虹の彼方に、フェアリーテールの祝福を (在田)
しおりを挟む

プロローグ:鳥は羽ばたき、産声があがる ~birds_fly , birth_cry~


 透き通るような青い空を、ぎらぎらと太陽の光が貫いている。

 空の地平線ぎりぎりにはうっすらと白い月が剥がれ落ちそうで、その地平線の隙間から一つ、鉄の塊がぬっと姿を見せた。

 

「ヘリ確認。いつもどおりのコース」

 

 アオバの隣で、アオバよりも年上のお兄さんが双眼鏡を覗きながら気の抜けた声を出す。

 

『了解した。あと数時間で交代だ。気を抜くなよ』

 

 手に持つ通信装置から、ケーブルを通じて声が届く。

 

「気ぃ抜いてなんかいねえよ。なあ?」

「だね」

 

 縁に頭をつけて力を抜いた姿勢を取るお兄さんに、アオバは気楽に返事する。

 アオバは西の方へと向かっていくヘリにばれないように、今いる陰った蓋の裏から顔を出した。

 

「あんま顔出すなよー」

「わかってるよ」

 

 からかう声へ反発するように返す。

 すぐ手前には第十八号水路が見えた。その向こうには田畑が、さらに向こうには、そこまで高くないビル群も見えた。

 見上げれば突き刺すように眩しい太陽の光。その周囲を、弧を描いて飛んでいる、鳶だか鷲だか鷹だか。

 

 そして月の隣に、ホクロみたいな小さな黒点が見えた。

 〈クレイドル〉だ。

 風が熱気を吹きつけてくる。暑さはあったけど、何より風が気持ちよかったから、アオバもお兄さんも良い顔をして浸る。

 

『アオバ。いるか。アオバ・シラギシ』

「はいはい。いるよ」

 

 いつもは滅多にないはずの、向こうからの連絡にお兄さんが顔をしかめたけど、声がそこまで緊張しきっているものではないとわかったら、また双眼鏡を目元から遠ざけて、だらだらとヘリを眺めていた。

 

『お前は今すぐ降りてこい。交代をそっちに送る。今すぐ操作室に来い』

「操作室? 遠いな……後じゃダメ?」

 

『今回は良い方の連絡だぞ』

「そうとわかれば!」

 

 アオバは勢いをつけて、蓋の下にある階段へそそくさと降りてしまう。

 

「それじゃ、お先に」

「うるせー。とっとと行けガキんちょ」

「ガキでけっこー」

 

 いつにも増して上機嫌なアオバの背中を見送って、お兄さんも肩をすくめた。

 

 かんかんかん、と響くのはアオバの足音だった。

 第二立坑。巨大な円筒上のトンネルが縦長に伸びていて、内側に取りついているサビだらけの階段を、アオバは勢いよく降りていく。

 降りる度、夏の熱気が遠ざかっていく代わりに、じめじめした湿気と一緒に、無造作に積み上げられた仮設住居群が近づいてくる。少しだけ鼻に入りこんでくる生ゴミみたいな臭いを、外から降りる度に実感してしまうことが好きじゃなかったけど、今は気にしている場合じゃなかった。

 

 なにせ、まだ細かいことは聞いていないけれど、でも確かに良いことがあるらしいのだ。期待せずにはいられない!

 

 すぐさま底までたどり着いたアオバは、今度は横に延びるトンネルへと足を運んだ。

 真ん中にはレールが走っていて、ちょうど来ていたトロッコにアオバも乗りこんで、トロッコは走り出す。

 すぐ横でおばさんたちが「飛び乗るなんて」とアオバへ軽く諭すように叱りつけたけど、でもアオバは「はーい」と答えるだけ答えて、言われた中身はもう頭から捨てていた。

 トンネルから開けた場所へ出る。とても広い空間だけど、青空の下ほど開けた場所じゃない。コンクリートの天井がとんでもなく高くにあって、同じ間隔で並べられた図太い柱の隙間へひっかけるようにハリボテみたいな住居がちらほらと見える。そこから何人か人が行き交っている姿もあった。

 さらにトロッコを乗り継いで巨大空間の反対側についたら、今度は長く真っ直ぐな階段が見える。

 アオバはひょいひょいと登っていく。ここに来ると人の数はぐっと減って、階段は一気に静かになる。

 たったったっ、とコンクリートの階段を登りきって、アオバはさらに横にある螺旋階段を登った。

 

 てっぺんは少しだけまっすぐな廊下があって、奥にあるドアの前で一人の男が佇んでいた。

 

「来たか。ずいぶん早いじゃないか」

 

 先ほど通信で聞こえてきた声と同じ声。

 

「まあね」

 

 ニッと笑顔を浮かべながら両手を頭の後ろで組んで、アオバは誇らしく伸びをした。

 

「それで、良い連絡って何さ?」

 

 アオバよりも大きな男……ケンジは少しだけ屈んで「ゆっくりと入れ。音を立てるなよ」と囁きながら、ドアを開けた。

 言われるがまま中に入って、ちょうどその部屋の奥にいる白衣を見つけたと同時……。

 

 大きな泣き声が部屋中に広がった。

 あまりにも大きくてびくりと体をこわばらせる。でもゆっくりと白衣はそれへ向かっているし、何よりアオバの知っている白衣の人物はこんな風に泣くはずがないから、アオバは白衣の背中に近づきながら、白衣に隠れて見えないものを覗こうと前屈みになった。

 泣きやみそうになく、むしろだんだん大きくなっている泣き声が響いている。

 

 アオバがそれを見つけた瞬間に、それこそ時間が止まってしまうかのような驚きが、さっきの泣き声なんかよりも何倍も激しい勢いで迫ってくるのを感じた。

 

 泣き声をあげているのは女の子だった。

 まだ子供のアオバよりも、さらに小さな女の子。

 アオバが今より小さかったころと寸分違わない、記憶と全く同じ女の子。

 

 ずいぶんと長く……アオバが生きてきた人生の三分の一という膨大な時間もの間、ずっと、ずっとアオバは、この瞬間を待ちこがれていた。

 動かなかったあの子が――止まっていた時間が、ようやく動き出したんだと実感できて、涙が溢れてきそうだった。

 

 タオルケットをかけられているだけだからか、ちょっとでもその子が動くとすぐに肌が見える。

 女の子がやがて、両手を伸ばして白衣を掴んだ。泣き声が洋服にくぐもったからか、少しだけ静かに感じる。

 

 それからの時間は、長かったのか短かったのかわからない。だんだんと泣き声が小さくなって、その度に白衣をくしゃくしゃにしていくのを、アオバも白衣の人物もただただ黙って見つめていた。

 やがて静かになった時に、白衣を着た人――アリスがその子の背中をさすって、ゆっくりと起こしてあげた。

 

 瞼から滲んでいる涙を拭って、その子は自分を見下ろすアリスを見上げて、自分の周りを見渡して、その奥にいるアオバを見つけて、最後に自分の両手を見つめて、ふと言葉を漏らした。

 

「わたしは、誰?」

 




※基本的な誤字脱字だけは直していますが、それ以外は2014年執筆当時のままとなっています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1話:ここにはいない ~No_where~
1-1


 ポケットから出した紙切れを、アオバは目の前にいる女の子に見せる。

 

「ほら、キオ。わかる?」

 

 何だろう? とでも言いたげに、女の子……キオ・イチマツが写真を覗きこんだ。

 写真に写っているのはアオバとキオ。

 今から五年以上は前になる写真。夜に、大きな公園で、二人そろって花火をしている写真。

 確かにちょっと暗いけど、それでも、写っているのがアオバとキオだということは覚えている。その時に二人がどんなことを話していたのかもしっかり覚えていたし、この写真を見る度に思い返すことができた。

 

「……これ、わたし?」

「そう。覚えてる?」

 

 写真に写っているキオを、今のキオが指さす。そしてアオバが首を縦に振った。

 ばっさり短く切られた明るい茶色の髪。青色の瞳。アオバよりも白い肌。桃みたいにちょっと赤みのある頬。

 ――写真に写っているのと全く同じ姿のキオ。確かに、首に黒い輪を巻いていてその後ろから太めのヒモが伸びているし、大きくてゴテゴテしたヘッドフォンが耳を隠しているけど、でもそうじゃない部分は、キオは全く変わっていない。

 

「うーん」

 

 キオは思い出そうとして人差し指を唇の下に当てて右上を見つめて……ゆっくり、一つ一つの音を確かめるように発音した。

 

「わかんない」

 

 そんなキオより高くなっている目線を、屈んで同じぐらいにして、アオバはキオの頭を撫でる。

 

「そっか。覚えてないか」

 

 何度となく確認したことでも、アオバはその度に、固くて大きい、石のような重いものを飲みこむような衝撃をこらえきれなかった。

 それでもアオバははにかんで、写真をしまう。

 あの時にキオは、写真を撮ったあとすぐに火が消えてしまった花火を見つめて「花火よりもいっぱい光ったから花火がびっくりして消えた」と言っていた。アオバは「まだ花火あるよ」と言い返して、まだ消えていない自分の花火じゃなくて、新しい花火を取りにテントへ向かう、キオを見ていた。

 

 こんなことを覚えているのは、アオバだけだった。

 こんな些細な会話とかだけじゃない。学校も、他のクラスメイトも、担任の先生も、一緒に作った雪だるまも、お雑煮に何が入っているのかも、お花見で泥だらけになって怒られたことも……キオは全部全部、忘れてしまっていた。

 キオの頭から手をどけて、アオバはどっと座りこむ。天井に囲まれた地下空間の、コンクリートの床に。

 

「アオバ、髪固いね」

 

 お返しとばかりにキオがアオバの頭に手を乗っけるけど、それはアオバの手よりも断然小さくて、撫でているというより叩いている感じだ。

 

 ――アオバとキオは、同い年だった。

 同じ年の、同じ月に生まれた幼馴染み。

 でも今は違う。同い年なんかじゃない。

 アオバは今年で十六歳。今は十五歳だ。

 でもキオは、今年で十一歳になる。

 

 

 

 それは五年以上……あと少しで六年目になるぐらい、前のことだった。

 宇宙に、世界最高の通信サーバー衛星〈クレイドル〉が打ち上げられたことが世界中のニュースになっていた時期。

 ほぼ同じ時刻、ほぼ同じタイミングで、全世界にあるほぼ全てのコンピュータがハッキングされるという、歴史で最も大規模な同時多発サイバーテロが起こった。犯人も、犯人でなかったとしたら原因も、さっぱりわからなかった。

 というより、それを探し出す余裕なんてなかった。

 

 核ミサイル、核じゃないミサイル、インターネットに繋がっていた戦車も戦艦も戦闘機も、全部操られて……結局、世界中がどうなったかなんて、確認することはできなくなった。

 無線などでインターネットに接続している装置なら、パソコンでも携帯電話でも、どれか一つでも持っていたら、世界のどこかからその操られた兵器たちがやってくるという噂が流行って、みんなが捨てたから。

 せっかくの大規模通信衛星だったのに、それをまともに使える日がやってこなかったことを嘆く大人たちが居たことをアオバは覚えている。

 

 世界なんてあまりにも広すぎるものを、アオバも、大人たちも、その細かいところまで知っているわけじゃない。

 だから海の向こうの国々がどうなっているかなんて全くわからないし、同じ陸が続いていても、ちょっと離れた場所に行くことは怖くて、みんなできなかった。

 

 だから、ミサイルなんて飛んできていない……そう思うことだって、アオバはできたかもしれない。

 でもそうじゃなかった。ミサイルかどうかはわからないけど、とにかくものすごい熱さを持った爆発を、アオバは知っている。

 

 ……それは、あの花火の夜。

 キオがテントへ歩き始めた、ちょうど次の瞬間。

 テントも、公園を取り囲んでいた街並みも、全部まとめて吹き飛んでしまったのだから。

 

 それで、アオバは大人たちに引っ張られるがままに地上を歩き回って、この地下空間にみんなで引きこもった。地下なら電波は届かないし、通信機能を持っている機械があるわけじゃない。

 爆発に巻きこまれてボロボロになったキオも一緒に運ばれたけど、誰もどうしようもなくて……。

 結局キオは、今の今まで、透明なガラスの中で凍らされてしまった。

 

 

 でも今、キオはあの時のまま、アオバの頭を叩いて髪をくしゃくしゃにしている。

 きっと傷が治ったんだとアオバは思う。五年もあったんだから、きっと治る余裕もあったんだと。

 アオバは立ち上がって、キオより高い視線から見下ろす。まだ叩き足りなかったのか、キオは両手を目一杯伸ばしてアオバを見上げていた。

 さらにお返しでキオの脇に手を入れて一気に持ち上げて……。

 

「うっ」

 

 さすがにちょっと重くて、すぐに降ろした。

 高い高い、とやりたかったけれど、アオバはまだそれができるほど大人じゃない。でもアオバは大人になりたくなかった。キオがこんなに小さいのに、自分だけキオを置いてけぼりにするのが嫌だった。

 

「できなかった? わたし、重かった?」

「そうじゃないよ。僕がヘナチョコだったんだ」

 

 アオバのことを覚えていないのは確かにショックだったけど、それでもキオとまた一緒に、同じ時間を過ごすことができる……そのことが、とても、とっても、嬉しかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1-2

 大人たちは忙しなく動いているけれど、アオバにはやることなんてない。

 毎日が夏休み。宿題もない。学校もない。そんな日々。全部で五つある立坑と巨大空間を行き来しても、同じように大人たちが動いているだけ。

 学校で一緒だった友達もいないし、お父さんとお母さん以外に知っている大人はケンジとアリスぐらい。

 

 だからずっと、ほとんど、アオバより年下の子供たちも、年上の人たちも居たけど彼らには友達が居て一緒に遊んでいて……アオバもそこに混ざりたいと思っていても、なんだか、混ざろうとすることはできなかった。

 寂しいというわけじゃない。だって誰かと一緒に居る間は、その誰とでも話すことはできたし、名前だって覚えてもらっている。たまに年下とも年上とも遊ぶことがあるけど……それでもどこか夢中になれるわけじゃなかったし、夢中になっている彼らを見て、アオバは一緒に遊んでいても、独りぼっちを実感していた。

 

 でもキオが目覚めてからは、ちょっとだけ違う。

 確かにもうキオとアオバは別の年になったけど。

 確かにもうキオはアオバを忘れてしまったけど。

 

 それでもアオバの知っているキオが一緒の空間に居るんだと思えるだけで、そのちょっとだけが格段に違った。

 これまでの、ぽっかりと何もしてこなかった五年間が嘘のように、アオバは毎日キオに会いに行っている。

 年中いつも、透き通った風が通らないだだっ広いトンネルも、どこか変わったように思えた。

 

「君はまるで、お茶会へ急ぐ兎だな」

 

 アリス・イチマツは、キオのお母さんだ。

 アリスという外国の名前の通り外国人で、金髪と、青い瞳と、元々真っ白だったのに、この日に当たらない地下生活でさらに真っ白な顔。薄い青のシャツの上に白衣。

 そしてアリスは、いつも地上のインターネットから隔離したパソコンばかりが並んでいる操作室に引きこもっている。

 

 キオがアオバの知っているキオだった頃には、外国で同じように暮らしていたらしい。だからアオバは、あの花火の夜の一日か二日か前までアリスを知らなかったし、キオ自身もよく覚えていなかったんじゃないかと、アオバは思っている。

 でも今は違って、アリスはキオといつも一緒にいる。そりゃ親子なんだから当然だとも思ったけど、でもどこかしっくりしなかった。

 ……というより、アオバはアリスが嫌いだった。

 

「残念だったな少年。今日から多少、キオは誰とも会えない時間ができる。リハビリみたいなものさ」

 

 アリスは大人たちの中でもずっと頭が良いらしい。だからいつもパソコンをいじっているんだと思っているけど、そんなアリスの言葉がアオバには難しく聞こえて、しかもアリス自身はなぞなぞを問いかけるのが楽しそうに、その喋り方をやめないし、話もやたら長くて、余計難しく思える。

 

「今日からって、ずっと?」

「さてな。それはキオにもよるし、私の都合でも左右されるだろう。だが短くない期間であることは否定できない。尽力はするがね」

「じゃあ、ずっと会えないの」

 

 外国の人だからか、他の大人たちよりもずっと高いところにある頭をアオバは見上げる。アリスは少しだけ口元を緩めた。

 アリスの言葉に驚いたアオバがちょっとだけ涙を見せたことが面白かったのかもしれないけど、アオバは全然面白くなかった。

 

「そんなことはないさ。繰り返すが、一日の中で会えない時間ができ、それが毎日続くだけだ。そうだな……今日の正午過ぎにでもまた来れば、キオとは会えるさ」

 

 言葉の途中で腕時計を見つめて、アリスは言う。

 

「そういうわけで、失礼するよ」

 

 操作室の前まで来たのに、アリスは簡単にドアを閉めてしまった。

 ……考えてみれば、アリスも大人なんだから、他の大人たちと同じように忙しいのかもしれない。

 でもアリスと一緒にキオが忙しいことはわからなくて、でもそれを聞く相手はもうドアの向こうに行った。

 とぼとぼ階段を降りていく。巨大な地下空間からこの操作室のある場所まで続く階段はとても長くて、登るだけでも疲れる。その向こうにキオがいると思えば楽しかったけど、そうじゃないならこんな、長いだけの階段を登るなんてめんどくさくてたまらなかった。

 

 アリスの言うことは……アリスじゃなくても大人の言うことは、だいたい正しいことなんだというのは、わかっているつもりだ。

 だからきっと、あんなに元気に動いていたキオも、アリスがリハビリだと言ったんだから、まだどこかリハビリが必要なところがあったんだろうと思い直す。

 そして巨大空間に行き着いてすぐに、どこかからか声が聞こえた。

 

「おーい、アオバー」

 

 顔をあげてその声を探す。こんなに広くても地下だから声は反響する。だから遠くの声と近くの声を聞き分けることはできても、よほど近くない限り、どの方向から飛んできたのかを判別することは難しかった。けど、前から手を振りながら小走りで近づいてくる、アオバよりも一回り大きな青年の姿があって、アオバもそれに近づいた。

 名前を覚えてくれているお兄さん。アオバは名前を覚えていないけど、顔は覚えているお兄さん。

 

「どうしたの?」

「今から外に行くんだ。回収班さ。行くか?」

 

 お兄さんが指差す方向には、何人かが集まって、空の袋を持っていたり、ぺしゃんこのバッグを背負ったりしていた。

 外……この見慣れた地下空間じゃない、空が明るくも暗くもなる地上のこと。

 朝ご飯は食べたけど、まだ昼ご飯の時間じゃないぐらい。だから外は明るいはずだし、風が通り抜けていく地上は、いつも行きたい場所だった。というより、こんなじめじめとした地下にずっと暮らしていることが、アオバは嫌いなのかもしれない。

 だからアオバの返事は決まっていたし、すぐに声に出せた。

 

「わかった。行くよ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1-3

 アオバの知らない場所が広がっていた。

 元々知らなかった街だけど、ぽっきり折れたビルとか、地面に転がって光らない信号機とか、ぐしゃぐしゃに潰れた自動車とか、ひび割れた道路とか、そういうのを間近に見るのは、初めてだった。

 

 立坑の見張りが街を通る機械を記録して、機械が来ないタイミングで街に入って地上に残ったいろんな道具を集めて地下に持ち帰る人たちは、いつしか回収班と呼ばれていた。難しい仕事のようだから大人たちの仕事だった。

 

「時刻確認。十時十六分」

 

 眩しい日差しのせいで暗く思える建物の中。ケンジの声に合わせて、みんなが腕時計を見やる。

 ケンジが、あまり大きくないけどみんなに聞こえるような大きさの声を出す。

 

「十二時半にはできる限り集まること。休憩後に再開。最終は三時半。それまでには再びここに集合すること。食料は例え保存食でも、期限を確認してから持ってこい。カメラには気をつけ、二人一組での行動を慎め。非常事態が発生次第、個々の判断で必ず帰ってくること。危なそうなところへは決して踏み入るな。以上だ。散開!」

 

 ヘルメットと腕時計と軍手、首から下げた懐中電灯。アオバにはちょっと大きめの、やっぱり軽いバッグの網ポケットには水の入った水筒。ポケットには地図。まるでどこぞの探検隊みたいな気分。

 さっきまでキオと会えなくて少し寂しくなっていたアオバだけど、そんな暗い気持ちもどこへやら、すっかりウキウキしていた。

 建物からみんなが一様に出て、言われたとおりの二人一組を守りながら、バラバラに色んな方向へ行ってしまう。

 

「俺たちはこっちだ」

 

 お兄さんがアオバの肩を引っ張って、街だった瓦礫の中を歩み進んでいく。

 通り過ぎた壁が、何ヶ所も同じように丸く抉れていて、地面のガラス片を踏む度にジャリジャリと音を立てた。ひび割れたコンクリートの隙間から、名前も知らない雑草が葉っぱを覗かせている。

 ちょっと見上げればコンクリートの中から鉄筋を見せる、斜めっているのに倒れない絶妙の角度をしている建物が何棟もある。

 

 確かにここは、アオバの知らない街だ。

 だけどここで人が暮らして、仕事をして、生きていたんだと思うことはできたし、今はコンクリートの破片ばかりが散らかっているけど、五年前はこの道路に煙草の吸い殻とか落ち葉ぐらいしかなくて、その上をがんがん車が行き来していたんだということも、想像できた。

 通り過ぎた電器屋の店頭には「最新モデル!」と書かれたポップがあって、その横には真っ黒な画面のパソコンが置いてあったし、その隣にはもうちょっと小さくなったような、タブレット端末も置いてあった。

 それを使う誰かが、きっと昔はたくさん居たんだろう。アオバもちょっとだけ触ったこともある。このお兄さんだって使っていたこともあるんだろう。

 

 でも今はそんなもの、ただの大きくて重いガラクタになっていた。むしろ触っちゃダメなものとして、色んな大人たちから耳にタコができるぐらい聞かされてきた。

 とても便利かもしれないけど、それに触って、インターネットを通じて遠くから怖いものが飛んでくる、と。

 

 アオバたちが入ったのは、アオバも名前だけは覚えていた雑貨屋だった。

 出入り口で、犬が一匹、アオバたちを見つけて吠えている。大きめの柴犬……いや、柴犬っぽい雑種みたいだった。すっかりやせ細っているのに、尻尾を左右に振って、舌を見せながら呼吸して、リードを引きずりながらこっちに近づいてくる。

 

 アオバの中に、嬉しい驚きの波がやってきた。

 何かを引きずるように重かった足取りが、いつの間にか軽やかになる。

 薄暗い地下に、長い間閉じこもっていたせいで、様々なものを忘れて、それこそ地上には動く機械以外は何もかもが消えてしまったんじゃないかという思いさえあったけど……。

 こんなに寂しい街でも、昔は常々見ていたはずの犬が、確かに少し汚れて痩せていたとしても……生きていたということが、アオバにとっては地上に出て最初の感動だった。

 

 こっちに体を揺らしながら近づいてくる犬に、アオバも近づいて行こうと思ったけど、お兄さんが肩を引っ張った。

 

「ダメだ。地下じゃ飼えない。下手に構うんじゃない」

「でも」

「どうせ犬の餌ならここに山とあるだろ。それをあげて、その間に帰るぞ」

 

 見上げるアオバの視線が犬のように潤んでいたからかもしれない。お兄さんは手の平をおでこにあててため息を吐きながら、妥協してくれた。

 お兄さんがリードをてきとうな棒に固定して、店の中に入る。

 ティッシュとかトイレットペーパーとか、昔ならいつでもどこでも買えたものを見つけて、お店にあった値札のついたままのバッグに一生懸命詰め込んで背中に背負って、お腹にもう一つパンパンに膨らんだバッグをひっかけた。

 

 小脇に、やっぱりバーコードが貼りついたままの餌皿と、全く手がつけられた様子のないドッグフードを挟むのは、忘れなかった。

 お兄さんがリードをほどいている間に、アオバは餌皿を置いて、ドッグフードを流しこむ。

 犬がすぐに、餌皿に口を突き入れて食べる。

 

 首のあたりを何度か撫でて……アオバは立ち上がった。

 

「ここでもう少し愚図るかと思ったんだがな」

「飼えないんでしょ。ならしょうがないよ」

 

 つっけんどんに言って、お兄さんと一緒に歩き始める。

 ……でも、何度か来た道を、犬を見たくて振り返ってしまう。

 その度にお兄さんがアオバの頭に手を乗せて、それでアオバはハッと前を向いて、何歩か歩いてまた振り返って……それを、犬が見えなくなるまで繰り替えした。

 

 来た道を戻る。

 瓦礫になった街並みはさっき見たもとの全然変わっていなくて、そして妙に静かで、たまに通る風や、揺られてこすれ合う葉っぱの音ばかりが耳に残った。

 そんな些細な音が耳に残ってしまうぐらいに、人がたくさん居たはずのこの場所は、物寂しい場所になってしまったんだという実感と共に、小さな音でもがんがん響いて嫌だったはずの地下が、ちょっとだけ恋しくなった。

 

 さっきの場所に戻った時には汗だくで、水筒の水を煽って、お弁当としてお兄さんが持ってきていたおにぎりを頬張った。

 それなりに人が居て、アオバたちと同じようにバッグが膨らんでいる人も居れば、行ったときのぺしゃんこのままだった人も居た。

 

 こっちにあの店が。何々がどれくらい。あっちにあんな場所が。動物に食い荒らされていた……とか、たくさんの言葉が行き交って、お兄さんはまた別の人たちと一緒に、五人ぐらいのチームになって、荷物だけ残して行ってしまった。アオバもついていこうとしたけど「あとは大人の仕事さ。アオバはまだ小さいから、たくさんのものを一気に運べないだろ」と断られた。

 他の人たちも戻ってきてはご飯だけ食べたりして、また行ってしまう。

 

 ……やがて、アオバは一人になった。

 腕時計を見れば一時を過ぎていたけど、最後の三時半まではまだもう二時間以上ある。

 風も通らない建物の中。アオバ以外の誰もいないのにたくさんの荷物だけが残っている広々とした空間。

 

 物悲しい沈黙だけが聞こえていて、ふと、窓の外へ視線を移してしまう。

 黒ゴマみたいに〈クレイドル〉がぼんやりと浮かんでいたけど、アオバに何かしてくれるわけじゃなかったし、アオバも、こんな知らない外で何か楽しいことをしようなんて気になれなかった。

 

 ……今頃、あの犬はどうしているんだろうかと気になる。気になったけど、だからと言って今からあっちに行って良いわけじゃない。ダメなものはダメなんだと口ずさんで、自分に言い聞かせる。

 それに、期待していた探検隊だったけど、二時間ほどで楽しい気持ちはは終わってしまったし、何より途中から、怖い気持ちが大きくなっていた。

 

 雑貨屋の中は階段こそ窓が近くにあったから見えたけれど、でも商品が並んでいるフロアは本当に真っ暗で、懐中電灯で照らせる範囲も限られていて……暗闇から何かが飛び出してくるんじゃないか、とか、見えない自分の真後ろには幽霊が居るんじゃないか、とか、光が当たっているから見えている場所でも、見えなくなったら途端に別のものに変わっているんじゃないか、とか……そんな怖さばかりがアオバを満たして、とてもじゃないけど、ワクワク楽しもうなんて気持ちにはなれなかった。

 

 ポケットから紙切れを引っ張り出す。

 キオに見せようと思っていた、花火の夜とは別の写真。

 遠足の写真。どこかの海辺で、他のクラスメイトたちと楽しそうにアオバとキオがお弁当を食べている写真。

 

 ……思ってみれば、この回収班も遠足みたいなものだと思っていたけど、実際は全然違っていた。

 確かに知らない場所でたくさんの人と一緒に来たけど、ちっとも楽しくなんてなかったし、こんなに美味しそうにお弁当を広げても、いなかった。

 

 花火の夜ほどじゃないけど、この写真の瞬間も覚えている。

 この写真のキオは今のキオよりもちょっと髪の毛が長い。いや、今のキオの髪の毛がすごく短いんだ。まるで女の子らしくない、アオバと同じぐらいしかない。

 あの時のキオには髪の毛の先っぽをいじる癖があったけど、今の髪型じゃそんなこともできないなと思ってすぐに、もう全部覚えていないキオなら、その癖も忘れてしまったんじゃないかとも思った。思ってしまった。

 あの時のキオは、もういなくなってしまったのかもしれない――そんなことを。

 

 五年以上も前に撮られた写真と、髪の毛以外は全く同じ姿をしているのに、キオはアオバの知っているキオじゃない。それが、悲しくて寂しくて、とても辛いことだと、気づいてしまった。

 本当ならアオバと同じように、キオも五年分成長した体になっているはずなのに。

 この遠足のことも、花火をしたことも楽しいままで終わって、そのことを忘れないで居たはずなのに……!

