錬金術師と吸血鬼 (湖畔十色)
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第一章: You Are My Destiny
第1話 出逢


 その日は、今年一番の吹雪の日だった。

 風がうなり声を上げて街を駆け巡り、雪が二重窓を叩きつけている。

 その上既に夜も更けているため、通りには人影がほとんどなかった。

 

「あー、つかれた……」

 

 そんな中を帰ってきたクリスは、宿の自室に着くなり、雪まみれの外套を脱ぎ捨ててベッドに倒れこんだ。

 フードも意味をなさなかったらしく、白い髪に溶け込むように雪が載っていたが、それを払いのけるのすら億劫な様子だ。

 宿は暖が効いていたので、白い頬や鼻は赤みがかかっている。

 

「まずい、このまま寝ちゃいそう」

 

 首だけ動かして時計を見ると、針はすでに午後十一時を回っている。

 

「うー」

 

 クリスは変な声とともに枕に顔を埋める。

 働いている酒場の女将さんの紹介してくれた宿だけあって、ベッドはちゃんと真っ白なシーツだ。

 旅人向けの雑魚寝するような宿ではこうはいかないので、こういう時にはいつも以上に女将さんに感謝を感じる。

 

「でも寝る前に錬金術……」

 

 クリスはベッドの脇に置かれた「上級錬金術基礎編」と題された本をたぐり寄せ、栞の挟んであるページをめくって読み始める。

 師匠の国家錬金術師サンジェルマンの下から独立したは良いものの、まだ錬金術一本で生活することはできていなかった。そのため、クリスは足りない分の生活費を知人の酒場で働いて補いながら、錬金術の研究を進めていたのだった。

 

「これは……つくる――造る、かな。血、液、これは一語で血液のことか。それに、薬。ええと、造血薬?」

 

 錬金術はエルフの時代の終わりと共に一度衰退したため、多くの本、特に高度なレシピが載ったものは古代エルフ語で書かれている。

 そのため、古代エルフ語で記された内容を一つ一つ帝国語に翻訳しながら本を読み進めなければならない。

 

「うーん。必要になること、ボクにはなさそう。ええと、レシピは……」

 

 部屋にはクリスの呟く声と、時折ページをめくる音、そして時計が時を刻む音だけが響いていた。

 しばらくすると、不意に玄関のドアがノックされた。

 

「うわ! も、もう。こんな時間に誰?」

 

 クリスはびくりと体を跳ねさせて驚くと、本に栞を挟み直して立ち上がる。

 

「ふあ……酔っ払いが部屋間違えてるのかな。全く、勘弁して――」

 

 大きな欠伸をしつつ、ドアに辿り着いたクリスが鍵を開けると、

 

 ぶわさっ!

 

 ドアが開き、大きな羽音とともに黒い影がクリスに覆いかぶさった。

 

「な――」

 

 押し倒された格好のクリスは、自分の上に乗った人物に驚いて目を見開いた。

 

「お、女の子……?」

 

 黒い影は、漆黒のローブを身に纏った、クリスと同じ年頃の少女だった。

 薄暗くとも白さがわかる雪のような肌。フードからは薄い金色の長髪がこぼれ、その瞳は妖しく紅に光っている。

 こんな状況でさえなければ、同性のクリスでも彼女の美貌に感心しただろう。

 そして何よりクリスの目を引いたのは、口から覗く鋭い牙と、背に生えた大きな蝙蝠の翼。

 頭の中でそれらの情報が結びつき、クリスの頭の中に一つの言葉が思い浮かぶ。

 

 ――吸血鬼。

 

 他種族の血を糧とし、高い身体能力と魔力を持つ夜の支配者。人間との戦争に敗れ、今となっては伝承にだけ名前を残す種族。

 恐怖で体をよじろうとして初めて、両方の手首を押さえられているのに気づく。体格もあまり変わらないはずなのに、動かそうとしてもびくともしない。そのうえ乗られているので、クリスはほとんど身動きが取れない状態だった。

 

「や、やめ、て」

 

 震える声で絞り出すように言うが、吸血鬼の少女は全く反応しない。ただ、まるで獲物を見据える獣のように、紅い双眸でクリスを見ている。

 

「私の目を見ろ」

 

 少女は少し億劫そうにそれだけ言った。

 クリスは、その通りに少女の目を見る。瞳が一瞬紅く光ったかと思うと、突然少女への恐怖が薄れていった。

 

 ――あれ、どうして……?

 

 少女がクリスに徐々に牙の生えた口を近づける。

 しかし、クリスはそれに抵抗しない。

 

 ――ボク、今、血を吸われたいって……おも、って……。

 

 頭にもやがかかったように、クリスの思考が徐々に薄れていく。

 少女を止めようという気は起こらない。それどころか、少女を受け入れようとしている。

 そして、優しくキスをするように、唇が首筋に触れた。

 

「んっ……! ぁ、うあ」

 

 少女がキスが落とされた場所に舌を這わせると、クリスの口から声にならない声が漏れ出す。

 快楽も束の間、クリスの白い肌に、牙が突き立てられ、ゆっくりと、ゆっくりとクリスの中へ沈んでいく。

 

「いっ……! ひぁ、や……ぁ」

 

 痛みは一瞬だった。その痛みすら鈍くなっていき、快感へと変化する。

 全身を電撃のように奔るそれに、いつの間にか拘束の解かれていたクリスの手は、行き場を求めて少女の服を強く握りしめる。

 

 ちゅ、ちゅ、ちゅ。

 

 少女はにじみ出る血を口に含み、まるで極上のワインを玩味する時のように舌の上でゆっくりと味わう。

 

「うぁぁ……ん、あ……ぁ……」

 

 こくこくと自分の血が嚥下されているのを感じながら、クリスは徐々に意識を手放した。

 

 

 

 ***

 

 

 

「んん……」

 

 クリスが目を覚ますと、外で小鳥がさえずっているのが聞こえる。吹雪はどうやら昨日のうちに止んだらしい。

 何だか不思議な夢を見た気がしたので、朝が清々しいともやもやした気持ちも晴れてくれそうに思える。

 ベッドから起きようとすると、強い倦怠感に襲われた。体が重い。少し頭痛もあるようだった。

 

「いたた……」

 

 それでも何とか上体を起こし、なかなか開かない目をこすると、視界の端、自分の隣に見慣れない影が映った。

 

「ん……?」

 

 クリスはそちらへ視線を向ける。

 

「……嘘、でしょ」

 

 そこには、吸血鬼の少女が満足そうな顔で寝ていた。



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第2話 契約

自分の部屋に突然吸血鬼の美少女が入ってきて血を吸われる、そんな突拍子もない話に、クリスは未だ状況を理解できずにいた。

 

「ま、まだ夢、とか」

 

そう言ってクリスは自分の頬をつねってみる。

 

「いだだだ」

 

普通に痛かった。

それにしても――。

 

「何なんだこの子……」

 

改めて見ると少女はまるで人形のようだ。体のありとあらゆるパーツが美しいバランスを保っている。

寝ている様子はただただ可憐な少女だ。むしろ、可愛さのせいで本当に彼女が吸血鬼なのか疑わしくなるほどに。

そんなことを考えていると、少女はもぞもぞと身じろいで、ゆっくりと目を開けた。

 

「んん……」

 

慌てふためくクリスをまるで気にしていない様子で、両腕を上げて伸びをすると、そのままクリスと並ぶように上体を起こした。

 

「お早う」

「あ、おはよう……あの、キミは誰?」

 

当然のようにされた挨拶につい返事を返す。

 

「私はセレーナ。吸血鬼だ。よろしく」

「ええと、クリス、です……よろしく?」

 

セレーナと名乗る少女はあくび混じりにそう答える。

クリスは、吸血鬼と名乗るセレーナのその人間らしい動作にどこか親しみを覚えた。

 

「やっぱり夢じゃなかったんだ、昨日の……」

「昨日は夜分遅くに済まなかったな。一つ北の街から三日間、血を一滴も飲まず旅をして来たのだ。あと少しで倒れるところだった」

「北……まさかレギムから? 晴れ続きでも馬車で二週間はかかる道だよ」

 

王国の北方開拓最前線の街レギム。ここフレドリアより北にある街はそこだけだ。

セレーナのいう事が正しければ彼女はそこからやってきたことになるが、確かに吸血鬼のように人知を超えた力を持っていなければ不可能な芸当だ。

 

「飛んだからな。そのせいで魔力を多く消耗したが……」

 

セレーナはそう言いながら、背中に生えた黒い翼をぱたぱたとはためかせて見せる。昨夜見た時より明らかに小さいが、伸縮が利くのだろうか。

百何十年か昔の戦争で滅んだと聞いていたが、身体的特徴や諸々は伝承に聞く通りだ。

 

「やっぱり、本物の吸血鬼なの?」

「ああ。私以外はもう滅びたがな」

「……ごめん」

「構わん。お前が殺した訳では無いだろう」

 

セレーナはそう何でもなさげに答えたが、クリスの目にはほんの少し表情を翳らせたように映った。

 

「他に聞きたいことは?」

「そうだなぁ……。こんなこと言うのもなんだけど、もっと街の入り口の方にも人はいるよね? どうしてここに来たの?」

 

宿は街の中央から南に寄った位置にある。北から街に入ったセレーナがわざわざ他の人間を無視してクリスの下にやって来たのは不可解だ。

 

「匂いだ」

「匂い?」

 

まさか自分はそんな強烈な臭いを放っていたのか、と、クリスは自分の襟を鼻に寄せて嗅いでみる。

 

――う、昨日仕事で汗たくさんかいたし、少し臭うかも。

 

「いや、その匂いじゃない」

「えっ、あ、違うの?」

 

真剣な顔で自分の臭いを確かめているのを冷静に違うと言われ、クリスは顔を赤くして襟を下ろす。

 

「自分と近い魔力の入った血でなければ吸血の効果はほとんどない。お前は私とかなり近い魔力を持っていたから、その香りを感じてここへ来た」

「魔力かぁ。ボクは魔力感知ほとんどできないからなぁ」

 

クリスはセレーナの魔力を感じようとするが、自分と同じかどうかを判断することはできなかった。不思議とセレーナに惹かれる感覚が、もしかしたらそれなのかもしれない。

 

「そういえば。その、もう、吸わない?」

「できれば街にいる間、安定して血を手に入れたいのだが……このフレドリアには他に私と同じような魔力を持った者は居ないだろう」

「なら、その間は……またボクを?」

「そうできれば嬉しいが。しかし、私は普通に活動する分には一週間に一度血を得られれば事足りるが、ヒトは一度血を吸った後一月ほど待たなければ成分が完全に回復しないのだ」

「なるほど……うーん」

 

クリスは悩む。

昨日こそ怖いと思ったものの、話せば話すほどセレーナは普通の――口調は不思議だが――少女だ。

それに、セレーナの頼みを断るということは、実質的にクリスがセレーナを飢えさせることになる。クリスの性格的に、断ったところで結局心配になってしまう気がしてならなかった。

そして何より、困ったことに、

 

――気持ちよかった……。

 

クリスの体があの快感をはっきりと思い出せてしまう。

クリスはまた顔に熱が昇ってくるのを感じ、恥ずかしくなってセレーナから目を逸らした。

 

「あ」

 

そこでクリスの目に入ったのは、昨日読んだ本だった。昨日読んだばかりのページに書かれていたのは、そう――。

 

「造血薬……!」

 

クリスは本を手に取り、栞を挟んだページを開く。文章を指で次々に辿っていき、効能の内容を探す。

 

――まさか昨日読んだばっかりの造血薬を使う日が早速やってくるとは。

 

「『血液の成分を約一日で回復する』――よし、これだ」

「それは?」

 

クリスが顔を上げると、セレーナが反対側から覗き込むようにその様子を見ている。顔が近いせいで、クリスはまた昨日のことを思い出してしまう。

 

「血の成分を回復する薬のレシピだよ。これがあれば問題は解決する、はず」

 

クリスは目を逸らしながら答える。

 

「錬金術師なのか」

「うん。そっか、言ってなかったっけ」

「それなら、頼みを聞いてくれたら一つ良い礼ができるかもしれん」

「良い礼?」

「私の血をやる」

 

クリスは首をかしげる。

 

「ボクは血は飲まないよ?」

「そうではない。吸血鬼の血は錬金術の触媒になると聞いた事はないか?」

「……! 師匠が言ってたの聞いたことある!」

 

錬金術の師サンジェルマンから、そんな話を聞いた覚えがあった。吸血鬼が絶滅したせいで、一部の高度な錬金術のレシピが使用できなくなったと。

 

「お前は私に血を、私はお前に血を。文字通り血の契約という事だ。どうだ?」

「正直、すごく嬉しいかも」

 

対価を求めてセレーナを助けるわけではない。金品なら断っても良かったが、今となっては手に入らない特別な血。錬金術師であれば誰もが喉から手が出るほどに欲しがる代物だ。

クリスも錬金術師である以上例に洩れず、セレーナの血はとても魅力のある「良い礼」に思えた。

 

「その顔は同意ということで良いのか?」

「うん。そういうことで」

「よし、では契約書を――おい?」

 

そうと決まれば、とクリスがベッドから立ち上がり、部屋の玄関へ向かって歩きはじめる。

 

「まだ話さなければいけないことはあるはずだが」

 

それを見たセレーナは不思議そうに言った。

 

「お風呂入らせて……」

「……ああ」



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第3話 成立

 クリスが帰ってくるのを待つ間、セレーナは部屋の中を見回していた。

 中身の詰まった大きな本棚と、入りきらなくなりその上に平積みにされた本。机の上には不思議な形状のガラス容器を管でいくつも繋ぎ合わせた器具が置いてある。窓際には、薬草だろうか、不思議な香りのする植物が鉢に植わっている。

 後は何着かの衣服が壁掛けされているくらいで、年頃の少女にしては無機質な部屋だった。セレーナが同じ年齢の頃は、人形やぬいぐるみが部屋に溢れていたはずだ。

 

「これは……」

 

 セレーナの目に留まったのは、山積みにされた手紙だった。どれも未開封で、赤い封蠟にはどこかの家紋のような紋章が刻印されている。差出人の名前は書かれていない。一枚手に取って裏を見ると、そこには宛名が書かれていた。

 

「何だこれは……? クリスティン、ロゼ――」

「クリスティーン・ローゼクルーシス・メンデリアムス・リル・アルヴィン・ロフタレッサ・ヴューストレム」

 

 セレーナの代わりに、クリスがそれを読み上げた。

 

「帰ってきていたのか」

「うん、丁度今出たばっかりだよ! さっぱりした~」

 

 頭にまだバスタオルをかけたままのクリスが、ベッドに座っているセレーナの隣に戻ってくる。

 

「それね、ボクの本名」

「随分と長いんだな」

「家の慣習みたいなものだよ。クリスティーンがボクの名前。ローゼクルーシスはお母さんの姓で、メンデリアムスはお母さんのお母さんの姓。リル・アルヴィンは「アルヴィン地方の」って意味。ロフタレッサは七神教の洗礼名。で、ヴューストレムがお父さんの姓」

「……覚えきれないな」

「あはは、だよねぇ……ボクも普段使う訳じゃないよ。正式な書類の時とかだけ。普段はクリス・ヴューストレムって言ってるよ」

 

 セレーナは頭の中でそれを復唱してみる。

 

 ――クリスティーン・ロゼクルーシス……リル……ヴューストレム。

 

 どうやら覚えるのは無理そうだ。

 

「あ、セレーナもお風呂入ってきなよ」

「良いのか?」

「ちゃんと宿のご主人さんに確認しておいた!」

「なら、そうしよう」

「ボク特製の薬湯だから、疲れもとれると思うよ」

「ほう……」

 

 セレーナは宿の主人に声をかけてから脱衣室に入り、一張羅のワンピースドレスを脱いだ。

 明らかに旅装ではない装飾的な服だが、寒さを気にする必要のないセレーナには関係のないことだ。

 

「風呂など久々だな」

 

 裸になったセレーナが浴室に入る。

 

「これが、クリスの言っていた薬湯か」

 

 浴槽には緑みがかった湯水が湯気を立てていた。

 セレーナが体を湯船に浸けると、花のほのかに甘い香りが鼻を抜けるのを感じる。

 再生能力の高い吸血鬼の体が疲れを感じることはないが、肉体的にはともかく、精神的な疲労はとれそうだ。

 主人曰く、クリスが特権を得た理由はこれらしい。宿に入浴剤を提供する代わりに、クリスは朝のんびりと風呂に入る。実に錬金術師らしい取引だ。

 

「奴は見かけによらず商いが上手いのかもな」

 

 そう言いながら、先程のやりとりを思い出す。

 クリスが頼みを受け入れてくれなければ、セレーナは血の供給源を得られないままになっていた。

 しかし実際には、セレーナはより強力で効率的な手段を持っていた。()のように強力な魅了の魔術をかけてしまえば、クリスは一瞬でセレーナの奴隷になる。契約などする必要なくクリスの血を吸える。

 

 ――だが、何故だ?

