誰も善人ではなく (木桜 春雨)
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出会い

最期の夏コミで出した新刊です。

手直し、加筆しながらupしていく予定です。


 パリの地下道はあらゆるところへと繋がっているが、それは建造物にもいえる、寺院や教会、美 術館、劇場に隠し部屋や通路があるのは暗黙の了解といってもよかった。

 ノートルダム大聖堂、オペラ座の事件が時を同じくして惨事に見舞われて再建を果たすのに、それほどの時間がかからなかったのは芸術的な価値を持つ建物であること、そして貴族たちの支援が あったからといっても過言ではないだろう。 大司祭、クロード・フロローとその養い子、カモドが生き延びたのは神の采配だったのかもしれ ない、だが、それだけではない、他にも生き延びた者達がいた。

 セーヌ川の水は冷たい、心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた瞬間、男は死を覚悟した。 少し前まで自分は法を守るべき者として正しいことをしていると自負していた、ところが、あの 男を追いかけていた最中に迷いが生じた。 大きくなる不安に耐えきれなくなって身を投げた、生きることを自ら放棄した事は罪だ、地獄に 堕ちるだろうと思っていたのに何故だ、自分は生きている、眼を開けると薄明かりに照らされた室 内だということがわかった、ここはどこなのだろう思ったとき、声がした。

 身投げした自分を助けたのはノートルダム寺院の鐘つき男だった、司祭のペットと呼ばれ、街の 人間からは異質な者でも見る様な侮蔑の眼差しを向けられていた、以前、街で警備をしているとき に何度か見かけたとジャベールは思い出した。

 

 何故、この男が自分を助けたのか、会話をするとき、じっと自分の顔を見るのは唇の動きを読ん でいるのだと分かってから数日後、ようやく話ができるようになった。

「助けるつもりはなかったよ、警部殿」 鐘つき男のぶっきらぼうな物言いは苛立っているようで、怒っているのかとさえ思えた。

「彼女があんたを見つけたんだ、この数日ずっとそばにいて看病していたんだよ」

「その女は今、どこに」

「寝てる、具合がよくない」

 怒りを含んだ声だった。

 身投げした自分を見つけた女が息があることが分かると、助けたいと自分に頼んだのだという、フロローに知られたら厄介なことになるだろう、だが、女に頼まれて断ることができなかった、彼女に頼まれたからだとカジモドは繰り返した 。

「この数日、あんたの看病をして彼女は疲れてしまったんだ」

 吐き捨てる様な言葉をぶつけるカジモドに、ジャベールは返事をすることができなかった。 それは体に疲れとだるさが残っていたのかもしれない。

 

 

 

「クリスティーヌ」

「ここから出して、お願いよ、エンジェル」

だが、何度訴えかけても相手は、自分の言葉に耳を傾けようとはしない、笑うだけだ。

「君は私の顔を見た、満足だろう」 「ええ、確かに、でも」 言葉に詰まってしまう、無理もない、こんなことになるとは思っても見なかったのだ、クリステ ィーヌ・ダーエ、今、彼女は恐怖と絶望の中にいた。

 今まで歌を教えてくれた天使が、自分を牢屋に閉じ込めるとは思ってもみなかったのだ。  レッスンを受ける事を外部の人間が知れば、生徒志願の人間が押し掛けてくるかもしれない、 その為に素性を知られないように素顔は隠して仮面をつけている。

 その言葉を信じていた、だが、歌が上達して役がつき、念願の主役に抜擢されたとき大役を任さ れることになって、男の事を知りたくなってきた、彼自身の声と同じで、その顔もと思ったのだ。

 好奇心が抑えきれないほど膨れあがってくるのに時間はかからなかった。 自分の顔は醜いから見せたくないと言われ、大丈夫だと言ったのだが、今ではひどく後悔した、 だが、もう遅い彼の怒りを買ってしまった。 男の隠された素顔は今まで見たことのないものだった、髪はない、普段は鬘をつけているのだと、 このとき初めて知った、頭部は陥没したような大きな傷があり、左目は大きく見開いたまま、頬の肉は引きつれたようになっていた、肌の色も浅黒く、血が変色したようなひび割れた傷が痛々しい というものではない、人間らしいという言葉が全て否定されたような顔だ。

 そして自分は彼の顔を見て気を失った、気がつくと牢屋の中だった。 音楽の天使と呼んでいた男は鉄格子の向こうから、自分は母親から捨てられたのだと笑いながら 話しだした。

