『淑女協定ふたたび』 (mina0918)
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氷菓 二次小説 

初めまして、hideyuki15155と申します。
実は本二次作品は、別の場所でうpしたおりました。
なぜ場所を変えて再投稿したかと申しますと、京都アニメーションの事件が原因といえます。
京アニの作品群で私はこの作品が一番好きでした。ご存じのとおり『氷菓』のアニメ化に携われた多くの方々が、非業の死を遂げられました。
本当に無念でなりません・・・・・・
もし本作を読まれて方が、少しでもアニメ『氷菓』興味を持っていただけたら、そして再見していただけたならと思い、ここにアップすることを思い立ちました。
どうか皆様に楽しんでいただけたら幸甚です。よろしくお願いいたします。


第一章 千反田邸にて

 

 

高二の秋、古典部の俺たちにとって二度目の神高文化祭も盛況かつ盛大に恙無く終わった。

省エネ主義を信奉する俺、折木奉太郎にとっても今年は至って楽な――もとい、有意義な文化祭だった。

千反田えるを部長に戴く古典部は、文集『氷菓』の続刊をなんとか発行することができ、売れ行きもそこそこの結果を残せた。 理由は神高ですでに伝説と化した、去年の『十文字事件』が売上に大きく貢献してくれたからだ。(もっとも俺にとっては、やや後ろめたい事件だったが)

まぁなんといっても、今年の神高祭で一番の功労者は伊原だ。

漫研を正式に退部した伊原は、その『十文字事件』を題材にした漫画(無論フィクションとして再構成したが)を描き、古典部文集『氷菓』に掲載した。

こいつが以外と好評で、本家(?)の漫研の会報より販売部数を伸ばした。

おかげで製作や販売の面でかなり省エネできたというわけだ。

伊原さまさまだ。 もっとも、そんな事は口にも態度にも微塵も出さなかったが。

当初、漫画を『氷菓』に掲載する、しないで、伊原と里志の間で一悶着あったが、特に大きな問題に発展することはなかった。 その話はまた別の機会にしたい。

 

いま神山市は実りの秋を迎え、農家は収穫で繁忙期にはいる。

街は街で、神山市最大の観光資源、『秋の神山祭』の準備の追込みでどこもかしこも慌ただしい。

『秋の神山祭』とは、桜山八幡宮の例祭で10月20日、21日の二日間開催される。

この祭は、祇園祭(京都府京都市) 、秩父夜祭(埼玉県秩父市) と並んで日本三大美祭とされ、国指定の重要有形・無形民俗文化財にも指定されている。このため県外からの観光客の来訪者数は一年を通して10月が一番多い。

そんな世間の賑わいや喧騒も、折木家のリビングまで届いてこない。 

俺は、持ち前の省エネ主義を実践すべく、土曜の朝から自室のベッドでのらくらと寝そべりながら文庫を愉しんでいた。

歴史小説で、ひさしぶりに当たりを引いたのだ。 非常に共感を覚える風変わりで怠惰な戦国武将が、僅か五百の手勢で、二万五千の石田三成の軍勢を迎え撃つというエンターテイメントだ。

朝から父親も姉貴も外出して邪魔者は居なくなったので、思う存分読書ができる。

ここ最近、文化祭の準備やら、店番やら、後片付けやらで、エネルギー消費を余儀なくされていたからな。

そんな久しぶりに味わう至福の朝に、千反田える、からの電話が割り込んできた。

 

「折木さん、あの、明日なにかご予定はありますか?」

 

電話口から遠慮がちに聞こえてくる、涼やかで上品な声音に騙されてはいけない。 

 

同級生の千反田は、その声音から想像できるとおり清楚可憐な富家良家の子女なのだが、知り合って1年半の間に彼女の本質が少しずつ判ってきた。 

それは――

 

「予定か・・・特にこれといっては。 いや・・・・・・あったな。 読みかけの分厚い文庫を完読するという――」

 

「明日、なにもご予定はないですよね?」

 

俺の話は瞬殺か。

しかもさっきと若干ニュアンスが変わっている。 強迫されているような心持ちは気のせいか。

つい曖昧な返事をしてしまう。

 

「ああ、まぁ、たぶん大丈夫だろう」

 

ここ最近、俺は千反田との関係性に微妙な違和感を感じるようになっていた。

春の『生き雛祭り』を手伝った頃からだろうか。 なにか千反田に管理されているような錯覚を覚えることが偶にある。

そもそも里志の奴が、タロットの『力』などという暗喩を俺に投げかけたりするからだ。 

ふん、忌々しい。

 

「いつも無理言ってばかりですみません・・・・・・」

 

「――また厄介事なのか?」

 

「いえ、その・・・・・・お願い事です。 いつも急な話でご迷惑なのは重々承知してますけど、どうしても折木さんに鎌を持って頂きたくて電話しました」

 

なに? 鎌? 半年前は傘だった。一字違いだ、惜しい。

・・・・・・いやいや、相変わらず頼み事をするのに説明をすっ飛ばすやつだ。 

神高での成績は常に上位にあり、理系クラスを選択する怜悧なやつなのに、ことこの件に関しては、まったく学習効果がない。 不思議だ。納得いく説明をしてもらいたい。

俺は小さな溜息を漏らして、何度も繰り返してきた言葉を使う。

 

「たのむ、判るように最初から説明してくれ」

 

「ごめんなさい、いつも説明が下手で・・・・・・」

 

千反田は少し間をとってから、ぽつぽつと話し始める。

 

「折木さんには、今日まで色々と助けて頂きましたのに、個人的なお礼をしていませんでした」

 

「だからそんな大層に考えないでくれ。 前にも言ったが、たまたま運良く廻っただけで、俺のことを殊更買いかぶられても困る」

 

「でもでも、助けて頂いたのは事実ですから――

それで丁度明日、毎年秋に五穀豊穣を祝って、拙宅で周辺の人々に酒肴を振舞う宴が催されます。

折木さんを、その宴席に是非ともお招きしたいと思って電話しました」

 

「千反田、確認しておくが、俺は未成年だ」

 

「はい。 お料理だけでも、愉しんでいってくだされば――」

 

「里志と伊原は、よんでるのか?」

 

「いえ、今回は折木さんだけです」

 

電話口の千反田の声が恥ずかしそうに小さくなった。

 

「鎌と宴会と結びつかんのだが・・・・・・」

 

千反田は俺の問に応えるため、千反田家の歴史の一部を繙きながら説明してくれた。

江戸時代から戦前までは年に四度あった、五穀豊穣を祝う近隣への酒肴の振舞は、全て千反田家が費用負担してきた。 時代も変わり戦後の農地改革で減反を余儀なくされてからは、やむなく会費制になる。 回数も年二回に減り、田植えと稲刈りの時期に労を犒う宴会に移り変わっていったらしい。

千反田は、お酒が駄目なので、去年の宴席では近隣の女衆と一緒に宴席の裏方の手伝いをしてきたが、給仕はしなかったらしい。 まぁ、未成年だしな。

 

「もちろん折木さんからは、会費を頂くつもりはありませんけど、そのかわり少し労働を提供して欲しいんです」

 

鎌で草刈りでもさせるつもりなのか・・・・・・

 

「因みに、その宴席の会費はいくらなんだ」

 

おもわず下世話な質問をしてしまった。

ちょっと千反田は言いにくそうに間をあけたが、申し訳なさそうに答えてくれた。

 

「一家族につき五千円ずつ集めさせて頂いてます。 ですが、お出しするお料理をご賞味くだされば決して、その投資が無駄でないことを得心して頂けるものと――」

 

