CisLugI遺譚~残骸は安らぎを嘲笑う~ (あんころもちDX)
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貴方にとって自殺は、――『やり直したい』

「死 に た い」

 

 誰かの、その言葉が聞こえた。

 

 その言葉を呟いたのが誰なのか分からず、頭にぽっかりと穴が空いたので意味さえももうよく分からない。記憶すら朧気(おぼろげ)だ。

 単純な実験だったからなのかもしれないし、自分自身の好奇心によるものだったからかもしれないし、はたまたもっと譲れない感情的なものがあったからかもしれない。

 うーん……分からない。

 どんな可能性を考慮してもやはりしっくり来ない。そう、来ない。

 所詮、人間というのは水とタンパク質の塊。それがどんなにぴーちくぱーちく喚こうが地球(ほし)からすれば些事に過ぎない。

 地球(ほし)が定めたシステムの一つに過ぎない。そんな一つ一つのクレームに対処してたらキリがないだろう。

 だからぼくが理由を模索することにも、決して意味はない。つまらくて、関心を得るような権利すらなくて。

 誰にとっても、どうでもよくて。

 でも。

 

 どうして、ぼくは、命を、もっと、信じられなかったのだろうか?

 どうして、人は、死を、容易く望むと、勘違いしていのだろうか?

 

 ぼくは、何のために、――を目指した?

 ――を、生かすため? それとも、死なせるため?

 

 頭の中にノイズが走って思考が定まらない。吐き気にも似た不快感が襲ってくる。

 

――ああ、気味が悪い。

 

 手首に着けられた起爆リングに向かって目玉だけを動かす。

 ――『尊厳維持装置』。人々に、よりクオリティの高い死を提供するための舞台装置。

 ただ一言「死にたい」と呟けば、脳内に仕込まれた爆弾を起動させ、数秒の後に死を与える。

 カウント内であれば、「生きたい」と呟けば取り消せるらしいが、個人的にこれは蛇足な機能だろう。「死にたい」という言葉の重みを軽んじている。

 「死にたい」と決意した覚悟を、嘲笑(わら)っている。

 だからこれもまた、ぼくを嘲笑(わら)っている。そうに違いない。

 

 一瞬の衝撃、穴が空いた頭、痙攣する四肢。

 衝撃は収まり、穴は塞がり、四肢は静止する。

 ぼくは死んだ。それでいてぼくは始まった。

 安らぎは果たして、ぼくにとっての『救済』か、それとも――『嘲笑』か。

 誰かにそれを、見定めてほしい。

 それだけを、今は願う。

 

 

「さよなら、ヤスラギ」

 

 

 

「おはよう、シスラギ」

 

 

 

 

―――――   ―――――   ―――――

 

 

 

「迷惑だなぁ、死に場所くらい考えろっての」

 

 

 そう、誰かが呟いたので目を開いた。

 いつも通り、ゴーグル越しに見える世界は少し薄暗く赤い。それを安心したように思う僕は、もう既に感覚が麻痺しているのだろう。

 辺りを見回して、眠っていた頭を動かそうと状況把握に努める。

 僕が乗っていた電車は停車しており、気づけば人だかりができているようだ。

 様子から察するに、誰かが電車内で『自爆』でもしたか。……全く、ホントにいい迷惑だ。

 現在の駅を確認すれば……おいおい、取材場所までまだまだ先じゃないか。

 思わず溜め息を吐く。電車は一時的に停車予定、次に動き出すのは未定。とりま、目的地まで歩きなのが決定。

 ……韻を踏んでる場合か。

 とりあえず自分が勤める会社の社長にメールで連絡を入れようと携帯電話を取り出してメール画面を開く。

 動物園には間に合いません、と。

 送信してから数分も経たず、メールが返って来た。

 

『代わりのネタ掴んでくるまで帰って来るな』

 

 ははは。これは残業決定だろうか。

 

「さて、どうすっかなぁ……」

 

 まあ、ネタならこの自爆騒ぎがあるからちょうどいいのだが。

 せめてどんな奴が自爆したのか、顔だけでも一目見てやろうと人だかりを掻き分けて件の自爆者を見つめることにする。不謹慎だが、あわよくば写真が撮れれば御の字だ。

 所属する会社の先輩から戴いた中古のミラーレスカメラを握り締めながら歩く。

 すいませんねぇと声をかけながら一歩、また一歩と足を進める。

 

「――っ」

 

 僕は、彼女だったもの(・・・・・・・)を見た。思わず、口を閉ざしてしまった。

 少女はシートに座っていた。座ったまま、瞼から血を流して死んでいた。まるで涙を流しているようだった。

 床に目玉が転がっていることから、目を開いたまま脳内の爆弾を起動させ、その衝撃で飛び出したということが容易に想像できる。

 転がる目玉と己の目が合う。何故か心がざわついた。

 目玉の奥に何かこちらに伝えようとしている意志の残滓のようなものが感じられる。

 それが何を意味しているのかは、分からない。

 ただ、と、不謹慎にも安堵してしまった。端から見れば眠ったように停止していることに。

 彼女は、感染(・・)していない。彼女は、動かぬ死体(・・・・・)のままだ。

 

「……それがせめてもの救いか」

 

 写真を撮ろうなどと思う気持ちは、呆気なく霧散してしまった。

 もし彼女が死体のままじゃなかったら……そう思うだけで吐き気がする。

 そんな最低最悪事態にならなくて良かったと、本当に思った。

 

「……あ、ミミズだ」

 

 すると、誰かがそう口を開いた。

 視線を向ければ、死体回収を目的とするマスクを着けた黒服の集団――『ミミズ』が人混みをどけるようにして進軍してきた。

 そして、それを率いるのは赤い腕章を着け、黒いカラスのマスクを着けた男――『ムクロ』。

 ムクロはこちらを一瞥した後に、部下に対して少女の死体を回収するように指示をした。

 その後、死体回収の邪魔になるからと無理矢理に電車から降ろされた。

 

「赤い腕章付きか……」

 

 自分の手首に巻かれた腕輪状のデバイスに目を向ける。

 人の尊厳死を司る『尊厳維持装置』。――別名『起爆リング』。

 これに一言「死にたい」と伝えれば、脳内に埋め込まれた小型爆弾が十秒ほどで起爆し、速やかに死に至る。

 人は、自殺してもいい権利を得たというわけだ。

 赤い腕章を持つ者は、その尊厳維持装置の保全を目的としているならあらゆる手段を行使可能な権限を国合から与えられている。

 

 なんとなく、黒いカラスのマスクを着けた男に対してカメラのレンズを向けた時。

 

 そんな時だ。

 

 ふと、視線を感じた。

 辺りを見渡した際に、寒気が背中に走る。いや、歓喜とでも言うべきか。

 

「……」

 

 遠くの方で佇む、胸に青いドライフラワーを着けた男が立っていた。

 喪服のような黒いスーツ、それ故に胸元のドライフラワーの青さが際立つ。

 男は穏やかな笑みを浮かべていたが、それでいて静かに涙を流していた。

 

 そんな様子で、()を見つめていた。

 

「――っ」

 

 まるで、僕という存在を全て見透かしているようなその男に、とてつもない苛立ちを感じた。

 

――お前に、何が分かる……っ!!―

 

 苛立ちはやがて怒りに徐々に変わっていく。

 きっと全てを知っていたであろう男、にも関わらず、言いたいことだけ言ってそれを見逃した男。

 忠告はしたと、そう告げて。

 今すぐにでも男の元まで駆け出したかったが、電車から下車する人々の波に流されてしまい、思うように動けない。

 

「くそ……っ!」

 

 自分の唯一の味方である本能が告げる。あの男は決して逃がすな、と。

 人の流れに逆らおうとすると、無理矢理にでも人混みを強引に掻き分ける。

 案の定、あちらこちらから苦情の声が聞こえてくる。

 

「ちょっと、いきなり何よ!」

 

「人の迷惑も考えられんのか!」

 

「いってえな、このクソガキ!」

 

 そんなの関係あるか、お前らの指図を受ける気はない。

 その思いで、歩みをただただ進める。あの男に手を伸ばす。

 

「待て!!」

 

 どんどん、あの男の背中が小さくなっていく。あの男に追い付かない。

 見失わないように視線で追うが。

 

「……あ、ぶつかってしまい、申し訳ない」

 

 普通のサラリーマンのような人物、とても顔色の悪いのが特徴的だった。

 どこかで見覚えがある気もするが、今はそんなことはどうでもいい。

 だが、ここははこちらも謝っておくべきだ。

 

「いえ、こちらこそ申し訳ありません」

 

 そう謝ると、男の方も軽く会釈してから僕の横を通り過ぎていく。それにしても、ずいぶんとやつれた印象を与える男だった。

 そんな男と正面からぶつかり、僕の歩みは簡単に止まってしまった。

 結局、僕の勢いは大衆に呑まれ、流れに身を任せるしかなかった。

 あれほど人混みを掻き分けてでも前に進もうとする意志を失ってしまった。

 何故か。

 

 今の一瞬でもう、あの男を完全に見失ってしまったからだ。

 

「あいつは一体、どこに……」

 

 見失った影を見つけようと辺りを見回すものの、まるで最初からいなかったかのように姿を消していた。

 そこで、耳元で怪しげな声が通り過ぎる。

 

――「『安らぎ』を得られなかった君を、俺は救えない。それがただただ、悲しいよ」――

 

「――……」

 

 人に流される。流されるまま、体に力が沸かない。

 俯いたまま辿り着く先は、渋谷駅の改札口。

 そこから広がる町並みとそれらを包む太陽光と、喧騒とした人々の営みの声。

 

「見間違いなんかじゃなかった」

 

 あの日から二年間。ついに進展が起きた。

 

「――ようやく、見つけた」

 

 探し人は意外なところで見つかるものだ。

 二年前、あと一歩のところで獲物の尻尾を掴めずに取り逃した。

 その獲物の行方に繋がるかもしれない存在と、まさかこんな形で相まみえることになるとは。

 耳に掠め通り過ぎていったのは決して憐れみの言葉ではない、あれは自分に対する明確な宣戦布告。

 ……上等だ。

 青白くなった自分の拳を強く握り締め、もはや機能不全となった起爆リングを見つめる。

 

「ついに見つけたぞ、桐谷革恭……っ!!」

 

 探し求めていた男を見つけた。

 この身にかけられた呪い、それを解くための手がかりとなる男。

 呪いの元凶たるあいつ(・・・)へと繋がる重要な男。

 あのミミズを率いる男と同じ赤い腕章、それを持つ男。

 くすぶりかけていた己の魂が、もう一度小さく再燃し始めたのを噛み締める。

 そこまで考えた後に、先ほど自爆した少女の姿が頭に過る。

 

 静かに死を――安らぎを選択した少女。目を閉じていれば楽なものを、最期の最期まで世界を見つめ続けた少女。

 彼女にとって、死の間際のこの世界はどのように映ったのか。

 死にながら生きてる(・・・・・・・・・)自分が見つめて認識している世界と、どのように異なるのだろう。

 自爆した少女に、死を崇拝する男。今日という日にここまで心を揺さぶられる状況に遭遇したのは決して偶然ではないように感じられる。

 いや、そもそも彼女は本当に自分の意思で自殺したのだろうか。……よそう、そんな可能性は考えるだけ無駄な話だ。

 これは誰かが仕掛けた罠か、それともただの悪戯(いたずら)か。

 

「関係ない。そんな意味のない思惑(おもわく)なんて、クソ食らえだ」

 

 

 僕達にとって、全ては五年前に始まった。

 その因縁に、今度こそ終止符を打ってみせる。

 

 

 なぜ少女は死んだ? 意味なんてない。

 なぜ男は現れた? 意味なんてない。

 なぜ僕はこの町に立った? 意味なんてない。

 三つの事象に密接な繋がりもなければ、そこに見出だすべき意味なんてない。

 世界に意味があることなんて決まっている。

 

 人は『死』に支配されて『生きる』か。

 人は『生』を克服して『死ぬ』か。

 

 対立する生命の尊厳への解答だけだ。

 

 僕の目的はあの日から変わらない。生命の尊厳を奪われてから何一つとして変わるわけがない。

 そんな自分の覚悟を一つ一つ咀嚼していくように、営み溢れる町中を歩く。一歩一歩に力を籠める。

 

 そう、これは生命への反逆。

 恐らく地球上で唯一『死にたい』と願う生命体に対する皮肉の物語。

 止められた命を抱いて、それでも歩き続ける者の、『安らぎ』への嘲笑なのだ。

 

 死への『安』心『安』全『安』寧、そんな『安』易なものを一つ残らず消し去ってみせよう。

 

 

 どうか全ての者に、生きる意味……

 ――死す『 』らぎ、があらんことを。

 

 



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前編

 この世界には『尊厳死の権利』というものがある。

 分かりやすく言えば『死にたい時に死んでもいい権利』と言うべきか。

 そのためのシステムとして採用されているのが、この手首に嵌められた起爆リング──『尊厳維持装置』だ。

 健康診断などで体内に小さな楔状の爆弾を入れられ、血液に乗った爆弾は脳に到達すると共に固定される。

 起爆リングに一言『死にたい』と伝えれば数秒後に爆弾が起動し、脳を破壊することで痛みを感じずに安らかに死ねるらしい。

 取り消すのならば『生きたい』と、死への覚悟を撤回すればいい。

 そして死んだ体は解体され、全世界のドナー待ちの患者へと提供される。

 そうだ、世界はうまく回っている。死にたい人間には死を提供し、彼らの死は生きたい人間の命を繋ぐ土台となっている。

 実にシンプルで合理的なシステムだろう。合理的すぎて気に入らないが。

 別に生命への冒涜だとか、そんな高尚なことを述べたいわけではない。

 ただ、『死』と『生』のバランスを『需要』と『供給』の関係に捉え、自身をあたかも神の見えざる手だとでも主張したい奴の澄ました顔に、一発拳を叩き込みたい衝動に駆られる。

 

 

「ぁ──―ぁぅ…うぁぁぉおおぉ」

 

 時間は夜。薄く光る街灯に照らされ、まだ昼の声が余韻として残った公園に似つかわしくないほどの呻き声が響いた。

 ……いや、似つかわしくないというのは少々語弊があるか。この公園は俗に言う『自爆推奨場』として認定されている。

 自爆するなら人前ではなくここへ。そんなキャッチフレーズが付く場所なのだ、ここは。

 ある意味、残骸の巣窟として相応しいかもしれない。

 

 そう、残骸。

 

 足を引き摺る音、不規則に揺れる影、目から流れ出る赤い血。

 命なき者の徘徊。それが三つ。

 個人的には、人通りが多い昼に自爆されなくて良かったと思いつつ、この人気(ひとけ)のない夜に自爆した意味を考える。

 単純に誰にも自分の死ぬ姿を見られたくなかったのか、帰るべき家すら失って絶望したのか、それとも……自分が感染者(・・・)だと悟ったか。

 

 どれでもいい。……どうせ意味なんてないのだから。

 

 そう思ってるのについつい考えてしまうのは、自分がそういう個人の事情に好奇心から気になってしまうからだろうか。

 やはり理由は分からない。

 それを考えるだけの脳を、命を、思考を、既に奪われてしまったのだから。

 だから今は、もう余計なことを考えず、ただただ目の前の現実に専念しよう。

 

「──仕事(ケジメ)開始(スタート)

 

 そう呟いて、自分の中でスイッチを切り替える。フードを深く被って、瞳を覆い隠すゴーグルの位置を調整する。

 その後はゴーグル越しに見える対象へと一気に距離を詰める。

 

「はあああああ!!!」

 

 勢いよく駆け出して飛び上がり、歩く残骸の頭を掴んで地面に叩きつける。

 僕という存在を認識した奴らはこちらに向かってくる。

 先ほどのようなゆっくりとした動きではない。獲物を見つけた野獣のように、猪突猛進にこちらへと突撃してくる。

 

「ぁぁぁうぉぁあっっっ!!!!」

 

 それはまるで死肉に群がろうとするハイエナのようだと感じた。

 向かってくるのは二人。地面に叩きつけた奴もジタバタと暴れ始める。

 赤い血の涙を浮かべてこちらを襲おうとする存在──世間ではそれを『自爆ゾンビ』と呼んでいる、らしい。

 

「まずは一つ」

 

 頭を掴む手に力を籠める。やがてミシミシと軋む音と共に頭蓋骨にヒビを入ったのが分かる。

 これで些か抜きやすくなり、確実に一体仕留められるようになった。

 

「────破ッッ!!」

 

 そのまま掴んだ手を一旦離しつつ、手首を捻らせてから親指を曲げる。その後、自爆ゾンビの顎先に向かって一歩足を前に出してから掌底で打ち抜く。

 

「ぁぅうぇっ?!」

 

 ぶしゅ、という何かが抜けたような音が聞こえ、一体目の自爆ゾンビが地面に伏す。

 横目で見れば地面に二つの赤い楔のような物体が転がっていた。

 続いてこちらに襲いかかってくる自爆ゾンビの内、向かって右側の方へ掌を向け、その顎先に打ち込む。

 

「おごぅぉえぅ!!」

 

「もう一発!」

 

 やはり頭蓋骨にヒビを入れないといまいち抜けないようだ。

 なので()かさず掌底を再度打ち込む。

 

「────ぅぅ……」

 

 沈黙して地に伏し、地面に転がる赤い楔を確認。力加減を弱く設定しているとは言え、二発打ち込んだためか顎先の骨が潰れてしまったのはご愛敬としていただきたい。

 さて、ついに最後の三体目だ。

 こちらに両手を伸ばして突撃してくるのを見て、まず相手の右手首に対して貫き手の構えで手刀を打ち込み、同時に骨盤に蹴りを入れる。

 これによって体のバランスが崩れたのを見て、相手の伸びたままの左手を掴んでこちらに引き寄せ、右手で頭を掴んで力を籠める。

 なるべく中身を潰さず、骨だけに亀裂を入れる。

 

「ぁうぇおぅぅ!!」

 

「良い安らぎを、ってね」

 

 最後の仕上げとばかりに右手で掌底を顎先に打ち込んだ。

 やはりぶしゅっという音と共に地に伏すのだった。

 

「ほい。本日の仕事(ケジメ)完結(フィニッシュ)

 

 公園に転がる三体の死体と六本の赤い楔。

 僕は三体の死体を担ぎ上げてから六本の楔を全て回収すると、それらを近くのゴミ処理場へと運び、夜間で警備が薄いことをいいことに無断で侵入する。

 

「夜間にお邪魔しますよー、っと」

 

 誤解しないでほしいのは、別にそのまま生ゴミと一緒に死体を違法投棄するわけではない。

 ただ、燃やすのだ。

 ゴミ処理場へ設置されている焼却炉に入れて、燃やす。

 彼らは燃やさなければならない。そうしなければ、パンデミックが起こるのだから。

 この世に自爆なんてものがなければそんなことしなくて良かったのに。

 それだけではない。

 

「僕には、義務がある」

 

 彼らの最期を見届けるという義務が自分にはある。

 彼らが燃える光景をしっかりと見なければならない。

 何故か。意味はない。

 だが、道理はある。

 

 自分の手に触れる。生物としての脈動はなく、生きているとは思えないほどに体温は低く、それでいて硬い。まるで死後硬直のようだ。

 およそ生物としての感触ではない。

 自分の安らぎは、止まった。自分の中の時間は、止められてしまった。

 

「僕達は安らぎを求めて自爆した。死者は生者の役に立つのがこのシステムのはずなんだ。なのに、僕達は生者を襲いたくて仕方がない」

 

 それに終止符を打つ。僕が打たなければならない。

 それが、唯一人としての自我を取り戻した自分に課せられた役目だと、彼らにはできない自分だけの義務なのだと、そう信じている。

 

「僕達に必要なのは『安らぎ』なんかじゃない、決定的な『終わり』だ」

 

 それだけを求めて手がかりを探し続けた。

 あの日から、あの三年前から、ずっとずっと死に恥を晒し続けて来たんだ。

 

 

 

 

────―   ────―   ────―

 

 

 三年前。

 あれは、そうだ。電車に乗っていた。

 確か、そうだな。全ての元凶たるあの女が開催したゼミの帰り道だったな。

 ──『永遠乘(とわの) (みこと)』。尊厳死反対派の筆頭にして、あらゆる命を救うという目標を掲げる女性の研究者。

 黒く長い髪を(なび)かせ、白衣を着た妖艶(ようえん)な人だった。

 彼女のゼミに参加すれば、母を救うヒントがあるのではないかと考えたんだ。

 ゼミはとても有意義だった。ただ、それでも直接的な収穫は得られなかった。

 しかしゼミの終わりに、彼女から紫のリボンでくるまれた一つの白い小箱を渡された。

 

──なるべく人の多い……そうだな、電車内とかで開きなさい──

 

 そう言われたが、その際には発言の意図がよく分からなかった。

 後から思い返せば、あんなものは絶対に受け取ってはいけなかった。

 その日は、ゼミが終わった後はすぐに母の入院する病院にへと向かわなければならなかった。

 そんな時の電車内で、僕は出会ったんだ。いや、出会ってしまったんだ。

 

「やあ、こんにちは」

 

 胸に青いドライフラワーを持つ男──自身を『桐谷』とだけ名乗った男。奴はどこか怪しい雰囲気を持ちつつも、人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。

 電車内は平日の昼だからか空いていて、ちょうど僕が座るシートに向かい合うように奴も座っていた。

 奴は僕に笑みを浮かべた後、すぐさま僕の手の中にある白い小箱を見つめる。

 小箱には優曇華(うどんげ)の花のシルエットが刻まれており、紫色のリボンで包まれていた。

 その観察するような視線に、どことなく不快感が体全体に走った。

 だが、奴はまるでこちらの心の隙を巧みに見極めながら、少しずつ少しずつ侵食してきた。

 最初は他愛のない話でこちらの警戒心を解き、僕の何気ない言葉から悩みを見抜き、それに対しての具体的な対処方法と……何よりもまるで僕のことをなんでも理解しているかのようにさえ思えた。

 

「そうか、君は医者になりたいんだね」

 

「はい。()の母が病気で、なんとしても助けたいんです」

 

 当時、母はまだ特効薬もなく発症事例も少ない極めて珍しい病気にかかっていた。

 父は僕に医学部を目指すように言い、そして自殺した。

 自殺しても保険金が支払われる珍しい会社だったので多額の保険金が降り、それらは母の入院費と僕の学費に充てられることになった。

 母は凄く泣いた。父が死んで、凄く泣いていた。

 その上で、僕に「絶対、お母さんを治してね」と言ってくれた。

 だから僕は、医者にならなければならない。そうでなければ、父の死に意味なんてなくなるから。

 

「それは素晴らしい。君のようなお子さんを持って、お母さんはとても幸せだろうね」

 

「ありがとうございます。桐谷さんは精神科医なんですよね」

 

 その時の僕は奴を羨望の眼差しで見ていた。僕が目指すべき姿が、奴なのだろうとこの時は思っていた。

 

「色々と話を聞いてもいいですか?」

 

「そう大したものじゃないよ。現に、俺の専門分野では君のお母さんを救うことはできないだろう」

 

 そう申し訳なさそうに言った後だ。

 

「だけどね」

 

 その言葉を皮切りに、奴の纏う雰囲気が切り替わったように思える。

 

「君になら、お母さんを救う方法がある」

 

「え……本当ですか?」

 

 奴はニッコリと微笑むと、僕に言い聞かせるように呟く。それはまるで、最高の方法であると錯覚させるような声音だった。

 

「簡単なことだ。自殺させてあげなさい」

 

「えっ……」

 

 言葉を失った。なんで、どうして。沸き上がる戸惑いに畳みかけるように、奴は僕の瞳を覗き込むように言う。

 

「君が医者になるまでに何年かかる? 研修期間も入れれば最短で七年。そこから特効薬ができるまで何年かかる? 基礎研究に二年、非臨床試験に三年、臨床試験に三年、承認申請と審査に一年、合計して九年だ。これは最短期間であり、一番長い場合はその二倍はかかると思っていい」

 

 つまり、ここから特効薬ができるまで最短で十六年、長くて二十五年。

 仮に留年してしまえば、もっとかかってしまう。

 

「俺は悲しいよ」

 

「っ!!」

 

 気づけば、奴は悲痛な表情を浮かべて涙を流していた。それは本当に、本当に痛ましかった。

 実際に痛みを感じているわけではない。だが他人の身を本気で案じているからこそ、奴はその誰かの痛みに涙を流す。

 

「君は確かに母親を愛している。だが君のお母さんは、それだけの期間、ずっと病魔と戦って苦しまなければならない。生かされなければならないんだよ」

 

 僕のやり方は母を苦しめている。必ず特効薬ができるかどうか分からないのに、そのために母を生かし続けるのは罪──いや。

 

「これは、拷問にも等しい。そうは思わないか?」

 

 僕も、そう思った。思ってしまった。

 僕が母をそれだけ病室のベッドに縛り付けるのは、病気で苦しませるのは、生かせるのは──きっと、度しがたいほどの身勝手さだ。

 でも。

 

「それでも、父は母のために自殺しました……」

 

 それじゃあ、父の自殺に意味はなかったのか?

 母が僕に言ってくれた言葉に、本当に意味はなかったのか?

 

「母にもっと生きてほしいと願うのは、そんなに悪いことなんですか……?」

 

 僕の言葉に一度頷くと、少しだけ薄ら寒い笑みを浮かべてこう言った。

 

「医者を志すのならば、一つ忠告しておこう。医師は常に患者の有益になる治療法を提供しなければならず、不利益を与えてはいけない」

 

 医師の倫理の一つ。当然のことだと認識している。

 

「特効薬──つまり新薬には、開発してからすぐに使用すると大きな落とし穴がある。……試験段階では見つからなかった副作用の存在だ」

 

 特効薬の影に隠れる副作用の存在。勿論、そのことだって分かってる。

 

「特効薬によって病は確かに治るかもしれない。だが同時に、致命的な副作用によってそれ以上のダメージを肉体に与えてしまうリスクも考えられる」

 

 奴は視線だけで僕に問う。お前に母親の命を背負うだけの覚悟があるのか、と。

 お前がやろうとしていることは、長い年月を待たせた母親を新薬のモルモットにするのと同義なのだ、と。

 

 

「自殺による安らぎと未知の特効薬、果たしてどちらがお母さんにとって有益なのか……それをまずは考えてみるといい」

 

 奴に言われた言葉に詰まる。どちらが母さんにとって本当に幸せなのか。

 もう母さんの人生にはこれから先、あれほど愛した父さんは存在しない。

 病気が完治したところで、父さんは決して帰ってこない。

 もしかしたら、取り返しのつかない副作用によって今よりもっと辛い人生を歩ませてしまうかもしれない。

 それなら、潔くその生命を終えて、────父さんの元へ送り届けた方が。

 

 そこでちょうど電車が止まってドアが開く。

 奴はニッコリと微笑むと立ち上がり、僕に言う。

 

「苛めてしまってごめんね。でも、これから医者になればこの手の問答は常に君の心を締め付ける。これは絶対に避けられない」

 

 「それと」と付け加えて、白い小箱を指差す。

 

「最後の忠告だが、その箱は早々に捨てておいた方が良い。……まあ、これから味わうであろう母親の苦しみを共有したいのなら、止めないが」

 

 そう言って奴はこちらを振り返ることなく、「君と君の母親に、死す安らぎがあらんことを」と告げて去っていった。

 それを眺め、やがてドアが閉まる。

 まだ母の病院まで遠い。再び電車が走り始め、ガタンガタンという耳慣れた車輪の音が聞こえる。

 

「これを、捨てろ……?」

 

 永遠乘から受け取った白い小箱に視線を落とし、軽く振るが特に何の音もしない。

 

──なるべく人の多い……そうだな、電車内とかで開きなさい──

 

──その箱は早々に捨てておいた方が良い──

 

 果たしてどちらの意見を優先すればいいのか、分からなかった。

 ただなんとなく中に何が入っているのか気になって、好奇心から紫色のリボンを解いてしまった。

 まさに好奇心は猫をも殺すというやつだ。

 

 次の瞬間。

 

《────ダイダ・ロス散布準備開始。五、四、──》

 

「なっ──」

 

 そんな電子音が電車内に響いてしまい、思わず地面に落としてしまった。

 

《三、二、一……散布開始》

 

 小箱から赤黒い煙が噴出し、電車内に広がる。

 

「うお、何だこれ──がっ、ごほっ、ごほっ!!」

 

「ちょっと、もしかして火事?!」

 

「隣の車両に逃げろー!」

 

 あっという間に電車内はパニック。煙を吸ってしまった客は皆一様に咳き込んでその場に倒れてしまう。

 僕もまた、煙を吸ってしまったことでその場に伏した。

 

「ごほっ、こほっ……!」

 

 喉が焼けるように熱い、肺が痒い、目が潰れるように痛い。

 苦しくて、一歩も動けない。

 自分のように泣き叫ぶ人々の声が聞こえる。見なくても分かる。

 たった数秒で電車内は阿鼻叫喚の地獄絵図となったのだ。

 脳内で響き渡るのは、あの男の言葉。

 

──まあ、これから味わうであろう母親の苦しみを共有したいのなら、止めないが──

 

 母さんの、苦しみ……?

 いや、それよりもどうして奴はあんなことを。まるで小箱の中身を知っていた(・・・・・・・・・・・)ような口ぶりだった。

 だが、屈するわけにはいかない。それだけはいけない。

 屈してしまえば、先ほどの自分の言葉を否定することになる。……母を、見捨てることと同義だ。

 そうだ、母さんだってこんなものより、もっともっと苦しい思いをしているんだ。

 精神的にも、肉体的にも。それなのに負けないで頑張ってるんだ。

 僕が医者になるのを、信じて待ってくれてるんだ。

 だから、きっと────。

 

 

──「死 に た い」──

 

 

 その呪詛が聞こえた。

 言ったのは僕じゃない。他人だ。

 今、自分以外の他人が、命を手放した。

 

《了解致しました。解除の場合は、再度音声での認証をお願い致します。起爆まで、十、九、八、七……》

 

 待て。待ってくれ。

 

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

──「死 に た い」──

 

 

《了解致しました。解除の場合は、再度音声での認証をお願い致します》

 

 あちらこちらで死を乞う言葉と、開始されるカウントで溢れかえる。

 やめろ、やめてくれ。

 そんな、死にたいなんて言わないでくれ。

 それが、大衆の意見なのだと。そんな風に勘違いしてしまいそうになる。

 この苦しみに対し、人は死を迷いなく選ぶと。そう言われたような気がした。

 それはすなわち、己が母すら、ある日ふとしたキッカケで死を選んでしまうという証明に他ならない。

 耐えきれなくなったら、もう……僕を置いて、簡単に逝ってしまうのだと。

 

《三、二、一……起爆します》

 

 そのアナウンスが流れてから次々に消えていく苦悶の声。

 苦しみから解放され、彼らを包むのは静寂な安寧である安らかな死のみ。

 

 

 

「──―ぁ……ぅぅ……」

 

 

 

 そんな時、うめき声が聞こえた。それも一つではない。

 僕の周りのあちこちからだ。

 ……なぜ? 皆、確かに自爆したはずだ。それなのにどうして。

 

「うぉえ……うぁうぅぅ」

 

 地に伏していた彼らの体は立ち上がり、不規則に左右に揺れる。

 瞳から頬を伝う赤い血の涙。

 ああ、この形相を見たことがある。大昔の映像媒体で見た──『ゾンビ』というやつだ。

 それらが一斉に、僕に襲いかかろうとしている。

 ……はは、冗談だろう?

 待てよ、意味分からねえよ。

 どういうことなんだよ、なんで……なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。

 もう、何が現実で、何が虚実なのか分からない。

 恐怖と戸惑いで頭がどうにかなってしまいそうだ。

 目の前のゾンビのようなものを見て思う。

 

 そういえば、ゾンビに襲われた者の末路とはどのようなものだっただろうか。と。

 

──ああ、そうだ。

 

「喰われて、死ぬ。……はは、生きてる奴の糧にすらなれやしないのか」

 

 もう、耐えるとかそういう次元の話じゃない。

 とにかく苦しくて苦しくて、でも死ぬには至らなくて。

 そんな生殺しに近い状態に加えて、未知の存在への恐怖心で足がまともに機能しない。

 こんな状態で、この自身を囲うゾンビの大群から逃げるなんて無謀としか言い様がない。

 だから、僕に残された選択は二つ。

 

 一つは、大人しくゾンビ共に喰われる。苦痛の中、喰われる恐怖に苛まれながら消えていく。

 

 もう一つは、……。

 

 そこで、起爆リングを見つめる。

 そう、『尊厳維持装置』。それにたった一言吹き込むだけで、苦痛を感じることなく死ねる。

 

 どうせ死ぬなら、楽な方がいい。母さんだって、きっとそうだ。

 きっと本当は、楽になりたいんだ。そうだ、そうに違いない。

 

 もう、僕の心は完全に折れていた。

 だからもう、起爆リングに付いたカードに触れる。

 たった一言、呟く。

 

死にたい

 

 僕は安らぎを求めた。命を手放した。未来を捨てた。

 死に、屈した。

 

《了解致しました。解除の場合は、再度音声での認証をお願い致します。起爆まで》

 

《十》

 

 いよいよカウントダウンが始まる。

 ああ、僕は選択してしまった。

 

《九》

 

 ゾンビ共が一歩ずつ、一歩ずつこちらへにじり寄ってくる。

 早く、早く死なせてくれ……。

 

《八》

 

 そんな鬼気迫る中、思い浮かぶのは父の顔。

 本当は死ぬのが怖いくせに、無理矢理笑顔を作って逝った。

 

《七》

 

 医者になれ。なって、母さんを助けるんだ。世の人々を、母さんみたいな人々を助ける立派な医者になるんだ。

 そう言い遺して、旅立った。

 

《六》

 

 続いて浮かび上がるのは、母。

 元々から体が弱い方で、それが原因で運悪く大病にかかってしまった。

 

《五》

 

 父さんが死んで泣いていた。きっと、本当はあの段階で母の心は壊れかけていた。

 治らない病魔からくる苦しみと、父さんが自分のために自殺した悲しみ。

 

《四》

 

 それでも、待ってくれると。僕を信じてくれた。

 母さんと約束をしたのに。

 

《三》

 

 なら、どうする?

 今更死を撤回するのか?

 お前の口にした『死』は、自分の都合で簡単にねじ曲げてしまえるほど、軽いものなのか?

 

《二》

 

 ……違う。

 そうじゃない。

 僕は、怖くなったんだ。

 奴に、桐谷に言われて。他人の命を預かることの重責に。

 自身の情熱に見合わない、それ以上の苦しみを母さんに強いてしまうということを。

 自分勝手に目指して、自分勝手に捨てたんだ。

 

《一》

 

 なら、やっぱり。

 (おまえ)は、医者には向いてない。

 自分の命にも、他人の命にも、どちらにも向き合えなかった(おまえ)じゃあ、誰も救えやしない。

 (おまえ)だ。他の誰でもない、(おまえ)が殺すんだ。

 

 

──ああ、それはなんて。残酷な話だ。

 

 

《……起爆します》

 

 

 頭の中が、弾けた。まるで風船が割れたような感覚だ。

 しっかりと目を瞑って祈るようにして、両親への謝罪を心の中で述べた。

 ただただごめんと、それだけを繰り返した。脳が弾けるその直前まで、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──どうして。

 

 

「自爆したはずなのに」

 

 

──どうして。

 

 

「死んでないんだ」

 

 

 ゾンビに噛みつかれている。痛みを感じない。

 首に手を当てる。脈なし。

 顔の前に手をかざす。呼吸なし。

 電車の窓ガラスに映る自分を見つめる。目から赤い血の涙が流れていた。

 

ぼく(・・)は、死んだ。はずなんだ。なのに、こんな……」

 

 思考ができない。口から出るものを理解できない。

 考えて喋れない。本能が口を動かす。

 起爆リングに向かって叫ぶ。

 

死にたい……」

 

《……》

 

死にたい……っ!」

 

《……》

 

死にたい!!!」

 

《……》

 

 尊厳維持装置は応答しない。それはもう、役目を終えてしまったとばかりに、僕を嘲笑ってる気がした。

 

「違う。ぼくは、死んだ。違う、死んでない。死んだ、死んでない。()は──……」

 

 

──「『死』に、置いていかれた……」──

 

 

 口にしてしまえば、吐き気が込み上げてくる。それでいて堪らないほどの飢餓感。

 とにかく、自身の体に群がってくるゾンビ達を引き剥がして逃げようとする。

 

《次は、──────────。──────────。お降りの際は、足元にご注意下さい》

 

 アナウンスが聞こえる。

 

──そうだ、母さんの病院がある駅だ。自分が降りようとした駅だ。

 

 開いたドアに向かって駆け出す。

 

「きゃああああああああああ!!!!」

 

 耳を刺す絶叫が聞こえる。視界の端で、電車から漏れでたゾンビ達がホームの人々に襲いかかっているのが確認できた。

 だが、そんなことになんて構っていられない。早く、早く母さんに──。

 

 そこで、また、あの男の声が頭に響いた。

 

──まあ、これから味わうであろう母親の苦しみを共有したいのなら、止めないが──

 

 これから味わう、苦しみ?