「化け物、悪魔だと罵って、あの女は自分から命を絶った、自殺だよ、おまえはどうだい、クリ スティーヌ、自ら死を選ぶかい」

 牢屋の中の彼女が呼びかけたが、男は激しく否定した、天使じゃないんだと何度も繰り返し、叫びながらだ。

「おまえは、そっくりだ、あの女に」 「私を殺すの、憎んでいるの」 「ああ、わからないだろうね、おまえには」

 彼は狂っているのではないか、このとき初めて彼女は恐くなった、亡くなった父親から頼まれて、おまえの元に来たんだ、優しい声で呼びかけてくれた、あれは夢、いや、嘘だ。

 帰りたい、ラウル、幼なじみの青年、恋人の顔を思いだして彼女は涙を流した、だが、ここから はどんなに声を上げても届く事はないのだ。

 

 ああ、終わりだ、彼女は自分を恐れている、あの眼は自分の母親、今まで自分の素顔を見た人間 と同じだ、人間じゃない、化け物だ、悪魔だと心の中で叫んでいる。

 皆が自分を恐れて見ないふりをする、女、子供たちを自分たちの背後に隠し、こちらを見る、怯 えたように、だが、自分が一体、何をしたというのだ。

 素顔を見せたのは間違いだった、だが、遅い、彼女を地上に戻せば自分の事を話すだろう、秘密 はいつかはばれるものだ、あの若造、幼なじみ 、 恋人きどりの若造が知れば警察を読んで自分を捕 まえに来るだろう、そうなれば監獄送り、死刑だ、牢屋ではすまないだろう。

 ノートルダム寺院の大広場で見せ物のごとく、絞首刑、そんなことはまっぴらだ、殺されるぐら いなら、いっそのこと、自らの手で、足は自然と階段を上り、オペラ座の屋上へと向かっていた。

 ここから飛び降りれば間違いなく死ぬ、そして彼女は誰にも見つけられず牢屋で一人きり。 孤独なままだ、素顔を見られる前なら彼女を哀れんだかもしれない、だが、今となっては全てが が終わりだ、どうなっても構わない、全ては終わったと自分に言い聞かせる。

 冷たい、ひんやりとした空気が素顔にふれるのは、心地よかった、だが、できるなら昼間の太陽 の光も感じてみたかった、しかし、今となっては、叶わない、そのときだ、足音と人の気配がした。 呼びかける声に驚いて振り返った。 こんな真夜中、オペラ座の屋上に、裏方の人間か、逢い引きの約束でもあるのか、だが、今日は 劇場は休みではなかったか、では、誰だ。

 

「飛び降りる気なの」 女の声だ、オペラ座の人間か、相手が近寄ってくる気配を感じて思わず、来るなと叫び、拒絶し たが、相手は立ち止まる事をしない。

「生きていて何になる、全ては、この顔のせいだ」

「よく、見えないわ、カンテラだけじゃ」

 カンテラの明かりが自分の顔だけでなく、相手の顔も照らした瞬間、突然、相手が抱きついてきた、冷たい石の床に押し倒れた瞬間、驚いた男は言葉が出てこず空を見上げたまま、呆然とした、いや、呆気に取られたと言ってもいいだろう。

 自分の頬に振れた手の感触に緊張する。

「怪我をしてるの」

 生まれつきだと答え、男は目を閉じた。

「夜の空気は冷たくて気持ちいいわね」

 自分のすぐ隣に女が体を横たえ、星が見えないと残念そうに呟くが、男は黙ったままだ。 自分の隣、手を伸ばせば届くほどの近い距離に誰かがいるということが信じられなかった。

 

 

 



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誰も善人ではなく 後編

大聖堂の地下へと向かうカジモドの姿を見つけたフロローは後をつけようとしたが、思 いとどまった、もし、気づかれたら次に見つけだすのは難しくなる、何を隠しているのだろうと考 えたとき、ふと浮かんだのは誰かを地下に匿っているのではないかということだ。

 その日、カジモドに使いを頼んだフロローは部屋の隠し通路から地下へと降りた、寺院には秘密 の通路が幾つかある、だが、そのことを知っているのは限られた者だけ、生まれた時から大聖堂に 住んでいるカジモドでさえ、知らない事もあるのだ。

 薄暗い地下を訪れるのは久しぶりだ、迷わないように地図と目印を確認しながら進んでいくのは簡単なことではなかった。

 突然、フロローは気配を感じて立ち止まった、音が聞こえたのだ。

音を頼りに奥へ闇の中へと突き進んで行くと黒い人影が見える、灯りで確かめようとしてはっとした、男の姿が浮かび上がったのだ。

 (フィーバス)