「わかったから、ちょっとまて」

 

確かに裕福でない高校生の俺にとって五千円は大きい。 しかし、ちょっと外食してお酒が入れば、一人そのくらいの額は請求されるだろう。 そんなに恐縮するような価格設定でもないと思うのだが・・・・・・でも、

 

「あまり気乗りしないな」

 

「そ、そうですか・・・・・・

実は伯父の――関谷純の件で折木さんに助けて頂いたことを祖母に話したところ、是非お会いしてお礼を言いたいと申しておりましたのに。残念です・・・・・・」

 

電話口から、急にトーンが落ちた千反田の声を聞いて、すこし慌てた。

千反田は学業の優秀さもさることながら、その記憶力の凄さに誰もが圧倒される。 一度見聞きしたことは事細かに瞬時に記憶する。その千反田が俺の信条を忘れるはずがない。 

知っていて、尚、懇願している。

彼女と知り合ってから一年半経ち、俺はある変化を自覚し始めたていた。

俺の省エネ主義という不動の信条のうち何割かが去勢されてしまい、その去勢された空白に千反田えるという存在が浸食してきている。いつしか折木奉太郎の行動基準は、千反田の喜怒哀楽に大きく左右されるようになっていた。

 

「気乗りしないが、千反田家のご馳走には、その、興味がないわけじゃない」

 

――すこし言い訳がましかったか。

 

「折木さん! それじゃ来ていただけるんですね!! ありがとうございます!」

 

お嬢様の弾んだ声音が、受話器から飛び込んでくる。

 

「そ、それで鎌は、どこで買えばいい?」

 

**********************************************************************

 

日曜日の早朝、俺は自転車で神山市の市街地を抜け、知った道順を北東へ向かっている。

何事にも省エネ主義がモットーの俺だが、今の自分のイレギュラーな行動に、思わず自虐的な笑みを漏らしてしまう。

千反田邸に向うのは、これで四度目だった。

最初は里志に案内されて『氷菓』の謎解きの時、次は古典部の四人と文化祭の打ち上げの時、三度目は俺一人で春の『生き雛祭り』を手伝った時。

過去三度と違うのは、道中、農機具を積んだ軽トラと頻繁にすれちがうことだ。

いつもの長いだらだら坂を越え、丘陵地帯の高台で少し自転車を止める。

高台といっても、さほど見通しがきく場所ではない。 それでも広がる黄金色の平野の奥に、見覚えのある白壁に囲まれた千反田邸が見て取れた。 

澄み切った秋空の下『豪農』千反田家は点在している家々とは出格の規模と趣がある。

視界を遮る木々で全体は見えないが、田圃のあちこちで人影や機械が動いている。 早朝にも係わらず相当な人出だ。

自転車を進めていくと沿道の田圃では既にコンバインで刈入れ作業が始まっていた。 

十数台のコンバインが一斉に発動機を唸らせながら黄金色の海に漕ぎ出し、稲穂を刈り始めている。

農機具に疎い俺だが、コンバインってのは刈り取り、脱穀、藁のあと処理、籾の軽トラへの移送をオートメーションで行なうから、人手なんか不用だと高を括っていた。

 

よそ見しながら自転車で狭い農道を走っていると、麦わら帽子を被った人が飛び出してきた。もう少しブレーキが遅れていたらぶつかっているところだ。

 

「折木さん!」

 

「千反田か!?」

 

俺が知らない千反田が、そこに居た。

普段は、つやのあるしっとりとした黒髪を背中までさらっと流しているが、今日は三つ編みにして、編み込んだ髪をアップしている。

今年の正月、荒楠神社に初詣に同行した時の和装に合せた髪結いとはまた違う。 こちらのほうが数段アクティブに見えるし、なんといってもスカート以外の千反田の恰好もなかなかレアだ。

青いデニム地のオーバーオールに、明るい柄のネルシャツ。足下は黒い長靴。

普段は一見楚々とした容姿佳麗なるお嬢様なのに、今の千反田はどう見たって農繁期に家を手伝う快活な農家の娘だった。いや事実そうなんだが、このギャップは新鮮な驚きだ。

 

「おはようございます折木さん! 来て頂いてありがとうございます!」

 

「すまん、遅くなった。はじまってるけど、何をしたらいいか指示してくれ」

 

「折木さん、さきに着替えなくていいんですか?」

 

「これが俺の作業着なんだ、宴会用の着替えはディバックに入ってる」

 

出がけに汚れていいTシャツとジーンズにブルゾンを羽織ってきた。

俺は千反田に畔に自転車を置いて良いか確認してから移動させ、背中のディバックを下ろす。

早々、千反田は稲刈りの使命感を眉宇に漂わせながら、今日の作業を説明し始めた。

 

「折木さん、では機械を使った基本的な刈り方についてご説明します。

まずコンバインが方向を変えるスペースを確保するため、田圃の四隅を機械の大きさに合わせて手で刈り取ります。

そのあとは反時計回りに回って刈り取っていきます。

最後に手で刈り取った部分を脱穀して一連の作業が終了します。四隅を刈るのが面倒な場合は、機械を入れるスペースを一か所だけ手で刈り取ります。

折木さんはコンバインの経験がないので、この手で刈り取る作業をお願いしたいんです」

 

・・・・・・これは、なかなかの重労働だ。

 

「因みにコンバインがまだ入っていない区画はあとどれだけある?」

 

「そうですね、始まったばかりですから、あと150カ所ぐらいでしょうか」

 

平然と言いやがった。詐欺だ、抗議してやる。俺は極力平静を装いながら――

 

「千反田。仕事には適材適所がある。人選ミスじゃないのか」

 

「大丈夫ですよ、折木さんだけじゃないですから、近隣の皆さんがコツを教えてくれますよ」

 

「いや、そういう問題じゃなくて」

 

「わたしこれから宴席の準備がありますので持ち場を離れます。頑張って下さいね、お腹をすかしたほうかご飯も美味しいですよ」

 

千反田は軍手と鎌と長靴をてきぱきと俺に渡しながら、今日の秋空のように澄みきって晴れやかな表情で微笑んだ。

 

さっき千反田に言われた通り、近隣の人たちと一緒にコンバインの入るスペースを手と鎌で刈り取り、コンバインが刈り取っている間は小休止させてもらい、また次の田圃へ移る。 手慣れたもので10分そこそこで田圃ひとつを刈り取ってしまう。

コンバインで刈り取って、籾を軽トラに積み込む。コンバイン2回分で軽トラ一車分。

軽トラが籾で満杯になると近くの穀物庫まで運びサイロへ移す単純作業だったが、広大な農地の為、その量が半端じゃない。

永遠に繰り返されると思われるぐらい何往復もしている軽トラ。

俺は、午前だけの作業で足腰がパンパンに張り、慣れない肉体作業の疲労で意識は朦朧としていた。

 

無様な格好をしながら手伝う俺を見ながら、それをネタに嗤う者も見かけたけど、近隣の大抵の人たちは親切に作業のコツを教えてくれた。

それは大変ありがたかったが、教えながら皆それとなく千反田との関係を聞き出そうとしてくる。

 

「高校で同じ部活の同級生ですよ」

 

と、最初は無難な回答をしていたが、疲労が蓄積するなか何度も同じ質問をされたので辟易する。 その返答は、半分は真実であり、もう半分は正鵠を射ていない。

俺自身、千反田との関係は自分自身でもよく判らなくなることがある。

 

ようやく昼休みになり、地元のおばさんから業務用テントでつくられた休憩所にお弁当を貰いに行くように勧められた。言われるままに立寄ると、お茶となめし革で包まれたおにぎりを渡される。

和気藹々と昼の休憩時間を過ごしている地元の人から少し離れて、俺はすっかりバテた身体を引きずりながら木陰へ移動して倒れこんだ。 頬をなでつける晩秋の冷たい風が汗ばんだ肌に心地いい。

さっきのおばさんが心配そうにこちらを窺っているのが見えたので、から元気をだして起き上がり、無理矢理おにぎりを頬張った。 

今日一日で半年分のエネルギーを消費してしまったようだ。まったくとんでもない浪費だ。

などとぼやいてると、さっき、おにぎりを勧めてくれたおばさんに、作業着姿の上背がある初老の男が俺を見ながら何か話しかけている。 その二人のやり取りを見ていると夫婦のようにも見える。

その初老の男性はゆっくりと近づいてきた。間近で俺を見た男性の顔は、ちょっと呆れているように感じる。我ながら体力の無さが恨めしい。

 

「大丈夫ですか、折木さん?」

 

「あっ、はい、えっ?」

 

俺は慌てて居住まいを正す。なぜ俺の名前を?