 これからって、いつだ?

 苦しみを、共有するって?

 それはつまり、これを母さんも、味わう?

 もし苦しんで、苦しんで、それで死を望んだら、どうなる?

 母さんも、ゾンビに──?

 

 そう思ったら必死に駆け出していた。

 道行く人々は、目から血を流す僕とすれ違う度に悲鳴をあげていた。

 そんなもの、気にしてる暇はない。

 

 それから、どうやって母の病室まで辿り着いたかは覚えていない。

 ただ、覚えている、のは──。

 

 

いぃ……くぃ……

 

 

 僕が、母さんを──。

 

 

「……おやすみ、母さん。父さんと、お幸せに」

 

 

 僕の腕の中で眠る母さんに、それだけ伝えた。

 

 

 

────―   ────―   ────―

 

 

 

 

 死体の焼却が、終わった。

 あの日、僕は全てを失った。将来への展望も、母の命も、自分の尊厳も……何もかもだ。

 だが、一つだけ残ったものもある。

 体はゾンビでありながら自我を取り戻した僕の手で、自爆ゾンビを終わらせる。終わらせなければならない。

 僕にあの元凶となる小箱を渡した、永遠乘。

 あの小箱の中身だけでなく母さんにまで被害が及ぶことを知っていた、桐谷。

 二人を必ず見つけだす。そして決着を着けなければならないんだ。

 

 それだけを糧に、僕はこの三年間、動かざるを得なかった。

 既に行方を眩ませた永遠乘の痕跡を追って、その過程で得られたウイルスのデータによってゾンビ化の発症メカニズムや、ゾンビ化を解くための方法を知った。

 

 人々がゾンビ化する要因、それは『Daed-(ダイダ・)Loss(ロス)』と呼称されるウイルスの作用によるものだ。

 ダイダ・ロスは血液によって脳に運ばれると、直ちに宿主の脳細胞に自身のDNAを打ち込む。そこからまるでドミノ倒しのように少しずつ体全体の細胞にダイダ・ロスのDNAが打ち込まれていく。

 その時点では特にゾンビ化は発症しないものの、尊厳維持装置の起爆による刺激がトリガーとなり、起爆時のエネルギーを吸収して活性化。活性化することでダイダ・ロスのDNAを打ち込まれた細胞は『ゾンビ細胞』へと変貌し、まずは脳の主導権を奪うことで宿主をゾンビ化させてしまう。

 その際、ウイルスの病巣は起爆し損ねた爆弾の残骸を根城にして集束する傾向にあり、これを脳内から取り除けばウイルスの影響力が弱くなり、ゾンビから死体へと戻ることができる。

 このように、自爆した場合にのみゾンビ化することから、一部メディアからは『自爆ゾンビ』と呼称されている。

 自爆ゾンビが人々に襲いかかるのは、慢性的に体を蝕む強い飢餓感によるためだ。ゾンビ細胞を維持するにはとにかくタンパク質が必要で、それを摂取するために目に映る生命体を手当たり次第に襲う傾向にあるわけだ。

 

 前述したように、ゾンビ化を解くためには頭の中に残留した病巣(ばくだん)を排除しなければならない。

 そのための方法なら、銃などを使って頭を吹っ飛ばすのも効果的だ。

 特に拳銃ならば、今の日本なら容易く手に入るため、手軽な対ゾンビ用の武装となるだろう。

 だが、それでも僕が徒手空拳にこだわるのには理由がある。(はた)から見れば下らない理由だが。

 とにかく、なるべく人の姿のままでゾンビから人へと戻したかった。それだけだ。

 そのための方法として、まず頭蓋骨にヒビを入れる。これにより爆弾が体外に抜けやすくなる。これを行わないと頭蓋を丸々潰すことになってしまうので非常に重要だ。

 必要があれば相手の手足を潰すが、前述した理由からできるだけ避けたい。

 このように下ごしらえが済んだのなら、本命である掌底を相手の顎先に打ち込む。正拳突きも試してみたが、同じ条件なら掌底の方が脳のより深い部位にまでダメージが届いて一番効果的だったので、現在のスタンスに落ち着いている。

 自分の体が死後硬直のように硬くなってくれたおかげで、爆弾を外に弾き出すほどの衝撃を出せるようになったのも大きい。皮肉なことだが。

 

 さて、死体が燃え尽きたのを確認してから、赤い楔──起爆済みの爆弾を最後に焼却炉に投げ込む。

 それを見つめながら、なんだかやるせない気持ちになってくる。

 あんな、シャープペンシルの芯にも満たないような物体で、容易く人が死ぬ。あんなものに、人々は自分の最期を委ねてしまっている。

 まさにそれは、人の命の価値を乏していると言っても過言ではないはずだ。

 そう思ったら、堪らなく悔しく、それでいて悲しい。何より自分の存在が、その理由を後押ししていると言える。

 

「……僕は生きているのか、それとも死んでいるのか」

 

 手首に反対の手を添えても脈動を触知できない。体温も冷たい。手の色はとても青白い。

 だがそれは決して心臓が動いていないことを意味しているわけではない。むしろ、僕の心臓は問題なく機能している。

 ただ、ゾンビ細胞に置き換わった皮膚の細胞が大きく肥厚して硬直しているが故に、血管の脈動や熱などが外にまで伝わらないだけだ。

 

 

 生きているとは、何だ。心臓が動くことを指すのなら、僕は該当する。

 死んでいるとは、何だ? 体が動かないことを指すのなら、僕は該当しない。

 

 生きているとは、何だ。尊厳維持装置が稼働していることを指すのなら、僕は該当しない。

 死んでいるとは、何だ。尊厳維持装置が起爆したことを指すのなら、僕は該当する。

 

「僕は生きてるように死んでいて、死んでいるように生きている。でもやっぱり、どちらでもないようにも思える」

 

──ああ、気味が悪い。

 

 吐き気がする。いつもの発作のような感覚だ。

 この体になってからずっと付きまとう不快感。一向に慣れる兆候はない。

 ……いや、きっと慣れてはいけないと本能が警鐘を鳴らしている。

 

「……よし、きちんと燃えたな」

 

 死体も爆弾も、最後まで燃えたのを見届けた。

 ダイダ・ロスは元々は空気感染するウイルスだが、生物の体液に触れると体液感染によって広がるウイルスにへと変わる。

 そんなダイダ・ロスだが、高熱に著しく弱い。大体300℃の温度で完全に死滅できてしまう。

 だからこそ、こうして次の感染者を出さないためにこのようにウイルスに汚染された死体と爆弾を燃やし尽くす。

 それと同時に、これは自分なりの彼らに対する弔いだ。彼らは死体としての尊厳を取り戻したのだと、そう自分に言い聞かせる。

 そうして一連の用事が終わったので、後は警備員に見つからないようにトンズラするとしよう。

 

 白いフードを深く被り、薄暗い夜の闇に紛れる。足音を立てないように門まで駆け、門を飛び越えるようにしてジャンプして外への脱出に成功。

 

「んじゃ、さっさと帰りますか。──おっと」

 

 (きびす)を返すようにその場から立ち去ろうとしたが、視界が気づけば赤くなっていた。

 てっきり先ほどの火のせいだと思っていたが、どうやら自分の想像以上に溜まっていたらしい。

 ゴーグルを手に取って瞳から外した。すると、瞳から絶えず流れ出る血の涙と、ゴーグル内に溜まりに溜まっていた血液がボトボトと音を立てて地面に落ちる。

 長いこと溜まっていた糞尿を出すかのような爽快感がある一方、この錆びた鉄臭さはなんとも言えない。

 

「あ"ぁぁぁ~~……気持ち悪っ」

 

 まるで浴びるように酒を飲んだ翌日のようだ。つまりは二日酔いのような気だるさ。

 地面に滴り落ちる血の池を見ながら、やはり自分は人ではないのだと嫌でも痛感させられる。

 ゾンビは赤い血の涙を流す。止まることなく、ずっと、ずっと────。

 

 その刹那。自分の身を閃光が包み込む。

 

「──っ」

 

 パシャッと、ついでのようにカメラのシャッター音も遅れて聞こえて来た。

 顔が歪むが、今の気持ちを一言でまとめるには非常に難しい。曖昧に述べるとするなら、舌打ちと溜め息で一曲セッションしたい。そんなところだろうか。

 光が発した方を見れば、こちらに向かってカメラを構える小柄な少女がいた。

 ただ、そんな小柄な体型に不釣り合いなほど大きいニュースボーイキャップが一際目を惹いた。

 

「うふふ~、やったです! これは特ダネの匂いがするですよ~!」

 

 心の中での舌打ちと溜め息のセッションは中止。これは舌打ちのターンだ。

 よりにもよって記者に写真を撮られるとは。それも、血を排出している瞬間を。

 最悪を通り越して、極悪だ。

 

「いきなり何でしょうか、お嬢ちゃん」

 

「お嬢ちゃんじゃなくてお姉さんを希望するで~す!」

 

 そう抗議する彼女に「食いつくのそこなんだ……」と漏らす。

 彼女は無い胸を張りながら、自信満々に言う。

 

「こう見えてもあたしは三十一のできる女なのです、フフン!」

 

「……え、僕より一回りも上なの?」

 

「……」

 

 こちらを無言で睨んでくる。……いや、確かにこちらも失言ではあったが、思わずそう漏らしてしまうぐらいに彼女の容姿は自分の目に幼く映る。

 僕の身長より四十cmほど低く、あらゆる部位が平坦。失礼ながら小学生にしか見えない。

 

「……ええと、すみません。……あの、お姉さん?」

 

「はい、なんですか!」

 

 めっちゃ目をキラキラさせながらこちらを見てきた。復活早い通り越してチョロすぎる。

 なんというか、こう実年齢と見た目が噛み合わない人を見ていると、自分の武術の師匠を思い出してしまう。

 ……だが、この分ならなんとか逃げ切れそうな気もする。

 僕はさりげなくゴーグルを着けて瞳を覆い隠す。

 

「夜ももう遅いですし、駅までならエスコートしますよ」

 

「ありがとうです~。でもその前にお話伺うです~」

 

 ……前言撤回。この女、中々思い通りにはいかないらしい。

 彼女の瞳の奥から滲み出る『絶対に逃がさない』という執念が見て取れる。

 

「あたし、しっかりと見てましたですよ~! 貴方の目から血がドバドバと出てるのをです!」

 

「何かの見間違いでは?」

 

 僕は目元を見せる。

 

「ほら、別に血なんて出てませんよ」

 

「それはゴーグルを着けてるからです、取ってからものを言うです!」

 

「……」

 

 チッ、引っかからないか。一応、目元をきつく締める。どうか空気を読んで血が出ませんように。

 それからゴーグルに触れて再度目元から外す。

 

「……ほら、別に血なんて出てませんよ」

 

「どの口がそれを言うですか! もう逆にそれで言い逃れしようとしてるのが信じられないぐらい血が出てるですよ!?」

 

 取り繕うように笑みを浮かべるものの、彼女は空気も読まずに流れ続けてる血液を指差す。

 ……ですよねー。こんなことぐらいで止まるようなら、(はな)からゴーグルなんて身に着けませんわ。

 

「いやいやいや、これは、その……あれですよ。…………手品です」

 

「なるほど、なるほどです。手品なら仕方ないです──ってそんな苦し紛れの嘘に騙されるわけないです! 舐めてるですか!!」

 

「……」

 

 やはり、ダメか。……いや、僕もなんで押し通せると思ったのだろうか。

 

「僕のことを記事にするつもりですか?」

 

 そう観念したように尋ねると、彼女は「う~ん、どうしようかな~です~」ともったいぶるように僕の周りを歩き始めた。

 少しイラッとしたが、その気持ちをなんとか留める。

 

「勿論、記事するのも有りです~」

 

 自我を持ったゾンビなんて記事が出ても誰も信じはしないだろう。だが、多かれ少なかれ僕の活動の支障になることは間違いない。

 僕は渋々頭を下げた。

 

「頼みます。どうか、このことは誰にも口外しないで下さい。僕にできることならなんだってしますから」

 

「ん? 今なんだってするって言ったです~?」

 

 そう怪しく「ふふふのふ~です~」と笑うと僕の手を取って唐突に歩き出した。どういうことなのか、意味が分からなかった。

 

「あ、あの……?」

 

「新入社員ゲットです~」

 

 彼女の言葉の意味が理解できない。

 ただ、なんだろうか。繋がれた手から伝わる彼女の体温と脈動、それは酷く懐かしく、それでいて不快で、どうしようもなく──泣きたくなった。

 

 

 

 

 どれぐらい歩かされたか。恐らく体感で三十分も満たなかったようにも思える。

 唯一幸いだったのは、途中で職質されなくて良かったことだろうか。正直言ってヒヤヒヤした。

 

「到着です~!」

 

 そう元気よく彼女が言うので、それまで俯いていた顔を上げる。

 

──『株式会社 ブラックアリウム社』──

 

 そうプレートに書かれた小ぢんまりした建物が目に飛び込んできた。そしてその横には『社員募集中』の貼り紙もある。

 改めて全体像を見ると、少しボロい木造建築で室内から薄暗い光が漏れていた。

 

「ここは……」

 

「あたしが勤めてる会社ですよ~! よいしょよいしょです!」

 

 そのまま彼女に背中を押されて、まるで押し込まれて運ばれるかのように歩かされる。

 薄暗い廊下を歩く。およそ人の気配が感じられない。

 そう、この建物が自分のように思えた。

 最早あとは朽ち果てるのみだというのに、無理矢理建物として機能させられている。

 建物として、生命の息吹きが消えてしまったような。

 

 

「ムーちゃ~ん! 新入社員をお連れしたですよ~!」

 

 彼女が勢いよく開いた扉の先にはこれまた小ぢんまりとした部屋。

 その最奥には、顎ヒゲを生やしてくたびれたシャツの上に黒いスーツを着てタバコを吸う男がいた。

 男は背もたれのある椅子にその身を委ね、またご立派なデスクには何本ものタバコの亡骸が灰皿に押し込められている。

 男は、少女と僕を「あ~?」と目を細めて睨みつけた。

 

「ったく、こんな時間に何かと思えば。それになぁ、人を大昔のオカルト雑誌みたいな名前じゃなくちゃんと社長って呼べと何回言えば────……待て、今、新入社員と言ったか…………?」

 

 男は頭をかきながら目を見開いた。寝不足なのか、少し目元にクマができているのが分かる。

 それでも、少女の「新入社員」という言葉を聞いてその瞳にはいくらか生気が甦ったように思えた。

 少女は男に僕を見せつけるように「ジャジャーンです!」と紹介をする。

 

「そう! この自爆ゾ──」

 

「ちょい」

 

 僕は空かさず彼女の口を手で塞いだ。今、絶対、自爆ゾンビって言おうとしてたろ。

 

(おい、さっきと約束が違うだろ!?)

 

(え~? そんな約束してたですか~?)

 

 彼女に小声で話しかけると、そう意地悪な表情と共に返された。こ、この(あま)……っ!!

 

(あたしの言うことに話を合わせてくれるなら、口外しないことを約束するですよ)

 

(……分かった)

 

 どうやら彼女は僕の逃げ道を潰すつもりらしい。なんというか、見た目は小学生なくせして、性根は立派なマスコミの人間のようだ。

 一方、男は首を傾げる。

 

「自爆? 自爆がどうかしたのか?」

 

「いいえ! 八年前の阿賀野のご令嬢の自爆事件の取材をした際に知り合った人でして、その時に機会があれば是非とも我が社に入社したいと言ってたので連れてきたんです~」

 

 彼女の言葉に絶句した。僕が、是非ともこのボロ会社に入社したい? 何言ってんだ?

 というか、よくもまあそうポンポンと口からデマカセが出てくるもんだ。

 

「……おい」

 

「ねー? 入社したいですよねー?」

 

 物言いたげな視線を向けたが、即座に「うんって言わないとバラすですよ~」という一見笑っているもののうっすらと目を開いているのが見えた。しかも声もどこか無機質だ。

 ゾンビを脅すなんて、この女、ゾンビより恐ろしいのでは?

 

「は、はい。……入社希望、です」

 

「マジか! いや、本当に人手が少ないんで助かった!」

 

 心底嬉しそうな男と、乾いた笑みしか出てこない自分。

 なんというか、このデスクに大量に置かれた紙の束と顔に滲み出ている疲労感から、本当に人手が必要なのだと感じる。

 そう思うと、何故かいたたまれない気分になった。

 

「それにしてもうちの飛凰にこんな好青年な知り合いが居たとはなぁ」

 

「飛凰……?」

 

 耳慣れない名前だ。僕が首を傾げると、男は「うん……?」と首を傾げてから少女の方へ顔を向ける。

 

「飛凰、お前……自分の身元を明かしてないのか?」

 

「いや、その……あ、あはは……伝え忘れてたかもです~?」

 

 明らかに目が泳いで焦っている彼女の様子に、男の顔は少しずつ満面の笑みになっていく。ただし、同時にこめかみに青筋が浮かんでいる。

 一拍置いてから「ほう」と呟く。

 

「お前が自分の身元も明かしてないにも関わらず、彼は我が社への入社を希望したと?」

 

「…………奇特な人です~」

 

 少女の顔を見れば、口裏合わせとして完全に忘れていたといった感じだ。

 

「飛凰、大人しく彼をここへ連れてきた経緯を話せ。正直にな」

 

「……はいです~」

 

 借りてきた猫のように萎む少女はポツリポツリとここへ来るに至った経緯を話す。

 ただし、僕が自爆ゾンビだというのは伏せた上でだが。

 とりあえず、不法侵入していたゴミ処理場から出て来たところを写真に撮られ、口止めとして連れて来られたという話になった。それ以外の話の本筋は大体同じだ。

 

 男はスゥーと息を吸い。

 

「飛凰ああああああああ!!!!!」

 

「ごめんなさいです~!」

 

 怒声をあげて少女の頭を二つの拳で挟むようにしてロックした。

 

「ムーちゃん痛い、痛いです!」

 

「ムーちゃんじゃなくて社長じゃボケ!!」

 

 男が少女の頭をグリグリと力を籠めてお仕置きをする。

 

「たしかに人手を探して来いとは言ったがなぁ、脅迫してまで連れて来いとは言ってねえぞ!!」

 

「ム"ーぢゃ~ん"、ごめ"ん"な"さいでず~!!」

 

 涙を流して許しを乞う彼女の姿に、少し「ふふ」と笑ってしまう。

 少しだけスカッとした。

 

「はあ……」

 

 男は明らかに落胆したように溜め息を溢していた。まあ、このボロい建物じゃ新入社員は確かに入らないだろうな。

 

「……まあ、その。あれだ。うちの部下が失礼をした」

 

 彼は少し咳払いをしてから、黒いスーツの懐を探って名刺を手渡してくる。

 

「飛凰、お前も出しとけ」

 

「うぅ~。ムーちゃん、もっと容赦してです~」

 

「社長、な」

 

「あだっ!!」

 

 ゴツンとげんとつを落とされて少女は涙目を通り越して抗議の声をあげる。

 

「これはもうデーブイですよ!」

 

「新しいポ○モンか?」

 

「むきー! です!! そんなわけねえです~!」

 

 プンプンと頬を膨らませながらも、「はい、どーぞです!」と彼女も僕に自身の名刺を渡してきた。

 二枚の名刺に目を向ける。

 

「改めて自己紹介をさせてくれ。俺の名前は『玄有(くろう) 夢羽(むう)』。このブラックアリウム社の社長だ。そんで」

 

「あたしの名前は『灰咲(はいさき) 飛凰(あすか)』と言うです! 是非『飛凰先輩』と呼んで下さいですよ! ムーちゃんのことは、『ムーちゃん』でいいですよ」

 

「いいわけあるか! 社長と呼べって言ってんだろうが!」

 

 男の名前は『玄有 夢羽』、少女の名前は『灰咲 飛凰』。

 彼らの名前と顔を見て、自分の記憶にしっかりと刻もうと頷いた。

 生前の記憶は朧気でも、せめて死後の記憶ぐらいは心に留めておきたい。

 社長さんは懐から新しいタバコを取り出して口に咥えると、ライターで火を点けてから言う。

 

「うちは一応雑誌の出版がメインなんだが、このご時世、最低保障のベーシックインカムがあるとは言え、出版一本だけで食っていくのは中々厳しいんでな。半分何でも屋に近い仕事も請け負っている」

 

「何でも屋、ですか」

 

「ああ。お詫びってわけじゃないが、何かあればうちを頼りにしてくれて構わない。依頼料は割引サービスしとくぜ」

 

 彼の言う『何でも屋』という言葉で少し考える。正直言って、この三年間で自分の使える人脈と費用は全て使いきった。

 それでも桐谷と永遠乘に迫るための決定的な情報を手に入れることはできなかった。

 死人の自分が言うのもなんだが、これも一つの縁だ。

 

「なら、探してほしい人がいるんです」

 

「……ほう、人探しか。情報を扱う身としては得意な方だぜ。そんじゃ依頼料だが──」

 

「いえ。僕は無一文なので、その代わりここで雇っていただけませんか。僕への給料が、そのまま依頼料ということでどうでしょう」

 

「──……」

 

 僕の提案に社長さんだけでなく飛凰先輩も目を見開いた。

 どうせもう行く宛もないところだったんだ。

 

「「……」」

 

 突然のことに戸惑っているのか、二人は互いに顔を見合わせている。

 

「体力になら自信があります。ダメでしょうか?」

 

「いや、こちらとしては嬉しい限りではあるんだが。……本当にいいのか?」

 

「ええ、構いません」

 

 それに、目的はもう一つある。

 僕は横目で飛凰先輩を見る。彼女もまた、自分が脅迫して連れてきたとは言え、まさかの展開に右往左往しているようだった。

 

「ええと……つまりどういうことです~? 結果オーライってことです~?」

 

 散々食わせ者な彼女だが、口裏合わせを提案してきた割には自分の名前をこちらに伝え忘れていたりと、いまいち抜けている部分があるので、僕が自爆ゾンビだと口を滑らせないように監視するためにも、ここに留まった方がよさそうだ。

 

「……よし、分かった」

 

 社長さんは数秒ほど思案してから頷き、デスクの中から書類を取り出した。

 

「身元確認のための書類だ、書ける所だけでいいから記載してくれ。本来なら起爆リング内の個人情報を登録する方が遥かに手っ取り早くて楽なんだが……生憎うちは見ての通りの弱小会社でな、その類いの設備は無いんだ」

 

「分かりました」

 

 むしろ好都合だ。僕の起爆リングは自爆した際に既に失効されている。仮に起爆リングをスキャンされたら一発で故人だとバレてしまう。

 やはり予想通り、見た目がボロい会社なだけあって、そういう機材もないようで安心した。というか、未だに箱型の旧式パソコンが稼働しているのを初めて見た。

 ……まあ、仮に機材があったら故障だとかテキトーなことを言って押し通すつもりだったが。

 

「はい、書けました」

 

 僕は渡された書類から生年月日と性別、氏名、年齢の項目を書き連ねていき、それを社長さんに渡す。

 

「……この、名前は」

 

 書類を受け取った社長さんは僕の名前を見て眉間に皺を寄せた。……何か不味かっただろうか?

 書類を睨みつけること数分、「これは……」と呟いた。

 

「…………なんて、読むんだ?」

 

 思わずずっこけそうになってしまった。

 どうやら睨んでるとかではなく、ただ単に凄く目を凝らして書類を見ていただけだったようだ。紛らわしい。

 隣で飛凰先輩が呆れたような声を出す。

 

「フリガナ見ればいいですよ、ムーちゃん」

 

「しゃ・ちょ・う、な? ……いや、この年齢(とし)になるとフリガナとか小さな文字ってマジで見えないんだって」

 

「ブフォッ!」

 

 彼女は大笑いしながら社長さんを指差した。

 

「ムーちゃん、立派なオッサンです~!」

 

「うるせえ俺は社長なんだぞ! 飛凰、だったらお前はこの漢字見て一発で読めるのかよ、ああん?!」

 

「そりゃあ、ええと…………チラッ」

 

「一応言っておくが、フリガナは見んじゃねえぞ!?」

 

 たかが僕の名前の読み方一つでここまで騒ぐ二人に息を吐く。溜め息でも嘆息でもない。

 本当に、ただの息。

 呼吸してないのに息が漏れた。そのことに自分が一番驚いた。

 

(なんだろう。……この感覚)

 

 知らないようで、知っているような気もする。

 そう思ってから、書類に書いた自分の名前を見る。

 そう、名前。あまり深くは考えたことなかったが、そういえば確かに僕の名前を中々一発で読めた人はいなかったな。

 さて、そろそろ騒いでいる二人を落ち着かせるためにも、自分の名前ぐらい自分で言うことにしよう。

 

「僕の名前は、『上地(かみじ) 鍔乍(つばさ)』です」

 

 『上地 鍔乍』。およそ三年ぶりにその名前を他人に対して口にした気がする。

 

「────」

 

 たったそれだけなのに、どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。

 失ったものを見つけた歓喜のようでいて、今まで失っていたんだという自覚からくる悲哀のようでもある。

 ただ、これだけは言える。

 

 出会ってから僅か数分ほどでここまで自分をざわつかせる彼ら。

 きっと彼らとの出会いは蠢く屍に成り果てた自分にとっての、最初で最後の救いだったのだろう、と。

 

──ああ、気味が悪い。

 

 相変わらずこの身を苛む不快感も彼らとなら、きっと乗り越えられると、そんな不思議な感覚だった。

 

 

 

 

────―   ────―   ────―

 

 

 

 それから数ヶ月後。

 

 

 僕は契約内容に則ってこのブラックアリウム社の一社員として働いている。

 この肉体になってから特に疲労を感じなくなったおかげか、労働時間は二十四時間の年中無休だ。ただし、時々社長さんからは休むように定期的に怒られる。

 個人的には働いている方が、自分が自爆ゾンビであることを忘れられるから構わないのだが。

 

 そうして、今日もまた僕は取材にへと向かう。

 それも、ただの取材じゃない。

 今から向かう先に、探し求めていた奴がいるのだ。

 

──「お前が探していた永遠乘命だがな、どうやら今はとある病院に勤めているらしい」──

 

 社長さんは、僕が三年間かけても見つけられなかった永遠乘の居場所をあっさりと特定した。

 特定方法は意外にもシンプルだった。

知り合いのオタクな外国人であるハッカーに依頼し、厚生省のデータベースをハッキングしてもらった。

 その際に、医師が二年毎に厚生労働大臣に届け出る現状届から、その居場所を割り出したとのこと。

 ただ、現状届から居場所を割り出すというのは、中々に盲点だった。

 

──「ちょうどその病院で騒ぎが起きてな。お前、取材に行ってこい」──

 

 さて、電車を乗り継いで、人の営みに揉まれながら足を動かす。

 今日も今日とて、沸き上がる不快感と戦いながら死んだ目で世界をゴーグル越しに見る。

 ゴーグル内に貯まる自分の血液のせいか、いつも通り赤く濁って見える。

 シートに座って揺られながらふと窓に目を向けた時だ。超高層ビルというものが見えた。目測で百階近くはあると思う。

 

「あれは、阿賀野コーポレーションか……」

 

 この世界に住んでいるならばその名前を聞いたことがない者は恐らくいないであろうという規模の大企業だ。

 世界中に支社が存在して取り扱う分野は多岐に渡り、物造りだけで見ても文房具からロケット、建築なら学校から病院までと、まさになんでもござれだ。

 そしてその中には、あの尊厳維持装置も含まれており、その生産も請け負っているらしい。

 たしか、現社長の名前は『金剛寺(こうごうじ) 春人(はると)』だったか。

 

「病院……、金剛寺……」

 

 ふと、何か頭の中で引っ掛かる感じがした。何か大切なことを忘れているような。

 ……駄目だ。いまいち意識がはっきりしない。

 とにかく話を戻そう。

 社長さんの話では、金剛寺社長はかなり個性が濃い人物であるらしい。

 飛凰先輩から聞いた話でも、二年前に行われた金剛寺社長による『国内生産部品のみによる純国産ロケット開発計画発表』の記者会見にて。

 

『おい、我が優秀なる秘書よ。我が社に小学生の迷子が紛れこんでいるぞ、丁重に出口まで案内したまえ。…………え、あれで成人、しかもれっきとした記者? マジか、合法なのか。それはもう絶滅危惧種に指定して保護すべきなのでは?』

 

 とか言われたのだとか。彼女は今でも大変根に持っているらしく、もう二度と阿賀野コーポレーションの取材には行きたくないらしい。

 まだ直接取材に行ったことはないが、飛凰先輩が拒否している以上は自分が駆り出されるのは想像に難しくない。

 それよりも、今日向かうのは二つ隣の町のとある病院だ。

 なんでも、病院の地下区画に侵入した男女がトレーラーに乗って逃走しただとか。

 

 幸い死傷者が出ていないようなので安心した。

 

──《次は、──────────。──────────。お降りの際は、足元にご注意下さい》──

 

「──っ」

 

 目的地にもうすぐ到着することを告げる車内アナウンス。

 頭にビリッとした電気刺激が流れ、ふと周りを見渡す。

 あの日とアナウンスした人の声は違うが、思わず顔を手で押さえてしまった。

 そうだ。ここは。これから行く場所は、あそこじゃないか。

 なんで、こんな大切なことを忘れていたんだ。

 再度、車内アナウンスが流れた。

 

《次は、金剛寺大学附属病院前。金剛寺大学附属病院前。お降りの際は、足元にご注意下さい》

 

 母さんが、入院していた病院じゃないか。

 そして、あの日……僕は。

 

──うぅ、あぁ……あぁ……──

 

 

 

 

 母さんを……、母さんは……、母さんが……。

 

 

 

 

 どうやって歩いてきたか、覚えていない。ただ、気がつけば目の前はパトカーの群れが病院の前に埋め尽くされていた。

 現在は警察による調査のため、立ち入り禁止らしい。外で立ち往生をくらった自分と同様の記者がカメラやマイク、さらには録音機の調整確認をしている。

 そんな時、自分以外の周りの起爆リングから通知が流れた。

 

《緊急警報です。只今、中央郊外地区にて、大きな事故が、発生しました。屋外にいる皆様は、直ちに屋内へ避難して下さい。また、お車で移動中の皆様につきましても、直ちに停車をし、誘導する警察機関の人間に従い、中央郊外地区からの避難をお願いします》

 

 内容からして、どうやら災害用アナウンスのようだ。このタイミングで流れるとすれば、もしかすると逃走犯が何かやらかしたのだろうか。

 周りも「特ダネは中央郊外地区の方か!」とか「でも避難しろってことは危険ってことだよなー」とか言ってるのが聞こえてくる。

 僕は、ただただ苦い思い出が残る病院の外観を見つめる。

 ああ、やはり三年ぐらいじゃ全然変わらないか。

 

──ピピピ

 

 すると、懐から携帯が鳴ったので表示を見ると、社長さんからだった。

 通話ボタンを押して電話に出る。

 

「……はい、もしもし」

 

《鍔乍か。今、そっちで大事故が起きたっていうのをネットで見たんで心配になってな。……無事か?》

 

「ええ、僕は大丈夫です。それより社長さん、大事故ってやっぱり……」

 

《ああ、十中八九、逃走犯絡みだろうな。そっちの警察に何か動きはあるか?》

 

 病院の前に陣取る警察を見るが、災害用アナウンスが流れても出動する動きはない。

 

「全く動かないです。まるで、災害用アナウンスなんてなかったかのように」

 

《なるほど。なら、この件は警察隊による避難勧告じゃねえってことだな》

 

「……まさか、自衛軍が出動したとかですか?」

 

《いや、それにしては些か早すぎる。……つまりは、それよりもっと厄介なのがお出ましなんだろうさ》

 

「自衛軍より、厄介なのが……?」

 

 一体何だろうか。よく創作物で見る秘密部隊とかしか思い浮かばない。

 

《んなもん決まってる、国合お抱えの『進駐軍』ってことだ。お前だって社会科の授業で聞いたことぐらいあるだろ》

 

 予想外な名前に思わず目が見開いた。 

 

「進駐軍って、多国籍軍じゃないですか。確かに政府の承認が必要な自衛軍より早く駆けつけられるでしょうけど……でも、どうして、たかが逃走犯如きに。……いや、それにしても駆けつけるのが早すぎじゃないですか?!」

 

《そこなんだよなぁ》

 

 自衛軍でこのスピードはまず難しい。警察隊が動かないならば、現状で可能なのはたしかに進駐軍しかいなくなる。

 数分の後、社長さんは一つの可能性を口に出す。

 

《もしくは、こういうことを見越して予め張り込んでいた、とかだな》

 

「それはつまり、侵入されることを知っていたと?」

 

《ああ》

 

「どうして、そんな……」

 

 何故か口元が震える。決定的な何かが、これから言われようといるかのように。

 

《お前に向かわせた金剛寺大学附属病院だがな、実は前から結構キナ臭い噂話があるんだ。なんでも、自爆を試みて死にきれなかった人間を収容しているらしい》

 

「それって──」

 

 まさか、自爆ゾンビ……?

