Parade~笛吹く黒衣の男 (狂愛花)
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第1章

・本文

 昔々、ある王国がありました。

 

 その王国では、多くの奴隷たちが働かされていました。

 

 奴隷は人としては扱われず、家畜以下の扱いを受けていました。

 

 ある日、その王国に一人の男がやってきました。

 

 全身が黒で覆われたその不気味な男は、働かされている奴隷たちを見つけると、笛を吹き始めました。

 

 その笛の音を聴いた者たちは皆、眠りについてしまいました。

 

 しかし、奴隷たちだけは眠りませんでした。

 

 男は奴隷たちを縛る鎖を断ち切ると彼らに手を差し伸べて言いました。

 

 「君たちはもう自由だ! どこへでも好きな場所へと行くがいい! 行く場所が分からないと迷う者は私と行こう! 私と共に縛られている者たちを解放しに行こう!」

 

 奴隷たちは皆、男について行くことを決めました。

 

 笛を吹きながら歩く男の先導に続き、元奴隷たちは列をなして歩き始めた。

 

 その行列はどんどん大きくなっていき、まるで何かのパレードのように見えました。

 

 その後、奴隷たちがいなくなってしまった王国は、働くものがいなくなってしまい、遂には滅んでしまいました。

 

 めでたしめでたし……。

 

 

 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△

 

 

 少女の頭に昔、読んだ覚えがある絵本のストーリーが思い浮かんだ。

 

 そのストーリーは、奴隷をこき使う悪い王様から、主人公である謎の笛吹男が奴隷たちを解放する勧善懲悪的な物語。

 

 脈絡もなく思い浮かんだその物語を少女は自虐的に嘲笑った。

 

 「(所詮は御伽話よね……)」

 

 雪や光、それを纏ったような白い髪と肌を持つ少女。その姿は正に可憐そのものと言えるだろう。

 

 まるで人形のような完成された美しさを持つ白い少女。

 

 しかし、その美しさは今の少女からは欠片も感じられなかった。

 

 髪は傷んでボサボサになっていて、肌はいたる所に傷があり、来ているワンピースも泥や煤に塗れて、可憐とは全く正反対のみすぼらしい姿をしていた。

 

 何故、可憐な白い少女がこのような姿をしているのか。

 

 少女の趣味だと言えば、理解に苦しむが、事実はそうではない。

 

 「さっさと立て!」

 

 男の怒号と共に振るわれた鞭が少女を容赦なく襲った。

 

 バシッ!

 

 少女の柔肌が裂ける音がした。

 

 激痛に少女の表情が歪む。

 

 それでも男は鞭を振り下ろし続けた。

 

 バシッ! バシッ! バシッ!

 

 振るわれた鞭が凶獣の如く倒れ伏せる少女に襲いかかる。衣服を裂き、肉を裂き、血がドクドクと流れでても、少女を助けようとする者はいなかった。

 

 それは少女が“奴隷”だからだった。

 

 少女を鞭打つ男以外、少女の周りにいるのは大半が少女と同じ“奴隷”なのだ。

 

 少女同様にボロボロの出で立ちの彼らには、少女を助ける術も、勇気すら無かった。

 

 もし助けようと飛び出したら、今度は自分が鞭に打たれると分かっている。

 

 だから誰も少女を助けようとはしない。

 

 「いつまで寝てる! さっさと立て!」

 

 鞭を振るうのに疲れた男は少女に近づき、その小さくか細い体を力いっぱい蹴り上げた。

 

 「カハッ!!」

 

 少女の体が数秒、宙を舞った。

 

 蹴られた衝撃によって体を巡っていた酸素が一気に吐き出された。無理やり外へと出された空気と共に胃液も一緒に吐出され、少女は痛みと不快感に襲われて更に胃液を吐き出した。

 

 そんな少女を汚物を見るような蔑んだ目で見下す男は、それ以上の暴力を止め、少女から離れていった。その去り際も男は呪詛のように口汚く少女を罵っていた。

 

 こんな目にあっているのに、まだ幼い少女は弱音一つ、涙一つ見せはしなかった。

 

 それは気丈に振る舞っているからではなく、諦めてしまっているのだ。

 

 “誰も助けてくれない”と。

 

 奴隷となってしまった当初の頃は、頬を打たれただけで泣き散らしていた。鞭に打たれ裂けた体が悲鳴を上げていた。

 

 しかし、いつしか痛みに慣れてしまった。

 

 いつしか涙は枯れてしまっていた。

 

 いつしか助けなどないと悟ってしまった。

 

 まだ年若い少女が知るには、あまりにも酷すぎる現実。それは少女の心を破壊するには充分過ぎた。

 

 しかし、そんな少女の心はまだ完全には壊されていなかった。

 

 理不尽な暴力に襲われている最中、彼女は奴隷たちを助ける謎の男の物語を思い浮かべた。

 

 それは彼女が心の奥底で物語の奴隷たちのように救われることを今か今かと待ちわびているからだ。

 

 だが、現実は非常で残忍だ。

 

 少女が奴隷となって幾星霜の年月がたったが、その間に少女の心が冷たくなっていけど、奴隷解放の英雄は現れはしなかった。

 

 そんな存在は現れやしない。

 

 頭でそう結論づけていても、心の中ではどうして夢を見てしまう。悲しい人間の性だ。

 

 泥に塗れた傷だらけのか細い四肢に微力な力を入れ、少女はヨレヨレと立ち上がる。

 

 そしてフラフラな足取りで、彼女を透明人間のように無視して作業を続ける奴隷たちの波に彼女は紛れていった。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

 奴隷たちにとっての唯一の至福の時間。それは睡眠の時間。

 

 この時だけは、奴隷たちは奴隷という鎖から一瞬だけ解放され、夢の中へと逃げることができる。

 

 家族と幸せに暮らす夢。

 

 お金持ちになって贅沢する夢。

 

 自分たちをこき使う者たちに復讐する夢。

 

 ただただ無気力に空間を空気のように漂う夢。

 

 見る夢は見る者によって様々である。

 

 無論、白い少女も例外ではない。

 

 彼女にとっても睡眠の時間は唯一至福の時なのだ。

 

 そんな彼女が見る夢は、家族と暮らす夢。

 

 それは昔、彼女にとって当たり前に存在していた日常であり、一瞬にして奪われた、愛しくかけがえの無い日常の風景……。

 

 彼女が何故、奴隷になってしまったのか?

 

 それは彼女の両親が死んでしまったことがきっかけだった。

 

 彼女は元々、良家の生まれである令嬢だった。

 

 優しい両親に愛され、穢を知らず心優しい少女へと彼女は成長していった。

 

 ある日、両親が事故で亡くなったと言う報せが彼女の下に届いた。

 

 すぐには信じられなかった。

 

 事実だと理解しても到底受け入れることはできなかった。

 

 彼女は泣いた。

 

 両親の死の報せが嘘偽りない真実であることに。

 

 動くことも話すこともない、氷のように冷たくなった両親の遺体の前で。

 

 しかし、悲劇はこれだけで終わりはしなかった。

 

 彼女の父親は、良家の現当主であった。

 

 その当主が亡くなったことで、次の当主は自然と当主の娘である彼女に継承される。

 

 しかし、良家などの裕福な家柄には、常に遺産や跡目などを巡って争うしがらみが憑き纏う。

 

 彼女の家も例外ではなかった。

 

 まだ成人もしていない幼子の彼女が当主となることを周りの親戚たちは猛反対した。

 

 確かにまだ幼い彼女では、良家の責務を全うすることはできない。

 

 彼らはそこに目をつけた。

 

 「かわいそうに……。両親が死んでしまって、さぞかし寂しいだろうね……。よし! なら私の所にきなさい! 何不自由ない暮らしをさせてあげようじゃないか」

 

 「駄目よ駄目よ。こんな男のところより、アタシのところに来なさいな! むさ苦しい男なんかより、女同士の方が何かと都合がいいじゃない? だからね? アタシが貴女の新しいママになってあげるわ」

 

 「いやいや、一人身に彼女を育てることなどできるわけないじゃないか。私たち夫婦の下に来ることが、彼女にとって幸せなことに決まっている」

 

 「夫の言うとおりよ。彼女には新しい両親が必要なの。一人身の貴方たちじゃ、役不足なのよ。だから、私たちのところにいらっしゃい」

 

 親戚たちは優しそうに彼女に救いの手を差し伸べてきた。

 

 しかし、その我先にという勢いと、優しさの裏に隠れている醜い欲望が、彼女に手を取ることを躊躇させた。

 

 それからも親戚たちは悲しみに打ちひしがれる彼女の許に何度もやってきた。

 

 子供が喜びそうな物を山のように携え、彼女のことを心配してると口々に言いながら擦り寄ってきた。

 

 そんな親戚たちの姿が、彼女には得体のしれない怪物に見えた。

  

 親戚たちは誰も彼女のことを本気で気遣ってなどいない。彼らの中にあるのは、彼女の親代わりになり、彼女をお飾りの当主に仕立て上げて実質的に当主の座につくことだけだった。

 

 心配していると嘯く親戚たちが恐ろしくなった少女は、彼らの誘いを断った。いや、自分に擦り寄ってくることを拒絶した。

 

 親戚たちも最初の頃、彼女に気に入られようと笑顔を貼り付け優しく話しかけていたが、何度来ても首を立てに振らない彼女に苛立ち、次第に怒りの形相を浮かべ罵詈雑言を浴びせて脅すようになっていった。

 

 案の定、怯えた彼女はより一層彼らを拒絶した。そして遂には部屋に閉じこもり誰にも会わなくなってしまった。

 

 このままでは不味いと思った親戚たちは、必死に取り繕ったが、効果はなかった。

 

 思い通りにならないことに業を煮やした親戚たちは、悪魔の囁きに耳を貸してしまう。

 

 “彼女を亡き者にしよう。”

 

 決断した瞬間、今までいがみ合っていた親戚たちは、少女を亡き者にする為に結託した。それからの親戚たちの行動は早かった。夜、少女が眠る屋敷に忍び込み、寝込みを襲い、その犯行を金目当ての賊の仕業に偽装する。念には念を入れ、自分たちに疑いの目が向かぬよう濡れ衣を着せる犯人役も街で見つけておいた。これによって少女は消え、自分たちは罪に問われず、当初の目的通り大金と権力を手にすることができる。

 

 しかし、後々に誰が当主の座に就くかで再びいがみ合うことになると、この時の親戚たちの頭にはなかった。

 

 そんな余談はさておき、これが親戚たちが結託して導き出した犯行計画だった。

 

 計画実行の日。予想していたよりも容易く屋敷に侵入できた親戚たちは、少女の眠る部屋に忍び込み持参した短刀で少女を刺そうとした。

 

 だが、ここで予想外のことが起こった。眠っていた少女が目を覚ましてしまったのだ。

 

 一瞬、親戚たちは驚きで動きを止めてしまった。

 

 暗い部屋に見知らぬ者たちがいることにパニックを起こす少女。

 

 「キャァァァァァァァ!?」

 

 屋敷に絹を裂くような少女の悲鳴が響き渡った。

 

 これに慌てた親戚たちもパニックを起こし、慌てて少女に襲いかかった。

 

 しかし、そんな親戚たちの一瞬の隙をついて少女は窓から外へと飛び降り逃げ出した。少女の部屋があるのは3階だったが、窓の下にあった植え込みの上に落ちたことで、数箇所の裂傷と右足の骨に罅が入った程度で済んだ。

 

 頭上から聞こえる親戚たちの焦り混じりの怒号を余所に少女は走り出した。

 

 体を動かすたびに体中の裂傷が、右足の骨の罅が、ズキズキと痛みだす。しかし、少女はそんなことなど気にしている暇はなかった。

 

 兎に角逃げなければ!

 

 少女は無我夢中で前に向かって只々走り続けた。

 

 しかし、相手は大人。子供である自分とは力の強さも違えば、走る速さも桁違いと言える。

 

 案の定、少女が必死になって走ったにも関わらず、彼らはもう追いついてきた。

 

 暗い夜の森の中。木々の隙間から差し込む月光だけが唯一の明かりといえる中、少女を追いかける親戚たちの表情は必死そのもの。一瞬後ろを振り返った少女の目には、まるで悪鬼羅刹が追いかけてきているように映った。

 

 それが彼女を一層恐怖させた。

 

 何秒、何分、何時間、森の中を走っただろうか。それ程に必死だった少女の目の前が一瞬で開けた。森を抜けたのだ。

 

 しかし、そこで待っていたのは、少女を更に追い詰める状況だった。

 

 少女の前には、なんと断崖絶壁の崖が大口を開いて待ち構えていたのだ。

 

 前には崖、後ろには殺意に満ちた親戚たち。正に前門の虎、後門の狼である。

 

 ジリジリと親戚たちが一歩一歩、着実に近づいてくる。

 

 それと一緒に少女も一歩一歩、後ろへと後退っていった。

 

 しかし後ろは断崖絶壁の崖。後退るにも限界がある。

 

 少女はあっという間に崖の淵まで後退ってしまい、逃げ道を失ってしまった。

 

 短刀を持って迫りくる親戚たち。

 

 逃げ道を失った少女は己の死を悟った。

 

 少女の目の前まで迫った親戚の男は、その手に持つ短刀を強く握り締め、切っ先を少女に向けて力一杯突き出した。

 

 迫りくる刃に少女は思わず一歩、後ろへと後退ってしまった。

 

 彼女の後ろは崖。当然、足を置く場所などなく、後退った足は空を踏み抜いて少女の体を後ろへと倒れさせる。

 

 幸か不幸か、それによって突き出された刃は少女を突き刺すことなく、衣服の一部だけを切り裂くだけに終わった。

 

 そして少女は重力に引っ張られ、崖下へと転落していった。

 

 少女にはその瞬間が全てスローモーションに見えた。

 

 突き出された短刀の切っ先。短刀を突き出す親戚の男の鬼気迫る形相。それを後ろから見守る他の親戚たちのハラハラした表情。それらの光景がだんだんと遠退いていき、少女の体を冷たい水が覆い隠し、少女の耳に水の音が聞こえたのを最後に、少女の意識は闇の中へと沈んでいった。

 

 そして目が覚めると、少女は奴隷の集団の中にいた。

 

 どうやらあの後、海に落ちた少女は運良く一命を取り留め、海岸に打ち上げられていたらしい。

 

 そこへ人買いが通りかかり、少女の外見を見て売れると判断して、奴隷の一人として捕獲したとのことだった。

 

 一難去ってまた一難。親戚から殺されそうになった次は奴隷として売り飛ばされる日々が少女を待ち構えていた。

 

 奴隷として当初、少女に与えられた役目は回春だった。

 

 可憐な外見に育ちの良さが伺える立ち振舞い。まだ幼いとはいえ、性の対象とする輩は少なくはない。それに将来的な楽しみも含めれば、売り物としては一級品と言えるだろう。

 

 最初に少女を買ったのは、然る国の王を務める初老の老人だった。

 

 優しそうな外見とは打って変わって、未だ性欲に溢れた老人は穢を知らない少女をすぐさま毒牙にかけようとした。

 

 しかし、少女の必死な抵抗によってなんとか未遂で済んだ。

 

 だが、それ以降も老人は何度も少女を襲おうとした。少女も必死に抵抗したが、幾度目かで抵抗虚しく、老人の毒牙に掛かってしまった。

 

 経験したことの無い痛みや不快感が少女を犯していった。

 

 それ以降も老人は何度も少女を求めた。少女が抵抗すると殴って大人しくさせるようになった。

 

 ある日、少女はいつものように自分を襲おうとする老人に思いっきり噛み付いた。今まで自分を好き勝手してきたことへの細やかな復讐だった。

 

 それが少女にさらなる不幸を呼ぶこととなった。

 

 噛みつかれたことに逆上した老人は、怒り任せに少女を痛めつけた。どんなに少女が泣き叫ぼうと決して許しはしなかった。

 

 肩で大きく息をし、額に大粒の汗を滲ませるまで暴力を振るい続けた老人だったが、それでも尚、怒りは収まらなかった。

 

 「この小娘を奴隷どもと同じように働かせろ! 泣こうが喚こうが決して許すな! 泣くなら鞭で打て! 喚くなら更に鞭で打て! 儂にこのようなことをしたことを後悔させてやる!」

 

 こうして少女は労働奴隷として働かされるようになったのだ。

 

 それからのことは、前述した通りである。

 

 王の命令に従って奴隷たちを監視する者たちは、他の奴隷よりも厳しく少女を攻めたてた。中には、王に隠れて少女を穢した者もいた。

 

 まさに波乱万丈の人生を僅か数年程度で経験させられた少女の心は、もうボロボロだった。

 

 今日もまた、かつての幸せな日々を夢に見るため、深い眠りへと落ちていった。

 

 もう戻らない日々を夢見ながら、少女は知らず知らず涙する。

 

 

 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 「あっ」

 

 いつものように労働を強いられている時だった。少女は転んでしまった。

 

 すぐに監視の者たちに見つかり、暴力が雨のように降ってきた。

 

 「立て! さっさと働け!」

 

 バシッ! バシッ! バシッ!

 

 鞭で打たれ、殴られ、蹴られる。少女はいつものように無抵抗で暴力を受け続けた。それを周りの者たちは助けず見て見ぬふり。

 

 今日も今日とて変わらぬ日々が過ぎていく。少女を始め、その場にいる者たちは皆そう思っていた。

 

 「このっ!」

 

 監視の男が鞭を振り上げた、その時だった。

 

 どこからか音が聞こえてきた。

 

 その音はこの場にいる全員の耳に入り、全員が一瞬にして動きを止めた。普段、監視の者たちからの指示がない限り何があろうと動きを止めない奴隷たちは、どこからか聞こえてきた微かな音程度で動きを止めてしまったことに皆困惑した。

 

 それは監視の者たちも同じだった。いつもなら何があっても奴隷たちを休ませることなど許しはしない。だが、今はそれよりも何故か微かに聞こえてきた音が気になっていた。

 

 音は次第に大きくなっていく。

 

 その音は“音楽”だった。誰かが奏でる“笛の音色”だった。

 

 「誰だ! 笛など吹いているのは!!」

 

 監視の男が怒鳴った。

 

 奴隷たちがどよめく。

 

 その場にいる皆が笛を吹く者を探して辺りを見渡す。

 

 そして全員が一点の方向へと視線を向けた。すぐ近くまで来た笛の音色の聴こえる方向だ。一人の人影がそこにはあった。

 

 「貴様! 何者だ!」

 

 監視の者たちが集まり、現れた人影を警戒する。鞭を構え、槍を構え、剣を構え、敵対心を露にして武器を人影へと向ける。しかし、それでも人影は歩みを止めず、監視の者たちの方へと近づいていく。

 

 それは男だった。白髪の長髪。漆黒のマント。銀の仮面。その下から除く皺だらけの肌。そしてその男が奏でる横笛。

 

 「怪しい奴め…! 引っ捕らえろ!!」

 

 その言葉を合図に監視の者たちが笛吹男に飛びかかって行った。

 

 その時、不思議なことが起きた。

 

 笛吹男に飛びかかって行った監視の者たちが次々と倒れていったのだ。

 

 その光景を見ていた奴隷たちは我が目を疑った。

 

 笛吹男は何もしていない。ただ笛を吹いているだけだった。それにも関わらず、笛吹男に飛びかかって行った者たちは、男に触れる前に、まるで糸を切られた人形の様に倒れ込んでいった。

 

 騒ぎを聞きつけて警備の者たちがやってきた。

 

 「侵入者だ!!」

 

 警備の一人が叫び、警鐘が鳴らされた。

 

 けたたましい鈴の音が鳴り響き、衛兵たちがゾロゾロと集まって行く。笛吹男は一瞬にして衛兵たちに取り囲まれてしまった。

 

 しかし、それでも男は笛を吹くのを止めなかった。

 

 幾千もの槍や剣の切っ先が笛吹男を狙い定めている。その様はまるで針のむしろのようだった。

 

 「掛かれ!!」

 

 その言葉を合図に兵士たちが一斉に笛吹男に襲いかかった。

 

 しかし、案の定、兵士たちの刃が笛吹男に届くことはなかった。

 

 突進の如く笛吹男に襲いかかった兵士たちは、先の監視の者たち同様に、笛吹男に近づいただけで意識を失い、前のめりに倒れ込んでいった。

 

 「な、なに……!?」

 

 予期していなかった事態に兵士長は目を見開いた。

 

 当初、兵士長は唯の侵入者。過去にもあった、宮殿に忍び込み金銀財宝を盗もうとした盗人だろうと高を括っていた。

 

 しかし、実際はどうだ? 

 

 明らかに普通では考えられない出来事が目の前で起きた。その事実に兵士長は狼狽していた。

 

 「化物め!!」

 

 兵士長は恐怖に震える己を否定するように叫んだ。

 

 空元気に似たその威勢に任せて未だに震える体を叱咤し力を込める。先の兵士たちと同じように剣を構え、兵士長は笛吹男に向かって行った。

 

 「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」

 

 獣のような雄叫びを上げ、兵士長は渾身の一撃を振り下ろした。

 

 ギン!!

 

 鈍い金属音がその場に響き渡った。

 

 兵士長の刃は、笛吹男を捉え切り伏せることなく、空を切り、笛吹男の足元に突き立てられていた。

 

 「お前は…一体……何…者……なん……だ…?」

 

 振り絞って出したような言葉を零し、兵士長はその場に倒れ伏せた。

 

 あっという間の出来事だった。

 

 突然、その場に現れた謎の笛吹男によって、監視の者も、衛兵も、歴戦の兵士たちも、それを指揮する兵士長さえも、地に伏せて眠らされてしまった。

 

 まるで彼らが今まで虐げていた奴隷たちのように……。

 

 これで、その場で起きているのは、笛吹男と奴隷たちだけとなった。

 

 その時、笛の音色が止んだ。

 

 奴隷たちの視線が笛吹男に注がれる。

 

 笛吹男はゆっくりとした動作で口に当てていた横笛を離し、自分を凝視する奴隷たちに視線を向けた。

 

 そして彼は、高らかにこう言った。

 

 「ごきげんよう!」

 

 異様な沈黙に包まれた広場において、場違いな笛吹男の快活なその声はよく響いた。

 

 少し嗄れた声。年齢を感じさせる声色だが、その声からは何故か無邪気な幼さが感じられた。

 

 突然の事態に白い少女を始め、その場にいる奴隷たちは皆、どよめき、困惑していた。

 

 そんな奴隷たちなど余所に笛吹男は言葉を続けた。

 

 「ごきげんよう! 罪も無き囚人たちよ! 我等はこの世界という鎖から解き放たれた! 来る者は拒まないが、去る者は決して許さない。黄昏の葬列、楽園パレードへようこそ」

 

 そう言って笛吹男は深々と頭を垂れた。

 

 奴隷たちのどよめきが一層強くなっていき、辺りからざわめきが起き始めた。突然現れた謎の男が、兵士たちを謎の力で昏倒させ、今自分たちに訳のわからない事を言ってきている。

 

 しかしそんな中、白い少女だけは全く違う事を考えていた。

 

 それは数日前に不図、思い出した笛を吹く謎の男の物語。その物語の主人公である男は、笛を吹き人々を眠らせて奴隷たちを開放した。目の前の笛吹男は、笛を吹きながら現れ、手も触れずに兵士たちを昏倒させた。そして、“ここ”から自分たちを救い出してくれるととれる誘いの言葉。物語の笛吹男は奴隷たちのパレードを率いて、眼前の笛吹男もパレードを率いているらしい。

 

 少女の中で点と点が一本で繋がった。

 

 「ああ……私の…神様……」

 

 そう呟いて少女は跪き頭を垂れ、祈りを捧げた。

 

 そしてそれが合図だったかのように一人、また一人と周りの奴隷たちが少女と同じように跪き頭を垂れ始める。

 

 「ああ……神様……っ!」

 

 「救世主様……っ!」

 

 奴隷たちは祈るように手を合わせ、笛吹男を崇め奉った。その様はまるで天孫降臨を目の当たりにした信奉者たちのようである。

 

 自分を崇める奴隷たちを見渡し、笛吹男は不敵な笑みを浮かべ、再度高らかにこう言い放った。

 

 「さぁ諸君! 選びたまえ! 諸君は鎖から解き放たれ、その手に自由を得た! そして今! 諸君の目の前に道が開かれた! その足でどこか遠く、見知らぬ場所で新たな人生を歩むのか。それとも……」

 

 笛吹男は言葉をそこで切ると、ゆっくりと右の手を奴隷たちの方へと差し出した。

 

 「私と共に、黄昏の葬列……楽園パレードに来るか? 選ぶのは諸君だ」

 

 そう言って笛吹男は微笑んだ。

 

 奴隷たちは一瞬だけ近くにいる者同士で互いの顔を見合うと、すぐさま立ち上がり手を伸ばした。そして騒音のように一斉に声を上げた。

 

 「私は貴方と共に行きますっ!!」

 

 「俺もだっ!!」

 

 「僕もっ!! 貴方と行きますっ!!」

 

 「アタシも連れて行ってっ!!」

 

 数千、数万といる奴隷たちが、濁流のような勢いで笛吹男の下に雪崩れ込んだ。その水を得た魚の如き姿からは、先程までの廃人のような気配は消えていた。

 

 有象無象の衆が笛吹男に群がる中、白い少女は未だ瞳を閉じ、深々と頭を垂れ、笛吹男を伏し拝んでいた。

 

 「……」

 

 笛吹男は、自分に群がる群衆の波の中から、そんな少女の姿をジッと見つめていた。

 

 「……フッ」

 

 笛吹男は不敵な笑みを浮かべると、漆黒のマントを翻し、荒波のような群衆へと身を投じた。

 

 「っ!?」

 

 突然のことに奴隷たちは目を見開いた。そして咄嗟に体を躱した。笛吹男の突然の行動によって、一瞬にして人並みの中にぽっかりと空間が空いた。笛吹男は翼を羽ばたかせるようにマントを翻しながら、その空いた空間の中へと舞い降りた。

 

 「……」

 

 笛吹男はゆっくりと身体を起こすと、シッカリとした足取りで一歩一歩、歩みだした。笛吹男が一歩踏み出す度に、彼を取り囲んでいる奴隷たちが、無意識に彼の道を作るために避けていく。

 

 そんな周りの状況など知らず、白い少女は深々と頭を垂れ、瞳を閉じて笛吹男を神と拝み続けていた。

 

 「ごきげんよう! お嬢さん?」

 

 突然、真上から聞こえてきた声に驚き、少女は閉じていた目を見開いた。そして恐る恐るといった感じでゆっくりと頭を上げていった。上へと上がっていく少女の視界に最初に映ったのは黒い靴とマントの裾だった。そこからどんどん上へと視線を向けていくと、そこには少女のすぐそばに佇んでこちらを見下ろしている笛吹男の姿があった。

 

 「っ!?」

 

 少女は驚き思わず後退った。

 

 そんな少女を見て笛吹男はニッコリと笑みを浮かべると、三度、高らかに、今度は少女ただ一人に向けてこう言った。

 

 「ごきげんよう! 可哀想なお嬢さん。お嬢さんはどちらを選ぶのかな? 自分の好きなように生きるか、私のパレードに加わるか」

 

 そう言って笛吹男は少女の前にスッと手を差し出した。

 

 少女は差し出されたその手と笛吹男の顔を困惑したような目で交互に見た。

 

 笛吹男はそんな少女に何も問いかけず、ただ黙って少女が答えるのを待っていた。

 

 周りの奴隷たちもその様子を固唾を呑んで見守っていた。

 

 突然のことに暫し困惑していた少女だったが、やがてゆっくりと手を伸ばし、笛吹男の手を掴んだ。

 

 「楽園パレードにようこそ」

 

 笛吹男は自分の手を取った少女を抱き寄せ、そのまま抱きかかえ上げた。

 

 「えっ!?」

 

 またも突然のことに少女は驚き、声を洩らした

 

 そんなことなど気にせず、笛吹男は抱え上げた少女を自身の右肩へと座らせた。

 

 少女は状況が理解できずしどろもどろしていた。そんな少女を強い光が照らした。

 

 「っ!」

 

 少女は光の強さに目を細め、片手で顔を覆った。それは奴隷たちも同じだった。その場にいる全員が突然の強光に顔を顰めていた。

 

 やがて、光に慣れてきた少女と奴隷たちは、その輝きの正体を見ようと目を凝らした。

 

 それは地平線へと沈み行く夕陽だった。

 

 時刻は夕暮れ時。沈む夕陽など珍しくもなく、当たり前な光景だろう。

 

 しかし、彼女、彼等にとってはとても希少な光景に見えた。

 

 様々な理由から奴隷となり、王宮からの弾圧と劣悪な労働を強いられ、晴れの日だろうと、雨の日だろうと、雪や嵐の日であっても彼等は働かされてきた。

 

 そんな彼らにとって周囲の光景など見ている暇もなく、光景を眺めるなどここ何年もしてこなかったのだ。

 

 しかし、彼らは今、一人の笛吹男によって縛り付けられてきた鎖から開放された。

 

 幾年ぶりの自由に喜んだ彼らの瞳に映った、その夕焼けの光景は、赤く燃えがる太陽の如く、彼らの瞳と脳裏に焼き付いた。

 

 「さぁ! 諸君!! 黄昏が訪れた! 共に行こう! あの夕闇の彼方へと……」

 

 夕陽を背に纏い、笛吹男はまたも高らかに言った。

 

 「「「「「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」」」」」

 

 笛吹男の言葉に呼応して奴隷たち、いや、奴隷“だった”者たちは、雄叫びを轟かせた。

 

 「〜♪〜〜♫〜」

 

 笛吹男がまた笛を奏で始める。そして夕焼けの向こうに見える闇を目指して歩み始めた。

 

 そんな笛吹男の後を彼らも続いて歩いた。まるで童心に帰ったように楽しげに……。

 

 笛吹男の笛の音。彼が率いるパレードの祭り囃子。聴く者を高揚させ、愉快な気分に誘うその光景を見て、笛吹男の肩に座る少女も楽しくなってきた。

 

 《お嬢さん、歌を歌ってくれないか?》

 

 「え?」

 

 少女の頭に笛吹男の声が木霊した。

 

 一瞬、笛吹男に視線を向けるが、笛吹男は変わらず笛を奏でていた。

 

 少女は驚きはしたものの、「あぁ、これも不思議な力のなせる技なのか」と、すぐに納得した。

 

 そして、笛吹男が望むならと、彼女は幾年ぶりかに歌声を響かせた。

 

 少女の記憶では、最後に歌を歌ったのは、まだ幸せだった時、家族に披露したのが最後だった。

 

 何を歌おうか少女が逡巡していると、ふと脳裏に一つの歌詞が思い浮かんだ。

 

