。本当の愛は、ただそこにあるだけで伝わる。

 無事に母子の和解が住むと、それまで遠巻きに二人を見守っていた家族がやってくる。

 

「はい。必ずこの子を幸せにします」

 

 と、ヌースもレギナに触れ、思いを交わす。

 すると、アルモニアがそっとレギナの側に寄り添った。お互いを見つめる瞳には揺るぎない信頼と愛情がある。

 彼ら夫婦は、今一度娘を力強く抱きしめた。

 

「うん。……私、もう大丈夫だから」

 

 名残惜しそうに身を引いたフィリアが、家族を見渡してそう言う。

 

「きっと、大変なことも沢山あるだろうけど、私、ヌースと一緒に、ちゃんとやれるから」

 

 決然と告げる少女に、皆が頷く。

 そして家族に背を向けると、フィリアはヌースと共に礼拝堂を歩き出した。

 

 一歩一歩力強い足取りで、リリエンタールたちの元へ。

 その姿を見送る家族は、淡い光に包まれ消えていく。

 

 もう、少女は振り返らなかった。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「ご迷惑をお掛けしました。ところで、そもそもこの世界は何なのでしょうか?」

 

 リリエンタールらと合流したフィリアは、開口一番そう尋ねた。

 この世界は自分の心が元となって生み出され、しかもそれを成したのがリリエンタールであるらしいことはサイドエフェクトで理解している。

 

 ただ、何がどうなってこの超常世界が生まれたのかは判然としない。

 兄やさくらから説明を受けるが、案の定彼らも詳しい理屈は知らないらしい。しかし、

 

「心を改める、ですか」

「そうなのです。フィリアのなやみがなくなれば、おうちにかえれるのです」

 

 この危険極まる世界から抜け出すには、フィリアが強く帰還を念じなければならないと、リリエンタールが言う。

 

「妙ですね。私はもう、この場に居たいとは思っていませんが……」

 

 家族との邂逅で、フィリアの自殺願望は完全に消え去った。理屈から言えば、もう元の世界に戻っていてもおかしくない。

 いったい何が一同の帰還を阻んでいるのだろう。皆が揃って首を捻る。

 とその時、天地をひっくり返すかのような激震が、大聖堂を襲う。

 

「――危ない!」

 

 信徒用の長椅子が横滑りに動き、重たい祭壇が雪崩を打って崩れる。

 それらの調度品が当たれば大怪我は免れないが、ごむぞうが身を張って一同を庇い、てつことフィリアが機敏な動きで皆を誘導したことで、一先ずは無事に済んだ。だが、

 

「まだ揺れてる。これは……」

 

 低い地鳴りは延々と続いている。原因に心当たりが浮かんだフィリアは、皆を引き連れ急いで大聖堂から出る。そして、

 

「ああ……やっぱり、まだ私は、私を許せていないんだ」

 

 丘の上に君臨する醜悪な怪物を見つけ、少女は深く嘆息する。

 

「のわわわわ……」

 

 その怪物の姿に、リリエンタールのみならず、居並ぶ皆が揃って怖気を震う。

 

 激震を引き起こしたのは、カーラビーバの蛇体に「恐怖の軛(フォボス)」の上半身が融合した、人蛇の如き奇怪な大怪獣であった。

 その化け物の頭部、「恐怖の軛(フォボス)」の顔に当たる部分が大きく歪んでいる。精悍な兜で覆われていたであろう顔面が、生々しい人間の首へと入れ替わっている。

 

 みだれ髪を振り回し、刻一刻と人相を変える異様な顔貌。

 大聖堂でフィリアを手に掛けようとした無貌の怪物が、カーラビーバと「恐怖の軛(フォボス)」の身体を得て蘇ったのだ。

 天を裂かんばかりの悍ましい金切り声を張り上げ、無貌の怪物がフィリアを威嚇する。

 

「うん。何が言いたいか分かるよ。あなたは、私が生み出したんだから」

 

 怨嗟、憎悪、悲嘆、殺意。ありとあらゆる負の感情が入り混じったその叫び声を、フィリアは従容と受け入れる。

 この怪物こそ、フィリアが犯した罪の化身。そして少女に罰を与える刑吏なのだ。

 

「なななな、こんなかいじゅうのいうことをきいてはだめなのです! たべられてしまいますぞ!」

 

 落ち着き払った少女の姿に、またぞろ命を粗末にする気かとリリエンタールが叫ぶ。

 

「うん。大丈夫だよ。食べられたりなんかしない。するもんか」

 

 だが、フィリアは清爽の笑みと共にそう答える。

 

 生きる意思を取り戻したとはいえ、人生で犯した罪が消える訳はない。否、だからこそ、人はその罪に向き合い、贖う術を探さなければならない。

 フィリアは世界中の戦場を渡り歩き、数多の人を不幸にした。その自分が、簡単に死んでいいはずがない。

 

 アルモニアとパイデイアに会い、少女は心に淀んだ澱を吐き出した。

 サロス、アネシス、イダニコたちによって、少女は再び愛を知った。

 そしてレギナは、生きる者の義務を少女に教えた。

 

 ――フィリアは愛されている。過去の話ではなく、今もずっと。

 

 たとえ送り主が亡くなったとしても、貰った物が消えることはない。

 愛も、想いも、願いも、すべては胸中で皓々と輝き続けている。

 

 そして他者から多くを貰った人は、他者に同じだけ施さねばならない。

 人はそうして、連綿と営みを紡いできたのだから。

 

「どうすれば、あなたに許してもらえるのか分からない。でも、私はあなたに、自分自身に殺される訳にはいかないの!

 ――それじゃあきっと、何にも解決しないから!」

 

 怪物を真正面から見詰め、決然と言い放つフィリア。

 その想いに呼応するように、天が、地が、街が、怪物が、淡い光と共に輪郭を崩していく。少女が自らの心を制したため、世界が崩壊を始めたのだ。だが、

 

「ギイイイィィィッ!!」

 

 それでも怪物はフィリアを許さない。

 無顔の怪物は両手を構えると、桁違いのエネルギーを圧縮し始める。

 目も焼けんばかりの極光。解き放たれれば、大聖堂の聳える丘ごとフィリアたちを消し飛ばす威力になるだろう。

 

「身勝手なのは分かってる。――でも、私はまだ生きていたい」

 

 無貌の怪物が、フィリア目がけて砲撃を放つ。

 しかし、少女は昂然と胸を張り、死の閃光を迎え撃つ。

 転瞬、世界全てが白光に染まった。瞼を閉じても突き刺さる極光が、一同から視覚を奪う。

 

 そして皆の視力が回復した時、少女の心が生み出した怪物は原型を留めぬ程に破壊されていた。

 

「ごめんね。……でも、もう少しだけ」

 

 吾知れず、フィリアがそう呟く。

 破滅の光を退けたのは、一同を半球状に取り囲む透明な壁であった。

 

 満天の星の如き輝きを見せるその壁は、(ブラック)トリガー「救済の筺(コーニア)」。ありとあらゆる攻撃を跳ね返す無敵の盾である。怪物が砲撃を放つ直前、フィリアはパイデイアの残したトリガーを起動し、一同を護ったのだ。

 怪物はその巨大な上半身を完全に失っていた。砲撃が如何に凄まじい威力だったか、それだけでも一目瞭然だ。

 

 のみならず、怪物の砲撃は蒼天に巨大な風穴を開けていた。

 比喩例えではなく、空に本当に真っ白な穴が開いているのだ。そして、その穴を中心にして、まるでガラスが砕けていくかのように、世界がバラバラに散っていく。

 

「これで、元の世界に戻れるのかな」

「やったのですフィリア。じぶんのこころにかったのです!」

 

 ようやく元の世界に帰ることができると、皆が快哉を叫ぶ。

 そんな中、フィリアだけが何処か感慨深げに周囲を見渡している。地獄のような世界だが、此処は間違いなく己の心そのものだったのだ。

 自分の有り様が変われば、この世界も変化するのだろうか。余り来るべきではないと知りつつも、少女はそんな事を考えてしまう。

 

 やがて、崩壊は少女らの足元にまで及んだ。

 見渡す限り、白一色の景色。しかし、先ほどの閃光のような目に痛い眩さではなく、洗い立てのシーツのように、真っ白なキャンパスのように、何処までも広がるような、開放感のある光景だ。

 

 そして、いよいよ世界が終焉を迎えようとする。その時、

 

「すこし、じゃなくていいのです」

 

 と、何時の間にか少女の傍らに居たリリエンタールが呟いた。

 

「え?」

 

 先ほどの少女の独白を聞いていたのだろう。リリエンタールはたどたどしく、それでも己の想いを伝えようと言葉を紡ぐ。

 

「もっとたくさん、よくばってもいいのです。だって、たのしいことやうれしいことはいっぱいあるのです。だいすきなひとといっしょにいるのに、じかんはいくらあってもたりないですぞ」

「……うん。そうだね」

 

 真心からそう告げる犬に、フィリアは穏やかな表情で同意する。

 そうこうしているうちに、崩壊は一同の足元にまで及んだ。

 

 無限無窮に広がる白の世界。天地さえも定かではないが、不思議と不安はない。きっとこのまま、元の世界に帰れるという確信がある。

 徐々に光が強くなり、視界が白くかすんでいく。その刹那、

 

「あ――」

 

 フィリアが驚愕の声を漏らした。

 純白の世界にいつの間にか立っていたのは、絹のような黒髪と、濡れるような瞳をした麗しい女性だ。

 

「オルヒデア、さん」

 

 記憶のままの容姿をした乙女は、白く染まりゆく視界の中、確かに少女に向けて微笑みを送った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 気が付くと、一同は日野家の庭先へと戻っていた。

 夜色は墨を流したように濃く、隣家の灯りはもう消えている。

 吹きつける夜風は身を刺すほど冷たく、思わず皆が身震いした。

 

「はー、しんどかったー」

「今回はマジで危なかったな」

 

 と、春永家のゆきとさくらが帰還を喜ぶ。

 

「いやぁ、何とか無事に帰れてよかったよ。あ、フィリアさん、怪我は大丈夫? すぐに手当てしないと」

 

 そう問いかけるのは兄だ。

 幸いなことに、皆はかすり傷一つ追っていないが、少女は精神世界の怪物によって手を酷く引っ掻かれていた。

 

「ありがとうございます。でも、血ももう止まりましたし」

 

 フィリアはそう言いつつ、そっと手を隠した。あまり人に見せるものでもない。

 

「そ、そうだったのです! きゅうきゅうばこをとってくるのです!」

 

 と、リリエンタールがわたわたと慌てる。死と隣り合わせの大冒険から帰還したばかりとは思えないほど元気満点だ。すると、

 

「お、おはずかしい。おなかがへってきたのですな」

 

 と、リリエンタールが盛大に腹の虫を鳴らした。

 精神世界での戦いはあまりに過酷だった、無理からぬことだろう。

 

「じゃあ、少し早いけどおせち出しちゃおうか」

 

 お腹を空かせた犬を見て、兄が朗らかにそう言う。

 

「ああそう言えば、皆様、新年あけましておめでとうございます」

 

 とその時、紳士ウィルバーが一堂に向けてそんな事を言い出した。どうやらフィリアとの騒動に巻き込まれているうちに、とっくに日付は変わっていたらしい。

 

「ホントだ。もう元日じゃない」

 

 と、てつこが呆れたようにぼやく。すると、

 

「は! おせちをたべているばあいではないのですあにうえ! じょやのかねをつきにいかなくては! ああ、いやでもフィリアのけがをはやくなおさねば……」

 

 と、リリエンタールが息巻いてそう言う。

 

「鐘突きならもうとっくに済んでるわよ」

「なわ――」

 

 てつこに指摘され、リリエンタールはショックの余り硬直する。イメージトレーニングまでして、余程楽しみにしていたのだろう。

 

「あの……私の所為で、すみません」

 

 そんな犬を見かねて、フィリアが思わず謝罪を述べる。すると、

 

「おぶぶ……へっちゃらなのです。また、らいねんいけばいいのです」

 

 と、犬は鼻水を垂らしながらも強がって見せる。

 

「うーん。この後は初詣に行く予定だったけど、皆はどうする?」

 

 皆に尋ねたのは兄だ。

 

「私はパス。疲れたし、服汚れちゃったし。もうお風呂入って寝るわ」

 

 てつこがきっぱりとそう答える。

 見れば、一同はだいたい同じような考えらしい。

 結局、今夜はこの場で解散し、明日の朝、皆で揃って初詣に行くことになった。

 

「じゃあ、また明日ね~」

 

 ゆきとさくらが隣家へと帰っていく。

 そして日野家の面々も母屋に戻ろうとする。が、

 

「ちょっと、何でアンタらも入ろうとしてんのよ」

 

 さも当然の如く上がろうとする紳士らを、てつこが半眼で睨む。

 

「ふふ。埃に塗れた紳士の前に、素敵な温泉がある。これは運命といっていいのでは?」

「アジトまで戻るのがちょっと面倒なんスよね」

 

 悪びれも無く風呂を貸してくれと言う紳士に、あけすけに事情を話すロン毛。

 

「はぁ、怒るのも面倒くさくなってきた……」

 

 と、てつこがこめかみを指で叩いて呟く。

 もともと日野家に居候していたこともある二人だ。三階にある彼らの部屋もそのままなので、結局今晩は泊まることになった。

 話が纏まり、皆が動き始める。だが、

 

「む? どうしたのですか?」

 

 フィリアだけが、庭先にぽつねんと立ち尽くしている。

 不思議そうに尋ねるリリエンタールに、少女は困ったように目を伏せると、

 

「やはり、私がこの家のお世話になるのは良くないと思うのです」

 

 申し訳なさそうにそう呟く。

 

「私は近界民(ネイバー)ですから。もし私を匿っていることが公になれば、皆様にもご迷惑が掛かります。また私の所為で、皆様を危険な目に遭わせてしまったら……」

 

 少女はそう告白すると、深く項垂れる。

 戦乱渦巻く世界からやってきた異世界人の自分が、この善良で愛すべき日野家の人々と共にいていいのだろうかと、フィリアは不安を感じているのだ。だが、

 

「そんなことないのですぞ! ずっとおうちにいればいいのです」

 

 勿論、リリエンタールらがそんな事を気にするはずがない。

 

「僕も大歓迎だよ。今まで色々あったけど、みんなで力を合わせればなんとかなったし、そんなに気にすることないんじゃないかな」

「フィリアはとってもたいへんなまいにちだったもの。ゆっくり休んでも、だれもなにもいわないわ」

 

 と、兄とマリーも口々に励ます。ただ、てつこだけが不満げな表情を浮かべて、フィリアへと近づく。

 

「あ痛!」

 

 と、バチンと凄まじい音。てつこが指で少女の額を弾いたのだ。

 

「今更な事言ってんじゃないの。もう迷惑なら充分掛けられてるんだから。気にしてるんなら、行動で返してちょうだい。――あ、今の一発はさっき貸してた分だから。これで貸し借り無しよ」

 

