ORCHO-PASS PAGES of MEMORY Page.2「正義と罪」 (マクギリシマ)
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前編
Chapter.1


こんな夢を見る。

一回ではない。これまで何度も同じように。それは眠っている間のときもあれば、白昼夢のように突然現れることもある。自分の中の時だけが止められたようになって、現実の世界から分離される。

“そこ”はいつも真っ赤な霧の立ちこめる薄暗く息苦しい空間で、絶えず遠くから金属の擦れるような音が響き渡っている。冷たく硬い鉄の床だけが存在していて、どこを見渡しても壁や天井は見当たらず、どこまでも広い。いや、霧に視界を塞がれてか意識が朦朧としてか、見えないだけで本当はとても狭いのかもしれない。実際そんなことはどうでもいい。実在しない、いわば自分だけの空虚な場所なのだから。

両腕を上から赤黒い鎖に繋がれ硬い床に両膝をついて身動きは取れない。
うなだれていると、どこからともなく自分と同じ姿をした何か、もしくは自分自身、もう一人の自分が現れる。そしてそいつは決まって自分を蔑むような目で見下ろしてきて、語りかけてくる。内容はまちまちだが、その真意は全くわからない。ただそいつは「お前が殺した」とよく口にし、戒めてくる。時には拳銃を取り出して、容赦なく撃ち殺してくる。それでも生き返ってしまうため、そいつは何度も何度も、終わりの見えない銃殺地獄を味わわせてくる。ある種の拷問だ。

この夢がなんの意味を持つのか、果たして夢なのか。考えてもわからない。ただそこで自分に憎悪を持って軽蔑してくるそいつは、紛れもなくオルガ・イツカ自分自身だということだけは明白だった。終わりの見えないその地獄は、御留我威都華の記憶そのものだった。



「ちょっと、あの女私を椅子で殴ったのよ?!暴行罪よ暴行罪!!逮捕してよ?!」

 

「あーはいはい、捜査しますから…とりあえず落ち着いてくれよ」

 

大田区の近郊にある私営の保育施設で、三人の刑事が憤る女性をなだめていた。8月の蒸し返すような日差しの中、執行官の御留我威都華(おるがいつか)は憤慨する保育士に手を焼く。青襟の黒いミリタリージャケットを腰に巻き、上半身はライトグレーのノースリーブから色黒の腕が見える。かきあげた白髪の影さえも鬱陶しい日中、流石に赤のストールは巻けない。いっそ上裸で行きたいと言ってみたが、流石に宜野座だけでなく狡噛にも神妙な顔で止められた。

 

「捜査するとか言いながらどうせ後回しにしてろくに動かないんでしょ?これだから警察は…」

 

暴行を受けた被害者だというのに、この女性は弱った様子一つ見せずによく話す。

 

「ちっ…ほんと上から目線だよな、オバサン」

 

猛暑の苛立ちも相まって、御留我はしびれを切らして舌打ちをした。聞こえないように呟いたつもりだったが、彼女の耳にはしっかりと届いていたらしい。

 

「今あなた、悪態ついたでしょ?!名誉毀損じゃないの?!」

 

中年とは言えないが、世辞にも若いとは言えないような、おまけに口うるさくてプライドもすこぶる高い…いわゆる「オバサン」ではないか。

 

「部下の無礼をお詫びします。御留我、お前は下がってろ」

 

そう言いながら御留我を押しのけたのは、監視官の宜野座伸元(ぎのざのぶちか)だった。この暑さの中ネクタイをしっかりと締め、黒のジャケットのボタンまで留めている。細縁眼鏡の奥の鋭い目には冷静さをたたえ、その表情に涼し気な空気を上乗せしていた。

 

宮内紗季子(みやうちさきこ)さん、それでは順を追ってその時のことを説明していただけますか?」

 

「ほんの一時間前のことよ。同僚の椎名美里って女が後ろから!後ろから椅子で殴ってきたのよ!」

 

「その前に何か口論をしたとか、心当たりはありませんか?」

 

「そんなのないわ。でもそうね…私が園児と仲良くしてたのに嫉妬したのかもね」

 

保育士の宮内は哀れみにも似た厭味ったらしい自慢げな笑みを浮かべてそう答えた。

 

「…」

 

そんな様子に呆れてため息をついたのは、何も御留我だけではなかった。こちらに背を向けて園内をキョロキョロと観察していた狡噛慎也(こうがみしんや)も同感だったようだ。胸元のボタンを開けたワイシャツを肘までたくし上げ、黒のスーツジャケットは左手に握り肩から背中におろしている。刈り上げの逆立った黒髪の下の引き締まった顔には薄っすらと汗が浮かび上がっていた。

 

昼前に局内に通報が入り、宜野座、狡噛、御留我の三人が捜査に立ち会う運びとなった。通報の内容はおおかた宮内が語った通りだ。保育園で勤務する彼女が、ついさっき同僚の女性に椅子で殴られたという。当の加害者女性はそのまま保育園を飛び出して逃亡したらしいので逮捕してほしいとのことだ。

 

本当に暴行があったとすればその椎名美里という同僚の女性はそれなりの高い犯罪係数をマークしてるだろうし、どの道身柄の確保は必須事項だ。

 

シビュラシステムによって解析された生体力場をもとに算出される犯罪係数“サイコパス”。規定値を超えると潜在犯と認定され、厚生施設でセラピーを受けることになる。街中に張り巡らされた街頭スキャナで彼女が発見されるのも時間の問題。ただそれは、“本当に暴行があった”とすればの話だが。

 

「宮内さん、他にその場を目撃した方はいますか?」

 

宜野座がそう質問する。

 

「園児たちはみんないましたし、他の職員も何人かいたはずよ。何、私が嘘を言っているとでも」

 

「形式的な初動捜査です。必ず複数の証言を取ることになっています」

 

間髪入れない宜野座の的確な返しに宮内は口をつぐんだ。

 

園舎から不安そうにこちらを見る園児と数名の保育士たちを見止めると、狡噛がそちらへ歩き出した。

 

「宮内さんが暴行を受けたというのは間違いありませんね?」

 

「はい…。確かに、椎名さんが宮内さんを」

 

開口一番の狡噛の問いに、若い女性保育士が恐る恐る答えた。

 

御留我は狡噛が敬語を使っているのにある種の新鮮みを感じた。小さな子どもたちもいる手前、なるべく威圧的な印象を与えまいとしているのだろう。流石は元監視官といったところか、がさつに見えても細かなところまで配慮が行き届いている。

 

「?」

 

ふと足元から視線を感じ、御留我は目線を下げた。

 

「まっするおにーさーん」

 

そこには御留我の膝ほどの背丈の小さな男の子が立っており、こちらを指差して笑っていた。

 

「まっする…なんだ?」

 

「ハハ!幼児向けの教育番組に出てくるキャラクターさ。全身日焼けをしてて、いつもノースリーブを着てる。おまけにお前みたいな厳つい体格なんだ。随分と人気者らしいぜ」

 

首を傾げる御留我に、狡噛が喜々と語る。

 

なんでそんなこと知ってるんだ。

 

御留我はそう聞こうとしたが、それは押し寄せた大勢の園児たちの荒波によって阻まれた。

 

「わーっ!まっするおにーさんだー!」

 

「背ぇ高ーい!」

 

「お、おい、まてこら、ちょっ!」

 

一気に取り囲んできた子どもたちに、御留我は慌てふためくしかなかった。

 

「それで、この園内で椎名さんは宮内さんと何かトラブルとかは…」

 

「ないわよ!あの女が狂っただけなの。」

 

気を取り直したように狡噛が続けて職員に質問しようとすると、離れたところから宮内が口を挟んだ。それに従うように職員は「はい…特には…」とか細い声で答えた。

 

「…ご協力ありがとうございました」

 

狡噛はそう言って軽い会釈をすると、意外にもあっさりと園舎を後にした。

 

「ギノ、戻って捜査方針を練るぞ」

 

「そうだな…。宮内さん、それでは我々は一度戻ります。街頭スキャナで優先的にマークしますので、あとはお任せください」

 

「ええ。あなたみたいなしっかりした方には任せられそうね」

 

宮内はご満悦そうにふんぞり返り、畏まったスーツ姿の宜野座を見送った。

 

「御留我、帰るぞ」

 

「待ってくれ!」

 

既に門の近くまで歩いていた宜野座に呼ばれ、御留我は子どもたちを丁寧に振りほどく。

 

「ほらほら、マッスルオニイサンはもう星に帰らなきゃいけないから」

 

「えー、まっするおにいさんは地底人だよー?」

 

「え…」

 

あくまで何も知らないキャラクターを演じて適当な言い訳を繕ったが、空振りすらしなかったようだ。

 

「刑事さん、園児たちに危害なんて加えたらただじゃ置きませんからね?」

 

宮内の威圧的な態度に御留我は気分を害してむっと口を尖らせ、園の外へと足を急がせた。

 

 

 

 

 

 

 

「暑い」

 

車に乗り込むなり、開口一番宜野座がこぼした。綺麗に着こなしていたジャケットをさっさと脱ぎ捨て、ネクタイを荒い手つきで緩める。

 

「お疲れさん、監視官殿」

 

助手席で狡噛が労いの言葉をかけた。

 

「よくもまあ、そんな厚着でいられたよな」

 

続けて後部座席に乗り込みながら御留我が言った。

 

【挿絵表示】

 

 

「お前ら執行官と違ってこっちには立場ってものがある」

 

鬱陶しそうにそう言い放つと、宜野座は運転席のタッチパネルを操作して自動運転を開始させた。ダークブルーの乗用車が静かに路上を滑り出す。

 

「これからどうすんだ?捜査するにしても、情報が不確定すぎるだろ」

 

「その通り。あのまま聞き込みをしても時間の無駄だ。さっさと抜け出して正解だぜ」

 

御留我の問いに狡噛が答えたが、御留我にはよく意味がわからなかった。

 

「どういうことだ?」

 

「あの宮内って職員、主観を他人に押し付けすぎる。おまけにどうやら園内を牛耳っているな。他の職員は下手に口を開けない有様だ」

 

「狡噛の言うとおりだ。まずは宮内紗季子と椎名美里の二人を調べて、改めて他の職員に証言を取るべきだ。もちろん宮内がいない場でな」

 

「街頭スキャナの優先手配は?」

 

「そんなことするわけないだろう。凶悪犯罪でもない…まして被害妄想の誇張かもしれない事件だぞ」

 

ここに来てようやく先程の状況が飲み込めてきた。あの場であれ以上の聞き込みをしても無駄だということを察した狡噛と宜野座は、とりあえず宮内を納得させて立ち去るために計らっていたのだ。

 

「御留我、お前も刑事になってもう二年目だろ?そろそろ場の空気を読めるようになれ」

 

「い、いや、俺はガキどもの空気を読むので精一杯だっただけだ」

 

狡噛にからかわれて、御留我は適当な言い訳を投げ返した。これこそ空気を読んでの言動だ。

 

「にしても、本当のところどうだろうな」

 

「それをこれから調べる。椎名が街頭スキャナに引っかかればそこから本人に取り調べをするし、かからなければその程度の犯罪係数…暴行事件ではなかったということになる」

 

「もしくは高い犯罪係数のまま引きこもっているか…だな」

 

そう言った狡噛を宜野座が横目に見る。

 

「少なくとも宮内と椎名との間に何かしらのトラブルがあるのは間違いないだろう。でなければ同僚を「あの女」呼ばわりしたり、少なくとも「狂った」と瞬間的に決めつけたりするようなことはしないはずだ」

 

「一方的に恨みを持って、椎名を陥れようとしてる可能性は?」

 

「おそらくその線は薄い。威圧されているとはいえ、職員も暴行そのものは見たと証言した。それに椎名自身行方をくらましたのは事実だ。後ろめたいことがあるんだろう」

 

「ま、この様子じゃ椎名の動機は宮内のパワハラに耐えきれずに…って感じだろうなぁ」

 

狡噛の推理を一通り聞き、御留我は座席にもたれかけながら言った。

 

「どうだかな…。そう単純明快であることを祈ろう」

 

狡噛はいつものように含みのある言い方をし、怪訝な面持ちで腕組みをした。

 

「刑事の勘ってやつか…」

 

御留我はそんな彼の様子に眉を寄せるような、感服するような気分で呟いた。

 

宜野座はその間口を開くことはなく、いささか不機嫌そうな顔で自動運転車のハンドルを握り続けていた。

 

 

 

 



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Chapter.2

椎名美里(しいなみさと)。年齢は23歳。私立桜霜学園を卒業後、市営ひまわりの輪保育園に保育士として就職した」

 

刑事課オフィスの無機質な空間に宜野座の声と、送風ファンと冷房設備の低い音が響き合う。御留我と狡噛、宜野座の三人は刑事課に戻り、オフィスで捜査方針を練っていた。

 

「桜霜といえば、確か全寮制の女子校だな。相当な秀才で、尚かつ裕福な家庭での育ちってわけだ」

 

向こう側のデスクに座る狡噛が言った。御留我はその学園のことは知らなかったが、今の言葉でかなり敷居の高い名門校であることだけは想像がつく。

 

「公安局のデータベースをざっと洗ったところ、今年の春に一度サイコパス定期検診に引っかかりセラピーを受診していたことがわかった。」

 

「それだけじゃなんとも言えねぇな…。情報が少ない。園の職員への聞き込みは後日のアポを取るとして…」

 

「家族は?」

 