 

 セレーナは昨日の晩を思いだす。クリスを見た瞬間に、何か不思議な感情が心に起こった感覚があった。

 

 ――まるで、会うのが初めてではないような……。

 

 そんな思いが、非道な手段を躊躇させた。クリスの緊張をほどくだけの弱い魔術を使うにとどまった。

 セレーナは考えるのをやめ、湯船の中に顔を沈めていく。クリスの作った薬湯の成分が、セレーナの細い体を包んだ。

 

「セレーナ?」

「ん、何だ?」

 

 脱衣室にやってきたクリスが、扉越しにセレーナに声をかける。

 

「セレーナって着替え持ってないよね?」

「ああ」

「じゃあボクの服置いておくから使って。セレーナの服は……洗濯できるやつかな、これ」

「……私に余り気を遣うな」

「だって、ボク達友達でしょ? じゃあ、後でね」

 

 立ち去るクリスの足音を聞きながら、セレーナはぽつりと呟く。

 

「友達、か」

 

 セレーナはしばらく湯船に浸かってから風呂を上がった。

 薬効のおかげか、旅の疲れがすっかりとれたような気がする。

 服と一緒に用意してあったタオルは使わず、体についた水滴を魔術で凍らせて落とし、用意されたクリスの服に袖を通した。

 

「……大きいな」

 

 華奢なクリスよりさらに若干小柄なセレーナがクリスの服を着ると、袖や裾が少し余ってしまう。元が緩い服だからか、なおさらセレーナには大きく感じられた。

 裾を少し持ち上げながら歩き、二階にあるクリスの部屋まで戻る。

 

「あ、おかえりセレー……ナ……」

 

 クリスはセレーナに気づいてそう言いかけるが、最後の方はセレーナの見た目に気をとられてはっきりと言い切れなかった。

 

「何か可笑しいか?」

「……服、大きいよね?」

「多少な。この程度なら気にならない」

「……胸のところは」

「丁度良いな」

「……」

 

 クリスは沈黙し、不満げな表情でセレーナと自分を見比べている。

 

「もしかしてお前胸が――」

「セレーナ。今後の話をしよう」

 

 クリスはセレーナの発言を遮るように言って、手元の紙を指さした。

 その紙は不思議な意匠がふんだんになされた羊皮紙だった。強い魔力が込められているのも感じることができる。

 

「契約書か」

「うん。宿に白紙のが一枚あったらしくて、貰ってきたんだ」

 

 契約書。精霊を介することで契約を確固たるものにする魔具の一種で、契約の内容を書き、お互いが血判をすることで発動する。そして契約を破った人物には精霊が制裁を与える、と言った代物だ。

 

「内容は……どうすればいいんだろう。書くの初めてなんだよね」

「そうだな、私がお前から血を一度摂るごとに、私がお前に一度提供する、ということでどうだ? 量は必要最低限かつ体調に支障をきたさない程度。期限は一か月。後は、契約を破る意思が明確にあれば違反とするとでもしておけばいいだろう」

「それでいいよ。じゃあ書くね」

 

 クリスは流れるように字を書いていく。

 

「……随分字が上手いんだな」

「そうかな? ありがとう」

 

 ――きちんとした教育を受けなければ、これほどの字は書けないはずだ。師匠とやらに教わったのだろうか。

 

 セレーナが書く様子を眺めていると、すぐに契約書は完成した。

 

「よし、ボクはできたよ」

 

 セレーナは渡された契約書を流し読みする。最下段には、クリスの名前が本名で長々と書き記されていた。横に押された血判はやはり自分に似通った魔力を有している。美味しそうに見えて、なんとなくもったいない。

 クリスの名前の下に自分の名前を書き、牙で指先を切って血判を押す。すると契約書の文字が淡い青の光を帯び、二人に向けて細い糸のような魔力が伸びた。

 

「これでおしまい?」

「ああ。この魔力の糸が私とお前を結んでいる限り契約は有効だ」

「おお~! なんだか新鮮な気持ち」

「……意外と呑気だな。契約書はお前が持っていろ」

「いいの?」

「構わない。無くさないようにな」

「わかった。じゃあこれで契約成立、だね」

「ああ。では改めてよろしく頼む、クリス」

 

 セレーナは初めて笑顔になり、真っ白な手をクリスに差し出す。

 

「こちらこそよろしく、セレーナ」

 

 クリスはその手をしっかりと握った。



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第4話 距離

「契約は結んだわけだけど……セレーナ、ボクの部屋で一緒に暮らすよね?」

「血さえ提供してくれれば十分だ。この街にも廃屋か何かがあるだろう。そこでいい」

 

 セレーナは当然のようにそう言った。今までの街でそうして来たのでセレーナからしてみれば特別な事ではなかったが、クリスからすれば驚くべきことだ。

 

「廃屋って……。一応女の子なんだし、危ないよ?」

「嘗めてもらっては困る。そこらのごろつき共など、何人いようが相手ではない」

「むむむ。あ、じゃあ、もしかしたらボクが契約を破って逃げちゃうかもよ?」

「おい、そんなことを言うと――」

 

 そう言ったクリスは、懐に入れていた契約書がバチバチと音を鳴らしたのを聞いた。一瞬だったが、クリスの体に電撃による痛みが走る。

 

「いたたた?!」

「契約を破ろうとすれば、精霊が警告を与える。安易にそんな事を口走るべきではないだろうな」

 

 契約魔術に関する話はクリスも以前に聞いた事があったが、まさか、破るかもと口にするだけでも警告の対象になるとは思いもしなかった。二人の契約に携わっている精霊は神経質なのではないか、なんて思いながら、四つ折りにした契約書を睨んでみる。

 

「うぅ、まさかこんなに物理的だとは……」

「この契約はどちらかと言えば私の信用を保証するものだろう。お前が破ろうとしてどうする」

 

 セレーナは明らかに呆れた目でクリスを見ながら言った。

 

「でもセレーナが心配で!」

「わかった、わかった。なら暫く厄介になる」

 

 引き下がらないクリスに負けを認めたセレーナが両手を挙げてクリスの申し出を受け入れると、クリスは満足げにふんすと鼻息を立てた。

 

「そういえば、セレーナの旅の理由って聞いてなかったよね?」

「……クリス」

 

 旅の理由を尋ねられたセレーナの表情は、クリスとは対照的に、また初めに見たような冷たい氷のような表情に戻っていた。

 

「私たちが結んだ契約は、血の提供についてだけだ。必要以上に私に関わるのはよせ」

 

 その口調は先程までよりも強く、クリスを拒絶する意思をむき出しにしたようだった。

 

「ごめんね、助けになりたくて」

「必要ない。私は一人でいい。……ずっと、そうしてきたんだ」

 

 セレーナは今朝の会話で見せた曇った顔でそう呟くように言う。

 だがクリスの目には、セレーナの紅い瞳に宿っているものは怒りには見えなかった。何か抗えない力に対して諦めているような、希望を捨ててしまっているかのような、そんな瞳だった。

 

「そっか。もし困ったことがあったら、いつでも言ってね!」

 

 クリスはそれでも笑顔で言う。

 本人が触れてほしくないというのなら、触れるべきではない。過去を振り返りながら自分の心の中でそう繰り返し、自分の優しさと戦わせる。

 

「……ああ。では、出てくる。夜には戻る」

「わかった。ボクはちょっと先の、噴水のある広場の酒場で仕事してるから、何かあったら来てね」

 

 セレーナは手を軽く挙げるだけで返事はせず、部屋の窓からふわりと飛び降りて街へ出た。

 

「そこから出るんだ……。うーん、仲良くなれたと思ったけど、だめかぁ」

 

 見送りながら苦笑気味にそう言って、クリスは自分の身支度をすることにした。

 大きめの鞄に財布と読みかけの「上級錬金術基礎編」と、残りのスペースを占める大きな黒い箱――薬の瓶を詰めたものを入れる。

 

「よし、準備おっけー!」

 

 ローブを羽織った上から鞄を背負うと、クリスは宿を後にした。

 

 ***

 

「――っていう経緯があって今に至るっていうわけです」

「ははぁ、なるほどねぇ」

 

 昼飯時が過ぎ、酒場が暇になりだしたころ。クリスは友人のティエロとカウンター越しに雑談をしていた。

 酒場の常連でもあるティエロは街の一角にある小さな工房で働く魔導具職人だった。その肩書に似つかわしくない、寝癖付きの長髪と丸眼鏡が特徴的な科学者風の風貌をしている。

 

「要するに、いつものアンタのお節介でしょ」

「そうかもだけどさぁ。と言いつつティーはいっつもボクに頼ってる気がするけど」

「それはそれ、これはこれ」

 

 もちろんティエロにはセレーナの正体が吸血鬼であること云々は伏せている。クリス自身、昨晩の衝撃のあと一晩睡眠を挟んでしまったせいでセレーナが吸血鬼であることをいつの間にか受け入れてしまったが、実際他の人にいきなり言っても信じないだろうし、信じたらそれはそれでパニックになりそうだ。

 

「そのセレーナって人に自白剤でも打てば?」

 

 ティエロは真顔でそんなことを口走る。

 

「いやいやいや……それは常識的に考えてダメでしょ」

「『常識』? ほーおぉ? 私の食事にいたずらでアホみたいな辛さの劇物盛ったクリスティーン・ヴューストレムさんからそんな言葉が聞けるとはねぇ」

「そ、それはそれ、これはこれ」

「そうはいくかあぁぁ!」

 

 クリスが目を逸らしながら答えると、ティエロは席を立ちクリスに掴みかかろうとした。クリスは手の届かないギリギリの距離まで身を引いているので、ティエロの手は空振りする。

 

「謝ったじゃんかー!」

「うるせー! こちとら一日中口が辛くてネジも巻けなかったわ!」

 

 カウンター越しにそんな会話をしている二人を見て、クリスと共にカウンターに居た女将さんがくすくすと笑う。

 

「二人とも相変わらずねぇ」

 

 女将さんは元冒険者なだけあって肝が据わった女性で、四六時中酔っ払いのたむろする酒場で喧嘩が起こらないのも女将さんの抑止力あってのものだ。

 今となってはその経歴をうかがい知れない体つきだが、昔はとても男性に人気があったらしい。

 

「女将さんもクリスに言ってやってくださいよ。後、今月カツカツなのでお代ツケてください」

「それはそれ、これはこれ」

「ぐぉおおお……! 何だこの酒場ぁ……!」

 

 ティエロは両手で頭を抱えてがくりと顔を伏せた。



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第5話 酒場

「それで、そのセレーナさんはどんな人なのさ? 美人なんだろ?」

 

ひとしきり騒いだ後に、ティエロが中指で眼鏡を直しながら尋ねる。何か所もテープを巻かれた指が、果実酒の入ったグラスをゆらゆらと揺らしている。

 

「綺麗な子だよ。細くて白くて、人形みたい」

「へー、ベタ褒めねぇ」

 

女将さんはいつも笑顔で細まっている目を見開いて言う。

クリスが普段他人の容姿に口を出すことがほとんどないからだろう――その理由の一端には、クリスが単に人付き合いが苦手ということもあるのだが。いつも会話の時、やれ誰はイケメンだ、誰は美人だという話題になると聞く側に回ってしまう。

 

「本当に可愛いんですもん。それに、なんか、上手く言えないんだけど……」

 

クリスは、昨日から今までセレーナに対して抱いていた不思議な感情を上手く言葉にしようとするが、なかなか丁度合う言葉が見つからない。そこまで言って言葉に詰まると、唸りながら表現を探そうとする。

ティエロはクリスを急かすように、持っているグラスの中の氷を揺らして音を立てた。既に中身はほとんど空だ。

 

「何さ何さ?」

「理由はわからないけど、不思議と他人とは思えないというか。初めて会ったのに、不思議と親近感があるというか。セレーナは魔力が近しいって言ってたけど、それだけじゃない気がして」

「クリス……」

「クリスちゃん……」

 

話を聞いていたティエロと女将さんが突然真剣な表情になる。

 

「な、何、二人とも?」

 

クリスが怪訝そうに二人を交互に見ていると、二人は口を揃えて言った。

 

「それは、恋だ」

「それは、恋ねぇ」

「いやいや?! それボクがセレーナに一目惚れしたみたいじゃんか?!」

「違うのか~? ねぇ、女将さん」

「そうじゃないのかしら?」

 

クリス、ティエロ、女将さんが文字通りに姦しく談笑していると、入口のスイングドアに備え付けられたドアベルが鳴った。

 

「あら、いらっしゃいませ」

「いらっしゃいま――セレーナ?!」

「いらっしゃいまセレーナって何……ん? セレーナ?」

 

クリスは酒場にやって来たのがセレーナだとすぐにわかった。体をすっぽりと覆い隠す外套を羽織っているが、フードから覗く顔は昨晩嫌というほど間近な距離で見た顔だ。

クリスに気づいたらしいセレーナは少し眉をひそめたような表情をしたが、手招きをするとそれに従ってカウンター席、ティエロと一つ席を開けた場所に向かってきた。

ティエロはセレーナをじっくりと観察した後、クリスに小声で話しかける。

 

「あの人が例の? めっちゃ美人じゃん! 私に紹介してくれクリス。というかウチに居候してほしいし何なら永住してほしい」

「ティー、何言ってるの……」

 

セレーナは椅子に腰かけるとクリスに向き直って言った。

 

「酒場は情報が集まりやすいから来たというだけだ。会いに来たわけじゃないからな」

「あ……そうなんだ?」

 

今朝の事を気にしているのだろうか。妙に距離をとるような言い方だ。

二人が言葉を交わしている間、ティエロと女将さんは声をひそめてお互いに耳打ちし合う。

 

「女将さん、どう思う?」

「うん、確かにクリスちゃんの言う通りお人形さんねぇ。可愛いわ」

「本気でお近づきになりたい……」

「シュエットちゃんに怒られるわよ?」

「シュエットは幼馴染だからセーフです」

「この子は……」

「まぁ、クリスが惚れるのもわかるかな~」

「本当ねぇ。お似合いだわ」

 

セレーナは会計の隣に用意された、試験管立てに収められたいくつもの薬を見ると、目を閉じて、すんすんと鼻で薬の匂いを嗅ぎとる。

 

「ところで……酒場で薬を扱っているのは珍しいな。匂いからして効果の高いものもいくつかありそうだが」

「女将さんはボクの二人目のお母さんみたいな感じでね、色々お世話になってるんだ。それで僕の作った薬もここに置かせてもらってるんだ。自分のお店が持てればいいんだけど、そんなお金中々集まらないからねぇ」

「成程」

「セレーナ、この距離から薬の匂いがわかるの?」

「きゅ……」

「きゅ?」

 

セレーナは咳ばらいをして続ける。

 

「『私の種族』の特徴の一つだ。あらゆる感覚が鋭敏なんだ」

「私の魔力がわかるって言ってたもんね」

「ああ。まぁ、陽射しに弱かったり、匂いの強いものが苦手だったり、欠点でもあるのだがな。ちなみにお前の友人の会話、筒抜けだぞ……」

 

クリスは今朝の態度に比べて、セレーナが思っていたよりもたくさん話すのに少し驚く。世間話くらいは普通にしてくれるんだ、なんて思いながらセレーナの事を見る。あの時の言葉から察するに、セレーナの事情にはあまり触れてほしくないだけなのだろう。

セレーナの言葉に釣られて二人を見ると、こちらを見ながら何やら話をしている様子だった。

 

「あの、二人とも?」

「何クリス、イチャイチャは済んだ?」

「ちょっと本人の前で……!」

「まぁまぁクリスちゃん、本当のことなんだから、うふふ」

「もー、何なんだこの酒場!」

 

クリスが二人に言われ顔を赤くしながら嘆く。

セレーナは先程から会話を聞いていたせいもあってか気にしていない様子だった。三人が落ち着く頃合いを見計らって、セレーナが女将さんに声をかける。

 

「ご婦人、少しいいか?」

「何かしら?」

「この近辺で魔術に精通している者を知らないか?」

「魔術師を探してるの? そうねぇ……」

 

セレーナの質問に女将さんが答えるよりも先に、ティエロが手を挙げて答えた。

 

「あ、私魔術院出てるよ。何でも聞いてセレーナさん!」

 

魔術院、要するに魔術を教えてくれる場所にティエロが行っていて、しっかり卒業しているのは事実だ。

しかしクリスが聞いた話だとティエロは魔術ではなく魔導――魔術科学が専門だったはずだ。セレーナの用事はわからないが、もし高度な魔術に関するものだったらきっとティエロは答えられないだろう。

 

「それは有り難い。この魔法陣が解読できるか?」

 

セレーナが取り出したのは複雑な魔法陣が描かれた一枚の羊皮紙だった。

 

「魔法陣ね、どれどれ……? うっわ、四重魔法陣とか見るの試験以来だわ」

「できそうか? 時間がかかっても構わないが……」

「いや、大丈夫。すぐ終わらせるわ」

「済まないな」

「んん~? ここがこうなって……、そこがああだから……」

 

ティエロが羊皮紙に向かって唸り出したので、女将さんはクリスとセレーナに向き直って何か話題を振ることにする。

 

「そういえば、セレーナちゃんって人間と他の種族の混血かしら?」

「どうしてです?」

「紅い瞳と鋭い牙があるから、そうかと思ったのよ。牙のある種族といったら何がいたかしら……」

 

正体がバレるのではとクリスが焦った顔でセレーナを見るが、セレーナは何でもなさそうにすました顔をしていた。

 

「私には獣人の血が薄く混ざっている」

「ああ、やっぱりそうなのねぇ」

 

セレーナはクリスに得意げに笑ってみせた後、「話を合わせろ」と目配せをした。

吸血鬼の特徴と思われてバレるかと思ったが、羽さえ見えていなければ案外誤魔化せるのかもしれない。というよりも、百年前の伝承をこと細やかに覚えるほど本を読み漁っている自分がおかしいのでは、と思いながらクリスは胸をなでおろす。

 

「だー!」

 

突然叫んだティエロを見ると、机に突っ伏していた。

 

「どうだ?」

「ダメ。無理。全然わからん」

「そうか……」

「クソぉ、かっこいいところ見せようと思ったのに……」

「ぷぷぷ」

 

ティエロはニヤニヤしながら自分を見ているクリスに掴みかかる。

 

「何笑ってんだクリスぅうう」

「なんでもなーい」

 

騒ぐ二人をよそに、女将さんはセレーナに何か教えられないかと考える。

 

「うーん、ティエロちゃんがダメなら、エルフの魔術師の常連さんがいるけど……今日は来てないみたいね」

「あ、スタームさんしばらく研究でひきこもるって言ってましたよ」

 

クリスがティエロを引き離しながら言った。

エルフの魔術師、スタームはこの街でも有名な人物だ――決して良い意味だけで有名な訳では無いが。百八十歳、人間に換算しても九十歳近い年齢の老人で、普段からどこかおかしな言動をする。この酒場にもよく来ては、女将さんやクリス、他の客に向かって突拍子ない話をしては酒をあおって帰っていく。

 

「今は何処にいる?」

「多分西の森の自宅でしょうねぇ。あの辺りは山賊も魔物もいるから危ないわよ」

「そうか……わかった」

 

居場所を聞いてまた表情を冷たくしたセレーナを見て、クリスは不安を覚える。

 

――セレーナ、まさか行くつもり……?



