ロアナプラにてドレスコードを決めましょう (華原)
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序章【原作前】
1 洋裁屋の日常


BLACK LAGOONの張さんに惚れました。
けど二次創作が少ない。

ということで自分の妄想をぶつけてみようと思い切っての投稿です。

よろしくお願いします。


──ロアナプラ。

 

 

行く場所を失った者が行き着く最後の場所。

 

 

そんな地の果てともいえるこの街で、最悪で最高な人たちに出会うなんて誰が思うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

 

 午前六時。私は決まってこの時間に起きる。

 この街では比較的健康的な生活を送っている人間だと自負している。

 

 というより、この時間に起きなければ仕事が捗らないからなのだが。

 

 毎日同じ時間に起床し、同じ時間に朝食を終え、同じ時間に仕事にかかる。

 それが私の日課なのだ。

 

 良い焦げめのついたトーストと一杯のココア。

 これがなければ一日の始まりとは言えない。

 

 ……一度コーヒーを試しに飲んでみたが、やはり食事は好きなものを摂るに限る。

 

 朝食を終えたら作業着である黒いTシャツと紺のイージーパンツに着替え、仕事を始める。

 最初にこの職の命とも言える裁ち鋏が錆びていないか、念入りなチェックを忘れてはいけない。

 

 

 

 私は地の果てのロアナプラでひっそりと暮らし、死ぬまでこの街のBGMである銃声を生で聞かないことを祈っている者である。

 

 所謂、普通の人間だ。

 

 「さて」

 

 今日はどの布に鋏をいれようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「よし……今日はここまで」

 

 午後六時。もうそろそろ夜に差し掛かる頃合いなので作業を終えた。

 

 今日も遠くで銃声が聞こえる。毎日飽きないものだ。

 

 溜っていた洗濯物を片付けようと、洗濯機を回す。

 そのままシャワーを浴びてから夕食を摂る。

 

 ……それにしても、毎日銃声が鳴り響くのは少々ストレスがたまる。

 自分で選んだ住処なので強く文句は言えないが、いくらなんでも酷いのではないか。

 

 心の中でぼやきつつ寝巻に着替え、冷蔵庫の中にある缶ビールを一気に飲み干す。

 冷えたビールはどうしてこうも美味なのか。永遠の謎である。

 

 

 ──思えば、私がこの街にきて一年が経った。

 

 

 何故こんな最悪の街に流れ着いて普通の人間が今まで生きてこれたのは不思議だが、「今生きていればなんでもいい」と思えるようになったのは、この街に少しだけ慣れてきた何よりの証拠なのだろう。

 

 我ながら運がいいのか悪いのか分からなくなる。

 住み始めたころは毎日怯えていたが、今は悠々自適に暮らしている。

 

 殺し屋、マフィア、ヤク中、孤児が多く蔓延るこの街で、今のような何も変わらない日々をこれからも送れることを祈ろう。

 

 

 

 

 

 ──午前六時。

 今日も焦げ目のついたトーストとココアを食し、黒いTシャツと紺のイージーパンツに着替える。

 そして、裁ちばさみの念入りなチェックを行う。

 

 今日も素晴らしい一日になりそうだ。



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2 客人

書いているうちに「このキャラってこんな喋り方だっけ?」ってなります。


 午後一時。

 いつもなら昼ご飯のサンドウィッチを食している時間。

 

 

 

 

 ──なのだが、この街に来てから一度も来たことがない客人が来ているのでそういう訳にもいかなくなった。

 

 そして、その()()がどうも怪しいのである。

 

「いや驚いた、こんなところに洋裁屋がいるとは。全く気づかなかった」

 

「……」

 

「看板でも出した方がいいと思うぞ」

 

「……出す予定はないですね」

 

「なぜ?」

 

「……まだ修行中の身ですから」

 

「ほう」

 

 この作業テーブルを挟んだ私の向かい側にいる客人。

 サングラスをかけ、この暑いのに黒スーツとロングコート。

 白いストールを首にかけている中国系の男性が根掘り葉掘りと聞いてくる。

 

 ……そう、私はこの街に来てから商売はしていない。

 ここで洋裁を『仕事』と称しているのは、私にとって洋裁は趣味ではなく「義務」であったころからの名残だ。

 

 

 以前は洋裁師として稼いでいたのだが、ここではどうにも看板を掲げる気にはならなかった。

 だが、服を作ることもやめることができなかった。

 

 増えていく服を収める場所がないため、完成した服は売らずいつも写真に撮ってから燃やしている。

 

 ──だがある時、一人の孤児が私の作った服を見て「欲しい」と言ってきた。

 断ったのだが、どうしてもと何日もしつこく強請られた。こちらも負けじと断り続けたのだが、なんとその孤児はどこからか金を盗み、私のもとへやって来た。

 その子が「これで足りるかな」と満面の笑みで言ってきたので、思わず「その金を盗んだ場所に戻したらこの服をあげよう」と言ってしまった。

 

 盗んだ場所に戻すなんて、自殺行為に等しい。

 そんなことは子供でも分かっているというのに、提案した自分に嫌気が差した。

 この街が子供に優しいなどと、どこかで思っていたのかもしれない。

 

 後日、その子は傷だらけの体でやってきて、「戻してきた」と告げてきた。

 

 傷を負っている姿に、とても嘘とは思えなかった。

 約束してしまった以上、その子が金を戻してしまえば服を渡さなければいけない。

 例え相手が子供であろうとも約束は約束。

 

 

 

 ──そして、私はロアナプラで初めて人に服を渡した。

 

 

 

 恐らくその子が「タダで服をくれる店がある」などと言ったのだろう。

 数日は家の周りに人がいたが、看板を掲げているわけではないのでしばらくは服を作らず、家から出ずに過ごしていれば自然と人の気配がなくなった。

 ……落ち着いたと思った時に客人だなんて何の冗談かと思う。

 

「少し前に、ちょっとした噂話が広まってね」

 

「はあ……」

 

()()()()()()()()()()()()()。こんなくそったれな街でなぜそんなことをするのか。実に興味がわく話だよな」

 

「……たかが、噂でしょう」

 

「ところが、だ。そのタダでもらった服がどうにもおかしい。この街じゃめったに見れない代物だ。()()()()()()()()()()()。あれはどう考えてもそこらにいる普通の洋裁屋じゃ作れない。──そんな一級品をタダでやる。ロアナプラでのその行動には何か目的があるとしか思えない。そうだろう? お嬢さん」

 

 なんなんだこの男は。

 明らかにスーツ着てればかっこよく見えるだろうとか思ってそうなのに服についてべらべらと。

 ……とてつもない偏見だったな。

 

 とにかく、この男にあの服を作ったのが私だとばれないようにしなくてはならない。

 この男は、なにか「ヤバイ気」がしてならない。



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3 客人Ⅱ

張さんに「お嬢さん」と呼ばれたい←



「……先程も申し上げた通り、私は修行中の身なのでそこまで評価されている服を仕立てることはできません。それに、子供の言っていることですし気にする必要はないのでは?」

 

「成程、なんとも謙虚なお嬢さんだ。だが」

 

 言い終わる前に、男が私の額に何か当てていることを間をおいて理解した。

 

 

 

 

 ──額には、鉄の感触。

 

 

 そして、男の手には拳銃が握られていた。

 毎日どこかで鳴り響いている音の元凶が向けられている事実に冷や汗をかく。

 

 

「噂の出どころは俺もよく知らなかったんだが……そうか、“子供”からだったのか。今知ったよ」

 

 ……しまった。

 この男は一言も「子供」なんて言葉発していない。

 迂闊だった。気を許した覚えも油断した覚えもない。だが「服を作ったのは私ではない」ということを認識させようと()()()()()()

 

 駆け引きはあまり得意ではない。

 やはり、苦手なものを無理にすることは失敗に繋がりやすいのだと身をもって再認識する。

 

「さてお嬢さん、ここからが本題だ。なぜ孤児にタダであの服を渡した」

 

 初めて向けられる銃口のせいか声が出ない。

 だけど黙っていても殺される。

 

 

 

 なら──

 

「……約束したから、ですよ」

 

「約束?」

 

「盗んだ金を……元の場所に、戻したら服をあげると」

 

 黙って殺されるなら、せめて真実を伝えよう。

 嘘に嘘を重ねてしまえば後には引き返せない。

 嘘をつかなければ、なんとかなるかもしれないから。

 

「約束は、守らなければなりませんから」

 

男の眼が、サングラスの奥で少し揺らいだような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──午後一時半。

 あれから状況は全く変わっていない。

 

 私は真実を言った。

『子供と約束したからタダで服をあげた』、それ以外の理由はない。

 

 なのに、銃口を向けている男はただ黙ってこちらを見ている。

 

「……」

 

「……」

 

 金も権利も何もいらない。ただ平和に過ごしたい。

 この気持ちは、ここの住人には理解されないだろう。

 

 だからこそ目の前の男は私を見定めている、のかもしれない。

 

 この男が何故銃口を向けたまま黙っているのか真意は掴めない。私にできることは、逃げないことだけ。

 

「お嬢さん」

 

 相手の出方を伺っていると、やっと男が口を開いた。

 

「はい」

 

「それ以外に理由はないんだな?」

 

「はい」

 

「──分かった、今は君の言うことを信じよう」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 男は、私が口先だけのお礼を告げると同時に銃をしまう。

 

「約束は守らなければならない、か。商売でもないのに、よく言えるものだ」

 

「それしか、取り柄がないものですから」

 

 自分でもこの街では生きづらい考え方をしてしまっていると分かっている。

 けど、「約束は守らなければならないもの」なのだから、そこは仕方がないと諦めるしかない。

 

 約束を守らない奴に碌な人間はいない。

 

「最後に一つだけ聞かせてもらおう」

 

「なん、でしょうか」

 

 まだ声がうまく出せない。

 だけど、極度の緊張を保つには丁度いい。

 

 今頭は冷静だ。

 聞かれたことだけ言えばきっとこの場を切り抜けられる。

 

「あの一級品を仕立てたのは?」

 

「……あの赤と黒のカクテルドレスは私が仕立てたものです」

 

「そうか」

 

 

 最後に一つ、とこの男は言っていた。

 これで終わる。切り抜けられる。

 

 

「その腕ならぜひ看板を掲げてほしいものだ」

 

「……検討してみます」

 

 思ってもないことを言う暇があるならとっとと出ていって欲しい。

 とは言えないのでとりあえず適当に返事をする。

 

「お嬢さん。この街でその腕を見せびらかすなら、もっとうまくやった方が身のためだぞ」

 