 言うだけ言って、さっさと母屋に入ってしまう。

 随分乱暴な照れ隠しだが、少女を家に受け入れることを認めてくれたのだろう。

 

「まったくてつこは……」

 

 兄も苦笑いを浮かべ、リリエンタールとマリーを連れて家へと入る。

 フィリアはヌースと顔を見合わせ、そして二人して頷くと、彼らの後に続いた。

 

 引き戸を潜り、玄関へ。

 照明に照らされたその空間には、得も言えぬ温もりがある。

 靴を脱ぎ、母屋に上がろうとするフィリア。そんな彼女を、リリエンタールとマリー、兄にてつこが待ち構えていた。そして、

 

 

「「おかえりなさい!」」

 

 

 暖かな声で、日野家の皆がそう告げる。 フィリアは一瞬驚きの表情を浮かべた後、

 

 

「ただいま!」

 

 

 花が咲き誇るような笑顔を浮かべ、そう答えた。

 

 

 

 



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其の十一 新たな歩み

 焼けつくような日差しが、アスファルトに逃げ水を作り出している。

 朝方は元気のよかった蝉たちも、よほど暑さが堪えているのか昼は休憩中らしい。

 八月は下旬にも差し掛かったというのに、夏の勢いは一向に衰え知らずだ。

 

「今日もまた、一段と暑いですねぇ」

 

 小川が流れる閑静な住宅街を歩いているのは、褐色の肌をした白髪金瞳の少女フィリアだ。夏用のブラウスとデニムを纏った少女は、口ぶりとは裏腹に軽快な足取りで歩を進める。

 

「もうちょっとでつきますな。がんばるのです」

 

 と、少女にそう答えるのは、二本足で歩く黄色い犬リリエンタールだ。今日の彼は愛用の真っ赤なスカーフに加え、日差し除けの小さな麦藁帽を被っている。

 

 護岸工事された小川を道なりに進んでいくと、やがて短い太鼓橋が見える。それを超えると、正面には瓦葺の広壮な建物が現れた。

 この建物は、八城温泉旅館。紳士ウィルバーらが所属する「組織」の、日本におけるアジトの一つである。

 

 フィリアとリリエンタールは、躊躇うことなく旅館へと足を踏み入れた。

 

「ごめんくださーい」

 

 玄関を抜けると、落ち着いた和の雰囲気のロビーに出迎えられる。

 組織がアジトとして使用しているのは地下階だけで、地上階は真っ当に温泉旅館として営業している。間もなく、二人の姿を認めた女将さんが応接に訪れた。

 

「お世話になります。日野と申します」

 

 女将も組織の息がかかっており、フィリアの来意は承知している。

 二人はロビーの待合席に通され、冷たいお茶と菓子で供応を受けた。リリエンタールの事も見知っているので、犬だからといって入店を拒否されることもない。

 

「ほひ~。いきかえりますなぁ」

「はい。まったくです」

 

 炎天下を歩いてきたので、冷たいお茶が一層身体に染み入る。

 そうして二人がしばらくまったりとしていると、

 

「お、久しぶりだな。犬」

 

 旅館の奥から焦げ茶色の髪をした男が現れた。

 夏だと言うのに黒のスーツに身を包み、屋内なのにサングラスを掛けたその男性は、組織の構成員の一人、サングラス組のアキラである。

 組織がリリエンタールを狙っていた時、彼は実行部隊として日野家と何度か対立したことがある。しかし、今ではただの顔なじみだ。

 

「ああ、アキラさん。いつもヌースがお世話になっています」

 

 と、フィリアが立ち上がって礼を述べる。そして持参したトートバックからプラスチック製の密封容器を取り出すと、

 

「よければ、ねこさんと一緒に召し上がってください。お兄さんがつくったきゅうりの浅漬けです」

 

 と、笑顔で差し出す。年明けから日野家に住むことになったフィリアも、組織の面々とはそれなりに親しくなっていた。

 

「おう。ありがとよ」

 

 アキラは差し入れを快く受け取り、暫し一同と歓談する。そのうちに、

 

「すみません。待たせてしまいましたか」

 

 と、旅館の奥から黒服の男たちと共にヌースが現れた。

 

「お疲れ様ヌース。会合はどうだった?」

 

 フィリアがそう問いかける。

 日野家に迎え入れられ、組織とも繋がりを持つことになったフィリアたちは、戸籍など種々の面倒事に手を回してもらう見返りに、時折彼らに近界(ネイバーフッド)の情報を提供することになったのだ。

 

「はい。今回も大変有意義な会になりました」

 

 と、答えるヌース。

 

 とはいえ、近界民(ネイバー)の技術が組織に直接渡る訳ではない。

 組織の日本支部長シュバインは明晰な頭脳と優れた平衡感覚を持つ人物であり、近界民(ネイバー)の技術がもたらす利益と問題をよく理解していた。

 組織が有する資産は底知れず、またその権力は国家にも及ぶのだが、そもそも彼らは社会の裏で暗躍することで現在の地位を築き上げてきた。

 

 近界民(ネイバー)が有するトリオン技術は、社会の構造を根底から覆しかねない力を有している。

 人間一人から抽出したエネルギーがビルを吹き飛ばすほどの破壊力を産み、またトリオンから生まれた器物は、既存の兵器群では容易に破壊できぬ程の耐久力を持つ。

 例えばトリオン製の戦車や戦闘機を作ることができれば、その国は一躍世界を征服するほどの軍事力を得る事だろう。

 

 だが、技術は何時か漏洩し、競争は必ず激化する。

 仮にトリオン技術が公になれば、地球文明はその有り様を大きく変えざるを得なくなるだろう。そうなれば、組織とて大きな損害は免れない。

 

 ならば、組織がトリオン技術を独占すればどうか。

 この考えにも、日本支部長は軽々しく賛同しなかった。

 

 人間の精神は余りに脆弱であり、力を持てば容易に狂ってしまう。

 組織の前首領は、人を越えた力を手に入れたばかりに道を踏み外し、悲惨な末路を遂げることになった。

 彼の覆轍を踏むまいと、組織はトリオン技術を研究するに留め、基本的には封じ込めを行う方針を取っている。

 また、幸いなことに日本には近界民(ネイバー)の迎撃を任務とする機関ボーダーがある。組織はボーダーと密約を結ぶことで、トリオン技術が世間に広まるのを防いでいるのだ。

 

 そのような事情から、ヌースはある意味では平和裏に、組織へ近界(ネイバーフッド)に関する情報を提供することとなった。

 むしろ最近ではヌースの知識量と演算力を頼みに、組織の技術部から手伝いを申し込まれることも増えてきたらしい。

 彼女も地球独自の技術には教わることも多いそうで、ちょっとした顧問のような扱いまで受けている。

 会合が度々泊りがけになるのもその為だ。

 

「アキラさん。シュバインさんにどうぞよろしくお伝えください」

 

 フィリアは挨拶すると、トートバックにヌースを入れる。普段は紳士たちが送ってくれるのだが、今日は何やら大事な用事があるらしく、少女が迎えに来たのだ。

 

「おちゃとおかし、ごちそうさまでした!」

 

 温泉旅館を辞去し、二人はヌースと共に再び炎天下へ。

 蓮乃辺市までは電車で帰るので、最寄り駅まで仲良く歩く。

 

「はい。それでは再びお人形ごっこです。今度は上手くできるでしょうか?」

「もちろんですとも! おめいをへんじょうしますゆえ!」

 

 そうして駅に着くと、フィリアはリリエンタールに向かって朗らかに話しかける。

 公共機関に彼の事を説明するのは面倒なので、ぬいぐるみという(てい)にして電車に連れ込もうというのだ。

 リリエンタールを物扱いするのは気が退けるものの、箱に入れたりしては可哀想であり、また当人もゲーム感覚で楽しんでいるため、今ではすっかり常套手段になった。とはいえ、

 

「あ~わんちゃんだ!」

「ほ、ほむ!」

 

 乗り合わせた小さな女の子に話しかけられ、ついついリリエンタールは返事をしてしまう。それでなくとも人並み外れて好奇心の旺盛な彼は、車窓から見える景色に目を奪われたり、中吊り広告を声に出して読んでしまったりと、残念ながらぬいぐるみのふりを通せた試しがない。だが、

 

「この子、リリエンタールって言うんですよ」

「のわわ!?」

 

 と、フィリアは朗らかに微笑み、犬を女の子に紹介してしまう。

 元より改札を通るのが面倒なだけで、彼が他人と話す分には何の問題もないのだ。

 そしてまた、リリエンタールと言葉を交わした人々は不思議とみんな笑顔になる。彼を中心にして、魔法のように人の輪が紡がれるのだ。

 とはいえ、公共機関で大声での会話は厳禁。二人と子供は声を潜めてひっそりと会話を楽しんだ。

 程なくして、一同を乗せた電車は蓮乃辺市へと入った。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 改札を出た二人は駐輪場へと向かう。自宅のある庭崎町までは少し距離があるので、預けていた自転車で帰るのだ。

 

「ほああああ―!」

 

 リリエンタールの乗るフライヤー号は、兄が手作りした一品物の自転車だ。空のように青い車体を颯爽と駆って、犬が走り出す。

 とはいえ、車体は彼の体格に合わせてあるので、速度は精々、大人の早足程度である。後ろを進むフィリアはのんびりと、夏の風を頬に受けながら追いかけていく。

 

「みちははしっこをとおるのです。くるまにはきをつけて」

「はい」

「かどをまがるときは、みぎをみてひだりをみて、もういっかいみぎをみるのです」

「はい。承知しました」

 

 リリエンタールは道すがら、先輩風を吹かしてフィリアに道交法を教える。

 少女が自転車に乗れるようになったのはつい先日のことだ。始めはこの玄界(ミデン)独自の走行機械の不安定さに手を焼いたものの、元々運動神経の極めて良い彼女は直ぐにコツを掴み、十全に乗りこなせるようになった。

 

 一切の燃料を用いず、それでいて徒歩より遥かに楽に、遥かに速く移動できる機械に、フィリアは深い感銘を受けていた。

 大げさな話のようだが、自転車は玄界(ミデン)の文化や思想を象徴する存在なのかもしれない。自転車の優れた設計思想、運用法と比較すれば、近界(ネイバーフッド)の国々は如何に限りある資源を無為に使い潰していたことか。

 

 そして、自転車に熱い情熱を注いでいるのは少女だけではない。リリエンタールもまた、この機械の魅力に取りつかれた一人である。彼は最近ようやく補助輪が取れたので、走るのが楽しくて仕方ないらしい。

 フィリアとリリエンタールが仲良く自転車を走らせていると、

 

「あ、リリエンタールだ!」

 

 すれ違った子供が、二人へと声を掛けた。

 蓮乃部市にはこの喋る犬の存在を知る人も多い。街を歩いていると、皆笑顔で話しかけてくる。喋る犬など気味悪がられそうなものだが、日野家の両親の声望は非常に高く、リリエンタールのような不思議な存在も、日野博士が関与しているならと当たり前のように受け入れられている。

 

「ごきげんよう!」

「こんにちは」

 

 と、子供に元気よく挨拶する二人。

 ついでにフィリアも、表向きは日野博士が海外から連れてきた子供ということになっている。何か聞かれても博士の名前を出せばすぐに納得されるのだから有難い話である。

 

「ほひ、ほひ……」

 

 順調に帰り道を進んでいた二人だが、ふとフィリアはリリエンタールの息遣いが荒くなっていることに気付いた。

 年少の子供がそうであるように、彼はとても元気だが、特別体力があるという訳ではない。また背が低い分だけ路面からの照り返しも強く、よほど暑いに違いない。

 自転車を漕ぐのに夢中になっているが、このままでは熱中症になってしまう。そこで、

 

「ねえリリエンタール。少し休憩しませんか? 喉が乾いてしまいました」

「ふむ?」

 

 と、フィリアは自分から小休止を申し出た。

 二人は近くのコンビニに自転車を止め、店内へ。

 

「みんなには内緒ですよ?」

 

 そしてアイスキャンディーを二本買い、外のベンチで食べ始めた。

 

「おいしいですな~つめたいですな~」

「本当に、素晴らしい発明品です」

 

 リリエンタールはサイダー味の、フィリアはチョコレート味のアイスを舐めながら、満面の笑顔で頷きあう。

 ベンチは日陰になっていて、熱気も多少は和らぐ。自然に二人は雑談を始めていた。

 

「かいすいよくはとてもたのしかったのです! つぎにいくときは、うきわなしでおよげるようになってるのです」

「そうですね。海、とても綺麗でしたものね」

 

 話題は先週訪れた四塚市の海水浴場だ。リリエンタールも随分と楽しんでいたが、玄界(ミデン)の海に幼少から思いを巡らせていたフィリアにとっても、感慨深い体験となった。

 それからリリエンタールは、フィリアに今後の予定を朗々と語りだした。

 

「あきには山にいくのです。木があかくなったりきいろくなったりするので、フィリアもみるといいのです。すごいですぞ!」

 

 秋になれば紅葉狩り、雪が降れば雪合戦。春はお花見にピクニック。夜には星を眺め、祝い事にはケーキを食べる。

 希望と喜びに満ちたリリエンタールの言葉を、フィリアは目を閉じてじっと聞き入る。

 玄界(ミデン)も決して理想郷という訳ではない。しかしそれでも、彼らのような善き人は居る。彼らが力を合わせて勝ち取った、幸せな日々がある。

 

「でも、いまだにひかってしまうのはとめられないのです。フィリアにもめいわくをかけてしまって、めんぼくないのです」

 

 と、今後の抱負を語り続けていたリリエンタールは、いつの間にか自らの不思議な力について述べていた。その身に宿る「RD(リアライズデバイス)」が未だに制御できないと悩んでいるらしい。

 

「私は、リリエンタールの力はそう悪いものではないと思いますよ」

 

 と、フィリアが言う。

 日野家に厄介になってから、リリエンタールの不思議な力に巻き込まれたことは幾度となくあった。

 奇妙な世界に迷い込んだり、人の意外な一面を見ることになったり、テレビの中の登場人物と友達になったことさえある。

 少女の心が具現化した時のような途轍もない危機はなかったが、大概の場合イメージ体には常識が通じず、多少の危険を伴った。

 

 その度に、フィリアはトリガーを用い、日野家の皆と力を合わせて奮闘したものだ。

 しかし、それらの大変な経験も、終わってみれば人との縁を繋いだり、心を成長させたりと、良い結果ばかりが残るように思う。

 

「リリエンタールの不思議な力は、きっとみんなの素直になりたい心に、手を貸してあげてるんじゃないかな」

 

 少女は優しくそう語りかける。

 

 人の思いは、煎じ詰めればただの肉体活動に過ぎない。

 眼でみることもできず、それそのものは何の力も持たない脳の電気信号を、人は心と呼び称し、惜しみなく崇敬する。

 

 けれど、人々が至尊の宝物として扱う心の、そのあり方の何と儚きことか。

 ほんの少しの怪我で、病で、或いは不幸で、悪意で、まるで風に吹かれた花のように、人の命は簡単に消えてしまう。

 