 その曲は、これまで少女が聴いたことも、歌ったこともない曲だった。

 

 にも関わらず、少女はその歌の歌い方を何故か知っていました。

 

 「(知らない曲なのに……。これも神様の力なの?。神様が、私に歌えと望んでいるの?)」

 

 神様が望むのならと、少女は瞳を閉じ、天を仰ぐと祈るように歌い始めた。

 

 ※エルの絵本〜笛吹男のパレード

 

 歌詞が進む度、みすぼらしかった少女の姿が変わっていく。

 

 砂埃で汚れ、傷んでボサボサになっていた髪は、魔法のブラシで梳かしたように汚れと痛みを消し去り、嘗ての艷やかで真っ直ぐな純白の輝きを取り戻していく。

 

 城兵たちに虐げられ傷だらけだった身体は、全体に刻まれた傷一つ一つが、白に塗りつぶされたように消えていき、嘗てのシルクのような白い柔肌へと戻っていった。

 

 土埃で黒くくすんでいた衣服は、毛糸の一本一本から汚れが消えて行き、元の姿から新たな姿へと変わりながら少女の体を優しく包み込んで行った。

 

 もうそこには、ボロボロに汚れたみすぼらしい奴隷の姿はなく、真っ白な天使の姿があった。

 

 「〜♫〜〜♪〜」

 

 少女は自身の変化を悟りつつも歌い続けた。

 

 その天使の如き歌声はパレード全体へと流れていき、そこにいる奴隷たち全員の姿をも変えていった。

 

 ある者は楽器を奏でる音楽隊へと。

 

 ある者は愉快に踊る道化師へと。

 

 ある者は祈りを捧げながら行進する信者へと。

 

 一瞬にしてそのパレードは色鮮やかな一団へと様変わりした。

   

 そしてその一団は、燃えるような茜色の夕陽に染まりながら地平線の夕闇を目指して進んでいく。

 

 「ねぇ、神様。私たちはどこに向かっているの?」

 

 歌い終えた少女が笛吹男に問いかける。

 

 「お嬢さん、その神様というのをやめては貰えないだろうか?」

 

 笛吹男は少し困ったような口調で言った。

 

 それを言われて少女は、もしかして気分を害してしまったのだろうか、と慌てた。

 

 そんな少女の思いを見通したように、笛吹男はすぐさま二の句を継いだ。

 

 「私はただの笛を吹く道化師なのだよ。お嬢さんが言うような神様なんて大層な存在ではないのだよ」

 

 自嘲するような笛吹男の口ぶりに少女はすぐに否定の言葉を述べた。

 

 「それは違います。貴方様がご自身のことをどう思っていようとも、私たちは貴方様に救われたのです。だから、私たちにとって貴方様は、神様と言っても過言じゃないのです」

 

 真っ直ぐな少女の思いを受け、笛吹男は苦笑を浮かべながら照れ臭そうに頬を掻いた。

 

 「ハハハ。それはとても光栄だよ、お嬢さん。ありがとう。しかし、やはり私は神様と呼ばれるのはむず痒くて仕方がないのだよ」

 

 すまないね、と笛吹男は優し気な口調で少女を諭した。

 

 神と呼ぶことを少女は決して譲りたくはなかった。だが、他でもない神と崇める笛吹男からの願いに、少女は口から出そうとした反論の言葉を飲み込んだ。

 

 「……分かりました。しかし、では貴方のことはなんとお呼びすれば良いのでしょうか?」

 

 少女の中に不満は残りつつも、少女は笛吹男の願いを聞き入れた。しかし、そうすると今度は笛吹男のことを何と呼べばいいのか悩んだ。

 

 少女にそう訪ねられ、笛吹男はすぐにこう答えた。

 

 「普通に名前で呼んでくれて構いませんよ、お嬢さん」

 

 「普通にと申されましても、私は貴方の名前を存じておりません」

 

 少女の返答に笛吹男は「なんと!」と驚いたような声を洩らした。そしてすぐさまケラケラと笑いだした。

 

 「ハハハ! いやこれは失敬! 目先のことに囚われてしまって大事なことを失念してしまっていたようだ」

 

 笛吹男は奴隷たちへの問いかけにばかり集中してしまい、肝心の“あいさつ”を忘れてしまっていたようだ。

 

 自分の馬鹿らしさに暫く呆れ笑いしていた笛吹男は、一呼吸置いて自分を落ち着かせると、改めて白の少女へと顔を向けた。

 

 「改めまして、私の名は“アビス”。皆を導くパレードの道化師。ようこそ! 我がパレードへ、白のお嬢さん」

 

 そう言って微笑んだ笛吹男、改め“アビス”は、自身の肩に座って自分を真っ直ぐに見つめている白の少女に対して、軽く頭を垂れた。

 

 暮れ行く夕陽の光を浴び、漆黒を纏うアビスの姿が茜に染まっていく。

 

 「……はい。こちらこそよろしくお願いいたします。アビス」

 

 そう言って白の少女は目下で頭を垂れるアビスに向かって満開の笑みを浮かべた。

 

 昼と夜の境目。燃えるような茜に包まれながら、アビスと少女を先頭にそのパレードは、宛もなくただ地平線を目指して、祭り囃子を響かせて行く。

 

 この日、とある王国から奴隷たちが姿を消した。

 

 貴重な労働力だった奴隷が消えたことで王国は奴隷たちが担っていた業務に追われることとなり、その隙を突かれ敵国の侵略を許してしまい、数百年の栄華を極めた王国は一瞬にして陥落してしまった。

 

 その噂は風に乗ってまたたく間に全土に広がっていき、各国はアビスの存在を“不幸を振りまく笛吹く死神”と恐れ慄いた。

 

 今日もどこかで笛の音色が奏でられる……。

 

 to be continued

 



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第2章

 

 その光景は正に地獄絵図だった。

 

 本来、神に祈りを捧げるはずの教会の礼拝堂。数十人もの人が収まる広さを持つその中は、今は死臭と死体で埋め尽くされていた。

 

 老若男女、職種も身分も問わず、礼拝堂の部屋中に真新しい人々の死体が所狭しに存在した。

 

 夥しく流れゆく鮮血。

 

 所々に転がっている血に濡れた凶器の数々。

 

 礼拝堂の天井から吊られている首吊り死体。

 

 見る者の顔を歪ませるこの凄惨な光景だが、その光景をさらに異様に見せる存在がいた。

 

 それは死者で溢れかえる礼拝堂で唯一、呼吸をし、瞳に光を宿し、細くしなやかな両足で血溜まり上に立つ、一切の穢れを纏わぬ美しい女だった。

 

 死屍累累の中、死体よりも一際目を惹かれる程の美しい女がそこにいること自体、異様なこと。

 

 しかし、それ以上に異様なのは、その女が“踊っている”ことだ。

 

 音楽も流れていない、自然の音だけを伴奏にし、その女は死者たちを観客に一人、華麗に踊っていた。

 

 くるりくるりと舞踊るその様は優美そのもの。

 

 そんな女の踊りを一層際立たせているのが、踊るたびに靡く女の燃えるような髪の毛だった。

 

 女の踊りに続きその燃えるような赤髪も軌跡を描きながら舞踊る。その様はまるで揺らめく炎のようだ。

 

 死屍累累に囲まれ舞踊る燃えるような赤髪の女。一見するとその様は、まるで死者の魂が飛び交っているように錯覚してしまいそうである。

 

 「〜〜〜っ! ふぅ……」

 

 踊り終えた女は、荒々しく鼓動する心臓を落ち着かせるように深く息を吐いた。

 

 一体どれほど踊っていたのか。女の額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。

 

 「……」

 

 未だ胸の内を激しく叩き続ける心臓の鼓動に対し、女は呆然とその場に佇み無言で虚空を眺めていた。

 

 「ごめんなさい……」

 

 虚空を眺め続けた女は、ポツリとそんな言葉を零した。それと共に女の硝子玉のような瞳から一粒の涙が流れ落ちていった。

 

 

 女はこの世に生を受けて直ぐに生みの親に捨てられた。

 

 それは生まれたばかりの女の産毛が燃えるような赤だったからだ。

 

 女が生まれた村では、古くから赤い物は不吉の象徴とされており、過去、女と同じように赤毛の子供が生まれた時、村に大きな災いが降り掛かったという言い伝えがあった。それ故、赤毛として生まれた女は、不吉の象徴とされ、それを恐れた両親に捨てられてしまったのだ。

 

 女は村中から蔑まれて育った。陰口をたたかれ、物を投げつけられ、住む場所も、その日の食べ物さへも得るのが厳しい状況だった。

 

 よそ者から見れば、「なんと非科学的な」と村人たちの行いに呆れ、女に救いの手を差し伸べるだろうが、言い伝えは、ただの言い伝えではなかったのだ。

 

 女が生まれてからというもの、村には数々の不幸が降りかかった。最初は不作や不猟などが続き、食べる物に困り始め、村人たちは次第に飢えに苦しむようになっていった。

 

 次に降りかかった不幸は、村中で流行り始めた奇病。突然、奇声を上げ踊るように暴れ始める原因不明の病。その奇病にかかった者はキチガイのように変わり果て、最終的には生きたまま体を腐らせながら死んでしまう。

 

 それ以外にも数多くの不幸が村人たちに降り掛かった。そのどれもが、女が生まれるまで起こり得なかった事柄ばかりだった。

 

 そして決定的なのが、村に不幸が起きた時、必ずその近くに赤い髪の女がいたということなのだ。

 

 赤い髪の女は、言い伝え通り不吉の象徴そのものと言っても過言ではないのかもしれない。

 

 月日が経ち、女が成人する頃には、村は廃村同然の有様となっていた。

 

 押し寄せる不幸の波に耐えかね、村人はその大半が死に絶え、生き残った村人たちも女を恐れて村を出ていってしまい、この村に残っているのは、赤い髪の女ただ一人だけだった。

 

 しかし、その女も暫くしてから村を出て何処かへ行ってしまい、百数年と密かに栄え続けた村は、僅か二十年の月日で廃村になってしまった。

 

 

 

 

 「……」

 

 踊りで荒れた息と心臓の鼓動が落ち着いても、女は死屍累累の中に佇んでいた。

 

 髪色と同じ燃えるような赤い瞳は眼下に広がる地獄のような惨状をただ静かに見つめていた。

 

 ギイィィィィ

 

 女の後方、礼拝堂の出入り口の扉が音を立てながらゆっくりと開いた。

 

 「こんな夜更けに誰かいるのか?」

 

 開いた扉から顔を覗かせたのは、この礼拝堂がある教会の神父だった。

 

 時刻は既に丑三つ刻。辺りは闇に包まれ、神父の持つランプの淡い灯りだけが唯一の光だった。

 

 扉を開けた神父の視界には案の定、闇が広がっていた。

 

 そんな礼拝堂の中をよく見ようと弱々しいランプの灯りで照らしてみる。すると礼拝堂内に広がる闇の中から、淡い光に照らされ浮かび上がってきたものを見て、神父の口から悲鳴が飛び出した。

 

 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 神父の視界に広がる死体、死体、死体の山。その中には、教会にやってくる近隣の村人たちの姿もあり、その村人たちは、神父もよく知る顔馴染みでもあった。

 

 目に飛び込んできた凄惨な光景。

 

 老若男女問わず見知った者たちの死に様。

 

 この礼拝堂で一体何があったのか。

 

 驚愕、困惑、疑惑。大量の視覚情報や感情が神父の中に雪崩込み、溢れかえる。

 

 パニックに陥っている神父だったが、そのパニックは一瞬で消え去っていった。

 

 「っ!」

 

 神父の目に死者の中、佇む女の姿が写った。

 

 「君! 怪我はないかい!? 一体ここで何が……っ!?」

 

 神父は女に訪ねた。しかし、途中で言いかけた言葉が喉の奥へと引っ込んでしまった。

 

 何故なら女の燃えるような赤髪に気づいたからだ。

 

 神父の脳裏にいつだったか村で耳にした噂が蘇ってきた。

 

 “赤髪の女が災いを連れてくる”

 

 話を聞いた時は「何を馬鹿なことを」と笑って聞き流していたが、死屍累累に囲まれていても表情一つ変えていない無表情の女を目の当たりにした神父は、噂は強ち嘘ではないかもしれない。そう思った。

 

 「き、君が、やったのかい……?」

 

 思わず神父はそんなことを女に訪ねてしまっていた。

 

 「……」

 

 女は何も答えなかった。

 

 その無言が暗に「私がやりました」と肯定しているように神父は思えた。

 

 「ゴクリ……」

 

 静寂の中、神父の生唾を飲む音がはっきりと聞こえる。

 

 今、自分の前に殺人者がいる、という考えが神父に恐怖を感じさせた。それも眼前に広がる死体の山を築いたかもしれない虐殺者だという可能性が、神父の体を硬直させた。

 

 そんな神父の方へ女がゆっくりと近づいてきた。器用に床を覆う死体を踏まぬように一歩一歩。

 

 「っ!?」

 

 神父は怖気づいて後退る。

 

 女が一歩近づき、神父が一歩後退る。幾度かそれらを繰り返す内、更に一歩後退ろうとした神父の体は何かに遮られた。

 

 「ハッ!?」

 

 驚いた神父は自分の背後へ視線を送った。そこには、先程自分が入ってきた出入り口と開きっぱなしの扉が見えた。

 

 どうやら後退る内、開放されている出入り口の方ではなく、内側に開いた扉の方へと後退っていたらしい。

  

 これ以上下がれない。だが、出入り口は直ぐ隣にある。

 

 一瞬、後ろへ視線を向け焦りの色を浮かべた神父だったが、その僅か隣に外へと続く出入り口を見つけ、すぐにこの場を逃げる算段を考えた。

 

 「(次に女が一歩近づいて来た時、あの出入り口へと走る……!)」

 

 一縷の希望を得た神父は、逃げるタイミングを見計らうべく、再び女の方へと視線を戻した。

 

 しかし、ここで神父の計画に誤算が生じた。

 

 「っ!?」

 

 神父が女から視線を外していたのは、ほんの一瞬だった。ついさっき見た時は、女との距離はまだ幾分か離れていた。

 

 しかし、その一瞬の間で女は神父の手が届く距離まで近づいてきていた。

 

 神父はパニックになった。どうやら女の歩く速さは、神父が考えていたよりも速かったようだ。

 

 ただでさえ緊迫した空気が漂い神父自身も怖じ気づいている中でのパニック。

 

 神父は考え出した算段など忘れて無我夢中で出入り口へと走ろうとした。

 

 しかし、焦りに焦った神父の足は縺れ、走るどころかその場へ派手に転んでしまった。

 

 「あぅっ!? ひっ!?」

 

 転んだことで床に出来ていた血溜まりへも倒れ込んでしまい、神父の服は血で赤黒く染まってしまった。

 

 そんな神父などお構いなしに女はどんどん近づいてくる。

 

 「た、助けてくれぇぇ!!」

 

 命乞いの悲鳴を上げながら、神父は両手で頭を覆い強く瞼を閉じた。

 

 「……?」

 

 いくら待っても何の感触も襲っては来なかった。

 

 心のどこかで死を意識した神父だったが、何もアクションがない事に疑問を抱き、恐る恐る片方の目だけを開けて見た。

 

 先程まで自分の方へと近づいてきていた女の姿はどこにもなく、死屍累累の惨状だけがそこに残っていた。

 

 狐につままれたような感覚に神父は呆然とした。

 

 暫くの間そうしていた後、ハッと我に帰った神父は、慌てて出入り口の方へと駆け寄り、バッと外へ飛び出した。

 

 外は変わらず夜の闇に覆われていた。今夜は月も厚い雲に遮られ、外は一層闇が濃く何も見えない

 

 ただ一点。礼拝堂の正面にある森の入り口。その入り口は、礼拝堂の外よりも一層闇が深く、まるで巨大な生き物がぽっかりと大口を開けているようだった。

 

 そんな真っ暗闇の中、神父の目にはハッキリとそれが映った。

 

 一切の光がない闇の中へ、光るはずのない女の燃えるような赤い髪が、火の玉のように揺らめき妖しく光る赤色が、闇に溶けるようにフッと消える瞬間を……。

 

 残された神父は暫くの間、女が消えた森の入り口をただ呆然と見続けるしかできず、騒動を知らせに走ったのは、空が明るくなり始めた頃だった。

 

 

 

 

 世は混迷を極めている

 

 いつしか誰かがそう言い始めるようになった。

 

 それは妄言ではなく、確かに今世界は混迷の真っ只中にいると言えるだろう。

 

 枯渇する資源を巡って人々は争い、事は戦争にまで発展してしまっている。

 

 未知の病が蔓延し、助ける術も解らないまま、何万もの人々が苦しみながら死んでいった

 

 心を病んだ者たちが錯乱して周りにいる人たちを見境なく殺し始め、遂には発狂しながら自分さえも殺してしまった。

 

 そしてそんな陰鬱な世界が行き着く未来に絶望した者たちが、苦しみからの開放を求め、自ら命を一斉に絶つ、俗にいう集団自殺を決行するまでに至っていた。

 

 世情はそんな闇のように暗い話題で持ちきりだった。明るい話題など、民衆は長く目にすることも耳にすることもなかった。

 

 礼拝堂で起こった事件もそれらの話題の一つとして世情に流された。

 

 神父の証言から、一時は精神異常者による虐殺と考えられたが、実際は前述した集団自殺だったことが後に判明した。その証拠に礼拝堂で見つかった死体には、争った形跡が待つ全くなく、尚且つ死体の側に転がっていた刃物類や毒物の類は、故人たちが持参したものだということが調べで判明した。

 

 しかし、その事実が判明した一方で、ある噂が真実味を帯びていた。

 

 その噂とは、今最も世情を騒がせている赤い髪の女に纏わるものだった。

 

 曰く、赤い髪の女は、不幸を呼ぶ。

 

 曰く、悲惨な事件の場には、赤髪の女が現れる。

 

 曰く、赤い髪の女は死神である。

 

 様々な憶測が飛び交い、噂に尾ひれがどんどんついていき、今では大元の噂から大きくかけ離れ原形を留めておらず、だれが最初に言い出したのか、それすらも曖昧なほど方々に広まっていた。

 

 噂を鵜呑みにする者、俄かに信じられないでいる者、ただの噂と鼻で笑う者。噂に対する人々の反応は三者三葉だったが、今回の件でその噂に真実味が増した。神父という信頼のおける目撃者が現れたからだ。

 

 これまでにも赤髪の女を目撃したという者たちは多くいた。しかし、目撃者は皆、その証言を鵜呑みにできる程の信頼性があるとは言えなかった。

 

 そんな中、新たに現れた目撃者が“神父”だった。

 

 神父はその職業柄から多くの人たちと接する機会があり、神に使える聖職者であることから信心深い人たちからは、神父が目撃者というだけで噂は本当であると無条件で信じられた。

 

 逆に信心深くはない人たちは、目撃者が神父というだけで直ぐに信じたりはしないと思うが、実際はそうではない。

 

 例え神を信じていなくても、村や町にとって神父というのは、とても重要な存在なのだ。

 

 大きな街に限らず、どの町村でも神父やシスターのような教会の関係者は、神父としての職務以外にも多く兼業しているのが当たり前だった。

 

 冠婚葬祭を取り仕切るのは基本的に神父の仕事。その他にも、子どもたちに勉学を教える教師の仕事。病や怪我を診て治療する医者の仕事。

 

 神を信じる信じないに関わらず、誰しも必ず神父の世話になったいるのだ。故に町村民からの信頼度は非常に高かった。

 

 そんな厚い信頼を寄せられている神父が噂の人物を目撃したという証言を疑う者は殆どおらず、赤髪の女の噂は真実であるということが世情へ瞬く間に広まっていった。

 

 「聞いたか? 隣り村の教会で死人がでたらしいぞ」

 

 「その場にも赤髪の女が現れたそうな」

 

 「赤い髪の女が教会で村人たちを皆殺しにしたらしい」

 

 「赤髪の女があの村に災いを寄越したんだと」

 

 「赤髪の女はやはり災いを齎す者だった」

 

 「赤い髪の女はやはり魔物だった」

 

 「赤髪の女はやはり死神だった」

 

 「次はどの村が襲われるのか?」

 

 「次はあの村を襲うらしいぞ」

 

 「次はあの街を襲うらしいぞ」

 

 「恐ろしや恐ろしや」

 

 「助かる術はないのか?」

 

 「やられる前にやるしかない」

 

 「女を殺せ」

 

 「女を火炙りにしろ」

 

 「女を探せ」

 

 「女を見つけろ」

 

 「女に髪の裁きを与えよ!」

 

 口伝えで広められる赤髪の女の噂。面白可笑しく話に尾ひれを故意に付ける者、誤って伝わった話をそのまま広めてしまう者。善意も悪意も含まれ、赤髪の女という化物の噂は、世情を恐怖のどん底に陥れた。

 

 姿のない噂の恐怖に踊らされた民衆は、またも姿のない噂に唆され、凶行へと走ってしまった。

 

 包丁、鎌、鍬、斧、果てはただの木の棒まで、民衆は持てるだけの武器を手に取り、どこにいるやも分からない赤髪の女を追い駆け出した。

 

 右手に凶器を構え、左手に松明の灯りを携え、民衆は血眼になって赤い髪の女を探した。木の根草の根を掻き分け、女の一際目立つ萌えているような赤い髪を探した。

 

 そんな民衆の姿は正に鬼と言っても過言ではなかった。

 

 「居たぞ!!」

 

 「そっちに逃げた!!」

 

 「捕まえろ!!」

 

 「殺せ!!」

 

 民衆の狂気に満ちた捜索は、数カ月という月日を経て、遂に実を結んだ。

 

 夜の山での山刈りの最中、木の影に潜んでいた赤髪の女を見つけたのだ。

 

 女は民衆に見つかると一目散に逃げ出した。

 

 そんな女を逃すまいと、民衆は鬼気迫る形相で女を追いかけた。

 

 木々の枝葉に遮られ月光も届かない暗闇の山中。燃えるような赤い髪を振り乱しながら女は走った。何度も転び泥に塗れ、獣道を走り体中に切り傷擦り傷を負っても、女は一心不乱になって走り続けた。

 

 そんな女の背後、無数の鬼火が不気味に揺らめき、右往左往と乱舞しながら女を追いかける。

 

 山を駆け下り、川を渡り、谷を越えようと、民衆は執拗に女を追い続けた。

 

 しかし、その逃避行も遂に終幕を迎えた。

 

 必死に逃げ続けた女だったが、流石に体力の限界に達し、その場に倒れ込んでしまった。

 

 「ハァ、ハァ、漸く追い詰めたぞ……」

 

 追いかけてきた民衆が女を囲い込む。

 

 疲労で息も絶え絶えな女に対し、同じ位に疲労が溜まっているはずの民衆には、肩で息をしてはいるものの疲れの色が全く見られなかった。

 

アドレナリンの分泌によって疲労を感じていないだけ。医学的に説明がつく現象である。しかし、噂に踊らされ狂気を宿した民衆の鬼気迫る形相と、薄暗い闇の中、松明の揺らめく灯りも相まって、その場にいる民衆の形相は正に悪鬼そのものだった。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 

先程より女の呼吸は落ち着いてきたはいたが、まだ呼吸は荒く、胸を打つ鼓動は忙しなかった。そんな満身創痍な状態でも、女は這いつくばって少しでも民衆から逃げようとした。

 

 しかし、女は既に悪鬼となった民衆に囲まれており、おまけに女が這うその先にあるのは、底の見えぬ切り立った崖だった。

 

 もはや女は袋の鼠。どこへも逃げることはできなかった。そんな女が行き着く先は、“死”だった。

 

 「ハァ、ハァ、ハァ―――――」

 

 崖の先端に到達し、女は崖下を覗き込んだ。下は夜の闇さえ飲み込む闇で覆われ、まるで奈落の底のようだった。

 

 後ろからはジリジリと民衆が、その手に握り締めた凶器を構えながら迫る。

 

 完全に万事休すだった。

 

 「ハァ…ハァ…っ!」

 

 女は立ち上がる。疲労と傷だらけで満身創痍な体に力を込め、フラフラとまるで生まれたての子鹿のように震えながら、女はゆっくりと、そしてしっかりと両の足で立ち上がった。

 

 「ハァ…ハァ…」

 

 未だ荒い息を吐きながら、女は崖の方を見つめていた。いや、正確には崖の方に向いて虚空を見つめていた。

 

 「ハァ…ハァ…これが…最後…」

 

 女は独りポツリとそう呟いた。その呟きは民衆の耳には届かず、崖下から吹き上がる風の音に飲まれてしまう。

 

 民衆が女へあと一歩と迫ったその瞬間、力なく垂れ下げられていた女の両腕が勢い良く広げられた。

 

 「ひっ!?」

 

 突然のことに驚いた民衆は一気に後退った。女が何かするのではないかと恐れたのだ。

 

 民衆は恐れに震えながら凶器を更に強く握りしめ身構えた。

 

 両手を広げ、俯く女。その表情は俯いていることに加え、垂れ下がった燃えるような赤髪に覆われ見えない。

 

 その下で女は人知れず瞳を閉じていた。これまで歩んできた人生を振り返っているのか、はたまた自分を蔑んできた者たちへの憎しみを思い返しているのか、その時、女が何を思っていたのか、誰も知る由もなかった。

 

 「っ! この…っ! 魔女め!!」

 

 静観に耐えかねた民衆の中の一人が、足元に転がっていた石を拾い佇む女目掛けて投げつけた。

 

 「魔女め!!」

 

 「化物め!!」

 

 「悪魔め!!」

 

 一人が石を投げたのを皮切りに一人、また一人と女に石を投げつけだした。

 

 持ってきた凶器を使って直接斬りかかればいいのだが、ここに来て女の理解できない行動に民衆は恐れを抱き、女に近づくことを体が拒絶したのだ。それ故、民衆は辺りに転がっている石を礫としたのだ。

 

 大量の石礫が女に襲い掛かる。

 

 ガッ!

 

 ザッ!

 

 ゴッ!

 

 鈍い音が響き渡る。

 

 女の華奢な体のあちこちに大小様々な石礫が衝突する。

 

 骨に罅を入れ、肌を裂き、肉を抉る。傷という傷口から、女の髪よりも深く紅い血が滴り、辺りに飛び散る。

 

 垂れ下がる髪の下で女の表情は痛みと苦悶に歪んでいた。しかし、それでも女は微動だにしなかった。変わらず両手を広く広げ、その場に佇んでいた。

 

 女のその様は、一見すると無抵抗の意思表示のように見える。女は己が犯した罪の断罪を受ける為、民衆からの私刑を甘んじて受け入れようとしているようにも見えた。

 

 しかし、そんなことを考える者も、思う者もその場にはおらず、皆うちに秘め、溜め込んできた畏れに突き動かされるだけだった。

 

 「っ! 悲鳴1つ出さないなんて……! このっ! 悪魔女め!!」

 

 常人なら激痛に泣き散らし悶え苦しむ状態にも関わらず、涙一つ見せず声すら漏らさない。なおかつ微動だにせずその場に佇み続ける女の姿に、民衆は一層の恐怖を感じた。

 

 そしてそんな女に業を煮やした民衆の一人が、女に向かって駆け出した。

 

 女への恐怖が増したことで既に石礫は止んでいた。

 

 そんな戦々恐々とした状況の中、伐採用として使用してきた斧を構え飛び出した者を、他の者は思わず静止しようと手を伸びした。

 

 「あ! お、おい!」

 

 しかし、その者は止まらない。斧の柄が潰れそうなほど強く握りしめ、ただ一点を血走った目で睨みつけていた。

 

 最早その者の頭にあることはただ一つ。これまで一切の血を吸ったことのない仕事道具で、女の体を真っ二つにすることだった。

 

 「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 狂気に取り憑かれたその者はあと僅かと迫った女の頭に狙いを定め、斧を振り上げた。

 

 その光景を民衆は固唾を飲み見守った。

 

 そして、女が斧の間合いに入ったその瞬間、その者は勢い良く斧を女目掛けて振り下ろす。

 

 しかし、その瞬間今まで俯き垂れ下げられていた。女の頭がバッと跳ね上がった。髪の毛が宙を舞い、その下に隠れていた女の顔が民衆の目に鮮烈に写った。

 

 顕になった女の顔、その両の瞳がこれまで以上に赤く、そして熱く燃え滾っているような虹彩を放ち、何かを決意した、いや覚悟を決めた強い意志が、その表情からヒシヒシと見る者に伝わってきた。

 

 しかし、振り下ろされた斧の勢いはもう止められない。

 

 「あっ!?」

 

 誰かが声を漏らす。

 

 その刹那、振り下ろされた斧が女を襲った。

 

 「ヒッ!?」

 

 「うっ……!?」

 

 息を呑む者。

 

 凄惨な光景から目を背ける者。

 

 この状況になるよう女を追い込んだのは民衆自身だと言うにも関わらず、民衆は常人振った反応をして見せた。

 

 その場にいる者たちには、もう先程までの悪鬼の如き鬼気は無く、ただか弱く血みどろに怯えるちっぽけな存在しか、その場にはいなかった。

 

 斧を振り下ろした者自身も、自分がした事の重さに恐れを抱き、ガクガクと体全体を揺らすほど震えていた。

 

 「あ……あっ……あぁ……」

 

 言葉が形をなさずその者の口から零れ落ちていく。

 

 崖下から吹き上がる風音もいつの間にか止んでおり、辺りには一瞬にして静寂が訪れていた。

 

 その為、その者の零れ落ちる嗚咽とも鳴き声ともとれる形をなさない言葉は、その場にいる全員に、嫌にハッキリと聞こえた。

 

 恐れからその者の視線は、振り下ろされ大地に食い込んだ斧に向けられ続け、視線を上げ、女を見ることができないでいた。

 

 「お、おい……あ、あれ……!」

 

 民衆の一人が驚愕した表情を浮かべながら何かを指差す。

 

 それに釣られ皆、指が指し示す方へと視線を向けた。

 

 「っ!?」

 

 そこにはあの赤髪の女が立っていた。

 

 変わらず体中から血を流し、泥と流血で全身がボロボロになっているが、その象徴とも言える女の燃えるような赤い髪は、変わらず赤く輝いているように見える。

 

 女は生きていた。

 

 振り下ろされた斧の一撃で死んだと思っていたのか民衆は、変わらずその場に佇む女の姿に開いた口が塞がらなかった。

 

 どうやら振り下ろされた斧は予想に反し、女を直撃することなく寸での所で空を切っただけのようだった。

 

 いや、斧は空を切っただけではなかった。

 

 女の象徴ともされている燃えるような赤髪。その前髪辺が不自然に短くなっていた。他の髪と比べ明らかに前髪が短くなったことで、今は先程よりも女の顔がハッキリと見られた。

 

 その顔は体同様、石礫による傷が痛々しく刻まれていた。加えて、額からは先程の斧で切られたであろう一筋の真新しい傷があり、そこからドクドクと赤黒い血が溢れ、肌を伝って下へと流れていっていた。

 

 民衆は震えあがった。

 

 体全体から血が滴る状態にも関わらず、女の瞳が赤く、紅く、朱く、燦然と輝きを放ち、民衆を鋭い眼光で見つめていた。

 

 その瞳はまるで、民衆への怒りを抱き燃えているようにも、不思議な魔術を放とうとしているようにも見え、民衆は怯えていた。

 

 完全に鬼気が消え失せ、逆に恐怖に飲まれ怯え震える民衆。その中には、あまりの恐怖に腰を抜かす者や失禁してしまっている者も少なくはなかった。

 

 そんな中、今まで佇み続けた女が再び動いた。

 

 腕を回し、脚で弧を描き、腰をくねらせ、髪を振り乱し、女はその場で舞い始めた。

 

 伴奏の音楽など無い。あるのは、不規則に崖下から吹き上がってくる風の歌声。民衆が持つ松明の火が弾ける音。女に怯え震える民衆の衣類の擦れる音。それら以外は全くと言っていいほどの静寂だった。

 

 それでも女は踊っていた。

 

 疲労や傷でボロボロな体に鞭打ち女は踊った。

 

 舞う度に額に浮かぶ珠のような汗が、体中を流れ出る血と共に飛び散る。

 

 決して多くはない出血だが、数多もある傷口から血飛沫が飛び、女の体から出ていく。次第に女の顔が青白くなっていくのが、松明の揺らめく明かりしかない闇夜の中でも分かる。しかし、血が減り青白くなっていく女の体に対し、女の髪と瞳はその赤い輝きを更に増していっているよう見えた。

 

 まるで、踊る度に女の命の灯火を燃やしているように……。

 

 「あぁ……あぁぁぁ……あぁぁぁぁぁぁ……っ!」

 

 民衆は震え上がり悲鳴を上げた。

 

 自分たちを狂気へと扇動した姿のない噂という魔物が語る、赤髪の女という悪魔や魔女の舞踊に恐怖して震えているのではない。

 

 血と汗を撒き散らし、泥と傷でボロボロな体でも華麗に舞う女のその姿からは、噂で語られるような邪悪さは微塵も感じられなかった。

 

 寧ろその逆。

 

 大松の明かりに囲まれ、切り立った崖の先端で舞い踊るその姿からは、邪悪とは似ても似つかない神々しさが放たれていた。

 

 民衆は単に恐怖したのではない。民衆は“畏怖”しているのだ。

 

 自分たちが魔女や悪魔と蔑み罵り、凶器を手に追いやって、剰え石礫を投げつけてしまった女から発せられる神々しさに、民衆は自らがやってしまった恐れ多いことに激しい後悔を痛感した。

 

 それと同時に天罰が下ることに激しく畏怖したのだ。

 

 「お…お許しください…!」

 

 「あぁ…あぁぁぁ……!!」

 

 「主よ罪深い私をお許しください…!!」

 

 先程とは打って変わって民衆はその場に跪き女に頭を垂れ許しを請うた。

 

 女は踊りを止めなかった。

 

 どんなに民衆が跪こうが、どんなに許しを請おうが、女は見向きもせず、ひたすら舞い踊り続けた。

 

 満身創痍な姿で祈りを捧げるように踊り狂う赤髪の女。それを崇めるように跪き頭を垂れる民衆。

 

 傍から見れば何かの儀式のように見れる光景だろう。

 

 どれだけ時が経ったのかも分からない。

 

 夜の闇は一層増していき、民衆の手から落ちた松明は僅かな灯火さえも消えていた。

 

 許しを請う民衆に見向きとせず踊り狂う女に、民衆は益々畏怖の念を募らせていった。

 

 踊りが終わると共に天罰が降りかかるのではないだろうか?