「……肝に銘じておきます」

 

 曖昧な言葉だが嘘はついていない。

 検討したうえで看板を出さなければいい。

 そして、肝に銘じておくのも断じて嘘ではないのだからこの答え方でいい。

 

「では、またいずれ」

 

 そう言い残し、男は颯爽とロングコートの裾を靡かせながら去っていった。



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4 ある男の思惑

「──張大哥、あの女は」

 

「今のところは泳がしておく。今はな」

 

 待たせていた車に乗り、運転席にいる腹心の部下と言葉を交わす。

 エンジンがかかり走り出したのと同時に、煙草に火を点ける。

 

「俺の縄張りで目立つ行動をとったかと思えば、『約束だから』ときた。随分と甘い考えをお持ちのお嬢さんだったよ」

 

「今後はどのように」

 

「釘は刺しといた。当分は放っておいても問題はないだろう。また動きがあれば報せろ」

 

遵命(かしこまりました)

 

 

 

 ──最初はほんの些細なことだった。

 

 

 一人の孤児が俺の部下から財布をスろうとしていた。

 金を手に入れるために財布をスるのはこの街では日常茶飯事。だが、俺の部下からすろうとするのはただの命知らず。

 そんなことはこの街の子供なら分かっているはずだが、なぜか部下を狙った。

 

 些細なことだが、俺は気になることはとことん追究しないと気が済まない質だ。

 

 俺は「なぜこいつからとろうとおもった?」と孤児に聞いた。

 すると孤児は「お金さえあればあのとってもきれいな服がもらえる」、「金がないからくれないんだ」と言った。

 

 だから俺は言ってやった。

「なるほど、それは金が入用だ。だがな、命とその服どちらをとるのか考えなかったのか」と。

 

 孤児は考えることもなくすぐに答えた。

「あの服を手に入れるためなら死んでもいい」ってな。

 

 この腐った街で育った子供は、生きるために金を盗む。

 だが、この孤児は生きるためではなく「服を手に入れるため」に金を盗んだ。

 服などという手に入っても生きるためにはそこまで必要ではないものに命を懸けるなんざ、ここじゃありえない話だ。

 

 だから、その孤児が言う「命をかけても手に入れたい服」に少しだけ興味が湧いた。

 

「分かった。そこまで言うなら大目に見てやる。ただし、一つだけ条件がある。俺は明日、今と同じ時間にここにいる。だから──」

 

 “金をやる代わりにその服を見せること”、それを条件に金を渡した。

 すると孤児は礼の一つも言わずその服を買いに行った。

 

 そして翌日、俺は同じ時間、同じ場所にいた。

 するとあの孤児は金をもってやってきた。

 

 孤児は「この金を元に戻して来たら服をあげるといわれた。だから返す」と言った。

 俺は一か月は食うに困らない程の金を渡した。

 持ち逃げするかと思ったが、どうやらこの孤児は本気で「服」を欲しがっているようだった。

 

 孤児のその様に、見てもいない服と服を仕立てた奴に危機感を覚えた。

 

 たった一人。

 されど一人。

 

 この街の孤児がたかが服にここまで魅了されることはあり得ない。

 ましてや、俺の知らないところでこれほどの一級品が出回っているとなると尚更放っておくわけにはいかない。

 

 たった一つの些細なことがこの街の均衡を脅かす火種ともなり得る。

 

 火種は小さいうちに消すに限る。

 

 

 

 

 ──数日後、同じ場所、同じ時間に立っている孤児を見つけた。

 

 体は傷だらけだった。

 大方、他の子ども、または通りすがりの大人にやられたのか。

 

 そんな傷だらけの孤児が大事そうに持っていたのは大きな袋。

 俺は声をかけ、その袋の中身を見た。

 

 中には、黒と赤を基調とした女性用のドレスが入っていた。

 

 派手ではない。だがこれが似合うのはハリウッド女優のような華やかな女性だろう。

 繊細で上質な、いかにもその筋の「職人」の技術がふんだんに使われている代物。

 

 この街には似合わず、ましてタダでやるには高すぎる。

 だからこそこの服をなぜ孤児にあげたのか。なぜタダで渡したのか不可解だった。

 

 その後は孤児にその洋裁屋の場所に案内させ、直接話し釘を刺した上で、また不可解なことをしでかせば殺せばいいと思っていた。

 結果、直接話を聞いてもさらに不可解なことが増えただけだった。

 

『約束は守らなければならない』ただそれだけだと。

利益を生むわけではないのに何故そこまで言うのか。

 

 ただ、あの言葉だけは本気で言っていることは分かった。

 

 

 

 

 ──が、あの手の人間は「やめられない」。

 

 

 これからも、あのような服を作り続ける。

 

「死んでもいい」と思わせるほどの逸品を作り続けるなら、またいずれ会えるだろう。

 その時に、殺すべき存在なのか再び見極めればいいだけの話だ。



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5 崩れかけていく日常

 ──グラサン男が去ってから私は服を作る気にはなれず、いつもより早めに作業を切り上げることにした。

 というか、あんな至近距離で銃を向けられて仕事なんかできるはずもない。

 

 この街で銃を向けられたら最後。

 簡単に命は終わる。

 だから今こうして生きているのも奇跡に近い。

 

「はあ」

 

 もう二度とあの季節感ゼロのグラサン男には会いたくない。

 

 ため息をつき、作業部屋の奥にある自室に戻る。

 ベッドに寝転び、仰向けになってコンクリートの天井を見つめる。

 

「……疲れた」

 

 眠気が襲ってくる。

 私はその眠気に抗えず目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──なぁ“  ”。頼むから俺と一緒に暮らそう』

 

『ふざけるな』

 

『俺はお前のことを愛している。今までもこれからも』

 

『それ以上何も言うな、吐き気がする』

 

『“  ”、俺ともう一度やり直そう』

 

『あんたはただの赤の他人だ。とっとと帰れ』

 

『なぁ“  ”。俺と一緒に──』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──はあ、はあ……」

 

 嫌な夢を見たせいか、ものすごい汗をかいている。

 

 二度寝をする気も起きず、そのまま起き上がりベッドから降りた。

 

 外はもう真っ暗だった。

 時計を見ると午後七時を指している。

 

 

 ひとまず、汗でべとべとなのでシャワーを浴びよう。

 その後は冷えた缶ビールを一気に飲もう。

 

 今日はそこまで作業をしていないが、この疲労感で飲む分には十分美味しく感じるはずだ。

 

 缶ビールとともに夕食を摂って眠れば、いつも通りの日々に戻る。

 ああ、でも今日進まなかった分の作業を明日終わらせなければ。

 いつもよりは少し忙しくなるが問題ないだろう。

 昨日までと変わらない日々には違いないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そうしてあれから一か月。

 私は以前と変わらない日々を過ごしている。

 朝食は良い焦げ目のついたトーストとココア。

 黒いTシャツと紺のイージーパンツに着替え、服を仕立てる前に裁ちばさみの入念なチェック。

 午後一時に昼食のサンドウィッチを食し、午後六時まで作業を続ける。

 

 それが私の日常。

 

 そろそろ作業を切り上げようとした頃、家の外で音がする。

 気になり様子を見に行くと、なんとこの前服を渡した子供がいた。

 

 その子は泣きそうな顔で私を見ていた。

 この子のおかげで少々痛い目を見ているので声をかけるのを躊躇ってしまう。

 

 だがこのままにしておくのも気が引ける。

 どうしようかと迷っている間にも、私をずっと見つめている。

 

 ……そう、一人の子供に声をかけるだけ。

 ただそれだけなのだから何もまずいことはないはずだ。

 

 子供と目線を合わせ、口を開く。

 

「君、こんなところに居ないで帰ったほうがいいよ。もうそろそろ暗くなるし」

 

「……」

 

 話しかけられてもずっと私のことを何も言わずに見ている。

 目に涙を溜めて。瞬きしたら溢れそうだ。

 

「……どうしたの?」

 

 できるだけ優しく問いかける。

 しばらくの間の後、その子は涙を流しながら小さい声で何か呟いた。

 

「……く」

 

「え? ごめんなさい、もう一回教えて?」

 

 あまりにも小さすぎて聞き取れず、もう一度問いかけてみる。

 

「服、大人に盗られた。……せっかく、綺麗だったのに」

 

 

 ああ成程。

 あそこまでして手に入れた服が無慈悲に最低な大人に渡ったら泣きたくもなる。

 

 だが問題は、なぜまたここに来たのかだ。

 

 まあ、理由は大方想像はついている。

 念のため、この子には言っておかねば。

 

「そうだったんだね。……でもね、もう君にあげられる服はないんだ。残念だけど」

 

「どうして!?」

 

ほら、やっぱり。

 

「あの時は“約束したから”服をあげたんだよ。約束は守るものだからね。けど、今回はそうじゃないでしょ? 君は、『自分の落ち度で服を盗られた』。だから私が君に服をあげる義理はないんだよ」

 

「そんな……ッ」

 

 この子にとって私は『服をタダでくれる都合のいい人間』という認識なのだろう。

 だから私のところに来れば、もう一度服をくれる。

 そういう考えで来たのだと、さっきの反応で理解させられた。

 私の作品を『綺麗』と評価してくれたこの子も、結局この街で育った子供なんだということも。

 

「……綺麗って褒めてくれてありがとう。でも、もうここには来ちゃだめだよ」

 

 最後くらいは感謝を伝えようと、その言葉を告げた。

 



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6 崩れかけていく日常Ⅱ

ロアナプラで育ったのだから、まだこの時間帯なら一人で帰らせても大丈夫と思い家に戻ろうと立ち上がる。

 

 ──だが、私は忘れていた。

 この子は『数日間にわたり強請ってきたしつこい子供』だということを。

 

 家の中に戻ろうとした私のイージーパンツの袖を掴んできた。

 

「……君、離してくれないと困るんだけどな」

 

「どうしても、あんたの服が、必要なんだ」

 

 震えた声で告げられる。

 だが、私も譲るわけにはいかない。

 また服を人にあげてしまえば、もう一度あの男に会う羽目になる。

 

 そうなってしまえば穏やかな日々ともおさらばだ。

 

 私の日常を、これ以上崩れさせはしない。

 

「悪いけど、本当にあげる服なんてないの。君だけじゃない、この世界の誰にもね」

 

「じゃあ」

 

「言っとくけど、金をいくら積まれてもあげないよ。これは金の問題じゃない。本当に『あげる服がない』から言っている。ないものはない。諦めて」

 

「……」

 

 少しきつく言い過ぎた気もするが、ここまで言えば諦めてくれるだろう。

 