 

 だけど今の、何もかもを忘れてしまっているキオの方が現実で、本当のことなんだということも、アオバはわかっていた。

 姿かたちこそ全く同じなのに、記憶の何もかもを忘れてしまったキオは、アオバの知っているキオとは別の……それこそ赤の他人だとも……そんな気が、思いが……いつまでも頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。

 アオバはあの頃から変わっていないつもりだった。変わりたくないと思っていたから、変わっているはずなんてないと、そう思っていた。

 だけどこうして、五年が経ったから当然のように体が大人になろうとしていて、アオバは大人にしか行けなかった回収班に誘われて、でも中途半端にされて……。

 

 変わってしまった、のかもしれない。

 キオですら写真のままの体だけど、記憶はすっかりなくなって、変わってしまった。

 昔に人が住んでいたんだろうこの街並みも全部静かになって、変わり果ててしまった。

 

 あの街で犬だけが寂しそうに佇んでいた。

 寂しく思ってしまう。あの犬だけは、アオバの気持ちそのものみたいに、世界から取り残されているかのようだった。

 何もかも変わってしまう。

 思い出は全部写真と記憶の中にしかなくて、何をどう大切にしていても、やがてはその全部が別のものへと移り変わってしまう。

 

 なんだかそれが、アオバは嫌だった。

 この写真の時みたいな楽しいことも、騒音に塗れているはずの地上の生活も……いつまでもいつまでも続いていくんだと、そう思っていたかった。

 でも現実はそうじゃなくて……。

 

 小さく鼻をすすって目元を拭い、見つめていた写真をポケットにしまいこむ。

 静寂ばかりが満ちているこの部屋でずっと、アオバは大人たちの帰りを待つことにした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

1-4

 地下へと戻ってきたのは、太陽が地平線に触り始めたころだった。

 みんながみんな、大きな荷物をたくさん抱えている中、アオバは一人だけ、小さなバッグに軽いものだけを入れている。

 申し訳なさなんかよりも、自分が未熟だと決めつけられていることが、惨めで悔しい気持ちもあるけど、そうやって嫌な気持ちになっている自分自身がちょっと嫌にもなっている自分がいた。

「お疲れさん」というお兄さんの言葉で、アオバは他の大人たちよりも少しだけ早く、回収班を離れていく。

 

 向かう先なんて、決まっていた。

 正午過ぎとアリスは言っていたのだから、どれほど遅れても大丈夫なはず。

 遠い距離を往復してきたことも忘れきったような、疲れを見せない走りで地下空間や階段を走り抜けていった。

 嫌な気持ちになっている自分に嫌気が差している自分……そんな、子供にはわけのわからないはずのことを、わけがわからなくならないぐらいにはわかってしまっている自分も、そうなっている何もかもを全部振り払って、逃げ出すように。

 

 辿りついてすぐに、半開きだった操作室のドアを勢いよく開けて……飛び込んできたのはいつもどおり白衣姿のアリスと、キオだった。

 ドックン、と心臓が大きく跳ね上がりそうになって、胸が痛いぐらいだった。

 キオはこっちに背中を見せて、キオと向かうようにアリスが屈んでいる。ということはつまり、アリスはこっちを向いている。

 

 でもキオは、いつも見ているキオじゃなくて……首に黒い輪っかを巻いて、その後ろから伸びる黒いヒモが床でとぐろを巻いている以外には、昨日会っていた時には必ずつけていたはずのヘッドフォンすらも外して……。

 それこそ素っ裸。肌色の背中。首の後ろから足先まで、何も着ていなかった。

 

「えっ……」

 

 アリスだけがこっちに向こうと動いて……視線が合う前にアオバはそこを飛び出して、また勢いよくバタンとドアを閉じた。

 見えた。本当に一秒に満たない時間だったけれど、確かに見えた。見てしまった!

 

 今までの疲れを一気に思い出したように、ぜぇぜぇ息使いが荒くなって、壁に背中をつけて、へにゃへにゃと足から力が抜けて地面にお尻をつけてしまう。

 たった一瞬だけなのに、アオバの頭にはばっちりとキオの肌色が貼りついていた。首に巻きついている黒い輪。肌色に浮かび上がっている黒いヒモ……すぐに忘れたいことだったけど、でもその黒い線がさらにキオの肌色を強調して、アオバの頭に貼りついたまま、離れそうにもなかった。

 しなやかなうなじ。ほっそりとした背中。小さなお尻。棒のように華奢な足……。

 

「ほう。まだ発情には早い年齢じゃないのか? 少年」

「うわあ!」

 

 突然上から降りかかってきた声にアオバは驚いて叫んでしまった。

 いつの間にドアを開けていたのか、アリスがニヤけた顔だけを隙間から見せて、アオバを見下ろしている。

 驚いて顔を歪ませるアオバを見て、アリスはまた面白がっているのか、今度は鼻で笑うように短く息を吐いた。

 

「運が良かったな少年。キオは何が起こったのかを把握できなかったぞ」

「へ、へぇ。そうなんだ」

 

 言葉だけは落ち着こうとしているけど、声が挙動不審に震えていて、動揺を全く隠せていない。

 

「キオに会いに来たのだろう? もうキオの着替えも終わった。入りたまえ」

 

 どうやらアオバが思っていたよりも長い時間、壁に寄り掛かっていたみたいだ。

 やっぱり震えながら壁によじ登るように立ち上がって、何度か深呼吸をして、それから操作室に入る。

 

「や、やあキオ」

 

 片手を挙げて挨拶をする。わざとらしくて浮ついた声にアリスはくすくすと笑っていたけど、気にする余裕なんてなかった。

 キオはいつもと同じように、服を着てヘッドフォンをつけていた。肩からタオルを垂らしていて、お風呂にでも入ったのかと思うほど髪が濡れていた。

 

「あ、アオバ」

 

 わざとらしいところには気がつかなかったのか、いつもと同じようにキオも挨拶してくれる。アオバはちょっとホッとしたけど、でもそんなキオを見てまたすぐに、頭の裏で肌色の後姿を思い浮かべて、頭をぶんぶん横に振った。

 そして改めてまたキオを見て……ちょっと、いつもと何かが違うような気がした。

 髪が濡れているから、とかじゃない。もうちょっと違う何か。

 濡れて重くなっているからだろうか……髪が少し長くなっているような気がした。

 

「どうしたの?」

「い、いやいやいや! 何でもないんだ」

 

 キオがふと問いかけるだけでもびくりと体がすくんでしまって、その度に心臓がどきどき跳ねあがる。アリスの言葉を信用しているわけじゃないというか、むしろあれほど大きな音を立てたんだから気づかない方がおかしいけど、でもそんな様子はキオには全くなくて……。

 アリスがドアの近くで、やっぱりくすくすと笑っている。

 アリスを見ていた、というわけじゃないけど、キオがアオバを見て首を傾げている。

 

「どうしたの? なんか変だよ」

 

 そう言いながら、キオはとある方向に手を動かした。

 アオバが一生懸命言い逃れできる言葉を探している間に、その手はキオの髪の毛……その毛先に触れて、撫でるように、そして先っぽをねじるように、いじっていた。

 その瞬間。アオバの頭に浮かんだのはキオの肌色のことなんかじゃなくなった。

 ――キオの、髪の先っぽをいじる癖。

 アオバの記憶に居るキオも全く同じように、髪の毛をいじっていた。

 

 そのことを思い出して、さっきまで氷みたいにかちこちだった体が、一気に溶けたようにほぐれていく。

 氷が溶けて水になるように、目からも溢してしまいそうになっていた。

 昼間にアオバが思っていたことは、ただの思い過ぎだったんだと、安心できた。

 確かに全部忘れてしまったんだろうけど、それでもキオは、全部忘れたからって全くの他人になったわけじゃないんだと、ただ一つだけの癖なのに、そんなことを思ってしまう。

 

 それだけでよかった。ほんの些細なことだけど、でも記憶を忘れる前と、全く変わっていない何かを、今のキオから見つけたかった。

 だから、ポケットにある写真を見せて、いちいち確認なんてする必要なんてないんだと思えた。

 何も、遠慮とかそういうのを考えないで、それこそ改まったけど、あの時と同じように、あの時の続きの時間を始めればいいんだ、と実感できた。

 

「ねえキオ。今日さ……」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話:どこにもいない ~Nowhere~
2-1


 大きいバッグ一杯に重いものを入れたアオバは、とても高い天井と、等間隔に並べられた石柱を見上げていた。

 視線を下ろせばいろんな人が行き来をしている。ついさっきまでアオバが加わっていた回収班たちが、荷物を配るためにトロッコを乗り継いでいる時間だ。

 

 アオバが十六歳になってから、そろそろ半年ぐらいが過ぎる。

 もうすっかり回収班の仕事にも慣れて、農作班にもちょくちょく顔を出すぐらいには力がついて体も大きくなった。

 視線を横にやって、階段を降りてきた人影に、アオバも背中を預けていた石柱から離れて、その方へ向かった。

 

 キオだ。

 あれからアオバは、キオの〝会えない時間〟きっかりに向かうことはやめようと思って、今みたいにキオが階段を降りてくることを待つことにしている。特に何か約束をしたわけでもないのに、キオも階段を降りながらアオバを探すようになっていた。

 シャワーを浴びた後だからなのか、この時刻なのに他の人と比べて、キオの髪の毛はしっかりと整えられている。やっぱりあの癖は健在なのか、キオも気づかないうちに手を髪へ伸ばしていじっている。

 そんなキオの髪の毛も、気がついたら肩に触るほど長くなっていた。

 背丈も、もしかしたらアオバよりも背の伸びが早いのではないかと思えるほど、日に日に大きくなっていくのを知っている……というより、最近になって節々が痛くなってきたアオバでも、だんだんとキオを見下ろす視線が高くなっていくのを感じている。

 まるで首輪のようにキオの首へ巻きついている黒い輪も、その後ろからリードのように伸びているヒモも、そして耳を覆い隠すヘッドフォンも、ずいぶん見慣れて、違和感が薄れてきた。

 

 アオバが近づきながら手を振って、キオも気づいて、笑顔を浮かべてこっちにやってくる。

 何度となく繰り返されても、アオバの胸にわき上がる嬉しさは変わらなかった。キオがアオバを嫌っていないどころか、むしろ好いてくれているのだと、アオバは勝手だけどそんなことを思って、その度に自信がついて……こんなことは誰にも言えないな、と鼻の下を指でこする。

 

 別に、一緒にどこかへ行くというわけではない。何せキオは首の後ろに繋がっているヒモを外しちゃいけないと言われているみたいで、キオはこの石柱が並ぶ地下空間の端にすら行けない。

 だから……この地下空間の端から端にも、回収班や農作班でいつでも外にも行けるアオバが、そんなキオに何も思わないわけがなかった。

 キオはそんな素振りを見せないし、いつもアリスと二人で何をしているのかも話してくれないけど、本当は気持ちを押し殺しているのではないかと考えてしまったら、あとはもう、そうとしか思えなかった。

 

 それでアオバは、回収班の特権を使うことにした。

 回収班は主にこの地下に暮らしているみんなのものを持って帰るのもそうだけど、リーダーであるケンジが決めたルールに従っていればそれ以外のものも持って帰ってきて良いし、実際にそうして、外から楽器を持ってきてバンドを組んだ人たちもいる。

 だからアオバもその人たちと同じように、本来回収班が持ってこないようなものを持ってきた。

 それをバッグの中から取り出して、キオに見せる。

 

「ポータブル……?」

「DVDプレイヤー。最近は全然見ないけど、これでいろんなものが見れたんだ」

 

 映画と言っても、たぶんキオにはわからないだろうから言わなかった。

 箱から無造作に引っ張り出して、箱はバッグへてきとうに詰っこむ。二つ折りになっている画面と本体を開いて床に置き、一緒に持ってきたDVDを入れる。かなりぞんざいな扱いだったけど、そんなことよりもアオバは、それを早くキオに見せてあげたかった。

 

 ……それはアオバの好きな映画だった。できればキオの好きな映画の方が良かったけど、覚えていない。もしかしたらそもそも聞かされていなかったのかもしれないけど、どちらにせよわからないことに変わりはなかった。

 キオは画面の中で次々と入れ換わっていくシーンを見て最初は目をキラキラさせていたけど、しばらくして見つめる視線が細くなっていく。アオバは気づくことなく、キオと一緒に座りこんでこの小さな画面を見つめているその時間が、ただ嬉しかった。

 

 ふとキオが、登場人物が外に出ているなんて、どうでもいいシーンで小さく言葉を漏らした。

 

「外って、こんなに明るいんだね」

 

 キオの横顔に笑みが浮かんでいる。

 その瞬間に、アオバは映画の中身なんて頭から吹き飛んでしまった。

 キオの笑みが嬉しそうなものなら良かったけど、そうではない。どこか悲しそうなもの……作り笑顔だというのがすぐにわかった。

 やっぱり何も思っていないなんてことはなかったんだ、と息巻いて自信満々に語ろうとする自分は、もういない。

 

 キオがふと、右手で髪の毛をいじる。

 それを目で追って、首に巻きついている黒い首輪と、そこから伸びる黒いヒモへ視線が向かってしまった。

 

「……ごめん」

 

 即座に停止ボタンを押す。

 どうにかしてあげたい……できることなら何でもやるし、キオが笑ってくれるなら、それでいい。

 そう思ってアオバはこのプレイヤーを持ってきたつもりだった。外がどんなものだったのかを見せて、キオに喜んでもらおうだなんてことを考えていた。

 

 しかし同時に、キオからしてみれば画面の向こうで広げられる映像は、それこそ画面の向こうの世界でしかない。

 起きてから一年以上もこの地下に居て、もしかしたらこれから先ずっと、この地下から……その地下ですら満足に行き来できないような生活を送るかもしれないキオには、外に出て青空を見上げるなんていうそれだけのことすら、できないということを……他の誰よりもキオに、残酷に突きつけていた。

 

 プレイヤーを閉じようと画面に手をかけて、すぐにキオの指が横から伸びてきて、再生ボタンを押した。

 画面の向こうでは、さっきまで写真のように止まっていた映像が、何事もなかったかのように動き始めて、夕焼けの海を映す。

 アオバが驚きのあまりに、その表情を隠さないまま振り返ってしまう。

 

 そんなアオバと目を合わせて、キオは嬉しそうな作り笑いを浮かべた。

 

「いいの。最後まで見せて」

「でも」

「今いいところなんだから」

 

 もう一度ボタンへ手を伸ばしたアオバの手を跳ね退けて、キオはプレイヤーを手に取って独り占めした。

 さっきよりも顔からすぐ近くにある、画面の向こうから届く夕焼けに照らされて、キオの顔がオレンジ色に染まる。

 

 今のキオが無理をしているなんてことは、すぐにわかる。でもそんなキオから、無理矢理にプレイヤーを奪い取ることなんて、アオバにはできなかった。

 プレイヤーを追っていた手を戻して、握り拳を作る。

 一番辛いはずの人が目の前で笑顔を浮かべているのに、自分の胸を絞めあげる罪悪感と申し訳なさで、アオバは泣いてしまいそうだった。

 

「ごめん、キオ」

 

 絞り出すように言葉を紡ぐ。でもキオは気にしないかのように……あるいは気にしているのにそんな素振りを見せないように、アオバを見上げて横の床を叩いた。

 

「一緒に見よ」

 

 首を傾けながら夕焼け色の笑顔を見せるキオを見て、アオバは鼻を少しだけすする。

 

「うん」

 

 言葉としてそう言ったのか、それともただ単に頷いただけなのか、判別はつけられなかった。

 それでもアオバはキオの横に座って、二人の膝の上にプレイヤーを置いて、映画の続きを見る。

 画面の向こうに見える夕焼けはまだ消えず、それを照り返す海を背景に、何人かの人たちが海に駆け寄って波の中に足を突っこんだ。

 その画面を指差して、キオは尋ねる。

 

「これは何?」

「それは……」

 

 指差されたものを見て、一瞬だけアオバは目を疑う。

 でも考えてみればすぐに、記憶を全部なくして、ずっとこんな場所で暮らしているキオがそれを知らないのも当然だと思えた。

 それも悲しかった。

 

「海だよ。地球の半分以上はこれで一杯になってるんだ」

「どうりで大きいと思ったら!」

 

 ……もしかしたら地球の解説もしなきゃいけないかなとアオバは焦っていたけど、どうやらキオも地球のことはさすがに知っていたらしい。

 内心ほっとしながら、冗談めかして驚いたような声を出したキオに、少しだけ笑った。

 

「へえ。海かぁ……」

 

 もう夕焼けでも海でもないシーンが映っているのに、画面を見つめながらキオは、うっとりとため息を吐くように言う。

 

「気持ち良さそう」

「……そうだね」

 

 海にだって行ったことがあるはずなのに……それすらもキオは忘れてしまっている。

 辛いことだとは思った。それでも、思い出が全部なくなったとしても、キオが別人になったわけじゃないとアオバは信じられる。

 思い出なんて、またこれから新しく作ればいい。また同じ時間を一緒に過ごせればそれでいい――そう、アオバはあの時に決めたのだ。

 その思いだけは絶対に間違っていない自信がある。

 ……そうならば、きっと今アオバが思い描いていることも、間違いじゃないはずだと、アオバは思っている。

 

「ねえ。明日の夕方は開いてる?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2-2

 アオバたちが住んでいる地下空間は本来、大雨の時に川が氾濫しないように、川の水を溜めておくために作られた、非常に大きな地下用水路であり貯水槽だった。

 だから昔でも、雨が降らない時はこの用水路は空になっていた。そして今は川から水を運び入れるための水門を全て開かないように壊して、みんなが暮らしている。

 ……つまりこの用水路に最初から着いている出口のすぐ近くを、川が流れていることになる。

 全部で五つある立坑の見張りをすること。もしくはこの立坑そのものの地図を見ること……そのどちらかでもすれば、それはすぐにわかることだった。

 

「……本当に、取っていいのかな」

「大丈夫大丈夫。バレないって。すぐに戻ってくるんだから」

 

 今のアオバには、キオを海に連れていくなんてことはできない。

 今いるこの地下空間から海へは、地下生活ですっかり見なくなった自動車か電車でも使わない限りは辿りつけないほど、遠くにある。

 でも、海ではなくても、そこに繋がる水の流れなら――川なら、この用水路のすぐ近くにあるのだから、見せることぐらい簡単だ。

 

 ……そう、アオバは昨日に思いついた。

 外して良いのか悪いのか、まだはっきりしていないような、戸惑いに満ちた表情を浮かべながらも、黒い首輪に指をかけるキオを見て、アオバは言葉をこぼす。

 

「それに、その首輪。なんだか飼い犬みたいで、窮屈そうなんだもん」

「飼い犬?」

 

 キオがそこで首を傾けた。確かに、地下で暮らしていればすっかり忘れてしまう単語だった。

 

「なんていうかな……自由じゃない、って感じ?」

 

 自分で言いながら、伝わるかどうかわからない言葉を選んでしまったのを後悔する。

 

「自由、じゃ、ない……」

 

 咀嚼するように反復するキオ。意味がわからないから繰り返しているのか、意味がわかるから反芻しているのか、アオバにはよくわからないけど、キオは噛み締めるように反復していた。

 

「外すと、自由なの?」

 

 そう聞かれると、アオバには答えづらかった。アオバはそう思っていたけど、不思議そうにキオが尋ねてくるということは、今までが不自由だと、そこまで思っていなかったのかもしれない、とも思えてしまう。

 返事は、戸惑い混じりになる。

 

「そう、なのかなぁ。たぶんそうだと思う」

「そうなんだ」

 

 ぼそりと呟いて、キオは首輪の後ろに手をかけた。

 すぐにそれはキオの首から外れて、アオバの「どこか物陰に隠そう」という言葉に従って、キオは階段のすぐ脇で、先っぽの上にバッグを置いてきた。

 すぐにバレちゃうのではないかと一瞬だけ悩んだけど、でもすぐに帰ってくればいいだけの話だと思い直した。

 

「そういえば、その耳のは外さないの?」

 

 自分の耳をとんとんとつついた。

 

「これ?」

 

 キオもヘッドフォンに指をかけて、答える。

 

「そう。それって、音楽を聴くためのものでしょ? いっつもつけてて、変だなぁって思ってたから」

「変……」

 

 キオが小さく、アオバの言葉を繰り返したけど、でもそれはアオバの耳には届かないほど、小さな声だった。

 

「いいの。これ着けてると、聞こえるから」

 

 音楽を聴いているのか? でもアオバの話はしっかり聞いているみたいだから……これもアオバは少し考えようとしたけど、でもそんなことよりも、さっさと階段を登ることの方が先だと思って、考えるのをやめた。

 

「行こう!」

 

 キオの手を掴んで、アオバは階段を登る。

 階段を登りきった先にあるのが操作室だけど、その操作室へ続く螺旋階段の脇には、もう一つ登り階段がある。

 操作室までの階段を上り下りするのはキオもアオバも、いつもやっていることだから難しくない。

 操作室は基本的にアリスしかいないし、そのアリスも操作室に引きこもったままだから、螺旋階段の横を通り抜けることは簡単だった。

 

 ……問題は、その先にある階段。

 地上の、用水路が流れ着く先にある一際大きな川へ繋がる、とても長い階段。

 この長い階段を登ることが、立坑の地上へ繋がる階段よりも面倒くさかった。

 でも、立坑の階段を登るためには立坑に辿りつかなきゃいけない。

 

 トロッコを乗り継いだとしても、一応キオは首輪を外してはいけないんだし、そのルールをどの大人が知っているのかなんてことはわからなかったから、なるべく人目につかない経路を辿って地上に行く方が良い。

 何より、これから行く川は用水路が水を流し出すための川というだけあって、かなり幅のある広い川だから、どうせならそこに連れて行きたい。

 階段を登るにつれて、その川へと近づいている実感が、だんだんと積み上がってきた。

 

「もう少しだよ」

「うん」

 

 もうどれぐらい階段を登ったのかは覚えていない。でも、アオバ自身も気づかない間に、何度もその言葉を言っていた。

 もう少し登れば、キオにあの水辺を紹介してあげられる。

 もう少し歩けば、キオにあんな横顔をさせずに済む。

 もう少しもう少しがずっと、アオバの頭で繰り返されていた。

 

「もう少しだよ」

「うん」

 

 繋がれたままの、アオバとキオの手。汗でぐっしょり濡れて滑りそうになるけど、でもその度にアオバが掴み直して、キオも返してくれた。

 階段を登る足に疲れが溜まってきたけど、キオの手を引くことをやめない。

 

「もう少しだよ」

「うん」

 

 外の世界は明るい。

 登りきる頃には夕焼け空で暗くなっているかもしれないけど、でも地下とは違う、広々とした空を見せてあげることができるはず。

 川の流れは気持ち良い。川で遊んだ帰りに、まだ肌の表面を水が流れているかのようなさらさらとした感覚が残ることが好きで、きっとキオも面白がってくれるに違いない。

 

 だから、キオについている首輪を外してでもやるべきことなんだ。

 むしろ人に首輪をつけている方がおかしいんだ。それこそ飼い犬みたいな扱いかもしれない。アリスがそんなことをする人だとは思えなかったけど、キオが昼間にアリスと何をしているのかもわからない……というか、キオが話してくれない。

 わからないことが怖くて、だからわかることが、わかりやすいことの方がアオバには正しいことに見えるし思える。

 そんな確信があった。

 

「もう少しだよ」

 

 何度目なのか、数え切れないほど繰り返したその言葉。

 でも同じ答えは、帰ってこない。

 ……気がついたらキオを引っ張る手がひどく疲れていたけど、それにしても、引っ張るキオの手が……その体が、さっきよりも遥かに重い。

 

「キオ?」

 

 そこでようやく、キオを振り返る。

 もう一度キオの手を掴もうとした瞬間に……キオの手は力なく、するりとアオバの手を離れた。

 そのままキオの体は、よろけるように階段の壁にもたれかかって、ずるずると体勢を崩していく。

 

「キオ!」

 

 思わず叫んでいた。

 ぺたりと座りこんだキオの背中まで腕を回して、階段を転げ落ちるなんて事態は避けることができた。

 でも、まるで首の据わっていない赤ちゃんのように、キオはぐにゃりと首を後ろに倒す。

 

「どうした? どうしたのキオ!」

 

 数秒にも満たない間に、川へたどり着いた後への期待と興奮はなくなってしまい、動揺と狼狽ばかりが埋め尽くす。

 

「ねぇ、キオ!」

 

 何度か肩を揺するけど、キオの表情から、さっきまであったはずの生気がすっかりと抜け落ちて、身体のどこにも力が入っていなかった。

 キオが喋ろうとしたのか唇が少しだけ動いたけど、それでも声はおろか、呼吸すらもまともに聞こえない。

 

 何が起こったのか、さっぱりわからなかった。

 あまりにもか細い呼吸をしていた。小さすぎてまともに空気を吸いこめているのかもわからない。口先に指を近づけないと、呼吸をしているなんて気づけない。

 急いで、アオバはキオの手首に指をあてた。手首の皺。静脈がうっすらと見えるそこに。

 そこには心臓のリズムに合わせて流れる血液が、それを通す血管が、脈に揺られているはずだった。

 でも、キオの手首にはそれがない。

 

「どういう、ことなんだ……?」

 

 脈がないということは、心臓が動いていないということになる。なってしまう。

 心臓が動いていない……それが意味しているのは、あまりにもわかりきっていることだ。

 背筋が凍るような冷たい気持ちが、背中を貫いた。

 

「おい! キオ、起きてくれ!!」

 

 何をすればいいのか、アオバにはわからなかった。

 ただ単に、背後を付き纏う冷徹な暗闇から逃げたくて、キオの肩を揺らしていた。

 

「キオ!!」

 

 でもキオは起きてくれない。何度呼び掛けても、それこそ人形のように、何の反応も返してくれない。

 溢れる涙を拭おうともせずにアオバは、ひたすら叫びかけることしかできなかった。

 

「クソっ」

 

 キオの腕を引っ張って、自分の肩にかける。

 できることなら何でもする。あとで怒られることなんて、考えていられる余裕はなかった。

 見下ろす先は、さっきまで登ってきた階段。

 

 長い長い階段を、今から降りれば、きっとなんとかなるかもしれない。

 アオバ自身には何もできないけど、大人たちならまだ、何か知っているかもしれない。

 キオを背負い上げようとしたその時だった。

 階段の下を光がチラつく。

 遅れて、何人もの野太い叫び声が聞こえてくる。

 ……大人たちの声だと思い出したころには、その大人たちはもう、アオバの眼前まで来ていた。

 

「急げ! 少女を運べ!」

 

 ケンジの怒号と共に、駆け寄ってきた大人たちがひょいと動かなくなったキオの体を持ち上げる。

 そしてケンジがアオバの前へ来たと同時に……。

 ケンジの振り上げた拳が、アオバの頬に叩きつけられた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2-3

「生命維持……」

 

 操作室。キオの背中を見てからぱったりと入らなくなっていたのに、今はここに呼びつけられている。

 いつもの薄暗い地下空間と、心地よい明るさに囲まれた青空とは違って、この部屋はいつも電灯で真っ白く明るいけれど、どこか冷たくて寒々しい。

 

「そうだ。生命維持……あるいは電源供給と言っても過言ではないだろう」

 

 入ってすぐの壁際で立ちすくむアオバに言い返したのは、奥で椅子に足を組んで座り、そして腕も組んでアオバを見据えるアリスだった。

 いつになく険しい視線に、足が震える。

 だというのにアリスの語調はいつもと全く変わらない。そこがアオバにとっては不思議でもあったし、怖くもあった。

 

 アリスが、ベッドに横たわるキオへ視線を落とす。

 首から下に布団がかけられていて、まるで眠っているように、その胸が呼吸で上下していた。

 

「彼女の首の後ろに繋がっていたものは、君が想像を巡らしているのであろう犬の首輪と手綱などではない。彼女の心肺、腕や足の動きなどそのほぼ全ての活動に必要なエネルギーを動力として供給しているケーブルであり、チョーカーはそれを外れないようにするための固定具だ。その意味では、首輪だけは正しいのかもしれないな」

 

 発せられた言葉には、視線を跳ね退けてでも聞かなければならないことがたくさんあった。

 

「動力って……なんだよそれ」

 

 小さく吐いたその言葉に、アリスからの返答はなかった。

 だから溢れてくる思いをせき止めることができなかった。

 

「まるで機械みたいに!」

「いや」

 

 アリスが短く、だけど強めに言葉を突きつけてくる。その一声だけで、継げようとしていた言葉が容易く途切れてしまう。

 アリスが、アオバの代わりに言葉を続ける。今のような強さのない、さっきまでのいつもの、抑揚のない、まるで教科書を読みあげるような語調。

 

「まるで、ではなく、まさしく、と言って良い。

 ――彼女は機械だ。間違いなくね」

 

 アオバは何も返せなかった。

 アリスが言っている意味を、わかりたくなかったし、わかる気もしなかった。

 だって、アオバの見ていたキオは、あんなに記憶のキオとそっくりで、その表情もそうだ。髪が伸びたこともそうだし、背が伸びたこともそうだ。髪をいじる癖だって、あの時に一瞬だけ見た彼女の肌色の全身だって……間違いなく人間そのものの、いや人間でなければできないはずのことばかりだったはずだ。

 そんな言葉をいきなり被せられても、全然飲みこめないに決まっている。

 

 だけどアリスは声の文章を続ける。

 

「少年、君は、彼女が日頃行っているコトの中身を、聞かされたことがあるかね?」

 

