風花雪月場面切抜短編 (飛天無縫)
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進路相談、その道を征く覚悟

BGMに『フレスベルグの少女』を流しながらどうぞ。


 初めて見る顔だった。彼のあんな表情は。

 

「エーデルガルトおおおおお!!!」

 

 天帝の剣を振るい、一直線にこちらに向かってくる。

 私達の学級の新任教師。私の(せんせい)──だった人。

 

 聖墓の中、敵味方入り乱れる戦場を同級のカスパルが抉じ開け、ベルナデッタの弓が障害を倒す。近くにいるはずのヒューベルトはリンハルトの魔法を抑えることに手を取られて私の守りには来れない。

 見事な連携。彼が育てた黒鷲の学級(アドラークラッセ)の力が遺憾なく発揮されれば、帝国の軍ですら敵わないのか。

 

 きっとそう、他ならぬ師が育てたのだから。みんな本当に強くなった。

 私も育てられたのだ。この一年の間で自分でも驚くほどの成長を実感した。

 もっと彼の下にいたい。そんな気持ちさえ生まれたくらい、師と一緒にいたかった。

 

 ──いつまでも拘るな

 ──もう敵になったのだから

 ──未練がましく師などと呼ぶな

 

 飛び掛かってくる彼を視界の中央に捉える。剣が振り上げられ、私に向かって落ちてくる。

 

 斧を握る手に力を籠める。

 迷うな。

 臆するな。

 私は、負けるわけにはいかないのよ!

 

「ベレトおおおおお!!!」

 

 振り上げた私の斧と、振り下ろされた彼の剣が真っ向からぶつかる。

 戦場に響く甲高い音が、私達の決定的な決裂の証に思えた。

 

 至近距離で見る彼の顔は、やはり見たことない表情。日頃はもちろん、戦場でもこんなに激する彼を知らない。無感情かと見紛うほどに薄い表情しかしない彼がこうも感情を乱したのは、父ジェラルトと死別した時、そしてその仇を討つために戦った時くらいか。

 

 私がさせているのか。

 こんな怒りとも、悲しみともつかない、苦しそうな顔を、私が?

 それもいいでしょう。最後に貴方に刻めるものがあるのなら、それも悪くないわ。

 

 この人を相手に出し惜しみする余裕はない。忌まわしい紋章の力も含めて、使える物は全て使わなければ勝てない。最大の障害となる彼を越えなければ勝利はないのだから。

 斧と剣の競り合いに持ち込む。素の力に紋章による増幅を加えれば、膂力は私の方が上。押し込んで一気に主導権を握るために仕掛けようとした時、堪え切れないという風に彼が口を開いた。

 

「それが、君の道なのか!」

「!?」

 

 何を……何を言うの?

 

「これが、君のやりたいことなのか!」

 

 今この場で口にすることじゃないでしょう?

 

「この道を進んで、後悔はないのか!?」

 

 今さらそんなこと聞かれてもどう答えればいいの?

 

 だって私には他に道はなかった。選びようがなかったもの。あの闇の中で積み重ねられた憎悪は消えることなく私の心に刻み込まれた。ずっと聞こえるの、止まるな、許すな、って。腕を押さえる枷の感触を忘れたことは一日だってなかった。私の体を弄り回したあいつらの声はすぐにでも思い出せる。あの時の誓いを、私は絶対に忘れない。この思いが胸にある限り、私に他の道は意味を為さないの。学校に通ったのも表面上は大人しく学生をやっているように見せるだけのごっこ遊びでしかなくて。たしかに温かさは感じた。ずっとこの時が続けばいいのにと思ったりもした。でも無理なのよ。振り払おうとしても離れてくれなくて、耳を澄まさなくても聞こえてくるのは──

 

 

 

『エーデルガルト』

 

 

 

 ──師の声。

 

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!

 

「黙れえええ!!!」

「っ……!」

「私は歩き出した! もう止まれないの! もう戻れない! もう、あなたと、いっしょにはいられないのよ!」

 

 斧を振るう。無我夢中だった。何も考えられない、考えたくない!

 体が自然に動くままに戦う。意識するより先に彼が教えてくれた技が勝手に繰り出される。

 

「このためだけに力を注いできた! 何年もかけて準備してきた! 私にとって、ここから始まる戦いこそが全て! 我が覇道の前に立ち塞がる者は、誰であろうと容赦しない!」

 

 例え貴方であっても──咆哮と共に振り下ろした斧は紙一重でかわされて聖墓の床石を砕いた。

 

 動きを止めてはいけない。全力の一撃で私の体は流れてしまっている。この隙を見逃すような彼ではない。こんな時は大きく動いた勢いを殺さず、とにかく先に足を置いて踏み締めるのが大事だと彼が教えてくれた。

 ほら、ちゃんと間に合った。彼の剣を余裕を持って防げた。そのまま柄から滑らせて剣を流し、逆にこちらから踏み込んで腹部を肘で打つ。武器を持ったままでもできる格闘術は学級の全員が教わったの。

 もちろん受け止められる。でもそこからさらに踏み込んで、仰々しい鎧の肩当をぶつければ気勢を削げられる。格上と戦う時はどんな些細なやり方でもいいから主導権を奪えと教わったのを覚えてる。

 当てる瞬間、嫌な予感に身を捩ったと同時に彼の膝蹴りが飛んできた。鳩尾に食らえば鎧越しでも一溜りもない。脇腹に刺さる膝に押されて距離が開くと、詰まりそうな息を無理やり吐く。ダメージを敵に見せるな。そんな弱さは教わっていない。

 

 だめだ……何をしても、何を見ても、何を考えても、いつも彼が脳裏に浮かぶ。

 刻み込まれたのは私の方。憎悪よりもっと奥、私の一番深いところに。

 ずっと寄り添っているかのように。

 

 

 

『斧か……あんなに速く動けるなんて、すごいな』

 

 

 

 ──やめろ

 

 

 

『また会ったな』

 

『改めて、俺はベレト。これからは君達の担任だ』

 

 

 

 ──やめろやめろやめろ

 

 

 

『それだけ力がある君は戦闘力は問題ない』

 

『差し当たって身に付けるべきは戦術よりも戦略、広い視点の考え方かな』

 

 

 

 ──もうやめてこれ以上は

 

 

 

『エーデルガルトは頭が良いな、理解が早い』

 

『視点を切り替えて考えるのって難しいはずなんだけど』

 

『俺が父さんから教わった時は苦労したよ』

 

 

 

 ──受け止められない

 

 

 

『女の身で斧を使うのって珍しいよな』

 

『じゃあ一つ、斧の柄を握る位置をあえてずらして振ってみろ』

 

『普通の振り方と同じでも動きのリズムが変わって相手の虚を突けるんだ』

 

 

 

 ──思い出で胸が詰まって

 

 

 

『いいぞエーデルガルト、その動きだ』

 

『その感覚を忘れるな、今君が掴んだものは大切な力になる』

 

『黒鷲の学級の勝ちだ、おめでとう』

 

 

 

 ──止まってしまう

 

 

 

『ああ、これか? 初めての給料で茶葉を買ってみたんだ』

 

『エーデルガルト達貴族と話していくなら、俺も茶のことを覚えないと』

 

『教えてくれるのか? ありがとう、助かるよ』

 

 

 

 ──私がずっと欲しかったものを

 

 

 

『いつも朝早くから来て、エーデルガルトはえらいな』

 

『級長だとしてもえらいよ』

 

『当たり前だと思ってても他人には難しいことだってある、自信を持っていい』

 

 

 

 ──こんなにもくれる貴方に

 

 

 

『その紋章……君も俺と同じ模様を?』

 

『俺にエーデルガルトの気持ちが分かるとは言えないけど』

 

『話してくれてありがとう。それだけは言っておくよ』

 

 

 

 ──私は何も返せないのに

 

 

 

『エーデルガルトか。いや、食堂が閉まってて何も食べられなくてさ』

 

『小テストの内容を考えてたらこんな時間になってて』

 

『いいのか、このお菓子もらって? 助かるよ、何かお礼するから』

 

『あ、明日テストあることはみんなには内緒な』

 

 

 

 ──もっと欲しくなってしまうじゃない

 

 

 

『エーデルガルト、約束通りお礼しに来た』

 

『昨日言っただろ、助かったからお礼するって』

 

『たしかにここは教室だけど、それがどうかしたか?』

 

『……なんでみんな集まってるんだ?』

 

 

 

 ──ねえ、師

 

 

 

『ああ、エーデルガルトか……』

 

『父さんが、まさか死ぬなんて……』

 

『傭兵だった時から覚悟してたつもりだったけど、いざそうなると、な』

 

『君の言う通りだ。俺がするべきことを忘れちゃいけない』

 

『ありがとうエーデルガルト。君にはいつも助けられる』

 

 

 

 ──私が

 

 

 

『髪と目の色が変わっても自分では分からないな』

 

『だって自分では見えないし、変わった感覚もないし』

 

『目が強張ってるぞ。どうしたんだ?』

 

『どんな理由でも、力を手に入れたなら上手く使いこなしたい』

 

『エーデルガルトも頼ってくれていいんだからな』

 

 

 

 ──私と

 

 

 

『さっきの演習でカスパルにいい一撃を入れてたな、あれはよかった』

 

『ドロテアから茶の淹れ方を教わったんだ、君に振舞いたいけど今から時間あるかな』

 

『大丈夫か、フェルディナントと喧嘩していたようだけど……』

 

『すまない、リンハルトを見かけなかったか? 今日の昼寝は書庫じゃないみたいなんだ』

 

『この後はペトラと組んで騎乗練習だよな。張り切ってるから教えてあげてくれ』

 

『戻るついでにベルナデッタにこれを渡してくれないか? 俺ではあの子の部屋に入れないから』

 

『君と話す時によくヒューベルトが俺の死角に入るけど、あれは気にしない方がいいのか?』

 

 

 

 ──私を

 

 

 

『流石だな、エーデルガルト』

 

『エーデルガルトは俺をよく見てるんだな』

 

『エーデルガルトの担任として俺も頑張るよ』

 

『エーデルガルトならこれを選ぶと思った』

 

『俺もエーデルガルトに負けてられないな』

 

『エーデルガルト、ちょっといいか』

 

『やっぱりエーデルガルトはすごいよ』

 

『エーデルガルトと』

 

『エーデルガルトは』

 

『エーデルガルト』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たすけて……せん、せい……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、もちろんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼が

 

 

 

 

 

 

 笑った気がした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、私は倒れていた。

 何があったのか覚えていない。戦いの最中だというのに意識が飛んでいたのか。

 

 うつ伏せに倒れる私の前に彼が立っている。息は荒く、お互いの呼吸音が静かな空間に響いているのが分かる。

 静かな? 戦場だった聖墓が静けさを取り戻している?

 そう……私だけじゃない、帝国軍が負けたのね。士官学校の学級に正規の軍が敗北したとあっては、負けるべくして負けたということかしら。

 

「結局……私は、貴方に勝てないままなのね……」

 

 思えば授業で模擬戦をする時も、私は一度も彼に勝てなかった。生徒相手だからと手加減する彼に何度挑んでも負けてばかりで。

 確かに傭兵として生きてきた彼と実力差はあって当然だけど、どうして一本も取れなかったのだろう。

 遊びでしかない学校生活だったけど、訓練は真面目にやってきたつもりなのに。

 

「初めて会った時……」

 

 ポツリと、彼が口を開く。

 

「君が斧を振る姿が凄かったから、ずっと考えていたんだ」

 

 どういうこと?

 

「どうすれば斧を上手く使えるか、敵になった時にどう戦えばいいか、君の姿を想像していつも頭の中で考えていたから……そのおかげだと思う」

 

 ……何よそれ。

 

 以前ドロテアから聞いたことがある。歌劇や物語で定番の場面の一つとして、男性が女性に向けて「君のことを考えていた」と告げる展開は王道なのだと。

 まるでその場面の再現みたいな言葉なのに、内容のせいでこれほどまで色気のないやり取りになってしまうなんて。

 

 それでも、彼が私のことをいつも考えていてくれたという事実だけで、こんなにも嬉しく思ってしまう私がいる。

 覇道の第一歩として挑んだ戦いに負けて、今まさに命を失おうとしている局面なのに、どうしてこんな気持ちになるのかしら。

 

 何かを言いたくなった。返事をしなければと思った。

 ズキズキと痛む体を何とか起こして彼を見上げると……近付いてくる一人の女が見える。

 

「よくやりましたね。流石です、ベレト」

 

 大司教レア。セイロス教団の要にして……私の最大の敵。

 まるで彼にすり寄るように、侍るように近くに立つその姿に苛立つ。

 

 ──やめろ、その目をやめなさい、そんな目で彼を見るな!

 ──そんな浅ましい目で、私の師を見るんじゃない!

 

 ああ、まただ。

 この期に及んで未練がましい。

 何が私の師だ。そんなこと言える資格なんか私にはもうないのに。

 

 睨む私をレアが見下ろしてくる。一瞬前とは別人のように冷たい表情。普段の慈悲深い聖女としての顔はなく、私を見る目には敵と言うより害虫を眺めるような嫌悪があった。

 

「残念ですよ、エーデルガルト。フレスベルグの末裔である貴女が聖教会を裏切るとは……」

 

 抜け抜けと……! 裏切るも何も、先に教団が……神を騙る貴女達がやってきたことのせいで、私が何をされてきたか知りもしないで!

 お前達のような者がいるから、フォドラは理不尽に痛みを押し付けられる人が生まれるのよ!

 

 それでも敗北した私には何も言う権利はない。

 

「ベレト、エーデルガルトを斬りなさい。今すぐに」

 

 それが私の末路。

 

「この者はフォドラの災厄。主は、この叛徒が生き続けることを決して許しません」

 

 ここまで、ね……無念だわ。

 

 ごめんなさいヒューベルト。私の道はここで終わりよ。

 あんなに準備してきたのに、これからようやく始められるはずだったのに、先に逝くわ。

 

 でも、最期に引導を渡してくれるのが彼なら、幾らか悪くない終わりかもしれない。

 レアの前だというところは癪だけれど、彼の手で殺されるのなら少しは──

 

「主とやらじゃなくて、あんたが気に入らないだけだろ」

 

 ──え?

 

「勘違いしないでくれ。俺は雇われてるだけであんたの手先になった覚えはない」

 

 そう言い放ち、彼はこちらに近付いてくる。

 私のすぐ前で振り返って、まるで私を守るかのようにレアと向かい合って。

 

「あ……貴方は、何を……!?」

 

 困惑したレアの声が聞こえるけど気にならない。見上げた視界いっぱいに映る彼の姿が意識を占める。

 

 

 

 

 

 その時見た光景を、私は一生忘れない。

 

 彼の背中を。

 彼の言葉を。

 彼の──

 

 

 

 

 

「俺はエーデルガルトの先生だ」

 

「先生とは、生徒を守り、教え、時に諭し、手を差し出すことが役目だ」

 

「その俺に彼女を斬れと言うのなら……あんたが俺の敵だ」

 

「俺がするべきなのはエーデルガルトを守ること。それが俺の道だ」

 

 

 

 

 

 ──師の道を。

 

 

 

 

 




 あの戦闘と直後の選択場面での脳内イメージを表現したものがこちらになります。
 風花雪月にハマりそうです。スイッチ持ってないけど他人のプレイ動画見ただけで衝動が抑え切れず書いてしまいました。内容もよく分かってないのに書いたので、ゲームと違うところがあっても許してください。
 とりあえずパソコンの辞書ツールに師と書いてせんせいと読むよう登録しました。


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対抗戦、やり過ぎた始まり

 最初に言います。こんなに長くするつもりはなかった、すまん。


 今年の対抗戦は快晴の下、多くの生徒や教会関係者が見守る中執り行われようとしていた。

 

「選手入場! 青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)より、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド!」

 

 審判として呼ばれたジェラルトの力強い声が響き、名を呼ばれたディミトリが最初に戦場となる平野へ立ち入った。同級の生徒達からの応援の声に手を振って応えながら指定の位置まで小走りに駆けていく。

 彼に続くように青獅子の学級の生徒の名前が呼ばれ、順番に姿を現す。

 

「ドゥドゥー=モリナロ! アッシュ=デュラン! メルセデス=フォン=マルトリッツ!」

 

 普段と変わらず寡黙そのものの顔付きのドゥドゥー。

 仄かな緊張を滲ませつつ会釈して入場するアッシュ。

 にこにこ顔で優雅に一礼してから続くメルセデス。

 青獅子の学級から対抗戦に参加するのはこの四人の生徒と、

 

「担任、ハンネマン=フォン=エッサー!」

 

 学級担任を務めるハンネマンである。今日も口ひげが決まっております。

 

 五人は開始位置として指示された平野の北東にある陣地を目指し、速足で向かう。気分は程よく高揚しており、全員の士気は高い。それでいて雑談する平常心もあった。

 

「良い日和だ。視界は良好、障害物も少なく、地力が表れやすい。俺達にとって比較的有利な条件で戦えるな。存分に戦おうみんな」

「殿下が思う存分に戦ったら綺麗な平地が穴ぼこだらけになっちゃいそうですね」

 

 気合も露わに張り切るディミトリに対して、一歩間違えれば不敬に取られかねないことを笑いながら言うアッシュ。

 だがこの程度で腹を立てるような者はこの場にはいない。言われたディミトリも含めて全員が和やかに笑うくらい、青獅子の学級では王子の怪力を素にしたジョークは定番だった。

 ちなみに怪力自体はジョークでもなんでもなく真実である。ゴリラとか考えた人、黙ってなさい。

 

金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)より、クロード=フォン=リーガン!」

 

 続いて呼ばれて姿を現すのは金鹿の学級の代表メンバー。

 先頭のクロードは歯を光らせるにこやかな笑みをたたえ、場にそぐわない陽気さで入場を果たした。

 

「ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル! ローレンツ=ヘルマン=グロスタール! イグナーツ=ヴィクター!」

 

 ヒルダはある意味クロード以上に陽気な様子で、スキップしながらの登場。

 そんな彼女をせっつきながら堂々とした態度でローレンツが現れる。

 その後ろから級友達がいる方に向けてペコペコと頭を下げるイグナーツが続いた。

 

「担任、マヌエラ=カザグランダ!」

 

 そして担任教師であるマヌエラが現れる。彼女も声援に投げキッスで応えるあたり余裕そうだ。

 

 金鹿の学級が指示された陣地は平野の北西。そこへ向かう道すがら、ふと眉を顰めるクロードを見てヒルダが尋ねる。

 

「どうしたのクロード君、何か気になるものあった?」

「気になると言うか……なんか黒鷲の学級(アドラークラッセ)のところが妙に静かだと思ってさ。ほら、あそこ」

 

 クロードが指差した平野が見渡せる坂の上、出場しない生徒達が見学するために待機する場所で、そこに固まる黒鷲の学級の面々が不思議と大人しい。入場に合わせて拍手したり声援を送ったりする他の学級と比べて明らかに元気がない。

 見た印象が間違っていなければ、あれはむしろ沈痛とでも言うべきか……?

 

 とは言え気になるだけで今さら聞きに行くわけにもいかず、遅れかけたところをマヌエラに呼ばれてヒルダは慌てて陣地に向かうのだった。

 

「黒鷲の学級より、エーデルガルト=フォン=フレスベルグ!」

 

 最後に呼ばれたのは黒鷲の学級の代表メンバー。先頭に立つエーデルガルトだが、その姿を見て彼女を知る者達は不思議に思う。

 普段の自信を滲ませる優雅な笑みがない。しかし悲壮感は微塵もなく、絶勝の決意をもってこの場に臨んでいると感じられる気迫に満ちていた。

 

「ヒューベルト=フォン=ベストラ! フェルディナント=フォン=エーギル!」

 

 続く二人も似たようなもので、ヒューベルトはその鋭い目つきをいつも以上に険しくして、フェルディナントは日頃の快活な笑みを納めて張り詰めた表情で前を見据えている。

 

 他の学級と比べて緊張し過ぎではないだろうか? そんな風に考える者も多い中、ジェラルトの声が響き──

 

「ベルナデッタ=フォン=ヴァーリ!」

 

 ──その名が呼ばれ、姿を現した少女を見て、誰もが驚愕した。

 青褪めた顔。縮こまった肩。曲がった背。おっかなびっくりを通り越して千鳥足の歩き方。緊張の極致にいるのが丸分かりのその様子は、彼女が望んでここにいるわけではないと万人が察せられるものだった。

 

 はあ!?嘘だろ!?おいおい夢だろこんなの!え誰。見たことないんだけどあんな子いた?引き籠りだよ。貴族のくせにほとんど授業に出ないやつ。そんなのがいるのこの学校?いるんだわこれが。通称穴熊。待って今にも吐きそうなんですけどあの子!助けてやれよ!というかあんなん対抗戦に出すの?何考えてんだよあそこの教師!黒鷲の学級は勝負を捨てたか!?

 

 散々な言われようだが反論する者はいない。見学位置にいる黒鷲の学級の生徒ですらフォローすることなく、不安気に見守るのみだった。

 

「担任、ベレト=アイスナー!」

 

 最後に担任であるベレトの名が呼ばれる。ただでさえ注目の的である新任教師は、今では興味に加えて少なくない戦慄の視線を向けられていた。

 

 先を歩くベルナデッタに追いついてその背中を軽く叩くと「ぴぃ!!」と悲鳴を上げられ、飛び上がる彼女を宥めると手を繋いで走り出す。

 その顔は他の四人と違い普段通りの無表情。空気を読んでいないのかわざとやっているのか、憎らしいほどの平常運転で四人と連れ立ち、指示された陣地がある平野の南へ向かっていった。

 

 その後ろ姿を見やり、物見櫓に立つジェラルトは目を細める。自分の息子とその担当学級の最初の晴れ舞台。それを特等席で見れる審判を任されたのは幸運なのだろう。

 

「さて、ベレトのやつ……今回はどんな愉快な作戦立てやがった?」

 

 彼の力を誰よりも知る身として、ジェラルトは楽しみで仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 時は少しばかり遡る。

 場所はガルグ=マク大修道院内、黒鷲の学級の教室。戦いを三時間後に控えたミーティングの場にて。

 

 学級対抗の模擬戦──多くの者が縮めて対抗戦と呼ぶ──とは、年度初めに三つの学級から選出された代表が修道院近くの平野で三つ巴の合戦を行う、学校行事の中で最初の催しである。

 

 代表選手となるのは各学級から五人ずつ。

 一人は担任教師。

 一人は級長。

 この二人は枠が確定していてそれ以外に三人。

 

 勝利条件は他学級の生徒を一人残らず敗走させること。

 自学級に一人でも残っていれば敗北にはならないこと。

 審判が相応のダメージを認めて脱落を宣言した生徒は死亡扱いとされ、それ以上の行動は認められないこと。

 

 数は少なくとも、行われるのは合戦。作戦を立て、生徒の力を存分に発揮して勝利を目指すそれは、規模こそ小さくとも紛れもなく戦争。

 

 さすがに人命を損なうような行為は厳禁とされるが、それくらいの気迫をもって臨むべき行事である。

 

 以上の解説を教壇に立つベレトがしているのだが、なんのことはない、数日前にセテスから聞いたことのほぼ受け売りだ。生徒達と認識の齟齬がないか確認するためでもある。

 

「なんか聞いた話より少ないな」

「代表の数が?」

「ああ、親父がやった時は八人だったって。年によって変えてるのか」

「どっちでもいいよ、選ばれなければ同じこと」

「そうか? 選ばれなくても応援しようぜ」

「カスパルはすればいいよ。こんなに良い天気なんだから僕は昼寝したい……」

 

 眠たげなリンハルトはさて置き、生徒達の間に漂う空気も緊張を帯びている。

 

 公平を期するために代表となる生徒が誰になるか事前に知らされておらず、ここで発表と作戦会議を行って、正午の鐘を合図にして対抗戦は始められる。限られた時間を使ってどこまで準備できるか、というのも戦いの内なのだ。

 

「それじゃあ対抗戦に出すメンバーを発表する。呼ばれた生徒は前に出てきて」

 

 教室を見渡すベレトに対して、我こそはと顔を向ける者、どうせ自分は選ばれないだろうから応援しようと気楽に見上げる者、すんません勘弁してくださいと目を背ける者、様々な思惑が向けられる中、黒鷲の学級の代表メンバー発表の時間が来た。

 

「一人目はエーデルガルト」

 

 最初に挙がった名は級長であるエーデルガルトのもの。颯爽と教室前方のスペースに向かう、かと思われたが彼女はまず疑問を口にした。

 

(せんせい)?」

「なんだ?」

「私は黒鷲の学級の級長だから、対抗戦に出ることは決まっているのだけれど」

 

 そう。先ほどの説明にもあったように、各学級から選ばれる五人の中には級長の枠が確定されている。エーデルガルトが出るのは必然では……と同じように考えていた生徒達に向かって、ベレトはあっけらかんと言う。

 

「エーデルガルトより相応しい子がいれば級長を変わって出てもらおうと思ったけど、その必要がないからそのまま出てもらう」

 

 ──教室から音が消えた。

 

「……先生、級長を変えるにしても、そんな急に変えられるものではありませんよ」

「そうなのか?」

 

 固まる一同の中、ヒューベルトが入れた捕捉を聞いて、それは知らなかったなと暢気に独り言ちるベレトだが、エーデルガルトは何も反応できずにいた。

 ベレトの爆弾発言によってこの教室の中で最も衝撃を受けた生徒は間違いなくエーデルガルトである。

 

(まさかこの私が……立場に甘んじていただなんて!)

 

 級長は対抗戦に必ず出る。だが級長がエーデルガルトである必要はない。

 たしかに彼女はフレスベルグの名を継ぐ者であり、次期皇帝として帝国屈指の要人ではあるが、その成績や能力、生活態度など現時点での在り様が士官学校の級長として相応しいからこそ今のポジションに就いているに過ぎない。

 

 出自、階級、性別などに関係なく、より相応しい能力を持つ者に役目を任せる。

 対抗戦に級長の枠が確定しているなら、その戦いに相応しい者に枠を任せる。

 勝利を目指すなら、それこそが正当な判断ではないか。

 

 だと言うのに、自分は何を考えていた? 級長だから出ることは決まっている?

 愚かな。そんな考え方、貴族だというだけで平民から敬われて当たり前、紋章を持つ者こそ取り立てられて然るべき、そういった思考停止と何が違う。

 肩書きに胡坐をかく──それは彼女が目指す未来を思えば、怠慢以外の何物でもない。よりにもよってそんな愚行を自らが犯していたのか。

 

「……師、ありがとう」

「?」

 

 唐突に礼を口にしたエーデルガルトに首を傾げるベレトだが、意味が通じなくてもいい。

 気付かせてくれたことへの感謝を。気付けたからには改めてみせるという決意を。そして、級長や皇女という立場ではなく純粋に能力を評価した上で自身を選んでくれたことへの誇りを込めて。

 エーデルガルトは力強い笑みを浮かべて前へ出た。

 

 それにしても、皇族に向けて気負うことなく現実的な意見をぶつけられる、その稀有な素養も魅力的だ。やはり彼のような人間は帝国に招きたい……

 

 教壇近くのスペースに立ってベレトを見上げながら思案するエーデルガルトを他所に、続けて代表の名前が呼ばれる。

 

「二人目はヒューベルト」

「私ですか……エーデルガルト様のためにも力を尽くしましょう」

 

 次いで選ばれたのはヒューベルト。エーデルガルトの従者であり、闇魔法の使い手として優秀な成績を修める青年だ。

 エーデルガルトと共に参戦すると知り、静かに気を引き締める。顔怖い。

 

「三人目はフェルディナント」

「よくぞ私を選んでくれた! 必ずや先生の期待に応えてみせよう!」

 

 次に呼ばれたのはフェルディナント。常に貴族たれと己を律し、級長に次ぐ成績優秀者の青年である。

 何かと貴族としての拘りをちらつかせるところは玉に瑕だが、それも彼の誇り故。

 

 ここまで呼ばれた三人はいずれも高い実力を持ち、代表とするに相応しい面子である。このレベルの人間でなければ代表足りえないと納得できたので、選ばれなかった者達も素直に認められた。

 だからこそ──

 

「四人目はベルナデッタ」

 

 ──その名が呼ばれた時、先ほど以上の沈黙が場を支配した。

 

「で、五人目が俺ね。じゃあみんな、がんばろー」

 

 どこかスッキリした雰囲気のベレトが気の抜けた声で言うが、生徒達はそれどころではない。

 

「……あ、あの、せんs」

「どぅええあぁええええ!?!?!? 無理です無理です無理無理無理無理!!! ベルが代表だなんて無理ですって!! 嘘でしょ嘘でしょ嘘ですよね嘘なんですよね!? 嘘だと言ってくださいお願いします嘘だと言ってくださいベルを切り捨ててください先生いいい!!!」

 

 エーデルガルトが呼びかけようとした時、教室の隅から怒声ならぬ奇声が上がり、飛び出した一人の少女がベレトに縋り付く。

 が、しかし。

 

「嘘じゃない、今回の作戦にはベルナデッタの力が必要だ」

「いいいやああぁああぁぁあ!!! 無ううう理いいい!!」

 

 迫られても無表情でベレトは即答。少女は悲痛な叫びを上げて悶えるばかりであった。

 

 彼女の名はベルナデッタ=フォン=ヴァーリ。黒鷲の学級が抱える問題児の一人であり……誰もが知る劣等生である。

 士官学校に来ておきながら引き籠りを敢行し、授業への出席すらままならず、野外訓練はボイコットし、様々な方面で低成績を叩き出すという、君なんでここに来てるの?と多くの者が疑問に思ってしまう生徒なのだ。

 自己評価は極めて低く、事ある毎に己を卑下し、誰に対してもビクつく臆病者。

 入学早々に何故か深夜の厩舎に迷い込み、馬の大きさに驚いて上げた奇声で騎士団用に鍛えられた馬さえも怯えさせて、何頭も脱走する大騒ぎを起こした事件は修道院では有名だ。

 

 そのベルナデッタが対抗戦の代表メンバー? 血迷ったのかこの新任教師は?

 もはや隠そうともしない非難の視線がベレトに殺到するが、本人は視線に気付いてないのか、見るに見かねたドロテアにあやされているベルナデッタを見つめている。

 どーすんのこの空気……

 

 とんでもないことをしてくれた教師を、先ほどの感謝もあってフォローするためにエーデルガルトが口を開くことで辛うじて場は動いた。

 

「ねえ師」

「ん?」

「先に師が考えた作戦を教えてくれないかしら? それが分からないと誰も納得できないわ」

「それもそうか……すまない、話す順番を間違えた」

 

 頷いたベレトは教室を見渡し、自身に視線が集まっているのをこれ幸いと解説を始める。

 

「俺が考えたのは簡単に言うと、超速攻の制圧戦だ」

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 対抗戦開始の合図である正午の鐘が鳴り響く。

 修道院にほど近い平野、その北西から出撃するクロード達金鹿の学級は二段構えに陣を張った。

 陣地にマヌエラを残し、前衛にローレンツとイグナーツ、その中間にクロードとヒルダ。敵の進軍速度に対応しやすい防御重視の陣形だ。

 

 まずクロードはちょうどいい位置にあった木に登り、手をかざして戦場を見渡す。対抗戦は始まったばかり。敵を動きを知りたい。

 東の青獅子の学級の方は、さすがに陣地の様子は分からない。だが微かに青みがかかった灰色が動いているのが見える。あの髪の色はアッシュか。武装は見えないが、彼の性格を考えると恐らく弓。一人だけ出てきたのは斥候役? 他は本陣に控えているのか。

 

 観察しつつ思考を働かせる。自身の最大の強みである(さか)しさを活かすために。

 

「クロード、お前の浅知恵など必要ない。僕とイグナーツ君で黒鷲の学級の出鼻を挫いてやる」

「ええ、僕!? まだ心の準備ができてないんですけど……」

 

 ところが、自分が指示を出す前にローレンツが勝手に南に向かって前進を始めてしまった。釣られてイグナーツが渋々追従していく。

 

「やれやれ、向こうの先生を侮ってないか? 敵を甘く見ない方がいいと思うんだがな……」

 

 溜息をつきたくなるが、あの様子では制止したところで戻るまい。

 ローレンツが前から対抗心を持っているのは分かっていた。そういった私情を戦いの場にまで持ち込むとは思ってなかったが、それを見抜けなかった自分の不手際なのだろう。

 

 仕方なく思いながら南の黒鷲の学級の方に目を向けて──絶句。

 クロードの優れた視力は、とてつもない速さで突き進んでくる三つの人影を捉えていた。

 

「待て待て待て! たしかに正々堂々やろうとは言ったが、こんな正面突撃なんて考えてないぞ! 大胆にも程があるだろ!?」

 

 彼らしからぬ大声で取り乱すがそれも無理もない。

 ミーティングが始まる直前、ディミトリと連れ立ってベレトとエーデルガルトのところへ挨拶代わりの牽制をしに行ったのだ。言葉の応酬に併せて相手の態度や調子を探るのはよく使う手管で、その時に正々堂々戦うと宣言したりもした。

 もちろん言葉通り正面からのぶつかり合いをするつもりはない。クロードとしては策や駆け引きなどを交えた頭脳戦を期待していたのだが、あれでは作戦も何もあったものではないだろう。

 三人が一塊となって全力疾走する様はまるでやけっぱちの特攻のようだが、戦闘開始から初手にそんな暴挙を選ぶほどあの学級が愚かだとは思えない。だが今にもローレンツ達とぶつかりそうなほど近付いているのは、開始の鐘と同時に走り出したということか?

 

 思考を深められたのはそこまで。慌てて槍を向けるローレンツに下に三人が辿り着き……素通りした。何も反応を見せず、まるで誰もいないかのように通り抜けてしまったのだ。

 

「はあああ!?」

「クロード君、何が見えてるの? 教えてよ~!」

 

 下でヒルダが喚いているが気にしていられない。クロードの明晰な頭脳をもってしても理解の外にある動きに、彼にしては本当に珍しいことに軽くパニックに陥ってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

(速い! 速すぎるぞ先生!)

 

 全速力でベレトを追いながらフェルディナントは声に出さずに胸中で叫ぶ。

 足の速さには一角の自信はあった。恵まれた生まれに逞しく育った体で幼い頃から研鑽を怠らず鍛えてきた。武器を携行した状態でも素手と同じように動けるよう行軍の訓練も受けている。

 なのにこれはどうしたことか。開始早々に陣地を飛び出すや否や、いきなり始まった高速移動に自分は追いすがるだけで精一杯だった。

 

 前方のベレトはとてつもない速さで走っている。倒れそうなほど前傾姿勢で、訓練用の剣を片手に持つ腕は置き去りにするかのように後ろへ流し、時折後ろにいる自分達の様子を確認する余裕すら見せる。

 明らかに抑えている。自分はほとんど全力疾走なのに、彼からすれば控えめな速さでしかないのか。

 

 隣で走るエーデルガルトも自分と似たようなもの。普段はまるでバトンのように軽々と振り回す斧も、この三人の中では最も重い得物だ。槍を持つ自分ほどではないだろうが速度は出しにくいはず。

 それでも彼女は不満など出さずにひたすら走っている。ベレトの指揮を信じて、彼の意思に応えるために。

 

 始まったばかりなのにすでに息が上がり始めているが、弱音など吐いてたまるかとベレトの背を追いかける。微かに残る余裕を『彼の握りしめた左手に注視する』ことだけに傾けて。

 

 ………………

 

『開始と同時に俺達は三手に分かれる』

 

 作戦を説明するにあたり、ベレトはまず教室備え付けの黒板に平野の地図を書き、矢印で自分達の動きを表現する。

 南の陣地から動き出すところから矢印は三本、三つのチームに分かれて動くことを表していた。

 

 暫定の呼び方だが、と断って名前を書き込んでいく。

 中央を行くAチームはベレト、エーデルガルト、フェルディナント。

 東から木立の中を通るBチームはヒューベルト。

 西に進むと見せかけて中央から遅れて進むCチームはベルナデッタ。

 

『ベルは一人!? 置いてかないで先生ベルを一人にしないでください!』

『ベルナデッタは一人で行動するんだ』

『淡々と言い聞かせないでえええ!!』

『最初はやることないから、俺達のチームの後ろから隠れてついてくればいい』

『ついていきますずっとついていきますぅ!』

 

 涙目で喚くベルナデッタを抑えつつ、ベレトは説明を続ける。

 

『Aチームが戦場中央を突破、出会う敵を片っ端から倒しながら、金鹿の学級と青獅子の学級の両方を釣り出す』

『でも師、二学級を同時に相手取ることになるわ。どちらかを集中して叩くべきではない?』

『どうせ全員と戦うことになる。向こうから近付いてくれるならありがたいくらいだ』

 

 エーデルガルトの指摘を受けてベレトは望むところとばかりに頷く。

 

『さっき超速攻と言ったように、俺達は防御をあえて一切考えずに攻撃に全ての力を注ぐ。実際の軍事行動では極端過ぎてほぼありえないだろうけど、この対抗戦は軍のように何百人も動かさない。戦場には全部でたった十五人しかいないから、一人一人の行動で与える影響が普通の戦争よりずっと大きいんだ』

 

 いつの間にか授業の時と同じように、教室中がベレトの言葉に聞き入るようになっていた。見知らぬ知識、見識を語るベレトに自然と注目が集まっていく。

 

『防御のために構えるとその分どうしても足が止まるだろう? 一人や二人ならまだしも、百人が足を止めたりしたら行軍の邪魔になる。今回のように人の数が少ない戦場だとそれと同じことが簡単に起こってしまう』

 

 たった五人しかいない軍同士がぶつかるなら、攻撃に回れば回るほど有利なのだ。なにせ攻撃して倒してしまえば防御に力を割く必要がなくなるのだから。

 

『そして大事なのは、勝つために戦うなら必ず自分から動かなければいけないということ。何も考えず待ち受けたり次の攻撃に繋げられない防御はただの受け身だ。意味がない。攻撃的な防御はいい。受け身にはなるな』

『攻撃的な防御……』

 

 誰かが繰り返し呟くのが聞こえる。

 新鮮な言葉だった。相反する意味なのに不思議としっくり来る組み合わせだ。

 

『それと、この対抗戦でAチームは最初からずっと走り続けることになるからそのつもりで』

『最初から?』

『ああ、最初から最後まで、立ち止まることはまずないと思ってくれ』

『……体力が持つか心配にならないの?』

『短期決戦を目指すから問題ない。仮に長期戦になったとしてもどうにかする』

『……自信があるようね。いいわ、貴方に任せるのだから従いましょう』

 

 エーデルガルトは納得したように頷いた。彼女が理解できたのを見て、ベレトは各チームの詳しい動きを解説していく。

 その中でフェルディナントとしては一つ疑問に思うことがあった。

 

『それにしても先生、この地図の木立や草むらの形がやけに細かく描き込まれているが、こんなに都合よく隠れられるところがあるのかね?』

『ある。現地で直接確認してきた』

『何、先生が見てきたのか?』

『あの平野は立ち入り禁止でもないし、事前調査したらダメとも言われてない』

『……この一週間、我々の授業や訓練を見ていてくれたのに、そんな時間がいつあったのだね?』

『夜中。修道院のすぐ近くだったし、大して広くないから一時間で見回れた』

『……夜闇の中で調べられるものなのか?』

『斥候が戦地の調査をするのはむしろ夜間が定番だぞ。月明りもあったし敵もいないから楽なものだ』

『そういうものか……』

『そういうものだ。これ関係もいつか教えるよ』

 

 ………………

 

 自ら率先して尽くす。寝る間も惜しんで備える。就いたばかりの役職であっても真摯に全うする。その在り方、まるで貴族のように誇り高いではないか。

 立場は平民なれど、その姿勢には見習うところがある。見た目から察するに歳もそう違わない。そんな彼の姿勢に応えられないようでは貴族ではない!

 

 走りながら考えたその時、注視していたベレトの手が急に開いた。

 グーからパーへ。それが意味するのは──

 

 エーデルガルトとほぼ同時に周囲を見回す。そして補足した目標へ、これも同時に突撃。

 向かう先はイグナーツ。

 

「うわあ、僕ですか!?」

 

 彼が慌てて身構えるがもう遅い。フェルディナントは槍を振りかざし、対抗戦最初の戦いを仕掛けた。

 

 ………………

 

『Aチームに覚えてほしいことは三つ。俺が近くにいる時は常に俺の左手の形に注意してくれ。

 俺がこう、何も持っていない状態で手を握ってグーの形にした時、それは「他に何があっても無視して俺についてこい」という意味だ。走り回る間は俺の真後ろについて、誰かと戦ってる最中でも俺がグーを見せたら相手を放って俺と合流する。

 そして俺が手を開いてパーにしたら、それは「今自分の一番近くにいる敵に向かって攻撃しろ」という合図だ。近くにいるのが一人しかいなければ二人で協力して戦って、倒せるなら倒してしまえ。

 で、最後に指二本だけ立てたチョキの時は「その場で待機」の合図。たぶん使わないと思うけど一応覚えてくれ』

 

 ………………

 

「ええい、なんということだ! この僕を無視するとは!」

 

 ローレンツは焦りながら踵を返した。大見得切って前に出た自分が、まさか横を素通りされるとは思わなかった。

 見向きもされない屈辱に歯を食いしばるその視界では、イグナーツが二人がかりで襲われている。弓持ちの彼では接近戦は対応できない。早く助けに入らなくては──待て、あの傭兵はどこだ?

 

 嫌な予感に従って振り向くと、ほぼ真横からベレトが突撃してくるのが見えた。

 つい先ほど横を通り過ぎて、エーデルガルトとフェルディナントを先導してイグナーツの方に向かっていたのではないのか!? 何故お前がそんなところにいる!?

 混乱する気持ちを必死に抑えつけて槍を構える。

 

「っ、来い傭兵!」

 

 この時、ローレンツは間違いを犯した。

 側面から高速で突撃してくる敵に対して、単独の身で足を止めて待ち構える。

 それは悪手だった。

 

 無言のまま振るわれた剣が槍を軽々と弾き飛ばし、返す一刀が胴体を横一閃。流れるような二連撃でローレンツは吹き飛ばされた。

 ベレトの動きは止まらない。予め決めていたのか、弾かれてまだ宙にある槍を掴むと振り被って遠投。数十メートル離れた木立に飛び込むところが見えた。

 

「ローレンツ、脱落!」

 

 そしてジェラルトの声が平野に響き、ローレンツの敗北を報せる。

 戦いが始まってから僅か一分、最初の脱落者になってしまった。

 

「ちっ、この僕がこんなに早く負けるなんて……!」

 

 腹立たしい、が認めなければなるまい。

 油断したこと。敵を侮ったこと。戦場を舐めたこと。反省すべき点がありすぎる。

 これは演習なのだ。生きていればこそそれらを持ち帰り次に活かさなければ。

 

 見渡せば近くにベレトの姿はなかった。自分を倒した彼は立ち止まらず即座に動いたらしい。

 屈辱感はもうない。隔絶した実力を思い知らされた上に武装解除までされた完敗に文句を付けられるほど厚顔ではなかった。むしろ勝利に向けて一直線に邁進する姿は尊敬に値するだろう。

 

「イグナーツ、脱落!」

 

 程なくしてジェラルトの声が響き渡り、自分に続いてイグナーツの敗北を報せる。金鹿の学級は開始早々に戦力を大きく減らされる痛手を被ってしまった。

 悔しいには悔しいが、敗者にこれ以上何かする権利はない。イグナーツと共に平野を出ることにして立ち上がる。

 

 ふと首を巡らせると、エーデルガルトとフェルディナントの二人と合流したベレトが再び疾走するのが見えた。まさかあの高速移動をずっと続けるつもりか。

 

「見せてもらおうじゃないか、お前達の戦いを」

 

 

 

 

 

 

 

 後の世でアドラステアの槍と謳われる帝国の必殺陣形【トライデント】。

 その雛型がフォドラに現れたのは士官学校の対抗戦だと伝えられている。

 

 

 

 

 

 

 

「やってくれたね先生。これは本気でかからないとな……!」

 

 立ち直ったクロードは気持ちを引き締める。

 大胆な作戦はリスクが高い反面、ハマれば大きな戦果を叩き出す。そしてベレトは立てた作戦が無茶苦茶でも場にハメられるだけの実力があるのだ。悠長にしていたらあっという間に勝負は決まってしまう。

 

「ヒルダ、戻るぞ。陣地のマヌエラ先生と合流する」

「う、うん。ローレンツ君もイグナーツ君もやられちゃって、ヤバいね」

 

 木から飛び降りて、ヒルダを連れて走り出す。陣地からの移動も考えるべきかもしれない。下手に陣地に籠って逃げ場を封鎖されてしまえばすぐに詰みだ。

 

 見れば黒鷲の学級の三人は方向だけを変えて、速度は変えずに走り出している。あれだけの全力疾走をした直後にまた走るとは……兵は拙速を尊ぶとは言うものの、ここまで極端な作戦は聞いたことがない。

 戦術とか戦略の問題ではない。これを考えたのがベレトなら、彼に見えている世界が根本的に自分達とは違うのではとすら思う。

 

 向かっていくのは東。青獅子の学級がいる方角だ。

 

「二つの学級を同時に相手しようってのか? 大した自信だな」

 

 努めて普段のような皮肉を口にするも、先ほどの彼らの勢いとその成果を見てしまった今となってはどこか空しく感じてしまう。

 走り出す直前、ベレトはたしかにこちらを見ていた。冷静に敵を観察した上であの疾走と戦闘。この結果は彼にとって想定通りなのかもしれない。

 まったく……えらい人を敵にしたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 アッシュは偵察兼囮役である。敵の動きを掴むのが務めであり、あわよくば敵の一部でも自陣近くまで誘い出せれば儲けものだと考えている。陣地から一人先行して平野中心部に進んだのはそのためだ。

 軍勢の中での斥候という役の重要さは彼も理解しており、ミーティングで作戦を決めた時は役割を果たそうと奮起した。

 

 その志は、今し方見た光景によって崩れようとしていた。

 

(なんなんだ今の戦いは!?)

 

 視界が届くギリギリのところで繰り広げられた対抗戦最初の戦闘。あまりの内容に驚愕が抑えられない。

 あれはもう戦闘とは呼べない。黒鷲の学級による蹂躙だ。

 いくら三対二とは言え、ああも一方的な秒殺劇があるだろうか。

 

 戦場は未経験だが、アッシュなりに実戦とはどのような戦いが行われるか想像したり、物語を参考に思いを馳せたりしたものである。

 だから余計に圧倒された。誇り高い騎士の決闘とも華々しい合戦とも違う、こんな戦いがあるのかと。

 

 そして三人は再び走り出す。向かう先は──東、こちらに来る。

 

「き、来た!」

 

 いずれ戦わなければいけない相手だがどうしても浮き足立ってしまう。

 しっかりしろ、何のために前に出た。自分は青獅子の学級の代表なのだ。

 

 釣り出すという役割は果たせそうだが、あの速さだ、今から引き返したところで自分の足では振り切れない。殿下達の下へ戻れないなら情報も持ち帰れない。ならやるべきことは、少しでも攻撃して敵にダメージを与えておくことくらい。

 幸いなことに自分の武器は弓。まだ距離がある内に先制攻撃はできる。

 だから動け! 戦うためにここに来たんだ!

 

 先頭のベレトに狙いを定めて構える。弓を引き絞り、矢を放つその瞬間。

 ひょい、と。そんな表現ができるくらいに軽く、自然にベレトは回避した。真後ろを走る二人も追従して回避。

 放たれた矢は何もいない空間を素通りした。

 

 ……今、何が起こった? 避けられた、それは分かる。だがそのタイミングがおかしくなかったか?

 まだ間に合う。もう一度弓を引き、狙いを定めて矢を放つ。今度はもっと集中して、よく見て。

 

 またも、ひょいと同じ方向に避けるベレト達。やはりおかしい。アッシュの矢が放たれるその瞬間にベレトは回避行動に入った。

 気付いて戦慄する。ベレトは飛んでくる矢を避けたのではない。アッシュの攻撃の射線、拍子、狙いそのものを読んで避けているのだ。

 

(ダメだ! このまま彼に攻撃したところで命中率は0だ、僕ではあの人に当てられない!)

 

 狙うべきはエーデルガルトかフェルディナントの方。後一息のところまで迫る彼らの側面を狙え、急げ!

 道を開ける形になることへの抵抗を押し殺し、彼らが避けた方とは逆方向に距離を取る。背後には木立、背中を向けても問題ない。少しでも、せめて一度だけでもいいから攻撃しなくては──アッシュに考えられたのはそこまで。

 

 ゾクリと凄まじいプレッシャーを感じたかと思った時には背後から極大の衝撃を受け、為す術もなく吹き飛ばされた。

 転がる視界の端で闇色の残滓がちらついているのが見える。

 

(これは……魔法? そうだ、黒鷲の学級からはヒューベルトが……)

 

「アッシュ、脱落!」

 

 自身の敗北を報せるジェラルトの声が聞こえたのを最後に、アッシュは意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

「やれやれ、こうも上手くいくとハメられた気もしてきますな」

 

 木立の陰に隠れながらヒューベルトは独り言ちる。

 

 アッシュが察した通り、彼の背中に魔法を撃ったのはヒューベルトである。

 対抗戦開始から単独で動き、平野の東にある木立に潜んで虎視眈々とチャンスを狙っていた。そして今し方、ベレト達の動きに注意するあまり他への警戒を完全に失ったアッシュの隙を逃さず、最高のタイミングで魔法を叩き込んだのである。

 

 ミーティングでのことを思い出す。エーデルガルトより誰かが級長に相応しいか、などと言い出した時はどうしてくれようかと思ったが、作戦の全容を聞けば想像以上に興味深いものだった。

 

 ………………

 

『Bチームの役目は隙を見て敵の背後を狙うこと。

 俺達Aチームが派手に動けば必ず相手は俺達に注目するし、目を離すわけにはいかなくなる。そうして意識がこちらに向いた敵の無防備な背中に君の魔法を叩き込んでくれ。それまでは木立の中に隠れていてほしい。気配のない方向から一撃で致命を狙う、言うなれば暗殺者みたいなものだ。

 得意なんだろ? 背中を狙うのも、息を殺して機を伺うのも。

 それと、できるだけ早くそっちに送るものがあるから上手く回収してくれ』

 

 ………………

 

「会って間もないのに我が務めを見破られてしまうとは……まあ、別に隠していたつもりもありませんがね」

 

 くくくっ、と笑声を漏らす。策謀家でもある自分が他人の思惑通りに動くのは気が進まないかと思いきや、意外や意外、悪くない気分だった。

 

 Aチームはその疾走によって、実にちょうど良い位置にアッシュを誘導してくれた。ご丁寧に見せてくれた背中に叩き込んだ得意の闇魔法ドーラは、ヒューベルト自身も驚くくらい魔力を込められた会心の一撃となった。

 作戦を解説したベレトの言う通り、致命の一撃(クリティカルヒット)となったのである。実戦でここまで気分良く魔法を当てられたのは初めてかもしれない。

 

 不思議なものである。ベレトと、自分が。

 

 どこの誰とも知らぬ傭兵で、実力も人柄も不明でありながら教師に取り立てられたばかりか、僅かな期間で学級の生徒の力を把握して有効な作戦を立案してみせた。優秀と言えば優秀なのだろう。

 だがそんな男の作戦など、本来のヒューベルトからすれば従う義理などない。主の益のためであれば、当の主のエーデルガルトの言葉ですら時には背くほど彼女の覇道に忠誠を捧げた身である。

 それがどうしたことか。こうしてベレトの指示に従い、思い通りの展開に心が浮き立ち、作戦の一部になって動くことが面白いとさえ感じている。それほどまでに彼の発想が常識外れで、彼の立てた作戦が効果的だと予感していたからか。

 

 そして現実に今、その作戦の力を目の当たりにしている。まるで導かれたかのように魔法を当てられて、この手応えさえ彼の描いたシナリオ通りだとしたら……

 恐るべき知謀。腕っ節のみならずこれほどの才覚の持ち主が在野にいたとは。なるほど、エーデルガルトが欲しがるわけである。

 

「頼みますよ先生。我が主をこき使うからには、勝たなければ許しませんからね」

 

 青獅子の学級の陣地へ走る三人の背を木立の陰から見送る。

 先ほどベレトから送られてきた『土産』を手にして、ヒューベルトも次の戦いに向けて動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ローレンツとイグナーツの敗走、そして遠目で目の当たりにしたアッシュの脱落に、ディミトリは警戒のレベルを上げる。

 対抗戦が始まってまだ数分しか経っていない、そんな事情など関係ない。ここが勝負の分かれ目。弱気になれば一気に飲み込まれる。

 

「ハンネマン先生! 陣地を出て距離を取ってください! 回り込んでヒューベルトの相手をお願いします!」

 

 振り返って指定陣地にいるハンネマンに呼びかける。紋章学の権威である彼は魔法の得手だ。ヒューベルトと魔法勝負に持ち込めば遅れは取らない。

 頷いて動き出したハンネマンを見て、次の指示を飛ばす。

 

「ドゥドゥー、俺達も前に出るぞ! 黒鷲の学級をここで止める! メルセデスは近付きすぎるな! 援護の手を緩めるなよ!」

 

 それぞれ短く伝えてディミトリは前に進んだ。

 たしかにベレトは脅威だが、自身の力とドゥドゥーの防御力、そこにメルセデスの弓の援護があれば渡り合えない相手ではないはず。

 

 黒鷲の学級の三人はディミトリに向かって走ってくる。まずは一人を集中して叩こうというつもりか?

 そうはさせないと槍を持つ手に力を溜める。当たらなくてもいい。大振りの一撃でまずは相手を散らして……

 

 突如、間合いに入るより先に自分に向かって走る三人が前触れなく二手に分かれた。声もなく指示らしい合図もなしに息を合わせて動くことに感心しそうになるが、向かってくる二人の姿を見て意識を改める。

 エーデルガルトとフェルディナント。黒鷲の学級の首席と次席が組んで自分に向かってくるプレッシャーはかなりのもの。

 

 視界の端でドゥドゥーがこちらに近付こうとするのを捉え、先んじて伝える。

 

「ドゥドゥーは先にメルセデスと協力して先生をやれ! 凌ぐだけなら俺一人で大丈夫だ!」

 

 

 

 

 

 

 

 その時、エーデルガルトは不思議な感覚の中にいた。

 ベレトの背を追いながら、走る自分とは別の自分がいるような、別人の視点を借りているような奇妙な感覚。視界の広さではなく数が増えたとでも言うべきか。

 

 全力疾走による疲弊、乱れる呼吸、戦場の緊張感、本来意識しなければいけないそれらが他人事のように感じられる。それよりももっと優先したい、見ていたい、この背が向かう先、勝利へ至る道が見えるようで。

 立ち塞がる障害を排除しなくてはいけない。そのためにベレトが下した判断、左手をグーからパーに変えたタイミングに従うなら、向かうべき相手はディミトリ。

 青獅子の学級で最強と言ってもいい彼を相手に、自分とフェルディナントの二人がかりで戦うように指示したのは分かるが、その判断は最良だろうか?

 

 ──この後の作戦を考えれば遠距離攻撃を使う敵は少しでも速く排除したい

 ──なら師にはそちらに集中してもらって

 ──その動きを邪魔する障害を私が引き受ければ

 

 大局を見て、先を読んで、戦力を適切に配分する。

 この一週間、個別指導でベレトから教わった戦略眼がエーデルガルトの中で芽吹いた瞬間だった。

 

「フェルディナント、ここは頼むわ!」

「なっ、エーデルガルト!?」

 

 まさにディミトリと向かい合おうとする寸前、突撃方向を急転換したエーデルガルトに戸惑いの声がかけられるが、彼女は振り返らなかった。

 黒鷲の学級陣営で一番強い師が十全に戦えるように私は露払いを──勝利のための判断に迷いはなかった。

 

 ちょうどベレトから一当て受けたドゥドゥーが怯み、弾いた勢いで両者の距離が開いたところ。きっとこれ以上ないタイミングで駆けつけることができた。

 

「ドゥドゥー!」

「皇女様……っ!」

 

 呼びかけると同時に攻撃。斧同士のぶつかり合いで生まれる強烈な衝撃に、負けるものかと踏ん張る。

 指示とは違う動きをするエーデルガルトに目を見開くベレトへ、声ではなく意思を込めた視線を向ける。

 

 行って師──意思は伝わった。言葉一つなくベレトは走り出す。

 後は大丈夫。彼ならやってくれる。自分は目の前の戦いに集中すればいい。

 

「さあ、貴方の相手はこの私よ!」

 

 荒げる息を押し殺して高らかに宣言する。

 行かせない。勝つのは私達だ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 普段のエーデルガルトなら、ここで優劣を決しておくのも悪くない、とでも言ってディミトリに仕掛けていっただろう。

 それよりも優先するものがあるとすれば、それはきっと勝利のため。より相応しい役目のためだと彼女が判断したということ。

 

 その判断を疑う必要はない。彼女は優れた人間だ。ともすれば自分よりも。

 そして勝利のために全力を尽くす姿勢を学んだばかりのフェルディナントにとって、格上のディミトリと一対一で戦うことへの抵抗は微塵もなかった。

 

「光栄に思いたまえディミトリ……戦場で、目の前にこの私がいることを!」

 

 むしろこの戦いは望むところと言わんばかりに笑ってみせる。

 

 相手は間違いなく自分より強い。細身に似合わぬ怪力無双の呼び声高く、修道院の訓練所でその強さを直に見たこともある。

 対して自分は疲労が溜まった身。息は荒く、足にも手にも力が行き渡っていないのが分かる。

 

 だが、それがどうした。

 先生は信じて託してくれた。エーデルガルトに頼まれた。

 ならば負けるわけにはいかないではないか。限界など今ここで超えてしまえ!

 

「我が名は、フェルディナント=フォン=エーギル!!」

 

 フェルディナントの裂帛の咆哮を受けて、ディミトリは思う。

 相手より間違いなく自分の方が強い。

 元より地力の差は理解している。加えて彼の姿、整えられた髪は汗で顔に張り付き、肩で息をする様はまるで疲労を隠せていない。

 エーデルガルトと組むのでもなく、一対一で戦うのなら十分に下せる相手。

 

 それでも、臆せば負ける。戦いは依然として黒鷲の学級の流れであることを忘れてはいけない。そう思わせるだけの気迫が彼から感じられる。

 

「ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド、参る!」

 

 普段はすることはない戦う前の名乗りを上げ、フェルディナントとほぼ同時に槍を振りかざした。

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、まだ説明していなかったが、この対抗戦には人数の他にもある制限が設けられている。

 武器についてだ。

 

 攻城兵器の持ち込みや騎士団の配備が禁止なのは当然として、使うことができる武器の数が決まっているのである。

 剣、槍、斧、弓の四種類から選ぶのだが、この中から一種類につき二つまで、全部で四つまでと制限されている。

 そう、悩ましいことに代表の五人全員分の武器がなく、誰か一人は素手での参加が決定しているのだ。

 

 午前のミーティングで決まった作戦によって係りの者に必要な武器の種類と数を伝え、それが各陣地に開始まで用意されることになる。つまり各学級は、敵がどの武器をどれだけ持っているのか分からない状態で戦わなくてはいけないのである。

 戦争は敵の戦力が不明のまま始まるのも珍しくない、そんな現実を踏まえて作戦を立てることを推奨しているのだろう。

 

 それがどういうことなのかと言うと。

 

「まさか君が槍を持っているとは思わなかったよ」

 

 このハンネマンの感想である。

 ディミトリの指示に従って陣地を出て、東から回り込んでヒューベルトがいると思わしき木立に近付いていった彼は目算通りヒューベルトを発見。

 早速魔法勝負に持ち込もうとしたところ、なんとヒューベルトは木立から飛び出してこちらに突撃、持っていた槍を振るって接近戦を仕掛けてきたのだ。

 

 紋章学の権威として魔法勝負なら生徒に後れを取ることはないハンネマンだが、基本的に彼は研究肌の学者であり、その能力は非常に偏っている。

 対してヒューベルトは魔法の使い手であり、策謀家であり、時には自ら近付いて戦うことも厭わない暗殺者である。戦闘力という点から見ればとてもバランスの取れた戦士なのだ。

 

 その二人が魔法に限定されることなく戦場で直接ぶつかり合えば、この結果もむべなるかな。

 

「ハンネマン、脱落!」

 

 決着にさほど時間はかからなかった。ハンネマンが急いで組み上げた魔法アローを、持ち前の魔法防御で凌いで接近できたヒューベルトの攻撃が決まり、ハンネマンの脱落が宣言されたのである。

 

「我輩はてっきり、ベルナデッタ君が弓でも持って、魔法を使う君といっしょに後方から援護するものだと思っていたのだがね」

 

 強かに打たれた腹をさすりながらハンネマンは退場のために立ち上がる。

 

 そう、ヒューベルトが魔法の使い手だと知っていれば素手でも戦えると考える。だから他の生徒が武器を持って彼は素手のはず、だからハンネマン一人でも魔法一つで戦える、そういう思考に誘導されてしまった。それが黒鷲の学級の作戦だったのだろう。

 

「当たらずとも遠からず、といったところですね」

「ふむ?」

 

 そういった考えを伝えるハンネマンに返された言葉は、作戦の全容には至らないというものだった。

 しかしここで安易に返事をしないのがヒューベルト。

 

「答え合わせは対抗戦が終わった後にでも……まだ戦いは続いていますので」

 

 意地の悪い笑みを見せるだけでそれ以上は言わず、次に備えて動き出した。

 

 実を言うと、ハンネマンの考えは半分正解で半分不正解、対抗戦開始直後はヒューベルトも素手だったのだ。他の四人と違って魔法で戦える彼は素手でも作戦上の役割は果たせるから。

 だが、それではもしも接近されてしまった時に大きな不利を抱えることになる。ただでさえ参戦人数が少なくて守りに回る余裕がないのだから、ヒューベルトを守るために誰かを割くことはできない。彼には自衛してもらう必要があった。

 

 たしかに魔法はそれなりの遠距離攻撃ができて、やろうと思えば近くの敵にも使えるが、呪文詠唱や陣の組み立てなどが必要で、間合いの中で振れば届く武器と違ってどうしても即応性で劣る。

 そのため、戦場で実際に魔法で戦おうとするなら騎士団を配下に付けて守ってもらうのが主流なのだ。そうでなければアッシュを倒した時のようにこっそり背後を狙うか。もちろん対抗戦では騎士団は利用不可なのでこの方法は使えない。

 

 では今ヒューベルトが持っている槍はどうしたのかと言うと……何を隠そうこれはローレンツの槍。ベレトが彼から奪い、遠投して木立に投げ込んだものである。

 元々それが作戦の一つであり、早めに誰かから武器を奪ってヒューベルトに渡す予定だったのだ。姿を隠した自分のすぐ近くの木立に投げ込まれた時はさすがに驚かされたが。

 

 相手から装備を取り上げるなどまるで盗賊のようではないか──黒鷲の学級の教室で作戦を説明した時に非難の声を受けたベレトの反応を思い出す。

 

『倒した敵から武器を鹵獲するなんて普通のことだぞ?』

 

 あまりにも当たり前のような態度とあっけらかんと発せられた言葉で、不満や文句がまとめて洗い流されたみたいな教室の空気にヒューベルトは思わず噴き出してしまった。

 傭兵ならではの彼の判断は基本的に騎士道を推進する士官学校にそぐわないのだろうが、根が闇側の人間であるヒューベルトにとっては好ましい作戦だったのだ。

 

 さて、現状判明したようにヒューベルトは素手で、ベレトは剣を、エーデルガルトは斧を、フェルディナントは槍を持って始まり、計四つの武器を配られる対抗戦では当然ベルナデッタにも武器を割り振られる。

 つまりベルナデッタも武器を持っていて戦える──足手まといではない、れっきとした戦力の一人としてこの戦場にいるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 斧同士の打ち合いは数十にも及ぶ長丁場になっていた。

 平時なら一対一でも問題なく勝てた自信がある。だが疲労がある状態で始まった戦闘は徐々に無視できない後れが見えるようになり、この先の敗北を予感させるようだった。

 

「疲れが隠せてませんな、皇女様」

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 もはや隠す余裕もないエーデルガルトは荒い呼吸のままドゥドゥーを睨む。

 

 先ほど、メルセデスの脱落を告げるジェラルトの声が聞こえた。狙い通りベレトはやってくれたのだ。

 ならば憂うことなく自分の役目に集中すればいいのだが……押し切れない。

 

 ここまであの不思議な感覚は続いていた。視界が広がり、思考より速く体が飛ぶように動く、絶好調とでも言うべき没入感。これがあるから今まで均衡を保てたようなものだ。

 それでも限界は訪れる。どれだけ無視しようとも疲労は確実に溜まり、動きを阻害するのだ。このままでは遠からず負けるだろう。

 

 何かが欲しい。均衡が崩れる前に、決定打に使える何かが。

 脳裏に浮かぶのは、不思議と出会ってからそう日が経たない師のことだった。

 

 ………………

 

 それは彼が教師になってから最初にやった授業。

 生徒がどの程度動けるのかを確認するために足を運んだ訓練所でのこと。

 

『女の身で斧を使うのって珍しいよな』

 

 生徒達が得意武器で打ち合う中、ベレトが溢した言葉を聞いてエーデルガルトは僅かに苛立ちを感じた。

 

『あら、女が力強く斧を振るのは気に食わないのかしら?』

『いや、むしろ女だと侮る相手の意表を突けて有利かもしれない』

『……そう』

 

 女のくせに生意気だとか言い出したら切りかかってやろうかしら、などと物騒なことを考えるエーデルガルトだったが、ベレトの言葉を聞いて今度は気を良くする。

 誉め言葉かどうかはともかくとして、自分が肯定されたのは分かるからだ。全く変わらない無表情もあって本心からの言葉に思えた。

 

『なら師、斧を使った効果的な技なんてないかしら?』

『斧はそこまで得意じゃないんだが……』

 

 じゃあ一つ、と言ってエーデルガルトが持つ訓練用の斧を借りたベレトが実演のために構える。

 

『斧を振る時、普通は重心のかかる刃の逆側である柄の端を握る。遠心力を生かすために』

 

 実際に数回振ってみせるベレトの動きは、得意じゃないとは言ったが中々に様になっているように見えた。基本的な動作にもブレがないので心得はあるのだろう。

 そこで、とエーデルガルトが見ているのを確認しながら彼は続ける。

 

『斧の柄を握る位置をあえてずらして振ってみろ』

『ずらして?』

『少しだけじゃ意味がない。思い切りずらして、刃のすぐ近くの柄を握るんだ』

 

 今度は殊更ゆっくり実演してくれた。振り被った時は柄の端を握っていた両手の内、片方だけを滑らせて斧の刃ギリギリの柄の上部を握ると、端を握る方の手を離して上部に滑らせた片手だけで振る。

 次は実際に振る動作。両手で端を握っていたと思ったら振る瞬間には握る位置は違うし片手で振るし驚かされたが、横から見ていたエーデルガルトには明らかに違う動きだと分かった。

 

『普通の振り方と軌道が同じでも動きのリズムが変わって相手の虚を突けるんだ』

『たったそれだけのことで?』

『小手先の技だけど、覚えておいて損はない』

 

 斧を返してもらい、動きを真似てエーデルガルトも実際に振ってみる。

 恐ろしく動き辛い……たしかに片手で振る分速く動けて意表を突きやすいかもしれないが、本来の斧の振り方と重心の位置が違い過ぎて困惑してしまう。これは練習が必要だろう。

 

『でも師、これって元の振り方より威力が出ないわよ?』

『そういう技だからな。小手先って言っただろ』

 

 その通りとばかりにベレトは頷く。

 

『格下相手ならあれこれ考えず正攻法だけで押し勝てるだろうけど、同格や格上を相手にする時はどれだけ選択肢があるかで有利不利が決まる。君は今新しい技を一つ覚えた。それは今後の選択肢が一つ増えたということ。選択肢が増えれば自分から主導権を取りに行ける。つまり、君は今、確実に強くなったんだ』

 

 変わらない表情、変わらない口調、淡々と語るベレトの言葉を聞いていると自分の中に染み渡るようで、エーデルガルトにはまるで一種の熱に思えた。それが意味するのは昂揚。

 

『ゴールまで一本道しかないのと複数の道があるのとでは間違いなく後者の方が有利なんだ。多少遠回りになったとしても先にゴールに着きさえすれば君の勝ち。そのための道を教えるのが俺の役目だ。覚えて強くなれ』

 

 それにエーデルガルトの力なら多少威力が落ちても十分な攻撃力は出せる──そう締め括ってベレトの解説は終わった。

 

 その後、斧使いの生徒達が真似しようとこぞって練習し、数日で感覚を掴んだエーデルガルトに対して、片手で振るには腕力が足りずとてもじゃないけど真似できないとギブアップする者が続出。

 この技は力がある彼女専用にベレトが教えてくれたのだという結論に達し、エーデルガルトは密かに自信を深めたのであった。

 

 ………………

 

 あれだ。あの技を使う時だ。

 力は拮抗している、何度も打ち合ってお互いがリズムに慣れてきている、今にも均衡が崩れそう、様々な条件が噛み合っている。変化を加えるなら今。主導権を自分から取りに行け。

 

「俺は殿下の下へ行かねばならない……そこをどいていただきます!」

 

 これを最後の激突にしようとドゥドゥーが勢い良く飛び出してくる。一際強い一撃を繰り出そうと体重を乗せた前傾姿勢。

 その動きのリズムが分かる。合わせるようにエーデルガルトも斧を振り被り、タイミングを一致させて──ここだ。

 右手を滑らせ、柄の上部を握ると同時に逆の手を放す。速くなる分短くなるリーチを補うため余計に踏み出す。斧を振り下ろすと言うよりは拳を突き出すくらいの感覚で潜り込むように!

 

 果たして斧は届いた。ドゥドゥーの肩から胸を斬って、逆に彼の斧は狙いが外れて柄が自分の肩に食い込む程度。

 ここで終わらせない。驚愕に目を見開くドゥドゥーは固まっていて、懐に入った自分だけが動ける。完全に主導権を握った最高のチャンス。

 

「あああああ!!」

 

 一撃目を遡るように、二撃目は脇の下から入って逆袈裟に肩から抜けた。連撃を受けたドゥドゥーがたたらを踏んで後退る。

 

「ドゥドゥー、脱落!」

 

 ダメージを見定めたジェラルトがすかさず審判としての判定を下し、エーデルガルトの勝利を告げた。

 戦略眼、斧術、ベレトから教わったことを彼女は最高の形で活かして勝利を掴んだのである。

 

「……申し訳ありません、殿下」

 

 敗北したドゥドゥーは悔し気に呻いた。仕える主のために戦うも力及ばず、主を残して敗退する彼の心境は如何ばかりか。

 

 会心の手応えに満足しかけたエーデルガルトだが、それではいけないと心を改める。これで終わりではない。対抗戦はまだ続いているのだ。

 青獅子の学級はディミトリが残っている。彼一人だけでも十分な脅威なのだ。フェルディナントに加勢して彼を抑えなくてはいけない。クロード達金鹿の学級だってまだいるのだ。こんなところで止まっていられないのに。

 なのに、ああ、もう限界だ。

 

「っげほ、けほ……っく、はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 息が苦しい。斧が重い。足が震える。

 いよいよ体力を搾り尽くしてしまった。頭がボーっとして、あれだけ広がっていた視界が霞む。没入感は跡形もなく消え去り、重苦しい疲労がのしかかってくる。

 斧を支えにして倒れることは防いだが、もはや一歩も動けそうにない。今にも蹲ってしまいそうだ。

 

 立ち止まるわけにはいかないのに。

 皇女として、級長として、情けない姿は晒せないのに。

 何より、彼に力を認められて選ばれたからには、それに応える姿でいたいのに。

 

 その時、背後から誰かの足音が聞こえた。高速で走ってくる。その誰かがすぐ傍を通り、パシッと肩を軽く叩いて駆け抜けていった。

 霞む視界の中、はためく外套と、そこから伸びる左手を見て安堵する。

 

 ──指二本立ては、その場で待機。

 

(後は、お願いね……師)

 

 その背中を見届けると、全身から力を抜いて、エーデルガルトはその場に膝をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 驚異的と呼ぶに相応しい粘りをフェルディナントは見せていた。

 最初からそのつもりだったのか、専守防衛の姿勢を崩さず、ディミトリの攻撃を防ぎ、いなし、凌ぐことだけを考えて立ち回る。攻撃を一切考えず、全力で防御に集中するその姿は一見して時間稼ぎを疑うが、とてもではないがそれだけとは思えない気迫があった。

 

 あのギラついた目を見ろ。徒に時間を稼ぐことなど頭にない、隙あらば切り伏せんと狙う戦士の目だ。

 諦めてなどいない。捨て石になるつもりなどサラサラない。間違いなく彼は勝利のために戦っている。

 

 士官学校の生徒という、ある意味安全を約束された立場でありながら、これほどの闘志を漲らせられる者がどれほどいるだろうか。

 なまじ将として戦場に出た経験を持つディミトリだからこそ、その気迫を敏感に感じ取り、警戒を捨てられず攻めあぐねてしまった。

 

 見学席にいる黒鷲の学級の生徒達には分かる。フェルディナントはミーティングの時にベレトから教わったことを忠実に守っているのだと。

 受け身にはなるな。耐えて耐えて耐え抜いて、その先にある勝利へ繋ぐからこその意味ある防御。フェルディナントはそれを丁寧に実行しているのだと。

 

 とは言え、それが永遠に続くはずもなく。

 

「そこまで、だ!」

 

 ディミトリの横薙ぎ一撃に、かざした槍ごと打ち払われてフェルディナントは転ばされた。

 滝のような汗を流し、立つこともままならない体を震わせてフェルディナントが睨み付けてくるが、さすがに脅威はもう感じない。

 

 終わってみればディミトリに傷はなく、多少息が上がる程度の疲労のみ。

 にもかかわらず彼一人を相手にかなりの時間を稼がれてしまった。臆したつもりはなかったのだが、あれほどの戦意を向けられてはどうしても警戒を捨てられなかったのだ。

 いや……事実、臆してしまったのだろう。力の差はフェルディナントとて理解できていただろうにあそこまで粘れたのは、ひとえに戦意の高さが支えとなっていたからに違いない。警戒するあまり及び腰になっていた部分もあるとディミトリは素直に認めることにした。

 もしフェリクスがここにいたら喜び勇んで斬りかかっていただろう。学校行事の催しで斬り合いなど下らん、と参加を一蹴した彼は見学席で今どんなことを考えているだろうか。

 それにしても、真に畏怖すべきは僅か一週間足らずの付き合いでフェルディナントから戦意を引き出させたベレトの手腕か。もし彼が教師ではなく正式な将として活動したら、一体どのような軍勢を率いるのか。

 

 そこまで考えて頭を振る。フェルディナントの脱落はまだ宣言されていない。止めを刺して、次の戦いに向かわなければ。気を抜いていられない。

 今や戦場に残っているのは()()()()()()()()()()()()()()()なのだから。

 

 ここからでも逆転してみせる意志を固めて一歩踏み出せば、狙いすましたように飛来物が邪魔をする。槍を振れば軽く弾かれたそれは……弓?

 フェルディナントが悪あがきに槍を投げてきたのかと思ったが、その後ろから走ってくる人影が投げたのだと察した。

 

「来たか、先生!」

 

 変わらない疾走で近付いてくるベレトを見て覚悟を決める。

 勝算はある。実力者である彼とて相当な疲労が溜まっているはずだ。ぶつかる前に投げた弓(誰かから奪ったのだろう)が証拠。フェルディナントを守るために少しでも足を止めようと牽制したのだ。走るだけでは間に合わないから。

 対してこちらは先ほどの一戦での消耗は少なくまだまだ余裕がある。今の一対一なら負けるつもりはない。

 

「俺は、貴方に勝つ!」

 

 無言のまま疾走の勢いを乗せたベレトの剣を、ディミトリは真っ向から受け止めてみせた。

 次いで二撃、三撃と打ち合い、鍔迫り合い、弾いて再度打ち合い、そうして戦う中でやはりと思いを深める。

 

 案の定、剣に力が乗り切っていない。以前目にした彼の剣技と比べて明らかに力が込められていないのだ。

 疲労がベレトの剣から力を奪っている。当たり前だろう。対抗戦の始まりと同時に走り出してから、平野を西へ東へ止まることなく走り続けて、その間に何度も戦闘を挟んでいるのだ。移動距離で言えば疑問の余地もなくトップである。しかも始まってからまだ十分も経っていないのに。

 このチャンスを逃すわけにはいかない。疲れのせいか、剣が大振りになっているのが分かる。踏み込み切れていないし、逆にこちらの踏み込みに押される始末。

 

 いける。あのベレトを相手にして、今だけは恐怖を感じない。この状況は間違いなく好機だ。

 

「これで終わらせる!」

 

 上段から大きく振り下ろすベレトの剣を、掬い上げる槍の一撃で迎え撃つ。

 渾身の激突は──キンッ──思いの外、軽やかな音で終わった。もはや握力すら失ったか、すっぽ抜けて弾かれたベレトの剣がクルクルと回りながら空高く打ち上げられる。

 

 振り切った体勢のベレトは、もう身を守る術はない。逃げられる前に止めを刺す。そのために槍を構えようとしたディミトリは信じられないものを見た。

 なんとベレトは逃げるどころか、逆に踏み込んで槍を持つディミトリの手を直接抑え込みに来たのだ。さらには足を踏んでこちらの動きを封じて腰を落とすという不動の構え。

 

 まさか、自分と真っ向から力比べをするつもりか?

 ならば思い知らせよう。単純な力は誰にも負けない自身の強さを。

 そう意気込んで腕に力を込めようとした時だった。

 

「今」

 

(……は?)

 

 ポツリと、一言どころかたった一文字の声を出すベレトに、思わず注目してしまう。前振りがないにも程がある発言にどうしても困惑が先立つ。

 注目し、意識が奪われ、他を忘れてしまった。

 

 直後──突き刺さるような衝撃が身を貫く。

 背中寄りの脇腹に食い込んだのは訓練用の矢。

 

 まさか。

 まさかまさかまさか。

 振り返って確認した矢の角度、背後に広がる平野、遠く離れたところに立つ一際大きな木。

 目を凝らしてみれば、木の葉に紛れて微かに見えるのは紫色の髪。

 

(そうか! 黒鷲の学級にはベルナデッタがまだいた!)

 

 他の四人の、特にベレトの動きがあまりにも派手ですっかり失念してしまっていた。あそこにいるのはベルナデッタ以外にありえない。

 だが、それにしても……事ここに至るまで自身の存在感を消し、あんなにも離れた場所から、この最高のタイミングに狙いすました一射を叩き込むなど、まるでスナイパーのようではないか。

 

 そして無防備なところに一撃を受けたディミトリがどうなるか、決まっている。

 

「ディミトリ、脱落!」

 

 ジェラルトが下した審判が響き渡る。全ての戦いが終わったことを理解して力を抜いた。

 

「結局、全てが貴方の掌の上だったというわけか、先生」

 

 苦笑交じりに溢すディミトリの前で、落ちてくる剣を事も無げに掴んでみせるベレトの姿が雄弁に物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 今にも心臓が口から飛び出しそうな緊張感の中、それでも構えた弓を落とすことなくベルナデッタは樹上にいた。

 

「あああ当たあ当たったたったた……当たりまましたたたたああ……先生ぇ、ベルの矢が、あ、当たりましたよぉ……」

 

 緊張に歯を震わせながらも、絞り出したその声には隠し切れない安堵と達成感が滲んでいた。

 

 たった一人の行動を余儀なくされて泣き出しそうになる自分を励ましながらなんとか辿り着いたのが、平野で最も高い木の上。

 ほとんど経験がない木登りではあったが、ベレトが調査したというその木は予想以上に掴みやすい枝が多くあり、落ちないよう慎重に足をかけて登っていけば平野のほぼ全体を見渡せる絶好の高所に陣取ることができた。

 ベルナデッタとて馬鹿ではない。戦略上、敵勢より高い場所を押さえることがどれだけ重要か、知識としては理解している。まさか自分がその大役を仰せつかるとは思いもしなかったが。

 

 震える体を動かして木の下に辿り着いた時には、どうやら自分は全く注目されていないらしいことに気付いてちょっとだけ安心したり。

 高所なところはともかく周囲を木の葉に覆われた空間は、屋外でありながらどことなく引き籠りに適した場所に思えて、彼女の緊張をほんの少し和らげてくれたのも大きい。

 

 そんなベルナデッタに求められたのは狙撃。それも曲芸ならぬ曲射である。

 

 ………………

 

『Cチームはすぐに役目があるわけじゃないから慌てなくていい。

 いいかベルナデッタ。君のやることは二つ。

 一つ目は誰にも見つからないようにAチームの後ろから隠れて進んで、平野中央に立つ一番大きな木に登るんだ。君の体格と体重ならちゃんと支えられる枝がたくさんある。

 二つ目は高所で弓を構えたら俺の動きを目で追え。そして俺の剣が高く打ち上がった時に、戦ってる相手を狙撃するんだ。その時の相手は俺が抑えて動けなくする。遠く離れてるだけで止まってる的を射るのと同じ要領でいい』

 

 ………………

 

 作戦をベレトから説明された時は、本当にそんな上手くいくのかと疑う気持ちの方が強かったが、跳ね返る心臓をなだめてベルナデッタは役割を全うした。

 自信のない彼女が、これだけは多少はできるかも、と思える力をベレトが見出してくれたことが嬉しくて。

 そうだ……自分は嬉しかったのだ。会ったばかりの先生がちゃんと自分を見ていてくれることが分かったから。

 

 様々な方面で低成績を叩き出すベルナデッタが、唯一つ群を抜いて優れた成果を出した科目がある。それが弓術。特に遠方から静止目標への狙撃は学校でトップの記録を残しているのだ。

 残念ながら、大樹の節の初めの授業で一度やったきりその腕前を見せることなく引き籠ってしまったので、黒鷲の学級の生徒もベルナデッタの弓の印象は薄かった。

 しかし彼女の力は生徒の資料に成績として記されており、セテスから受け取った引継ぎ用の資料を読み込むベレトの目に留まり、今回の対抗戦で白羽の矢が立ったのである。

 

 ふと、右手を見る。入場の際にベレトが引いてくれた手は、たしかに自分の手なのに何故か特別に思えて、弓ごと胸にかき抱く。

 期待されたことなど久しぶりだった。父には見限られ、母が保護目的で送り出した先の士官学校でも周りが怖くて仕方なかった。まともな友人と呼べる相手もいない中、引き籠りになったことを後悔しているわけではないが、それでも卑屈な自分が変わったわけではない。

 ベルナデッタは変わりたいとは思っていない。ただ、今の自分を認めてもらえたことが、今の力を見出してもらえたことが、嬉しいのだ。

 

「先生……ベル、ちゃんとがんばりましたから、ちゃんと褒めてくださいね……」

 

 

 

 

 

 

 

 ベレトが駆け寄ってくるのとエーデルガルトが意識を取り戻すのはほぼ同時であった。

 

「エーデルガルト」

「……あ、師……」

 

 蹲ったまま力なく見上げるエーデルガルトは、意識こそ戻ったものの、動ける気力がないのは誰の目にも明らかだった。

 汗を吸い過ぎた肌着が気持ち悪い。頭はまだ朦朧としているし、腕も足も重くて仕方ない。

 それでも戦場にいるのなら言い訳はできない。何分も意識を失っていたとは思えないから状況は変わっていないはず。

 

「ごめんなさい、今立つから……また、走らない、と……!」

「いや、無理はするな」

 

 震える体を叱咤して立ち上がろうとするエーデルガルトだが、耳に入ったベレトの言葉に疑問を覚える。

 無理をしない戦いなんてないだろうに。自分は代表として戦いに来ているのだ。甘やかさないでほしい。そんな気持ちを顔に出したつもりだが、こんな時でも彼の返事は単純明快で短かった。

 

「もう終わった」

「……え?」

 

 どういうことかと聞く前に、彼女に応えたのはベレトではなく審判の声だった。

 

「対抗戦終了! 勝者は……黒鷲の学級だ!」

 

 気を利かせてエーデルガルトが聞けるようになるまで待っていたのだろう、ジェラルトの宣言が響くと見学席の生徒達から歓声が上がった。

 

 エーデルガルトは困惑した。ドゥドゥーとの戦いを制して、ベレトを見送ってからいくらも経っていないはずだ。現に体は満足に立てないほど疲れ切っている。

 何が起こったの? 改めて疑問の視線を向けるとベレトも答えてくれた。

 

「金鹿の学級は先に倒してきた」

「…………はぁ!?」

 

 彼の話を聞いてみると、こういうことだった。

 

 青獅子の学級との戦いで、ディミトリをフェルディナントに、ドゥドゥーをエーデルガルトに任せることにして、自分はさらに北のメルセデスを討ち取りに走った。その手に持つ弓を奪い、首に剣を突き付けたところで彼女の脱落は宣言された。

 そこまではエーデルガルトも想定していたのだが、なんとベレトは戻って加勢するのではなく西へと転進、密かに距離を詰めてきていた金鹿の学級の残り三人を先に討ち取りに行ったのだと言う。

 黒鷲(アドラー)青獅子(ルーヴェ)がぶつかって消耗したところを裏手からこっそり回り込んだ金鹿(ヒルシュ)が漁夫の利を狙う。いかにもクロードが好みそうなその作戦を、ベレトは読んでいたのだ。

 案の定近付いていたクロードの射かける矢を先読みで回避し、ヒルダ諸共斬り伏せ、マヌエラの魔法をやり過ごし、三人を脱落させてから舞い戻ったのである。

 

「戻った時にはちょうどエーデルガルトがドゥドゥーを倒したところだったから、すぐにディミトリに仕掛けに行けて助かった。後少しでフェルディナントがやられるところだったよ」

(なんて人なの……!)

 

 彼も相当粘ってくれたな、と感心したように頷くベレトは額に少し汗を浮かべた程度で息も乱しておらず、何なら今すぐにでも戦いを続けられそうだ。信じ難いタフネスぶりである。おまけにその健脚。二人の生徒という荷物がない状態ではさらに速く走れたのだろう。

 文字通り戦場を縦横無尽に動き回り、厄介な敵を一手に引き受けた彼は間違いなくこの戦いにおけるMVPだ。

 

 そして何故対抗戦が終わったことが分からなかったのか、原因も理解できた。

 なんのことはない。集中しすぎるあまり、自分がジェラルトの宣言が聞こえていなかっただけである。

 

「エーデルガルト」

「……何かしら」

 

 遊びに夢中になって話を聞けてない子供のようだと思わしき振る舞いをした自分に恥じ入って視線を合わせ辛いエーデルガルトに、目線を合わせようと片膝をついてベレトは尋ねた。

 

「あの時の君には何が見えていた?」

「どういうこと?」

「君はディミトリの方に行くように俺は指示を出した。最初はディミトリに向かっていったのも見えた。けど途中から方向を変えてドゥドゥーに向かっていった。あの時、何を考えていた?」

「……何て、言えばいいか」

 

 ベレトも責めているわけではないのだろうが……上手く説明できない。エーデルガルト自身も何があったのかよく分かっていないのだ。

 絶好調だったのは間違いない。疲れを自覚していても、それを無視して手足が飛ぶように動いた。

 だがそれだけでは説明できないこともある。視界が増えたり、いつになく頭が働いて先を見通して動けたことは今でも不思議なのだ。

 

 仕方なくそのまま伝えるしかなかった。息は整ってきたので、口を動かすくらいなら辛くない。

 

「私にもよく分からないの。あの時、走りながら急に視界が増えたような気がして、ああすれば師がもっとたくさん動けると思ったのよ」

「視界が増えた?」

「ええ。それに不思議なくらい体が動いて、頭も冴えて、それまで見えてなかったものまで見える気分だったし、あの時は何でもできるような気もしたわ」

 

 話しながら、少しずつ居たたまれない気持ちになってくる。

 要するに、エーデルガルトは己の判断でベレトの指揮を無視した形になるのだ。今回の将として勝手な期待を寄せておきながら、兵の自分が思惑から外れた行いをしてしまった。実際の軍に当てはめればこれは軍法違反に該当するのではないか。

 

「私がドゥドゥーを抑えれば、師はもっと自由に動けると思って……ごめんなさい。師の作戦を台無しにするところだったわ。あそこで私が負けていたら黒鷲の学級が崩壊していたのかも……」

「謝る必要はない」

 

 言いながら落ち込んでいくエーデルガルトをベレトは静かに遮る。

 

「こうして勝てたのなら、あの判断が正しかった。俺の方こそ、生徒の力を正しく把握しないまま運用していたんだ。すまなかった」

「そんなこと……! 私が師の判断を無碍にして……」

「エーデルガルト」

 

 焦るエーデルガルトを前にしても、ベレトの無表情は崩れない。だが、その顔が普段より柔らかいものに見えるのは気のせいだろうか。

 

「結果が全てとは言わない。それでも、結果は他の何より優先される。戦場なら尚更だ。あの時のエーデルガルトの判断がこうして勝利をもたらした。ならそれ以外の仮定の話は全部下策になる」

「それは……さすがに暴論ではないかしら」

「そうかな? そうかもしれない。でも俺はそう思うよ」

 

 また一つ、彼のことが分かった気がする。

 

 ベレトは現実主義者だ。型に捉われず、偏見も先入観もなしにありのままを見る。

 級長という立場に捉われずエーデルガルトの力を評価したように。

 引き籠りという風聞に惑わされずベルナデッタの力を見出したように。

 その主義は自分自身にも向けられていて、明らかに実力の劣るエーデルガルトの判断であっても、それが勝利に繋がったならあっけらかんと受け入れる。己の判断さえもあっさりと切り捨てて。

 

「それに、俺は嬉しいんだ。エーデルガルトが成長したことが」

「私が?」

「新しい見え方ができたということは、君が自分の殻を破って新しいものを手に入れたということだ。その感覚を忘れるな、今君が掴んだものは大切な力になる」

 

 そっと頭を撫でられる。クシャクシャに乱れた髪を梳くような優しい手付きがくすぐったい。

 

「黒鷲の学級の勝ちだ、おめでとう」

「──っ!」

 

 今、ほんの少しだけだが──彼が笑った。

 

 湧き上がるこの気持ちを何と呼ぶのか、分からない。

 それでも思うのは、この気持ちを大切にしたい、ということだった。

 

「……やっぱり私ではないわ、師」

「ん?」

「貴方が勝利を呼び込んでくれたのよ。私達はそれに手を伸ばしただけ。だから、私からも言わせてちょうだい」

 

 精一杯の笑みを浮かべて、この気持ちを感謝といっしょに届けられるように。

 

「ありがとう師、黒鷲の学級を選んでくれて」

「どう、いたしまし、て?」

 

 伝わっているのかいないのか……よく分かっていないようだ。

 まあそれもいいだろう。

 

「ところでヒューベルト達が向こうで見てるんだが、そろそろ俺達も戻ろうか」

「ぅえ゙」

 

 らしからぬひどい声が出てしまったが、そんなことはどうでもいい。

 

 ここ、平野。

 対抗戦、終わったばかり。

 見てる人、いっぱい。

 やってること、全部見られてる。

 

 完全に失念していた。見ればヒューベルトがいつもの険しい目付き(心なしかジト目)で眺めている。その後ろには槍を杖代わりにしたフェルディナントも、珍しそうに見やるディミトリまで。見学席の生徒達も軒並み注目しているではないか。

 子供のように撫でられていることが急に恥ずかしくなってきた。

 

「そ、そうね! 私達も戻りましょうか!」

「ああ、それじゃ」

「え、あの、せんせ?」

 

 先に立ち上がったベレトが両脇の下に手を入れてきて、グイっと持ち上げられる。

 まるで『高い高い』されているようで、子供どころか赤子扱いであった。

 

「ちょ、ちょっと師!? はな、放して! 降ろしてちょうだい!」

「立てるか?」

「立つから! 大丈夫だから!」

 

 体はまだまだ疲れが抜けていないが、多少休めた足腰に喝を入れて根性で踏ん張る。さすがにこれ以上恥を晒したくない。

 先ほどまでの感謝など忘れたようにベレトを睨め上げる。次期皇帝を公衆の面前で辱めるとは何たる不敬か。これはさすがにビシッと言ってやらねばなるまい。

 

 別の意味で乱れた息を整え、口を開こうとしたエーデルガルトだが、彼女よりも先に平野に声を響かせる者がいた。

 

「誰かあああああ!! 助けてくださあああああい!!」

 

 聞き覚えのある悲鳴だった。救援を求める切実な叫びは平野中央から聞こえる。

 出鼻を挫かれてエーデルガルトは脱力しそうになる。ベレトといっしょに視線を向けた先は当然大きな木があって。

 

「今の声って……」

「ベルナデッタだな」

「戦いは終わったのにどうしたのかしら」

「高いところに登れたはいいけど、自力で降りられないんじゃないか?」

 

 猫かよ。

 たしかに引き籠りというインドアの筆頭であるベルナデッタに、階段もない高所への昇り降りは難易度が高いのだろうが……何もこのタイミングで叫ばなくても。

 エーデルガルトとしてはそんな無慈悲な思いが湧いてくるのだが、ベレトからすれば生徒が助けを求めているのだから無視する理由などなく。

 

「助けてくるから、エーデルガルトはみんなといっしょに先に戻っててくれ」

「え?」

 

 そう言い残し、ベレトは一人走り出す。

 想像通り、疲れを微塵も感じさせない軽快な足取りは、今だけは頼もしさよりも憎らしさを感じさせた。

 

「ちょっと、師……ああ、もうっ」

 

 どんな顔で戻ればいいのよ!

 地団太を踏むエーデルガルトを見つめる周囲の人間は、この時ばかりはあらゆる垣根を越えて心を一つにしていた。

 

 ──ああ、今後も振り回されるんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、学級対抗の模擬戦は幕を閉じた。

 勝者は黒鷲の学級。それも代表の五人全員が生存する完全勝利。

 試合時間は七分二十六秒と、過去の対抗戦の記録を大きく塗り替える驚異の短時間を新たに刻み、その内容は関係者を驚かせたのだった。




 この話を書くにあたって
「俺はなぁ! 強くて優しくておもしろくてカッコいい師が見たいんだよ!!!」
 と考えながらこの話を作りました。
 なので心情的にもかなーり優遇して(もっと言えば贔屓して)描写している自覚はあります。彼の強さとかマシマシで書きました。元々僕が主人公大好きなのもありますね。
 ゲームではプレイヤーに成長を感じてほしいから主人公もレベル1から始まりますけど、設定を考えるなら幼い頃からジェラルトの薫陶を受けて傭兵として長く活動してきた彼が生徒達と同レベルからスタートなわけないでしょ、という考えを僕なりに表現しようとしてます。
 後、散策する時の主人公の足の速さに驚いたプレイヤーも多いはず。


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激闘と模擬戦、力への渇望

 バトル回。書いててすごく楽しかったです。


 その日、ガルグ=マク大修道院にある訓練所はかつてない賑わいを見せていた。

 普段から訓練所をよく利用するフェリクスやラファエルを始め、ここへ訪れることの少ないドロテアやヒルダも珍しく足を運び、書庫に籠ることの多いリンハルトやリシテアまでが顔を出しに来た。他にも様々な生徒が集まっている。

 休憩中の女中、手隙の警備騎士、たまたま修道院を訪れた一般人まで。

 これほどまでに人が押し掛けた日はなかっただろう。

 

 それだけ人が集まれば当然ぎゅうぎゅう詰め。座る場所などありはしない。ましてや他人とぶつからない余裕のあるスペースなど以ての外……中央以外は。

 訓練所の中央。戦うには十分な開けた空間に二人の影がある。その二人の戦いを見たいがために大勢の人が訓練所に詰めかけているのだ。

 

「まったく、真面目に訓練に励むべきこの場に、お遊び気分でやってくる者がこんなに多いとは」

「あら、お兄様だって見物目的で訪れたのではありませんの?」

「そう言わないでおくれフレン。彼を見定めるためにも、このような機会は見逃せないのだよ」

「ふふ、そういうことにしておきましょうか」

「フレン……」

「ほらほら、もうすぐ始まりそうな雰囲気ですわよ」

 

 その一角に立つセテスとフレンの言葉通り、集まったのはほとんどが野次馬みたいなものである。修道院での穏やかな日々はこのフォドラでは得難い貴重なものなれど、そこに投げ込まれた珍しいスパイスとも言える出来事にはこぞって注目が集まるものだ。

 特に今回の場合、注目の的になっている二人の内の片方が何かと話題に上る『彼』とあってはこうして騒がれるのも仕方あるまい。

 

 片やセイロス騎士団でも最強格と囁かれ、操る英雄の遺産の名の如く【雷霆】の異名をフォドラに轟かせる騎士、カトリーヌ。

 片や傭兵という身でありながら士官学校の教師に取り立てられ、先の聖廟襲撃事件を鎮圧に導いた黒鷲の学級(アドラークラッセ)の担任、ベレト。

 

 修道院の誰もが知る強者の二人が手合わせするとあれば、騒がれて当然というものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 切欠は些細な口喧嘩だった。

 翠雨の節、暑い日が続くある日の正午過ぎ、昼食を終えた生徒達が午後の授業に向けて休みを取ったり先んじて精を出したりする中、教室前の中庭で雑談に興じていたとあるグループでこんな発言が出たのだ。

 

「なんかさ、黒鷲の学級ばっかりズルくねーか?」

 

 毎節出される課題は学級によって違う。それは騎士団の手伝いであったり、平民への奉仕活動であったり、どのような課題が通達されるかは生徒達には分からない。

 そんな中、今年の黒鷲の学級には毎節のように戦闘に携わる課題が出され、その重厚な内容は間違いなく生徒を大きく成長させる糧となっている。

 大樹の節にあった学級対抗の模擬戦はともかくとして、続く竪琴の節、花冠の節がどちらも激しい戦闘に関わる課題で、その次の青海の節には黒鷲の学級だけが修道院への侵入者と戦う羽目になったのだ。

 

 むしろ毎節のように物騒な事態に巻き込まれて落ち着く暇がないとも考えられるのだが……隣の芝は青く見えるもの、当事者以外の他人からは良い部分しか注目されないのが世の常である。

 

「聖廟の襲撃に当たりを付けてたっていうけど、ただの勘頼りじゃねえか」

「しかも担任のあの傭兵、今度は英雄の遺産までもらったとか」

「レア様のお気に入りってのも噂じゃなかったのか」

「由緒正しい士官学校に紛れ込んでおいて、どこまでデカい面するのやら」

「見てくれはいいのはたしかだ、大した美形だよあれは」

「顔を買われて騎士団の情夫でもやってたりするのか?」

「よせやい、あの無表情だと逆に笑うぜ」

 

 単純な妬みだけならまだよかったのだが、仲間内のノリで徐々に内容が毒を含むようになり、いつしか下世話な侮蔑に変わっていくのが止まらなかった。

 それ自体は陰口という形でよくある話かもしれない。誰にも聞かれなければその場限りの雑談の範疇で済ませられただろう。

 だがそれを拾った相手がよりにもよって黒鷲の学級の生徒だったことが全ての始まりであった。

 

「随分と言ってくれるわね」

「げ……」

「あ、貴女様は……」

 

 他学級のグループに臆することなく近付いてきた少女を見て及び腰になる。若くして威厳と優雅さを兼ね備える彼女は分かりやすく冷たい視線で一同を睥睨していた。

 彼女の同行者の少年も憤りを隠す気はないようで、静かな怒りを滲ませる表情で隣に立つ。

 生徒の往来が活発な中庭でする雑談ではなかったということだろう。

 

 だが一部の者は恐れを押し殺して睨み返した。

 ここはガルグ=マク大修道院の士官学校。貴族も平民も、誰もが生徒として同じ立場にあるのだ。一方的に抑えつけられる謂れはない。

 

 なお、本人の名誉を慮って、やり取りの中での名前は伏せさせていただきます。

 

「……そう思っても仕方ないだろ。実際贔屓されてるようなもんじゃないか」

「そ、そうだそうだ。だいたい教師にするにしても若すぎだろ。あんたらだってあんなのに教わるのが不満じゃないのかよ?」

「呆れたわね。対抗戦の内容を見てもまだ(せんせい)の力を認められないなんて……もしかして大樹の節は寝ていたのかしら」

「それこそダメなところだろ! あんな戦い方が実戦で通用するものか!」

「その実戦を数え切れないほど経験してきた人が考えた作戦よ。浅はかな了見でしか語れない貴方が口出しする資格なんてないわ」

「っ……そもそも貴族でもなければ、正式な実績もない傭兵が修道院に居座ること自体がおかしいのだ! 君達はそうは思わないのか?」

「愚問だな。先生の父親はかの【壊刃】で、それ自体が当面の身の証として十分ではないか。本人も教職に就いてから授業や課題を通じて日々実績を積み重ねている。他人の努力を認められないのは、貴族平民の別なく恥ずべき行為ではないかね?」

「ちっ……その力だってどうだかね。生徒を相手にいい気になれるくらいで英雄の遺産を使いこなせるものかよ」

「まだ言うの? ……つまり師の実力が分からないから彼の待遇に不満があるのね」

「ああそうさ。中途半端な実力しかない者に英雄の遺産を持たせたところで宝の持ち腐れ、このフォドラ全体の損失だ。物申す権利くらいあって然るべきだろう」

頑迷固陋(がんめいころう)な臣下を抱えた気分だよ……貴族としてその見識を正してやりたいが、私が口を挟んでも意味がない。先生に頼まなくてはいけないか。頭が痛くなるな」

「いいえ、これはきちんと分からせてやらないといけないことよ。彼らのような愚か者にも理解できる形で示してやらないと、今後いくらでもつけ上がるわ」

「おい、俺達のことをを馬鹿にしてるが、そっちこそあの男に肩入れしすぎじゃないか? 後でボロを出して恥をかく前に撤回した方がいいぞ」

「黙りなさい! 私達は師を本当に尊敬しているのよ。それを悪し様に言われて引き下がれるものですか!」

「ならどうする? 言っとくが、不満に思ってるのは俺達だけじゃないぜ?」

「証明する場を用意してあげるわ。貴方のような目が曇った者でも否応なしに師の力を理解できる場をね!」

「言ったな? そこらの適当なやつじゃなくてセイロス騎士団の実力者に勝てるくらいでもなければ俺は納得しねえぞ、それくらいできるんだろうな!?」

「ならセテス殿に相談して相応の人選をしてもらおうじゃない。彼なら公正な判断と采配ができるでしょうね、貴方と違って!」

「けっ、だったら今すぐ直訴しに行くかよ? 場を用意するとか言っといて逃げたりしねえだろうな!?」

「望むところよ!」

「………………ふむ、二人して行ってしまったか。彼女にしては珍しく優雅ではない姿だが、それも仕方あるまい。私とて気持ちは同じだからな。ああそれと、残っている諸君」

「な、なんだよ」

「自分の学級に戻って、担任に『午後の授業に遅れる者がいる』と伝えたまえ。それくらいは諸君にもできるだろう」

「分かったよ……」

「それと、これだけは私からも言わせてもらう。この士官学校には貴族も平民も立場の差こそないが違いはある。貴族は平民を導くためにより貴族たらんと研鑽を積み、平民は貴族の存在を身近にすることでより高みへ近付く、互いに良き影響を与えることを狙って学校という対等な仕組みの中に我々はいるのだ」

「…………」

「私は貴族として、その貴い姿勢を常に己に課している。君達が何を学びに来ているのかは知らないが、他人を悪し様に侮辱する雑談に興じるその姿勢こそが、フォドラの損失に繋がると心得たまえ」

 

 ……名前は伏せさせていただきます!

 

 

 

 

 

 

 

 そういうやり取りを経て二人の生徒が教団の執務室に押し掛けたのが昨日のこと。

 相談という名の陳情を受けたセテスが、本来の仕事でもないだろうに話を聞いて即座に場を作ろうと働きかけてくれたり、騎士団に話が及んだことで聞きつけたアロイスが面白がって団長のジェラルトにまでこの話を持ち掛けたり。

 あれよあれよという間に話は進み、騎士団の中で最高戦力の一角と言っても過言ではないカトリーヌが選ばれ、翌日の放課後にはこうしてベレトと一対一で戦う模擬戦の場が設けられたのである。

 

 セテスとしては、ベレトの人間性は修道院の生活を通して少しずつ探っていく他はないと分かっていても、せめて実力は可能な限り急いで把握したいと考えていた。生徒からの陳情という形を利用すれば、教団の公的な立場でも無理せず場を用意することができたのも都合がいい。

 まさかここまで注目を集めるとは思っていなかったが……さすがに賭け事は行われていないと信じたい。

 

 アロイスなんかは前からベレトの力に大きな期待と興味を持っており、その人望もあって騎士団に話を通す助けとなってくれた。この日は彼もちょうど手が空いていたらしく、始まりを今か今かと待ち焦がれる表情で観客側に立っている。

 ちなみにジェラルトの姿はない。朝早くに指示を出した彼は、今日は任務で修道院の外に出ている。見物に来れなくて悔しそうだったらしい。お疲れ様です。

 

 そして名指しを受けたカトリーヌだが、これは絶好の機会だと張り切っていた。

 以前からベレトの存在には懐疑的だったのだ。これといった背景もない彼がレアに目をかけられていることが気になっていた。特別扱いされていることに嫉妬していた、とも言う。

 ベレトが腕の立つ傭兵だったとは聞いている。実力があるのは分かるが、騎士団ではなく教師を任じられたのも異例なのだ。レアの判断を疑うつもりはないが、それでも「何故こいつだけ」という疑念は消えない。

 ならば監視し、特別扱いされるだけの理由を探ろうと考えていた矢先、なんと彼が天帝の剣の使い手に選ばれて、それをレアから下賜されたというではないか。

 これはいよいよ確かめねばなるまい。そう思っていたところにまさかの模擬戦の指名。二つ返事で受けて、今に至るのだ。

 

(あたしは納得したいんだ。こいつがレア様に認められるに相応しい男なのか……あたしにできるとしたらこういうやり方くらいだしね)

 

 対峙するベレトを見る。この状況に気負った雰囲気もなく、ともすれば暢気にも見える無表情で訓練用の剣を脇に挟んで伸脚している。

 

 他人の中身を推し量るなど武骨な自分にはできる気がしない。自分にできるのは剣を通じて相手の太刀筋から性根を感じ取るぐらい。ならばそれに集中しよう。同じ訓練用の剣を握り締め、カトリーヌは気合いを入れた。

 とは言え、当人はほとんど状況に流されているだけなのに、周囲の風聞に左右されたり、こちらの思惑に付き合わせていることに思うところがないわけではない。

 

「あんたも災難だね」

「そうでもない」

「あん?」

「俺にとっても利がある模擬戦だ、よろしく頼む」

 

 手首を解すようにクルクルと回しながらベレトはなんてことない風に答えた。

 

 実際ベレトにとって今回の模擬戦は渡りに船であった。

 日頃相手をするのは(悪く言うつもりはないが)彼にとって格下の生徒ばかりで、今の状態がこれ以上続くと感覚が鈍りそうだと心配になっていたのだ。

 そろそろ強い人と手合わせしたいと考えていたが、父は騎士団長の仕事で忙しいから邪魔したくなかったし、修道院で他に強い人の心当たりなどセテスくらいしか思いつかなかったが彼も彼で大司教補佐の務めなどに忙しい。

 天帝の剣などという仰々しい武器が自分にしか使えないとは言え、半ば成り行きで管理を任され、レアの信頼を裏切らないようにとセテスから面と向かって忠告を受けたからにはもっと強くならなくては、とベレトにも向上心が働いたのである。

 

 彼にしては珍しいことに、強くなることに意欲的だった。

 そう思わざるを得ない事態が前節の課題で起こったのだから。

 

 聖廟襲撃事件。

 それは青海の節に行われた女神再誕の儀に、女神の塔を中心に警備に当たっていたセイロス騎士団の目を掻い潜って、その日限定で一般開放された聖セイロスの遺骸が納められた聖廟が襲撃に遭った事件である。

 西方教会の一派によってセイロスの遺骸が奪われそうになったという、教団の全てを敵に回す不届きな出来事であった。

 

 それよりもさらに前の節に、これまた黒鷲の学級が鎮圧に協力したロナート卿の反乱で、大司教レアの暗殺について記された書簡が発見された。虚言で済ませるには無視できない内容に、セイロス騎士団は儀式の日の警備態勢をレアの護衛重視に切り替えなくてはいけなかったのだ。

 レアを守ることが最優先ではあるが、もし書簡の内容が嘘であり、修道院の他の場所が襲われれば騎士団の面目が立たない。そこで士官学校の各学級に今節の課題として修道院の見回りと警備を課したのである。

 

 ベレトが担任として受け持つ黒鷲の学級は、大聖堂を中心とした修道院の奥の方を担当。普段は封鎖されている修道院内の一部施設が再誕の儀には一般開放されると知り、わざわざこの日に計画するならいつもは入れないところが襲われやすいのでは、と考えて聖廟に目を付けていたのだ。

 そして予想は当たり、訪れた教徒に混ざって侵入した敵が聖廟で正体を現した。すぐに対応できた黒鷲の学級のおかげで一般人に被害こそ出なかったものの、修道院の奥地が敵勢力に占拠されるという異常事態に。

 騎士団に応援を頼もうとしたところ、敵側の将と思わしき人物が棺の封印を解いて遺骸を奪取すると宣言。これは救援を呼ぶ暇もないと判断して黒鷲の学級のみで鎮圧するしかなかったのである。

 

 その最中に会敵したとある人物が、ベレトの危機感を否応なしに煽ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

「死神騎士よ! 奴らを蹴散らしてきてくれ! ここに近付けるな!」

 

 聖廟に陣取る西方教会。その将の声が広大な空間に響く。最奥の棺が安置された祭壇からの指示を受けたのは、広間のほぼ中央に鎮座する異形の鎧武者であった。

 死神の呼称に相応しい、なんとも禍々しい意匠の全身鎧を纏うその人物は、しかし他の敵とは違い戦意を見せておらず、それどころかその場に腰を下ろしたまま呼びかけられても動く様子もない。

 

「あれは強敵ね……避けましょう。戦わなくて済むならその方がいいわ」

 

 エーデルガルトが言う通り、時間がない状況では無視できる相手は無視してしまいたい。一刻も早く奥に辿り着かないといけないのだ。

 戦意のない姿でも一目で分かるほど他の敵とは強さの格が違う。そんな手合いが動きそうにないならわざわざ戦う必要はない。

 

 そう断じて動いていたからか、その接近に気付けたのはベレトだけだった。

 

「エーデルガルト!」

「え、きゃっ!」

 

 西方教会の手勢を退けながら祭壇に急ぐ一行だったが、先頭を走るエーデルガルトの肩を引いたベレトが前に飛び出す。

 直後、轟音を響かせて一行の前に落ちてきた一人の影。先ほど見た時とは別人のような存在感を放つ死神騎士がそこにいた。

 

「なんだよこいつ、さっきは全然動かなかったくせに!」

「参っちゃうな……無視しようとしてたのに」

「戦う、回避、できない。戦う、のみ、やります!」

 

 ぼやきながら手に魔力を集めるリンハルトの横からカスパルとペトラが飛び出し、ベレトと並ぶ。もはや戦いは避けられない。強敵が立ち塞がるなら一致団結して打ち破らなくては。

 そうやって覚悟を固める一行のことを、当の死神騎士は歯牙にもかけていない様子だった。その興味は唯一つ、

 

「貴様……強いな」

 

 指差す相手、ベレト一人だった。

 

「雑兵に興味はなし……貴様、俺と死合え!」

 

 生徒にはまるで関心を見せない敵の姿を見て、ベレトは即決を下す。

 

「指揮権をエーデルガルトに預ける。みんなは先に行け」

「そんな、師は!?」

「俺はこいつの相手をしていく」

 

 おもむろに剣を抜くベレトを見て生徒達は色めき立つ。

 強敵を相手に一人で戦う必要はない、自分達も──そう動こうとした時である。

 彼らは生まれて初めて『空気が軋む音』を聞いた。

 

 全身が重い。

 視界が、思考が、心が、削ぎ落される。

 体中の骨という骨に氷の刃を差し込まれるような怖気。

 それは戦士としてはまだ若い生徒達が初めて受けた、本物の殺気だった。

 

 ごろつきが振り撒く粗暴なだけの威嚇とは比べ物にならない。

 純然たる殺意の権化が、文字通りの死神が目の前にいた。

 舌は凍りつき、関節が固まる。唯そこに在るだけの敵が放つ殺戮の意志に、誰もが膝を屈しようとしたその時。

 

 数歩、前に出る者が一人。

 

 碧色の髪と夜闇を思わせる外套の後ろ姿が、まるで防壁のように殺気を散らす。

 生徒が敵わない障害が現れた時、身を守る盾となり、道を斬り開く剣となるべく、彼は教師として前に立つ。

 決して大柄とは言えないベレトの背中が、一同に無尽の頼もしさを感じさせた。

 

「こいつは俺が相手をする。先に行け!」

 

 振り返らずに繰り返すベレトの声を聞いて、エーデルガルトはようやく気付く。

 彼ほどの実力者であっても目を逸らせない敵を相手に、自分達は足手纏いでしかないのだと。

 

「みんな、走って!」

 

 自身はドロテアの手を取って走り出す。固まりかけていた体を無理やり動かしたせいで若干つんのめりはしたものの、すぐに持ち直して駆け出せた。

 横を通り抜けても、対峙するベレトと死神騎士は何も反応を見せない。ペトラに支えられたベルナデッタを最後に、全員が次の通路に飛び込んでも互いに睨み合って動かないまま。

 

 師、また後で──声には出さず、視線を送るだけに留めて前へ向き直る。

 指揮を託された自分がしっかりしなくてはいけない。今はみんなと一緒に祭壇を目指すことに集中しないと。

 

 そうして他の者がいなくなり、二人が残ったこの場は殺気と剣気が鎬を削る、さながら結界にも等しい二人だけの空間ができあがった。

 

「強い……分かるぞ、貴様は強い……久方ぶりに感じる力の波よ……」

 

 兜の奥で爛々と光らせているだろう瞳に狂おしい欲求を乗せて、死神騎士は恍惚と呟く。

 

「我が逸楽足り得るか……試させてもらう!」

 

 ギチリと槍を握り締め、興奮気味の死神騎士が発した声が始まりの合図となった。

 

 先に動いたのはベレト。

 対峙した距離を、無音の踏み込みで一歩で詰め、鎧の隙間から脇の下を突く。

 初手から必殺を狙う剣は、死神の籠手で軽く払われた。目測を外された剣が鎧を掠め、ダメージがないまま攻守交替。

 死神騎士は逆の手に持つ槍を振るう。前方の空間を丸ごと薙ぎ払う一撃は片手とは思えない高速でベレトに迫る。

 剣で突いた勢いを殺さずベレトは相手の全身鎧を駆け上がり、軽やかな宙返りで回避に成功。

 互いに無傷のまま、最初の衝突は終わった。

 

 この一合でベレトは己の不利を理解した。

 まず、防御力に大きな差がある。全身鎧の敵に対して、要所を守るだけの軽鎧の自分。それでいて相手は防御を鎧任せにせず、自分の攻撃を丁寧に捌く技量を見せた。

 ならば重装の代償となる素早さはどうかと言うと、これも有利とは言えずほぼ拮抗。そもそも腰を下ろしていた位置からここに来るまで壁や柱を足場にして跳んできた身のこなしからして、鎧が身軽さを損なっていないことは明白。

 では肝心の攻撃力はどうか。間違いなくこちらが劣る。剣と槍のリーチの差は自分次第でいくらでも埋められるが、武器そのものの格はどうにもならない。あの鎌状の刃が付いた槍は恐らく名槍と呼ぶに相応しい一品。対してこちらは標準的な鉄の剣。

 

 導き出された結論は逃走一択。

 命を左右するその結論を、ベレトは寸分の躊躇いなく切り捨てた。

 

(そういうわけにもいかないんだ)

 

 もはや自分の命だけを気にしていればよかった傭兵ではないのだ。

 ベレトと戦うためなら、こいつは必ず生徒の命を脅かすだろう。生徒ではこいつに敵わない。抵抗も空しく殺されてしまう。

 

 だめだ、そんなことはさせない!

 守らなくてはいけない人がいる。

 守りたい人がいる。

 そのためには今ここで自分が戦って勝たなくてはいけないのだ!

 

 かつてない昂揚と決意が漲っていくのが分かる。他人の存在が力を与えてくれるのは不思議な感覚だった。昔の自分では考えられない気持ちだ。

 それと同時に、悪魔とも怖れられた時代の冷静さは維持する。熱さと冷たさを練り合わせて心を形作れ。敵に勝利し、自身は生き残る。か細い糸を手繰り寄せて描く勝利への道を見出せ。

 

 また後で──あの視線を思い出す。

 生徒を、彼女を悲しませることだけは、絶対に嫌だった。

 

「ほう……」

 

 ベレトの雰囲気が変わったのを感じ、死神騎士は感服の吐息を漏らす。

 

 聖廟に乱入してきた一行の中で、一目見た時から強いと感じていた。年の頃は他の若者と同じようだが、見る者が見れば分かる、ザコを蹴散らす道中の戦いぶりとその最中の細かい所作に表れる技の完成度。

 近付いて対峙してみれば、己の殺気を相殺してみせる剣気を放ち、邪魔者を先に行かせるという気の回しようも素晴らしい。

 そしてここに来てさらに戦意が上乗せされ、制御された感情を束ねて見事に自身の力へと昇華してみせた。

 

 この男は逸楽足り得る。

 

「良い……嗚呼、実に良いぞ……認めよう、貴様の強さ……」

「……」

 

 恍惚の声で語る死神騎士だが、会話に付き合う気はないベレトは戦意を凝縮した目を向けて低く構えるだけだった。

 

「さあ、逸楽よ……俺を楽しませろ!」

 

 歓喜と狂気に彩られた声を皮切りに激闘が始まった。

 

 ベレトが一呼吸の間に十に迫る連撃を見舞うと、死神騎士はそれを全て防いだ直後に渾身の突きを繰り出す。

 小回りだけは勝るベレトが懐に潜り込んでかわすと、床ごと砕かんと死神騎士の拳が打ち下ろされる。

 身を投げ出して軽業師のように股下を滑り抜けたベレトが背中を狙うも、振り返るより先に死神騎士が槍の石突で逆に狙う。

 防いだ石突に押されて吹き飛ぶベレトを追い、死神騎士が今度こそ振り返りその勢いで槍を振ろうと構える。

 空中でクルリと体勢を整えて壁に着地したベレトが強烈な跳躍で迫り、死神騎士の槍を掻い潜ってその鎧に擦過痕を刻む。

 

 そこから先も一進一退。両者の力はたしかに拮抗していた。

 ただし、一撃でもまともにもらえば終わりのベレトに対して、死神騎士は鎧の防御力というアドバンテージがあり、有利不利は明らかだった。

 

 変化は唐突に訪れた。

 振り下ろされたベレトの剣が死神騎士の兜に当たり、甲高い音を立ててあっさり折れてしまったのだ。

 所詮はただの鉄の剣。激闘に耐えられる質がなかっただけのこと。半ばから折れた剣の片割れがクルクルと宙を舞う。

 

 無論、武器が壊れたからといって温情をかける死神騎士ではない。

 

「死ね!」

 

 終わりの一撃を見舞うべく鋭く槍を突き下ろすが、それよりもさらに速くベレトは動いた。

 その場で高く跳躍して槍を回避、宙返りのように身を捻って、その足がまだ宙にある折れた剣先に追いつく。それに爪先を添えると、死神騎士に向けて一気に蹴り抜いた。

 折れた剣という本来なら無視される要素が、まさかの凶弾となって落ちてくる。槍を突き下ろした姿勢が動くよりも速く、死神騎士の首元、兜と鎧の隙間に銀閃となって飛び込んだ。

 

 決まった──そう思ったとしても責められまい。激しい戦闘の微かな合間、危機を好機へと変える正確無比な絶技をやり遂げたベレトは称賛されるべきだろう。

 惜しむらくは武器の耐久度。折れる前から酷使された刃は、その切れ味の大半が失われてしまっていたのだ。

 

 刃が食い込むも致命傷には程遠い剣先に頓着するより、死神騎士は片手を伸ばして宙にいるベレトの胸ぐらを掴む。そのまま片手だけで大きく振り回し、叩き潰す勢いで床に押し込んだ。

 轟音が鳴り響く。聖廟全体を揺らさんばかりの衝撃に床石は砕け、土埃が舞う。

 脳天から落とされたベレトもただでは済むまいが、確実に今度こそ槍で止めを──

 

 構えようとした死神騎士は土埃の切れ間から見えた姿に気付く。ベレトの眼光が、些かも衰えていない戦意がこちらに向けられている。

 遅れて気付く。彼の頭部を守るように側頭を挟む両の拳。叩き付けられる寸前、先に拳で床を殴ることで脳天だけは守ったのだ。

 

 死神の驚愕と僅かな硬直を見逃さず、逆さまになったままベレトは素早く動く。敵の前足を両手で抱え込み、逆に両足は相手の頭部を挟んだ。全身の筋肉を連動させて相手ごと上下を入れ替えんと振り回す。

 立場が逆となって繰り返され、今度は死神騎士が頭から床に叩き付けられた。

 再び轟音。先ほどと同程度の衝撃に、またも聖廟が揺れる。爆発したような土埃が舞い上がり、戦いの場を満たした。

 

 先に土埃から飛び出したのはベレトだった。大きく距離を取ると、頭を何度か振って立ち直る。タフな彼もさすがにダメージが大きかった。脳天は守ったとは言え、気を抜けばクラクラしそうだ。

 次いで埃を切り裂いて、槍を振り切った死神騎士が姿を現す。鎧から血が滴るのが見えるが、動きを損なうほどの傷ではなさそうだった。叩き付けた時に剣先がもっと深く刺さればと思ったが、相手も上手く受け身を取ったのだろう。

 

 死神騎士は首元を探り、刺さった剣先を引き抜くと興味深そうに眺める。これまでの攻防で刃は擦り減り、壊れた武器の末路らしくみすぼらしい有様。だがこんな鉄の切れ端みたいなものが後少しで己を殺すところだったのだ。

 そして、それを為しかけたのが目の前の男。

 

「クククっ……フハハハハハ! 楽しい、楽しいぞ逸楽よ! 戦いとはやはりこうでなくてはいかんな……!」

 

 心底楽しそうな死神騎士を見て、ベレトは若干うんざりしていた。こっちは好きでやってるんじゃないという思いが生まれるが、口にしたところで無駄だろう。

 近くに落ちていた刃折れの剣を拾って構える。こんなものでも無いよりマシだ。後は格闘術で補いつつ何とかするしかない。状況は一層不利になったがやることは変わらないのだ。

 

 この期に及んで萎える気配のない戦意に、死神騎士は沸き立つ。まだまだ楽しませてくれそうだと槍を握り、構えようとした時である。

 複数人の足音が聞こえ、場に乱入する者が現れた。

 

「ここか! 応援に来たぞ!」

 

 西方教会の勢力だろう教団兵が三人飛び込んできたのだ。

 功に逸ったのか、純粋に援護に来たのか、いずれにせよ空気が読めないにもほどがある行動だったことは間違いなく。

 二人の結界に足を踏み入れた闖入者が暴威に飲まれるのは必然だった。

 

 ベレトと死神騎士は、完全に同時に動いた。

 死神騎士が槍を一振りするだけで二人まとめて撫で斬りに、残った一人をベレトが腹を殴って下げさせた顎を膝蹴りでかち上げて、三人共瞬殺に追い込んだ。

 時間にすれば二秒にも満たない出来事である。

 

 しかし、たったそれだけのことでも無粋な横槍を入れられたことには変わりない。

 

「……興が削がれた」

 

 それまで満たしていた殺気を収めた死神騎士が呟く。

 ノリノリで楽しんでいたところに冷や水をかけられたようなものなのか、あれだけ張り詰めていた雰囲気がいつの間にか消えていた。

 それでも兜の奥の目だけは変わらず爛々と光りベレトを見据えている。

 

「この場は見逃そう……逸楽よ、己に相応しき武器を求めよ……次は、殺す」

 

 そう言い残し、死神騎士は背を向けた。

 本当に見逃すのかと警戒を解かないベレトを余所に、来た時と同じように大きく跳躍してその場を去っていった。

 埃臭い場に残されたのはベレトと、横たわる三人の教団兵。

 

「……………………はぁ、しんどい」

 

 長い緊張をようやく解いてベレトは一息吐いた。

 

 久しぶりの強敵だった。一歩間違えば殺されるレベルの死闘は、経験がないわけではないのだが、何度やっても慣れる気がしない。

 このレベルの戦いに巻き込むには生徒達の実力ではまだまだ心細い。自分が相手をしなくてはと考えられたのは、少しは教師らしくなれたということだろうか。

 

 さて、と気持ちを改める。

 先に進んだ生徒達に追いつかなくてはいけない。ここからでも戦いの音が微かに聞こえるので、まだ棺には辿り着いていないのだろう。死神騎士との戦闘はそこまで時間が経っていなかったのか。えらく濃密な時間を過ごした気分だった。

 

 倒れた教団兵を見やる。死体に思うところがあるわけではない。何か使えそうな武器があれば拝借しようと確認しただけなのだが、魔法兵だったのか、三人共得物がなかった。残念。

 仕方ないので先に進もう。軽く体を動かしてダメージを確かめる。戦闘行動は問題なし。ちょっと頭が濡れてる気もするけど、どうせ少し切って血が出ただけだ。平気平気。

 

「よし……急ごう」

 

 数歩の踏み出しで今出せる最高速へ達する。聖廟の奥へ、生徒達の下へ急げ。

 エーデルガルトは無事だろうか。

 生徒の誰かが傷付いていないだろうか。

 別の強敵が現れたりしてないだろうか。

 

 そういえば。ふと疑問が浮かぶ。

 

(イツラクって何のことだ?)

 

 死神騎士がしきりに口にしていた言葉。自分に向けられた呼びかけなのは分かるのだが、はてどういう意味なのか。帰ったら調べてみよう。

 頭の中では暢気なことを考えながら、体は戦士の本能に従い、聖廟を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに命のやり取りを経験して、ベレトは身が引き締まる思いだった。

 あのまま戦っていれば死んでいたかもしれない。相手が引いてくれたのはただ運がよかっただけだ。

 

 奥の手とも言うべき天刻の拍動は、あくまで多少の時間を戻すだけの能力であり、戦力の差を覆すようなものではない。

 内心に住まう少女ソティスに相談してみれば、時間を戻したところで状況が同じであれば辿る結末も同じになるとのこと。あの戦いを繰り返したとしても、剣は折れ、結局はジリ貧になっていただろう。

 

 幸運なのは、戦闘狂らしい死神騎士の興味がベレト一人に向けられていることか。

 逸楽という言葉を調べたら、気ままに遊び楽しむことらしい。恐らくあの死神から見て自分は遊ぶ対象、好敵手みたいなものとして認識されたのだろう。

 

 あの暴威が生徒に向かわないのであれば、ある意味安心して己を高められる。

 天帝の剣という、おあつらえ向きに強力な武器が手元にやってきたのだ。経緯はどうあれ、せっかく手に入れた強そうな力をきちんと使いこなして、次は運頼みではなく確実にこの手で生徒を守れる力を身に付けたい。

 そして今、相手になってくれるのは同じく英雄の遺産の担い手であるカトリーヌ、謂わば自分にとって先輩にあたる人物、願ってもない人選である。

 そういった事情もあって、ベレトはこの手合わせに乗り気だったのだ。

 

 流石にそういう事情までカトリーヌは理解できていないのだが、ベレトの態度を見てとりあえずやる気があるのは分かった。相変わらず無表情だけど。

 

 二人が訓練所に来て、観客を分け入って、中央の開いたスペースで向かい合ってからそれなりに時間が経っていた。示し合わせたように距離を保ち、遠巻きに睨み合いながらスペースの外周に沿ってゆっくりと円を描いて動き続けている。

 

「始めの合図は?」

「必要ない」

「だろうね」

 

 交わした言葉は少なくとも、それだけで互いには十分だった。

 

(さっきから見られてる……出足の観察かい? 目敏い奴だね)

 

 気の抜けた風を装いながらも常に視界の中央に相手を置いている。外套に隠れて分かりにくいが肘と膝は僅かに曲げて、だらりと下げた剣を握る手は小指と薬指のみ力が入り、肩は抵抗にならない程度にうっすらと緊張が漂う。

 傭兵として生きてきた彼に騎士らしい構えはない。自然体がそのまま戦闘態勢になる、そんな生活に密着した戦い方がベレトのスタイルなのだろう。

 

 訓練所に足を踏み入れ、視界に姿を収めた瞬間から続く警戒にカトリーヌは感心していた。無理をしているようには見えない。準備運動をしながらも何気なく、自然体で戦意を維持する彼の姿はまさに常在戦場の体現。

 思えば彼の父親のジェラルトと顔を合わせた時も同じ印象を受けた。子供の頃から彼の薫陶を受けてきたのなら、この佇まいにも納得である。

 騎士団の若いやつらに見習ってほしいくらいだ。

 

 とは言え、ずっと睨み合っていたところで仕方ない。手合わせをしに来たのに先ほどから互いに視線で牽制し合うばかりで、ゆっくり動きながら訓練所の中央部を一周しそうだ。

 いつの間にか観客達も静かになっている。気が付かない内に二人が発する闘気に当てられたのか、固唾を呑んで見入っていた。

 

(このままじゃ埒が明かないね……こっちからちょっかいかけてみるか)

 

 カトリーヌがそう考え、踏み出すために少し多めに息を吸った、その時である。

 彼女の呼吸の変化と、重心の前傾を見抜いたベレトが先に飛び出した。

 行こうとした瞬間を狙って意識を被せ、先の先を取るベレトが先手。

 

「っと!?」

 

 開いていた間合いを一息に詰めたベレトに面食らうも反射的に剣を振る。中途半端な振りでも鋭さはあり、並の相手であれば十分反撃として通用しただろう。

 しかしベレトは並ではない。一気に体を沈めることで回避し、沈めた体を起こす反動でさらに突進。剣は後ろ手に控えたまま体当たりを仕掛けた。

 

 押されてカトリーヌの体が揺らぐ。バランスを崩されて死に体にされたところに、今度こそ本命の剣が振り下ろされて──間一髪で回避に成功。無理やり伸ばした片足で床を蹴り、体を動かせた。

 

 そこから片手で側転して剣を構え直そうとするが、それを待たずしてベレトが追撃を仕掛ける。

 三度、見せびらかすような斬撃から、防いだカトリーヌの前足に足払いをかけた。

 たたらを踏むカトリーヌに向けて、今度は力を込めた本命の斬り上げ。剣を挟んだものの受け止め切れず両者の距離が開く。

 

 ベレトの続け様の攻勢に観客は沸く。このまま彼が押し切って一気に終わらせるのか。そんな予感が過ぎる人もいるが、カトリーヌとて然る者、伊達に騎士団の雄として名を馳せていない。

 

「っだらあ!」

 

 大振りの横薙ぎ。間合いの外で踏み込みもせず空振りに終わるという、反撃とも言えないその攻撃は、ベレトに傾き始めた戦いの流れを一撃で断つ効果があった。

 風圧を伴いそうな強引な剣に、ベレトは思わず踏み込みを止める。

 

 ベレトの前進を唯一度の空振りで止めたカトリーヌは、紛れもない強者なのだ。

 

「悪いね、どうもあたしは腑抜けてたみたいだ」

 

 止まったベレトの前で、剣を肩に担ぐ。

 

 模擬戦の内容はレアの耳にも入るだろうに、とんだ失態である。情けない。対峙したからには戦うというのに何を気の抜けた心境でいるのか。

 違うだろう。相手を見極めるとか考える前に、剣を手に訓練所に来て実力者と向かい合っているなら、相応の心構えというものがあるではないか。騎士として、戦士として、戦いに臨む志を忘れてどうする。

 何が、若いやつらに見習ってほしい、だ。自分がまず目の前の彼を見習わなくてはいけないではないか。

 

 ふぅ、と一息吐いて心機一転。

 

「つーわけで……こっからは本気だよ」

 

 カトリーヌの雰囲気が変わったのを察し、ベレトも剣を構え直す。二人の間に漂う緊張がさらに高まった。

 

 そこから先は攻め手が逆転、カトリーヌが一気呵成に斬りかかる流れとなった。

 強烈な踏み込みによる一撃も、追い立てながら迫る連撃も、隙あらば必殺を狙う剣が次々に振るわれる。

 慢心や油断を捨てたカトリーヌは、彼女自体が一つの暴威であった。異名の如く、激しく、速く、一方的に落ちる雷のような蹂躙の剣がベレトに襲いかかった。

 

 堪らずベレトは防御へと切り替える。

 攻撃の一つ一つが重い。受け方を間違えれば剣ごと体を弾き飛ばされそうだ。剣と槍の違いはあれど、一撃の重さはあの死神騎士に匹敵するかもしれない。

 

 どちらかと言えばスピード重視で泥臭い戦い方をするベレトとは違い、カトリーヌの剣はパワー重視、それも一流の騎士の剣である。

 

 カトリーヌの戦う姿は知っていた。二節前の反乱鎮圧の際に目にした彼女の姿は、手にした雷霆の力もあって周囲の騎士団兵とは一線を画す強さだったが、あの時は少しも本気を出していなかったのだと理解する。

 今自分と戦っている彼女が英雄の遺産を振るえば──たった一つの武器が、たった一人の存在が戦局を左右するという話も、あながち誇張でもないと思えた。

 

 そんな彼女が今こうして自分との模擬戦で本気になってくれている。光栄と感謝、そして負けてたまるかという青臭い負けん気が沸いてくるのを感じた。

 

 聖廟での戦いを思い出せ。あの感覚をもう一度。

 熱さと冷たさを練り上げた心。それを力へ結びつける流れ。

 守るために戦え。

 守るために強くなれ。

 

(こうやって剣を合わせていけばきっと掴めるものがある、そのためにも……!)

 

「せいやぁ!!」

 

 普段のベレトを思えば珍しい気合いを発し、反撃を繰り出す。攻撃の合間を狙ったつもりだったが、しっかり反応されて防がれてしまった。

 

 今までと同じでは足りない。

 安物の鉄の剣とは違う、天帝の剣や雷霆という最高位の武器に見合う剣の振り方がある。それを知るための模擬戦ではないか。

 よく見ろ。少しでも盗め。必ず己の糧にしてみせる。

 

 目の前にいる最高のお手本から学ぶべく、ベレトは剣を握り直し斬りかかった。

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、とんでもない戦いだな。金積んだって見れるものじゃないぞこれ」

「ああ、この目で拝めることを運命に感謝したいくらいだ」

 

 観客の中でも最前列、気を利かせてもらい場所を優遇してもらえたことをありがたく思いつつ、激闘を特等席で眺める三人の級長の姿があった。

 

 ベレトが黒鷲の学級の担任になってからは身近に接するのはエーデルガルトだけになってしまい、ディミトリもクロードも歯がゆく思っていた。

 彼も学級の垣根を越えて質問に答えたり、相談に応じたり、訓練に付き合ってくれたりはするが、親密さではエーデルガルトに大きく後れを取っているのが現状。

 これまでにないほど生き生きとした表情で学校生活を送る彼女の様子は、そのまま見守りたいくらい微笑ましくはあるのだが、やはり自分ももっと仲良くなりたいという気持ちもある。

 ゆくゆくは彼を自国・自領へ……そんなことを考えるくらいにベレトを高く評価し、気に入っている。なればこそ、もっと彼のことを知りたいと思うのは当然で。

 

 そして今、その実力の一端を見ることができた。

 かの【雷霆】のカトリーヌと互角に渡り合う姿は、これが実戦ではなく模擬戦であることを忘れそうになるほど衝撃的な光景だった。

 

「なあ、あれ見てどう思うよ?」

「……力は俺の方が上だ」

「……言ってて空しくないか?」

「分かってる。ただの負け惜しみだ」

 

 クロードの問いに対して絞り出したのは微かなプライドの欠片、ディミトリなりの意地でしかないことは本人が誰よりも理解している。

 

「細かい理屈はさて置き、圧倒的に速い。単純な体の動作はもちろん、判断の速さとか……相手の動きへの対応が恐ろしく上手いな」

「そうだな。対抗戦の時はあの人の作戦にあっさり飲み込まれて、その後の動きも読まれちまったし……戦いながら何手先を読んでるのかねえ」

「これは予想だが、もし俺が戦ったら、俺が一回動く間に先生なら二回は動くだろう。いや、下手をすれば三回か……」

「戦いは数ってね。手数の多さはそのまま実力の差、俺らとは倍以上の開きがあるってことか」

 

 カトリーヌとの手合わせはこれが初めてと聞いた。未知の敵を相手にするのが茶飯事の傭兵らしく、ベレトは身を守る術に優れているのだろう。あれほど斬り結んでおきながら掠りもしないのは逆に異様とすら表せる防御力である。

 そういう意味ではカトリーヌも同じようにここまで傷一つないのだが、攻守の割合で言うと明らかに攻め側がカトリーヌに偏っており、相対的にベレトの防御力が際立って見えた。

 

 とは言え、カトリーヌの猛攻を捌き続けるベレトも、そのベレトを猛然と攻め立てるカトリーヌも、未だ生徒の範疇を出ない身からすれば手が届かない達人であり、その技量にはまだまだ理解が追いつかない圧倒的強者である。

 あの次元で戦う二人の目にはどんな世界が見えているのだろうか。

 

「すごいよなあの人、エーデルガルトが羨ましいぜ。なあ?」

「…………」

「エーデルガルト?」

 

 声をかけたつもりだが、エーデルガルトからの反応がない。横を向くと見えるのは彼女の真剣な横顔。

 二人の会話を気にするでもなく、胸元で手拭いを握りしめ、ひたすら師と騎士の手合わせを見守るその内心は激闘への感嘆か、勝利を願う応援か。

 

 瞬きさえ惜しいと夢中で見入る姿を見て、クロードもディミトリも反省する。

 そうだ、今は雑談に興じる時ではない。

 

 幾らも見る機会のない戦いを。

 例えそれが高度過ぎて手が届かないとしても。

 それでもこの目に焼き付けろ。

 遥か遠い背中にいつか追いつくために。

 今はただそれだけを考えて。

 

 

 

 

 

 

 

 戦いはさらに加速していく。

 

「はああああ!!!」

 

 唐竹割りから始まり、横薙ぎ、逆袈裟、相手の防御諸共敵を薙ぎ払わんとする剛剣で攻め立てるカトリーヌ。

 気勢を露わに攻める彼女に押されてベレトの足が下がっていく。

 しかし、当たらない。全ての斬撃が紙一重。

 

 斬り結ぶ二人が観客に近付いていき、迫力に焦った何人かが小さく悲鳴を上げた。

 すると図ったように攻守が入れ替わる。

 

 刺突、斬撃からの拳打、蹴撃、全身を武器として用いる傭兵らしい型破りな戦法で敵を打ち破らんとするベレト。

 鏡写しのように今度はカトリーヌが押されて下がっていく。

 しかし、当たらない。悉くが皮スレスレ。

 

 先ほどからこのようなやり取りが何度も繰り返されていた。訓練所に開けられた中央の空間をどうせなら端まで余すこと使ってやろう、とでも言うかのように、あちらへ寄ってはこちらへ寄って、向こうへ押し込んだと思えば反対へ踏み込み、打ち合わせたみたいに動き回る。

 

 完全に実力が拮抗していた。

 斬っては捌き、打っては避ける。

 まるで息を合わせたランデブーのように、限界などないように加速していく。

 歌劇では決してお目にかかれない実力伯仲の名勝負に、観客の盛り上がりは高まる一方だった。

 

 そうして戦いながら、カトリーヌもまた止めどない昂揚の中にいた。

 

 もはやベレトの実力を疑う余地はない。ここで目の当たりにした多くの人が、方々で語り、噂となっていくに違いない。

 士官学校の教師に強者がいると。セイロス騎士団の雄にも劣らぬ実力者だと。

 

 何より素晴らしいのは、彼の戦う姿勢が防御を重視したものだからだ。

 命あっての物種の傭兵らしく、己の身を守る術をジェラルトから叩き込まれたのだろうと予想はできる。もちろんそうやって自分を守り、生き抜くことは大切だ。

 だがそれ以上に彼の剣から伝わってくるのは、この手で大切な人を守ってみせるという信念にも似た情熱である。

 そんな彼の守りたい人と言えば、生徒達のことに他ならない。

 

(嬉しいじゃないか! 立場は違っても、あんたもあたしと同じなんだ!)

 

 生徒を守る。それはすなわち、フォドラの未来を守ることでもあるのだ。

 涼しい顔をしている彼がそんな熱いものを感じられる剣の使い手だということが、カトリーヌは嬉しくて仕方なかった。

 

 結果的にではあるが、こうして剣を通じてベレトの気質を確かめることができた。

 騎士の自分と同じく、守るために剣を取る者だと。

 

 ならば、今度はこの模擬戦を終わらせないと──

 

「なぁ!」

「くっ!」

 

 訓練所の中央で足を止めて斬りかかるとベレトも応じて剣を合わせる。この戦いで初めての鍔迫り合い。剣の角度を細かく変えて有利な立ち位置を探る攻防は、ただの力比べではない玄妙なやり取りで鎬を削る。

 純粋なパワーではカトリーヌに分があるのか、徐々にだがベレトが押し込まれていく。呑まれてたまるかと一層気合いを入れて押し返すベレト。さらに押し込むカトリーヌ。

 先ほどまでの動き回る戦闘とはまた違う迫力のある二人の姿に、観客は息を飲んで見守っていたところ。

 

 ──ふ、と。

 

 それまでの勢いが嘘であったかのように、カトリーヌは己の気を収めてみせた。

 押せ押せに攻めていた姿勢から打って変わっての脱力。体の力を一瞬にして百から零に、満ちた気を内側に収束させるのはまさに達人の御業。

 無論、これは戦意を捨てたのではなく、全くの逆。次に繋げるための一手。

 

 てっきり攻勢が来ると構えていたベレトは拍子を外されてしまい、力を行き場を狂わされた剣が揺らいでしまう。その揺らぎをカトリーヌは見逃さなかった。

 

「破ぁっ!!!」

 

 収めた気を再び表へ。凝縮されてからの放出は、それまでとは比較にならない勢いでベレトを威圧する。

 零にした力を一瞬で百へ。急すぎる力の変化について来れず、ベレトの揺らいだ手元から剣のみが弾き落された。

 

 密着状態から気勢の急変だけで行う武装解除の妙技。完全な無防備となったベレトへ止めの一撃を見舞うべく振り被る。

 だが、無防備になったと思ったのはカトリーヌだけだった。

 

 素手になってむしろ身軽になったベレトは、剣が振り下ろされるよりさらに速く両手を伸ばす。

 まさかそこから前に出てくるとは思わず、硬直してしまったカトリーヌの眼前で、ベレトは両の掌を強く叩いた。

 それは、我々の認識で分かりやすく表すなら、猫騙しと呼ばれる技法。

 柏手の音と同時に、僅かな空白がカトリーヌの意識を占める。

 その小さな間があれば十分だった。

 

 落とされた剣の柄頭をベレトは強く踏みつける。柄の長さと鍔との段差により梃子の原理が働き、刀身が宙に浮く。浮いて生まれた隙間に足を差し込んで蹴り上げたところでカトリーヌの意識が戻った。

 

「ぬおぁ!?」

 

 突如顔面に迫る剣に驚き、大きく体を仰け反らせて際どく回避する。仕留める態勢に入っていたところを、一瞬で形勢逆転された困惑にも止まらず動けたのは流石。

 しかし大きく崩れた体はベレトの次の動きに対応できなかった。

 

 仰け反った体はそれ以上は下がれないと見たベレトは大きく踏み込むと、対応が遅れた焦りに顔を歪ませたカトリーヌの顔面を殴りつけた。

 この模擬戦で初のクリーンヒットに観客が大きく沸く。

 

 ベレトの動きは止まらない。殴った拳とは逆の手で宙に浮いた剣を掴む。逆手に構えた剣を振り上げ、今度はこちらから止めの一撃を見舞うべく追撃をかける。

 だがベレトの反撃はそこまで。カトリーヌもやられっぱなしではいられない。

 

「舐めん、なぁ!」

 

 崩れた体勢のまま片足で無理やり踏みしめると、逆足でベレトの腹を蹴飛ばした。腹部に減り込むブーツの堅さに、息を詰まらされたベレトが大きく吹き飛ばされる。

 

 互いの決めの一手は届かず、一撃ずつの応酬で終わり、距離が開く。

 ダメージらしいダメージは見えず、二人は再び剣を構えて対峙した。

 

 凄まじい勝負に、周りの観客の方が息が詰まりそうだった。二人の距離が開いたことでようやく生まれた模擬戦の切れ間に、呼吸を思い出したように何人も息を吐いている。

 始まってから何分経った? 後どれくらい続く? どちらが勝つかより、別のことが気になってきてしまう。

 

 前評判に従えばカトリーヌの圧勝になるはずだった。当たり前だが実績が違う。英雄の遺産を担うに相応しい力でベレトを下す、そんな予想をしていた者が半分近く。

 では残り半分は? 日々ベレトの姿を傍で見ていた黒鷲の学級を中心に、彼の力を信じる生徒達は、先生ならそんな下馬評を覆してくれると応援していた。

 そして実際に二人の戦いを見て、拮抗する実力を見て、誰もが驚かされた。

 まさかここまでとは、と。

 

 ここ最近……否、数年どころか数十年、士官学校、フォドラの永い歴史を顧みても、ここまで実力が釣り合う好勝負がどれほどあっただろうか。

 終わってほしくない。

 もっと見ていたい。

 そんな風に思ってしまうのも無理ないかもしれない。

 

 しかし模擬戦とは言え勝負は勝負。何らかの形で終わりはやってくるもの。

 今だって睨み合う二人の間に緊張が満ちている。膨れ上がる剣気に押されて、観客の方が慄いてしまいそうだ。

 

 さあ、ここからどうなる?

 勝つのはやはりカトリーヌか。

 それともベレトが勝つか。

 

 緊張が限界まで高まり──

 

「ここまでにしようか」

「そうしよう」

 

 ──あっさりと霧散してしまった。

 

 えええええええそこで終わるのおおおおお???

 勝敗は? 騎士団の面子はどうなる? 先生の力の証明はどうするの?

 

 困惑する衆目の中心で、それまでの緊張感がまるでなかったように剣気を静め、談笑するベレトとカトリーヌがいた。

 

「いやー、強いねあんた。正直ここまでとは思ってなかった」

「カトリーヌも強かった。こんなに凄い人がいたなんて驚いたよ」

「ははっ、そう言ってくれると嬉しいね……よし、これを機にあんたのことはベレトって呼び捨てにさせてもらうよ。レア様の客分みたいなものだと思ってたけど、いいだろ?」

「構わない。これからよろしく頼む」

「おうよ、よろしくな。それはそうと、ベレトを鍛えたのってジェラルトさんなんだろ?」

「ああ、ほとんど父さんから教わった」

「だよなぁ……やっぱりあの人も強いんだよな?」

「もちろん。俺は一度も勝ててない」

「そりゃまた、大したもんだ。あたしもいつか【壊刃】とお手合わせ願いたいね」

「もしそうなった時は、あまり奇をてらわず正面から行くといい。父さんは変化への対応が物凄く上手いんだ」

「あんたがそう言うならそうなんだろうな。けど格上相手に虚実も無しに挑めと?」

「カトリーヌの剣はほぼ完成されている。下手に変化を加えるより、今のスタイルを崩さない方が無理なく戦えると思う。強いて言うなら、もっと遠くから飛び込めるように間合いを伸ばす技とか覚えたり、他には追撃のための追い足を鍛えたりして……何かおかしいこと言ったか?」

「いやいや、傭兵だったあんたがすっかり先生の顔になってるからよ。ベレトにかかれば、あたしでも生徒みたいに教える相手になっちまうんだなって思ってさ」

「すまない、気を悪くしたか」

「そんなことないよ。あんたほどの人に指導してもらえるなんてありがたい。あたしはそこまで頭固くないさ」

 

 朗らかに話す二人は気心の知れた友人のようだった。

 話に花を咲かせる二人に注目が集まっていることに気付いたのはカトリーヌ。観客を見渡して明るい笑顔で言う。

 

「なんだよ、みんなして。これは模擬戦だぜ? お互いに得るものがあればそれで十分なのさ」

 

 言われて、納得。

 そもそも命のやり取りをする場ではない。本人達が満足できているならそれでいいではないか。

 しばし遅れて、訓練所が歓声に満たされた。

 

 この模擬戦に至るまでの原因や背景を知っていたカトリーヌがああやって言うことで、ベレトに向けられていた不満は大方解消されただろう。これ以上は個人の感情次第になるからどうしようもないが、彼を取り巻く状況は大分改善されたはずだ。

 

 雪崩を打って押し寄せる人達が口々に称賛を伝えてくる。真っ先に駆け寄ってくる生徒達に気付いて行きたそうにするベレトを察し、カトリーヌはその背を押した。

 行ってやんなよ、そう言う彼女に頷きを返してベレトは少しだけ口元を綻ばせる。

 

「今日はありがとう、カトリーヌ」

「またやろうぜ、ベレト」

 

 はしゃぐ生徒達に囲まれる彼の背を見送り、自分も同僚の騎士達に囲まれて称賛を受けながら、模擬戦の内容に思いを馳せた。

 

 カトリーヌには分かっていた。ベレトも恐らく察しただろう。

 ──これ以上続ければどちらかが死ぬ。

 高すぎる実力が拮抗する時、僅かでも均衡が傾いてしまえば、その決着は命に届きかねない。戦いにおけるその現実を二人はよく理解していた。

 

 彼の気質は分かった。上達に役立つものも得られた。模擬戦として考えればこの上ない収穫だ。

 だからこれで十分。

 

 それでも、と思ってしまうのは止められない。

 ……もし、あの先に続いていたら、勝つのはどちらだった?

 同じ志を持つ者としてそんなことがあってほしくないと願いながらも、何か一つでも違えてしまえばそうなってしまうかもしれない。そんな未来への予感が小さく胸に宿るのをカトリーヌは感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

「すっげーよ先生! とにかくすげーって!」

 

 興奮のあまり同じ言葉を繰り返すしかないカスパルを筆頭に、生徒達は口々に誉めそやす。

 称賛の他、単純にベレトの強さに興奮する声もあれば、彼の教えを受けられる幸運に感謝する者もいるし、自分達と左程歳が変わらないであろうベレトがあのカトリーヌと渡り合うほど強いならいずれは自分も……という強さへの意気込みを新たにする生徒もいる。

 

 当のベレトはと言うと、こんなにもたくさんの誉め言葉に囲まれるなど初めてのことで、嬉しいよりも困ってしまい、無表情ながらどこか戸惑っているようだった。

 そんな彼に声をかけたのは、人の波をかき分けて進み出たエーデルガルト。

 

「師、お疲れ様」

「エーデルガルト」

「これを使って」

「ああ、助かる」

 

 自然と差し出されたのは、修道院の支給品である手拭い。訓練をする騎士や生徒が汗を拭くのによく使われるものだ。

 

 それを見た者は感想を一つにする。

 あ、そのために持ってきてたんだ、それ。

 ……無論、誰も口には出さない。

 

 模擬戦を終えたばかりのベレトは、彼にしては珍しく息を荒げており、額だけでなく首まで汗が垂れている。対抗戦の時はあれだけ涼しい顔をしていたというのに。

 やはりカトリーヌのような強者との戦いは彼も体力と神経を消耗したのだろう。受け取った手拭いで顔から首を拭うベレトは気持ちよさそうだ。

 

「さすがの貴方も疲れたみたいね」

「ああ。騎士団にこんなに強い人がいたなんて知らなかった。俺もまだまだだな」

「でもこれで師の強さは知れ渡ったでしょうね。今後はおかしな嫉妬も減るはずよ」

 

 訓練所の出入り口を通り抜け、多くの人に囲まれながら話しつつ、ベレトの隣でエーデルガルトは何故かドヤ顔になる。自身の学級を導く師の能力が正しく評価されることが誇らしくてならないようだ。

 これが私の師の力よ、と大変自慢げである。誰に向けた自慢なのやら。

 

 そんな得意満面なエーデルガルトを見て、ベレトは「おや?」と気付く。

 

「ひょっとして、今日の模擬戦ってエーデルガルトが関わってるのか?」

「え? ……どうしてそう思うのかしら」

「生徒からの発案だということだけはセテスさんから聞いていた。誰なのかまでは教えてくれなかったけど」

 

 早朝に呼び出しを受け、授業が始まる前に大聖堂へ顔を出しに行ったら、放課後に騎士団の実力者との模擬戦をしてもらうので予定を空けておくように、と通達されたのである。

 レアとセテスの二人揃った場で告げられた内容に、特に反対する理由もないし個人的にも望ましいことだったので受け入れはしたが、この急な話を誰が言い出したか、ベレトは授業中もずっと気になっていたのだ。

 判明したら是非お礼を言いたいと考えたから。

 

「俺に関係ある生徒なら黒鷲の学級の誰かじゃないかと思って、その中で訓練所を貸し切れるくらいの影響力があって、修道院にも働きかけができる生徒と言ったら限られる。後は、今思い付いた勘、かな」

「そ、そうなの。まあ、私も無関係、ではないけれど」

 

 理由が分からない気恥ずかしさに襲われ、エーデルガルトは自分の声が上擦るのが分かった。当たらずとも遠からずの推察に謎の緊張を感じてしまう。

 もしかすると、イタズラがバレた子供の心境とはこのようなものなのだろうか。自分には経験がないので分からないが。

 

「なら君にお礼を言わせてくれ。ありがとうエーデルガルト。今日の模擬戦はとても為になった。おかげで俺ももっと成長できることが分かったよ」

「……どういたしまして。師の役に立てて、私も嬉しいわ」

「ああ、間違いなく」

 

 思いがけない強い感謝の言葉に、エーデルガルトは笑顔で応えた。続く断言からも感謝の念を感じられて心が温かくなる。彼はこういう気持ちを濁すことなく率直に伝えてくるので、下手に言葉を飾られるよりも胸を打つ。

 いつもの薄い表情ながらも、その目元が柔らかくなっているのが分かる。そんな些細な差に気付けることでも、ベレトとの距離が近付いた気がして嬉しくなった。

 

 ──ここで終われば話は穏やかなままなのだが、運命はいつだって少女に試練を与えるのだ。

 

「これからは休日を使ったりして、俺も色々勉強してみるよ」

「そうね。師も成長できるならするべき…………っ?」

 

 ベレトから伝えられたお礼の言葉に、つい心が浮き立つのを感じながら、次いで口にされた内容に凍りつく。

 

 今、彼は何と言った?

 きゅうじつをつかったりして

 きゅうじつ……休日!?

 

 平日は授業の他に個別指導を通じて生徒と関わるベレトは、休日になると修道院内を散策してあちこちに顔を出す。その時間の多くは他人との交流のために使われていて、ベレトから声をかけられて彼の存在を知った人も多い。

 どうも彼は物怖じするということを知らないらしく、初対面の相手でもあの無表情のまま近付くのだが、どこか浮世離れしたところを感じさせる言動と、話していけば伝わる誠実さもあって、今では修道院内でちょっとした人気者なのだ。

 例えば今日の観客の一部、食堂勤めの女中辺りなんかはベレト目当てだということをエーデルガルトは知っている。健啖家の彼は食事をたくさん、そして綺麗に食べるところが大いに受けて、女中の間でよく話題にされるのだ。しかも彼って美形だし。

 ちなみにこれらはヒューベルトの調べで裏付けが取れている確かな情報だ。彼の仕事を増やしてしまうのは申し訳ないとは思ったが、この調査は必要なことである。

 

 エーデルガルト自身も、散策中のベレトと顔を合わせてその場で雑談したり、時には食事を共にしたり、彼と仲を深めていくことが嬉しくて仕方ない。

 今では休日にある彼との交流が何よりの楽しみだ。

 

 そんなベレトが休日の空き時間を己の研鑽に当てる。

 それは彼が生徒と──自分と交流する時間が減ることを意味していた。

 

「騎士団の人に相談すれば色々できそうだな……アロイスさんから重装について教えてもらおうか……いっそまたカトリーヌに手合わせを申し込むのも……」

 

 早速予定を考えている!

 

 落ち着け。先ほど口にしかけたように、成長できるならするべきだ。

 ベレトが強くなるのは間違いなく良いことだ。もしもの時、生徒を守るためなら体を張るであろう彼が強くなれば、それだけ無事でいられる可能性は上がる。

 聖廟襲撃事件の時だって、死神騎士を相手取るために一人残ったベレトと祭壇の手前で合流した時、喜ぶより先に頭が血まみれになった姿を見て悲鳴が上がったのだ。彼とて何かあれば傷付く人間だ。強くなるに越したことはない。

 それに強くなった彼の指導は今以上に生徒達をよく鍛えるだろう。黒鷲の学級の級長としても歓迎すべきことではないか。

 

 考えれば考えるほど良いこと尽くめなのだが……

 それでも……ああ、それでも……!

 彼と触れ合える時間が減ってしまうことを思うと、素直に応援できない!

 

「理学は基礎知識くらいしか分かってないし、きちんと勉強すれば戦術にも幅が……いや、まずは信仰から手を付けるべきか……」

「し、信仰!?」

「回復魔法が使えるようになれば生存率は大きく上がるし、併せて攻撃魔法も覚えれば役に立つ。レアさんに研修を頼めないかな……」

「れ、れあさんに!?」

 

 ブツブツと呟きながら今後の方針を考えるベレトの隣で、エーデルガルトはさらに愕然とする。

 大司教であるレアをさん付けで呼ぶことも驚きだが、何より呟きの内容が聞き捨てならない。

 

 レアから直々に信仰について研修を受ける!?

 たしかに、傭兵として生きてきたベレトはセイロス教とは無縁の人生を送ってきたと聞くので、その教義による信仰を学べば成長になるだろう。白魔法を習得できれば今後の大きな助けとなるに違いない。

 だが、信仰を一から学ぶということは、彼が少なからず教団の思想に染まることでもあり、彼がより教団に近付くということでもある。いずれベレトを自身の側に誘いたいと考えているエーデルガルトにとってこれ以上の恐怖はない。

 

 そもそも、だ。

 レアから直接教わるなど、そんな、何も知らない彼を己の色で染め上げるような行いをあの女に任せるなんて、え、でも、そんなの認めていいの?

 いや、ちょっと待って。

 大司教の務めに忙しいレアが、教師一人のためにわざわざ時間を作るなんて……

 あ、やるわ。

 何かとベレトを気にかける彼女のことだ、絶対やるわ。

 何が何でも時間を頻出して、ウッキウキで二人きりの研修に臨む姿がありありと目に浮かぶ。

 

 次々と連想する考えは、一つの焦燥にまとめられる。

 

(私の師が取られちゃう!)

 

 ……飛躍しすぎた妄想かもしれない。かもしれないのだが、加速する乙女の危機感の前では、考えすぎて困ることはないのである。

 

 しかし、自分に何が言えるというのか。

 ベレトがこうして考える原因となった模擬戦だって、彼が言った通りエーデルガルトが仕組んだようなものだ。その結果として彼が成長を望むようになったのなら、止める権利などないではないか。

 

 戦慄に身を震わせるも何も言えないエーデルガルトと、手拭い片手に今後の予定をあれこれ考えるベレト。二人しかいないように見えて、その周囲は賑わう人が溢れているのをお忘れではないだろうか。

 あれ、何やってんのこの二人、という視線が半分。

 お、いつものやってんなこの二人、という視線が半分。

 事情が分かる方と分からない方の生温かい視線に晒される二人の間に割って入れる人は少ない。

 

 まあ中にはその空気をあえて読まない者もいて。

 

「せーんせい、一緒に飯行こうぜ飯。食べながら今日のこと話そうや」

「こらクロード、先生も疲れてるだろう。せめて汗くらい流させてやれ」

「じゃあ殿下も行くか? さっきの見てたら俺も汗かいちまったし、浴室行こうぜ」

「お前なぁ……けど先生、俺も是非話がしたい。同行してもいいだろうか?」

 

 急にベレトと肩を組むクロードと、一緒に来たディミトリによって空気が動く。

 思い出したように我に返ったベレトは、そういえばちょうどいい時間かとこの後のことを考えた。

 

 放課後から随分と時間が経っており、普段ならば生徒達も一日の終わりに向けて動き出す頃合いだ。食堂も浴室も混み始める時間帯になる。

 思い出したように空腹を感じるが、汚い身で食堂に行くのは憚られる。軽く汗を流して身形を整えてからお邪魔しよう。

 

「構わない。まずは浴室に行きたいから、一緒に行こう」

「ありがたい。先生みたいに強くなる訓練法とか聞いてみたいと思ってたんだ」

 

 目を輝かせるディミトリの周りで生徒達が次々に反応する。

 

 ズルいですよ殿下、おい猪抜け駆けするな、あー先生が女だったらなー、先生浴室行くそうですよ、じゃ俺も俺も、僕はもう寝るから、あたし行きまーす、あら~私もご一緒しようかしら~、オデも行くぞー、待ちたまえそんなに行ったら浴室に入れないではないか、えーっと僕は遠慮しますね、師匠に近付く秘訣が聞けるかも、うーん私はどうしようかしら、成長参考聞く私行きます、僕も、私は……

 

 同行する者と解散する者に分かれて彼らは動き出す。思ったよりたくさん来るのを見て、これはまとめ役の級長がいないと大変だと考えたクロードはエーデルガルトへと首を巡らせた。

 

「皇女様はどうするんだい? あんたも汗かいただろ」

 

 意図してデリカシーを捨てたような笑顔でクロードが誘ってくる。

 女への配慮が欠けた発言かもしれないが、エーデルガルトならきっとベレトと同行するだろうと予想したのだ。

 

 なお、誤解のないように説明するが、彼らが行こうとしている浴室とは我々の知識で言うサウナに近い物だ。専用のサウナ服を着用して入る、れっきとした男女共用の施設であり、ガルグ=マク大修道院が誇る立派な憩いの場である。

 たっぷりの湯を湛えた風呂に入る文化はフォドラだと一般的ではなく、王侯貴族の贅沢のようなものだと考えてもらいたい。

 なのでこの場合、クロードは混浴に誘っている訳ではない。お間違いなきよう。

 

 エーデルガルトとしても、少しでもベレトと一緒にいられる時間を大切にしたいのだが、彼女の頭の中では先ほどまでの会話が暴れ回っていた。

 きゅうじつ べんきょう きしだん あろいす じゅうそう かとりーぬ てあわせ りがく せんじゅつ しんこう れあさん けんしゅう

 ……だめだ! とてもではないが、こんな精神状態でまともに話せる気がしない!

 

「ごめんなさい、私はこの後やることがあるから」

「そうか? 珍しいな……じゃあ先生は借りてくぜ」

 

 心が千々に乱れていることは自覚できたので、適当に言葉を濁して辞退するしかなかった。

 意外そうな表情になるクロードもすぐに気を取り直して動き出す。ほらみんな急げー浴室すぐに混むぞーと周囲に呼びかけて他の生徒を促していった。

 

 どうすればいいのかしら、とエーデルガルトは途方に暮れてしまった。

 ベレトの意思は尊重したいし、そもそも口出しする権利などない。まさか模擬戦の結果がこんな形になるなんて思わなかった。自分はただ、彼が正しく評価されるようになってほしかっただけなのに。

 

 とにかく気を持ち直さないと。この後はヒューベルトが定時報告にやってくる。情けない姿を晒して彼に要らぬ心労をかけたくはない。そうでなくても皮肉の一つや二つは出てくるのだ。

 またあの男に御執心ですか──最近とみに増えた小言で耳にタコができそうだ。ただでさえ嫌味な彼に付け入る隙を見せたくない。

 

 赤く染まり始める夕日を見上げ、深呼吸を一つ。憂鬱な気分とは裏腹に空は気持ち良い快晴で、明日も暑くなりそうだった。

 

 その時、視界の隅にこちらへ駆け寄ってくるベレトの姿が映る。

 浴室に行ったはずの彼は真っ直ぐエーデルガルトに向かってきた。

 

「エーデルガルト、本当にありがとうな」

「そんな……もうお礼は受け取ったわ、師」

「今日のことだけじゃないんだ。君達生徒が俺の指導を受けて成長していく姿は、とても嬉しくて俺はいつも力をもらってる。その中でも、君が頑張ってる姿を見る度に思うんだ。流石だな、エーデルガルトって。昔はこんな気持ちなんて知らなかった。君のおかげで俺は昔とは変われて、もっと強くなろうと思えたんだ」

 

 またしても率直な言葉に、心が綻んでいくのが分かる。

 そんなことはない。それはこちらの台詞だ。彼が導くに相応しい生徒でありたいと思うからこそエーデルガルトは頑張れるのだ。

 

「だから、ありがとう。エーデルガルトの担任として俺も頑張るよ」

 

 ああ、そんな……普段は無表情なくせに、こんな時だけそうやって決意を滲ませる笑顔で宣言されてしまえば何も言えなくなってしまう。

 思わず胸が高鳴る笑顔を見れて嬉しいには嬉しいけれど、彼の方針を思うと素直に喜べず、エーデルガルトは複雑な思いだった。

 

 手拭いは洗って明日返すから、そう言って今度こそ去るベレトの背中を見つめる。

 気が付けば、胸に抱えた憂鬱さはかなり薄れていた。彼のことで悩んでいたはずなのに、彼の笑顔を見ただけで気持ちが軽くなるとは、我ながら単純である。

 

 ……頑張ろう。

 いつか必ず来る別れの時、その時が来るまでも、そこから先も、彼に胸を張れる自分でいられるように。身も心も強くなって、胸に秘める誓いを果たせるように。

 エーデルガルトは力強く歩き出した。




 強くて優しくておもしろくてカッコいい師が見たいシリーズその二。
 うちのベレト先生の強さが少しでも伝わってもらえれば幸いです。
 戦闘描写はたっぷりやれたので、次に書くとしたら穏やかな回にしたいかも。
 というか、もっと短く書きたい……長いと、楽しいけど疲れる。


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捏造支援会話、壊刃と皇女C

 ジェラルトって支援値上げられるくせに支援会話がないの、物足りないと思いません?


 級長の務めとして大聖堂を訪れた帰りに顔を合わせたのは偶然だった。

 

「貴方は……」

「お、あんたは、エーデルガルトか」

 

 鎧を着用した兵の体格を自前の肉体で超える偉丈夫。

 ベレトの父、ジェラルトと出くわしたのだ。

 

「お久しぶりです、ジェラルト殿」

「久しぶりだな。ルミール村から修道院に戻った時以来か。おっと、皇女様にぞんざいな口を利いたらいけませんかね」

「構いませんよ、命の恩人に対して口うるさく言うほど狭量ではありません。それに今の私はあくまで士官学校の生徒ですから」

「そうか? 助かるぜ」

 

 軽く挨拶を交わす二人。

 そこでジェラルトは何かを思い立つ。

 

「そうだ、あんた今は時間取れるか? できれば話したいことがあるんだが」

「私と、ですか?」

 

 一瞬だけエーデルガルトは考える。

 今日やるべきことは全て終えている。放課後なので今日の授業は終わっているし、ここに来る前にヒューベルトからの本日分の定時報告も受けてある。

 この後はベレトに声をかけて一緒に食事しに行こうかと考えていたくらいだが、彼の父と話す機会は少ないだろうし、今日は誘いに乗ることにした。

 

「いいですよ。そのお誘い、受けましょう」

「ありがたいね。立ち話させるわけにはいかねえし、場所を変えようか。ついて来てくれ」

 

 そう言ってジェラルトは歩き出す。その背について行き、向かう先は騎士団長室かしらとエーデルガルトは予想した。

 

 

 

 

 

 

 

 予想通り騎士団長室に案内されたのだが、そこで見せられたものは意外だった。

 ジェラルト自らが茶を淹れ、座る自分に差し出される。こう言うと失礼だろうが、武骨な見た目を裏切る優雅な手付きであった。

 

「どうぞ」

「いただきます」

 

 一度香りを楽しみ、一口飲んで味と風味を楽しむ。

 

「美味しい……お上手ですね」

「そいつはよかった。傭兵時代は茶を嗜む余裕なんてなかったからよ、やり方なんざすっかり忘れちまったかと思ってたんだが、体はすぐに思い出してくれて安心だ」

 

 対面に座りながらジェラルトは笑顔を見せる。豪快な笑いが似合いそうな人だが、こんな風に穏やかに微笑むこともできるのだと初めて知った。

 ──ああ、でも、こうやって見ると静かな微笑みは少しだけ(せんせい)に似てるかも、いや逆ね、師の方が似てるんだわ、別人のような風貌でもやはり親子なんだし仕草が似るところもあるでしょう、師って顔立ちは母親似なのかしら──

 

「それで、話なんだが」

「っ! ええ、伺います。何かしら?」

「俺達の間で共通の話題と言えば、まあ、ベレトのことなんだけどよ」

 

 つい思考が流れがちになるがすぐに向き直るエーデルガルトに、ジェラルトはどことなく言いにくそうに続ける。何度か口を開け閉めして、自分の茶を一口飲んで気を落ち着けられたのか、しばらくしてようやく言葉を絞り出した。

 

「……あいつは、ちゃんと教師をやれてるかい?」

 

 そこには職場先の息子を気遣う父親の顔があった。

 【壊刃】の異名を持つあのジェラルトでもこういう表情をするのかとおかしくなって、失礼だとは思うがエーデルガルトは小さく噴き出してしまった。

 

「おいおい、笑わないでくれよ」

「ご、ごめんなさい、ジェラルト殿でもそういうことを気にすると思うと、なんだか不思議な気がしてしまって」

「仕方ねえだろ……俺でも息子のことは気になる」

 

 急いで口元を整えて、返事をする。

 

「心配いりませんよ、師は私達をしっかり指導して下さってます。素晴らしい人が担任になって、黒鷲の学級(アドラークラッセ)は幸運だわ」

「そうかい……級長のあんたがそこまで言うなら、安心できそうかな」

「むしろ彼の教養の深さにこちらが驚かされる日々です。彼にものを教えたのはジェラルト殿なのですよね。一体どのような指導を?」

 

 これは前から気になっていたことだった。あの若さであれほどの能力を身に付けたベレトのことだ、さぞかし高度な教育を受けたのだと想像するが、父親のジェラルトはどんな風に彼を鍛えたのか。

 

「俺が教えたのは物事の基礎に当たる部分だ。どんなことでも始めが肝心だからな」

「ですが、基礎だけということはないでしょう? 師の力は明らかに練達の域にあります」

「そりゃあ、おかしな癖が付かないように是正したり、間違った方に進まないように引き止める時はあるが、教えたことの大半は基礎的なものさ」

 

 士官学校の誰もが気になるベレトのルーツとでも言うべき情報に、エーデルガルトは興味津々に聞き入る。美味な茶と併せる上等な話題は場を盛り上げるものだ。

 

「基礎と一言に仰いますけど、それだけでも相当なものですよ」

 

 日頃教室で授業をするベレトの姿は、皇族として高等教育を受けてきたエーデルガルトの目から見ても堂々としたものである。

 自分達と大して歳が違わない人間が教壇に立つ姿は違和感があってもおかしくないのに、彼の指導は不思議と安心感があり、ついて行きたいと思わせるのだ。無表情で泰然とした態度が良い意味で頼もしさを感じさせるのかもしれない。

 

 授業内容にしても驚きの充実度だ。

 傭兵だったベレトが武芸関係の指導が上手いのは理解できる。戦術の講義では実戦に即した貴重な私見を聞けて為になるし、手合わせして彼から一本でも取れた生徒はまだ一人もいない。

 それに加えて、まさか算術や語学まで精通しているとは思わなかった。座学を放り出しがちなカスパルに四則計算を根気強く教えたり、慣用句に首を傾げるペトラに噛み砕いて説明したり、並の貴族以上の教養を備えていると思わしき場面をよく見る。

 

 そんな指導もジェラルトからすれば基礎でしかないのだろうか?