 

「えるさんから、刈り取りが終わったら家のお風呂で汗を流すようにと言付かっています」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「午後の作業は三時前には片付きますので、あと少し頑張ってください」

 

初老の男性の心遣いはありがたく、つい本音を吐露したしまった。

 

「すみません、なにか足手まといみたいで・・・・・・」

 

「そんなことありませんよ。浴場の場所は、あの白壁の西側の奥に勝手口があります。そこから入れば、宴席の準備で誰かいますから聞いて下さい」

 

初老の男性は、指さしながら教えてくれると直ぐに休憩所に戻ろうとしたが、急に立ち止まった。泥で汚れた長靴を片足でこすり取りながら男は振り返り、

 

「仕事をずっとやってきていると、仕事の効率がいい人とか頭がいい人とかいうよりも、

一生懸命さのある人と組んだ方が何よりも本当にいい仕事ができる、と分かってきます。

真剣にやっている人の仕事は、たとえ未熟だとしても気持がいいし、やはり一目おく価値がありますから」

 

そう言い残して立ち去っていった。千反田の親戚か近所の人か知らないが、その言葉と、おにぎりで、少し元気がでる。 このおにぎり、コメだけなのに旨い・・・・・・

 

**********************************************************************

 

昼から作業に戻ると、『生き雛まつり』のときに世話になった陣出の男衆に遇った。

向こうは俺のことを覚えていてくれたが、こっちは名前と顔が一致しない。あの人はたしか花井さんだったか。とくに長老的立場のあの爺さん、名前は・・・・・・思い出せん。

 

「あんたが折木さんだったか・・・・・・その節は世話になりましたな。だいぶへばってるようじゃが大丈夫か?」

 

陣出の矍鑠とした白髪頭の長老は、畔で小休止している俺の横に腰をおろす。

 

「すみません体力がなくて。皆さんの邪魔にならないようにと、思ってたんですけど」

 

「なぁに、気にしなさんな。あんたもこの後の宴会に喚ばれていなさるだろ。よう働いてくれたんじゃから堂々と飯が食えるってもんよ!」

 

あいかわらずの大声で励ましてくれたのはよかったが、ちょっと恥ずかしい。

今回のように全く面識がない一団のなかにほりこまれて共同作業するのは神経を遣ったが、結構知ってる顔を見つけだしては内心ほっとしたりもした。

俺は慣れない農作業と普段の運動不足が祟り、へとへとになりながらなんとか予定の作業を終えることができた。

半年どころか一年分のエネルギーを使い切ったみたいだ。

やはり千反田は、宴会の準備があるといって家に戻ったきり姿を見せなかった。

とにかくお言葉に甘えて風呂を貸して貰おう。 この汚れ方では家に上がらせてくれんだろうから。

俺はよたよたと自転車を押しながら、千反田邸の白壁伝いに進み、さっき教えてもらった勝手口から裏庭へ入る。奥の棟から慌ただしい足音や、時たま爆発するような笑い声が聞こえたりしている。厨房は宴席の準備の真っ最中で戦闘状態にあった。

これは声をかけづらい。 しかたなく長い縁側の近くで立ちん坊していたら、背後から名前を呼ばれた。

 

「折木さん、お疲れ様でした」

 

ようやくお出ましかと振り返ってみると和服に割烹着姿の千反田が立っている。 朝の装いとは真逆の出で立ちに、不覚にも疲れを忘れて一瞬見蕩れてしまった。

すぐに我にかえり疲労困憊の自分自身を隠して、やせ我慢しながら俺はぶっきらぼうに要求した。

 

「すまん千反田、風呂を貸してもらえると聞いたんで」

 

「えぇ、もうお湯をはってますから、どうぞこちらです」

 

千反田は何か満足げに微笑み案内してくれようとする。

 

「縁側から上がっていいのか?」

 

「はい、そのお荷物、お預かりします」

 

ディバックを渡して、一応入念に身体中を叩いて泥や埃を落とした。

千反田は俺のディバックを両手で大事そうに抱えて長い廊下を進む。

前に見た度肝を抜く大広間にさしかかると、そこには隅から隅まで座卓が何列も並び整えられ、座布団が敷き詰めていた。 座卓の上にはコップや取り皿やおしぼり、カセットコンロやらが整然と並び、大皿に盛られラップがけされたオードブルが何皿も近隣の女衆の手で運び込まれている。

いったい何人招待しているのか?

 

「折木さん?」

 

千反田に先を促され、少しずつ宴会準備の大広間から離れていく。

やがて母屋から庭園を抜けて池の中央へ延びる、長い渡り廊下を行くと、こぢんまりした離れに着く。 

ここは初めてくる場所だ。

外観は母屋と同じく、古民家の風情を色濃く残す木造平屋建で、庭園の背景の一部として調和するように趣向が凝らされていた。

 

「ここは来客用の離れ座敷で、宿泊される方をいつもご案内する場所です。 母屋と一緒で百五十年以上前の建てられたそうで、屋根は何度か葺き替えられましたが建屋自体は当時のままだそうです」

 

「池も百五十年前からか?」

 

「ええ、元々は干害対策用のため池として作られたそうです」

 

そう言って千反田は中を案内してくれる。 いきなり百五十年前と言われても実感が湧かない。 

でも歴史物が好きな俺は、城郭建築や寺社仏閣の建造物に多少詳しかったので、土台の石垣の組み方など結構興味がそそられた。

欄間に施された松竹梅と桜の細かい透かし彫り。 居間に置かれている黒檀の座卓や調度品を眺めていると、どこの高級旅館かと思う。

断っておくが、間違っても宿泊するつもりはないぞ、里志よ。

ただ、お風呂とトイレだけは新しくやり替えたらしく、全自動ガス給湯式とウォシュレットになっていた。 障子を開けるとガラス窓越しに、さっきの宴会場と化した大広間が真正面に見える。

この離れ自体が庭園の中の大きな池に浮かんでいるように造られていた。

贅沢きわまりない。里志が居たなら

 

「『豪農』千反田家、面目躍如たる所以だね」

 

などと言いだしそうだ。

千反田は一通り、離れ屋の説明を終えて最期に言う。

 

「お風呂から上がったら、この内線電話で呼んで下さい。 すぐ迎えに来ますから」

 

「ますます旅館の女将みたいだな」

 

「もう、それ誉めてませんよね」

 

ふくれっ面が、ちょと可愛かった。

 

「いや、宴席のどこに座ればいいか教えてくれたら、千反田も省エネ出来きるぞ」

 