 そして肉体が滅びれば、内にあった心も、最早誰にも語りかけることはできなくなる。

 だが、実体のない心を、リリエンタールは形を与えて現実へと生み出すことができるのだ。

 

 それは、心に命を与える力だ。

 

「私はあなたの不思議な力に救われたんだよ。いっぱい辛かったり、苦しかったこともあったけれど……それでも、生きていてよかったって、今は心から思えるの。

 ――だから、ありがとう。リリエンタール」

 

 と、フィリアは満腔から感謝の言葉を述べる。

 何時しか、太陽も西の空へと傾いてきた。蝉たちも昼の休憩を終え、再び喧しい鳴き声を響かせはじめる

 ベンチに腰かけた二人は、夏の爽気に吹かれながら暫し歓談の時を過ごした。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 二人が日野家へと戻ってきたのは、そろそろ夕方に差し掛かろうかという時刻である。

 自転車を仕舞おうと、母屋の隣にあるガレージへと進んでいく。

 

「あ、悪いけど自転車外に置いといて。後で中に入れとくから」

 

 と、ガレージの中からそう声を掛けてきたのはてつこだ。

 彼女はこの時間、拳法の鍛錬を日課としている。今も熱心に型稽古をしている最中だ。

 フィリアたちはてつこに帰宅の挨拶をすると、言いつけどおりガレージの前に自転車を並べて止める。

 

「それじゃあ、洗濯物を取り込みましょうか」

 

 と、フィリアがリリエンタールに声を掛けた。

 日野家で居候を始めた少女だが、無為徒食で過ごすのは収まりが悪く、自発的に家事を手伝い始めた。

 基本的に日野家の家事は兄の受け持ちなのだが、彼も多忙で、仕事や研究で度々家を空けることがある。そんな彼に変わって主婦業をこなすのが、最近の少女の仕事なのだ。

 

「そのぎ、わたくしめが!」

 

 と、元気よく答えるリリエンタール。

 彼やマリーもいい子なので、家の用事は積極的に手伝う。力仕事や上背のいる作業も、ごむぞうが助けてくれるので安心だ。

 フィリアは母屋に荷物を置こうと歩き出す。その時、

 

「あ~、ちょっと悪いんだけど、久しぶりに稽古に付き合ってくれない?」

 

 と、ガレージから首を覗かせたてつこが、少女に向けてそう言った。

 

「はい。それは構いませんが……」

 

 彼女がこのように自分から頼み事をするのは珍しい。しかも、フィリアの用事を遮ってというのは異例だ。思わず、その真意が那辺(なへん)にあるかを探ろうとする少女。すると、

 

「は! そうだった――あ、いやちがいますぞフィリア! せんたくものはわたくしめにおまかせを! てつこととっくんするといいのです」

 

 はたと何事かを思い出したらしきリリエンタールが、慌ててそんな事を言い出した。その奇妙な様子を見て、フィリアはサイドエフェクトで事情を察してしまう。が、

 

「わかりました。じゃあヌースも手伝ってあげて」

 

 と、少女は笑顔で空とぼけ、監督をヌースに任せて自室へと戻る。

 そうして運動着に着替え、髪を纏めるとてつこの待つガレージへ舞い戻った。

 

「約束組手ですか?」

「まだ体あったまってないでしょ。もう一回型からよ」

 

 と、二人は揃って拳法の型稽古を始める。

 出会ったばかりの頃は露骨に警戒していたてつこも、今ではすっかりフィリアと打ち解けていた。

 頑固ながらも心優しいてつこと、温和ながらも意志の強いフィリアはよく馬が合い、また同性で年頃も近く、共に武芸への造詣が深い事もあってか、二人はすぐに親密な友人となった。

 

 また、激闘を交わした縁から、双方が共にお互いの武術について教え合い、暇さえあれば二人して稽古に励むようになった。

 今回は、てつこの拳法修行にフィリアが付き合う番だ。

 

「――」

 

 気息を整え、骨、筋肉、筋はおろか、血管や神経にまで意識を張り巡らす。無意識下で行われる全ての肉体機能に、呼吸を、動作を連動させる。

 

 全身が一分の乱れもなく調和した働きを見せた時、肉体は想像を超えた膂力と速力を発揮する。鋼の如き拳足は岩盤をも打ち砕き、羽毛の如き軽やかさとなった身体は紫電の速さで動く。

 

 玄界(ミデン)は東洋に伝わる「気」の概念を用いた修練法は、しかし、フィリアが修めたイリニ流剣術とも相通じる教えがあった。

 

 トリオン体の運用を探求していけば、畢竟、辿りつくのは元となる肉体の操作法だ。人体の神秘を解き明かし、その真理を体得することで、初めて技は意味を成す。

 

「…………」

 

 細く静かに呼吸を整えながら、丁寧に套路を確認する二人。

 ゆったりとした動きだが、その内には深遠な威力と千変万態の変化がある。

 

 拳法を習い始めて僅か半年余りのフィリアだが、一芸は道に通ずるの境地に達していた少女は、すぐに全ての技とその要訣を会得した。

 だが、幾ら才気に満ちた少女でも、拳法の蘊奥を極めるのは簡単ではない。

 

「重心が前に掛かりすぎてる。気を付けて」

「はい」

 

 てつこに指摘されながら、フィリアは拳足を虚空へと舞わす。

 然程の運動量には見えないのに、少女の額には汗が浮かんでいる。歩法一つ、呼吸法一つとっても、疎かにはできない。

 

 そうして型稽古を終えた二人は、次いで約束稽古を始める。

 これは実際に人体を相手に技を仕掛けるが、事前に攻め手と受け手を定め、用いる技を取り決めた上での訓練である。

 

 この訓練で行われるのは、技の精密さと攻守両方における変化の確認だ。己の技をどのように決めるか、はたまた撃ち込まれた攻撃にどう対処するかを訓練する。

 

「もう一本、お願いします」

「何べんでもいいわよ」

 

 実戦さながらの気迫で稽古を行う二人。

 フィリアは勿論だが、てつこも相当に気合が入っている。

 元々裏山の向こうのおじいさんに拳法を習っていたてつこだが、残念ながら同年代の稽古相手には恵まれなかったので、こうして相手のいる稽古ができるのが嬉しいらしい。

 

 一通りの稽古を終えた二人は、小休止して水で喉を潤す。この後はいよいよ係り稽古、いわゆる組手である。

 

「じゃあいつも通りに」

「ええ。今日は勝ちますよ」

「十年早いわ」

 

 軽口を交わしながらも、二人の間に漂う空気が極度に緊迫する。

 勿論、本気で殴り合う訳ではない。打撃技は寸止めが前提。投げや間接技も決まったと判断した時点ですぐに止める。両者とも技量は達人の域に達しているので、万に一つも加減を間違えることはない。

 

 ただ、お互い武術に身を捧げ、研鑽を積んできた者同士、試合とはいえ手を抜く気はまったくない。積み重ねてきた年月と、己の誇りが掛かっているのだ。

 

「では、遠慮なく」

「さ、来なさい」

 

 互いに一礼すると、両者は疾風のように動いた、然して広くも無いガレージに、両者の影が縦横無尽に錯綜する。

 

 弾指の間に放たれる無数の拳打。その裏に何十手にも及ぶ変化が潜み、込められた勁力は計り知れない。これが試合であることを忘れてしまう程の鋭さだ。

 

 細緻にして苛烈な技の応酬が続く。しかし、その実二人は殆ど手を交えていない。

 同じ拳法を習得した二人は、当然相手の出方を知悉している。誘い技には目もくれず、本命の技のみを受け、捌き、躱す。

 

 熟練者の揮う技は結構が緻密で途切れることなく、寸毫も破綻がない。

 達人同士の戦いでは、隙のない処に如何にして好機を見出し、その一瞬を掴み取るかが勝敗の分かれ目になる。

 

 必然、二人の戦いは力での押し比べではなく、凄まじい集中力での先の読み合いとなる。

 

「――ッ!」

 

 数十手を過ぎたあたりで、徐々に形勢が傾いてきた。フィリアの足さばきがに乱れ始め、てつこの拳打を捌ききれなくなってくる。

 手の内を知っているとはいえ、練度には雲泥の差がある。研鑽を積み、至高の境地に達したてつこの技は、フィリアを確実に追い詰めていく。

 

「――!」

 

 拳法の実力は明らかにてつこが上。だが、フィリアは懸命に食い下がり続け、未だ有効打を避け続けている。

 少女が健闘を続けられるのは、新たに体得した技術故だ。

 

「――!」

 

 眼前に迫り来る横拳を、フィリアはまるで予期していたかのように紙一重で躱す。そして反撃の中段突きを放つも、てつこもその動きを予め知っていたかのように素気無く防ぐ。

 

 双方共に、相手の次の行動を読み切った上で、次の動作に対処する。連綿と紡がれる攻防は滑らかに回転する円のように、一息も止まることが無い。

 

 視覚に依らず、全身から放たれる気配を読むことで、対手の動きを先読みする技術。

 この技能が直観智のサイドエフェクトと合わさることにより、フィリアは対手が次に何をするのか、己がどう動くべきなのかを、ほぼ完全に知ることができるようになった。

 

 そして身体に染み込ませた武術は、意思に先んじて完璧な動作をこなす。筈なのだが、不慣れな拳法を用いているが故に、てつこの攻撃を凌ぐので精一杯となっている。そして、

 

「――っと、ここまでね」

 

 ガレージに鳴り響く電子音。

 予め取り決めていた試合時間が過ぎたことを、タイマーが報せたのだ。

 

「ふう。ありがとうございました」

「はい。ありがとう」

 

 両者は共に残心を解き、向き直って一礼する。

 全身が総毛立つように剣呑な立ち合いだったが、あくまで練習である。礼で始まり礼で終わるのが約束だ。

 

「今回は何とか凌ぎきれましたけど、随分危なかったです。いったい何時になったらてつこさんに勝てるのやら……」

「私も日々成長してるのよ。簡単に追いつけるなんて思わないことね」

 

 と、二人は息を整えながら先の試合の講評を始める。

 終始てつこに押し込まれていたフィリアだが、拳法を習い始めて半年余りしか経っていないことを鑑みれば、十分驚異的な進歩である。

 

 しかも、少女の本来の流儀である剣術は、この半年で更なる進化を遂げていた。

 新たに体得した拳法の技術が、イリニ流剣術の更なる蘊奥を極める助けとなったのだ。

 今のフィリアの技量は、父アルモニアにも比肩しうるほどだ。近界(ネイバーフッド)玄界(ミデン)どちらの世界でも、最高峰の剣士の一人に数えられるだろう。

 

「そういえば、てつこさんは何故そこまで真摯に拳法を修練なさるのですか?」

 

 鍛錬を終え、汗で濡れたガレージを掃除しながら、フィリアが問う。平和な地球人でありながら、なぜてつこが途轍もない技量を持つにいたったかが、純粋に気になったのだ。

 

「何、いきなり? ……うーん、別に理由なんてないわよ。強くなって困るものでもないし、少しづつ成長を実感できるのは嬉しいし。……後はまあ、うちはちょっと変な家だから、父さんと母さんの研究を狙ってくるような輩も沢山いたし。それでかしら」

 

 と、てつこが雑巾を絞りながら答える。そして、

 

「逆にあなたこそ、何で今も鍛錬してるの? そりゃあ、向こうの世界が大変な場所だったのは何となく分かるけど……地球に来たんだし、もう鍛える意味もないんじゃない?」

 

 とフィリアに問いかけた。

 少女は掃除の手を止め、僅かばかり考えを纏めてから

 

「……そうですね。最初の頃は、戦うのは嫌いでした。でも、父さんに剣を教えてもらっているときは、何故だかすごく楽しかったんです」

 

 切々とそう語りだす。

 

「何故なんだろうって、ずっと疑問だったんですけど――でも、最近になって、ようやく父さんが教えようとしてくれたことが理解できました」

「……それは、何だったの?」

 

 胸に秘めた思いを語る少女に、てつこが優しく問いかける。

 

「武術は、他人が居ないと成立しないんです。……相手がどこにも居なければ、そもそも剣を振るう必要も無い。けれど、人が暮らしていく中では、決してそんなことはありえない。必ずどこかで意見のすれ違いがあって、争いは起こってしまう。……武術は、そんな諍い制する為に編み出されたんです」

 

 でも、と話の穂を継ぎ、少女は清らかな微笑を浮かべる。

 

「だからと言って、相互理解を諦めてはいけなかったんです。怒りや憎しみから生まれた技術ですら、相手を知らなければ真価を発揮することはない。――なら、剣を振るうことでも、他者への理解を深めることができるんじゃないかって、そう思ったんです」

 

 フィリアが長年習得することの叶わなかった、父アルモニアの予知能力の如き先読み。

 その絶技が、対手への理解と信頼から生まれることに、フィリアは玄界(ミデン)に辿りついてからようやく気付いた。

 

 他者を排除するために生まれた、血塗られた技術。しかしその深奥に至るには、人を深く顧みなければならない。その事実に思い至った時、少女の心に清爽の風が吹いた。

 

「戦う事で、生まれる絆もあるんです。大切なのは、相手を思う心。――だってほら、てつこさんと腕比べをするのは、こんなにも楽しいですから」

 

 と、フィリアは莞爾として笑う。眩い笑顔に当てられたてつこは、

 

「はいはいそーね。あー暑い暑い。もう今日はさきにお風呂入っちゃいましょ」

 

 と、含羞を隠すかのように大げさに手で顔を仰ぐ。

 そして手早く掃除を済ませると、二人は揃ってガレージを出た。

 太陽はまだ燦々と輝いているが、時刻は既に夕方だ。二人は他愛も無い雑談を交わしながら、母屋へと入っていった。

 

 

 



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其の十二 正しい方法の探し方

 日陰の中とはいえ数時間も武道の鍛錬に励んだ二人は、すっかり汗みどろである。

 

「ごめん。私一階のシャワー使っていい?」

「構いませんよ。上まで着替えを取りに行かなくてはなりませんし」

 

 日野家には浴室が二か所ある。一階にある普通の浴室と、リリエンタールの不思議な力で作られた三階の温泉だ。温泉は広くて設備も整っているのだが、てつこはあまり入りたがらず、もっぱら家の風呂を利用している。

 

 フィリアの部屋は三階にあるので、少女は特に異論も挟まず階段を上がる。居間から何やら騒がしい音が聞こえるが、少女は務めて何も聞こえなかったように振る舞う。

 

 そうして自室で入浴の準備を整え温泉へ。

 昼は炎天下の中を歩き回り、夕方はてつこと鍛錬をしたので思いのほか汗をかいている。

 少女は自分の状態に気付くと、そそくさと恥ずかしそうに浴室へ急いだ。戦場暮らしをしていた頃は気にも留めなかったが、日野家に落ち着いてからは身だしなみにも多少気を使うようになった。

 