 エーデルガルトは不思議だった。

 

「基礎は俺が教えた。それ以上は他の教師が良かったのさ」

「貴方の他にも師に教えた方が?」

「日差しと影、川のせせらぎ、月と星……自然の全てがあいつの教師だよ」

 

 太陽の動きが、時の移りと季節の巡りを。

 水の流れが、大地の恵みと厳しさを。

 夜空の模様が、天地の広さと己の小ささを。

 そしてそれらの中に存在するあらゆる生き物達が、ベレトに無数の教えを与えたのだと言う。

 

「あいつは優秀だからな。俺が教えたことなんて始めの一歩か二歩みたいなもんだ」

 

 軽く言ってのけるジェラルトだが、そんなはずはないとエーデルガルトは思う。

 その根拠はベレトの戦闘力。追いかける背中があればこそ、鍛えてくれる師匠がいるからこそ、彼は強くなったはずなのだ。

 

「戦い方もですか?」

「ん? あー、それは……まあ……」

「あれほどまでに強く鍛えておいてそういう言い方をするのは、いくらジェラルト殿でも師に対して失礼ですよ。彼は間違いなく貴方が育てたのです、胸を張ってください」

 

 級長として、他の生徒よりもベレトと一緒にいる時間が多い──授業の進行具合や訓練方針の相談とか彼が教師としてまだまだ未熟だから生徒をよく知る自分と色々擦り合わせた方が指導も上手く進められるでしょう、そのついでに雑談を交えたり一緒に食事したりするのも別に不思議ではないでしょう、ええそうでしょうとも──エーデルガルトは、彼の口から傭兵時代の話を聞くことがある。

 そんな時、ベレトが決まって語るのは、父が如何に偉大な人物かということ。

 他人との交流が希薄だったというベレトにとって、ジェラルトは最も身近に接する人間であり、彼にとっては世界の中心となる存在なのだ。

 

『俺が君達の教師になったように、俺にとっては父さんが教師だった。だから、俺は父さんみたいな教師になって、君達に教えていく』

 

 対抗戦が終わり、竪琴の節になってから最初の授業の時に教室でベレトがした宣言は、その後の士官学校で語り草となっている。

 セテスの意向により、ベレトがあの【壊刃】ジェラルトの息子であることは早くから知れ渡り、無名の新人教師に箔を付けるためのバックボーンとして活用された。

 親の威光を笠に着るような発言は普通なら鼻につくのかもしれないが、当のベレトはあっさりと割り切って父への敬意を隠さないので、周囲の者も自然とそういうものなのかと受け入れるようになったのだ。

 

 そして行われるベレトの授業が傭兵の身とは思えないほど高度なもので、ジェラルトの薫陶を受けた者ならば、と後に納得もされた。

 間接的にかの【壊刃】の指導が自分達にも行われているように感じられて、授業に臨む生徒達の士気は総じて高い。

 

 今では授業の合間の休み時間に、フォドラに流れる【壊刃】の武勇伝で盛り上がるのがちょっとした流行りとなっている。そこにベレトが加わり、彼の口から生のジェラルトの姿が語られることで場はさらに盛り上がるのだ。

 生徒と交流を深める切欠を得られたベレトは無表情ながらも楽しそうで、父親のことを語る口振りは淡々としながらもどこか誇らしげだった。

 

 ベレトにとってジェラルトはどんな時でも尊敬する偉大な父親なのだ。

 

「そうか……そうだな。あいつは子供の時からずっとそうだった。無表情のくせに好奇心旺盛でよ。俺にあれこれ聞いてきたっけな。その経験が元になって今の教師をやれてるのかね」

 

 親子であると同時に師弟関係でもある息子のことを、エーデルガルトという第三者を通して伝えられることで、これまでとは違った感慨が生まれたのだろう。

 

「俺に聞いても分からねえことは一緒になって考えて逆に教えてくれたりもした。俺にとっても、ベレトは教師だったのかもな」

 

 目を細めてしみじみと語るジェラルトの様子は、彼がどれほど息子を誇らしく思っているのかを感じさせて、エーデルガルトは胸が温かくなった。

 同時に、感情を表に出すことの少ないベレトが父を心から尊敬し、彼の影響を色濃く受けていることも改めて感じられて、二人の絆の強さに敬意を抱いた。

 

 それでも不安はある、とジェラルトは言う。

 

「ベレトのやつ、素直だと思わないか?」

「そうですね、私達生徒の言葉を真摯に受け止めてくれます」

「真摯、か……教える側としてはあいつほどやりやすい相手はいないだろうが、そのあいつが誰かを導く教師になると思うと、俺はどうしても不安でよ。あのとぼけた顔で素っ頓狂なことをやらかさないかと心配になっちまうんだ」

 

 あいつ天然だしな。

 締めくくりの言葉に、エーデルガルトは()もありなんと頷く。たしかに親としては心配だろう。

 対抗戦のミーティングでされた爆弾発言は彼女の記憶にも新しい。結果的に上手く話は進んだからよかったものの、あの衝撃的な空気は心臓に悪い。

 

「だからよ、あんたに頼みがある。元々これも話したいことだったんだ」

「私にできることですか?」

 

 カップを置いて居住まいを正すジェラルトを見て、エーデルガルトも自然と背を伸ばして向かい合う。

 

「エーデルガルト、あんたが級長として学級の生徒達をまとめているのは分かる。色々と忙しいだろうし無理は言えねえが……余裕がある時でいい、ベレトを見てやってくれねえか。あいつは何故か、生徒の中でもあんたに心を許してるように思う。できる範囲で構わないんだ、あいつを助けてやってくれ」

 

 それがこの話の一番の本題だったのだろう。

 真っ直ぐ見ながら頼み込み、自分より遥か年下の少女に向かって深々と頭を下げるジェラルトは、紛れもなく父親であった。

 

 とは言え、これでは立場が逆ではないだろうか。

 教師に向かって生徒を見てくれと親が頼むのならまだしも、生徒に向けて教師を見てほしいと親が頼むとは……なんだかちぐはぐに思えてしまう。

 またとない珍妙なシチュエーションはおかしくはあるものの、こうして真面目に話しているところで笑ってしまうのはいくらなんでも失礼だ。こちらも居住まいを正し、真剣に応じなくてはいけないだろう。

 

「ジェラルト殿、顔を上げてください」

「エーデルガルト……」

「ご安心ください。師を補佐する役目はすでに心得ています。彼とはよく相談したり話す仲なんですよ。貴方が不安になることはありません」

 

 彼を安心させるためにもエーデルガルトは堂々と応える。

 心配はいらない、息子さんは私と一緒に立派にやっているから、と。

 

 実際、ジェラルトの懸念は尤もだと理解できる。傭兵から教師へと、まるで違う分野に飛び込むことになった息子を親として案じないわけがない。しかも自身は騎士団長に任命されて多忙の身となってしまっては、ベレトを支えるのも難しいのだろう。

 ならば彼ら親子の助けとなるのは級長のエーデルガルトの役目。すでに始めていることで役に立てるのであれば拒む理由はなかった。

 

 それにジェラルトに言われるまでもなく、ベレトから目を離すつもりはエーデルガルトにはないのだ。

 ──ほら、互いに気心が知れたり、仲を深めた方が帝国への誘致もきっと上手くいくでしょうし、傭兵且つ平民という出自が貴族達に突かれるようなら皇帝としてではなく個人として側仕えに雇うのも、いややはり師は師として部下ではなく私と並び立つ方が相応しいわね、雑言を黙らせるためにも私自身がもっと実力を付けて威厳ある皇帝にならなくては、だからこそ師とより密になって指導してもらうのよ──

 口には出さない皇女の内心はこんな時でも平常運転である。

 

「俺が頼むまでもなかったってことか」

「ええ。師には我ら黒鷲の学級をしっかり導いてもらわなくてはなりませんから」

「そうか……改めて、息子を頼む」

 

 そうして再び頼み込むジェラルトへ、エーデルガルトは大きく頷いて応えるのだった。




 学級ごとに会話内容に微妙に差があったりするはずなんですよ。それを見るためにも周回プレイすることになるんですよ。初回プレイでは途中でいなくなっちゃうことに愕然として二周目からは優先的に支援値上げるんですよ。
 こんな会話がゲーム内にあってもよかったんじゃないかなって考えながら書きました。
 というわけで、今後はお父さん公認で師と仲良くなれます。よかったねエガちゃん。


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皇女様の憂鬱

 皇女様めんどくせえ。だがそれがいい。


 エーデルガルト=フォン=フレスベルグはアドラステア帝国の皇女である。

 唯一の皇位継承権の持ち主であり、現在は士官学校に通う生徒として日々を過ごしている。

 

 いずれは皇帝となって帝国を導く身。研鑽に余念がなく、今は新しく迎え入れた元傭兵の教師の下で成長を実感する毎日だ。

 黒鷲の学級(アドラークラッセ)の級長として、そして彼の指導を受ける身として、妥協は許されない。授業に自習に訓練に、どれも手を抜かず己の糧とする。

 充実した日常と本人の真面目な性格も相まって、めきめきと腕を上げていった。

 

 憤懣やるかたない事情によって体に刻まれた力のせいで、学生の身分でありながら周囲を欺き、叔父を始めとした一派と組んでこの世界の闇に関わるという絶大なストレスを背負いつつも、心に秘める誓いを支えに、凛とした姿勢は崩さない。

 時折、殺意にも近い苛立ちに頭を悩ませることも多いが、持ち前の鋼の精神力で心の均衡を保っていた。

 

 そんな彼女であるが、最近になって日常に変化があり、ある悩みを抱えていた。

 端的に言えば──癒し(せんせい)が足りないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 翠雨の節も半ばを過ぎ、夏真っ盛りとなった今日この頃。

 山間にあるガルグ=マク大修道院は比較的涼しい環境だが、それでも照り付ける日差しは夏らしく、眩しくて強い。

 人々の装いもすっかり夏のものへと切り替わり、薄着で過ごす者ばかりとなっていた。

 

 士官学校でも衣替えが行われ、生徒達も夏仕様の制服を着るよう推奨されている。従来の制服より薄手の生地で、色合いも薄く、爽やかな印象の夏服は好評なのだ。

 ガルグ=マクの街で大きな通りから外れて、人の目から隠れるように裏道を歩くエーデルガルトとヒューベルトも、他の生徒と同じように夏服に衣替えしていて、普通の制服よりさっぱりとした出で立ちである。

 

 しかしながら今のエーデルガルトの心情は、とてもではないがさっぱりなどと言えるものではなかった。

 

「はぁ……」

「本日八回目の溜息ですな」

「数えてるの貴方」

「ええ、何せ主の健康管理も我が務めの一部ですので」

「そう。目敏く優秀な従者を持てて私は幸運だわ」

「お褒めいただきありがとうございます。私室であればともかく、人目のある場所でそのようにされますと弱みや悩みを勘繰られます。自重してくださいませ」

 

 小さく嫌味を返したつもりだったが、サラリと流されて逆に窘められる。

 本当に優秀ですこと……一歩後ろを歩くヒューベルトの言葉に苛立ちながら、決して間違ったことを言われたわけではないと理解はできるので、エーデルガルトも大人しく頷くしかなかった。

 休日の陽が昇り切っていない今から、帝国から来た使者と秘密裏に会う予定だ。叔父の下から派遣される相手に不調を気取られるわけにはいかない。気を引き締めなくては。

 

 溜息が増えたという自覚はある。その原因も心当たりはある。

 ベレトと話せてない。ただそれだけのことがエーデルガルトには不満だった。

 しかしながら、何故彼と話せないだけでこうも不満が募るのか、彼ともっと話せれば癒されるのにと考えるのか、その仕組みまでは分からないのだが……

 いや、今はそれよりもベレト、そう、ベレトのことだ。彼のことを考えない日はないのだが、ここ最近はその頻度が急増している。四六時中と言ってもいいくらいに、何をしていてもすぐ彼のことを考えてしまうのだ。

 

 全てはあの模擬戦が切欠だった。

 訓練所で行われたベレトとカトリーヌの手合わせから早や二週間が経過。

 たった二週間。されど二週間。

 その間、エーデルガルトとベレトの会話は激減していた。

 

 模擬戦で己の成長の余地を実感したベレトは、その翌日から生活習慣を大きく変えたのだ。性急とも言える行動は、彼の即断即決な姿勢が表れるようだった。

 

 まず早朝。早起きする彼は朝食前に訓練所へ顔を出し、同じく早起きした生徒の訓練に付き合うのが常だったのだが、二週間前から彼の朝は騎士団に向かうところから始まる。

 ベレトが最初に学ぶと決めたのは重装。そのことをアロイスに相談し、専門家として自分を指導してくれないかと頼み込んだ。

 ベレトに頼られたことで大喜びしたアロイスはこれを快諾。任務を受けていない時には直接教えて、不在の時でも自主訓練できるように自身の権限が及ぶ範囲で騎士団所有の鎧や備品を使えるように取り計らってくれたのだ。

 そんなわけで、ベレトの朝は騎士団から始まるようになったのである。

 

(流石は(せんせい)ね。これまでも防御に優れていたのに、それをさらに磨こうだなんて。私達を、生徒を守るための力を一番に求めるなんて、もうすっかり教師の顔だわ)

 

 しかし引き換えとして、ベレトが早朝に生徒との訓練に付き合えなくなってしまった。当然と言えば当然かもしれないが、それを物足りなく思う者も少なくない。特に他学級の生徒は彼の指導を受けられる機会が限られる。ディミトリなんかは露骨に寂しがっているそうだ。

 しかもそれに加えて、重装訓練後に身形を整えて朝食を取ってしまえば、朝の授業が始まるまで時間に余裕がほとんどない。授業の支度を手伝うついでに──そう、あくまでついでに──雑談を交わす余裕もなくなってしまったのだ。

 憎らしいことに、授業の準備は彼が一人で前日に済ませてしまうようになり、いつの間にかエーデルガルトが手を貸す必要もなくなっていた。会話がなくても、授業前の一時を共に過ごすことさえ最近はできてない。

 ……仕事に慣れてきたようで何よりね、と前向きに捉えるしかなかった。

 

 次は昼休み。午前の授業を終えた生徒達が、午後に向けて英気を養う憩いの一時。

 これまではベレトも生徒と一緒に昼食を取ったり、午後の準備をしながら生徒と雑談したりしていたのだが、ここでも彼は行動を変えていた。

 

 早朝の訓練や授業の準備で削った睡眠を補うように、ベレトは昼寝をするようになったのだ。

 時には中庭の日陰で。時には墓地の木陰で。時にはリンハルトと連れ立って。修道院内で落ち着ける場所を落ち着きなく探して、日によって色々なところで横になる。

 自室の方がよく眠れるのでは、と思わないでもないのだが、彼は驚きの寝付きの良さですんなり寝入って食後の微睡みに身を委ねるのだ。

 

 一度だけ、本当に寝ているのか確かめるために、悪戯を仕掛けようとドロテアが近付いたことがあった。

 その時のベレトは、流石は歴戦の傭兵と言うべきか、ドロテアの指が触れる寸前で飛び起きて逆に彼女の手を取り押さえてみせた。相手が生徒だと気付いたベレトは自分への悪戯の思惑を察し、彼女の額を「めっ」と軽く一突き。

 その日からしばらく、ベレト相手にドギマギするドロテアの姿が印象的だった。

 

(さ、流石は師ね。場所を選ばず睡眠を取って短時間でも効率的に体を休めるから、忙しい日々でも精力的に動けるのよ。ただ頑張るだけでなく休むことも大事だと教えてくれるわ)

 

 授業開始前の予鈴でサッと目を覚まし、素早く教室に戻っていつもの姿を見せるので授業に不備も生まれず、エーデルガルトも生徒の立場からは口を出すこともできなかった。

 

 午後の授業の終わりを告げる鐘が鳴り響き、放課後になればベレトはさらに動く。

 広げていた道具をテキパキと片付けると、挨拶もそこそこに早足で教室を後にする。向かう先はハンネマンの研究室。紋章学の権威から直に理学の研修を受けに行くのだ。

 

 理学に関しては基礎の基礎しか知らず、紋章そのものに至っては完全に無知だったベレトは熱心に聞き入り、そんなベレトの旺盛な姿勢に感化されたハンネマンも指導に熱が入ったようで、放課後の多くを使って研究室で盛り上がる。

 いつしかリシテアやアネットなど他学級からも意欲のある生徒が何人か集まるようになり、授業とはまた方向性が違う密度の濃い講義が行われるようになった。

 

 そうやって足繁く通った甲斐あって、先日ベレトはファイアーの魔法を習得。

 訓練所で初めて的に命中させた時に、無表情のままでも拳を握り締めて成長を実感する彼の姿があったという。

 

(さ、流石は、師、ね。武芸だけでなく魔法の適正もあったなんて。これで彼の戦い方の幅は大きく広がるし、指導の幅も広がって、教師としても頼もしいわ)

 

 そのせいか、最近はベレトが訓練所に行くと、剣を振るより魔法の練習をすることの方が多い。全くやらないわけではないのだが、魔法を中心とした戦術を考えたりしてどうしても二の次になってしまう。

 それまでやっていた手合わせができなくなって、同じく訓練所によく来るフェリクス達は不満そうにしているとのことだ。

 

 極めつけは週末の休日。懸念していた不安が現実となってしまった。

 そう、大司教レアによる信仰の研修である。

 

 やはりと言うか何と言うか、信仰を学びたいとベレトから話を持ち掛けられたレアはそれはもう歓喜して、休日の午前いっぱいを確保。その時間を使って二人きりの研修を実現させたのである。

 休日の朝から大聖堂を訪れるベレトをレアが直接迎え入れて、いそいそと執務室に案内する。そこから先は文字通り、二人きりの楽しい楽しい研修タイム。

 よもや、その、い、いかがわしい真似はするわけないとは思うのだが、あのセテスですら締め出した執務室で、彼と二人きりでお勉強。

 な、なんて羨ましい……もとい、羨ましい……くっ、だめだ、言い直せてない……

 

 そうして休日に集中して学んだ甲斐あって、無事ベレトが回復魔法ライブを習得。

 シルヴァンが女の子とのいざこざで負ったという傷を、昨日見つけたその場で治すことに成功。新たな力に手応えを感じ、またも拳を握って喜ぶ彼の姿があった。

 

(さ、さす、がは、せ、んせい──)

 

『って言えるかあ!』

 

 畳みかけてくる現実に、それまで保てていた流石は師(さすせん)をついに崩してエーデルガルトは自室で叫んだ。若干キャラ崩壊。

 

『どういうことなの!? 私は黒鷲の学級の級長なのよ!? 黒鷲の学級の担任ならもっと私のことを気にかけるべきではなくて師!?』

 

 ベッドの上で枕をバンバン叩きながら不満を叫び散らしたのが昨夜のこと。

 余人には見せられない、皇女らしからぬはしたない姿だったと反省はしたものの、積もる不満が消えたりしたわけもなく。

 エーデルガルトは悶々とした日々を過ごしていた。

 

 性急すぎる! 休日どころか平日の空き時間まで注ぎ込むベレトの行動の変化によって、それまで続いていたエーデルガルトとの関わりが軒並み消えてしまったのだ。

 今となっては多少の挨拶を交わし、授業を受けるだけ。これでは単なる教師と生徒と変わりないではないか。いやまあ赤の他人よりはマシですけども。

 これまでどれほどベレトからの歩み寄りがあって交流ができていたか、エーデルガルトは痛感した。

 

 可能性が残る休日の午後を狙おうにも、ベレトにだって都合がある。彼を慕う生徒はエーデルガルトだけではないのだし、本人にもやりたいことがあるはずだ。

 午後からは恒例の散策は続いており、温室で花の世話を始めたり、大聖堂での合唱練習に参加したり、ベレトの行動力は止まる所を知らない。

 

 それに対して、これまで彼との交流に注いでいた時間がぽっかり空いたエーデルガルトは暇を持て余すようになってしまった。

 無論、自主的な勉強や訓練は怠っていない。習慣として体に染み付いた行動はそのままに、ベレトと共に過ごす時間だけがなくなり、いつの間に彼の存在がこんなにも生活の一部に組み込まれていたのかと愕然とさせられたのである。

 

 これまでは毎日のように食事を共にしていたのに、この二週間、ベレトを伴わずに口にする食堂の料理がエーデルガルトには酷く味気なく感じられた。

 無表情ながらも満足そうに頬張る彼を見ながら食事していたのが遠い昔のように思える。彼と一緒なら薄味の精進料理でさえ、宮廷の豪華な料理よりもずっと心躍らせる美味に感じられたというのに。

 

「はぁ……」

 

 気を引き締めたはずなのに、またも無意識に溜息が漏れてしまう。

 エーデルガルトの心に落ちた影は想像以上に深刻だった。

 

 本日九回目になる溜息が止まらない主の側で、ヒューベルトもまた溜息を吐きたい気分だった。

 

 実は先日、ヒューベルトはエーデルガルトに進言したことがある。そんなに気になるのでしたら先生と一緒に研修を受けてみては、と。

 ベレトと一緒にいられるし、エーデルガルトの成長にも繋がる。連れ立って経験を重ねていけば話題を共有できる。一石三鳥。良い事尽くめではないか。

 できればあの教師とは距離を置いてほしいのですが──そんな本心を押し殺して告げられた忠臣のありがたい提案。それに対するエーデルガルトの返事がこれ。

 

『だ、ダメよ! 皇女である私が師を追いかけ回してるみたいで、その、恥ずかしいじゃない!』

 

 ──こいつめんどくせえ。

 

 果たしてヒューベルトがそんな感想を抱いたかは、彼のみぞ知るところである。

 はて我が主はこうもポンコツだったでしょうか……と口に出さないところに忠誠心の高さが伺えるが、心労の多い彼がちゃんと休めているのか心配になりそうだ。

 

 なお、エーデルガルトがこうしてベレトの行動の変化を細かく把握しているのは、彼女がヒューベルトに命じてベレトの周辺調査をさせたからである。修道院の各所に点在する彼の手駒がベレトの行動を監視、内容をまとめてエーデルガルトに報告してくれるのだ。

 公私混同と言わないであげてください……反論できないから。

 抱えた不満を飲み下し、主の益となるべく粛々と行動する彼が従者の鑑だということだけは確かだろう。

 

 ベレトの方から近付いてきてほしいと願うくせに、自分からベレトに近付くのは恥ずかしがる。二律背反は思春期の常だが、そんな甘ったれたことを言える立場ではないはずなのに。

 どうもベレトが関わるとエーデルガルトは年相応の少女のような甘えが出てくる。鉄の意志で感情を押し殺し、実利を重視した道を選んできたこれまでの彼女を知っているヒューベルトにとって、この数節における主の変わり様は驚きの連続だった。

 エーデルガルトが一般人であれば構わない、むしろ微笑ましく思うべき変化なのだろうが、残念なことに彼女は覇道を往く皇女である。付け入られる甘さは許されない人間なのだ。

 

 事の元凶を『処理』するため、ベレトを暗殺できないかと隙を狙ったことがある。

 当然、エーデルガルトには無断で行った。反対されると分かり切っているし、反対されようと彼女の益になると判断すればそれを断行するのが自分の使命だからだ。

 

 一度ならず数度に渡る暗殺は、その悉くが失敗に終わっている。

 殺意を隠さず近付いた時は、勘付いていないはずがないのに例の無表情を崩さず、元気かどうか逆に気遣われる余裕ぶり。

 薬を盛ろうとしても、大半はエーデルガルトと共に食事していたし、最近になって一人の機会が生まれたので狙えば、やはり無表情のまま口にする前に気付かれて、周囲を騒がせないよう静かに処分してしまう。

 背中を狙うために後ろへ回り込もうとしたら、いつの間にか逆に後ろに立たれた時など、大層驚かされたものである。

 挙句の果てに当のベレトからは「こういうのは久しぶりで良い刺激になる」と評されてしまったのだ。いや刺激ってあんた。

 身を守る術を父親から叩き込まれたにしても程があるのではないか……何を仕掛けても堪えずのらりくらりとかわされてしまい、これ以上は労力の無駄になると判断せざるを得ず、ヒューベルトも手を引くしかなかった。

 

 本音を言えばヒューベルトとて、ベレトを好ましく思っていないわけではない。

 エーデルガルトの命の恩人であるところなどは本当に感謝しているし、対抗戦を始めとした戦場での指揮、日々の指導、普段の生活から見て取れる人徳、多くの面から彼が優れた人材なのは明らかだ。優秀な者は好きだ。主の役に立つ者であれば言うことはない。

 だが、そういう諸々の面を考慮に入れても彼の存在は危うい。天帝の剣を賜ったからには教会側につく可能性が高いのだし、いざという時にエーデルガルトの足を止めてしまいかねない要素は徹底して排除するのがヒューベルトの役目なのだが……

 

(まったく……ままならないものですな)

 

 主と揃って、従者も心の中で溜息を吐く。

 二人の道はまだまだ険しそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

「それではエーデルガルト様、私はこれで……」

「ええ、上手くやってちょうだい」

「心得ております」

 

 ガルグ=マクの街の中、二人は別れる。ヒューベルトは街に残ってやることがあるので、修道院に帰るのは自分だけだ。

 静かに裏通りへ消える従者を見送ると、エーデルガルトは歩き出した。

 使者との対話にそこまで時間はかかっていない。陽はまだ完全に昇り切っておらず、昼食までまだ余裕がありそうだ。

 

 使者からの話は、半分が現状報告、もう半分は遠回しな愚痴みたいなものだった。

 詳細は省くが、アランデル公は死神騎士の扱いに困っているらしい。腕が立つと同時に戦闘狂でもある手駒の手綱を取れず持て余しているとか。

 ざまあみろ──そう思わなくもない。意地の悪い喜び方なのは自覚しているが、久しぶりに胸のすく思いだった。

 

 聖廟襲撃事件の後に炎帝として秘密裏にアランデル公と会い、報告と、今後の方針の相談をした際、彼の次の企てに使わせようと死神騎士を貸し与えた。

 そう、実は死神騎士は炎帝の、自分の配下なのだ。聖廟襲撃も自分は予め知っていた。あの場での戦いは茶番に過ぎない演技だった。

 それでも誤算だったのは、死神騎士の驚異的な強さと、彼がベレトに向けた拘り。黒鷲の学級の生徒達を殺気だけで屈させる実力は恐ろしいものであったし、それを唯一人で相手取ったベレトに大きな関心を寄せたのは、納得すると同時に悩ましいことでもあった。

 

 エーデルガルトは凄惨な人体実験の成功例として、その身に高い潜在能力を秘めている。鍛えていけば、いずれは宿した紋章に相応しい実力を身に付けるだろう。

 だが、未だ道半ば、発展途上の彼女ではとてもではないがあの死神騎士の力と狂気を御することはできない。あの時、殺気を向けられただけで竦み上がってしまい、他の生徒と同じように固まってしまった。紛れもなくあの有り様が現在のエーデルガルトの実力なのだ。

 いざという時に従えられない厄札を手元に置いておけるほど暢気ではいられない。そういうわけで、厄介な死神のことは一時的に叔父に丸投げさせてもらった。彼には精々苦労してもらおう。

 

 かの組織が次にどのような動きを見せるのか。今はまだ立場の低いエーデルガルトに知る術はないが、それなりの時間はあるはず。どんな企みにも負けない力を急いで手に入れなくては。

 学級のみんなも、そしてベレトも、今は精力的に学んでいるのだ。遠からず確かな実力を手に入れるだろう。

 師も、今日も、精力的に、学んで……休日の午前……また、大聖堂に行って……

 

「はぁ……」

 

 またも思考がベレトへと流れ、十回目の溜息を吐いたその時。

 

「さっきの人、たくさん買ってたね茶葉」

「仕入れに来た人だったのかな?」

「修道院の? 士官学校にあんな人なんていたっけ」

「制服だったけど違うのかな。カッコいい人だったねー」

 

 すれ違う二人組の町娘の話し声が耳に入ってきた。

 茶葉で思い出したが、好みのベルガモットティーの茶葉がもうすぐなくなりそうだったはず。せっかく街に来たのだから買い足しておこう。

 ヒューベルトからも指摘されたのだし、いつまでも落ち込んでいられない。気分を変える目的で普段は飲まない茶葉を買うのもいいかもしれない。

 

 気持ちを切り替えて、エーデルガルトは市場へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 袋の山が歩いていた。

 違う。足の生えた袋の山が歩いていた。

 それも違う。袋を山のように抱えた人が歩いていた。

 

 明らかに前が見えていない量を抱え、ゆっくりと歩を進める人物が目の前にいる。

 異様な塊が歩く姿は大層目立っており、何人もの道行く人が二度見している。先ほどすれ違った二人が話していたのはこの人のことか。

 そしてこの人物は、エーデルガルトがよく知る相手だった。

 

 顔を見なくても分かる。大荷物を抱えていても揺らがない足運び、抱える腕は毎日のように見慣れたものだし、チラチラ覗く髪はいつも目で追う色だ。

 

「師!」

「ん? その声はエーデルガルトか」

 

 回り込んでみれば、やはりベレトの顔が見えた。まさかこんなところで会えるとは思っていなかったエーデルガルトは表情を明るくする。

 

(夏服! 制服の師だわ!)

 

 戦場に臨む際の軽鎧でも、教室でよく見る外套を羽織った姿でもない。休日らしいラフな格好として選んだのか、生徒と同じ制服姿のベレトを見るのは初めてだった。

 普段の濃紺でまとめた格好と大きく印象が変わり、上下共新品なのだろう夏服は大きなギャップも生んで別人のように見える。全体的に小ざっぱりとしていて彼の体の細身が強調されていた。

 だが、細くてもその身の力強さはよく知っている。実際これだけ大量の荷物を抱えていても少しも揺るがない安心感があるし、呼ばれて立ち止まる時も重心が全くブレていない。

 今日もまた顔を合わせることなく過ぎてしまうだろうと思っていた休日に、何より見たことない姿のベレトと出会えた幸運に、先ほどまでエーデルガルトの中にあった悶々とした気持ちは跡形もなく消え去っていた。

 

(いい、すごくいいわ師。若いから見た目は同じ生徒と言っても通用するじゃない。教壇に立って私達を導くいつもの姿もいいけど、同じ机に並んで一緒に学ぶのもとてもいいのではないかしら)

 

 脳裏に浮かぶ光景に胸を膨らませる。幻視したストーリーと同じ夏服というペアルックに、否応なく興奮してしまった。

 ……そういう喜色を浮かべたのは一瞬のこと。即座に表情を取り繕って話しかけるエーデルガルト=フォン=フレスベルグ御年(おんとし)十八歳。流石は皇女様、顔を作るのがお上手であります。

 

「ずいぶんな大荷物ね。買い出しでも頼まれたの?」

「ああ、これか? これは私物だ」

「私物?」

「初めての給料で茶葉を買ってみたんだ」

 

 ベレトの返事を聞いて、つい彼が抱える袋の山を見た。開封された形跡のない新品の袋はどれも見覚えがある。このガルグ=マクに来てから自分も利用している茶葉の店のものだ。

 

「……これを、全部師が?」

「ああ」

 

 明らかに個人で消費する量ではない。袋自体は普通のサイズでも数が数だ。いったい何回分の茶を淹れられるのか見当もつかなかった。

 

 そこまで考えて、エーデルガルトは周囲からの視線を感じた。荷物の山を抱えて注目されているベレトに、同じ士官学校の制服を着た自分が親し気に話しかけたのだ。どうしても目立つ。

 

「師はこれから帰るのでしょう? 私も帰るから、一緒に持っていくわ」

「いや、君の手を煩わせるのは……君も市場に用事があるんじゃ」

「いいのよ、急いでする必要はないもの。半分貸して」

 

 返事を待たず、ベレトの腕から袋を半分ほど取り上げて歩き出す。最近は授業の手伝いをすることもなかったので、彼と一緒に何かできるならどんな些細なことでも嬉しかった。

 エーデルガルトの勢いに納得したのか、ベレトもそれ以上は言わず甘えることにしたようだ。山の上半分がなくなってちゃんと前が見えるようになった袋を抱え直し、後に続いて歩き出した。

 

 半分になっても腕いっぱいに抱える量の茶葉に呆れる。これを抱えて修道院まで帰るのは少しばかり骨が折れるだろう。

 

「それにしてもどうしてこんなに? 師ってそんなに紅茶が好きだったかしら」

「いや、そうではないが、今後を考えたら用意しておいた方がいいと思った」

「何かやる予定があるの?」

「……」

「師?」

 

 隣り合って歩くベレトから返事が止まった。即答を旨とする彼にしては珍しくて、重ねて尋ねるエーデルガルトは隣を見上げる。

 

「……今朝、父さんに説教された」

 

 いきなり話が飛んだ。普通は首を傾げるのかもしれないが、ベレトが少々話下手だと知っているエーデルガルトは口を挟まず、彼の言葉に耳を傾ける。

 

「最近のお前は自分のやりたいことに熱中しすぎて、生徒を蔑ろにしてるんじゃないか、と……そう言われて、考えたら、自分の訓練とか、勉強をしてばかりで、授業以外に生徒と関わった覚えが薄い。たぶん、あの模擬戦から俺が、俺のやることが変わって、みんなと話す時間が減ったんだ」

 

 よくよく注視すると、ベレトの目が微かに伏せられている。いつも授業で聞く彼の声が、今は心なしかトーンが低いし、言葉の歯切れが悪い。

 落ち込んでいるのだ。気付かないまま生徒を蔑ろにしていた己の行動を自覚し、尊敬する父にそれを指摘されたことが、どちらも彼にとってショックだったのだろう。

 

「どうすればいいか考えてたら、フェルディナントとローレンツが紅茶を飲みながら仲良く話してるところを見かけたんだ。聞いてみたらあれは茶会というもので、貴族は嗜みとして雑談を交えながら紅茶を楽しむ場があるんだな」

「あの二人が茶会をしているところは私も前に見たことがあるわ。そうね、貴族に限らず、紅茶片手に雑談をする場は交流としては定番よ」

「ああ、それを聞いて思ったんだ。俺も生徒を茶会に招いて交流しようって」

「師が私達を?」

 

 それは、なんて素敵な試みなのだろうか。

 薄れた交流を取り戻そうというベレトの考えに嬉しくなる。そのために選んだやり方が茶会というところも面白い。

 

「それでも、こんなにたくさん買う必要はなかったのではないかしら? 師が一人で使い切れるとは思えないし、店で驚かれたでしょう」

「最初は買うつもりはなかった。けど一人一人に紅茶の好みがあるだろう。色んな種類があると聞いて、対応した茶葉を用意しておきたいと思ったから買える物は全部買った」

「色んな種類って……」

 

 まさかと思い、エーデルガルトは抱えた袋を見る。開けずとも袋表面に記載された字が中身を教えてくれた。

 アップルティーやミントティーなど平民の間でも親しまれている一般的な茶葉もあれば、ラヴァンドラティーやカミツレの花茶などの比較的高級な茶葉もある。ベレトが抱える方の袋をよく見れば、ベルガモットティーやローズティーという貴族御用達の茶葉まであるではないか。

 彼はただ大量に買ったのではない。買える茶葉は全種類揃えたのだ。

 

「こんなに買って、かなりの出費だったのではなくて? よく買えたわね」

「傭兵時代の貯金も使ったよ。足りてよかった」

「……本当によく買おうと思ったわね。安くはなかったでしょうに」

「たしかに無駄遣いするつもりはないが、無駄に貯める趣味もない。使う時に使うのが金だ。それが今日の茶葉だっただけのことだよ」

 

 教師になってから給料が払われてるし金の心配はない──気負った風もなくベレトはそう言う。

 なんとまあ……嬉しいやら呆れるやらで、エーデルガルトはまじまじと彼を見つめてしまった。つまり個人的な貯えを崩してまで茶会の準備してくれたのだ。そうまでして準備してくれることを嬉しく思うし、周到に備える姿勢にそこまでするかと少しだけ呆れを覚える。

 課題に出撃するにあたって、生徒全員に傷薬を必ず一個は持たせるベレトらしいと言えるかもしれない。

 

 値段に関係なく全種類を揃えたということは、それだけ多くの生徒と茶会をしようと考えているのか。エーデルガルトが好むベルガモットティーなど、下手な茶器より高いというのに……

 そこまで考えて、ふと気付く。ベレトは先ほど教えてもらうまで茶会というものを知らなかった。その彼がこうして大量の茶葉を買い込んだということは。

 

「ねえ師」

「なんだ」

「貴方、紅茶を淹れたことあるの?」

「ない」

 

 彼らしい簡潔そのものの答えが返ってくる。

 

「つまり紅茶のことは何も知らないのね。何度も言うけどよく買う気になったわね」

「たしかに思い切った買い物だったが、エーデルガルト達貴族と話していくなら、俺も茶のことを覚えないと。みんなのために淹れると分かっているなら今買ってもいいと判断した」

「ふふっ、ありがとう。そこまで考えてくれて嬉しいわ」

 

 真面目なベレトの態度を嬉しく思うが、本題はそこではない。紅茶を飲むには茶葉だけあればいいわけではないのだ。

 

「ところで、ティーセットはもう買ってあるの?」

「……セット?」

 

 あ、これはさては。

 

「ティーカップやポットとか、ソーサーもスプーンも含めた茶器の一式のことよ」

「そういうのは食堂から借りようかと」

「なるほどね……師、誰かを茶会に招くなら、迎える相手に自分が使う道具を見せることも茶会の醍醐味よ。人によっては使う茶器で相手の格を量る場合もあるわ。茶葉だけ用意して茶器がないのは、貴方に分かりやすく例えるなら、兵糧を重視するあまり装備もなく戦場に向かうようなものよ」

 

 別にフォドラにそういった慣習があるわけではない。他人のティーセットを借りて茶会をしたとしても失礼に当たるなどということはなく、傭兵だったベレトが茶器の一つも持たないのは当然だと少し考えれば分かることなので違和感もないだろう。

 この辺りは皇族らしく、貴族としての観点を持つエーデルガルトならではの助言であり、加えて自分の師に少しでも良い格好をしてほしいという彼女の少女めいた願望が混ざった発言だった。

 

 言い切って、返事がないことを訝しんだエーデルガルトが振り返ると……名状しがたい顔で立ち尽くすベレトの姿があった。

 ガーン──そんな擬音が背後に響いていそうなベレトの表情が見たことないほど強張っている。無表情が常である彼がこうも衝撃を露わにするなんて初めてではないだろうか。

 

「……俺は、そんなことをしようとしていたのか」

「ま、待って、ごめんなさい師、私も言い過ぎたわ」

 

 目に見えて落ち込むベレトを見て慌てる。

 先ほど足りてよかったと言っていたので、恐らく持ち合わせがもうないのだろう。

 真面目なのは結構なことだが、真面目に受け止めすぎるのも問題だ。

 

 そこでエーデルガルトの脳裏に天啓とでも言うべき閃きが訪れる。この状況を逆転させる一手。これを逃す手はない。

 

「大丈夫よ師、ティーセットなら私のを貸してあげるわ」

「……え」

「それに貴方、紅茶のことは何も分からないでしょう? なら私が教えてあげるわ。しっかりしなさい」

 

 目を伏せるベレトの見上げながら励ます。しょんぼりした彼のことをかわいいなどと思う気持ちをなんとか抑えて告げる提案は、エーデルガルトによる紅茶の淹れ方と茶会の指導であった。

 何も分からない手探り状態で誰かを招くより、練習をしてから本番に臨むべきだ。その練習のために自分の持つ茶器を貸して、さらに茶会らしい会話の練習にも付き合ってあげる。完璧な提案だろう。

 

「教えてくれるのか? ……だが本当に何も分からないんだ、完全に一から学ばないといけない。君の休日を俺のせいで潰すわけには……」

「お構いなく。自分の予定を調整できないほど、私は幼くないわ」

 

 自信に満ちた笑顔でエーデルガルトは断言する。実際、予定していたことが遅れたとしても取り戻せる自信があっての提案だ。自負に裏打ちされた笑顔はベレトを納得させるだけの力があった。

 

「それに師らしからぬ発言ね。手探りの独学と指導者がいる教導、どちらが早く身に付くかなんて考えるまでもないでしょう?」

 

 気遣う彼を見上げ、エーデルガルトは得意げに微笑む。普段の授業と違い、生徒の自分が教える側になれると思うと心地好い。

 

「それとも、私では不服かしら?」

「……そんなことはない。ありがとう、助かるよ」

「ええ、任せてちょうだい」

 

 どこか安心したような声でベレトは受け入れ、小さく頭を下げてきた。それを受けてエーデルガルトも鷹揚に頷く。

 こうしてエーデルガルトはベレトと二人きりの、そして彼の初めての茶会相手という機会を手に入れたのであった。

 

 そういえばその夏服はどこで手に入れたのかと聞くと、自室で見つけたので私服として使わせてもらうことにしたそうな。おかしいのは衣装タンスではなく、何故か机の引き出しに納められていて発見が遅れたとのこと。

 

 

 

 

 

 

 

「紅茶って、奥が深いんだな……」

 

 教室にほど近い位置にある中庭で、いつになく疲れた様子でベレトはしみじみと呟いた。

 

「お疲れ様、師」

「君のように滑らかに動けなかった」

「私は幼い頃からこういう教育を受けてきたのだし、身に付いていて当然よ。すぐに追いつかれたら立つ瀬がないわ」

「そういうものか。やっぱりエーデルガルトはすごいよ」

「ありがとう。さ、師も飲んで」

「ああ……自分では味の良し悪しが分からないな」

「初めてにしては悪くないわ。後は慣れていけば自然と上達するわよ」

「そういうものか」

 

 さっそく持ち出したエーデルガルトのティーセットを使い、ベレトが買った茶葉から一つを選んで指導が始まった。

 初挑戦ということで選んだのは、最も庶民的と言ってもいいアップルティー。好む人も多く、まずはこれで紅茶を覚えていくといいとエーデルガルトが選んだ。彼女としても普段は飲まない紅茶で気分を変えたいと思っていたところ。

 そうして始まった皇女による茶会講座は、難航、というわけではないが思った以上に時間がかかってしまった。

 

 全くの初心者であるベレトの手付きが覚束ないのは仕方ない。指示された作業をできるだけ丁寧に進めるので動きが遅かったり、やり忘れたことを指摘されて手順を戻したり、時間をかけすぎて食堂からもらった湯が冷めてしまったので再びもらいに行く羽目になったり。

 普段のテキパキ動く彼を思えば珍しくとも、だからと言って疎む理由にはならず。

 合間合間にエーデルガルトの指示をメモに書き留め、受ける指導に全力で傾注する様子は、むしろこちらのやる気を引き出させてくれた。

 

 ハンネマンの気持ちが少し分かった。こうも熱心に聞き入る姿勢を見せられては、教える側としても気合いが入るというものである。張り切ったエーデルガルトの指導に、ベレトも一つ一つ反応してすぐ行動に移してくれたので、つい熱が入ってあれこれ口に出してしまった。

 師も私達を指導する時はこういう気持ちなのかしら──頭の端で考えながら、目の前で走り書きのメモを読み直すベレトを見つめる。

 ジェラルトの言った通り、教える側としてベレトほどやりやすい相手はいないのがよく分かった。

 

 さて、気持ちを改めて。

 

 やや冷めてしまった紅茶を前にして、講座は次の段階へ進む。

 そもそもベレトの目的は茶会を通じて交流を図ること。となれば必要なのは会話、その話題選びの練習である。

 

「話題か」

「そうね、お互いが内容を共有できる話題なんて話しやすいんじゃないかしら。私と師、どちらも知っているものについて話してみるのはどう?」

「共有できる……どちらも知っている……」

 

 唸るベレトを見ながら紅茶を一口。彼が自分のために考えてくれてその姿を独り占めできるこの空間のなんと贅沢なことか。しかも同じ制服姿、気分はまるで同級生。

 紅茶の香りも味もより良く感じられるというものだ。自然と機嫌が上向く。

 

 しばらく考え込んだベレトは、何か話題を思いついたのか、紅茶を味わうエーデルガルトに向かって口を開く。

 

「実は今朝、天帝の剣が壊れてしまって」

「ん゙っふっ」

「何気なく振ったら刀身が真ん中でポロっと折れて、って大丈夫かエーデルガルト」

「っけほ、けほ……だ、大丈夫よ……」

 

 思わず咽た。いきなり何を言い出すのかこの男は。

 いや、共有できる話題を探してくれたのは分かるが、その内容が不穏過ぎた。

 

「どうしたものかとレアさんに見せたら悲鳴を上げられた」

「けほっ……それは、そうでしょうね」

 

 信じて託した英雄の遺産がこんなに早く壊されたと知ればどう反応するか、想像に難くない。

 

「悲鳴を聞いて駆けつけたセテスさんにも相談して色々試したんだけど、天帝の剣は普通の剣とは構造が違うことが分かったんだ」

 

 レアの悲鳴を聞いて血相を変えて駆けつけたセテスの様子が目に浮かぶ。徒事ではなかろうと武装でもしていたかもしれない。そのセテスに向かって、この無表情のまま平然と相談を持ち掛けるベレトの姿も容易に想像できた。

 騒ぎにはなっていないことから、少なくとも他人の目はなかったと思われるが……朝から起きた大聖堂での珍事を思い、エーデルガルトは初めて彼らに同情した。

 

「あの剣はいわゆる蛇腹剣という武器で、折れたのではなく外れるような構造だったんだ」

「じゃばらけん?」

「エーデルガルトも知らないか。俺も今日初めて知ったけど」

 

 ただの剣ではない天帝の剣は、英雄の遺産としての力のみならず、それ自体が特異な武器としての側面を持っていた。

 

 蛇腹剣とは、刀身が複数の刃で構成された剣で、その内部を通したワイヤーで一つに繋いだ武器である。ワイヤーを引いて剣の形にまとめることで通常の剣のように、またはワイヤーを伸ばして鞭のように、二つの姿を使い分けられる特殊な剣だ。

 剛の剣と柔の鞭。状況に合わせて交戦距離を自在に変えられるという、大変面白い武器である……理論上は。

 と言うのも、刀身が複数の刃による分割構造である以上、剣としての強度を維持することが不可能なのだ。普通の剣のように振って打ち合えばその刀身はポロリと外れてしまい、傾いた刀身が逆に持ち手に向かってきてしまう。これは武器として致命的な問題である。

 他にも、鞭として振って複数の刃をぶつける切削を狙ったとしても、正しく刃筋を立てない斬撃が与えるダメージなど高が知れており、仮に正しくぶつけられたとしても力が乗らず、斬ると言うより撫でるような衝撃しか与えられない。

 それ以外にも様々な問題を抱えており、武器として考えると実用性がなく、言葉を飾らずに言ってしまえば欠陥品なのだ。

 

 しかし流石は英雄の遺産と言うべきか、天帝の剣にはそれらの問題を解消どころか凌駕する性能が秘められていた。

 紋章の力を刀身に纏うことで強度を維持し、並の剣以上の剛性を発揮する。振るうベレトの技量も相まって、的代わりにした鎧を真っ二つにしてみせたという。

 伸ばして使えば持ち主の意思に従って自在に動き、鞭については初心者のベレトでも離れた的へ百発百中の命中率を叩き出した。思う通りに動くので伸ばしながら振り回しても刃筋はきちんと立つから目標を切り裂けるし、剣と同じように力を乗せてぶつけられる。

 不思議なことに、伸ばして使った時に刀身が分割するのだが、分かれた刃の数が明らかに本来の刀身にあった分より多く、長く伸ばせば伸ばした分だけ刀身を構成する刃が増えるのだ。剣の形に戻せば刀身も元通り。分割より分裂構造と言うべきか。

 しかもこの剣、持ち主の意を汲む力がかなり繊細に働くようで、試しに離れたところのテーブルに置いた教本に向けて剣を伸ばしたら、テーブルを傷付けず先端が教本に巻き付いて引き寄せることに成功したのである。ものぐさな人にはとっても便利。

 

「こう、シュイーンって伸ばして、クルって巻いて、グイーって手元に」

「英雄の遺産で遊ばないで……」

 

 天帝の剣の検証の話を興味深く聞いていたところにぶち込まれたおふざけに、エーデルガルトは思わず額を押さえる。表情も声色も変えず平然と話し続けるので心構えができない。

 

「フレンは面白がってたぞ。手を使わず天帝の剣だけで小石をお手玉したら楽しそうにはしゃいでた」

「あの子の感性は独特なのよ……ねえ師、お願いだから天帝の剣を人前で気軽に使わないでちょうだい。レア様じゃないけど、悲鳴を上げる人がいるかもしれないのよ。約束して」

「? 分かった」

 

 君がそう言うなら、とベレトは素直に頷く。聞き分けが良いのは結構なことだが、相変わらず彼の爆弾発言は心臓に悪い。

 

「……待って、師は今朝もレア様のところに行ったのよね。研修はどうしたの?」

「今日は中止になった。悲鳴を上げたら倒れて気絶してしまったんだ。仕方ないから後のことはセテスさんに任せて、空いた時間をどうしようか考えてたら父さんに呼ばれて、後は君に話した通りだ」

「そ、そうだったの」

 

 気絶までするとは相当ショックだったのだろう。

 

 とりあえず、茶会の席で物騒な話題を出すのは控えた方がいいと忠告しておいた。相手次第ではあるが、こういう場では基本的に穏やかな空気を崩さない話題を選ぶように言っておく。

 アドバイスを受けて考え直すベレトを見て、また紅茶を一口。穏やかな空気が大切とは言うものの、こんな思いをさせてくれる破天荒な彼との一時がちょっと楽しくなってきたエーデルガルトであった。

 

 改めて共通の話題を探す中でベレトが思い付くのは、やはり生徒のこと。

 

 リンハルトに教えてもらったのだが、書庫という本に囲まれた場所は眠るのに最適な空間らしい。大量の紙が音を吸収して静穏性が保てる環境が理想だのどうの。

 早朝にやる重装訓練に、少し前からフェルディナントが加わり共に励んでいるという。武器収集の趣味が高じて鎧にも造詣が深い彼から、逆に教わることも多い等々。

 ハンネマンの講義の休憩時間に、メルセデスが作る菓子は絶品だと自慢するアネットからお裾分けされたブルゼンが本当に美味しくて感動したそうな。リシテアが大層気に入っていたので、自分のを一つ譲ってあげたらすごい勢いで感謝された話。

 

 話すベレトは相変わらず無表情だが、話題を選び、時折言葉を前後させながらあれこれ話してくれる姿は、どことなく生き生きしているようにも見えて微笑ましい。

 エーデルガルトの方からも話題を振り、彼が返す言葉に一喜一憂して、それでも話は盛り上がって最後には顔が綻ぶ。

 そんな二人の間には彼が初めて淹れた紅茶があり、余人が立ち入らない二人きりの空間が出来上がっている。

 

 ああ、そうだ……自分はきっとこういう時間が欲しかったのだ。

 ベレトと二人、何も気にせず、視線と言葉を交わし、心安らかにいられる時間が。

 

 以前はまるで心がないみたいだなどと揶揄までされたベレトだが、最近は察しの良い者なら変化を読めるくらいに感情を滲ませることがある。修道院の人々と関わっていく中で、無表情ながらも所作や態度に表れるものがあるのだ。

 そんな彼が率先して生徒と触れ合おうとしてくれる。その心遣いを嬉しく思うし、茶会の相手第一号になれたことが優越感をくすぐり、胸の内が満たされる。

 エーデルガルトのこれまでの人生にはなかった、ごく普通の少女のような気持ちをもたらしてくれるベレトの存在は、やはり特別なものだった。

 

 いつまでもこんな時が続けばいいのに──そんな叶うはずのない望みを想う。

 大修道院を出ても自分の師でいてほしいという願いも、エーデルガルトの勝手な願望でしかないのだ。元々傭兵であるベレトが教師の仕事から離れてしまえば自分との繋がりもなくなる。そうなれば、こうして茶会の席を共にする理由もなくなってしまうだろう。

 何より……この穏やかな日々を、遠からず自らの手で崩すことをエーデルガルトは決めている。そんな自分が抱いていい望みではない。

 

 そうした思いを断つように、正午を報せる鐘が鳴り響いた。

 大修道院中に響き渡る鐘の音が二人の会話を遮る。

 

「そろそろお開きにしましょうか」

 

 カップに残る紅茶を飲み干し、茶会の終わりを告げる。想定よりもずいぶん長く話し込んでしまったようだ。

 

「ご馳走様、師」

「ああ、ありがとうエーデルガルト」

「どうかしら、茶会の流れは掴めた?」

「十分だ。後は慣れていけばなんとかなると思う。ティーセットはどうすれば?」

「次の給料で新しいのを買うのでしょう? それまで貸してあげるわ。大切にしなさいね」

「助かる。必ず返すよ」

 

 テーブルの上を片付ける。楽しい時間は終わり。元の日常へ戻る時だ。

 またベレトと疎遠になってしまうかと思うと、少し寂しくなる。

 

 だがそれでもいい。これからはこうして少しでも触れ合えることが分かった。このささやかな時間があれば自分を慰められる。心安らかに、明日への力にしていける。

 まるで弱々しい乙女のような考えだと内心で苦笑する。そういった気持ちも今までになかったもので、彼と出会って自分は弱くなったのか……

 

 ふと、ベレトが動きを止めていることに気付く。片付けは終わり、もう席を立つだけなのに、止まったまま何か考え込んでいるようだ。

 

「師?」

「……やっぱりそうだ」

 

 考えに納得したのか。一つ頷いたベレトがエーデルガルトに向き直る。

 

「エーデルガルト」

「何かしら」

「俺は君と一緒にいたい」

「え? …………ええ!?」

 

 思わず後退りしてしまった。頬が熱くなっていくのが分かる。

 いきなり何を!? それは告白!? いや流石にそれは!? 何故今言うの!?

 慌てるエーデルガルトに構わずベレトは続ける。

 

「この二週間、自分のことに集中している間は気付かなかったが、父さんに指摘されて考えてからずっと違和感があった。何かが足りないというか、忘れてるというか、そんな気がして……こうしてエーデルガルトと話していてようやく分かった。二週間ずっと、君とまともに会話してなかったんだ」

 

 まるで気持ちを確かめるように、ベレトは思いを口に出していく。向かい合うエーデルガルトに、または自身に言い聞かせるようにはっきりと。

 

「俺個人の勉強や訓練でエーデルガルトに負担をかけたくなかったから、授業の準備とかは自分で済ませるようにしてたけど、それで結局話す時間もなくなって……君は手伝いを申し出てくれたのにそれも断って、自分でできることに俺は満足していた」

 

 街から帰った時のようにベレトが目を伏せているのが分かる。これまでの行いを悔やみ、懺悔するようにエーデルガルトに語りかける姿は、反省して落ち込む子供のようでもあった。

 卓越した戦闘力を持つ傭兵。多くの生徒に慕われる教師。そんな彼も、世間的にはまだ若造と言える一人の人間なのだ。気が回らなかったり、周囲を疎かにすることがあっても仕方ないのかもしれない。

 

 ジェラルトはそれをよく知っていたのだろう。ベレトの父として、師として、彼が間違った方に進まないように引き止めるという役目を果たしてくれていた。そのことにエーデルガルトは感謝する。

 なら、ここから彼を支えるのは級長の自分の役目だ。

 

 いつしか熱くなった頬も、高鳴っていた胸も落ち着いていた。

 

「他の生徒とは一緒にいたけど、君がいなかったことを思い出したら今までが物足りなく感じてしまった。やっぱり俺にはエーデルガルトと一緒にいる時間が必要だ」

 

 と思ったらこれである。

 

(本当に、もう……! いつもいつも、貴方は私の胸をかき乱す……!)

 

 一緒にいたいと思っているのは自分だけではなかった。それが分かって嬉しくてたまらない。耳から飛び込んだ彼の声が頭の中で踊り、胸の内で喜びの種が弾けて静まらない。今すぐ飛び上がりたいくらい嬉しい。

 しかし、そう何度も取り乱すのはプライドが許さない。だらしなく緩みそうになる顔を無理やり落ち着けてエーデルガルトも口を開く。

 

「……それで、そのことが分かって、師はこれからどうするのかしら」

「まず俺の勉強のペースを少し落とす。生徒のために使う時間を確保して、これからは交流を大事にしたい。エーデルガルトともまた茶会をしたいしな」

「あら、次は貴方の方から誘ってくれるの?」

「約束する。次は君の好きな紅茶を淹れよう」

「それは嬉しいわね、楽しみにしてる」

 

 どうしよう。先ほどの茶会で感じていたものより遥かに大きな幸福が湧いてくる。

 顔の緩みを抑えられる気がせず、エーデルガルトは背中を向けた。誤魔化すように空を見上げたり、固まった腕を伸ばしたりするが、彼にバレていないだろうか。

 

「それでエーデルガルト、頼みたいことがある」

「何、師?」

「また前のように授業の準備を手伝ってくれないだろうか。生徒達のことも相談に乗ってほしい。君に余裕があればの話だが」

「も、もちろん構わないわ! 師もできることが増えたのだし、指導方針を見直したりしたいのよね?」

「そうだが……いいのか? 君にも予定があったりするんじゃ」

「言ったでしょう、自分の予定を調整できない私ではないと」

 

 願ってもない申し出を受けてエーデルガルトは勢いよく振り返った。

 ベレトの方から一緒にいられる理由を持ち掛けられ、そのための時間を最優先させる予定を頭の中で組み直す。一瞬で終わり、即答することができた。

 

「なら今からはどうだろう。一緒に昼食を取りながら、いいか?」

「ええ、喜んでご一緒させてもらうわ」

 

 微笑み、二人連れ立って歩き出す。ティーセットを載せたお盆はベレトが持ち、揺らさないよう歩く。

 静かに、穏やかに、彼と二人でいる些細な時がかけがえのないものに感じられて、温かい気持ちに満たされる。朝までに抱えていた憂鬱が嘘のようだ。

 足取りは軽く、油断すれば今にもスキップしてしまいそうなくらいで、浮き立つ自分がおかしくてエーデルガルトは小さく笑ってしまった。どうしたのかとベレトが見てくるが、何でもないと誤魔化す。

 

 ……今でも悩みは尽きない。帝国を背負う宿命。世界の裏に蠢く闇。心に秘める誓い。全てを裏切ることになるための準備。これから先もきっと、この身にのしかかる様々な重さが消えることはないのだと思う。

 それを捨てるつもりはない。すでに秘密裏に動き始めている。今さらなかったことにはしない。してやらない。修羅の道を征く覚悟はもう決まっている。

 

 だがそれでも。

 ベレトと並び食堂に向かう今この時は間違いなく、エーデルガルトは幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 待つだけで、願うだけで、叶う望みなどこの世にはない。その無情な真理をエーデルガルトは身を以て知っている。

 それでも、胸の片隅に秘める願望──来たる未来でも彼と手を取り、共に穏やかな時を過ごせれば、という夢想──を捨てることは、どうしてもできそうになかった。




 エーデルガルトにはたくさんの背負うものがあるのだし、普通の人と同じような気持ちは持てないかもしれないけど、師と一緒にいる時はただの女の子でいてほしい、と思ってます。
 ついでに、うちのベレトは強くカッコよく見えるように書いてますけど、一人の人間としての人生経験はまだまだ足りてない側面もある、と考えてます。なのでこういうこともあります。


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箱入り娘、いざ授業へ 前編

 フレン主役回。なのでレトエデ表現は少なめです。
 なかなか大変な目に遭いますが、うちのベレト先生が担任を務める黒鷲の学級に加わるとはこういうことです。
 ついでにこの世界線での授業風景もお届けします。授業参観の気持ちでどうぞ。


「わたくしを、先生の学級の生徒にしてくださらなくって?」

 

 その一歩を彼女は自ら踏み出した。

 

「どうだろう、フレンのことを頼めないか?」

 

 後押しもされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壮絶な後悔が待っているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、フレンは朝からご機嫌だった。

 足取りも軽やかに、鼻歌でも歌い出しそうな心地で修道院の廊下を歩く。目指すは食堂。一日の元気の源である朝食を食べて、この後の授業に備えるため。

 そう、授業。教団に箱詰めされた生活は昨日でお終い。今日から自分は一人の生徒として、憧れの士官学校に通えることになったのだ。

 

 前節にあった、自身が不逞の輩に(かどわ)かされるという事件。

 セテス曰くこの身を流れる血を狙った犯行などと恐ろしい目に遭ったが、その結果としてこうして念願の学校生活を送れることになったのなら、あの時の恐怖は帳消しされるというもの。

 兄の不安は尤もではあるが、彼が言う隠遁生活に戻るのはごめんだった。身を潜めたとしても危険はあるなら騎士団の目が届く修道院にいる方が安全だ、というフレンの主張が通り、より安心するよう救出の立役者であるベレトの学級への所属が決まって万々歳。

 結果良ければ全て良し、なんて言葉もあるではないか。

 

 死神を思わせる異形の騎士を退け、颯爽と助けに来てくれたベレトの雄姿を思い出す。まるで物語に登場する勇者のようで、そんな彼の下で自分も教えを受けられると思うとフレンの気持ちは天井知らずに舞い上がった。

 

 そんな調子で食堂にやって来たフレンは早速配膳所へ向かう。いつもはセテスが間に入って二人分を受け取り自分に渡してくれるのだが、今日から自分も一人の生徒として行動すると宣言し、心配そうに見送る兄の視線を背に受けてここまで来たのだ。ここでちゃんと一人でも朝食を済ませて、心配も何のそのと身を以て示してやらねばなるまい。

 しかも、今日の朝の献立はフレンの好物のフィッシュサンド。先日行われた釣り大会から持ち込まれた大量の魚を消費すべく連日魚料理が振舞われており、魚好きのフレンはここ数日の食事の度に気分が盛り上がっていた。

 旬の魚と一緒に挟まれた野菜、そこに仄かな酸味を混ぜた美味を思い出し、彼女の腹が空腹を訴えてくる。今日の授業に向けて気合いを入れる意味でも、しっかり食べなくては。

 

 すでに朝食を終えたらしき生徒とすれ違いながら進むフレンだったが、その途中で彼女に元気よく声をかける者がいた。

 

「よう、フレンじゃねえか、おはよう!」

「まあ、おはようございますカスパルさん。朝食はもうお済みですの?」

「まあな。食い終わって今から着替えに行くとこだ」

「早いのですわね。もしかして、わたくしが遅いのかしら」

「そうでもないって。授業まで時間に余裕あるし、パパっと食っちまえよ」

 

 今日からフレンの同級生となる黒鷲の学級(アドラークラッセ)のカスパル。訓練所の常連として、そして今年度で一番声がうるさい生徒として有名だ。

 彼を始めとした黒鷲の学級の生徒達はフレンを快く迎え入れてくれて、いざ学級に加わる運びになっても緊張せずにいられた。

 

「ほらリンハルト、早くしろって」

 

 不意にカスパルが近くに座っている者に話しかける。彼がせっついたのは同じ黒鷲の学級の生徒、リンハルトだった。

 

「君ほど早食いしないんだよ僕は……」

「お前が遅いんだって。また置いてくぞ?」

「今日はきつい日だからしっかり噛んで食べたいの」

 

 彼らしいマイペースで返事しながらフィッシュサンドを咀嚼している。それでももうほとんど食べてしまったようで、手に持った分が最後な辺り、彼なりに急いで食べたのかもしれない。

 

 この二人の仲の良さはフレンも知っており、同じ学級の仲間として一緒に授業に臨めると思うと嬉しくなった。

 これまでは修道院内で生徒とすれ違ったりしても自分とは別の所属でしかなく、同じ場所で生きているのにどこか遠い存在に感じてしまって少し寂しい気持ちがあったのだが……これからは違う。自分も生徒になって学校に通うのだ。あの賑やかで若々しい集団に自分も所属するのだ。

 改めて湧き上がる感慨に、フレンは思いを新たにする。

 

(足手まといにならないように、わたくし頑張りますわ!)

 

 完食して席を立つリンハルトと並んで配膳所に向かう。お盆を持った彼が行くのは返却所なので途中までは雑談(フレンが一方的に意気込みを語るだけ)交じりに歩き、別れ際に思い出したようにリンハルトは口を開いた。

 

「ああそうだ、フレン」

「はい、なんでしょう、リンハルトさん」

「これは僕なりに親切で言うんだけど、あんまり朝ご飯を食べない方がいいよ」

「え?」

「普段の半分か、それより少ないくらいがちょうどいいと思う」

「あの、それはどういう……」

「リーンハールトー! はーやーくー!」

「はいはい、今行くって。それじゃあフレン、また後で」

「あ、リンハルトさん、ちょっと……ああ、行ってしまいましたわ」

 

 今度こそ置いていかれると思ったのだろう。振り返らずカスパルを追いかけて食堂を出るリンハルトの背中を見送り、フレンは立ち尽くした。

 

 リンハルトがあんな忠告をした理由。恐らく今日の午前、黒鷲の学級がこれから行う授業は外でやる全身運動訓練だからだろう。毎週必ず一度は行われる訓練にフレンは参加初日に当たってしまったのである。

 先ほどカスパルが着替えに行くと言っていたのは学校から支給される訓練服のことだ。丈夫さも然ることながら、半袖半ズボンの動きやすさを重視した格好で、フレンも朝食を終えたら着替えるつもりだった。

 

 お腹いっぱいに食べてたくさん運動すれば気持ち悪くなってしまい、その後の授業に支障をきたすかもしれない。リンハルトはそこを気遣ってくれたのか。

 どうするべきか……あのような忠告をされておいてそれを無視するのは、良い子のフレンにはどうにも抵抗があった。しかし授業に向けてきちんと食べておかねばならないのも事実で、好物の献立を控えるのも勿体ないという気持ちも強い。

 

 配膳所の近くでむむむと唸っていると、今度は別の生徒が声をかけてきた。

 

「おはようフレンさん」

「あ、モニカさん、おはようございますですわ!」

 

 背後からかけられた声に元気よく応える。朗らかな挨拶をしてきたのは、フレンと同じく今日から黒鷲の学級に加わることになったモニカだった。

 

 モニカは前節のフレン誘拐事件の時に一緒に助け出された少女だ。その縁もあってか同じ時期に黒鷲の学級に加わり、共に学ぶことになった同期の生徒とも言える。

 ただし彼女は事情が特殊で、前年度に士官学校に通っていた生徒であり、昨年行方不明になっていたのだが先日の事件で発見された経緯がある。すでに一度学校に通いはしたものの卒業はまだという変わった経歴の持ち主なのだ。

 その彼女は今日から学級に加わるも、毎節の課題には手を出さずに卒業まで通う特別枠として扱われることになった。なので他の生徒より関わりが薄くなるかもしれない。

 それでも、自分は一人じゃないと思えば同期の参加は嬉しいものである。

 

「あら、今日はエーデルガルトさんと一緒ではないのですね」

「そうなの。朝、部屋に行ったんだけど、授業前は先生と準備するから先に行くって断られちゃったの」

 

 頬に手を当ててモニカは残念そうに溜息を吐く。

 士官学校に復帰することになってからの彼女は何かと同級のエーデルガルトについて回り、いつの間にそこまで仲良くなったのかと驚くほど親し気な空気を纏っているのだ。

 責任感が強い級長としては、懐いてくるモニカを邪険にすることもできなかったのだろう。その相手をするエーデルガルトを、フレンも何度か見ている。

 

 とは言え、それまで続けていた務め(義務ではないようだが決して他人に譲ろうとはしない)を放り出すつもりはないようで、率先してベレトの補佐を行うエーデルガルトは授業となれば何を置いても彼の近くに陣取る。

 今だってそういう仕事があるわけでもないだろうに、授業の準備を手伝うという口実で朝から誰よりも早くベレトの近くにいようとする。

 そこは私の場所よと態度や行動、全身で主張するのだ。そんなエーデルガルトを見ると、フレンはどうしても微笑ましさが先に立ってしまい、二人の仲を想うと胸が温まった。

 

(エーデルガルトさんは、先生のことが大好きなのですわね)

 

 帝国の皇女が持つ可愛らしい一面を思い出し、自然と笑いが零れる。

 ただ、フレンのように考える者ばかりではないようで、モニカとしては自分がエーデルガルトの側にいられないのは不満らしい。食堂の壁越しに学生寮がある方を見つめている。

 

「……余計なこと洩らしてねえだろうなあの嬢ちゃん」

「? モニカさん、何か仰いまして?」

「ううん、何でもないよ」

 

 モニカが何事かボソッと小さく呟いたような気がして尋ねるも、朗らかに否定されたので気にしないでおく。

 

「それで、フレンさんは何を考えてたの?」

「あ、そうでしたわ! 先ほどリンハルトさんから朝ご飯の忠告を受けましたの」

「朝ご飯の?」

「はい。なんでも、今日はあまり食べない方がいい、と……普段の半分より少ないくらいがちょうどいいと仰ってましたわ」

「ふーん、なんだろ。この後は全身訓練があるから控えておけってこと?」

「恐らくそうかと……今日もせっかくのお魚料理で、どうしようか悩んでいたんですの。わたくし、お魚大好きですので」

「そうなんだあ。まあ私は普通に食べるけどね。フレンさんも好きなように食べたらいいんじゃない?」

 

 それでいいのだろうか……モニカに連れられて配膳所の待機列に並んでも考え続けるフレンは首を傾げた。

 

 結局、フレンは朝食にフィッシュサンドを堪能した。

 一応リンハルトの忠告を聞き入れ、しっかり食べようと三切れ注文する予定だったところを二切れに控えておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝食を終えて、訓練服に着替えたらいよいよ授業に臨む時。

 集合場所に指定されたのは訓練所ではなく、修道院どころか街の外、外側にある外壁正門前なので意識して早めに出たのだが思ったよりも時間がかかり、到着したのは予定時刻の鐘が鳴る直前だった。

 と言うのも、修道院の外へ足を踏み出したことがないフレンはモニカに連れられて門前まで来たのだが、道中の街を見るだけでも目を輝かせるフレンの歩みがその都度止まってしまい、どうしても時間がかかってしまったのだ。

 

 これまではフレンが修道院から出ることを頑として認めなかったセテスのせいで、単なる街並みですら新鮮な風景に感じられるのは果たして良いことなのか悪いことなのかは分からない。

 ただ、そのせいで案内役のモニカが溢した「箱入りウゼ」という小さな呟きが誰の耳にも届かなかったことは幸いだったのだろう。

 

 門前にはすでに他の黒鷲の学級の生徒が集まっており、準備運動として思い思いに体を動かしていた。

 ベレトも来ており、エーデルガルトと何事か話している。足元にある二つの大きな袋は授業で使う道具だろうか?

 

 二人の到着に気付いたエーデルガルトがベレトに一言断って近寄ってくる。途端にモニカが目に見えて表情を明るくした。

 

「エーデルさん、さっきぶり!」

「ええ、先ほどぶりねモニカ。フレンも一緒に来たのね、おはよう」

「はい、おはようございますですわ、エーデルガルトさん」

 

 フレンも朗らかに挨拶を交わす。流石は皇女と言うべきか、同じ訓練服姿なのにエーデルガルトはただ立っているだけでも凛々しい。

 堂々たる佇まいは同じ女としても尊敬できるもので、フレンも密かに憧れていた。

 

「先生とは何かお話してましたの?」

「大したことじゃないわ。今後の授業に必要なものの相談とか、鷲獅子戦のこととか、彼の仕事について少しね」

「まあ、エーデルガルトさんは本当に先生のお手伝いをされているのですね。生徒なのにお仕事までされてすごいですわ」

「そうでもないわ。私は級長ですもの。(せんせい)の補佐をするくらい手間でもないの。それにこういう経験はいずれ皇帝になった時にきっと役に立つのよ」

「ねえねえエーデルさん」

 

 フレンと話すエーデルガルトの横からモニカが腕に抱き付いてくる。距離感が近過ぎることに緊張してしまうのか、エーデルガルトの肩が僅かに強張るのが見えた。

 

「先生と話してたのって本当に授業のことだけ? 他に話すことってないの?」

「他にって……私は生徒で彼は教師よ。それ以外に何かある?」

「えー、例えばー、誰にも言えない秘密の話、とか」

「まっ、先生とは親密な話をなさる仲なんですの!?」

 

 前から気になっていた二人のことが聞けるのかとフレンは目を輝かせる。

 何しろエーデルガルトとベレトの仲の良さは、士官学校どころか修道院でも噂が流れるくらい有名だ。帝国の威信を背負う皇女が、側仕えの従者のヒューベルトよりも彼に心を許しているのではと人伝に聞いた時は驚いたものだ。

 その相手がレアやセテスも注目しているベレトだというのだから驚きも一入(ひとしお)。フレンとしても興味をそそられる人が、まさか皇女と恋仲になったりするのかも!? まるで物語の登場人物を見ているようでドキドキしてしまうではないか。

 

「そういうのはないわよ……それよりもうすぐ授業が始まるわ。少しでいいから体を動かしておきなさい」

 

 呆れたように首を振るエーデルガルトが、真面目な顔でフレンとモニカを見る。

 

「二人共、説明せずともすぐ分かることでしょうけど……覚悟しておきなさい。師は優しい人だけど、指導は厳しいわよ」

 

 含みのある言い方をすると、モニカの腕を外してエーデルガルトは再びベレトの下へと戻っていった。

 そういうのはないと今まさに言ったばかりなのに、そうすることが当たり前のようにベレトに近付くエーデルガルトの背中を見て、フレンは目を瞬かせた。

 

 程なくして修道院の鐘の音が響き、授業の開始時刻になったと報せる。生徒達は素早く街道の端に集まり、ベレトの前に整列した。

 生徒が全員揃っている(リンハルトもベルナデッタもいる)ことを確認したベレトは、一つ頷いて彼らを見渡す。なお、彼も生徒と同じ訓練服姿に着替えている。

 

「それじゃあ今日の授業を始めるが……その前に、フレンとモニカは今日から参加するということで、始める前に俺の授業方針を説明しておこう」

 

 他のみんなは今さら聞くのも退屈だろうから適当に聞き流してくれ──そんな風に言うベレトだが、生徒達は姿勢を乱すことなく静かに列を維持しており、彼の教育が行き届いていることが窺えた。

 

「俺は傭兵として生きてきた。だから物事に対して傭兵としてのやり方を基準にして考えがちだ。だがこの士官学校では俺のやり方はどうも異質らしくてな。なので少なくとも授業中はあまり深いところまで掘り下げず、できるだけ基礎を重視して教えることにしている」

 

 教師に就いた当初、生徒達へ何をどう教えればいいかとベレト自身も急いで学ぶため、セテス、ハンネマン、マヌエラにより士官学校の理念や方針を大まかに叩き込まれた際に、傭兵の時と同じ調子で教師をやっていたら遠からず問題になると彼らに引き止められた。

 今さら身に染み付いた生き方を捨てることはできないにしても、それをそのまま生徒に教えたりすればいずれその成長を阻害しかねない。生徒の方から望むのならまだしも、血生臭い主義が合わない者もいるだろう。

 

 そこでベレトは、自身が持ち得たものの中でも基礎中の基礎、つまり『身に付けさえすれば確実に多くの分野で通用する力』を重視して教えていくことにしたのだ。

 これは彼が受けてきた『地盤無くして城建たず』というジェラルトの教えでもあるという。どんな職種でも最初は基礎的な力こそが肝要であり、そこさえ身に付いていればその後は身に付けた生徒次第で一足飛びに飛躍も狙える。

 故に、士官学校の普段の授業においてはややくどいくらいに基礎を教える。今年の黒鷲の学級ではそんな方針を立てたのだと説明した。

 やる気のある生徒は他に個別指導も受け付けるとのこと。

 

 説明を聞いてフレンは感心した。元傭兵という異例の出自であるベレトがどのような教育をしているかずっと気になっていたが、想像以上に堅実な内容ではないか。

 どんな突飛な授業になるか、後から編入する自分がついていけるか、少しだけあった不安もこれなら杞憂に終わりそうだ。

 そんな彼女が顔色を変えるまで後数分。

 

「君達に教えられるのはこの一年しか……いや、残り半年くらいか、それしかない。俺の授業で身に付けたものを基礎としてこの先役立ててほしい。その一つが今からやる『走ること』だ」

 

 全ての人間(体を欠損したとかの例外を除いて)は持って生まれた二本足を用いて生きていく。

 であるならば、その人生において如何なる時も歩くこと、走ることを切り離して考えることはできない。誰であろうと、時に戦い、時に逃げ、どんな時でもその両足で踏ん張って生きていかねばならないのだ。

 これは戦場に生きる傭兵でも、商売に生きる商人でも、はたまた政治に生きる役人でも変わらない共通の理である。

 

 この士官学校には貴族も平民も分け隔てなく通い、学ぶことが奨励されている。ならば教えることは貴族平民関係なく、将来は軍に行く生徒も商人になる生徒も、どんな者であろうとも必ず役に立つ、そんな力。

 その一つが走ること、即ち、足腰の強さ。

 戦場では疲れた時に足が動くかどうかで生死が決まる。商売で儲けを出したければ利益を求めたり要人と面会するために西へ東へ走り回る。特殊な例を出すなら、貴族が領民を守るために現場へ急行して、敵の前で踏ん張らなくてはいけない場合だってあるかもしれない。それらを支えるのはいつだって本人の足腰なのだ。

 それを鍛える。誰が、どこに行こうと生きていけるように。そのための力を。

 

 そういう説明を聞いてふむふむと頷くフレンの隣で、モニカは内心うんざりしながら表情を取り繕っていた。

 自分が組織から施された教練に比べれば、士官学校で受ける教えなど子供の遊びみたいなものだろうに。しかも今からやるのは基礎だと言うではないか。

 そんなごっこ遊びに付き合わなくてはいけないと思うとあくびが出そうになるが、潜入している身でボロを出すわけにはいかず、こうして真面目に授業を受けなくてはいけない。

 

(今さら訓練ごっことか、怠いっつーの……)

 

 口には出さず胸の内でぼやく。怪しまれるわけにはいかず、表面上はフレンと同じように感心した目でベレトを見るが、内心では溜息を吐きたくて仕方ない。

 億劫な気持ちを隠して任務を全うすることが敬愛する組織の長のためになると自身に言い聞かせて、何も知らない出戻り生徒をモニカは演じる。

 そんな彼女が顔色を変えるまで後数秒。

 

 一通り説明したベレトは、次に実際の訓練内容について話す。

 やることは非常に、そして──非情なまでに単純だった。

 

「このガルグ=マクの街の外壁に沿って外周を走る長距離走をやってもらう」

 

(…………外壁に沿って?)

 

 てっきり街道を走るものだと思っていたフレンとモニカは数秒理解が遅れた。

 

 ご存知のように、ガルグ=マク大修道院は山間の高所に位置している。空気は澄んでおり、周囲には平地や荒れ地、森と小川、自然豊かな環境が広がっている。

 街を覆う外壁は大部分が森に囲まれていて、当たり前だがそこに整地された道などない。

 その外壁に沿って走るとは即ち「森の中を走れ」ということである。

 

 ガルグ=マクの外周を考えてみてほしい。市街を始めとして修道院がある高台を大きく囲む外壁は、それはもう長く伸びて一帯を覆っている。それに沿って走るなら、単純な距離だけでも相当なものだというのに、大半は森で足場も悪く、一部は岩肌が露出している切り立った崖まである。

 そんな環境を訓練服だけ身に着けた体一つで走れと言うのか?

 

「だがいきなり二人にみんなと同じ基準を求めるのは酷だし、かと言ってみんなの方を二人に合わせても折角の訓練が薄くなる。互いの内容が離れ過ぎても足並みが揃わなくなる。なのでフレンとモニカは二周、他の生徒は四周走ってもらう。これが今日の訓練内容だ」

 

 二周? 今、二周と言ったか?

 一周するだけでも気が遠くなりそうだというのに、それを二周?

 しかも他の生徒はその倍?

 この新米教師は本気で言っているのか?

 

 唖然とするフレンとモニカだったが……大半の生徒達は歓喜に包まれた。

 今日のベレトがとっっっても優しく見えたのだ。

 

「っしゃあ! 今日は十周走らなくていいんだな!」

 

(じゅっしゅう!?)

 

「ベレト先生、温情ありがとうございます!」

 

(おんじょう!?)

 

 歓声を上げる生徒達を見てフレンは困惑する。慄くばかりだった訓練内容、それが彼らにとっては大喜びするくらい優しいものなのか。

 

「よかった……これなら今日は、ちゃんと昼飯を食える……!」

 

 中には噛み締めるように呟いて喜びを露わにする生徒までいて、驚けばいいのか怖れればいいのかフレンには分からなくなってきた。

 流石に黙っていられなくなったのか、隣からモニカが進み出て抗議する。

 

「ま、待ってください先生! そんな、走るにしたって森じゃなくて街道を使えばいいじゃないですか! わざわざ危ないところを走る必要はないでしょう!?」

「問題ない。滝を登ったり、谷を渡ったりすることはないのだから、基礎の範疇だと判断する」

「え?」

「ん?」

 

 食ってかかるモニカの質問にサラリと即答するベレト。意見と言うより価値観の違いに首を傾げる二人を見て、フレンは何とはなしに理解する。

 この人にとってこの授業内容は相当優しく加減してあるのだ、と。

 

 この時のフレンの理解は間違っていない。

 竪琴の節にやった最初の訓練では、貴族平民関係なく、それどころか体力の有無さえ区別せず、ベレトは学級全員に外周五周を言い渡したのだから。

 

 ベレトから見れば士官学校に上がったばかりの、それこそ尻に卵の殻が付いているかいないかくらいの違いしかなかった生徒達は等しく雛鳥のようなものだった。

 加えて言えば、当時の彼も彼で生徒に教えるための適切な加減がまだ分かっていなかったこともあり、教師になり立ての頃は訓練とは名ばかりの阿鼻叫喚の風景も珍しくなかったのである。

 

 それに比べれば今日の沙汰はかなり優しいと言えるのだろう……比べることができるなら。

 

「さて、思ったより話が長くなってしまったがいいかげん始めよう」

「よっしゃあ! 先頭は俺だー!」

「待ちたまえ、先頭を走るのはこの私だ!」

「みんな、気合いを入れなさい! 行くわよ!」

「「「「「おおおおお!!」」」」」

「ま、待って、待ってください置いてかないでー!」

 

 ベレトが話を締めた途端、整列していた生徒達が一斉に動き出した。

 先を争って飛び出すカスパルとフェルディナントを先頭に、エーデルガルトの気勢に導かれて全員が走り出す。置いてきぼりにされかけたベルナデッタが慌てて追いかけていくのを最後に、黒鷲の学級の面々は森に飛び込んでいった。

 フレンとモニカを残して。

 

「……え?」

「……あれ?」

「何をやってる。二人も走れ」

「いやあの、急に言われても、っていうか合図とかないんですか!?」

「説明するべきことは説明した。複雑な内容でもないからやることは分かるだろう」

「それでも、こう、よーいドンとか、構えてとか普通はあるでしょう!?」

「いちいち身構えなければ始められない人間に育てるつもりはない。戦いは戦うと決めた時から始まる。この訓練も同じだ。走るという内容を分かって、授業時間になってるなら走っても問題ない。むしろ君達への説明が終わるのをみんなはわざわざ待っていてくれた。君は敵に不意打ちされた時に相手を卑怯と謗るのか?」

 

 言葉通りに傭兵としての考え方を基準に進めてる。いや、ベレトにとってはそういう心構えさえも本当に基礎的なことなのか。

 

 スラスラと続くベレトの言葉を聞いてモニカは押し黙る。

 確かに……確かに彼の言うことは分かる。工作員として潜り込んでいる自分にもそういった心得はある。だがそれは戦場のような特殊な場合での話であって、少なくともモニカにとって、こんな平和ボケした修道院での日常にまで持ち込む理屈ではなかった。

 

 顔を盛大に引き攣らせるモニカを前にしても表情を変えず、平然としているベレトを見て認識を改める。

 こいつは、ヤバい奴だ。このフォドラで学校の教師にしていい奴じゃない!

 

「も、モニカさん! 早く、わたくし達も行きませんと!」

「状況はいつだって君を待ってくれないぞ。行け、時間が勿体ない」

 

 焦って走り出すフレンと、変わらぬ無表情でせっつくベレト。二人に急かされて覚悟を決める。今ここにいる自分は出戻り生徒。学級に加わっておきながら授業を拒むわけにはいかない。

 

「……獣が、調子に乗りやがって……! ……やってやるよ、クソが……!」

 

 せめて聞こえないような小声で、地が漏れた捨て台詞だけ吐き捨てて、フレンの後を追うように走り出す。もう後ろ姿も見えない黒鷲の学級と先行したフレンに続き、モニカも森へ飛び込んでいった。

 

 全員の出発を見送ると、ベレトも自分の仕事を始める。ここで待ち構えて生徒の周回を数えるだけなんて、そんなのは教師のやることではない。彼も彼でやるべきことがあるのだ。

 

 ちなみにベレトの耳はモニカの捨て台詞をちゃっかり拾っており、獣呼ばわりされたことも聞こえていた。

 まあ世の中には畜生という悪態もあるのだし、畜生は獣のことだし、あれは彼女の口から無意識に零れてしまった悪態の一種なのだろう。普段は猫を被っていて、本性はきっとはすっぱな性格なのだろうな──といったように気にせず、あれをモニカの個性の一部としてあっさり流してしまったのである。

 

 差し当たって、いつものように近場の井戸へ向かって冷たい水を汲むため、持ってきた袋の片方から大量の水筒を取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ走るだけでここまで気を遣ったのは初めてかもしれない。

 森の中を走るフレンは始めこそ勢いよく駆けていたが、時に草に足を滑らせ、時に木の根に爪先を引っかけて、何度も転ぶ内に足元を気にしながら走るようになり、今度は前方を疎かにして伸びた枝に顔をぶつけ、次いで木の幹に正面衝突し、途中から涙目で走るようになった。

 

 これまで半年近くもの間、黒鷲の学級が走り続けてきたことが幸いして、外周によく使われる道筋がまるで獣道のように森の中に残っており、先行した生徒達を追いかけるための道が分からなくなるということにはならなかった。

 木々の隙間から見える外壁を頼りにせずとも迷う心配がなくて安心かと思いきや、道を気にするより、前にも、右にも、左にも、ついでに下にも注意を払いながら走るのは想像以上に神経を使い、どうしても速度は落ちた。

 

 だが、すぐにまともな注意を払えなくなった。それどころではなくなったのだ。

 

「ひっ……ふっ……ふぇ……ひぐ……」

 

 状況が違えば嗚咽にも聞こえそうな弱々しい息遣いで走るフレンは、何も知らない人が見れば心無い者から逃げるいじめられっ子のようだった。

 

 何のことはない、単純に疲労である。

 激しい運動をしたのなんてずーっと昔のこと。数えるのも億劫になる月日をセテスに守られてきたフレンは、有体に言えば運動不足だったのだ。

 そんな彼女にいきなりやらせる量の運動ではないのだろうが、授業として受け入れて一度走り出したからには根が真面目なフレンに投げ出すという選択肢はなく、こうして必死になって足を動かし続けるしかなかった。

 

 モニカは自分より足が速かったようで先に行ってしまい、一人で走るのは最初こそ心細さがあったのだが、すぐにそんなものを感じる余裕がなくなってしまったのだ。

 

 それでなくても方々に注意を払いながら走るのはとてつもなく神経を使い、フレンの体力を加速的に削っていった。まだ一周目の半分くらいしか走っていないのに、息も絶え絶えで前を見るのも辛い。

 これほど消耗してしまっているというのに、早くも彼女を周回遅れにする生徒も現れたのだから驚きである。

 

「フレン、しっかりする、します! 前、向いて走る、です!」

 

 息荒く走るフレンの背後から声をかけたのはペトラだった。そのまま並走してきて顔を覗き込んでくる。

 

「あ、ぺ、ペトラ、さん……速い、ですわ……」

「息、たくさん吸う、吐く、繰り返す。風の精霊、走る助け、もたらします。貴女、より走れる、できます!」

 

 ブリギットの教え方だろうか。流暢にフォドラの言葉を話せなくとも、区切りの多い彼女独特の言い方で単語を連ねて助言をくれる。

 ペトラの伝えたいことを察して、いつの間にか浅くなっていた呼吸を深く繰り返してみた。ほんの少しだが苦しさが和らいだ気がする。

 隣を見れば意思が伝わったおかげか、嬉しそうに笑うペトラの顔。

 

「ペトラ、さん、なんだか、楽しそう、ですわ……」

「はい! 森の中、走る、気分昂揚、楽しくなる、なります!」

 

 見るからに溌溂とするペトラは本当に楽しいのだろう。まだまだ余裕がありそうな彼女の様子を見ていると、若者の体力は底知れないものだと感心すると同時に、自分の体力の無さが情けなくなってきた。

 

 お先、失礼する、します!──加速したペトラが先へと走っていき、彼女の姿が見えなくなるのを皮切りに、二周目に入ってフレンを周回遅れにする生徒が続々とやってきた。

 

「頑張れフレン! 先はまだ長いぜ!」

「か、カスパル、さん……」

「俺も頑張るからよ! また後でな!」

 

 元気よく笑う余裕すら見せてカスパルが追い抜いていった。

 

「フレン、顔を上げて走りなさい」

「あ、エーデル、ガルト、さん……」

「背筋を曲げると余計苦しくなるわ。ペースを維持するのが大事よ」

「おや、余裕ではないかエーデルガルト! 私は先を行かせてもらおうか!」

「貴方はいちいち張り合わないで、自分の走りに集中しなさい!」

「それは失敬、そうさせてもらおう! フレンも頑張りたまえ!」

「フェル、ディナン、ト、さん……」

「ああもう! フレン、私は先に行くわ、そのまましっかり走りなさい!」

 

 先を争うようにエーデルガルトとフェルディナントも追い抜いていった。

 

 そこから次々に他の生徒に抜かされていく。

 黙々と走るヒューベルトは無言のまま横を通り過ぎていった。

 普段は書庫に籠ったりして体力がなさそうに思えたリンハルトも、追い抜く時にフレンを一瞥すると、息を荒くしながら追い抜いていく。

 他に声をかけてきたのはドロテアくらいだった。

 

「フレンちゃん、頑張って! 先はまだ長いわよ!」

「は、はい……ドロテア、さん、すごい、ですの……」

「もちろん! 体力なくて、歌姫やってられますかっての!」

 

 頑張ってねー、と追い抜いていくドロテアの背を見送る。

 

 ああ、今の時代を生きる若者達の、なんと生き生きした姿か。自分のような者がこの中に混ざって授業を受けていていいのだろうか。

 疲れのせいで悲観的な考えが浮かび、思考と一緒にのしかかってくる。曲がりなりにも動かせていた体が重く感じて、徐々にフレンの足が止まってきてしまった。

 

 しかし、停滞は許さないと言わんばかりに彼女に檄を飛ばすものが現れた。

 

「止まるなフレン」

「ひゃ! せ、先生……!」

 

 今にも止まりそうだったフレンの背を押したのは、いつの間にか隣に並んだベレトだった。

 

 驚いて顔を向けると並走するベレトがいた。

 大樹の節にやった対抗戦の顛末はフレンにも伝わっており、細身の体からは信じられない体力の化物という彼の評価も兄の口から聞いている。

 その評価に違わず、走っている彼は無表情を崩さず、汗一つかいていない平然としたいつも通りの姿。体中に括り付けた大量の水筒をガチャガチャと揺らしてペースを維持している。

 

 ……水筒?

 よくよく見ると肩や首に掛かる紐に繋がる水筒がざっと見て十以上、彼の体から下げられている。もしや中には水が入っているのか。その重さを抱えたまま走っているのか。

 

 不思議に思っていると、ベレトがその水筒を一つフレンに差し出してきた。

 

「走りながら飲め」

 

 足を止めそうになるフレンの背に手を添えて立ち止まることを許さないベレトに従い、仕方なく走りながら水筒の口を開ける。呷ると冷たい水が出てきて、水分を求める喉に当たり生き返る心地だ。

 が、勢いよく口に流し込んだ水が行き場を間違い、思い切り咽てしまった。

 

「げっほ! げほ、けほ!」

「ぶつかるぞ」

「けほっけひゃう!?」

 

 咽て注意を忘れたフレンの肩を引き寄せ、前方にある木からベレトが守る。

 ただ走るだけのはずが、気にするべきことが多くて目が回りそうだ。

 

「フレン、喉に水を流し込んで飲むのは走りながらだとどうしても難しい。一度口に含んで留めてから少しずつ飲むんだ。呼吸は鼻でしろ」

「うう……先に、言ってほしかった、ですわ……」

「すまない」

 

 口の端から零れる水を拭うフレンの恨み言に、ベレトは一言謝るだけだった。

 

 授業前に見た荷物袋の中身は水筒だったのか。冷たい水は恐らく井戸で汲んだばかり。それを抱えて生徒と同じく外周を走って水を届ける救助役をしているのだろう。

 ……彼も生徒と同じように外周を走るのか? それも荷物を抱えて、生徒を助けながら?

 一体どこまで負担を背負うのか。というか教師なのに生徒と同じことをやって疲れないのか。

 

 今度は咽ないように気を付けて少しずつ水を飲み、人心地が付いたフレンは水筒をベレトに返した。受け取った水筒を肩にかけたベレトがもう一度背中を支えてくる。

 

「いいかフレン。苦しくても、遅くなってもいいから足を止めるな。どんなに遅くても前進を続けていれば必ず目標に近付ける。止まることだけは、やっちゃだめだ」

「はい……は、走り、ますわ……」

「じゃあ俺は先に行く。頑張れ」

 

 最後にフレンの背中をポンと軽く叩き、ベレトは急加速していく。見る見る内にその姿が遠ざかり、木々に紛れて見えなくなってしまった。

 フレンから見れば全力疾走にも思える速さでよく森の中を走れるものだ。悪路も水筒の重さも物ともしないあの動きは、傭兵時代に培ったのか、ジェラルトに鍛えられたからか。

 

 教師であるベレトまで外周を走るのは、フレンにやったように水を届ける救助役もあるが、実はそれだけではない。

 フレンは気付かなかったが、大量の水筒に紛れてベレトは剣と弓で武装しており、ガルグ=マク周辺の警戒行動も担当していた。

 

 発端は彼が教師に就任してさほど経たないある日。フェルディナントと一緒に外出した際、二人が小型の魔獣に襲われたことがあった。

 ……本当はフェルディナントが一人でも魔獣を討伐してみせると息巻いて自分から魔獣(二体)に挑み、危ういところをベレトに助けられたという、控えめに言っても自業自得な出来事だったのだが、生徒の自尊心をわざわざ傷付ける必要はあるまいと詳細は伏せて、ベレトは教団に「修道院からそれほど離れてないところで魔獣と遭遇した」とだけ報告した。

 ガルグ=マクの近隣はペガサスナイトによる警邏係が巡回していて、魔獣などの脅威は早々近付けるはずはないのだが、小型の魔獣となれば森に紛れて見落とすこともあるかもしれないと考えたベレトは、自分も外周ついでに警戒しよう思ったのだ。

 

 これは個人で勝手にやっているわけではなく、ジェラルトとセテスに相談して決めたことだ。

 

『教師の片手間でもお前が巡回してくれりゃあ、こっちとしちゃ助かるぜ』

『生徒を指導する本分を疎かにしなければ、民衆を守る奉仕活動として認めよう』

 

 人手不足な騎士団の切ない内情を知る二人からお墨付きをもらったベレトは、今日もこうして救助役兼警戒役兼もしもの時に生徒を守る護衛役を務めているというわけだ。

 生徒が授業に集中できるようにするためなら、こうやって警戒するのも自分なりの教師の仕事だろうとベレトは思っている。一人で担当する範囲じゃないだろと突っ込んではいけない。

 

 そんな事情を知る由もないフレンは、ベレトも走っているのだから自分がこれ以上遅れるわけにはいかないと真面目に考え、必死になって足を動かした。

 森を抜けた先、荒れ地では砂礫に足を取られてまた転び、草地では走りやすいかと思えば遮る物がない日差しに焼かれて汗が噴き出し、しかしベレトの言葉通り足を止めないことだけを考えてとにかく走り続ける。

 

 そうして何とか一周目を走り、出発点である外壁正門が見えてきた。

 これでようやく半分。これを後もう一回。そう思うと気が滅入りそうになってくるが、一周できたのだから二周だって、と自分に言い聞かせて前を向き……奇妙な物を見つけて眉をひそめた。

 

 正門から伸びる街道、そこに走る道筋を遮る柵を作るように細長い杭がズラリと並んでいる。

 近くまで寄ってよく見ればそれは訓練用の槍だと分かった。何本も刺さって並ぶその根本にはベレトが持っていたのと同じ水筒が置いてあることから、この槍は彼が用意したのだと察せられた。

 しかし、何のために? 無視して通り過ぎるわけにもいかないと思い、つい走る勢いを緩めて並ぶ槍を見る。

 そこでフレンはようやく、槍に紛れて立てられた小さな看板に気付いた。そこにはこう書かれている。

 

【半分走った生徒は残り半分は槍を持って走れ。水分補給は各自任意で】

 

 ──悪魔か。

 

 聞いてない。後半がさらに大変になるなんて一言も聞いてない。

 今日の訓練は走るだけではなかったのか。授業前に見た二つの荷物袋、片方が水筒でもう片方は大量の槍が入っていたのか。

 

 看板と並ぶ槍のもたらす威圧感にフレンの足はすっかり止まってしまい、膝に手を着いて荒く息を繰り返すしかできない。

 足の裏がジンジンする。脇腹がズキズキ痛む。髪は乱れて汗で肌に張り付く。

 一周走ってこの有様だと言うのに、もう一周をさらに厳しい条件で走らなければいけないのか。

 

 武器を持って動くのは、何も持っていない状態と比べてとてつもなく動きにくい。

 剣を帯びれば腰が動く度に揺れるし、斧を持ち歩けば重量で純粋に動きが鈍る。弓を使うなら矢筒から矢が零れないような動きを常に心掛けねばならない。

 そして槍は長い。訓練用の槍は比較的短い方だが、それでも他の武器より携行性が悪く、背負っても手に持っても気を付けないとあちこちにぶつかるだろう。当然、槍を持って森の中を走るなど最悪である。

 フレンも一応槍術の心得はあるが、修道院内の訓練所で兄から教わった槍はある程度の自衛ができるくらいの習熟度でしかない。

 

 愕然としていると背後より誰かが走ってくる。ノロノロと顔を向けると、エーデルガルトに肩を貸してもらいながらモニカがやって来るのが見えた。

 どうやら気付かない内にフレンは追い抜いてしまったらしい。だが一周目を終えた今まで見かけなかったが……

 

「フレン、どうしたの?」

「エーデル、ガルト、さん……モニカさんを、どこで……?」

「途中で倒れていたのを拾ったのよ」

 

 息も絶え絶えに問うフレンのところまで走り、それ以上にぐったりしたモニカをその場に下ろしてエーデルガルトは大きく息を吐く。二人と違い、息は多少乱れていてもまだまだ体力に余裕がありそうだった。

 

「草むらに隠れるように倒れていたから見えにくくて、もし師まで気付かないままだとずっと倒れていたかもしれないからここまで連れてきたわ。森の中に放置するのは危ないでしょう」

 

 自分まで遅れることを承知で足が遅い生徒に手を貸してあげたのは、偏に級長としての責任感故か……あ、違う。ベレトの見落としを手助けできたのが誇らしくてならないと言わんばかりの満足気な顔だ。

 ぜえぜえと息荒く口も利けないモニカに水筒を一つ拾って渡してあげると、エーデルガルトはフレンに向き直る。

 

「それで、立ち止まっていたけど何か分からないことでもあった?」

「この、槍って……どうして、先生は、初めに、言って、下さらなかったの……?」

 

 ズラリと並ぶ訓練用の槍を見やるフレンは不思議で仕方なかった。

 

 ベレトは黒鷲の学級の担任教師であり、その指導をする身ならば授業内容をきちんと説明する義務があるはずだ。内容も教えず指導するなどできるとは思えない。

 この外周訓練、フレンとモニカは二周、他の生徒は四週走るという想定があり、それに合わせて各々がペース配分を考えて動くだろう。それを崩すことになる要素を後から追加するなんて理不尽ではないか。

 

 そう思ったフレンはやや不満そうな声を絞り出す。ところがエーデルガルトはそれを聞いても納得したように頷くだけだった。

 

「そのことね。師らしいやり方だわ」

 

 それどころか小さく笑ってみせる。ベレトらしいとはどういう意味なのか。

 

「フレン、大抵の事態は放っておくとどんどん状況が悪くなっていくわ。想定通りに進む保証なんてないし、自分から働きかけない限り、最初の想定が悪い方向に崩れるなんてよくあることよ」

 

 何もしてないのに状況が良くなるわけがない。生きていればいつだって前触れなく理不尽に襲われるものだ。傭兵だったベレトは特に世の中の理不尽を理解している。

 それに抗える逞しさを身に付ける場こそこの学校。理不尽を知り、それに抗う術を教えるのが教師の役目だとベレトは考えているのだ。

 

「苦しい状況に追い込まれた人が、挫けることなく立ち向かえる心の強さを鍛えることもこの授業の一部なのよ。それも別の意味で足腰の強さなのだから」

 

 そもそもこれは授業であり訓練である。苦しい状況なんて当たり前。それを乗り越えるための指導なのだ。

 何より、エーデルガルトは信じているのだ。ベレトの指導が自分達を必ず強くしてくれると。

 

「さあ二人共、残り半分も走りなさい。私も今から残り二周を走るわ」

 

 水筒を一つ手に取って呷るエーデルガルトの姿と言葉に、フレンは頭が下がる思いだった。

 

 基礎を重視すると言いつつ、多岐に渡る土台を生徒に仕込むベレトの指導方針。

 彼の授業を十全に理解し、力強く応えるエーデルガルトの逞しさ。

 

 それに比べて自分はどうだ?

 学級に入れてほしいとお願いしたのはこちらなのに、満足についていくこともできずに疲れて遅れて、授業の意味も分からなくて不満を覚えて。

 

 劣等感に苛まれるフレンを余所に、水を飲み終えたエーデルガルトが水筒と入れ替わりに槍を引き抜いた。

 そんな彼女へ、ようやく口を利ける程度に息を整えられたモニカが手を伸ばす。

 

「ま、待って、エーデルさん……私も……」

「悪いけど、私も師の授業を受けてる生徒なの。補佐にかまけて自分自身のことを怠るわけにはいかないわ」

 

 二人も頑張りなさい!──力強い声を残し、槍を手にして颯爽と三周目を走り出すエーデルガルトの背中は何とも凛々しい後ろ姿だった。

 

 負けていられない、などと上等な対抗心が沸いたわけではない。

 それでも動けたのは、遠ざかるエーデルガルトの背中に、自分を追い抜いていく生徒とベレトの背中を幻視して焦りに追い立てられたからだ。

 

「ふっぐ……っく……っぐ、くにゅにゅにゅ……!」

 

 何やら奇妙な唸り声を出したと思えば、フレンは勢いよく水筒を手に取ると一気に呷った。喉を鳴らして水を飲み干し、空の水筒を放り出して槍を一本引っこ抜く。

 

「や、やってやりますですわー!」

 

 やけくそ気味の叫びを響かせて、フレンは槍を片手に二周目へ突入した。

 

 今まで修道院という箱庭の奥で蝶よ花よと守られてきたフレンにとって、いきなりかけられた過剰な負担は容赦なくその体を蝕んだ。

 結果、フレンは生まれて初めて吐いた。

 朝食べた好物の成れの果てである吐瀉物を前に、自分が食べ物を粗末にしたのだという申し訳なさを疲れで回らない頭へ叩き込まれ、その場で崩れ落ちた。

 

 ちょっとだけ。

 ほんのちょっとだけ。

 フレンは、ベレトのことが嫌いになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 疲れで人が死ぬことはない。そう分かっていたとしても、フレンは一瞬、自分がこのまま死ぬのではないかと怖くなってしまった。

 けひゅーだのこひゅーだの、聞いたことない呼吸音が先ほどから絶え間なく喉から響いている。果たしてこれは自分のものなのか自信がなかった。

 

 どうにかこうにか外周二周を走り終え、朝集合した正門近くの草地に倒れ込んだフレンはそこから一歩も動けなかった。

 カラカラに乾いた喉は水分を求めて止まず、縋り付くように掴んだ水筒を呷ればまたも咽てしまい、激しく咳き込んでさらに体力を消耗。

 仕方なく走っている時と同じように一度口に溜めてから少しずつ水を飲む。嘔吐して酸っぱい味が気持ち悪かった口内を洗い流せて多少は落ち着けた。

 

(落ち着けるわけありませんわ!)

 

 口は呼吸で忙しいので胸の中で叫ぶ。

 フレンの永い人生でここまで息を切らしたことはない。最後の力でギリギリ肺を動かせているようなもので、うつ伏せに倒れたままそれ以上全く動ける気がしなかった。

 

 黒鷲の学級はずっとこれをやってきたのか。ベレトが修道院に来たのは大樹の節の末の頃。教師になって本格的に授業を始めたのは竪琴の節から、生徒達はずっとこうして彼に鍛えられてきたのか。

 各学級の授業は担任の性質が表れると言うが、ベレトはその無尽蔵の体力を基準にして黒鷲の学級を体力お化けの巣窟にしようとはしていないか?

 

 倒れたまま首を巡らせると、少し離れたところにモニカが倒れているのが見えた。やはり自分と同じように疲弊し切っていて、荒い息を繰り返して動く様子はない。

 昨年度から行方知れずで、長い間囚われの身でいた彼女もすっかり体力がなくなっていたのだろうと思われる。

 走り切った努力を同期と称え合いたいところだが、今だけは誰のことも後回しにして回復を急ぎたかった。

 

「フレン、しっかりしろ」

 

 そんなところに声をかけたのは正門に戻ってきたベレト。相変わらず水筒をカチャカチャと鳴らしながら走り寄ってきて、ぐったりしたまま目だけ向けるフレンを覗き込む彼は少し汗をかいている程度でほとんど息が乱れていない。

 噂に違わぬ化物ぶりを見て、彼は本当に人間なのか疑わしく感じてしまう。

 

「せん……せ……」

「しゃべらなくていい。そのまま横になっていろ。今ライブをかける」

 

 外周を走っている最中に転んだりぶつかったりしたせいで、フレンの体はあちこちに擦り傷があった。疲れで本人はあまり自覚できていなかったが、幾つか血が滲んでいるところもある。

 水で濡らした布を使い、それら一つ一つを丁寧に拭って綺麗にすると、ベレトは手をかざして回復魔法のライブを使って癒し始めた。

 

 レア手ずから研修を行った信仰の指導により回復魔法を習得し、実際に使うことでより習熟できるのは武芸も魔法も同じだと体感できたベレトは、こうした訓練でも積極的に魔法を取り入れるようになった。

 もちろん自分より生徒を優先して使わせるのだが、セテスの妹への溺愛ぶりを考えると他人をフレンに近付ける機会はできるだけ減らした方がいいと考えられる。なのでフレン相手はベレトが担当して、他は信仰専攻の生徒に任せることにしたのだ。

 今も倒れて動けないモニカの方にも走り終わった生徒が駆け寄っていき、一人、二人、三人……なんかもう寄ってたかって回復魔法が使われている。脱力して動けないモニカはされるがままになってライブの白い光に囲まれていた。

 

 傷はどれも小さいものばかりで、魔法を使うことにそこまで慣れてないベレトの魔力でも問題なく治すことができた。

 親しんだ癒しの光に当てられてフレンも僅かに活力を取り戻したようだ。少しずつ呼吸が落ち着いて、身を捩る程度は体を動かせる。

 

「先生、ありがとうございます……助かりましたわ」

「フレンも頑張ったな、よく走り切った。えらいぞ」

 

 走っている間は悪魔と思わしきベレトの所業に慄いたフレンだったが、こうして終わらせた後の手当てや、頑張りをちゃんと褒めてくれるのは嬉しいものだ。

 乱れた髪を梳くように撫でるベレトの手を感じて目を閉じる。男性に頭を撫でられるのは兄の手しか知らなかったが、ベレトの優しい手付きは沁み入るように心地好かった。

 

 多少は落ち着けたフレンは、ベレトの手を借りて体を起こすと次の指示を聞いた。どうやら午前の授業はまだ終わりじゃないらしい。

 

「次は柔軟運動をやる」

「じゅうなん、ですの?」

「筋肉を強く固く鍛えるのとは別に、支える筋を伸ばして関節をしなやかにする運動のことだ。これをすることで体の各部分が捻りに強くなって怪我を減らせる。ほら、ちょうど向こうでやってるような感じで」

 

 ベレトが指差した方を見ると、走り終わって息を整えた生徒達が次の行動のために体格の近い者同士で二人一組になったところだった。

 片方が股を開いた状態で座り、もう片方が相手の背中を押す、開脚。

 そこから片膝を閉じて逆の足先に手を伸ばし、伸ばされた手を片方が引く、伸脚。

 うつ伏せの片方が後ろへ腕を出し、もう片方が引いて背を反らす、海老反り。

 授業では恒例なのだろう。各々が組んで自発的にこなし、苦し気な呻きを出しながら関節を伸ばす面々を見てフレンは恐怖した。

 

(あんなの、痛いに決まってますわ!?)

 

 半年続けた成果が表れたのか、信じられないほど関節を伸ばしている生徒もいて、あそこまでやって体は壊れないのか心配になってしまう。

 

 ああ、そんなに股を割って、裂けてしまうではないか!?

 ひぃ、そこまで体を捻っては骨が外れるのでは!?

 だめだめ、それ以上やったら死んでしまう!

 

 戦慄に震えるフレンだが、目の前で柔軟運動をする生徒達は慣れた様子であり、する方もされる方も平然と続けている。

 そして気付くのは、今から自分も同じことをするという事実。背中側へ回ったベレトの手で柔軟を強いられようとしているのだ。

 

「で、でも、あの、わたくし、ドロテアさんみたいにああやって脚をパカーって開いたり、ペトラさんのように体をペターって地面に着けたりできませんわよ!?」

「あの二人は特に柔らかいからな、あそこまでやらなくてもいい。それでも体を動かすのに最低限求められる柔軟性がある。それを伸ばすためには余計な力が入らないよう体を疲れさせてからやるのがいいんだ」

 

 それは予め逃げる力を奪うために疲れさせるのでは?

 邪推してしまうフレンに頓着せず、その体にベレトの手が伸びる。

 

「それじゃあ始めるぞ」

 

 そして、地獄が始まった。

 

「待って、せ、先生! 待ってください! そこは、ああ、そこはそんな曲がるところではありませんのよ! き、聞いてくださいます!? 伸びるー! 伸びますわ先生! ああ、ちょっと、待って! 痛い、痛い! あーだめですわ! それはだめなのですわ! あー! あーーー!! あ゙ーーーーー!!!」

 

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 フレンは、またベレトのことが嫌いになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後に、修道院で過ごした思い出を振り返った時、士官学校に加わった日々を述懐したフレンはこう語る。

 

「正直とっても、とーっても後悔してますわ! 本っ当にもう先生ったら酷かったんですのよ! 聞いてくださる!? わたくしが痛いって叫んでもやめてくれなくて、放してって言っても止めてくれなくて、もうだめって泣いても全部無視して酷いのですわ! 指導は厳しいと聞いていましたけどあんなに扱かれるだなんて想像できるはずないでしょう!?」

 

 声を荒げて不満をまくしたてる彼女は、普段の淑女然とした嫋やかな姿とは別人のようで大層驚かれたのである。




 書き始めた当初の想像を遥かに超える長さになってしまったので二つに分けることにしました。今回はアニメで例えるとAパート。後編へ続く。

作者の活動報告に載せた後書き


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箱入り娘、いざ授業へ 後編

 フレン主役回後編。苦労は続くよどこまでも。アニメのBパートです。


 ようやく午前の授業が終わり、疲れ果てて修道院に帰ってきた黒鷲の学級(アドラークラッセ)の面々。

 ベルナデッタのように元々体力がなく、終われば倒れて動けなくなり、その度にベレトに担がれて(無論街の中でもそのまま運ばれて)帰還するという、ある意味辱めに遭っていた生徒も以前は何人かいたが、今では這う這うの体ながらも自力で歩いて帰れるようになっていた。

 しかし今日からまたベレトに担がれて帰還する生徒が二人。言わずもがな、フレンとモニカである。辛うじて意識は繋いでいても立つ気力すら残っていなかった。

 

 そんな有様でまともに食事が取れるはずもなく。

 他の生徒が昼食にありつく様を尻目に、疲労困憊の二人は喉に水を流し込むことくらいしかできなかった。

 昼食の献立は二種の魚のバター焼き。旬の魚に乗る脂と、濃厚なバターの油。食堂に漂うかぐわしいはずの香りが激しい吐き気を催させて、食欲を根こそぎ薙ぎ払ってくれた。

 大好物の魚料理を体が受け付けない現実はフレンに大きな衝撃を与えたのである。

 

 他の女子生徒に手伝われる形で連れていかれた浴室で簡単に身を清め、制服へ着替えを済ませ、午後の授業のために今度は教室に向かう。

 生まれたての仔馬よりも情けない歩調は、朝の浮き立つ足取りとは打って変わって不安になるほど弱々しく、教室に辿り着くまでの廊下が二人には実際の何倍の長さにも感じられた。

 

「……へ…………ふ、ぇ……つ……着きました、わ……」

「ち……く、しょ…………なんで、あたしが……こんな……」

 

 転がり込むように辿り着いた黒鷲の学級の教室で、縋り付いた席に着くや否や、二人して机に突っ伏してしまう。

 全身の筋肉が痙攣して、もはや力の抜き方が分からない。自分の体がまるで自分のものではないみたいで、フワフワと意識が定まらなかった。

 

 そんな二人の姿は、もちろん他の黒鷲の学級の生徒達も見守っているのだが、生温かい目線を送るばかりでそれ以上は何もしようとしない。

 そうそう自分にもあんな感じの頃があったっけ~、と暢気に見やるばかりでそれ以上気遣う様子はなく、一見すれば薄情と言えるくらいの放置ぶりであった。

 

 何しろ彼らの担任はあのベレトである。午前のあれは毎週行われる授業の一つでしかなく、彼曰く、あくまで基礎。この学級にいれば誰もが経験する、最初の洗礼みたいなものに過ぎない。あの程度で出る悲鳴も呻きも物の数ではないのだ。

 日々【壊刃】仕込みの指導を受ける黒鷲の学級は順調に感覚がズレてきていた。

 

 声をかけられたところで返事をするのも辛い、という事情を身を以て知っていることも理由の一つかもしれない。

 一分、一秒でも長く休ませてあげよう。そんな心遣いなのだろう。そう信じよう。

 

 しかしながら休み時間は限られており、どうしたって午後の授業はやって来る。

 全員が教室に揃い、修道院中に響き渡る鐘の音に合わせて座学の時間が始まる……と思いきや、教壇から降りたベレトは授業の声掛けをする前に動き出した。

 

 何をするのかと見やる生徒達の間を通り、フレンの後ろに立つと、持ってきた物を手に構える。それは一本の平たい棒。

 すわ、一喝して気合いを入れるのか、などと体罰を危ぶむ者はこの場にはいない。言葉にせずとも誰もがベレトのやろうとしていることを察したのだ。それはこの学級のほぼ全員が経験したことだから。

 縦に構えたそれを、徐に支え起こしたフレンの襟から背中へストンと差し込んだのである。

 

「ひゃうっ」

「授業だ、起きろフレン」

「せ、せんせ──んぎゅ」

 

 棒の冷たさに驚くも、再び机に突っ伏そうと崩れる姿勢につられ、棒に引っ張られた襟元がフレンの喉に食い込み倒れることを許さない。

 そう、姿勢矯正のための補助棒である。

 

「あ、あの、先生、これって……」

「人は前を見なければ何もできない。これは授業だろうと戦場だろうと同じことだ。体を起こして目を開け」

 

 それだけ告げると、ベレトは同じことをするためにモニカの方へ向かった。

 言わんとすることは理解できたのでフレンは反論できず、同じように前触れなく差し込まれた棒に驚き「ひゃあ!」と悲鳴を上げたモニカをぼんやり見ることしかできなかった。

 

 そんなこんなで授業は始まる。

 午後から行われる座学は戦術講義。ベレトが持つ傭兵ならではの観点、実戦をよく知る者の見識から語られる内容は真に迫っており、彼の授業の中でも特に注目されている科目である。

 毎年の中でも定番の課題、飛竜の節に決まって行われるグロンダーズ鷲獅子戦に向けて、今節はその手の指導が増えるとのこと。

 

 ベレトの授業では彼からお題を出されて、それに対して生徒が意見を述べたり、別の生徒と意見を交換したりして考察を深めるのが定番の流れである。

 騎士団の運用とか陣形とかの勉強は実際に部隊を率いて隊長をやる人だけがやればいい、その気もないのに漫然と受ける授業なんて時間の無駄だとベレトは言い切り、支給された教本を用いる内容の大半はバッサリ切り捨ててしまったのだ。

 それらは意欲ある生徒が個別指導を受ける時に教えることにして、平日の授業ではここでも『誰にとっても役に立つ力』として基礎を教えている。

 

 さて、本日のお題は『特定の状況から考えられる有効な手段とは何か』ということ。

 

 ある村が山賊に脅かされています。

 その村が山賊に対抗するためにはどのような手段があるでしょう?

 実際に自分が村にいるものとして考えてください。

 

「はい、フェルディナント」

「うむ、この私が答えてみせよう」

 

 出題してから一番速く挙手したフェルディナントが指名された。立ち上がったフェルディナントは自信満々の表情で口を開く。

 

「領民が脅かされているのなら、それを助けない貴族はいない。無論、貴族の中の貴族たるこの私も助けるとも!」

「君ならどうする?」

「まず、私が地方の村を訪れるとしたら領地の視察だと考えられる。それには必ず我がエーギル家が誇る精鋭、エーギル星騎士団より一部隊を預かり率いていることだろう。私自らが部隊の先頭に立ち、卑劣な山賊を討伐するのだ!」

 

 つかつかつかつか ぐい 「んきゅ」

 

「そして仮に、何らかの事情で私が単身村を訪れていたとしても、その地を治める貴族に頼んで私設軍を派兵させよう。エーギル家の名を出せば否とは言わないさ!」

「ありがとう、良い答えだ」

 

 褒められたフェルディナントは得意満面に胸を張って着席した。ベレトは教室の黒板に今の答えを要約して書く。

 

 ・自前の戦力で討伐

 ・貴族に依頼して軍を派兵

 

「居合わせた自分の力で何とかできるなら問題ない。フェルディナントのように精鋭を率いてただの山賊に後れを取らない戦力があれば素早く解決できるし、そこを治める貴族に事態を把握させれば村も今後が安心だろう。正解とする」

「ふっ……民の安寧を守るのも貴族として当然のことさ」

「なあなあ先生」

 

 前髪をかき上げて誇るフェルディナントの後ろの席で、今度はカスパルが手を挙げた。

 

「どうしたカスパル」

「それってさ、俺がその村に居合わせたらって考えていいんだよな」

「ああ。君ならどう動く」

「俺って将来は家を出て独り立ちするつもりだから、村には一人でいると思うんだよな。そんなところに山賊が来たりしたらよ、俺も襲われるだろ? それを逆にとっちめちまえばいいんだ!」

 

 つかつかつかつか ぐい 「はぐ」

 

「そいつに拠点の場所を吐かせて、乗り込んで残りもまとめてぶっ飛ばす! そうすりゃもっと早く解決できるんじゃねえか?」

「ありがとう。それも良い答えだ」

 

 自身の腕を叩いて豪語するカスパルに頷きを返して、ベレトは黒板に答えを追加する。

 

 ・自力で討伐

 

「兵は拙速を尊ぶという言葉もあるように、単純なやり方だとしても事態を素早く収束させて解決できるならそれも大切な考え方だ。特にカスパルのように個人で動けるなら行軍の負担も最低限に抑えられるしな。これも正解とする」

「へへっ、もちろん実力があって初めて使えるやり方だってのは分かってるぜ。そのためにこの学校で訓練してるんだからな!」

 

 得意気に笑いつつ、謙虚な考えも付け足すカスパル。彼の将来予想図を知る生徒は密かに応援の視線を向けていた。

 すると離れた席のヒューベルトが手を挙げる。

 

「どうしたヒューベルト」

「質問をよろしいですかな?」

「聞こう、何だ」

「個人で反抗するとなると、山賊一味を全て同時に制するのは極めて難しいと言えましょう。一部の敵を倒せたとしても他の敵が逆上し、集中して襲い掛かってきたり、または村人に矛先が向く可能性が考えられます。それでも先生は個人で動いてもよいとお考えですか?」

「確かに複数の敵を相手にする時は、敵がどう動くか分からない以上、その心配は常について回るだろう」

 

 つかつかつかつか ぐい 「おぶ」

 

「だが今の場合、そもそも山賊は襲撃と略奪という惨劇を行おうとしている。居合わせても無抵抗のままでいるのはそれこそ被害を広げる最悪手。もし被害をやり過ごそうとするなら、逃げたり、隠れたり、注意を引く餌を用意して誘導したり、決して受け身ではない何かしらの積極的な行動を取るはずだ。これも個人の対処だよ」

「何もせずにいることこそあり得ない、と……ふむ、目から鱗でしたな」

「でもヒューベルトの今の指摘は大切だ。行動を起こせば必ず注目が集まるし、相応の被害を被ることは覚悟しなくてはいけない。逆に言えば、山賊の敵意を自分に集中させて村人を守ることもできる。カスパルなら体を張って村人を守りそうだ」

「そうそう、俺もそういうことを言いたかったんだ!」

 

 興味深そうに頷くヒューベルトと合点がいって手を叩くカスパルを見ながら、ベレトは黒板に書き込みを追加した。

 

 ・自力で討伐(積極的対処)

 

 次に手を挙げたのはペトラ。話し方が拙くても彼女は積極的に発言するのだ。

 

「先生」

「ペトラも意見があるか?」

「はい。傭兵、その村、雇う、選択、あります、でしょうか?」

「ある。具体的にどう動くか説明できるか」

 

 つかつかつかつか ぐい 「ひにゃ」

 

「私、村に行く、途中、多くの街、通る、思います。様々な民、すれ違う、話す、あります。私、先生みたいな人、市井、探す、思いました。頼れる傭兵、見つけられると、困った時、頼れる、願います」

「なるほど。道中に立ち寄った街で戦力になりそうな傭兵を探しながら歩いて、必要な時にその傭兵に依頼する、ということか」

「はい、ありがとうございます!」

 

 己の言を要約したベレトに強く頷きを返してペトラは礼を言う。

 そこでエーデルガルトが難しい顔で手を挙げた。

 

「どうした、エーデルガルト」

「今の手段は少し難しいのではないかしら」

「説明を」

「戦力を見つけられるに越したことはないけど、市井から頼りになる傭兵を探すのは確実性が薄いと言わざるを得ないわ。単独でも賊を圧倒できる、例えば(せんせい)のような人材が早々見つかるとは思えないし、またいつ村が脅かされるか分からない以上、時間を無駄にできない」

「そうよね~、他ならぬエーデルちゃんがまさにそうやって先生と出会えたんだし、自分だけの特別な出会いだと思いたいわよね~」

「ちょっとドロテア、からかわないでちょうだい!」

 

 ニコニコと楽しそうな言いぶりでドロテアは口を挟む。釣られて他の生徒達も温かい笑顔を向けるが、当のエーデルガルトは真面目に意見しただけなのに何故そんな反応をするのかとツンとした表情である。

 それを見ているベレトは、何か面白いところがあったのか、理解できなかったようで首を傾げるだけだった。

 

「エーデルガルトの言うことは分かる。命がかかっている状況で確実ではない手段を選ぶのは賢いとは言えないかもしれない。ただし、何らかの事情があって近場の傭兵しか頼れないことも十分あり得る。なのでペトラの意見も正解だ」

 

 つかつかつかつか ぐい 「んご」

 

「先生、何らかの事情、例えば、如何、ありますか」

「あり得そうなのは街道の封鎖。俺も以前、崖崩れがあった山道を通れなくて大きく遠回りする羽目になったことがある。河川の氾濫もあり得るだろう。後は、規模の大きい山賊だと村に通じる道を塞いでしまうかもしれない。悪い想定は幾らでもある」

 

 ペトラの質問に対する解説を聞いて頷く生徒を背に、ベレトは黒板に答えを追加する。

 

 ・傭兵に依頼

 

 それからも意見を出す生徒、反論する生徒、あれこれ考察を深める授業がしばらく続き、黒板に並ぶ複数の答えを示したベレトはまとめに入る。

 

「今挙げられた手段はどれも正解だ。状況次第でどの手段が適しているかは変わる。君達には最良の一つだけではなく、良いものから悪いものまで問題の解決には複数の道があること、そしてそのために自分がどう動けるのかを考えてほしい」

 

 つかつかつかつか ぐい 「ふみゅ」

 

「目標までの選択肢があればあるほど有利、ということね。複数の道があると知っていれば自分から主導権を取りに動けるのだから」

「エーデルガルトの言う通りだ。みんなには自分から主導権を取れる人間になってほしい。最初はだめだと感じた手段でも、状況が変われば意外と有効かもしれない。そういう判断も知っていなければできないんだ。たくさん知って覚えてくれ」

 

 ベレトの弁を補足するように口を挟んだエーデルガルトは、彼から頷きを返されて満足気に笑う。対抗戦の時に得た教訓を忘れていないのだという主張は微笑ましいものかもしれない。

 

 しかし、授業を受けるフレンはそれを気にしていられる余裕はなかった。

 と言うのも、補助棒に支えられながら疲れた体は尚も姿勢が崩れてしまい、体が傾きかけるその時には背後に回ったベレトが棒を元の真っ直ぐに戻して強制、もとい矯正してくるのだ。

 フレンだけでなくモニカまで、教室を見渡すベレトは常に意識して潰れることを許さない。二人の姿勢が崩れるとすぐに歩み寄って棒を動かし、その度に引かれた襟に喉を締められて淑女としてあられもない声が漏れてしまう。

 

 座ったままでも休まる気がせず、回復を忘れたように重くなる一方の体はフレンの心をますます疲弊させた。

 

(ああ、わたくし……お部屋に帰れるのかしら?)

 

 どんよりした気持ちは強まるばかり。

 せめて板書だけでもちゃんとやらなければ、と健気に考えて黒板の答えをノロノロと書き写す。ベレトの言いつけ通り、一生懸命に体を起こして目を開いて、何度も彼に矯正されながらフレンは無心に授業を受けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは授業が終わり、放課後になってしばらく経ってからのこと。

 角弓の節よりは早く赤狼の節よりは遅い、そんな飛竜の節らしき日暮れの時分。

 突如として、食堂で事件の火蓋は切られた。

 

「ぶぇるぇとぅお!!!」

 

 その手に愛用の斧を握り締め、扉を蹴破る勢いで飛び込んできたセテスの咆哮に、食堂で夕食を楽しんでいた人々は言葉を失う。

 見るからに怒りに染まった形相は明らかに我を忘れていた。

 

 本日の夕飯当番が忙しなく動く厨房の端で自身も料理に勤しんでいたベレトは、セテスの雄叫びが響くや否や、即座に厨房を飛び出した。配膳用の台を、足をかけることなく一息に飛び越え、麺棒片手にエプロンを翻して駆ける。

 狙われている自分が他人の近くにいては危険だと判断しての疾走は、飛び出したが故に当のセテスに発見されて早々に止められた。

 

「逃がすかぁ!!!」

 

 銀の斧を振り回して襲い掛かるセテスを、ベレトは已む無く食堂のど真ん中で相手取った。近くの人に被害が届かないよう体捌きを調整して、セテスから離れ過ぎず、近付き過ぎない絶妙な立ち回りが要求された。

 

 セテスはドラゴンナイトの兵種であるが、ドラゴンに乗っていなければ戦えないなどということはなく、個人で見ても斧術の達人として高い戦闘力の持ち主でもある。

 銀製で重く、扱い難い斧を問題なく振るうセテスは確かに強いのだろう。しかし完全に冷静さを欠いた戦いぶりは彼本来の姿からは遠く、武装として使うには不安がある麺棒でも凌げるほど斧の太刀筋が乱れまくっていた。

 

 その場に留まり斧をいなすベレトの顔に焦りはなく、丁寧に捌き続け、ついには斧の柄を掴んで鍔迫り合いのように抑えることに成功する。

 至近距離で鼻息も荒くベレトを睨むセテスの目は、いつもの落ち着きある彼とは別人の如く狂乱の色に染まっていた。

 

「貴様ー!! フレンを、よくもフレンを痛めつけてくれおったなー!! フレンをいじめる不届き者をこの私が許すわけなかろうがー!!」

 

(ああ……)

(うんうん……)

(そりゃまあ……)

(だよなあ……)

(ですよねえ……)

 

 迸るセテスの主張を聞き、昼間のフレンの姿を知る者は皆一様に胸中で頷く。

 

 セテスが日頃からどれだけフレンを溺愛しているかは周知の事実だ。それこそ掌中の珠の如く、何者も手を出すことは許さないと過保護なほど守ってきた。普段の公明正大な大司教補佐として知られる彼が、妹のことになれば一転して駄目人間に変貌するのが納得されてしまうくらいには知られた、修道院の共通認識である。

 そのフレンを授業とは言え、疲労困憊になるまで扱き、悲鳴を上げさせるほど追い込んだベレトを、あのセテスが許すはずがない。

 

「違うぞセテスさん、聞いてくれ」

 

 斧を抑えながら、ベレトは堂々とした態度で口を開いた。

 

「今日やったのはただの基礎だ。個別指導ではもっとやる」

「おのれまだいうかきさまー!!!」

 

(((((先生、それ逆効果)))))

 

 こんな時でも表情を変えずに放たれた素っ頓狂な発言に、食堂内の人達は心を一つにして無言で突っ込んだ。

 

 ぬけぬけと宣うベレトに、さらに逆上したセテスが蹴りを放ってその体勢を崩し、緩んだ手元から斧を取り戻して再び猛攻が始まる。縦横無尽に振り回される斧は先ほどより勢いを増し、更なる怒りを伴って襲い掛かった。

 今にも口から火を噴きそうな彼の気勢には流石に顔色を変えるほどだったようで、ベレトも珍しく目付きを険しくして対応した。

 

 突然始まった二人の戦闘。間近で生まれた脅威に、今さらになって悲鳴を上げる人が続出する。修道院の内部、それも食堂という憩いの場で勃発した戦いは多くの人を戸惑わせた。

 そうやって多くの人が惑う中、状況に対処するために素早く動く者もいた。

 

「扉を全て開けなさい! 二人がすぐ動けるように! 早く!」

 

 エーデルガルトが指示を飛ばし、彼女の指示を受けた生徒がすぐさま食堂の扉を開けて外への道筋を確保した。

 

「テーブルを動かします! みなさん下がって!」

 

 ディミトリが片手を一つずつ長テーブルにかけ、その怪力で二つのテーブルを一気に押しやって動きやすくするための空間を食堂の中央に空けた。

 

「はーい離れて離れてー、巻き込まれたら大変だぞー、もっと距離取ってくれなー」

 

 クロードが素早く誘導して人を払い、攻防が届きそうな人を遠ざけて被害を未然に防ぐことができた。

 

 級長を中心として生徒達が自発的に動き、避難誘導と空間の確保をしてくれた。

 彼らの働きに気付いたベレトは目線だけで礼を伝える。その一瞬だけ外れた目線をセテスは見逃さなかった。

 

「死ねぇベレトぉ!!」

 

 お前ちょっとは殺意隠せよ、と言いたくなる怒声と共に斧を大きく振り被って突撃してくる。その斧に向けて、ベレトは手に持つ麺棒をかざして構えた。

 食器の中ではそれなりに頑丈と言えど、麺棒で銀の斧を受け止めるなど無茶もいいところ。ベレトの無謀を感じて悲痛な叫びが上がりかける。

 すると如何なる力が働いたのか、斧が振り下ろされたかと思えばベレトの体がセテスの懐へクルリと折り畳まれていく。腕を掴んで、開け放たれた扉へとその体を放り投げた。

 

 間を置かず、軽々と投げ飛ばしたセテスを追ってベレトも食堂を飛び出す。転がるセテスの体を飛び越えて、階段を使わず高台を飛び降り、釣り堀前に着地した。

 

 一瞬の判断。

 左。門前の市場は開けた場所だが、夕飯時の今でもまだまだ人が多く残っている。露店を片付ける作業で荷車などを動員しているところもあるはずだ。そこに戦いを持ち込むわけにはいかない。

 右。温室に近付かないよう道筋に気を付けて、学生寮の前を駆け抜けられれば、そのまま訓練所に誘い込めて理想的。可能なら行きがけに自室から剣を拾えると麺棒より戦いやすくなる。

 正面。視界に映る限り、人影は無い模様。釣り道具を貸し出す小屋にも誰もいない無人の場所で動きやすい。後は桟橋に被害が出ないように調節できれば──

 

「逃がさんぞー!!」

 

 高台からセテスが飛び降りて斧を振り被る。それに向かってベレトは自らも跳躍して迫った。

 下にいるベレトに向けて振るはずの斧は目測を外され、乱れたところを麺棒で押しやられる。そこからすれ違い様にセテスの腹部へ足を添えたベレトは釣り堀に向けて蹴飛ばした。

 

 桟橋手前に落下したセテスに向かってベレトはすかさず突進を仕掛ける。受け身を取って立ち上がろうとする彼の動きを待たず、速度を落とさないまま腕と襟首を掴むと一気に桟橋の端まで踏み込んだ。

 引かれて浮き上がるセテスの体を全身の力で振り回す。先ほど食堂から放り出した時のような加減はしないで、全力を以て真下へと投げ落とした。

 即ち、釣り池に。

 

 盛大な水柱と水音が上がり、斧ごとセテスが池に叩き落された。

 素早く桟橋から離れてベレトは様子を窺う。その後ろの高台から、生徒を始めとして戦いの様子が気になった人達がぽつぽつと顔を出してくる。

 

 池に落とされれば頭の熱も冷めるだろうか。

 というか落としたままで助けなくていいのか。

 幾つもの視線が向けられる中、セテスの物と思わしき気泡がボコボコと水面に浮かび、止まる。

 

 これは、沈んだか? 張り詰めた空気が緩みそうになった、その時。

 

「私は負けーぬ!!!」

 

 勢いよく水を撒き散らしてセテスが水面から飛び出した。水中で上手いこと足場を見つけたのか、泳がず二本足で立って岸に近付く。

 

「フレンを守るのはこの私だ!! あの子を守るためなら何だってやってやどぅ!」

 

 岸に手をかけようとしたところで、ベレトが投げた麺棒がセテスの額を打った。言葉を途切れさせてひっくり返り、またも水に落ちる姿を見て一同は思う。

 

 ──だめだこりゃ。

 

 あれがセイロス教団の大司教補佐なのだと、知る者は否定したくてもできず、むしろ納得してしまう有様に頭を抱えた。

 

「何のこれしきー!!」

 

 セテスが懲りずに飛び上がって地上に舞い戻った時にはベレトは走り出していた。わざわざ一度高台への階段を上がってから学生寮の前を走る。そのベレトを追ってセテスも走り出した。

 

 ベレトは己の失策を感じた。

 想定より遥かにセテスの地上への復帰が速い。両者の距離はさほど開いておらず、これで自室に寄ろうものなら飛び込んだ入口を抑えられて出られなくなり、より狭い室内での戦闘を強いられてしまう。自ら袋小路に向かうようなものだ。

 この時間帯、訓練所の大扉が開いている保証はなく、開けるために足を止めてしまえばやはり追いつかれてしまう。訓練所前の通りには花壇があり、そこで戦闘を再開するのは躊躇われる。ドゥドゥー達花好きの生徒が世話する花を危険に晒したくない。

 

 どうするか。無手の格闘はできないわけではないが、銀の斧相手では流石に厳しいものがある。麺棒を投げてしまったのは早計だったかもしれない。

 壁を上って屋根へと逃げるか? だめだ、被害を広げないために食堂から移動したのに、高低差を生んでセテスにドラゴンを使う理由を与えては本末転倒。

 こうなったら、先日見つけた地下へ通じる道に飛び込むか……修道院の地下に広がる空間、通称アビスに戦いを持ち込むことになってしまうのは躊躇われるが、このまま地上でやり合うよりは選択肢も増えるだろう。

 

 考えながら学生寮の前を走るベレトの目に訓練所の大扉が見えてくる。あそこにセテスを誘導できれば理想なのだが──そう歯噛みするベレトの横から飛び出してくる人影があった。

 

「よう先生! 今日の地上は一段と賑やかだな!」

「ユーリス?」

 

 学生寮の隙間から飛び出してベレトと並走を始めたのは、今し方考えたアビスで出会った青年ユーリスだった。

 

 アビスを訪れた際、紆余曲折あってユーリスを始めたとした灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)と名乗る若者達を指導することになったベレトは、彼らのことも担任として面倒を見るようになったのだ。地上の生徒と違って毎日というわけにはいかないが、暇を作っては地下に降りてユーリス達にも教えている。

 地上を追いやられた人が行きつく果てがアビスだと言うのに、地上から定期的に訪れて授業を行うベレトはあまり歓迎されていない……と思いきや、地下の住人達からはそれなりに好意的に受け入れられていた。

 元々傭兵であり、セイロス教に馴染みなく生きてきたベレトは先入観を持ち得ておらず、偏見の目に追いやられて地下に移ったアビスの人々はむしろ親近感を覚えて彼を迎え入れたのだ。

 

 紫の髪をなびかせ、女性と見紛う美貌に楽しそうな笑みを浮かべながら走るユーリスは特にそういった目に敏感な生い立ちをしていて、だからこそベレトのような存在を好ましく思っていた。

 灰狼の学級の仲間は誰もが訳ありの過去を持ってアビスにいる。その彼らを前にしてもベレトは特に身構えず、地上の生徒と同じように対等に接し、有りの侭を見てくれたのだ。そういう人物がどれほど貴重な存在なのかをユーリスはよく知っている。

 そんな彼の助けになれるのなら、こうして地上に足を運んだ甲斐があるというものだ。

 

「今日から新しい子が学級に加わるって聞いてさ! 何か面白いことになるんじゃないかと見に来たら想像以上の大騒ぎ! あんたを見てると本当に飽きないよ!」

「そういう君は堂々とここに来て大丈夫なのか?」

「俺様のことは気にすんなって、これでも自衛はできるつもりさ! それよりこいつを使いな!」

 

 そう言ってユーリスが投げてきた訓練用の剣を受け取る。訓練所の備品であるその剣はベレトもよく使うもので、切れ味は度外視してとにかく頑丈に作られている。これならセテスの斧とも打ち合えるだろう。

 

「エーデルガルトに感謝しとけよ! あんたの狙いを誰よりも早く察して訓練所を開けるために生徒を走らせたんだ! 俺はその手伝いをしただけさ」

「そうだったのか。助かった」

「そう思うならもっと下に遊びに来いよ! みんな、あんたを待ってるんだぜ!」

 

 それだけ言うとユーリスは行き先を変えて、浴室へと続く階段を駆け上がっていく。自分が知らないだけで、あの先にもアビスに通じる秘密の入り口があるのかもしれない。

 視界の先で何人かの生徒が訓練所の大扉を開けているのをありがたく思いながら、ベレトは走る速さを意図して抑えた。当然、背後から迫るセテスとの距離が急速に縮まる。

 

「ベーレートー!!」

 

 やはり躊躇いなく振るわれる銀の斧へ、反転したベレトは訓練用の剣を正面からぶつけた。麺棒ではできなかった全力のぶつかり合い。強烈な衝撃に押されるが、押されかけた体を力で抑えてその場で踏ん張る。

 これまでとは違い、避けずに受け止めるベレトに合わせるようにセテスも足を止めてその場で斧を振るう。次々に襲い掛かる斧の攻勢を、ベレトは剣を翻して捌き、時には弾いて防ぎ続ける。

 

 重量武器の斧を相手に正面から戦うと、やはり剣は攻撃力で上回れず、じりじりとベレトの足が押しやられていく。

 だが、上回らなくてもいいのだ。麺棒という貧弱な得物では当てる位置に注意を払ってもいなすことがせいぜいだったが、頑丈な訓練用の剣なら銀の斧とも打ち合える。打ち合えるようになれば駆け引きが可能になる。

 池に落とされ、物理的に冷やされてなお怒るほど冷静さを欠いたセテス相手なら、戦闘の駆け引きは百戦錬磨のベレトにとって、戦う場所を誘導することくらいは問題なかった。

 

 逃げることなくその場にセテスを留め、訓練所の大扉が十分に開いたのを視界の端で確認したベレトは次の動きに移る。

 

 それまで防御一辺倒だったベレトが初めて攻撃に転じた。

 その動きは前と言うより下。

 横薙ぎの斧を潜るように、あるいは自ら伏すように、脱力して重力に委ねた体が前方に倒れる。顔面から倒れ込もうとした刹那、地面に触れるだけだった足の力を零から百へと爆発させて踏み込みを敢行。

 強靭な足腰による踏み出しに自然落下の勢いを上乗せした踏み込みは、通常のそれに倍する加速を生み、倒れる寸前の姿勢を維持したまま相手の足下への侵入を可能にした。

 この時、ベレトの頭はセテスの膝より低かった。

 加速の勢いは水平から垂直へ変化する。目の前で敵を見失い一瞬の硬直を見せてしまったセテスの顎を真下から、ベレトの前転からの逆立ち蹴りが打ち上げた。

 

 曲芸じみた攻撃でセテスをふらつかせたのを契機に、ベレトが猛攻を始めた。

 剣戟と格闘術を駆使した攻めは相手の足を踏ん張らせないことを目的としており、セテスの体を浮かせるほど強烈な一撃も織り交ぜるベレトに押しやられて二人の戦闘が強制的に動かされる。

 たちまちの内にセテスが追いやられていく。たまらず体勢を立て直そうと数歩退いた時には、すっかり訓練所の中へ移動させられていた。

 

 顎の痛みを払うように顔を振り、改めて斧を構えるセテスの目は未だ力強く、決意の緩みは見られない。

 

「私が……! フレンは私が守らねばならんのだ! ベレト!! 貴様のような無頼漢を信じたのが間違いだった! あの子だけは、私が守ってみせる!!」

 

 静まらない気勢を上げるセテスの前で、言葉は不要とばかりにベレトも無言で剣を構える。

 

 こうして急遽、怒れるびしょ濡れ大司教補佐と、エプロン三角巾装備傭兵教師という異色の組み合わせの対戦が始まったのだった。

 ……実に、シュールである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室のベッドでフレンはぐったりしていた。授業の終わりから他の生徒に手を貸してもらって何とか階段を上って聖堂まで辿り着き、自室に入るや否や教材を机に放り投げてベッドに倒れ込んでからずっとこの調子なのだ。

 夕暮れ時に仕事の暇を見つけて顔を出したセテスの手で幾らか身形を整えて、改めてベッドに横になってから全く動けずにいた。何やら焦った声でセテスが語り掛けてきたような気がするが、朦朧とした意識でどんな会話をしたかあまり覚えていない。

 午前に酷使した体は今でも疲労に沈んでおり、昼食を取っていない腹が空腹を訴えているにも関わらず、夕食のために起き上がろうとする気力も沸いてこなかった。

 

 教室を後にする間際、最後の力を振り絞ったモニカがエーデルガルトに縋り付いたのが見えたので、きっと彼女も似たような状態だろう。

 

 ああ、今日はこのまま休んでしまおうか……浴室には昼間に行ったのだし、それなりに身綺麗で一日を終えられるなら、もうそれでいいのでは……

 普段の彼女らしからぬいいかげんな考えが脳裏を過ぎるくらい力無く横になっていたところに、軽いノック音が誰かの訪れを教えた。

 

「はい~……どちら様でしょう?」

「レアです。入っても構いませんか?」

「あ、レア様。はい、どうぞ」

 

 何とも元気の無いフレンに応えたのはレアだった。静かにドアを開けて入る彼女に一礼したかったが、案の定フレンの体は言うことを聞いてくれず、ベッド横の椅子に座るレアに目礼をするのが精々だった。

 

「ごめんなさいレア様、横になったままで……」

「いいのですよフレン、今日は本当に疲れたのでしょう。授業のことはベレトから報告を受けてます。頑張ったのですね」

「うふふ……でも一日でこうなってしまいましたわ。今日はこのまま休もうと思っていましたの」

「まあ。ですが貴女はまだ夕食を取っていないのでしょう? きちんと食べて栄養を取らなければ回復しませんよ」

「そうですけど、本当に体が動かなくて……」

 

 柔らかく微笑むレアに釣られてフレンも笑みを浮かべるが、やはりそこには力が無く、起き上がれないのは本当のことだ。

 そんなフレンを見てクスクスとレアは笑う。どうしたのかと訝しげな目を向けるフレンに一言断りを入れた。

 

「彼の言った通りでしたね。貴女のために食事を持ってきてくれたのですよ」

 

 お入りなさい──レアの声を受けて部屋に入ってきたのは、深皿が載ったお盆を手にしたベレトだった。

 

「まあ、先生?」

「大丈夫かフレン」

 

 彼が入ってくるとレアは立ち上がり、入れ替わるようにベレトを近くに招く。彼女は見舞いに来ただけで、これでもう退席するようだった。

 

「ではベレト、後は任せましたよ」

「ああ。そちらもセテスさんを頼む」

「安心してください。二度とあんなことを仕出かさないようきちんと絞めておきますから」

「明日に響かない程度にな」

「ええ、心得ています」

 

 何やら言葉を交わすとレアは部屋を出ていく。ドアの前で振り返ると優しい微笑みを二人に向けてきた。

 

「それではフレン、また明日」

「はい、レア様、ごきげんよう」

 

 来た時と同じようにレアは静かにドアを閉めて去っていった。

 見送ったフレンはベレトに向き直る。と言ってもベッドに横になったままだが。

 

「先生、横になったままで失礼します」

「気にするな。今日は随分疲れただろう」

「……ええ、本当に、とっても疲れましたわ。先生の授業があんなに厳しいものだとは思っておりませんでしたの」

「俺も今日の授業内容は反省が残った。優しくしたつもりだがもっと抑えるべきだったな」

 

 フレンとしては珍しく嫌味に聞こえる言い方をしたつもりなのだが、ベレトには通用しなかったようで、サラリと流されて小さく頭を下げられてしまった。

 まあ、今の言い回しを嫌味と呼ぶにはあまりにも可愛らしい言い方で、彼女の人の好さが感じられるだけだったが。

 

 むぅ、と唇を尖らせるフレンに向けてベレトは徐に身を乗り出し、ベッドの中にいるフレンの背中に腕を回してきた。

 

「せ、先生?」

「辛いかもしれないが上体だけ起こしてくれ」

 

 ゆっくりと体を起こされたフレンに持ってきたお盆が差し出される。億劫な手を動かして受け取ると、ベレトはそこに載る厚手の深皿から蓋を取ってくれた。

 途端に立ち上る湯気と美味しそうな香り。優しい味を感じさせる皿の中にはたっぷりのスープが満たされていた。

 

「まあ……!」

「今日の夕飯の献立は魚と豆のスープだ。材料を分けてもらって少し調整した」

 

 昼の時とは違い、疲れた体に重く響くような脂っこさは感じない。恐らく煮立たせながら浮いた脂を丁寧に取り除き、食べやすいようにわざわざ面倒な工程を経て作ってくれたのだ。

 赤みを湛えた汁はトマトの色だろうか。具沢山の豪華なスープは飲むより食べると表現すべきでフレンの知るものとは違い、ベレトが手を加えた特製の料理は見ているだけで嬉しくなる。

 

「でも先生、ベッドで食べるなんてお行儀が悪いですわ」

「構わないだろう。動けないなら今日は特別だ」

「特別」

「ああ、特別」

 

 生来の真面目さから躊躇するフレンだが、ベレトの言葉を聞いて思い直す。

 今なら口やかましい兄はいない。見ているのはベレトだけ。自分は動けないのだから仕方ない。仕方ないのだから、今日は特別。

 特別という言葉が頭の中で踊り、知らず知らずの内に口がニンマリと弧を描いた。いけないことをやっているはずが何だか楽しい気持ちが湧いてくる。

 

「今日は特別、なのですわね」

「そうだ。冷めない内に食べてくれ」

「はい、いただきますわ!」

 

 気持ちに釣られて疲れを忘れた手でスプーンを取ると、フレンは元気よく食べ始めた。

 

 コリコリするヒヨコマメの触感に加えて、シャキシャキの歯応えを残したキャベツと、ニンジンのしっとりした軟らかさが口の中を楽しませてくれる。

 香辛料は最低限に控えて素材の味を生かしたのだろう。ほんのりと感じる程度のトマトの酸味が食欲を掻き立て、手の動きを止めさせない。

 添えられたパンは焼けたばかりなのか柔らかく、そのままでもスープに浸しても味わい深くて、ベレトが注いでくれる水と一緒に喉を拭って次の一口を急がせる。

 そしてスープに溶けて尚残るホワイトトラウトの淡泊な旨味が、ホクホクの身から噛む度に溢れ出してフレンを感激させた。

 

 吹いて冷ますのももどかしく、ハフハフ言いながら手を動かす。

 先ほどまで食事に行く気力もなかったはずなのに、旺盛な食欲を思い出した体は貪欲に栄養を欲していた。

 

 そうやって勢いよく食べるフレンの姿を見るベレトがほんの少しだけ微笑みを浮かべたことには誰も気付かなかった。

 

「そういえば、はむ、先生、お兄様はどうしたんですの? 今日は、あむ、お仕事が長引いているのかしら」

 

 仕事が終われば真っ先にフレンに会いに来るはずのセテスがまだ来ないのなら、帰りが遅くなっているのだろうと予想はできる。いつもならツィリル辺りに遅くなると伝言を届けさせるのだが、急な用事でも入ったのだろうか。

 食べる手を止めずに聞いてくるフレンの口元を、お盆と一緒に持ってきた布巾で拭いてあげながらベレトは答えた。

 

「セテスさんは今レアさんから説教を受けてる。今日は帰りが遅くなるだろう」

「説教って、んっく、どうしてそんなことを?」

「俺に襲い掛かって修道院で暴れたからじゃないかな」

「……一体何が…………いえ、お兄様は何をしたんですの?」

 

 どこか他人事のようなベレトの言葉を聞いて、フレンの頭に疑問が浮かび、すぐに兄が自分関係で何かやらかしたのだと察した。

 何しろこういう展開は初めてではない。自分を溺愛するセテスが些細なことを切欠に信じられない行動を起こすのは容易に想像できる。そういえば先ほどもレアと何やら不穏な言葉を交わしていたではないか。

 

 どう話したものかとベレトは一瞬考えるが、特に隠す意味も思い当たらなかったので自分が体験したことをそのまま伝えることにした。

 

 斧を手に修道院を走り抜けたこと。

 食堂に殴り込んだこと。

 人前でベレトと大立回りを演じたこと。

 訓練所で取り押さえられたこと。

 

 実際に相手取った関係上、ベレトの話は戦闘の様子を多く含み、食事中の話題としては相応しくなかったかもしれない。しかしフレンの目は真実を求めているように感じられたので、下手に隠さず見たままを話したのだ。

 

「お兄様ったら……!」

 

 一通り話を聞いたフレンは頭を抱えたくなった。ベレトだけでなく、他の生徒、修道院全体に迷惑をかけた行いはまさに身内の恥である。

 

 特に話の終盤で、訓練所に追い込まれたセテスがベレトの剣(の腹)で脳天を殴られても、横面を引っ叩かれても、鳩尾を打たれても、足を払われても、まるで不死者のように立ち上がり抵抗を続けたという件には呆れるしかない。

 結局駆けつけたレアの一声で身を固まらせ、その隙を突いて飛び掛かったベレトが組み付いて倒したのを皮切りに、彼に協力した生徒達の手で取り押さえられたのだという。

 

「……先生、兄に代わって謝罪いたします。本当に申し訳ありません」

「構わない。あの人のことだからフレン絡みだということはすぐに分かった。生徒のためなら体を張るのが教師だろう」

「まっ、わたくしのためだと仰いますの? 大胆ですわね」

 

 兄の所業に恥じ入るフレンはバツの悪さを誤魔化すために、敢えておどけた物言いをしてしまった。素直になれない幼子のようで情けない。兄妹揃って負担をかけて、こうして夕飯を持ってきてくれたべレトに取っていい態度ではないはず。

 

「そうだ。君のためだ」

 

 だと言うのに、彼はてらいなくそう言ってのけるのだ。

 他意はないと分かる。彼は教師としての責任感からそう言っているだけだろう。

 それでも、その率直な言い方が嬉しくなる。苦労を感じていないはずがないのにそれを表に出すことなく、当たり前のように背負ってくれる。

 

 以前、フレンはベレトのことを海と例えた。

 広く、深く、普段は静かで、時に嵐を巻き起こして暴威を振るう。

 どのような理不尽に襲われようと泰然と受け止めて、何事もなかったように苦労を飲み込む彼の振る舞いはやはり海みたいではないか。

 

(やっぱり先生は優しい人ですわ)

 

 今日の授業でとてつもなく厳しい運動をただの基礎と言ったり、泣き叫んでも手心を加えず柔軟をさせたり、教室で何度も首を絞める矯正をしてきたベレトに対して恨めしく思う気持ちがなかったわけではないが、何だかんだで平時の凪いだ海のように穏やかな彼のことがフレンは好きだった。

 

 ベレトの優しさを感じて心がほっこり。

 美味しいスープを食べて体もほっこり。

 満たされた気持ちで両手を合わせる。

 

「ごちそうさまでした」

「全部食べられたな。よかった」

「はい、とっても美味しかったですわ!」

「ありがとう。それでフレン、明日のことなんだが」

「ええ、明日の授業も頑張りますわ」

「その気合いはいいが、このまま休んでも恐らく君は明日もまともに動けない」

「えっと……座学はできますわ! 運動は、その……」

「だから明日もきちんと動けるように、君の体に施しておきたいことがある」

「はい?」

 

 受け取ったお盆を離れたテーブルに置いたベレトが、いつもの無表情のまま宣告する。

 

「父さん考案、アイスナー式回復マッサージ。就寝直前にやって一晩ぐっすり寝れば疲労回復に効果抜群。少し痛いが我慢しろ」

 

 指をパキポキ鳴らす姿にただならぬ雰囲気を感じてしまい、フレンの顔が盛大に引き攣った。

 

 このアイスナー式回復マッサージ。ベレトが言うようにジェラルトが考案したものであり、彼が率いた傭兵団では定番の疲労回復法である。

 毎日が命がけの人生である傭兵は常に実力を発揮できなければ容易に死に至る。そんな傭兵にとって、疲れは大敵だ。時には無茶な依頼日程をこなさなければいけない彼らは疲労に左右されず、自身の調子を保つ手段が求められた。

 浴びるように酒を飲む者。女を抱きに娼館へ通う者。趣味に興じる者。傭兵は様々な息抜きで己の体調を整えるが、それらはあくまで士気を高めるだけでしかないと考えたジェラルトは疲労そのものを何とかできないかと模索した。

 そうして編み出されたのがこのマッサージである。

 

 そもそもフォドラには体をほぐすという観念が薄く、ベレトが授業で行った柔軟も初めは生徒から奇異の視線が向けられていた。運動前に多少伸ばしておけば体が動かしやすくなると知られていても、各所を入念にほぐす意味は理解されなかったのだ。

 それでも授業で柔軟を教えて、潰れて動けなくなった生徒にマッサージを施してやると、ただ休んだだけでは考えられないほど早く回復する事実が非常に驚かれた。それだけこれは画期的な技だったのだ。

 理解を得られたベレト曰く、これは父が考えた技術であり、自分や傭兵団の仲間はこれに何度も助けられてきた、という逸話が広がり【壊刃】の武勇伝に加えられた。

 

 これほど有用な技術、覚えれば間違いなく多くの人の役に立つだろうと考えたベレトは当然授業に取り入れようとした。今日のように全身運動訓練と併せて教えれば一石二鳥。体験すれば身に付きやすい。

 しかし、黒鷲の学級総出の陳情により、あえなく授業内容から外される運びとなってしまった。

 

 理由は単純。このマッサージ……べらぼうに痛いのである。

 

 竪琴の節で初めて外周を走らせ、五周走らされて動けない生徒一人一人にベレトが強制的にマッサージを施した際に上がった数々の絶叫は、知る人にとっては怪談の種になるほど凄まじいものだった。阿鼻叫喚の半分以上はこれのせいである。

 あんなものを受けるくらいなら大急ぎで体力をつけてやる! そうでなくても自力でほぐした方がまだマシだ!

 そう主張する生徒が続出し、ベレトは渋々引き下がった。

 

 以下、アイスナー式回復マッサージ体験者の声を一部紹介。

 骨がバラバラになるかと思ったな。筋肉をすり潰されるってあんな感じかしらね。首が一度取れた気がするぞ。私とあろう者が舌を外したいと考えてしまいましたよ。私眼球存在する感謝です。なあ俺の腕と脚入れ替わってねえか。逆に士気が下がりかねないわね。ごめんなさいごめんなさい生きててごめんなさいもう許して。

 以上、お疲れ様でした。

 あの先生大好きエーデルガルトですら猛反対した事実が、このマッサージの恐ろしさを物語っていると言えよう。

 

 修道院に籠っていたフレンがそれを知る由はないのだが、壮絶に嫌な予感が彼女の身を強張らせた。残念ながら相変わらず四肢に力が入らず、動きたくても動けない体を意味なく捩るくらいしかできない。

 

「あ、ああ、あの、先生、何を、わたくし、その、痛いのは、ちょっと」

「この後モニカにもやらないといけないから一気にやるぞ。できればじっくりやりたかったんだが、セテスさんに足止めされてかなり時間を取られてしまったからな」

 

 こんなところでも兄のせいで不利を被ることになろうとは!