「……あんたの服をもっていかないと、殺される」

 

「は?」

 

「あいつ、あんたの服をみてもう一つ持ってこいって。じゃないと……殺すって!」

 

「……そう言われたっていう証拠はどこにあるの?」

 

「ない、けど……でも本当なんだっ!」

 

「ごめんなさい。私は君を信じることができない」

 

「……」

 

 この子に何一つ情がない訳じゃない。

 本当にそう言われているのかもしれない。

 

 だが、私がこの子を救う義理はない。

 

 ……やっぱり、あの服をあげるべきではなかったのだ。

 私が服をあげなければ、この子も私もこんなことにならずに済んだのに。

 

 

 押し問答を始めてどれほど経っただろうか。

 そろそろ家に戻りたい。

 

 心の中で呟いたのと同時に、袖を掴む力が強まった。

 

「……じゃあ、服じゃなくてもいい」

 

「え?」

 

「服じゃなくていいから、あなたが作ったものをくださいっ!」

 

 必死の形相だった。

 本当に命を狙われているのかもしれないと思わせるほどに。

 

 

「……服じゃなくてもいいんだね?」

 

「うん!」

 

 やはり自分は子供に甘いのだと、この時思い知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──私が考えに考えてあの子に渡したものは、刺繍の練習で製作したものだ。

ハンカチほどの大きさの布の端に、一輪のアマリリスを刺繍したもの。

 

あの子にドレスをあげた後、数日部屋に籠りきりだった時に練習した。

 

作品としては価値がない。

だから渡しても問題はないと思った。

 

価値がないもので平穏を保てるなら安いものだ。

やっとこれで、本当に安心できるだろう。

 

さっさと夕食を済ませ、明日に備えて早く寝よう。

寝てしまえば、またいつもの日常が待っているから。



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7 最悪な日

 ──子供に刺繍を渡してから四日。

 いつも通り作業をこなそうとしたのだが、縫うための糸が切れかけているのを忘れていたため、今は近くの市場へ買い出しをしている。

 

 相も変わらず賑わっているこの市場は嫌いではない。

 こういう普通の活気を感じるとなぜか少しだけ安心する。

 

 せっかく市場に来ていることだし、他にも何か買っていこうか。

 基本家に籠っていて滅多に来ないのだから。

 

 

 

 

 

 

 ──そうして買い出しを終え、片手に紙袋を抱えたまま帰路に就いていた。

 糸のみではなく、布や針など予定より多く買ってしまったが、久々の買い物で気分がいい。

 

 浮ついた気分のまま歩いているとあっという間に家が見える距離まで来た。

 そのまま家に帰って作業を再開する。

 

 ──のはずだったのだが、思いもよらない事態が起きた。

 よって今、とても家に入れる状況ではない。

 

 何故なら、私が今『最も会いたくない人間』が家の前にいるからだ。

 

 あの季節感ゼロのグラサン男。

 私は咄嗟に近くの路地に身を隠した。

 私にはあの男に会わなければならない理由もないしその気もない。というか二度と会いたくない。

 

 とにかく、会ったら最後。

 もう二度といつもの日常に戻れない。

 

 

 確証はないがそう確信している。

 そんな状況の中私が取るべき行動は、あの男から見つからないように逃げることだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──いや参った、まさか留守とはな」

 

 あの服を作ることしか興味がない洋裁屋のことだ。

 てっきり籠っているかと思ったんだが、とんだ誤算だった。

 

 だが、家の様子を見る限り作業の途中だったようだ。

 あの洋裁屋がこんな状態で長時間家を空けるはずがない。

 

 ということは──

 

「……彪、女は近くの市場か家の周りにいるはずだ。探せ」

 

 部下に携帯越しで命令する。

 作業途中でいなくなった理由は、「なにかの在庫が切れたから買いに行った」ぐらいだろう。

 あの女に人の気配を察知して逃げるなんて芸当ができるはずもない。

 

 ──そして、俺から逃げることも。

 コートのポケットからはみだしていた『一輪のアマリリスが刺繍された布』を奥に押しやり、俺はその場を離れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあ……」

 

 あれから一時間ほど経っただろうか。

 

 どこの通りを出ても黒スーツを着た異様な男たちがいた。

 おかげで今も見つからないために小さな路地にいる。

 

「なんなんだもう。どうして私がこんな目に……」

 

 堪らず項垂れ呟く。 

 どうにかして無事に家に帰れないものか。ひとまず必要最低限のものだけ持ちだしたい。

 持ち出したら別の場所で暮らそう。

 

 あの家に居続けたらまたあの男に会う羽目になる。それだけは勘弁したい。

 小さな路地でしばらく頭を悩ませる。

 そこではた、と一つの可能性があることに気づく。

 ……もしかして、あの男はもう家の前にいないのでは。

 

 流石に一時間もあそこでずっと一人でいることはないだろうし。

 

 色々考えたってしょうがない。

 こうなったら一か八かだ。

 

 意を決し、来た道を戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──裏路地を使い、なんとか家の近くまで無事にたどり着く。

 あとは家に戻って荷物をまとめるだけだ。

 

 

 一応家の前や周りを確認したが、やはり律儀に待っているわけがなく誰もいない。

 だが、油断は禁物。

 表から入るのは不安なので、念のため裏口から家に入った。

 

 あとは最低限必要なものだけ。

 私が取りに来たのは金と裁縫道具だ。

 

 この二つがなければ私は生きていけない。

 

 金は自分の部屋に。

 裁縫道具は作業場に。

 

 裏口から入ったら直接自分の部屋なので、金はすんなり手に取れた。

 

 あとは裁縫道具。。

 早く、早くと焦りと緊張が体中に巡る。

 

 

 だがそれもすぐ終わる。

 あと、あともう少しで……

 

 

「随分遅いお帰りじゃないか」

 

 

 瞬間、作業場からいるはずのない人間の声が聞こえた。

 しかもそれは、私が今最も会いたくない男の声。

 

 

「家をほったらかしてどこに行っていたんだ。待ちくたびれたぞ」

 

 

 なんで。

 

 どうして。

 

 

 

 疑問ばかりが頭によぎる。

 

 

 

「さて、少し話をしようか。お嬢さん」

 

 

 

 サングラスをかけたあの男が余裕を含んだ笑みを浮かべながら私に話しかける。

 ──もう最悪だ。




ちょっとした豆知識。
アマリリスの花言葉は『誇り』、『輝くばかりの美しさ』。


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8 最悪な日Ⅱ

 どうする。どうするどうするどうする。

 

 

 私の頭の中はその言葉で埋め尽くされている。

 

 原因は、当然目の前の椅子に腰かけているこの男だ。

 

 

 この男は、あろうことか私の家に不法侵入し一時間も居座っていたのだ。

 不法侵入も大いに問題だが、今最大級の問題は“この男”と再び会ってしまったことだ。

 

 あともう少しでこの家を離れられたのに。自分の運のなさを呪う。

 

「何か買い物でも?」

 

「……糸を買いに」

 

「そうだったか。なんせ一級品を拵える洋裁屋だ。作業を中断してまで外に出ることは滅多にないかと思ってたものでね、待たせてもらったよ」

 

「……タイミングが悪かったようで」

 

 色々な意味で。

 

「いやいや。急に押しかけてきたのは俺だ、仕方ないさ」

 

 そう思うのならとっとと帰ればよかったのではないのか。

 見知らぬ人の家でくつろぐよりよっぽどそっちの方がいいだろうに。

 

 一体何を考えているのか。

 

 冬用であろうコートを着ているせいで頭がやられているのか。

 カッコつけずにもう少し薄い生地で仕立てられた服を着たらいいものを。

 

 心の中で悪態をつきながら、黙って話の続きを待つ。

 

 何故この男は私の帰りを待っていたのか。

 尋ねてみたい気もするが、自分から核心に触れたくもない。

 

 結局私はこの男のペースに合わせるしかないのだ。

 

「それで、今度は何を作っているのかな?」

 

「……ブラウスです」

 

「自分用に? それとも『誰かに渡すため』かな」

 

「……いえ」

 

 男が言葉を強調する。

 

 まるで警察の尋問みたいだ。受けたことはないが、そんなイメージがある。

 マフィアが警察のような尋問をするのかどうかは知らないが。

 

「では何のために?」

 

「……なんのためとか、そんな大層な理由はありませんよ。私は作りたいから作ってるだけです」

 

「人に渡すためでもなく自分で着るためでもないと?」

 

「はい」

 

「では、完成したものはどうするんだ。見たところ、どこにも飾ってないようだが」

 

 質問が多い気がする。

 そんなこと聞いてどうするというのか。

 

「……完成したものは燃やして処理しています」

 

「燃やす?」

 

「人に着てもらえない服なんて価値がありませんから。それに、今は価値のあるものを渡そうとはしていませんし」

 

「──なら、どうしてこれは人の手に渡っているのかな?」

 

 男がそう言ってポケットから出したのは、私が子供に渡したあのアマリリスが刺繍された布だった。

 

「な、んで」

 

「たまたまこれを持っていた子供と会ってね。あまりにも素晴らしい出来だったものだから譲ってもらったのさ」

 

「……まさかあの子供を脅したのは」

 

「俺じゃない。俺以外の誰かに脅されて君に強請ったんだろう。──それ相応の金を渡して譲ってもらったのさ。少々高い買い物だったがね」

 

 一体なんなんだ。

 たかが練習で作ったものをあげただけじゃないか。それの何がいけないのかが分からない。

 

 ……そう、練習で作ったもの。だからこそ金を払う価値もないはずだ。

 価値がないものを渡してはいけないルールとかあるのかここには。

 

 この男の勘違いを少しでも解こうと意を決し自分の考えを口に出す。

 

「一つだけ言わせていただきますが、その刺繍は練習用で作っただけであってお金を払うほどの価値はありませんよ」

 

「……やはり、君は何も分かっていないようだ」

 

 男は呆れ気味にそう言うと椅子から腰を上げ、そのままゆっくりとこちらに近づいてきた。

 異様な雰囲気に足が勝手に後退る。

 

 コツ、コツと革靴の音を鳴らし近づいてくる。

 

 そして、とうとう壁際に追い詰められ、男は私の顔の横に手をついた。

 同時に低く冷たい声音が発せられる。

 

「俺は言ったはずだ、『腕を見せびらかすならうまくやれ』と。これがどういう過程で作られたとか、そんなことはどうでもいい。問題なのは、“一級品を作る奴の作品がタダで出回っている”ということだ。君はもっと自分の腕の良さを自覚したほうがいい」

 

「……私には一級品を作れる腕なんて」

 

「ここまで言ってもそんな言葉が出るとは。いいか、お前がやってることは俺にとって“不可解”そのものだ。

他ならいざ知らず、この街では特にな。俺の縄張りで不可解なことが起きているという事実がタブーなんだよ」

 

 俺の縄張り?