御留我が言葉を詰まらせると同時に狡噛が聞く。先刻からどうも自分のペースを崩してばかりだ。

 

「両親の他に夫の椎名悠一、そして美香という妹がいるらしい」

 

「ミカ…?」

 

御留我は思わずその名を繰り返した。その自分の言動に驚きつつ、こちらを不思議そうに見た二人に「あ、いや別に」と返す。なぜだかはわからないが、とても馴染みのある響きだったのだ。おそらく事故で失った執行官就任以前の過去の記憶のなかの人物か何かなのだろうが、いちいち気にしていても仕方がない。

 

「既婚者となると、夫以外の家族とは最近頻繁には会っていないだろう。とりあえず椎名悠一を当たってみよう」

 

「椎名悠一とは連絡が取れなかった。彼は現在出張で海外に渡航中だそうだ。勤務先と航空会社にも確認済みだ」

 

「とりあえず夫婦揃ってやましいことをナンタラって線はなさそうだな」

 

狡噛がため息混じりの皮肉をこぼす。それもそのはず、これでひとまず直近で有力な手がかりを得る手立てが封じられたのだ。

 

束の間の沈黙の末、宜野座が口を開いた。

 

「俺は文部教育省を通じて保育園の職員たちへのアポイントメントを取る。狡噛は桜霜学園に連絡を取って妹に聞き込みをできるよう手配しろ。御留我は椎名の両親に連絡を取れ。」

 

狡噛と御留我の二人は重い腰を上げ、それぞれオフィスを後にした。

 

 

 

換気扇の回転音と、職員がキーボードを打つ音が淡々と続く小さな部屋。ここは先程までいたオフィスより少しばかり暑い気がする。

 

御留我は通話用ヘッドセットを掛け、緊張した面持ちで電話番号を入力し始めた。

 

あれから椎名の両親の電話番号の照合と、公安局回線使用許可ライセンスの発行手続きを済ませ、ようやく電話連絡の準備が整った。公安局から一般への電話はなりすましを防ぐため、相手に認知できる形で専用回線から行うことが義務付けられている。そして潜在犯である執行官においては、その都度特別な許可証を発行せねばならない。監視官の宜野座ならばより容易にできた電話だが、彼は彼でまた別の面倒な手続きをやらねばならないのだから仕方がない。

 

ヘッドセット越しに聞こえる発信音が数秒流れたあと、落ち着いた男性の声が応答した。

 

「はい、霜月です」

 

「あ、えと、どうも、公安局刑事課の者です」

 

御留我はたじろいでぎこちない挨拶を返す。これでは偽物を疑われるのではないかという一抹の不安を抱きかけたくらいだが、公安局専用回線から発信していることを思い出し、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 

「椎名さ…美里さんについてお伺いしたいことがあって」

 

 

 

通話は10分と経たずに終わった。案の定両親はしばらく椎名美里と会っておらず、たまにチャットを交わす程度の交流らしく、特に変わったところは思い当たらなかったようだ。椎名の人となりを聞こうかとも思ったが、20代までサイコパスが正常だった時点で幼少期の人格形成上の悪影響があったという可能性はほとんどない。聞くだけ無駄だと考え直した。

 

「さっさとスキャナにかかってくれりゃな…」

 

御留我は安っぽいオフィスチェアの背もたれをギイと倒し、気だるそうにぼやいた。

 

実際ストレスの暴走しただけの潜在犯の暴行事件などにだらだらと詳細捜査などしたくない。パラライザーで気絶させて身柄を確保すれば済む話なのだから、捜査にもそれ相応の単純さを望みたいところだ。

 

「!」

 

突然の腕時計端末への着信に御留我はビクリとする。相手は宜野座だった。

 

「公安局刑事課1係執行官、御留我威都華だ。」

 

「自己紹介するな。たった今、街頭スキャナと防犯カメラに椎名が掛かった。出動するぞ」

 

「了解!」

 

御留我は待ってましたとばかりに威勢の良い返事を返し、狭苦しい部屋を足早に去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕日ですら蒸し暑い午後6時。刑事課1係は総出で現場に到着した。大田区にある資材倉庫の一画で、重黒いキャリアから各々ドミネーターを抜き取る。

 

「職場の暴行から誘拐事件に発展するとはねぇ」

 

縢秀星(かがりしゅうせい)が能天気な声で言う。毛先の踊った明るい茶髪を後ろへかき上げ、ワインレッドの半袖シャツと黒いジョガーパンツに身を包んでいる。

 

「まあ、サイコパスは些細なことからどんどん悪化するからな。パニックを起こしちまう例も少なくない。」

 

抜き取ったドミネーターを腰の後ろのホルスターにしまいながら、ベテラン老年刑事の征陸(まさおか)執行官がそう言った。

 

どうして総動員なのか。それは移動中の護送車で聞かされた。防犯カメラの映像と目撃者の証言から、驚くべきことに椎名が宮内を攫ってこの倉庫に連れ込んだことがわかったのだ。人質に取るつもりか、はたまた殺害するためか。いずれにせよもはや危険な事件と捉える他ない。人命がかかった鎮圧任務の場合、刑事課は一係分全員で対処に当たることが多い。

 

「もたもたするな。危険な状態かもしれないんだぞ。早く配置につけ」

 

いまいち緊張感に欠ける執行官一同にしびれを切らした宜野座が早口にそう言うと、皆早足で倉庫の各所へと回り込んだ。

 

 

 

「公安局刑事課だ!椎名美里、宮内を放して投降しろ!」

 

宜野座を筆頭に、倉庫のあらゆる窓と扉から一斉に刑事たちが突入し、倉庫の中央に立つ女性にドミネーターの銃口を向けた。

 

<犯罪係数:オーバー300 執行対象です。執行モード:リーサル・エリミネーター>

 

指向性音声がそう告げると同時に、ドミネーターは青い光を放ちながらまたたく間に銃身を展開させ、椎名への処刑を刑事らに命じた。ある程度予想の範疇ではあったが、やはり椎名の犯罪係数は急激に上昇し、ドミネーターの殺傷形態への基準となる300を超えていた。

 

「警察…?!」

 

抱え込んだ宮内の首元に果物ナイフをあてがう椎名は一瞬戸惑った様子を見せたが、再び顔をしかめてこう言った。

 

「この人は生かしておけないんです!今ここで殺します!」

 

「いい加減にしなさいよあんた!警察に囲まれたのよ。諦めて投降しなさい!」

 

「黙れ!!」

 

ナイフを向けられながら宮内が果敢に突っかかると、椎名は耳をつんざくような声で叫ぶように怒鳴りつけ、震える手でナイフを握り直した。

 

「宮内が邪魔で撃てない…!」

 

宜野座が通信機越しに小さく呟いた。椎名が立っている倉庫中央から刑事たちが銃口を向ける壁際まで約30メートル。命中率はいささか下がり、このまま撃てば椎名に抱え寄せられた宮内に当たる可能性も高い。その上少しでも接近する素振りを見せれば宮内の首元が掻き切られるだろう状況だ。誰もが息を止めて倉庫内は膠着した。

 

その直後だった。

 

「俺はいるぞ。」

 

刑事たちの通信機に微かにそんな声が通った。刹那、倉庫の二階、壁に沿った渡り廊下の鉄パイプ柵を身軽に飛び越え、皆の視界の遥か上に御留我が舞った。そう、他の面々が一階から突入した中、御留我は一人二階からの侵入を試みていたのだ。渡り廊下への階段は倉庫の中にあるのみ。つまり外から二階に入り込むためには外壁をよじ登る必要があった。

 

「え…」

 

御留我が華麗に身を翻し着地したのは椎名とのゼロ距離。一瞬にして目の前に現れた銃口に呆然とする彼女を死刑執行の青い光線が貫通したのは、たった1秒後のことだった。

 

 

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「職場ストレスで執行対象まで成り上がるたぁ、愁傷なこった」

 

御留我は心地良い達成感に浸り、そう呟いた。

 

足元にはつい先程まで椎名美里だった血と肉が散らばり、腰が抜けた宮内が怯えた目をして座り込んでいた。

 

「公安局です。宮内さん、身柄を保護します。ショックな出来事だったでしょう、施設でセラピーを受けるよう手配します」

 

駆け寄った宜野座が落ち着いた声でそう呼びかけると、宮内は六合塚(くにづか)執行官の支えを借りてゆっくりと立ち上がった。

 

「さすがは刑事課実戦エースだな、御留我」

 

ドミネーターを腰の後ろにしまいながら狡噛が言う。彼自身刑事課の中でかなりの身体能力の持ち主だが、御留我の超人的なそれを前にすれば、称賛の言葉が出る。

 

「あの高さから飛び降りて、よく死なねぇなぁ…」

 

御留我が飛び降りてきた渡り廊下を見上げ、征陸が感嘆の声を漏らした。

 

皆の賞賛に御留我は照れくさくなって頭の後ろを掻く。

 

御留我威都華には特殊な能力がある。「フリージア(希望の華)」と名付けたそれは、何度死んでも必ず息を吹き返すいわゆる不死身の能力だ。それに加え超人的な身体能力も持ち合わせており、刑事課きっての戦闘要員たり得ている。

 

「これにて一件落着ってとこだな!」

 

御留我は鼻が高い思いのまま威勢よく言った。

 

やはり細々した面倒な捜査云々より、こうドミネーターで解決してしまうのが一番だと感じる。「邪魔な奴らは誰だろうとぶっ潰す」とまで言うつもりはないが、シビュラシステムによって割り出される犯罪係数で完璧に善悪を判別できるこの社会においてわざわざ回りくどいことをするのは無駄だろう。

 

御留我は2年の執行官経験を通じてそう感じていた。

 

システムに従っていれば間違いはないのだ。これ以上の保証なんて逆立ちをしても思い浮かばない。

 

そう、システムに従ってさえいればいいのだ。

 

 

 

 



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Chapter.3

「ご用件というのは、何でしょうか」

 

御留我は緊張に固まった声を絞り出した。敬語を使うのはどうも慣れない。

 

公安局長執務室。公安局ビルの最上階にあり、基本的には監視官などの上の階級でなければ入室は許可されない。“基本的”から外れた例外というのは今まさにここに呼び出された御留我を指すが、それ以外には例を聞いたこともない。御留我はそんな身の丈に合わない空間の中で、真夏にもかかわらずジャケットのボタンを全て閉じたかしこまった姿で直立していた。中に着た黒い襟シャツとネクタイがまたなんとも暑苦しくて仕方がない。

 

 

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刑事課オフィス二つ分ほどの広さで、黒い大理石の荘厳な壁に囲まれ、中央には埃一つない大きなデスク。そこには純白の装束の様な雰囲気を醸し出すタイトスーツを身に纏った老年の女性が鎮座している。彼女こそが公安局の局長、禾生壌宗(かせいじょうしゅう)である。

 

「君がここに呼び出されたということは、それなりの特別な事情があるからだ」

 

「はい、存じています」

 

局長の落ち着き払った低い声に御留我はより一層硬直する。

 

一体どんな「特別な事情」なのだろうか。

 

任務での失態は重大なものは思い当たらないし(全く無いと言えば嘘になるが)、そもそも失態があろうと局長に呼び出されることなどまずない。もしかして先週オンラインで買ったラブライブの同人誌が若干成人向けコンテンツ寄りだったのがバレたのだろうか。いや、だとしてもそこに咎められる理由はない。

 

「君の背中にある端子だが、君の祖国での重機操作用らしいというのは以前から聞いているね?」

 

「あ、はい?あー、これのことですか…」

 

御留我は局長の口から出た予想外の言葉にきょとんとした。

 

御留我のうなじには金属製の端子が埋め込まれている。検査と分析の結果、脊髄と接続されており、何らかの機械を操作するためのものではないかと告げられた。執行官以前の記憶がない以上正確なところは思い出せないが、少なくともこの国にはそんなものを使用する技術は存在しないのだそうだ。

 

「その“阿頼耶識(あらやしき)”という有機デバイスシステムを活用する特殊装備を君に貸与するというのが、今日の要件だ」

 

御留我はなおさらきょとんとする。話の流れから察するに、背中の端子は阿頼耶識という名前であることまでは理解できたが、その後が正直ピンとこない。

 

「資料を君のデバイスと刑事課全員に送信しておいた。詳細は後で確認してほしいが、概要だけは説明しよう」

 

「はい、お願いします…」

 

御留我は未知の状況に立たされ、言われるがままに局長の話に耳を傾けた。

 

与えられた特殊装備の名は「バルバトス」。御留我のドミネーターに追加搭載されるリーサルクラスの執行モードだそうだ。変形したドミネーターが使用者の全身を包み込む形で起動する、いわばパワードスーツのようなものらしい。動力にはエイハブ・エンジンと呼ばれる擬似太陽炉を使用し、飛行や高機動戦闘が可能になるが、エネルギー積載の問題上1分間の制限時間が設けられている。エンジンを切ったニュートラル状態でも活動は可能だが、自力で動かす負担が大きいため非推奨。そして何より驚かされたのは、そのバルバトスモードは対象の犯罪係数に関係なくこちらの意図で操作することができるということだ。

 

「しかし局長、それだったら監視官に与えるべきじゃないんですか?いち執行官がこれほどの権力を保持するのは、この社会秩序上問題なのでは…」

 

御留我は恐る恐る聞く。

 

「君が妙なところに鋭いことは賞賛に値するが、足元が疎かなようだね。“灯台下暗し”ということわざが当てはまる」

 