 頭を抱えたくなるフレンに頓着せず、その体にベレトの手が伸びる。

 

「それじゃあ始めるぞ」

 

 そして、地獄が始まった。

 

「ああ、ちょっと! 先生、そこは今とても痛くて! あー! 苦しい、苦しいですわ! 待って! 伸びません! そこは伸びるところではありませんのよ! いた、痛いですの! 先生! 待ってください先生! あー! お、押される! 押し潰されますわ! あー! あーーー!! あ゙ーーーーー!!!」

 

 またしても。

 またしても少しだけ。

 フレンは、好きになれたと思ったベレトのことが嫌いになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 廊下で対峙するベレトとセテスの姿があった。

 

「…………」

「…………」

 

 場所はフレンの部屋の前。ドアの前に立ちはだかるセテスがベレトと向かい合う形だ。

 昨日のような狂乱の戦闘が始まる雰囲気こそないが、厳しい顔付きのセテスと無表情のベレトが向かい合うと奇妙な緊張感があった。

 

「……昨日はすまなかったな。私も正気ではなかったのだ」

「ああ、とても取り乱していたのは分かった。フレンは起きてるか?」

「……あの後拘束された私は一晩かけて大司教より懇々と説教を受けた。多くの責任を負う立場でありながら、今思い出しても情けない限りだと反省している」

「そうか、学んだなら今後に生かせばいい。フレンは起きてるか?」

「……君にも色々と暴言を放った覚えがある。ここで謝罪させてくれ。ベレト、すまなかった」

「俺は気にしてない。正気じゃない時の言葉は忘れるよ。フレンは起きてるか?」

「…………」

「…………」

 

 話が一方通行だった。片方が意図的に話題を逸らして、もう片方は受け答えしながらその都度軌道を修正する。言わずもがな、前者がセテスで後者がベレトだ。

 

「やはり……やはり納得できんのだ! 君のことは信用に足る人間だと今では思う。しかしそれでも、フレンを心配する気持ちが私の中で抑えられん!」

「けどあの子は黒鷲の学級に所属した。本人に学ぶ意思があるなら俺は指導する。そういう契約で俺は教師をやっている」

「分かっている! こればかりは感情の問題だ! 私とて、これが大人げない振る舞いだと理解しているが、フレンのことだけは話が別なのだよ!」

 

 頭を抱えるセテスは苦渋の表情だった。冷静になった今はベレトを信じたい気持ちはある。それでも昨日のフレンの姿を思うととても平静ではいられないのだ。過保護と言われても仕方ないだろう。それでも、それでもフレンだけは……

 唸るセテスを見て、ベレトも無表情ながら困惑した様子だった。彼の言い分も分からないでもないが、迎えに来た手前このまま立ち往生するわけにもいかない。どうしたものか。

 

 授業に出させるためにフレンを迎えに来たベレトと、フレンを授業に出させたくないセテス。

 硬直した状況を崩したのは渦中のフレンだった。

 

「お二人共、朝から廊下ではしたないですわよ」

 

 セテスの背後のドアが開き、フレンが姿を現したのだ。

 

「フレン! 起き上がっていいのか、辛いなら今日は休んでもいいのだぞ?」

「平気ですわ、想像していたより体調はとてもいいんですの。だからお兄様、そんなに大きな声を出さないで?」

 

 不安気にするセテスを宥めるようにフレンは微笑むと、無言で見つめるベレトの方を向く。

 

「先生、おはようございますですわ」

「おはよう、フレン」

「朝から来てくださったんですのね。心配しました?」

「ああ。立てなかった時のために迎えに来たが、どうやら大丈夫そうだな」

「ベレト……! またそうやって……」

「待ってお兄様」

 

 暗に立てなければその手で教室へ連行すると仄めかすベレトの言い方にセテスが食いつくが、それをフレンは阻んだ。

 

「お兄様、聞いてください。わたくし、このまま先生の授業を受けますわ」

「フレン! 無理をするんじゃない! たった一日であの有様ではお前は壊れてしまうぞ! お前が苦しむ姿を思い出すだけで私の胸は張り裂けそうだというのに!」

「それでも、行きます。お兄様を悩ませるのは本意ではありませんけれど、わたくしは学ばなければいけないのです……いえ、本当はもっとしっかりしていなければいけなかったのです」

 

 掴みかかるセテスの手に自身の手を重ねてフレンは諭す。それは彼女にとって、反省の告白でもあった。

 

「わたくしは今までずっとお兄様に守られてきましたわ。それはお兄様がわたくしを心から愛し、大切に思ってくださった証だと知っています。ですがそれは、本来わたくしが負うべきだった負担をお兄様に、引いてはこの修道院に肩代わりしてもらっていたんですの」

「フレン……」

「お兄様を始めとしてとても優しい方々のおかげで、わたくしはその温かい慈悲の中で生きてこれました。その慈悲に浸って、わたくしは生きる力を……困難に抗うための戦う力をすっかり失ってしまったのです」

「それは違うぞフレン! お前を守るため、この兄は全てをかけて!」

「ねえ、お兄様。わたくしにちゃんと戦う力があれば、前節の誘拐事件で少しでも抵抗できていれば、何かが変わっていたのではありません? せめて騒音を立てたり、争った痕跡の一つでも残せていれば、状況は違っていたのではありませんこと?」

 

 フレンはずっと気掛かりだった。

 全力で守ってくれるセテス。慈悲深く見守ってくれるレア。修道院や騎士団で働く人達。多くの人に守られている自分は何ができるだろう。何を返せるだろう。

 根が良い子であり、素直に自分自身を見つめられるくらいの歳でもあるフレンは、一方的に愛情を注がれるばかりの生活にどうしても違和感があったのだ。

 

 積もりに積もった違和感がついに形となって表れたのが前節の事件。

 敵方の手際がよかったと言えるのかもしれないが、あの時にフレンがされるがまま誘拐されてしまったことは、明らかに自身の力量不足だと言えよう。

 ベレト達黒鷲の学級が気付いて助け出してくれたことは運が良かっただけだ。あのままどこかへ連れ去られてもおかしくなかったはず。

 

 このままではいけないと強く感じた。変わらなければ、力がなければ生きていくことすら危ういのはこのフォドラでは当たり前のこと。それを思い出した。

 故に成長の機会を欲した。今まではセテスの意向に流されるままだったが、自分の意思を主張して憧れの士官学校に入ることにしたのだ。

 

 確かに後悔はした。以前からの憧れが叶って浮かれていたのは認める。授業の様子を確認せず学級に加わったのは早まったのだろう。まさか士官学校が、ベレトの授業がこんなに厳しいものだとは思わなかったのだ。

 それでも彼の下で授業を受け、学級の生徒達に混ざってついていけば、この怠けた体にも喝が入り、かつて戦を生き抜いた力を取り戻せるかもしれない。

 

 あの痛ましい戦争は確かに悲惨な経験だった。母は死に、父は力を失い、自分もこの身に後遺症を抱えることになった。

 反面、得られたものはあったのだ。

 あの時と同じとまでは言わない。せめて自分の身を守り、身近な人々の助けとなれるだけの力を取り戻せるとしたら。

 

 大変な思いをするだろう。昨日の有様を思えばもっと酷い目に遭うに違いない。だがそれは言い換えれば、怠慢に浸っていた自分を甘やかさず本気で向き合ってくれるということだ。

 ベレトという厳しくも優れた教師の下で学び、自分を鍛えてもらえるなら、それはとても幸運なことではないだろうか。

 

 それが、昨夜から今に至るまで、ベッドで横になりながらフレンがじっくり考えて出した結論だった。

 

「信じてください、お兄様。わたくしと、先生を。わたくしはお兄様に守られるばかりではない、きっとお兄様が誇りに思える妹になってみせますわ」

 

 セテスを見上げてフレンは胸を張る。強く言い切る彼女の姿は、ただ新しい世界に浮かれるだけではない、より良き未来を目指して変わろうとする逞しさがあった。

 

 強く目を閉じてセテスは悩む。昨日、授業から帰って部屋のベッドに倒れるフレンを見た時は、我を忘れるほどの恐怖と焦りに支配された。意識が朦朧としていた彼女から話を聞いてつい正気を投げ捨ててベレトに突撃してしまうくらい、力無く横たわる姿は自分にとって狂乱するのに十分な理由となったのだ。

 フレンが消えた時のことは今でも思い出すだけで総毛立つ。さらわれた彼女を助けてくれたベレトを信じたいが、そのベレトのせいでフレンが倒れたとあっては居ても立っても居られない。

 

 しかし、やはりと言うか何と言うか、セテスはどこまでもフレンに甘いのだった。

 

「……お前が困難に立ち向かおうとする健気な姿を、どうして私が止められようか。愛しい妹の決意を、どうして兄が無下にできようか……」

 

 フレンの選択を自分が台無しにするわけにはいかない。葛藤を振り払うように頭を振ると、まるで眩しいものを見つめるように細めた目でフレンを見る。

 自分にとって一番の宝──何よりも愛しい我が子を。

 

「約束してくれフレン。少しでも無理だと感じた時は私でも、レアでも、お前の近くにいる誰にでもいい、相談すること」

「はい」

「帰りが遅くなるようであれば必ず伝言を寄こすこと」

「はい」

「食事はきちんと取ること。勉強だからと言って夜更かししないこと。修道院の外に出る時は必ず信用できる者と一緒に行くこと」

「お兄様、多いですわ」

「……最後に一つ」

「はい」

「……精一杯、学んできなさい」

「はい!」

 

 そこまで言うとようやくセテスはフレンの肩を掴んでいた手を放した。

 今度は振り返り、それまでずっと後ろに立って控えていたベレトに向き直る。

 

「ベレト、君に一度でも刃を向けた手前、こんなことを言うのは筋違いなのだろう。だがあえて言葉に出す。教師となる契約でここにいる君に、加えて頼む」

 

 一瞬の溜め。そして恐れを払うようにはっきりと。

 

「フレンを守れ! 私のように、全てに優先してまでとは言わん……君に叶う限りの力で、この子を守ってくれ!」

「もちろんだ。フレンは俺の生徒になった。だったら守るのは当然だ」

 

 即答するベレトを見て、セテスはようやく肩の力を抜いた。小さく息を吐いて姿勢を正した彼の表情は、心なしか常より柔らかい。

 

「それと……今後は私のことはセテスと呼び捨てで構わん。立ち位置は上司に当たるが、傭兵だった君に忠誠を求めたりはしない」

「いいのか?」

「ああ。私も、もう少し君のことを信じてみよう」

 

 フレンが変わるための勇気を出したのなら、自分も怖気づいてばかりいられない。そう考えたセテスが、恐らく初めて見せた、フレン絡みで本当の意味で他人を信じて歩み寄る姿勢だった。

 

「分かった。それじゃあセテス、フレンと一緒に行くよ」

「うむ、頼むぞ」

「行って参ります、お兄様!」

「ああ、行ってきなさい、フレン」

 

 今日はどんな一日になるだろう。昨日と同じワクワクする気持ちがフレンの中に湧いてくる。

 

 昨夜はあれだけ疲れに沈んでいた体も、今は驚くほど調子がいい。これもベレトのおかげか。あのマッサージは……うん、二度と受けたくないけど……そのおかげで今日も元気に学校へ行けるのだから感謝である。

 親近感や感謝だけではない。昨日一日で随分と印象が変わった、もとい少しだけ嫌いなところも見えたベレトだが、その不思議な魅力は損なわれるどころか興味が深まるばかり。

 彼ならばきっと自分を守り、導き、強くしてくれる。そう信じられる。

 

 そんなベレトの下で今日は何を学べるか。

 明日はどんな自分に変われるか。

 まるで生まれ変わったような清々しい気持ちを胸にフレンは歩き出す。

 

「それでは先生、本日もよろしくお願いいたしますわ!」

「ああ、今日も頑張ろう、フレン」

 

 セテスに見送られ、ベレトと並んで元気よく歩くフレンは、かつてないほど明日への活力に満ちる生き生きとした姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後に、修道院で過ごした思い出を振り返った時、士官学校に加わった日々を述懐したフレンはこう語る。

 

「たくさんたくさん後悔しましたけど、あの日々も今のわたくしを形作る大切な経験になりましたの。後悔も含めてわたくしの人生ですわ。だから先生にはお礼を言いたいんですの。わたくしは貴方に会えてよかったと、貴方の学級で学べて幸せでしたと……まあ、もう少し手心を加えてほしかったのが本音ではありますけど、うふふ」

 

 一通り不満を口にすれば落ち着けたのか、最後はいつもの朗らかな笑みを浮かべてそう締め括るのだった。




 セテスさんごめんなさい。僕の中では彼はこういうキャラなんです。ゲームでは、普段は厳格な口調なのにフレン相手だと声色が別人のように柔らかくなるのはビックリしました。声優ってすごいな。書きながら声が脳内再生しまくって大変でしたよ。
 そのゲームは現在紅花ルート目指して進めてますけどまだ一周目、今は白鷺杯の辺りです。スカウトどうしようかめっちゃ悩む。
 煤闇の章にはまだ一切手を付けてないのですが、灰狼のみんなが気に入ったので小説に盛り込みたくて今回ユーリスに出てもらいました。いずれプレイしますよ。

作者の活動報告に載せた後書き


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指導者の使命、励む若者達

 ゲーム内であったスカウトをどうやって小説の中に落とし込むか、ベレトと他学級の関わり合いをどうやって表現するか、各キャラの性格などを考慮すると本作ではこういう感じになりました。


 ディミトリは意気揚々と青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)の教室の扉を開いた。

 

「おはよう、みんな!」

 

 ファーガス王子の到着に、生徒達が次々に挨拶を返す。

 

 従者のドゥドゥーと一緒に教室に入った彼は颯爽と最前列の長机に陣取った。

 今日の授業では……否、今後しばらく、この特等席は誰にも譲れない。教壇に最も近い位置で授業を受ける幸運に、紳士的な振る舞いを心掛けるディミトリにしては珍しく拘っていた。

 何しろ今から始まる授業は特別なのだから。

 

「おはようございます、殿下」

「やあイングリット、おはよう」

「ドゥドゥーも……おはようございます」

「ああ……おはよう、イングリット」

 

 同じく最前列の席に着いていたイングリットと挨拶を交わす。普段から溌溂とした口調の彼女も、今日はいつも以上に気合いが感じられた。

 彼女の個人的な心情から確執が浮かびがちなドゥドゥーにも自分から声をかけるなど、生真面目な性格らしい気合の入り様である。

 

「授業の開始が待ち遠しいですね」

「そうだな、今朝起きた時から気が逸って仕方ない。教室の空気もどこか浮ついているような気がするぞ」

「きっとそうですよ。今日はシルヴァンもちゃんと起きてたくらいですから。ね、シルヴァン?」

「何、いたのかシルヴァン?」

 

 自分とは反対側の席にいた生徒に声をかけるイングリットに驚く。よく見れば見覚えのある赤毛の男子が机に突っ伏していた。

 

「ういーっす、おはようございます殿下」

「おはようシルヴァン。珍しいな、お前が俺より早く教室に来てるなんて」

「イングリットに引っ張られたんですよ……」

「本当に珍しいですよ。私が起こしに行く前から支度できていたんです」

「ほう。流石のお前も今日の授業は気になっていたのか?」

「どうせいつもの面子の誰かが来るだろうと思って、昨夜は早めに寝といたんです。おかげで昨日は女の子と遊べなかったんだよなあ……」

 

 欠伸を噛み殺すシルヴァンを見てディミトリは感心した。

 普段から軽薄な態度が目立つ彼でも、やろうと思えばちゃんとやれるではないか。

 今日の授業を契機にして、今後の生活を少しでも改めてくれればと思う。

 

 そう嬉しく思うディミトリとは違い、隣の席に着いたドゥドゥーはじろりと鋭い眼付き(に見えるが本当は体調を慮る心配そうな目)でシルヴァンを見やる。

 

「シルヴァン、前列の席でそうやって眠そうにしていると先生が気にするだろう。まだ少し時間はあるはずだ。一度顔を洗ってきたらどうだ」

「だーいじょうぶだってドゥドゥー。いざ授業が始まれば俺もしゃんとするよ。それに今からいなくなったら、ちゃんと戻ってくるかイングリットが気にしてそわそわしちゃうだろ?」

「何よそれ。言っておくけど、私は先生の話に集中するから、授業が始まったら貴方のことなんて気にしてられないからね」

 

 ドゥドゥーの心配にもイングリットの小言にも飄々とした態度を崩さないが、それでも座る席を変えない辺りシルヴァンとしても今日の授業は楽しみだったのだろう。そう思うと自分と気持ちが通じているようでディミトリは嬉しかった。

 

 それからも朝食を終えた他の生徒が次々に教室にやって来る。

 程なくしてアネットとメルセデスも現れた。級友に挨拶しながら二人も教室最前列の席に座る。

 

「おっはよー!」

「おはようみんな~」

「おはよう、アネット、メルセデス。今日は一段と元気だな」

「そりゃそうですよ殿下、あたしの今日の元気は一味違います! 花壇の水やりもササーって終わらせて、朝ご飯のパンも二個追加しちゃいましたからね。これで今日は万全です!」

「あらあら、アンってば今から張り切って疲れちゃわないようにね。授業は一日続くのよ」

「えー、でもメーチェだってパンのおかわりしたじゃん、張り切ってるのはあたしと一緒だよ」

「二人共、気合いは十分というわけだな。俺も負けてられん」

「うふふ、そうね。私もアンから元気を分けてもらっちゃった。今日が楽しみなのはみんなと同じよ~」

 

 朗らかに挨拶した二人は気力十分な様子で、釣られてディミトリも笑顔が浮かぶ。同じ席のドゥドゥー達とも元気良く言葉を交わす姿を見ていると、この後の授業への期待は高まるばかりだった。

 

 学級の生徒がほぼ揃ってきたところでアッシュとフェリクスが駆け込んできた。間に合った安堵に大きく息を吐くと前列の方にやって来る。

 

「おはようアッシュ、フェリクス」

「あ、おはようございます殿下」

「……ふん」

「走ってきたようだが、何かあったのか?」

「食堂の片付けを手伝ってたんです。それがちょっと長引いてしまって」

「それで遅刻するようでは本末転倒だろうが」

 

 笑って言うアッシュの後ろから、フェリクスが鋭い口調で詰めてきた。

 

「あの場での作業はお前の仕事ではない。あれは修道院で働く連中がやるべき仕事だ。お前は親切でやったのかもしれんが、働きを奪われた奴らが快く過ごせると思うか?」

 

 大貴族の生まれである彼の弁は、隣で聞くディミトリにはよく理解できることだ。

 糧たる給金を得るために平民が働く場を用意してやることも貴族の器である。民が問題なく生きていけるような国を作るために、相応の仕事を割り振ることも貴族王族の務めだ。

 その辺りは平民出身のアッシュにはどうしても分かりにくいのかもしれない。しかし今後を考えればそういう視点は身に付けなければいけないものだ。

 

「しかもそのせいで授業に遅れることがあってはお前にとってもよくないことだ。過ぎた親切は誰にとってもためにならん」

「そ、そうですね、出過ぎたことをしちゃいました」

「ん? フェリクスは何故アッシュが遅刻しそうだと知ってるんだ? そういえば、お前も一緒に走ってきたよな」

「ああ、それは彼が僕を引っ張ってくれたからです。急がないと遅れるぞって」

「そういうことだったのか。なら礼を言わないとな」

「はい。ありがとうございましたフェリクス」

「…………さっさと席に着け」

 

 一方的に話を切り上げるとフェリクスはそそくさと離れる。ディミトリが陣取った方とは反対側の席に勢いよく腰を下ろす姿に、声には出さず心の中で感謝した。

 

 これで生徒は全員揃った。後は教師が来れば授業が始まる。

 そして修道院の鐘の音と同時に彼は姿を現した。

 

「みんな、おはよう」

「来たか先生!」

 

 教室にやって来たベレトを見て、ディミトリは表情を輝かせる。

 今日から青獅子の学級を指導する教師の登場に、自然と教室内の注目は集まった。

 

「俺が最後なのか」

「随分遅かったな。何か用事でもあったのか?」

「ついさっきまでエーデルガルトと話してた。もう授業が始まるからって黒鷲の学級(アドラークラッセ)に送ってから来たんだ」

「なるほど、彼女も心配だったんだな」

 

 気が気でない様子のエーデルガルトの姿が目に浮かぶようで、ディミトリは思わず笑いを溢してしまう。会話を聞いていた他の生徒にも同じ想像をした者が何人かいたようで、生徒達の間に小さく笑いが広がった。

 

 しかしベレトには理解できなかったようで、彼は首を傾げるだけ。

 

「何が心配なんだ?」

「ああ、先生は分からなくても仕方ない。強いて言えば生徒側の心配だ」

「??」

 

 はてな記号を浮かべて尚も首を傾げるベレトを見ていると、無垢にも思える無表情が微笑ましくなる。

 

 幼馴染や学級の仲間達に今さら壁を作るつもりはないのだが、やはり立場や血筋を全く気にせず振舞うことはできない。

 故にこうしてベレトと向かい合う時だけは、偏見も先入観も込められていない彼の視線の前では自分が何にも縛られない一人の人間としていられるみたいで、ディミトリはその僅かな時間を嬉しく思うのだ。

 

「あまり気にしなくていいぞ。それより先生、もう鐘は鳴ってるから」

「……そうだな」

 

 促すディミトリに従ってベレトは教壇に立つ。そこから見渡して青獅子の学級の生徒が全員揃っていることを確認すると、一つ頷いて宣言する。

 

「それじゃあ授業を始める。今日からよろしく」

 

 ついに始まるベレトの授業に、生徒達は姿勢を正して向かい合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話は遡ること数日前。

 レアとセテスに学校の教師陣を加えた話し合い、要するに職員会議の場でのこと。

 

「教える学級を変わりたいと?」

「そうだ。俺に黒鷲の学級以外の生徒を指導させてくれ」

 

 会議用の部屋で唸るセテスを中心にマヌエラもハンネマンも興味深そうに頷いて、意見を出したベレトに注目していた。

 

 グロンダーズ鷲獅子戦を終え、士官学校の年間予定の半分を消化した折り返しとも言うべき今、各学級のこれからの指標を改めて定めようとする会議で出されたベレトの意見は、長年続いてきた学校の伝統を真っ向から打ち破るものだった。

 即ち、担任教師の変更。

 年度初めに就けば卒業まで続くのが恒例である学級担任を、半年以上が過ぎた今になって変えたいと言うのだ。

 

「……そう考えるに至った理由を聞かせてくれないか」

「現状、学校内で黒鷲の学級の実力が頭一つ抜けている。これは先の鷲獅子戦の結果を見れば分かってもらえると思う」

 

 難しい顔のセテスが促すと、頷いたベレトは語り始める。その静かな口振りとは裏腹に語る中身が率直に過ぎて、最初の言葉からしてハンネマンもマヌエラも少しだけ表情に苦いものが混ざってしまった。

 先日行われた鷲獅子戦。結果は黒鷲の学級の勝利で終わったのだが……多方面から思うところありまくりな内容だったのだ。

 

 一言で言えば、圧勝。

 黒鷲の学級は参戦した生徒全員が一人も欠けることなく他の学級を下し、完全勝利を収めたのである。

 

「……君の言葉は今さら否定せんよ。我輩としても、既に出た結果に文句などありようはずもないのだ」

「そうねえ、こう言っては何だけど、仮にあたくし達が参戦していたとしても結果は変わらなかったでしょうしね」

 

 腕を組んだハンネマンの言葉に、マヌエラもしみじみとした声音で同調する。

 前節に負った怪我のこともあって参戦を自粛したマヌエラと、好敵手である彼女に配慮して自身も参戦を控えたハンネマンなのだが、果たしてあの時の判断は正しかったのか間違っていたのか、しばらく悩んだものである。

 

 二人の判断を聞いて、担任教師がどちらも参戦を控えるのだから今回は全面的に生徒に任せて自分も参戦を控えようか、そんな風にベレトは考えた。

 しかし、マヌエラからは気を遣わなくていいと諭され、ハンネマンからも生徒はしっかり鍛えたから手を抜かない方がいいぞと忠告を受けて、考えは一転。

 

 ──気を遣わなくていいのか。

 ──手を抜かない方がいいのか。

 

 そう素直に受け取った、もとい、受け取ってしまったベレトは心置きなく参戦。育て上げた黒鷲の学級の生徒達を見事勝利に導いたのである。

 順を追って解説しよう。少々長くなるがお付き合いいただきたい。

 

 ………………

 

 グロンダーズ平原を一望できる高台で、セテスの指示で掲げられた旗が鷲獅子戦を開始する合図となった。

 南西から最も速く戦場に躍り出た青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)が平原中央の丘に備えられた弓砲台を押さえ、北側から少しだけ前進した黒鷲の学級(アドラークラッセ)と睨み合う。機を狙う金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)は敢えて動きを遅らせて南東の林の中で潜伏する。

 最初の最初だけを見れば穏やかだった。この時はまだ。

 

 遠距離攻撃の手段を確保した青獅子の学級が先手を取るか、そう思われた時、周囲の度肝を抜く行動を取った者がいた。

 お察しの通り、黒鷲の学級の生徒である。

 突如として戦場に大規模な魔法陣が現れたかと思うと、呼応する魔力によって召喚された隕石が炎を纏って平原中央の丘に墜落したのだ。

 先陣を務めたアッシュは押さえた弓砲台を使うどころか、アーチャーとして鍛えてきた技を発揮する機会が一度もないまま、早々に退場することになってしまった。

 

 メティオ。超遠距離攻撃を可能とする、最高位の黒魔法。

 それを発動したのが黒鷲の学級に在籍する生徒の中では唯一の平民であるドロテアだと知れ渡るのは戦いが終わってからだった。

 

 中央で弓砲台諸共爆破炎上する丘を前にして、青獅子(ルーヴェ)金鹿(ヒルシュ)の両陣営は唖然とする他なく。

 舞い上がる粉塵の中から飛び出したベレトの動きに即座に対応できる者は一人もいなかった。

 

 いくらベレトの足が速かろうと、自陣から離れた様子もなかったのに爆破された丘から飛び出すなどおかしいと後になって指摘されたのだが、その動きの鍵となったのはリンハルト。

 ワープ。指定した人物を魔力に応じて任意の場所へ瞬間移動させる、こちらも最高位の白魔法。

 粉塵で何も見えない丘に一瞬で移動させ、強襲の最初の一手を成功させたのだ。

 

 南へ飛び出したベレトはまず近場のアネットを撃破。彼女に続き、金鹿の学級の陣営があった南東から慌てて前進したラファエルとリシテアを討つなど大暴れ。

 鷲獅子戦のために同盟から派遣された騎士団をけしかけるヒルダには、率いたジェラルト傭兵団を一斉突撃させてこれを撃滅。ベレトと同じくジェラルトによって鍛えられた傭兵団は、国に属する公的な騎士団さえ苦も無く蹂躙してみせた。

 

 この一連の流れにより、戦場の主導権は完全に黒鷲の学級のものとなった。

 開幕からド派手な大魔法が使われたことで鷲獅子戦は最初から最高潮。

 担任に続いて生徒達も次々に戦いを仕掛けていった。

 

 狙っていた丘が爆破されて立ち往生していたローレンツを、治まらない粉塵から猛烈な勢いで飛び出した騎馬部隊を率いるフェルディナントが襲う。

 騎馬の突進力を存分に発揮した攻めで、初動の有利を活かして勝利。

 

 東側の橋から進んで林の中を快速で走るペトラとカスパルは、北へ進むイグナーツを蹴散らした勢いを緩めずレオニーへと突撃。

 悪路を物ともしない俊敏さで翻弄してこれを撃破。

 

 黒鷲の学級を西から攻めようとしたイングリットの天馬部隊にはヒューベルトとベルナデッタが仕掛ける。

 まるで盾にされるように前に押し出されて泣き叫びながら矢を連射するベルナデッタに動きを制限されたところを、ヒューベルトの闇魔法スライムによって地面に叩き落され、部隊ごと敗北。

 

 そのイングリットを援護するため前に出ようとしたシルヴァンの騎馬部隊は、天馬達の真下を潜り抜けたエーデルガルトによって討たれる。

 降り注ぐ矢を恐れず一直線に向かってきた彼女との激突は唯一度で終わり、馬ごと薙ぎ倒す彼女の無双ぶりは伊達男をして「ありゃあ手ぇ出せねえわ」と慄かせるものだった。

 

 生徒に任せるばかりでなく、ベレトも次の戦いに向けて動く。青獅子の学級の陣営がある西に向かう彼は、学年随一の剣士であるフェリクスと当たった。

 その鋭い剣筋との戦いは教師と生徒という関係からは信じ難いほど格の高い剣舞となり、混戦にあって一時耳目を集める名勝負を繰り広げる。高速戦闘の最中、さらに一段階上の速さを見せたベレトの戦技、風薙ぎが決まり勝負を制した。

 

 そこからベレトは王国から派遣された騎士団を打ち破りつつ西へと進み、南下してきたエーデルガルトと合流。主を守らんと立ちはだかったドゥドゥーと衝突する。

 重装歩兵としての硬い守備を見せる彼も、息を合わせた担任と級長の連携は防ぎ切れず、あえなく敗退。最後の防衛線を抜けた二人は青獅子の学級の本陣へと進む。

 

 追いついたヒューベルトの魔法とベルナデッタの弓矢が敵本陣の守りを切り開くと、飛び込んだベレトは回復役として本陣を支えるメルセデスに迫り、エーデルガルトはディミトリと対峙。

 感慨深そうな言葉を交わすや否や、槍と斧を交えた級長同士の対決は、その苛烈に攻める姿勢とは裏腹に繊細な技も身に付けたエーデルガルトに軍配が上がった。

 

 もう一方の戦いも並行して進む。金鹿の学級の本陣へと切り込むフェルディナントは、途中からカスパルと合流。木々の間も奔放に走るペトラに回復役のマリアンヌを追い詰めさせて、自分達は本陣にいるクロードの下へ突撃。

 指示を飛ばして林の中で巧みに部隊を動かすクロードも、小細工奇策何するものぞと豪拳唸らすカスパルの攻勢に耐えるところを側面からフェルディナントに狙われ、対応が遅れて押し切られてしまい、そこで決着。

 

 怒涛の展開に困惑を隠せない教団関係者が見つめる中、その戸惑いを消し去るように、未だ治まらぬ丘の粉塵の大半を風魔法シェイバーが吹き散らす。

 そこで丘に姿を現したのはフレン。残る少量の粉塵と戦場の張り詰めた空気を鎮めるかの如く、次いで白魔法レストを発動。浄化と鎮静の波動を広げる彼女は高らかに鷲獅子戦の終了を宣言したのである。

 

 ………………

 

 こうして、三つ巴の戦場は獅子と鹿を下した黒鷲(アドラー)の勝利に終わった。

 戦場にいる人数が一気に増えたというのに、対抗戦でやった超速攻を再現するかのような早期決着は、紛れもない実力差の表れであった。

 特筆すべきは走り始めてから戦いの終わりまで、黒鷲の学級の生徒が一度も立ち止まることなく平原を駆け回ったことか。然したる人数差のない戦いを一方的に終わらせた原因の一つが、担任のベレトを思わせる驚異の体力であることは間違いない。

 

 これほど圧倒的な結果を見せられては反論する余地などあるはずもなく。

 ハンネマンもマヌエラも、引き攣った笑顔で称賛するしかなかった。

 しかし、ベレトにとっては明確な問題が浮き出た勝利でもあったのだ。

 

「黒鷲の学級は今とても歪な成長をしている」

「と言うと?」

「セテスは感じてるんじゃないか。あの子達の成長が戦闘力に偏り過ぎていると」

 

 ベレトの言葉にセテスは考える。それは傭兵という戦闘の専門家を教師へ迎えるにあたって、セテス自身も懸念していたことだ。

 

「俺が生徒を上手く指導できるのは戦いに関することだけだ。それ以外は知っているものをただ教えるだけで大した授業はできない。そのせいでみんな戦うための力だけが伸びている」

 

 鷲獅子戦での勝利はその力が偶々適していただけであり、ベレトの指導方針と一致していたからに過ぎない。

 青獅子の学級と金鹿の学級に比べて、今の黒鷲の学級はとても偏った成長をしていることが明らかになったのだ。

 

「この学校で学ぶ生徒は貴族が多い。いずれは平民の上に立って領地を守る。他にも組織の幹部になったり、平民の生徒なら貴族に仕える者も多いだろう。そのための能力を伸ばすなら、貴族の心得があるハンネマン先生や、平民の世界で人心を掴んできた実績があるマヌエラ先生がそういう方面の指導をするべきだ。俺にはできない」

 

 士官学校で育てている生徒は、卒業すればその多くがフォドラを支配する立場になる。ゆくゆくは各国の武官や政官、それを支える幹部や騎士になるだろう。そんな彼らがこのままではただの腕自慢になりかねない。今の生徒を見ていてベレトはそう危ぶんだ。

 無論強くなるに越したことはない。生きるために戦う力をつけるのは大事だし、指導する生徒達がめきめきと成長する姿は嬉しいものだが、ここで学び、身に付けるべきなのは単純に戦いに勝つためのものではないのだ。

 語学や算術を始め、様々な業務と生き方を支える基礎的な知恵と思考。修道院が抱える豊富な知識から為る技。三国通じて民を導く責任を果たす心得。

 それらはただ戦に勝つためだけではない、世を治めるための力である。

 

 特に気にかかったのがドロテアとリンハルト。

 戦いの主導権を握った功労者である二人が最初の大魔法を使った後、北の陣営から動かなかったのは、たった一度の魔法行使で力を使い果たし動けなくなってしまったからだ。

 それは他ならぬベレトの中にある「とりあえず目の前の戦いに勝つことが優先」という傭兵としての姿勢が生徒の育成方針に及んでしまったからに違いない。

 

 これがハンネマンなら、もっと魔力の運用効率を突き詰めたり、術式を本人に合わせて調整できていたかもしれない。

 マヌエラが見ていれば、生徒の未熟な体で大魔法を使わせたりせず、強引に攻めるような作戦を取らなかったかもしれない。

 今回の鷲獅子戦にはベレトのこれまでの極端な、悪い言い方をすれば歪んだ指導の結果が如実に表れてしまっていたのだ。

 

「ふむ、そうか……」

「確かにあの二人の魔法には我輩も思うところはあったが……」

「あの後二人が動かなかったのはそういうことだったのね。鷲獅子戦の後にあたくしがドロテアと会った時は、あの子は平然としていたけど……」

 

 頷くセテスの横で、ハンネマンもマヌエラも考える。生徒の将来を案じるベレトの意見は耳を傾けるに値する話だった。

 自分にはできないという懸念から即断即決する姿勢は、彼の若さにしては少々割り切りが早過ぎるのではと思えるが、自身の能力を過信して生徒の未来を歪ませるよりは余程思いやりがある判断だろう。

 

「大司教、彼の意見に対してどう思われますか?」

「…………」

「……大司教?」

 

 話を振ったのに反応がないレアの方を向くと、思わぬものを見せられた。

 

 むっす~。擬音にするならそんな感じで、分かりやすく不貞腐れたレアがいた。

 物理的な圧力まで感じられそうな眼光で睨んでくる彼女にセテスはたじろぐ。

 というか頬を膨らませるんじゃない、子供かあんた。

 

「だ、大司教?」

「…………」(むす~)

「大司教、話を聞いて」

「…………」(ぷいっ)

 

 重ねて尋ねるも返事はなし。しまいには拗ねたように顔を背ける始末。

 童女のような振る舞いは、幸か不幸か、しばらく前から見慣れてしまった態度だった。

 

「……レア、今は会議の最中だ。真面目にやってくれ」

 

 仕方なく身を寄せて小声で話しかける。他の三人の視線が突き刺さる中、彼女の態度はセテスが予想した通りのもの。

 

「……セテスはいいですね。ベレトに呼び捨てで呼んでもらえて」

 

 またそれか──小声で反論するレアの言葉に脱力したくなった。

 

 大事なフレンのことをベレトに頼んだ際、彼をもっと信じてみようと思ったセテスは自分の呼び方から敬称を外してよいと伝えた。それ以降ベレトとの会話は少しずつ砕けた言葉遣いが増え、以前より随分親しい関係を築けている。

 それ自体はいいのだが、そのことを知ったレアは未だに眷属の中でさん付けで呼ばれているのが自分だけである現実に酷く衝撃を受けたらしい。

 

 以来、こうしてベレトがセテスを呼び捨てにしている場面に出くわすと、レアは露骨に機嫌を損ねる。隠そうともしない嫉妬の念は可愛らしいものかもしれないが、当のセテスにとっては面倒なことこの上ない。

 

「……いいかげん本人に頼んでみたらどうだ。自室に招いて軽く雑談する程度には彼とも打ち解けてきたのだろう?」

「……ですが、女の方からそんなお願いをするなんて、は、はしたないでしょう? ベレトにとって私は教団の契約相手でしかないのでは……」

 

 ──こいつめんどくせえ。

 

 果たしてセテスがそんなことを考えたかは、彼のみぞ知るところである。

 レアがベレトを特別視しているのは分かってはいたことだが、まさかここまで子供染みた感情を見せるほどとは驚かされる。

 付き合いの長いセテスもここまで子供らしいレアは見たことがない。大司教としての冷厳な彼女とは別人のようで、眷属同士の場ならともかく、他人の前でこうも幼気な態度を取られると混乱を招きかねないのでやめてほしいのだが。

 

 日頃の彼女らしからぬ弱気な態度に物申したいセテスだったが、レアを支援する言い訳としてベレトの姿勢が理由なのもある。と言うのも、彼はこのフォドラでは非常に珍しく、レアに対してはっきり否と言える人間だからだ。

 

 あれは去る翠雨の節の終わり頃。ゴーティエ家から廃嫡されたマイクランによって盗まれた英雄の遺産、破裂の槍を奪還したベレトは修道院に持ち帰りレアに報告した際、槍を渡すようにと伸ばした彼女の手をきっぱりと拒否。

 学級課題で受けた内容が『盗まれたゴーティエ家の英雄の遺産を取り戻すこと』であるならば、これはゴーティエ家に返還するのが筋であるとして、課題協力のために同行させたシルヴァンに槍を渡したのである。

 ベレトを見守り、その行動を全肯定する代わりに当然のように自分も肯定されるだろうと考えていたレアは、彼に拒まれたことで激しく動揺。

 それを契機にレアの中で「ひょっとして自分は()に嫌われたのでは!?」という小さくない怯えが生まれたのである。その後のベレトを見ていればそんなことはないと分かっても、一度生まれた疑念は消えることなく心の中に残り、こうして彼女の態度に表れている。

 この時レアが抱いた人間として当たり前の感情は、後の彼女の行動に大きな影響を及ぼすことになるのだが……まあそれはずっと先の話。

 

 閑話休題。

 思うところはあるが、セテスとしても大きなことは言えない。妹のことで、レアにもベレトにもさんざっぱら迷惑をかけてきた身。大司教補佐の彼はこういう時でも補佐に回るのが役目なのだ。

 

「……今度彼と茶会する時にでもそれとなく話を振ってやる。だから今は会議に戻ってくれ」

「……あら、彼とは茶会もする仲なのですか。先日フレンから三人で食事の相席もしたと聞きましたけど、そうですか、そうなのですか……」

「……レア、頼むから……!」

 

 いよいよ突き刺さる視線に居た堪れなくなってきたセテスは焦りに声を絞り出す。初めて見るレアの態度に、マヌエラなどは凝視と言っても過言ではない目を向けているくらいだ。

 ちなみに、この二人の様子を見てもベレトはいつもの無表情を変えていない。無視している? 困惑が顔に出ていない? いいえ、平常運転なだけです。

 

 一際強い咳払いで場の空気を正すセテス。渋々といった風に向き直るレア。

 それでも会議に臨むと決めたなら、二人はきちんと真面目な顔になれるのだ。

 

「ベレトの意見は分かりました。ですが担任の務めはどうするのです?」

「学級課題もあるし、俺としても黒鷲の学級を放り出すつもりはない。レアさん達にも負担をかけたくないし、人員を増やすのではなく今いる面子で回せればと思う」

 

 不意に出るさん付けの呼び方で「はぅっ!?」とダメージを受けるレア。思わず、お前マジか、と驚愕の視線を向けるセテス。戻りかけた真面目な空気を一瞬で砕く流れでどうにも緊張感が保てない。

 

 返事ができなくなったレアに代わってハンネマンが応じた。

 

「つまり、君は教師の交換ではなく、交替制を考えたのだな?」

「そうだ。俺が青獅子の学級と金鹿の学級の戦闘面の指導を受け持つ。ハンネマン先生とマヌエラ先生には替わった時の黒鷲の学級の授業を頼みたい。俺にはできない指導をあの子達にしてあげてくれ」

「先生はあたくし達の学級の戦闘面を伸ばす。代わりにあたくしとハンネマンは黒鷲の学級の足りない部分を指導する。いいじゃない、今までにない試みで面白そうよ」

「いっその事、三つの学級を三人で回して受け持つのもありかもしれんぞ。我輩も君達の学級のことを考えたら少し気になってきた」

「そうなると、平日の授業の割り振りをどうするか……例えば、俺がどこかの学級の午前を訓練して、誰が午後を担当するか、きちんと考えないと」

「待って、午前午後で分けなくてもその日一日は一人で担当すればどう? いきなり細かく分けても忙しいでしょう」

「生徒側にも把握させなければならんしな。それに修道院の施設を利用する時など、騎士団とも予定を合わせねばなるまい」

「平日六日を分けるなら三人が二日ずつ担当するか──」

「魔法の中でも理学と信仰は完全に分けて──」

「教師の休み時間も考えると──」

 

 固まる二人を差し置いて、教師の三人で相談を始める。あれこれ意見を交わす横で沈んだまま動かないレアを見て、額を押さえたセテスは溜息を吐くしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クロードはいつも考えている。

 それは今日の食事の献立は何かというありふれたことだったり、パルミラとフォドラの戦端が開くのはどれくらい先かという物騒なことだったり、先日手に入れた薬の効き目をどうやって試そうかという……おっと、これは内緒の話。

 とにかく、彼は常に頭を巡らせている。その賢しい頭脳を生かし、いつだって世の中で上手く立ち回れるようにするために。

 

 しかし、彼とて人間である。時には何も考えず、頭も体も休めてジッとしたくなる時くらいあるのだ。

 例えば今みたいに。

 

(………………動かなくなった人間が土に還るのって自然なことなんだろうな)

 

 ──こらこら、休んでる時におかしなことを考えるんじゃない。

 

 自分の思考に自分でツッコミを入れるくらい、今の彼は調子がおかしかった。

 それもそのはず。ここ三日間立て続けに襲い掛かってきた疲労の波がクロードの中にうず高く積み上がっているのだ。平時の自分とは程遠い状態では思考の一つや二つはおかしくなろうというもの。

 体も頭もひたすら重い。何もしていなくてもベンチに腰掛けた体がずるずると崩れていって地面に沈んでしまいそうだ。

 

 これはクロードに限った話ではない。金鹿の学級の生徒の大半は同じような状態なのだ。放課後の今になっても教室で潰れたまま動けない生徒が何人かいたくらいだ。

 変わりないのはラファエルと、辛うじてレオニーが踏ん張っているくらいか。イグナーツとマリアンヌは早々に潰れたし、根性で食らいついていたリシテアも二日目で撃沈。意地を通して背筋を伸ばしていたローレンツは今日の授業が終わった途端に崩れ落ちた。

 ちなみにクロードはと言うと、ヒルダと一緒になって程よく手を抜こうとしていたところを見破られてしまい、集中して扱かれた。

 

 全ては一昨日から始まったベレトの授業のせいである。

 

 赤狼の節になり、学校生活折り返しといったところで発表された教師の交替制。先日の職員会議でとんとん拍子で進んだ話し合いで決定したそれは文字通り、三人の教師が各学級を代わる代わる教えるというもの。

 鷲獅子戦を終えてから約一週間を空けて授業再開となる第一週は担任のマヌエラに代わり、前半の三日をハンネマンが、後半をベレトが受け持つことになった。来週からは各教師が二日ずつ担当するとのこと。

 

 生徒達にとっては寝耳に水であったこの話、盛り上がらないはずもなく。告げられて騒がしく沸く教室の中で、クロードは一人思考を深めていた。

 鷲獅子戦の結果を思うに、このまま黒鷲の学級一強の状態だと三国が均衡を保てなくなると危ぶんだ教団が、未来の戦力差を補正するためにこの案を通したのだろう。

 フォドラの縮図とも言うべき士官学校内の戦力差が、生徒が卒業すればそのまま三国の勢力差に拡大されかねない……教団の中でもそうやって怖れた人がいたのかもしれない。実際には国力と戦力が同列に語られるわけでもないのだが、心配になる気持ちも分かる。

 思惑がどうであれ、クロードとしては喜ばしいことだ。黒鷲の学級しか受けられないと思っていたベレトの授業を自分も受けられるのなら、この交替制は大歓迎。強く鍛えてくれるだけでなく、彼との仲をもっと深める良い機会にもなる。二重の意味でエーデルガルトに空けられた後れを取り戻したいところだ。

 

 ……そんな暢気なことを考えていた自分を殴りつけてやりたい。

 全身運動訓練(話だけは聞いていたガルグ=マク外周を走る超長距離走)から始まり、訓練所での武器術修練(得意不得意関係なし)、魔法も含めたあらゆる兵法を前提とした実地演習(実際に外の平地に出て走らされた)。

 座学の戦術講義では教本の内容を切り捨てたかと思えば、屋内における家具を利用した立ち回り、他人の狙いを読む思考と狙わせない思考、布一枚で止血から壁登りまで幅広く対応する傭兵式何でもあり手法の教授と実践。

 基礎と言いつつ盛り沢山な授業内容は、これこそが黒鷲の学級の強さの秘訣だったのかと十分納得させられるものであり、余計なことを考えさせない勢いで押し流すように三日間を過ごさせた。

 

 結果、死屍累々たる金鹿の学級の出来上がり。いやー、あのマッサージは地獄でしたねー。

 週の前半にベレトが青獅子の学級を教えた時も似たようなものだったらしい。騎士の国と称されたファーガス出身の彼らは体力的な意味でまだマシだと聞いたが。

 

 ベレトが担当する三日を乗り切れて、授業を終えてから情けなく震える足で教室から出るも中庭のベンチに体を預けるくらいしか動けず、今に至る。

 今だけは級長や次期盟主という立場などに関係なくだらしない態度でいさせてほしかった。

 

 なので、かけられた声に反応するのが一瞬遅れてしまったのも仕方ない。

 

「やっほークロード君、お疲れだね」

「……ようヒルダ。お前は平気か?」

「なわけないじゃん。ヒルダちゃんもお疲れなのです」

「ははっ、流石のお前もいつも通りってわけにはいかないか」

 

 隣に腰掛けてきたきたヒルダも、口調や笑い方が普段より力がなかった。

 

「すんごい三日間だったね」

「そうだな。あれが基準になってるのなら【壊刃】や【灰色の悪魔】が戦場で名を馳せるのも納得だぜ。俺もまだまだ甘いな」

「先生にとっては本当にあれが当たり前なんだね。訓練ではひょっとしたら私達以上に動いてたかもしれないのに、平然とした顔なんだもん」

「そこな。どんだけ鍛えても真似できる気しねえよ」

 

 小さく笑いながら溢したのは泣き言に近いものだが、彼と同じ領域で物事を語るなら、最低でもあの授業くらい軽くこなせるようでなければ話にならないだろう。

 クロードの頭の中にある野望を思えば、力はどれほどあっても困らないのだから。

 

 自分は頭脳労働が専門なのだから、体力的な力は最低限あれば十分……そんな風に考えてはいられない。ベレトからすれば、こうして生徒にやらせている訓練内容なんて基礎中の基礎なのだろう。

 今も止まらず成長している彼に負けないためにも、その指導を余さず吸収しなくては。

 

 そう、この士官学校で過ごす中で成長したのは生徒だけではない。ベレトの方も目覚ましく腕を上げているのだ。それはジェラルトの薫陶の中にはなかった分野に手を付けたからというのもあるが……一番伸びたのがよりにもよって『自分より弱い人間への手加減の度合い』という、生徒からすれば自信をへし折られかねない成長の仕方なのである。

 それを思うと、半年間ベレトの成長の糧にされた黒鷲の学級に少しばかりの同情が沸きそうになる。エーデルガルトを筆頭に授業に臨む士気は高いと聞くので口出しする気はないが。

 

 無表情ながらも張り切っていると感じられるベレトの授業を受けて、クロードはどこか置いていかれるような気分を味わっていた。

 

(それでも、やるしかねえんだよな)

 

 自然と授業の最中にあったことを思い出す。隣でのほほんとしているヒルダと共通できる話題が二つあった。

 

「まさかバル兄と会うとは思わなかったなー」

「あの人なあ……修道院で何をしてるのかと思えば」

 

 ヒルダが言うバル兄なる人物、バルタザールの顔を思い浮かべてクロードは乾いた笑いを漏らした。

 

 学校の外に出てあちこちを走らされている時である。

 生徒と一緒に外周を走ったり、各生徒に対してあれこれ指導していると、流石のベレトも常に全員に目端を利かせていられない。そんな時には教師の目を盗んで手を抜いてしまおうとする生徒もいる。ヒルダやクロードが良い例だ。

 そこへまるで見張っていたかのように現れて忠告する者がいた。

 

『ようお二人さん、あいつの授業だってのに余裕そうじゃねえか』

『どぅえ!? だ、誰?』

『なんだなんだ? 誰だあんた?』

『俺はベレトに個人的に雇われてる者さ。授業中に自分の目の届かない部分を補助してくれって頼まれてよ。お前らみたいな手を抜く生徒に忠告してやるのさ』

『……あれ、貴方ひょっとして』

『あん? 嬢ちゃん、俺を知ってるのか』

『いや、俺も覚えがあるぞ。同盟で懸けられてる賞金首の肖像画にあんたの顔があったはずだ』

『ほう、このレスターの格闘王バルタザールをご存知とは、貴族のガキにも名が通るようになったな』

『バルタザール……やっぱりバル兄だ! 兄さんと一緒に遊んだもん、覚えてる!』

『兄さんってーと……ホルストのことか? じゃあお前、ヒルダか』

『そうだよ、うわー久しぶりー!』

『だっはっは、懐かしいなおい!』

『まさかの知り合いかよ……』

『ていうか何やってんの? 先生に雇われてるって?』

『言ったろ、ベレトの授業の手伝いさ。教師ってのは羽振りがいいんだな。ちょいと外で手伝いするだけで結構くれるんだぜ。おまけに俺の仲間も指導してくれるしよ』

『あのバルタザールを雇うとか……本当に何やってんだよ先生』

『ガルグ=マクにいたの? 今まで全然見なかったよ』

『気になるなら今度アビスに来てみな。なかなか愉快なところでよ、歓迎するぜ』

『地下ねえ……教団の目が届かないという意味じゃ選択肢としては悪くないんだろうが、よりにもよってガルグ=マクの真下じゃないか。俺も気になってはいたけど』

『まあそれはそれとして、仕事はきちんとやらないとなあ』

『あ……やっぱり?』

『おら、走れ生徒共! サボってたことはちゃんと俺から上司殿に報告しといてやるからな!』

『ひーん、バル兄きついよー!』

『くっそ、息吐く暇もありゃしねえ!』

 

 からから笑うバルタザールに追われて、クロードもヒルダも必死になって足を動かしたものである。

 その後もベレトの授業で修道院の外に出る時はどこからともなく現れて、生徒をせっつくだけの楽な仕事だと豪快に笑いながらこちらを追い立ててくるのだ。

 

 バルタザール=フォン=アダルブレヒト。その名が示す通り貴族の血を引く男で、レスター諸侯同盟の小貴族アダルブレヒト家の元当主である。

 当主の座を弟に押し付けるように出奔した彼は、同盟のあちこちでその蛮勇を振るい……方々に借金を作ったせいで追われる身となったらしい。詳しい経緯は不明だが、巡り巡ってアビスに居着いたというところか。格闘王を自称するように腕は立ち、懸けられた賞金はかなりのものだったと記憶している。

 その彼を雇用し、部下として扱うベレトに呆れる。生徒の指導の手伝いをあの無頼漢に頼むとは、大胆と言うか何と言うか。

 

 同年代の生徒とは違い、彼のように純粋な強さによって自立した人間はクロードにとって苦手な部類に当たる。あれはどんなに策を講じても力任せにひっくり返してしまう類だ。こちらの策を上回る策で支配してくるベレトとは別の意味で敵わない。

 そんな二人に組まれてしまっては、さしものクロードと言えど大人しく従うしかなかった。

 

「話してみると昔と随分印象変わっちゃってたから変な気分だったよ」

「あの後も奴に会ったのか?」

「うん、金貸してくんねえかーってさ。幻滅しちゃうよね」

「面の皮厚いってもんじゃないな、それでも賞金首かよ……」

 

 ヒルダにとってもやりにくい相手のようで、溜息を吐いて呆れを隠さない。

 クロードと揃って愚痴を言い合えることだけは幸いだった。

 

 これが話題の一つ目。もう一つは、

 

「あ、いた」

 

 こちらに走り寄ってくる少年である。

 

「ずっとここにいたんだね」

「よう、ツィリルじゃないか。どうした?」

 

 近付いてきたのは褐色肌の少年、ツィリルだった。

 

「先生がクロードを呼んでたよ。個別指導する予定だったのに来ないのかって」

「ああ、頼んではいたけど……ちょっとだけ休憩させてくれ」

「え、何々、クロード君ってばそんなに真面目に勉強する人だっけ?」

「いやあ、こんな機会は生かさないと勿体ないだろ」

 

 小走りでやって来たツィリルの言葉に、クロードは力なく返事をする。

 以前からベレト直々の指導に興味を持っていたクロードは、是非とも彼から直接指導を受けたいと思ってこの日の放課後を予定していたのだが……想像を遥かに超える消耗のせいですぐには動けなかった。

 お願いした手前、なかったことにするつもりはない。ただ少しだけ休ませてほしいのだ。

 

「悪かったな、わざわざ呼びに来てくれて」

「別に。掃除に行く途中で見かけたら声をかけようって考えてただけだから」

「これからお仕事もやるの? ツィリル君すごいねー」

「大したことないよ。仕事はいつもやってることだし、レア様の従者として恥ずかしくない人間でいたいから」

 

 じゃあね、と言って同じように小走りで去っていくツィリルの背中を見送り、ヒルダはまたもしみじみとした口調で呟く。

 

「あれであたし達と同じ授業を受けてたんだから、ツィリル君ってすごいね」

「まだ子供なのに体力あるよな。いや、子供だからこそか。若いっていいねえ」

「ちょっとー、クロード君おじさん臭いぞー」

 

 新しい級友の意外な一面を知り、二人して感心の溜息を漏らすのだった。

 

 実は金鹿の学級と共にツィリルもベレトの授業に参加していたのである。

 今節から加わった新たな仲間を、生徒達は驚きながらも歓迎した。

 

 発端はセテスの懸念だった。

 ツィリルはレアの従者という特異な立場の少年で、レアの身の回りの世話に留まらず、幼くして大人に混じって修道院で働く身である。

 異国の血筋だと示す褐色肌と、容易に他者に心の開こうとしない態度も相まって、開放的な気風の修道院にいながらどこか孤立していた彼がこのまま生き方を変えることなく潰えてしまいそうに思えた。

 本人は自分を拾ってくれたレアへの恩返しと思って粛々と働いているのだが、唯一つの念に囚われて変化もなく生きる姿は、まるで咎に染まる罪人のようで。

 

 未来ある若者がこのままではいかんと考えたセテスは、よりレアを支えられるようにという口実でツィリルに提案し、シャミアへの弟子入りを勧めた。

 シャミアは騎士団随一の弓の達人であり、仕事の合間を縫って彼女に師事することでツィリルの人生に大きな変化が生まれた。子供ながらに弓の腕前が見る見る上達することで、戦う力のみならず自信が身に付いたのだ。

 それは、フォドラで生きることになったパルミラ人という周囲から否応なしに浮いた存在であるツィリルにとって、今後の人生の骨子にもなる自尊心の芽生えだった。

 レアのために生きると言えば聞こえはいいかもしれないが、一歩間違えばレアへの依存になりかねない。若い内から彼の将来を狭める状態をセテスは良しとしなかったのだ。

 

 そんなツィリルであったが、ここ最近はシャミアの指導を受ける機会が減っていた。それもそのはず。シャミアが所属しているセイロス騎士団が、この数節は仕事が増える一方だからだ。

 西方教会の粛清を始めとして、現在のフォドラ各地で俄かに暴動や反乱が増えており、大陸の安寧を守ることが使命の騎士団はあちこちでひっぱりだこ状態。

 当然シャミアも出ずっぱりであり、アロイスと組んで同盟への遠征を繰り返している。デアドラにはパルミラ人を騙る盗賊が出没したとの話も出ており、騎士団は忙殺されているところだ。

 幸いにも本物のパルミラによる侵攻は現在は起こっておらず、フォドラの喉元の向こうで大人しくしている。あちらは有事の際でもフォドラの首飾りで睨みを利かせている勇将ホルストに任せればいいだろうが。

 

 話を戻して。

 シャミアの指導を受ける機会が減り、ツィリルは暇を持て余すようになった……などということはなく、空いた時間があるならこれ幸いとますます仕事にのめり込み、恩人への奉仕に傾注するようになったのだ。

 これでは元に戻ってしまうと案じたセテスがレアと相談した末に、彼を士官学校の授業に参加させられないかと考えた。折角の育ち盛りの時期なのだから学びの機会が増えれば必ず将来のためになる。レアの言葉には全面的に従うツィリルは不思議に思いながらも特に反対することなく聞き入れた。

 

 さて、学校に通うことになったツィリルだが、口頭の会話はできてもフォドラの文字が分からない彼に高度な授業を受けさせるのは不安がある。他の生徒との格差を意識させては誰のためにもならない。

 そこで白羽の矢が立ったのがベレトの授業だ。訓練は教室の外で体を動かし、座学でも戦術や技術を教えるので、言語の差に左右されることは少ないだろう。ツィリル本人も自分が字を読めないことをあまり知られたくないと考えているようで、ベレトの授業なら他の生徒と同じように学べるはず。

 

『ベレト、一つ頼みを聞いてもらえますか』

『何だろうか』

『今後の貴方の授業にツィリルを加えてほしいのです』

『レアさんの従者のあの子を?』

『はうっ……そ、そうです。まだ幼いにも関わらずあの子は修道院で働くばかりで、今後のあの子のためにも学びの機会を与えてあげたいのです』

『本人の意向もあって他の生徒と同じように毎日というわけにはいかないが、君の指導内容を説明してみたらツィリルも興味を持ったようでな』

『セテスとレアさんが認めてるなら俺は反対しないが、ツィリルには修道院での仕事があるんじゃないか?』

『うむ。毎日というわけにはいかない、と言ったのはその点だ。ある事情があって、ツィリルには君の授業にのみ参加させてもらいたいのだ。彼も今の仕事から全面的に離れるとまでは考えていないのでね』

『そうか。そこまで決まってるなら俺は構わない。他の生徒と同じように指導していく』

『ありがとうベレト。フレンのことと言い、君には苦労を掛けるな』

『セテスも色々調整してくれてるだろう。騎士団との演習もさせてくれてこっちも助かってるよ』

『……セテス』(むす~)

『……』

 

 礼拝堂に呼び出したベレトにそのことを告げると、彼も反対することなく受け入れてくれた。

 案の定と言うべきか、ベレトとセテスが親し気に話すところを見たレアがまたしても膨れっ面で拗ねてみせるという経緯こそあったが、誰も見ていなかったので追求しないでおこう。

 

 こうしてツィリルは『授業参加という名目の休日』を手に入れたのである。

 ……生真面目な性格のツィリルはレアへの恩返しに拘るあまり、ろくに休みを取ろうとしない。子供らしく体力はあるようだが、子供らしからぬ姿は心配が募るもの。名目上は学びの時間として仕事から遠ざけることも狙いの一つでもあった。

 

 そんなこんなで授業に参加することになったツィリルを、金鹿の学級は大いに歓迎した。士官学校の課程に途中から誰かが編入することは普通ではないことで、決まった時は軽いお祝い事のようにはしゃいだものである。事情によりベレトの授業限定とは言え、仲間が増えるのは喜ばしい。

 特にリシテアは自分が最年少ではなくなることが殊の外嬉しかったようで、「これからは私がお姉さんとして教えてあげましょう、お姉さんとして!」と大いに張り切り、教室で授業する時は自分の隣に座るようツィリルに言い渡す場面があった。

 

 で、授業が始まったのだが……予想だにしない展開が待っていた。

 御存じの通りベレトの指導はとても厳しい。最後まで一度も倒れずについていけたのはラファエルやレオニーなど体力に自信のある生徒だけだったのだが、なんとその中にツィリルもいたのだ。

 仕事をしていく中で普通の子供より体力がついたのか。はたまた彼の身に秘められた才覚が花開いたのか。真相は定かではないが、本人も今までにない環境で学ぶ生活が気に入ったようで、ベレトの指導を受けるツィリルは充実した姿を見せている。

 

 レアに気に入られているベレトに嫉妬していた節もあったようだが、この数日で随分と彼に心を許した様子だ。

 前述した壁登りの技を学んだ日などは、これで高い場所も掃除しやすくなると喜んで、放課後にベレトと一緒になって高所の窓拭きをしたりと仕事(レアへの奉仕)を共にするくらい懐いたようである。

 ベレトだけでなく金鹿の学級とも仲良くなれた。積極的に絡みに行く生徒にツィリルも最初こそ戸惑っていたが、やや強引な勢いが上手く作用して彼も多少心を開くことができたのだ。

 今では訓練で潰れたリシテアを自分からおんぶして連れ帰るくらいには打ち解けられた。お姉さんの面目丸潰れのリシテアが何とか威厳を取り戻そうとして、ツィリルに字を教えるという名目で彼と文通を始めた微笑ましい一幕があったのも記憶に新しい。

 

 そんな『異国の同胞』の様子を思い浮かべると、クロードとしては負けていられないと対抗心が湧いてくる。

 この三日だけでも今までの自分に足りてなかった分野が急速に埋まっていく実感があった。ベレトから手を離してはいけないという個人的な予感もある。彼に食らいついていくためにも、疲れたからと言っていつまでもへこたれていられない。

 

「さあて、と」

「もう行くの?」

「ああ。あまり遅れると、折角取ってもらった時間が別の誰かの指導に奪われちまいそうだ」

 

 体に力を入れて立ち上がり、クロードはグッと背筋を伸ばす。

 ベレトはいつも通り訓練所だろう。以前より他の学級からも指導を希望する生徒を毎日のように相手する彼が、放課後は決まって足を運ぶ場所だ。先ほどツィリルがやって来たのも向こうからだったし。

 

「ヒルダ、ついでだからお前も付き合え」

「えー、私は遠慮するよ。これから医務室の片付け当番だし」

「その当番は他の生徒におねだりして任せてるの知ってるんだぞ。どうせこの後暇なんだろうが。というか、俺一人でまた疲れるのは癪なんだよ。お前も来い」

「うわー、横暴だー」

 

 ぶー垂れるヒルダを引っ張って歩く。多少休めはしたがまだまだ疲れは残っており、軋む関節を気合いで動かして訓練所へと向かう。

 自分が強くなれること、仲間も一緒に成長できること、その指導をしてくれるべレトに教われることが嬉しくて、クロードは口元に笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エーデルガルトは苛立っていた。できるだけ表に出さないよう努めているが、浮かべる表情が固いこと、机に置いた手が無駄に忙しなく動くこと、あまつさえ貧乏揺すりをするなど、明らかに普段の彼女とは違う態度を見せていた。

 

「いやあ、流石はハンネマン先生だね。歴史を教える普通の授業の中でも紋章の話を絡めて、僕も珍しく眠気がない授業を受けられたよ」

「リンハルトにしては珍しいよな。けど俺でも面白いって思えたから、それだけハンネマン先生の話し方が上手いってことか」

「そういうカスパルだって、この手の座学で退屈そうにしないのは珍しいね」

「ああ、俺も最初は乗り気じゃなかったんだけど、あの人の話ってただの歴史じゃなくてそこにどんな奴がいたかってところもあっただろ。キッホルとセスリーンの話とか面白くてさ」

「聖キッホルと聖セスリーンね……紋章は必ず人と併せて語るところがハンネマン先生らしいね」

「キッホルはすっげえ娘思いで、セスリーンをすげえ大事にしてたっていう記録が伝わってるの、なんか人間味があって親近感あるんだ。セテスさんとフレンみたいじゃん」

「確かに、セテスさんはキッホルの、フレンはセスリーンの大紋章を持ってるよね。紋章がその人の行動や内面に影響を及ぼす好例だ」

「なあ、フレンはどう思う?」

「はいっ? わたくしが何ですの?」

「キッホルとセスリーンの話だよ。ハンネマン先生が話してたろ。お前とセテスさんに似てるじゃん。どう思った?」

「どうって……そういう話が伝わってることはわたくしも知っていましたけど、周りからは微笑ましく見えてたのですね。あれは過保護と言うべきだと思いますわ」

「へ?」

「君とセテスさんのことじゃなくて、聖キッホルと聖セスリーンの──」

「あらやだ、わたくしったらまだ板書が終わってませんわ。ごめんあそばせ」

「……どうしたんだフレンの奴?」

「うーん、やっぱりきちんと調べてみたいな」

 

 この一週間、ハンネマンとマヌエラによる授業が黒鷲の学級で行われ、それまでのベレトの指導とは趣の異なる学びを生徒達は体験した。

 黒鷲の学級は驚き、最初こそ戸惑いを見せていたが、この変化はベレトの提案が元になって考えられたものだと教えられた時は、生徒の将来を案じ、自身の不甲斐なさを素直に認めてより良い体制を求めた彼の働きに感謝した。

 

「マヌエラ先生の講義は大変有意義なものだったな。平民の目線でありながら貴族にも通じる見識を持つ視野の広さが素晴らしい。流石は歌劇団の元歌姫と言える」

「あら、フェル君ってばマヌエラ先輩のことが余程気に入ったのね」

「もちろんだとも! 身に付けた所作、姿勢は貴族と比べても決して見劣りすまい。その身一つで立てた功績もさることながら、私は何よりもあの人の存在そのものに憧れているのだよ!」

「そ、そんなに?」

「彼女がミッテルフランク歌劇団で活動していた頃からの憧れさ。五歳の当時、初めて観劇した時の感動は今でも忘れていない……ドロテアなら分かるだろうが、剣舞を取り入れた演目があっただろう? 恥ずかしながら、まだ幼かった私が初めて剣を握ったのは、実は鍛錬のためではなくあの剣舞を真似したいが為でね」

「まあまあ、そんなに夢中になってくれてたなんて、後輩としては誇らしくなっちゃうわね」

「そう言うドロテアも剣は得意な方だろう?」

「ええ、私も剣はいっぱい練習しましたから。舞台のための技だから、貴族様のお眼鏡に適うとは思えませんけど」

「そんなことはないぞ! あの洗練された動きを見れば君がどれほど努力を積んできたか感じ取れないはずがない! 君もまた歌姫として重ねた実績を私は尊敬しているのだよ」

「そうなの? まあ、褒め言葉はありがたく受け取っておきますけど……」

「フェルディナント、踊り、真似する、しますか?」

「いや、舞踊とはまた違うものだね。しかし貴族としてどちらもこなす技術は身に付けているさ。ペトラは興味があるのかい?」

「はい。ブリギットの舞、精霊に捧げる祈り、意味ある、します。フォドラの踊り、人と人を繋ぐ交流、違い、私、知りたいと思う、思います」

「そっか、じゃあペトラちゃんからブリギットの踊りを教えてもらうこともできるのね」

「来節の舞踏会に向けて、マヌエラ先生から踊りの授業もしてもらえるそうだ。かの歌姫直々の指導なんてそうそう受けられるものではないぞ」

「はい、私、楽しみ、なりました、です!」

 

 このように、生徒達からは総じて好評を博した授業であったが、当然それらはベレトによる授業ではないわけであって。

 一日の大半を彼と場を同じくして過ごす日々から変えられて、エーデルガルトが気にならないはずもなく。

 彼女に癒し(せんせい)が足りていないのは明白であった。

 

 少なくとも傍でエーデルガルトを見ているヒューベルトにはバレバレである。

 

「エーデルガルト様」

「……分かっているわよ。感情を制御できないのは未熟者、でしょう?」

「御理解いただけているようで何よりです」

 

 そして、自身の苛立ちがヒューベルトに気付かれたことにエーデルガルトも気付いた。

 

「師が何を思って今回の提案をしたのかは分かるわ。教団にとっても、三国の均衡が崩れることは避けたいでしょうしね」

「鷲獅子戦で些か力を示し過ぎたのでしょうな。目の当たりにした教団関係者の慌てふためく様を見れなかったのが惜しいくらいですよ……くくっ」

 

 意地の悪さを隠そうともしない従者の笑みを見上げつつ、精神を平常に戻すよう努める。

 

 フォドラの管理者を気取るセイロス教団としては、将来の帝国だけが力を強めてしまうのは看過できないことだろう。一度育ってしまったのを弱くするのは無理があるので、王国と同盟を同じ段階まで引き上げるしかなく、そのためにベレトの指導を用いるのは道理である。

 青獅子の学級と金鹿の学級はベレトの手で鍛えられて急速に伸びると予想できる。言っては何だが、紋章学者と元歌姫の指導とは比べ物にならないくらい強くなれるに違いない。その分苦労はするだろうが。

 黒鷲の学級は頻度が減っても衰えない程度に鍛えさせ、その代わりに今まで足りてなかった分野の指導がこれからは行われる。すでに戦力は充実しているので、今後はそれ以外の穴を埋める成長が見込める。一歩先んじている状態の帝国の未来を思えばありがたい采配だ。

 

 ベレトの指導(くどいくらいの基礎重視)によって、黒鷲の学級一同は基本的な学力はばっちり身に付いていた。これまでとは異なる授業にきちんとついていけるのも彼のおかげなのだろう。

 地盤無くして城建たず──かつて言われた【壊刃】の教えの通りであった。

 身を以てそれを理解できた生徒達は誰もが生き生きと授業を受けている。それまでとは趣の変わった授業に戸惑うことなく向き合う彼らに、逆にハンネマンとマヌエラが驚いた様子だった。

 

 すでに地力は十分だとして、上級職の資格試験に臨もうと意気込む者も多い。来週からそのための指導を各教師に頼んで仕上げを行い、今節の内に何人も挑み、合格するだろう。

 士官学校の生徒が上級の領域に踏み込もうとするのは、過去の卒業生を振り返ってみても事例は少ない。それだけ黒鷲の学級の生徒が育てられているということだ。他学級の生徒が軒並み中級職であることからも分かるように、学生の身分でありながらここまでの高みに至れる事実が、如何にベレトの指導力が優れているかを証明しているようだ。

 在学中に最上級職のドラゴンマスターとウォーマスターの二つを極めてしまったホルストという特異点は例外中の例外なのでここでは除外するとして。

 高位の騎士パラディンを始めとして、空戦の雄たるドラゴンナイト、魔力運用を更に突き詰めればウォーロックやビショップも、話題に上る上級職を熱く語る生徒達は士気も高く、黒鷲の学級は盛り上がっていた。

 

 その喧騒を耳にするエーデルガルトは複雑な気持ちだ。

 級長としては、自分の学級が他より強く育っていることが嬉しく、どうだ見たか!と自慢したい気持ちがある。

 皇女としては、帝国の未来を担う生徒が逞しく育ち、その上更なる向上心を持って授業に臨む姿を誇らしく思う。

 自身も技能面は条件を満たしていると判断して、今後取得する資格の方向性をベレトとしっかり相談してきたので不安はないが……その肝心のベレトがこの場にいないことが引っかかる。

 

 というかベレト、そう、ベレトである。

 彼が傍にいない。その事実をエーデルガルトはどうしても気にしてしまうのだ。

 

 皇女や級長という公的な立場では現状への不満はない。

 が、一人の少女としては、そういう事情は一旦置いといて(そんなことはどうでもよくて)

 この一週間。授業という生徒にとって一日の大半を過ごすことになる時間を彼と引き離されて、彼女が思うことと言えばこれ。

 

(私は師の指導を受けたいのに!)

 

 要はそういうことだ。

 エーデルガルトは、ベレトと一緒にいられなくて寂しいのである。

 

 ハンネマンとマヌエラの授業にケチをつけたいわけではない。今までの授業ではなかった分野に触れられたので気分も一新して学ぶことができた。

 むしろ学べる幅を広げた今回の采配はありがたく思う。かねてより感じていた士官学校の欠陥、教師の固定による指導の偏りを解消させる妙手だ。よく教団が、レアがこの変更を許したと驚いたほどだ。

 三国それぞれ出身の生徒が一つの学級に固まっているので、違いがあってもそれは当たり前のものとして今までは流されていたのだ。そこで教師を交替し、授業を画一化することで平均的に能力が上がりやすくなった。この体制が確立すればフォドラ全体の地力が増すかもしれない。

 

 読者の方々に分かりやすく説明するなら「同じ時間をかけて同じ経験値を得られるやり方でも、高レベルより低レベルの方が上がりやすいよね」と言えば納得していただけるだろうか。

 

 まあとにかく。新しい授業体制がどんなに有用だとしても、それはそれ、これはこれ。ベレトと一緒にいられない時間がエーデルガルトは不満なのだ。

 ……質が悪いのは、彼女がそういう内心を自覚していないことにある。

 物足りなさを感じている。それによって不満が募る。彼と一緒にいられれば癒される。ではどうしてそう考えてしまうのか?

 そこまで思考を進められておきながら、その先になると途端に分からなくなる。わざとやってるんじゃないでしょうねこの子は。

 

 そんなエーデルガルトを誰よりも近くで見続けてきたヒューベルトは、彼女の思考の仕組みを凡そ把握していた。

 

 エーデルガルトは言わずと知れた皇女である。それも遠くない内に大陸全土を動乱に叩き込み、その末に全てを平定してみせる覇王だ。

 往く道は険しく、屍山血河を生んで尚止まることは許されない覇道。それに踏み出すならば生半な覚悟ではいられないだろう。

 すでにそのための覚悟を固め、秘密裏に動き出しているとは言え、背負うものが彼女の心身に大きな負担をかけていることは想像に難くない。如何に強固な精神を秘めていようが人間であれば限界はあるのだし、そんな彼女が人間として平凡な思慕の念を抱いてもおかしくない。

 

(まさかエーデルガルト様ともあろう御方がここまで先生を慕うことになるとは……いえ、我が主も人間だったということですかね)

 

 そう、エーデルガルトとて人間なのだ。獣の支配を脱し、人間が生きる世界を築くべく覇道を邁進する彼女は、だからこそ人間であることを忘れてはならない。超人的な自制心を持っていても、年頃の少女であることもまた事実なのだから。

 

 傍で仕えるヒューベルトとしては、彼女の数少ない癒しを取り上げてしまうことは憚られた。いずれはそういう安らぎを得ることもそうそう叶わなくなるだろうし、ここで学生ごっこをしている間くらいはある程度好きにさせてもいいか、と思わないでもない。

 ない、のだが……長く続くと、いいかげんにしてくれという気持ちも同じくある。

 

 人間として当たり前の情緒すらも『余計なもの』として削ぎ落とし過ぎてしまったが故に、当たり前とされる感覚も察せられず、放課後になる度に自主的に外周走に向かうエーデルガルトをこれ以上放置するわけにもいかない。

 悶々とした気持ちを振り払うべく体力を絞る彼女も、今ではベレトの授業で示された内容くらいなら軽くこなせてしまうようになっていて、成長を喜べばいいのか、そこまでやって尚気持ちを自覚できないことを嘆けばいいのか、ヒューベルトには分からなかった。

 毎日難しい顔で出かけてはスッキリして帰ってくる主に助言したい(ぶちまけたい)ところだが、皇女の立場は元より、その従者である身からは出過ぎた真似をするのも憚られる。ヒューベルトにとっても難しい問題に、慎重に判断しなくてはなるまい。

 

 幸いなことに、似たような状況に覚えがある。あの時にエーデルガルトの機嫌を劇的に改善させたのと同じ流れに持っていければ……

 

「ところでエーデルガルト様、本日も走りに行かれるのですか」

「ええ、これから行くわ。座学が増えて訓練の時間が減ってしまってるのだし、体力が有り余って仕方ないのよ」

 

 やはり今日も外周に行くようだ。ここで彼女を行かせてしまうと何も変わらない。

 ヒューベルト、策謀家としての腕の見せ所である。

 

「そうでしたか。ですが本日はおやめになった方がよろしいかと」

「何故?」

「実は昨日の放課後、先生から茶会に誘われまして」

「!?」

「その時はちょうど手が空いておりましたので、招待を受けることにしたのです。そこで──」

「待ちなさい、初耳よそれ。どうして私を呼ばなかったの?」

「先生が来た時はエーデルガルト様は外周走の最中でしたのでお声掛けできませんでしたし、何より主の自主訓練を邪魔するわけには参りません」

 

 しれっと答えるヒューベルトの言葉に驚きジト目になるエーデルガルトだが、唸るように息を吐いて続きを促す。

 

「まあいいわ。そこで?」

「教える学級が増えたことを契機に、より多くの生徒に紅茶を振舞って話を聞いているそうです。そして交流を深めながら、紅茶を淹れる練習も兼ねていると」

「師は少し前まで紅茶自体知らなかったものね。でもそんなに振舞っているならかなり上達したのではないかしら」

「そうですね。私の目から見てもエーデルガルト様から教えられたことを忠実に守った淹れ方で、紅茶の味も不足はなかったかと」

「さっきから回りくどいわね……何が言いたいの?」

「先生は本番の前に自身の腕前を評価してほしかったそうで、従者の私に試してほしかったのですよ。一度限りの心配はしなくてもいいと言っても、あの人も高級な茶葉を用いる時はそれなりに気を遣うようですからな。例えばベルガモットティーを淹れる時などは」

「……っ!」

 

 何かを察したらしいエーデルガルトが目を見開くが、ここで追撃を緩めない。

 

「時にエーデルガルト様。一週間の授業を終えた先生方は現在職員会議の最中ですが、彼はいつも通り諸々の仕事を片付け済みで、終わり次第生徒との交流に当たるようです。ああ、そういえばエーデルガルト様はこれから外周走にお出かけになるのですから関係ないことでしたか。お引止めしてしまい申し訳ありません」

「………………気が変わったわ。少し身形を整えてくるわね」

「はて、本日は体を動かすような授業はなく、汗をかいた様子も見受けられませんでしたが?」

 

 ペラペラと続いた言葉を聞いて思うところがあったのか、徐に席を立つエーデルガルトに白々しく尋ねる。

 

「貴方が気にすることではないわ。予定が変わればやることも変わるの」

「なるほど、我が主に置かれましては常に身嗜みに気を配られて、大変結構なことだと存じます。特に彼の前に立つならより一層気を遣うのでしょうな」

「ヒューベルト!」

「くくくっ、これは失礼しました、いってらっしゃいませエーデルガルト様」

 

 睨んでくるエーデルガルトに向けて慇懃に一礼してみせる。飄々とするヒューベルトに何を言っても無駄と判断したのか、勢いよく歩き出す彼女の背中を見送った。

 少し離れただけでこの後の『本番』に思いを馳せたのか、その後ろ姿を見ただけでも浮き立つ内心が手に取るように分かってしまった。

 

 エーデルガルトには早く気持ちを自覚してほしいと思う。何しろ自分達には時間がない。

 

 いずれこの穏やかな時間は破られる。他ならぬエーデルガルトの手によって。

 その時彼女を支えるのは従者の自分である。あらゆる手段を用いてその覇道を補佐する覚悟はすでにあるし、準備も着々と進めている。

 しかし、自分はあくまでも支える者に過ぎない。主の隣に並び立ち、その重荷を、重責を分かち合うことはできないだろう。できるとすれば、それはきっと──

 

(私も甘くなりましたね)

 

 以前は主と距離を取らせるどころか、暗殺までしようと考えていた人物に対して、驚くほど評価が変わっていることを自覚してヒューベルトは心の中で溜息を吐く。

 エーデルガルトだけでなく自分までいつの間にか彼に絆されている、と。

 

『君はテフが好きなのか。なら次はそれを用意しておこう』

 

 茶会の席でベレトが告げた次の機会。そんなものが自分にまであるとヒューベルトは安易に考えない。学生ながら忙しい身だし、放課後も休日も予定は埋まりがちだ。ベレトの方だって三学級の指導のためにこれからもっと忙しくなるだろうに。

 それでも、彼ならば……互いに忙しくなった合間を縫って、休める時間を作ってくれるのではないか……そう期待してしまうのだ。

 

 それはそれとして、足を止めてはいられない。

 闇に蠢く者のきな臭い実験のことも、断片だけは聞いている。まさかガルグ=マクからそう離れていないルミール村を対象にするとは、大胆なことをするものだ。その調査のためにジェラルトが直々に騎士団を率いて赴くことになったのも知っている。

 ここから自分達を取り巻く環境が急速に変わっていく予感がした。

 

 エーデルガルトには今しばらく優しい時間を過ごしてもらおう。心の中にある甘さを先に切り捨てるのは自分の役目だ。

 差し当たって、決起の時に合わせて粛清する帝国貴族の選定作業を進めなくては。地位を奪い、領地の支配権を取り上げ、とうに見限っている己の父親を筆頭に処刑するべき敵の見極めなど、やることは幾らでもある。

 

 我が往く道に甘さは不要。必要とあらば悪魔にでもなってみせよう。

 未来の皇帝の懐刀は密やかに、揺るぎない足取りで動く。

 全ては主のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして彼らは今日も生きる。

 教団も騎士団も学校も、その生活は忙しくも充実していて、誰もが謳歌していた。

 

 今節から始まる変化により、生徒達の学級を越えた交流が増えた。

 これまでは一つの学級につき一人の教師で、受ける教えも一通り。それが三つの学級を三人の教師で回すようになり、多様な教えは共通の話題をもたらす。

 ただ盛り上がるだけでなく、生徒同士で軽く口論が起こったりなど揉め事も幾らかあるが、逆を言えばそれだけ多く言葉を交わすようになった、即ち意思の疎通が増えたということだ。

 そうして他人への理解を深めていくことは、同時に自身の認識を自覚させ、広い視点を得ることにも繋がる。得た視点が増えれば増えるほど見聞は広がっていくのだ。

 

 学級の垣根を越え、国の違いを理解し、遠き人種の差でさえもいずれは薄れていくのかもしれない。

 

 フォドラの長い歴史の中、これまではなかった動きを見せる修道院と士官学校で、その結果何がどう変わるのかは誰にも分からない。

 確実なのは、一人の教師の提案によって生徒の成長の幅が広がり、本来ならあり得なかった変化が未来で起こるということ。

 

 彼らの周辺はまだ平和だった。

 影は静かに忍び寄る。炎と闇の蠢動は、すぐそこ。

 されど今は彼らも穏やかに日々を刻む。

 この思い出を喜びと共に語り合える未来のために。




 本作は紅花ルートを『基本とした』二次創作です。これなら生徒全員と関われる。これなら全員と支援値を上げられる。僕の風花雪月はこうなってるんだ。
 だってさー、級長と従者はどうやったってスカウトできないじゃん。従者じゃないはずのヒルダでさえ紅花ルートだと落とし物すら返せないじゃん。だったらもう学校の体制そのものを変えてやるしかないじゃん。言っときますけどハンネマンもマヌエラも、レアのことだって諦めるつもりないかんね!
 ここで生まれた関わりが後の彼らに良い影響を与えることを願って、僕の理想とする大団円への第一歩とさせていただきます。

作者の活動報告に載せた後書き


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捏造支援会話、壊刃と教師C

 前から取り上げたかった傭兵親子のことです。
 支援会話の性質上「ここでこの会話があった」とは決めてませんので、読み手のイメージするタイミングで発生したと思って読んでください。


 それはまさに達人同士の共演。

 激しい戦いの様相に、周囲の者達はひたすら目で追いかけるしかなかった。

 

 斬斬斬斬、払、蹴肘逸、避払払弾踏、避膝斬跳、振り下ろし!

 弾弾避打、突、防防薙、突突突突突、殴防防薙、振り上げる!

 

「すっげぇ……!」

「速過ぎですよ……」

「ちっ、今何をやった?」

「どっちもすげーなー!」

「おお! そこ、そう! それでこうしてそうして! ぬおおお流石団長!! すごいですぞ! ぬぅ、先生もなかなか! おおなんとなんと、うおおおおお!!」

 

 一部、やかましい者もいた。

 

 ベレトの剣とジェラルトの槍。二つの武器が激しくぶつかり、時に格闘術も交えて目まぐるしく動く攻防は、周囲を置き去りにして加速の一途を辿る。

 槍を踏みつけて動きを抑えたまま攻撃するベレトを、踏まれたまま槍を手放さず巨躯を軽く揺らすようにしてジェラルトは捌くと強引に槍で薙ぎ払う。足元が危ういと見たベレトは瞬時の判断で高く跳躍し、剣の振り下ろしと槍の振り上げで再びぶつかった。

 

 そのベレトの姿を見たジェラルトは目を見張る。息子の動き方が、自身がよく知る彼のそれとは大きく変わっていることを感じ取ったのだ。

 

 ぶつかった剣と槍を絡ませたベレトは体が落ちるのを待たず空中で蹴りを放つ。

 一度は頭部へ。二度は腕部へ。三度は腹部へ。

 落ちるまでの僅かな間に、体を捻る力だけで繰り出した三度の蹴りは全て防がれてしまう。踏ん張りの効かない空中で放つ蹴りは余程上手く当てない限り大した威力は乗せられない。冷静に見抜いたジェラルトはそれらを片手で受け止めてしまった。

 

 蹴りが通用しなかったベレトは止む無く着地のために体勢を変えるが、それをわざわざ見過ごしてやる理由はジェラルトにはない。

 地に足がついている彼はしっかり床を踏みしめ、力を乗せた前蹴りを放つ。咄嗟にベレトは着地のために構えた両腕を動かして蹴りを防ぐが、そのせいで大きく体を崩されて突き飛ばされた。

 

 床を転がされて急いで体勢を戻そうとするも、晒した隙を突かれないわけもなく。

 顔を跳ね上げて相手に向き直ろうとしたベレトの頬スレスレに、ジェラルトが繰り出した槍の突き出しが通り過ぎた。

 余波さえ伴う強烈な一突き。飛ばされたベレトと同速の踏み出しに、槍の強みを存分に生かした遠間からの一撃。

 

 構えることも許さない隙を生み。

 反撃もできない遠間から。

 一発で勝負を決める顔面へ。

 複数の条件を成立させた一撃は、有無を言わせない決着を意味しており、

 

「参った」

 

 それを理解したベレトは白旗を上げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見物していた生徒と騎士達からベレトとジェラルトが解放されたのは、称賛やら感嘆やらでひとしきりもみくちゃにされてからだった。

 一際叫び散らしていたアロイスをジェラルトが窘めたり、負けはしても先生の戦う姿に興奮した生徒にベレトが囲まれたり、彼らを落ち着かせてからようやく水場に来ることができたのだ。

 

 普段生徒を相手にするベレトはほとんど汗もかかず息も乱さない(あんなに黒々とした格好をしているくせに)のだが、ジェラルトほどの強者との手合わせは流石に消耗が大きかった。顔を洗ってその場で水を飲むと、ふぅ、と一息吐く。

 

「ベレト、お前戦い方が変わったな」

「?」

 

 不意に発したジェラルトの言葉に、ベレトは顔を拭く布巾の動きを止めた。

 変わった、とはどういうことだろうか。剣術に格闘術を組み合わせた戦い方は今までと同じだと思うのだが。

 

 ベレトの戦闘技法はジェラルト仕込みである。

 幼少期から傭兵団の一員として共に行動し、体が育つのに合わせて父から教育を施されてきた。武器の取り扱いから始まり、戦術も戦略も、こと戦いにおける術理はほぼ全てジェラルトから教わったと言っても過言ではない。

 当然、そんなベレトの動きをジェラルトが把握していないわけがなく、ベレトも鍛えられる中で父の戦いぶりをよく知っていた。ガルグ=マク大修道院に来る前は毎日のように手合わせもしていたこともあり、互いの実力は誰よりもよく分かっている。

 

 その父からの指摘はベレトの認識の外を突いたものだった。

 

「父さんの目から見て、俺はどこかおかしくなったのか?」

「おかしいと言うか……そうだな、全体的に前のめりになった感じがしたな。以前のお前は俺が教えた通りに防御を重視した戦い方をしていた。それが今日はやたらと攻撃に偏っていたぞ」

 

 ジェラルトとしても息子の変化には驚かされた。

 

 まだ子供だったベレトに戦い方を仕込む際、ジェラルトはまず何をおいても防御を叩き込んだ。

 それは単純な技のみならず、生きるための心構えも含む。命のやり取りが茶飯事の傭兵として生きていくことになるのだ。戦場だけでなく日常の生活の中でも、いつ危険な目に遭うか分からない。自分の身は自分で守れて一人前の傭兵である。

 父に説かれた常在戦場の心得は、感情が希薄故に素直でもあったベレトの中にするりと納まり、その後の彼の思考の中心として機能した。今日に至るまで五体満足且つ健康に生きてこれたのはジェラルトの教えのおかげなのだ。

 ついでに言えば、その出生の秘密から、いずれ迫るかもしれない脅威に備えて身を守ることを何よりも優先して覚えてほしいという隠れた事情もあるが。

 

 そうして生き延びるベレトは、それだけ長くジェラルトに鍛えられてきた。

 戦場に出るようになってからも冷静に、冷徹に、冷酷に敵を屠り、表情を変えず、感情も薄く、その戦いぶりから【灰色の悪魔】という異名まで付けられるほどの戦士へと成長した。

 

 そんなベレトが、先ほどの手合わせの時は──

 

「さっきのお前はやけにムキになってたな」

「ムキに?」

「ああ。例えば空中で三回蹴ってきただろ。ありゃ無駄だぞ」

 

 水場の一角で反省会が始まる。

 懐かしい流れだ。昔は手合わせした後に、気付いたことを一つ一つ教えたものだ。いつからかベレトが自分で考察するようになってしまい、指摘することも減ってしまったのだが……今回はジェラルトから口出しした。

 

「宙に浮いた体で放つ蹴りなんてそうそう効きゃあしねえよ。あそこは俺の体を足場代わりに蹴飛ばして距離を取るべきだったな」

「……」

「その直後も、俺が前蹴りやっただろ、あれを防ぐのに両腕を使ったのもだめだったな。多少ダメージを受けたとしても前蹴りは片腕で防いで、もう片方の腕は着地の姿勢制御のために使うべきだったぞ。そのせいで俺の追撃への対応が遅れて終わっただろ? あんなの、ただ防いだだけで次に繋げられてなかったじゃねえか」

 

 動きの不備を、理由と併せて説明していく。

 ジェラルトの教えの一つ、攻撃的な防御を忘れてしまうほど普段のベレトとは違っていたのだ。

 

「なんだろうな。さっきのお前は、何が何でも食らいついてやろうってムキになってるように見えてよ」

 

 自分を尊敬してくれている息子が、まさか自分の教えを忘れるとは。

 一体何があったのかとジェラルトも不思議だった。

 

「集中できない理由でもあったのか? まさか生徒に見られてたから、いいところを見せようと張り切ってたとか、まあ流石にそれは……ベレト?」

 

 その時のベレトの顔は見物だった。

 きょとん──ジェラルトの言いぶりがまさかの指摘だと、青天の霹靂と言わんばかりに呆然としたまま目を何度も瞬かせる。

 

「おい、どうした?」

「…………そうか。俺は、ムキになっていたのか」

 

 ジェラルトの呼びかけにも応えず、言われて初めて気付いた己の変化にベレトは驚いていた。

 

 周りに生徒がいた。

 みんなが自分の戦いに注目していた。

 恥ずかしくない姿を見せなくては、と張り切って……そう、ムキになっていた。

 自分よりずっと強い父に簡単に勝てるとは思っていない。それでも負けを前提に手合わせするつもりはなかった。やるからには何としてでも一本取ると張り切っていたのだ。

 

 ガルグ=マクに来て以来、ベレトは教師に、ジェラルトは騎士団長になり、活動する場がすっかり離れてしまった。

 同年代の若者に囲まれる日々は慣れないことも多いが、仕事であるからには手を抜かず真剣に彼らと向き合い、黒鷲の学級(アドラークラッセ)を中心に生徒達を指導してきた。

 生徒達はベレトを慕い、ベレト自身も彼らにとって良き教師たらんと努めてきた。

 

 そうして過ごす中で、久方ぶりに訪れたジェラルトとの手合わせの機会。また父と戦えることにベレトは気合いを入れて臨んだ。

 その姿を生徒達が見学するという運びになり、彼らの前で不甲斐ない様を晒すわけにはいかないと、先の気合いも相乗して本来の型を崩してしまうほど戦い方が前のめりになってしまったのだろう。

 

 その若さに反して、傭兵としては熟練と称してもおかしくない経歴を持つベレトにとっても、今回のようなやる気が空回りする事態は初めてだった。

 何しろこれまでは気合いを入れるようなこともなく、他人の目を気にして張り切るなんて考えたこともなかったのだから。平常心を崩さないと言えば聞こえはいいかもしれないが、彼の場合は感情が希薄過ぎてその心が波立つ経験が一切なかったのだ。

 

 そんなベレトが。

 生徒の目を気にして。

 手合わせに張り切って。

 

 父から受けた指摘に呆然としてしまうくらい、ベレトは自身の変化に驚いていた。

 

(こいつ、変わったな)

 

 指摘されて初めて自身の心の動きを自覚したベレトの姿は、ジェラルトの目にはどことなく眩しく見えた。息子が今感じている感情の変化は、きっと今までにない大きな成長と呼んでも間違いではないはずだ。

 

「父さん」

「なんだ」

「俺は、弱くなったのだろうか」

「あ? ……ふ、ははは、心配するこたあねえよ」

 

 ふと、零れてしまったのか。ベレトの口から出た言葉に一瞬ジェラルトも呆然としてしまう。

 それでもすぐに、そんな息子の姿に感じ入って笑ってしまった。

 

「要はやる気があるってことだ。今までと環境が変わったせいでお前も変わったところがあるだろうが、悪い変化じゃねえはずだ」

 

 そういうものだろうか、と首を傾げるその背中をバシバシと叩く。

 大丈夫だと言ってやりたかったが、口元が緩んだ顔で言っても説得力がなかったかもしれない。それでも今の気持ちが抑え切れなかった。

 

 くつくつと笑いを堪えるジェラルトを訝しく思ったベレトだが、父の言うことならばとすんなり納得して悩むのは一度棚上げすることにしたようだ。

 

「それよりベレト、訓練所でまだ生徒が残ってるだろう。今日もこの後相手していくのか?」

「ああ。父さんとの手合わせがあるからと待ってもらってる。今から戻るよ。父さんは仕事か?」

「そうだな、そろそろ外回りの部隊が戻ってくる頃だから、そいつらの相手をしに行くさ」

「そうか。それじゃあ、また」

「おう。またな」

 

 手拭い片手にベレトは訓練所に向かう。

 その背が見えなくなるまでジェラルトは動く気になれなかった。

 

 弱くなったのだろうか──先ほどのベレトの言葉は、いわゆる弱音というものだ。

 あのベレトが。感情を見せることなく淡々と生きてきた息子が。

 自分の変化を気にして不安を口にするとは。

 

 考えることはあっても悩むことはなかったベレトが、初めて変化に悩んでいる。

 彼は今、確かに成長している。それがジェラルトには嬉しかったのだ。

 

 心技体。人の強さの度合いを表す、そんな言葉がある。

 体は肉体の力強さ。

 技は修めた技術の完成度。

 心は身の内に宿る魂の輝き。

 

 幼い頃からジェラルトの薫陶を受け、熟練の傭兵としての経歴を持つベレトは、体と技に関しては十分な高みにいると言ってもいい。

 唯一つ、心だけを彼は持ち得ていなかった。その強さの土壌は極めて歪なものだったのだ。

 

 しかしそれも昔の話。今のベレトには紛れもない心が芽生えている。ろくに表情も変えることなく生きてきた彼が、大修道院に来て人々と関わる中で何かを思い、何かに悩み、急速に心を育てている。

 今はまだ不安定で、その心に振り回されてしまっているようだが、器用な息子のことだ。そう遠くない内に感情を乗りこなし、己の強さの一助としてみせるだろう。

 

 体も技もある彼が、心も充実できたその時は──

 

(きっとお前は、俺の手が届かないところへ行っちまうんだろうな……)

 

 息子の成長の兆しを感じて、喜ばしいやら寂しいやら、ジェラルトは何とも言えない不思議な感慨に包まれた。

 願わくば、いずれ訪れるであろうその時に傍でベレトを褒めてやりたい。

 一人前の男になったな、と。

 

「なあシトリー、俺達の息子はまだまだ大きくなるぜ」

 

 墓前への報告が増えたことを嬉しく思い、ジェラルトは小さく笑うのだった。




 ベレトの心の成長は修道院のそこかしこで感じ取れますが、誰よりもそれを感じ取ってほしかった人との支援会話が原作にないってどういうことなのおおおお???という個人的欲求の発露をさせてもらいました。ジェラルトはもっと父親やっていい。やってていい。むしろやって。

作者の活動報告に載せた後書き


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捏造支援会話、黒鷲と傭兵団

 オリジナルキャラが登場しますので注意。

 イベント発生条件
・ベレトとジェラルトとの支援レベルC以上
・ベレトと自学級生徒全員との支援レベルC以上
・ジェラルト傭兵団レベル5


 それは、とある平日の授業の一つ。

 ベレトに連れられて修道院近くの平地にやってきた黒鷲の学級(アドラークラッセ)一行。

 普段はこうして外に出るとガルグ=マクの外周を走る他に、学級の生徒を二つに分けて演習を行うのが恒例である。指揮官役を切り換えながら何度もやっていると、自身より位の高い貴族を指揮下に置くことに初めは緊張していた生徒も、今では慣れて素早く指示を出せるようになっていた。

 

 だがこの日はいつもと違い、セテスに申請してセイロス騎士団の部隊を一つ貸し出してもらって生徒の相手をしてもらうことになっている。

 大陸最強と名高い騎士団の胸を借りられる機会に、生徒の多くは興奮し、士気は高まっていた。一部憂鬱そうな生徒もいるが。

 

 そして平地に到着した彼らを、相手をする騎士団の部隊が迎えたのだが……意外な一団と出会うことになった。

 

「お、来た来た」

「おせーぞレト坊!」

「鐘は鳴ってないから予定時刻前ですよ」

「レト坊、久しぶりー!」

 

 近付いてくる黒鷲の学級に気付いた彼らが、先頭のベレトを見て忙しなく騒ぎ出したのだ。

 

 ──れとぼう?

 

 耳慣れない呼び方をする彼らは瞬く間にベレトを取り囲み、肩を叩いたり、頭をワシワシ撫で回したりして親し気に絡んでくる。ベレトも特に抵抗することなくされるがままでいて、それが当たり前の様子に見えた。

 

 困惑が生徒達の間に広がり、次いで興味が湧いてくる。

 

「失礼します。貴方方が本日私達と演習してくださるセイロス騎士団の方々ですね? (せんせい)とはお知合いですか?」

 

 代表して尋ねるエーデルガルトに、ベレトの周りから一人離れた男が対応した。白髪交じりの頭を掻く男の顔には幾つもの皺が浮かんでおり、他の者よりかなり年嵩だと分かった。

 

「いきなりすまないね。その通り、俺達が今日君らの相手を任された一団だ。よろしく……って、なんだ、あんただったのかい」

「? どこかでお会いしましたか?」

「まあ直接話したわけじゃないし、俺が一方的に知ってるだけだ。ルミール村でジェラルトさんのとこに押し掛けてきたろ? あそこに俺もいたんだよ」

「では、ジェラルト傭兵団の?」

「そうそう。ジェラルトさんがセイロス騎士団の団長になった時に、傭兵団はガルグ=マクを拠点にすることにしてさ。あれから俺達は騎士団から依頼される形で仕事してるんだよ。で、今日の仕事が君ら生徒の演習相手ってわけ」

 

 鍛えられた大柄な体躯に愛嬌を感じさせる笑みを浮かべ、男は手を差し出す。

 

「レンバス=ディックだ。よろしくな」

「エーデルガルト=フォン=フレスベルグです。今日はよろしくお願いします」

 

 普段から傭兵団の中心になって動いているのか、こうやって代表して挨拶する姿に緊張は見えなかった。

 しかしエーデルガルトが握手に応じると、呆気に取られた顔を見せる。

 

「どうかなさいました?」

「いや、えらい丁寧な対応されて驚いてさ。君、帝国の皇女なんだろ? 俺みたいなしがない傭兵の手をすんなり握ってくれてびっくりしちまったぜ」

「ああ……貴族の中には、平民を見下して当然だと考える愚か者がいることは否定できません。私はそんな浅ましい視点を持たないだけ。何よりみなさんはジェラルト殿の部下、そして師の御仲間だった人でしょう。それだけで尊敬に値します」

「なるほどねえ……レト坊はいい生徒に恵まれたんだな」

 

 しみじみと呟くレンバスは目を細めてベレトの方を見やる。視線の先では未だに賑やかに騒いでおり、はしゃぐ傭兵達に混ざって一部の調子に乗った生徒が一緒になってベレトを振り回しているところだった。

 何故かベレトに肩車してもらっているカスパルから目を離し、エーデルガルトは疑問を口にしてみる。

 

「先ほどから言っているレト坊とは、師のことですか?」

「ああ。あいつの名前、ベレトだろ? そこから取って」

「師の年齢は知りませんが、流石に『坊』と呼ぶのは無理があるのでは……」

「んー、でもなあ、俺達はあいつがガキだった時からレト坊呼びが続いてて、もう呼び慣れてるから今さら変えるのもなあ。あいつも嫌がってないし、いいんじゃね?」

 

 ぴくり、とエーデルガルトが反応したのは自分の師をぞんざいに扱うレンバスの態度ではない。

 ガキだった時から──彼の子供時代を知っているとは、この男はジェラルト傭兵団の中でも相当な古株と見た。強者であることは予想できるし、何より……小さい頃のベレトを知っているとは興味深い。

 

「ほーら、お前らその辺にしろ。仕事で来てんだぞ俺らは。演習すっぞ演習」

 

 何やら行楽気分になりかけてる集団にレンバスが割って入った。

 気を取り直すために手を叩いて注目を集めるも、今度は傭兵達の興味が一緒にいたエーデルガルトに及んだ。

 

「どもども皇女様、俺はヨニック、よろしくね」

「僕はジードです、よろしくお願いします」

「はいはーい、俺ダンダ!」

「初めまして、ガロテと言います。いつもレト坊がお世話になってます」

「俺もジェラルトさんと一緒にあの時いたよ。ドナイってんだ」

「だー!! いいかげんにしやがれ、仕事だっつってんだろ!! 生徒とは言っても貴族を相手にしてんだ、シャキッとしろ! ジェラルトさんの顔を潰す気か!」

 

 若い者から年配の者まで、次々に名乗る陽気な傭兵達をレンバスが一喝する。彼らの態度は相手次第では馴れ馴れしいと評してもおかしくないもので、事実一人の少女に寄ってたかって詰め寄る様は、背後でヒューベルトが目付きを険しくするくらい無礼と判断されても仕方ないものだった。

 しかしその少女は他ならぬエーデルガルトである。大勢のむさ苦しい男達に詰め寄られた程度で臆するような大人しい性根は持ち合わせていない。自身の従者に抑えるよう小さく手振りで伝えてから、悠然と彼らに向かい合う。

 

「初めましてみなさん。黒鷲の学級の級長、エーデルガルトです。本日はよろしくお願いします」

 

 粗野な男に囲まれても怯まず、逆に優雅に微笑んで一礼する姿に感心の目が向けられた。

 彼らもベレトの元同僚。先ほどの様子を見れば傭兵だった時から家族のように親しい仲なのが見て取れた。ジェラルトやレンバス同様、彼らを見下すつもりはエーデルガルトにはない。多少の無礼さも傭兵という出自を思えばこれくらいは当然、むしろ可愛げがあるというもの。

 

 そして何より、こうして見渡せばはっきりと分かる。

 ──強い。

 幼き頃からの貴族との付き合いを始めとして、魑魅魍魎の闇を見続けてきたエーデルガルトは、その磨かれた観察眼で改めて目にしたジェラルト傭兵団の力を感じ取っていた。

 力ある者には相応の敬意を払うという彼女の信条からしても、目の前の傭兵達を侮るつもりはないのだ。

 

 挨拶を済ませた一行は予定している場所へ動く。この日は平地、荒れ地、森の中と三か所でそれぞれ演習を行うことになっている。

 

「そっちの指揮をするのはレト坊だろ?」

「ああ。そちらはレンバスか」

「おうよ、久しぶりの指揮勝負だな」

「手加減はしなくていい」

「当たり前だ。お前とやるのに手ぇ抜いてられっかよ」

「なら、いつも通りか」

「おう、いつも通りな」

 

 ベレトとレンバスが幾つか示し合わせると、まずは平地での演習を始めるために分かれて開始位置に向かった。

 

 いよいよ始まる演習。その第一戦に備えて、生徒達はベレトの指示を仰ぐために集結する。

 そこで出された彼の言葉に多くの者が驚いた。

 

「今日の演習、勝てると思えないから勝つことは考えなくていい」

 

 口調は端的でも、日頃から生徒相手に真摯に向き合い、放り出したことのないベレトの発言とは思えない物言いである。

 これまで戦いに臨むのならば必勝を志すものだと教えられた生徒達は困惑した──一部の者を除いて。

 

「なんだよ先生、俺達じゃあの傭兵団に勝てる見込みがないってか? 強そうだってのは分かるけど、今なら俺達だってけっこうやれるぜ?」

 

 不満に思ったカスパルの言葉に何人かの生徒も頷く。

 それに返されたベレトの言い分は実にさっぱりとしたもの。

 

「その通りだ。練度も場数も違い過ぎる」

 

 話にならないとさえ聞こえそうな彼の断言は、自信を深めてきた若者の癇に障るものだった。

 

「待ってくれ先生。我々もすでに何度か実戦を経験している。貴方の指導の下、日々鍛えられているのだ。いくら相手が精強とは言え、そう一方的に押されるようなことにはならないだろう」

「やれば分かる」

 

 侮られるのは堪らないとばかりにフェルディナントが口を挟むも、対するベレトの態度は冷めたものである。

 訝しむ生徒達の前でベレトは演習に臨む編成を発表した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は飛んで昼。演習を終えた黒鷲の学級とジェラルト傭兵団は修道院に帰り、今は食堂に集まっていた。

 正午を告げる鐘は鳴らされておらず、他の学級はまだ授業中ということもあって、昼食を支度するために忙しなく動く厨房以外はそこまで人影が多くない。

 

 戻ってきた彼らは二つのグループに分かれていた。

 片や傭兵達を中心に和気あいあい。

 片や落ち込む生徒達がどんよりぐったり。

 両極端な集団は食堂内に奇妙な空気を漂わせていた。

 

 それを一歩引いた位置から眺めるエーデルガルトは、相席するレンバスに話しかける。

 

「これが今日の狙いだったのですね」

「あんたはやる前から気付いてたみたいだけどな」

「上を目指す向上心は大切だけれど自身の立ち位置を見失ってはいけない……自信と慢心は別物だと心得ております」

「他にも分かってる生徒は何人かいたし、早い内に理解できてよかっただろ」

 

 鷹揚に頷く皇女を見て、歴戦の傭兵はニヤリと笑ってみせた。

 

 計三回行われた演習。黒鷲の学級は全敗を喫した。

 ベレトの不穏な言葉を聞いて逆に発奮した彼らは勇んで演習に臨んだのだが、結果は惨憺たるものに終わったのだ。

 

 前述したように、平地と荒れ地と森の中でそれぞれ演習が行われ、ベレトが指揮する黒鷲の学級とレンバス率いるジェラルト傭兵団がぶつかった。

 言いぶりはあれでもベレトの指揮はいつもと変わらず鋭く、果断で、的確だった。彼の指示で動く生徒達はいつも通り、自分の力を何倍にも高めてくれるような巧みな采配に従い、戦場を駆けた。

 そしてすぐに理解する。ジェラルト傭兵団が自分達より遥か高みにいることを。

 

『一体どういう体をしてるんだこの人達は!?』

 

 それが黒鷲の学級の総意だった。

 打ち合えば押し負けて、追えば逃げられて、逃げれば回り込まれて、行動の悉くを上回られてしまう。小手先の技術とかではない、同じ人間だとは思えないほど体の力が凄まじいのだ。

 演習の敗因がベレトの指揮が甘かったわけではないのはすぐに分かった。彼の指揮の巧みさでも覆せないくらい、自分達と傭兵団の面々とは根本的な実力に開きがあることが明らかになった。

 

 特に酷かったのが三戦目の森の中。

 ベレトの授業を通じて悪路を走ることには慣れていると自負を高めていた生徒達を嘲笑うように、傭兵達は木々の間を軽やかに駆け抜け、時には木に登って枝から枝へと飛び移るという獣染みた身のこなしで翻弄してきた。

 初めて体験した三次元戦闘(ジャングルファイト)に対応できる者は一人もおらず、黒鷲の学級は手も足も出せずに畳みかけられたのだ。

 

 その様、まさしくきりきり舞い。

 ノーマルモードでぶいぶい言わせていたところを、知識も準備も無くルナティックモードに放り込まれたかの如き大敗だったのである。

 ……ルナティックを知らない人には分かりにくい例えかもしれない。ごめんね。

 

 そんな有様だったので、生徒達の大半は自信を砕かれて落ち込んでいるのだ。

 フェルディナントやペトラのように、誇りを持っている者ほど実力差に衝撃を受けてしまった。

 逆にカスパルやドロテアみたいに拘りが薄い者は、サクッと気持ちを切り替えて傭兵達に積極的に絡んで話し込んでいる。

 生徒の間でも、今日の敗北の受け止め方に差が出ていた。

 

(師に導かれて、私達は確かに強くなってきているし、実戦でも勝利を重ねてきた。だからと言って生徒一人一人が急に変わったわけではない。私達は若く、まだまだ経験の浅い未熟者だわ。今日の演習を通じて師はそれを教えてくれたのね)

 

 どんなことでもそうだが、人は慣れてきた頃が一番危ないものだ。

 往々にして人は慣れる生き物だ。それは習熟してきた証であると同時に、どうしても警戒が薄れてくるということ。普通の仕事であれば多少の失敗はその後の働きで挽回できるが、戦場では些細な落ち度でも命取りになりかねない。

 

 黒鷲の学級は確かに幾つかの課題を経験した。騎士団の補佐があったとは言え、賊の討伐、反乱の鎮圧、修道院の警備など、まだ学生の身でありながら実戦を経験し、ベレトの指導もあって急速に成長しているのは間違いない。

 しかし、そんな彼らはまさに『慣れてきた頃』の真っ只中。それを敏感に感じ取ったベレトは現状を危惧したのだ。

 ジェラルトに相談し、学級にテコ入れするための方法としてセイロス騎士団と演習をすることになり、セテスを通じて正式に一つ部隊を貸し出してもらえることになった。それが親しんだジェラルト傭兵団だったのは父の親心なのかもしれないが。

 伸びた鼻をへし折られた経験を教訓にして今後も成長してほしい、というのがベレトの狙いだったのだろう。

 

 そこまで考えてエーデルガルトはそのベレトのことを思う。授業が終わって修道院に帰り、こうして食堂に来てから彼が厨房に向かうところを見た。ただ、今日の食事当番だとは聞いていない。

 修道院に住まう者が持ち回りで務める食事当番は夕飯の時である。朝と昼はそれ専用の雇われ人が担当しているので、ベレトがやるにしてももっと後になるはず。

 

「レンバス殿、師とは先ほど何を? 何やら目配せしていたのは見ましたが」

 

 向かう直前、ベレトがレンバスと意味ありげに目線でやり取りしていたのをエーデルガルトは見ていた。ベレトはいつも通りの無表情だったが、レンバスの方は殊の外嬉しそうな笑顔だったのが気にかかる。

 

「そうか、お嬢は知らなくて当然か。さっきのは俺らの間じゃいつものやり取りなんだよ。勝負して負けた方が勝った方に何か奢るっていうやつ」

「ああ、演習で負けたから……って、お、お嬢?」

 

 サラリと使われた呼び方に驚く。

 

「すまんすまん。あの後俺らが話してる時にあんたのことが話題に出て、貴族のお嬢様っぽいよなーだったらお嬢かーじゃあお嬢でーってな具合に呼んでたら、呼び方が定着しちまってさ」

「は、はあ……」

「嫌ならやめるぜ? 他の奴にも言い聞かせとく」

「……いえ、そうではありません。初めて聞く呼ばれ方だったので驚いただけです」

 

 頭の中で反芻してみると、意外と悪くないと感じた。

 ぞんざいでありながらどこか親しみを感じる呼び方がエーデルガルトには新鮮で、学級の仲間や貴族相手では得られない面白さがあった。

 

「私は構いませんよ、その程度で無礼だとか騒ぐつもりはありません」

「ならいいが……話を戻すと、俺がレト坊との勝負に勝った時はいつも同じことを頼むのさ」

「同じこと?」

「飯作ってもらうんだよ、あいつに」

 

 余程楽しみなのか、ニコニコと上機嫌でレンバスは語る。

 

「知っての通りレト坊は全然表情を変えなくて何考えてるか分かりにくいんだが、昔から妙に根気のある奴でさ。教えた当初は下手くそだったのに、黙々と練習していつの間にか料理上手になっててよ。何かあったらあいつに飯作ってもらうのがうちじゃ定番になってんのさ」

「賭けの報酬にするほどなのですか?」

「そうさ、傭兵のさみしい生活の中だと美味い飯ってのは貴重な楽しみでね。お嬢はあいつの飯を食ったことないのか、まあ教師をやってりゃ作ることもないかな」

「修道院に住まう者の奉仕活動の一環として師も夕食の当番に回されることもありますが、確かに一人で料理する姿は見たことがありません。そうだったのですか……」

 

 興味深い話を聞くことができた。やはり昔からベレトを知るレンバスは、昔のベレトを色々と知っているようだ。

 師は料理上手──大事な情報として胸の内に書き留めておく。

 

 そうやってふむふむと頷くエーデルガルトを、レンバスはまるで微笑ましいものを眺めるように見やって言う。

 

「それよりあんた、俺に聞きたいことがあるんじゃないか?」

「……そうですね。是非とも伺いたいことがあります」

 

 居住まいを正して向き直る。

 レンバスの言う通り、エーデルガルトには目的があった。だからわざわざ集団から離れて彼と向かい合う席に着いたのだ。

 

「レンバス殿はジェラルト傭兵団の中でもかなりの古株とお見受けします」

「まあ、いなくなっちまった奴もいるから俺だけってわけじゃないが、一応最古参と言ってもいいだろうな」

「なら、昔の師のことをご存知ではありませんか? それこそ傭兵団の活動に加わる前の、彼が子供だった時のことなどを」

「レト坊が小さかった時のことねえ」

 

 尋ねられた内容に胡乱な目付きになるレンバスだが、正面から話を持ち掛けてくるエーデルガルトを見て何かしら思うところがあったのか、すぐ笑顔になって応じた。

 

「どうせ聞くなら俺だけじゃない方がいいだろ」

「え」

「おーいお前ら! お嬢がレト坊の昔話をご所望だってよ!」

「あ、あの」

 

 大きな声を出したことで傭兵だけでなく生徒にまで反応されてしまい、エーデルガルトの焦りを余所に次々とテーブルの周りに人が集まってしまった。

 

 何々ー?レト坊?あいつの話?お嬢ってレト坊に興味あんの?あいつ気に入られてんのか。不愛想なのにな。まあ真面目だから仕事はしっかりしてるでしょ。お嬢も真面目そうだね。意外とレト坊と相性よかったりして。

 先生の話か?それは僕としてもとても興味ありますね。あらーエーデルちゃんったら先生のこと探ってるのねー。私も先生の昔興味津々なります。そういう話なら我々も聞かないわけにはいかないだろう。

 

 ああだこうだ話しながら集まってくる顔ぶれを見て、エーデルガルトは内心で歯噛みする。こうなってしまっては自分だけがベレトの情報を得られそうにない。これでは話が広がることは避けられないか。

 

「それとお嬢、話す前に、いいか」

「……何ですか?」

「あの柱の陰から俺に殺気を向けてくる奴、呼んでくれねえ? あいつ確かお嬢の従者だよな」

「……ヒューベルト、こっちに来なさい」

 

 レンバスが指差した方を見ると、ヒューベルトが険しい視線で睨んでいるのが見えた。恐らく自分が『お嬢』呼ばわりされているのを無礼ではないかと感じているのだろう。普段は他人の呼称にいちいち目くじらを立てる人間ではないのだが、主のことになると話が変わる。

 少しばかりの頭痛を感じるも、無視して呼びつけた。

 

「エーデルガルト様……」

「委細承知しているわ。私が許したの、貴方は控えなさい」

「……かしこまりました」

 

 不満はあるようだがひとまず飲み込んでくれたようだ。後で変なことをしなければいいのだが。

 

 そうしている内にレンバスは仲間に事情を伝えていた。

 

「レト坊の昔の話ですか」

「色々あるよなー。あいつ見てて飽きないし」

「あの無表情のまま素っ頓狂なこと言ったりやったりしやがるからな」

 

 傭兵達の言葉に、覚えのある生徒の何人かはうんうんと頷く。ベレトの天然さは昔からのもののようだ。

 

「そうだ、レト坊がやったことでこんなことがあるんですよ」

 

 ジードと名乗った青年の傭兵が口を開く。比較的若く、ベレトと同じくらいに見えた。

 

 あれはベレトと自分がまだ幼く、傭兵として受ける依頼についていくことが許されなかった頃。幼い彼らの仕事は傭兵団の雑用を片付けることだった。拠点として使う家屋の掃除だったり、馬の世話や、団員達の食事の用意などである。

 ある宿に留まって活動していて、ジェラルトらが依頼のために出かけた。いつもならその間ジードは雑用を済ませるのだが、宿に泊まる時は料理も掃除も従業員がするもので自分がやらなくてもいいと考え、傷薬など多少の買い物をし終えたら仕事もなく暇になったのだ。

 空いた時間に何をしようかと思ったところで気付くと、同行していたベレトがいない。当時から無表情で何を考えているか分からなかったベレトをジードは少し苦手に思っていた。それでも傭兵団の仲間を案じないわけにもいかず探したところ、程なくして同じ宿の中で見つけた。

 その時ベレトは宿の従業員について回り、掃除の手伝いをしながら部屋の片付けやベッドメイクのやり方を教わっていたのだ。

 傭兵団の一員のくせに宿の丁稚みたいなことをするベレトを最初は咎めたジードだが、彼を問い質す内に考えが変わる。

 何やってんのさ──仕事を教わってる。

 傭兵のすることじゃないだろ──するかもしれない。

 どうせしないって──しないならそれでいい。

 覚えてどうするんだよ──別の何かに使う。

 苛立ちをスルスルと受け流したように無表情を変えないベレトに毒気を抜かれてしまい、結局はジードも一緒になって手伝うことになった。

 傭兵なんていう荒くれ者と一緒に行動してるのに君達は真面目な子供だな、と宿の従業員一同にいたく気に入られて、その宿に滞在している間、ジェラルト傭兵団は何かと優遇を受けたのである。

 

 根本的に誰かの役に立つのが好きなんだよあいつは、と続けるジードの話しぶりは楽し気だった。

 

「君達は覚えがないかな。何か問題があった時、レト坊が突拍子もないやり方で解決したこととかさ。ジェラルトさんの教えを一番受けたこと以外でも、たぶん僕達の中でも一番経験豊富だよ」

 

 歳は若くてもベレトの姿勢から教わることは多いのだという形で話を締め括る。感心したように唸る生徒の隣で、傭兵達もそういやそんなこともあったなと懐かしそうに頷いていた。

 

 料理上手。ベッドメイク。

 それを聞いたエーデルガルトの脳裏に浮かぶのは、これまでの情報を元にしたある光景だった。

 

 ──アンヴァル宮城の自室か。またはどこか別の住まいか。

 ──私は家路を急ぐ。待っている人がいる。その人の下へ帰るために。

 ──早足で辿り着き、ほんの少し乱れた服を可能な限り整えてから扉を開ける。

 

『おかえり、エル』

 

 ──そこで私を迎えてくれる人がいる。

 ──(せんせい)

 ──柔らかく微笑んでくれる彼に、私も微笑んでただいまと返す。

 

『夕飯はできてるよ。すぐに出せる』

 

 ──テーブルには皿やグラスが並んであった。

 ──奥の厨房から鍋などを運べばすぐにでも食事を始められそう。

 

『それとも、少し休んでからにしようか』

 

 ──私の手から外套を受け取った彼がサッと袖を伸ばして壁にかける。

 ──そうすると私の顔を覗き込んで言うの。

 

『ベッドは用意してあるんだ。先にちょっとだけ寝るかい?』

 

 ──そんな、師、貴方が作ってくれた料理が冷めてしまうわ。

 ──そう言う私の髪をくすぐるように撫でて彼が続ける。

 

『後で温め直せばいい。君が元気になる方が大切だ』

 

 ──身を寄せて、抱き締めてくれる。

 ──毎日、いつでも、欠かさず、私を。

 

『エル、いつもお疲れ様』

 

 ──エル。

 ──それは私と近しい、家族にだけ許した呼び名。

 ──この名を彼が使って私を呼ぶ。

 ──師……

 

『そうじゃないよエル。俺は?』

 

 ──そうだったわ。もう(せんせい)じゃない。

 ──ベ

 ──ベ、ベベ、ベベベ

 ──ベベベレ、ベレレ、ッベベベベレレレ

 

「やけに盛り上がってるな」

 

 ──トぅぁぃえ!?

 

「せ、(せんせい)!?」

 

 後ろから聞こえた声にエーデルガルトは一気に我に返った。

 見回せば食堂の席に着き、周りには黒鷲の学級の生徒と、向かいにはテーブルを挟んで傭兵が屯している。特に注目されてないので思考に沈んでいたのはほんの一瞬だけだったようだ。

 一瞬だけ。いやそれにしても、

 

(長いわ!)

 

 自分にツッコミを入れざるを得なかった。あんな一瞬で妄想に浸るなど(それも人前で)皇女としてあるまじき失態である。

 あんな……あんな温かくて、穏やかで……幸せな光景なんて、妄想でしかない。現実で、未来であんなことになるわけがない。

 チラッと横目で確認するが、ヒューベルトが睨んでくる様子はない。彼に気付かれてないなら大丈夫だろう。

 ……向かいのレンバスがニヤニヤしているのは見なかったことにする。

 

「来たかレト坊。早かったな」

「下拵えは朝に済ませてあったから」

「さっすが、相変わらず先を見てるね」

 

 やってきたベレトは両手に持った二つの大皿をテーブルに置く。

 二つの皿には一口大にされた団子状の何かが山盛りにされており、それぞれの皿には別種の団子が大量に積まれていた。似ているが片方がもう片方に比べて黒ずんで色が濃い。どちらも空腹を刺激する香ばしい匂いが立ち上っている。

 

「レト坊! これ、いつもの?」

「ああ」

「やったー!」

「よっしゃこれこれ!」

「っあー、うめえ! やっぱレト坊が作らねえとな!」

 

 傭兵達は次々に手を伸ばし、摘まんだ団子を口に放り込むと一斉に顔を綻ばせる。本当に美味しいのだろう、はしゃがない者は一人もいない。

 

 当然、その様子を目の前にした生徒達も気になる。昼時なのもあって食欲をそそる光景だ。

 

「なあなあ先生、これ俺達も食べていいか?」

「いいぞ。後で追加を持ってくるし、厨房で協力してもらったから昼食は同じものが出る。個人で盛り付けてもらうこともできるから欲しければ注文するといい」

「やったぜ、もーらい!」

 

 許可を得たカスパルが手を出したのを皮切りに生徒も手を出す。

 尤も、そのカスパルや傭兵のように手で摘まんで食べるのではなく、皿によそってフォークで行儀よく食べるところはやはり貴族の多い黒鷲の学級と言ったところか。

 エーデルガルトも、横から手を伸ばして小皿によそってくれたヒューベルトから受け取ると、まず一つ食べて驚きに小さく声を上げた。

 

 これは……なかなかの美味しさだ。

 どちらも油で揚げて作ったと思われ、表面はカリカリとしていながら中は想像以上に柔らかな仕上がりになっている。恐らく魚のすり身を使っているのだろうが、驚くほどフワフワな口当たりだ。魚の淡泊さと控えめな香辛料のせいで味自体は薄いが、それが揚げ物の香ばしさを強調させて食欲を刺激する。

 もう片方も面白い。

 作り方は前者と同じなのだろうがこちらの方は味がやや濃い目。それは塩や胡椒を多く使ったとかではなく、仄かな苦みを感じるものが混ぜてあって濃厚な印象がある。それを長めに揚げたので表面のカリカリ部分が多く、中の身も食感がしっかりしているので食べ応えはこちらの方が上だ。

 

 傭兵達が絶賛するわけである。エーデルガルトの肥えた舌も唸らせる一品だ。

 

「これ食べると酒が欲しくなるんだよな……おーいレト坊」

「話は通してあるから欲しい奴は配膳所に行け」

「そうでなくちゃな! よく分かってるぜ!」

 

 ひゃっほーい、と飛び上がって喜ぶドナイに続いてヨニックやダンダ、ガロテら傭兵達が食堂の配膳所に向かっていく。

 なるほど、酒の肴にするのも悪くない……舌鼓を打つエーデルガルトの横で、同じく口に運んだヒューベルトがベレトに尋ねた。

 

「先生、これは魚を使っていると思われますが、何と言う料理ですか?」

「アミッドゴビーの揚げ団子」

「……アミッドゴビー、ですか?」

 

 ベレトの返事を聞いて、珍しくヒューベルトは目を見開いた。

 

 このアミッドゴビーという魚、はっきり言って不味い。

 フォドラ全域に生息する小魚であり、漁をすれば他の獲物に混ざって勝手に獲れてしまうくらい手軽な魚だ。なので市場ではかなり安価で手に入る。

 もちろん安いには安いだけの理由がある。身はパサパサしており、泥臭さを感じる人も多いので好む者が少ないのだ。

 それでもこの魚が市場に出るのは、折角獲れたものを廃棄してしまうのはもったいないことと、こんな不味いものでも安く買えれば食い繋ぐことができて飢えずに済む者もいるからである。味に頓着しなければ腹を満たすには十分なのだ。

 

 だが、この揚げ団子を食べた後では印象が大きく変わる、あの不味い魚を使ってこうも美味しい料理が作れるのか。アミッドゴビーと言えば下々の平民しか口にしない下魚だと断じていたヒューベルトは信じられない思いだった。

 

「擦り潰した身に乾燥したパンを荒く砕いた粉を混ぜて、一口大に整えて揚げただけで、作るのは難しくない」

「二種類ありますが両者の違いを伺っても?」

「擦り潰す前に内臓を取り出すんだがそれは片方だけにして、取った内臓をもう片方に追加してある。それが味の差を生むんだ」

「魚の内臓を使っているのですか……」

「アミッドゴビーは食道が短いから糞を作っても二〇分もしない内に排出するぞ。生命力も強いから水揚げした後でも糞を出す。調理前に丸ごと水洗いすれば大丈夫だ」

「なるほど……意外な体質ですな」

 

 興味深く聞き入るヒューベルトのさらに隣では、珍しく自発的に動いたリンハルトが揚げ団子を食べていた。

 

「いいですねこれ。調理に難しい工程はないし、使う皿も何でもいい。その気になればカスパルみたいに手掴みで食べられる。パンは食べ残されて廃棄することになったカラカラに乾いたやつを使えばいいから安く買える。肝心のアミッドゴビーは魚だから鮮度が心配だけど、フォドラではどこでも手に入るから現地調達できるし、当然安い。流通をちゃんと整備できれば、安価な糧食として使えるんじゃないかな?」

「まったくだ、これは素晴らしいぞ先生!」

 

 リンハルトに同意したのは、それまで咀嚼を続けてじっくり味わっていたフェルディナント。

 

「アミッドゴビーなど串焼きにしたものが精々だと思って口にする気はなかったが、これは反省しなければいけないな……どんなものでも、使い方や作り方次第で活かせる道はあるということか」

「あら、貴族様の意見も変えちゃうなんてすごいわね」

 

 感心した風に言うフェルディナントの後ろでドロテアが意外そうな顔をした。大貴族の嫡子である彼の口からそんな言葉が出てくるのは驚きだったのだろうか。

 

「私は正直、この魚は好きではなかったんですけど……でもこのお料理を食べたら、なんだか気分が変われた気がします。ありがとうございますね先生」

「そうか。ドロテアが気に入ったなら、いいことだ」

 

 ドロテアの嬉しそうな声を聞いて、ベレトもそこはかとなく嬉しそうだった。無表情のまま小さく頷きを返す彼がどこか安心したように見える。

 そのベレトにペトラが近付いてきた。揚げ団子を盛った皿を一つ手に持っているが、自分で食べる様子はない。

 

「先生、このお料理、少し、もらう、いいですか?」

「構わないが、どこかに持っていくのか?」

「はい。ベルナデッタ、昼食、食べる、遅い、なります。今日の食堂、人混み、いつもより多い、彼女、辛いです。これ、ベルナデッタの部屋、寮に持っていく、許可、よろしいですか?」

「分かった。パンと飲み物も一緒に持っていくといい。配膳所でお盆ごともらいに行こう」

「はい、ありがとうございます!」

 

 そう言うとベレトはこちらに向けて小さく目礼をしてからペトラと連れ立って歩いていく。ゆっくり食べてくれ、という彼の無言の声が聞こえたような気がした。

 

 その背を見送ったエーデルガルトが正面に向き直ると、テーブルの向かいにニコニコ顔のレンバスがいた。

 

「どうだい、うちのレト坊は」

「そうですね。傭兵という出自からは想像もつかない、多方面に優秀な人です。彼の下で学べる幸運に感謝しなくてはと思います」

 

 実力だけでなく、生徒の精神的な成長も考えて指導してくれるべレトへ、エーデルガルトが向ける尊敬の念はますます大きなものになっていた。

 将来は帝国へ誘おうという考えも、配下に加えるより、今と同じように自分を導く師として頼れる存在になってくれればと期待している。無論、この学校にいる間も可能な限り彼から学ぶつもりだが。

 

 皇女であるエーデルガルトから望外の高評価を聞けたからか、レンバスは嬉しそうに笑顔を見せた。

 

「ところで先ほどレンバス殿は『教えた当初は』と仰いましたが、ひょっとして師に料理を教えたのは貴方なのですか?」

「まあな。というか料理も含めて雑用の仕事全般は俺が教えたよ。昔は傭兵団の人員も数が少なくて、ジェラルトさんが付きっ切りで全部教えるわけにもいかなかったからよ。しばらくは俺がお目付け役みたいなものだったのさ。つってもレト坊はすぐに俺より上手くやるようになっちまったんだが」

 

 揚げ団子を一つ口に放り込むレンバスは配膳所に向かったベレトを見る。酒杯片手に行儀悪く絡む傭兵を慣れたようにあしらう彼は、ちょうどペトラを食堂から送り出したところだった。この後は追加の揚げ団子を作るためにまた厨房に入るのだろう。

 

「腕っ節はとっくに敵わなくなっちまったが、それでもあいつは俺らが面倒見てきた可愛い後輩でね。そっちでもしっかり仕事してるとこが見れて安心したし、あんたら生徒に慕われてるのが分かって嬉しいんだよ。これからもレト坊をよろしくな」

 

 周りにいる黒鷲の学級の生徒を見渡してレンバスは言う。

 エーデルガルトにはその姿が、以前自分に向けて頭を下げて頼み込んできたジェラルトと重なって見えた。見た目も同じくらいの老け方をしているし、同じくベレトを気にかけてる者として彼から目を放せないのだろう。

 

 そしてエーデルガルト達生徒にその言葉を拒む者は一人もいなかった。

 

「もちろんです。我ら生徒一同、師の下で学び、その教えを余さず受け止めていきます」

ひふか(いつか)へんへえい(先生に)かふあげ(勝つまで)おえあ(俺は)あひあめええね(諦めねえぜ)!」

「カスパル、飲み込んでから喋りなよ……まあ興味深い人だし、授業もいい勉強になるしね。大変な時もあるけど」

「先生のような人は貴族の中にもいまい。彼と出会えた幸運と、鍛えてもらえる境遇に感謝し、全力で応えてみせると約束しよう!」

「大丈夫ですよ。私達みんな、先生のことが好きですから。良い男で良い先生だなんてすごい人、他にいませんよ」

「……得難い人材であることは認めましょう。今後の采配に期待ですな」

 

 その場で話を聞いていた生徒達が反応する。それを聞くとレンバスは安心したように溜息を漏らした。

 

 今日の出来事(演習と食堂で聞いた話)を通じてエーデルガルトは思う。将来的にもしベレトを誘うなり何なりするなら、ジェラルトのみならず、彼らジェラルト傭兵団を無視するわけにはいかないだろう。

 血の繋がりがなかろうと彼らは一つの家族のように結び付き、活動の場が離れた今でもこうしてベレトに情を向けているのだ。

 そんな彼らとこうして顔を合わせて言葉を交わし、繋がりを得ることができた。この繋がりはいつかきっと役に立つに違いない。

 ベレトのことを抜きにしても、ジェラルトに鍛えられた精鋭揃いの傭兵団、それもセイロス教団と関係なく動ける強力な一団と縁ができたことも喜ばしい、という打算もある。エーデルガルトの目的からしても武力は幾らでも欲しいのだから。

 

 授業も含めて、今日は実のある一日だと思えた。

 

「それはそうと話を戻しますが」

「レト坊の昔のことか? お嬢も好きだねえ」

「これでも級長ですので、師のことはより知りたいと思います。お返しとして学校での彼のことをお話ししますと、以前休み時間に──」

「へえ、想像できちまうな。それと似てるかもしれんが、前にあいつ森の中で──」

 

 同一人物(ベレト)をネタにして、エーデルガルトとレンバスは話に花を咲かせる。共通の話題で盛り上がる二人は、立場は大きく離れていても仲の良い友人に見えた。

 

 その近くで、主の邪魔にならないよう黙って控えるヒューベルトを始め、面白そうな話に聞き耳を立てる生徒達は一瞬「それ級長関係ある?」と疑問を覚えたが、目の前で楽しそうに話すエーデルガルトの気持ちを遮らないように、この場は口を噤んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日を境に、ジェラルト傭兵団は何かと黒鷲の学級と関わることになる。

 時には課題の補佐に派遣される騎士団の代わりを務め、陽気な傭兵達は貴族相手でも臆せず絡んできたこともあり、見る見るうちに仲良くなっていった。

 その采配に騎士団長である父の意思が及んでいるかは……不明、ということにしておこう。




 個人的に取り上げておきたい存在だったジェラルト傭兵団。黒鷲の学級と関わらせてあげたかった。やや長めになりましたが、この組み合わせの支援会話はこれ以上予定してないので今回に限りがっつり書かせてもらいました。
 それでも書き始めた当初の想像を遥かに超えてたくさん書いちゃいました……情報色々詰め込んじゃった……読みにくくなってないといいな。

作者の活動報告に載せた後書き


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見えない彼女の華麗なる一日 前編

 ソティスの目線で語られる話が少ないな、と考えた僕はいつの間にかこれを書き始めてました。


 ……む。

 ん~、むむむ……朝か。夜が明けたようじゃのう。

 う~む、一日の始まりじゃ。

 

 早朝の静かな空気を感じ、眠気を追い出すように目を瞬かせる。自然のものではあり得ないギシギシという小さな音が静かな部屋の中だとよく響いていた。

 

「おはようソティス」

【うむ、おはよう】

 

 目を擦って伸びをするわしに気付いたのか、ベレトが朝の挨拶を寄こす。

 普段はわしの方がこやつの上に居るというのに、こうして上から話しかけられるとちとおかしな気分じゃのう。

 

 いやなに、ベレトが起きてから部屋を出るまで室内でやる朝の運動とやらがあってな。わしが朝一番に目にするのがこやつが一人で体を鍛える光景というわけよ。

 外でやらんかと前に言ったのじゃが、真似する生徒が出たらちょっと危ないとかで朝の限られた時間だけのことにしておるそうだ。

 確かに柔軟とかならまだしも、中には童共の手には余る内容もあるからの。

 

 ベレトが今やっておるのもその一つよ。部屋の天井にある梁を掴んで懸垂というやつをやっておるのだが……これが呆れたやり方でな。

 こやつが住む寮の一室はえらく上等な作りとなっていて天井もそこそこ高い。職人が真面目に建てたのだろう、梁も部屋の調度を損なわないよう天井に埋め込まれておる。

 要するに、普通に懸垂をしたくても指をかける隙間なぞない。それをこやつは何を思ったのか、梁を真下から直接鷲掴みして懸垂しておるのじゃ。

 

 わしも実際にやったわけではないが──やりたくても叶わぬ身じゃしやりたいとも思わぬが──人の体重を持ち上げるにはかなりの力が必要であろう? 腕力を鍛えるのに懸垂をするのは分かるにしても、ああも指を広げて掴むのはどれほど握力を求められるかさっぱりじゃて。

 うう、相変わらず見てるだけでこっちの指が痛くなるわ。

 

 程なくして目標数を終えたベレトが手を離して降りると、今度はベッドに放り出してあった剣を拾う。

 ただの剣ではない、天帝の剣じゃ。

 

「それじゃあ」

【分かっておる、上の隅におるわい】

 

 目を向けるベレトに言われるまでもなく、わしは浮かび上がって天井の隅に身を寄せる。それを確認したベレトは頷くと、そのまま天帝の剣を振り始めた。

 

 室内で武器を振り回すなと叱りつけたいところじゃが、こやつが武器の扱いを間違えるうつけではないことは知っておる。

 天帝の剣はベレトがこれまで使ってきた得物よりも大きいもので、早急に振る感覚に慣れるために……あー、何じゃったかの、限定された空間で振る稽古? それをすることで早く身に付くらしいぞ。

 傭兵として屋内で戦闘することも多いこやつならではの着眼点よの。何度も見ておるし、今さら壁や家具を傷付ける心配もしておらん。ベレトも気を遣ってわしのいる方向には剣を向けぬようにしとるしな。

 蛇腹剣でもある天帝の剣を鞭として使う練習はまた別らしいのだが。

 

 うーむ、それにしてもこの剣……見てると何故か不思議な気分になる。こう、背筋というか背中というか、その辺りが微かに疼くような……

 おかしなこともあるものじゃ。わしに剣の心得なんぞありはせんというのに。

 

 そう長くは続けるものではなかったのでベレトはすぐに剣を納めた。汗を拭いて簡単に身形を整えるとこちらを見てくる。

 

「行こう」

【うむ、行こうぞ】

 

 いつものようにベレトの斜め上辺りに浮いて外へ出る。早朝らしい爽やかな空気が流れて心地好い。今日も世は平和じゃのう。

 

 おっと、名乗りが遅れたな。

 

 わしの名はソティス。【はじまりのもの】と呼ばれておる。

 今はこのベレトという粗忽者に宿る身の上じゃ。幽霊ではないぞ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋を出たベレトがまず向かうのは訓練所じゃな。寮を離れて石畳を歩けばすぐそこにある。こうして寮と近い場所に訓練所があるところは士官学校らしいのう。

 無言で歩くこやつの上に浮かび、ぐうっと伸びをする。わしに実体はないのじゃが、やはり朝の空気の中でこうすると気持ちが違うわ。

 

 学校の校舎が生む影を進む。その影の切れ目、朝日が差し込む角に通りかかろうというところで角から現れる者がいた。

 

「あら、おはよう(せんせい)。奇遇ね」

「エーデルガルト、おはよう」

「今日も朝から訓練所に行くの?」

「ああ。昨日イングリットと約束した」

 

 そのまま並んで歩き出したのはエーデルガルトという小娘じゃな。ベレトが教える生徒の中でもよくこやつにくっついて学ぶ者じゃ。

 

「珍しいわね、青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)とはいつもフェリクスが約束を取り付けるじゃない」

「彼は今週の厩舎当番だそうだ。朝は馬の世話があるから夕方に来ると言っていた」

「その代わりに朝はイングリットということね。きっと張り切ってるわよ彼女」

「ああ。一度手合わせする予定だ」

「それなら私もお願いしようかしら」

「ん? 君も訓練所に行くつもりだったのか」

「ええ、師に聞きたいことがあったのだけど、どうせなら私も一手お願いしたいわ」

「分かった。なら俺は斧で相手をしよう」

「あら、師が斧を使うなんて珍しいじゃない」

「試してみたいことがある。エーデルガルトが相手をしてくれるならありがたい」

「いいでしょう。今日こそ一本取ってあげるわ」

「ところで聞きたいことというのは?」

「そうね、幾つかあるのだけど、今月の課題で配属させる騎士団を──」

 

 二人並んで歩く姿はまるで一つの影のようで、訓練所の門を通る背中を見ていると何とも仲睦まじい様子に評する言葉も出なくなるわい。

 

 わしは知っておるぞ。澄ました顔でベレトの隣を歩くこの娘、先ほどの角から出る機をうかがっておったことを。

 というか、姿を隠していても角から伸びる人影でバレバレじゃったがな。

 

 小娘の従者が飛ばした手駒の目はよく感じる。ベレト以外の誰にも見えておらんわしのことは全く警戒せんからこちらからは見え見えよ。そやつらがベレトを日々監視しとるおかげで昨日の約束についても把握しているだろうに、何食わぬ顔で話を合わせよる。

 最初から偶然を装ってベレトと一緒に並んで歩くことが目的だったに違いない。それだけのことのために早起きして朝から角で待ち伏せていたのじゃ。

 健気と言うかいじらしいと言うか、乙女よのう。

 

 ……なんじゃ。わしとてそれくらい察するわ。

 小娘でもあれは女よ。男に向ける目や、並んで歩く時の距離感を近くで見れば一目瞭然というもの。ましてやあの小娘は帝国の皇女であろう? 色々と事情を抱えているだろうそんな輩が、女として無防備なくらい男に身を寄せていれば分からん方がおかしいぞ。

 ただし、当のベレトは分かっておらんようじゃがな。

 

 まあ、よい。

 どうせ行くのは訓練所。あやつらの他にも朝から熱心な生徒が自主訓練に励む場で艶めいた雰囲気になることはあるまいて。

 わしはそういうのは興味ないので、ちと余所に行くかの。

 いつもベレトと一緒に行動しているわしじゃが、くっついてなければいかんわけではない。この修道院の敷地程度なら離れて動くくらいできる。こうして一人で訓練所の開けた上から顔を出して景色を眺めるくらい問題ないのじゃ。

 

 空は雲が少ない気持ち良い晴れ模様。空気も澄んでいて遠くまで一望できる。

 修道院は山の高台にあるから、こういう晴れの日は遠くまで見渡せてよいのう。光を浴びる大地はどれだけ見ていても飽きぬ。森も、小川も、麓の丘も、どんな絵画も及ばぬ美しい世界の在り様を独り占めしている気分じゃ。

 しかし、ここからだと流石にザナドは見えんか……もう一度あそこに行ってみたいものじゃな。何とかしてベレトを誘えないものか。

 

 そうして首を巡らせていると、温室の方から歩いてくる二人分の影が見える。

 褐色の巨漢とそばかすの少年。ふむ、あれはどちらも青獅子の生徒じゃな。

 ということは、そろそろ朝食の時間か。巨漢の方は、今ちょうど下でベレトと打ち合っている王子を呼びに来たのじゃろう。いつもそこから解散して食堂に向かう流れなのじゃ。

 つまりベレトももうすぐ切り上げる頃合いじゃな。

 朝の雄大な景色も見納め、最後にわしも目線を一巡りさせて……ほ?

 

 視界の端に映った大聖堂。その横にあるテラスから伸びる橋を歩く白い影。

 あれは、大司教のレアか。

 

 レア……どうもあやつは気にかかる。

 何故かは知らんが、あの者が見ているのは他の人間とは違うように思えるのじゃ。セイロス教とやらの指導者として多くの信徒に慕われているようじゃが、そやつらを見ているようで見ていないというか、ううむ、何と言ったらいいかのう。

 妙にベレトを贔屓にしておるし、その割には側近のセテスという男にも詳しく話しておらんようじゃし……何じゃろうな、よく分からぬ。

 

 今は橋の先にある女神の塔に入ったところ。こんな朝から一人でお祈りでもするのか。信心深いことよのう。

 

(ソティス、行くよ)

 

 おっと、下でベレトがこちらを見上げておる。訓練所を閉めて食堂に向かうのじゃな。おぬしは毎回律義にわしを呼ぶのう。離れればこちらでも感じられるのに。

 急いで下に降りてベレトの傍に浮かぶ。わしが来た時にはまた小娘が隣にいた。

 

「師、何を見てるの?」

「空」

「いや、それは分かるけど……何かあった?」

「空は……うん、空模様を見てた。今は晴れてるけど、明日から曇るかもしれない」

「そういうことまで分かるのね」

「風の向きと強さ、唇と舌で感じる空気の湿り気、後は勘」

 

 わしを見ていたことを誤魔化すための適当なでっち上げ、だけではないか。実際にベレトはそういうことが分かるのかもしれん。普段から嘯くような真似はしておらんからこやつの言葉には謎の説得力がある。

 小娘もベレトの発言に納得したようでそれ以上は聞いてこなんだ。

 

「先生、エーデルガルト、早く行こう! 食堂が混んでしまうぞ!」

 

 先に訓練所を出ていた王子が呼びかけてきた。学級が違うというのに、本当に懐かれたものだのう。金髪碧眼の絵に描いたような美男子のくせに、後ろに尻尾を振る犬の像が浮かぶようだ。

 

 それから生徒達と連れ立って食堂に向かい、ベレトは配膳所の列に並ぶ。

 多くの人々で賑わう食堂は良い匂いが漂っておる。わしに空腹の感覚はないのじゃが、芳しい料理の香りはこの世界の食の豊かさを教えてくれて楽しくなるわい。

 

【おぬし、今日の献立は何じゃ】

(満腹野菜炒め)

【ああ、確か野菜を卵で包み焼きしたものじゃったか? たくさん食べられそうではないか】

(楽しみだ)

 

 無表情は変わらぬくせにベレトの雰囲気はそこはかとなく楽し気じゃ。こやつは細身に似合わぬ大食漢じゃからのう。傭兵時代とは違って食が保証された修道院に来てからは食事の度にたくさん食べよる。満足そうに食べるこやつを見ていると、不思議とわしまで満たされる気分じゃ。

 

 配膳する係の女中も慣れたもので、ベレトの顔を見るとすぐに大皿を出して野菜炒めを山盛りによそってくれる。女中に一言礼を告げると、もはや専用となった大皿を載せたお盆を受け取ってベレトは空いてる席を探した。

 幸いにもすぐにまとまった席が見つけられて、ベレトを挟むようにして小娘と王子も一緒に席に着いた。おぬしら……ほんにこやつが大好きよのう。

 

 早速食べ始めるベレト。野菜炒めを次々に口へ運び、もっしゃもっしゃと咀嚼していく。山となっていたのがどんどん削られていく動きは見ているだけで面白いわ。

 

「師って本当によく食べるわね。私もこの料理は好きだけど、そこまでたくさん食べられないわ」

「そうだな。食欲旺盛なのはいいことだが、朝からそんなに食べられるのは一種の才能と言っていいかもしれないぞ」

「……そんなに多いかな」

【美味いか?】

「ああ、美味い」

「「?」」

 

 途中で口を挟んだわしの声にも律義に応えるベレトに隣の二人は首を傾げておる。だがベレトは気にせず変わらない調子で口を動かして食べる手を止めん。

 わしの悪戯に反応するくせに動じぬとは、生意気なやつめ。

 

 山盛りになっていた野菜炒めを平らげ、デザートとして添えられたアルビネベリーの小皿に手を付けようとしたベレトは何かに気付いて手を止めた。同じくベリーに手を付けた小娘に見つめられていると、小皿から半分のベリーを口に放り込んで、残りをテーブルの向かいに座る少女に差し出したのじゃ。

 こやつは金鹿の生徒だったな。

 

「な、何ですか先生」

「おはようリシテア。これ、あげるよ」

「いいんですか!? って、いやいや、私ねだってませんから」

「? 一昨日ノアの実をあげた時は喜んでた」

「いやあれは偶然相席になって少し話をした流れでもらうことになったからで、別にいつも分けて欲しいとは言ってませんからね私!?」

 

 前触れなくベレトから受けた施しに白髪の少女は慌てる。だが反論しながらもその目は差し出された小皿に釘付けな辺り、嘘が吐けぬ正直者よ。

 

「リシテアって本当に甘いものが好きなのね。それじゃあ私からも少し分けてあげるわ。はい、どうぞ」

「俺からも幾つか分けよう。君は普段から小食のようだからな、せめて好きなものはたくさん食べてくれ」

「うう……エーデルガルトも、ディミトリまで……」

「だからリシテア」

「何ですか先生」

「野菜炒め、頑張れ」

「ぐっ……」

 

 ベレトに言われて少女が押し黙る。

 苦手な献立に難儀しておったのだろう。その前に置かれた野菜炒めは皿に半分ほど残して減っておらぬ。冷めてしまったそれを前に食べる手が止まっていた、といったところか。

 

「あーもー分かりましたよ! 食べます、食べてやります! こんなのお腹に入れてしまえば全部同じですから! ただしベリーはもらいますよ、返しませんからね!」

 

 ジーっと見つめてくるベレト達の目に耐えられなくなったのだろう。少女は意を決して残った野菜炒めを口に押し込んでいく。次々に水で喉へと流し込んで一気に完食してしまいおった。あまり噛んでおらんかったが、大丈夫かのう。

 大きく息を吐いたと思えばすぐに小皿に手を伸ばし、アルビネベリーを一つ口に放り込む。口直しした途端にしかめ面が崩れて、可愛らしい笑みが浮かんだ。

 その姿を見ていたベレトが小さく拍手を送る。釣られて隣の小娘と王子も、そこから様子を見ていた周囲の人間へ拍手の輪がたちまち広がっていった。

 

「ちょっ、何ですか急に! そんな、子供扱いしないでくださいよ!」

 

 我に返った少女が拍手に恥じ入って手を振り回すが、そんな姿も子供のように愛らしくて、わしもつい拍手を送ってしまったわ。誰にも見えんのだがな。

 いや、ベレトにだけは見えておったな。自分を同じように拍手するわしを目だけで見上げると、わしにしか分からぬ小さな笑みを浮かべる。

 

(君もリシテアを褒めてくれるんだな)

【努力は称賛されねばならんからのう。おぬしがやったのと同じじゃ】

(ありがとう、ソティス)

【……ふん】

 

 何やらこやつに乗せられた気分じゃ。

 

 広がる拍手と場を見て離れたところからも何事かと目を向ける者もいて、恥じ入りつつもベリーを堪能する手は止めぬ少女を中心に、食堂に和やかな空気が流れる。

 まったく、人間達は朝からわしを楽しませてくれるわい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所を教室に移して、いよいよお勉強の時間じゃな。

 大修道院の鐘はよく響く。街の方まで届くからここだと尚更よく聴こえるわい。

 

「授業を始めるぞ」

 

 教壇に立つベレトが宣言して、席に着いた生徒達が姿勢を正す。

 歳が近い若造に物事を教えられるのに反発する者がほとんどいないのは、わしとしては意外なことじゃ。精々別の学級の生徒が口先だけの文句を溢す程度じゃったか。それも今ではとんと聞かぬしのう。

 

 まあ、あのジェラルトの息子ということで一目置かれるようになって、その他にも生徒と向き合うベレトの姿が自然と認められるようになったのだな。

 しかし……その産物が一部、些か浮いているのは否めまい。

 

 例えば、ほれ。教室の一番後ろの席。横長の机を一人で使っておる生徒がいるのだが、その姿が何とも異様じゃ。

 あー、いや、姿がと言うべきではないか? 何しろ本人が見えぬ。

 生徒が座る席ごと、すっぽり覆ってしまうように真っ黒なカーテンがかけられておるのじゃ。辛うじて目元だけ覗けるようにカーテンに切れ目が入っていて、教室の前方が見えるようになっておる。

 机に設置してあるからには当然生徒が使うことを目的としたもの。ベルナデッタとかいう生徒のためにベレトが拵えよったのだ。

 

 修道院に来てさほど経たない休日に、ベレトが適当な廃材を組み合わせて一席分の暗幕所を作り出した時は、こやつは何をやっておるのかと困惑したわ。当時はわしもあの引き籠りのことは知らなんだからな。

 完成した暗幕を教室の席に設置して、あの生徒に説明して見せてから、とりあえず教室でやる授業には出席するようになったのじゃ。

 

『な、なんですか先生。教室はベルにとって危険地帯ですよ』

『それは以前聞いた。君にも授業を受けてほしいが、危険地帯に生徒を無防備に放り出すことはしない。そのために用意したものがある』

『用意したもの……? わ、何ですかこれ。幕がかかってて……』

『ここがベルナデッタ専用の席だ。教室に来た時はこの中に籠ればそんなに怖くないんじゃないかと思って』

『こんなの初めて見ました……これ、ベルのためにわざわざ?』

『昨日作った。付け足したい機能があるなら希望を聞いて調整する』

『うぇえええ!? 先生が作ったんですか!? こんな大掛かりなものを!?』

『即席の出来栄えだから、もう少し補強しようとは思ってるが』

『ベルのために作ってくれたんですか……先生ぇ……』

 

 聞いてみれば、自分の周りに他人との視線を遮る幕があれば教室でも部屋に引き籠るのに近い感覚でいられるかも、とベレトは考えたらしい。

 実際、以前はいつも欠席していたというその生徒も、あの暗幕所を利用すれば安心して授業を受けられるようで、これを契機にしてベレトの授業ならと出席する勇気を出せたようじゃの。

 

 教室の一角に真っ黒な塊が鎮座する光景はかなり異様で、初めは他の生徒もぎょっとして遠巻きに見ておったがな。

 時が経つにつれて見慣れていき、それがあることで一人の生徒が安心して出席できると事情が分かれば排斥する理由もなく、今ではこの教室の馴染みの一部として受け入れられておる。

 特に級長の小娘なぞ、こんなやり方であの子を出席させられるなんて、とベレトを絶賛しておったわい。

 

 発想が突飛ではあるものの、生徒一人一人と真摯に向き合うベレトが慕われるのは道理というものか。

 人間は自分のために時間を注いでくれる相手を好ましく思う生き物じゃからな。

 こやつの真面目ぶりが上手く活かされているということか。

 

 それにしても……退屈じゃ。

 わしは生徒ではない。授業なんぞ受ける義理もない。ここにいる意味もないのう。

 ふむ、今日も外に出るか。

 

【おい、外に行っておるぞ】

(分かった)

 

 ベレトに一言断りを入れて、窓から外へと浮かび出る。

 さてさて、今日は何をしようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 厩舎前を巡ったり、花壇の花を愛でたり、途中に屋根の上で昼寝したり、悠々と時間を潰したわしは欠伸を抑えながら移動しておった。

 気持ちをサッパリさせるべく次は釣り堀にでも行ってみようかのう。何を隠そう、わしは水に触れても濡れぬ。水に潜っても息が続く。理屈は分からぬが、できるのなら活かさぬ手はない。そうやって水中で魚を追いかけるのが面白いのじゃ。

 

「……すけ……べんし……っ!」

 

 おっと? 何やら騒がしい声が聞こえるぞ。

 生徒も使う訓練所とは違う、騎士団連中が屯している方からだ。

 

 何事かと顔を向ける先を変えたが、わしが行こうとするより向こうから近付いてくる複数の気配があった。

 

「お助けー!!」

 

 悲鳴を上げながら逃げてくる若い兵士。その足取りはバタバタと不揃いで、いつもベレトの歩みや走りを見ているわしからすればえらく乱れているように見える。

 その衛兵に向けて数本の矢が飛んできた。被っていた兜の後頭部に当たった他、両足にもそれぞれ一本ずつ当たるなど正確な狙いじゃ。刺さらないところを見ると矢は訓練用のもので、敵襲があったとかそういう心配はないか。

 衝撃に若者は堪らず倒れてしまった。酷く息が切れており、もがいても立ち上がるには至らんようだな。

 

「はい、確保っと」

「ぐへっ」

 

 倒れた若者の背中を踏んで抑えたのは褐色肌の女騎士。たまにベレトと手合わせしとるから覚えたぞ、あれはカトリーヌじゃ。

 

「流石だぜシャミア、相変わらず良い腕だ」

「……逃げる敵を撃つ練習にはなる」

 

 そやつがそのまま振り返ると、離れたところで弓を構えていた細身の女が応えた。若干声色が疲れているような気がしなくもないが。

 

「ほら、とっとと戻るぞ。お前も大人しく受けろ」

「いや勘弁してくださいって! 見てらんないっつか見ただけで痛いでしょ!」

「同期の奴は受けただろ? お前もいいかげん腹括れ」

「嫌だー! みんなして血を吐くような叫びだったじゃないですか! やっと騎士団に入れたのにこんなことで死にたくないですよー!」

「死にゃしないって。あたしも前に受けたけど本当に回復の速さが段違いなんだよ。昨日の疲れが抜けてないお前らを見かねたジェラルトさんが折角やってくれるんだ。つべこべ言ってねえで観念しろ」

 

 これは、あれか、騎士団の新人がジェラルトのマッサージから逃げたところか。

 若いのが訓練の疲れで倒れて、例のマッサージをやってる現場を見た新人の一人が恐怖で逃げ出したのじゃな。

 

 わしもベレトが生徒に施しているところを見たことはあるが……うむ、あれは冗談抜きで凄まじい悲鳴じゃったからのう。おまけにあやつの足の速さからして、わしの知る限り逃げられた生徒は一人もおらなんだ。

 表情を変えぬまま学級の生徒全員に施したベレトが、単純な尊敬だけでなく畏敬の念を向けられるようになった原因の一つが間違いなくあれよ。

 

 そしてベレトにそのマッサージを伝授したのが考案者である父親のジェラルト。

 騎士団長に就任した奴が、疲れで動けなくなった団員に同じように施してやるのは当然というもの。

 カトリーヌのような肝の据わった者なら施されてもこうしてけろりとしておるが、誰もが平然としてはおれぬ。特に若い新人となれば恐怖で逃げ出したくなってもおかしくはないか。

 

「おおカトリーヌ殿、助かりましたぞ!」

 

 もがく新人を抑えるカトリーヌの下へ、ガシャンガシャンとうるさい音を響かせて一人の騎士が駆け寄ってくる。

 白い全身鎧と大仰な肩当てを日常的に着こなす男は、確か、アロイスと言ったか。ジェラルトを大層慕っておる騎士の男だ。ベレトにもよく絡んでくるからわしも知っとるぞ。

 

「アロイスさんも大変だな。あんたの隊の新人、よく逃げてないか?」

「いやあ、面目ない。団長直伝の訓練を試すと決まってこうなってしまってな。私が上手く手綱を握れないばかりに貴女方にも面倒をかけて申し訳ない」

「これくらいなんてことないよ。同じ騎士団だ、仲間のことは他人事じゃない」

「アロイス隊長、勘弁してください! 俺はセイロス騎士団に入ったんであって、拷問の実験体になったんじゃないですよ!」

「こらこら、そんな風に言うものではないぞ。団長直々のマッサージを受けられるなんて名誉なことではないか。私が代わりに受けたいくらいだ」

「あんたの目と耳と感性どうなってんの!? あの惨劇見といて出てくる言葉がそれか!? どんだけ【壊刃】贔屓だよこのスカポンタン!?」

「はっはっは、何と言われようと私の団長への敬意は揺らぐことはない! しかし当の団長はもう次の隊の訓練を見に行ってしまったので、今から戻ってもマッサージは受けられんな」

「あれ、もう行っちまったか。時間かけ過ぎたな、悪い」

「いやいや、カトリーヌ殿が気になさることでは」

「た、助かった……」

「そういうわけで、この者のマッサージは私が担当しよう」

「……へ?」

「なんだ、ジェラルトさんから教わったのか?」

「うむ。拙いながらも実践できるだけの知識は身を以て得られたのでな。今後は団長の手を煩わせることなく私の手で部下を労えるというわけだ」

「悪魔が増えたーーー!!」

「悪魔と言えば、先生の異名も悪魔だったのだな」

「ああ、ベレトのだろ。【灰色の悪魔】だっけ」

「同じく団長の教えを受けた者として、私も悪魔という異名を名乗ってみようか……この白い鎧に因んで、セイロス騎士団の白い悪魔、など如何かな?」

「朗らかに悪魔を名乗るなー!」

「おいおい、セイロス教のあんたが悪魔を名乗っていいのかよ。レア様は寛大だから何も言わないかもしれないけど、セテスなんかはあんまり良い顔しなさそうだぜ」

「だははは! 確かにセテス殿から叱られてしまいそうだな。少々惜しいがこの案は見送ろう」

「そうしときな。じゃあ戻ろうぜ」

「た、助けて! シャミアさん、助けてください!」

「諦めろ」

「ばっさり!?」

「苦しい訓練は早めに乗り越えておけ。その経験がお前を強くする」

「苦行の経験じゃ強くなれませんよね!?」

「おい、いつまでもうるせえぞ。今は学校も授業中だし迷惑だろうが」

「案ずるでない。そなたの疲れはこのアロイスがしっかり癒してやろう。団長直伝の技をたっぷり堪能しておくれ」

「戻るぞ。次の訓練に遅れる」

「いやだ~……だれか、たすけて~……」

 

 目の前で行われた寸劇のようなやり取りを見送る。わしのことが見えておらぬから仕方ないにしても……酷い場面を見てしまった気がするわい。

 あの若者も苦労してそうじゃが、ささやかに応援してやろう。立ち上がらせないまま引きずられていく姿に向けて合掌する。強く生きるのじゃぞ。

 

 ううむ、強烈なものを見てしまったのう。

 何か、こう、口直しみたいな、落ち着けるものが欲しいと言うか……

 

 べ、ベレト~、おぬしの声を聞かせておくれ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、これは一体どういう状況じゃ。

 

「じゃあ今日も頼む」

「ええ、よろしくお願いします」

 

 昼休みの時分になってベレトとの繋がりを辿って探してみれば、修道院の上層にある庭園に立つ二人を見つけることができた。

 じゃがどうにも不可解な様子。軽く握った拳を構えるベレトと、それに相対して開いた掌を構えるレア。どちらも明らかに戦う姿勢ではないか。

 

【おぬしおぬし、何をやっておる】

(ソティス、戻ったのか)

【レアと向かい合って、何があった】

(彼女の運動不足解消、そして俺の格闘研修。少し前からやってる)

【前者は分かるが、おぬしを指導すると? 研修するのは信仰ではなかったのか?】

(本気を出した実力は知らないけど、この人たぶん素手なら俺より強い)

【……真か?】

 

「散漫ですよベレト」

 

 わしに応えるベレトの隙を突いてレアが接近する。いつものひらひらした大司教の恰好とは違い、頭の冠などの装飾を外して身軽な服装になったレアの動きは驚くほど素早かった。

 反射的にベレトが突き出す拳を、開いた手の甲で優しく流すと同時に出した逆の手を腹部に伸ばす。その手を払ったベレトは腕を引くより蹴りを繰り出した。

 するとレアは前振りなく開脚して、しゃがむのではなく体をその場で落として回避する。そのままベレトの軸足を軽く叩く余裕すら見せた。

 蹴り足を戻すついでにベレトが踏もうとしても、レアは分かっているかのように体を捻ってかわす。捻る勢いのまま側転で立つと、戦っているというのにいつもの柔らかい微笑みでベレトと向き直った。

 

 そこからベレトが格闘術で攻める高速の動きにも、レアはくるくると円を描くような軽やかな動きで捌いていく。大きく動いてはおらん。最小限の動きだけで対処しとるから、速く動くベレトと比較して余裕を感じられる。

 ……驚きじゃな。わしは戦いに関しては詳しくないが、それでもベレトがそんじょそこらの輩が束になっても敵わないほど腕が達者だと知っておる。そのベレトを相手にしてこうも余裕を見せられるとは。

 

「ほらベレト、また力んでますよ」

「ん、ああ」

 

 レアから声をかけられたベレトは一旦距離を取って構えを解いた。

 そこで一度深呼吸をする。手首をぷらぷらさせると、肩の緊張を抜くためか何度かその場で跳躍して、敢えて構えることなく前に出た。

 

 そして始まったのは、先ほどまでの追いかけるような組手ではなく、一対の舞。

 レアの動き方を真似をして、ベレトはいつもの直線的な戦い方ではなく、円運動を意識した動きを見せる。手足を回らせて相手を翻弄するような動きじゃ。

 対するレアはお手本を見せるように殊更くるくる回ってみせる。恐らくベレトに合わせるためにわざと動きを抑えておるのだろうな。

 

 互いが互いだけを見て、相手にのみ集中しておる。

 レアは仕方ないにしても、ベレトのやつめ、折角やってきたわしのことをほったらかしにしおってからに。

 ただ、まあ……なんじゃ。気に食わぬ、とかそういう感情は沸いてこぬな。今はこの二人の好きにさせてやろうという気分になる。

 

 真面目な性格のベレトは生徒相手に授業する時も真剣に向き合うし、こうして自身が学ぶ時にも真剣に臨む。それを邪魔し過ぎるのは困らせるじゃろう。

 わしは生徒のような童ではない。それくらいは自重できる。

 

 そして何より、レアの表情。

 生き生きとしていると評する程度ではない。まるで喜びの絶頂、こんなにも嬉しいことはないと言わんばかりの笑顔で踊っておる。

 ベレトとの武闘はいつの間にか舞踊のようになっており、互いを見つめ合い、一挙手一投足に呼吸を合わせてくるくると回る。

 

 ……何とも幸せそうよの。

 いつもの威厳と慈悲を備える大司教はここにはおらん。

 わしが今見ているのは、ベレトと仲睦まじく触れ合う、レアという一人の女か。

 歳は知らんが、まるで少女のようにあどけない顔をしておるわい。

 

 こういう姿を見ると見守りたくなるのはどうしてなのか。

 つくづくこの女のことは分からんわ。

 

 そのまま止まらず時は過ぎ、昼休みの終わりを告げる鐘の音を契機にして二人はようやく舞を止めた。示し合わせたように元の立ち位置に戻り、両手を合わせて一礼する。

 

「見事でしたよベレト。随分と様になってきましたね」

「集中しないとまだ元に戻ってしまう」

「今までの型を崩して新しいものを組み込むのです。相応の苦労はありましょう。ですが貴方はとても熱心に取り組んでくれています。この調子ならそう遠くない内に修められるでしょうね」

「レアの戦い方は見たことがない。何かの秘伝なのか?」

「そう、ですね……大司教の座に就く者に伝えられてきた武術、とでも思ってください。私のこれも教わったものです」

「そんなものを俺が教わっていいのか」

「もちろんです。私の判断で教えているのですから。それに貴方にとって、いずれ必要になるもののはずですよ」

 

 レアの言葉にベレトは首を傾げておるが、相手はニコニコと微笑むばかり。こやつの成長がよほど喜ばしいのか、単純に一緒に居られて嬉しいのか。

 

 じゃがボーっとしてはおれんぞ。昼休みが終われば午後の授業が始まるであろう。先ほどの鐘は予鈴じゃ。すぐにでも向かわねばなるまい。

 

【これおぬし、午後の授業は訓練所でやるのであろ? 急がねば遅れるぞ】

(そうだな。すぐに行かないと)

 

 わしの声掛けに頷くとベレトは身を翻した。向かう先は階段、ではなく庭園の縁。

 

「今日もありがとうレア。また頼む」

「ええ、待っていますよベレ、ト!? どこに行くのです、そちらは!」

 

 焦りに声を上げるレアに振り返らず、ベレトは勢いのままに軽々と手すりを飛び越えて宙に身を躍らせた。

 慌てて縁に駆け寄り、手すりから見下ろすレアの心境は分からないでもない。わしが急かしたとは言え、普通なら階段に向かうはずなのにのう。

 

 飛び降りたベレトは身を捻ると、修道院の壁の装飾に手を掛け、または足を掛け、壁の凹凸を利用して減速と跳躍を繰り返しながらみるみる遠ざかっていった。

 レアと一緒にいたこの庭園がある三階から、二階の図書室のある辺りの屋根を駆け抜けて縁から飛び降りると、今度は大広間横の出入り口から伸びる道を一気に走り去っていってしまったのじゃ。

 

 やれやれ……横着な奴め。

 ジェラルト傭兵団の者共は木登りも崖登りもお手の物で、ベレトも同じことが得意なのは知っておるが、見慣れぬ者からすれば投身自殺に見えかねんことを平然とするでないわ。

 どうせ修道院の中を通るより、目的地まで文字通り真っ直ぐ行ける道筋の方が早いから、としか考えておらんのだろう。人波をかき分けたり、廊下を走ったりしているところを見つかったらセテスに説教されそうだからな。

 

 呆然と見送ったレアも、規律を保たねばならぬ立場としてベレトを注意するのではないか?

 

「まあまあ、ベレトったら……あんなに急いでしまって……授業が迫っていることを私も失念していましたね。夢中になって引き止めてしまいましたか」

 

 ……なんじゃ? わしが想像したのとはかなり反応が違うぞ。

 大司教として、もっと、こう……変なことするな、とか怒るところではないのか?

 

「奔放な振る舞いはお母様に似ていますね……」

 

 むしろ微笑みを浮かべて嬉しそうに呟きよる。それでよいのか。器が大きいと言ってよいものかのう。

 しかし、こやつがたまに言う『お母様』とは誰のことを言っておるのじゃ?

 

 ベレトの母親のことは把握しておる。以前、修道院の地下にあやつが一人で迷い込んだ時のことじゃ。あれやこれやがあった末に、死んだ母親を蘇らせようとした企みを阻んだことがあってな。

 その時にチラリと見たが……名はシトリーと言うたか。あれのことか?

 

 レアは生前のシトリーと懇意にしていたらしいからその面影をベレトに重ねていると? いや、何となくじゃが、それとは違う気がする。確かジェラルトが、母親は穏やかな性格だと言っておったし……

 むむう、やはりこの女はよく分からぬのう。




 予定が変わってレトエデ要素薄めになって、ついでにレトレアの気配まで入ってしまいました。多少はね、多少は。支援S候補の一人だというのに何もないのは勿体ない。
 まあこの小説はレトエデなんですけどね! そこんとこ揺るがないんでよろしく!
 後編へ続く。

作者の活動報告に載せた後書き


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見えない彼女の華麗なる一日 後編

 前編の終わりから切れ目なく読んでください。


【それで結局セテスに説教されたか】

「危険なことをして人々を驚かせるなと言われた」

【然もありなん。生徒が真似でもしたら事であろう】

「遅刻はしなかったんだが」

【これからは昼休みの時間も気にせよということじゃ】

 

 暗い道を歩くベレトについていく。からから笑うわしを見上げて、授業はちゃんと間に合ったのに、と首を傾げる姿が愉快じゃ。その授業中に顔を出したセテスに説教されていた時も同じような顔をしておったな。

 

 まだ日も落ちておらぬ時分。松明の僅かな明かりしかない足元でも慣れたように危なげなく歩くベレトは修道院の地下、アビスを訪れていた。

 無論わしも一緒に来ておるぞ!

 訓練所での午後の授業を終えたベレトは後片付けを済ませると、その足で真っ先に地下への入口へと向かったのじゃ。

 その背に声をかけようとしたのか、級長の小娘が目を向けていたのをわしは気付いたがベレトは気付かなかったようで、そのまま人目に付かぬようここに来ている。

 

「こんにちは先生。本日は異常ありですよ」

「こんにちは。何かあったのか?」

「あんたが来たでしょ。こうやってアビスにお客さんが気軽に来るってこと自体が、普通ならありえない異常なんですわ」

「迷惑をかけているか」

「いやいやそういうわけでは。先生はもうここの住人に気に入られてますから、また遊びに来てくれて嬉しいんです。歓迎しますよ」

「ならありがたい。ユーリス達はいるか?」

「教室に集まってるはずでさぁ。いってらっしゃい」

 

 アビス入口の門番と軽く言葉を交わして通り過ぎると、そこは狭くて薄暗い中でも逞しく生きる人間達が開く商店街。上は老人から、下は子供まで、立場の差もなく地下の住民が拠り所とする世界が広がっておる。

 

 すれ違う者達とも声をかけられたり軽く挨拶されたりするベレトは、門番が言った通り住民から受け入れられておるのだろう。アビスがひっくり返るあの事件を収束させた立役者の一人なのだからそれも当然か。

 最終的にこのアビスは変わらず存続という運びになったが、あの時は大わらわだったからのう。

 

 始原の宝杯──セイロス教に伝わる遺物を巡ったあの事件は、このアビスの守り手として活動している灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)と名乗った四人の生徒と、それに協力したベレトによって終結させられた。

 僅か二日間の出来事じゃ。地下の更に奥深くに行ったり、謎の襲撃者を撃退したり、彼奴等の恩師を救出したり、祭壇での儀式を阻止したり、巨大な怪物と戦う羽目になったり……とにかく、とてつもなく濃密な時を過ごしたわい。

 

 その最中に母親の遺体を見ることがあったが、ベレトは特に感慨を抱かなかったようじゃ。まあいくら母親とは言え、それまで全く接点のなかった人物を相手に何かを感じろと言われたとしてこやつも困るじゃろう。

 しかし、何故遺体がそのまま残されてあったのか。死んだ人間の体をああも美しい状態で保存しておく技術などというものがあったとは。セイロス教の教義からしても明らかに外法であろう。

 

 事が事だけあって、アビスの存在を黙認しておるレアも見過ごすわけにはいかなかったようで、あやつ自ら地下に足を運んで対応してな。

 機密に当たるところを目撃した人間が灰狼の学級とベレトしかいなかったということもあって、緘口令を敷いたレアの思惑通り、あの事件の内容は誰にも知られておらぬ。

 

 代わりと言ってはあれじゃが、シトリーの遺体をきちんと墓に納めるようベレトはレアに頼んだのじゃ。ジェラルトがよく墓に足を運ぶのを知っておるので、息子としては父が正しく参拝できるようにしてほしかったのじゃな。

 レアはしばらく渋い顔をしておったが、口外しない代償として受け入れて秘密裏に遺体を移してくれよったわい。

 

 そんな感じでアビスで起きたことは、地上には秘密の事件として、地下には『よく分からないけど大変だった事件』として、人々に伝わっておる。詳細を知る者は極少数というわけじゃな。

 

 そうそう。事件の最中に見つけた始原の宝杯は、重要な遺物ということでレアが回収してしまったぞ。すでに天帝の剣を預けるという異例中の異例を押し通したベレトに追加で託すのは憚られたのじゃろう。

 それに四使徒の協力を得ることで初めて使える宝杯は、ベレトが持っていたらまた使われてしまう恐れがあるとかで司祭連中から猛反対されたそうじゃ。灰狼の学級と仲の良いベレトにおいそれと持たせていいものではないから、まあ当然か。

 当のベレトは貴重な品だからと言っても興味がなかったようで、取り戻した宝杯をあっさりレアに渡してたわい。

 

 ちなみに、丸々二日に渡ってベレトが不在だったことで、地上では学級どころか修道院中が大騒ぎだったらしい。級長の小娘なぞ取り乱してしまって色々と大変だったようじゃ。

 担任が行方をくらませただけが理由ではないであろうな。その証拠に事件の処理から解放されたベレトがレアと並んで姿を現した時に、小娘は露骨に顔をしかめておったわい。自覚があるかどうかは知らんが、見事に女の顔じゃったぞ。

 

 ああそうじゃ、レアと言えば。

 

【ところでおぬし、いつの間にレアのことを呼び捨てにするようになった?】

「少し前から。彼女の方から頼んできた」

【ほう、何度かあやつの私室に招かれたことがあったな。その時にか?】

「ああ。仲良くなってきたし二人きりでいる時はそろそろどうか、と言われて。それより前にセテスと茶会した時にもそうしてやってほしいと頼まれたし、さん付けは不満だったのかもしれない」

【大司教と懇ろになるとはやるではないか】

「依頼主と必要以上に親密になるのは傭兵としてどうなのかと思ったんだが……」

【だが?】

「何と言うか……レアは、俺のことをとても気にかけている」

【まあそうじゃな】

「親身になってくれている分、俺の方からもそれなりの態度で返さなければ申し訳ない」

 

 あの様子はとてもじゃないが親身どころの話ではないじゃろう……昼にわしが見たあの嬉しそうな笑顔を考えると、不思議とあやつのことを微笑ましく思えてしまう。

 そのレアと交流を深めるベレトの今後が面白くなりそうで、ついにやついてしまう顔で覗き込むときょとんとして見返してきよる。ええい、鈍い奴め。先は長そうじゃわい。

 

 そう話して地下の教室に立ち入るわしとベレトを迎えたのは、やかましく騒ぐ生徒の声。

 

「──からよう、絵面も少しは気にしろってんだ!」

「笑止!! 体裁を気にしていては大事は為せませんわ! さあ、早くそこに跪きなさい!」

「女に向かってそんなことができるか!!」

 

 喧々囂々の雰囲気を外にまで振り撒いておるのは、一際体格の良い大男と、高飛車が形になったような小娘の二人じゃ。

 他二人の女と見紛う優男と気怠い表情の小娘はやや離れたところで傍観しておる。

 

「あ、先生だ」

「来たか。よう先生」

「ハピ、ユーリス、あの二人は何を?」

 

 近付いたベレトが尋ねると優男の方が意地の悪い笑みを浮かべて応えた。

 

「あんたのせいだぜ。コンスタンツェの奴に研究のネタを与えちまってからあの調子さ」

「ネタ?」

「こないだ言ってただろ、魔法を手じゃなくて足で使えないかって話。生傷絶えないバルタザールにライブをする時に足から魔法を使う実験を兼ねようとして、あの図体に足を向けるためにあいつをしゃがませようとしてるのさ」

「スカートのコニーが足を上げるのははしたないってバルトが叱って、じゃあその場でしゃがめってコニーが言って、女相手に男が下になれるかってバルトがごねてるとこかな」

「そうか。俺の不用意な発言のせいで騒がせてしまったか」

「いやあれは単に研究馬鹿が突っ走ってるだけと言うか……おい、先生?」

 

 二人から話を聞いたベレトは納得したように一つ頷くと騒ぎに向かって足を進めていった。何をするつもりじゃ?

 

「バルタザール、コンスタンツェ」

「ん? おおやっと来たかベレト、この馬鹿を引き取ってくれよ。俺の手には負えねえんだ」

「まあ、馬鹿とはなんですの! 魔道の発展に協力しない貴方が──あら先生、いらしていたんですのね。少しだけお待ちになってくださる?」

 

 ベレトが来たことに気付いた二人の前で、こやつは徐に籠手を外して腰の短剣を抜き……って!

 

【これおぬし!】

 

 わしの静止にも反応せず、抜いた短剣で己の腕を切りつけよった! 平然とした表情のままだが痛みはあるじゃろうに、馬鹿者め!

 

 切り傷からじんわり血が滲み出てくるのを頓着せず、そのまま膝を付いて切った腕を差し出す。まさかとは思ったが、やはり自分の体を実験台に差し出しよったか。

 いきなりベレトが見せた行動に、教室内の四人は呆然としておる。無理もあるまい。自分らの教師が突如凶行に走ったようなものじゃ。

 

 最初に動けたのは高飛車娘じゃった。

 

「おーっほっほっほっほ!! よき姿勢でしてよ先生!! ええ、ええ、それでこそ私が仰ぐ教師にして我が研究の協力者! 貴方達もご覧になりまして? これぞ我ら灰狼の学級の担任教師であるベレト=アイスナーですわ!! 魔法の開発にのみ傾注する私に、魔法そのものではなく使い方の発展という新しい道を示した彼が、身を以て研究に協力する! 当然と言ってもいい姿勢でもその当然を自然と行うことがどれほど難しいか! 改めて敬意を表しますわ先生!」

 

 やかましく高笑いを上げてベレトを絶賛しよるが……そんなことしとらんで早う治してやれい。扇を広げるな。回復魔法をかけよ。

 

「コンスタンツェ、早く頼む」

「ええ、ただ今参りますわ。そのままじっとしていてくださいませ」

「ったく、やっと解放されたぜ……ベレトは甘いな、あれじゃその内つけあがるぞ」

「そん時は俺達で叱ってやればいいだろ。コンスタンツェだって反省できない奴じゃないんだ。先生がいないところでもしっかりやろうぜ」

「とりあえず授業はもう少し後だねー。まあハピは待ってるだけでもいいけど」

 

 やれやれ、なんとか納まりそうじゃのう。変に焦らせよって。

 

 こうして地下の教室でベレトが四人と集まり和やかにしているのを見ると、初めてここを訪れた時のことを思い出すわい。

 あの時はアビス全体に緊張が満ちていたからのう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──初めて足を踏み入れた地下の世界。直前までいた地上の修道院とどうしても比べてしまって、えらく混沌とした気配を感じたのを覚えておる。当時はアビスでも警戒せねばならん状況で、そこに唐突に訪れたベレトが歓迎されざる存在だったのは仕方なかったのじゃ。

 

「おやおや、上からお客さんがお越しのようですよ」

「なよっちい面してやがるぜ。てめえみたいな奴がここに何の用だ?」

「守ってくれる騎士様はここにはいないぜ~」

 

 何とも力が抜けそうなくらい典型的な絡みを受けてしまって、足を踏み入れた酒場の入り口でベレトは立ち往生してしまったのじゃ。

 ベレトからすれば、そしてこやつの強さを知るわしからすれば、囲んできたガラの悪い男共は有象無象と呼ぶにも等しい輩ではあるが、入った途端に囲まれてしまえば無視するわけにもいかず歩みが止まってしまってな。

 

 ──重ねて断っておくが、アビスと言えど普段はここまで剣呑な輩は多くない。ただ、わしらが立ち入った時期が問題でな、あの時は地下全体の空気がひりついておったのじゃ。時期が悪かったのじゃな。

 

 囲まれたベレトは何を考えたか、その場で跳躍して男共の壁を軽く飛び越えると、何事もなかったように店主のところに近付いて酒の注文をしおった。

 

「おいこら、無視してんじゃねえ!」

 

 当然男共にとっては面白くない態度で、追いかけてベレトの肩を掴んで勢いよく振り向かせる。

 ベレトもベレトであの無表情を変えないままなので、意に介しておらぬと思われても仕方あるまい。

 

 そこへ迷惑そうな顔をしながらも店主が注文通りに二つの酒杯を持ってきた。そこから片方の杯を受け取ったベレトが、それをそのまま男に差し出したのじゃ。

 

「ひとまず飲んで落ち着け」

「っ、ざけんな! 地上の奴からの施しなんか受けるかよ!」

 

 ベレトとしてはまずは挨拶代わりに一杯馳走しようとしたのじゃろう。じゃが地下に生きる者の癪に障ったのか、振り払われた手で杯が弾かれて宙を舞う。

 

 その瞬間ベレトは男の掴む手をすり抜けて跳び上がると、今度は男の肩を踏み台にしてさらに高く跳び、宙にある杯を確保するとそれを振り回して零れた酒を床に落ちる前に回収してしまったのじゃ。

 零れた酒の大部分を杯に納めて着地したベレトは、こやつにしては珍しく険を浮かべた目線で男を見やる。

 

「食べ物を粗末にするな」

 

 まるで生徒を叱る時のような物言いじゃの……教師が板についてきたと思えばよいのが、状況を考えるととても相応しい言葉とは言えんな。

 

 これも当然男共にとっては面白くない。

 

「く、クソが!」

「地上のガキが馬鹿にしやがって!」

「畳んじまうぞおらぁ!」

 

 その場でいきり立つ者が徒党を組んで襲い掛かってきおった。

 見た目から推察すれば到底教師には見えないベレトは生徒か何かと勘違いされたのじゃろう。そんな年若い者に注意されても聞く耳など持つまい。

 

 無論ベレトは生徒ではない。それどころか圧倒的に格の違う戦士であり、導く側の教師じゃ。この程度の輩が何人来ようと物の数ではない。

 わしが心配するまでもなくあっさり叩き伏せてしまうと、特に苦労もしてない様子で酒杯片手に立ち尽くしておる。こんなはずではなかったのに、とでも言いたげじゃわい。

 

 だがその後に来た者はそれまでとは気色が違った。

 

「よう、今日は一段と派手にやってるじゃねえか」

 

 他の者とは発する存在感が違う大柄な男が現れたのじゃ。

 

「ば、バルタザール」

「アビス中に響いてそうな音で賑やかだな。今は大人しくしろって言われてたろ?」

「違えよ、あいつだ! あのひょろい奴が地上からやって来て、それで……」

「んなこたぁ知ってる。地上を探ってた仲間が見つかって、それを追ってきた奴がここに紛れ込んだって報告があったのさ。ったく、勝手に手ぇ出しやがって」

「な、なんだよ」

「俺がいないところで始めんなよ……強ぇぞあれは、飛びっきりだ」

 

 ──そうじゃそうじゃ、ここであの大男と初めて会ったのじゃ。

 

 好戦的な笑みを向ける大男を余所に、ベレトは手に持つ酒杯を一度置こうと近くのテーブルに歩み寄ろうとしたところで、それを止めるように大男が声をかけてきた。

 

「お前さんよう、上からやって来ていきなりうちのもんが世話になったようだな」

「先に手を出してきたのはそいつらだが」

「そうらしいな。だが細かい事情はどうでもいい。今のアビスに立ち入った自分の運の悪さを嘆きな……ってのは建前でよ」

「?」

「俺には分かるぜ。お前、強いんだろ。腕が鳴り過ぎて轟いてくるぐらいにな!」

「何のことだ」

「難しいことじゃねえさ。ここんとこ退屈なんだ……いっちょう遊んでけや!!」

 

 大男は猛りを隠そうともせず吼えると、その場に転がっていた椅子を無造作に蹴ってベレトに向けて飛ばしてきよった。足癖の悪い男じゃ。

 

 手が塞がっていたベレトは飛んでくる椅子を咄嗟に足で優しく受け止めると、酒杯をテーブルに置くと同時に椅子を踏むように床へ落とす。

 そこへすかさず突進してきた大男が蹴りを放つ。椅子から降ろさなかった足で踏み切って跳躍でかわしたベレトは、空中で身を捻って大男の上から蹴りを落とした。

 そのベレトの蹴りを大男は十字に組んだ腕で受け止めると脚を掴み、なんとそのまま荷物を振り回そうとするかのようにベレトの体をテーブル目がけて振り下ろしたのじゃ。

 

【いかん!】

 

 思わず出したわしの叫びに反応したのか、脚を掴まれたままベレトが身を捩ると目測は外され、テーブルを避けた体は床に叩き付けられた。大きな音と共に盛大に埃が舞い、こやつの体を中心に古びた床が軋む。

 そんな衝撃を受けても上手く受け身を取ったようで、大男が何かしようとする前にベレトは掴まれてない逆の脚で蹴りを放った。大男の腕の付け根、脇の下に潜り込ませるように爪先で突き込んだ蹴りで腕を痺れさせて、拘束から逃れて立ち上がった。

 

「っつつ……やるな、変わった技を使うじゃねえか」

「そっちこそ、すごい力だ」

 

 素早く向かい合う両者は構えを取る。

 大男のぎらついた笑みを向けられてもベレトは無表情を崩さんが、先ほどの男共とは違って相応の手合いだと認め、強敵を相手にする時の緊張感を見せておる。

 

 しかし、それにしても、じゃ。

 

【おぬしおぬし、ここで戦うのか? 相手にせず逃げてしまえばよいではないか】

(逃がしてくれそうにない。それに恐らく彼はこの地下でも上位の人物だ。ここに来てしまった以上、無視はできない)

【むう、だがそれなら何故剣を抜かん? 先ほどと違って油断できる相手ではないことはわしにも分かるぞ。ここは手加減のしどころではない】

(そうでもない。さっき彼が言っていたが──)

 

「いいねえいいねえ。ここ最近は殴り甲斐のない雑魚ばかりで飽き飽きしてたところだったんだ。ただでさえ最近は地下に籠りがちで鬱憤が溜まってるからよお、たまにはスカッとする殴り合いがしたいと思ってたところさ!」

 

 わしとベレトの話を遮るように大男は口を開く。剣呑な気配を放つくせに声色はやたらと楽しそうで、まるで余裕を表しておるように感じられて只者ではない風格を思わせるようじゃった。

 これは一筋縄ではいかぬのう。

 

「レスターの格闘王の拳、味わっていきな!!」

 

 気勢を上げた大男をベレトは迎え撃ち、酒場の中心で戦いが始まってしまった。

 まさか訪れて早々に荒事に巻き込まれるとは思わなんだ。

 

 そして思った通り、この大男は強く、見事にベレトと渡り合いよった。

 わしの目では追い切れぬほどの勢いで互いの手足が飛び交う。大男の動きは体格とは裏腹にかなり素早く、ベレトの速さに引けを取っておらんのだ。そしてベレトも大男と比べればどうしても見劣りする体格でも、力強さを感じさせる攻撃を次々と繰り出しておる。

 

 一見互角。だが、戦いとはそう長く続くことは稀じゃ。

 

 酒場の中心で始まったこの喧嘩、変わらず中心に留まり、殴って蹴ってを繰り返しておった二人じゃが、徐々に形勢が傾いてきた。

 ベレトが押され始めたのじゃ。攻撃の勢いも手数も少しずつだが弱まっておる。体格が大きく勝る相手に正面からぶつかり続ければ仕方あるまい。

 しかし戦達者であるこやつが馬鹿正直に当たるとは思えん。何か狙いが?

 

 わしの疑問を置いて事態は進む。

 攻め時だと感じたのか、大男が一気呵成に攻め立てた。腰を落として足は踏み締めて、固めた拳を次々に繰り出してくる。連続攻撃でベレトの守りを固めさせ、狙ったのはがら空きの側頭部。

 

「っどらぁ!!!」

 

 大振りの横殴りがベレトを襲う。それまでと比べてもさらに強烈だろう一撃が吸い込まれるように頭部へ迫る。

 その瞬間、一際速い動きでベレトは対応した。

 拳を撃ち込まれる刹那、全身を横向きに回転させて拳をいなす。上下を入れ替える勢いで身を捻ることで横殴りを流し、同時に繰り出したのは、大男の振り切った腕の肩口から逆に頭部を狙う後ろ回し蹴り。

 

 相手が攻撃する瞬間を逆に狙う反撃は、しかし反応した大男の反対の手で受け止められた。

 

「へっ、危ね──ぼぁ!?」

 

 一瞬の安堵を狙い、振り切った腕と防いだ腕、体の前面で交差する腕と腕の僅かな隙間を貫いたベレトの蹴りが大男の顎を下から突き上げたのじゃ。

 

 片手で体を支える逆立ち状態のベレトが狙ったのはこれか。

 自分の攻撃を相手にわざと防御させ、生まれた隙を突いて強烈な一撃を見舞う。大男の作戦を逆にやり返すという、何ともにくい手を取りおって。

 顎に決まった蹴りは、まさに会心の一撃じゃな。

 

 見えない角度から強烈な一撃を食らった大男は衝撃と混乱でふらついた。その間に着地して体勢を整えたベレトは一気に懐へ踏み込み、突進の勢いをそっくり乗せた拳をがら空きの腹へ叩き込んだのじゃ。

 止めにもなったその一撃で大男は大きく吹き飛ばされ、もんどり打って転ばされながら酒場の壁にぶつかると力なく崩れ落ちた。

 激闘による物音が響いていた酒場の中、周りで固唾を呑んで見物しておった何人もの輩は、静まり返る状況を唖然と見つめておる。

 

 うむ。ベレトの勝ちじゃ。

 

【よくやったぞおぬし! まあこの程度の輩に負けていては教師なぞ務まらんがな】

(……)

【ベレト? おいどうした】

 

 わしが褒めてやったというのに反応することなく立つベレトに呼びかける。息を乱してないところは流石だが、このわしを無視するとはいただけないのう。

 するとベレトは徐に振り返って視線を上げた。こやつが見上げた方へわしも目を向けると、酒場の梁の上に一人の影がある。

 

「さっきから見ていたが、次は君か」

「いやいや、俺にその気はねえよ。試すのは一度で十分さ」

 

 ひらりと飛び降りたその影が明かりに照らされて露わになる。見た目は男装の令嬢と言ってもよいくらいの美貌。じゃが今し方聞いたのがこの者の声ならば、この顔立ちで男ということになる。

 

「お、お頭ぁ!」

「もうよせお前ら、この人は並の相手じゃないって今はっきり分かっただろ? そもそも大人しくしてろって言っといたじゃねえか。いきり立ってんなら俺様がすっきりさせてやろうか?」

「勘弁してくれ、俺らが悪かったよ……」

 

 不敵に笑う優男を前にして、周りの男共は途端に委縮してしまいよった。この男、見た目とは裏腹に地下ではかなり上の立場におるようじゃな。

 優男の動きに合わせるように、周りの男をかき分けて二人の娘が姿を現した。

 

「おーっほっほっほ! 無様ですわねバルタザール! 一人先走っておきながらその体たらく、同じ学級として情けないですわよ!」

「まあ一人で当たってくれたから、ハピは楽できていいけどさ。どうせバルトのことだからどんぱちやるって分かってたし」

 

 進み出てきた二人は、片ややかましく、片や気怠げじゃ。優男と並び立つところを見るに、この二人も地下では重役なのか。

 

「おい、起きてんだろバルタザール。いつまで寝てんだ」

「へいよ……いやあ、やられたやられた。思った通り強えな」

 

 優男がぞんざいな口調で呼びかけると、倒れていた大男が何ともない様子で体を起こしよった。盛大に殴り飛ばされたのに、えらく丈夫な奴じゃのう。

 埃に塗れた体を払いながら大男も並び立ち、四人揃ってベレトと向かい合う状況になった。

 

 ──この時、わしらは初めて灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)と相対したのじゃ。

 

「悪かったなあんた。地下に来たのは分かってたんだが、見ず知らずの奴を無視するわけにもいかなくてよ」

「構わない。特に困ってない」

「そ、そうかい。あれだけやり合っといて平然としてんのか……それでバルタザール、どうだ?」

「ああ、教団の息はかかってねえ。仲間を手引きする様子もねえから本当に一人だ。何よりこいつは良い意味で面白い奴だぜ」

 

 なんと、これまでの騒動はベレトの内面を見極めようとした手法らしい。

 

「前から思ってたけどさー、バルトのそうやっていきなり殴りかかるところ、どうかと思うよ?」

「何言ってやがる。俺だって誰彼構わず手は出してねえよ。それに相手のことを知りたきゃまず拳で語り合う。普通だろうが」

「うわ~、脳筋……」

「おーっほっほっほ! 武力しか頭にない男なりに磨いた洞察力がその拳というわけですわ。私達はその見識が侮れないと知っております。その証拠に、ご覧なさい! 彼とあれだけ激しく戦ったにしては店の内装も調度も一つも壊れておりませんわ!」

 

 高笑いを上げた小娘が手に持つ扇で指し示したのは、ベレトが戦っていた酒場の中心部。椅子も、テーブルも、その上に置いた酒杯も、どこも壊れておらぬ。

 

 ははあ……激しくやり合っておるようで、ベレトなりに手加減して戦っておったのじゃな。地上でならず者を相手にする時ならともかく、地下という外法の場所に立ち入った余所者の身で好き放題暴れるのは憚られたのじゃろう。

 その辺の気遣いはできるのじゃな。まあベレトも元は傭兵で、むしろそういった流儀には馴染んでおるのか。

 

 小娘に示された内容が理解され、周囲からは驚きの視線がベレトに殺到する。あの四人以外の者共は言われて初めて気付いたのじゃ。

 それに対してベレトが返した言葉は軽いもの。

 

「そこの彼が言ってただろう。遊んでけって。遊びで物を壊したりはしない」

 

 当たり前のように言い放つが、それを当たり前のように行えることがこやつが並外れている証よのう。

 ベレトの発言を聞いて、酒場の中にいる者は一様にポカンとした表情になったが、それを悪いものとして受け止めた者はおらぬようじゃ。

 

「だっはっは! ほらな、面白い奴だろ?」

「平民でありながら自重と配慮を弁えた態度、私は評価しますわ!」

「う~ん、まあバルトの脳筋に付き合えるくらい強くて大人ってことかな」

「確かに面白いなあんた。とぼけた顔して言うこと違うぜ」

 

 先ほどまで戦っていたというのに、当の大男の証言のおかげか、四人がベレトに向ける感情はどうも友好的なものに思えるのう。

 

「名乗りが遅れたな。ここはガルグ=マクの地の底、アビス。そして俺達はアビスに秘密裏に開かれた第四の学級、灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)さ」

 

 優男が前に進み出て笑顔を浮かべる。やはりこやつがここの中心人物なのじゃな。

 

「俺様はユーリスってんだ。あんたの名前を聞いていいかい?」

「ベレトだ」

「あん? ベレトっつったら……ああ、士官学校で新しく教師になったって噂の! おいおいなんだよ、レア様の肝入りがあんただったのか!」

「君はレアさんとは知り合いなのか?」

「ちょ、おい、レア様をさん付けって、お友達かよ……まあいいや、腕が立つ上にそれなりに話も通じそうじゃねえか。ちょいと付き合ってくれよ。おいオヤジ、酒頼むわ!」

 

 いきなりベレトと肩を組んできた優男が店主に注文するが、そこにベレトが待ったをかけた。遮って手にしたのはテーブルに置かれたまま放置されておった酒杯。こやつが最初に注文したもの。

 

「俺はこれで」

「……ああ、そうだな。食い物は粗末にしちゃいけねえよな」

 

 んじゃ俺はこれ、と言う優男も手にしたのは、ベレトのものと一緒に出された酒杯じゃ。

 

「そんじゃ、アビスの不思議な客人に乾杯!」

「ずりいぞユーリス、俺にも飲ませろ!」

「ちょっと貴方達、我々の使命をお忘れではなくて!?」

「まあいいじゃん、コニーも一緒に飲んじゃえば?」

 

 ベレトを囲む四人に釣られて、酒場は元の喧騒を取り戻していく。

 

 ──こうしてベレトはアビスとの関わりを持って、直後から始まるあの事件に巻き込まれることになったのじゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地下ではあの四人用にやるいつもの短い授業の他に、何だかんだで小娘の研究とやらにも付き合ったせいで随分と時間を取られてしまったわい。地上に戻った時には日が傾いて空気は冷たくなってきおった。

 

 戻ってからまた色々あったのう。

 地上に出たベレトが温室に向かうと、入ろうとしたところでちょうど出ようとした褐色男とかち合ってな。こやつはベレトに温室作業のいろはを教えた者で、今日は来るのが遅くなったベレトの代わりに水やりとかをしておいてくれたそうじゃ。

 その礼として、今日の夕食当番である褐色男の作業を手伝うために連れ立って食堂に行こうとしたら、青獅子の剣士小僧に捕まったのじゃ。ぶつくさ言いながらベレトを訓練所まで引っ張っていきおったわい。早朝にできなかった手合わせをするために放課後になってからずーっと探しておったのだという。見かけによらず健気な小僧じゃな。

 それで気の済むまで相手をして、息を切らす小僧に片付けを任せたベレトは急いで食堂に向かった。遅れてしまったが今度こそ褐色男の手伝いをするために厨房に駆け込んでいったぞ。

 

 ま、わしまで厨房に行く必要もないから、ベレトとは別れて今は食堂の様子を眺めておるがな。

 わしらが来たのはやや遅い時間帯だったようで、すでに食堂は多くの人々で賑わっておる。注文した夕飯にありついておる者もいれば、談笑に興じる者もいて様々じゃのう。

 

「よっしゃラファエル! 今日も一勝負すっか!」

「カスパル君やる気だな。今日もオデが勝っちゃうぞ!」

「へっ、言ってろ、今日こそ食いまくって俺が勝つ!」

「あのさあ……ご飯の時にまで勝ち負けを持ち込むの、いいかげんやめてくれない? 二人して大食いなんて体に悪いよ」

「リンハルト君はやらねえのか? オデ達は食べ盛りなんだから、いっぱい食わねえと損だぞ」

「どうしてそういう話になるのさ……僕じゃなくて君達のことなの」

「なんだよリンハルト、別にいいじゃねえか。お前が嫌がってた早食いから変えたんだぜ? 先生からも綺麗に食べた方が作った人も喜ぶって言われたし、ソースも残さないようにしてんだ。なあラファエル?」

「おう! 肉のソースの沁みたパンとかうんまいんだぞ!」

「見てて胸やけするって分からないかな……分からないんだろうなあ……」

 

「まったく、また今日もあの者達は……由緒正しき士官学校の生徒でありながらあの振る舞い……食事を満喫するのは咎めはしないが、カスパル君などは貴族だというのに……」

「まあまあ、よいではないか。周囲の表情を見てみたまえ。囃し立てて楽しんでる顔の方が多いだろう? あの二人はあれでよいのさ」

「ふむ、あれはあれで場を和ませる、と?」

「確かに彼らは特殊だろうが、多くの人に目を広げれば変わり者はいるさ。貴族の中にもああいった者がいるのだと慣れておけば、それより多くの平民をいざ導こうとした時に動揺せず受け止められるだろう」

「ここも学び場の一つ、か。流石だねフェルディナント君。他人の振る舞いを広く受け入れる度量は、僕も見習わねばなるまい」

「おや、貴族の中の貴族であるローレンツ君にそうまで言われるとは。私も誇らしく思ってもいいのかな?」

 

「あ、ドロテアちゃん! その爪!」

「あら、ヒルダさん。どうしたんです?」

「あーっと、今平気?」

「ええ、夕飯を注文して呼ばれるのを待ってるだけだから平気ですけど……私の爪が何か?」

「突然ごめんね。貴女が今使ってるマニキュア、ひょっとして新しい色なんじゃないかなーって。うちの実家経由で買うやつだと見たことなくって」

「よく気付きましたね。この間、帝国から来た行商人さんから買ったんです。新商品だと自慢していて、私も綺麗な色だなって思ったから」

「へー、そっか、帝国で売ってるやつか。良い色だね!」

「……よかったら使ってみます?」

「いいの?」

「もちろん、後で部屋から持ってきますよ。ただ、失礼ですけど、ヒルダさんの今のコーデとは少し合わないかも?」

「えっとね、あたしが使うんじゃなくて……マリアンヌちゃん、こっち来て!」

「な、なんですか、ヒルダさん……」

「見て見て、この色! これきっとマリアンヌちゃんに似合うと思うの!」

「爪……?」

「ははーん、なるほど、マリアンヌさんならぴったりかもしれませんね」

「でしょー? この子ったら素材は良いのに、あたしが言ってもなかなか変わろうとしなくてさ。着飾らなくても、ちょーっとお化粧するだけで絶対もっと美人になると思うの!」

「あらあら、そういうことでしたら協力しないわけにはいかないわ」

「あ、あの、えっと……」

「ふふっ、申し遅れました。黒鷲の学級(アドラークラッセ)のドロテアです。よろしくお願いします」

「その、私に関わるのはやめた方が……」

「こーんな魅力的な子を放っておけませんねえ。ええそれはもう」

「ふっふっふ、ドロテアちゃんが話の分かる子で助かったよ」

「ふっふっふ、ヒルダさんこそ面白そうなことを教えてくれて感謝します」

「私、どうすれば……」

「「諦めてね」」

「ええ……?」

 

「あの、ちょっといいですかイグナーツ」

「んむ! ん、んぐ……ふぅ、はい、何でしょうか」

「あ、食事中に突然ごめんなさい。僕、青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)の……」

「アッシュ君ですね。よければ座ってください、隣にどうぞ」

「はい、失礼します。僕のこと知ってましたか?」

「名前だけは……こうして直接話すのは初めてでしたね」

「そうですね。同じ士官学校にいても、学級が違うとなかなか顔を合わせることもないような」

「それで、僕に何か?」

「えっと……イグナーツは『ルーグと風の乙女』という物語を知ってますか?」

「もちろん。読んだことありますよ。ここの図書館でも見ました」

「実は、君にその物語の挿絵を描いてもらえないか、お願いしに来たんです!」

「ええ!? 挿絵って……僕がですか?」

「急なお願いで申し訳ないけど、君は絵を描くのがとても上手だと聞いて、居ても立ってもいられなくなって」

「あ、あの、僕の絵のこと、どこで聞いたんですか……?」

「すみませんイグナーツ、私が話してしまいました」

「イングリットさん!」

「アッシュとの話が盛り上がった拍子に、つい口が滑って……ですが、彼の提案は私にとっても大変魅力的なものでした。私からもお願いできませんか?」

「ま、待ってください、ここでこの話をするのはちょっと……お二人共、後で僕の部屋に来てくれませんか? 詳しくはそこで……」

「「ありがとうございます!」」

「声が大きいですよ~」

 

 うむうむ。民の賑やかな語らいがそこかしこで聞こえるわい。この食堂では特に三つの学級の垣根が取り払われて交流しやすい場所だからのう。

 

 ほれ、向こうでは級長の三人らが顔を突き合わせておるではないか。

 

「……これだ」

「俺はこれ。ほい、どうも」

「くっ……」

「私はここよ」

「そっちは、ここが空いてるぜ」

「ちっ、また……」

 

 テーブルの端に陣取って……ふむ、何やら向かい合っておるのう。

 周囲を観客に囲まれた三人を上から覗き見ると、遊戯に興じておるのが分かる。

 面白いのは金鹿の黒小僧が他二人を同時に相手しているところじゃ。

 食堂の隅とは言え、夕飯で賑わう時間帯にこんなことをしていれば注目されるもので、多くの観客に囲まれたこの一角は奇妙な緊張感があるぞい。

 

 やっとるのは、カード(札遊戯)チェス(盤面遊戯)か。

 黒小僧を挟んで、王子とはカードを、小娘とはチェスをやっておる。表情を見たところ、どちらも黒小僧が優勢で決着目前といった雰囲気じゃな。

 頭の回る奴だとは思っておったが大したものじゃのう。

 

「……これを!」

「ほい、これとこれで上がりっと。お疲れさん」

「くそ、負けたかっ」

「悪いねー。皇女様の方は、これで追い込みっと」

「なっ……まだよ、ここ!」

「はい、これを動かせば、チェック(王手)だ」

「……だめね、負けたわ」

 

 お、程なく終わったか。

 優勢なまま黒小僧がどちらも勝利して御満悦じゃな。苦々しい顔をしとる小娘と王子の前でも憚らず得意気に笑っておる。

 白熱した勝負が終わり、拍手を送った観客が解散してその場はお開きとなったようじゃ。

 

「いやー勝った勝った。それじゃあ約束通り頼むぜお二人さん?」

「ああ、二言はないさ。邪魔しないよ」

「師と二人きりでの食事なんて私でも滅多にできないのに……」

 

 まさか、ベレトと夕飯を共にする権利を賭けて勝負していたのか?