 

 

 その言い草だと、まるで──

 

 

 

「……あなたは、一体」

 

「ああ、自己紹介がまだだったな。──三合会の張維新だ。以後お見知りおきを、お嬢さん」



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9 取引

 男の口から出た名前に目を見開く。

 

 

 ──香港三合会。

 

 この街の情勢に疎い私でも知っている。

 

 ロアナプラでも一段と存在感のあるマフィア組織の一つ。この街では張維新を頭としてここ最近また勢いを増していると聞いた。

 そんなマフィアのボスに普通の女が銃を向けられたり、尋問されるなど誰が思う。

 

「……なんで、貴方がこんなことを」

 

「俺の縄張りで不可解なことが起きているのに俺が何も知らないなんてお笑い種だろう?」

 

「……」

 

「俺は気になったらとことんまで追求しないと気が済まない質なもんでね。こういうことは、直接話をするに限る」

 

 

 最悪だ。本当に最悪だ。

 

 マフィアのボスに目をつけられた。

 

 もう逃げることはできないだろう。

 

 よっぽどの奇跡が起きない限り、もう二度とあの平穏な日常を過ごすことはできない。

 

 この後私がどうなるかは、この男の手に委ねられている。今でも銃を突きつけられている気分だ。

 

「さて、本題といこうか洋裁屋」

 

 男は壁に手をついたままその場から離れようとはせず話し始めた。

 何を言われるのかと体に緊張が走る。

 

「俺と取引しないか」

 

「……はい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「取引?」

 

「そうだ」

 

 この男は何を言い出すんだ。

 さっぱり意味が分からない。

 

「話してみて分かったことだが、君は自分の腕前を自覚してなさすぎる。価値がないと思っているものでも、君が生み出したものは自然と“高級品”になるんだ」

 

「……」

 

「そんな高級品を燃やすなんて、実にもったいないと思わないか?」

 

 この男は以前も私が作ったものを言葉では“高評価”していた。

 普通の女が作った普通の服だ。

 それを一級品だとか高級品だとかいうその根拠が分からない。

 

 確かに、以前私は洋裁屋としてそこそこ稼いではいた。

 だがそれは普通の街での話だ。

 世界には私以上にすごいものを作る人がたくさんいる。

 

 このくらいの技術は誰だって習得できるものだ。

 それをこのマフィアはあまりにも馬鹿げた評価をつけている。

 

 だからこそ、何を考えているのか全く理解できなかった。

 

「そして、また高級品をタダで渡すことは俺としても遠慮願いたい。──そこでだ。殺さない代わりにここで洋裁屋として商売を始めてほしい」

 

「……」

 

「君は殺されないで済むし、合理的に作業に勤しめる。ちゃんと商売さえしてくれれば俺も一安心だ」

 

「……」

 

 ──なんとなく分かった気がする。

 この男が言っているのは「店」を出せということだ。

 店を出した暁には「みかじめ料」を払わなければいけない。

 

 結局は金か。

 

「……洋裁屋として商売をすれば、殺さないんですか?」

 

「そうだ」

 

 

 この男の言うことに頷けば命は助かる。

 

 

 ──だが、私にはここに来た時に決めたルールがある。

 

 それは、どんなことがあっても破ってはいけない。例え殺されようともこれだけは譲れない。

 

 

 意を決し、目の前の男を見据え口を開く。

 

「お断りします」

 

「……おっと、聞き間違いかな。もう一回言ってくれるか」

 

「貴方との取引には応じません」

 

 

 私が決めたルール。

 それは、“洋裁屋として商売をしない”こと。

 

 商売をしてしまえば、金を稼ぐために服を作らなくてはならなくなる。

 服を作るのが『義務』となってしまう。

 

 ただただ無作為に服を作り続けるのは何の意味もない。

 

 ──だから私は洋裁屋をやめた。

 自由気ままに服を作る。

 それは、いつもの日常よりも守るべきもの。それを譲ってしまえば一生後悔する。

 

 

 ならばここで殺されたほうがマシだ。

 

 

 

「困ったな。まさか断るとは」

 

「私にも譲れないものがあります」

 

 目を逸らすな。

 こんな時だからこそ、しっかり相手の目を見て話せ。

 

「命よりも大事なものか、それは」

 

「はい」

 

 

 

 例え殺されるとしてもここだけは譲らない。

 

 

 

「──残念だ。本当に」

 

 

 

 男は壁から手を放し、腰にある銃を構えあの時のように私の額に向け銃口を向ける。

 

「一つ聞いておこうか」

 

「なんでしょうか」

 

「命よりも大事なそれはなんだ」

 

「“作りたいときに作り、私の作品を捧げたい人がいない限りは作らない”。それが命よりも 大事な私のルールです」

 

 

 

 ある人の言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 

 

『──服を、服作りが好きだっていう気持ちは、忘れないでね』

 

 

 

決して忘れてはいけない最後の教え。

絶対に曲げたりするものか。

 

「要するに、『金のためには作りたくない』。そういうことか」

 

「そうとってもらって構いません」

 

「……」

 

 男はただ私を見つめている。

 そしてしばらくすると、男の手が震えていた。

 

「……ふっ」

 

 また何か言われるのだろうか。

 殺すならさっさとしてほしい。

 

 

 

 

 

「はっはっはっはっは!!」

 

 

 

 

 

 男が急に笑い出す。

 呆気にとられ、男が笑っている様を呆然と見ているしかなかった。

 

 しばらくしてやっと落ち着いたところで、男が話し始める。

 

「いやいや、参った。何を言うかと思えば『ルールがあるから』か。まさかそんなもののために命を懸けるとは、恐れ入ったよ」

 

「はあ」

 

「だが、そんなもののために命を捨てるにはもったいない。それに、君ほどの腕を持ってる者を俺としてもあまり殺したくはない」

 

 なんなんだ。

 殺したいのか殺したくないのかはっきりしてほしい。

 

「店は出さなくていい。ただ、服を渡すなら相応の報酬を受け取ってほしい。それだけだ」

 

「……子供が相手の場合は」

 

「“タダ”でやらなけばそれでいいさ」

 

「……つまり、金じゃなくても服と何かを交換すればいい。ということですか?」

 

「そういうことだ。その時に君が作りたくない気分なら断ればいい」

 

 とにかく、なにかを渡したいなら見返りを求めろ。ということか。

 

「君のいうルールには適っていると思うが?」

 

 確かに、私のルールには問題ない。

だが、この男にとっての利益がわからない。

 

「……私がその行動をとったとしても、あなたには何の利益もないのでは?」

 

「言っただろう。俺の縄張りで不可解なことが起きていることが問題だと。その不可解なことが収まってくれさえすればいいのさ」

 

「お金が目的なのでは?」

 

「金なんかいくらでも作れる」

 

 マフィアのボスが考えていることは、私には分からない。

 まして、今までの言葉が本当なのかさえ。

 

 だけど、この男の条件をのめば「義務」として服を作ることもない。

 相手に見返りさえもらえば、少なくてもこの男には殺されない。

 

 ルールと命、両方とも守れる。

 

「それと、あともう一つ」

 

「なんでしょうか?」

 

「作った服を燃やすな」

 

「……でも服を収める場所が」

 

「それはこちらで手配しよう。──収納場所と命の保証をする代わりに、“タダ”で作品を渡さないこと。

これでも不満かな?」

 

 ルールと命、おまけに収納場所まで付いてきた。

 少し美味すぎる話な気もするが、私が納得しない理由はどこにもなかった。

 

「……分かりました」

 

「よかった。これでも納得しなかったら頭を抱えるところだった」

 

「……本当に、殺さないんですか」

 

「ああ、取引に応じてもらった以上殺す必要はないからな」

 

 その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた気がする。

 銃を突きつけられつつもしっかりと受け答えで来た自分を褒めてほしい。

 

「ああ、そうだ。まだ名前を聞いてなかったな。なんと呼べば?」

 

 

 

 

 

 私の名前。

 

 

 

 この街に来てから、未だ誰にも名乗っていない名前。

 

 

 

 少しの間を空け、若干強張った声で発する。

 

 

 

 

 

 

 

「──桔梗です」

 

「いい名前だ。ではこれからよろしく、Ms.キキョウ」



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10 パトロン

──その後、彼は『また来る』と言い残して出て行った。

 一人となった瞬間、私は力が抜けてその場にへたり込んだ。

 

 銃を二回も突きつけられて生きているなんて、あまりにも運が良すぎる。

 逆に運が悪すぎるのか。

 

 この街に来てから一年。

 故郷である日本を捨ててなんとか生きてきた。

 まさか、ここにきてこんな目に遭うとは。

 

 

 

 深呼吸をして、今生きていることを実感する。

 

 

 

 もし、本心を言わずに嘘の理由を言っていたら。

 

 

 もし、断った直後すぐに男が引き金を引いていたら。

 

 

 そう考えるとぞっとする。

 

 私は、彼に『生かされた』。

 そして、『タダで服を渡さない』と約束した。

 

 これらは紛れもない事実だ。

 守らなければ今度こそ殺されるだろう。

 

『約束は守らなければならない』

 

 自身の言葉が頭によぎる。

 

 きっと、あのマフィアからもう逃げられない。

 

 なら、やれるだけやってみるしかない。

 私にはそれしかできないのだから。

 

 

 

────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そう決心した日から一週間経ったが、以前と何も変わらない。

 元々「人に服を渡すこと」自体が滅多にないのだから当たり前なのだが。

 

 特にやることもなく暇を持て余しているので、今はそれに合うスカートの型紙を製作中だ。

 デザインから型紙製作など一からすべて1人でこなすため、一つの服を作るのに少々時間がかかってしまうが、その時間が安らぎなのだ。

 

 服を仕立てる中、気がかりなのは収納場所も提供すると言われたが、あの言葉は本当なのだろうか。

 別に期待している訳じゃない。

 ただ、自分が作った服を燃やしている時が少しだけ心が痛むだけだ。

 

 黙々と作業をしていると、ドアからノックの音が聞こえた。

 その後、聞き覚えのある声が飛んでくる。

 

「俺だ、いるなら開けてくれ」

 

 私は作業を中断し、ドアに向かう。

 ドアを開けると、一週間ぶりに会う彼がいた。

 