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第6話 狩人

 クリスが仕事を終えるよりも前に酒場を出たセレーナは、一足先に宿でクリスの帰りを待っていた。

 部屋の鍵がないことに気づいたが、宿の主人に言うと特に問題なさそうに合鍵を出してくれた。

 

「クリスはまだか……」

 

 セレーナの立てた作戦はこうだ。

 まず一度寝ることでクリスに自分が寝ていると思わせる。その後、クリスが寝た頃を見計らって部屋を出る。本来は窓から出るつもりだったが、合鍵を手に入れられたのは幸運だった。

 そしてエルフの魔術師スタームとやらのところまで行き用事を済ませる。朝までに帰ってきていれば、クリスには何事もなかったかのように思えるはずだ。

 きっと今行けば、仕事から帰って来たクリスはセレーナを心配して何か行動を起こす。契約がある以上血を得られなくなる心配は無いだろうが、必要以上に信頼を失うのも良くない。

 

「やっと、第一歩か」

 

 セレーナは呟く。

 

「私はこれで……」

 

 そこまで言ったところで、階段を上る軽い足音が聞こえた。まもなくドアを開ける音が聞こえ、クリスが部屋へ入ってくる。

 

「ただいま~」

「おかえり、クリス」

「今日は来てくれてありがとね」

「言っただろう、別にお前に会うためじゃ」

「えへへ。でも嬉しくて」

「……そうか」

 

 ――まただ。

 

 セレーナはクリスと話すたびに、顔を見るたびに違和感を覚えていた。入浴の際にはっきりと言葉にならなかったあの既視感を。

 いや、顔だけではない。クリスの声も、性格も、何故か似たような記憶がある。

 

「……? どうかした?」

 

 クリスに声をかけられ、セレーナはハッとして黙考をやめた。

 

「クリス、以前会った事は無いか」

「えぇ、どうして急に口説き文句みたいことを……」

「いいから」

「ごめんごめん。ボクが覚えてる限りだと一度もないよ? 記憶力は良い方だと思うけど」

「そうか……ならいい」

 

 まるで何かの亡霊がチラつくように煩わしく、解明もしないので歯がゆくもなる感覚だった。

 何かきっかけさえあれば思い出せる気がするが――。まるで記憶が鍵をかけた箱にあるかのようだった。

 セレーナ再び考えに耽ろうとしたが、それよりも早く何かに気づいたかのように顔を上げ、立ち上がった。

 

「……なぁ、他の部屋の住人でお前より遅い奴はいるか?」

「ううん、ボクが一番遅いと思うよ」

「……主人が夜中に各部屋を見回ることは?」

「今までそんなこと無かったかなぁ」

「……クリス、今日()()()()()()()()()()?」

「セレーナ、何言って――」

 

 足音が二つ、クリスの耳にも聞こえた。先程のクリスの足音に比べると三倍も四倍も重い音だった。

 

 ――どちらも重いな。片方は特に。

 

 セレーナは目を瞑り床板の軋む音から相手の体重を予測する。更に聴いていると衣擦れの音の中に金属音が混ざっていることから武器の所持がうかがえる。音から察するにクロスボウと剣は確実だろう。金属製の鎧は着ていないらしい。

 重心の移動から相手が素人ではない――何らかの武術の経験者であることがわかる。更に呼吸音は至って平静。つまり、『戦いに慣れている』可能性が高い。

 部屋の中を見渡し、安全そうな場所を探す。

 

「クリス、机の下に入れ」

「セ、セレーナ? 冗談だよね……?」

 

 次に嗅覚で探る――男性特有の皮脂臭、そして武器の鉄と油が強く臭っている。健康状態も至って良好な様子だ。

 魔力はどちらも低め、体重の重い方は多少魔力を持っているが、魔術を武器に出来る程ではない。

 先程の情報と照らし合わせ、恐らく戦闘に長けた大柄な男が二人。武装をしていることは間違いないと判断する。

 

「聞け。逃げると言ったら机から出て窓際へ走れ。いいな?」

「……よくわからないけど、わかったよ」

 

 クリスが机の下に潜り込み、セレーナを心配そうに見つめる。

 セレーナにはこれが誰か――正確には、()()()()()予想がついていた。だがしかし、確証を得た上で対処をしたいと考えたセレーナは部屋から出ず、相手を確認しようと考えその場に留まった。

 襲撃者は階段を上りきると、まるで散歩をするような足取りでクリスの部屋の扉の前へやってきて立ち止まった。

 

「……どちら様かな」

 

 手に魔力を集中させながら、セレーナが扉の向こうの二人組に言う。返事は無い。

 セレーナは魔術を発動させるためのイメージを脳裏に浮かべる。

 日常においては、詠唱せずとも魔力を魔術として発動するイメージを固められる魔術師は多いが、一瞬の油断が命取りになりうる戦闘時ではイメージを固めるだけの余裕がない。緊張により精神的にも余裕を失う。

 そのため、戦闘の際はそれぞれ魔術ごとに決められた呪文を詠唱することで、内に意識を向けることなく半無意識的にイメージを脳裏に想起させるのが常識である。

 

「吹雪」

 

 セレーナの脳裏にあったのは、吹雪の中に佇む孤城――かつて居た場所の風景だった。

 

 ずっと見てきた景色を、()()()以来頭の中で何度も何度も思い出していた景色を、一瞬で思い出せないことなどあるはずがない。

 右手に白い冷気が漂いはじめ、更にその中に氷の結晶が混じりだす。セレーナの得意とする氷と風の合成魔術だ。自分の魔力があの場所の環境に一致していた事は幸いだった。

 

 ――やはり、魔術を使うと思い出してしまうな。

 

 セレーナはあの夜――戦争の少し後、残党狩りの襲撃を受けた日の記憶を頭から振り払おうとする。

 クリスはセレーナが小さく震えているのを見る。それが悲しみか、怒りか、別の感情なのかは窺い知ることが出来なかった。

 ドアノブが乱暴に回される。鍵をかけているためドアが開くことは無いが、無理矢理にでも開けようという意思が伝わる。

 クリスはセレーナから目を離さなかった――否、離せなかった。そうすることでだけかろうじて落ち着きを保っていられた。

 

「チッ……開かんわ。任せた」

「了解」

 

 男たちの会話が聞こえる。

 直後、クリスは信じがたい光景を目にした。

 

「と、取れちゃった……ドア……」

 

 ドアはミシミシと音を立てた後、鍵と蝶番ごと外れて部屋に倒れ込んだ。

 襲撃者二人の姿が露わになる。

 

 ――やはり、か。

 

 その姿を見て、セレーナは確信を得た。彼らは吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)だと。

 

「お前が吸血鬼やな。こんなんしてから何やけど、大人しゅう降伏するんやったら痛うせぇへんで」

 

 西方訛りの話口調の男は、背が高く、引き締まった肉体を持っている。腰の左には厚身の剣を差し、後ろ腰にクロスボウを携えているのが見える。顔の中央を横断する大きな傷は、熾烈な戦いを生き延びた証になっていた。

 

「……」

 

 黙ったまま腕を組んでいる男も大柄だが、それ以上に横にも幅があった。腰にナックルダスターが吊られている以外の武装は確認できない。傷の男と違い、口を残し顔全体を覆う革製の覆面が特徴的だった。

 セレーナは二人の吸血鬼狩りの目つきによく見覚えがある。獲物を狙う狩人の目――それは、人間を糧にする吸血鬼にも共通する目だった。



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第7話 開戦

「おい、標的以外に人がいるとは聞いていないぞ」

「張り込み俺に任して寝てるからや……ドアホ」

 

 覆面の男がクリスを見て言ったのに対して、傷の男はセレーナを注視したまま答えた。

 覆面の男以上に手練れだと予測を立てる。

 

「……酒場からつけていたか」

「ご明察や。気づかれんように遠くからやったけどな」

 

 傷の男は懐から遠眼鏡を取り出し揺らして見せた。

 セレーナが舌打ちをする。吸血鬼の感覚を持っているにもかかわらず、セレーナが彼らに後をつけられていることがわからなかったのは単純な理由だった。

 吸血鬼とは言え万能ではない。むしろ身体能力は一部の獣人族やオーガ族には劣ってしまう。

 

「か弱い婦女を男二人して追いかけ回すとは、いい趣味をしている」

「枯れるまで血を吸い尽くすようなええ趣味しとる女にお褒めに与り光栄ですわ。そこの子も餌にするつもりやったんか?」

「……私は人を殺めるつもりはない――」

 

 セレーナはそこまで言うと、右手に込める魔力量を爆発的に増やす。イメージは吹雪。結晶の一つ一つは刃のように鋭利に。それを暴風に乗せて相手に叩きつける。

 

「――私に害をなさなければな」

 

 刹那、セレーナは覆面の男に右掌を向けて魔術を発動した。

 覆面の男を選んだのには訳がある。一つ、覆面の男の方が隙が大きいこと。一つ、傷の男と会話をしていたため、セレーナがそちらに注意が向いていると思われているであろうこと。

 半ば不意打ちの形で、氷刃の吹雪が覆面の男の顔を襲った。当たり所が悪ければ大ダメージ、少なくとも当たった場所が凍りつき動きは制限される。

 はずだった。

 

「何……だと……」

 

 正面から見ていたセレーナにはわからなかったが、クリスには何が起こったのか理解できた。正確には、何も起こらなかったのを理解できた。

 覆面の男は、瞬き一つせずに顔面でセレーナの魔術を受けてみせたのだ。腕を組み、微動だにしないまま。

 

「クリス――逃げるぞ!」

 

 クリスがそれを聞いて机の下から飛び出すと、窓のそばに行くよりも早くセレーナがクリスの体を抱えて持ち上げる。窓の縁を足場にして跳躍し、そのまま翼を大きく広げて空へと飛び立つ。

 

「うわぁあああ?! 高い速い怖い!」

 

 クリスは今日初めて知った。余りに唐突で迫力のある恐怖は涙にならない。

 

「セレーナ! あの人何か構えてる! 撃とうとしてる!」

 

 傷の男の行動は素早かった。即座に窓から身を乗り出すと、クロスボウに取り付けたスコープを覗き込んで照準を合わせ、矢を放った。一瞬の射撃だった。

 高速で飛来した矢はクリスの頬を掠め、そして、セレーナの片羽を貫く。

 

「しまっ――」

 

 セレーナはバランスを崩し、飛行の速度をそのままにどんどん高度を落としていく。落ちる先にあるのは袋小路だった。空中で無理やり体を捻って体勢を替え、仰向けでクリスを抱きかかえる格好になる。

 クリスはその理由をすぐ知ることになった。

 

「ぐッ……!!」

 

 着地の衝撃で、セレーナの肺から空気が抜けて声になる。勢いのまま舗装された石畳の地面に削られながら滑っていく。クリスは自分を抱きしめる力が強くなるのを感じる。壁にぶつかって停止した。クリスは、セレーナに守られて無傷だった。

 

「セ、セレー、ナ! セレーナ! 大丈夫」

「っふぅー……問題、無い……」

 

 クリスはすぐにセレーナの上からどき、セレーナの顔を覗き込む。

 セレーナは目を瞑り、牙が唇に突き刺さるほど歯を食いしばっていた。せき込みながらも大きく深呼吸をして、肺に空気を取り込むと、よろめきながらゆっくりと立ち上がった。

 地面に触れていた部分の服は破れ、セレーナの背中は擦り傷の赤と内出血の赤黒さに染まっていた。

 

「傷が……! すぐに治療しないと――」

「問題無いと言ったはずだ。吸血鬼の肉体は高速で再生する。最も、魔術の類や――」

 

 セレーナは羽に刺さった矢を引き抜きながら言う。

 

「これのような、銀製の武器によるダメージは人間と同程度の回復期間を要するが」

 

 言ううちにも背中の傷は塞がっていき、白い肌に戻っていく。

 

「チッ。数か月は飛べないな」

 

 セレーナは銀製の矢じりのついた矢を忌々しそうに片手で握り折り、投げ捨てた。

 

「セレーナ、どういうことなの? あの人たちは?」

 

 答えは返ってこない。

 セレーナは逡巡していた。クリスに全てを明かしていいのだろうか。

 信頼して全てを明かすことで、クリスとより親密になるのはわかっている。クリスの性格からも、きっとセレーナに対して優しく接してくれるのはわかっている。だが、二つの理由が、セレーナの口に鍵をかけている。

 

「セレーナ……!」

「私は……もう失いたくないんだ」

 

 セレーナは思い出す。大切な人との別れを。そして、信頼していた人の裏切りを。

 二つの理由が、セレーナの口を鉛のように重くする。鉛が心にも沈み込んでくる。

 

「それって、どういう――」

「みぃーつけた」

 

 クリスの言葉を遮るように、男の声が聞こえた。

 袋小路の入口に、二人の男の影があった。一つは縦に長く、一つは横に広い体型だ。

 

「……お早いご到着で。クリス、下がっていろ」

 

 牙を見せて笑ってみせるセレーナの頬を汗が伝い、顎の先から滴り落ちる。

 

 ――魅了が相手の行動を完全に支配する深度に達するには時間がかかる……。短時間の魅了で一瞬隙を作る事はできるが、相手が二人ではそれも反応されてしまう。ならば。

 

「氷柱」

 

 再び魔力を手に集中させ、イメージを固める。次に想像したのは吹雪ではなく、槍だった。

 いくつかの造形に優れた属性を持った魔術師は武器を生成して使用することがあるが、その際に形作る武器の形状はいつも同じだ。毎回同じ武器を作り出すことで、何度も使ううちに形を覚え、イメージまでの時間を短縮できる。

 セレーナの造った氷の短槍は――三つの穂先を有していた。

 

「ほォ……三叉槍。使えるん?」

 

 セレーナは槍を高く頭の脇で水平に構える。

 

「一族に伝わる槍術だ。使えるかどうか、その身で試すと良い」

「……ナックル」

「ああ、シャオチョウ」

 

 ナックルと呼ばれた覆面の男が前へ出る。両手にはナックルダスターを嵌めている。恐らくあれも銀製なので、触れれば危険だ。

 しかし、それを見たセレーナは静かに笑った。

 セレーナの扱う槍術において警戒すべきは、槍を掴まれること。そのまま奪われる、反撃されることに繋がる以上、何としてでも避けるべきだった。しかしナックルダスターを嵌めた手では、拳を強く握り込むことはできても、何かをしっかりと掴むことはできない。

 

 ――槍を掴ませず、拳のリーチの外から削る。それで終わりだ。

 

 開戦の合図なくして、夜の路地での死闘が幕を開けた。



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第8話 筋肉

 実践と呼べるものにクリスが直面するのは初めてではなかったが、それは人と人との殺し合いではなかった。

 魔物がはびこるとはいえ、冒険者によりある程度の安全が保障されている現代。錬金術師があえて戦う必要はない。クリスはそう考えていたが、師匠は違った。

 真に錬金術師たるもの、薬の材料も自ら手に入れろ。自らの目で選りすぐったものでなければ一級の錬金術はできない。それが師匠の考えだった。

 だからクリスは魔物相手の()()に付き合わされたし、その際に使う魔導銃の扱いは徹底的に叩き込まれた。

 

「クリス、錬金術師が戦闘において優れているのは物を良く知ることだ」

「もしもの時でも冷静に周りを見ろ。錬金術の知識が必ずお前を助けるなら、何を怖がる必要がある?」

 

 錬金術があれば戦いは怖くない――師匠の言葉を思い出す。

 

 ――でも。

 

 クリスは唾を飲みこむ。緊張で口が乾いていた。

 

 ――こんなの、怖くないわけないよ……!

 

 その場は、切れる寸前の弦のような緊張感に満ちていた。

 冷気を纏う氷の三叉槍を構えるセレーナに対峙するのは、セレーナと比べると巨人のように大きい男二人。普通に考えれば、少女が戦って叶うはずがない。

 しかし――、

 

「どうした、来ないのか?」

 

 相手を威圧感で圧倒しているのは、素人目にもセレーナの方に見えた。

 

「……シャオ」

「わかっとる」

 

 対峙する男たちは、明らかに攻めあぐねている。自分より華奢で小さな女の子を二人で相手取ってなお、動くタイミングを注意深く探っている。

 傷の男は覆面の男より少し後ろへ下がった。クロスボウを持っている以上、当然とも言える行動だ。

 

 ――きっと、セレーナが覆面の人と戦ってる隙をついて撃つつもりだ……!