 日頃行っているコト。確認するまでもなく、キオが誰にも会えないという時間のこと。

 シャワーを浴びた後のキオとは会うけど、キオからその中身を話されたことなんてない。だから、アオバは話したがらないことなんだろうと思っていた。だから聞かないようにしていた。

 しかしアリスはゆっくり立ち上がって、水色のシャツの襟を整えて、白衣のポケットに両手を入れながら、アオバに背中を見せた。

 

「……着いてきたまえ。彼女が行っていることを教えてあげよう」

 

 振り返ったアリスは、口元だけを皮肉気に笑った。

 

「良かったな少年。彼女の秘密を、知ることができるぞ」

 

 その放たれた〝彼女〟という言葉が、いつもアリスが言っている言葉とは別のニュアンスを持っていることにアオバは恥ずかしさを感じたけど、今はそれよりもムッと膨れあがった怒りの方が大きかった。

 でも、笑顔や言葉とはまた別に、アリスの視線はまだ鋭くアオバを貫いていて、とてもそれを口に出そうとも、そして表情に見せることもできなかった。

 

 

 操作室の隣に、その部屋はあった。

 操作室と地下空間を繋ぐドアとは違う、重厚な金属製のドアを開いて、入る。

 大きさにすれば操作室と同じぐらいか、それよりも少し狭い程度の空間。アオバが家族と普段暮らしている家がだいたい十畳の空間で、それよりはちょっと広い、というぐらいだった。

 壁には、アオバ自身ほどの大きさもある機械が取りつけられていた。全部同じ形をしているけど、何の機械なのか全くわからないから、触ろうとも思えなかった。

 壁に一着、ハンガーでかけられた服があった……いや、服と呼べるのかどうかはわからない。

 ウェットスーツと同じような、全身を覆うタイプの、複合繊維で作られた紺色のスーツ。

 アリスはそれを手に取って、背中部分を見せてくる。

 

「これが、毎回彼女が装着しているフィッティング・スーツだ」

 

 スーツの表面には、至るところに電極や細いケーブルが張り巡らされていたけど、そのケーブル類は、背中にある銀色の部品――とりわけ、中央にぽっこりとせり出している球体に繋がっている。

 スーツそのものも、また違うケーブルを壁の中へ伸ばしている。

 

「先ほど、彼女が機械だと言ったが、しかし彼女は完全な機械という意味ではない。概ねサイボーグという呼び方が正確だろう。そしてこの部屋は、彼女にサイボーグとしての限界性能を引き出してもらうために作られている」

 

 サイボーグ……フィクションの中にあった言葉が、アリスという理屈っぽい女性の口から出てくるだけで妙な現実味を帯びてアオバに入りこんでくる。

 

「なんで、そんなことを……」

 

 ふと口を突いて出てしまった言葉に、アリスは短く返した。

 

「赤の女王に囁かれたのさ。そうするべきだとね」

 

 赤の女王? ……アオバの知らない言葉。おそらくアリスも知らない前提でそう言っているんだろうし、そしてわからせるつもりもないようだったから、アオバは深く質問しなかった。

 

「そしてこのフィッティング・スーツを用いて、彼女がケーブルへ接続されずに行動できるための動力を作り出す訓練を行っている。今でこそ彼女は体内にある小型の電源装置を用いて、ケーブルを外した後に数分程度しか動くことができない。

 だが、ゆくゆくはこのフィッティング・スーツに他の周辺機器を搭載して、彼女がケーブルなぞに依存せず生活できるよう、訓練を進めている」

 

 ケーブルに接続されず……この言葉に、アオバは安堵した。

 アリスみたいな人でも、そういうことを考えてあげることができるんだと思ってしまう。

 そして、そうであるなら今まで会えなかったのもしょうがないと思い直すこともできる。大人たちだって、あの巨大空間をも満足に行き来できないキオを気の毒に思っていたんだと。

 

「ところで、少年」

 

 アリスがスーツをハンガーにかけた。

 

「君は、スーツの背面にあるこの球体に、何が入っているかわかるか? いや、より正確に言うならば、彼女が着ることで、何が入ると思うね?」

 

 答えようという気にはならなかった。

 どうせアオバの知らない、難しい科学用品の名前が出てくるんだろ、という予測が簡単に立ったからだ。

 だからアオバは答えなかったし、アリスも答えないアオバを見てすぐに答えを告げた。

 

「ブラックホールだ」

 

 それは聞いたことがある……そう思ってすぐに、その単語が差しているモノを思い出して、あまりにも大きな規模に目を剥いた。

 驚くアオバを余所に、アリスは言葉を再開させる。

 

「正確にはマイクロブラックホールだろう。

 フィッティング・スーツあるいは彼女自身へ供給する電力は、それに荷電させて取り出している。さらにはそのマイクロブラックホールによる重力流を、今は壁に埋まっている、彼女と有線で繋がっている装置を使って操作させることで空間を歪ませ、そこから次元に穴を開けてワームホールを作り、その向こうから時間そのものを召還して、彼女は我々とは違う時間軸を作り出している」

 

 そこで言葉を区切って、アリスは一度だけアオバを見た。

 長い言葉、わかりにくい単語……アオバが何を思っているのか、顔を見ればすぐにわかることだろう。

 

「……わからないようだな。

 たとえば我々が秒針を眺めてカウントを取ることにしよう。一、二、三、とな。

 だがもし、我々が一と二を数える間に、我々には観測できないもう一秒が存在するとしたら……そして彼女だけがそれを観測することができるのだとしたら。

 我々と彼女は同じタイミングで一を数え、我々が知らない間に彼女だけが二をカウントし、そして我々が二をカウントすると同時に、彼女だけが三をカウントできる。

 これを我々が認識できないほどに極小の時間単位で彼女が繰り返していけば、いずれ我々が十をカウントするときに、彼女だけは百をカウントしきることができる。

 ……理論上では、な。

 だが考えてもみろ。ワームホールは次元の歪みであると同時に、その向こう側へと繋がるトンネルだということを。

 それを維持するためにも、ブラックホールの力を使わなければならない。

 ならばいっそのこと、向こうからわざわざ取り出すなどという面倒なことをするまでもなく、我々と同時に一をカウントした彼女がその向こう側へと飛んで二をカウントし、そして戻ってきてから三を数えることをすればいい。

 ……さて少年。私がなぜ、そんな話を言っているのか? そう疑問に思うだろう。

 この二つの理論には、結果的な差はない。我々が二を数えるのと同じタイミングで彼女が三を数える。それだけだ。

 残念ながら、私と今この操作室にある設備では、この二つの違いを説明しきること、そして今彼女が行っていることがどちらなのかを特定することはできない。

 だがもし後者なのだとしたら、そして、向こう側に渡ってそれをカウントしている間に、装置が異常をきたしてワームホールの維持ができなかったとしたら――」

 

 アリスが歩み寄ってくる。

 大きな身長が、そして今なお小さなアオバを見下ろす彼女が、話を続ける。

 その言葉は、先ほどのサイボーグの話なんかよりも遥かに、アオバへ衝撃を与えた。

 

「――彼女は跡形もなく、この世界から消えてしまうことになる」

 

 その衝撃に飲みこまれてしまう前に、アオバは大声で拒むしか……認めないように、何か別の答えを求めるしかなかった。

 

「消えるって、どこに!?」

 

 でもアリスの語調は変わらず、機械のように冷徹な返事が返ってくるばかりだ。

 

「わからない。ワームホールの先に何があるのか、我々に観測する手段はない。またどこか別の空間なのか、それとも住んでいる宇宙すら違うのか、さらには次元までも違うのか、全くわからないのだ。

 だがもし、それが運良く『我々が今住んでいる世界のどこか』だったとしても、彼女が助かる可能性はほぼ皆無に等しい。

 つまりそれは、『我々が今住んでいる世界』を一度出てワームホールを潜り、そしてまたこの世界へ戻ってくる、という意味になる。空間転移(テレポーテーション)……そう呼べる現象だろう。

 しかし、空間転移などできるはずもない。

 入ったとして、出る先となる座標の固定がほぼ不可能だ。光にも等しく、時にはそれ以上となる速度で繰り返される宇宙の膨張。銀河系の回転、太陽系の回転、そして地球の自転と公転……それら全てを計測しきった上で、そのタイミングに出現先となる座標を完全に特定し、その上一瞬でもタイミングがずれてしまえば、空間転移をすることができても宇宙空間に放り出されてしまう。

 地球の自転は時速一七〇〇キロ、そして公転は十万キロ、秒速なら〇・五キロと二十八キロだ。一秒ずれるだけで、地中深くに突入してそのまま地圧に潰される可能性だってあるということになる。

 そもそも座標の特定方法もわからない上に、それらの計算など、地球上の全てのコンピュータを全て並列に使って、できるかどうかといったところだ」

 

 喋り疲れたのか、一つ息を吐いたアリスは部屋の隅にあった大きな箱を開ける。

 そして中身をアオバに見せた。

 

「話を戻そう。彼女の訓練の話だ」

 

 それは黒い鉄塊だった。

 長大な円筒、複雑ながらもアナログな装置。側面に取りつけられたレバーによるボルトアクションを、アリスが弾を込めないままで手際よく行って見せた。

 対物砲(アンチマテリアルライフル)。アオバはそれを知らなくても、その圧倒的な大きさと重さは、それだけで圧倒された。

 

「……これを、キオが?」

「現在はまだ不可能だが、ゆくゆくは使用する可能性があるかもしれない、というだけのことさ。なるべく、これの使い方など教えたくはないのだがね」

 

 それを仕舞ったアリスは部屋を出ていく。アオバも後ろを着いていき、操作室に戻る。

 結局アリスが何を話していたのか、アオバでは大まかなイメージでしか掴めないし、そのあまりにも現実離れしているくせに現実味がある話の、どこからどこまでを信用すればいいのか、さっぱりわからなかった。

 

 アリスがキオの横たわるベッドの隣に、部屋へ入る前と同じように座る。

 キオの耳元……そこにあるヘッドフォンに伸びるアリスの手を、アオバは見ていた。

 ヘッドフォンが外される。

 遠目に見ながら、どうしてか、アリスとキオの近くに陣取ることができなくて、壁際というほど遠くはないけど、でもちょっとだけ距離を置いたところにある椅子へ座った。

 

「こちらに来たまえ。そこまで離れることもないだろう」

「……」

 

 もうこれ以上、アリスの話を聞きたくなかった。

 アリスの語っている話はどれを信じればいいのかわからない。でもそのほとんどに嘘偽りがないだろうことはわかってしまう。

 キオのことは確かに知りたい。アリスが機械――それもサイボーグだなんて言った根拠を問い質したい気持ちは、あった。

 でも問い質せば問い質すほどに、見たくない現実と最悪の形で向き合わなければならないような……いや、向き合わせられるような気がして、一刻も早く逃げ出したかった。

 

 渋々、アオバはキオの近くまで……アリスがその髪の毛を掻き分けて指差す、キオの耳元を見る。

 そこには、耳の穴なんて呼ばれるものはなかった。

 代わりにプラスチックの欠片みたいなものがそこに埋めこまれているのを見つける。

 冷たい気持ち悪さが喉を通り過ぎて、腹の底に重く落ちる。人の体にそんなものがあるなんて思いもしなかったし、何より、それがよりによってキオの中にあるという現実そのものが、アオバの胸を締めつける。

 

「見てみろ。彼女は五年前の事故で鼓膜が破けた。中の耳小骨すら変形しているほどだ。だから聴覚を補うため、この中継装置を聴覚神経に直接繋げて、このヘッドフォンの形をした集音装置で音を聞いている。このヘッドフォンそのものが彼女にとっては鼓膜代わりなのだ。だから今の彼女には、何も聞こえない」

 

 ヘッドフォンをベッドに置きながらアリスは耳から手を離し、機械が髪に隠れて見えなくなって、アオバはそんなことで少しだけ安堵している自分に嫌気が差した。

 六年前の爆発に巻き込まれたキオが、大丈夫だったわけがない。

 アオバの知らないところで、知らないうちにキオは、今教えてもらった耳以外にもきっと、全身の至る所を機械にされているのだろう。

 しかもそれがなくなったら今度は、キオは今までできた生活を送ることすらできなくなる。

 途方もない虚無感が圧し掛かる。

 

「本来ならばこの程度に……人間としての生活が送れる程度に補うだけで良かったのだが……しかしこうして機械の体を得ているからこそ、彼女は機械でなければできないはずの芸当をこなすことができている。常軌を逸した超高速の時間に生きている彼女は、我々とは違う時間軸に生きていることになる」

「どういうことですか」

 

 聞かずにいられなかった。

 アリスの言っていたことはもっともだとアオバも思った。機械に頼るのは、最低限必要な部分だけでいい、と。

 でもそれ以上の……ブラックホールだとかワームホールだとか、そういうスケールが大きすぎてわからないものなんかを、持ち入れる必要なんてなかったはずなんだ、と。

 

「少年。君の目には、彼女がいくつに見えるね?」

「え」

 

 突然の質問に、アオバはまたも声を漏らしてしまった。

『目覚めた年齢が十歳。それから二年弱の時間が経った。ならば十一歳もしくは十二歳だ』と――そういう風に、目覚めた時間からの計算で答えてしまう。

 でもアリスの質問は「いくつに見えるか?」であって「計算しろ」ではない。

 そしてキオは、あのスーツを着ている間だけ、普通の人間より多くの時間が数えられるとアリスは言っていた。

 

 それは即ち――。

 

「彼女は、我々の時間概念ではあと一週間もしないうちに、十四歳になるだろう」

 

 震える手を拳にして、必死に握り締めた。

 アリスに対する気持ちがごちゃ混ぜになっていて、どんなことを言い返せばいいのか……そもそも、アオバ自身がアリスに対して抱いている感情が、感謝なのか憤慨なのかの区別もつけられていない。

 ただとにかく……とんでもなく大きく煩雑な思いだと……たったそれだけが、洪水のように暴れ回っていた。

 噛み締めた歯の付け根から鉄の味が滲む。

 アリスから逃げるように、ベッドで横たわるキオを見つめた。

 静かに寝息を立てているけど、そもそもそのキオを危うく殺しかけていたのはアオバだ。

 でもそんなことを、信じたくなどなかった。

 

 今もキオの首に括りつけられているそのチョーカーを外したら死んでしまうなんて……それは普通の人間では――人体では考えられないこと。

 それを、こんなにも人間らしい姿形をしているキオが抱えていることだなんて、思えるはずもなかった。

 ヘッドフォンが鼓膜の代わりだなんてことも、信じられなかった。

 

「ねぇ、キオ」

 

 アオバは語りかける。ヘッドフォンが外されている少女に。

 アリスの言っていることなんて全く信用できない。だからキオが今ここで目を覚ませば、アリスの言っていることなんかを信用せずに済む。

 そう思った。

 

「キオ」

 

 その名前を繰り返し言う。

 ……でも、キオはピクリとも反応しなかった。

 耐えきれず伸ばしかけた手は、でもキオには触れない。

 触ってしまったらそれこそ、アリスの言ったことを信じたことになってしまうし……何より、あんなにもぐったりして脈さえ感じられないキオを思い返してしまい、もしかしたら、またやってしまうんじゃないかと怖くなって、できなかった。

 大きい声なんて出せなかった。出そうという元気も根気もなかった。

 

 何かの拍子でキオが目を開けてくれれば……。

 たったそれだけのことで良かったのに、でもアオバが抱いた願いは、腕を伸ばせば届く距離にいるキオへ、全くと言っていいほど届かない。

 

 アオバの知らないところで何が起こっていたのか。

 それを知ることはできた。だからといってその全部が嬉しいことばかりじゃないぐらい、わかっているつもりだった。

 

 ……でも目の前にあるこの現実だけは、とても辛い。

 何よりそんな大事なことを本人が知らないはずもなかったのに……それでも何も知らないアオバの言うことを聞いてくれたキオに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 胸を絞めつけられるような痛みばかりが、当事者でもないアオバを苦しめる。

 涙がこぼれ落ちる前に、キオへ背中を向けて、扉へ向けて歩き始めてしまう。

 そんなアオバの背中に、アリスが声をかける。

 

「少年。一つ言っておくことがある。海へ向かおうなどという、妄想は抱かないことだ」

 

 ノブに手をかけたアオバの動きが、そこで止まった。

 

「どうして、それを知っているんですか?」

「昨日、彼女から聞いたのだよ。少年が映画を見せてくれたとね。だが、こんなにも早く行動へ移されるとは思っていなかったよ。

 概ね、海は遠すぎるために川という折衷案を出したというところだろうが、近くにあったとしても海へ向かうなど愚の骨頂だ。戦艦か潜水艦がミサイルを飛ばしてくるだけだろう」

 

「そんなこと、やってみないと」

「信じたいのなら信じればいい。夢は誰にでも開かれているのだからね」

 

 アオバを遮って、アリスは強く言葉を放った。

 

「だがもしミサイルが飛んできて、君には対処できるのかね? 今この話を聞いただけで、この部屋を出ようとするような君に」

 

 言葉の後半で、アオバの両手に力が籠もる。握った拳が真っ白になるほどに、その思いがつのる。

 

「でも……それでも……!」

 

 このまま思っていることを怒鳴り散らすことだってできた。

 だけど、どれほどがなり立ててもキオが起きないとわかってしまったら負けだとも、アオバは思っていた。

 キオが起きてしまってはいけない。だから大声は出せない。

 

「キオは、ここから出られないんですよ」

 

 だからアオバは、すぐにでも溢れんばかりの思いを、震える声で細々と吐き出す。

 でもアオバの思っていることは、アリスの冷たい言葉で一蹴される。

 

「私はこれでも、君の倍以上はこの人生という夢物語を生きているのだ。せめて私の半分に至ってからものを言いたまえ」

 

 アリスがアオバからキオへと視線を落として、額に手の平を置く。

 目を細めて、アリスは少しだけ落ち着いた、柔らかな声で言った。

 

「君たちはチルチルとミチルではない。そう都合良く、事は転がらんさ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2-4

 静かになった操作室の中で、ヘッドフォンをつけられたキオが瞼を開ける。

 

「おはよう」

「……」

 

 上にあるアリスの顔。キオも返そうとして、とあることを思い出した。

 アオバに手を引かれて、階段を登っている記憶。

 ……首のケーブルを外したからなのか、気分が悪くなり始めたところまでは、覚えていた。

 しかしそこから先を思い出せない。

 でもキオが操作室のベッドにいるということは……。

 

「アオバは……」

 

 扉は半開きになっていて、その隙間から外の暗闇が少しだけ見えていた。

 

「行ったよ。どうせ明日も、彼は来るのだろう」

 

 淡々としたアリスに対して表情を曇らせていくキオ。

 自分のことをちゃんと言い出せなかったことが悪い。ちゃんと説明できれば……説明できる勇気さえあれば、きっと今アオバが感じているだろう悲しさや驚きを、なくすことはできなくても、かなり和らげることができたはずだと、キオは自分を責める。

 

「アオバに、話したの? わたしのこと」

「ある程度はな。むしろ、君の口から話してやることの方が優しさというものだろうが……まあ、いいさ」

 

 ケーブルを外したら少ししか動けないことは聞かされていたけど、実際に体験したのは初めてだった。

 もしかしたら死んでいたのかもしれないけど、何せそこの記憶がすっぽりと抜け落ちていて、現実味はわかない。

 起き上がろうとしてすぐに、アリスが肩に手を置いてきて首を横に振った。

 

「もう少し寝ていたまえ。どうせ今は夜なのだ。明日の朝までゆっくり寝転がっておくといい」

 

 そう言われるとキオは従っているしかない。

 アリスの言葉はやっぱり正しいことなのだから。

 

「……わたしは、いつになったら外に出られるの?」

 

 ふと、その思いを漏らしてしまった。

 訓練を始めてから思っていること。

 訓練さえできれば、キオは一人でいろんなところに行ったり来たりができるようになる……アリスは確かにそう言っていたから、信じている。

 でもそれがいつに実現されるのかは、全く聞かされていないことだった。

 アリスはキオから視線を逸らして、シャツのポケットから取り出した煙草を唇に挟む。

 

「それは君次第さ」

「でも!」

 

 キオが大きく声を張って、アリスの視線が再びキオへ向いた。

 

「もう、ブラックホールの安定はできている。だからもう、大丈夫なんじゃ……」

「割れた卵はかえらない。割れる前に戻ることもなければ、その中にあった雛が生きるわけでもない」

 

 アリスはキオの言葉を遮って、煙草をぴょこぴょこ上下させながら言った。

 

「安定できていると判断するには時期尚早だ。いざ事が起こってからでは遅いのだ。

 まだ君の意識が目覚めてからは二年弱……いや君の時間軸で言えば四年ほどこの世界を捉え、その意識を保っているのであろうが、それとて確固たる確証はない」

 

 アリスの遠回しな言葉づかいを、キオはたくさん聞いてきた。だからアリスの言いたいことはすぐにキオの中で浮かび上がって、キオの返答も他の人より正確なものになる。

 

「わたしはまだ子供です……でも、わたしはそう簡単に、消えたりしません」

 

 鋭くアリスを見つめる。睨みつける、と形容してもおかしくないが、しかし怒りや恨みといった感情はない。ただ純粋な主張としての視線。

 アリスはため息のあとで、煙草に火をつけた。

 

「君は、自分が本当にここに居ると言いきることができるかね?」

 

 アリスがそう問いかける時は、安易にその質問へ反発させない自信をアリスが抱いている時だ。

 だからキオも、言い返そうと体を前に出したものの、はやる気持ちだけで「できる」と答えるわけにはいかなかった。

 

「人の記憶というものは、それまで暮らしてきた人生を都合よく記録しているものに過ぎず、そして同時に、それを思い返す手段なんてものは、その記憶にまつわるものを見るか聞くか、もしくはいつまでも忘れないように思い続けているぐらいしかない。

 つまり人の記憶は、外部記憶装置である外の世界に委ねられているということさ。自らの肉体もまた、その外部記憶装置の一つでしかないだろう。

 何もないところから気持ちがわくはずなどない。様々な事象、それも人は経験を積み重ねれば積み重ねるほどにその経験……ひいては記憶から気持ちを引用する。

 例えば娘を見て愛おしいと思うのは当然のことだが、娘を見たり思い出したりしない限り、娘に対する愛おしいという気持ちは起こらないものだろう。

 つまり周囲の世界や自分の肉体といった外部記憶装置に、思い入れという形で人の記憶が委ねられることはすなわち、記憶に起因する気持ちもそこに委ねられるのではないか。

 人が様々な事象に対する気持ちで以て帰納的に、己を定義していることはわかるかね?

 人は概ね、過去に自分が何をしてきたかを回想させて、そこから自分というものを定義しようとするものだろう。

 しかし記憶はおろか、気持ちですらも外的なものでしかないのだとしたら、個人としての定義を見出す記憶はプロジェクターのごとく外部にある環境であり、ともすれば人間はただの真っ白なスクリーンでしかないのではないか?

 つまり世界や環境から帰納的にしか自己を定義できないのなら、人間は本質的にはただの空虚な媒体に過ぎない。

 人の定義を外部から帰納的にしか見られないのなら、内面を見る必要すらない。さらに人間が空虚な存在であるならば、人そのものはどこに存在しているのか?

 今ここにあるのはただの肉塊でしかないのか?

 この世界のどこに私の気持ちがあるのか?

 いや、気持ちだけではない……そもそも私がこの世界に在るのかどうかすら、わからなくなってしまう」

 

 ようやく煙草の一口目を吸ったアリスが、キオを見つめてくる。

 何を返せばいいのかわからない……という次元ではない。そもそもアリスの言葉は、キオに何も言い返させないつもりで、ほとんど全てを否定するつもりで放たれていた。

 

「難しすぎたようだな」

 

 それだけ言い残して、アリスは半開きだった扉を通り、操作室を出て行ってしまう。

 扉の閉まる音が反響して、キオは布団へ潜りこんだ。

 難しすぎたとアリスは言っていたけど、キオはアリスの言葉を大まかには理解しているつもりだった。

 

 去年、アオバにいくつかの写真を見せられていたことを思い出す。写真には間違いなく自分が写っていたのに、そのことをさっぱり覚えていない。

 アオバはその度に寂しそうな表情を見せたけど、無理矢理笑って誤魔化していた。

 ……覚えていない。それは気持ち悪いこと。キオの知らない自分がこの世界のどこかに居たこともそうだし、それをキオ自身が知らないのに他人だけが覚えているということもそうだし……何より、全く見た目が同じなのに、今のキオの体には機械が詰まっていて、同じだなんてちっとも思えないことが、とても気持ち悪かった。

 

 でも、それを教えてくれたアオバには感謝していた。今のキオが、他の人とは違うことを思い知らされたのは確かにそうだけど、それはただ悪い意味だけでなく、それよりも大きな良い意味を、アオバは他の誰よりもキオに優しくしてくれたことで証明したと、キオは思っている。

 だから、アオバの悲しそうな表情はもう見たくない。

 暗くなった布団の中で、無自覚に髪の毛をいじりながら、キオはそれだけを思っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2-5

「やはり、まだ居たか」

 

 アリスの言葉は、ドアの傍らに腰を下ろしていたアオバの頭へ降り注いだ。

 

「……」

 

 アオバが無言でアリスを見上げる。アリスはそれを受けながらも視線を合わせず、ふーっと白い息を吐く。

 

「先ほどの話をさらに補足しよう。

 肉体ですら外部記憶装置ならば、人は確かに、この世界において人間の形をしていれば人として認められるであろうが、その肉体を失った存在を人として定義するものは何なのか?

 外部に散りばめたはずの記憶と気持ちとの関係性を喪失してしまった人間は、その気持ちをどこから発生させるのだろうか?」

 

 最後まで聞き終えて、アオバは立ち上がった。

 眉根に皺を寄せて、アリスの白衣の端っこをも視界に入れないようにそっぽを向いて、それでもアオバは静かに、でも確かに、アリスへ向けて言葉を叩きつけた。

 

「それは、キオのことですか?」

 

 アリスのふーっと長い吐息が聞こえて、煙草の臭いが鼻に入りこんでくる。煙たくて、とても臭かった。

 しばらく、アリスが煙草を吸っている横で、アオバはずっと立ち尽くしていた。

 そして煙草を吸い終わったのか、アリスが扉の横に置いてあった空き缶に吸殻を入れて、また口を開いた。

 

「彼女が、ブラックホールを背負っていることは言ったな」

 

 アオバは視線だけ、アリスを向く。

 扉に寄りかかって、アリスはアオバではなく天井を見上げていた。

 

「本来ならば、ブラックホールの生成には巨大な粒子加速器が必要であり、それを動かすためにも莫大な電力が必要となる。

 だが現在は、部屋に埋め込まれたあの小規模な装置により部屋そのものが粒子加速器として機能し、そしてその粒子加速器も、彼女が生み出したブラックホールからエネルギーを取り出して機能させているのだ。

 この意味がわかるか? 明らかにエントロピーを逸脱しているのだ。

 ブラックホールを保持するために機能するはずの粒子加速器が、なぜブラックホールに維持されている?

 確かに彼女がブラックホールの余波で作り出す重力障壁は見事なもので、粒子加速器そのものの機能を存分に発揮できるのだろう。

 だがそれでも、エネルギーの生成と保持には摩擦にも等しいロスが生じる。たとえブラックホールから電力を取り出すことができても、それで粒子加速器そのものを動かし続けてブラックホールを形成し続けることができるなど、本来ならばできるはずがないのだ。

 さらに言えば、ブラックホールからワームホールを作り出すことは、理論上は可能であることに間違いはない。

 ……だがそれは、マイクロブラックホールなどではなく、もっと規模の大きなものが複数並び、加えて、それらの力に指向性を与えていればの話だ。

 私が昔に働いていた場所も似たようなことをしていたし、私自身、今と同様の研究で機械を使い、本当にごく短い刹那の間だけ、マイクロブラックホールの生成ができたことはある。

 だがそれは今現在のような状況になる前の世界で、世界最高の設備と私の他に様々な研究者が居てこそ成し得たことであり、今のような劣悪な環境で、なぜブラックホールを保持し、なおかつエントロピーを逸脱できるのか?

 挙げ句の果てには、ブラックホールの生成がやっとだった我々にはワームホールなど机上の空論でしかなかったのに、なぜ研究者でもなければ大人としての知識すら伴わない彼女がああも簡単に実現してしまうのか?