「東大に入学するときは、元からそこに暮らしていたかのような猛烈な秀才と対峙する覚悟を持てっていう、あれですか?」

 

「その返答が冗談であることを願いたいが、どうやらそうではなさそうだね」

 

局長が冷めた目でこちらを見てきたが、御留我はその動機が全くわからなかった。この場で冗談をいうほど馬鹿ではない。至って真面目に、以前縢から教わったそのことわざの意味を述べたまでだ。

 

やがて局長が大きなため息をついてから再び口を開いた。

 

「バルバトスの操作には阿頼耶識システムが必須だ。目下のところこの国ではそのインプラントを供給する技術的問題も倫理的問題も解決手段はない。つまりそれを扱えるのは君だけなのだよ」

 

御留我はここにきてようやく合点がいった。自身の脊髄に埋め込まれた阿頼耶識なるものはこれまで存在し得なかっただけでなく、今日においても開発されていないということだったのだ。義手や義足などの身体の一部の機械化が容認される世の中ではあるが、流石に兵装のために脊髄にインプラントというのは議論を呼びそうなものだ。

 

「それにこの執行モードには安全装置も用意されている。起動と同時に監視官に通知され、バルバトスでの活動すべてがリアルタイムで遠隔監視される。監視官が“不適切な行動”と判断した場合、遠隔からの強制解除コマンドを実行できる」

 

どうやら抜かりなく安全装置も用意されているらしい。

 

「けど、そうまでして犯罪係数を無視できる権力をなんで…」

 

御留我はやはりどこか納得がいかず尻込みした。犯罪係数をもとに善悪を裁く社会。犯罪係数は、シビュラが割り出すサイコパスはこの社会の根幹であり秩序そのものであるはずだ。

 

「“なぜ必要か”はいずれ君自身が答えを導き出すはずだ。だがこれだけは言っておこう。“君には正義を選ぶ自由がある”」

 

その言葉を聞いた途端、御留我は余計に首を縦に振りづらくなってしまった。シビュラシステムの判断した善悪が絶対の秩序。それに従ってドミネーターの引き金を引けばいい。それで今まで何不自由なく任務をこなしてきたわけだし、今更面倒な手順を踏みたいとも思わないのだ。

 

 



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Chapter.4

「宮内紗季子がサイコパス検診に引っかかった?」

 

宜野座から告げられた事実に狡噛がオウム返しをした。先月の椎名美里の事件で暴行と殺人未遂の被害者になった同僚の保育士女性だ。事件後はショックによる犯罪係数上昇があるため一定期間セラピーを受診することになっているが、その期間はとっくに終了しており彼女は退院していたはずだ。

 

「事件のストレスフラッシュバックか?」

 

御留我がそう聞くと、

 

「それだったらわざわざお前らを呼んでいない」

 

と不機嫌そうに宜野座が答える。

 

「宮内は半年前からサイコパスの定期検診を受けていなかったことがわかった」

 

「けど宮内のオバサンの定期検診データは提出されてたはずだぞ。記録に残ってる」

 

「あの保育園では管轄の自治体がまとめてサイコパス検診を行っている。検診の結果を自治体が集約して厚生省に提出する方式をとっているが、その穴を利用された。宮内は、検診のたびにそれ以前の検診データを繰り返し提出させていたんだ」

 

そんな姑息な手段を用いていたことになんとなく彼女の人物像から納得がいった反面、それを可能にしてしまった事実には驚いた。シビュラが完全統治している完璧な社会と謳われながら、その裏では未だにシステムの不完全性が露呈しているのだ。事実、公安局刑事課が存在している意義はそこにあるのだが。

 

「園内での上下関係を利用したんだろうな。検診の担当はおそらく宮内に強要されていたんだろう。やはり今回の事件、一筋縄じゃ終わらせてくれないらしい」

 

狡噛が顔をしかめてそう言った。

 

宮内がサイコパス検診を滞らせていたということは、長らく潜在犯だった可能性が高い。そして彼女自身それを自覚していたはずだ。

 

「とりあえず取り調べに行くぞ。お前たち二人は隣の傍聴室で聴取だ」

 

 

 

 

六畳ほどの薄暗い取調室で小さいデスクをはさみ、宜野座と宮内が対面している。

 

御留我と狡噛はその様子を傍聴室の窓から見ていた。狡噛はお気に入りの古臭い紙巻きタバコをふかしている。タバコの煙に対して御留我はなぜだか平気だったが、今どきこんな堂々と人前でタバコを吸うというのは世間からは良い目をされない。潜在犯だからといってなんでも好き勝手していいわけではないぞと言いたい。

 

「なぜ半年間もの間サイコパス検診を拒否し、犯罪係数を偽っていたのかお聞かせ願えますか?」

 

「違うのよ!私はたまたま検診の日に用事があって保留にしてただけ。今犯罪係数が高くなってるのは先月の事件のせいよ!」

 

「理由がどうであれ犯罪係数詐称は立派な犯罪行為にあたります。失礼ですが、この場は聞き込みではなく取り調べですよ。宮内紗季子さん」

 

慌てたように取り繕う宮内に宜野座が冷静に言い放つ。これには流石に応えたようで、宮内は口籠り目線をそらしてしまった。

 

「あの女のせいよ…きっと椎名の汚染したサイコパスが伝染したのよ!」

 

再び口を開いたかと思えば根も葉もないことを言う。隣で狡噛が呆れたため息を漏らしたのがわかった。

 

「犯罪係数は伝染する」とはよく言われるが、それはこの社会においてストレスに耐性のない人間が潜在犯から大きなストレス衝動を与えられてしまった際の話だ。そのため短期のセラピーで退院した椎名程度の影響力ならば、周囲のサイコパス上昇にはそうそう発展しない。

 

「職場で以前から何かトラブルがあったのですか?」

 

宜野座はあくまで冷静、手順通りに着々と取り調べを進める。

 

「ち、違うわよ…けど絶対あの女のせい。現に処刑したじゃない?やっぱり孤児は精神も汚染してるのよ…」

 

御留我は思わず身を乗り出した。隣の狡噛も同様に驚きを隠せなかった様子で目を見開いた。

 

 

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「孤児?宮内さん、それはどういうことですか?」

 

宜野座がそう問うと、宮内はギクリとした素振りを見せ、苦虫を噛んだように顔をしかめた。口を滑らせてしまったといったところか。宮内は渋々と話した。

 

「あの女は孤児だったのよ。私もよく知らないけど。そういう人間って危険思想持ってるんでしょう?」

 

椎名が孤児?

 

そんな話は聞いていなかったし、現に家族がいたのだ。そんなことがあり得るのだろうか。

 

理解に苦しむ御留我の様子を汲んだのか、狡噛が咥えていたタバコを手に持ち替えて話し始めた。

 

「今の時代、孤児は養子として引き取られるか成人すると、その時点で正式に戸籍が登録される。社会的差別を避けるため、孤児であったという記録は一般には秘匿されるようになっているんだ。児童養護施設では細心の配慮をもって育児がなされるから、孤児であったことそのものと犯罪係数には因果関係はないとされている。だが孤児という存在そのものを不可視化したことで、公な見解が世に出ないまま間違った認識が横行するようになった。どこかしらで情報が漏れたか椎名本人が語ったか…そのせいで椎名は宮内に偏見を持たれたんだろう」

 

「行き届いた配慮が裏目に出た例ってわけか…」

 

なるほど。宮内は自分側が椎名に対して何らかの行動を取っていたことをひた隠しにするため、孤児だということを伏せておきたかったのだろう。

 

「どのみち再捜査だ。厚生省の詳細な市民データベースを漁れば、椎名の孤児としての記録も見つかる」

 

狡噛はそう言うとさっと立ち上がり、足早に傍聴室を出ていった。

 

一人取り残された御留我は、何かが心に引っかかるような思いのまま傍聴の記録を続けた。

 

「孤児だったのか…」

 

ポツリとそう呟いた。

 

狭く薄暗い部屋の中には、タバコの煙がいつまでも漂い続けていた。

 

 

 

 

 

 

「詳細を調べた結果、椎名美里はやはり孤児だったことがわかった。三歳まで児童養護施設にいたが、里親の霜月家に引き取られ養子になり、二十歳で今の夫、椎名悠一と結婚したそうだ」

 

高速道路を走る車中、助手席に座る狡噛が報告した。

 

時刻はすでに午後6時を回っており、夏終盤だからだろうか、心なしか日が短くなったような気がするほど空と高層ビルたちは夕日に赤く染め上げられていた。

 

御留我と宜野座、狡噛の三人は聞き込み調査のため保育園へと向かっていた。宮内が勾留中ということもあり、他の職員たちから正確な情報を得るには丁度よい。

 

「宮内が言っていたことは本当だったらしいな。だが椎名が孤児であったことをなぜ宮内が知ったのか…それを含めて職員に話を聞こう」

 

宜野座がそう答えた後も御留我は何も言わなかった。

 

やがて保育園に着いて三人が車を降りると、園舎の方で保育士とスーツ姿の二人組が、何やら神妙な面持ちで話をしているのが目に入った。

 

「公安局刑事課の宜野座です。失礼ですが、あなた方は?」

 

そう言いながら宜野座が映像投影型の電子警察手帳を見せると、保育士と話していた初老の男性二人が会釈をした。

 

「これはどうも、刑事さん。我々、文部教育省の監査官です。この保育園の職員の宮内紗季子さんが犯罪係数詐称、そして園児への継続的な虐待を行っていたことが明らかになりまして、懲戒免職処分の措置をご報告に上がりました」

 

淑やかに話す職員の言葉に、宜野座をはじめ三人の刑事が目を見開いた。

 

「園児への虐待?!」

 

「ええ、そうです。詳しいお話は、こちらの保育士の方々にお尋ねください。それでは我々はこれで失礼いたします」

 

そう言って再び会釈をすると二人の初老の男性は園舎を後にし、代わりに玄関から別の保育士が二人出てきた。

 

「何度も色んな方にお話されていることかもしれませんが、宮内さんの件と先月の事件のこと、今一度我々にお話していただけますか?」

 

宜野座が丁寧にそう聞くと、不安そうな表情を浮かべた若い女性保育士が口を開く。

 

「宮内さんによる虐待があったのは、半年前くらいです。うちでは児童養護施設から孤児の子を数名預かって一緒に保育してるんです。大抵はすぐに里親が見つかるんですけど、一人だけちょっと長く残っていた理人(りひと)くんという男の子がいました。宮内さんその子のことが嫌いみたいで、最初は軽い悪口から始まりました。二言目には「孤児だから」と口にしては、次第に軽い暴力にまで発展していったんです」

 

また孤児か。嫌な響きだ。

 

宮内園児にまで偏見をぶつけていたのだと知り、御留我は怒りがこみ上げてくるのを感じた。

 

「ある日椎名さんがその子を庇って宮内さんと口論になって…」

 

「それで椎名の犯罪係数が一時的に上昇し、セラピーを受診したわけか」

 

「はい。それで椎名さんが園に復帰すると、嫌がらせの矛先は椎名さんにも向くようになりました」

 

パズルのピースがはまっていくように、事件の全貌が明らかになっていく。聞いてしまえば単純なものだった。だが一つ疑問が残る、宮内は一体どうやって椎名が孤児であるということを知ったのだろうか。聞こうかとも思ったが、今の御留我にそんなことをする気力はなかった。

 

「暴行事件の日は、何が?」

 

「その日もいつもみたいに理人くんへの嫌がらせがあったんですけど、どんどんエスカレートしていって平手打ちまでし始めて…椎名さんはそれを見て、宮内さんを椅子で殴ったんです」

 

「あなた方が宮内の虐待行為とサイコパス詐称を黙っていたのは…」

 

宜野座が言いかけると、全員が暗い顔でうつむいて口を閉ざしたものだから、狡噛が言わずもがな察することのできる当時の状況を汲んで言った。

 

「宮内からの圧力…だな?」

 

下を向いた保育士たちが重々しく頷いた。中には涙ぐむ職員もいた。

 

狡噛と宜野座は深いため息をつく。

 

その間御留我はずっと黙り込んだまま下を向いていた。どうにもやるせない気持ちで頭が重く、さらに背中にのしかかってきた大きな罪悪感のようなものがみるみるうちに重さを増していき、押し潰されそうな錯覚に陥る。

 

椎名が宮内を誘拐したときに言っていた「この人は生かしておけない」という言葉を思い出す。彼女は自分と同じ境遇の子どもが虐待されるのに耐えきれなかった。解決しようとしてもできなかった。椎名は“そう”するしかなかったのだ。少なくとも当時の彼女には、それ以外の手が思いつくほどの精神的余裕などなかったのだろう。

 

そんな彼女を殺してしまった。何も知らないまま。今さら悔やんだところで、あの時自分が目の前で粉々に処刑した彼女は戻ってこないのだと思うと、あの日の自分を撃ち殺してやりたいと余計に悔やむことしかできなかった。

 

ほとんど沈み切っていた夕日が完全に地平線へと姿を隠し、夜の藍色空が園舎を呑み込んだ。

 

 



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Chapter.5

刑事課フロアの大きなガラス張りの壁の外から差し込む日差しと、けたたましい蝉の声はまだ夏の続きを見せ続けている。御留我はひとり、公安局ビルの廊下の一角にある休憩スペースにいた。

 

あれから二日。公安局内に戻っても特にこれといった仕事はなく、残っていた書類整理をするくらいだった。

 