「ふふふ、ありがとうございます。 じゃぁ私戻っていますから」

 

愛想笑いしながら、千反田はそそくさと帰っていった。

暗に俺の省エネ主義など、この面倒な村社会では通用しないですよ、と言っているみたいだ。 ある意味そうだろう。 だから俺はここに来ている。 

脱衣しながら、

 

「まぁ、なんにせよ風呂は有難い」

 

独り言を言って、手早く身体を流し湯船に浸かる。

以前、伊原の親戚がやっている温泉旅館で、湯あたりした嫌な失敗を想いおこした。

身体が暖まり筋肉の強張りが少し解きほぐれた頃あいを見計らって、早々に湯船から出る。

木でできた浴室用椅子を引きよせ、洗面場の鏡の前に座ると初めて気付いた。

無意識に前髪を弄っている。

里志にその癖のことを何度も指摘されたことがあった。 曰く

 

「ホータロー、その顔は、なにか思いついたね?」と。

 

だけど、いま特に何か謎解きをしているわけじゃない。

ただ無意識のうちに、腑に落ちない点を反芻していただけだ。

 

何故、俺だけが招聘されたのか。

 

千反田は会費不要と言ったのに、何故俺に農作業を依頼してきたのか。

 

俺の個人情報が、何故近隣の人たちや陣出の長老にリークされていたのか。

 

千反田ではないが、どうも気になる。

湯あたりしそうな、少し胃がむかつく嫌な感覚を覚えたので、急いで風呂から出てた。

脱衣場は微かな空気の流れを感じられ、空調が入っているかのように涼しかった。

こいうのが日本家屋の利点だろう。 すぐに火照った身体が冷えてきたので、下着を取ろうとして初めて気付く。

俺の着替えがディバックごと無くなっている。 取り敢えず身体を拭き、上下の下着だけ履いて、バスタオルを首から提げて居間に戻る。が、やはり居間にもない。

訝かる俺が目にした物は、黒檀の座卓の上に、きちんと折り畳んで置かれた和服と帯だった。 これは千反田の仕業か?

すぐに内線電話の受話器をあげる。俺が問いかける前に向こうから声がした。

 

「折木さん、ちょっと待ってて下さい。すぐ行きます」

 

「千反田、俺の着替えを――」

 

プッと、電話が切られる音。

 

「おい・・・・・・」

しかたない、待つか。 

なかば呆れながら障子を少し開けると、ガラス窓の向こうに渡り廊下を足早に歩いてくる千反田が見えた。

しまった、こっちはシャツとトランクスだけだ。 急に羞恥心が湧き起こり慌てて和服に袖を通そうと試みる。 しかし『生き雛祭り』の時は、茶髪に着付けしてもらっただけで、自分で着られるわけもなかった。

もたもたしていると千反田が離れの格子戸を開ける音がした。

 

「折木さん、入りますよ」

 

「ち、千反田! ちょっと待っ――」

 

制止する前に襖が音もなく開き、千反田が顔をだした。

凄くだらしない格好を見られてしまった。 帯は座卓に置いたままで、浴衣見たいに和服を手で押さえている状態で固まっている。

千反田は手を口において上品に笑っていた。

 

「折木さん、私が着付けしますから真っ直ぐ立ってて下さい」

 

「いや、そもそも和服でなきゃだめなのか?」

 

「紋付き袴じゃありませんから、そんなに構えなくても大丈夫ですよ。 秋単衣(あきひとえ)っていう普段着です。 浴衣を着るように気楽に着ていただけますから。 いま、本当は袷(あわせ)の時節柄ですけど、今年はまだ暖かいので袷は暑いかなって。 あっ、折木さん、袖口を片方ずつ摘んで両手を広げて、そう、肩口の髙さまで」

 

俺に有無を言わさず、手慣れた手つきで帯を回していく。

帯と着物の衣擦れの音だけが小気味よく居間に響く。 千反田の顔が俺の胸につきそうなくらい接近していた。

もともと千反田の俺に対するパーソナルスペースは異様に狭い。 そのお陰でいつもドギマギさせられてきたので、近すぎるのは慣れてきたけど、これはこれで、か、かなり恥ずかしい。

視線を落とすと、千反田のうなじの奥が真朋に見えて、思わず顔をそむける。

背後にまわり手際よく帯を締めた千反田は、間合をとって着付けの細部を確認した。

 

「見立てどおり、よくお似合いです」

 

「そんなこと、初めて言われた」

 

姿見に映る和装の俺は、なるほど孫にも衣装だなと言える。 藍色の生地の和服は、実年齢より俺を大人びて見せていた。うちの愚姉には到底まねできないスキルだ。

 

「じゃぁ、行きましょうか」

 

千反田は、満面の笑顔で俺を宴会場へ誘った。

 

**********************************************************************

 

池の上の離れ屋と母屋を結ぶ長い渡り廊下を歩き、大広間へもどる。 知らない間に宴会場には八割がた人で埋まっていた。百人は居ないと思うが、始まってもいないのにこの喧騒に圧倒される。 皆、思い思いに談笑し、子供達は広い縁側で集まって騒いでいたりする。

どうやら宴会が始まるまで、邸内でかくれんぼをしているみたいだ。これだけ広いと隠れ甲斐もあるだろう。

こうして、やや格式張った食事会を想像していた俺の予想は見事に裏切られた。 普段着で来てる人が目立つ。和服なんか着ているの俺と千反田だけじゃないか。

まぁ気を遣わずに済みそうなのは有難い。 なかには農作業から、そのまま来た様な人もいる。

 

「折木さんの席は、こちらです」

 

千反田は大広間の一番下座、廊下から一番近い席に案内してくれた。 下手から大広間全体を見渡せる位置に陣取る。廊下のほうへ目を転じると、池の上に浮かぶ先ほどの離れ屋が眺められた。 社交的ではない俺にとって、目立たない良い席だと気に入った。

 

「わたし準備が少し残っていますので、ここで待ってて下さいね」

 

そう言い残して千反田は忙しく厨房へ消えていった。

改めて座卓の上に並べられた大皿のオードブルを見て、会費五千円は破格だと思い知る。

大皿の真ん中には、旬の新鮮な刺身が盛りつけられ、その周りには寿司やカニの酢の物、鰆の味噌焼き、う巻きや根菜の煮つけ等々が扇状のお皿に盛りつけられて・・・・・・

う~む。これは、もしや地の松茸では? 

焼き松茸とすだちのベストカップルを大皿のなかに発見した。 しかも大きいのが六本ほど。折木家の食卓には、数年に一回、顔をだすかどうかの代物だ。

その盛り合わせのオードブルが、ざっと見渡しても二〇ぐらいはある。

しかも、そのオードブルと同じ数のすき焼きの準備もされていた。

見ただけで上物と判る肉。量も十二分に用意されているが、それより目を見張ったのは、野菜の量の多さだ。特に椎茸の量が半端ではない。

すき焼き用の具材が盛りつけられた大皿に、それこそ、参ったか!と言うくらい、てんこ盛りされていた。椎茸のボリュームだけで山を作っている。

そういえば去年の今頃、千反田に干し椎茸貰ってくれと言われた事があったな。

大広間の各座卓のうえに、この椎茸山が二〇ほど眺められた。ある意味壮観だ。

などと、馬鹿なこと考えていると、もっと馬鹿馬鹿しい事実に気付いてしまった。

俺が座っている座卓に置かれている椎茸山の大皿から、なにやら秋めいた香りが漂っている。

もう一度その盛られた椎茸をよく見ると、茸は茸でも松の方だった・・・・・・

つまり二〇ほど有る、あの大皿の茶色い山は全て松茸なのか? 