 何故、ここにいる、呼びかけたが、彼は気づかない、嬉しそうな声にフロローは違和感を覚えた。

 「ああ、エスメ、ラルダ、エスメ」

死人の名前を呼んでいる、この時、フロローは彼の足下の黒い塊に気づいた、だが、それが人間だと気づいたとき、彼は慌ててフィーバスに近づき、その体を思い切り突き飛ばした、それこそ容赦 なく、だ。

あっけないくらい簡単によろけ地面に倒れるが、その姿をまるで汚いものでも見るように見下ろした。

 気を失っているその人間を抱き上げる、だが、そのとき、ふわりと漂う甘い匂い、薬の様な匂いに気づいた。

フロローは顔を覗き見た、女、はっとして眼を逸らしたが、再び覗きこむと抱き上げた。 来た道を引き返す、フロローは女を 自分の部屋、寝室へ運び込むとベッドに寝かせた。

 このとき、頭の中に浮かんだのは地下への入り口を一つ残らず鍵をかけて誰も出入りできない様にしなければということだった。

 そうでなければ、いや、その前にカジモドに、この事を伝えなければならない。

 

 自分の仕事は聖堂の鐘をつき、パリの街に時間を知らせることだ、それは毎日のことで変わるこ とのない日常だった。

その日は大事な日で鐘の修理をする事になっていた。

街の外へ出るのは気を使うが、地下は別だ、ひんやりとした空気も暗い闇も怖くはなかった、太 陽の光に自分の顔が晒されてしまうよりずっと気分がよかった。

以前は賑やかな人々の楽しそうな笑い声が気になって、外に出たいという気持ち、衝動にかられたものだが、今はそれほどではない。

エスメラルダが死んだからだ、何かが心の中から消えてしまったように感じなくなってしまった。

そう思っていたのに、街で困っている女の姿を見つけてカジモドは驚いた、エスメラルダが生き返って、自分に会いにきたと思ったのだ。

だが、近くに寄ってみると違う、別人だ、女はカジモドを見ると自分から近づいてきた。 道に迷って困っていると途方にくれていた女を放っておくことができず、彼女を地下の安全な場所に匿うことにした。

主人であるフロローに内緒でだ。

 

「君は、ここから出たいと思っていたんだろう」

クリスティーヌは驚いた、怒り狂っていた数日前の彼の言葉とは思えなかった。

地上へ帰りたいんだろうと言われて、後をついて行くと以前とは違う道だ、もしかしてと不安になったが、無事に外へ出ることができたときは、ほっとした。

困惑したのも無理はない、外に出ると日はまだ高い、自分がどこに出たのかとクリスティーヌは周りを見て驚いた、見覚え のある場所はオペラ座の近くの通りだ、男の足が止まった。

聞きたい事があるはずなのに言葉が出ない、男は背を向け歩き出した、一度も振り向きもせずに、クリスティーヌは思わず声をかけようとした自分に驚いた。

今までこんな事はなかった、胸の中に説明できない感情がわき上がる、それは不安だ、まるで捨てられたような感覚を覚え、しばらくの間、その場から動くことができず呆然と立ち尽くしていた。

 

 

懐かしい思い出は彼女の歌声を聞いた瞬間に蘇った、同時に恋も始まった。

プリマドンナの不調で突然の代役に選ばれた彼女の姿を見た彼は一本の赤い薔薇の花とシャンパ ンを持って彼女の楽屋を訪れた、兄のフィリップがオペラ座のパトロンという立場だったことが幸いして、楽屋を訪れる事に支配人達は反対する筈もなかった。

夕食に誘ったが、レッスンがある事で断られた、彼女の音楽教師はかなり厳しいらしい。 だが、遠慮がちな様子から、彼女も自分と話したいのだと思えたので、それほどひどく落胆はし なかった。

数日後、一緒に夕食を共にしてから二人きりで会う機会が増えると、兄に呼び出された、内緒にしていたつもりだか、噂は広まっていたようだ、相手を選べといわれて返す言葉がなかった。

貴族とコーラスガールという組み合わせは世間からみたら褒められるものではないだろう、彼女の事を愛人と呼ばれても不思議はない。

だが、躊躇せず結婚したいと思っているというと、その言葉に兄は激怒した、甘い感傷に浸っているだけだ、騙されてい るんだと、色々な男に媚びと愛想を振りまいている、おまえは大勢の中の一人にすぎないと言われて腹が立った。

 