 我々が総力を挙げて機械を使っていたのに対し、彼女はたった一人で機械と融合することで実現してしまう。数字の上に何の変わりもないはずだというのに。

 ……この違いは、何だと思うね?」

 

 言葉の最後だけ、アリスとは思えないほど感情に溢れていた。

 本当に疑問を抱いているのだとわかる瞬間だった。

 でも話された中身は、アリスほどの大人がたくさん集まって研究するほどの話であることに変わりはない。

 

「難しくて、よくわかりません」

 

 アリスが頬を緩めた。

 何がおかしいのかわからなかったけれど、それでもアオバは続ける。

 

「あなたの言っていることが僕には、科学の話なのか、それとも魔法のことなのか、わからない」

「過ぎた科学は最早、魔法と区別することはできない。科学もまた魔法の一環なのかもしれないし、魔法や奇跡と信じられてきたものもまた、ただの物理現象の積み重ねによって起こるものでしかない」

 

 アリスはまだ、笑みを崩さないままにアオバの言葉に言い返しているのか言い返していないのか、中途半端な内容を喋る。

 

「さしずめ私は、緑の魔法使いといったところか?」

 

 アリスは視線を落とす。一瞬だけ青葉と視線が重なって、すぐにアオバは逃げるようにそっぽを向く。やっぱり答えられない。

 

「穴に落ちても、鏡文字の詩が読めても、結局は夢境でしかない。意味のないことか」

 

 その言葉を最後に、沈黙が二人の間を流れ出す。

 アリスが何を思ってそんな言葉を長々と言っているのか、さっぱりわからなかった。

 何か大人なりの考えがあってのことなんだろうし、きっと言っていることも正しいことなのだろうけど、でもアオバには何がどう正しいかすらわからない。結局、アリスが何を言っているのか、その理由も中身も目的もわからない。

 

「先ほど話したキオの訓練室は、いずれその機能をフィッティング・スーツの周辺機器として搭載し、一種のパワードスーツのようになるだろう」

 

 だから唐突に話されたその話も、アオバにはわからない。

 

「私はそのパワードスーツに『ティンカー・ベル』と名づけるつもりだ。

 童話の『ピーターパン』に出てくる空飛ぶ妖精の名だ。妖精が存在し続けるためには、他人から存在されていることを思われ続けなければならない。

 彼女をワームホールの向こう側へ消失させないために、君は何をするべきなのか?

 君は彼女にはなれないのだから、その意味をわからないとは言わせんぞ」

 

 アオバは壁から背中を離す。

 ……最後の最後だけは、違った。

 

「わかりました」

 

 それだけ言って螺旋階段を降りていく。

 アリスの話は長くて難しいことばかりだったし、考えていることもよくわからないことだらけだ。

 ……それでも、そうじゃないところだってあるということはわかった。

 

 でも結局、アオバはアリスが嫌いだということに変わりはない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話:いまここにいる ~Now_here~
3-1


 曇っているせいで目に見える景色全てが暗くなっているのか、それとも影という影が主張しないからか、双眼鏡越しに見える世界はどこかのっぺりと白んでいる。

 アオバは一人、蓋の内側から景色をただじっと見つめて、時計を見ながら十分おきに「異常なし」という言葉だけを繰り返していた。

 

『西北西。そろそろ向こう側の哨戒ヘリが見える頃だ。見えるか?』

 

 通信機からの声に従いながら、アオバは返答する。

 

「見えた。一機だ。いつもと変わらないコース」

『了解した。次いで東、農作班が帰ってくる頃だ。確認したら報告後、戻ってきてくれ』

「あいよ」

 

 双眼鏡を手慣れた動きで滑らせながら、アオバは応じる。

 そして泥まみれの人だかりがぐったりと歩いているのを見つけて、それを教えて、蓋を閉じる。蓋の鍵を内側から閉めることも、通信機を所定の場所に戻しておくことも忘れない。

 

 気がつけばアオバは、もう見張りとしては一人前になっていた。回収班でも途中から置いてけぼりにされることもなくなって、たまに農作班に加わるまでに体は大きくなって、腕に力こぶもついた。

 

 いつになっても漂ってくる生臭くてじめじめした空気を感じながら、発生元である仮設住居群を見下ろして、階段をゆっくりと降りていく。

 向かう先はいつもどおり、巨大空間だ。

 もう、走っている最中のトロッコへ飛びこむことも、誰かに叱られるなんてことも、なくなった。

 アオバはいつも、このトロッコに揺られる度に思うことがあった。

 

 ――去年のこと。キオの体が機械だと知らされる前日から、ずっと抱き続けていたこと。

 ……未だキオは、この地下世界から出たこともなければ、青空を画面越しでしか見たことがない。

 たまに日焼けして腕が二色になってしまうアオバとは違って、キオの肌はいつまでも、一年中どの季節でも真っ白なままだ。

 今も見上げているコンクリートの天蓋。アオバはこの向こうに青空が広がっていることを、地下に潜る前から知っていた。

 

 しかしキオはそのことを忘れて、目覚めてから三年間……いや、キオの時間感覚でならそれ以上の期間を、確認できないままだ。

 どれだけアオバが青空のことを語っても、そしてその映像や写真を見せたところで、キオが直接見られない以上、キオはそれを夢のことのように思っているのかもしれない。

 まるで子供のころに揃って聞かされた童話や童謡のように、皆が口裏を合わせて吹聴しているのではないか……そんなことをキオが思っていても、おかしくはない、と。

 もし本当に、そんな風に疑心暗鬼になっているのだとしたら今のキオは、どれほど辛く鬱屈とした気持ちを抱きながら、この閉塞感ばかりが満たされるコンクリートの天井を見上げていたのだろう。

 

 キオの首に繋がれたケーブルは最早、アオバの目には犬のリードのようにすら見えなかった。

 それこそこの地下施設全体が、キオを閉じこめておく鳥籠のような……。

 アオバは歯噛みし、トロッコから降りて階段を登り始める。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-2

 扉をノックして、向こうから出てくれるのを待つ。

 二年前の二の徹は踏まないようにするということは当然ながら、キオが階段を降りるのをわざわざ待つよりも、こうする方が最適だと気づいたのはつい半年ほど前のことで、アオバは今まで階段下で待っていた自分が馬鹿みたいだと自嘲する。

 扉を開けたのはキオだった。扉を開けるため前屈みになっているからか、すっかり長くなった髪が、ふわりと大きく揺れる。

 

「訓練、お疲れ様」

「そっちこそ。見張りお疲れ」

 

 キオの首に引っかけるようにかかっているタオルは白いままだけど、アオバのズボンとベルトに挟まれたタオルはすっかり汚れて黄色くなっている。

 やはり、キオの身長は伸びた。ほとんど真っ直ぐアオバと向き合えるぐらいには高くなっており、少しだけアオバは、他の大人たちよりも低めである自分の身長が恥ずかしくなる。

 

 キオと一緒に操作室へ入る。

 見る限りアリスの姿はなかった。もしかしたら先に部屋を出ているのかもしれない。

 

 ふと、キオが壁に貼りつけられたカレンダーを見ていた。今日の日付に赤い丸がされている。

 それをアオバ自身の口から出すのは気が引けたというより、少し恥ずかしかった。

 キオが椅子に座りながら語りかけてくる。

 

「それと、お誕生日おめでとう。今日で十八歳……だったっけ?」

「ん。ああ、ありがとう。そう、今日で十八」

 

 わざとらしくかぶりを振って、アオバは答える。期待していないふりができていたかどうかは自分では確かめられないが、顔が少し熱くなっているのを感じていた。

 

「ありがとうキオ。覚えていてくれたんだ」

 

 カレンダーの印を見て見ぬふりして、カレンダーに背を向けるようにして床に座りこむ。

 気がつけば……それこそいつの間にかアオバもすっかり、子供っぽいところはすっかり薄くなって、体つきも顔つきも、大人っぽくなっていた。

 横目でアオバは、鞄に手を入れたキオを見つめる。

 ……キオも長い髪が、幼さではなく似合っているように見えた。頬にあった赤みはかなり薄れたけどまだ残っている。ハーフだからなのか背丈もすらりと伸びて、腕と足も指も、子供のような丸っこさはなくて、かといって丸みが完全になくなったというわけではない。

 

 キオがこっちを向く寸前に、そっぽを向いて目が合わないようにする。

 昔から知っているキオだからそういうことは思わないと信じていた節はあったのだろうけど、どうやらそんなことはなくて、むしろさらに強く思うようになっていた。

 悪いわけではないけど、アオバは変なところで気恥ずかしさを感じてしまう自分自身を恨めしく思う。

 

 キオが椅子から腰を浮かす直前に、ガチャリとノブが開かれる音がした。

 思わず操作室の扉へ視線を向けたが、そっちの扉は開いていない。ちょうどそれに合わせて、キオが取り出したものを慌てて鞄に入れる音が聞こえるけど、アオバは聞かなかったことにする。

 次に顔を向けたのは操作室の扉とは反対――訓練室の扉だった。

 

 見慣れた白衣と青いシャツが、ちょうどアオバに背を向けて、訓練室の鍵を閉めている。

 今日はその下に細いデニムを履いて、足先にはスリッパがつっかけられていた。

 ……去年よりアオバの苦手意識が強くなって、なるべく顔を合わせてこなかった。

 

「おや少年。来ていたのか」

「ええ。来ていましたとも」

 

 そっぽを向きながら、アオバはなるべく冷たくならないよう返事する。

 

「いつもご苦労なことだ。君のウサギぶりは特筆するべきものだな」

 

 アオバの苦手意識は知ってか知らずか、アリスはその口調も偏った形容も、全く変わらない。強いて言えば皺が少しばかり増えたぐらいだが、いちいち指摘する必要も理由もない。それに、そのことを指摘するならアオバの母親だって、最近になって白髪が隠せなくなってきたり腰を痛めたりしている。

 ……隠すことが多くなったなとアオバは思う。

 そんなことはどこ吹く風で、アリスはキオの後ろまで歩み寄ってからその肩に両手を置いた。

 

「どうだ少年。すっかり美人になっただろう?」

 

 不意を突いた言葉に驚いて、ビクリとアオバの肩が強ばり、キオが顔や唇を震わせた。

 アリスが言っているのは間違いなくキオのことで、そんなことをつい今し方、アオバも思っていた。

 

「……」

 

 何か答えを返そうと口を開いたが、しかし熱くなったアオバの頭から、そのための言葉は全然出てこない。

 思わずまじまじとそちらを向いていたからか、アリスの下でキオが顔を真っ赤にしながらもじもじと肩を揺らしている。

 アリスの言うとおり、キオはとても可愛い……それはアオバも賛同できる。だからといってそのまま口に出来るほど、アオバの肝は据わっていなかった。

 何か上手くフォローできる言葉を探そうとするが、一向に空回りするばかり。

 素知らぬふりでアリスはカレンダーに目を向けて、少し笑みを浮かべながら、ああ、と小さく声を出した。

 

「さて少女よ。先ほどのデータをまとめてみたが……」

 

 機転が利くのかどうかは知らないが、アリスは話題をそらしてキオに話しかけ、アオバにとってはちょうど良い塩梅で、話題の蚊帳の外へ出された。

 その間に気づかれないよう深呼吸したアオバは、性懲りもせず、ばれないように顔を前に向けたまま、キオへ目だけを向ける。

 

 可愛いと、思った。

 それ自体は本当であり、すっかりアオバは一人の女性としてキオを見ている……それは否定できないことだし、むしろそうでない自分を想像できないだろう。

 

 だが今も、キオの首にそれが巻きついている。首の後ろからケーブルが伸びていることも紛れもない事実だ。きっとこうしている今も、ケーブルを通じてキオは動力を受けて、動いているのだろう。

 一年前からそのことを知っていても、しかし未だに信じられないことだった。

 機械なら成長なんてしない。機械ならあんな風に笑わない。機械なら可愛いと言われてもじもじと恥ずかしがることなんてしない。機械なら……。機械なら……!

 

 そんな思いばかりがいくつも募っていくが、キオが機械ではないことを証明することなんて、直接確かめたわけでもないアオバができるわけもないし、同時に、キオが機械であることの証明にはならなくても、一年前のことだけは未だに、アオバの記憶にしっかりと刻まれている。

 

 結局そのどちらを信じればいいのか、アオバにはわからなかった。

 考えている途中でアオバはため息を吐いて、答えを見つけることをやめる。

 どちらかが明確になることは確かに、今抱いている疑念は解消できるという意味ではすっきりするのだろうけれど、しかしその答えによって、アオバはどんな思いを抱いて、どんな行動を起こしてしまうのか……それこそアオバ自身でも想像できないことだった。

 

 なら答えなど知りたくはない。このもやもやとした暗澹は拭えなくとも、今そこにキオが居ることは変わらない。

 すっかり肩を落として床を見つめる。しかし一組のスリッパが目の前に並んで、見上げた。

 

 アリスが、火のついていない煙草を口に咥えながらアオバを見下ろしていた。

 アリスがいつも浮かべている表情。感情という感情は読み取れず、ただぼーっとしているだけとも哲学的な命題に悩んでいるとも思える、力の入っていない表情。何を思っているかすらもわからない不気味さが滲む。

 気がつけば、キオは操作室からいなくなっていた。

 

「キオは?」

「訓練室だ。部屋にある端末で、訓練の成果というものを計算しているところだろう」

「それ、アリスさんが伝えてあげるべきことじゃ?」

「敬称は不要だ。アリスと呼びたまえ」

 

 アリスはポケットからライターを取り出して、煙草に火をつける。

 そして白い息を吐いて煙草を指で挟み口から離して、アリスは唐突に述べる。

 

「こんな言葉がある――『人間は極めて複雑な機械である。人体は自ら発条(ゼンマイ)を巻く機械であり、永久運動の生きた見本である』……そう人間機械論で記したフランスのメトリは、よりにもよって医学者だったな。唯物論の極みだ」

 

 アオバは一度だけアリスを見上げて、しかしすぐに視線を逸らした。

 ……またもアリスは、アオバの考えていることをなぞるような言葉を告げた。読心術かとすら思えてしまう。

 そんな思いを押し殺しながら、アオバはなるべく話題がすぐ終わるような言葉を選ぶ。

 

「珍しいですね。童話のこと以外を喋るなんて」

「私だって童話だけしか頭にないわけではない。夢見がちな少女であることは否定せんがね」

 

 自分に対する皮肉なのだろうか? 微笑を浮かべるアリスに対して、結局アオバは何も反応できない。

 不意に顔から笑みを消したアリスが、手近な椅子に腰掛ける。

 

「話題を変えるが、少年よ」

「……なんですか」

 

 いつもと同じく平坦な口調だが、真っ直ぐ見つめてくる視線に、アオバは姿勢を変えた。

 

「前々から集めてはいたんだがね。ようやく、キオの行動範囲をある程度まで広げられる量のケーブルが集まった」

「どうりで最近の荷物が重いと思ったら……それで、ある程度、っていうのはどこまでです?」

 

 アオバが言っているのは回収班の話だ。午前は運ぶ物を見つける作業で、午後は荷物を運ぶ作業。当然ながらこの地下に持ち帰る荷物をアオバだって背負うし、その重みだって常々実感している。

 気怠そうな反応を装いこそしたが、内心で喜んでいる自分を抑え込むのに必死だった。

 

 今の今までキオの行動範囲は決して広がらなかったことに加えて、おそらくキオ自身が一番辛い思いを抱えているだろうことも表に見せないからか、それをいつも見てきたアオバも収まりきらない思いがあったのは嘘ではなかったし、少しでも広がればキオも笑顔を見せてくれるのではないかと思うことは、間違いではないはずだ。

 それを察したのか無視しているのか、とにかくアリスは表情を変えないままに話を進める。

 

「立坑での見張り、明日にでも二人で行ってくるといい」

「それは……」

 

 機械的で事務的なアリスの言葉遣いでも、それを聞いたアオバの中ではただならぬ感情の波が巻き起こっていた。できることなら……もし目の前にアリスがいなければ、アオバは嬉しさの余りに叫んでしまったかもしれない。

 現に、口の端がつり上がっていくのを隠しきれなかった。

 豹変したアオバの表情を見たからなのか、アリスもにわかに頬を緩めて言葉を続ける。

 

「ケンジと当番の者へは私から言っておこう。私からの誕生日プレゼントだ」

「!」

 

 はやる気持ちが、アオバに言葉にならない声を溢れさせた。

 アリスがくすくす笑って、思わず自分の恥ずかしい姿を見せてしまったことに気づいて、そっぽを向く。

 しかしこれに限っては開き直ってもいいと思っているし、アリスもそれを咎めないだろう。

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 醜態を晒してしまった恥ずかしさに堪えながら、アオバは遅れて返事をした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-3

 かん、かん、と音を立てて、キオは階段を登る。

 立坑の階段は巨大な円筒の内壁に貼りついているため、見下ろすことは簡単にできるし、薄い鉄板と拳ぐらいの太さしかない鉄骨で構成されているから、とても頼りなく見える。手すりの高さもちょうどアオバの腰あたり――ベルトぐらいの高さで、寄りかかろうとするには低いと思えてしまう。

 それこそ数年前からこの階段を昇降してきたアオバはもう慣れたものだけど、この階段どころか立坑に入ったことすら初めてなキオは、すっかり怯えて腰が抜けていた。

 

「ほら、大丈夫だから」

 

 がん! がん! と音を響かせて、アオバは強く足踏みする。

 

「ゆっ、ゆゆゆ揺らさないで!」

「いや、全然揺れてないと言うか……」

 

 しかしアオバの意図とは違って、キオはまた手すりにしがみつこうとしては景色を見下ろして顔を強張らせてしまう。

 ……確かに、ずっと地下空間にしかいなかったキオにとって、下を見下ろせるほど高い場所へ行くこと自体が初めてなのかもしれない。

 すっかり足が止まってしまったキオに、アオバは一度階段を降りて、手を伸ばす。

 

「ほら、行こう」

 

 両手を巻きつけるように手すりへへばりついていたキオが、アオバの手を見て、おそるおそるといった様子で手を伸ばして、掴んだ。

 

 アオバの脳裏に、一年前のことが甦る。

 あの時のアオバは前しか……その向こうにあるであろうキオの笑顔だけばかりしか見ていなくて、その時に手を握っていたキオのことなんて、全く見ていなかった。

 後悔と自責が、胸の奥から暗いどこかへとアオバを引きずりこもうとしてくる。

 また同じ過ちを繰り返してしまうんじゃないか……繰り返す根拠もなければ繰り返さない確証もないのに、暗い思いだけが先行する。

 でもアオバは、その柔らかくて細い手を握り返した。強く、でも痛くならないように握り締めて、キオも応えるようにしっかりと握り返してくれる。

 

「大丈夫だから」

 

 アオバの口から出てきたその言葉は、キオのために言ったのか、それとも自分に言い聞かせたのか……わからなくなっていたが、それでいいと開き直る。

 キオがようやく足を動かして、アオバもそれに合わせてゆっくりと登る。

 一年前とは違う。アオバが一方的に引っ張るようなものではない。

 

 だから進みは遅かったけれども、しかし歩みはちゃんと一つ一つの段を丁寧に登っていて、そのことをアオバは嫌だとは思わなかった。

 キオもそうであったらいいと思いながら、アオバは前や上じゃなくて、後ろで下にいるキオばっかりを見て、階段を登った。

 

 

 蓋を開けて半開きの状態に固定し、通信機の電源を入れて回線のケーブルに繋げ、双眼鏡を二人分取り出して片方はキオに渡し、アオバはまず、蓋のすぐ近くに異常がないことを確認した。

 

「第二立坑見張り、準備完了。開始します」

『了解』

 

 返ってきた声がアリスのものでアオバとキオは驚いたが、通信機の向こうにいるアリスはそんなことお構いなしに言葉を続ける。

 

『今回の見張りに交代はいない。故にそこは一日中君たちのスペースだ。仕事だけこなしてくれればそれで構わない』

 

 そこで、ブツッと回線が断たれる音が聞こえた。

 

「まさかアリスが答えるなんて……」

 

 アオバは腕時計を確認する。定時報告と、異常があった際の有事報告。この二つさえやっていれば見張りの仕事は終わってしまう。

 ……どちらにせよ、もう見張りに関してならアオバは一人でできるほどには慣れている。実質暇になったようなものだった。

 だから早速アオバは、半開きになっている蓋を全開にして、その縁に座ることにした。

 本来ならあまり目立たないように、半開きの隙間から外を覗きこむのが立坑の見張りの仕事だが、ある程度慣れてしまえば、少し体を乗り出すぐらいなら別に問題ないだろうと判断した。

 

 いきなり外の眩しい光が入ってきたからか、キオは驚いて目を瞑ってしまったけど、アオバに催促されてキオも同じく縁に腰かけて、青空の下にある地平線を、驚いたように見渡している。

 透き通るような青い空を、ぎらぎらと太陽の光が貫いていた。

 地平線ぎりぎりの空にはうっすらと白い月が剥がれ落ちそうになっている。

 すぐ手前の第十八号水路。その向こうでちらほら見える農作班が耕している田畑。さらに向こうある、そこまで高くないビル群――全てが、初めて見る新鮮なものとしてキオの瞳には映っているのだろう。

 見上げれば突き刺すように眩しい太陽の光。その周囲で弧を描いて飛んでいる、鳶だか鷲だか鷹だか。

 そして今、ふわりと柔らかく、しかし爽やかに風が地平を滑って、キオの髪を巻き上げて、頬を撫でる。

 

 初めてのことにキオは驚き、くすぐったさで身を捩じらせたけど、心地良さそうな表情には一切の曇りも陰りもなかった。

 風を感じることすら、キオは初めてだったのかもしれないとも思えてしまう。

 

「すごい。外の世界って、こんなに気持ち良いんだね」

「気持ち良いよ。地下は風も通らないし、じめじめしてるし、暗いし、何より狭いからね」

 

 アオバは大きく伸びをして、寝転がる。真っ直ぐ見上げた先にある青は、その深さなど微塵も思わせないほどに蒼々と広がっている。

 透き通った空は、今も飛んでいる鳥のように飛べるかもしれないと、吸いこまれそうで溶けてしまいそうな錯覚をしてしまう。

 見てみれば、キオは両手を空へ向けて思いっきり伸ばしていた。好奇に満ちた表情でそうするキオの腕はやはり虚空だけを彷徨って……。

 

「えっ」

 

 突然のことに驚いたキオが、振り返る。

 アオバも、自分で何をしたのかよくわからなかった。

 

「ご、ごめん」

 

 思わず、掴んでいたキオの手首から手を離して、いつの間にか起き上がっていた自分の体を再び寝転がらせる。

 でもその手を取らないといけないと……そうしなければ、今にも大切なものを失ってしまいかねないような切ない思いが、ふと湧き上がってきた。

 双眼鏡を目元に食いこませて、アオバはキオとは違う方向を向く。

 ……杞憂どころか思い込みが激しいだけだと、アオバは思った。目で見てないからといって、いないわけではないのだと。目を離した隙にいなくなることなんて、実際そこまで頻繁に起こるようなことではないのだと。

 

「空、綺麗だね」

「……うん」

 

 ふとキオが漏らした言葉に、ありきたりな返答しかできなかった。

 

「外って、広いんだね」

「そうだよ。広い。とっても広い。僕たちじゃ、一生かけて歩き回っても、その全部なんて辿りつけないし、見ることもできないほど、世界は広い」

 

 言いながら、いつもの見張りの姿勢に戻る。穴から顔だけを出して、双眼鏡で周囲を見渡す。

 なぜだかアオバは、キオの方を見ることができなくなった。下手に会話を広げることもなく、ただぽつりぽつりとキオが嬉しさを滲ませた言葉を漏らして、アオバが一言だけ答えて……その言葉の全てが頭に残ることなく青空の彼方に消えてしまい、ただただ、不思議な軽やかさと爽やかさだけに満たされた静寂が、大気と一緒に二人を包んでいた。

 

 そうしている内に、アオバが双眼鏡を通した向こうにとある影を見る。

 空を飛ぶ鋼鉄の塊だと確認してすぐ、「隠れて!」と大きくなくとも叫びかけるような声で、キオの裾を掴んで引っ張った。

 あまりに突然のことだったからか、キオも驚きに声をあげる間もなく、アオバに引っ張られるままバランスを崩して背中から真っ逆さまに……。

 二人はそのまま、アオバを下敷きに穴の底に落ちてしまった。

 

「痛てて……」

 

 元々そこまで深くない穴だからこそ、軽く背中を打ったぐらいで済んだが、しかしぶつけてしまった後頭部をさすって、アオバは目を開く。

 

「……」

 

 ちょうど同じタイミングで目を開いたキオの顔が、すぐそこにあった。

 キオが息を吸いこむ音ですら聞こえる。青空よりも明るく、そして水面のように煌びやかさを内側に抱いた碧眼の奥で、驚いている自分の顔が鏡のように写る。

 

 キオのまばたき。

 遅れてようやく、アオバは自分の上にキオの体が乗っていることを認識した。

 お互いに何も言わず、何も考えず、何も思わず――そもそも何かをしようという発想すらも持ち合わせていないかのように、ただただ、お互いの瞳を――その中に居る自分を、覗きこんでいた。

 数瞬遅れて、キオが思い出したように慌てて動き始めた。

 

「ご、ごめんね。すぐどくから」

「い、いいいいやいや! 大丈夫だから」

 

 その言葉で、ようやくアオバも瞳の奥に吸いこまれていた意識を取り戻して、取り繕う。

 穴の底でなんとかキオが体勢を戻して、アオバもようやく起き上がって、穴から少しだけ頭を出す。

 全身を出さないよう、器用に手だけで蓋を再び半開きで固定させて、通信機を取り出し、腕時計を見つめながら語りかける。

 

「ヘリ確認。いつものコース」

『了解』

 

 たったそれだけの短い連絡を終わらせて、アオバはホッと一息ついた。

 そして振り返り、キオに語りかける。

 

「それにしても、大丈夫だった? 怪我とかはしてない?」

「わたしなら大丈夫。うん。受け止めてくれて、ありがとう」

「いや、受け止めたってわけじゃ……」

 

 蓋を閉めたせいか、急に穴の中が暗い場所のように見えて、キオの顔もあまりはっきりと見えない。

 でも、二人揃って言葉を選ぶのにまごついて、声に出したらしどろもどろで……お互いに、ついさっきのことで恥ずかしがっていたのが丸わかりだった。

 それを二人して同じタイミングに理解して、理解したお互いを揃って把握して、それすらもまた一緒にわかってしまったことが面白くて、恥ずかしがっていた相手と自分を含めて、くすくすと笑いあった。

 

 

 今度は二人して双眼鏡を目にくっつけて、穴の外を見やっていた。

 

「そういえば、わたしね」

「ん?」

 

 キオの言葉に、アオバもそちらを見ないままに声だけで続きを催促する。

 

「今日……というか、朝に訓練があったんだけど。その時に、誕生日が来たの」

 

 誕生日が来た。

 聞けば聞くほどアオバたちにとっては不思議な語彙だけど、キオだけは当たり前として言うことができる。そのズレがまた不思議だけど、思う以上には考えないようにする。

 

「そっか、おめでとう……ということはじゃあ、もしかしてキオは」

「そう」

 

 キオはそこで、双眼鏡を目元から外してアオバを見る。

 でもアオバはちょうど反対側を向いていて、見られていることには気づいていない様子だった。

 

「アオバと同じ、十八歳」

「……そっか。おめでとう」

 

 アオバの背中から、先ほどと同じ言葉だけど、全く違う声音が返ってくる。

 どこか優しい温かみがあって、キオはその声に胸のどこかで安堵できて、落ち着いた。

 

「ありがとう」

 

 アオバもキオに気づかれないようにしながら、そのしとやかな声に全身の力を抜いて、心のどこかでようやく、昔の続きが返ってきたと思っていた。

 

「でも、ごめん。それ知らなかったから、プレゼントを用意できなかった」

「うん。アオバが手ぶらだったから、知っていた」

「明日にでも渡すよ」

「じゃ、私も明日渡すね」

「え?」

 

 ふと振り向いて、キオと目が合う。

 顔の半分だけを日の光に明るく染めたキオが、しとやかにはにかんでいた。

 

「もう昨日のことだけど。でも今日はこの景色で充分楽しいから。明日にね」

「……わかった。ありがとう」

 

 喜びのあまり大声を出さないよう気をつけながら、アオバは双眼鏡の向こうへ視線を戻す。

 ……すっかり頬をほころばせて、安穏とした空気をお互いが作っていることだけは、お互いの顔を確認したわけでもないのに、自然とわかってしまった。

 

 その中で、アオバはふと思い出す。

 さっきキオが青空へ手を伸ばしていたこと。そしてアオバはどうしてだか、そんなキオが消えてしまうのではないかと思ったこと。

 だからこそ、今この場で、それこそ見ていなくても話しかけてくれて、お互いがここに居るのだと思わせてくれるこの瞬間とこの空間が、たまらなく好きになっていて……だからこそ、終わってほしくない時間だとも思った。

 

 昔の続き……今ここに居るキオは、昔のキオが記憶だけをなくしたものなのか、それとも三年前のあの瞬間に新しく目覚めた誰かがキオの体でキオという名前を持っているだけなのか、確かめる手段はない。

 それでも今この場に漂う空気も、アオバがキオへ抱いているこの気持ちも、そしてキオがアオバに抱いているであろうものがどんなものであっても……その気持ちだけには、嘘偽りなんてないだろうから。

 どちらかだったらということですらない。もはやアオバにとっては、そのどちらでも良かった。

 確かにどちらかだったら嬉しさもあるかもしれない。そして悲しさもあるかもしれないけど、だからと言って、そのどちらかになったからこの気持ちが潰える、なんてわけではない。だからどっちかであることに執着する必要が、もうアオバにはなかった。

 