どうやら、この座卓だけが特別ではなさそうだ。恐るべし、『豪農』千反田家。

いったい松茸入りの、すき焼きってどんな味だろう?

折好く、和服の裾が視界を横切ったので

 

「千反田、このお皿の――」

 

言葉が自然と止まった。 周りの喧騒が突然かき消えたような錯覚を覚える。

 

「君も喚ばれていたのか」

 

和装の『女帝』入須冬実が廊下で立ち止まり、俺を見下ろしていた・・・・・・

 

**********************************************************************

 

入須冬美。相変わらず泰然として表情の変化は乏しい。

 

「・・・・・・入須先輩、どうも」

 

内心、早く通り過ぎてくれと思う気持を鷹揚に隠す。

 

「えるから君がくることは聞かされていなかった」

 

俺に向けて喋っているのか、独り言なのか、らしくない小声だったが、そんなのは瑣末なことだ。

 

「先輩、ちょっと失礼します」

 

「どこへ行く、折木君?」

 

「ちょっと、トイレに」

 

俺は素早く席を外し、廊下を行交う近隣のおばさんにトイレの場所を再確認して、宴会場から距離をとった。

 

「会いたくないから、会わない。会わなければいけないことでも会わない」

 

入須に対して俺のモットーは明確だ。

確かに去年の神高文化祭では、面倒もみたし、世話にもなった。 しかし嫌なモノは嫌だ。 人間には相性というものがある。

意固地だと嗤いたい奴は嗤えばいい、ガキだと言いたい奴には言わせておく。 十二分に時間をかけて、入須が宴席の席についた頃合いを見計らってからトイレを出る。

――秋の日は釣瓶落とし。 外へ出るとまだ六時前なのに夜の帳が下りていた。 大広間から望む庭園の各所には、かがり火が焚かれている。 俺が風呂を使わしてもらった離れ屋へ行く渡り廊下にも、釣り灯籠の列に灯が入って幻想的な雰囲気を漂わせていた。

しかし大広間に目を転じると、あの騒ぎが・・・・・・おや? やけに静かになっている。

廊下近くの自席に戻ろうと、ひょいと大広間を覗いた。

 

!! なぜ俺の席の隣りに入須が座っている? 

 

まるで武道家のように背筋を伸ばし悠然と着座している。 さっきはよく見ていなかったが、入須の臙脂色を基調にした和服は、控えめな色合いの花柄が染め抜かれており、より大人らしさを強調していた。その美貌に一瞬見入ってしまった。

いや、千反田だ、千反田を探して、席を替えてもらわないと・・・・・・

廊下で所在無げに佇んでいた時、誰かに手を急に引かれて宴席に連れ戻された。

 

「ち、千反田!」

 

「折木さん、座って下さい。今から当主鉄吾が挨拶しますので」

 

小声で俺に教えながら、入須と千反田に挟まれる恰好で無理矢理座らされる。

さっきまでの喧騒が嘘みたいに止んでいた。

騒いでいた子供達も今は、しおらしくしている。

廊下には厨房を手伝っていた十数名の女衆も廊下に正座し始めていた。

この場から醸し出されるカリスマ性を有する人物が千反田家当主、千反田鉄吾であり、千反田えるの父親なのだが・・・・・・いたっ、痛いっ! 太ももを誰か抓った。

入須先輩? なにするんですか? どうして?

な、なに、その抗議するような眼差しは? 

めずらしく感情が込められている。

 

「君は酷い男だ。 これでも少なからず負い目は感じている」

 

あんたにだけは言われたくない。 わけがわからん。

いや、関わると、また敵の術中に嵌る。適当に無視しよう。

襖が開いて千反田の親父さんらしき人が入って来られた。

 

「千反田、あの方が親父さんで隣りがお袋さんか?」

 

黙ってこくっと頷く。

大広間の端と端なので、顔は小さくしか見えなかったが、千反田のお袋さんは、今日、昼休みに休憩所で俺におにぎりを勧めてくれたおばさんだった。

親父さんは、その時へばって座りこんでいたとき、声をかけてくれた人だ。

――そうとは知らずに無様な恰好を晒してしまった。

二人とも和服での出で立ちでご登場だ。 俺も和服を着せられている。 どういう意味か。

千反田鉄吾は、この場に集まられた人たちに対し、深い感謝と労いの言葉を表してから、国の農業政策の展望と対応方法、去年から農機メーカーと協業して試験的に始めた、野菜工場への技術派遣に関する経過報告などを話題にされていた。

さすがに、こういった席で喋り慣れているらしく、手短に要領よく纏めて話を切り上げ、すぐに乾杯の音頭へと移る。大広間の全員がグラスに、ビールやジュースを注ぎながら、その場に立ち上がった。無論、俺もグラス半分ほどビールを注いでもらい立ち上がっていた。

千反田家当主は一渡り大広間を見渡し、全員グラスが行き渡ったのを確認し大声で叫ぶ。

乾杯!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 

俺も、申し訳程度に小さく呟いた。

全員が唱和しグラスを一気に空け、拍手が巻き起こってからは、さっきの喧騒が三倍ほど大きくなって戻って来た。

 

**********************************************************************

 

入須と千反田えるは、競うように俺の両脇から手早くオードブルを取り皿に取り分けたり、ノンアルコールの飲み物を用意し始めた。 二人から同時に品好く取り分けられたオードブルのお皿が差し出された。

千反田はともかく入須のそういった行為には面食らった。 いや新たな諜略の伏線なのか? 用心に超したことはない。

まぁ礼だけは言っておこうか。

 

「あ、どうも」

 

「ここにノンアルコールが各種取りそろえてある。 君は、なにが好みだ」

 

「入須さんはお客様ですので、それは私の役目ですよ」

 

めずらしく千反田が異を唱える。

 

「気にするな。 わたしは折木君に貸しがあるのでな」

 

「でも私が叱られます。 入須家の名代にお酌をさせるなんて」

 

「入須先輩、よして下さい。千反田も。 俺はお酌など受ける資格なんかない只の高校生です。 自分でやりますから、どうぞお構いなく」

 

まず釘をさしてから、俺は刺身に箸をのばす。

 

「そこまであからさまに拒絶することはなかろう」

 

「そうですよ、折木さん。 入須さんはともかく私にはお酌する権利義務があると思います」

 

「える、聞き捨てならんな。 そもそもこれは協定違反ではないか」

 

――協定?  黙って聞いていたが何の話だ。

 

「入須さん、先に協定を破られたのはそちらじゃありませんか」

 

なにか雲行きが怪しくなってきた。 まずい。なにか非常に・・・・・・

入須と千反田に、がっちり挟まれたこの席を変わりたい。 大広間上手に視線を漂わせると、千反田家当主自ら各座卓毎にお酒を注ぎに回っているのに気付いた。 名家の当主ともなると傲然とかまえているものとばかり思っていたが。

そんなことより入須と千反田は気付いているのか? 俺たちの座っている座卓の周りから密かに投げかけられる好奇な視線を。

 

「あの、えるおねえちゃん、お取り込み中ごめんなさい」

 

声のした方を振り返ると、千反田の傍らに小学校低学年ぐらいの女の子が申し訳なさそうに立っていた。

 

「あら、どうしたの千尋ちゃん、べ、別に私たちお取り込み中じゃありませんよ」

 

傍目から見ても苦しい言訳だな。

 

「あのね、にいにいが、かくれんぼから戻って来ないの。 父さんは酔ってるし、母さんはお手伝いが忙しくて探してくれないの」

 