その夜、彼はクリスティーヌの自宅を訪ねた、約束はしていなかったが、喜んでくれるだろうと 思っていた。

だが、迎えてくれた彼女は浮かない顔つきだ。

大事な話がしたいの、真剣な顔つきで言われたのは、これから会うのを控えた方がいいのではないかといわれてすぐには言葉が出てこなかった。

「噂になっているの、ジリイ夫人からも注意を受けたの」

「彼女はバレエ教師だ、君が誰かと付き合う事まで口を出すのは」

「公演に支障が出たら大変なの、わかるでしょう」

まるで子供に言い聞かすような口ぶりに感じられ、むっとしたのも無理はない、だが、彼女は分かって欲しいと宥めるだけだった。

しばらくして、新公演が始まると彼女の楽屋には沢山の花束やプレゼントが届けられた、大勢の貴族達が、彼女の関心を引く為に送った品は、どれも高価な品だ、正直、不快にならない筈がない、だが、彼女の態度は。

「ラウル、この方達はオペラ座の出資者でもあるのよ」

まるで、オペラ座のパトロンは自分一人ではないと言われた気がした。

自分の中で大きく広がる不安に、初めてラウル・シャニュイ、貴族の青年は不安を覚えはじめた。

 

 

その日、フロローに呼ばれたカジモドは自分だけかとだけかと思っていた。

だが、一人ではなかった、もう一人いたのだ、黒い制服を着たジャベールの姿は警官そのものだった、仕事に復帰したのだろう。

ジャベールは自分を見たがすぐに視線を逸らした。

「警視殿、お座り下さい、おまえもだ」

椅子に座ったカジモドは何を言われるのかと不安になった。

「私に隠し事をしていたな」

緊張で体が強ばった、ところが、責めているのではない、おまえは正しいことをしたのだと言われてカジモドは何を言われているのか、わからなかった。

「司祭殿、彼は私を助けてくれたのです」

ジャベールの言葉にフローは頷いた。

「カジモド、おまえが、最初から全てを話してくれたら」

何を言っている、意味が分からずカジモドはフロローの顔をじっと見た。

「彼女が心配だろう、カジモド」

 

「ご主人様、何を知っているんです」

「地下に彼女を内緒で住まわせたりしなければ防げたのだ、事故は」

フロローはジャベールを、そしてカジモドを見た。

「彼女を助けたつもりだろう、だが、地下は安全な場所と言えるのか」

意味がわからず、呆然とした、すると追い打ちをかけるように、フロローは言った。

「フィーバスだ」

突然、出てきた名前に意味が分からなかった。

「仕事を辞め、毎日、酒を飲み、女の部屋、娼館に入り浸っている、見ないふりもで きた、だが、あの男は」

「司祭殿、その男、彼女に乱暴でも」

フロローは頷き、それだけならと言いかけてカジモドを見た。

「阿片を知っているか、カジモド」

初めて聞く言葉だ、だが、カジモドの側にいたジャベールの顔つきが変わった。

「あの男は、彼女に阿片を飲ませたのだ」

ようやくカジモドは理解した、フィーバスが地下で彼女を見つけたのだと、そして彼女に何か、酷い事をしたのだと。

「おまえの浅はかな行動が招いたのだ」

 

カジモドは呆然とした。

「彼女は、今、どこに」

「眠っている、阿片の量がどれだけかわからない、だが、量を間違えたり、体質によっては死ぬこともある、わかるか」

カジモドは青くなった、フロローに内緒にして彼女を匿った、だが、それ以上に危険な事が彼女の身に起こった、それも自分のせいでだ。

おまえは、しばらくの間、自分の仕事だけをしていなさい、フロローの言葉がナイフの様にカジモドの心に突き刺さった。

「彼女は、どこにいるんです」

だが、フロローは答えず、冷たい視線を向けられてカジモドは尋ねる事ができなかった。その夜、カジモドは鐘をつきながら獣の様な叫びをあげた。

ごめんなさい、ごめんなさいと何度も繰り返しながら。

 

 

 フロローは女の頬に触れる、指先の温もりに、っとした、飲まされた阿片は殆ど吐き出したのだが、顔色は良くない。

 フィーバス、あの男は酒と薬で酔っていたのか、見間違えたのだろう、この女は外国人だ、フランス女のような金髪や、真っ赤なケバケバしい毛色ではない、濃い黒髪でもない、肌の色もだ、部屋の明かりのせいか、首筋やむき出しにの手首に巻かれた包帯が痛々しく見える、不意に女の瞼が動いた気がした、眼を開き、天井を、そして気づいたのか首を動かして自分を見た、フロローは呼びかけた。