「やあキキョウ。調子はどうかな?」

 

「調子はまあまあです。それで、どうされたんですか張さん」

 

 ずっと立たせている訳にもいかないので、家に招き入れる。

 また来るとは言っていたが、まさか一週間後に来るとは思わなかった。

 

「そう急かすなよ。どうせなら、ゆっくりお茶でも飲みながら話をしたいものだ」

 

「ココア、牛乳、お湯、水しか出せませんがそれでいいなら」

 

「コーヒーはないのか?」

 

「……今度買っておきますね」

 

 一応、大事な取引相手なのでコーヒーぐらいは買っておこう。

 我儘だ、と思ったことは心の中に留めておく。

 

 張さんが座るための椅子を自室へ取りに行った後、作業台の上を少し整理する。

 彼が椅子に座ったのを確認し、自分の椅子に腰かける。

 

 それにしても、ロングコートなんか着て暑くないのだろうか。

 

「あれからなにか服はできたのか?」

 

「一着だけあります」

 

「ちゃんととってあるんだろうな」

 

「そういう約束ですから」

 

「今度はどんな服を?」

 

「ブラウスです。以前貴方が来た時にも作ってたものですよ」

 

「そうだったか。どんなものか見せてくれないか」

 

「見てどうなさるので?」

 

「どうもしないさ。だが、改めて自分の目で洋裁の腕前を見ておくのもいいだろ?」

 

「……分かりました。ちょっと待っててください」

 

 自室にあるバルーンスリーブのブラウスを手に取り、彼の前で広げる。

 

「普通のブラウスですよ」

 

「……このマークは」

 

 彼は襟の端にあるマークを指さした。

 

「何か作った時は自分のマークをいれるんです。サインみたいなものと思ってもらえれば」

 

「なるほど。いかにも職人らしい」

 

 これは洋裁師として服を売っていた時からの名残。

 自分の作ったものだと見分けるためにやり始めたことがきっかけだ。

 

 花個紋である「李の丸」をモチーフに李の部分を桔梗の花に変えたもの。

 このマークは案外気に入っている。

 

「もしかして、いれないほうがいいでしょうか?」

 

「いや、逆にあったほうが俺としても見分けがつきやすい」

 

「分かりました」

 

 念のため彼の了承を得、話が終わったと判断しブラウスを畳む。

 

「そのブラウスだが」

 

「はい」

 

「こっちのほうで“収納場所”の用意ができた。今から行かないか?」

 

「……本当に用意してくださったんですか」

 

「あたり前さ。俺は約束は守る律儀な男なんだぜ、Ms.キキョウ」

 

 まさか、ちゃんと用意してくれたとは。

 それどころか、約束を忘れているだろうと思っていたのもあり些か驚いている。

 

「ありがとうございます。その場所はどちらに?」

 

「ああ、今から案内する。今日はそのために来たんだからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

 

 

 彼に案内されたのは、我が家から歩いて十分もしないところにある灰色のビル。

 その二階に収納場所となる部屋が用意されていた。

 

 しかも、幅が八十から百三十センチのハンガーラック六台。

 ロングドレスが掛けれるハンガーラック3台と大量のハンガーまである。

 

 思ったよりしっかり用意してくれていたことに、拍子抜けする。

 

「今はこの程度しか用意していないが」

 

「いえ、充分すぎるくらいです。まさかここまで用意してくださるとは」

 

「“収納場所”を提供するといったからな。ただ部屋を渡すんじゃ収納はできないだろ?」

 

「ありがとうございます。今後、ぜひ使わせていただきます」

 

「気に入ってくれたようで何よりだ」

 

 張さんは私の言葉を聞いて満足げに微笑んだ。

 

「今後、またなにか必要なものがあれば言ってくれ。こちらで用意する」

 

「自分でも用意できるので、そこまでお世話になるわけにはいきませんよ」

 

「……一つ気になったんだが、いままでどうやって布を調達してきたんだ。商売をしているわけでもないのに」

 

「お金だけはあったので」

 

「その金はどこから手に入れたんだ」

 

「故郷から持ってきたんです。一応、そこそこ稼いでいたので」

 

 そう、日本から出るとき金だけは必要だろうと全財産を持ってきた。

 服作り以外にそこまで出費はしていなかったので、金だけは有り余っていた。

 日本から持ち出したのは五千万。

 

 私が無事に金を持ち運べたのはある人にお世話になったからなのだが、それはまた別の話。

 

 とにかくそれだけあれば、しばらくは服作りにも生きていくのにも困らない。

 

「なるほどな。ま、その腕ならすぐに客も集まるだろうからな。遠慮なく頼ってくれ」

 

「しかし」

 

「俺はその腕を見込んでる。だから“パトロン”として、洋裁屋キキョウの作りを支えたいのさ」

 

 ──マフィアがパトロンの洋裁屋。

 それはそれで問題な気もするが。

 

 まあ、この街ではなんだって起きる。

 色々考えてもしょうがない。

 

「……ありがとうございます。では、どうしてもという時だけご相談させてください。基本は自分でなんとかしますので」

 

「分かった。その時になったら連絡を」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 さっきから彼にお礼しか言ってない気がする。

 それほど自分が思っている以上に嬉しかったのだと自覚し恥ずかしくなる。

 

 顔に少し熱が帯びるのを感じながら、ハンガーにブラウスを掛ける。

 やがて深呼吸をし、張さんと向き合う。

 

「改めまして、これからよろしくお願いいたします。Mr.張」

 

「こちらこそ。Ms.キキョウ」

 

この時から、私はただの住人ではなく、ロアナプラで『洋裁屋キキョウ』として生きていくこととなった。



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11 洋裁屋の悩み

 ──洋裁屋として生きることを決めてから早二か月。

 こっちからお客を呼び込むことはしていないのだから当然依頼はない。

 だが、服の収納場所があることで私は以前よりも服を作る意欲が湧いていた。そのおかげか、ここ一か月で完成させたのは十着以上。

 一日十時間以上も作業をしていればそんな数にもなる。

 

 張さんが二週間に一回くらいの頻度で来るのだが、「あまり無理するなよ」と言われてしまった。

 

 私よりも、マフィアのボスである彼がこの頻度でここへ来ることのほうがおかしい気がする。

 意外と暇なのかもしれない、なんてこと口が裂けても言えないが。

 

 ふと時計に目をやれば、午後十二時半を指していた。

 昼食を食べようと作業を中断し、腰を上げた。その時に、放ってはおけないものを見つけてしまった。

 

 

「……」

 

 

 ──いつの間にこんなことになったのか。

 なんと、作業着である黒いTシャツの裾に穴が空いていた。

 

 一番着替えやすかったためお気に入りだった。

 だが、こうなってしまったものはしょうがないので久々に自分が着る用の服を作ろう。たまには、自分が作ったものがどんな着心地なのか自身で確かめるのも必要だ。

 

 服を脱ごうとしたその瞬間、ドアからノック音と共に聞きなれた声が飛んでくる。

 

「俺だ。開けてくれるか?」

 

「すみません、少しだけ待ってください」

 

 私は慌てて自室に戻り、替えの服に着替えた。

 穴が空いたTシャツでパトロンを迎えるのは失礼すぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──いつもならすぐドアを開けるのに今日はなんだか騒がしかったな。……もしかしてお着替え中だったか」

 

「ニヤニヤしながらそういうこと言うと変態に見えますよ張さん」

 

「すまんすまん」

 

 私の言葉を本気で受け取ってないのか、張さんは相変わらずニヤニヤしている。

 

 何度か会っているおかげで、彼とは最初に会った時より気楽に会話を繰り広げられていると思う。

 白いマグカップに淹れたてのにコーヒーを注ぎ、目の前で優雅に足を組んでいる彼に手渡す。

 

「今もお前の服が欲しいと頼むやつはいないのか?」

 

「相変わらずですね」

 

「ま、だろうな。だが、作りたいときに作ればいいとは言ったが、このままだとただ服が溜まるだけだぞ。折角いい腕持ってんだ。使えるときに使っとかないと損だと思うがね」

 

「……やっぱりそうですよね」

 

 私がこうして服造りに専念できるのは、紛れもなく張さんのおかげだ。

 このまま自分のやりたいようにやるだけでは申し訳なく思ってしまう。

 

 だが、金のために服を作るようなことはしたくない。

 

「……あの張さん」

 

「ん?」

 

「私は金のために服を作ることはしたくないと、以前言いました」

 

「ああ」

 

「ですが、このままではダメな気もしています。ここまでしてもらって、ただ自分のやりたいようにやるだけというのは何か……その」

 

「申し訳ないってか」

 

「はい」

 

「なるほどな」

 

 張さんは長い足を組み替え、やがて思い立ったように口を開く。

 

「こう考えればいいんじゃないか」

 

「え?」

 

「金のために作るのは嫌なんだろ? 前も言ったが、好きな時に作ればいい。これは、お前にも相手を選ぶ権利があるってことだ。『こいつには作りたくない』と思うなら断ればいいし、『こいつになら作ってあげてもいい』と思ったら作ればいいんじゃないか」

 

「人を選ぶということですか?」

 

「そういうことだ。俺が出した条件は“タダで服を渡さない”だけだからな。それさえ守ってくれればいいのさ」

 

 考えたことなかった。

 私にとって商売は自由に作ることを束縛するものでしかなかったから。

 

 人と交渉し、見極め、それで私が作りたいと思えればそれでいいのだと、この人はそう言ってくれた。

 彼の言葉が胸にストンと落ち、どこか安堵を感じつつお礼を述べる。

 

「ありがとうございます張さん。すみません、変なことを言ってしまって」

 

「誰だって、悩みの一つや二つはあるもんだ。──さて、お前の考えが纏まったところで今度は俺の話を聞いてもらいたい」

 

 どうやら、今日はちゃんと話があるらしい。

 パトロンとなってくれた日から世間話みたいなことしか話してなかったから少し驚いた。

 

 

 

 

「キキョウ。俺のために服を作ってくれないか」

 



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12 採寸

 唐突の言葉に、どう返答しようか迷ってしまう。

 

「……すごいいきなりですね」

 

「まあ聞いてくれ。さっきも言ったが、その腕は使えるときに使わないと損だ。だが、使うタイミングがなきゃ意味がない。──そこで、だ。俺がお前の仕立てた服を着てこの街を出歩けば、少しは宣伝になるだろう」

 

 確かにマフィアのボスは歩いているだけでも存在感は凄まじいとは思うが、この街じゃたかが服だ。

 服に興味を持つ人なんかいるのだろうか。

 

「そう上手くいくものでしょうか」

 