「まぁ、それは心配ですね。 おねえちゃんに任せて下さい。 これでもかくれんぼは得意なんですよ。 じゃぁ一緒に探しにいきましょうか」

 

その子は閊えていた心配ごとが無くなり、すぐに明るい笑顔が戻って来た。

 

「うん、ありがとう! みんな~、えるおねえちゃんが一緒に探してくれるって!」

 

千尋という女の子と千反田のやりとりを、遠巻きに見守っていた子供達がわらわらと集まってきた。

 

「入須さん、そんな事情ですので、続きはまた後ほど――」

 

「承知した」

 

おいっ千反田、俺と入須を二人きりにしないでくれ、と、目顔で知らせたが、あの千反田に腹芸が通用する訳がない。 俺の顔を不思議そうに見ながら、子供たちに手を引かれて連れて行かれてしまった。

 

「折木君、注いでくれないか」

 

入須はグラスをそっと差し出した。 千反田が居なくなると早速これだ。

嫌々ながらノンアルコールに手を伸ばすと

 

「違う、ビールだ折木君」

 

「入須先輩、まだ未成年では?」

 

「意外と堅いことを言うな、君は。 ふふふ、しかしまさか、こうやって折木君と差し向いで飲めるとはな」

 

その笑顔。今度はまたどのような策謀を巡らせているのか。 即座に俺の警戒アラームが鳴動し始める。 俺は少し腰を浮かしてビール瓶に手をのばし、栓を抜いた。

愚姉に無理矢理注がされた嫌な思い出が蘇る。 だから注ぐのは結構うまい。

入須は注がれたビールを上品に、だけど一気に飲み干した。

 

「先輩、そんな飲み方しないほうがいいですよ」

 

「なんだ、心配してくれるのか。まぁ今日は介抱役がいるから安心して飲める」

 

「そんなに飲むつもりですか?」

 

まさか介抱役って俺のことじゃないだろうな?

 

「運転手つきの車でも待たせているとか」

 

揶揄したわけではなかったが、入須は悠然と応える。

 

「今日は来ていない」

 

やっぱり居るんだ、大病院のご令嬢には。

そのご令嬢は、さっき飲み干したグラスを俺に渡す。 すでに入須はビール瓶を手にしていて、俺に持たせたグラスに注ぎいれた。

 

「ご返杯しよう」

 

入須は正座して真正面から俺を見据えている。 眼を細め微かに微笑む。 グラスには彼女のルージュが淡く残っていた。

俺は静かにグラスを座卓に置き、

 

「未成年ですから」

 

と、一言だけ返す。

 

「つまらん奴だな、君は」

 

入須は、そのグラスを手に取り、また勢いよく飲み干した。

これは、ちょっとまずいな。 入須の様子が少しおかしい。 なにが原因か知らんが、こんな粗い飲み方する奴の末路は概ね決っている。

とにかく適当に中座して千反田邸から早く抜け出したい。

空腹も限界にきている。 折角のご馳走をゆっくり味わえないの残念だけど、俺は猛然とオードブルを口に詰め込み、お茶で胃袋に流し込みながら脱出手順を練り始める。

さっき千反田がしまい込んだ俺の着替えの在処が判らない。

まさか隠したんじゃ? 

しかたない千反田を探しに行くか。 省エネ的じゃないけど。

俺は黙って立ち上がろうとすると入須が帯を掴み引き留めた。

 

「どこへ行くの折木くん?」

 

「ちょっとトイレに」

 

「そんなに私と居るのが嫌?」

 

――はい、それはもう。

 

「結局、君は私の謝罪も和解する機会も拒絶するのね」

 

――存在自体を拒絶しているのだが。

 

「べつに謝って頂く必要はないですよ。 同じ状況になったら、あなたは,同じ事を繰り返して事態収拾に当たるでしょうから。 ただ折木奉太郎の二度目はないので、また新しい手駒を探す必要があるでしょうけど」

 

入須の表情は、能面のように無表情に戻る。 そうだ、そうでなくては困る。

入須冬実が付けている仮面の下の本当の素顔。 傲岸不遜にして泰然自若、冷酷無比。 

それこそが彼女の本質なのだから。

 

「今更だが、どうやら私は去年の秋に取り返しのつかない物を失っていたようだな」

 

黙って俺は聞いている。 次に入須の口跡がどんな変化をするのか身構えていた。

 

「ここで失礼させていただく。 えるに宜しく伝えてくれ」

 

あっさりと入須が引いたので拍子抜けしてしまった。

すくっと入須は立ち上がり、俺に一瞥を投げかけて立ち去ろうした時に異変は起った。

『女帝』は突然気を失ったように、その場に崩れ落ちたが、先に気付いた俺がなんとか抱き留めた。 

一瞬カメラのフラッシュが光ったような気がしたが、確認する暇もない。

すぐに周りの女衆が駆けつけ様子を伺ったが、どうやらコップ二杯のビールで酔いつぶれたらしい。 まさか千反田より酒の弱い人間がいるなんて思いも寄らなかった。

呆然とする俺の目の前を、屈強そうな近隣の女衆に抱きかかえられて入須は奥の部屋に消えていった。

幸いなことに、周りの宴会の喧騒が騒ぎを目立たなくしてくれたのでよかった。

知らない間に安堵している自分に気付き、思わず首を横に振る。

なぜか少しだけ入須が気の毒に思えた。

 

************************************************************************

 

宴会場では早くも、すき焼きを作り出すグループが出始めた。 そうなると大広間の各所で連鎖するように、すき焼き作りがはじまる。

ああ、あんな量の松茸を、惜しげもなく鍋に投入している。 そこいら中から、割り下が鍋の中で沸騰する香ばしい匂いが立ち上る。

このすき焼きだけは話題提供のため一口、食してから帰りたい。 しかし俺が居るこの座卓には、料理の作り手が居ない。

しかたない、見よう見まねで作ってみるか。

カセットコンロの火を点けようとしたところで、背筋に悪寒が走った。

背後から束になった視線を感じたからだ。

振り返ると千反田が、さっきの子供たちを引き連れて廊下に立っている。 どうしたことか、皆一様に表情が固い。

千反田を呼びにきた女の子は、千反田の割烹着の端を強く握りしめていた。

 

「折木さん、大変なんです」

 

変事があったのは間違いないが、俺はわざと軽口をたたいた。

 

「こっちも大変だったぞ。 入須先輩が――」

 

「私がとうかしたのか」

 

割烹着を着た入須が、まるで所用から戻って来たように千反田の背後から現れた。

 

「先輩! あんた、さっき倒れて」

 

「折木さん」

 

「ああ、あれか。 なに宴会の座興のようなものよ」

 

入須は、すき焼き鍋の前に着座しながら彼女のスマホを俺に渡した。 その待ち受け画面を見て心が凍りつく。

 

「折木さんってば」

 

千反田が二度呼んだのは気づいていた。

やられた。 さっき入須が倒れかけたとき抱き留めて身体を支えた瞬間が写っている。 見ようによっては恋人同士の抱擁に見えなくはない。

俺は即座に消去したかったが、スマホどころかケイタイすら触ったことがない。

 

「入須先輩。どうやって手に入れたか知りませんが、この悪趣味なデータを消して下さい」

 

入須は泰然としながら、鍋に火をいれる。そして俺を流し目に見ながら

 

「それは今後の折木くんの態度しだいよ」

 

ちょっとでも入須のことを気の毒と思った自分が浅はかだった。

 

「折木さん!」

 