「大丈夫だ、ここは安全な場所、聖域だだから」

部屋から出るとフロローは大きく息を吸い込んだ、女の笑み、そして自分の口にした 言葉を思い出した、ここが安全、聖域だと、自分の部屋が。 エスメラルダの顔を思い浮かべたが、それはすぐに別の弱々しい微笑みに変わった。

 

街中を歩いている一人の女の姿を見つけたとき、ジャベールは迷いながらも近づいて いった、声をかけると振り返った女は笑いかけてくる。

「体の具合はどうです」

「元気になりました、あなたは」

「ええ、復帰することになりました」

人手不足と犯罪の多さ、それにジャベール自身が優秀な警官であることが幸いし元の役職に戻ることになったのだ。

ゆっくりとした足取りで女が歩き出すと、その隣をジャベールも並ぶように歩きはじめたが、途中で気づいた。

自分たちを見ている視線、男の姿に。

 

数日前、フィーバスという男が牢屋から出てきたことを知ってジャベールは正直、腹正しさ、怒りを覚えた、阿片の取り締まりは簡単ではない。

上流階級の人間は気付けや薬として常用している者もいるが、それは性質や効能を知っているからだ、下層階級、平民の中には中毒患者になって身を滅ぼす者が大勢いる、そんな人間は牢屋に入れてもただ飯を食べさせるのはもったいないと釈放される事が殆どだ。

どこかで野垂れ死にした方が手間がかからなくてすむからだ。

 

 

女を寺院まで送った後、男を見つけたジャベールは声をかけた。

振り返った男は体臭だけでなく吐く息も酒臭いが、それだけではない、顔色も目つきも、酔っているのは明らかだ。

ジャベールは理解した、牢番が男を外に出したのは慈悲でも哀れみでもない、救いようがないと思ったのだろう。

男の首に手をかけ、ジャベールは相手を睨みつけた。

「近寄るな、二度と」

どんよりと濁った眼が何度か瞬きをした、酒臭い息と共に開いた口から出てきたのは 名前だ。

「ああ、エスメラルダッ」

「聞こえているのか、おい」

「ああ、彼女が待ってる」

「いいか、よく聞け」

普段は犯罪者を追う鋭い眼光が、相手を睨みつけた。

「姿を見せるな、二度とだ、今度、彼女の前に現れたら、そのときは」

貴様を、その言葉をジャベールは寸前のところで飲み込んだ。

 

 

その夜、ジリイが口にした名前に私の顔は仮面の下で固まった。

「シャニュイ家の次男坊が来るだと、随分とご無沙汰だったな」

ジリイは頷き、あなたの席は使いませんと念を押すように繰り返した。

「クリスティーヌの舞台を観にか」

その言葉に不思議そうな顔をしたが、私は気づかないふりをした。 多分、いや、ジリイは気づいているのだろう、彼女に対する気持ちの変化に。

「私の席を使え、ジリイ」

返事がない、多分、驚いているのだろう、無理もない。

「たまには寛容な気持ちになることもある、ところで子爵は一人か、もしかして愛人か」 「一人ではないようですが」

余計な噂話を口にして厄介な立場に陥るのは珍しい事ではない、彼女のこういうとこ ろは美徳だろう。

ふと、クリスティーヌは知っているのだろうかと思った、数日前、子爵とはどうなっていると聞いたときの彼女の表情を思い出した。

「ジリイ、私も暇じゃない、ところで例の件はどうなっている」

「フィリップ子爵ですが、今期で辞めたいと申し出てきましたわ」

「噂は本当だったか、しかし、切り捨てるのは、こちらだ」

「このことを、二人は」

知るわけがないと私は断言した、シャニュイ家の兄フィリップの事業がうまくいって いないというのは、しばらく前から噂になっていた。

今のところオペラ座に後援者は必要はない、だが、万が一の為にも支援してくれる候 補者は必要だ、そんな事を考えながら、ふと、ラウルは今夜の舞台、誰と観に来るのだろうかと考えた。

ところが、予想もしない事態が起きた。

 

 

オペラ座の五番の桟敷に入ろうとする彼を呼び止めた男がいた、フランス警察、ジャベールという男だ。

兄の子爵が複数の女性から金を借りている事、すぐに返すからと言われて女達は出し てしまったが、催促しても少し待ってくれというだけで返す素振りもない。

借用書もない、内緒で工面した金を渡している女性もいたが、それが夫に知られる事 になり、事が公になった。

 