 いや……こやつら、ベレトのこと好きすぎじゃろ。

 

「いくら得意分野とは言え、俺とエーデルガルトを同時に相手取って勝つとは、流石だな」

「そうね。悔しいけど、卓上の勝負では勝てる気がしなくなってきたわ」

「お、なんだなんだ、二人して絶賛してくるじゃないか。実を言うとここ最近絶好調でね。先生の指導を受けてると新しい手がどんどん思い付いて、自分でも成長を実感してるんだ」

「ほう、お前もか。俺も手合わせだけじゃなくて授業として先生の指導を受けていると、今までにない上達を実感する。ずっとあいつの指導を受けてきたエーデルガルトが羨ましくなるよ」

「そうだぞー、これまで得してきたんだから今後は俺達にもっと融通してほしいね」

「あら、嘆願にしてはお粗末ね。師は私の担任なのだから手を引く理由にはならないわよ」

 

 二人の言葉を受けて小娘は自慢気に胸を張る。心なしかドヤ顔になっとるわい。

 

 ベレトは生徒みんなから慕われておるが、中でもこの三人は別格じゃな。

 まあ、わしとしてもあやつが好かれて悪い気はせぬ。自分が目をかけている男がこうも人気者だと自慢したくなるわ。そこは小娘と同じかもしれん。

 

 良い気分になってわしはその場を離れた。喧噪を後にして食堂を出る。扉から漏れる楽しそうな声から遠ざかると、外は一転して静かじゃ。

 今はもう日は落ちて暗くなった空を舞うと、賑やかな場所から急に離れたことで感じる静けさが耳に染み入るのう。

 

 やはり人はよい。

 人は宝じゃ。民の営みが大地を豊かにする。人と人が触れ合い、交流することで、このフォドラの命が育まれてゆく。それを見守れるのなら、幽霊もどきとなった今の身の上も納得できるというものじゃわい。

 わしはきっと見守るためにいるのじゃ。ベレトの近くにしかいられぬが、いずれはあやつも大修道院を出るじゃろう。その時はわしが導いて民の暮らしぶりを見守る旅をするのもよいかもしれんな……そんな将来に思いを馳せながら修道院の空へと浮かび上がった。

 

 ふむ? 見上げれば随分と雲が多いのう。月は高く昇っておるはずだが、今は隠れてうっすらとしか見えぬわい。これは明日まで残りそうじゃ。

 そういえばベレトが朝、明日は曇りになると言っておったか? 図らずもあやつの言った通りになるか。

 

 明日から天気が大きく崩れないとよいのだが……しかし空模様は気紛れに変わるもの。今は穏やかでも、時として大きく荒れることもある。どのように移り変わるかは誰にも分からぬ。

 このフォドラも物騒な世界じゃ。ガルグ=マクは平和でも、いつどこで争いが起こるやもしれぬ。いつか人々が悲しみに覆われる時が来るかもしれぬ。そんな時が来ても民には挫けぬ意志を持って逞しく生きていてほしいものじゃ。

 

 ……はて、何故わしはこんなことを考えておるのじゃろうな。天上から大地を見守る女神にでもなったつもりか?

 はんっ、そんないるかいないか分からないあやふやな存在になぞなりとうないわ。それこそまるで幽霊ではないか! わしは確かにここにおるのじゃぞ!

 

 ええい、もうよい。七面倒なことは考えておれぬ。

 

【ベレトよ、手伝いとやらはまだ終わらぬのか! さっさと夕飯も終わらせてわしに付き合え!】

(おいしい)

【なんじゃ、おぬし咀嚼中か】

(今ドゥドゥーが手伝ってくれたお礼だと言ってステーキの切れ端を分けてくれた。おいしい)

【……っか~~、暢気なことを言いおって! 見回りついでに夜の散歩に行くぞ! あまりわしを待たせるでないわ、早うせんかーい!】

 

 まったく、真こやつは調子が変わらんのう。いつまで経っても目が離せんわい。

 やはりベレトはわしが導いてやらねば、な!




 厳しいストーリーの風花雪月ですけど、ほのぼのとした雰囲気があってもいいですよね。四コマ漫画みたいなノリで書いたので、箸休めみたいな感じだと思って読んでください。
 ちなみにDLCでの出来事はほぼそのまま起こってます。違うのは、
・アビスに来たのはベレト一人
・地上の人にはレア以外に知られてない
・灰狼の学級の四人はガルグ=マク(の地下)に残留
 ということです。この小説ではそういうことにしてます。

作者の活動報告に載せた後書き


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捏造支援会話、壊刃と皇女B

 ここで支援会話を挟むことにしました。
 支援会話『黒鷲と傭兵団』を見ていないとフラグが立たない(という設定)


 こうして彼と席を共にするのは何度目になるか。

 紅茶に口を付けながらエーデルガルトはちらりと対面を見る。

 

「どうかしたか?」

「いえ、今さらですが少し不思議に思いまして。ジェラルト殿とこうして何度もお話しすることになるとは、以前の私では考えもしなかったでしょうから」

「言われてみれば……そうだな、こうもまめにあんたと話すことになるとは俺も意外だよ」

 

 テーブルを挟んで座るジェラルトが小さく笑ってそう言う。

 場所は騎士団長室。ジェラルトに誘われたエーデルガルトが、彼と茶会の席に着いていた。

 以前、ジェラルトがエーデルガルトを誘って話をした最初の機会から、この部屋で談笑することは二人の恒例行事となっていたのだ。

 

 ベレトが教師としてきちんと働いていけるように、その補佐をエーデルガルトに頼み込み、言われるまでもないとジェラルトに快諾が返されてから随分経つが、その結果どうなったのか何も言わずじまいでは不義理だろうと考えた真面目な級長が報告に参ったのが始まりである。

 騎士団長も一人の父親らしく、頭まで下げてしっかり任せておいて自分から様子を見に行ったり聞いたりするのは躊躇われても、息子のことは気になって仕方ないようで、エーデルガルトの方から定期的に話しかけられるのが彼にとっては楽しみになっていた。

 

 ジェラルトの遠慮がちな態度など、アロイスですら知らないかもしれない。

 傭兵時代とは違い、ベレトを傍で見てやれない生活がこうも長く続くのはガルグ=マクに来てからが初めてで、まさか自分がこんなにも心配性だったとは知らなかったと肩を落とすジェラルトの姿は、エーデルガルトの胸を温めるものだった。

 

 さて、この場で二人が話すものと言えば当然、ベレトのことに決まっている。

 日々の授業で見るベレト。

 昔とは行動が違うベレト。

 持ち寄った話題で静かに盛り上がり、片や楽し気に話せば相手は熱心に聞き入り、片や気付いたことを指摘すれば相手も面白がって返す。

 歳が大きく離れた二人も、今では友人と言っていい距離感だった。

 

 そんな二人が持ち寄った話題は幾つもあるのだが、その一部を取り上げてみよう。

 

(せんせい)が今日の授業で取り上げた内容は衝撃でした』

『何か変わったことやったのか?』

『睡眠学習です。あんなことやったのは初めてで……』

『ああ、それか。確かに士官学校でやるにしちゃ異端だろうよ』

『流石ですね。言っただけでジェラルト殿は分かってしまいましたか』

 

 エーデルガルトが受けたベレトの授業についてである。

 

 睡眠学習。この言葉を聞いて『寝ている相手の耳に流し込んだ情報を夢の中で覚える』という、我々もよく知る都市伝説みたいなアレを思い浮かべるかもしれないが、ここで取り扱うのはそうではない。

 ベレトが教える睡眠学習とは文字通り睡眠についての勉強で、眠るということに関して彼が身を以て経験したものを伝える授業だ。

 たかが睡眠と侮るなかれ。人間の三大欲求にも含まれており、誰にとっても切っても切り離せないものなのだから。睡眠と上手く付き合えなければ人生の約三分の一を損なうとさえ言える。

 これもまた、ベレトが考える基礎的な力の一つだ。

 

 寝床の確保。寝る時の姿勢の差。即席の寝具の調達法。その他諸々。

 もちろんベレトの授業なのだから知識だけに終わらず実践も抜かりない。

 床で寝る。椅子に座って寝る。外の芝生で寝る。それ以外にもあちらこちらで。

 課題の遠征で野営する時にも唐突に短めの授業が始まることもあった。

 

 最初は困惑と不満に溢れていた黒鷲の学級(アドラークラッセ)も、教えられる中で徐々にその有用性を認めるようになり、これもベレト特有の傭兵らしい指導として受け入れられている。

 今では週に一度行われる睡眠学習。意外と好評なのだ。

 

 ちなみに、読者諸氏には言うまでもないことかもしれないが、この授業で最も優秀な成績を収めているのはリンハルトである。それはそれは抜群の成績(特に寝付きの早さ)を叩き出した。

 

『こないだ食堂でベレトを見かけたんだが、あいつ生徒にデザートを分けてたんだ』

『私も何度かそういう師を見てますが、特別なことでしたか?』

『あいつ、よく食うだろ』

『ええ、あの細身で信じられないほどたくさん食べますね』

『無表情なくせに食い意地の張ってる奴だったんだが、ああやって飯を分ける姿は俺にとっちゃ意外なんだぜ』

 

 ジェラルトが話すのはベレトの食への姿勢が変わったことだった。

 

 傭兵にとって食事とは、普通の平民以上に大切な要素である。

 何せ仕事は生死がかかっているのだ。体が資本なこともあり、食べる時にしっかり食べなければ誇張抜きで命に係わる。自分の身は自分で守る戦士の彼らは、手にした食料は基本的に自分の腹に納めてしまうものだ。そうして食べたものが体を作り、明日を生きる糧となるのだから。

 特にベレトの場合、あの細い体のどこへそんなに入るのかと驚くほど彼はよく食べる(いやほんとにマジでどうなってんのあいつの腹)のだし、その強さに繋がっているのかもしれない。

 

 このフォドラの地には飢える者も少なくない。ジェラルト傭兵団とて常に食い扶持を稼げていたわけではなく、素寒貧な状態だったこともある。

 そういう時でもベレトは相変わらずの無表情で不満を口にしたことは一度もなかったが……本人の口から出ずとも腹の音は鳴り止まず、いざ食事にありつけた時には凄まじい勢いで食べ尽くしたものだ。

 

 そんなベレトが、生徒相手とは言え、一度自分の皿に乗った食べ物を他人に分け与えるということがジェラルトには驚きだったのだ。

 食を誰かと分け合うことを教えてなかったと今さら気付いて反省したし、その大切なことを教わるでもなく自然と動いてみせた息子の姿が嬉しかった。

 

 こんな調子で、定期的に合う二人は仲良く談笑していた。

 立場が大きく離れていても、切欠があれば人はこうして仲良く交流できるのだ。

 

 そこ。共通のネタで盛り上がるオタク仲間とか言っちゃいけません。フォドラにはその手の概念はない。まだ。

 

 そうして今日も報告会という名の談義を始め、師が、ベレトが、と熱心に語り合う中で、不意にジェラルトが言葉を切った。

 雰囲気の変化を察したエーデルガルトも口を止め、目線だけで問うと、意を決したようにジェラルトは顔を向けてくる。

 

「ありがとうな、エーデルガルト」

「いえ、この対話は私としても望ましいものですから」

「そうじゃなくて……まあ、なんだ、約束通りベレトを見ていてくれてよ」

 

 カップを置いて行儀悪く頭をガリガリ掻きながらジェラルトは視線を落とした。

 

「最近よく考えるんだ。そろそろあいつも独り立ちする頃合いなんじゃないかって」

「それは……ジェラルト殿の下から、という意味ですか」

「ああ。今まで聞いてきて、ベレトもちゃんと教師として生徒を指導してるのはもう分かった。誰かを守る側を立派に努めてるあいつを、俺もいいかげん認めて、離れる時期が来たんだろうさ」

 

 しみじみと語るジェラルトはどこか寂し気だが、それを上回る誇らしさが口調から滲んでいた。

 ベレトの成長が嬉しくて仕方ない。親として見守るだけでなく、彼を信じて手を放す時がやってきたのだと。

 

 これまでの対談でジェラルトが意外と子煩悩な父親だと知ったエーデルガルトは、彼がどれほどの決意を込めてこの言葉を口にしたのかを察し、敬意を抱く。

 

「ジェラルト殿にそこまで認められれば、師もきっと喜びますよ。彼にとって、貴方は一番の目標である人なのですから」

「そう思うか?」

「ええ。私は自分の子供を送り出す親の気持ちをきちんと理解できるわけではありませんが、ジェラルト殿がどれだけ考えてその結論を出したか、想像するくらいはできます。師も、貴方の気持ちを考えられない人ではありません」

 

 エーデルガルトの後押しを聞いてジェラルトは再び頭を掻く。

 彼のことだ。自分のことより、ベレトがそういう機微を察する人間に成長したと太鼓判を押されたことが嬉しいのだろう。

 

 自分以上に近くでベレトをよく見ているエーデルガルトからの言葉で、ジェラルトも安心できたのか、息子の将来を素直に応援できるようだ。

 自然とベレトの今後について話は移る。

 

「あいつの将来について俺はそんなに心配してないんだぜ。エーデルガルト、あんたベレトを帝国に誘いたいんだってな?」

「っ……誰から聞いたのですか」

「前にレンバス達が言ってたぞ。お嬢がレト坊に目をかけてて一緒にいたいんだろうなってよ」

 

 傭兵は口が固いのではなかったのか! ジェラルト傭兵団の陽気な面々を思い出してエーデルガルトは眉をしかめる。彼らを相手に安易に話し過ぎただろうか。

 というか、ベレト本人以外には勧誘のことをそこまではっきり言った覚えはないのだが……少なくともヒューベルトが話を漏らすなんて不手際をするはずがない。そんなにも自分の態度は分かりやすかったのか?

 

「嬉しいことじゃねえか。あんたほどの人にベレトがそこまで評価されるのは、俺にとっても自慢だよ」

「恐れ入ります……」

「ただ、競争は激しそうだな」

「はい?」

「同じ話を王国の王子や、同盟の次期盟主だとかいう小僧からも聞いてるぜ? 大層な人気者じゃねえか、うちの息子は」

 

 にやにやと笑みを浮かべてジェラルトはからかうように言ってくる。

 その顔からは、ベレトの行先を案じる気配はうかがえない。

 

「ジェラルト殿は、師が大修道院を離れることになってもよいのですか?」

 

 セイロス騎士団の団長である彼が、レアに雇われて士官学校の教師になったベレトの将来的な候補に、何も不満がないのだろうか。

 エーデルガルトも、ついでにディミトリもクロードも、ベレトを誘いたいという熱意は本物だ。帝国か。王国か。同盟か。ベレトが離れてしまえばセイロス教団の所属からも離れることを意味するのに。

 

「独り立ちするってのに、わざわざ俺と同じ職場に拘る必要もあるめえよ。あいつが決めた場所なら何だっていいし、それに……あんた達の所なら心配ないしな」

 

 そう言うジェラルトは本当に心配してないらしく、その笑みに陰りは見えない。

 

「ありがてえことに、俺には昔から慕ってくれる奴らがけっこういてな。昔はアロイスみたいな部下がいたし、傭兵をやってる時も団員達がいた。支えてくれる仲間ってのは得難い貴重な存在だ」

 

 かつてセイロス騎士団に在籍していた時から、ジェラルトはその腕前と、ぶっきらぼうに見えつつ面倒見の良い人柄もあって周囲から慕われていた。従者として雇ったアロイスを筆頭に、新兵から古参まで騎士団の連中が支えてくれていた。

 もちろん大修道院の人々も同じようにジェラルトを助けてくれた。命の恩人であるレアも気にかけてくれたし、子供から大人まで多くの人と交流したものである。

 

 ガルグ=マクを去り、それまで支えてくれた仲間もいない中、ベレトを守りながら裸一貫で傭兵として活動することになった時は苦労した。弱音を吐いていられないとは言え、赤ん坊を抱えて戦わなくてはいけないのはとてつもない負担だった。

 そんな時に縁を持った端から気にかけてくれた者が集まり、徐々に一つにまとまっていき、いつしかジェラルト傭兵団という仲間ができて自分を支えてくれた。

 

 自分を支え、守ってくれる人がいる心強さをジェラルトはよく知っているのだ。

 

「それと同じように、ベレトにも慕ってくれる生徒達がいる。もしあいつの身に何かがあっても、守ってくれる誰かがいる。俺はそれが嬉しい」

「……気弱なことを仰らないでください。仮に独り立ちしたとしても、師にとっては父親である貴方が一番の味方なのは変わりません」

 

 満足気に言うジェラルトだが、エーデルガルトは待ったをかける。

 

 ベレトが大修道院を出ることになったとしても、ジェラルトとの繋がりが消えることはありえない。この二人の絆の強さはエーデルガルトだけでなく、他の生徒にも知れ渡っていよう。

 それくらいジェラルトとて分かっているはずだ。何故そんな弱気な物言いを──

 

「なあエーデルガルト、親ってのはいつまでも子供を守ってやれるもんじゃねえ」

「……」

「俺はもう随分長く生きた。傭兵なんていう早死にしそうな仕事をしててもここまで生き延びられたのは、力もあるが運が良かったのもある」

「運も実力の内、という言葉もありますが」

「そうだな。だが幸運がいつまでも続くことはない。だから俺が生きている内にあいつがしっかりやっていけるようになってもらいたかったのさ」

 

 働く場が少し離れただけでこれだからな──参ったというように両手を上げて笑うジェラルトは無理をしているようには見えない。ベレトを案ずる気持ちを自覚しつつも、自分以外の誰かがそれを補ってくれるのだと知って安心できたから。

 

「だからよエーデルガルト、もう一度言わせてくれ。ありがとうな」

「……過分なお言葉です。私一人で師を支えているわけではありません」

 

 ジェラルトの言葉は光栄に思うが、エーデルガルトとしてはそれを自分だけが受け取るわけにはいかなかった。

 黒鷲の学級の生徒を始めとして、士官学校の生徒の多くがベレトを慕っていることを知っているのだから。

 

 ディミトリもクロードも、学級が違うというのに随分とベレトを気に入ったものである。早朝の訓練だったり放課後の交流だったりで積極的に絡みに来たり、ベレトの方からもそれに応えて付き合い、何なら迎えに行ったりしたこともある。

 鷲獅子戦が終わり、赤狼の節に入って教師の交代制が始まってからはベレトはより多くの生徒の面倒を見るようになり(今までベレトと一緒にいる時間を他人より多く取っている自覚があるエーデルガルトが、最近になってまた彼との時間を減らされて少なからず不満に思っているのは……まあ、その、置いとくとして)、関わる生徒達が彼を慕う様子はあちこちで目にしている。

 

 ベレトがどうするか、どんな道を選ぶかは彼自身が決めることだ。

 師には帝国に来てほしい、私を選んでほしい──エーデルガルトはずっとそう思ってきたし、気に入ってもらえるように努めてきた。

 もちろん媚を売るみたいなはしたない振る舞いはしてない。皇女たるこの身はそんな安っぽい真似は相応しくないし、ベレトの目にも好ましく映らないことくらいは分かる。毅然とした、これが自分なのだと胸を張れる姿を見せてきたと自負している。

 そのおかげもあって、彼の指導を受けている時、彼と向かい合って食事している時、彼と肩を並べて歩いている時、胸に温かな気持ちが湧かなかったことはない。

 だがそれはエーデルガルトにとっての話で、ベレトの方はどうだろうか?

 常より志高く在ろうと努力しているが、自分の道を彼に認めてもらえるか……今では少し、自信がない。

 

 加えて、日が経つにつれて見えてくるベレトと教団の繋がり。大司教が一介の傭兵に寄せる期待にしては、レアの視線は強すぎる。ベレトがセイロス教団と、レアと何かしら特別な縁があるとすれば、彼の将来はすでに決まっているようなものなのかもしれない。

 そして何より、エーデルガルトが秘める野望と動き出している計画からして、まともな思考の持ち主ならとても賛同できるものではない。

 

 ──きっと私と(せんせい)の道が重なることはないわ。士官学校にいる今は人生の中で少しだけ交差した一時だけのもの。離れてしまえば繋がりは切れて、いずれ再会する時は、恐らく敵として──

 

 そう考えていたエーデルガルトに向けてジェラルトが放った言葉は、幸か不幸か、未来を変える契機ともなった一声だった。

 

「個人的にはよ、あんたのところから仕事をもらえると安心なんだがな」

「……え?」

「こうしてあんたの人となりを知れて、ベレトとも仲良くしてもらってることがちゃんと分かってるからな。あいつもあんたと気心が知れてるし、俺はいいと思うぜ。未来の皇帝エーデルガルトお抱えの傭兵、なんて言やあ箔が付くってものじゃねえか」

 

 この時の言葉がエーデルガルトにとってどれほど後押しになったか、ジェラルトは知る由もないだろう。当然だ。彼女が近い将来にどんな事件を起こそうとしているのか知らないのだから。

 それでも、今の発言があったからこそ、少し考え直したのは確かである。

 

 ジェラルトとしては上機嫌ついでに何気なく口にしただけだろう。エーデルガルトを選ぶかもしれないベレトの進路、その可能性を一つ取り上げてみただけ。

 しかし間違いなく、この会話が与えた影響は大きかったのだ。

 

「まあ息子の勤め先について父親がああだこうだ口出しするのは野暮かね。そう考えると、逆に俺の方が子離れできてないってことか? はははっ……自分で言っといて何だが、これじゃあ否定できねえな」

 

 そうやってうそぶきながらも嬉しそうに、むしろ誇らしそうに言うジェラルトを見て、エーデルガルトは感謝する。貴方のような人が師の父親でよかった、と。

 

 同時にこうも思う。

 ベレトの道がどうであれ、ジェラルトと話して得た思いに背くことはすまい、と。

 進んだ道の先に何が待っていても胸を張れる自分でいようと、改めて心に誓った。




 思いついてからそこそこ(?)順調に書けて、久しぶりに調子良かったです。他も同じように書ければいいのになあと思います。安定した筆力が欲しい。
 この二人の支援会話はここまでです。すっかり仲良しになりましたね。

作者の活動報告に載せた後書き


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放蕩息子の思うこと 前編

 黒鷲の学級の他では、彼が一番好きなキャラクターです。


 意外に思われるかもしれないが、シルヴァンの朝はとても早い。

 

 日頃から女遊びを繰り返し、ゴーティエ家の放蕩息子などと呼ばれる彼の生活態度がだらしないと評されるのは、仕方ないと言えば仕方ないことかもしれない。

 そうして遊び耽る姿を幼馴染に咎められた回数は枚挙に暇がないのだが、不思議なことに士官学校における彼の成績は決して悪いものではなく、勉学や訓練に注ぐ時間が並の生徒より明らかに少ないにも関わらず常に平均以上、それどころか十分に優秀と言える結果を出していた。

 

 それは、純粋な才能の差。

 生まれついてゴーティエの紋章をその身に宿し、ファーガス有数の大貴族としての教育を受け、幼い頃から花開いた才覚を磨き続けてきた。

 紛れもない彼自身の力である。

 その才気煥発な能力に加えて容姿端麗と来れば、時代に名を刻む麒麟児として期待を寄せられるのは当然というもの。

 シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエにかかる重圧が減ることはなかった。

 

 いずれは領地を治め、北方のスレンの民の侵略からフォドラと王家を守る大貴族、ゴーティエ家の当主になることは決まっている。

 英雄の遺産を操って抑止力となるために紋章を持つことは不可欠だし、何より現在のゴーティエには彼の他に嫡子がいない。

 士官学校を卒業して領地に帰れば、いよいよ本格的に家督を継ぐ動きが始まるだろう。

 

 そんなシルヴァンにとって学校で過ごすこの一年間は、彼に与えられた最後の余暇と言ってもいいものだ。

 余すことなく満喫したいと考えるのは当然だし、致命的な問題にさえ発展させなければある程度の『遊び』は家からは目を瞑ってもらえることになっている。

 そういう確証くらいなければ、幼い頃から彼に大貴族としての厳しい教育を施してきたゴーティエ現当主である父親が、遠く離れたガルグ=マクと言えど息子の放蕩を看過するわけがない。少なくとも節に一度は実家に報告が行っているはずなのに何もないということはつまりそういうことなのだろう。

 学校に向かう直前、ほんのり、遠回しに、多少のお目こぼしを願うことを匂わせる挨拶を告げたシルヴァンに、特に反対せず送り出してくれた父には感謝している。息子の放蕩ぶりを黙認してくれているのを見るに、あの人も思うところがあったのかもしれない。

 

 話が長くなってしまったが、要するにシルヴァンにとっては士官学校で一人の生徒でいられる今の時間は羽を伸ばせる最後の期間なのだ。

 そんな大切な期間を惰眠で浪費してしまうなど勿体ないにも程がある。少しくらい睡眠時間を絞ってでも思い切り遊ばなければと考えるのは自然なことだった。

 

(まあ、面倒臭いことから逃げるって意味合いもあると言えばあるけどさ)

 

 音を立てないよう胸中で呟くに留めて、部屋のドアをそっと閉める。足音が響かないよう忍び足で寮の廊下を歩いた。

 昨夜お邪魔した女子生徒の部屋を去る今は早朝も早朝。翠雨の節も半ばを過ぎて夜明けが早く、朝日で空が白み始める今は朝食を支度する勤め人もまだほとんど起きておらず、夜を徹して警備する衛兵くらいしかまともに動いている人はない。

 

 先ほど退室した部屋で幸せそうに眠る女子は昨日一緒に遊んだだけの関係だ。その日限りということをお互い納得して割り切ったお付き合いができると後腐れがなくて大変ありがたい。翌日と、それ以降の生活に支障が出ない方がいいのだから。

 しかしながら女子が全員そう考えるわけではなく、中にはしつこく関係を迫ってくる者もいる。恋仲になったと勘違いするくらいならまだ可愛いもので、のぼせ上がるあまりゴーティエ家と繋がりができたと吹聴された時は閉口した。

 誤解を解こうと自力で処理できればいいのだが、そういう時に限ってイングリットやフェリクスには早々に気付かれてあれやこれやと小言をもらう羽目になってしまうのだ。

 自分はただ、日々を楽しく過ごしたいだけなのに。

 

 せめて自室の隣部屋のディミトリにはできる限り手を煩わせずにいさせてあげようと思い、遊ぶ時にはこうしてわざわざ相手の女の子の下に足を運ぶことにしている。何しろうちの大将と言ったら、ほら、繊細で、その……あれだ、初心だし。

 それでなくても自室である二階角部屋の真下は寮の監督教師が住んでいるのだ。その真上で必要以上に物音を立てるほどシルヴァンは愚かではない。

 

 故にこうして誰も起きていない早朝に、抜き足差し足忍び足──

 

「シルヴァン」

「っ!! って、先生じゃないですか。驚かさないでくださいよ」

 

 背後からかけられた声に、思わず叫びそうになった。なんとか堪えて振り返ると、そこにいたのはベレト。

 今し方考えた監督教師のお出ましであった。

 

「女子寮からの帰りか?」

「そんなとこです。先生、このことは……」

「分かってる、誰にも言わない。刃傷沙汰にでもならない限り他人が口出しすることではないだろう」

「やだなあ、そんな事態にはならないように気を付けてますって。他の人に迷惑をかけないなんて当たり前でしょう」

「今日はシルヴァンが怪我してなくてよかった」

「ああ、俺も含んでるんですか……でも、それで俺が殴られたりとかしたら、それは自業自得ってやつでして」

「怪我に大小の差はない。学級が違っても君は生徒で俺は教師だ。身を案じるくらいはする。この間も女子に殴られて顔が腫れてたじゃないか」

「まあ、あの時に先生がライブをかけてくれたおかげで他の奴に気付かれずに済みましたよ。ありがとうございます」

 

 静かな廊下に響かないように普段より声を抑えてベレトと話しながら、並んで廊下を歩く。

 

 正直なところ、シルヴァンはベレトのことが苦手だ。

 自身を狙う女子は元より、青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)の仲間達も、士官学校の生徒は年相応に日々騒がしく生きている。その中でシルヴァンもまた朗らかに交流をして、賑やかな集団の一部として生活している。

 そんなところに加わってきたベレトは明らかな異物だった。

 

 まず、全然笑わない。それどころか表情が全く変わらない。当初はまるで感情がないのではと恐れる者もいたくらいで、平坦な声色と、若さとは裏腹に泰然とした態度のせいで取っつきにくいと感じていた生徒も少なくなかった。

 ほぼ同年代だとは聞いているが、本人も含めて彼の正確な歳が分からないし出自も分からない。傭兵としてフォドラ各地を転々としてきたそうだが、詳しい経歴だって不明だ。

 

 これだけ分からないこと尽くめなくせに、人柄は誠実で、職務に対してとても真面目に取り組んでいる。個性的な生徒達から信頼を得られたのは、正面から向かい合うその姿勢が理由だろう。

 特にシルヴァンが近付くのを早々に諦めたあのベルナデッタを、教師になってから一節も経たない内に授業に参加させた手腕は瞠目に値する。引き籠りの彼女に如何なる心境の変化をもたらしたのか。

 

 また、その能力にも驚かされる。

 対抗戦の劇的とも言える内容は見学位置にいたシルヴァンも見ていた。直接戦う個の戦力として見ても、軍を指揮する一団の長として見ても、彼が飛び抜けた力の持ち主なのは明らかだ。

 後にセテスが公表した【壊刃】ジェラルトの息子だという背景も、聞いてすぐ納得できてしまったほどだ。周囲の不満を抑えるための後押しだとしても違和感はない。

 ディミトリをああも手玉に取ったことも驚きだし、あれ以来放課後になるとフェリクスもイングリットもよくベレトに手合わせを挑んでは、その度に返り討ちに遭っているというのだから大したものである。

 更に、つい先日行われたカトリーヌ相手の模擬戦は、彼の実力をより多くの人間に知らしめた。

 

 そして肝心の指導も、これまた優秀だと判明している。

 黒鷲の学級(アドラークラッセ)の女子から聞いた話によると、ベレトの授業内容は基礎に重点を置いており、難しいことはない代わりに楽なこともないそうだ。単純だからこその奥深さがあるらしい。

 あれもこれもと手を広げたりしない質実な内容でありながら、随所に傭兵らしさを織り交ぜて飽きを感じさせない変化も含み、彼の授業の評価は高い。

 ただ、その授業内容は教えてくれなかったが……顔を引きつらせて視線を彷徨わせる姿から聞き出そうとは思えなかったので詳しいことはシルヴァンも知らない。

 

 このように、傭兵という荒くれ者の出自だとは信じられないくらい、ベレトは教師の役職に順応していた。

 ──まるでこのためにあつらえたかのように。

 そんなベレトのことを、言葉を飾らずに言ってしまえばシルヴァンは不気味に思っているのだ。

 

 極め付けなのは、彼が炎の紋章の持ち主(かの解放王ネメシスが持ったと言われてから他に確認されていないとハンネマンが興奮気味に語っていた)だという特別な存在であることが一番引っかかる。

 紋章を持っていて、なのに紋章に縛られず自由に生きてきて、紋章に依らない力を評価されていて、紋章に関係なく一人の人間として慕われていて。

 ああ……この人が紋章持ちでさえなければもう少し穏やかな目で見れたのに。

 何故彼ほどの自由人に、よりにもよって紋章などという忌まわしい代物が宿っているのか。そうでありながらどうして何の因縁もなく気ままに生きてこれて、あまつさえその姿を目の当たりにしなければいけないのか。

 生まれた瞬間から続くこの呪いを疎ましく思うシルヴァンにとって、ベレトの存在は複雑極まりないものだった。

 

 優秀で。

 人気者で。

 紋章を持っていて。

 なのにどうして俺は縛られていて、あんたはそんなにも自由なんだ。

 

 先日怪我を治してもらった時、身勝手だと自覚していながら苛立ちと憎しみをぶつけたというのに、こうして平然とシルヴァンに話しかけてくるベレトのことが分からなくて、彼を前にするとどうしても落ち着かない気持ちになってしまう。

 

(この人に何か問題があるわけでもない、むしろいい人だってのは分かるんだが……ったく、本当に紋章ってやつはどうにもうっとうしいもんだぜ)

 

「それでシルヴァン」

「ん、ああはいはい、何ですか?」

 

 内心でつらつらと考えながら適当に口を動かしていたシルヴァンは、ベレトが話題を変えたことを察して意識を戻した。

 

「話したいことがある。放課後に時間を取れないか?」

「ありゃ、話って何です? まさか女の子が苦情を申し出てきた、とかそんなんじゃないですよね。俺はローレンツの野郎とは違ってその辺の処理は気を遣ってるつもりなんですが」

「そうではない。課題のことだ」

 

 課題──ベレトが口にした言葉に、どうしても胸がざわついた。

 

「それは……うちの馬鹿兄貴の件で、何かありました?」

「そのことで相談したい。だが朝はシルヴァンにもやることがあるだろう。だから放課後だ」

「放課後ですか。うーん、女の子との約束もあるし、どうかな~」

「今君と約束している女子は三人。二人は茶会を、一人は街に出かけて買い物をすることになっている。だがいつするかは誰も決めてないだろう」

「………………なんで知ってるんですか?」

「調べた。頼み事をする手前、相手の邪魔をするわけにはいかないから都合に合わせられるように事前に調査しておくのは、交渉ではよくやることだ」

 

(怖っ!! この人怖っ!! え、何、傭兵ってこういうことも得意なのか? こういうのも自然とできちゃうようになるものなのか!? 怖えよ先生!!)

 

 胸のざわつきなんて一瞬で吹き飛ぶ衝撃を受けて、シルヴァンは顔を引きつらせて仰け反った。

 今ベレトが言ったことは全て事実である。先ほどの部屋のとは別の女子三人と遊ぶ約束をしているが、どれも日時は定めておらず順番待ちをさせているところだ。

 一体どうやって調べたのか……気にはなるがとても聞く気になれず押し黙る。

 

 表情を変えずにこちらをじーっと見てくるベレトを見返しても状況は変わらない。彼は交渉と言ったが、まるで弱みを握られて脅迫されてる気分である。

 この辺りは流石傭兵と言うべきか、目的のためなら手段は選ばない。いや、ベレトが何か非道な手を使ったとかいう証拠はないのだけれども。

 

 イングリットやフェリクスに詰め寄られる時とは違う緊張を感じてしまう……こうなったら面倒な話はさっさと済ませてしまおう。

 

「……んじゃまあいいです放課後で」

「助かる。今日の授業が終わったら青獅子の学級に顔を出すよ」

 

 了承を得られたベレトはちょうど差し掛かった階段に向かう。その背中へ向けて、シルヴァンは歩きながら感じていた疑問を投げかけた。

 

「そういや先生はこんなに朝早くから何やってたんですか?」

「散歩だ」

「へえ、あんたほどの色男も一人で──」

「女の子と一緒に」

「はい?」

「それじゃあシルヴァン、また放課後」

 

 まさかの返事が来て聞き返すも、ベレトは階段を降り始めている。

 背中越しに投げかけられた言葉を最後にその姿は見えなくなっていった。

 

「……エーデルガルトとかと会ってたってことか?」

 

 大修道院の中でもとりわけ仲が良いと評判の生徒と、人目をはばかるように早朝に会うなどまるで逢瀬のようではないか。

 いやでもベレトはそういうことをしそうな雰囲気ってないよな……あの人変に真面目だし、生徒を贔屓したり、ましてや立場を使って手を出すなんてしないだろ……そもそも女に興味あるかどうかすら怪しいし、俺の趣味も否定はしなかったけど肯定もしてないし……

 

(本当に、よく分かんねえ人だな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして時は放課後。

 言った通り、青獅子の学級に顔を出したベレトに呼ばれたのでシルヴァンは彼についていく。

 

 担任のハンネマンや学校責任者のセテスではなく、あのベレトからの呼び出しということで一時教室内に激震が走った──あなた今度は何をやらかしたの!?、お前なあ別学級の先生の手を煩わせるな、阿呆めいよいよ年貢の納め時か、お仕置き軽いといいね、頃合いを見て迎えに行きましょうか~、ええとあれってそういうことなんですかね、……俺は知らん──こともあって少々時間を取られたが、無事に出られてベレトの後を歩いた。

 

 みんなひっでえよなあ、と暢気に笑いながらしばらく歩いて食堂近くの庭園に辿り着くと、その一角のテーブルに茶会の用意がしてあることに気付く。

 迷いなく促すベレトを見るに、これは彼が予め準備してくれたものらしい。

 

 座って、という言葉に従って席に着き、紅茶を注ぐベレトの手付きを眺める。シルヴァンの目から見てもえらく上等な茶器を使っているが、傭兵だった彼がこんなものを持っていたのだろうか。

 

「どうぞ」

「ありがとうございます。お、今気付いたけどこれベルガモットティーじゃないですか。俺の好みだって知ってました?」

「イングリットから聞いた。君はこの紅茶を好むのだと。俺が持っている茶葉の中にあってよかった」

「へえ、あいつから。そんな話いつしたんです?」

「放課後に訓練所で手合わせした時、合間の休憩中に少し。俺が最近紅茶の勉強中だという話になって、自分の好きな紅茶と併せて教えてくれた」

「イングリットのやつも、貴族らしい色気のある話をしてるんだな。あいつなら飯の話しかしなさそうなのに」

「よく分かったな。紅茶の話はそれだけで、いつも話すのはその日の夕飯のことだ」

「ははっ、やっぱりか。あいつは色気より食い気ですからね……最近っていうと、茶葉も茶器も買ったばかりですか。なかなか奮発しましたね。このカップとかかなりいいものでしょう」

「いや、茶葉はそうだが、茶器はエーデルガルトからの借り物だ」

「えぇ!? あの皇女様から借りて? じゃあこれ皇室の茶器か。えらいもん借りましたね先生。俺が使ってよかったのかな」

「彼女に指摘されるまで茶葉を買うことしか頭になくてな。道具は食堂から借りればいいと考えていたんだが、それではいけないと教えてくれたんだ。その時に、俺に次の給料が入って自前のを買えるまでと言って貸してくれた」

「ふーん……」

 

 別に食堂から借りてもいいのでは、と思うシルヴァンは手に持つカップを見る。

 帝国の皇女から私物であるティーセット一式を貸してもらえる傭兵……傭兵って何だっけ?

 

 こうして茶会で使っているところを見る者が見れば傭兵だったベレトが持つには不釣り合いに思うし、話題にすれば彼も借り物だという事情を隠さず話す。自然とエーデルガルトが目にかけていることがうかがえる。

 貴族階級の最上層にいると言っても過言ではないエーデルガルトが、そうまでしてベレトと繋がりを作ったのだと周囲に知らしめる目的は、恐らく牽制。

 

(殿下、言っちゃなんですが、先生との関係はかなり先を行かれてますよ)

 

 将来的にはベレトを王国へ招きたい──そう語っていた幼馴染の意気込む顔を思い浮かべてシルヴァンは乾いた笑いを漏らした。

 今の時点でエーデルガルトが相当なリードを奪っているこの現状、ディミトリの勝機は薄いと言わざるを得ない。

 

 そうして言葉を交わしつつ、紅茶を二口、三口飲んだ辺りでベレトが改めて向き直る。釣られてシルヴァンも姿勢を正した。

 

「それで、本題に入るんだが」

「ええ。課題のことだとは聞きましたけど、俺にできることなんてあります?」

「率直に言うと、課題協力として今節は黒鷲の学級の課題に同行してほしいんだ」

「……それこそ俺にできることなんてありますかね」

 

 黒鷲の学級が受ける今節の課題、その内容は確かにシルヴァンにも関わりがあるが、別学級の自分にできることなど思い当たらなかったのでそう返す。

 

 英雄の遺産、破裂の槍を奪還せよ──それが黒鷲の学級に出された課題である。

 

 ファーガス神聖王国の北方、フォドラ最北に位置する領地のゴーティエ家。そこに代々伝わる英雄の遺産が破裂の槍である。

 その破裂の槍が、マイクランという賊に盗まれたのだ。

 

 ゴーティエ家は恐らく今のフォドラで英雄の遺産を最も実用している貴族であり、その力を存分に知らしめているからこそ北の守りとして存在感を示していられる。

 そのゴーティエ家に破裂の槍がないと知られたらどうなるか……無論抱えている騎士団も大貴族らしく鍛えられてはいるが、英雄の遺産の有無はそれ以上に大きな影響をもたらす。

 守りの要が大きく力を減じていると明らかになれば、北方のスレン族に脅かされることになる。これは冗談抜きでフォドラの危機なのだ。

 

 折しも西方教会の粛清のためにセイロス騎士団の主力が出払っており、ゴーティエ家から協力を要請された教団もすぐには動けなかった。英雄の遺産を相手にするということは──例えその真価を引き出せなくても──それだけ慎重にならざるを得ない事態なのである。

 それでも手をこまねいているわけにはいけない。そこで白羽の矢が立ったのがベレト。破裂の槍に対抗できる武器、天帝の剣を操れると判明した彼をおいて他にない。

 残している騎士団の中から選ばれた精鋭を付き添わせて、今節の黒鷲の学級の課題として賊の征討が言い渡されたのだ。

 

 ところで青獅子の学級のシルヴァンが黒鷲の学級の課題に行けるのか、行っていいのかという疑問があるかもしれないが、問題なく行ける。士官学校には課題協力という制度があるのだ。教師と生徒の合意があれば、その節は本来の学級の課題の代わりに別の学級の課題へ参加することが認められる。

 こうしてベレトが話を持ち掛けてそれに同意すれば、シルヴァンは一時的に黒鷲の学級へ加わって課題に協力することができる。できるが……この課題に、今さらシルヴァンが手を出す余地があるのだろうか。

 

「俺が、ゴーティエだから……ですか?」

 

 実家の問題なのだからお前が動け、とでも言いたいのか。ゴーティエ家の跡取りなのだから尻拭いは自分でやれ、と。

 

 薄く嗤うシルヴァンの態度に頓着せず、ベレトは表情を変えないまま言う。

 

「君がシルヴァンだからだ」

「……そりゃあ、どういうことです?」

「賊の頭目マイクランは君の兄だ。俺はもちろん知らないし、黒鷲の学級でもエーデルガルトや一部の生徒が名前だけ知っていたくらいだった。だが君はマイクランを直接知ってるだろう。彼がどんな人間か、性格や実力、行動の傾向が俺達より分かっている。討伐対象の情報を事前に調べるのはよくやることだ」

 

 朝会った時にシルヴァンを説得(説得? 脅迫?)したのと同じように、事に当たる前に可能な限り情報を集めてから動こうというのか。

 

 マイクランはゴーティエ家の元嫡子である。紋章を持たずに生まれ、後から生まれたシルヴァンが紋章を持っていたから、それまでの嫡子としての待遇も権利も全て奪われ、三年前に廃嫡された人物だ。

 つまりマイクランはシルヴァンの実の兄なのである。なるほど、少なくともガルグ=マクにおいてシルヴァン以上にマイクランを知る人間はいないだろう。敵の人となり、考えの傾向、実力、知ると知らないでは対応は大きく変わる。

 

 しかし、それなら話を聞けばいいだけで課題に付き添う必要はない。この場でシルヴァンから聞き出すだけで事足りるはずだ。

 視線で促されたと感じたのか、ベレトは続けて口を開く。

 

「二つ目の理由として、君に行軍の補助をしてほしい。今は賊の活動領域から拠点を割り出そうと騎士団が調査しているところだが、ファーガスの東から中央部にかけて、ガラテア領とフラルダリウス領の中間に当たりを付けて調べていると報告があったそうだ。そこに行くまで道中の案内役も頼みたい」

 

 軍事行動において、敵とぶつかる戦闘の他に、あるいはそれ以上に重要なのが目的地に辿り着くまでの過程、即ち行軍である。

 戦いに勝つ以前に、そもそも戦いに臨めなければ勝ちも負けもない。できるだけ自軍を消耗させずに戦場に連れていけなければ、どれだけ戦力を備えていようが意味がないのだ。

 

「幸い今の季節は夏。雪中行軍の心配はしなくていいが、雨の多い今の時期に山を越えて王国に立ち入れば環境は大きく変わる。黒鷲の学級の中でもファーガスに訪れたことのある生徒は少なくて、環境の変化が与える影響は大きいだろう。そこで君のように土地勘があって慣れた者が同行してくれれば色々と助かる」

 

 その辺の助言も頼みたい、と語ってベレトは言葉を止めた。

 

 シルヴァンは考える。

 一応、話の筋は通っていると思う。担任教師として、課題のために可能な限り事前に情報を集めること、生徒が十全に動けるように道中を補佐すること、そのために自分にできる範囲で動くベレトは立派な教師と言えよう。

 

 ──気に入らない。

 

 まだ若く、教師の任も不慣れなことが多いだろうに、大したものである。流石はかの【壊刃】の秘蔵っ子と言うべきか。その薫陶を受けた人間は紋章に関係なく優秀だと?

 英雄の遺産を下賜されたばかりで背負う期待も増しているはずだ。解放王ネメシス以来、誰も操ることの叶わなかった天帝の剣。かかる重圧は破裂の槍の比ではないだろうに。やはり無感情故に何も感じていない?

 

(ああ、くそっ、またこんなこと考えて……俺らしくもねえ)

 

 胸に湧いたその苛立ちを隠すよう、努めて明るい態度を装ってシルヴァンは言う。

 

「すいません、協力はお断りします」

「……」

「聞きたいことがあるなら答えますけど、俺が行く理由にはなりません。道中の補佐も、遠征に慣れたセイロス騎士団が付き添うんでしょう? その中にだってファーガス出身の奴がいるでしょうし、ますます俺が行く理由がありませんよ」

 

 黙ったままのベレトに向かって拒否を伝えた。

 

 シルヴァンとしても気にならないわけではない。兄が王国内を騒がせている事態、その解決をベレト達他人に任せることになる現状に思うところは大有りだ。

 しかし、自分が今さらマイクランと顔を合わせてどうなると言うのか。

 お強い先生が解決してくれるなら俺が骨を折る理由はないでしょ、と若干捨て鉢な思考が彼の中にはあったのだ。

 

 カップに残る紅茶を飲み干して席を立つ。するとベレトが声を発した。

 

「待てシルヴァン」

「何ですか、課題協力は今断ったでしょう?」

「三つ目の理由をまだ説明してない」

「……まだ他にあったんですか?」

「言葉を選んでいたら話すのが止まってしまった。すまない」

 

 まさかの理由にシルヴァンは呆けた顔をしてしまう。それまで整然と話していたとは思えないベレトの言葉に驚き、実は彼も緊張しているのかと少し納得もした。

 仕方なく、上げた腰を戻す。

 

「……」

「どうしました?」

「……上手く説明できるか分からないが」

「? まあとにかく聞くので、どうぞ」

「俺はいつか父さんに勝つつもりだ」

「はい?」

 

 いきなり話が飛んだように思えてシルヴァンは困惑する。ここに来て何故ジェラルトのことが出てくるのか。

 

「手合わせして一本取るか、俺にしかできない何らかの証を立てるか、どういう形になるかは分からないが、いつか父さんを超えるつもりでいる。そう考えるようになったのは最近のことだが」

「それは、まあ、一般的な親孝行の一種じゃないですかね」

 

 親の背中を超える、というのは子供にできる恩返しの一つとして定番だろう。普通の平民の場合は手に職を付けて親を安心させる人が大半だし、傭兵のベレトからすれば、父を超える強さを身に着けたのだとはっきり示すことがそれと同じに当たると予想できる。

 だが、その話を今する意味とは?

 

「先日、騎士の間で君と話した時、俺に『頼む』と言ったな。マイクランは血を分けた家族だと」

「……ええ」

「その時から思っていたが、もしかしてシルヴァンはマイクランを助けたいと考えてないか?」

 

 その言葉は、雷鳴の如き衝撃でシルヴァンの耳に突き刺さった。

 自分の顔が強張るのが分かる。

 

「助けるとまでいかなくても、一度身柄を預かって対話くらいは、そんな風に考えてないか」

「っは……ははは、何言ってるんですか先生、奴はもう大罪人ですよ? そんなの無理に決まってるでしょう」

「そうだ。課題に従えば賊は捕縛せず討伐する。マイクランもその場で殺すことになるだろう。そうなればもう君に会うことはない」

 

 淡々と言葉を連ねるベレトの向かいで、シルヴァンは頬を震わせる。

 

 何を言っている。

 何が言いたい。

 この人は俺をどうしたい。

 

 頭がくらくらするような焦燥が生まれ、知らず、拳を握り締めていた。

 

「紋章の必要性と、貴族の慣習については調べた。マイクランが廃嫡されるまでの経緯もおおよそ想像できた。だがシルヴァンとしては彼をそこまで嫌ってない、それよりも君の態度から推察できたのは、現状の貴族制度のせいで生まれた紋章至上主義への嫌悪と、兄に対する申し訳なさ」

「いや、いやいや、どうして先生がそんなことまで」

「あくまで俺の推察だ……が、その態度を見るとそれほど間違ってるわけではないようだな」

「っ……じゃあ何ですかい、俺にあいつを赦せって言うんですか」

「君は優しい人だ。嫌な思いをさせられてもマイクランを嫌い切れてない」

「だったら俺はどうすりゃよかったんだよ!!」

 

 抑え切れず、シルヴァンは叫んでいた。拳を叩き付けたテーブルが揺れ、空になったカップがソーサーの上で甲高い音を響かせた。

 あまりにもらしくない自分の態度への困惑、押し殺せていたはずの憎悪、内心を引きずり出したベレトへの苛立ち、ない交ぜになった感情のままに目の前を睨む。

 

 ああそうさ。俺は嫌だったよ。紋章を持つ種馬扱いされる自分の立場が。貴族の地位欲しさに群がってくる女共が。

 けど仕方ないだろ。俺は紋章を持って生まれちまった。持ってしまったなら紋章をなかったことにはできない。ゴーティエの紋章がある事実を無視できない。

 じゃあ受け入れるしかないじゃないか。貴族の家に生まれて、貴族の中で生きて、そんな俺が他の道を選べるわけないじゃないか。

 紋章を持って生まれた俺が、紋章を持って生まれたというだけの理由で兄上から全てを奪ってしまった俺が、今さら奴を差し置いてどの面下げて声を上げられるってんだよ。

 そりゃ嫌な思いをさせられたさ。殴る蹴るの暴行は当たり前。井戸に落とされて酷い風邪を引いた。遠乗りに付き合わされたら落馬させられて馬の群れに踏まれて死にかけた。雪山に置き去りにされた時はもうだめかと思った。

 それでも、俺は紋章を持っているから、仕方ないんだ。俺はそういう立場に生まれたから、仕方ないんだ。

 そうやって自分に言い聞かせて。せめて少しでも楽しくやっていこうと女の子相手に軽い遊びも見つけられて。先に見えるお役目もどうにか受け入れられそうになってきたってのに。

 

 よりにもよってあんたが。

 紋章を持っていながら何にも縛られず自由に生きてきたあんたが。

 そんなこと言うんじゃねえよ!

 

「俺に何ができたってんだ、あぁ!?」

「分からない。ゴーティエ家の事情も、君達兄弟の関係も俺は知らないから」

 

 そんなシルヴァンの激情を受け流して、ベレトは静かな口調を変えない。

 

「ただ言えるのは、君がマイクランと対峙できるのは、これが最後の機会だということだ。シルヴァンが兄に対して思うことを清算できるのは、今回を逃せばこの先はないと思う」

 

 静かな口調と目線は、ただシルヴァンに向けられている。

 こちらの苛立ちに引きずられず、ずっと真摯なまま。

 

「大修道院に来て短いながらも俺は学んだことがある。人は人と関わることでしか変わらないし、人と交わることでしか成長できないということだ」

 

 今までは傭兵団の中という閉じた環境しか知らず、それ以外の世界から隔絶されて生きてきたベレトは、ジェラルトの薫陶を受けて一角の戦士として成長してきたが、それは非常に偏った成長だった。

 事実、人付き合いが酷く限定された生活は彼の心を育てる機会を絞り、大修道院に来たばかりの頃は感情がないのではと陰口を言われるくらい無機質な態度が目立っていた。生徒と触れ合う中で徐々に人柄が知れ渡り、当初よりもその態度はずっと柔らかいものになってきたが、それとて自然に変わったわけではなく多くの人々と積極的に交流することで起きた変化である。

 

 拙い自分の交流ですら、こうも大きく変わることができたのだ。

 シルヴァンのように才気に溢れる若者が、その捨て鉢な態度の原因となった人物と向かい合い、一部でも感情を清算することができれば、それは彼をどれほど成長させてくれるだろうか。

 

 そしてシルヴァンのような快活な人物がここまで心に溜め込んでしまった理由。

 

「君は真面目な人だ」

「……っ!!」

「誰かが努めなければならない役目があって、自分にしかその資格がないと知って、放棄することができなかった。逃げようと思えば逃げられたかもしれないけど、そうすることで生じる負担を他人に背負わせることを容認できなかった。シルヴァンは、優しいんだな」

 

 真面目……日頃のシルヴァンの生活態度を知る者からは決して出ることはなかった評価を、まさか知り合ってからさほど経たないベレトから受けるとは思わず、胸が詰まる。

 

 落ち着け、抑えろ、感情的になるな──激する頭の隅に追いやられた冷静さがシルヴァンに語り掛けた。

 怒鳴ったところでどうにもならない。ベレトに当たり散らしたところで現状は変わらない。自分は貴族で、紋章を持っていて、その血の価値をよく知っている。

 そうだ、よく知っている。この上なく理解している。だからこそ慎重に振る舞ってきたんじゃないか。普段から周囲の誰もがなるほどこいつはそういう奴なのかと納得できるように『軽薄な放蕩息子』を演じてきたんだ。

 それは今のところ上手くいっている。幼馴染も含めた周囲の人達はみんなシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエのことをだらしない奴だと認識している。それでいい。立場を嫌がる無邪気さなんて自分には許されないのだから、今後も同じようにずっと……今後も?

 

 テーブルに叩き付けた拳からはいつの間にか力が抜けていた。上げた視線とぶつかるのは、変わらずこちらを見つめるベレトの目。

 

(なるほどね……)

 

 表情を変えず真っ直ぐに自分を見つめてくるベレトを見て、シルヴァンは少しだけ納得した。

 

 ベレトは傭兵で、その職務に忠実な人だ。教師となった彼は平民だろうが貴族だろうが関係なく厳しい指導で生徒を鍛えてると聞く。誰が相手でも仕事には手を抜かない真面目な性格だ。

 生徒相手であればベレトは快く指導に応える。ディミトリを始めとして、他学級であっても彼は生徒の教育をできる限り受け持とうとするのだ。

 

 そんなベレトからすれば、賊の身に堕ちたマイクランを討つこの課題はシルヴァンの精神を成長させる絶好の機会に見えたのだ。

 それはあまりにも心無い判断かもしれない。関係を詳しく知らずとも、兄弟を戦わせるような采配は非情と思われても仕方ない。だが、シルヴァンの心の内を知り、抱えた鬱屈を解消させるには普通ではない強烈な刺激が有効だと考えたのだろう。

 

 この歪みを抱えたまま、これから先もずっと兄への蟠りを押し殺したまま卒業し、家督を継ぐことになってしまえば、自分はこの先一生『これ』を押し殺して生きていくことになる。

 それは……ある種の地獄ではないか?

 

(いずれは清算しなきゃいけなかったことか……その機会が今やってきた、と)

 

 もはやシルヴァン自身が認めてしまっている。

 この征討、協力しない理由がない。ゴーティエ家の者としてだけでなく、シルヴァンという個人にとっても他人事ではないのだ。

 

「……いいですよ。課題協力、一緒に行ってあげますよ先生」

 

 はっきりと口に出して宣言する。兄を討つこの任務に自分も参加するのだという決意表明だ。

 

「ああ、ありがとうシルヴァン」

「それと……さっきは大きな声を出して、すみませんでした」

「構わない。交渉の場で大声が出るのは珍しいことじゃない」

「それも傭兵としての経験則ですか?」

「そうだ。主に交渉を進めるのは父さんだったが、そういう時にも相手に釣られず落ち着いて対応するのだと学んだ」

「なるほどね。俺もこの席で学ばせてもらいましたよ」

 

 力なく背もたれに寄りかかり空を見上げる。中庭から見える空は修道院の壁に遮られていて狭く、それでも雲の多さが雨季の到来を感じさせた。

 雨が多くなればファーガスは余計に冷え込む。夏とは思えない寒さの中を行くことになるだろう。それに同行する自分を意識して、シルヴァンは覚悟を決めた。

 

「討伐部隊の中に俺がいるのを見たら……兄上、どんな顔するんでしょうね」

「俺はマイクランを知らないから何とも言えないが、そうだな……どうせなら、うんと驚かせてやればいい。紋章に関係なく兄を超えたのだと教えてやれ」

 

 簡単に言うなあ、とベレトの言に笑って応える。

 

 こうして黒鷲の学級の課題協力に参加することになったシルヴァンは、複雑な胸中を噛み殺して同行した末に兄が率いる盗賊団の征討に臨む。

 その際に見たもの、経験したものは、彼の人生を大きく変える教訓としてその胸に刻まれることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ところで先生。さっきジェラルトさんの話をしたの、あれ何だったんですか?」

「ん?」

「え?」

「……」

「……」

「……ああ、そうか。えっと、つまり、俺が父さんを超えたいと思うように、シルヴァンが兄のマイクランを超えようとするなら、本人と直接向かい合えるこの機会を逃すともうできないぞ、という話をしたかった、んだと思う」

「……その(くだり)、話す必要ありました?」

「なかったかもしれないな」

「……」

「……」

「……」

「……すまない。余計なことを言ってややこしくしたか」

「ああいや、別に責めてるわけじゃ。先生にも苦手なことがあるんだなって」

「得意とは言えないだろう。シルヴァンのように会話上手な人は尊敬する」

「ははっ、そりゃどうも。なんなら会話の練習ついでに今度先生も一緒にナンパしに行きます? 女の子と話すと楽しいですよ」

「女の子と話すのなら、俺は普段エーデルガルトとよく話すぞ」

「……皇女様を女の子と言える先生を尊敬しますわ」




 一見軽薄なお調子者でも深い闇を抱えている子って放っておけないんですよね。辛い過去に挫けず抗う子がツボですけど、シルヴァンみたいになあなあでやるしかないんだと諦めてしまった子をそんなことはないんだと励ましたい。本作ではベレトを通じて彼にも未来をよくしてほしいです。

作者の活動報告に載せた後書き


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放蕩息子の思うこと 後編

 一昨年から考えていた、書きたかったネタをようやく出せた回。
 公式に先を越されるとは……おのれスマブラ。さすがスマブラ。


『というわけで、今節の課題に協力してくれることになった、青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)のシルヴァンだ』

『みなさんどうもー、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエでーす。よろしくー』

 

 そう言っていつもの無表情で紹介するベレトと、正反対に朗らかな笑顔で挨拶するシルヴァン。並ぶ二人を見て、黒鷲の学級(アドラークラッセ)の面々が見せたのは驚きやら呆れやら様々だった。

 

 既に生徒達に知れ渡っているように、課題の征討で狙う相手はシルヴァンの兄マイクランであり、その課題によりにもよって実の弟であるシルヴァンを同行させるというえげつない判断をしたベレトへの戦慄だったり。

 肉親と戦うという辛い状況にも挫けず貴族としての責務を果たさんと、むしろ肉親だからこそけじめをつけようと名乗り出たシルヴァンへの尊敬だったり。

 ベレトの狙いを察し、協力してくれるシルヴァンのおかげで、この課題に良い成果を出せそうだと思う期待だったり。

 まあ、様々である。

 

 今節はシルヴァンがこちらの課題に協力するということで、青獅子の学級の担任であるハンネマンに断りの挨拶をしに行くと、ベレトならば問題なかろうと、そしてシルヴァンにも後悔がないように動きたまえと激励をくれた。

 同じく青獅子の学級の生徒達にも話を通しておこうと二人連れ立って教室に訪れると、ベレトが誘い出した時とは打って変わってみんながシルヴァンを案じてくれた。最終的にはシルヴァンが自分で決めたのだという意思が伝わり、その背中を押してくれた。みんな良い子だね。

 

 さて、こうして黒鷲の学級に協力することになったシルヴァンだが、いつものように女の子と仲良くなろうとかする暇もなくすぐに課題に向けて動くこととなった。

 何しろ本当に時間がないのである。

 

 多忙で動けないゴーティエ辺境伯に代わり、フラルダリウス家の当主ロドリグがガルグ=マクを訪れた。件の賊、マイクランの根城がフラルダリウス領にあると突き止められたので、ゴーティエ家だけの問題ではないとして領主である彼自らが英雄の遺産奪還の依頼をしに来たのだ。

 ロドリグによってもたらされた情報を元にして派兵の編成が始まる。セイロス騎士団の部隊もそうだが、中心となる黒鷲の学級も急き立てられて動いた。生徒が動員されることはロドリグもここで初めて知ったようだが。

 

 そんなわけで、その少ない時間で黒鷲の学級と一緒になって動くシルヴァンは、戦闘時の動きを確認し合ったり対マイクラン戦を見越して相談する他、市場で香辛料、それも辛い味付けに使うものを人数分買っておくように助言した。

 食料品の手配などは騎士団に頼めばいいのでは、という疑問にシルヴァンが笑いながら教えたのは、なんとその香辛料を靴の中に仕込むことだった。

 

 ガルグ=マクを出発して、ファーガス神聖王国に向かう一行。

 季節は夏真っ盛りのはずなのに、分厚い雲が日差しを遮り、雨に濡れた地面を進む道中は奇妙なほど寒く、山を下りて王国に立ち入ってからもその行程は体を冷やすものだった。

 しっかりと上着に身を包む生徒達の歩みも寒さのせいで鈍る……かと思われたが、その足取りは軽快で騎士団の人達を驚かせた。

 シルヴァンの助言に従って靴の中に香辛料を仕込んだおかげで、足元からポカポカと温まったのだ。足先がかじかんだりしなければ歩みは快調そのもので、彼らの行軍は極めて順調なものとなっていた。

 軽快な歩行によって行軍は順調に進み、目標である賊の根城コナン塔には予想してあった日付よりも丸一日早く辿り着いたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一体これは何なのか。

 何を見せられているのか。

 先ほどからシルヴァンは目を疑う思いだった。

 

「カスパル、フェルディナント、合図があるまで前進!! リンハルト、回復魔法準備!!」

「いくぜいくぜいくぜえええええ!!」

「貴族の力を思い知るがいい!」

「はいはい、準備しますよ」

 

 コナン塔に乗り込んだ一行はそこに巣食う盗賊団と会敵し、戦闘に入った。

 生徒が中心になって動き、それを補佐する騎士団の助けもあって次々に打ち破り、ついには最も高い塔の上層部まで敵を追い詰めることができた。

 

「ペトラ、ベルナデッタ、正面の敵後方にメイジが複数、曲射の間合いに入り次第撃て!!」

「了解、撃ちます!」

「ぴゃあああああこっち来ないでええええ!!」

 

 当初ぶつかった盗賊は騎士団の想定以上に手強く、地の利を生かして騎士団を足止めしてくるなど賢しさも垣間見せる動きが特徴だった。

 そこで入れ替わって黒鷲の学級──ベレトが指揮する生徒達が前に出たことで戦況は一変。敵の動き方を先読みしたような彼の采配と、十全に応える生徒の戦闘で盗賊団を見る見るうちに追い詰めていく。

 

「ドロテア、正面向かって右側上方の高台、潜んでる敵アーチャーに向けてサンダーを、十二秒後!!」

「は、はい!」

 

 相手方の布陣、次の動き方、伏兵が潜む位置、何もかもがベレトの目には詳らかなのか。それを可能とするのは数多の戦闘経験、鍛えられた感覚、さながら慧眼とでも呼ぶべき洞察力か。

 シルヴァンとて戦場に出た経験はある。侵攻してくるスレン族を撃退する父の出兵に付き添ったこともある身としては、経験があるからこそベレトの指揮は異常なほど的確だと感じた。

 

「ヒューベルト、今フェルディナントが戦っている位置へスライムβを撃ち込む準備を!! 三十秒以内に合図する!!」

「望むところですよ……!」

 

 言うなれば、戦場の支配。

 ベレトは難しいことを言っているのではない。生徒の力量に合わせた、無理のないレベルの行動を指示している。おかしいのは指示の内容が詳し過ぎることと余裕があり過ぎることだ。

 いや、余裕があること自体はいい。余裕を持って動き出せればそれだけ動きの質は上がる。心構えもできるし、咄嗟の反撃にも対応しやすくなるだろう。

 だが彼の指示は余裕があり過ぎる。指示を出すのが早過ぎるのではと思うのだが、敵が型に嵌ったように動いてベレトの指示に従う生徒と示し合わせたみたいにぶつかるのだ。

 

「エーデルガルト、傭兵団を二つに分けて左右から進撃!! 退いた前衛を追う敵を挟撃して乱戦に持ち込め!!」

「分かったわ! レンバス殿は左から、私は右から行きます!」

「おうよ! 野郎共、お嬢に続けえ!」

「「「おおおお!!」」」

 

 中には少し込み入った指示もあって、ベレトが生徒を平坦に見ているわけではないと分かるし、彼が場に即した判断をしているのも理解できる。

 ベレトに付く副官の立場で参戦するシルヴァンはそういった光景を引いた位置から見えていたので、尚更その指揮の異常さが感じ取れた。

 

 こと戦闘における機微を読む力、先読みの感覚はもはや未来視と言っても過言ではなく、ベレトの指揮官としての知謀を感じたシルヴァンは密かに背筋を震わせた。

 敵の間合いの把握、攻撃の予兆の察知、それらに合わせた自軍の動かし方、どれを取っても真似できる者はフォドラにはいまい。

 いるとすれば、彼の父であり師である【壊刃】ジェラルトくらいか。

 進軍に食らいつき、後衛に迫ろうとする討ち漏らしを倒すシルヴァンは感心が止まらなかった。

 

 しかし、そんな巧みな指揮を以てしても、塔の上層まで追い込めてからの彼らの進軍は遅々としたものだった。

 

「っ! ギルベルト殿、防御!!」

「はい! みなの者、生徒を守れ!」

 

 危険を察知したベレトの指示により、セイロス騎士団の精鋭ギルベルトの配下である盾兵が進み出て生徒達を上から覆うように大盾を構えた。

 直後、降り注ぐ矢の雨。大量の矢が盾と床石に当たる硬質な音が響き、勢いづこうとした進軍を止めたのだ。

 

 これは何度か繰り返された光景である。

 

(兄上も流石だな。地の利を生かしてる)

 

 こちらが勢いづいて一気に進軍しようとしたちょうどその時に、狙いすましたように高台から弓矢の一斉射が襲い掛かるのだ。盗賊側の指揮官が自軍の劣勢を察し、敵側が調子づこうとする機先を制する見事な采配で足を止めてくるのである。

 そんな指示を出せるのは盗賊の頭目、曲がりなりにも大貴族としての教育を受けて育ち、これだけの規模の盗賊団をまとめ上げたマイクランを置いて他はない。

 

 元は異民族の侵略に向けて建造されたこのコナン塔は要塞としては特殊な造りをしている。内部は例え侵入されても守り切るための独特の設計になっているのだ。

 敵に優位を保つため、塔の中にまた塔が建つように大きな高台があり、螺旋状の坂道を上ることでしか最上層まで攻め入れない。高台は急角度の絶壁によって守られていて、坂道を進む敵を上から一方的に弓で攻撃できる。

 侵略してくる異民族相手でも最後の最後まで戦い、フォドラを守る決意を形にした特殊な砦は、今やフォドラの内患を抱える病巣にも等しくなったのは皮肉なものである。

 

 このままでは進軍が覚束ない。防衛の際はこうして矢の雨を降らせると決めて、そのための訓練などもしていたのだろう敵の動きは慣れたものであり、いずれ綻びが出るとかの隙は望めそうにない。

 いくら防御に優れたギルベルトの部隊がいるとは言え、長く脅威に晒されていれば綻びが出るのはこちらだ。上空から一方的に撃たれるがままでは駆け引きのしようもない。

 

 故に。

 その脅威を排除しようとベレトが考えるのは自然な流れだった。

 

「……エーデルガルト!」

「何、(せんせい)!?」

「しばらく離れる!」

「了解!」

 

 指揮官でもある担任教師が戦いの最中に場を離れることを一方的に告げられ、説明もないのに反論もなく一瞬で了解を返す級長。

 二人のやり取りにシルヴァンは目を剥いた。ベレトは何をするつもりなのか。

 

 ヒューベルトら他の生徒にも指示を出し終えたベレトは素早く駆け寄ってくる。その手にはいつの間にか天帝の剣が握られていた。

 ついに彼が直接動くのか。だが、まだ敵の本陣が見えないこの場で英雄の遺産を抜く意味が分からず、シルヴァンは訝しげな目を向ける。

 

「シルヴァン、君は右翼の警戒に当たれ。側面の伏兵からドロテアを守るんだ」

「分かりましたけど、先生はどうするんです? 離れるって言ってましたけど……」

「上を少し片付けてくる」

「はい?」

 

 ちょっとそこまで、とばかりに軽く言われた内容をすぐには飲み込めず聞き返したシルヴァンに背を向けると、ベレトは高速で走り出した。

 その向かう先を見て思わず静止の声をかけたシルヴァンはおかしくないだろう。

 

「ちょ、どこ行くんですかあんた!」

 

 ベレトが向かったのは高台、そのそびえ立つ絶壁。

 まさか……あの壁を駆け上がる気か? どれだけの高さがあると思ってる? よじ登るにしても途中で矢の雨に撃たれるに決まってるじゃないか!

 

 驚愕したシルヴァンの前で壁に辿り着いたベレトは勢いのままに壁を駆け上がる。本当にそのまま上り始めた姿に唖然としてしまうが、すぐに勢いは弱まって進めなくなった。

 そこから落下するようなことにはならず、体が完全に止まってしまう前にベレトは壁を蹴って飛ぶと、空中で天帝の剣を構え──振り上げた。

 

「……なんだありゃあ」

 

 呆けたように言葉を漏らすシルヴァンが見たものは、彼の人生観を変える光景だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天帝の剣は、英雄の遺産の中でも群を抜いて強力なもの──そうレアから説明されて実際にどんなものか試しはしたものの、使えば使うほど、振れば振るほど、天帝の剣や英雄の遺産のことを知れば知るほど、とてもではないがこの剣がそんなにも強大な力を持っているとはベレトにはどうしても思えなかった。

 

 幸いにも英雄の遺産は世に広く知られた武具であり、調べようと思えばどんなものなのかは調べることができた。こういう時、大修道院の豊富な蔵書がありがたい。

 そうして調べていけば、どの英雄の遺産にもその武勇に相応しい逸話が多数あると知れた。

 

 例えば、ファーガス王家が受け継ぐアラドヴァル。

 今は亡きランベール王によって振るわれたその魔槍は、ブレーダッドの紋章による剛力も相まって絶大な威力を発揮したという。

 戦場で一度その穂先が輝けば、大地は穿たれ、巨岩をも断ち割り、一振りされただけで敵の一部隊が丸ごと薙ぎ払われたという話まである。

 純粋な攻撃力を比べれば、天帝の剣では到底敵うまい。

 

 例えば、リーガン家が保有するフェイルノート。

 弦を引けばつがえた矢を光で包み、放たれた閃光が遥か彼方を討つ魔弓。担い手に風の加護を与え、迫る脅威の悉くを狂わせ逸らしてしまう、さながら気ままに虚空を舞う悪戯な妖精の如し。

 遠方からでも届かせる攻撃性能は言うに及ばず、使うだけで防御にも不足無しと、その利便性も天帝の剣の上を行くと言えよう。

 

 カトリーヌが使う雷霆。ゴーティエ家が管理する破裂の槍。調べられたり直接見てきた英雄の遺産を思えば、どれもこれも攻撃力は明らかに天帝の剣を越えている。

 さて、これは一体どういうことか?

 レアがああも断言するからには何かしらの根拠があっての発言なのだろうが……

 

 秘めたる力があって唯振るだけでは不足、ということならもはや考えようがない。捕れぬ鹿の角算用、狩れぬ熊は肉も無し、である。ないものねだりする趣味はない。

 となれば、剣の使い方に問題があるのか。一介の傭兵として生きてきたベレトは、傭兵ならではの型に捉われない発想で自分なりに使い方を模索した。

 

 天帝の剣という初めて手にした英雄の遺産。

 蛇腹剣という初めて知った武器。

 先入観はむしろ邪魔になるとばかりに、天帝の剣を剣ではない一個の装置として認識し、至った答えが──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベレトがまず思ったのは反省。

 

(飛び過ぎた)

 

 天井に足を着けるという平常ならざる体勢で、見上げる形で見下ろす彼の目には唖然としてこちらを見てくる賊の面々が映る。

 その一角に向けて、ベレトは天井を蹴って飛び込んだ。

 墜落と称してもよい速度で落下したベレトは着地と同時に二人の弓兵を斬り捨てると、迷いなく敵の只中を縦横無尽に駆け回った。

 

「な、何だこいつ!?」

「くそ、殺せ! たった一人だぞ!」

「は、はや、ぐぁ!」

「ちくしょ、来る、っがぁ!」

 

 遥か崖下から単独で、文字通り飛んできた悪魔によって、盗賊団は一気に混乱させられた。

 

 有利な状況で始まった戦闘。セイロス騎士団相手にも優位を保ち、自分達の力は通用している、フォドラ最強と名高い騎士団と渡り合えているのだと手応えを感じかけた矢先である。

 一際若い部隊が踊り出たかと思えばじりじりと戦線を押し上げてきた。苛立って矢を浴びせかけたというのに効果は薄く、焦りが顔を覗かせたその時。

 黒い影が、空を舞った。

 

 圧倒的優位の理由である絶壁を一息で飛び越え、塔の天井にまで舞い上がったその影が盗賊達にもたらしたのは恐怖の二文字。

 空を飛ぶという人の身ならざる動きを見せたベレトの姿は、盗賊の目には人のものとは映らなかったのだ。

 

「っふ!」

 

 己が呼気すらも置き去りにして、高台を駆けるベレトは疾風と化した。

 

 僅かな踏み出しで最高速に達する急加速。慣性の法則に逆らう鋭角の方向転換。高速移動を一足で抑える急停止。そのどれもを可能とする強靭な肉体が、敵の攻撃を悉く回避せしめる奇跡の体捌きを実現する。

 それだけなら驚異的であっても人間の動きだが、そこに加えられた一つの要素が彼を人外の挙動へと至らせた。

 

 敵の攻撃をかわしつつ、ベレトは手に持つ天帝の剣を思い切り石畳に叩きつけた。鈍らな得物ならそれだけで折れてしまいそうな衝撃に天帝の剣はその蛇腹の刀身をたわませると、紋章の力が剣としての形を支えようとする効果によって生まれた反発力で持ち手の体を空高く打ち上げた。

 それは跳躍ではなく飛翔。家屋さえも飛び越えられそうな高みへ身を踊らせ、彼は次なる動きへと繋げる。

 遠く離れた床に向けて天帝の剣を振るう。蛇腹剣の本領でもある刀身が伸びて剣先が床に突き刺さると、元の剣に戻ろうと縮むワイヤーに従って柄を握るベレトの体は空を飛んだ。滑空するその速さは彼自身の疾駆を超え、一筋の流星となって戦場を両断した。

 

 英雄の遺産はただの武器に非ず。秘めたる強大な力は攻撃のためだけに非ず。

 生まれる火力を反発力へと変え、担い手に超速の移動力を与える加速装置として。

 さらには天帝の剣という蛇腹剣のワイヤーを活用して、縦方向の移動力を加味。

 本人の卓越した身体能力を土台とすることで、ベレトは彼以外に為し得ない三次元的な立体機動戦闘を実現したのである。

 

 ──この時代、この世界において、一握りを除いて知る者はいない。同じ天帝の剣を握った解放王が、同じ戦法を用いて戦い大陸に覇を唱えんとしたことを。ある意味ではネメシスの再来とも言える光景が繰り広げられていることを。

 

 今やベレトの高速移動に追いつける者は賊の中には一人もいなかった。防御は回避するに任せて、手に持つ得物は攻撃に専念させる。

 

 天帝の剣は移動にも使うのでこれだけに頼っては手数に欠ける。そこで活躍するのはもう一つ。以前の死神騎士との戦いで折れた鉄の剣に代わり、新調した鋼の剣が逆の手で振り回される。

 鉄製では持て余し気味だったベレトの力を乗せ、踊るような軽やかさとは裏腹に、鋼の重さを以て振るわれる新たな相棒が次々と敵を斬り払った。

 

(いい剣だな。父さんには感謝だ)

 

 愛用していた鉄の剣が折れたことをジェラルトに相談したら、都合をつけて一振りを融通してくれたのだ。支給品だそうだが流石は天下のセイロス騎士団、良質な鋼で鍛えられた文句なしの逸品である。

 

 鈍色と橙色。二条の剣閃が走る度に、ならず者は次々と倒れ、吹き飛ばされる。

 両手の剣を止めることなく振り回して暴れ回るベレトは、戦場を蹂躙する人間大の小さな台風。

 それは人為など及びようもない自然の脅威。傲慢な人間に罰を下すべく、神が遣わせた天の暴力を思わせた。

 

 しかし、ベレトがここまで先行した目的は戦闘ではない。彼は障害を排除するために来たのだ。

 

 高台を走り回りながら目標を捕捉。床に落ちた物。倒れた手に握られたままの物。今も自分に向けられている物。認識できた数だけでも十分だと判断したベレトは動き出す。

 一際高く飛び上がった彼は虚空より高台を見渡す。天帝の剣の刀身を伸ばして振り被り、狙いを定めて振り回した。

 

「──破天」

 

 呟きは言霊となって剣に力を宿らせる。

 赤い残像を描く蛇腹剣は、無数の閃きとなって戦場を埋め、狙う目標──その場にある弓という弓を破壊し尽くした。

 

 そもそもベレトが単独で高台に来たのは、生徒達の進軍を邪魔する敵の弓攻撃を何とかするためである。

 弓兵を倒したところで弓そのものが残ったままでは別の敵が代わりを務めるだけ。ならば敵の武器こそ潰すべき。高台まで先行し、走り回って弓の数を確認したベレトはその全てを破壊すると決めた。

 敵の数を減らしたのはあくまでついで。上空からの弓攻撃という障害を排除して、生徒の進軍を助けるためにこそベレトは一人先行したのだ。

 

 そして、その目的を遂げたならこの場に留まる意味はない。

 着地したベレトは即座に離脱を決めて走り出す。高台の縁から勢いよく空中へと飛び出して、天帝の剣を伸ばして剣先を壁に突き刺すと伸びたワイヤーで振り子のように移動しながら、下で進軍している生徒達と合流しに行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 敗北。そんな言葉が彼らの脳裏を過ぎる。

 たった一人の敵によって散々に蹂躙された盗賊達は、高台で右往左往するばかり。

 指示を出すべき頭目も、今し方見せつけられた光景に呆然としてしまっていた。

 

「何なんだあれは……くそ!」

「か、頭、どうすんだよ。騎士団が……」

「うるせえ! ぼさっとしてんな! 動ける奴を集めて陣形を立て直すんだよ!」

 

 すっかり怯えた部下に檄を飛ばす。

 数分にも満たない僅かな時間で戦局が一変させられたことを、マイクランは理解せざるを得なかった。 

 

 高所という地の利を無視して高台に飛び込んできたあの戦士……黒い外套を翻して暴れ回るあの男の手に握られていたのは間違いなく英雄の遺産だ。あの剣が纏う光の色はよく知っている。忌々しい紋章の力、その発露の証。

 だが、あのような剣の英雄の遺産はマイクランの知識になかった。セイロス騎士団所属の聖騎士だとは思えなかったが、奴は教団が秘蔵していた遺産を操る隠された戦力なのか。

 戦いながら奴が浮かべていたのは紋章だ。見たことない模様だったが、そういう紋章に対応する遺産を持っているとしたらやはり教団だろう。

 

 あの男は崖から姿を消したが、本隊に合流したならもう一度やってくる。その時こそ自分が相手をしなくては。英雄の遺産には、同じ英雄の遺産でなければ対抗できない。こういう時のために手にした力だ。

 

(そうだ。俺がやるんだ……勝って、生きる、生き延びてやる! こんなところで終わらねえぞ。俺の人生はようやく始まったんだ!)

 

 手に持つ破裂の槍を握りしめる。

 

 紋章が何だと言うのか。

 そんなものがなかろうと、自分はこうして力を手に入れたのだ。

 仲間を集め、配下を従え、遺産という強力な武器まで揃えられた。こんなところで終わらせてたまるか!

 

 そうして意気を上げるマイクランに部下の一人が駆け寄ってくる。

 

「頭ぁ!」

「今度は何だ!」

「騎士団の奴ら、もう来やがった! 先頭のガキ共に高台まで押し込まれる!」

「あぁ!?」

 

 報告内容に目を剥いた。

 崖下の騎士団はまだ距離があったはずだ。あの男が高台を去ってから大して時間は経っていない。いくら何でも敵の進軍が速過ぎる!

 まさか今までの戦闘は力を抑えていた? こちらを油断させるために、あえて進軍を遅らせて、高台にあの男を送り込んだ隙に一気に進めてきたのか。

 

(舐めやがって……!!)

 

 マイクランは知らない。ベレトが高台へ飛び上がってすぐに、指揮を託されたエーデルガルトが即決で動き出したことを。

 ベレトの動きを見て、彼が高台からの脅威である弓の一斉射を何とかしてくれると察したエーデルガルトは、この機を逃してはならないと学級の生徒達に全速前進を指示。上空からの足止めがなくなったことで一気に戦線を押し上げたのだ。

 生徒達は比較的身軽だったこともあり、鈍重な盾兵のギルベルト達を振り切る速度で猛進した結果、戻ったベレトと合流した時には高台の目前まで坂道を進められていたのである。

 

 そしてついに高台まで押し込まれた盗賊は生徒達と向かい合う。非常に若い集団に追い詰められたことに彼らは焦りを隠せずにいたが、そんな反応を置き去りにして再び事態は動かされる。

 先ほど散々に引っ掻き回してきた黒衣の男、ベレトによって。

 

 またも高く飛び上がったベレトが盗賊達の真上まで来ると、今度は自陣に向かって天帝の剣を伸ばす。そこから一人の生徒に巻き付かせて引っ張り上げて、なんと盗賊達の後ろ、高台の奥の方へぶん投げたのである。

 

「っだは!」

 

 落とされた赤毛の生徒が転がる横で、ベレトが靴底を滑らせながら危なげなく着地する。そこは盗賊が構えた陣形の真後ろ、固めた守りを文字通り飛び越えて敵将の目の前に踊り出たのだ。

 

 引き戻し、という技法がある。自分と隣り合う味方を、自分の立つ位置を中心にして反対方向へ移動させる戦技だ。

 本来は混戦の中でも味方同士で立ち位置を調整させて次の連携に繋げるためのものだが、ベレトはこれを純粋な移動技として、それも前衛の盗賊という壁を飛び越えさせるための省略技として用いたのである。

 自陣から敵の真上へと飛び出し、そこを基点にして伸ばした天帝の剣で味方を拾い上げ、自分と一緒になって敵を飛び越えて一気に陣深くまで侵入する。

 こんな豪快な引き戻しの使い方など、フォドラの誰も見たことがない。

 

「っててて……先生、今のは流石にあんまりなんじゃ……」

「立てシルヴァン」

「あ、はい、そうですね」

 

 荷物のような扱いに思わずといった調子で零れた文句に耳を貸さずベレトは振り返り、今し方飛び越えた盗賊達へ向き直る。せっかく構えた陣を無視されてしまい泡を食ってこちらに来る敵を留めるため。

 

「邪魔はさせない。後は君次第だ。行ってこい」

「はいはい……やってやりますよ」

 

 そう言ってベレトと背中合わせになり、マイクランへと向かい合う赤毛の生徒、シルヴァンは鉄の槍を片手に構えを取る。

 兄と弟。実に三年ぶりの邂逅であった。

 

「どうも、お久しぶりですね兄上」

「……何しに来やがった。紋章持ちの『お嬢さん』がよう……!」

「破裂の槍を取り戻しに来たのさ。尻拭いをさせられるこっちの身にもなってくれ」

 

 苦々しく唸るマイクランに向けて、軽い調子でシルヴァンは言い返す。その顔に、廃嫡された兄に思う色は見えない。

 お嬢さん。生まれた時から大切に扱われ、守られ、育てられてきた彼を貴族の令嬢に見立てて揶揄する蔑称を向けられても、反応することはなかった。

 

 意外にも、シルヴァンは冷静だった。

 こうして実際に顔を会わせても、自身の心が思ったほど波立たないことに驚いたくらいだ。

 兄の声を聞いて胸に嫌な気持ちでも湧いてくるかと思いきや、脳裏に過去の思い出が過ぎるだけで心は十分落ち着いている。

 

 マイクランを見る。目の前にいる兄。表情を歪め、弟を睨む目付き。顔に走る傷痕はスレン族撃退の任に追従した時の戦闘で負ったもの。かつては触れることすら許されなかった破裂の槍を手にした兄がいる。

 

(変わってねえな、この人……)

 

 顔を見ることも足取りを追うこともできなかったマイクランを三年ぶりに見て、今から戦おうとしているにも関わらず、シルヴァンが抱いたのは安心にも近い感情だった。

 

 対して自分はどうだろうか、と振り返る。

 マイクランが廃嫡されて以降、シルヴァンにかかる重圧はさらに増し、教育も鍛錬も厳しくなっていった。手間がかかる『問題児』がいなくなったおかげでこちらに向かう期待が増えたのだろう。

 そういった重圧も大変ではあったが、幼馴染達がいると思えば心の支えにもなって乗り切れた。マイクランによる隠れた虐待がなくなった分、体にも心にも余裕ができて健やかな成長ができたと言ってもいい。

 紋章という形として分かりやすい才能もあったが、才能があった上に本人の努力も重なり、客観的に考えても周囲の期待に応えられるだけの力を身に付けたのは間違いない。

 

 では、と己に問いかける──自分はマイクランをどう思っている?

 ベレトに課題協力を持ち掛けられた時から、コナン塔に向かう道中も、シルヴァンはずっと考えていた。

 

 幼少の頃から自分を虐げてきた嫌味な兄?

 紋章などという理不尽な生まれの差によって人生を狂わされたことを思えば、マイクランはむしろ被害者だ。

 

 ゴーティエ家の裏切り者?

 嫡子として高度な教育を施しておきながら用済みと分かった途端冷遇されたのだから、この点でも彼は理不尽に見舞われている。

 

 ああそうだ。どう考えようが、俺もあんたも紋章による被害者さ。生まれついた要素一つで振り回されて、周りから好き勝手言われて、散々な思いをさせられたよな。そういう意味では俺もあんたも同類だよ。あんたは絶対に認めないだろうけど。

 

「消えろよ……消えちまえよ! 貴様なんかがいるから、俺はぁ……!」

「いいかげん、その手の言葉は聞き飽きたぜ。ツケを払う時が来たんだよ」

 

 互いに槍を構える。

 殺意を露わにするマイクランと、明確な敵意を向けるシルヴァン。同じゴーティエの家に生まれ、最初に同じ環境で教えを受けたからか、二人の姿は非常に似通っていた。

 兄弟らしい顔立ちはマイクランの大きな傷でも隠せないくらい似ており、髪の色も相まって、年齢差がなければ瓜二つだっただろう。

 破裂の槍と鉄の槍という違いこそあれ、構えた槍の角度も、足にかける重心も、矛先を向ける姿は鏡写しのようだった。

 

 そして二人は激突する。

 

「死ねよおお!!」

「兄上えええ!!」

 

 突き込み。薙ぎ払い。かざして防御。脇を走り抜けて切り返し。

 二人の槍を用いた戦いは、似通うが故に互角の様相だった。

 

 破裂の槍は紋章を持たない人間にとっては仰々しいだけの槍である。マイクランが握っても力を発揮することはできず、逆に重く扱いづらい厄介な得物だ。しかし彼の鍛えられた槍術はその扱いづらい槍をものともせず、十全に振り回す技術は積み上げた確かな努力の証を思わせた。

 対するシルヴァンはセイロス騎士団支給の鉄の槍を振るう。丈夫さはもちろん、軽く扱いやすい槍を使って立ち向かう彼は、何度衝突しても素早く構えを崩さず戦う。それは、士官学校の訓練をサボりがちでも薄れないほど鍛えた技が体に叩き込まれている証左だった。

 

 それでも勢いで言えばマイクランが優勢か。苛立ち。憎しみ。負の感情を容赦なく叩き付けられるシルヴァンがじわりじわりと押されていく。

 

「貴様なんかがいるから悪いんだよ!!」

「づっ……!」

「俺が手にするはずだった全てを奪っておいて、どの面下げて生きてきた!! この悪魔が……! 貴様のせいで俺の人生は狂わされっぱなしだ、死んじまえよ!!」

 

 止まない罵倒と攻撃をぶつけられてシルヴァンは顔を歪ませた。鍔迫り合いのように合わせた槍の柄で押され、徐々に立ち位置が下がっていく。

 

 確かに、シルヴァンが生まれたことでマイクランの人生は狂っただろう。弟が生まれなければ、紋章を持った後継がいなければ、順当に成長した彼がゴーティエ家の当主となっていたはずだ。

 その立場を奪った形になるシルヴァンを厭う気持ちは間違ったものではない。紋章というたった一つの要素で、それまでの全てを奪われたと感じるのはおかしくない。

 

 そう思ったからこそシルヴァンも否定はしなかった。兄の怒りは正しいものだと思うから、彼からの虐待も罵声も受け入れてきた。仕方ないことだと。

 

 だが──それはそれ、これはこれ、という言葉がある。

 憎むのも責めるのもいい。それならそれでこっちも言いたいことがあるのだ。

 

「いつまでも、勝手なこと言ってんじゃねえ!!」

「っごぉ!?」

 

 反転させた槍の柄尻でマイクランの横面を殴り払う。

 

「何が『狂わされた』だ!! 苦労したのが自分だけだとでも思ってるのか!? 俺だってなあ、あの家で大変だったんだぞ!!」

 

 まさか口でも反撃されるとは思ってなかったのか、マイクランの動きが鈍り、今度はシルヴァンが逆に押し込んでいく。

 溜め込んできた想いを、やり場のない気持ちを抱えてきたのは、お前だけではないのだと。

 

「紋章を持たないあんたには分からないだろうよ! 紋章を持つってのがどんな意味か、生まれついて何を背負わされるか、分からないよな! どうせ考えたこともないんだろ!」

「何を……」

「期待も、重圧も、責務も、大変なことを考えようともしないで、羨ましいことばかり気にして、担うべき責任に見向きもしなかったあんたが! 好き勝手言うな!!」

 

 それはシルヴァンがずっと抱えてきたもの。

 誰にも……幼馴染にさえ打ち明けられなかった、彼の鬱屈。

 これをぶつけられるのは、同じ家に生まれ、同じ環境で育ち、たった一つの要素しか違いがない兄しかいないのだ。

 

「あんたは間違った! 戻れないところまで来ちまったんだよ! 覚悟しやがれ!」

「俺が間違ったと、貴様が言うか!? 全ての元凶である貴様が!!」

「ああ言うね! 言わせてもらうぜ! 俺に責任負っかぶせて逃げたあんたにゃ似合いの表現だろうが!」

「ふざけるなよ!! 散々家に守られて、ぬくぬくと甘やかされて育った貴様が! 俺が逃げたと言うのか!? 何もしないでされるがままだった貴様と違って、俺は自力で強くなった! 自分で生きる道を切り開いてきたんだ!!」

「それがお笑い種なんだよ! そんなに嫌ならさっさと出て行きゃよかったものを、ゴーティエに居座り続けたのはどこの誰だ!? 自分が守られてなかったとでも思ってんのか!? 人のせいにしてんじゃねえ、全部あんたが決めたことだろうが!!」

 

 売り言葉に買い言葉。戦いに釣られて口でのやり取りも激化していった。

 

 そもそもの話、どちらもゴーティエに拘り過ぎていたのだ。

 ベレトが指摘したように、逃げようと思えば逃げられた。出奔し、貴族の責務を放棄して、紋章も何も関係ない平民のように生きる道だってあったはずだ。

 シルヴァンは、それができなかった。一言「嫌だ」と言うこともしないで、お役目だからと受け入れて、真面目にこなしてしまった。

 だがマイクランなら? 紋章を持たず、ゴーティエに囚われる理由なんてなかった兄なら、シルヴァンには選べなかった自由な生き方を選べたのではないか。

 

 子供だった自分を庇護してもらえたシルヴァンならともかく、明らかな冷遇を受けて権利まで取り上げられたマイクランの場合、ゴーティエ家に居座り続ける義理などなかったはずだ。

 シルヴァンが生まれた途端、それまで厚遇してきたマイクランを切り捨て冷遇してきた家を、逆にマイクランの方が切り捨てる選択もあっただろうに。

 

「それに、今さらあんたにかけてやれる温情なんてないぜ! あんたはもうやっちゃいけないことをやり過ぎた!」

 

 続けて怒鳴りつけるのは、マイクランと盗賊団が引き起こした罪について。

 ファーガスに生きる者なら一層痛ましく感じることを仕出かしてくれたのだから。

 

 大修道院からの道中、コナン塔に辿り着くまでに近くの村を通り過ぎた。

 酷い有様だった。家屋は倒れ、畑は荒らされ、惨劇に見舞われた村はとても満足に生活できる状態ではなかった。セイロス騎士団が通り過ぎたというのに村人は碌な反応も示さず、力ない眼差しで見送るだけ。盗賊団に襲われたことは明白である。

 少し見れば分かる。夏の今あんな様子では、今年の冬は越せない。ディミトリが見たらさぞかし胸を痛めるであろう光景だった。

 

 あんな真似をしておきながら被害者面して喚くなど、笑止千万。

 マイクランがゴーティエ家の元嫡子ではなく、性質(たち)の悪い賊の頭目に堕ちたことが決定的だと分かる光景を見てシルヴァンの胸に生まれたのは、もはや取り返しがつかないところまで成り下がった兄を討たなくてはいけないことへの諦観。

 ゴーティエを襲い、ファーガスを悩ませ、フォドラに危機を呼び込む逆賊相手に何故こんな考えになるのか、理由に気付いたシルヴァンは初めて自身の奥底にあった想いを知った。

 

 ──俺は、あんたのこと、嫌いじゃなかったよ。

 ──どこか、関係ないところでもいいから、生きていてほしかったんだよ。

 

 それが己の偽らざる本心だったのだと。

 

「ガキの分際で、やるじゃあないか……!」

「そりゃどうも! 兄上こそ、結構なお手前で……!」

 

 互いが槍を弾いた勢いで飛び退ると、にやりと笑うマイクランに向けてシルヴァンもにやりと笑い返す。

 

 その顔は、言いたいことを言い合い、文句も不満も出し尽くして、さながら殴り合いの末に相手を認めて笑みを交わすような、奇妙な清々しさがある表情だった。

 それは二人が初めてやった兄弟喧嘩という全力のぶつかり合いの果てに得られた、確かな絆だったのかもしれない。

 

 この瞬間、今この時だけは、二人はただの兄弟だった。

 血の繋がった者同士の戦いの最中であっても生まれて初めて真正面から向かい合えた気がして、シルヴァンは嬉しかった。

 マイクランの方がどう思っていたか分からないが、表情を見る限りでは以前のような憎しみに染まった雰囲気はなく、この場だけは紋章による因縁を忘れられたように見えた、と思うのは願望が強すぎただろうか。

 

 しかし、兄弟の決着を待たずして事態は動く。

 

「……っぐ!」

「兄上?」

「何だ……う、うわっ……!」

「槍が……?」

 

 マイクランが握る破裂の槍が輝きを放つ。紋章を持たない彼の手の中で赤く輝き、嵌められた紋章石から溢れる『何か』が持ち主を襲う。

 

「く、くそ、何だよこれは! ぐ……あああああ!!」

「兄上!?」

 

 手を覆い、腕を伝い、体を纏っていく『何か』に呑まれるマイクラン。

 絶叫する兄を前にして困惑するシルヴァン。

 

 悲劇が起こる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後のことは、あえて詳しくは語るまい。

 

 破裂の槍を使い続けたマイクランは紋章の力に侵食され、魔獣へと成り果てた。

 その様子に怖れて逃げ惑う盗賊達を蹴散らした黒鷲の学級がベレトと合流し、困惑するシルヴァンと並んで戦って魔獣を撃破すると、力尽きて霧散した魔獣の中から現れたマイクランの死体と破裂の槍の前で一同はしばし立ち尽くす。

 遅れて追いついたセイロス騎士団も遠くから見えていたようで、年嵩のギルベルトも初めて目の当たりにした事実──魔獣が人間から変じた存在だということ──に立ち往生するしかない中、破裂の槍を拾い上げたベレトによってようやく彼らは動き出すことができた。

 

 その後、ガルグ=マクへと帰還したベレトは槍を持って謁見の間へ、レアの下へ向かう。教師として、担当学級の課題の報告のため。

 

「無事に帰りましたね、ベレト」

「ただ今戻りました」

「難しい課題を達成し、見事、英雄の遺産を取り戻してくれたこと、感謝します」

「生徒がいればこそです。特に青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)のシルヴァンが協力してくれたことで大きく助けられました」

「ええ、生徒達の活躍もギルベルトを通じて聞き及んでおります。ですが貴方も、私の期待した以上に天帝の剣を使いこなしているようですね。ふふふ……」

 

 目をかけているベレトの働きぶりが嬉しいのか、レアは上機嫌で労いの言葉をかける。

 

 ちなみにベレトがいつものより畏まった話し方をしているのは、余人の目がないとは言え、今は契約相手への成果報告という仕事の最中なのできちんとしなくては、という意識が彼の中にあるからだ。

 レアとしてはもっと砕けた態度でいてほしいようだが、ベレトが仕事に誠実な性格だということも分かっているので特に態度に出すことはなかった。

 後に雑談できる程度に仲良くなっていくことで、ベレトの話し方もちょっとずつ砕けたものに変わっていくのだが、それはまだしばらく先の話である。

 

 続けてレアは語る。

 マイクランが魔獣へと変じたのは、女神が下す罰であると。

 フォドラに混乱を広げないためにも、今回のことは口外してはならないと。

 

 ベレトからすれば、情報統制にしては甘い措置だと感じないでもなかったが、徒に不安を広めることもないのは同意できたので頷いた。

 上司に当たるレアの願いに反対する理由がなければ、ベレトに否やはない。

 ただし──

 

「破裂の槍は、教団からゴーティエ家へと返還しましょう。さあベレト、槍をこちらへ……」

「お断りします」

 

 ──賛成できないことは、ベレトはきっぱり反対する人間である。

 

「……」

「……」

「……ベレト?」

「はい」

「槍は、教団から正式にゴーティエ家へ返還します。こちらに渡しなさい」

「お断りします」

「っ!?」

 

 聞き間違いではなかった。破裂の槍を受け取ろうとレアが伸ばした手を無視して、ベレトは槍を持ったまま動こうとしない。

 一介の傭兵が、雇われ教師が、大司教たるレアの言葉に真っ向から反対したのだ。

 

「……どういうことですかベレト。私の言うことが聞けないのですか」

「今節、黒鷲の学級(アドラークラッセ)に出された課題は『盗まれたゴーティエ家の英雄の遺産を取り戻すこと』だと把握しています。盗賊の征討はその手段であり、取り戻した破裂の槍をゴーティエ家へ返還するところまでが課題の内容で、レアさんの手を煩わせることはありません」

「っ!?」

 

 若干の威圧を込めて問いかけるも、臆した様子もなくすらすらと話すベレトに驚いてしまう。

 

「本来ならコナン塔での戦いが終わった後、ガルグ=マクに戻らず北上してゴーティエ領まで足を延ばして、ゴーティエ辺境伯へ直接槍を届けるつもりでした。しかし盗賊団との戦闘に加えてマイクランが魔獣になったことで予定外の消耗があり、疲弊した生徒達に無理をさせるわけにはいかなかったので、大修道院への帰還を優先することにしました」

「それでは、貴方はこの後……」

「はい、破裂の槍をゴーティエ領へ届けに行きます。級長を始め、動けそうな生徒を何人か伴わせて今度こそ槍を返還しに。つきましては俺が大修道院を離れて次の授業を行えない間、残っている黒鷲の学級の生徒の面倒をハンネマン先生とマヌエラ先生に頼む許可をください。本人へは出立前に俺から話をします」

「ま、待ちなさい!」

 

 整然とこれからの予定を語るベレトに思わず静止の声を放つレアだが、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 面と向かって自分を拒絶する。そんな人間に会うのは、レアは初めてだった。

 セイロス教団の大司教という、ある意味ではフォドラの頂点に立つと言っても過言ではない存在の彼女にとって、自身の言葉をこうもきっぱりと拒む人間は想像の埒外なのである。

 しかもその相手が、自分が取り立てて散々目をかけて優遇してきたベレトである事実がレアの心をぐらつかせた。

 

 なんでなんで? どうして? 何が気に入らないの?

 私、何かしてしまいましたか? 貴方を怒らせるようなことをしましたか?

 どうして私の言うことを聞いてくれないの? 何が理由なの?

 

 考えても分からないレアは焦るあまりベレトの拒絶そのものしか頭になかった。

 

ベレト(お母様)……私のこと、嫌いになりました……?)

 

 念のために言っておくが、ベレトが徹頭徹尾従っているのは仕事として交わされた契約である。教師として、今回言い渡された学級課題を最後まで全うしようと本人は至って真面目に話しているだけで、そこにレアへの隔意はない。

 強いて言えば、契約主たるレアに対しては一定の敬意を忘れずに向き合わなければと考え、その信用を損なわないように背筋を伸ばして仕事するのだと張り切ってすらいた。

 

 つまりこの状況は、レアが一方的に抱く友愛と、ベレトが向ける敬意がものの見事に食い違ってしまったものだと言える。ベレトはレア本人を拒絶したのではなく仕事上の判断で彼女の提案に反対しただけで、そもそも拒絶と言えるほど拒んだわけではない。

 目をかけてきた部下と仲良くなれたと勝手に思い込んだ上司が、その部下からは仕事上の付き合いで一緒にいただけですと告げられて困惑させられた……とまで表現してしまうのは、流石に気の毒というものだろうか。

 

 そんな感じで頭が真っ白になってしまったレアと、予定を伝えて返事を待つベレトの二人が棒立ちのまま、空気ごと固まる謁見の間。

 下手をすれば秒どころか分単位で固まり動けなかったであろう二人の空気を動かしたのは、乱入してきた第三者であった。

 

「失礼します!」

 

 けたたましく扉を開いて謁見の間に現れたのはシルヴァン。緊張の色でその顔を染め、大股で近付いてくる姿を見てレアは我に返る。

 ベレトと二人きりの場に飛び込んできた部外者だが、そのおかげで幾らか正気に戻ることができた。

 

「レア様、我がゴーティエ家の英雄の遺産を取り戻してくださったこと、感謝致します」

「……ええ、貴方達の奮闘によってフォドラの安寧がまた一つ守られました」

「それで、その、どうかその槍を、私に授けてはいただけませんか!」

 

 ベレトの隣まで進み出てきて、頭を下げて頼み込むシルヴァン。

 二人きりの状況を部外者に邪魔されたと微かに感じていたレアだったが、彼の発言を聞いて素早く頭を巡らせた。

 

 これはある種のチャンスである、と。

 

 破裂の槍を一度教団の管理下に置いた上でゴーティエ家に返還する。そういう工程を経ることで『奪われた英雄の遺産を教団が再び貴族へ下賜した』という事実を仕立て、教団が各地に意思を届かせていること、貴族に力を与える慈悲深さを改めてフォドラに広めることができる。これがレアの狙いだった。

 ところが、槍を取り戻したベレトがレアに渡すことを拒み、彼が直接ゴーティエ家に届けに行くとなれば全く別の結果になってしまう。レアが取り立てたとは言え、士官学校の教師が課題に従って英雄の遺産を届けたとなれば、それはあくまでも学校内の功績に留まるのだ。これではセイロス教団の影響はほとんどないに等しい。

 

 そこへ現れたシルヴァンの嘆願。

 彼は紛れもないゴーティエ家の者である。紋章を持ち、生まれた時からそのための教育を受け、破裂の槍を持つに相応しい人間だ。

 そのシルヴァンから頭を下げられて、廃嫡された兄から槍を取り戻すという家の恥を雪ぐ功を上げた彼に、大司教である自身の前で英雄の遺産を授ける……こういった筋書きであれば大義名分はギリギリ成り立つ。

 

「破裂の槍を受け継ぐことの意味を、分かっていますか?」

「はい」

「次代のゴーティエ家当主として……二度とこのような不祥事を起こさぬと、誓えますか?」

「家名と、兄の命にかけて、必ず!」

「……いいでしょう。ですが一つだけ、貴方以外の者にその槍を振るわせてはなりませんよ。その禁を破った者の末路は、貴方の兄がしかと見せてくれたでしょう」

「はい。肝に銘じます」

 

 力強く言い切るシルヴァンへ頷きを返すと、横で成り行きを見ていたベレトへ声をかける。

 

「ではベレト。この場でシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエを一時的にゴーティエ家当主代行として認めます。彼に槍をお渡しなさい。それならば貴方の言う課題の内容にも沿うでしょう」

「分かりました」

 

 あれだけ拒んでいたくせに今度はすんなり従うベレトへ、ちょっとだけモヤっと感じるものがないわけではなかったが、彼の声がいつも通り平坦なことに内心安堵したレアは何も言わなかった。

 

「シルヴァン、これを」

「はい。ありがとうございます先生」

 

 そんなレアの目の前で、特に気負った様子もなく破裂の槍を差し出すベレトと、槍を両手で恭しく受け取るシルヴァン。

 こうして黒鷲の学級の課題は無事決着を迎えたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、何とかなりましたね。お疲れ様です」

「お疲れ様。槍を取り上げられずに済んでよかったな」

「先生を巻き込む形にしちゃってすみません。俺だけがお願いしたってレア様は聞き入れてくれなかったでしょうし……あの人、あんたにかなり甘いみたいですから」

「それは分からないが、俺は仕事をしただけだ。最初に結んだ契約内容が後になって不利になると判明しても、一度決めた以上やり終えるまでは契約に従って行動するものだ」

「それも傭兵の流儀ってやつですか?」

「いや、俺個人の信条だ。少なくとも内容に不備がない限りは契約を順守することにしている」

 

 誰もいない修道院の廊下で、シルヴァントはベレトと並んで息を吐いていた。

 先ほど退室した謁見の間での緊張した雰囲気はなく、予定調和とでも言うべき安心感があった。

 それもそのはず。ここまでの流れは打ち合わせた通りの展開なのだから。

 

 コナン塔での戦闘が終わった後。

 魔獣戦のどさくさに紛れて散り散りに逃げ出した盗賊をすぐ追跡するのは難しいと判断して、大修道院への帰還を決めた一行は後始末と撤収に動いた。

 少数の怪我人の手当てを済ませてから塔を出ると、帰途に就く道すがら、シルヴァンがベレトに話しかけてきたのだ。

 

 あんな結果になってしまったが、それでも兄と言葉を交わせてよかったこと。

 この課題に誘ってもらえなければ自分は燻ぶったままだっただろうこと。

 そうしてベレトに感謝を伝えたシルヴァンだったが、併せて一つ不安があると口にした。

 

 曰く、このままでは教団に槍を没収されるかもしれない、とのこと。

 

 前述したように、ファーガスにおいてゴーティエ家が担う役割は大きい。北の守りとして存在感を誇示していなければスレン族を調子づかせるし、貴族としての権威が揺らいでしまえば民を不安がらせてしまう。

 その要となる破裂の槍を、このままでは管理不行き届きと見なされてセイロス教団の管理下に置かれてしまう恐れがある、と言うのだ。

 ただでさえ貧しい土地のファーガスに、破裂の槍の管理を名目にして教団の息がかかった者が居座り、ゴーティエ家の権威を揺らがせてしまうかもしれない……行き過ぎた考えかもしれないが、そんな可能性が見えてしまっている。

 

 そこでシルヴァンはベレトに協力してもらって一芝居打つことにした。

 破裂の槍を【教団(レア)】の指示で【息のかかった者(ベレト)】の手から【ゴーティエ家(シルヴァン)】に下賜する、という構図を作り出したのだ。

 些か面倒な工程ではあるが、こういう筋書きがあったのだと示せば両者の顔を立てられて、糾弾があったとしても回避できるという寸法である。

 

「貴族社会は大変なんだな」

「まったくです。あちらを立てればこちらが立たず。どっちも立てようとするなら、予めあちこちに根回しするしかない。まあそれでも、多少の面倒を呑み込めば事が済むってんなら苦労の甲斐があるってものですよ」

 

 肩をすくめるシルヴァンは手に持った破裂の槍を見つめる。

 これのために……こんな物のために、自分達は振り回されてきた。

 この槍のおかげでゴーティエ家がスレン族に対して有利でいられたのは分かっている。それでも感謝の気持ちが湧いてくることはなく、シルヴァンにとっては相変わらず忌々しい代物だ。

 だが、それも昔ほどではない。短い間だったとは言え、兄も使った武器をこれからは自分が使うのだと思えば印象は変わる。

 

 マイクランと幾らか言葉を交わし、多少なりとも蟠りを解消することはできた。

 貴族に生まれた以上、紋章によって人生を左右されるのはある程度は仕方ないことだと思えた。その上で自分は兄を憎く思っていても、それ以上に尊敬と親愛の情を抱いているのだと自覚できたのだから、いい。

 この先の憂鬱なお役目にも、先ほどレアに宣言したように、死んだ兄に恥じない姿勢で臨もうと意気込む理由が得られたのだ。

 

 まあそれはそれとして今までのように軽い女遊びはやりたいけど──などと頭の隅で考えているところは安定のシルヴァンと言えるが。

 

 そしてもう一つ、あの戦いでベレトが身を以て示してくれたことがある。

 天帝の剣は、英雄の遺産はあくまで道具であるということ。武器として振るうのは使い方の一つであり、持つ者次第で幾らでも使い道がある道具でしかない。

 破裂の槍も同じだ。ゴーティエ家が抱える英雄の遺産。異民族からの守りの要。何かと重要な武器ではあるが、数ある道具の内の一つでしかない。そう考えると、この槍に対して複雑な思いを抱いていること自体が馬鹿馬鹿しくなってきたのだ。

 これからはもう少し平坦な気持ちでこの槍とも向き合えるだろう。

 

 そうやってあれこれ考えながら廊下を歩いていると、隣からベレトの気配を感じない。振り返ってみると彼が何やら考え込んだまま立ち止まってる姿が見える。

 

「先生? 何かありました?」

 

 釣られてシルヴァンも立ち止まる。今し方まで平然とした表情でいたのに、急にどうしたのか?

 いつの間にかベレトの表情の違いが分かるくらい彼のことを理解できるようになっていた。無表情でもその目には生徒への思いやりがあることをシルヴァンは分かっている。

 

「シルヴァン、君は以前、俺に言ったな。自由な生き方なんてとっくに諦めた、と」

「ええ……俺のような奴に自由はない。あんたと違ってね」

 

 以前、町で会った時の会話を蒸し返そうというのか。

 あの時はちょうど女の子に頬を張られて、出くわしたベレトが徐に回復魔法をかけてきた姿に苛立って一方的に感情をぶつけてしまったので、シルヴァンとしては気まずいのだが。

 

 ベレトの真意が分からず、相槌を打つに留める。

 

「行き先も、進む道も、全て生まれつき決められていると言った君にも、一つの自由がある」

「……何のことですか?」

「速さだ」

 

 その一言は不思議とシルヴァンの胸にストンと納まった。

 

「人生は旅路に例えられる。普通の人は進む道を自分で考えて、調べたり試したりして進路を決める。選択肢は少なくても自分の意志で。俺は傭兵をやっていたが、もしかすると父さんについていかず傭兵にならない道もあったかもしれない。想像は……できないが」

「先生は、なんか、器用に生きていけそうですしね」

「かもしれない。そしてシルヴァンの場合、そうした選択ができなくて一本道しか許されなかったんだろう。だが、その一本道をどんな速さで進むかという自由は君にもあるはずだ」

「進む速さ……」

「歩くか、駆け抜けるか、道草を食いながらか。もちろん周囲に急き立てられることもあるだろうが、それでも君の足取りを決めるのは君だ」

 

 傭兵として生きてきたベレトが貴族の役割や重要性に疎いのは仕方ないことだ。彼とてその手の観念に理解が浅いのは自覚していよう。その上で教師として生徒を導くために、自分にできる範囲で言葉を連ねようとしているのだ。

 

「俺は、立ち止まらないでほしいと思う。ゆっくりでいいから歩き続けて、君に成長してほしい」

 

 相変わらず感情が見えない無表情。その何を考えているのか分からない目線は、決して相手から逸れることがない。

 

「進む道が一つしかないなら、他に目移りせず一つに集中できるということだ。何らかの目標を据えて、それを終わらせてしまえ」

「……たはは、簡単に言ってくれますね」

 

 思わず笑ってしまったシルヴァンだが、もう分かっている。ベレトはいいかげんな気持ちでこういうことを言う人間ではない。

 きっとベレトはいつだって本心で話している。遊びのない無骨な態度は、ともすれば無機質と思われるかもしれないが、その中に常に生徒への思いやりがあることが感じられた。

 

 貴族社会の迂遠な言い回しは好まないシルヴァンにとって、飾らずそのままに言ってくれることが心地よい。

 フェリクスの剣のように鋭く、イングリットの声のように遠慮がなく、ディミトリの目のように慈しみがあり……流石に持ち上げ過ぎか?

 

(そうか、俺が好きなものをたくさん向けてくれるから、俺はこの人を嫌いになれないんだ)

 

 彼のことを不気味だと感じていたはずなのに、いつの間にか彼と向き合うのに抵抗がなくなっている自分に気付く。

 

 羨ましいという気持ちは今でも変わりない。何もかもを投げ出して出奔してしまえばベレトのように自由に生きることができたかも、という憧れは消えないだろう。

 もちろん彼が指摘したように、シルヴァンがその道を選ぶことはない。ただ……意識が変わったのは間違いない。そういう生き方があるのだと知り、その上で自分の意志で今の道を選んだと自負してこれからは生きていくのだ。

 

 この意識を教えて、いや、気付かせてくれたのは目の前の新任教師。

 無表情でこちらを見てくるベレトを、シルヴァンはもうすっかり気に入ってしまっていた。

 

「シルヴァン?」

「……あーあ! 本っ当に、あんたって不思議な人ですよ、先生」

 

 衝動のままにベレトと肩を組む。不思議そうにこちらを見てくる無表情がおかしくて、顔が緩むのが止まらない。

 

 殿下が先生を上手いこと引っ張ってくれれば将来おもしろそうなのにな──そんな未来予想図を膨らませながら、シルヴァンは肩を組んだままベレトと並び歩いた。




 ここで言っておきますと本作ではスカウトみたいに学級を移って授業を受ける生徒はいません。シルヴァンも青獅子の学級に在籍したまま第二部へ進みます。
 それでも彼がここで知ったことは未来に確かな影響を与えるでしょう。

作者の活動報告に載せた後書き


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捏造支援会話、壊刃と教師B

 エモエモ親子。バトルシーン添え。


 森の中を駆ける。

 往く手を遮る木、視界を阻む薮や小枝、それらに惑わされないように走る角度を調整しながら、相手を意識の中央に置いて間合いを測る。

 互いに平行線を引く形で駆けながら時折交差するのに合わせて打ち合う。

 

 斬、弾、斬殴避、跳蹴弾伏、突防、斬斬避、突き飛ばす!

 払、突、防防蹴、薙避突払、避払、弾弾蹴、追いすがる!

 

 高速移動に剣戟を絡める達人同士の戦闘は誰の目にも留まることなく続けられ、森の中を疾走する二人は不意に開けた場所に飛び出した。

 瞬間、互いの感覚がここが勝負どころだと叫び、疾走は平行から正面衝突へ移る。

 

 ベレトの剣が。

 ジェラルトの槍が。

 次々に繰り出される攻撃と防御がぶつかり合う。それぞれの手で振るわれる武器が訓練用のものであることを除けば、その様相はまるで英雄同士の決闘の如く迫力に満ちた光景だった。

 

 間合いに勝る槍の攻撃を最低限の見切りでかわしたベレトは大きく踏み込み、剣を翻してジェラルトに斬りかかる。至近距離から振るわれるベレトの剣を、同じく剣閃を見切ったジェラルトは細かい体捌きでかわしてみせる。

 こう来たらこうなる。ああ来たらああする。呼吸が合わさるようにずれない剣戟が続き、二人の戦いは激化はしても乱れない。

 

 そう……お互いの力量も、戦いの癖も、よく分かっている。同じことの繰り返しでは結果は変わらない。地力の差で以前と同じ結末を迎えるだけ。

 ならば、新しく身に付けたもので流れを変えるまで。

 

 下から跳ね上がる穂先を、剣の柄頭で弾き落としたベレトに向けて、弾かれた勢いを利用した槍の逆端が今度は上から襲い掛かる。踏み込みながら切り払うように弾いたところで、槍から片手を放したジェラルトが蹴りを繰り出した。

 顔面に当たろうかという蹴りに向けてベレトは咄嗟に膝を上げる。足同士の衝突で生まれた力に逆らわず、体が浮くに任せてジェラルトとの間合いを空けた。

 

 せっかく詰めた間合いを空けて、槍相手の戦いで先手を譲る選択をするベレトに対して訝しく思うも、直後、息子の動きを見てジェラルトは目を見張った。

 飛んだ勢いで距離を取ったベレトは再び森に紛れるような真似はせず、着地から即座に疾走。こちらに向かってまっすぐ駆けてきたのだ。

 そのベレトの目から何故か『回避』の意思が感じ取れない。彼の狙いが分からなくて──味方の援護が望めない一対一の勝負で無策の突撃なぞ愚の骨頂──驚き、しかし戦士の本能に従うジェラルトの体は考えるより先に反応した。

 

 槍の間合いを存分に生かす突き。遠間から、相手の反撃を気にすることなく、一方的に攻撃できる槍の強み。

 剣では振っても相手に届かず、まずは防がないといけない、そんな間合いで。

 その突きに向かって、ベレトは眼前に剣をかざす構えで応じた。

 穂先が剣にぶつかる刹那、槍を巻き込むように、はたまた添うように、ベレトの体が独楽の如く回転する。勢いよく接触することで衝撃が生まれるかと思いきや、突きはそのまま背後へと流された。

 

 受け止める防御ではない。

 受け流しという、受けて、流す、二つの動きを繋げたものでもない。

 ただ、流す。滑らかな斜面に当たる水のように、穂先に一切の停滞を与えることなく突きの勢いを後ろへと逸らしてしまったのだ。

 

「うおっ!?」

 

 想定を超えた展開にジェラルトは思わず声を漏らしてしまった。ついに表した彼の動揺をベレトは見逃がさない。

 

 回転の勢いを止めないまま攻撃へ転じる。一瞬の交錯に剣を振っては間に合わないので、握らない方の手で裏拳を繰り出した。

 それでも流石は【壊刃】と言うべきか。驚いた意識の中、乱された体幹でも咄嗟に腕を引き、ベレトの裏拳を辛うじて防いでみせる。

 

 ジェラルトならば、父ならば、この攻撃も凌いでみせる。そう考えていたベレトは焦らない。

 すでに咄嗟の行動を防御に使ってしまったジェラルトには後がない。対してこちらはまだ体が止まっておらず、さらなる追撃へ繋げられる余力がある。

 

 脇を走り抜けるのに合わせて体の軸を揺らさずだめ押しの半回転。捻れが生む勢いの全てを足に乗せた後ろ回し蹴りが、ジェラルトの背中へと叩き込まれた。

 

「ごぁ!?」

 

 肺にまで通る衝撃に、無理やり押し出された声がジェラルトの口から出る。倒れる体を片手で支えて側転して着地した時には、対面のベレトは握り直した剣を向けていた。

 釣られて自分もすぐに槍を向けるが、そうする前から理解できていた。

 

 偶然ではなく必然のタイミングで体を崩されて、一撃を与えられたジェラルト。

 攻撃後の残心も忘れず、油断なく構えを取るベレト。

 これが実戦だったら今ので終わっていただろう。

 

「……ちっ、参った」

「?」

「一本だ。お前の今の蹴り、背中じゃなくて後頭部を狙えただろ。当てる位置を変えるだけの余裕があったんだな?」

「ああ」

「なら決まりだ」

 

 槍を下げて構えを解く。息を吐き、戦意を鎮めた父の前でも剣を下ろさない息子に向けて、小さく笑いながら告げてやる。

 

「お前の勝ちだ、ベレト」

 

 ベレト、父に初勝利。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何ぃ、レア様から格闘の研修!?」

「少し前から受けてる。あの人も体を動かすのが楽しいみたいだ」

「は~……お前、すごいことしてんな」

 

 手合わせが終わり、水筒と手拭いを置いてあった位置まで戻って休みながらベレトとジェラルトは話す。

 

 場所はガルグ=マク大修道院の外、郊外の森の中。訓練所とは違い、整えられていない自然の中で、遮る物も見物する者もいない環境、一切の邪魔がないところに二人はいた。

 先ほどまでやっていた戦い──別に決闘でも何でもないただの手合わせ──は以前やったものとは違って、地の利は平等、立ち回りを生かすも殺すも自分次第という、より実戦に近い状況を想定した戦闘である。

 

 その内容について話し、ジェラルトの隙を引き出してみせたベレトの動きについて言及すると、ここ最近彼が教わったものだと判明したのだ。

 極限まで無駄を省いた直線的な動きに円運動による防御を加えた、新しい『攻撃的な防御』は、見事にベレトの勝利へ貢献してみせた。

 

「何にせよ、大したもんじゃねえか。さっきの動きは俺も知らねえぞ」

「大司教に伝えられる武術、らしい」

「そんなものがあるのかよ」

 

(レア様がこいつにねえ……一介の傭兵にそんなものを教えてどうするつもりなのやら……まさかこいつを次の大司教に据えようってわけでもあるまいし)

 

 つい疑う気持ちが浮かんでしまうのは仕方ないだろう。過去に思うところもあり、ジェラルトとしてはどうしてもレアに対して隔意を抱いてしまいがちだ。

 それをベレトにまで求めるのは難しいことなのか。息子からすれば純粋に契約上の依頼主で、普通に仲良くする分には口を挟むのは無粋かもしれない。現にこうして彼の成長の助けになったのだし、傭兵だろうが教師だろうが目をかけてもらえるのはありがたいことである。

 しかし、父親として完全に気を抜くわけにはいかない。何しろ事はベレトと、そしてシトリーにも関わるのだから。

 

「父さん」

「あ?」

 

 考え込んでいたところをベレトから呼ばれ、ジェラルトは胡乱な返事をする。

 

「母さんの墓の石を見た。没したのは1159年。母さんの死と引き換えに俺が生まれたとレアさんから聞いたから、同じ時に俺が生まれたことになる」

「……そうだな」

「そうすると、1180年の今、俺は21歳ということになる」

「まあ、そうなるな」

 

 ちょうど考えていたシトリーのことを言うベレトに意識を戻すも、彼はそこで言葉を切って黙ってしまう。

 

「……」

「どうした?」

「いや……」

「何だよ、珍しく歯切れが悪いじゃねえか。言ってみろ」

「……20歳になる前に父さんから一本取れなかった」

「はあ?」

 

 無表情のままでも、こちらと目を合わさず、そこはかとなく不満さを滲ませた声でベレトが溢したのは、密かな目標を果たせなかった子供のような愚痴。

 初めて目にする息子の姿にジェラルトは呆気に取られ、急におかしくなってきた。

 

「はっ、生意気言いやがる」

「っ……」

「一本取った程度で調子に乗るんじゃねえ。俺はまだまだ現役だぞ。これから先もお前に負ける気はないからな」

 

 手を伸ばしてベレトの頭をぐりぐりと撫で回す。されるがままの様子を見ていると彼が幼い頃と変わっていないようにも見えて、少しだけ父親としての矜持が保てた気分である。

 

 ただし。

 ベレトとていつまでも子供のままではない。

 今言ったように21歳の息子は、この地を訪れてからはその心を急成長させているのだから。

 

「そういう父さんはどうだろうな」

「何だよ」

「息子に初めて負けても意地を張る姿を見たら母さんはどう思うかな?」

「……ちっ、言うようになったじゃねえか」

 

 一度自分でも認めた敗北を、だから何だと突っぱねて、上から目線で息子を撫で回す父親。

 確かに、ちょっと……情けない、かもしれない……

 

 しかし、とジェラルトは思考を変えた。

 

(シトリーが見たら、か)

 

 頭に手を乗せたままのベレトを見て、ジェラルトは妻を思い出す。

 こうして改めて見ると、何ともシトリーに似た顔立ちに育ったものである。体付きの方も鍛えられてはいても細身で、はっきり言って自分とはあまり似ていない。

 

「墓石を見たなら、あいつが20で死んだのも知ってるな」

「ああ。生まれが1139年だった」

「そしてお前は今では21歳か」

 

 分かっていたこととは言え、ベレトは母親の年齢を追い越してしまったのだ。

 あれから結構な時が経っているが……彼女の姿は今でも鮮明に思い浮かべられる。

 

 死した人が何を思うか、生きる者には想像するしかできない。

 それでも分かる。我が子を愛し、命を懸けて産んだベレトの成長した姿を見たシトリーが何を思うかなんて、ジェラルトにはそれこそ手に取るように。

 

 幸せに思うはずだ。大好きだった花に負けないくらい、満開に綻ばせるような笑顔で喜ぶに違いない。そして駆け寄り、抱き締めて、こう言うのだ。

 

大きくなったな、ベレト(大きくなったね、ベレト)

 

 片腕で包み込めてしまうくらい小さな赤ん坊だった息子を思い出し、ジェラルトは感慨深い気持ちに包まれた。

 この生き辛いフォドラで、傭兵なんていう厳しい仕事をしていながら、彼がこんなにも強く逞しく育ったことを嬉しく思う。これが俺の息子だ、と誇らしく思う。

 自慢して回りたいという考えが一瞬だけ頭を過ぎり、流石にそれはと思い直して取り止めるが、口元が緩むのは抑えられなかった。

 

 言われたベレトはきょとんとした顔をして、徐に自分の手をまじまじと見つめる。手を握ったり開いたりして眺めると、再び向き直ってから言った。

 

「母さんが産んで、父さんが育てた。ありがとう」

「……そうかい」

 

(それを言いたいのはこっちだよ……)

 

 しばらくの間、心地好い沈黙に包まれる二人はどちらも立ち去ることなくその場に座り続けた。




 ルミール村調査の課題の後、ジェラルトが二人で話そうって主人公に言うやつ、結局ゲーム内では叶わなかったのを見てどこかでそれっぽい話とかできないかと考えてました。本編に影響しない程度に二人で話して、ついでにシトリーのことも話題に出してあげられればと思って書きました。

作者の活動報告に載せた後書き


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悪魔の暴虐、変貌の末に

 注意。ベレトがキャラ崩壊を起こしているように見えますが、ちゃんとベレトです。
 後、かつてないほど過激な描写があります。脳内にイメージする時はご注意ください。


 【灰色の悪魔】。

 それはベレト=アイスナーが傭兵として活動していた時、その実力と、あまりにも変化のない表情への畏怖と揶揄が込められた異名である。

 

 幼い頃から戦場で生き、眉一つ動かすことなく敵を屠る様は悪魔の所業。

 いつからか決まって羽織るようになった黒い外套はさながら悪魔の翼。

 立ち居振る舞い全てが、彼を常人ならざる存在なのだと示していた。

 

 そんな彼が士官学校の教師となり、多くの人と触れ合うことが契機となったのか、その心は花開く。

 微笑みを浮かべて喜びを。

 一瞬目を見開いて驚きを。

 静かに眉を下げて悲しみを。

 無表情を常としながら折々に小さくも確かに表情を変える彼の中で、着実に情緒が育っていた。

 

 まるで心を知らなかったかのように。

 はたまた元から心がなかったかのように。

 真相は不明である。

 

 人として生まれながら人の心を持たないなどあるわけがない。彼はたまたま育つのが遅れただけで、これからは遅れを取り戻すように感情豊かになるだろう。

 ガルグ=マク大修道院での生活を通してベレトの人柄が知れ渡るにつれ、周囲はそう評するようになった。人々と積極的に関わるようになった本人の人徳のなせる業なのか、その評価はおおむね好意的で期待の声が多い。

 

 ベレトとしても自身の中に生まれたものを初めて感じ取り、探り、時には扱いに困り、それでも受け入れて一つ一つ確かめて向き合う日々は充実していた。

 ソティスに見守られて。

 エーデルガルトら生徒を指導して。

 レア達教団の膝元で生活して。

 そんな毎日の中で目覚めたばかりの心が経験することはどれも新鮮で、知らないそれら全てが彼を成長させてくれる糧である。

 

 故に、

 

「うぜーんだよ、おっさん」

 

 ベレトは知らなかった。

 

 怒りとは、これほどまでに抑えの利かない感情だということを。

 視野を狭め、自制を無くし、人を狂わせる激情だということを。

 

 彼は知らなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深い、深い、森の奥で。

 封じられた森という仰々しい名前で呼ばれる、本来なら人が立ち入ることのない領域にて、彼らが対峙するのは未知の敵。

 各学級の生徒と、それを率いるベレトの前に姿を現したのは、黒衣に身を包む謎の勢力と、

 

「あっはははは、来た来た! ようこそ、死の森へ! なーんちゃって」

 

 その一団の中央で嗤うモニカだった。

 かつてフレン誘拐事件の解決と同時に発見され、黒鷲の学級(アドラークラッセ)へと編入された生徒が、誰にも見せたことがない顔で一行を迎える。

 

 いや……一人だけ、その顔を見たことがあった。

 見下す目を。

 嘲笑う口元を。

 それまで見せてきたものとは別人の表情を彼は知っていた。

 父を殺した、あの時の顔を。

 

「そうそう、言ってなかったね。あたしの名はクロニエ。この弱っちい女の体は仮の姿なのよ?」

 

 そこまで言うと、如何なる方法か、一度宙返りしてみせた時には彼女の姿は全く別のものへと変わっていた。

 

「きゃははは! 見たぁ? これがあたしのホントの姿よ!」

 

 以前、調査に赴いたルミール村で、大修道院の書庫番であるトマシュが闇の魔導士ソロンとしての正体を明かした時と同じ変貌。モニカという仮の身を捨て、クロニエと名乗って本性を現した姿に生徒達は驚愕と敵意の目を向ける。

 

「それじゃあ……そこのケモノさん達ぃ! あたしが相手してあ・げ・る! みーんな殺してあげるからぁ、逃げたりしないでね? きゃっはははは!」

 

 けたたましい笑い声を契機にして敵勢が動き出す。森の奥から追加で何人もの黒衣の影が表れ、木々を払って魔獣までもが姿を見せてきた。

 

 大量の敵の出現に生徒達の表情が緊張に染まる。

 それでも油断なく各々の武器を構え、指揮官からの指示を待つ。これ見よがしに迎え撃つ敵の態勢からして、罠が待ち受けていることは明白。いつもの冴え渡る指揮の下、難敵を打ち破らなくてはいけないのだと戦意を高めていた。

 

 ところが、すぐに訝しく思い視線を向ける。

 肝心の指揮官が動かず、固まったままなのだ。

 

「……先生?」

「おい、どうしたよ先生」

 

 ディミトリが、クロードが、不思議に思った生徒の声がかけられてもベレトは反応しない。

 まるで呆けたように、前方を見つめたまま。

 

(せんせい)、指示を! もう戦闘は始まって……師?」

 

 エーデルガルトが呼びかけ、その時になってようやく彼の異常に気付く。

 

 震えていた。腕が、肩が、唇が、小さくも確かに。

 怯えている? ありえない。彼ほどの戦士が今さら戦場で臆するはずがない。

 目の前にいるのは父の仇。誰よりも戦う理由がある。現に手に持つ天帝の剣を、柄を潰さんとばかりに強過ぎる力で握り締めて──

 

 ハッとして見た横顔から、限界まで開かれた目がただ一点を見つめていることが分かった。

 日頃から焦らず戦おうと口にするベレトが。

 戦場に立ちながら、他の全てを忘れたようにたった一つに囚われて固まっている。

 その姿は否応なしにエーデルガルトの不安を掻き立てた。

 

 突如、爆炎が舞う。

 視界に満ちた炎熱に目が眩み、思わず後退りして見直した時にはそこにベレトの姿はなかった。

 

 数瞬見失うも、一歩引いた位置にいたシルヴァンの叫びで察する。

 

「待て先生!!」

 

 彼の視線の先を追うと、凄まじい勢いで敵に向かって突撃するベレトがいた。

 

 すぐに思い当たるのは、彼がコンスタンツェと共同で開発したという新しい魔法の使い方。通常は手から放つ魔法を足から放つことを思い付き、両手に武器を持ったままでも関係なく魔法を使えるようになる、そんな奇天烈な手段を形にしてしまった。

 足の裏から放ったファイアーを地面に炸裂させ、爆発の衝撃を利用することで身体だけではできない超加速を実現したのである。

 

 爆速とも称せる速度で迫るベレトに、敵の先頭にいた魔獣が襲い掛かった。愚かにも一人で飛び出してきた人間を叩き潰すべく、唸り声を上げて迎え撃つ。

 しかし、愚かなのはどちらだったのか。

 この時のベレトの目に映ったその魔獣は彼にとって脅威を感じさせる敵などではなく……言葉にすれば、ただの障害物でしかなかった。

 

 天帝の剣を伸ばして剣先を魔獣の前足に絡ませたベレトに足を止める気配はなく、ただでさえ高速移動している身でさらにファイアーで爆発を起こし、追加で加速。

 絡ませた足を支点にして魔獣の周囲を一周。あまりにも速く動くベレトを見失ったのか、立ち止まってしまった魔獣の顎の下を通過すると力強く跳躍した。

 高速移動もあって空高く跳び上がると、天帝の剣のワイヤーを一気に引き絞る。絡んでいた刀身が収縮することで魔獣の四本足を切り裂き、引かれたベレトは体が墜落する勢いを乗せた鋼の剣で魔獣の首を一刀の下に両断した。

 

 人間とは比べ物にならない生命力を持つ魔獣。

 巨大な体。途方もない力。纏う障壁。多くの数を束ねて立ち向かわなくてはならない強大な敵。

 そんな魔獣を、たった一人であっさりと倒してしまったベレトへ向けられた目は、畏怖の色一色に染まっていた。

 

 慄く敵にも、背後の味方にも、一顧だにしないままベレトは森へと飛び込む。

 振り返ることは、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すげえ……!」

 

 誰が溢したか、ひりつく興奮が隠し切れない声が聞こえた。

 目の当たりにした、戦闘と呼ぶことも憚られる一方的な蹂躙は、大きすぎる衝撃となって生徒を震わせたのだ。

 

 人間より大きく、強く、災害となりうる脅威、それが魔獣である。この世界では人一人で挑んでいいものではなく、騎士団を率いるなどして多くの人と力を合わせて立ち向かうべき巨大な敵。

 その魔獣をたった一人で打ち倒すなど、まるで物語に登場する英雄の如き所業ではないか。そういう場合ではないと頭で分かっていても、若き少年少女達は戦慄と感銘を覚え、思わず体も頭も動きを止めてしまう。

 

 そんな彼らの中でも現状の逼迫を察し、焦る者もいた。

 

「おいおい何やってんだよあの人! やばいぞあれじゃあ!」

 

 最初に口に出したのはクロードだった。焦燥を隠せていない声はいつもの彼らしくなく、周囲の注目を呼ぶ。

 

「どうしたのクロード君? 先生すごいじゃん。そりゃあたし達も追いかけないといけないけど」

 

 ヒルダが反応するが、振り返ったクロードの表情は普段の飄々としたものとはかけ離れたものだった。

 

「馬鹿野郎! お前ら、先生から何を教わったか忘れたか? あの人はいつだって身を守ることを教えてくれたじゃないか! どんな時でも防御ありきって! 今の先生の戦い方じゃあ攻撃一辺倒で防御なんかどこにもないだろ! 死ぬぞあれじゃ!」

 

 焦りに満ちたクロードの怒声を聞いて、全員がようやく理解する。

 

 少し考えれば分かることだ。今のベレトは到底平常心とは言えないと。

 常日頃から戦場を広く見るようにと生徒に教えてきた彼が、合図の一つもなく特攻を仕掛けた時点で異常事態だったのだ。

 

 あれは言わば捨て身だ。防御をかなぐり捨て、ただひたすら攻撃に全力を注ぐ姿勢は確かに一点突破の火力はあるだろうが、身の守りが完全に疎かになる。

 そんなものが長続きするわけがない。必要があればああやって飛び込む果断さは惜しんではいけないのかもしれないが、ならば尚更味方から離れて単独の身で突撃をしてはいけないはず。なのに退く様子がないことから明らかに我を忘れている。

 皮肉なことに、そんな捨て身の戦い方でも一人で何とかできてしまうほどにベレトの実力が飛び抜けていることが、彼を一人で先走らせてしまう状況を作ってしまったのである。

 

 即座に判断して動き出したのは、同行していたジェラルト傭兵団の面々。

 

「お前ら! 俺達はレト坊を追いかける! そっちは陣形を整えて後から来い!」

 

 生徒に指示を飛ばすレンバスを尻目に他の団員は走り出していた。ベレトに引けを取らない快速で次々に森の奥へ向かっていく。

 

「待ってください! 俺達も一緒に──」

「邪魔だ! お前らの足じゃついてこれねえ! 自分のことだけ考えてろ!」

「っ!!」

 

 追いかけようとしたディミトリを一喝して黙らせると、レンバスを最後尾にして傭兵団は全員森に飛び込んでいってしまった。

 止めようとする暇もなかった。

 

 敵陣の只中を突っ切ることになるのだ。立体機動を駆使するベレトに追いつこうとするなら、いくらジェラルト傭兵団と言えど生徒を守りながら進む余裕はないのだろう。

 投げかけられた言葉が互いの関係を端的に示している。

 ベレトと彼らにとって、生徒は足手纏いになるという現実がそこにあった。

 

 屈辱に誰もが歯を食いしばる中、エーデルガルトは素早く頭を働かせる。

 ベレトが不在の今、全体を指揮する役目は自分が負わねばならないと考えて。

 三つの学級それぞれから名乗り出て参戦した生徒達の中心で、若き皇女は一歩前へと踏み出す。

 

 一人突撃したベレトと追いかける傭兵達によって敵の陣営は散々に乱されている。始まったばかりの戦闘でも今こそ好機。

 味方の陣営を脳裏に並べ、戦力を適切に割り振れ。

 地形に合わせた攻め方を構築して、最適な采配をしろ。

 教わってきたものを今こそ生かせ。そのために私は彼の指導を受けてきた!

 

「切り替えなさい!! 横陣を作り、敵を追い詰めるわ!!」」

 

 声を張り上げたエーデルガルトに注目が集まる。彼らの止まってしまった思考を突き動かすために殊更大きく吼える。

 

「ここは戦場! 臆せば死、逃せば敗北! 我らの勝利のため、武器を取り、戦いなさい! 敵は先手を打たれて乱されている! このまま一気に終わらせるのよ!」

 

 力強い声に鼓舞されて生徒達の目の色が変わる。戦場に来たならば立ち止まっていられる理由などないことを思い出したのだ。

 

 危急の事態により今節の学級課題が取り止めになってしまい、敵の捜索をセイロス騎士団に任せるしかない状況を誰もが歯痒く思っていたところ、齎された出撃の報に彼らは大きく湧き上がっていた。

 ジェラルトを殺した敵の討伐に、自分も参加できる!──そう考えた生徒が次々に名乗り出た。

 悪を討たんとする責任感と義侠心から武器を取る者。

 【壊刃】の敵討ちとなれば是が非でもと望む者。

 純粋にベレトの力になりたいと願う者。

 理由は様々でも、その意志は一つだった。

 

 黒鷲。

 青獅子。

 金鹿。

 三つの学級がぶつからず、肩を並べて戦うという稀有なる陣営がここに実現したのである。

 彼がこの場にいないことだけが悔やまれた。

 

「右翼!」

 

 右手で示されたのは、まばらに生える木々が広がる林。

 

「カスパル、ペトラ、ラファエルを前衛へ! 木々の間を素早く駆け抜けて、敵を一人残らず打ち倒しなさい! リンハルト、フレンを後衛へ! 常に回復魔法の準備をして前衛を支えるのよ!」

「っしゃあ、やったるぜえ!」

「森、駆ける、敵、逃がしません!」

「うおおおお! オデの筋肉でぶっ飛ばしてやるぞお!」

「僕は回復と攻撃を半々くらいでやるから、フレンは回復主体でよろしく」

「はい、分かりましたわ!」

 

 指示された生徒が陣の右手側に集まり、意気を高める。

 

「左翼!」

 

 左手で示されたのは、比較的開かれた平らな地形。

 

「フェルディナント、ローレンツ、シルヴァンの騎馬隊を展開! 魔獣を取り囲んで抑えなさい! メルセデス、アネットは遠間から攻撃魔法で削って支援を! 森から出る敵も見逃さないで!」

「いいだろう! こちらは我々に任せたまえ!」

「魔獣とあれば相手にとって不足無しだな。諸君、僕に続きたまえ!」

「でかぶつ担当か……こりゃ気合い入れないとな」

「アン、回復は私に任せて、あなたは前を見てて!」

「分かったよメーチェ! 魔法いっぱい撃つからね!」

 

 駆け出した騎馬隊に続き、魔法使い達も走り出す。

 

「正面!」

 

 前方に広がるのはベレトが飛び込んでいった森。草木が密集して奥が見えないが、蹂躙される敵の悲鳴がここまで聞こえている。

 

「ディミトリ、ドゥドゥー、フェリクス、レオニーで突撃! 師が乱して傭兵団が切り開いた進軍路を確保しなさい! 後詰としてヒューベルトとリシテアが同行! 今は細かい技より魔力量による力押しで抉じ開けるのよ!」

「任せろ! 畜生共を叩き潰してやる!」

「御供いたします殿下!」

「ちっ、猪と共闘か……まあ斬れれば何でもいいがな」

「早く先生を追いかけるんだ! 師匠の仇も逃がしちゃダメだ!」

「エーデルガルト様の指示とあれば、如何様にも……」

「私達が道を作ります。ちゃんと後からついてきてくださいね!」

 

 即席でも突破力のある編成で行かせて、確実な進軍への足掛かりにする。

 

「後陣!」

 

 三方に向かう者達の中央に位置する陣営。

 

「クロードは前進しつつ全体を俯瞰! 戦況の変化を読み取って、次の作戦を組み立てることに集中して! 私とアッシュは彼の護衛役! 次の動きへの伝令役を、左翼側がイングリット! 右翼側をヒルダが務めなさい!」

「よし分かった! 護衛よろしくな!」

「頑張りましょう! 僕達にできる最善を尽くすんです!」

「空の抑えもお任せください!」

「そういう役ね。試験受けたの早まったかな……戦わない役なのは助かるけどさ」

 

 散開する他の面子を見送り、ペガサス(イングリット)ドラゴン(ヒルダ)が飛び上がるのを見届けるとエーデルガルトも前進を始める。

 形としては自身が指示したようにクロードの護衛役として彼の前衛を務めることになり、アッシュと協力して守りながら戦線を上げていかなくてはならない。

 

 本当は、自分の隣には彼がいるはずだった。

 出撃前の冷静な様子から、ジェラルトの仇を前にしても普段のように指揮官として生徒を導いてくれると期待していたのだが、現実にはそうならなかった。別人のように突撃していった後ろ姿が脳裏から離れない。

 嫌な予感が止まらなくて追いかけたくても、今の自分では……自分達では追いすがることすらできない。確かに成長したはずなのに彼に並び立つこともできない至らなさが悔しくてたまらない。

 

(師……どうか無事でいて!)

 

 動きながらエーデルガルトはベレトの身を想った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──父は偉大な男だった。

 

 記憶にある幼少の頃から見上げるほど大きく、周囲の誰よりも存在感があるジェラルトを世界の中心と見立てるのはベレトにとって自然なことだった。

 子供の時は今に輪をかけて無感情で何も考えずただジッと見つめていると、見られていることに気付いた彼が手を伸ばして頭をわしゃわしゃ撫で回したり、抱え上げて肩に乗せてくれたりした。

 

『どうしたベレト、ボーっとして』

 

 口に出さずともそういった触れ合いを通してジェラルトが自分を大切に思っているということが伝わり、それを言葉として表現する術を持たない身でも、自分が嬉しいと感じていたのが分かったのはずっと後になってからだった。

 

 ──父は偉大な男だった。

 

 無感情ではあっても無思考ではなかったベレトは、ジェラルトの姿を目で追う内に傭兵という生業について知るようになり、周囲の人間が傭兵団の仲間であること、彼らを率いる父が戦って自分を守っていることを理解した。

 誰に何を言われたわけでもなく、ベレトは自然とその手助けをしたいと思うようになった。

 

『お前みたいなガキが気にしてんじゃねえ。あ、おい、剣に触るな、危ねえだろ』

 

 窘められても突き放されても意志を曲げないベレトに根負けしてジェラルトが息子を鍛える運びになった当時は、傭兵団の団員を始めとして周囲の人間が何かと目をかけ、手を貸してくれたものである。

 大の大人でも逃げ出したくなりそうな厳しい鍛錬を受けるベレトは辛いと感じる心がなく、無感情故の素直さで【壊刃】の教えを一から十まで余さず学び、その末に団の中でも指折りの戦士へと成長した。

 肉親の情に流されることなく手を緩めない厳しさで鍛えてくれた父をベレトは自然と尊敬するようになった。

 

 ──父は偉大な男だった。

 

 ジェラルトは何も完璧超人だったわけではない。傭兵団を率いて活動する中で失敗や不手際をやらかした時だってある。

 例えば彼は金勘定を苦手としており、酒代を払えずツケにしたことも多かった。だがそれを補填しようと稼ぎを得られるまで切り詰めている間、他の団員、特に若い連中を優先して食わせるために彼は自分の食事はいつも後回しにしていた。

 

『しっかり食えよ。あ? 俺はいいんだよ。酒飲んでりゃ十分さ』

 

 そういって瓶を呷りながら一人席を外す背中を目で追ったことが何度かある。酒代を払えてないくせに酒を飲むとは是如何(これいか)にと不思議に思ったベレトが調べてみたところ、ジェラルトが呷った瓶の中身はただの水だったことが判明した。

 自分だって空腹のはずなのにそれを少しも感じさせず、ジードやダンダ、そしてベレトのような若者を食べさせてくれたジェラルトの後ろ姿は、胸に感謝の念を刻むものだった。

 

 ──父は偉大な男だった。

 

 目の前でジェラルトが背中を刺され、腕の中で息絶える時、ベレトの心に生まれたのは強い後悔の念だった。

 どうしてもっと話せなかったのか。どうしてもっと伝えなかったのか。大好きと、尊敬していると、愛していると、口に出して言えたはずなのに。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって何も言うことができなかった。いや、喉が震えて言葉を出すこともできなかった。

 

『初めて見るお前の涙が、俺への手向けとは……嬉しいやら……悲しいやら……』

 

 違う。こんなものを見せたかったわけじゃない。もっと父を喜ばせてあげられるような、幸せになれるものを見せたかった。自分にはそれができたはずだった。

 こんなところで死んでいい人じゃなかった。自分だけじゃない、もっとたくさんの人から愛を受けて、もっと生きるべき人だった。

 あんな死に方で終わっていい人じゃなかったのに。

 

 ──父は、偉大な男だったのだ。

 

 それを……

 それをよくも……!

 よくもよくもよくもよくもよくも!

 

「おおおおまあああああええええはあああああああああ!!!」

 

 地面スレスレを滑空し、時には跳ね飛びながら片手で鋼の剣を振り回すこと四度。一閃一殺。進路上にいた黒衣の敵を四人、瞬く間に斬り捨ててベレトは飛ぶ。邪魔な障害物を蹴散らして、その先にいる仇に向かって。

 

 超速の低空飛行で飛び掛かるベレトの剣を、クロニエは際どく構えるのが間に合った剣で防いだ。

 

「っづう! うっざいなあもう!」

 

 手勢を盾にして距離を取ろうと同じことを繰り返しているのだが、何度やってもベレトを止めることができず一瞬で突破されてしまう。数秒の時間稼ぎすらできない駒にクロニエは苛立ち、次いでしつこく特攻を仕掛けるベレトをうっとうしく思った。

 

 戦闘開始時に見せていた余裕はもうない。始めはあの程度の挑発とも呼べない煽りであっさり釣れたベレトを見下していたのだが、手駒だけでなく魔獣でさえ鎧袖一触とばかりに容易く蹴散らしていく強さに、警戒の度合いは最大限に高まっていた。

 凌ぐばかりでは戦況は変わらないと分かっているのだが、馬鹿みたいに攻めてくるベレトは立体機動を止めず力尽くの一撃離脱を延々と続けてくるので、反撃の糸口が掴めない状況だ。

 

 クロニエは手段を選ぶ性格ではない。使えるのならどんな手でも使う。侮蔑だろうが挑発だろうが少しでもこちらに流れを向けられればいい、と。

 

「なんだい先生!? 敵の不意打ちを受けたら気が抜けてたってことじゃん! あんたが教えてくれたんだよ、授業でさあ!」

 

 故に煽る。以前、生徒だった自分にベレトが教えた心得。敵から不意打ちされるとしたら、それは相手が卑怯なのではなく自身が油断していたせいである。そんな戦場の心得を教えてくれたではないか。

 

「だったら、あのおっさんが間抜けだっただけの話でしょうが! なーに怒ってんだよ馬っ鹿じゃねーの!!」

 

 授業で教えたということは、ベレト自身もジェラルトから教わったことであるはずだ。ならば、その心得は【壊刃】自身のもの。そんなことすら忘れて突っ立っていたのはジェラルトの落ち度だろうに、何をそんなに怒っているのか。

 クロニエとしてはそんな皮肉を飛ばしたつもりだった。

 火に油だった。

 

 ズシリと、それまでよりもさらに重い殺意がクロニエに向けられる。

 全身にのしかかる圧力。身の奥まで巨大な刃が刺し込まれるような怖気。

 言うまでもなくベレトが発した殺気である。ただでさえ怒り狂う彼がさらに殺意を上乗せするほど、その発言は彼をキレさせた。

 

 直後、予感に従って強引に横へ転がったクロニエのいた位置に雷が落ちる。

 

「っだあもう! あの野郎また……!」

 

 魔力が動いた気配を探り、今度は別方向から飛んできた火球を横っ飛びで回避。

 木の根元に当たって爆散する火の粉を背にして身構えると、さらに別の方向から襲い掛かるベレトの剣をまたも際どいところで防いだ。

 

「父さんは、()()()()()()で死んだんじゃない!!」

「こん、のぉ……っ!」

()()()()()()で殺されたんだ!!!」

 

 強引に剣を振り切ってクロニエを弾き飛ばしたベレトは駄目押しとばかりに足から火球を撃つ。まともに狙いも定めず放たれた追撃は地面に当たり、爆発で両者の間合いを空けた。

 急いで体勢を整えたクロニエが再び走り出し、勢いで跳び上がったベレトは木の幹を蹴ると再び立体機動に移った。

 

 戦いに生きる者ならば、いつかは敵の刃に討たれて死ぬ。実力と幸運によって生き延びられた者であろうとその運命は誰にでも等しく訪れて、人の生死を秤にかける。

 そんな戦場の不文律くらいベレトとて分かっている。ジェラルトがどんなに強かろうと、戦いの中で敵に不意を打たれて死んだのならばまだ理解はできた。

 

 だが、あれは違う。あんな死は納得できない。あんな終わりは認められない。

 あれは不意打ちではなく裏切りである──それがベレトの怒りの根幹だった。

 

 人は信頼によって繋がっている。ジェラルトはそう言っていた。

 傭兵という仕事は報酬次第で付く側をころころ変える卑賎な生き方、そんな風に見下す者もいるがそれは違う。金の多寡に関わらず、何よりも信頼の下に契約は結ばれるのだ。信頼がなければ如何なる報酬もその価値が通じることはないのだから。

 これは傭兵に限った話ではない。

 仕事上の繋がりを始めとして、隣人との協力、仲間との連携、見知らぬ他人であっても手を取り合うため。人の世にある最も大きな力、結束を生む要となるもの。

 それこそが信頼。人が持ちうる何よりも尊い力だ。

 信頼があるからこそ契約は結ばれ、金は流れ、次の繋がりを持てる。信頼があるからこそ、人々は繋がり、未来に向けて発展してきた。

 この教えはベレトが傭兵を志すにあたってジェラルトが最初に言い聞かせたものである。

 

 だからこそ、ベレトは許さない。

 

 前節の課題にて、郊外の荒れ果てた礼拝堂跡に突如現れた魔獣の群れを片付けた直後、保護できたと思った生徒の中からはぐれていたのを装って姿を見せたモニカ。

 少なくとも、あの時点でのモニカは守られるべき味方だった。ジェラルトが保護するべき学校の生徒だった。だから背を見せた。守る対象だと思って後ろへ通した。

 そのジェラルトの背を、保護する相手へ向けた信頼をモニカは裏切った。クロニエとして不意を打ったのとは断じて違う。味方面しておきながら背中を刺した。

 

 許さない。認めない。偉大な男からの信頼を裏切って、その手にかけて、あまつさえせせら笑うこの性根を前にして、どうして我慢ができようか。

 

 今までも冷静だったわけではない。ベレトはずっと分かっていなかったのだ。父の死を前にして自分の心がどんなにかき乱されたか、至った結論がどれほど怒りを呼ぶのか、仇を目にした自分がどんな行動を取るか、何も分かっていなかった。

 

 未成熟な心に生まれた赫怒は普段の冷静さを押し流し、唯一つの念に従って体を突き動かす。

 仇を許さない。あんな結末を認めない。父の信頼を裏切ったお前を──

 

(──許すものか!!!)

 

 天帝の剣で立体機動を続け、鋼の剣を振り回し、足から火球と落雷を生みながら、ベレトは止まらない。

 クロニエに贖わせる。彼の頭にはそれしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【止まれベレト! 止まらんか! こらー!】

 

 呼びかけながら空を飛ぶソティスは置き去りにされていた。誰にも見えない彼女の動きは邪魔されることはないのだが、それでも追いつけないほどの速さで森の中を飛び回るベレトに振り切られてしまったのだ。

 

 ベレトを追いかけて森の奥へ飛んだソティスが見たのは、彼の手で壊滅的な被害を受ける敵の姿だった。魔獣を倒した時と同じように、たった一人の手によって薙ぎ払われる様はまさに虐殺と呼ぶに相応しい有様だ。

 木々に遮られる視界でも辛うじてチラチラと遠くに見えるベレトは、今も高速で飛び回って敵を次々に斬り払いながらクロニエへと迫っている。

 

 飛び出す直前のベレトを思い出す。モニカの姿を捉えた瞬間、視線は固まり、体を震わせていた彼に初めて危うさを感じた。

 出撃前までの落ち着いた様子は何だったのか。ジェラルトの死後、騎士団長室に籠って彼の仇を討つと誓ったベレトを見てはいたが、あの時はここまで狂的な意思は感じ取れなかったのに。

 

【おのれ~、わしの声も聞こえておらんのか。あのうつけ者め!】

 

 モニカ、いや、クロニエと名乗った敵の女が言っていたが、あれでは本当に獣ではないか。脇目も振らず突撃する様は猪と変わらない……青獅子の剣士小僧が王子のことを猪と呼んでいたことを考えると、今のベレトはそれにも劣る無思慮である。

 自身の見る目の無さをソティスは悔やんだ。

 

 生徒とは違い、ベレトの保護者を気取るソティスとしても、今の状況はすこぶる不本意なものである。ずっと一緒に行動していた自分を放置されて矜持が傷付いたし、彼の中にこんな激情が秘められていると見抜けなかったことも不甲斐ない。

 それほどまでジェラルトの存在はベレトの中で大きなものだったということ。そこに割って入ることは誰にもできないのだと教えられたようだ。

 

【わしの声は、おぬしに届かぬのか……?】

 

 つい弱気が漏れそうになるが、いやいやそんなことはないと自分に言い聞かせる。

 

 あの姿を見れば分かるように、ベレトには導きが必要なのだ。ただでさえ経験の浅い若造のくせに、生徒を指導する教師になって何かと負担も大きいはず。まだ若い彼自身にも導きはあって然るべきだ。

 現にああやって心を乱されてしまった時、誰がベレトの側にいてやれるのか。

 ジェラルトはもういない。

 生徒はまだまだ頼りない。

 ならば、例え神たる力を使えなくとも、唯一彼と(よすが)を結ぶ自分こそが支えにならなくてはいけないのだ。

 

 そう思って、枝葉にぶつからないように急ぐのだが、立体機動であっちこっちに飛び回るベレトにはやはり追いつけず焦燥が募る。

 進行方向を大きく変えたりしてクロニエを追う彼にソティスは難儀していた。

 

 おまけに、

 

「レト坊ー! 戻ってこーい!」

「止まれレト坊ー!」

「いいかげんにしろよてめえー!」

 

 ソティスの下辺りには追いかけてきたジェラルト傭兵団がいた。あの状況から一早く飛び出してベレトを追い、敵のはびこる森を突き進んでここまで来たのだ。

 

 敵から見つからず空を飛べるソティスと違って、森という動きにくい地形で出くわす敵を全て蹴散らしながら彼らは進軍している。ジェラルトに鍛えられた精鋭の傭兵団は流石と言える速度で進んできているのだが、それでもベレトには追いつけない。

 

「くっそがぁ! 大司教様もうちの坊にめんどくせえ玩具寄こしてくれやがって!」

 

 不服を隠さずレンバスが怒鳴った。遭遇する敵を打ち払いながらだとその進軍速度は納得できるものではないのだろう。

 

 体一つ、腕前一つで身を立てる傭兵にとって、個人が手にするには余りある力をもたらす英雄の遺産は有力な手段と言うより厄介事の種なのだ。一人の強さが突出しすぎると味方との連携も取りにくくなってしまうのだから。

 現に今、ベレトが単独で飛び出してしまう事態を実現させてしまった。天帝の剣がなければこんなことにはならなかったのに。

 

 これまでは例え天帝の剣を使って戦ったとしてもベレトは冷静に立ち回れていた。本人にも生徒に手本を見せるという意識が常にあったのだろう、一人で全てを負わず広い視野で戦場を見据えて味方との連携も考えた上で戦えた。

 それができたのは、彼にそれだけの資質があったからだ。英雄の遺産に振り回されないだけの土台が叩き込まれていたからこそ天帝の剣を手にする前と変わらない調子でいられたのだ。

 だが、今のベレトにはそれがない。味方のことも、自身の戦士としての土台も、何もかも忘れてただ力に溺れて暴れる姿は、皆が知るベレト=アイスナーとはとても言えない。

 

 あんなのは俺達のレト坊じゃない──ジェラルト傭兵団の面々が、ジェラルトの意思を知る自分達があいつを守り支えてやらなければ、取り返しがつかないことになってしまう。

 ベレトを一人にしてはいけない! そう思い、こうして飛び回る彼を追いかけているのだが……精鋭の彼らを以てしても森を駆ける『ついで』で相手をするには、黒衣の敵勢は手強い存在だった。

 

「おいジード! 俺とお前の足の速さなら抜けられる! 突破して行くぞ!」

「だめだ、待ってくださいヨニック!」

「焦んな馬鹿たれ! お前らがやられちまうだろうが!」

「けどレンバスさん! 早くしねえとレト坊を見失っちまう!」

「わぁってんだよ! いいから離れ過ぎんな!」

「レンバスー! ガロテがやられたー!」

「くっそ! ダンダ、ここまでガロテを引っ張ってこい!」

「あいよー!」

「ドナイ、生徒達がどうしてるか見えたか!?」

「上手いことばらけて戦ってる。たぶんお嬢が指揮役になって指示を出してるんだ。何人かの生徒も俺達を追って森に来てるし、思ったよりやれてるよあいつら」

「じゃあそっちはお嬢に任せりゃいいな……ダンダからガロテを受け取ったら俺についてこい! 急いで戦線を上げるぞ!」

「了解!」

 

 やかましくやり取りしながらも彼らは止まらない。強引に前進を続ける戦い方では無理も大きいようで、焦りのせいか無用なダメージを負う者もいたが止まる様子はなかった。

 全てはベレトに追いつくため、彼の下で支えるため、ジェラルト傭兵団は走り続ける。仲間のために戦っている。

 

 その戦いぶりを上から見るソティスはやり切れない声色で呟いた。

 

【ベレト……おぬしの身を案じる者がこんなにいるのだぞ。それを振り払って突き進む価値があるとは、わしにはどうしても思えぬ……おぬしはこの者らのところにいるべきなのじゃ!】

 

 眼下から前へと向き直るソティスの視界に、うっすらとだがベレトの背中が映る。薄暗い森の中でも天帝の剣が纏う光のせいでその動きは非常に目立ち、おかげで距離はあっても捉えられる。

 見逃しはしない。他の誰が追いすがれなくても、わしは共にいてやるぞ。いつか誰かが隣に立てるようになる時まで。

 

【わしがおぬしを守ってやろう! だから、戻れべレト! この大馬鹿者ー!】

 

 それまで以上に加速して飛ぶソティスは何にも邪魔されずベレトの下へ急ぐ。

 胸に溢れる嫌な予感を振り切るように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 侮っていたつもりはなかったが、考えを改めなければいけない。

 ベレトの猛攻を凌ぎ続けるクロニエは、挑発的な態度を保ちつつ内心で反省する。

 

 少なくとも森に誘い込んだのは完全に失策だった。深い森は身を潜めるにも敵の足を乱すにも好都合だが、天帝の剣を駆使した立体機動で戦うベレトにとっては絶好の環境だったようだ。

 一人で特攻を仕掛けてきた時は馬鹿な奴と舌なめずりして迎え撃ったものの、こうして押し込まれていては認めざるを得ない。

 ベレトは強い。それも圧倒的に強い。まともに戦っては勝ち目がないくらいに。

 

「ケモノの分際で……! 本気のあたしが、こんなやつに……!」

 

 数え切れない突撃をやり過ごし、足を止めないままクロニエは忌々しそうに呟く。襲い掛かるベレトの攻撃は防ぐだけで手一杯で、逃げ続けることに苛立つばかりだ。

 屈辱を噛み殺して逃げに徹するのは、ベレトの強さが自分より格上だと認めたからであり、それがまた一層腹立たしい。

 

 走りながら魔力の迫る気配を感じ取り、急な方向転換で落雷を回避する。一方的に敵の間合いに捉えられている事態に歯噛みした。

 

(間違いない、奴はエピタフだ!)

 

 続けて迫る火球を転がるように避けて駆けながらクロニエは睨み上げる。

 あんなめちゃくちゃな動きをしながら敵を捉えて、武器を振るうだけでなく魔法まで駆使した戦闘を行うベレトに思わず畏怖の念を抱いてしまいそうになった。

 

 そも、魔法とは何か。

 

 この世界における魔法とは、魔力を糧に発動させる超常現象のことを指す。

 火無き所に炎を生み、水から離れて氷を作り、凪の空気に風を放ち、雲無き虚空に雷を落とす。

 その手で癒し、その手で壊し、あるいは呼び寄せ、あるいは送り届け、攻守の他も万事に通ず。

 自然の法則からは有り得ない現象を、魔力を以てこの世に顕現せしめる術。黒と白に大別され、常人の身では望めない神秘を操る技法、それが魔法である。

 そのような秘技を戦闘に用いることができる水準まで身に付けた者だけが魔法使いと呼ばれるのだ。

 

 基本的に魔法の行使には深い集中が求められる。ただでさえ自身の肉体の外側への作用であり、意図した狙いから逸れることのないよう魔力という体以外のものを操作しなくてはならないので、普通なら他に手を付ける余裕はない。

 だからこそ、魔法を使う兵種は通常は魔法を使うことのみを考え、そうではない兵種は肉体的な力だけを振るうように考える。一つの軍の中に組み込まれる時、そういった役割をきっちり分けることで指揮をしやすくなり、他者との連携も取れるようになるのだ。

 

 ただし、何事にも例外はあるもの。

 初級から上級まではそうしてはっきり分けられていても、最上級の極まった兵種ともなれば一部はその慣例から外れる。

 ダークナイトとホーリーナイト。共に行軍は騎馬に任せて自身は戦闘に専念することで、攻撃面は武器と魔法を兼ね備えることに成功した魔法騎士。

 そしてそれ以外に、エピタフと呼ばれる兵種がある。剣と黒魔法、どちらも達人と称せるレベルで熟達させ、その身一つで戦場に立つ魔法剣士だ。鍛え方を誤れば器用貧乏になりかねない危うさはあるが、その難を乗り越えた時、彼らの強みは活きる。

 人は身体を鍛えれば魔法攻撃が苦手になり、魔法を鍛えれば物理攻撃が苦手になるものである。相手に合わせて攻撃方法を切り換えられる手数の広さは生半な兵には望めない。

 そして騎馬に頼らず自前の脚で戦場に立つエピタフは、周囲の歩兵と足並み揃えて連携もできれば、敵陣に突入して単独行動もできる万能さが売りである。

 

 だが今のベレトのように飛び回って戦うエピタフは彼以外いないだろう。

 天帝の剣を使えるのが彼しかいないという意味でもそうだが、エピタフと言えど武器で戦う時は接近して、魔法で戦う時は敵と距離を取るなどして間合いに応じて使い分けるものだ。

 ベレトのように敵に飛び掛かりながら武器と魔法を併用する戦い方など、思い付いたとしても普通はやらないしできない。

 これがどれだけ無茶なことか!

 言うなれば、片手で剣を握って戦いながらもう片方の手でペンを握って文字を書くという、まるで異なる動作を並列させているようなものである。

 況してや彼は天帝の剣による立体機動という人外の挙動で戦っている。ジェラルト傭兵団のお家芸たる三次元戦闘(ジャングルファイト)を進化させたこの戦法。筆舌に尽くしがたい思考と集中力だった。

 

 そんな特異な戦い方を実現してしまえるベレトを相手にするならば、彼専用の対策が必要になる。ただ森におびき出して大量の手勢で迎え撃つだけでは、相手だけが好きに動ける状況で手数まで上回られてしまう。

 当然、今から新しい作戦など立てられるはずもなく、現状のまま何とかするしかなかった。

 

 しかしながら、英雄の遺産という超常の力を手にした戦力を相手にするクロニエが辛くも生き延びているという事実も同じくある。

 

(ふん……だんだん分かってきたよ)

 

 立体機動で上方から襲い掛かるベレトの剣と魔法を捌きながら、クロニエは油断なくタイミングを計る。

 先ほどから探っていたが、相手の攻撃は勢いは凄まじくてもかなり単調なのだ。

 

 木々の間を縦横無尽に飛び回ってはいるものの、地面にいるクロニエを狙うので攻撃は必ず上側からやってくる。剣による突撃も距離を置いての魔法も上の動きに気を配っていればいい。

 森の中を走り回るクロニエの機動力に難儀しているのか、戦いが始まってからこれまでベレトが追いかけ続けるという位置関係は変わっておらず、先回りされることもない。

 使う魔法もファイアーとサンダーの二種類だけ。ガルグ=マクに来てから魔法を学び始め、教師の仕事の合間くらいにしか鍛錬できなかったなら、魔法を用いた戦闘にまだ慣れていないと見た。

 

 所詮はケモノ。小賢しく考えようと、力を身に付けようと、いざ動けば単純な突撃の繰り返しとは片腹痛い。

 どれだけ強大な力を持っていようと、無作為に振り回すだけのケモノなぞ恐れるに足らず。

 

「ふ、はっ」

 

 笑いが漏れる。

 強敵と認めた相手を打ち破れる算段ができて、つい頬が釣り上がる。

 

 凶星──組織の同志がベレトをそう呼んでいた。

 かつて天帝の剣を操る人間がいた。解放王と称されたその人間、ネメシスは人為的に宿した紋章と天帝の剣を使い、フォドラに覇を唱えんと戦った。絶大な力を手にしたネメシスは剣を振るい、憎たらしい神の眷属を次々に破ったと言うが、最後には惜しくも生き残った眷属に討たれてしまう。

 ネメシスが多くの敵を打ち倒せたのは、天帝の剣と紋章の力があったからこそである。その天帝の剣を操ってみせるベレトを、材料となった神祖になぞらえて凶星と呼ぶのだ。まるで神祖の再来のように力を──炎の紋章を宿していることから注目し、警戒を強めている。

 

 今、そのベレトを、自分が討つ。

 憎き神の眷属。忌々しいケモノ。力を手にして力に溺れる愚か者。

 奴を殺せばどれほどの栄誉が得られるだろうか。敬愛する組織の首領からはどれほど褒めてもらえるだろうか。

 未来を想像して思わず笑みが浮かんだ。

 

(来やがれ、ケモノちゃん)

 

 逆手に握る剣に力を込める。互いの位置関係を調整して、速度差、角度、諸々の上に成り立つのは、相手の一撃を回避するのと同時にこちらが一撃を与えられる完璧なカウンター。

 

 程なくしてその時は訪れる。魔法をかわし続けるこちらに業を煮やしたのか、振り子運動を加速させて一気に飛び掛かってくるベレト。

 

(ここだ!)

 

 落ちてくるベレトの体を見据え、完全に把握した挙動に合わせて動き出す。

 終わるのは一瞬だ。交錯の結果、斬り飛ばされて転がる頭が目視できそうなほど明確なイメージをなぞるように踏み込む。

 

 さあ来い。

 一瞬だ。

 一瞬で決めてやる。

 何が【灰色の悪魔】だ、いい気になりやがって。

 お前など、ただ突っ込むだけの猪ではないか。

 粋がって調子に乗るから痛い目に遭う、まさにケモノ。

 一振りで終わらせてやる。

 ほら、来いよ。

 早く斬らせろ。

 一発で首を落としてやるからさ。

 どうした、早く来い。

 斬り落としてやるから、おい、早く──

 

 極度の集中のせいなのか、思考だけが逸って目に映るものの動きが遅く感じる中、クロニエはふと気付く。

 ──来ない?

 落ちてくるはずのベレトが、振り被った自分の剣が斬るはずの首が、遠い。

 

 タイミングは完璧だった。首に届くはずだ。計り間違ってなどいない。

 なのに、何故それが遠い? 何故届かない? 何故狙い通りに落ちてこない?

 

 時間が延びたように遅く見える動き。自分も相手も、イメージした通りに交錯するはずが、気付けば動いているのは自分だけだった。

 ベレトは止まっていた。空中で。

 

(は?)

 

 おかしいだろ。

 何でそこで止まるんだよ。

 来いよ。

 落ちろよ。

 自分から飛び込んで斬られろよ。

 じゃないと、あたしは──

 

(だめだ……!)

 

 ──止まれない!

 

 腕が動いてしまう。剣が振り切られてしまう。体が流れてしまう。

 イメージは消え去り、カウンターに失敗したクロニエは敵の眼前で無防備な隙を晒してしまう。

 

 そんな死に体をベレトが見逃すはずもなく。

 捻った体を解き放ち、全身を作用させて生む回転力の全てを乗せた渾身の回し蹴りがクロニエの顔面に叩き込まれた。

 

 減り込む足が鼻骨を潰し、首を捩じ切りそうな力が彼女の体を吹き飛ばす。

 枝葉を突き破って木の幹に激突した時には見るも無残な有様になっていた。

 

「ぼぇっ……がは、げふ……っ!」

 

 間欠泉のように溢れる鼻血が口元を染め、喉奥を満たす血に呼吸を遮られてしまい思わず咽る。

 甚大なダメージを受けてしまった。狙っていたカウンターの拍子を抜かされ、逆に無防備なところにカウンターを食らうという最悪の展開。意識を失っていないことが奇跡だ。

 

 交錯の瞬間、クロニエは見た。

 蹴りを繰り出すためにベレトが捻った体、その後ろへ向いた腕と、そこから伸びる天帝の剣を。

 伸ばされた刀身が彼の背後にある木に絡むことで、空中という踏ん張りの効かないところでも彼の立体機動を抑制してみせたのだ。

 

 クロニエはアサシンである。上級職としての戦闘力と敵地に潜り込む手腕、工作員として選ばれた彼女が優れた戦士であることは間違いない。

 そのクロニエの感覚が訴えていた──こいつはケモノなんかじゃない。

 あれだけ怒り、味方も置き去りにする短慮を起こすほど我を失ったと思えば、単調な攻撃を繰り返して敵にカウンターを誘発させて、逆に隙を突く強かさを隠していたのだ。

 そんな奴が、愚かなケモノであるはずがない。

 

 普段の落ち着きぶりをかなぐり捨てるほど激昂しておきながら、鍛え上げた戦闘技術を維持するくらいには冷静。

 動と静。狂乱と冷徹。相反する精神状態を同居させるその心の内は──

 

(こいつは──)

 

 不意に、うずくまるクロニエの耳に地を擦る靴音が届く。慌てて顔を跳ね上げようとした彼女の顎をベレトは蹴り飛ばした。体全体を高く浮かせる衝撃を口内に受け、意図に反して自ら噛み切った舌の先端が零れ落ちた。

 

 激痛に重なる激痛に気絶することもできず、受け身も取れないまま地面に転がるクロニエに追撃がかかる。

 倒れる体の腹を蹴られた。

 立ち上がろうとして足に体重を乗せた瞬間、狙ったようにその足を払われた。

 転がって距離を取ってから何とか立ち上がって剣を振ると、片手で受け流されて剣の柄で殴られた。

 膝蹴りを鳩尾に叩き込まれ。剣を握ったままの拳でこめかみを殴られ。足の甲に肘を落とされ。脇の下を爪先で撃ち抜かれ。脳天に踵を落とされ。

 

 止めを刺そうとすることもなく、何をやっても通じないのだと、相手に無力感を沁み込ませるかのような戦い方は明らかにベレトの本来の姿ではない。

 嬲っているのだ。圧倒的な実力差に物を言わせ、全ての反抗を叩き潰し、絶望を味わわせ、ズタボロに弄んでから殺してやる。そんな意志を感じた。

 

 冗談じゃない。もう分かったから。何もしないから。もうやめて。痛いのはやだ。

 血と涙で歪む顔を背けて、体を引きずるようにノロノロと走り出す。鍛えられたアサシンの面影もない無様な後ろ姿は、常人なら憐れみを誘うものだったのだろうが、当然ながら彼の胸を打つことはなく。

 

 眼前に落とされた雷の音と光にクロニエは身を竦ませてしまい足を止める。その胴体に絡むワイヤーが腕ごと巻き取って彼女を高く持ち上げた。

 滲む視界の中、首を捻って辛うじて見えたベレトの顔は先刻のような猛る獣のそれとは違って静かな、それでいて目だけは爛々と変わらず殺意に満ちて、凶相とでも呼ぶべき禍々しい──

 

(──バケモノだ!!)