 いや、それは些か早計か。ここまでの話の流れを見れば、起爆に失敗した人間と捉えるべきか。

 

「でも、尊厳維持装置に不具合なんて……」

 

《ああ、不具合なんて起きない。起きてはならない。だからこそ、奴らはこれを外部に漏洩されないために病院を監視していた。……辻褄は合うだろ?》

 

 確かに、それならばここまで対応が早いのも──

 

「──……っ!!!」

 

 手から力が抜け、携帯が地面に落ちる。通話先から社長さんの「どうした、鍔乍?!」という声が聞こえてくるが、その意味をもう理解できない。

 今はただ、目の前の事象にしか目がいかない。

 

「永遠乘、命……っ!!」

 

 全ての運命を狂わせた元凶の姿が、病院の入り口から見えた。

 何やら警察官と言い争いをしているようにも見えたが、そんなもの知るか。

 今すぐ奴の元まで駆けようとした次の瞬間────。

 

「鍔乍です~、会えて良かったです~!」

 

 ポンッと、何かが後ろから自分を抱き締めてきた。

 振り返れば、そこにはニコッと笑いかける飛凰先輩がいた。

 

「飛凰先輩……」

 

「そんな泣きそうな顔してどうしたです~?」

 

「いえ、その……」

 

 すると、彼女は僕の足元に転がっている携帯に目が行くと、拾ってから耳に当てる。

 

「もしもしです~」

 

《その声は飛凰か!》

 

「あ、ムーちゃんの声が聞こえるです」

 

《ムーちゃんじゃねえっての! ……まあいい、そこに鍔乍はいるか!?》

 

「いるですよ~。ただ、ちょっと元気ないかもです」

 

《……。とりあえず、鍔乍に代わってくれ》

 

「はいです~」

 

 飛凰先輩から携帯を手渡されて、社長さんとの通話に出る。

 

《何があった?》

 

「永遠乘命を、見つけました。そうしたら、もう──怒りが抑えられなくて」

 

 

 

 僕の声から何かを思ったのか、社長さんは「まあその、なんだ」と言葉を選ぶようにして言う。

 

《そう言えば、お前の入社式がまだだったな。今日の取材はもう切り上げて、飛凰連れて帰って来い。今晩は焼き肉奢ってやるよ》

 

「わーい、お肉です~! 奢りです~!」

 

《おーい、飛凰。奢られるのは新入社員だけだ。焼き肉代は、俺とお前で仲良く割り勘に決まってんだろうが》

 

「きーこーえーなーいーでーすー」

 

《おいゴラァ!》

 

 二人のやり取りを見て、なんだか少しだけ心が落ち着いた。

 そして改めて病院の入り口付近を見るが、そこにはもう永遠乘はいなかった。

 幻視、ではないはずだ。あいつの姿を見間違えるなんてない。

 それだけは、決してありえない。

 そう決意を込めて拳を握り締めていると、まるでそれを包み込むように両手で触れられた。それはとても、温かかった。

 

「さあ、鍔乍。帰るですよ~!」

 

 帰る。誰かと一緒に、自分の居場所に帰る。

 頭の中でノイズが走る。

 

──鍔乍、早く帰りましょう。今日は鍔乍が大好きなカレーよ──

 

 小さい頃、河川敷での母さんとの思い出。

 でも、その時の母の顔を、思い出せない。

 そう思うと、自然と手がゴーグルに触れてしまった。

 

「どうしたです~?」

 

「……いえ、何でもありません」

 

 そう言って、彼女に対して首を横に振ってから笑顔を浮かべた。

 

「帰りましょうか」

 

「はいです~」

 

 そう、何でもない。ただ、目から血とは別の何かが溢れでそうになった。

 それが何かは分からない。最初から分かってないのか、分からなくなってしまったのか、判断はできない。

 まあ、いいか。

 理解できないなら、考えるだけ無駄だ。それなら、今は分かる時まで置いておこう。

 彼女に手を引かれ、楽しそうに鼻歌を歌うその姿を後ろから見ながら、そう思ったのだった。

 

 

 

 

 二時間後。

 

 

「それじゃ、鍔乍の入社を祝しまして……遅くなったが、乾杯!」

 

「「乾杯(です~)!」」

 

 社長さん一人に対して、テーブルを間に隔てながら向かい合うように座る僕と飛凰先輩。

 ビールが注がれた三つのジョッキが耳心地よくぶつかった。

 ブラックアリウム社の近くにある焼肉屋。完全個人経営で、従業員は全て阿賀野コーポレーション製の機械──『オートマトン』達であり、彼らが全て客に対して注文から会計まで対応する。

 因みに、これらのオートマトンの名前は『ADACHI』というらしい。名前の由来は知らない。

 社長さんはまずはタン塩、飛凰先輩は豪快に特上カルビを、僕は無難にロースを、それぞれ頼むことにした。

 

《注文の確認をします。タン塩三人前、特上カルビ二人前、ロース一人前。以上でお間違いはないでしょうか?》

 

「ああ、それで構わないぜ」

 

《注文承りました。五分ほど、お待ち下さい》

 

 注文を取り終えると、ADACHIはすぐに次の仕事をこなすために早々に僕達の元から離れていった。

 その様子を見て、社長さんは溜め息を溢した。

 

「なんつーか、やっぱ機械は愛想がねえなぁ。これならまだうちの飛凰の方が可愛げがあるってもんだ」

 

「それ誉めてるですー?」

 

「誉めてる誉めてる」

 

 社長さんは僕の隣に座っている飛凰先輩の頭をぽんぽんと撫でる。

 彼女は最初は心地よさそうにするものの、やがて自分が子供扱いされてることに気づいたのか、すぐさま彼の手を払いのけた。

 

「ムーちゃんはそうやってすぐ子供扱いするです! あたしだってもういい大人なんです!」

 

「社長──は、今はいいか。無礼講ってことで。……いやはや飛凰は大人だな~、大人大人」

 

「絶対にバカにしてるです~!」

 

 顔を真っ赤にして頬を膨らませている彼女を「がはは」と笑いながらビールを煽る社長さん。

 これは最早バカにしているのではなく、単に酔っ払っているだけでは?

 自分も久々にアルコールを摂取するが、いまいち酔えない。この体になってからそういった感覚とは無縁だ。

 このビールも、炭酸入りの麦茶のような味わいで少し気持ち悪い。

 

《タン塩三人前、特上カルビ二人前、ロース一人前。お持ちしました。ご注文を追加する際は、呼び出しボタンを押して、お呼び下さい》

 

 ADACHIが運んできた注文の品々を受け取り、社長さんは肉を金網の上に乗せて焼いていく。

 それから焼いては食べて、注文を追加しては食べる。その繰り返し。その豪快な食べ方に感心しながら見つめる。

 僕は、最初に頼んだロースを口に含んでから言い知れぬ吐き気がしてそれ以降食べる気はしなかった。食欲はあり余るのに。

 ゾンビになってからはとにかく飢餓感に襲われている。とにかく、肉が食いたい。

 それを押し殺し、無理矢理飲み込む。その度に不可解な罪悪感が自分の中で沸き起こる。

 それ故に食事に手が進まない。

 

「おい、鍔乍~。もっと食ったらどうだ? ただでさえ、そんな死人みたいに顔が白いんだからさぁ」

 

「ええ、十分食べていますよ」

 

「嘘つけ~。こっちに遠慮するこたぁ、ないんだぞぉ? なんてったって、お前は奢られる側なんだからよ」

 

「……恐縮です」

 

 そう言いながら、自分の分をさりげなく飛凰先輩のお皿に乗せておく。

 彼女は自分の皿に肉がどんどん乗っていく様に特に疑問を抱かないのか、満面の笑みを浮かべながら口に運んでいた。

 

「あはは~、久しぶりの肉は美味しいです~」

 

「忘れんじゃねえぞ、飛凰。これは俺とお前の割り勘だからなぁ」

 

「ぐうぅぅ~~……ですぅ」

 

「寝たフリしてんじゃねえ~!」

 

 そうやって互いに戯れる姿を見て、僕は一人、今日のことを思い出す。

 永遠乘命。彼女を見つけ、ダイダロスに関する研究成果の一切の破棄と、ワクチン生成法を聞き出すことで、自爆ゾンビという存在そのものを終わらせる。

 

「鍔乍」

 

 すると、社長さんがこちらを伺うように見つめていた。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「飛凰は潰れちまったし、他に客はおらず、徘徊しているのはADACHIだけだ」

 

 そう言われて辺りを見れば、飛凰先輩は「もう食べられないです~」と寝言を言いながら突っ伏しており、他の客は会計を済ませて帰宅したようだった。

 

「話してくれないか。お前が永遠乘命と、桐谷という精神科医を追う理由をさ」

 

「……それは」

 

「訳ありなのは初めて会った時から感じてた。永遠乘命と言えば確かに尊厳維持装置の反対派の筆頭ではあるが、腕だけは確かだ。何人もの患者を救ってきた功労者でもある。あまり恨まれるような印象はないと言ってもいい」

 

 そうだ。社長さんの言う通り、永遠乘は世間一般ではそういう評価をされてる人だ。

 人の命を救う、医療者の鑑。どんな難病だって救ってみせる。

 だが。僕からすれば違う。

 

「社長さんは、三年前の事件を知っていますか?」

 

「三年前……。自爆ゾンビのことか」

 

「はい」

 

「その件は俺も取材をしてた。警察側からは、何者かによるバイオテロってことになったが。……主犯が誰なのかは、まだ掴めていないな」

 

 そこまで言ったところで、彼は「まさか」と怪訝そうな表情で漏らした。

 僕は一度だけ頷く。

 

「主犯は、永遠乘命です」

 

「……それは、確かなのか?」

 

「あの日、永遠乘に言われて電車内にウイルスを散布したのは僕ですから」

 

「……。それで、お前が奴を探すのは何だ? 罪を償うためだとでも言いたいのか?」

 

 社長さんは何か複雑そうに言葉を飲み込んでから、こちらに問う。

 

「自爆ゾンビを、終わらすためです。奴だけがきっと、ワクチンの生成法を知っている。それに」

 

「現在所属しているのが、金剛寺大学附属病院……か」

 

 進駐軍が密かに監視していたと思われる病院、そこにいたのが三年前の事件を引き起こした元凶。

 

「「……」」

 

 数分ほどの沈黙だった。互いに言いたいことを探り合うようにタイミングを伺う。

 先に口を開いたのは社長さんの方だった。

 

「突然だがな、俺って実はそこの飛凰より年下なんだわ」

 

「え"」

 

 横目で潰れている小学生体型の飛凰先輩を見てから、社長さんの方を見る。

 何と言ったらいいのか思案していると、彼は「まあ、そういう反応になるよな」と笑う。

 

「飛凰は三十一で、俺が三十。だからどうしたってわけだけどさ。……あの三年前に、俺の恋人はゾンビになった」

 

「……っ」

 

「しかも相手は、飛凰の妹でさ。……あ、一応言っておくが、妹の方はちゃんとした成人女性の体型だからな。勘違いするなよ?」

 

 彼はそう茶化すように口元だけは笑みを浮かべつつ、それでいて強く握り締めすぎた拳は白く震えていた。

 

「あの頃はさ、まだ自爆したらゾンビになるだなんて知らなかったもんだからさ」

 

 社長さんは語る、昔の映画ではゾンビに噛まれたらゾンビになるのが定番だった。実際、事件当時もゾンビに噛まれた人間が次々にゾンビ化しているようだった。少なくとも、自分と恋人にはそう見えた、と。

 

「だから、彼女は人間としての死を望んで自爆しちまった。それなのに、その瞬間、ゾンビになっちまったんだぜ……?」

 

 彼の目が赤くなり、一筋の涙が頬を伝う。怒りで歪む口元を手で覆い隠す。

 

「頭を飛ばして、俺の手で……殺した」

 

「そのことを、飛凰先輩は」

 

「勿論知ってるさ。何度も何度も、謝ったよ。彼女を殺したことを、地面に頭をぶつけながら土下座で」

 

 社長さんは「だけどよ」と言って、飛凰先輩の方へ視線を向ける。

 

「こいつ、何て言ったと思う? ……“ありがとう”って、言ったんだぜ」

 

 俯いて「ホント、参るよなぁ」と、溢した。

 

「記者として絶対に犯人を突き止めようと奮闘したのに、結局何一つ真相に繋がる情報を得られなくて、何も突き止められなくてさ。……この役立たずって、責めてくれてもよかったのに」

 

 そこまで言ったところで、「あーあ」と髪の毛を掻きむしるようにしてから顔を上げた。ずっと心の中に溜め込んでいたものを吐き出したからか、その表情は幾分か晴れ晴れとしていた。

 それでいて、僕を真っ直ぐに見据える。

 

「俺は、あのウイルスを散布したお前を許さない」

 

「……はい」

 

「でもな、ウイルスを作ったのが永遠乘命だって言うなら、俺はそいつがもっと許せない。お前が自爆ゾンビを終わらせるために動くなら、俺にも手伝わせろ」

 

 強い意思の宿った瞳、その奥からは「逃げるな」という声が聞こえてきた気がした。

 

「いいじゃねえか。俄然やる気が出てきたぜ」

 

「社長さん、僕は……」

 

 あの日、僕が好奇心で箱を開いた。そのせいで、苦しんだ被害者が、目の前にいる。

 あのウイルスが壊したのは人の尊厳だけじゃない。彼の日常すら壊してしまった。

 それを壊し奪った片棒を、僕は担ってしまったんだ。

 でも、彼は。

 

「それ以上、何も言うな。謝罪もするな。お前は俺を見ろ、俺という結果を見て、自分のやらかした過去を見ていろ」

 

 僕の言葉なんか、必要でもなんでもない。

 釈明も、同情も、謝罪も、何の意味もない。

 

「お前を見てれば分かる。お前は自分の意思でウイルスをばら蒔くような奴じゃない。……だがな、お前の行動の結果が、これ(・・)なんだよ」

 

 恋人を奪われて、死んだ目で毎日生きて、真実だけを探す。そんな毎日を、ずっと三年間生き続けた人間。

 そんな、残骸よりも惨めな奴がいるんだと。

 彼の目が訴えかけてくる。

 

「なあ、鍔乍。アリウムの花言葉を知っているか?」

 

「アリウム……?」

 

 社名にもなっている花の名前。その、花言葉。

 僕は首を横に振った。

 彼は一度深呼吸するように言葉を止め、ゆっくりと吐き出す

 

「“正しい主張”と“深い悲しみ”だ」

 

 社長さんのその表情は今にも泣きそうだった。

 

「正しさを追求しそれを発信する過程には、深い悲しみだけが伴い、またそれを受け止めなければならないってことさ。……その意味を籠めて、俺の恋人が社名に取り入れたんだ」

 

「……」

 

「お前はただ、受け入れればいい。それだけで、いいんだ」

 

 僕がウイルスを散布したことも、社長さんが僕を許さないことも、受け入れる。

 罪悪感を感じず、ただその事実を飲み込め。

 

──ああ、それはきっと、どんな罰よりも残酷だ。

 

 

 

 

 

 その後、僕の入社式と称した飲み会は早々に終わり、社長さんは仕事を片付けるために一度会社に戻ることになり、酔い潰れた飛凰先輩を家まで送り届ける役目を賜った。

 

──「とにかく、永遠乘命に関する作戦会議は明日やる。飛凰のことは頼んだぜ」──

 

 彼女をおんぶして、夜道を歩く。そして背負う彼女から聞こえてくる寝息と心臓の鼓動。

 すっかり営みが途絶えた夜には、僕の足音だけが響き渡る。

 彼女の家はブラックアリウム社からそう遠く離れておらず、歩いて十分程度の距離だ。

 

「……う~ん? あれ、鍔乍?」

 

「起こしちゃいましたか」

 

 どうやら目が覚めたらしい。あくびをしてから目を擦る動作が背中越しに伝わってくる。

 なんというか、小学生な容姿なためか、一つ一つの動作が大変微笑ましく思う。

 すると、やがて彼女はジタバタと暴れだした。

 

「おーろーすーでーすー! あたしは一人でも歩けるです~!」

 

「うぉっとと! 飛凰先輩、いきなり暴れないで下さいよ!」

 

「おーろーせーでーすー!」

 

「分かりましたから、ちょっと待って下さい!」

 

 そうして、歩くのはやめて立ち止まり、彼女を慎重に地面に降ろした。

 まだ酔いが覚めてないのか、少し顔が赤らんでおり、足取りもおぼつかない。

 

「先輩、少し休みましょう」

 

「う~ん……じゃあ、そこの公園のベンチに座るです~」

 

「……」

 

 そう言って彼女が駆け出した先は、自殺推奨場の公園。

 彼女と出会った日の夜に、僕が自爆ゾンビと戦ってた場所だ。

 ベンチに腰かけた彼女は自分の隣を叩く。

 

「ほら、鍔乍も座るです~」

 

「……はい。じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 彼女の隣に座り、互いに無言になる。

 僕からは、特に何かを話しかけようと思わなかった。

 先ほどの社長さんとの話にあるように、僕は社長さんの恋人を──飛凰先輩の妹さんをゾンビ化させる要因を作ってしまった。

 何も、言えるはずもない。

 

「ねえ、鍔乍。あたしが寝てる間、何かムーちゃんに言われたです~?」

 

「どうして、ですか……?」

 

「なんか遠慮されてる気がするです。年上だからそういう空気はよく分かるですよ~」

 

 自信満々に笑う彼女。

 何と答えようか迷い、視線が右往左往する。

 

「話して下さいです。鍔乍が元気ないと、お姉さんも元気なくなっちゃうですよ~?」

 

 そのままだと僕の頭に手が届かないため、一度ベンチの上に立ち上がってから両膝をベンチに着け、よしよしと僕の頭を撫でる。

 

「……僕は」

 

「うん」

 

「僕は、取り返しの着かないことをしてしまったんです」

 

 懺悔するように、彼女に言う。三年前の事件を引き起こしたのが、自分だと。

 自分が不用意に箱を開けたせいで、ウイルスはばら蒔かれ、彼女の妹は自爆ゾンビになってしまった、と。

 その一つ一つを、彼女は「うん」と相槌をうつ。

 僕は、社長さんに隠していることが一つある。そして彼女は、それを知っている。

 

「どうして、僕は、自爆ゾンビなのに、自我を持ってしまったんだ……っ!!」

 

 どうして、僕だけが。いっそのこと、自我も芽生えなければ、楽になれたのに。

 僕の嘆きを、彼女は悲しそうに首を横に振る。

 

「ねえ、鍔乍。パンドラの箱って知ってるですか?」

 

「パンドラの、箱……?」

 

「はいです」

 

 パンドラの箱。一度それを開けた瞬間、世界にはありとあらゆる災厄が広がる。

 だが、一つだけ、箱の底に眠る希望によって、世界は救われる。

 

「その希望が、鍔乍なんだと思うです」

 

「僕が、希望だなんて……」

 

 そんな、わけがない。そんなの、嫌がらせだ。

 

「ムーちゃんのデスクの上にたくさんの資料があるですよね。あれは全部、三年前の事件に関する資料です。ずっとずっと、ムーちゃんは犯人を探し続けてるです。あたしが“もう十分だ”って言ってるのにです」

 

 飛凰先輩は、「鍔乍のおかげです」と言う。

 

「鍔乍が人の心を持ってくれたから、三年前の事件を引き起こしたウイルスを作ったのが永遠乘命だって分かった。永遠に続くかもしれなかったムーちゃんの因縁を、終わらせてくれたです」

 

「違う……違う! そうじゃないんだ、そもそも僕が箱なんて開けなければ、こんなことにならなかったんだ! 世の中にウイルスが蔓延せず、平和な日常が!」

 

「そんな保障、どこにもないです。あのウイルスを作った人なら、きっと他の方法でウイルスをばら蒔くはずです。鍔乍がやろうとなかろうと、きっとウイルスは蔓延した。……なら、誰が元凶なのかを知ってる鍔乍が自我を持ったのは、紛れもない希望だと、あたしは信じるです」

 

 飛凰先輩は立ち上がると、こちらに手を伸ばす。

 

「あたしは鍔乍を信じるです。だから鍔乍も、信じてほしいです」

 

「信じる……?」

 

 僕は、死に屈した。死に置いていかれた。

 僕は、生を裏切った。生を信じることを、放棄した。

 両親の期待を、裏切った。

 でも。

 

「信じても、いいんですか……?」

 

 恐る恐る手を伸ばそうとする僕の手を、彼女は手繰り寄せるように力強く握り締めた。

 

「三十一歳、灰咲飛凰。女に二言はないです!」

 

 そう笑う彼女。

 彼女には、僕を憎む権利がある。

 彼女には、社長さんを責める権利がある。

 どうして妹は自爆ゾンビにならなければならなかったのかと。

 どうして妹を自爆ゾンビにした奴を見つけられないのかと。

 彼女は、相応しい権利がある。

 それなのに。

 彼女は僕を慰めた。自我を持ったゾンビを希望と称して。

 彼女は社長さんに感謝した。もう十分だと言って。

 

「憎んだり責めたりするのって、凄く疲れるです。凄く疲れるのに、何も報われないです」

 

 彼女は「だから」とベンチから立ち上がり、満月を背にしながら言う。

 

「鍔乍もムーちゃんも、信じるです。そっちの方が楽しくて、嬉しいですから」

 

「……」

 

 ああ、そうか。

 彼女は、本当は泣きたいんだ。誰よりも、ずっと。

 でも彼女は、強い人だから。皆を笑顔にしたいと、そっちを優先してしまうんだ。

 泣きたいのを、僕達が邪魔しているんだ。

 

「絶対に、絶対に終わらせますから……っ!」

 

「……うん」

 

 僕に彼女は守れない。彼女も、守ってもらうつもりはない。

 だからせめて、あの三年前に終止符を打ちに行こう。

 僕は立ち上がって、彼女と歩く。

 これ以上、社長さんや飛凰先輩のような人々を生まないためにも、終わらせなきゃいけない。

 

 

 

 

「ぁぅあああぇぇあぅ……」

 

 

 しかし、そんな空気を壊すかのように、あの呻き声が聞こえてきた。

 酔っ払いなんかじゃない。残骸の哭き声だ。

 ああ、そうか。ここは確かに自殺推奨場だったな。

 

「……飛鳳先輩、どこか安全な所に隠れてて下さい」

 

「はいです~!」

 

 僕の言葉を聞いて、彼女はすぐさま小さな茂みの中にその身を潜めた。

 ……こういう時には、体が小さいというのは中々利点だな。

 さて、あまり自分の傍にいては彼女を危険に晒すことになる。ここは彼女から距離を取るべきだろう。

 それじゃあ、目の前の仕事(ケジメ)を片付けよう。

 

仕事(ケジメ)開始(スタート)!」

 

 自分を鼓舞する言葉を口にし、こちらへと向かってくる自爆ゾンビに駆け出す。

 

「ぅごぅえぁいぅ……」

 

 不規則に揺れる影。確認したのは二つ。

 良かった。これなら短時間で対処可能だ。

 

「スゥ──―」

 

 息を吸い、足のスタンスを狭くやや内股気味に、腕を上げて体の重心は高く。まずはこれを心がける。

 およそコンクリートのような固い足場では不安定になる立ち方だ。

 だが、相手は自爆ゾンビ。元から人とは異なる動きをしてくる。

 ……ならば、この構えこそが奴らを相手取るに相応しいと言える。

 そう、状況に応じて一つの構えから他の構えへと変幻自在に切り替わるこの三戦(サンチン)立ちならば、奴らの動きを完全に対応することができる基点と成り得るのだ。

 

「──」

 

 息を吸ったまま、相手との距離を詰める。

 筋肉が弛緩した動きで淀みなく動き、相手の頭蓋を掴んでヒビを入れる。

 

「──破ッ!!!」

 

 息を吸っていた状態から一転、息を一気に吐いて筋肉を緊張させる。

 そのまま親指を曲げて、顎先へと掌底を当てる。

 

「がっ──」

 

 ブシュッという、相手の後頭部から爆弾が抜け出た音。

 まず一体目、次でさっさと終わらそう。

 

「あぅえぁ……」

 

 二体目の自爆ゾンビ。やることはさっきと変わらない。

 呼吸を整える。己の体力を、心拍を、精神を、己の筋肉と連動させる。

 弛緩させた瞬間に近づき、相手の動きを見てからそれに応じて自分の動きを──構えを変化させる。

 左右ならば騎馬立ち、前進すれば前屈立ち、後退すれば後屈立ち。

 

「破ッ!」

 

 隙など作るはずもなく。二体目の沈黙を確認。

 よし、これで──。

 

「きゃああああ!!」

 

「っ?!」

 

 背後で飛鳳先輩の悲鳴が聞こえた。慌てて振り返れば、彼女が三体目の自爆ゾンビに押し倒されていた。

 

「鍔乍、助けてです~っ!!」

 

「っ!!」

 

 まさか、隠れていたなんて!

 駄目だ、呼吸が乱れる。心が落ち着かない。

 動作が一歩遅れた。このままじゃ、間に合わない。

 彼女の元から離れるべきじゃなかったんだ。

 

 彼女の首を、自爆ゾンビが噛み付こうとした、その瞬間。

 

 

「──死体は、一つ残らず回収する」

 

 

 最初に感じたのは、鼻を突くようなエンバーミング用の防腐剤の臭い。

 続いて見えたのは固く握った拳によるアッパー。打ち出したのは、全身黒づくめのコートを着て、その顔を黒いカラスのようなマスクで覆う男。

 それでいて、右腕には赤い腕章を着けていた。

 

《目標を二つ(・・)確認。戦闘補助システム、正常。作戦目的、目標の沈黙を、実行します》

 

 男の起爆リングからそんな機械音染みた言葉が聞こえた。

 それだけじゃない、彼が動く度に妙な駆動音が聞こえてくる。

 

「──フンッ」

 

 そのまま男が繰り出したアッパーによって体勢を崩した自爆ゾンビに向かって、まずは足をトントンと二回地面を叩く。

 それはまるでリズムを取ってタイミングを合わせてるかのようだった。

 そして、相手の頭にめがけて回り蹴りを放った。

 

「あぼぇ──」

 

 月の光に反射する、銀色の一閃。男の革靴の側面についたナイフが煌めいた。

 ゴリ、という折れる音。グシュ、という肉の裂ける音。

 自爆ゾンビの首だけが空に舞い、首を失った胴体から血が吹き出す。

 

「……」

 

 その鮮やかすぎる手際──いや、足際の良さに言葉を失った。

 

《目標の沈黙を確認。続いて二つ目の目標を沈黙させて下さい》

 

 そう言うと、男の腕が駆動音を鳴らしながら僕の方に向かう。

 そのことに男自身が首を傾げた。

 

「故障しちまったのか。そいつは違うだろうが」

 

《情報修正、了解。……ごめんなさい》

 

 すると、こちらに向かっていた彼の腕がスッと降ろされた。

 なぜだろう、今一瞬だけ凄く人間味があったような。

 

《では、沈黙した目標を速やかに回収して下さい》

 

「AIに言われるまでもない。……そうだろ、お前達」

 

 男がそう言うと、どこに控えていたのかガスマスクを着けた黒ずくめの集団が出現した。

 

『了解しました、ムクロ隊長!!』

 

 そう一斉に敬礼を取ると、ビニール袋でできたケースに自爆ゾンビだったものを収納していく。

 その姿を見て思い出す。彼らは自爆した死体を回収することを目的とした尊厳死者搬送医、俗に『ミミズ』と言われている者達だ。

 

「……飛鳳先輩!!」

 

 一瞬呆然としたが、すぐさま飛鳳先輩の方へ向かう。

 彼女は僕の胸に飛び込むとわんわんと泣き出した。

 

「怖かったです~~!!!」

 

「ごめんなさい……僕の不手際です」

 

 泣き続ける彼女を落ち着かせるように背中を擦る。

 すると、男が近づいてきたので頭を下げた。

 

「ありがとうございます、助かりました」

 

「……一般人が死体の遊び相手をするな。これは全て、俺達が回収する。それが任務だ」

 

「……」

 

 つまりは手に余る行為は控えろと、そう言われたのだ。

 でも、これは僕のやらなきゃいけない義務で、それだけは譲れなくて。

 でも、僕は彼女を守れなかった。

 また誰かを、傷つける。

 

「助けてくれてありがとうです」

 

 そこで、ようやく落ち着いた飛鳳先輩が男に対して感謝を述べてから頭を下げた。

 その後、すぐに頭を上げて満面の笑みで言う。

 

「でも、鍔乍があたしを守ってくれようとしたことが間違いだったなんて、絶対に思わないです。そっちが任務なら、これは鍔乍にとっての仕事(ケジメ)なんです」

 

 僕は目を見開いた。僕のせいで危険な目に遭ったのに、彼女はそう平然と言ってのけたのだ。

 

 

──ホント、参るよなぁ──

 

 

 先ほど、社長さんが言っていた言葉が頭の中で響く。

 ──ああ、全くもってその通りだ。

 これは本当に……参るわけだ。

 

 

「……」

 

 男が無言のまま飛鳳先輩を見つめること数秒。彼の部下が声をかけてきた。

 

「ムクロ隊長! 全ての自爆死体の回収が完了しました!」

 

「……引き上げるぞ」

 

 そう言って踵を返した。僕は慌てて彼に尋ねる。

 

「すいません、貴方は一体……?」

 

 歩みを止めて、こちらを見ながら、彼は言う。そのカラスのマスクの奥で、どんな表情で見ているのだろうか。

 

「………俺はこの『ミミズ』を率いる者。人は、俺のことをムクロと呼ぶ」

 

 それだけ言って、去って行く。僕はただ、それを見つめるしかなかった。

 

 

「ムクロ……」

 

 その名前は、なぜか心に残る響きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 時刻は朝の七時。場所はブラックアリウム社。

 飛凰先輩を家に送り届けた僕は、あの後適当に公園で野宿をして夜を明かし、社長さんの言う作戦会議のために会社へ訪れた。

 

「俺達の目的は永遠乘命が三年前の事件を引き起こしたウイルスの作製者であるという証拠と、ワクチンの生成法が載ったデータだ」

 

 白板に簡易的な図を描く。

 

「恐らく、俺達が求めているデータは永遠乘命が使用している地下区画の研究室にあるはずだ。だが、ここで一つの問題がある」

 

 大雑把に描いた病院の絵の周りを囲うように丸を追加していく。

 

「病院の周りにはたくさんの警察隊がいる。このままでは、関係者でなければ病院の内部に入ることは中々難しいだろう」

 

「なら、どうすれば……」

 

 僕がそう不安そうに尋ねると、彼は「まあまあ、そう慌てずに最後まで聞け」と笑う。

 

「ネックとなる警察隊だが、なんとこれが三日後の夕方に一度だけ全て撤退する。確かな筋から取り入れた情報だから信用していい」

 

「なるほど。……でも、たとえ内部に入れたとしてもどうやって地下区画に侵入すれば」

 

 それだけではない。仮に侵入できたとしても、多数の警備員の目を掻い潜る必要がある。

 下手すれば、昨日の逃走犯の二の舞になりかねない。

 社長さんも同じ見解なのか、「そこなんだよなぁ」と何度も頷いた。

 

「この間のことで恐らくセキュリティーはより一層厳重になったと言ってもいいだろう」

 

 ならば、僕達のような出版会社の社員が侵入するなんて夢のまた夢だ。

 そう思ったら、どうにも歯痒い思いに駆られる。

 

「あともう少し……もう目の前なのに」

 

「ああ、それは俺も同じ思いだ。……だから、侵入せずに堂々と入ろうと思う」

 

「堂々と……?」

 

 社長さんは「望み薄だがな」と断りを入れたから、地下区画へ入り込むための方法を語る。

 

「病院の経営者からの許しを正式にもらえばいい。そうすれば、取材という体で地下区画に入り込める」

 

「ですが、あの病院の経営者って……」

 

 金剛寺大学附属病院。その経営者と言えば一人しか思い浮かばないだろう。

 金剛寺春人。個性が濃いと噂の、阿賀野コーポレーションの社長だ。

 

 

 

 

 

 さて。

 結論から言おう。

 

 

「だが、断る」

 

 

 普通に断られた。

 思い立ったが吉日。その日の内に金剛寺社長に対してアポイントメントを取り、こうして直接、阿賀野コーポレーションの百九階にある社長室にまで足を運んだ。

 取材交渉の場に訪れたのは僕と玄有社長だ。因みに社長さん表記じゃないのは金剛寺社長と紛らわしいから。

 飛鳳先輩は絶対に行きたくないと拒否されたので、この場にはいない。

 隣に美人な秘書を伴う金剛寺社長はとても苛立っているようにこちらを見る。

 

「話を伺いたいと聞いて来てみればこれか。セキュリティーが破られた、ならばこれをより強固にするまで。今回のことはただそれだけの話だ、取材するまでもない。そんなことすら貴様らは考えられないのか?」

 

「ですが、逃走犯はなぜあの病院に侵入したのでしょうか? あそこには色々と黒い噂を耳にしますが」

 

「質問を質問で返すな、非文化人よ。それに、その問いを答えるのは私ではなく、警察だ」

 

 話を聞く相手を間違えていると、金剛寺社長はそう言いたいのだろう。

 しかし、玄有社長も引き下がるつもりはないようだ。

 

「警察は答えてくれませんよ。彼らが答えてくれるのはあくまでも侵入された方法と経路や推論の域を出ない動機のみ。我々は、あの金剛寺大学附属病院の実態を知りたいのです」

 

「ほう、実態と来たか……」

 

「貴方だって自分の建てた病院の中で妙な取り引きをされていれば、気分は良くないでしょう?」

 

 玄有社長の言葉を金剛寺社長は鼻で笑う。

 

「確かにそれが我が社の中で行われているなら(はらわた)が煮えくりかえる思いにもなるだろうが、舞台が病院となれば話は変わってくる」

 

「と、言いますと?」

 

「私はただ奴らに医療の現場を提供しただけだ。その中で何が行われていようが、私にとって知ったことじゃないんだよ」

 

 わざわざ自分が病院の方針に口を出す必要性がない。自分は経営者として出資してはいるが、病院の管理者ではないということか。

 

「なるほど。では今度は金剛寺社長ご自身のことについて尋ねてもよろしいでしょうか?」

 

「私のことだと?」

 

 眉間に皺を寄せ、明らかに不快な表情を浮かべている。なんというか、「早く帰れ」というのがとても伝わってくる。

 

「三年前のゾンビ騒ぎのことは存じ上げているかと思いますが、そのことについて少しほど」

 

 どうやら玄有社長もこのままでは取り付く島もないのか、話のアプローチを変えるようだ。

 

「三年前は私が社長に就任した日だったからな。よく覚えている」

 

 金剛寺社長は気が乗ったのか、豪華な椅子に座りその身を背もたれに任せると、「それにしてもなぁ」と感慨深そうに話し始める。

 

「ゾンビ……ゾンビか。ああ、勿論把握しているとも。まるで昔のB級映画でも見ているかのような気分だったよ。有名どころではバタ○アン、マイナーどころではゾ○ビの秘宝か。……いや、後者はB級を飛び越えて遥かZ級と言っても過言ではないが。“Z”ombieだけに」

 

「「……」」

 

 僕と玄有社長は思わず閉口した。ちょっと何を言ってるのか理解できなかった。

 金剛寺社長は首を傾げる。

 

「どうした、今のは文化人ジョークだぞ。この私自らが、この空気を少しでも軽くするために言ったのだから、特別に笑うことを許すぞ」

 

 すると、彼の隣に立っていた秘書である女性が「失礼ながら」と口を開けた。

 

「今のは端的に申しますと、社長のつまらないギャグが滑ったのだと思われます」

 

「ギャグではない、文化人ジョークだ!」

 

「因みに。今のはZ級のとZと、ZombieのZを掛けた安直なギャグでして──」

 

「解説をするんじゃあない!!」

 

 声を荒げる金剛寺社長と、澄まし顔の秘書さん。

 なんとなくだが、息のピッタリさからこれがこの二人の日頃のやり取りなように感じる。

 出鼻を挫かれた玄有社長は「コホン」と咳払いをしてから、金剛寺社長に問う。

 

「俺が貴方にお伺いしたいのは、貴方自身が、あの三年前の騒動に関わっていないかということです」

 

「……」

 

 金剛寺社長は無言で玄有社長を見つめる。

 数秒の沈黙後、金剛寺社長は徐々に肩を震わせながら、やがて「クハハハハ!!」と大笑いし始めた。

 

「やめろやめろ、貴様は私を笑い殺す気か! 聞いたか我が秘書、こいつらは私こそがゾンビを作り出した黒幕だと思ってるらしいぞ!」

 

「そうですね、金剛寺社長の見た目は確かにマッドサイエンティストですから疑われても仕方がないかと」

 

「そこは否定するところだろうが!!」

 

 なんというか、確かに金剛寺社長の個性は濃いのだが、それ以上に彼の秘書の個性が強すぎる気がする。

 若干押され気味な金剛寺社長は崩れた襟を整えてから玄有社長に言う。

 

「とにかくだ。如何に阿賀野コーポレーションがあらゆる分野に精通していようとも、そのようなウイルス開発まではしていないし、する意味がない。私にとって自殺とは睡眠の上位互換であり、各個人の生き死に関わりたいとは思わない。なぜわざわざ寝た子を起こさねばならない」

 

「しかし、現に件の病院に所属しているのですよ」

 

「……」

 

 金剛寺社長は何がとは言わない。恐らく、玄有社長が何を言いたいのか理解しているのだろう。

 理解はしたが、納得はしていない。そんな絶妙に複雑そうな顔をしていた。

 だが、合点はいったらしい。

 玄有社長は畳み掛けるように言う。

 

「貴方の思想は知っています。ですが、貴方にはあのウイルス開発に協力する動機があります」

 

「動機だと?」

 

「はい。……貴方は八年前に亡くなった婚約者を愛していた。彼女を蘇らせるために、ウイルス開発に協力したのでは?」

 

「…………」

 

 金剛寺社長は目を細める。それと同時に、隣に控える彼の秘書でさえ、纏う空気が冷たくなった気がした。

 それすなわち。

 

「つまり、そうか。そんなくだらないことを聞くためだけに、貴様は私の貴重な時間を無駄に使わせたということか。これは」

 

 恐らく、彼らの地雷を、踏み抜いたことを意味する。

 しかし玄有社長も引く気はないらしい。

 

「お言葉ですが、阿賀野コーポレーションは尊厳維持装置の生産を一挙に請け負っており、あのウイルスは自爆しない限りは人々をゾンビ化させず、そのウイルスの開発者が貴方が建てた病院に所属し、さらに貴方にはかつて愛した婚約者が自殺した過去がある。……ここまでの材料が揃っていれば、疑われない方が不思議かと思われます。逆に貴方が俺の立場なら、疑わずにはいられますか?」

 

「……確かに、些か話ができすぎてはいるな。腹立たしいことに」

 

 そこまで言ったところで、先ほどまでの軽蔑の顔はなくなり、金剛寺社長は玄有社長を興味深そうに見つめる。

 

「文化賢人を脅迫とは中々業腹だな。つまり、貴様はこう言いたいわけだ。“疑いを晴らしたいなら、病院の内部調査を許可しろ”と」

 

「俺のモットーは真実を明るみに出すこと。それが第三者にとっての好都合だろうが不都合だろうが、一切の容赦はしない」

 

「……なるほど。私もできるなら無駄な疑いは晴らしたいと思う。ならば敢えて、貴様にはこう言ってやろう」

 

 口元をニヤつかせながら、彼は再度言葉を紡ぐ。

 

「だが、断る」

 

 出てきたのは、先ほども述べられた拒否の言葉。しかし、同じ言葉でも少し意味合いが違っているようにも感じられる。

 

「中々面白い余興だったぞ、……ええと、月○ムーよ」

 

「玄有夢羽です。誰が月刊○ーですか」

 

 金剛寺社長は「そうだったそうだった」とこちらを茶化す。

 

「私は貴様らに協力はしない。なぜなら、私は私自身が自信を持ってウイルス開発に関与していないと強く言えるからだ。ならば、わざわざ疑いを晴らす必要がない。だって私は洗濯したシャツのように白い男だからな!」

 

「童貞ですものね」

 

「それは今は関係ないだろう!?」

 

 横槍を入れてきた秘書に相変わらず声を荒げつつ、座っていた椅子から立ち上がって宣言する。

 

「そもそも、私と貴様達はこれ以上交わるべきではないと文化の本能が告げている。謂わば、私が公式(オフィシャル)ならば、貴様達は二次創作(ファンアート)、なぜ公式が二次創作に従わねばならない! 公式は公式、二次創作は二次創作の中だけで完結してろっての。だからこの界隈は荒れやすいんだ!」

 

 なにやら凄くメタイことを言い始めたが、なんだろうか……この凄くしっくりくる表現は。

 彼の言うとおり、これ以上彼と会話しても事態は好転しないような気がしてきた。

 

「分かったら、本日のファンサービスはここまでだ。さっさと各々の仕事に戻るがいい。あと私は久々の仕事(かいわ)ですっげー疲れたから、これから部屋で寝ることにする。というわけで秘書よ、客人のお帰りだ」

 

「はい、承りました」

 

 そのまま彼の秘書に案内される形で社長室から阿賀野コーポレーションの入り口にまで戻されることとなった。

 

 

「……駄目でしたね」

 

「ああ。だがまあ、これで個人的なわだかまりは取れた」

 

 玄有社長──いや、もう金剛寺社長との会話は終わったから社長さん表記に戻そう。

 彼はタバコを取り出すと、ライターで火を点けて、一度吸ってからフゥーと吐き出す。

 

「実は、俺はずっと三年前の件で手を引いてるのは阿賀野の社長だと思ってた。それにケリが着いただけでも、今回の面会には意味があった」

 

「でも、結局振り出しに戻っちゃいましたよ。どうやって病院に入り込むんです? 」

 

「……そうだなぁ」

 

 僕の問いに対してそう考え込むようにして、スーツの内ポケットをまさぐって一枚のカードを取り出した。

 

「これを使うっきゃないか」

 

 僕は首を傾げた。

 

「何ですか、それ?」

 

「金剛寺大学附属病院のセキュリティーカードもどきだ。知り合いのオタクな外国人に頼んで作ってもらった。これさえあれば、地下区画への侵入自体は可能なはずだ」

 

「……社長さん、オタクな外国人ってなんですか」

 

「オタクな外国人、ってことだ」

 

 そうニヤリと笑う彼。違う、そうじゃない。

 

「元々、あの病院には色々と黒い噂があったからな。それを暴くために使おうと思って準備していた物の一つさ」

 

「はあ……。ていうか、それがあるならさっきまでの金剛寺社長との会談に意味はあったんですか?」

 

「リスクが減るならそれに越したことはないだろ」

 

「まあ、確かに」

 

 となると、残り達成すべき問題は、いかにして警備員の目を掻い潜るかにいよいよなった。

 

「……あ」

 

 一つ、案を思い付いた。とてつもなく脳筋な案だが。

 

「どうした、鍔乍?」

 

「いや。僕、これでも武術にそれなりの覚えがあるので……その、片っ端から警備員を圧していこうかな、と」

 

「…………」

 

 僕の提案に押し黙る社長さん。まあ、そうだよな。

 いくらなんでもそんな単純にいくわけがないか。一応、肉体はゾンビなので頭にさえ気を付ければ多少体に銃弾を喰らっても倒れることはないのだが。

 

「……よし」

 

 長い沈黙を破り、彼は俺にカードを手渡してきた。

 ………。え?