 

 そんな憶測すら頭を過りだし、民衆は一層震えあがった。

 

 その時、崖下から突風が吹き上がってきた。

 

 ゴォォォォォォォォ!!

 

 それは雷轟の音とも、凶獣の咆哮とも聞こえる突然の風音。吹き上がって来た突風が咆哮を上げながら女と民衆の間を吹き抜けていく。

 

 女は変わらず舞い続けていたが、民衆は畏怖によって瓦解寸前だった心が、突然の突風の咆哮によって完全に瓦解。これまで以上の悲鳴を上げ、その場から逃げ出し始めた。

 

 「うわぁぁぁぁぁぉぁぁ!?」

 

 「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 逃げ出す民衆の足音が幾重にも重なりまるで地響きのように大地を揺らす。

 

 皆我先にと駆け出した。

 

 前を走る者を押し退ける者。

 

 足が縺れ転倒した者。

 

 転倒した者を踏みつけて行く者。

 

 民衆は蜘蛛の子を散らすように一瞬にして逃げ去って行き、残ったのはただ一人、未だ踊り続ける赤髪の女だけだった。

 

 民衆というオーディエンスがいなくなったことで、その場は一層の静寂に包まれた。しかし、女は気にも留めず一心不乱に踊り続けていた。その体からは既に微量な血飛沫しか飛び散らなくなっており、その表情は闇夜の中でもハッキリと分かるほどに青白くなっていた。

 

 「ハァ……ハァ……」

 

 早鐘を打つ心臓の鼓動で荒いはずの呼吸も弱弱しく、今にも消えそうな程にか細く乾いた吐息の音が微かに聞こえる。

 

 女の体から流れ出ていった血の量は多く、意識は朦朧として立っているのがやっとな状態のはず。にも拘らず女は何かに取り憑かれたように踊り狂った。

 

 正に己の命を燃やし尽くすように……。

 

 「……っ! …ハッ…!」

 

 女の体はビクンビクンと不規則なリズムで震えていた。いや、震えるというより痙攣している、と言った方が正しい表現だろう。女の体が命の危機に瀕していることを告げているのだ。

 

 しかし、女は踊りを止めようとはしなかった。

 

 何が女をそこまでさせるのか、常人には理解できない。

 

 舞う度に死へと向かっていると言える状態にも関わらず、女の瞳はキラキラと生きていることを主張するように煌いていた。

 

 しかし、女も結局は人の子。手から始まった痙攣は次第に体全体へと広がっていき、女の華麗な舞に歪さを刻みつけた。

 

 痙攣で上手く舞えなくなっても女は止まらなかった。歪になろうとも女は舞い続けようとする。

 

 既に女の体は限界を迎えていた。大量の血液を失ったことで体は痙攣を起こし、視界もボヤけて周りが見えなくなっていた。足も覚束ず、女の意志とは違う方向へと足が向いてしまう。

 

 そうやってふらつきながら舞い続ける女は、ゆっくりと崖の先端、その先へと吸い寄せられていく。

 

 あと一歩……。

 

 あと一歩…。

 

 あと一歩。

 

 崖下に潜む“死”という怪物は、今一歩と女が落ちてくるのを大口を開けて待っていた。

 

 崖下から風が吹き上がる。まるで早く落ちてこいと、怪物が急かし息を吹いたようだ。

 

 そして遂に、その時は訪れた。

 

 既に舞うとは言えない状態で体を引き摺りながらも舞おうとし続けた女は、覚束ない足を釣りに動かそうとした所為でバランスを崩してしまった。

 

 「っ!」

 

 転ばぬように踏ん張ろうとする女だったが、そんな力は女の中に残ってはおらず、女の体は吸い寄せられるように下へと落ちていく。

 

 そこの見えない暗黒が待つ崖下へと―――。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 誰かが言っていた。人は死に直面した時、目に映るものが全てゆっくりに見えると。

 

 (嗚呼、これがそれなのか)

 

 私は思いの外冷静にそう思った。

 

 物心がつく前から、私は自分の容姿のことで周りの人たちから迫害を受けてきた。

 

 それが私の日常だった。だから辛いとか、悲しいなんてことは思わなかった。それが当たり前だったのだから。

 

 大人へと近づいた年頃になってから漸く、私は辛い目にあっているのだと理解し始めた。ただ、それでも私は悲しいとは思わなかった。

 

 私は私自身のことで悲しいとは思わなかった。でも、周りで起こる“災い”を見つける度に、私はとても悲しくなった。涙が流れるほどに。

 

 周りの人たちが話している噂を耳にした。皆は私が“災い”を連れてきてるって言ってた。私は魔女や悪魔だと。

 

 それは違うの。

 

 私は“災い”を連れていけない。私はただ“視える”だけだから。

 

 いつ頃から視えていたのか分からない。でも、小さい頃から私には“それ”が視えていた。例えるなら、“それ”は人魂のようなフワフワとした存在。

 

 彼らがいる所には、必ず不幸が起こる。

 

 彼らが不幸を呼び寄せてるのかは分からない。でも、不幸が起こる場所で彼らは漂っている。

 

 彼らの存在は普通の人たちに視えない。だから、彼らのことが視える私に彼らは語りかけてくる。

 

 『助けてくれ』

 

 抑揚のないくぐもった声で何度も、何度も彼らは私に語りかけてくる。

 

 しかし、私にはどうすることもできない。いや、そもそもどうすれば良いのか、が分からない。

 

 それでも彼らは私に語りかけてくる。そして私を導く。彼らが助けを求めている場所へと。

 

 導かれた先にある物はいつも同じだった。

 

 死体だ。

 

 経緯は様々だけど、彼らが導く先には必ず死体があった。

 

 初めて彼らに導かれた日、私は初めて死んだ人の姿を見た。

 

 最初に見た死体の有様はとても酷いものだった。雨や風に晒されて肉は腐り、その下にある骨が剥き出しになって、鼻の曲がるような嫌な臭いを放っていた。

 

 私は吐いた。

 

 初めて見る凄惨な人の死体と、それが放つ悪臭にやられて、当時、親に捨てられ村人たちからも迫害されていた幼い私は、吐き出せる物もないのに嘔吐した。

 

 胃液しか吐けず、ろくに食べ物も食べれてなかった私に、彼らは構わず助けを求めてくる。

 

 フラフラな状態で私は自分が思いつく限りの方法で彼らを助けようとした。

 

 村で人が死んだら土に埋めていたから、同じように土に埋めた。それでも彼らは助けを求め続けた。これじゃない。

 

 死んだ人に神父様が祈りの言葉を捧げていたから、見様見真似で祈りの言葉を捧げてみた。それでも彼らは助けを求め続けた。これでもなかった。

 

 遠くの村では人が死んだら燃やして灰にすると聞いたことがあったから、同じように火をつけて燃やした。でも、灰にはならなくて、黒焦げになっただけだった。案の定、彼らは助けを求め続けた。

 

 色々と試してみたけど、どれも駄目だった。どうしたらアナタを助けられるの?

 

 幼い私は、知恵のない頭を振り絞って考えた。

 

 そんな時だった。村に一人の巫女さんがやってきた。当時の私には理解できなかったが、どうやら諸国を渡り歩いて神様や死んだ人たちに慰めの舞を捧げているらしい。

 

 私は村人たちが宴などで踊ったりするのを遠目に見たことがあったけど、その時に見た巫女さんの“舞い”は、それとは全然違って見えた。

 

 とても綺麗だったのを今でも鮮明に憶えている。流れるように足を運び、弧を描くように腕を廻し、優美に動くその姿は正に可憐そのものだった。

 

 私は目を奪われ、巫女さんの舞いを見続けた。そして私の中でこれだという感覚が生まれた。

 

 この舞いなら彼らを助けられるはず!

 

 私はすぐに死体の所へ駆け戻り、黒焦げになって更に悪臭を放つ死体を前に先程見た巫女さんの舞いを見様見真似で舞ってみた。

 

 当時を振り返ると、とても舞いと呼べるものではなく、良くて子供のお遊戯そのもの。私があの時、目を奪われた巫女さんのようには、当然舞うことはできなかった。

 

 しかし、それでも結果は成功だった。

 

 今まで助けを求め続けた彼が、初めて助けて以外の言葉を言った。

 

 『ありがとう』

 

 空腹と嘔吐でフラフラな状態だったのに彼を助けようと無我夢中だった私は、変わらず抑揚のないくぐもった彼からの感謝の言葉を聞いた途端、張りつめていた緊張の糸が切れてその場にへたり込んだのをよく憶えているわ。

 

 その時、初めて私は誰かを助けることで得られる喜びを知ったわ。

 

 それから私は積極的に彼らの声を聞こうと行動を始めた。最初は村の中やその周辺を漂う彼らに導かれ、次第に外の世界へと飛び出していった。嘗て、私の村を訪れた諸国を渡り歩く巫女さんと同じように、私も諸国を渡り歩き彼らを救う舞いを捧げる旅を始めた。

 

 迫害されていてろくな教育を受けられなかった私は、外の世界へ出たことで色んなものを見て、色んなことをやって知恵を身に着け、私は少女から女性へと成長していった。

 

 でも、それと同時に私は厳しい現実というものを目の当たりにすることになったの。

 

 彼らに導かれた先には必ず死体がある。つまり、誰かが死んでいるということ。死因は様々で、病に倒れた人、天災に巻き込まれた人、誰かに殺された人。導かれた先には必ず凄惨な状態の死体が転がっていた。酷い時は何人もの死体が山積みになっている時もあった。

 

 最初の頃は、舞いを捧げることで帰ってくる彼らからの感謝の言葉が嬉しくて、それを聞きたいから例え凄惨な死体が転がる場所であっても自ら嬉々として赴いていけど、それを何度も繰り返す内に当たり前なことを痛感したわ。

 

 私は結果的に誰も救えていない。

 

 助けを求めてくる彼らに舞いを捧げて感謝を述べられてはいるけど、彼らの存在は何も変わっていない。

 

 どこかで聞いた話の中に成仏に関するものがあった。幽霊はこの世に未練を残しているから天国にも行けないでいる。その未練を解消することで、成仏して天国へ行けるというという。

 

 でも、彼らはそれには当てはまらない。だって彼らは消えずに漂い続けているのだから。

 

 私が舞うことで彼らは確かに感謝の言葉を述べてくれる。でも、それが結果的に何を齎したのか、分からない。そもそも、彼らが言う助けてとは、ありがとうとは何に対してなのか。彼らは何を求めていて、私は彼らに何をしてあげたのか、成長するにつれて分からなくなていった。

 

 それでも私は舞い続けた。

 

 だってそれしか生きる意味がなかったから。

 

 彼らの為に動けば動くほど、周りの人たちは私を恐れていく。だって彼らの姿は周りの人たちには視えないのだから。周りの人たちからしたら、死体の傍らに必ずいる私が殺したと思っても仕方ない。弁解しようとしても、彼らのことが見えない人たちに何を言っても信じてはもらえない。だから、言うだけ無駄なの。

 

 私の噂は次第に大きくなっていき、人々の中で私は邪悪な怪物に成り果ててしまった。

 

 私は孤独だった。だから、彼らを助けることに依存していた。そうでないと、この地獄で私は行き続けることはできなかったから。

 

 でも、所詮は依存。根本的な救いにはなってない。

 

 彼らを救うことで私は一時の満足感を得られる。でも、直ぐに罪悪感と虚しさが私の心に押し寄せてくる。

 

 いつしか私は彼らを救う為に舞うのではなく、彼らへの懺悔の舞いを捧げるようになった。

 

 それでも彼らは感謝してくれた。結局、私の心持ちなんて彼らには関係なくて、舞う事自体が彼らの救いになる。それを知って私は一層虚しくなった。

 

 私じゃなくてもいいんじゃないか?

 

 他の誰かがやっても彼らは救われるんじゃないか

 

 偶々、私が彼らのことを視ることができただけで、視えない人がやっても彼らは救われるんじゃないか?

 

 私は私の存在理由が怪しく思えて仕方がなかった。

 

 それでも私は依存し続けた。舞う度に罪悪感に苛まれ、自分の存在理由が霞んでしまったとしても、私は舞い続けた。

 

 舞っている時だけは全てを忘れられる。

 

 依存に逃避が加わった。

 

 存在理由として舞に依存して、罪悪感を忘れる為に舞に逃避して、私は終わらない負の螺旋を築いてしまった。

 

 そしてその報いを受ける時がやってきた。

 

 肥大した私の噂が人々を恐怖のどん底へと陥れた。恐慌した人々は私を殺そうと凶器を手にして追いかけてきた。

 

 私は逃げた。

 

 鬼のような顔をした人々が怖くて、私は逃げた。

 

 死ぬのが怖くて、私は逃げた。

 

 街中を逃げ惑い、平原を走り抜け、川を突っ切り、山を駆けずり回った。着ていたボロボロの衣服が更にボロボロになっても、体中に擦り傷や切り傷が出来ようとも、私は逃げ続けた。

 

 でも、それも直ぐに終わってしまった。

 

 無我夢中で逃げたから後先のことを考えていなかった。

 

 だから私は崖まで逃げてきてしまった。

 

 前には切り立った崖。後ろには凶器を構えた人々。

 

 その瞬間、死にたくないと我武者羅に逃げ続けたのが嘘のように、私は酷く凪いだ気持ちになったの。

 

 これが私の運命なのかもしれない。

 

 今思うと、あれは生きることを諦めた瞬間だったのかもしれない。その時の私は、それだけ潔い気持ちでいた。

 

 もうどうなっても構わない。このまま死んでしまった方が、良いのかもしれない。

 

 私は私の後ろで大口を開けている崖に身を投じようか、凶器を構えた人々の手に掛かろうか、どちらが良いのか最後の選択をしようとした。

 

 その時、あの声が私の耳に飛び込んできた。

 

 『助けて』

 

 耳に蛸ができる程、聞き慣れた、あの抑揚のないくぐもった声。

 

 それも一つじゃなかった。

 

 【助けて】《助けて》〈助けて〉〔助けて〕{助けて}

 

 その声はこれまで聞いてきた中で最も多く、最も大きく私の中に響いてきた。

 

 見れば彼らの姿がそこら中に視えた。

 

 空中、足下、木の陰、木々の隙間、人並みの中、視界に映るありとあらゆる所に彼らの姿があった。

 

 彼らは変わらず助けを求め続けていた。

 

 (最後の最期まで彼らは私に救いを求めるのね)

 

 それがとても悲しくもあり、可笑しくもあり、滑稽でもあった。

 

 最期くらい、見捨ててみようかな?

 

 今まで彼らの声に一度たりとも耳を塞いだことなんてなかった。でも、その時初めて彼らの声を無視しようと思った。

 

 体が無意識に彼らの為に舞おうとしている。それを心に生まれた一つの無責任な感情が阻止している。

 

 どうすれば良いのか分からなくて、その時の私は酷く混乱していたわ。

 

 生きることを諦め、潔くなったと思ったら、まだ未練がましく彼らを助けることに縋ろうとしている。

 

 強ち噂も間違いではないのかもしれない。自分の存在理由も曖昧で、他の人には視えない不確かな存在に依存して、生きることを諦めたと思ったら、直ぐにまた生に縋ろうとする。何とも醜悪な存在なのだろうか私は。こんな私が、周りの人たちから魔女だ悪魔だと罵られても、それは至極当然のことでしょうね。

 

 私は私自身を嘲笑した。

 

 でも、それと同時に踏ん切りがついた。

 

 全て受け入れよう。

 

 人々が私を殺すというのなら、殺されよう。彼らが助けを求めるのなら舞いを捧げよう。殺されて死ぬのならそれで良し。殺それても死なないのならそれもまた良し。

 

 諦めの極みか、本当に潔くなったからか、それとも単に壊れてしまったのか、私の心は先程以上に凪ぎ、悟りとでも言える程の静寂に覆われていた。

 

 そう心で結論が出たと同時に人々が私に石礫を投げつけてきた。当然、私は避けない。

 

 飛んできた石が皮膚を裂き、抉る。鈍い音が鳴り、激痛が私を襲った。苦痛で思わず表情が歪む。でも、心は決して揺らがない。

 

 両腕を広げ全てを受け入れるように私は向かい来る石礫を受け止めた。

 

 そんな私の姿を恐ろしく思ったのか、人々は石礫を投げなくなり、恐怖に震えていた。

 

 でも、その中の一人が恐怖でパニックを起こして私の方に向かってくる足音が聞こえた。垂れ下がった髪の隙間から見えたのは、斧を振りかぶって私に向かってくる男の人の姿。

 

 嗚呼、このまま振り下ろされたら確実に死ぬ。男の人が持っている斧を見ながら私は他人事のようにそう思っていた。

 

 後ろから風が吹き上がる。風に靡き私の髪の毛が荒ぶるように乱れた。でも、そのおかげで髪に覆われていた視界が開け、迫りくる男の人の姿がより鮮明に見ることができた。顔の輪郭、髪型、瞳の色、体格、着ている服装、そして今振り下ろそうとしている斧が、私の目に飛び込んできた。

 

 次の瞬間、私目掛けて斧は振り下ろされた。

 

 しかし、私は死ななかった。

 

 男の人が斧を振り下ろした瞬間、その人の目にも私の姿が映ったようで、躊躇してしまったらしい。振り下ろされた斧は私の命を奪わず、眉間を少しと前髪の何本かを斬っただっけだった。

 

 その時の人々の表情はまるで、やってはいけないことをやってしまった子供のように顔が青ざめていた。

 

 それ以降、口罵る人はいても危害を加えようとする人は現れなかった。

 

 どうやら人々から寄せられるものは全て受け入れきったらしい。そう判断した私は視線を村人たちから彼らへと向けた。

 

 『助けて』

 

 彼らは変わらず助けを求めていた。さぁ、舞おう。私はいつものように体を動かそうとして気づいた。

 

 いつもよりも体が重い。

 

 視線だけ動かして体中を見渡した。私の体はあちこちから血が流れ出ていた。視線を足元に落としてみると、薄暗いけど地面には赤い水溜まりが点々とできているのが目に入った。そのことから出血多量であることが容易に想像できた。

 

 チラリと漂う彼らに視線を向ける。十数、いやそれ以上いる。これだけの数いる彼らに舞いを捧げるとなると、今の私の状態じゃ、最後まで舞い続けられるか分からない。

 

 舞えば死が待っていて、舞わなくてもいづれ誰かが私を殺しに来る。それなら私は、舞いに舞って最期を飾りたい。

 

 「これが最後……」

 

 私は最期の舞いを舞い始めた。初めは見様見真似でハチャメチャな舞いだった。でも、あれから十数年の間、舞いに舞い続けたことで猿真似だった私の舞いもどきは、贔屓目に見ても舞いと呼べるものへ昇華するほど洗練されてきた。あの頃見た巫女さんの舞いそのものとは言えなくても、それに勝るとも劣らぬ舞いであると、これまでの十数年舞い続けてきた私はそう自負している。

 

 体が重い。力が思うように入らない。まるで鉛を背負っているみたいだわ。それでも私は舞う力を少しづつ上げていく。

 

 周りが騒がしい。さっきまで怯えていた人たちが何か喚きながら逃げ去っていくのが視界の端に映った。でも、今の私には関係ない。だって、私は逃げていった村人の為ではなく、この場に漂う彼らの為に舞っているのだから。

 

 私が舞う時はいつも自然の音とに乗せて舞っていた。だって私は楽器なんて弾けないし、持ってもないから。そもそも私一人で奏でて舞ってをやるの難しい。

 

 舞い始めの頃は、自然の音の中で舞うことに若干の寂しさを覚えていたけど、舞い続ける内に伴奏がないことに慣れてしまった。慣れもあるけど、自然の音の良さっていうのも、成長するにつれて分かるようになった。

 

 でも、この最後の時だけは違った。

 

 音が聴こえるの。今まで聴いてきた自然の音じゃない、音楽が聴こえるの。

 

 辺りに演奏してる人なんていない。だってさっきまで風の音と葉の擦れる音しか聞こえなかったし、今聴こえるこのこの音楽は、私の直ぐ傍から聴こえてくるの。

 

 今思うと、不思議だと思うけど、あの時の私は気にも留めなくて舞うことに熱中してた。

 

 舞う度に傷口から血が飛び散るのが分かる。罅の入った骨がズキズキと痛んだ。筋肉が悲鳴を上げてる。時折、視界が歪んだりする。心臓がバクバクと早鐘を打って痛い。なのにとても気持ちが昂るの。

 

 気持ちが舞う度に昂っていく。聴こえる音楽がどんどん荘厳に響き渡る。幻聴だろうか? それでも構わない。

 

 私は今とても生を実感しているから。

 

 最期の舞いだからこんな錯覚を感じるのだろうか。だったらとても嬉しい最期を迎えられそうだ。

 

 走馬灯というものが私の頭を駆け抜けていく。生まれてから今まで良い人生を歩んできたとはお世辞にも言えない。それでも全く悪い人生でもなかったと、今なら思える。

 

 彼らのことも今なら何なのかが分かったような気がする。彼らは死んだ人の幽霊なのではなくて、人の“想い”なんじゃないか。

 

 彼らが助けてと救いを求めているのは、成仏したいからじゃなくて、混迷を極めているこの生地獄のような世界の中から救って欲しいと求めていたんじゃないだろうか。

 

 この場にこれだけの数の彼らがいるのも、ここで多くの人が死んだからじゃなくて、私を追いかけてきた彼らの想いが形となったからなんじゃないだろうか。

 

 私の噂に踊らされ、恐怖に苛まれた人々の心は限界寸前で、一刻も早く救われたくて“彼ら”の姿となって私の目に視えるようになったのじゃないだろうか。

 

 そんな彼らを助けたいと思った私の“想い”を込めた舞いが、荒んだ彼らの想いを慰める力になったから、彼らは感謝してくれたのかもしれない。

 

 確証なんてない。これはただ私が思った絵空事。でも、私はそうなんだろうなって、解った気がした。

 

 そう思うと私の心はとても満たされた。今までやってきたことは無駄じゃなかった。私はちゃんと彼らを助けられてたんだということが、曖昧だった私の存在理由を明確にしてくれた。

 

 嗚呼、これが最期になるなら、私は何の悔いもない。

 

 私はどんどん燃え上がっていった。周りから迫害される原因だったこの赤い髪と同じように、私の体が、心が熱く炎のように激しく燃え上がる。

 

 ずっとこの時間が続けばいいのに……。

 

 でも、終わりが近いのが嫌でも分かった。視界がどんどん霞んでいく。燃え上がる心に反して手足に力が入らなくなっていく。

 

 私の体はもう最期と瞬間を迎えようとしている。

 

 とても名残惜しい。名残惜し過ぎて涙が出る。それに体も言うことを聞かなくなってきてる。このままじゃ最期の舞いを終えられないかもしれない。

 

 そんなのは嫌!