 

 無造作に振り上げられた天帝の剣に従い、クロニエの体も振り回される。

 そのまま地面に、あるいは木にぶつけられ、十度を超える激突の後に放り出された体は放物線を描いて森を飛び出して石畳の上を転がった。

 

 そこは深い森に似つかわしくない人工的な舞台。明らかに何かが行われるであろう場所は、偶然にもベレトを誘い込もうとしていた所だった。

 

 血痕を残しながら転がるクロニエは石の硬さに痛めつけられ、それでも辛うじて動く体を捩って立ち上がる。傷付いていないところはなく、恐怖と痛みで全身がガクガクと震えていた。

 完全に心が折れていた。血に塗れた体は痛々しく、涙で歪む顔は悲壮感に満ちていて、戦闘が始まった時の高慢さはどこにもない。

 

 森から現れたベレトを見て一層体を震わせる。焦る様子もなく歩いて近付く姿はやはり静かなものだが、漂う雰囲気が少しも変わっていないことが分かった。

 目を見れば分かる。終わらせるつもりなんてない。まだ痛めつけるつもりだ。あれがまだ続くのか。痛いのはもうやだ。怖い! 怖い! 怖い!

 

「苦戦しておるようじゃのクロニエ……」

 

 震えるばかりで動けずにいたクロニエに、背後から声がかかった。

 いつの間に現れたのか、協力者であるソロンがそこにいた。罠を仕込むために別行動していたのだが、戦闘が始まってから今の今までどこに行っていたのか。

 

「ゾロ゙ン゙……だずげで……!」

 

 絞り出した声は酷いものだったがクロニエはなりふり構っていられなかった。あのベレトに立ち向かおうとする気概が全く湧いてこない。気に食わないソロンに縋り付くほど身も心も追い詰められていた。

 

 それがまともに口にできた最期の言葉になるとも知らず。

 

 振り向く余裕もないクロニエの背にソロンの手が伸ばされる。近付いてくるベレトを無視できない彼女の背中に、闇の魔力を伴う手が突き込まれた。

 

「ごぁ……!」

「案ずるなクロニエ。お前の働きは無駄にはならん。その命は世の礎となるのだよ」

「あ゙ん゙……だぁ……!?」

 

 背中に突き込んだ手を抜いたソロンは即座に距離を取り、クロニエから取り出した物を掲げてみせる。途端、滲み出る闇のオーラが石畳に広がり、舞台に倒れたクロニエと歩み寄るベレトを取り囲んだ。

 舞台の中央まで足を進めていたベレトの手足に這いよる闇が絡みつく。捕らえられて動きを止めたベレトを見据え、ソロンは素早く仕上げにかかった。

 

「ザラスの禁呪よ、その顎を開くがよい!」

 

 掲げた手で握り潰した物が弾けると、それまでとは比較にならない量の闇が溢れ、舞台のベレトに殺到していく。

 このままではまずいと誰の目にも分かる状況。

 

 そこに、追いかけてきたソティスがついに姿を現す。

 

【いかん! ベレトよ、天刻の拍動を使え! 戻るのじゃ!】

 

 森から出た勢いを緩めずベレトに向かって飛びながら叫んだ。

 彼を包み込もうとする闇はどう見ても普通ではない。黒魔法とも闇魔法とも違う、忌まわしい気配が濃密に香る呪術を思わせる。受けてしまえばただでは済むまい。

 

 今ならまだ間に合う。天刻の拍動で時を戻し、一人だけ知り得た未来を基に行動を変えれば回避は容易。然る後に適切な対応で改めて敵を追い詰めればいい。

 いつものベレトなら言われるまでもなく対処している。本人の強さもあってこの力を戦場で使った回数こそ少ないが、お茶会での話題選びに失敗したと察した瞬間に時を戻してみせるほど気軽にやり直すくらい使うことに慣れている。

 いつもなら問題なかった。敵の前でも、ソティスの焦る声を聞いても、変わらず冷静に動けただろう。いつもなら。

 

 しかし、今の彼はいつもの彼とは全く違う。

 迫る脅威を前にしてもベレトの目が捉えているのはたった一つだけだった。

 

 己の獲物から目を放さないまま、押さえられた手で握る天帝の剣を手首だけで振るう。意思に従い飛ぶ剣先が狙うのは倒れたクロニエ。

 そう、この期に及んで尚ベレトは暴挙を止めなかったのだ。身を守ることもせず、怒りのままに力を振るったのである。

 

【ベレトぉー!!】

 

 絡む闇に手足を囚われたベレト。体当たりする勢いで飛びつくソティス。倒れたクロニエ。

 広がる昏いオーラが石畳全体を覆い、舞台にいた者達を包み込む。役目を終えた闇が溶けるように薄れ消えた時、そこには誰も……何も残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこからは概ね読者諸兄の知る流れの通りである。

 

 ベレトを追って来たジェラルト傭兵団とディミトリを先頭にして先行した生徒チームが、彼が禁呪に呑まれた場面を目の当たりにする。

 間に合わなかった。彼を一人で危険に晒してしまった。驚愕と自責の念に囚われる一行に向けてソロンは得意げに語る。あの者は次元を超えた闇の中へ送り込まれた、出口のない無明の闇の中でいずれ死ぬのだと。

 それを聞いた一行の目に力が戻る。死んでいないのなら希望はある。ベレトなら、きっと。

 

 その様子が気に入らないと憤るソロンの前に、別方面からやってきた生徒達が次々に集結する。

 ベレトの姿が見えないことへの疑問にはディミトリが、先生は生きて戻ってくる、今は敵を殺すことを考えろ、と伝えた。流石にそれだけで状況が理解できたわけではなかったが、彼がそう言うなら希望はあるのだろうと信じて各々が武器を構えた。

 希望を捨てない一行を見て、死出の旅路に加えてやると意気込むソロン。

 

 そんな彼らの前で奇跡が起こる。

 突如、空間を切り裂く刃が現れ、虚空から神々しい光が溢れた。その切り開かれた空間の奥から一人の人間が飛び出した。

 

 飛び出した人間とは、皆がよく知る人物であり、同時に知らない姿。

 夜闇を思わせる濃い青緑の髪と瞳は、目も覚めるような明るい薄緑の髪と翠眼に。

 手に握る剣が纏う淡い光は、赤々と燃え上がるような力強い輝きに。

 闇に囚われたはずのベレトが、別人のような姿に変わり帰還したのである。

 

 傭兵団は驚き、生徒達は歓喜し、ソロンは驚愕した。

 それぞれの反応を見せる前でベレトは素早く味方に近寄ると、静かな、いつもの口調で言った。すまなかった、一緒に戦おう、と。

 いつもの先生が戻ってきたんだ! 姿が変わってもそこにいるのはいつものベレトなのだと理解できた者達が湧き立つ。彼がいてくれれば怖れるものなど何もない。

 

 怒りと焦り、そして小さな恐怖を滲ませるソロンが新たに呼び出した手勢も、最高潮に士気を高められた彼らには通用せず。

 ベレトの指揮で動く生徒達に押し切られ、最後にはソロン自身も傭兵団に追い込まれた末にベレトの手で討たれた。

 封じられた森の掃討戦は決着を迎えたのである。

 

 場面はその後。引き上げるための後処理の最中、やや離れた位置でベレトと級長ら三人が向かい合うところまで飛ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、勝った勝った。よかったよ先生。あんたが消えたって聞いた時は正直肝を冷やしたぜ」

「そうだな、無事でよかった、先生……大きな怪我もないようで、本当に」

 

 快活に笑うクロードに続いてディミトリも安堵の笑みを見せる。かつてない緊張感に満ちた戦いが終わったことに気も緩んだのだろう。

 エーデルガルトも含む三人の級長の前に立つベレトは、その出で立ちを除けば特に変わった様子はない。感情の見えない無表情で脱力した自然体という、大修道院で会う時と同じいつもの彼だ。

 狂乱するベレトを見たばかりなこともあって、彼の平常な様子は生徒を安心させてくれた。

 

「ところで、ジェラルト殿の仇は……」

「俺が殺した」

「そうか、よくやった先生! 他ならぬお前の手で仇を討てたなら何よりだな! 力を貸すと言っておきながら、お前の復讐に最後までついていけなかったことは少し歯がゆい思いだが……ともあれ、おめでとう先生」

 

 質問に返されたベレトの端的な答えにディミトリは破顔する。朗らかに笑って見事に仇討ちを果たしたベレトを言祝いだ。

 

 それを横で見るクロードは苦笑を浮かべるが、すぐに表情を引き締めて向き直る。

 聞かなければならないことがあるのだ。

 

「それで、だ……戦ってる最中は後回しにしてたけど、終わったからには吐いてもらうぜ」

 

 二人の間の空気感を押しやり、やや強引にだが割り込む。ベレトを見据える視線は彼らしくもなく強く、持ち前の好奇心だけではない使命感のようなものがあった。

 

「その髪、その姿、その力! 一体全体何がどうなってるのか、話してもらおうか」

「俺もそれは気になっている。先生、話してくれないか?」

 

 詰問するクロードに釣られてディミトリも尋ねた。

 

 今の今まで後回しにされていただけであり、気にならなかった者は一人もいない。

 虚空を切り裂いて戻ってくるというだけでも人間業とは思えないのに、髪も瞳も色が変わるという人間離れとしか言えない所業を見せたのだ。

 三人の級長だけが話に来たのも、本当ならみんなして押し寄せて囲んで質問攻めにしたかった生徒達を代表しただけで、今も離れたところからチラチラと視線が向けられているのを感じるくらいベレトの変貌が気になって仕方ないのである。

 

 ベレトの方も、聞かれるだろうと予想はしていたのか、戸惑うことなく頷く。

 

「ああ、話はする。だがその前に……」

 

 一度言葉を切ると、ベレトは勢いよく頭を下げた。

 

「みんな、すまなかった」

「どうした先生?」

「あー、もしかして一人で飛び出したことについてか?」

「そうだ。力を貸してくれた君達を置き去りにして俺は一人だけで先に行ってしまった。こんなこと、あってはならないことだ。そのせいで敵の罠にまんまと誘われてしまって……心配をかけて、本当に申し訳ない」

 

 無事だったからと流してしまっていいことではない。名乗り出てまで協力してくれた生徒達を蔑ろにして、挙句の果てに罠に誘い込まれてしまったのだ。これは間違いなくベレトの失態である。

 

 闇から脱出して、その後の戦いの最中もベレトはずっと悔やんでいた。自分の暴走のせいで仲間に多大な迷惑をかけたこと。そして……一人の少女が失われる事態にしてしまった己の行いを。

 

「さっきも言ったように、先生が無事に戻ってきてくれたなら俺はそれでいいさ。仇討ちも果たせたという戦果もあるし、俺から何か言うつもりはない」

「まあ、そうだな。先生も人並に動揺するってことが分かったから、そこは得るものがあったと思えばいいんじゃないか? 軍の足並みを乱したことは反省してほしいけど、戦果を思えばケチをつけられるような奴はいないって」

 

 ディミトリもクロードも穏やかに謝罪を受け入れた。いつものベレトなら、失態を犯してもきちんと反省して次に活かす性格だと彼らは分かっているのだ。

 

「で、先生。話を戻してさ」

「ああ」

 

 促すクロードに頷きを返して、ベレトは話すことにした。

 これまで彼がずっと誰にも言わずにいた真実を。

 

「ソティスが俺を助けてくれたんだ」

「ソティス? ……セイロス教に伝わる女神の名前と同じだが」

「教団が崇める神様なのに、何故かみだりに口にしちゃいけない名前なんだっけ? 変な慣わしだよな……その女神サマが降臨でもなさったのか?」

「いや、ずっと一緒にいた女の子が助けてくれた」

「「はあ?」」

「つまり、その──」

 

 話がごちゃごちゃしそうだと察して一度言葉を止めると、ベレトは自分なりに噛み砕いて説明してみた。

 

 ソティス。そう名乗る少女がずっと自分の傍にいた。

 誰の目にも見えず、声も届かない彼女を、自分だけは認識することができた。

 子供らしい容姿でありながら、たまに老齢さを感じさせる不思議な子。

 のじゃ口調。一人称はわし。

 ある日突然見えるようになったその子は、まるで妹か姉か、はたまた母のようで。

 そんな近しい距離感の少女と共に過ごしていた。

 闇に飲み込まれた時も彼女と一緒だった。

 何もないと思った闇の中でソティスにこっぴどく叱られた。

 そんなソティスの力を使えばこの闇を脱出することができると言う。

 忘れていた記憶を取り戻した彼女は、セイロス教が崇める神祖の心そのもの。

 神としての力を使うには心を納める器、肉体が必要となる。

 自分とソティスが融合すれば力を使えて闇から出られる。

 しかし、そうすれば心でしかないソティスの意識は消えてしまう。

 悩む自分の背中を押してソティスは融合してくれた。

 そして得た力を行使して──その先は皆も知る通りである。

 

「つまり、あんたの中にはずっと前から女神を名乗る女の子がいて……」

「その子がくれた力を使って戻ってこれた、と」

「そういうことだ」

 

 少々長くなってしまったが、ベレトの話(一部関係ない情報を含む)を聞き終え、は~っと溜息が漏れた。

 

「俄かには信じがたい話だが……今のあんたの姿を見ちまったら、信じるしかないよなあ」

「まるで神話の再現だな。だが、空を切り裂いて現れた先生を目の当たりにして信じないわけにはいかないだろう」

「神話の再現?」

 

 しみじみと言うディミトリにベレトが首を傾げる。

 

「ああ。女神の啓示を受け、力を授かった聖者セイロスの神話だ」

「俺と同じなのか」

「かつて女神はセイロスを遣わして、力に溺れた邪悪な王を討たせたんだ。邪悪を討たんとする先生の姿に、その女神の少女はセイロスと同じものを見たのだろうな」

「そういう雰囲気はなかったと思うが……ん? その邪悪な王って、解放王ネメシスのことか?」

「神話によるとそうだが」

「炎の紋章を持つ邪悪な王を討ったのがセイロスということなら、俺は討たれる側になる。現についさっきまで力に溺れて見境がなくなっていたのだし、神話の通りになるなら俺はセイロスの紋章を持つ者に討たれるのか?」

「それはないだろう。先生はきちんと自分を取り戻して、俺達のところへ戻ってきたじゃないか。力に溺れてなんかいないさ」

 

 不安なのか疑問を口にしたベレトへ、きっぱりとディミトリは言い切った。

 

「そうそう。セイロスの血筋はアドラステア帝国の皇室に伝わっていて、今だとセイロスの紋章が発現したのはエーデルガルトだろ? 先生を討つなんてするわけないって。なあ?」

 

 続けてクロードが笑い飛ばす。ベレトが珍しく見せた不安を払拭するためなのか、殊更軽い口調でありえないだろうと言うように。

 あの先生大好きっ子(エーデルガルト)がベレトと敵対するなんて万に一つもあるはずない。

 その発言と、当の彼女に目を向けて──そこで三人は気付いた。

 

 先ほどから、離れたこの場所に来てから、エーデルガルトが一度も口を開いていない。

 

「エーデルガルト?」

 

 ベレトの呼びかけが聞こえていないはずがないのに、返事もせずベレトを見つめるその目は彼女らしくもなく険しい。

 

「お、おーい、皇女様? なんか怖いぞ?」

「どうしたんだエーデルガルト?」

 

 クロードもディミトリも、見たことない姿に困惑した。

 エーデルガルトが人に鋭い視線を向けるのは珍しいことではない。自他共に厳しい彼女が求める水準に満たない者に対してきつい眼差しを向けるのはよくあることだ。帝国を担う皇女として、優しさはあっても甘くはない。

 

 しかし、今ここでベレトを睨む──そう、明らかに睨んでいる──エーデルガルトは、皇女の気高さや級長の姿勢など普段の彼女らしさが見えない。まるでただの少女のように、心から湧いた激情を隠すことなく突き刺すような視線を向けている。

 

「…………よかったわね、(せんせい)

 

 ややあって、辛うじて絞り出せたような声がエーデルガルトの口から発された。

 

「天帝の剣といい、その姿といい、貴方は女神に愛されているのでしょう。まるで、かつての聖者セイロスと同じように……」

 

 髪も瞳も、誰かさんにそっくりね──吐き捨てるような声色は強張っており、何かを堪え、押し殺しているように固いものだった。

 やはり見たことないエーデルガルトの態度に三人は驚き言葉を失う。

 

 私情に染まった声色に込められているのは、明らかな敵意。そしてそれは他ならぬエーデルガルト自身が感じており、己の中から湧き上がるこの感情が嫉妬という極めて身勝手なものであることを自覚していた。

 向けられたベレトが困惑するのも当然である。こんな感情、彼にとっては身に覚えのない見当外れなものでしかない。

 それでもエーデルガルトにとって、ベレトの身に宿った祝福とも言える女神の加護は、かつての彼女が何よりも欲したものだったのだ。

 焦がれる想いと、手にした彼への妬ましさが膨れ上がるのは止められなかった。

 

 ふぅ、と小さく息を吐いて一度目を閉じる。

 感情を制御するよう声には出さず己に言い聞かせて、改めてベレトを見据えた。

 

「聞いてもいいかしら師」

「何だ?」

「その力を、貴方は何のために使うのかしら。教団のため? または、世のため人のため?」

 

 問いを発するエーデルガルトの胸にあるのは何なのか。彼女自身にもよく分かっていなかった。

 これまでベレトに向けてきた期待も、敬意も、密かな思慕も、もはや許されないものなのかもしれないという恐怖があった。彼の答え如何によっては全てを断ち切らなくてはいけない。

 いや……もしやそれさえも甘えであり、目に見える形で変わってしまったベレトが今さら何を言おうと決裂は確定されたことではないか。

 

「何のため……」

 

 問われたベレトは考える。新しく手にした力を何のために使うか。

 何故そんな質問を、とは考えない。エーデルガルトは無駄な問答を嫌う性格だ。その彼女が向ける問いかけは、きっと意味があることだとベレトは知っている。

 父の死後、騎士団長室で失意に沈む自分を叱咤し、手を差し出してくれた彼女にベレトは報いたかった。

 

 エーデルガルトの声色に気圧されたのか、ディミトリとクロードが何も言えずにいる間も自分を見つめる彼女を見て、答えは自然と出てくる。

 

「生徒のために使いたい」

「それは……私達のため、ということ?」

「そうだ」

「なら、もし世の中が、あるいは生徒達が真っ二つに分かれて争うことになったとしたらどうするのかしら? どちらについても生徒のためよね」

「先のことは分からない。だから今はエーデルガルトのために使いたい」

「うぇっ?」

 

 サラリと出てきたベレトの言葉でエーデルガルトの険しい顔が崩れる。なんか変な声が出た。

 流れ変わったな──察したクロードが空気を読んで、ディミトリの袖を小さく引いた。

 

「何だクロード?」

「しーっ……何も聞くな。ちょっとでいいから動け。こっち」

「あ、ああ?」

 

 それとなく二人が距離を取り、残ったベレトとエーデルガルトは見つめ合う。

 

 たった一言で少女の表層を貫いた彼は、その心に響く声で続けた。

 

「君がそうやって顔を曇らせているのが俺は嫌だ。エーデルガルトには笑っていてほしい。いつでも君に元気でいてほしいんだ」

「師……」

「いつも俺を助けてくれてありがとう。だから君が困っていたら助けたい。エーデルガルトの力になれるなら、俺は何でもしてやりたい」

「わ、私は……」

 

 ベレトの告白を聞いて、エーデルガルトの険しい顔はとっくに崩れていた。

 覚悟はしていた。そんな彼女の覚悟を、ベレトはあっさり飛び越えてしまった。

 

 見た目が変わっても、ベレトはベレトのままなのだ。

 それで変わってしまったのはエーデルガルトが彼を見る目だ。覚悟なんて高尚なものじゃない、壁を作っていたのは自分の方だった。

 そんなちっぽけなものを彼は容易く越えてしまう。まっすぐな言葉で、眼差しで、いつだって彼はてらいなく向き合ってくれる。

 

 どうして彼はいつもいつも、自分の欲しいものをくれるのか。

 知らなかった自分を見つけて、心を開く言葉をかけてくれるのか。

 ベレトを慕うこの気持ちに、いずれは区切りをつけなくてはいけないのに……

 

 足元が不確かになったように後退るエーデルガルトに向けて、ベレトは微笑み、手を差し出す。

 

「俺に、君を助けさせてくれ」

「せん、せい……」

 

 思わず俯いてしまう。何を言えばいいか分からなかった。エーデルガルトの中で暴れる感情が心臓を締め付け、息が詰まりそうだった。

 

 笑っていてほしい。

 困っていたら助けたい。

 君を助けさせてくれ。

 それは、エーデルガルトが『あの時』に何よりも求めていたもので。

 きっと今でも、目の前にあれば手を伸ばしてしまう光の言葉。

 

 と、その時。

 エーデルガルトの俯いて下を向いた視界に、ばたりと音を立てて倒れ込むベレトの姿が映った。

 

「な……師!?」

「どうした先生!」

「急に何だよ今度は!」

 

 慌てて駆け寄るエーデルガルトに続いて、流石に傍観はできなかったディミトリとクロードも近付く。さっきの今でベレトに異変が起こっては焦りもすると言うもの。

 しかし彼を抱き起して様子を見れば、何とも緊張感が抜けてしまう。

 

 エーデルガルトに手を差し出した姿勢のまま前のめりに倒れ、顔面から地面にぶつかった衝撃も何のその。

 スヤスヤと、穏やかな寝息を立ててベレトは眠っていたのである。

 

「おいおい、あそこまで熱烈な告白かましといて寝るなよな先生」

「な! ちょっとクロード! さっきの師はそういう意味で言ったんじゃ!」

「そうかあ? 傍から見てても熱かったぜ。こんな時でも仲いいねぇ」

「そういうこと言ってる場合じゃないでしょう!」

「だな。女神の力のせいなんだろうけど、どうすんだこの状態」

「倒れて起きないということはすぐには目を覚まさないだろう。早く誰かに見せなければ」

 

 仕方ないので担いで運ぼうとディミトリがベレトの体に手を回す。クロードも運んでくれるなら任せようと何も言わずに見守ろうとした。

 そこへ、エーデルガルトが制止をかけた。

 

「待ちなさい。私が連れていくわ」

「え……しかしエーデルガルト、君より俺の方が……」

「いいから寄こしてちょうだい。彼一人くらい運べるわ」

 

 動きを止めたディミトリの手から強引に引き出し、ベレトの体を背負う。脱力した人間の体は意外と重いものなのだが、普段から斧を振り回すエーデルガルトにとっては問題ない重さだった。

 そうして歩き出すエーデルガルトに何も言えず、ディミトリもクロードも仕方なく後を追って他の生徒達と合流した。話している間に撤収の準備は済んでしまったようで、そのまま帰途に着くことになった。

 

「エーデルガルト様、遠目に見ておりましたが先生の様子は……」

「眠ったまま起きないの。師はこのまま私が連れていくから、口出し無用よ」

「畏まりました。他の生徒にもそのように伝えます」

「ええ、お願いね」

 

 早速近付いてきたヒューベルトに告げて、ベレトを背負い直して歩く。

 自分より身長の高い男性を背負っていても歩く足取りは確かであり、これもベレトが鍛えてくれたおかげかと思うと、彼の脚を抱える腕に力が入った。

 

 しかし、エーデルガルトの心は曇ったままだった。

 

 離れたくないと思ってしまった。少しでも彼に触れていたいと思ってしまった。

 そうしてやや強硬に背負うことにしてしまったが……失敗だったかもしれない。

 

 ベレトを背負って歩いていると、脱力した彼の頭がエーデルガルトの肩に乗る形になる。すると自分の頬のすぐ近くに彼の顔が寄るのだが、その事実に緊張してしまうよりも、彼の髪が否応なく視界にちらつくのだ。

 明るい緑色が目に障る。あの女と同じ色の髪が彼にもあると思うと、どうしても胸がざわつく。

 閉じたまぶたの奥にも同じ色がある。今後は彼と向き合う時、あの女と同じ色の瞳が向けられると思うと、憂鬱だった。

 

 それでも前を見て歩けと自分に言い聞かせた。

 変わってしまったものは戻らない。飲み下して、進み続ける義務が自分にはある。

 ベレトの変貌もその一つに過ぎないのだ。いつもと同じように変化の一つとして受け流して、ここから先に進む材料にして、踏み越えていく道の一部と考えて──

 

(──できないわよ!)

 

 無理だ。いつもと同じになんてできるわけがない。

 だって……彼はベレトなのだから。エーデルガルトが欲しかったものをこんなにもくれる人を、自分にとってのたった一人を、どうして他と同じように流してしまえると言うのか。

 

 エーデルガルト=フォン=フレスベルグの心に刻まれた、数え切れないほどの想いが忘れることを許さない。

 ベレトという人間との出会いを。

 彼に教えを受けた日々を。

 胸に芽生えた気持ちを。

 忘れることなど、他ならぬ自分自身が認められない。

 

 ならば……抱えていくだけならいいだろうか。

 後悔も、未練も、全てを置き去りにして進み続けると誓った身でも、密かな想いを抱えていくことくらいなら許されるだろうか。

 足を止めたりはしない。いずれ懐かしむことはあろうと振り返りはしない。

 だから、せめて……これだけは……

 

 ベレトを背負い歩きながら、他の生徒との間に立って視線を遮る壁役になって歩くヒューベルトの陰に隠れて、俯くエーデルガルトの目から落ちた一滴の涙は森に紛れてしまい誰も気付くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (せんせい)

 貴方は変わったけど、変わらないのね。

 その体が神の眷属に連なるものになっても、心は貴方のままなのね。

 ずっと怖かったの。

 いつか師が、私の知る師ではなくなる時が。

 女神の加護に染まった貴方が、私より教団を選ぶことが。

 でも、どんなに姿が変わっても、何を身に付けても、貴方は変わらない。

 私が……好きになった人、ベレト=アイスナーのまま。

 だから、変わるべきなのは私の方。

 私は皇帝になるわ。

 血塗られた道を歩き、多くの屍の山を築く、そんな皇帝になる。

 その道に、師を巻き込んだりはしない。

 手に持っていくのは、貴方がくれた言葉と想いだけで充分過ぎる。

 だから、師。

 貴方はそのままでいて。

 私が、好きになった貴方のままで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところでこの後の話だが。

 ガルグ=マクへ帰還して、レアの膝の上で目を覚ましたベレトは、直後に待ち構えていたジェラルト傭兵団の面々によって取り押さえられた。

 

 話をするのは生徒を優先させて、大司教への報告など仕事もさせてやって、さあ邪魔するものは何もないぞと我慢を解いた彼らは手付きも雰囲気も些かどころではなく剣呑であり、その怒りの程がうかがえた。

 

『一人だけで先走りやがって』

『ジェラルトさんの仇を討ちたいのが自分だけだと思ったのかよ』

『生徒の面倒を見る仕事まで放り出してそれでも教師か』

 

 叱りつける仲間達の言葉はどれもこれも反論できないものばかりで、ベレト自身も思うところがあったのだろう、彼らの折檻を甘んじて受けることにした。

 傭兵式の荒っぽいけじめという名の袋叩きを食らったことで、今回の出撃に関わった者の中ではベレトが一番の重傷者となってしまったのだ。

 

 慌てたのは目の前でいきなり暴行を始められたレアである。

 止めようとはしたのだが、傭兵達の言い分も聞いてみれば決して間違ったものではなく、行き過ぎに思える仕置きも彼らが心配したからこそのものだと分かるから口も挟めず。

 

『あの、やりすぎないで……いえ、気持ちは分かりますけど、ベレトも反省しているでしょうし、貴方方ももう少し穏やかに……』

『『『『『『何か?』』』』』』

『あ、いえ』

 

 迫力に気圧されてしまい、彼らが落ち着くまで止めることができなかった。

 

 この件により、いざとなれば大司教の静止さえも無視して押し通る戦闘集団、束になればあのベレトすら叩きのめしてしまう彼の身内、等々、ジェラルト傭兵団はただ強いだけでなくやべー奴らだという認識が広まったのだった。

 

 しかしこの一件により、ベレトへの印象が良い方向に変わる。

 今回の戦闘でベレトの大暴れを見て、普段優しい人ほど怒ると怖い、先生を怒らせないようにしなくては、と感じて距離を取ろうと思った生徒もいたのだが、ボコボコにされた彼を見て思い直したのだ。

 彼も等身大の人間であり、反省して罰を粛々と受け入れる姿勢は見習わなくてはと生徒達は考えたのである。

 ベレトと彼らの距離感が変わらずにいられたのは幸運だったのかもしれない。




 好きに切り抜いて好きに書きました。
 活動報告に僕の私見を載せてあるのでよかったらそちらも読んでください。

作者の活動報告に載せた後書き


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皇女様の憂鬱その二 前編

 皇女様めんどくせえ。だがそれがいい。という話の第二段です。
 またしても長引いてしまい、後編に続きます。一度に出せればよかったのですが、思うように書けず……ちょっと悔しいですがボリュームで誤魔化すことに。


 エーデルガルト=フォン=フレスベルグはアドラステア帝国の皇女である。

 唯一の皇位継承権の持ち主であり、現在は士官学校に通う生徒として日々を過ごしている。

 

 近く、皇帝の座を父から譲り受けることを予定し、そのための準備を従者と共に進めているが、それはまだ誰にも言えない内密の話。

 今はまだ黒鷲の学級(アドラークラッセ)の級長として、士官学校の一生徒として学級の仲間たちと共に学び、力をつける毎日である。

 尊敬して止まない師の指導の下、着実に成長を続けていた。

 

 憎んでも飽き足らない例の組織の暗躍により俄かに闇蠢くフォドラの地。抑えることもできないどころか、協力しなくてはいけない現状に臓腑を焦がす思いがあれど、持ち前の鋼の精神力でその意思を深く静かに秘める。

 いずれ必ず排除してみせるという誓いを胸に、今はただ爪を研ぎ澄ますのみ。

 

 そんな彼女であるが、数節に渡って周囲に変化があり、ある悩みを抱えていた。

 端的に言えば──癒し(せんせい)が足りないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吐く息が白く染まる今日この頃。山間に位置するガルグ=マク大修道院にもしばれる寒さに包まれる冬が訪れていた。

 修道院の各所にある暖炉前に人が多く集まり、廊下を歩いたり外出する時は外套が手放せない。

 

 それでも例年と比べれば今年の降雪量は少ない方であり、晴れの日などは日差しの温かさを感じられる穏やかな冬と言えた。

 陽光が注ぐ中庭であえて熱々の紅茶を手に談笑に興じる者もいたりして、前節までの緊張感が漂う空気はおおよそ抜けたと見える。

 

 そんな平和を取り戻したように見えるガルグ=マク大修道院にて。

 エーデルガルトは憂鬱な気持ちで溜息を吐いていた。

 

「はぁ……」

 

 皇女らしくなく覇気のない姿。せめて誰にも見られないようにと寮の自室でのことである。数えていないが、今日だけで回数はそろそろ二桁に届く。

 外の良い天気とは裏腹に室内の空気は暗く、その発生源である部屋の主は憂鬱に沈んでいた。

 

 エーデルガルトをここまで悩ませるものはそう多くはない。

 貴族社会の愚かしさなど分かり切っていることだし、教団の独善も含めていつか打破する予定なので今悩むことではない。仇である例の組織も、レアのことも、そういう問題はいずれ解決していけばいいのだから。

 対人関係、例えば生徒間の諍いなんかはこちらが出しゃばることではないし、相談でもされれば級長として応えればいいだけ。エーデルガルト自身が問題にぶつかった時もその都度対応して何とかできている。リンハルトに邪険にされたり、フェルディナントの決闘騒ぎをいなしたり、ベルナデッタに怯えられたりもしたが些細なことである。

 授業関係も特に問題があるわけでもない。先日挑んだ上級職試験も無事に合格できたのだし、その前からもベレトの個別指導や、ハンネマンとマヌエラの授業でも足りてなかったものを身に付けていけている実感がある。

 

 よって悩みの種はそれ以外……その原因に気付かされるのはいつも決まってベレトが関わる時。エーデルガルトが彼と話す時も、他の誰かが彼と関わる時も、無意識に目で追うその一挙手一投足が気になって仕方ない。

 というかベレト、そう、ベレトのことである。エーデルガルトが彼のことを考えない日はないのだが、ここ最近は思う方向性が大きく変わってきていた。

 

 黒鷲の学級(アドラークラッセ)の担任教師であるベレトだが、鷲獅子戦以降、彼は精力的に多くの生徒を指導して関わりを増やしている。青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)、さらには地下に降りて灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)も放っておかない。

 必然的に黒鷲の学級の面倒を見る時間は減ってしまい、エーデルガルトと関われる時間も減ってしまっていた。

 それ自体は、いい。ベレトの仕事に対する責任感、真面目な彼の気質を感じられて好ましいとは思う。

 思うのだが……どうもそれに比例して彼と周囲の関係性が変わっているように見えるのだ。

 

 例えばディミトリ。

 青獅子の学級の級長である彼は、明朗快活、貴公子然とした絵に描いたような好青年で、故郷から離れたここガルグ=マクでも人気者だ。

 真面目で実直、面倒見も良く、誰に対しても優しい、まさに王子様。王族としての厳格さはまだまだ薄いように見えるが、それがまたディミトリの懐の大きさを表していると思えて人望に繋がっていく。

 

 それが一体どうしたことか。

 ベレトと出会って以来、学級が違うにも関わらずディミトリは積極的に彼と距離を詰めている。早朝や放課後に鍛錬の相手をしてもらったり、食事の相席を頼んだり、その様子はとても楽しげである。

 歳の近い年代でありながら自分とはかけ離れた人生を送ってきたベレトに何か琴線に触れるものでもあったのか、驚くほど心を許しているのだ。

 金髪碧眼の美男子が、先生、先生、とベレトに懐く姿は、他聞を憚らずに言ってしまえばまるでお気に入りの人間に尻尾を振る犬のようで、それを見守る周囲の目は温かい。

 

(変わり過ぎではないかしら? 一国の王子がああも平民に懐いてる姿を晒して、後から何か言われたりとか……恐らく言われたでしょうね。ファーガスにもその手のうるさい貴族はいるし。でもディミトリは撤回しない。彼は頑固なところもあるから、逆に言及した者を窘めたでしょう)

 

 自分のことはすっかり棚に上げて、エーデルガルトはそう訝しんだ。

 実際その懸念は当たっており、ベレトと仲を深めるディミトリを諫めようととある生徒が進言したことがあった。王国貴族の子弟であるその生徒曰く、いくら教師とは言え平民であるベレト(元傭兵)との距離感を王子たる貴方様が測り間違えてはなりません、とのこと。

 それを言われた時のディミトリは、穏やかな性格で通っている彼にしてはさぞ恐ろしい対応をしたのだろう。それ以来その手の進言をする者は出ておらず、ベレトとの仲も変わった様子はなかった。

 

 驚いたことにベレトもベレトで王国との関わりは持っており、ファーガス筆頭の大貴族、フラルダリウス家当主ロドリグとの面識もあるのだという。

 賊討伐の名目で領地へ呼び出されたフェリクスを手伝う形でベレトも同行したことがあるのだ。その時にフェリクスと日頃から懇意にしている(手合わせのため毎日のように彼に絡まれているとも言う)と知ったロドリグから直々に「息子を頼みます」と頭を下げられたらしい。

 ちなみにこれはベレト本人から聞いた。すごく謙虚な人で印象に残ったそうだ。

 

 他にも、破裂の槍奪還の課題で協力を頼んだシルヴァンがベレトに対して妙に気安い態度で接してきたり、一緒に理学の勉強をしたアネットが戦術のことを聞きに何度もベレトを訪ねてきたり、他に何人も……どうも青獅子の学級の生徒とベレトの距離が近いように思えるのだ。

 

 距離が近いと言えば他にもいる。

 例えば灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)の連中がそうだ。

 

 ある時期からベレトはガルグ=マクの地下にある空間、アビスに降りるようになった。

 天帝の剣を賜り、破裂の槍奪還の課題を終え、直後のフレン誘拐事件を解決して、しばらく経ってからだったか。アビス全体を揺るがせたらしい謎の事件が起こった。そこを訪れたベレトは事件の解決に力を貸して、アビスの住民を助けたのだ。

 それを契機に住民達に受け入れられたベレトは何を思ったのか、小まめにアビスに足を運ぶようになった。しかも何故か、アビスに設立されたと聞く学級の面倒まで見るようになってしまったのである。

 

 この事態、エーデルガルトにとっては青天の霹靂だった。

 ただでさえ英雄の遺産を下賜されてベレトの立ち位置が教団寄りになったように思えて不安だったのに、今度はならず者のたまり場とも言うべきアビスの一部になってしまったようで。

 アビスの中心とも言える四人の生徒の下へ足しげく通って指導するベレト。まるで灰狼の学級の担任みたいではないか。

 そもそも士官学校の教師という、少なくとも所属で言えばセイロス教団に属する立場のベレトが、名目上は教団の管理下とは言え、陽の当らない闇とも評せるアビスに受け入れられたなんて。

 

(いや、変わり過ぎではないかしら? 彼らとて子供ではないのだし、身を立てる力は同年代の人間よりも頭二つ抜けているわ。年齢以上に精神は大人と言っても……だからこそかしら? 普通の教師とは違って歳の離れてない師相手には肩肘を張らずにいられて、それでいて助けてもらえたという感謝の念と実力への尊敬が、今までは頼れなかった『大人』の像として彼らの心に納まった)

 

 前述した四人とはベレトを通じてエーデルガルトも面識はあり、どのような人物なのかは把握している。

 格闘王を自称する無頼漢バルタザールは、粗暴な性格に反して仁義に厚い。一度認めた相手を受け入れる度量は広く、ベレトの仕事に手を貸すことなど仲も良い。

 元は帝国でも高位の貴族だったコンスタンツェは、上昇志向も相まって学びへの意欲は人一倍強く、魔導研究の協力者として積極的にベレトを頼りに来る。

 摩訶不思議な体質の持ち主であるハピは、警戒心の強い彼女に対しても自然体で接してきた賜物か、灰狼の学級の仲間と同じくらいベレトに懐いている。

 

 中でも油断がならないのがユーリス。灰狼の学級の級長、そしてアビスの頭目という立場にある彼は立場とは裏腹に奔放な態度で動いており、時たま何食わぬ顔で大修道院にも現れる。

 そんな彼は何故かベレトと距離が近い。精神的にも。物理的にも。

 二人並んだ姿を見たエーデルガルトの胸に、なんか、こう、モヤっとしたものが生じたのは一度や二度ではないのだ。

 

『実は先生とは逢瀬の約束もしたことがあってよ』

『はあ゙?』

『おー、こっわ。そんな顔しなさんなって。敵の裏をかく策の一つだよ』

 

 ぬけぬけと宣う彼の表情と言ったら!

 鋭いあの男のことだ。エーデルガルトがベレトを気に入っていることなど最初から見抜いていたのだろう。内心を悟られたことが不快だったし、それを理解しただろうにからからと笑うユーリスに苛立った覚えがある。

 女性と見紛う美貌の持ち主である彼がそんなことを言うものだから、エーデルガルトが考えないようにしても邪推してしまいそうだ。

 

 アビスというガルグ=マクの闇に属する彼らとは士官学校の生徒よりも雰囲気は近かったのだろう。元は傭兵として生きてきたベレトはどことなく慣れた態度で接している。

 いきなり湧いて現れてベレトと距離を詰めている灰狼の学級にエーデルガルトは目を光らせていた。

 

 ああそうだ、距離を詰めていると言えば見逃せない人物がいる。レアだ。

 以前よりベレトとの関係性を危惧していたが、この数節をかけて目に見えて近しい雰囲気を醸し出すようになっているのだ。

 

 まず、ベレトが彼女に呼び出されることが増えている。それは仕事上の呼び出しではなく、レアが個人的にベレトを招くという私的なお誘いだ。

 なんと限られた者しか立ち入ることが許されていない大修道院の三階、そこにあるレアの私室に招かれているのだ。それも何度も。

 他にも三階のテラスに設けられた小庭園で茶会に興じたり、さらにはレアによる格闘術の研修も受けていると聞く。いつぞやの信仰の研修と同じく二人きりで。

 

 エーデルガルトとしては気が気でない。ベレトのことは信頼しているが、元より傭兵として寄る辺なく生きていける彼である。何を切欠にしてセイロス教団に帰属してもおかしくないのに、大司教であるレアと親密になればなるほどこっちは不安になってしまう。

 ベレトには帝国に来てほしいという気持ちは、あるにはあるが今では見込みが薄いとして半ば諦め気味なのだ。せめて教団には属さない自由人でいてほしいというのがエーデルガルトのせめてもの希望である。

 だと言うのに! 当の彼と来たらこっちの気も知らず──言ってないから当たり前なのだが──暢気にレアと、ついでにセテス、フレンとも仲良くなっているのだからエーデルガルトとしてはやきもきが治まらないのだ。

 

 まだジェラルトが存命中の頃。父との手合わせに初勝利したと嬉しそうにしていたベレトとの会話が忘れられない。

 

『父さんから初めて一本取れた』

『すごいじゃない師!』

『レアさんから教わった格闘術のおかげだ』

『れ゙っ!?』

 

 ちゃっかり得るものを得ていたベレトに愕然とさせられたのだ。無表情ながらホクホクした調子で話す彼の前で、思わず顔を歪めてしまった自分は悪くない。

 

 そしてレアはと言うと、もうすっかりベレトが自分の下に来るのだと確信しているかのように振る舞って、ニコニコな笑顔で彼に話しかけてきたりする。

 授業のことを話しながら並んで歩くベレトとエーデルガルトと廊下ですれ違った時なんて、手元だけで小さく手を振りながら微笑みを見せたくらいだ。

 それはまるで親の姿を見つけた娘が全身で喜びを表すような雰囲気で、小さな子供がやるならともかく、あのレアがそんな無邪気な振る舞いをしたことが衝撃なのだ。

 

(いや、だから、変わり過ぎではないかしら? 貴方はセイロス教団の大司教でしょう。誰も見てないところならともかく、人前でそんな態度でいたら上に立つ者としての威厳なんてあったものではないことくらい分かるでしょうに)

 

 同行していたセテスが重々しく咳払いをしても気にした風もなく、上機嫌で去っていくレアの姿が印象的だった。

 その時の彼女の表情がエーデルガルトには──邪推かもしれないが──勝ち誇っているように見えてしまい、苦い気持ちで会釈したことを覚えている。

 

 ただ、実際にレアがベレトを教団に誘ったとかそういうことはないらしい。

 思い切ってベレトに聞いてみても、特に勧誘されたことはないといつものあっけらかんとした口調で答えてくれた。

 なので少なくともベレトがセイロス教団に正式に加わるという事実は、今のところないようだ。まだ、と付け加えなくてはならないが。

 

 しかし、そこで安心していられないのが悩ましい。

 レアがベレトに家族のような親愛の情を向けているのなら、その情を言葉として実際に口に出している者がいるのだ。

 それがエーデルガルトが現在誰よりも警戒している人物、クロードである。

 

 金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)の級長。レスター諸侯同盟の盟主リーガン家の嫡子。

 色々と重圧があるであろう立場のクロードだが、その性格は飄々としており態度も軽く、ともすれば問題児の側面もある青年だ。

 フォドラの貴族にしては非常に珍しく、武より知を、体より頭の力を重視する策士であり、奔放な金鹿の生徒達をまとめる手腕は彼の優れた統率力を表している。問題行動の多さとは裏腹に上に立つ者としての器は大きい。

 

 若い生徒の身ですでに策謀家の片鱗を見せており、あの手この手で他人に仕掛けを施す。巧みな話術や、懐に潜り込む距離感。陽気な性格を活かした行動で多くの人に働きかけている。

 彼が何を目指しているのかエーデルガルトには分からないが、その手段として貴族の権威を持ち出したりせず、セイロス教団の思想に囚われない姿勢は好ましいと思えた。

 もしクロードがどこの貴族とも所縁のない平民だったらベレトと同じように誘いをかけていたかもしれないくらい、エーデルガルトは彼を高く評価していた。

 

 しかしながら同盟の次期盟主や学級の級長だという自覚が薄いのか、旺盛な好奇心を隠す気がないようで、その行動はとかく危なっかしい。

 学校生活の合間などに暇を見つけては書庫に足を運び、英雄の遺産を始めとした紋章絡みの資料とかフォドラの起源を調べるという大胆な動きは、それを知ったエーデルガルトを冷や冷やさせたものである。【白きもの】について探った時などはセテスにも睨まれたようだし、あまり教団を刺激しないでほしい。

 書庫で顔を合わせた時に問い詰めてみたものの、口八丁の彼からは聞き出せたことは何もなく、居合わせたベレトと一緒に肩をすくめたものである。

 

 そんなクロードは自身の策に薬を使うことがある。

 腹下しの薬だの眠り薬だの何種類あるのか知らないが、策を円滑に進めるための手段として用意している、らしい。

 幸いなことにエーデルガルトは薬を盛られたことはなく、薬自体を確認したわけではない。だがヒューベルトの調べによれば、クロードの部屋には調合に使う器具や幾つもの薬草が持ち込まれているそうな。

 そこまでしているのだから、クロードの普段の振る舞いからして薬を使うことに忌避感はないのだろう。

 

 いたずらと呼ぶには質の悪い行いは、なんとベレトにも及んだことがある。ベレトの口から雑談の一つとしてポロリとその話が出た時は驚いた。いや本当に驚いた。

 盛られた当人が全く気にしてない──事前に気付けたので被害はなかった──ようで、それでも立場上クロードを呼び出し問い詰めたところ、薬を使う策の練り方から始まり、用兵だったり人生観だったり、説教のために設けた場であれこれ話して盛り上がったのである。

 何でそうなるのよ、とツッコみたくて仕方ないエーデルガルトだった。

 

 フォドラでは異端の育ち方をしたベレトと異端の考え方をするクロード。何か通ずるものがあったのだろう。それを切欠にして妙に仲良くなってしまい……そしてある日、エーデルガルトは聞いてしまったのである。

 クロードが、ベレトのことを『きょうだい』と呼んでいる場面を。

 

 きょうだい! よりにもよって、彼を家族のように呼ぶなんて!

 どうやら周囲には一応秘密にしている呼び方らしく、他人がいる場面では使っていないようだ。エーデルガルトが耳にしたのも偶然で、クロードもベレトも聞かれたことには気付いていない。

 

 まさかあの秘密主義のクロードが、いくらベレトとの仲を深めようとしているとは言え、身内にも等しい呼び方で距離を詰めているだなんて。

 情が込められたその呼び方に、エーデルガルトは酷く動揺してしまったのだ。

 

(いや、だから、いくらなんでも──)

 

「って変わり過ぎでしょーがあ!」

 

 畳みかけてくる現実を受け止め切れず、保てていた冷静さを放り投げたエーデルガルトはとうとう自室で声に出して叫んだ。若干キャラ崩壊。

 

「どういうことなの!? 黒鷲の学級の担任相手にどうしてそんなに距離を詰められるのよ! 師も師でしょ! なんでそんな簡単に仲良くなってしまうのよ!?」

 

 ベッドの上で枕をバンバン叩きながら不満を叫び散らしたのが先ほどのこと。

 放課後になったばかりの寮にほとんどの生徒はまだ戻っておらず、聞かれる心配はないのでつい大声で喚いてしまった。

 そこで、エーデルガルトはふと気付く。

 

(……前にもあったわね、こんなこと)

 

 我に返って叩く手を止め、脱力してベッドに突っ伏す。自分の感情の乱れっぷりを自覚して頭を抱えた。

 

 ああだこうだ考えてはいるが、エーデルガルトは何もベレトが自分を蔑ろにしているとは思っていない。むしろ忙しい合間を縫って茶会に誘ってくれたり、一緒に食事したり、授業の相談を持ちかけてきたり、顔を合わせる機会は他の生徒より多いのだと思う。

 だが……足りない。もっと彼と一緒にいたい。もっと話を聞いてほしい。もっと褒めてほしい。そんな小さな子供のような欲求が次から次へと湧いてくるのだ。

 

 エーデルガルトは今は生徒の身分ではあるがこれでも皇女である。やらなければいけないこと、考えなければいけないことはたくさんあり、その両肩にかかる責任は重く、決して暇ではない。

 勉学と訓練に励み、級長として学級の生徒をまとめる傍ら、『話』を通した諸侯との顔合わせや書状の作成、さらには憎き闇の組織とのすり合わせなど、彼女がするべきことは山積みである。

 責任感の強いエーデルガルトはそういった諸々を疎かにするつもりはなく、その器量の良さ故に完璧にこなしてしまい……個人的な時間が減っていた。ヒューベルトの補佐のおかげで全く休めないということはないのだが、どうしても空く時間帯が他人とずれる。

 そういった事情もあって教師であるベレトと合わせられる機会は減ってしまい、時には断腸の思いで誘いを断らなくてはいけないことすらあった。彼もエーデルガルトが忙しい身だと理解しているのでそういう時も食い下がらず送り出してくれるが、あの無表情にそこはかとなく残念そうな色が浮かぶのを感じて胸が痛む。

 

 そうした気持ちは弱みになるとして、毅然とした姿勢を崩さないエーデルガルトではあるが……押し殺しただけで消せたわけではないのだ。

 

「……私だって」

 

 思わず零れた声が枕に沈む。

 

 自分だって、彼らのように何も気にせず行動したい。

 できるものなら、もっと一緒にいたい。

 なれるものなら、もっと仲良くなりたい。

 打ち解けて、距離を詰めて、仲良くなって。

 (せんせい)と、もっと。

 

 ──無理だ。

 

 頭の奥から響く声がエーデルガルトを縛る。

 それは己の意志で自らに課した鉄の誓い。

 

 できるわけがない。自分には為すべきことがあるのだ。

 なれるわけがない。彼の父を殺した組織と手を組む自分がどの面下げて宣うか。

 何も気にせず共にいるにはこの身に背負うものが大き過ぎる。

 

 ふとした瞬間に湧いてくる心の声は、エーデルガルトにとって馴染み深いものだ。今さら動揺なんてしないし固めた覚悟が揺らぐこともない。

 それでも気分が上向くようなものでもなく、

 

「はぁ……」

 

 本日十回目となる溜息が漏れてしまうのも無理なからぬことであった。

 

 時は天馬の節。

 悩んでいられる猶予はもうない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 休日の早朝。エーデルガルトは訓練所に向けて歩いていた。

 目的はベレトにある誘いをかけるため。

 

 いつもなら朝早くから自主訓練に励む生徒に付き合うためにベレトも早起きして訓練所で相手をしており、他に予定でも入れてなければ決まってそこで会える。

 変貌を遂げても彼の姿勢は変わっていない。生徒を指導する教師として、変わらず訓練相手を務めるベレトはそこにいるはずだ。

 そんなベレトにこの誘いをかけても乗ってくれるかは怪しいが……

 

 エーデルガルトが不安な気持ちを抑えながら訓練所に着くと、ちょうどベレトが扉から姿を現したところだった。

 

(せんせい)?」

「エーデルガルト、おはよう」

 

 ベレトの方も出くわすとは思ってなかったようで、軽く目を見張ったのが分かる。

 変わってしまった薄緑色の髪を揺らしてエーデルガルトに近付いてきた。

 

「おはよう師。今日はもうおしまい? いつもより早いわね」

 

 見れば扉から出てきたのは彼一人だけ。訓練所の中からは武器で打ち合う音など人の気配が感じられるのでベレトだけが場を離れたのだろう。

 

「今日はもう俺はお呼びではないそうだ」

「どういうこと?」

「ついさっきまで複数人での模擬戦をやってたんだが、俺が混ざると上手くできないからって追い出されてしまったんだ。仕方ないから俺だけ先に切り上げてきた」

「……ごめんなさい、よく分からないのだけど」

 

 恐らく状況を端的に言っているのだろうが、ベレトの今の発言だけでは端的過ぎてエーデルガルトには読み取れなかった。

 

 詳しく聞く必要はない……が、毎日のように続く早朝訓練を、今日に限ってベレトが追い出されることになった顛末は少し気になる。

 

「複数人での模擬戦と言ったわね? 数人同士に分かれてチーム戦でもやったの?」

「いや、俺一人対生徒五人でやった」

「は?」

 

 事も無げに言ってのけたベレトを見て、エーデルガルトの口から間抜けな声がもれてしまった。

 

 まず、初めに提案したのはフェリクス。

 先日あった封じられた森の掃討戦で生徒に迷惑をかけたお詫びとして何か願いがあればできる限り都合をつける、と伝えていたベレトに向けて彼はこう言ったのだ。

 ──実戦に近い状況で本気のお前と戦いたい。

 フェリクスらしい武骨な申し出も、ベレトからすれば願ってもない生徒の頼みである。二つ返事で了承して、その場ですぐ始めることにしたのだ。

 

 実戦となれば場所は選ばない。今から始めるということで訓練所で戦う。

 実戦となれば一対一に限らない。せっかくなので訓練所にいる他の生徒とも戦う。

 その場で勃発したノリノリ教師との戦闘に複数の生徒も巻き込まれた。

 提案したフェリクス。隣で同調したレオニー。面白そうだと囃し立てたカスパル。自分もと参加を申し出たラファエル。興味深そうに眺めていたリシテア。

 五人の生徒が同時にベレトと戦うことになったのだ。

 

(何とも豪華な面子ですこと……)

 

 今年の士官学校はベレトが就任したこともあり、こと戦闘に関する成長力は目覚ましいものがある。並の訓練を受けた兵では足元にも及ばない実力を身に付けた生徒も多数いる。

 そして今挙がった五人の生徒はその中でも上位の強さを持っている。それを同時に相手取るということは、セイロス騎士団の正規の部隊を二つか三つ同時に相手にすると表現してもいい。

 本当にそれくらい彼らは強くなっているのだ。ベレトに鍛えられて。

 

 強くなったと自負した者が、その強さがどこまで通じるか試してみたくなるのは当然であろう。そんなわけで意気を高める五人が『実戦に近い状況で戦う模擬戦』をベレトとすることになったのである。

 

「で、勝ったのね」

「ああ」

 

 エーデルガルトの質問という名の確認に、一言の肯定で返せてしまうほど、ベレトはあっさりと勝ってしまった。

 いくら強くなったと言ってもベレトが格上なのは彼らとて分かっている。だから複数人で力を合わせて対抗するのは間違いではない。自分より強い敵に対抗するには数に頼るのが手っ取り早いからだ。

 しかし、それ以上にベレトは強かった──強くなったのだ。

 斬りかかるフェリクスの剣を捌き、迫るラファエルの格闘をかわし、連携するカスパルの斧とレオニーの槍を逆にやりこめ、隙を突いて放たれたリシテアの魔法を相殺し、全てを受け止めた上で五人それぞれを強かに打ち据えて勝利したのである。

 

 彼曰く、ここ最近はかつてないほど調子が良い、とのこと。いつもより体は軽く、普段より視野は広く、感覚が冴え渡るのを感じると言う。

 それはあの掃討戦以来……より正確には闇より帰還した際、女神の力を身に宿して以来、不思議なほど力が漲ってくるのをベレトは感じていた。

 

(女神の力が、彼の体に馴染んでいる)

 

 エーデルガルトはすぐに理解した。ベレトの身に宿ったという女神の加護が、彼を今まで以上に強くしたのだと。

 それまで生きてきた肉体の在り方を歪めて、恐らくは人間としての作りから外されてしまった。それも本人の意思を無視して、第三者によって意図的に。

 ……ある意味、自分と同じと言えるかもしれない。彼との共通項があるのは嬉しいやら悲しいやらで複雑だ。

 

「ところで、エーデルガルトは何か話があったのか?」

 

 訊ねてくるベレトを見て、気を取り直す。朝早くから訪れたエーデルガルトが何をしに来たか、という本題。

 やらなければならないことがあるのだ。

 

「師、私はこれから数日、大修道院を離れるわ」

「どこかへ行くのか?」

「秘密、と言いたいところだけれど……アンヴァルに行くの」

 

 大陸の南半分を占めるアドラステア帝国。そのかなり南側に位置する帝都。

 三国それぞれの首都の中で、ガルグ=マク大修道院からは最も離れている。直線の距離もそうだが、実際に辿る行程はさらに大きく伸びるのだ。

 

 百年ほど前、帝国領内で起きた反乱に南方教会の司教が関わっていたとかで、それに怒った当時の皇帝が司教を追放、教会は取り潰された。

 以降、帝国と大修道院を結ぶ直通の道がなくなってしまうほどセイロス教団との間に溝が生まれてしまい、行き来をするにはアミッド大河を渡り同盟領にまで足を延ばして大きく迂回する必要がある。

 その辺の細かい話は今はいいだろう。

 

 とにかく、ここから帝国には行くだけでも時間がかかる。往復すれば倍。数日がかりの外出ということになるのだ。

 立場上、無断で行くわけにはいかない。担任に届け出るのは当然である。

 

「向こうでやることがあるんだな」

「ええ。それで、なんだけど……師にも、付き合ってほしいの」

 

 重々しくならないように気を付けたつもりだが、その言葉を口にするのにエーデルガルトは多大な勇気を要してしまい、声音はどうしても固くなった。

 

 ベレトは教師である。傭兵として依頼されて就いた職だが、真面目な彼からすれば放り出すことはできない仕事だ。

 エーデルガルトの用事に付き合えば数日間、つまり来週の授業を教師である彼が放り出すことになってしまう。級長とは言え、一介の生徒が頼んだ程度で聞き入れてくれるとは思えなかった。

 

 況してや、ベレトはすでに何度か仕事を疎かにする失態を犯している。

 アビスの事件に関わった時は丸々二日間地上に戻らなかったし、ジェラルトが殺された時には失意に呑まれて一週間近く引き籠っていた。

 そういう不在の時はハンネマンとマヌエラが代理で生徒を指導したり、手が空いたセテスが生徒に指示を与えるなど、彼が空けた穴を埋めるために多くの人に負担をかけている。

 そして先日の掃討戦。クロニエに復讐するために率いていた生徒を置き去りにして単独で特攻を仕掛けるという、普段のベレトらしからぬ暴挙に出た。

 

 ただでさえそうやって失態を犯しているのだ。今また数日も大修道院から離れるなんて判断をベレトがしてくれるとは思えない。

 それでも、エーデルガルトは微かな期待を抱いてしまう。ベレトならこの手を取ってくれるかもしれない、と。

 

 なので勇気を絞り出してそう言ってみたのだが……言われたベレトの反応が芳しくない。見れば顎に手を当てて考えている。

 悩む姿を見て、やはり無理かと思い前言を撤回しようとしたエーデルガルトだったが、彼女が口を開くよりベレトの方が先に言葉を発した。

 

 ──もしこの時、エーデルガルトが諦めて撤回するのが後数秒でも早ければ、それだけで運命は大きく変わっていただろう。組織によってその体を超人へと作り変えられた彼女の中に残っていた心……普通の人間であれば誰もが持っているはずの、他人を頼りたい、縋りたいという気持ち……そんな弱さと言ってもいい人として当たり前の感情が、二人の未来を繋ぎ、その道を重ねることになったのだ──

 

「エーデルガルト、ちょっと確認したいんだが」

「っ……何かしら」

「君がアンヴァルに行ってやることというのは、時間がかかることなのか? 向こうに着いてからも何日か必要だったりとか」

「いいえ、向こうに着いて、始められさえすればすぐにでも終わることよ」

「ということは、時間がかかるのは道中の移動だけか」

 

 うん、と頷いたベレトは顔を上げる。その姿を見て、エーデルガルトの胸に奇妙な予感が湧いてきた。

 覚えがある感覚だ。これは、ベレトが何か突拍子もない行動でこちらを唖然とさせてくる、その前兆のようなものである。

 もはや慣れてしまったその感覚は、エーデルガルトにとっては希望の種とも言えるものだった。

 

「エーデルガルト、一緒に行こう」

「師……!」

「今すぐ出発して、明日の朝に帰ってこよう」

「師……?」

 

 お前は何を言っているんだ──その時のエーデルガルトの心境を表すならこの言葉に尽きた。

 自分についてきてくれるベレトに嬉しくなってテンションが上がった直後にこんな理解できないことを言われては、浮かべた笑顔を歪ませてもおかしくない。

 

 話を聞いていなかったのか。今から行こうとしているのはアンヴァルである。森の中の山道を下り、同盟のグロスタール領に出て、アミッド大河を渡って、グロンダーズ平原を通過して、広大な帝国の領土の南端にある帝都を目指すのだ。

 そんな「ちょっとそこまで」という気分で行けるような場所ではない。たった一日で往復なんてできるわけがないではないか。

 

 と、普通なら考えるところ。

 エーデルガルトは知っている。ベレトはいいかげんなことを言う人ではない。そして彼は、自分や世間の常識では測れない人物なのだ。断言するからには何かしらの根拠や自信があっての発言に違いない。

 すぐに表情を改めて聞き返す。

 

「そんなに早く行けるの?」

「迂回せず目的地へまっすぐ進めば大幅な短縮ができる。地上を走らず、最初から最後まで空を飛んで、最短経路を突っ切ればやれなくはないはずだ」

「空?」

「ドラゴンに乗って飛んでいく。支度はできてるのか?」

「え、ええ。この身一つあれば十分だから……」

「じゃあ行こう」

 

 即断即決。いつも通りの判断でベレトは歩き出す。

 どうしてアンヴァルに行くのか。着いたら何をやるのか。本来なら聞くべきだろうことを聞きもせず、不可解なままでも尽くしてくれる彼の姿勢に思わず胸が詰まる。

 それでも遅れるわけにはいかないと、エーデルガルトは小走りでベレトを追いかけた。

 

 向かうのは大修道院の東側、厩舎だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セイロス騎士団はフォドラ最強の軍として知られており、その拠点であるガルグ=マク大修道院には専用の厩舎が設けられている。

 騎士のための馬はもちろん、飛行部隊のためのペガサスやドラゴンも多数抱えている。セイロス騎士団のために鍛えられたそれらは精強で、各地への遠征の他、日頃の巡回任務にも活躍している。

 士官学校の訓練に貸し出されることもあり、飛行兵種を志す生徒にとっては憧れの存在だ。

 

 そこからドラゴンを借りようとしているのだろう。ベレトの後を早足でついていくエーデルガルトは歩きながら考える。

 確かに空を飛んでいけば道中を迂回する必要はなく大幅な時間短縮が可能だが……そんなに上手くいくだろうか? 色々と問題があるはず。思い切りのいい彼の果断はありがたいが、大丈夫なのだろうか。

 いや、信じよう。急ぐとなれば彼から考えを聞く時間も惜しい。ベレトの判断なら聞かずとも信じられる。

 

 腹を括って顔を上げると、ちょうど厩舎にさしかかったところだった。

 

「ツィリル、おはよう」

「あれ? おはよう先生。珍しいね、朝からこっちに来るなんて」

「今日は用事があるんだ」

「用事?」

「おはようツィリル。朝からお疲れ様」

「あ、エーデルガルト様、おはようございます」

 

 そこで朝早くから厩舎で仕事をしていたツィリルと出くわした。

 大人達に混ざって働く彼は、いつも朝早くから厩舎で作業しているのだ。普通の馬だけでなくペガサスやドラゴンの世話もお手の物である。下手な飛行兵種の人よりも懐かれているくらいだ。

 そのこともあって、最近のツィリルは飛行術の訓練を始めており、将来はドラゴンナイトを目指すそうだ。

 

 彼の将来はさて置き……厩舎からドラゴンを借りるとなれば許可をもらわなくてはなるまい。

 

「急で悪いんだが、ドラゴンを一頭貸してほしい」

「ドラゴンを? 申請は?」

「今すぐ出発しないといけない。すまないが、ツィリルの方で手続きをしておいてくれないか」

「う~ん……」

 

 ベレトの急な頼みにツィリルは難色を示した。

 大修道院で働くことに誇りを持つツィリルである。レアの従者として規範を守ろうとする姿勢もあり、それを外れた申し出を受けるのには抵抗があるだろう。

 

 しかし、しばらく唸ったものの、ツィリルは頷いてくれた。

 

「分かったよ。先生なら変なことに使ったりしないし」

「助かる。後で埋め合わせはするよ」

「無理を言ってごめんなさいねツィリル」

「いいよ。皇女様と一緒に使うってことは、僕には言えない大事な用なんでしょ? そういう政治的な話ってガルグ=マクでは珍しくないし、僕はなるべく口を挟まないようにしてるから」

 

 手に持っていた道具を道の端に置いてからツィリルが先に立ち、ベレトとエーデルガルトは後に続いた。

 

 ベレトの日頃の行いの賜物だろう。彼の頼みだというだけであっさり承諾してもらえた。事情を説明することなく話が通るとは、ツィリルの中では余程信用が置ける相手だと思われているのか。

 正直に言うと、ツィリルに見つかった時点でレアに伺いを立てなくてはいけないかと警戒したのだが、彼が自分でドラゴンを貸し出す判断ができたのがエーデルガルトには意外だった。

 

「二人で一頭に乗るなら、大きいドラゴンがいいよね?」

「ああ、ドラゴンマスター用の大型種がいい。武装はしないから重量も問題ない」

「先生なら大丈夫だとは思うけど、戦闘はしないでよ」

「分かってる。移動に使うだけだ」

「夜には戻れる?」

「いや、戻るのは明日の朝になる」

「え、そんなに飛ぶの? 機嫌損ねたりしないかな……」

「戻ったらたくさん労うよ」

「……まあ、先生が乗るなら大丈夫かな。この間からみんなすごいもんね」

 

 話している内にドラゴン用の厩舎に着いて、ツィリルが扉を開く。

 

 そこで広がる光景は何度見ても圧巻だった。

 中で思い思いに過ごしていたドラゴン達は扉が開かれてベレトの姿を認めた瞬間、一斉に動きを止めて揃って平伏したのである。

 

「こんなの初めて見るよ。ドラゴンって気位が高いのにさ」

「俺も不思議だ。今までこんなことにはならなかった」

「先生がその姿に変わってからだよね。いいなあ……レア様とお揃いになるとそんな力まで身に付くのかな」

 

 髪と目の色が変わって以来、ベレトはドラゴン相手に謎の畏怖を与えているのだ。馬にもペガサスにも影響はなく、何故かドラゴンだけに。

 

 後ろで見ていたエーデルガルトはここでも凡その事情を察していた。

 

(これも神祖の加護かしら……師の中にある力がドラゴン達を畏れさせている)

 

 【白きもの】を筆頭に、獣の頂点であるドラゴン。神祖となればさらに上位の存在であると予想できる。その力を宿す身が、ベレトの意図しないまま周囲のドラゴン達を畏怖させているのではないか……エーデルガルトはそう推察していた。

 合っているかは分からないが、もしそうなら恐ろしい力である。ベレトの前では全てのドラゴンは無条件で味方になるということ。敵対するドラゴンナイトも彼と相対しただけで平静を奪われるとしたらとてつもない脅威だ。

 本人は「ドラゴンが大人しく言うことを聞く」程度にしか考えておらず、これ幸いと飛行術の訓練に勤しんでいるが。

 

 そんなことを考えるエーデルガルトの前でツィリルが選んだドラゴンがベレトに引き渡される。頼んだ通り、最上級兵種のドラゴンマスター用である大型種で、のそりと動く巨体は慣れない者からすればかなりの威容だ。

 厩舎から出て、今日はよろしくと一声かけたベレトに応えるようにドラゴンは唸ってみせる。

 

 ベレトと一緒にその背に乗ったエーデルガルトは、ツィリルの助言に従って二人の体をロープで繋いだ。ちょっとドキドキしたのは内緒。

 

「それじゃあツィリル、明日の朝に!」

「気を付けてね先生! 皇女様も、いってらっしゃい!」

「ありがとうツィリル!」

 

 羽ばたきに負けない声で挨拶を交わし、一気に上空へ。

 二人を乗せたドラゴンは高々と飛び上がると、高度を活かし滑空、急加速して出発した。

 張り切って大きく鳴くドラゴンの背で、振り落とされないよう目の前の背中にしがみつく。冷たい空気の中でも自分の頬が少しだけ熱くなるのが分かった。

 

 森も道も無視して真っ直ぐ山を下る。目指すはフォドラの南端、帝都アンヴァル。

 ベレトとエーデルガルトは何にも邪魔されず、朝日の中を飛んで行った。




 エーデルガルトによる各キャラへの評価は、あくまでも彼女の視点であること、本作なりの表現だということにご注意ください。公式でこう語られているわけではないのであしからず。小説の読み手と違って、他人の内面とかが見えてるわけではありませんからね。
 大好きな師に近付く人が何人もいるのを見て、なのに自分は口出しできる資格なんてないと思えば、そりゃあ穏やかでいられるわけがないってもんですよ。

 ドラゴンが大人しくなるっていうのは独自設定です。原作にそんなのありません。

作者の活動報告に載せた後書き


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皇女様の憂鬱その二 後編

 後編になります。天馬の節の散策でエーデルガルトと話すと一定条件で提示される選択肢。そのイベントを広げた回です。ゲーム内では表現されなかったのをいいことに形にしました。
 なお、実験的に顔文字を使ってます。


 ウォーリアーという上級職の資格試験に合格し、得意の斧術技能に関しては満足のいく段階に達したと判断したエーデルガルトは次に何を学ぼうかと考えたところ、マヌエラの授業で触れられた飛行術に目を付けた。

 

 これまで身に付けた斧術と併せればドラゴンナイトを目指せるし、歩兵だけでなく飛兵の経験を積めば指揮にも活かせる。皇帝としてより広く俯瞰できる視点を得るためにも、戦場を広く飛び回れるような飛行術を学んでいた。

 訓練の他、グループ課題という名目で生徒も行う上空警備にペガサスに乗って参加したりなど、集中して飛行術を鍛えている。

 ベレトに頼む個別指導でも彼と一緒にドラゴンを駆って空中の追いかけっこに興じるなどして、徐々にその腕を上げていた。

 

 なのでドラゴンに乗って空を飛ぶのはこれが初めてはない。風を切って空を往く感覚はもう慣れたものであり、今さら緊張してしまうようなものではなかった。

 それでも彼と一緒になってドラゴンに、それも彼に抱きついて乗るとなれば全くの別物で、どうしても緊張してしまう。

 

(まさかこんなことになるなんてね……)

 

 ベレトの体に腕を回しているという事実を意識して、エーデルガルトはむずがゆい気持ちが湧くのを抑えられなかった。

 上気する頬を冷たい風が撫でて心地好い。自分がそうなってしまう原因を自覚し、同時にそれが悪くないものだとも感じて、目の前の背中へ頭を押し付けた。

 

 そんなエーデルガルトの動きを感じてか、振り返らないままベレトが声をかけてきた。

 

「どうかしたかエーデルガルト」

「何でもないわ。少し考え事しただけ」

 

 飛行のために手綱を握ることに集中していても、僅かな変化を察して気にかけてくれるベレトへの想いは温かなままである。

 前を向く翠眼も、風にたなびく緑髪も、色こそ変わっても彼の本質は以前と何も変わっていないのが感じられてエーデルガルトは嬉しかった。

 

「そうか……なら、俺の方からいいか?」

「何、(せんせい)?」

「ここなら他人に聞かれる心配はない。今の内に話しておきたいことがある」

 

 空の上で邪魔は入らず、真面目な声色であることからただの雑談ではないと察し、何か相談事かしらと耳を傾ける。

 

「今節の課題、どう思う?」

「聖墓での儀式だったわね」

 

 話に出たのは今節の末に黒鷲の学級(アドラークラッセ)が執り行う予定の学級課題について。

 

 変貌を遂げたベレトにレアが言い渡した次の課題は、聖墓と呼ばれるセイロス教の禁足地にて儀式を行うことだった。

 かつて女神より力を授けられた聖セイロスが聖墓で啓示を受けたことに倣い、同じく力を授けられたベレトも聖墓に赴き啓示を受けるように、と。

 

 何故それが学級の課題になるのかとベレトが疑問を返すと、セイロスが啓示を受けた時、その周りには共に戦ってきた聖戦士達が控えて儀式を見守っていたらしく、ならばベレトの指導を受けて一緒に戦ってきた生徒達がその聖戦士に相当するとして黒鷲の学級ごと儀式に参加させることにしたとレアは答えた。

 筋は通っている……のか?

 そんなものが士官学校の学級課題になるのかと一度は首を傾げたベレトだったが、レアがそう決めたのならそういう仕事なのだと考えて頷いた。

 

 ただし、そこで唯々諾々と従わないのが我らがベレト先生。

 課題の内容を理解した彼は、通達したレアとセテスに向かってこう言ったのだ。

 全学級合同の課題にしてほしい、と。

 

 目を剥く二人の前でベレトはこう話した。

 ──自分の指導を受けたのは黒鷲の学級だけではない。

 ──各地で起こった諍いの解決に他学級の生徒と協力したこともある。

 ──前節は生徒達が学級の枠を越えて力を貸してくれた。

 ──士官学校の生徒はみんな仲間だ。

 ──共に戦ってきたという括りなら生徒みんなを連れていきたい。

 話すベレトの口調は珍しく熱を帯びていて、悩んだ末にレアは了承することにしたのだ。

 セイロス教団の大司教としてレア自身も儀式を見届けるために同行すると付け加えて、通達の場はお開きとなった。

 

 ベレトとしては、生徒はみんな仲間のように思っており、彼らを仲間外れにしたくなかった。

 通達された儀式の内容からして教師の自分が中心になってしまうのだろうが、課題となれば主体は生徒である。上司の指示にはなるべく従うにしても、せめて生徒を立ち会わせて少しでも特別な経験をさせてやりたいのだ。

 指導したとは言っても、ベレトは自分が一方的に教えたとは思っていない。むしろ自分が生徒から学ばせてもらった気分だった。

 恩を返したい気持ちもあって、少しでも生徒のためになることはないかと考えていたところにこの儀式である。課題という形で貴重な経験を得られるなら、逃す理由はない。

 

 また、聖墓そのものが目的というのもある。

 この聖墓という場所、どうやらガルグ=マク大修道院よりもさらに昔から存在している(そもそも大修道院が聖墓を守るために建てられたもの)らしく、フォドラでは有数の歴史を持つ施設だと思われる。

 イグナーツのように美術的な価値を見出す者。クロードのように歴史的な情報を気にする者。マリアンヌのように宗教的な境地を求める者。そういった生徒にとっては大変興味をそそられる場所だろう。

 通常は立ち入ることが許されない場所に行くことができる機会をより多くの生徒に与えてやりたかったのだ。

 

 そんな考えがあるのだとエーデルガルトは聞かされていた。

 

「その儀式の時に、また一騒動起きるんじゃないかと俺は考えている」

「戦闘になると?」

「ああ。ありえないとされた襲撃が今まで何度も起こったんだ。今回も同じことになるんじゃないかという予感がある」

 

(まあ、そう考えるのも無理ないわね)

 

 神妙に聞きつつも、胸の内で苦笑してしまうエーデルガルトだった。

 ベレトがこうして警戒してしまうのは仕方ないことかもしれない。何しろこの一年で黒鷲の学級に出された課題で戦闘に関わらないものが一つもなかったのだから。

 

 大樹の節の対抗戦。飛竜の節の鷲獅子戦。この二つは恒例行事だから当然として、例年なら市民への奉仕活動だったり、やったとしても騎士団の活動を補佐するくらいが精々なはず。未熟な生徒を率いて本格的な戦闘に臨むなんていうことが本来の教育課程に組み込まれるなどそうそうないのだ。

 なのに今年の黒鷲の学級は、対抗戦が終わった翌節にいきなり盗賊の討伐、次いで反乱の鎮圧への参加が言い渡された。大修道院の警備では三学級の中で自分達だけが聖廟襲撃に立ち会い、それが終わったと思えば英雄の遺産奪還という大任で、その次がフレン捜索のため地下で戦闘。鷲獅子戦を折り返しにしてルミール村の調査という名の暴動を治め、ガルグ=マク郊外に現れた魔獣を退治。そしてあの封じられた森の掃討戦。

 はっきり言おう、今年は異常である。それも黒鷲の学級だけが課題の内容が戦いに偏り過ぎだ。

 

 士官学校の教師に就き、今年初めて学校生活なるものを知ったベレトだが、いくらなんでもこの頻度で命がけの戦闘が勃発する流れが普通だとは思えまい。戦時ならばともかく今は平時である。

 なのでこの流れから行くと、今節の課題でも何かやばいことが起きるのではないかと彼が危惧するのは自然なことだろう。早期に異常を察し、それに備える警戒心は傭兵にとって必須の心構えなのだから。

 

「師の懸念は分かったわ。備えておくに越したことはないわね」

「ただ、聖墓のような特別な場所だといつもの課題みたいに騎士団を編成していくわけにはいかないだろう」

「つまり私達生徒の力が要になる、と?」

「ああ」

 

 聖セイロスの遺骸が眠るとされた聖廟然り、教団にとっての禁足地には限られた者しか立ち入ることは許されないのは予想できる。

 ジェラルト傭兵団のような頼もしい味方も含め、今回は騎士団随伴で臨むことはできないだろうとベレトは考えた。

 なので肝心なのは生徒達自身の力。

 

「そこでエーデルガルトには帰ったらみんなに呼びかけておいてほしいんだ。今節にやる訓練は、全学級合同の連携訓練をするって」

「騎士団に頼れない状況では私達が連携できるように、ということね?」

「そうだ。一つの学級でまとまって動くことはみんなも慣れたものだろうけど、二つや三つもの学級で組んで一斉にという経験はないだろう? 残り期間は多くないが、確認しておくだけでも違うはずだ。先生方には俺から話を通しておくからエーデルガルトは生徒を頼む」

 

 これは……ある意味、革新的な提案かもしれない。

 拡大解釈になってしまうが、ベレトが言っているのは三学級、将来的には三国合同の軍事演習をしようということでもあるのだ。

 

 フォドラに共存している中立関係とは言え、帝国も王国も同盟も、相応の野心を秘めている者は多い。実現するかはさて置き、フォドラ統一を夢想する者は生徒の中にもいる。

 いざ軍を動かすような事態が起きたとしても、自国の軍だけで解決しようとしか考えられないだろう。他国と協調して動くなど、思考の端にさえ浮かぶかどうか。

 

 しかしベレトはそう考えていない。

 三つの国という分かれ方があるなら、そこにある軍も三種の傾向がある。ならばそれぞれの強みを生かさない手はない。それぞれの弱みを補わない手はない。

 取れる選択肢は多ければ多いほど有利。複数の手段があれば自分から主導権を握れる。

 教師になってから士官学校で説いてきた彼の教えはこういう形にも表れている。戦術だけでなく戦略の観点からも考えられるベレトの視座は政の領域だ。

 

 ただし、それは理想でしかない。

 

(ごめんなさい師……貴方の考えが叶うことはないわ)

 

 ひょっとしたら、このまま大きな事件が起こらなければ、将来のフォドラでは三国間の協力関係が生まれているかもしれない。士官学校の生徒達は、程度の差こそあるが仲は良好で禍根は少ない。未来でそういう関係になれる余地は充分ある。

 だが、自分がいる。他ならぬこのエーデルガルト=フォン=フレスベルグがいる。

 近い内にフォドラを揺るがす大事件を起こし、歴史に悪名を刻む新たな皇帝が、その理想を砕くのだ。

 

 とは言え、この場でそれを口にするわけにはいかない。曖昧な返事で誤魔化そう。

 

「できるといいわね……」

「できる」

「え?」

 

 力なく溢した返事にまさかの即答があって驚き、エーデルガルトは俯いていた顔を上げる。

 

「君達は力を合わせられる」

「どうして、そんな」

「だってもう合わせることができたんだ。一度できたなら、またできる」

 

 確信を込めた言葉に揺さぶられながら、首だけで振り返ったベレトの横顔を見上げた。

 

「俺達が初めて会ったあの夜」

「ルミール村に私達が押しかけた……」

「そうだ。君とディミトリとクロードが、俺と一緒に力を合わせて盗賊を退けた。危ないところもあったけど、あの時の俺達は間違いなく一つだった。だからまた一つになることも必ずできる」

 

 忘れていない。

 忘れたことなど一度もない。

 あの夜、身を挺して庇われた瞬間、エーデルガルトとベレトは()()()()のだ。

 

 三国における次代の指導者が、一つの意志の下で力を合わせる。

 歴史的に見ても稀有な事態。それがすでに為されていた。

 あの夜から、もう未来は作られ始めていたのだ。

 彼に導かれて。

 

「封じられた森でも、俺が飛び出した後はエーデルガルトが指揮を執ってくれたと聞いている。級長だけじゃなくて他のみんなも一つにまとまることができたんだ。だから大丈夫だ」

 

 断言に、ぞくりと身が震えた。

 エーデルガルトの胸に生まれた熱が急速に高まっていく。

 その熱を与えてくれたべレトへ、何を言えばいいのかもわからないまま口を開こうとした、その時。

 

GUUOOO(あかーん(≧△≦))!」

 

 突然、乗っているドラゴンが吼えた。

 それまで安定した飛行を続けていたのに急に揺れてしまい、慌ててベレトの体にしがみつく。

 

「師!」

「ああ」

 

 素早く手綱を引いて落ち着かせたベレトに訴えるように、首を向けたドラゴンは苦しそうに鳴いた。

 

VGRRR、RRUUO(もうむりぽ(´・ω・`))……!」

 

 不調の原因は明らかである。単純に疲れてしまったのだ。

 出発時には上ったばかりだった太陽も、気付けばかなり高い位置にある。随分長い間飛んでいたようだ。

 

「一度降りましょう師。いくらなんでも、ずっと飛び続けることはできないわ」

 

 今の時点で相当な短縮ができている。この調子で進めば想定よりもかなり早くアンヴァルに辿り着ける。無理をさせてドラゴンを潰すわけにはいかない。

 明日の朝までに戻るというのはやはり不可能なのだろうが、それでも充分過ぎるほど速いのだ。

 

 そう思ってベレトに着陸を促すエーデルガルトだが、彼はここでも予想外の行動に出た。

 

「エーデルガルト、一度手綱を持ってくれ」

「私が?」

「少しの間でいい。すぐに代わる」

 

 抱きつく腕を放して言われた通り手綱を受け取る。ドラゴンはふらついていても暴れているわけではないので操縦は問題ないが、何をするつもりなのか。

 

 手綱を引いてドラゴンの姿勢を制御させるエーデルガルトの前で、ベレトは体を前のめりに倒していく。落ちないように足で鞍をしっかり挟んだまま、両手をドラゴンの首元に添えるように伸ばした。

 途端、彼の魔力が膨れ上がるの感じる。掌に集まっていく魔力が白い光となり、現れた紋様が魔法陣を形作るのを見た。

 

(まさか……)

 

「──リカバー」

 

 発動されたのは回復魔法。白光に乗せて伝わる魔力が対象の活力を癒す。

 注がれた癒しの魔力を感じたのか、ドラゴンがどこか困惑した様子で首を回し、

 

「……RUU、RUA(お、お(゚◇゚≡゚□゚))?」

 

 自身の調子を確かめられたのか、力強い羽ばたきで高度を上げた。

 

VVVRRRYYYYYAAAAAAAAAA(みwなwぎwっwてwきwたwww(`・∀・))ー!!!」

 

 一際大きな咆哮を放つ姿は誰が見ても元気いっぱい。今にも墜ちてしまいそうだったのに、力強い飛行はまるで飛び立ったばかりのよう。

 間違いなく、今し方ベレトが使った魔法のおかげ。

 

 目の前で何が起きたのか。理解したエーデルガルトは先ほどとは別種の震えを覚えた。

 

(何てことなの……!?)

 

 彼が使ったのは白魔法のリカバー。

 初級のライブより使うのが難しい中級の回復魔法である。

 

 ライブは切り傷や腫れなど表面的な怪我を治す程度の効果で、熟達した魔法使いが魔力に物を言わせて骨折を治してみせることもあるが、あくまでも怪我を治すことが主体の魔法だ。

 それに対してリカバーは、ライブの効果に加えて対象の活力さえも取り戻させる高位の魔法である。かけられた側は外傷だけでなく体力まで元通りになるという、まさに回復魔法の神髄とも言うべき効果を持つ。

 ちなみにもう一つ中級にリブローという回復魔法があるが、こちらはライブの効果を遠くまで届かせる遠距離回復で、範囲は勝るが効果はリカバーに劣る。

 

 エーデルガルトが驚いたのは、ドラゴンに乗ったままの不安定な状況で高度な回復魔法を使ったことに、ではない。

 ガルグ=マク大修道院に来るまで魔法をほとんど知らず、教師生活の合間にしか鍛錬できていないのにも関わらず、リカバーという高位の魔法を使えるほどベレトの白魔法の腕が上がっているという事実。

 即ち、彼にそれだけの才能が秘められていて、ガルグ=マクで──レアの下でその力が花開いたという事実に、である。

 

「エーデルガルト、手綱を」

「え、ええ」

 

 手を向けたベレトに手綱を渡す。元気よく羽ばたくドラゴンは操作する人が代わっても動揺はしない……というかテンションが上がって気にしてないだけか。

 

「よしよし、問題ないようだな。このまま頼むぞ」

GRYUUU(かしこま(*^-^))!」

 

 ベレトが手綱を持ったままの手でドラゴンの首を撫でると、嬉しそうな声で一鳴きしたドラゴンは高度を上げた。出発した時と同じ勢いで加速を繰り返し、高速飛行を続ける。

 

 結局、休ませることなくドラゴンを回復させて飛行を維持できてしまった。

 これこそがベレトの考えにあった自信の理由だろう。飛行で最短経路を進むだけでも大幅な短縮になるのに、途中でドラゴンを休ませる必要もないとなれば道中の時間もさらに大きく縮む。

 この手段を取るためには飛行術と白魔法をどちらも高いレベルで両立させなければいかず、他人にはとても真似できまい。ベレトだからこそ可能な力技である。

 

 しかし、目の当たりにしたエーデルガルトの胸に生まれたのは感心ではなく、心細さだった。

 

 ガルグ=マク大修道院にやって来て初めて学ぶ魔法。それも教師の仕事の合間にしか自身の訓練はできなかったはず。

 現に黒魔法は、エピタフの資格試験に合格できたとは言え、ファイアーとサンダーの初級魔法しかベレトは使えない。下手に上級に手を出すよりも、基礎である初級の技を使いこなすことに彼は重きを置いた。

 なのに白魔法は中級のリカバーを使うほど腕を上げている。注げる時間には限りがあったのは間違いないのに、その短い時間でこうも力をつけたのは白魔法の適性……即ち、信仰の才能があったということに他ならない。

 

 平民の彼が。

 傭兵として生きてきた彼が。

 セイロス教との関わりなんてなかった彼が。

 

(師……貴方はどこまで、人間から外れてしまうの……?)

 

 目の前にいるはずのベレトが酷く遠い存在に見えてしまい、エーデルガルトは抱きつく腕に力を込めた。

 その背中に顔を埋め、少しでも彼を感じたくて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が赤くなりかけた頃。無事にアンヴァルに辿り着いた二人は都市部を越えて宮城までドラゴンを飛ばすことにした。

 通る予定のない大型のドラゴンが飛んできた時は見張りの兵達が何事かと騒ぐのが見えたが、ドラゴンに着けられた鞍の腹部分にセイロス教を示す模様が描かれているので、大修道院からの使者だと判断されて騒ぎになることはなかった。

 

 それでも城の中庭に直接降り立った時は、一体何事か、誰がやってきたのか、そう警戒する何人もの衛兵に取り囲まれた。

 先にドラゴンから降りたエーデルガルトの姿を見た彼らが皇女の帰還に驚く傍ら、間から進み出てきた者達が膝を付く。

 

「殿下、お待ちしておりました」

「予定よりかなり早くなったわ。支度は?」

「若様の指示により、すでに手筈を整えております。今からでも可能です」

「流石ね、助かるわ」

 

 進み出てきた彼らとは知った仲である。

 ベストラ家の私兵、つまりヒューベルト直属の手駒だ。

 

 天馬の節に入り、いよいよ事を起こす時が近いとしてエーデルガルトより先んじてアンヴァルに戻ったヒューベルトが動き出していたのだ。

 丸一節も先生の授業が受けられないとは少しばかり寂しくなりますね──そんな風に嘯いて分かれた従者は、ここで先に下準備を進めていたのである。

 

 ドラゴンが来たと知った瞬間、こんな時に来るのは主のエーデルガルトだと、そしてこんなやり方で来るのは彼女に力を貸したベレトだと判断して、即座に動いたのだろう。

 余計な横槍が現れる前に手駒を中庭に向かわせ、ヒューベルト自身も動いているはずだ。

 

「すぐに儀式を行うわ」

「ご案内いたします。あのドラゴンは一旦こちらで預かりましょう」

「頼むわね。(せんせい)!」

 

 背後でドラゴンを労うように撫でていたベレトを呼ぶ。

 

「ドラゴンはこの者達が預かるわ。貴方は私と一緒に来て」

「俺も行っていいのか」

「ええ。言ったでしょう? 付き合ってほしいって」

 

 ドラゴンの手綱を渡したベレトがついてくるのを確認して、エーデルガルトは先導役に続いて歩き出した。

 

 勝手知ったるアンヴァル宮城も、一年近く離れていたこともあって妙に懐かしい。大修道院の質素な作りとはまるで違う内装は帝国が誇る権威を示すもの。久しぶりに歩く城内の豪奢な廊下はエーデルガルトにとっては馴染みの光景である。

 だがその廊下を、まさかベレトを伴って歩くことになろうとは……自分についてくる彼を意識して浮つきそうになる気持ちを抑えた。

 

 肩越しに振り返ってみると、そのベレトが忙しなく視線を動かしながら後ろを歩く姿が見えた。

 これは好奇心で周囲を観察しているのではなく、歩きながら経路を確認しているのだ。彼の授業でエーデルガルトも教わったことだ。初めて訪れる場所に来た時は逃走経路などの道筋を確認しながら奥へ進むように、と実際に大修道院のあちこちを生徒に歩かせたことがある。

 あの授業も面白かった。生徒一人一人の性格上、普段は足を運ばない場所にも行くことになったので、歩き回りながら知らなかった道を発見した興奮でいつになく級友と話したものだ。あれは勉強と言うより半ば遊び気分で学べた授業だったか。

 

 こんな時でも平常運転のベレトに釣られ、つい緩みそうになる顔を引き締めてこれからのことを脳裏に描く。

 

 今からエーデルガルトがやろうとしていることは複数の意味を持つ。

 一つ、決起。これをやってしまえばもう後戻りはできない。動き出した事態は必ずフォドラに戦乱をもたらすだろう。

 二つ、独立。組織から言われるまま指示に従うしかなかった立場から、ある程度ではあるが対等に近付ける。完全にとは言えないが、それでも物申せるようになる。

 三つ、決別。これまでとは全く違う地位に就くことで、周囲の人間との関係は一変する。級友とも、臣下とも、背後の師とも。

 

 それでいい。戻る道など自分には必要ない。

 自分には前に進む道だけあればいい。

 それが、彼がいないと分かり切った道でも。

 

 先導役の男に従って誰にも邪魔されないまま辿り着いた大扉を開き、玉座の間に立ち入ったその時、エーデルガルトは改めて決意を固めた。

 

 僅かな護衛に守られる玉座の人影を認め、思わず眉が歪む。

 深い皺は年齢以上の老いを感じさせ、血色の悪い肌と相まって壮絶な苦労を背負ってきたことを表している。こちらに気付いて曲がった背を正そうとゆるゆると体を起こす姿は、そこに座るにしてはあまりにも覇気というものがない。

 誰がそれを責められよう。この人はずっと戦ってきたのだ。権力闘争に敗れ、貴族達の傀儡にも等しい立場の屈辱と無力感の中、我が子が次々と人体実験によって命を落とす絶望を味わって尚、今まで生き延びてきた。

 彼こそがイオニアス=フォン=フレスベルグ。皇帝イオニアス9世。エーデルガルトの父親である。

 

「お父様! ……無理なお願いをして、申し訳ありません」

 

 早足で近付くエーデルガルトを見てイオニアスは小さく笑みを浮かべた。やつれ果てた表情から彼の体力の限界を見て取り、その身を押してここへ来てくれて感謝に頭が下がる。

 

「そのお体では玉座に座ることも大変でしょう。ですが……」

「いいのだ、エーデルガルト。儂に残された時は少ないと……理解しておろう。ならば……今しかないのだ……」

「……感謝します」

 

 久しぶりに会ったのに挨拶することもなく事を急く二人は分かっている。

 今しかないという言葉通り、動き出す好機が今なのだと。

 

 その最初の一歩──皇位継承の儀。

 皇女エーデルガルトが帝国の頂点、皇帝となるための儀式だ。

 

「玉座の間で帝冠を授かる……でなければ、帝国の皇位継承の儀は成立しない。かつてセイロス聖教会の司教が担った見届け役は、師が務めてくれましょう」

 

 隣に立つベレトを見やる。現皇帝の前に立ったというのに臆した様子もなく、いつもと変わらない無表情のままだ。

 だがエーデルガルトは彼の視線に相手を気遣う意識を感じた。

 目の前に座る人物が帝国の皇帝なのは分かっているだろうが、恐らくそれ以上に今にも倒れそうな顔色の父を案じてくれているのだろう。こんな時でも調子の変わらない人である。

 

 ベレトの気遣いはありがたくとも、今はそれを気にしていられる余裕はない。そして彼が望まずとも、彼の立場は極めて有用なのだ。悪いがついてきたからには存分に利用させてもらう。

 

 神祖の加護を受けて髪と目の色が変わったベレトに、レアは新しい兵種の資格を授けた。ニルヴァーナと呼ばれるその兵種はセイロス教団が認めた聖人の称号であり、ベレト以外にこの資格を持てる者はいないと言い切っていた。

 つまり今の彼は正式な意味でもセイロス教団の要人という立場で、本人がどう思っていようとセイロス教の代表としてこの儀式に立ち会う資格を持っているのだ。

 大はしゃぎしたレアが聖人をイメージした礼服をベレトに贈ったりしたものの、襟が大き過ぎて視界が遮られるのを嫌がったベレトには不評だったのは、少しだけ……ほんの少しだけ、胸のすく思いだったのは内緒である。

 

 というか、それと一緒に彼に贈った神祖の服とやら、あれはいったい何なのだ。脚も腕も大きく露出する作りで、装飾も含めれば神秘的と言えなくもないが、布地の少なさからして肌着と言っても通用しそうではないか。夏ならともかく今の季節は寒いし、そもそも女神をイメージした服ならあれは女性用ということになるし、恥ずかしさを気にしない師がもしあれを私服代わりに使うなんてことになったとしたらあの格好で大修道院の中を走り回ったり授業のために教壇に立ったりあまつさえ訓練で生徒と向かい合ったり──

 

「エーデルガルト……?」

 

 ──げふんげふん。

 

 不思議そうな父の声に慌てて意識を戻す。

 危ない危ない。またいつものように妄想にふけるところだった。

 

 表情を引き締める。いよいよこの時が来た。

 

 ベレトがセイロス教公認の聖人となった時、袂を分かつことは決まった。だからエーデルガルトは今回のことを計画した。皇位継承の儀にベレトを同伴させることを。

 建前は、大司教が同席していなくても儀式に正当性を持たせ、体面的な意味でもその権威を確たるものにできると考えて。

 本音は、今回の儀式を彼に見守ってもらうことで少しでも自分を奮い立たせる理由にするため。

 たぶんヒューベルトには本音がバレているだろうが……

 

 何より、あの組織の主導で皇帝の座に据えられるのではなく、己の意志で皇帝になるという事実が大切だった。

 流されたのではなく、誰に従ったのでもなく、自分で決めたこととして。

 

「私は、帝国の全てを継ぎます! 全ての人のために!」

 

 力強く言い切り、玉座の前に膝を付いた。

 

 目の前に跪く娘を、どこか痛ましそうに見たイオニアスだったが、すぐに気を取り直した。

 エーデルガルトの決意が固まっているなら応えなくてはいけない。何もできないと思っていた情けない身でも、せめて娘の足枷になってしまうことだけは避けたい。

 

 最後の力を振り絞って皇帝は立ち上がる。震える足で皇女の前に立つと、鷲の足を模った冠を掲げた。

 

「これを……」

「……」

「エーデルガルト=フォン=フレスベルグ。赤き血と白き剣の盟約において、双頭の鷲を頭に戴く汝を、新たな皇帝とする! ……その覚悟はあるか!」

「フレスベルグの名と古の盟約に従い、フォドラを導き、民の安寧を図るため、その座に君臨することを誓います!」

 

 儀式自体は簡素なものである。文言と共に冠を授けられたエーデルガルトは、今この瞬間を以て正式にアドラステア帝国の皇帝となった。

 頭に冠を乗せられると同時に絶大な重みを感じる。一国の頂点に立ち、大陸の未来とそこに生きる臣民を背負う責任は、一人の少女が負うには大きすぎる重圧だ。

 しかし彼女がその身を折ることはない。

 

(我が名はエーデルガルト=フォン=フレスベルグ……このために生まれ、そうあれかしと育てられ、そして作り出された皇帝。その道を歩む覚悟を私は持っているのだから!)

 

 立ち上がったエーデルガルトを見て安心したように力を抜き、イオニアスは玉座に腰を落とす。今し方皇帝ではなくなった男がそこに座るのを咎めるような者はこの場にはいない。

 

「……これで、皇位継承は済んだ」

「はい」

「ああ……結局、儂はお前に何もしてやれなかったな……」

 

 名実共に役目を終えたイオニアスの顔は、生気は薄くてもどこか満足気だった。

 皇帝でありながら貴族達の横暴に手も足も出せない立場に彼の心は追い詰められていた。心に釣られて体も衰えていき、今では辛うじて命を繋いでいるだけの有様。それでも、一人生き残った娘のために何かをしてやれないかと思い、耽々と機を窺う日々を生きてきて、ついにそれが叶ったのだ。

 これでもう思い残すことはない。そんな心境だった。

 

 そうして力を使い果たしたように萎れた声を漏らすイオニアスを見るとエーデルガルトは堪らなくなる。父がどれだけ戦ってきたかを知っているから。

 

「もう……もうよいのです、お父様……私はお父様の目と拳に救われたのですから」

 

 歩み寄り、イオニアスの拳を両手で包み込む。

 

「お父様が私を想って向けるその目を、私は信じていました。お父様が固く握った拳から血が滴るのを、私は見ていました。私が血を流している時、お父様もまた血を流しているのだと知っていました」

 

 それがどれだけ自分の心を支えてくれたか、少しでも伝えたくて包む手に力を込める。貴方がいたから今日まで私は生きてこれたのだと感謝を伝えたくて。

 だから最後に──最期に、成長した自分の姿を見せたい。貴方の娘は大きくなりました、と。

 

 最早イオニアスは永くない。体力も気力も尽きた彼は生きるための最低限の活力さえ枯渇している。久しぶりに会ったエーデルガルトの目からも明らかなのだし、それは周囲の者にも見て取れるだろう。

 何より、勝手に皇位継承の儀に及んだことで怒った組織がすぐにでも手を下すのが予想できる。エーデルガルトやヒューベルトのように()()()()な人間には手を出せないので、その分の怒りがイオニアスに集中するのは想像に難くない。

 分かっていたことだ。自分も父も全てを承知で動いたのだ。

 だからこそ彼が憂いなく逝けるように、ここで少しでも安心させたかった。

 

「ありがとうございます、お父様」

「……エーデルガルト?」

 

 微笑むエーデルガルトを見てイオニアスは僅かに目を見張る。娘はこうやって笑う子だったか?

 皇女として背筋と伸ばし、威厳を見せるように振る舞う姿は知っていた。自負を込めた笑みは若くして固めた決意の表れだったのは察せられた。

 しかし、こうして穏やかに微笑む姿は見たことがない。無邪気に笑っていた子供の時とも違う。まるで一足飛びに大人になったような柔らかい雰囲気で……

 

「エーデルガルト」

「ああ、師……放置していて悪かったわ」

「儀式とやらはこれで終わりか?」

「ええ。待たせたわね」

 

 そんな時に後ろから話しかけてきた男。

 娘が連れてきたその若者は驚くことに大司教レアと同じ髪と瞳をしていて、なんと儀式に立ち会わせる代理人の資格があるという。エーデルガルトが「せんせい」と呼ぶのなら、彼は士官学校の教師なのか。

 皇族の会話に割り込んでくるのが不敬であると思わないのか、緊張した様子もない自然体に見えた。エーデルガルトも特に言及せず、むしろ親し気に対応している。

 彼は一体?

 

 ベレトのことを知る由もないイオニアスにとっては当然の疑問が浮かぶ。儀式を急ぐべく些事は流していたが、それが終わってようやく他に意識を向ける余裕ができて気になってきた。

 

「お父様。彼はベレト=アイスナー。士官学校に昨年就任した教師です」

「はじめまして、陛下。黒鷲の学級(アドラークラッセ)の担任を務めております、ベレト=アイスナーです」

「そなたが……今年度の黒鷲の学級を、エーデルガルトを指導しているのだな」

 

 エーデルガルトの紹介と、進み出て一礼するベレトを見て理解する。

 彼は平民だ。所作からして荒事の中で生きてきた気風がある。それでいて静かな佇まいと、礼節を意識するだけの教養が感じられた。同時に、皇族相手でも必要以上に緊張しない自然体にその器の大きさを感じ取れる。

 士官学校の教師に強者がいる。そんな噂を微かに聞いた覚えがある。恐らく彼のことだろう。

 

「師、お父様は退位なさってこれからは私が皇帝なのだから『陛下』は私への呼称になるから注意してね」

「それもそうか。そうなると君のお父さんにはどういう尊称を使えばいい?」

「先代の皇帝ということで『先帝陛下』が分かりやすいかしら」

「分かった、ありがとう」

 

 そうして話すベレトが改めてイオニアスに向き直る。

 エーデルガルトとの気心が知れた会話を聞いて目を白黒させていたイオニアスは、そこで初めてベレトの顔を真正面から見た。

 

 無表情である。今し方話したエーデルガルトに朗らかな笑顔を向けていたわけでもなく、一見すれば酷く無機質な顔。

 しかしイオニアスはそこに不思議な感慨を覚えた。

 

「先帝陛下に申し上げます。貴方の娘さんは、とても良い子です」

 

 というか、呆気に取られた。

 

「ほう?」

「せ、師っ?」

 

 今度は何をやらかす気だこの人、と慌てたエーデルガルトを余所にイオニアスは興味深く目を見張る。

 

「皇女という忙しい立場でありながら、黒鷲の学級の級長として日々を立派に過ごしております。勉学にも訓練にも優れた成果を出し、課題においても率先して陣頭に立ち、級友から頼りにされるなどの人望もあります」

「なるほど……それで?」

「生徒を指導していく中で、自分の勉強不足をよく感じます。そんな時にも娘さんが細かく補佐してくれるおかげで、未熟な教師がこれまでやってこれました」

「ふふっ……口出しする生徒は煩わしかったかな?」

「いいえ。俺はエーデルガルトに何度も助けられました。教師の仕事を務められたのは彼女が支えてくれたからこそです。感謝しているし、尊敬しています」

 

 静かに語るベレトの話を聞いて、イオニアスは久しぶりに……本当に久しぶりに楽しい気持ちになった。心が湧き立つなどいつ以来だろうか。

 背後でハラハラとした顔で見ているエーデルガルトがおかしくて自然と頬が釣り上がり、自分が笑顔を浮かべたことに驚いた。

 

「だから、大丈夫です先帝陛下。貴方の娘さんは強く、大きくなりました」

「……そうか」

 

 ベレトの言いぶりを聞いてイオニアスは理解した。彼は自分の死を察している。

 遠からずこの世を去る父親に向けて、教師として最後に伝えたかったのだろう。

 娘さんは大丈夫です、と。その心遣いが嬉しかった。

 

「急に何を言い出すのよ師!」

「生徒の親に会ったらやっておきたいことだったんだ。こういう三者面談」

「面談って……」

「前からやりたいとは思ってたんだ。親御さん相手に、生徒が学校でどうしてるか、俺がどう見てるか話すのって。エーデルガルトがすごいって自慢したりとか」

「ああもうやめてちょうだい、恥ずかしいわ!」

 

 気付けば玉座の間にらしからぬ和やかな空気が広がっている。心なしか周りに控える者達の視線も、ほっこりと言うか何と言うか、微笑ましい光景を見守るような雰囲気があった。

 そんな視線を向けられる二人の様子、褒めちぎるベレトと照れるエーデルガルトを見てイオニアスは自然と納得した。

 

(ああ……なるほどな)

 

 くつくつと笑いが溢れてきて、自分がまだ笑うことができたのかと再び驚く。

 

 腐っても今日まで皇帝だった身である。力を振るう機会は取り上げられても、人を見る目だけは肥えた。

 エーデルガルト()の視線に乗せられた色は、イオニアス()の目には一目瞭然だったのである。

 

「エーデルガルト……良き人に出会えたのだな」

「お、お父様っ?」

 

 何やら別の意味で父を安心させることになったエーデルガルトは慌てた声を出してしまう。変な意図を受け取られてしまってそうで。

 ──勘違いなさらないでください。私は師をそういう意味で紹介しようとしたのではなくて。いや師はすごい人だから紹介するのは吝かではありませんけれど。でも別に私としてはその手の話を持ってきたつもりはないのです。そもそも師は私とそういう関係にある人ではなくてですね。いやでも嫌っているわけではなくてむしろ好ましく思っておりますと言いますか──

 一瞬で頭に浮かんだその言葉を口に出そうとしたのだが、そうはならなかった。

 

 背後で閉めてあった大扉が開かれて慌ただしく玉座の間にやってきた人物に、それまで満ちていた空気は押しやられてしまった。

 

「陛下! 寝所を抜け出して何をなさっているのですか!」

 

 詰問するような口調で詰め寄ってくる男を見て、エーデルガルトの心は急速に冷めていく。

 彼女にとって『敵』の一人なのだから。

 

 ルードヴィヒ=フォン=エーギル。現在の帝国を牛耳る六大貴族の一角であり、帝国の宰相を務めるエーギル公。

 エーデルガルトの兄弟姉妹を悍ましい実験で滅ぼした組織の協力者。同時に、父の立場を貶めた一派の筆頭でもある。憎む理由は幾らでもあった。

 

 そうして冷めた視線を向けるエーデルガルトに、ずかずかと玉座に近付いてきてからようやく気付いたエーギル公は目を丸くした。

 

「これは……エーデルガルト殿下ではありませんか? いつこちらに?」

 

 士官学校にいるはずの彼女の来訪を知らされてなかったのか、今初めて気付いたようで驚きを露わにしている。

 

 その鈍さに呆れてしまう。ドラゴンで飛んでくるという、あれだけ派手な動きを察知していないのか。宮城に降りてからも特に身を隠していたわけでもなく、多くの者がこの姿を目にしていたというのに……これが帝国の舵を取ると豪語するエーギル家の当主かと思うと頭が痛い。

 冷めた視線をそのままに、エーデルガルトは冷厳と告げた。

 

「宰相、呼称が間違っているわ。私は殿下ではない。『陛下』と呼びなさい」

「なっ……ま、まさか!?」

 

 またも遅れて気付いたのか、エーデルガルトが被る冠がようやく目に入ったように目を見開いたエーギル公が愕然とする。

 揺るぎない帝位の証が頭上にあるということは。

 

「……ただ今を以て、アドラステア帝国の皇帝はエーデルガルトになった」

 

 後押しするようにイオニアスが事実を言う。

 継承の儀はすでに終わり、誰にも覆せない決定だとして。

 

「文武百官を招集して布告の準備を進める。宰相、お前には……」

「……更迭を命じる。外部との連絡はしばらく断ってもらうわ」

 

 イオニアスの言葉を次いで、今度はエーデルガルトが通達する。

 皇帝として最初の命令。彼女が備える威厳を余すことなく発揮して告げられたその言葉は、齢二十に満たない小娘のものとは思えないほどの重みを持って放たれた。

 

「そんな……まさか……!?」

 

 衝撃を受けたようによろめき、エーギル公は後退る。

 士官学校にいるはずのエーデルガルトがアンヴァルにいて、自分の知らない内に皇帝になっていたなど、帝国を掌握していたつもりの彼にとっては信じられない思いなのだ。

 

 まだ幼いと思っていたエーデルガルトが。

 押さえつけられると思っていたイオニアスが。

 まさかここまで表立って歯向かうとは。

 

 どうせ逆らう者などいないだろうと単身玉座の間に乗り込んだのもまずい。命令に対して反論しても後押ししてくれる味方がいないのだ。周りに控えているのもイオニアスの護衛と、後はヒューベルトの子飼いだと分かる。

 つまりエーデルガルトの命令に逆らえる状況ではないということだ。

 そもそも皇帝の命令に面と向かって逆らえるかどうか考えている時点で上下関係が狂っているのだが……

 

 今まで散々好き勝手してきた身として反発心が生まれるが、状況が悪すぎた。抵抗できる余地がない。

 

「……承知、いたしました」

 

 一礼と共に拝命するしかなかった。

 

 皇帝として発した命令である。エーデルガルトの性格からして撤回はない。

 更迭とはつまり、宰相を罷免されるということ。これは決定事項だ。

 あまりの凋落にエーギル公は目の前が真っ暗になる思いだった。

 

 と、そんな彼に近付く一人の影。

 

「貴方がエーギル公ですね」

「……なんだ貴様は?」

「はじめまして。黒鷲の学級の担任を務めております、ベレト=アイスナーです」

「なぁ!?」

 

 大司教レアと同じ色の髪と瞳を持つ男が一礼する姿を訝し気に見やり、次いで名乗りを聞いて仰天してしまう。ある意味エーデルガルト以上に予想外の人物なのだ。

 噂と時折息子から届く手紙でその存在は知っていたが……

 

「御子息のフェルディナントを指導している身として、こうして会えたのならお話をと思いこの場を借りて御挨拶を」

「そ、そうか……」

「御身が大変であるとは存じます。しかし僭越ながらフェルディナントのことを話せるのは今しかないと声をかけさせていただきました。少しだけお時間を頂戴したく思います」

「むぅ……許そう。そなたの見立てで息子はどうだ?」

「素晴らしい子です。勉学にも訓練にも率先して誰よりも意欲的に取り組み、そして実績を出しております。大修道院の内外問わず他人を助けて回り、自分だけではなく周囲の人間をまとめて高みに押し上げる彼の姿勢は、学級の垣根を越えて多くの生徒に良い刺激を与えています」

「ほほう、流石はフェルディナント。貴族として励んでいるようだな」

「はい。フェルディナントは常々口にしています。貴族とは斯くあるべし、上に立つ者として人々の規範になるのだと。有言実行を体現して、同時に思いやりを忘れない素晴らしい子です。彼から学ぶことも多く、共に訓練する時は身が引き締まります」

「うむうむ、そうであろう。そなたのような息子をよく見ている者に指導してもらえて、あれも幸運だな」

 

 困惑していても、息子のフェルディナントには甘いエーギル公は無視できずベレトの話を聞くことにしたのだが、担任教師の彼が好評を語るおかげで暗くなっていた気分が上向いてきた。

 緊迫していた玉座の間にまたしても和やかな空気が流れたのである。

 

 暢気に面談(今度は生徒がいないので二者面談)を始めたベレトを見て、イオニアスはおかしそうに、エーデルガルトは溜息交じりに笑ってしまった。

 

「面白い男だな……ああいった者がいると、場の空気を変える良い刺激になる」

「師はそこまで考えていないと思われますが……」

 

 感心するイオニアスとは違い、間違いなく天然故の行動であると分かるエーデルガルトには力が抜ける光景だ。

 いくら常人より視野が広いと言ってもベレトには政治の心得などない。況してや帝国の政的事情など知るはずがない。先ほど自分に言ったのと同じように、親御さんに向けて生徒の自慢話がしたかっただけだろう。

 

 同じくベレトに振り回された者として同類に思えたのか、敵視していたエーギル公に対して僅かに……ほんの僅かにだが親近感を覚えたエーデルガルトであった。

 仮にも今まで帝国を支配してきた六大貴族の一人なのだ。地位を取り上げた後も、せめて無体な扱いはせずにおいてやろう。その後どうなるかは彼次第だ。

 

 ──図らずも、ベレトの天然さとエーデルガルトの気紛れな温情によって身を滅ぼす未来を回避したエーギル公が、意外な形で活躍するのはずっと先の話である。

 

「ベレトだったか、あの男には……いや、もう余からは何も言うまい。思う通りにやりなさい。その行く先が帝国と、お前の未来を照らすことを祈ろう……」

「お父様……」

「エーデルガルト……いや、エル……この国を、このフォドラを……頼んだぞ……」

「……はい!」

 

 満足そうに微笑むイオニアスに深く一礼だけしてエーデルガルトは歩き出す。

 今生の別れになるであろう父へ、応えるのは一言だけで充分だ。

 

 差し当たってベレトの話を切り上げさせるべく、彼の方へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(本当に帰れてしまったわ……)

 

 朝日が水平線から顔を覗かせた頃。二人を乗せたドラゴンは無事ガルグ=マクに帰還した。

 アンヴァルとガルグ=マクの片道が凡そ半日。つまりベレトがその気になってドラゴンを飛ばせば一日でフォドラを縦断できてしまうということ。

 つくづくとんでもない男である。改めて彼の常識外れぶりを感じ、エーデルガルトは少し笑ってしまった。

 

 ドラゴンを厩舎に返しに行くとツィリルが出迎えた。早朝に帰ると教えてあったので驚く様子もなく、彼がドラゴンの状態を調べている横でベレトが労いの肉を持ってくるなど動く間、エーデルガルトも労うように撫でてやる。

 賢いのか、それともベレトに平伏している影響か、エーデルガルトの手に鼻をすり寄せて「GURRRU(おっつー(´ω`))」と大人しく鳴くドラゴンを見ながら、もっと早く飛行術の訓練を始めればよかったかなどと考えた。

 

 そんなこんなで厩舎を離れ、寮に向かう時にはすっかり陽が昇っていた。

 

「エーデルガルト、お疲れ様」

(せんせい)こそ……付き合ってくれて、ありがとう。本当に助かったわ」

 

 歩きながら言うベレトに心から感謝する。彼の協力がなければこうも上手く事は運べなかった。

 

 簡単な食事休憩を取った後にアンヴァルを出発したのは、既に日は沈んで月が見える頃だった。そこから一晩かけてガルグ=マクに帰ってきたのだ。

 夜間の飛行は日中よりも気を遣い、アンヴァルに行く時ほど急ぐ必要はないということもあって途中で一度地上に降りて仮眠を取ったりなどしたが、それでもこの移動速度は破格である。

 もちろん、帰りの道中でもドラゴンが疲れたらベレトがリカバーで回復させて、仮眠する時以外はひたすら飛び続けたからこその高速移動なのだが。

 

 しかし流石にこの速さを基準に考えてはいけないだろう。飛行術はまだまだ訓練中のエーデルガルトでもそれくらいは分かった。これはベレトにしかできない例外である。

 彼が将来帝国に来てくれれば、いざという時に使える強力な切札になりえるのだろうが……

 

 またしても未練がましい考えが浮かび、エーデルガルトは頭を振る。早くこの未練を断ち切らねばならないのに、まだ甘えが抜けないのか。

 

「これで私はアドラステア帝国の皇帝……もはや立ち止まることは許されない」

 

 人目を避けて細い通りを歩きながらエーデルガルトはぽつりと呟いた。小さいが隣のベレトだけは聞き取れる声。

 それは彼女の中で消えることなく残る憂鬱と、今後は一層増す責任への使命感に挟まれた心が、思わず漏らした弱音なのか。

 自身に言い聞かせるようなその呟きが聞こえても、ベレトはすぐに反応できなかった。

 

「聖墓での儀式を終えたら、帝国に戻るわ」

「それは……忙しないな。弧月の節には学校の卒業式があると聞いてるが、出られなさそうか」

「恐らくね。詳しくは言えないけど、やらなければならないことが山積みなの。時間はいくらあっても足りないし、少しでも早く手を付けたいのよ」

「皇帝ともなれば今以上に大変だろうな。今までもエーデルガルトが皇女の務めを果たしていたのは知ってるけど、それ以上に責任も増えるか」

「ええ。きっと師が想像する以上にね」

 

 虚実を織り交ぜながら話すエーデルガルトの弁は、ベレトにとって未知の内容である。それどころかフォドラの誰にも理解できないだろう。

 

 皇帝としての責任だけではない。エーデルガルトが歩もうとしている覇道。フォドラに戦禍を広げることになってでも叶えたい彼女の理想。

 そして……それらによる不安。

 どんなに決意を固めようが、険しいと分かり切っている道に進むことへの不安がなくなるわけではない。エーデルガルトとて一人の人間である。不安に押し潰されそうになり、重圧に身が震える思いだ。

 それでもやはり引き返すつもりはない。これを思う度に自分に言い聞かせるのだ。例え一人になっても歩みを止めることはないと。

 

 もうベレトに頼ることはできない。今回のアンヴァル往復で助けられたことを最後の関わりにして、これからは別の道を進むことになる。 

 ベレトは今後、教団と寄り添っていくのだろう。正式な位を得るのか、はたまたレアの私兵か。どういった形になるかは分からないが、少なくとも神祖の加護を受けた彼が進む道はエーデルガルトから離れていくものだ。

 

 故に、胸に抱えるこの思慕は秘めたままにしておかなければならない。

 最後まで彼に伝えないまま。

 

「貴方とも、それでお別れかもしれないわね……」

 

 甘えを消すべく絞り出した声はどうにも力が乗らなかった。

 最後だというのに締まらない自分に情けなさを覚えつつ、ベレトの反応を見るために横を向いたエーデルガルトは彼が歩みを遅らせていることに気付く。

 振り返ると何やら思案しているベレトが足を止めたところだった。釣られて自分も立ち止まり、思わず彼を見つめてしまう。

 

 ふと、胸に奇妙な予感が湧いてくる。

 またしてもベレトが何か突拍子もないことを言うのか。

 知らず、高鳴る胸を抑える。

 

「血を流している、と言ったな」

「え?」

「儀式が終わってすぐの時、君が父親に向けて言った中に」

 

 切り出されたのはアンヴァルでのこと。

 私が血を流している時、お父様もまた血が流して──あの下りが背後にいたベレトにも聞こえていたのだ。

 

「師、悪いけどそのことは……」

「過去に何があったかを詮索する気はない。前に教えてくれた君の家族のことと紋章のことを思えば、察するに余りある」

 

 以前エーデルガルトはベレトにだけ話したことがある。

 眠れずにいた二人が夜中に偶然会った時、外の空気が恋しくなった話を。

 

 当代のフレスベルグ家には11人もの兄弟姉妹がいたのだが、第9子に当たるエーデルガルトを除いて全員が身を滅ぼしている。それは彼らが体を刻まれ、造り変えられるという凄惨な人体実験の果てに、ほとんどが廃人になってしまったからだ。

 ただ一人生き残ったのがエーデルガルトであり、その結果として彼女の身にはベレトしか持っていないとされた炎の紋章が宿った。生来持っていたセイロスの紋章と合わせて二つの紋章を持つ特異な存在へと改造されたのである。

 フォドラを統べる無比の皇帝には強力な紋章が必要……この歪んだ価値観のために宮城の地下で鎖に繋がれていた時期があったのだと、そんな帝国の呪われた真実を彼に明かした。

 

 唯一の成功例として生き残ったエーデルガルトは誓ったのだ。

 自身の家族と、多くの見知らぬ人々、そして未だ定まらない未来へ。

 愚かしい犠牲を二度と生まない世界を創る。そのための皇帝になる、と。

 

 そう話すエーデルガルトの前で、証拠として見せられた彼女の炎の紋章を目にしたベレトは珍しく驚きの表情を浮かべた。

 

『その紋章……君も俺と同じ模様を?』

『そうよ。むしろ私こそ驚いたのよ? まさか師も同じ実験を施された私の同類なのかと。貴方の方は生まれつきの紋章と分かってさらに驚かされたけどね』

 

 浮かべた紋章を消して彼の様子を窺った時、いつになく緊張したのを覚えている。

 

『俺にエーデルガルトの気持ちが分かるとは言えないけど……話してくれてありがとう。それだけは言っておくよ』

 

 なのでベレトが自分の話を否定も追及もせず、抱えた事情を打ち明けたエーデルガルトにただ感謝してくれたことが嬉しかった。

 とある深夜にあった偶然の内緒話として、誰も知らない二人だけの秘密である。

 

 あの夜以来、エーデルガルトは自分とベレトの間にだけ存在する不思議な繫がりがあるように思えた。現金なもので、これまでは憎悪の対象の一つだった炎の紋章への印象も少しだけ良くなったのだ。

 

「それに君はそういう過去をもう受け止めているんだろう?」

「……そうね。過去は過去よ。変えられないし、変える気もないわ」

「ああ。エーデルガルトならそう言うと思った。だから俺からはこれだけ言いたい」

 

 向かい合う二人がいるのは大修道院の通りの一つ。

 背の高い生垣に遮られ、余人の目もない空間はさながら二人だけの聖域。

 

「君が何を急いでいるかは分からない。皇帝になるにしても、あんな風に何かから隠れるようにして儀式を強行するのは普通じゃないだろう。政治に疎い俺でもそれくらいは分かる」

「……っ」

 

 冷たい空気に包まれた場は静かで、その声はよく通る。

 

 心臓の鼓動がうるさい。ベレトから投げかけられる言葉が、怖い。

 今までとは違う。エーデルガルトはもう動き出してしまった。立場も関係も全く違うものになってしまった。その自分へ向けられる言葉は、例え内容が以前と同じでも今だと受ける意味合いはどうしても変わってしまう。

 

 彼は何を考えた? どう感じた? 私のことをどう思った?

 今までだって何度も頭に浮かんだことが、こんなにも怖くなるなんて──

 

「別に、それはいい」

「……え?」

「急がなければいけない事情があるなら、それでもいい。俺が君に言いたいことは前に言ったのと変わらない。俺はエーデルガルトを助けたい。手伝えることがあるなら手伝うよ」

 

 だから今回誘ってもらえて嬉しかった。そう言って微笑むベレトはかつての彼とは見違えるほど柔らかい表情で、その背後から差す朝陽が生垣を抜けて後光のように目に映る。

 

「辛いことがあればまた頼ってくれ。助けに行くから」

「師……っ」

「大丈夫だよエーデルガルト。大丈夫じゃなくても大丈夫にするから、大丈夫だ」

 

 ──知らなかった。

 進む足を阻んでくる躊躇いを、優しい言葉で払われる嬉しさを。

 恐怖で固まる心を、柔らかい眼差しで解きほぐされる喜びを。

 往く道に待ち受ける不安を、光で打ち消される幸せを。

 私は知らなかった!

 

 ベレトの言葉にどんな根拠があるか、エーデルガルトには分からない。彼にどんな力があってどんな手段を取れるか、知らないことはまだまだ多い。

 それでも、ベレトなら信じられる。彼が口にする言葉なら信じられる。具体的な公算も方策も必要ない。彼が大丈夫だと言ってくれさえすれば!

 

 ああ、ああ!

 師! 私の師!

 貴方と出会えてよかった! 貴方が見てくれて嬉しかった!

 向けてくれる目が! 言葉が! この想いが、私の宝!

 ありがとう師! 本当にありがとう! 私は今、最高の幸せ者だ!

 

 だから──揺らぐな。

 我が名はエーデルガルト=フォン=フレスベルグ。アドラステア帝国の皇帝。

 道を違える彼とは共にいられない。

 感情を隠せ。寸毫たりともこの想いを気取られるな。

 

「……ふふ、そうね。何か問題が起きても、師はいつだって大丈夫にしてきたものね。知っているわ」

「そうだったか?」

「ええ。困ったことがあれば師に相談するわね」

 

 ()()()だ。自分はまだいつも通りのエーデルガルトでいられる。

 この想いを秘めて、歩いていける。

 

 他の生徒に見つかる前にベレトと別れ、朝食前に身支度を整えるために自室へ向かう途中、誰にも会わずに済んだのは行幸だった。

 ベレトに背を向けて小走りする最中から顔が歪むのを抑えられなかったから。

 

 音を立てないように寮内を静かに進み、自室のドアを閉めた瞬間が限界だった。

 

 入るなり、エーデルガルトはベッドに倒れ込む。顔を枕に押し付けてシーツに噛みつき、喉から飛び出そうとする嗚咽を無理やりにでも堪える。

 靴も脱がず、服にしわができるのも構わず、小さな子供のように縮こまった。

 

 もう、無理なのだ。この先、あの温かな光が自分に向けられることは二度とない。

 当然だ。彼が差し出す手を、今から自分は払おうとしている。それはずっと前から決めていたこと。彼と出会う前からそのために動いてきた。今さら進む道を変えたりしない。こうなることは決まっていた。

 これから先、自分は何度も思うだろう。彼が隣にいてくれればと。頼りたくなるだろう。縋りたくなるだろう。そういう未来が容易に想像できてしまう。

 それは今まで歩んできた道への裏切りだ。そんな中途半端な覚悟など自身の野望の妨げにしかならない。言葉にも態度にも絶対に出してはいけない。

 

 だから──誰にも言えない。

 ヒューベルトにも、他の臣下にも、級友にも。

 誓いを胸に、進み続けると決めたのだから。

 

 だから──今だけだ。

 誰にも見られない、聞かれない、ここでだけ。

 ほんの少し、この想いを噛み締めるだけだから。

 

「……せん、せえ……!」

 

 帝国の皇帝でもない。頼れる級長でもない。

 エーデルガルトがただの少女として過ごす僅かな、その最後の時間は。

 止まらない涙と、口元から漏れる熱い吐息だけが共にあった。




 今回を持ちまして、白雲の章にあたる大事なところは書くことができました。
 次はいよいよ紅花の章に突入します。

作者の活動報告に載せた後書き


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目覚めの時、決意を君に

 第二部、紅花の章スタート。でも第一部のことも話の中で出してます。
 ベレト目線で語りながら話したことってあまりなかったですよね。今回は彼の気持ちをしっかり込めた話になっております。


【ベレト。おいベレト、いつまで眠っておるのじゃ】

 

 

 

 

 

 ……何だ

 

 

 

 

 

【おぬしの体はとうに目覚めておるはずだぞ。早う目を開き、その足で立て】

 

 

 

 

 

 ……目覚めてって

 

 

 

 

 

【今、フォドラの地は泣いておる。この地に生きる人々は、誰もが傷付け、傷付けられ、苦しみの淵に立って泣いておる】

 

 

 

 

 

 ……フォドラ

 

 

 

 

 

【その全てを呑み込めるのは、わしの力を継いだおぬしのみよ。さあ、今こそ立ち上がるのじゃ】

 

 

 

 

 

 ……まだ眠い

 

 

 

 

 

【はあああ……まっこと相変わらずじゃなおぬしは!】

 

 

 

 

 

 ……誰だ?

 

 

 

 

 

【はああ? わしを忘れたと!? いくらおぬしでも許されんぞそれは!】

 

 

 

 

 

 ……ああ、ソティスか

 

 

 

 

 

【なんじゃその言い草は! まったく、気の抜けた顔をしよって】

 

 

 

 

 

 ……また会えたな

 

 

 

 

 

【ふんっ、おぬしと融合しただけで死んだわけではないと言ったであろう】

 

 

 

 

 

 ……会えなくて寂しかったよ

 

 

 

 

 

【甘えん坊め……いつまでも世話の焼ける】

 

 

 

 

 

 ……君が元気でよかった

 

 

 

 

 

【そういうおぬしは変わらんのう。それが美徳か、悪徳か……】

 

 

 

 

 

 ……どこなんだソティス、見えない

 

 

 

 

 

【わしのことはよい。それより早う起きんと、このままでは寝過ごすぞ】

 

 

 

 

 

 ……寝過ごす?

 

 

 

 

 

【約束があるのじゃろう? さっさと目覚めよ寝坊助め!】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おい? あんた、目が覚めたのか?」

 

 かけられた声に、ベレトはすぐに応じることができなかった。

 明るさに慣れていないところに夕陽が突き刺さり、思わず閉じそうになる瞼を無理やり開くと、目の前に人影があることに気付く。屈んでこちらを覗き込んでくるその相手に見覚えはなかった。

 

「あなたは……」

「近くの村の者だよ。流されてるあんたを助けたんだぜ」

 

 ベレトが意識を取り戻して安心したのか、屈んだ背を伸ばす男が手振りで示したのはすぐ傍を流れる川。ほとりから地面が濡れる筋がベレトのいる所まで伸びている。

 そこまで見て初めて気付いたのだが、全身がびしょ濡れだった。肌着までたっぷり水を吸ってしまっていて気持ち悪い。

 

「ここは……」

「大修道院の麓の川さ。あんたが川上から流れてきた時は驚いたよ」

 

 見れば男の上着もズボンも濡れており、川を流れる自分を助けてくれたのが分かった。服が水を吸ってさぞかし重かったろうに。ベレトが目覚めるまで一息吐く時間くらいはあっただろうが疲れが表情に浮かんでいた。

 

 それにしても、川を流されていたとは……何故そんなことに?

 どうも頭が朦朧としてしまい、何があったか思い出せないベレトは首を傾げた。

 

「それであんた、こんなとこで何してんだ?」

 

 男も不思議そうな顔で訊ねてくる。

 

 こんなところ、と言うが何をしてるかは自分が知りたい。川を流されていたのなら上流で川に落ちたのか? 足でも滑らせたのか。それとも落とされた? だめだ、どうもはっきりしない。

 大修道院の麓の川……大修道院……ガルグ=マク……ガルグ=マク?

 

「川の上流と言やガルグ=マクだろ? あっこはすっかり寂れちまったからな」

 

 思い浮かべた単語と男が口にした言葉が重なり、頭の中で弾けた感覚が生まれた。

 そこからベレトの脳裏に描かれた光景──戦闘、火、剣、殺意、竜──が意識を揺さぶり、彼の心に焦りを呼んだ。

 

「すみません、ガルグ=マクはどうなってるんですか!? セイロス教団と帝国軍の戦いは今はどうなって!?」

「はあ? ……あんた、いつの話をしてんだ?」

 

 焦ったベレトの声に困惑した様子で男は返す。

 

「もうあそこにゃセイロス教団はいねえぞ」

「……いない?」

「あれから五年、根強く住んでる連中もいるにゃいるが……今じゃあほとんどが廃墟同然さ」

 

 視線を山の上へ向けて溜息混じりに溢す男の声が遠くに聞こえる。

 

「ついこないだ帝国軍の部隊が向かったけど、いよいよあそこも取り壊されるのかねえ……やな話だよな。あんだけ山を切り開いてガルグ=マクまで直通の道を作ったってのに、次にやるのが大修道院の片付けか? 皇帝陛下はどんだけセイロス教が嫌いなんだっつう……」

 

 ぶつくさ呟く男の声が耳に入っても反応できないくらいの集中力でベレトは己の記憶を探った。

 そして思い出す。あの日、あの戦い、あの出来事。あそこで自分は──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《待ちなさい、ベレトぉ!!!》

 

 叩き潰そうとする巨大な手を際どく避けて高所から飛び降りたベレトは、天帝の剣を伸ばしてもう何度目かも分からない立体機動に移った。

 ガルグ=マクの街にある大小様々な家屋を利用して縦横無尽の動きで逃げ回る彼を追いかけて、【白きもの】も勢いよく飛び立った。

 

 帝国軍に攻め入られたガルグ=マクは激しい戦闘の真っ只中である。穏やかだった街並みが戦火に晒される光景が飛び上がったベレトの目に映る。

 痛ましい光景だ。こんな状況になってしまったことを残念に思う気持ちはある。しかし今は戦士としての思考が優先された。

 

(まずい、本隊に近付いてしまう)

 

 背後から迫る竜。圧倒的とも言うべき存在感を放つ巨大な敵が、このまま進むと帝国軍の本隊とぶつかってしまうのだ。

 

 この戦いのためにエーデルガルトが用意した戦力は、数字の上では絶対に勝てると自信を持つほど充実させた軍隊だ。だが、もし数字の差を覆してしまえるような人外の存在が現れれば話は変わる。

 そして作戦を決める時からそういう敵が出現するだろうことは予想していた。今まさにベレトを狙う【白きもの】、即ち大司教レアが変身した巨大な竜のような。

 変身と言うのは語弊があるか? この竜の体こそが本来の姿かもしれない。

 自分を殺すことに執拗に拘る【白きもの】を引き付けて対処することが作戦上のベレトの役目なのだ。

 

 人知を超えた超常の存在。打倒すべき獣。エーデルガルトもヒューベルトもそう話していた。

 それでもこの時のベレトには、レアを殺そうという意思はなかった。

 

 ともあれ、このまま真っ直ぐ進んだら本隊のところに【白きもの】を連れていってしまう。すぐに距離を離して──

 

《ベレトおおお!!!》

「くっ!」

 

 ──思考を中断。身を捩りながら足に溜めてあった魔力を解放する。天から落とされたサンダーを上下逆さまになった自分の足裏で受けた衝撃で直滑降。空中の強引な方向転換で、横殴りにしようとする竜の手を回避した。

 

 垂直に降りたベレトは直下の屋根の上を跳ねるように走り、再び立体機動に入る。

 途中、行き当たった塔の上層にあった窓に飛び込む。突き破ったガラスから顔をかばいながら床を踏みしめ鋭角に曲がり、入った位置の対面にあるものとは別の窓から飛び出してまた空中へ。

 塔の内部で姿を隠したまま進行方向を90度変えたベレトに騙されて、【白きもの】は一瞬だけ動きを止めた。

 

《どこに……! そこですかぁベレト!!!》

 

 ほんの一瞬見失った分だけ距離を空けられたベレトを懲りずに追う【白きもの】。

 この鬼気迫る追いかけっこが始まってしばらく経つ。これにより、追い詰められたと思われたセイロス教団は勢いを盛り返し、戦況は膠着していた。

 

 皇帝エーデルガルトの下に新設された直属の部隊、黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)と名付けられたその戦力(構成するのは大修道院から離反した黒鷲の学級(アドラークラッセ)の面々)によって一時はレアを抑える寸前まで押していたのに、彼女が竜に変身したことによって戦局は覆された。

 そのまま【白きもの】は自分を囲む帝国軍を薙ぎ払うと、裏切り者のベレトに狙いを定めて暴れ出したのだ。かねてより決めてあった作戦に従い、自分を狙う【白きもの】を引き連れてベレトはその場を飛び出した。

 巨体に加えて翼で空まで飛べる竜を相手にできるのは、今の帝国軍内でベレトしかいない。彼に一任してしまうことになってしまうが、それ以外選択肢がなかったのもあり、エーデルガルト達はベレトを信じて部隊を立て直すのだった。

 

 こうして他に無用な損害を出さないように自分に注意を引き付けさせて、付かず離れずの距離を保ってガルグ=マク市街を飛び回るという、命がけの空中鬼ごっこが始まったのである。

 しかしこの状況、長引かせたくはない。どうにかして【白きもの】を抑えなくてはいずれこちらが負ける。そのために自分にできることを探すベレトだが……

 

(どうする……どうすればいい……!?)

 

 この期に及んでレアを必要以上に傷付けたくなかった。敵となっても彼女を憎む理由などなく、尊敬も感謝も抱えたまま戦うことに戸惑いがあった。

 

 そう。ベレトが今まで戦ったことがあるのは最初から敵だった相手だけ。

 味方だった者を敵に回した経験が彼にはなかったのだ。

 感情を覚えたおかげで成長した心が、感情を覚えたせいで二律背反に悩まされてしまっていたのである。

 

 しかし、このままでは徒に被害が増えるだけなのも分かる。覚悟を決めなければいけないか。剣を握る手に力が籠る。

 戦うために状況を確認しようと周囲を見渡し……彼の優れた視力が、遠くに見えるやや開けた通りで向かい合う二人の姿を捉えた。

 

「まずい!!」

 

 【白きもの】の攻撃を回避しがてら、家屋の壁に貼りついたベレトは足裏でファイアーを放つ。爆発の反動で猛加速して広場へ向かって大急ぎで飛んだ。

 飛ぶ先は市街の通りの一つ。そこで対峙する二人のところへ。

 

 所々が崩れたガルグ=マク市街を飛び越え、今まさに相手を貫こうとする槍を間一髪で弾いて二人の間に割り込めたベレトは冷や汗をかいた。

 対峙していたのはディミトリとエーデルガルト。殺意を露わに睨んでくるディミトリと、背に庇うエーデルガルトを見て、否応なしに緊張が高まる。

 

(せんせい)!」

「先生……!」

 

 ベレトの前後から二人が呼びかける。片や嬉し気に。片や悔し気に。

 

「信じたくはなかった……だが、お前はその畜生の味方に付くというんだな……」

「ディミトリ……」

 

 心の底からの思いを込めていることが声色から伝わってくる。それを聞くベレトは疑問と困惑に包まれた。

 

 帝国軍に襲われた聖墓での儀式。そこで正体を現し、炎帝として名乗ったエーデルガルトに居合わせた生徒一同が呆然とする中、ただ一人ディミトリだけが突然狂ったように笑い出した。

 哄笑しながら詰め寄ろうとした彼だが、雪崩れ込んだ帝国兵との戦いに手を取られてしまい、敵を飛び越えて先んじたベレトだけがエーデルガルトと向かい合えた。そこから助けると決めたエーデルガルト達と一緒にベレトは聖墓を飛び出したので、他の生徒とは別れてしまった。

 なのであの後ディミトリと話せたわけもなく、何故彼がああも狂乱したのかは分からない。これまで見てきた彼とは別人のようで、本当にディミトリなのか不思議に思う。

 

 ただ、豹変の心当たりはあった。

 以前ベレトが郊外で隠れるディミトリを見つけた時、彼の視線の先に謎の男と密談する炎帝がいた。その時に纏っていた気配に近い。

 そしてディミトリの口から語られた、彼が士官学校に来た目的。誰にも聞かせていないとされる彼の狙い。

 ダスカーの悲劇……そこで殺された数多のダスカー人、ファーガスの家臣と国王である父親、彼らのために復讐を果たさんが為。

 

「そちらに付くというのなら……仕方ないな!」

「待てディミトリ──」

「聞く耳持たん! 残念でならないよ。お前を殺さねばならないのが!」

 

 しゃがんだディミトリが地面に手を突っ込む。その怪力を以てベレトとエーデルガルトの眼前の地面を、石畳も含めて地盤ごと持ち上げてひっくり返した。

 流石の怪力だと感心する間もなく、ベレトは咄嗟に鋼の剣を手放してエーデルガルトを抱え、倒れ込んでくる岩盤に向かって足からファイアーを放つ。爆発の勢いに押されるように距離を取った。

 だがその時ディミトリが取った動きは想像を絶した。爆発されて砕けた岩盤の合間から、舞う炎の中を突撃してきたのだ。

 

「逃がすかあ!!」

 

 勢いのままに槍を振るおうとしてくるディミトリに、ベレトはほぼ反射的に対応した。

 抱えたエーデルガルトを手放し、同時に短く伸ばした天帝の剣を真下の石畳に突き刺す。剣先が縫いとめた小さな半径を、慣性を頼りに無理やり旋回。ディミトリの突進をかわすと同時に彼の側面に回り込んだベレトは全力の廻し蹴りを繰り出した。

 せめてもの加減として胴体を狙った蹴りを受けたディミトリは為す術もなく吹き飛ばされ、真横にあった家屋に叩き込まれる。文字通り一蹴されて壁を突き破ったその体は土埃に紛れてすぐ見えなくなった。

 

「っ……エーデルガルト!」

 

 生徒に手を上げてしまったことを悔やむ心を抑えつけて放り投げてしまったエーデルガルトを探すベレトが見たのは、彼女の体を地面に押さえつける生徒の姿。

 

「ユーリス! その子を放してくれ!」

「……おい先生、他に言うことないのかよ? 俺は今怒ってるんだぜ」

 

 エーデルガルトの首に剣を添えるユーリスは憮然とした表情でベレトを、次にエーデルガルトを睨んだ。

 

「とんでもねえことを仕出かしてくれたな皇女様? いや、もう皇帝になったんだっけか。あんたがガルグ=マクを襲ったせいでこっちはいい迷惑だ」

「……帝国軍の配下にはアビスに手を出さないよう通達してあるわ」

「そこはびっくりしたね。躾が行き届いた軍で大変結構。たださぁ、真上のガルグ=マクでこんな大きな戦いが起きてアビスが無視できるわけないんだよ。襲われた街の連中が雪崩れ込んできて地下はてんやわんやの大騒ぎさ」

 

 押さえられたままのエーデルガルトが僅かに目を伏せる。思うところがないわけではないのだろう。ベレトが仲立ちになった灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)を通じて多少だがアビスとの関わりもあり、そこで逞しく生きる人々のことも知っている。

 襲撃をかけたこと自体に後悔はない。それでも、この地に生きる人々へ申し訳ないと思う気持ちがなかったわけでもないのだ。

 しかし、そういう気持ちを抱えていても皇帝であるエーデルガルトはそれを口に出すことができない。安易に謝罪を口にできる立場ではないから。

 

「事前に伝えられなかったことはすまない。だが俺達もアビスを蔑ろにしたわけじゃない。君達の方へ極力被害が及ばないように動いたつもりなんだ。信じてくれ!」

 

 事実、聖墓を脱出して帝国軍と合流してからやった作戦会議で、ガルグ=マクを攻めるなら地下のアビスはどうするかという指摘はあった。そしてアビスをそれなりに知るベレトがいるなら侵攻経路の一つとして使うのはどうかという案もあった。

 だがベレトはその場ではっきりと却下したのだ。戦いにおいて目的から外れた動きをしてしまえば大義が失われる。大規模な軍を動かすなら尚更だ。教団を打ち倒そうとしているのに、その教団から貶められたアビスを踏み躙るような行いをしてしまえば本末転倒になってしまうではないか。

 ベレトの言葉にエーデルガルトも同意し、ガルグ=マクの地下に手を出すことは厳に禁ずるよう帝国軍全体へ通達したのである。

 

 訴えるベレトを見て、ユーリスは舌打ちを一つだけしてから剣を引いた。

 

「まあ、先生にはでっけえ恩があるからな。それに免じて今は納得してやらぁ」

「ユーリス……」

「ただし」

 

 押さえていたエーデルガルトを解放しても離れることなく、逆に守るように剣を構えたユーリスは上方の屋根に目を向ける。

 

「あっちがどう思うかは知らねえがな」

「……っ、クロード!?」

 

 ベレトとエーデルガルトが釣られて見上げた先には、弓矢を構えるクロードがいたのだ。

 番えた矢を引き絞る彼の表情は、不敵に見えつつも威嚇するような笑い方をしていた。

 

「どーも皇帝陛下、ご機嫌麗しゅう……」

「そういう貴方はご機嫌斜めのようね」

「お察しの通り。何がどうしてこうなったか説明してほしいね」

「前から決めていたことを実行しただけよ」

「だとしてもちょいと強引すぎないか? おかげで俺の野望は虫の息だ」

 

 構えを崩さないままエーデルガルトに軽口を叩くと、クロードは視線だけベレトに向ける。

 

「悲しいぜ先生。俺に何の相談もせずこんなことするなんてさ」

「クロード……!」

「師は私についてきてくれたのよ。言いたいことがあるなら私に言うのが筋ではないかしら」

「おっと、自慢か? 出し抜かれた身としちゃ耳が痛い」

 

 エーデルガルトの毅然とした態度に表情を歪めてもクロードは弓を下ろさない。

 

 次々に動く事態に、ベレトはどうしても考えてしまう。

 ──手が足りない。

 やることが多すぎて対処し切れていないのだ。何とかしたいのに、自分だけでは対応が追いつかない。

 所詮、一人で足掻いているだけなのか。守りたいものを守ろうとしているだけなのに、一人ではそれも叶わないのか。

 

「おいてめえら、言い争ってる場合じゃないだろ。喧嘩したけりゃ後にしやがれ、早く逃げろ!」

 

 横から口を出したユーリスの言葉で思い出す。

 口喧嘩していられる状況ではないのだ。こうしている間にも【白きもの】が……

 待て、あの巨竜はどこにいる? あれだけベレトを執拗に追い回してきたのに、先ほどから来る気配がない。この通りへ飛ぶのにあれだけ派手に動いたベレトを見失ったのか?

 

 睨み合う三人を余所に首を巡らせたベレトが見つけたのは、いつから現れたのか、何体もの魔獣に襲われている【白きもの】だった。ファイアーで加速した場所からそう離れていない。飛び掛かる魔獣に押されてガルグ=マクの外壁まで押し込まれていた。

 ベレトの様子に釣られてエーデルガルトも視線の先を追い、【白きもの】を襲う魔獣の群れを見る。

 

「そんな、どうして魔獣がここへ!? おじ様には手を出さないよう言いつけたはずなのに!」

 

 愕然として叫ぶエーデルガルト。

 ベレトと黒鷲の学級という心強い仲間が加わったことで戦力に当てができたこともあり、この戦いにはあの組織の手は借りない旨を事前に伝えてあったのだ。

 作戦のどこにも組織の者は加えていない。況してや、魔獣を配備させるなんて聞いていない。

 やられた、とエーデルガルトは内心で強く舌打ちする。彼女が皇帝として臨む大規模な戦いで、協力者を気取っておきながら組織が何も手を貸さなかったとなれば体面が悪いと考えたのだろう。余計なことをしてくれたものだ。

 

 そんな事情などベレトは知らない。

 目の前で()()()()()()が襲われている。

 判断は一瞬だった。

 

「レア!!!」

 

 再度、足裏で爆発を起こして急加速。

 その時、ベレトが見せた速度は、あるいは先ほどエーデルガルトの下へ駆けつけた時を超えていたかもしれない。

 

 市街をほぼ直線に横切ったベレトが辿り着いた時には、魔獣に押し付けられた【白きもの】が外壁を崩してその先の崖に落ちようとしていた。

 ガルグ=マクの外周はよく知っている。生徒と一緒になって走ったおかげで把握してある地形によれば、あの位置の外壁の向こうは底の見えない崖になっている。

 魔獣に組み付かれたままでは【白きもの】と言えど羽ばたくこともできまい。飛べずに崖へ落とされてしまう。

 

 させない。

 助けなければ。

 だって俺は、全部、守りたいんだ!

 

 崖の淵に立ったベレトは天帝の剣を伸ばし、勢いよく振り回す。繰り出された戦技『破天』で魔獣だけを斬り飛ばすと、ワイヤーを戻すのではなく次の指示を剣に与えた。

 ベレトの意志に従い天帝の剣が次に狙ったのは、空中でもがく【白きもの】。姿勢が整わず飛べないその巨体に伸ばした剣を巻き付かせたのだ。

 

 剣の柄を両手で握り、足元に残った外壁の瓦礫に引っかけるように深々と地面を踏みしめる。

 

(炎の紋章、神祖の加護、何でもいい。俺に力があるのなら……今、よこせ!!!)

 

「おおおあああああああああああああ!!!!!」

 

 それは、およそ現実味に欠けた光景だった。

 小さな人間と巨大な竜。軽く見積もっても両者の質量差は百倍を超える。それだけの差がありながら、その人間は竜を釣り上げた。

 彼の背後で一際強く輝く炎の紋章が超常の力をもたらし奇跡を為す。それはまさに英雄の咆哮。

 崖に落ちるはずだった【白きもの】を、天帝の剣で一本釣り。紋章によって強化された力で巨躯を引っ張り上げて、外壁内側の地面へ落とすことに成功したのである。

 

 戦場で暴れ回って目を引く竜の存在は誰もが注目していた。その竜の危機、そして直後の救出劇を目の当たりにした多くの人間が己の正気を疑い、ほんの一時だけ戦場を鎮めてしまった。

 事を為したベレト自身も強大過ぎる力を発揮した後遺症か、それとも脱力に意識がついていけなかったのか、戦場だというのに気を抜いてしまった。

 

 その一瞬の沈黙を見逃さない者がいた。

 

 崩れた外壁からほど近い高台で魔力を高める一人の影。黒衣の男が手に凝らせた魔力が闇の球として固まる。

 強大な魔力にベレトが気付いた時には、その闇の球は放たれていた。振り返ろうとしたベレトの背中に闇の球は直撃し、余すことなくその威力を叩き込む。

 

 全身を襲う衝撃が意識を奪い、崖の淵に立っていたベレトの体を宙に踊らせ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──落ちたのだ。

 あの時、強力な闇魔法の一撃を身構えることもできなかった背中にまともに食らってしまい、ベレトは崖に落とされた。

 

 薄れゆく視界に微かに映った姿は見覚えがあった。以前ディミトリと一緒に覗き見た場所で、炎帝と密談をかわしていた謎の男。黒々とした衣装に身を包み、振る舞いからして高い地位についていると思われる。

 当時の炎帝、エーデルガルトと共に隠れて行動していたということは、彼女から聞いていた例の組織の一人に違いない。しかし、あの戦いの時点では敵対したわけでもなく、帝国軍の一部として、どちらかというと味方に近い立場だったはず。

 戦いのどさくさに紛れてベレトを始末しようとしたのは、エーデルガルトの協力者となったからか。または別の理由か。

 

 歯噛みする。

 意識さえあれば、少しでも動ければ、天帝の剣を伸ばして上へ戻れたのに。立体機動ができる自分が崖に落ちるなんてありえなかったのに。

 それ以前に、気を抜いたところで背中を攻撃されるなんてまるでジェラルトのようだ。父の件で得たはずの教訓が生かされていないではないか。

 

(あの時、レアは助けられた……引き上げて、地面まで戻して、気を抜いてしまった瞬間に魔法を受けて、俺は落とされた……あの後どうなった? エーデルガルトは、みんなは、帝国軍は、戦いはどうなって……)

 

「……なあ、あんた大丈夫か? 頭でも打ったんじゃねえだろうな」

 

 考えていたベレトに、屈んだ男が声をかけてくる。

 両手で強く抑えるように頭を抱え、顔まで歪めていたベレトが心配になったのだろう。声をかけられて初めて気付いた自身の動揺にベレトは驚いた。

 

「すみません、今は……いつですか?」

 

 何ともおかしな質問になってしまうと思いつつベレトは尋ねる。現状が分からなければどうしようもないのだから仕方ない。

 

「ああ、今は1185年の星辰の節だよ。今話した大修道院の陥落からは、もう五年近くになるな」

「五年……」

 

 そんなにも長い間自分は眠っていたのか。

 五年。気が遠くなりそうな時間だ。それだけの間、何もかもをほったらかしにしてしまった。

 戦いはどうなった。生徒はどこへ行った。レアは、エーデルガルトは……

 

「本当なら明日は千年祭の日だったが、それどころじゃねえからなあ」

「……? それはセイロス教の祝祭のことですか」

「ああ。だけどこの戦争ばかりのご時世、それに大司教様も行方知れずとくりゃ、この世の誰だって祝福なんて気持ちにはなれんだろうさ」

 

 五年が経った今も戦乱は続いていること。

 大司教レアが行方知れずなこと。

 気になるところは幾つかあったが、それよりもベレトの耳が捕らえたのは男が言った千年祭のことだった。

 

 千年祭と聞いてベレトが思い出したのは、五年前のエーデルガルトの発言。舞踏会を目前にした日に、教室に集まった黒鷲の学級へこう言っていた。

 

『五年後の今日、また大修道院に集まらない?』

『五年後の皆がどうなるかは分からない。けれど私は信じている。前を向いた皆がここに集って、再会を祝せると』

『忘れないでね、(せんせい)。万が一、千年祭が中止になろうとも、私は必ずここに戻ってくるわ』

 

 エーデルガルトの発言に賛同して、学級の生徒達は自分も自分もと声を上げてこの日の再会を誓った。当然、ベレトもその場で約束した。別れてもまた会おうと。

 その千年祭の日が、明日?

 

(こうしてはいられない)

 

 膝に手を付いて立ち上がる。何故か上手く力が入らない体を無理やり動かす。

 きっとソティスが起こしてくれたのはこのためだ。こんな直前になるまで眠り続けていたとは、確かに自分は寝坊助だろう。

 

 急に動き出したベレトを見て、男は驚き慌てた。

 

「って、お、おい! あんた、どこに行く気だ!」

「……大修道院へ」

「しょ、正気か!? 帝国軍がいんだぞ? 悪いこたぁ言わねえからやめとけ」

 

 男は制止の声をかけるが、もともとベレトのことを不気味に思っていたのか、強く止めようとはせず手も出さなかった。

 

「お、俺は止めたからな……? 死んでも知らねえぞ?」

「助けてくれたことは感謝します。でも、あそこで生徒が待ってる」

「生徒だあ? あそこにゃ子供なんてほとんどいねえよ、馬鹿かあんた! おい!」

 

 なじる言葉に反応することなく、びしょ濡れな体もそのままにベレトは歩き出す。フラフラとした足取りで離れていく後ろ姿を、男は呆れを隠さない目で見やった。

 

「……まったく、本気かよ」

 

 溜息混じりにベレトを見送る……と、何故か反転して戻ってきたベレトをぎょっとして見つめた。なんだなんだ、急にどうした。

 

「こんな物しかありませんが、お礼として受け取ってください」

「は?」

「それでは……どうもありがとうございました」

 

 懐から取り出した小袋を男の手に握らせると、ベレトは今度こそ踵を返して去っていった。

 

 今し方起きたことに現実味が感じられず、男は目を瞬かせた。

 川から助けた謎の人物が急に動き出して大修道院に向かい、助けた礼として謎の小袋を押し付けてきた。言葉にすれば短くまとめられるが、平民の彼からすればちょっとした事件だ。

 幽霊に化かされたような気持ちで見送ったが、男の手にある小袋が現実だという証拠である。

 

「何だったんだ一体……?」

 

 後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた男は手の中に視線を落とす。

 礼とは言っていたが、何なのだこれは。川を流されていただけあってこの小袋も濡れている。揺らすと金属同士が擦れる軽い音がしたので中身は硬貨だろうか。礼として渡したのだから分かりやすく金かもしれない。

 

 いそいそと小袋を開ける。濡れているせいで袋の口を縛る紐をほどくのに苦労したが、なんとか開けることができた。

 さて中身はと袋を逆さにして、

 

「き、金貨ぁ!?」

 

 平民の彼では滅多に見ることはない金貨が何枚も出てくるのを見て盛大に腰を抜かした。

 士官学校の教師がかなりの高給取りであることを男は知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの場から去って幾ばくもない内に、ベレトの体は壮絶な不調を訴えてきた。

 全身が怠くて仕方ない。

 手足の末端が痺れるように寒いのに、頭だけがカッカと熱を溜めている。

 関節がジリジリと痛み、体を動かすこともままならない。

 引き摺るように無理やり足を動かし、倒れないよう慎重に一歩一歩を踏み締める。

 逸る意志とは裏腹に、ろくに言うことを聞かない体がまるで自分のものではないように思えた。

 

(……俺は、死ぬのか?)

 

 初めて陥った症状にベレトは困惑した。疲労や寝不足で動きが悪くなることはあっても、こんな状態は感じたことがない。これが悪化していけば遠からず倒れてしまうだろうと予想できた。

 

 これは、罰なのか。

 五年にも渡って全てを放り出した自分の罪だとでも言うのか。

 それで構わないから。どんな苦しみも受け止めるから。

 体よ、止まらないでくれ。ここで倒れるわけにはいかないんだ。

 帰るんだ。大修道院へ。学校へ。

 生徒達と約束したあの場所へ。

 

 ひたすら足を動かす。常ならば飛ぶように動いて木々の間を駆け抜けられるのに、錆び付いた蝶番みたいに軋む体はただ歩くだけでも覚束ない。熱に加えて揺れる度に激しく痛む頭が思考を邪魔してくる。

 そんな痛みも、意識を保つためと思えば受け入れられる。何よりも倒れることだけは避けなくてはいけない。

 立ち止まるな。少しでも進め。みんなに会うために。

 

 いつしかベレトは道とも言えない草木を分け入って進んでいた。獣道ですらない草藪が歩みを邪魔してくるが、歪む視界では正しい道を探すこともできず、枝葉を突き破るに任せて木々だけは避けて進み続ける。

 ガルグ=マク大修道院は山間部の見晴らしの良い立地にある。とにかく山を上っていけば大きな外壁が見えてくるはず。微かに働いた頭でそれだけを考えて。

 

 草をかき分けて歩きながら、痛む頭で思い浮かべるのは生徒のこと。

 

(ヒューベルト……)

 

 君は今も、エーデルガルトの傍に仕えているのか。

 彼女の一番の味方である君がいてくれれば大きな支えとなっているだろう。俺と会うよりずっと昔から、彼女の最高の忠臣としてきっと今も力になってくれているはずだ。皇帝に仕える右腕として、敏腕を振るっているに違いない。

 

(フェルディナント……)

 

 君は今も、貴族の誇りを胸に抱いているのか。

 家の権威も領地も取り上げられて失意の中にあった君も、直後のあの戦いの時も力強い眼差しを曇らせなかった。それまで積み上げたものは決してなくなったりはしないのだと、紛れもない貴族として貫いた貴い姿勢を俺は知っている。

 

(ドロテア……)

 

 君は今も、未来への不安に挫けず明るく振舞っているのか。

 自分の価値を正しく自覚していると言っていたが、そのせいで生き急いでいないだろうか。君は本当に素敵な女性なんだ。その芯の強さを他人のためだけでなく、自分のためにも使って、生きていてくれればと思う。

 

(リンハルト……)

 

 君は今も、自分の興味に従って生きる道を探しているのか。

 怠惰に流されているようで誰よりも周囲に目端を利かせていた君は、誰よりも他人を観察する力があった。身勝手なようでいて自身の役割を理解した上での振舞いは、身勝手なようでいていつも周りの人を助けていたよな。

 

(カスパル……)

 

 君は今も、ひたむきな性根を変えずに生きているのか。

 向こう見ずなくらいまっすぐな君は危なっかしかったけど、そのままでいてくれ。きっとその生き様に助けられる人が大勢いるはずだ。どんな苦境も笑い飛ばして明るく立ち向かっていく君の姿は、俺の憧れでもあったんだ。

 

(ペトラ……)

 

 君は今も、無垢と高潔さを持って学び続けているのか。

 人質だという立場は聞いていたが、故郷から離れた地でも腐らず折れず逞しく生きる姿勢を尊敬していたよ。言葉遣いが拙い君にも分かりやすく伝えるのはどうすればいいか、考える俺は逆に教わる気分だった。

 

(ベルナデッタ……)

 

 君は今も、臆病な心を抱えたまま引き籠っているのか。

 俯いたままでもいいから、少しでも前を見れていればと思う。変わる必要はない。生きてさえいれば、それだけで前に進めている。君は君のままで、確かに成長していたんだ。きっとそれが君なりの強さでもあったはずだから。

 

 他にも生徒達の顔が次々と脳裏に浮かんでくる。

 会いたい。今すぐ、みんなに会いたい。

 生きているだろうか。無事でいてほしい。誰も死なないでくれ。

 肝心な時にいなかった先生だけど、みんなに会いたいんだ。

 

 そして何よりも、誰よりも。

 

(エーデルガルト……!)

 

 思い出す。聖墓で向かい合った時。仮説陣地で不安を見せた時。戦いの中で肩を並べた時。

 その前も。授業で。訓練で。課題で。学校で。ずっと見てきた姿。

 

 叶うならば、どうか謝らせてほしい。

 すまない、エーデルガルト。君を守ると言ったのに、約束したのに、傍にいられなかった。五年も放ってしまった。本当にごめん。

 傭兵として考えても大失態もいいところだ。護衛対象の契約者を五年も放り出すなんて、あってはならないことだ。

 いや、違う、そうじゃない、依頼だなんて考えたくない。俺がそうしたかったんだ。君を守りたかった、傍にいたかった、離れたくなかったんだ。

 ああ、エーデルガルト。贖罪なんて言える資格はないけど、今からでも、君の下へ行ってもいいだろうか。君を、守らせてもらえないだろうか。

 君のことだから、立ち止まったりなんてしないで、ずっと前に進み続けていたのだろう。今さら俺の力なんか必要ないかもしれないけど。

 傍にいたい。隣に立ちたい。歩む道を守りたい。

 エーデルガルト。

 

 うわ言が止まらない。熱で朦朧とする頭では考えがまとまらず、関係のないことにまで思考が飛び、悔恨が、謝罪が、願望が、止まることなく口から零れる。

 

 ふいに、足が引っ張られてガクンと体が崩れる。受け身も取れず前のめりに倒れてしまって顔面が地面とぶつかり、ベレトは顔をしかめた。

 力の入らない腕を動かし、ノロノロと体を起こす。木々の間から差し込む僅かな月明かりを頼りにして何があったのかと足元を見やれば、指の先くらいに地面から顔を出す木の根があった。

 

(あんなものにつまづいたのか、俺は)

 

 苦笑してしまう。笑声に喉を震わせると、腹の底から堪え切れない衝動が生まれ、四つん這いのまま激しく咳き込んだ。喉までもが熱くて痛くて、咳をする度に揺さぶられた頭も痛くて、わけの分からない不調にうんざりしてくる。

 

「これは……手本に、ならないな……」

 

 あまりの無様さに自虐する。こんな情けない姿で誰を守りたいなどと言えたのか。

 

 だが、それがどうした。

 情けないから何だ。どれほど不利な状況だろうと、やることが決まっているならやるだけだ。

 無様上等。目的を達成できるなら己の有様など関係ない。

 

 土の味がする口元を拭い、近くの木に縋り付いて立ち上がる。

 立ち止まっていられない。

 足を止めるな。

 這ってでも進め。

 前へ。

 

(俺は……みんなの先生なんだから……!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜通し歩いた甲斐があって大修道院が見えてきた。もうそろそろ朝日が昇りそうな空を見上げると、遥か遠くの山間から太陽の気配がする。夜明けまで幾ばくも無い。

 

 ベレトの体はいよいよ限界が近付いていた。倍化した頭痛のせいで目を開けているのも辛く、熱が喉と頭に収束したように胸の内が寒さに満ちている。震えは治まることなく激しいままで、途中から縋り付く木を転々としながら進む有様だった。

 それでもここまで来れた。足は遅くとも前に進めたのだ。残りは後少し。

 

 森の中を突っ切ったせいで辿り着いたのは正門ではなく外壁。ここから正門まで回り込む時間も体力もないと判断する。

 だから真っ直ぐ進入することにした。外壁を飛び越えて真っ直ぐに。

 

 そこにあると認識して、自分の体を探ればすぐ手に取れた。

 天帝の剣。

 柄の部分が背中に来るように、蛇腹状になった刀身はベレトの体に巻きつくように納まっていて不思議と違和感がなかった。森の中を歩いている時も転んだ時も体を傷付けることなく、まるで体の一部となって寄り添っているかのようにずっとベレトと共にあったのだ。

 まるでかつてのソティスのようだ。それが当たり前であるように、ベレトにのみ聞こえる声であれこれ言いながら傍にいた神祖の少女みたいに。

 

 何だって構わない。使えるなら、進むためなら、そこにあるのなら。

 

(もう少し、力を貸してくれ……後少しでいいから……!)

 

 ひしひしと迫る死の予感を押し殺すベレトが柄を握るとその刀身が淡く橙色の光を帯びる。確かに応えてくれた天帝の剣を脇に構え、上方へと振り上げた。

 蛇腹が伸び、遠方へ、外壁の端まで届く。伸びた剣先が胸壁(外壁上部に設けられた凹凸部分)に巻き付くとワイヤーがピンと張る。柄を両手でしっかり握り締めれば、ベレトの意思に応えた剣が元に戻ろうとしてその身を一気に引き上げた。

 ただの跳躍では得られない、人の身ならざる飛翔感。空を飛ぶという爽快さに楽しくなりそうなものだが、ただでさえ余裕のない今のベレトは必死に剣の柄にしがみつくことしか考えられなかった。

 一気に引き上げられた体が放り出され、空中で上手く体勢を整えられないまま墜落する。受け身も取れず石畳に叩き付けられた衝撃に悶えるベレトは、しかし意識を繋ぎ止めて体を起こす。

 

 辺りに人の気配は感じない。瀕死の集中力か、苦痛はあっても感覚は不思議と冴えるベレトが見渡したのは、高くそびえる壁、小さな井戸、伸びる橋。

 女神の塔の手前に当たる大聖堂の裏手に来ていた。いきなり大修道院の奥まで侵入してしまったらしい。ここには帝国軍が来ていると聞いたが、運良く警戒を潜り抜けられたのか。

 

(あの塔で、前にエーデルガルトと話して……)

 

 思い出しながら女神の塔を見上げたベレトは、息を呑んだ。

 

 赤い。

 夜闇を裂いて映える紅。

 あの子の色。

 

 塔の壁に空いている小窓。その一つに確かに見えた人影に胸が打たれた。

 日も昇っていない早朝に、人気のない大修道院の奥で、たった一人で赤い衣を纏って塔を上る人物がそこにいる。

 ベレトの決断は早かった。もはや幾らも動かないであろう体に鞭打ち、最後の力を振り絞って向かう先を決めた。

 

 天帝の剣を支えにして立ち上がる。ふらつきそうになる足を叩き、何とか両の足で立てた彼が見据えたのは、女神の塔の上層にある展望用のテラス。

 五年前。舞踏会の日の夜に人混みから抜け出したベレトが訪れた塔の上で偶然にもエーデルガルトと顔を合わせた場所。塔を登っているなら、きっとそこに。

 

 一度だけ深呼吸をしてから剣を腰だめに構えると一気に振り上げる。勢いよく伸びる剣先がテラス横の壁に刺さるのを認め、剣の柄を握りしめるとワイヤーが縮んでベレトの体を引き上げた。

 

 そこまでやってベレトは気付く。先ほど大聖堂の裏に飛んだ時と同じように着地のことを考えてない。今の体調では空中で姿勢を整えるどころではない。この勢いだとテラスに人がいたら飛び込む時にぶつかってしまう。

 今さら考えても勢いは止まらない。それでも咄嗟に身を捩って少しでも向きを変えて、というところでテラスの手すりを越えて──

 

(あ)

「え」

 

 ──目が合った。

 飛び込んだベレトと一瞬だけ、すれ違うように視線が合うその人物。

 赤色が似合う彼女だとすぐに分かった。

 

 飛び込んだ勢いは止まるわけもなく、着地を考えてなかったベレトは無様に床を転がる。勢いのあまり壁に激突し、頭を打った痛みで目から火が出そうだった。

 だが、そんなことなどどうでもよかった。体の痛みも、今の不調も、全て無視して顔を上げる。

 

「エーデル、ガルト……」

(せんせい)……なの?」

 

 認めた姿に目が眩みそうだった。

 背後の明るくなり始めた空のおかげで、赤い色がより鮮やかに見えた。

 

 いつか見た皇帝の冠。鷲の爪を模ったような形に納めるために髪をまとめてある。赤い豪奢なドレスは厚い生地に装甲を仕込んであるのが分かる。威厳を纏いながら軽鎧としても使えるだろう。美しさと強さを兼ね備える人柄がうかがえた。

 そんな恰好が如何にも彼女らしいと思った。会いたいと思っていた人だと一目で分かる。エーデルガルトがそこにいた。

 

(生きていた……!)

 

 安堵が胸に広がる。そこにいるだけで温かな気持ちが湧いてくる。

 

 何を言おう。

 何て話そう。

 いや、まずは謝罪か。

 詫びないといけないことがたくさんあるだろう。

 

 歯を食いしばって立ち上がる。情けないところを見せるわけにはいかないと、今にも力が抜けそうになる体を起こして、両足で踏ん張って。

 そうして近付こうとしたベレトの足は、一歩で止まることになった。

 

「……っ、来ないで!!」

 

 雷鳴のような叫びが響く。

 声に押されたように動きを止めたベレトは、俯きそうになる頭を上げて前を見た。

 

 汗で滲む視界に映ったのはエーデルガルト。

 会いたいと願った相手が、成長して大人になった相手が、誇りも威厳もないただの少女のように悲痛に顔を歪めてこちらを睨み付けていた。

 

「師は……貴方は何がしたいの!? あの時、私を守ると言って……なのにレアのことも助けようとして! 分からない……貴方が分からないわ師!」

 

 腰から抜いた剣も向けてエーデルガルトは怒鳴る。

 わなわなと体を震わせて、手に持つ剣の波打つ刀身も揺れて、溢れんばかりの動揺と悲嘆を迸らせるような叫びだった。

 

「あの戦いから五年も経ったわ! その間、私がどれほど不安だったと……どれほど心折れそうだったと思っているの! いったい、どこで何をしていたのよ師!!」

 

 エーデルガルトは訴える。

 五年間、何度も探したこと。

 その間も戦ってきたこと。

 皆を率い、導いてきたこと。

 誰にも弱みを見せるわけにはいかなかった。

 皇帝として帝国の頂点に立ち、ひた走ってきた。

 戦いに、政務に、会議も、交渉も、貴族が、平民が、大変で、大変で。

 ふとした瞬間に湧き上がる想いを支えにして。

 それでも振り返ることなく前を見て。

 信じたい。

 信じていいか分からない。

 なのに求める気持ちが消えてくれない。

 貴方が悪い。

 師は酷い。

 あんなに頼りにしていたのに。

 あれだけ私を振り回して。

 もうどうしていいか、どう思えばいいか分からない。

 

 まくし立てられた内容は時折前後したり、言いよどんだり、支離滅裂になるなど言い進めるほどに話はめちゃくちゃになっていく。

 いつしか頬には涙が伝い、嗚咽が混じり、まるで幼子の駄々のようになる。

 

 それを聞くベレトは、実のところ話の半分も耳に入らなかった。

 相変わらず体は絶不調。限度を超えた頭痛は耳鳴りを呼び、意識をすり減らしていく。ぜえぜえと荒い息が喉を焼くようで、寒いのに汗をかく自分の体が不思議だ。

 でも、そんなものは関係ない。全部、どうでもいい。

 目の前でエーデルガルトが泣いている。その慟哭を前にして、やるべきことなんて一つしかないじゃないか。

 なのに……ああ、もう限界だ。

 

 ガクリと、前に出そうと上げた爪先が床を擦ったかと思った時には膝が折れて前のめりに倒れてしまう。伸ばした手は宙をさまよい、顔面から床にぶつかった。

 手から離れた天帝の剣が床に当たって硬質な音を響かせた。

 

「っ、師!?」

 

 考える前に体が動いたのだろう。構えていた剣を取り落としたエーデルガルトがベレトに向かって駆け寄り、しかし数歩で足を止める。同じように床に当たった剣が硬質な音を立てて転がった。

 

 エーデルガルトはまだ信じ切れないのだ。ここで手を伸ばしていいのか分からず不安に包まれたままでいる。

 それでも今、僅かだが歩み寄ってくれた。信じ切れなくても近付いてくれた。

 だったら、ここで、俺が体を張らない理由はない。

 

 頼りない足より腕で体を起こし、伸ばした手で匍匐前進を始める。まともじゃない動き方はただでさえ枯渇した体力を容赦なく削り、埃っぽい床でもがいたせいで咳き込むが、遅々とした動きでエーデルガルトににじり寄った。

 ここに来てようやくベレトの不調に気付いたエーデルガルトは、そんな有様でもなりふり構わず自分に近付いてくるベレトを信じられないものを見る目で見下ろす。

 

「エーデルガルト……っ」

「貴方……どうしてそんな!」

 

 思わず膝を付いてベレトの体を抱き起こしたエーデルガルトは愕然とする。触れた彼の頬から異常な熱を感じて、呼吸のおかしさから深刻なレベルで体調を悪化させていることも感じた。

 

 だがベレトにとって自分の体調など二の次である。そんなことよりも伝えなければならないことがある。

 

「エーデルガルト……」

「師……?」

「……生きてて、よかった……!」

「っ!!」

 

 今や持ち上げることも辛い腕を伸ばしたベレトはエーデルガルトの頭を撫でた。小さな子供に対してするように、ゆっくり、優しく。

 山を歩きながら何度も転び、埃まみれの床を触り、ボロボロになった手が髪を汚してしまうが、エーデルガルトは気にしない。

 

「怖かったんだ……君が死んでしまってたらどうしようって……また会えて、嬉しいよ……」

「師……」

「……守れなかったのに……君との約束を破ったのに……そんな俺が、こんなことを言う資格なんて、ないんだけど……」

「っ、いいえ、いいえ師、貴方は守ってくれたわ! 初めて私を助けてくれたあの夜からずっと! 私の心を守っていたわ! 貴方が、ずっと!」

 

 くしゃくしゃに顔を歪めてエーデルガルトは叫ぶ。再び溢れた涙が落ちてベレトの顔に当たって彼を濡らした。

 

「エーデルガルト……大きくなったな」

「貴方は、ちっとも変わらないわ」

「それに……綺麗になった」

「ぎっ!? へ、変なこと今言わないでちょうだい!」

 

 顔を逸らすエーデルガルトだが、腕は変わらずベレトを抱えたままである。

 

 変なことではない。ベレトはお世辞を言うことはないのだ。

 だって、ほら。ちょうど差し込んだ朝陽が背後からかかって、見上げた彼女の白い髪に当たって光の滝のように見える。輝きに目を細め、それでも逸らさず見つめる。

 綺麗になった。最後に見た時より大きくなって、成長した。生きていた。

 自然と顔が綻んだ。

 

 いつの間にか夜が明けていた。差し込む光が塔を照らし、二人を包む。

 

「エーデルガルト……俺は、君を守りたい……その気持ちは今でも変わらない……」

「ええ。私も、決意は少しも揺らいでいないわ。五年前からずっと」

「また、傍にいても、いいか……? 一度はエーデルガルトを裏切った俺が……あの戦いで、君を捨てたと言われても、言い訳のしようもないけど……それでも、俺は、君の力になりたい……」

「……っ! あ、後で話はしっかり聞かせてもらうわ! ただ、私としても……師には傍にいてほしいと思っているのよ」

 

 目元を拭うエーデルガルトを見上げていると、その顔が五年前の彼女と重なって見えた。

 

 月明りに照らされた少女の顔。

 黒鷲の学級の級長。

 斧を手に構え。

 食堂で向かい合って食べてる。

 授業で挙手。

 相談事で食い違って。

 課題で肩を並べる。

 紅茶の採点はけっこう厳しい。

 手を差し出した。

 皇女から皇帝へ。

 刃を交え。

 咄嗟に抱えて。

 そして──今の彼女へ。

 

 全て重なる。新しく増える。これからも続いていく。

 エーデルガルトが生きる姿がこれから先も。

 

(ああ、そうか……そういうことだったんだ……)

 

 また一つ教えられた。俺の方が教わってる。どっちが先生なのやら。

 力が抜ける。エーデルガルトを撫でていた手が落ちて床を叩いたが痛みはない。

 

「師? ……ちょっと、師!?」

 

 抱かれたままベレトは目を閉じる。エーデルガルトと話すことができて気が抜けたのか、急速に意識が薄れていくのが分かった。

 

「しっかりして師! ヒューベルト、来なさい! 早く! ヒューベルト!!」

 

 声が聞こえる。エーデルガルトの声が。彼女が生きている証が。

 頭痛も悪寒も気にならない。エーデルガルトがそこにいるだけで穏やかな気持ちになれた。

 本当に俺はこの子からもらってばかりだ──浮かんだ笑みが頬を緩め、力ない吐息が漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は今まで分かってなかった。

 守るっていうのは、その人が生きていることだ。

 

 エーデルガルトが生きている。

 そのことが俺は嬉しいんだ。

 

 俺はエーデルガルトを守りたい。

 この子が生きる未来を守りたい。

 この子が生きていける未来にしたい。

 そのために俺はあの時、この子を助けたんだ。

 

 大丈夫だよエーデルガルト。

 俺は君のために戦う。

 君が生きる未来のために。

 君が生きていける未来を作るために。

 

 俺は戦うよ。

 君を襲うこの世の全ての闇と。

 エーデルガルトのために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「風邪ですな」

「風邪」

「ええ、風邪です」

「……熱があるのは」

「風邪による発熱です」

「……咳き込むのは」

「喉が腫れてましたな」

「……震えていたのは」

「悪寒でしょう」

「……本当に風邪なのね」

 

 寝かされたベッドの横で、主従のそんな会話をベレトは聞いていた。

 場所はガルグ=マク大修道院の上層。かつては関係者以外立ち入り禁止とされていた三階にある大司教の私室である。

 

 半ば廃墟と化していた大修道院を根城にしていた盗賊達は帝国軍によって掃討されており、現在は大急ぎで清掃作業が行われているとのこと。

 慌ただしく働く軍の者の目に触れさせるわけにはいかないと考えたヒューベルトにより、ベレトを休ませる場所としてこの部屋が選ばれた。

 

 ちなみに意識を取り戻したベレトはヒューベルトともう顔を合わせている。五年も経って成長した姿を見てもすぐに彼だと分かった。片目を隠すくらい伸ばした黒髪と黒装束に黒マントという全身を黒で包む出で立ちが彼の印象そのままだったから。

 

「とは言え重度の風邪だと言えましょう。失礼ですが先生、着ていた服がかなり湿っておりましたが、ここに来る前に川にでも流されましたか?」

「ああ……たぶん、五年くらい……」

「……それは大層お体を冷やしたことでしょうな」

 

 ベレトの素っ頓狂な答えを聞いて、ヒューベルトは苦笑を漏らした。

 

 神祖の加護か何かで守られていたのだろうが、崖から落ちて以来ベレトはずっと眠り続けていたのだ。その間、食べることはもちろん、何の補給もされなかった体が回復できるはずがない。ただでさえ落ちる直前に大ダメージを受けたというのに。

 そうして体力が落ちた体で真冬(星辰の節は我々の知る12月に相当する)の寒中水泳をかました上に濡れた服もそのままに山登りなんてしてしまえば、いくらベレトでも参ってしまう。

 身も蓋もない言い方になるが、当然の結果である。

 

「そうか……これが風邪、なのか」

「師は風邪を引いたことがなかったの?」

「ない……これが初めてだ……」

 

 独り言に反応したエーデルガルトが聞くとベレトは短く答える。その声も歯切れよく話す普段の彼とは違って酷く弱々しい。

 言葉通り、ベレトは風邪を引いた経験がなかったのだろう。もちろん知識としてはあっただろうが、実体験がない者が体を冷やしただけで風邪を引くと言ってもピンと来ないのは仕方ないことかもしれない。

 全身びしょ濡れのままでも大急ぎでガルグ=マクを目指したことでこうしてエーデルガルトと再会できたのだから、その点だけはよかったと言えるが。

 

 ベッドの傍らでベレトの顔に浮かんだ汗を拭いてあげたり、濡らした布巾を絞って額に載せてあげたり、甲斐甲斐しく看病するエーデルガルトを見たヒューベルトはひとまず席を外すことにした。

 幸いにも帝国軍によるガルグ=マクの占拠はあっさりと済み、今なら拠点として利用するための作業に指示を出すのは自分だけで事足りる。

 ちょうど主を休ませる名目が欲しかったところだ。思うところはあるが、今はここで二人きりにしてあげよう。

 

 聞き出したいことは山ほどあるが、当のベレトがこんな状態では尋問のしようもない。そもそもここでベレトに無茶をさせるのはエーデルガルトが許さないだろう。

 弱った身を圧してガルグ=マクに辿り着いたからには逃げ出すとは考えにくい。まずは彼の回復を待とうとヒューベルトは決めた。

 

「何にしても、先生は急いで体調を取り戻すことですな。詳しい話をするのはそれからにします」

「俺も……ヒューベルトと、話したいよ……」

「くくくっ、変わりませんな貴殿は……本当に五年前の先生そのままです」

 

 ヒューベルトの役目からして、疑いを持たれていることくらい分かっているだろうに、暢気に対話を望むベレトについ笑ってしまう。

 久方ぶりに感じる彼の気質で懐かしい気分のまま会話を切り上げ、エーデルガルトに一礼してからヒューベルトは部屋を出ていった。

 

 そうして二人残された部屋で。

 

 ベレトの荒い呼吸とたまに咳き込む音が響く他は静かで、エーデルガルトは落ち着きなく体を揺らす。

 しばらく所在なく視線を彷徨わせていた彼女が、意を決して()()()()()()()(何かおかしいような気もするがそうとしか表現できない動き)をしてきたことでベレトと目が合った。

 ヒューベルトが退室してからずっとエーデルガルトの横顔を見つめていたベレトはようやく目が合ったことが嬉しくて、苦しそうに息をしながら薄く微笑む。

 その様子を見て、緊張している自分に気付いたのだろう、軽く噴き出してエーデルガルトも微笑んだ。

 

「無事とは言えないけれど、師が戻ってきて本当によかったわ」

 

 緊張が抜けてさえしまえば、ベレトが知るいつものエーデルガルトだった。

 少女の面影が残っていた五年前とは違い、皇帝として生きた日々が彼女を成長させたのは間違いない。それでもこうしてベレトに見せる微笑みは士官学校で共に過ごした頃と同じ温かな気持ちをくれた。

 

「さっきは急に剣を突き付けてごめんなさい」

「いいんだ……君にはその権利がある」

「いいえ。一度口にした言葉を私は翻したのよ」

 

 しかし微笑みをしまい、今度は真剣な表情でベレトを見つめてくる。

 

「私は師を信じて、師も私を信じてくれた。それだけで戦っていける。そう思っていたのに……」

 

 胸元で布巾を握りしめるエーデルガルトは後悔しているようだった。

 

「五年という歳月が心をすり減らした。そう言い訳する自分がいるの。けれど、口にした私自身があの言葉を忘れて貴方を責めるのは、やっぱり間違っていたわ」

「俺はそうは思わないけど……」

「師がそう思ったとしても、私の矜持の問題よ。宣言したことや信念を翻すなんて皇帝らしくないでしょう? そうやって揺らいでしまうのは私が嫌なの」

 

 相変わらず真面目な子だ。客観的に考えればあの戦いでの自分の行動は誰が見てもエーデルガルトへの裏切りになってしまうのではとベレトは思うのだが、例えそう感じたとしても信じたと決めたなら信じ続けるのが筋だと言うのか。なんとも逞しい矜持である。

 しかしながら人間は常に強く在り続けることはできないものなのだとベレトは学んだ。大修道院で出会った人々、そして自分自身の感情を知り、それに振り回されながらどうにかやっていくのが人間なのだ。

 

 確かに信念を持つ人は尊敬される。吐いた唾は呑めないとして筋を通す行動ができれば、それはすごいことだろう。

 皇帝という帝国の頂点に立つエーデルガルトが自身の矜持を気にするのは当然のことなのかもしれない。

 それでも。

 

「エーデルガルトだって、一人の人間だろ……少しくらい揺らいでもいい」

「師……」

「俺は気にしてないから大丈夫だよ……君も普通の女の子なんだから、それでいいんだ……」

「…………皇帝相手に普通の女の子だなんて言えるのは師くらいのものよ」

 

 流石にもう子供扱いされる歳じゃないわ──ほんのり赤らんだ頬を誤魔化すようにエーデルガルトは絞った布巾でベレトの顔を拭く。顔全体を拭かれるベレトが呼吸を遮られてふぐぐと呻いた。

 

「それに、謝らないといけないのは俺の方だ……」

 

 拭く手がどくのを見計らって今度はベレトが口を開いた。

 

「あの戦いで、君を置き去りにして、ごめんなエーデルガルト……」

「……ええ」

「守ると言ったのに、傍にいられなくて、ごめん……」

「ええ」

「仕事を手伝えなくて、ごめん……」

「ええ……え?」

「休む時に、一緒にゴロゴロできなくて、ごめん……」

「待って、待って師おかしいわ。今そういう話はしていなかったわよね」

 

 慌てて止めに入るエーデルガルトだが、そんな彼女にまた笑ってみせる。

 

「もしこの五年一緒にいたら、俺はきっとそうしてたから……」

「それは、貴方ならそうかもしれないけど」

「お互いが気にしてないことを、お互いに謝ったら、こうして堂々巡りだ……だからエーデルガルト……大丈夫だよ」

「……もう! 貴方には敵わないわ」

 

 釣られて笑い出すエーデルガルトを見て、改めて思う。

 

 きっと大丈夫だ。五年も経ったフォドラで、自分だけ置いていかれたようなこの世界でも、俺はやっていける。

 守りたい人が生きていて、またこの手で守れる。そのために戦える。

 だから、これから先もきっと大丈夫だ。

 

「おかえりなさい、師」

「……ただいま、エーデルガルト」

 

 帰ってきたのだとベレトは強く感じた。

 微笑むエーデルガルトを見上げ、ここが自分の帰るところだと、彼女の隣が自分の居場所なのだと今一度理解した。




 行間の空きなど今までと書き方を変えたところもありますが、調整しながら書いているので今後もこういうことが起こります。ご了承を。
 みなさんも風邪にはお気を付けください。

作者の活動報告に載せた後書き


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再出発、夜明けに集う

 ──ただ一人のために、世界を変える覚悟はあるか?