椎名の事件に関しては保育園の他の職員からとれた十分な証言と文部教育省の監査によって事実上解決へと向かった。シビュラ判定により宮内の脅迫観念も導き出され、送検と長期セラピーが決定したそうだ。

 

しかし御留我は未だに気持ちの整理がつかずにいた。これは紛れもなく椎名を執行したことへの自責の念。それはわかっているのだが、なぜ自分がここまで思い詰めているのか今ひとつ決定打に欠けていた。あれは職務だった。それも至極適切な。シビュラシステムが執行対象と判断した危険な潜在犯に順当に対処したのだ。冷静に考えてみればその通りなのだが、その冷静さというものは果たして今あるべきものなのかさえ疑わずにはいられなかった。

 

「?」

 

ふと視界の端に宜野座の姿を認め、御留我は小走りで駆け寄った。というのも、廊下を歩く宜野座の向かおうとする先は面会室エリアで、そこへと向かう理由がどことなく気になったからだ。ここ数日、事件は椎名の一件以外抱えておらず、宜野座が面会に向かうというのならばそれは今回の事件に何某か関係のあるものだろうと思ったのだ。

 

「ギノ、面会でもするのか?」

 

そう言って駆け寄った御留我の姿を見て、宜野座はいつものごとく少し迷惑そうな顔をした。

 

「まあな。椎名悠一が帰国してな。今回の事件について説明のために面会に呼んだ」

 

答えは予想の範疇のものだった。椎名美里の夫、悠一。たとえ潜在犯の執行とはいえ、遺族である彼への弁明は義務なのだろう。

 

御留我はすかさず宜野座に詰め寄って言う。

 

「俺も立ち会わせててくれ!執行の当事者として…」

 

「正気で言っているのか?!許可できるわけ無いだろ」

 

「頼む!邪魔はしない!」

 

「…お前、何かあったのか?」

 

御留我が必死に懇願する様子を見て、宜野座は不審そうに聞いた。

 

「いや…ただ、椎名がどんな人間だったのかを知りたいんだ」

 

何かあったかと聞かれると返すにふさわしい答えが見つからなかった。なぜここまで面会への立ち会いに執着しているのか、その理由すら自分でもよくわかっていないのだから。

 

宜野座は御留我の顔を見つめしばらく黙っていたが、やがて観念したようにため息をついた。

 

「わかった。だが、俺が話す以上の事件の詳細や、お前が執行したということは絶対に喋るなよ。いいな?」

 

厳しく釘を刺され、御留我は深く頷いた。本来執行官が一般人と面会をすること自体ありえない話で、今回は恐らく宜野座が目をつむってくれるのだろう。

 

 

 

二人が面会室の自動ドアをくぐると、木製のローテーブルの向こうに若い男性が座っていた。部屋には向かい合った革のソファが二つずつ置かれ、きれいに整えられた端整な雰囲気で、面会室というよりは応接室のほうが呼び名としては相応しそうだった。

 

「この度事件を担当しました。刑事課の宜野座と申します」

 

ソファに座る前にそう挨拶をして深々と頭を下げた宜野座にならい、御留我も頭を下げる。

 

「同じく刑事課の御留我です」

 

「椎名悠一です。今日はお時間頂きありがとうございます、刑事さん」

 

ソファから立ち上がり丁寧に挨拶を返した椎名悠一は黒一色のスーツに細身を包み、その顔にはやつれた表情を浮かべていた。

 

「お話はある程度お伺いしました。妻は職場でのストレスで、同僚の方に危害を加えて、挙げ句殺人未遂まで…」

 

「ええ。しかし、奥さんの犯罪係数上昇と危険行動は突発的なものだったようで、こちらとしても悔やまれるばかりです」

 

ある程度予想はしていたが、「椎名美里は保育園での職場関係でストレスをため込み、我慢の末暴発してしまった」事件についてはそう伝えられているらしい。嘘は一つも言っていないが、なんとも納得のいかない説明だ。宮内や虐待を受けていた理人くんの個人情報保護の観点から事件の詳細は伏せられているのだろうが、御留我は胸糞悪い気分だった。

 

「心の底からの本音とは言えませんが、妻が殺人犯になる前に止めてくださって、感謝しています」

 

椎名悠一が静かにそう言ったとき、御留我の中で何かが音を立てて崩れ始めた。

 

悠一は妻の美里が殺人犯にならずに済んだと言ったのだ。少しでも美里の潔白を残してくれたと。

 

「妻が一度検診に引っかかりセラピーを受けたあとで事情を聞いてみても、「大丈夫、気にしないで」と気を遣ってばかりで…私は海外出張ばかりで、もっと妻としっかり話せる機会を作れていれば…」

 

いてもたってもいられなくなった。このままでは椎名悠一の中で彼の最愛の妻は、ただストレスを暴発させて罪を犯しただけの存在になってしまう。

 

「違います…」

 

御留我がボソリと口に出した。心臓の鼓動が急に早くなる。

 

「奥さんは、本当は同僚の職員から虐待を受けていた園児を庇っていたんです。それでも虐待は止まらなくて、奥さん自身も嫌がらせを受けながらも必死に庇って」

 

御留我は止まらずに話し続けた。一度口を開いてしまえば簡単だった。次から次へと言葉が出てくるものだ。横から宜野座が止めに入ったが、聞こえない。

 

「たぶん、彼女の中でどうしようもなくなって殺人未遂に至ったんだと思います。奥さんは暴走したんじゃありません!」

 

先程交わしたばかりの宜野座との約束も覚えていない。

 

驚きと戸惑いを露わにしていく椎名悠一を真っ直ぐに見据え、御留我は最後にこう言った。

 

「奥さんを射殺したのは、俺です」

 

悠一の顔はみるみる悲痛に歪んでいったが、やがてその震える唇から出た言葉は、驚いたことに、怒り狂ったものでも侮蔑するものでもなかった。

 

「刑事さんたちにも色んな事情があるんだと思います。そしてどう繕っても妻が罪を犯したことに変わりはありません。だから僕は、あなた方を恨んだりするつもりはないです。ですが…」

 

下を向いて涙を溢しながら、震える声で彼はこう言った。

 

「妻は…美里は、本当に命を落とさなければならなかったんでしょうか」

 

 

 

「お前、気は確かか?!あの場であんな発言をすることが一体何を意味するか」

 

面会が終わり椎名悠一を見送るや否や、宜野座が御留我に詰め寄った。薄暗い廊下に鋭い声が反響する。

 

「椎名悠一の怒りの矛先が俺に向かなかったのが不思議だ…」

 

「聞いていることに答えろ!」

 

「椎名悠一は美里の殺人未遂を罪だと言った。だとしたらそいつを殺した俺も犯罪者だ」

 

「違う、俺たちが行う執行は適切な職務だ!対象の事情がどうであれ、シビュラシステムがそう判断した以上エリミネーターを使うのは当然だ」

 

御留我の沈み込んだ低い声を瞬時に遮り宜野座が怒鳴る。

 

「現場での執行は一個人の責任にはならない。それに執行者の特定と部外への開示も禁じられている!」

 

「執行が適正な職務だとしたら、なんでその責任の所在を曖昧にする必要がある?」

 

「それは…」

 

宜野座は不意をつかれたように言葉に詰まる。御留我は冷静だった。気が晴れたわけではないが、煙のようにモヤモヤとした自分の罪の意識のような何かを言葉に出して、それを証明できたような気分だったからだ。

 

御留我はただ淡々と、それこそ取り調べを行ういつもの宜野座のように、初動捜査の手順を正しく踏むようにして言い続けた。

 

「人を殺してることに変わりはないからじゃないのか?罪を犯しているからじゃないのか?」

 

御留我が静かにそう言うと、宜野座は目をそらしたまま何も言わなくなってしまった。刑事課フロアの薄暗い廊下に重苦しい空気が流れ続けた。

 

 

 

 

 

時計の刻む一定のリズムとエアコンの排気音が静かに響き渡る。

 

時刻は24時。御留我は宿舎の自室でトレーニングを終え、汗だくのスポーツウェアのまま革張りのソファにもたれていた。冷房を回しているはずだが、コンクリート剥き出しのインダストリアル調の広い部屋の中には熱気が立ち込めていた。勤務が終わってから二時間サンドバッグに向き合っていたが、どんなに強く殴ろうと、どんなに拳が痛くなろうと、微塵も気分は晴れなかった。先程簡易計測器で測った自分のサイコパス色相は、数日前より幾分か濁っていた。

 

腕時計端末に通知が入り、御留我はメッセージを開いた。淡々とした自動音声で内容が読み上げられる。

 

<申請中の外出許可は、宜野座伸元監視官により却下されました。詳細は、当直監視官へ問い合わせてください>

 

「やっぱりな…」

 

ため息混じりにそう呟いて、御留我は首にかけていたタオルを床に投げ捨てた。

 

執行官は公安局から外に出る際、必ず監視官に同伴してもらわなければならない。任務の際は自ずと護送車で現場まで向かうが、それ以外のときは監視官に外出許可申請をする必要がある。

 

あれから宜野座とは口をきいていない。面会の日から二日が経ったが大した事件も起こらず、その上御留我のデスクワークのシフトの当直日からは宜野座がちょうど外れており、3係から監視官が代理で来ていた。特にこちらから宜野座に話そうと思うことはないが、気まずいまま会わなかったのは運が良かったと言うべきかその逆か。

 

御留我の中では常に重くのしかかる罪悪感とやり場のない怒りに近いものとが四六時中渦巻いていた。なぜ自分がここまで思い詰めているのか。宜野座の言ったとおりあれは職務であったし、何一つ間違ってなどいなかった。これまでも同じように執行を繰り返してきたのだ。ふと冷静に考えてみるとそう思える。しかし頭では理解していても、何度そう自分に言い聞かせようと心がそれを拒んだ。

 

不意に脇に目をやると、ガラステーブルの上に置かれた電子説明書が目にとまった。先日局長から受け取った、バルバトスの説明書だ。一通り目は通したものの、あまり関心がわかずに置きっぱなしにしていたのだ。

 

御留我はそれを手に取り、薄い電子画面に映し出されたモデル図をぼんやりと眺める。部屋の淡い照明が艶消し処理が施された画面に反射する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「犯罪係数に関わらず行動ができるか…」

 

そう呟いたとき、脳裏に局長の言葉が蘇る。

 

“君には正義を選ぶ自由がある”

 

途端、御留我は苛立ちに歯を食いしばり、

 

「罪のない奴をもっと殺せってのか!?」

 

と、がなりたてながら怒りに身を任せたまま説明書を放り投げた。

 

「っと!」

 

勢いよく飛んでいった電子説明書の軌道の先でちょうど部屋の自動ドアが開き、13インチの薄型ディスプレイが、立っていた狡噛の頬をかすめて外の床に落下した。ガシャンという音が耳に入る。

 

「そんなに俺の顔面が憎たらしいか?」

 

そんな皮肉めいた冗談を言いながら説明書を拾い上げ、狡噛は改めて部屋のドアをくぐった。

 

「わりぃ。いると思わなくて…」

 

「いいさ。だが、この端末はもうオジャンだな」

 

そう言って狡噛が掲げてみせた電子説明書の筐体は軽く反り返り、画面には大きなヒビが入っていた。

 

「こんな夜中になんの用だ?」

 

「ギノのパシりだよ。こいつを届けに来た。来月の通常出勤スケジュールだ」

 

そう言って狡噛は御留我の前まで歩いてきて、持っていた書類を手渡した。

 

今日の午後、御留我は非番だったが、どうやら入れ違いで宜野座が当直だったらしい。

 

生返事をしながらA4サイズの紙の書類を受け取る。だが御留我は、これが単なる口実にすぎないということをわかっていた。出勤スケジュールならばわざわざ非番の日に届けたりはしないし、第一端末に送信すれば済む話なのだ。そう察して狡噛の様子をうかがっていると、案の定彼は本題に触れ始めた。

 

「何かあったのか…いや、お前にだったら、“何を感じたんだ”って聞いたほうが良さそうだな」

 

狡噛は壁際のソファに勝手に腰を下ろし、横目で御留我を見ながらそう言った。

 

その言葉に御留我は内心少し驚いた。今まさにそんな心理状態だったと自覚さえしているからだ。何か特別なことが起こったわけではないのに、御留我自身の中で理由もわからないような鳴動が訪れる。ずっとそれを繰り返しては頭を悩ませていたのだ。狡噛の洞察力や理解力が高いのは周知の事実だったが、こんな場面にまで活かせるほど択一していたものだったとは。

 

御留我はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「椎名美里を殺したこと、なんでかは俺にもわかんねぇんだが、でっけぇ間違いだったような気がしてならなくなったんだ」

 

「椎名が孤児だったことを知ってから…だろ?」

 

やはり洞察力が並外れている。この分だと、恐らく狡噛は宮内の取り調べの時の傍聴室の時点で御留我の異変に気づいていそうだ。

 

「ああ。お粗末な仮説なんだが、俺もかつて孤児で、同じ境遇の椎名に同情でもしたのかもな…」

 

御留我は独り言のように言った。微かにそんな気がしていた。記憶喪失で執行官就任以前のことは覚えていないが、潜在意識に作用するような過去があったことは否定できないと思う。

 

「残念ながら俺は失われた記憶の捜査はできない。お前の過去の記憶がない以上、お前の今の感情を無理に解き明かすことはむしろ考えないほうがいい」

 

狡噛は宥めるような、つぶやくような口調で話す。タバコを吸おうとする素振りは見せなかった。

 