「普通の腕前ならな。だがお前は一流だ。マフィアのボスが着るに相応しい服を作るのは、大得意なんじゃないか?」

 

 マフィアのボスの服なんて作ったことないんですが。

 出かかった言葉を飲み込み、話の内容を整理する。

 

「つまり、『人の目を引くあなたの存在感に負けない服を作る』。そういうことですよね」

 

「ご名答」

 

 存在感に負けない服を作るだけなら簡単だ。

 派手な色を使ってごまかせばなんとかなる。

 

 だが、そういう訳にはいかない。なんせ着る人がマフィアのボス。

 この人の存在感をより良く引き立たせるものがいいはずだ。

 

 

 

 これは、相当難しい。

 

 

 

「──分かりました」

 

 

 

 だからこそ、この案件はやりがいがある。

 難しいからといってやめるなんて、それこそ洋裁屋として名折れだろう。

 

 

 それに、

 

 

「ぜひ、私にあなたの服を作らせてください」

 

「お前ならそう言ってくれると思ってたぞ」

 

 

 

『この人のためなら服を作ってもいい』と思えたから。

 

 

 

 

 

「──それで、どんな服をご希望ですか」

 

「いや、だから俺に似合う服」

 

「そうではなく、私が聞いているのは服の種類です。ジャケットとかズボンとか……なにか欲しい服はありますか」

 

「特にないな」

 

「……」

 

 分かってはいたが、やはりそうか。

 この人がスーツ以外を着てるところなんて見たことない。

 恐らく、そこまで服に拘りがないのだろう。

 

「……とりあえず採寸だけさせてください。サイズが分かれば色々作れるので」

 

「ああ」

 

「コートとジャケットお預かりしますね」

 

 受け取ったそれは、意外とずっしりくる重さだった。

 これは着ているだけで疲れそうだ。

 ロングコートに至ってはところどころ褪せている。

 

 

 

 

 一体いつから着ているのだろうか。

 

 

「張さん、このスーツとコートっていつ購入されたものですか?」

 

「二年以上は経っていると思うが」

 

 服は定期的に手入れをしていなければ、段々と色褪せていく。

 そうなると買い替える人もいるのだが、自分が着慣れた服は手放しがたくなるものだ。

 

 作業台の上にある小棚からメジャー、メモ、ペンを取り出す。

 

「細かく採寸するので不快になるかと思いますが、少しだけ我慢してくださると助かります」

 

「シャツは脱がなくていいのか」

 

「大丈夫です。服の上からでも意外とちゃんと測れるんですよ。──では失礼します」

 

 ワイシャツの上から肩から足まで、必要な箇所全てを測りメモしていく。

 採寸の間、お互い一言も発さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──終りました。すみません、長々と」

 

「気にしちゃいないさ。だが、本当に細かく採寸するんだな」

 

「細かく測った方が小回りが利きやすいんです。それに、貴方を引き立たせるための服を作るんですからこれくらいは」

 

「なるほど。プロの意識ってやつだな」

 

 張さんはどこか満足げにそう言った。

 ハンガーにかけたコートとジャケットを渡しながら、こっそりと再び服の状態をチェックする。

 

「じゃ、俺はそろそろお暇しよう。期待してるぞ、キキョウ」

 

「色々とありがとうございました。完成したらこちらから連絡します」

 

「ああ、楽しみにしてる」

 

 口端を上げたまま、張さんはロングコートの裾を靡かせながらこの場から去っていった。



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13 最高の服を貴方に

 ──朝食を摂った後、新しく作った灰色のノーカラーシャツと、紺のイージーパンツに着替え作業場に入る。

 作るものは、久々に人から頼まれたもの。

 あの人が気を使ってわざわざ私に提案してくれた。

 

 だから、私が持てるすべての技術を使ってあの人に似合う最高の服を作る。

 贈る服と素材は決めてあるのだが、あとはどんな形にするのか決めなくてならない。

 

 彼に贈ろうと思っているのは一式物ともう一つ。

 

 昼食を摂る間も惜しむような生活を送り一か月が経ち、その一式物がやっと完成した。

 

 時間がかかっている理由は、いつもより慎重なのとズボンやトップスなど複数の服を作っているからでもあるのだ。

 

 これから作るもう一つの服が、あの人を引き立たせる決め手となる。

 そのため、より一層拘りをもって製作に取り掛からなければ。

 

 ──ただ単に忙しくなったからか、あれから張さんは一回も来ていない。

 一度連絡したほうがいいのだろうか。

 いやでも、完成したら連絡すると言ったし……。

 

 ふと考えていると、作業台の上に置いていた携帯が鳴る。

 ロアナプラに来てから一度も使ったことのない携帯が久々に役割を果たしている。

 

 

 

『ようキキョウ、久しぶりだな。どうだ、作業の進み具合は?』

 

 通話ボタンを押して聞こえてきたのは、彼の低い声。

 

 

 

「お久しぶりです張さん。お待たせしてしまいすみません。ですが、あともうひと踏ん張りってところです」

 

『そうか、ならよかった。てっきり忘れられてるのかと思ったよ』

 

「相変わらず冗談が好きですね、お元気そうで何よりです」

 

『冷たいな』

 

「こっちは必死に作ってるんです」

 

『悪かった悪かった。……ったく、最近は忙しくて暇がない。今は貴重な休憩時間を満喫してるよ』

 

「そうだったんですね。本当にすみません、お待たせしてしまい」

 

『お前が時間かかってるってことは、相当良いもの作ってくれてるんだろ? なら文句はないさ』

 

 取引相手として信頼されているかは別の話ではあるが、この人は、本当に私の洋裁屋としての腕は信じてくれている。

 

 だから、製作により慎重になってしまう。──が、その時間がとてつもなく楽しい。

 

 

 

 本当に、自分には洋裁しかないのだと心の底から思う

 

 

 そして、この機会を与えてくれたこの人に感謝せずにはいられない。

 

 

「張さん」

 

『ん?』

 

「完成、楽しみにしててくださいね」

 

『……ああ、とても心待ちにしているよ』

 

「近いうちにこちらから連絡差し上げるかと思いますので」

 

『分かった。……ではキキョウ、いい夢を』

 

「はい、貴方も」

 

 

 

 彼が電話を切ったことを確認すると、耳から携帯を離す。

 

 

 ──作業を切り上げ、シャワーを浴び、夜ご飯を摂り、ビールを飲んで床に就く。

 ベッドに寝転びながら明日からの作業に思いを馳せて、目を瞑った。



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14 最高の服を貴方にⅡ

今回少し長めです。



「──できた」

 

 張さんと電話してから二週間。

 あれから毎日作業を続け、やっとすべて仕上がった。

 素材や形すべてに拘ったので少々時間がかかりすぎてしまった。

 

 ここまで時間をかけて作ったのは本当に久しぶりだ。

 ましてや、全然苦じゃなかったのも。

 

 やはり、服は人のために作るほうが気合も丁寧さも全然違う。

 

 記念に何枚か写真を撮った後、私は携帯を手に取り電話をかけた。

 四回ほどコールした時、電話の向こうから声が聞こえてくる。

 

『やあキキョウか。どうだ調子は』

 

「急に連絡して申し訳ありません。調子はいいほうですよ。とても気分がいいくらいには」

 

『……できたのか?』

 

「はい。長らくお待たせしてしまいましたが、先ほど完成しました」

 

『そうか。なら、今からそっちへ向かう。楽しみにしてるぞ』

 

「コーヒー淹れながらお待ちしてますよ」

 

『ああ、じゃまた後で』

 

「はい、失礼します」

 

 そこで通話を終了し、完成した服に白い布を被せる。

 あの人はこの服を気に入るだろうか。

 私が拘って作ったとはいえ、要はあの人が着たいと思えるかどうかなのだ。

 

 そう考えながら、少しだけ散らかっている糸くずや布を集め、出迎える準備をする。ちょっとした掃除を終え、コーヒーをいつでも出せるようにお湯を沸かす。

 お湯が沸くのを待つ間、少し髪を整え服についていたゴミを取る。

 

 そこでタイミングよく、ドアからノックの音が響く。

 迷うことなくドアを開ければ、いつもの服に身を包んでいる彼が立っていた。

 

「すまない、待たせたか?」

 

「いえ。コーヒー、飲まれますか?」

 

「あぁ」

 

 約一か月ぶりにこの人を家にあげる。

 だからと言って、会うことにそこまで緊張はしていない。

 

 むしろこれからどう反応するのかが気になってしまい、そっちの方が緊張する。

 

「最近やはりお忙しいんですか?」

 

「まあ、一息つく暇もないほどには」

 

「……そんなときにわざわざ。言ってくれれば持っていきましたよ」

 

「俺も早く拝みたかったからな。待ち遠しかったんだぞ?」

 

「本当にお待たせしてしまいました。自分でもこんなにかかるとは」

 

「それは、よほど期待できるものとみた。──楽しみだ」

 

 会話をしながらコーヒーをマグカップに入れ、いつものように張さんの前に置く。

 すると、作業場の端に置いてある白い布を被った“それ”を見ながら口を開いた。

 

「これがそうか?」

 

「はい。では、今からお見せしますね。気に入ってくださるかは分かりませんが……」

 

 そう言って、白い布を外す。

 現れたのは、トルソーにかかった黒を基調したスリーピーススーツとロングコート。

 

 

 ──今回仕立てのは、張さんがよく着ている服に寄せたものだ。

 

 

 私がこれを用意しようと思ったのは採寸の時。

 預かった時に少し触れてみて分かったことだが、今のスーツとロングコートはあまり状態がいいものとは言えない。

 尚且つ、手入れがされていないせいか着心地も肌触りもよくない。

 その上冬用をこんな暑い街で着続けるには無理がある。

 

 マフィアのボスがこんなものを着ていては、とてもじゃないがあんまりだと思った。

 特に張さんのような普通じゃない雰囲気の人は。

 

 張さんは私が作ったスーツを見て少しばかり驚いていた。

 

「単刀直入に言いますと、今着ているものは状態があまりよくない上に色褪せていて安っぽく見えてしまっています。そのため、貴方の雰囲気に合わせて、高級感を出しつつ嫌味を感じさせないものに仕立てました。光沢感の出る素材と、熱が籠らないよう通気性のある素材を使っているので、着心地は軽く、見た目は重厚感のある仕上がりにしています。スリーピースですので本当に暑いときはベストとワイシャツだけでもビシッと決まりますし、ベストがなくても普通のスーツとして着れます。

──それと、私がスーツ以外で出歩いている張さんを想像できなかったのでこの服をご用意させていただきました」

 