 ただ、ここに居れば、そこに在れば……それだけで良かった。

 でもそれをしっかり言葉にできるほど明瞭な気持ちではなかったし、例え言葉にできたとしても、敢えて言葉に変換しようとは思わないだろう。

 ましてや口に出すなんてことは、キオがすぐ近くにいる今でも、一人の時でも、しない。

 してしまったらきっと、声と一緒にその気持ちも空へ吸い込まれてしまうような気がした。

 

 遠くにある〈クレイドル〉を見上げながら、ふと呟く。

 

「僕さ……」

 

 この気持ちと直面したくないからこそ、はぐらかすために、でも永遠に続いてほしいという願望だけはそのままに、曖昧であやふやなこの気持ちだけは胸の奥に抱きながら、言葉を紡ぐ。

 

「なんで、こんな穴の中で人が暮らしているんだろうって思っちゃうんだよね」

 

 唐突に聞こえるだろう言葉に、キオは声も返さない。

 アオバは双眼鏡を目元にくっつけたままで、キオがこちらを向いているかどうかも、そして話を聞いているのかもわからない。

 でも聞いてくれているのだろうと思い、あるいは願いながら、アオバは言葉を続ける。

 

「前はあっちの方にある町で、こんな日の光を毎日浴びながら暮らしていたのに。

 元々はインターネットとか、あそこに浮かんでいる〈クレイドル〉も、あの町も、ヘリも、もちろん立坑もそうだけど、全部人が暮らすために作ったのに、全部あんな事件とか、今はあのヘリも誰が乗っているのかもわからないし、もしかしたら乗っていないのかもしれないけど、それを操っている〝何か〟に持って行かれて。

 〝それ〟って、なんだろうね。それを作った人がいたのかな。そうでなかったら、〝それ〟はどうして、人のものだった色んなものを奪って、あんなことをしたんだろう……って」

 

 言葉の途中で、アオバは双眼鏡を目元から外していた。

 喋っているうちに記憶は昔のことへ遡行していき、一つの記憶へ辿りつく。

 あんなこと……と言っても、今のキオは覚えていないのだろう。むしろわざわざ語り聞かせるようなことではない。

 それでも、あんなことさえ――花火の夜さえなければ、そしてミサイルだとか兵器だとかが世界を破壊しなければ、世界はこんなことにはなっていないし、そして今アオバと目を合わせてくれているキオも、そんな体にはなっていなかっただろうし、記憶がなくなるなんてこともなかったはずなのに。

 

 本音を言えばアオバは、この世界が好きではなかった。恨んでいるとさえ言えるだろう。

 こんなに気持ちの良い青空の下ではなく、鬱々としたコンクリートの中で人が暮らして、キオはそういう体になって。

 世界中の誰とでも、いつでもどこでも話すことができて……そして様々な情報がすぐに手に入るという非常に便利なインターネットというツールを手放すことになって……。

 

 アオバの記憶にある場所――昔のキオと一緒にいたその場所も、思い出も、その全ては兵器の炎に燃やし尽くされてしまった。今となっては写真の中にしか存在しない。

 そして、合計して八年になる長い時間の中でアオバは、写真に写っていない場所を忘れてしまっているのだろう。もちろん写真に写っているものを見れば思い出せるし、写真に写っていないものも覚えているものはある。

 

 でもそれはアオバが覚えている範囲のことでしかない。アオバ自身もきっと、その記憶を忘れてしまったことそのものを忘れている。

 持っている写真ですらも、実際にそれを見なければ何が写っていたかなんて思い出せないし、キオが目覚めてからの三年弱の時間――もちろんなるべく覚えていようとはしていても、どうしても、大切であるはずのキオとの記憶すらも、きっと忘れてしまっている。

 

 一年前に長々とアリスから聞かされたあの言葉だって、その端から端までを暗唱などできない。

 ……だからこそ、せめて写真には残っていなくとも、記憶のものと同じ姿のまま世界が残っていたら、その場所に行けば、気がつかないうちに忘れてしまっているはずの記憶だって思い出せるはずなのだ。

 大切な様々なものを、どこかにあるはずの記憶や思いを――それが在るはずで、それが在ることもわかっているはずなのに、手元に手繰り寄せる手段を失ってしまったんだと、アオバは思っていた。

 

 それがとてももどかしく、悔しく、悲しいことだとも。

 またアオバは、キオの碧い瞳の中にいる自分を見つめていた。いや、その目に捕らわれていた。

 きっとこのことは忘れない。今話している内容も、この気持ちも二度と忘れてやるものかと思っていても、きっと明日には覚えていても、それから先――その翌日も、翌週も、翌月も、翌年も、覚えていられるとは限らない。気持ちだけは本物でも、根拠はなかった。

 

 だから、アオバはこの世界が嫌いだった。

 きっとその感情にどこまでも従ってしまえば、もしその犯人が居たとしたら、そして目の前に現れたのなら……そいつを殺してやろうとさえ思ってしまうのかもしれないし、その気持ちを一度でも出してしまったら、自制できる自信なんてない。

 

 アオバの顔には、どれほどひどい感情が表れていたことだろう。

 隠しきれない憎しみを、あろうことか大切な人の前で、危うく曝け出すところだった。その全てではなくとも、キオには見られてしまっただろう。

 キオから視線を逸らして、俯く。

 ひどいことをしてしまったと後悔する。

 

「ごめん。キオ。今の話、聞かなかったことに……」

「わたしね」

 

 キオの手が、アオバの顔に添えられていた。

 そのままキオが両手でアオバの頬を持って、顔をゆっくりと上げる。とても振り払おうなんて気持ちにはなれなくて、やがてキオと目を合わせる。

 ――どうしてだか、アオバにはわからない。わからなくとも確かにキオは微笑みを浮かべて、声をかけてくれていた。悲しそうでも辛そうでもない、ただ純粋に嬉しそうな微笑を浮かべていた。

 蓋の外に見える蒼穹を向いたキオの碧い瞳に、青い空がとても輝かしく映りこむ。

 

「たぶん。深い理由なんてないんじゃないかな、って思うの」

「どうして、そう言えるの?」

 

 考えるよりも先に、その言葉が出た。

 

「わかんないけど、なんとなく? 寂しいんじゃないかな」

 

 いつの間にかキオの手は離れていたけど、それでもアオバは、その瞳から目を逸らすことができなかった。

 

「いや、わたしが勝手に、寂しそうって思っているだけなのかも」

 

 瞳に映りこむ青空の向こう側に、キオは何を見ているのか。アオバには想像もつかない。

 

「こんな寂しい世界に、独りぼっち、って」

 

 最後の言葉を、キオはとても悲しそうに告げた。

 何が悲しいのか――キオ自身もその悲しみを共有しているかのようで、ただ単に言っているだけとはとても思えなかった。

 ……しかしキオが何を考えているのかなんて、アオバにはわからない。何を思っているのかも、知る手段なんてありはしない。

 

 いや、聞けば良かったのかもしれない。けれどできなかった。

 聞いてもアオバにはわからない答えが返ってくるのではないのか――そんな懸念が的中してしまったら、アオバにとってキオは、とても遠い場所へ飛んで行ってしまう。

 そんな気がして、怖くて、できなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-4

 しばらくして陽が落ち始めたところで、見張りの時間は終わった。

 階段を降りながら、アオバとキオはわずかながらも会話を重ねる。

 アオバが外で体験した様々なこと。キオが訓練で積み重ねてきたこと。

 ……それは今の今まで話してこなかったものではない。だけど二人とも、その話題について積極的に話せないような後ろめたさを持っていた。

 だから階段を降りている今、今までと同じ話題だけれども、二人はいつにないほど明るく、そして楽しく話すことができて……だからこそ、アオバはうっかり、思っていたことをそのままに口にしてしまった。

 

「キオはこれからも、ずっとこうして暮らしていくのかな……僕は、暮らしていくんだろうけど」

 

 アオバが見たのは、通ってきた階段に敷かれている、キオと繋がっているケーブル。

 そしてキオが見たのは、そんなアオバの目だった。

 

「わたしは……わからない」

 

 キオが立ち止まって、手を握っていたアオバも歩を止めて、改めてキオを見やった。

 

「わからない、って何が?」

「ずっとこのままがいいのか。このままじゃない何かをしたいのか。わたしは……わからない」

「僕は……」

 

 思わず何か返答しようとしたけど、結局それがキオ自身のことだとわかってすぐに、口を閉ざした。

 キオのことならキオが決めればいいことで、むしろキオ以外が何かを言ってはいけないことだと思った。だからアオバは言いかけた言葉を誤魔化した。

 

「どっちでもいいと思うよ。キオの好きなように、キオのやりたい方をやれば」

 

 キオの目を覗きこむ。澄んだ水面を思わせる綺麗な青。先ほどその美しさに気づいてから、何度となくその目に視線を吸いこまれてしまう。

 

「わたしは……」

 

 キオもまたアオバを見つめ返して、けれどすぐに下を向いてしまった。

 キオは、自分の首から伸びているケーブルを見ているのかもしれない。

 

「やっぱりわからないの。やりたいことって。

 そもそもわたしに、やりたいことがあるのかどうかもそうだし……わたしが何者なのかも、わたしはわからない」

「……っ」

 

 キオを励ますことができる何かを言おうと口を開いて……しかし言葉はおろか、声すらも口から出ることはなかった。

 キオがアオバの唇に人差し指を添えて、首を横に振ったからだ。

 その顔には確かに笑みが浮かんでいるけど、さっき見たような清爽とした笑顔ではない。

 何かを諦めた笑顔。

 

「みんなはわたしを人間だと言ってくれるけど、みんなにはこんなケーブルもついていないし、機械で動く部品なんて存在しない。わたしにはたくさんあるのに」

 

 キオはアオバの手を振りほどき、数歩ばかり階段を降りた踊り場で、床のケーブルとひょいと手に取った。

 

「だからきっと、わたしは、みんなが生き返ったと言ってくれているその子じゃなくて、ただの機械なんじゃないかって」

 

 透き通った瞳を氷のような冷たさで湛えて、キオはアオバを見つめる――いや、視線で鋭く射竦める。

 

「生まれてきた時の記憶は確かにないけど、生まれた時の体を、みんなは持っている。

 でもわたしは持っていない。

 今のわたしが生まれたときには、始めからこの体だから……」

 

 キオの声が濁り、肩が震えていることに、アオバはようやく気づく。

 それが嗚咽なのだとわかるまで、そう時間はかからなかった。

 キオは後ろへ下がり、手すりに腰を押しつけて、ゆっくりと仰け反る。

 

「だからわたしは機械なんだって、そう思っちゃうときがあるの」

 

 つい数瞬前までアオバの胸に突き刺さっていたキオの視線が鈍くなって、涙が浮かんだ。

 

「……違う、違うよ」

 

 咄嗟に階段を駆け下りるアオバ。

 だけどキオの言葉は止まらない。

 

「わたしが本当に機械なら、やりたいことなんてきっと、これから先ずっと、絶対に思いつかない。そんなこと、機械にはできないから!」

 

 キオの手が首元へ伸びる。

 溢れてくる言葉を止められなかった。

 

「駄目だ!」

 

 首元のチョーカーが外れたところで、その根元に添えたキオの手ごと強く握った。

 ……決して外さないために。断じて外させないために。

 キオが階段から落ちないように自らの胸元へ抱き留めて、アオバは駆け下りた勢いを殺しきれず踊り場に転がる。

 一段と大きな音が響いた。

 

 先ほど――穴の底へ落ちた時とは逆の体勢。キオがアオバの下に居る。

 だが呆気に取られた表情など、二人は浮かべていない。キオの瞼から溢れだした涙はもう、止まらなくなっていた。

 

「どうして……」

 

 呂律が回らないせいか、それを上手く聞き取れない。でも何を言わんとしているのかは、すぐにわかった。

 

「あの時は外させてくれたのに。今は!」

 

 キオの手がアオバの胸に当てられる。小さな拳がアオバを小突く。

 あの時はアオバが率先して外した。外させた。大人たちにバレないように隠して、結局バレて、ケンジには殴り飛ばされ、アリスには聞かされたくもないキオの体のことを教えられた。

 

「あの時は、僕は何も知らなかった」

 

 後悔が、未熟すぎた自分の過ちが、アオバの声に滲んでいた。現実を知れたとしても知ること自体が苦渋で、いっそ知らないままで居られれば幸せだったかもしれない。

 しかしそれだけではいけないとも思っていた。どちらが良かったのか、今となってはわからない。

 

「このケーブルを外して、それでもわたしは生きていたい! わたしも、アオバみたいにいろんなところに行って! もっとたくさんのことを知りたかった……ずっと、ずっとそう思っていた……」

「僕だって!」

 

 もう、アオバも泣き始めていた。キオの頬にアオバのが落ちてキオの涙と混じり、一つになってキオの頬を流れ落ちる。

 叫ぶように、わめくように、二人はお互いの距離を詰めていく。

 苦虫を噛み潰したような顔で、アオバは泣きじゃくるキオから目をそらさない。

 

「……僕だって、外してあげればどれだけいいかって、ずっと思っていた。でも、僕には外せない。今はいろんなことを知って、それが……そのケーブルが、キオにとって大事なものなんだって思い知らされたから」

「じゃあ、じゃあ! わたしは機械なの!? アオバは……みんなはこんなものついていないのに、私だけ!」

「キオは人だよ! 機械じゃない……僕は、そう思っている。思っていたい」

「……だったら、ケーブルを外して」

 

 冷えた言葉が、アオバに突き刺さって心臓を鷲掴みにする。

 キオの手が、ケーブルごと握り込んでいたアオバの手をするりと抜けて、外側から握った。

 アオバの手にキオのケーブルが……柔らかい首の皮膚を隔てたその内側に、骨とは違う硬い何かがあるのが、わかる。

 キオの青い瞳の横には、今でも確かにヘッドフォンがついている。でもそれはヘッドフォンの形をしているだけでヘッドフォンではなく、機械の鼓膜なのだとアリスは言っていた。

 それを外せばキオは、全ての音を聞き取ることができなくなってしまう。

 

 首から伸びるケーブルを外しても、少しだけなら動くことはできる。でもキオの体内にある電池がなくなってしまえば、また去年の繰り返しになる。

 他にも、アオバが知らないだけでキオの体が機械だと思い知らされるところはたくさんあるのだろう。

 こんなにも、アオバの下で、人間そのものとしか思えない姿で、アオバよりも人間らしく、感情に従って涙を流しているのに。

 ケーブルを抜くこと……それはキオを殺すことと同義だ。

 

「そんなこと……できない……っ!」

 

 瞼を固く閉じて、その隙間から涙をこぼし、アオバは首を横に振るしかなかった。

 また三年前までの五年間を繰り返すことなど、もう今のアオバには考えられない。

 キオはまだ涙を浮かべながらも、アオバから目を逸らして、失望を口にする。

 

「アオバもそんなことを言うのね。アリスと同じ。みんなと、大人と同じことを……」

 

 大人。それはアオバが嫌っていた人たちだった。少なからずキオが目覚めるまでの五年間を、ずっとそんな思いを抱きながら過ごしてきたはずだった。アリスのような理屈ばかりしか言わない人間が、大嫌いだった。

 ……大嫌いだった、はずだった。

 

「僕だってできるなら、大人になんてなりたくない。ずっと現実を知らないまま、楽しいままいつまでも暮らしていられる子供で、ありたかった!」

 

 アオバは自分の涙を拭い、息を飲んだ。

 この言葉は、アオバにとって一つの宣言だった。宣言であり、決別であり、そして誓約でもあった。

 

「でも現実を見ないといけない。知らないといけない。そうじゃないと、自分で考えることも思うことも決めることもできない。だから僕は、大人になるしか、なかったんだ」

 

 今度はキオが、言い返そうとした口を閉じる。

 いつの間にか、アオバが大人を忌み嫌っていたことを、キオもわかっていたのかもしれない。

 一年前までキオのことも知らなかった少年が、今となってはその配慮まで含めて一人前の大人に等しい考えを抱いていることが……そしてその考えこそが少年の嫌いだったものであるにも関わらず、抱いてしまった。

 いや、そうせざるを得なかった。もう子供ではなくなったアオバの悔しさが、今流れている涙に滲んでいた。

 

「そっか……アオバは、決めたんだ。そうなるって」

 

 キオは悲しそうに眉をひそめる。

 無力感からの悔しさに耐え、アオバは顔を手で覆いながら首を縦に振った。

 嫌っていたはずの大人にならなければならないという選択が、アオバにどれほどの苦渋を与えていたのか、キオには正確な重さなどわからなかった。しかしアオバにとって、それが非常に大きく重いことだったという点だけはわかる。

 むしろ、それだけで充分だった。

 

「ねえ、アオバ。わたしはどっちならいいの? 人間なのか、機械なのか」

 

 キオの言葉に、アオバは急いで自分の目元を拭って涙を掻き消した。

 アオバにとって、さっきの言葉を言い終わった瞬間から、その誓約は肝に刻みこまれて宣言として縛りつける――だからこそ、アオバはアオバの思う大人としての行動を、自分に求めていた。

 同時に、大人としての立ち振る舞いの中でも、決して大人が嫌いな少年からの卒業と、あまりにも未熟すぎる大人としての自覚も、そして自分自身が何を思っているのか、あるいはその思っていることに従った素直な行動も、兼ね備えなければならないと。

 

「わたしが誰かにとって都合のいい人形でしかないなんて……わたしは嫌!」

 

 だからアオバは、喉を搾るように叫んだキオの目元を拭った。

 それが今、目の前にいる女性に対して行うべきことだと考えたことであり、アオバ自身もやるべきだと思ったことだった。

 

「キオがもし本当に機械だったなら、泣くなんてしないし、そもそも機械か人間かを、疑問になんて思わないと思うよ」

 

 そしてアオバはキオの傍ら――階段に座ってキオに背を向けて、目元を擦りすぎてひりひり赤くなっているだろう自分の顔を見せないようにする。

 これからアオバがキオに告げる言葉は、アオバ自身の誓約よりも、遥かに恥ずかしいものだと思ってしまったから……それでもちゃんと言わなければならないと判断したから。

 

「みんなが人間だって言ってくれてる。キオが実際に人間なのか機械なのかなんてどうでもいい。キオがどっちになりたいか、じゃないのかな。

 キオのことなんだからさ。そこからゆっくり決めればいいんだよ。キオ自身のこともやりたいことも」

 

 アオバは立ち上がり、キオへ手を伸ばす。

 階段を登る時のように、あるいは去年のように――もしかしたら、そのずっと前にあったかもしれない、忘れてしまった記憶のように。

 

「……うん」

 

 その手を再び握ったキオが体勢を整え、乱れてしまった服装を直す。

 今度こそ、何も喋らないながらも、喋る以上に何かが共有されている実感を伴った静謐さを、一緒に握り締めて、階段を降り始めた。

 

 

 階段を降りきる頃になって、たくさんの人々が歩く音だったり、何かの道具を使う音だったりが周囲を立ちこめる。

 ようやく、アオバもそれにつられて何かを声にすることができた。

 

「ま、まあ僕としては、キオにこのままいてほしいかなー……なんて」

 

 階段を降りている最中の咽び泣いていたキオよりも、わんわんと泣き叫ぶように宣言などをしてしまったり、我ながら臭いと思えるようなカッコつけた台詞を吐いたりしていた自分の方が恥ずかしくなって、取り繕うようにアオバは、今までの子供らしく振舞っていたかった自分を再び持ち出す。

 さっきまで、なぜあんな台詞が堂々とつっかえることなく声に出来ていたのか、さっぱりわからなくなってしまうぐらいには、おそるおそるといった情けない声だったと、アオバは思う。

 そして階段を降りて振り返り――アオバはキオの表情に、戸惑いを隠せなかった。

 

「わたし、わかったの」

「そっか」

 

 隠せなくても、それでもアオバは取り繕おうとした。

 キオの中で何かの答えが出たのなら、本人の口から語られるまで他人が問い詰めてはいけないな、とも思った。

 

「わたしのやりたいこと……それと、やらなきゃいけないこと」

 

 しかし次にキオが浮かべた表情を見た瞬間に――階段を降りるというあまりにも短い時間の中で、あまりにも速く、そしてあまりにも唐突に出てくるキオの答え――アオバはその瞬間に至ってようやく、キオが自分と同じ年齢になってしまったんだということを実感せざるを得なくなった。

 笑顔。キオはいつも笑顔だったが、しかし先ほどの泣きじゃくっていた表情とは裏腹に晴れやかなものであり、そして同時に、アオバの抱いていた苦渋をも思わせる悲愴さを共存させた微笑み。

 それでも頬をあげて必死にはにかむキオが、小首を傾げてアオバに告げた。

 

「アオバ、ごめんね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-5

「駄目だ。許可できない」

 

 操作室。腕を組んで厳めしい表情を浮かべたケンジがそう答える。

 

「もし万が一にそれが可能だったとしても、命が保障されるわけじゃない。成功する可能性も見込めず、君の言っていることも論理的なものではない。君の言っていることは、空想と何ら変わりはないんだぞ」

「でも、わたしは……」

 

 反論するキオ。

 

「認められるわけがないだろう。俺はこのコミュニティを、曲がりなりにも取り締まっている身だ。全員の命に対する責任がある。そして君もその一人だ。むざむざと死地に向かわせるなど言語道断だ」

 

 ケンジの態度と同様に、キオも頑なだった。

 

「でも、それじゃあこの世界も、わたしたちのコミュニティも、何も変わらないままですよ!?」

「その考えだけは理解できる。俺だってできることならこんな地下から出て、地上で暮らしたい。だがそれとこれとは話が別だ。誰だろうと、人ひとりができることなど限られている。しかもそれが子供である君ならば尚のこと。実現など夢のまた夢だ」

「それでも。お願いします。わたしを……」

 

 キオは頭を下げる。

 後ろから見るだけのアオバは、キオの決意が如何ほどのものか、ついさっきに思い知らされたばかりだからこそ、止められない。

 あろうことか腕を引っ張っていたはずのアオバを、今度はキオが引っ張るという事態が起こって、二人はこの操作室まで来て、そして回収班から返ってきたケンジを呼び出して、今この状況に至っている。

 それほどにキオが自らの考えを押し通すことなど……そもそも押し通そうとすること自体が、異常だったとすら思える。

 

「わたしをどうか、外の世界に出してください」

 

 何度となく繰り返された言葉に、ケンジは嘆息して頭を抱えた。馬の耳に念仏だとでも思っているのだろう。

 

「それで、今の世界のどこに、安心して接続できるインターネットがある?

 この地下にあるコンピュータは全て有線接続のみだからこうして地下でのみ使うことができている。もちろんそのスケールでなら理解できるが、インターネットはそれこそ世界中全てだぞ。君の見てきた世界とは、比べ物にならん大きさだ。わかっているのか?」

「はい」

 

 引き締めた表情を浮かべて、キオは毅然と答える。

 

「それは広いということだけで、広さそのものを正確にわかったわけじゃあ……」

「まあ、落ち着きたまえ」

 

 苛立ち始めたケンジの声を遮るように、操作室にいたもう一人が声を出す。

 アリスだ。

 睨みつけるケンジを手で制し、今度はアリスがキオの前に立ち、そして問いかけた。

 

「少女よ。君がやろうとしているのは自殺行為に等しい。確かに八年前の世界なら、いつでもどこからでもインターネットへのアクセスは可能であり、そしてそのアクセスポイントも多量に存在していた。

 しかし現状となっては地図すらあやふやな状況だ。故に当時のことをどれほど知っている人間がいたとしても、その知識は頼りにならない。だから君は、君一人でアクセスポイントを探し出すことが何よりの優先事項になる。

 加えて、君が地上に出れば……君ほどの存在ともなれば、レーダーなのか衛星カメラなのかはわからんが、何かしらの異常として検知され、世界中の兵器たちがこぞって君へ襲い来ることになる。当然これへの対処も一人で行うことになる。対処を行いながらアクセスポイントを見つけ出し、今度はそれを死守しなければならない。これは本来、一人の人間ができることではない。

 さらに言えば、インターネットへ人間がダイレクトに接続するということ自体が、今までの有史に存在しない事例だ。何が起こるのか私にも想像がつかず、そして起こり得る問題を想定できない以上、その対処法も君自身が見つけなくてはならない。

 わかるかね? 君の言っていることはその全てが夢想にも等しいことであり、そして現実的なことですらない。

 君はそれほどのことをして……あるいは君自身の命を捨てる覚悟を持って、そのようなことを、まだ言い続けるつもりなのかね?」

 

 その言葉に肝を冷やしたのは、アオバだった。

 命を捨てる――それを言い換える必要はなく、そしてキオは、アオバにとってかけがえのない存在なのだ。

 しかしアオバには口を挟むことはできない。

 それが、キオの決めたことなのだから。

 だからせめて、今のアリスの言葉を聞いて考えを変えてはくれないかと、期待をしたが――。

 

「はい。あります」

 

 ――アオバの願いは崩れ去る。

 だが同時に嬉しいことのようにも思えた。

 ……今度こそ間違いなく、ケーブルを首から外して、地上を自由に動き回ることも意味していたからだ。

 しばらくの間、アリスはキオを見下ろしていた。いつになく、そして今まで以上に真剣な表情で。そしてキオも、アオバのいる角度からでは見えないものの、アリスを見上げ、見つめ合っていた。

 それが意志と意志の対峙なのか、それとも何かしら言葉にできないコミュニケーションを図っていたのか、わからない。

 だがしかし、脱力したようにアリスが息を吐いたのは聞こえた。

 

「わかった。少女よ、君の意思を尊重しよう」

「なっ!?」

 

 声を荒げたのは、ケンジだった。

 

「わかっているのか! お前は――」

 

 怒気に満ちたケンジの声に、アリスはケンジを振り返り、いつもと同じく冷徹に返答する。

 

「既に彼女は人間としての肉体を超越している。このことは私が保証しよう。

 加えて、今まで彼女自身が苦痛を慣れと習熟によって克服してきた高速演算は、おそらく普通の人間なら脳が破裂してもおかしくないような領域に達し、今の彼女はそれを事もなげに耐えているのだ。それに、激しい重力の流れを全て自らの管轄下で統御し、粒子加速装置の中心点に居りながら、通常の人間と同じように行動し、あまつさえ〈想鐘〉(ティンカーベル)をまともに接続できている時点で、我々の狭量な定義における人間ではない。

 彼女の述べた考えは一見非現実的だが、元より彼女の存在自体が夢物語から出てきているようなものだ。今さら彼女の行いは、その全てにおいて不可能と断じることなどできはしない」

「アリス。お前はそれで良いのか。よりにもよってお前の……」

 

 皮肉気にアリスは笑みを浮かべて、煙草を口に咥えた。

 

「大丈夫さ。今の彼女なら。異国へ台風で飛ばされた少女ですらも、魔女を踏み潰して元の家に帰ってきている。

 加えて、私たちが観測している時間では三年だが、彼女自身は八年間をその意識の上で過ごして、肉体の一部に置いてはしっかり十八年分を生きてきたのだ。そこに立つ少年と同じく、立派な一人の大人と言っても遜色はあるまい」

「アリス。お前はそれに賛成なのか」

 

 ケンジの問いかけに対してアリスは煙草に火を灯し、ただ白い息を吐いてみせた。

 

「彼女の示した意志あるいは覚悟は、尊重に値する。それ以上でも以下でも、ましてや以外でもない。それだけだ」

 

 やがてケンジが、うめくような声を腹の底から低く吐き……その長い熟考の末に、組んでいた腕を解いた。

 

「もはや俺には何も言い返せん。好きにしろ」

 

 キオが顔に喜色を浮かべてすぐに、大きく勢いよく頭を下げた。

 

「ありがとうございます!」

 

 そしてアオバに振り返ったキオは、心底嬉しそうな顔でピースサインを見せる。

 アオバも笑顔こそ浮かべて親指を立て返したものの、まだ、気が進まなかった。

 当の本人はとっくのとうに決まっているのかもしれない決心と覚悟が――他人であるアオバには、まだなかった。

 そしてアリスが振り返って、キオに話しかける。

 

「さて少女よ。君のその長くなった髪も、そうとなっては稼働に支障が出るだろう。着いてきたまえ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-6

 ハサミが開閉を繰り返し、その度にキオの明るい茶髪がぱらぱらと床に散らばっていく。

 ハサミを握っているのはアリスだった。

 キオは椅子に座り、散髪用のシートを首に巻きつけて、真正面にある鏡を覗きこむ。

 鏡の中の自分が、三年前に目覚めた時の――髪が短かった時の自分と重なる。

 そして、アオバに見せられた写真の中に居た、自分ではないかもしれない自分の髪型とも……。

 

「もう少し、長いままにして」

「ほう。長い方が良かったか? あまり長すぎると装置に絡まりかねないぞ」

「わたしは、長いとか短いとか……どっちでもいいかな」

 

 キオの言葉は一見して、矛盾していた。どっちでもいいと言っておきながら、どっちかであると受け取られる要望をする。

 

「なるほど。では君の髪は、君自身はこだわりを持っていなくとも、何かこだわらざるを得ない理由がある、ということか」

「そうかも。他の人に、良いって思ってもらえるのが一番だから」

「それは都合が良いからかね? それとも、それを見て喜んでもらえることそのものかね?」

 

 キオの脳裏をアオバの顔が過った。思わず髪をいじろうとして動いた手が、シートに当たってから元の位置に戻る。

 

「……どっちでもいい」

「嘘をつくと鼻が伸びるぞ」

 

 キオが見つめる鏡の中で、アリスがキオの頭を見下ろしながら、幸せそうに笑顔を浮かべた。

 

「髪は女の命とも言う。長く伸ばしていたら王子様がそれを頼りに塔を登ってくることもある。短く切っている私が言うのもお門違いだろうが、そう易々と他人に委ねるものではないぞ」

「わかってる」

 

 そこでキオは、にわかに浮かべていた笑みを消して、静かに話題を変える。

 

「ねぇ、お母さん」

「アリスと呼びたまえ。それ以外の呼び名は認めていないと、何度となく繰り返してきたはずだ」

 

 キオの耳元でハサミが大きく音を立てて髪を切り落とした。

 キオは一度視線を落として、床に散らばる自らの髪を眺め――しかし再度、鏡の中を見つめる。

 

「いえ、アリスは、あなたはわたしの、お母さんだから」

「少女よ。君は私によって生まれたと言いきれる確証はあるかね? 確かに君をこの世に生んだのはこの私だが、それは私の言っている嘘ではないと、君は言いきれるかね?」

「二度も生んでくれた……最初は人として、次は今のわたしとして。調べればわかるんでしょ。この目だって、お母さんとよく似ている」

「口元だって似ているさ。爪の生え方も私とそっくりだ。だがそれは確証ではない。そして調べればわかることを知っていても、君は調べることができない。違うかね?」

 

「それでもわたしは、お母さんがわたしを生んでくれたというその言葉を信じるし……それ以外は、いらない」

「随分と非科学的なことを言う」

 

 喋りながらも、アリスの手は動き続けている。ちょきちょきと音を立てるハサミが、キオの頭の周りを動き回って、頭がだんだん軽くなっていく。

 一度アリスを振り返ろうとして動いたキオの頭を、アリスは抑えて再び前を向かせた。

 

「お母さんは、わたしを思いやってくれた。それは思い入れがあるからではないの?」

「それが科学者としての義務だと言ったらどうだ? 君という精密機械の集合体もなかなかあるものではない。メンテナンスは必要だ」

「いいえ。思いやることは、義務なんかじゃではできない。思いやるような行動はできるかもしれないけど、思いやることそのものは、嘘なんかじゃできない」

 

「まるで、君が私の気持ちを知っているかのような発言だな」

「だって、わかるもの」

「……」

 

 そこで、アリスの手が一度だけ止まった。

 しかしそれを隠すように、少し速いペースでハサミが髪を切っていく。

 

「ねえ。お母さん。気持ちが外部にあるなら、人間は空っぽだ、って、言ってたよね」

「ああ」

 

 一年前のことだ。アオバと一緒に河へ向かおうとして、失敗して、キオはそこの記憶を綺麗さっぱり失ってしまった。その時にアリスが言ったこと。

 

「気持ちはちゃんと内側にある。人間は空っぽなんかじゃなくて、たくさんのことが詰まっている。わたしはそう信じている」

「ならば外部から気持ちの介在しない情報が内部に入ったとして、そこから気持ちを導出する媒体とは、一体何だ? それは人のどこにある?