「俺は椎名を殺したことを悔やんでる。けどもし、椎名の執行を真っ向から否定しちまうと、これまでの任務も、俺が信じてきた正義も、積み上げてきたもんが全部無駄になっちまう気がして…!」

 

御留我はそこまで言うと、思わず頭を抱えてうずくまる。言葉にすればするほど、隠していた感情がこみあげてくる。

 

狡噛はしばらく壁を見つめて黙っていたが、やがてゆっくりと語りだした。

 

「俺たち刑事の仕事ってのは常に命のやり取りだ。ドミネーターの銃口を向けるその前から、相手の生き死にはすでに決められちまってる。正義だなんだとかを決める権利は俺たちにはない。だが最終的に引き金を引くのは俺たちだ。相手を殺すか自分が殺されるか、はたまた別の誰かが殺されるか…」

 

御留我は次第に顔を上げ、何も言わずに狡噛のほうを見た。粛々と話していた狡噛の声が次第に力強さを増していく。

 

「あの場で椎名の真実をすべて知っていたとしても、俺なら迷わず引き金を引いていただろう。執行官ってのは、存外そういうものなんだ」

 

そう語った一人の執行官の目には、明らかに執念が宿っていた。一年やそこらでは到底現れることはないであろう底知れぬ執念が。

 

 



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Chapter.6

刑事課1係のオフィス。いつもと何ら変わらぬ無機質な空間、空調のファンの回転音が淡々と響く。それらが御留我の目には、一切の色彩を抜き取られたようなモノクロに映っていた。

 

「容疑者は本刈谷賢三(もとかりやけんぞう)。フィットネスクラブにトレーナーとして勤務。今朝8時頃、通っていた港区のアマチュアボクシングジムで練習試合のあとに相手を暴行し、現在は逃亡中だ」

 

1係の執行官の皆の視線が集まる中話す宜野座の声を、御留我は虚ろな感覚で耳に入れる。

 

椎名悠一との面会から5日。御留我は未だ晴れぬ胸の闇を払いきれず、それどころか、そんな荒みきった自分自身にも半ば失望しかけていた。

 

「街頭スキャナに最後に掛かったのは?」

 

間髪入れずに狡噛が問うと、宜野座は一度資料に目を落としてから言った。

 

「9時35分の国道2号線でが最新だ。色相判定はディープバイオレット。突発的なストレスの兆候だ。これから俺たちで本刈谷の自宅付近を中心に捜索に…」

 

「俺は降りさせてもらう」

 

御留我が宜野座の言葉を遮ると、その一瞬で場の空気が凍りつくのがわかった。

 

宜野座の睨むような視線と皆の横目を身じろぎ一つせず受けたまま御留我は続ける。

 

「ろくに調べもしないで追い詰める利己的な捜査なら、通す筋なんてもんはねぇ…」

 

「ふざけるのも大概にしろ!!」

 

ついに宜野座が堪忍袋の尾を切り怒鳴り声を上げた。御留我は膝に手を置いたまま彼を睨み返し、次に出てくる言葉を待つ。

 

「これがシビュラ運営下での適切な捜査だ!いつまで過去の事件に固執する気だ?!今までだってずっとそうやって執行官としての義務を果たしてきただろう」

 

「そうだ、ずっとそうやってきた!」

 

御留我はデスクを両手でバンと叩き、立ち上がって言った。宜野座の表情が少し歪む。

 

 

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「今まで何十回、何百回も、正義だと都合よく言い訳つけてろくに考えもせずに…自分が殺人犯と変わらねぇ罪を犯し続けてることから目を逸らして、躊躇うこともなくぶっ殺してきた、奪ってきた。俺の知らない誰かの家族を、俺の知ることのなかった誰かの幸せをな!!」

 

宜野座の顔が嫌悪から唖然に明らかに移り変わった。その理由は紛れもなく、恐ろしい剣幕で思いの丈を吐き出す御留我の鋭い目から、一筋の淡い涙が零れ落ちたからだった。

 

水を打ったように静まり返ったオフィスを、御留我は足早に出ていった。

 

今後刑事としての立場がどうなるかなど考えるよしもなかった。いや、もはや御留我は何も考えていなかった。彼の頭の中はこみ上げる凄まじい悲壮と激情で埋め尽くされていたのだ。頬を伝うたった一筋だけの涙は、いつまでも熱を持ったままだった。

 

 

 

 

 

朝8時の夏空。幾分か暑さが弱まり、蝉の鳴く声が寂しげに移りゆくのが手に取るようにわかる。高速道路を走る刑事課の乗用車の中、空の清々しさとは裏腹に御留我の気分は未だにどんよりと曇ったままだった。窓枠に頬杖をつき、何を見るわけでもなくぼんやりと外を眺めていた。隣で運転する宜野座とは、ほとんど会話がなかった。

 

「本刈谷の事件の捜査はよかったのか?」

 

長い沈黙を破って呟くように切り出したが、御留我のその声は開口一番にするにはあまりにも陰鬱で、それでいて無感情のようにぶっきらぼうだった。

 

「中断の原因を作った奴がよく言うな。2係に委譲した」

 

宜野座が同じような声色でぶっきらぼうに答えた。

 

 

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「俺なんかほっといてもどうにでもできるだろ」

 

「ふん、たった数日で随分とひねくれたな。お前がいないだけで一体どれだけの戦力を失うと思ってるんだ」

 

御留我がより陰険な声で言うと、宜野座がそこに皮肉さを上乗せして言い返した。再び沈黙が訪れる。車窓から見える景色はビルばかりで一向に変わらない。

 

御留我は先ほどのぶっきらぼうさはそのままに、しかし陰険さはできるだけ除くようにして再び問いかけた。

 

「なんで、外出許可出してくれたんだ?」

 

先日一度宜野座に却下されていたはずの御留我の外出許可申請が、昨日の夜に受理されたと通知が入り驚いたものだ。

 

「お前には一刻も早く仕事に戻ってもらわなくては困る。お前の気が済むなら、俺はとことん付き合ってやる。それも監視官の仕事だからな」

 

一問一答。途切れ途切れの会話だった。道路のスピードハンプをタイヤが踏む音が淡々と耳につく。

 

「ところで、なぜあの保育園へ行くんだ?」

 

次に沈黙を破って問うたのは宜野座だった。顔はフロントガラスの前に向いたまま、視線だけをこちらに向けたのが見えた。

 

「椎名が保育園ではどんな人間だったんだろうって気になってな。知りたいんだ」

 

「お前、面会の時のようなことは…」

 

「わかってるよ。子どものいる前だ、お前に怒鳴らせるような真似はしないさ。…あんときは悪かった」

 

御留我がそう言い切ると、宜野座は少しだけ安心したように息をつき、フロントガラスの向こうに視線を戻した。

 

「なあギノ、監視官であるお前に聞きたい」

 

「なんだ?」

 

「俺が椎名を殺したこと、お前自身はどう思う?」

 

自分でも変な質問をしたと思った。しかし宜野座は予想に反して早い返答をした。

 

「人間の命は平等じゃない。失われなければならない命、生き続ける命がある。その隔て方は理不尽じゃないことのほうが珍しい。あの場で椎名を殺さなければ宮内が殺されていた。あの二人の境遇を知っていようがいまいが、判断は下さなければならない。どちらか一人を選んで殺せと言われても、俺たちは迷いなく片方を殺すことなどできない」

 

宜野座は淡々と話し続ける。

 

御留我がその言葉から感じたのは、狡噛との差異だった。狡噛は迷うことなく椎名を撃っていただろうと言った。宜野座はどちらかを迷いなく殺すことはできないと言った。これが監視官と執行官との違いなのだろうか。

 

「正義の基準は人それぞれある。椎名美里は虐待され続ける子どもを守ろうとした。やり方こそ歪んでいるが、それは彼女なりの正義だった。椎名悠一は美里を殺したお前を恨まないと言った。それは椎名悠一なりの正義だったはずだ」

 

御留我は目を丸くした。潜在犯を軽蔑する宜野座が椎名美里の行動を「潜在犯の狂った暴挙」と切り捨てず、そんなふうに解釈していたのが意外でならなかったのだ。

 

「そんな、人の持つ正義の違いから犯罪が起こると俺は思っている。個々が持つ正義をすべて尊重することはできない。だからシビュラシステムに頼る必要がある。シビュラシステムという誰の主観にもとらわれることのない価値基準の定義があるからこそ、この町の市民は正義という曖昧なものを普遍的な秩序として与えられているんだ」

 

「でもそいつは、与えられてんじゃなくて、奪われてんじゃねぇのか?」

 

御留我が引っかかっていたことを言葉にすると、宜野座は一瞬黙り込んだ。さすがに怒らせたかもしれない。シビュラに従って秩序を守る公安局の監視官にとって、シビュラに対して疑問を抱くことは禁忌なのだ。職務への意識の低下、下手をすれば犯罪係数の上昇にもつながる。御留我は宜野座にそれを助長させてしまった。

 

しかし実際に彼から返ってきたのは、戒めでも侮蔑でもなかった。

 

「…そうかもしれないな」

 

その声は先ほどと同じく淡々としていたが、ほんの少しばかり寂寥に似たものが混じっていた。

 

 



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Chapter.7

車から降りると、園児たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。どうやら中庭の園庭で遊んでいるらしい。

 

御留我はそんな声が耳に入ると不思議と気持ちが軽くなったような気がして、かすかに頬を綻ばせた。

 

「おはようございます、刑事さん」

 

園舎のドアをくぐって出てきた若い女性保育士が御留我と宜野座の二人を出迎えた。

 

「何度もお邪魔してしまい申し訳ありません。今日は捜査ではなく、軽い聞き込み程度ですので」

 

宜野座が会釈を返し、穏やかに言った。それを聞いて安心したのか、保育士の女性は緊張していた表情を少し緩めたようだった。

 

二人は園の応接室へと案内され、革張りの客人用ソファに腰掛けた。昼間だからだろうか、照明は灯っておらず、外から差し込んでくる夏の陽射しが部屋のありとあらゆるものの影をくっきりと映し出していた。

 

「椎名さんと宮内さんのことは、園児たちには転勤ということにしています。みんな 特別気にしてる様子はありませんけど、やっぱりどこか寂しがるような節もあって」

 

保育士の女性は二人に麦茶を運びながら話した。同僚が亡くなったのは自分たちにとってもさぞ辛いことだったろうに、子どもたちのことを最優先に心配できる意志の強さには頭が下がる思いがした。

 

「椎名さんは、園児たちにとってどういう存在だったんでしょうか」

 

御留我がそう聞くと保育士の女性はわずかに首を傾げたものだから、慌てて言葉を言い繕った。

 

「あ、いや…その、なんというか、子どもたちは椎名先生のことをどう思ってたのかなって…」

 

御留我の意図を察したのか、上手く言葉にできない彼をほんの少し可愛らしく思った様子でふふっと笑いをこぼし、先生はこう言った。

 

「それは子どもたちに直接聞いてみるといいですよ。刑事さん、あの子たちに人気ですし」

 

「?」

 

「覚えてませんか?“まっするおにーさん”」

 

御留我は初めてここを訪れたときに園児たちにそう呼ばれて取り囲まれたことを思い出した。同時に悪戯っぽく微笑みかけてくる先生を前に、子ども扱いされているようで悔しいような、こそばゆいような気分になった。

 

「じゃあ、みんなのところへ行きますか?」

 

先生が部屋のドアに手をかけようとしたとき、御留我はとっさに制止して言った。

 

「それなら、理人(りひと)くんと話してもいいですか?」

 

椎名美里がどんな先生であったのか。それを、椎名が守った理人くんという園児を通じて知ることができるのならばと、御留我は食らいつくような思いだった。

 

おそらくまだ会ったことはない、全く知らない男の子。だがそれは御留我にとっては、事件当時椎名に対しても同様だった。今まで全く知ることのなかった、そしてこれからも決して知ることのなかったはずの他人だった。だが彼女にも当たり前のように人生があって、彼女の正義があって、そして彼女の幸せがあったのだ。

 

俺の知らなかった幸せ。

 

知らないものからは目を背けていた。そうはっきり自覚していたわけではない。ただ平然と、公安局の執行官である自分の職務を盾に、それに立ちはだかる邪魔者として退けてきた。単なる“対象”に過ぎなかったのだ。

 

今さら「知りたい」などと図々しく踏み込むことさえ愚かしく感じられたが、もしもその人物を知ろうとするならば、その答えを求める相手もこれから初めて知っていくことになるのだろう。

 

御留我は保育士の先生を真っ直ぐに見据え、返答を待った。横目で宜野座の様子を伺ったが、彼は何も言おうとはしていなかった。

 

先生は一瞬目を丸くしたが、すぐにもとの柔らかい笑顔に戻って快く了承してくれた。

 

「ええ。呼んできますね」

 

 

 

 

 

「あ!まっするおにーさんだー」

 

表の園庭で待っていた御留我たちの前に、先生に手を引かれ出てきた男児の第一声はそれだった。御留我はその子のあまりある勢いに一瞬おどけながらも、すぐに笑顔を繕って手を振った。

 

「遊んでくれるのー?」

 

少年は御留我のそばまで駆け寄り、くりくりとした目を輝かせて尋ねた。ふんわりとした短い黒髪でまだ御留我の膝下ほどの背丈しかない男の子が、天を仰ぐほど目一杯顔を上げて御留我を見上げる。御留我は目線を合わせるためにゆっくりとしゃがみこんでから優しく語りかけた。