 

 セレーナが至った結論も、クリスと同じだった。

 

「踊らせてやろう。ついて来れるか、デカブツ」

 

 牙を剥きだして笑ってみせると、次の瞬間にはセレーナの姿はそこに無かった。

 

「はや……っ」

 

 セレーナは地面を蹴り込んで右に動く。傷の男の射線に覆面の男を被せ、クロスボウによる射撃から身を隠した。

 傷の男は舌打ちをしつつすぐに回り込もうとするが、セレーナはそれよりも早く次の手に移る。

 中段突きから上段突きの連撃。覆面の男の心臓と目を刺し貫く――と思われた氷の槍は、一撃目はその肉体に、二撃目は男が咄嗟にずらした額に当たるや否や砕けてしまう。

 

「何……?」

「ふんッ」

 

 驚いて一瞬動きを止めたセレーナに、銀製のナックルダスターを着けた拳が振り下ろされる。セレーナはこれをバックステップで回避した。拳は重い音と共に石畳にヒビを入れる。

 

「……『ついて行く』必要などない。俺にお前の攻撃は効かん」

 

 覆面越しにセレーナを見る男は、無表情でそう呟くように言った。

 

「そうでもない」

「……!」

 

 セレーナはまだ笑っている。いたずらが成功した時の子供のような顔だ。余裕に満ちている。

 男の両腕はみるみるうちに氷に覆われていく。

 

「受けた箇所は凍り付く――馬鹿正直に受けてくれて助かった」

 

 しかし、覆面の男も笑みを返す。凍った腕を――頭や膝に何度も叩きつけると、ものの数秒で氷を砕き落とした。

 

「フゥーッ……馬鹿正直に技を教えてくれて助かる」

 

 ――えええ……頭で砕いちゃった……?!

 

 技が効いていない――クリスは不安げに戦いを見ているしかない。と、セレーナから視線を移した先に、傷の男が構えていた。

 

「セレーナ! クロスボウ! 避けて!」

 

 自分でもよくわからない注意の文句だったが、セレーナはそれを理解したらしい。傷の男の方に目を向け――その瞬間、既にクロスボウは放たれた直後だった。

 

「避け……?」

「ハァ~? どないなってんねん……?」

 

 セレーナがしたのは単純な事だ。ただ、()()()()()()()()()()()()()だけなのだから。

 クロスボウから放たれた矢は、魔導銃の弾丸に比べれば幾分も遅い。遅いが、人間が目で追って対処できるようなものではない。そして広くない路地で遠くない距離から撃たれたそれは、速度の減衰がほとんどない状態だ。それを見てから摘まみとった。それだけだった。

 

「見えていればそんな遅いものに当たりはしない」

 

 指で矢をへし折ったセレーナは、それを覆面の男の顔面に放る。放られた男は咄嗟に手を上げて防御の姿勢をとった。

 

「氷柱」

 

 新たな槍を手にしたセレーナは、深く体を倒して覆面の男に接近し、下から喉へ突き上げを放つ。

 

「フン……ッ!」

 

 覆面の男はそれを受け止める。が、受けられたことはセレーナにとって問題ではなかった。

 セレーナは砕けた槍を放る。覆面の男の視線は、セレーナではなく槍を追いかけてしまった。

 金的を狙った蹴り上げ。本命の一撃はこれだった。

 

「グッ……?!」

 

 ――ひえぇ、痛そう……。ボクにはないけど……。

 

「効いたか? ()()()()

 

 覆面の男はその場に崩れ落ちる。

 

「……この短時間でナックルの特性がわかったんか」

「簡単な話だ。そのウドの大木が魔術で肉体を強化しているのは魔力を感じてわかっていた――槍すら通らないとは思わなかったがな」

 

 セレーナが、覆面の男の体を氷で覆っていく。覆面の男は身動きが取れなくなっていくが、抵抗する余裕は無さそうだった。

 

「考えられるのは魔力を体に纏った防御か、筋肉の硬化。そこで弱点である心臓と目を攻撃した」

「それでなんでわかんねん」

「心臓は守らなかったが目は避けた。つまりコイツは肉体そのものではなく筋肉を強化している、という推理だ。如何かな」

 

 ――セレーナ、この一瞬でそんなこと考えて戦ってたの……?

 

 クリスもセレーナの発言を聞いていた。そして、驚愕させられた。ただ立って数十秒見ていただけの戦闘は、セレーナにとっては計算の上だった。

 

「ナックルが簡単に蹴られるか……」

「当然だ。意識を上半身に集中させたからな」

「……!」

 

 クリスと傷の男は気づく。最初の連撃、折った矢、喉への突き、そして放った槍。どれもが、覆面の男を上半身へ誘導している。

 先程のセレーナの言葉通り、覆面の男はセレーナの掌の上で踊らされたのだ。

 

「さて、次はお前だ」

「いいや、次は……次は……俺やない!」

 

 傷の男は顔を伏せて言う。

 

「――あのお嬢ちゃんや」

 

 傷の男のクロスボウは、クリスに向けられた。視線を外した射撃で、セレーナの反応が一瞬遅れる。

 初めてセレーナの顔から余裕が消えた。



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第9話 記憶

「クリス!」

 

 向けられたクロスボウに、クリスは反応できていなかった。声に出せない声を出して、立ちすくんでしまっている。

 傷の男の指が引き金を引くのと、セレーナが動き出すのはほぼ同時だった。セレーナの足が地面を蹴り、小柄なその体はクリスと男の間に向かう。

 しかし、弾道に手を届かせて先程のように矢を掴むには距離が遠すぎた。

 

 ――どうする。

 

 セレーナは考える。

 魔術の発動は……間に合わない。クリスに魅了魔術をかけて回避行動をとらせる……間に合わない。

 高速で回転する頭の中で、セレーナが最終的に導き出した答えは――、

 

 どす、ともぐちゃ、とも聞こえる、奇妙な音がする。どこか湿っていて、鈍い音だった。クリスがその音を聞くのは、二度目だった。

 

「セ、レーナ……!」

 

 ――セレーナは、弾道に飛び込んだ姿勢から更に男に背を向けるようにして体を捻り、自らの羽――それも、先程被弾していなかった方を差し出していた。

 銀製の武器はダメージが残る……クリスは先程聞いたことを思い出す。それを承知の上で、セレーナは自ら盾になったのだ。

 そして更に、

 

「ぐッ!」

 

 男の剣がセレーナの背中に向けて投げられた。柄頭に鎖を取り付けたそれは、セレーナの背中を切り裂いて男の手元へと戻る。

 傷は深くなかったが、銀製の刃によりつけられたそれは再生能力が効かない。セレーナは背に奔る焼けつくような痛みを感じながら膝をついた。

 

「セレーナ!」

 

 クリスが駆け寄り、セレーナの体を支える。涙を溜めた目で、セレーナを心配そうに見つめる。

 セレーナは肩に置かれたその腕を、優しく撫でる。久しぶりに見つけた()()を懐かしむような手つきだった。徐々にその手はクリスの肩へ上っていき、頬に置かれる。青緑色の瞳からこぼれ出た雫を指で拭う。

 

「大丈夫? 痛いよね……ボ、ボクが何とかする! 心配しないで……!」

「……ああ、そうか」

 

 ――そういうことか……。

 

 セレーナはクリスに別の人物の亡霊が重なって見えていた。

 ずっと昔、吸血鬼が戦争に負けた後。生き残りの一族が吹雪の城でひっそりと暮らしていた時も、ずっとセレーナに付き従ってくれた使用人。そこに残党狩りが来た時に逃がし、今世の別れを告げることとなった彼女を、セレーナは無意識のうちに重ねていたのだろう。

 思えば、あの時もこんな状況だった。

 

 ***

 

 教会が発した大義名分は「他種族の生命を侵害する極めて許し難い云々」とか何とかだった。誰もがその言葉の裏に権力者の影があるのを察していて、そして誰もがそれに見て見ぬふりをして始まった戦争だった。

 城には生き残った後、隠れるようにしてひっそりと生きてきた吸血鬼の一族と、そしてそれぞれの吸血鬼に付き従う()――使用人しかいなかった。そんな吸血鬼達に対して、一個連隊が投入された。徹底的に叩き潰そうという魂胆らしかった。

 さらに使用人の裏切りがあった。人間の使う「解除」の魔術により魅了魔術から解放された使用人は、今までの鬱憤を晴らすかのように吸血鬼を裏切り刃を向けた。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

 城の地下水道に、二人分の足音と息遣いが響いていた。足音の片方は、おぼつかない、引きずるようなものだった。セレーナともう一人の使用人の通った後には、点々と赤い血の跡があった。

 セレーナの二人いる使用人の一人が、セレーナに牙を剥いた。後ろから銀製のナイフを突き立てたのだ。

 吸血鬼の感覚があれば不意打ちを食らうことはまずない。――しかし、セレーナは使用人を信頼し、油断していた。

 

「セレーナ、大丈夫、もう少しで抜けられるからね……!」

 

 白い髪のその使用人は、セレーナに肩を貸して水道の出口へと向かっていた。

 人間からしてみれば使用人は、吸血鬼の魔術により隷属を余儀なくされた、いわゆる()()()だった。しかし彼女は、他の使用人が寝返っても降伏せず、裏切らず、セレーナと共にいた。

 使用人の中でも、彼女は特別だった。吸血鬼に隷属する使用人には、宗教的に心酔している者もいたが、ほとんどは魅了魔術によるものだ。

 だが、彼女がセレーナに服従――否、心からの忠誠を誓っているのはそのどちらでも無い。ただ信頼によるものだった。

 

「マーガ、レット……私は、問題ない」

 

 セレーナは口から血をこぼし、咳きこみながらそう言った。

 

「その傷で問題ない訳ないよ……でも心配しないで。もう少しだよ。セレーナなら大丈夫だから」

 

 使用人の中で主人に砕けた態度をとるのは、マーガレットだけだった。決して礼儀を知らないからではない。

 二人の間には、主人と使用人という関係を超えた愛があった。マーガレットは、セレーナの友であり、それ以上の存在だった。一緒に生まれ、一緒に育った。同族であろうと繋がりが薄い吸血鬼という種族の中で、セレーナだけが友情を知っていた。

 

「はぁ……ッ、マーガレット……」

「大丈夫? どうしたの?」

 

 遠く、海に繋がる水道の出口が見える頃。セレーナが浅い呼吸混じりに言う。

 

「聞いてくれ……二人では逃げきれない」

「どうして? 水道の先には小舟が用意してあるんだよね?」

「あぁ、あるさ……だが、奴らを足止めしなければ、魔術と矢の的にされて、終わりだ」

 

 マーガレットの表情が曇る。聡明な彼女は、きっとわかっていたのだろう。

 

「……そうだね。なら私が――」

「マーガレット、お前は舟に乗れ……私はここで足止めする」

 

 セレーナは遮るように言った。

 

「何言ってるの、セレーナの事置いていけるわけないよ……!」

「頼むよ……私はマーガレットに死んでほしくない……!」

「そんなの……そんなの、私だって同じだよッ!」

 

 二人の声が何度も反響する。

 セレーナの手がマーガレットの頬を撫でる。青緑色の瞳からこぼれ出た雫を指で拭う。

 

「私は死なないよ……大丈夫」

「その傷で戦ったら本当に……」

「嘗めてもらっては困る。そこらの人間共など、何人いようが相手ではないさ」

「でも……でも……!」

「……私は大丈夫、と言ったのはマーガレットじゃないか、ふふ」

「……本当に、セレーナは頑固なんだから……」

 

 セレーナの決意が固い事がわかり、マーガレットの声は徐々に小さくなっていく。

 明確な言葉でその提案を了承しない代わりに、沈黙がマーガレットの気持ちを伝える。

 たった十五年の生だったが、それでもその中でセレーナが感謝という気持ちを向けたのはマーガレットだけだった。しかし、主人と使用人の立場で暮らす中で、普段それを伝えることは無かった。

 

「マーガレット、信じてくれて、ありがとう」

「……!」

 

 セレーナはマーガレットの顔を見ずに言う。マーガレットは、セレーナの顔を見ず、返事もしない。きっと最愛の友の顔を見れば決意が揺らぐと、お互いにわかっていた。

 水道に響く音が足音だけになり、やがて城のある崖の真下、小舟が停めてあるだけの出口についた。既に水平線の向こうが薄く明るかった。

 

「マーガレット……二つだけ」

 

 マーガレットが小舟に乗り込むと、セレーナは今歩いてきた道へ向いた。

 水道を反響する人間たちの声と足音が聞こえる。既に遠くに松明の火が見える。

 

「……うん」

「一つは、私がお前の主人として最後にする命だ。――幸せになれ」

 

 松明の火は数えきれない。そしてその全てが徐々に大きくなるのがわかる。

 

「……うん……っ」

「そしてもう一つ、友として。――愛している」

 

 うるさい程に反響する人間たちの声。中に、裏切った使用人の声がある。

 

「……わた、しも……! 私も、愛してるからっ!」

 

 マーガレットの声は、はっきりと聞こえた。人間たちの発する音が一瞬だけ無くなってしまったかのようだった。

 

「……行け」

 

 怒りの炎の渦となった人間の群れが迫る。表情の一つ一つが、吸血鬼を憎むものだ。

 

「わかった――またね、セレーナ」

「……」

 

 セレーナは駆け出した。

 

「またな、マーガレット」

 

 吸血鬼の少女の姿は人の波に消え、使用人の少女の姿は朝焼けに染まった海へと消えていった。



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第10話 治療

「……そう、か」

 

 ――クリスは、かつての友に似ている。

 

 セレーナの手がクリスの頬からゆっくりと離れる。名残惜しそうに、指の先までゆっくりと。

 昨日と今日だけの短い間でクリスに抱いた感情。それは、信頼だった。根拠は無かったが、クリスがセレーナに接する態度が、マーガレットの姿を想起させた。

 思えば、魔力の質も髪と目の色もマーガレットとそっくりだ。唯一心を許した友と再会した心地を自分でも気がつかないうちに味わっていた。

 

 ――なぁ、マーガレット。私は、もう一度人を大切にしてもいいだろうか。裏切られることも、失うことも怖い。それでも……。

 

 四肢が再び力を取り戻す。セレーナはゆらりと立ち上がる。

 足は大地をしっかりと捉えている。その体に揺らぎはない。

 羽と背中の痛みは、あの時の心の痛みに比べればなんてことはない。

 

 ――お前が私にしてくれたように、私がお前にしたように、もう一度……人を信じても、良いだろうか。

 

「まだ立つんかい……」

 

 傷の男の目には、背中を真っ赤に染める血がまるで炎のように見えた。

 

「セレーナ……」

 

 クリスはセレーナの赤い瞳が燃えるように輝いているのを見た。

 セレーナは男の方へ向き直る。

 

「お前はクリスを……私の友を傷つけようとした」

「あァ?」

「叩きのめす」

「……やってみぃや」

 

 傷の男はクロスボウを左手に構え、反対の手で剣を持つ。クロスボウにより動きを牽制、誘導し、接近したところに斬撃――単純だが、いくつもの戦いを乗り越えた男の必勝法だった。

 対するセレーナは、まるで散歩をするかのように、一見無防備なままに男に近づいていく。男が動揺することはない。先程までの戦いで、動揺はつけこまれる隙を作るのがわかっている。

 

「どうした? 撃てないのか?」

「……」

 

 男は機をうかがう。発射された矢を造作もなく掴み取ってしまう身体能力。当てる確率を少しでもあげるために、放つタイミングはよく考えるべきだと判断した。

 狙うのは瞬きの瞬間。奴は撃った矢を掴み片腕が塞がる――つまり、左手で掴ませれば、男が右から振った剣を防御することはできないはずだ。

 

「あまり迷っている時間は無いぞ?」

「……」

 

 距離が縮まる。だが、クリスはその場に先程まであった張り詰めた空気を感じなかった。まるで、今もうすでに安心しているかのようだった。

 傷の男はセレーナの目を見る。瞬きのタイミングを計り、その瞬間を狙うため――。

 

「武器を捨てろ」

「……は、い」

 

 男はセレーナの命令通りに、その場に武器を落とした。

 

「あの目……!」

 

 クリスは思い出す。昨日の夜、セレーナの目を見た時に起こったことを。まるで従うのが正しいと信じてしまうような、セレーナに対する強烈な被服従感を。

 吸血鬼が強者と呼ばれる理由はいくつか存在する。高い身体能力、飛行能力、保有魔力量、そして――魅了魔術。目を見つめるだけで発動し、十秒足らずで人を下僕にする禁忌の魔術。

 セレーナはその瞬間に男に向かって全力で踏み込み、拳を鳩尾に叩き込んだ。

 

「が……ッ」

 

 男が意識を失いその場に崩れ落ちると、セレーナは即座に氷で手足を封じる。

 しかし、同時にセレーナの足がふらつき、後ろ向きに倒れ――、

 

「わわっ……間に合った!」

 

 その身をクリスの腕に預けて静かに目を閉じた。

 

「次はボクが助けるからね……!」

 

 クリスはセレーナを背に抱える。大の男二人を倒して見せた力がどこから出てきているのかと不思議になる程、見た目通りの軽さだ。

 夜は更けている。開いている診療所はないだろう。自宅にあるものでどうにかするしかない。

 

「吸血鬼にも普通の薬効くのかな……」

 

 クリスは宿へ走りだした。

 

 ***

 