 

「あの、社長さん……?」

 

「俺には武術の心得なんてものはないからな。この件、お前に任せる。しっかりとデータを取ってこいよ」

 

「ええ……」

 

 いや、提案したのは確かに僕ですけど、そんな安易なやり方で果たして大丈夫なんですかね?

 なんというか、不安しかないというか。

 そんなこんなで僕は作戦決行の三日後まで、他の取材に向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

────―   ────―   ────―

 

 

 

 

 

 

 三日後。

 時刻は午後六時。

 場所は金剛寺大学附属病院。その前。

 ついに作戦決行の日を迎えた。

 

 病院から警官が一斉に出て来てパトカーに乗り込んでいくのが見て取れる。

 新米のような刑事が自身の上司っぽい男、さらに遅れてもう一人刑事が歩いてきた。

 

「柳先輩、一体どういうことですか。いきなり撤収しろだなんて」

 

「さあな。上からのお達しだ。ほら堤下、余計なこと言ってないで早く乗れ! 志渡、お前もだ!」

 

「……はいはい」

 

 そんな三人の会話が聞こえてくる。

 なるほど、社長さんの知り合いの情報網は確かに信用できるようだ。

 

「なら、僕もそろそろ行こう」

 

 そう言って、茂みに隠していた身を晒して病院の出入口に向かう。

 病院に入り込み、辺りを見渡す。

 病院内を歩く患者さんや看護士や医師。足早に地下へと続くエレベーターを探す。

 

「たしか社長さんから見せてもらったマップだと、この廊下の突き当たりだったはず」

 

 なるべく誰にも遭遇しないように、足音を立てずに廊下を歩き、突き当たりを左に曲がった所でエレベーターを見つけた。

 

「よし」

 

 目的地は、地下三階の資料室と地下五階の検体室に挟まれた地下四階の研究室だ。

 社長さんから預かったセキュリティーカードによってエレベーターが開いた。

 よし、あとは誰も乗り込んで来ないようにエレベーターの閉まるボタンを押す。

 

「あー! ちょっと待って下さい!!」

 

「あ、はい」

 

 外から慌てて駆けてくる足音と声。思わず条件反射のように開くボタンを押してしまった。

 ……しまった。

 駆け込んで来た人物を見れば、頭が寂しい医者だった。

 そのままエレベーター内には僕と医者の二人だけ。

 

「ふぃー。いやぁ、助かりました」

 

「いえ、お構い無く」

 

 息を切らす医者は懐から出したハンカチで額の汗を拭っていた。どこまでが額なのか疑問に思ったが、言わないでおこう。

 そのままエレベーターの扉が閉まり、そのまま下へと移動していく。

 ふと、医者がこちらを見た瞬間、目を見開いた。

 それはそうだろう。今の僕の格好はフード付きの白いジャケットを着て、瞳にはゴーグルを着けているのだから。

 どっから見たって医療関係者には見えないだろう。

 

「「……」」

 

 互いに押し黙ってしまう。

 

「ええと……」

 

 先に口を開いたのは向こうだ。明らかに困惑している。……というより、警戒だろうか。

 

「一体、どちら様でしょうか?」

 

「あの……自分、こういう者です」

 

 咄嗟に懐から名刺を取り出して医者に渡した。ここは何とかそれっぽいことを言って乗り切ろう。

 医者は僕が出した名刺を目を凝らして読む。

 

「ええ……、株式会社ブラックアリウム社……。ああ、あの出版社の」

 

「はい。先日の逃走犯についての話を伺うために、本日こちらに足を運びました」

 

「ああ、三日前の。……ただ、このエレベーターは我々関係者にしか乗れないはずなんですが」

 

「それに関しては、こちらに勤めていらっしゃる永遠乘先生に事前に許可をいただきまして、『話を伺うなら研究室に直接来てほしい』と言われたので」

 

 僕の言葉を聞いて医者は「なるほど」と頷いた。

 

「確かに永遠乘先生は滅多に研究室から出ませんからね。……まあ、この前の騒ぎには流石に出てきたみたいですが」

 

 ……だろうな。永遠乘は医者でありながら本質は根っからの研究者だ。

 それを理由に彼女は自分のゼミを研究室で開いていたのだから。

 というより、結構上手くいくものだな。もしくは単にこの医者がチョロいだけか。

 医者は納得したのか、それまでの緊張感を解いた後に自分の名刺を渡してきた。

 

「すいませんね、こちらも少し気が立ってたみたいです。こちらをどうぞ」

 

「……どうも」

 

 名刺を受け取って名前を見る。そして思わず目を見開いてしまった。

 その名刺に書かれていたのは、『風祭 宗司』。

 『風祭』という名前には見覚えがあった。

 

「どうかしましたか?」

 

 僕の反応に首を傾げる医者──風祭先生。

 

「い、いえ……実は『風祭』という名字に覚えがありまして」

 

「そうなんですか? 『風祭』はうちの一族しかないのでかなり珍しいはずですが」

 

「……ええ。あの、もしかしてご家族に『恭子』という名前の方がいらっしゃったりします……?」

 

 もしかしたりするのだろうかと、興味本位で尋ねてしまった。

 向こうも驚いたように目を見開いた。

 

「妹をご存知なのですか?」

 

「……はい」

 

 やっぱり関係者。しかもお兄様でしたか。というより、まさかこんな場所であの人の関係者に会うとは思わなかった……っ!!

 

「あの、恭子先生は僕の武術の師匠でして、その際は大変お世話になりました」

 

 ……ええ、本当に。生前に何度殺されかけたか分からないほどに鍛えられましたとも。

 まあ、その技術が今は自爆ゾンビに対して活かせているので、感謝しかないですが。

 一方の風祭先生は「ほう!」と顔が笑顔で輝いた。

 

「それはそれは、確かに妹は近所の子達にも護身術を教えていますが、まさか生徒さんと会うとは……世の中は狭いものですねぇ」

 

 そう、嬉しそうに笑う風祭先生。なんというか、お兄さんの方は妹さんと違ってずいぶんと性格が丸いらしい。

 てっきりあの人の親族だから、こちらを殺しにくるほどの覇気があるだろうと思っていたのだが。

 ……いや、これもこちらを油断させるための擬態だろうか?

 

「妹は、昔は自衛軍の方に所属していましてね、それはもう私はずっと気が気じゃなくて」

 

「……なるほど」

 

 それはそれは……あんなに強いわけだ。

 風祭先生は何かスイッチが入ってしまったのか、恭子先生についてかなり語ってくる。

 

「そのせいか中々貰い手がいなくて、いくら見た目が若くてももういい年齢だし。いや、凄く凄く可愛いんですがね」

 

「はあ……」

 

 とにかく、彼が凄く妹を溺愛していることは伝わった。

 そこまで語ったところで、ふと風祭先生は首を傾げた。

 

「おや。この話、三日前もしたなぁ」

 

 どうやら妹さんの話を定期的にするぐらい溺愛しているらしい。……いや、もうお腹いっぱいです、はい。

 師匠である恭子先生のことを思い出すと、毎回ご馳走になった紅茶の味を不意に思い出した。

 

「そういえば、恭子先生からは鍛練後に紅茶を振る舞ってもらいましたね。特にダージリンが美味しかったです」

 

「そうでしょうとも。あれは自衛軍にいた頃からの妹の日課のようなものですね。そのおかげか、腕前はそんじょそこらの喫茶店にも通用すると自負してますが」

 

「ええ、本当に。たしか姪っ子さんも鍛練に参加してましたね、彼女はよく鍛練後に出てくる羊羹(ようかん)を楽しみにしてたのを覚えてます」

 

「ああ、すみれちゃんのことですか。……そうですね、彼女は最近、色々と不安定らしいですが」

 

 不安定。どういう意味だろうか。何か複雑な事情でもあるようだが。

 僕が首を傾げていると、エレベーターが止まった。階層を見てみると、地下三階。

 資料室だ。

 

「おっと、失礼。私はここで降りますね。いやぁ、今日は話せてとても良かったです。また妹の話を聞かせて下さい」

 

「あ、はい。分かりました」

 

 殆ど聞いてたのはこっちのような気がするが。

 そうして降りていった風祭先生を見送り、エレベーターの扉を閉める。

 ……思わず息を吐いた。そんなもの出ないけど。

 

「なんとか、乗り切った」

 

 安心するのはまだ早い。本番はこれからだ。

 エレベーターが再度止まる。

 表示されるのは地下四階。研究室。

 静かに扉が開いた。

 

「「あ」」

 

 早速警備員と遭遇。声が重なった。

 

「この感じ、この前も──」

 

 警備員にしては隙だらけ。不審者を見かけたらすぐに銃に手をかけて構えるぐらいはした方がいいのにそれも無し。

 なので軽く相手の顎先を横からスライドさせるように拳で擦るように叩く。

 

「──うっ」

 

 まず一人目、沈黙。

 続いて左右を確認、人の気配は感じられない。

 目標地点は廊下を右に曲がって直進、その後左に曲がった先の奥だ。

 一度落ちれば六時間ほどは起きないはず、それでも一度でも通報されたら終わりだ。油断はできない。

 

「し、しんにゅ──」

 

「何者だ、きさ──」

 

「だ、誰かいな──」

 

 とにかく素早く意識を落としていく。ここまで来るのに遭遇した警備員の数は四人。

 個人的にはオートマトンより楽ではある。

 現在、最後の曲がり角を曲がってから直進。ここの奥の部屋が目的の場所のはずだが。

 

「……あった」

 

 重厚感のある大きな扉。隣には『永遠乘 命』というプレートが付いている。

 扉に触れるが、案の定施錠されている。

 

「もう一回、こいつの出番か」

 

 懐からセキュリティーカードを出して無事に解錠。

 ……このセキュリティーカード、本当に万能だな。社長さんの話ではオタクな外国人から貰ったようだが。

 というか、オタクな外国人という意味がよく分からない。なんでその人がこんな凄いもの持ってんの?

 

 ……余談はいい。とにかく、室内に入ろう。

 開けた扉を閉めると、中は誰もいないのか無音。

 研究室だから、何かを培養しているフラスコや試験管の山ばかりだ。

 そんな中で、一つのノートブック型のパソコンが置いてあった。

 それに触れようとした瞬間。

 

「誰だい、君は」

 

「────っ」

 

 背後からこちらを咎めるような声が刺す。

 三年越しだ。三年越しに聞いた、女の声だ。

 僕はゆっくりと振り返り、自身の顔半分を隠すフードを取って見せる。

 

「君は……」

 

「忘れたとは言わせない……」

 

 彼女は相変わらず妖艶だった。記憶と違うのは、肩までだった黒髪が腰まで伸びていたのと、三年前にはなかった眼鏡をかけていることぐらいか。

 そんな女、永遠乘命は僕の姿を見て一瞬だけ驚いたような顔を見せたものの、すぐに満面の笑みを浮かべる。

 

「──ああ、勿論忘れたことなんてないさ。忘れられるはずもない。やっと会えたね、ボクの運命(つばさ)……ずっとずっと、探していたよ」

 

「探していたのはこっちのセリフだ。永遠乘」

 

 僕の険悪な雰囲気に彼女は「おや?」と首を傾げる。

 

「もう“先生”とは呼んでくれないのかい?」

 

「悪いが、あんたのことを慕う上地鍔乍は、三年前に死んだ」

 

「死んだ……? そんなはずはない、君は生きている。こうして、生きて、ボクの目の前にいる。君こそ、ボクの研究成果の成功例なのだから」

 

 そう言って一歩ずつこちらににじり寄ってくる彼女に対し、僕は思わず身の危険を感じて一歩下がる。

 

「君だけなんだ、君だけが唯一自我を保っている。それは何故なのか、何故他の個体では駄目なのか。君と他で何が違うのか。君を解明することでボクのダイダ・ロスは完成する!」

 

「それを僕が許すと思うか……?」

 

 悪いが、こいつの研究の礎になる気はない。

 僕のその言葉を、彼女は理解できないらしい。

 

「何故だい? 君も同じはずだ、人々を死から救いたいと、そのために医師を志したのだろう?」

 

「それは……」

 

「人は生きなければならない。医療とは、人を生かすために存在するのだ。ならばこそ、人類を救うのは断じて尊厳維持装置なる玩具ではなく、ボクの生み出す完全なるダイダ・ロスこそが相応しいと言えるだろう?」

 

「あれが、救いだと……?」

 

 三年前の日。人々を襲う自爆ゾンビ。あんなものが、救いだと、この女は言いたいのか?

 

「ふざけるな……っ!!」

 

 彼女の白衣の襟を掴んで睨み付ける。

 自爆ゾンビのせいで、多くの人々が傷ついた。社長さんも、飛凰先輩も、その妹さんも、僕の母さんも。

 それなのに、この女は……。

 

「何が不満なんだい?」

 

 どうしてこの女は、何も理解していないんだ。

 

「お前のやったことで、多くの人が負わなくていい傷を負ったんだぞ!!」

 

「試験に犠牲は多少なりとも付き物だ。一々騒ぐようなことじゃない」

 

 命を救うために犠牲を強いる。そんなことがあっていいのか、それが僕の信じた医療なのか。

 それが本当に、僕が目指した医者だとでも言うのか。

 彼女は僕を諭すように口を開く。

 

「君とボクが生まれるずっと昔の話だ。二次大戦中にナチスが行った生体実験。頭蓋を外し、剥き出しの脳に電極を刺した。一見非情な行為だろう。だがね、皮肉にもこれは医療の発展に大きく貢献したのだよ」

 

 医療の発展に、些細な犠牲は付き物。

 その犠牲が、三年前の、あの日の電車の乗車客だった。

 それだけの話。

 彼女はそう言いたいのか。

 

「君は何が目的でわざわざここまで来たんだい?」

 

「決まっている。ダイダ・ロスのワクチン生成法を聞き出すためだ」

 

「……ずいぶんつまらない理由で来たものだねぇ」

 

 やれやれと肩を竦めて彼女は言う。

 

「ワクチンの生成法なんかないよ。ダイダ・ロスが人類の救いである以上、必要ないからね」

 

「だったら研究データを寄越せ。あんたの所業を世間に公表してやる」

 

 ワクチンの生成法はない。ならば、三年前の事件に決着を着けるまでだ。

 それに、研究データさえあれば、時間をかければワクチンを生成することも難しくないはずだ。

 

「あんたのイカれた研究は今日で終わりだ。今の僕ならお前ぐらい簡単に殺せる」

 

「それが脅しのつもりかい?」

 

 だが、彼女はまるで何も意に介していないようだった。

 

「脅しって言うのは、こういうのを言うんだよ」

 

 そう言って、懐から小さな端末を出した。

 

「なんだ、それは……?」

 

「近くの電車に仕掛けた小箱の起動装置だ。今回は三年前と違って遠隔操作可能だよ」

 

 小箱、その単語だけでその端末が悪魔のアイテムだと理解できた。

 つまり、彼女の意思次第で三年前の惨劇がまた繰り返される。

 僕は、ゆっくりと掴んでいた彼女の襟から手を離した。

 

「いい子だ。……そうだね、交換条件といこうじゃないか」

 

「交換条件……?」

 

「そうだ。ボクに君の血液サンプルを採取させてくれ。その代わり、君にはボクの研究データを渡そう。悪い取引ではないだろう?」

 

「……」

 

 反論なんてできるはずがない。彼女の手には、僕にとっての爆弾が握られているも同然なのだから。

 もうあんな惨劇を繰り返さないためにも。

 僕は、彼女の取引に応じなければならない。

 

「分かった……」

 

「そうか。君が賢い生徒で嬉しいよ」

 

 そう言うと、彼女は採血の準備をするために僕を席に着かせる。

 すると、まるで僕の右腕を恍惚とした笑みを浮かべながら見つめ、まとわりつくように触れてくる。

 

「ああ、実に美しい。ボクには分かる、表面が硬化しているだけで、確かな脈動が君の体内を循環している。ボクには、それを感じることができる。君の体を、ボクは誰よりも理解している」

 

 アルコールを含ませたガーゼで表面を拭い、採血するなら必要であろう駆血帯をせずに、彼女は注射器の針を僕の肌に差し込んだ。

 思わずビクッと肩が震えた。痛みは感じない、でも生前の感覚から、体が反射のように動いてしまった。

 そのままスムーズに抜かれていく血液。確かに彼女は、僕の体を理解しているらしい。

 それが堪らなく憎たらしいことだが。

 時間としては数秒ほどだ。一本分抜き終わると、彼女は血液を試験管に移して栓をした。

 そしてその試験に、まるで恋人に対して行うような口づけをしたのだった。

 

「……ああ、温かい。君の熱だ、試験管越しでも伝わってくる」

 

「約束は、守ってもらうぞ」

 

「ああ、勿論だ。ボクは約束を守る女だからな。君もそういう女が好きだろう?」

 

「……僕は、お前が憎い」

 

 僕が彼女に向ける怨嗟の視線に頬を赤く染め、採血されたばかりの僕の腕に抱き付きつつ、手にUSBを握らせてきた。

 

「そうか、なら我々は両想いだな。愛情の反対は無関心。それ以外をボクに向けている時点で、ボク達は通じ合っていると言ってもいいのだから」

 

 傍から見れば、まるで恋する少女のようにも見える。

 だが、僕からすればこいつはただの狂った悪魔だ。

 

 僕は立ち上がって、彼女の手を払いのけた。そして、僕の手に握られたUSBを見つめる。

 

「これは……?」

 

「ツレないなぁ。……それには、ここ数年間のダイダ・ロスの研究データが入っている。勿論、ボクの名義入りでね」

 

「……」

 

 これで、社長さんと飛凰先輩の無念を晴らせる。この女の異常性を、世間に公表できる。

 そう思って安堵しかけたが、まだ早い。

 

「おっ、と。乱暴だね」

 

 僕は彼女が握ったままの小型端末を奪い取った。これをこの女に持たせておくわけにはいかない。

 

「だけど、いいのかい?」

 

「何がだ」

 

「だって、それ……」

 

 彼女が小型端末を指差した瞬間。

 

《登録者以外の指紋を検知。ダイダ・ロスの散布準備開始》

 

「なっ──」

 

 どういうことだ、どうして勝手に?!

 

「言い忘れてたけど。それ、ボク以外が触れた瞬間に即散布されるように設定されているんだ。もしもの時のことを考慮してね」

 

「そんな……」

 

《五、四、三、二、一……散布開始》

 

 それはまるで死刑宣告のような絶望だった。

 結局、僕はまたあの惨劇を繰り返してしまった。

 

「っ」

 

 今にも駆け出そうとした瞬間、彼女の尊厳維持装置からアナウンスが流れる。

 

《緊急速報です。只今、金剛寺大学附属病院前駅にて、原因不明の爆発によって電車が脱線し火災が発生しました。駅構内にいる方は速やかに駅係員の指示に従って避難し、近隣の方は危険ですので現場には絶対に立ち入らないようにして下さい》

 

「電車が、脱線?!」

 

「おやおや、これは少し見誤ったね」

 

 彼女は「残念だなぁ」と溢して問題点を丁寧に列挙して解説していく。

 

「空調設備からダイダ・ロスが車内に流れるようにしたのだけれど、どうやらその過程で何かに引火し爆発。その衝撃で脱線してしまった、というところかな? やはり専門分野以外は下手に手をつけるべきではないな」

 

「……っ」

 

 思わず駆け出すと、後ろから「良かったじゃないか」と声をかけられて一旦立ち止まった。

 

「ダイダ・ロスはちょっとの高熱で死滅する。そして火災の際に発生する熱はおよそ千度。つまり今回は感染者はいないということになる」

 

 嬉しいだろ。そう言いたげな彼女に、僕は思わず奥歯を噛み締めるように顔を歪めた。

 感染者が出たか否か、これはそんな問題じゃない。

 

「……やっぱり、僕はあんたが憎いよ。無関心でいろだなんて土台無理な話だ」

 

「ボクからすれば、史上最高のプロポーズだね。心の底からゾクゾクするよ」

 

 悪趣味な女。そう視線に籠めて僕は走りだした。

 途中で脳震盪を起こして倒れさせた警備員達を避けながら、エレベーターに乗って病院の受付まで昇る。

 

 扉が開いた瞬間、一気に外に向かって飛び出した。途中、看護師の人から注意されたが、そんなの無理だ。

 一刻も早く向かわなくては。今度こそ、救わなければならないんだ。

 

──ピピピ

 

 携帯が鳴り、相手を見ずに通話に出る。

 

「はい、もしもし!」

 

《鍔乍、研究データは取れたか!?》

 

 相手は社長さんだった。

 

「はい、それは入手できました!」

 

《そうか、よくやった! これで三年前の事件に──》

 

「でも、僕、またやらかしたんです!!」

 

《なに? どういうことだ?》

 

「すいません、今急いでるんです! 詳しいことは後で言います!」

 

《お、おい鍔乍──》

 

 そこで通話を切った。

 走る、ひたすらに走る。

 また携帯が鳴るが、相手はきっと社長さんだろう。

 今は一分でも早く現場に着くことに集中し、それら一切を無視する。

 

 走ること十分。金剛寺大学附属病院前駅に着いた。

 外からでも線路が燃えているのが分かる。横転した電車の元に向かうために混乱している人混みに乗じて改札口を通る。

 そのままホームから線路まで、一気に駆け降りる。

 

──見えた。

 

 はっきりと、横転した電車を視認した。

 その電車の元まで走り、硬い扉を正拳突きで破壊して内部に侵入する。

 外から見えるのは煙だけだったが、中はもっと酷かった。

 肉の焼ける臭いと赤い火の波、そして死体の山々。

 三年前と、同じだ。

 見える光景は違っても、本質は何一つ変わらない。

 地獄。

 ここは、まさに地獄だった。

 

「誰か、生きてる人はいませんか!?」

 

 必死に生存者を探す。だが、誰も反応しない。

 誰か、いないのか。生きてる人は、いないのか。

 

 

 

「誰か……誰かいないの……すみれ…まゆちゃん……」

 

 声が、聞こえた。

 生存者だ。生存者がいたんだ。

 

「ここに、ここにいるぞ!」

 

 そう声を出すが、相手は気づかない。遠目から、恐らく少女であることは分かる。

 こっちの声が聞こえるように、もっと彼女との距離を詰めようと試みる。

 だが火の手が強すぎて、中々先に進めない。

 

「……くっ」

 

 周りの熱のせいで、意識が朦朧とする。

 一体どうして、いくらなんでも、ここまで頭が働かなくなるなんて。

 思わず体がもつれて倒れそうになり、電車のつり革に掴んだ時だった。

 右手の皮が裂けた。

 

「どうして……」

 

 あれほど、硬く丈夫だった皮膚が、まるで溶けた蝋のように脆い。

 ふと、あの女の声が脳内に響いた。

 

──ダイダ・ロスはちょっとの高熱で死滅する。そして火災の際に発生する熱はおよそ千度。──

 

 ……まさか、僕の体内のダイダ・ロスが死滅しているのか? だから、こんなに体が脆く……。

 

「くそ、なんなんだよこの体は。肝心な時に、役に立たないじゃないか!!」

 

 あの娘だけでも助けられれば──。

 そう思った瞬間だった。

 

 

「もう──『死にたい』──」

 

 

 死を乞う、声が聞こえた。

 待て、待ってくれ!

 ここに、僕がいる。僕がいるんだよ!!

 

 無理矢理にでも、火の海を掻き分けて進む。

 ほら、もうすぐだ。もうすぐ、辿り着く。

 佇む少女の肩に触れる。

 

《起爆します》

 

 少女が、倒れた。

 少女には、目がなかった。

 空っぽの穴から静かに流れ出る血の涙が、僕を責めているかのようだった。

 

「あああああああああああああ!!!!!!」

 

 どうして、どうして僕は、どうして間に合わないんだ。

 僕の嘆きさえ、電車が崩れる音にかき消されて──。

 

──その希望が、鍔乍なんだと思うです──

 

 違うよ、飛凰先輩。僕は、希望なんかじゃない。

 僕はどう足掻いても、災厄しか呼べないんだ。

 

 

「……うあ、あ、あ」

 

 声が、聞こえた。

 自分の声でも、自爆した少女の声でもない。

 

 枯れたような女の子の声。でも、聞き覚えがある。

 そうだ、この声は。

 

──たしか姪っ子さんも鍛練に参加してましたね──

 

──ああ、すみれちゃんのことですか──

 

 

「すみれ……ちゃん?」

 

 

「あ、かひ、に、っ」

 

 

「待っ──」

 

 彼女の元に行こうにも、足が動かない。どうやら、この熱のせいで足にまでダメージが来ているらしい。

 そのまま為す術なく倒れる。

 

「し、ひ、っ」

 

 ダメだ、君まで『死にたい』なんて、言うな。

 君に死なれたら、僕は、恭子先生に合わせる顔がなくなる。

 せめて、君だけでも。

 なのに、どうして──。どうして!!

 

 

──「死にたい」──

 

 

 どうして僕の足は、前に進まないんだ!!

 

 

「死にたいっ! 死にたいっ!」

 

 

 彼女の慟哭が聞こえてくる。

 

 頼む誰か、誰でもいい。

 僕の体はもう動かない。

 頼むから、彼女を──。

 

 

「「助けて──」」

 

 

 

 

 

 

「ああ、俺が助ける」

 

 

 

 一気に、目が見開いた。

 それは、黒いパワードスーツに身を包んだ何者か。

 武骨ながらも、電車を難なく破壊し、炎の道を突き進むその姿に僕は思った。

 きっと人々は彼のことをこう言うのだろう。──『希望(ヒーロー)』と。

 そうだ、彼こそ、彼こそが本当の希望なんだ。

 すみれちゃんが伸ばした左手をしっかりと掴み取り、彼女を救ってみせた。

 ああ、どうして。僕は、ああいう風になれなかったのだろう。

 

 

 

「ちょっと、貴方! 大丈夫ですの!?」

 

 

 あまりの絶望にうちひしがれて、意識を失ってから数分後。

 頬を誰かに叩かれた。

 薄く目を開くと、目の前にいるのは金髪の少女と、赤髪の少女。

 特に金髪の少女が慌てた様子でこちらの肩を揺さぶる。

 ただ、僕には彼女が着けている赤い腕章に気を取られてしまって反応ができなかった。

 あれは、この前会ったムクロという男が着けていたものに似ていた。

 

「姐さん、そいつもう死んでるんじゃないっすか?」

 

 すると赤髪の少女が、何やら物騒なことを言っている。だが中々的を射る発言だ。

 

「……一応、処分しないでくれると助かります」

 

「うわ、生き返ったっす!」

 

 肉体的には死んでますけどね。

 まだ体がふらつくが、どうにか動かせそうだ。

 辺りを確認してみれば、ここは駅のホームか。

 

「良かったですわね。金剛寺大学附属病院の近くでしたから、永遠乘先生が貴方の治療をしてくれたんですのよ」

 

「永遠乘、命が……?」

 

 ……くそ、とんだ死に恥を晒してしまった。

 ということは、奴が死滅した分のダイダ・ロスを僕の体内に注入したということか。

 凄く複雑な顔になっていることは自分でも想像に難しくないが、とにかく二人にはお礼を言わなければ。

 

「救出していただき、ありがとうございます」

 

「ええ、私も貴方が助かってくれて良かったですわ。……その、とても凄惨な状態でしたから」

 

 伏し目がちに、金髪の少女がそう言った。

 凄惨な状態……、そうだ。

 もっと大切なことを確認しなくては。

 

「そういえば、その……すみれちゃんは、もう一人、生存者はいませんか?」

 

「すみれ……? ああ、あのテロリストに救出された少女ですわね」

 

「その口振りだと、無事なんですね……?」

 

「ええ。彼女の方はもっと重傷で、今は病院の方に搬送されましたわ」

 

「そう、ですか。……良かった」

 

 心の底から安堵していると、金髪の少女は「コホン」と咳払いをしてからこちらを指差す。

 

「他人の心配より、まず自分の心配をしたらどうかしら。永遠乘先生が応急処置をしているとは言え、貴方、目から血が出てますわよ?」

 

「え……あ……」

 

 そういえば、やけに視界がクリーンだと思えば、ゴーグルが外されていた。

 僕は目元の血を拭ってゴーグルを装着した。

 

「お構いなく。生憎と、今は持ち合わせの金がないものでして」

 

 それじゃと笑みを浮かべてその場から駆け出した。

 背後から、「ちょっとー?!」という素っ頓狂な声が聞こえたが、無視してブラックアリウム社に戻ることにした。

 

 

 

 

 

 

 結果から言おう。

 凄く怒られた。

 

 

「お前は……っ! お前って奴は、こっちは死ぬような思いで心配したんだぞ!!」

 

「そうです! そうですよ!!」

 

 社長さんと飛凰先輩の双方からそう怒鳴られ、僕はただただその場に正座せざるを得なかった。

 僕は一言、頭を下げて謝罪する。

 

「本当に、申し訳ありませんでした」

 

「謝って済むなら進駐軍はいらないです!」

 

 いらないのは警察なのでは? ……いや、どちらも必要ですけど。

 とりあえず、僕は懐からUSBを取り出して社長さんに差し出す。

 

「研究データを手に入れました。……ですが、また僕、やらかしました」

 

「ああ、脱線事故の様子はこちらもニュースで確認したさ。……それで、今回はあの女狐はどんな手で事故を起こしたんだ?」

 

「空調設備にダイダ・ロスを仕込んだところ、それが何かに引火して爆発。結果、横転したようです」

 

「……なるほどな」

 

 社長さんは納得したように頷いて、僕からUSBを受け取って作業に取りかかる。

 

「さて、今晩は徹夜確定だ。あの女の化けの皮を剥いでやるさ」

 

「……はい」

 

 これできっと、三年前の事件に決着が着いた。

 謎の自爆ゾンビ事件の全容が明らかになり、いずれは相応の研究組織によってワクチンが開発され、ダイダ・ロスはこの世から跡形もなく消え去ることだろう。

 

 何もかも因縁が綺麗に終わる。

 

 

 

 だが。そんなことはなかった。

 

 

 

 

「──くそ!!」

 

 社長さんの尽力により確かに研究データは公表された。翌日、警察が事情聴取のために金剛寺大学附属病院に勤めている永遠乘の元に訪ねたが、時既に遅し。

 永遠乘は一部研究設備を病院から持ち出して綺麗さっぱりに消えていたのだ。

 これにより事実関係の証明ができず、警察の方も全力で永遠乘の行方を探しているようだが、今日に至るまで見つかっていない。

 

 だからこそ、僕達は永遠乘の行方を見つけるために、もう一つの手がかりを求めた。

 そう、僕が社長さんに依頼したもう一人の探し人についてだ。

 

 

 

 

「鍔乍。知り合いのツテを色々と当たって情報を集めてみたが、精神科医の中で『桐谷』って名前の人物は全国で三千人弱いるみたいだ。もっと何か特徴的なものは無いのか?」

 

 ブラックアリウム社の事務室にて、旧式のパソコンによる作業をしている僕と社長さん。飛凰先輩は外に出て取材に行っている。

 社長さんに言われ、僕は記憶の中の桐谷の特徴を挙げていく。

 

「少し色素の薄い髪色、柔和な表情、落ち着いた所作……とかですかね」

 

「うーん、どれも精神科医なら当てはまりそうなイメージばかりだな。もっと具体的なのはないのか?」

 

「それ以外だと……独特な死生観を持ってて、あとは……」

 

 そこで一度言葉を切って、思い出そうとするが、何か記憶に霧のようなフィルターがかかったようにはっきりしない。

 この体になってから、時が経過すればするほどに人間だった頃の記憶が朧気になっている。

 まるで徐々に何者かによって脳が侵されているかのような感覚だ。このままいけば、僕も自我を失っていずれは──。

 

「……」

 

「どうした、鍔乍?」

 

「……いえ、なんでもないです」

 

 最悪の結末を振り払うように首を振って、もう一度記憶を辿る。

 あの日、自分は桐谷の何を見た? 桐谷を最初に見た時に何を思った?