 

「いや。今日は、君にちょっと聞きたいことがあるんだ」

 

後ろに立っていた宜野座は何も言わずにその場を去っていった。

 

「うんいいよ!」

 

無邪気な返事をもらい、御留我は一泊おいてから彼に訊いた。

 

「理人くん、美里先生のこと好きか?」

 

「うん、大好き!でもさきこせんせいは意地悪してくるから嫌い!」

 

唐突なその言葉にたじろいでしまった。それは宮内の虐待を「意地悪」としか認識できていないことと、こうも簡単に切り捨てるように表現してしまうことへの虚しさからだった。

 

「そっか…。でも、二人ともいい先生だから、そんなこと言っちゃだめだ」

 

宮内のことを「いい先生」などとは世辞にも言いたくはなかった。だが今、この純粋無垢な少年を前に、他になんと言えばいいのかがわからなかった。

 

「さきこせんせいとみさとせんせい、ケンカしてたよ」

 

「大丈夫だ。今は二人とも仲直りして…別の保育園で頑張ってるから」

 

無知な幼児に不安がらせないよう、でまかせを言って聞かせたが、これほどまでに残酷な嘘があっただろうかと悔いた。

 

今や訪れることのない未来なのだ。椎名が生きてさえいればあり得ない話でもなかったのかもしれない。そうなればどれほど良かったことか。もしもそうなる可能性が一握りでもあるとするならば、何年、何十年だろうと待ち続けよう。

 

そんなことさえ考えてしまった。

 

御留我が哀愁に浸るような、それでいて困り果てたような憂の笑みをたたえてあさっての方向に目をそらしていると、少年がふと思い出したように語りだした。

 

「みさとせんせいはね、僕とおんなじでパパとママがいなかったんだって」

 

何気ない日常のように、今日保育園であった出来事を母親に嬉々と話すかのように、目の前の少年は目を輝かせて話す。まだ喋り慣れない様子でたどたどしくも、懸命に口を動かして言葉を紡いでいく。

 

「それでね、『ぼくの本当のパパとママが迎えに来てくれるまで、せんせいがママだからね』って!」

 

そうか。

 

御留我は目を見開く。

 

最後まで残っていた謎が解けた。なぜ、椎名美里が孤児であったということが知られたのか。宮内から虐待を受けるこの子に、椎名自身の口から語ったのだ。

 

 

 

『先生もね、理人くんぐらいの頃、パパとママがまだいなかったの。先生も一緒だから、大丈夫。あなたの本当のパパとママが迎えに来るまで、先生がママだからね』

 

 

 

春先の柔らかな光が射し込む園舎の中、泣きべそをかく小さな男の子と向かい合ってしゃがむ椎名美里。優しく、包み込むような口調で語りかける一人の“母親”の姿を、御留我は脳裏にはっきりと巡らせた。

 

「っ…」

 

御留我は少年の両肩に手を置いてそのまま俯き、歯を食いしばった。目頭が熱くなり、視界がぼやける。

 

孤児であることで蔑まれた理人くんにとって椎名は、単なる保育士以上の存在だったのだ。母親でいてあげるというその言葉は心の支えだったに違いない。いや理人くん本人にとっては、そこまでの意味を成していないかもしれない。むしろ逆に椎名は一保育士という存在に過ぎないのかもしれない。きっと里親に引き取られ、大人になっていくにつれて保育園での記憶は薄れていく。当然椎名も、いずれ名前すら思い出せないような朧気な記憶の中の存在になるのだろう。しかしそれこそが孤児である理人くんが得られる幸せ、最適解なはずだ。普通の人と同じように育てられて、普通の人と同じように幼少期を忘れていく。普通でなかった、孤児であった過去は薄れていく。孤児を預かるここの保育士たちは、椎名は、きっとそれをわかっており、そして同時にそれを願っているはずだ。自分たちが忘れられていくとわかっていながら、わかっているからこそ限られた時間の中で、その子どもたちに精一杯の愛を分け与えていく。

 

血はつながっていなくとも、そこから混ざって繋がって…それはそう、“家族”だ。

 

御留我は涙を堪え、顔を上げて言った。

 

「理人、お前のパパとママは、絶対に迎えに来てくれる。だから…いや、けど…それまでの間、俺がお前のパパでいてもいいか?」

 

「ほんとに?!やったー!まっするおにーさんがパパだー」

 

御留我の途切れ途切れの半透明な、それでいて確かに心の通った強い言葉に、目の前の少年はぱっと晴れた表情になり、飛び跳ねながら喜んだ。

 

御留我はそんな無垢な姿を見て優しく頬を緩めると、再び目頭が熱を持ち始めて下を向いてしまった。

 

なぜだろうか。

 

他人であったはずなのに、出会ってから僅かな時しか過ぎていないのに。椎名に関して言えば、まだ“出会って”すらいないのに、どうしてこんなにも自分の心の奥底まで突き刺さってくるのだろう。御留我自身の子供の頃の記憶か、それとも子供の頃の記憶にすら刻むことのできなかった願いか。生まれてから今まで、必要ないと強がってはいても手に入れられなかった幸せ。この先どれだけ進み続けようと掴み取ることのできない何か。それに対するやり場のない切なさと、この少年には絶対に失ってほしくないという悲願とが御留我の頭のなかで熱く湧き上がってきていた。

 

「御留我、そろそろ帰るぞ」

 

頭上からの宜野座の落ち着いた声に我に返り、御留我はゆっくりと立ち上がった。

 

遠目から何も言わずに微笑みながらこちらを見据える先生に頭を下げてから、

 

「じゃあな」

 

と、首をめいっぱい伸ばしてこちらを見上げる少年に笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気は済んだか?」

 

車に戻る短い道すがら、ゆっくりと歩く宜野座が素っ気なく切り出した。

 

御留我は「ああ」と簡単に返すと、そのまま思いの丈を語ることにした。まっすぐ歩く監視官の背中に静かに話す。

 

「まだはっきりとはしちゃいないんだが、俺が何をすべきか少しわかった気がすんだ」

 

前を向いたままの宜野座の瞳孔が微かに開いた。

 

「俺が過去に殺した人間はどう足掻いたって戻っては来ない。これまで殺してきた奴らには今からじゃもう、こんなふうにそいつの幸せを知ることも出来ない奴が大勢いるはずなんだ。それを悔やんだところで何も変わらねぇ。だが、その罪が消えることもないと思ってる」

 

宜野座は表情一つ変えずにゆっくりと歩き続ける。御留我は一歩大きく前に踏み出して彼の横に並んで歩いた。

 

「だから俺にできることは…迷わねぇことだ。決して足を止めない、止まらずに進み続ける。俺が殺してきた分の、いやそれ以上の命を、幸せを守るために進み続けることで、そいつらを弔っていく」

 

宜野座の横を歩き、彼と同じようにただ前を見据えたまま、御留我は強い意志を込めて言葉にした。

 

どうするべきか、一体どうすればそれを成し得ることができるのか、今はまだ御留我の中でくっきりとした形にはなり得ていない。ただ、これまでのようにただシステムの言いなりになって自分が何をしているのかを省みることさえなくなるような、そんな獣のようにはいたくない。右手の人差し指にかかる引き金がずっしりと重いこと、その銃口の先にはその身一つには収まりきらぬほどの一人の人生が溢れていることを脳の海馬に色濃く焼き付けて…。そんな刑事として生きていきたい。

 

「好きにしろ。執行官として責務を果たすならお前の目的などどうでもいい」

 

宜野座は軽く鼻を鳴らして冷たく言い放った。その返答を御留我は特に気負おうとは思わなかったが、次の瞬間、冷淡だった監視官は意外な言葉を投げてきた。

 

「だが見失うなよ御留我。お前が いの一番に守らなければならないものだけはな。それ以外は全部後回しにしろ。それで出来たツケくらいなら、俺がいくらでも払ってやる」

 

彼がこんなことを言うのはあまりにも予想外だった。宜野座は潜在犯を、執行官に嫌悪の念をぶつけている。それは自他ともに認めることだ。だがそれ以上に、彼は執行官も含め共に市民を守る刑事として、部下として足並みを揃えようとしているのだろうか。それ故の責任ならば、監視官という上司として背負う覚悟があるのだろう。

 

「わかったら前を向け」

 

いつの間にか立ち止まり、あっけらかんとして宜野座の背中を見つめていた御留我に、彼は初めて振り返ってそう言った。

 

御留我は彼の広い背中に、不思議と兄貴分的な影を感じた。

 

「いや、似合わね」

 

そう呟くと、御留我はくすりと笑ってから小走りで駆け寄った。

 

夕日に照らされた二人の長い影は、前へ前へと伸びていた。

 

 

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Chapter.8

夏の暑さはすっかり過ぎ去って、日中にジャケットを羽織っても何ら苦もなく過ごせる風が吹くようになっていた。

 

御留我はつい一月半ほど前と同じような直立不動の姿勢で、大理石の大きなデスクを前にしていた。公安局長執務室の息の詰まるような空気は全く変わりなかった。

 

「本日は、どのようなご用件でしょうか」

 

黒いミリタリージャケットのボタンをすべて締め、相も変わらず似合わない敬語を堅苦しく並べる。

 

「調子はどうだね?ここ一月、随分と職務に散漫だったようじゃないか」

 

「…」

 

先月の椎名美里の一件は局長の耳にも入っていたようで、それを持ち出されて御留我は押し黙ってしまう。

 

「現在は復帰して職務にも問題はないそうだからこれ以上は問わぬが、今後あのような刑事課の公共性にも打撃を与えかねない行動は十分に慎みたまえ」

 

「はい。邁進します」

 

御留我は反射的に右足を開き後ろ手を組んだ軍人の“休め”の体制になって答えた。

 

椎名美里の事件。あれから御留我は刑事課の任務に戻り、順当に職務を全うしていた。決意を新たにと言うには不確かで、具体的にどんな行動をすべきかははっきりしていなかった。だがこの一月、任務を通じて僅かながら漸進を自覚していた。その間三件の事件が起こり出動もあったが、今のところ死人は出ていない。執行対象も含めてだ。一度は犯罪係数が突発的に上昇した潜在犯と対峙することとなったが、エリミネーターを撃つことなく逮捕することができた。正確に言えば“撃たせなかった”というほど強引ではあった。1係の他の面々が対象にエリミネーターを向ける中、御留我は単独で接近して目にも止まらぬ速さで犯人を押さえ込んだのだ。皆一様に驚いていた様子だったが、宜野座も特に何も言ってこなかった。結局犯人の犯罪係数は300以下に下がり、施設でのセラピーと取り調べを行う運びとなった。

 

この方法が正しいという確証はない。強引で、刑事課のポリシーに半ば抵触しそうなものだが、己の身一つで最善の結果へと導けるのなら、やれることをやっていきたい。御留我はそう思っていた。

 

「さて、今日君を呼び出したわけだが…君には2係に移ってもらいたい」

 

「なっ…!転属処分ですか?!」

 

「話を最後まで聞きたまえ。君の悪い癖だ」

 

「はい…」

 

御留我はとっさに声を出してしまい、局長の低く冷淡な声に諌められた。

 

「もうすぐ刑事課に新任の監視官が着任する予定だ。そのために各係間で多少の人事再配置が行われる。その一時的補完のため、君には一週間ほど2係にいてもらいたいのだ」

 

新任監視官か。もし1係に配属されれば少しは宜野座の監視官としての監督責任の負担が減るだろう。しかし1係のメンバーが入れ替わる可能性もあると思うと、御留我が配属されてからずっと同じ面子だったものだから寂しくなるものだ。

 

「2係は目下のところ一つ重要な任務を抱えていてね。君の主な役目はそれに参加し、尽力することと言ってもいい」

 

「その任務とは?」

 

「君は“標本事件”と聞いて思い当たるものがあるかね?」

 

局長の口から出たその言葉は、御留我の記憶の片隅にあるものだった。人伝でしか聞いていないが、確か御留我が配属になる前、三年前に1係が捜査にあたった事件だ。そして笹山執行官が犯人に殺害され、当時監視官であった狡噛を潜在犯認定に追い込んだ事件。バラバラに解剖された被害者の死体を特殊樹脂で固め、モニュメントのように街中に飾り立てたという猟奇性からそう名付けられたそうだ。

 

「確か、まだ犯人は見つかっていないとか…」

 

「表向きはその通りだ。しかし、物的証拠などから事実上現行犯とされた人物が一人」

 

そう言いかけると、局長は驚くほど細い指先で机上の画面を操作し、ある人物のデータを表示させた。明るく柔和そうな青年。白いシャツにベストを合わせ、綺麗な顔立ちで微笑む証明写真からはそんな印象しか出てこなかった。

 

藤間幸三郎(とうまこうざぶろう)。全寮制女子高等学校、桜霜学園(おうそうがくえん)の教師だ。この男が事件の犯人とされ1係によって追跡されていたが、笹山執行官の殉職とともに行方をくらました。それが先週、三年ぶりに街頭スキャナに検知されたのだ。それも複数回」

 

「複数回検知されたのに、逮捕に至らなかったんですか…?」

 

御留我が首を傾げると、局長は神妙な面持ちになって続けた。

 

「それが問題なのだ。おそらく三年前から姿を隠していたのだろうが、再び何かしらの行動を始めた可能性がある。しかし、三年前も今回のいずれも、彼の色相は常にクリアカラーをマークしている」

 