 

 私は体に鞭打って手足を動かした。体中が悲鳴を上げた。もう血も飛び出さない程、私の中に血が残っていない。それでも私は舞おうとした。

 

 (あと少しだけ……あと少しだけ……あと少しで舞い終えられるから……)

 

 神様にそう願った。

 

 もう視界も何も映さず、音もよく聞こえなくなった。

 

 でも、あと少しで舞い終わる。

 

 終わらないで欲しいと願いつつ、ちゃんと終わらせたい、と思っている私がいた。

 

 これが最期の舞い。彼らと私の死に捧げる人生最大の舞い。

 

 でも、私はもう舞えてすらいない。本当は立っているだけでやっとだった。今も足を引きずって舞おうとしている。傍から見れば老婆のような動きをしているのだろうか。いや、それよりももっと動けていないに違いない。

 

 でも、その時の私には舞うことだけしか頭になかった。

 

 そして、漸くその時が訪れた。

 

 私の舞いが終演を迎えた。

 

 私は全てを出し切った。

 

 もう二度と、同じ舞いは舞えないと言える位、自分史上で最高の舞いを舞った。

 

 私の体はもうボロボロに崩れる寸前だった。少しのそよ風が吹くだけで倒れてしまいそうな程、今の私は脆くなっている。しかし、それでも私の心は充実感と達成感で満ち溢れていた。

 

 人生最大にして最期の舞いを舞いきったんだから。

 

 もうこの続きなど思いつかない。ここが舞いの終着点。完全で完璧な終わりなのだから。

 

 舞いきった途端、今まで気づかないでいた激痛と疲労が一気に押し寄せてきた。なんとか倒れそうになるのを踏ん張るのが、今の私には精一杯。それも長くは続かない。直ぐに踏ん張る力も切れて私の体は糸の切れた人形のように倒れ伏せる。

 

 私を支える一本の糸。今の私と同じボロボロで頼りないその糸が、少しずつ解れていく。そして遂にその糸はプツンと切れてしまった。

 

 私の体は地面に吸い寄せられるように倒れていった。でも、吸い寄せていたのは地面ではなくて、私の後ろで大口を開けていた崖だった。

 

 舞っている時にも見た走馬灯がまた駆け抜けていった。生まれた瞬間からつい先程のことまで。

 

 未だに白と黒で混濁した視界には何も映らない。それでも頭の中に走馬灯が見せる光景がハッキリと見えた。自分の体が崖へと落ちようとしているのが理解できた。

 

 その瞬間、混濁していた視界がサーッと開けて明瞭に映った。

 

 遠退いていく木々と大地。地に落ちた松明。視界の下から見えてくる自分の足。全てがゆっくりと動いていた。

 

 何とも不思議な光景だった。明瞭になった視界に映るゆっくり進む光景と、頭の中で今も流れている走馬灯の光景。決して混ざらず、それぞれハッキリと私にその光景を見せている。まるで目が4つになったような感じだった。

 

 段々と視界に映る景色が遠のいていって、私は崖下に落ちて行く。

 

 (嗚呼、これが死ぬ瞬間の光景なのね)

 

 私は今まで経験したことのない光景を見ながらそんなことを思った。

 

 段々と瞼が重くなってきた。舞う為に体を酷使した付けが回ってきたらしい。脳裏に流れる走馬灯も滲んでいく。

 

 私がさっきまで立っていた場所も霞んでしまう所まで落下した私の意識は、崖下を覆う闇に見を投じる体同様に闇に飲まれ、私はそこで意識を手放した。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 女は目を覚した。

 

 目覚めた女は辺りを見渡した。視界に映るのは広大な雲一つない青空。目だけを左右に動かしてみるが、景色に変わりわなかった。

 

 女は困惑した。

 

 自分の記憶が正しければ、自分は崖から落ちて死んだ筈……。

 

 女は恐る恐る横たわる自分の体の上体だけを起こしてみた。女の上体は可も不可もなく起き上がった。

 

 女は自分の体を見回した。そして目を見開いた。

 

 女の体には痛々しい傷が刻まれており、体中から出血していた筈だった。

 

 しかし、これはどういうことだろう。女の体には擦り傷一つなかった。それどころか、土埃や泥に塗れていた筈なのに、それすらも一風呂浴びたかのように綺麗になっていた。しかし、体は綺麗になっているが、着ている衣服はボロボロなまま変わっていなかった。

 

 女は益々困惑した。

 

 女は改めて辺りを見渡した。

 

 天には蒼穹、地には青々とした草原が広がっていた。それは果てしなく、女の目に映る彼方まで続いていた。

 

 「ここは何処?」

 

 意図せず女は呟いた。

 

 それもそうだろう。不吉をもたらす者として民衆から迫害され、石礫をぶつけられた女の体は見るも耐えないほどにボロボロだった。おまけに自分を殺そうとする民衆から逃げ続けた女の体は疲労困憊で、満身創痍な状態だった。そして遂には朦朧とした意識の中、追いやられた崖から転落してしまった。

 

 女の記憶が正しければその筈だった。

 

 まともな教養を受けられなかった女とて、底の見えない崖から落ちてしまえばどうなるか、それ位理解している。

 

 女はもう一度辺りを見渡した。景色は変わらず、空と草原が広がっているだけだった。自分が転落した崖の切り立った岩肌などは何処にも見当たらなかった。

 

 「ここは、天国なの?」

 

 いつか何処かで耳にしたお話に死後の世界についてのものがあった。死んだ人は天国か地獄のどちらかに行き、天国には争いも苦しみもない安寧があり、地獄では生きている時よりも苦しい責苦を強いられる、というお話だった。

 

 そのことを思い出した女の目には今、自分がいる場所が地獄には見えず、天国なのではと思った。

 

 つまりは、やっぱり女は死んでいるということだ。それなら女の体に刻まれた痛々しい傷の数々が消えた訳も納得がいった。

 

 自分が死んだという結論に至った女は、酷い位に何も感じていなかった。死の間際、あんなにもこの瞬間が終わって欲しくないと強く願っていたにも関わらず、いざ終わって死んでしまうと何も感じなかった。嗚呼、終わってしまったんだな、と客観的に思うくらいだった。

 

 女は起こした上体をまた倒し、呆然と空を見上げた。

 

 「静か……」

 

 その場所には女の呟き以外何も聞こえてこない。だから女の言葉が嫌にハッキリと聞こえる。

 

 女はとても穏やかな感覚に包まれていた。思えば、女はこんな風にのんびりと過ごしたことが一度もなかった。来る日も来る日も人目を避け、怯え、逃げて生きてきた。だから、今こうして草原で寝転がってのんびりしていることは、女にとって生まれて初めての経験なのだ。

 

 「……ッ!」

 

 暫く呆然と空を眺め続けていた女だったが、突然ガバッと体を起こし身構えた。

 

 「……」

 

 警戒心を研ぎ澄ませ辺りを探る。しかし、女の目が行き届く範囲には何もなかった。

 

 「気のせい……?」

 

 女は首を傾げた。

 

 先程まで呆然としていた女の耳に微かな物音が聞こえた気がした。生前に癖付いた習性、野生の動物が外敵を警戒するのと同じように女も身構えたのだ。

 

 視界に映らないからと言って女は警戒心を解こうとはしなかった。目に映らないなら、耳を研ぎ澄ます。女は目を閉じ耳に神経を集中させた。

 

 自分の呼吸の音だけが聞こえる。しかし、その奥に微かな異音が混じっているのを女はシッカリと捉えた。

 

 「やっぱり気のせいじゃない……!」

 

 女は捉えた異音を聞き取ろうと全神経を集中させた。

 

 段々とハッキリと聞こえてくるその音は、誰かの話し声ではなかった。軽快なリズムが響き、色んな音が聞こえてきた。

 

 それは演奏だった。女が今まで聞いたことのないような、楽しげな音楽が聞こえてきた。

 

 それも女の“すぐ近く”から。

 

 「ッ!?」

 

 女は驚き慌てて目を見開いた。そこには、奇妙な一団がいた。

 

 赤や黄色などの鮮やかな衣に見を包み、楽器を奏でる者、音に合わせ踊る者、まるでサーカスの道化師たちのようだ。

 

 サーカスを間近でちゃんと見たことのない女にとって、その一団の姿はとても印象深く脳裏に刻まれるほどの鮮烈さが感じられた。

 

 一団は女を囲むようにして、女の周りをぐるぐると周っていた。その様を女は、驚いて尻餅をついた状態で呆気に取られていた。

 

 (この人たち、一体何なの? さっきまで周りには誰もいなかったのに……。近づいてくる足音も、気配すら感じなかったのに……!?)

 

 女は呆気に取られつつ頭の中で小さなパニックを起こしていた。

 

 しかし、そんなパニックも一瞬にして消し飛ぶ音が、女の耳に飛び込んできた。

 

 「〜〜〜♪〜〜♫〜〜――――」

 

 何とも綺麗な歌声だった。これだけの騒音の中、その歌声だけはハッキリと女の耳に届いた。優しさが感じられる歌声だ。女はそう感じた。これまで放浪の最中に幾度か街で歌を聴いたことはあったが、こんな感覚を感じたことはなかった。

 

 (一体何処から?)

 

 声の主を探して女は辺りを見渡した。当然のことながら、蠢く一段の中からたった一人を見つけるのは困難を極めた。だが、聴こえる歌声を頼りに耳を澄まして漸くその声の主の場所を見つけた。

 

 「ッ!?」

 

 その声の主は女のすぐ後ろにいた。

 

 女は再び驚愕した。気配が全く無かったことに加え、後ろに立っていたのが長身の男だったからだ。

 

 その男は全身に闇を纏ったような衣に身を包んでいた。銀の仮面で顔を覆い、髪は老人のように白く、仮面の下から覗く肌には年輪のように皺が刻まれていた。

 

 その男の肩に声の主はいた。

 

 男の肩には一人の少女が座っていた。歌声と同様に綺麗な子だった。まるで人形ではないかと間違いそうな程、整った容姿をしていた。しかし、それよりも目を引かれたのは、その少女が真っ白だったことだ。

 

 男が闇を纏っているようなら、その少女は光を纏っている言えるだろう。一切の色素を感じさせい純白の姿。垂れ下がる長い髪も、シルクのような肌も、その身を包むドレスも、穢れ一つない真白の少女。

 

 同性であるが、女は思わずその少女に見惚れてしまった。

 

 そんな時、唐突に音が止んだ。黒づくめの男が奏でていた笛を止めた途端、少女の歌声も、道化師たちの演奏や踊りも、女を取り巻いていた喧騒が一瞬にして消え去った。

 

 「ッ!?」

 

 先程までの喧騒が一瞬で止んだことに女は驚き辺りを見渡した。時が止まってしまったように音が消え、女の周りをぐるぐると踊り周っていた一団もピタリと動きを止めていた。

 

 一団の視線が女に集中する。

 

 「ッ!」

 

 自分に突き刺さる数多の視線に女はハッと我に返り、再び警戒心を剥き出しにして身構える。

 

 しかし、一団は女に何もしない。ただ静かに女のことを見ているだけだった。それが女には不気味に思えて、一層警戒心が強くなった。

 

 静寂が続く中、漸くその沈黙が破られた。

 

 「ごきげんよう!」

 

 よく通り、よく響く声だった。女の目の前に立つ黒づくめの男が、若干しわがれた声で快活にそう言った。

 

 先程まで優雅に笛を奏でていた姿とは打って変わったその様と、響き渡る男の声に女は面食らった。しかし、男はそんなこと構わず言葉を続けた。

 

 「哀れなお嬢さん。貴女はこの世界という鎖から解き放たれた! 来るものは拒まないが、去る者は決して許さない。“楽園パレード”へ、ようこそ」

 

 そう言って男は女に深々とお辞儀した。すると周りにいた一団も男に続き、女に向けて一斉に深々と頭を下げお辞儀した。

 

 「ッ!?」

 

 男の言葉と一団の突然の行動に女は激しく困惑した。相手の意図の分からない行動に加え、女は今まで誰かに頭を下げられたことがないのだ。それもこれだけの人数から一斉にお辞儀されるなど、普通の人でもそうそうない。故に普通の人生を送って来れなかった女なら尚更、この状況にどうすればいいのか分からず戸惑っていた。

 

 「おや? どうされました?」

 

 戸惑っている女に男が尋ねた。

 

 「え? あぁ……。えっと……」

 

 上手く話すことができなかった。それも仕方がない。女は真面に人と話をしたことがないのだから。言葉は周りの人のを見聞きしたり自分で学んだりして覚えた。でも、誰かと言葉を交わす機会はなかった。だから男の問い掛けにどう返せばいいのか、何を言えばいいのか分からず、女は益々戸惑ってしまった。

 

 「……ふむ。なるほど」

 

 狼狽する女を見て男は何かを察し、女へ手を伸ばした。

 

 「ッ!」

 

 自分の方へ伸びてきた手から、女は思わず逃げようとした。しかし、それよりも先に男の手が女を捉えた。

 

 「は、離して!」

 

 男の手を払おうと女は暴れるが、自分よりも力の強い男の手は易々と払えはしなかった。

 

 それでも男から逃れようと暴れ続ける女を男は優しく包み込むように抱きしめた。

 

 「大丈夫」

 

 とても優しい口調で男はそう囁いた。まるで泣きじゃくる子供をあやすような口調と抱擁で女を包み、愛おしそうに女の頭を撫でた。

 

 「~ッ!?」

 

 撫でられた経験のない女は今まで以上に困惑した。相手が本当に何がしたいのか分からず、女の頭の中は小さなパニックを起こしていた。

 

 しかし、それと同時にとても安らぐ温かな感じがして、女はとても居心地良く感じていた。

 

 幼子が母親や父親に甘えている姿を以前、女は街で見かけたことがあった。そんな我が子のことを両親は優しく抱き上げ、今男がやっているように撫でていたことを女は思い出した。

 

 女に両親の記憶は全く無かった。だから両親に頭を撫でてもらうことも経験したことが無い。しかし、不思議なことに男に頭を撫でられると、経験がないのに両親からの愛情のような温かく優しい気持ちが伝わって来るのを女は感じた。

 

 女は次第に暴れるのを止め、頭から伝わって来る温かさに身を委ねていった。

 

 「落ち着いたかな?」

 

 女が完全に抵抗しなくなったところを見て男はそう尋ねた。

 

 「……」

 

 女は首を縦に振る。言葉で何と言えば良いのか分からない女は、誰にでも分かるであろう身振りで男に応えた。

 

 「何か私に聞きたいことがあるのではないかな?」

 

 確かに女は知りたいことがあった。ここは何処なのか? どうして自分はここに居るのか?  自分はどうなったのか? 貴方は誰なのか?

 

 女の中で知りたいことが湧き水のように溢れてきた。しかし、人との接し方の分からない女には、どう尋ねれば良いのか分からず言葉が喉から出てこなかった。

 

 そんな女の心情を見抜いたかのように男はもう一度、女の頭を優しく撫でて言った。

 

 「慌てなくても構わない。深く考えなくても構わない。ゆっくりと知りたいことを言葉にしてご覧なさい」

 

 男の言葉を聞き女の中で溢れかえっていた言葉が整えられていった。

 

 「こ、ここは何処…?」

 

 恐る恐る女は言葉を口に出す。生まれて初めて他人と面と向かって話す事に女は激しく緊張していた。たった五文字程の言葉を口にするだけなのに、女の心臓は満身創痍で舞い狂っていた時と同様に早鐘を打っていた。

 

 そんな女の心情を知ってか知らずか、男は微笑み女の質問に答えた。

 

 「ここは見ての通りただの草原さ。どこにでも存在する何の変哲もない場所さ」

 

 「そ、うで、すか……」

 

 返ってきた答えは女の求めていたものでは無かった。草原であることは辺りを見渡せば分かることだ。

 

 女が求めていたのは、崖下へと転落した自分が何故、この場所にいるのか? 自分は死んでしまったのか? ここは天国なのか? ということの回答を求めていた。しかし、女がやっとのことで口に出した言葉では、質問の意図があまりにも大雑把過ぎた。それでは女が求めている回答が得られないのも仕方がない。だが、他人とまともに接したことのない女にこれ以上を求めるのは、些か厳しいと言える。

 

 求めた回答が返ってこず、自分から尋ねておきながら返ってきた男の言葉に女は相槌を打つことしかできなかった。

 

 「他に聞きたいことはあるかな?」

 

 男はそう尋ねた。女には聞きたいことがあり、先程の質問でも求めていた回答を得られていない為、男のその質問は正に助け舟と言えた。

 

 しかし、先程した短く大雑把な質問を口にするだけでやっとの状態な女には、続けて男に質問を投げかけるのは至難の業と言えた。

 

 「あっ……! えっと……その……」

 

 何か言わねばと言葉を口にしようとするが、その焦りと緊張とが混ざり合ってまたしてもそこまで来ている質問の言葉が、喉でつっかえて口から出ていかなかった。

 

 必死に言葉を口にしようとする女を男を始め、白い少女と周りの一団は静かに見届けている。集団に囲まれ突き刺さる視線の中、人とまともに会話をしたことのない女に緊張するなという方が無理な話である。

 

 だが、それでも自分の言葉を待ってくれている男がすぐ目の前にいる。そのことが女の頭を過り、自然と女の視線は男へと向いていく。

 

 「……」

 

 男は静かに女の方をジッと見ていた。催促などせず、ただ静かに女から言葉が返ってくるのを待っていた。女よりも遥かに高い長身を折り、膝をついて女に目線を合わせているその顔には銀の仮面。顔の全体は仮面に覆われ見えないが、仮面で覆われていない口元には微笑が浮かんでおり、先程見せた抱擁や愛撫も相まって女の目に映る男は優しさに満ちたオーラが放たれていた。

 

 そのオーラに触れた女は、焦燥と緊張で昂る心がもう一度鎮められていくのを感じた。まるで不思議な魔法にでも掛かってしまったように、先程と同じようにつっかえていた言葉がまたスッと女の口から出ていく。

 

 「ど、どうして、アタシは、ここに……?」

 

 一人で頑張り振り絞られて出た女の質問。それを聞いて男はまるで子供の成長を温かく見守った親のように慈愛に満ちた笑みを浮かべ、再び女の質問に答えた。

 

 「それは私にも分からない。私はただ、“声”に呼ばれてここまでやってきたらお嬢さんを見つけたのさ」

 

 声?

 

 男の言葉に女は首を傾げた。しかし、すぐにそれが何なのか、女の頭にその正体が過った。

 

 「あ、あの……もしかして……」

 

 恐る恐る男に尋ねようとする女。そんな女の様子を見て男は、女の言わんとすることが分かっているかのようにニヤリと笑みを浮かべ、視線を女から離す。女も男の視線を追うように男が視線を向けている方へと顔を向けた。

 

 そこには“彼ら”がいた。

 

 女を取り巻く一団に混じって彼らの姿がチラホラと見受けられた。しかし、そこにいた彼らは、女がよく知る彼らとは異なる姿をしていた。女がよく知る彼らの姿は、ふわふわと漂う人魂のようなものだったが、今、女の目に映る彼らは人魂のような姿ではなく、星のような姿をした者だったり太陽のような姿をした者、将又、月のような姿をした者だったり動物のような姿をした者だったりと、様々な姿形をしていた。

 

 そして極めつけなのが、その彼らには“顔”があることだった。顔と言っても表情だけだが、その場にいる彼らは女が見たことない楽し気な表情で漂っていた。聞こえてくる彼らの声も、女が知る抑揚のないくぐもった声ではなく、陽気に満ちたはしゃぐような声だった。

 

 「貴方にも、見えるんですか……?」

 

 「勿論。私だけじゃない。ここにいる全員、彼らの姿が見えているのだよ?」

 

 「え……!?」

 

 男の言葉に女は耳を疑った。そしてバッと自分の周りを見回した。まるで「ちゃんと見えてるよ」と女に伝えるように周りの道化たちは、自分の近くにいる彼らと戯れる様を見せた。

 

 その光景に女は我が目を疑った。今まで自分以外に彼らの姿が見える人に出会ったことはなかった。しかし今、自分の目の前に彼らの存在が見える人がいる。それも一人や二人ではなく、一団と呼べる人数の見える人たちがいる。

 

 困惑か、感動か、驚愕か、色々な感情が女の頭を埋め尽くし、またもパニックを起こしていた。

 

 自分が知る彼らには表情がない。声も抑揚がなくてくぐもっている。自分が彼らにまいっを捧げても、感謝の言葉は帰ってくるけど、ただそれだけで何も変わらない。

 

 しかしどうだろう? 今、女の目に映る彼らは楽しげに笑っている。声からも抑揚が感じられる程に笑っている。

 

 気が付くと女は涙を流していた。ボロボロと大粒の雫が頬を伝い落ちていく。

 

 女の心には二つの感情が生まれていた。一つは、自分が舞いを捧げても変わらなかった彼らが、目の前の男が率いる一団の手によってああも激変し、楽し気な姿を見たことへの嫉妬。女にとってそれは初めての感情だった。以前は生きていくことと彼らに舞いを捧げることに精一杯で、誰かや何かを羨んだりする暇などなかった。こんな暗い感情を抱いたのは、女が崖に追い詰められた時、底に漂う彼らからの助けの声を見捨てようとした時以来だった。

 

 そしてもう一つの感情は“喜び”だった。

 

 女は不遇な人生を歩んできた。他者を羨むことも恨むことも抱いて仕方のないことだと言える環境を生きてきたにも拘らず、彼女は心優しかった。自分では救えなかった彼らが救われたような姿を見て嫉妬したとて、それ以上に女は彼らが救われたことが嬉しかった。今まで殆どの時間を彼らの為に使ってきた女は、彼らの抑揚のないくぐもった感謝の言葉しか聞けず、本当に彼らが助かっているのか分からなかった。彼らの存在が人の魂ではなく、人の想いなのだということを女は生死の境に立った時、理解した。

 

 だからこそ彼らの想いが楽し気に漂う今この瞬間を見て、女は酷く安堵した。そして涙が流れ出た。嫉妬という大きな暗い感情を人生で初めて抱いた驚きと、彼らが本当に救われたのだと見て取れるその姿と声への歓喜と安堵で、女は泣いた。

 

 そんな女の頭を男はまた優しく撫でる。

 

 「う…うぅ……うぁ……ッ」

 

 嗚咽が零れ出し、堰を切ったように女は声を上げて泣いた。生まれて初めてだろう。女は咽び泣く自分をどこか客観的に見て頭の片隅でそう思った。

 

 暫くの間、女は泣き続けた。それを男と少女、道化たちはただ黙って見守った。女が泣き終えるまで……。

 

 

 

 空が暮れだした頃、女は漸く泣き止んだ。茜に染まりつつある空よりも鮮烈な赤い色彩を放っている髪を持つ女だが、今はそんな髪にも負けず劣らず女の顔も朱に染まっていた。

 

 「(恥ずかしい……。人前であんなに泣いちゃうなんて……)」

 

 一通り泣き叫んだことで落ち着きを取り戻した女は、人前で泣き散らしたことで羞恥心に苛まれていた。

 

 「フフッ、落ち着いたかな?」

 

 男は微笑まし気な口調で女にそう尋ねた。女がそう言われるのは早二度目だった。そんな男の優し気な問いかけでさえ、今の女には羞恥心という炎をより燃え盛らせる油でしかなかった。

 

 「~ッ!」

 

 女は恥ずかしさのあまり顔全体が真っ赤に染まり、髪の色と同化してしまっていた。

 

 「さて、そろそろ行くとしよう」

 

 そう言って男は立ち上がる。男の言葉と立ち上がる動きに羞恥に悶えていた女は我に返り、立ち上がった男の顔を見上げた。

 

 「さぁ、お嬢さん。お手を」

 

 「え?」

 

 差し出された男の手に女は驚き声を漏らした。意味が分からない女は、男の手と顔を交互に見比べる。

 

 「えっ、と……。あの…行くって、どこへ……?」

 

 男の優しさと先程の号泣で多少スッキリしたのか、当初よりも思っていることを口に出せるようになった女は、男にそう問いかけた。

 

 「次の場所へ行くのさ」

 

 「次の……場所?」

 

 「そう。この世界という鎖から解き放たれた者がいる場所へ行くのさ」

 

 「世界という鎖……」

 

 それは男が女に最初に言った言葉にもあった。しかし、女にはその言葉の意味が分からなかった。

 

 「この世界に生きる者たちは皆、鎖に縛られて繋ぎ止められているのだよ。しかし、そんな鎖から解放され自由を得る者たちも中には存在するのさ。彼らやお嬢さんのようにね」

 

 そう言って男は視線を周りに向ける。女もその視線を追ってみると、自分たちを囲む道化たちが目に入った。確かに彼らは自由を得たと言える感じがするが、果たして自分は自由を得ているのだろうか? 

 

 女は怪訝に思った。

 

 今まで女が歩んできた過酷な人生を鑑みると、自由であったと言えなくもないのかもしれない。しかし、その時の女には自由かどうかなど考える余裕も、心のゆとりもなかった為、今の自分が自由を得ているという実感が全くなかった。

 

 でもそんな中、女の頭を過るものが一つあった。

 

 “死”だ。

 

 世界という鎖から解き放たれた、ということは、それはつまり自分が死んでしまったからではないだろうか? 女はそう思った。そう思った途端、ここに来てから抱いていた疑問が次々と解けていった。

 

 崖から落ちたのに全く別の場所にいるのは、自分が死んでしまったから。

 

 あれ程傷だらけだった体が綺麗になっているのは、自分の体が死んで、今ここにいる自分が人魂、つまり霊体だから。

 

 自分が死んでいるのなら今、自分がいるこの場所は死後の世界。そして今、自分の目の前に立つこの男は、先程の言葉から想像するに死神なのだろう。

 

 そこまで自己解決した所で、先程まで起伏が激しかった女の心が、凪いだ海のように鎮まった。

 

 「(嗚呼、やっぱり私は死んでたのね……。でも、何も感じない。目が覚めた時は、死んだかもしれないことに、ちょっと安心感を感じたけど、本当に死んだってわかったら、思いの外、何も感じないのね……)」

 

 先程まであった焦りも、死んでしまったことに対する悲しみも、辛いことから解放された安堵も、女が自身の死を理解した時、何も感情は動かなかった。いざ死に直面してみると、それが当然なのかもしれない。

 

 しかし、それでも感情が動かない自分のことが、女には滑稽に思えて仕方なかった。

 

 「死んだ? それは違うよ。お嬢さんは死んではいない」

 

 「ッ!?」

 

 まるで心を見透かしたような男の言葉に女は吃驚した。

 

 「確かにお嬢さんはこの世界という鎖から解き放たれた。しかし、それはお嬢さんが死んだという意味ではないのだよ」

 

 「じ、じゃ…どういう意味……ですか?」

 

 「大丈夫。すぐに分かりますよ、お嬢さん」

 

 女の問い掛けに答えず、男はそう言って女の頭をまたも撫でた。

 

 「ほら、見つけましたよ」

 

 「……え? ッ!?」

 

 男がそう言った瞬間、女の体が物凄い力で後ろへと引っ張られた。視界が一気に遠退いていく。しかし不思議なことに、遠退いていく女の視界に映るには、遠退いていく男と色彩を放つ茜空の草原。そしてその光景が切り取られたよう広がっていく闇だった。

 

 「待って…! どういうこと……!?」

 

 遠退く程に広がる闇。既に彼方になりつつある男がいる景色に必死に手を伸ばす女だったが、伸ばす手は空を切り、遂に景色は闇に消え、女の意識も再び闇へと沈んで行った。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 「ッ!?」

 

 目を覚ますと、女の視界には切り立った岩肌が広がっていた。

 

 「…? 痛っ!?」

 

 体を起こそうとした瞬間、女の体に激痛が走った。体が鉛のように重く、指一本動かすことができない程、女は体に力が入らなかった。

 

 視線だけを動かして自分の体を見てみると、体中には痛々しい傷が刻まれていた。

 

 「(傷がある……)」

 

 民衆から石礫を投げつけられ、崖から転落して無傷な方がおかしい。抉れた肉と滲む赤黒い血を見ながら、女は心なしか落胆したような表情を浮かべた。

 

 「(夢…だったのかな? でも、それにしてはとってもリアルだったけど……)」

 

 動かない手の代わりに女は自分の頭に意識を集中する。微かだが、そこにはあの黒衣の男から撫でられた感触が残っていた。

 

 「(本当に、夢だったのかな? もしかしたら、本当だったのかも……)」

 

 いつもなら夢幻で終わらせる女だが、妙に現実感のある瞼裏の残像と、頭に残る温もりが、女にそう思わせることを許さなかった。

 

 意識はハッキリしているのに体の感覚が殆ど感じられない。それもそうだろう。満身創痍な状態で崖から落ちたのだ。生きていることが奇跡と言える。

 

 しかし、このままここに居続ければ、今度こそ確実に女は黄泉路の川を渡りきる。

 

 そろりそろりと死の手が女に忍び寄っていく。

 

 その時、笛の音色が響き渡った。

 

 「……ッ!」

 

 音もよく聞こえない状態の女だが、その音だけはハッキリと聞き取った。夢か現か分からないが、女にとってはつい先程聞いたばかりの音色だった。

 

 微かに地面から伝わる振動。誰かがこちらに近づいてくる足音が感じられる。それと共に笛の音も次第に大きくハッキリ聞こえてくる。

 

 感覚が殆ど感じられない体に無理やり力を入れ、女はこちらへ近づいてくる者の姿を見ようと首を持ち上げる。

 

 錆び付いた歯車のようにぎこちなくゆっくりとした動きで少しだけ頭を上げられた女は、笛の音が聞こえる方へと視線を向けた。

 

 若干霞む視界に映るのは、明瞭になったり滲んだりする景色と、こちらへ近づいてくる人影の群れ。その群れはまるで大きな蛇のようにゆらりゆらりと蛇行しながら近づいて来ていた。

 

 まだ黒い人影としか判断できないが、女にはそれが誰なのか分かった。

 

 笛の音と共に歌声も聴こえてくる。女の脳裏にその者たちの姿が思い浮かぶ。

 

 「(やっぱり夢じゃなかった……!)」

 

 落胆していた女の心が生気を取り戻していく。死にかけている体に再び鞭打って立ち上がろうとする。激痛を感じてるはずだが、今の女には全く痛みなど気にならなかった。

 

 錆び付いた歯車を無理やり回すように体の節々に力を入れる。ボロボロで動くはずもない女の体。その筈なのに女の体は少しずつ動き出す。

 

 ゆっくりと上体が起き上がり、両手を支えに両足でしっかりと立ち上がる。

 

 不思議なことに笛の音色と歌声が近づく度、女の体は力を取り戻していく。女が力を取り戻し、立ち上がる度に女の体に刻み込まれた痛々しい傷跡が消えていく。

 

 一つ、また一つと女の体から傷が消えていき、遂には両足でシッカリと立ち上がり、近づいてくる人影たちへ向かい合った時には、女の体は傷一つ付いていない綺麗な肌へと回復していた。

 

 「ごきげんよう。赤い髪のお嬢さん」

 

 女の目の前で人影たちは立ち止まる。それと同時に笛の音色と歌声も止んだ。そして人影の先頭にいる男が女の深々と頭を垂れる。

 

 先程まで女と対面していた漆黒を纏った仮面の男。その彼が再び女の目の前に現れる。

 

 「夢じゃ、ない……?」

 

 女は自分の頬を抓る。鈍い痛みがジーンと頬に伝わる。その痛みが女に夢でないことを痛感させた。

 

 「ほら、言っただろう? お嬢さんは死んでいないと」

 

 そう言って男は少し屈んで女に目線を合わると、悪戯が成功して喜ぶ子供のように笑った。

 

 確かにそうだった。女は死んでおらず、目覚める前に男が言っていた通り、女は虫の息ではあったが生きていた。

 

 「え?」

 

 男の言葉に女は無意識に自分の胸、心臓がある部分に手を触れた。鼓動は一定の感覚で脈打っているのが、女の掌に伝わってくる。

 

 しかし、伝わる鼓動を感じてすぐ、女は自身の体の異変に気が付き目を見開いた。目覚めた時に確認した自分の体に刻まれた傷跡が跡形もなく消えていることに女はたった今気が付いた。

 

 ボロボロの衣服は変わらず、生身だけがまるで湯浴みをしたようにきれいになっていた。その姿は正しく夢幻で見た女自身の姿だった。

 

 「さぁ、お嬢さん。お嬢さんはこの世界という鎖から解き放たれた。我々は来る者は拒まない。しかし、去る者は決して許さない。楽園パレードへ、ようこそ」

 

 傷の消えた体に驚く女を待たず、男は夢幻で女に言った言葉をもう一度言い、これまた夢幻と同じように女に頭を垂れた。男の後ろに続いていた道化の一団もまた、一斉に女に頭を垂れた。

 

 立ち位置は違えど女がこの光景を見るのは二度目だった。しかし、それでもやはり女は困惑してしまう。

 

 「……何で、私なんですか?」

 

 多少の躊躇を残しつつも夢幻の世界とは打って変わり、女は言葉を詰まらせずに男にそう尋ねた。

 

 「何故、とは?」

 

 男は女の質問に質問でそう返した。

 

 「私は……私には、何もない……。生まれてすぐ親に捨てられて、育ててくれた人も、嫌嫌育ててたみたいで、愛情なんてこれっぽっちも与えられたことがない……。碌な教養も受けられなかったけど、独学で色んなことを学んで、身に付けてきたけど、だからって私が秀でていたわけじゃない……。“彼ら”の姿が見えるから、私は世界の鎖から解き放たれたの……?」

 

 「いいや、お嬢さんの言う“彼ら”の姿が見えるかどうかは関係ないよ。事実、私の後ろを御覧なさい。彼らも元々はお嬢さんと同じだった。ただ一つ、お嬢さんと明確な違いがあるとするなら、“彼ら”という存在が見えていないことです」

 

 「え……!?」

 

 女は男の返答に驚きを隠せなかった。男の口振りからして彼の後ろにいる一団も、自分と同じく世界の鎖から解き放たれた者たちであると女は予想していた。女のその予想は当たりだった。

 

 しかし、一つ違うところがあった。

 

 それが“彼ら”の存在が見えるか見えないかだ。

 

 女は世界の鎖から解き放たれる共通点は、“彼ら”の存在が見えることだと思っていた。女は死の淵に立ったことで、今まで謎だった“彼ら”の正体が、人の魂なる存在ではなく、人の強い“想い”であると理解した。そう言った稀少な能力を持つものが世界の鎖から解き放たれると予想していた女だったが、男から帰ってきた回答はNOだった。

 

 女の考え通り、“彼ら”の姿が見える稀少な能力を持っていることで選ばれたのだとしたら、女は落胆していた。

 

 今までの女の人生は、他者とは違うその赤髪が原因で迫害され続けてきた。何処へ行こうとも不吉と言われる赤い髪が、周りの人々を怯えさせる。当然のことながら、女は周りの人々を怖がらせようと思ったことは一度もない。

 

 しかし、女の意志とは関係なく周りの人たちは女を恐れていく。そんな経験を経てきた女は、自身の赤い髪を疎ましく思った。

 

 そしてその思いは歪み、赤い髪に限らず、他者とは異なる“特別”というものを女は疎ましく思うようになった。

 

 故に女は、“彼ら”の存在が見える、という“特別”な能力を持っていることで、世界という鎖から解き放たれたという事実に落胆しそうになったのだ。

 

 黒衣の男の話を聞き、彼も今までの人たち同様に自分を特別と判断するのか、と女はうんざりした。

 

 だが、現実はそうではなかった。

 

 「……じゃ、どうして私は、選ばれたの……?」

 

 困惑する女は男に尋ねた。

 

 「残念だが、それは私にも分かりかねるよ」

 

 男はそう言って手を上げて軽く首を傾げた。

 

 またも予想外の返答に女は唖然とした。

 

 黒衣の男が率いる一団は皆、女と同じく世界という鎖から解き放たれた者たちであると、黒衣の男は言っていた。男の口振りから見て、一団の彼らは男の手によって見つけられ、一団に加えられたことが予想される。そこから黒衣の男には、解放された者の居場所を特定できる力があり、どういった基準で世界という鎖から解放されるのかを知っているはず、と女は考えていた。

 

 しかし、男から帰ってきたのは、男自身もその基準を知らないというものだった。

 

 では、何が基準となっているのか? 