 そうして温泉に入った少女は、身体を洗い始めた。

 シャワーだけで、湯船には浸からない。もうすぐ夕飯の時間である。日野家は皆が食卓に着かないと食事を始めないので、余り時間を掛けてはいられない。

 手早く行水を済ませたフィリアは、部屋着に着替えて廊下に出る。すると、

 

「あ、もうゆうはんのしたくができたみたいなの。いっしょにいきましょう?」

 

 と、人形シャーロットを抱きかかえた幽霊少女マリーがそこにいた。

 どうやら夕食の準備ができたことを、態々フィリアに伝えに来たらしい。

 

「はい。お待たせしました」

 

 フィリアはマリーと手を繋ぎ、二人で仲良く階段を降りていく。そうして一階の居間まで来ると、

 

「…………」

 

 マリーがフィリアの手を離し、無言でドアの横へと移動した。まるで少女に扉を開けさせようとしているかのようだ。

 フィリアはその意図を察していたが、あえて気付かぬ振りをして扉を開ける。すると、

 

「おめでとう!」

 

 少女はパン、パンと鳴り響く破裂音に出迎えられる。

 居間に居たのは兄、てつこ、リリエンタールら日野家の面々に、春永家のゆきとさくら、黒服の紳士ウィルバーとロン毛、そしてヌースだ。

 彼らは手に手にクラッカーを持ち、フィリアに紙吹雪を見舞う。

 

「まぁ!」

 

 今日一日、日野家の面々が執拗に少女を居間に立ち寄らせようとしなかったのは、サプライズパーティーを開くためだったのだ。

 サイドエフェクトで展開を予期していたとはいえ、少女は驚きに声を上げる。

 

 部屋は紙の輪飾りや折り紙で賑々しく飾り付けられ、テーブルには兄が腕を振るった豪勢な料理にケーキが並んでいる。

 これだけの用意をするには相当な手間が掛かっただろう。おそらく前から少しづつ準備をしていたに違いない。そして、

 

「ささ、せきにつくのですフィリア!」

「今日の主賓はあなたですよ」

 

 と、リリエンタールとヌースが少女に着席を促す。

 

「えっと、ありがとう。……今日は、何があったのかな?」

 

 そうフィリアが問う。サイドエフェクトでパーティーの趣旨は把握しているが、勝手に話を進める訳にはいかない。すると、

 

「ほら、この間父さんたちが帰ってきた時、養子縁組の手続きをしたでしょう。正式に日野家の家族になったお祝いをしようって、リリエンタールが提案したんです」

 

 と、兄がから揚げをサーブしながらそう説明する。

 異世界人のフィリアが地球で暮らすにあたって、戸籍や身分証の類は組織に都合してもらった。だが、日野家の両親に面会し、身の上を説明するや、彼らは少女を正式に日野家に迎え入れてもいいと言い出したのだ。

 

 過分な申し出に恐縮し、一時は誘いを断った少女であったが、何度か話を持ちかけられた末、結局は好意に甘えることになった。

 つい先日、ようやく役所への手続きが住み、フィリアは晴れて日野の性を名乗ることができるようになったのだ。だが、

 

「ぁ…………」

 

 知っていても尚、実際に聞かされると身が打ち震え、咄嗟に言葉が出てこない。

 両隣に立つリリエンタールとマリーが、満面の笑顔で少女を見詰めている。

 身寄りのない己を家族として受け入れてくれただけではなく、これほど盛大な祝いの席まで設けてくれるとは。

 少女は改めて日野家の優しさと温かさに触れ、感動で胸がいっぱいになる。

 

「ありがとう、ございます!」

 

 瞳を潤ませ、少女が満腔から感謝の言葉を述べる。

 無事サプライズが成功したと見て、リリエンタールらは大はしゃぎだ。

 

 そうして、賑やかな食事会が始まった。兄が腕によりをかけて作った絶品料理の数々に、皆が舌鼓を打つ。

 会話もこの上なく弾み、自然と皆が笑顔を溢す。

 

 そして食事がひと段落すると、皆が席を立ってリビングに整列した。

 見れば、ロン毛がいつの間にかアコーディオンを手にしている。

 

「では、ここでおうたをきいてもらいたいのです」

 

 と、リリエンタールが音頭を取って、一同が合唱を始めた。

 食事や飾り付けだけでなく、余興まで用意していたらしい。

 

 歌はフィリアの道行を寿ぐような、希望に満ちた明るい曲だ。こんな催しには参加しそうにないてつこでさえ、含羞の色を浮かべながらも一生懸命歌っている。

 フィリアも思わず笑顔になり、手拍子を添えて鑑賞する。

 

「とっても素敵でした。私の為にこんな……本当に、嬉しいです」

 

 と、目じりに涙まで浮かべて喜ぶ。その時、少女の脳裏に閃くものがあった。

 

「あ、皆さん少し待っていてください!」

 

 少女はそう告げて居間を出るや、階段を軽やかに登って三階の自室へ。

 再び居間へと降りてきた彼女が手にしていたのは、一挺のヴァイオリンだ。

 

「私にも、お返しさせてくださいね」

 

 調弦しつつ、そう述べるフィリア。

 日野家の世話になり心の余裕を取り戻した少女は、奏楽の趣味を持つようになっていた。

 音楽方面への才能は人並みであったフィリアだが、熱心に練習をすることでそれなりに楽器を操ることはできるようになった。

 

 少女はヴァイオリンを構え、弓をつがえて一呼吸。

 そして奏でられるのは、軽快ながらも勇壮なメロディだ。

 

「――ふわ!」

 

 と、曲名に気付いたリリエンタールが歓声を上げる。

 フィリアが演奏するのは、彼が大好きなテレビ番組、ちょんまげ騎士(ナイト)のテーマソングだ。

 

「さあ、皆さんご一緒に!」

 

 笑顔で曲を奏でながら、少女が煽る。この番組は日野家で毎日流れているので、歌詞は皆が知っている。

 リリエンタールが早速歌いだし、兄やマリーもそれに続く。ゆきやさくら、紳士にロン毛も続き、てつこも仕方なしに小声で参加する。

 

 フィリアの演奏は未熟で、音を外すことも少なくない。けれど、少女は心底楽しそうに情感を音色に乗せる。

 賑やかな曲調も相まって、日野家の居間にはあっという間に大合唱が響く。宵の口とはいえ、ご近所に怒られないかと言う程だ。

 

「今日は、皆さん本当にありがとうございました」

 

 演奏を終えると、フィリアが改めて祝いの会への礼を述べる。だが、

 

「いやいや、まだまだこれからですぞ!」

 

 と、リリエンタールが鼻息荒くそう告げる。見れば、部屋の隅にはトランプやら何やら遊具が山のように置かれている。どうやら今日は夜更かしが許可されているのだろう。彼は限界まで遊び倒すつもりだ。

 

「……はい! それではご一緒します」

 

 興奮した様子のリリエンタールに、フィリアは微笑みを湛えてそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 途中でお風呂休憩を挟み、なお続いたフィリアを祝う会。それでも、家族と共に過ごす楽しいひと時は、あっという間に過ぎる。

 

 最初に限界が来たのは、人一倍はしゃいでいたリリエンタールだ。

 ボードゲームに興じていた彼は、突然電池が切れたように動作が鈍くなり、やがてうとうとと船をこぎ出した。

 

「そろそろ、御開きにしましょうか」

 

 と、フィリアが提案する。リリエンタールはまだ遊びたがるが、もとより聞き分けのいい子である。マリーもそろそろ眠たくなったと言うや、素直に床に就くことにした。

 

「さ、行きましょう」

 

 フィリアは子供二人を連れて居間を出ていく。

 遊び疲れた彼らを寝かしつけるのに、そう時間はかからなかった。

 何日も前からパーティーの準備に励んでいた疲れもあったのだろう。穏やかに寝息を立てるリリエンタールの姿は、実に愛らしい。

 

 そうして居間へと戻ってくると、既に後片付けは粗方済んでいた。

 春永家の姉弟も辞儀を述べて帰宅し、紳士とロン毛も今一度フィリアに祝賀を述べてアジトに帰る。

 

「リリエンタールたちはもう寝た? ありがとうフィリアさん」

 

 と、食器を洗いながら兄が言う。フィリアは手伝おうと台所へ向かうが、

 

「アンタも寝ちゃいなさいよ。後はあたしと兄貴でやっとくから」

 

 と、てつこがそう告げる。

 尚も渋るフィリアだが、今日の主役である少女を立てての発言だから、無碍にすることもできない。兄とてつこに深々と頭を下げ、少女は自室へと戻る。

 

 そうしてお風呂セットを用意すると、再び浴室へ。余興であれやこれやと体を動かした為、また少し汗をかいたのだ。

 さっとシャワーを浴びると、髪を乾かし寝巻に着替える。

 自室の鏡台の前に座った少女は、髪を梳かしながら化粧水を取り出すと、就寝前のスキンケアを始めた。

 

「それにしても、今日は本当に楽しかった」

 

 と、フィリアが呟く。

 

「実の所、サプライズは分かっていたのでは?」

 

 そう尋ねるのはヌースだ。

 

「まあ、そこが不便な所だね。……でも、嬉しかったのは本当だよ。私がこんなに幸せで、いいのかなって思っちゃうくらい」

「……あなたは、充分苦しみましたから」

「ううん。私はたくさん人を苦しめたから。だから、こんなに幸せだと、ちょっと怖くなっちゃうんだ」

 

 と、少女は何処か切なげな眼差しで、手元を見る。

 

「その傷、痕になってしまいましたね」

 

 ヌースが指摘するのは、フィリアの手に刻まれた線状の傷跡だ。随分薄れてきているが、引き攣ったような傷跡が生々しく残っている。

 精神世界での折、少女の罪悪感の化身によって付けられた引っ掻き傷である。

 

「これはこのままでいいの。私がどれだけ愚かだったか、見るたびに思い出せるから」

 

 と、フィリアはそう呟く。

 戦乱に疲れ、己の罪を嘆き、心の底から死を願っていたあの絶望の日々から、まだ一年も経っていないことに、今更ながら驚く。

 

 少女をここまで救い上げてくれた日野家の面々には、どれだけ言葉を並べても感謝の思いを表すことはできない。

 今では遠い過去の出来事に思えるような精神世界での出来事。

 

「そういえば……あの時はごめんなさい」

 

 そのことに思いを馳せていたフィリアが、ふと謝罪を口にした。

 

「何のことでしょうか?」

「私、酷いことを言っちゃった。約束を破ったって、サロスたちを助けてくれなかったって……あなたは、私たちをずっと護ってくれていたのに」

 

 問いかけるヌースに、そう答えるフィリア。

 自殺を思いとどまらせようとするヌースと口論になった際、口走ってしまった罵言を、少女は今更ながらに深く悔いているのだ。

 

「いえ……私が、あの子たちを護れなかったのは、事実ですから」

「――そんなことない! ヌースは命がけでみんなを助けてくれた!」

 

 自虐的に呟くヌースを、フィリアは懸命に擁護する。だが、

 

「私は、あの子たちを救うことはできませんでした。……だから、お願いしますフィリア。あなたは、私の前から居なくならないでください」

 

 と、ヌースは真剣な声でそう告げる。

 

「……うん。約束するよ。私は二度と、ヌースを置いて行ったりしない」

 

 フィリアは居住まいを正すと、愛する家族に決然と宣言する。

 お互いの決意を確認するように二人は微笑みを交わす。それから、少女は再び身支度を整えだした。

 

「そういえば、ヌースはこれが(ブラック)トリガーだったって、勿論知ってたんだよね」

 

 軽い雑談を交わすかのように、フィリアがそう尋ねる。

 彼女が言うのは、胸元に輝く銀の鍵に填め込まれた真珠の如きトリオン球についてだ。

 

「ええ。レギナが(ブラック)トリガーを残す瞬間に、立ち会いましたから」

 

 と、ヌースが神妙に応える。

 弟妹たちの贈り物にアルモニアが添えて渡したその珠こそ、フィリアの生母レギナが命を賭して創り上げた(ブラック)トリガーだったのだ。

 

「あの心の世界で、父さんや母さん、サロスたちが現れたのって、きっと……」

「確証はありませんが、おそらくそのトリガーの意思に反応したのでしょう」

 

 精神世界で窮地に陥った時に現れたイメージ体。それを生み出したのが、物言わぬトリガーであると二人は確信している。

 器物と成り果てても尚、子を思う親の心は確かにそこにあるのだ。

 

「私に教えてくれなかったのは、やっぱり知られると危なかったから?」

「ええ。アルモニアもパイデイアも、あなたを護るためにレギナのことは伏せておくべきだと考えていました」

 

 エクリシアの三大貴族の一つ、イリニ家の次期当主アルモニアと、ノマスで最大の権勢を持つドミヌス氏族の娘レギナ。

 この二人から産まれたフィリアは、生誕時から常に厄介な騒動を招き寄せた。

 

 アルモニアの父ディマルコは極端な排外主義者で、息子が仇敵ノマスの姫君を娶ることを絶対に許さず、またその血を引くフィリアも、庶子としてさえ認められなかった。

 それどころか、フィリアをイリニの家名を地に落とす忌子と断じ、秘密裏に配下の諸将を動員して暗殺まで企てたのだ。

 

「その過程で、レギナは(ブラック)トリガーとなりました」

 

 アルモニアとディマルコの確執は決定的なものとなり、配下の家々をも巻き込んだ凄まじいお家騒動が巻き起こった。当のフィリアは叔母に当たるパイデイアの手に委ねられ、追跡者の目を逃れるために貧民街へと逃げた。

 

 アルモニアはディマルコを郊外の本宅へと押し込めることに成功したものの、影響力は依然として大きく、配下の家々を統制するのにも長い時間が掛かった。

 前当主ディマルコが死没し、ようやくフィリアらをイリニ家に迎え入れることができても、アルモニアはなおも少女の出自を隠すことにした。

 

 酸鼻極まるお家騒動を経験した後では、少女を家に関わらせるのは危険だと考えたのだろう。それに、他の貴族からの詮索を躱し、市民の好奇の目から隠すこともできる。

 

「そっか……私はずっと、父さんたちに守られてたんだね」

 

 穏やかに、それでも万感の思いを込めて呟くフィリア。

 

「はい。アルモニアにパイデイアはもちろん、レギナも最後まであなたの身を案じ、幸せを願っていましたよ」

 

 ヌースが優しく同意する。すると、

 

「でも、その割にトリガーは全然起動できないよね」

 

 しんみりした空気を払うかのように、フィリアがそう言う。

 レギナの残した(ブラック)トリガーは、なんと娘のフィリアにも起動することができなかった。それどころか、国元でアルモニアが密かに調査した結果、適合者は誰一人として見つからなかったと言うのだ。

 

「まあ、多少変わった所のある人でしたので……」

 

 と、ヌースがそう取り繕う。如何にも奥歯に物が挟まったような口ぶりに、フィリアは思わず笑ってしまう。

 

「大丈夫、気にしてないよ。……たぶん、誰が起動するかじゃないんだと思う」

「どういうことですか?」

 