 クリスの部屋は、壊された扉以外にもいくつかのものが荒らされて壊れていた。きっとセレーナに関する情報を見つけたかったのだろう。

 セレーナをベッドに寝かせて急いで薬を並べた棚をあさってみるが、治療に使える薬はほとんど酒場に持って行ってしまったし、残りの薬も落ちて割れていたりと使い物になりそうにない。唯一見つかった治療薬は質が悪く、重傷を治せるようなものではない。

 クリスは荒らされた部屋の中に立ち尽くしてしまう。

 

「大丈夫……大丈夫。落ち着いて。もしもの時でも冷静に周りを見る、冷静に……」

 

 師匠に耳にタコができるほど聞かされた言葉を何度も繰り返すうちに、頭が少し冴えたような気がしてくる。落ち着いてもう一度見回せば、何があって、そのうちの何が必要なのかが見えてくる。

 

 ――セレーナの傷を手当てするには、止血して、治療薬を使って、包帯を巻いてあげる必要がある。止血と包帯は何とかなる。問題は治療薬がないこと。今あるのじゃ効果が薄い……。

 

 部屋の中を見回す。錬金器具はほとんど無事なようだった。しかし新しい薬を錬金するのは間に合わないし、そもそも材料がない。

 

「とにかく、止血だけでもしないと」

 

 クリスは布を二枚取り出してその上に手をかざす。

 

「上手くいくかな……『雫』」

 

 クリスの手から、拳ほどの大きさの水の球が落ちる。

 錬金術に使う最低限の魔術の習得。これも師匠に叩き込まれたものだ。魔術の才能がないクリスはこの程度の魔術でも習得にかなりの時間を要したのを思い出す。

 服が地面に擦れて千切れた残りの繋がっている箇所をナイフで切り裂き、セレーナの背中を露わにする。

 

「酷い……」

 

 初めてみる大きな怪我だった。切り傷は深くはないようだったが、出血が多い。羽の方は既に出血はないようなので、背中を圧迫止血する必要がある。

 一枚目の布で背中と羽の傷口の汚れをふき取ったあと、もう一枚で背中の傷口を覆うように布を当てて両手で圧迫する。そのまましばらく圧迫を続けると出血が止まった。

 

「治療薬はどうしよう……」

 

 治療薬なしではこの怪我を放置できない。クリスは考える。

 ふと、自分がまだつかんでいる、真っ赤になった布に目がいく。

 

「……吸血鬼の血!」

 

 そこで思い出したのは、セレーナのと契約だった。吸血鬼の血は錬金術に使用できる。

 すぐに錬金術の本を開き、吸血鬼の血について調べる。意外な事に、多くの情報が記載されているのですぐに見つかった。

 

「これだ! 『吸血鬼の血は他の薬の効果を高める』……え?」

 

 余りにもシンプルな文章に、その効果に、クリスは呆然とする。

 そんな単純な、都合のいい事がありえるのか? クリスの頭に疑問が浮かぶ。錬金術の調合の複雑さ、繊細さを嫌というほど学び、体験しているクリスだからこその疑問だ。

 そして、それが本当なら吸血鬼の血は当時から錬金術で最も重要な素材だったのだろう。そしてそれは、錬金術で作られた様々なものを利用する人間にとっても同じはずだ。

 更に――、

 

「賢者の石……不老不死、無限の魔力……」

 

 吸血鬼の血の解説の中に幾度となく登場するその文字は、クリスに百数十年前に吸血鬼が人間に滅ぼされた理由を察させるのには十分だった。

 

「……今は、薬を作らないと!」

 

 効果がわかったのならやる事は単純だった。錬金器具に治療薬とセレーナの血を入れ、調合する。さほどの時間は要さなかった。あっという間に、質の低い治療薬は大けがを治せる高品質な物になってしまった。クリスは今まで感じたことのない、悲しみを伴う悪寒と吐き気が背を走るのを感じた。

 この治療薬はずっと持っていたくない。セレーナの患部に液体のそれを広げ、瓶を空にした。

 錬金術をしていて手に怪我を負うことが多く、包帯を常備していたのは幸いだった。包帯を巻くためにセレーナの上体を持ち上げると、服ははらりと落ちてセレーナの白く細い体と、そこにある膨らみが露わになる。

 

「……」

 

 クリスは顔を赤くして目を逸らし、無言で包帯を巻いていく。

 包帯を背中と羽に巻き終える頃に、セレーナがうめいてうっすらと目を開けた。

 

「セレーナ……大丈夫?」

「あぁ、……レット……」

「え? 今なんて――うわっ?!」

 

 クリスを押し倒したセレーナの目は、クリスを見ているのか、見ていないのかわからないうつろなものだった。

 

「……マーガレット。()()の時間だ」

「マーガレットって? 食事って? ちょっと、セレーナ――」



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第11話 食事 ●

 食事、しょくじ、ショクジ。

 クリスは頭の中で何度も繰り替えす。今までセレーナの治療のためにフル回転していた脳が、一瞬にして動きを止める。吸血鬼が言うその言葉の意味を理解する。

 その感覚は魅了魔術をかけられた時に似ていたが、クリスは自分でそれが違うのを理解していた。今度は自分の意識がはっきりとしたままだった。

 

「セ、セレーナ……」

 

 クリスがセレーナを呼ぶ声は小さかった。真夜中とはいえ、ドアの外れた部屋で大きな声を出せば隣人に声が聞こえてしまう。

 二階は女性向けの部屋だ。正面の部屋に住んでいるのは確か、冒険者の女性、だったはず。だがどちらにせよ、この部屋と、この状況と、なによりセレーナの正体を見られてしまうのは非常にまずい。

 当の本人は見るからに意識が朦朧としている。自分を見ているはずなのに、自分を見ていないような目つきだ。目が据わっている。しかし、クリスもセレーナの瞳から目を離すことができないでいる。

 

「うぅ……今するの……?」

 

 セレーナの指が、クリスの指に絡む。自分の手との温度差を感じるひんやりとしたそれは、羨ましいくらいに柔らかくてすべすべとした手触りをしている。

 反対の手はクリスの服のボタンにかかる。契約をしているのだから抵抗する理由はないが、それでもなんとなくその手に自分の手を重ねてしまう。

 セレーナがボタンを外す手つきは滑らかだったが、外してから、次のボタンに指をかけるまでにとても時間をかけていた。体の線を撫でるように指を下へゆっくりと滑らせて、次のボタンを外す。外すとまた、クリスの体を指で舐るように這って、次のボタンへ。

 部屋には、時計が時を刻む音と、衣擦れの音だけが聞こえている。実際の何倍も長い時間が流れているように感じた。

 

「……っ」

 

 ボタンが全て外され、ゆるい肌着だけの上半身が露わになった。

 セレーナの冷たい手が軽く体を撫でると、クリスの体が小さく跳ねる。

 相手は同性だし、()()を注視されていないのはわかっているけど、どうしても顔が赤くなる。自分の胸から視線を少し上に持ちあげると、包帯に巻かれたセレーナのたわわなそれがある。

 自分にも――多少の大きさの違いはあっても同じふくらみがあるはずなのに、セレーナを見るとなぜか恥ずかしくなってしまう。

 

 ――もー、何考えてるんだ……!

 

 頭に浮かんでしまった邪な考えに、ふるふると小さく頭を振る。

 セレーナは確かに魅力的な女性だが、()()()()()ではない。決してない。そうでなければ、もしくは魅了魔術の残滓が頭に残っているとかだろうという考えで頭の中を塗りつぶした。

 そんなことを考えているうちに、セレーナはクリスを抱きしめるように密着した。息遣いがはっきりとわかるほどに顔が近づく。押し付けられたセレーナの体の軟らかさと温かさがクリスに伝わる。

 クリスは今までに体感したことがなかった感触にどうしても意識を向けてしまう。汗でほんの少し湿っている肌は互いにぴったりとくっつき、熱を伝えあっている。

 もっと、さわりたい――。

 無意識のうちに、空いているほうの手でセレーナの脇腹の辺りに軽く触れた。先程まで戦いで力強い動きを見せたのと同じ体だと思えないほどにしなやかで少女らしい肉体だった。

 

 ――って、ボク、いつの間に触って……?

 

 いつの間にか自分の手がセレーナに触れていたことに気づき、驚いて手を離す。行き場の無くなった手は、中途半端な場所で固まったままになってしまう。

 セレーナに何か思われただろうか――そう思って顔を見ると、セレーナは目を見開いたあと、悪戯っぽく牙を見せて笑った。

 その笑顔を見た瞬間、クリスは心をすべて見透かされていたような気がする。無言のままに「なぜ触れていた?」と問い詰められているような気がする。そしてそれを弁解する声は出ず、顔を真っ赤にしたまま口をぱくぱくと動かすので精一杯になってしまう。

 

「――触らないのか?」

 

 こんな顔できるのかと思ってしまうような、普段のセレーナの氷のような表情からは想像できない、魅惑的で、扇情的で、挑発的な表情でクリスを見つめて言った。

 今までにクリスが知らなかった感情が腹の奥から湧き上がるようだった。心がぞくぞくと震えるのがわかる。

 セレーナの手が固まったままだったクリスの手を軽く握ると、その手を導くように動かす。先程触れた箇所まで持っていくが、直接触らせるわけではなかった。

 

 ――いじわるだ。セレーナは、とっても、いじわるだ。

 

 その理由をクリスは理解していた。セレーナは自分の力で触らせるのではなく、あくまでもクリスが自分からセレーナを触ることを促している。そしてきっと、先程手を離したクリスにとってそれがどれほど恥ずかしいことなのか理解している。

 首を小さく、小さく振って抵抗の意志を示す。それは単に触れないという意思を表したのではなく、触れたいと思ってしまったのが本心である事が怖くて、それを否定するためだった。

 セレーナは不満そうに頬を膨らませる。諦めてくれたかとクリスが安堵したのも束の間、セレーナはクリスの耳元に触れそうなほど口を寄せて呟く――。

 

「――良いんだぞ、お前なら……」

「っ……んん!」

 

 口から漏れ出した声を抑えるために唇を強く噛む。そうでもしなければきっと声は勝手に漏れ出してしまう。聞こえてしまう。

 

 ――ぞくぞくがとまらな、い……!

 

 全身が緊張して震える。腰が反るように引ける。

 それでもクリスの手は、ほんの少しずつだけ動き、セレーナに触れた。セレーナは嬉しそうに目を細めて、クリスの頭を撫でる。全てが彼女に見透かされ、思い通りにされているような感覚から逃れられない。

 

「ふふ、いい子だ」

 

 セレーナの声が耳元から離れる。

 意識は掌に集中している。セレーナの体の感触を覚えるためだけに神経が集中している。

 だからこそ、首筋に牙が突き立てられた時に体を奔る電撃は一層激しく感じられた。

 

「ひっ……ぁ! ぅあ、だ、め……っ! ん、ンん……っ!」

 

 不意打ちのように突然襲いかかった感覚で、クリスの口から声が漏れ出してしまう。繋いでいた手を外し必死になって口をふさぐが、口の隙間、指の隙間を抜けて声が漏れ出てしまう。腰が跳ね、足が伸び、セレーナの体に触れていた手にも力が入る。

 吸血鬼の牙に痛みを感じることは無かった――というよりかは、鈍い痛みが痺れに代わり、全身に迸り、そしてそれすら快感になってしまうような感覚だった。

 

「……っん、ぁ……!」

 

 クリスの両腕がセレーナの体に絡む。密着した体をもっと密着させるように、強く抱きしめる。背中に回った手には血を吸う度に力が入り、セレーナの背中に赤い線が引かれる。

 突き立てられ、クリスの体に入った牙があるのがわかる。傷から液体が体から抜け出ていく感覚がある。そこに触れている軟らかい唇の感触がある。血を逃がさないようにすくい取る舌の動きすら、はっきりとわかる。

 

 ――またなにもかんがえられなく……、

 

 ぴちゃぴちゃと耳のすぐ近くで立てられる水音が止むことはない。抱きしめられて体を引くこともできず、ただただ快楽に耐えながらその音を聞く時間が過ぎていった。

 やがて、セレーナの口が離れるまで、どれほど経ったかもわからなかった。

 クリスが肩で大きく息をしながら、一度体を持ち上げたセレーナに抱擁を求めて両腕を伸ばすと、セレーナはすぐにクリスに覆いかぶさるように抱き着き、そのまま横に倒れてクリスに並ぶ。

 心が落ち着いて改めて考えると、セレーナはずっとクリスのことをクリスだと思って吸血していなかったのではないか、という考えが浮かんだ。なぜか抱いたもやっとした気持ちは、襲ってきた眠気に押しつぶされるように消えていく。

 

「セレーナ……」

「おやすみ、()()()

「ん……」

 

 クリスが目を閉じ、寝息を立てはじめる。

 

「……甘いな、私も」

 

 そう呟いて、セレーナも目を瞑った。



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第12話 信頼

 クリスが目を覚ましたのは、セレーナが起きてから時計の長針が二周近くまわってからだった。

 仕事が休みの時は遅く起きる習慣がついていたのも一つの理由だったが、何より昨日は朝から晩まで色々な事が起こった日だった。目を覚ましてすぐの間、まだ動き出していない頭とぼんやりとした視界でセレーナが部屋を片付けているのを見ながら、昨日あった事を順に思い出していく。

 最後に思い出すのは当然吸血された記憶で、顔が赤くなるのと一緒に頭にも血が上ったのか目が冴えてくる。

 

「ん、起きたか」

「おはよう、セレーナ。片付けさせちゃってごめんね」

「気にするな。寝ていていい」

「でも――うわっ?!」

 

 クリスはあくび交じりに言って立ち上がろうとして、自分が上半身に下着だけしか着けていないことに気づく。再び毛布を被ると、服をたぐり寄せてその中で着始める。

 床に落ちた物を机や棚に戻しながら、セレーナはその様子を横目に見る。

 

「恥ずかしいのか?」

「……訊かないで!」

「私は気にしないが」

「セレーナが良くてもボクが気にするんですー!」

 

 それを聞いたセレーナは何かを察したように目を見開き、片付けの手を止めてクリスの方へ向き直った。その表情は至って真面目なものだった。

 

「クリスお前、やはり胸の大きさが――」

「ふんっ!」

 

 セレーナが言い終えるよりも先に、飛んできた枕が顔面を覆い口を塞いだ。

 顔から離れ落ちかけたそれを片手で掴みとると、もう一度顔に押し当てて深呼吸をする。吸血鬼の超感覚が無くとも、枕からはふんわりと甘い匂いがするのがわかる。

 

「え、ちょ、ちょっと? 何してるの?」

「知っている匂いだ――マーガレットもこのような感じの……」

「やめてよ! 恥ずかしいんだけど!」

 

 服を急いで着終えたクリスがセレーナに駆け寄り、枕を引きはがそうとするが、力で敵わず枕にぶら下がるような形になってしまう。

 

「だーめ! だーめ!」

「減る物でも無いだろう」

「減る! ボクの心が! 恥ずかしすぎてすり減るから!」

 

 セレーナは匂いに夢中になり、クリスは取り返すのに必死になっていた。――誰も気づかなかった。枕を枕の形にしていた糸が嫌な音を立てながらぷつりぷつりと千切れていくのに。

 

「かーえーしーて!」

「もう少し嗅ぎたい……ん?」

「えっ、あっ」

 

 ぶちっ、と一段と大きな音を立てて、枕は二つにわかれ、中の綿が雪のように部屋を舞った。

 枕だけに自分の体重を任せていたクリスは当然後ろに倒れそうになり、咄嗟に伸びた手はセレーナの腕を取った。突然のことで力を入れる暇のなかったセレーナもクリスに引かれる形になり、クリスは仰向けに、セレーナはその上に乗るようにして、共に床に倒れてしまった。

 倒れた勢いのせいで二人の顔の位置はとても近い。

 

「ぅ……あ……」

 

 クリスは触れてしまう程近いセレーナの顔を見ると、赤かった顔を更に真っ赤にして、声にならない声を出しながら口をぱくぱくと動かす。

 セレーナは真顔だったが、少しだけ眉を下げて申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「……すまん」

「――っ! お、風呂、入ってくる!」

 

 それまで呆然として固まっていたクリスだったが、セレーナの声で意識を取り戻したかのように跳ね起き、着替えを掴んで部屋から駆け出していく。

 返事をする間もなくとり残されたセレーナは、頭に乗った枕の綿を摘まみとりながらその姿を見送った。

 

「……朝から元気な奴だ」

 

 セレーナは部屋の片付けを再開し、ドアを力だけで強引に元通りにする。曲がってしまっていたネジは指で押してやると針金のようにまた真っ直ぐに戻ったので、蝶番に当てがい手で締めてドアを固定してやると上手くいった。落ちていたネームプレートを外にかけてやれば、すべて元通りだ。

 その後はまた、床に散らばったものを拾っては元にあっただろう場所辺りに戻す作業に戻った。

 拾い集めながら落ちているもの一つ一つを改めて見ると、やはり錬金術一辺倒といった感じの物ばかりである事がわかる。多くは薬品の瓶や、材料を保存する容器。そして錬金術に関する本だ。以前に街中で見かけたクリスと同年代ほどの女性は、確かもっとこう、可愛いものを好んでいた印象がある。

 クローゼットを開けてみても、そこに入っている服は容易に数えきれる数だ。装飾品の類に至ってはほとんどない。

 

 ――折角クリスと友になると決めたのだし、贈り物をするというのも良いな。

 