 

 何故、自分は解放されたのか?

 

 女は益々混乱していった。

 

 「それはそんなに重要なことなの?」

 

 「え……?」

 

 混乱でぐるぐると回る女の頭に、鈴が鳴るような声が凛と響き渡った。その声を聞いた瞬間、女の頭の中から一瞬だけ混乱が消え去った。

 

 女が声のした方へ視線を向けると、そこには夢幻の世界で黒衣の男の肩に座っていた白い少女がいた。少女は、夢幻の世界とは違って男の肩から降りており、女を不思議そうな面持ちで見つめていた。

 

 「特別だから選ばれた。それは、貴女にとってそれほど重要なことなの?」

 

 そう言って少女は首を傾げて女に尋ねた。客観的に見ればそれほど重要なことではないが、女にとっては重要なことだった。しかし、重要と言っても、所詮は女の我儘と言っても過言ではないだろう。

 

 だが、我儘であったとしても、これまで不遇な人生を歩んできた女にとって、特別という言葉は良い意味ではなく悪い意味としての印象が強く、どうしても特別というものが関わってくる事柄を喜ばしく思えなかった。

 

 「……」

 

 少女はジッと女の瞳を見つめる。雪のように真白な少女の瞳。その穢れのない瞳に見つめられた女の心は揺れた。

 

 女にとって重要な特別という言葉への疎み。その客観視すると単なる我儘とも言える執着が、目の前にいる少女の純白の瞳に見つめられていると、十数年の間に形成された他者には決して理解されないであろう特別という言葉への疎みが、まるで些細なことのように思えてくるのを、女は感じた。

 

 「…ッ! わ、私のこの髪が特別だから! 他の人たちと違う色だから…! 貴女のように綺麗じゃなくて、不吉で呪われた悍ましい色だから……」

 

 心を揺さぶる雑念を振り払うように女は自分の髪を鷲摑みにして叫んだ。その叫びには、これまで女の心の奥底に燻っていた不遇な人生への嫌悪が込められているようで、悲痛な叫びにも憎悪の怒号にも聞こえた。

 

 「この髪の所為で、私は捨てられた……。この髪の所為で、皆から恐れられてきた……! この髪の所為で私は……ッ! ずっと独りぼっちだったっ!!」

 

 谷底に女の叫びが木霊する。

 

 これまで感情を露にして来なかった反動からか、一度口から出始めた女の吐露は、収まるどころか益々加速していった。

 

 「そんなに重要なこと? 私にとっては重要なことなのよ!! 他人とは違う、その特別に今まで苦しめられてきた! 疎むのは当たり前でしょ!? ずっと彼らを助けることで誤魔化してきた。今まで最下層に立たされてきた私が、彼らを救うことでその最下層から脱することができた! あの時の私にとって唯一の楽しみであり、唯一の生き甲斐! 彼らを助けることで私は愉悦に浸れた。それしか私が生き続ける糧はなかったから……っ!」

 

 女の吐露によって心の深淵に潜んでいた暗い感情が姿を現した。幼少の頃より続けてきた“彼ら”への救済。女にとってそれは正に唯一の生き甲斐だった。救済の切っ掛けとなった放浪の巫女が見せた舞いに影響され、その巫女のように誰かを救いたいという強い思いが、彼女を突き動かしていたの確かだった。

 

 しかし、その裏で女の心には、女自身も知らない内に優越感が生まれていた。出自は異なれど、女も人の子。故にその心には光もあれば、闇も存在する。女の中で秘かに生まれたその闇は、心の深淵に潜み、女の成長と共に大きく育っていった。

 

 「貴女のようにその美しく神々しい姿であれば! でも、それは敵わないこと。ほら、御覧なさい。この禍々しい血のように赤い髪を……!」

 

 忌々し気に両手でその赤い髪の毛を鷲掴みにして、女はその場に崩れ落ちた。地面に涙の雫がポタポタと滴り落ちる。

 

 少女たちはその様をただ静かに見つめていた。少女たちの目の前にいるのは、白い少女よりも年を重ねた赤い髪の女。しかし、癇癪を起しているように泣き叫ぶ女の姿は、まるで白い少女よりも幼く見えた。

 

 「皆のように友達が欲しかった……。皆のように働いてみたかった……。皆のように町の人と世間話をしてみたかった……。皆のように恋をしてみたかった……。皆のように結婚してみたかった……。皆のように……普通の生活を送ってみたかった……っ! 皆のように! 家族に愛されたかった……っ!!」

 

 それは女が欲したものであり、女が得られなかったものだった。普通の生活。誰もが当たり前のように送っている日常生活を女は渇望していた。そして最も女が求めていたものは“愛情”。女は誰かから愛されたかったのだ。逃亡の道中、女は数多くの愛情を目の当たりにしてきた。手を繋ぐ恋人、寄り添いあう老夫婦、慕いあう兄弟、そして夫と妻と子供の仲睦まじい家族。終末が近づいていると言われるこの世界で微かな希望に縋り愛する者と生きている彼らの姿が、女にはとても眩しく見えて、思わず手を伸ばしてしまう程だった。

 

 「うぅ……っ! うぅぁ……あぁぁっ……」

 

 溢れ出る感情を吐き出し続けた女は、もう嗚咽を零すしか内のものはなくなっていた。女の吐露が終わり谷底には、女のすすり泣く声だけが木霊する。

 

 そんな女に少女はそっと近寄る。そしてゆっくりとそのか細く白い手を差し出すと、黒衣の男がやったように赤髪の女を撫でた。

 

 「っ!」

 

 「頑張ったんだね。偉いね」

 

 鈴が鳴るように綺麗な声。男の声とは似ても似つかないが、少女のその声は男と同じでとても優しさに満ち溢れていた。

 

 自分よりも年下の少女に頭を撫でられ、初めて労いの言葉をかけられた女は、一瞬困惑した。しかし、直ぐに涙が更に溢れ出てきた。初めてだからこそ、女はとても嬉しかった。

 

 女を撫でる少女の手は、頭の天辺から滑り、女が疎んでいる赤い髪を今度は優しく撫で始めた。

 

 「貴女は、この髪を嫌っている。貴女は、私の白い髪が綺麗だって言ってくれたけど、私は貴女のこの髪も綺麗だと思うわ」

 

 「は……?」

 

 本日何度目かの驚愕だった。少女から発せられた言葉に思わず女は素っ頓狂な声を漏らしてしまった。

 

 今、眼前の少女は何と言った? 女は我が耳を疑った。先程まで女は自身の赤い髪への疎みを吐露した。これまで誰一人として女の赤い髪を好意的に見た者はいなかった。

 

 しかし、少女は違った。女の人生で初めて、女は疎み続けてきたその赤い髪を綺麗だと褒められたのだ。

 

 「え……? な、んで……?」

 

 少女の誉め言葉に女の頭は理解が追いついておらず、上手く言葉を作ることが出来ないでいた。

 

 「皆、貴女の髪を悪く言うけど、私は綺麗だと思うわ。血みたいに赤黒い色じゃなくて、夕日みたいに暖かくて輝いてる光のような赤。だから全然怖くないわ。寧ろ、とっても綺麗な髪をしていて、私も羨ましいと思うわ」

 

 そう言って少女は女の髪を撫で続けた。何度も何度も、優しい手つきで髪を解かすように撫で続けた。

 

 「うら、やまし、い……?」

 

 もう女には訳が分からなくなっていた。濃密すぎる展開が短時間で女に押し寄せすぎ、女のキャパシティーはもう既に限界突破してしまっていた。

 

 「私は髪も肌も真っ白だから、色鮮やかな赤い髪をしてる貴女が、羨ましいわ」

 

 片手で女の髪を持ち、もう片方の手で少女は自分の白い髪を持ち、お互いの髪を比べるように交互に見比べた。左手に持った自身の白い髪は、色素が全くなく汚れを一切感じさせないほど透き通るような真白だった。右手に持った女の赤い髪は、少女の白い髪とは相対して、目を惹かれる鮮やかな夕焼けのような燃える赤い色。少女は愛おしむように女のその赤い髪に頬擦りをした。

 

 「~っ!?」

 

 少女の誉め殺すような言葉と、忌み嫌われてきた自身の赤髪を愛おし気に頬擦りする少女の行為に女は赤面する。気恥ずかしさからくる照れと、嬉しさからくる喜びが入り混じった感情が女の中で渦巻く。

 

 「で、でも……。私……」

 

 女は何かを言おうとするが、何を言っていいのか分からなかった。少女からの言葉は女にとって素直に嬉しいものだった。しかし、これまで忌み嫌われ続けてきた故、女は少女の言葉に裏があるのではないか、と勘繰ってしまい咄嗟に少女の言葉を否定しようとした。だが、女はその少女の言葉を否定する言葉を見つけられず、口籠ってしまった。

 

 「大丈夫」

 

 口籠ってしまう女に黒衣の男はそう語りかける。

 

 「え……?」

 

 何が大丈夫なのか、男に尋ねようとした瞬間、男が先に口を開き二の句を継ぎ始めた。

 

 「ここには、そんなつまらないことでお嬢さんを否定する者などいないよ。これまでお嬢さんが歩んできた道のりは、確かに苦渋に満ちていた。しかし、今やお嬢さんはそんな苦渋に満ちた世界から解放されたのだよ! どんな理由であれ、お嬢さんが解放されたことに変わりはない。拒む気持ちがあるのならそれで構わない。我らはそれでもお嬢さんを喜んで迎え入れよう」

 

 そう言って黒衣の男は赤髪の女の頭をまた撫でた。白い少女もそれに続き、女の頭を撫でた。涙が流れ続け、照れと喜びで赤面した女の感情がグチャグチャになったその顔から、今以上に涙が溢れ出した。

 

 「うぅ…あぁぁ……っ!!」

 

 不思議な雰囲気を纏う黒衣の男と白い少女。突然女の目の前に現れた素性の分らない怪しげな一団。そんな者たちの言葉は、普通ならとても聞き入れられるものではないのだが、何故か赤い髪の女はその二人からの言葉を素直に受け取ってしまう。怪しいと疑う考えや受け取ってはいけないと否定する考えはあるにも関わらず、女の心がそれらを振り払って二人からの言葉を受け入れたがった。

 

 「こちらのお嬢さんの白い髪も美しいが、こちらのお嬢さんの赤い髪もまた美しい。それぞれに違った美しさがある。とても素晴らしい魅力だね」

 

 黒衣の男は左手で白い少女の頭を撫でながらその白髪に触れ、右手で赤い髪の女の髪に触れた。撫でられた少女は擽ったそうに微笑む。それに釣られて泣きじゃくる女も、涙を流しつつ少し照れ臭そうに微笑した。

 

 「さぁ、もう泣くのはお止しなさい。お嬢さんは、笑った方が素敵ですよ」

 

 男はそう言って女の涙を指で拭った。女は赤く腫れ上がらせた目元に涙を貯めながらも、男の言う通り泣き止んだ。

 

 泣き止んだ女を見て男と少女は満足そうに笑った。そして、立ち上がりもう一度女に手を差し伸べ、こう言った。

 

 「さぁ、お嬢さん! 貴女はこの世界という鎖から解き放たれた! 我々は来る者は拒まないが、去る者は決して許さない。楽園パレードへようこそ」

 

 夢幻の世界の時、現へと戻った時、そして今この時。

 

 三度聞く男からの言葉。最初は何にことか分からず首を傾げた。二度目に聞いた時は、未体験の感覚に戸惑いそれどころではなかった。そして今回、多少の感情の混乱はあるが、女は男の言葉をシッカリと聞き理解した。戸惑いや疑念が全くなくなったわけではないが、それでも先程まで女の中に根付いていた特別への疎みは、明らかに小さくなっていた。

 

 三度目になる頭を垂れお辞儀する男と少女、そして一団の姿を目の当たりにする赤髪の女。

 

 女は目元に溜まった涙を拭う。

 

 足に力を入れ再び立ち上がる。

 

 改めて赤髪の女は、黒衣の男たちに向き直った。それに応じるかのように黒衣の男たちも頭を上げ、女に向き直った。

 

 女の視線と男の視線が交差する。女は男の仮面に覆われ闇に包まれている目を見つめる。その瞳には力強い光が灯っていた。

 

 「……私を、連れて行って…!」

 

 「……勿論」

 

 男はニヤリと笑った。

 

 黒衣を翻し、男は懐から笛を取り出し、それを合図に少女は男の肩へと飛び乗り、一団は楽器を構えだす。

 

 そして笛の音が響き始める。

 

 深く切り立った崖の底。誰も訪れないであろうその場所で、音楽が奏でられている。壮大な大演奏が響き渡っている。

 

 「ねぇ、お姉さん。踊って?」

 

 「え? でも……」

 

 少女は女にそう頼んだ。しかし、女は少し渋る。女の中にある小さくなった不安と戸惑いが、最後の抵抗でもするように女を渋らせる。

 

 「大丈夫。お姉さんの思うままに舞い踊って」

 

 しかし、その女の中に燻ぶる最後の抵抗も空しく、少女の純真無垢な微笑みに照らされ、女の中に燻ぶる疑念や不安が、まるで日の光を浴びた魔性の者のごとく消え失せていく。

 

 「……わかったわ」

 

 女は目を閉じ、心を静める。耳を澄まし、音を聞く。その所作に淀みはない。これまで何十何百と繰り返し続けてきた舞う為の心構え。

 

 「……」

 

 女の頭に走馬灯が駆け抜けていく。今日で二度目になる女自身の半生。捨てられた光景、虐げられた光景、巫女の舞いを見ている光景、それを真似て舞う自分の光景、彼らを助ける為に行脚する光景、民衆に追い立てられる光景、崖の先端で満身創痍になりながらも舞う自分の光景。死の淵に立ったあの時、女の脳内を駆け巡った半生の記憶。これから死ぬわけでもないのに、何故かその記憶が走馬灯となって女の脳内を駆け抜けていった。

 

 いや、これはある種の死であるともいえるだろう。

 

 崖の先端で死の淵に立ったあの時、女は本心からあそこで死ぬつもりだった。命を燃やし、女は誰もが辿り着く肉体の死へと向かっていた。故にあの時、女の脳裏に走馬灯が走った。

 

 しかし、今は違う。女の肉体は死へと向かっているどころか、活性していた。今、女の脳内を駆け抜けているのは、肉体の死という滅びに対する走馬灯ではなく、この世界という鎖から解き放たれたことで理から逸脱した。普通の者たちとは異なる存在になろうとしているそれは、通常の人間としての“死”といえる。

 

 女は舞い始めた。

 

 腕を振るう。痛々しい思い出が一つ消えた。足が弧を描き回る。悲しい思い出が一つ消えた。両手を広げ、天に掲げる。辛い思い出が一つ消える。女の中に燻る影が、燃えていく。それを糧に女の舞いは加速していく。

 

 「フフッ……すぅ、♪~~♫~」

 

 舞い始める女の姿を見て、少女は嬉しそうに微笑む。そして少女は歌い始めた。凛とした歌声が、数十数百ある楽器の演奏にも負けず崖の底に響き渡った。

 

 黒衣の男の笛の音。白い少女の歌声。一団が奏でる演奏。それらに包まれ赤髪の女が舞い踊る。

 

 音色が、歌が、演奏が、女が舞い踊る度に光の糸となって女に巻き付いていく。一本の光の糸は、幾重にも重なっていき女のボロボロの服を転化させていく。土埃や血に汚れた服が、幾重にも重なった光の糸の輝きに覆われていく。そして舞い踊る度に輝きを纏っていき、舞い踊る度に輝きから美しい絹を纏った女の体が顕わになっていく。

 

 輝きが辺りに舞い散り、その中から朱色の衣を纏い、赤色の長い髪を靡かせ、緋色の瞳を輝かせながら舞い踊る、赤い髪の女、いや赤い髪の舞姫が姿を現した。

 

 その身は、日の光も届かない地の底に天から差し込んだ茜色の一筋の光に照らされ、まるで炎を纏っているようであった。

 

 燃え盛る炎を纏ったような今の女には、もう迷いも疑念もなくなっていた。女の心に燻っていた微かな影は、たった今、完全に燃え尽きたのだ。

 

 差し込んできた一筋の夕日の光を切っ掛けに、天から茜の輝きが降り注ぎ崖の底を赤く照らしていく。闇に覆われていた崖の底は、一瞬にして炎に包まれたように茜に染まっていった。

 

 「さぁ、諸君。行こう!」

 

 笛の音を一瞬止め、男は高らかにそう言った。そして一団は動き始めた。

 

 「舞姫よ、我らを先導してはくれないか?」

 

 「え……!?」

 

 唐突に思いもよらぬことを言い出した黒衣の男に赤い女は驚愕する。ついさっき一団に加わったばかりなのにも関わらず、一団を導けと言われて直ぐに了承する者はそうはいないだろう。

 

 「大丈夫。考える必要はない。ただ舞い続けていればいいのだよ。そうすれば、自ずと道は開けていくものさ」

 

 戸惑う女に男は安心させる為にそう言った。俄かには信じられない言葉であるが、心の影が完全に焼き尽くした女には、男のそれだけの言葉があれば十分だった。

 

 「……分かったわ。やってみる…!」

 

 表情から戸惑いの色が消えた女は、再び舞いを再開する。言われた通り、女は何も考えず舞いに集中し始める。ただ感じるままに舞い踊る。彼らへ祈りを捧げていた時のように。

 

 すると不思議なことに、女の体は自然と何処かに吸い寄せられるのを感じた。まるでこっちにおいでと誘われているようだった。

 

 「(凄い……。でも、何処へ向かっているんだろう?)」

 

 舞い踊りながら女は不思議にそう思った。すると女の頭の中に男の声が木霊した。

 

 「(目的地など無いのだよ。我々はただ、世界という鎖から解き放たれた者たちを見つけ、我がパレードに加える。それだけさ)」

 

 「(っ!? そう、なのね)」

 

 脳内で交わす会話に女は驚くが、ここまでもっと驚愕することがあった為、また、不思議な雰囲気を纏う黒衣の男ならできるだろう、と女は納得しそれ以上気に留めなかった。

 

 不図、女はあることを思い出した。それは男について尋ねることだった。夢幻の世界で男から質問はないか、と尋ねられた時、女の中に溢れていた疑問の一つとして、男が何者なのかというものがあった。しかし、結果としてその質問をすることはなかった。

 

 心に燻っていた影が消えた今、女は何気なくそんなことを思い出した。そして言葉にはせず、頭の中で男に語り掛けてみた。

 

 「(貴方は、何者なの?)」

 

 返事が返ってくるか、ちゃんと相手に伝わっているのか、少し不安を感じた女だったが、それは杞憂に終わった。

 

 「(フフッ、私かい? 私は“アビス”。世界という鎖から解き放たれた者を率いる、この楽園パレードの先導者さ)」

 

 黒衣の男、アビスは女の頭でそう返答した。

 

 「アビス……」

 

 女はその名を呟き舞いの最中、背後にいる男をチラリと盗み見た。そんな女の考えを見通していたかのように、一瞬の中でアビスは女の目を見つめ返し、笛を奏でながら微笑んで見せた。

 

 やがて道は開け、一団は崖の底から抜け出した。

 

 彼らは開けた道の先、夕焼けの光が広がる白の世界へと入っていく。彼らは光の中へと消えていき、後には彼らの演奏だけが彼方へと響き渡る。

 

 次は一体、何処へと行くのだろうか?

 

 to be continue



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第3章

 「フンフ〜ン」

 

 よく晴れたお昼時。楽しげな鼻歌を口ずさみながら、小さなシスターは選択し終えた衣類を干していた。

 

 まだ十五を越えていないであろう幼さを感じさせるシスターは、その小さな体をせっせと動かし、自分の身の丈よりも高く積み上げられた洗濯物の山をあっという間に干し終えた。

 

 「よし! じゃ、次は―――――」

 

 洗濯物を干し終えたシスターは、いそいそと教会の中へと入っていくと次の仕事に取り掛かった。

 

 次の仕事は掃除だった。用具入れから箒と塵取り、バケツにブラシを担ぎ出し、黙々と教会内の掃除に取り掛かった。

 

 シスターが勤めてるその教会は大きいとは言えない広さではあるが、決して小さく狭い訳ではない。

 

 出入り口。

 

 廊下。

 

 事務室。

 

 応接室。

 

 寝室。

 

 そして、礼拝堂。

 

 シスターはそれらの場所を“一人”で掃除した。その間、教会の中には掃除の音だけが寂しげに響き渡っていた。

 

 全ての掃除を終えたのは、空が茜色に染まった頃だった。

 

 「ふぅ〜、じゃぁ次はーーーーー」

 

 休む間もなく、シスターは次の作業に取り掛かろうとした。

 

 掃除用具を片付け、一度外に出て服に付いた埃を手で一通り払うと、再び教会へと入っていき最後に掃除した礼拝堂へと向かう。

 

 礼拝堂の奥。その中央には教会で信仰している神の像が荘厳な雰囲気を放ち鎮座していた。シスターはそんな像の前に膝をつくと静かに目を閉じ、神への祈りを捧げ始めた。

 

 窓の外から射し込む夕焼けが段々と薄らいでいき、外はあっという間に夜の闇に覆われてしまった。その間、シスターは鼻で行う呼吸以外、微動だにせず黙々と祈りを捧げ続けていた。

 

 「フゥ︙…」

 

 小さく息を吐き漸くシスターは立ち上がる。シスターは数時間にも及んだ祈りを終えると、すっかり暗くなった礼拝度をそそくさと後にした。

 

 礼拝堂を出ていったシスターが向かったのは、教会の中にある就寝用の部屋だった。事務所の隣にあるその部屋は、本来は教会に務める聖職者たちや教会を訪れた来客用に作られた寝室だ。

 

 寝室はガランとしており、窓の近くに置かれている質素な作りのベッドと枕元に置かれている小さな机、そしてベッドの足元に置かれているクローゼットしか物はなかった。

 

 枕元の小さな机の上に置かれた古びたランプに灯された小さく淡い炎の灯りだけが暗い部屋の中を照らす。

 

 しかし、それでも寝室内は薄暗い。五、六人の人が眠れるであろう広さの中、一人用のみ置かれたベッドやクローゼットは、薄暗い部屋と相まってとても寂しげに感じられる。

 

 そんな中、シスターは修道服から寝間着へと着替えていた。シスターが着ていた修道服は、掃除や洗濯で汚れているだけでなく、明らかに着古した解れや傷が所々にあった。

 

 脱いだ修道服を丁寧に畳むとそれをクローゼットの中にしまう。開けられたクローゼットの中にも物は殆ど入っていなかった。中に入っていたのは、一着の寝間着のみで、シスターはその寝間着を取り出して代わりに綺麗に畳まれた修道服をクローゼットの中に入れる。取り出した寝間着も着古した感じが見受けられる。しかし、シスターはそんなことは気にも止めず、慣れた動きで寝間着へと着替え終える。

 

 流石に朝から働き詰めだったこともあり、幼さを感じさせるシスターはうつらうつらとしていた。フラフラになりながらベッドの方まで歩いて行き、そのままベッドへと倒れ込む。

 

 「……ハッ! いけない! いけない! 忘れるところだった」

 

 そのまま夢の世界へと旅立とうとした瞬間、シスターは忘れていたことを思い出し、急速に現実へと戻ってきた。

 

 倒れ込んだベッドの上で慌てながら身嗜みを軽く整えると、闇が密集する天井、その先に広がる天空を見つめ、再び神へと祈りを捧げた。

 

 「神様、今日も私たちを見守って下さり、ありがとうございます。そのおかげで今日も生き延びることができました。お迎えが来られるその日まで、頑張ります! 明日もどうか、お守り下さい。おやすみなさい」

 

 深々と天に頭を垂れ、神へ就寝の挨拶を済ますと、机のランプに灯る火を消し、今度こそベッドへと潜り込んだ。瞼を閉じるシスターは、満足そうな笑みを浮かべたまま夢の世界へと入って行った。

 

 これがシスターの一日である。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 その教会には、嘗ては多くの人が訪れていた。

 

 優しい神父様がいて、数人のシスターが、日々訪れる悩める者たちを救済するべく奔走していた。多忙と言う程、人が押し寄せていた訳ではないが、それなりの充実感が感じられる奔走具合だった。

 

 しかし、時代は混沌を極め、平穏はあっという間に打ち砕かれてしまった。人々は信仰心を捨て去り、神という曖昧な存在を信じ得られる安寧よりも、物資から得られる明確な安寧を求め奪い奪われということを繰り返した。

 

 力の強い者、頭の働く者は、多くの物資を略奪することができる。しかし、そうでない者たちは、ただひたすら奪われ続ける。

 

 多くの人が狂った。

 

 多くの人が殺された。シスターもその中の一人だった。

 

 まだ齢五つも迎えていなかった幼少の頃、シスターの家に賊が押し入った。金目の物や食料を強奪し、家人である両親を殺害。幸い、幼かったシスターを殺める程、賊は狂っておらず、シスターには危害を加えず賊は逃走していった。

 

 その後、シスターは孤児院へと預けられた。時代が時代な為、子供一人を養う余裕を持つ者は、シスターが生まれた村の中には居なかった。

 

 だが、その孤児院でシスターは運命の出会いを果たすこととなる。

 

 それは神父との出会いだった。

 

 教会は、人々救済するべく、村々を廻り神の教えを説くという行いを実施していた。信仰心が薄れつつあるとは言え、略奪される弱者たちにとっては、正に地獄で仏に会うといった心境である。彼らは藁にも縋る思いで教会の説法に耳を傾け、いや、この場合は耳を捧げたと言っても過言ではない。そうすることで心が疲弊しきっていた彼らは、僅かばかりの安寧に浸ることができていた。

 

 その説法は、シスターが預けられた孤児院でも行われた。

 

 純真無垢な子供たちと言えど時代の影響を受け、尚且つ、親を失った子供たちが集まる孤児院には、一般的な家庭で暮らす子供たちよりも明らかに笑みが絶えていた。

 

 そんな中、孤児院を訪れた教会の神父とシスター。彼らの説法は始めこそ子供たちの閉ざされた心を開くことはできなかったが、説法を語り始めて暫くすると、流石は神に仕える信徒と言うだけあって慈悲深さ溢れる彼らの語り口調によって、死んだように静まり返っていた子供たちの顔に笑みが戻り始めていた。神父とシスターが語り終える頃には、子供たちにはすっかり明るい純真溢れる笑みが戻っていた。

 

 後にシスターとなる幼年の少女もまたその中の一人だった。

 

 その時、彼女は思った。「本当に神様は存在するのだ」と。

 

 彼女の家族は熱心な信徒だった。物心がつく頃より彼女は両親から神の偉大さと祈りを欠かしてはならないことを教えられて育った。だから神の存在を疑ったことなどなかった。しかし、件の悲劇を目の当たりにしたことで彼女は一時、神の存在を疑った。

 

 そんな時に現れた神父の存在は、彼女にとって正に失われたと思った神の再臨に等しかった。

 

 最初は、彼女も他の子供たちと同様に期待など抱いてはいなかった。だが、実際に神父の説法を目の当たりにしてみると、視界は百八十度ガラリと変わった。闇が漂っているかのような雰囲気の周りの子供たちが、次第に一人二人と笑みを浮かべだす。そして終いには、あんなに暗い雰囲気が漂っていた孤児院から希望に満ちた笑い声が溢れかえっていた。

 

 自分も気がつけば楽しげに笑っていたことに彼女は内心驚いていた。そして神の身技を刮目したような歓喜を胸に抱きつつ、彼女は強い憧れを覚えていた。

 

 「あたしも、神父様みたいに、みんなを笑顔にしてあげたい……!」

 

 両親の育児の賜物か、彼女の元来の性格によるものなのか、彼女は非常に面倒見が良く、他者に対して慈しむ気持ちが人一倍強い子だった。両親を一夜にして失ったにも関わらず、彼女は自分よりも他人を気遣った。他の子と変わらず、辛さや悲しみに苛まれて激しく泣き叫んでいながらも、彼女は必死に涙を堪らえようとしながら他の泣いている子を宥めようとしていた。彼女が孤児院に来た日、その様を目の当たりにした大人たちはとても驚いていた。

 

 それ程までに博愛に長け、生まれた頃から神の教えを両親から聞かされて育った彼女にとって、その日の神父との出会いは正に天啓とも言えるだろう。

 

 それからの彼女の行動は、周りが目を見張る程に早かった。まず、天啓を得たその日、神父一行が次の場所へと向かおうと孤児院を出た瞬間、彼女は久方ぶりにお腹の底から声を張り上げ神父を呼び止めた。

 

 「待って!!」

 

 その場にいる者が一斉に彼女へ視線を向ける。

 

 「あ、あたしも! 神父様みたいになりたいです!!」

 

 無駄に取り繕うことなく、彼女は自分が望むことをそのまま言葉にした。

 

 顔だけを彼女の方へと向けていた神父は踵を返し、体全体を彼女の方へと向け直した。そして片膝をついて目線を彼女へと合わせる。

 

 「私のようになりたいとは、どういうことかな?」

 

 優しい表情と口調で神父は彼女に尋ねる。

 

 「あたしも! 神父様みたいにみんなを笑顔にしてあげたいんです!」

 

 何も取り繕うことなく彼女は内にある本心をそのまま言葉にして伝えた。

 

 「……」

 