 真剣な面持ちで銀の鍵を見詰める少女に、ヌースが問う。

 誰にも起動することができない、否、まるで起動されることを拒否しているかのような(ブラック)トリガーに、如何なる秘密があるというのか。

 

「誰が、じゃなくて、何故起動するのか、が大事なんだよ。きっと」

 

 確信に満ちた表情でフィリアがそう言う。サイドエフェクトで何らかの事実を知ったのだろう。

 

「人物ではなく、行為で適合者を判定すると? そんなトリガーは記録にありません」

「でも、そうだと思う。きっとこのトリガーは、本当に必要な時には、力を貸してくれる」

 

 銀の鍵を手にして瞑目する少女は、どこか侵しがたいほどに神聖な気配を纏っている。

 

「……そうかもしれませんね。兎角、型破りな人でしたから」

 

 と、ヌースがどこか呆れたように同意する。そんな彼女の口ぶりに、フィリアはまたも笑みを溢すと、

 

「ねえ、レギナさん……お母さんって、どんな人だったの?」

 

 と、今まで頑なに避けてきた、生母の人となりについて尋ねた。

 

「そうですね。……いえ、少し待ってください。母親としての尊厳をなるべく傷つけないよう、話を纏めますので」

 

 至極真面目な口調でそんな事を言うヌースに、フィリアは声を上げて笑う。

 鏡に映る金瞳白髪の少女は、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。

 

 フィリアの人生を翻弄し続けてきた褐色の肌。

 何度となく呪いの言葉を吐きかけた己の顔が、少女はいつの間にかそこまで嫌いではなくなっていた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 祝いの席から数日後。八月も最後の週に差し掛かったある日。

 フィリアは昼下がりの居間で、リリエンタールと共に洗濯物を畳んでいた。

 

「むむむ……」

 

 小さな手を慎重に動かし、床に広げたTシャツを丁寧に畳もうとするリリエンタール。隣に正座するフィリアは、その様子を微笑ましく眺めながら手早く作業を進めていく。

 

「これが済んだら、てつこさんたちの陣中見舞いをしましょうか。お菓子と冷たいジュースを持っていきましょう」

「それはいいかんがえなのです!」

 

 てつこはマリーの部屋で、ゆきとさくらと共に夏休みの課題に取り組んでいる。三人とも聡明なのでそう苦戦はしていないだろうが、効率的な作業には息抜きも必要だ。

 

「ふんほ、ふんほ」

 

 と、リリエンタールはさらに懸命に洗濯物を畳み始める。

 マリーとヌースはてつこたちのお目付け役をしており、兄は仕事で外出中。一階にいるのは二人だけだ。

 

「ふふ。畳むのが上手になってきましたね」

「ほむ。だんだんこつがつかめてきたのです」

 

 と、フィリアはリリエンタールを激励しながら、自身も洗濯籠から新たな服を取る。

 とその時、居間に軽やかな風鈴の音色が響いた。

 

「少し、風が出てきましたね」

 

 換気の為に開けておいたガラス戸から清涼な風が吹きこみ、窓枠に吊るされた風鈴を鳴らす。

 チリンチリンと風雅な音に混じって、外からは蝉しぐれが聞こえる。

 何の変哲もない日野家の庭は、眩い日差しに照らされ光り輝いている。目を彼方に向ければ、そこには真っ白な雲が浮かんだ紺碧の空が。

 

「――――」

 

 ふと、フィリアは洗濯物を畳む手を止め、その景色を茫洋と眺めた。

 

 自分は今、澄明な幸せの中にいる。

 

 卒然と、そう思い至るフィリア。

 戦場で明け暮らした頃は勿論、貧民街で家族と共に暮らしていた時ですら、ここまで穏やかで心休まる日々はなかった。

 

 生きることに夢中で、何事も顧みることができなかった毎日。それに比べ、日野家で過ごす一日一日の、何と豊かで恵まれたことか。

 

「どうかしたのですかな?」

 

 突然動きを止めてしまった少女に、リリエンタールが訝しんで声を掛ける。

 

「――え? ああ、今日もいい天気だな、と思って」

 

 と、弁解し、再び洗濯物を手に取る少女。だが、

 

「ねえ、リリエンタール。……もし、自分が何か悪いことをしてしまって、贖う方法が、えっと、許してもらう方法が分からなかったら、どうしたらいいのかな」

 

 と、少女はぼんやりと、そんなことを口にした。

 戦場を渡り歩き、数多の人を不幸にした己が、こんなに幸せな暮らしをしていていいのだろうか。平生頭の中にあった疑問が、つい口から零れてしまう。

 

「……ま、まさか、なにかやってしまったのですかフィリア?」

 

 だが、リリエンタールは慌てたように尋ねる。少女が何か些細な失敗をしてしまったのかと早合点したらしい。

 

「あ、違うの、違うのよ。……例えばの話なの」

 

 深刻な話と取られないよう弁解するフィリア。するとリリエンタールは洗濯物を掴んだまま、

 

「それなら、すぐにあやまったらいいのです。ちゃんとあやまれば、むこうもいっかいおこってゆるしてくれるのです。……もし、ひとりでいくのがふあんなら、わたくしめもいっしょにあやまりますぞ」

 

 と、きょとんとした表情でそう言う。

 

「うん。そうだね。……でも、もし謝らないといけない人が沢山いて、顔も名前も分からない人や、もう二度と会えない人までいたら、どうすればいいんだろう」

 

 と、悄然と呟くフィリア。

 自らの心の闇と向き合い、己に託された家族の愛に気付いたことで、少女は生きる意思を取り戻した。

 だが、己が為した罪業が消える訳ではない。こうして日野家で穏やかな暮らしを享受し続けることが、正しい事だとはどうしても思えなかった。

 

 さりとて、果たしてどうすれば罪を贖うことができるのか。

 戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)で、生き残るために殺し合う国々。そんな世界に暮らす人々に、許しを請う術はあるのか。

 個人の力など、怒涛の如き戦火の前には塵芥にも等しい。果たして自分は、これから如何にして生きればいいのか。

 

 心の箍が緩んだのか、答えの出ない疑問をつい零してしまう。

 

「むむむむ……」

 

 見れば、リリエンタールも洗濯物を放りだし、顎に手を当て真剣に考え込んでいる。

 

「あ、ごめんね。困るよね。いきなり変なこと聞かれても……」

 

 と、フィリアが作り笑顔を浮かべて話を中断する。こんな話を彼に聞かせても、困らせるだけだと、今更ながらに自分の失言を恥じる。だが、

 

「ふむう……ちょっとまっててほしいのです」

 

 と、リリエンタールはそう呟いて立ち上がる。

 

「え、どうしたの?」

「てつこたちにそうだんしてみるのです」

 

 理由を問うフィリアに、さも当然の事のように答えるリリエンタール。

 

「がんばってかんがえてみたけれど、はずかしながらわたくしめではよくわからなかったのです。なので、みんなのいけんをきいてみるのです」

 

 そして、リリエンタールは小さな腕を名一杯に広げ、

 

「てつこやさくら、ゆきにマリーにヌース。かえってきたらあにうえにもきけばいいし、それでわからなければ紳士やししょうにもきくのです。みんなでかんがえれば、きっとめいあんがうかびますぞ」

 

 と、誇らしげに語る。リリエンタールは早速自らの案を実行に移さんと、ドアに向けて歩き出した。すると、

 

「な、なわ!」

 

 そんな彼を、フィリアが両手を伸ばして抱きしめた。

 

「ななななんですかなフィリア!? わたくしめはなにかへんなことをいいましたかな?」

 

 急に体の自由を奪われ困惑するリリエンタール。だがフィリアはしっかりと犬を抱きしめたまま、何も喋らない。

 少女は豁然と、己の不明を悟った。

 

 

 ――困難な事があれば、誰かを頼る。

 

 

 ただそれだけの答えに、どうして今まで気付かなかったのだろうか。

 

 フィリアの脳裏に、過去の出来事が次々と思い浮かぶ。

 母が生贄にされると知った時、何故嫌だと訴えなかったのか。パイデイアもアルモニアも、少女の事を深く愛していた。

 自分が泣いて叫んで思いを伝えれば、きっと別の未来を共に探してくれただろう。

 

 いや、それだけではない。己は何時も問題や感情を一人で抱え込み、誰にも打ち明けることなく独力で事態を打開しようとしてきた。

 

 己を友と呼んでくれた女性たちがいた。己を慈しんでくれた男性たちもいた。

 何故、彼らが差し伸べてくれた手を無視してしまったのか。

 何故、自分一人で残酷な世界に立ち向かえると考えてしまったのか。

 

 なんと傲慢で、どれほど愚かであっただろう。

 自分の事を心から愛してくれた家族でさえ、少女は頑なに頼らなかったのだ。

 

「ど、どうしたのです! どこかいたいのですか!」

 

 フィリアの胸元に埋められたリリエンタールの頭に、熱い雫が落ちる。

 少女の体が小刻みに震えていることに気付くと、犬は心配して声を上げる。だが、

 

「違う、違うの……」

 

 少女は犬を掻き抱いたまま、首を横に振る。

 

「私が、バカだったって、ようやく分かって……でも、それに気付けたのが、嬉しくて」

 

 自分は沢山間違えた。でもまだ、やりなおすことができる。

 それもこれも、生きることを選んだから。

 フィリアは随喜の涙を溢れさせながら、犬をより一層強く抱きしめる。そして、

 

 

「リリエンタールは、賢いね」

 

 

 泣き笑いを浮かべながら、そう囁いた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 その日の夜。日野家の面々は揃って夕食の準備をしていた。

 

「今日は頑張ったみたいだね。てつこ」

 

 と、料理を配膳しながら兄が話しかける。

 

「まあね。後は自由研究と日記だけ。っていうか、中学生にもなって日記ってどうなのよ。うちだと変な事ばっかり起きるから、あんまり書ける事が無いんだけど」

「ありのままを書いていいんじゃないかしら。あとから読みかえすと、きっとすてきだわ」

 

 と、ぼやくてつこにマリーがフォローする。

 

「わたくしめも、きょうはフィリアといっぱいかじをしたのですな!」

 

 リリエンタールも敬愛する兄に褒めてもらおうと、今日の頑張りを報告する。

 

「うん。みんなの服を頑張って畳んでいましたよ」

 

 と、裏付けしてやるフィリア。

 ヌースが細々とした事柄を兄に報告し、暫くして皆が席に着く。

 

「さて、それじゃあ今日もお疲れ様」

 

 と兄が声を掛け、食前の作法を取ろうとする。その時、

 

「すみません。皆様、少しお時間を頂けますか?」

 

 と、フィリアが急に声を上げた。

 

「え、どうしたのよそんなに改まって」

 

 居住まいを正して凛呼として述べるフィリアに、てつこが怪訝な表情で尋ねる。

 兄やマリー、それにリリエンタールは、何やら真面目な話があると背筋を正す。

 フィリアは隣に浮かぶヌースと視線で語り合うと、

 

「私、やりたいことができたんです」

 

 晴れ晴れとした表情で、新しい家族に向けてそう語り始めた。

 

 

 



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其の十三 界境防衛機関

 近界民(ネイバー)の侵攻を受けた三門市の東部地区。

 大学があり、以前は多くの人々で賑わっていた住宅街も、住民が退去した今は寒々しいゴーストタウンと化している。

 

 廃墟街の中央には、街の景観とは明らかに不釣り合いな巨大建造物が建っている。

 窓の殆ど無い直方体の建物は、長辺が三百メートルを軽く超え、高さも百メートル以上ある。まるでミニチュアの街に縮尺の異なる空箱が横たわっているような光景だ。

 

 その建物こそ、界境防衛機関ボーダーの本部基地である。

 基地内部には防衛部隊の訓練施設や、トリガーの研究開発室、報道関係者への対策室に、都市や国、企業などへの渉外担当部署がある。

 

 内部は広大で、務める職員の数も多い。

 そんな基地内の通路を、一人の男性が歩いていた。

 

 年の頃は十代の後半、つるが繋がったサングラスを首から掛けた、長身痩躯の若者だ。

 ようやく青年期に差し掛かったような年恰好だが、身に纏う飄然とした雰囲気と、何処か遠くを見ているような眼差しが、いやに老成した印象を与える。

 

 彼は迅悠一。ボーダーは玉狛支部に所属する防衛隊員である。

 窓のない広い通路を足早に進む迅。するとそんな彼に、

 

「お、今日はどうしたんだ?」

 

 と呼びかける声。支部に務める彼が、本部基地を歩いていることについて、誰かが疑問を投げかけたのだ。

 

「や、太刀川さんに風間さん。ちょっと会議に呼ばれててね」

 

 通路の角から現れたのは、くせ毛をした長身の男性と、鋭い目つきをした小柄な男性だ。

 彼らは本部に所属する防衛隊員、太刀川慶と風間蒼也である。

 

「どうした、また何か起きるのか?」

 

 と、興味津々といった風に歩み寄る太刀川。対して風間は至極冷静な表情で迅の様子を窺う。

 

「今度のはちょっと面倒そうで、もしかしたら太刀川さんたちの手も借りることになるかもしれない」

 

 と、軽い口調で迅が答える。

 

「何だ新手の近界民(ネイバー)か? 今度はどんな奴がくるんだ?」

 

 迅の曖昧な表現に、戦闘をこよなく愛する太刀川は、新たな強敵と会い見えることができるのかと興奮気味に尋ねる。

 だが、迅はのらりくらりと言葉を濁して質問を躱す。

 

「俺たちにまだ通達が来ていないということは、確度が低いか、情報を統制する必要がある話なんだな」

 

 と、風間が鋭い視線と共にそう尋ねる。

 太刀川と風間はボーダー本部が擁する最精鋭の防衛隊員である。

 ボーダーに危機が訪れると言うのなら、彼ら中核戦力には真っ先に説明があってしかるべきだ。それがまだないということは、事態は余程複雑なのだろう。

 

「まあ、まだちゃんと見えた訳じゃなくてね。これから上の人たちと話を詰める予定」

 

 と、飄々と肩をすくめて迅が答える。

 

「人手が要りそうになったら、改めて話が行くよ。頼りにしてるぜ二人とも」

 

 迅は冗談めかしてそう言うと、再び廊下を進み始める。

 

 何時しか彼の顔からは笑みが消え、抜き身の刃のように鋭く引き締まる。常に余裕を持ち、軽薄な態度を崩さない彼は、しかし内には堅い信念と重すぎる責任を抱えている。

 そうして本部基地を移動した彼は、大会議室へとやってきた。

 

「実力派エリート迅、ただいま参上しました」

 

 再び飄逸な仮面を被った迅は、軽口と共に会議室の中へと入る。

 テーブルには既に、ボーダー幹部たちが勢揃いしていた。

 

「遅いぞ迅! 貴様の方から招集しておいて遅れて来るとはどういう料簡だ!」

 

 と、開口一番怒鳴りつけるのは、目の下に隈のある、五十前と思しき小太りの男性だ。

 彼は鬼怒田本吉。ボーダーでトリガーや機材の開発を一手に引き受ける、技術開発室の長である。そして、

 