 セレーナはそんな事を考えながら片付けを黙々と続ける。

 クリスが帰って来たのは、あらかたの事を済ませた頃だった。

 

「『血は必要ない』?」

「うん……」

 

 セレーナはクリスが告げたことに驚いて、言われたその言葉を繰り返した。クリスが淹れたハーブティーを思わず噴き出しそうになってしまった。

 

「どうしてだ? 昨日とは言っていることが違うが」

「昨日セレーナの傷を治すのに使った治療薬、本当は効果の薄いものだったんだ」

「羽も背中も、既に再生し始めているな。痛みも余りない……効果の薄いものでこれを?」

 

 セレーナは背中の傷を包帯の上からさする。銀でできた傷は本来ならば自然治癒にかなり時間を要する上に痛みも長引くはずだが、この傷は完全な回復とはいかないまでも、傷は普通より相当早く再生が進んでいる。一週間もしないうちに完治しそうな勢いだった。明らかに質の悪い薬ではあり得ない効き目だ。

 

「その薬、セレーナの血を使わせてもらって作ったんだ……」

「……それで、どうして?」

 

 クリスの表情が曇る。セレーナが見ている時には少なくともしたことがない表情だった。

 ハーブティーのカップを持つのをやめて膝の上で握られた手は小さく震えている。セレーナの目には、クリスの体が自分以上に小さく見える。

 

「吸血鬼の血について少しだけ見たんだけどさ、効果がすごく単純で、薬の効果を強くして、でも何の副作用もなくて、とにかくすごいんだよ――知ってる、よね」

 

 クリスは潤したばかりのはずの口がすでに乾いてべたついているのを感じていた。胃の辺りが気持ち悪くなる嫌な感覚が再び戻ってくる。心の深いところから沸々と湧き上がってくるような、どろどろの感情だ。

 

「本に書いてたんだよ……吸血鬼の血は、賢者の石の材料なんだって」

「……ああ、話だけは聞いた事がある。錬金術師の到達点、か」

「きっと、人間が吸血鬼に戦争を仕掛けたのは、そのためなんだって、人間の勝手のせいなんだって……そう思ったら、セレーナの血をボクの錬金術に使うのが、怖くなったっていうか……あはは、ごめんね、上手く言えなくて」

 

 クリスは話しながら、目に涙を溜めていく。やがて留まりきらなくなったそれは、目から大粒の雫として落ち、クリスの手に落ちる。

 

「吸血鬼も人間の血を糧にする。どちらが悪いなんて事は無いさ。争いは、自分の信じている正義を押し通すために起きるのだから。それに、それは百年以上も昔の事だ。これはただ、私とお前の間だけの話だよ」

 

 セレーナの手が自然とクリスの頬に伸び、頬を伝う涙を親指ですくい取る。

 

「それとな……私は今まで、これ以上人の事を信じるのはよそうと思っていた。昨日言いかけた話だ。私は昔、信じていた者を二度失った。一度は、裏切られて。もう一度は、戦火の中で生き別れた。私が怖かったのは、再び人を信じて、そしてまた同じ結末になってしまうことだった」

「そう、だったんだ」

「でもな……クリスの事は、少しだけ、信じられる気がしたんだ。はっきりと理由は無いが……信じたいと思ったんだ。だから、私はお前の事を信じている。だから、お前が何か私に思ったりする必要は無いんだよ」

 

 セレーナの手が何度もクリスを撫でるうちに、少しずつクリスの涙が収まっていくのがわかった。頬にあった手は頭に移動して、優しく撫でたあとに静かに離れる。

 クリスが少し落ち着いたことが見て取れたセレーナは、声の調子を超えて、にやりとしたいたずら顔をクリスに見せて言った。

 

「それに……これは契約だからな。私だけ血を受け取っていれば契約が破られたとして、契約書から精霊が出現して半殺しにされるぞ」

「は、はんごろしって……。どうしてそう物理的なの? 精霊だし、もっとこう、魔術で代償を~みたいなのじゃダメなのかなぁ」

「罰について書かなかったから仕方が無いな。普通は金とかで設定するのだが」

 

 そんなセレーナの返答を聞いたクリスの顔から表情が消えた。そして徐々に眉間にしわが寄っていく。いつもの笑顔でも、先程の悲しげな顔でもなかった。

 

「知ってて黙ってたの」

「……今後の話をしようか」

「セレーナあああ!」



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第13話 宣誓

「まぁまぁ……契約を破らなければ良いだけの話だ」

「それはそうだけどさ……それで、今後の話って?」

「ああ……クリスを信頼すると決めたからな。昨日の事も含めて、順を追って事情を説明しておく」

 

 セレーナはカップに半分ほど残っていたハーブティーを一気に飲み干すと、静かに話し始めた。

 

 ――大戦の後、に隠れ住んでいた城を残党狩りに襲撃された際、吸血鬼側の死者は意外なほどに少なかった。圧倒的な戦力差の前に降伏を余儀なくされたこともあったが、人間はそもそも吸血鬼の拘束を主眼に置いていたらしかった。セレーナも奮戦したものの人数に圧倒され、抵抗も空しく捕虜になった。

 他の吸血鬼達と共に移送されたのは、どこかの雪山にある研究施設だった。木の代わりに無数に生えた監視塔と隙間なく施設を取り囲む鉄条網が、その場所がいかに重要な場所なのかを語っている。そこは、錬金術に関する研究施設だった。

 しかし一つの疑問が浮かぶ。

 

 ――錬金術の研究に、これほどまで厳重な警備が必要なのか?

 

 セレーナの疑問は、繋がれた牢からかすかに聞こえる研究者たちの立ち話に耳をそばだてることで答えを得た。

 

「――賢者の石――実験に――らしい。不完全――が、これで――という訳だ」

「それは――ですなぁ。しかし、――石を、――易々と渡し――でしょうか?」

「――研究助手、これは――だ。――が――私情は――」

 

 賢者の石。聞き覚えの無い単語だったが、拾えた単語と今の状況からいくつか推測はできる。少なくとも吸血鬼の血を大量に必要としていること、その研究はまだ中途であり、時間を要すること。

 セレーナは心の中で悪態をつく。吸血鬼が人間を狩るように、人間も吸血鬼を狩ることがあったし、血が錬金術に利用できるという話も耳にしたことがある。それに特別な嫌悪を抱くことも無かったが、こうして実際の現場に直面すると気分が悪い。

 

 ――とにかく、今は耐えるしかない。

 

 セレーナはそれから、血を作らされては奪われるだけの生活を送ることとなった。大量の薬の投与と、体に繋がれた管から流れ出ていく血液。自死すら許さない吸血鬼の肉体をこれほどまで憎く思ったことは無かった。すぐに死んでしまう、脆く、儚い人間の事を初めて羨ましく思った。大切な人との別れを何度も経験せずにすむ人間を、心から羨ましく思った。

 肉体は常に健康優良を保つ反面、精神は日に日に蝕まれていく。次第に一人、また一人と発狂しはじめ、親しい者がそうやって狂っていく姿を見た者もまた精神を病んでいった。

 セレーナが唯一正気を保っていられたのは、心の中にマーガレットが居たからだった。生き延びて、マーガレットにもう一度会おう。固い意志は、自我の崩壊を拒み続けた。

 

 そしてある日、それは突然終わりを迎えた。

 

「サンジェルマン研究助手! 君は国を裏切るつもりか!」

 

 収容されていた牢のすぐ向こうで、男の怒声が響く。聞き覚えがある――ここ最近研究所に来たらしい、三十歳ほどの、セレーナの採血担当者の男の声だ。セレーナを見ると置いてきた妻の腹にいる娘を想起すると言って、血を抜く間にその話なんかを語る奴だった。下級だが貴族の出身だとか、旅人の女性を妻にすることに対する家族からの猛反発をはねのけたとか、フルネームが妙に長いとか、いつの間にか忘れてしまうようなくだらない話ばかりをされた。

 よく聞くと、ぽたぽたと地面に水滴が落ちる音がする。匂いからして男の血液だろう。出血量からして、大きな怪我らしかった。

 

「裏切る? 違うな。俺は最初から石を手に入れるために国を利用していたのだ」

 

 サンジェルマンと呼ばれた男の声はまるで吸血鬼のように冷たく、低く、起伏のない、まるで感情を読み取れない調子の声だった。

 

「……だったら、石が完成する前に僕に気づかれたのは失敗だったよ」

「何を言っている?」

「この研究所を封印する」

「魔術も碌に使えんお前がか?」

「僕の命と、()()を使えばできるさ」

「何? それは失敗作の……ッ!」

「君は愚かだよ。君は完璧な賢者の石を求める余り、失敗作から学ぶことをしなかった……! 僕と違ってね」

「やめろ!」

「――残念。もう遅い」

 

 その男の声が聞こえた直後、扉の隙間から部屋に閃光と轟音が溢れた。

 セレーナは薄れる意識の中で、ゆっくりと開く扉を見る。その奥には、半身を瓦礫に押しつぶされながら、手を赤く染め上げる血で地面に魔法陣を刻み込む男の姿があった。朦朧とした意識の中で、

 

「お前、は」

「君か……大丈夫、もう少しで封印を行える。暫く――百年近くは眠る事になるけど……」

 

 男は血が薄れればすぐに指の先を噛み切り、複雑な陣を描く手を少しも緩めない。

 

「……そうか」

「そうだ。もし起きたら、僕の妻と娘が元気か見てきてくれないか……いや、死んでるかもね……ハハ。墓参りだけでもいい……」

「……良いだろう。名前は?」

「娘はエミーリア……妻と長い間考えて決めた……いい名前だろう?」

 

 男は描き終えた陣の中心に不思議な色の石を置くと、手を添えて魔力を込める。

 

「ああ、そうだな……妻の名は?」

「妻は……妻の名前は――マーガレット」

 

 その瞬間魔術が発動し、セレーナごと研究所が眠りについた。

 セレーナが見た男の目には最期まで炎が宿っていた。

 

 ***

 

 セレーナが覚醒したのは、それから百年近く経った後の事だった。研究所は崩壊し、半ば野外と一体化している。

 雪山の寒く乾燥した環境は男の死体を腐らせずにミイラにしていた。セレーナは素手で近場の雪を掘り返して、その死体を埋めてやった。研究所の配管を引っこ抜いて、男の白衣と眼鏡をかけた。指にはまっていた魔石の指輪には、マーガレットの名が刻印されていた。いつか男の願いを叶えた証拠になるだろうと、指輪は懐にしまい込んだ。

 弔いを済ませたセレーナは、ふらふらとした足取りで研究所の残骸を歩く。

 

 ――生き永らえさせられたものの……私は、どうすればいいんだ。

 

 今までの暮らしを失い、マーガレットを失い、初めて自分が生きる意味を持っていないことに気がついた。男の妻――マーガレットに会うまではいい。恐らくはもうこの世にはいないのだろうし、男との約束を守ってやる義務はないが、それくらいしかやることがない。

 その一つしか生きる理由を持たないセレーナの魂の炎は、ほんのわずかに燃えているだけだった。生きたまま死んでいるような心地だった。

 

「……これは」

 

 研究所を歩いていくと、明らかに材質が違う、全く崩れていない部屋があった。中は何の変哲もない、誰かの事務室なのであろう、机と椅子、その他には棚があるだけの簡素な部屋だった。ある一点、そこに置かれた資料を除いては。

 

「人間の吸血鬼化と……吸血鬼の、人間……化……」

 

 吸血鬼の人間化。鈍っていた頭の中にその言葉が何度も反響し、徐々に目に生気が蘇ってくる。頭が冴え、資料を読むスピードが加速する。

 

「詳細は無いか……だが」

 

 だが。悠久の時を生きる吸血鬼である事を、人間の敵であり相容れない孤独な存在である事をやめれば、人間として受け入れられ暮らせるのなら、あるいは、セレーナはもう少しだけ余生に意味を見出せるのかもしれない。男の話してくれたような事を、楽しむことが出来るのかもしれない。また、大切な人に出会えるかもしれない。

 

「マーガレット、決めた……人間になるよ、私は」

 

 セレーナは指輪を握り締め、晴れた寒空に向かってそう誓った。



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第14話 手紙

「……その後は、人間になる方法を探しながらレギムの街を経由してここフレドリアに来たという訳だ」

「そっか、大変だったんだね……昨日の人たちは?」

「奴らは吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)だ。ご苦労な事に、レギムから遥々私を追ってきたらしい。……まぁ、百年も仕事がないと流石に弱体化したようだ。教会の下から離れて傭兵家業を兼ねている上、私の為に二人しか人手を割けない程人がいない。――まさかつけられているとは思わなかった。昨日は済まなかった」

「ゔぁんぱいあはんたー……。ううん、セレーナが助けてくれたし! 気にしないで」

 

 セレーナの口から出た聞きなれない言葉を復唱する。いつか見た文献や錬金術の本には、当然ではあるが載っていなかった単語だが、意味はそのままだろう。少なくともそんな名前で聞いた事は無いから、本業は既に傭兵業にシフトしていると言ったところだろうか。

 昨日の二人――セレーナが氷で動きを封じてはいたが、そのまま置いてきてしまった。後を追いかけて来なかったのは幸いだった。今頃はもうどこかへ行っただろう。

 

「あの人たち、きっとまた来るよね……」

「……申し訳ない、巻き込んだ私の責任だ」

「セレーナだってわからなかったんだから仕方ないよ! どうするか一緒に考えよう? うーん……ここにいると危ないんだよね?」

「……あぁ、そうだな」

 

 セレーナはクリスを自分の問題に深くかかわらせて危険に晒してしまったことに明らかに落ち込んでいた。いつもは平たく横に伸びている眉は、少しだけハの字に下がっている。牙の見える小さな口も、いつも以上につぐめられている。

 

「だったら、ボクもセレーナと一緒に旅するよ! 移動は遅くなっちゃうかもだけど……」

「だが、仕事や、友人があるだろう? この部屋にだって色々と……」

「うーん、それがね。家族から呼び出し食らってるんだよ……。ボク、実は家から逃げ出したまんまなんだ……見てこれ」

 

 クリスが机の上の山積みの手紙の脇、二枚だけ既に封蝋の砕けていたその手紙の片方を、腫れ物でも触るかのようにゆっくりと手に取ると、載っていた赤いリボンが机の上に落ちた。中身の便箋を取り出すと、綺麗に二つ折りにされているそれを開いてセレーナに渡す。

 セレーナは、豪奢な紋様と流暢な字で飾られた手紙に目を通し始める。

 

 ――クリスティーン・ローゼクルーシス・メンデリアムス・リル・アルヴィン・ロフタレッサ・ヴューストレム様

 貴女が家を出て既に一年近く経ちます。唯一の手掛かりのサンジェルマン殿も口をつぐんだままで、貴女の行方を知らないと言い張り続けています。やはり貴女に錬金術を学ばせ、自由にさせるべきではなかった。十五歳までに国家錬金術師試験に合格しなければ家に戻るという約束を破ったのは貴女です。

 貴女は女の子です。貴女にはヴューストレム家の令嬢として家の繁栄に尽くす義務があります。婿の候補は用意してあります。一から作法を学び直させますが、ヴューストレムと同じく侯爵家ですから悪くは無いでしょう。錬金術の事や家を出た事を黙ってさえいれば。

 一人で遠く辺境の地まで旅をしたところで、何を得ることも出来ません。今ならまだ、これまでの事は幼さ故の過ちと思って許しましょう。今すぐに家へ戻りなさい。

 

「これは、何というか……娘への愛に溢れたお母様だな。というか、貴族の出だったのか」

「ぷは……! 本当にね! はぁ、何が嫌で家出したと思ってるんだか……。ボクはとっくに貴族じゃないつもりだったけどね」

 

 セレーナは手紙を読み終えると、少し固めの折り目で便箋を折り直してクリスに手渡した。クリスは乱雑に手紙をしまって山の上に放るとカップに残っていた分のハーブティーを一気に飲み干し、一気に脱力して溜息を吐き出した。

 

「その山は全部?」

「うん……お金も入ってないし開けなくていかなって……あはは。それで、流石にこんなに届くから、少しだけ心配になって開けたらね……」

 

 クリスは開封されていたもう一枚の手紙を広げ、セレーナの眼前に突き出した。差し出されたそれは、明らかに怒気を孕んでいる……装飾の無い白紙に、先程までの小川のような落ち着いた字体ではなく、まるで瀑布か何かのような荒々しい書き方だ。目の間近にあるそれを、セレーナは今度は声に出して読み上げた。

 

「――『これが最後通牒です。一年以内に戻らなければ探偵と傭兵を雇って強制的に()()させます』……か」

「そう……だからどっちにしろ、ボクは王都に行かないといけないの。――認められるかわからないけど、あと少し、次の国家錬金術師試験を受けるまでは待ってもらう。セレーナもここから南に向かうなら王都でしょ? それに、師匠からも何か聞けるかもしれないしね。それに師匠は国家錬金術師だから、もしかしたらツテで国立図書館も見せてもらえるかも」

「……そうか。色々と有難う、クリス」

「ううん。そもそもセレーナの役に立ちたい気持ちは昨日から変わってないしね!」

 

 クリスの心の中にある感情は昨日からブレていなかった――襲撃に巻き込まれ、吸血されたとしても。錬金術を始めたのも、そもそもは人のために役立つことをしたいと思ったのがきっかけだ。きっかけは親の反面教師の結果かも知れないし、師匠が作る薬の使い道からかも知れない。周りにそれを誓えるような相手がいなかったから、一人で自分自身に誓った――人を助けるという信念。いつまでもそれを曲げずにいたお陰で、クリスは今まで一人でもやってこれたのだ。

 

「よし! そうと決まったら……どうしよう?」

「まずはエルフの魔術師に会いに行く。それと、クリスの造血薬だ。そうだな……もし私の血を普通の薬に使うのに抵抗があるなら、私の為に使うのはどうだ? 造血薬の効果が強くなれば私も吸血しやすい。……多少本末転倒という気はするが」

「それならまぁ……うーん?」

 

 セレーナの提案にクリスは首を捻ったり傾げたりして、なんとなく納得のいかなそうな反応を示す。

 

「不満か?」

「いや、そしたら吸血の回数って増えるのかもなって思って……」

 

 クリスが懸念していたのは吸血の回数だった。何故か貧血になるほどの影響は無いが、おととい、昨日と連続で吸血されている。そう何度もしていいのだろうか。それに……、

 

 ――本当に、癖になったらどうしよう……!