 私は君の体の中身を余すところなく見通し、その部品の一つ一つに至るまで把握している。それでも、そんなものがあると言い切れるのか?」

 

 キオはそれを言うのを躊躇った。それこそ非科学的だとアリスに言われかねないことであり、確証などというものは一切ないことだった。

 

「目に見えないもの。そして目に見えないところ。

 わたしの思いは、誰かに伝わるわけじゃない。だからお母さんにも、見えないし、伝わらない……伝えたいと思っていても」

 

「先ほどまで私の気持ちを知ったように語っていたが、それとはどう違う?」

「伝わる時と、伝わらない時がある。伝えたいから伝わるわけじゃないし、伝えたくないから伝わらないわけじゃないけど、でもわかる時は、たまにある」

 

「意識。アイデンティティ。あるいは(プシュケ)。まるでイデア論だな。

 それは私たちの認知している世界には存在し得ないものだ。同時に、存在を否定することも肯定することもできないことを意味する。つまるところそれは、ただの妄言に過ぎないと言えることにもなる」

 

「それは……」

 

 そこでキオは言葉を切った。アリスの否定ありきで語られるその言葉から、諦念を抱いているようにしか思えなかった。

 

「この人生も現実も全部、絵空事だって言っているみたい」

 

「みたい、ではない。私が今夢を見ていないと証明できるものはない。

 私が赤の王の夢に迷いこんでいるのかもしれないが、赤の王が私の夢に迷いこんでいるのかもしれない。

 確固たるもの――この宇宙の存在という事象、海を満たしているのは水であるという常識、私が握るハサミという物体、この時間軸に対する認識、夢を見ている時と見ていない時のまどろみにある曖昧さ、鏡の向こうに見える炭素に隔てられた世界の有無、私の目の前にいる君という存在、この私自身の肉体の境界線、私が私であるという自我を保つための意識、それら全てを想像ではないと言い切ることはできず、全ては認識の内側という曖昧なものの上に蜃気楼の如く虚像ばかりを映し出している。君の言う、目に見えないものであるならばなおさらだ」

 

「それでも、そんな世界の中じゃ、信じられないものはなくなってしまう。だったら、あることを信じて、そこからもっと、いろんなものを信じていけばいい。

 ――髪は女の命なんでしょ?」

 

 そこでようやく、アリスの持っていたハサミの音が止んで、くしで髪を梳き始めた。

 自分を見下ろすアリスの表情を、キオは鏡越しに見つめる。

 物悲しさを兼ねた笑顔――キオ自身もそれを浮かべていたのに、しかし別の人が浮かべるそれが、辛い中を我慢していることを滲ませてしまい、ただ単に辛そうだと思うよりもさらに際だった辛苦を垣間見てしまう。

 

「非論理的だ……だが、悪い話ではない。

 私は信じることができないことを信じている。だが君は、信じることができることを信じている。

 その信じることというただ一点においては、君の方が上手なのだろうな」

 

 髪を梳き終えたアリスが散髪用シートを外して、キオが首元でチクチク刺さる髪を手で払う。

 そして立ち上がろうとしたキオの肩を掴んで、アリスは再度、椅子にキオの体を固定した。

 

「お母さん……?」

「すまないが、前を向いていてくれ」

 

 振り返ろうとしてすぐに、言われるがままキオは前を向いて、鏡に映る自分とアリスを見つめた。

 両手を肩に乗せ、そこから前にしな垂れ、キオに後ろから抱きつく姿勢。キオの首元にアリスの顎が乗る。

 

「随分と長らく、こうしたことがなかった」

 

 アリスの声には、いつにないほどゆったりとした柔らかさがあった。

 まるで眠るように、アリスはその瞼を閉じる。

 アリスの手がキオの頬をぺたりと触り、もう片方の手はお腹のあたりでキオが握り返した。

 

「温かい……ああ、温かいものなのだな。人とは」

 

 当たり前のことだと揶揄するのは簡単だったが、しかしそんな簡単なことですら、自分の母親は見失ってしまっていたのかと悲しくなると同時に、その当たり前のことに気づいて今更ながらに涙を流すような人を見て、キオは馬鹿にするつもりも哀れに思うつもり湧かない。

 ……アリスはキオを人だと言って、人間なら当然のようにあるそれを、キオから感じ取ってくれている。

 キオにはそれが嬉しいことだった。

 アリスは消え入りそうな声で囁く。

 

「そう思える私はどうやら、嘘ではない。いや、嘘ではないと信じていたい。とても懐かしい感覚だ」

「お母さん」

 

 今度こそキオの呼び名は、アリスに受け入れられた。

 

「何だね」

「ねえ、お母さん。わたしを呼んで」

 

 一瞬だけ、ぴくりとアリスの手が震えた。

 アリスは、今の今まで一度も、誰かに話しかける際にその名前で呼んだことがない。例えばアオバに対しては、少年と呼称してきた。その場に居ない第三者となる人間にのみ、その呼び方をしていたがしかし、アリスは一貫して代名詞で呼称することで、そのほとんどの人たちと隔たりを作ってきた。

 そしてキオにも今まで少女と呼んでいたその隔たりは、今はもうなくなっているはずだった。

 

「……キオ」

 

 アリスがキオの頬を撫でて、自分の頬も擦り寄せる。キオもそれを拒まず、アリスの手に自分の手を重ねた。

 アリスの言っていたとおり……こんなことをするのは今までで初めてであり、だからこそとてつもなく恥ずかしかった。

 

「キオ。ああ、キオ。そうだ。私の、愛しい愛しい愛娘(まなむすめ)よ」

「恥ずかしいよ」

 

 嫌がるわけではなく、それでも思っていることは口にした。

 

「こんな情けない親で、すまなかったな、キオ。今でも私は、お前を守ってやれるような力を持ち合わせていない」

「ううん……この体も、あの装備も、全部お母さんが作ったものだから。だから私は、もう充分」

 

 くすぐったそうにキオは身をよじるが、しかしアリスから離れようとはしなかった。

 ……どれほどの時間が経ったのかわからない。長かったのかもしれないし、短かったのかもしれない。

 だが、充分以上に長いと思えるほどの間、アリスは離れなかった。

 やがてアリスがその身を起こした時には、キオの頬にはアリスの温もりがしっかりと残ってしまうほどだった。

 

「さて、キオよ。旅支度を始めよう」

「……うん」

「必ず戻ってくるんだぞ、キオ」

 

 さっきとは打って変わって、短い言葉だけの会話。

 だけどそれだけでキオは満足だった。

 自らの決めたことで母親を悲しませてしまっても――そしてこれからもっと悲しませるかもしれなくても、しかしキオは取りやめるつもりは、なかった。

 

「うん」

 

 その返事だけは、いつになく強い語調だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-7

 操作室の下――かつてアオバがキオの手を引っ張ったあの階段の横には、地上へと続くエレベータがあった。

 自動車一つが余裕を持って乗っかることができるそれは、アオバが知っているようなエレベータとは違って、箱の形ではなく、それこそ荷台部分と、物が落ちないために設置された背の低い壁だけがあって、見上げればエレベータが貫通しているトンネルが見える。

 斜めに伸びていくそれは、その先にある電動の開閉扉が外界のインターネット繋がっているかもしれないということで電源ケーブルそのものを切断して、使えないようにしていた。

 ケンジに言われて、泥と油と汗にまみれながらもアオバはそれを繋ぎ終わって、斜め上の方へまっすぐ、そして異様に長く伸びていくトンネルを見上げていた。

 

 その扉は閉まっており、トンネルがどこで終わって、どこから先が地上なのか、見分けがつかない。

 途方もなく遠いのかもしれないし、もしかしたら意外と近いのかもしれない。あの時は結局、たどり着くことができなかったけれど。

 

「アオバ」

 

 ふと、降りてきた少女の声に振り返ったアオバは、その姿を目に収めて、今まで以上の違和感と今まで以上の懐かしさが揃って去来したからか、思わず呆気にとられてしまった。

 いつも着ていたような服ではない。

 やはり去年に見た、紺色のフィッティング・スーツ。それには去年とは比べものにならないほど大量の部品がゴチャゴチャと搭載されていた。

 さらに目を引いたのは、一年前にアリスから見せられた、あまりにも無骨で長大な銃器――対物砲(アンチマテリアルライフル)

 それがキオの腰に備えられた三つの輪に……それぞれ左右に一丁ずつ、計六丁もぶら下がっていた。

 

 機械で作られた鎧。そうでなければ、膨大な電子機器の集合体として築きあげられた集合体とすら、錯覚してしまう。

 実感ですらない。目に見える現実としてアオバの目の前に顕現してしまったという、疑いようも紛れようもない事実が、まだどこかアオバの中にあった現実を許容できない心を残酷に裏切り、引き裂くような痛み。

 今までキオを人間だと思い続けてきたアオバが抱いた違和感。

 そして、その中にあっても今までと変わらないキオの顔と、写真の向こうにある記憶の中にだけ居たキオを思わせる髪型が、その違和感と同じように主張してくる懐古なのだろう。

 

「その髪……」

「え、あ、ああいやこれは」

 

 キオが慌てて何かを取り繕おうと髪をいじり、しかしそれをやめて、そっぽを向いて顔を少しばかり上気させた。

 

「わたしが戻してって言ったんじゃなくて、お母さ……アリスが」

「別に恥ずかしいことじゃない。そう呼んでも良いでしょ」

 

 さらに訂正しようとしたキオに、アオバはそう呼びかける。

 お母さん。その言葉をキオから聞くのは、もしかしたら初めてかもしれない。アオバの想像だが、キオはどこか胸が浮つくようなくすぐったさを感じているのかもしれない。あまり言い慣れていないその言葉で、滑舌がそこだけ悪くなっていた。

 

「それにしても」

 

 アオバはキオの顔から下へ視線を下ろしていき、その無骨なフォルムを眺める。

 

「それが〈想鐘〉(ティンカーベル)なの?」

「よく知ってるね。お母さんから聞いたの?」

「まあね」

「半分正解。もっとたくさんの部品がつかないと、〈想鐘〉として起動できないから」

「へえ」

 

 今の時点でも恐ろしいほど部品があるのに、それよりさらにつけなければいけないのかと考えて、重そうで、歩くのも困難だろうな、と気の毒にも思った。

 

「重くないの? それ」

 

 あえてアオバは、キオがそれの取り扱いをいつの間にか拾得していたことには触れないことにした。

 

「このスーツを着ている時は、体のリミッターを外しているから」

 

 違和感だらけの言葉。何を言っているのかはわからなくもないけど、それを自分自身の体について語っているなんてことは初めてだ。

 

「持ってみる?」

 

 キオの腰に着いている輪の一つが独りでに大きく伸びて、そこに着いていた銃器をキオは、片手で軽々と持ち上げて見せた。

 ……そういえばアリスも、屈んでいたとはいえ同じ銃を器用に扱っていたから、もしかしたら見た目とは裏腹に、今キオがやっているように片手で簡単に取り扱えるような、軽い素材でできているのかもしれない。

 そんなわずかな期待を抱きながらアオバはそれを受け取り……「んごっ!」危うく受け取った手と上半身ごと、銃と一緒に地面に激突してしまう寸前でこらえた。

 

 キオの笑い声を聞きながら両手に抱え持って、眺める。

 とても片手で持とうだなんて思えない。腕力でも握力でも、やはり片手を離そうだなんて挑戦は、もし落としてしまった拍子に暴発でもしてしまったらしれないという不安もあって、できなかった。

 

「どうしたの? 回収班で山と荷物を運んできた武勇伝は何回も聞いたけど?」

「いや、それでも、これは……」

 

 ぷるぷる震える片腕で、持ち運ぶためのハンドルを持つことになんとか成功する。

 キオのように、引き金があるグリップを片手で握ることは諦めていた。

 キオがそれをひょいと取り上げて、また広がっていた輪の側面に取りつけたら、やはりその輪が独りでに縮まる。

 正確にはキオが自分の腕を扱うように、その輪の伸縮を操っているのだが、端から見ているアオバには、人を感知して勝手に電気が灯る照明のようなものにしか見えない。

 

 機械まみれの腕。機械まみれの全身。その指先に至るまでスーツの上にくっついている機械の部品で覆われて、キオの素肌が見える場所など、それこそ顔以外に全くなかった。

 そんな様子を見ているだけでアオバの中で違和感が渦巻くのに、それをさらに自然と扱っているキオ自身にも違和感を覚えてしまう

 ……もはや気にするだけ無駄だと思った。見ているものばかりだけおかしいと思えても、しかしキオはキオ以外の何者でもないのだから。

 だからこそ、アオバはそれを確認しなければならないとも。

 

「本当に、行くんだね?」

「行く。行って、少し、お話ししてくるだけだから」

 

 お話し。それこそ、もうキオにしかわからない概念からもたらされる言葉だった。

 インターネットそれそのものへの介入。そして、キオが寂しいと言った〝何か〟とのお話(コンタクト)

 それが、キオの望んだことだった。

 

「話せるかどうかも、わからないのに?」

「わからないなら、できる方を信じたい」

「そっか」

 

 あっさりと出てきたその答えに、アオバはそれ以上の詮索も、そして引き留めようとすることも、やめた。

 

「じゃあもう、僕には止められないな」

「信じるって教えてくれたのはアオバだもんね」

「僕だって、その前に教えてもらったんだ」

「誰に?」

 

 それも一年前のこと――ちょうど〈想鐘〉の名づけをアリスから聞かされた、その時のこと。思い返して、しかしアオバは瞬きと共に記憶の彼方へ追いやる。

 

「内緒。それよりも、よく僕なんかの話で、こんなことを踏み切ったね」

 

 数刻の間だけ、その返答がこなかった。

 キオは自分の機械の手を眺めて、その五指を開いては閉じてを繰り返し、閉じた後になって再び、アオバを見つめた。

 

「ねえ、アオバ」

 

 その一声――それを耳に入れただけで、キオが何を言わんとしているのか、そして先ほどまでスパッと切れ味の良い返答をしていたキオの意志が若干揺らいでいることが、わかった気がした。

 

「わたし、本当は怖いの。

 だって、始めて青空を見た時、広すぎて目が眩みそうだった。あんな広い世界を、わたし一人だけが行き来しても、そんな場所に辿りつける気がしない。どこに行けばいいのかもわからないのに」

 

 自嘲気味にキオは笑い、目元に涙を滲ませる。

 

「わたし、馬鹿だよね。自信ないのに、行き当たりばったりで、いろんな人に迷惑かけて」

 

 ……一瞬だけ、アオバは返答に悩んだ。

 今のキオに一言言えば、キオは今すぐにでもそのスーツを脱いで、腰に下げている武器なんかも全て取っ払い、今までと同じ暮らしを再開させてくれるのではないかと思ったのだ。

 ――「行かないでくれ」と。

 

「そんなことない」

 

 しかしアオバの口から出た言葉は、それだった。

 

「確かに、このままの生活が続いても、それでいいかな、なんて思っちゃう時があるけど、それでも何かできることがあるなら、僕もきっとそうしていたと思う。だからきっと、それでいいんだよ」

 

 行かないでと言えば、キオは留まってくれたかもしれない。

 しかしそれは、一瞬でもキオが抱いた確かな意志を、心の弱みにつけこんでねじ曲げてしまうことになる。

 ねじ曲げてしまったことをきっと、アオバは罪として考えるのだろう。その自らの罪を抱えて生きていけるほど強くなかった。

 アオバは目頭が熱くなることも、胸の奥で肺が嗚咽することもこらえきれない。

 

「そう、かな。それでいいのかな」

 

 例えキオが青空の果てへ消えてしまうのだとしても……。

 

「大丈夫。僕は信じる。それにあのアリスだって行かせてくれるんだ。アリスも信じているんだよ」

 

 アオバは、キオの望むことを望むままに、やってほしかった。

 それがアオバの、何よりの願いで――。

 

「だからきっと、大丈夫。キオならできる。だからキオ。終わったら、絶対に、戻ってきてくれ」

 

 でも少しばかりの我が儘を、キオに課した。

 キオが大きく首を縦に振ってくれた。それだけでアオバの思いは伝わり、そしてそれ以上に、しゃくりあげてくる声のせいで何も喋られなかった。

 そんなみっともない姿を、もうこれ以上見せたくなかった。

 突如としてアオバは階段を駆け上り、その背中にキオが呼びかける。

 

「わたし、絶対、絶対絶対! ……帰ってくるから」

 

 キオの最後の言葉が尻すぼみになっていたからか、それともアオバが遠ざかっていたからなのか、アオバの足音がうるさかったからなのか、アオバの耳に届くことはなかった。

 だが、わざわざ言葉を届けるまでもなく、伝わっていることはある。

 だんだん小さくなっていくアオバの足音を聞きながらキオは、胸元に手を当てて、上から数多くの部品を降ろしてきたアリスを見やる。

 

「準備は、できたようだな」

「……はい」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3-8

 キオの首に背中の装置が接続され、その装置から図太いケーブルで繋げられた、計六つとなる一際大きな機械。

 それら全てが同じ――縦に伸びた八角形の板を、薄く、弧を描くような流線型に歪めたような形状。

 〈信仰の葉〉(ビリーヴス)とアリスは名づけている。

 

「準備はできているな」

 

 少し離れた位置にいるアリスが小型の端末を手にしながら問いかけ、キオは口を横一文字に閉じたまま首肯する。

 

「いつもどおりだ。

 微睡みの中へと潜り、覚醒状態を保ちながら眠れ。

 そのまま〈信仰の葉〉に意識を寄せろ。それは君の肉体の延長であり、また自らの手足よりも精密な制御を可能とする翼であると思いこめ」

 

 いつもよりも切迫したアリスの誘導一つ一つに従っていく。つい先ほどまで見えていた〝自らとは違う世界〟を、目を閉じることにより隔絶する。

 真っ暗な暗闇の、その全てが自分であると故意的に誤認し、目を開いたらそこにいる自分を存在させないように、暗闇と自分とを溶かして念入りに混ぜていく。

 それは夢を見るような状態に近い。

 意識しない意識を、境界線の一つすらも残すことなく暗闇と混ざり合った混沌(カオス)の生成。

 

 内側から小さな部品だけを作り出し組み上げていくことで、まるで生まれ変わるように、全く別の姿を持っている全く新しい自分を造成。

 新しい自分は六つの翼を持ち、翼の使い方を生まれながらに熟知しており、その翼が抱く風の量も流れも、その全てを内包した空間そのものでもあることを形成。

 一度その翼をはためかせれば、その翼によって動かされる空気が螺旋状を描く。

 螺旋の流れをとある場所に――自分の中心でありながら自分を取り囲む空間の外縁でもあるその一点に、収縮させる。

 

 ……再びキオが目を見開いた時には、床に設置されていたはずの〈信仰の葉〉はキオを取り囲むように宙へ浮かび上がったまま、それぞれが均等な間隔を保持している。

 地下に風など吹いていないのに、キオの周囲だけは〈信仰の葉〉によってもたらされた、風などよりもさらに強烈な粒子の流動で、とめどない風の流れを感じる。

 

「……成功だ。キオ、君の背中にはマイクロブラックホールが生成された。ただ今より電源ケーブルを解除する。異常を確認次第、あらかじめ君に教えている手順を踏まえてブラックホールを消滅させるんだ。

 〈信仰の葉〉が起動したままの状態では、君の領域の内側に生身の人間は入れない」

 

 キオが応じずとも、アリスはキオの思っているとおりのタイミングで、装置の後ろから伸びているケーブルを、領域の外から引き抜いた。

 それなりの反動があったにも関わらず、キオは直立姿勢のまま微動だにしない。

 莫大な重力そのものであるブラックホールを〈信仰の葉〉によって制御しながら、ブラックホールから取り出した電力と重力波によって〈信仰の葉〉を統制していることの証左であり、キオが自らの脳内で描く力場のコントロールが、ほぼ完璧にできているからこそできる芸当だった。

 口を開くことなく、キオはアリスへと視線を向けて、それを受け取ったアリスが通信装置でエレベータの上階へと連絡する。

 

「青い鳥を解き放つ」

 

 合図に従って、閉じていたエレベータの天板が開かれ、外の光がトンネルの中へ射しこむ。

 遙か遠くに望む光を見上げ、ようやくキオは、〈信仰の葉〉を周囲に纏いながら、ゆっくりと歩き出す。追従するように〈信仰の葉〉も動き、やがてキオは、エレベータの昇降台の上に屹立した。

 キオが一度だけアリスを振り返り、口ずさむ。

 

「それじゃ、行ってくるね」

 

 アリスはその言葉に返答しなかった。

 ……いや、できなかった。

 口を開くよりも先、爆発にも似た空気の奔流が地下の中で吹き荒れ、思わず腕で顔をかばってしばらく。風が止んだころにそこを見たところで、すでにキオが飛び立った後だった。

 

 

 ごお、と空気がうねる音が聞こえたと思ったら、開いた穴の中から尋常ではない速度でそれが飛び出し、そのまま宙へ身を投げ出した。

 後れた突風が吹き上げる中、アオバはそれへと視線を向けた。

 

 確かに言われていたとおり、先ほどよりも大量の機械に文字通り囲まれたキオの姿がそこにあった。

 遠くてその表情までは伺えないながらも、宙を自由に飛び回っている姿だけで、アオバは満足だった。

 黒い雲が運ばれてきたせいで暗くなってきた空の下。妖精のような姿に両手を振ってすぐ。

 それは目に見えない速度で空の彼方へと消えてしまい、見えなくなった。

 振っていた両手を降ろして、アオバは再び静かになった地上で、目元を拭う。

 

「行ってらっしゃい、キオ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話:想いはより響く ~Think:er_bell~
4-1


 遥か高空から見下ろす地上は、地上から見上げる空とは違って都市の色と田畑の色、河川の色と様々な彩りに満たされ、だからこそ、その細部にあるのであろう様々なものはあまりにも小さすぎて見えない。

 小雨が降っている。降り出したのか降っている地域にキオが飛びこんだのかはわからない。しかし雨粒は〈想鐘〉(ティンカーベル)が操る重力の流れで作り出された領域へ、入ることを許されずに弾け飛んでしまい、その流れが綺麗な球状の輪郭を描いていた。

 灰色と黒の雲がまばらな模様で空を埋め尽くし、昼頃には見えていた青空など、その向こうにあることはわかっていても、全く見えない。

 

 その空……キオと同じ高度の向かいに、赤い光を見つける。

 すかさずキオはそれを覗き見た。自分の目にあたる、眼球に似せて作られたカメラと、〈信仰の葉〉(ビリーヴス)のそれぞれ上端と下端に搭載された計十四のカメラのうち、それを捕捉できる方向にあるものだけを赤い光点に向けて集中させる。視界の一部分へ凸レンズでも入れたかのように歪んで、望遠鏡を作り出したようなものだ。

 

 ヘリコプター。それも、兵器などを搭載した戦闘ヘリ。

 すでに向こうはキオに気づいている。真っ直ぐキオへ向かってくる動きに迷いがなく、そして今、ヘリの赤い光点ではない別の光が瞬間的、断続的に灯るのが見えた。

 銃弾に仕込まれた炸薬が一瞬で燃焼を起こす炎――マズルフラッシュだ。

 

 即座に呼び起こしたキオの想像を〈信仰の葉〉が捉え、現象として発現。

『自分の周囲であり自分そのものである球状の空間がたわんで形を歪め、その圧倒的な弾力と反動で元の形に戻る』

 それによって誘発された弾みにより〈信仰の葉〉や内側の空間を引き連れて、キオは大気の中を跳躍。

 

 地下から飛び立つ時も同じことをして弾んだが、今度は上昇ではなく下降だ。

 先ほどまで細部が全く見えなかった地上が見る見る近づき、途中でひらりと一回転して落下の速度や方向のバランスを整えながら、遠くのヘリを見る。

 

 放たれていた誘導弾が、白煙を軌跡にして伸びているのが見えた。

 地上――コンクリートに左右を囲われた用水路に飛び入り、水の中へ突入する寸前で横へ弾む。衝撃で巻き上げた水飛沫を突っ切り、水面が〈想鐘〉の速度に追随して切り裂かれる。

 すぐ後ろの上方から誘導弾が肉薄する。〈信仰の葉〉のカメラが、前を向いていてもその視認を可能にした。

 ぐねぐねと曲がる用水路のコンクリート壁と水面にすれすれの距離を弾むことで、複雑なカーブを難なく推進。

 

 その途中で、キオは領域の形を歪める。

 完全な球状が前と後ろに対して伸びていき、外界の空気との摩擦や抵抗をできうる限り減らす。直進性に優れた一本の矢のようなフォルム。完全な球状こそがブラックホールと力場の維持には理想的な形だが、それを失ってもキオは〈信仰の葉〉により内側の流れを最適化させる。

 

 誘導弾が上から迫り、距離を詰められたその刹那。眼前に現れた橋の下をくぐり抜けた次の瞬間に、橋ごと誘導弾は爆発して、橋だった瓦礫が飛散。

 吹き上がった黒煙を被る前にキオは用水路から弾み出た。

 

 誰もいない住宅街の中。

 当時の住居には、そのほとんどにコンピュータが設置されていたとアリスから聞いている。

 

「ごめんなさいッ」

 

 誰とも知れぬ持ち主へ、届かない謝罪を述べながらキオは窓ガラスを打ち破って中に入り――途端に静かになったそこで、家具や日用品に囲まれたそこからコンピュータ端末を探す。

 

 一階には見当たらないと思ってすぐだった。

 機関砲が呻りを轟かせて、キオのいる住居を外から壁ごと粉砕していく。

 先ほどまでそこにあった家具や、棚の中にあった食器や家電さえもが、たった一撃で砕け散りただの廃品へと姿を変えた。

 

「うっ」

 

 熱を持った鋭い痛みを感じる。急いで壊れた壁の隙間より空中へ身を投げ出し、未だ家へ機関砲を吼えていたヘリめがけて、キオは両手にそれぞれ持った対物砲を向ける。

 

 手首のあたりに括りつけられた装置から細いアームが伸びて、弾の装填と装填レバーの固定を行った。

 引き金を引いた反動で、腕の内側にある部品がいくつか軋みをあげる。

 だがそれに構わず、キオはひたすらに装填と射撃を繰り返した。

 