ラウルは自分の足下がぐらりと揺れるような不安を覚えた。

「子爵がどこにいるか、ご存じありませんか」

「兄は屋敷に」

「それが、約束の時間に尋ねてみるといないんです」

「まさか兄が逃げたと言うんですか、まさか」

クリスティーヌ、胸の中で恋人の名を呼んだのは勇気を奮い立たせるた為だ、 だが、目の前に立っている男の鋭い視線に狼狽し、思わず視線を逸らした。

 

 

「クリスティーヌ、大事な話があるんだ」

実家の事情で結婚が延期になるかもしれないと告げたとき、彼女はがっかりするだろ うと思っていた、ところが、予想と違って彼女は神妙な顔つきで頷いた後、話があるのだと切り出した。

「サロンで、貴族の集まりで君が歌うのかい」

「ええ、これからずっとオペラ座で歌えるかわからないし、他の、海外の劇場に詳し い方もいるの、今後の為にも色々なところで歌うのもいい機会だと思って」

まるで、目の前の自分は無視されている様な気がした、関係ないといわんばかりに彼女 は言葉を続ける。

「サロンには、あなたとの知らない外国の貴族もいるわ、ラウル」

「クリスティーヌ、君は一人で行くのかい」

「招待されているのよ、まさか、あなたも一緒になんて失礼でしょう」

重苦しい沈黙は長くは続かなかった。

 

 

その夜、自宅で一人、彼が考えていたのはクリスティーヌの事だった。

普段ならワインを飲んで気持ちよく酔うこともできたが、だが、今夜は違う、貴族達 のサロンで彼女が歌う事を考えると不安になった。

もしかして彼女は新しいパトロンを探しているのだろうか、否、彼女に限ってそんなことがあるわけがない、否定したいが心の奥底では、もしかしてと思ってしまう。

突然、ノックの音がした、返事も待たずにドアが開くと入ってきた執事の顔は蒼白だ。

「フィリップ様が、大変なことに」

一瞬、呆然としたのは無理もない、手にしていたグラスが床に落ちた、足下に広がる 赤い液体が血のように絨毯に染みこむのに時間はかからなかった。

「ええ、ひどい怪我です、今は話す事も難しく」

医者の言葉を聞きながらラウルは呆然とした。

 

警察から聞かされたのは信じられない話ばかりだった、兄のフィリップは娼館で阿片と女に夢中になっていたらしい、そこまではよくある話だ、珍しくはない。

だが、兄に危害を及ぼした相手は酷く恨んでいたらしい。

「犯行後、その女は自害しました」

それでは相手に罪を償わせる事もできない 怒りのやり場がなかった。

怪我は酷く、女は薬の様な液体を投げつけたらしい、顔全体が焼け爛れ、元通りに治るのは難しいと言われて愕然とした、自分もだが、兄が、どう受け止めるかだ。

初めてオペラ座に連れてきて貰った時、兄の隣には美しい女性がいた、女優だと聞い て驚いたが、不思議はない。

いつもだ、兄の周りには美しい、有名な女優がいた、魅力的な美人の誘いを断ることなく悠然微笑んでいた兄、それが一転したのだ。

顔が元通りにならなかったら、以前の生活には戻れないかもしれない、そうなったら、耐えられるだろうか、兄は。

弟の胸中には不安しかなかった。

 

新作のオペラの主役にクリスティーヌが選ばれることはなかった、ジリイを通 して演出家、レイエの意見を尊重したからだ。

最近の彼女はオペラ座だけではない、別の場所で歌っている事もあり、その声は決して満足のいくものではなかった、それに今、新しい団員も増えてきた、オペラ座の舞台 は実力がものをいう、その為、国外の歌手も自ら売りこみにくる、女だけではないカウンターテナー、カストラートもいるので実力がなければ厳しいものになる。

自分が今回の主役に選ばれなかったことに対して多少は思うところがあったのだろう。 不満げな顔で彼女は私を見たが、それに対して次の公演楽しみにしているよと優しく言葉をかけ、しばらくは地下に来なくていいと言い渡した。

「私を見捨てるの」

「そんな事はしない、おまえは大事な生徒だ」

不安そうな声だ、以前なら否定し優しい言葉をかけただろう。

貴方は変わったわと言われたが、男は笑顔を返した、わずかに口元だけを緩めてだ、 だが仮面の下の表情を彼女は知らない。

今回の新作のオペラは新鋭の小説家の書いたロマンス小説だ、若い世代、女性がこぞって読むらしく、そこに目をつけて売れると思った芸術家たちが集まって舞台に仕上げ たらしい、古典的なオペラもいいが、新しいものに触れることも大切だ、だから私はあえて、この舞台の練習が始まったとき、見学する事はなかった。