「それで、緊急を要する案件とはいったい何なのかね?」

 

 と、鬼怒田の叱責を引き継ぐように尋ねたのは、鷲鼻が特徴的な四十見当の男性、メディア対策室長の根付栄蔵だ。

 

「全員揃っての会議とは、余程の事態なのかい?」

 

 迅にそう問いかけるのは、煙草を燻らせていた三十過ぎの男、外務・営業部長の唐沢克己だ。

 

「いやぁ皆さんおそろいで。すみませんね遅れちゃって」

 

 対して、迅はあくまで飄々とした態度で会議室を見回す。

 

 他に列席しているのは、三十絡みの短髪の偉丈夫、ボーダー本部長兼防衛部隊指揮官の忍田真史。その隣に座る長髪の女性は本部長補佐の沢村響子。

 

 眼鏡を掛けた三十過ぎの顎ひげを生やした男性は、ボーダー玉狛支部の支部長、つまりは迅の直接の上司にあたる林藤匠だ。

 

 そして会議場の最奥に座るのは、左眉から左目に掛けて条痕が刻まれた四十見当の峻厳な男性、ボーダー最高責任者、本部指令の城戸正宗だ。

 

「本題に入ろう。迅、お前が見た予知を話せ」

 

 重々しい声で、城戸がそう問いかける。

 指令の発言に、会議場は水を打ったように静まり返る。

 迅はゆっくりと一呼吸を置くと、

 

「はい。ボーダーが無くなる未来が見えました。それも遠くない未来、低くない確率で」

 

 粛然とした面持ちで、衝撃的な未来予想を口にした。

 

「な――」

 

 驚きは誰の口から洩れたものか。

 迅悠一がただの防衛隊員にも関わらず、幹部会議に出席できるのには訳がある。

 

 彼が有するサイドエフェクトは「未来視」。目の前の人間の、少し先の未来が見えると言う超抜の能力である。

 

 この力を駆使し、彼は近界民(ネイバー)が襲来するタイミングや、起こり得る不測の事態を未然に察知し、ボーダー上層部に提言してきた。

 ボーダーが設立当初から大きな失点を侵すことなく運営してこられたのは、彼の予知による恩恵が大きい。

 

「何だと!? どういうことだいったい!」

「とんでもない話だよ。どんな経緯でボーダーが無くなると言うのかね!?」

 

 そんな迅の発言に、鬼怒田と根付が血相を変えて問い質す。

 比較的冷静な忍田と唐沢さえ、瞠目して言葉も無い。ただ、

 

「そりゃあれか迅、暫く前に話してた未来か?」

 

 と、林藤が意外そうな表情で尋ねる。

 

「以前報告のあった件か。だが、あれは無視しても問題ないと記されていたが」

 

 城戸が話の穂を次いで問いかける。

 

「私は何も聞かされていない。説明を願いたい」

 

 と、事情の分からない忍田が不信感を露わに問う。

 

「いえ、去年の終わりぐらいに、ちょっとそんな未来が見えたんです」

 

 紛糾しそうな気配を見せる会議室に、迅が務めて軽薄な風に口を挟む。

 

「ただ、ひょっとしたら、って程度の未来だったんで、あんまり騒ぎになるのもよくないし、ひとまず支部長経由で指令だけに伝えてもらったんです。詳しい事情が見えれば、追々対処するって事で」

 

 迅は一旦言葉を区切り、一同が落ち着きを取り戻すのを待つ。そして、

 

「けど、ここ数日で可能性が一気に上がりました。ひょっとしたら、から、かもしれない。って程度にまで」

 

 と、事態が急変したことを伝える。

 

「ただ、問題なのは何でボーダーが無くなるか、いまいち読み切れないことなんです。隊員や施設に大きな被害が出る未来もあれば、政治的な動きでボーダーが解散させられる未来もあって、原因が掴めない。未来の分岐点がいきなり現れたんです」

 

 動揺を防ぐためか、迅が平静な口調でそう言う。

 

「施設に被害が出るということは、近界民(ネイバー)の侵攻が一連の未来に関係するのか?」

 

 そう尋ねるのは忍田だ。だが、迅は頭を振って、

 

「それもよく分かりません。ボーダー以外に、市街地への被害は全く出なさそうで。けど、その場合でも外部の人間がボーダーの運営に関与してくるみたいです」

 

 と答える。

 

「何だそれは! 対処しようにも原因が何も分からんのじゃどうしようもないぞ!」

 

 鬼怒田が憤慨してそう怒鳴る。

 

「とはいえ、外部からの介入というのは気になりますねぇ。報道関係で特に突かれるような失点は今の所ありませんし……」

 

 と、根付が頭を捻る。

 

「うちも今のところ問題はないと思うが……国や企業からの干渉は上手く避けられているはずだ」

 

 政治向きの話となれば、外部との渉外を担当している唐沢の管轄だ。だが、彼も特に心当たりはないと言う。だが、

 

「う~ん……でも、契機になる話を持ってくるのは、やっぱり唐沢さんみたいなんですよ。可能性が上がったと同時に、唐沢さんに絡んだ未来が見えたんで」

 

 と、迅が申し訳なさそうな顔で言う。

 彼の未来視は、人物を起点にして発動する。

 会ったことも無い人間が関わる未来を知ることはできないが、見知った人間が関与すれば、断片的にでも未来を知ることができるのだ。

 

「それはまあ、確かに私の管轄の話だが……」

 

 いきなり話の確信に居ると告げられ、唐沢が微かに眉根を寄せる。あずかり知らぬ未来の話の責任を負わされて、流石に困惑しているのだろう。

 

「諸君。まずは原因を特定するのが先決だ。どんな些細な事でも構わない。何か異変があれば報告してくれ」

 

 と言って城戸が場を纏める。その後、一同はボーダー消滅の未来を防ぐための方策を話し合った。

 そうして意見が一通り出尽くした頃、

 

「――お、もう来たか」

 

 何事かを感じ取った迅が、ぽつりとそう呟いた。

 数秒後、会議室に響く携帯電話の呼び出し音。

 持ち主はやはり、外務・営業部長の唐沢だ。

 

「――ッ!」

 

 懐から携帯電話を取り出し着信画面を見た途端、唐沢の顔色が変わる。

 尚も成り続けるコール音を無視し、彼は城戸指令に向き直ると、

 

「「組織」の者からの連絡です」

 

 と、固い声音でそう告げた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

「組織、だと……」

 

 如何なる時も冷静沈着な城戸が、驚愕に目を開く。

 他の上層部の面々も、組織の名が出たことに驚きを隠せない。

 

「あの、組織ってなんなんですかね」

 

 と、只一人その存在を知らない迅が、上司の林藤の側に寄って小声で尋ねる。

 世界を股に掛ける非合法組織の存在について、ボーダー幹部は当然知っている。実際、ボーダーの設立や運営に当たっては、彼らから協力を取り付けたこともある。

 

 だが現在、組織とボーダーは互いに不干渉の立場をとることで合意している。日本地区統括支部長のシュバインとは秘密協定を結んでいるのだ。

 それが、今になって接触を図るとはどういう腹積もりなのか。

 

「……どうしますか指令」

 

 真意を推し量る間にも、コール音は鳴り続ける。唐沢は城戸に指示を請う。

 

「出たまえ。可能ならスピーカーに出してくれ」

 

 と、城戸が命じる。唐沢は頷いて電話を操作すると、

 

「やあ、久しぶりだな」

 

 と、リラックスした口調で電話に出た。

 

「ああ、元気にやってるよ。そっちは相変わらずのらくらしてるのか?」

 

 まるで気の置けない友人と話すような唐沢の口調。否、実際に見知った相手なのだろう。唐沢はボーダーに入るまで、件の「組織」に籍を置いていたのだから。

 

「ふむ。……いや、それは私の一存じゃ無理だ。丁度会議中でね。よければ上司と直接話をしてもらいたい」

 

 電話口で何事かをやり取りしながら、唐沢は目顔で城戸に確認を取る。そして了承が取れるや携帯電話を会議机に置き、スピーカーモードに切り替えた。すると、

 

「初めましてボーダーの皆様。(わたくし)はウィルバー。紳士ウィルバーと申します。どうぞお見知りおきを」

 

 丁重ながらも胡散臭い口調で話し始めたのは、組織の構成員の紳士だ。

 

「はぁ? 何を言っとるんだコイツは!?」

 

 思いがけない奇態な通話者に、鬼怒田が露骨に不快感を露わにする。

 唐沢は素早く電話に手をかざして通話を遮ると、

 

「変わった男ですが知性は確かです。ペースに呑み込まれないようお気をつけて」

 

 と、城戸に忠告する。指令が頷くと唐沢は手を離し、

 

「私がボーダー指令の城戸だ。君とは初めて話をするな」

 

 ボーダーと組織の秘密会談が始まった。

 

「ええ。初めて御意を得ます。(わたくし)のような末端が指令殿にお目通り叶うとは。やはり持つべきものは友人ですな」

 

 と、紳士は空とぼけた風に話す。

 

「……要件を聞こう」

 

 城戸は紳士の戯言には付き合わず、言葉少なに話を進める。

 組織が何を要求するのか、幹部の面々は固唾をのんで成り行きを見守るばかり。すると、

 

「ああいえ、そう大した話ではないのです。――(わたくし)共の友人が、ボーダーへの入隊を希望しておりましてね。口利きをお願いしたいのです」

 

 と、紳士は事も無げにそんな事を口にした。

 

「な――!!」

 

 列席する面々が驚愕に目を剥く。組織が息のかかった人間を送り込もうというのだ。これは明らかにボーダーへの干渉である。

 

「……それは受け入れられない。ボーダーと君らで交わした相互不可侵の約定に反する」

 

 城戸は盟約を立てにして冷静に申し入れを退けるが、内心はとうとう組織がボーダーに触手を伸ばしてきたかと、警戒を最大限に引き上げる。しかし、

 

「ああ、いえいえ。盟約は守りますとも。先ほど申し上げたように、その人物はあくまでも我々の友人で、組織の関係者ではありません」

 

 と、紳士は件の人物は組織とは無関係だと弁明する。

 

「何をふざけたことをぬかしおる! そんな話が信用できると思うか!」

 

 恍けた弁解を述べる紳士に、鬼怒田が怒気と共に吐き捨てる。だが、

 

「ふむ。お疑いもご尤もです。何せ組織は悪い事ばかりしていますので。……しかし、(わたくし)は紳士の中の紳士。虚言は絶対に弄しません」

 

 と、紳士は自身満々に断言する。

 余りに頓狂な口ぶりに一同は刹那の間呆けてしまうが、その後に嘲弄されたと感じ、猛烈な不快感を露わにする。だが、

 

「彼の言い分は本当です」

 

 と、唐沢が携帯を抑えながら、

 

「ウィルバーは奇特な男ですが、その信念故に組織に貢献し、地歩を固めました。奴に非礼な振る舞いをさせるのは、組織の上層部の人間でも不可能でしょう。……先の話、真実として受け取っていいかと」

 

 城戸に小声で説明する。

 組織の元同僚からの情報に、一同は平静さを取戻し、発言の意図を冷静に推し量る。

 

「ならば、尚更その話を受け入れる訳にはいかない。その友人とやらがボーダーに入隊を希望するなら、然るべき手続きを経て試験を受ければいい」

 

 と、城戸は紳士に正論をもって断りを入れる。

 スポンサーの子弟など、特殊な事情から入隊を考慮する例もないではないが、組織からの干渉を受け入れるつもりはない。少々の摩擦を生むことになったとしても、此処は突っぱねる一手である。だが、

 

「なるほど、理屈に適ったお話です。ですが、その友人には少々変わった事情がありまして……先にあなた方に話を通しておいた方が、後々の混乱を避けられると思いましてね」

 

 と、紳士がもったいぶった口調でそう言う。

 

「その事情とは、何かね」

 

 険しい表情で先を促す城戸。心中にははっきりと悪しき予感が生じている。すると、

 

「ええ、実はその友人は近界民(ネイバー)なのです」

 

 紳士はその直感が正しいとばかりに、そんな言葉を口にした。

 

「――!!」

 

 余りの衝撃に、幹部一同が暫し絶句する。

 

「――昨年末の小型艇か!」

 

 そしていち早く事態を結びつけた忍田が声を上げる。

 昨年末、警戒区域内に不時着した所属不明の小型艇は、搭乗者が未だ見つかっておらず、ボーダーは現在も捜索を続けていた。

 

 まさか、件の近界民(ネイバー)が組織と接触していたとは。

 幹部らは一様に焦燥の色を浮かべる。だが、

 

「……組織としても、ボーダーとの関係を悪化させるつもりはありません。今回の件はそれ故の提案です。日本地区統括支部長に確認を取ってもらっても構いません」

 

 と、紳士は先ほどまでとは打って変わって、真剣な声でそう告げる。

 

 組織が非合法な活動を行っているという先入観に引きずられてしまったが 冷静に考えれば、確保した近界民(ネイバー)をボーダーに引き渡すというのだから、明らかに協力的な動きである。別段、協定に反している訳でもない。

 

 入隊云々は方便、或いは揺さぶりで、近界民(ネイバー)の身柄と引き換えに、何らかの取引を持ちかけようというのだろう。

 ただ、組織は貪欲に利益を追求することで有名だ。あちらから話を持ちかけてきたのだから、十分な警戒が必要だろう。彼らは一体何を要求するつもりだろうか。そう訝るも、

 

「我々はあなた方との一層の友誼を結びたいだけで、他意はありません。どうかこの段、お聞き入れの程を」

 

 と、紳士は丁重な態度で申し入れを行うのみ。

 要は一つ貸しにしておく。との事だろうと納得した幹部たちは、ようやく愁眉を開く。

 

「承知した。その話を受けよう。後ほど此方から連絡する。委細はその折に」

 

 幹部たちが納得したのを見るや、城戸が紳士にそう告げる。おそらく近界民(ネイバー)は既に無力化されているだろうが、引き渡しは極秘裏に行わなければならない為、人員を選定する必要がある。すると、

 

「ああ、それはよかった。……ついでと言っては何ですが、(わたくし)共の友人はなかなか気優しい方でして、面接の際は、なにとぞ手心を頂けるようお願いします」

 

 紳士がぬけぬけとそんな要求をする。

 

「待ってくれウィルバー。近界民(ネイバー)の捕虜を引き渡すという話じゃないのか?」

 

 たまらず唐沢がそう問い質す。だが、

 

「はて? 何か誤解があるようすですな。先ほども申し上げたとおり、その近界民(ネイバー)は我らの友です。ボーダーに入隊を希望したのも、その近界民(ネイバー)自らの意思。我々は、友人を応援しているにすぎません」

 

 紳士はさも不思議そうな口調でそう述べた。

 

「――ッ!」

 

 先ほどまでの話が全て真実だと告げられ、幹部一同が慄然とする。

 すなわち、組織の後ろ盾を得た近界民(ネイバー)が、ボーダーへ潜りこもうとしているのだ。

 