 そこで、奴の胸元にあったものを思い出した。

 

「たしか、青いドライフラワーを胸に着けていました」

 

「……。独特な死生観に、青いドライフラワー……か」

 

 何か思い当たる節があるのか、キーボードで何かを打ち込んだ後に「おい」とこちらに声をかけながら手招きをしてくる。

 席を立って玄有さんの横へと移動して、彼のパソコンの画面を覗きこむ。

 

「ひょっとして、こいつじゃないか?」

 

「──っ」

 

 画面に映る姿を見て、目が見開いた。

 

「……はい、こいつです。こいつが、僕の探している桐谷です」

 

「そうか……。よりによってこいつか」

 

 画面に映るのは、冷たいほどに無表情な男。まるで自分と会った時とは別人のように感じるが、母を自殺させるように勧めてきた時の雰囲気を彷彿とさせる。胸には記憶にある通りの青いドライフラワーがある。

 

「社長。こいつは一体誰なんです? 本当にただの精神科医なんですか?」

 

「……こいつの名前は『桐谷(きりや) 革恭(あらたか)』、詳しいことは知らん」

 

「桐谷……革恭」

 

 それこそが、自分が長年追っかけていた人物の名前にして正体。これが分かっただけでも、僕からすれば一気にゴールにへと辿り着けた気がした。

 だが僕がそんな感嘆にも似た衝撃を味わっている中、社長さんは付け加えるように言葉を重ねる。

 

「まあ、精神科医であることに間違いはない──が、ただ者ではねえなぁ」

 

 社長さんは神妙な顔つきのまま、懐から出した箱からタバコを出そうとするが、どうやら空箱だったのか少し苛つきながらデスクを人差し指で叩く。

 

「鍔乍、悪いが奴からは早々に手を引いた方がいい」

 

「え……。どうして、永遠乘に繋がるかもしれない手がかりなんですよ!?」

 

 突然の突き放すような言葉。

 僕が責めるような視線を社長さんに向けると、彼はうんざりしたように溜め息を吐く。

 

「お前は知らないだろうが、奴は腕章付きだ」

 

「腕章……?」

 

 社長さんが顎先をクイッと上げて画面をよく見るように促す。

 再度視線を画面に戻す。

 画面の中の奴の腕には、確かに赤い腕章が着いていた。

 見覚えならある。死体回収のミミズを率いるムクロという男と、電車の脱線事故の際に出会った金髪の女、両名ともが着けていた。

 だが、一体それがどういう問題があると言うのだろうか。

 

「腕章付きの行動理念は“尊厳維持装置の保全”。そのためならどんな手段も厭わない。それだけの権限を、国合から与えられている」

 

「……」

 

「こいつを敵に回すってことはよ、世界を敵に回すのと同義ってわけだ」

 

 だから、手を引いた方がいい。

 社長さんは何も悪くない。何なら、僕は三年かけたのに奴の本名にすら辿り着けなかったのだ。それを僅か数ヶ月で突き止めた社長さんには感謝こそすれど、恨む道理なんて一切ない。

 分かっては、いるんだ。

 拳を強く握り締めて俯く僕に、彼は諭すように話しかける。……いや、提案する(・・・・)と言った方が正しいか。

 

「おいおい、鍔乍。俺にこんな風に言われたぐらいで黙っちまうのか?」

 

「……。社長さんも、人が悪いですね」

 

「世界を敵に回すには、何か一つ揺るぎないものがいるんだよ。それがお前にあるか試しただけだ」

 

 たとえ世界を敵に回しても揺るぎないもの。

 勿論、自分にだってある。

 そう。僕があの時、不用意に箱を開けなければ、こうはなってなかった。

 あの男──桐谷に言われているように早々に捨てていればよかった。

 

 ……だからこそ。

 だからこそ、誓ったんじゃないか。

 

「はい。僕自身の手で、必ず終わらせてみせます」

 

 自爆ゾンビも、永遠乘も、僕自身も。全てを終わらせるために。

 そう言い切った僕に、社長さんは紙の束を渡してきた。

 

「……これは?」

 

「ここから先は、俺とお前は共犯だ。だから、俺が持つ資料の半分をお前に託す」

 

 彼は僕の肩を叩いた。

 

「たとえどんだけ悲しい道になろうとも、正しさだけは、曲げちゃいけねえんだ」

 

「……はい」

 

 僕は、その言葉に強く頷いた。

 必ず、成し遂げてみせる。たとえこの身が滅びようとも。

 

 

 

 

 

 

 

────―   ────―   ────―

 

 

 

 

 時は、さらに経過して二年後。

 

 

「『安らぎ』を得られなかった君を、俺は救えない。それがただただ、悲しいよ」

 

 

 場所は渋谷駅。

 電車のホームで、奴に、桐谷にそう言われた。僕からすれば宣戦布告以外の何物でもない。

 それは本当に偶然だった。偶々取材先に向かおうとした電車で、見知らぬ少女が自爆し、それをまるで観察するように、人混みの中にあいつの姿があったのだ。

 だからなんとなく、この場所にはきっと何かある。僕の勘がそう告げる。

 もう僕は逃げない。絶対にケリを着けるとそう誓った。

 だから。

 

 

「──仕事(ケジメ)開始(スタート)

 

 

 永遠乘(おまえ)を、逃がしはしない。



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後編

【2019/9/17(火)】
 一部加筆修正しました。


 渋谷・スクランブル交差点にて。

 現在の時刻は午後三時三十九分を少し過ぎたあたりか。少年が何者かによって刺殺されたらしく、警察による現場検証が行われていた。

 辺りもそれに伴って封鎖されており、人通りが少ない。

 あれから駅から降りたものの、特に行く宛もなく歩いていたところに遭遇した。それは果たして幸か、不幸か。

 当初の予定では最近産まれたパンダの赤ちゃんを取材しに行くために、東京から少し離れた動物園へと向かうはずだったが、予定変更だ。

 どうせ電車は運転見合わせでどう足掻いても間に合わないし、さすがに手ぶらでは会社には戻れない。

 封鎖されているテープの前に立ち、近くにいる刑事の中から一番口の緩そうな人物を見定める。

 僕は飛鳳先輩から譲り受けたミラーレスカメラを構えながら、気弱そうで若い刑事っぽい男に目を付け話しかける。

 

「すいません、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

「え、あ、はい?」

 

 笑顔を浮かべながら手招きして呼び寄せると、彼は素直に僕の前まで歩いてきた。

 案の定、突然話しかけられたことで動揺しているのか、それとも僕の目的が分からなくて困惑しているのか。

 まあ、そんなものはどうでもいい。隙を見せた時点でこちらとしては関係ない。

 僕は相手が取り乱している間にこちらのペースに引き込もうと空かさず名刺を手渡す。

 

「申し遅れました。自分、こういうものでして」

 

「え。あ、はあ。これはご丁寧にどうも。……ええ、と。ブラックアリウム社の上地……なんて読むんです?」

 

「あ、『鍔乍』と書いて『つばさ』と読みます」

 

 若い刑事が「へえ、そういう風に読むんだ……」と感心している間に、肝心の事件現場の様子を横目で確認する。

 高校生のぐらいの少年がこのスクランブル交差点のど真ん中で刺されたという話だが。

 

「他殺事件みたいですけど、やっぱり例の連続殺人犯の犯行ってところですか?」 

 

「……まあ、そんなとこっすかね」

 

「因みに、目撃者は?」

 

「それが一人もいないんすよ」

 

 現在の時刻はまだ四時にも満たない。当然、まだ十分に明るい時間帯だ。それにも関わらず、目撃者がいないのは些か不可解と言わざるを得ない。

 現在、少年の遺体は回収され、これから科捜研にて検死がされるのだろう。コンクリートには少年が倒れた跡が白線で引かれていた。

 

「写真を一枚失礼しますよ」

 

「あ、ちょっと!?」

 

 ふと、何か違和感を感じて写真を撮った。慌てて止めに入られるが、上身だけ後ろに反らして避ける。

 宣言した通り、撮影するのは一枚だけだ。

 

「まだ現場検証中ですから写真を撮るのは……」

 

「すいません。記者としての(さが)みたいなものなので」

 

 ふと感じた違和感。写真を撮ってから、辺りを見渡す。

 写真には白線以外では、現場検証をしている青服の警官しか(・・)写っていない。たったこの、一フレームの中で。

 ……ああ、そうか。そういうことか。

 自分が記者として、そこそこ事件現場に赴いた経験が無ければこんな違和感はきっと感じなかっただろう。

 簡単なことだ。

 普通の事件現場にならあって然るべきもの(・・)が、そこにはなかっただけの話。

 それがきっと、違和感の原因だ。

 

「この辺り封鎖してはいますが、それにしたって人が少なすぎませんか?」

 

 多少の野次馬すら、ここにはいない。

 

「ああ……。たぶん、皆は電車での自爆騒ぎの方に行っちゃったからじゃないすかね? あれ起きてからのこれだし」

 

「……なるほど」

 

 それはそれは。

 ……道理で、目撃者がいないわけだ。

 

「貴重なお話、ありがとうございます。機会があれば、また是非お話を伺わせて下さい」

 

「あ、どうもっす」

 

 そろそろ引き上げた方がいいだろう。この若い刑事さんの上司らしき人物が般若のような形相でこちらを睨んでいるから。

 公務執行妨害で捕まる前にさっさと退散するに限る。

 

「……それにしても。なんともまあ、作為的な匂いがするな」

 

 まるで誰にも見られずに殺すために、ギャラリーを駅の方へ誘導したかのようにも感じられる。

 だが、そんなことはあり得るだろうか?

 駅での騒ぎは少女の自爆が原因だ。果たしてこんなにタイミングよく自爆するものだろうか。

 まあ、あり得ないことではないか。

 もしかしたら、殺人犯は「なんか知らんけどギャラリーがいないから殺せるラッキー☆」程度の感覚で殺したのかもしれないわけだし。

 だが、もしそうでないとしたら。

 意図的に少女が自爆させられ、その結果少年が殺された、ということになる。

 ……普通なら、絶対にあり得ない事象だ。

 だが。

 

――お前に向かわせた金剛寺大学附属病院だがな、実は前から結構キナ臭い噂話があるんだ。なんでも、自爆を試みて死にきれなかった人間を収容しているらしい――

 

 

 『尊厳維持装置の不具合』。結局また、あの病院にへと行き着いてしまう。

 永遠乘から渡された研究データにも、それを匂わせるような記述があった。

 これに関しては、永遠乘の所業を公表した際に社長さんが意図的に情報を伏せた。

 もしこれが事実だった場合、それを知ってしまった社長さん達の安全を確保するためだ。

 こんな国家の土台がびっくり返りかねない情報、下手したら消されるかもしれないわけだから。

 

 目を付けられていないことを祈るばかりだ。

 

「……それにしても、渋谷は人が多いな」

 

 さすが、若者達にとっての流行の中心地と言うべきか。

 人と人の肩がぶつかりそうになるぐらい密着しており、個人的には歩くのにかなり苦労する。

 ここまで多いなら、一人ぐらいダイダ・ロスの感染者が紛れていてもおかしくないが、あまり騒ぎになったことは聞かない。

 皮肉な話だが。連続殺人犯のおかげ、か。 

 ダイダ・ロスは自爆した場合に限り、ゾンビ化を引き起こすウイルス。

 自爆せずに殺された場合は、当然ゾンビ化はしない。

 連続殺人犯が人を殺せば殺すほど、自爆ゾンビの出現率はその分下がっていくと言える。

 だが、だからと言って、人の命を奪っていい免罪符にはなり得ない。

 

「あの、すいません!」

 

 すると、ブレザータイプの学生服を着た少年に話しかけられた。

 少年の顔を見るが、特に見覚えはない。生前の記憶が(いささ)か曖昧だが、知り合いではないと思う。たぶん。

 では、知り合いでないとするなら、一体何の用なのだろうか。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

 首を傾げながら彼にそう問いかけた。

 

「ここら辺で、女の子を見かけませんでしたか? こう、髪が赤くて、サファイアのネックレスをしてて。なんというかその――とても美しくて」

 

 おお、聞いてるこっちが恥ずかしくなってしまう熱烈な言葉だな。

 それはそれとして、人探しか。

 生憎(あいにく)、不慣れな地で吐き気がするほどの人の群れに流されるように歩かされたせいでそこまで周りの人間の特徴を見てはいなかった。

 僕は首を横に振る。

 

「ごめん。見かけてはないね」

 

「そうですか」

 

 僕の言葉に対して、彼は特に落胆したような表情は見せてはいなかった。

 

「残念じゃないのかい?」

 

 思わず、そう聞いてしまった。

 しかし彼は「確かに残念ですけど」と言ってから、瞳の奥に何やら決意のようなものを秘めながら言う。

 

「きっとまた会えるって信じてますから」

 

 信じる。

 それは、何よりも強い言葉だ。

 

――あたしは鍔乍を信じるです。だから鍔乍も、信じてほしいです――

 

 飛鳳先輩の言葉を思い出した。

 ……そうだな。それならきっと大丈夫だろう。

 

「君が信じてるなら、きっと会えるよ。その子と」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 少年はそう言って頭を下げると、そのまま去っていった。

 女の子を探す生真面目な少年、か。

 まるで小説の題材のようなシチュエーションに巡り合わせたものだとついつい笑ってしまった。

 

 さて、そこからさらに時間をかけて渋谷という場所を満喫することにする。

 そのまま町を歩いていると、電化製品店の店先に並ぶ薄型テレビからニュースキャスターの声が聞こえてくる。

 

《ここで緊急速報です。本日午後三時三十一分頃に、渋谷のスクランブル交差点にて、男子高校生の衛方明史さんが何者かにナイフで刺されて死んでいるのが発見されました》

 

「え~、この前も通り魔で誰か殺されてなかった?」

 

「最近多いよね」

 

「あーあー、私も遭遇しちゃったらどうしようかな?」

 

「私なら、マフラー小僧に守ってもらうもんね~」

 

「あ、ずる~い! じゃあ、私は白兎に守ってもらおっと!」

 

 続いて聞こえてきたのは、女子高校生ぐらいの年齢の少女達はワイワイ騒ぎながらテレビを見ていた。

 

「連続殺人犯、マフラー小僧、白兎……か」

 

 最近の若者達の注目の的であり、うちとして記事のネタとして大変お世話になっているトップスリーと言ったラインナップか。

 世間を騒がせる通り魔殺人を行う連続殺人犯。

 女性を暴漢から助ける正体不明の謎の隣人であるマフラー小僧。

 その身を白いパワードスーツに包んだテロリストである白兎。

 

 ――ああ、でも、もう一人だけいたな。

 

 その場から顔を上げて阿賀野コーポレーションの看板を見つめる。

 

 この町を作ったと言っても過言ではない男、阿賀野コーポレーション社長。

 

 今、日本で最も話題になっている四人と言える。

 基本的にこの四人で特集を組めば、大体雑誌の売上は確約されたも同然と言える。

 

 そこで、ふと携帯を取り出して時間を確認する。

 現在の時刻は午後四時を少し過ぎたあたりだ。

 

 さて、これから一体どうするか。

 とりあえずあまり足を運ぶような機会がある場所ではないので、少し軽い観光気分で気軽に歩こうとする。

 ただ、個人的には悠長に留まらず、もっと早くこの場を離れればよかったと心底後悔することになる。

 何故なら。

 

 

「あら」

 

「――っ」

 

 背後から声をかけられた。つい反射的に肩がビクッと震えた。

 今の、声は、まさか……。

 いや、いやいやいや。そんなそんなバカな。

 そんな偶然が果たしてあるだろうか、いやないね。

 これはそんなレベルでの神の悪戯としか言い様がないほどの事象なわけで、そんな二年前に親族に会って、まさかまさかのその二年後に再会するだなんて、そんな。

 そんなバカなことがあるはずがない。

 いや、誰か嘘だと言ってくれ。

 

「貴方、もしかして……鍔乍くん?」

 

「……いえ、そんな」

 

 なるべく後ろを見ないように、口元を震わせながら(とぼ)けようと言葉を発した。

 だが、それがアウト判定だったらしい。

 

「その声、鍔乍くんよね。なに? もしかして、私のことを忘れたのかしら?」

 

 肩をしっかりと掴まれ、固定される。

 ……え、嘘。なんでゾンビの体なのに軋んでるの? おかしくない?

 しかもなんで? 痛覚なんてないのに、なんか凄い痛い感覚があるよ? ……なんで?

 

「あ、あはは。そんな、忘れたことなんて一度たりともありませんとも。……恭子先生」

 

 ついに観念して背後を振り返る。

 その先には、こちらをニコニコと綺麗な笑みを浮かべる女性がいた。

 

「久しぶりね、鍔乍くん。五年ぶりかしら?」

 

「はは……ご無沙汰してます」

 

 少し青みのある髪に、白いエプロン。

 我が武術の師にして、元自衛軍所属の女傑――風祭恭子、その人だった。

 恭子先生は一息吐いてから「元気そうで良かったわ」と呟いた。

 その言葉に僕は頭を下げて謝罪する。

 

「ご心配をおかけしてすみません。色々とゴタゴタしてたものですから」

 

「別にいいわよ。今日こうして会えたんだから」

 

 そう言ってくれることに嬉しさを感じつつ、彼女の持つビニール袋に目が行った。

 

「もしかして、お買い物の途中でしたか?」

 

「いや、ちょうど終わったところよ。姪っ子とその友達用にマカロンをね」

 

「姪っ子……すみれちゃんですか」

 

 自分で口にした名前に、少し気分が落ち込む。二年前、僕は彼女を救えなかった。

 彼女を救ったのは、まだ装甲が黒かった頃の白兎。

 僕の口からすみれちゃんの名前が出るとは思わなかったのか、恭子先生は「あら、意外」と少し驚いた表情を浮かべた。

 

「ちゃんと名前を覚えてたのね」

 

「いや、覚えていたというか何というか」

 

 正確には恭子先生の兄から聞いたというだけなのだが。

 そう曖昧に答えると、彼女は困惑したように首を傾げる。

 

「なんだがはっきりしないわね」

 

「面目ないです。……つかぬことをお聞きしますが、すみれちゃんは元気ですか?」

 

 二年前の脱線事故。聞いた話によれば彼女はかなりの重傷だったらしい。

 後遺症が残ってなければいいが。

 彼女も僕の言わんとしていることが分かったのか、頷いた。

 

「ええ、今は元気にしているわよ。……ただ、少し不安なところもあるけど」

 

「と、言いますと?」

 

 少し彼女の表情が暗くなったのが気になった。

 

「……最近、話題に挙がるマフラー小僧って知っているかしら?」

 

「はい、まあ……噂は予々(かねがね)。主に暴漢退治をしているらしいですが」

 

 自分の食い扶持(ぶち)だし、多少なりとも情報は持っているつもりだ。

 

「マフラー小僧の話が出てから、少しずつだけど彼女の体の重心にズレが出ているの。鍔乍くんはどう思う?」

 

 重心のズレは日頃の不規則な動きによって生じる。つまり、日頃から全く同じルーチンさえこなしていればそこまで逸脱したズレは生じないはずなのだ。

 それにも関わらずズレが出始めているということは、考えられる要因はおおよそ二つ。

 

「詳しいことは直接本人の体の動きを見なければ何とも言えませんが……考えられるとしたら、単純にトレーニングを怠ったことでバランスが崩れたか、それとも過度に肉体に負荷をかけたかですかね」

 

「やっぱり、そうなるわよね」

 

 そう伏し目がちに思案する恭子先生。恐らく、聞いてきた本人も同じ風に考えていたんだろう。

 僕だって鈍感じゃない。ここまでお膳立てされれば、彼女が何に対して疑惑の目を向けているのか一目瞭然だ。

 

「疑っているんですか。すみれちゃんがマフラー小僧だと」

 

「……そうでないことを、祈っているの」

 

 すみれちゃんに危険な道を歩いてほしくない。そんな思いが感じられる言葉だった。

 恭子先生らしい。

 すると、彼女は両手を叩いて「そうだ」とまるではしゃぎながら提案してくる。

 

「せっかくだから鍔乍くんもいらっしゃいよ。また三人で鍛練してみるのも楽しいわよ」

 

「え"……」

 

 いや、それはちょっと。二重の意味で。

 すみれちゃんに合わせる顔がそもそもないし、なにより、恭子先生のスパルタ指導はもう勘弁願いたいというか。

 

「その、僕、これから仕事なので……」

 

「あら、たしか鍔乍くんは医学生じゃなかったかしら?」

 

 ……ああ、そうか。そういえば、生前に言っていたな。

 彼女の元で武術を習い始めた理由も、母さんを守れるような男になるために、強くありたいと思ったからだったか。

 

「……はい、もう辞めちゃいました」

 

「……。そう」

 

 僕の言葉に何か思ったのか、彼女は「仕事なら仕方ないわね」と引き下がってくれた。

 それに内心ホッとしていると、「ただし」と付け加える。

 

「音信不通で心配させた罰として、話ぐらいは聞かせなさい」

 

「……はい」

 

 それは本当に申し訳なかったと思う。だから彼女の申し出を受け入れる。

 

「なら、仕事はいつ頃終わりそうなの?」

 

「そうですね。……あと三時間ぐらいですかね」

 

 適当に答えた。というよりも、とりあえず彼女と共にすみれちゃんに会いたくなかったので。

 それに対して、恭子先生は眉間に皺を寄せて疑いの目を向けてくる。

 

「……鍔乍くん、今一体何の職に就いているの?」

 

「えーっと、一応出版社で記者やってます」

 

 そう言って懐から名刺を取り出して彼女に渡した。

 

「ブラックアリウム社……ああ、玄有くんのところね」

 

「社長を知っているんですか?」

 

「ええ。まあちょっとした知り合いってとこかしら」

 

 彼女は僕から渡された名刺を見て、それをエプロンのポケットに仕舞うと、納得したのか頷いた。

 

「ちゃんと働いているようで安心したわ。……鍔乍くん、記者なら何かメモ紙と書くものは持っているかしら?」

 

「あ、はい」

 

 彼女に胸元にあったボールペンとメモ帳を渡すと、彼女は名刺の裏に何か地図のようなものを書いていく。

 その後、メモ紙とボールペンを返してきた。

 

「そこ、私の行きつけの喫茶店なの。三時間後にそこで会いましょう」

 

「はい、分かりました」

 

 まあ、近況報告ぐらいなら構わないだろう。恭子先生の行きつけの喫茶店なら、味の保証は確約されているようなものだし。

 彼女は手を振りながら去り、再び一人となった。

 この広く人の多い町で三時間もどうしようか考える。

 

「地元じゃないから特に行く宛もないしなぁ」

 

 とにかく考えつかないので目的もなく歩き始めることにした。

 適当に歩くだけでも、いい暇潰しにはなるだろう。

 建物を見て、今勤めている会社の周りの風景と比較するだけでも個人的には楽しい。

 

「しゃぶしゃぶバイキングに601のビル、あの赤いのは薬局か……」

 

 特にしゃぶしゃぶバイキングは飛鳳先輩が喜びそうだなと思った。

 そうして歩き始めて数十分が経過した頃だろうか。

 

 

『やっほー!』

 

 

「……なんだ?」

 

 なんか、遠くの方からそんな少女のような声が聞こえてきた。

 ……この近くに山でもあるのかと思ってその場に立ち止まってから辺りを見渡してみるが、特にそういった様子は見受けられない。

 ここは都会のど真ん中。確かに少し歩けば住宅地だが、それでも敢えて山彦をやる意味はないだろう。

 

「大方、元気の良い女子高生が叫んだ感じか。……青春、ってやつか」

 

 自分には縁遠い言葉と思いつつ、再度歩き出す。

 ふと空を見上げれば、もう赤くなっていた。道往く人々の様相も、若者の割合よりサラリーマンやOLの割合の方がチラホラと多くなったような気がする。

 

「さっきまで青かったのになぁ」

 

 世界はこのように変化する。一日の中でこんなにも目まぐるしく変化しているにも関わらず、自分だけが変化せず、置いていかれたような感覚に陥る。

 

「……」

 

 時刻はもうすぐ午後五時近く。まだ約束の時間まで一時間半もある。

 今一度、周りを見渡してみれば、『“月の海”、大好評につき重版決定! 本日入荷しました!』という文字が見えた。

 そちらに意識を向けてみれば、よくある本屋だ。渋谷の町には珍しく、小ぢんまりとした店だ。

 

「月の海……作者不明の作品だったか」

 

 たしか飛鳳先輩がこれはいいネタになると正体を暴きに向かったが、本名どころか住所すら分からず全く手掛かりが掴めなくて敢えなく撃沈していた覚えがある。

 思わず店頭に置かれた月の海の本を手に持った。

 

「おい、そこのお前」

 

 すると、誰かから声をかけられた。……今日はよく話しかけられるなぁ。

 声をかけられたなら無視するわけにもいかないので、そちらに顔を向ける。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

 高圧的な口調だったのでつい敬語で応対してしまったが、話しかけた人物を見れば帽子を被った学ランの少年。恐らく高校生ぐらいだろうか。

 先ほどの、女の子を探していた少年と非常に年齢も近く、あと少しだけだが雰囲気も似ている気がする。

 

「何か用で――っ!?」

 

 しかし、すぐに一歩後ろに下がって距離を取ってしまった。

 彼の学ランの右腕には、あの赤い腕章が着けられていた。

 

「腕章付きか……!」

 

「む、これのことを知っているのか。まあいい、そんな細かいことはどうでもいい」

 

 一歩下がった距離を埋めるように、彼はこちらへ踏み込んできた。

 

「お前、その本を読んだか?」

 

「……いや、まだだけど」

 

「そうか。失礼したな」

 

 するとまるで聞きたいことは終わったとでも言いたげに踵を返してその場から去ろうとする。

 僕は慌てて彼を呼び止める。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

「なんだ、お前にはもう用はないんだが」

 

「そっちにはなくても、こっちにはあるんだ!」

 

「なら、手短に話せ」

 

 早くしろと催促するその視線に、僕は少し溜め息を溢したくなる思いを抑えて彼に尋ねる。

 

「腕章付きなら桐谷という男を知っているだろう? 奴は今どこにいる?!」

 

「ほう。お前、あの男の知り合いか」

 

「知っているんだな!」

 

 手に持っていた月の海を店頭に戻してから、彼に詰め寄った。

 

「知っているのは名前だけだ。奴の素性については知らん。我々腕章付きは定期的に集まりはするが、俺はそもそもあまり参加しない口なのでな」

 

 この少年は桐谷のことを深くは知らないという。つまり、その所在さえも当然知らない。

 

「尊厳維持装置の保全という共通目的を持つ以外、俺達に共通点は何一つない。……その中でも、桐谷という男は度を越えた秘密主義者だ」

 

 つまり、他の腕章付きでさえも、桐谷という男の素性を知らないということか。

 やっと手掛かりが見つかったと思ったのに、奴に迫る糸口にはならなかった。

 少年は項垂れるに僕に一言かける。

 

「用事は済んだか? なら俺は行かせてもらう、小説の題材を探さなければならないんでな」

 

 そう言って、去ってしまった。

 僕はただただ、彼の背中を見送るしかなかった。これ以上彼に詰め寄ったところで、互いに何のメリットにもならないのだから、彼を追う意味はない。

 

 …………。

 

 ふと、脳内で飛鳳先輩から「バカもーん、です! そいつが作者だ、です~!」という抗議の声が聞こえた気がしたが、特に気にしないことにした。

 

 とりあえず、店頭に並んでいる月の海――そのお試し本を手に取って読んでみる。

 そう厚みもないので読んでいる内に約束の時間までの暇潰しになるだろう。

 

「……」

 

 話の内容は、恐らくこの作品全体のプロローグに値する部分だろう。

 主人公の祖母が主人公にかける期待の念。

 けれども主人公にとって、それは嫌悪の対象でしかない。

 主人公の母親を出来損ないと称し、その母親の世話と勉学の両立を強いてくる祖母。

 主人公が産まれた時から、寝たきりで徐々に壊れていく母。

 そんな母と祖母を置いて蒸発してしまった入り婿の父。

 主人公は思う。純粋な母は醜い祖母よりも何倍も美しいと。

 主人公は願う。回復の見込みのない母にはどうか美しいままでいてほしいと。

 

 だから。

 

 

 

――はやくしねばいいのに――

 

 

 

「――っ」

 

 思わず、お試し本を手から落としてしまった。

 回復の見込みのない寝たきりの母に、自分の母親を重ねた。

 そして、そんな母に死を願う主人公の姿に、自分自身を重ねた。

 

 僕もまた、願ってしまったからだ。どうせ死ぬのなら、楽な方がいいと。

 母さんも、そうあるべきだと。

 

 まるで、心臓を鷲掴みにされたようだった。

 

 なるほど、これは人気が出るわけだ。

 この本には――いや、この作者は一文字一文字に魂を籠めて執筆している。

 販売される際はこのようにワープロでの入力となるが、恐らくこの作者は今時珍しく手書きでこの作品を執筆したに違いないと感じた。

 いやはや、さすがプロが書いたものだと感嘆した。

 自分も記事を作成する際に文章を書くが、ここまでのものは流石に書けない。

 まるでその小説の場面に自分が存在しているかのような感覚が味わえるような臨場感が、この作品にはある。

 

 是非とも一冊は買っておきたいが。

 

「……無理なんだよな」

 

 小ぢんまりとした本屋を見る。そこには『電子マネー限定』の文字があった。

 自分の起爆リングを見つめる。

 何もこの起爆リングは自殺するための道具ではない、ベーシックインカムにより電子マネーが定期的にチャージされ、これで買い物ができるようになっている。

 しかし、僕のこれは既に失効しているため、当然そのような機能も使えない。

 社長さんにも無理を言って給料は現金支払いにしてもらった。

 このご時世、現金支払いをやっている店はかなり希少だ。会社の周りでも数件ぐらいしかないんじゃないだろうか。

 僕は落としてしまったお試し本を拾ってから店頭に戻して、時間を確認する。

 現在の時刻は午後六時十五分。そろそろいい時間だ。

 

「それじゃあ、行きますかね」

 

 個人的には、先生との面談に赴く生徒のような心境だが。

 

 

 

 

「いらっしゃいませー」

 

 すこし間の抜けた声。

 目的地に着いた僕が扉を開けると、中からウエイトレスの少女の声が聞こえた。

 

「何名様ですかー?」

 

「ええと……」

 

 店内を見渡してみる。すると、少し奥の席で恭子先生が手招きをしていた。

 その様子を少女も見て、「なるほど!」と手を叩いた。

 

「恭子さんの彼氏さん――」

 

「違います」

 

 言い終わるのを待つまでもなく速攻で否定した。

 あらぬ誤解を与えるわけにもいかないし、何よりもそんな事象は誰も得をしない。

 真顔のまま表情を変えない僕に対し、少女は明らかに落胆したような声を出す。

 

「なーんだ、ちょっと期待したんだけどなー」

 

 何を期待しているのか知らないが、そのリクエストが叶うことはたぶん一生ないだろう。

 

「とりま、席へご案内しますねー」

 

 そう言って、少女は僕を恭子先生が待つ席まで案内した。

 そのまま座ってメニュー表を渡してくる。

 

「ダージリン一つお願いします」

 

「私にも同じものをお願いできるかしら」

 

 少女は「かしこまりましたー」と言ってカウンターへと戻っていった。

 

「ダージリン二つー」

 

「はいよー」

 

 なんとも緩いなぁと思いつつ、向かい合うように座る恭子先生に目を向ける。

 

「お待たせしてしまってすみません、恭子先生」

 

「いいえ、そんなに待ってないもの。気にしなくていいわ」

 

 彼女は「それよりも」と早速本題に移ろうとする。

 

「聞かせてくれないかしら。貴方がこの五年間、どんな風に過ごしていたのかを」

 

「……」

 

「お母さんの病気を治すために、貴方が頑張って医学生になったことを私は知っているわ。それなのに、貴方は医学生を辞めてしまった。それにはとても大きな事情があるんでしょ?」

 

「……。恭子先生は、五年前に起きた自爆ゾンビ事件を覚えていますか?」

 

 それから、少しずつ、自分が自爆ゾンビであることを伏せたまま、大体の事のあらましを話した。

 永遠乘命によってウイルスが散布されたこと、自分がその片棒を担いでしまったこと、その罪滅ぼしのために独自に活動し、永遠乘命の行方を探しながら、彼女から指導してもらった武術で自爆ゾンビを弔い、最終的に現在はブラックアリウム社で働いている。

 

 ひと通り話を聞き終えた恭子先生は、「なるほど」と頷く。

 

「それじゃあ、お母さんは……」

 

「死にました。……ただ、その死因について、記憶が朧気で」

 

「精神的なショックのせいね。無理もないわ」

 

「でも、だからこそ……永遠乘命を見つけ出して、奴に罪を贖わさなければならないんです」

 

 そう言って握り拳を作る僕を諭すように彼女は言う。

 

「それで、その永遠乘という人の行方は分かっているの?」

 

「……いえ、それが全然で。二年前にあと一歩というところまで迫ったんですが」

 

 そう、迫っただけで追い詰めてはいない。奴からすれば、嗅ぎ付ける者の影が見えたから逃げた。逃げられる余地があったから逃げたのだ。

 そうやって僕が悔やんでいる時と。

 

「ご注文のダージリン二つです。ごゆっくりどうぞー」

 

 ウエイトレスの少女がカップを二つ持ってきた。

 その軽いノリの声で、僕と恭子先生の張り詰めた空気が緩んだ気がした。

 互いにカップの取っ手に指を通してダージリンを一口飲む。

 

「……あ、美味しい」

 

 凄く温かく、それでいて体の芯の奥まで染み渡ってくるような深い味わい。

 香りは品のいいバラの風味で甘く、色は黄色味の強いオレンジであることから、恐らく秋の時期に摘まれたものであることが伺える。

 味は苦味と渋味が控えめで、後味がさっぱりとしたまろやかさだ。

 

「ダージリンなら個人的にはファーストフラッシュが好きですが、オータムナムもたまにはいいものですね」

 

「さすが鍔乍くん、お目が高いわね」

 

 不思議と笑みが溢れた。なんとなくだが、こうして彼女と紅茶を飲んでいると、まるで生前に戻ったような感覚に陥る。

 あの頃はとても楽しかった。目標があって、それに突っ走っていって……本当に、“生きてた”って気がする。

 

 僕と恭子先生はダージリンを口にしてその香りと味を深く噛み締める。

 

「「……」」

 

 とりあえず、過去の経緯は先ほどでおしまい。そう互いにアイコンタクトをした。

 

「そういえば」

 

 すると、恭子先生は話題を変えるように僕の体を見つめてから言った。

 

「五年間、鍛練の方は続けているの?」

 

「はい、一日たりとも欠かさずにやっています」

 

「そう……」

 

 彼女は何か腑に落ちない点でもあるのか、少し怪訝そうな表情をする。

 僕は少しだけ不安になり、彼女に尋ねた。

 

「あの、何か気になることがあるんですか?」

 

「ええ。さっき町中で貴方に声をかけて肩を掴んだ時に、ついでにきちんとトレーニングしているか確認しようと思って貴方の筋肉を少し診させてもらったの。……そしたら、まるで死人みたいに硬直しているからびっくりしたのよね」

 

 思わずドキッとした。彼女の勘の鋭さには目を見張るものがある。

 

「過度に体を動かしすぎているのかと思いきや、重心のブレがあるわけでもない。かといって、極端に筋肉量が変わっているわけでもないから不思議なのよね」

 

「……」

 

 これは、下手な言い訳をしたらあっさり見抜かれそうだ。

 ……仕方ない。あまりやりたくない手だが。

 

「それなら久しぶりに稽古をつけて下さい。そうすれば、理由も自ずと分かってくるんじゃないでしょうか?」

 

 ゾンビバレするよりマシだ。

 

「あら、久々だからって遠慮しないわよ」

 

 そう満面の笑みを浮かべる恭子先生に、なぜか寒気がした。

 

 

 

 

 

「はい、一本」

 

 気づけば地面に伏して空を見上げていた。

 あの後、場所を喫茶店から近くの公園に変えたのだが、この有り様だ。

 

――「もう遅いから、そうね。私から一度でもいいから一本取ってみなさい」――

 

 一度でもいいからって聞くと、案外簡単そうだけど、そのたった一度すら許されないと永遠に終われないんだよなぁ。

 

「ほら、鍔乍くん。次行くわよ」

 

「うぃっす」

 

 すぐに立ち上がって改めて向かい合う。

 

三戦(サンチン)!」

 

「はい!」

 

 三戦(サンチン)の型を取って、恭子先生の動きを見定める。

 向こうが踏み込んでくるならば、迎撃のスタンスに移行しようとする。

 だがそれもタイミングを一秒ほどずらされたことで崩され、腹に重い正拳突きを喰らう。

 

「――ぐぅ!?」

 

 痛みはない。が、腹から口元に伝わってくる衝撃が凄まじい。

 今度はこちらから攻めようとすれば足払いによって容易くバランスを崩され、再び腹に正拳突きを喰らう。

 ああ、これアカンやつだ。

 

「がはっ――!!」

 

 思わず先ほど飲んだダージリンを吐きそうになるが、気合いでそれをこらえる。

 それでも、うろたえている間にさらに喰らう。

 

「ごほぅ……」

 

 ……やっぱりこれ、無理ゲーでは?