初めての舞台を、ただ純粋に楽しみたいと思ったからだ。

自分の席で舞台を見るのは久しぶりだ、客席はほぼ完売に見えた、流行に遅れまいかとするように着飾った貴族達、若い男女のカップル、芸術家と思える姿も伺えた。

オペラグラスで一階の客席をゆっくりと、続いて向かいの桟敷席を観察するように眺めていた男の手が、不意に止まった。

再び、オペラグラスを覗きこむ、そして思い出した、オペラ座の屋上、冷たい石の床に寝ころんで夜空を見上げた、あの夜、自分は一人ではなかったことを。

もう一度、会いたいと思っていた、だが、偶然は起こらず奇跡の様な出会いもないまま、ずっと日々が過ぎていた。

知りたい、どうすればいい、男は席を立つと廊下に出た。

「ジリイ、頼みたいことがある」

 

その夜、ジリイは仮面の男が苛ついているのが分かり、うんざりした、早く自分の部屋に帰り明日の舞台の為にベッドで眠りたかった。

女には連れがいただろうと聞かれてジリイは頷き、聖職者ですわと答えた。

「昔と違って珍しくはありませんわ、ですが、裕福な教会か寺院でしょうね、女性連れで桟敷席ですから」

逢い引きかと舌打ちするような男の言葉にジリイは肩を竦めて溜息をついた、そんな 風には見えませんでしたわと。

「クロード・フロローのような人物が公の場に愛人を連れてくるでしょうか」

「知っているのか」

「ノートルダム寺院の司祭ですわ」

「ありがとう、ジリイ」

彼女は驚いた、つい先ほどまで不機嫌だったのにと思いながら次の言葉を待った、だが、相手は無言だ、彼女は部屋に戻ることにした。

 

女がノートルダム寺院にいる、人を雇い調べさせた後、裕福な金持ちであることを装い、寄付という名目で寺院を訪れた。

公にはしたくないので仮面で素顔を隠していることに不振に思われる事はなく、しばらくして彼女に会う事ができたのは運が良かった。

寺院で雑用などをしている彼女だが、外国人という事で周りからは多少敬遠されているようだ、だが、露骨に冷遇されているわけではない。

何度か寺院を訪問した後、男は素顔を見せた。

女は驚いたが会話は長く続かない、寺院の鐘つき男が彼女を呼びに来たからだ。

ご主人様が呼んでいると女に声をかけ、いぶかしむように仮面の男へ視線を向ける。

男は数日後、寺院を訪れた、そして強引かもしれないと思ったが、私の家で暮らさないかと申し出た。 少なくとも寺院の生活よりは自由で楽な筈だと思ったからだ、女は少し考え込むよう に私を見ると、ありがとう言いながらも断ってきた。 新しい仕事が見つかったので、しばらくしたらここを出るつもりだというのだ、正直 なところ、この言葉に驚いた。

普通は巴里の女でも働く場所は限られている、給料も決していいとはいえない外国人 の女を雇うなど、仕事の内容を聞くとある男性の身の回りの世話だという。

「貴族の男性でね、給料もいいの」

 

外国人の女が貴族の館で働く、何かあるのではないだろうかと疑問を抱いたが、シャニュイという名前が出てきた瞬間、男は無言になった。

事業の失敗、金の工面、騙そうとした女達から報復を受けて顔にひどい怪我を負ったこと、坂道を転がる様に不幸が襲ってくるが自業自得だ。 だが、そんな男の身の回りの世話、仮にも貴族だ、召使いやメイドなどいくらでもい るだろう、外国人の女を雇うなど、もしかして余裕がないほど切羽詰まっているのか、 だとしたらいい気味だと内心、男はにやりと笑った。

 

「全く、なんて気が利かない女ばかりだ」

フィリップは大声で女を叱り飛ばした、身の回りを世話するメイドは自分の顔を見る と真っ青な顔で、その日のうちに辞めたいと申し出た、これで何人目だ。 仕方なく他のメイドの募集をかけたが、自分の顔を見ると皆、断ってきた。 そして、やって来たのが、外国人の女だ。

 

兄の部屋から出てきた女の姿を見るなり、ラウルは驚いた。

声をかけて近寄ると女の服は汚れていた、食事りスープを投げつけられたらしい、数日前にメイドから兄の様子を聞かされていたが、大袈裟に言っているだけだと思っていた、だが、家に戻って兄と話していると、この不機嫌な兄の態度を見ていたら、もしかしてと思っていた途端、この有様だ。