 

 クリスは昨日セレーナにつけられた傷跡を手でなぞる。快楽と同じくそういう効果があるのか、傷はすぐに塞がるし痛みもない。

 一回目はすぐに気を失ってしまったが、二回目は――ティエロが良く使う「ヤバい」という言葉はこういう時にこそつかうのだろう――本当に、本当に、自分がわからなくなってしまうような感覚があった。

 

「正直な話、眠る前に比べるとかなり力が衰えている……今までは必要最低限だけ吸っていたからな。血を大量に摂取すれば力も戻るだろうから、そうなれば助かるよ」

「そ、そっか。たくさん、たくさんか……」

 

 クリスは、返ってきた答えが良いのか悪いのかもわからなくなってしまった。



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第15話 準備

 そうと決まったからにはと、クリスは旅の準備に必要なことを考える。

 まずは必要な荷物を纏めると同時に、要らないものをどうにかしなければいけない。部屋を借りたままにする程の金銭は持ち合わせていない。必要最低限の物だけ女将さんに預かってもらって、残りは売り払ってしまえばいいだろう。持っていくのは錬金用の道具の一部と、高値で売りやすい薬と、護身用の魔導銃――ここに来たばかりの時ティエロに半ば押し付けられる形で譲られて以来棚の一番上で埃を被っている――があればいいだろう。

 次に路銀だ。錬金術で稼いだ金はほとんど本と器具と薬の材料につぎ込んでしまっているので貯金はほとんどない。要らない物を売って得た分を合わせても王都に着くまでには持ちこたえられそうにない。セレーナにも聞いてみたものの、何かを買うことはなかったから銀貨一、二枚しか持っていないと言われた。今ある分を合わせても王都の一歩手前、湖を隔てた王都の対岸の街が精一杯になりそうだ。

 あとは、王都へ行く事を伝えなければいけない。少なくとも女将さんとティエロには言っておくべきだろう。師匠に手紙を出しておけば後で助けてもらえるかもしれない。

 そうしてあらかたの計画を立てた二人は、薬入りの箱を持てるだけ持ち酒場へと向かっていた。既に街は活気が湧きはじめ、人通りも多くなってきている。

 

「いやぁ、ボクの部屋って本と薬以外ほとんど物が無いんだねぇ……」

「片付けていて思ったが、だろうな。私がお前くらいの頃はもっと色々持っていたぞ――まぁ、マーガレットが選んだものばかりだが」

「あはは、錬金術以外に興味なかったもんな~。というか、興味を持とうとしたことがないかも」

 

 思えば、酒場や街で話している同じくらいの若い女の子の話の内容はあまり興味を持って聞いた事はなかった。話題を振られた時も相槌を打つくらいで、ほとんど聞く側に回ってしまう。

 

「やっぱり趣味とかあったほうがいいのかな」

「錬金術一筋も悪くは無いが――もう一つくらい好きなものがあると、行き詰まった時に助けになるんじゃないか」

「うーん、やっぱりそうかなぁ……」

 

 クリスが顎に手を添えて悩むかたわらで、セレーナがフードの下から向けた視線の先にあったのは軽食や小物、装飾品を扱っている露店の並びだった。その中の一つに、手に収まるほどから人よりも明らかに大きなものまで様々なサイズのぬいぐるみが置かれていた。

 

「ぬいぐるみは欲しくないか?」

「ぬいぐるみかぁ……」

 

 セレーナの言葉に反応したクリスは立ち止まってその視線を追い、その先に並んだ色々なものを模したぬいぐるみの群れを眺める。猫や熊といった動物から、人やエルフといった人間を模した物、果ては魔物まで並んでいる。二段になっている陳列棚に収まりきらない分は、左右の大きな籠と屋根を支える細い柱にところ狭しと並んでクリス達を見つめている。

 

「うーん、あんまり……」

 

 クリスは一つ一つと目を合わせてじっくりと吟味するが、今までちゃんと見たこともなかったぬいぐるみが琴線に触れることは無さそうだった。

 

「……あ」

 

 するすると目線を下げていった先、籠の中から頭だけ覗かせていたそれを引っ張りだす。

 まるで雪を被ったように真っ白な毛を持った狼のぬいぐるみで、青と緑のボタンが瞳の代わりに縫いつけられている。サイズは子犬程度なので、どちらかというと可愛い印象のある代物だった。首の後ろに着いた小さな輪には、別売りの革紐をつけられるらしい。

 

「狼か?」

「うん、ウチで飼ってたレイランっていう狼にそっくり……」

 

 両手で抱えた狼と目を合わせると、見つめ返されているような感じがする。レイランも、クリスが家を出ていく前に両頬を撫でながら見つめたら、そのオッドアイの双眸でじっと見つめ返してくれたのを思い出す。

 まさかこんなところで家のことを思い出すとは、なんて思いながら、クリスは暫くの間そのぬいぐるみとじっと見つめ合っていた。

 

 ――どうしよう……これ買っちゃおうかな……。でもただでさえお金が足りないのに無駄に使ったら……!

 

「済まない。これを一つ。革紐もだ」

 

 クリスが悩んでいるうちに、セレーナは当然のように店主に声をかけた。

 

「毎度あり! そのお嬢ちゃん随分気に入ってくれたみたいだし革紐はオマケしたげるよ。銅貨十五枚ね」

「小銀貨からで頼む」

「ちょちょちょちょっと?! まだボク買うって言ってないよ?!」

 

 クリスがそう言う頃には既にセレーナは釣り銭を受け取っているところだった。不思議そうに首を傾げたセレーナはクリスが大事そうにぬいぐるみを持っているのを見て言う。

 

「そんな目で見ていて買わないつもりでいたのか?」

「だってなんだか懐かしくて……!」

「なら尚更だな。私からの旅の礼だと思って持っておけ」

 

 セレーナがクリスの肩をぽんと叩いて酒場へ向かいだすと、クリスも渋々といった様子で横に並んだ。

 

「うぅ~……。旅のお金はどうするのさ~……」

「安心しろ。当てはある」

「当て?」

「魔術師探しついでに山賊を潰して賞金を得る。酒場には賞金首の張り紙があっただろう」

「山賊って……! 危ないよ」

「昨日も見ただろう。私はそこらの人間には負けない」

「でも怪我して――!」

「薬の御蔭でほとんど痛みはない。もう少し待てばほとんど普段通り動ける」

「でも、友達に危ない目に会わないでほしいよ……」

 

 クリスは眉を下げ口をとがらせて言う。怒りや不満と言うよりかは、セレーナを不安に思う気持ちが強い顔だ。

 だがクリス自身も自分がそれ以上の良い案を思いつけず、一緒に居ても昨日の夜のように足手纏いになってしまうのが理解できているのか、強くは言えないようだった。

 師匠から教わった魔導銃の扱いも、普段訓練をしていないから急に役に立つのは難しいだろう。というか、整備しないと使えるかもわからない。

 

「安心しろ。昨日は油断しただけだ……人を守りながら戦うのは初めてだったからな」

「ごめん、ボクのせいで……」

「気にするな。血さえ渡せばお前に何か思う事は無い」

「……うん」

 

 クリスが目を伏せぬいぐるみを握る力を強くすると、歪んだ狼の顔はまるで泣いているように見えた。

 下を向いて歩いていると、石畳の模様が見慣れたもの――酒場のある広い道のそれに変わる。酒場はすぐ目の前だった。

 奥行きの広い建物なので、正面から見ると普通の家屋より少し大きいかどうかという具合だが、中は見た目よりも大きい。屋根から突き出した大きな煙突は、朝から夜遅くまで煙を吐き続けていた。

 この街に辿り着いて旅費を使い果たしたころ、ふらふらと香りに釣られて酒場の裏口の辺りまで迷い込んでいったのを思いだす。あの時に女将さんが偶然見つけてくれなかったら今の暮らしは無かったのだろう。本当に感謝しかない。

 それだけに、その女将さんと会えなくなることを告げるのには少し躊躇いを感じる。

 

 ――でも、セレーナを助けるって決めたからには……!

 

 クリスは改めて心の中で自分に言って聞かせ、酒場のスイングドアに手をかけた。



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第16話 同僚

 入口には魔術で空気の壁が張られているため、ドアを通った瞬間に肌に感じる空気は暖かくなった。

 人の少ない朝と昼の間くらいの時間帯なので、酒場に入っている客はまばらだった。普段は厨房にいる旦那さんも暇なのか前に出てきて女将さんと雑談をしていて、一緒になって出迎えてくれる。

 

「あら、クリスちゃん。それにセレーナちゃんも。今日はお客さんで来てくれたの? いらっしゃい」

「おう、クリスちゃん」

「おはようございます。朝ご飯と、後で一つお話が……」

 

 クリスはカウンターの方へと歩きながら、店の奥の方を覗いてみる。休みの日はもう一人従業員が入っているはずだが姿が見えないことに不思議そうに小さく唸る。その後ろに、人がふわりと()()()()()

 

「……いらっしゃいませ」

「うわあああ?!」

「なっ――?!」

 

 誰も居ないはずの背後から聞こえたその声に、クリスとセレーナは揃って跳ねるように驚く。

 そこにいたのは、背中に身長よりも大きな鳥の翼を生やした無表情な少女だった。しかしそれは片翼だけで、反対側には翼の代わりにそれを模した人工的な形の金属製の翼――恐らく魔導が利用されているものがついている。スカートから覗く両脚の大腿半ばから下も同じような素材の義足だったが、こつこつと硬い音を立ててクリスに歩み寄る動きは義足であることを感じさせないほど滑らかだった。

 

「しゅ、シュエットちゃんか……お疲れ様。飛んでたんだね、道理で気づかないわけだよ」

「どうも」

「……彼女は?」

「えっと、ここで一緒に働いてるシュエットちゃんだよ。梟――だっけ――の獣人族の子で、昨日会ったティーの友達なんだ」

「はじめまして」

「ああ……」

 

 シュエットがクリスの挨拶に短くそう返して顔の筋肉を少しも動かさないまま会釈するのを見ながら、セレーナは訝しげに眉をひそめる。

 

 ――()()()無かった……? この私が?

 

 セレーナの耳は彼女の動作音を捉えなかったのだ。足音はしっかりと聞こえるところから察するに、羽音が非常に小さいということだろうか。()()に何か特殊な細工でもあるのだろうかとついじろじろと眺めてしまう。

 

「そういえば、朝ごはんはまだだったね。せっかくだし女将さんの作ったシチューが食べたいな。セレーナは……ご飯って食べる?」

 

 四人掛けのテーブル席に向かい合って座ると、クリスはメニュー表を手に取りセレーナとの間に広げてみせる。料理のジャンルごとに名前が箇条書きされた簡素なものだが、使い古された汚れがそれを装飾していた。並ぶ名前には見覚えがあるものもちらほらとある。

 

「ああ。あくまで嗜好品としてだが。注文は任せる」

 

 吸血鬼の体は中に取りいれた食物から魔力だけを取り出すことができるが、属性の相性が合いにくいことやそもそも含有する魔力がごく微量であることから、生きるために料理を食べる者はいない。セレーナもその例外ではなかったが、マーガレットに勧められるがままに人間の食文化を嗜んでいたことを思い出す。

 

「じゃあシュエットちゃん、シチュー二つと……小麦のパンと……あ、腸詰めって昨日仕入れたばっかりだよね、それも。あとは……」

「……私はそんなに食べないぞ」

 

 注文するクリスを横目に、シュエットの足元へ目線を下げる。スカートの下から白い腿が覗き、半分あたりからは靴下のように金属に覆われている。輪郭こそ本物の脚のようだったが、空を飛ぶのに支障が出ないようにするためなのだろう、中は空洞らしく、パーツの隙間から向こう側が見える場所がいくつもある。

 

「……あまり、見られるのは好きではないのですが」

「あ、あぁ。済まない」

 

 クリスから注文を受け終えたシュエットが、首ごとセレーナの方を向いて言う。

 向けられた無表情な目つきは、どことなく昨日の吸血鬼狩り(ヴァンパイアハンター)のそれにも通じるものを感じさせる。獲物を見るような冷たい狩人の目つきだ。

 恐らくは彼女が肉食動物の獣人であるがためだろうが――セレーナはその視線にそれ以上の妙な不気味さを感じた。

 

「――これは……食べきれる、のか?」

「うん! 全然食べれる!」

 

 セレーナがシュエットの方を見ていた間に注文された料理は予想以上に多かった。十分も経たないうちにシュエットが次々に皿を持ってくる。

 小麦のパン、塩漬け肉とぶつ切りの野菜のシチュー、鶏肉の香草焼き、スパイス入りの蜂蜜酒、山羊乳のチーズのスライスがテーブルにずらりと並ぶと中々に壮観な光景だ。

 この量を自信満々に食べると言い切れるクリスに、セレーナは先程シュエットを見た時と同じくらいに訝しげな目をぶつける。クリスの細い体躯に収まりきるのかいささか不安だった。

 

「それじゃ、食べよっか」

「ああ」

 

 セレーナはシチューを一口掬うと、スプーンごとかぷりと頬張るようにして口に含む。

 

 ――美味い。

 

 じっくり煮込まれた野菜の甘みと、塩漬け肉の塩気、ほんのりと利いた胡椒の風味、どれもが主張しすぎずに優しい落ち着いた味にまとまっている。外気で冷やされた体の芯がほあほあと染みるように温まっていく感覚だ。

 

「ふふ~、美味しいでしょ? 女将さんがずっと研究して作ったお店の定番メニューなんだよ」

「……ああ」

 

 テーブルを挟んで交わされる言葉の数は徐々に減っていき、二人は料理を味わうのに集中していく。味の濃い香草焼きや山羊のチーズは甘みのある蜂蜜酒と良く合っている。チーズをパンに乗せて食べ、ちぎったパンをシチューに浸け、香草焼きに大きな口でかぶりつく。

 すぐにテーブルの上には空になった皿が増えていき、シュエットが無表情かつ無言のままそれを回収して下げる。三往復も皿を取りに来ないうちに、全ての料理を平らげてしまった。

セレーナは味を一通り楽しむと食事を止めたので、ほとんどはクリスが食べたことになる。

 旅の食費を計算し直すべきだろうか、なんてセレーナが考えているうちにクリスが蜂蜜酒の最後の一口を飲み干し、シュエットに女将さんを呼んでくれるように伝えると、女将さんはやはり暇だったらしくすぐに二人の元へやってきた。

 

「それで、お話って何かしら?」

「それが……」

 

 クリスは女将さんに、昨日起きた出来事、自分がセレーナと共に旅に出ること、その間の薬や荷物について、薬を譲る代わりに、本謎を預かっていてほしいことなど、セレーナの正体を明かさないようにしつつも事情を説明する。

 

「……そうだったの」

「はい……突然になってしまってごめんなさい。今までお世話になってたのに……」

「それは別にいいのよ。私が勝手にしたことだし。ただ、クリスちゃんもセレーナちゃんも心配で……」

「その点は問題ない。クリスが話した通り、私は高位の魔術師だからな」

 

 セレーナは、高位の魔術師、と言う部分を強調するようにして言ってみせる。当分は「人獣人の混血の高位の魔術師」という()()でやっていく事になるだろう。

 

「そうねぇ……クリスちゃんが信頼してる子だし、それならいいんだけど。でも困ったわ。一気に二人も辞めちゃうことになるとはねぇ」

「二人? ボク以外にも誰か辞めるんですか?」

「……私が」

「うわあああ?!」

「なっ――?!」

 

 座っていた椅子を揃ってガタリと鳴らして驚いたクリスとセレーナが同時に振り向くと、後ろには音もなく飛んできたシュエットが無表情で立っていた。

 

「シュエットちゃんも辞めちゃうの?」

「ええ。少し王都へ」

「ふふ、若いっていいわねぇ。お店は大丈夫。他の子たちと相談して出てもらう日を調節すればいいわ。ウチの事は気にせず、存分に旅してらっしゃい?」

 

 女将さんはそう言って立ち上がると、懐から金貨を取り出してクリスに差し出した。給料数か月分の金額に、クリスは顔を青くする。

 

「え……いやいや! 流石に金貨は貰えませんよ?!」

「いいからボーナスだと思って。じゃあセレーナちゃんに渡しておくわね」

「有り難く頂戴する」

「ちょっとセレーナー?! ……ありがとうございました、女将さん」

 

 クリスは観念したように溜息を一つつくと、顔を上げて女将さんを顔をしっかりと見つめながら言った。

 

「ええ。いつでも帰ってきていいからね」

「はい……! それじゃあ」

「いってらっしゃい、クリスちゃん」

「いってきます!」

 