 そう思った瞬間、体全体が重くなり、その場に片膝を着いてしまった。

 

「あら、もう休憩するの?」

 

「……あの、もう少し手心をですね」

 

「これでも十分手加減しているわよ。本気だったらもう十回は貴方の身体は壊れているもの」

 

「左様ですか……」

 

 なにそれ、もうずっと稽古終わらないじゃん。泣きそうで吐きそう。

 恭子先生はそんな僕の姿に溜め息を吐く。

 

三戦(サンチン)の型はスタンス狭めの高重心だからこそ、あらゆる型への移行を可能とする。その代わり、非常に足場が不安定な場所では不利になる。私がこれを貴方に教えた際に言ったことは覚えている?」

 

「はい、それは勿論」

 

「なら、この型を貫く上で何が重要かも当然覚えているわね?」

 

「……正しい呼吸と、揺るがぬ精神力、ですね」

 

 恭子先生は「そう」と大きく頷く。

 

「非常にデリケートな型だからこそ、正しい呼吸による筋肉の調節と精神集中、どのような状況になろうとも決して揺るがない強い心が必要になる」

 

 彼女は言う。

 

三戦(サンチン)の極意とは、敵の攻撃を弾くことにあらず。敵の動きを見抜き、全身を以て防御することにあり。その心構えでもう一度やってみなさい」

 

「……はい」

 

 再度立ち上がってから規定の距離を取って彼女と向き直う。

 

「あまり長引かせるのもあれだから、これで最後にするわよ」

 

「はい」

 

 これで最後。これで結果を出さなければ、彼女に稽古をつけてもらっている意味がない。

 

三戦(サンチン)!」

 

「……はい!」

 

 足幅を狭く、やや内股に。腕を上げて重心を高くする。

 

「スゥ―――」

 

 息を吸って、全身の筋肉を弛緩させる。

 

「はああああっ!!!」

 

 恭子先生が迫ってくる。

 ……慌てるな。呼吸を乱すな。動じるな。

 見極めろ。彼女の動きを、見抜け。

 限界ギリギリまで、呼吸を、保て――――!!!!

 

 これまでの稽古で、彼女が狙うのは、全て僕の腹部。

 確かに彼女の言うとおり、手加減をしてくれている。自分が狙っている部位を変えてこない。

 それにも関わらず、僕が勝てないのは、ただ一つ。

 彼女の気迫に、自分の未熟さに、過去の因縁に。

 

 心が、揺らいだからだ。

 

 彼女の正拳突きが腹に触れたその瞬間。

 

「――――破ッ!!!」

 

 筋肉の緊張は、何も攻撃のためにあるわけじゃない。自身の拳の威力を強化するだけじゃないんだ。

 

「捕まえ、ました……っ!!」

 

「……流石ね、折れるかと思ったわ」

 

 僕は恭子先生の正拳突きを真正面から腹で受け止めた。喰らった衝撃は、半分は彼女自身に、もう半分は腹から足を通じて地面に逃がした。

 

 そう、彼女の正拳突きを喰らう直前に息を吐いて筋肉を緊張させ、天然の防弾ベスト並みの硬さにまで硬直させた。

 そのまま彼女の腕を掴んで拘束し、掌底を顎先に軽く付けた。流石に女性相手に叩き込むわけにはいかないだろう。

 

「どうして衝撃を半分地面に逃がしたのかしら。その気になれば全てこっちに返すこともできたでしょうに」

 

「いや、それだと恭子先生の腕が壊れると思ったので」

 

「あら、そんなに柔な鍛え方をしていると思ったのかし――ら!!」

 

「へっ?!」

 

 突然、拘束していた彼女の腕を基点として、逆にこちらが背負い投げを喰らってしまった。

 ……なぜに?

 

「ちゃ、ちゃんと一本取りましたよね……僕?」

 

「手を顎先に付けたぐらいで、一本取っただなんて片腹痛いわよ」

 

「さいですか……」

 

 やっぱりそう簡単にはいかないか。確かに元自衛軍所属の恭子先生からすれば、顎に手を添えるのは失笑ものだろうなぁ。

 

「でも、最後の心構えは十分合格点よ」

 

 そう言ってこちらに手を差し伸べてくる恭子先生。彼女の手を取って立ち上がってから、頭を下げて感謝する。

 

「ありがとうございました」

 

「また稽古をつけてほしかったら、いつでも言いなさいよ」

 

「はい!」

 

 正直言って、もう十分ですけどね。

 さて、辺りを見渡してみればすっかり真っ暗だ。

 恭子先生も腕時計を見て「あらいけない」と目を見開いた。

 

「もう買い物に行かないといけないわね」

 

「こんな夜遅くまで付き合わせてしまって申し訳ありません」

 

「別にいいわよ。私自身、楽しかったのは本当なんだから」

 

 そう言った後に「たまには顔を見せなさいよ」とこちらに釘を刺してから彼女は立ち去っていった。

 夜遅く暗く女性一人では危ないので、せめてスーパーの近くまで同行しようと思ったが、そんなことをしたら荷物持ちをさせられて家にまで招かれそうだったので申し出るのはやめた。

 あと、恭子先生ぐらい強ければ並みの男では勝てないだろうし。

 

「はあ……」

 

 我ながら、なんとも情けない。

 

「……帰るか」

 

 流石にもう電車も運転見合わせから直ってるだろうし、とりあえず渋谷駅まで目指すとしよう。

 ああ、早く帰りたい。

 そう思って歩き出すと、なんだか不思議な気がする。

 なんだろう、見慣れない景色も夜になるとまた昼間とは違った印象を抱くと言うべきか。

 それとも、昼間いない存在が動き出すからと言うべきか。

 

「……」

 

 町中を照らすネオンの光。しかしそれが強いほど、路地裏なので闇の部分が昼間より一層強調される。

 ここまで暗ければ、そういう裏の人間の活動場所としては好都合だろう。

 それに何より、僕にはそれが巨大な蟻地獄のようにも思えた。

 こちら側の人間が足を踏み入れるのを待ちながら、いざ踏み入れた瞬間に情け容赦なく喰らい尽くす。

 そんな気配を感じる。

 

 それともう一つ、気になるものもある。だが、それはできれば杞憂でありたい。

 

「……少しだけ寄り道しても、誤差の範囲だろう」

 

 そう言って立ち止まり、闇が口を開いて待つ路地裏へとその身を沈めていった。

 

 

 

 

「これはまた、予想外なものと遭遇したな」

 

《ここは重要警戒エリア。関係ない者は、速やかに立ち去りなさい》

 

 警備用のオートマトンだ。やけに高圧的な言葉でこちらを牽制し、赤い六つの瞳はまるでこちらに敵意を向けているようにも見える。

 とりあえずその場から一旦下がってオートマトンの認識外領域まで離れる。

 そうしたら思いっきり助走をつけてからジャンプ。壁を蹴るようにしてオートマトンの目を掻い潜る。

 

 本当ならここで素直に立ち去りたいが、僕の勘が当たってるなら、あれ(・・)の相手はオートマトンでは些か厳しいだろう。

 

「よ、っと」

 

 なんとか無事に着地成功。

 

「――見つけた」

 

 するとどうだろうか。ここは路地裏の結構奥のはずなのに背後から声が聞こえた。声からして少女だろうか。

 咄嗟に振り返ろうとするが、それより早くドンッという衝撃が自身の背中に襲う。

 地面に滴り落ちるのは、自分の赤い血。

 

「……ちょっとこれは、洒落にならないんじゃないかな」

 

「っ?!」

 

 そう言って、彼女の手を空かさず拘束してから地面に叩きつける。

 体がゾンビだったから特に影響はないものの、人間だったら間違いなく死んでいただろう。

 

「ぐっ!!」

 

 彼女の目的がどうあれ、僕を狙ったことは事実。

 詳しく事情を聞こうと彼女の顔を見ようとした瞬間、頭の中に人探しをしていた少年の声が響く。

 

――ここら辺で、女の子を見かけませんでしたか? こう、髪が赤くて、サファイアのネックレスをしてて。なんというかその――とても美しくて――

 

 目の前の少女は、その特徴が全て合致した。

 まさか彼が探していたのは、この少女だろうか。

 

「……どうして、死なないのよ」

 

 そう憎々し気にこちらを睨みつけてくる彼女に、溜め息が溢れる。

 

「生憎、もう死んでる身なんでね。それより、君はどうして僕を刺したんだ?」

 

「声が、聞こえたから。貴方を、殺せ、って……」

 

「それは一体、どういう……」

 

 

 

 

「ぁぅあぇあああぅ……」

 

 

 少女から詳しく話を聞こうとした瞬間、奴ら(・・)の声が聞こえて咄嗟に手を放した。

 どうやら、自分の勘は当たってたらしい。

 殺人鬼のおかげでここら辺一帯は自爆ゾンビはいないと思っていたが、やはりそれでも出現するにはするらしい。

 残念なのは、既にここまで感染者が存在していることか。

 聞こえてくる声は一つだが、足音からして計四体と言ったところだな。

 僕は少女に言う。

 

「すぐにこの場から離れるんだ」

 

「あれは一体……何なの?」

 

 彼女は奴らを見て目を見開いた。

 彼女の視線の先にあるもの――それは、目から血の涙を流しながら蠢く残骸『自爆ゾンビ』に他ならない。

 

「自爆ゾンビ。名前ぐらいは聞いたことないか?」

 

「し、知らない……そんなの、私……」

 

「ならこれで知ることができたな。あれはウイルスの感染によって引き起こされ、尚且つ自爆することで発症する」

 

 僕はすぐにここから離れるように言う。

 

「今すぐここから逃げろ。ここまで来る間にいたのは警備用のオートマトンだけだ」

 

「わ、分かったわ……」

 

 そう言って、彼女はすんなり逃げ出してくれた。……素直な子で良かったと思う。

 まあ、突然刺してきたことについては、また出会う機会があれば問いただしたいところだが。

 とにかく、今は目前に迫った自爆ゾンビ達を終わらせなければ。

 

「あぅあああ!!」

 

「こっちは、しこたまシゴかれて疲れてるんだ。一気に行かせてもらう!!」

 

 先に頭蓋にヒビを入れてから即座に掌底を打ち込むが、ここは先に全ての頭蓋をヒビを入れる。

 

「スゥ―――」

 

 止まらない。止まる気はない。

 鈍重な動きを掻い潜り、四つの頭蓋に掴んではヒビを入れる。

 

「――――破ッッ!!!!」

 

 弛緩から緊張へ、掌底で四つの顎先を打ち抜く。

 ブシュッという音と、倒れる四つの死体。

 時間にして二分足らず、個人的には新記録だな。

 

「……よし、帰るか」

 

「お待ちなさい」

 

 ……本当に、今日はよく話しかけられる日だな。さっきも言ったことだが。

 声をかけられたのでそちらに視線を向ければ、白い軍服に身を包む三つの人影。

 まず目を惹くのは、いつぞやの脱線事故の際に救出してくれた金髪の女性。

 背後には以前も見かけた細目で軽そうな印象の赤髪の女性と、以前は見かけなかった少し強気な印象を与える青髪の女性を伴っていた。

 

「貴女は……」

 

「ごきげんよう、お久しぶりですわね。会うのは二年ぶりかしら?」

 

「……その節はどうも。それより、腕章付きが僕に何の用です?」

 

 僕が言った『腕章付き』という言葉に、青髪の女性は警戒したように動く。

 

「こいつ、どうしてそれを……っ!」

 

「待ちなさい、メイカ。それよりも、貴方には少し伺いたいことがありますの」

 

 金髪の女性に窘められ、こちらに斬りかかってきそうなほどの剣幕だった青髪の女性は「失礼しました」と大人しく引き下がった。

 

「伺いたいこと?」

 

「ええ。その前に貴方には自己紹介をすべきですわね」

 

 そう言うと、「ンンッ!」と喉を整えてから捲し立てるように己の所属と名前を言い放つ。

 

「私は国際協和連合強制執行軍太平洋方面極東支部首都治安維持第101独立機動部隊隊長、ナインシュタイン・フォン・ナイチンゲールと申します。以後、お見知りおきを」

 

「……すいません、なんて?」

 

「あら、仕方ありませんわね。じゃあもう一度だけですわよ、私は国際協和――」

 

「いやもういいです。はい」

 

 とりあえず、聞き取れた部分からすると、この女性は国際協和連合――通称『国合』からわざわざこの日本に派遣された進駐軍で、その隊長であり名前はナインシュタインさん。そして腕章付きでもあると。

 後ろに控える二人の女性は、差し詰め彼女の忠実な部下と言ったところか。

 

「名前の響きからしてドイツ人ですかね。わざわざこんな島国までご足労お疲れ様です。日本での生活はどうでしょうか、やはり地元と比べると住みにくいものでしょうか?」

 

「そんなことありませんわよ。文化も空気も澄みきっていて、職務を除けば中々悪くはないものですわ。特にあれです、ビールをキンキンに冷やすというのは後世に語り継がれるべき偉大な発明だと私は断言しましょう」

 

「ソウデスカー」

 

 そう適当に流しつつ、さっさと帰ろうとすれば。

 

「逃がさないっすよ」

 

「観念することね」

 

 赤髪の女性と青髪の女性に退路を塞がれた。そう簡単にはいかないか。

 

「それで、その進駐軍の隊長さんが、僕に一体何を伺いたいんです?」

 

 雰囲気からして軽めの職質とかではないだろう。めんどくさいことになったもんだ。

 

「貴方、最近巷を騒がせている連続殺人犯をご存知かしら?」

 

「ええ、そりゃあまあ連日テレビで引っ張りだこですもんね」

 

「それなら好都合。その連続殺人犯による犯行が、最近この辺りで確認されるようになったので、私達――国際協和連合強制執行軍太平洋方面極東支部首都治安維持第101独立機動隊がこうして調査をしているのですわ」

 

 所属組織名を毎回わざわざ律儀に言うのね。

 

「それはまた、ご苦労なことで」

 

 連続殺人犯――。そこでふと、先ほど少女に背中から刺されたのを思い出す。

 彼女が連続殺人犯――いや、流石に考えすぎか。

 

「それでこの付近を警備巡回していたら、日本人の少女がこの路地裏から慌てて走り去るのを確認したので、こうして足を運んだ次第ですの。そうしたら、奥には四つの死体と貴方がいた、というわけです」

 

「……」

 

 マズイな、これは完全に疑われている。

 確かに状況証拠だけなら、僕が犯人という風に推測することもできる。

 

「何か申し開きはあるかしら?」

 

「僕は連続殺人犯じゃない……って言っても、信じてはもらえませんよね」

 

「ええ。仮に連続殺人犯の容疑が晴れたとしても、模倣犯の疑いが今度は浮上するだけですわ」

 

 そりゃあ、また、ずいぶんと取り調べが長くなりそうだ。

 地味に、これはピンチだ。下手に捕まって身体検査をされた際に、僕が自爆ゾンビだとバレてしまうかもしれない。

 なんとか切り抜けられないかどうか辺りを確認するが、完全に包囲されている。

 控えめに言って、詰んだとしか言い様がない。

 

 

「悪いがナインシュタイン。ここは我々に譲ってもらおう」

 

 すると、そこへ聞き覚えがある声が聞こえてきた。あと、鼻を突く防腐剤の臭い。

 視線を向ければ、そこに立っていたのは尊厳死者搬送医『ミミズ』を率いる男――ムクロが立っていた。

 相変わらず全身黒づくめのスーツにカラスのマスクを着けている。

 ナインシュタインさんは目を見開いていた。

 

「ヘル・ムクロ……。なぜ、貴方がここに」

 

 彼女が言った『ヘル・ムクロ』。それが彼のフルネームなのか。

 ……いや、それとも正式なコードネームだろうか。

 そのまま言うなら、意味としては『地獄の亡骸』と言ったところだが。

 僕がそう思案していると、ムクロはナインシュタインさんの問いに答えた。

 

「決まっている。死体を回収するためだ」

 

「それって――」

 

 ミミズが回収するのは尊厳維持装置を使用して自殺したものだけ。

 よって、連続殺人犯によって殺された他殺死体は決して回収しない。

 この状況で彼が現れたのは、まさに鍔乍にとって渡りに船だった。

 しかし、ナインシュタインさんは納得していないのか、ムクロを睨みつける。

 

「あれが他殺死体ではなく、自殺死体と貴方は判断していますの?」

 

「そうだ」

 

 ムクロはそう言うと、自身の起爆リングを見せる。

 

《目標、二メートル。尊厳維持装置の停止信号、五つ(・・)確認しました。早急に回収してください》

 

 そう、彼の起爆リングが告げた。

 

「五つですって……?」

 

 ナインシュタインさんは怪訝そうな表情を浮かべて四つの死体を見つめる。

 

「そちらのAIの故障ではなくて? 死体は五つではなく四つですわよ」

 

《あぅぅ……また間違えました》

 

 ……前回も思ったけど、やっぱりAIにしては人間味がありすぎるのでは? 僕の気のせい?

 

「最近調子が悪いんだよ。技術顧問に見せても原因不明らしくてな」

 

 そう悪態を吐くが、「だがな」とムクロは続ける。

 

「尊厳維持装置の停止信号が出ているのは確かだろう」

 

「そんな不具合の出たAIの言葉を誰が信じられるものですか」

 

「ならば、自分の目で真実を確かめてみればいい。そうすれば自ずと納得もできるだろう」

 

 そう彼に促され、ナインシュタインさんは一人一人の目元を見て血を流していることを確認。それから起爆リングのカードが失効しているかどうかの確認をした。

 

「確かに、全員自爆していますわね」

 

「理解したなら、さっさと自分の持ち場に戻れ。回収の邪魔だ」

 

 彼のその言葉を合図として、彼の背後から無数の黒づくめの集団が出現し、四つの死体を黒いビニール袋に手際よく入れて担ぎ上げていく。

 その光景を見ながら、赤髪の女性がナインシュタインさんに話しかける。

 

「どうします、姐さん。せめて容疑者だけでも連行っすか?」

 

「……いいえ、死体には一切外傷はなかった。とすれば、彼を連行することはできないでしょう。彼は偶々(・・)自殺者の近くにいた……それだけですわ」

 

 容疑者ですらない。

 その言葉に今度は青髪の女性が抗議する。

 

「そんな、納得できません!」

 

「ですがこと自殺者に関しては、ここはもう我々の管轄ではなく彼等(ミミズ)の領域ですわ。私達は大人しく調査に戻るとしましょう」

 

 そう言うと最後に、ナインシュタインさんは僕に対して頭を下げる。

 

「妙な疑いをかけてしまったこと、謝罪しますわ」

 

「いえ、僕も夜遅くにこんな場所にいたのが悪いですから」

 

「……因みに、その理由を聞いてもよろしくて?」

 

「ええと……」

 

 自爆ゾンビを終わらせるため。そんなことを言えるわけがないので、最早恒例となったいつものやり方で乗り切らせてもらおうと思う。

 僕は懐から名刺を取り出して彼女に渡す。

 

「自分、ブラックアリウム社で記者をやらせてもらっている上地鍔乍というものでして。ここら辺一帯で例の連続殺人犯が出没するという噂を聞き付けたので、取材しようと思って本社から駆けつけた次第です」

 

「……そう、ですの。あまり無理はなさらないことね」

 

 ナインシュタインさんは少し呆気に取られ、名刺を受け取ると、再び「ンンッ!」と喉を整える。

 

「それでは、私も改めて名乗らせていただきますわ。私は国際協和連合――」

 

「もう勘弁して下さい」

 

 貴女、もうそれがただ言いたいだけでは?

 僕の言葉によって出鼻を挫かれた彼女は少し残念そうな表情を浮かべながら、赤髪と青髪の女性二人に声をかける。

 

「それでは調査に戻りますわよ、タンジー、メイカ」

 

「了解っす!」

 

「承知致しました!」

 

 嵐のようにやってきたかと思えば、これまた嵐のように立ち去ってしまった。

 残ったのは僕とミミズの方々のみ。既に死体の回収が完了したのか、作業は死体の搬送に移行していた。

 

「おい」

 

 すると、ムクロに話しかけられた。

 個人的には好都合。

 とりあえず、黙って立ち去るのもあれだから、一応お礼は言っておこう。

 

「助け船を出していただき、ありがとうございました」

 

「俺は自分の職務を全うしただけだ。それよりもお前、背中が赤くなっているぞ」

 

「あぁ……」

 

 そういえば、刺されていたんだったか。痛覚がないから忘れていた。

 背中に手を当てて傷口の深さを確かめてみるが、ここで一つ違和感が。

 

(……あれ、傷口が、ない?)

 

 いや違う。もう傷口が塞がってしまったのだ。こんなに早くくっつくだなんて。

 

「おい、返事をしろ。怪我をしているのなら救急車を手配してやっても構わないが」

 

「い、いえ。大丈夫です。これはあれです、ケチャップがついてしまって」

 

「……。そうか」

 

 声は明らかに納得していない。正直、自分だって納得できてないのだ。

 彼はそれ以上、このことについては言及せず、ただ最後に忠告するように言った。

 

「仕事熱心なのはいいことだが、仕事は昼の内に終わらせておくに限るぞ」

 

「……ああ、はい。おっしゃる通りで」

 

 何故だろう。こんな夜に活動しているから疑われるんだという意味なのだろうが、こう……彼の発言に違和感を感じる。

 その違和感が分からないままに、彼らミミズは四つのビニール袋を担ぎ上げながらその場から立ち去った。

 

 一人路地裏に残された僕は、空を見上げる。黒い空に数個の星と大きな月が輝いていた。

 十一月なので風は冷たく、世界は死んだように静かだった。

 そこに佇む僕は、もう一度自身の背中に触れた。

 

 

「背中を刺されたのは、夢か……?」

 

 いや、そんなはずはない。確かに白いジャケットは赤く染まっている。

 ナインシュタインさんも路地裏から走り去る少女を目撃している。

 ならば、背中を刺されたのは、紛れもない現実のはずだ。

 

「まあ、いいか」

 

 いくら考えても答えが出ないのなら、意味がない。

 なら、早く会社に帰るとしよう。

 

 そう思って、その日は帰ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

―――――   ―――――   ―――――

 

 

 

 

 翌日。

 

 

「おはようございまーす」

 

 時刻は午前八時。会社の扉を開けると、中では飛鳳先輩だけが既に作業をしていた。

 彼女は僕の姿を見ると、元気よく挨拶してくる。

 

「おはようです~!」

 

 相変わらず元気そうで何よりだ。

 辺りを見回してみるが、社長さんの姿が見当たらない。

 

「あれ、飛鳳先輩だけですか?」

 

「そうです~。ムーちゃんはお寝坊さんです~」

 

 そう言って「プンプン!」という風に頬を膨らませる彼女を見ると、まるでヒマワリの種を頬ばるハムスターを彷彿とさせる。

 身長も出会ってから二年経つが相変わらず成長しておらず、今年で三十三だと言うのに、未だに電車は子供料金で乗れてしまうという。

 ……こういうのも美魔女と言うのだろうか。

 

「飛鳳先輩は一体どんな仕事を――って」

 

 彼女が作業しているパソコンの画面を見たら、思わず目を剥いてしまった。

 記事を作成しているのではなく、動画サイトで動画を見ていた。

 

「何やってんですか……」

 

「今月の通信制限に引っ掛かったので動画見てるです~」

 

「いや、仕事して下さいよ!」

 

 しかも何の動画を見ているのかと思えば、ずいぶんと懐かしいものだった。

 

「これ、二年前に流れてた生放送のやつじゃないですか」

 

 時期としては僕が二年前に金剛寺大学附属病院に向かう前の時だ。

 あの時、飛鳳先輩が「なにこれすっごく可愛いです~」と騒ぎながら僕と社長さんを巻き込んで動画を見せてきたのは記憶に鮮明に残っている。

 視聴者も僕達三人を含めても一桁台のものだったが、なんというか……一生懸命動画を撮っているのは伝わってきた。

 白一色の背景の部屋の中で金髪で緋色の目をした少女がカメラに向かって右往左往していたんだ。

 

――「え、ええっとどうするんだっけ? あれ? これもうはじまってる?」――

 

――「あの、もしもし!」――

 

 テレビ電話かよ。そう突っ込んで僕はコメントしたんだったか。

 

『そうじゃない』

 

――「あ、こめんとがついた。『そうじゃない』? ごめんなさい初めてで……でもいっぱい勉強してきたのよ」――

 

 そうシュンと落ち込む彼女の姿に、飛鳳先輩は鼻息を荒げながら即座にコメントを打ち込んだ。

 

『かわいい』

 

――「あ、またこめんと。……『かわいい』!?」――

 

 顔面ゆで蛸のように真っ赤にしながら困惑して右往左往する動画の少女。

 そのリアクションに飛鳳先輩はすぐに骨抜きされてメロメロ状態だったが、社長さんは難色を示していた。

 そう一々コメント一つで表情がコロコロ変わる姿は見てて飽きないが、社長さんからすれば一向に進展がなかったのでイライラしながらコメントを打ち込んでいた。

 

『いいからなにかやれ』

 

――「ええ、『いいからなにかやれ』……そうね」――

 

 すると、彼女は何か意を決したような表情を浮かべた。

 ……何か、凄く嫌な予感がした。

 そう思ったのは僕だけじゃなかったらしく、先ほどコメントした社長さん自身が「やっべぇ」と後悔していた。

 

――「えっと、あの……今日は歌を歌いにきました!」――

 

 なんだ、歌か。それなら何も心配はいらないだろう。

 ……今から思えば、そう安直に安堵していた二年前の自分を殴り飛ばしてやりたい。

 

――「マイクは……あ、いま使ってるんだった。機材よし、接続よし……喉、よし」――

 

 とりあえず安心している僕、目を輝かせながら「ワクワクです~」と期待している飛鳳先輩、それでも尚不安そうにしている社長さん。

 

――「歌います。すぅ……」――

 

 ゴクリ。三者三様が息を飲んだ瞬間だった。

 

 

――「あ"ま"ぎ"ぃいいいいいいいいいいいいいいい!!」――

 

 

 全員、一斉にパソコンの前から吹っ飛んだ。

 

『嘘だろ(です~)!?』

 

 三人全員満場一致の酷さだった。

 そんな、よく分からない思い出だった。

 

 飛鳳先輩は、そんな生放送時の動画を今でも保存して定期的に見ているのだ。

 個人的には歌を歌う場面からは見る気が一切しないのだが。

 

「まだそれ保存しているんですね」

 

「うん。この娘の動画を見てるととても幸せになって勇気づけられるんです~。でもこの娘、あれから動画を投稿してくれなくて悲しいです~」

 

「そう……ですか」

 

 そりゃあ、いくら見た目が可愛くてもあれでは中々ファンがつかないだろう。

 稀に飛鳳先輩のようなコアなファンがつくようだが。

 そこで、ふと疑問に思ったことを聞いてみる。

 

「飛鳳先輩の幸せって、何ですか?」

 

「そんなの決まってるです!」

 

 彼女は胸をはって答える。

 

「あたしとムーちゃんと鍔乍、三人でこの会社で働いてる瞬間が、何よりも幸せなんです!」

 

「……」

 

 思わず、閉口してしまった。なんというか、ここまで真っ直ぐに自分の考えを主張できる彼女は、やはり凄い人間だと感嘆する。

 

 

 そうしていると、会社の扉が開いた。

 

「ふぅぁ~あ。おはよーさん」

 

 入ってきたのはすっかりくたびれた風貌の社長だった。

 大きなあくびをしていて、見ていてとても眠そうだ。

 飛鳳先輩は恨めしそうに社長さんを睨みつける。

 

「遅いです~、社長出勤とはムーちゃんの癖に生意気です~!」

 

「社長だからな。さーて、しっかり仕事してっかー?」

 

 そう得意げに言い放った社長さんは飛鳳先輩のパソコン画面を覗いた後、顔を「ゲッ」とあからさまに崩した。

 

「こ、こいつは……」

 

「……あはは。社長さん、朝の目覚めに一曲どうです?」

 

「……え、遠慮しておこうか」

 

 ですよね。

 僕だって遠慮したい。

 

「それにしても、そんなにお疲れでどうしたんですか?」

 

「ああ? ……まあ、色々あんだよ。出版社の社長ともなると、避けては通れない人付き合いってのがさ」

 

 そう言う社長さんに対して飛鳳先輩は「弱小出版社の社長です~」と小声で茶々を入れる。

 しかし、社長さんはそれを聞き逃さず、彼女を見下ろしながらニヤリと口角を上げて笑う。

 

「そういえば、いーっつも会社のパソコンを使って勝手に動画見てるバカがいた気がするなぁ。その分の通信料を給料から差し引くのは社長としては当然だよなぁ」

 

「…………ごめんなさいです」

 

 ただ頭を下げるのではない。両手両膝と(ひたい)を地面に完全に付けての本気の謝罪だった。

 というか、飛鳳先輩。貴女一体どんだけ動画見ているんですか。

 そう彼女に対して辟易していると、社長さんは仕切り直しとばかりに両手を叩く。

 

「それじゃあ、今日もはりきって仕事をしていくぞ!」

 

「「はい(です~)!」」

 

 それを合図にしたように、全員一斉に各々のパソコンの前に座り、僕は昨日撮った画像データを用いて記事の作成を行う。

 画像を指定された紙のサイズに合うように切り貼りし、そこに文章を挿入する。

 作業すること三時間。出来上がった記事のデータを社長さんの方に送る。

 

「社長さん、できました。記事の内容を送りましたのでチェックお願いします」

 

「了解。飛鳳、お前の方はどうだ」

 

「今度のオリンピック出場選手へのインタビュー、あと、昨日鍔乍が行けなかった動物園の取材。それらの記事を送るです~」

 

 その言葉を聞いて、僕は彼女に頭を下げる。

 

「すいません、忙しいのに」

 

「貸し一つです~」

 

 そうニカッと笑う彼女に笑みが溢れる。

 社長さんは「よーし」とキーボードを打っていく。

 

「この分なら、今月の雑誌は問題なく作成できるな」

 

 しかし、蓋を開けてみればオリンピック出場選手のインタビュー、動物園のパンダの赤ちゃん、昨日渋谷で起きた殺人事件と、何ともまあ掲載しているジャンルがバラバラな雑誌である。

 これにさらに社長自身の記事も加えるのだから、まるで闇鍋のような混沌さだ。

 

 さて、一応仕事が一段落着いても、次の仕事がある。具体的には来月掲載したい内容のための取材の申し込みと営業、ネタ探しのための散策、まあ色々だ。

 そして、僕の絶対に欠かせない仕事がある。

 

「永遠乘の手がかりを探しに行ってきます」

 

「おう」

 

 そう言って片手だけを挙げ、社長さんは僕を見送ってくれる。

 飛鳳先輩に関しては、少し不安そうな表情を浮かべていた。

 そんな彼女に、大丈夫だと笑みを向ける。

 

「それじゃ、行ってきます」

 

「……行ってらっしゃいです」

 

 僕は、取材に向かう。

 でも、何故だろう。今日は特に、あまりよくないことが起こる。

 そんな予感が、していた。できれば当たってくれないことを、祈るばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 場所は、先日と同じく渋谷のスクランブル交差点。

 もう封鎖も解かれ、殺人事件が起きたとは到底思えないほどに見渡す限りの人、人、人で埋め尽くされていた。

 昔の人は言った。人の命は地球より重いと。それだけ尊いものだと。

 それがこの光景を見てみるとどうだろうか。

 まるで、人一人の価値なんて大衆の前では何の意味も為さないかのように感じられる。

 所詮、我々が住む地球すらも、人にとってみれば小さなものに過ぎないということか。

 

 そう思うと、なんともやりきれない思いに駆られる。

 この尊厳維持装置は確かに死のクオリティを上げたのだろう。

 だが同時に、それは、命のクオリティを、そしてそれを育む地球というクオリティを下げてしまったようにも感じられる。

 

「……そういえば、ここはちょうど中央郊外地区か」

 

 中央郊外地区と言えば、二年前に逃走犯が進駐軍と戦闘を繰り広げた場所として有名だ。

 そして、その逃走犯が侵入して逃げ出したのが、金剛寺大学附属病院。

 

「……」

 

 もう、あの場所に永遠乘はいない。あそこに所属していたあの女は、まるで煙のように姿を消してしまったから。

 もう、あの場所に手がかりはない。それなのになぜだろうか。

 こうも事ある毎にまるであの場所へ運命が導いているかのように、あの病院との関連性を見出だしてしまうのは。

 

「現状で手がかりがないのなら、向かってみるのもありか」

 

 どうせ徒労で終わるぐらいなら、何かアクションを起こした方が収穫があるってものだ。

 そう思って、スクランブル交差点から金剛寺大学附属病院まで歩くことにする。

 

 

 

 

 

―――――   ―――――   ―――――

 

 

 

 同時刻。ブラックアリウム社。

 

 社内に響くのはキーボードをただ叩く音のみ。

 パソコンに座ったまま、その画面を睨むように目を細める者が二人。

 それが、社長である俺こと玄有夢羽とその部下の灰咲飛鳳だ。

 壁にかけられた時計の時刻を確認してみれば、午後一時。

 朝からずっと作業しっぱなしだったし、ここいらで一服するのがベストタイミングか。

 

「飛鳳、昼休憩挟むぞ」

 

「あ、大丈夫です~。これから取材に行くんで、ご飯はその途中で適当に食べるです~」

 

「……そうかい」

 

 なら、今日は久々に社内で俺一人で昼飯か。……いや、別に寂しいわけじゃないんだが、単純に珍しいこともあるなと感じただけだ。うん。

 

「あまり遅くなるなよ」

 

「もう、子供じゃないんだから一々言わなくて大丈夫です~」

 

 ブーブーと唇を尖らせる彼女の頭を撫でる。

 

「はいはい、お利口さんお利口さん」

 

「ムカ着火ファイヤーです~!」

 

 古っ。おばさんかよお前。……こう見えても三十三だからおばさんに片足突っ込んでたわこいつ。

 両腕をぐるぐる回転させながらこちらへ殴りかかってくるが、頭を押さえれば簡単に進軍が止まる。

 

「ほら、こんな下らないことやってっと、あっという間に一日が終わっちまうぞ」

 

「ムーちゃんのせいです! それじゃ、行ってきますです~!!」

 

 そう言い捨てるようにして子供用のリュックサックにありったけの機材を詰め込めると、それを背負って走る。

 

「いやだからムーちゃんじゃなくて社長だって――――もういねぇし」

 

 自分以外誰もいなくなった部屋。時計の秒針の音が響き渡る中で、少しだけ物思いに耽る。

 

「あれから五年、か」

 

 自爆ゾンビ事件が起きてから五年。恋人が死んで、その黒幕の跡を追って、そしてここまで行き着いた。

 三人から二人になって、また三人になった。

 そう思って、デスクの引き出しからとある一枚の写真を取り出す。

 写っているのは、自分と、飛鳳と、――。

 

「……」

 

 口元に力が入るのが自分でも分かる。

 長かったような、それとも短かったような。

 まあ、感慨深さなんて一つもないが。

 

 そこで、キーボード作業を再開した。

 記事を作成していたページを一旦保存してから閉じ、別のフォルダを開いた。

 それは五年前に自分が作成した記事。

 見出しには大きく『謎の自爆ゾンビ事件。尊厳維持装置を利用した新手のバイオテロか?』と書かれていた。

 

「お前がいなくなってから、もう五年も経つんだな。……雀萌」

 

 『灰咲(はいさき) 雀萌(すずめ)』。俺の恋人だった女の名前。

 そして同時に、飛鳳の妹でもあった。

 元気のいい姉の飛鳳と比べれば、妹の雀萌はいくらか主張が小さくて引っ込み思案で、その癖、体つきは姉とは反対に主張が激しくて。

 

 彼女と共にゾンビ事件に向かわなければ良かったと、今でも後悔している。

 あの日、金剛寺大学附属病院前駅に赴いた俺達は驚愕した。

 ゾンビが出たなんてただの冗談だと思っていた。季節も十月末から十一月の間だったので、てっきりハロウィンでゾンビのコスプレをして騒いでいるだけなのだろうと軽く考えていた。

 事態は、俺達が思う以上に悲惨だった。ゾンビに襲われ、喰われる市民、その激痛から自爆する者達、そして自爆者は新たなゾンビとなり市民に襲いかかる。

 まさに負の連鎖だった。

 そんな中だ、一体のゾンビが駅から飛び出してきた。

 

――「あ"あ"あ"! あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"う"う"う"!!!!」――

 

 高校卒業仕立てぐらいの、まだ少年と青年の間のような顔つきのゾンビだった。

 それが絶叫しながら俺の元まで走り――

 

――「逃げて、夢羽!」――

 

 最愛(すずめ)が、喰われた。

 首元を思いっきり持っていかれ、血が止めどなく流れていた。

 倒れた彼女を抱き起こし、俺はひたすら哭いていた。

 絶対に助ける、と。近くに金剛寺大学附属病院があるから、そこへ運んでやる、と。

 でも、彼女は首を横に振った。

 

――「夢羽、周りを見てみて」――

 

 ゾンビが人を襲い、襲われた人がゾンビにへと転ずる地獄絵図が広がっていた。

 

――「あたし、食べられた。きっと、みんなみたいにゾンビになっちゃう……そんなの、やだ。夢羽を襲いたくない。だから、せめて人として」――

 

 俺は、ダメだ、よせ、やめろ、と。ただそれだけを叫んだ。

 しかし彼女は。

 

 

――「死 に た い」――

 

 

 命を、手放した。俺との未来を、選んではくれなかった。

 

《了解致しました。解除の場合は、再度音声での認証をお願い致します。起爆まで、十、九、八、……》

 

 無機質に、無慈悲に、鳴り響くカウントダウン。

 取り消せ、生きたいって言え。生きることを諦めるな、頼むから……生きてくれよ!!