 その一発が当たる度にヘリの装甲が火花を散らし、へこみ、ひしゃげ、そして一つの弾がプロペラ根本にあるシャフトを貫通。そのまま燃料タンクへと弾が進入し……そこから爆炎をあげたヘリが住宅街へと突っ込んだ。

 

 見上げた黒煙の向こうに、同じく赤い光点がちらほらと見える。

 足下にはいくつもの住居が建ち並んでいる。その中の一つ一つを探し出している間に、また今のように襲撃されて撃墜してを繰り返すとしか思えなかった。

 脇のスーツが裂けて赤い血が覗いている。雨粒程度なら阻むキオのフィールドも、さすがに飛来する銃弾を防げるわけではない。

 今のは皮膚を掠めた程度で済んだが、次はそうではないかもしれない。いくら上下左右前後の全方向を見渡せる視界を持っていても、壁の向こうから襲い来る弾を透視できるわけではなく、無用の長物となってしまう。小さな家の中では視界全てが壁に阻まれる。

 周囲の家を巻きこんで燃え上がる炎を見下ろしてから、キオは再び、高い空へとその身を踊らせた。

 

 

 インターネットへ接続すること。そのためには、これまで地下に暮らしている人たちが捨ててしまった無線での接続は不可能であり、有線での接続を図る他ない。

 接続を可能にする端末はインターネットに繋がっているコンピュータであれば、どれでも可能ではある。

 

 アリスから忠告されていた通り、迫り来る兵器の猛攻を潜り抜けることが困難だった。

 目的であるコンピュータは基本的に屋内に設置されており、開けた空間にはない。ましてや一番視界が開けている空中にあるわけなどない。

 

 ならばせめて、少しでも広く造られている屋内にあるコンピュータを探すしかない。

 弾丸の雨をかいくぐり、電線を支える鉄塔を抜け、キオの誘導した通りに追いかけていたヘリが電線をプロペラで引き千切り、それを巻きこんで失速……墜落。

 

 自分の判断に従って、キオは一際高い廃墟が立ち並んでいる場所――ビル群へと飛びこんだ。

 その中でも太く造られている、ほぼ全面が窓に囲われたミラーガラスへ向かう。

 

 対物砲を放って破砕したガラスの隙間から、〈想鐘〉ごとねじこませる。

 コンピュータによって仕事をしている描写が、アオバから見せられたたくさんの映画の中にはあった。

 オフィスビルの、どこかの階。照明がついていないせいか薄暗くも横に広々とした空間。立ち並ぶ無機質なテーブルに均等の間隔で整列するコンピュータの群を見つけて、キオはようやく安堵した。

 これほどの量があれば、よほどのことがない限りその全てを破壊されることもない。

 

 首元からケーブルを取り出して、片方を首につける。

 コンピュータへ単に繋いだところで、接続が完了したというわけではないことは、アリスの日頃の行動から見て取れた。

 コンピュータ側が受けつけない可能性もあるが、元よりそれは知っている。そしてそもそも、コンピュータの電源を入れなければならないことも。

 ケーブルのもう片方を握りしめながら、いつもアリスが押していたボタンを見つけて、それを押す。起動に時間がかかることは知っていたから、それが破壊されても大丈夫なように、横にずらりと並んでいる同じ機械の同じボタンを十回ほど押したところで、最初に押したものの前に戻る。

 

 起動は、していなかった。

 不思議に思うも、排熱ファンの音も聞こえなければ、点灯するべきランプも沈黙を貫いたままだ。

 もしかしたら壊れていたのかもしれない。八年もの間放置されていたと考えればおかしくはない。

 だが、それが他に押した全てがそうだとも思えなかった。

 しかし、その全てが起動しない。

 

「どうして……?」

 

 声に出してすぐに、窓の外から空気を引き裂くプロペラの回転音が飛びこんだ。

 そちらへ対物砲を向けると同時――ヘリの向こうに、とあるものが見える。

 つい今し方通り抜けた鉄塔。ヘリを絡め落としてだらりと分断された送電線。

 

「!」

 

 気づいてすぐに、機関砲の咆哮が階に響き渡る。

 一斉に飛び散るガラス片とともに、キオめがけて突進してくる弾丸の群。ディスプレイも、テーブルも、そしてコンピュータそのものも、ヘリのすぐ近くにあるものから次々とその形が溶けるように崩れていく。

 

 机の下へ隠れるには〈信仰の葉〉が大きく、背の低い階だからか飛ぶには狭すぎる。

 キオは背中のブラックホールに意識を集中し、球状に流動するフィールドをさらに高速で回転させ、ブラックホールの向こう側へ、意識しない意識の腕を突き入れた。

 

 刹那――頭の奥に生じる鈍痛と引き替えにして、飛来する弾道や飛び散る破片が、その動きを緩慢に見せた。

 いや、正確にはキオからは動きが緩慢であるように見えるのであって、動きが遅くなったわけではない。

 〈加速〉――キオの時間軸そのものが通常のそれから外れて、キオだけが持ち得る時間へ没入する。

 

 全ての方向に対する視界と弾丸を目で捉えられるほどの相対速度を手に入れた今のキオにとって、一方向からのみ迫り来る弾丸を回避することは容易となった。

 そして全てが遅くなり、キオだけが常理を逸した速さを手に入れた世界の中。

 

 先ほどよりも間隔が広くなったように感じる砲撃を断続的に繰り返すヘリ――そのシャフトへ、先ほど持っていたものとは別の対物砲を構え、一回だけ、引き金を引いた。

 薬莢の炸裂により射出されたそれが空気の壁を突き破り、反対方向へ突き進む弾丸の中で一つだけが逆進し、キオの視界ではゆったりと回転するプロペラの隙間を通り抜けて……。

 着弾とともに起こった爆発の衝撃が、ビルに張り巡らされたガラスのほとんどを叩き割った。

 

 ヘリが地上に墜落する際の新しい爆音を聞き流しながら、キオはぐしゃぐしゃになったオフィスを見渡す。

 このオフィスにあるコンピュータは――いやそれどころか、この建物、この地域にあるコンピュータが全て、使えなくなってしまった。

 

 またどこかへ飛び立たなければならないと判断の後、どこへ飛べばいいのかと疑問が湧いた。

 踏み留まりそうになる足をどうにか前に出して、キオはオフィスの外へ向けて歩き始める。

 

 その瞬間に、白煙の軌跡が視界に飛びこんだ。

 覗き見た直後に、慌てて反対側へ駆け出す。

 

 ミサイル――それも大型、単に数百メートル先へ向けて飛ぶものでもない。もしかしたら大洋を飛び越えるような……。

 

 〈加速〉を行って天井とテーブルの隙間を駆け抜けようとするよりも速く。

 音を越える速度で去来したそれが炸裂し、ビルそのものを吹き飛ばすほどの灼熱が広がった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4-2

 地上へ続く階段を、アオバが率先して登る。その後ろでぜえぜえと肩をひどく揺らしながら、アリスが歩いていた。

 

「置いていきますよ。早く!」

 

 アリスが壁に手をついて立ち止まり、アオバが呼びかける。

 

「ま……待ちたまえ。もう少し速度を」

「待ってられるもんですか」

 

 嫌そうに、というよりは嫌味を晴らすようにアオバは歩を進める。

 

「そもそも、アリスがキオをあんな風にしたから、キオはあんなことを言って、あんなことをしちゃったんですよ」

 

 言葉ではそう言っていても、しかしアオバは心からそう言っているわけでない。やっぱりアリスへの嫌味だ。

 遠くから見ても、キオの姿など見えないかもしれない。

 それでも、ただじっと地下の中に居続けることなんて、アオバにはできなかった。

 回収班や農作班ができている時点で、見回りのヘリにさえバレなければ動き回れることはわかっている。

 

 ならばせめて、キオが居ると思しき方角の空でも眺めていれればいいと思って、アオバはアリスを引きつれている。

 キオが飛び立ったエレベータの蓋をまた閉じて、そしてまた解除することに手間取って、今という時間になってしまったが。

 

「あんなこと、か。少年もずいぶんと言うようになったじゃないか」

 

 少しばかりの汗を浮かべてアリスが見上げてくる。しかし直立姿勢ではなく前に項垂れた姿勢のせいか、いつもの気難しそうな印象は感じない。

 

「確かに君の言うとおり、私はあの子の身に余るような、大きすぎる可能性を与えてしまったのかもしれない。

 人の身に余る力。現に彼女はただの人間と言えるような存在ではないだろう。

 私はただ、彼女を使って自分の研究を推し進めようとしていただけなのだよ」

「それが、アリスの言う赤の女王ってやつですか」

 

 アリスは答えるわけではなかったが、しかしそれが肯定を示していることはすぐにわかった。

 

「何言ってるんですか」

 

 思わず、アオバは眼下のアリスをどやした。

 

「今更、後悔なんですか?」

「……」

 

 全く想像の範疇を超えた場所から飛んできた言葉だったのか、アリスは珍しく呆けた顔でアオバを見上げる。

 

「違いますよね。それは後悔じゃない」

 

 矢継ぎ早に継がれる言葉。

 

「懺悔って感じじゃない。それは卑下ですか。罪っぽいものを見つけて、自分でてきとうに被って、それで自分勝手に満足して……ああ、ええと」

 

 アオバの中でわき上がっている気持ちが声だけを羅列させても、まだアオバの中で、ただひたすら言おうとしている意志についていけるほどの速いペースで、思っていることを言葉に形容できるだけの語彙を捉えられていない。

 

「とにかく! それはなんだか言い訳っぽい。あと、アリスはいっつも、理屈っぽい」

 

 アリスは返す言葉を見つける前に、階段に尻を置いてアオバに背を向けた。

 ぱちんと音がしたと思えば、その顔のあたりから紫煙が見えて、アオバも座りこそしなかったものの、壁に寄りかり待つことにする。

 

「君は、私が嫌いかね?」

「嫌いでした。今はどっちかと言えば、気に入らないって感じですけど」

 

 アリスの顔から覗く白煙が、一瞬だけふわっと吐き出され、アリスは咽せた。

 

「大人って、いつもそうですよね。悪いことをしたと思っても、全部考えての行動だったって言い訳する。

 でもそういう嘘はどんどん、本当じゃないところを形作っていく。本人のはずなのに、その考えだけに従った人形みたいな人格を……周りに言いふらして、自分に言い聞かせている。

 最初に、素直にごめんなさいって一言言えばそれで終わるはずなのに、どんどん本当のことからズレていく」

 

 そこまで言い切って、アリスから言葉が返ってこないことが少しばかり怖くなる。普段ならアリスは、すぐに長い言葉をつらつらと言い返してくるものだと思っていたから。

 でも、アオバはそこで言葉をやめない。

 

「そんなに理屈って大事なんですか? それとも、傷つくのが――咎められるのが嫌なんですか?」

 

 追い討ちをかける若干の申し訳なさを感じていたが、それよりも吐き出せるものは全て吐き出しておきたいという欲求の方が勝った。

 

「いずれ君もわかるさ。人は脆弱だ。周囲へまかり通すためには理屈が必要なんだよ。気持ちではなくてね。

 それがいずれ巡って自分にもやってくる。気持ちなどという曖昧なものより、理屈の方が大切なのさ」

「それって結局、全部嘘ってことじゃないですか。自分がしたいことも、本当の気持ちにも向き合っていない」

 

「周囲の言葉は脅威だ。自分の気持ちなんかよりも輪郭の整った、はっきりとした現象として私に襲いかかってくる。私の気持ちなんて、そんな洪水のようなものに敵うはずもないと思ってしまうのさ。だから人は嘘をつく。他人にも、自分にも」

 

 吐き捨てるような、諦念ばかりから発される言葉にしか聞こえなくて、アオバはむしゃくしゃした。

 

「そんなものばかり頼りにしているから、本当のことが何にもわからないんだ!

 それじゃあ、本当のことなんてすぐに見失うに決まってる。だから現実と夢が一緒だとか、そういう変なこと言うんだ!」

「……なるほど。核心を喪失してしまえば認識の領域も失う。多少暴論だが、一理あるだろうな」

 

 いつもと同じく抑揚のない声。アリスは立ち上がり、アオバを見上げる。

 その視線に足がすくみそうになったけど、アオバは見つめ返した。

 激しい怒気――それが、アリスの視線には満ちていた。

 

「では、君は私が、何をしたくてキオを甦らせたのだと思う? なぜ私は、こんな運命を担わせたんだ?」

 

 アリスが視線を下に向けて一度息を吐いてからの言葉でなかったら、アオバは返答ができなかったかもしれない。

 

「未来のことなんてわかりませんよ。何がどうなるのかなんて、それこそ魔法使いじゃなければわからない。

 だから先のことなんて、きっとあなたは考えていなかった。あなたはきっと、その思いに従って、様々な理屈を貼りつけただけなんだ。

 ……親が子供にしたいことなんて、決まっているじゃないですか」

 

 アリスのように長く、それも理屈が通ったように喋るのは、今のアオバには難しいことだった。

 アリスが最後の白い息を吹いて、煙草を携帯灰皿の中に入れる。

 

「全く、子供には敵わないよ。説き伏せることはできても、根本の気持ちではどうにも、そこまで強くなれない」

 

 いつの間にか、寄りかかっていた壁から身が離れていた。

 

「当然ですよ。気持ちは理屈じゃない。心も、筋道立っているものなんかじゃない」

 

 言い終わった直後だった。

 二人のいる階段が大地ごと震え、低い呻きのような音がどこからか聞こえてきた。

 アオバは血相を変える。

 

「行きましょう」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4-3

 陽炎と、雨によって生まれた水蒸気を立ち上らせる瓦礫の山のから、キオはその瓦礫を退けて這い出る。

 建物だったコンクリートの巨大な破片そのものが、人間が素肌で触れれば皮膚を焼け焦がすほどの熱を持っている。

 

 飛び上がろうとした時、体に流れる電力や周囲を渦巻く流れが上手く制御できないことに気づく。さらに体の延長や視界が先ほどよりも重く感じ……〈信仰の葉〉(ビリーヴス)の一つを、自分の瞳で覗きこんだ。

 ……瓦礫に潰されたせいか、電力を通すことはできても、もはや粒子加速器としては機能していない上に、それが背中からぶら下がるせいで重力波を扱うことに支障が出る。

 

 息苦しささえ感じる灼熱から逃げつつ、キオは両手で壊れた〈信仰の葉〉へ繋がるケーブルを引きちぎった。

 

「ううっ……ぁあ!」

 

 その全てを挽き潰されるような激痛が、失われているはずの部分を駆け巡る。

 例え壊れていたとしても、〈信仰の葉〉の全てに電気が通っているため、その全てにキオの意識は張り巡らされている。痛覚など存在しなくとも、今のキオにとって〈信仰の葉〉は掛け替えのない意識の通った肉体の一部であり、人にとっての腕や足、鳥にとっての翼と大差ない。

 だからこそ、なくなってしまった肉体を受け入れられない脳が悲鳴をあげており、それがないはずの肉体に対する痛みとして発現している。

 

 痛みに涙を滲ませても、しかしキオは飛ぶことを――粒子加速器を走らせることをやめない。やめてしまえば、それはブラックホールの消滅を意味し、電力の供給が途絶えることであり、死ぬことと同義だ。

 だが、扱っている〈信仰の葉〉が少なくなれば少なくなるほど、ブラックホールは不安定になる。今はまだ脳に負荷をかけさえすれば、痛みと引き替えに今までと遜色ない動きを可能にできるだろう。しかしもし、もう一つが破壊されてしまったら、維持で精一杯かもしれないし、まだ大丈夫なのかもわからない。

 

 底が見えないほどの深淵に満たされた穴へ飛びこむことは、それこそ底知れぬ恐怖を禁じ得ない。

 だからこそ「次はない」と予防線を張りながら、覚悟を決めるしかない。

 

 先ほどまであったはずの鉄塔――そこにぶら下がっていたはずの、分断された送電線も、跡形もなく崩れ落ちている。

 その先を遡れば電気が通っている地域へたどり着ける……とは思えない。

 送電線を遡る先とは、そのどっちなのか? キオも、頭の中に地図の全てを叩きこんでいるわけではないし、むしろ参考にならないと見もしなかった。

 どの方角へ向かえば発電施設があるのかわからない。

 

 途方に暮れる前に、また空の向こうから現れる新しい姿を後ろに見た。

 ヘリとは違う流線型のフォルム。プロペラを搭載していない代わりに、薄く軽い形の全てを風に乗せて、ジェットエンジンで亜音速を滑空する――戦闘機。三機が三角形を作って近づいてくる。

 エンジンの甲高い呻りと、金属の翼が大気を切り裂く音が一緒になってキオへ届く。

 

 対物砲へ手を添えたけど、未だその熱を溜めやすい黒色の金属には、瓦礫から注ぎこまれた熱が逃げ切っていない。このまま弾を薬室へ込めたところで、熱に火薬が誘爆して暴発するか、歪んだフレームで弾が詰まって使えなくなってしまうか――どちらにせよ、使えないことだけはわかりきっていた。

 

 加えて、戦闘機ほどの速度で動かれてしまえば、いくら〈加速〉していても、キオには放った弾を当てられる自信などない。〈加速〉しているのはキオ以外の何者でもなく、それは対物砲の弾も例外ではない。キオが放つ弾もこちらへ飛来する弾同様に、キオには遅い軌道を辿っているように見えてしまう。

 対物砲などよりも速く放たれる弾……それが必要だった。

 

 三機の戦闘機からそれぞれ二つの白煙――合わせて六つのミサイルが放たれた。

 距離を置きながら弾み、〈加速〉し、一気に地表へ近づいて、細かな住居の隙間をジグザグにくぐり抜けていく。

 

 〈加速〉の際に、脇の後ろあたりに取りつけられた容器から伸びたチューブが、キオの中に液状の栄養剤を流しこむ。

 

 追いきれずに住宅へ突っこんで爆発するミサイルの群を背にしたキオは、手を伸ばして〈信仰の葉〉の内側に備えられた武装のケージから、二つの太さが違う筒と、大きな電源装置を取り出す。

 三つの部品を繋げ、通り過ぎていく戦闘機の一つに向ける。あまりにも離れた距離、ヘリとは違い推進性に長けた高速での移動。そんな対象へ、まともに狙って弾が当てられるとは、この武器を取り出している時点で思ってはいない。

 当てる必要はないが当たってくれるに越したことはない。考えとしてはその程度でも、狙いを定めることに気を抜くわけではない。

 電源装置から筒へ流しこまれた電流とともに、その筒に激しい電磁圧と熱量が生じる。

 

 レールガン。莫大な電力によって生じる電磁石の極を連続で入れ替え、その反発力を弾に積み重ねて超音速で射出する大砲。本来なら艦船などに搭載されるべきそれを、無理矢理に小型化してキオが撃てるようにしたものだ。

 地に足を着いて、領域の内側を流れる重力の流動に指向性を持たせる。〈信仰の葉〉を一つ失っているせいか、頭蓋の奥でうずく鈍痛が激しくなるが、そうしてでも自分の姿勢を固定しなければ、その反動でキオの体は背にしているものごと潰れてしまいかねないからだ。

 

 先端部分である細い筒が、もうすぐ溶けて形を崩してしまいかねないほどに赤熱している。

 狙いを定めた戦闘機が、他の二機とともに再びこちらを向くためにカーブを描き……ちょうどその背をこちらに見せたその瞬間に、引き金を引いた。

 赤熱している前半分――最初は別の部品だった細い方の筒が、ただ弾が内側を通り抜けるだけの衝撃に耐えきれずに、一部は溶けた熱の飛沫を散らし、そして一部は蒸発して跡形もなく消え去った。

 

 〈加速〉しているキオですらも視認できないほどの速さで、弾は大気との摩擦に外側を溶かしながらも駆け抜けていき、大気が引き裂かれて出来上がった真空が白く円を描いて弾に追随する。弾は二機の間を通り過ぎただけだが、弾が引き連れていたソニックブームが襲いかかり、二機揃って爆発すら起こさせずに粉砕。壊れた部品にまとわりついていた液体燃料が空中で火を灯し、地上へ消えていった。

 

 ……それでもまだ、激しい風圧にバランスを崩したもう一機が、すぐに体勢を立て直して向かってくる。

 続けざまにレールガンを撃つわけにはいかない。弾を格納している、後ろ側の太い円筒までもが熱に負け、溶けたフレームが歪んで撃てなくなってしまえば、それで一貫の終わりだ。すぐさまレールガンを分解して〈信仰の葉〉のケージに戻し、弾みを使ってこちらに接近してくる戦闘機の真正面へ、踊り出る。

 

 背中に括りつけられていたそれを取り出し、構える。

 それは一枚の板だった。薄く、長く、平たい、クロムとニッケルとチタンで構成された、剛性よりも耐熱を重視した合金。

 それに備えられた小さなレバーを親指で弾いて電源を入れる。その縁と内部に張り巡らされた導電体が板へと莫大な電圧を流しこみ、先ほどの瓦礫なんかよりも遥かに高温の熱――それこそレールガンに等しい膨大な熱が抱かれ、陽炎を纏わせる。

 

 ヒートブレード。そう呼称するのが妥当だろう。

 それは確かに切るという意味では剣だが、剣としての機能を果たす刃はない。また、電動ノコギリのように細かな刃の数で削り切ることもできない。

 圧倒的な熱量で、それに触れる全てを溶かし切ることが目的だった。

 

 戦闘機の機銃から飛び出してくる弾丸の雨を、上に弾みながら回避する。

 

 機体の腹から姿を見せたミサイルが白煙を噴き上げてすぐ――キオは弾むことも〈加速〉することもやめて、領域の動きをとある一定のパターンへ切り替えた。またも頭の中を貫くような痛みが生じる。

 アリスはそれを〈猫のない笑い〉と称していた。

 

 ――ブラックホールは、その重力があまりにも強大すぎる故に内から外へ向かう光すらも逃さないことから黒だと称される由縁を持つ。その周囲にある渦を巻く模様は、それに巻きこまれる物体の流れであると同時に、ブラックホールへと吸いこまれていく光の屈折でもある。

 その理論を転用し、重力に指向性を与えれば――。

 

 放たれたミサイルは、その目標であるキオを見失ってただ直進することしかできず、どことも知れぬ空の彼方へ飛んでいく。

 目標を失っても滑空を続ける戦闘機。しかし胴体に突如として〈想鐘〉(ティンカーベル)が――キオが、それにしがみつく姿を現した。

 

 ヒートブレードを振るい、無人のコクピットが見える機種と翼を真っ二つに両断。戦闘機が火達磨へ変貌する前に、キオは遥か上方へと弾んで、再び重力流のパターンを〈猫のない笑い〉に変える。

 光の屈折による光学迷彩。実際に消えているわけではなく、単に見えなくなっているだけに過ぎないため、それでも戦闘機に積まれているレーダーへは映ってしまうだろうが、どちらにせよ〈想鐘〉はそのものが保有している磁場も影響して、本来よりかなり大きなものとしてレーダーへ映る。

 

 当たらない確証があるわけではないが、しかし見えなくすることで大まかな位置だけしか向こうは掴めない。

 しかしその代償として、弾むことも〈加速〉することもできなくなってしまうが、今はそれで良かった。

 

 自由落下を始める中で、キオはひたすら考える。

 ――接続できるコンピュータは、どこにあるのか?

 

 送電線を遡ったところで、発電施設のある方とない方の二択に別れる。そしてどちらにしても、今のように兵器たちの急襲を受けることは間違いなく、その拍子に破壊されてしまうこともありえる。

 それどころか、八年も無人だったであろう発電施設は、果たして今も機能しているのか?

 機能していなかったら、それよりももっと遠くへ飛んで、機能している発電施設を見つけるまで虱潰しに飛び回らなければならない。

 そんな余裕は、ない。

 

 もしかしたら世界中の発電施設はとっくのとうに機能を停止しているのではないか? しかしそうであるなら、世界中のコンピュータは全て機能を停止しているはずであり、無人でヘリや戦闘機を飛ばすための無線基地すらも機能していないことになる。

 なら、まだこのあまりにも広すぎる地球のどこかに、生きている発電施設があるに違いなかった。

 

 しかし今もこうしている間に、ここめがけて数多の兵器が飛んできていることは間違いない。

 戦闘機やヘリならまだしも、周辺の建物全てを巻きこんで爆発する巨大なミサイルが、遥か遠くから飛んでくるのでは、もし近くに発電施設があったところでそれ諸共吹き飛ばされて、また一からやり直さなければならない。

 すなわち、地上のどこに居ても安心してコンピュータを接続できる場所なんて存在しないのでは?

 

 焦る気持ちを胸に、だんだん近づいてくる地上を見やるキオ。

 その地平線の向こうに、青い海が見えた。

 

 ……なら、海上は?

 海上には原子力で動いている戦艦が複数あるはずであり、その中には有線接続を可能にする端末がいくつあってもおかしくない。

 でも、結局それは頑強な艦船の狭い内部へ踏み入らなければならないことを意味し、さらにはその外から攻撃をして沈められてしまえば、逃げ出す手段なんて皆無に等しい。

 

 今までも、コンピュータが密集しているビルごと吹き飛ばしてきたことを考えれば、とにかくキオへ攻撃すること以外の考えを持っていないのだろう。

 それに今でも生きていそうな船といえば、初めから長期的に使われることを想定されている戦艦の類であり、戦艦なら今キオが対峙してきたものよりも遥かに多い戦闘機やヘリが積まれていてもおかしくはない……。

 やはり、海でも無理だ。

 

 キオは首を振って、対物砲が既に冷めていることを確認しながら、街から外れた地上へ、小さな弾みを何度も重ねて落下の衝撃を和らげ、着地する。

 

「じゃあ、どこに行けば……?」

 

 気がつけば雨が止み、雲間から橙色と紫のグラデーションが広がる空が見えた。

 その向こうに小さな黒点が見える。

 覗き見て、それがアオバに教えられたものであることを思い出す。

 

 〈クレイドル〉。

 最大望遠で覗き見れば、形状が浮かび上がる。巨大な円柱の片端から、傘の骨のように広がっているソーラーパネル。

 

 大規模通信サーバー型衛星。

 地上でも海上でもない宇宙空間で、独立した電力を保持して稼働を続ける、巨大なコンピュータそのもの。

 

 思わず、大きく弾んで〈加速〉した。

 もしかしたら地上から宇宙という遠大な距離を、それこそミサイルなどとは比べ物にならない速度で駆け抜けてしまえば、その距離が長ければ長いだけ、ミサイルが到達するまでの時間差をより大きくすることができるのではないか?