千反田の大きな瞳が鼻先まで迫ったので、思わず仰け反る。 ここは神高の部室じゃないんだ。

言っても無駄だが、もっとまわりの目を気にしろ。

 

「折木さん、見付からないんです、この子のお兄ちゃんが!」

 

千反田が探し始めてから小一時間ほど経過していた。

 

「そりゃ、これだけ広いと探し甲斐があるだろうよ」

 

「ちがいます、探しているのは家人の私なんですよ。 子供の頃から、かくれんぼしてよく遊んでましたので、隠れ場所は全て記憶しています。そうでしょ入須さん」

 

千反田の記憶力の凄さを思い出していた。

 

「子供の頃、えるとよくと遊んだが、かくれんぼだけは、どこに隠れようが、あっという間に見つけ出されたな」

 

入須は熱くなったすきやき鍋にラードをのばしながら応えた。

俺はさっき入須の不意打ちで生じた動揺が、すっと消えていくのを実感している。

 

「探している子が移動していたら、どうだ。 相手が探したところに再び隠れる。よく使う手だ」

 

「私もそう思って探している間中、この子達に家の要所要所に立ってもらって見張っていましたけど駄目でした」

 

すき焼き鍋に入須が肉を入れたので、鍋から油が弾ける音が聞こえ始める。

 

「外へ出た可能性は?」

 

「本人の靴はあります。他の靴を使って出た可能性もありますけど、この子の兄はルールを守る真面目な子なので、そういった狡いことはしないと思います」

 

入須が、こちらに聞き耳をたてながら適量の割り下を鍋に流しいれ、他の具と松茸を投入し始めた。

さっきから気になっていた食欲をそそる香ばしい匂いも、次第に薄らいでいく。

 

「これだけの規模と由緒ある古民家だ、家人の知らない隠し部屋のある可能性は?」

 

「そうですね・・・・・・以前、祖父が亡くなる前、父が相続する時でしたか、一子相伝の古文書を見せて貰らったことがあります。その文書は千反田家が所有する土地財産の目録帳みたいなもので、そこに母屋の見取り図と説明書きが載っていましたけど、そんな部屋は無かったですね」

 

隣で入須が、生卵の入った小鉢を10以上並べ始めている。

 

「千反田、その古文書を見たのは何歳の時だ」

 

「小学二年のころでしたか。 父様におうちを忍者屋敷みたいに改造してと無理をせがんだことを覚えています」

 

その記憶能力には毎回驚かされる。 

しかし次の可能性を聞くのは問題があった。 できれば二人だけで確認したい。

聞こうか聞くまいか思案していたその時、入須が立ちん坊している子供たちに声をかけた。

 

「あなたたち、探し回ってお腹が減ったでしょ。 もうすぐ出来上がるから、ここに座って食べて行きなさい」

 

子供心に入須から漂う取っ付きにくい雰囲気を察して、最初は怖じ気づいていたが、子供のお腹は正直だ。 わっと、すき焼きの鍋に群がり行儀良く座った。

このタイミング、間がよすぎる。まさか計算してやっているのか?

 

「君もどうだ」

 

入須は千反田にへばり付いている千尋という子にも勧めた。 探しているのがその子の実兄なので、簡単には持ち場を離れたがらない。 入須は珍しく人なつこい笑みを浮かべる。

 

「そこのお兄ちゃんに頼んでおけば心配いらない。 私も千反田のおねえちゃんも、何度となく助けてもらった。 だから安心して、こっちにきて一緒に食べよう」

 

女の子は、すこしの間考えてから千反田の顔をのぞきこんだ。 大きな瞳を輝かせて千反田は大きく頷いてあげた。 安堵の表情を浮かべ、女の子はすき焼きを待つ輪のなかに合流する。 

その子がすき焼き鍋の前で大きく深呼吸するのを見て、空かさず千反田に確認した。

 

「あの池の深さは?」

 

「折木さん・・・・・・」

 

千反田は俺の意図するところを察してくれたようだ。

 

「可能性の一つとして聞いているだけだ」

 

「最深部でも80㎝はありません。背の高い子だから大丈夫ですよ」

 

「あの離れ屋も、当然調べたんだな」

 

「もちろんです。他の部屋と一緒で可能性の有るところは全て。 押し入れの中から、物置の中まで」

 

俺は最後の可能性を想定して千反田にあることを依頼する。

入須は、隣で手早く片手で卵を割りながら子供達に小鉢を廻していた。

 

「入須先輩に協力して子供達をここから動かさないでくれ。 おまえ懐中電灯は持っているか?」

 

「このペンライトでよければ」

 

「LEDか」

 

数秒、試しに点けて光量を確認してから直ぐに消す。 大丈夫そうだ。 あともう一つ。

 

「丈夫なロープは借りれるか? 長ければ長い方がいい」

 

「納屋にあります。 誰かに言って取ってきてもらいましょう」

 

「それから俺の着替えも一緒に頼む。 この恰好じゃ真朋な作業ができない」

 

千反田はすこし躊躇ったが、切迫した俺の表情を見てすぐに手配してくれた。

 

「俺がペンライトを三回振って合図する。 そうしたら目立たないように大人を三人ほど連れてきてくれ。 出来れば素面の人がいい。 もし俺が30分経って戻らない時も、同じように呼んできてくれ」

 

隣ですき焼きを待ってた子供達から歓声があがる。 入須が作ったすき焼きは好評のようだ。

 

「じゃぁちょっと行ってくる」

 

「折木さん、私どこで合図を待っていればいいんですか?」

 

おっと、まだ言っていなかったか。

 

「ここでいいよ」

 

「えっ、ここでですか? 折木さん、また説明を省かないで下さい。 いまから何処を探しに行くんですか?」

 

俺は大広間から見て篝火に浮かび上がっている、あの離れ屋を指さした。

 

「今日、最後の肉体労働がまっている・・・・・・」

 

「ご苦労様です。 いってらしゃいませ」

 

入須冬美が厳かに送り出してくれたのが可笑しかった。

 

**********************************************************************

 

30分後、俺はかび臭い縦穴の底で、泣きべそをかいている男の子を抱きかかえながら、助けが来るのを待ち続けていた。

 

「二人とも蜘蛛の巣と埃まみれで真っ黒くろすけだな」

 

がらにもなく、怯えている男の子に声をかける。 だまって男の子は頷いてくれた。

俺の体力じゃ、この子を抱えてロープ一本で縦穴10mをよじ登るのは無理だ。 穴の底は直径3mもあろうか。 底には横穴が続いており、新鮮な空気が流れ込んでいる。 たまに髪がふわっと動くくらの風力がくる。

もう一度来る機会があったら、探検してみたいものだ。 

出来れば手短に、ささっと。

しかし、あそこから落ちて足を挫いたぐらいで済んだのは運が良かった。 底に柔らかい土を敷き詰めていたからだ。偶然か、人為的かは判らない。

振り仰ぐと離れ屋の脱衣場の天井が小さく見えている。 俺が夕方に汗を流した風呂場の脱衣場の天井だった。

そこへドカドカと床を踏みならしながら近付いてくる足音が聞こえてきた。

 

「やっと助けがきたぞ、よかったなボウズ」

 

「ボウズじゃないやい!」

 

「元気が出てきたな、俺は折木奉太郎だ」

 

「オレ、城島賢治。よろしくな」

 

LEDライトの照らされた男の子は、初めて笑顔をみせてくれた。

 

「折木さん!!」

 

「折木くん!」

 

千反田と入須の声が同時に響いた。

 

「ふたりとも無事だ」

 

「にいにい!」

 

「チヒロ!」

 

「けんじっ!」

 

「とうさん!」

 