 神父はそんな彼女の目をジッと見つめ返す。彼女の瞳は宝石のようにキラキラと輝きを放っていた。そんな彼女の瞳に神父は吸い込まれそうな感覚を覚えた。

 

 それは神父が感じた天啓だった。

 

 「……いいかい? 私たちのお務めは、とても大変なものなんだよ。この孤児院で暮らすよりも厳しい生活になる」

 

 神父は神妙な面持ちで彼女にそう言う。孤児院での生活はとてもじゃないが裕福とは言えない。だが、そこで暮らす限り子供として最低限の暮らしを送ることができる。しかし、シスターになればいかに子供と言えど神に仕える者として厳しい生活を送らなければならない。

 

 神父自身、その経験がある為、目の前で自分を射抜くように見つめる少女がそれに耐えられるかどうか、神父は訝しんでいた。

 

 

 「それでも構わないと言うのなら……」

 

 神父はゆっくりと彼女に歩み寄り、スッと右の手を差し伸べる。

 

 「私たちと一緒に来るかい?」

 

 その言葉に彼女の表情が、宝石のような瞳よりも燦然と輝いた。彼女は差し出された手を強く握り返し、返事の言葉を口にする代わりに大きく首を縦に振った。

 

 こうして彼女のシスターへの道が開かれた。

 

 彼女は孤児院から教会へと移り住み、そこでシスターになる為の勉強を行いながら暮らすことになった。彼女の門出にこれまで家族同然に寝食を共にしてきた子供たち、彼女を引き取ってこれまで世話をしてきた大人たちは、その目に薄っすらと涙を浮かべながら笑顔で彼女を見送った。

 

 教会での暮らしは神父が言っていた通り、孤児院での暮らしよりも厳しいものだった。起床と就寝の時間は早く、食事もより質素になり、シスターとしての役目についてや神の教えについて学びながら遠方への布教活動にも同行。孤児院とは打って変わって自由な時間は少なかった。

 

 しかし、彼女にとってそれらは対して辛く苦しいものではなかった。一度、心の光を失いかけた彼女の前に現れた人々に笑顔を与える神の姿。その姿に憧れた彼女の行動力もさることながら、元々彼女が持っている勤勉さと純真さが合わさり、彼女に過酷な生活下であっても辛苦を感じさず変わりに満ち足りた気持ちを感じさせた。

 

 教会に来てから彼女は暗い表情を見せることは決してなかった。それは無理をして表情を作っているのではなく、本心から神に仕える者としての生活を楽しく思っているからだ。

 

 そんな彼女の様を見て教会の人たちは微笑ましく思った。混沌としたこの世の中での唯一の安らぎを彼女は周りに与えた。瞬く間に彼女の存在は教会での希望となり、その微かな希望の光は周りにもゆっくりと広がっていった。

 

 彼女は神父に付き添い方々へと布教活動に向かった。その先々で彼女の純真な笑顔によって心が荒んだ人々は癒され、次第に嘗て平穏だった頃と同じように笑みを浮かべられるようになっていった。

 

 それに伴って神父たちの布教活動は以前に比べて格段に広く浸透されていった。

 

 神父たちは喜んだ。

 

 彼女も喜んだ。

 

 彼女は混沌とした世界に舞い降りた小さな天使として教会や村々の人々から愛され慕われた。彼女がその場にいるだけで一時、人々は混沌とした世界から逃れ、安寧を得ることが出来た。

 

 しかし、そんな安寧も長くは続かなかった。

 

 神父たちの布教は確かに広まっていると言えたが、それでも世界は混沌の渦中。姿なき神の救いよりも目に見えて飢えと渇きを満たしてくれる物資の方が、求める者は遥かにいた。

 

 いくら神に仕える者と言えど所詮、神父やシスターも人である。神に仕えているからと言って皆が苦難に耐えうる心を持っているとは限らない。

 

 それは彼女が出会った神父も例外ではなかった。

 

 「クソっ!」

 

 神父は憤っていた。

 

 半年前に訪れた孤児院で天啓を受け、孤児だった彼女を引き取った。その天啓は正しく、彼女を引き取ってから布教活動は以前よりも広まった。

 

 しかし、それでもまだまだ足りなかった。

 

 信仰を取り戻す人々の数よりも信仰を捨て去る人々の数の方が圧倒的に多く、神父たちの布教活動はそれに到底追いついてはいなかった。

 

 「神よ……何故人々は御身のお言葉を聞くことが出来ないのですか……? 何故、我々の行いは報われないのですか……? 何故……? 何故……ッ!?」

 

 神父は自問自答を繰り返した。

 

 生まれてから今の時まで、驕りも怠惰も振り払い自分が信じる神への信仰に神父は全てを捧げてきた。

 

 成長するに連れて混沌を極めていく世で育ちながらも、いつか神が我々を救ってくださる。我々の行いは報われる。そう信じて苦渋に耐え忍んできた。

 

 彼女と出会いは、神父にとって兆しに思えた。彼女によって布教はより広まり、絶望に染まっていた人々に笑顔を取り戻していった。それを見て神父は確信した。これから良い方へと風向きが変わっていくと。

 

 しかし、結果的に風向きは変わらなかった。

 

 この時から神父の心の中に陰りが姿を見せ始めた。齢四十を前にしたこの時まで揺るぐことのなかった信仰心が初めて揺らいだ。神の教えに疑念を抱くようになった。

 

 「いや、違う! 神には我々には思いのつかない崇高なお考えがあるはず……。疑いは捨てろ。これまで通り、神を信じるのだ……!!」

 

 疑念を振り払うように神父は頭を左右に振る。しかし、一度芽を出した疑念の種は、神父の望みとは裏腹にゆっくりとだが大きく育っていった。

 

 成長する疑念の種は根を伸ばし、その根は徐々に神父の体に深く根付いていき、神父の心を蝕んでいった。

 

 どんなに目を逸らそうとも疑念は視界に姿を現す。どれほど頭を振っても疑念は頭から消え去らない。無意識の内に神を蔑ろにする考えが真っ先に念頭に浮かぶ。布教するのが面倒に思えてくる。祈りを捧げるのが疎かになっていく。

 

 神父の心は荒んでいった。

 

 それは一目見て分かる程、神父の容姿に顕著に表れていた。整えられていた頭髪はだらしなくボサボサ、毎日剃られていた髭は手入れされず伸び放題、着ている修道服も目に見えて泓や埃汚れで汚い有様だった。目元には隈が刻まれ、頬はゲッソリと窶れ、まるで餓えているような表情を浮かべていた。

 

 神父の変わり果てた姿に皆、目も当てられなかった。しかし、誰も神父を労わろうとする者はいなかった。いや、正確には労わることが出来なかったと言うべきだろう。上手くいかない布教活動に心を病んでいたのは神父だけではなかったからだ。他の神父たちやシスターたちも信仰心が揺らぎ始めていたのだ。

 

 皆がそんな調子では布教活動など当然、順調にいくわけもない。布教の状態は衰退の一途を加速的に辿っていった。それがより一層に信徒たちを焦燥させ、疑念の芽を育てる要因となってしまった。

 

 だが、そんな中でも彼女の純真な輝きだけは失われなかった。まだ幼いから大人たちのように疑念に苛まれないのか、それとも純真さが疑念の芽を枯らしてしまうのかは分からないが、彼女だけは変わらず神を信じ続け、いつか必ず布教を世界全土に定着して世界は平和になると信じて疑わないでいた。

 

 そんな彼女がいたからこそ、皆の疑念の芽は抑制され直ぐには花を咲かすことはなかった。

 

 しかし、所詮はたった一人の小さな抑止。そう長くは開花を抑えられるものではない。直ぐに限界がきてしまい、誰かの心で疑念の芽が開花してしまう。

 

 そしてその時は呆気なくやってきた。最初に花を咲かせてしまったのは、彼女を引き取った神父だった。

 

 疑念の花が咲いてしまえば、心の奥底に根付いた根を伝って栄養、人の精神力を吸い上げより一層花を開花させていき、最後には枯れ果てる。その時を迎えた時、宿主の心は死んでしまう。信仰などという現実的に役立てられないものを不必要として、物資という現実的に最も役立つものを必要とするようになる。それも自分本位を遵守して他者を殺してでも手に入れようとするようになってしまう。

 

 そう、正に今のこの混沌とした世界で略奪する者たちは、疑念の花に心の栄養を全て奪われ花を枯らしてしまった者たちの成れの果てなのだ。

 

 花が開花してしまった神父はすっかり人が変わってしまった。思いやりに溢れていたのに、口を開けば暴言を吐き散らすようになってしまった。信仰も完全に捨ててしまい、戒律を破り殺生による肉食と酒を飲み心に安寧を与えようとするようになった。

 

 そして一輪の疑念の花の開花に続くように一人、また一人と花を咲かせてしまう者たちが顕われ始めてしまった。小さいながらも粛々と穏やかに布教活動をしながら暮らしてきた修道院は、疑念の花を開花させてしまった者たちによって、瞬く間に見る影もない廃屋同然の荒れ屋敷へとなり果ててしまった。

 

 そんな中でも彼女はたった一人、神を信じ続けた。たった一人戒律を守り続け、たった一人一日も欠かさず祈りを捧げ続け、たった一人で布教活動の為に方々へ赴き続けた。

 

 荒くれた神父たちが教会内を荒らす度、彼女がせっせと掃除して元通りに直す。しかし、直ぐにまた神父たちが荒らしてしまう。そしてまた彼女が直す。

 

 神父たちが信仰を捨ててからこの鼬ごっこは毎日いや、日に何度も繰り返されていた。

 

 時には憤った一人の神父に彼女は殴られたこともあった。あどけない彼女の顔には不似合いな大きい青痣が作られても、彼女は泣かなかった。痛みで目に涙を浮かべることはあっても、決してそれをボロボロと決壊させることはなく、泣き言すら零すことはなかった。

 

 彼女のことを慕い、可愛がっていた近隣の村人たちは、彼女のことを哀れに思っていた。

 

 神父の堕落を風の噂で聞きつけた村人の一人が、彼女のことを心配して教会に様子見をしに行った時があり、その時に想像以上に荒廃した教会と神父たち、そして凄惨な彼女の生活風景を目の当たりにした。

 

 村人は絶句した。慌てて村に駆け戻り、村中に教会の惨状を伝えた。村人たちは希望を広めようとしていた教会の陥落に愕然とするが、それよりも彼らが慕い可愛がっている彼女を保護しなければと思い、村人たちは修道院へと向かった。

 

 しかし、彼女は村人たちの保護を断った。

 

 理由は単純。彼女は“今”彼らに救いを求めていないからだ。彼女は今の状況を憂いてはいるが、それは神が与え賜もうた試練だと考えていた。だからどれだけ修道院が荒らされようと、神父が堕落しようと、自分の身に暴力が降りかかっても、彼女は耐え抜くべき神からの試練であると信じた。

 

 いや、妄信していた。

 

 「あたしは大丈夫です。神様が見守ってくださるから」

 

 彼女はそう言っていつもの純真な笑みを浮かべた。しかし、その瞳の光は鈍く輝いていた。

 

 彼女のその言葉と笑顔に村人たちは何も言えず、ただ黙って彼女を見ることしかできなかった。これまで天使のように愛してきた幼い彼女のその表情を見て、村人たちの心に深い悲しみと憤り、そして哀れみが渦巻いた。村人たちは皆、秘かに誓った。混沌な世界に絶望した奪う意思も力もない非力な弱者である自分たちだが、そんな自分たちであっても目の前にいる幼い彼女を見守ろう。目の前であどけなく笑う彼女の悲痛な姿を忘れまいと、村人たちは決意を胸に抱き自分の両の目に焼き付けた。

 

 この時から村人たちは彼女を見守り続けた。

 

 晴天の日、曇天の日、雨天の日問わず村人たちは彼女の安否を気遣った。弱者故に彼女に降りかかる火の粉を振り払うことも、身を挺して庇うこともできない。村人たちにできることは本の微々たるもので、神父に殴られた彼女を手当てしたりお腹を空かせてはいないかと細やかな差し入れを隠れて持って行ったりと、陰ながらサポートし続けた。

 

 村人たちはこの程度のことしかできない自分の弱さと混沌と化していく世界を恨み、そして彼女の行いが報われることを願った。

 

 神父たちが堕落してから数か月が経ち、彼女の生活リズムもすっかり定着してしまった頃、事件が起きた。

 

 神父たちによる暴徒化、そして殺し合いの末に同士討ち。喧噪も何もなく一見のどかに見える昼下がりの出来事だった。

 

 「それを寄越せ!!」

 

 「五月蠅い! これは俺の物だ!!」

 

 ほんの些細な奪い合いだった。教会内、二人の神父が酒を巡って争いだした。神父たちは身の内で開花した疑念の花にどんどん栄養を与え、貪欲になり果ててしまっていた。どれだけ食べても、どれだけ飲んでも満ち足りなくなった彼らは、遂に他人の物を奪いだした。

 

 一つしかない酒瓶を互いに引っ張り合い、段々とエスカレートしていったそれは殴り合いを経て遂には殺し合いにまで発展してしまった。

 

 「死ねぇ!!」

 

 渇きと空腹、苛立ちでヒートアップした片方の神父は、奪い合っていた酒瓶を振り上げもう一人の神父の頭目掛けて、衝動任せに力一杯酒瓶を振り下ろした。

 

 ガチャン!!

 

 酒瓶が砕け、床に破片と酒が散らばり落ちる。酒に混じり割られた神父の頭から湧き出る血流が床を真っ赤に染めた。

 

 殴打された神父は呻き声を零しながらゆっくりと前のめりに倒れこんだ。頭から赤い血液がドクドクと流れ出し、床に赤い水溜まりを作った。流れ出た血の量と、倒れてからピクリとも動かない所を見るに殴られた神父は既に事切れているであろうことが分かった。

 

 一瞬の出来事で作り上げられた惨状に対して、その場にいる誰も悲鳴一つ上げることはなかった。まるでいつも通りの日常の風景のように誰一人見向きもしないでいた。

 

 しかし数秒後、殴った方の神父が突如として悲鳴を上げた。

 

 「あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 信仰を捨てたとはいえ元は神に仕えていた身。流石に人を殺してしまった罪悪感に苛まれたのだろう。

 

 普通ならそう思うだろうが、感性が狂ってしまうこの混沌とした世界で生きている者は普通ではない。

 

 「酒がぁぁぁぁぁぁ……」

 

 神父は先程の罵声の勢いとは打って変わって情けなく泣きじゃくりだした。それも相手から奪おうとして、激情に駆られて自分の手で粉々に割ってしまった酒に対して、神父は泣きじゃくっていた。

 

 絶望したように膝から崩れ落ち、そのまま床に蹲った。その様はまるで幼い子供を彷彿とさせる姿だった。

 

 そしてそれが引き金になったように神父が癇癪を起した。

 

 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 突然、雄たけびを上げて立ち上がった神父は、錯乱したように腕を振り回しながら辺りを滅茶苦茶に荒らし始めた。棚を倒し、椅子を投げつけ、窓ガラスを割る。彼女によって掃除され、拙いが修繕されていた室内が、あっという間にボロボロにされてしまった。

 

 しかし、今回は荒らされるだけでは済まなかった。

 

 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 何が癪に障ったのか、それともこの日は虫の居所が悪かったのか、癇癪を起して暴れ回る神父に同調したかのように周りで先程まで我関せずとしていた者たちまでもが暴れ始めた。

 

 一瞬にして教会内は喧噪に包まれ、その場は殺し合いの現場と化した。散らばったガラス片、折れた木片、転がる家具、凶器と成り得る物を手に神父たちは殺しあった。殴り、刺し、自分の手で首を絞め、我武者羅になって目に映る者を手当たり次第に殺していく。

 

 嘗て神へ祈りを捧げていた神聖な場所であった教会でこの日、多くの神父たちが死に絶えた。そして唯一生き残ったのは、殺戮の発端となった最初に信仰を捨てた神父、その彼が孤児院から引き取った“彼女”ただ一人であった。

 

 「神…父さま…?」

 

 床に倒れ伏せる嘗ての仲間たち。優しかったシスターたち。色々なことを教えてくれた神父たち。そして自分を引き取って再び信仰を与えてくれた神父。皆、変わり果てた姿で血溜まりの中に転がっていた。

 

 まだ齢十も超えていない彼女にとってそれはとても凄惨な光景だった。

 

 しかし、彼女は涙一つ見せず、また亡骸に縋りつくこともせず、小さな体で必死になって死んでしまった嘗ての恩師たちの亡骸を一人一人、教会の裏手に埋葬していった。それは日が沈む時まで掛かり、裏手には小さな墓地が出来上がった。

 

 全員の埋葬を終え、荒れた教会内の片付けと修繕を終えた彼女の呼吸はとても荒く、その小さな手は血豆が潰れて血が滲んで真っ赤に染まっていた。

 

 教会での一件は瞬く間に近隣の村々へと広まっていき、村人たちは一層彼女を哀れんだ。

 

 親を殺され、引き取ってくれた者たちも死に絶え、神からの救いもなく、その小さな体とこの世に生れ落ちてまだ十年も経たない未熟すぎる心に圧し掛かる過酷。

 

 彼女は耐えているのではない。一度信仰を失い、再び信仰を取り戻したその時には、もう彼女の心は壊れてしまっていた。彼女に残っているのは、嘗て彼女が持っていた純真と、他人を思いやる優しさの残滓。故に彼女は自分よりも他者を優先することが出来た。故に年相応に泣きじゃくることがなかった。故に不平不満を漏らすこともなかった。

 

 大層な教養を持ってはいなかった村人たちが彼女を哀れんだのは、彼らの心が告げたからだ。もう彼女の心は役目を全うしていないのだと。故に村人たちは悟った。彼女は哀れなのだと……。

 

 それからも彼女は何も変わらず日々を過ごした。近隣の村々で疫病が蔓延しても、野盗が村々を襲撃しても、天災が辺り一帯を蹂躙しても、彼女は何事もないように教会を掃除し、使う者もいないのに大量の洗濯をし、修繕を繰り返して見る影もなくなった満身創痍な神の像に向かって祈りを捧げ続けた。

 

 「神様、今日も私たちを見守って下さり、ありがとうございます。そのおかげで今日も生き延びることができました。お迎えが来られるその日まで、頑張ります! 明日もどうか、お守り下さい。おやすみなさい」

 

 彼女は今日も神に感謝を告げ、眠りに就くのだった。

 

 閉じた瞼の下から一筋の雫を零し、心の残滓が見せる願望の夢で仮初の救いを得ていることは、彼女自身も知らない。

 

 

 私が覚えている最も古い記憶は、家族の団欒、お母さんとお父さんの死の瞬間。

 

 あの日、もうすぐ私の誕生日だと食事の際にお母さんとお父さんに話していたのを覚えてる。平和だった昔の時代は、誕生日にはご馳走を囲んで何かプレゼントを貰えていたらしい。でも、私が生まれたあの時代には、そんな余裕を持っている人なんて、略奪者か、富裕層くらいでしょ。

 

 生まれた時からそんな感じだったから、私は誕生日=プレゼントやご馳走なんてイメージを持ってはいなかった。それでも当時の私にはそんなこと関係なかった。その時の私にとって誕生日は両親と一緒に私の誕生を神に感謝し祝う、という認識。だからご馳走やプレゼントが貰えなくても、私は幸せを感じることができた。

 

 小さな我が家の中、両親と家族三人でテーブルを囲み、私が生まれた日を神様に感謝する祈りを捧げてた。

 

 その日の夜に悲劇は起こった。

 

 ベッドで眠ってた私は扉の向こうから聞こえる物音で目を覚ました。眠い目を擦って扉を開けようとした私の耳に母の悲鳴が飛び込んできた。

 

 私は驚きドアノブへと伸ばした手が止まる。恐る恐るドアノブを回し、ゆっくりと扉を僅かだけ開き、その隙間から扉の向こう側を覗き見た。

 

 「チッ! やっぱりシラけてやがる」

 

 「そう言うな。こんな時勢だ。無いよりはましだ」

 

 揺らめくランプの灯りに照らされる薄暗い居間。見慣れたその空間に父ではない見慣れぬ二人の男の姿があった。

 

 そして、男たちの足元には、見知った両親の後ろ姿が横たわっていた。

 

 「(あの人たちは誰? どうしてお父さんとお母さんはあんな所で寝てるの?)」

 

 幼い私は扉の隙間から見えるその光景に首を傾げた。その時、両親は既に冷たくなっていることなど、知る由もなかった。

 

 「ん?」

 

 呆然とも言える感じで倒れ伏せる両親と見知らぬ男たちを覗き見ていると、片方の男がこちらに視線を向けた。そしてゆっくりと私の方へと近寄ってきた。

 

 「どうした?」

 

 「……」

 

 仲間の問いかけにも応えず男は私の目前、寝室の扉の前まで来て立ち止まった。扉の隙間から差し込んでいた居間のランプの灯りが男の体に遮られる。その時の私には恐怖心など全く無くて、只々この人たちは誰なんだろう、と不思議そうに思っていた。

 

 その瞬間、扉が勢い良く開けられた。隙間から差し込んでいたランプの灯りがバッと部屋中に飛び込んできた。でも、私の視界は変わらず薄暗さに覆われていた。私の目の前、寝室の扉を開け放った男の人、私の体の何倍も大きなその体が、ランプの灯りを遮っていた。

 

 「っ!? 子供…?」

 

 男の人は私の姿を見てとても驚いていた。

 

 男の人は私の姿を見てとても驚いていた。多分、微かに開いた寝室の扉の向こうに人の気配を感じたものの、まさかそれが私のような小さな子供とは思わなかったんだと思う。

 

 「おい、どうした?」

 

 扉を開けて固まる男にもう一人の男が歩み寄る。私の視界を覆う男の左肩から歩み寄ってきたもう一人の男の顔がヌゥっとこちらを覗き込んできた。

 

 「っ!? クソッ、ガキが居たのかよ!」

 

 案の定、顔を覗かせた男も私を見るなりとても驚いた顔をして一瞬固まった。そして慌てながらギラリと光る“何か”を取り出した。その時は影に隠れて”それ”が何なのかは分からなかった。

 

 「おい! 子供もやるのか!?」

 

 最初に私を見つけた男が仲間の行動を見て驚いたようにそう言う。

 

 「っ! で、でも、じゃどうするんだよ?」

 

 言われて仲間の男は、自分がしようとしたことをハッと自覚し、戸惑った。

 

 「放っておけ! そんなことよりも今は、物だ!」

 

 「お、おう!」

 

 男たちは急いで家の中を荒らし回った。雀の涙程しか残っていない食糧と財産をかき集め、慌てて外へと出ていった。

 

 私はただ茫然とその様子を眺め、闇の広がる外へと逃げていく二人の男の背中を無心に見続けていた。

 

 夜が明けるまで私はずっとそうしてた。

 

 朝になって村の人たちが私の家にやってきた。村に盗人が来たって言ってた。何人かの村人の家に押し入って食糧と財産を奪っていった。殺されてしまった村人もいたって言ってた。

 

 私の両親も殺されてしまった。

 

 隣の小父さんが教えてくれた。最初はそのことがよく分からなかった。お医者さんの所で両親の遺体と直面した時、初めて両親が死んでしまったことを理解して、私は泣いた。

 

 泣いて、泣いて、ひたすら泣いて、目が真っ赤に腫れるまで泣き尽くした。でも、どんなに泣いても両親は戻らない。

 

 私は全てを失った。

 

 盗人に家にあるもの全部盗られて、両親の命も奪われて、私は独りぼっちになった。今世界は悪い状態だって両親が言ってた。だから、皆お腹を空かせたり、裕福になりたくて人から物を奪うんだって。皆、今は辛い思いをしてるんだって。

 

 だから、私みたいな子供を引き取って養ってくれる人なんて誰一人いなかった。

 

 村の人たちの辛そうな顔をよく覚えてる。私が生まれた頃から付き合いがある隣の小父さんも、実の子供のように可愛がってくれた小母さんも、申し訳なさそうに言うの。

 

 「ごめんね。貴女を引き取れない」

 

 村の大人たちが皆私にそう言う。でも、その時の私にはそんな声なんて全く聞こえていなかった。私は喪失感で一杯だった。周りの音は耳に届かない。まるで世界に私だけがいるみたいな孤独。

 

 両親の葬式は内々で質素に行われた。元々小さな村だったし何より貧しかったから、できる葬式はそれが精一杯だった。

 

 私は茫然としたままその光景を見てた。両親の遺体を棺に入れ、遠くの町から呼んだ牧師さんが何かを言って、私は終始その光景を見聞きしてただけ。

 

 その後、私は牧師さんに連れられて生まれ育った村から遠く離れた別の村にある孤児院へと入れられた。そこには私とよく似た子供たちが沢山いた。皆、私のように茫然としてた。その目には光が灯ってなくて、何もない空中を見ている子や、俯いている子、身動き一つしないで床に力なく座り込んでる子、皆生気が感じられなかった。まるで人形の様。

 

 私もその中の一人になった。お腹も空かない、眠くもならない、何もやる気になれない、ただ無気力に一日を過ごす毎日。

 

 でも、ある日、転機が訪れた。

 

 孤児院に神父様がやってきた。大人たちが言うには、町や村を巡って神の教えを話しているらしい。私がいる孤児院にもその為にやってきたという。

 

 初めは私も他の子供たちも関心なんて無かった。そんな私たちのことなんて気にせず、神父様は話し始めた。

 

 話し始めて数分でその場の雰囲気がガラリと変わった。神父様は特別なことはなにも言ってはいなかった。ただ生まれた時から両親に教えられてきたことと同じ内容だった。でも、その時の私たちはその言葉から生きる力を与えられた。

 

 神父様の言葉には嘘が全くなかった。それは話しをする神父様とその言葉を見聞きしていれば自然と分かった。真っ暗で希望なんて見えなかった私たちの心を照らしてくれた。

 

 あんなに暗く静まり返っていた孤児院の中は、瞬く間に子供たちの活気ある声で溢れかえった。

 

 私は神父様に見入った。言葉一つで絶望した人々を救うその姿に私は嘗ての両親の姿を見た。途端に私の中に光が溢れた。

 

 その時、私は“天啓”を受けた。そして私はすぐさま行動した。話を終えて孤児院を出ていく神父様の所へと駆け出した。そして言った。

 

 “私も神父様のようになたいです”

 

 神父様は私を受け入れてくれた。ただの子供の戯言だと笑って流さないで、真剣な目で聞き入れてくれた。そして私に手を差し伸べてくれた。私は歓喜した。私は一瞬の迷いも躊躇いもなく、その手を取った。

 

 それからの私はとても幸せで、辛いことなんて何一つなかった。節制された一際貧しい教会での生活も、全く教養がない状態から学ぶ多くの勉強も、村から村へ神様の教えを話して回るお務めも、全てが新鮮見えて楽しかった。

 

 私は満たされていた。

 

 でも、ある日、神父様がおかしくなった。お酒を飲んだり物を壊したり、人に暴力を振るったりもした。私も殴られた。

 

 それに続いてどんどん他の皆もおかしくなっていった。禁じられてたことをするようになった。皆で争うようになった。お務めにも行かなくなって、勉強も教えてくれなくなった。

 

 だから私は一人で勉強した。本当はダメだけど、一人でお務めにも行った。一応、神父様に許可を貰おうとしたら、私には見向きもしないでお酒を飲みながら勝手に行けって言われた。一人での勉強も、お務めも大変だったけど、私はとても充実を感じてたから不満なんて思わなかった。

 

 神父様がいつも言っていたから。

 

「神様はいつも私たちを見てくださっている。だから私たちは信じて信仰を持ち続ける。そうすれば、報われる日は必ずやってくる」

 

 その言葉は両親もよく言っていた。

 

「いいかい? 神様の教えを守っていれば、私たちを救う船がやってくる。その船に乗れば、私たちは平和な世界へと旅立てるんだよ」

 

 だから私は信じて神様の教えを守り続けた。

 

 神父様たちがおかしくなってから何日か経ったある日、教会で人が殺された。殺されたのは、私と一緒に勉強してたお姉さんだった。お姉さんは物静かな人で、私と同じで人を救えるようになりたくて教会にやってきたと言ってた。優しい人で、私とも仲良くしてくれた。

 

 お姉さんは、神父様たちがおかしくなっていくのを辛そうに見てた。神父様がお酒を飲もうとする時、乱暴しようとする時、お姉さんはいつも止めに入ってた。その度に殴られて、お姉さんの顔はいつも腫れて痣だらけだった。私が神父様に殴られた時は、自分が殴られた時以上に辛そうな顔で、私に謝りながら泣いていた。

 

「ごめんね……。ごめんね……ッ!」

 

 殴られたのは痛かったけど、私はちっとも辛くなかった。だから、お姉さんが私の為に泣く度、私はお姉さんを慰めようと頭を撫でた。母親が子供を慰めるみたいに。

 

 その日もお姉さんは乱暴する神父様を止めようとしていた。しかし、神父様の矛先はお姉さんに向いてしまい、お姉さんは神父様に殴られてしまった。いつも以上に殴られ、蹴られ、そしてお姉さんは死んでしまった。

 

 私は悲しかった。両親に次いで親しい人が殺されてしまったから。でも、今回は挫けることはなかった。私には信仰があったから。信じ続ければ必ず報われる。神様の船がやってきて、私たちを救ってくれる。だから私は挫けることはなかった。

 

 数日後、また教会で人が死んだ。

 

 死んだのは私とお姉さんに勉強を教えてくれたシスターだった。シスターは年配の人でした。とても厳しい人で、私もお姉さんもよく怒られました。でも、本当は優しい人で、私たちが辛かったり迷って取する時、いつも助けて道を示してくれる。両親を亡くした私にとって、シスターはもう一人のお母さんのような人だった。

 

 シスターは教え子だったお姉さんが死んだことでおかしくなった。お姉さんの死を知ったシスターは、私が今まで見たこともないような表情、とても怒ったような怖い顔になった。それからすぐにシスターと神父様は頻繁に言い争うようになった。

 

「人殺し!!」

 

「うるさい!!」

 

「それでも神に仕える身か!!」

 

「黙れ!!」

 

 シスターは神父様を激しく叱りつけ、神父様はそんなシスターのお叱りに全く聞く耳を持たなかった。そんなやり取りが何日も続いた。

 

 シスターは私に勉強を教えてくれなくなり、いつも神父様を叱りつけていた。夜になると礼拝堂に籠ってお姉さんの名前を呼んで、泣きながら謝っていた。

 

 まるで私に謝るお姉さんのようだった。

 

 そんな日が続いたある日、シスターは自ら命を絶った。理由は、神父様を殺そうとしたから。シスターは何度も神父様を叱り、お姉さんを殺した罪を償わせようとしていた。でも、神父様は聞く耳を持たず、罪の意識も持っていなかった。