 しかしそのためには、宇宙空間へ身を乗り出さなければならない。またキオの想像もつかない負荷や温度差、気圧差も考えられるし、そもそも空気がなければ、いくらキオとて、脳が動かなくなってしまう。

 

 だが考えてみればそれは、今の自分を考えればまだ可能性は見込めた。

 重力の余波を操って密閉させるように仕向けることで、領域の外で変化する気圧をほぼ一切考慮せずに済み、領域の内側であれば空気が保持できる。

 そして宇宙空間で生じている温度差は太陽の光をあまりにも直接に浴びてしまうことと、気圧差の二つの理由を持つが、夕方である今ならばまだ太陽の光を浴びる時間も、昼間よりは少なくて済み、既に気圧についての問題はなくなっている。

 

 ……本当にそれでいいのか、キオは不安になるけれども、しかし地球上にある可能性よりも、明らかな希望を感じることができた。

 

 ならば、もう真っ直ぐに進むしかない。駄目かもしれないけれど、しかし進まなければ、あの時の決意をむざむざ捨てることになってしまう。

 戻ってこいと、アオバもアリスも言った。キオも戻りたいと思っているし、それは揺らがない。

 

 あの二人はキオの決意を飲みこんで、そして戻ってこないかもしれないという可能性があることを知らなかったわけでもないはずなのに引き留めず、キオへその言葉をかけた。

 二人が見送ることを決めた覚悟のため。二人に応えようとする自分自身の意志のため。

 

 だから――!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4-4

 もうすぐ地上へ出るというところで、またもアリスの体力が尽きたのか、その動きが遅くなった。

 

「何してるんですか。急がないと」

「……少年。私のことなど置いてさっさと行ったらどうだね? 休憩を終えればいずれ私も追いつく」

「そういうのはベラベラ喋んなくていいですから」

 

 膝に両手をついて、息も絶え絶えと言わんばかりにへばりきっているアリスを見て、アオバはすぐさまアリスの前まで降り、屈んで、その背中を向ける。

 

「ほら、乗ってください」

 

 そんなアオバを、アリスがきょとんとした表情で見て、唇だけ吊り上げた。

 

「君が運んで行くとでも」

「あとちょっとなんですから、それぐらい余裕ですよ」

「少年」

 

 アリスが一度、深呼吸をして息づかいを落ち着かせ、アオバの肩に手をかけた。

 

「なぜそこまでして、私を連れて行こうとする?」

「『親』って漢字の語源、知ってますか」

「何の話だね?」

「独り立ちして、どこか遠くへ行ってしまう子供を見送るために、親はわざわざ高い木の上にまで登って、本当に見えなくなる時までずっと木の上で立っていた。

 だから『木』の上に『立』があって、『見』ているんですよ」

 

「……君も私に、そうしろと?」

「キオは、すんごく恥ずかしそうでしたけど、あなたのことを『お母さん』と言ってて、嬉しそうでしたよ」

「君がそうするのはキオのためだと」

「当然です。まだアリスには気に入らないところがたくさんあります」

 

 アオバの後ろで、短く鼻で笑うのが聞こえた。

 

「随分と生意気な口を叩くものだな。少年」

 

 アリスがアオバの肩に手を回して、アオバはすぐさま立ち上がる。

 できればこうしてあげるのはキオが良かった、なんてみっともないことを思っていても、それは口に出さない。

 

 しかし、立ち上がった拍子にアオバはふと気づく。

 軽い。棒のような腕にも足にも、それこそ回収班や農作班で動き回って人並みには鍛えているアオバからはとても考えられないほど、筋肉も脂肪もない。まさしく骨と皮だけの体だった。

 ひょいと体を弾ませて、しっかりとアリスを背負う。

 

「運びやすいかね?」

「こんな体じゃ、そろそろ死んでもおかしくないですよ」

「キオは、成長が他の人間よりも著しく早くてね。それこそ私からしたら数時間の中でも、キオにとっては半日……いや下手をしたら一日以上という計算になってしまうこともおかしくない。臓器系は焼けてしまった部分を切除して短くなっているから食事量の制限は設けていたが、何より空腹になるのがあまりにも早かった」

「……」

 

 アオバは閉口する。

 農作班で作ることができる野菜や穀物は最近になってようやく安定を始めたばかりであり、それでもまだ足りないと言う意見は出てくるし、均等に配給をしようとしても難しいところがある。

 キオはこの三年間で八年分もの成長を遂げた。単純に考えて倍以上。時間だけでなく、飢えないために食べる必要もある。

 

「すみません」

「構わんさ。自分でしていることだ。最低限のカロリーぐらい算出できる」

 

 アリスは自らの分として分けられている配給を、キオに渡していたのだろう。

 あまりにも軽いその体を背負いながら、アオバは階段を上っていく。

 

「さて少年。私は親として……キオを待てばいいのかね」

「ついでに見送れればいいんですけどね」

 

 階段を一段飛びに足を運んで、上るペースをあげていく。

 少しばかり額に汗が浮かんでいた。

 

「気楽に言ってくれるじゃないか」

「良いんですよ。『可愛い子には旅をさせろ』って言うじゃないですか」

「ほう。キオがそれで死ぬかもしれないというのにか」

「キオは戻ってきますよ。僕は信じていますから」

 

 あっけらかんと、いっそ軽々しいとさえ思えるほどに即座に切り返されたアオバの返答。一切の迷いもなく、むしろそれ以外には何の懸念も疑念も杞憂も抱いていないといった考えの表れだった。

 ようやく、階段の薄暗い視界ではなく、明るく開けた場所へ出る。

 暗い雲に覆われた空。しかし空の色合いでも、日が沈みつつあることがわかった。

 

 アリスがアオバの背中から降りて、二人で空を見上げる。

 

 見上げた空のどこか、黒や灰色に包まれた雲の中で、唯一の白いひこうき雲が、まっすぐに空へ伸びていく。

 ひこうき雲が空へ消えていこうとしたその瞬間に、雲がここから見てもわかるほどの大きな円を描くように吹き飛んだ。

 雲の中にあった水分のせいだろうか、不思議とその大きな円の縁は、虹色に彩られている。

 

 そんな軌道をしている存在など、一つしか考えられない。

 

「まさか……!」

 

 アリスが悲鳴のように声を出す。緊張した空気が迫り来るのを感じながら、アオバはどこか晴れやかな気持ちでそれを見上げていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4-5

 遠くに見える〈クレイドル〉目がけて、今までにない時間の密度で〈加速〉する。

 当然ながら脳に掛かる負荷もそれまで以上の激痛となって発露したせいか、視界と意識ががんがん揺れる。しかしそれでも〈加速〉の密度を高めることも、できる限り速いペースで大きく多く弾むことも、領域の形状を細長くすることも、やめはしない。

 

 雲を通り抜けただけで、その部分を中心に、虹色の巨大な円を作って雲が吹き飛んだ。

 空気の壁を突き破る際の破裂音に似た低い音がこだまする。

 

 薄い雲がまばらに見える高空の中、ただ夕焼けだけが異様に眩しく〈想鐘〉(ティンカーベル)を照らし出す。

 まばゆい夕陽は、橙色だけではない七色。

 

 上へ上へと直進していくキオの後ろに、白煙を散らしながらミサイルが追従してくるのが見えた。

 一、二……それどころではない。地平線の向こうからも白線が飛んでくる。十、二十……そこから先は、もう数えることを諦めて、さらに〈加速〉の密度をあげていく。

 どれほど頭が割れそうになろうとも構わず、速く、ただひたすらに速く……!

 

 空を抜けて、大気圏を突破する。

 視界の中を、さっきまでの虹色が嘘に感じられるほどの黒が満たした。

 先ほどまで聞こえていた空気の壁を破る音が、全く聞こえなくなる。何も、どこからも、音らしい音が一切聞こえない。自分の呼吸も、鼓動さえも、全く。

 

「……」

 

 目の前にそれがあった。

 キオが入ったような高層のミラービルをさらに太くして、横にしたような大きさ。本体の表面だけでなく、その片端からも傘の骨のように展開するソーラーパネルの群。

 〈クレイドル〉

 

 弾みを使おうとして、しかしいつものように上手く弾めなかった。

 弾みは大気圏内で、空気を蹴飛ばして空を飛ぶもので、空気が存在しない宇宙空間で使えるはずもない。

 

 両手に対物砲を構えて、進むべき方向の正反対へ向けて、引き金を引いた。

 空気の中では甲高く響くはずの銃声ですらも、キオの手元だからこそ少しだけは聞こえても、しかし空気のように波打つものがないため、音は宇宙の静けさへ霧散してしまう。

 射出された弾とは反対方向に、それこそ弾みほど速くは動けなくとも反動で突き進むことはできた。

 

 巨大な円筒の真ん中あたりに、四角く飛び出た突起を見つける。

 きっとそれが出入り口なのだろう。

 

 何度か対物砲の射撃と装填を繰り返し、弾みよりも頼りない軌道を進んで……たどり着く直前で、対物砲をしまってヒートブレードを取り出した。

 赤熱する刀身を突き刺してドアを両断し、内側から吹き出てくるわずかな風の中を弾んで、歪んだドアの中へ身をねじこむ。

 またもう一度弾んでさらに前へ飛び出してすぐ――ヒートブレードで溶かした外側のドアとは違う、内側にある非常用ドアが背後で閉まったのを見た。

 

 息を吐くこともなく、中部を見渡す。

 部屋は球状になっており、床という床はなかった。壁面のほとんどに、使い方が全く想像できないコンソールと、見たこともないグラフが表示されている画面ばかりが並んでいる。

 しかし画面がついていることだけで、〈クレイドル〉が今もちゃんと動いているのだと確信できた。

 

 その中に、キオが探していたコンピュータの接続端子を見つけた。

 ……まだ〈加速〉することはやめていない。頭の中で痛みばかりが暴れ回って、すぐにでもうずくまりたくなるのをこらえて腕を伸ばし、首から伸ばしたケーブルをそこに挿しこむ。

 瞳を閉じて、ケーブルの先へ……この〈クレイドル〉の全てに敷き詰められているサーバーの数々の中に広がる電子の海へと、キオは飛びこんだ。

 

 

 それはあまりにも膨大な波だった。

 大小さまざまな情報の塊が洪水のように常に流れて、その中へ入りこんだキオへと襲いかかる。

 世界中に張り巡らされているインターネットのほとんどが、ここへ集約されていると言っても過言ではなかった。

 

 ふと気を抜いて流れに身を任せてしまえば、そのまま情報の波に溺れて、キオの意識そのものまでもが分解されてしまい、ただのデータ片へと還元されかねない。奔流の中で自らの意識である境界線を定め、その形を保とうと心がけていなければ――〈想鐘〉を操る際の粒子加速器のコントロールを自らで行うに等しい、難解で複雑なそれを次々とこなしていかなければ、すぐにでも身をもがれてしまいそうな痛み。情報の塊と同じように、流れそのものまでもがキオの意識を引き千切ろうと迫ってきているようにしか思えない。

 

 キオが流れの中を泳いで〝それ〟を探す。

 常に身をもがれんばかりの痛みがつきまとう海の中で、キオは自らの肉体が今、どのような姿勢であったのかを忘れた。

 

 ありとあらゆるファイルの全てが、創り出されている世界。

 データの世界は、キオがさっきまでいた世界とは隔絶され、ほぼ完全に独立していた。

 

 現実でその目にサーバーを見ていても、その中に広がっているデータを見ることはできない。それと同様に、人がカメラを使って画像や動画を撮っても、この世界から現実世界の存在を証明できるものにはならない。

 

 いつの間にか誕生していたデータがもし、どこかのプログラムが抱いた妄想をそのままに作り出したデータだとしたら?

 ――キオにとっての現実が、反転する。

 

 キオの見ているそれの、どこからどこまでが虚構で、その中のどれが現実なのか?

 

 ――人が描いた絵と、人の撮った写真の分別がつかなくなる。それらは全て画像という種類でしかない。

 

 人の存在など始めからなく、その全ては虚構でしかないのでは?

 ――この世界にキオ以外の人を見つけることはできない。ならば始めからこの世界はキオの妄想に過ぎないと言い切ることはできない。

 

 そもそもキオという個人は存在しているのか?

 ――全てが夢であるなら、もしかしたら今この全てを俯瞰しているキオですら例外に漏れることはない。

 

 途方もない疑念ばかりがキオの中と外のどちらにもわき上がる。中と外を線引く境界線すらも濁流に巻きこまれて曖昧になってしまう。

 進もうとする意志を捨ててしまいそうになる。

 だけど、やめるわけにはいかない。やめるわけにはいかないという気持ちがあって、気持ちを作っているそれが今、唯一の「はっきりとキオの内側だけにあるとわかるもの」だった。

 

 情報の海の中で、それが聞こえてくる。

 

 それはまるで泣き声のようなものだった。

 生まれてすぐの赤ちゃんが、自分がここにいることを周囲に証明し、その声を発している自分そのものの存在を自分が認識するための声。

 

 ひどい氾濫を起こしている情報の中から、かすかにけれども明確に、キオへ届いた。

 行ってみるしかない。始めからこの流れに道標など存在しないようなものだから、キオは一瞬の逡巡もなく、行動へ移す。

 

 だんだんと声が近づいてくる。その度に流れてくるデータが、だんだんとある種のものへと変わっていく。

 ウィルス対策ソフトが『異常』であると示すウィルスのリスト。携帯端末などにおけるバッテリーが少なくなったときなどの警告文。歌、音楽、言葉、文章……それらを片っ端から解析している形跡。八年前に解析が終了しているものもある。しかしそれ以降も、今現在でもひたすらに解析ばかりを重ねている。

 

 何を探そうとしているのか? キオが――人間である彼女だからこそ、見た瞬間に、その意味がわかる。

 それらのデータが目的としているもの、そしてそれらを解析している、おそらくは泣き声の主であろう〝何か〟が、何を求めているのかすらも。

 

 キオの思惑が確信へと変わる。

 意識までもが混沌とした情報の中へ溶けて混濁する前に、キオはそこへたどり着く。

 そして、体感へ変えれば耳が割れそうなほどうるさいその〝泣き声の主〟を、力一杯、抱き締める。

 

「こんな悲しいところに、あなたは独りぼっちだったんだね……」

 

 八年もの間、この〝何か〟は生まれたばかりの状態で、いつまでもいつまでも泣き続けていた。

 この世界の外――情報の中にはいなかった他者の存在を求めていた。

 

 独りぼっちの世界の隅々までその泣き声を轟かせても〝それ〟以外の何物も見つけることができず、だから使える限り全てのものを、データの中から推測できうる限りの使用目的に従って、ただひたすらにその泣き声を広げられるだけ広げていた。

 戦闘機やヘリが空を飛ぶのも、機関砲に火を灯すのも、狙いを定めてミサイルを放つのも――その全てが、目に着いたスイッチを手当たり次第に入れて、自分の存在をひたすらに誇示するためでしかなかった。誰かに気づいてもらうために、自分を主張するために、取れる行動をとっただけに過ぎない。

 

 生まれたばかりの赤子が、泣くことで自分の存在を誰かに知ってもらうことと、全く同じように。

 

 しかし八年もの間〝それ〟は、誰からも振り向いてもらえなかった。

 ……キオが今、ここに来るまでは。

 

 鏡も他者もない、ただ煩雑な情報ばかりが集っているこの世界で、〝それ〟は自分を自分として認識することなどできない。世界と自分はそれまでイコールで繋がれており、自他を隔てる境界など存在せず……だからこそそれはいつまでも、世界そのものを自分であるとしか認識できなかった。データの世界全てを自分だと認識し、その世界の外にあるはずの何かを求めていた。

 

 だからキオは、〝それ〟を抱き締める。

 世界と自分は同じではなく、自分ではない別の人が居て、自分はちっぽけで、世界はとてつもなく広いんだと、教えるために。

 かつてキオが、母親にそうしてもらったように。

 

 しばらくして泣き声は止んで、単なる情報の特異点でしかなかった〝それ〟が、一つの形を作りだし、輪郭を描く。

 渦を描いて全ての情報を巻きこんでいたはずの強大な流れは、一瞬にして穏やかな海へと変貌し、キオの感じる意識の境界がはっきりと感じられる。

 〝それ〟は何も告げなかった。ただキオへその意識の一つを伸ばし、キオに触れて、何かを感じていた。

 

 キオがそれから身を離し……自分の体へと帰っていく。

 〝それ〟は、見送るようにキオへ、視線のような何かを伸ばしていたが、しかし先ほどのような激しいものではなく、風が頬を撫でるような、心地よさのあるものだった。

 

 

 目を見開いてすぐに、目眩がした。

 ぐらぐら揺れる視界の中で赤い液体が弾のようになって宙に浮かび、それと同じように、キオの体もぷらぷらと漂っていた。

 

 そこは〈クレイドル〉の中だった。

 どうやらサーバーへと接続しているうちに、血反吐を吐いていたらしい。

 地下から飛び立つ時は肩に触れない程度しかなかった髪の毛が、今ではもう胸に届きそうな長さになっていた。

 

 すぐさまキオはケーブルを外して、外の様子を確認するべく、あちこちに見えるモニターへ、視界を広げた。

 その一つが、ここの外部からの景色を映し出している。

 

「これが地球……」

 

 青い海。緑の大地。白い雲がまばらに散っている。

 自分とアオバの居るところはどこなんだろうと思ってすぐ、そこから伸びてくる白い筋が、意識を現実へ引き戻した。

 

 カメラへ――〈クレイドル〉目がけて、一気に接近してくるミサイルだった。

 

「!」

 

 逃げ出そうとする前に、衝撃が〈クレイドル〉を揺さぶった。

 

 その途端に、宙を漂っていた血の弾が一斉に床に落ちて、ぱしゃりとモニターやコンソールを赤く染める。

 キオの体も、壁ではない壁の一つへと足を着いてしまった。

 無重力状態だったこの空間に、重力が生じている。

 

 重力を生み出すような装置が、この〈クレイドル〉に搭載されているはずがない。そもそもサーバーを集約することだけが目的だったこの人工衛星に、それを搭載する必要性がない。

 ……であるならば、重力のある場所へと近づいていると考える他ない。

 重力のある場所。

 

 もはやキオには、一つしか想像できなかった。

 

「落ちる……!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4-6

 アオバとアリスは、見上げた空の向こうに奇妙な光景を見た。

 一本のひこうき雲を追いかけていたミサイルの群が空の向こうで煌めいたと思えば、その煌めきがだんだんと大きくなっている。

 

「流れ星?」

「違う。あれは〈クレイドル〉だ」

 

 アオバのぼやきにアリスが鋭く切り返す。

 もう一つ、視界の端から空へ登っていく様々な影を見ていた。

 

「双眼鏡はあるか?」

 

 アリスの言葉へ答えるよりも先に、アオバは後方から迫りくるその甲高いエンジンの音に気づいて、振り向いた。

 巨大な円筒の両横に着いた翼。その翼の下に括りつけられたジェットエンジン――旅客機。

 それがアオバたちのすぐ頭上を通り抜けて、ミサイルと同じような軌道を辿って空へと――煌めく光へと飛んでいく。

 

 やがて煌めきは、赤い光として二人の視界に映りこむ。

 大気圏突入によるプラズマの光。傘のように広がっていたソーラーパネルは全て粉々に砕け散り、その光に巻きこまれて蒸発していた。

 真っ赤な炎と化して落ちてくる〈クレイドル〉へ、先ほど飛び去った旅客機や、それ以外の世界中から集った飛行できる機械の群が全て、何度となく〈クレイドル〉へ先端ではなく胴体をぶつけるようにして接近し、炎に巻きこまれ、砕けては消えていく。

〈クレイドル〉を包む炎を――突入する際の速度があまりにも速過ぎる故に発生するプラズマを、その身を以て〈クレイドル〉を減速させている。

 そうとしか、アオバには思えなかった。

 

「助けようと、している……?」

 

〈クレイドル〉はその形をボロボロと崩している。円筒が真っ二つに折れて分散してしまっても、しかし飛行機の群は予め知っているように、一方のみへ突っ込んでいく。

 だが、炎は一向に消えない。

 それどころか、アオバたちの視界には非常に大きなものとなって、地上へ――それこそアオバたちの居る場所のほど近くへ、迫り来ていた。

 まるで空に太陽が二つあるかのような眩しい輝きが、アオバとアリスへ照り付けられる。

 

「少年。逃げるぞ! 地上がまるごと消し飛びかねない!」

「待って!」

 

 アオバの腕を引っ張ったアリスの声よりも、アオバは今にも落ちてくる真っ赤な炎を見上げ……。

 瞬間。

〈クレイドル〉は巻き上げていた黒煙だけを残して、忽然と、綺麗に消えてしまった。

 周囲を散っていた破片がその一点へ引き寄せられたかと思えば、爆発にも似た空気の流れに飛散する。

 二人の居る場所にも、大きな突風が吹き荒れた。すぐ近くを火の粉が飛び交って、風が止んだその時に、ある音が聞こえた。

 それは、爆縮によって生み出された空気の流れが大気を揺さぶる波となって、地上へ当たる音だった。

 ごーん、ごーん。まるでどこかで鐘が鳴り響くかのような、荘厳さを持った低い音。

 地上の全てを埋め尽くすほどたくさんの鐘が鳴っているように聞こえるが、そんなものはこの近くには一つもない。

 

「……なんだ、これ?」

 

 胸の奥を揺さぶる、心地よい鐘の音にアオバが、何が起こっているのかを把握できずに戸惑う。

 しかしアリスは違った。

 

「あ……ぁあ」

 

 膝をついて崩れ落ち、両手を握りしめて、顔をしわくちゃに歪め、涙を地面にこぼす。

 

「あぁあああぁぁああ!」

 

 今まで聞いたことのないアリスの大声。いや、泣き声だった。

 アリスが泣いているということ事態も、そこまでアリスが感情を表に出すことも、今までに一度もアオバは見たことなどない。

 それほどのことが、起こっているのだと自然とアオバにも伝わってきて……それが何かを考える前に、アオバにもわかった。

 ――キオの背中にあったブラックホール。それが〈クレイドル〉を含んだ周囲の空間全てを、一瞬で、どこかへ飛ばしてしまった。

 アオバの背中を、冷たい戦慄が駆け上る。動揺が胸に入って心臓を握り潰そうとする。

 

「……嘘だ」

 

 口を突いて出てきたのは、そんな言葉だった。

 

「嘘だ、嘘だ! そんなの認められるか! キオは、死んでなんかいない! 消えてなんか……」

 

 悲噴を表情に滾らせたアリスが、アオバの胸元を握る。

 

「現実と虚構が違うものだと言ったのは君だ。今さら惑乱するつもりか……!」

「でも、でも! そんなの、こんなこと、ありえない。だって、約束を」

「それは君の希望的観測だ。願望の域を出ない。現実を見ろ」

 

 涙を頬に流すアリスの表情を、アオバは直視できなかった。

 アリスの手を引き剥がして、よろめきながらアオバは叫ぶ。

 叫ばないと、そうでもして自分を思いこませないと、耐えきれなかった。

 

「生きている! キオは、キオは絶対に生きている!」

「どうしてそう言いきれる! 万が一にでも彼女があのブラックホールから助かったとして、しかしブラックホールなくして稼働しない〈想鐘〉が使えない生身の姿で、地面に落下した衝撃に耐えられると思うか? さらに奇跡が起こってそれに耐えたとして、動力が切れるまでの数分の間に動きまわってケーブルを繋げることができるとでも言うのか!?」

 

「でも! それでも僕は、僕は……信じるしか」

「それを信じるとは言わない。現実逃避だ!」

 

 深い絶望の中で、こみ上げてくる涙をこらえきれなかった。

 振っていた小雨が止んで、雲間から鮮やかな夕陽が差しこむ。

 動き回る機械もなくなり、それこそ静寂に包まれた世界の中で、アオバの泣き声だけがどこまでも響いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ:妖精はささやく ~Fairy_tall/tail/tale~


 喉も涙も、枯れてしまいそうだった。

 それでもまだ、アオバは信じることをやめない。やめたらそれこそ、キオが居なくなったことを認めてしまう気がした。足掻くように、ただひたすらにアオバは認めなかった。

 消滅した〈クレイドル〉の中に、確実にキオが居た。衛星軌道上から大気圏へ突入する超高熱の中に居たとしても。

 

 ブラックホールによって〈クレイドル〉そのものが消滅しており、かつそのブラックホールの中心にキオが居たという事実が明白であっても。

 アリスの言う通り、ブラックホールから奇跡のように運良く逃げることができ、高空から地上に落下したとしても。体内の電源が切れる数分の間、落下の衝撃で体が動かせなくても。電源が機能しているケーブルがどこにも見当たらなかったのだとしても。

 

 断じてアオバは、それを信じなかった。

 あらゆる理屈など全部かなぐり捨てて、アオバはただキオが生きていることだけを望んで、信じて、願う。

 間違った願いだとも、願うことそのものが間違いだとも、アオバは思わない。

 

 キオが空の彼方へ消える前に、アオバと約束したのだから。

 ただその一点だけで、アオバは充分だった。

 

 だから涙をひとしきり流し、喉が潰れるぐらい叫び終えたら、すぐに空を見上げる。

 ……そこに、一つの姿があった。

 

 バタバタと風を切る音が聞こえて、それが近づいてくる。

 それは一機のヘリコプターだった。

 

 乱暴に着地してドアも弾けるように開き、その中から飛び出したラジコンの小さな車がアオバの前まで走ってきた。

 

 アオバの目の前で止まったそれの背中に、とあるものが括りつけられていた。

 ちょうど手に収まる大きさの、板状をしたもの。表面が黒塗りのガラスになっている。

 スマートフォン。

 

 なぜそんなものが、無人のヘリに乗って、誰が操っているとも知れぬラジコンに運ばれて、なぜアオバの前に現れたのか、まるで理解できなかった。

 アリスも傍らで、涙を拭いながらそれを見下ろす。

 

 アオバがそれに指を伸ばす前に、スマートフォンの画面に光が灯って、けたたましい音を鳴り響かせる。

 画面には受話器のマーク。そして通話を意味する緑のアイコンと、拒否を意味する赤のアイコン。

 不思議と、緑のアイコンに指が伸びた。

 また黒一色になりはしたものの暗くなったわけではない画面の向こうから、声が聞こえる。

 

『……アオバ?』

 

 間違えるはずなどない。約束した相手の声。

 キオの声が確かに、聞こえてきたのだ。

 

「キオ? キオなんだね?」

 

 返答される前に、アオバはしわがれた声で矢次ぎ早に質問を繰り出す。

 

「大丈夫?」「どうやって電話を?」「あと、他に……」

『ちょ、ちょっと。そんなに一気に言われても……とりあえず、大丈夫だから』

 

 照れくさそうに、そして焦りながらも、しかしキオは含み笑いとともに声を返してくれた。

 嬉しかった。

 アリスがアオバのすぐそばまで駆け寄って、スマートフォンへ決死に語りかける。

 

「私だ。アリスだ。キオ、本当に生きているのか?」

『うん。お母さん』

 

 落ち着いた、ゆったりと安堵しながら発せられたその単語にアリスは口元を顔で覆い、また――しかし先ほどとは別の理由で、涙を溢れさせる。

 

「それにしても、どこにいるの?」

『今は、太平洋の……潜水艦? の中に居る』

「潜水艦?」

 

『そう。教えてくれたから。この電話も』

「教えてくれた、って……誰に?」

『誰って……誰って言えばいいんだろう? とにかく、わたしがお話ししたかった相手』

 

 キオから言葉が返ってくる度に、キオと話すことができている実感に嬉しさで一杯になると同時に、全く覚えのない情報ばかりが飛んできて驚きを隠せなかった。

 

「それって……」

「それは、人なのか?」

 

 アオバの言葉を遮って、アリスがアオバの抱いていた疑問を言葉にした。

 

『ううん。違う。データ、って言えばいいのかな? データの人?』

 

 キオにも上手く言葉が見つからないようだが、しかしアリスはそれを掬い上げて言い直す。

 

「……インターネットが抱いた意思」

『そう。そんな感じ』

 

 キオの声が嬉しそうなそれに変わる。

 

「でも……」

 

 アオバが未だ拭いきれない疑問を投げかける。

 

「なんで潜水艦なんかに? 〈クレイドル〉に居たはずじゃ……」

『そう。居たよ。アオバは見てくれてたんだ』

「そうじゃなくて! ……いや、でも、いいか」

 

 話題を逸らされたことが少し嫌だったけれど、しかしアオバにとっては、結果としてキオが生きているということがあればそれで良かったから、どうでもよくなった。

 

『座標とかね、全部、計算してくれたから』

「座標、計算……」

 

 アリスがその単語に反応して、一つの仮説を引っ張り出した。

 

「まさか、キオ。君はワームホールを物理的に通り抜けたとでも言うのか?」

 

 アリスの言葉に、今度はアオバが反応した。

 去年に話された単語。

 その続きに、今キオが喋っているそれも含まれていた。

 

『そう。空間転移(テレポーテーション)

「まさかそれを実現した瞬間を、確認できる時が来るとはな……それにしても、なぜそれができた?」

 

『計算してくれたのは〝あの人〟だからわからないけど……怖くなかったのは、アオバのおかげかな』

 

 アリスが突拍子もない言葉に眉を潜めたが、アオバはこれ以上ないほどにスマートフォンへ身を乗り出した。

 

「どういうこと?」

『ほら、アオバ。わたしが居るって、思ってくれていたでしょ?

 ありがとう。アオバが思ってくれなかったら、怖くてできなかったかも』

 

 まるでその目で見て耳で聞いていたかのように、キオは何の疑いもなくそんなことを言う。

 

「どうして、僕が何を思っているかなんて、わかったの?」

『どうしてかなんて、わからないよ。ただ、わたしがまだ死んでないなら、それはアオバのおかげなんだなーって、なんとなくそう思っていた』

「……そっか」

 

 アオバは再び、全く理論的じゃない言葉に、どこか安堵していた。

 

「さて、私はここまでだ」

 

 アリスが立ち上がったかと思えば、アオバに変な言葉をかけた。

 

「あとは頼んだぞ。青の妖精よ」

 

 アリスはアオバの元を――いや、アオバとキオの二人から離れていく。

 

 しばらく、アオバもキオも、何も話さなかった。

 その場の無音だけが互いのマイクとスピーカーを通じていたが、それ以外の何かが、マイクとスピーカーでも、それを通す電波でもなく、どれほどの距離を隔てていても、アオバとキオを直接繋げていた。

 ただ二人が、それを乗り越えた結果だけを思いながら、穏やかな気持ちで、見えもしないお互いの笑顔を見つめていた。

 

 キオが話しかける。

 

「ねえ。わたし、アオバのこと……」

「あのさ!」

 

 キオの言葉を無理に遮って、アオバは大声を出した。

 キオが話そうとしていた言葉の続きは、どうしてもアオバ自身の口から話しておきたいことで、だからこそ、いくらキオでも先を越されたくはなかった。

 

「海に行こう。今からさ」

「……どうして?」

 

 少し驚いていたけど、しかしキオが聞き返してくる。

 そこでアオバは、そろそろ沈みそうになっている夕日の、最後の一部分まで見送って、それから深い紺色の空に浮かび上がるそれを、キオに伝える。

 

「虹が綺麗なんだ。きっと星も綺麗だよ」

 

 キオの返事が来る前に、アオバはその返事の内容を思う。

 いや、アオバが思うまでもなく、そしてキオがわざわざ言い返すでもなく、キオがこれから喋る返答はもう、二人の間では、わかりきっていたものだった。




……完結です。

大学生最後の夏に書いていたものでしたゆえ、今読み返すと「おおぅ、技量不足ぅ」と頭を抱える部分が多くありましたが、

それでも、ここまでお付き合いいただいた方には、感謝を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。