また男の子はべそをかきだした。

 

************************************************************************

 

最初にけんじ君が、その後俺が、三人がかりで縦穴から釣り上げられ助け出された。

けんじ君と家族は捻挫した足の治療するため、急いで離れを出て行った。 男衆もこの救出劇に興奮醒めやらぬ状態であとに続いた。 

離れに残ったのは千反田と入須と俺だけになった。 

夕方の日光の色に似た、淡い温白色の電灯が凄く眩く感じる。 俺は片手で光を遮りながら脱衣場の床に腰をおろした。 今日はまじで、きつかったな。

 

「ふふふ、折木さん、酷い恰好です・・・・・・ でもよかった。 けんじ君の怪我も大したことなくて・・・・・・」

 

何故か千反田は涙ぐんでいた。 いちいち大袈裟なやつだな。

 

「こんな処に、こんな大穴が開いていたなんて、家の誰も知りませんでした。 

――何の為に作ったのか、わたし気になります!!」

 

くはっ! この状況で発動するとは思わなかった。 後ろが壁で逃げようがない。

もう千反田の鼻先が俺と触れ合うくらいまで接近していた。

 

「える、近すぎる」

 

珍しい。入須が助け船をだしてくれた。

 

「わたし気にしません!」

 

おいっ!

ぴくっと入須の眉が動いたように見えた。

 

「える、いいものを見せてやろう」

 

そう言った入須は和服の胸元から例のスマホを取り出した。 まて、何をするきだ。

その表情、いやーな予感が―― まずい、話をそらそう。

 

「この大穴はな、天然の除湿器だと思う」

 

「えっ?」

 

「千反田、木材の弱点はなんだと思う?」

 

「火と水だな」

 

かわりに入須が答えてくれた。

 

「そうです入須先輩。 もっと言うなら長期の耐久性を考えたら、湿気が一番の大敵です。 

でも本来、木材は丈夫で長持ちする素材なんですよ」

 

「法隆寺の木材は1300年経っても強度が落ちていないと聞いたことがあります」

 

千反田が一例をあげて同意する。

 

「つまり地震や風力に対する構造的な配慮と、雨水や湿気に対する劣化対策をきちんと行い、正しく維持管理していけば、一般の木造住宅でも100年や200年は持つと言われてます」

 

入須は黙って聞いている。相変わらず表情の変化に乏しい。

 

「ところが最初にこの離れ屋を見たとき不思議に思ったんだ」

 

「というと?」

 

どうやら入須は、まだ興味があるらしい。

 

「じつはこの湿気対策は今も昔もそう変わっていない。 高床式という昔の工法がありますよね。 現在でも床下換気により通風を良くして湿気を防ぎ、土台の木材には防蟻処理をすることで耐久性を高めています」

 

「折木さんが、どうして不思議に感じたか判りました。 この離れ屋の足下は石垣作りになっています。 これじゃ通気性が悪いですよね」

 

「そうなんだ。 なのに千反田はこの離れが池の上に建っているにも係わらず、150年も建替えせずに保っている言う」

 

「だから、通気できる別のルートがあると考えたのか」

 

「千反田家祖先の創意工夫ですね。 おそらく近くの風通しのいい場所に、吸気口の役目をする建屋があると思います」

 

入須はようやく得心したように頷いた。

 

「俺も最初は確信できませんでした。 でも風呂を借りて、脱衣場で涼んでいるとき、かすかな空気の動きを感じた。 しかしガラス窓は全部閉まっている。 面白いことに空気の流れは下から吹き上がっている」

 

「そういう事だったんですね」

 

千反田は感慨にひたりながら納得したようだ。

 

「千反田は離れの風呂場もトイレも押し入れも全て探したって言ってたけど、一つだけ見落としていたところがあった」

 

「えっ!? それ何処の事ですか?」

 

「足ふきマットの裏側だ」

 

「はい?」

 

素っ頓狂な声があがった。

 

「風呂やトイレの下水処理設備をメンテナンスする入口が、足ふきマットの下に隠れていたんだ。 あの男の子は、その入口から床下へ侵入して、作業用の腐った渡し板を踏み抜いて縦穴へ落ちた」

 

千反田は唖然として、俺の座っている横の床に塡め込まれた、四角いトビラを改めて見ていた。

 

「気に病むな。 そのメンテナンス穴が出来たのは最近なんだろ。 つまりお前がかくれんぼを卒業した後にできた穴だ。 気付かなくても無理はない」

 

黙って聞いていた入須が口を開いた。

 

「折木くん、やはりあなたは本物よ」

 

「入須先輩、おもしろいジョークですね。 今回も運が良かっただけですから。 おっと冷えたか。千反田ちょっとトイレに行ってくる」

 

「あっはい、折木さん、ありがとうございました!」

 

我に返った千反田の声にほっとしながら、離れ屋の外にでた。

秋の夜空には満月が輝き、地には鈴虫の鳴き声がしていた。

 

***********************************************************************

 

俺は今も賑やかに盛り上がる大広間を通り過ぎ、トイレの方には曲がらず、玄関まで続く長い廊下を歩いている。

玄関に着くと、さっき用意してくれた俺のディバックを背負い静かに外にでた。 正面の門の両脇には篝火が焚かれ、門の近くは近隣の人達の自転車や単車が所狭しと駐輪されていた。

昼間と同じように千反田邸の白壁を西に進み裏口から入ると、宴会場の笑い声が聞こえてくる。 自転車は、もと有った位置に置かれていた。

そっと自転車にまたがり、こぎ出そうとした瞬間、暗闇から声をかけられギョッとした。

 

「折木くん、なぜ逃げ帰る?」

 

声を辿って振り返ると入須冬実が縁側に腰掛けていた。 しかし月明りの影で表情が判らない。

 

「ちょっと急用を思い出して。 皆さんには宜しくお伝えください」

 

かまわず適当な嘘を言った。

 

「違うな。 君はこの宴会の本当の意味に気付いている。 だから逃げ出した」

 

さすが入須。 図星を指しながら近付いてきたが、上半身は影のなかなので表情が判らないままだ。

 

「言い当ててあげようか。 今日の宴会の本意は、折木奉太郎という人間の品評会だ」

 

俺は『女帝』の説を黙って聞いていた。 お互い影の中で表情がわからないまま対峙している。

 

「君の情報は、える本人や私、遠垣内や十文字の家から、千反田家の一族に伝わっている」

 

「どうせろくでもない内容でしょうけどね」

 

「そう思っているのは本人だけだな。 でも、もう手遅れだぞ」

 

それは死刑宣告のように聞こえた。

 

「なにがですか」

 

「教えてほしければ耳をかせ」

 

入須は自転車にまたがった俺の横に立ち、耳元に口を近づけてきた。 

彼女の吐息が俺の耳をくすぐる。

 

突然彼女は両手で俺の顔を持ち、しっとりと濡れた柔らかい唇で俺の唇をふさいだ。

 

数秒なのか数分だったのか、時間を知覚できなかった。

 

我に返って後悔した。 油断していた・・・・・・

 

慌てて入須の手を振り解く。

 

雲に隠れていた月が顔をだし、月光が入須冬実の上から降りそそぐ。

 

月影が今まで一度も見た事がない入須の表情を―― 恥じ入って頬を染める乙女の相好を浮かびあがらせた。

 

俺は無我夢中で自転車のペダルを思いっきり踏み込んだ。 

 

千反田の顔が一瞬浮かんで消えた。

 

手の甲で何度も唇を拭いながら、俺は猛然と自宅への帰路をいそいでいた。

 

 

 

【続く】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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