 長々と一気に喋ってしまった。

 張さんは私の説明が終わっても黙って服を見ていた。

 

 

 やはり気に入らなかったのだろうか。

 

 

「あ、あの張さん。もしかして、お気に召しませんでしたか……?」

 

「──参ったな」

 

 恐る恐る聞くと、張さんは服を見たまま一言呟いた。

 笑みを浮かべたかと思うと、今度はこちらを向いて口を開く。

 

「これは想像以上だ。まさに“一級品”だ」

 

「えっと、あの……?」

 

「着てみても?」

 

「え、ええ、どうぞ」

 

 トルソーからすべて外し、個別にハンガーをかける。

 

「私は奥のほうにいますので。終ったら声をかけてください」

 

「ああ」

 

「では失礼します」

 

 奥の自室へ入り、作業場を後にする。

 着てもらった後に何か不備がないか緊張しながら彼の試着が終わるのを待つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──着替えたぞ」

 

 やがて、作業場から呼ぶ声が聞こえてくる。

 緊張を解すように息を吐き作業場に戻ると、私が仕立てたスーツとコートを身にまとい、白いストールを首にかけ満足げにしている張さんがいた。

 

「どうだ?」

 

「……想像以上にお似合いで驚いてますよ」

 

 服と張さんの雰囲気が一致しているからなのか、さっきよりも存在感が増している気がする。

 ……だが、なぜ首にかけてあったストールはそのままなのだろうか。

 

「そのストール、お気に入りなんですか?」

 

「まあな。しかし、確かにこれは軽い。そこまで暑苦しくない上に肌触りもいいときた」

 

「お気に召していただけたでしょうか?」

 

「ああ、完璧だキキョウ。これは作るのに時間がかかるのも頷ける」

 

「ありがとうございます」

 

 よかった。実は結構な賭けだったのだ。

 前と同じ形の服を作るとかなりがっかりされることもある。

 

 ──だが、今回はなんとかなったようだ。

 

「これで、あとは客が来るのを待つだけだな」

 

「来るといいんですが」

 

「この俺が一級品を着ているんだぞ。“身なりがいい”って噂されるさ」

 

「それ、ただ張さんの噂が広まるだけですよね?」

 

「だが宣伝にはなるだろ?」

 

「そうかもしれませんが……自分で言ってて恥ずかしくなりませんかそれ」

 

「事実だろ」

 

「そういうとこは羨ましいです」

 

「誉め言葉として受け取っとくよ」

 

 本当にこれで宣伝になるのかは分からないけど、とりあえず私の仕事はこれで一段落だ。

 

「……っと、忘れるところだった」

 

 張さんは先ほどまで来ていた古いほうのスーツから封筒を取り出した。

 

「この服の礼だ。報酬はちゃんと払わなきゃな」

 

「いただけないですよ。色々とお世話になっているのにお金なんて受け取れません」

 

「最初に言っただろ、“タダで服を渡すな”。それは俺相手でも有効だ。何より、この服をタダでもらうのは忍びない」

 

「これは今までのお礼も込めて作ったんです。だから本当に……」

 

「キキョウ。『約束は守らなければならない』、そうだろ」

 

 

 それは、前に私が張さんに告げた言葉。

 

 

 まさかここで言い返されるとは思わなかった。

 

 

 

 

「受け取ってくれるな?」

 

「……ほんと、貴方には敵いませんね」

 

 彼の言葉に、少しだけ微笑みながら呟いた。

 初めて会った日から、この人には色々と負けっぱなしだ。

 いつも一歩手前を行っている。

 

 

 だからこそ、この人の服を作りたいと思ったのかもしれない。

 

「本当に、ありがとうございます」

 

「礼を言うことじゃないさ」

 

「……ですが、やっぱりこんなに受け取れませんよ。せめてこの半分くらいで」

 

「いいから貰っておけ。それに、それが俺のお前への評価だ。素直に受け取ってくれたほうが嬉しいね」

 

 どうやら、ここでは何を言っても無駄のようだ。

 こうなると私が素直に受け取る以外この人の中では選択肢がない。

 

 この人は、私よりも頑固らしい。

 

「分かりました」

 

「それでいい」

 

 根負けし、差し出された封筒を受け取ると張さんは満足げに笑みを浮かべた。

 

「そういえば、着てこられたものは持って帰られますか?」

 

「いや、置いて帰る。もう俺には必要ないものだ。好きに処分してくれ」

 

「分かりました」

 

「じゃ、俺は少し用事があるからもう出る。──ではキキョウ。またいずれ」

 

「はい、またいずれ」

 

 

 

 

 そう言って張さんは満足げな顔のままこの場を去っていった。

 彼の顔を見て少し微笑ましくなったのは、きっと自分が作ったものを気に入ってくれたからなのだと、そう思った。



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15 最高の服を貴方に<張維新side>

「──待たせたな彪。出してくれ」

 

「はい。このまま向かわれますか?」

 

「ああ」

 

 キキョウに仕立ててもらった新しい服に身を包み、待たせていた車に乗る。

 

 ──正直、あいつは逃げるつもりなのかと思っていた。

 服一つに一か月以上かかっているともなれば嫌でも勘ぐってしまう。

 なにしろ、何を作るのかあいつは言わなかった。

 

 だが、こちらから連絡した時も何一つ声の調子を変えることなく『もう少しでできる』と言ってきた。

 

 もし、それが逃げるための時間稼ぎであったなら殺すつもりだった。

 取引を蔑にする奴は嫌いだしな。

 

 もうそろそろ様子を見に行くべきかと思ったときに向こうから『完成した』と連絡が来た。

 

 本当に服を作っていたのか、それともおびき出して俺を殺すつもりなのか。

 どちらにしても俺にとっては愉快なことだ。

 

 家に着いていつものようにドアをノックすれば、さっきまで作業をしていたからなのか、少し髪が乱れているキキョウが出迎えた。

 ちゃんと仕事をこなしていたことが分かり思わず口角が上がった。

 

 そのまま作業場の様子を見渡せば、作業場の端にある白い布を被った人の背丈ほどある“何か”が目に入る。

 服作りについては一級の腕を持ってる人間がここまで当時間をかけて作った服が気にならないはずはなかった。

 俺が素直にそれはなんなのかと尋ねれば、あいつは少し自信がなさげな顔をしながら布を外した。

 

 布が外され現れたのは、スーツ一式と俺が着ているほぼ同じ形のロングコートがあった。

 だが、全然違う代物だと一瞬で理解した。

 

 

 そう、“なにもかもが違う”。

 

 

 一体何が違うのかははっきりとは分からない。

 だが今着ているものとは明らかに何かが違う。

 

 見た瞬間、心の底から『着てみたい』と思った。

 

 着てみてもいいかと問うとキキョウは服をそれぞれ個別に分けてから自室であろう奥の部屋に戻った。

 

 

 個別にハンガーにかけられたものを一通り目をやる。

 コート、ジャケット、ベスト、Yシャツ、ズボン。

 

 これらすべてを一人で作ったとなると時間がかかるもの無理はない。

 寧ろ仕事が早い方だろう。

 

 服を脱ぎ、仕立ててくれたものに袖を通す。

 ──着ようとした時に気付いたが、Yシャツの首のタグ、コートとジャケットの内ポケット、ズボンのベルトを通すと隠れる場所にあいつが残すというあの花のマークが刺繍されていたのが見えた。

 

 着てみると着心地が全然違う。肌触りも軽さも。

 服を見せたとき、あいつはなにか説明していた。

 ……そうだ。『着心地は軽いが重厚感のある見た目』に仕上げたとか。しかも俺の雰囲気に合わせて、とも。

 

 やはり、あいつは洋裁屋として一流なんだと実感させられた。

 あのドレスをもらったという孤児が惹かれた理由も今なら分かる。

 

 あの孤児は女だった。

 女なら尚更『女を引き立てる服』に魅入られるのは間違いないだろう。

 

 そして、今着ている服は俺のために作られた──つまり、『俺を引き立てる服』だ。

 

 あくまでも主役は着る者。

 服はそれを引き立たせる役割であるということをよく分かっている

 

 着ていた服とどっちを取るかと聞かれれば、キキョウの服を迷わず選ぶだろう。

 

 全てに袖を通し、ストールを首にかけ奥の部屋に声をかける。

 奥から出てきたキキョウは、想像以上に似合っていると言ってくれた。

 

 不安そうに気に入ったかと聞くそいつに俺は完璧だと告げれば、安堵したような顔を浮かべお礼を言われた。

 

 そこから少し他愛のない話をしてから報酬を渡そうとしたが、あいつは素直に受け取ろうとしなかった。

『今までのお礼のつもりだから金は要らない』と。

 

 確かに二度銃を下ろし、収納場所を確保し与えたのは俺だ。

 だが、自分から出した条件を自分が破るわけにはいかない。

 以前言われた言葉をそのまま返せば、困ったような笑みを浮かべ『敵わない』と呟いた。

 その後も素直には受け取らなかったが、俺が引かない意思を感じたのか渋々受け取った。

 

 他に用もないので、俺は新しい服に身を包んだままその場を去った。

 

 ──俺は、俺の手の上にあいつを置けていること。

 そして、この街で最初の客が俺ということにどうしようもない優越感を覚えた。

 

 これからあいつの元には必ず人が寄ってくる。

 それほどあいつの作る服にはここでは存在感がある。

 

 それは今対立している“あの女”でさえ引き付けるだろう。

 

 だが、俺には何も問題はない。

 あいつはあのまま服を作り、ただ俺との約束を守ってくれればいい。

 

「ご機嫌ですね大哥」

 

「まあな」

 

「……あの女が気に入りましたか?」

 

「ああ、俺の想像を超えてきやがった」

 

「なら、生かしておくと」

 

「今はな。だが、もし何かしでかしたら他の誰でもなくこの俺が殺す」

 

「……本当に、随分な気に入りようだ。あんまり深くのめりこんじまうと後が面倒ですよ大哥」

 

「それもそれで愉快なことだ。のめり込んじまったら、そのままあいつも引きずり込んでやるだけだ」

 

 あいつの腕も、命も、居場所も、すべてが俺の手の中。

 キキョウが服を作らなくなった時。それは俺が殺した時だけだ。

 

 

 

 

 ──これが、俺とキキョウの間に確かな信頼ができ始めた一九九二年の出来事だった。



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16 洋裁屋の甘さ

 ──張さんに服を渡してから翌日。

 いつものように暇なので、今日は服作りではなく刺繍をすることにした。

 

 手を休めることなく布に糸を通していく。

 