 クリスが再びスイングドアを開け、空気の壁を抜けて外へ出た。セレーナもそのすぐ後を追う。

 酒場を出て歩いていく二人の後ろ姿を、シュエットの無機質な双眸がじっと見送っていた。



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第17話 工房

「さて、女将さんには話をしたし。次は――ティーにも言っておきたいな」

「例の賑やかな友人か、わかった」

「あはは……ティーはあれが平常運転だから。いつもは酒場にいるけど……いないって事は工房かな」

 

 今度はクリスの先導で、雪のほとんど残っていない湿った石畳を歩いていく。街の主要な道は夜明け前に魔術で雪を粗方溶かし流してしまうので、前の日が吹雪だったにもかかわらず雪の残る場所の少ない不思議な光景だ。

 

「ティエロは魔導具を作る職人でね~、まだ若いのにもう自分の工房まで持ってるんだ。凄いよね」

「魔導具……余り聞いた事が無いな」

「あぁ、確かにそうだね。五十年くらい前から開発が一気に進んだって聞いた事あったし、セレーナの時代にはまだ無かったかも」

「何となくは察しているが……一体どういう物なんだ?」

「えっとね――」

 

 工房に着くまでの間にクリスは魔導具の説明をする。

 魔導具とは、科学と魔術の技術を併用しているもの全般を指す。そして現在では辺境のフレドリアの地にまで広く浸透しつつあり、それまで科学か魔術どちらか頼りだった設備を一掃して普及を続けている。

 例えば夜を照らす街灯のうち主要な道のものの多くはここ二、三年の間にほとんどが魔導式のものに置き換えられた。以前は光の魔力を込めた魔石を光らせていただけだったが、今では何倍にも明るく夜を照らしている。更にその類で一番有名なのは王都といくつかの大都市を繋ぐ列車や飛行船だろう。科学式のものもあるが、年々魔導式の割合が大きくなってきている。こういった大掛かりで複雑なものは、魔導機とか言ったりもする。

 セレーナは話を聞きながら何度か斜め上を見ながら顎を撫でていたが、なんとなく納得したらしく一つため息を吐いた。

 

「なるほど。人間は進歩しているんだな」

「そうだねぇ。最近だと錬金術も魔導を――あ、ちょっと待ってね」

 

 クリスが話しながら指差したのはパン屋だった。店頭にパンが並び、すぐに買えるようになっている。

 

「あー。まだ食べるのか……?」

「ち、違うよ?! ティーに持ってくだけだから!」

 

 真面目な顔でたずねたセレーナにそう言って、クリスは間に色々な具を挟んだ小麦のパンを二つ買う。

 

「白いパンが手軽に食べられるようになったのも魔導のお陰らしいよ。その辺の話はあんまり知らないんだけどね」

「確かに昔私が見てきた人間たちは皆黒いパンを齧っていたな。私も食べた事があるが悪くない味だった」

「ボクは白いのが好きだな。家出するまでパンは小麦のしかないと思ってたくらいだし……旅の間は味に慣れなくて苦労したな……」

「ふふ……マーガレットも、そんな事を言っていたな」

「もしマーガレットさんと知り合えてたら、今頃親友になれたと思うよ……」

「気が合っていたと思うよ。彼女も大食いだったしな」

「なっ……ボ、ボクは今日だけ! ちょっといつもよりお腹が空いてただけだから!」

 

 そんなやりとりをしているうちに先程までとは雰囲気の違う通りに入ると、セレーナは煙の臭いに少し顔をしかめた。

 様々な工場がひしめき合い職人たちが大砲で撃ち合うかのごとくあちこちから怒号を飛ばす様子は、ここ工業地区の名物と言ってもいいほどだ。

 あちこちに運搬のための水路が張り巡らされており、氷が解ける時期になるとここは南からの荷物を運びこむ舟でいっぱいになる。しかし川が凍っているからといって活気が失われるわけではなく、夏のうちに大量に買い込んだものの加工や陸路での運搬は絶えず行われていた。

 事実、工業地区に入ってから既に二度、使いに出されたのだろう小僧が飛び出してくるのにぶつかりそうになった。

 太い道は馬車が行きかうので一つそれた道を歩くうちに、クリスが立ち止まってすぐ隣の建物を見た。

 

「はい、到着」

「……此処か?」

 

 同じようにそちらを向いたセレーナは、音が聞こえるのではないかと思うほどに遠慮なく眉間にしわを寄せた。

 人をここに連れてくるたびに同じ反応をされるクリスは、セレーナが人間となんら変わらない表情の変化を見せたことに苦笑する。

 ティエロの工房は異彩を放っていた。鉄の箱、と言う以上に相応しい表現のない窓の無いのっぺりとした壁に平たい屋根。あちらから出てきてこちらへ消えるといった具合に縦横無尽に張られた配管は、そのどれもが違う色だ。道に面した壁にはドアが見当たらず、代わりに身の丈を大きく超える歯車がはまっている。

 

「ちょっと……その、独特な感性だよね。ティーは……」

 

 セレーナの気持ちをそのまま代弁するように呟いたクリスは、指で頬をかきながら歯車の前へと進み出る。

 肩にかけた鞄からごそごそと鍵を取り出し、歯車の中央に空いた小さな穴にそれを挿しこんで回す。

 

「これが……扉、なのか……」

 

 笑うに笑いきれないといった風に頬を引き攣らせたセレーナの目の向く先で、歯車がゆっくりと奥に引き摺られ、やがて壁から分離すると、ごろごろと横に転がって中へ続く道を露わにした。

 

「あはは……ボクも最初に見た時は驚いたよ。これも魔導で動いてるんだって」

 

 魔術だけで同じことをやろうとしたら、いくつもの術式を施さなければならず、消費する魔力の量も大きい。科学だけでは動力の確保や複雑な機構を正常に動かし続けるのが難しい。しかし魔導ならば少量の魔力で長期的に機能を保てるだろう。そんなことを考えると、魔導というのは合理的なものなのかも知れない――セレーナは先程クリスが言った事と合わせて、なぜこれほどまでに魔導が普及したのかを納得する。

 

「じゃ、行こうか。開けっ放しにすると怒られるから早く入っちゃって!」

「わかった」

 

 セレーナがクリスに続いて中に入ると、クリスは壁についているボタンを押して扉を作動させる。

 中は魔導式の照明で青白く照らされており、扉と反対側には荷物を搬入する為だろう大型の鎧戸があり、それ以外の箇所には所狭しと木箱が並んでいる倉庫のような場所だった。

 入口から続く階段は地下に向かって伸びており、薄暗い階段の向こうに明るい部屋と、そこに後ろから照らされて立っているティエロの影が見えた。

 

「おークリス! それと……セレーナさん! ウチに来るなんて珍しいじゃん。依頼は持って来たんだろうな?」

「ううん、ひやかしだよ」

「おい……堂々と言うなよ……」

「あはは、ごめんって。ほら、差し入れだよ。ここに籠ってるってことはどうせ何も食べてないんでしょ」

 

 クリスが階段を降りながらパンが入った紙袋を放ると、ティエロが上手くそれを受け止めて中身を覗く。

 

「お、わかってるじゃん……野菜が入ってないやつだとなお良かったんだけど、まあいいか。とりあえず座れよ。あー……その箱は使ってないから」

 

 早速パンをくわえたティエロは、二人に部屋に無造作に置かれた木箱を指さして自分もそのうちの一つに腰かけた。

 クリスにも促されて同じように座ったセレーナは、外装と同じく奇妙なものが大量に散らかされた室内と見回す。

 ものを詰め込んだ場所でドラゴンを暴れさせている最中に嵐が来た結果できあがったかのような、余りにも整理整頓の言葉からかけ離れた作業場だった。あちこちにものが散乱し、積み上がり、埃を被っている。

 唯一ものが少ないのは中央にある大きな作業台と、完成品なのだろう複雑な見た目をした道具がいくつも並ぶ棚くらいで、特に棚の周りには埃一つない。

 

「ハハ。セレーナさん、興味津々って感じぃ?」

「汚すぎて驚いてるんでしょ」

「言ったなこいつ! ……ま、いいや。せっかく来たんだし茶でも飲んで行っていけ」

「あ、気にしないでよ」

「安心しろ。淹れるのは()()()()()から」

「……?」

「へーいリオネット! お茶持ってきて!」

 

 ティエロが声をかけたのは魔導具が並ぶ棚の一つ、一際大きなガラスのディスプレイに入った人形だった。セレーナと同じような派手に飾り付けられたワンピースドレスを身に纏っており、そこから見える顔と四肢はところどころの隙間から内部構造を覗かせている。人形らしくこれでもかと均整をとった美しい顔立ちも相まって、ガラスの棺で安らかに眠っているような近寄り難い雰囲気を持っていた。

 人形は閉じていた瞳をぱちりと開き、ディスプレイの扉を開けて作業場に降り立つ。

 

「うっそぉ……」

「……アレは……人形、か?」

 

 クリスもセレーナも目を見開いて驚くほどに、その動きは滑らかだった。

 人間に特殊な化粧を施して人形に見せかけていると言われた方がまだ納得はいくだろう、それほどまでに違和感のない動きで、人形はこつこつと硬い足音と共に奥の部屋へ消える。

 

「アハハハ! 予想通りのリアクションありがとうな!」

「あ! もしかしてこの前言ってた魔導人形?! 完成したんだ!」

「いや、まだまだ試作段階だよ。人形側に魔力を大量に溜めれないせいで、あの魔力供給機に繋いでないとすぐただの人形に逆戻りだ。それに簡単な命令以外は実行できない」

「……凄いな」

「でしょう!? セレーナさんも思いますよね!」

 

 そんなやりとりをしているうちに、少女の人形が手に三つティーカップを載せた盆を持って戻ってきて、足元の配線につまづき、ティエロに茶をぶちまけた。



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第18話 不穏

「えーっと……あー……」

「……」

 

 セレーナが魔術で作った氷塊を布に包んで抱えたティエロが何か言いたげに口をもごもごと動かし、そしてそのまま黙る。

 ティエロの火傷は大事に至るようなものではなかったらしいが、念のためにとクリスが薬を取りに走ったため、工房には二人だけが取り残されていた。

 気まずそうに目をやった先でせっせとカップの破片を掃き集めているもう一人の人型の存在は全く無口で、この空気を和ませてくれそうにない。

 

「……魔導人形、と言ったな。一体どういう作りなんだ?」

 

 しばらく静寂が続いた後、耐えかねたらしいセレーナがぽつりと呟くように話題を振ると、ティエロがばっと顔を挙げて中指でくいと眼鏡をかけ直す。口をふるふると震えさせながら、また何か言いたそうに口を動かしてセレーナを見つめる。

 

「きょ、きょ……」

「きょ?」

 

 聞き返すのと同時にティエロが木箱を転がしながら立ち上がり、セレーナの両肩をがっちりと掴む。

 

「興味ありますか!!!!!」

「あ……ああ、まあ」

「流石セレーナさん! クリスと違って見る目あるなぁ~! よし、じゃあ早速説明しますよ」

 

 そこまでいったティエロは、激しく動いたせいでまたずり落ちかけた眼鏡を直しながら「リオネット、こっちおいで!」と人形に言う。それに従って、リオネットは掃除を中断して硬い足音と共にティエロの横に並び立った。

 こうして近くで見ると人形としてはかなり大きいもののようで、セレーナとほとんど目線が変わらない。

 

「……セレーナさん、マジで綺麗っスよね……。クリスが羨ましいなぁ~」

 

 ティエロはセレーナとリオネットを見比べる。

 僅かな歪みも出来ないよう仕上げた人形に負けず劣らず美しいセレーナについ見惚れ、改めてクリスがセレーナに惚れたことを――実際にはそんな事実はないが――納得する。

 そして眉間に少ししわを寄せて何かを言いたげにしたセレーナが口を開くよりも先に、魔導人形についての説明をはじめる。

 

「――あ、それで! まず魔導人形っていうのはですね、最近になって錬金術と魔導の共同技術が進歩してはじめて発明されたもので」

 

 セレーナは、作業台に向かって歩き出したティエロと、その後ろにつづくリオネットを目で追いながら話を聞く。

 恐らく、先程クリスが言いかけていた錬金術と魔導の云々とは魔導人形のことだったのだろう。

 

「そもそも錬金術にはゴーレムっていう、魔石の魔力で()()()に精霊を宿し使役する術があるんです。依り代っていうのは、生物を模した形のものであれば何でもいいらしいです。で、その依り代と魔石を、召喚した精霊に与えて、呪文を詠唱してやればゴーレムの完成。でも燃費が悪くて、上質の魔石を使っても半日もたないんです」

 

 ティエロは言いながら巻いてあった紙を手に取るとセレーナに渡す。

 セレーナがそれを広げると、中には魔導人形の設計図が書かれていた。上の方にはリオネットという名前が、図面の周りには細かい文字がびっしりと書き込まれている。

 

「そこで、魔力充填装置を魔石の代わりに魔力の供給源とします。これによって、本来は使い切りのゴーレムを、魔力供給のある限り半永久的に使役ができます」

 

 ティエロは言いながら、リオネットの背中を割り開くようにして中から拳ほどの大きさの機械を取り出した。ガラスの筒の中に魔石を浮かべたような構造で、筒の上下からは太い線が体に繋がれている。

 設計図の同じ位置を見れば、これが魔力充填装置ということらしい。

 

「っていうのが魔導人形です。ただし課題は多くて。基本的に、高純度の魔石ほど依り代に高位の精霊を宿せるんですけど、充填装置だと低位の精霊しか宿せないので簡単な命令しかできないし、さっきみたいにやらかす事も多くて」

 

 ティエロはそこまで話して粗方の事を伝え終えたと思ったらしく、最後に「ま、そんな感じです」と付け加えながら装置を元に戻した。

 

「すみません、一気に説明しちゃって」

「構わん。大体は理解した」

 

 とは言ったものの――というのが本音だった。

 吸血鬼は世紀をまたぐような長い生涯に生じる飽きを避けるため、独自に発想した遊びにとどまらず、大陸中の娯楽という娯楽を、もっとも原始的なもので言えば()()()()までをも楽しんでいる。

 例に洩れずに様々なものを見てきたセレーナも大抵のことに動じずにいられる自信はあったが、ほとんど人のように動く人形ともなるとそうもいかない。

 

「ところで、どうして二人で来たんです? クリスだって、そんなに頻繁に来る訳じゃないのに」

 

 ティエロは置いていた紙袋からまたパンを取り出して口に咥え、空になった袋をくしゃくしゃと丸めてリオネットの前に投げやりながら訊ねた。

 セレーナは、クリスが戻ってきてから話を進めた方がいいかとも逡巡したものの、大方の話は先に把握しておいた方が驚きも少なく済むだろうと思い直す。

 

「ああ、実は……私の事情で、旅に巻き込んでしまってな。街を出ることになった」

「へ? あ~、もう出るんだ」

「そうか、やはり驚くか……。大事な友人を突然旅に連れ出すことになってしまって済まな――は? し、知っているのか?」

「街をそろそろ出ないと~って話は前から。でも確か王都に帰らないといけないからじゃありませんでしたっけ」

「まぁ、そう思ってもらえれば構わない。色々と立て込んでいてな」

 

 事情をすべて話さなくても良いだろうと思い、セレーナはそこで口を閉じる。ティエロもそこまで気にしていない様子だった。

 自分が追われている旅に巻き込み勝手に連れ出してしまう――ティエロとクリスの事を自分とマーガレットに置き換えてみれば、それがどれほどの意味を持つかわかるというものだ。

 

「暫くの別れになるだろう……寂しくは、ないのか?」

「う~ん、寂しい、かぁ……。あんまり感じないかもですね、仲良いから」

「仲が良いから、寂しくないと? 普通は逆じゃないか?」

「もっと言うならこう、クリスならなんとかなるかな~って。あれでしっかり者ですから」

「……解らん」

 

 セレーナの眉間の皺が一層深くなる。

 口調、表情、心拍数に至るまで、嘘による緊張を全く感じ取れない。仲が良いからこそ、別れが寂しくない――矛盾しているように聞こえるそれが実際にまかり通っていることは、ティエロを見ればわかる。だが、その理屈は全く解せなかった。

 

「あっれ~、クリス遅いな~?」

 

 考えこむままにまた掃除にとりかかったリオネットを眺めていると、ティエロが棚から別の魔導具を取り出しながら呟く。

 思えば確かに薬を渡した酒場に行ったにしては時間がかかりすぎている。

 

 ――クリスの魔力は……。

 

「あれ、クリス街から出てない?」

 

 セレーナがクリスの魔力を感知しようと意識を集中させた瞬間に、ティエロがそう呟いた。

 

「魔力が感じ取れるのか?」

「ああ、いや。()()()で」

 

 ティエロは手に腕時計のようなものを握っている。一見すれば時計に見えるが、よくよく針の動きを見るとどこかを指しているように揺れ動いている。

 

「それも魔導具か」

「そうなんです。簡単に言うと、登録した人の魔力を追いかけるコンパスみたいな……。それより、クリスが」

「ああ……私の感知できる範囲にもいない。様子を見にいった方が良さそうだ」

「……リオネット! お留守番よろしく!」

 

 二人が駆け出すのはほとんど同時だった。

 ティエロが魔導銃の入ったケースを背負ってから走りはじめた分、セレーナの後を追うようにして走る。

 来た道を戻り、酒場に向かう。その間もクリスの魔力を感知しようと試みるが、街の中どころかその周囲にすら魔力は感じられない。

 セレーナの足はどんどん加速し、ティエロを置いて先に酒場に辿り着いた。



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