 帝国によるフォドラ全土への宣戦布告と、ガルグ=マク大修道院の占拠。歴史を大きく動かしたこの出来事を切欠にフォドラの平和は破られた。

 あれから五年。戦いは今も続いている。

 

 ガツガツガツガツバクバクバクバクムシャムシャムシャムシャ!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

 ガルグ=マクが陥落した後、敗走したセイロス騎士団と大司教レアは北へと逃亡。同行していたディミトリと青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)の面々が招き入れたことで、現在のセイロス教団はファーガス神聖王国に居を構えている。

 帝国とは主にフォドラの西部で攻防を繰り広げている。数で勝る帝国軍を相手に、王国と騎士団が手を組んだ連合軍は強力な個の力を活かした電撃戦で翻弄するなどして大規模な戦いに発展させることなく膠着状態が長引いていた。

 

 アグアグアグアグモギュモギュモギュモギュズズズーップハー!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

 また、東部ではレスター諸侯同盟との戦いも続いている。

 同盟内でリーガン家を筆頭とする反帝国派と、グロスタール家を筆頭とする親帝国派の諍いが表面化。あわや同盟が分裂するかと危ぶまれた激突は、一部の戦力が突出した成果を上げたことで反帝国派としてまとまり、帝国との戦線が築かれることに。

 当初、連合軍にこそ戦力を傾注すべしと考えていた帝国は、東部よりも西部に軍勢を多く裂いたことで同盟相手に多大な被害を受けてしまい、戦線を領内まで押し込まれてしまう。現在は同盟との境界であるアミッド大河の手前、ベルグリーズ領のグロンダーズ平原手前で持ち堪えている。

 

 パックンゴックンゴキュゴキュゴキュゴキュモグモグモグモグ!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

「以上が現在のフォドラの大まかな情勢ですが……先生、聞いておりますかな?」

 

 ピタッ

 

ひいへふ(聞いてる)

 

 ガッガッガッガッワシワシワシワシグァッグァッグァッグァッ!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

 目の前の凄まじい光景に何も言えず、ヒューベルトは目頭を押さえながら溜息を吐くしかできなかった。

 

 五年前にガルグ=マクを占拠した帝国だったが、東西の戦況に押されてガルグ=マクを抑え続ける余裕がなくなったので已む無く軍を退かせたところ、程なくしてならず者の溜まり場にされてしまった。

 険峻であるが故に守りに優れたこの地は引き籠るのに適していて、流れてきた盗賊が居着くようになったのは時間の問題で。

 数が数だけに地下世界アビスの住人達も強気に出て追い返すこともできず、陰鬱な停滞状態が続いていたのである。

 

 そんな折、皇帝エーデルガルトが率いる帝国軍がガルグ=マクに向かい、市街及び大修道院を根城にしていた盗賊の掃討が済んだのが数日前のこと。

 現在はこの地域全体の復興を進めており、併せてアビスの状況確認と治安についての相談を進めているところだ。

 

 皇帝陛下が直々に陣頭に立ったことで兵の士気は高く、敵と戦うわけでもない復興作業にも大きな不満は見られない。力仕事も多いので訓練代わりにもなるという声もあり、ガルグ=マクの荒んだ空気は急速に洗い流されていた。

 これはエーデルガルトが日頃から、戦うばかりが軍の役目ではなく、民の暮らしと安寧を守ることこそが本懐であると主張していたおかげでもある。

 

 エーデルガルトが皇帝になる前の軍と言えば、基本的には領内で訓練に明け暮れるばかりで、たまに遠征がある他はその力を持て余していた。貴族の多くが無駄な出費を嫌ったのか、活躍の機会は少なく、悪い言い方をすれば軍という仕組みそのものを腐らせていた。

 そんな折にエーデルガルトが発した命令の一つに、帝国軍の国内派遣がある。これは帝国が誇る豊富な軍事力を国内に広く行き渡らせるもので、皇帝の勅命を受けた軍隊を各地に巡回、警邏させることだ。

 これにより帝国内の治安は大きく改善された。特に西部のヌーヴェル領と東部のフリュム領はそれまで統治が行き届いていなかったこともあり、軍の派遣が始まってからは野盗は制圧されるし領地の復興は手伝うし平民の相談に乗るしで大活躍。たまに平民による暴動が起きてもすぐに動いて鎮圧してくれる軍は頼もしい存在として受け入れられていた。

 もちろんこうして大規模に軍を動かしたことでかかった費用も莫大なものになったのだが、国内の治安が改善されたことで商売を始めとした流通も活性化。一度加速した流れは止まらず、金と人の流れは多大な利益を生み、税として徴収される分を差し引いても人々に富をもたらしていた。

 

 治安の改善。富の増大。発令一つで目に見える成果を上げた新しい皇帝に、平民は大きな支持を寄せるのであった。

 一部の特権階級(貴族など)は自分達だけが甘い汁を吸えなくなったことに多少の苛立ちはあったものの、全体的に見れば豊かになっているのも否定はできないので表立って声を上げる者はおらず。

 こうして戦時下にも関わらず、帝国内で戦線から離れた地域は比較的落ち着いているのである。

 

 以上のこともあって、今回のガルグ=マク復興作戦にも特に反対意見が出たりすることはなく、兵は粛々と行動している。

 あんなにセイロス教を嫌ってんのに、その総本山のガルグ=マクを立て直すなんて皇帝陛下ってば何考えてんの? まあまあ、そう言うなよ。陛下には何かお考えがあるんだろうさ。いや別に不満があるわけじゃねえよ、不思議だなって思っただけで。そうかい。まあお仕事だってんならやるだけさ。エーデルガルト様の命令だもんな。あの方の考えなら間違いあるめえ。

 このような感じで、ふと疑問に思うことはあっても最終的にはエーデルガルトの命令だからということに落ち着いて従っているのだ。

 

 ズバババババババシャグシャグシャグシャグンガンガンガンガ!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

 ……さっきからこれが何を表現しているか、いいかげん気になる人もいるだろうから説明しなくてはなるまい。ヒューベルトの目の前に広がる光景を。

 

 ただ今の場所はガルグ=マク大修道院の食堂。真っ先に掃除と整頓を指示したことでここの設備は使えるようになっており、兵の多くも基本的にここで食事している。

 時刻は昼をやや過ぎた頃。食事のための昼休憩はとっくに終わって、兵達はそれぞれ復興作業に戻っているので今は人気が少ない。

 そんな食堂の一角で。

 運ばれてくる料理を一心不乱に食べまくるベレトと。

 向かい合わせになってその彼を満面の笑顔で見つめるエーデルガルトと。

 その横で現在のフォドラの情勢を説明するヒューベルトという珍妙な状況が形成されていた。

 

 五年ぶりに再会が叶ったベレトは酷い風邪にかかっていて、何を置いてもまず休ませることにしたのだが……そこからの彼は驚異的な快復を見せた。

 本日、星辰の節、25の日。夜明けと同時に再会できたベレトを大修道院の三階に運び、そこのベッドで寝かせてから約6時間後。

 

『治った』

 

 そんな一言と共にすんなり起き上がったベレトに、エーデルガルトもヒューベルトも仰天した。念のため熱を計ってみても平熱の範囲。半日と経たず治してしまうとは体力お化けのベレトらしいと言えたかもしれない。

 唖然とする二人の前でベッドから降りたベレトが調子を確かめるように手足をグルグル回していると、盛大な腹の音が鳴り響く。魔獣の唸り声もかくやと言うほどの音に、話をする前にまずは食事にしようと思ったエーデルガルトは彼を食堂へ案内することにした。

 回復力にも驚かされるが、それも充分な食事と睡眠があっての話である。風邪からの復帰のために消費した分を補給せねばなるまい。

 

 そうして昼時を過ぎて兵達がいなくなった食堂を三人は訪れた。厨房を任された者達に声をかけて、遅れた昼食を頼んだのが少し前のこと。

 皇帝陛下と宮内卿が連れ立って顔を出したことで慌てて敬礼した彼らが「おや?」と首を傾げたのは注文が三人分だと聞いた時。見れば見知らぬ男を伴っているではないか。

 はてこの男は何者かという疑問はあったが、そこは今回の作戦に選ばれた精鋭、口よりも先に手を動かす。速やかに食事の用意をして三人に提供し……忙殺されることになった。

 

 ただでさえ大食らいのベレト。五年分の空腹を訴えた体が、まあ食べる食べる。

 細身の体のどこにそんなに入るのか。昔から不思議に思っていたのを改めて思い知らせるように次から次へと平らげるその食欲はヒューベルトの頬をひくつかせた。

 

 ムガムガムガムガモゴモゴモゴモゴガッシュガッシュガッシュ!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

 異常な食欲を発揮するベレト一人のために厨房がどったんばったん大騒ぎしている間、自身も遅れた昼食を取りながら大まかに世界情勢の説明をしてあげるヒューベルトだが……ちゃんと話を聞いているのか不安になる。

 

 ちなみにここで言ってしまうが、ベレトはきちんと話を聞いて理解している。

 傭兵時代、ジェラルト傭兵団の面々と会議などをする時もたいていは飲み食いしながらやっていたので、今のように口にパンパンに詰め込んだ状態でも他人の話を聞くのは慣れたものなのだ。

 

 さて、ヒューベルトの頭を痛めているのはベレトだけではない。ある意味では彼以上に厄介な姿を晒しているのが隣のエーデルガルトである。

 

 皇帝の彼女は普段からその威厳を存分に生かし、厳格な態度を貫き、圧倒的なカリスマを纏って帝国の頂点に君臨してきた。その姿は多くの者が見ており、それこそ末端の兵に至るまで知られている。そんなエーデルガルトだからこそ帝国はセイロス教に戦いを挑み、今日まで戦ってこれたのだ。

 五年前、ガルグ=マクの戦いでベレトが行方不明になってからのエーデルガルトは酷いもので、自身を追い込むように帝国の舵取りに明け暮れた。当時の彼女の様子は威厳を通り越して威圧に満ちていて、気心の知れた仲間以外に対しては炎帝の態度そのままで当たるくらい張り詰めていた。

 

 そんなエーデルガルトが今……蕩けていた。

 テーブルの向かいで延々と食べ続けるベレトを眺める彼女の顔は……その、何と言うか……ものすご~くデレデレだった。

 彼女を知っている人ほど「誰だあんた」とツッコみたくなるだろう。

 

 もしこれが漫画やアニメだったら頭身が縮んだデフォルメで表現されていたかもしれない。それくらいだらしない顔だった。小説ですまん。

 

 エーデルガルトの気持ちも分からないでもない。心の支えになっていたベレトが、なった直後に行方不明となり、彼が五年間不在のまま皇帝として戦わなくてはならなかった。今までは仲間達が支えてきて折れることこそなかったものの、その心はすり減らされていたのだろう。

 そんなギリギリのところで持ち堪えていたところでついにベレトが帰還して、早速エーデルガルトの心に潤いをもたらしてくれたのだ。表情が緩んでしまうのも仕方ないことかもしれない。

 

 アムアムアムアムガシュガシュガシュガシュングングングング!

 

 にこにこ にこにこ にこにこ にこにこ

 

 ……それにしたってこの顔はどうよ?

 皇帝の威厳など微塵も感じられない蕩けっぷりにヒューベルトは再度溜息を吐く。従者の様子に気付いた風もなく、ベレトを見つめる主は本当に嬉しそうだ。

 別にエーデルガルトが喜ぶことを咎めたいわけではない。彼女の頑張りを誰よりも知る身としては報いがあってもいいと思うし、この光景だけ切り取って見れば微笑ましいものだろう。

 

 問題はここが人前だということだ。

 兵達がはけた食堂は人気が少ないとは言え無人ではない。食堂周辺で作業を続ける人員はいるし、今まさに厨房で働く者もいる。そんな彼らにこの蕩け顔が見られたらどうなるか。

 皇帝の姿か? これが? え、皇帝陛下? え、誰? 陛下なのこの人?──そんな風に困惑が広がるのが目に見えている。

 三階まで食事を届けさせるべきだったかと今さらになって考えるが、それはそれで大量の料理を運ばせることになって兵達に怪しまれるだろう。

 

 そして案の定、追加の料理を運んできた者が笑顔で次の注文をするエーデルガルトを見てギョッとした顔をする。伝えることを伝えたらベレトに視線を戻してますます笑顔を蕩けさせる皇帝はその様子に頓着しない。

 精鋭の意地か、無駄口を叩かず一礼だけして厨房に戻る後ろ姿を見送るヒューベルトは口止めしておくべきかと考えたが、すぐに無駄だと判断した。どうせ今後ベレトが共に行動するならこのことは噂として広まる。

 

 いよいよ気を配るのも面倒臭くなってきたヒューベルトはもう諦めることにした。エーデルガルトとベレトを引き離しでもしない限り、彼女の態度のことは遅かれ早かれ知れ渡るだろう。やるべきこと、考えるべきこと、捌かなくてはいけない問題は幾らでもある。無駄な些事にかかずらわれている暇はないのだ。

 割り切ったヒューベルトは自身の遅れた食事も済ませるために手を早めた。

 

 なお後日、軍内に広がった『皇帝陛下って実は可愛い説』を耳にしたヒューベルトは、分かっていたことだけどそれはそれとして大きな溜息を吐くことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は変わって今度は大修道院の二階、謁見の間の隣にある執務室。

 元は大司教とその補佐が働く部屋に移った三人が席に着いて向かい合っているのだが、先ほどと様子が大きく変わっていた。

 

「いくら貴殿であっても聞き捨てならない発言ですね」

「俺としても引けない。これは言わなくちゃいけないことだ」

 

 鋭い視線をぶつけ合うヒューベルトとベレト。

 睨み合う師と従者の横で縮こまるエーデルガルト。

 食堂で席を共にしていた時とは打って変わって剣呑な空気が漂っていた。

 

 食事しながら世界情勢を説明していたところでようやく満腹になったベレトが手を止めたので、場所を執務室に移して次は今後の展望を語ることにした。

 五年にも渡る膠着状態を打破するべく、アドラステア帝国は決戦のため動き出す。セイロス教団へ決戦を挑むため、その前段階として同盟を落とすため、かつて設立した黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)という最高の仲間を集結させることにしたのだ。

 元生徒達はその実力もあり、戦線を維持したり帝国内を巡ったりと散らばっていたのだが、皇帝の命により現在ガルグ=マクを目指して移動中。まもなく到着予定。

 そこに黒鷲遊撃軍の真の指揮官であるベレトが加わればまさに万全。

 熱を入れて語るエーデルガルトと、張り切る主の姿を見ながら満足気なヒューベルト。二人はいつになく高揚していた。

 途中からベレトがその無表情に険しい色を浮かべたことに気付かずに。

 

 本来なら千年祭の日に師への想いを振り切ろうとしていたのだが、まさかこの日に戻ってこようとは! 貴方が戻ったと知れば他の仲間も喜ぶに違いない!

 勢いよく話すエーデルガルトだが、それを制止したベレトはこう訊ねた。

 

『ルミール村はどうなった?』

 

 唐突な話題の転換に、執務室の空気が固まる。

 言葉を詰まらせる二人を見て、ベレトはますます視線を険しくした。

 

 即答できなかった二人にベレトは続けて質問する。気後れしながらその質問へエーデルガルトとヒューベルトは一つ一つ答えた。

 王国と同盟との交流は?──戦争する相手とまともな交流なんてできていない。

 使者の派遣は?──同盟には一度だけ。セイロス教団を抱えることになった王国にはそもそも帝国から派遣できるはずもない。

 対話の余地は?──五年前から関係性は最悪なのに対等に話せるはずがない。

 帝国内での皇帝の評価は?──戦争を起こしたことで衝撃はあったが、治安を安定させたことで平民からの支持はそれなりに高い。貴族からは特権を取り上げる政策を始めたことと富を増大させたことで好悪は半々といったところ。

 士官学校の同期達の今は?──全員健在。黒鷲遊撃軍に属する仲間はもちろん、他国でも戦死したなどの報告は上がっていないので存命。中には二つ名を持つほど戦場で活躍している者もいる。

 

 粗方聞き終えたのか。訊くのを止めたベレトは言う。

 

『このままじゃだめだ』

 

 断言だった。盛り上がった空気を一刀両断する発言に、エーデルガルトもヒューベルトも愕然としてしまった。

 

 無表情を険しい色に染めるベレト。それ以上に険しい目つきで睨むヒューベルト。

 二人の横で俯くエーデルガルトは自分がとてつもない失敗を犯したような気持ちになり、ベレトを失望させてしまったのかと恐怖した。

 しかしその理由が分からない。

 ガルグ=マクの戦いを契機に皇帝として立ち上がってから止まらず駆け抜けた日々だった。始まった戦争と政務に追われる五年間。理想の実現のため、自分にできることを精一杯やり抜いてきたはずだ。

 それでも、ベレトからは認められないのか。

 

「……師は」

 

 先ほどまでの弾んだ調子が嘘のように俯いた顔を恐る恐る上げるという皇帝らしからぬ姿は、叱られて怯える幼子のようだった。

 

「私が、間違っていると思うの?」

「エーデルガルトが目指しているものは知ってる。俺はその手伝いをすると決めた。だからこそ、今の君のやり方が間違ってると言わなくちゃいけない」

「っ!!」

 

 ベレトの言葉を聞いてビクリと肩を震わせる。

 

「ありえませんよ先生。帝国を率いるエーデルガルト様がどれほど力を尽くしてきたか……ずっと御傍に仕えてきた私が知っております。我が主が理想のために歩んできた覇道が間違っているとは到底思えません」

「俺が気になったのはまさにそこだ」

「「?」」

 

 ヒューベルトの言葉を肯定するように頷きながら、尚もこちらの話を否定する態度を崩さないベレトを見る。

 相変わらず感情が見えにくい無表情。だが出会ったばかりならいざ知らず、彼を知るにつれてその心を少しずつ感じられるようになったエーデルガルトには、今のベレトが視線を険しくしながらも生徒の身を案ずる教師の顔をしているのが分かった。

 

 自分に見えていない何かがベレトには見えているのかもしれない。

 否定されたからと言って落ち込んではいられない。彼の話を聞かなければ。

 

「いいか二人共、聞いてくれ」

 

 本題を語る姿勢を見せるベレトに、向き合う二人は自然と居住まいを正す。

 

「エーデルガルトの目的はフォドラに根付いた紋章至上主義の破壊。そのための手段として紋章の権威を後押しする教団を打ち倒して、紋章を持つ貴族の権威が絶対ではないこと、紋章はあくまで才能の一つでしかないことを常識としてフォドラに広めること。これに間違いはないか?」

「ええ、そうよ……五年前、師に伝えた私の意思は今でも変わらないわ」

「そうか。なら戦争に勝って、帝国がフォドラを支配するようになって、そこから君の目的が叶うまでどれくらいかかる?」

「え?」

 

 聞かれたエーデルガルトは目を瞬かせた。咄嗟に答えられなかったのだ。

 戦争に勝てた先のことを考えたことがないわけではない。だが目の前の問題があまりに多すぎて、そこまで未来のことにまで思い至らなかったからだ。

 

「エーデルガルトが皇帝になってもう五年経った。ここから君の統治が何年続くだろう。十年か。二十年か。もっと長いか。どんなに続くか分からないが、その間も俺もヒューベルトも全力で君を支える。だけど……」

 

 言葉を切るベレトは間にあるテーブルに目を落とすも、すぐに前を向いて続ける。

 

「はっきり言って短すぎる」

「……短い?」

「セイロス教は千年以上の時間をかけてフォドラの価値観を培ってきた。それだけ永い年月をかけて確立された考え方を、たかだか数十年程度で覆すなんて不可能だ」

「それ、は……!」

 

 反論しかけたエーデルガルトだが、声はすぐに途切れた。

 

 全く考えなかったわけではない。この道を進むと覚悟を決めてはいたが、決意が鈍りそうになる瞬間は何度もあった。

 敵と見定めた存在はあまりにも強く、大きく。

 目指す果てはあまりにも遠く、薄く。

 この選択でいいのか。このまま進んでいいのか。

 何度も自問自答してきた。その度に自身に言い聞かせた。

 揺らぐな。止まるな。誓いを胸に、突き進むと決めたのなら。

 自分にはこの道しかないのだ、と。

 

 しかし、ベレトの指摘はその決意に亀裂を生む。唇を噛み締めて俯くしかない。

 無意識に考えないようにしていた問題を目の前に突きつける容赦の無さは、懐かしき傭兵教師の授業を思わせる厳しさがあった。

 

「ならば貴殿は、エーデルガルト様の野望は実現できないと、そう仰るのですか?」

 

 腰を上げたヒューベルトが低い声で訊ねる。よりにもよってお前が言うのか、と。

 薄らと殺意を滲ませた視線がベレトを貫くが、彼は無表情を変えない。

 

「そうではない。話はまだ続く。座れヒューベルト」

「……」

「ヒューベルト」

 

 睨む目をそのままにヒューベルトは腰を下ろす。それを認めたベレトは改めてエーデルガルトに向き直った。

 

 そこからもベレトの話は続く。

 常識というものは容易く変わるものではない。エーデルガルトもヒューベルトも覚悟して臨んだのは分かるが、例え彼らが数十年かけて尽力したところでそれでも短すぎる。これは何年ではなく何代もかけて為す壮大な変革だ。

 

 神に連なる眷属のレアは、恐らくはセイロス教の発足から生き続けている。千年以上の歳月をかけて各地に紋章の権威を広めてきた、文字通り神代の存在。

 そんなレアによって定着したフォドラの常識を覆そうとしても、人の身で同じことはできない。故にエーデルガルトだけでなく、次の皇帝、そのまた次の皇帝、というように代を経て未来に繋げなければいけないのだが……

 

「組織の長が仕事を次の代に継がせる時、当たり前だけどその次の代を担当する人がいなければ話にならない。じゃあエーデルガルトの次の皇帝がいればいいということになるだろうけど、本当にそんな人がいるのか?」

「それは、これから見つけて──」

「見つかると思うか?」

「え?」

「エーデルガルトの覚悟を受け継ぎ、思想を理解し、目指す未来を正しく見据え、君と同じだけの使命感を持って皇帝をやれる人が見つかると、本気で思うか?」

 

 真っ直ぐにエーデルガルトを見つめるベレトは視線と同じく強い声で訊ねる。そこに相手を持ち上げたり、おもねるような甘やかす気配はない。

 

 生徒を指導する時、ベレトの態度から甘さは消える。

 自身の授業で与えたものが生徒の将来を左右するのだと、彼の中に生まれた使命感によって指導は基本的に厳しいものだった。貴族も平民も関係なく、地位によって態度を変えることもなく、一貫した指導だった。

 もちろんベレトの気質から優しさが消えることはなかったが、【壊刃】ジェラルトに鍛えられた彼の考える基準は高く、できる限り生徒達をそこまで引き上げようとしてきた。まだまだ未熟な自分にできる範囲で生徒達に教えようと張り切った。どんな道に進んでも通用するような基礎を叩き込む授業内容にしたのは間違っていないと彼は思っている。

 そんなベレトだからこそ、今のエーデルガルトを認めるわけにはいかない。君がそのまま進んだ先、帝国が勝った後の世界に『基礎』がないと指摘しているのだ。

 

 この戦争に帝国が勝ったとして。

 フォドラを支配することになった帝国は各地に働きかけて紋章による特権を取り上げるだろう。そうすると紋章以外の才能、今まで目を向けられなかった日陰者も見出されるようになるだろう。有能な者を採用したり雇ったりして実力を然るべき場で発揮させてやれば世界は発展するだろう。

 そこまではいい。理想的だ。その理想を実現させるために途方もない苦労があるとしても、覚悟して臨むなら苦労する甲斐があるというもの。

 

 しかし。

 しかしである。

 その理屈で言うなら、皇帝はどうなるのだ?

 

 エーデルガルトは傑物だ。高貴な生まれ、背景から来る覚悟、未来への展望、その実力、どれを挙げても並ぶ者はいない。いるとすればディミトリかクロードくらいのものだろうが、贔屓目を抜きにしてもエーデルガルトの存在感は頭一つ抜けている。

 今後彼女ほどの存在が現れることはもうないと言っても過言ではない。何故なら、他ならぬエーデルガルトこそが、後の世に自分のような存在を生み出させないために立ち上がったからだ。

 そんなエーデルガルトが皇帝として動き、世界を変え、次の代に継がせようとなった時、次代の皇帝を任せられる人が見つかるだろうか? よしんばそういう人を見つけられたとして、その人が真に覚悟を抱いてエーデルガルトと同じ使命を果たすことができるだろうか?

 要するにハードルが上がり過ぎなのである。前任者が為した業績があまりにも偉大過ぎて、後任者が押し潰されて、組織ごと瓦解する未来が見えてしまうのだ。

 エーデルガルトほどの傑物がその実力とカリスマを存分に発揮して為す改革。それは現状、ほぼほぼ彼女一人で成り立っているようなもの。そんな途方もない改革を後の世にも問題なく広めていける人が都合よく見つかるのか。

 ベレトにはどうしても思えなかった。

 

 さらにもう一つの問題として、運良く次の皇帝を任せられる人がいたとしても、その人が熱意を持って皇帝を全うできるか。そこもベレトには疑問だった。

 エーデルガルト=フォン=フレスベルグ。千年に渡りフォドラに君臨してきたセイロス教団に戦いを挑み、この世の常識を覆さんとした覇王であると同時に、戦乱を巻き起こした張本人。

 皇帝を受け継ぐということは、前代の罪業も否応なしに受け継ぐということ。この世界に戦火を広げた罪まで受け継ごうと考えられる人が果たしているのか。

 仕事を受け継がせるのなら、次の代を任された人がスムーズに業務に馴染めるように予め教えたり、一部の仕事を実際にやらせたりして経験を積ませるものだ。そういう受け継がせるための前段階ですら望む者がいるかあやしい。

 人は誰もが彼女のように強くないのだから。

 

 では次代に継がせず、エーデルガルトの代で全ての改革を成し遂げてしまえばいいではないかと言うと、むしろ逆に不安が残る。

 フォドラの常識を覆す。言うは易いが行うは果てしなく難しい。そんな大層な変革を一代で成し遂げるには相当な無茶を押し通すことになるし、幾度となく、それこそ数え切れない無茶が生まれるだろう。

 間を空けてぽつぽつと数度。それくらいの無茶なら受け入れられても、短期間に何度も何度も無茶を押し通そうとする人にどのような感情が向けられるか、考えるまでもない。

 五年前、皇帝になった直後にガルグ=マク襲撃という特大の無茶を強行したエーデルガルトである。仏の顔も三度までという言葉がこちらにはあるが、果たしてフォドラの女神は何度まで許すのか。

 仮に彼女の代で全て終わらせられたとしても、凄まじい無茶を一代で押し通した皇帝と帝国に対して人々(特に貴族)が怨恨を募らせないとは思いにくい。そんな負の遺産を未来に残してしまえばどうなるか。

 次の皇帝が恨まれるくらいならまだいい。下手をすれば特権を取り上げられた連中が結託して、再びセイロス教を掲げる団体としてまとまりかねない。

 そんなことになってしまえば目も当てられない。内乱が起きて、せっかく作り上げた新しい社会は崩れて、疲弊したフォドラは他国に攻め入られる隙を作って、かつてない暗黒の時代の始まりである。

 

 エーデルガルトは勇敢な子だとベレトは知っている。セイロス教団に反旗を翻すなどという行動をやってのけた彼女の精神力は凄まじい。

 ガルグ=マクに攻め入った五年前の戦いは、フォドラにおける善悪の全てをセイロス教団が管理していた状況に間違いなく一石を投じた。良いか悪いかではなく、意思を通すために力で訴えるやり方が必要な場合は確実にある。

 契約や交渉は互いの立場が対等だからこそ成り立つもの。教団の思想ばかりが優先されたかつての状況では、例えアドラステア帝国の皇帝でさえも挙げた声を潰されてしまう。

 そんな中で立ち上がったエーデルガルトには勇気があった。痛ましい光景を生み出してでも世界を変革させようと覚悟して動き出した彼女を守りたいと思った。

 

 ただし、勇気と無謀は別物である。

 勇気とは、希望ある選択のことを指す。目的が叶う見込みが充分にあると判断した上で賭けに出るのならベレトだって否やはない。全力で支えようと思う。

 だが今のエーデルガルトにはそういう見込みがどうしても見えない。言うなれば無自覚な捨て身なのだ。自分のやりたいことをやり切ってしまえば後はどうなっても構わない、そんな破滅的な姿勢を勇気とは呼ばない。

 

 故に、ベレトは今のエーデルガルトの姿勢を認めるわけにはいかない。

 かつて己が捨て身で復讐を強行したことでソティスを失ってしまったから。

 自身が犯した過ちを生徒にさせるわけにはいかないから。

 

 懇々とした語りを終えたベレトの前でエーデルガルトは何も言えなかった。呆然としたまま小さく息をする以外固まり動けなかった。

 

 この五年間、ひたすら前だけを向いて突き進んできた。その道をひた走ってきたことが間違っていたのか、ベレトの話を聞いた今でもすぐにはそう思えない。

 しかし、考える。前だけを向いて走ってきた。それは怯まず突き進んできたということだが……言い換えれば、他に何も見えていなかったということではないか?

 かつてベレトの授業で教わり、一度は身に付けたはずの戦略眼。戦況を俯瞰する視点。物事を多角的に見渡す考え方。それを自分はいつの間にか忘れてしまったのではないか?

 

(私は……私だけが正しいと思っていた? 師の教えを忘れて、自分が考えたことだけが未来のためになると……)

 

「すまない、エーデルガルト」

「え?」

 

 急にベレトが深々と頭を下げてきて、エーデルガルトは意識を戻した。

 

「本当なら俺はずっと君の傍にいるはずだった。一緒に歩んで、問題があればその度に相談して、困難があれば一緒に苦労を背負うつもりだった。それなのに俺は五年間ずっと眠ったまま、君から離れてしまった。エーデルガルトを守れなかった」

「師が気にすることじゃ……皇帝として戦うのは私なのだし」

「命だけの問題じゃない。エーデルガルトが背負った苦悩も、責任も、俺は知らないんだ」

 

 頭を上げたベレトの表情は悔恨に染まっていた。無表情が常である彼にしては珍しく、その感情がありありと伝わるようだった。

 

「実際どうすればよかったのかは分からない。二人の話を聞いてすぐに間違ってると言ったけど、俺だって何が正しい道なのか今は考え付かない。それでも……選ぶべき道を相談して、こうやって話し合うことが傍にいればできたはずなんだ」

 

 ガルグ=マクの戦いから五年。戦争だけでなく政治など、エーデルガルトが味わった苦労も苦悩もベレトの想像を絶するものだっただろう。心得のないベレトには理解できないことも数多くあったに違いない。

 それでも傍にいられれば、支え、励まし、苦労の一部だけでも分かち合えたはず。

 たったそれすらのこともできなかった。エーデルガルトの心を守れなかった。それがベレトには悔やまれたのだ。

 

「だからエーデルガルト、すまない。俺が……俺自身が君の傍にいたいと、傍で君を守りたいと、そう思っていたのに……!」

「師……」

 

(そうね……これが師なのよね)

 

 膝の上で拳を握り、俯くベレトを見ながらエーデルガルトは深い感慨に包まれていた。

 ただ漫然と肯定するだけではない。躍起になって反論してくるのでもない。相手の立場や考察、話を聞いた上で自身の意見を述べる。そこに遠慮や容赦はなく、自分にできることを尽くすという相手への誠意がある。

 それこそが、ベレトの持つ最大の魅力なのだ。

 

 士官学校にいた時を思い出す。彼が教師を任じられてから最初の課題、学級対抗の模擬戦をする際のミーティングの一幕。

 皇女だったエーデルガルト相手でも代わりがいれば参戦枠を代わってもらうと、勝利のためなら皇族相手でも気負わずはっきり物申せる彼の姿勢に感銘を受けたのだ。

 

 彼を気にするようになった切欠は出会った夜の戦闘で助けられたこと。それから興味を抱くようになったのは間違いなくあの時。エーデルガルトという個人を見てくれた人だから。

 それ以来彼の動向を目で追うようになり、いつしか惹かれ、心を許したくなった。所詮は他人だからと拒む壁を作っても、彼はその壁を乗り越えて自分を見てくれた。

 そんなベレトだから──

 

「……師の言いたいことは分かったわ」

「陛下!?」

 

 頷きを返したエーデルガルトを見てヒューベルトが驚きの声を上げる。

 

「別に、今すぐ師の意見をそっくりそのまま取り入れるわけではないわ。それでも聞くべき部分はたくさんあるはずよ」

「そうかもしれませんが……」

「私にも貴方にも見えていないことが彼には見えている。その感覚だけは貴方も今なら信じられるでしょう?」

「それは…………ええ、そうですね。先生はそういう人でしたな」

 

 エーデルガルトの言葉を聞いて一度は戸惑いを見せたものの、ヒューベルトも溜息混じりに頷いてみせた。

 

「エーデルガルト様の御心を救ってくださった貴殿の言うことなら、心底から想っての諌言であると信じましょう。ですが私の立場からは常に一定の疑念を抱かねばならないことは理解していただきたい」

「ああ、ヒューベルトはそれでいい。政治について門外漢の俺にできるのは、俺が気付けた範囲で指摘したり、分かることを教えるだけだ」

「くくくっ、貴殿は今でも我々の教師でいるのですな」

「それは……そうか。君達はあれから五年かけて成長しているんだ。もう子供とは言えないし、俺が今さら教師面をするのは厚かましいか」

「いえ、貴殿はそのままでいいでしょう。その姿勢が我が主の助けとなります」

 

 思うところはあるのだろうが、ヒューベルトも納得してくれたようだ。

 

 剣呑な空気は気付けば払われており、まるで五年前の教室のような雰囲気が漂っていた。

 授業が終わって休み時間か放課後。ベレトと話すエーデルガルト。それを近くで見守るヒューベルト。あの時の三人の間にあった独特の空気。

 例え五年の時が彼らを隔てていたとしても変わらないものがあるのだとこの場が証明していた。

 

 さて、ホッとしたのも束の間。

 

「ところで先生、ルミール村のことを言及したのは何故ですか?」

「ん? ああそうか。そこを説明してなかったな」

 

 エーデルガルトの展望の危うさを指摘して、では今後どうするか。そのことについて話そうという空気に変わってヒューベルトが疑問を口にする。

 

 ベレトが言及したルミール村。五年前、闇の魔導士ソロンによって壊滅された村である。当時の黒鷲の学級(アドラークラッセ)が課題の調査のために向かった時には、家屋は燃え崩れ、村人の多くは精神を狂わされたという凄惨な有様だった。

 その村を何故今取り上げたのか。

 

「元々エーデルガルトにはルミール村のことを教えようと考えてたんだ。帝国がどんな政策をしていくのか俺は知らなかったからその方面で力になれないけど、できそうなことの一つとして」

「師が力になれることでルミール村が関係しているの?」

「ああ。五年前の赤狼の節の課題が終わった後、ルミール村の生き残りをセイロス教団が保護したのは覚えてるか?」

「数は少ないですが、大修道院の食堂で見かけたことがあります。彼らはそのまま教団に帰属したそうですね」

 

 ヒューベルトの補足で思い出す。エーデルガルトがベレトと一緒に食堂を訪れた際に、一人の少女から呼び止められたことがあるのだ。

 惨劇に襲われたルミール村の生き残りの一人である少女は、セイロス騎士団と一緒に救助に来た黒鷲の学級を見ていたのだろう。ベレトとエーデルガルトの顔を知っていて話しかけてきた。

 

『どうしてもっと、早く助けに来てくれなかったの……?』

 

 幼さを塗り潰す悲壮な表情と声色をエーデルガルトは覚えている。自分の野望はあの少女のような人間を数え切れないほど生むことになるのだと教えられた気分だったのだ。

 

 そして、そのルミール村は今も放棄されたままである。焼け跡はそのままで、村人に何かしら補填があったわけでもない。

 言い方は悪くなってしまうが、それどころではなかった。他に優先するべきことがあり過ぎて、後回しにしている内にいつの間にか意識されなくなっていた。

 

「そうやって放棄された村を、皇帝エーデルガルトの名の下に救助するんだ」

「……私の?」

「そうだ。これはさっき寝ながら考えていたことなんだが、君にはもっとたくさんの味方が必要だと思う」

 

 熱があるのにそんなことを考えていたのかこの人は。

 ヒューベルトが呆れ半分、慄き半分でベレトを半目で見やる横でエーデルガルトが首を傾げる。

 

「私にはもう充分頼れる仲間がいるわよ? 師やヒューベルト以外に、遊撃軍の仲間や、他にも仕える臣下がいるわ」

「それはいいことだが、俺が言いたいのは仲間や部下だけじゃなくてもっと広い意味の……極論を言えば、フォドラ中の人間にエーデルガルトを好きになってほしいんだよ」

 

 続けてベレトが語るのは、いわゆる皇帝のイメージ改善運動である。

 

 何度も言うが、エーデルガルトはセイロス教に戦いを挑みガルグ=マクに攻め入ることでフォドラに戦火を広げた。当然だが敬虔なセイロス教の信者、そしてガルグ=マクに住んでいた人間からの印象は最悪だろう。これはもうやってしまったからには仕方ない。

 王国と同盟にしても、フォドラに戦火を広げたことで自領にかつてない負担を被らせた皇帝に対して、人々が良い印象を持っていないのは言うまでもなく。

 そして帝国内では、治安と流通を改善させて富を増やした皇帝への印象はそれなりに良いと聞くが、それは自分達に利をもたらしてくれるからこそ受け入れられている面が大きい。不満はあってもエーデルガルトの実績とカリスマがそれらを黙らせているようなものだ。

 

 前述したようにエーデルガルトの野望は一代で完遂できるようなものではなく、永く永く続かせていかなければならない。

 しかし現状、彼女以降の皇帝が改革を受け継いでいけるか、大きな不安が残る。

 

 そこで必要なのは「皇帝は平民を守り助けようとしている」という風潮である。

 

「個人が持つ常識を他人が変えようとするなら、その他人に向けられるのは『余計なお世話』という排他的な感情だ。それじゃあどんなに訴えかけたところで反発心が壁になって素直に受け入れられない。皇帝という圧倒的高みから投げかけられた言葉だと、どうしても君主と臣民という関係が壁になる」

 

 そうさせないために必要なのは、エーデルガルトが人々に向き合う際の姿勢。

 皇帝の立場はそのままに、彼女が常に平民のことを思う皇帝なのだとより広く知らしめていかなければならない。

 

 先刻よりも真剣な、あるいはこれこそが本命の話だと言わんばかりの眼差しを向けるベレトに、エーデルガルトは頷くことしかできなかった。

 

「信頼されなければならないんだ。紋章は絶対のものじゃないという思想を広めて、紋章がなくても有能な人が実績を上げる仕組みを作れても、上に立つ人が信頼されてなければ歪んで伝わってしまう」

 

 ──どうせあの皇帝のことだ。問題は力尽くで潰してきたんだろう。

 ──紋章を持たない者が実績を上げたのだって卑怯な手でも使ったに違いない。

 ──たまたま気に入られた奴が得しただけさ。

 

 そんな風に思われてしまっては、どんなに世界を変えたところで人々の意識は変わらない。

 

 エーデルガルトには力があり、覚悟もある。一人で突き進めるだけの勢いもある。

 なのでベレトが考えたのは彼女の姿勢、心構えを変えてやることだった。

 

「エーデルガルトは未来に生きる人々のために立ち上がったんだよな。じゃあその未来の人も皇帝を受け入れられるようにして、後に続く人達が力を合わせて野望を叶える地盤作りを今からしておかないと。君が皇帝を退いた後も世界は続いていくんだ。その未来でもエーデルガルトの意思が広がるように」

 

 言葉が出なかった。エーデルガルトの胸に感動とも言える衝撃が湧き上がった。

 

 まさに!

 まさにそれは自分のような為政者が持たねばならない視点ではないか!

 世界を導くのは上に立つ者でも、世界を支えるのは下で生きる者。上下はあっても優劣はない。

 目線と心を常に地面近くに置いておく。その姿勢がなければ上からの声は下には響かないのだ。

 全ては未来に生きる人のために。

 

 何より、今ベレトが言った心構えは彼自身が教師として生徒を指導する時の姿勢そのもの。常に生徒と正面から向き合い、相手に誠実であらんとした彼の人間性を表している。

 

「君が教えてくれたことだよ」

「私が?」

「授業でも訓練でも、エーデルガルトは俺の指導を素直に聞いてくれただろ? 立場を考えればもっと反発してもおかしくなかったのに、君が早くから俺を受け入れてくれたから他の生徒も俺を受け入れてくれた。君のおかげで俺は教師をやってこれたんだ」

 

 今さらだけど、ありがとう──当時を思い出したのだろう、小さく微笑みながらベレトは礼を言った。

 

(~~~っ!)

 

 エーデルガルトは蕩けるような心地だった。

 これほどの人が自分を想ってくれる。傍で守りたいと言ってくれる。

 これほどの人に感謝されるくらい、自分が彼の助けになっていた。

 心臓が絞られるような歓喜が生まれ、思わず胸を抑える。

 

「なるほど、そこでルミール村が関わってくるのですな」

 

 横目で窺って主の様子を察したヒューベルトが後を続けた。

 

「廃村となったルミール村を帝国が解放すれば……」

「皇帝に向けられる目も変わる。すぐに変わらなくても、今の帝国はセイロス教でもやらなかった救助活動をすると示せる。エーデルガルトに向く評価が変わる切欠になるはずだ」

「しかしあれから五年も経って、何を今さらと嘲笑われる可能性も高いですが」

「まあ恐らく十人中九人はそう言うだろう。それでもやらないよりは確実に変わる」

 

 無論、ルミール村は分かりやすい一手として最初に挙げただけで、他にも救助活動だったり平民の助けになる活動はいくらでもある。ベレトは思いつく端からやってみるつもりだった。

 

「しかしルミール村ですか……少し面倒になりますね」

「何か知ってるのか?」

「ええ。今回のガルグ=マクを解放する進軍に先立ち、我がベストラの手勢でこの地一帯の調査をしておいたのですが、ルミール村にも野盗が潜んでいることが分かっております」

 

 ガルグ=マク大修道院の敷地は広い。市街地を含めれば城塞都市とも言える大きさで、山間に構えるという天然の要害なのもあってならず者が引き籠るにはうってつけの立地だ。

 セイロス教団が居座っていた時は無理だったが、帝国軍が追い出したことで空いたこの地が野盗に集られるのは自然な流れだったのだろう。

 ただし野盗の全てがガルグ=マクに居着いたわけではない。いくら広いと言っても限られた敷地に際限なく人が流れ込んだら溢れてしまう。セイロス教団が去って維持する力を失ったガルグ=マクに大量の人間を受け入れられる余裕などなかったのだ。

 なので、いい場所を見つけてもそこに居座れる力も人脈もない、言ってしまえば雑魚盗賊はガルグ=マクではなく山の麓の方にあるルミール村などに流れたのである。

 帝国軍が国内を巡回するようになったとは言え全てを見渡せるわけではない。放棄されたルミール村のような場所よりも優先しなければならないことも多く、放っておかざるを得なかった。

 

「今回の軍の編成はガルグ=マク解放を目的としたもの。復興作業の最中、他に人員を割く余裕はありません。アンヴァルで追加の派兵を決めなければなりませんな」

「そういうことなら──」

「──今すぐ行こう」

 

 ヒューベルトの説明を聞いてベレトが即決しようとしたその時、彼の言葉に被せる形でエーデルガルトが言い放つ。

 振り返る二人を見て、皇帝は不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

「そう言おうとしたのよね師?」

「ああ、そうだが……君も行くのか? 俺が言い出したことだし俺が行くつもりだったんだが」

「もちろん。皇帝エーデルガルトの名の下の出撃なのだから、その最初の一手に私がいるべきよ」

「だが今はガルグ=マクの復興作業を指示する立場だろう? エーデルガルトがここを離れたら困らないか?」

「そこは我が優秀な右腕の出番ね。野盗の掃討自体はもう終えているのだし、指示を出すのは一人でも充分できるわ。ねえヒューベルト?」

 

 意気揚々が顔に書いてあるような心境で目を向ければ、軽く溜息を吐く従者の姿。言葉にしなくてもこれは決定したことだという意思が伝わったのが分かり、エーデルガルトは満足気に微笑む。

 

 主の止まらない勢いを察したヒューベルトとしては、少しばかり頭痛を覚えながらも彼女が明るい表情をしているのが嬉しかった。

 

「畏まりました。一時、軍の指揮を預かりましょう。陛下直属の一部隊のみの出撃であれば人員も融通は利きます。そこに先生が加われば不安はないでしょう」

「頼むわね。すぐに終わらせるわ」

「お気を付けて……」

 

 二つ返事でやり取りを終わらせる主従を見たベレトは首を傾げる。

 

「だがエーデルガルト、いくらルミール村がここから近いと言っても、行って帰ってくるにはそれなりに時間がかかってしまうぞ」

「あら、師は私達が変わったのは見た目だけだと思っているのかしら?」

 

 ベレトの前で強気な笑みを浮かべるエーデルガルトはこの上なく張り切っていた。

 また彼と共に戦えるこの時をずっと待っていたのだから。

 

「貴方の生徒はこの五年で実力も伸ばしているのよ。それを見せてあげる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勢いよく扉を開き、厩舎に立ち入るエーデルガルト。それに続いて入るベレトの姿を認め、中で思い思いに過ごしていた彼らは一斉に色めき立った。

 

GAAO(ふぁ(゚◇゚))!?」

GUA(神(゚△゚))!?」

GRU(マ(゚□゚))?」

 

 驚愕の視線を向けるドラゴン達だったが、ベレトが厩舎の中を見回した途端揃って平伏する。見たことないドラゴンの様子に世話係の兵が困惑しているところ、皇帝が足を運んだことに遅れて気付いた。

 

「こ、これは陛下! 何用でございますか?」

「今すぐ発つ。私のドラゴンを」

「畏まりました!」

 

 流石は編成された精鋭と言うべきか。余計なことを口にせず、エーデルガルトの言葉にテキパキと動いて一頭のドラゴンを連れてきた。兵に引かれてのそりのそりと姿を現したドラゴンは大型種のようで、他のドラゴンより一回り体が大きい。

 その首を撫でるエーデルガルトは慣れた様子で、このドラゴンが彼女と心を通わせた相手であることが察せられた。

 

 大型種。そして「私のドラゴン」という指示。

 まさか、君はドラゴンマスターの資格を?──視線に乗せてベレトが問うと、満足気な笑みを向けるエーデルガルトである。自身の成長の証、その一つを見せられたことが嬉しいのだろう。

 

 係の者が鞍と手綱を装着させている間、ドラゴンはどことなく気後れしているようにも見えて、その視線はエーデルガルトとベレトの間を行ったり来たりしていた。

 

GRRAAUURU、RRYYYAAA(ご主人がメスの顔をしてる件(´・ω・`))

「「「VGRUUUU(ドン(゚ w゚ )マイ)」」」

GRYYAAAU(こっち見ろや(゚ д゚ ))!」

 

 何やら周囲のドラゴン達と鳴き合っている。挨拶でもしているのだろうか。

 

 すぐに支度は終わり、ドラゴンを外に出して敬礼する兵に一言礼を伝えるとエーデルガルトは素早く騎乗した。そのままベレトに手を差し出してくる。

 

(せんせい)、後ろに乗って!」

「分かった」

 

 手を引かれたベレトが後ろに乗ったのを確認してエーデルガルトは手綱を取った。指示を受けたドラゴンが羽ばたき始め、その巨体を浮かせていく。

 

 と、そこまで見ているままだった係の兵が我慢できなくなったのか、声を上げた。

 

「あの、陛下、どこへ行かれるのですか!? それに、そちらの男は一体!?」

 

 急に出撃を伝えられたこと。

 見知らぬ男が相乗りしたこと。

 皇帝のドラゴンの世話係として流石に何も聞かされないままではいられず、思わず出てしまった質問に返ってきたのは短い一言。

 

「詳しいことはヒューベルトに聞きなさい!」

 

(えーーーーー!)

 

 丸投げであった。

 皇帝の懐刀にして右腕、あのヒューベルト=フォン=ベストラに直接聞けと?

 んな無茶な──途方に暮れる兵であった。

 

 固まってしまった世話係を置いて空高くドラゴンを飛ばせたエーデルガルトは、背後に麾下の帝国飛竜隊も飛び上がったのを認めると発進を指示。

 高度を活かしてドラゴンは滑空を始め、高速飛行を始めた。

 

「すごいな、ドラゴンマスターになったのか」

「貴方と並び立つためにこれくらいは、ね!」

 

 後ろでベレトが感心した口調で溢し、エーデルガルトは得意満面になる。手綱を握る手に力が入り、滑空から緩やかな上昇に移ったドラゴンを支えた。

 

 いつか彼が帰ってくる時のために努力していたのだ。

 技能について、元々斧術には自信があった。他に求められる槍術もベレトの授業で触れていたので苦手でもなかったし、飛行術は五年前アンヴァルに飛ぶ時にベレトと共にドラゴンに乗った経験が生きたのか想像以上に習得が早かった。

 皇帝という忙しい身でも暇を見つけて鍛えてきたおかげで、こうして最上級兵種に就くことが叶い、それをベレトに披露できてエーデルガルトは鼻高々であった。

 

GRRUUUOO、GYAOO(すごくショックです(・_ゝ・))……」

 

 そんな風に浮かれていたからか、首を向けてきたドラゴンが苦情を申し出るように低く唸ってきたのでハッとする。

 手綱を通して騎手の気持ちを感じ取ったのだろうか。浮かれるんじゃないと窘められた気分だった。

 

 ベレトを後ろに乗せているのに変な姿を晒したくはない。気を引き締めなければ。

 何より、彼には問わなければならないことがある。

 

「ねえ、師……」

「分かってる。俺もエーデルガルトにちゃんと言いたい」

 

 エーデルガルトの考えを察したのか、背中越しにベレトの真剣な声が聞こえる。

 五年前と位置だけは逆にして、同じく他人を挟まない二人だけの話。

 

「あの時、俺はレアを助けに行った」

 

 話題になるのはやはり五年前のこと。

 ガルグ=マクの戦いでベレトが最後に見せた行動。守ると言ったエーデルガルトの傍を離れた彼は【白きもの】、即ち敵であるはずのレアを助け出した。

 あの瞬間のガルグ=マク全体を唖然とさせた行為で、多くの者が目の当たりにした光景である。

 

 飛び出す直前、ベレトは確かにレアの名を叫んでいた。それも呼び捨てにして、まるで親しい友人の窮地に駆けつけるかのように。

 それを聞いたのはその場にいたエーデルガルト、クロード、ユーリスの三人のみ。

 居合わせなかったヒューベルトにはこのことを教えていない。なので彼を交えた話の最中に持ち出すわけにはいかない話題だった。

 

 エーデルガルトが不安に思うことに一つに、ベレトの心にまだレアと教団への未練があるのではという疑念があるのだ。

 

「俺は分かってなかったんだ。帝国の味方になって、エーデルガルトと一緒に戦うということが何を意味するのか、きちんと理解できてなかった」

「師……」

「レアには本当に世話になった。俺を士官学校の教師に任じてくれたことだけでも生徒達と関わる切欠になったし、天帝の剣を託したり、色々教えてくれて、大きな期待を寄せてくれたのは感じていたよ」

 

 それはエーデルガルトも分かっていたことだ。レアがベレトに向けていた熱視線は何かと近くにいた自分にもありありと感じられて、大司教がそんな明け透けな感情を見せていいのかと驚いたものだ。

 

「ただ、どんな人間にも譲れない一線というものがある。俺にとってはそれがエーデルガルトだ」

「わ、私?」

 

 あ、だめ、口元が緩む──真面目な話をしている最中だというのにおかしな表情をするわけにはいかないので、目と口に力を入れて蕩けそうになる顔をしかめる。

 自分が前に乗る位置関係でよかった。彼からは見えない、はず。

 

「聖墓でのレアの言葉は俺の中で一線を越えるものだった。俺にとってあれは決して認められるものではなかった。だからエーデルガルトを守る選択をしたことに後悔はない」

 

 でも、とベレトは続ける。

 譲れない一線を持つ者同士がぶつかった時、戦いとは否応無しに起こる現象だ。避けられないのなら、どちらかが折れるか、少しだけ妥協するか、変化を加えない限り互いを潰し合うことになる。

 悲しいけれど、それはきっと誰かと誰かが生きている限り必ず起こってしまうことなのだ。

 

 そしてそれを五年前に学習できたことでベレトは腹を括れた。

 

「俺はエーデルガルトを守りたい。この気持ちがきっと今の俺にとって一番大事なことだ。だから君が目的を果たせるよう力になるし、健やかに生きていけるように支える」

「っ……師」

「もう一度約束するよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(ああ、貴方はそこまで……!)

 

 先ほど覚えた陶酔がまたしても胸から溢れて、エーデルガルトは目を潤ませた。

 自分がこれほどまで想われていることに感激する。同時に、彼と出会えた幸運に、いるかどうかも分からない神に感謝したくなった。

 

 かつての宮城の地下に囚われるより以前の自分は皇女としての教育を受ける他、それなりに敬虔なセイロス教の信徒でもあったのだ。あの時以来、心の中では見放していた女神に対して久しぶりに……本当に久しぶりに祈りを捧げたくなった。

 その女神の加護を受けたベレトに祈れば同じことになるだろうか。そんな益体もないことも考えてしまう。

 

 ベレトのことだ。守るという言葉を使ったが、その意味がただエーデルガルトの身を守るだけに留まらないのだと分かる。

 執務室での彼の話を思えば、エーデルガルトの命だけでなくその歩む道、彼女の将来を含めた人生を守るべく真摯に向き合ってくれているのだ。立場を考えれば皇帝という圧倒的な差がある相手でも、上下関係に惑わされず、信頼を軸にして相対してくれるのが分かるから。

 そうだ。ベレトが話した通り、彼がエーデルガルトを信頼し、エーデルガルトも彼を信頼して、だからこそ意思を交わし、相手の意見を受け入れ、変わっていける。

 それこそが彼の導きの根幹なのだ。

 

「師、私も約束するわ。一度は揺らいだりしたけれど、もう貴方を疑わない」

 

 今度は自信を込めた笑顔で振り返り、ベレトの目を見つめて言った。

 

「私は師を信じるわ! だから、これからも共に歩んでちょうだい!」

「ああ。改めてよろしく、エーデルガルト」

 

 ベレトもはっきりと応えてくれたことでエーデルガルトはますます張り切る。手に持つ手綱を握り直してドラゴンに加速を指示した。

 

VVVRRRRYYYAAAAA(でも幸せならOKです(`・ω・))!!」

 

 指示に従うドラゴンが力強い咆哮を上げ、二人が先導する飛竜隊はルミール村へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空を飛んで直行したこともあってさほど時間はかからず、陽が落ちる前にはルミール村が見えるところまで来ることができた。

 エーデルガルトは飛竜隊に指示を出して村を囲むように陣を展開。ベレトはドラゴンを降りて単独行動による遊撃で内部を掻き回すという算段。

 

「皇帝の名の下に命ずる! 帝国領内にはびこる無法者、この村に巣食うならず者を打ち倒せ!」

 

 エーデルガルトの号令から先は早いものだった。

 廃村なのでろくな柵もなく、崩れた家屋に潜んでもいつまでもやり過ごすことなどできないのもあって、応戦するしかない野盗が次々と飛び出してくる。

 弱かったからガルグ=マクを追われてルミール村に流れ着いたのであり、そのような雑魚が精鋭揃いの帝国飛竜隊に敵うはずもなく次々と斬られていく。

 頭数だけはあったのでドラゴンの間を抜けて村から逃げ出そうとする野盗もいたのだが、村の中を高速で立体起動するベレトが狩り回って逃がさない。

 

 しかし、主だった戦力がベレトとエーデルガルトしかいないこともあってか、村全体を完璧にカバーできていなかったらしく、命からがら逃げ切ろうとした者もいた。

 弱いからこそ脅威に敏感だったのか、他の野盗が飛び出してもこっそり隠れ続けていた者がベレトの目も掻い潜って村から逃げ出そうとして──新たに現れた戦力に蹂躙された。

 

「よっしゃあ、俺が一番乗りだー!」

「もう戦いは始まってるから、僕より速いだけで一番じゃないでしょ」

 

 そんなことを言い合う若者二人を先頭にした集団が村に雪崩れ込み、エーデルガルト率いる飛竜隊の戦いに加勢していく。

 その先頭の二人は、ベレトのよく知る人物の面影があった。

 

「カスパル!? リンハルト!?」

「おー、本当に先生がいるな! また会えて嬉しいぜ!」

「お久しぶりですね先生。五年も寝ていたそうで羨ましい限りですよ」

 

 思わず呼びかけたベレトの脇を走り抜けたのは成長したカスパルとリンハルト。

 どうして生徒の二人が来たのか分からなかったベレトだが、別方向から現れた集団がさらに加勢してきた。

 

「エーデルガルトに後れを取るな! 騎士団は左右に展開! 賊共を取り囲め!」

「少し遅れちゃったかしら?」

 

 先頭の騎馬を駆る青年が勇ましく指示を出し、その後ろに乗った美女が巡らせた視線がすぐにベレトを捉えた。

 

「フェルディナントか!? じゃあ、そっちはドロテア!?」

「やあ先生! 貴方は全く変わっていないな!」

「エーデルちゃんに会えたんですね。よかった……五年前の約束、今日ですもんね」

 

 馬上からにこやかに声をかけたフェルディナントとドロテアはそのまま騎士団の陣形に加わりに行く。

 瞬く間に囲まれる野盗を、駄目押しとばかりに射かける矢の雨がさらに動きを封じていった。

 

「エーデルガルト様と先生、援護します!」

 

 次いで現れたのは、エーデルガルトの飛竜隊とは別のドラゴンを駆る集団。上空で弓矢を構えたその者達は帝国の兵とは出で立ちが異なる。

 

「ペトラなのか!?」

「千年祭の日、誓いました! 学級の皆と先生、集合! 私、信じていました!」

 

 見慣れない装束に身を包んだペトラが率いたドラゴンの部隊に指示を出し、帝国飛竜隊では抑えられなかった角度から村の周辺を囲みに行った。

 

 示し合わせたようにルミール村に集った生徒達にベレトが驚いているところ、背後に気配を感じて振り返れば「ぴゃ!?」と飛び上がる一人の女性。

 その反応から察し、まさか彼女が来たのかと再び驚く。

 

「ベルナデッタなんだな?」

「は、はい、ベルです。あの……本当に、先生なんですよね? よかった~」

 

 駆け寄るベルナデッタの後ろから弓を携えた騎馬隊が走り抜けていき、ルミール村を完全に囲んでしまった。

 

 元黒鷲の学級、そして黒鷲遊撃軍の仲間、大集合である。

 

「ベルナデッタ、君達はどうしてここに?」

「ヒューベルトさんから連絡があったんです。ガルグ=マクじゃなくてルミール村に集結しなさいって」

「だが君達はガルグ=マクに向かって移動中だったんじゃないのか? 俺とエーデルガルトが出撃したのはほんの少し前なのに、どうやって連絡を……」

「えっと、それはですね、ヒューベルトさんが出した早天馬(はやてんま)が直接あたし達を見つけて教えてくれたんです」

 

 驚くベレトに向けて、五年前とは別人のように垢抜けた姿になったベルナデッタが説明したのは新しい試みのことだった。

 

 早馬という、馬を速く走らせて荷物や使者を素早く運ぶ手段がある。民間で使われるものから貴族が利用するものまであり、広大な領土を誇る帝国には欠かせない方法だ。

 それらは早馬の名前の通り、普通の馬を用いる。この馬の代わりに天馬、つまりペガサスを用いたのが早天馬である。

 これにより、街道を始めとした地形で足を遮られる心配がなくなり、飛行によって目的地まで直進できるようになったことで必要時間が大幅に短縮。帝国各地への伝令を見違えるほど活性化させたのである。

 言うまでもなく、五年前にベレトが駆るドラゴンに乗ってガルグ=マクとアンヴァルを僅か一日で往復したエーデルガルトが、その経験を下地にして考案したものだ。

 帝国軍の国内巡回と併せて、各都市などにペガサスナイトを派遣して作った新しい制度。できたばかりなのもあってまだ賛否はあるが、連絡の高速化という計り知れない成果は徐々に認められつつあった。

 

 各地からガルグ=マクに集結してくる仲間がどのような道筋を辿るかヒューベルトには分かっていた。その道筋を逆方向からなぞるように出した早天馬が、それぞれ発見した仲間に集結先はガルグ=マク大修道院からルミール村に変更だと伝え、連絡を受けた彼らは大急ぎで駆けつけたのだ。

 何故そんなことを、と一瞬考えたベレトだがすぐに理解する。

 千年祭があるはずだった今日、五年ぶりに先生と生徒の再会が叶うように調整したヒューベルトの粋な計らいだろう。

 

 感心の目で村の中を見れば野盗は軒並み倒れており、辛うじて生き残った者が村の中央で取り囲まれているところだった。

 取り囲む軍勢の中からエーデルガルトが進み出ると高々と宣言する。

 

「武器を捨てて投降するのなら命までは取らない! そなた達もこの地に生きる人間なのだから! しかし、抵抗を止めなければ我が軍は一人残らず蹂躙し、この地に安寧を取り戻す!」

 

 あのアドラステア帝国の皇帝がここまで言うのだから逃げ場などないと分かり、殺されるよりはマシだと野盗は次々に武器を放り投げた。

 それを見たエーデルガルトが手に持つ斧を高く掲げる。皇帝の勝利宣言に、遊撃軍から上がった勝ち鬨の声は瞬く間にルミール村を包んだ。

 

 斧を掲げたままエーデルガルトは離れたところに立つベレトを見つめる。彼と視線が絡んだのを感じて笑みを浮かべた。

 

 昨日まで抱えていた焦燥感はもうなくなっている。

 五年という長い夜を越えて夜明けを迎えた眩しい気持ちでいっぱいだ。

 もはや怖れるものなど何もない。

 

(師こそが私の翼……!)

 

 ここからはベレトが導いてくれる未来を信じて突き進むのみだとエーデルガルトは笑みに力を込めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうだ。これでいい。

 

 人が生きていくことは、多くの信頼に支えられている。

 無意識であっても信頼が根底にあるから人の世は続いていける。

 

 エーデルガルト。

 信じることを恐れないでくれ。

 誰よりも過酷な道を歩む君だからこそ、他人との信頼が大切だ。

 

 大丈夫だよ。きっと、君は大丈夫だ。

 人を信じ、仲間を増やし、絆を結べば、どんな苦しい道だろうと進んでいける。

 勇気があるエーデルガルトなら必ずできる。

 

 だから。

 踏み出すことを恐れるな。

 手を差し出すことを躊躇うな。

 君はそれができる人間なんだから。

 俺の心をすくい上げてくれたように。

 

 ……本当は、ほとんど建て前みたいなものだよ。

 

 エーデルガルトには暴君として語られるようになってほしくないんだ。

 いつか君が帝位を退いた後にも、多くの敵がいたままじゃ。

 狙われ続けるだろう。もしかしたらその末に殺されてしまうかもしれない。

 認められない。そんな未来にはさせない。

 君が背中を気にせず、憂いなく笑い、好きにゴロゴロしていられる世界にしたい。

 

 俺には政治が分からない。

 それでも、仲間と力を合わせることの強さを知っている。

 他人と心を通わせる大切さを学んだ。

 困難な野望を叶えるなら尚のこと、そのためには信頼が必要だ。

 

 エーデルガルト。

 俺は君を守りたい。

 でも、俺だけじゃ君を守り切れない。

 だから、君を守れる世界を創る。

 そのために戦う。

 

 君を守るためなら。

 君が生きるためなら。

 君を幸せにするためなら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()




 ──ただ一人、君のためなら。

作者の活動報告に載せた後書き


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未来と戦、備えて鍛えて 前編

 前話からけっこう時間が経っています。
 具体的には丸一節ほど。


 帝国は変わった──そんな噂が流れ始めてからしばらく経つ。

 いつからなのかは定かではないが、まことしやかに流れる噂を人々の耳が捉えるとたちまちの内にその流れは加速した。

 

 アドラステア帝国と言えば、このフォドラ最大の国である。大陸の南半分を領土とし、貴族制度の起こりにもなった最古の大国だ。

 北にファーガス神聖王国が生まれ、東がレスター諸侯同盟として分かれてからも、帝国の影響力は依然として大きく、背負う歴史と威信は大陸中に渡っている。

 

 そんな帝国が何を思ったか五年前、人々から信仰を集めるセイロス教に戦いを挑んだ。大陸最強と謳われるセイロス騎士団を撃破した帝国軍はガルグ=マクを占拠。そしてフォドラ全土に向けて宣戦を布告した。

 当時は士官学校の生徒であったエーデルガルトがいつ皇帝の座に就いたかは明らかになっていない。あくまで皇女でしかなかった彼女では全軍を動かす権限などなかっただろうから、あの時点で皇帝になっていたのは間違いないのだが詳しい経緯は不明である。

 

 ともあれ、皇帝として立ち上がったエーデルガルトが帝国を率いて戦争を始めたのは確かだ。そんな彼女の意図するところは何なのか、何を目的とした戦いなのか。帝国が布告した檄文はこう語る。

 

≪教団はフォドラを支配せんとする欲望のために教義を利用し、人々を欺いてきた≫

≪かつて鷲獅子戦争の末に王国が生まれた際、帝国との仲裁に教団が動いた≫

≪また、同盟が興る切欠にもなった三日月戦争、その仲裁にも教団が動いた≫

≪何故か? それらは己の権勢を保ち、信仰を以てフォドラを支配するためだ≫

≪人々を争わせ、民の安寧を脅かし、その調停を担うことで人心を集める≫

≪女神に救いを求める人々の心を利用し、金をかき集め、贅を尽くす偽善者≫

≪そんな者にフォドラを導くことなどできはしない≫

≪故に、アドラステア皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグの名において≫

≪ここにセイロス教団との開戦を宣言する≫

 

 装飾された言葉を幾らか省いてまとめるとこのようになる。皇帝の名の下、正式に帝国から発された文書だ。

 ここで気になる点が二つある。

 

 一つ目に、帝国は『教団に』戦いを挑んだこと。

 

 セイロス教団が人心を集めてそれに合わせて金をかき集めていることは、はっきり言って否定できない事実だろう。

 かつてのガルグ=マクだけを見ても、山間に構えるという立地にも関わらず毎日のように人が訪れていた。お世辞にも整備されているとは言えない道が山の中を通り、足を運ぶのは逞しい者ばかりだった。

 信仰のために険しい道のりに挑む信者は分かるとして、商売のためにガルグ=マクをわざわざ訪れる商人も多く、各国の主要都市から離れているというのに人の流れは活発な場所だった。

 そんなガルグ=マクを一つの都市として見てみると、不思議なほど恵まれた町なのが分かる。

 政情が不安定な王国。

 共同体と言いつつ貴族同士の力関係に左右される同盟。

 近年あった政変で権勢が崩れた帝国。

 そういうフォドラの乱れた空気とは裏腹にガルグ=マクばかりが豊かに栄え、引いてはそこを拠点にして各地域に手を伸ばしたセイロス教団がますます影響力を増していたのが五年前までの現状である。

 

 加えて言えば、宗教団体であるにも関わらず独自の騎士団を抱え、さらにその騎士団がフォドラ最強と謳われるほど精強なのもよくよく考えたらおかしい。

 セイロス騎士団が大陸の守護者として治安に貢献しているのは平民でも知っていることだ。しかしながら本来その役目は各国の軍が担うべきもので、信仰どころか戦力までもが一ヶ所に集中されていたのだ。

 

 もしこれが教団が意図して作り出した状況だと言うなら、欲望のために教義を利用したという文面は合っている。

 まるでこの現状が歪んでいるとして正すために戦いを挑んだ帝国に正義があるような物言いだ。

 

 なので戦いを挑む動機は理解できなくもないのだが……文面をよく見てほしい。

 セイロス教団との開戦を宣言する、とある。セイロス教を異端として弾圧するとか帝国内から撤廃するとかではなく、教団と戦うと書いてある。

 つまり、セイロス教の教義そのものは否定していない。むしろそれを不当に利用している教団を許さないとして、正しい教義と信仰を守るために戦うとしているのだ。

 

 エーデルガルトはセイロス教を認めていないのではないのか?

 教義は否定していないなら、何故平民の信者などの一般人が生活するガルグ=マクごと攻め落とそうとした?

 フォドラ全土の統一を目的としているなら、セイロス教を否定することで自身を神格化させられる絶好の機会だろうに、狙いは他にある?

 その辺りが分からない。

 

 二つ目に、『皇帝エーデルガルトの名において』の部分。

 

 帝国は大きい。領土は広く、力は強大、国家としての影響力は頭一つ抜けている。

 そんな帝国を背負って立つエーデルガルトがセイロス教団というフォドラ中に信仰を根付かせた組織に戦いを挑もうというのに、帝国の威光を使わない理由がない。

 だと言うのに、こういう正式な文書のどこにもそういう文言がないのである。

 

 五年前のガルグ=マクを強襲した手勢を見たところ、エーデルガルトが率いるのは明らかに帝国軍だけではない。聖墓に突如出現したり市街で暴れたりした魔獣から分かるように、謎の組織との繋がりがある。

 それは以前からフォドラを騒がせていた事件との関連を匂わせる。ガルグ=マク近辺に起きた事だけでも、聖廟襲撃、フレン誘拐、ルミール村の惨劇、そしてジェラルトの殺害。多くの事件の黒幕が関わっているのではないか。

 

 エーデルガルトが何を目指しているかは知らないが、ガルグ=マクを襲うなどという暴挙に及ぶからには目的のためなら手段を選ぶ性格ではないのは間違いなく、その組織から支援を受けていることは明白。

 そうまでしてセイロス教団に戦いを挑んだエーデルガルトが、である。

 今さら帝国の権威を語ることを躊躇うだろうか?

 公文書になく、その後の布告にもそれらしき文面はない。このままでは歴史に残る資料には皇帝一人だけが矢面に立ったように記されるだろう。

 これではまるでエーデルガルトが責任も悪意も全て自分一人で背負い込もうとしているみたいではないか。

 

 何故エーデルガルトがガルグ=マク襲撃に踏み切ったか。

 帝国を率いておきながら何故自分だけを前面に立たせる姿勢を取ったのか。

 真意を探ろうにも敵対関係になった帝国とは使者を送ったりもできず(一応他国を探る『草』を密かに潜らせてはいるが)推察する以上は何も分からないまま五年が経過して今に至る。

 

 さて、そんな帝国とエーデルガルトだが。

 

 五年前から今に至るまで帝国内の動きを見てみれば驚かされる。

 帝国軍による領地巡回。それによる治安回復。

 軍需以外でも経済活動の活性化。

 街道の整備、及び各都市間の連絡網の確立。

 とても戦時中とは思えないほど帝国内の状況が改善しているのだ。

 

 普通、戦争なんていう緊張下に置かれれば人々は委縮し、軍事関係を除いて多くの分野でその動きは鈍くなるもの。

 そうならないのは、その国は常に緊張下なのが当たり前であるくらい余所に戦争を仕掛けていて平民がその状態に慣れてしまっているからか、あるいは……例え他国との戦争が続いていても平民が大丈夫だと思い変わらず日々を過ごせるくらい国家を信じているからか、どちらかだ。

 国内でいくつか乱が起きた事はあれど、国と国がぶつかる戦争は数百年起きていないフォドラを思えば、今の帝国は恐らく後者。

 不安が生まれても、エーデルガルトの実力とカリスマがそれらを抑え込んでいると見た。大したものである。

 

 実際に調べた帝国内の動きを考えれば一目瞭然。

 それまでは各地の貴族に任せきりにしていた領地の運営に皇帝が手を出し、端々にその影響を広げているのだ。

 かつて七貴族の変で切り崩された中央集権体制を復活させたようなもので、エーデルガルトの力に裏打ちされた仕組みは上手く働いており、戦時下でも帝国内の気風は強いままだ。

 特に大きいのが帝国西部のヌーヴェル領とそこにある港を復興させたこと。海を隔てたブリギット諸島との連携が密になり、ブリギットの姫であるペトラの積極的な協力もあって今では兵力の派遣まで叶い、疑似的に帝国の国力が強まったことになる。

 

 同盟との戦線を押し込まれたこともあったが、それだって現在の状況が整う前に行われた一度の戦闘で不意を打たれただけであり、以後はベルグリーズ伯を中心とした名だたる将が留めている。

 帝国内の情勢が整っていくのに比例して防衛の力も増しているのだから同じことはもう起こらないだろう。

 

 そしてついに帝国は動き出す。

 1185年、星辰の節。本来なら千年祭が執り行われただろう時に合わせるようにガルグ=マクへと進軍する。

 来たか──察知した者は誰もが思った。

 五年も続いた状況を打ち破るため、エーデルガルトが本格的に動き出したのだ。

 

 フォドラの中心に位置するガルグ=マクを抑えれば王国にも同盟にも対応できる。前線拠点としては申し分ない立地であり、東西の戦線維持のために一度は手放してもこうしてまた抑えに行くのは当然だったのだろう。

 王国も同盟もセイロス教団さえも荒れ果てたガルグ=マクに手を伸ばす余裕がない中、帝国だけは悠々を二度目の制圧を果たしてみせた。

 長い間塞がれていた帝国とガルグ=マクを繋ぐ直通の道を整えたのもこのためだったのか。戦時中にも関わらず国力の差を見せつけられたみたいだ。

 

 ここからいよいよ決戦が始まるのか。フォドラを平定する戦争、終わりの始まり。

 俄かに緊張が高まり……しかし、拍子抜けする事態になった。

 帝国は、エーデルガルトは何を考えたのか、制圧したガルグ=マクをなんと一般向けに開放。交通の要衝としてだけでなく、セイロス教の本拠地としても守護することを宣言。

 しかもこの地の守りを任せるのに充分な兵を残して軍を退かせたのだ。

 ──なんで?

 それまでのエーデルガルトの姿勢からは考えられない動きに誰もが困惑した。

 帝国の最高戦力と言われる黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)までガルグ=マクに招集し、確かに戦闘の準備を進めていたにも関わらずこれである。

 

 困惑は止まらない。

 軍を退かせたエーデルガルトは帝都アンヴァルに帰還するのではなく、その足で帝国内を練り歩く。衆目にその姿を晒し、多くの民に直接語り掛けたのだ。

 

≪信仰と税を貪り、民を欺いてきた偽りの支配者が去って久しい≫

≪古の昔、聖者セイロスより加護を授かったフレスベルグ家の末裔として≫

≪あるべき信仰が歪められていくかつての教団を見過ごすことはできなかった≫

≪そして今、ガルグ=マクは新しく生まれ変わり、全ての人々に門を開いた≫

≪未来へ進むため、心の支えを求める敬虔な民を教団が欺き続けるのなら≫

≪正しき教義を信じる全ての者のため、まずは帝国がその背を押そう≫

≪いつか自らを立てる力を得た時、信仰ではなく人の手で次の世代を導くため≫

≪故に、アドラステア皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグの名において≫

≪ここに真なるセイロス教の復権を宣言する≫

 

 ──いやなんで!?

 まさかの皇帝直々の布告、何よりその内容に民は仰天した。

 

 驚天動地の出来事である。

 ガルグ=マクの再生とセイロス教の復権。どちらもエーデルガルトなら絶対にやらなかったはずの動きだ。ガルグ=マクまでの直通の道を作り、軍を出して制圧したのは戦争のためではなかったと誰が思えただろう。

 

 まず、エーデルガルトがセイロス教を嫌っていたというのはそもそも風聞でしかなかったのが明らかになった。むしろこの声明からして彼女自身がセイロス教の敬虔な信者だとも言える。

 嫌っているように思えたのは、人々の心にはかつてのセイロス教団の方針が全てだという先入観があったからで、それに反旗を翻したエーデルガルトが反逆者に見えたからだ。

 いや、反逆したのは間違いではないだろうが……エーデルガルトなりの考えがあったのだと分かる。

 

 セイロス教団とそのトップの大司教レアのやり方を見ると、一見すれば民に慈悲深いようで僅かでも許容範囲から外れてしまえば速やかに断罪するという、言ってしまえば狭量な姿勢が窺える。

 分かりやすい例が五年前のロナート卿の反乱だ。当時の黒鷲の学級(アドラークラッセ)が課題として鎮圧に参加したこの事件、ロナート卿を捕縛もせず迎え撃ったその場で討伐した。主に刃を向けた愚か者であると断じられたのだが、反乱の原因を探りもせず、蜂起に至った背景を洗いもせず、教団の思想を無理やり押し通しただけの形に終わった。

 王国の領主であるロナート卿にセイロス教団が断罪を下した。それは見方を変えれば、国に属する貴族の処遇を宗教団体が独断で裁くという武力干渉である。

 反乱などと暴挙に及んだ者を捕縛するのは無理があるという意見もあるだろうが、その鎮圧だって【雷霆】のカトリーヌに加えて【灰色の悪魔】ベレトなんて特級戦力を二人も揃えたのだから決して不可能ではなかったはず。

 なのに、士官学校の学級課題として当たらせることで生徒という足手まといを同行させて余裕を奪い、討伐という形に落ち着かせたのだ。

 そうして主に逆らったという名目で自分の意に沿わない者は全て滅ぼすレアの姿勢が浮き彫りになる。これでは女狐呼ばわりもむべなるかな。

 

 エーデルガルトはそれが許せなかったのではないだろうか。

 教団が定めた教義を声高に謳えば一方的に裁いていいのか。主とやらを盾にすれば何をやってもいいのか。そんなもの、個人の好みでフォドラを勝手に弄る横暴だ。

 セテスのように現状に不満を持っている者も教団内にはいたらしいが、行動に移さなければ何もしていないのと同じこと。

 変えるためには誰かが立ち上がらなければならなかった。それがたまたまエーデルガルトだっただけのこと。

 

 しかしながらガルグ=マク襲撃という強引な手段に及んだエーデルガルトがこうも懐の深さを見せつける動きを取るだろうか。

 エーデルガルトと言えば皇女だった時から威圧的、上から目線、頑固、等の悪い言い方をすれば独善的な人物だった。そんな彼女が民が心の支えとして求める宗教を支援し、弱者に理解を示すような方策を打ち出すものか。

 ここに至るまでの背後に、ある人物の影を感じざるを得ない。

 

「お前なのか、きょうだい……」

 

 同盟の盟主、リーガン家が居を構える水上都市デアドラ。そこに建つ館の一室でクロードは小さく呟く。

 執務用の机に足を乗せ、行儀悪く椅子を傾ける彼は何とも言い表せない表情だ。

 

 自分がこうと決めたら他を受け付けないエーデルガルトの頑固さは士官学校にいた時から知っている。ガルグ=マク襲撃の最中に対峙した時の様子を思えば今でもそう変わっていまい。

 星辰の節の末から始まった帝国の不可解な動きは、何度考えてもエーデルガルトが自分で決められたものとは思えない。側近のヒューベルトの線も薄いだろう。

 間違いなく彼女に助言した人物がいる。そして、あのエーデルガルトが即座に行動に表せるほど素直に意見を聞き入れる相手と言えば一人しかいない。

 

 守護の節の間、続々と集まる情報の中にそうと思わしき人物が見える。

 翠の髪。翠の瞳。黒衣に身を包んだ細身の男。

 ガルグ=マクで見たと思えば、翌日には帝都アンヴァルに現れ。

 軍の訓練に加わったはずが、遠く離れた領地で平民に混じり土を耕していたり。

 それまで一切目撃情報がなかったのに、帝国各地で急にその姿が散見されるようになったのだ。

 

 まるで分身でもしているかのようにあちこちで目撃され、相次ぐ情報に振り回されているのは受け取る自分だけではないだろう。

 同盟から帝国に送り込んだ『草』の方がこんな情報を寄こすことに困惑しているかもしれない。

 

(まあでもあの人だったらこんな変な動きをしてても納得しそうになるんだよな~)

 

 たははと乾いた笑いを漏らす。

 持っていた紙を机に放って頭の後ろで手を組んだクロードが考えるのは当然、渦中の人物……脳裏に浮かぶのは集められた情報が示した通りの姿だった。

 

 帰ってきたのか。あの人が。

 五年前の戦いで行方を眩ませて以来、フォドラのどこにも姿を現さなかったのに。

 今年の星辰の節はガルグ=マクの千年祭が執り行われるはずだった。それに合わせるように現れて、再びエーデルガルトに力を貸すようになったのか。

 決戦に踏み切ろうとしていた皇帝を説き伏せ、より良い未来へと導く賢者の如く。

 

「はー、考えること多くて疲れるわ……休憩すっかね」

「ほら、紅茶」

「お、ありがとな。東方の着香茶とは分かってるじゃん」

「君が好きなやつだろ。久しぶりに淹れたけど上手くできたかな」

「いい感じだよ。俺の舌はそこまで上等じゃないから気にし過ぎんなって」

「それならよかった」

「ん、いいね。あえてぬるめの紅茶ってのも落ち着くよ」

「疲れてる時にはわざとぬるく淹れるのもやり方の一つ。君が教えてくれたよな」

「そんなこと言ったか?」

「紅茶は熱いものだと思ってたから聞いた時は驚いた。新鮮だったから覚えてる」

「そうかい」

「ああ」

「…………」

「…………」

「ふ~……」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………っぷろあ!?!?!?」

 

 変な声と共に思い切り噴き出してしまった。

 反射的に首を捻って横を向けたので、噴き出した紅茶を机周りの書類に浴びせることは辛うじて回避できた。

 

「ぶっふぇ! えっほ! げほっげほっ!」

 

 咽てなかなか収まらない咳をしながら、クロードは何とか視線をそちらに向ける。

 その声と、自然体の立ち姿。長く見ていなくても記憶から薄れることはなかった懐かしい相手。

 

「けほっ…………先生?」

「久しぶりだな、クロード」

 

 ちゃっかり自分が持つカップにも紅茶を注ぎながら柔らかく微笑むベレトがそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 席を執務机から応接用のテーブルに移して。

 ぬるい紅茶と一緒に盤面遊戯を挟んでクロードとベレトは向かい合っていた。

 

「しっかしまあ、全然変わってないなあんた」

「眠ってる間に体が勝手に変わってなくてよかった」

「五年もねえ……こっちとしちゃ少しホッとする気分だが」

「クロードはかっこよくなったな」

「お、そう見えるか? 見てくれも大事な武器だし気を遣ってるんだぜ」

「髭は、ちょっと違和感があるかも」

「渋いだろ?」

「単純に俺が見慣れてないだけか」

「まあ俺も盟主としてはまだ若いし、貫禄が身に付くのはもうちょい先の話かね」

 

 互いに長く間を置かずリズムよく駒を動かしていく。雑談を交わしながらでもその手付きは慣れたものだった。

 

 指揮を得意とするクロードは士官学校にいた時からこういう盤面遊戯でも優れた指し手であり、級友相手に連勝を重ねるほどだった。ディミトリとエーデルガルトを同時に相手取って勝ったこともある。

 そんなクロードに好敵手としての手腕を見せたのがベレト。

 傭兵だった彼はこの手の遊戯に馴染みがないかと思いきや、ジェラルト傭兵団の中でよく賭け勝負をして腕を磨いていたらしく、戦場での知謀も相まってかなりの腕前だった。

 五年前に茶会の席などで勝負を持ちかけると中庭の一角に見物人が集まるくらい白熱した一戦を繰り広げたことも多く、その勝敗は一進一退といった具合に当時は実力が釣り合っていた。

 

 懐かしさも感じる中、対面のベレトを見るクロードは思考を深める。

 

(見た目は変わってない……だが、本当にあの先生なのか?)

 

 驚愕を落ち着けてこうして向き合うことにしたが、疑わしさ極まる相手だ。

 盟主の館だけあって警備はそれなりに厳重なはずなのに、自分の下まで侵入を果たしたベレトは紛れもない不審者である。

 

 先刻、噴き出した紅茶で濡れた口元を拭うクロードに向けてベレトが差し出したのは一通の書簡。受け取り、頭の混乱を抑えながら目を通したそれはアドラステア皇帝エーデルガルトから送られた親書だった。

 暢気に自分の紅茶を飲むベレトを見て衛兵を呼ぶ気にもなれないまま、親書を読み進めていく内にクロードの頬は釣り上がっていった。書かれていた内容が想像を絶していたのだから。

 

 公的な言葉を連ねた部分を除いて要約すると、書かれていたのは大きく二つ。

 一つは、戦争という本来であれば交渉における最終手段にいきなり及び、生む必要がなかったかもしれない犠牲を生んだことへの謝意。

 もう一つは、これ以上必要ない犠牲を生まないためにも早期の停戦を求め、同盟の盟主として皇帝との会談に応じてほしいという要望。

 

 ──やりやがったこいつ!!

 親書からベレトへ目を移したクロードは胸の内で喝采を上げた。

 

 公にせず内密に渡す文書とは言え、あのエーデルガルトが自分の非を謝罪する文を(したた)めるなんてこれまでの彼女を思えば絶対にありえないことだ。

 ヒューベルト以外の誰にも明かさないまま聖墓を襲い、ガルグ=マク襲撃も強行したエーデルガルト。一度決めて走り出したら止まらないし譲らない性格なのは分かっていた。

 そのエーデルガルトを何の打算もなく助けたベレトだからこそ、彼女も信頼して何かしらの意見を聞き入れて姿勢を変えたのだろう。

 そう、変えたのだ。変えられないだろうと誰もが思っていたものをベレトは変えてみせた。それはこのフォドラの、世界の運命を変えたと言っても過言ではない大きな変革である。

 一人の個人が世界を変える。英雄と称するに相応しい所業を感じ、クロードは感銘に胸を震わせたのだ。

 

 あんたがエーデルガルトじゃなくて俺を選んでくれりゃあな──思わず口を突いて出そうになった言葉を呑み込む。たらればを語っても意味はない。一度はきょうだいと呼んだ仲でも、今はもう相容れない立場になってしまったから。

 

 そうして意識をできるだけフラットにして改めてベレトを見て、ふと疑問に思う。彼はこんな人間だっただろうか?

 落ち着くまでの時間稼ぎのために持ちかけた盤面遊戯に付き合ってくれるベレトは見た目こそ五年前のままだが、行動の質が変わっている気がしてならない。

 

 ベレト=アイスナーと言えば真面目な人間だと記憶している。世間知らず故の天然気味な性格ではあるが、基本的に誠実な人柄だ。だからこそ曲者揃いの士官学校でも生徒達から受け入れられたのだ。

 そんなベレトが皇帝の親書を届けるという公的な任務を帯びた身で、盟主の館に忍び込むなんて危険な行動を取るか?

 当の盟主のクロードが知己であり、名より実を選ぶ人間だからこうして受け取れただけで、本来なら捕らえられてその場で首を刎ねられても文句は言えない暴挙だ。かつてのベレトがこんな行動に出るとは思えない。

 今し方、あの戦いから五年間眠り続けていたとは聞いた。崖から落とされてずっと意識がないまま五年が過ぎ、クロードが想像した通り千年祭に合わせるように目覚めたのだと。

 つまりベレトの意識の上では五年分の空白があり、彼からすればあの戦いがあったのはつい最近のようなものである。性格が変わるような時間などなかったはず。

 先ほど悪戯めいたやり方で声をかけて驚かせ、勝手に紅茶を淹れる茶目っ気まで見せた姿がどうしても五年前の彼と重ならないのだ。

 

 それでも、次に動かす駒を考えるベレトを目の前にすれば認めざるを得ない。

 

「やっぱり変わったな、あんた」

「そうか? なら嬉しい。俺も少しは成長できていることになる」

 

 思わず出た感想を聞いて表情を綻ばせるベレト。

 彼の笑顔を見ると諦めたはずなのに諦められなくなりそうで、クロードは苦笑してしまった。

 

「それで、親書は読んだんだろ?」

「ああ、目は通したよ」

「どうだろう。エーデルガルトに応じてくれないか?」

 

 駒を動かしてベレトは訊ねる。

 盟主の館に侵入までして届けた親書。皇帝の使者として渡したそれに対する返事を聞かねばならない。

 

 エーデルガルトが目指しているものは先ほどクロードに説明した。紋章至上主義という常識の破壊。神から与えられた力による支配を脱し、人の手による世界を作り出すこと。全ての人々の未来のため、まずはその基礎を固める。

 帝国の方針を変えたのはやはりベレトだったと本人の口から語られた。星辰の節に目覚めた彼が再会を果たしたエーデルガルトを説得し、そこから帝国が見せた動きは先述した通りである。

 

 もう無為に戦いに走る帝国ではない。君もエーデルガルトに協力してくれないか。そう問うた。

 

「そうだね~」

「……」

「まあ……ない、な」

「……そうか」

 

 クロードの軽い返事に、ベレト短く返した。

 

 当たり前と言えば当たり前のことだ。

 都合が良い。その一言に尽きた。

 

 そもそもこの五年に渡る戦争は帝国が、エーデルガルトが始めたものだ。教団も同盟も王国も、それに応じて戦っているだけ。

 そっちが始めた喧嘩をそっちの都合で終わらせようだなんて、そりゃ虫が良すぎる話じゃない?

 同盟の盟主としても、野望を台無しにされた個人としても、そう簡単に頷くわけにはいかないのである。

 

「却下されるのが分かっていた提案だろ?」

「まあ、エーデルガルトのやってきたことを思えば虫の良い話だろう。それでも俺は同盟の盟主クロードに、そこを曲げてでも応じてくれないかと聞きに来たんだ」

「俺に頷いてもらえる勝算があったってことか、そりゃどうして?」

「五年前に君が話してくれた野望は、エーデルガルトの目指しているものとそう大きく変わらないと思ったからだ」

 

 かつての士官学校でクロードは金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)の級長でありながら黒鷲の学級(アドラークラッセ)の担任であるベレトをいたく気に入り、早くから彼と関わりに来ていた。学級の垣根など知らぬとばかりに声をかけ、ベレトも次第にクロードに応じるようになった。

 そうして交流を重ねていく中でクロードは自身の猜疑心を上回るほどの興味と期待をベレトに寄せるようになり、彼に伝えたのだ。

 

『なあ先生。俺はいつか、フォドラの中と外を分かつ壁をぶっ壊したい』

『狭苦しい常識だの価値観だのに縛られるから無用な争いが生まれるのさ』

『繋がりを育むのに、生まれも血も関係ないはずなんだ』

『邪魔な壁を取っ払った広い景色を見たい……それが俺の野望』

『いつか、あんたと一緒に見たいもんだぜ、きょうだい』

 

 血は繋がらずとも心は繋げられる。

 腹を割って話せば意気投合できるかもしれない。

 それはやってみなければ分からないこと。

 なのにフォドラの人間は壁の内に閉じこもって外を見ようとしない。

 そんなの、もったいないじゃないか。

 

 フォドラの常識に捉われないクロードは笑いながら語ったのだ。難しいことではない。ただ一歩踏み出せばいいだけ。そのための風穴を俺が開けてやる、と。

 話のスケールが大きかったからか、最初に聞いた時はベレトも漠然と受け止めるだけだったが、後になって思い返すとクロードの狙いはフォドラの全てを塗り替える壮大な野望だと分かった。

 そしてそれは、エーデルガルトほど過激ではないにしろ、フォドラの常識の破壊と称しても過言ではない内容だと気付く。

 

 であるならば。

 二人は協力できるんじゃないか?

 一部分だけでも道を重ねられれば同じ未来を目指せるんじゃないか?

 

 エーデルガルトとクロード、二人の意思を知る自分なら両者の橋渡しができるのではないか。

 使命感に燃えるベレトがこうして同盟への使者の役を買って出て、今に至る。

 

「だとすれば、こうやって忍び込んできたのは悪手じゃないか? あんたが政治に疎いのは分かるが、俺がこのことを公表しちまえば帝国への心証はどうしたって悪くなる。まあ正面から面会を申し出たところで通してもらえたかはあやしいが……」

 

 和睦を願うなら心証を損ねてはいけないだろう。盟主の館に侵入するなど明らかな悪手ではないか。

 傭兵出身のベレトが政治的感覚に疎いにしても、彼は決して馬鹿ではない。視野の広さで言えば並の官僚以上だろうに、その程度のことを考えられなかったとは思いにくい。

 

 そう訊ねたクロードにベレトは簡潔に応えた。

 

「俺としては、クロードに対する誠意のつもりだよ」

「どういうことだ?」

「今ここで俺を始末してしまえば全てなかったことにできる、ということさ」

「……っ!」

 

 ベレトの覚悟の程を感じ取り、息を呑む。

 彼は文字通り、命を懸けてクロードとの絆を信じたのだ。

 

 見た時から分かっていた。ベレトは武装していない。天帝の剣も、普通の鉄の剣はおろか、腰の短剣すら外している。今の彼は丸腰だ。

 無論、彼が素手でも戦える実力者なのは知っている。しかし素手のみで向かう戦場などありえないと士官学校で教えた彼が完全な非武装でクロードの前に姿を現したという事実が、その発言を確かなものとしていた。

 

(ああ、もう……あんたって人は!)

 

 例え道を違えたとしても、この絆を信じれば再び会える。

 そんな願いを込めて呼んだきょうだいの縁をベレトは今でも信じているのか。

 

 クロードは自分が人たらしだという自覚がある。

 他人と関わる中で話術だったり距離感だったり様々な手段で相手の懐に入り、その関係を良いものにしたり、または意識を誘導したりなどしてきた。盟主となってからもそうやって同盟を制御してきたものだ。

 それは彼が今まで身に付けてきた手練手管、彼なりの努力の賜物である。

 

 だがベレトは違う。

 純粋な本心から生まれた言葉と態度はこんなにも心を揺さぶるのか。

 傾国の美女なんていう言葉があるが、性別が男だというだけでベレトは間違いなく国を傾けるに足る存在だと言えよう。

 

 ベレトから()()を向けられているエーデルガルトはさぞかし振り回されていることだろうな、とほんの少しだけ彼女を気の毒に思うクロードであった。

 

「君から要望があれば俺からもエーデルガルトを納得させておく。妥協できる部分を話し合うためにも帝国との会談に──」

「待て待て先生。今すぐ同盟全体の答えを出すことはできない」

「……すまない、急かせてしまったな」

「一応、各諸侯による共同体っていうのが同盟としての体裁なんだ。議会を通さないまま俺の一存で決めるわけにはいかない。悪いがしばらく時間をくれ」

「分かった」

「ただまあ、会談に応じる形になるように俺も何とか調整してみせるさ」

「いいのか?」

「そこは俺の腕の見せ所ってね。俺の口の上手さは知ってるだろ?」

「そうじゃなくて」

「どうした」

「クロードはエーデルガルトの話に応じる気があるのか? 今の言いぶりだと君自身は前からそういうことを考えていたように聞こえた」

「あーっと……そこは、あんたに対して筋を通す意味でってところかな」

 

 意外そうな表情をするベレトに肩をすくめてみせる。そんなことができるのもこうして命があるからこそだ。

 

 そもそもの話をするなら、謀略と戦略を得意とするクロードにとって、ベレトほどの実力者にこうして侵入を許してしまった時点で敗北にも等しい状況なのだ。

 ベレトとて丸腰のまま館の衛兵一同に囲まれてしまえばただでは済まない(いやまあ彼なら切り抜けてしまうかもしれない)が、今この部屋で一対一で戦うことになれば同じく武装していないクロードに勝ち目はないだろう。五年前より成長していても戦闘力でベレトを超えたと思うほど自惚れていない。

 そうして盟主を暗殺されてしまえばその時点で同盟の敗北なのである。侵入を果たしたベレトが暗殺者として来たのではなく親書を届ける使者として対話を望んでくれたことでむしろクロードは助かっており、実は内心でヒヤヒヤしているのだ。

 

 この下りも議会で説明しないわけにはいかないと思うと頭が痛くなるが、黙したままでは話が進まない。

 盟主が危機に陥ったことを、多くの諸侯は警備体制を含む不手際としてあげつらい糾弾するだろう。帝国との戦線で長い間拮抗しているからと、帝国と渡り合えていると高を括っている者からすれば今回の件はクロードをこき下ろす良い機会なのだ。

 そういう謗りは甘んじて受けるとして、この敗北同然の状況に追い込まれた同盟が帝国から温情を与えられたことを理解できないほど愚かではない諸侯達を説得して、会談に備えるのがクロードが今からやらなくてはいけないことだ。

 

「とにかく、エーデルガルトの呼びかけに応じてくれるなら俺も助かる。よろしく」

「おう。両国間のやり取りなんて久しぶりになるからやり甲斐があるってものさ。何とかしてみせるよ」

 

 張り切るところなのか、やる気を見せるクロード。彼が会談に対して前向きなのが分かり、ベレトは安心できたようだ。

 目的である会談の予約が叶って使者の役割は果たせたと言える。

 

 ただ、話はそこで終わらない。

 

「ところで先生、話は変わるんだが」

「何だ」

王手(チェック)

「……え?」

 

 コツリと動かした駒と共にクロードがした宣言に、盤面へ目を落としたベレトが気付いた時には勝敗は決していた。

 何かを賭けていたのではなく、本気でやったわけでもない。会話の中の空いた思考で行われた、言わば手慰み代わりに行われた勝負。

 目を走らせたベレトはすぐに察した。

 

(詰んでいる……)

 

 いつの間にか誘導されている。逃げ道を塞がれている。追い込まれている。

 完膚なきまでの敗北だ。

 

「あんたさっき言ってたよな。五年前から勝手に成長してなくてよかったって。俺もそう思うよ」

「どういう意味だ?」

「実力も五年前と変わってないそのままってことさ」

 

 冷めた紅茶を飲み干してクロードは不敵に笑う。

 

「腕っ節はともかく、頭の切れは今は俺の方が上みたいだな」

 

 同盟の若き盟主、クロード=フォン=リーガン。

 (いただ)く二つ名は【卓上の鬼神】。

 頭脳を戦わせれば負け知らず。知謀において右に出る者なし。

 盤面の勝負では【灰色の悪魔】を下すほどの力を身に付けたのである。

 

 その威圧を感じてベレトは納得したように頷いた。

 

「そうだな」

「って、言い返さないのかよ! あっさり認めるのな」

「目の前に勝敗が示されてるんだからクロードの方が上だろう?」

「いやまあそうだけどよ……所詮こんなの盤面の遊びだ。実際の戦場であんたがどれだけ怖い存在なのかは分かってるって」

 

 すぐに威圧を引っ込めたクロードは肩をすくめる。勝ち誇ってみせたのはポーズでしかなく、こんなことでベレトに勝った気にはなれない。

 強いて言えば、侵入したベレトがクロードを襲わなかったおかげで命拾いしたことと合わせて、とりあえず一勝一敗のイーブンに持ち込めたぞという意趣返しの意味があったくらいか。

 

 まあとにかく、遊戯の決着は同時に対話も終わりだという合図にもなったわけで。

 それを察したベレトは自分の紅茶を飲み干し、カップを置いて立ち上がる。

 

「じゃあ俺はそろそろ行くよ」

「あいよ。折を見て同盟からも使者を送るから、ちゃんと招き入れるようにエーデルガルトに伝えといてくれ」

「分かった。待ってる」

 

 そそくさと窓へ(扉ではなく窓から侵入したのか)近付くベレトを見送る。

 

 やれやれと内心で呟く。突然現れたベレトによって目を白黒させられる思いをしたが、終わってみれば得るものは多い再会だった。

 何よりエーデルガルトの真意を知れたことは大きい。恐らく彼女はずっと前からかつてのフォドラを憂いていたのだろう。状況を変えるには戦争という強引な手段に及ぶしかないと考えていたが、ベレトによって考えを改め、今では穏やかな道を選べるならそれに越したことはないと考えられるくらいには落ち着けたか。

 

 さーて忙しくなるぞと考えていると、窓枠に手を掛けたまま動きを止めたベレトが目に映った。

 去るのではなかったのか。その背中を見やるクロードの前でベレトはおもむろに振り返る。

 

「クロード」

「なんだ?」

「君に野望があるように、俺にも目指しているものがある。野望と呼べるほど壮大なものじゃないけど、俺にも願望があるんだ」

 

 唐突に話し始めたベレトが振り向いた。クロードを見つめるその表情は──

 

「君の言葉を借りれば、俺にも見たい景色があるということだ。その景色を見るためには君の存在も不可欠なんだよ」

 

 ──微笑んでいた。

 五年前、悪魔と呼ばれるほど感情が見えず無表情でいることが常だったベレトがまるで普通の人間のように……否、それ以上。心から湧く希望をそのままに、力強ささえ感じさせる瞳を向ける。

 

「俺は諦めない。士官学校で過ごしたあの日々のように、また俺達は肩を並べて笑い合えると信じている。だから大丈夫だよ、きょうだい」

 

 そこまで言って踵を返したベレトは窓枠に足を掛けると、跳び上がるように窓から出ていった。ろくな物音も立てずに壁を登ってしまったのか、酷くさっぱりとした去り方である。

 

 部屋に一人残ったクロードは静寂に包まれる。ベレトが現れてからはずっと彼の主導で話が進められて、珍しく振り回された気分だった。

 嫌な気分ではない。最近は部屋にこもりがちだったり議会に奔走したりしていたので、ベレトという突風が吹き抜けた今はどこかすっきりしている。

 

 改めて親書を手に取る。

 エーデルガルトが変わった証。

 ベレトが彼女を変えた証。

 このたった一通の書簡が今後のフォドラを大きく変えていく切欠になるのか。

 

 親書を丸めて執務机に向かって放り投げる。ところが狙いが外れて机を通り越し、その向こうの椅子に当たって床に落ちてしまった。

 すぐ傍の机にも乗せられないほど力加減を誤った手を見る。微かに震えた手。それが如何なる感情によるものか。

 

「ああ、くそっ!」

 

 その場で横になる。盟主の館らしく調度は優れ、床に敷かれたカーペットは昼寝でもできそうなくらいふかふかと心地よい。

 しかし、クロードの気は少しも晴れなかった。

 

 この震えは恐怖ではない。

 興奮とも違う。

 分かるのは、己への怒りと失望。

 

 ──大丈夫だよ、きょうだい。

 

「俺は、もう……あんたをきょうだいとは呼べない……!」

 

 ベレトが現れて、自分は何を考えた。

 暗殺者じゃなくてよかった? 頭の切れは自分の方が上?

 そうじゃないだろう!

 

 何故、再会を喜べなかった。

 何故、彼を歓迎できなかった。

 握手なり抱擁なり、するべきことがあったじゃないか。

 生きていてよかったと何故言えなかった。

 

 エーデルガルトに味方したベレトはもう敵だから?

 一度思惑から外れた動きをしただけで切り捨ててしまうなら何のためのきょうだい呼びだ。

 彼を見極めようと長い時間をかけて友誼を深めたのは何のためだ。

 

 頭の中で回る怒りを払うように床を叩く。

 過去に戻ることはできない。今の自分は同盟の盟主として動かなければいけない身だ。すぐにでも各諸侯に呼びかけて議会を開かなくてはいけない。

 根回しすることを考えて先んじて話を通しておかなくては。同盟としては対帝国の意見が多い今、ベレトと約束した通り帝国との会談に応じる方向へ話を持っていくためにも……

 

 そこまで考えてクロードは勢いよく体を起こす。

 ここに現れて去ったベレトは五年前と変わらない姿だった。体が成長したこともなく、本人曰く女神の心だったという少女と融合して髪も瞳も翠色に変わったあの姿のまま。

 思い立ったことを確かめるべく部屋を飛び出した。

 廊下を走り、階段を駆け下り、庭を突っ切って館に併設された厩舎に飛び込む。

 勢いよく扉を開けた中で、反応したものがゆるりと首を巡らせたのを見たクロードは小さく笑みを浮かべた。

 

 女神の加護を授かったにも等しいベレトが近くに現れても、それに全く反応した様子が見られない己の相棒を認めて彼は思う。

 

(いいぜ、先生……あんたが何を考えているにしても、今はもう相容れないんだ。俺は俺でやらせてもらうよ。自分の野望を諦めてないのはお互い様だ。戦うことになったとしても恨みっこなしだからな)

 

 会談と、その先の未来を見据えて野望の寵児は笑う。

 激動のフォドラで、彼もまた時代を動かすに足る器故に。




 エーデルガルトの政策や方針はここでクロードに伝えました。
 長くなったのでまた分けます。後編へ続く。

作者の活動報告に載せた後書き


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未来と戦、備えて鍛えて 後編

 詰め込み過ぎた。
 場面を同盟から帝国に移して続きます。


「そんな感じでクロードに会えて、会談には前向きに応じる形で動いてくれることになった」

 

 心臓に悪い──ベレトから報告を受けたエーデルガルトとヒューベルトの偽らざる本音である。

 戦線も、ミルディン大橋も、グロスタール領も、間にあるものを全てこっそり通り抜けたベレトが皇帝の親書を携えて盟主の下へ侵入を果たした。帰還した彼からそう報告を聞いて、何もそこまで無茶しなくてもと突っ込みたくなったものだ。

 

「と、とにかく(せんせい)が無事に帰ってきてよかったわ」

「クロードに会いに行くと言い出した時はどうなることかと思いましたが……」

 

 ガルグ=マクに帰ってきたベレトが意気揚々としてきた報告を聞いて二人揃って安堵に肩を落とす。

 再会して早々にベレトを失うようなことになってしまえば……考えたくもないが、目も当てられないことになるだろう。特にエーデルガルトの精神に今度こそ致命的な罅が入っていたかもしれないのだ。

 今回の提案をしたベレトがやけに自信に満ちていたので押し切られる形で親書を預けたものの、一歩間違えれば全てが終わっていた可能性もあった。受け入れたクロードには感謝しなくては。

 後、ヒューベルトに説教してもらわなくては。誰をって? ベレトを。

 

 エーデルガルト達生徒との再会を果たしたベレトが帝国に力を貸すようになってから既に一節以上経つ。

 この僅か一節で帝国はその方針を大きく変えた。と言ってもそれを詳しく理解している者は少ない。皇帝が直接舵を取っているが故に、詳細を知らないままでも臣下達が一体となって動けるのが今の帝国の強みなのだから。

 それもエーデルガルトのカリスマがあればこそだが、次代の皇帝に任せる前にこの中央集権体制を存分に使わせてもらうことにした。

 

 まず最大の敵とされているセイロス教団に対して。

 五年前にガルグ=マクに攻め入った帝国が敵対するのは当然なのだが、その当然を根本から変えてしまうことにした。

 セイロス教団とは敵対しても、セイロス教のことは味方に付けることにしたのだ。

 と言うより、そもそもエーデルガルトは最初からセイロス教の現状を憂いて行動したのだ、という姿勢を押し出した。

 皇帝エーデルガルトはセイロス教の教義を否定していない。大司教レアの暴力的な善悪論が許せなかっただけ。フレスベルグの血を引く者として教義が歪められていく現状を見過ごすことはできなかった。そんな筋書きを流布して。

 

 敵対していたセイロス教をまるで擁護するような声明を出すことにエーデルガルトもヒューベルトも初めは難色を示した。

 だが、感情に流されて判断を誤ってはいけないとベレトは二人を諭す。

 

 使えそうな『武器』が既に場にあるのなら利用しない手はない。

 フォドラにはセイロス教という人心を味方に付けるのにとても都合の良い宗教があるのだから、それを使って人々から支持を集めればいいのだ。

 それは、かつて士官学校で行われた対抗戦でベレトが立てた作戦のように、わざわざ新しい得物を用意しなくても敵が持っている『武器』を鹵獲して使えばいいじゃないか、という傭兵の思考から生まれた方策だった。

 

 ガルグ=マク復興の理由も同じ。

 元々エーデルガルトがこの地を制圧したのは決戦の前線拠点に使うため。加えて、帝国がフォドラ統一を果たした暁にはガルグ=マクが交通の要地になると見越し、先にこの地を帝国の支配下に置いて流通を活性化させたかったから。山を切り開いて直通の道を作ったのもそのため。

 そこで話をこのようにでっち上げる。

 セイロス教の本拠地が戦争のせいで荒らされたままなのを放置できなかった。アドラステア皇家とセイロス教の遺恨のせいで平民の信者が行き来しにくいままでは信仰の妨げになってしまうから、戦争の平定よりもこの地の解放を先決した。むしろ積極的に奨励したいから道も作った。

 

 いやいやそれって最初に帝国が攻め入ったのが事の元凶じゃん今さらそんなこと言われても信じられないよ、と反応されるのは分かっている。

 そこで役に立つのがベレトの立場。

 ニルヴァーナ。セイロス教団の大司教レアが直々に授けた聖人の称号。

 教団が認めた聖人が今の教団と敵対した帝国に味方する。ご丁寧にベレトの髪と瞳はレアと同じ翠色。目に見えて分かる大司教と同格の姿が皇帝エーデルガルトの傍にいると人々に示せばどうなるか。

 何これどっちが正しいの??? そんな風に困惑せざるを得ない。

 その困惑こそが狙いである。これまでのフォドラで当たり前の価値観とされていた教団一強の情勢、何をするにしても教団の決定ばかりが優先された以前のフォドラではありえなかった困惑こそ欲したのだ。

 

 人は弱い。強い者は極一部のみであり、大多数は弱い。それが前提。

 しかし弱いからこそ考える。目前の事象と状況に迫られて考える者が必ず現れる。弱くても関係ない。人が人である限り、必ず考える。

 そうやって自分で考えて動く者がいる世界こそ、人が人によって立つ世界なのだ。

 

 まあ、状況を示すだけでは選択を迫られても自分から動き出せない弱者の方が圧倒的に多いだろうし、色々と支援してやらなくてはならないのだが……

 

 もちろんこの決定に至るまで、エーデルガルトに葛藤があった。

 何年もかけて準備してきた計画。そのために固めた覚悟。様々なものを翻してしまうのはある種の裏切りになるのでは? 過去の自分の決意をなかったことにしてしまうのでは?

 だとすれば……あの日々は何だったの!? 恐怖と屈辱に耐え、体を、運命を狂わされた私は何のために生き延びたの!?

 ヒューベルトにも見せたことがなかった癇癪を起こし、喚き散らす姿さえ見せた。

 

 それを受け止め、支えたのもやはりベレトだった。

 

『大丈夫だよエーデルガルト。君は自分が思っている以上に強い子だ』

 

 今まで積み上げてきたものが消えるわけではない。これまで自ら選び、鍛え、時には堪え、自分が何者であるかを自分で決めてきたのは間違いなくエーデルガルト本人の強さなのだから。そうやって立つ君の姿が多くの人に影響を与え、様々な繋がりを作ってきた。そんな君を信頼する人がいることを忘れてはいけない。

 

 ともすれば自身を持たざる弱者だと思いがちなエーデルガルトにとって、こうしてかけられたベレトの肯定の言葉は何よりの支えとなった。

 これにより、頑ななエーデルガルトの心に大きな余裕が生まれたのだ。

 

 ベレトはかつて彼が言った通り、エーデルガルトを()()()にしたのである。

 

 そんなこんなで余裕が持てたエーデルガルト。皇帝の威厳は備えたまま表情は明るく、人当たりも穏やかに、纏う雰囲気もどこか柔らかくなっていく。

 そういう変化があった彼女が今まで目を背けていたことに気付くのは自然なこと。

 空き時間にベルナデッタと一緒に花の世話をしたり。

 適当にあしらっていたフェルディナントの決闘を流さず付き合ってやったり。

 同じ王族として並び立つ宣言をするペトラと認め合ったり。

 

 その中でも、リンハルトの

 

『ちょっと面倒臭すぎますよ、貴女って』

 

 と、カスパルの

 

『何でも自分を基準に考えるのがエーデルガルトのよくねえとこだよな』

 

 という発言が彼女の心に突き刺さる。そういう非難の言葉も心に余裕があればこそ素直に受け入れられたのだ。

 

 また、特に彼女を打ちのめしたのはハンネマンとマヌエラの発言だった。

 紋章の研究のためにガルグ=マクから居を移したハンネマンと一緒にマヌエラも帝国に身を寄せた。それまでの縁によりエーデルガルトに重用されることになった二人は能力もあって順調に(たまに喧嘩しながら)活動していた。

 そんな二人にエーデルガルトは訊ねた。紋章の価値とセイロス教の権威を崩そうとしている自分についてきてよかったのかと。

 

『君の野望が我が夢を壊すと? ふむ、それは無用な心配だよエーデルガルト君。我輩は君の思想に強く共感している。だが同時にこうも思う。そう簡単に紋章の影響は消えない……だからこそ我輩は研究を続けているのだよ』

『何て言うのかしらね……主の存在はあたくしにとって心の支えよ。けれど、あたくしの体を支えるのは結局のところあたくし自身、でしょ? 主への感謝とあたくしの人生は別の話だとは考えられない?』

 

 目から鱗が落ちる思いだった。

 紋章を地位の根拠にするのではなく、純粋な力、ただの手段の一つとして考えられる大人がいたのか!

 セイロス教を心の支えとしながら、自らそこを離れて自分の力で生きる決断ができる大人までいたのか!

 

『私って本当に頭が固かったのね……これでは貴族連中と変わらないわ』

 

 こんなこと、少しでも他人の話を聞こうと意識を向けていればもっと早くから知ることができただろうに。今までの自分がどれほど頑なだったか……否、それ以下の視野狭窄だったかを痛感してエーデルガルトは珍しく落ち込んだのである。

 しかし反省した後すぐに動き出し、セイロス教の扱いを含めた帝国の今後の方針を決めた迅速果断は流石と言えるだろう。この立て直しの早さもベレトがいるからかもしれない。

 

 そうして新しい方針を固めて動き出したエーデルガルト。主の奮起する様子に溜息を吐きながらも口元を綻ばせるヒューベルト。それに釣られて気合いを入れ直す仲間達。

 それを見て安心したのか、ベレトは自分の知る情報をエーデルガルトとヒューベルトにどんどん伝えている。

 

 ディミトリとエーデルガルトは義理の姉弟に当たる。『え?』レアも遠い過去に女神の加護を受けたそうだ。『先生と同種の存在ということですか』クロードとは士官学校できょうだいの関係になった。『へぁ? それは知って、あ、えと』大修道院に納めるのに相応しくない書物はアビスの奥にある書庫に送られる。『我々が知らない情報もそこにありそうですな』炎帝が投げた短剣は昔ディミトリがエーデルガルトに贈った物。『わ、や、お』『先生、すみませんがそこまでで』

 

 矢継ぎ早に繰り出された情報に慌てる(?)二人を尻目にベレトは思ったのだ。三国の関係を変える鍵は恐らく自分が握っている。今からでも自分の動き方次第で良い方向に向かわせることは必ずできる。

 仲間達と同じく気合いを入れ直したベレトがエーデルガルトと一緒になって民の前に姿を晒したり、馬やドラゴンを駆って帝国内を東奔西走するなど、自分にできることは片っ端から手を付けた。

 

 そんな風に張り切るベレトが同盟のクロードの下へ向かうまで、実に濃密だったこの一節を振り返ってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝国内で活動する傍ら、ベレトに幾つもの再会があった。

 その一つとしてまず彼らがいる。

 

「「「「「「レト坊ー!!!」」」」」」

「みんな、久し」

「「「「「「今まで何してやがったてめー!!!」」」」」」

「ぶ、んっ」

 

 飛び掛かってきたジェラルト傭兵団の面々に押し潰されるという過激な再会があった。

 そのまま抱き締められたり、胴上げされたり、頬ずりされたり、熱烈な想いをぶつけられたベレトがされるがままだったり、再会の現場となったガルグ=マク大修道院の食堂が一時騒然としたものである。

 

 五年が経ち、ベレトが知るものより歳を取った彼らの顔は見慣れなかったが、態度もあってすぐに誰だか分かったので違和感はなかった。

 同じくらいだったのに明確に年上になったジードやヨニック。

 気苦労と共に顔の皺も増えたガロテやレンバス。

 最年少だった子供から一気に背を伸ばし別人のように成長したダンダ。

 大きな変化はないながらも歳を重ねた印象を受けるドナイなど他の面子。

 ベレトを慕い、家族のような絆を結んだジェラルト傭兵団は今も変わらず彼を受け入れてくれたのだ。

 

 やがて落ち着いた彼らは再びベレトと行動を共にすると宣言した。

 

「あれから俺達はお嬢に雇われる形で帝国から依頼を受けて活動してたんだ。まあ付きっ切りってわけじゃなかったけどよ」

「みんなもエーデルガルトを助けてくれてたのか」

「というか、レト坊をだな」

「俺を?」

「俺達はジェラルトさんの下に集まってできた傭兵団だ。みんなあの人のことが今でも大好きだし、あの人のためにできることって考えたら自然とレト坊のことになってよ。ジェラルトさんが安心できるようにお前の助けになるって決めたのさ」

 

 レンバスが語るには、ジェラルト傭兵団の意思はジェラルトのものであり、例え死んだとしても団の方針は彼の望みに殉じるものにすると全員で決めたのだという。

 そしてジェラルトが気にかけていたのはいつだってベレトのことだと団員は皆知っており、ベレトの助けになるように動こうとして自然と帝国に行くことにした。

 今では皇帝お抱えの傭兵団として活動しているのだ。

 

「そうだったのか……ありがとう。嬉しいよ」

「な、なんだ、えらく素直じゃねえかよ」

 

 頬を緩めるベレトを見て驚く彼らだったが、可愛い坊の良い変化だと感じたのか、みんなで手を伸ばしてベレトの頭をぐりぐりと撫でるのだった。

 

「レト坊はお嬢を守りたいんだろ? なら、お前の意思が俺達の意思だ。これからはお前が正式に俺達の頭だ。よろしく頼むぜ」

「分かった。みんな、またよろしく」

「……もう一人でどっか行くなよ」

「ああ、頼りにしてる」

 

 こうしてジェラルト傭兵団と合流したベレトは、彼らを引き連れて帝国各地を飛び回ることになったのだ。

 本当に飛び回る奴があるかついていく方の身にもなれ、と苦情が入ったのは内緒である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして帝国の方々を回る中で、意外な再会もあった。

 

 アドラステア帝国建国前の時代の遺物が出土したとのことで、フォドラを股に掛けて自由な商売をする商人アンナがその確保に動いた。一攫千金の儲け話とあっては飛びつかない選択はなかったのだろう。

 しかし話を持ちかけてきたのがバシャルドという商人で、以前は大修道院にも出入りしていたなど身元は確かだったのだが、今では黒い噂も付きまとう人物だ。

 アンナは今ではエーデルガルトとの交流もあるくらい帝国内では有力な商人で、彼女の活動を支援することも大事だとしてベレトが手を貸すことになった。

 

「あらまあ先生、とっても久しぶりじゃない! 皇帝陛下が急に元気になったって噂は貴方が原因でしょ? 今までどこ行ってたのよ~!」

「久しぶりだなアンナ。また会えて嬉しいよ」

「……やだ、先生ってば変わった? いい顔するようになったわね。いえ、むしろ変わってない? 何でそんなに若いままなの?」

 

 五年前にガルグ=マクの街で交流があったベレトと意外なところで顔を会わせ、彼の顔をアンナはまじまじを見つめた。

 

 そんな話をしているところに、血の臭いを感じたとして突然現れ同行を申し出たのがこれまた意外な顔。

 かつて死神騎士の姿でベレトと剣を交えたイエリッツァである。

 

「生きていたか……」

「あんたも無事だったんだな」

「……壮健か」

「ああ」

「それは、僥倖……」

 

 一度は殺意のやり取りすら経験した間柄の二人。

 だがイエリッツァは凪いだ瞳で見下ろすだけで、ベレトも身構えたりすることなく脱力した自然体のまま、二人は無表情で向かい合う。

 

「死者と死合うことはできん……だが、生きているならば、斬りようもある」

「飢えているのか、戦いに」

「……私の中にいる魔物……死神がお前を逸楽と見なし、求めている。だが、今は斬れん……戦いが終わるまで決して斬るなと言われている……」

「誰に?」

「皇帝に、だ……かつて私は、皇女だったあの女と取引をし、その命に従うことを約束した……」

「エーデルガルトと契約しているのか」

「死神は、殺さねば生きられん……放っておけば、道行く人を殺す……皇帝は、奴に狩場を与えてくれた……故に、こうして従っている」

「……」

「今はまだ、狩場を失うわけにはいかん。お前と死合うわけにも……」

「つまり俺達は似た者同士なんだな」

「……何?」

 

 納得したように頷くベレトに、そこで初めてイエリッツァは眉をひそめた。

 

「あんたは今、傭兵みたいにエーデルガルトに雇われる契約をしてるようなものだ。契約内容を遵守して戦ってるなら俺と同じ傭兵だ。一緒に戦おう」

「……死神と、肩を並べることに、躊躇いはないのか」

「昨日の敵が今日の味方という状況は傭兵にとって珍しくない。それに、手合わせくらいなら空いた時間にでもできる。後で付き合うよ」

「そうか……お前は、心地好いな……」

「あの~、お二人さんそろそろいいかしら? 一緒に行くのよね、出発するわよ?」

 

 こんな感じでかつての敵とも言えた死神騎士ことイエリッツァをあっさり受け入れたベレトは、連れ立ってアンナの仕事に協力した。

 

 結局、馬脚を露したバシャルドが出土品を独り占めようとしたのでアンナが焦ったところ、瞬く間に敵の手勢を制してみせたベレト(+ジェラルト傭兵団)と、即座に後始末へと動いたイエリッツァによって事は解決。

 敵に回してはいけない相手を敵に回したと悪徳商人が思い知る傍ら、イエリッツァとアンナとの再会もあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また、黒鷲の学級以外の生徒との再会もあった。

 アンヴァルに足を運んだ際、ラディスラヴァ、ランドルフなどの帝国軍に属する仲間と顔を会わせた他、没落したエーギル家と協力体制を取るという繋がりで意外な顔を見たのだ。

 

「御機嫌よう先生! 生きていたようで何よりだよ」

「先生! 本当に……本物の先生なんですね」

 

 それは本来なら同盟にいるはずの二人の元生徒。

 金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)に在籍していたローレンツとマリアンヌだった。

 

「ローレンツ! マリアンヌ! 二人はここにいたのか?」

「驚いたようだね。かく言う僕も、自分が帝国にいることに驚いているよ」

 

 再会を喜びながら、まずローレンツが自身の境遇を説明してくれた。

 五年前の戦いよりも、その後の同盟内での出来事が問題だったらしい。

 

 帝国による宣戦布告を受けて、レスター諸侯同盟はその名が意味するように貴族達による対応を急がされた。王を戴くファーガス神聖王国とは違い、諸侯による議会で動く同盟はどうしても各貴族の意思をまとめるところから始めなくてはいけないからだ。

 元から親帝国派と反帝国派という派閥があった同盟。今回の戦争を機によりはっきりと溝が浮き彫りになった。武力を伴う内紛が起こるのか、そう危機感を覚える者も少なくなかった。

 だが、そんなことにはならなかった。

 

 以前ヒューベルトがベレトに説明してくれたように、一部の戦力が突出した成果を上げた同盟は反帝国派として早々にまとまったのである。

 その一部の戦力というのがかつての士官学校の生徒。それも、ベレトの指導を受けて急激に成長した金鹿の学級の生徒だったのだ。

 台頭した彼らの多くが加わった勢力がそのまま同盟の中で最も大きな力を持つ派閥となり、それが反帝国派という形に落ち着いた。

 

 反帝国派の旗頭であるリーガン家のクロードを筆頭に。

 東の山脈フォドラの喉元の守護は実家のゴネリル家に任せて、とりあえず自分は手伝いくらいしてあげようかなと英雄の遺産片手に表明したヒルダ。

 同盟でも最大規模の商人組織であり、独自の私兵団まで抱えているヴィクター商会を後ろ盾に持つイグナーツ。

 そのヴィクター商会に雇われて多くの護衛任務をこなす傍ら、本人の人柄によって平民から広く人気を集めるラファエル。

 同盟の端々まで走り回る足の速さと律義さを買われ、一つ一つは小さくも束ねれば大きな声となる人々の信頼を背負うレオニー。

 帝国に潜む謎の組織の存在を嗅ぎ取り、現状のままでは信を置くわけにはいかないという意思を明らかにするリシテア。

 

 親帝国派には、領地が帝国と隣接し、昔から親交があったことで急に背くわけにはいかないとするグロスタール家のローレンツ。

 

 ちなみに中立にも、近年急に発言力と富を増して存在感を高めながらも特定の勢力に加担していないエドマンド家と息女のマリアンヌ。

 

 ご覧のように、圧倒的に反帝国派の数が多かった。

 ここまで戦力に差ができてしまえば同盟内での争いなんてやってられない。そう判断したグロスタール伯は膝を屈し、同盟の方針は反帝国としてまとまったのである。

 

 本来ならクロードがその外交手腕を振るい、あえて貴族同士の小競り合いを起こしてまとまりのなさを演じることで帝国の介入を防ぐ奇策を展開していた。

 しかし、ベレトの指導を受けて強くなった生徒が各派閥に加わると情勢はそれだけで一気に傾いてしまい、勢いで流れが決まってしまった。

 レベルを上げて物理で殴ればいいとは言うが、レベルを上げ過ぎて物理で殴ったらすぐ終わったなどという展開はそうそうあるものではない。クロードもさぞかし頭を抱えたことだろう。そんな同盟を改めてまとめてみせたのは流石なのだが。

 

 そうして勢力争いに負けたグロスタール家のローレンツが何故ここにいるか。

 

「グロスタール家の嫡子ではあるが、正式に父の跡を継いだわけではない今の僕は無位無官に近い。ある意味、身分に縛られない動きが可能なのだよ。そこで父は僕を帝国に出向させ、将来のための繋がりを維持させようと考えたのさ」

 

 貴族とは言え、名ばかりにも映るこの身。同盟領に残っていたところでできることなど高が知れている。ならばいっそフォドラの情勢を広い目で見つめられるよう見聞を広めるために帝国に訪れたのだと言う。

 形は違うが、ブリギットから半ば人質に近い意味で帝国に送られたペトラに似た扱いだと言えるかもしれない。

 子の成長と、再起を期待した親の判断か。

 

「かつて誇っていた地位を失った今の僕は惨めと言えるだろう……しかし! 僕は貴族の誇りまで失ったりはしない! この志は誰にも奪われたりしないと、僕はフェルディナント君から学んだのだ!」

「ローレンツは今はフェルディナントの手伝いをしてるんだな」

「うむ。先生なら知っているだろう。五年前、帝国宰相のエーギル公が罷免されて以来、実質的にエーギル家は領地の統治権を失った。僕以上に全てを奪われたと言っても過言ではない……だがそんな身の上でも彼は心を曇らせなかった。彼は素晴らしいぞ先生! 貴族とは斯くあるべしという理想を崩すことなく尽力している。彼を間近で見ていると、僕も負けていられないと奮起させられるのさ!」

 

 それまで自身の根幹であった貴族という立場を奪われて初めは動揺したが、そこで屈したままではそれこそ己の理想とする貴族として恥ずべき行為。奮い立たせてくれる友と肩を並べるべく、今の自分にできることを積み重ねるのみ。

 いずれ貴族制度をなくそうというエーデルガルトの野望はもう知っている。それならそれで代わりとなる社会の仕組みを作ってみせる。未来の平民達をまとめて守り、導いてこその貴族なのだから。

 

 ──後に彼らの尽力で平民を広く育成する学び舎、士官学校ならぬ庶民学校が設立される。人を教え導くのには特別な立場である必要がないという観念が少しずつ知れ渡るようになり、いわゆる日本で言う寺子屋に該当するものがフォドラに生まれる切欠になった。

 

 ローレンツの境遇は分かった。ではマリアンヌは?

 

「先生は以前お話したことは覚えてますか? 義父(ちち)が野心家だと……」

「エドマンド辺境伯だったな。新興の貴族で、立場を有利にするために色々やってると」

「はい……私のことも、家の立場を有利にする手段の一つ、というか……エドマンド家は中立を掲げていて、同盟の中で特定の派閥に加わることを義父は避けてるみたいなんです。そこで私を帝国に向かわせて、陸続きの繋がりを作ろうとしたんです」

 

 同盟の北部に領地を持ち、海に面して独自の港も備えるエドマンド家は新興とは思えないほど力をつけている。

 例を挙げると、フォドラ全体の問題である東のパルミラ対策としてフォドラの首飾りと称される砦の整備に同盟の各諸侯が負担を担うことがあったのだが、人材が少ないエドマンド家は兵を出す代わりに砦の改修費の大半を受け持ち、方々に掛け合って優秀な職人をかき集めた。

 新興らしく人員は乏しいながらも富と人脈は同盟でも屈指のものだと分かる。

 

 人が育つのにはどうしても時間がかかると考えたエドマンド辺境伯は、娘を帝国に送って繋がりを作ろうと考えたのだ。

 この戦争に同盟が勝っても負けてもその後で動きやすくなるように。

 

「初めは、私なんかに何ができるか不安でした……でも、フェルディナントさんが励ましてくれたんです」

 

 ガルグ=マク以上に異郷の地に来たマリアンヌは心細い日々を送っていた。繋がりを作るなんて自分には最も縁のないことで、どうすればいいのかさっぱり分からず。

 ほぼ同時期に帝国に来ていたローレンツとは当時はすれ違いがあり、マリアンヌは俯いてばかりだった。

 

 そんな彼女にある日フェルディナントは説いた。

 人は何かを成し遂げるために生まれてくる。貴族も、平民も、例え賊でも、どんな境遇であっても為せることは必ず存在する。そして何かを成し遂げれば、そこに自分が存在する意味が生まれるのだ。

 当時、貴族として生まれ持ったものを奪われても挫けることなく背筋を伸ばすフェルディナントが言うからこそ響く言葉だった。

 

 ならば、自分にできることは何だろう?

 胸に刻む言葉を得たマリアンヌは彼女なりに考えた。

 そうして思い出したのは士官学校の思い出。そこで見聞きした経験。

 

「先生が教師になって、初めは私も他の人と同じように遠巻きに見てました……無表情で、愛想のない人で、その……私と似てるなって……」

「ああ、自分でも愛想がない人間だと思うよ」

「でも先生は、自分にできることをたくさんしてました。人当たりとか関係なく、自分にできることを尽くして……そうやって行動する先生を思い出したら、私も、とにかく何かできることをやってみようって……!」

 

 学級の垣根を気にせず多くの生徒に声をかけ、話を聞き、時には訓練に付き合うベレト。教師の交代制が始まってからは授業でも関わるようになり、マリアンヌは彼の本質に気付いた。

 

 無表情で無愛想。似ているのはそこだけで、行動の性質が全く違う。

 ベレトの行動には常に誠意があった。無表情のままでも他人と向き合うことをやめなかった。無愛想に見えてもその行動は他人に寄り添うものだった。

 翻って自分はと言うと、笑みの一つも浮かべない無表情で他人を突っぱねてばかりで、無愛想な態度で他人との会話を断ち切ってばかり。

 これのどこが似ているというのか。ベレトの方がずっと意味がある人だ。

 

 ならば……ベレトと同じような行動を取れば、自分にも意味が生まれるのでは?

 思えば五年前の無愛想な自分にも、ヒルダやイグナーツなど気にかけてくれる人はいた。その些細なやり取りがあった時だけは意味があったように思う。

 今度は私が自力で意味を作る番だ──マリアンヌはそう考えたのだ。

 

 とにかく自分に何かできないかと探すマリアンヌは、貴族の令嬢がするには似つかわしくないのを承知で馬の世話を申し出るところから始めた。

 動物と意思を交わす元々の性格が噛み合ったのか、一頭の馬から始まって徐々に馬房全体、次第にペガサスやドラゴンの面倒まで見るようになり、今では若くして騎士団保有の騎馬の管理を担うにまで至ったという。

 動物達から慕われ、次第に周囲から尊敬を集めるようになり、いつしか笑顔を浮かべられるようになってきたのだ。

 

「ずっと前にシルヴァンさんが言ってました。人の価値は、笑顔で決まるって」

「シルヴァンが?」

「何と! あの男がマリアンヌさんにそんなことを?」

「はい……人は、人と関わることでしか成長できないから、笑顔になれるくらい成長して、人の中でも強かに生きていこうって……私も、自分が笑顔になれてることに気付いた時、嬉しかったんです。私、少しは強くなれたって」

「そうか……シルヴァンが……」

「あの軽薄な男も、悪くないことを言うものだね。事実、笑顔を浮かべたマリアンヌさんは美しいと思わないかね、先生?」

「ろ、ローレンツさん……!」

「マリアンヌは初めて会った時から綺麗だったぞ?」

「えぇ!?」

「ほほう、彼女の静謐の美を先生は既に見抜いていたということか。どうだいマリアンヌさん、僕だけではないだろう。見る目を持つ者ならこうして君の真の価値をすぐに見出せるのさ」

「真の価値というのはよく分からないが、マリアンヌはそのままでも綺麗だよ」

「はーっはっはっは! やはり貴方はよく分かっている!」

「も、もう、二人共そこまでにしてください……!」

 

 顔を真っ赤にして慌てるマリアンヌを横に、ローレンツが彼らしい高笑いで場を締める。ベレトの目に映る二人は五年前と変わらないようで、しかし確かに成長していた。

 当時の生徒が今も逞しく生きていると改めて知り、ベレトは嬉しく思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガルグ=マクであった再会も忘れてはいけない。

 帝国軍の本隊がガルグ=マクを去った後、残った部隊の中にも知った顔がいた。

 

 東から西へとフォドラを大きく横切る移動をしていたベレトが途中でガルグ=マクに立ち寄り、大修道院の玄関ホールを歩いていた時である。

 エーデルガルトから聞かされていた人物がここにいるとのことで、時間を作り会いに来たのだ。

 

「やっ!!!」

 

 ホール中に響き渡る大声が聞こえたベレトは声の主を探してその場を見回す。探すまでもなくすぐ見つかり、その顔を見て表情を明るくする。

 

「ややややややっ!!!」

 

 なおも大声を上げるその人物は大股でベレトに近付いてくると、その両肩をがっしと掴む。じんわり目を潤ませて、そのまま抱き締めてきた。

 

「やっと会えたああああ!!! 会えたぞおおおおお!!!」

「アロイスさん、久しぶりだな」

 

 感極まったように叫ぶアロイスを抱き締め返し、ベレトも再会を喜んだ。

 ちなみに人前である。

 

「生きていると信じた我が執念!!! 振り払う疑念!!! 捜し続けて五年!!! ついに貴殿に会えたあああ!!! 女神の奇跡はここにあったのだあああ!!!」

「ああ。女神(ソティス)が俺を助けてくれたよ」

 

 涙混じりに叫ぶアロイスに釣られたのか、珍しくベレトも表情を綻ばせる。

 繰り返すが人前である。

 

「うおおお先生えええ!!! 本当に無事でよかったああああ!!! また会えてよかったぞおおおおお!!!」

「アロイスさんも生きててよかった」

 

 落ち着く気配がないアロイスが何度も大声で叫び、それを抑えるでもないベレトは素直に喜ぶばかり。

 くどいようだが人前である。

 

 要するに注目の的なのだ。玄関ホールは人の往来が多いからね。仕方ないね。

 戦争が起こっている今のフォドラでは生き別れになる人も珍しくないので、そういう二人が感動の再会を果たしたのではないかと察して温かく見守る目が大半なのは幸いなのか。

 

 まあ中には容赦なくツッコミを入れる人もいて。

 

「やかましい! 食堂まで響いてるぞ!」

 

 真横から飛んできたスプーンがこめかみに当たり、余程の衝撃だったのか吹き飛ぶアロイス。

 体に回されていた腕に引っ張られてベレトも体勢を崩すが堪えて、聞き覚えのある声の方を見るとやはり知った顔がそこにいた。

 

「同僚がおかしい奴だと思われるこっちの身にもなれ……」

「シャミアまでいたのか」

 

 額を抑えたシャミアが近付いてくる。頭を抱えて転がるアロイスをジト目で見下ろす彼女を見ていると、五年前のガルグ=マクにもありそうな光景に思えた。

 

「何だその顔は。私がここにいるのが意外か?」

 

 ベレトの視線に気付いたシャミアが片眉を上げて見やる。

 

「そうだな。シャミアもアロイスさんもセイロス騎士団所属だという印象があった」

「アロイスはそうだろうが、私は傭兵だ。騎士団にいたのは教団が実入りの良い契約相手だったからだ」

「じゃあ今は帝国に雇われているのか」

「まあな。ヒューベルトは今までで一番気前のいい雇い主だよ。まあそれは理由の半分だが」

「?」

 

 疑問符を浮かべるベレトを見て小さく笑ったシャミアは、立ち話もなんだと言って場所を移す提案をした。

 

 食堂の片隅に移動して腰を落ち着けた三人は向かい合う。そこでも興奮を抑えられなかったアロイスが酒を持ち出して再会の祝杯を上げ、音頭を取る彼にベレトは笑って、シャミアは渋々応じる。

 そこに落ち着くまで、周囲で遠巻きに見ていた人達は食堂に入ってきたシャミア、ベレト、悶えながらベレトに担がれて運ばれるアロイスを見て「ああ、いつものか」といった具合で何かしら納得したように視線を戻した。

 その中で目立つ髪色のベレトを見て「おや、あれが噂の?」とでも言うかのように興味を抑え切れない様子でチラチラと目を向ける人もいた。

 

 ベレトが崖に落ちて行方不明になり、先日帰還した経緯は知っていたようなので逆に二人に訊ねた。五年前から何があって今に至るのか。

 

「元々フォドラには思い入れが少ないんだ。セイロス教にも、騎士団にも」

 

 酒を一口飲んでからシャミアは口を開く。五年前と変わらない怜悧とも言える表情だが、ベレトには彼女の声色に柔らかいものがあるように感じられた。

 

「騎士団にいたのはレアさんに拾ってもらった恩があったからで、それも充分返せたと思っていたところで戦争が始まってな」

「その時はまだ騎士団を抜けなかったのか?」

「ああ。私としては縁とやらは重視しないんだが、向こうは少しでも人手が欲しかったんだろう。私に契約延長の話が来た。報酬はよかったからもう少し力を貸すことにした」

 

 ガルグ=マクの戦いで敗走したセイロス騎士団ではそれまで以上に戦力を求めていて、凄腕の射手であるシャミアの存在は手放せないものだった。以前よりも上乗せされた報酬を得られるという契約でまだしばらく騎士団に繋がれることにしたのだ。

 しかし世知辛いもので、ガルグ=マクという拠点を失い、帝国と戦う羽目になったセイロス騎士団がいつまでも潤沢な資金を用意できるはずもなく、シャミアに支払われる報酬はすぐに目減りしていく。

 そんな時にシャミアへ内密に接触を図ったのがヒューベルトである。

 

「あの時はタイミングの良さに思わず笑ってしまったな。報酬が絞られて、事情が事情だから仕方ないと分かっていても不満を覚えたちょうどその時だったよ」

 

 思い出し笑いをするシャミアは当時を振り返る。

 セイロス教に興味がなく、騎士団との繋がりもあくまで契約でしかない彼女にとって、より良い条件の契約を提示されればそちらを選ぶのは当然のこと。

 それでも敵対しているセイロス騎士団のシャミアにこの話を持ちかけてきたヒューベルトの判断は実に愉快なものだった。

 

 常人ならば教団への信仰や、騎士団への仲間意識があるだろうと考えて声をかけようとは思うまい。徹底した合理主義を貫くシャミアだからこそ頷く契約だ。

 手段を選ばないのがヒューベルトという人間だが、貴族生まれの彼がこうも傭兵に理解ある判断ができるとは。

 

「たぶんヨニック辺りの入れ知恵じゃないかな。ヒューベルトがそう思ったのは」

「ああそうか、ジェラルト傭兵団と付き合う内に傭兵の扱いを学習したのか。不思議に思っていた謎が今さら解けた気分だよ」

「父さんの主義では信頼が大切だが、傭兵は基本的に金にうるさいのは俺も知っている」

「ただ、話に乗ったのは理由のもう半分にあんたがいたからだ」

「俺が?」

「前に一緒に仕事した時から思ってたのさ。あんたに任せると色々と楽だと」

 

 戦場において慧眼とすら表せるベレトの洞察力と指揮は、弓兵のシャミアにとって極めて頼もしいものである。五年前に仕事で海賊退治に駆り出された時、彼の指示で放った自分の矢が吸い込まれるように次々と敵に当たった時は快感すら覚えた。

 そんな有能な指揮官がいる部隊へ、今いる騎士団よりずっと良い条件で誘われたのであればシャミアが乗らない理由はなかったのだ。

 

「しかし、まさか当の先生が行方不明とは思わなかったから、ちょっと肩透かしを食らった気分だったぞ」

「それはすまない」

「謝る必要はない。これからは皇帝直属軍の指揮官として頼りにしてるよ。せっかく戻ってきたんだから五年分の不在を取り返してくれ」

「その通り!!」

 

 急にアロイスが横から口を出したのでそちらを向くと、一気に飲んだ酒杯を置いて大きく息を吐いたところだった。

 

「貴殿に会えて、ようやく私は本懐を遂げることができる……今まで捜し続けたこれまでの苦労が報われるというものだ!」

「俺をずっと捜してたのか」

「ちなみに言っておくと、戦争やら何やらで余裕がなかった生徒とは違ってアロイスは本当にあんたを捜してばかりいたぞ。五年も飽きずにずっとな」

 

 感無量とばかりに涙ぐむアロイスを見てベレトは驚く。シャミアの補足によれば、彼は文字通りベレトのためにその身を尽くしてくれたのだ。

 

 セイロス騎士団でもそれなりの立場にいたアロイスがこうして帝国に協力するとも言える行動をしていることが驚きである。

 部下もいただろうし、何より彼は妻子がいる身。下手な選択のツケは自分だけでなく妻と娘にも降りかかるのだから。

 

 五年前、ガルグ=マクの戦いが起きてセイロス騎士団が敗走し、帝国に味方したベレトと離れ離れになったことでアロイスは酷く悩んだ。ジェラルトが殺され、その息子のベレトは自分が守らねばと考えていたアロイスにとって、当時の状況は足元を揺らがせる不安なものだったのだ。

 そんな彼に、娘はこう言った。

 

『好きな人のために頑張らないお父さんなんてお父さんじゃない』

 

 目が覚める思いだった。そうだ。かつてジェラルトに見出された時からずっと、自分はいつだってそうしてきたじゃないか。

 同じように妻も言った。

 

『好きな人を守るために頑張る貴方が素敵ですよ』

 

 自分は幸せ者だ。本当にやりたいことを応援してくれる家族がいて、それができる力があるのだから。

 

 程なくして騎士団を辞し、王国から帝国へ渡るアロイス一家。

 途中、裏切りだと考えたらしき騎士団の追手を妻の意外な活躍(「ッゾオンドリャー!」)と娘の意外な機転(「ムスメナメンナー!」)で振り切った経緯はここでは省略する(自慢げに語るアロイスと目をキラキラさせるベレトを余所に遠い目で聞き流すシャミアという珍妙な場が作られた)として、とにかく一家はオグマ山脈を越えて帝国に辿り着く。

 途中のヴァーリ領でまさか屋外で出会うとは思わなかったベルナデッタに導かれて帝都アンヴァルへ向かい、無事エーデルガルトとの謁見が叶った。

 しかしここで肝心のベレトが行方不明だと知らされる。まさかの事態ではあるが、覚悟を決めたアロイスは挫けない。

 

 王国と教団が手を組んだ連合軍。想像以上の攻勢を見せた同盟。これらを同時に相手する東西の戦線で悩まされていた当時の帝国に、立場で言えばただの平民でしかないベレトを大々的に捜索する余裕がなかった。

 そこへ現れたアロイスは、急に帝国軍に加えられる信用も立場もなく、かと言って遊ばせておくには惜しい有能であり、加えてガルグ=マク近辺の地理に明るいという理想的な人材。

 そう。ベレトの捜索活動に打ってつけだったのである。

 

「私の方から願い出たいくらいだったから即決で請け負ったのだ。あの時は不思議なほどあっさり話がまとまったな」

 

 アロイスがどれほどベレトを大事に思っているか、憧れのジェラルトに次いでベレトを慕っていることを士官学校での生活を通してよく知っていたエーデルガルトは、彼の覚悟を汲んで捜索隊の長に任命。ガルグ=マク周辺や下流の村を捜す活動を支援したのだ。

 

 結局ベレトは自力で帰還してしまい、アロイスの捜索活動が実を結ぶことはなかったのだが、別にそれはそれで構わない。

 

「今こそ、団長に代わって貴殿を守る! その約束を果たす時が来たのだ!」

 

 今後はベレト指揮下の黒鷲遊撃軍に名を連ねる者として、また普段は勝手知ったるガルグ=マクの守り手として、再び大修道院に身を置くことになったのだ。

 ちなみに遊撃軍にはシャミアも同じく加えられている。有事の際はアロイスと一緒に参戦することだろう。

 

「ありがとうアロイスさん。改めてよろしく」

「はっはっは、気にするでないぞ先生! 貴殿と私は、同じくジェラルト殿に育てられた兄弟同然の仲! このアロイスが力になれることがあれば何でも頼るがいい!」

「だが今日はもう上がっておけ」

「ふむん?」

「顔、真っ赤だぞ。大して強くもないのに一気に飲むから……」

「なーにを言う! 先生と再会できた今の私は疲れなどしゅらんのだ!」

「……」

「……」

「む? 分からなかったか。今のは疲れなど知らんと、酒に乱れると書いて酒乱という言葉を掛けたもので──」

 

 酔って舌がもつれたんじゃないの?

 

 まあ、ともかく。

 ガルグ=マクで思わぬ再会があったベレトは、出発までの間二人と言葉を交わすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてガルグ=マクと言えば当然彼らもいる。

 この地の復興と活動を支える、縁の下ならぬ地下の柱、アビスに。

 

 住み着いていた野盗を掃討した帝国軍が去り、元からこの地にいたアビスの住人が残った部隊と力を合わせてガルグ=マクを守ることになった。

 その際、住人と相談したヒューベルトの口からベレトが帰還したことが伝えられている。地上の者でありながらアビスの人気者でもあったベレト生存の報に、彼を直接知る住人は大いに喜んだ。

 

 人伝にただ報せるだけでなく直接挨拶するためにアビスを訪れたベレトが歓迎されるのは当然のことだった。

 しかし、そこはやはりアビスと言ったところ。些か物騒な歓迎になったのは場所柄なのか。薄暗い地下に足を踏み入れたベレトはいきなり襲われたのだ。

 

「お前……俺達を五年間も放っとくとはどういう了見だ」

 

 横合いから飛んできた拳を受け止めたベレトが見たのは、険しい目で睨んでくるバルタザール。五年前より一層迫力を感じさせる巨躯で拳に体重をかけてくる。

 

「バルタザール、そんな顔をするな」

「……」

「殺気がないのに睨んでも意味がないぞ」

「……だっはっはっは! 変わんねえなその澄まし顔はよ!」

 

 すぐに表情を和らげるとバルタザールは拳を引いた。彼からすればこの程度は戯れの範疇だ。ベレトなら苦も無く防ぐし、気にしないという信頼があった。

 彼が手を挙げるとそれが合図だったのか、次々に灯される火で周囲が徐々に照らされて、そこら中に隠れていた者達が一斉に顔を出す。挨拶を終えたアビスは一転して歓迎ムードになったのだ。

 

 そんな中、高所に現れた一人の女性が手をかざすと小さな火の玉が生まれ、続けて腕を振るうと氷が作られ、更に振り回すと光が飛び、指の動きに合わせてそれらが一斉に踊り出して空中を彩る。美しい光景に合わせて歓声があちこちから上がり場を盛り上げる。

 やがてその女性が一際強く腕を振って締めるように手を握ると、踊る光の欠片が一気に集まり、弾けて一瞬で消えた。派手な美しさと裏腹に終わりは切ないほど呆気ないが、だからこそ胸に響くものがあるのかもしれない。

 見上げていた者からも口笛が上がり、賛美の声が集まった。

 

「おーっほっほっほっほ!! 我が魔導を称えなさい!! 皆様が今ご覧いただいた光景は未来に描かれる新しい世界の一つですのよ!!」

 

 その場で足を踏み直して高笑いする豪奢な女性はコンスタンツェ。

 居丈高(いたけだか)な姿が誰よりも様になるのは成長しても相変わらずのようだ。

 

 ──後世で平和になってからは戦闘だけではなく娯楽のために魔法が発展し、こうして観賞目的に作られた魔法のせいで他国から花火という文化が流れてきてもフォドラでは受けが悪かった……などという出来事は余談である。

 

「コンスタンツェ、とても綺麗だったよ」

「ええ、ええ、そうでしょうとも! 光栄に思いなさい先生! この新魔法は今日、貴方のために初めて披露したものですのよ!」

「君はやっぱりすごい子だ。ありがとう」

「~っ! ……さあ皆様、我らの友の生還です! 歓迎いたしましょう!」

 

 号令に促されてアビスの住人に包まれたベレトは熱烈な歓待を受けた。

 門番の男のように五年前からの知り合いと挨拶する他、面識のない人とも顔を合わせたりもする。ベレトのことを知らない新参者は何故彼をここまで歓迎するのか分からず困惑が見えた。

 ある意味ではアビスの救世主の一人とも言えるベレトの活躍を語る場となり、当事者のバルタザールとコンスタンツェが主導しながらところどころ誇張された表現も交えて盛り上がった。(ただし語るべきではないことは決して口にしない。アルファルドの末路も、始原の宝杯についても、軽々に広めていいことではないのだから)

 

 話すのが得意ではないベレトが聞き役になっていたところ、不意に彼と肩を組んできたのは化粧を施した美貌の人物。

 

「よう先生。やっと帰ってきたな」

「久しぶりだなユーリス。元気にしてたか」

「おー、元気も元気。じゃなきゃやってらんねえよ。そういうあんたは風邪引いたんだって?」

「ヒューベルトから聞いたのか」

「奴が珍しく御機嫌だったぜ。エーデルガルトもな」

 

 くくくっと笑うユーリスは五年前と同様にアビスの代表を務めていた。

 

 帝国軍が一度は制圧したガルグ=マクから手を引くことになった時、遠からずここの治安は乱れるだろうと予想できた。アビスの守護を旨とするユーリスにとっては看過できない事態である。

 エーデルガルトの方でもそれは見越していたので、軍は退かせても密かな支援は続けることを約束し、最低限の自衛を手伝える程度の人員と物資を運び込ませていたのだ。

 いつか再びこの地を制圧する時、アビスの協力が得られるのを見越して。

 

 ユーリスとしては戦争を始めたエーデルガルトに対して思うところは大有りだったが、セイロス教団と敵対しても可能な限りアビスを尊重する判断をした彼女(と助言したベレト)への義理を汲み、ひとまず手を組むことにした。

 教団がいたからこそ秩序が守られていたガルグ=マクである。教団が去って乱れればアビスに危険が迫るのは確実。多少気に食わなくてもそうするしかなかったのだ。

 

 そして実際に支援を受けてみれば想像以上の厚遇で驚かされた。アビスの子供まで含めて最低限食べるに困らない程度の物資を回してくれるだけでもありがたいのに、出稼ぎという形で帝国領内に働きに行く仕事を斡旋してくれるとは思わなかった。

 一方的に施しを与えられるだけでは矜持が許さないユーリスにも受け入れやすいものであり、部下達に仕事を割り振って彼らの目の輝きを見れば認めるしかなく。

 稼ぎも悪くなく、お土産片手にアビスに帰ってくる大人を見て、子供達はいずれ自分もここを出て外で働くのだと希望を口にするようになり。

 いつしかガルグ=マクの闇と称されたアビスらしからぬ明るい雰囲気が地下に生まれていた。

 

 人の手によって立つ世界。エーデルガルトが語る理想にはアビスのような日陰者もちゃんと含まれているのだと彼女は行動で証明しているのだ。

 

「ま、少し癪なところもあるが、今はあいつらに感謝してるよ」

「あの時、事前に説明できなかったのは、すまなかったな」

「いいって、もう……先生だってそうだぜ。あんたの助言があったからアビスは無事なんだ。寄る辺のない奴らがああして笑ってられんのも助けてくれる誰かがいるからだって分かってる」

 

 矜持は貫くが意地は張らない。認めるべきことはきちんと認める。

 柔軟な立ち回りができるユーリスは素直に感謝を口にできる人間なのだ。

 

「そんなわけだから、同じく感謝してるあいつにも一声かけてやってくれ」

「向こうにハピもいるのか」

「気付いてたか? ひねくれ者だからな、顔を出すのが恥ずかしいんだろうよ」

 

 ユーリスが指で示した方へ足を運ぶと、瓦礫の陰に隠れるようにして一人の女性が座っていた。

 

 口に加えた干し肉をプラプラさせていたところにやってきたのがベレトだと分かると彼女は露骨に顔をしかめた。

 体ごと逸らして顔を隠すとあからさまに突っぱねる声色を出す。

 

「なんで主役がこんなとこに来てんのさ。あっちに戻りなよ」

「ハピとも話したかったんだ」

「……ずるいなー、君って。ニヤニヤしないように我慢してたのに、たった一言で嬉しくしてくるんだもん」

 

 肩越しに振り返ったハピの目を見て、ここにいても許されたと感じたベレトは隣に座った。

 住人の賑わいが微かに聞こえてくる場所で二人は何とはなしに語る。

 

「先生は、さ」

「ああ」

「ユリーとヒューが言ってたけど、ガーティがアビスを守るように考えてくれたのって、先生がそう言ってくれたからでしょ?」

「確かにあの戦いの前の作戦会議で、アビスに手を出してはいけないと言った」

「そっか……ありがとね。ハピ、ここが好きなんだ。迂闊に外を歩けないハピには、アビスが第二の故郷みたいなもんだし」

 

 溜息を吐くと魔獣を呼ぶ。そんな摩訶不思議、と言うにはかなり物騒な体質のハピにとって、他人に余計な詮索をしない雰囲気があるアビスはありがたい場所だった。

 あんな戦いが起きた後でもアビスが無事でいられたのはエーデルガルト(ちなみにガーティというのは彼女のことである)が支援を続けてくれたからで、それがベレトの助言によるものだと知って素直に感謝したものだ。

 

 だからこそ、ベレトが行方不明になったと知って酷く落ち込んだ。

 嫌いな教団をガルグ=マクから追い出したと聞いた時は痛快な気持ちだったが、直後にベレトのことを聞いて、あまりにも無情な展開に思わず溜息を吐いてしまうほどに。

 

「けっこー悲しかったんだよ? 君がいなくなって」

 

 溜息を吐いても吐かなくてもまるで気にせず、体質を知った後も恐れる態度も一切なく、実際に魔獣が現れても粛々と撃退してみせて、そこまで至っても尚彼女に向き合う姿勢を変えない自然体のベレトをハピは大層気に入っていた。

 

 崖から落ちたというベレトを捜しに、山の下流などを張っていたアロイスとは別の方面、例えばアビスからしか行けない谷の底へ下りたりと彼女なりに何度も捜索活動をしてくれたそうで。

 一度はガルグ=マクを去ろうとまで考えていたハピだったが、ベレトを案じるが故に動かずにはいられなかったのだ。

 

「そんなことまでしてくれたのか。ありがとう」

「……やっぱ今のなし」

「どうして?」

「こんなことまで喋っちゃうつもりなかったじゃん……あーあ、恥ずいなあ」

 

 膝に顔を埋めてしまったハピを見て、ベレトは嬉しく思った。

 本当に自分は恵まれているのだと思い、こういう人達のためにも自分は諦めてはいけないのだと決意を新たにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 他に、ベレトが帝国に味方をするにあたって無視できない問題がある。

 割り切れるヒューベルトはいいとしても、特にエーデルガルトが引け目に感じてしまうことがあるのだ。

 

「先生、お耳に入れておきたいことがあります」

「どうしたヒューベルト」

 

 ある日、ガルグ=マクの執務室でヒューベルトが話を切り出したことがあった。

 

「エーデルガルト様、よろしいですね?」

「ええ……(せんせい)にも知っておいてほしいことだから」

 

 同席するエーデルガルトにも確認を取って話し始めたのは、彼らが今まで関わってきたあの謎の組織についてである。

 

「先生は既にお気付きかもしれませんが、我々は帝国を率いている他にある組織と通じてその力を借りています。五年前に策動していた者達のことを覚えておいででしょう」

「それは、ソロンやクロニエのことか」

「はい。そしてあの者達の首魁が帝国の摂政、アランデル公なのです」

「ディミトリの伯父の人だな」

 

 ん゙ん゙──エーデルガルトが急に咳き込み損なったような声を絞り出す。

 以前ベレトが伝えた情報の中にあったディミトリと自分の関係性が与えた衝撃は大きく、受け入れた今でも不意に話題に出されるとつい反応してしまうのだ。

 

 思い返してみれば、彼はやけに自分を気遣っていたような……よく体調を聞いてきたし、そういえば私の髪の色が変わったことに気付いていたようだし……

 士官学校でのディミトリの態度を振り返ると色々と思い当たる節があり、ああだこうだ考えた末にエーデルガルトは一応納得している。

 

「……あの者はエーデルガルト様の協力者ということになっています。しかしそれは仮の姿。その正体は帝国とは全く違う組織の首魁であり、我々とは別の企みがあるようなのです」

 

 エーデルガルトの反応をスルーしてヒューベルトは続けた。

 

 かつてエーデルガルトを捕らえ、地下に繋ぎ、彼女を含むフレスベルグ家の子供達におぞましい肉体改造を施した一団。帝国の陰に潜んで活動する謎の組織。その長がアランデル公なのだ。

 正しくは『アランデル公の姿を借りた何者か』だとヒューベルトは睨んでいる。

 

 子供だったエーデルガルトを連れて王国に亡命した時と、帰国した直後に彼女を捕らえた時。当時の様子を冷静になってから思い返したエーデルガルトによれば、姿形は同じに見えても態度が別人のように違った。

 昔はセイロス教団へ積極的な寄進を行っていたのに、帰国を境にその動きも途絶えている。それも態度が変わった時とタイミングが重なっている。

 そしてソロンやクロニエのように全く別の姿に変わる術があるのであれば、アランデル公もまた何者かが成り代わっている可能性が極めて高い。少なくとも同一人物だと考えるよりは納得しやすい。

 

 恐らく、本物のアランデル公は既に亡き者にされている。

 成り代わったあの男は別人の姿へと変身する術でフォルクハルト=フォン=アランデルを演じているのだ。

 

「炎帝の活動を支えていたのはその組織だったんだな」

「はい。彼らはエーデルガルト様を利用して何事かを企んでおり、そのためにはセイロス教団とレアの存在が大きな障害だったようなのです。教団を打ち倒すという利害が一致した我々は手を組むことにしました」

「敵の敵は味方、ということか」

「仰る通り……セイロス教団という強大な存在を相手取るのに、帝国軍だけでは抗せませんので」

 

 五年前に暗躍していた炎帝とその手勢は、帝国と繋がっていたと言うより、帝国と繋がっていた組織から支援を受けていた。そう表した方が正しい。微妙な違いだが、大事な違いだろう。

 人だけでなく魔獣まで手配してみせる力は真っ当な組織ではありえない。現在の技術レベルを大きく上回る何かを隠し持っている。

 これほどの力を借りなければ教団に打ち勝つことなどできない。エーデルガルトが立ち向かおうとするのはそれほどの敵なのだから。

 

 ヒューベルトの語りを聞いて、はてそうだろうかとベレトは思う。

 そもそもの話、そんなにも強大な組織が何故帝国の陰に隠れてコソコソと活動しているのか。

 

 力とは正義だ。騎士団の強さで主張を押し通してきたセイロス教団。その騎士団をガルグ=マクで破った力で現状に異を唱えた帝国。強いからこそ意志を貫ける世の中である。

 自分だって、ジェラルトに厳しく鍛えられて身に付けた力があるから今まで生き延びてこれたのだし、教師になってからもこの力を主軸にして生徒を指導できた。

 力があるということはそれだけ大きく活動できる屋台骨があるようなものだ。

 

 なのにその組織は強大な力を持っているくせに隠れて活動している。まるで見つかるのを恐れるように。実際恐れているのではないだろうか。見つかってしまえば多くを敵に回してしまうから。何しろ活動の内容が内容である。

 思うに、その組織には大きな制約があるのかもしれない。例えば、構成する人員が少ないとか? もしくは活動できる場所が限定されている? 物資などは技術力でカバーできるかもしれないが……

 

 そんな風にベレトが思考を巡らせていると、自分を見つめているエーデルガルトに気付いた。

 

「どうした」

「……何とも思わないの?」

「何をだ?」

「私達が奴らと手を組んでいることを、師は責めないの?」

 

 ベレトに非難されるかもしれない。されても仕方ない。そう思いながらも恐怖を抑えられない。それでもエーデルガルトはこの問題に向き合うことにした。ずっと欺いてきたようなものだが、守ると言ってくれた彼にせめて今からでも誠実でいたい。

 

「奴らは言わばジェラルト殿の仇……貴方にとって敵と言える存在よ。それと手を組む私達に思うことはないの?」

 

 微かに震える唇を噛み締めてエーデルガルトは訊ねる。

 それに対するベレトの態度は相変わらず自然体。

 

「ない」

「……本当に?」

「エーデルガルトにもヒューベルトにもない。強いて言うなら、ずっと君を苦しめてきたり、ディミトリの家族を殺したり、ドゥドゥーの故郷を滅ぼしたり、俺の生徒を傷付けてきたその組織に憤りを覚える。けど君達が今は利用するべきだと判断したなら俺もそれに倣おう」

「先生は我々の所業に思うところはない、と?」

「逆に聞くが、二人は望んでやったのか? 楽しんだり、気分良くやれたのか?」

 

 あっけらかんとしたベレトが口にするのはどこまでも他者を想う発言。離れた者も含めて生徒を大切に想う彼の自然な気持ちだった。

 

 五年前、組織と手を組み炎帝として暗躍していたエーデルガルトは数多くの人間を欺いていた。何食わぬ顔で生徒を演じ、ベレトでさえも騙して野望のために動いてきた。

 そのことへエーデルガルトに後悔はないのだろう。毅然とした、今も胸を張って訊ねてくる姿を見てやはり強い子だとベレトは思う。非難も罵倒も受けて当然、向けられるのなら全て正面から受け止めようという意志が窺える。

 そんな彼女を見ればそこに快楽を見出していないことくらい理解できる。選んだ道に悔いがないのなら責める気持ちはベレトにはない。

 行った事の責任を背負おうとする意志は大いに結構。

 自分がやるべきなのは彼女の隣に立ち、支え、導き、手助けしてやることだ。

 

 ヒューベルトについては論ずるまでもない。彼は心身の全てをエーデルガルトに捧げている。覇道を歩む彼女に尽くすことはヒューベルトにとって善悪や快不快の問題ではない。

 言葉にするなら『そういう風にできている』のがヒューベルトという人間なのだ。

 よって彼にも思うところはなく、むしろ最近はエーデルガルトを守る者という意味で親近感が芽生えているベレトであった。

 

「それに父さんの仇であるクロニエは俺の手で殺した。俺の怒りはそこで終わらせてある」

 

 誰よりも敬愛していた父を絶対に許せない手段で殺された。その怒りを胸に復讐を遂げたベレトは、もうその時点で割り切れている。

 ジェラルトが殺された。殺したのはクロニエ。そのクロニエを自分が殺した。

 そこでおしまいである。クロニエがどんな組織に所属していようが、はっきり言えばどうでもいいこと。傭兵の性か、恨みを長続きさせずすぐに区切りをつけられる思考をベレトは備えているのだ。

 

 ──大切な人を殺されたことへの怒りを憎しみへ醸成することなく復讐心を速やかに晴らしてしまったが故に、全てを(なげう)ってでも憎い敵を殺したいという思いに共感できなかったベレトが後にあの選択に至るのは必然だったのかもしれない──

 

「ありがとう、師……」

「貴殿がそう割り切っているのであればこちらも助かります。何しろ奴らの戦力は現状不可欠なもの。セイロス教団という恐ろしい相手と戦うのに帝国軍だけでは心許ないものですので」

 

 安堵するエーデルガルトの横でこう言うヒューベルトだが、実はベレトが彼らに味方するようになってから事情が変わっている。

 五年前のガルグ=マクの戦い以前までならともかく、あの戦い以降は組織の影響力が大幅に減らされているのだ。

 

 ガルグ=マクの戦いで追い詰められた末に【白きもの】として正体を現したレア。巨大な竜へ変身してベレトを追い回していたところ、帝国軍の中から放たれた魔獣に追い詰められてしまい、外壁を崩してその向こうの崖に落とされてしまう。

 その【白きもの】をベレトが天帝の剣で釣り上げるというド派手な救出劇の直後、ベレトの背中を狙った闇魔法により彼は崖から落とされ、そのまま行方不明になってしまった。

 ベレトを攻撃した張本人の名はタレス。今し方、話に上がったアランデル公の正体である。

 

 戦いが終わり、セイロス教団がいなくなったガルグ=マクで戦後処理をしながら、エーデルガルトはベレトを捜した。遊撃軍の仲間の他、信頼できる臣下にも捜索を命じ、焦る心を必死に抑えて皇帝として振る舞った。

 そんな時に姿を見せたアランデル公の口から、酷く上機嫌な声が出てきたのだ。

 

『神祖の後継とやらも大したことない。容易に背中を撃つことができたわ。神の眷属がまた一つこの世から消えたことを喜ぶがいい』

 

 貴様の仕業だったのか──怒髪天を衝くとはまさにあのこと。

 意味を理解するや否や、怒りを爆発させたエーデルガルトは全力でアランデル公を糾弾。皇帝として持ちうる力の全てを用いて摂政の権限を削ぎ落とし、彼を有名無実の立場へと追いやった。

 表向きは、皇帝が陣頭に立つ一戦であるのに指揮系統を無視した派兵で戦場を混乱させた軍法違反として。その実、足並み揃えて行動できない組織とは必要以上共に動くわけにはいかない、と半ば絶縁にも等しい通達を叩きつけたのだ。

 

 エーデルガルトがここまで激昂するとは思わなかったのか。まさかの勢いに目を白黒させたアランデル公はろくな抵抗もできないまま権力を奪われ、自ずと帝国内での組織の影響も減らされてしまい、タレスとしても活動しにくくなってしまった。

 以後、帝国の様々な面で彼らの力を借りる機会がなくなったのである。

 

 皇帝となったことである程度自立が叶い、組織と対等な関係になれた……と解釈するのは少々前向きが過ぎた。今まで活動を支えていた戦力を当てにできなくなったということでもあるからだ。

 実際、フォドラ西部で連合軍に対抗するために戦力を割いたことで東部の同盟相手に押し込まれてしまったり、せっかく制圧したガルグ=マクから一度手を引くことになってしまったり、無視できない影響があった。

 それでも一人一人の尽力のおかげで持ち直した帝国は東西で渡り合えるようになり今に至る。

 

「私は今、奴らの正体を探っております。どこを拠点にして、どこから来るのか。どれほどの人数を抱えているのか。どうやって別人に成り代わり、どのようにして怪しげな術を操れるようになったのか……非常に謎が多いのです」

「敵を知らなければ戦えない」

「そう、奴らは敵です。今はまだ味方にします。しかし、この戦争が決着したその時には……」

 

 今はまだ口にしないヒューベルト。その先に続く言葉をベレトは察する。

 

 未だフォドラの各地で策動を続ける組織。放置すれば百害あって一利なし。

 エーデルガルトを始め、数多くの人の運命を狂わせた報いは必ず受けさせる。

 

「私は奴らをこう呼んでいるのですよ」

 

 闇に潜み、闇に紛れ、この世界に闇をもたらす存在。

 

「闇に蠢く者、と」

「じゃあ闇うごだな」

「……は?」 

 

 ぶふっ、と噴き出す音が横から聞こえてヒューベルトは目を瞬かせた。

 仰々しく付けた呼び方をベレトがあっさり崩してみせたことで堪え切れなかった様子のエーデルガルトが口元を覆うも、抑えられなかった笑いが漏れたのだ。

 

「……っ」

「……闇うご」

「ぷ、っく」

「闇でうごうご」

「ぷふっ……っくくく」

「あっちでこっちで闇に隠れてうごうご」

「~~っぷふふ、あははは! だ、だめよ師! ふふ、ははは! もうやめて!」

 

 気の抜けた物言いを続けて聞かされ、我慢できなかったエーデルガルトは笑い出してしまう。

 彼女にとって憎い敵すらも破顔させる材料にしてしまうベレトを見て、この人には敵わないなとヒューベルトも小さく笑ってしまった。

 

 その後、急に方針を変えた帝国の動きを危ぶんで調子に乗るなよと睨みを利かせようと思ったのか、わざわざエーデルガルトとヒューベルトの前に姿を現したアランデル公は二人の横にいるベレトと対面する。

 その手で葬ったはずの男が生きている姿を目の当たりにした彼が努めて平静を装うも、表情に確かな動揺が浮かんでいて。

 

 敵の顔色を変えてみせた達成感にヒューベルトとベレトは目線を交わす。

 今はただエーデルガルトのために。同志として、二人は結束を強めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 またある時、生徒達のこれまでの戦いの記録に目を通していたベレトは、どうせなら生徒から直接話を聞ければと考えた。しかし彼らも忙しい身で、エーデルガルトの命を受けて色々とやることがあったりと時間を作るのも難しい。

 そこで運良く居合わせたドロテアが比較的余裕があるということで彼女が知る限りのことを教えてくれた。

 

 それもただ記録を教えるだけではつまらないと、歌劇のように朗々と謳い上げたのだ。

 戦争などの理由で身寄りをなくした孤児を保護する活動をしている彼女は他の生徒と比べて戦場から離れており、だからこそ戦地での活躍を噂として伝え聞くことが多い。

 そういった噂話を市井に伝わる唄としてまとめて。フォドラに新しく生まれた英雄譚にして。

 士官学校の同期が戦地で上げた武功を称えて付けられた二つ名を語ってくれた。

 

 ~~~~~

 

 新しく現れた英雄に人々は畏敬を込めて二つ名を呼ぶ。

 その武勇や背景、出で立ちも含めて名を上げた者を称えよう。

 

 王国よりは三人の騎士。名家の誉れを受け継ぐ新たな英雄。

 

 右手に携えしは破裂の槍。

 左手から放つは黒の魔法。

 北の守りの要として、王と国の盾となる。

 槍で天駆け、魔法で不和断つ、不撓不屈の寵児なり。

 【断空騎士(だんくうきし)】シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。

 

 誉れ高きは忠義の使徒。

 空より国を守る騎士の鑑。

 振るう槍の清廉なるは、天馬を駆る姿が如し。

 白き鎧と白き翼で制覇せしめるは陸海空。

 【天翔騎士(てんしょうきし)】イングリット=ブランドル=ガラテア。

 

 木を斬り地を斬り鉄を斬る。

 悉くを斬り伏せるは守護が為。

 王の盾なる生まれなれど、この身は一振りの剣なれば。

 斬るに徹するその前に立ち塞がること能わざる。

 【斬徹騎士(ざんてつきし)】フェリクス=ユーゴ=フラルダリウス。

 

 同盟よりは三人の若者。貴族と平民の織り成す新時代の風となるか。

 

 それは一つの魔の形。

 放つ魔法は尽きることなく。

 振るう刃を阻むものなく。

 数多の魔法、特異な剣技、全てを以て必殺と為す。

 【魔刃(まじん)】リシテア=フォン=コーデリア。

 

 それは一つの技の形。

 走る足は休むことなく。

 率いる隊は如何なる不利をも覆す。

 戦場を駆ける不屈の志は、全ての戦局を必勝と為す。

 【震展(しんてん)】レオニー=ピネッリ。

 

 それは一つの力の形。

 敵を討つ腕は止まることなく。

 往く道悉くに爪跡を残す。

 逞しき巨体が突き進み、全ての敵へ必倒と為す。

 【轍薙(わだちなぎ)】ラファエル=キルステン。

 

 帝国よりは三人の新生。広大な地を奔る活躍と凱歌を民は聞く。

 

 構える姿を追いかけろ。

 その後ろに危険はなく、その背中に傷はなし。

 前へ前へと往く益荒男は振り返らず。

 敵は倒し、味方は守り、進み続ける様はさながら動く要塞。

 【進撃の砦(しんげきのとりで)】カスパル=フォン=ベルグリーズ。

 

 踊る姿に目を奪われる。

 森を駆け、空を舞い、敵を討つのは剣、斧、弓。

 時に楽しく、時に勇ましく、民を励ます声、足、翼。

 異国より来たりて戦地を飛ぶ姫に見惚れるがいい。

 【戦翼の姫(せんよくのひめ)】ペトラ=マクネアリー。

 

 尽くす姿を称え給え。

 墜ちたる家名を背負うも誇りは投げ捨てず。

 武勇と優雅、掲げた使命を貫く眼は曇ることを知らず。

 民と国へ身を捧げる彼の生き様こそが貴族の鑑。

 【貴顕の徒(きけんのともがら)】フェルディナント=フォン=エーギル。

 

 フォドラに生まれし新たな英雄達よ。

 次なる未来を切り開け。次なる時代の柱となれ。

 民は、歴史は、そなたらのような勇者を待ち焦がれているのだから。

 

 ~~~~~

 

「……どうだったかしら先生?」

「すごいぞドロテア。聞いていてみんなの姿が目に浮かぶようだった」

「うふふ、ありがと。先生の前だから気合い入っちゃった」

 

 拍手するベレトの前でドロテアは優雅に一礼を返す。歌姫によるただ一人のための即席の舞台。人によっては羨望の対象になりかねない特等席だった。

 

 同盟の【烈女】ジュディット然り。

 王国の【灰色の獅子】グェンダル然り。

 戦場で大きな武功を上げた戦士には相応の栄誉が与えられてその名を轟かせるものだが、とりわけ分かりやすい活躍をしてみせた者はその内容に合わせた二つ名が語られる。それはその戦士にとって格別の称号だ。

 それは同時に、戦場でそれだけ多くの人がその戦士を見て、生きて帰り、話を広めようとするくらい畏敬の念を集めた証でもある。

 

 みんな本当に強くなったんだな──かつて自分が指導した生徒達を思い、ベレトは今の彼らと向かい合うために気を引き締めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……

 …………

 ………………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このように帝国内であれやこれやと活動した後、同盟への使者として出立したベレトは無事にクロードと再会し、面談の約束を取り付けることに成功する。

 帰還してからは再びエーデルガルトの力になるのか。もしくは流石の彼も一度休息を取るのか。

 そう思われていたベレトは意外なことを口にした。

 

「特訓がしたい」

「それは……(せんせい)が、ということ?」

「そうだ」

 

 ガルグ=マクで合流したエーデルガルトとヒューベルトの前でベレトは頷く。

 二階奥の作戦会議にも使えそうな講堂で、三人に加えてジェラルト傭兵団の面々が揃った場での発言だった。

 

「思うに帝国軍の中で俺は経験不足だ。いざ本格的な戦いが始まった時、今の俺では足を引っ張りかねない。時間がある内に五年分の不足を少しでも埋めておきたい」

「お言葉ですが先生、貴殿ほどの実力者が経験不足とは理解しがたいですな。傭兵として既に多くの戦場を渡り歩いてきたのではありませんか?」

「単純な場数で考えればそうだが、俺が知っているのは小競り合いと呼べる小規模な戦闘だけで、国と国がぶつかるような大規模な戦争は経験したことがない。その点では君達の方がずっと経験豊富なんだ」

 

 物心ついた頃から──この表現が彼に相応しいか疑問だが──傭兵という生き方に沿って育ったベレトは、ジェラルトに鍛えられたり、実際の戦場に出たり、戦いを身近にして生きてきた。なので単純な場数で言えば相当なものである。

 しかし本人が今言ったように、それはしがない傭兵が依頼で受ける程度の小規模な戦闘が精々であり、大軍同士がぶつかる国家間の戦争は未経験なのだ。

 

 フォドラで起きた大きな戦争と言えば、300年ほど昔にレスター諸侯同盟が興る切欠になった三日月戦争が最後だろう。

 それ以来、比較的安定していたこのフォドラでそういった経験が得られる戦場がなかったのは仕方ないことだ。

 

 ベレトからすれば、士官学校の課題で行った鷲獅子戦でさえかなり大規模な戦闘に思えた。自分が眠る直前にあったガルグ=マクの戦いも、一つの大都市を攻め落とすというこれまた大規模なもの。

 しかし、今の仲間達はそれ以上の戦場を経験している。そんな状態で彼らをきちんと指揮できると考えられるほどベレトは楽観視していなかった。

 

「なのでしばらくの間、帝国の活動から離れる時間が欲しい。クロードが使者を送ってくるまでの時間を使って、次の戦いが起きた時のために備えたいんだ」

 

 ベレトの助言によって考え方を変えたエーデルガルトが帝国の方針を変えたとは言え、それで戦争が終わるかと言うとそんなわけがないだろう。

 王国と教団とは今でも西部で睨み合っていて、いつまた戦端が開かれるか分からない。会談を取り付けた同盟だって、和睦が叶わず結局戦うことになるかもしれない。

 そのために備えて鍛えておかねば。戦わずに済むのならそれでいい。何もせず座して待つだけなのは愚かな思い込みである。

 

 同盟で直接相対したクロードを思い出す。あの時向かい合ったのはただの盤面遊戯だったが、戦場で向かい合うことになれば自分の裁量で動く軍が彼と戦うことになるのだ。

 いざ戦いになった時、及ばなかったでは済まされない。黒鷲遊撃軍の指揮を預かるベレトとしては急いで不足を埋めようとするのは当然のことだった。

 

 幸いにもベレトと気心が知れていて彼相手でも遠慮なく物申せるジェラルト傭兵団がいることもありがたい。指導役として彼らを連れていくのも併せて願い出る。

 

「いやー、まさかこの歳になってレト坊に教えることになるとはよ」

「かっかっか、ビシバシやって速攻で仕上げてやっからな」

「レト坊と修業、久しぶりー」

「そんなわけだからお嬢、またしばらくレト坊のこと借りるわ」

 

(何でしょう、どうも嫌な予感が……)

(ガロテさんもそう思いますか。僕も『押さえ』に回った方がいい気がします)

(ではジード君には扉側を頼みます。私は窓側を)

(分かりました)

 

 後ろでレンバス達が囃し立てるように声を上げる。既にベレトの考えは伝えてあるようで全員納得済み(?)に見えた。

 

「必要な工程だということは理解しました。それではしばしの間、先生がいない体制で我らは動きましょう」

「師が抜けた穴は大きいけれど、元々の私達に戻るだけだから気にしないで。貴方が必要だと思ったことなら協力させてちょうだい」

「……じゃあ早速お言葉に甘えようか」

 

 ヒューベルトとエーデルガルトが快諾を返すのを見て、ベレトが追加で申し出る。

 

「この特訓に誰かを連れていっていいか?」

「それは、遊撃軍の誰かをということ?」

「ああ。俺は遊撃軍の指揮官として戦うことになるだろうから、生徒と直接動きや意見を擦り合わせておきたいんだ」

「でしたら今は席を空けても影響がない者がいいでしょう。西部の戦線は王国と教団相手に気を抜くわけにはいきませんが……」

「クロードが同盟内で意見をまとめている今、東部はいくらか余裕があるわね。そちらから連れていくといいわ」

「実はもう選んで声をかけてある」

「あら、そうなの? 手回しがいいわね」

 

 とんとん拍子で話は進み、ベレト自身の特訓だけでなく追加で生徒を更に鍛える運びとなった。

 

 ベレトの特訓。そして生徒の指導。五年前の士官学校でやっていた授業とは違い、双方が高め合うという高度な訓練。

 仮称としてこれを『高度教練』と呼ぶことになり、後日折を見て他の生徒ともやれないか企画されることになる。

 

 その高度教練の一番手に選ばれたのが

 

「俺ってわけだな!」

 

 カスパルである。

 呼び出しを受けて東部の戦線を離れた彼は、配下のベルグリーズ戦団を引き連れてガルグ=マクに来ていた。同盟相手の警戒は父のベルグリーズ伯に任せて、己を鍛える機会に大喜びで飛びついたのだ。

 

「先生の訓練なんて授業でやった時以来だから楽しみだぜ!」

「よろしくなカスパル。君の経験も教えてくれ」

「もちろんだ。俺と先生で高め合う……うおおおお! 燃えてきたああ!」

 

 特訓の狙いを聞いたカスパルは大いに張り切り、大声で叫びながら講堂を飛び出していく。連れてきた自分の部下もまとめて鍛えるということになったので彼らに発破をかけに行ったのだ。

 

「そこまで時間はかけない。早めに区切りをつけるつもりだよ」

「ええ、分かってる……気を付けてね師」

 

 長引かないようにすると言うベレトに頷きを返すエーデルガルトだが、どこか物言いたげな表情だった。

 

 快諾したはいいものの、エーデルガルトとしてはちょっと不満がある。

 再会してから一節と少し経つ。その間、帝国を練り歩いた後はガルグ=マクとアンヴァルを往復するエーデルガルトと、例の移動力を活かして帝国中を飛び回るベレトとはほとんど一緒に行動できていない。

 運良く同じ場所で居合わせた時は一緒に食事を取ったりできたがそれとて数えるほどしかなく、すれ違う日々が続いているのだ。

 

 傍にいたいって言ってくれたのに──内心で思うも口に出せるほど子供でもないため、モヤモヤしてしまうエーデルガルトである。

 しかしながらベレトが自分のために張り切って色々な活動に手を出しているのも分かるので、そんな彼に我儘を言えるわけもなく。

 

 だからせめて彼の考えを少しでも知りたいと思い、特訓について聞いてみた。

 ……聞いてしまった。

 

「特訓ではどういうことをするの? やっぱり演習が多めなのかしら」

「それなんだが、俺自身の気を引き締める意味でもアイスナー式ブートキャンプをやりたい」

 

 その瞬間、ちょっとした騒ぎが起こった。

 

 まず最初にヨニックが腰かけていた椅子を蹴飛ばすように跳び上がり、入り口に向かって疾走。しかしその動きを読んでいたかのようにジードが彼に飛び掛かり、後ろから床に押さえつけた。

 ドナイを始め、壁際に立って話を聞いていた面々は一斉に目から光を失い、ある者は膝を付き、ある者は倒れ伏し、ある者は窓に手を伸ばし、その口から虚ろな声を漏らす。

 壮絶な空気を漂わせる彼らの中できょとんとした顔をするダンダの目を、後ろからガロテがそっと覆ってその場から遠ざける。

 

「放せえええジードおおおお!! 俺は! 俺は生きるんだあああああ!!」

「逃がしませんよ、地獄には一緒に落ちましょうねヨニック」

「ざっけんなてめえお前だけ落ちてろ! あんなのはもう御免だぞ!!」

「やだなあ、ジェラルト傭兵団は一蓮托生ってみんなで決めたじゃないですか。一人だけ生き延びさせてたまるか君も死ね」

「地獄とか死ねとかその気満々じゃねえかあああ!!」

 

「う、嘘だ……俺の番は、終わったはずだろ……」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

「はは、ここまでか……けっこういい人生だったかな……」

「おそらあおい」

 

「なんだよー、何も見えねえぞー」

「見なくていいものもあるんですよ……ダンダみたいな若い子はね」

「ガロテどうしたー? 声が死にそうだぞー」

「死にそう、ですか……そうですね、最初に死ぬのは私かもしれません」

「んー?」

 

 訂正。ちょっとどころではないパニックが起こった。

 

 いきなり揃って恐慌を見せるジェラルト傭兵団。彼らの様子にただならぬものを感じてエーデルガルトもヒューベルトも驚きと困惑を隠せない。

 それに対してベレトが調子を一切変えてないことがいっそ不気味でもあった。

 

「お、おいレト坊、本気か? 本当に俺達もやるのか?」

「やる。レンバス達がついてきてくれて嬉しい」

「いやでも、ジェラルトさんはもういねえんだぞ? うちのやつらは全員一度は経験してるし、またやっても効果は薄いんじゃ……」

「父さんからおおよそ教えてもらってあるし、細かい部分は俺の方で調整するから大丈夫だ。それに普通に鍛えるより確実に伸びると分かってる訓練があるならやらない理由はない」

「 」

 

 頬を引きつらせて口を出したレンバスに対して、ベレトにしてはやる気を滲ませた言葉が返ってくる。白目を剥きながら口をパクパクさせて言葉を失ったレンバスの表情は老齢の傭兵としての厳めしさなど欠片もなく、ただただ悲壮感に溢れていた。

 生徒を鍛える際の甘さを消した教師の顔をしたベレトはもう止められないと分かってしまったのだ。

 

 心なしかしれっとした顔をしているように見えるベレトを見れば嫌でも分かってしまう。

 ──こいつ、肝心な部分はわざと黙ってたな!