 そう、声が枯れるまで叫んだ。

 なのに、彼女は、目を閉じて。

 

《起爆します》

 

 彼女の頬を、一筋の血の涙が伝う。彼女はゾンビにならないために死を選んだ。

 それなのに。

 

――「うぅぅ……うぅぅぅ………」――

 

 彼女だったもの(・・・・・)は目を開いて、俺に牙を剥いた。

 俺は彼女の頭を拾った鉄パイプで破壊し、彼女を止めた。

 両手は彼女の血で覆われ、その生々しい感触に全身が震えていた。

 俺が、俺が彼女を、殺した。

 愛した女を、必ず守ってやると誓った女を、この手で――彼女を抱き締めた、この手で!!

 

 

――「―――――――――――――ッッッッッ!!!!!!」――

 

 

 声にならない悲鳴。それは誰にも届くはずがなく。

 

 結局、蓋を開けてみれば、彼女は自殺しなければゾンビにならなかったのだ。

 なら、あの時、死を選んだ彼女の決意は全くの無駄じゃないか。

 どうしようもないやるせなさが、全身を襲う。

 

 その日から、(おとこ)は、復讐を誓った。

 このウイルスを作った奴を、必ず見つけ出して、――――殺してやる。

 

 

 そこまで考えていた所で、思考を現代に戻す。

 ……危ない、危うく冷静さを欠くところだった。

 昔から灰咲姉妹に言われていた。俺という男は、一度熱くなると暴走が止まらなくなると。

 時計を見てみれば、時刻は午後三時。

 完全に昼食を摂るタイミングを逸してしまった。

 

「……とりあえず、茶でも飲むか」

 

 そう思って立ち上がると、ふと飛鳳のパソコンの電源が点けっぱのままなことに気づいた。

 ……あいつ、怒ったまま出掛けていきやがったな。

 

「ったく、これじゃまた無駄に電気代がかかるだろうが――……ん、なんだこれ?」

 

 彼女のパソコンのホーム画面。デスクトップの立ち並ぶ中に『つばさのひみつ』と書かれたフォルダがあった。

 

「『つばさのひみつ』って、鍔乍の秘密ってことか。……一体なんだ?」

 

 なんとなく、興味本位でクリックしてしまった。

 

「なんだろうな。あいつの酔い潰れた恥ずかしい動画か画像か?」

 

 そうニヤニヤしていたのも束の間。

 

「お、出てきた……――って……は?」

 

 思わず、目が見開いたまま、固まってしまった。

 なんだ、これは。脳が理解するのを拒んでいる。

 いや、まさか。そんなわけがない。

 

 そんな、わけが。

 

――「逃げて、夢羽!」――

 

 やめろ。

 

――「ムーちゃ~ん! 新入社員をお連れしたですよ~!」――

 

 やめろ……っ!

 

――「はい。僕自身の手で、必ず終わらせてみせます」――

 

 やめろ……っ!!!

 

 おまえは、ほんとうに……

 

 上地鍔乍なのか(・・・・・・・)っ……!!!!

 

 思いっきり、壁を殴り付けた。

 どうして、どうして俺は今まで気が付かなかったんだ!

 頭全体が、熱くなる。

 (ほとばし)る怒気を、抑えられそうに、ない。

 

 そんな、時。懐にしまっていた携帯電話が鳴った。

 

――ピピピ――

 

 すぐに出る。

 

「……なんだ」

 

《どうした、珍しく気が立っているじゃないか。普段、感情を見せないお前らしくもない》

 

「茶化すつもりなら、切るぞ」

 

《まあ、そう慌てるな。……永遠乘命の居場所を掴んだのでな。お前に連絡しておこうと思っただけだ》

 

「永遠乘……命……っ!!」

 

 何よりも許せない存在の名前に、頭は完全に沸騰した。

 

「どこだ……奴は、どこにいる……っ!?」

 

《……俺が案内しよう。そっちに迎えをよこす間、お前は準備をしておくがいい》

 

 そう言った後、一方的に切られた。

 準備……? そうか、準備か。

 

 デスクの引き出し、その一番下で鍵付きのもの。

 そこに起爆リングのカードをかざせば、ロックが解除されて開くことができる。

 

 その中にあるものを、俺は、身に着けた。

 

 

「今日で、この因果を、断ち切ってみせるっっ!!!!」

 

 過去は死んだ。ならば、その先の未来に意味などなく。

 あるとすれば、過去が置いていった土埃を、一つ残らず払いのけるのみ。

 

――ならば、その先は?――

 

 そう問いかける誰かの声はもう。

 

 俺には、届かない。

 

 

 

 

 

 

 

―――――   ―――――   ―――――

 

 

 

 

 時刻は午後四時近く。

 少し道に迷ったりもしたが、なんとか目的地である金剛寺大学附属病院に到着した。

 あの頃から変わることもなく、一時期は自爆ゾンビ事件の主犯を勤めさせていたことで世間で話題になったが、結局永遠乘を取り逃がしたことで事実確認ができず、それらの話題も沈静化しつつある。

 外観は相変わらず。そのままだ。

 

 いざ来てみるとどうだろう。特に何があるわけでもない。

 結局この日も、永遠乘の行方に繋がる手がかりなんて手に入るはずもなく――――。

 

 

 

「おや、そこにいるのは我が最愛(つばさ)じゃないか」

 

「――っ!?」

 

 背後から声をかけられ、振り返る。

 そこには、妖しく微笑むあの女が、手を振りながらこちらへ歩み寄ってきた。

 

「また会えると確信していたよ、鍔乍。二年ぶりの逢瀬と言ったところか」

 

「お前、どうしてここに……」

 

「君はボクの居場所を知らないだろ? だから毎日、こうしてここへ足(しげ)く通っていれば、いずれ君と会えると思ってね。ここは、君が始まった場所でもあるのだから」

 

「な……に……っ?!」

 

 そんな。答えは、すぐそこにあったって言うのか。

 

「……」

 

 だが、それよりも気になることがある。

 

「どうやって逃げ切れた。いくらあんたでも研究設備を抱えながら逃走するのは至難の業のはずだ」

 

「簡単だよ。ボクのスポンサーのおかげさ」

 

「スポンサーだと?」

 

「ああ、そうとも。ボクを守ってくれたスポンサー、それこそがアメリカ合衆国だ」

 

「あ、アメリカ……っ!?」

 

 アメリカ合衆国と言えば、国合と対立代表的な国として有名だ。

 

「なぜかと思うかい。いいや、これは必然さ」

 

 彼女はイタズラが成功した子供のように満面の笑みではしゃぐ。

 

「ボクの開発したダイダ・ロスは彼らからすれば尊厳維持装置に対する大きなカウンターであり、同時に大きなブレーキになり得る。それすなわち、この自殺社会が色濃く根づいた島国を内側から壊滅できるというわけさ」

 

 すると、彼女は真っ直ぐにこちらに駆けてきたかと思うと、そのまま僕の体を真正面からギュッと抱き締めてきた。

 敵意も殺意も感じられなかったため、体の反応が鈍った。

 僕はただ、彼女の抱擁を受け止めるしかなかった。

 

「ありがとう、鍔乍。君がボクを受け入れてくれて」

 

「ちが、これは――っ!!」

 

「ボクはそんな君が本当に愛してやまない。だから――ボクと一緒にこの国を捨てよう」

 

「っ――?!」

 

 そのまま後ろに回された手に隠し持っていた注射器を首元に刺され、薬液を注入される。

 

「な、こ……は……っ!!」

 

「ボクの今の根城は秘密でね、このような処置を取らせてもらった」

 

 薄れいく意識の中、その場に倒れながらも、視線だけはアイツを睨みつける。

 

「ゆっくりとお休み、鍔乍。次目が覚める時は、ボクと君の愛の巣さ」

 

 ……ふざ、け、る、なっ!!

 そう口にできないまま、視界は黒く染まり、意識は闇の奥底にへと沈んでいった。

 

 

 

 …………………………。

 ………………………。

 ……………………。

 …………………。

 ………………。

 ……………。

 …………。

 ………。

 ……。

 …。

 

 

 なんだろうか、とてもいい匂いがする。

 

――鍔乍――

 

 誰だろう、母さん?

 

 誰かが、あたまを撫でてくれている。

 

 母さん、ごめんよ。僕は、母さんを助けられなかった。

 

 それどころか、僕は、母さんを…………。

 

 

 

 

 

 

「おや、お目覚めかい鍔乍?」

 

 

「――――――っ!?」

 

 

 目が覚めて飛び込んできたのは、永遠乘の笑顔。

 どういうことなのか横目で確認すれば、僕は彼女に膝枕をされていた。

 ……。

 

「うわああああああああ!!!!!!?????」

 

 慌てて飛び起きてから彼女と距離を取る。

 くそ、最悪だ。よりにもよってアイツの膝枕で母さんを思い出すなんて。

 まるで思い出を汚されたようで腹立たしくて寒気がする。

 

「それにしてもボクに対して『母さん』とはなぁ、もしかして君はそういうプレイがお望みなのかい?」

 

「断じて違う!!」

 

 しかもこの女に寝言として聞かれているなんて末代までの恥だ!! ……あ、よく考えたら僕は自爆ゾンビなんだから僕自身が末代か。

 

「ふぅ――」

 

 一旦、呼吸を整えて平常心だ。こんな奴で揺らいでは駄目だ。

 そこで、改めて周りを見る。薄暗いが、どこかの倉庫だろうか。

 

「ここがどこか気になるようだね」

 

 首をキョロキョロと動かす僕の動きが面白かったのか、永遠乘は「ふふふ」と愛しそうにこちらを見つめて微笑んでくる。

 

「ここが、アメリカ当局がボクのために用意してくれた新たなラボさ」

 

「ここが、ラボだと……?」

 

 確かに金剛寺大学附属病院から持ち出された機材に加え、大きなモニターなども確認できる。

 

「場所はどこなんだ……」

 

「やっぱり気になるかい?」

 

「当たり前だ!」

 

 僕の解答に「そっかー」と彼女は意地悪そうに言うと、モニターを着ける。

 そこには世界地図と赤い点が太平洋上に浮かんでいる。

 

「この赤い点こそが、この場所の現在地さ」

 

「は……?」

 

 そう言われて改めてモニターに目を移す。太平洋上に浮かぶ赤い点だが、少しずつ、少しずつ、移動している。

 

「まさか……ここは……」

 

「そう。アメリカ行きの貨物船さ」

 

 太平洋上に浮かぶ一隻の船。それこそが、この女が二年間身を隠していた場所。

 そんな、見つけるなんて到底できるわけがない。

 

「今すぐ船を日本に戻せ!」

 

「それはできないね。君は今から、ボクと共にアメリカへ亡命するのだから。大丈夫、安心したまえ。向こうには君が成功例であることをきちんと伝えてある。悪いようにはしないはずさ」

 

「そんなことはどうでもいい!」

 

 僕は彼女の肩を掴んで壁に押し付ける。

 

「お前には罪を贖ってもらう! あの事件を引き起こしたお前を、母さんを殺したお前を――僕は、絶対に許さない!!」

 

 僕の剣幕に対し、永遠乘はあくまで表情を崩さない。それどころか、こちらを諭すように語りかけてくる。

 

「君は大きな勘違いをしている」

 

「なんだと……?」

 

「確かに、君をキャリアにしてあの騒動を引き起こし、さらには金剛寺の病院にもダイダ・ロスを散布するように仕向けたのはボクだ。それは認めよう――だがね」

 

 コツンと、彼女の額と僕の額がぶつかる。

 

「君の母親を殺したのは、ボクじゃない。それは本当だ」

 

「嘘を、吐くな!!」

 

「嘘じゃないさ。君は、少し記憶が混濁しているように見える」

 

 すると、懐に忍ばせていたリモコンで彼女はモニターの映像を変えた。

 そこに映るのは、金剛寺大学附属病院前駅のホーム及び改札口の監視カメラの映像、さらには病院のものまで同時に再生される。

 

「これ、は……」

 

「君は悲しいことにボクの言葉に耳を傾けてくれないからね。真実は、自分の目で確かめてみるといい。あの日、あの時間、あの場所で、何が起き、誰が君の母を死に至らしめたのか」

 

 僕は永遠乘から手を放し、モニターに釘つけになる。

 監視カメラには、電車内の映像もある。

 

 僕が座席に座り、あの小箱を持っている。

 続いて、桐谷が入ってきて、僕の向かいに座る。数分話した後に、あの男は降りていった。

 ……ここからだ。

 

 案の定、過去の僕は小箱を開き、ダイダ・ロスを電車内に散布した。

 大勢の人々が苦しみ、やがて自爆者が出始めた。

 

「……」

 

 自爆者達は全員が自爆ゾンビとなり、電車内を徘徊、人間を襲い始めた。

 そして、そのゾンビの魔の手は、その場に蹲っている僕にまで延びた。

 僕は絶望し、「死」を望んだ。

 そして、僕は自我を持った自爆ゾンビとして―――

 

 

「……え?」

 

 

 映像の中の僕は、立ち上がった。だがその動きは、自我を持っているとは到底思えなくて、他のゾンビ達と同様に周囲の人間に襲いかかっていた。

 やがて、金剛寺大学附属病院前駅に電車は到着。ホームに大量の自爆ゾンビ達が雪崩れ込んだ。

 僕も道往く人々を襲いながら、どこかへと走っていた。

 僕が、向かっていたのは――母が入院している、病院。

 

「そんな、これは……」

 

 病院内もまた、ダイダ・ロスのガスが散布されており、大量の自爆者が出ているようだった。

 

「どうして……母さんの病院にまで散布したんだ?」

 

 僕がそう問いかけると、彼女はなんてことないように言う。

 

「あそこには既にボクの特殊ラボがあってね。君が万が一ダイダ・ロスを散布しなかったための保険さ」

 

 保険。その保険のせいで、母さんは。

 

「ほら、君のお母さんだよ」

 

「っ!?」

 

 そう言われて慌ててモニターに視線を戻す。確かに、そこには母さんが映っていた。

 しかし。

 

「そんな……母さん……」

 

 映像の中の母さんは、病室で他の患者や看護士と協力しながらバリケードを作って、ゾンビ達の侵入に立ち向かっていた。

 ガスを吸ってしまって苦しいのか、咳き込んではいるが、自爆せずに耐えていた。

 微かにだが、映像から声が聞こえてくる。

 

――「鍔乍が、頑張ってるのに、こんなところで……死ぬもんか!!!」――

 

 母さんは、絶望していなかった。

 母さんは、諦めていなかった。

 

 母さんは、僕を信じてくれていた。

 

 なのに、僕は――。

 

 バリケードを張っていた扉が破られる。破ったのは、他でもない僕だった。

 まさか、映像の中の僕は自我のない自爆ゾンビでありながら、生前に習っていた武術の型を本能で使っているらしく、それによってバリケードを破壊したらしい。

 母さんを守るために習った技が、母さんを傷つけることになるなんて。

 バリケードが破壊されたことで母さん達の病室がゾンビ達で埋め尽くされる。

 

 皆、皆喰われていく。

 

 ……そうだ、母さんは――。

 

 

――「鍔乍、なの……? どうしてここに……」――

 

 母さんは、ゾンビとなった僕と相対していた。やめろ、やめてくれ。

 

――「ああ、そっか。今日は面会日だものね……なら、私のせいね」――

 

 違う、母さんのせいじゃない。むしろ僕が、先に諦めたんだ。

 母さんを助けることを、諦めたんだ!

 

――「私がいたから、お父さんも死んじゃって、……鍔乍も、そうなっちゃったのね」――

 

 違う、違う、違う!!

 頼むから、そんなこと言わないでくれ!

 

――「できることならどんな形でもいい。お願いだから、せめて……」――

 

 母さんは(ゾンビ)を抱き締め、頭を撫でる。

 (ゾンビ)は、そんな、こと、お構い無しに。

 

 

――「つうぅ、ばあぁ……さあぁ……」――

 

 

 母の頭蓋をカチ割り、生きたまま、母は――。

 

 

――「生ぃ……きぃ……てぇ」――

 

 

 

「ああ……、ああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 

 

 僕が、僕が………。

 

 

 僕が、母さんを――その、脳を、食べたんだ。

 

 

「うっ……ごぉ、おぇ……っ!!!」

 

 僕は、その場で思わず吐いてしまった。

 

 共に鑑賞していた永遠乘は静かに拍手をしていた。

 

「いやぁ、素晴らしい。素晴らしい親子愛だ。母は最期の最期まで息子を信じ、その息子は母の脳を食すことで自我を獲得したというわけさ」

 

「脳を、食べて……自我を獲得しただと……?」

 

 永遠乘は「そうとも」と頷いてから解説する。

 

「二年前に君から採取した血液を調べたことで分かったことだ。君が自我を獲得したのは偶然じゃない。必然だ」

 

 そうして、モニターに手を向ける。

 

「人はなぜ類人猿の中で最も脳が発達したと思う? 簡単だ、それまでの穀物を摂取していた状態から肉を摂取することに成功したからだ。獰猛な肉食獣の監視を潜り抜け、手に入れた肉という神秘の宝。初めて肉を摂取した時、きっとそれは宇宙における超新星に匹敵し得る革命が起きたに違いない」

 

「つまり、何が言いたい……?」

 

「ダイダ・ロスも同じなのだよ」

 

 彼女は僕を抱き締める。僕はもう、無力感に包まれ、彼女を拒む気すら起きなかった。

 

「ダイダ・ロスはね、宿主が自爆しただけでは自我のないゾンビとなり見境なく人を襲わせるだけの出来損ないのウイルスだ。しかしね、近親者――それも恐らく一親等以内であろう人物の脳を食した場合に限り、その構造を大きく変え、肉体の再生力を高める性質のウイルスに変化する。結果的に、宿主の生前の自我さえも再生してしまうほどにね」

 

「……」

 

 嫌がらせにも、ほどがある。そう睨んでやりたいが、そんな気力すら沸き上がらない。

 ホントに、ダイダ・ロスというウイルスは最悪だ。まるで開発者のように、底意地が悪いらしい。

 

「君だって覚えがあるんじゃないかい? その身の再生力を」

 

「再生力………」

 

 考え付くのは二つ。

 一つは脱線事故の際、てっきり永遠乘が治療したからだと思っていたが、もしかするとあれはこの再生力による治癒効果だったのかもしれない。

 もう一つは、昨日刺された背中の刺し傷だ。これに関しては数分ほどで完全に完治してしまった。

 

「覚えが、あるんだね」

 

「……知るかよ」

 

 もう、そんなものどうでもいい。驚異的な再生力なんて、僕からすれば何の価値もない。

 それよりも、この五年間。母の仇討ちのつもりで駆け抜けた五年間。

 それが、全て粉々に砕け散ったのだ。

 母を殺したのは間違いなく、僕。

 散布されたダイダ・ロスに耐え抜いた母と、諦めて屈した自分。

 その自分が、母の命を奪い、ノウノウと動いている。

 

 それがただ、堪らなく情けなくて、悔しくて、――どうして、と行き場のない感情が押し寄せる。

 

 なんで、命を諦めて、踏みにじって、裏切って、喰い散らかした自分が、無様な骸として残ってしまったんだ。

 

「……」

 

 そのまま押し黙ってしまった僕を抱き締めたまま、彼女は再びモニターの映像を切り替える。

 

「ほら、見てごらんよ。鍔乍」

 

「……――っ!?」

 

 今まで以上に生気のない目でモニターを見つめた。だが、反射的に永遠乘の体を吹っ飛ばしてモニターに駆け寄った。

 それだけ、そこに映る光景は、僕の体を突き動かすほどの衝撃さだった。

 僕に吹っ飛ばされた彼女は尻餅をついて「乱暴だなぁ」と嬉しそうに僕を見つめている。

 

「これは……」

 

「ボクの仮説が正しいかどうかの最終試験だ」

 

 映像には、どこかの一面(いちめん)白い部屋の中央に置かれた椅子に腰掛け、手足を固定された飛鳳先輩がいた。

 その表情はどこか固く、でも、瞳の奥に確かな覚悟が見受けられる。

 

「何を、しようとしている……?」

 

「彼女にはね、自爆ゾンビになってしまった妹がいるらしいんだ。そして偶然にも、私が所属していた金剛寺大学附属病院の検体室にその死体があったものでね。彼女に尋ねたのさ、……妹をちゃんとした形で蘇らせたくないかと、そう、(つばさ)のように。そうしたらね、彼女は快くこの試験を引き受けてくれたんだよ」

 

「それは、つまり……」

 

 永遠乘はニンマリと笑い、その口元はまるで三日月のように綺麗な弧を描いていた。

 

「灰咲雀萌に、灰咲飛鳳の脳を食させるのさ」

 

「――――っ」

 

 気づけば彼女の胸ぐらを掴んでいた。

 

「……ふざけるな。今すぐやめさせろ」

 

「これは強制じゃない。きちんとインフォームドコンセントに則ったものだ。それをやめさせるということは、つまり彼女の意志を否定することになるよ」

 

 そんなの、関係ない。

 

「こんな非人道的な行為こそが間違っている」

 

「確かに非人道的かもしれないが、それでも、これは必ず人を救う道に繋がる。死んだ人間を蘇らせる医療を確立させるために必要なことなのだよ」

 

「そのために、飛鳳先輩には死ねと!?」

 

「二年前にも言ったはずだ。『試験に犠牲は多少なりとも付き物だ。一々騒ぐようなことじゃない』とね」

 

「そんなものは詭弁だ!!」

 

 いくら言っても、この女には通じない。この女には、倫理がない。

 結果だけを追い求めて、仮定を全て軽視している。

 ふと、モニターから彼女の声が聞こえてきた。

 映像では、まだ部屋には誰もいないことから、誰に対しての言葉ではなく独り言なのだろう。

 

《灰咲飛鳳、女は度胸です》

 

《これが、正しい選択なんです》

 

《こうすれば、ムーちゃんはきっと喜んでくれるです》

 

《雀萌ちゃんが戻ってくれば、ムーちゃんに笑顔が戻るです》

 

《きっと鍔乍も、自分が自爆ゾンビだと隠さずに済むです》

 

《……大丈夫、大丈夫です。怖くなんてないです》

 

《そのために、今朝ずっと、あの娘の動画を見たじゃないですか。勇気を、貰ったんじゃないですか》

 

《怖くない、怖くなんてない》

 

《妹と義弟の幸せのためなら、脳ミソの一つや二つ……っ》

 

《怖くなんて、ない……っ!!》

 

 

 そう、自分を追い詰めた表情で、ただ目を見開いて虚空を見つめながら、自分を鼓舞するように言い募っていた。

 それはあまりにも痛々しくて、見てるこっちが辛くなって。

 

「やめてくれ……やめてくれよ」

 

 そんなこと言うのを、やめてくれ。

 こんなことをするのを、やめてくれ。

 

 僕は彼女の胸ぐらを放し、すがりつくように乞う。

 

「頼む……頼むからさ……飛鳳先輩だけは、やめてくれよ……」

 

「……なら、君が実験を受けるかい?」

 

「じっ、……けん?」

 

 それが、唯一の救いだと、飛鳳先輩を唯一救える方法だとでも言いたげに、永遠乘は僕に語る。

 

「ああ、そうさ。彼女が受ける苦痛――それ以上の苦痛を君が代わりに受けるんだ。ボクと一緒に、アメリカ合衆国に向かうことで」

 

 それはまさしく、麻薬のように痺れる誘いだった。その言葉に身を任せることが、どれだけ楽か、僕は知っている。

 

「……それしか、方法が、ないのか?」

 

「ああ。これしかないね」

 

「…………そうか、なら……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪いが、その死体を回収するのは俺だ」

 

 そこで、堕ちかけた意識が一歩留まるのを感じた。僕は声の方へ誘われるように顔を上げた。

 次の瞬間、この倉庫の巨大な扉が開き、外の光が部屋中に差し込んでくる。

 そこに立っていたのは――ムクロだ。

 

「ミミズだと!?」

 

 想定外な客人の登場なのだろう。永遠乘は苦虫を噛み締めたような表情を浮かべて僕の手を握る。

 

「鍔乍、早く逃げるぞ!」

 

「そうはさせん」

 

 スーツは駆動音を鳴らし、右手に握った拳銃の銃口が僕と永遠乘の間で揺れる。

 

「狙いは女の方だ。補正をしろ」

 

《補正、了解。目標を、永遠乘命に設定》

 

 そのまま走り去ろうとする永遠乘の左胸を背中から撃ち抜くように狙いを定めてトリガーを引いた。

 

 火薬の弾ける音と臭い。永遠乘が倉庫の隠し扉を開いた瞬間に、それは着弾した。

 

「――ぐっ」

 

 銃弾は狙っていた左胸から逸れ、彼女の左腕に着弾した。白衣は赤く染まり、地面に血が滴り落ちていた。

 しかし、尚もその歩みを止めることなく、僕を外へ連れて行こうとする。

 

「おい、補正をしろと言ったはずだ」

 

《……ごめん》

 

 ムクロもまたその後を追う。

 

 

 

 

「さあ。これに、乗るんだ……。目標地点まで行けば、当局の輸送ヘリに回収してもらえるはずだ」

 

 永遠乘に手を引かれて歩かされること数分。

 彼女は僕を救命ボートをに乗せようとする。

 だが。

 

「そこまでだ」

 

 僕達に追いついたムクロは、再び彼女に向かって拳銃の銃口を向ける。今度は仕留め損なうつもりはないらしく、確実に頭部を狙っている。

 

「早く、鍔乍! ボクと共に、当局に! 共に人類の未来と繁栄を目指そうじゃないか!!」

 

「……」

 

 僕は、足を踏み出そうとする。飛鳳先輩を救うためには、こうするしかない。

 仕方がないんだ。結局、僕にできることなんて何もないのだから。

 それならせめて、と自分に言い聞かせながら。

 

 

 僕は、悪魔が待ち受けるその船に、自らの片足を――。

 

 

 

 

「そうやって、また逃げる気か?」

 

 足が止まった。

 振り返ってムクロを見る。

 

「その女の言いなりになって、また同じことを繰り返すのか?」

 

 繰り返す。また、僕は。

 あの日、小箱を渡されてウイルスを散布したように。

 あの日、結果的に自分が脱線事故を引き起こしたように。

 僕はまた、誰かを傷つけるのだろうか?

 何の進歩もないまま、ずっと、ずっと――――繰り返し続けるのか?

 

 そんなの、嫌だ。

 

 

「……違う。僕は、ただ、飛鳳先輩を」

 

「彼女を言い訳に使うんじゃない!!」

 

 彼はそう激昂し、永遠乘に向けていた銃口をこちらに向ける。

 その手は、何故か震えていた。それは怒りか、それとも――。

 

「お前は、結局最後は色んな理由をつけて楽な方へ逃げているだけだ! その方が、自分が傷つかなくて済むからな。だがな、お前が逃げたことで、置いていかれる者の身にもなってみろ!!」

 

「……っ」

 

 僕は、逃げた。苦しみから逃げて、安らぎを得ようとした。

 その結果、置いていった母さんを、僕が殺した。

 

 置いていく。今度は誰を置いていく?

 飛鳳先輩や社長さん、恭子先生や、すみれちゃんや皆……。

 皆を、置いていく。

 皆を置いて、僕は、どこへ逃げる……?

 

 ああ、そうか。そういうことか。

 

 簡単な話じゃないか。僕は自分の都合のいいように改変してたんだ。

 あの朧気な記憶のように。

 

 僕は、『死』に置いていかれたんじゃない。

 

 僕が、『生』を置いていったのか。

 

 置いていかれた『生』は行き場を失い、こうして僕をこの世に縛り付けている。

 

 そこまで考えたところで、ムクロは再度僕に語りかける。

 その覚悟を、問いかけてくる。

 

「上地鍔乍……お前の誓いは何だ!?」

 

 僕の誓い? そんなものは決まっている。五年前からずっと、母さんの脳を食べて自我を得た時から、ずっと変わらない揺るがぬ意志。

 絶対に曲げてはならない、自分へのルールだ。

 だからそれを、今度は高らかに宣言しよう。誰にも恥じないように。

 

「僕の誓いは、自爆ゾンビを、終わらせることだ!!」

 

 そう宣言した瞬間、僕はそれまで着けていたゴーグルを投げ捨てた。

 赤く濁った世界はなくなり、見えたのはオレンジ色に染まる夕陽。

 目から流れる血が地面に落ちる。

 世界を今一度見る。自分の目で、直接見るんだ。

 今まで自分が目を背け続けてきた現実を、受け入れるんだ。

 

「ああ、……やっぱり、僕は」

 

 その空の赤さに、夕陽を映す海に、潮の香りを運ぶ風に、それらがとてつもなく美しく感じた。

 だからこそ思う。

 これは守らなきゃいけない。ねじ曲げてはいけない。

 人の合理で、世界の道理を改竄してはいけない。

 

「僕は、もう一度、この『生』をやり直したい。この気持ちを、諦めたくない!!」

 

 そのまま永遠乘に背を向け、ムクロの元まで駆け出した。

 

「ま、待て鍔乍!?」

 

 永遠乘は僕の腕を握ろうとしたが、あと数センチほど届かず、彼女の手は何も掴めなかった。

 そのままムクロの隣に並び立つようにして、永遠乘と相対する。

 それは彼女にとって、耐え難い苦痛だったのか。その表情は苦悶に満ちていた。

 いや、それとも自分の計算が狂ったことに対する怒りだろうか。

 

「ボクを、捨てるのか? ……あの女が、どうなっても構わないと言うんだな!? 分からない、どうしてだ……どうして、どうして………どうしてええええええええええええ!!!!!!!!」

 

 永遠乘は発狂したように絶叫した。

 彼女にとって、僕という存在はそんなに大きかったのだろうか。理解はできない。

 そんな彼女は呻きながら、懐から出したリモコンのボタンを押した。

 

「無駄な足掻きを!!」

 

 それから少し遅れてムクロは彼女の体をまるで蜂の巣にするように銃を連発した。

 

「がっ…あぁ……」

 

 そのまま、頭、胸、腹、足と、穴を開けられた彼女は四肢を震わせながらも、貨物船の縁に倒れる体を支えた後、それでも尚、こちらを睨みつけてくる。

 

「まだだ……鍔乍は、ボクの……もの、だぁ!!」

 

 彼女の瞳の奥から漏れでる異様な執着心。それはどこまでもドス黒く、見ていて吐き気がする。

 ムクロが再度銃口を構えようとした、その時。

 そんな時だ。

 

 

「死 に た い」

 

 

 聞き慣れない声が聞こえた。

 それは僕の声でもなく、ましてやムクロの声でもなく、かと言って永遠乘の声でもない。

 

 しかし、彼女は口元を歪め、自分の起爆リングを見つめる。

 その表情は恐怖に怯え、信じられないものでも見たかのように震える。

 

「あああ……うそ、どうして……、ボクは、死なんて望んでなんか……」

 

 そのまま絶望するように、縁にしがみついた体は力がなくなり、重力に付き従うかのようにゆっくりと貨物船の外へと――海にへと堕ちていった。

 

 

《起爆します》

 

 

 そのアナウンスと同時に着水する水しぶきの音が聞こえた。

 

 カウントダウンなしの起爆を告げるアナウンス。……何が起きた?

 僕はムクロの方へ顔を向けるが、彼も事態が飲み込めないのか、首を横に振った。

 

「尊厳維持装置が、勝手に起爆した……。いや、誰かによって強制的に起爆させられた(・・・・・)?」

 

 僕は恐る恐る海を覗き込む。

 果たして災害級のウイルスを開発した彼女は、如何なる死を辿ったのか。

 尊厳維持装置による自爆が先か、それとも出血多量による死の方が先か。

 あるいは、着水と同時に海の生物に喰われたかもしれない。

 

 どれにせよ、きっと彼女には『安らぎ』などというものは訪れないだろう。

 そんなあっさりとした黒幕の最期に、僕は何故か、涙が溢れた。

 

 

 

 

 

 あの後、僕とムクロは慌てて倉庫室に戻った。飛鳳先輩の現状を把握するためだ。

 モニターに表示されているチャンネルは先ほどと変わりはない。

 だが、部屋の様相は明らかに変化していた。それを見て僕達は息を飲む。

 

「――っ!?」

 

 彼女の元に一体の自爆ゾンビが怪しい足取りで接近していた。

 永遠乘の言葉が正しいのなら、あの自爆ゾンビこそが飛鳳先輩の妹さんである、雀萌さんということになるが。

 

「……っ」

 

 一方のムクロは起爆リングに一度手を触れてから、グッと拳を握り締める。

 まるで、心の底で悲しみに暮れているようにも見える。

 互いに数秒の沈黙の後、ムクロが口を開いた。

 

「おい、自爆ゾンビ。まずは彼女の保護が最優先だ、ついて来い」

 

「はい!」

 

 猶予はない。雀萌さんの動きが鈍重とは言え、明らかに飛鳳先輩に狙いを定めて徘徊している以上、悠長にしている暇はない。

 ムクロの指示に従って一度倉庫室から出ると、上空から輸送ヘリがこちらに向かって下降してきた。

 

「あれは……」

 

「国合のヘリだ! 乗るぞ!」

 

 そのまま下降してきたヘリのドアが横にスライドして開き、僕とムクロはそこへ飛び乗った。

 すぐにドアを閉め、ムクロはこちらに問う。

 

「場所はモニターの映像を解析班に回して調べてもらっているが、それでは遅くて間に合わない。何か心当たりはないか?」

 

「心当たり……」

 

 この状況を作り出したのは永遠乘だ。

 ならば、場所の手がかりは必然的に彼女との会話の中にあるはず。

 彼女と交わした言葉を思い出せ。その中に、何か手がかりはなかったか?