「とはいえ、指令には申し入れを快諾していただき、感謝の言葉もございません。我々はこの恩義を、決して忘れることはないでしょう」

 

 そして紳士は改めて指令に謝辞を述べることで、決定を確固たるものとして扱う。

 

「…………」

 

 幹部たちは苦りきった顔をするが、強いては否定しない。理屈の上から考えても、この場は組織の申し出を呑まざるを得ないからだ。

 組織が件の近界民(ネイバー)をどう扱うつもりかは分からないが、万が一にも近界(ネイバーフッド)の情報が巷間に漏れれば大問題になる。

 

 それこそ、ボーダーの存続にも関わる凄まじい騒動が起きるだろう。

 結局、城戸は紳士の申し入れを受け入れ、今後の予定を軽く決めると、組織との通信を切った。そして、

 

「これがお前の言っていた、ボーダーの危機か?」

 

 と、控えていた迅に問いかける。すると彼は、

 

「そうみたいですね。……ただ、俺たちが選択を間違えなければ、この出来事は、案外良い未来に繋がっているかもしれませんよ」

 

 果たしてどんな未来を視たのか、飄逸な笑みを浮かべてそう言った。

 

 

 



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其の終 「フィリア」

 明けて九月の一日。その日は朝から三門市内の中等学校、高等学校で二学期の始業式が行われており、久々に顔を合わせる生徒たちで学校は大いに賑わっていた。

 

 だが、ボーダーの警戒区域周辺には寄りつく人の姿も無く、住民が去った宅地は閑散としている。

 そんな人気の絶えた街並みに、一台の黒いセダンがエンジンを掛けたまま停車していた。

 

 車内にいるのは、黒服に身を包んだ二人の男と、褐色肌の少女である。

 

「う~ん……むむむ」

 

 後席からルームミラーを覗き込み、顔を揉みながら百面相をしているのはフィリアだ。そんな少女に運転席に座るロン毛が、

 

「何やってるんスか?」

 

 と尋ねる。奇妙な表情をしている所を見られた少女は、

 

「あ、いえ……第一印象は、笑顔が大事。とのことなので」

 

 と、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに答える。

 

「案ずることはありませんよフィリア嬢。あなたが立派なレディであることは、この紳士が保証します。いつも通りに振る舞われれば、それで十分好印象でしょうとも」

 

 と、歯の浮くようなセリフを述べるのは助手席に座る紳士だ。

 

「……ですが、老婆心ながら助言を一つ。他者に己を認めさせるために必要なのは、利害得失や才覚だけではありません。真の信頼を勝ち取ることができるのは、赤心より顕れた誠実さのみです。ゆめ、お忘れ無きよう」

 

 そして紳士は、普段の飄然とした態度からは考えられぬ真剣さでフィリアに助言する。

 少女は言葉を胸に刻み込むように頷くと、

 

「はい。あの子にも、教わりましたから」

 

 花が綻ぶような笑顔でそう言う。

 

「おっと、流石は我がライバル。一歩先を行かれていましたか」

 

 と、紳士はにこやかに答える。

 

「そろそろ、指定された時間っスね。……本当に、おれらは付いて行かなくていいんスか? 後ろに居るだけでも、だいぶ違うと思うんスけど」

 

 時計を見ていたロン毛が呟く。すると、フィリアの隣にいたヌースが、

 

「組織の皆様には、仲介の労を取っていただき感謝の言葉もありません。ですが、あまり表だってあなた方との関係を見せつければ、ボーダー側も態度を硬化させるでしょう」

 

 と、会談への同席を断る。

 

「わかりました。あなた方の意思を尊重しましょう。とはいえ、(わたくし)共は友人に助力を惜しむつもりはありません。何かあれば、是非頼ってください」

「フィリア共々、重ねて謝意を表します」

 

 紳士とヌースがそう話す。

 ロン毛は静かに車を発進させ、目的地へ向けて廃道を進む。

 

 数日前、突如としてボーダーへ入隊したいと言い出したフィリアは、紳士たち組織の協力を経て、彼らに面談の約束を取り付けた。

 廃墟を進んでいけば、眼前には飾り気のない箱状の建物が見えてくる。ボーダーの本部基地へと続く地下通路の出入り口だ。

 

 その建物の周りには、十名余りの人間の姿があった。

 唐沢、忍田の他は、いずれも二十歳に届くかどうかといった年頃の男女たちである。彼らは不測の事態に備えて招集を掛けられたボーダーの戦闘員だ。

 直方体の建物の手前に車を止めると、少女に先んじて紳士とロン毛が降車する。そして、

 

「急な申し入れを聞き届けていただき感謝の極み。(わたくし)、紳士ウィルバーと申します」

 

 と、紳士は警戒感を隠しもしないボーダーの面々を相手に、いつもの飄々とした態度で挨拶をする。すると、

 

「どうも、私がボーダー外務・営業部長の唐沢です」

 

 一団から歩み出てきた唐沢が、ウィルバーと握手を交わす。

 

 顔見知りの彼らが他人行儀な振る舞いをするのは、非合法組織との繋がりを隠すためだ。唐沢が嘗て組織に所属していたことを知る職員は、上層部のほんの一握りだけである。

 ウィルバーも事情は心得ているので、当たり障りのない会話に留める。そうして二人が社交辞令を交わしていると、

 

「前置きはそこまでで結構。件の近界民(ネイバー)と引き合せていただきたい」

 

 と、ボーダー本部長の忍田が鋭く斬り込んだ。

 紳士の人となりを知る唐沢はともかく、忍田を含めたボーダーの面々は組織の行動に疑念を抱いている。彼らの思惑が知れるまでは、気を許すつもりはない。

 

「……承知しました。それでは」

「はい」

 

 車の側に控えていたロン毛が、紳士の手振りに応えて後席のドアを開ける。

 優雅な所作で車内から姿を現したのは、十六歳ほどの年頃をした白髪金瞳の少女である。

 

「――!」

 

 フィリアの姿を目の当たりにしたボーダー一同に、微かな動揺が走る。

 組織は諸々の策謀を警戒してか、実際に引き合せるまで近界民(ネイバー)の情報を一切明かさなかった。まさか入隊を希望していたのが、防衛部隊員らと同世代の少女だとは思わなかったのだろう。

 

 清冽な美貌の少女が、黒服に促され一同へと歩み寄る。と思いきや、少女はつと足を止めると、首を動かして三方の虚空へと視線を送った。

 

「――ッ!!」

 

 防衛部隊の面々に、先にも倍増しの衝撃が走る。

 

 フィリアが視線を送った先は、ボーダーが配備したスナイパーの狙撃地点なのだ。

 潜ませた狙撃手を一瞬で見抜いた眼力。少女の技量がただ事ならぬことを悟った防衛隊員たちは、一様に気を引き締める。

 だが、フィリアは隊員たちの警戒が強まったことには気付かぬように、凛呼とした挙措動作で一同に歩み寄ると、

 

「皆様初めまして。日野フィリアと申します。本日はお時間を割いていただき、ありがとうございます」

 

 透き通るような笑顔で挨拶する。

 

「……面会希望者は二名と聞いていたが」

 

 堂々たるフィリアの態度に、しかし忍田は毛ほども動じることなくそう尋ねた。

 

「ええ、その通りです」

 

 忍田の鋭い視線を悠然と受け流し、紳士がロン毛に目顔で命じると、車両の後席から浮遊体が現れ、フィリアの傍らへとやってきた。

 

「私はこの子のお目付け役、ヌースと申します。どうぞよろしくお願いします」

 

 突如現れた新型のトリオン兵に、ボーダー隊員が即座に臨戦態勢へと移る。自律型トリオン兵は近界(ネイバーフッド)でも稀であり、彼らがその存在を知らないのも無理はない。が、

 

「……承知した。ボーダーは両名の訪問を歓迎する」

 

 忍田は片手を上げて兵を押し留める。経験豊富な指揮官は、少女らに敵意が無いことを即座に見抜いたのだ。

 

「さっそくボーダーの司令に会っていただこう。だが、その前に武装解除に協力していただきたい」

 

 と、忍田が申し入れる。

 

 本部に近界民(ネイバー)を招き入れる以上、敵意の有る無しに関わらず武器は取り上げておかねばならない。事前に会談の条件として提示してあるが、果たして素直に応じるかどうか。

 フィリアがポーチを探ると、ボーダーの隊員たちの緊張も最高潮に達する。

 

「はい。それではお預けしますね」

 

 目に見えて警戒心を強めた隊員たちに囲まれながら、しかし少女は悠揚迫らぬ態度で小さな風呂敷包みを取り出す。

 包みを解けば、トリオン製と思しき半透明のケースが出てくる。その中には、指の爪ほどの大きさをした多数のチップが入っていた。フィリアが近界(ネイバーフッド)の各地で手に入れたトリガーである。

 各国の軍事技術の塊であるトリガーを、少女は惜しげも無く忍田に預ける。のみならず、

 

「…………」

 

 フィリアは己の襟首に手を回し、鎖の留め具を外すと、胸元からペンダントを取り出す。

 真珠のようなトリオン球の填まった銀の鍵には、細く優美な指輪と、無骨なシグネットリングが隣り合うように結え付けられている。

 フィリアは楚々とした所作でペンダントを掌に載せると、一拍の間を置いてそれを忍田へと差し出す。

 

「これら三つは(ブラック)トリガーです」

「な――」

 

 少女の説明に、然しもの忍田も瞠目する。

 

 (ブラック)トリガーは近界(ネイバーフッド)において、国力の指標の一つとして位置づけられる戦略級の兵器だ。余程の大国であっても所有数が十に届くことは殆ど無く、ボーダーが有するのは二本のみである。

 その超抜のトリガーを、この少女は個人で三本も所持しているというのだ。

 

「私の持っているトリガーはこれで全てです。ヌースは性質上、完全な武装解除はできませんが、ご了承いただけますか?」

 

 恬然と尋ねる少女に、忍田は首肯して答える。(ブラック)トリガーを手放した以上、問題を起こす気は無いと判断していいだろう。

 近界民(ネイバー)撃退を事業理念とするボーダーに全ての武装を預けるなど、ともすれば愚行とも取られかねない剛胆さだが、その裏には深遠な策謀が巡らせてある。

 

 成り行きを見守っている黒服の男たちがそうだ。彼らが立ち会っている以上、少女に危害を加えることはできない。

 彼女が組織と如何なる関係にあるかは不明だが、仮に少女の身柄を押さえ、トリガーを取り上げたとすれば、面子を潰された組織は必ずや報復にでるだろう。

 

 大胆な行動の裏には、それに足るだけの保険を掛けている。

 清冽な印象からは想像もできない強かさに、忍田は胸中でフィリアへの評価を上方へと修正する。

 

 そしてまた、フィリアもボーダーの精強ぶりには内心驚かされていた。

 くせ毛をした長身の若者に、鋭い眼光をした小柄な男性、筋骨隆々たる男性に、勝気そうな少女。居並ぶ面々は何れも劣らぬ猛者揃いだと、武人として研ぎ澄まされた少女の感覚が教える。

 

 別けても格段に手練れなのが、先ほどから応対している忍田本部長だ。

 おそらく彼の腕前は達人級だろう。近界(ネイバーフッド)の如何なる国でもエースを張れる技量を持つに違いない。

 

 ボーダーは設立からまだ間もないと聞いていたが、これほどまでに多士済済であるとは思いもしなかった。

 玄界(ミデン)の技術力、発展の目覚ましさに、フィリアは目を見張ると同時に安堵する。彼女の新たな家族が住まうこの場所は、優秀な兵に守られているのだ。

 

「確かに、トリガーは預かった。それでは本部に案内しよう」

 

 武装解除が住むと、フィリアとヌースは忍田に導かれて地下通路の入口へと進む。

 隊員たちは随行しない。少女と幹部らの会談は、完全な密室で行われる。

 少女は隊員たちの鋭い視線に曝されながら、忍田の背を追う。その時、

 

「――ッ!」

 

 フィリアのサイドエフェクトが、突如何事かを囁いた。

 驚愕と共に顔を上げた少女は、一人の男性隊員とはっきりと視線が合う。

 

「君は……」

 

 少女と同じく驚いた様子でそう呟くのは、ブリッジ部のないサングラスを首から下げた若者、迅悠一だ。

 未来視のサイドエフェクトを持つ迅は、少女と直接対面したことで様々な未来をはっきりと視たのだろう。

 そして同じく超抜のサイドエフェクト直観智を持つフィリアも、この青年の特異な人生をまざまざと感じ取った。

 

「…………」

 

 たっぷり十秒余り、互いを凝視する迅とフィリア。

 

「どうした、迅?」

 

 流石に訝った忍田が声を掛ける。果たして何か悪い未来でも見えたのかと、目顔で迅に問う。だが、

 

「ああいえいえ。あんまり美人さんだったんで、見惚れちゃったんですよ」

 

 と、青年は軽口を叩いて答える。常と変らぬ飄逸な態度に、一先ず危険は無いものと忍田は密かに安堵する。

 

「まあ、お上手ですね」

「いやいや、見たままを言っただけだよ」

 

 と、フィリアと迅はまるで知己のように親しく言葉を交わす。二人の間だけは、場を包んでいた剣呑な空気が跡形も無く消え失せている。

 

「私こそ、足を止めてしまって申し訳ありません。それでは」

 

 と、会釈して忍田の後に続こうとするフィリア。すると、

 

「ええ。それじゃあ()()

 

 と、迅がにこやかにそう答える。

 忍田、唐沢に連れられ、フィリアとヌースは地下通路へと進んでいく。

 彼女を送迎した黒服の男たちも、いつの間にか忽然と姿を消していた。

 

 残されたボーダー隊員たちは、打ち合わせ通りに解散する。ともあれ、最大の懸念であった近界民(ネイバー)との武力衝突は避けられたのだ。だが、

 

(ブラック)トリガー持ちとはな。忍田さんには怒られるだろうけど、一回ぐらいやりあってみたかったな」

 

 不満そうに迅へと話しかけるのは、防衛隊員の太刀川だ。

 生粋の戦闘好きの彼は、フィリアと手合せできなかったのがさぞ悔しかったらしい。

 

「大丈夫。そのうち機会はあるよ」

 

 と、迅がそう言って太刀川を宥める。

 

「お、また何か見えたのか?」

 

 未来視のサイドエフェクトを知る太刀川は、興味津々といった風に問いかける。

 迅は詳しい事柄こそ何一つ語らなかったが、

 

「あの子は頼もしい味方になるよ――おれのサイドエフェクトがそう言ってる」

 

 にやりと飄逸な笑みを浮かべてそう答えた。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 長い地下通路を抜け、昇降機で本部の建物へ。

 

 トリオンでできた無機質な通路を、忍田と唐沢に挟まれるようにしてフィリアとヌースが進む。

 通路が歪な形をしているのは、随所で隔壁を降ろしているからだ。

 