 自分達の頭として掲げたベレトの澄まし顔に一同から戦慄の視線が集まった。

 

「先生、彼らは一体……」

「いつものことだ」

「いつも?」

「この話題になるとみんなはいつもこうなる。父さんがこの訓練のことを口にした時も毎回似たような反応をしてたんだ。気にしなくていい」

「そう言われましても……」

 

 ヒューベルトの質問にも何事もないように答えるベレト。惨状と言ってもおかしくない光景でも彼にとっては騒ぐほどのものではないということだろうか。

 頭の中にある戦場で豪胆に戦う傭兵達と、目の前の阿鼻叫喚とも表せる彼らの姿が結び付かず、どうしても戸惑ってしまう。

 

 そんな光景から無理やり目を離したエーデルガルトはもう一つ気になっていたことを聞く。

 

「ところで師、今言った訓練はどこでやるのかしら。特別なことをするのなら人目に付かない場所を使うべきだけれど、当てはあるの?」

「ザナドとアリル」

「……え?」

「ザナドとアリルを使う」

「…………えぇ?」

 

 短く返されたベレトの言葉を聞いて二重に声を漏らしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ここで一つ質問をしよう。

 みなさんは覚えているだろうか。

 五年前。士官学校で生徒を指導することになったベレトが、教師に就くにあたって掲げた指導方針のことを。

 

 黒鷲の学級(アドラークラッセ)へフレンとモニカが加わった飛竜の節の最初の授業、ガルグ=マクの外周を走る体力訓練でベレトの口から改めて説明された中にもあったように、この一年はくどいくらいに基礎を教えると彼は宣言していた。

 言葉の通り、大樹の節(の末)から教師になったベレトは生徒達に基礎的な指導を施した。中でも体力の基礎である足腰と、知性の基礎である思考力は特に重視した。そのおかげもあって黒鷲の学級は確固たる地力を身に付けて、そこから飛躍的な成長を遂げることができた。

 ベレトは基礎と言ったが叩き込まれた分だけでも相当なものであり、多くの課題で役立った他、鷲獅子戦では頭二つ抜けた圧倒的な優勢で他学級を下すなど、黒鷲の学級にとって大きな支えとなったのは間違いない。

 その翌節以降も、青獅子の学級(ルーヴェンクラッセ)金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)にもベレトが考える基礎を叩き込み、実力を伸ばす土台を作り直した。それに併せてハンネマンとマヌエラの指導も他学級に行き渡ったことで生徒全体のレベルが上がり、結果としてかつてエーデルガルトが考えたようにフォドラ全体の地力が増すことに……と、話が逸れた。

 

 このように授業中のベレトの教えは基礎に終始し、それ以上の指導はやる気のある生徒が頼んできたら個別に応じる程度に留めた。ベレトの目端が限られた授業内であれもこれもと手を出してしまえば中途半端になりかねないので、確実に生徒全員の底上げとなる基礎を重視したのは良い判断だったと言える。

 ここで大事なのは、やる気に応じた個別指導を除けばベレトの教えは基礎にしか関与していないということだ。

 

 思い出してほしいのはフレンとのやり取りではなく、モニカが問い質した際の受け答え。

 

『ま、待ってください先生! そんな、走るにしたって森じゃなくて街道を使えばいいじゃないですか! わざわざ危ないところを走る必要はないでしょう!?』

『問題ない。滝を登ったり、谷を渡ったりすることはないのだから、基礎の範疇だと判断する』

 

 お分かりいただけただろうか。

 ガルグ=マクの外周を走る長距離走をする直前の会話で、滝を登ったり谷を渡ったりせず授業でやるのはただ森を走るだけの基礎だ、とベレトは返した。

 言い換えれば、基礎を活かして応用に臨むのなら滝を登ったり谷を渡ったりして鍛えるということである。

 

 ここでもう一つ確認させてもらおう。

 これからベレト達が向かおうとしているのはザナドとアリル。どちらも名前だけはよく知られた場所である。

 

 赤き谷ザナドはセイロス教における禁則地。底の見えない谷があちこちにあり、険しい斜面も多い。修道会に属する者にとってもみだりな立ち入りが禁じられた土地であり、名前以外の詳細は知られていない。

 五年前の課題で立ち入った当時、盗賊の残党を追い込むために進軍するのに足を取られて生徒達は苦労したものだ。ソティスに誘われてベレトが足を運んだ時は魔獣の群れに襲われたこともあり、宗教の聖域とするには似つかわしくない荒れた土地だと言える。

 

 アリル、別名煉獄の谷。かつて天から堕ちた光の杭によって作られたという逸話がある。裂けた大地から溶岩が噴き出すなど、煉獄の名に相応しい極熱の地。地面の至る所を火炎が舐め、あちこちに溶岩の滝すら流れる危険地帯だ。

 他人の目に触れるどころか人がみだりに足を踏み入れる場所ではなく、むしろ遠回りしてでも避ける。真っ当な感性の持ち主ならここに誰かを連れていこうなどと考えたりはしないだろう。

 

 断言できる。そんなところで行う訓練が()()()であるはずがない。

 

 提案したベレトが分かっているのは当然として、同行するレンバス達傭兵団の面々もジェラルトに鍛えられた経験から予想と覚悟はできて……まあその、一応、覚悟はできているはずだ。うん。

 問題はそこに着いていくカスパルと、彼が率いるベルグリーズ戦団である。

 

 応用の域に足を踏み入れるベレトの指導。それが一体如何なるものなのか。

 うぇるかむ、とぅ、ざ、アイスナー式ブートキャンプ。

 

 合掌(チーン)




 士官学校の時にやってた基礎の授業とは違う、応用の訓練が始まります。
 風花雪月はやっぱりメイン戦闘以外でどれだけユニットを鍛えられるかが大切ですからね。ここでベレトがきっちり仕上げて、本番に備えます。
 目指せ、完全勝利。

作者の活動報告に載せた後書き


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背負ったもの、未来を拓く

 久々な気がするバトル回です。
 原作の紅花の章でやったガルグ=マク防衛戦がモチーフ。


 その報は突如もたらされた。

 

「報告! 敵襲です! 旗印からしてセイロス騎士団と思われます!」

「何ですって!?」

 

 執務室に飛び込んできた兵の言葉を聞き、エーデルガルトは椅子を蹴るように立ち上がった。横で同様に聞くヒューベルトも目つきを鋭くして兵の報告に耳を傾ける。

 

「周辺警戒に出ていた部隊が北方から接近する大軍を発見、確認できた旗からセイロス騎士団であると断定。部隊は即時とって返しガルグ=マクへ帰還いたしました」

 

 跪いた兵の報告を聞き、危機感が満ちてくる。

 元より警戒していたことだ。セイロス教団にとって要地であるガルグ=マクを奪われたままレアがよしとするわけがない。再びこの地を取り戻さんと襲撃する日が来るだろうと思っていた。

 だが、よりにもよってこのタイミング。同盟との会談に向けて準備している今攻めてくるとは。将として恐れ入る判断である。

 

「北から……オグマ山脈はセイロス騎士団にとっては庭のようなもの。潜みながら進軍することも奴らならできるということね」

 

 拳を握り締めて呟くも余裕は少ない。

 

「陛下、御指示を!」

「敵の中に大司教、もしくはセテス、カトリーヌのような将官を見つけて、いるならそこに兵を集中させて少しでも動きを阻みなさい! 後は、アビスに伝令を。私の名前を出してユーリスを呼んで協力させて、市街の住民を地下に避難させるの! 各部隊と情報の連携を密に取りなさい!」

「はっ!」

 

 一礼した兵が執務室を飛び出すのを見送ってからエーデルガルトは机を叩く。

 

「できれば接近される前に気付きたかったのだけれど……」

「不利な戦いになりそうですな。ガルグ=マクの調査を急がせてはおりますが、まだまだ把握し切れていない通路や仕掛けも多い……恐らく我々の思いもせぬところから入り込まれるでしょう」

 

 五年前にガルグ=マクを制圧した時から調査を続けていれば少しは有利な状況で迎え撃てただろうが、この地を一度は手放し、最近になって改めて調べ始めてから幾らも経っていない。一帯への理解度は間違いなく帝国側が劣る。

 エーデルガルトが口にした苛立ちにヒューベルトも続けるが、嫌な時期を突かれたこと、敵の動きに対する称賛も込めた口ぶりは存外軽い。

 例え苦境に追い込まれようと関係ない。やるべきことをやるだけだ。

 

 しかし、懸念はある。

 ガルグ=マクに備えられた兵は帝国から派遣された精鋭ではあるが、襲い来るセイロス騎士団に対抗するには数が心許ない。

 守りに優れた要塞都市だとしても、相手はガルグ=マクを知り尽くしている騎士団だ。地の利が自分達にあると楽観できない。

 さらに、セイロス教の聖地を取り戻さんとする騎士団の士気は高いだろうと予想できる。精神的な勢いは大きな力を生むものだ。

 このように、セイロス騎士団と戦うに当たって不安材料は多い。

 

「防衛の戦力は?」

「守護に留まっているアロイス殿。遊撃軍からは陛下、私、都合よく訪れていたベルナデッタ殿。主だった面子はこれくらいですな。アビスに参戦を呼びかければバルタザール殿なら加わってもらえるかと」

「……(せんせい)は?」

「帰還の報告は届いておりません。姿が見えれば何を差し置いてでも報せるよう命じてあります。未だにないということは、つまりそういうことでしょう」

 

 ヒューベルトが挙げた名前を聞いて最低限の戦線は張れるかと考えはするも、続く言葉につい視線を落としてしまう。

 

 同盟とは会談の準備が進められていて、フォドラ東部への警戒は緩めて元からその地を治めるベルグリーズ伯に一任してある。

 代わりに王国と教団の連合軍を相手にする西部では、何としても大きな混乱を起こしてはならないこともあって多めに兵力を割いており、ラディスラヴァとランドルフに加え、黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)からフェルディナント、リンハルト、ペトラを配置している。充分な数を備えたからそちらは心配していない。

 帝国内の安定もこれまで以上に気を遣っていて、ドロテアとマヌエラが率いるミッテルフランク歌劇団が領地を巡っている。

 ある密命を任じられたシャミアは現在ガルグ=マクを離れている。イエリッツァを伴わせた今の彼女は帝国東部に潜伏しているので動かせない。

 

 となれば、やはり問題はここガルグ=マク。

 セイロス騎士団という強敵。万全を期して戦いたいところだが、フルメンバーとは言えない現状で相手をしなくてはいけない。

 そして何よりの気懸り。

 

(師がいない……)

 

 特訓のためにガルグ=マクを離れたベレトがまだ戻らない。彼と同行したカスパルも同様だ。

 

 特訓の場所にザナドとアリルを使うと言っていた。どちらもガルグ=マクの北部にある土地だ。北から進軍してきたセイロス騎士団と鉢合わせた可能性がある。

 まさか、彼らは既に交戦した? ベレト達を撃破してガルグ=マクに来たのか?

 いや、そんなはずはない。如何にセイロス騎士団と言えど、ベレトと戦って損害が出ないわけがない。もしそうならガルグ=マクを襲撃する余裕などなく撤退するはずだ。

 想像でしかない。こうであって欲しいという願望……冷静な思考ではない。

 

 師が負けるはずがない。

 師が死ぬはずがない。

 師がいなくなるはずが──

 

「エーデルガルト様」

「っ!」

「御気を確かに」

 

 ヒューベルトの声で意識を戻す。

 彼が陛下ではなく名前で呼びかける時、それは臣下ではなく従者としてエーデルガルトに進言する時だ。

 

 考え込む余裕などない。今は戦う時である。

 

「防衛戦を始める! 私達も出るわよヒューベルト!」

「はっ!」

 

 各所へ指示を出すためヒューベルトと共にエーデルガルトは執務室を飛び出した。

 

 五年間、ベレトがいなくても戦い続けてきた。その時と変わらない。

 そのベレトが帰ってきた今、全てがよい方向へ変わってきている。

 この流れを止めさせない。彼が示してくれた道を無駄にしてたまるものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガルグ=マクの北西。分かれて進軍させた部隊を、都市の外壁が見える位置で集結させたセイロス騎士団は最後の準備を進めていた。

 

「あそこで暮らしていたのが、昨日のことのようだな……」

 

 遠目にガルグ=マクを見てセテスはしみじみと呟く。

 

 部隊の再編成を済ませて、今は一息入れていたところだ。この後に激しい戦いがあると予想して他の騎士達にも力を溜めるように言ってある。

 一部の部隊がまだ合流できていないのだが作戦時間に変更はない。集結できた戦力で攻める予定だ。

 

「愚か者たちに示さねばなるまい。ガルグ=マクを侵した業の深さを……!」

「でも、向こうには先生もいますわ。この戦いでもきっとぶつかります」

 

 強い言葉に静止をかけるように傍に立つフレンが言う。

 大修道院に向ける彼女の目はセテスとは違って不安の方が大きい。

 

「分かっている……フレンを救った恩人で、私にとっても友人と呼べる相手だ……」

 

 意気を落としたセテスは俯いてしまう。彼にとっても悩ましいことだから。

 

 ベレト。

 ジェラルトの息子にして、自分達眷属に連なる親族とも言える存在。

 フレンの命を救い、自身の頑なな私見を広げてくれた大恩人。

 任務に協力してくれて、肩を並べて戦った戦友。

 他人に隙を見せられないセテスにとって、数少ない気を許せる友人である。

 

 だが、レアが狂乱した理由がベレトの行いが原因であることは明白。聖墓を襲った帝国に味方するという暴挙はセテスとフレンにも絶大な衝撃を与えたのだ。

 信じられなかった。いや、信じたくなかった。友が裏切ったなどと、考えたくもないことだ。

 それでも怒りを露わにして剣を取ったレアを見れば信じないわけにもいかず、直後にあった帝国軍との戦いの中でエーデルガルトに味方するベレトを認め、二重に衝撃を受けた。

 

 その後は何故か五年に渡って行方が分からなかったが、最近になって急に方針を変えた帝国について調査すると浮かび上がった姿に気付く。

 翠の髪と翠の瞳。レアと同じ色を持つ黒衣の青年と言えば一人しかない。

 帰ってきたのだ。我らの友が。

 

 ベレトが神祖の器として生み出された人間だということはレアから聞いている。禁忌を犯した彼女を責める気にはなれず、さりとてベレトを詰る気にもなれなかった。

 レアから期待を寄せられ、天帝の剣まで託されたベレトがエーデルガルトの邪心に引きずられてしまったのかと考えたのだが、どうしてもそう思えなかったから。

 

 セテス自身が見聞きしてきたベレトという人間は、無表情であっても他人を助け、感情がないように見えても常に誠実であり、確かな善性の持ち主だった。

 厳しい授業で生徒をしごきながらも、いつだって彼らを守り導いた教師だった。

 その揺るがぬ姿勢は自分もフレンも信頼を寄せられるものだった。

 そんなベレトが、本当に変わってしまったのだろうか?

 

 レアのことだって気にかかる。彼女が苛まれているのは紛れもない事実だが、その彼女の心も揺れている。

 再びガルグ=マクを占拠した帝国を許してはおけないとこうしてセイロス騎士団を差し向けることになったにも関わらず、レア自身はこの部隊にいない。

 彼女は西部で睨み合う帝国軍本隊を引き付ける陣営に加わり、ガルグ=マク奪還はセテスに任せることにしたのだ。

 ベレトと顔を会わせるのを避けるように。

 あれだけ怒りを向けていたベレトが姿を現したというのに。

 その心臓を抉ってやると息巻いていたというのに。

 これではまるで、レアも今のベレトを討っていいのか分からず迷っているみたいではないか。

 

(もはやこの戦い、勝っても負けても元の教団には戻れないのかもしれんな……)

 

 幾つもの迷いを抱えて、それでも戦わねばならない状況に胸が痛む。

 ガルグ=マク奪還のための戦いに臨もうというのに、心からの力が湧いてこない。

 

「……お兄様?」

 

 黙り込んでしまったセテスを案じてフレンが見上げてくる。その視線を受けて、何よりも大切な想いだけは揺らがせてはいけないとセテスは思い直した。

 

「フレン、今やお前の実力は誰もが知るところだ。私もお前の力を信じている。それでも決して油断するな。前に出すぎてはいかん。お前に何かあれば……私は生きていけない」

「も、もちろん分かっていますわ。わたくしだって、お兄様に何かあったら生きていけません」

 

 騎士団の中でも指折りの魔法使いに数えられるにまで成長したフレンは、戦力的な意味でも重要である。

 それ以上にセテスにとっては生きる意味そのもの。絶対に失いたくない。

 そしてそれはフレンにとっても同様で、彼女の言葉を聞いてセテスもまた覚悟を決める。

 

「……先生と戦わずに済む方法は、ないのかしら」

 

 しかし、続くフレンの呟きに返せる言葉をセテスは思いつけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして始まった戦いは拮抗した。

 このガルグ=マク攻略の要点をどちらも理解していることもあって、両陣営は同じ目的でぶつかることになったのだ。

 

 セテスは叫ぶ。

 

「空を抑えろ!!」

 

 自身も駆るドラゴンの部隊に指示を飛ばし、制空権を奪わんと声を張り上げる。

 

 対してエーデルガルトも叫ぶ。

 

「空を抑えられるな!!」

 

 皇帝自ら大型種のドラゴンを駆り、前線で斧を振るいながら声を張り上げる。

 

 ガルグ=マクは都市そのものが要塞のように堅固な作りになっている。外壁から大修道院のあるところまで何層もの防御壁があり、それぞれに対空迎撃用の砲台まで備えてある。

 元々の作りに加えて、帝国軍により補修されたこの都市を地上戦だけで攻め落とすのは難しい。

 

 五年前の襲撃でガルグ=マクが攻め落とされた時、その経験は勝者側の帝国と敗者側の教団どちらにも大きな教訓を与えていた。

 即ち、この都市を攻略するには地上戦と空中戦を同時に進めなければいけない、ということ。

 

 外壁に市街と遮るものが多い地上を急いで進もうとしても空から襲われて侵攻は遅れる。かと言って空中の戦いに気を取られてしまえば地上からの対空射撃に手間取られる。

 帝国軍がガルグ=マクを落とした時のような圧倒的な物量による攻め方はセイロス騎士団にはできない。効率よく、同時侵攻が求められた。

 

 そして、地上戦と空中戦を連携して攻めるのは練度の高いセイロス騎士団には問題なくできることだった。

 

「撃ちます撃ちます西側上空撃って撃って! ああ下も下も、撃ちまくってえ!」

 

 弓矢を連射しながらベルナデッタが叫ぶと、彼女の矢がそのまま攻撃先の指示になると知っているヴァーリ弓兵隊が一斉射撃でセイロス騎士団の進軍を遮る。

 それでもベルナデッタ一人が率いる弓兵隊だけでは相手の飛行兵を押し留めるには手数が足りないようで、地上戦と併せてじわじわと戦線を押し込まれつつあった。

 

「ヒューベルトさんまずいですよう! あたし達押されてますって!」

「そのようですな。伏兵を潜ませる暇もなかったのが惜しまれます。このままではジリ貧かと」

「落ち着きいいい!? でもでも、そういうとこ頼もしいです!」

「くくくっ……では私は逆転の手を探りますので、牽制をしばらくの間ベルナデッタ殿に任せるとしましょうか」

「無茶振りいいい!? いやいや、ベルだけじゃできませんよ!」

「死ぬほど辛いのとここで死ぬのでは前者の方がマシでしょう? 今は貴殿に期待していますよ」

「んぎゃあああみんな撃ちまくって倍撃ってえええ!!」

 

 並んで魔法を放っていたヒューベルトが何らかの策を講じるべく持ち場を離れたので、その分を補うためにベルナデッタが頑張ることになったらしい。

 いきなり二倍に増えた仕事に涙目になりながら弓を引く隊長を支えるため、弓兵達は次々に矢を放ち続けた。

 

 ヒューベルトが言うように準備のための時間がなかったことも苦戦の理由ではあるのだが、それ以外にも問題はあった。

 本来なら数で勝っているはずの帝国側が、セイロス騎士団に数で劣っているのだ。

 

 ここでエーデルガルトの政策が仇となった。

 それは五年の間に行った帝国内の変革の一つ、早天馬のことである。

 

 ペガサスナイトの多くを兵役から外して各都市間の流通に当てたことにより、帝国内の連絡網が大きく強化されたのはいいが、兵役から外したのだから当然戦力はその分落ちた。

 貴重な空中戦力を補うようにドラゴンナイトも鍛えられたが、抜けた穴は大きく、元通りにできたとは言い難い。

 この空中戦力の低下が響いていた。

 

 単純に数字で表すなら、以前の帝国ではペガサス100、ドラゴン100とバランスよく配備されていた。それがペガサスを20まで減らされ、急いでドラゴンを130に増やしたものの差し引き150。

 対してセイロス騎士団はペガサスもドラゴンも変わりなく100ずつ運用できているので、これまで通り合わせて200の飛行兵を有している。

 

 戦争とは基本的に数のぶつかり合いだ。数の差がそのまま戦力の差になる世界。

 それでも防衛側であり、ガルグ=マクという堅牢な都市で受けて立つこともあって並の戦力なら今の帝国でも撃退できただろう。

 セイロス騎士団ほどの強敵相手にはそうはいかなかったのだ。

 

 地上でも厳しい戦いが繰り広げられていた。

 アロイスを筆頭に帝国側が押し返せそうになっても、即座に力を取り戻した騎士団によって逆に押し返される展開が何度も続いているのだ。

 その原因は、戦場となった市街を走り回るフレンの存在だった。

 

「治します──ライブ!」

 

 前衛で怪我をした騎士を走り抜け様に回復魔法で癒し。

 

「近付かせません──リザイア!」

 

 後衛に迫ろうとした帝国兵から走って距離を保ちながら攻撃魔法を撃ち。

 

「みなさんしっかり──レスト!」

 

 押し込まれて動揺した騎士団の味方に走り寄って浄化魔法で落ち着かせ。

 まさに八面六臂の大活躍である。

 

 先ほどセテスが言ったように、セイロス騎士団の中でも指折りの魔法使いへと成長したフレン。その特徴は他にはない戦い方だ。

 彼女はとにかく走る。走って、走って、走りまくって、足を止めない。そうして足を止めないまま自分の周りに白魔法を振り撒く。これは魔法を使う者からすればとても真似できない驚異的な戦闘スタイルなのだ。

 

 魔法とは深い集中を以て発動し、この世に神秘をもたらす術である。なので普通、使う時には足を止める。そうでなくては集中なんてできないし魔力と時間の無駄だ。

 なのにフレンは走り回りながら必要な魔力を操り、動きながら魔法を放つという離れ業をやってのける。彼女の極めて高い白魔法適性が為せる業か。

 

 しかしそれ以上に、魔力のみならず凄まじい体力がなければこんな動きが続くわけがない。

 あのフレンが。

 セテスに守られて大修道院に引き籠っていたあのフレンが。

 授業で外周を走れば吐くほどひ弱だったあのフレンが。

 今や屈強な騎士団の誰よりも走る健脚の持ち主へと成長している。

 

 それは彼女の中に刻まれた教えの一つ。

 

『いいかフレン。苦しくても、遅くなってもいいから足を止めるな。どんなに遅くても前進を続けていれば必ず目標に近付ける。止まることだけは、やっちゃだめだ』

 

 あの日、ベレトから教わった心得。

 彼の教えがフレンの中で結実した形。

 

(みなさんをお守りする、その目標に近付くために、わたくしは止まりませんわ!)

 

「しっかりしてくださいませ! 今治します──リザーブ!」

 

 ヒューベルトが講じた火攻めの策で受けたダメージも、すぐに走り寄ったフレンが放つリザーブによってまとめて癒された。魔力が届く範囲内の味方全てを回復させる上級回復魔法で崩れかけた騎士団はすぐさま立て直される。

 前線を走り回り、各所で白魔法を放ち、戦場でどこまでも止まらないフレンはセテスに並ぶセイロス騎士団の柱と言えた。

 

 拮抗していた戦況も、徐々に傾いてきた。流れはセイロス騎士団が握りつつある。

 

「好機だ! 全体を押し込め!!」

 

 機を見逃さないセテスの号令で騎士団が活気づく。

 タイミングは見事であり、素早く動いた部隊に帝国兵が押されるところを見たエーデルガルトは空中でドラゴンを飛ばしながら歯噛みする。

 

 まずい。

 本当にまずい。

 このままでは負ける。

 指揮に専念するべきだったかとも考えたが、飛行兵の穴を埋められるのが他にいないので自分がドラゴンに乗って戦うしかなく、この采配は間違っていないはず。

 アロイスもバルタザールも頑張ってくれている。最前列で体を張って、数が劣る帝国側をその戦いぶりで鼓舞してくれた。

 戦力差がある空中戦を持ち堪えさせてくれたのはベルナデッタの対空射撃だ。それもこれ以上長く続かない。彼女の狙撃力があっても範囲が広すぎる。

 乾坤一擲の策だったヒューベルトの火攻めも、出だしをフレンの活躍で抑え込まれてしまい、ほとんど効果が出せなかった。

 

(負けるの? せっかく(せんせい)のおかげで未来が見えてきたのに……こんなところで終わってしまうの?)

 

 私にはできないことだったのか。

 彼の手が少し離れてしまっただけでこれだ。

 ガルグ=マクも、帝国も、フォドラも、私には何も守れないのか。

 

 にわかに湧いた不安と恐怖が胸を過ぎるが、斧と手綱を握り締めてエーデルガルトはドラゴンに加速を指示。

 諦めるな。そんな弱気は彼から教わっていない。

 信じるの。最後の一時まで戦うのはずっと決めていたことだ。

 

(……師!!)

 

 胸に溢れるものを押し流すようにエーデルガルトは無言で叫ぶ。

 今一度、彼を信じると決めた。それだけでいくらでも戦える。

 彼は、ベレトはきっと応えてくれる──

 

 

 

 

 

「止まれええええええええええ!!!!!」

 

 

 

 

 

 ──ほら、来てくれた。

 

 それは凄まじい大声だった。ガルグ=マク全体に響く鐘の音にも負けないくらい、戦場となった市街にも轟く大音量。

 帝国兵も、セイロス騎士団も、そこにいる全ての者の耳に叩き込まれた制止の声。

 

 それに真っ先に反応したのは人ではなく、

 

AGRRUUU(あーいけません)GRUAA(いけません)GRYYYOOOOOAAAAA(あーいけません(゚Д゚;;ヽ)≡(ノ;;゚Д゚))!!」

VRRU(脳汁が)VRRU(脳汁が)GRROAAARRUUU(溢れりゅー(´Д`;)≡(;´Д`))!!」

VAOVAOVAOVAOVAO(あばばばばば(・ω・`;)≡(;´・ω・))!!」

 

 空を飛び交うドラゴン達だった。

 空中戦の只中であったはずの飛行兵、その中でドラゴンばかりがまるでパニックでも起きたように忙しなく喚き出したのだ。

 途端に制御を失ったドラゴンナイト達は驚き、戸惑いながらも手綱を握って落ち着かせようとするのだが恐慌に陥ったドラゴンは言うことを聞く様子はなく、中には騎手を振り回すくらい暴れるものもいた。

 

 そしてほぼ同時に、ドラゴンの中でも一部だけが違う反応を見せる。

 

GRRRAAA、GORRUUOOO(ご主人の番が目に物見せたぞー(叫゚Д゚))!!」

「「「GGRRRYYYAAAAAAAA(いやっふううう(・(・ω(`・ω・´)ω・)・))!!」」」

VRAA(野郎共)VVROOOOOO(神の後に続けー(叫`Д´))!!」

「「「VVRRRYYYOOOOOOOO(いよっしゃあああ(・(・ω(`・ω・´)ω・)・))!!」」」

 

 エーデルガルトが騎乗するドラゴンが大きく鳴くと、周りの帝国ドラゴンが盛んに吼え立てた。

 

 声の出所を探ったエーデルガルトが見たのは、ガルグ=マクで最も高い塔の上。強風に外套をなびかせたベレトがそこから飛び降りる姿だ。

 

「師!」

「エーデルガルト! ()()()()()()()()! ()()()!」

「了解!」

 

 彼の声に即答したエーデルガルトは手綱を引く。急な方向転換の指示なのに驚くほどスムーズに応じたドラゴンは、空中で混乱する他のドラゴンに向かって飛んだ。

 

 泣き喚くドラゴンを落ち着かせようとしてもパニックが治まらないばかりか、ついにはその背に乗せた騎兵のことを振り落とす個体がいた。

 当然、飛ぶ術を持たない人間は空中に投げ出されれば落下するしかない。

 

「う、うわああああ!!」

 

 為す術もなく墜落死するしかなかった騎兵。

 しかしその下にエーデルガルトのドラゴンが滑り込み、その者を助けてみせた。

 

 片手で襟首を掴んで助けた彼はセイロス騎士団の一人だった。

 

「わああ! わ、あああ!」

「落ち着きなさい! 暴れると落ちるわ!」

「え……お、お前は、エーデルガルト!?」

 

 助けられたことに遅れて気付き、見上げた彼がエーデルガルトに驚く。

 敵である自分を何故助けたのか。そんな視線を向けられてもエーデルガルトは答えず、近くの家屋に飛ぶようにドラゴンに指示を出す。

 

「命は大事にしなさい!」

「わあ!?」

 

 家屋の屋根に乗るように騎兵の襟首を放す。落とされた彼は尻餅をつく痛みの他は何も傷を負うことなく生き延びた。

 

 呆然をする彼を置いてドラゴンを飛ばしたエーデルガルトが見たのは、遠くで立体機動で飛び回るベレト。

 縦横無尽に空中を動き回り、ドラゴンから振り落とされた人を次々に助けていく。すくい上げるのが間に合わなくても天帝の剣を伸ばし、直接ワイヤーを巻いて体を引き上げ、屋根なり地面なり安全な場所に置いては再び誰かを助けに飛び上がる。

 エーデルガルトが一人助ける間に彼は十人助けていそうな勢いだった。

 

 全員。そう言った通りにベレトは帝国もセイロス騎士団も関係なく、ドラゴンから振り落とされた人を全て助けようというのだ。

 

「帝国の勇士達よ、ガルグ=マクを無用な血で染めるな!! 私に続け!!」

 

 真意は分からない。だが彼の言葉であればエーデルガルトに疑いはない。

 活気づいた帝国飛竜隊にも指示を出してベレトの後に続いた。

 

 ベレトが現れ、彼の一声でドラゴン達がパニックに陥ったことで戦況は一変した。

 空中戦は大混乱だ。喚くドラゴンから落とされたり、自己判断でドラゴンから飛び降りたりした騎兵達を帝国兵が捕縛していくと、飛行兵の数は目に見えて減っていった。

 エーデルガルトのドラゴンように言うことを聞く個体に乗る者は空中で救助に向かい、時には暴れるドラゴンを抑えつけて鎮圧を試みる。

 そうして空中戦が停滞に陥ると地上戦の方でもセイロス騎士団の優勢は変わり、戦場の動きまでもが止まってしまう。

 それが勝負の分かれ目だった。

 

 同じく暴れるドラゴンから振り落とされたセテスは、上手く着地して空を睨む。

 体一つで上空を飛び回るベレトを認めると苦々しく表情を歪めた。

 

「ベレト……ついに来たか!」

 

 今まで現れなかったのは機を見計らっていたからか。そう考えるセテスに味方の騎士が近付く。

 

「大変ですセテス様!」

「何事だ?」

「東より帝国軍の別動隊が現れました! 【進撃の砦】です!」

「カスパルか!」

 

 報告されたのは敵の増援。ガルグ=マクの東側にカスパルが参戦したことだった。

 ベレトと一緒に潜んでいたのか。カスパルの性格からしてそういった手は取りそうにないが、ベレトの指示なら彼も従ったのか。

 

 そして頭の中で戦場の位置関係を把握したセテスは焦りを覚える。

 

「いかん! この状況は……」

 

 ベレトが現れる直前までは、空中戦と地上戦のどちらもセイロス騎士団が押していた。好機と見たセテスが押し込む指示を出したことで騎士団の各部隊は敵に向かって突撃する隊形を取っていた。

 そこにベレトが現れ、空中戦を乱し、地上戦も合わせて止めてしまった。騎士団は今、突撃のために隊列が縦に伸びている。

 同時に現れたカスパル率いる帝国の増援は東に、縦に伸びたセイロス騎士団の真横に位置しているのだ。

 

 これが何を意味するか。

 

「よっしゃあ、いくぜお前ら!! 飛び込めええ!!!」

「「「「「おおおおお!!!」」」」」

 

 両の拳を合わせて気合いを入れたカスパルを先頭にして、ベルグリーズ戦団とジェラルト傭兵団が戦場に雪崩れ込んだ。

 縦に伸びて固まった敵勢の横っ腹に向けて一斉突撃。

 突進攻撃が戦果を上げるには最高の条件を満たしたタイミングで彼らは参戦した。

 

 完全に虚を突かれたセイロス騎士団はまともに突撃を食らってしまい、飛び込んできたカスパル達によって次々に倒される。

 カスパルを筆頭に、ベルグリーズ戦団の肉弾戦で敵ごと押し倒す猛攻が並み居る騎士達を昏倒させていく。

 足並み揃えたジェラルト傭兵団も同じく戦い、押し倒し踏み倒し殴り倒すだけに留めて走り抜ける。

 彼らは()()()()()()()()()戦場を駆け抜けた。

 

 戦場を横一文字に突っ切る彼らが次に遭遇したのは騎士団の柱。

 

「カスパルさんですのね……!」

 

 突然現れて戦場を止めたベレトに続き、突撃を仕掛けてきたカスパル達に気付いたフレンはすぐに魔力を集める。戦う覚悟を決めたからには相手の別は関係ない。元同級生と言えど、敵ならば戦うだけ。

 そうして白い魔力を込めて身構えるフレンに、一団の先頭に立つカスパルも同時に気付く。

 

「フレンか、やる気だな!?」

「わたくしも引いてはいられないのです──エンジェル!」

 

 苦し気に表情を歪めながらもフレンは光の中級攻撃魔法エンジェルを放つ。それに合わせて彼女の周りの魔法兵も、炎の集団魔法を発動させる。

 複数の魔法がカスパルに襲い掛かると、彼も両手を白く光らせて迎え撃った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十日ほど時間を遡る。

 

「それで先生! これから何を鍛える特訓をするんだ?」

「魔法だ」

「え、魔法? 俺が?」

「そうだ」

 

 煉獄の谷アリルのすぐ近くで拠点作りをベルグリーズ戦団に任せ、主立って動くカスパルとベレトは二人でこれから始める特訓内容について確認していた。

 そこで告げられたのは、カスパルは魔法を鍛えることだった。

 

 ちなみにジェラルト傭兵団はアリルに着く前に一度別れ、ザナドに寄って『使えそうなもの』の確認をしてから合流することになっている。

 

「でも先生、俺って魔法はからっきしだぜ」

「全く使えないわけではないだろう。腕がなくて武器が持てないから武器を使うのは諦める、とかそういう状態じゃない。君にも魔力はある。鍛えればちゃんと使える」

「いやまあ、そりゃそうだけどよ……」

 

 ベレトの言葉に、カスパルは首を傾げた。

 彼の指導の腕前はよく知っているので特訓は望むところではあるが、告げられた内容がすんなり呑み込めなかったのだ。

 

 肉体的な能力なら自信はある。その手の戦闘指導なら喜んで受けるところだが、これが魔法面となると話は別である。

 士官学校に行くより前から分かっていることだが、カスパルは魔法が苦手なのだ。

 苦手分野に挑むことに尻込みしてしまうと言うより、苦手だと分かり切ったことに今さら手を出したところで強くなれるか、どうしても疑問が先に立つ。

 

「カスパルの得意分野にこれ以上俺が口を出す必要はない。君の力は知ってるし、これまでの戦績も確認したから戦い方も分かってる。その上でカスパルの長所を伸ばすためには魔法を鍛えるのが有効だと思った」

「先生がそう思ったんならそうなんだろうけど……あ、先生が思う俺の長所って?」

「戦場で【進撃の砦】とまで謳われるほどの打たれ強さだ。突撃の先陣を務めたり、撤退する時は殿(しんがり)に立ったりして何度も味方を守っただろう。それでいてこうして五体満足に生き延びてきたんだ。すごいことだよ」

「そ、そうか? へへっ、先生に褒められると嬉しいぜ!」

「その打たれ強さをさらに強化させる。魔法はそのための手段だ」

 

 褒められたことに嬉しくなって鼻を擦るカスパルだが、続いた魔法という言葉にやはり首を傾げてしまう。

 

「よく分かんねえや。だって俺の魔法、飛ばないんだぜ?」

 

 士官学校の授業もそうだが、入学する前の実家でも貴族に生まれたカスパルは貴族として一通りの教育を受けている。当時から体を鍛えるのは好きで、頭を使う勉強は嫌いだった。同時に、彼は魔法の素養も調べてある。

 

 その時にもう判明している。カスパルに魔法を使う才能はない。

 もう少し具体的に言うと、彼には魔法を()()()才能がないのだ。

 この点については自他共に理解していることだ。いっそ絶望的と言っても過言ではないくらい彼の使う魔法は飛ばないのである。

 

 魔法は魔力の強弱に由らず行使そのものはできるので、カスパルもまるきり使えないわけではない。士官学校の理学の授業で、実際に放つところをベレトも見たことはある。

 10メートルほど離れた的に向けて、長めの集中の末に放ったカスパルのファイアーは瞬く間に霧散してしまい、何の成果も上げられなかった。

 その距離、なんと50センチ弱。放てたと思ったら1メートルも飛ばず目の前であっさり消えてしまった火の玉をカスパル本人が笑い飛ばしたほどだ。

 そんな魔法を当てようと躍起になって近付くくらいなら、同じく近付いて殴るなり蹴るなりした方がよっぽど早い。

 

 この時点でカスパルが魔法を鍛える利は薄いとベレトも判断し、斧術や格闘術を重視するよう伝えていたので、流石先生話が分かるぜとカスパルも喜んだものだ。

 それを今さらになって鍛えることになるとは、はてさてどういうことか。

 

「その説明をする前に、君の長所についてもう少し話しておく」

「おう」

「二つ名を付けられるほどの打たれ強さとなれば、戦場で様々な攻撃を受け止めてきただろう。俺が思うにカスパルの打たれ強さは士官学校の同期の中でも随一だ」

「んー、そこまで言ってくれるのは嬉しいけどよ、ラファエルとかドゥドゥーには敵わねえと思うんだよな。あいつら体でっけえし」

「そんなことはない。君の防御力はラファエルとドゥドゥーより上だ」

「え? でも俺ってあいつらより体小さいぜ?」

「体格はそうでも体質は違う」

 

 今話題に上がったラファエルもドゥドゥーも、平民の生まれながらその体格は非常に恵まれており、それに比例して肉体的な防御力が優れている。半面、魔法的な防御力はと言うと明らかに弱い。

 この二人は魔法で攻められると弱いという明確な弱点がある。

 

「あ、俺は生まれが……」

「そうだ。君はベルグリーズ家の出身だ」

 

 その二人に対し、紋章こそ発現していないものの、平民生まれの二人とは違って貴族の生まれであるカスパルはその身に確かな魔力的素養が眠っている。

 これは貴族の権力云々などの付加価値ではない。生まれによる差、血筋による違いであり、確かな利点だ。

 

 戦場で受ける攻撃が武器一辺倒であるはずもなく、魔法による攻撃も今まで数多くあった。味方を守ろうと身を挺したこともあった。そんなカスパルが砦と称されるほどの二つ名を付けられたのは、守備のみならず魔防の打たれ強さもそれだけ優れていることに他ならない。

 武器と魔法、どちらも受け止められる総合的な防御力がカスパルの長所なのだ。

 

「おお……こうして言葉で説明されるとより実感が湧くなあ」

 

 そういやあ魔法もけっこう受けてきたっけ、と呟いて自分の体を見回すカスパル。

 

「あれ? それがなんで俺が魔法を鍛えるってことになるんだ?」

「今から説明する。これから君が鍛えるのは白魔法だ」

 

 思い直したカスパルが改めて首を傾げ、ベレトが少し遠回りになってしまったと話を戻す。

 それから特訓の内容、修得する技術、目指す型を説明され──

 

「ということで、カスパルには今からライブを使いまくってもらう」

「………………なあ先生、まさかアリルに来たのって」

「火傷を治す回数には困らないだろう。部隊を動かす指揮練習もしながらできるぞ」

「やっぱりかよ! どんだけ使うことになるんだ!」

「君も一緒に走り回るからな」

「俺も!?」

「いつも部隊の先頭に立って戦うんだろ? 君の火傷は俺が治すから心配いらない」

「だよなあ! 俺いっつもそうやってるもんなあ!」

 

 程なくして合流したジェラルト傭兵団と拠点作りを終えたベルグリーズ戦団を引き連れ、気合いを入れた無表情のベレトと引きつった表情のカスパルが率いる彼らはアリルへと足を踏み入れた。

 

 そんなこんなで始まったアイスナー式ブートキャンプ。

 一部、声だけ本邦初公開。

 

「二人追加」若ぁ……すみません……

「うおおおおお! 手が足んねえええ!!」

「四人追加」レト坊……てめえ、覚えてろよ……

「あぢいいい! 溶岩避けらんねええええ!!」

「三人追加」これが【灰色の悪魔】の訓練なのか……

「だああくそおおお! せめて片手で使えりゃ二人ずつできんのに──あ、できた」

「六人追加」シテ……コロシテ……

「ああああああ! お前ら二列に並べえええええ!!」

 

 さらにザナドへ場所を移して。

 

「巨狼が出た。部隊を左右展開」

「「「「「抑えろおおおおお!!」」」」」

「巨鳥二体、東から出現。対空警戒」

「「「「「走れえええええ!!」」」」」

「はぐれ魔獣は俺が相手する。毒のブレスに巻き込まれないように」

「「「「「避けろおおおおお!!」」」」」

「北から巨狼、巨鳥、計三体。足を止めるな」

「「「「「止まったら死ぬううううう!!」」」」」

 

 ジェラルト傭兵団が予めこの地に住み着いた魔獣を調べ、それを相手に立て続けに戦うという、とてもとても厳しい(普通に死ねるレベルの)戦闘を行った。

 死地と呼んでもおかしくない戦場を生き延び、その間にあったハプニングも乗り越えた彼らは自信と実力(とベレトへの畏怖)を備え、ガルグ=マクへと帰還したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「来いやぁ!!」

 

 迫る魔法に向けて、白く光る拳を振るうカスパル。

 エンジェルの光弾を殴り落とし、返す拳で続く炎を散らす。続けて引き絞った正拳を次々に繰り出し、自分達に襲い掛かった魔法の全てを先頭の彼一人が拳でかき消してしまった。

 

「……はぇ?」

 

 一瞬、目の前で起きた事が理解できないフレンが気の抜けた声を漏らす。

 受け止めて耐えるのはなく、避けてやり過ごすのでもない、力尽くで相殺するやり方で防いだカスパルが信じられなくて困惑してしまう。

 走り続けてきた彼女が足を止めてしまうほど衝撃的な光景だったのだ。

 

 しかしすぐに思い当たる。今のカスパルの動き、魔法の防ぎ方をフレンは知っている。

 

(あれは……先生のやっていた防御ですわ!)

 

 向けられた魔法を、瞬時に発動させた自分の魔法で相殺する。敵の狙いを一瞬で把握し、魔法も含めた戦闘の流れに精通していなければできない高度な防御法だ。

 そういった高度な魔力操作をカスパルは修得したというのか。いや、似ているが少し違う?

 

「はっはあ!! 俺は止まらねえぞ!!」

 

 魔法を打ち消した両手に軽い火傷を負った程度で碌なダメージも見られないカスパルは、その白く光る拳を振るって突撃を再開した。

 ようやく突撃に対応して隊の向きを変えられたセイロス騎士団だったが、敵の勢いを止めることはできず、続けて襲い掛かるカスパル達によって同じように殴り倒されてしまう。

 

 素早く距離を取れたフレンは突撃に巻き込まれずに済んだが、敵に勝手を許したことが悔しくて顔を歪めた。

 それでも目を背けず、カスパルの戦いぶりを観察して気付く。

 

 敵勢に一斉突撃、それも先頭に立つカスパルが無傷でいられるわけもなく、一瞬すれ違ったフレンの目でも分かるくらいのダメージはあった。

 そんな彼が白く光る拳を振るう度に自分にも親しみのある魔力が弾け、傷を癒す回復魔法の効果が表れているのだ。

 

(まさかあれは、リザイア!?)

 

 カスパルが魔法を苦手としているのは知っている。士官学校の同級でなくても彼を知る人なら誰でも覚えているだろう。

 そのカスパルが初級とは言え、白魔法を使って戦っている。その事実がフレンには驚きだった。

 

 魔法を遠くに飛ばせないなら近付いて使えばいい。

 近付いて使うならそのまま殴ってしまえばいい。

 馴染みのある接近戦で使えば、手で殴るか、足で蹴るか、魔法で戦うか、体の使い方の問題だと捉えて苦手意識も薄れたようで、新しい型として定まった。

 接近してリザイアの魔力を拳に込めて殴る──ドレインブローという新しいスタイルが生まれたのだ。

 

 砦の防御力は補給があればさらに盤石なものとなる。

 戦闘でどうしても負ってしまうダメージを自己回復で補えるようになった今のカスパルは、まさに【進撃の砦】の名に相応しい動く要塞だった。

 

 今や地上戦はぐちゃぐちゃだ。戦場を突っ切ったカスパル達の部隊がセイロス騎士団を大量に昏倒させたせいで、それらを助けようとどうしても騎士団の動きがそちらに向く。

 しかしながら空中ではドラゴンこそ大混乱に陥ったものの、ペガサスナイトは健在である。

 

「怯むな、敵陣を先に制圧しろ! 空から攻めるのだ!」

 

 セテスの指示に従ってペガサスナイト達が動いて隊列を組み直す。

 ベレトの声の影響がないペガサスなら圧倒的にセイロス騎士団が優勢だ。エーデルガルト達がドラゴンナイトの救助に手を取られる横をすり抜けて、ペガサスナイトの部隊が大修道院に迫った。

 

 焦ったのは守りを任されていたベルナデッタだ。弓を引きすぎてヒリヒリ痛む指を休ませられるかと思っていたところに、一気呵成に襲い掛かるペガサスナイトの部隊を見て慌てて矢を構える。

 

「ほぎゃあああ来ましたまた来ましたああ!! 私だけじゃもうだめえええ!!」

「諦めないで! 僕も手を貸します! 当てなくても追い払うだけでいいので戦いましょう!」

「ああはいありがとうございます! 助かりましってどなたあああ!?」

 

 そこに颯爽と現れ、ベルナデッタに並んで弓を構えた一人の青年。

 強弓から放つ矢でペガサスの鼻先を掠らせたり翼を傷付けるだけに留めるなど高い技量がうかがえる攻撃は、この危機的状況でも不殺を貫こうという意志が見える。

 

「急に参戦してすみません! 故あって、帝国に味方します!」

「あ、アッシュさん!!??」

 

 それはファーガス神聖王国に所属しているはずのアッシュだった。

 帝国と敵対している王国にいた彼が何故? 話す余裕がないアッシュは、目を剥いて驚くベルナデッタに一言だけ伝えて対空射撃に加わった。

 

 倍加した矢の数はペガサスナイトの接近を阻み、セイロス騎士団は空中戦でも足止めを余儀なくされる。

 また、アッシュが連れてきたガスパール騎士団が地上の戦場に雪崩れ込み、帝国側が押された状態で止まっていた戦線を大きく押し返してみせた。

 

「これ以上ガルグ=マクを好きにさせるな!」

「セイロス騎士団だからってやりすぎだ!」

「アッシュ君に続け!」

 

 かつてロナート卿が鍛え、率いた精鋭部隊がアッシュの意思に従いセイロス騎士団に牙を剥く。

 五年前。教団の決定の下、セイロス騎士団に蹂躙された鬱憤を晴らすかのように、今度こそ率いる将に勝利を捧げようと彼らは声を上げて戦った。

 

 そんな様相はすぐにセテスへと報告される。

 

「馬鹿な! 何故アッシュが帝国に付く!?」

「わ、分かりません! ですがあれは間違いなくアッシュ殿かと……」

 

 報告した兵も困惑を見せる。その部下の前でも動揺を隠せないセテスは思わず空を睨んだ。

 

(君なのか……これが君の導きだというのか、ベレト!)

 

 上空を飛び回る姿に、陽光ではない理由で目が眩みそうになる。

 何人もの弓兵が矢を射かけても、それらを避け、時に斬り払うだけで反撃もせず空を翔けるベレトに如何なる縁が集まっているのか。

 

 昏迷のフォドラに突如現れ、王を助け、国の行く末を変え、人々の心を集め、世界に新しい導きをもたらす──そのような者を、人は英雄と呼ぶのだ。

 

 しかし……しかし、それでも! 彼は戦わなくてはならない敵なのだ!

 ガルグ=マクを侵した大罪人に味方するなど、決して許してはいけない!

 君は敵だ! 私にとって敵のはずなのだ!

 

 そう必死に自分に言い聞かせて揺れる心を抑えようとするセテスを置いて、戦況は動き続ける。

 

 ドラゴンナイトを粗方助けられたと判断したベレトは行き先を変えた。落としたサンダーを足裏で受けて急降下し、地面を跳ねることで騎士団を避ける。

 そうして走る先にいるのは、次の魔法を使おうと魔力を練るフレンだった。

 

「フレン!」

「先生……!」

 

 悲しげに表情を歪めても戦うことはやめない。手に魔力を維持したまま、ベレトから間合いを保つように走り出す。

 

「悲しいけれど……退くわけには参りませんの!」

 

 フレンを守るためにベレトの前に立ちはだかる騎士達の後ろで魔力を高める。

 ベレトの強さは自分より上。生半可な魔法では通用しない。

 手に持つ母の形見、カドゥケウスの杖の力も借りて、今撃てる最強の一撃を!

 

 現れた白の魔法陣の模様が複雑さを増し、放つ準備ができたのとほぼ同時にベレトの姿を捉える。騎士達をやはり蹴飛ばすだけで、ここでも殺そうとしない彼を引き付けて放つのは決意の一撃。

 

「──アプラクサス!!」

 

 天から降り注ぐ光の奔流が敵を圧殺する、光の最上級攻撃魔法が放たれた。

 狙い過たずベレトに命中する。彼のこの戦いにおける初めての被弾。

 

(あ、当たりましたですわ!)

 

 手応えを感じて驚くフレンに対して、目の前でベレトが大魔法のクリーンヒットを受けたのを見た帝国兵が色めき立つ。

 

 ヒューベルトに並んでエーデルガルトを支えるベレトの活躍は兵の中に知れ渡っているのだ。彼がどれほど皇帝に重用されているか、どれほど帝国に尽くしているか、この数節だけのことでも多くの人が理解している。活動を共にした者も少なくない。

 人柄だけでなく、腕も立つ彼が帝国兵から注目されるのは自然なことで。

 軍内から流れた噂とエーデルガルトの態度によって、皇帝陛下って実は可愛い説の原因とも言えるベレトが人気を集めるのは早かった。

 

 そのベレトが強力な魔法をまともに食らったのを目の当たりにして、帝国の地上部隊はいきり立つ。

 

「先生が危ないぞ!」

「先生を援護しろ!」

「あの魔法使いを狙え!」

 

 今ではすっかりベレトの愛称として浸透した先生呼び(エーデルガルトを始めとして、縁がある人がみんなして先生と呼ぶものだから定着してしまった)をして彼らは急ぐ。

 ベレトを案じてフレンに狙いを定める地上部隊が前に出ると、セイロス騎士団の方も部隊を動かし、両者は激突する──寸前、

 

「手を出すなぁ!!」

 

 アプラクサスの衝撃で舞う土埃を切り裂いて、制止をかけたベレトが現れる。今まで聞いたことのない彼の怒鳴り声に思わず足を止めてしまう帝国兵の前で、次にベレトは高く跳び上がる。

 魔法のダメージは大きいようで珍しく顔を歪めながら空中で天帝の剣を振る。伸ばした剣先がセイロス騎士団の前衛をしたたかに打ち、部隊の前進を止めてみせた。やはりここでもベレトは殺そうとしない。

 

 困惑しながらも次の魔法を撃つために魔力を集めるフレンの前で、今度は空中を横移動して側面に回ったベレトが家屋の壁にファイアーを当てた爆発で一気に距離を詰めてきた。

 飛んできたベレトに向けて咄嗟にリザイアを撃つフレンだが、それを読んでいたベレトは自身のリザイアで相殺。速度を緩めることなくフレンに迫ると、なんと勢いのままに彼女を抱えて再び跳び上がったのだった。

 

「ひゃうう!?」

「しっかり掴まってろ!」

「せ、先生、何を、わあああ!?」

 

 フレンをかっさらったベレトは止まることなく立体機動を続ける。伸ばした天帝の剣を使った振り子運動。ファイアーを弾けさせる加速。二人分に増えた重量を物ともせず空を翔ける。

 かつてない高速移動で慌てるフレンはベレトの腕にしがみついた。肌を切るような風が恐怖を煽る。未体験の超速度は思考する暇を与えなかった。

 

 そうしてベレトに捕まり、彼に抱えられたフレンを見てセテスは大いに焦った。二人が戦場で自分より先にぶつかったのに気付き、駆け付けようと思った矢先の出来事である。

 ドラゴンに乗っていればすぐに近付けたのにと歯噛みしたのだが、なんとそのまま跳び上がったベレトが立体機動でこちらに向かってくるではないか。

 まさか……自分のところにわざわざ連れてきて、見せしめとして目の前で殺そうというのか? それで騎士団の士気を挫こうと?

 

(だめだ! それは、それだけは絶対に! 絶対にさせん!)

 

 焦燥がアッサルの槍を握る手に籠る。

 この命に代えてもあの子を守ってみせると決意が足に漲る。

 自身の生きる理由に向けてセテスは走った。

 

 そんな彼の決意を嘲笑うように事態は思わぬ方へ動く。

 

 セテスからも近付いてくることは立体起動するベレトにも見えていた。なので彼の上へ飛ぶように角度を調整して動く。

 互いの顔が見えるところまで近付いた時、ベレトはちょうど家屋一つ分の高さの空中にいた。

 

「セテス!」

 

 そのまま彼は抱えたフレンを腕で振り上げて──

 

「受け止めろ!!」

 

 ──ぶん投げたのである。

 

「ふぇぇえええええ!?!?」

「フレンんんんんん!?!?」

 

 投げられたフレンと、それを見たセテスが絶叫した。

 あまりの出来事に周囲が思考停止で固まってしまう中、反射的に動けたセテスが身を投げ出すように飛び出し、地面スレスレで投げられたフレンを抱き留めることに成功した。

 

「フレン……しっかりしろ! 大丈夫か?」

「は、はいぃぃ……」

 

 衝撃に軽く目を回した彼女を見て、ひとまず無事なのが分かりホッとする。

 次いで、暴挙に及んだベレトに怒りと、微かな戸惑いが湧いた。

 

「ベレト、一体全体君は何を考えているのだ!!」

 

 フレンが怪我をするところだったではないか──敵同士で戦っている最中にも関わらず、そんな言葉が口をついて出た。

 それはまるで昔のような、五年前に修道院の食堂でセテスがベレトに突っかかっていったみたいに、フレンを守りたいがためにぶつかった二人のような。

 

 そんなセテスの怒声を聞いて、着地したベレトは即座に応えた。

 

「ごめん!!」

「……~っ!」

 

 そうじゃない……!

 そうなんだけど、そうじゃない……!

 そうかもしれないけど、そうじゃない……!

 

 セテス以外にも、ベレトの謝罪を聞いたその場の全員が声もなく悶える。

 そのたった一言だけで戦場だったガルグ=マクはいつの間にか静まり返っていた。唖然としてしまった、とも言う。

 

 無理もない。彼のすることは何から何までデタラメだ。

 ドラゴンを乱しておきながら騎兵は敵味方関係なく助ける。エーデルガルトまでもが救助に動いたのはベレトの指示だと推察できる。

 戦場に飛び込んでおきながらまともに戦おうとしない。カスパルやジェラルト傭兵団も、セイロス騎士団を叩きのめすだけで殺してはいない。これもベレトの指示か。

 そしてフレンのことも、彼女の魔法攻撃を受けておきながら反撃もせず、こうしてセテスに投げ渡すなどという暴挙に及ぶ。

 意味が分からなかった。

 

 ところが。

 

「うふふふっ……」

「……フレン?」

 

 セテスの腕に抱えられたままのフレンが急にクスクスと笑い出す。楽しそうに、何やらすっきりしたような雰囲気で。

 

 体を起こしたフレンがベレトの方を向くと、笑顔のまま問いかける。

 

「先生!」

「どうしたフレン」

「先ほどのわたくしの魔法、どうして食らったんですの? 先生なら避けられたはずでしょう? あえて避けなかったのですわよね」

 

 ベレトの強さを知るフレンには分かっていた。自分の魔法をベレトはわざと体で受けたのだと。

 アプラクサスは最上級の攻撃魔法。いくら高い白魔法適性があるフレンと言えど、使うには相応の溜めが必要となる。

 高速戦闘を得意とするベレトがそんなあからさまな隙を見逃すはずがない。ああして綺麗に命中したことにフレンの方が驚いたのだ。

 

「あの魔法は、避けたらいけないと思ったんだ」

「まあ! わたくしの渾身の魔法、如何だったかしら?」

「すごく痛かった。強くなったな、フレン」

「うふふ、ありがとうございますですわ!」

 

 やはり彼がわざと食らったのだと分かり、フレンは嬉しそうに笑う。

 

「あ、でもさっき、投げ飛ばしたのはいただけませんわ。わたくし、死ぬかと思いましたのよ?」

「すまない。でもセテスなら受け止めてくれると信じていた」

「それは、そうですわね。お兄様なら守ってくれますわ。けれどそれなら普通に届けてくださってもよかったのではなくて?」

「敵の俺に抱えられたフレンを見たらセテスも騎士団も黙ってなかっただろう。そうしたら何かの弾みで君が怪我をしていたかもしれない。ああすれば無事に届けられると考えたんだ」

「うーん、そういうことでしたら仕方ありませんわね。許してあげますわ」

 

 にこにこと朗らかに笑って締めたフレンが振り返ってセテスを見上げる。

 

「お兄様、お聞きになりまして? 先生はやっぱり先生でしたわ」

「ふ、フレン?」

 

 一連の会話を聞いていたセテスだが、ポカンとしたままである。

 今まで戦っていたにも関わらず、先ほどからこの場に流れる空気が妙に穏やかというか、戦場らしからぬ日常感があるというか、とにかく緩い。

 ベレトの謝罪発言を皮切りに、フレンとの会話がそれまでの緊迫感を洗い流してしまったようで、まるで五年前に戻ったかのような……

 

「大丈夫ですわお兄様。先生は先生のままでしたの」

 

 フレンに言われ、改めてベレトを見る。

 

 敵対しているのは間違いない。現に彼は天帝の剣を納めることなく立ち、戦闘の緊張を解いていない。

 なのに斬りかかることなく、それどころか後ろからやってきた帝国の部隊を制止するように手を広げて自分より前に出ようとするのを抑えている。

 

 もう一度フレンを見る。柔らかく微笑んだ彼女はそれ以上何も言わず、一度しっかり頷いてみせた。大丈夫、そう言うように。

 笑みに背中を押されたのを感じて視線を戻す。ベレトは剣を持ったまま、しかし、やはり戦おうとしない。

 

「……ベレト、聞かせてくれ」

「どうしたセテス」

「何故、フレンを殺さなかった。君ならできたはずだ」

 

 言いながら胸が高鳴る。まさかと思い、否定した考えが脳裏に浮かぶ。

 

 ベレトほどの戦士にとって決して難しいことではなかっただろう。魔法をわざと受けたりせず、高速移動で近付いて一刀の下に斬り捨てることができた。天帝の剣なら近付かなくても遠間から、魔法発動の隙を突いて斬り払うこともできた。

 わざわざ抱えるくらい近付けたなら剣の一刺しでいいし、高所から落下させたり、いくらでも殺す手段はあった。

 

 【灰色の悪魔】とさえ謳われたベレトが、戦場で冷徹に敵を斬り殺せる彼が、それでもフレンを斬らなかった理由。

 

「俺がフレンの先生だからだ」

 

 当たり前のように放たれたその返事は、セテスの中へ穏やかに納まった。

 

 

 

 

 

『フレンを守れ! 私のように、全てに優先してまでとは言わん……君に叶う限りの力で、この子を守ってくれ!』

『もちろんだ。フレンは俺の生徒になった。だったら守るのは当然だ』

 

 

 

 

 

 ──ああ、そうか。

 

 分かってしまった。揺るぎない確信だった。

 

 ベレトは変わっていない。

 フレンを守れという願いに即答を返し、彼女を指導していたあの時から……いや、他にもいる生徒を導く教師になってから、何も変わっていない。

 彼はずっと──私の友のままだったのだ!

 

 その性根は五年前と何も変わっていない。

 無表情でも誠実で、いつだって生徒を守り、導こうと尽くしていたあの頃と。

 少しずつだが僅かに顔を綻ばせるようになったあの頃と。

 守るべきものを守ろうと戦う彼は、自分が信じてみようと思った彼のままだった。

 

(背負ってくれるのかベレト……フレンを、君の敵になった者でさえも、導いてくれるのか……)

 

 一度思えばもうセテスの目にはベレトは敵に見えなくなってしまった。自分に言い聞かせようとしても無理だった。

 邪心に惑わされたのではないベレトが何らかの意志で帝国に味方するのなら。

 これが友の判断であるのなら。

 

「っ……撤退だ!!」

「せ、セテス様?」

「もはやこの戦いに得るものはない!! セイロス騎士団全部隊に告ぐ! 今すぐ撤退せよ!!」

 

 驚く騎士に重ねて命じたセテスは最後にベレトを見る。

 セテスの号令に驚いている帝国兵の前に立ってこちらを見るベレトはいつも通りの無表情に見えるが、その目がどこか凪いだように映る。

 安堵してくれているのか。セテスの方から矛を収めて、これ以上戦わずに済んだことを。

 

 視線を切って部隊に追加の指示を出すセテスの隣でフレンが笑顔で手を振る。

 

「先生! どうかお達者で!」

 

 短く別れを告げたフレンが走り寄ってくる。隣に立った彼女を優しく抱き寄せて、大切な宝が生きていることにセテスは感謝した。

 

 こうしてセイロス騎士団はいくらか困惑しながらもセテスに従って兵を引いた。

 ガルグ=マクを去る彼らを追撃しようとした一部の帝国兵はベレトに抑えられ、終わりを宣言したエーデルガルトによってこの度の籠城戦は終結したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ベレト、君の行いを今は信じよう。君が己の信念に基づいて動いているのなら、私も弱音を吐いていられん。覚悟を決めねば……)

 

 レアと話そう。

 腰を据えて、彼女と向き合って。

 話した結果、もし必要があれば──自分が彼女を止めるのだ。

 

 ガルグ=マクから撤退する騎士団を率いてセテスは意志を固めた。

 フレンを守り、自分の胸の虚ろを晴らしてくれたべレトへの恩に報いるにはそれしかない。

 それが同じ眷属である自分の使命だと信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか貴方が手を貸してくれるとはね……」

「お久しぶりです、エーデルガルト。皇帝陛下と呼んだ方がいいでしょうか?」

「別に今は構わないわ。仕えているわけでもないでしょう」

 

 戦いが終わり、落ち着きを取り戻したガルグ=マク大修道院。

 謁見の間でエーデルガルトと向かい合っているのは先の戦いに駆けつけたアッシュである。

 

「セイロス騎士団に弓を引いたということは教団と敵対するということ。それはもう分かっているわね?」

「はい……やっぱり僕は、ロナート様や義兄さんを殺したセイロス教団を心から信じられないんです。セイロス教の全てを否定するわけじゃないけど……」

 

 大きな決断による疲弊を滲ませつつもアッシュの口調は強いものだった。

 清く正しい騎士を志していた彼にとって、セイロス教の教義は精神的な支柱と言ってもいい。それを司る教団に逆らうとなれば心中穏やかでいられるものではない。

 そんなストレスを背負ってでも離反を決意したのはアッシュの原点、彼が誰よりも尊敬する騎士から教わった正義、ロナート卿の背を見て育った彼の正義感が己を突き動かしたからだった。

 

「いくら教団が決めたからって、人々の心の支えになってるガルグ=マクを攻めるなんて間違ってる。やっと再興してきたガルグ=マクがまた襲撃されると知って、居ても立ってもいられなくなったんです」

「最初にガルグ=マクを攻め落としたのは帝国だけれど、そこに思うところはなかったの?」

「それは、全くないとは言いませんけど……今は違うんでしょう? 先生が何かを教えてエーデルガルトを変えた。だから帝国は急に方針を変えて、セイロス教を盛り立てることにした。違いますか?」

 

 言い当てられたエーデルガルトは思わず同席しているヒューベルトと一緒に同じく同席するベレトを見る。それをどう感じたのか、視線を受けたベレトはアッシュと再会した経緯を話すことにした。

 

「会ったのはほとんど偶然だったよ。アリルでセイロス騎士団の部隊と戦ってるアッシュを見つけて、それでガルグ=マクに危険が迫ってると知れたんだ」

 

 アイスナー式ブートキャンプをするベレト達は、まずアリルでカスパルの魔法を鍛え、次にザナドで魔獣相手に実戦、そしてもう一度アリルに戻り『仕上げ』を行おうとしたところでアッシュを見つけた。

 ガルグ=マクに攻め入ろうと分かれて進行していたセイロス騎士団の部隊の一部を止めるため、アリルで戦っていたアッシュと彼に率いられたガスパール騎士団。彼らを助けるために参戦したベレト達は、図らずも実戦形式で『仕上げ』ができたことになった。

 そうして助けたアッシュからガルグ=マクの危機を教えられて大急ぎで帰還したというわけだ。

 

 ちなみに、ガルグ=マクの危機を知ってブートキャンプを予定より早く切り上げたことで、ジェラルト傭兵団とベルグリーズ戦団から猛烈に感謝されたアッシュが困惑したのは余談である。

 

「そういうことなら私からも感謝するわ。ありがとうアッシュ。貴方のおかげで師が間に合って、ガルグ=マクを守ることができたわ」

「お役に立てたようで何よりです。ガルグ=マクはフォドラの人々にとって大事な場所。五年前のようなことを繰り返させちゃいけません」

「でもこれで貴方はファーガスからも離反した扱いになるわ。帝国に手を貸した今、ディミトリが貴方をどう見るかは……」

「分かっています。僕はもう王国には戻れません。一度でも帝国に味方した僕を、陛下は決して許さないでしょう。それでも、ここで動かないわけにはいかなかったんです。例えファーガスに剣を向けることになっても……」

「アッシュ……」

「もしロナート様が生きていたら、喜んでくれたはず……僕は、そう信じています」

「貴方の決断に感謝するわ。改めて、ありがとうアッシュ」

 

 引け目はあるのだろう。王家に忠を尽くすのが騎士の本懐、そういう憧れを捨てたわけではないのだから、やはり悔いはある。

 それでも静かに微笑むアッシュの中には、単純な忠義よりも大切な何かを守れたことへの誇らしい気持ちが確かに生まれていた。

 

「私としては些か問題が残る決着でしたが……」

 

 笑顔でアッシュと握手を交わすエーデルガルトの横で、ヒューベルトが小さく不満を漏らす。

 それを聞いたエーデルガルトが視線を向けた。

 

「セイロス騎士団との戦いが途中で終わったこと?」

「はい。ガルグ=マクは守れましたが、敵戦力はさほど削れておりません。今後の教団との戦いを見据えれば、将官を討てる内に討っておきたいところでした。無論、数の差を考えれば長引くとこちらの被害も増えていたでしょうが」

 

 帝国側がガルグ=マク大修道院を守ることに集中したおかげで、住民を含めて死傷者をかなり少なく抑えられたのは大きな戦果と言っていい。

 反面、セイロス騎士団が戦場の主導権を握ったこの戦い、騎士団側の被害も少ないまま終わっている。ベレトが混乱させたドラゴンも落ち着けば元通りになったし、捕縛された騎兵のドラゴンナイトも送還された。

 激しくなりがちな帝国対セイロス騎士団の戦いにしては、今回はどちらも非常に少ない被害で終わったのだ。

 

 いずれ必ず起こる教団主力との決戦を考えれば、戦える内に少しでも敵を削っておきたいと考えるのは不思議ではない。

 そんな風に言うヒューベルトだが、そこにベレトから待ったがかかる。

 

「そうでもない。むしろこの結果は理想的だ」

「ほう、先生はそうお考えになりますか」

「敵を殺し尽くす殲滅戦が目的なら削れる内に削るのは正しい。だが今の帝国が目指すものを思うなら、こうして被害が少なく済んだことを喜ぶべきだ」

 

 セイロス教を盛り立てて教団の間違った姿勢を咎める立場になった帝国は、長引いている戦争を少しでも早く止めて、少しでも犠牲を減らさなければいけない。

 もちろん「やーめた」と言ってすぐに止めるのは不可能である。そんな言い分がまかり通るほど戦争とは軽いものではない。

 それならそれで、起こる戦いの犠牲を減らし、早めに切り上げ、一つでも被害を食い止めることが大切になるのだ。

 

 そうした後、会談なり交渉なり、戦いとは違う形で戦争を終結させる。

 そのために必要なのは人である。人がいなければ話し合うことも通じ合うこともできはしない。だからこそ犠牲を減らし、生き残る人を増やすのだ。

 

「そういうことでしたら確かに生き残るのが一人でも多い方がいいですね……ふむ」

「ヒューベルトに無理を言ってるのは分かる。それでも君が頼りだ」

「私からも頼むわヒューベルト。教団を打倒する意味も、その先の展望も、以前とは変わったの。けれど貴方の力が必要なことに変わりはないのよ」

「いえ、私の理解が浅かったようです。これからもエーデルガルト様を支える気持ちは揺らいだりなどしませんよ」

 

 ご心配なく、と慇懃に一礼するヒューベルトの姿はいつもの彼と同じで安心できるものだった。

 

「僕からもお願いします。エーデルガルト、この戦争を何とか平和に終わらせてください。僕みたいな平民には国同士の因縁をちゃんと理解できてませんけど、それでもきっと道はあるはずだと思います」

「分かっているわ。アッシュも言ったでしょう? 師に教えられて私は変わったの。フォドラをこれ以上乱すことはしないし、させないわ」

 

 アッシュの嘆願に対しても鷹揚に頷くエーデルガルトの表情は明るく、自然とも言える自信に満ちていた。言葉の通り、彼女の内面はベレトによって変わったのだ。

 それはアッシュのような平民からすれば親しみを持てる穏やかなもので、喜ばしい変化だと感じた彼も明るい表情になれるものだった。

 

 そうして二人が向かい合う傍ら、無表情を僅かに固くしたベレトに気付く者はいなかった。

 

「おーい! 話は終わったか?」

「わーわーカスパルさん降ろして! 降ろしてください! 抱えられなくてもベルはもう自分で歩けますよおおお!」

「カスパル、ベルナデッタ!」

「ベルナデッタのやつ、アッシュに礼を言いたいんだってさ。こいつを援護してくれたんだろ。俺からも礼を言うぜ、ありがとうな!」

「ふふ、いいんですよ。僕なんかでお役に立てたなら」

「そういやアッシュはこれからどうするんだ? 王国に戻れないっぽいことは聞いたけど……あ、そうだ。ガルグ=マクで働くってのはどうだ! ここにはアロイスさんもいるからアッシュも守備兵になったりしやすいんじゃね?」

「そうですね。一緒に着いてきてくれたガスパール騎士団の人達のことも相談しないと」

「……その件は早急にまとめましょう。私の方で話を伺います」

「ほあああヒューベルトさんごめんなさいいい! お尻越しにお邪魔してごめんなさいいいい!」

「落ち着いてくださいベルナデッタ殿。顔を合わせない方が話しやすい貴殿はそのままで結構ですよ」

「いやあああ恥ずかしいですうう! カスパルさんもう降ろしてえええ!」

 

 ノックもなく入ってきたカスパル(と抱えられたベルナデッタ)を交えて途端に謁見の間が賑やかになる。

 学級を超えた友人と再会できてはしゃぐ彼らを見たエーデルガルトは、これもまたベレトが結んだ絆の賜物かと目を細めた。

 

「まさか師がアッシュを連れてくるなんてね……おかげでガルグ=マクを守れたし、被害も少なく終えられて、本当に助かったわ。ありがとう師」

「……」

「師?」

「……ん、ああ。会えたのは偶然だったけど、アッシュが決断してくれたおかげだ。俺も彼に会えて嬉しかったよ」

 

 傍らのベレトに話しかけても反応が悪いので覗き込むと、いつもの無表情でもどことなく固い気がする。何となく、一瞬そう感じる程度ではあるが。

 

「疲れているのかしら? 流石の師でも、修行明けにいきなりあの戦闘は辛かったでしょう。フレンの魔法を受け止めたことも聞いてるわ。しばらく休んでいいのよ」

「そんなことない。エーデルガルトのためにやれることはいくらでもある。君のために俺ももっと頑張るよ」

「もう……師ったら」

 

 相変わらずの調子で返してくるベレトの言葉に嬉しくなり、つい顔が緩んでしまうエーデルガルトである。

 彼の変わらない態度に安心できたので、目の前でぎゃあぎゃあ騒ぐ者達をまとめるべく足を向けた。

 

 だから。

 その背に注がれるベレトの視線を見逃してしまった。

 まるで痛ましいものを見つめるような彼の表情に気付けなかった。




 フレンとセテスの扱いについては決めてありました。
 もちろん、ベレトの今後も考えてあります。

作者の活動報告に載せた後書き


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邂逅の卓、開戦の声

 始め方がちょっと変則的です。
 後世で、昔こんなことがありました、と過去の出来事を語るように書いてます。


 戦変会談(せんぺんかいだん)

 それまで五年に渡って続いていた戦争の行きつく先のみならず、フォドラの文化や常識が千変(せんぺん)の如く大きく変わるきっかけになったこの会談を後世ではそう呼んだ。

 アドラステア帝国皇帝、エーデルガルト。

 レスター諸侯同盟盟主、クロード。

 帝国と同盟をそれぞれ率いる人物が同じ卓に着くという、歴史の転換点とも言える会談だ。

 

 和平のために設けられた会談だが、両陣営が如何にして連絡を交わし、この席を作ることができたのかは判然としない。

 

 ある日、リーガン家の使者がふらりと帝国を訪れ、皇帝の名の下にするりと招かれた使者が謁見を果たし、特に何事もなく使者はすんなり同盟へと帰還した……遺された資料からはそうとしか読み取れないので、当時から伝わる不思議の一つとしてたまに議論の的になる。

 士官学校で学んだ同期でもある二人は実は戦争中も密かに文を交わす仲だったなどと口さがない説もあるが、それならそれで文書やら逸話の一つでも伝わっていないのでただのゴシップだとすぐ分かる。

 戦争中だった当時である。厳戒態勢を敷いていたであろう領の奥の拠点にこっそり忍び込んで親書を届けられたりするようなスニーキングスキルの持ち主がいた、だなんて流石に考えにくい。

 何しろ時代が時代。当時のフォドラでは乗り物一つ取っても馬に頼り、空路もペガサスやドラゴンを運用していたのだ。

 体一つで国境をも越えてフォドラを横切れる人間が実在した……なんて想像に留めないと歴史家には一笑に伏されるだろう。どんな物語の登場人物だ。

 

 とにかく。

 1186年、弧月の節。場所はガルグ=マク大修道院。

 大胆にも帝国が抑えたフォドラの中心地で両者はまみえた。

 セイロス教の要地であるガルグ=マクは帝国に攻め落とされてから一度放棄されたが、会談の約半年前に同じ帝国によって復興が始められていた。

 同時期に皇帝エーデルガルトが発令したセイロス教を盛り立てる動きが始まっているので、この会談のように和平へ繋げられることを目的としていたと見られている。

 

 前節の天馬の節にあったセイロス騎士団による強襲を辛くも退けられた──この襲撃についても少々疑問があり、彼我の戦力差を考えると帝国側が不利だったにも関わらず両軍の損害が妙に少なく、局所的な天災に見舞われただの、ドラゴンが前後不覚に陥っただの、眉唾な説がある──ことで、帝国は誰に邪魔される心配のない万全な体制で同盟の盟主一行を迎え入れられた。

 それだけエーデルガルトが会談を熱望していたと言える。

 

 この会談の驚くべき点は、両陣営に武装が許されていたことである。

 エーデルガルトからの提案で「武器を帯びた身でも武器を抜くことなく言葉を交わせるようになることこそ平和への道である」として、参加者はあえて武装する運びとなったのだ。

 和平を目的とした会談。常識的に考えれば、相手を無用に刺激してはならないと非武装で臨むのが当たり前だとするもの。

 そこに出されたこの提案をクロードは快諾した。

 今や二つ名まで付けられた士官学校の同期も連れていき、ちょっとした同窓会みたいだという軽口を叩いたとも伝えられている。

 

 そうやってかつての学び舎があったガルグ=マクで対面することになった両陣営。

 どちらも和平に向けて積極的な姿勢で臨んだことが窺える。

 しかし、行われた会談はどうにも平和的とは言えないものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドゴッ!!──テーブルを殴りつける音が鈍く響く。

 

「……断る。論じるまでもないわ」

 

 エーデルガルトが硬い声で言い放った。

 対面のクロードは表情を変えず、軽く微笑むだけ。

 

 会談の場に使われた講堂は重苦しい空気に包まれていた。それまでは決して和やかとは言い難いものの歩み寄ろうとする雰囲気はあったのだが、一瞬で塗り替えられてしまった。

 クロードの提案と、エーデルガルトの即答。

 分かる人ならこうなるだろうとすぐに分かる問答で流れは変わった。

 

 元々こんな空気ではなかったのだ。

 初めの方は間違いなく和平に向けた話し合いができていたのに。

 

 ………………

 …………

 ……

 

 今回の会談のためにガルグ=マクを訪れた同盟の一行を、帝国側は皇帝自らが出迎えるという形で相手への歓迎の姿勢を示した。

 表情に緊張はあっても会談への意気込みを感じさせる面々の中で、にこやかに挨拶を交わすクロードとエーデルガルトがやや浮いているくらい二人の態度は落ち着いていた。

 

『よう、久しぶりだなエーデルガルト。元気にしてたか?』

『誰目線なのよ……まあ、それなりにね。そういう貴方は随分と機嫌がよさそうね』

『そりゃあな。武力でどんぱちやり合うより、こうして交渉のテーブルに着いて言葉でやり合う方が俺の性に合ってるからよ、気合い入っちまって』

『でしょうね。口先で同盟をまとめ上げた【卓上の鬼神】の弁論、相手にとって不足はないわ』

『その呼び名はやめてくれ……酷いと思わないか? こーんな愛想の良い男前を捕まえて鬼神呼ばわりなんて、誰が言い始めたんだか』

『あら、箔のある二つ名じゃない。私は格好いいと思うわよ?』

『あー、そうだな、お前は好きそうだもんな、こういうの』

『……どういう意味かしら』

『派手な色合いとか、思い切った行動とか、好きだろ。帝国の動きなんか見てると、やる事なす事がとにかく派手だなって感じるぜ』

『褒め言葉だと受け取っておくわね……とにかくクロード、良い話ができると期待しているわ』

『おう、よろしくな』

 

 顔を合わせて最初のやり取りだけ見ても、五年にも渡る戦争を続けてきた相手とは思えないくらい穏やかな雰囲気で、何事もなく士官学校を卒業した同期が久しぶりに再会したと言っても通じそうだった。

 

 連れてきた他の同期、元金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)の面子も同じように元黒鷲の学級(アドラークラッセ)と顔を合わせ、戦場ではない場所での再会を喜ぶ。

 

『ラファエルー! 元気に筋肉してっかー!』

『おお、カスパル君! オデの筋肉はバチバチだぞ! カスパル君はどうだ?』

『もうバリバリよ! こないだ先生にビシビシに鍛えてもらったからな!』

『ビシビシか~、いいな~。オデも久しぶりに先生の訓練やりてえな!』

 

 笑顔で駆け寄ったカスパルと、ハイタッチで応えるラファエル。

 

『久しぶり、会いました、イグナーツ。緊張、なくすこと、できませんか?』

『あ、ペトラさん、お久しぶりです。すみません、どうしても身構えてしまって……せっかく和平に向けて歩み寄ろうとしてるのに』

『緊張、無理に抑える、逆効果、あります。あなた、意気込む、会談の成功、わたしは感じます。それ、よいことです』

『そう言ってもらえると助かります……ところでペトラさん、五年前より言葉遣いが随分滑らかになりましたね』

『はい。わたし、鍛錬止めません。体も、言葉も、成長します。イグナーツも、声、低くなりました。男らしい成長、よいです』

『あはは……僕は遅めの声変わりをしただけですけど』

 

 緊張を隠せないイグナーツを、微笑んではげますペトラ。

 

『リシテアちゃん久しぶりね~! 綺麗になっちゃって~』

『ああもう、ドロテア、勝手に抱きつかないでください。私達って一応まだ敵対してるんですよ』

『背もかなり伸びたわね~……ひょっとしてエーデルちゃんより高くなった?』

『そうなんですか? それは……嬉しいですね。私も大人になりました。ふふん』

『お化粧もばっちりで綺麗な大人になったわ。膝の上に乗せてた頃が懐かしい~』

『いやあんたの膝に乗ったことなんてありませんからね!』

 

 躍るように手を取ってはしゃぐドロテアに、呆れながら振りほどかないリシテア。

 

『やっほ、フェルディナント君。活躍聞いてるよ。元気そうだね』

『御機嫌ようヒルダ。貴女の素晴らしい武勇も私の耳に届いているよ』

『あはは~、不本意ながらやらかしてまーす。ちなみに、そっちの方でさ……』

『ローレンツとマリアンヌのことだね。二人のことなら心配いらない。エーギル家は力こそ失ったが、友人を放り出すほど落ちぶれてはいないよ。むしろ二人の積極的な活動に私の方こそ頭が下がる思いさ』

『……どっちも元気にしてるんだね。よかった』

『いずれ二人が同盟に戻り、また貴女達と足並みを揃える日が来るだろう。その時のために、帝国にいながら同盟でも通じる実績作りをしようと尽力しているよ』

『っ! ……そっか。戻ってくるんだよね』

『そのためにも、今回の会談を成功させねばなるまい』

『うん!』

 

 挨拶がてら帝国に行ったローレンツとマリアンヌの様子を聞いてみたヒルダに、立場では二人を保護する役のフェルディナントは嬉しそうに話す。

 

『やあレオニー』

『リンハルトか……何か用か?』

『なんだが物々しい雰囲気だからさ。気にかかることでもあるのかなって』

『珍しいじゃん。やる気もないし他人にも興味を持たないあんたが、わざわざあたしの顔色を気にするなんて』

『今から和平会談だっていうのに、そんな顔をしてたら目に付くよ』

『……本当に珍しいな。あんたはこの会談に前向きなのかよ』

『そりゃあ戦争なんていう物凄く面倒臭いことが停められるかもしれないからね。そうすれば僕ももっと研究に没頭できるようになる』

『あーそーかい。結局自分のためかよ』

『もちろん。それで、会談の前にその顔色を変えることはできるかな?』

『……ほっといてくれ。みんながみんな、和平に前向きなわけじゃないんだ』

『ふーん、変えられないか。なら仕方ないね』

『あ、おい……相変わらず貴族らしくない奴だな』

 

 棘のある雰囲気を漂わせるレオニーに声をかけるも、あっさり離れるリンハルト。

 

 各々が挨拶を交わしながら大修道院に入っていく様は、一部含むところがあっても仲が良いように見えて、この後の会談へは悪くない雰囲気で臨めると期待できるものだった。

 少なくとも、彼らに続いて元生徒へ挨拶しに行ったベレトにはそう感じられた。

 

『おお、ほんとに先生だ! 久しぶりだなあ! もう会えねえかと思ってたぞ!』

『また先生に会えるなんて……嬉しいです!』

『死んだかと思ってましたよ。ま、先生ならひょっこり戻ってきても不思議ではありませんけど』

『せんせーのそのぽけーっとした顔、全然変わってなーい!』

『生きてたならもっと早く出てこいよな……ったく』

 

 元生徒の顔ぶれを見て、彼らが強く逞しく成長したことを嬉しく思うのと同時に、やはり自分だけ取り残されたような気持ちがある。

 それでも自分の生存を祝い、立場では敵対しても再会を喜んでくれる姿を見ていると、やはり敵だからと安易に踏みにじる道を選ぶことはできないと内心で決意は高まるのだった。

 

 そうして準備を整え、講堂に集まった彼らは全員が武装していた。その気になればすぐにでも戦闘を始められる格好で会談に臨む姿は、和平を求める会談にはそぐわないちぐはぐした印象である。

 その印象は前例がないからだと無視して、いよいよ帝国と同盟による和平会談が始められた。

 

 エーデルガルトの傍に控えて話を聞くベレトは、正直なところ、意味が分からないやり取りが多くて困ってしまった。

 

 戦争を仕掛けた帝国側が負債を多く受け持つことになると事前にヒューベルトから聞いていた。なので和平のための落としどころは帝国が多めに負担することになるのは分かるのだが。

 国境の税関、〇〇領の税収、〇〇の貴族の処遇、穀物等の融通、平民の感情整理のために布告する文面、対パルミラへの影響、フォドラの首飾りの次回改修のための出費、ガルグ=マクから同盟へ通じる山道の整備、エトセトラ……

 どれも大事だと分かっても、どう大事なのか、どのように決められるものなのか、いまいち分からず内心首を傾げることばかり。

 

 加えて予め「先生に政治的判断は期待しておりません。貴殿はエーデルガルト様の御心を支える存在でいてくださればそれで結構」ともヒューベルトから言われているので、はっきり言ってこの会談でベレトが発言する必要はないに等しい。

 元より貴族の名前にすら疎かったベレトが政治の分野に口出しできるとは思えないのはその通りなので、エーデルガルトからも会談は任せてほしいと言われている。

 

 そういえば傭兵時代に国境を通る時も、関所とかでのやり取りはいつも父さん達に任せ切りで当時の俺は何も考えず通っていたな──とか。

 教師になってからも所属はセイロス聖教会だとして、国境を越えて移動する時も気にすることなくいられたのは色々免除されてたんだな──とか。

 今まではエーデルガルトのために傭兵の自分にできることに手を付けていたが、今後はより彼女を支えられるように政治のことも勉強すべきか──とか。

 

 頭の隅でつらつらと考えながらベレトは会談の場を見渡す。

 

 エーデルガルトも、クロードも、他の面子も、表情は落ち着いたものだ。

 不満を露わにする発言はなく、特に騒いだり、逆に黙り込むようなこともない。

 話の内容は大雑把にしか理解できないが、少なくともベレトの目には会談は順調に進められているように見える。

 なので会談の内容は耳に入れる程度で進行などはすっかり任せてしまって、自分は彼ら一人一人の様子に注意を払うことに集中した。

 

 ──結果から言うとベレトのこの判断は大正解だった。

 

『とまあそんな具合だが、帝国からの要求は他にないってことでいいんだな?』

『ええ。今話した通り、戦火による負債と経済の支援を約束するわ。対パルミラのための武力支援も含めてね』

『なんか聞いてるとまるで帝国が敗戦したような扱いだよな。そんな約束しちまっていいのか?』

『必要なことよ。この五年でフォドラに大きな負担を強いてきたのが私の咎。それを少しでも返すために帝国が荷を負うのは、皇帝たる私の判断。誰にも異を唱えさせないわ』

 

 探るようなクロードの言葉にも毅然とした態度を崩さないエーデルガルト。帝国を率いる皇帝として、己の決定に恥じるところなどないと伸びた背筋が物語る。

 

『そうかそうか。いやー、さっすが皇帝陛下。太っ腹でいらっしゃる』

『その言い方はやめてほしいのだけれど……』

『じゃあその太っ腹ぶりに甘えて、後一つだけ要求追加しちゃいましょうかね』

『まだ他にあったかしら?』

『この頼みを聞いてもらえるなら他はこっちで何とかするってくらい大事なことなんだが、言うのが遅れちまったよ。悪いね』

『だから、その頼みは何なのか言いなさい』

『簡単なことさ。()()()()()()()()()()()()?』

 

 その問いかけに、エーデルガルトは拳を振り上げることで応えた。

 

 ……

 …………

 ………………

 

 よほどの怪力が込められていたのか、叩きつけたエーデルガルトの拳がテーブルを陥没させてしまい、表面のヒビが向かい側まで伸びる。

 目に見えて分かる決裂の証により、講堂の空気は一変した。

 

 苛烈な目でエーデルガルトに睨まれても、対するクロードは落ち着いていた。

 軽く言い放った態度のまま、浮かべた微笑みも崩さない。まるでこうなるのを想定していたように。

 実際に想定していたのだろう。エーデルガルトにあんなことを言えば断られることなど、彼女を知る者ならすぐに分かるから。

 

 エーデルガルトがここまでの激昂を露わにしたことに驚いた面々は、場の空気が変わったのを感じて即座に緊張を身に纏った。武装も相まって戦闘前にも似た張り詰めた雰囲気が漂う。

 ある者は拳を固め。

 ある者は掌で魔力を練り。

 ある者は武器に手を伸ばし。

 

「そこまでばっさり断らなくてもいいだろ。考えてくれてもよくないか?」

 

 そんな中でも微笑んだ表情を変えないクロードはどこか不気味だった。

 

「必要ないわ。私が(せんせい)を手放すわけがないのは分かるでしょう」

「そりゃああんたの個人的な気持ちだろ。帝国と同盟の和平会談で持ち出していいことじゃないんじゃないか?」

「何と言われようと返事は変わらないわ。師は渡さない」

「皇帝の発言とは思えないね。言ってしまえば平民の技術者を一人派遣させるようなものだろ? 先生の行動範囲が同盟にも広がって、そっちにとってもいいことだと思うんだが」

 

 緊迫した空気の中で、頭の後ろで手を組むという無防備な姿を晒すクロード。エーデルガルトの激昂を前にしても崩れない余裕に注目が集まる。

 

「……どういう意味かしら」

「俺らが帝国の動きを何も知らないと思ってるのか? この数節であんたらが大幅に変わったのは先生が帰ってきたからだろ。こんな短い時間で帝国を変えてみせた有能な人材、その活動を一つの国に限定させるなんてもったいないじゃないか」

 

 優秀な人物には相応しき立場を。より広く、大きな活動ができる支援を。

 士官学校にいた時からエーデルガルトが掲げていた公約とも言える理念であり、彼女が目指す社会の理想像。

 それに準ずるなら、ベレトほどの有能を一つ所に押し留めるのは人材の無駄遣いに他ならない。彼はもっと広く活躍するべき人物である。

 

 帝国だけでなく、同盟にも、ゆくゆくは王国にも人々が問題なく行き交えるように計らうこともこの会談の目的だ。将来的に目指す形を見据えてベレトをモデルケースにしたい。

 ベレトなら国の違いなどに囚われることなく動いてみせるだろう。セイロス教の聖人でもある彼が率先して国境を越えた活動をしていけば、それを見た人々の意識も変えていきやすい。

 

 ベレトがエーデルガルトの支えになっているのは分かる。

 会談で発言を求められるわけでもないのに、今も彼女の傍に控えてそこに存在するだけで大きな励みになっているのだろう。もちろん帝国にはセイロス教が認めた聖人がいるのだぞという公的なアピールも兼ねているのだろうが。

 しかし、帝国の頂点に立ち、多くの民を率いて世界を変えんとする皇帝が、たった一人に固執して手元に置いておきたがるなど外聞が悪いというもの。

 

「しかも先生は今でも無位無官らしいじゃないか。帝国を離れたって特に支障はないだろ?」

「それは! 特定の立場に縛ることで師の動きを妨げるなんてできないから!」

「そう、そこだよ。エーデルガルトだって先生が動きやすいようにって配慮できてるじゃないか。なら同盟まで活動範囲を広げるのはむしろいいことだ」

「……っ! それは、そうかもしれない、けど……!」

 

 それまで整然と話ができていたのに、ベレトのことになると途端に心が乱れる。

 エーデルガルトが思わず目を伏せてしまったのを見て、クロードは僅かにだがにやりと笑った。

 

「聞けば先生は帝国におけるセイロス教の顔役としてあっちこっちに顔を出してるんだろう? 皇帝の隣に立って演説に付き合ったり、その腕っ節で暴動を鎮めたりして大活躍。いいことじゃん。是非その腕を同盟でも振るってほしいもんだ」

「…………私が、師の足枷になっていると?」

「違うとでも?」

 

 絞り出した言葉を軽く一言で返され、エーデルガルトは二の句が継げなくなる。喉が詰まり、歯を食いしばるのみ。

 

 考えたことがなかったわけではない。

 

 レアより私を選んでくれた師。

 教団を出て帝国に来てくれた師。

 私の心を支えてくれた師。

 そうだ。私は彼を欲している。手放すなんて想像すらしたくない。ずっと傍にいてほしい。彼と離れてしまう道はきっと選べない。

 こんな私の下に縛り付けることが師の邪魔になっているのでは?

 士官学校での彼の活躍を思えば明らかではないか。学級どころが国の垣根を越えて多くの人から慕われた彼を、私はただ個人の情で囲っている。

 この私情は、師にとって足枷だ。自由人の彼には重荷であるに違いない。

 それでいてこの枷と言える繋がりは、私の拠り所であり、悦びなのだ。

 師が欲しい。一度知ってしまったからにはこの気持ちを捨てられない。この気持ちを知らなかった頃の私には、もう戻れない。

 でも、その私のせいで師の道を阻んでしまうのは……嫌だけど、それでも彼を手放せない。彼が離れてしまう道なんて……

 

 言葉を詰まらせ、目を伏せてしまうエーデルガルト。

 それは世間で語られる鋼のような力強い皇帝には見えず、まるで怯える幼子を思わせる姿で、目の当たりにした会談の参加者は目を見張った。

 明らかな弱みだと言える姿。皇帝が人前で晒していいものではない。ましてや会談の真っ最中である今。

 

 そんなエーデルガルトと、目を細めて微笑むクロードを見て、ヒューベルトは顔に出さないまま焦燥にかられる。

 

(いけませんね……先生を絡めて言いくるめられて、場の流れが完全にクロードに握られてしまっている……強引にでも口を挟むべきか……)

 

 帝国と同盟の長同士が仕切る話し合いに、会談の参加者とは言え、急な口出しは不敬に取られる恐れがある。これは宮内卿のヒューベルトであっても例外ではない。それくらい会談の空気とは繊細なものなのだ。

 しかし、このままエーデルガルトを放っておくわけにはいかない。無理やりにでも流れを断たなければクロードの思うままに話を進められてしまう。

 

 そう意を決して口を開こうとしたヒューベルトだが、それより早く視界の中で動いた人物を見て動きを改めた。

 エーデルガルト様の御心を支えてくださる存在──自分が願ったことを彼ならやり遂げてくれると信じられたから。

 

「発言をいいか?」

 

 国の行く末を決める重要な会談。

 王の器の持ち主同士の話し合い。

 並の神経であればとても割り込めない空気でも、いつもの無表情を変えることなく挙手したベレトが訊ねた。

 

「おう、いいぜ。どうした先生」

「師……?」

 

 おもしろそうに許すクロードとは対照的に、焦りを隠せていない顔でエーデルガルトは隣を見上げた。

 彼女の視線にはあえて反応せず、許可を得たベレトはおもむろに席を立つ。

 

「まず、そんなにも俺を高く評価してくれてありがとう。傭兵としては実力を認められるのは一種の誉れみたいなものだから、褒めてくれるのは嬉しい」

「うん? あんたのことを知っていればこれくらい妥当な評価さ。それに同盟に来てほしいってのも本音だぜ。それだけの影響力があんたにはある」

 

 ベレトが口にしたことが意外だったのか、軽く首を傾げるクロードだったがお世辞ではないと念を押す。かつての友誼からではなく本心でベレトが欲しいのだと。

 

「で、どうだい先生。俺達のところに来てくれよ」

「いや、俺はエーデルガルトの傍にいる」

 

 故に、こうもさっぱりと爽やかに断られてしまっては、さしものクロードと言えど二の句が告げぬというものであった。

 

 安堵と歓喜に顔を輝かせるエーデルガルト。

 冷や冷やさせてくれると溜息を吐くヒューベルト。

 他にも様々な視線が向けられるベレトに、頬をひくつかせながらクロードは何とか口を開く。

 

「お、おう、そうか……いや、そこまでばっさりだとは思わなかったな」

「そうだったか。驚かせてすまない」

「……理由は、聞かせてもらえるかい?」

 

 ベレトのことだ。金だったり権力だったり、皇帝に取り入って甘い汁を啜ろうなどと俗物めいた目的があるとは思えない。そんな人間ではないからこそ彼は魅力的なのだ。

 彼なりに真剣にフォドラを想った結論としてエーデルガルトに付くことにした。その理由を聞くくらいは許されるだろう。

 

「答える前に、俺から一つ訊ねたい」

「先生が俺に?」

「クロード。君の野望は何だ?」

 

 再び、言葉に詰まる。

 このようにして度々こちらの口を凍らせるような鋭い指摘をしてくるのがベレトの難点である。そこがまた彼のおもしろいところでもあるのだが。

 

 この場で言っていいことなのか。

 少なくとも公の場でうかつに出していい話ではない。受け取り方次第では全ての人を敵に回しかねない。クロードの野望はそれくらい突拍子のない話だ。

 しかし、この野望をベレトはもう知っている。その彼から訊ねられては誤魔化しも通用しない。

 

「……フォドラの壁を壊すことさ。ここの連中は人種だの常識だのに縛られて、その向こうにあるものをしっかり見ようとしない。そんなのもったいないだろ。手を取り合えば今までにない新しい世界に辿り着けるかもしれないのに、すぐ隣の奴にも手を取るどころか排他的。俺にはそれがもどかしくて仕方ない」

 

 五年前にベレトに教えた自身の野望。それは今でも変わっていないとクロードは語る。まさかここで暴露させられるとは思わなかったが、ベレトの眼差しから目を逸らしてはいけないと感じた。

 彼を欲するならば。彼と並び立とうとするならば。今正面から受けて立たねばならないだろうから。

 

 そんなことを考えていたのか、という視線が自分に殺到するのを感じながらクロードは続ける。

 

「例えば、昔フォドラを侵略しようと攻めてきたダグザとブリギットの連合とそれを撃退した帝国が今は手を取り合って新しい関係を築けているだろ? 俺としちゃあ羨ましい話さ。それと同じように、長い間戦争を続けてきた俺達だって手を取り合って新しい関係を作れる道はあるんじゃないか?」

 

 近年、帝国が国力を増した政策の原動力の一つにブリギット諸島との交易がある。ブリギットの姫ペトラが率先して動いたこともあって、この五年だけで人も物も随分動いたと聞く。

 最初に縁が繋がった切欠が侵略目的の戦いだったというのに、それが今では海を越えて貿易できるほどの仲になるとは。

 クロードからすれば理想が形になったと言える関係だった。

 

「うん。帝国とブリギットの間にあった壁が崩れて、新しい風が吹き込んで今の関係が作られた。クロードが目指していた世界が作られ始めたんだな」

「そうだろ? 先生も分かってるじゃないか。なら──」

「だがクロード。未来を見据える君は、人を見ているか?」

 

 肯定されて嬉しくなるクロードだったが、続けてベレトが指摘した。

 人を見ているか──はたと言葉を止めて耳を傾ける。

 

「侵攻してくるダグザとブリギットの連合軍を、帝国はベルグリーズ伯が率いる軍で迎え撃った。その連合軍の中にペトラの父がいた。そしてその連合軍はベルグリーズ伯によって撃破された。そこでペトラの父も含む多くの人が殺された。同じように、帝国側にも多くの犠牲があった」

「……」

「分かるか? 帝国とブリギットの間に最初に生まれたのは怨恨なんだ」

 

 静かに話すベレトの声を聞いていると、会談の場がまるで歴史の授業をしている教室に思えてきた。

 

「以後は帝国とブリギットの上下関係が固まった。明確に下になったブリギットからペトラがフォドラに来た理由は、分かるだろう」

「実質的な人質、だよな……ブリギットに反抗させないための」

「そうだ。帝国の言うことを聞かせるための人質だった」

 

 クロードが出した答えに頷くベレト。

 そのまま顔は動かさず視界の中にいる同席するペトラをこっそり見ると、彼女は小さく目を伏せつつも伸びる背筋は変わらなかった。

 

 敵地である帝国に単身送られることになり、言葉もろくに通じない異国で生きていかなくてはいけないという辛い過去だったろうに。その話をベレトが持ち出しても、懐かしそうに微笑んですらいる。

 それはペトラの中で、怨恨から始まったに違いない帝国との関わりが、今では笑顔で受け止められるくらい良いものになっている証だった。

 

「ペトラだけじゃない。ベルグリーズ伯の息子であるカスパルも、とても悩まされていた。仲間であるペトラとどう接すればいいか、憎しみを自分が受け止めなければいけないか、困っていたそうだ」

「あー、まあ俺の場合は個人的な感情っていうか事情っていうか、あんま大した話ってわけじゃないけどよ」

「違います、カスパル。あなたの気持ち、嬉しく思います。それ、心遣い、言う、わたし、知っています。そのあなた、仲間、思う、わたし、誇らしいです」

 

 気まずそうに頭をガリガリ掻きながら笑うカスパルへ、そんなことはないとペトラが伝えた。

 続けてペトラはクロードに顔を向ける。

 

「クロード、聞いてほしい、願います」

「ああ、何だいペトラ」

「わたしの心、帝国と、カスパルの父、憎さ、ない、ありえません。しかし、わたしの仲間、好きな気持ち、あります。共に、戦う、生きる、本心です」

「……憎しみがあっても、それを打ち消す友情があるってことか」

「はい。わたし、ブリギットの未来、背負います。いずれ、帝国、エーデルガルト様、並び立つため、成長する、求めます。それ、わたし一人、できる、違います」

 

 人は人と関わることでしか成長できない。個人で努力しても必ず蓋に阻まれる。

 ベレトが彼自身が体感して得た成長のコツ。それを教わったペトラは積極的にベレトを、そして周りの仲間を頼った。

 

 ヒューベルトには何かと主と比較されて負けるものかと奮起させられた。

 フェルディナントとは武具にまつわる歴史と研鑽を学べた。

 リンハルトからは思いもよらない視点と知恵をもらえた。

 ドロテアとは故郷を語る誇らしさと国を越えた他者への友愛を知れた。

 ベルナデッタには逆に自身の技と心得を教えて成長を与えられた。

 そしてカスパルとは憎しみをも克服できる絆を結ぶ喜びを得られた。

 

 楽観的に生きるのとは違う。過去の痛みを忘れることなく、よりよい未来を目指してペトラは成長してきたのだ。

 

「仲間いる、わたし、成長する、できました。帝国いる、ブリギット、成長する、できました。それ、似ている、思います。いつか、並び立つ、向かい合う、握手です」

 

 過去は消えない。怨恨も憎しみも消すことはできない。

 それでも耐え忍び、人との繋がりを持つことができれば新しい何かが得られる。

 そういった理念を知識としてではなく己の血肉としてペトラは体得していた。

 

 それはまさにクロードが思い描く野望の在り方である。

 しかし、その大前提として考えなければいけないこともある。

 

「クロード。君の野望は俺も応援したい。だが、そもそも壁とは何なのか考えたことはあるか?」

 

 間を置かずベレトは続けて訊ねる。授業を思わせる厳しさで、鋭く、逃げ場を残さないように。

 

「心情的な壁……ってのとは、先生が言いたいのは違うか」

「ああ。この講堂の壁だったり、大修道院の門、ガルグ=マク周辺の城郭、家屋を囲む柵、そういうものが何のためにあるか、分かるか?」

「人の目を、行き来を遮るためのもの……侵入を阻む、防御のための障壁」

「そうだ。遮る、阻む、防御を目的としたもの。つまりは身を守る盾であり、鎧だ」

 

 それを壊すということは、外敵に無防備な姿を晒させるようなもの。

 裸に剥かれそうになれば抵抗されて当然なのだ。

 

 自ら襟を開いたところで、相手が必ず同じように応じてくれるわけではない。

 懐を見せてもいいと相手に信頼してもらうのが先。

 そういう信頼がないまま壁を壊してしまえば、待っているのは衝突だ。

 

「壁を壊した先の未来を見るのは、いい。けどクロード、君はそこに生きる人を見ていないように思える。人を軽んじてしまえば少なからず痛みが生まれる。そんなことにはなってほしくない」

「……っ」

「だから、クロードは壁を壊すより先に、壁を越えた向こう側で人との信頼を作ってほしい。聡明な君ならきっと俺に言われなくても気付いて、同盟の内側からフォドラを変えていけると思う。そしてそれは()()()()()()()()()()()()だ」

「……先生がそこまで帝国に付くのは、何のためだ?」

「エーデルガルトを守るため」

「ははっ、だよな。あんたはずっとそうだもんな」

 

 振られちまった、と笑うクロード。話が決着したのを感じ取ったエーデルガルト達はそれぞれが安堵の溜息を吐いた。

 

 ベレトはソティスの言葉を思い出していた。

 フォドラの地は泣いている。人々は苦しんでいる。それを救えるのはベレトだけだという。

 しかし、ベレトは自分一人で全てを救おうとは思っていなかった。

 それどころか、救えるのならそれは誰がやってもいいとさえ考えていた。

 

 一人で指導も勉強もと張り切っていたら、生徒を疎かにしていると父に叱られた。

 一人で復讐に先走ったら、独走の代償にソティスがいなくなってしまった。

 一人で生徒を守ろうと戦ったら、どこにも手が回り切らず半端な結果になった。

 

 ベレトは自分一人にできることなんて少ないのだと分かっている。いくら強いと持て囃されようと、どんなに力を尽くそうと、個人で為せることなど高が知れているという現実を理解している。

 だからこそ、ベレトは自分にできることを考える。自分が本当にやりたいことを考える。

 

 エーデルガルトの覇道が、クロードの野望が、多くの人々を救うことに繋がるのならそれを支えよう。

 その道中で自身の目的──エーデルガルトを守り、彼女が幸せに生きていける世界を創る──を果たすことができるのなら、きっとそれが最良なのだ。

 ベレトはそう信じていた。

 

「あーあ、参ったな。まさか先生に論破されるとは思わなかったぜ。あんたこういうのは苦手だったはずだろ」

「得意ではない。俺にできるのは正直に応えることだけだ」

「そうかい……誠実に勝る説得はなし、か。今後の教訓にさせてもらうよ」

 

 天井を仰ぎ見ながら、降参と言うように諸手を上げるクロード。言葉とは裏腹に表情は楽しそうで、苦い色は見えなかった。

 

 ただ、話がこれで終わったわけではなく。

 

「しかし、それはそれで困ったな。これじゃあ同盟と帝国の和平はご破算だ」

「なっ……どういうこと!? 確かに師は渡さないけど、帝国が様々な補償をするという約束に変わりはないわ!」

「ああ、それはすごくありがたい話なんだが……こっちも事情があってね」

 

 エーデルガルトが慌てて問い詰めるが、クロードは軽い調子で続ける。

 

「議会で貴族連中から言われてんのさ。この会談で帝国から金や支援を引き出せるならそれに越したことはないが、それらを差し置いてでも『聖人ベレトを確保せよ』とね」

「え……何それクロード君、あたし知らない、あたし達それ聞いてない!」

「教えるわけにはいかないだろう。だってお前ら、誰も腹芸できないじゃん」

 

 続く言葉を聞いて、今度はヒルダが声を上げる。そんな大事な通達、同じ会談に臨む自分達は聞かされていない。

 目を剥いて問うてもクロードに軽く返されてしまって押し黙る。事実、真の狙いを隠したまま会談の席に着き、和平を結びつつベレトを誘う交渉をするとなれば仲間達には荷が重いのが正直なところ。

 ラファエル、レオニーは言うに及ばず。才女のリシテアも内心を隠す貴族めいた振る舞いには長けていない。商家の出であってもイグナーツは腹の探り合いは苦手と聞く。そしてヒルダ自身も、エーデルガルト相手に通用するような交渉術はない。

 ここにローレンツがいれば話は違ったかもしれないが……

 できないと分かっている腹芸ならクロード一人に任せてしまった方がいい。それが理解できてしまうので口の中で声にならない唸りを転がすしかなかった。

 

 同盟側の参加者が言葉を失い、帝国側の参加者もまさかそのような事情を抱えているとは思わず追及が止まる。

 ベレトのためなら他の条件は全て放棄しても構わないというのだ。同盟の議会はそれほどの価値を彼一人に見出しているのか。普段はベレトが評価されれば鼻高々になるエーデルガルトすら唖然としてしまう。

 

 だが、ベレト=アイスナーという存在が切欠となってフォドラに生まれた変化を思えば理解できなくもない。

 【灰色の悪魔】の二つ名を持ち、英雄の遺産を操り、それがなくても個人の実力は超一流のそれであり、さらには軍を動かす手腕までも優れる。そんな戦力的価値。

 皇帝を公私共に支え、助言し、時には諫めて導くご意見番であり、帝国の次代の有力者達にも教師として意見できてしまう。そんな政治的価値。

 炎の紋章の持ち主で、大司教レアが直々に認めた聖人の称号を賜り、翠の髪と翠の瞳というレアに並ぶ存在。そんな宗教的価値。

 これほどの価値がベレトにはある。

 

 そのベレトが同盟に属すれば?

 東のパルミラへの対抗戦力。

 同盟を発展させる影響力。

 教団を抱えた王国に負けない宗教力。

 彼一人迎えるだけでこれらが一気に手に入るのだ。

 

 当の本人が「ただの傭兵が出世したものだ」と他人事のように考えているのはさて置き。

 

「先生をもらう、この条件を通すことが同盟議会の意思だ。それを断られちまったら和平が成立しないのは……分かるだろ?」

「……変えることはできないのね?」

「できないな。悪いが、皇帝様と違って盟主にそこまでの権限はないもんでね」

 

 分かっていても重ねて問うエーデルガルトに、分かっていた答えを返すクロード。

 

 必須の条件を撥ね退けてしまえば交渉は決裂する。当然のことである。

 それが当然だと分かっていても、和平が叶わないことに苦い空気が広がった。

 

 重苦しい沈黙が講堂に広がる中──突如、事態は急変する。

 

「じゃあもう我慢しなくていいよな」

 

 そう呟いて。

 槍を手に取ったレオニーが弾かれたように飛ぶ。

 一瞬でテーブルの上を横切り、エーデルガルトに向けて一閃を繰り出したのだ。

 

 決裂したとは言え、和平を目的とした会談の場。

 武装していても得物を納めたまま終わらせるのだと考えていた者は、それを無視して起こる凶行に意識が追いつかなかっただろうが。

 思考の一部でずっと参列する全員に注意を払っていたベレトだけが反応できた。

 エーデルガルトに突きこまれた槍を横から、穂先の根元を掴んでテーブルに突き刺させることで防いでみせた。

 

 間一髪の横入り。ベレトが掌を小さく切っただけで済んだが、後僅かに遅れてしまえば歴史が変わっていたかもしれない。

 先ほどエーデルガルトがテーブルを殴ったのとは比較にならない暴挙。

 あわや全てが終わりかねなかった事態に、帝国側は色めき立つどころではなく一気に戦闘の緊張が走る。同盟側も同様で、続々と席を立って武器を構える始末だ。

 

「おいこらレオニー、何してんだよ!?」

 

 たまらずクロードが叫ぶが、当の彼女は槍を突き出した体勢のまま動く動こうとしない。踏み込んでそのままエーデルガルトを、そしてその前に立ち塞がったベレトを睨んでいる。

 

「……何で」

 

 やがて小さく溢したレオニーの声は、締め付けられたように苦しげなものだった。

 

「何であんたがそっちにいるんだよ……!」

「レオニー……」

「師匠を殺した奴がいる帝国に、何でよりにもよってあんたが味方するんだ!! 奴らと帝国が繋がってるなんて明らかじゃないか!? 先生だって知ってるんだろ! こいつらが怪しい組織と協力して、五年前の時も暗躍していたって! 帝国なんか、師匠の仇も同然だ!!」

 

 レオニーの叫びには、怒りと、悲しみが籠っていた。

 

 師匠とは彼女の傭兵としての師、ジェラルトのことである。

 幼少の頃、レオニーの故郷のサウィン村へジェラルト傭兵団が依頼のために訪れた際、密猟者を軽々と退治したジェラルトを慕ったことで師弟関係を結んだのだ。教えを受けた期間は極めて短いものだったが、彼女にとっては大切な思い出だった。

 ……勝手に弟子入りして勝手に弟子を名乗ったのが始まりだが。

 成長してもその縁を忘れず、士官学校でジェラルトと再会できたレオニーは殊の外喜んだ。周囲が【壊刃】の名声ありきでジェラルトを歓迎する中、彼女は一人の人間としてのジェラルトを強く慕ったのだ。

 息子のベレトに対して初めは対抗心を持っていた。自分こそが一番弟子であると名乗り出たり、訓練で張り合ったり。

 同時にジェラルトに鍛えられたベレトを一目置いていた。実力を知るにつれて彼を見直し、指導を受けるようになってからは貪欲に食らいつくなど、レオニーなりにベレトを尊敬していた。

 ジェラルトが殺された時も、レオニーは人一倍悲しんでいた。それでいて父を失ったベレトを気遣ったり、復讐に付き合ったりと力を貸してくれた。

 自分に万一のことがあれば、代わりにベレトを支えてくれ──ジェラルトと交わした約束を守ろうとしてくれたのだ。

 

 そのベレトが、よりにもよってジェラルトを殺した奴に味方するなんて!

 かの組織と協力関係にあるであろう帝国と皇帝エーデルガルトは、レオニーにとって仇も同然。戦争まで起こすような事情があったとしても関係ない。

 エーデルガルトと帝国は敵のはず。なのに何故ベレトが守るのか。

 

「何とか言ってみろよ! この裏切り者!!」

 

 そう、これは明らかな裏切りだ。レオニーからすればそうとしか思えなかった。

 ジェラルトから愛情を注がれておいて、そのジェラルトを殺した奴に力を貸す。こんなのはジェラルトとの、そして自分との信頼を裏切る行為に他ならない。

 

 あんたは裏切りを許さなかったじゃないか。

 信頼を裏切るのをあんなめちゃくちゃに怒るくらい嫌っていたじゃないか。

 なのに、どうして……どうしてあんたが!

 

「……レオニー」

 

 叫びを聞き、ベレトは一瞬だけ目を閉じる。開いた目でレオニーと正面から視線を合わせた。

 

 先ほど言った通り、自分は口が上手くない。

 穏便に済ませようとか、相手を説得しようとか、そんな器用なことはできない。

 できるのは正直に応えることだけ。

 ならば、せめて彼女にもよく分かる言葉で伝えるしかない。

 

 話す内容をまとめたベレトは口を開く。

 

「甘えるなよレオニー」

「……はあ!?」

 

 叱咤をぶつけられ、レオニーは思わず顔を歪めた。ベレトの言うことが理解できなかったのだ。

 甘えている? 自分が? 誰に?

 

「父さんを殺したのはエーデルガルトじゃない。クロニエだ」

「なっ……」

「個人への恨みを集団への憎しみにすり替えるな。怒りを向ける相手を間違えるな。君がやっているのはエーデルガルトへの八つ当たりという名の甘えだ」

「ふ、ふざけんな! 何が甘えだよ! 帝国があの組織と手を組んでるなら、やったことの責任は皇帝のこいつが背負うもんだろ!」

 

 自分がエーデルガルトに甘えていると言われ、レオニーは激昂する。胸の中に黒々と湧く怒りを甘えと評されるなど心外だった。

 槍を持つ手に力が籠るが、ベレトに抑えられたまま動かせない。

 

「レオニー。君は今でも傭兵を志しているんだな」

「……もう実際に依頼を受ける傭兵だよ。それがどうした」

「そうか。なら現状の把握と、依頼内容の理解を間違えてはいけないぞ」

「どういう意味だよ?」

「現在地と目的地を間違えたらどんなに強い傭兵でも依頼は果たせないんだ」

 

 レオニーの立場とその目的。それを依頼という形に照らし合わせる。

 立場は傭兵。依頼目的に向けて武器を振るい戦う者。

 目的はジェラルトの仇討ち。師匠を殺した仇を殺すこと。

 

「もう一度言うぞ。父さんを殺したのはクロニエだ。エーデルガルトじゃない」

「……んなことは分かってる! そのクロニエがもう死んじまったからわたしはエーデルガルトを狙って──」

「そこがズレてるんだ」

「だから何が!」

 

 クロニエは五年前、封じられた森の掃討戦でベレトによって討たれた。少なくともあの時点で、ジェラルトの仇討ちは果たされたと言っていい。

 しかし、それで生まれた怒りや憎しみが全て消えたわけではない。仇だけが消えてやり場のない感情を今まで抱え続けた人もいる。

 そんな人はどうすればいい? この先もずっと負の感情を抱えて、押し殺して生きていかなければいけないのか? 愛情が大きければ大きいほど、生まれる憎しみも大きいのに?

 生まれた感情は、ぶつける相手が必要なのだ。

 

「父さんを殺したのはクロニエ。だからクロニエを憎むのは当然だ。俺もそうだったからな。そのクロニエは俺が殺した。君より先に、俺が殺したんだ」

「……?」

「つまり俺は()()()()()()()()()()

 

 だから──そこまで言ってベレトは固めていた腕を動かした。

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 テーブルに刺していた槍を引き抜き、手放すことなくそのまま穂先を自分に向けさせる。するとレオニーがベレトに槍を突きつける形になった。

 

「え……でも……それ、は……!」

「レオニーは怒っていい。怒りは大きな力になる。けど使い方や矛先を間違えちゃいけない。あの時の俺のように味方がいないところまで突っ走ってしまえば、取り返しのつかないことになるかもしれないから」

「そうじゃない! 何でわたしがあんたを憎むことになるんだよ!? 悪いのは帝国で、エーデルガルトで!」

「傭兵なら、割り切れ。区切りを付けろ。目的を越えてまでやり過ぎるな。じゃないとただの八つ当たりになってしまう」

 

 話を聞くにつれてレオニーの表情は歪んでいく。怒りに燃えていた瞳は今は困惑に揺れていた。

 これまでずっと抱えてきた憎しみの向ける先が間違っていたとベレトは言う。そんなこと、すぐには納得できない。

 でも、ジェラルトの息子で、仇討ちを果たした当の本人で、尊敬できる傭兵で、士官学校でたくさんのことを教えてくれた先生で、そのベレトの言うことならそれはたぶん正しくて……

 

「それに怒る理由なら充分ある。君との信頼を俺は裏切っているだろう。だから、君は俺を憎んでいいんだ」

「ち、ちが……わたしは先生を、守りたくて……」

 

 本当は……嬉しかったのだ。

 ベレトが生きていると知って、ガルグ=マクで再会できて、嬉しかった。

 士官学校では学級が別だったが、彼の指導を受けて楽しかったし、同じジェラルトから教えを受けた者同士で兄弟弟子みたいだと思えたのだ。

 

 そんなベレトを仲間のように思っていたのに、憎む?

 彼がジェラルトを殺したわけではないのに?

 ベレトに向くことになるなら、この怒りは本当に正しいものなの?

 

(わたしは、師匠との約束を守りたいだけ……あんたを守りたいだけなのに……それは間違ってることなのか……?)

 

「レオニー」

 

 視界がくらくらするような困惑に包まれるレオニーへ、ベレトの静かな声が向けられる。いつの間にか俯いていた顔を上げると、先ほどより近付いた彼が見えた。

 手からはもう力が抜けていた。穂先を避けて近付いたベレトの手が、槍を握る自分の手を包むように添えられる。

 

「父さんとの約束を覚えていてくれて、ありがとう」

「っ……」

「ずっと父さんを愛してくれて、ありがとう。レオニーが心に残るジェラルト=アイスナーを大切に想い続けてくれたことを、俺は嬉しく思う」

「先生……」

「だからもう、父さんを思い出す時にそんな悲しい顔をしないでくれ。君自身が幸せになれるような……他の誰かに父さんのことを話す時は、その人と一緒に笑顔になれるような、そんな思い出も大切にしてくれ」

「…………ちっくしょう……」

 

 ベレトの声を聞いている内に自分の感情がすっかり萎えてしまったことをレオニーは認めるしかなかった。もう手に力が入らないし、エーデルガルトと帝国に抱いていた憎しみもしぼんでいくのを自覚してしまう。

 彼の手に促されて槍を下ろす。手放すことこそしないが、今さら構え直すことはできなかった。

 

 あわや血を見るかとハラハラしていた周囲も、ベレトと一緒にテーブルを降りたレオニーを見てようやく緊張を解くことができた。

 結局会談は一時中断されることになり、ベレトは帝国側へ、レオニーは同盟側へ引き取られる。

 ベレトの手の治療をしたり、レオニーの身柄は取り抑えられるなど慌ただしく動いていると、今にも戦闘に発展するのではと危ぶまれた講堂の空気も落ち着きを取り戻していった。

 

 その後、何やかんやで1時間ほどの小休憩を挟んでから会談は再開された。

 

「すまなかったな。こんなことになるとは」

「いえ、レオニーのことは師が場を治めたとして、もういいわ。ただ、刃を向けられたという意味では帝国は受けて立つわよ」

 

 頭を下げるクロードを、何はともあれ自分とベレトは無事だったからと許すエーデルガルトだが釘は差す。こうなってしまった以上、後には引けないと。

 

「そうだな。和平は叶わず、矛を交えることになったわけだが……できるだけ犠牲は避けたいのは帝国も同盟も変わらない意見だと思うんだ」

「? ええ。潰し合いは望んでいないわ」

「そこで一つ提案だ。無用に戦線を広げたり無駄に時間をかけたりしないで、お互いの最高戦力による一度の戦闘で決着をつけるってのはどうだい?」

「他には損害を出さず、勝った方の総取り……ということかしら」

「そういうこと」

 

 クロードから出された提案は犠牲を減らすという意味では悪くないものだ。

 

 後には引けない。しかし無駄な犠牲は避けたい。和平は叶わずともそこは一致している。

 ならせめてその一致した点を下地にして今後の動きを決めよう。

 辛うじて合わせられた意見の下、帝国と同盟の決戦内容が話し合われた。

 

 帝国が戦端を開いたというのに、その帝国の都合で戦争を終わらせて和平を結ぼうとした。ならば同盟側に大きなメリットでもないと和平を受け入れる理由がない。

 なので帝国は同盟へ様々な補償をするつもりだった。大きな負担を被ってでも和平を結びたかったのだ。

 そしてそれが叶わず、被害を抑えるために最高戦力同士の決戦という限定された戦いにわざわざ臨むのなら、やはり同盟側に大きなメリットがなければ話は通らない。

 和平から戦いへ形は変えても、帝国側の補償を引き出させた特殊な決戦になる。

 

 戦場になるのはリーガン領、デアドラの港。

 市街には一切手を出さず、港とそこから広がる海に限定させる。

 帝国にとっては敵地。港に被害を受ける代わりに同盟は地の利を得る。

 

 戦力はお互いの最高の軍。

 帝国は、元黒鷲の学級からなる黒鷲遊撃軍のみ。

 同盟は、元金鹿の学級を長とする専属の騎士団の集合体。

 数で勝るはずの帝国が、今回は数で劣る軍勢で同盟に挑む。

 

 ……本来であれば、こんな戦いなどやらなくていいはずである。

 

 帝国が誇る強大な軍事力を余すことなく投入してしまえば、恐らく同盟は力尽くで倒されるだろう。

 グロンダーズ平原の戦線を押し戻し、ミルディン大橋を抑え、補給線を確保した上でリーガン領に王手をかけて真っ向から戦い、同盟を制圧する。今の帝国ならやろうと思えばそれができてしまう。

 

 だが、それではだめなのだ。エーデルガルトは和平を申し出たのだから。

 

 五年前に帝国がガルグ=マクを侵略したことを考えれば、それまでの世界を在り方を破壊し尽くそうと、血塗られた覇道を突き進まんとする皇帝の姿が浮かぶのは確かだ。

 しかしこの五年間、国内に軍を巡らせて治安を守り、各都市の連絡を密に取り、ブリギットとの関係も改善させ、正道を歩んで帝国を豊かにしてきたことも否定できない。

 そして今ではガルグ=マクを解放し、セイロス教を盛り立て、和平会談の場を用意してみせた。同盟に対して様々な補償をするとも表明した。

 和平の成立こそ叶わなかったが、できる限り同盟の希望に沿う流れで進めたかった帝国が、戦うことになっても同盟の希望を聞き入れたのだ。

 

 言ってしまえば、ハンディマッチである。

 明らかに力で勝る側が「〇〇に付き合え」と持ち掛けてしまうと、劣る側は本心では嫌でも渋々付き合わざるを得ない。そんな歪んだ関係では遺恨が残る。後になって拗れてしまうと、せっかくの〇〇が台無しだ。

 そうならないように対等な勝負が成り立つための制限を設けた状態に持ち込めば、実力差がある相手でもフェアな戦いができる。

 そうやってフェアな状態で戦うことができれば勝敗がどうなろうとお互いが納得できるだろう。

 

 帝国は同盟に対して、戦争を始めたという負い目がある。

 その帝国が「和平を受け入れろ」と持ち掛けると、同盟としては「え~、あんなことやらかしといて今さらそれ~?」と嫌な気持ちになって当然。

 そこで同盟から「受け入れてほしいなら一勝負付き合えや、そっちハンデありな」と条件を提示して、帝国が「よっしゃ、ケジメつけた上で白黒決めるぞ、勝った方がこれからの主役な」と話に乗った形。

 

 ──交渉を傍で聞きながらベレトは頭の中でこの話の流れをそんな風にまとめた。

 

 難しい言い回し除いて整理するとだいたいそのような感じになるはず。

 後でエーデルガルトとヒューベルトに確認を取ることにして、今後に向けて意識を切り換える。

 

 勝った方の総取り(オールオアナッシング)という戦いの常がここでも行われることになったが、今までにあった戦いとは違う。少なくともこうして話し合った末に臨む戦いでは、勝者が敗者の尊厳を踏みにじるようなことはきっと起こらない。

 戦争の形が変わった。そんな実感があった。

 

「戦うとなれば手は抜かないわ」

「望むところだ。口先以外の強さを見せてやるよ」

「勝てると思っているの?」

「勝つさ」

「そう……いいわ。次に会うのは戦場ね」

「待ってるぜ。お前らを打ち破る時を」

 

 戦意を滲ませる表情で短く言葉を交わすと、エーデルガルトとクロードは同時に背を向けた。それぞれ仲間を率いて講堂を出る。

 するべき話は終わった。後は戦いに向けて動くだけ。

 

 これにて会談は終了。

 和平は成立せず、決戦が確定した。

 結果がどうなるにせよ、フォドラの気運は再び大きく動くことになる。

 

 解散した彼らの胸中は様々だった。

 それでも、戦いが決まったことで各々の胸に戦意が宿る。

 

(絶対に勝つ!)

 

 エーデルガルトは絶勝を決意した。

 

(勝ったな)

 

 クロードは必勝を確信した。

 

(どうすれば勝ったことになるか)

 

 ベレトは勝利の形を模索した。

 

 次の舞台は水上都市デアドラ。

 本来の歴史ではレスター諸侯同盟が終焉を迎える地。

 その流れがどのように変わるのか……鍵を握る三人の選択が決めることである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、クロード達が同盟に帰った後。

 

「エーデルガルト、さあ」

「せ、師、本当に?」

「君が言わなきゃいけないことだ。ほら」

 

 大修道院で雑務を中心に働いている者達を講堂に集め、彼らを前にして渋るエーデルガルトをベレトは促す。

 

「エーデルガルト」

「わ、分かった、分かったから」

「……」

「……うぅ……」

「……」

「み、皆の者……テーブルを、壊してしまって、ごめんなさい。片付けと交換を、頼むわね」

「よし、ちゃんと言えた」

「ああもう、これじゃあ皇帝の威厳が……」

「大丈夫だ。エーデルガルトは偉い」

「師……」

 

 色々あった会談で、衝動に任せて殴り壊してしまったテーブル。これついては明らかにエーデルガルトの責任だ。

 備品はタダではない。無駄に仕事を増やしてしまったと関係者に一言くらい謝っておきなさいとベレトに言われ、彼の言うことには弱いエーデルガルトが作業する者達に頭を下げる場が作られたのだ。

 

 帝国を率いる皇帝が下働きでしかない平民に謝罪する。権威失墜の疑いすら生まれそうな光景だが、筋を通す信頼がなければ権威も何もないと諭されてしまって言い返せず。

 会談が終わったその日の内、講堂の清掃作業が始まる前にこの珍事が起こったのである。

 

 それを見せられた側としては、

 

(なんだこれ)

(我々は何を見せつけられてるんでしょうか……)

(陛下ってこんな顔できるんですね)

(皇帝陛下って実は可愛い説……ありだな)

(きゃわたん)

 

 といった風に困惑半分、愉快半分であった。

 

 よくできましたと皇帝の頭を撫でて満足気なベレト。

 恥を忍んで下げた頭を師に撫でられて表情が蕩けるエーデルガルト。

 

 人前であるにも関わらず見せつけられる二人の姿に思われるものは、まあ、各々あるけれど。

 それでも帝国の仲間達がこっそり覗いたところ、マイナス寄りの印象は少なかったと見て。

 ある者は頭を痛め。

 ある者は気持ちをほっこりさせ。

 ある者は尊敬の眼差しを向け。

 しばしの間、この珍事を見守るのであった。




 ファイアーエムブレムらしいと言えるのか分かりませんが、順当な流れでしょう。
 次のバトル回は長めになるかな。

作者の活動報告に載せた後書き


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信じたいもの、信じ抜いたもの 前編

 長めのバトル回です。
 心して書いていくので、よろしくお願いします。


 ──猜疑心の塊として生きてきた。

 

 昔から周りは敵だらけだった。

 生まれた土地の気風のせいか、強さが正義、強い者が偉いというのが当たり前。そんな環境に生まれたひ弱な子供は格好の標的で、出自もあってかよく狙われた。

 守ってくれないかと最初は期待していた親も、父親は敵に立ち向かわず逃げ回っていた俺を情けないと感じたのか、罰として縄で縛って馬で引きずり回したりしやがってさ。

 母親の方は、弱いなら強くなればいいって考え方で、鍛えてやるとか言って嫌がる俺をとっ捕まえてしごきやがる。ありゃ鍛えてるんじゃなくて叩きのめしてるっていうやつだろ。

 

 そんな環境で育ったもんだから、まあ見事に捻くれたさ。

 いやまあ立場上、食うものと寝床があったのは恵まれていたとは思うよ。それでもあんな子供時代を過ごしたからには捻くれるくらい当然だろ?

 辛うじて生き延びたからには体も少しずつ育つし、周りに抵抗する内にしたたかになっていくもんで。

 元々の気性がそうだったんだろうな。何かと他人を疑ってかかる性格になりましたとさ。

 

 ま、苦労した覚えは数え切れないけど、それでも生まれ故郷だ。愛着はあるよ。

 昼間の照りつける陽射しに負けない明るい笑顔がそこかしこで見れる市場とか好きだ。小銭で適当な果物でも買って、ぶらつきながらカシュっと齧るとたまらんね。

 夕方になって風が涼しくなる時に仲間と町に繰り出すのも楽しい。そこら辺でやってる宴に飛び入りで参加して一杯やるとすぐ笑い出しちまう。

 鍛錬がきついから城内はいい思い出は少ないが、夜にこっそり書庫に忍び込むのはワクワクしたよ。薬のこととか学ぶのは好奇心がそそられておもしろい。

 別にあそこは嫌いじゃないんだ。俺の肌に合わないところが多いだけで、好ましいこともたくさんあったし。

 

 そうして成長した俺はある日お隣の国のことを知った。

 何でもこことは全く違う土地で、全く違う価値観があって、全く違う人間が生きているとか。

 俄然興味が湧いたね。

 元々どこか遠くに行ってみたいっていう漠然とした願望はあったから、すぐ隣に全く違う世界があるかもしれないと分かれば居ても立っても居られない。

 まあ、国と国の境にそびえる山を越えるのは大変だったが……

 どうにかこうにかしてやってきたのがフォドラってわけさ。

 

 母親の伝手を辿って転がり込んだ俺を迎えたのは、期待通りの未知の世界。

 見るもの聞くもの全てが新鮮で、そりゃあもうはしゃいださ。根が知りたがりの俺だぜ。頼った先の家の執事や世話役に何度も質問しまくったよ。

 ああでも言葉が通じないのは困ったな。俺も急いで勉強したけど、最初は単語をいくつか繋げるだけで大体は身振り手振りになっちまった。こっちの言いたいことを汲んでくれた人には感謝してる。

 苦労してここに来た甲斐はあった。期待を上回る世界が見れて、俺は満足だった。

 

 楽しかったんだ。知らなかった世界に触れて、知らなかった文化に触れて、今までの自分から変わっていく感じ。

 これが成長するっていうことなのか? 人間として大きくなるって言えばいいのか分からんが、まあ悪い変化じゃないだろ。

 

 ただ……慣れていく内に何とな~く気付いちまうんだよな。周りの空気と言うか、視線や雰囲気とか。

 異物を見る目。異端者を拒む声。余所者を爪弾(つまび)く気風。

 確かに俺はここの連中から見ればいきなり現れた異物で、彼らにとっては未知の異端者で、ぽっと出の余所者だろうさ。言ってしまえば赤の他人。

 けどよ、そんなの当たり前のことだろ?

 

 人間誰だって自分以外は他人だ。相手が考えてることなんて分かりゃしない。会話できなけりゃ意思の疎通もままならない。言葉を交わせても本音なんか知りようもない。当然だ。だって他人なんだから。

 でもそういう他人と触れ合って、繋がって、そうして人間の社会ってのは作られていくものだろう? それは俺の故郷もこの国も変わらない……というかどこだろうと同じはずだ。

 だから不思議で仕方なかったよ。こいつら、俺の何をそんなに気にしてるんだってさ。

 

 そうして避けられて、距離を置かれながら考えてたら分かった。俺はそういう目を知っているから分かる。昔からよく向けられていた目だ。

 こいつら、俺に壁を作ってるんだ。

 理解できないものが怖くて拒絶する。距離を置いて、排斥して、しまいには攻撃してまで遠ざける。分からないから。知らないから。

 それは俺が故郷で受けてきた扱いとほとんど同じもので昔はよく分からなかったんだが、どういうことなのかこの時にはっきりと認識できた。

 俺に言わせれば、その考え方こそ理解できないね。知らないなら知ればいい。分からないなら分かればいい。見栄や体裁ばかり気にして繋がりを疎かにするなんて、そんなもったいないことはないぞ。

 

 馬鹿馬鹿しいって思った。それと同時に、結局人間ってのはどこでも同じなんだなとも思った。

 安心したとまで言うとちょっと違うけど、俺を疎んじてる奴らは生きる場所が違うだけで同じ人間なんだなって思ったんだ。

 

 それが分かれば話は早かった。俺の望み、俺の野望はこの時明確になった。

 壁を壊す。常識だったり価値観だったり、人が繋がるのを遮る壁を壊して、風を吹かせる。

 風通しが良くなればフォドラの閉鎖的な空気も入れ替わって、もっと面白く、もっと豊かな世界に変えていけるはず。

 そうして変わっていく世界、変わっていく景色を見たい。俺の手で変わっていく景色を見届けたい。それが俺の野望。

 

 と、決めたまではよかったんだが……これがなかなかどうして難しくてね。

 何しろ俺がフォドラで異端であるという事実はそのままだ。この地の常識の根幹であるセイロス教の教義にも馴染めないし、セイロス教の敬虔な信徒ばかりの周囲との溝は埋まらない。

 おまけに頼った先の家が貴族とかいうフォドラでは特別な立場で、その血を引いている俺も特別な立場だから色々とめんどくさいことになっちまった。母親がこの家の出身だし、その息子である俺が血筋なのは当然だけどさ。紋章なんていう身分証まで現れたから否定もできないし。

 まあせっかく使える力なんだから使わせてもらうがね。

 そうこうする内に俺を次期当主に、ゆくゆくは次期盟主にする話まで出てきて、そのための教育まで始まって……この時期は大変だったぜ。

 単純に忙しかったし、大変な教育を乗り越えてもそこから社交界の関わりも増えたから時間が取れないしで動きにくい感じになっちまった。でも社交界は人と関われる機会が増えたからどっこいどっこいかな。

 

 そうして図らずも立場に縛られちまったが、利点はある。

 俺の野望、フォドラの壁を壊すためには一人じゃ無理だ。賛同者が要る。それも、俺と同じ目線で語れる同志が。

 そして貴族が幅を利かせるフォドラでは、その貴族を動かせるだけの力も要る。俺自身がその貴族になれたのは、ま、ここは都合が良いと考えておこう。

 話が合う奴と通じたり昔覚えた薬を使ったりして、繋がりを作り始めたのはこの時期だ。ちぃと黒い手段を使ったこともある。

 

 ──だから本気で信頼できた奴はいない。

 

 俺の野望を余所に周りが次第に俺を盟主に推す動きが進められて、フォドラの慣習とかいうやつで俺はガルグ=マク大修道院の士官学校に行くことになった。

 これまでは同盟の中でしか動けなかったから、帝国と王国の奴らとも繋がりが作れるかと思うとワクワクしたね。純粋におもしろい奴に会えるかもっていう期待もあったしさ。

 想像以上に愉快な奴らが多くて、大修道院の書庫は興味深くて、来た甲斐があったと思う。ここに来てなければ今の俺はありえない。

 あんたにも会えたしな。

 

 なあ先生。

 初めて会った時のこと、俺はよく覚えてるぜ。

 

 俺は、ほら、こんなんだからさ、よく他人を値踏みしちまうんだ。

 疑り深いってのももちろんあるし、相手がどんな風に俺の利になるかって考える。

 野望のために俺は立ち止まってられない。使えるものは何でも使う。それくらいの気概がないと成し遂げられないだろうからさ。

 あんたみたいに腕の立つ男がどうすれば俺の役に立ってくれるか、なんて目線を向けちまった。

 もちろん表面上は隠したつもりだったけど……あんた、気付いてたんじゃないか?

 

 だってのにさ! あんたってば、ちっとも態度が変わらないんだ!

 その無表情で、俺のことも他の生徒と同じ扱いしやがる。級長で、次期盟主だって分かってるのに。振る舞いも、考え方も、明らかに周りから浮いた俺を同じように、ただの生徒として。

 初めてだったよ。他の奴と変わらない、一人の人間として接してもらえたのは。

 世間知らずが理由だったとしても、先生が初めてだったんだ。

 

 ──だから本気で信頼したいと思った。

 

 俺って意外とチョロいのか?

 いやいや、あんた相手だとどうにも調子がおかしくなるだけさ。

 何しろ俺が仕掛けたはずの薬のことを平然と聞いてきたのなんて先生しかいなかったんだぜ。責めるでもなく、それどころか使い方から狙いまで興味深く質問して、俺も何だかおもしろくなって色々話し込んじまってさ。

 セイロス教を知らないまま育ったあんたの先入観のない目が俺には新鮮で……そうだな、俺は嬉しかったんだ。

 まあ、指導はすごかったけどさ……あんたの授業とか、いやもう本当に、流石としか言いようがなかったし。でもそういう時間も振り返れば楽しかったよ。

 

 そんなあんたに俺の野望を話して、きょうだいと呼んだことは後悔してない。

 先生なら共感してくれるって期待があったし、俺達が手を取り合っていけばきっとこのフォドラを変えていけると俺の中では確信があったんだ。

 

 結果、そうはならなかったな。

 あんたが選んだのはエーデルガルト。俺もディミトリも振られちまって、これから先は敵として戦う運命。そういうルートに入って、流れはもう変えられない。

 まあ、決まった流れに後からあれこれ文句垂れてうずくまるほど子供じゃないし、腹括って戦争することにしたさ。

 

 そう考えていたんだがなあ……何でこんな時にまであんたはまた俺の懐に入ってくるんだよ。

 もう遅いんだ。同盟と帝国の決戦が今から始まる。士官学校の同期まで動員して、最高戦力同士のぶつかり合いだ。お互いただでは済まない。

 数は絞ったけど、それでも犠牲は出る。犠牲を出してでも相容れない敵を踏み越えて進むしかないんだ、俺達は。

 

『俺は諦めない』

 

 いやいや、諦めてくれよ。

 俺はとっくに覚悟を決めたんだぜ。

 

『また俺達は肩を並べて笑い合えると信じている』

 

 信じるなよ。疑えよ。

 もう敵になっちまったんだぞ俺達は。

 

『だから大丈夫だよ、きょうだい』

 

 大丈夫じゃないんだよ。

 あんたが今さら何をしようと時は戻らないんだから。

 

 なのに、俺は頭の片隅で考えちまうんだ。

 先生ならこの状況をひっくり返してもっといい方に変えられるんじゃないかって。

 あの日、俺の執務室にあっさり忍び込んだように、敵になった関係も障害も越えてするりと懐に潜り込むように、俺達の凝り固まった世界を変えてくれるってさ。

 

 そうして先生なら変えてくれるっていう期待が浮かぶ度に、そんな都合のいい妄想を否定する俺の疑り深さが頭の中でがなり立てる。

 思考を止めない賢しさが俺の強みだからな。一度考え始めたら止まらないんだ。

 

 ──だから俺は俺のことも疑う。

 

 考えろ。

 考え続けろ。

 それが俺にできる一番強い戦い方なんだから。

 

「全部隊、港の配置に着きました」

「デアドラ市街地は封鎖済み。指示通り、市民の避難も完了しております」

「よーし、準備は整ったな。お前達も自分の部隊に合流してくれ」

「ははっ!」

 

 報告に来た兵を下がらせる。いよいよ始まるぞ、俺の人生の大一番。

 

「さて……ナデル、ジュディット、覚悟はいいか」

「ふははは、無論だとも! 『常勝ならずとも不敗を誇る』と謳われた我らの強さ、思い知らせてやろう!」

「準備は万全さ。坊やの策についてもちゃあんと分かってるよ」

 

 頼もしい二人が力強い笑みを向けてくれる。実際二人の存在はこの戦いの要と言ってもいい。

 

「手筈通り頼むぜ。つーか、坊やはやめろって。もう盟主様だぞ俺は」

「はいはい、分かりましたよ頭でっかちの盟主殿」

「相変わらずジュディットさんには頭が上がらないな坊主! まあ、かく言う俺も似たようなものだがな、がっはっは!」

「坊主もやめろってのに……」

 

 頼もしくはあるんだが、昔から俺を知ってる二人にはどうにも強く出れないんだよなあ。

 

「ところであんた、本当にいいのかい?」

「何だよ急に」

「そんな目でちゃんと戦えるのかってことさ」

「……本当に何だよ今さら」

「言われなきゃ分からないってわけでもないだろう? 坊やの今の目は覚えがある。戦場なんていう鉄火場じゃ、そういう迷いを抱えた奴から先に死ぬものさ」

 

 ああ、くそっ。だから付き合いが長い奴は厄介なんだ。こっちの腹ん中をあっさり探り当てやがる。

 本当に今さらさ。俺の迷いも、戦いへの覚悟も、これから始まる決戦には関係ないだろ。

 

「俺の内心がどうであれ、そんなのお構いなしに事は進むんだ。迷いがあろうがなかろうが腹括って戦うだけだろ」

「ほう……言うじゃないか、一丁前に」

「やめときなジュディットさん。こいつも男だ。男が覚悟を決めて戦場に立つなら、余計な口出しは無粋ってものだぜ」

 

 薄い目で見てくるジュディットを止めるようにナデルが口を挟む。

 

「さあ、お喋りはここまでだ。二人も持ち場に着いてくれ。念を押すが、やらかすんじゃないぞ」

「ふんっ……坊やこそヘマするんじゃないよ」

「任せておけ坊主! お前のためにもしっかり戦ってやるさ!」

 

 だから坊やも坊主もやめろって……思わずガクッと頭が下がってしまう。ほんっとにもう、力抜けるなあ。

 まあ一応、俺の緊張をほぐすためにわざと繰り返したってことにしとくか。

 

 二人を見送り、パルミラの軍港の端に控えておいた相棒のドラゴンに跨る。飛び上がったそいつを波止場に向かうよう指示して、飛びながら俺は南の平野を見やった。

 目視できる位置にもう帝国軍は陣取っている。ついに決戦が始まる。

 

「来たな先生……恨みっこなしだぜ」

 

 自分の口から零れた言葉に苦笑してしまう。

 この期に及んで許しを請うているのか、俺は? 今から戦う敵相手に?

 そもそも、俺は戦えるのか? いざ先生を目の前にした時、あいつを殺せるのか?

 

「……やれるさ」

 

 言葉に出す。自分に言い聞かせる。

 例え先生でも……俺の前に立つ敵なら、殺せる。

 

 この野望のため、俺はあんたを殺して、勝ってみせるさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デアドラの南、港を見渡せる小高い丘に陣取る黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)

 帝国が誇る最高戦力が決戦を前にして今か今かと意気を高めているところ。

 

「始まりますな。フォドラ平定から形を変えた、まとめ上げるための戦いが」

「ええ。小競り合いとは次元の違う戦いよ……皆の者! この決戦、勝つわよ!」

 

 陣頭に立つヒューベルトに促されるように、エーデルガルトが背後に向かって呼びかけた。皇帝の掛け声に応じて遊撃軍全体から鬨の声が上がる。

 

「よっしゃあああ!! おっ始めてやるぜええ!!」

「ついに来ちゃったなー。将来の昼寝のために、今は戦いますか」

「う、うむ……任せたまえ……やって、やるとも……」

「この雰囲気やっぱり苦手だけど、ベルだってやってやりますよ!」

「先生の作戦通りにできれば希望はあるのよね、頑張りましょ!」

「苦難……負けません……わたし達、勝利……掴みます……」

 

 各部隊の長でもある仲間達も声を上げて応じる。一人一人が決戦への意気込みを発して今から始まる戦いへの士気を高めた。

 が、気になる声が二人ほど。

 戦いを目前にして既に戦い終えたように疲労が露わになっている者もいるのだ。

 フェルディナントとペトラである。よく見れば後ろに続くそれぞれの部隊もどこか盛り上がりに欠けると言うか、疲れが見えた。

 

「……今さらですが先生、この強行軍は無茶だったのでは」

「多少の苦境は問題にならないくらいに仕込んだから大丈夫だ」

 

 ヒューベルトが隣に立つベレトに苦言を呈するも、いつもの無表情を崩すことなくさらりと答えたベレトは自信ありげである。

 泰然とした態度だから説得力があるように見えるのだが、ヒューベルトの感覚からすればとんでもない無茶をしたなという感想はなくならなかった。

 

 何のことかと言うと例の高度教練、アイスナー式ブートキャンプのことだ。

 同盟との決戦が確定してすぐ、戦いの前にもっと生徒を鍛えておきたいと言ったベレトの主張により、この短期間で選んだ二人をずっと指導していた。

 そう、ずっとである。

 ガルグ=マク大修道院から出陣したエーデルガルトの軍と合流するまで、文字通りずっと鍛え続けていたのだ。

 

 その標的にされてしまったのがフェルディナントとペトラ。

 いやまあ標的という表現は正しくない。一応ベレトの口から事前に高度教練について二人には説明したのだし、カスパルからも大まかな体験談は聞かされていた。

 両者共に向上心旺盛なこともあって、己を大きく成長させられる機会には喜んで応じた。ベレトの指導を久しぶりに受けられることも相まって、二人は張り切ってこのブートキャンプに臨んだのである。

 

 後悔しても遅かった。

 カスパルの時と違って二人同時に指導するので内容が薄くならないようベレトまで張り切ったことで行われたのは、とてもとても厳しい(普通に死ねるレベルの)訓練×2。

 当然のことながら、カスパルが受けた指導とは別の内容である。詳細は割愛するにしても、相当な無茶をしたとだけ言っておこう。

 それでも大雑把に説明するなら、フェルディナントは森や荒れ地でも足運び(人でも馬でも)を乱さない走破性と絶え間ない槍術による連撃を身に付け、ペトラは彼女の戦闘力はそのままにどの武器を使おうがドラゴンに乗っていようが手加減できる技を仕込んだ。

 そしてこれも当然のことながら、フェルディナントが率いるエーギル星騎士団と、ペトラに従うブリギット猟兵も道連れ。彼らの表情まで疲労に染まっているのもむべなるかな。

 

 だが一番割を食ったのは同行したジェラルト傭兵団だろう。

 何しろカスパルの時から然程間を置かない内にフェルディナントとペトラの二人、合計三回分のブートキャンプに付き合う羽目になったのだ。

 彼らからもやり過ぎだと苦言を呈されたベレトが反省して、以後の指導が少し和らぐことになるのは余談である。

 

「し、心配はいらない。私も望んで受けた訓練なのだ。この戦いでその成果を見せてやるとも!」

「完全勝利、目指す、わたし、承知です。役目、果たす、誓います!」

 

 疲労は拭えなくても、二人の気合は充実しているようだ。馬上で槍を掲げるフェルディナントも、ドラゴンに跨って武装を確かめるペトラも、士気は高い。

 デアドラに着くまでの道中でも彼らの様子を見てきたので、いざ戦いが始まれば疲れを理由に後れを取ることはないだろうとヒューベルトも判断した。

 

 視線を前に戻す。進軍を始める正午となり、まるでかつて士官学校で行われた対抗戦を思わせる状況だ。

 エーデルガルトが掲げる斧に陽光が当たって煌めき、続いてベレトが天帝の剣を出したのを皮切りに軍のあちこちで武器が抜かれる。

 

「さあ、黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)、進撃せよ!!」

 

 皇帝の咆哮を受け、帝国の精鋭が動き出した。デアドラの軍港を目指して部隊が動き、飛行兵が飛び上がる。

 ついに決戦が始まった──その時。

 一同の目に信じられないものが飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝国軍が動き出すのを見たクロードは大声を放つ。

 

「さあ出番だぜ、パルミラの精鋭達よ! 同盟が恐れるその爪と牙、今だけは同盟のために使ってくれ!!」

 

 彼の声に応えるように、港に並ぶ内の一つの船の甲板が解放された。

 激しい戦闘が起こると分かっているはずなのに停泊したままの船から現れたのは、追加の同盟勢力ではなく大量のドラゴンナイト。

 次から次へと空へ舞い上がり、船を中心とした海上、そしてその一部は港の上空にまで及んでいく。同盟軍のどよめきを覆うように広がる彼らは、長年に渡って同盟、そしてフォドラを狙う脅威とされてきたパルミラの飛竜隊に違いなかった。

 

 こんな時に現れるとは思わなかったパルミラの勢力に、同盟軍は総毛立つ。

 今まさに決戦が始まるというこのタイミングで!

 歯噛みしながら対空警戒をしようとしたその時、女傑が声を張り上げた。

 

「うろたえるな!! あれは敵じゃない、我ら同盟と共に帝国と戦う味方だよ!!」

 

 ジュディットの声に同盟の兵はギョッとして目を剥く。

 

「彼らの動きをよく見な! 空の警戒を引き受けて、その力が狙うのは向こうにいる帝国軍さ! 頼もしい味方が現れたと思いな!」

「し、しかしジュディット様! パルミラとは今まで敵対してきた関係です! 急にそんなこと仰られましても……」

 

 慌てて口を挟んだ同盟兵にもジュディットは自信に満ちた笑みを向けた。

 

「そのパルミラの将を、我らが盟主様は密かに口説き落としていたのさ。盟主様の口の上手さはお前達も知っているだろう?」

「まさか……ジュディット様はこのことを最初からご存じで?」

「ちょいと刺激的な策だからって、皆には伏せておくように言われてたんだ。事前にこの策を教えられていたのはごく限られた者だけでね。心配いらない! 彼らは共に戦う味方だよ!!」

 

 愛嬌も滲ませる笑みで返されて同盟兵は口を止めてしまう。

 確かに海上に展開したパルミラ兵達は意識を帝国軍の方へ向けており、港に攻め入ろうとする意思は感じられない。それどころか、空は任せろと言わんばかりに武器を振り上げて声を張っているのが見えた。

 

 言う通りに信じていいのか。やはり敵だと疑えばいいのか。

 同盟軍の中に一瞬だけ思考の停滞が生まれ、直後に響いた声が疑念を吹き飛ばす。

 

「みんなー! ぼさっとしないで、動いた動いた!」

 

 よく通る明るい声でヒルダが呼びかけた。集まる注目に朗らかな笑顔で応じる。

 

「クロード君が考えてくれた作戦でしょ? 危なっかしい盟主様をあたし達が支えてあげなきゃ! ついでにこれを貸しにして、後でみんなに奢ってもらっちゃお! あたしが話つけてあげちゃうからさ!」

 

 ね?──ウインクと共に締めたヒルダの言葉が兵の間を通り抜ける。

 呼応して仲間達の声も続いた。

 

「うおおおお!! 難しいことはよく分かんねえけど、味方だってんならありがてえぞ!! オデも負けてらんねえぞおおお!!」

「クロード君の策なら信じられます! みなさん、よろしくお願いします!」

 

 いの一番に走り出したラファエルが空のパルミラ兵に向かって叫ぶ。最前線へ飛び出していく彼を追うように、空に向かって一礼だけしたイグナーツが後に続いた。

 

「秘密主義にも程があるだろあいつ! 後で折檻してやる!」

「戦いが終わったら問い詰めなくてはいけなくなりましたね……ほら皆さん、駆け足ですよ!」

 

 馬を走らせて騎馬隊を引っ張っていくレオニーと同時に、歩兵部隊に指示を飛ばすリシテアの声が響く。

 この五年で新しく名を上げた若き英雄達の動きにより、同盟軍は一つにまとまって構え始めた。

 

 疑惑の空気が広がる前に押し流されたことで何事もなかったように陣を構える同盟兵を見て、表情に出さないままジュディットは心の中で盛大に息を吐いた。

 

(冷や冷やさせてくれる!)

 

 内心では冷や汗ダラダラである。後少しでも動き出しが遅れていたら同盟軍の結束は崩れ、戦いが始まる前に負けていたかもしれない。

 

 こんな策、薄氷を踏むどころではない。薄氷にヘッドスライディングをかます勢いで飛び込んだら何故か向こう岸に手が届いていた、それくらい危ういものだった。

 自分の言葉だけではこうはならなかった。金鹿の仲間達が先導してくれなければ兵達はこうして動かなかっただろう。そこまで読んだ上での策なのか。もしくは……これほど危うい策を強行しなければいけないくらい、今回の戦いはギリギリなのか。

 

(本当にこれでよかったんだね、坊や?)

 

 一瞬だけ空を飛ぶクロードを睨む。空中でドラゴンナイト達に指示を飛ばす姿を認めると、自分も部隊を率いて動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの旗、武装……まさか、パルミラ軍!?」

「偽装、ではありませんな……遠目でも目立つあの将、パルミラのナデルという男です」

 

 停泊してある船から次々に飛び上がるドラゴンナイトを見てエーデルガルトは愕然と叫んだ。隣で目を細めるヒューベルトも険しい声で呟く。

 現れたドラゴン達と相手側の動きを見れば、あのパルミラ軍が同盟に味方して自分達と戦おうとしているのは明白。

 黒鷲遊撃軍の面々の誰もが驚愕と緊張に襲われた。

 

 会談の協定で決められたもの以外の戦力が飛び入りで参戦したことは、そこまで衝撃があるわけではない。

 これは戦い、命の獲り合いである。戦場に出ておいて不利になったからと臆するような軟弱者はいない──あの気弱なベルナデッタでさえ、口では不満混じりの絶叫を上げようと何だかんだで体は動いて戦う──のだ。

 物事が想定通りに進む保証なんてないし、最初の想定が悪い方向に崩れるなんて珍しいことではない。そういった戦場の逞しさを彼らは士官学校でベレトから教わり、率いる兵にも徹底させているのだから。

 

 そんなことより問題なのは、現れた戦力がよりにもよってパルミラのものだということである。

 

「やってくれたわね……!」

 

 怒りを込めた目でエーデルガルトは港を睨む。自らドラゴンを駆ってパルミラ軍に近付き、将のナデルと何か言い合うクロードの姿が憎らしい。

 

 パルミラの勢力をクロードがフォドラに引き入れた。その事実が問題なのだ。

 

 フォドラの東にある山脈、フォドラの喉元の向こうにある大国パルミラ。山を越えてまで攻め入ろうとするその敵にフォドラは長きに渡って悩まされたいた。山脈の中にフォドラの首飾りという砦を築いたり、山脈に隣接するゴネリル領を支援したりして対抗してきた。

 そのパルミラの軍勢をレスター諸侯同盟の盟主(クロード)が引き入れ、己の指揮下に入れてフォドラ内の戦争に臨むとは!

 

 確かに、ただ勝つことだけを考えたらこの策は悪くない。

 数の上では有利であっても帝国を侮らず、盤石な勝利を目指したいからと戦力をさらに充実させるのは分かる。指揮官ベレトを抱えた万全の黒鷲遊撃軍をそれだけ強敵と認めた結果、出し惜しみすることなく決戦に臨むのは良い判断だろう。

 

 だがそうして選んだ手段がパルミラ軍に助力を頼むものになると別の問題が生まれてしまう。

 これは外国の戦力に自国で活動する大義名分を与えるようなものであり、今までパルミラの脅威に抗い続けてきたフォドラの尽力を嘲笑う行為と受け取られても仕方ないのである。

 

 現代的な価値観で例えるなら、一国の王が外患誘致を働いた、と言えば近いか。

 もちろん中世世界のフォドラに現代で言う国際法は定められておらず、法に基づいてクロードを糾弾することはできない。

 しかし、未来を見据えて変革を起こす活動をしてきたエーデルガルトからすれば、同じく未来を見据えて世界を変えようと考えるクロードがこんな手段を取ったことが衝撃なのだ。

 

 やはり彼にフォドラの未来は任せられない──エーデルガルトは思いを深める。

 有効だからと言って越えてはならない一線を越えてしまう者を、人はそう簡単に信用できない。そうせねばならないとしても、何度も足掻き、他者と言葉を重ね、意見をぶつけ合い、やり尽くした末の最終手段だと認識しなければいけない。

 クロードはその一線をあまりにもあっさり越えてしまう。誰もが同じようにできるわけではないのに。

 彼は軽いのだ。言葉も態度もふわふわとしたまま、いつの間にか他人の先に手を伸ばしている。さながら風の如く、壁や障害を軽やかに越えて先に進んでしまう。

 一人で進むのならいいかもしれない。だが盟主という責任ある立場のクロードがこんなことをしでかしてしまえば、それは多くの信頼を蔑ろにする軽はずみな行いになる。本人がどう考えていようと関係ない。そうなってしまう。

 それはフォドラの歴史を、この地に生きる人々が乗り越えてきた痛みまで軽んじることに他ならないのだから。

 

 同じように、やるべきことをやり尽くさないまま一線を越えてしまったエーデルガルトだからこそ、クロードの浮薄な姿勢が許せなかった。

 かつての自分は戦争という強硬手段で世界の仕組みを変えるしかないと考えていたが、事前にベレトに事情を打ち明けたり、レアと向かい合って話したり、あるいは先に貴族社会の変革に手を出したりしてもよかった。それをしないまま戦争に踏み切ったことを後悔こそしていないものの、反省はしている。

 

 ベレトに守られ、彼の言葉に諭されたことでエーデルガルトは変わった。決意はそのままに、見据える未来を広げられた。

 彼の指導を受けたことで物事をより広い視野で見る『目』を手に入れたエーデルガルトは、今回のクロードの策を前に絶勝の想いを新たにする。

 

 同時に、彼の策の問題点もすぐに見抜けた。

 

(それに早まったわねクロード。こちらには師がいるのよ)

 

 普通の相手ならこの策は刺さっただろう。大量のドラゴンナイト、それも長きに渡りフォドラを悩ませてきたパルミラの精鋭は脅威。

 しかしこちらにはベレトがいる。ドラゴンをその声一つで従わせ、その威一つで畏怖させる神祖の加護を得た男を相手に、如何に数を揃えようとドラゴンならば敵ではない。

 

「師はあのドラゴン共を止めてちょうだい! 空を乱戦に持ち込んで、その間に地上の主導権を私達が握れば──」

「いや、だめだ」

「──大きく有利に、って、え?」

 

 エーデルガルトの声に割り込んでベレトが返したのは端的な一言。

 だめだ、とは。

 

「あのドラゴン達は違う」

「違うって、何が?」

「彼らには俺の声が聞こえない。聞こえても()()()()。見て分かる」

 

 ベレトははっきりとそう言う。あやふやではない、確信が宿る声だった。

 彼は嘘を言わない。目の前に広がるドラゴンの群れに臆したわけでもないだろう。

 ドラゴンを畏怖させる力を持つベレトが、彼にしか分からない感覚でだめだと感じたなら、それはきっと正しい。

 だが、何故?