 

 ……いや、あった。確か奴はこう言っていたはずだ。

 

 

――「そして偶然にも、私が所属していた金剛寺大学附属病院の検体室にその死体があったものでね」――

 

――「あそこには既にボクの特殊ラボがあってね」――

 

 

「金剛寺大学附属病院……、飛鳳先輩の妹さんの死体が、そこにあるって奴は言っていました。それに、特殊ラボがあるとも」

 

「金剛寺大学附属病院、か。よし、ここからなら、二十分足らずで着く。まだ間に合うはずだ!」

 

 

 今度こそ、間に合え。間に合ってくれ。

 もうこれ以上、誰かが傷つくのを、見たくないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 十八分後・金剛寺大学附属病院。

 

 目的地に着いた僕達は駆け込むようにして病院内に入って行った。

 

「あ、あの……本日はどういった用件で?」

 

 受付の女性が困惑していると、ムクロは腕章を見せる。

 

「俺は国合軍に所属する者だ。この病院には非人道的な実験を行っている疑いがある。少し調べさせてもらうぞ」

 

「そ、そんな!?」

 

 そう言って有無を言わさずにセキュリティーカードを奪取して地下区画へと続くエレベーターへと急ぐ。

 場所は検体室のある地下五階だ。

 受け付けで揉めたせいでもう一刻の猶予もない。

 

 エレベーターを待つこと数分、ドアが開くと同時に駆け込むようにして乗ってから地下五階のボタンを押した。

 ドアが締まって一瞬だけ揺れると、エレベーターはそのまま地下五階へ向けて動き出した。

 

 エレベーターの中は、僕とムクロの二人のみ。

 僕は、なんとなくムクロに尋ねた。

 

「……あの、どうして飛鳳先輩を助けるのを手伝ってくれるんですか?」

 

「……」

 

 しかし、彼は両腕を組んだまま、僕の問いに答えることはなく。

 

「……着いたぞ」

 

 エレベーターの扉が開き、目的の地下五階へと着いた。

 二人で手分けして特殊ラボを探す。

 通路を一度右に抜けてから、左に向かい、その先の奥まで行く。

 途中の部屋は資料室だったりと全て外れ、ならばあとはこの通路を突き進むしかない。

 そうして走ること数分後。

 通路の奥に行き着いた――が。

 

「部屋が、ない……」

 

 通路の奥には白い壁だけであり、何もなかった。

 この病院じゃ、なかったんだ。

 

「そんな……それじゃあ、もう飛鳳先輩は…… 」

 

「……」

 

 しかし、ムクロは項垂れている僕を他所に、壁をノックし始めた。

 ノック音をいくつか聞き、こちらへ振り返る。

 

「おい、自爆ゾンビ。邪魔だから下がっていろ」

 

「な、なにを……」

 

 僕が困惑していると、彼は黒いスーツを翻すと、内部に仕込んでいたトンファー型で金属製な武装を取り出した。

 いや、あの武装には見覚えがある。たしか、生前に大学の武器マニアの間で話題になっていた――アレだ。

 

「それはまさか、パイルバンカー!?」

 

「ああ、知り合いのモミ上げ野郎から拝借した」

 

 ムクロはパイルバンカーを構えると、その矛先を通路の壁に向ける。

 

「この奥はスカスカだ、隠しが甘い」

 

 腰を低くし、重心を下げ、安定性を高める。

 

《パイルバンカーの使用、了解。スーツを衝撃分散モードに移行します》

 

 機械仕掛けのスーツから聞こえてくる駆動音。そのままパイルバンカーの先の杭を――発射した。

 

 

「「――っ!!」」

 

 爆風と爆音。その衝撃が、この狭い通路の中で僕達二人に直接襲いかかる。

 身を守るようにしていると、やがて土煙が収まる。

 目の前に広がるのは、大きな穴。

 その穴から見えるのは、目前に自爆ゾンビである雀萌さんが迫った飛鳳先輩の姿。

 

「っ!!」

 

 認識した瞬間、すぐに体が動いた。当たり前だ。

 ムクロがパイルバンカーを構えている間、ずっと自分は息を吸って筋肉を弛緩させていたのだから。

 一秒たりとも動きを止めるな。

 今はただ、目の前の守りたい者を守るため、真っ直ぐ駆け抜けろ!!

 

 

「はあああああ!!!」

 

「――え。つ、鍔乍?!」

 

 そのまま彼女が拘束されている椅子ごと持ち上げて、雀萌さんから距離を取る。

 

「おぅ…えぇぇあ…おおぅああああ……おぅぉんぅぅ」

 

 首にギブスを巻き、赤い血の涙を流す雀萌さんはこちらに……いや、飛鳳先輩に手を伸ばしていた。

 その姿は、まるで母を求める幼い赤ん坊のようにも思えた。

 

「鍔乍、放すです! 雀萌ちゃんが、雀萌ちゃんががあたしを待ってるです!」

 

「それは、できません」

 

「どうしてです!? 雀萌ちゃんが戻ってくれば、ムーちゃんは昔のムーちゃんに戻るです! あたしが、あたしがゾンビになればよかったです!」

 

 僕は椅子に拘束されていた彼女の身を包む縄を解き、彼女の両肩を掴んで言う。

 

「死んだ人が生き返れば、全部元通りになると……本当に思っているんですか?」

 

「だ、だって……です」

 

「何一つ変わりませんよ。雀萌さんが戻ってきて、飛鳳先輩がいなくなった。ただ、それだけなんです」

 

「……」

 

 僕は彼女に呼びかける。彼女に僕を見てもらうように必死に言葉を紡ぐ。

 

「あの日、飛鳳先輩は僕のことを『希望』と言ってくれました。でも、違うんですよ。いつだって僕と社長さんを支えてくれたのは誰でもない貴女なんです! 貴女がいるから、今の日々があるんです!」

 

「そんな、あたしは……」

 

「飛鳳先輩、言ったじゃないですか。僕達三人でブラックアリウム社で働いてる瞬間が好きだって――それが幸せだって……」

 

 僕達だって同じだ。僕達にとっても、それはかけがえのない幸福な時間なんだ。

 

「お願いですから、そんなささやかな幸せを、希望(あなた)を、奪わないで下さい」

 

 そう、強く彼女を抱き締めた。

 彼女は肩を震わせ、小さく泣いていた。

 そんな彼女の頭を撫でながら、こちらへ近づく雀萌さんに向き直る。危ないので飛鳳先輩を自分の後ろに隠す。

 

 すると、ムクロがゆっくりと歩みを進めてきた。

 

「……おい、さっさと逃げろ。ここからは俺の任務だ」

 

「ですが……」

 

「いいから。その女に二度も妹が死ぬ場面を見せんじゃねえよ」

 

「……分かりました」

 

 確かに、また雀萌さんが死ぬ姿を見せるのは、飛鳳先輩にとってあまりにも酷だ。

 そう言って、僕は彼の横を通って地上を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――行ったか」

 

 

 自分の横を通って彼女を連れていく少年の背中を見届ける。

 全く、泣かせるようなことを言ってくれる。

 

「むぅ……うぅ……」

 

「……っ」

 

 手が震える。落ち着け。

 いつも通りやればいい。これまでだって、何度だって自爆ゾンビを回収してきただろうが。

 だがら、今回だって同じだ。

 

「雀萌……」

 

 苦しいよな。死んでるのに無理矢理起こされてよ。

 

 放っておいてほしいよな。

 

 分かってる、分かってるんだよ。俺。

 

 だからさ。もう、悪用されないように。

 

 俺の手で。

 

 お前の。

 

 

「死体を、回収する」

 

 そんな俺の言葉に反応するように、起爆リング内に埋め込まれたAIが応答してくれる。

 

《目標を確認。目標、わたし(・・・)の身体、です。速やかに回収して下さい》

 

「……ああ、行くぜ! スズメ!!」

 

 そのまま駆け出し、恋人の首に回し蹴りをお見舞いする。

 革靴の側面に収納された刃が展開。首に刃先が触れる。

 

「オラアアアアアアアアア!!!!」

 

 Crow(カラス)は吠える。涙を仮面で隠しながら、再度、自分の手でもう一度恋人に終わりを与えてやる。

 どう足掻いたって安らぎがないのなら、せめて自分の手で、一瞬で終わりに導きたいのだ。

 

 赤い涙を流す恋人の首が宙を舞う、五年前と変わらない感覚だった。

 

《目標の沈黙を確認。……ありがとう》

 

「……おう」

 

 壁に背中を預けてその場に座り込む。

 だがまあ、自分の因縁はまだ終わってない。さて、第二ラウンドと行こうか。

 

「……鍔乍」

 

 そう言って、視線を向けるとそこには憎たらしい自分の部下の姿。

 鍔乍の表情からも、どうやら流石にこちらの正体に気づいているらしい。

 

「……彼女はどうしたよ」

 

「一階の待合室で待機しています。……社長さん」

 

 

「……ああ。…………ご名答」

 

 

 そう言って、俺はカラスのマスクを外してその素顔を晒す。

 

 腕章序列第十六席。

 

 尊厳死者搬送医『ミミズ』所属 統率隊長。

 

 玄有夢羽。

 

 他の奴らからは『ムクロ』と呼ばれている。……まあ、その理由はほぼナインシュタインのせいなのだが。

 俺のフルネームにドイツ語の敬称をつけた結果、『Herr(ヘル).Muu() Krou(クロ)』と呼ぶので、主な仕事が死体回収なのも相まっていつの間にか『ムクロ』というのが定着していた。 

 

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 

「驚かないんだな」

 

「……ええ。先ほどの永遠乘の時の叱咤激励の際に、気が付きました」

 

「そうか」

 

 まあ、あれは確かにあからさまだったな。バレても仕方ないか。

 

「……責めないのか。俺は、お前が探していた桐谷と同じ腕章付きで、なんなら頻繁に桐谷にお前の情報を渡していたりした。“お前のことを嗅ぎ回っている奴がいるぞ”ってな」

 

「別に構いません。……僕の方が、先に社長さんを騙していましたから」

 

「先に、騙していた……ねぇ」

 

 そうだ。こいつは自爆ゾンビ。……ずっと、ずっと。

 二年前から人間のふりをして俺と飛鳳の側にいやがったんだ。

 ……そうだな。

 

 

「ああ、そうだ。俺はお前にブチ切れている。ずっと騙されてきたんだからなぁ!!」

 

「……」

 

「最初はよぉ、訳ありだと思ったんだ。五年前に自爆ゾンビになって死んだ奴の名前を騙ってると思ってな。……それも、俺がずっと探していた奴の名前を使っててさぁ」

 

「……え?」

 

 すると、鍔乍は目を見開いて驚いていた。

 ……そうか、驚くか。

 記憶なんてございませんってか?

 

「鍔乍。俺がこんなコスプレ紛いの格好をして死体回収をやってた理由を教えてやろうか?」

 

 そう言って、指でピースサインを作る。

 

「一つは、何者かに持ち出された雀萌の死体を回収するため。もう一つはなぁ!!」

 

 ピースサインを崩し、強く拳を握り締める。

 

「雀萌を襲った自爆ゾンビである上地鍔乍の行方を掴むためさ!!」

 

「っ?!」

 

 鍔乍は後退り、言葉に詰まっている様子だった。

 ああ、そうだ。そうだろうよ。

 お前が自分の意思で雀萌を襲ったわけじゃないことぐらい、分かっているさ。

 お前がそんな畜生なら、既に永遠乘命と共にアメリカにトンズラこいてただろうよ。

 ……だけどな。

 

「頭では分かってても、お前に非がないことぐらい分かってても……どうしようもなく、お前を殺したくて堪らねえんだよぉぉぉぉぉ!!!!!」

 

 そう言って、俺は爪先で軽く飛んで鍔乍との距離を詰め、思いっきり殴り飛ばした。

 

「ぐっ!?」

 

 咄嗟に受け身を取って難なくノーダメージか。流石、武術の心得とやらがある人間は一味違うわけだ。

 

「鍔乍、今から俺は気が済むまでお前を本気で殺しにかかる。……だから、お前も俺を殺す勢いで受けやがれ!!」

 

「でも、それは……」

 

「二年前にも言ったよなぁ! お前はただ、受け入れればいいんだよぉ!!」

 

「ぐっ―――」

 

 そう言って、まずは右ストレート。さらに一撃を加えては向こうの迎撃を回避するために一度離れ、再度攻撃するヒットアンドアウェイ戦法で行く。向こうの戦闘準備が整う前に一気に刈り取らせてもらう。

 

「スズメ! 戦闘補助システムを起動しろ!」

 

《目標を確認。戦闘補助システム、正常。作戦目的、目標の沈黙を、実行します。……本当にいいの?》

 

「余計なこと聞いてんじゃねえ!!」

 

 革靴の刃を展開し、決め手となる回し蹴りをこいつの首目掛けて放つ。

 

「――――破ッッ!!」

 

 だが首を刈る直前、肘打ちで革靴のナイフを破壊された。……おいおい、どんだけ硬いんだよ。

 

「スゥ―――」

 

 息を吸い、呼吸を整え、何やら独特の構えを取る。

 

《映像解析、完了。データベース、参照完了。目標の構えは三戦(サンチン)の型であると判明。……サンチンって何?》

 

「俺が知るか」

 

 だが、動かないなら好都合。

 

 スーツを翻し、先ほど使用したパイルバンカーを取り出して構える。

 

《武装パイルバンカー、使用可能残弾数、一。目標に向けて照準補正、完了。……ふぇぇ、ちょっと夢羽、これは流石にやりすぎだって》

 

「俺は言ったはずだぜ。殺す気で行くってな!」

 

《ぅぅ……》

 

 そのまま足先を二度ほど蹴り、軽く滞空するようにジャンプ。パイルバンカーの先を奴の頭に目掛けて打ち込む。

 ガコンという金属音、炸裂する爆音と火薬の臭い。

 およそ、スーツに染み付いた防腐剤の臭いは既に上書きされたと言っても過言ではないだろう。

 

 土煙が晴れ、その奥に佇む人影に思わず笑い声を出しちまう。

 

「おいおい、パイルバンカーを打ち込んだんだぜ……無傷とか化け物かよ」

 

「……ええ。僕、ゾンビですから」

 

 頭に打ち込まれたパイルバンカー、しかし奴は寸でのところを右手で受け止め、吸っていた息を一気に吐いて筋肉を緊張させることで、パイルバンカーの衝撃に耐えうるだけの硬さを得た。

 やべえ、文章にまとめるとマジ意味分かんねえわ。つーか、攻撃を喰らうまで動かないとか正気の沙汰じゃねえわマジで。

 

「どうしたよ、鍔乍。お前ももっと殺しにこいよ。俺ばっかりじゃフェアじゃないだろ」

 

「……貴方は僕にこう言いました。ただ、受け入れるだけでいいと」

 

「ほう、じゃあ俺の怒りを、全部受け入れるってことか? 舐めてんじゃねえぞ。俺はな、お前のそういう所が――気に入らないんだよっ!!」

 

 そう言って俺はパイルバンカーを投げ捨て、目の前の自爆ゾンビに掴みかかる。

 

「オラァァァァッッッ!!!」

 

 そのまま押し倒し、マウントを取って奴の顔面を固く握り締めた二つの拳で交互に殴っていく。

 

「お前の! せいで! みんな! 死んだんだ!」

 

「……っ」

 

 殴ってるのに、こいつは抵抗しない。

 痛ましい表情だけ浮かべてなされるがままだ。

 

「お前が! お前が、みんな、殺したんだ!!」

 

「……」

 

 なあ、なんで何も言わねえんだよ。

 

「お前がいたから! お前がいたせいで! お前が、雀萌を喰わなければぁぁぁ!!!」

 

「……」

 

 なんか言え。なんか言えって。

 

 殴る、殴る、殴る。

 二つの拳からどれだけ血を流そうとも、心から溢れ出る溶岩のような怒りが、俺の体を突き動かす。

 目の前の自爆ゾンビを決して許すなと、潰せと、殺せと、壊せと。

 ひたすらに俺に言い募る。

 

 それなのに。

 

「なんでだ……」

 

 

 なんで、こいつは、抵抗しないんだ……。

 

 自分は永遠乘命に利用されただけだと、雀萌を殺したのは他でもない俺だと、どうして、反論しない。

 俺がやっているこの行為が、ただの八つ当たりに過ぎないと。

 なんで、言ってくれないんだ。

 

 鍔乍は、俺の問いかけに答える。

 

「何も、間違ってないからです。……社長さんは言いました、僕は楽な道に逃げているだけだって。……その通りです」

 

 奴はそこまで言ってから一度言葉を切り、「だから」と口を開く。

 

「もう、逃げません。……いや、逃げたくない。置いていったものを清算するために、逃げずに、受け入れます。社長さんが僕に向ける怒りを、全て受け入れます」

 

「は……はは……」

 

 なんだよ、それ。

 意味分かんねえ……。

 

 そんなの、ずるいじゃねえか。

 

「そんな風に言われたら、もうよ……過去に囚われっぱなしの俺自身が、惨めなだけだろうが……」

 

 俺はすがりつくように、鍔乍に言う。叫びながら懇願する。

 

「なあ、殺せよ……お前も俺を殺せよ! そうしたら俺も、お前を殺してやるからよぉ!!」

 

 だが、こいつは悲しそうに首を横に振る。

 

「それでも、僕は貴方を殺せません。貴方に殺されるわけにもいきません。……そんなことをしたら、飛鳳先輩の幸せを奪うことになりますから」

 

「飛鳳の……幸せ……?」

 

 どうして、こいつが、そんなものを知っている?

 

「今朝、彼女が言っていたんです。三人であの会社で働いている時間が、何よりも幸せなんだと。……だから僕は、貴方と一緒に、絶対に飛鳳先輩と三人揃ってブラックアリウム社に帰ってみせます」

 

「……はは」

 

 そうかよ。飛鳳が、そんなことをな。

 あいつもあいつだ。あいつが一番怒る権利があるって言うのに、なんで――。

 

「くそ……」

 

《お姉ちゃん……》

 

 すっかり俺は戦う気が失せて、鍔乍から離れてから座り込んでしまった。

 鍔乍の野郎がこちらへ掛けてくる。

 その後、俺の起爆リングを見つめる。

 

「やっぱり、その起爆リングのAIは……」

 

「……ああ、スズメだ」

 

 別に隠す必要なんてないからこいつには話しておくか。

 

「五年前、俺は俺自身の手で雀萌の頭を吹っ飛ばした。首はその際に回収したんだがな、首から下の体はミミズじゃない何者かに回収されていた」

 

 すぐに、今回の件には何か政府を巻き込んだような大きな裏があると感じ取った俺は、きっといずれ雀萌の首も回収されるだろうと見越した。 

 

「そこで俺は、知り合いに頼んで回収していた雀萌の首から、脳を取り出して雀萌の人格をデータ化し、この起爆リングの中に隠しておいたってわけさ」

 

 その後の首の所在に関しては、火葬する直前に誰かに回収されてしまったわけだ。

 

「そんなわけで、俺は消えた雀萌の死体を見つけ出すため、死体回収を生業とするミミズに所属し、気付けば腕章付きなんてものになっていた」

 

 俺は起動リング――いや、スズメに話しかける。

 

「ほら、お前も挨拶しとけ。俺と飛鳳の部下だぞ」

 

《こんにちは、上地鍔乍くん。今はこんなだけど、飛鳳お姉ちゃんの妹の雀萌です。よろしくお願いしますね》

 

「あ、はい。こちらこそ、上地鍔乍です」

 

 そこで互いに顔を見合わせて、何とも言えない表情を浮かべる。

 先に口を開いたのは鍔乍だ。

 

「帰りますか、社長」

 

「……だな。折角だ、今日は久しぶりに焼き肉でも行くか」

 

《焼き肉、了解。特上カルビを要求します》

 

「いやお前食えねえだろ?!」

 

 そう言って三人の間で笑いが起きた瞬間だった。

 

――パチ、パチ、パチ

 

 何者かの拍手。だが、この地味に間を空けるねちっこい叩き方は一人しかいないだろう。

 

 

 

 

 

 

―――――   ―――――   ―――――

 

 

 

 

「桐谷、革恭」

 

 僕は、目の前の男を見て眉間に皺を寄せる。

 黒いスーツに、胸には青いドライフラワー、生気を感じられない表情。

 彼は僕達を称賛するように言い放つ。

 

「いや、実に観察し甲斐のあるいい見世物だった。見ていて飽きなかったよ」

 

「そりゃどうも」

 

 社長さんは睨みながら桐谷に応対する。……なんとなくだが、この二人はそりが合わなさそうだ。

 しかし、あれほど称賛していた自分の言葉を否定するかのように、桐谷は首を横に振った。

 

「だがやはり、駄目だ。これではあまりに彼が報われないだろう。……だからこそ、夢羽。お前の手で彼を回収し、終わらせてやれ」

 

「嫌だね。こいつは俺の部下だ。どうしてもって言うなら、てめえの手でどうにかするんだな」

 

「それはできない。……鍔乍、君なら分かるね?」

 

 突然、こちらに向けられる視線。なぜ桐谷が僕を終わらせられないのか。

 答えは決まっている。

 

「貴方にとって……いや、医者にとって、殺人とは許してはならない悪だから」

 

「その通りだ。故に、俺は人を自殺に導きはするが、殺すことは絶対にしない」

 

「……なるほど、それが貴方の考え方か」

 

 この男の歪んだ思考。なんとなくだが、読めた気がした。

 その上で、やはり僕とこの男は決して相容れないだろう。

 

「ならば貴方に問いたい。人は生きるべきか、それとも死ぬべきかを」

 

「……。答えるまでもない。人はどうあれ、必ず死ぬ。ならば、その死を少しでも負担を与えずに安らかなものとする。それが尊厳だ」

 

「人は必ず死ぬ……なら、やっぱり『死ぬ権利』なんてものは間違ってる」

 

 この男が抱える理想。そして尊厳維持装置の役割。

 

「人は必ず死ぬ、つまり人にとっての死とは避けようのない事象であり、それは『権利』ではなく、『義務』のはずだ。……だからこそ僕は、『死』ではなく、『生』にこそ『権利』があると信じる!」

 

 人は『死んでもいい』し、『死ななくてもいい』。

 この表現は間違っている。

 僕達にとっての正しさ、あるべき形は別にある。

 

「僕達には権利がある。だからこそ、人は『生きなくてもいい』し、『生きてもいい』んだ!!」

 

 僕は、それを信じる。

 

 母は僕に言った。どんな形でもいいから生きてと。

 

 飛鳳先輩は言った。こんな僕でも信じると。

 

 なら、僕はこの『人を死なせようとする世界』から、大切な人達を守ってみせる。

 僕はどこまで言っても自爆ゾンビだ、生きているように死んでいる。

 でも、それでも僕は、もう一度生きたい。

 人として、上地鍔乍として。

 もう一度、生きることを“やり直したい”んだ。

 

「貴方は尊厳維持装置が人々に安らぎを与えると言ったな……?」

 

「ああ、確かに言った」

 

「根拠はどこだよ」

 

「なに……?」

 

 ずっと、ずっとこの男に言いたかったことがある。

 たぶん、これを言えるのは世界中を探しても僕ぐらいしかいないだろうから。

 大きく息を吸ってから、声を限界まで張り上げる。

 

 

「死んだことない奴が、いっちょまえに死を語ってるんじゃねえ!!」

 

 

「……」

 

 桐谷は呆然としながら、僕を見つめ、隣に佇む社長さんは「ブッ!」と吹き出して肩を激しく上下させていた。

 

「くくく。桐谷、これは一本取られたな」

 

 社長さんは茶化すように言うが、桐谷はあくまで冷静に僕という存在を見据える。

 いや、僕という個人を初めて認識したと捉えるべきか。

 

「なるほど。……改めて君という存在の危うさを再認識したよ」

 

「僕が危うい存在? いいや、違うね」

 

 遥か高みの見物で物語を見ているお前を、舞台に引きずり降ろすのは僕じゃない。

 

「僕は既に死んだ身だ。これ以上、生者の物語に介入するつもりはない。――だから」

 

 お前を打倒するのは、僕じゃない誰かだ。

 

 

 それはもしかしたら、罪を抱えた兎かもしれない。

 

 それはもしかしたら、愛を知らぬ少女かもしれない。

 

 それはもしかしたら、時を刻む道化かもしれない。

 

 それはもしかしたら、言葉を喰らう獣かもしれない。

 

 

 いずれにせよ、言えることはただ一つ。

 

 

「今度は、貴方が観察される番だ。僕達という存在が、貴方と彼らの戦いを見届ける! それを、覚えておくんだな!」

 

「……」

 

 心底不快というその表情。

 いつもの澄まし顔な彼には似つかわしくない表情。

 それが見えただけでも御ノ字と言える。

 

 僕達に革命は起こせない。

 だからこそ、僕達は歩き続ける。

 たとえこの先、僕達の繋がりが生と死によって別たれようとも。

 何度だって僕達は、この『生命(ものがたり)』に立ち向かう。

 

 僕達は『死』を尊いと(うそぶ)く者達を、一人残らず嘲笑ってみせる。

 それがせめてもの、この世界への、僕達なりの反逆なのだから。



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後日談あるいは布石というべき何か

【2019/9/18(水)】
 一部加筆修正しました。


 数日後。

 

 場所は国会議事堂。その前で尊厳維持装置の反対派と賛成派が互いにデモを行っていた。

 話題に挙がるのは、パワードスーツを着たテロリストである白兎と、恐らく彼の関係者である少女。

 どういう経緯でこのような展開になったかは、各個人が自らの目で彼らの物語を拝見してほしい。

 とにかく、今は一触即発といったピリピリした空気であり、それを取材しにきた僕達も、あまりいい気分ではなかった。

 そして何よりも、空気が張り詰めている理由はもう一つあるだろう。

 

「今から我々は、一時間後に自爆をする。一人残らず、ここにいる五千人全員でだ」

 

 賛成派の者がそんなことを言い始めたのだ。

 勿論、そのことに僕達メディアの人間だけでなく、反対派の者達までざわついた。

 

「ただし条件をつける! 我々の自爆を止める唯一の条件だ。その条件はただ一つ! 白兎がここ、国会議事堂前に来る事だ! そうすれば我々は全員自爆を取り止めよう」

 

 なるほど、これは些か白兎にとっては厳しい選択だ。

 

「この一時間の間に白兎が来れるかどうか、見届けようじゃないか! 来なければ白兎は大量の自爆者を見捨てた事になる!」

 

 それは、つまり――

 

「それはつまり白兎という蒙昧な存在の敗北を意味する。ここにいる我々五千人は! 自らの尊厳を以てして白兎という虚像を打ち破るのだ!」

 

 なんともまあ、白熱していることだ。

 個人的には、それだけのエネルギーを他のことに使えばいいのにと内心呆れるが。

 僕はふと、人混みを見渡す。

 装着したゴーグルによって世界は赤黒い。それでも、奴だけは必ず認識できる自信がある。

 

 ほら、やっぱり。

 案の定、見知った顔があった。

 黒いスーツに胸元の青いドライフラワー。

 そう、奴は笑っている。

 

 なるほど、この状況を作り出し、賛成派を焚き付けたのはあの男か。

 相変わらず、悪趣味な“観察”とやらに耽っているのだろう。

 

「俺が呼ばれたのは、こういう理由か」

 

 僕達の隣には社長さんがムクロの格好で立っている。

 目に見えるのは彼だけだが、恐らく見えない所で彼の部下であるミミズが待機しているのだろう。

 万が一に備え、五千人の自爆死体を回収するために。

 ただ、心配なのはそれだけじゃない。

 

「こんな場所で五千人も自爆したら……」

 

「ああ、場合によってゾンビ化で地獄絵図だろうな」

 

 僕と社長さんがそう話していると、飛鳳先輩が「大丈夫です!」とガッツポーズで答える。

 

「白兎はヒーローなんです! だから、絶対に皆を見捨てないです!」

 

《そうですよ、お姉ちゃんの言うとおりです!》

 

「《ねー!》」

 

 灰咲姉妹がそんな僕らの不安を払拭するように笑顔を浮かべる。

 ……いや、雀萌さんに関しては音声しか聞こえてこないので笑顔がどうか分からないが、きっと声的に笑顔だろう。

 

 だが、辺りを見渡してもそうそうたる面々だ。

 進駐軍、自衛軍、警察隊、さらにはオートマトンと。暴徒鎮圧という名目で一挙に揃っており隙はない。

 この状況で単身乗り込むのは派手な自殺行為と言っても過言ではないだろう。

 

 現実は、フィクションのように決して甘くない。

 どう転んだところで、白兎に待ち受けるのは死だ。

 肉体としての死か、偶像としての死か、それとも……少女の悲劇によって既に命を絶ったか。

 

 どちらにせよ、一時間後になれば分かる。

 この場所で五千人が救われるのか、自爆するのか、ゾンビと化すのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「聞いてください」

 

 

 果たしてどうだ。時間は一時間が経過した時、白兎は現れた。

 灰咲姉妹は「《ほら言った通り!》」とはしゃぎ、社長さんはボソッと「マジかよ……」と呟いていた。

 

 一方、僕はただただ。

 

 彼を、羨ましく思った。

 

 二年前、彼がすみれちゃんを救った時だってそうだ。僕はずっと彼に憧れている。

 人々の『希望』である存在に、どうしようもなく熱望してしまう。

 それは別にパワードスーツが問題なのではない。あの外骨格の中に潜むただ一人の人間の、その心の在り方に対して、僕は尊敬の念を抱く。

 こんな場所に来るなんて普通じゃない。明らかに無謀だ。

 それなのに、彼は駆け付けた。

 己が駆け付けることで五千人の命を救ってみせた。

 

 彼は語る。

 

「俺がここに来た理由は、反対派の為ではありません。ここで尊厳維持装置は必要だと叫ぶ人達の為です」

 

 彼の人となりが一発で分かる言葉だろう。

 彼は決して、己の支持者のために駆け付けたわけじゃない、捨てられようとしている命を拾い上げるために、ここへ来たんだ。

 

「俺は、“爆弾は必要だと叫びながらも、今も生き続けちまっているあんたらを、爆弾なんかで死んでほしくない”と、心から、自分勝手に思うのです」

 

 ああ、これは凄く身勝手だ。

 だがどうだろう、僕からすればとても体に染み渡る言葉だ。

 この言葉は、きっと彼だからこそ言えること。彼でなければきっと、意味をなさない言葉だ。

 彼の言葉にここにいる全ての人々が様々な反応を見せる。

 ふざけるなと激昂する人もいれば、生きていて何になると泣き出す人もいる。

 

 だけど、彼はきっと、『人が死ぬこと』を悲しいと、それだけで泣けてしまえる人間なんだ。

 それはきっと、死ぬことを尊いと(うそぶ)く者達よりも、何倍も強い。

 僕には、彼の方が正しく見える。

 彼の生き方は、まさしくアリウムの花言葉のままだと思うから。

 

 『正しい主張』の影には、『深い悲しみ』があると思うから。

 

 そうして、僕は本当の意味で理解できた。

 僕の身に襲うこの不快感。

 決して拭いとれないもの。

 その正体が、何なのか。

 

 そんなの当たり前じゃないか。

 気味が悪いと、思ってしまうさ。

 

「生者にとって、死が耐え難いほどの苦痛であるように……死者にとっても、生は耐え難いほどに、気味が悪いんだ」

 

 そう呟いた僕の手を、飛鳳先輩は強く握り締めた。

 

「今も気味が悪いですか?」

 

「……いえ。以前ほどは」

 

 だから、少しずつ慣れていこう。

 ここに産まれた人達は、皆等しく死と隣り合わせの状態で生きている。

 でも、恐怖だけを抱えて生きているわけじゃない。

 皆、死ぬことが恐くても、心のどこかではそれを受け入れているんだ。

 だから僕も、少しずつ受け入れていこう。

 

 この世界で、皆と、向き合って生きていこう。

 

 

――「生 き て」――

 

 

 

 母さん、命をくれて、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

―――――   ―――――   ―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太平洋上。

 

 

 重傷を負って海にその身を落とし、力なく浮かぶ女の屍。

 

 奇妙なことに、女の体は綺麗に無事だった。それはまるでただただ眠っているかのように。

 そう、その傷口は綺麗に修復されていた。まるで傷など最初からなかったかのように。

 

 

 ふと、上空を、星条旗のマークが付いた輸送ヘリが通過した。

 

 

 その瞬間、女の目は開いた。

 輸送ヘリが通過するのを、ずっと待っていたかのように。

 

 血の涙を流しながら、その表情は恍惚としている。

 自分の中で行われたいくつもの問答。それを乗り越え、曖昧な思考は研ぎ澄まされ、女は自分の確固たる自我を取り戻した。

 後悔もした、懺悔もした、嘆きもした。

 いずれも自分がここまで行き着く過程において、生前に切り捨ててきたもの。

 再生力によって、再び自分の中で甦ったもの。

 しかし、女は自我を修復する上でそれらを再度捨てた。

 捨てて捨てて、ようやく、自我を取り戻した。

 

 女の心は、歓喜に震えていた。

 

 ついに、自分は、死を克服した、と。

 

 それでいて、憎しみがあった。

 

 自分を捨てたことを、後悔させてやる、と。

 

 無垢なるぼくは、黒く染まったボクとなり、新たな存在として生まれ変わった。

 

 

 その日、命の残骸だったものは。

 

 

 世界がくれた安らぎを。

 

 

 侮蔑するように嘲笑った。

 

 

 

 

 

「さよなら、ヤスラギ」

 

 

 

「おはよう、シスラギ」

 

 



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あとがき

 皆様、こんにちは。あんころもちDXと申します。

 

 今回は『Next Village』様が手掛けましたPCゲーム『CisLugI-シスラギ-』の二次創作を執筆させていただきました。

 本作を書き上げてから投稿する上で『Next Village』様の関係者様から二次創作フリーなので投稿OKという許可をいただいたので投稿致しました。

 

 この作品は人の『生』と『死』を『尊厳維持装置』という共通の舞台装置を使用していながら、全く異なるテイストである四篇の群像劇からなる内容で、それぞれに異なる主人公が一人ずつ存在し、最後は四つの物語が一つの結末へと集束していきます。

 とても面白いので、皆さまも是非、興味を持たれましたら購入してプレイしてみてください。

 また、Y○uTubeなどの動画サイトに『視る体験版』と称した三十九分にも及ぶグランドPVがあるので、そちらをご覧になるのも大いにありです。特に、ラスト十分の衝撃の展開は個人的に鳥肌モノでした……っ!

 

 僕自身、こういうディストピアな世界観はとても好きでして、凄くハマったのでこのように二次創作として思いきって投稿した次第です。

 本作を書く上で心がけたのは、本作の裏ストーリーにしようと思ったのと、僕自身がゾンビモノが好きなので自爆ゾンビなる新要素を出してみました。

 はい、ですので、もしかすると未プレイの読者の方の中には勘違いしている方がいるかもしれませんが、原作にゾンビ要素は一つたりとも出てきませんので。ご安心下さい。

 個人的には『生』と『死』を取り扱った作品でゾンビを安易に出すのはどうかと思ったのですが、敢えてこの要素がどれだけシスラギの世界観にマッチするかちょっと試してみたくなりましたので書いたのですが、どうでしょうか。

 やっぱり合いませんかね(汗)

 また、回収できてない伏線や、ラストの続編を匂わすのはゾンビ映画あるあるということで、ここは一つご容赦を。

 実際自分でもこのままだと収集が着かなくなると思ったので、いくつかの伏線は切り捨てることにしました。

 

 さて、語りたいことは大体語ったので、今回はこれぐらいにしておきましょうか。

 

 あ、最後にもう一度だけ。

 シスラギというゲームはとても面白いので、本当に是非一度購入してプレイしてみて下さい。

 特に白兎が主人公の話は胸熱で悲しくてやっぱり燃える、そんな熱くキューティカルなストーリーですので。 

 

 それでは、皆様にもシスヤスラギがあらんことを。

 さよなら!

 

※2021年2月4日 追記:タイトルを変更しました。



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