 屋内戦への備えではなく、ボーダー隊員たちとフィリアの接触を避ける為だろう。

 隊員たちはいずれも若年で、学生が多い。始業式が行われる今日に会談を指定したのも、基地内の人の数を減らすためだと思われる。

 その甲斐あってか一同は誰にも遭遇することなく、上階の大会議室まで何の問題も無く辿りついた。

 そして、会議室の扉が開かれる。

 

「初めて御意を得ます。日野フィリアと申します。どうぞ、本日はよろしくお願いします」

 

 居並ぶボーダーの幹部、城戸、鬼怒田、根付、林藤、沢村らに向けて、少女が嫣然と笑みを送る。爽やかな言葉遣い。物腰には微塵も気負いは無く、彼女が近界民(ネイバー)であることさえ忘れてしまいそうなほどに自然な振る舞いだ。

 

「私がボーダーの指令、城戸だ」

 

 だが、城戸は冷厳とした顔貌で少女を出迎える。

 忍田と唐沢が席に着くと、幹部連中が順次自己紹介をする。フィリアは恭しく一礼して、勧められた席へと腰かけた。

 

「ボーダーに入隊したいとの申し入れだが、まずは君自身について、いくつか質問がある」

 

 重々しい態度で城戸が口を開いた。

 ボーダー幹部たちは、フィリアの来歴について質問を始めた。

 組織は徹底して情報を開示しなかったので、彼らは少女に関しての予備知識を全く持ち合わせていない。これでは事の是非を議論する事さえできないのだ。

 

「はい。……私は近界(ネイバーフッド)の国の一つ、聖堂国家エクリシアで生を受けました」

 

 質問を予期していた少女は、予てから考えていた通り、己の来し方を淡々と話し出す。

 

 日々の暮らしに困窮しながら、それでも愛する家族と過ごした貧民時代。

 (マザー)トリガーに捧げられる母を救うため、軍に身を投じた貴族としての日々。

 家族を失い、祖国にさえ裏切られたエクリシアとノマスの大戦争。

 戦乱渦巻く近界(ネイバーフッド)を傭兵として漂泊し、安住の地を求めて玄界(ミデン)へとやってきたこと。

 

 少女の口から紡がれる、死と破壊に満ちた壮絶な半生。

 感情を排した語り口せいで、居並ぶ面々は少女が体験したであろう憎悪と悲嘆の程を、我が身のように想像してしまう。

 

 フィリアが己の長い人生を語り終えると、会議室は深閑としてしわぶき一つ立たない。

 

「……その、なんだね。君が世話になっとる日野という家は、蓮乃辺市の日野博士のことかね?」

 

 誰もが少女に掛ける言葉を考えあぐねている中、鬼怒田が妙に気遣わしげにそう尋ねてきた。

 フィリアが首肯し、日野家について常識的な範疇の話を伝えると、

 

「おお、やはりあの御夫婦か!」

 

 鬼怒田は満面に喜色を浮かべる。同じ研究畑の人間として、世界に冠する日野夫妻のことは当然知っているのだろう。

 フィリアに仄かな親しみを見せる鬼怒田。彼には別居している幼い娘がいるので、悲惨な境遇の少女に思わず同情してしまったのだろう。だが、

 

「……一先ず、君が我々と敵対した国との関わりがないことは信じよう」

 

 と、城戸はあくまで明らかとなった事実に即してのみ話を進める。

 

「しかし、君が「組織」と繋がりを持っていることは甚だ不穏だ。どういった経緯で彼らと接触したのか、詳しく教えてもらいたい」

 

 少女が直接地球に危害を加えた近界(ネイバーフッド)の国々と関係がないと知るや、城戸は組織との繋がりについて追及してきた。

 

「……組織の事に関しましては、先ほどもお話しした通りです」

「偶然構成員と知り合った、という話を信じろというのかね」

 

 まさかリリエンタールにまつわる騒動を話す訳にもいかず、少女は地球に来てからの経緯を取り繕って説明したのだが、城戸は納得しなかったようだ。

 

「ならば、仮にボーダーへの入隊が認められなかった場合、君はどうするつもりかね?」

 

 と、冷徹な眼差しで城戸が問う。組織のひも付きをボーダーに入隊させる気はないと、暗に示しているのだ。

 

「……その時は、他の縁を頼るより他ありません」

 

 硬い面持ちで、フィリアがそう答える。

 

「な――我々を脅すつもりかね!?」

 

 そう気色ばんだのは根付だ。

 

 近界(ネイバーフッド)に関する諸々の情報を独占しているからこそ、ボーダーは存続を許されている。仮に少女が組織へと流れ、近界(ネイバーフッド)の情報が巷間に漏れれば、ボーダーはその存在理由を一瞬で失いかねない。

 まさに迅が予知していた通り、ボーダーが無くなるかどうか瀬戸際の問題なのだ。

 

「まあまあ。組織については先に確認した通り、今までの方針を改めるつもりはないようです。これ以上追及するのは無意味でしょう」

 

 険悪になりかかった空気を払しょくするように、唐沢がそう発言する。

 ボーダーが組織と交わした盟約については、日本地区統括支部長のシュバインから改めて一札を取っている。ボーダー側が余りに無体な振る舞いに及ばなければ、組織との関係は安泰だ。

 

「いいだろう。この件は不問にしよう。だが、入隊に関してはいくつか条件を付けさせてもらう――まず一つ。君の持つ三本の(ブラック)トリガーを、ボーダーに供出してもらいたい」

「な――」

 

 城戸の提案に、思わず声を上げたのは忍田だ。

 先ほどから冷静に会談を見守っていた彼は、総司令が過酷に過ぎる要求を少女に突き付けたことに瞠目し、抗議の声を上げようとする。だが、

 

「はい。承知しました」

 

 フィリアは慫慂と、城戸の提示した条件を受け入れる。

 

「――君はそれでいいのか!? 話を聞けば、それらの(ブラック)トリガーは君の御両親と、育ての親の形見だろう」

 

 あまりに超然としたフィリアの態度に、忍田が訝しげに問う。すると少女は、

 

「家族が残してくれたのは私の命ですから、きっと怒らないと思います。……ただ、あまり粗略には、扱わないでくださいね」

 

 と、どこか達観したよな、穏やかな表情でそう言う。

 

「ッ――」

 

 健気な少女の言葉に、鬼怒田は感に堪えないといった風に言葉を詰まらせる。

 

「ただ、それでしたら、こちらからも要求を出させていただきたいと思います」

 

 そしてフィリアは、城戸に決然とそう告げる。

 提示した条件は三つ。

 

 一つは日野家への不干渉。

 組織から聞いたところでは、ボーダーは記憶を消去する手段を持っているらしい。如何なる名目であったとしても、世話になった日野家に干渉することは絶対に許さない。この件に関しては組織も同じ立場をとっているとフィリアが言う。

 

 二つ目は、フィリアとヌースの安全と権利の保証。

 異世界人たる少女には切実な条件であり、明文化を求める。特に自律トリオン兵のヌースを、知性ある人間と同様に扱ってほしいとの事。

 

 そして最後の条件は、殺害命令への拒否権。

 少女は近界(ネイバーフッド)で繰り広げられる死と破壊から逃れる為に玄界(ミデン)へと来た。これ以上、自らの手を血で染めるつもりはない。ボーダーからの命令には従うが、間接的にでも人命を損なう命令には決して従わないと告げる。

 

「…………」

 

 少女が提示した三つの条件を、城戸は額に指を当て無表情で検討する。だが、

 

「それぐらいなら、呑んでもいいんじゃないですかね」

 

 と、それまで聞き役に徹していた林藤が、軽い口調で賛成票を投じる。

 実際の所、フィリアの提示した条件は、三本の(ブラック)トリガーに比べれば釣り合いが取れないほど容易な案件だ。城戸が渋っているのは、只のポーズに過ぎない。

 

 少女の提示した条件はすぐに受け入れられ、後はボーダー入隊に際しての細かな条件の打ち合わせがなされた。

 とはいえ、フィリアは既に日本での戸籍を得ているため、難しい話は何もない。程なくして、少女は無事にボーダーへの入隊を承認された。

 

「そう言えば、まだ聞いておくべき話があった」

 

 会談も終わりに差し掛かろうかとしたとき、不意に城戸がそう切り出した。

 

「思えば最初に尋ねるべき事柄だった。……君は近界(ネイバーフッド)の戦乱を厭い、地球へとやってきたのだろう。亡命は無事に成功した。にもかかわらず、君は安楽な生活を捨て、ボーダーの門戸を叩いた。君は一体、ボーダーで何を為そうというのかね」

 

 と、城戸が真剣な表情で問う。

 フィリアはその質問に暫し瞑目し、頭の中で考えを纏める。

 

 近界(ネイバーフッド)の夜の海に漂う国々は、人の命を燃料にして進む箱舟だ。

 定員の限られた船の中で、人々は日夜怯え、或いは怒りを抱いて暮らしている。

 

 箱舟には人も物も、決まった分量しか積むことはできない。

 欠乏は恐怖を産み、恐怖は憎悪を産み、憎悪は殺戮を産む。

 

 システムとして完成された殺戮の連鎖に、少女は自ら望んで足を踏み入れ、そして全てを失い玄界(ミデン)へと逃げ込んだ。

 

 日野家の人々と出会い、少女は確かな浄福を得た。けれど、果たして酸鼻極まる近界(ネイバーフッド)から、己は目を背けたままでいいのだろうか。

 

 多くの人から計り知れない愛情を受けて生きてきた自分が、誰にも何も返すことなく、安寧の日々を過ごすことはできない。

 

 何時か、ドジで優しい友人が言ったことを思い出す。

 こちら側とあちら側。そう境界を引いてしまうから、他人が恐ろしく見えるのだと。

 本当は、誰もが手を取り分かり合えるのではないかと。

 

 それが許さないのは、世界の理が人の血を求め続けるからだ。

 ならば、己が本当に抗うべき、戦うべき相手は、命に選択を強いる世界そのものではないか。

 

 

 

「私は……私は、近界(ネイバーフッド)から争いを無くしたい」

 

 

 

 今、万感の思いを込めて、フィリアが言葉を紡ぐ。

 

 それはリリエンタールたちに救われた少女が抱いた、新たな願い。

 家族が夢見た尊い理想が、長い長い回り道を経て、ようやく少女にも理解できた。

 

 ()()()()()()の直中で、非戦論を説く愚かさは承知している。

 

 それでもきっと、この願いは間違っていない。きっと、この選択を後悔しない。

 一人では絶対に無理だ。でも、誰かにこの思いを伝えることができたなら、誰かが共に道を歩んでくれたなら、この手で掴めるかもしれない。

 

 世界を変革する、きっかけ(トリガー)を。

 

 

「誰も傷つかず、誰も泣かなくて済むような、そんな未来が欲しいんです。……もちろん、簡単な事じゃないのは分かっています。出来るかどうかなんてわかりません。けど、それでも私は一歩を踏み出したい。

 ――私は、世界を平和にしたい!」

 

 

 そして少女はこの場所で、一つの夢を見た。

 

 

 

 

                   WORLD TRIGGER Beyond The Border 第一部 完

 

 

 

 



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あとがき

 発売日を、指折り数えて待つ漫画がある。

 すっかり大人になってしまった今でも、読むたびに心が躍る作品がある。

 賢い犬リリエンタール。そしてワールドトリガー。

 葦原大介先生が描かれる素晴らしい世界は、いつも私に感動と活力を与えてくれました。

 

 本作 WORLD TRIGGER Beyond The Border は、葦原先生の病気療養中、深刻なワートリ欠乏症に苛まれた私が、半ば逃避で書いた作品です。

 

 最初は鉄板のボーダートリガーのオリジナル構成を妄想。次に、あんなトリガーやこんなトリオン兵があったら面白いな。それが進むと、近界(ネイバーフッド)はどんな世界なんだろうか。と、順を追って妄想が過熱。メモ帳がどんどん膨らんでいきました。

 

 並行して原作漫画と解説本、アニメを何度も見続けるうちに、矢も盾もたまらなくなって執筆を開始した。という次第です。書いててなんですが、断酒日記みたいなもんですねこれ。

 

 創作はまったくの初体験、それどころか文章すらまともに書いたことがなかったので、最初は人様に見せるつもりもなく、完全に自己満足の為だけの暇つぶしでした。

 

 そうして五章まで書き上げたところで、葦原先生の御病気が寛解し連載が再開。

 私も無事にたしかなまんぞくするようになったのですが、折角書いたものをハードディスクの肥やしにするのももったいないかな、と思い、こうして皆様のお目を汚すことになりました。

 

 書いていてやりすぎと思うような設定も多々あり、原作が進めば齟齬も出てくると思われますので、どうぞ、その時は指をさして笑ってやってください。まあ、こんな妄想が生まれてしまうのも、ワールドトリガーの懐が深い証だと御海容くだされば幸いです。

 

 

 さて、フィリアの旅路は、これで一時閉幕となります。

 第二部以降の話。ボーダーでの日々と、原作で起きた様々な事件、そしてエクリシア、ノマスとの因縁の決着も頭の中におおまかな構想はあるのですが、何分憶測の上に妄想を積み重ねたような作品ですので、これ以上原作のイメージを損なわぬよう、暫く筆をおきたいと思います。

 

 

「厳しめの世界」で、如何に「正しい方法」を見つけ出すか。

 

 執筆にあたりテーマに据えたのは、私がワールドトリガーで最も感興を覚えた言葉です。

 未来を掴み取る手段を、そしてそれを為し得る人々の心を、如何に描けばいいのか。

 その疑問に答えをくれたのは、同じく葦原先生の著作、賢い犬リリエンタールでした。

 

 天の時も地の利も、人の和には如かず。不条理な世界を覆し得るのは、人の心の有り方のみ。

 思いだけでは力に勝つことはできない。しかし、前に進み続ける意思があれば、或いは。

 

 才智溢れるが故に孤独であった子供が、長い彷徨の果てに他者を頼ることを知る。

 全てを失った人間が、それでも己が何者であったかを知り、再び前を向いて歩き出す。

 本作のメインストーリーは、そんな風に出来上がりました。

 

 たったそれだけを書くのに文庫本換算で六冊分もかかってしまい、苦笑するばかりです。

 実は手段の方にも私なりの解を用意し、既に伏線は作中に張ってあるのですが、はてさて回収できるかどうか。キャラクターたちのその後共々、いつか続きが書ければと思います。

 

 

 原作キャラは出ないわ、読みにくい上に量だけやたら多いわ、一体誰がこんなの読むのか自分でも不思議な小説でしたが、蓋を開けてみれば、思ってもみなかったほど多くの皆様にお読みいただくことができました。

 丁重な感想を頂戴し、またマイリスト、評価、誤字報告をくださり、まことにありがとうございました。本作を無事に完結させることができたのは、偏に皆々様のお蔭です。

 

 あらためまして感謝の意を述べさせていただきます。

 これまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。

 

 これからも創作は趣味として続けていこうと思いますので、いつかまたどこかでお目にかかれることを楽しみにしています。

 

 それでは、葦原大介先生の御病気平癒と、ワールドトリガーのより一層の発展を心より祈って。

 

 

                                         抱き猫

 

 

 

 

 



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