 

 だからシスターは狂気に走ってしまった。

 

 シスターは叱った相手が反省しない時、いつも少し乱暴な手段をとることがあった。頬を叩いたり食事を没収して食べさせなかったり、縄で縛られて物置に閉じ込めるなんてこともしていた。でも、それ等の乱暴は、全て相手のことを思うシスターの優しさから来ること。だから、折檻を受けた人たちが反省すると、シスターは必ず自分がした仕打ちを謝り、叱っていた相手のことを優しく抱きしめてあげた。

 

 でも、その時のシスターはいつもと違った。

 

 談話室で神父様がお酒を飲んでいるとシスターが入ってきて、床に転がる酒瓶を拾って神父様を殴ったの。

 

 神父様はおかしくなってからいつも談話室でお酒を飲むようになった。そんな神父様をシスターが叱って、私は神父様が散らかした酒瓶とかのごみを掃除する。それが最近の当たり前の光景だった。その時も私は神父様とシスターのやり取りを気にしながら掃除を続けてた。だからシスターの凶行を私は横目にただ見ているだけだった。

 

 神父様は死ななかった。ただ頭から血を流して痛みに叫ぶだけだった。シスターの振り下ろした酒瓶は、神父様の頭に命中したけど、命を奪うことはできず頭の皮膚を大きく切っただけだった。

 

 神父様は叫びながら談話室から逃げ出した。

 

 シスターは神父様の後を追いかけなかった。その場に立ち尽くしてプルプルと震えていた。シスターは神父様の叫び声を聞いて我に返り、自分がやってしまったことに気づき絶望の表情を浮かべていた。

 

「あぁ…あぁぁぁ…! 私はなんてことを……!!」

 

 シスターの手から酒瓶が落ちる。

 

 私はシスターが心配になって恐る恐る声をかけた。そしたらシスターはビックリした表情で私を見た。私が談話室に居たことに気づいていなかったみたい。それが一層シスターに追い打ちをかけることになってしまった。シスターの表情は死人のように血の気が失せて真っ白になって、プルプルとした震えが大きくなってガクガク小刻みに震えだした。

 

「シスター?」

 

 私は恐る恐るシスターに呼び掛けた。シスターの肩が大きく跳ねた。震えながら後退って、神父様と同じようにシスターは談話室から逃げ出した。

 

 その後直ぐにシスターは礼拝堂で首を吊って自殺した。

 

 シスターはとても熱心な信仰者だった。そんな自分が怒りに任せて人を傷つけたこと、その様を幼い私に目撃されたこと、それらがシスターの罪悪感を一気に駆り立て、シスターは礼拝堂で主が見守る中、懺悔の言葉を述べながら自分で自分のことを裁いた。

 

 私は泣いた。お姉さんが死んだ時と同じで、私は静かに涙を流した。でも、大丈夫。挫けずに頑張れば、報われる時が必ずやってくる。私は涙を拭い、一人お務めに戻った。

 

 シスターは崩れそうだったこの小さな教会の最後の防壁だった。そんなシスターが死んでしまったことで、教会内の秩序は崩壊した。前よりも教会の中は荒れ果てて、床には酒瓶が転がり、食べ物の食べかすやゴミが散乱、中には誰かが嘔吐した後の吐瀉物もあった。日々耐え忍んできた私も流石にその光景に顔を顰めた。

 

 教会を訪れる人は完全にいなくなって、教会で暮らす人たちも私を含めて片手で数えるくらいに減ってしまった。皆ここから出て行ったり、お互いに殺したり殺されたりしてしまったから。

 

 私はまた独りぼっちになってしまった。でも、今回は挫けたりはしない。神父様たちは死んでしまったけど、神父様たちから教えていただいた信仰があるから、私の心は挫けなかった。

 

 私は独りぼっちの教会でひたすらに働いた。皮肉にも荒らす人が居なくなったおかげで、掃除しても直ぐにゴミが散乱することはなくなって、習慣になってた一日数回の掃除もその頻度を減らしていった。でも、ゴミを片付けることはできても、教会の中は相変わらず荒れたままだった。

 

 布教のお務めも私一人で行くのが普通になった。本当はまだ見習いシスターの私が一人で布教のお務めに行くのは駄目なんだけど、神父様もシスターもいなくなった今、布教活動できるのは私しかこの場にはいなかった。私は無許可での布教活動に対して後ろめたい気持ちを感じつつもお務めを全うし続けた。

 

 幼い私一人の布教活動は、全然上手くいかなかった。皆、信仰を捨ててしまっていて、子供の言うことなんて誰も聞いてくれなかった。声をかけても追い返す人、無視をする人、中には暴力を振るってきたりする人もいた。でも、稀に話を最後まで聞いてくれる優しい人もいたから、全く上手くいってない訳でもなかった。

 

「シスター、またお願いできるかな?」

 

「はい! 任せてください!」

 

 私にはもう一つのお務めがある。それは代理の牧師として死んだ方の冥福を祈り埋葬するお務め。私はまだ正式なシスターじゃなかいから、本当なら牧師の代理なんてこともしちゃいけないんだけど、教会に務めているのが見習いとはいえ私だけだから、近くの村の人たちにお願いされてやることになった。

 

 神父様たちがおかしくなってからは、村の人たちは教会にお葬式などのお仕事を頼みに来なくなった。だけど、私のことを心配してコッソリと様子を見に来てくれたりしてた。

 

 最初に内緒のお葬式をお願いされたのは、お姉さんが死んだ日から二日後のことだった。私と同じで身寄りのないお姉さんのお葬式をシスターと二人で簡単に済ませて教会の裏に埋葬したのを見ていた村の人から頼まれたのが最初だった。神父様がお務めを全うできない状態だからと言って、初めの頃はシスターが牧師としてお葬式を執り行ってた。

 

 でも、シスターが神父様と言い争うようになってからは、牧師としてのお務めも疎かになってた。この時から私がシスターに代わって牧師としてのお務めをするようになった。

 

 教会が荒れている間、近くの村々も大変だったと村の大人たちが言ってた。盗賊がやってきて村からお金や食べ物を盗み、抵抗した村の人が何人か殺されてしまったり、飢えや貧しさから自殺してしまう人が次々出てしまったり、流行り病で亡くなってしまう人が相次いだりと、周辺の村々で次々と人が死んでしまっているようだった。

 

 だからここ最近は村の人たちからのお葬式のお願いが多く寄せられてくる。人が死ぬと教会の裏にある墓地に埋葬する。私が教会に身を寄せて直ぐの頃、死んだ人は裏の墓地に埋めるんだよと、優しかった頃の神父様に教えてもらった。

 

 教会に来て私が最初に見た埋葬は、寿命で亡くなったお婆さんだった。私はその時、生まれて初めて人の死というものを目の当たりにした。ご家族、といっても旦那さんであるお爺さんだけだったけど、に見守られながら埋葬されるお婆さんの遺体はまるでただ眠っているだけのように見えた。

 

 小さい教会だったから裏の墓地に埋葬されている人は、私がここの来た時はそんなに多くなかったし、お葬式もそんなに頻繁にはなかった。でも、神父様たちがおかしくなってからは、その数と頻度が一気に多くなった。お姉さんやシスター、神父様たちの埋葬を皮切りに、ほんの数週間で教会の裏の墓地は埋葬された遺体で埋め尽くされてしまった。

 

 皆、親しい人たちが亡くなってしまって泣いていた。私もお姉さん、シスター、神父様が死んでしまい悲しくて泣いた。でも、大丈夫。皆生きてる時に主の為に尽くしてきたから、きっと“船”に乗ることが出来る。

 

 神父様が以前仰っていた。

 

「今、世界は混乱している。飢えに苦しんでいる者、盗みを働く者、命を奪う者。皆、混乱が齎したものです。これは主が私たちに課した試練なのです。この試練に耐えれば、私たちは“船”に乗ることが出来るのです」

 

「船?」

 

「そう、“船”です。その船は、主が私たちを迎えに来てくださる天国へと昇る為のものです。ですが、その船には誰でも乗れるわけではありません。信仰と労働、そして苦難に耐え忍ぶことが必要です。信仰を持ち続け、与えたもうた労働に努め、どんな苦難も天から与えられた試練と受け入れ、それらに耐え忍び全うすることが出来た時、我々は船に乗ることが出来るのです」

 

 “船”。私たちを天国へと連れて行ってくれる主が遣わした神様の船。その話を聞いて私は、孤児院で神父様と出会った時と似た感覚を感じた。再び私は天啓を得た。その船に乗ろう、と思ったのではなく、苦しんでる皆をその船に乗せよう、という思いが真っ先に浮かんだ。

 

 だから私は今日まで必死にそれらを守ってきた。信仰心をもっと高めようと思って勉強を頑張った。労働に努める為に神父様のお務めに無理を言ってついて行ったり掃除やお使いも積極的にやった。大好きな人たちが次々よ死んで逝ってしまっても、神父様たちからどんなに殴られようが蹴られようが、耐え忍んできた。

 

 どんな苦痛も、船に乗ることを思えば耐えることが出来た。

 

 船に乗れれば、幸せになれる。

 

 そうすれば! また“お父さんとお母さんとずっと一緒に暮らせる”

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 幼いシスターの心は“歪んでしまっていた”。

 

 年齢にそぐわない苦難に見舞われ、物心も完全に整っていない幼女の心に押し寄せた不幸。家族の死、友人の死、恩師の死、大人たちからの暴力、たった一つの心の拠り所、信仰を取り戻したとしても到底癒しきれるものではなかった。

 

 中途半端な癒しは彼女の心に依存を生み出し、“箱舟の信仰”を盲目的に信仰するようになってしまった。それだけではなく、救済の船に乗れば“死者”が蘇るというそもそもの信仰に存在しない、根も葉もない独自の考えを生み出してしまい、それが本当のことなのだと思い込んでしまっていた。

 

 そんなことはありえない。

 

 彼女がどれ程、信仰心を高め主に尽しても、その身に余る労働に勤しんでも、心と体を襲う暴力に耐え忍んでも、死者が蘇ることは決してない。彼女の行いはとても善良なものであり、一般的に考えられている概念であれば、彼女の死後、その魂は天国へと導かれるだろう。そこで亡くなった両親、神父たちに会えればある意味では彼女の思い描く救済が成就する。

 

 

 

「ありがとうございます! あなたに主のご加護がありますように!」

 

 小さなシスターはそう言って純真な笑顔をおじさんに向けた。

 

 この日もシスターは一人で布教活動を行っていた。まだ幼いから遠方への布教活動が困難である為、シスターの布教活動は基本的に近隣の村々で行われる。シスターの来訪が馴染みとなった村では、小さなシスターを村人全員が可愛がっていた。村も貧窮しているにも拘らず、村人はいつもシスターに食べ物を恵む。この日もシスターは両手一杯の食べ物を村人全員から貰い、感謝と祈りの言葉を村人たちに送りながら帰路へと就いた。

 

 遠ざかっていくシスターの小さな背中を村人たちは物悲し気な眼差しで見送った。

 

「まだ、あんなに小さいのに……」

 

「時代が時代だから仕方ないけど、それにしたってねぇ……」

 

 遣り切れない、村人たちは皆そう言いたげな表情を浮かべる。

 

 教会で起きた騒ぎのことを村人たちは知っている。村人たちもシスター同様に狂った神父から暴行を受けたこともあった。実際に暴行を受けたからこそ、そんな神父の下で暮らすシスターの身を皆案じていた。

 

 皆の不安は的中した。村に来るシスターは日に日に痛々しくなっていた。顔の青痣、ボロボロの修道服、傷だらけの手足、少し前までの質素ながらも聖職者らしい整った見た目だったが、今ではその面影も消えつつあった。

 

 シスターの身を案じる村人たちだが、所詮は奪われる側の人間。心配はすれど助けようと身を乗り出すことはできなかった。

 

 可哀そうと哀れみ、村を訪れた時に目一杯優しく労わることしか村人たちにはできなかった。

 

 そんな村人たちの心情など露知らず、シスターは船が訪れる日を夢見ながら幸せの錯覚に浸り、日々労働と信仰に勤め続けた

 

 しかし、シスターが信じる主は非情にも、そんな彼女に更なる残酷な試練を与えた。

 

 

 

 

「え……?」

 

 いつものように近隣の村へと訪れたシスターは愕然とした。自分が訪れるといつも朗らかに笑って歓迎してくれる村人たちが、地に倒れ伏していた。一人だけではなく、あちらこちらに見知った村人たちの姿が見受けられた。皆、微動だにせず倒れたままでいた。

 

 シスターの脳裏に過去の情景がフラッシュバックする。

 

 両親の姿、お姉さんの姿、神父の姿。死んでしまった愛しい人たちの最期の瞬間が幼いシスターの視界を一瞬覆った。

 

「ハッ…!」

 

 シスターは一瞬の硬直から解放されると同時に村の中へと走り出した。生きている人を探して一人一人、倒れている村人に近づく。しかし、やっぱり皆息をしていなかった。

 

 全滅していたのだ。

 

「うぅ……うぁぁ……っ!」

 

 死者で溢れる村にシスターの泣き声が響き渡る。いつもなら彼女の泣くと直ぐに駆けつけてくれた村人たちだが、彼女に駆けよれる村人は、もう誰一人としてこの村の中には生きてはいなかった。

 

 シスターは泣き続けた。もう涙も枯れ果てたと言えるくらいに泣き尽くした。彼女が泣き終えた頃には、辺りには暗闇が広がり空には星が瞬き始めていた。

 

 これ程泣いたのは、彼女の両親が死んでしまった日以来だろう。先生だったシスターや同じシスター見習いのお姉さんが死んだ時、彼女は勿論泣いたが、長時間に渡って泣いたのは彼女の人生においてこれが二回目だった。

 

 両親が健在だった頃、彼女には両親が心身の拠り所だった。しかし、両親が二人同時に死んでしまったことで、その拠り所を彼女は一気に失ってしまった。だが、そこから神父との出会いを経て彼女は再び拠り所を得た。神父、シスター、お姉さん、村の人たちと、拠り所は沢山増えた。だから彼女はシスターやお姉さん、神父が死んでしまっても別の心の拠り所があったから、両親が死んでしまった時の二の舞にはならなかった。

 

 しかし、自分に好くしてくれた村人たちが一度に皆居なくなってしまった衝撃が、彼女の心を激しく揺さぶった。村人一人一人との思い出が走馬灯のように彼女の頭の中を駆け巡り、その思い出一つ一つを想いながら彼女は泣いた。

 

 涙を流し終えた彼女の心は早くに気持ちが切り替わった。

 

「……よし! 皆を埋めてあげなきゃ!」

 

 そう言ってシスターは村人たちの埋葬を始めた。

 

 一人一人、ただ埋葬するだけではなく、簡易的であり正式なものとはとても言えないが、一人一人の葬式をシッカリとシスターは行った。

 

 当たり前のことだが、死んだ村人は一人二人ではない。また、埋葬と葬儀を同時に行っているのは、まだ年端もいかない見習いシスター。自分の身の丈よりも大きい体格の死体を力一杯引き摺り、教会まで運んだ。たった一人で、決して少なくはない十数人の村人たちを遠くないとは言え、村から離れた教会まで運び、埋葬する。

 

 過酷な環境と過酷な労働によってシスターの手はボロボロだった。まるで農夫のように肉刺だらけの掌。その掌の肉刺は既に潰れ、幼少のシスターの小さな手は血に塗れていた。

 

 肉刺の潰れたその手で大人たちの巨体を運び、身の丈ほどもある重いスコップを使い、土を掘り、遺体を入れ、土を被せ埋める。肉刺の潰れた手でそれらの作業を数十回繰り返すのは、大の大人であっても痛みに悶えるものである。

 

 しかし、シスターは悶えることはなかった。苦痛に顔を歪めることもなかった。ただ額に汗を滲ませることはあっても、彼女は生き生きとしていた。身の丈を大いに超える労働に勤しんでいるにも拘らず、まるで遊戯に興じているようにシスターは瞳を輝かせていた。

 

「はぁ…はぁ…終わった…」

 

 シスターは息も絶え絶えんになりながら達成感に満ちた笑みを浮かべる。

 

「もうちょっと待っててください……。時が来たら、また皆と会える。船が私たちを迎えに来てくれる!」

 

 シスターの曲解した神父からの教え。人々を救う船。彼女が最初に神父から聞いた話は、単純に勤勉な労働と信仰を続ければ、この世で行ったあらゆる罪や穢れを主がお許しになり、信者は死後に天国へと導かれる。そう言ったありふれた宗教だった。

 

 だが、その身に降りかかった数多の不幸が彼女の信仰を狂わせた。ありふれたものだった宗教は、彼女の望みを含み形を変えていき、勤勉な労働と信仰の原型だけを残し、死者の復活という盛大な尾ひれが生えてしまい、今や原型の宗教に成り代わり曲解した宗教こそが信仰すべき本物であると、シスターは妄信するようになってしまった。

 

 まだ幼いシスターは目を背けたのだ。両親を失ったことで心身の安寧を失いかけたが、神父との出会いで一命を取り留めることが出来た。しかし、暫しの安寧も束の間に教会は狂乱へと堕ちたことで、彼女の心身の安寧は再び脅かされることとなった。

 

 だから彼女、いや、彼女の“心”は、安寧が脅かされている現実から目を背け、曲解した独自の宗教観念を作り出し、安寧は維持されていると虚偽を着飾った。無意識に作動した精神の防衛機能である。

 

 故にシスターは哀れなのだ。どれだけ勤勉な労働と信仰を貫こうとも、救われるのは生きている彼女ただ一人だけ。死んでしまった者たちの救済は、現世の与り知らぬこと。救われたのかもしれないし、ただ消えて無になってしまったのかもしれない。どちらにせよ、シスターが望む皆幸せなハッピーエンドは起こりえない事実だけは変わらない。

 

 この先、シスターは独りぼっちだ。勉強を教えてくれる先生も、苦楽を共にする仲間も、身を案じてくれる大人たちも、無条件の愛をくれる家族も、もう彼女には誰一人として残されてはいないのだから……。

 

 

 

 

 

 それから幾星霜の月日が流れた。

 

 少しだけ背丈が伸びた彼女だが、あの頃と変わらず勤勉な労働と信仰を繰り返していた。

 

 夜明けと共に起きて教会内の掃除、洗濯、礼拝を丸一日、毎日繰り返して夜の訪れと共に眠りに就く。荒らす者がいない為、毎日の掃除で教会内はただ古く朽ちていることを除けば、綺麗だ。洗濯も特に汚れてもいない物を毎日毎日、洗っては干すを繰り返し、洗濯物は真っ白に色褪せてしまっていた。やることが無くなれば、日がな一日礼拝堂に籠って主に祈りを捧げ続ける日々。そんな健全な生活リズムを繰り返す彼女は、一見すると敬虔な信徒そのものである。

 

 一方で食生活だけは以前に増して困窮していた。元々、教会では簡易的な畑を保有しており、そこで育てた作物を主食としていた。その他にも近隣の村々を周り食糧を分けてもらうなどして食糧を調達していた。

 

 しかし、不幸にも食糧を分けてもらってた近隣の村が廃村となってしまった。原因は、世情を騒がせている流行病によって村人が死滅してしまったからだった。その被害は甚大で、周辺の村々や大きな町一つが壊滅状態となったほどだった。僅か数日足らずでその地域に住む住人、数百人余が死滅してしまった。

 

 この一件で教会は孤立無援状態に瀕した。そして食糧も簡易の畑で細々と作られている作物だけとなってしまった。唯一の救いと言えるのは、食い扶持がシスターただ一人だということである。敬虔な信徒である彼女は、日々節制を心掛けている為、一度の食事で一気に消費することなどは先ずない。しかし、あくまでも細々と作られている作物である為、それほど量は多くないのだ。加えて簡易とはいえ畑であるから、一連の農作業をシスター一人で行わなければならない。

 

 結果として畑から得られる恵みも将来的には底つく未来がそう遠くないのである。

 

 今現在、畑から齎された恵は残り僅か。種植えをしてもそれが育つまでの耐え忍ぶ備蓄もありはしない。

 

 彼女に残された時間は少ない。それでも彼女は待ち続けている。いつか必ず船が迎えにやってくることを―――ー。

 

 常人であればとうに諦め希望を捨て去るが、常人とは異なるシスターは絶望することはなかった。しかし、どれほど狂信的な彼女であってもいつ訪れるかも分からない救済の日を待ち続ける現状に対し、心の深淵に並々ならぬ不安と不満を着々と募らせていた。

 

 本人は自分の心の奥底にそんな思いが蓄積されているなど夢にも思っていない。未だ盲目的に救済の日が訪れることを信じて疑わない。意図も不意もなく、彼女の行動原理は救済の日に向けての労働と信仰。今、表面意識での彼女は労働と信仰を繰り返す日々に充実感を覚えている。だが、潜在意識での彼女は常人らしい不平不満を抱いていた。

 

「主よ、今日も生きることができ、感謝いたします」

 

(いつになったら救われる?)

 

「労働と信仰に身を捧げられることを感謝いたします」

 

(救われる日は本当に来るの?)

 

「日々の糧を授けて頂き、今日も私は生きることが出来ました」

 

(お腹が空いた)

 

「今日も労働に身を捧げることができ、嬉しく思います」

 

(手が痛い、足が痛い)

 

「船がやってくるその日まで、私一人でもしっかりお務めを果たします」

 

(何で私だけ?)

 

「これからも私たちをお守りください」

 

(寂しい……お父さんに会いたい、お母さんに会いたい)

 

 口から語られる言葉。心の内に燻る言葉。敬虔な信徒としての思いと年相応の少女らしい我儘。どちらも彼女にとって偽りない本心。相反する二つの思いをどちらも本心として持ってしまっているのは、不遇な彼女の境遇によって心が歪んでしまったことは言うまでもないだろう。

 

 長らく耐え忍んできた彼女だが、更に追い打ちをかけるような非情な現実が突き付けられることになる。

 

 害虫によって教会の作物が死滅してしまった。

 

 突然のことだった。どこからともなく虫たちが湧き出てきて、一夜にして教会の小さな畑の作物を食い荒らした。これによって彼女は残されていた唯一の食糧源を失った。

 

 それでも彼女は耐え忍ぼうとした。残された食糧を節約しながら、極力空腹を感じれば水を飲んで紛らわせるようにしていた。しかし、そんな誤魔化しも食糧が尽き、数日と経てば直ぐに限界は訪れた。

 

 視界がぼやける。全身に力が入らなくなる。呂律が回らなくなる。

 

 水しか飲んでいない人間は、本来の機能を発揮することが出来ず、いづれ死に到達してしまう。まだ成熟していない彼女なら猶更である。

 

 霞に覆われたような視界の中、住み慣れた教会内で彼女は道に迷った。最早彼女は死の一歩手前まで来ていた。

 

 それでも彼女は日々の御勤めを全うしようとする。

 

「あっ…!」

 

 足が縺れ彼女は転んでしまった。しかし、今の彼女には起き上がる力も残っていなかった。

 

「ぅっ…!」

 

 痛みに呻き声を上げる。しかし、渇いた喉から出る声は掠れていて、声というよりただの空気の漏れ出る音に聞こえた。

 

 立ち上がろうと四肢に力を込める。飢えと渇きに苛まれる彼女の四肢はすっかり衰えてしまっていて、まるで彼女のか細い骨の上から皮膚をそのまま張り付けただけの様に弱弱しかった。そんな四肢で立ち上がれる訳もなく、幼いシスターはぷるぷるとまるで生まれたての小鹿の様に震えるしかできなかった。

 

「(行か、なきゃ……。御勤め、しな、くちゃ…。皆の、為に……)」

 

 朦朧とする意識の中、彼女は立ち上がることを諦め、這うようにして御勤めを全うしようとする。

 

 しかし、度重なる不幸と孤独によって揺らぐ彼女の信仰心に、極限の精神状態が追い打ちを掛け、これまで積み重ねて来た彼女の心に聳える強固だった信仰の塔が、遂に瓦解した。

 

 塔の崩壊と共に彼女の心に感情の嵐が吹き荒ぶ。これまで彼女が無視して来た年相応の我儘、理不尽なまでの身に余る不幸に対する不平不満が、ここぞとばかりに彼女の体全体を埋め尽くして行った。

 

“何で私がこんな目に遭わないといけないの?”

 

“こんなに信仰してるのに何で救われないの?”

 

“神様なんていないじゃない!”

 

“私は何の為に御勤めをしてきたの?”

 

“御勤めなんて意味ないじゃない!”

 

“何で誰も生き返らないの?”

 

“何で私は独りぼっちなの?”

 

“何で皆は死ななくちゃいけなかったの?”

 

“他の人が死ねばよかったのに!”

 

“私はまだ、死にたくない!”

 

“どうして思い通りにいかないの?”

 

「こんな世界大嫌い」

 

 朦朧とする意識。掠れ出る声。霞んだ視界。力の入らない四肢。満身創痍な状態にも係わらず、彼女の眼は血走り負の感情を放っていた。ボロボロの指先に力を籠め、床板に爪を立てる。爪は割れ、指先の皮膚も裂け、痛々しい傷口から赤黒い血肉が顕わになっていた。

 

 声にならない声で呪詛の様に恨み言と不平不満を唱えながら、傷だらけの指を使って彼女は床を這う。傷口から流れる血で真っ赤になった手で床を這う度、彼女の通った後に赤黒い手形が点々と付いていく。

 

 朦朧とする意識の所為で、住み慣れたはずの教会の中だというのに迷っていた彼女。しかし、幸か不幸か、それとも負の念による執念か、彼女は当初祈りを捧げに向かおうとしていた礼拝堂へと這って到着した。

 

 残念ながら到着した彼女の目的は、神様に祈りを捧げることから、神様に鬱憤をぶつける為になってしまったが―――。

 

 視界の霞む彼女には、もう礼拝堂の主の姿をその目に捉えることは出来ない。その筈なのだが、血走った彼女の鋭い眼光は真っ直ぐに主の姿を射抜いていた。

 

 呻き声に聞こえる怨嗟の言葉を主にぶつける。生まれながらの信徒だった為、その内に秘めていた欲望。

 

 年相応の我儘。

 

 恵まれた者への羨望と嫉妬。

 

 飢えと渇きを満たしたいという生物的欲求。

 

 居なくなってしまった愛する人たちに会いたいという寂寥感。

 

 何故自分が理不尽に晒されなけばならないのかという憤り。

 

 声にならぬ声、掠れ出る枯れた空気音、今の彼女に出来る最大級の咆哮を、自分を裏切った無機物の主にぶつけた。

 

 しかし、どれだけ射抜くように睨もうと、どれだけ恨み言を叫ぼうと、どれだけ怨嗟の念を送ろうと、思考の無い物言わぬ象は何のリアクションも起こすことは無い。

 

 幼いシスターは床に突っ伏した。もう体力も気力も限界だったのだ。

 

 彼女は自分が今起きているのか、寝ているのか、生きているのか、それとも死んでいるのか。それすらも分からない程、彼女の意識は混濁し、命の灯は正に風前の灯火だった。

 

 両親を奪われ、神父とシスターを壊され、姉の様に慕っていた友も、可愛がってくれた村人たちも殺され、それでも決して折れなかった信仰心も、無情な時の流れによって打ち砕かれてしまった。

 

 負の感情を体全体から放ち尽くし、彼女に残されたのは、全てを失い死へと向かって行く、絶望だけだった。

 

「(お父さん……お母さん……)」

 

 消え入る意識の最中、幼いシスターは両親に想いを馳せる。嘗て貧しくも幸せだった日々を彼女は夢に見る。

 

 鳥の囀り。風の吹く音。人気のないボロボロの建物。裏には荒れ果てた小さな畑、その隣には沢山の簡易のお墓。嫌になるほど天気が良い。

 

 そんないつもと変わらない日常の中。幼いシスターは誰にも知られない孤独と絶望の中、その風前の灯を消した。

 

 

■□■□■□■□

 

 

「これはこれは―――。ごきげんよう、お嬢さん」

 

「ッ!?」

 

 その声で私の意識は急浮上させられた。

 

(何で私は生きてるの?)