医者から言われた事実を受け止めることができず、メイドに当たり散らすだけではない、暴言を吐き乱暴しようとする。

いくら給料がよくてもたまったものではないと、以前から屋敷に勤めていたメイドた ちも次々に辞めていった。 今、屋敷に行るのは執事と庭師などの下働きが殆どだ、家のことを任されていた執事 が困ってラウルに相談したいと連絡してきたのは最近だ。 兄の起こした不祥事以来、屋敷にはあまり近寄ることはしなかったが、さすがに見て 見ぬ振りはできないと戻ってきた。

知り合いからメイドを紹介して貰うことはできないと考え、斡旋所に頼んだが、そこから来たメイトも三日も続けばいい方だ。

このままでは大変な事取り返しのつかないことに、いや、今だって、どうすればいいんだと悩んでいたときに一人の女が訪ねてきた、斡旋所から話を聞いてやってきた女は外国人だったが、働くことに関して女は条件をつけてきた。

自分は貴族のしきたりや作法は知らないこともあるので多少のことは大目にみてほし い、あまりにも理不尽すぎる命令には従わない、普通なら、こんなことはあり得ない条件だが、ラウルは承諾した。 それというのも、これ以上メイドの派遣はできないと断られたからだ。

 

 

その日の朝、執事に呼び起こされたラウルは兄の部屋に入ると怒鳴るような一言を浴びせかけられて驚いた。

「この私の顔を叩いた、いや、殴ったんだぞ、貴族の私の顔をだ」

ラウルは頷いた知っていますと。

「兄さん、彼女が辞めたら、あなたの身の回りの事を世話してくれるメイドはいなくなります」

新しいメイドを雇えばいいだろうという兄に無理ですとラウルは答えた、斡旋所はもう紹介しないと言ってきた事を伝えるとフィリップは言葉を失った。

「知人からの紹介も無理です、兄さんの境遇に同情はしますがやりすぎです、いくら メイド相手だからって」

「兄の自分に意見するのか」 そのときドアが開き女が入ってきた。

「子爵様、出掛ける支度をしてください」

「何、外出だと馬鹿な事を言うな」

「警察です」 女の言葉にフィリップだけでなく、ラウルも驚いた。

「呼び出しを受けているんです、以前、ここで働いていたメイドが訴えを起こしたんです、腕の骨を折ったので治療費を請求されています」

「馬鹿らしい、そんな金、払う必要など」

「拒否すれば裁判所から呼び出しを受けるかもしれません、それでもいいなら構いま せんが、あなたは貴族かもしれませんが、犯罪者なんです」

言い過ぎだとラウルは思ったが言葉が出てこなかった。

寺院から女がいなくなってからカジモドは落ち込んでいたが、それはフロローも同じ だった、メイドの仕事といっても外国人なので雇い主の気分次第であっという間にクビ になってもおかしくはない。 だが、暫くして女は住み込みで働く事になったと報告してきた。

貴族の館で住み込みのメイドと聞いてカジモドは素直に喜んだ、だが、フロローは複雑だった、雇い主の貴族とメイドの関係は決して世間では珍しくないからだ、だが、心 配しているのはフロローだけではなかった。

 

貴族に乱暴されたと警察に来て訴えを起こした、普通ならメイドの話などまともにとりあってもらえないだろう、だが、相手がシャニュイ家の長男ということ、メイド達が 一人ではないではないことで警察は見て見ぬ振りなどできなかった、事件にジャベールが関わる事になったのは今までの経歴もあっただろう。

亡くなった両親が残した遺産は事業につぎ込んでいたので家財や宝石、土地などを売却すると手元に残ったのは屋敷と最低限の家財道具わずかな貴金属だけだった。

自分よりも醜い顔になった男がいる、周りから冷たい眼で見られて今まで友人だと思 っていた相手は離れて、相手にされなくなっている、しかも、あの若造の兄だ。

ジリイから話を聞いた仮面の男は笑いたくなるのを必死に堪えた、これが兄ではなく、弟のラウルならと思ったが、どちらにしても同じだ、変わりない。

今までの人生がなかったかのように、全てから拒絶され生きることになる。 だが、一つだけ気にいらないことがあるとすれば、一人ではないということだ。

そばに女がいることだ。 引き離そう、でなければ孤独という本当の意味がわからないだろう。

 

 

あの男に本当の孤独を教えてやらなければいけないと男は仮面の下で笑いだしたくな るのを必死に堪えていた。

 

 



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