「そんな、事実上現行犯だったんですよね?!連続殺人なんかを犯していれば、たとえ三年経とうがサイコパスは正常値になんかならないはず…!」

 

「その通りだ。藤間は何かしらの偽装工作をしている可能性が高い。現状身柄を確保できない以上、ドミネーターによる詳細な犯罪係数測定と尋問が必要なのだ」

 

局長の述べた事実に御留我は驚きを隠せなかった。街頭スキャナはシビュラシステムによる心理診断機器だが、それらのほとんどはサイコパスの概算である色相判定とストレス傾向程度しか計測できない。それでも十分ではあるのだが、詳細な心理状態と量刑に必要となる完全な犯罪係数等を割り出すためにはシビュラシステムでの直接の解析を要する。ドミネーターはその演算処理を最優先タスクとしてシビュラに要請できるため、対象に銃口を向けることで即時量刑が可能となるのだ。しかし今回のケース、いくら簡易的な街頭スキャナといえど連続殺人を犯している人物を見逃すはずがないのだ。

 

「詳細は君の端末に送る。今日から2係へ移動したまえ」

 

「わかりました。それでは、失礼しま…」

 

「一つ重要な注意がある」

 

「はい?」

 

「この一件について、藤間のことや犯罪係数のことはもちろん、捜査を行うこと自体もすべて、2係の関係者以外には一切の黙秘をするように」

 

「なぜです?」

 

御留我は眉間にしわを寄せ、怪訝な顔になって聞き返した。

 

「この件ではまだ不明な点が多い。下手な情報流出は余計な混乱を招きかねない。何よりシビュラが藤間を感知できなかったということは、この社会の秩序基盤そのものの完全性を揺るがしかねないのだよ」

 

「隠蔽ってことですか?」

 

「言いようによればそうもなる。しかしこれは混乱を防ぐための箝口令だ。とにかく君たちが藤間を拘束してくれればそれで治まる話なのだ。任務に集中したまえ」

 

「…」

 

局長が有無を言わさぬ声色で言った。御留我は返事をせずに、ただ顔をしかめて執務室を後にした。

 

何を経験したでもないが、こういった権力組織の所作にはなんとなく嫌気が差す。

 

静かに開いた自動ドアをくぐって出ていく御留我の背中を遠目に見据え、局長は誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。

 

「君は記憶を失ってもなお、一組織のリーダーとしての尊厳を取り戻しつつあるというのかね…」

 

 

 

 

 

「資料を見てわかる通りだけど、対象は藤間幸三郎。三年前に1係が担当した標本事件の犯人とされているわ。しかしサイコパスに関してはドミネーターでの詳細計測値は不明のまま、街頭スキャナの類からは野放し状態」

 

刑事課フロアの一室、窓一つなく灰色の壁に囲まれた特別会議室のモニターの前に立ちながら、2係の青柳璃彩(あおやなぎりさ)監視官が話す。ミディアムショートの黒髪をまっすぐに下ろし、きりっとした顔立ちをした女性だ。しっかり者、という印象を受けるが、決して冷淡なわけではなく、むしろにわかに優しさを兼ね備えていそうだと、口ぶりや表情から容易に想像ができた。

 

この防音加工された部屋の中には青柳監視官、同じく2係の執行官である神月凌吾(こうづきりょうご)、そして御留我の三人のみ。今回の藤間追跡の任務は2係全員ではなく、この二人と御留我を交えた三人で行うそうだ。隠密作戦とはいえ、流石に連続殺人犯の逮捕にたった三人とはいかがなものかとも思うが。

 

「やっぱ何かしらの小細工でもしてんすかね?資料読みましたけど、どう見てもこいつが犯人なのは確実じゃないすか。狡噛さんの捜査でも当時そう結論出したらしいですし」

 

御留我の向かいに座る神月が推察を投げかける。若々しい顔立ちに飄々とした口ぶり、彼からはどことなく縢に似た雰囲気を感じた。

 

「その可能性が最有力だって局長も言ってるわ。ただ、そんな細工をしようと画策した時点で確実にシビュラにマークされるはずなんだけどね」

 

今回の任務の指揮権を握る青柳監視官は、無論局長から直接話を聞いていたようだ。監視官が局長と対面することはしばしばあることらしいのだが、やはり執行官である御留我が呼び出された理由はいまいち納得の行くものがない。

 

そんなことを考えていると、青柳が唐突に御留我に話を振ってきた。

 

「御留我君はどう思う?あなた確か、ちょっと機械系に詳しかったわよね。何か思い当たりそうなことはある?」

 

「え、あぁー…ちょっとぶっ飛んだ推測にはなるが、通常はサイコパスが測定できないエリア、例えば他省庁管轄の特別行政区とかに潜伏していた可能性を考えた。名門校の教師で、なおかつ社会的地位も高かった藤間ならその方面にも多少コネを持っていてもおかしくないし、シビュラによる強制捜査権発動でもしない限り公安局の手出しがしづらいからな」

 

「さすがは優秀な1係の執行官ね。うちのバカとは大違い」

 

「バカって誰のことっすかー監視官?」

 

「あんたよ凌吾。いつもだらけてばっかで、ろくに仕事しないじゃない」

 

2係の二人の仲睦まじい言い合いを眺め、御留我は少し頬を綻ばせた。

 

「あ、ごめんね御留我君」

 

「いや、いいさ。俺の勘は慎也やマッさんとか、すげぇ刑事に囲まれて移っちまっただけさ。それでもまだまだ的外しばっかなんだがな」

 

「そうねぇ、あの二人がいるんじゃ仕方ないか」

 

青柳監視官は遠くを見るような目でそう言った。彼女は確か昔は狡噛と一緒に捜査もしていたはずだし、以前捜査した国防軍兵士の大友逸樹(おおともいつき)の事件では征陸と共に沖縄へ出向いていた。宜野座との同期生である青柳からすれば、二人とはかなり古くからの間柄なのだろう。

 

「とりあえず、ここ最近で検出できた限りの藤間の足取りから特別行政エリアをピックアップして、管轄省庁に情報開示を要請してみましょう。凌吾、それを頼んでいい?私は御留我君と、藤間を検出したスキャナがある場所に実地調査に行くわ」

 

「はいよー。了解っす、監視官」

 

 



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Chapter.9

「藤間が映った防犯カメラの地点は、軒並みハズレだったな」

 

現場から戻る高速道路を走る車中、助手席に座る御留我は隣の青柳監視官に言った。

 

「ええそうね。単なる通り道に過ぎなかったんでしょう。でも、ここ数日の藤間の行動範囲にある程度目星をつけられたわ。あとは凌吾が集めてくれた情報との照らし合わせね。あいつのことだからきっと上手いこと絞ってはずよ」

 

運転席に座りハンドルを握る青柳は、少しばかり自慢げに言った。

 

「2係は…監視官と執行官との壁が薄そうだな」

 

何気なくそう言った御留我に、青柳は拍子抜けしたような声をして、

 

「え?ああ、まあそうかもね。でも、別にそこまで特別な話じゃないわよ、チームだもの」

 

と答えた。御留我はきょとんとする。

 

「そうなのか?執行官は“社会の捨て駒”だから、同じ人間として扱わないって聞くぞ」

 

「それは宜野座君のセリフね?そこまで言ってるのはあいつくらいなもんよ」

 

あまり面白かったのか、青柳監視官はフフッと笑いながらそう答えた。

 

「それもきっと本音じゃないわ。そう言いつつ彼、あなたたち執行官を見捨てたことある?」

 

御留我はその言葉にはっとした。青柳の言うとおり、宜野座は口では執行官を足蹴にしたような態度だが、実際にはむしろよく気を配っていることに今更ながら気づいた。

 

「宜野座君のお父さんのことは知ってる?」

 

青柳がトーンを落としてそう聞いた。

 

「ああ、多少は聞いている」

 

「当時は世間の潜在犯への認識がまだ曖昧な頃でね。潜在犯だって認定されると、その人の親族も周囲から弾圧を受けたのよ」

 

「血縁と犯罪係数に因果関係があるっていう医学的根拠はないんじゃ…」

 

「ええ、証明されてないわ。でもその頃はシビュラ導入当初で、その見解が一般に周知されてなかったのよ」

 

御留我は固唾を飲んだ。無知である社会の偏見がどれほどの影響力を持っているか、椎名の一件で痛いほど思い知ったばかりだった。「孤児であるから犯罪係数が高くなり、伝染する」そんな誤った認識から起きた事件だった。

 

「お父さんが潜在犯認定を受けて、宜野座君はまだ幼いうちから周りからはずっと犯罪者扱いされてきたの。本当だったら当たり前に受けられたはずの愛情も幸せも、全部失って生きていかなきゃいけなかった。誰が悪いわけでもない。それでも彼は、ずっとやり場のなかった怒りを何かにぶつけるしかなかった。だからその矛先があなたたち執行官になってしまったのよ」

 

「ああ…」

 

御留我は宜野座の身の上が他人事でないような気がしてならなかった。子供の頃から幸せを奪われて、何かを憎みながら、それでも何かを目指しながら進み続けなければならなかった彼の境遇が。宜野座もあの時そんな思いだったのだろうか。保育園で理人君と出会ったあの時に、孤児である理人君を守ろうとした椎名美里、そして失った記憶の片鱗からか二人の孤児に涙した御留我の生き様に、宜野座は自分自身を重ねていたのかもしれない。ひょっとしたら、忘れられた御留我の過去に宜野座のほうが先に気づいていたのだろうか。帰り際に言ったあの言葉は、それ故だったのだろうか。

 

「だからあなたたちは、どうかあいつの思いを受けとめてやって。刑事課1係として、宜野座伸元監視官の居場所でいてほしいの。あいつの同期生としてのお願いよ」

 

「あいつには借りがある。釣りが余るくらいにゃ、筋通すなんてお安いご用さ」

 

御留我がそう答えると、青柳は一つ嬉しそうな笑みをこぼしてから前に向き直った。

 

「!」

 

「私よ。何かわかった?」

 

腕時計型端末への突然の着信に、青柳は車を自動運転に切り替えて即座に応答した。相手は神月だった。

 

「大事件発生ですぜ監視官!他省庁管轄の地区を洗ってたら、なんと予想外の文部教育省からの情報が返ってきた」

 

彼はどこか楽しげに調査の進捗を報告してきた。青柳はそれに冷静沈着な声で聞き返す。

 

「で、内容は?」

 

「どうやら藤間の奴、3日前に桜霜学園の来校証を発行したらしいんすよ。そんで、それから退出した記録はなし」

 

「最近捉えた街頭スキャナの記録も、ちょうど3日前で途絶えてるわね」

 

「そうか。全寮制女子学校…そこなら部外者へのセキュリティは万全、定期診断以外でのサイコパス測定の必要はない。校内にスキャナはないはずだ」

 

御留我は藤間の行方に辻褄が合ったことに納得しそう呟いた。すると電話の向こうで神月が補足するように続ける。

 

「そして藤間はそこの元教師。この件自体が秘匿されてるから学校側に奴の嫌疑は報告されていないし、単なる行方不明扱いになってる。入校許可の発行なんて容易いもんすね」

 

「古巣に帰るってか…」

 

「よし、ありがとうね凌吾。御留我君、これから公安に戻って凌吾拾ったらそのまま桜霜に向かうわよ」

 

青柳は早口にそう言うと、自動運転を解除して車の速度を上げた。

 

 

 

 

 

「藤間はおそらくこの地下施設内に潜伏しているわ。中の構造は不明だから、慎重に行くわよ」

 

夕日が背後から照らす中、重黒く光を反射するドミネーターを構えて青柳監視官が静かに言った。御留我と神月は何も言わずに頷く。

 

 

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桜霜学園に到着し学園内の監視カメラと目撃証言を元に、藤間幸三郎はこの旧ゴミ処理施設にいる可能性が高いことを突き止めた。3日前に学園に入り、複数の生徒や教師と挨拶を交わしていったそうだ。その後彼の姿を見た者はいない。出入口にも一切現れていない。監視カメラは異様に少なく詳しい足取りは掴めなかったが、この施設の手前のカメラがここを出入りする彼の姿を数回捉えていたのだ。藤間が学内カメラを避けて行動していたとしても、この施設の出入口がここ一つしかないのだろう、映らざるを得なかったのだ。そしてそんなリスクを犯してまでここに入る目的があった。

 

「こんな危険任務に三人て…局長も無茶言いますね」

 

神月が眉をハの字にしていかにも「やれやれ」といった風に嘆いた。

 

「ほんとそうよね。さあ、こんな少ないメンバーでも負傷者出さずに帰ってやるわよ。二人とも、覚悟してね」

 

そう言った2係の監視官は笑みをたたえながらも、その表情には確かな凛々しさと緊張を据えていた。

 

 

 



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Chapter.10 (last)

「こちらハウンドワン。西側はクリアっす」

 

「了解。こちらオルガワン。東もクリアだ。璃彩(りさ)さん、南の柱で合流だ」

 

「あのね御留我君、あなたはハウンドツー。オルガはあなた一人しかいないでしょ。それと私の名前呼んだらコールサインの意味ないじゃない」

 

「あ、わり。なんかいまいちピンとこなくてな」

 

通信機越しに青柳が呆れたように注意すると、神月の吹き出す声も届いた。御留我は急に恥ずかしくなって口を真一文字にきゅっと結ぶ。多少緊張感が解けてしまったので、我に返って気を引き締め直し再び壁伝いに進む。

 