 

 私は確か、礼拝堂で主に恨み言をぶつけて、そのまま意識が遠退いて行って、死んだはず。その瞬間は朦朧とする意識の中でもしっかりと分かった。

 

―――嗚呼、これが“死”なんだ。

 

 そんなことを思いながら私の意識は暗い闇の中に溶けて行ったはずなのに、私は今“ここ”にいる。

 

 私は自分の体を見た。ボロボロの修道服に荒れた手足。見慣れた自分の体だった。

 

「スゥゥゥゥ……ハァァァァ……」

 

 私は深く息を吸い込み、ゆっくりとその息を吐き出した。若干混乱してた頭が、深呼吸のお陰で少しは落ち着くことができた。

 

「……私、生きてる……」

 

 私は自分が生きていることを実感した。

 

 多少は落ち着くことができたけど、それでも困惑は晴れていない。

 

 私は周囲を見渡した。

 

 私が今いるのは、真っ暗な場所。さっきまでいた礼拝堂じゃなかった。

 

 見慣れた灰色の壁と木板貼りの床、罅割れがあるステンドグラス、そして私を見下ろしていた偽りの神様も、私の周りには無く、あるのは空間を黒く塗り潰したような漆黒だった。

 

 周囲を見渡した私は、その空間で私を見つめる“顔”を見つけた。

 

 私は一瞬、目を見開いた。

 

 漆黒の中でその顔はとても“浮いていた”。言葉通り、その人には体が無くて、顔だけが生首みたいに宙に浮いていた。それに加えて、その人の顔は黒しかないこの場所で唯一の異色を放っていた。黒色の反対の白色の長い髪と皺のある肌、顔につけてるキラリと光る銀色の仮面。

 

(嗚呼、この人がさっきの声の主なんだ)

 

 一瞬驚きはしたけど、私は自分の意識を呼び起こした声を思い出した。そして目の前にいるこの顔の人が、声の主なんだなと分かった。

 

「ごきげんよう、お嬢さん」

 

 その顔の人はそう言ってお辞儀をした。

 

 動いて初めて分かった。その人は全身に真黒な服を着ていた。それが漆黒の景色に同化して首から上しか見えなかったようだ。

 

「あの……貴方は?」

 

 私は仮面の人にそう尋ねた。自分が生きていることを実感したけど、闇に包まれてる空間と、そんな闇を纏った様な格好をした仮面の人を見て、その実感は揺らいだ。

 

 ここはもしかしたら“地獄”かもしれない。

 

 私は死の間際、信仰を捧げて来た主に罵詈雑言の限りを吐き捨ててしまった。それに対して後悔している訳ではないけど、その行いは不道徳だろうことに違いない。

 

 信仰を捨てた私は天に召される事を拒まれて地獄に落ちたのかもしれない。

 

 それを証明するように、私は今暗い空間にいる。そして目の前には、地獄の使者と思える格好をした人がいる。

 

 私は生前、地獄の話を両親と神父様たちから何度も話して聞かされた。

 

 私の知る地獄は、子供の躾の為に聞かせるおどろおどろしい、幼い子どもたちが震え上がって怖がるような稚拙に解釈された地獄の話。

 

 もう一つが、私が教会で神父様から聞かせてもらった宗教における地獄の話。子供に聞かせる稚拙なものとは全く異なり、大の大人であっても身震いし、死後の不安を増大させるほどに、生々しく悍ましい情け容赦のない罰刑の数々。

 

 その話で度々出てくるのが、暗い闇と燃え盛る業火。そして闇を纏ったような黒々とした“悪魔”の存在。

 

 今、その内の闇と悪魔に酷似した存在が、私の目の前にいる。

 

 私はこれから聞かされてきた罰刑を我が身で体験するんだろうと思った。後悔はないと言っても、体感するだろう痛みと恐怖で身震いが止まらなかった。

 

「怖がらなくても大丈夫だよ」

 

 鈴が鳴る様な声が聞こえた。

 

 その声は一瞬にして私の中に溢れていた不安を消し去ってしまった。

 

 私は地獄には不釣り合いな可憐な声に驚いて、一瞬頭が真っ白になって固まった。

 

 辛うじて動く視線だけを動かして、私は声が聞こえた方へと視線を向けた。

 

 視線の先には仮面の人がいる。その傍らから女の子がひょっこりと顔を覗かせていた。

 

 仮面の人とは対照的で、その女の子は全身が真っ白だった。白い肌、白い髪、白い洋服。まるで天使様みたいな子で、私は思わず見惚れてしまった。

 

「ね?」

 

 そう言って白い少女は可愛らしく微笑んだ。

 

「え、えぇ……」

 

 彼女の微笑みにつられて私も微笑んだ。無邪気な彼女の微笑みを見ると、私の中に溢れていた地獄のイメージが消え去っていった。

 

「驚かせてしまい申し訳ないお嬢さん」

 

 仮面の人が私に謝罪した。確かに仮面の人の容姿に不信感を抱いた。けど、改めて仮面の人の言動を見ると、とても礼儀正しく物腰の柔らかい優しい人なのだと私は思った。そんな人を地獄の使者扱いした事を私は申し訳なく思い、慌てて私も仮面の人に謝った。

 

「い、いえ! こちらこそ勝手に怯えてしまってごめんなさい」

 

「いえいえ、お気になさらずに」

 

 謝罪する私を仮面の人は優しい口調で受け入れてくれた。謝罪を受け取って貰えたことで私は少しホッとした。

 

 少し気持ちが落ち着いたことで、私は自分が今置かれている状況を思い出した。

 

「あの、ここって一体……?」

 

 私は恐る恐る尋ねた。冷静になって周りを見渡しても、そこはやっぱり私の見知らぬ光景が広がっている。思い返して覚えているのは、霞んだ景色と嗅ぎなれた教会の匂い。そして、自分の命の火が消えた瞬間。私は確かに死んだ。

 

 では、今自分がいるこの場所は一体どこなのか?

 

「ここはどこでもない場所さ」

 

「どこでもない場所?」

 

「そう。迷う者が来る場所。それがどこでもない場所さ」

 

「迷う…者……?」

 

 鸚鵡返しした瞬間、その言葉の意味を私は理解した。ここは迷う者、つまり“死者”が訪れる場所なのだ。

 

「……やっぱり、私は死んじゃったですね」

 

 改めてその事実を実感した。死んだ事実に愕然とすることはなかったけど、やっぱり後悔の念を抱かずにはいられなかった。

 

 私の脳裏を駆け巡ったのは、私が愛した沢山の人の顔。私が教会の裏に埋葬した、箱舟の到来と共に蘇るはずだった人たちのこと。

 

 結局、私が生きてる間に箱舟はやってこなかった。自分だけが生き残ってしまい、沢山良くしてくれた優しい人たちだけが、冷たい土の中に永遠に放置されている。

 

 あの人たちを箱舟に乗せてあげられない事が、私の心に深い後悔の念を抱かせる。

 

「フッ、大丈夫。心配はいらないよ」

 

 仮面の人は、そんな私の心情を見抜いたのか、優しい口調でそう言った。

 

「え?」

 

「おめでとう!! お嬢さん」

 

 突然、仮面の人が声を張り上げる。突拍子もない仮面の人の豹変と、いきなりの賛辞に私は面食らい困惑した。

 

「箱舟を信じ続けた哀れな信徒たちよ。君は、いや。“君たち”はこの世界という鎖から解き放たれた。来る者は拒まないが、去る者は決して許さない。“楽園パレード”へようこそ……」

 

 仮面の人が仰々しい動作で首を垂れた。それに続いて白い少女も首を垂れ、二人揃って私に頭を下げた。

 

 私は益々困惑した。

 

 そんな私を余所に二人は頭を上げた。すると仮面の人は隣に立つ白い少女を抱え上げ、自分の肩に少女を乗せた。そして仮面の人は懐から何かを取り出した。それは“笛”だった。顔を覆っている仮面同様、銀色の綺麗な笛だった。

 

 仮面の人はその笛を口元へと運び、愉快な音色を奏で始めた。

 

 すると周囲の闇に変化が現れ始めた。まるで霧が晴れるように闇が霧散していく。黒だけだった空間に徐々に色味が加わっていく。

 

 土の色、草の色、花の色、木々の色、そして空の色。まるで絵でも描いているような光景に見えた。

 

 遂に闇が完全に消え去り、見慣れた外の景色が世界に広がった時、仮面の人の方に座る白い少女が歌を歌い出した。

 

「♪~」

 

 とても綺麗な歌声だった。

 

 前に神父様のお供をした時、どこかの街で聖歌隊が歌うのを見たことがある。彼女の歌声はそれにとてもよく似ていた。

 

 愉快な歌だった。聖歌隊の様に綺麗な歌声だけど、その歌と音楽は聴いていてとても心が弾んだ。

 

 私は無意識に体を小刻みに揺らしていた。二人の音楽に身を委ねようとしていた。

 

 そんな時、私の耳に新しい音が聞こえてきた。

 

(…? 何の音?)

 

 私は微かに聞こえてきた異音が気になって、意識を二人から逸らした。どうやら異音は二人の遥か後方から聞こえてきてるみたいだった。

 

 音の正体を確かめようと私は目を凝らした。すると二人の遥か彼方に小さな黒いものが見えた。

 

(あれは何?)

 

 遠くてその黒いものが何なのか分からなかったけど、その黒いものは段々と私たちの方へと近づいているようで、段々とその姿がハッキリとしていった。

 

 その黒いものは一つ、いや、一人じゃなかった。何人もいた。ただ歩いてこっちに近づいてるんじゃなく、何やら体をくねくねと揺らしているように見えた。

 

 その姿がハッキリ見えてくるのと同時に、聞えていた異音もハッキリと聞こえてくる。近づいてきているのは変な格好をした大人たちで、異音はその人たちが鳴らしてる楽器の音だった。

 

 私はその人たちの可笑しな格好に目を奪われた。仮面の人の真黒な格好と、白い少女の真っ白な格好にも驚いたけど、それとは異彩を放つ格好だった。

 

 赤色、青色、黄色に橙色、緑色に紫色まで。極彩色が私の視界に広がって来る。

 

「ピエロ……」

 

 私はそう呟いていた。

 

 思い出した。昔、まだ孤児院に居た頃、彼らによく似た格好をした人が出てくる絵本を見た。当時は気に留めることすらできていなかったけど、どうやら私の頭の中にはその絵本のことがシッカリと残っていたみたい。

 

 道化師の集団がもう間近までやってくると、タイミングを見計らったように笛を吹く仮面の人が動き出した。白い少女もそれにそれに続いた。

 

 私は一人ポツンとその場に残り、黒と白そして極彩色が混じり合う様を呆然と見つめた。

 

 黒は笛を奏でながら、白は歌いながら、ゆるりとした歩みで進み、極彩色はそれぞれ楽器を奏で、踊り騒ぎながら進んで行く。

 

 色が混じり合う。

 

 黒と白と極彩色が交わう時、極彩色の集団は障害物を避ける人波のように二人の避けた。そしてそのまま二人を覆うように極彩色が周囲を囲って行った。

 

 私の目から黒と白が消え、極彩色一色に覆われた。でも、聴こえてくる音に変わりはない。透き通るような笛の音色、凛と響く美声、それらを引き立てる祭囃子。

 

 私の脳裏に仮面の人の言葉が蘇る。

 

「楽園パレードへようこそ」

 

 楽園。私が思い描く楽園は、皆が笑って過ごせる飢えも苦しみもない幸せな世界。人生の殆どを教会で過ごしてきた私には、パレードというものがどういったものなのか分からない。

 

 でも、きっと今私の目の前に広がっている光景が、まさに楽園でのパレードと言えるのかもしれない。私はそう思った。

 

 呆然とし続けている私を余所にパレードの渦中にいる人たちは、変わらず楽しそうに騒いでいる。その光景を眺めていると、私の後ろからスッと誰かが姿を現した。

 

 私は突然のことにビクッと体を震わせて驚いた。まだあのパレードに人が加わるのか。私はそう思った。

 

 一人二人と私の後ろから次々と人が現れる。ただ、彼方から来た彼らと違い、後ろから出て来た人たちは極彩色の格好をしていなかった。その人たちの格好は、生前、私がよく見ていた洋服だった。

 

「……え?」

 

 パレードの方へと向かう人たちの中に私は神父とシスターの格好をした人を見つけた。それを機に私は改めて後ろから出てきた人たちの姿を見渡した。

 

 私からは後姿しか見えない。でも、私にはそれが誰なのか分かった。

 

「あぁ……あぁ……!」

 

 涙が溢れ私の頬を伝っていく。

 

 私の宿願、死んでしまった皆と箱舟に乗って、幸せな世界へで永遠に暮らすこと。

 

 でも、生前に箱舟はやってこなかった。だから私は絶望して信仰を捨てた。全てまやかしだった。

 

 死んでから思うと、生前の私は狂信していた。箱舟のことだって、私の中で私が勝手に作り出したお伽噺の集合体みたいなものだった。そんなものを死ぬ間際まで信じ続けて来た自分が愚かで自嘲が零れてくる。

 

 そう思っていた―――――。

 

「神父様……!!」

 

「久しぶりだね」

 

 神父様は、出会った頃の優しい笑みを私に向けてくれた。

 

「大きくなったね」

 

「お姉さん……!」

 

「今までよく頑張りましたね」

 

「シスター……!」

 

 お姉さんにシスター。あの時と変わらない姿だった。一緒に学び信仰して、本当の姉妹のように接してくれたお姉さん。時に厳しく時に優しく、私たちを見守り導いてくれたシスター。

 

 箱舟を信じていたから一時の別れと思っていたけど、本当は二人が死んでしまったことがとても悲しくて辛かった。

 

「君に重荷を背負わせてしまって、本当にすまない」

 

 そう言って神父様は悲しそうな表情を浮かべて、私に頭を下げてきた。

 

 私は戸惑った。

 

 神父様が私に謝る理由が分からなかったからだ。でも、少し考えると、多分神父様が謝っているのは、自分が信仰を捨てて堕落してしまったこと、信仰や労働など一切合切に私に押し付けてしまったことを言ってるんだと気づいた。

 

「……神父様。謝らないでください。私は、神父様に感謝こそすれど、恨んだ事なんて一度もありません」

 

 そう、私は神父様のことも、誰のことも恨んだ事なんてない。最期の時だけは、主を盛大に恨んでしまったけど、今の私には、恨みの念なんて欠片もない。

 

「神父様が私を引き取ってくださったお陰で、神父様が私に主のことを教えてくださったお陰で、私は今まで生きることができました。大恩はあっても、恨む気持ちなんてこれっぽちもありません」

 

「ッ! 嗚呼、本当にすまなかった…! 私はあの時、信仰を捨ててしまった! どれだけ信仰しようとも、どれだけ労働に励もうとも、主は私たちの努力を報おうとはなされなかった! だから、私は、禁を破り堕落してしまった……。君にも、沢山酷い事をしてしまった……」

 

 神父様は私の頬を優しく撫でる。ザラザラとした感触が頬から伝わってくる。孤児院から連れ帰って貰った時、神父様に手を引かれ教会へとやって来たことを思い出した。あの時の手の感触もこんな感じだった。

 

 そして神父様が堕落した時、私はこの手に幾度も殴られた。その時の感覚は今でも覚えてる。

 

 過ちを語る神父様はとても辛そうだった。その気持ちが私には痛いほど分かる。神父様の苦悩と絶望は、最期の時に私も味わった。

 

 だからこそ、神父様が私にした行いなど、苦でもなんでもなかった。

 

「神父様だけの罪ではありません。私もまた同罪です」

 

 神父様同様に悲痛な面持ちのシスターが言う。

 

「神父様が過ちを犯した頃から、あの場所で信仰を守るのは私の役目でした。未熟な貴女たちを守り、導くことが天から与えられた私の使命。それなのに私は、欲に負けて使命を放棄してしまい、貴女に重い枷を付けてしまった……」

 

「いえ、シスター。私は貴女からちゃんと教えて頂きました。信仰と労働。そして主を信じ仕え続けること。私こそ、最期にそれを破ってしまって……」

 

 思い通りにいかない憤りを怨念として主にぶつけたことに後悔はない。でも、こうして神父様たちに面と向かうと、私の心に罪悪感が生まれてしまう。

 

 そんな私の心情を悟ったのか、神父様とシスターの面持ちが一層悲痛なものに変わった。罪の意識に苛まれてるんだってことがすぐにわかった。

 

「ごめんね…。独りぼっちにしてごめんね……」

 

 大粒の涙を流しながらお姉さんが私を強く抱きしめてくれた。そして何度も私に謝った。

 

(謝って欲しい訳じゃない。こうしてまた皆に会えたのだから……)

 

 そう謝罪は不要。だけど、こうやって愛しい人たちから謝罪され、罪の意識と後悔の念に染まった悲痛な面持ちを目の当たりにすると、私の心の中で“何か”が解けていくのを感じた。

 

「……ッ」

 

 私の頬を涙が伝う。

 

 陽気な音楽の中、私の周りだけ皆泣いていた。それを見ると、私は益々涙を流した。そして一度堰を切って流れ出した涙は、洪水のように私の目から溢れ出していった。

 

「ぁぁっ……ああああ……っ!!」

 

 私は久々に幼子のように泣き叫んだ。

 

 両親の死以降、私の涙は枯れ果てたと思っていた。信仰と労働に心血を注いでいた頃も泣きたいとは思わなかった。まぁ、あの頃は両親に変わる新しい心の支えを得て、充実していて泣く暇もなかった。

 

 きっと信仰に依存していた所為で、私は本心を押し殺してしまっていたんだと思う。そして教会で過ごして来た日々が、結界となって私の本心を封じてしまった。

 

 でも、最期の時、十数年支え続けて来た信仰心を捨て去ったあの瞬間、私の心を封じていた結界に亀裂が入った。

 

「今までよく頑張ったね」

 

「助けられなくてごめんね」

 

「一人で偉かったわね」

 

「私たちを想ってくれてありがとう」

 

 村の小父さん小母さんたちが私に感謝してくる。その言葉一つ一つが亀裂を広げていく。

 

 私は益々泣き叫んだ。

 

「もう独りぼっちにしない。ずっと傍に居るからね」

 

 そう言ってお姉さんが強く抱きしめてくれた。それがとても嬉しかった。とても心地よかった。だから私もお姉さんに抱き着いた。

 

「もう我慢しなくていいのですよ。私たちの努力は漸く報われるのです」

 

 抱き合う私たちをシスターが覆うように抱きしめてくれた。暖かかった。お姉さんとシスターの暖かさで心が温まるのを感じた。

 

「君のお陰で、私たちはここにいることができる。君が頑張ったから、主が君の願いを叶えてくださったのさ。本当にありがとう」

 

 お姉さんに抱かれ、シスターに覆われ、そして最後に神父様が私たち三人を包み込むように抱きしめた。心がもっと温かくなった。

 

 嗚呼、今、私は満たされてる。

 

 信仰し続けてた頃、箱舟が訪れた後にこの光景を望んでた。最期に信仰を捨ててしまったからもう叶わないと思ってた。でも、今私の目の前にその光景が広がっている。

 

 我儘を言うなら、お父さんとお母さんもこの光景に加えたかった。

 

 私は嘗ての一家団欒を思い浮かべた。今でも鮮明に思い出せる。私の中にある最古の幸せな思い出。今こうしてると、あの頃に戻ったような感じがして、心が凄くポカポカと暖かくなる。

 

 でも、両親のいない現実を見ると、やっぱり物足りない感じがして寂しく思う。

 

 咽び泣く私が心の片隅でそんなことを思っていると、私の背後で気配がした。でも、心を封印して来た結界が壊れかけている今の私には泣くのに必死でそんなこと気に留める余裕はなかった。

 

「あっ。フフ、二人とも……」

 

 神父様が私の後ろを見て何かに気づいたような表情を浮かべた。そして直ぐに微笑みながら私から離れた。

 

 神父様の呼びかけで名残惜しそうにシスターとお姉さんも私から離れていく。

 

 一気に温かさが去って行った。名残惜しく思った私は離れた三人に手を伸ばした。そんな私の肩に誰かの手が置かれる。三人に向いていた意識が肩に置かれた手に向かい、私は条件反射で振り向いた。

 

 その瞬間、私の世界が停止した。

 

 流れ出ていた涙が一瞬で枯れ果てた様に止まり、頭が真っ白になって視界に映るもの全てが止まって見えた。遠くでパレードの喧騒が聴こえている筈なのに、音という音が全て消え去ったように何も聞えなくなった。

 

 例えるなら“無”。

 

 何も見えなくなって、何も感じなくなって、何も聞えなくなった。死の間際と同じ状態だった。唯、その時と違うのは、私の中に何かが込み上げて来ていた事だった。

 

 私にはその無の世界が酷く長く続いたように感じられた。でも、この無の世界で感じている時間など、現実では刹那の出来事なのかもしれない。

 

「……ッ!」

 

 雷に打たれたような衝撃が私を襲った。その衝撃によって私は無の世界から解放され、止まっていた景色、聞こえなくなっていた音、感じなくなっていた感覚が、一斉に動きを再開し始めた。

 

 私の目の前に二人の人が立って私の事を見ている。

 

「…っ!……ぁっ……」

 

 声が上手く出せない。頭がくらくらする。全身が麻痺したように痙攣して、指一本上手く動かせない。

 

 私の時間が再び動き出したのに、私の体は激しく混乱していた。

 

 あり得ないと思っていたことが、今目の前で起きている。幻覚かもしれないと何度も瞬きを繰り返すけど、目の前の人たちは消えたりはしなかった。

 

 爪先からゆっくりと頭の天辺まで凝視したけど、どんなに視線を上下させても瞳に映る姿は変わらない。

 

 頭が徐々に現状を理解していく。

 

 すると途端に私の中に込み上げていたものが、勢いを増して込み上がって来た。

 

「ッ!!」

 

 込み上げて来た衝動は止められず、私は駆け出した。

 

「お父さんっ!! お母さんっ!!」

 

 叶わないと思っていた望み。両親が死んだのは、私が信仰する以前のこと。私は、敬虔に信仰と労働をし続ければ、箱舟が訪れて死者を蘇らせ、私たちを救済してくれるって信じてた。でも、蘇るのは信仰をし始めて以降の人だけで、それ以前の人は蘇らず、救済されない。

 

 そう思っていた。でも、そうじゃなかった。お父さんとお母さんも蘇った。今、私の目の前で微笑んでくれてる。

 

 最も会いたかった人に会えた。望みが叶った。今、この瞬間、私の心を封じ込めていた結界は、完全に崩壊した。

 

「お父さんお母さん! お父さんお母さんっ!!」

 

 私は両親にしがみ付き、さっき以上に泣き叫んだ。そんな私を両親は優しく抱きしめてくれた。

 

「会いたかった。一人で寂しかったよ。私、頑張ったんだよ? 泣きそうになっても我慢したんだよ。だからいっぱい褒めて! もう何処にも行かないでね。ずっと一緒だよ。お父さん、お母さん」

 

 ボロボロと私の口から甘えが零れ出て行く。私の中にあった負の感情は、既に吐き出されていてもう私の中には塵一つすら残っていない。だから、私の中にあるのは、願いや望みといった純然な想いだけ。結界が崩壊した今、その想いを堰き止めるものはない。私は溢れ出る想いのままに両親に甘えつくした。

 

 昔、両親と過ごしたことを再現しようと強請った。一緒にご飯を食べよう。一緒のベッドで三人で寝よう。一緒に神様に御祈りをしよう。

 

 昔は出来なかったことをしようと強請った。テーブルに溢れんばかりのご馳走を食べよう。綺麗な洋服で着飾ろう。一緒に街へ遊びに行こう。三人で贅沢をしよう。

 

 私は一方的に想いを告げた。想いのままに告げた容量を得ない、ちぐはぐな私の話を両親はずっと優しい表情で聞いていてくれた。

 

 嗚呼、今、私は両親の温もりに包まれている。とても幸せを享受している。両親がいて、神父様がいて、シスターがいて、お姉さんがいて、村の皆がいて。愛しい人たちに囲まれている私は今、“満たされた”。

 

「さぁ、諸君!!」

 

 仮面の男の声が轟く。気がつくと、パレードが奏でる喧騒は止んでおり、皆が私たちの方に視線を送っていた。

 

「諸君はこの世界という鎖から解き放たれた! 来る者は拒まないが、去る者は決して許さない! 楽園パレードへようこそ」

 

 先程、私に言ったセリフをもう一度言って仮面の男は深々とお辞儀をした。それに続いて白い少女、ピエロたちも深々とお辞儀をする。

 

 泣き腫らした目で私はその光景を見ていた。

 

 青かった空が赤く染まっていた。かなり長い時間、私は泣いていたらしい。

 

 太陽が彼方に沈んで行っている。私たちに首を垂れるパレードの後方に沈む夕日の光が、彼らを照らしている。その姿は、後光が射していることもあって、とても神々しく見えた。

 

 この時、私はまた天啓を得た。

 

 生きている間に私が信仰し続けて来たのは、この時の為だったんだ。彼らこそが“箱舟”なのだ。

 

 神父様たちも私と同じ天啓を受けたらしく、ゆっくりとした動作で両膝をつき「嗚呼、主よ」と呟き、彼ら以上に深々と首を垂れた。そして今度はこちら側が全員で彼らに首を垂れた。ただ、向こうがお辞儀なのに対して、こちらは土下座に近い形で彼らを拝んだ。

 

 神父様が、シスターが、お姉さんが、村の人たちが、そしてお父さんとお母さんが伏し拝む中、私だけは天啓を得た感動に震え、呆然と仮面の人、明確になった“主”の姿を見つめていた。

 

「……嗚呼。主よ! やはり箱舟は来てくださったのですね! 私の妄言だった死んだ人たちを生き返らせることも為して頂けるなんて!! 死の間際、私は主の御心を疑い、酷い言葉を吐いてしまいました……」

 

 その時のことを思い出して私の表情が歪んだ。あの時と先程までは一片の後悔なんてなかったのに、今は後悔と罪悪感が沸々と湧き上がってくる。

 

 当然か。だって私の目の前にいるのは、私が十数年に渡って信仰し続け、待ち侘びた“存在”。そして、私の周りには、私が蘇りを願った人々が居る。私の悲願は成就した。

 

 悲願が成就していなければ、私は未だ信仰を捨て去ったことに後悔も罪悪も感じていなかったはず。

 

 一度、信仰を捨て心を荒ませてしまったから分かる。奇跡が起きた途端、捨てた信仰をもう一度信じるなんて、なんとも掌返しが過ぎる。周りには私がとても単純で軽薄な人間に見えたに違いない。

 

 でも、例え実際に周囲からそんな目で見られていたとしても、今の私には関係ない。

 

「……ですが、もう惑わされません! 私たちは今ここに再び、貴方様に不滅の信仰を捧げます!!」

 

 聞かなくても分かる。皆も私と同じ興奮を覚え、同じ気持ちであることが、手に取るように分かった。

 

 私は周りの皆に漸く続き、地に両膝をついた。手を組み祈りの姿勢を見せ、深々と首を垂れた。

 

 これは私にできる最大の謝罪の形で在り、最大の感謝の形でもあり、そして二度と貴方様を裏切らない、信仰心を貫く永遠の従僕になるという意思表示だった。

 

 視界の端で神父様たちが一度顔を上げて私の方を見たのが見えた。でも、私が深々と首を垂れると、皆私と同じ様に祈りの姿勢をとって深々と首を垂れた。

 

「フム、これは何とも可笑しな話ですね。諸君は世界から解き放たれ自由を得たというのに、自ら鎖に縛られようというのですか?」

 

 面を下げた今の状態じゃ黒衣の仮面、改め、主の様子を伺い知ることは出来ない。でも、その声色からとても不思議そうに感じている事だけは伝わって来た。

 

「私たちは縛られているのではありません。自ら望んで主に仕える決めたのです。それは義務であり責任でもあり、そして私たちが心からやりたいと思える至福の行為でもあるのです。だから私たちは、例えこの行為が縛られているというものであったとしても、それは私たちが望んだ事。本望なのです」

 

 私は嘘偽りなく心からの言葉を述べた。

 

 それは私だけじゃなく神父様やシスター、皆の本心。それは私がそう思っている訳じゃなくて、一度は信仰を持った人ならではの感覚。信仰に身を捧げた者、奇跡を目の当たりにした者、そんな私たちだからこそ以心伝心することができる。

 

「なるほど。しかし、やはり珍妙ですね。私はただの笛吹き。諸君が崇め奉るような神様などではありません」

 

「それでも、私たちにとって御身は崇め奉る主に相違ありません」

 

 主様は困ったと言う様な雰囲気を醸し出した。

 

 私は何を言われようとも気持ちを変えることは無い。それを理解した主は、これ以上は押し問答にしかならないと悟り、言葉を飲み込んだらしい。

 

 確かに今、私の前に立っている主のお姿は、私が当時思い描いていたお姿とは全く正反対だった。生前の私なら、今目の前に立ってる御方を決して主であるとは思わなかっただろう。

 

 だがしかし、私の目の前には間違いなく主がおられる。人知を超えた御業を持ち、その御業で奇跡を顕現して見せた。例え事実が違っていたとしても、今の私たちにとっては御前に居られる御方こそ、崇め奉るべき主神なのだ。

 

 何とも自分勝手な考えかもしれないが、私たちがそうだと心に決めてしまった以上、仮面の人がどれだけ否定しようとも私たちには関係ない。

 

「……フゥ~。まぁ、諸君がそうしたいというのなら、私に止める権利はない。諸君の好きなようにしたまえ」

 

 諦めた、いや、私たちの熱意に根負けした主は、仕方ないと言う様な、それでいて愉快と言いたげな笑みを浮かべ、私たちの信仰心を受け入れてくださった。

 

「~っ! はいっ!!」

 

 私たちは歓喜した。主が私たちの信仰を受け入れてくださったことが、まるで私たちの行いが主にお褒め頂いたみたいで、まだ何も成し遂げていないけど、もう主に認められた感じがして、私たちは喜びに打ち震えた。

 

「だが、私は全知全能たる主ではありません。私は“アビス”。唯の笛吹き、唯の諸君を導く道化師ですよ。さぁ、行こう!!」

 

 主神、アビス様は黒衣を翻し、私たちに背を向けると笛の音を再開した。それに続いて純白の少女がアビス様の肩で歌を歌う。周りの極彩色の道化たちが楽器を鳴らし踊る。

 

 そして一行は彼方へと向かって行く。

 

 遠ざかっていく背を呆然と見つめる私たち。そんな私たちの目に、光彩を放つ極彩色とそれを覆う血の様な夕日が映る。夕焼けの中に入っていくパレードは、まるで血に染まった太陽に飲み込まれて行くようだった。

 

 なんとも妖しい光景に魅入って呆けるしかなかった私たちだったが、頭に先程のアビス様の言葉が響いた。

 

“行こう!!”

 

 私たちはその瞬間、一斉に駆け出した。

 

 これは旅だ。布教の旅だ。

 

 私は今一度、天啓を得た。アビス様と共に、人々を世界の鎖から解放する。それが私たちの使命。

 

 夕日が私たちを包み込む。視界が茜一色になり、極彩色のパレードはもう見えなくなっていた。でも、パレードに演奏だけはシッカリと聴こえていた。

 

 光で全てが真っ白に見える中、私たちは走り続けた。見えないはずなのに、音がするからだろうか、私たちはパレードがどこに居るのかハッキリと分かった。

 

 そして遂に視界が開けていく。

 

「ッ!?」

 

 夕焼けを抜け、夕日を背負った私たちは、その身に茜を“纏っていた”。

 

 ボロボロだった皆の衣服が、極彩色に引けを取らない光彩を放つ物に変わっていた。奇抜だけど、全員共通のその格好は、まさに新たな信仰宗教を崇拝する一団であると言える。

 

 即ち、この茜の修道服を纏う私たちは、アビス様が率いる教団として生まれ変わったのだ。

 

(嗚呼……アビス様…!)

 

 また私は歓喜に震えた。私たちの信仰を受け入れて頂いただけでなく、こんなにも素敵で勿体ない贈り物まで頂き、私たちのアビス様への信頼と忠誠心が絶対にして不動のものへ変わったのが分かった。

 

 遠くに感じていたパレードが、もう手を伸ばせば触れられる位に近くに居る。

 

 私たちはこれからの宗教活動に胸を高鳴らせ、祈りの行進をしながらパレードに続いた。神父様とシスターが私たちを率い、アビス様がパレードと私たちを導く。道化師たちが踊り、騒ぎ、歌いながら先導を行く。そして私たち教団の行進は、パレードと同化する。

 

 純白の少女の歌に続き、信者たちも歌う。祈りを込めた聖歌を、パレードの陽気な心地で、これからの救済と解放を願い、歌う。

 

 私は辺りを見渡した。

 

 神父様がいる。シスターがいる。お姉さんがいる。村の皆がいる。お父さんとお母さんがいる。道化師さんたちがいる。純白の少女がいる。そして、アビス様がいる。

 

 これから私は、アビス様と共に御勤めをしていく。沢山の人を救済することができる。

 

 嘗て思い描いていた理想の中に今、私は居る。そして、その中にこれから皆を招く為、私は御勤めをする。

 

 嗚呼、私は今、とても充実している。

 

 夕日を背に私たちは、地平線の彼方を目指し行く。

 

to be continued



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