 

「フォドラのドラゴンとは見た感じが違う。あれはパルミラのドラゴンだ」

 

 疑問の視線に対して、答えはすぐにベレトから返ってきた。

 ベレトが得た神祖の加護。その神祖とはフォドラの地に降臨した女神ソティスのことだ。加護がもたらす恩恵は恐らくフォドラに関わるものに限られて、その影響が及ぶのもフォドラのドラゴンに限られるのかもしれない。

 

 細かい理屈がどうであれ、ベレトがそう判断したなら信用できる。あのドラゴン達に彼の声は届かない。エーデルガルトの考えは通用せず、普通の敵と同じように戦うしかない。

 即ち帝国は、数で勝る同盟軍と、パルミラの精鋭を同時に相手取らなくてはいけないのである。

 

(じゃあそれって……)

 

「まずいな。始まる前からこんなに不利な戦闘は初めてだ」

 

 エーデルガルトの脳裏に浮かんだ懸念を、ベレトがあっさり声に出してしまう。

 ただでさえ数の不利を強いられるこの戦い。それに加えて戦力的な脅威であるパルミラが同盟に味方してしまった。

 出来上がった状況は傍から見れば最悪なもの。

 絶望的と言っても過言ではない人数差のある決戦が始まった。




 原作ゲームをやってて「数の差ひどいな」と思いました。
 プレイヤー側の出撃人数制限、難易度ノーマルくらいは緩くしてほしい。


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信じたいもの、信じ抜いたもの 中編

 やっと戦闘が始まります。
 話の都合上、あっちこっちに場面が飛ぶので注意。


 昔のベレトは人が死ぬことを何とも思わなかった。

 生きている人はやがて死ぬ。遅いか早いかの違いがあるだけで、誰だろうと必ず死ぬ。それが当たり前。

 傭兵として育ち、戦いに生きる日々の中、死は身近にあるもので特別なことではなかった。悲しんだり疎んだりする人がいるのは認識していたが、自分がそこに何かを思うことはなかったのだ。

 

 そんなベレトがガルグ=マク大修道院に来て、士官学校で教師を務めるようになってから急激に変わる。

 生徒と関わるようになったからか。

 セイロス教を知ったからか。

 はたまた……自分の中でソティスが目覚めたからか。

 心を急速に成長させる彼が様々なものを学ぶ内に、人の死について認識を改めるようになる。

 

 死とは誰にでも平等に訪れるものだという考えは変わっていない。ただ、基本的にそれが望ましいものではないと知った。

 往々にして死は悲劇的なものだ。老いによる寿命は仕方ないにしても、叶うのなら人は死を遠ざけたいと考える。

 自ら覚悟して戦場に出て斃れるならまだしも、事故死や病死、そして何者かの手で殺される死は痛ましいものであり、それは忌避されることだと。

 

 知識としてそれを学び、父ジェラルトの死を契機にまざまざと思い知らされる。

 ──死とは、こんなにも恐ろしく、悲しいものなのか。

 何故自分はこれほど簡単なことを分かってなかったのかと内心で反省したし、親族を失った過去を乗り越えた生徒がいると知った時は尊敬の念を覚えた。

 

 以来ベレトは昔とは比べ物にならないくらい死に敏感になった。

 人間が生きる姿を尊いと感じるようにもなった。

 何より仲間を、とりわけ自分の生徒を死から守ることに今まで以上に強い使命感を覚えるようになった。

 

 だが同時に、ベレトは今までの人生で培ってきた傭兵の生き方を否定していない。父と仲間から教わったこと、叩き込まれた技と心得が自身を構成する大切なものだという意識がある。

 なので必要があれば剣を振るうし、殺すと決めた敵は躊躇なく殺す。戦いに臨む覚悟の程までもが変わったわけではない。

 変わったのは彼の戦いに『敵を殺さず制する』という選択肢が増えたことだ。

 

 はっきり言って、これはとてつもなく難しいことである。

 ただ敵を殺すだけなら特に考えることなく目の前の敵を殺せばいい。それで勝てるのなら何も問題はないのだから。

 しかしベレトに新しく増えたこの選択肢は、言ってしまえば酷く我がままなもの。

 正確に表すなら『敵を殺さないよう必要以上に傷付けないまま相手に負けを認めさせて制する』ということになる。もちろん、守りたい人を守り抜いた上での話だ。

 余程の実力差がなければまず成立しないし、そもそも実力差があろうがなかろうが自身が負う危険度は跳ね上がる。

 

 それでも関係ない。

 ベレトはやると決めたのだ。その選択に後悔はない。

 勝つために、望む結末に至るために、やるべきことをやるだけだ。

 例え、()()()()()()()()()()()

 

「作戦を変える!」

 

 動揺する黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)に向けてベレトの声が響く。

 同盟軍とパルミラ軍、倍加した敵勢に合わせて即席で動き方を変えなくてはいけない。

 

「軍港を攻める方針はそのままで、変えるのは部隊編成!」

 

 平原などの広々とした戦場に豊富な戦力を敷く帝国軍のいつもの戦い方と違い、港という狭い場所に雪崩れ込むのに必要なのは機動力、即ち足の速さ。

 遊撃軍を構成する黒鷲の生徒達にとっては十八番とも言える速攻を活かす作戦は間違いではない。各部隊の配置を変えるのだ。

 

 先頭を担うのはフェルディナントとカスパル。その突破力で敵陣を抉じ開けて、敵の重要戦力を早くに叩く。

 中団を進むのはリンハルトとドロテア。全体に行き渡らせる回復の他、攻撃魔法で要所の補佐も務める。

 ヒューベルトは敵側の最強を抑える役。これは彼にしかできない。

 

 ここまでは予定通り。変えるのは他の面子だ。

 

「エーデルガルト! 君の飛竜隊で海上のパルミラ軍を抑えろ! 深追いする必要はない、相手が港に飛ぶのを遮れ!」

「分かったわ!」

「ペトラ! 港側の空中戦は君が主軸だ! 敵の弓兵に注意しながら広く飛び回れ! 建物が少ないからこそ高低差を活かすんだ!」

「承知! 乱戦、戦います!」

 

 ドラゴンに乗って空中を移動できるエーデルガルトとペトラは海側を南から北へ回り込んで攻める手筈だったのだが、船から現れたパルミラ軍が海上に陣取っているのでそれは使えなくなった。

 倍加した敵に、こちらは少数で立ち向かわなくてはならない。薄くなるのを承知で手を広げなくてはならないのだ。

 

「シャミア! 中団まで進んで対空警戒! エーデルガルトが抑え切れなかったドラゴンナイトを落とせ!」

「私だけでか? ベルナデッタはどこに配置する?」

「ベルナデッタは別の役目がある。すまないが、あんたに任せるしかない」

「ふぉええええ!? ベルは別なんですかああ!?」

「地上の方はある程度無視していい、パルミラ軍のドラゴンを撃ち落とすのを優先してくれ!」

「厄介な仕事だな……高くつくぞ!」

「アロイスさん! 殿から上がってシャミアと一緒に中団を守れ!」

「心得た! しかし、入口は抑えなくてよいのか?」

「この際入口は捨てる! 伏兵がいても無視して前に出てくれ!」

「そうか、承知した!」

 

 後方から支援射撃させる予定だったシャミアを中団まで上がらせて、周囲全ての対空警戒を頼んだ。

 シャミアが聞き返したように普通なら一人に任せる役割ではないが、ここは卓越した狙撃手である彼女の弓を信じるしかない。

 そのシャミアを守りつつ、港の入り口に置いて背後の伏兵対策も含めて殿を任せる予定だったアロイスを、同じく中団へ上がらせる。

 敵陣に突撃するメンバーは攻撃に意識を偏らせている。彼らの分の防御をアロイスに一任させることで役割を完全に分けてしまい、意識上の負担を少しでも減らすのが狙いだ。

 そうでもしないと今は手が足りない。一人一人にあれもこれもとさせられないのだから。

 

 なので、その原因を排除しなければならない。

 大量の敵を抑えながら、原因であるパルミラ軍を戦場から取り除く。そのためにベレトが動くには必要な人物がいる。

 

「ベルナデッタ、君の力が必要だ」

「でもでも、あたしも対空役にならないとマズくないですか? いくらシャミアさんでも抑え切れないと思うんですけど!」

「どちらにせよ長くは保てない。だからこそ短期決着を狙う」

「それで、あたしの力が? でもどこで弓を撃てば……」

 

 呼び寄せたベルナデッタが不安そうな声でベレトに言う。

 

「いや、今回は君の弓より頼る力がある」

「ふぇ?」

 

 そのベルナデッタをひょいと摘まみ上げ、

 

「時間がない、動きながら説明する」

「ふぁ?」

 

 自分のドラゴンの後ろに乗せたベレトは、今度は後ろのジェラルト傭兵団に向き直る。

 

「レンバス! 俺達は船をやるぞ!」

「わぁってるよ! 俺らは船落としだ、お前ら準備しろ!!」

「「「「「おっしゃあああ!!」」」」」

 

 傭兵団は一言伝えられただけでベレトとの意思疎通を済ませると、港へ進撃を始めた黒鷲遊撃軍とは別方向、南の雑木林に沿って東の海岸へと彼らは向かった。

 それを追うようにベレトはドラゴンを飛ばす。確固たる狙いを定めて海上の船を睨んだ。

 

 始まった決戦はいきなり慌ただしいものになった。

 

「あの、先生? 結局ベルは何をするんですか? ……はい? ええ、まあ一応使えますよ。授業で教わったくらいのことなら。でも、戦いに使えるほどじゃ……え? じゃあベルは何するんですか? ……はあ、海。でもあたしの力じゃそんなに上手くは……ああだからレンバスさん達が、なるほど。いやいやちょっと待ってください先生、今戦闘中ですよ! 敵のドラゴンナイトが襲ってきたら避けられませんって! ……先生が? ……ベルを? …………………………正気ですかああああああああああ!?!?!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会談で取り付けた条件により、帝国は数の不利を、同盟は地の利を得たこの決戦。

 帝国軍は得意の物量戦を展開できなくなるなど同盟軍に大きく有利な状況で始められ、そこに駄目押しのパルミラ軍が参戦したことで、傍目にはまともに戦えば勝敗は揺るぎないものとなっただろう。

 

 帝国側がそれを危惧して速攻を仕掛けてくることは、当然同盟側も把握していた。

 あのベレトが率いる軍である。例え圧倒的な不利に陥っても、その状況を覆せる策を講じてくるかもしれない。それを予想していたクロードは敵にそういった余裕を与えないよう速攻を命じる。

 

 それによって生じたのは速攻と速攻のぶつかり合い。

 ガチンコの正面衝突であった。

 

「どぉっせえええい!!」

「押し通る!!」

 

 先陣を切ったカスパルとフェルディナントが港の入口を抉じ開け、突進の勢いのままに黒鷲遊撃軍はそれぞれの目標に向かう。

 軍港らしい倉庫街に雪崩れ込み、各部隊が一斉に分かれて走った。

 

 ベレトの見立てによれば、港の各所に金鹿の生徒を長とする敵部隊が待ち構えている。その配置はある程度絞って予想できるとのこと。

 

 この戦いは同盟側の兵が多いと分かっている。数が多いのは戦いにおいて大きな強みだが、逆に枷となる場合がある。

 大所帯はどうしても動きが鈍くなるものだ。数で優る同盟軍は脅威でも、港という狭い戦場でその力を完全に発揮するのは難しい。

 もちろん地の利は同盟側にあるし、あのクロードが指揮する軍なのだから判断が遅れて後手に回るとかは期待できない。

 それでも、機動力の一点に限れば帝国側にも利を見出せる戦いなのだ。

 

 並み居る同盟兵を突進の勢いで薙ぎ倒して路地を進むカスパルがぶつかったのはラファエル。

 

「行くぜラファエル! 勝負だあああ!!」

「負けねえぞカスパル君!!」

 

 二人は正面から拳と拳の真っ向勝負を始める。

 激突の衝撃は、率いる部隊を慄かせる強大なものだった。

 

 倉庫街の中でも広い大通りを突き進むフェルディナントを待ち受けたのはレオニーとジュディットの混合部隊。

 

「市街戦なんて久しぶりだねえ……さあ、かかって来な若造!」

「わたしらも負けられないんだ! 帝国に勝つんだ!」

「覚悟はできているさ。ただ勝利のため、全力でゆく!」

 

 倍の数の敵部隊に向けて突進するフェルディナントにエーギル星騎士団が続く。

 レオニーも馬を走らせ、ジュディットもレイピア片手に走り出した。

 

 倉庫の壁を駆け上がり、配下のドラゴンナイトを足場代わりにしながら空中を跳ね回るペトラは上空から弓で攻撃する。それを逆に地上から弓で狙うのはイグナーツ。

 

「イグナーツ、狙い、上手、脅威です!」

「逃がしませんよペトラさん!」

 

 常人離れした身軽さで宙を跳ねるペトラを追ってイグナーツは矢を番える。

 ベレトの立体機動とはまた違う空中移動で敵を翻弄するペトラは本当に翼を持っているように見えて、優れた射手であるイグナーツのことも振り回した。

 

 港の中央部、遊撃軍の中団が踏み込んだ区画はさらに大混戦である。

 リンハルトとドロテアが陣取り、リブローで遠距離回復を飛ばしている場に乗り込んできたのはヒルダ。率いたゴネリル戦姫隊の一斉突撃で遊撃軍の陣形を切り開いたところで、先頭に立つ彼女が叫ぶ。

 

「いたー! 帝国軍を支えてるとこ、見逃さないよー!」

「げぇ……やな人が来ちゃったな」

「ヒルダさん!? もうここまで踏み込んだの!?」

 

 女だてらに身の丈に迫る巨大斧の英雄の遺産フライクーゲルを振るうヒルダは、後衛職にとっては恐ろしい脅威だ。

 一気に飛び込んで港を進んだ前衛がヒルダのような戦士を引き付けるつもりだったのだが、流石と言うべきか、倉庫街という地の利を生かすことで遊撃軍の突撃をやり過ごし、こうして後衛へ逆に踏み込んだのだろう。

 

 帝国の回復を担う二人を潰そうと迫るヒルダ。しかしそうは問屋が卸さない。

 中団の守り役を任されたアロイスが前に出て、彼女の斧を大楯で防いでみせた。

 

「むぐぅ! 流石は英雄の遺産……凄まじい攻撃力!」

「わ、アロイスさん、一人で守るつもり? 無理しない方がいいよ?」

「ははっ、気遣いかたじけない! だがそうも言えん! 私は今度こそ、彼の大切な人を守らなければならないのだ!」

 

 フライクーゲルの一撃を正面から受け止めるという、よく考えればとてつもない防御力を見せたアロイスは快活に咆える。

 ベレトの指揮下で、ベレトの仲間を守る。それはアロイスにとって闘志がいや増す役目であると同時に、彼にとって贖罪の意味もあるのだ。

 

 自身が誰よりも敬愛する団長ジェラルトが亡くなり、アロイスも悲しみに暮れたのはもちろんなのだが、それと同じくらい衝撃だったのがベレトの落ち込み様だった。

 無表情で、生徒を指導する時も泰然としており、何か手伝うことはないかと話しかけた時も変わらない態度だったベレト。そんな彼が父ジェラルトを目の前で失い、一時は引き籠るほどの悲痛に襲われた際に如何なる心境だったか、アロイスには想像を絶する。

 そのベレトに、二度と大切な人を失う悲しみを与えてはならない。

 彼の守りたい人は自分の守るべき人でもある。

 そう心に誓うアロイスの胸に宿るのは、ジェラルトに向けるものに勝るとも劣らない敬愛の情。団長を守れなかった分もベレトを守ってみせるという使命感だった。

 

 五年前のガルグ=マク襲撃、そこから始まる戦乱を見て、いつか見つけ出す(実際には自力で帰還した)ベレトが戦争に巻き込まれると予想したアロイスは、捜索活動の傍ら己を鍛え直した。

 得意の重装、守備の力を鍛え、仲間を守る盾役としての腕を磨く。

 ベレトが天帝の剣を手にしたことから、彼の前に立ち塞がる脅威は低く見積もっても同じ英雄の遺産を操る者。ならば彼を守る自分は()()()()英雄の遺産の攻撃に耐えられなければならないと考え。

 この五年で鍛えに鍛え、今や物理防御の面ではカスパルを上回り帝国最堅を誇るに至った。

 

 そんなアロイスにとってフライクーゲルを操るヒルダとの勝負はこの五年の成果を披露する絶好の機会なのだ。

 

「仲間はやらせん! まずはこのアロイスを破ってもらおうか!!」

「んもー、やりにくい……ってわ!?」

 

 望むところだと全力で防御の構えを取るアロイスの前で思わず溢したヒルダだが、直後に気付いた別方向へ引いた斧に何かが当たり甲高い音を立てた。

 防がれて地面に転がったのは飾り気のない小刀。戦意の隙を突くように襲ってきたその先には、弓を取りながらジロリと鋭い眼でこちらを睨むシャミアの姿。

 

「上を重視しろと言われたが、下を無視する理由もないからな。働いた分は後で追加請求させてもらうぞ!」

 

 上空のドラゴンに射かけながら地上の戦いも忘れないシャミアは細かく首を振って戦場の把握を続ける。ベレトの指示通り全方向の対空警戒をしつつ、それでいて周囲のサポートもしていた。

 それは当然、自分の近くでヒルダと戦うアロイスのサポートも含まれていて、常に視界の端で戦闘の様子を捉えているのだ。

 

 凄腕の射手までも相手取らなくてはいけないことを理解したヒルダは頬をひくつかせる。

 

「……ひょっとしてヒルダちゃん、この四人いっぺんに相手しなきゃいけないの?」

 

 前には出たくないともっとクロードにごねればよかったか。

 それともこの動きにも対応してみせたベレトを恨めばいいのか。

 変なところでヒルダは悩んでしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドラゴンを飛ばしながら港を見下ろすエーデルガルトは小さく頷いた。

 少なくともここまでは作戦通りだ。パルミラ軍の出現に驚きはしたものの、事前に立てた予想と変わらない展開になっている。

 

 それでも戦力差は如何ともし難い。この戦いで攻撃も防御もこなせる余裕はない帝国軍は時間が経つほど不利になるだろう。

 故に狙うのは超速攻の制圧戦。敵に地の利がある港の内部へ踏み込むことになっても、相手に防御する暇を与えない勢いで攻めて攻めて攻めまくる。

 先の先を取って攻撃の主導権を握ることが帝国の勝ち筋だ。

 

 初手は成功。ベレトがいち早く出した指示のおかげで、動揺に足を止めることなくこちらから港へ突撃することができた。

 させられたのとは違う。自発的な動きは勢いが別物だ。気合いの乗り方、踏み出す足の力強さ、心と体を一致させた動きはその人本来のもの以上の力を発揮する。

 この戦いではそういう100%を超えた力を引き出さなくては勝てないとエーデルガルトには分かっていた。

 

 当のベレトが隊を離れて何をしに行ったのかは分からない。説明する間さえ惜しいのだとは思うが、遊撃軍の指揮官が本隊を放ってしまうのは普通なら大問題だと言える。

 しかしエーデルガルトは疑わない。

 

 

 

『大丈夫だよエーデルガルト。大丈夫じゃなくても大丈夫にするから、大丈夫だ』

 

 

 

 覚えている。何があろうと絶対に忘れない。

 彼の導きには光がある。彼の動きには希望がある。

 ならば私はただ信じるだけでいい。必ず勝つのだと戦えばいい。

 

 海上を往く飛竜隊の先頭を飛ぶエーデルガルトは、自分の心と体が一致しているのがはっきりと感じられた。

 

「皇帝が最前線へ出るとは! 帝国は随分と人材難なのだな!」

 

 空中へまみえたパルミラの将、ナデルが笑って言い放つ。

 既に始まった空中戦、多数のドラゴンナイトが入り乱れる中で自身もドラゴンを駆りながらそんな軽口を飛ばしてきた。

 

 数度、宙で斧を打ち合わせたエーデルガルトはナデルの力を肌で味わう。

 相手の斧を振るう速度と角度、ドラゴンを操る飛行術、豪放磊落に見えて繊細な戦術眼も備えていると見える。流石は噂に名高いパルミラの猛将。

 改めて、急に現れた敵の厄介さに息を呑む。

 

 それでもエーデルガルトは揺らがない。

 

「否定はしないわ! でも、パルミラの王もそういう武人だと聞くわ! 貴方がこうしてフォドラの地で戦うのも、戦場に立つ王のためでしょう!」

「おっと、こいつは一本取られたか! 確かに、俺がここにいるのはそういう奴のためだ!」

 

 再び勢いよく斧を打ち合わせる。競り合う刃越しの問答で、一瞬だけ空中にいながら両者の動きが止まった。

 そこへ、エーデルガルトの背後から敵のドラゴンナイトが迫る。

 

「見え見えよ!」

GGRRYUUOOO(合点ご主人┌( ・∀・)┘)!!」

「ぬぉ!?」

 

 瞬間、エーデルガルトに踵で蹴られて合図されたドラゴンがくるりと反転。ナデルのドラゴンを足場代わりに踏んで反対方向へ加速。背後から迫ったドラゴンナイトの一撃をかわし、逆に振り上げた斧で反撃してみせた。

 

 人間のように軽やかな動きを見てナデルは舌を巻く。こうも自在にドラゴンを操る戦士はパルミラでも少ない。皇帝が優れた戦士でもあるとクロードから聞いてはいたが、実際に目にして思わず感嘆してしまった。

 これほどの戦士と戦場でぶつかれる機会に感謝する。釣り上がる頬のままに、戦意を声に出す。

 

「ふふふ、昂るぞ皇帝よ。この邂逅、楽しませてもらう! 戦場に身を置くこと三十と余年、無敗を誇る我が武勇、とくと味わえ!」

「戦歴で勝敗は決まらない。決めるのは、今この戦場で戦う私達よ!」

 

 ナデルの戦意を真っ向から受け止めるエーデルガルト。その胸中は不思議と落ち着いていた。

 分かるからだ。この感覚を自分は知っているのだから。

 

 五年前。ベレトが教師になってすぐ執り行われた対抗戦。その最中に入った、普段の自分とは違う領域。

 戦場の緊張感があると意識の上では感じている。それを情報の一つとして心の中に置き、周囲から取り入れた多種多様な情報が次々に脳へ流れ込んでくる。

 まるで目が増えたように、視界の端の端まで届く意識が見えないはずの背中にまで及ぶようで、敵の動きはおろか、自分が次にどう動けばいいのかも手に取るように分かる。

 久しぶりに入ったこの感覚は間違いなくあの時と同じ状態だった。

 

 極限を超えた集中状態に入ったエーデルガルトは理解している。自分の今の役目も対抗戦の時と同じ、ベレトが自由に動くための露払いだと。

 彼が仕掛ける策を成功させるため、あの背が向かう先、勝利へ至る道をひた走る。

 依然として数の差は苦しい。それでもやることが決まっているならやるだけだ。

 

「まとめて蹴散らしてあげるわ! 帝国の、我らの力、思い知りなさい!!」

VVGRRR、RRYYOOO(やってやんよオラァ( っ・д・)≡⊃)!!」

 

 自身のドラゴンが吼えるのに合わせてエーデルガルトは斧を振り、突進を命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「敵将発見!」

「あそこだ! 【魔刃】がいるぞ!」

 

 港の中でも、建物がない開けた空間。時期によっては市場が催されるかもしれない広場で、進撃する黒鷲遊撃軍が見つけたのは同盟の将の一人。

 

「騒々しい……数に任せれば私に勝てると思いましたか」

 

 片手に杖を、片手に剣を携え、僅かな部下を従えるだけで迎え撃つのはリシテア。

 その魔導と剣技によって名を馳せる同盟の最高戦力。

 

 正面から突撃を仕掛ける遊撃軍。前面に大楯を構える一団は生半可な攻撃では止まらない。

 向かい合うリシテアは細い腕を上げて、魔法を一つ放つだけ。

 

「──ハデスΩ!」

 

 力むことなく静かに放たれたのは闇の上級魔法。

 降り注ぐ闇の奔流が敵部隊を押し潰し、石畳ごと吹き飛ばした。

 

 たった一つの魔法で敵の突撃を阻んだリシテアだが、油断なく魔力を練り上げる。

 強い魔法を撃つだけが彼女の本領ではないのだから。

 

 すぐに土煙の中から帝国兵達が現れる。今度は整然とした部隊の動きではなく、バラバラに多方向から攻めてきた。

 

「怯むな!」

「囲んで叩け!」

 

 複数の方向から攻めてくる帝国兵。それぞれが武器を構えて接近戦を仕掛けてくるのは、普通の魔法使いからすれば大きな脅威である。

 

 それに対してリシテアは小さく鼻を鳴らすと、自ら前に出る。

 ローブを翻して細かくステップを刻む少女が、精鋭の波状攻撃を次々に回避する様はさながら演劇のような美しさがあった。

 

 しかしここは戦場。ただの舞踏で終わるはずもなく。

 

「──ウォームΖ×4!」

 

 剣を握った右手の指から。

 杖を持つ左手はそのままに肘から。

 踏み込みと同時に捻る右腰から。

 屈んだ背中から。

 漲らせた魔力がリシテアの体の各所から4発同時の闇魔法となって放たれ、取り囲む帝国兵をまとめて弾き飛ばした。

 

 中には闇魔法を凌いで踏み出す剛の者もいた。

 その一際大柄な戦士が、斧を振り上げてリシテアに襲い掛かる。

 

「小娘、覚悟ぉ!」

「その程度!」

 

 対するリシテアは右手の剣を振るう。

 体格も、膂力も、あまりにも不利。

 打ち合えば負けは必至と思われた激突は、しかしリシテアに軍配が上がった。

 

 大男が両手で振り下ろした斧の一撃を、小柄な少女が片手で振り上げた剣が正面から弾き返す。

 拮抗すらしない、冗談のような交差に続くのは一方的な剣戟。

 体勢を崩された戦士を防戦一方に追い込み、最後は体ごと回転させる大振りの剣で横一閃。

 相手が防御のために構えた斧諸共真っ二つに切り裂いてみせた。

 

「さあ、次は誰ですか?」

 

 造作もないと言わんばかりに周囲を睥睨するリシテアは、遊撃軍の精鋭達すらもたじろがせる威圧感があった。

 

 【魔刃】リシテア=フォン=コーデリア。

 それは彼女の圧倒的な魔法と超常の剣技を称えて付けられた二つ名。

 猛将ホルストに並ぶ、同盟最強の戦力である。

 

 その高い魔力からなる闇魔法は恐るべき威力となり、あらゆる敵を粉砕する。堅い防御も、魔道士による魔防も、関係なく打ち砕く。

 何より威力以上に彼女の脅威とはその手数。個人が放つものではありえない大量の魔法は、集団魔法を操る魔法兵団の如し。

 体に宿った二つの紋章により、他人に倍する魔力操作が生んだ高い魔法適性が、常人離れの高威力と連発を支えて常識外れの戦法を形にしてみせた。

 

 また、彼女のさらなる武器である剣技も無視できない。

 魔法使いの悩みどころである接近戦が、彼女にとっては格好の的。この点でも常識外れと言える近接戦闘力の高さが強み。

 小柄な体は力と重さで劣る代わりに小回りと素早さで優る。度胸に任せて密着してしまえば敵の攻撃はその身軽さで回避できる。

 そして正面からのぶつかり合いになっても、桁外れの魔力を乗せた魔法剣が体格の不利をいとも容易く覆してしまうのだ。

 

「故に【魔刃】……まったく、厄介な存在になりましたね」

「ヒューベルトですか。あんたがわたしの相手を?」

 

 兵を下がらせて前に進み出たヒューベルトを見て、リシテアは訝しげに訊ねた。

 

「ええ。僭越ながら、貴殿を抑える役は私が仰せつかっております。付き合っていただきますよ」

 

 いつも通り慇懃に一礼してみせるヒューベルト。

 しかしその内心は、同じ魔法使いとしてリシテアに対する称賛と……ベレトに対して少なからず苛立ちがあった。

 

 何しろ彼女がこれほどまでに厄介な戦士へと成長したのは間違いなくベレトが指導したせいなのだから。

 

 まず、ベレトがコンスタンツェに協力して実現した魔法の使い方、魔法を足から放つ発動方法。これがいけない。

 魔法を専門に学ぶ勉強熱心なリシテアが、ベレトの魔法の使い方に興味を持たないはずがなく、ベレトもベレトで意欲的な生徒の質問に応えないはずもなく、惜しみなく教える教師からあっさりとその技術は伝えられた。

 それだけならまだいいが、当のリシテアが教わったものをただ使うだけではなく、自身に合わせて技を改良してみせる天才であることが災い──ヒューベルトにとっては紛れもなく災いだと言えよう──した。

 

 彼女はこう考えた。手以外から放てるなら、体のどこからでも魔法を放てるのではないか、と。

 考えたことを実現してしまえるのが天才たる所以。魔力の放出口を手以外にも用意することで、ベレト以上の魔力の持ち主である彼女はベレトにはできなかった魔法の並列行使を可能にした。

 余りある魔力を元手に並列魔法を操るリシテアの攻撃力は先ほど見せた通り。

 多数の敵に囲まれた状況であろうと、一人で周囲の敵をまとめて薙ぎ払えてしまう桁外れの火力を手に入れたのだ。

 

 さらにリシテアを厄介たらしめるのがその剣技。

 士官学校での訓練を通じて、彼女の身のこなしから剣の素質を感じたベレトが指導すると才能が開花する。剣を握りながら魔力を練り、刀身に魔力を乗せて振るう魔法剣という戦技を編み出した。

 その威力も先ほど見せた通り。体格も腕力も大きな差がある敵を正面から打ち破ってしまえる超常の攻撃力を発揮する。

 全ての魔法使いにとって共通の弱点であるはずの接近戦は、彼女にとってはもう一つの得意分野である剣を振るう場なのだ。

 

 加えて言及したいのが彼女の武装。

 同盟内の派閥争いに負けたグロスタール家から接収した英雄の遺産、テュルソスの杖。これをグロスタールの紋章を持つリシテアが手にすることでその力を遺憾なく発揮し、ただでさえ強力な魔法が一段と強くなる。

 そして近年発見された、魔獣から獲れる材料で作られるウーツ鋼という合金。これを原材料にして鍛えられた勇者シリーズという武器が開発された。

 リシテアが持つ勇者の剣もその一つ。刀身に穴を空けるという普通なら強度を犠牲にしそうな作りでも問題ない丈夫な剣で、独特の重量バランスは熟達した剣士が握れば一呼吸に二回振ることが可能だと言われる。

 

 他を圧倒する大火力の魔法と剣技が、他の倍する手数となって襲い来る。

 こうして、【魔刃】の名を冠する小さな魔神が誕生したのである。

 

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 時間を少し遡り、デアドラへ進撃する道中で。

 

「問題は数の差。となれば誰をどこに配置して誰と当たらせるかが重要だ」

 

 作戦会議の場でベレトの説明を遊撃軍の面子は神妙な態度で聞く。

 ブートキャンプから合流したフェルディナントとペトラはぐったりとしているが。

 

「今回の戦いで狙うのは短期決着。一気に敵陣に飛び込んで直接将官を狙う」

「なんだか鷲獅子戦みたいだな。対抗戦でもそんな感じの作戦だったし!」

「あったねー、そんなの。士官学校で培った僕らの強みを生かすんですね」

 

 改めてベレトが提示した作戦の方針を聞いて、カスパルが思い出したように言う。続いてリンハルトが一言を添えた。

 

「そうだな。五年前から君達が他に優っている速さを活かした開幕速攻で主導権を取りたい」

 

 簡易テーブルに広げた軍港の見取り図を指さしながら、ベレトは説明を続ける。

 敵将官として立ち塞がるであろう金鹿の生徒にも言及して、誰がどこへ向かってどう戦うか、あえて細かくは詰めない方針で各員の動きを伝えた。

 

 聞いてからリンハルトが何とはなしに口を開く。

 

「前から思ってましたけど、先生ってこういう作戦とかけっこう緩く伝える時がありますよね。大雑把と言うか、指定する範囲が広いと言うか。いやまあ、それでも戦場には合致するし困ったことにならないからいいんですが」

「あまりに細かく詰めすぎると、そこから少しズレただけで通用しなくなる。戦況は変化していくものだから、対応させるためにわざと緩くしているところもあるよ」

「まあそうですよね。そうやって緩くしても予想した範囲に戦況がきちんと納まるんだから、貴方の先読みがすごいですよ」

 

 ベレトの返事を聞いてしみじみと頷くリンハルトである。

 エーデルガルトやヒューベルトのように細かい指示でも十全に理解してその通りに動ける者もいれば、カスパルのように作戦への理解が浅いまま飛び出してしまう(五年前は顕著だった)者もいるし、ペトラのように言葉遣いが拙い故に細々と指示を出しても理解が及ばない者もいる。

 そういった生徒を一緒くたにした学級を指導してきたベレトだからこそ、作戦などの上手い伝え方も慣れていったのだろう。

 

 しかし、今回ほど厳しい状況から始まる戦闘はベレトも初めてだったようで。

 各員の配置にかなり悩むことになり、自分だけでは詰められない部分もあった。

 

「問題は敵将に対する配備なんだが……」

「あら、決められないの?」

「考えてはある。だがみんなの意見も聞きたい」

 

 エーデルガルトの質問に返されたのは珍しい発言で、全員の背筋が伸びる。

 ベレトの指揮能力は誰もが知るところだ。その彼が自信を持って決められないのであれば余程の悩みどころなのだろう。

 幸いにもメンバーの士気は高く、苦戦を強いられるこの決戦にも率先して声を上げてくれた。

 

 【烈女】ジュディット。

 【震展】レオニー。

 【轍薙】ラファエル。

 二つ名を持つ脅威を筆頭に、誰を中心にして対応させるか(大まかに)決めていくが、それでもベレトには決め切れない相手がいた。

 

「リシテアをどうするべきか……」

 

 同盟軍の中でも飛び抜けた強さを持つリシテアにどう対処するべきか。

 ベレト自身が当たることも考えたが、自分はクロードを攻めなくてはいけない。

 戦力的に不利なこの戦い、彼女一人に複数を当てる余裕はなく。当然放置するわけにもいかず。かと言って単独で誰かを向かわせるのは……

 

 悩むベレトという珍しいものを横目に、これは自分が言わなければいけないと決めたエーデルガルトは口を開く。

 

「ヒューベルト」

「はい」

「リシテアは貴方が抑えなさい」

 

 【魔刃】と単独で戦え──己の忠臣に向けたそれは「死んでこい」と意味するに等しい言葉。

 

「畏まりました」

 

 その言葉に、忠臣は即答で応じてみせた。

 

 堪らずベレトが眉をひそめる。

 

「エーデルガルト、それではヒューベルトが……」

「師も分かるはずよ。これが最適な采配だと。他に適任はいないわ」

「……確かにそうだが」

 

 考えを指摘されたベレトは言い返せなかった。

 

 総合的な防御力が高いカスパルでも、彼の魔防ではリシテアの魔法の大火力には耐えられない。

 自軍で最も魔防に優れるリンハルトでも、魔法には耐えられたとしても剣技で押し切られる。

 遊撃軍の他のメンバーでは誰だろうと同じこと。

 魔法使いとして魔防が高く、それでいて接近戦の実力もそれなりに高い。そんな相反する能力の持ち主はヒューベルトしかいないのだ。

 

 しかし、そのヒューベルトの力量を知るベレトは予感してしまう。

 彼ではリシテアに勝てない。どのように戦っても殺される。

 戦士としての感覚と指揮官としての思考が、ヒューベルトの死を確信してしまう。

 生徒に向けて「死んでこい」と命じることは、ベレトにはできなかった。

 

 だからこそ察したエーデルガルトが代わりに言ったのは分かるのだが……

 

「どうしましたか先生? エーデルガルト様の采配に何か異論でも?」

「君の負担が大き過ぎる。下手をしなくても死ぬぞ」

「くっくっくっ……率直な言い方ですね。しかし彼我の戦力差を考えると私しか適任がいないのが現状でしょう」

「やはり俺も一度加勢しに行く」

「先生はクロードを叩くという無二の役目があるでしょう。早急に敵の頭を討ち戦いを終わらせれば、それだけ生き残る者も増えます。その方が貴殿の目指すものと一致するのでは?」

 

 ベレトを窘めるのが楽しいのか、目線を下げる彼を見ながら上機嫌にヒューベルトは続ける。

 

「私とて死ぬつもりは毛頭ございません。我が主の覇道を最後まで支えるのはこの私だと自負しております。生き延びてみせましょう……それに、私にも奥の手くらいありますので」

「……じゃあ君を支援する策も必要だろう。そっちも別に考えなくては」

 

 

 

 ……

 …………

 ………………

 

 

 

「一人でわたしを相手取ると? あんたじゃ勝てませんよ」

 

 帝国が誇る精鋭を一蹴してみせたリシテアが口にするからこそ、傲然に聞こえる言い方も事実の指摘でしかなかった。

 

「ええ、私一人で貴殿を倒せるとは思っておりませんとも」

「あら、素直に認めるんですね」

「もちろんです。しかし貴殿と私とでは勝利条件が違います。この戦いの間、貴殿をこの場に留めることさえできれば、それだけで私にとっては勝利と言えるのですよ」

「だから……()()さえできないと言ってるんですよ!」

 

 テュルソスの杖を振り、ほとんど溜めることなく繰り出したルナΛがヒューベルトを襲う。

 僅かな魔力の起こりから即座に回避したヒューベルト。これだけでも彼が非凡な戦士であることが窺えるが、それだけで敵う相手ではない。

 

「重々承知しております……なのでこちらも早々に札を切りましょう」

 

 距離を保って走りながら彼が取り出したのは細長い棒。力を込めて握るのが作用したのか、その先端がオーラを帯びて刃を形作った。

 それを見たリシテアは眉をひそめる。

 

(何あれ? 槍? 魔法武器? ヒューベルトは魔法使いだけど、前衛として動けないわけじゃないから接近戦を仕掛けようとして……でもそれじゃさっきの帝国兵と同じようにわたしの敵じゃない。武器一つでひっくり返る実力差じゃないことくらい彼も理解してるだろうし……)

 

 考えながらも目で追うヒューベルトが槍を振り被り──瞬間、嫌な予感に従って全力で剣に魔力を込める。

 明らかに届かない位置からヒューベルトが槍を振るったのが見えたので前方へかざすように剣を構えた直後、甲高い音を立ててその剣が大きく弾かれた。

 腕ごと持っていかれそうな衝撃だった。間違いなく自分を狙った攻撃。

 

「くくくっ……防ぎましたか。傷の一つでも負えばよいものを……」

 

 くるりと槍を回してヒューベルトが笑う。

 

 小さく後退るリシテアの目が捉えたのは槍の穂先。ただの魔力とは違う、キラキラと光る何かが伸びている。

 

(魔法じゃない! 剣に当たった堅い衝撃からして実体がある! 魔力で作った何かを穂先から伸ばして近付くことなくわたしに攻撃を届かせた!)

 

 それはまるでベレトが持つ天帝の剣のように。

 離れた場所からでも届く攻撃は、ヒューベルトにとって間合いが意味を為さないことを表していた。

 

 正体を探らんとリシテアは目を凝らす。光を反射して煌めいているそれは、どこか透けて見えるようで……

 

「……氷?」

 

 魔力で作られた氷の刃。

 一瞬でここまで伸ばし、衝撃で砕けても追加で生み出せる不定形の穂先。

 ただ魔力を流す武器ではありえない、ヒューベルト固有の技。

 

「流石はリシテア殿。初見でもう見抜かれるとは」

「それがあんたの切札ですか」

「ええ。貴殿ならばお判りでしょう。私がこの技を使うことの意味が」

 

 リシテアほどではないにしても、ヒューベルトも優れた魔法使いだ。彼の操る闇魔法が敵を容赦なく叩き潰すものであるとリシテアは知っている。

 そのヒューベルトが魔法以外に遠距離攻撃の手段を持つことの意味をリシテアは察する。

 

 魔法と魔法の撃ち合いになれば、間違いなく自分が勝つ。威力も手数も疑問の余地なくこちらの方が上だ。

 しかし遠距離の勝負だと、自分には魔法しかないがヒューベルトは武器で攻撃できる。動き出しが同時だと想定した場合、()()()()()()()()()のだ。

 

 基本的に魔法とは深い集中を以て発動する術である。リシテアもヒューベルトも必要な魔力を素早く集中させられる熟達した魔法使いだが、それでも集中は必要だ。

 それは感覚的な集中とは違い、自身の魔力を特定の流れに操作すること。噛み砕いて言えば、魔法を使おうとする時は絶対に「これをこれこれこうする」と思考しなくてはならない。

 

 対して、武器を振って攻撃するのは肉体動作である。今では剣技を得意とするリシテアは体で理解できることだが、武器を振るのにいちいち思考を挟む必要などない。

 それはヒューベルトも同様。穂先に氷の刃を作るという極めて単純な魔力操作では思考の負担なんてほとんどないと予想できる。自信があるからこそ持ち出した技だ。

 

 思考を挟まず振れる武器攻撃の速度に、必ず思考しなければ行使できない魔法攻撃の速度は決して勝てない。

 どんなに訓練を積んだとしても、無意識に魔法を使うことなど絶対に不可能なのだから。

 

 即ちこの状況は、魔法で一方的に押し潰せるはずだったリシテアを、ヒューベルトが自身の土俵に引きずり込んだと表現できるものだった。

 

「我が氷槍、とくとご覧あれ……!」

「小賢しい……そんな小手先の技でわたしに勝てると思ったんですか?」

 

 自ら危険域に踏み込まなければならない状況になったと理解しても、リシテアには臆する気など微塵もなかった。

 武器一つ、技一つで埋まるような実力差ではないことも揺るぎない事実。ヒューベルトがどんなに手を尽くしたとしても結局は時間の問題。戦えば遠からず自分が勝つとリシテアは確信する。

 

 同じことを理解しているだろう。しかしヒューベルトは態度を変えない。

 

「無論です。言ったでしょう? 貴殿をこの場に留めることさえできれば私の勝ちであると」

 

 勝敗の定義が違うのだと彼は笑う。

 エーデルガルトを、ベレトを、仲間を信じている。

 自分はただ、己の役目に全力を尽くすのみ。

 

 高まる魔力が紋様を描く。

 示し合わせたように両者は同時に魔法を放って走り出した。

 

「──ダークスパイクΤ!!」

「──ドーラΔ×4!!」

 

 殺到する闇の棘を、迎え撃つ闇の球が相殺する。

 二人の激突が港の一角を黒く染めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐突だが、一種の例えとしてゲームの話をしよう。

 

 ゲームに登場するキャラクターが持つ性能は様々で、まさしく十人十色と表するに相応しく一つ一つが違っている。

 力が優れるキャラクターは物理攻撃が得意。

 魔力が伸びるキャラクターは魔法攻撃が強い。

 守備が高いキャラクターは物理攻撃を受けても平気。

 運が良いキャラクターはクリティカルヒットが出やすい。

 魅力があるキャラクターは他人が言うことを聞いてくれる。

 このようにキャラクター一人一人に特徴があり、多様なキャラクターが登場することでゲームに幅を生み、プレイを彩るのだ。

 

 こういったキャラクターの性能はステータスとして表示される。

 各項目がパラメータという数値となり、ゲームを操作するプレイヤーが一目で理解できる形で表現されている。

 また、パラメータが純粋な性能を表している他にスキルで補強される場合もある。画面を変えれば修得したスキルが一覧になって並び、そのキャラクターの強さを表してくれる。

 

 これらのステータスを伸ばすため、キャラクターを成長させることもゲームの醍醐味の一つと言えよう。そこに意義を見出すプレイヤーも多いはずだ。

 どうやって成長させるかと言えば当然、レベル上げである。

 経験値を貯めてレベルが上がればパラメータが伸びる。前述したキャラクター毎の傾向によって伸びる部分も変わり、それがそのキャラクターの個性になる。

 そうしてレベルを上げていけば自然とスキルの熟練度も上がり、新しく覚えたスキルがキャラクターを一層強くしてくれる。

 以上が基本的なキャラクターの育成だ。ゲーム内容によっては道筋が違うこともあるだろうが、概ね共通すると言っていいだろう。

 

 一応……種だのドリンクだの、ステータスを直接伸ばす道具、いわゆるドーピングアイテムを使い込んでレベルを上げることなくキャラクターを強化させるプレイヤーも存在する。

 とは言え、それは育成の手段としては極めて効率が悪く、趣味を通り越して性癖の分野だ。とてもではないが一般的とは言えないプレイであり、手を出すのは廃と呼ばれる極めて限られた人種なのでここでは考慮しないものとする。

 

 レベルを上げればステータスが上がる。パラメータは伸び、スキルも育つ。

 当たり前だがレベルが高いほどキャラクターは強くなる。

 自分が操作するキャラクターのレベルより敵の方が高いとゲームは難しくなり、逆に自分のキャラクターの方が敵よりレベルが高ければ楽になるものだ。

 

 では、その前提があるとして。

 

 ストーリー進行の目安となる推奨レベルが20台後半の時点で、

 レベル20から高くても30のキャラクターばかりが入り乱れるフィールドに、

 レベル40超えのキャラクターが出るとどうなるだろうか?

 

 ()()なるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 港の倉庫街。黒鷲遊撃軍の前衛が躍り出て、同盟の軍勢を蹴散らしている場。

 そこで彼らは文字通り、蹴散らしていた。

 

 真っ向勝負を続けるカスパルとラファエルは、戦い始めた路地から大通りへ転がり出ても手を止めようとしない。

 

「おらおらおらぁ!!」

「ふんぬぁ!!」

 

 互いの連打がぶつかり合う殴り合い。最初から力を惜しまない二人だが、その均衡は徐々に、着実に傾こうとしていた。

 

「そこぉ!!」

「んぐ!」

 

 一際大きく踏み込んだカスパルが下から持ち上げるように横腹を殴り、潜り込まれたラファエルは思わず足を止めてしまう。

 

「もいっちょ!!」

「こんのぉ!」

 

 真下から突き上げるカスパルの拳を今度は受け止めるも、

 

「ここだぁ!!」

「ぐぅ!?」

 

 押さえられた手を支点にして体を上下に回転させた浴びせ蹴りがラファエルの脳天に入る。

 下から上へと急変する攻撃を受け、タフな巨体が初めて後退した。

 

 配下のベルグリーズ戦団も後に続き、周囲の同盟兵を圧していた。

 カスパルに続けと言わんばかりに勢いを強めて踏み出し、数で優る敵を打ち倒していく。

 

 怯むことのない前進を旨とする【轍薙】が押し負ける。明らかな力負けと言える事態だった。

 そして他の場所でも似た事態が起こっている。

 

 大通りで戦い始めたフェルディナントがエーギル星騎士団の先頭で槍を振るい始めてから、彼は止まることなく戦っていた。

 足を止めず、手も止めず、馬上にいながら踊るように滑らかな槍捌きが同盟兵を斬り払う。

 

「ちぃっ、なんて奴だい! 数の差が意味ないじゃないか!」

 

 それを相手するジュディットが思わず悪態を吐くほどその戦いぶりは速く、まるで彼一人で二人分の戦力を担っているようだった。

 

 並んで戦うレオニーが負けじと槍を振るうも、片手間のような動きでフェルディナントに対処されてしまう。

 

「遅い!」

「っづ……くっそおお!」

 

 しまいには同じく騎馬のレオニーの槍を軽く受け流してからその背中がすれ違い様に柄尻で打ち据えられてしまい、防御と攻撃を一挙動で済ませたフェルディナントは尚も足を止めない。

 

 多数の手段を以て勝利を手繰り寄せる【震展】が、それ以上の手数によって防戦に追い込まれている。格の違いすら感じさせる展開だった。

 そこから上に目を向ければ、これまた驚く光景が広がる。

 

 倉庫街の壁を跳ね、屋根から飛び出し、配下のドラゴンナイトを足場にして空中を転々とするペトラが宙を舞う。

 ドラゴンでは叶わない鋭角の方向転換を駆使して港の制空権を奪わんと、足を止めないまま構えた弓から次々に矢を射る。

 さながら密林を自在に駆け巡る獣の如き身のこなし。

 

「くっ、なんて動きをするんだ……!」

 

 そのペトラを地上からイグナーツは狙うのだが、彼の優れた視力を以てしても追い切れず、時折見失ってはまた見つけて矢を射かけても中てることができない。

 それくらい空を動き回るペトラは手が届かないと感じさせる存在だった。

 

 戦場(狩場)で見せたそんな心の隙を、彼女(狩人)は見逃さない。

 

 数え切れないほど繰り返した空中移動。その最中で足をもつれさせたのか、足場のドラゴンを踏み切ろうとしたペトラの動きが明らかに鈍る。上体がぐらついて踏ん張ろうと足が止まる。

 それを見たイグナーツはほとんど反射的に弓で狙う。思考を飛ばして矢を番え、指を放して、射かけ──気付いた時には遅かった。

 止まったように見えたペトラは横ではなく、脱力した体で下に向けて動いていた。

 上下逆さまの状態でドラゴンの腹を踏み切り、地上へ向けて加速したペトラが飛んでくる。攻撃した直後の足を止めたイグナーツ目がけて。

 

 矢が当たらないことに焦る心は、明確に隙だと分かる止まった姿にまんまと引っかかってしまったのだ。まるで餌に飛びつく獲物のように。

 

「しまっ──」

「だああああ!!」

 

 落下しながら剣を抜いたペトラから少しでも離れようと、イグナーツは咄嗟に地面へ倒れるように回避を試みる。間一髪、剣の先が彼の肩を掠めるだけで済んだ。

 その代わりに、今のペトラの一撃によってイグナーツの弓が真っ二つに斬られる。

 追撃は初めから考えてなかったようで、周囲の同盟兵に囲まれる前に走り抜けたペトラはまた壁を駆け上がり、あちこちを足場にして再び空中から攻撃を始めた。

 

 たった一人、率いた部隊を駆使して敵の地上と空中を同時に相手取る姫は、既に港の制空権を奪いつつあった。

 

 異常と称していい戦果である。一部ではあるが帝国が同盟を圧倒しており、それに釣られるように他の場所でも遊撃軍は不利な戦況を互角なものへと持ち堪えさせていた。

 

 ここで、この戦いにおける両軍を数字で表してみよう。

 

 帝国が本来動員できる軍の総数を100だと仮定してみる。それに対して同盟の軍の総数は、どれだけかき集めても50そこそこである。両者がまともにやり合えば軍配はほぼ間違いなく帝国に上がるだろう。

 今回の決戦はそうではない。

 決裂した和平会談で取り決められた内容により、同盟は幾らか、帝国は大幅に限られた戦力のみで戦うことになった。

 

 同盟は金鹿の生徒を長とした各部隊と有力な領地から厳選された戦力をデアドラへ結集させた。数値に表すなら20ほど。

 対して帝国は黒鷲遊撃軍という最高戦力のみ。今でこそ軍の中では師団と呼べる規模になってはいるが、この戦力一つを数にするなら10となる。

 そしてそこに乗り込んできたパルミラ軍の数が10ほどであり、これがそのまま同盟に味方した。

 

 結果、帝国(10)VS同盟+パルミラ(30)という構図ができあがった。

 普通に考えれば三倍の戦力差がある相手と戦っても勝ち目はない。

 ただしこれは戦力を単純な人数だけで考えた場合の話だ。

 

 数の差は大きい。それは確かな事実ではあるが、人の世には時として数の差をねじ伏せる個の力が現れるのである。

 フォドラに生まれる紋章持ち、英雄の遺産の担い手、そういった常人を超えた力の持ち主。

 そしてここにはそれらの他に生まれた天然の英雄(ベレト)彼に導かれた者達(ブートキャンプ経験者)がいるのだ。

 

 紋章持ちはどちらにもいる。英雄の遺産の担い手は、帝国には現状ベレトだけで、同盟はクロードとヒルダとリシテアの三名いる。ここまでを考慮しても同盟が有利。

 が、しかし。

 その差を埋めてみせたのが個の地力。

 人数の差や武装の差に左右されない、その陣営を支える基礎の力。

 ベレトに鍛えられた者達が先頭に立って戦うことで、人数差三倍の敵を相手に拮抗しているのである。

 

 先述した帝国全軍の総数100の中で黒鷲遊撃軍が10だという下りも少なく見えるかもしれないが、たった一割という少ない戦力だけでこうして同盟とパルミラを同時に相手取っていることもあり、最高戦力と呼ぶに相応しい奮迅ぶりだと言えよう。

 もしこの戦いの場が広々とした平野で、帝国が本来の軍を存分に出せた上に黒鷲遊撃軍を編成できていたとしたら。

 机上の空論ではあるが、同盟六つ分の戦力と渡り合えるかもしれないのだ。

 

 とは言え、短期決着を狙って初手から全力を出し、数が少ないこともあって継戦能力はどうしても乏しい帝国としては、長引くほど不利になっていく状況は変わっていない。

 よって、この戦況を変えるべく動いた彼を信じて戦っているのだが。

 

 ──まだか先生!

 

 この危うい拮抗はそう長くは続かない。戦いながら常に意識してしまう。

 信じる気持ちと焦る気持ちが心の中で競り合い、それを払うように力を振り絞って戦う彼らに吉報が届いたのはすぐのこと。

 

 海上に展開するパルミラ軍のドラゴンナイトはエーデルガルトが抑えることになっているが、完全に抑えることはできていない。幾らか港の方まで来て遊撃軍を空から脅かす個体もいる。

 そういった敵もペトラが追い払ったりシャミアが撃ち落としたりするのだが、そうなる前にやってきたドラゴンナイトの一人が叫んだ言葉が切欠で戦局は動いた。

 

 ただしそれはパルミラの言語だったので、港でその叫びを聞いた者の大半は彼が何を言ったか理解できなかった。山を挟んでいるとは言え、高等教育を受ける貴族も多くいるのに隣国の言語がまるで理解されないところはフォドラの閉鎖的な気風の表れかもしれない。

 その中でも辛うじて理解できた数少ない人物、ジュディットが表情を驚愕に染めたことで危機感は伝わった。

 

「馬鹿な! 本当なのかい!?」

 

 思わず問い返してしまう彼女が聞き取れた内容は、この戦況が覆されたと言っても過言ではない通達。

 船が奪われた──ドラゴンナイトはそう言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次いで場面は海上に移る。

 

 パルミラ軍が潜み、大量のドラゴンナイトが飛び立った船は彼らの拠点として戦場で機能している。その船は戦闘が始まった時から動いていない。

 桟橋などは掛けられていないので徒歩で立ち入ることはできず、戦場である港に隣接しながらパルミラの精鋭達にとっては安全なありがたい海上の足場だった。

 

 はたして油断と言っていいのだろうか。

 少なくとも、敵に脅かされることはないと彼らが高を括っていても声を大にして責めにくいはずである。

 戦う相手の帝国は目に見えて数が少なく、港に雪崩れ込んだ部隊からして大半の力をそちらに注いでいた。分かれて林の方へ向かった部隊もいるにはいたが、あんな少数が別の船を動かしたりボートで乗り込んでこようとしても問題なく潰せる。

 フォドラまでやってきた精鋭だという自負が目を曇らせた……とまで言ってしまうのは、戦いの世界を知らない外野の野次になるだろう。

 あんな手段で乗り込まれるなんて考え付かなくても無理はない。

 

『て、敵しゅ──がは!』

「パルミラ語なんて初めて聞いたぜ」

 

 船の縁を超えると同時に抜いた剣で一人斬り伏せたヨニックが呟く。

 彼に続き、ジェラルト傭兵団の戦士達が次々に船へ乗り込んできた。

 

 海に浮かぶ船へ、地形を無視して大陸最強の傭兵達は現れたのだ。

 

『侵入者だ!』

『どうやって来た!?』

『知るか! 戦え!』

 

 パルミラ兵もすぐさま武器を取って応戦するが、少なくない動揺もあって後手に回り、勢いに乗る傭兵の攻勢に畳みかけられていく。

 

 急いで飛び立とうとするドラゴンナイトの間を高速で駆け抜けるジードが槍を振り回すと、ドラゴンの翼と足を小さく傷付けていった。

 

『こいつ、ドラゴンだけ狙いやがるな!』

『この野郎!』

「飛んでないドラゴンなんてデカいだけの羽根つきトカゲですよ、のろいのろい」

 

 軽口を叩いて甲板を走り回るジードは敵ドラゴンの飛行を阻止していき、彼に続く傭兵達もドラゴンを次々に抑えていくことで飛び立つドラゴンナイトが目に見えて減る。それはパルミラ軍の戦力を直接削るに等しい戦果だ。

 

 ガロテを始め複数の傭兵が船倉に繋がる扉の一つへ飛び込むと、合図を受けたダンダが適当な積み荷を一人で抱え上げる。

 

「ではダンダ、塞いでください」

「お任せー!」

 

 一声かけたガロテが扉を閉めて、そこを目がけてダンダは一抱えある積み荷を叩きつけた。扉も壁も破壊して行き来を封鎖した内部では多くの怒声が響いているので、突入班が船の内部を制圧していくだろう。

 

 レンバスの班が船首の方を回り、ドナイの班が船尾を回る。ドラゴンの周り以外のパルミラ兵を倒し、時に海へ蹴り落としたりして一周すると粗方制圧が終わった。

 

「前、よし」

「後ろ、よし」

「ドナイは見張り台に上がれ。他は入れるとこ探して中だ」

「あいよ。レンバスさんは?」

「後続を引き上げるよ。ダンダ、見つけたか?」

「縄梯子いっぱいあったぞー」

「でかした!」

 

 指示に従って散った傭兵から目を放し、ダンダが持ってきた縄梯子を船の縁から下ろしたレンバスは空を仰ぐ。

 

「レト坊! もういいぞ!」

 

 彼らの様子をドラゴンに乗って空から見ていたベレトは合図を受けてすぐに後続へ飛ぶ。

 滑空した先は海の上。人が立つことなど叶わないはずのそこには長く伸びた氷の道があり、地上から徒歩で渡ることができる即席の橋が作られていた。

 そこに待機しているのはヴァーリ弓兵隊。

 

「制圧完了! 梯子を上ってくれ!」

 

 指示が届いて動き出した弓兵隊が梯子に飛びついて次々に船へ乗り込んでいくのを見て、ベレトは作戦の成功を確信した。

 振り返り、この作戦の一番の功労者に声をかける。

 

「ベルナデッタ、作戦は成功だ。君のおかげだぞ」

「は、はひ……ど、も……ベルは、もう……ダメです……」

「充分だ。後は休んでくれ」

 

 ドラゴンの羽ばたき音に隠れてしまいそうな掠れ声でベルナデッタが返事をした。辛うじて返る声を聞いて、無茶をさせてしまったなとベレトは彼女の背を撫でる。

 船を強襲するこの即興作戦の要に抜擢したベルナデッタは見事期待に応えてくれたのだから。

 

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

 

「あの、先生? 結局ベルは何をするんですか?」

「ベルナデッタ、君は魔法のブリザーを今でも使えるな?」

「はい? ええ、まあ一応使えますよ。授業で教わったくらいのことなら。でも、戦いに使えるほどじゃ……」

「敵との戦闘に使うんじゃない」

「え? じゃあベルは何するんですか?」

「海だ。俺達はこれからパルミラの船を攻める。その進軍路として海面を凍らせて、続く弓兵隊が船に乗り込むための氷の道を作るんだ」

「はあ、海。でもあたしの魔力じゃそんなに上手くは……」

「君だけでやるんじゃない。ジェラルト傭兵団が今から海に木材を投げ入れて氷の芯を用意する。ベルナデッタはそれに沿うようにブリザーをかけて凍らせてくれ」

「ああだからレンバスさん達が、なるほど。いやいやちょっと待ってください先生、今戦闘中ですよ! 敵のドラゴンナイトが襲ってきたら避けられませんって!」

「レンバス達は海面だろうが自分達でどうとでもする。君は俺がコントロールするから大丈夫だ」

「……先生が?」

「まず、ドラゴンに乗る俺が天帝の剣のワイヤーを巻いて吊るしたベルナデッタを海面近くまで下げながら空中を移動。君が木材に沿って海面をブリザーで凍らせて即席の道を作る」

「……ベルを?」

「敵ドラゴンが襲ってきたら俺がワイヤーを引いて回避。敵はジェラルト傭兵団が処理する。氷の道を作れたらヴァーリ弓兵隊が海上を進行。パルミラ軍の拠点である船を乗っ取って、敵ドラゴンナイトを海側から攻める態勢を作る」

「…………………………正気ですかああああああああああ!?!?!?」

 

 

 

 ……

 …………

 ………………

 

 

 

 海の上に氷の道を作る。言葉にしてしまえばそれだけのことでも、実際に行うのは非常に難しいことだった。

 

 海水は塩分を含んでおり、水から氷へと変わる温度、凝固点が普通の水より低い。上級の氷魔法フィンブルならともかく、初級のブリザーを海面にぶつけたところでそこに作れた氷は脆く、人が乗ればすぐ割れてしまうものだろう。

 なのでただブリザーを使うのではなく、ジェラルト傭兵団が近くの林で調達した木材をその場で細く裁断して海に投げ入れて氷を支える芯材として用い、それに沿うように凍らせたのである。

 

 ちなみに、作業中に襲撃された時のための対策(吊り下げベルナデッタ)は結局一度も利用することはなかった。ベレト達の動きをパルミラ軍が見逃したと言うより、向こうがそれどころではなくなったのだ。

 というのも、ベルナデッタがブリザーを使うのを待たずしてジェラルト傭兵団が先んじて船に特攻したからだ。海に投げ入れた木材を足場に、不安定さも何のその、軽やかに跳ねて進む傭兵達は常識外れの海面進撃をやってのけ、まさかの強襲で船内は大混乱に陥ったのである。

 そうして傭兵団に襲われたパルミラ軍は海面を警戒するどころではなかった。こんなにも速く、しかも徒歩で下から船へ攻め込まれた彼らを責めることはできまい。

 

 襲われなかったベルナデッタは吊り下げられるという変な姿勢でも必死に集中してブリザーを使い、ヴァーリ弓兵隊が続くための道を作った。

 彼女も士官学校にいた時に少しだけ魔法の訓練を受けていた。その時に判明した自身の氷魔法の適性が他の生徒にはなかったので心細かった覚えがある。

 五年経った今でもベレトがその成果を覚えていてくれて、しかも作戦の要として頼んできたことは及び腰になると同時に嬉しいことでもあったので、泣き叫びながらも頑張ったのだ。

 

「先生……後は、お願いします……」

「ああ。任せてくれ」

 

 使えるとは言え慣れない魔法の大量使用で疲労困憊になってしまったベルナデッタにこれ以上無理はさせられない。

 甲板に着地させたドラゴンから降ろしたベルナデッタを仲間に預ける。最後に頭を一撫でしてからベレトは甲板に並んだヴァーリ弓兵隊の前に立った。

 

「諸君の長、ベルナデッタの尽力により船の制圧が叶った! 彼女の働きに応えるために、今こそヴァーリの弓を以てパルミラの精鋭を撃ち落とさん!」

 

 然り!──ベレトの発破に応じた弓兵隊が大きく声を上げる。仕える主があんなにも疲弊するほど力を尽くす姿を見て、彼らも奮起させられたのだ。

 

「構え!」

 

 手を上げたベレトの目線に従って全体が弓矢を構える。示された先は、向かって港の海上。

 

「目標、手前のドラゴンナイト!」

 

 港に向かおうとするパルミラ軍のドラゴンナイトはその多くがエーデルガルトの飛竜隊によって海上に抑えられている。ベレトが指示した通り、彼女は深追いせず敵の侵攻を阻むことに注力していた。

 つまり船にいるベレト達から見て手前側、比較的近いところを飛ぶドラゴンナイトが敵だということ。

 実に、狙いやすい。

 

「撃て!!」

 

 振り下ろされた腕を合図に、ヴァーリ弓兵隊による一斉射撃がパルミラ軍を背後から襲った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はははっ……マジかよ。やりやがった、あの野郎……!」

 

 笑ってしまった。笑うしかなかった。

 頬が緩んで、腹に力が入る。何もしなくても笑声が込み上げる。

 おかしくて仕方なかった。

 

 だってそうだろう?

 あんなに準備したのに。策を練って、備えて、構えて、敵を上回ったのに。

 それを、たった一手でひっくり返すとか、何なんだあの人は!?

 

 思わず天を仰ぎ、クロードは笑うのだった。

 

 急に笑い出したのを訝しく思ったのか、相棒のドラゴンが首をこちらに巡らせる。

 その目つきがどことなくこちらを咎めてるみたいで、戦場で気を抜くんじゃないと叱られたような気がした。

 

「分かった分かった。ああ、分かってるよ」

 

 首元を叩いて謝ってから手綱を握り直した。飛ばす方向を指示しながら、クロードは不思議に思う。

 自分は今どうしてこんなにおかしな気分なのか。

 

 戦いとは、戦おうと思った瞬間から始まっている。ベレトは生徒にそう教えた。

 その考え方はクロードも同意だった。騎士道精神だとか正々堂々だとか、そんな言葉遊びにかまけて拾えるはずの優位を捨てて、確実な勝利を手放すなどもったいないにも程がある。

 拘りたい奴は好きにすればいい。自分はそういうものより裏をかく方を優先する。それだけのこと。

 いずれ戦うと予感した時から、そのための仕込みをしておく。備え、下準備、言い方は別に何でもいい。

 

 五年前から。いや、士官学校に行く前から。それこそ故郷にいた時から。

 クロードはずっとそう生きてきた。どんな戦いにもそう臨んできた。

 体を鍛えて自分を強くするのも。

 策を用いて相手を弱くするのも。

 どちらも勝利を手繰り寄せんとする真剣な向き合い方だ。そこに優劣はない。その人がどちらを重視するかというだけ。

 クロードは後者を重視する。前者を全く疎かにするつもりはないが、頭を捻って策を練ることが自分に合っていると思うのだ。

 

 デアドラの館に忍び込んで親書を届けに来たベレトに会った時から、帝国とこうして戦うと予感していた。彼の体質によってドラゴンを運用すれば不利になるという先入観を逆手に取って、パルミラ軍のドラゴンナイトを投入する段取りを組んだ。

 同盟議会から要求されたベレトの身柄はエーデルガルトが断固として拒むと予想できたので、その代わりに決戦における有利な条件を引き出せることを思い付いた。

 この決戦に備えて用意した策は確かに効果があった。帝国に対して有利に立てて戦いを始められた。

 

 その渾身の策が、ベレトの咄嗟の対応で覆されてしまうとは。

 戦略が戦術で覆されてたまるか、と喚いてもおかしくない事態なのだが、クロードの口から出るのは楽し気な笑い声で。

 自分でも不思議な気持ちを探り、クロードは思い至る。

 

(ああ、そうか……俺は今、楽しいんだ)

 

 不謹慎かもしれないが、きっとそれが真実。

 

 異端扱いされてきた自分と初めて同じ目線で話せる人間と会えて。

 指導を受けて、逆に自分の考えを教えて、いつか同じ野望を目指したいを思えて。

 歩む道は別たれてしまってもこうしてぶつかり合えて。

 生まれて初めて見つけた、自分と同じ種類の人間。それがベレト。

 

 そのベレトとこうして戦っている。本気で考えた策をぶつけて、相手を上回ろうと思考して、それに相手が予想外の戦術で対抗して、全力で競い合っている。

 自分と同じ目線で語れる相手と、同じ領域で向かい合う。恐らくそれは多くの人が望んでも得ることのない好敵手なのだ。

 

 この状況でこんな気持ちにさせてくれるとは。

 

「やってくれるじゃないかよ、きょうだい!」

 

 もうしないと決めたきょうだい呼びを興奮のまま口にした自覚もなく、クロードは海の方を睨んだ。船からドラゴンが飛び立ち、その背にベレトが乗っているのを遠目で捉える。

 ここから先は同盟が有利とは言えない。むしろ制空権を帝国に奪われた今、同盟こそ決着を急がなければいけない時。

 

 北の波止場からドラゴンを飛ばすクロードは海を周るように移動する。ベレトのところへ直接向かい、自分で戦うため。

 例えここから同盟が盛り返したとしても、ベレトがいる限り帝国はいくらでも戦況を変えてくるだろう。ならばそのベレトを早急に討ち、相手側の士気を挫かなければ展開は同じだ。

 それができるのは自分だけ。否、自分以外は認めない。

 

「こっからだよな……一番盛り上がるのはさ!」

 

 英雄の遺産、魔弓フェイルノートを握る手に力が籠る。直接対決とあってこれまでと違う意味で鼓動が高鳴る。

 今度は戦略ではない。実力ともう一つの策を用いて、積み上げてきた全てをぶつけてやる。

 鬼神は獰猛な笑みを浮かべて戦場へ躍り出た。




 好きなところを切り抜いて書くので、端折る部分もあります。
 ご理解ください。


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信じたいもの、信じ抜いたもの 後編

 ベレト対クロード、決着がつきます。
 そして帝国と同盟の戦いも終わります。


 帝国側でいち早く戦局の変化を見抜いたのはエーデルガルトだった。

 ドラゴンの手綱を引き、麾下の飛竜隊に出した指示で帝国のドラゴンナイト達が編隊飛行を始めた。それに対し、一斉に退いた敵を追おうと動こうとしたパルミラ軍。

 その背を撃つように、即ちパルミラ軍の拠点である海上の船から大量の矢が雨霰と襲い掛かる。

 

「何だと!?」

 

 味方がいるはずの背後からまさかの一斉射を受け、ナデルが驚愕に顔を染めた。

 歴戦の将が見せたその動揺をエーデルガルトは見逃さない。

 

 思考するより前にドラゴンへ急上昇、そして急降下を指示。重力に逆らう動きにも歯を食いしばり、両手で斧を振り上げる。

 上空から重力落下の猛加速で襲い掛かるエーデルガルトに寸前で気付いたナデルは反射的に自分も斧を振った。

 

「舐めるな娘ぇ!」

「だあああああああ!!」

 

 接触の直前、エーデルガルトは振り被った斧を持つ手をずらし、刃の根元を片手で握る。上段に構えた斧を振り下ろすのではなく、拳で突く要領で前へと突き出した。

 敵の斧を掻い潜って突き込まれたエーデルガルトの斧は、落雷の如き衝撃となってナデルの脇腹を撃ち、その鎧を砕いてみせた。

 

「ご、ふぅ……!」

 

 ドラゴンごと海に叩き落さんばかりのダメージを受けてナデルは咳き込む。

 自分の斧を無視して届かせた手品のように不思議な攻撃。今の今まで隠し、完璧なタイミングで繰り出したエーデルガルトへ称賛の気持ちが湧いた。

 

「ふふふ……百戦無敗とは、もう名乗れそうにないな……」

「退くというなら追いはしないわ。将として、兵を無駄に減らさないのが賢明ね」

「そのようだな……見事なり帝国軍。悔しいが、俺達は撤退する……!」

 

 油断なくドラゴンを反転させたエーデルガルトが言ったことに反発せず、ナデルは素直に撤退を選んだ。素晴らしい飛行術と戦闘を見せた皇帝と、自分達パルミラ軍を追い込んだ敵の戦術に敬意を表して。

 

 フラフラとしながらもドラゴンを飛ばしてパルミラのドラゴンナイトをまとめていくナデルを見送ると、エーデルガルトは大きく息を吐いた。

 強敵だった。短時間ではあったが、激しい空中戦を演じたことで相当な消耗を感じる。

 それでも、深追いはしないようにというベレトの指示を守る立ち回りのおかげで部隊としての損耗は少なく、寡戦を制した手応えに強く手を握った。

 

 かつてベレトから教わった斧の技。自らリズムの変化を生み、敵の手をすり抜けるように繰り出す一撃。それが今も自分の助けになっていることを実感して、エーデルガルトは誇らしい気持ちに包まれる。

 

(勝つのよ! (せんせい)に導かれて、私達は!)

 

 初めてこれを使った対抗戦の時とは違い、自分はまだまだ動ける。ベレトと一緒に戦える。高揚感に笑みが浮かぶのを止められなかった。

 

 そんな風にエーデルガルトが戦意を新たにしていると、騎乗するドラゴンが急に騒ぎ出す。

 

GRYOOO(ハッハーっだ)VRRYYYYOOOAAAAA(よそもんがイキんなや‪ ( 厂˙▽˙ )厂‬)!!」

「「「VVAAAOOORRRYYYYY(ざまあああ(˙▽˙ )三(˙▽˙)三( ˙▽˙))!!」」」

 

 釣られたように周囲を飛ぶ帝国のドラゴンが盛んに咆えた。

 パルミラ軍を退けたのを見てドラゴン達も勝利の雄叫びを上げたくなったのかもしれないが、まだ帝国が勝ったわけではない。調子に乗られても困る。

 

「どうどう、落ち着きなさい」

 

 手綱を引いて首元を叩く。合わせて自分も浮かれるわけにはいかないと戒めた。

 幸いドラゴンもすぐこちらの意図に気付いたようで「RRY、VOOUUU(うす、さーせん(・ω・))」と咆えるのをやめてくれた。周囲のドラゴンもすぐに落ち着きを取り戻して、元の編隊飛行に移る。

 

 そこへ、船から飛び立ったベレトのドラゴンが近付いてきた。

 

「エーデルガルト!」

「師!」

「よくやった、完璧な抑えだったぞ!」

「っっ! ……ええ!」

 

(褒めてくれた! 師が褒めてくれた! 私の頑張りを見てくれた!)

 

 ベレトがかけた言葉を聞いて、エーデルガルトは一気に破顔する。今し方浮かれるわけにはいかないと考えたばかりなのに、顔の緩みを抑えられない。

 とは言え、まだ戦いの最中なのは分かっているので何とか気を引き締めた。すぐにベレトから次の指示が飛ぶ。

 

「港にいたヒルダが出島に移動している! 彼女の動きを遮れ! クロードと合流させるな!」

「了解!」

 

 指示を受けてすぐドラゴンを向かわせる。ベレトの言葉を理解しているみたいに動くドラゴンは出島の前にある橋に向けて一直線に飛んだ。

 

 飛びながら港の内部に目を向けると、中団でリブローを使うドロテアとリンハルトが見えた。ヒルダの猛攻をアロイスとシャミアの協力で耐え抜くことができたのだ。

 戦場がベレトの作戦通りに動いているのを感じてエーデルガルトは笑みを深めた。流れは帝国に来ていることを実感して、勝利を予感する。

 

 今からベレトはクロードとの直接対決に入る。敵大将と一対一で向かい合う彼の邪魔は誰にもさせない。

 斧と手綱を握り直し、エーデルガルトは戦意を漲らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「むぐぅ……凌げたか」

 

 膝を付いたアロイスは小さく呟いた。盾越しの視界には遠ざかっていくヒルダの背中が見えて、彼女の猛攻が止んだことに安堵する。

 自分は守るべきものを守り抜くことができた。今度こそ彼の大切な人を守り通せたのだという充足感があった。

 

 黒鷲遊撃軍の中で、ベレトから守りを任された中団は被害軽微に済んでいる。ヒルダに踏み込まれたこの場で、盾役を担ったアロイスが鉄壁の構えを敷いて仲間を守り抜いたのだ。

 一斉突撃を仕掛けるゴネリル戦姫隊は恐ろしい脅威だったが、専守防衛に努めた帝国重装隊もさるもので、短時間ながらその攻撃を完全に防いでみせた。

 それは何よりも、ヒルダが振るうフライクーゲルの攻撃を全て受け止めて凌いだアロイスの防御力あっての功績と言えよう。

 

「ふふふ……このアロイス、一片の悔いな──じんっ!」

「アホなこと言ってないでしっかりしろ!」

 

 うずくまるアロイスの背中をシャミアが軽く蹴った。笑う余裕があるならシャキッとしろと喝を入れる。

 構えていた自分の盾に額をぶつけるアロイスの横でシャミアは追撃の矢を放った。

 

 ヒルダは明らかに目的を持って退いた。敵方の動きを見るに、ベレトが何らかの策を成功させて戦局を大きく動かし、それを誰よりも早く察知したヒルダが戦局に合わせて動いたのだ。

 彼女ほどの存在感のある戦力を自由にさせるわけにはいかない。立て続けに射かけるシャミアの矢が離れていくその背を襲う。

 

 しかし、追撃が来ることを読んでいたのか、フライクーゲルをかざして矢を防ぐヒルダは続けて両腕を振り回す。巨大斧が重さを感じさせない動きで軽々と振るわれ、英雄の遺産が纏うオーラが橙色の軌跡となってシャミアの矢から部隊を守り通した。

 結果、敵部隊はほとんど削られることなく離脱してしまった。

 

「ちっ、流石だな……」

 

 舌打ち一つで気持ちを切り替えてからシャミアは振り返る。

 

「リンハルト! アロイスを回復させろ!」

「はいはい、分かってますよ」

 

 言われる前から走り寄ったリンハルトがアロイスにライブをかける。戦闘が始まってから引っ切り無しにリブローを飛ばし、遊撃軍の回復役を担ってきた彼も額に汗を浮かべているが、回復魔法の魔力に陰りはない。

 ヒルダが退いたことで一時だけ空いた間を使い、シャミアは軽く弓の張りを確かめる。部隊の仲間から補充の矢を受け取る彼女にリンハルトは訊ねた。

 

「シャミアさん、この後は?」

「戦局が変わった。大方ベレトが上手いことやったんだろう。私は補佐に動く。他のところは任せていいな?」

「そうですね。前の方はこのままでいいと思いますよ」

 

 ライブの魔力を止めないまま前線に目を向けたリンハルトに見えるのは、突撃を仕掛けた遊撃軍の前衛の戦闘。カスパル達は今も変わらない調子で戦っており、同盟軍と渡り合っている。

 それどころかパルミラ軍のドラゴンナイトが減っていくにつれて、空中はペトラの飛行部隊の、地上はフェルディナントの騎馬部隊の働きによって同盟軍が押し返されていくようだった。

 

「アロイスを治したらお前達も上がってこい。背後に気を付けてな」

「うーん、すぐには動けませんね。ドロテアがまだ狙ってるので」

「そうか……私もそっちに行った方がいいか?」

「いや、シャミアさんは先生のところに行ってください。そっちの援護が優先です」

「了解だ。じゃあアロイスが治り次第、防御の陣を構えさせろ。最後まで気張れよ」

「はーい」

 

 相談を終えるとシャミアはすぐに動き出した。得意の狙撃でベレトを援護するために、最適なポジションを探しに行くのだ。

 

 離れていくシャミアからリンハルトは視線を移し、今度は近くで集中し続けるドロテアに目を向けた。先ほどから彼女はリブローの手間も惜しんで魔力を練っており、巨大な魔法陣を出現させている。

 それはある魔法を用いたベレトの作戦の一つだった。

 

「上手くやってよ。僕がフォローするの、嫌だからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海上にて、激突の火蓋を切ったのはクロード。

 

「行くぜ先生!」

 

 引き絞った弓矢が紋章の力を纏い、橙色のオーラを帯びる。そこから放たれた矢がベレトに向けて一直線に飛ぶ。

 文字通り真っ直ぐに、弧を描かず、衰えない威力で迫った。

 

 騎乗するドラゴンに回避を指示して間一髪でベレトは矢をかわす。大きく体勢を崩し、曲芸のように空中でローリングしてやっと元の飛行を続けた。

 弓矢の一射とは思えない軌道と威力、そして射程の長さに驚く。

 

(これがフェイルノートか……!)

 

 魔弓フェイルノート。番えた矢をオーラで包んで光弾と化し、担い手に風の加護を与える英雄の遺産。五年前に調べた時に概要は知ったが、実際に見ると想像以上に厄介なものだ。

 

 ベレトは弓についても人並み以上の腕前はある。今でこそ天帝の剣の印象が強い彼だが、戦闘に関わる技術はジェラルト達から一通り仕込まれており、傭兵時代は弓を持って遠距離攻撃する時もあった。

 だから分かる。クロードの腕前にフェイルノートの性能が加わった今、それがどれほどの脅威となるのか。

 

「ほらほら、どんどん行くぞ!」

 

 続けてクロードが弓を構えた。空に向けて山なりに、そこからドラゴンの滑空に合わせて今度は通常の一射で直接狙って射る。

 それに対し手綱を繰るベレトは天帝の剣を上に向けて伸ばした。前方から飛んでくる矢は回避、真上から迫る矢は蛇腹の刀身で弾いて防ぐ。

 

 事も無げに凌いだように見えるが、ベレトとしては際どく思うものだ。

 やはり組み合わせてきたかと考えるのはクロードの矢の撃ち方。彼の弓術の腕前を感じ取り、この戦いの厳しさを感じるのだった。

 

 普通、弓で飛ばす矢は弧を描く。重力と空気の抵抗を受けてしまう矢を的に届かせようとするなら、それが遠くなるほど山なりに曲がる軌道で撃たなくてはいけない。

 その応用として、今クロードがやったようにわざと空高く撃って時間差で上から相手を襲う曲射も可能だ。

 この弓矢本来の弧を描く二種類の撃ち方と、フェイルノートらしい直線軌道の撃ち方。合わせて三種類の矢がこちらを惑わせてくる。

 それはつまり、通常の弓使いと比べてクロードの攻撃パターンが五割増しだということだ。

 しかも自身はドラゴンで飛行しながら、さらに狙うのも同じくドラゴンで飛行するベレトという三次元に動く的。それでいながらこの精度の攻撃が可能。

 ここまでの短い攻防だけでも彼の実力を感じ取れるというもの。

 

 もちろんベレトも無策ではない。クロードの弓に対抗する手段は用意してある。

 取り出した物を装備して、その場で立ち上がって構えてみせた。

 

「……おいおい、何だそりゃ?」

 

 ベレトの姿を見たクロードは困惑を口にした。

 

 彼が取り出して天帝の剣とは逆の手に装備したのは鉄の盾。英雄の遺産などの特別な雰囲気は感じられない普通の防具だ。

 ここで持ち出すのが盾というのは守りを重視するベレトらしいのかもしれない。

 

 ただ、それ以上に気になるのがその姿勢だ。

 彼は立っているのだ。その場で。ドラゴンの背中で。

 

 弓を構えながら思わず首を傾げてしまうクロードの前で、今度はベレトの方から動き出す。

 

「頼むぞ」

GGOOORRYOOOO(仰せのままにー('◇')ゞ)!!」

 

 一声かけただけで意思を伝えたドラゴンが加速してクロードに迫る。

 

 呆けるつもりはないクロードもすぐに動き、ドラゴンを飛ばしながら続けて攻撃。

 一射、二射、三射と放つ矢がベレトを襲うも、彼は全てを防ぐ。

 ドラゴンに当たるものは天帝の剣を伸ばして弾き、自分に当たるものは盾を構え、

 

「ふん!」

 

 体を独楽のように回転させ、盾でいなすことで矢を防いでみせた。

 受け止めるのではなく、衝撃そのものを後ろへ流す。それはレア手ずから授かった大司教の武術による防御。

 それも、飛ぶドラゴンの背中で全身を振り回すように回転させるという、凄まじいバランス感覚が為せる技だった。

 

「マジかよ!?」

 

 これには流石に驚きを声に出すクロード。

 最初と違い、矢を回避せず本人の防御で凌ぐことでドラゴンの飛行を維持したベレトが急接近してくるのだ。

 たまらず旋回して距離を取ろうとするも、突っ込んでくる相手の方が速い。

 

 今度はこちらの番だと間合いに入ったと同時にベレトは魔力を解放。ファイアー、そしてサンダーと続けて魔法を放つ。

 そんなベレトの攻撃はクロードがかざしたフェイルノートの加護が遮る。ドラゴンごと彼を纏う風が渦巻き、横から迫るファイアーも上から落ちるサンダーもかき消してしまった。

 

(あれがフェイルノートの守り……もっと強い攻撃で直接叩かないと無理か)

 

 観察できたベレトが思案する間に素早く旋回したクロードは、今度は彼の後ろを狙う。

 驚かされはしても主導権は渡さないと攻める手を緩めない。

 

(読めてるぜ先生。今のあんたは怖くない)

 

 ここまでのベレトの動きを見るに、彼は飛行術の腕自体はそこまでではない。

 こうしてドラゴンに騎乗して戦いに臨むからには相応の自信はあるのだろう。だが空中と地上では動き方が全く違う。彼自体がどんなに機敏に動ける戦士でも、空中でそれがそのまま通用することにはならない。

 ベレトがドラゴンに頼るのは、エーデルガルトやペトラのように飛行術に長けているからではない。彼が得た神祖の加護の影響でドラゴン達が不思議なほど言うことを聞いてくれるからだ。

 ドラゴンに乗りながらドラゴンに頼ることなく、自前の防御でフェイルノートの矢を凌いだ先ほどの動きからそれが読み取れた。

 

 クロードの目算は当たっており、空中戦を繰り広げる両者のどちらが優勢かは少し見れば分かるものだった。

 ベレトの飛行は直線的だ。上昇、下降、旋回の指示にドラゴンはきちんと応えてくれるが、寸前に僅かな間が生まれる。どうしても生まれるその小さな間は、戦場では見逃せない遅れとなって積み重なっていく。

 対してクロードの飛行は変化に富む。彼の意思にドラゴンは即座に応じ、騎乗者のイメージを損なうことなく動いてみせる。宙返りからの旋回、滑空状態から一段高さを落として再び滑空、まさに人竜一体と呼ぶに相応しい動き。

 空中の機動力は明らかにクロードに分があった。

 

 一分も経たない内にベレトの背後を取ったクロードは余裕を持って狙いを定める。後ろから飛んでくる矢に、ベレトは防戦一方だ。

 

VOVO、RRU(ヤバいっす(゚Д゚;))!」

「……上へ!」

GYAAUUU(はいー(;゚ω゚))!」

 

 飛んでくる矢を弾きながらベレトは短く指示を出す。焦るような声を上げてドラゴンは急上昇していき、それを追うクロードが下に着く形になった。

 

 器用に足首を鞍に引っかけて立ったままの体勢を維持するベレトを見上げ、クロードは不敵に笑う。そんなことで凌げると思ったか。

 

「上を取ればイケると思ったか? 甘いな先生!」

 

 背中を狙えるこの位置取りを逃しはしないと、追いかけるためにクロードも急上昇を指示。すぐに応じたドラゴンがベレトの後を追い──度肝を抜かれた。

 

 ふいっと、自然な動きでドラゴンから離れたベレトが宙に身を投げ出した。脱力した体が何もない空中へ倒れ、重力に従い落下を始める。

 まるで高所から自殺でもするかの如く、体一つで飛び出したのだ。

 

「いい゙!?」

 

 目を剥いても体は反応し、ドラゴンへ回避を指示。同時にクロードが射たフェイルノートの矢が真上から迫るベレトへ飛ぶ。

 その矢を、またしても全身を独楽のように振り回したベレトが盾で後ろに流す。勢いを緩めることなく重力落下のエネルギーに回転を加えた速度で繰り出されるのは、さながら断頭台の如き回し蹴り。

 

 咄嗟に身を屈めたクロードの肩を掠め、ドラゴンの回避が間に合って二人の衝突は避けられた。

 行き違いになったベレトがそのまま海へ落下してしまうのかと目を向ければ、彼は既に後ろ手で天帝の剣を伸ばしており、上から追いかけてきた自分のドラゴンの首に絡ませて事なきを得ていた。

 

 いや、事なきというわけにはいかなかった。

 かなりの速度が出ていたベレトが落下を止めるには同じくらい力が必要で、首にワイヤーを巻かれたドラゴンが何度も羽ばたいて少しずつ減速していき、海面スレスレまで下がってようやく止まることができたようだ。

 

VGRU、RRYYAOOUU(神よ、今のはアカンですわ(´皿`;))

「すまない……飛べ!」

VVOOORR(あーれー(;´Д`))!」

 

 逆に上を取ったクロードから追撃の矢を射られ、盾で防ぐベレトが飛行を命じる。ドラゴンがどこか悲痛な声を上げながら、慌てたように羽ばたいで再び飛んだ。

 

 とんでもないやり方で攻撃してきたベレトを見下ろしてクロードは声を張る。

 

「い、今のは驚かされたぜ先生! だが二度は通じないぞ!」

 

 暴れる心臓をなだめすかして冷静さを保つ。捨て身と言ってもおかしくない攻撃でも、使いどころを間違えなければとてつもない脅威だと改めて教えられた気分だ。

 

 それでも、と思いを深める。今の状況は間違いなく自分が押しているとクロードははっきり認識できた。

 意表を突かれた今の攻撃も結局は不発に終わっている。ベレトがどんな策を持ち出そうが、こちらに届かなければ意味はない。

 そう、今この時において、クロードはベレトを上回っているのだ。

 

 ベレトと戦う時、彼に自由な行動を許してはいけない。彼の能力の中でもとりわけ脅威となる機動力。そのスピードを活かした高速戦闘に持ち込まれては勝ち目がないのだから。

 空中戦を挑めばベレトは高確率で応じると予想できた。しかし彼の天帝の剣を用いた立体機動はフォドラでは無二の力であり、同じ土俵では勝負にならないだろう。

 

 だからこそ、この地で戦いたかった。

 水の都デアドラ。海上に誘い出してしまえば、踏み締める大地も、頼りにできる高所もない、完全な空中戦。ベレトの立体機動を封じ、対等なドラゴンの飛行術による移動しかできない。

 そして遮蔽物が一切ない空中戦に限定してしまえば、弓矢の方が魔法よりも速く、フェイルノートの方が天帝の剣よりも強い。

 これぞ、クロードが考案した対ベレト専用の策。

 クロードは帝国との戦いを有利にしたかったのではない。ベレトとの戦いを有利にしたかったのだ。

 

 あのベレトを戦場で上回り、自分の策で追い込んでいる。盤上遊戯ではない、実戦での勝利に近付く実感がクロードの背中を押す。

 

(だからもう)

 

 フェイルノートを引き絞り、最大限に力を込める。

 

(早く終わってくれ)

 

 リーガンの紋章から力が注がれ、矢が纏う光が一層強くなる。

 繰り出されるのは紋章一致の専用戦技。英雄の遺産の真骨頂。

 

「──落星!」

 

 光線が空を裂いた。

 フェイルノートから放たれたのは矢ではなく一条の光。レーザーの如く奔るそれは文字通り閃光の速さでベレトを襲った。

 

 その閃光を、ベレトは神懸かりとも言うべき対応で防いだ。

 クロードから向けられる殺気、フェイルノートの光、弓矢の向き。数々の要因を材料に完璧なタイミングで全身を回転、振り回した盾で迎撃してみせる。

 しかしながらそれまでの攻撃とは一線を画す威力の光線は、防げてもただでは済まず、一撃で盾を破損させた上にベレトの腕にも大きなダメージを与えた。

 

 腕を捩じ切られそうな衝撃を受け、落ちそうになる体を支えようと咄嗟に天帝の剣をドラゴンに巻き付けて姿勢を直す。ドラゴンも「GOOORR(あひー(;・∀・))」と鳴いて衝撃に揺さぶられた体勢を慌てて正した。

 予備の盾を取り出して、強く痺れる腕に着けながらベレトは思う。今のは何度も受け切れない。まともに当たれば一撃で沈む。次に撃たれる前に終わらせなければ。

 

 一方その頃、出島で。

 

 黒鷲遊撃軍の前衛をすり抜けたヒルダが港の北に向かって急ぎ、出島と港を繋ぐ橋に辿り着いたちょうどその時にエーデルガルトとかち合った。

 戦場である地上を走ってきたヒルダの足の速さにエーデルガルトは驚き、ヒルダもここで現れたエーデルガルトの動きに驚いた。

 

 それでも、ヒルダは出島に行くこと、エーデルガルトはそれを阻止すること、互いの目的がぶつかるものだと一瞬で察し、二人は同時に斧を振るった。

 

「んもー、こんなところでー!」

「行かせないわ!」

 

 フライクーゲルと銀の斧がぶつかり、強大な衝撃が響く。ドラゴンからの振り下ろしを真っ向から弾くヒルダの剛腕に、エーデルガルトは何としても彼女を阻むと気合いを新たにした。

 しかし、ヒルダの方はエーデルガルトのことをほとんど気にしてなかった。何を差し置いてでもクロードの下へ駆けつけなくてはという焦りが頭を占めていたのだ。

 

 盟主として同盟を率いる立場にいながら、クロードの周りは敵が多い。隙あらば彼の足を引っ張ろうとする貴族や商人のことは、政治に苦手意識があるヒルダでもよく知っている。

 そんな人も含めて同盟を切り盛りするクロードに、せめて自分達金鹿の同期は仲間でいてやらねばと決めていた。こうして戦場に出ても仲間と一緒に力を合わせて戦うのだと。

 

 なのに、一人で先生のとこに突っ走るなんて!──クロードが単独で戦い始めたことに、ヒルダはどうしても苛立ってしまった。

 口でどう言おうと、クロードがベレトに拘っているのは分かっていた。冷静に立ち回れる彼が珍しく意識してしまう人。

 そんなの私達だって同じだよ、と心の中で呟く。

 ベレトが戦局を変え得る存在なのは知っているのだ。だからこそ立ち向かう時は仲間と一緒に戦うと決めていたのに。

 たった一人で戦い始めてしまったクロードが心配で、一秒でも早く馳せ参じなければとヒルダは焦りが治まらない。

 

「そこどいてよ──劫火!!」

 

 腰だめに構えたフライクーゲルに力を注ぎ、紋章一致の戦技を振り上げる。炎を帯びる巨大斧が再び銀の斧とぶつかり、今度は押し返した。

 その一撃はエーデルガルトの斧を破損させたばかりか、吹き上がった炎のオーラが彼女のドラゴンにも大きなダメージを与えた。

 

「くぁっ!?」

GYUUOOO(あばーΣ(・□・;))!?」

 

 墜落するドラゴンから転がり落ちたエーデルガルトは辛うじて受け身を取り、刃が砕けて柄だけになった斧の成れの果てを手に構え直す。

 そこはもう出島で、僅かな時間で橋を渡ったこの場まで押し込まれてしまったのかと、ヒルダの進撃を許したことに歯噛みした。

 

「どいてって言ってるでしょ!」

「させないと言ってるのよ!」

 

 柄だけを手に、あえて前へ前へと斧の間合いの内側に踏み込んでエーデルガルトは攻撃を捌く。武器を壊されてもまるで衰えない戦意にヒルダは怯みそうになるが、負けじとさらに出島の先へと押し込んでいく。

 二人の戦いは確実に海に近付いていた。

 

 そのエーデルガルトとヒルダの戦いは、空中のベレトにも見えていた。

 

 矢を凌ぎながら、近くの出島にまで来ているエーデルガルトを援護しなければと考えるが、今の自分に取れる手段は少ない。

 クロードの相手をしながら、エーデルガルトを助け、どちらの戦いにも勝つ。そのような都合のいい策が即興で立てられるのか。

 

(……よし)

 

 思考は一瞬。

 その選択をすることにベレトは何の躊躇いもなかった。

 

 ドラゴンを飛ばすベレトを、同じドラゴンでも彼にはできない一層複雑な軌道で飛びながら矢を放ち、クロードは追い詰めていく。変わらない回転防御で矢を防ぐベレトは、反撃の糸口を掴めない。

 

「どうした先生、よそ見は寂しいな!」

 

 当然クロードもヒルダが近付いていることは見えており、ベレトとエーデルガルトを合流させまいと飛行を調整する。出島とベレトの間を飛ぶようにして、二人を近付けないように動く。

 その動きがベレトの欲したものだった。

 

 自分を遮るように立ち回るクロードに向けて、ベレトは大きく振りかぶった天帝の剣を伸ばす。伸びていくワイヤーと剣先が襲うも、クロードは事も無げにドラゴンを操りかわしてみせた。

 

「当たるかよ!」

 

 そんな大振りの攻撃など遅いと言わんばかりに悠々と回避して、逆に大きく隙を見せたベレトを狙う。

 ところが続くクロードのその一射を、ベレトは跳躍で避けた。ドラゴンの背中から飛び出して、再び足場のない空中へ。

 

 何をやっているのかと目で追うクロードを余所に、天帝の剣はまだ伸びる。回避されたその向こう、出島で戦うエーデルガルトの下まで。

 

「エーデルガルト!!」

 

 ベレトの強い呼びかけに、ヒルダの腹部を蹴飛ばして距離を取ったエーデルガルトは空を仰ぐ。その眼前に迫るのは天帝の剣の切っ先。

 刹那、その場にいた者の間でまさかの攻撃が行われたことに対する驚愕が走る。

 

 ただ一人、エーデルガルトを除いて。

 

 天帝の剣。

 戦いの最中。

 私に向けられた切っ先。

 

(違う!)

 

 師は私を攻撃しない。

 師が剣を伸ばした。

 師の行動。

 

(師は大丈夫って言った!)

 

 この剣は私を攻撃するものではない。

 この剣は私を助けるもの。

 この剣は私の味方。

 

(師はいつも私を助けてくれる!)

 

 目の前に来た天帝の剣の切っ先へエーデルガルトは疑うことなく手を伸ばす。ベレトの意思に従う剣先は、その手にグルリとワイヤーを巻き付かせた。

 

「ぶん回せえええええ!!!」

「っ、わああああああああ!!!」

 

 思考よりも早く体が動く。ベレトの指示した通り、ワイヤーを両手で掴んだエーデルガルトは全身の力を使って()()()()()()()()()()()()()()()

 それはあえて言葉で表現するなら、ベレト側を先端にしてエーデルガルト側を持ち手とする鎖分銅をイメージする構図である。

 もちろん実際はそんな生易しいものではない。怪力を遺憾なく発揮して振るわれることでドラゴンの飛行を遥かに超える速度を叩き出し、成人男性の重量が超高速で飛来する威力は、英雄の遺産に勝るとも劣らない一種の災害。

 

「ふっざけ……!」

 

 エーデルガルトに振り回され、自分に向かってくるベレトを見て悪態混じりに弓を向けようとしたクロードだが、迎撃のために番えた矢が真横から弾かれた。

 まさかの横槍に動きが止まり、ベレトの前で大きな隙を晒してしまう。

 

 それはこの場から遥か遠く、常人の視界には豆粒のようにしか映らない距離から行われた狙撃。

 パルミラ軍の飛行兵による脅威がなくなった戦場で遠慮なく高所に陣取り、充分な余裕を持って敵を狙えるようになったシャミアが撃った超々遠距離精密射撃だった。

 

 そんなことが分かるはずもなく、晒してしまった隙だらけの姿にベレトが迫る。

 

「クロードおおおお!!!」

「う、おおおおお!?」

 

 回避も間に合わないと判断したクロードは反射的に前方へ腕をかざす。その守りを意に介さず、ベレトの飛び蹴りがその胴体に叩き込まれた。

 ドラゴンの背中からクロードはベレトと一塊となって、慣性をほとんど落とさないまま真横に飛ばされる。

 滑空から墜落へ移る二人は海上から港へ飛び、倉庫街のど真ん中へ隕石の如く落とされた。大きな倉庫の壁も薄紙のように突き破り、甚大な衝撃と轟音をもたらして倉庫を倒壊させたのである。

 

 その様を出島で見送ったエーデルガルトの手からバチンとワイヤーが外れて元に戻る。一瞬で刀身に納まり、彼女の足元に天帝の剣として転がった。

 エーデルガルトには分かった。これはベレトの援護だ。武器を壊されて窮地に陥った自分を助けるために彼は武器を寄こしてくれたのだ。

 またも思考するより早く剣を拾って駆け出す。彼の助けを無駄にしないために。

 

「クロード君! ……しまっ」

「遅い!!」

 

 港へと蹴り飛ばされたクロードを案じて視線を奪われたヒルダはどうしても反応が遅れる。反射的に振るわれたフライクーゲルを極端に体を沈めて回避したエーデルガルトは素早く二度剣を振った。

 腕と脚。二度の斬撃で傷付けられたヒルダはもう今までのように戦えない。踏み込みのための足は利かず、斧を両手で振ることもできなくなった彼女は脅威ではない。

 

 よって、ヒルダを無視してエーデルガルトは走り出した。

 奇しくもそれは先ほどのヒルダと似て、目の前の戦闘を二の次にしてでも彼の下へ辿り着かなくてはという意識。

 

「師ー!!」

 

 不思議なほど頭が巡り、飛ぶように体が動くあの感覚はもうなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ずっと不思議に思っていたんですよね」

 

 不意にリシテアが言葉に出す。

 杖と剣を油断なく構えながら、視線は険しく、魔力も練りつつ。

 

 目の前の相手を、信じられない思いで見つめて。

 

「闇魔法はフォドラに存在しても使える人は限られます。その素質を持つ者は非常に少ない。専用の兵種装備があれば初級なら使えますが、精々そこまでです」

 

 語り掛けるのは今まさに戦う相手のヒューベルト。

 

 肩で息をする彼に対して、リシテアはまだまだ余裕がある。

 魔力も体力も、ダメージも少ない自分が客観的に見ても優勢と言える状況。

 それでも彼女の心は張り裂けそうな緊張に満ちていた。

 

「なのに、どうして……あんたがそんなに強力な闇魔法を使えるのか。どこでそれを覚えたのか」

 

 士官学校にいた時からリシテアは疑問だった。

 自分以外に使う人などそうそういないと思っていた闇魔法。それを何故、皇女エーデルガルトの従者であるヒューベルトが使えるのか。

 

 普通、皇族の側近ともなればあらゆる面に気を遣って選ばれるものだ。出自はもちろん、能力や振る舞いだって相応しいものが求められる。

 その中には身に付けた技も考慮される。皇族に仕える者に相応しい力の持ち主か、多くの人の目に適う人物か。

 闇魔法という目に見えて忌まわしく暗い技を操る人物が、皇女の従者に選ばれるだろうか。

 

 ベストラ家が代々皇家フレスベルグ一族を支える家系だから、という事情は理由としては弱い。

 アドラステア帝国という古くから続く国は、古いからこそ伝統を、そして対外的な体裁を重んじる。もっと言ってしまえば『見てくれ』を重視する。

 仕えさせる者を選ぶなら、それこそ選り取り見取りだろう。皇女の傍にいさせても見劣りしない人物が他に誰も見つからなかったとは考えにくい。

 

 ましてやエーデルガルトは、政変以降に残ったただ一人の皇位継承者。その従者なら厳正に厳正を重ねて選ばれるはず。

 いずれ皇帝になる者の傍に、後ろ暗く見える人間を付けるだろうか。

 

 そうやって疑っていたヒューベルトが今し方使ったものが、リシテアの疑問を思わぬ形で晴らすことになる。

 

「ですが……わたしは知っています。後天的に闇の力を身に付ける手段を」

「おやおや……そのような手段が。はてさて、一体どのような……」

「惚けないで。あんたも受けたんでしょう、あのおぞましい肉体改造を……!」

 

 氷槍──ヒューベルトが披露した槍術。

 黒魔法に初球の氷魔法ブリザー、上級のフィンブルがあるように、魔力で氷を生み出すことはできるので、彼の氷槍はその応用なのだと察せられる。

 【魔刃】という格上への対抗手段として切ったその札は、彼の素質なくしては成立しない技なのだとリシテアは見抜いた。

 

 魔法とは一人一人で適性が違う。ベレトの魔法のように火と雷という二種類の属性を併用することはあっても、生まれつき備わった属性が後から変わることは本来ありえない。

 メイジやダークメイジなどの兵種装備による補正で適性外の魔法を使えることはあるものの、発動できるのは基本となる初級魔法が精々。

 その属性の中でも、闇は特殊だ。原則として闇魔法を操る者が他の属性の魔法を使うことはできない。リシテア自身がそうであるように、闇は闇以外に染まらない。

 

 恐らく、ヒューベルトの元々の適性は氷。派生しても風か雷。闇ではない。

 そのヒューベルトが魔法では闇を操り、槍術には氷の魔力を組み合わせる。

 体質的に合う氷の魔力を戦技に取り入れながら、思考して放つ魔法は闇のもの。

 

 そんなこと、自然なものでは絶対にありえない。

 自然なものではなく、人為的な処置を施されて手に入れた力。

 

「あんたも、あの組織に狂わされたんですね。体も、運命も……!」

 

 リシテアは知っている。この世には、人間の体を切って、弄って、改造して、自然ならざるものへと作り変える外法の技があることを。

 そうして自分の人生を歪めた謎の組織が帝国にいることを。

 

 組織から支援を受けているであろうエーデルガルトになら、闇魔法を使うヒューベルトが仕えても違和感は握り潰せる。組織の息がかかっている者が皇女の傍にいれば都合が良いから。

 帝国を裏から操る組織がエーデルガルトもヒューベルトも食い潰そうとしているのではないか。そう思い至ったリシテアは思わず戦いの手を止めてしまったのだ。

 

 そこまで考察を進めるリシテアの前でヒューベルトは静かに笑った。

 

「まったく……実に聡明で察しが良い。しかし根本が違えば結論も違います」

 

 槍を支えにして立つ彼は足元が怪しいが、眼光は未だ鋭く、その戦意は些かも揺らいでいない。

 リシテアとの戦いでは間合いの変化を活かして守りを主体に立ち回り、それでいて自分から攻撃を小まめに挟むことで相手に主導権を譲らず、遅滞戦闘を徹底した。

 攻撃的な防御に終始することでリシテアをこの場から動かさないという彼の勝利目標を貫き続けていた。

 

「貴殿が察した組織の魔手は、帝国内ではフレスベルグ家に及んだもの……我が主を襲った変化に比べれば、私の得たものなど些細なものですよ」

「エーデルガルトに? では彼女が戦争に踏み切ったのは組織の──」

「いいえ。エーデルガルト様の覇道はあの方が自ら決意して歩まれるもの。余人の口出しがあるなどと、邪推されるだけでも侮辱と見なします」

「……」

「主のその覚悟に心酔したからこそ、私はエーデルガルト様に全身全霊を捧げるのです。そうして得た力を哀れまれるとは心外もいいところですな」

 

 根本が違えば結論も違う。

 私の得たもの。

 全身全霊を捧げる。

 ヒューベルトが言ったことが自分の考察への返答だと理解したリシテアは、さらに進めた考えに総毛立つ。

 

「まさか、あんた……自分で自分を改造したんですか!? 力を得るために!」

「くっくっく……力を求める者が力を前にして、手を伸ばさない理由などありますまい。生憎と我が身可愛さに怯える性根など持ち合わせておりませんので」

 

 組織から施されて得た力ではない。自ら組織に食らいついてもぎ取った力なのだと言ってのけるヒューベルトの笑みが壮絶なものに思えて、リシテアは知らず知らずの内に後退った。

 

 何ということか!

 ヒューベルトはあの組織に自分から近付き、その力を利用することでエーデルガルトを支えてきたと言っているのだ!

 

 組織の恐ろしさをリシテアは身を以て知っている。

 貴族であるコーデリア家に裏から手を回し、一族を陥れ、領地を乱してしまう影響力。それでいて足取りは掴ませない暗躍ぶり。

 そして何よりも、リシテアを二つの紋章を持つ特殊な体へ改造した外法の集団。

 二つの紋章を宿したことで歪んだ肉体になり、髪の色は変わり、長く生きられない身になったリシテアの心には組織への怒りと恐怖が深く刻まれている。

 

 その組織へ自分から近付いた?

 あまつさえ自ら肉体改造を施した?

 

 全てはエーデルガルトのために──それほどの覚悟を抱くヒューベルトを前に身震いする。

 凄絶という言葉でも足りないであろう覚悟を示す彼に対して、思わず自分と比べてリシテアは気圧されてしまった。

 

 戦いでは間違いなく押しているはずなのに、はたして自分は彼に勝てるのかと自問してしまう。そう思わせるくらいの気迫をヒューベルトから感じた。

 そんな思考が隙となって、割り込む余地を与えてしまったのだろうか。

 

 轟音。そして破砕。

 突如、港の倉庫街の一角にまるで雷でも落ちたかのような爆音が轟き、中心の建物が倒壊していく様子がここからでも見えた。

 それが海上から飛んだベレトとクロードが倉庫に墜落した音だとは、ここで戦っていたリシテアが知る由もないこと。

 

(何事!?)

 

 ヒューベルト相手の戦いによそ見は禁物だと頭では分かっていても、戦場で起こる異常にはどうしても反応してしまった。意識の一部がそちらに向き、体が緊張する。

 それでも即座に集中を戻したリシテアは流石と言うべき才媛である。槍を構え直すヒューベルトの次の動きを見逃さないように目を凝らす。

 だからこそ気付くのが少しだけ遅れた。

 

 彼の槍よりも遥かに大きな魔力が上空に、自分の真上に現れたことに気付いた時にはもう遅かったのだ。

 跳ね上げた視界に映るのは炎を纏う巨大な隕石。敵の大魔法による攻撃だった。

 

「メティオ!? ドロテアですか!」

 

 帝国軍の厄介な切札になるであろう超遠距離攻撃魔法。かつて鷲獅子戦で流れを決定付けた要因の一つが今、リシテアに向けられていた。

 すぐ近くに遊撃軍の味方がいる状況でまさかこんな攻撃をしてくるとは思いも寄らず、愕然とするリシテアが下へと戻した視線で捉えたのは敵の作戦の全容。

 

 ヒューベルトが取った次の動きは攻撃ではなく防御。

 構えた槍の先端から、穂先を長く伸ばす今までの氷槍とは違い、横に大きく広げていく。それが氷の壁となり、リシテアとの間を遮る障壁となっていく。

 背後の部隊ごと守ろうとする動きは、この流れが計算された作戦であると物語っていた。

 リシテアをこの場に留めること。彼女とある程度渡り合えること。機を見て諸共メティオで攻撃すること。余波は自力で防ぐこと。

 ヒューベルトの実力。ドロテアの魔法。どちらが欠けても成り立たない作戦。

 ベレトが考えたであろう作戦を読んだリシテアは、しかし怯む様子はない。

 

 舐めるな──魔力を高めながら隕石を睨む。

 不意打ちされようと、味方も巻き込む作戦だろうと、こと魔法において自分が後れを取ることはないのだと。

 

 炎の熱まで感じられそうなくらいに迫った隕石に向けて、リシテアは渾身の魔法を撃ち放つ。

 

「──ハデスΩ×4!!」

 

 闇の上級魔法。一発で部隊ごと叩き潰すそれの4倍。【魔刃】の名に相応しい極大の魔法が空に向けて放たれた。

 吹き上がる四条の闇の奔流が巨大な柱となって隕石に叩きつけられる。ぶつかるそれぞれの余波が爆風となって広場に吹き荒れた。

 

 落下の勢いも乗せて完全に威力を発揮できるメティオに対して、発動から間もない接触のせいで収束が不充分なハデスΩ。遅れがある分、どうしてもリシテアの方が不利になる。

 それでも魔力に物を言わせて隕石を押し返す。

 

「ううぅ、ぁぁああああああ!!!」 

 

 全力全開の魔法。リシテアもここまでの魔力は展開したことがない。充分な溜がないまま大魔法を行使したせいか、体に痛みが走る。

 無茶だと考える余裕もなく、ひたすら魔力を捻り出して闇の柱を支えた。

 

 そして彼女は押し切った。吹き上がる闇が隕石を押し上げ、炎ごと巻き込む大爆発でメティオを相殺。天を揺るがす轟音がハデスΩの勝利を証明した。

 

 くは、と思わず止めていた息を吐く。この一瞬でごっそり魔力を消耗したせいで頭がクラクラしそうだった。

 しかし今のはメティオを防いだだけ。戦いが終わったわけではない。ドロテアの行動も気になるが、先にヒューベルトの動きに注意して──

 そこまで考えたところでリシテアはゾッとした。今、自分は完全にヒューベルトのことを忘れていた。メティオの相殺に集中していたから仕方ないかもしれないが、戦いの最中に相手から意識を逸らすとは。

 

 未だ爆風の鳴動が鎮まらない広場。敵が氷壁を張った方に目を向け……ようとして背後へ魔法剣を振るう。感じた殺気へ、頼みとする力を自負を込めて。

 風を裂いた剣が甲高い音を立てて斬ったのはヒューベルトの槍。もう背後に回り込んだのか、それでも迎撃してやったぞと思いきや、彼の逆の手に凝る魔力を見て顔を歪める。

 斬った槍は何の魔力も通していない、言わばただの棒。本命はヒューベルトの魔法か。

 

 至近距離で彼が放ったのはスライムΒ。粘性を帯びた闇の魔力がリシテアにぶつけられ、さらに勢いのままヒューベルトに腕を取られる。

 ダメージは少なくてもスライムに動きを邪魔されて防御の姿勢を取れなかったリシテアはまんまと右腕を極められて──ボキッ──骨を折られてしまった。

 

「ああっ……!」

「ようやく取りましたよ、この一瞬を!」

 

 密着され、純粋な体格勝負に持ち込まれてしまえばリシテアに勝ち目はなかった。

 うつ伏せに抑え込まれ、左手に持っていたテュルソスの杖をヒューベルトに蹴り飛ばされて放してしまう。

 

「詰みですな。こうなってしまえば貴殿にできることはありません」

「くっ……あんた、よくわたしに近付けましたね……あの爆風の中、自分だって潰されるかもしれなかったのに……」

「そこは貴殿のおかげでしょう」

「……はぁ?」

「先生からも、そして我が主からも、貴殿は実に高く評価されておりますのでね」

 

 全ては掴めるくらい接近するため。

 ヒューベルトの氷槍を用いた奮闘、ドロテアのメティオによる奇襲、そしてそれら全てを凌駕して耐え抜くと信じられたリシテアの実力が、この一瞬を作るという作戦を生み出したのだ。

 張り詰めた空気の中、強大な力を出して場を乗り切ったことで生まれるたった一瞬の空白。この一連の流れがヒューベルトに託されたベレトの策だったのである。

 

 ここに至ってしまえばリシテアにはどうすることもできない。

 全身から魔法を撃てると言っても魔力の運用は変わらない。腕を折られた激痛があろうと魔法は使えるが、いつもと同じ速さはとてもじゃないが望めない。

 足でリシテアを抑えながら油断なく腕を構え、既に次の闇魔法を撃つために魔力を集中させているヒューベルトにはどうやっても後れを取る。

 

 しかし、それでも。

 

「わたしにはまだ、やるべきことがある……こんなところで終わるわけには……!」

 

 領地に今も生きている両親に恩を返す。自分に残された寿命を懸けた目的を果たすまでは死んでも死にきれない。

 こうなれば折られた腕で無理やりにでも剣を振って──危うい決意を固めるリシテアだが、そんな彼女の背中から足を離したヒューベルトは彼らしからぬことを言う。

 

「早まりなさるなリシテア殿。貴殿の願いはまだ続けられます」

「……どうしたんですか急に。止めを刺さないなんて、らしくない」

 

 変わらず魔力を腕に維持したままのヒューベルトを見上げ、少なくとも彼が油断しているわけではないと分かったリシテアは憮然とした声音で訊ねる。

 

「訝しむ気持ちも分かりますが、私は純粋に帝国の勝利と、エーデルガルト様の理想の実現を支える所存です。そのためには貴殿の存在も重要なのですよ」

「本当にらしくないですね……あんたなら、将来の不安要素を残すくらいならここで始末してしまえばいい、くらいは考えそうだと思いましたけど」

「くくくっ、そこは先生に感謝するといいでしょう。彼の言葉によって我が主の願いが変わり、覇道の行く末も変わったのですから」

「余人の口出しは侮辱じゃなかったんですか?」

「エーデルガルト様が先生をどれほど慕っているかは貴殿もご存知でしょう。私としては思うところも多少はありますが……まあ、何事も例外はあるということで」

「……あんたも苦労してますね」

「お気遣いどうも……それで、リシテア殿。如何されますか?」

 

 話しながらゆっくり体を起こすリシテアに、ヒューベルトは悠然と問いかけた。

 

「この状況に至って尚も戦闘続行に踏み切るのはそれこそ、貴殿らしくない、というものでは?」

 

 絶体絶命のところまで追い詰められ、その上で生き延びる道を示され、目的を果たす余地があるのだと教えられて、それでも意地を張って戦い続けるか?

 ともすれば嘲笑にも聞こえる声色で問うヒューベルト。それを聞いた時点でリシテアの中で答えはもう決まっていた。

 

 元より、そのために生きてきた身。安っぽいプライドに身を委ねて自ら滅ぶより、生き汚くても命を繋ぐ方がヒューベルトの言うように自分らしいというもの。

 エーデルガルトが何を目指しているのかは会談を通じて知ることができた。荒療治でも最短の道を進もうとして起こした戦争なら、納得はできる。相変わらず組織と通じている疑惑はあるが……そこは今後、生き延びれば帝国の懐に近付いて調べることもできよう。

 少なくとも、賭けてみる価値はある。

 何より、彼女が道を踏み外しそうになっても、きっと先生が止めてくれるから。

 

「……いいでしょう。降伏します、わたしの負けです」

「賢明な判断に感謝します。此度の決戦も、じきに終わるでしょう」

 

 緊張も解いたリシテアが首を垂れるのを認め、戦意のなさを感じたヒューベルトは溜めた魔力を霧散させた。次いで戦場に視線を巡らせる。

 メティオ破壊の爆風が落ち着いてきた広場も、その向こうに見える倉庫街も、戦闘の音は先ほどより鎮まっている。遊撃軍の前衛は各所で勝つことができたようだ。

 

(リシテア殿は……ふむ、リンハルト殿にでも任せますか)

 

 捕虜の扱いは仲間に丸投げすることに決めて、一足早く戦後処理のために動くべくヒューベルトは部下に呼びかけて動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ていた。

 ベレトが金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)の担任として士官学校に就任して、大樹の節から自分の先生になった。学校で起こった数々の事件を解決させ、課題をこなし、仲を深めていった。挙兵した帝国と戦う直前に彼ときょうだいの絆を結び、五年後の大修道院で約束の再会を果たした彼と力を合わせて世界を夜明けに導いていく……

 そんな内容だった、ような気がする。

 

 霞のかかった意識が戻るにつれて現実に帰ってくる。

 

 実際はそんなことにはなっていない。ベレトは黒鷲の学級(アドラークラッセ)の担任で、対抗戦でも鷲獅子戦でも敵対して、幸運にも彼の授業を受けられるようになったのはその後。打算も含めてきょうだいの絆を結んでもベレトはエーデルガルトの味方をして帝国についてしまって、自分とは戦うことに……

 ああそうだ。今まさに戦っていたところじゃないか。

 

 ようやく直前のことに思い至ったクロードは記憶を探る。さっきまで自分は何をしていた?

 

 同盟と帝国の決戦。

 有利に始められた。

 ベレトの戦術で状況が覆った。

 出島から海上に出て彼と戦闘開始。

 策がハマって優位に立てていた。

 途中で近付いた出島でヒルダがエーデルガルトを追い込んでいて。

 ベレトが伸ばした天帝の剣がエーデルガルトに届いて。

 いきなりエーデルガルトが伸びたワイヤーでベレトの体を振り回して。

 突っ込んでくるベレトに撃とうとした矢は横から邪魔されて。

 ベレトの飛び蹴りをモロに食らって。

 ぶつかった彼ごと真横にかっ飛んで。

 そこから……

 

「起き、たかっ、クロード」

 

 聞こえた声で、耳から頭が一気に覚醒していく。

 まったく、ずるいきょうだいだ。あんたに振り回されるこっちの身になってくれ。隣で一緒に夜明けの景色を見る。そんな俺の野望が、声を聞くだけで浮かび上がって困るってのに。

 頭に湧くイメージに思わず苦笑が漏れる。腹筋が引きつり、激痛が走った。痛みに滲みそうになる目をゆっくりと開く。

 

 最初に、仰向けに倒れた自分を認識する。あちこちが傷だらけで、体を少し動かしただけで骨まで痺れるような痛みが響く。それでも瓦礫に埋まった下半身に感覚はあるので脚が千切れたりはしていないようだ。腕も両方とも繋がっているし、ありがたいことに折れてもいない。右手はフェイルノートを握ったままで、左手で探った腰元の矢筒にはまだ何本か矢が残っているし、何とか弓は引けそうだ。

 最悪一歩手前みたいな状態であることを確認する内に疑問が湧く。

 すぐ近くからベレトの声がしたが、今どんな状況だろう?

 

(先生はどこだ……?)

 

 そうして徐々に明らかになる視界で声がした方を見上げ、絶句した。

 目の前にベレトがいたからだ。

 

 彼が立っていた。こちらに負けず劣らず傷だらけで、巨大な壁を文字通りその身に背負って。

 いったいどれほど大きな壁か、ここからでは見当がつかない。クロードの周りが眩しくない程度に暗いのは、その壁が作る影の中だからか。

 そこでようやく思い出した。ベレトの飛び蹴りを食らって、彼ごと真横に飛ばされた自分達が港の倉庫に突っ込んだことを。衝撃で倉庫の壁を壊し、建物の倒壊に巻き込まれたことを。

 その倒壊で崩れる壁によって生き埋めになるところを、今まさにベレトが身を呈して守ってくれたのだ。

 何秒か、何分か、どれほど意識を失っていたかは分からないが、数百キロ、下手をすれば一トンを超える荷重をこうして彼が支えていなければとっくに全身を押し潰されていたに違いない。

 

「動ける、かっ」

 

 途方もない重さに耐えるベレトが絞り出した声を聞き、クロードは身を捩る。しかし下半身を埋める瓦礫はがっちり固まっており、体を起こすことすらできない。

 

「く……ダメだ。起き上がれねえ……」

 

 せめてこの場から動くことができればベレトが壁を支える必要もなくなるのに。

 ベレトの力も無限ではない。その細身からは信じられない剛力の持ち主だということは知っている(五年前でもラファエルやドゥドゥーとの格闘術訓練で苦も無く彼らを相手取っていた)が、それでもこの重量をいつまでも支えることはできない。

 すぐにでも脱出したいのに、動かせるのは腕くらいで……

 

 そこまで考えたクロードは自分にできることに思い至る。思考から淀みなく動作に繋げて手を動かす。

 動きに合わせて体の内側からパキポキと嫌な音が聞こえる。ものすごく痛い。それでも矢を抜いて、フェイルノートを引いて構えた。

 紋章の力を注がれて光を帯びる矢が向くのは、正面のベレト。

 

「クロード……?」

 

 こんな状態でも一発だけなら撃つことはできそうだ。目の前で踏ん張って動けない相手を狙うことは造作もない。

 全力の『落星』を撃てばその背後の壁を砕いて難を逃れることもできる。

 このまま壁諸共を撃ち抜けばこの決戦も終わる。

 完全に無防備な敵へ撃つ、たった一射だけで勝てる。

 千載一遇の好機。

 

 なのに。

 なのに何で。

 何であんたはそんな顔ができるんだ。

 

「……それで、いいっ」

 

 どうして、笑えるんだ。

 

「生き、ろっ、クロード……!」

 

 どうして、俺を助けるんだ。

 どうして、俺を守るんだ。

 どうして、俺を生かそうとするんだ。

 

 違うだろ。あんたが守るのはエーデルガルトだろ。俺とは敵になったじゃないか。

 さっきの戦いも、もっと攻めることはできただろ。必要以上に傷付けない攻撃ばかりで、俺を殺さないように手加減していたな。

 今だって、俺のことなんて見捨てちまえばそのまま勝てていたのに、俺を助けに来たからこうして動けなくなって。

 どうして、そこまでして俺まで守ろうとするんだよ。

 

「エーデル、ガルトをっ」

「……?」

「助けて、あげて、くれっ」

「……っ!」

 

 この期に及んで吐く戯言。そう一笑に付してもおかしくないベレトの言葉。

 そのはずなのに、クロードにはそれができなかった。

 

「頼むっ……きょうだい」

 

 いよいよ支える力の限界を迎えたか。血が滲む全身をぶるぶると震わせるベレトが僅かに膝を折り、それでもと声を絞り出す。

 矢に紋章の力を注ぎながらそれを見るクロードは頭の中で自問自答が止まらない。

 

 どうして、俺達は戦っている。敵だからだ。

 どうして、先生は俺を守ろうとする。分からない。

 どうして、同盟と帝国は戦う。相容れないからだ。

 どうして、俺は生かされる。分からない。

 どうして、この人はエーデルガルトの味方をした。守りたいからだ。

 どうして、俺に頼む。分からない。

 どうして、分からない。

 どうして、分からない。

 どうして、分からない。

 

 クロードは自分が賢しい人間であると自覚している。

 思考を止めないこの頭脳が自分の最大の武器。生じた疑問を素早く捌き、すぐに解けない問題は一度置いて別の角度から考察する。そうして考え続けることが自分にできる一番強い戦い方。

 その聡い頭が全力で警鐘を鳴らしている。この問いから逃げるな。今ここで解かなければお前は必ず後悔する。この謎を謎のまま見過ごすな、と。

 

 考察するにはまず物事を正確に把握しなくてはならない。

 

 敵であるベレトが今こうしてクロードを守っている。何故だ。クロードを死なせたくないから。

 敵対する相手を死なせたくない? 何故。それがベレトの求める勝利だから。

 ベレトは何を求めている? 単純に帝国が勝つことではないのは明らか。

 彼は何か言ってなかったか。口下手でも考えは率直に口に出す人だ。発言に糸口はなかったか。

 思い出せ。ベレトとの会話に何かなかったか。

 あったはずだ。覚えていることを確かめろ。

 

 

 

『クロード。君の野望は何だ?』

 

『だがクロード。未来を見据える君は、人を見ているか?』

 

『エーデルガルトを守るため』

 

 

 

 違う。もっとだ。もっと前。

 

 

 

『みんな、すまなかった』

 

『ソティスが俺を助けてくれたんだ』

 

『生徒のために使いたい』

 

 

 

 違う。遡り過ぎた。いや、これも大事かもしれないが。

 

 

 

『君に野望があるように、俺にも目指しているものがある。野望と呼べるほど壮大なものじゃないけど、俺にも願望があるんだ』

 

『君の言葉を借りれば、俺にも見たい景色があるということだ。その景色を見るためには君の存在も不可欠なんだよ』

 

『俺は諦めない。士官学校で過ごしたあの日々のように、また俺達は肩を並べて笑い合えると信じている。だから大丈夫だよ、きょうだい』

 

 

 

(……初めから、か)

 

 答えに至ったクロードは考え続ける。

 

(あんたはそもそも……俺の敵じゃなかった)

 

 ベレトは既に伝えていたのだ。自分の望みにはクロードも不可欠だと。肩を並べるために動いていると。

 初めから殺すつもりなんてなかったのだ。

 大丈夫だと、言葉で、行動で示し続けて。

 きょうだいの縁を、彼はずっと手放していなかったのだ。

 

「く、ふふっ……いてて」

 

 気付いてみればこうも単純なことなのかと少しおかしく感じて、思わず笑い、引きつる体の痛みに顔をしかめる。

 

 そうしている間にも巨大な壁はベレトに重くのしかかり、その身を折ろうとしてくる。周囲がさらに暗くなり、光を帯びるフェイルノートの矢が目立った。

 徐々に膝が曲がるベレトが堪らずクロードを急かす。

 

「クロード……早く……!」

「ああ……いくぜ先生」

 

 最大まで力を注いだ矢を引き絞ったクロードはフェイルノートを向け直す。

 狙いは外さない。撃つべきものはもう分かっているから。

 

「──落星」

 

 閃光が闇を、壁を貫く。広がる波動が砕いた壁を吹き飛ばす。

 目論見通り、巨大な壁もフェイルノートの一撃で破壊することができた。

 

 壁だけを。

 

「……クロード?」

「これでいい……ははっ、どうした先生、呆けちまって」

 

 背中の重さの大半が消え、残った破片を振り落としたベレトは荒い息のまま肩口を見た。今し方クロードが撃った矢はベレトの肩を掠るように通り抜け、背後の壁のみを撃ち抜いていった。

 ベレトの顔のすぐ横を通った閃光は彼を傷付けることなく壁を砕き、二人揃って生き延びることができたのだ。

 

 そのまま振り返るベレトの下に、壁によって遮られていた光が差し込んでくる。

 それは未だ起き上がれず横になったままのクロードからだと、ベレトの後ろ姿越しに昇る朝陽を幻視する光景だった。

 

(なんか変なところで夜明けを見ちまったな)

 

 図らずも野望の一端が叶ったような景色が見えて、またしてもおかしく感じて笑えてしまった。

 そのクロードの笑い声が聞こえて、ベレトは足を引きずって近寄る。

 

「待ってろ……今、助ける」

 

 そうすることが当たり前ように自分を助けるべく瓦礫に手を差し込んで持ち上げるベレトを見上げ、やはり間違いではなかったとクロードは思う。

 彼は何も変わっていない。五年前からずっと、今に至っても、彼は生徒を守らんとする教師のままなのだと。

 

 ベレトはエーデルガルト『だけ』を守りたいのではない。

 エーデルガルトを始めとした黒鷲の生徒。

 クロード達金鹿の生徒。

 恐らく青獅子のディミトリ達も。

 そしてセイロス教団のレアでさえも。

 ガルグ=マクで。アビスで。

 あの地で縁を得た人を全て守りたいと思い、そのために戦っているのだ。

 

 なんて愚かで欲深いことか!

 それでいて、なんて眩く人間らしいことか!

 

 クロードの下半身を埋めていた瓦礫をひっくり返し、そこで動きを止めたベレトを見上げて伝える。

 

「色々負けたわ」

「……」

「あんたの勝ちだ、きょうだい。決戦も、個人的にも、俺の負けだよ」

 

 流石にこの状況でまだ戦いを続けようと思えるほどクロードの面の皮は厚くなかった。決戦の不利を覆され、自分との直接勝負でもこうして守られてしまい、指揮官としても戦士としても二重の敗北である。

 ここまで見事に負けてしまえば逆に清々しいというもの。何ともすっきりした気分で笑うクロードであった。

 

 ところが、こちらの言葉が聞こえただろうに反応がなく、膝を着いたベレトは動きを止めたままで返事もない。

 

「……」

「おい、先生?」

「……すまない、クロード」

「あ?」

「……後は、頼む」

 

 そこまで言うとベレトの体がフラフラと揺れ、クロードの隣に顔面から倒れ込んでしまった。勢いよく瓦礫にぶつかってとても痛そうである。

 

「え、ちょ、先生! おい、嘘だろ? 頼むって……俺だって動けねえんだよ!」

 

 慌てるクロードだが、考える暇も与えないと言わんばかりに喧騒が近付いてくる。

 戦場だった港に二人が降ってきて倉庫を叩き壊したのだから、何事かと確かめに来て当然だし、さっきの閃光を見ればフェイルノートを持つクロードがいることも分かるだろう。盟主を助けに同盟兵が駆け付けたか、それともベレトを援護しようと黒鷲遊撃軍が先着したか。

 

 こうなったら得意の口先でどうにか場をまとめるしかない。

 ろくに身動きもできず、隣には敵の指揮官が倒れているこの状況。はてさてどのように話したものか。

 こんな時でも頭を回さなければならない境遇を憂い、せめて溜息の一つくらいは許してほしいと思うクロードだった。




 それで終わらないとはどういうことだ。
 仕方ないじゃん書きたいことどんどん増えるんだもん。

 いやあの、最後に足す部分があまりにも長くなったんですよ。
 流石に長すぎて読むのが辛くなると思い、急遽分けました。
 後ちょっとだけ続きます。


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信じたいもの、信じ抜いたもの 終編

 同盟戦、今度こそ終わり。長くなりました。
 自分でも書いててお疲れ様という気分です。


 こうして、盟主クロードの敗北宣言を以て決戦は終わった。

 レスター諸侯同盟は先の和平会談でアドラステア帝国から出された多くの項目を、ほぼ無条件で受け入れることになった。

 

 ──帝国による領地の併合は行われず、同盟は同盟のまま動くことになる。

 ──戦争の停止。戦火に見舞われた土地の復興。両国間の通商。五年ぶりに多くの人が国境を越えて行き交うことになる政策の締結。

 ──生じる諸費用はその多くを帝国が負担する他、同盟内でもヴィクター商会が流通を補佐し、エドマンド家を始めとした動ける余裕のある貴族も負担を請け負う。

 ──また、英雄の遺産は各領地に戻され、対応する貴族の下へ届けられる。ゴネリル家などは東からの防衛に役立つし、何より会談でもあった「互いに武装しても対等に語り合える」姿勢の実現として、武力を取り上げず実際に対等であることを目指す試みだ。

 

 フォドラに大々的に布告する文の草案を頭の中で練りながら、エーデルガルトは館の中を歩く。皇帝としての厳しい表情で。

 

 決戦が終わり、勝利した帝国軍がこれ以上の戦闘はしないと宣言。

 同盟側もそれを受け、クロードの声に従って軍を畳み、同時にデアドラ市街へ続く門を開放。

 死傷者を含む両軍を分け隔てなく受け入れて治療と後処理を行うこととなった。

 

 リーガン家の敷地を全面開放して、貴族の屋敷がまるで野戦病院のような有様になるにつれて、喧々囂々たる別種の戦場へと変わったようだった。

 

 

 

「あだだだだだ!! 痛い! 痛いですリンハルト! もっと優しく!」

「我慢してよ、僕この後もたくさん診る人いるんだから。まったく……戦いが終わったら休めると思ったのにさ」

「あ、ぎ、つ、だ! ……っああもう、回復魔法でいいじゃないですか!」

「綺麗に折れてるから自然に治した方がいいね。ヒューベルトに感謝しなよ。本当にただポッキリ折れてるだけだから。ああ、僕もヒューベルトに感謝しなくちゃね」

「は? なんであんたが」

「しばらく君の面倒を見るように言われてるんだ。丸投げされた時はげんなりしたけど、リシテアみたいに希少な紋章を持つ人なら話は別さ」

「え……まさかリンハルト、わたしの体のことを知ってて……」

「ん? 紋章が二つあるこt」

「わーわー! 言わないでください! 誰が聞いてるか分からないのに!」

「君の方がうるさい……まあとにかく、経過も見たいし、僕にその体を預けてね」

「言い方!」

 

 

 

「はあ……結局ほとんどいいとこ無しで終わっちゃったな……」

「どうしたイグナーツ、元気ねえな。腹減ったか?」

「あ、ラファエルくんお疲れ様です。戦闘で活躍できなかったなって……」

「なんだそんなことか。おめえはこうして生きてんだ、よかったじゃねえか」

「それはそうですけど……ラファエルくんみたいに立派に戦えなかったなって」

「そんなこと言ったら、オデだってカスパルくんに負けちまったぞ。すごかったぞ、ガンガン前に出てきて、めちゃくちゃ強いから押し負けたんだ」

「【轍薙】を圧倒する【進撃の砦】か……すごい絵になりそう」

「肩が治ったら描いてみたらどうだ? オデも後でモデルになるぞ」

「あはは、ラファエルくんはまだまだ元気だなあ。僕も早く回復しないと」

「おーい二人共、今いいか?」

「んお、カスパルくん」

「ここにいたか。二人揃っていてちょうどいい」

「フェルディナントくんも、どうしたんですか?」

「俺達は他と比べて軽傷の奴のとこを周ることになったんだ。今やることなくてよ、できる範囲で少しでも助けになればいいなって」

「暇を持て余すよりは僅かでも力になる手段に尽くすのが貴族というものだからね。治療はできずとも回復の助けになればと思い、君達を探していたのさ」

「おお、そいつは嬉しいぞ、ありがとな!」

「ありがとうございます。ただ、あの……どうして僕達を? 怪我してる人は他にもたくさんいますよね」

「我々の治療の心得は大したものではない。私は回復魔法が拙いし……」

「俺はリザイアならともかくライブはしょぼいしな。それより、俺とフェルディナントでも問題なく使えて、確実に元気になれるやり方をしてみようって思ってよ」

「確実に元気になれるやり方?」

「そんなすっげえやり方があんのか?」

「「アイスナー式マッサージだ」」

「「……え」」

「こないだ先生とやった訓練で教わってさ。あれはきつかったな」

「苦しい訓練だったが、身に付けた技術は実際に使って人々の役に立てたい。しかしあれは少しばかり特殊で、使う相手を選ばなければとも思う。士官学校で受けた経験のある二人なら問題なかろう」

「お前らも早く動けるようになりたいだろ? 任せとけって。回復絶対早まるから」

「「……あ」」

 

 

 

「イグナーツくんとラファエルくん、すんごい声出してる……あれでしょ。五年前に先生がやったマッサージ。あれ教えたんだ、うへ~」

「ジェラルト師匠の教えが伝わるのは嬉しいけど、先生も容赦ないな。まあ流石にわたしらの方にはあいつらも来ないだろ」

「はい。だからわたし、来ました」

「うわ、ペトラちゃん!」

「あんたが来たってことは、まさか……」

「アイスナー式マッサージ、女担当、わたし、出番です。ヒルダ、レオニー、回復早まる、有用、知っています。施す、やりますか?」

「い、いいよいいよ! わたし遠慮します! 痛いのはいらなーい!」

「だな。あんたが純粋に厚意で言ってくれてるのは分かるけど、わたしも遠慮させてもらうよ。今からまた血を吐く思いは御免だ」

「そうですか……少し残念、思う、あります」

「それより、ペトラ」

「はい」

「……悪かったな。わたし、色々酷いこと言ったりしただろ」

「どういうこと、ですか?」

「こないだの会談でもさ、帝国を一方的に悪し様に言ったり、暴れたり、やらかしたじゃないか。今になって思うと、わたしって周りが見えてなかったなって」

「レオニーちゃん……」

「今回の決戦もそうだけど、帝国との戦争で出た死傷者はかなり少ない。あんたらはその気になればもっと同盟を圧倒できたはずだろ。そうはしないで犠牲を抑えることを重視してるのがわたしにも分かった。帝国がブリギットと友好関係を結んだのも今なら納得できる」

「……気にしていない、言う、少し嘘、です。帝国が憎い気持ち、わたしの中、まだある、真実。けれどそれ、次の時代に伝わる、阻止する、わたしの役目、思います」

「そっか。ペトラはそういうところも強いんだな」

「レオニー、あなたの謝罪、受け取ります。その心意気、感謝、返します。この先、同盟の人々、あなたの心を伝える、お願いします」

「おう。信頼が大切だっていうのは師匠の教えでもあるしな!」

「うう……よかったよ~、二人が仲直りできて本当によかった~!」

 

 

 

 開け放たれたリーガン家の中庭で騒ぐ同期達を渡り廊下から見やり、騒がしくも仲良くやっている……仲良く……仲良く? やっている光景を眺めて小さく微笑む。

 先ほど会話してきたクロードとのやり取りで強張った心が少し和らいだ気がした。

 

 大怪我を負い、回復魔法だけではすぐに治せないと診断されたクロードはこの屋敷に運ばれて自室で絶対安静を言い渡されており、皇帝と盟主の正式な談合もそこで行われた。

 改めてクロードから同盟は帝国に敗れたという発言と、和平会談では結べなかった協力の調印をもらうことができたエーデルガルトはひとまず安堵した。ここまで来てまた口先で翻弄されてはたまらない。

 だが、直後にクロードが言ったことは看過できなかった。

 

 ………………

 …………

 ……

 

『俺はフォドラを出るよ』

『……それは、貴方がいない方が今後は平和になるから、ということかしら』

『分かってるじゃないか。負けたとは言え、同盟には反帝国派という厄介な派閥がいる。せっかく帝国が勝ったのに、俺が生きてればまた俺を担ぎ上げて暴れたりするかもしれない。そんなのは望まないだろ?』

『敗北は認めても死ぬ気はない貴方としては、別の方面から野望に向けてやり直す、と……どうせ何かしらの道筋は用意しているのでしょう』

『まあな。つうわけで、俺は退散させてもらうぜ。同盟諸侯についてはお手柔らかに頼むよ。俺が言い聞かせた限りではあんたに逆らう奴はいないはずさ。俺の同期達にも話は通してある。俺が負けたら帝国に協力しろってな』

 

 全身に包帯を巻いた痛々しい姿でベッドに寝ながらも、飄々とした態度は変わらないクロードはそう語る。

 

 自分がいなくなった後の同盟がどうなるか、分からないはずがない。

 リーガン家を除くほとんどの諸侯の領地は無傷で残り、今後のレスター諸侯同盟は各地の体制を存続しながらも帝国の活動に協力していく。

 クロードというまとめ役がいたから一つになっていた同盟は、一度エーデルガルトの預かりになり、新たな盟主を立てて再出発することになる。その移行に伴う諸々の混乱は帝国が補佐していくことになるだろう。

 

『本当は俺が覇王にでもなってやろうかと思ってたんだが……負けちまったしな』

『……ふざけないで』

『あ?』

 

 そんなこと、エーデルガルトには認められなかった。

 

『貴方は負けたのよ。同盟は帝国に敗れた。貴方が率いた同盟が破れたの。そうして決まった結果に対して、何? フォドラを出る? 自分がいない方が平和? 退散させてもらう? 冗談じゃないわ』

 

 敗北して、それで全てがなくなるわけではない。背負ったもの、率いたもの、彼の後ろについてきたものは依然として変わりなくある。

 それをなかったことになどさせない。させてやらない。

 

『同盟を立て直して、帝国と共に新しいフォドラを創り上げるためにも、貴方の存在は欠かせないのよ。クロード、ここで消えることはただの逃げだわ』

『おいおい、その俺の存在が禍根になるって話を今しただろ。戦略的撤退を逃げと呼ぶのは視野が狭いというものだぞ』

『あら、その戦略こそ視野が狭いと言わざるを得ないわね。それは直近の同盟しか想定していない策でしょう』

『ふん?』

『私は現在と未来どちらも考えて貴方が欠かせないと言ったの。クロード=フォン=リーガンという男をここで失うのは大きな痛手よ。それこそ帝国が勝利した意味がなくなるくらいにね』

 

 エーデルガルトの考える未来がベレトの助言で変わり、帝国が単純に戦争の勝利を目指しているわけではない今、力を以て同盟を打ち倒すだけでは足りないのだ。

 同盟には負けたこれからもしっかりしてもらわねばならない。消えてもらっては困るのである。

 

 クロードが消えて次の盟主が据えられたとしても、敗北した同盟というイメージを払拭しないまま代替わりすれば帝国との上下関係も維持される。

 エーデルガルトから次の皇帝へと代が移り、そのまた次の代へ、さらにその次へ、そうして時代を経るにつれて力関係は傾きを増し、それは同盟との天秤の傾きも意味する。

 次第に同盟という枠組みは薄れていき、帝国の影響力に呑み込まれていく。その変化は緩やかな併合と言っていいだろう。

 それはエーデルガルトの望むところではない。

 

『逃げて楽になるのは許さない。クロード、貴方は今まで以上に苦労して同盟を守りなさい。次の盟主を立てるにしても、責任を果たした後の話よ』

『つってもな、俺がいない方が平和にまとまるのも本当だろ。同盟の立て直しも平和になってからで充分可能じゃないか?』

『はあ……私の言葉では足りないみたいね。連れてきてよかったわ』

 

 意思を変える気がないクロードを見て溜息を吐くと、エーデルガルトは二人の人間を部屋に招き入れた。

 

『御機嫌ようクロード』

『失礼します……クロードさん、お久しぶりです』

 

 それは帝国に滞在していた同期、ローレンツとマリアンヌ。かつての金鹿の学級の仲間だった。

 

『おお、ローレンツ! マリアンヌ! 二人共久しぶりだな』

『あ、起き上がらないでください、酷い怪我なんでしょう……横になったままで』

『いい格好だなクロード。敗残の将としてこの上ない姿だ』

『もう、ローレンツさん、そんな言い方……』

 

 懐かしい顔と再会して喜ぶのも束の間、ローレンツの皮肉にマリアンヌが眉をひそめる。

 

『だが……君は生きている。生きているなら未来がある。未来がある者は、それを次の世代へ繋ぐ義務がある』

『……』

『貴族として、人の上に立った者として、クロード、君には責任を果たす義務が今もあるはずだ。それを投げ出すことはこの僕、ローレンツ=ヘルマン=グロスタールが許さん!』

 

 しかし続く言葉は厳しい叱咤。それはローレンツなりの応援だった。

 

『クロードさん……きっと貴方はたくさん考えて決めたんだと思います』

『……』

『それでも、消えた方がいいなんて寂しいです。クロードさんが生きていて、ここにいてくれて、私、嬉しいです。生きていてくれて、ありがとうございます……貴方がいてくれてよかったと思う人がいることも、どうか忘れないでください』

 

 手を取ったマリアンヌが言うことは、彼女の心からの安堵を表していた。

 

『君のことだ。どうせ出自を明かさず、パルミラ軍を用いた策も軍内に伝えず、今から行方を眩まそうとしていることも仲間にも教えていないのだろう』

『よく分かってるな、俺のこと』

『ふん、分かるとも。いずれ超えようと、勝とうと目指した男のことを僕が理解していないはずがない』

『……うん?』

『いいかクロード、ここでしか言わないからよく聞け。君は……僕の目標なのだ』

『……うん!?』

『その君が盟主の責務を放棄して出奔してしまうなど、僕が認めない。自由闊達は結構。だが自由を謳いたければ、相応の責務を果たさねばならない。それは君が選んだ道に必ず、いつまでもついて回る。そんな()()を背負ったままで叶えられるほど、君が掲げる野望は軽いものなのかね?』

『どこで知って……ああそうか、会談でゲロっちまったな、先生に聞かれて』

 

 会話はローレンツのペースで進み、額を抑えるクロードは参ったと言わんばかりに首を振る。

 

『今後、リーガン家には我がグロスタール家の監査が入る。その名目を以て両家の力を合わせて新しく同盟を導く両輪とするのだ』

『そりゃまた、大きく出たな』

『帝国と隣接する我が領は両国との通商で大きな意味を持つからね。そこから同盟各地への流通を担う役割を、リーガン家の力で後押しするというわけさ』

『えらくトントン拍子で話が進むが……まさかローレンツ、帝国にいる間ずっとこのために動いてたのか?』

『当然だ。言っただろう、僕の目標は君だと。万人が認める形で盟主の座を手に入れるまで君を逃がすつもりはない。君が本当の意味で僕にその座を譲る日が来るまでこき使ってやるから、せいぜい身を粉にして同盟とフォドラの発展に尽くすことだな』

『……そんな脅し文句あるか?』

 

 帝国での活動で地盤は万全、これからは存分に同盟内でその手腕を振るうと豪語するローレンツを前に、クロードはたじたじであった。

 そんなクロードに、ベッド横の椅子に腰かけたマリアンヌが語り掛ける。

 

『クロードさん。貴方がフォドラを出ると考えたのも、犠牲を最小限に留めるためなのは理解できます。国境線でも小競り合いばかりで、本格的な戦闘が五年間ほとんど起こらなかったのも貴方が調整していたからでしょう』

『そいつは買いかぶりってもんだ。結果としてそう見えるだけだろ……ただ、俺が消えた方が今後の面倒は減るとは思ってるが』

『でも、それってクロードさんが一人で考えた案ですよね? 誰かと相談して決めたことではないように思えます』

『む……』

『クロードさん、私、今から嫌なことを言います……たぶん貴方は、周りの人をあまり信じていない……それどころか、ほとんどの他人を舐めていますね? 自分の想定を超えることはない、どうせ悪い方へ流されていくばかりだと』

『……言うようになったなマリアンヌ。そういう物言いができるとは、強かになったもんだ』

『ふふ、否定しないんですね』

『んー、まあ』

 

 バツの悪そうに頭を掻くクロードを見て、マリアンヌは楽しそうに微笑む。その表情が彼女の変化を表していた。

 

『ねえクロードさん、私、変わったと思いますか?』

『ああ、びっくりしたよ』

『そうです。私、強くなれたんです。でも私は一人で変わったわけじゃありません。この血筋に宿る呪いを打ち破れたのは、先生、ローレンツさん、元黒鷲の学級の同期達、仲間のみなさんを信じて、私から頼ることができたから』

『っ! じゃあお前、背負わされたもんを……』

『はい。捨てることができました。みなさんのおかげで』

 

 生まれつき体に宿る紋章のせいでマリアンヌは不幸に満ちた人生を送ってきた。

 あまりに不幸が続くものだから、自分は不幸をもたらす存在だ、関わる他人にも不幸をもたらすと思い、極力他人との付き合いを避けて生きるようになり、その姿勢は士官学校に来てからも続いた。

 

 そういった姿勢が、ベレトに目をかけられたことを契機に、仲間に励まされたり助言を受けたりしたことで徐々に前向きなものへと変わっていく。

 同盟から帝国に出向いたこの五年の日々も、彼女の姿を大きく変えるものだった。自分から他人に関わるようになった他、表情を隠す前髪を整えるようになり、曲がり気味だった背筋も伸ばしてがらりと印象が変わる。

 それでも根本的な意識までは変わらない。呪われた紋章があるという事実がマリアンヌを悩ませ続けていた。

 

 そんなある日、彼女の下へ押しかけた紋章学者の糾弾が事態を動かす。

 マリアンヌが呪われた魔獣の化身だと言い張る紋章学者をベレトが追い返し、協力してくれる仲間を伴って、学者の言い分の元凶だと思わしき森を調査しに行った先で出会った魔獣により真実を知る。

 かつて歴史から抹消された英雄その人が変じた魔獣を討伐し、現れた英雄を遺産を手にした時、マリアンヌは生まれて初めて自分が許されたような、呪いから解放されたような心地になれた。

 それは一人では決して至れなかった境地であり、他人との関わりを避けてきたマリアンヌが他人を信じて頼ったことで得られた成果なのだ。

 

『こんな私でも、仲間を信じて強くなれました。自分だけでは落ち込むばかりだった私が、仲間のおかげで変われたんです。私はこれを良い変化だと思います。クロードさんもそう思いません?』

『そうだな。昔よりもっと魅力的になったよ』

『ありがとうございます。私が良い方に変われたのは、人の出会いに恵まれたからです。だからクロードさんも、仲間や、周りの信頼できる人を頼れば、貴方一人で考えた想定からもっと良い方へ変わっていけると思うんです』

 

 そのために必要なのは、周囲の人間への信頼。

 仲間が向けてくれる信頼はもうある。なら後は、貴方の方から心を開いて頼れば、きっと良い方へ変わっていけるはずだから。

 一人で盤面を見つめていても、自分の頭で想定できる手しか見えてこない。

 向かい合う対戦相手。横で助言する仲間。周りに人がいればいるほど知らなかったものが見えてくるものだ。

 だって私達は、貴方の仲間は、そんなにも弱い存在ではないのだから。

 

『参ったな……まさかマリアンヌに説教される日が来るとはね』

『あ、あの、生意気なこと言ってすみません! 私ったら、止まらなくて……』

『構わないよマリアンヌさん。クロードには口やかましくせっつくくらいがちょうどいいのさ』

 

 二人に諭されたクロードは力なく天井を仰ぐ。

 自分がこんな風に思われていたとは。そして、自分をこんな風に諭してくるとは。

 ガツンと殴られたような気持ちだった。

 

『なあエーデルガルト。この二人を連れてきたのは俺を引き止めるためか?』

『提案したのは師よ。クロードに会わせるためと言っていたけれど、この話を想定していたとは聞いていないわ』

『先生か……そこまで考えてないだろうな。単純に俺と会わせたかっただけで』

『そうね。だからこそ響いたでしょう?』

『ああ、認めるよ。こりゃあ消えるわけにはいかない。下手に逃げたら追いかけられそうだ』

『それは何より。こちらも苦心した甲斐があるというものだわ』

 

 クロードの意思を変えることができたと感じ、エーデルガルトは壁に預けていた体を離す。談合はもう終わらせてあるし、後はこの三人でじっくり話させてやろうと退出することにした。

 

『最後に言っておくわクロード。師が体を張って貴方を守ったこと、その意味をよく考えなさい。フォドラに生きる全ての人を守り導くには、私達の誰もが欠けてはいけない、全員が力を合わせてようやく成し遂げられる大業なのよ』

『分かってるさ。俺達はみなか弱き人間。だからこそ壁を越えて、手を取って、心で触れ合う……未来へ生きるために』

 

 その会話を最後に、エーデルガルトは部屋を去るのだった。

 

 ……

 …………

 ………………

 

 クロードとの会話を思い返しながら屋敷の廊下を歩く。始めの飄々とした態度も、ローレンツとマリアンヌの説教を受ける内に鳴りを潜めて力ないものになっていた。怪我に加えて疲れもあるところに仲間の言葉が響き、流石の彼ものらりくらりとは逃げられなくなったのだろう。

 

 二人を連れていく提案をしたベレトもそうだが、二人を説得に用いる進言をしてくれたヒューベルトにも感謝しなくては。

 そう思ってヒューベルトがいる方へと足を向ける。一早く戦後処理に動いた彼は屋敷内の部屋の一つに陣取って書類を捌いているはず。主として彼も労ってやらねば。

 考えながら部屋に着き、今は何の作業をしてるのかとそっと覗き込んで──

 

 

 

「はへ~……」

「……」

「んふ~……」

「……」

「えへへ……」

「……ベルナデッタ殿」

「はい?」

「随分と安らいでいるようですが、何故私の背後でマントに包まっているのですか」

「うぇ!? す、すみません、でもでも、ここって居心地いいので!」

「いいわけがないでしょう。座るわけでも、横になるわけでもない、そんなところで休まるわけがありません。ただでさえ貴殿はこの戦いで力を尽くしたというのに」

「その……ベルって、今日の戦い、頑張りましたよね?」

「ええ、それはもう。上がってくる報告のどれも、貴殿なくして得られた戦果ではありません」

「だ、だから、ですね、ベルとしましては、頑張ったご褒美、と言いますか! そういう感じのが欲しいんですよね!」

「確かに戦功には報いがあるべきですが……まさか、ベルナデッタ殿が望むご褒美とやらが」

「こうやって、いい感じの場所でお休みできるって、いいですよね~。ヒューベルトさんのマントは黒いから、こうして包まると暗いお部屋に引き籠ってるみたいで安心します」

「……まあ、貴殿がそれでよいと言うのなら。昔と違って騒ぐわけでもなし、仕事の邪魔をしないのであれば、邪険にする理由もありませんか……」

「ふへ~……」「ふーん」

「……」

「にひひ……」「あらあら」

「……」

「ふあ~……」「うふふ」

「……先ほどから楽しそうですなドロテア殿」

「ええ、楽しませてもらってます」

「何がそんなにおもしろいのか分かりませんね。貴殿の目を引くものなどここにはないでしょう」

「そんなことないわ。あのベルちゃんが殿方にここまで気を許してるところなんて初めて見ましたもの。とっても可愛い」

「引き籠る部屋代わりにされる私としては実に不可解なのですがね……」

「でもヒュー君、不快とは言わないんですね?」

「……」

「私ともこうやってお話してくれるようになったし、貴方も変わったわ」

「そんなことよりドロテア殿、貴殿にも任せた仕事があったはずですが」

「そんなのもうとっくにまとめて、早天馬の方に預けたわ。後は帝国からの返事と、マヌエラ先輩と歌劇団のみんなを待つばかりです」

「それは重畳。貴殿はここからが本領ですからな」

「ええ。ミッテルフランク歌劇団が同盟で出張活動できるまたとない機会ですから、張り切っちゃいますよ」

「建前は各地への慰問。それに併せてフォドラの今後についての喧伝。頼みますよ」

「あら、建前だとしても手は抜きませんからね。こういう活動で生まれる人脈が別の形で生かされることだってあるんだから」

「その手のことは貴殿が一番心得ておりますからな。期待しています」

「そういうわけだから、動きがあるまで私はじっくり休ませてもらいまーす。いいもの見れて栄養補給もできてるし」

「はあ……そこはお好きすればよろしいですが」

「そうしまーす。それに……ふふふ」

「何か気になることでも?」

「今頃エーデルちゃんも、先生のところに行ってるかなって思って」

「……エーデルガルト様はこれからさらにお忙しくなるでしょうし、今は少しでも英気を養いお休みいただくのがよろしいかと。ドロテア殿から我が主にご用でも?」

「いいえ? 先生が早く起きればエーデルちゃんが嬉しいかなって」

 

 

 

 ──そっと扉から離れた。

 何だろう。あの部屋の中の空気感は、できれば動かしたくない。

 こちらにそのつもりがなくても、急に立ち入ってしまえばヒューベルトは従者として必ず対応するし、その背後に隠れたベルナデッタは落ち着きをなくしてしまうだろう。ドロテアはそういう変化も気にしないかもしれないが、休まる雰囲気を崩してしまうかもしれない。

 エーデルガルトから声をかけるのはもう少し後にすることにした。

 

 最後、エーデルガルトのことを口にしたドロテアが一瞬扉の方を見やったようにも見え、扉に近い位置にいた彼女だけは覗くこちらに気付いていた。

 どうしてだか気まずさを覚えたエーデルガルトは足音を忍ばせてそそくさと部屋を離れるのだった。

 

 そうして屋敷の中を歩き、今度はベレトのいる部屋に向かう。

 ドロテアに言われたからではないが、彼の下へ足を運ぶのはいつだって心が躍る。皇帝である自分がただの人間でいられる、大切な居場所。

 その歩みも、ベレトに近付くにつれて重いものに変わっていく。

 

 辿り着いた一室でベレトは横になっていた。

 音を立てないよう静かに扉を閉じて近寄る。眠る彼が少しでも休まればいいと願いながら。

 この願いが自分の本心ではないと理解しながら。

 

(勝った)

 

 目の前の眠るベレトを見ながらエーデルガルトは思った。

 

(勝ったの?)

 

 圧倒的不利から始まった絶望的な戦い。

 今後のフォドラの趨勢を左右する決戦に、帝国は見事に勝利した。

 

(勝ったと言えるの?)

 

 前節にやった会談での交渉。

 戦闘開始と同時に現れたパルミラの援軍。

 それらの苦境をベレトの導きのおかげで乗り越えて勝利を掴んだのだ。

 

(本当に私達の勝利なの?)

 

 ──その彼がこんなにもボロボロなのに?

 

 戦いの終わりが宣言され、勝利に湧き立つ帝国軍をかき分けて進むエーデルガルトは気が気でなかった。

 本来なら皇帝の自分が高らかに戦勝を謳って軍の統率を図らなくてはならないというのに、何よりもベレトを見つけなくてはと急いだ。

 

 倒壊した倉庫の中から同盟軍によってクロードと一緒に救助されたベレトが自力で動ける状態ではないと聞き、その身柄を渡された際に抱き留めた彼の脱力を感じて血の気が引いた。

 血に塗れて目を閉じた姿は生気がなく、あのベレトがここまで傷付くなんてと仲間達も驚かされていた。

 

 幸い命に別状はなく、意識がないのも気力を振り絞った末に緊張が解けたからだと診断され、今はこうして屋敷の一室を貸し切って休ませている。

 先生が一番の重傷者って前にもなかったっけ?──そうぼやくリンハルトの回復魔法で何とか安心できる状態まで持っていかれた後も、ベレトは眠り続けたままだ。

 

 目を閉じて眠る姿はただただ静かで、その顔立ちはどこか人間味が感じられない。

 薄い呼吸音も相まって、僅かに上下する胸を無視すれば人形と見間違うか、あるいは死体にも見えて……

 

(違う!)

 

 馬鹿馬鹿しい想像を一蹴する。

 師は死なない。死ぬわけがない。私を置いていなくなったりしない。

 言い聞かせるように頭の中で繰り返したエーデルガルトは膝を着き、ゆっくりとベレトの頬に手を添える。

 

 ベレトが死ぬ。そう考えただけでエーデルガルトの心は冷えた。手から力が抜け、呼吸が覚束なくなる。心臓の鼓動が不気味なほど耳に響き、目の前が暗くなっていく気がした。

 

 戦後処理の段階に移ってから続々入る報告には、戦場で兵達が目の当たりにした多様な情報がある。各部隊の戦果、被害状況、実に様々なことが。

 その中には戦場で特に目立った動きの報告もある。飛来して倉庫を叩き壊したベレトとクロードのことも。

 

 エーデルガルトに振り回されてクロードに飛び蹴りを入れたベレトは一緒になって港の上空を飛び、二人は一つの塊となって倉庫に墜落した。

 その際、まるでクロードを守るように彼を抱え込んで自分から壁に着弾したベレトを多くの兵が目撃している。その報告は帝国軍だけでなく同盟軍の兵からも上がっている。

 クロードからも、倒壊する倉庫からベレトが体を張って自分を守ってくれたと聞いた。崩れる壁をベレトが支えてくれなければ生き埋めになっていたとも。

 

 そのような事態になったのは、エーデルガルトがベレトの指示に従ったからだ。

 ベレトを文字通り振り回して、彼をただの武器のように扱ったからそうなった。彼の指示を聞いたあの一瞬でエーデルガルトにはそうなると分かっていた。

 極限の集中に入っていたエーデルガルトは思考するよりも早く体が動き、結果、ベレトがこうして傷付くことになった。

 

(私が師をこんな風にした)

 

 これは自分がやったことだと、ベレトを傷付けたのは自分なのだという意識がエーデルガルトの中で生まれていた。

 大切な、本当に大切な人を傷付けてまで得た勝利を、胸を張って誇れるのか。

 

 そしてもう一つ。

 あの一瞬でエーデルガルトが理解できたことを、指示を出したベレトが分かっていないはずがない。彼もこうなることを承知だったはずだ。

 自身を武器や道具のように扱うこと、消耗品のように使い潰すことを。

 

 当たり前のように、何の躊躇もなく自殺行為同然の手段を実行できるなんて、そんな人間を果たして人間と呼べるのか。

 もしくは……彼は最初から己の命を(なげう)つことを何とも思っていないのではないか。

 

 そうまでしてベレトが体を張るのは何のためだ。彼が戦うのは誰のためだ。

 

(私だ)

 

 エーデルガルトだ。

 

(師は、私を守るために戦ってくれている)

 

 ベレトはそう言った。

 言った通りに彼は行動した。

 言葉が、態度が、結果が彼の決意の程を証明している。

 命を懸けた決意を。

 

 ──まるで私が彼を死に追いやっているようなものではないか。

 

「ち、が……う……」

 

 頭に浮かんだことを否定したくて。

 しかし咄嗟に出た声は悲しいほど頼りなくて。

 縋るように眠るベレトを見つめた。

 

「……師は、死なないわよね」

 

 話しかけても返事はない。分かっていても、口が止まらなかった。

 

「いなくなったりしないわよね……師は。だって、約束したもの……そうでしょう? 消えないわよね……ねえ……」

 

 触れる頬の感触が、彼が生きた人間であることを伝える。

 心無い人形ではない、ましてや死体なんかではない、彼が正しく生きているのだと分かる。

 

 それでも、声が聞きたかった。

 眠る彼を休ませてあげたい。起きて私を呼んでほしい。どちらも本心だ。

 そしてベレトと二人きりでいる時にも心を保っていられるほど、エーデルガルトは強くいられなかった。

 

 そうじゃない。元から強くなんかなかった。

 ぐちゃぐちゃにされた体でちっぽけな短剣に縋っていただけの私は弱かった。

 弱い私に、師が強さをくれた。

 師が傍にいるから私は強くなれる。

 師がいない私は、もう、強くなんてなれない。

 

「死なないで……せんせえ……」

 

 眠るベレトは何も応えない。次の戦いのために体を休めているから。

 エーデルガルトを守るために。




 この形に落ち着けることはずっと前から決めてました。
 これが僕の目指す大団円へのルートです。

作者の活動報告に載せた後書き


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背負ってしまったもの、未来を綴じる

 タイトルは合ってます。誤字ではありません。
 でもダブルミーニングは狙ってます。


 傾向はあった。

 

 ある意味では当然の成り行きなのかもしれない。

 

 気付かなかったにしろ、確かに『それ』はあった。

 

 感情が育っていなかったというのはただの言い訳でしかなく。

 

 ベレトが察することができた時はもう手遅れになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初に違和感を覚えたのは帝国東部のフリュム領の暴徒鎮圧に協力した時だった。

 

 帝国がセイロス教を盛り立てる立場になり、エーデルガルトの声明が各地に広がるにつれて様々な反応が現れた。

 その中で彼女の声が受け入れられるだけでなく、反発する人も現れたのだ。

 

 五年前のガルグ=マク襲撃や、教団と敵対した帝国が何を言うかとエーデルガルトに不満を持つ平民が怒りを見せ、それを煽るように一部の貴族も囃し立てた。

 まあそういった反応が出ることは当然と言ってもいいのだが、だからと言って暴れていい理由になるはずもなく、帝国内へ派遣された巡回軍が治安維持に動いて一度はすぐに鎮められた。

 

 ところが、すぐに二度目の暴動が発生した。異例の再発である。

 あんな主張をするエーデルガルトはやっぱり信用できないだの何だの、先の鎮圧された暴動と内容は変わらない。規模も場所も同じなのに再び暴れ出す力がどこにあったのか。

 

 ヒューベルト曰く、こうやって民を煽ってエーデルガルト様の支持を削るのはそれだけ闇に蠢く者が焦っている証拠でしょう、とのこと。

 つまりこれは闇うご──ベレトが口にする度にそれを聞いたエーデルガルトが噴き出してしまうのがお決まりの流れになりつつある──が皇帝に反感を持つ一部の貴族を通じて武器を流したりなど煽動して、意図的に起こした暴動なのだ。

 方針を変えた皇帝が、自分達が望んでいない方向に帝国を動かそうとするのを気に入らず、足を引っ張ろうとしているということか。

 暗躍するしかないとは言え、いやらしいものである。

 

 そんな暴動も、駆けつけたベレトとジェラルト傭兵団の助力によって早々と片が付き、今度こそ背後も洗ってこの地を守ると息巻く巡回軍。

 彼らとの別れ際、フリュム領に派遣された部隊を率いる隊長と挨拶をする場面での会話がベレトには引っかかった。

 

「この度は助かりました。ありがとうございます」

「こちらこそ。これからも巡回を頑張ってください」

「はい! いやあ、それにしても流石は先生。噂通りですし噂以上でした!」

「噂?」

「ええ。かつて士官学校では陛下を指導していた教師だったと聞き及んでおります。今ではお忙しい陛下に代わってこうして帝国内を飛び回り、治安維持にまで貢献してくださる。しかも大層お強い! 先生が帝国を選んでくれて、我々としては大助かりですよ!」

 

 話す内に熱が入ってきたのか、だんだんと強くなる口調でベレトを褒め称える隊長の若い兵士。

 彼の言葉によれば、ベレトが王国でも同盟でもなく帝国を選んだことで現在のフォドラの情勢が作られたらしい。

 

 間違ってはいないのだが、ベレト本人にとっては違和感を覚える話である。

 

「……俺はあの時エーデルガルトを、一人の女の子を守りたかっただけです。あまり大きなことを考えていたわけではありません」

 

 聖墓でエーデルガルトを守る選択をした時、ベレトが考えていたのはただただ彼女を守りたいということだけだった。

 フォドラがどうとか、帝国がどうとか、セイロス教の沽券も何も頭になく、エーデルガルトを守りたい一心だっただけで、今もそうして彼女を支えるべく行動しているに過ぎない。

 

 流石に五年前の当時よりは考えて、今やっている活動が三国に渡ってフォドラをよくしていければいいと思いながら動いているが、それだって結局はエーデルガルトが健やかに生きていける世界を創りたいがためにやっているのだ。

 ベレトの中にある『エーデルガルトを守る』という私的な動機はそのままである。

 

 ──しかしそんな彼の内心など他人には知りようがない。

 

「そうなのですか? いやあ、考えるまでもなく陛下を助けてくださるなんて、素晴らしい愛国心ではありませんか!」

「え?」

 

 まさかそんな風に受け取られるとは思わず、ベレトは相手を見返した。

 

 これまでの人生を傭兵として生きてきたベレトに帝国への愛着など全くない。

 生徒の故郷だったりその地で生きる人がいるのは知っているし、そういう誰かの助けになることができればいいと考えてはいるが、根無し草として生きてきた彼にとって思い入れはなく、はっきり言って他と変わらない世界の一部だ。

 北の王国より温暖だったり、東の同盟より畑が多い景色だったり、違いは感じるがそれだけで、フォドラにある地方の一つとしか思っていない。

 当然、そんな帝国への愛国心などあるはずもない。

 

 ──しかしそんな彼の内心など他人には知りようがない。

 

「陛下のお味方をしてくださる先生がいれば百人力というものであります。貴方様がいれば帝国も安泰でしょう!」

「……」

「おっと、お引止めしてしまいましたね。自分はこれにて失礼いたします」

「……はい」

「ささやかではありますが、先生の今後のご活躍をお祈りしております。それでは、またお会いしましょう!」

 

 綺麗な敬礼を見せ、その若い兵士は自分の部隊のところへ戻っていった。

 彼に目礼して見送ったベレトも踵を返して歩き出す。

 

 歩きながらベレトは考えた。

 

 何か。

 何かが違う。

 何かがズレている。

 だが、その何かが言葉にできない。

 

 奇妙な歯がゆさがベレトの中に生まれていた。

 

 合流したジェラルト傭兵団を連れて移動する最中も、その後もずっと、例えようのない違和感がベレトの脳裏から拭えなかった。

 同盟のクロードへ親書を届ける前、帝国内を奔走する活動の中の一幕である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 違和感は消えない。

 その後も活動を続けていき、各地で人々と関わるほどにベレトの中で膨れ上がっていく。

 

 

 

 

 

 西部のヌーヴェル領に赴いた時。

 帝国と海を越えたブリギットとの交流を邪魔しようとした教団の嫌がらせを撃退した。帝国の戦力増加を阻もうとするのが教団の狙いだったのだろう。

 

 ブリギットを帝国の(しもべ)にはさせない──声高に謳うセイロス騎士団だが、既にエーデルガルトとペトラが結んだ友誼によってブリギットの立場は回復しつつあり、戦力の派兵まで叶った今となっては余計なお世話。

 それでも向こうからすれば大義名分はあるので、カトリーヌを含む有力な軍勢で力を入れて攻めてきて、常備された帝国軍とぶつかった。

 現在の上手く運んでいる繋がりを守るために帝国が備えた軍も大きく、フォドラ西部で起こった戦闘の中ではかなりの規模に発展したのだ。

 

 そこに駆けつけたベレトと仲間達が参戦したことでセイロス騎士団の撃退が叶い、ブリギットとの国交まで守ってみせるとは流石先生と持て囃された。

 

 

 

 

 

 将軍へと出世したランドルフと再会した時のこと。

 彼に連れられて帝国軍本隊の訓練に加わった際、ベレトはその実力と指揮能力でたちまちの内に兵士達から人気を集めた。

 

 ランドルフが率いる兵は若い者が多く、同格のラディスラヴァも率先して受け入れる姿勢を見せたことで、若いベレトでも自然と尊敬されるようになったのだ。

 また、皇帝直属の部隊として編成された黒鷲遊撃軍(シュヴァルツァアドラーヴェーア)の指揮官に任命されたことが分かると、ベレトに向けられる尊敬はいや増した。

 

 年嵩の兵士も、エーデルガルトから深く信頼され、帝国各地で実績を上げるベレトを見れば認めないわけにもいかず、最終的には多少のやっかみはあれどそれなりの関係に落ち着くことができた。

 これに関してはベレトの態度も、相手の年齢によって態度を変えることなく、若手達とも対応を一律させたのがよかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 受け入れられるばかりではない。

 エーギル領の視察に加わった時のことである。

 

 五年前、領地の統治権を取り上げられたエーギル公に代わってエーギル領のことはエーデルガルトが面倒を見ることになり、皇帝の仕事に加えて領地一つ分の業務を彼女は抱えることになった。

 ベレトが眠っていた間もそれは続き、皇帝の力強い政策を進めるにあたって障害になりうる貴族がいなくなったエーギル領はこれ幸いとエーデルガルトの手が多く加えられることになる。

 政治的なテコ入れの他、早天馬(はやてんま)など革新的な案もまずはエーギル領で試したりなどしたのだ。

 

 そんなエーデルガルトがエーギル領へ訪問(演説やら視察やら)をする際にベレトも同行し、平民目線の意見を求められて領民と話しているとどこか咎める目を向けられたことに気付く。

 

 敵意を含む視線。しかしそれだけで何かするでもない。気になったので聞いてみれば──真正面から聞かれるとは思ってなかったのか──しどろもどろな口調ではあったが答えてくれた。

 領民からそれなりに慕われていたエーギル公をいきなり罰した皇帝が怖い。宰相を罷免されるほどの罪があったとは思えない。実質、貴族という立場を没収された公爵様がかわいそう。

 でも皇帝陛下が統治するようになってから何か悪いことが起きたわけじゃなく、むしろ軍の巡回や早天馬のやり取りがあって領内は安定している。戦争中だとは思えないくらい穏やかに過ごせている。なのでエーデルガルトを恨むこともできない。

 しかもそのエーデルガルトが重用しているのがベレトで、平民でも実力次第で取り立てるという話は本当なのか、いやいや彼は士官学校の教師という縁があるからこその采配ではないか、皇帝の新しい方針を五年経った今でも信じ切れない。

 憎む理由と憎み切れない理由で二律背反の感情を抱えた結果があの視線だと。

 エーデルガルトに協力するベレトにも含みのある目を向けた事情を聞けた。

 

 そういった複雑な感情もまとめてエーデルガルトとヒューベルトに報告するベレトだったが、今はその手の声にかかずらう余裕はないとして対応するのは先送りになってしまった。

 無視するつもりはない。今は何よりも戦争の終結を急いているだけで、こういう平民の声もいずれは対応する。

 その時になれば正式に公爵という地位が復権し、その座に就いたフェルディナントがエーギル領を統治していくだろう。

 

 

 

 

 

 このように帝国の各地で、その地方の人々と関わりながら、時には生徒と協力して活動していくベレト。

 その働きは順調で、行く先々で誰かを助けたり帝国の政策を補佐したりと、彼が思う『エーデルガルトが健やかに生きていける世界』に近付いていたのは間違いない。

 相変わらず違和感は消えない。しかし仲間達と力を合わせればきっと実現できる。

 

 ──そう思っていた。

 

 自分一人で何もかも気を配れるわけではない。そんなことは分かっていた。

 だからこそ多くの人の手を借られるように、たくさんの人があの子を助けてくれるように、そのために他人との信頼を育てて縁を結ぼうと奔走した。

 

 実感はあった。

 エーデルガルトを守る意志が示すまま、誰かの助けになりながら、これならあの子を守ることができるという充実感さえ覚えた。

 

 ──全部、間違いだった。

 

 助けにはなれただろう。

 信頼は育てられただろう。

 人々の縁は確かに結ばれた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 ベレトが違和感の正体に気付いた時には、遅すぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはガルグ=マクの清掃作業の途中に起きた。

 帝国と同盟との和平会談、そのほんの少し前のことである。

 

 セイロス騎士団との戦いで人的被害こそ少なかったものの、市街のあちらこちらが壊されることは避けられなかった。すぐにでも直すべく瓦礫の移動や家屋の修繕が急がれた。

 もうすぐ同盟の盟主を招いて和平会談が執り行われるガルグ=マク。大修道院だけでなく、市街の見栄えも少なくない影響がある。殺伐とした雰囲気が漂う場所で和平も何もないだろうし。

 アビスにも呼び掛けるなどして多くの人を動員して修復作業が進められた。

 

 そういう力仕事ならとジェラルト傭兵団も乗り出して作業に加わった。

 瓦礫の撤去。資材の運搬。家屋の修繕。それ以外にも怪我人の面倒を見たり、時には大人数用の料理を作ったり、やることはいくらでもある。

 もちろんベレトも作業に加わった。他の傭兵達と列を成して家の支柱にもなる丸太を一人で数本ずつ運ぶなど周りからの二度見を浴びながら、自分にできる仕事に励んだ。

 

 そうして作業を手伝っていたベレトに近付く人影があったのだ。

 

「聖者様……」

 

 初めは聞き間違いだと思った。

 

「あなた様が……」

「おら達を救ってくださる……」

「ありがたや……ありがたや……」

 

 何人もの人が集まり、祈るように手を合わせてきたのだ。

 まるで聖堂の女神像に祈りを捧げるように。

 

「……どうかされましたか?」

 

 戸惑いながらベレトは足を止めた。偶然にもこの時一人で動いていたので自分だけで対応するしかなく、周りから集まってきた人に囲まれる形になる。

 

「ああ、聖者様。畏れ多くもお礼を申し上げたく、お探しておりました」

「その……聖者様、というのは誰のことですか?」

「何を仰いますか、あなたのことですよベレト様!」

「……え?」

 

 この時ほど呆気に取られたことはなかった。

 

 聖者?

 誰が?

 俺が?

 

 目の前の人が何を言っているか、本気で理解できなかった。

 言われたことを脳が拒む思いをベレトは生まれて初めて経験した。

 

「あなた様がいてくれたから──」

「わたしたちの行く先を守ってくれて──」

「セイロス教の新しいリーダーに──」

 

(……何だ、これ)

 

「またお祈りするようになりまして──」

「うちの子にベレト様のことを教えて──」

「レア様に続く新しい大司教様が──」

 

(……この人達は何を言ってるんだ)

 

「すっげえ珍しい紋章をお持ちだとか──」

「あんたさんがいてくれれば安心だし──」

「こら失礼だぞ。でもあなた様が守ってくださるのが──」

 

(……誰に向けて、何を見て)

 

「どうかわたし達を、フォドラを導いてください──」

「ベレト様──」

「おら達の新しい希望──」

 

 口々に向けられる言葉に追いつかない。

 いくら頭を働かせても空回りしている気しかしない。

 

 それでも、今ここで何を言っても通じないと想像することはできた。

 

「……作業に戻ります」

「ああ、お引き止めして申し訳ありません。お気を付けくださいませ」

 

 踵を返し、彼らから離れるために早足で動く。

 

「本当にありがとうございます──」

「わたし達の救世主様──」

「お慈悲に感謝を──」

「ベレト様──」

「聖者様──」

 

 離れる背中に投げかけられる言葉を声として捉えられない。

 それらが応援を意味するものなのだと理解できても、ベレトにはまるで自分を追い立てる刃のように感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 違う。

 これは違う。

 この状況は絶対に違う。

 

(何も変わってない……!)

 

 ベレトの中で思考が止まらない。

 

 これでは五年前の、エーデルガルトが決起する前と状況が変わっていない。

 セイロス教がフォドラの中心になり、紋章を持つ貴族とその後ろ盾になっているセイロス教団が社会を動かす、かつての世界のままだ。

 レアを頂点にした旧教団がベレトを頂点にした新教団に入れ替わっただけで、平民達の意識はほとんど変化がない。

 

 人々の意識はそう簡単に変わらない。そんなことは分かっている。

 それでも動きに合わせて何かしらの変化があっていいはずだ。ベレトだけでなく、エーデルガルト達が五年かけてさんざん働きかけてきたのだから。

 なのに、彼ら平民の価値観は今も同じ。紋章を重んじ、教団の威光ありきの常識が変わっていないではないか。

 

 先ほど集まった人々の視線を思い出す。

 ベレトに向けられる目は確かに好意的だった。しかしそこに乗る感情は親しみや尊敬を通り越して、崇拝の域ではなかっただろうか。

 これではかつてのレアの立ち位置をベレトに挿げ替えただけだ。

 

(さっきのはたまたまそういう人が集まっただけ?)

 

 エーデルガルトの意思が直接叩き込まれたこのガルグ=マクで?

 

(俺が今まで感じた違和感の正体はこれなのか?)

 

 エーデルガルトの意思が広まっていると勘違いしていた?

 

(このまま事が進めばもっとズレていく?)

 

 エーデルガルトではなく自分が中心の社会ができつつある?

 

 ベレトは偉くなりたいなどと思っていない。

 平民から成り上がりたいだとか、人々の中心に立ちたいだとか、そんな野心は一切ない。

 教師としての役目や傭兵団の頭として責任を負う立場だという自覚はあるが、だからと言って自分が彼らの上にいるなどとは欠片も考えていない。

 むしろ、生徒からは逆に学び、仲間にはいつも感謝している。少なくともそういう意識を抱えている。口に出すことは少ないかもしれないが。

 

 当然、王になる意思なんてない。

 ましてや、大司教になる考えなんて頭の片隅にもない。

 

 だというのに、先ほどの彼らの様子を見るとまるでベレトこそがフォドラの中心人物であるかのような扱いではないか。

 エーデルガルトという国を率いる傑物はいる。レアは今も大司教としてセイロス教団の旗本だ。

 それなのに、いつからこうなった。最初からやり方を間違えたのか。

 

 この状況が変わらないままだとどうなる?

 平民の目がエーデルガルトではなくベレトに向いている今、戦争を停めて三国が和平を結んだとして、セイロス教団がどんな扱いになるか。

 かつての教団と敵対しても、セイロス教自体は否定していないと表明したエーデルガルトの政策によって新しい教団が設立されることは予想できる。

 その中心は間違いなくベレトになるだろう。

 

 フォドラの中心的存在となって過剰に崇められていたセイロス教団。五年前から変化がないとすれば、新しい教団になっても同じように支持を集め、権力も戦力も過剰に集まっていくのではないか?

 政治力がないベレトにその流れをコントロールできるとは思えない。自分にできないことはできる人にすぐ頼る主義のベレトではあるが、教団のトップに据えられた身で同じことをやろうとすれば角が立つのではないか?

 皇帝、国王、盟主に力の分散を持ち掛けたとしても、フォドラで一番大きな組織が国の政治に口を挟む構図になりかねない。それはかつての教団と同じ動きをしていることになってしまうのではないか?

 

 紋章の価値を支える教団がかつてと同じように過剰な力を持つ組織になってしまえば、それは同じようにエーデルガルトの野望の妨げになるということ。

 即ち、同じことの繰り返し。

 

(俺が……エーデルガルトの敵になる?)

 

 ゾッとした──それはベレトが初めて覚えた感情。

 

 状況が予期しない方向へ進んでしまうことはよくある。

 一度悪い方へ傾いた戦況がもっと悪くなるのも珍しくない。

 そんな時でもベレトは冷静に立ち回ることができた。

 困難を当たり前のものとして受け止め、改善させようとする思考と力を叩き込まれていたから。

 

 だが、これはもう……どうしようもないのではないか?

 自分には、否、誰であろうとどうにもならない。

 目指していた理想からはかけ離れ、破綻してしまっていることに気付かされる。

 

 この時、ベレトの中に生まれた気持ちを言葉にするなら。

 それは無力感と呼べるもの。

 

 

 

『俺はエーデルガルトを守る。そのためなら何でもする』

 

 

 

 自分の言葉がこれほど虚しいものだと感じたのは初めてのことだった。




閉じる:開いていたもの、部分をふさいでしまう。今まで続いたものを終わりにする。

綴じる:ばらばらのものを一つにする。一つにつづり合わせる。縫いつける。

作者の活動報告に載せた後書き


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