「待って。建物南東の4番排煙塔前、この壁ホログラムの偽装よ」

 

突如入ってきた青柳の緊迫した小声に、御留我は眉を寄せた。できるだけ足音を立てないよう小走りで合流を目指す。言わずもがな神月もスイッチを切り替えたようになって、真剣な声色になって言った。

 

「了解。ここからはちょっと遠いっすね。すぐ追いつくから、ハウンドツーとシェパードワンは先に合流しててください」

 

御留我が合流地点付近に着くと、中腰になった青柳が無言で大きく手招きをした。

 

「待たせた。で、ここの壁の中か?」

 

御留我が周囲に注意を払いながら姿勢を低くして駆け寄り聞くと、

 

「ええ。ほらね」

 

と、青柳はドミネーターの銃身をそっと壁に当ててみせた。ドミネーターは壁をするりと通り抜け、その輪郭を取るようにホログラムの電磁境界がエメラルドグリーンに浮かび上がる。

 

「俺が先行する」

 

ゆっくりと壁の中へ足を忍ばせると、そこには先程までとさほど変わらない薄暗い地下施設が広がっていた。この中が潜伏場所なのか、それとも罠なのか。どちらにせよ異常な空間であることに相違ない。

 

「御留我君。もう、大丈夫だと思っていいのよね?」

 

「何がだ?」

 

「潜在犯の執行。先月色々あったそうじゃない…その、気に触ったらごめんね」

 

青柳の質問の意図がようやくわかった。監視官は、御留我がこの任務で藤間の執行を躊躇うのではないかと懸念しているのだ。無理もない。椎名の一件後御留我がとった言動は、それほど刑事課の空気を揺るがすものに他ならなかったのだ。自分の身勝手さに自責の念が湧く。

 

「ああ、心配かけたな。まだはっきりとはわかっちゃいないが、俺がやるべきことが少しずつ掴めてきた気がすんだ」

 

「そう。それなら安心して背中を任せるわね」

 

とほっとしたように言った青柳は、続けて御留我にこう語りかけた。

 

「釘を刺すようで悪いけど、一監視官としてのお節介ね。生半可な優しさは時に身を滅ぼしかねないものなの。それはあなた自身だけではなくて、他の民間人や、もちろん刑事課の仲間も含まれるのよ。あなたが一番に守らなくてはならないものを忘れないで」

 

御留我は黙って聞いていたが、やがてふっと口元を緩めて振り返った。

 

「ギノと同じこと言うんだな。あんたらがリーダーになれる理由がわかったよ」

 

そう。青柳の言葉は宜野座に“あの時”最後に言われた言葉と同じだったのだ。そして、思い出せない昔の誰かさんの言葉とも。皆一様に、頼りたい、背中を預けたい“兄貴”みたいだ。

 

「こちらハウンドワン、俺も壁の中に侵入しました。南東に伸びる渡り廊下進んでるんすけど、なーんか…頭上色んなところに怪しげなカメラありますよ。バレてる可能性大アリっす」

 

通信で神月の物々しい声が入ったと思ったその時だった。はるか頭上の電灯が一気に青く灯り、巨大な地下の空洞をぼんやりと照らし出した。急な眩しさに目を細める。

 

「やあ、公安局刑事課の皆さん。僕を探しに来たんですよね?」

 

高らかに響き渡る嬉々とした声の方に目をやると、そこには暖色ベストスタイルのスーツとコートを身にまとった美しい顔立ちの青年の姿があった。

 

「藤間幸三郎…!」

 

「三年前の事件以降身を隠してたんだけどね、一つ実験したいことがあって、久しぶりに表舞台に立ってみようかなって思ってさ」

 

「あいつは何を言ってるの…?」

 

青柳の疑念に満ちた言葉に御留我も同感だった。藤間が立つのは御留我たちの十数メートル頭上。焼却炉のような空洞の上に位置する作業用の鉄橋で、あたかもそこがステージであるかのように振る舞っていた。

 

あっけにとられながらも御留我たち三人は各々ドミネーターの銃口を藤間に向けた。

 

<犯罪係数:31。執行対象ではありません。トリガーをロックします>

 

「なっ…!?」

 

ドミネーターは正常に作動し、銃口の先の藤間を確実に捕捉し、そして「犯罪者ではない」と告げた。

 

その場にいた刑事皆が驚いた表情をしたのを満足そうにみとめ、藤間は落ち着き払って語りだす。

 

「うん、やっぱりそうだよね。シビュラシステムの目であるドミネーター。据え置きスキャナでは算出できない完全無欠なサイコパスを啓示するその神器ですら、僕を捉えることはできない…。実験の第一段階は終了だ。じゃあ、次の段階に移ろうか」

 

そう言いながら藤間は足元にあるブルーシートを引き、驚くべきものを見せた。横たわる若い女性。制服からして明らかにこの桜霜学園の生徒だった。彼女は四肢に手錠を掛けられ、口は糸のようなもので縫いつけられてぐったりとしていた。

 

「今からこの娘…名前はわからないんだけどね。今日は実験だからいいんだ…。君たちの目の前で解剖しようと思うんだ。どうかな!」

 

猟奇的。まさにその言葉が当てはまった。藤間はポケットから医療用のメスを取り出してみせる。床に横たわる女子学生は、気を失っているものの生きているのは確かだった。それを今まさにこの男は解剖しようとしている。

 

<犯罪係数:44。執行対象ではありません>

 

向け直したドミネーターは明らかにその藤間の姿を捉えながらも、刑事たちに引き金を引かせようとはしなかった。

 

「どうして…?!」

 

隣で青柳が切羽詰まった声を漏らす。

 

異常だ。誰か一人のドミネーターが故障しているならともかく、ここにいる全員のそれが彼を犯罪者として認識しない。

 

妨害電波?いや、シビュラシステムとのリンクは正常だ。サイコパスの偽装?そんなはずはない。据え置き型や簡易スキャナならまだしも、シビュラと直結したドミネーターの測定を欺くことなど不可能だ。もしそれができるのならば、シビュラシステム全体の、つまり社会そのものを掌握することすら可能にしてしまうだろう。

 

「そうか、本当に面白いなぁ。僕はこれまで幾度となく人を殺してきた。そして今まさに人を殺そうとしている。それでもドミネーターは…君たちの信ずるべき正義の目は、僕を“善良な市民”と訴えたいみたいだね」

 

「黙れ!藤間幸三郎、武器を捨てて投降しろ。逃げ場はないぞ!」

 

「うん。だったら今すぐ僕を撃てばいいんじゃないのかな?ドミネーターは絶対に犯罪者を逃さないんだろう?」

 

御留我の牽制も虚しく、藤間はすべてをわかりきっているかのような口ぶりで語りかける。今すぐ駆け寄って取り押さえたいところだが、藤間の立っている鉄橋とはかなりの距離があった。青柳と御留我、向こう岸の壁際の神月とで挟むように銃口を向けるが、いずれも藤間の場所からは階下で、見上げるような形だった。全員の姿を藤間に目視されているし、第一、そこへ行く経路もわからなかった。

 

「『標本事件』って呼んでたくらいだから知ってるよね。僕がこれまで殺してきた人たち、特殊樹脂で人形にするんだ。でもね、殺してから解体して固めるんじゃなくて、“解体してから殺して”固めるんだ…」

 

怪しげな笑みを浮かべてそう呟くと、藤間は女子学生の顔にゆっくりとメスを近づけ、

 

スッ

 

彼女の耳に勢いよく切り込みを入れた。切れ味がよほど良いのか、そんな滑らかな音しか聴こえなかった。

 

「やめろ!!」

 

御留我はとっさに叫んだ。

 

<犯罪係数:22。執行対象ではありません>

 

御留我の荒々しい声と騒ぎ立つ心中とは裏腹に、ドミネーターの自動音声は冷淡だった。

 

背筋が凍る。何かの間違いではないのだろうか。そうあってほしいと願って思考を張り巡らしたが、答えは何ら見つからない。

 

「すごい、こんなことをしても犯罪係数が上がらないなんて。聖護(しょうご)君の言ってたとおりだ…!」

 

藤間は先刻から訳のわからないことばかりを意気揚々と口に出す。

 

「これ以上の愚行はやめないさい、藤間幸三郎!執行対象になるわよ」

 

「でも、シビュラはそうは思っていないらしいよ。公安局の刑事なら、その絶対的な正義に従わないとね。いや、抗うことなんてできないんだよね?君たちはシビュラの正義の猟犬で、僕は善良な市民なんだから」

 

<犯罪係数:4。執行対象ではありません。>

 

青柳と神月の方を見回したが、二人とも同様に焦りと苛立ちの表情に顔を歪め、手も足も出ない様子だった。藤間はその顔を見るのがいかにも楽しそうで、不敵な笑みを絶えず浮かべている。

 

「じゃあ今から、ずっと銃口を僕に向けていてくれないかな?シビュラが“これは正義だ”と言い続けるのを聞きながら、僕のショーを見守っていてくれ」

 

藤間は再び女子生徒にメスを近づけた。

 

逃げ場がないのは俺達の方だ。

 

そう直感した。

 

彼女は確実に殺される。刑事たちが何もできずに見守る中で、残虐に、消えゆく脳に絶望を刻み込みながら。

 

「くそっ…もう他に選択肢はねぇのかよ」

 

通信機越しに聞こえた神月の声で、御留我はある一つのことを思い出した。

 

『君には正義を選ぶ自由がある』

 

局長の言葉が脳裏をよぎった。

 

執行モード:リーサル・バルバトス。対象の犯罪係数に左右されることなく運用が可能な装着型高機動兵装。

 

これなら、今すぐにでも藤間のいる鉄橋までたどり着くことができる。もちろん、藤間を殺すことも。

 

だが御留我は同時に、椎名美里の事件を思い出した。本来死ぬべきではなかった彼女を、軽率な判断で殺してしまった。今回も同じ過ちを繰り返してしまうのかもしれない。また後悔することになるのかもしれない。今度こそ刑事としてのすべてを失うのかもしれない。

 

焦燥と抑止、両方に押しつぶされそうになり悶えた。呼吸が荒くなり、冷や汗が止まらない。周囲が見えなくなる。視界が赤く染まり体の自由が奪われていく。

 

まただ。

 

御留我の中の時間が止まった。白昼夢のような歪んだ空間の中で両腕を鎖で繋がれ、冷たい床に跪いた。目の前にもう一人の自分が現れて言う。

 

「よぉ。調子はどうだ?御留我威都華執行官」

 

眼前の自分の姿をしたそいつは、軽蔑的な目で見下ろしてくる。

 

「てめぇは弱いんだなァ…。これで何回目だ?誰かを“殺す”のは。もういっそ容赦なく殺せよ。そのほうがすっきりすんだろ。自分のせいでとか言うが、結局それは全部自分が困るからなんだよなぁ?お前の罪悪感なんてのは自分を擁護するための建前でしかない。正義だなんだとか言うのはいい加減やめたらどうだ、性に合わねぇんだよ」

 

「駄目だ、早く開放してくれ!でないと被害者が…」

 

「一体何が駄目なんだ?いいだろう、シビュラが関知してないんだから、そのまま眺めておけばいい。それでなんの問題もないはずだ。むしろこのまま精神を俺に奪われてたほうが、辛い時間を過ごさなくて済むんじゃないか?」

 

「やめろ!早く…早く出ていけ!」

 

「…ああ、わかったよ。じゃあ、お前は何もできないまま、目の前で起こること全部目に焼き付けとけ。そしてまた嘆き続けやがれ。『俺のせいで』ってな」

 

嗤いながらそう言うと、もう一人のオルガ・イツカは踵を返していった。再び視界が戻り、肌に触れる冷たい風と痙攣する体の感覚が戻る。

 

御留我はドミネーターを握りしめた。鋭い刃を遊ばせる藤間を見上げながら歯を食いしばる。

 

先程の青柳監視官の言葉を思い出す。

 

『生半可な優しさは時に身を滅ぼしかねない』

 

シビュラは藤間を執行対象と判断しなかった。執行することを拒絶した。この社会において誰もが従うべき秩序、絶対的な正義は、彼を悪とみなさなかった。

 

『忘れるなよ、オルガ・イツカ。お前がいの一番に守らなきゃならねぇものを』

 

“あの時”の宜野座の言葉が脳裏をよぎる。

 

腹をくくった。

 

御留我は大きく息を吸い、ドミネーターの展開コマンドを入力した。

 

頑健な銃身は青緑色の鮮やかな光を放ちながら目にも止まらぬ速さで開花し、御留我の全身を包み始めた。装甲が開き、四肢に沿ってスライドし、異形の装甲となって再び閉じていく。

 

御留我は迷わなかった。迷わないことを決めた。

 

シビュラシステムという“正義”は、藤間を善とした。御留我がそれを否定すれば、それは罪になるのかもしれない。だが執行官としてこれまで、正義の名のもとに沢山の人間を殺してきた。どんなに正当化されようが、それは紛れもない罪なのだろう。これから取ろうとしている行動はシビュラの定める正義からは刑事にとっての罪として戒められ、背負い続けなければならないものかもしれない。これまでの執行官としての自分をすべて否定して、すべてを罪として背負い続けなければならないかもしれない。

 

だが、それでも、たとえそうだったとしても…

 

御留我は群青色に光る目を見開いた。

 

「“正義”に比べりゃ、よっぽどマシだ」

 

<<執行モード:リーサル・バルバトス>>

 

秩序に抗う“悪魔”が、その姿を現した。

 

 

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