 ふと時計を見ると昼食の時間となっていることに気づき、手を止める。

 

 途端、ドアからノックの音が聞こえた後、「ごめんください」と子供の声が。

 

 何故子供がこんなところにくるのか。

 そう疑問に感じたとき、すぐさまドアの向こうから『服をもらえるって本当ですか?』という言葉が飛んできた。

 

 驚きつつも、このままじゃどうしようもないと思いドアを開けると、そこには一人の男の子が立っていた。

 

「……」

 

「……」

 

 ドアを開けてからしばらくお互い無言だったが、私から子供の目の前にしゃがみ目線を合わせて話しかけた。

 

「……服をもらえるって誰から聞いたの?」

 

「……よく遊んでる女の子から。その子、3か月くらい前にすごく高そうな服を持ってたんだ。それで僕が聞いたら『もらったの』って。どこで貰ったのか教えてもらって、それで」

 

 この子が行っているのは十中八九あの孤児の女の子だ。

 やっぱり言いふらしてたか。

 

「それで? 君は何しにここに来たの?」

 

「僕も、服が欲しいんだ。あの子だけもらえるなんてずるい。僕だって……」

 

「……」

 

 とても素直な子供だ。

 ま、子供はこれくらいが丁度いいのだろうが。

 

「ごめんね。もうタダでなにかをあげるのはできないんだ」

 

「なんで!?」

 

「そう約束したからだよ。ある人とね」

 

 そう、約束だ。

 

 約束は守らなくてはならないのだ。

 

 例え相手が子供であっても。

 

「……なんであの子にはタダであげたの?」

 

「あの子は約束を守ったからだよ。だから、服はあげたんだ」

 

「じゃあ、あの刺繍は!?」

 

 子供は矢継ぎ早に質問してくる。

 なぜ、ここまで必死なのかが分からない。

 

「あれは私が練習として作ったもの。だから何の価値もないと思っていたから渡したの」

 

「でも、あれもものすごく高そうだった!」

 

「それは君の価値観でしょ? 私は『価値がないと思っていた』から渡した。でもね、今は私がそう思っても見返りなく渡しちゃいけないの」

 

「なんで!?」

 

「さっきも言った。ある人と約束したの。『自分が作ったものをタダで渡すな』ってね」

 

「……話が違うじゃないか」

 

「じゃあさ、もし仮に服が貰えるとして君は何をくれるの?」

 

「金ならすぐに」

 

「あ、人から盗むのは無し。『今』の君は何をくれる?」

 

「……」

 

 男の子は俯いたまま黙ってしまう。

 

「あの子は、君みたいにしつこかったよ。けどね、その後あの子は『約束を守った』っていう信頼を私にくれた。だから服をあげた。──もう一回聞くよ。君は私に何をくれる?」

 

 言いがかりだこんなのは。

 これじゃタダであげたと言っているようなものだ。

 

「どうしても、欲しいんです」

 

 私の質問には答えず、というより答えられなかったのか男の子は震えた声で言ってきた。

 

「あのサングラス掛けた黒い人の服が、とてもかっこよかったんだ。僕も、あんな服が欲しい……」

 

 ──サングラス掛けた黒い人。

 その言葉を聞いてある人物が頭に浮かんだが、問題はそれじゃない。

 

「じゃあその黒い人が着てたスーツみたいな服を手に入れるために、君は何をするの?」

 

「……お金を」

 

「人から盗むの? 却下。他は?」

 

「じ、じゃあ自分の体の一部を」

 

「体の一部を売って金を作る? そんな金は嫌だ」

 

 きっとこの子供は金で解決することしか考えられないのだろう。

 こんな押し問答を続けても埒が明かない。

 

 なら、

 

「やっぱりちょっと難しいか。じゃあ一緒に考えよう」

 

「え?」

 

 

 この子ととことんまで相談すればいい。

 

 

「言ったでしょ、タダで渡さないって。だから、金じゃなくていいんだよ。君の何かを取り換えっこする。そうすればタダじゃないでしょ?」

 

「うん」

 

「でも、私は君のこと何もわからないから、君が何を出せるのか考えよう」

 

「……どうして」

 

「さっき言ってたサングラスの黒い人。黒くて長い上着を着てて白いストールしてなかった?」

 

「し、してた」

 

 ……やっぱり。

 翌日でこれとは、流石というかなんというか。

 

「その人が着てた服。私が作ったんだ」

 

「え」

 

「さっき褒めてくれてうれしかった。だから、なにかお礼がしたい。でも、タダで渡すわけにもいかないから、何がいいのか一緒に考えよう」

 

「……はい!」

 

 男の子は満面の笑みで返事をした。

 やっぱり私は子供に甘い。



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17 洋裁屋の甘さⅡ

「──ホントにこれでいいの?」

 

「うん、君くらいのサイズを知ってれば何かと役立ちそうだからね」

 

 悩んだ末、思いついたのはこの子の採寸をさせてもらうこと。

 

 私にはなくてこの子にあるもの。

 それは子供の「サイズ」だ。

 

 子供用の服はあまり作ったことがないので、いい参考になるだろう。

 これからは何が起きる変わらないし、知っておいて越したことはない。

 

 それに、彼にもし何か聞かれたら『相談の結果、私が欲しかったものをくれたのでタダではない』と言えばなんとかなる。

 小言は言われるかもしれないが。

 

「採寸終ったよ、ありがとう。……でも、やっぱりこれじゃ服はあげられない」

 

「そんな」

 

「その代わり、これあげる」

 

 私が出したのは一輪の青いバラが刺繍された布。

 この街に来てから何回か練習したものの中の一つだ。

 

 その布にはバラの他に、私のマークも入れている。

 

「採寸だけじゃね。でも、周りからしたらこれも“高そうなもの”なんでしょ? これじゃだめかな」

 

「……いいよ」

 

 そう言うと、男の子は布を受け取った。

 

「あ、それと一つお願いしていい?」

 

「なに?」

 

「もし、この刺繍の事聞かれたら“洋裁屋が欲しいものをあげたらくれた”っていっておいてくれる?」

 

「分かった」

 

 そう言っておけば大丈夫だろう。

 なにしろ、タダでやったわけではないのだから。

 

 男の子は青いバラが刺繍された布をしっかりと握り、足早にこの場を去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、やはり小さい街だからなのか噂は瞬く間に広まったらしい。

 

 その噂の内容が『望むものを貰う代わりに最高の服を仕立てる』。

 

 最高の服を仕立てる、という部分についてはよくわからないが、まあ上々だろう。

 

 ──その噂とは別に、今ロシアンマフィアと三合会がこの街の利権を巡って抗争中、ということを耳にした。

 だから張さんは一息つく暇もないほど忙しいのだろう。

 

 だが、それは私には関係のない話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

「──軍曹、最近妙な噂があるのを知っているか?」

 

「噂、ですか。特には」

 

「“一級品の服を作る洋裁屋”の話だ」

 

「ああ、そのことですか。それなら聞いたことがあります。なんでも、洋裁屋の欲しいものを渡せば仕立ててもらえるとか」

 

「しかも、三合会のあの男の服を仕立てたという噂もある。そして、その服と洋裁屋をえらく気に入っているともな。……気に食わんな」

 

「は?」

 

「あいつは面白そうな“玩具”を独り占めしている。まるで自分のものだと言わんばかりに。──この街はあいつのモノではない。なら、その玩具を独り占めするのはよくない。たまには、私が遊んでも構わないだろう。何事も息抜きは必要だ」

 

「その通りであります大尉殿。では、さっそく調査にあたります」

 

「居場所が割れたら私が直接出向く」

 

「了解」




とうとうあの方が動きます。


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18 大仕事

『やあキキョウ。どうだ調子は』

 

「普通です。張さんもお元気そうで何よりです」

 

『あれから客はついたのか』

 

「少しだけですけど来てますよ。そのたびに報酬について考えるのが大変です」

 

『それは結構なことだ』

 

 あれから四か月。噂を聞きつけてかお客が来るようになった。

 

 

 

 ──子供に青いバラの刺繍を渡してから一週間後のこと。

 

 その子供の知り合いだという娼婦がやってきた。

 娼婦からは『上品なドレスを』という依頼だった。

 

 「何をくれるのか」と尋ねると、娼婦は札束と化粧道具一式を差し出してきた。

 

 「これが私に出せるもの」、そう言って。

 

 流石に娼婦にとって命である化粧道具全ては受け取れないので、金だけ貰い依頼を受けた。

 まさかこれで依頼を受けてもらえるとは思ってなかったらしく、娼婦は「本当にいいのか」と聞いてきた。

 

 娼婦は元々自分で作った金だけでなく、商売道具すべてを渡そうとしてまで依頼してきた。

 しばらく客が取れなくなるかもしれない、というリスクを覚悟してのことだと思った。

 断る理由がない。

 

 そう伝えると、娼婦はどこか照れ臭そうにしていた。

 

 

 依頼を受けて一週間後、服が出来上がったので予め聞いていた娼婦の家に届けに行った。

 私が作った青色のひざ丈までのパーティードレスを見て、娼婦は嬉しそうに『ありがとう』と言ってくれた。

 

 それからは何人か来たが、たまに冷やかし目的で来た人もいた。

 そういう人は入る前の第一声で茶化すような声を出すのですぐ分かる。

 だからドアを開けず、居留守を使っていた。

 

 勿論、ちゃんと依頼に来る人もいる。

 今はそんな数少ない依頼をこなしながら過ごしている。

 

『な、俺の言ったとおりだろ。“すぐに客はつく”ってな』

 

「まさか、ここまで早いとは思いませんでしたよ。よく目立ちますね張さん」

 

『そう褒めるな』

 

「褒めたつもりはなかったんですが……」

 

『相変わらず冷たいな。ま、そこがお前の可愛いところでもある』

 

「貴方も相変わらず笑えない冗談を仰いますね。ホントに元気そうで何よりですよ」

 

『冗談ではないんだが。──とまあ、世間話は置いといて本題といこう』

 

「はい」

 

世間話に区切りがついたところで、張さんから本題が切り出される。

 

『近々、壮大な“パーティー”が行われる。それは、俺の今後の仕事に関わるほどの一大イベントだ』

 

「それは、大変そうですね」

 

『だが、俺はその“パーティー”に着ていく服がない。折角のパーティーだというのに、いつもの格好じゃ決まらない。──そこでだ。キキョウ、俺にパーティにふさわしい服を作ってもらいたい』

 

 約四か月振りの張さんからの依頼。

 しかも、今度は宣伝のためではない。

 正式な依頼だ。

 

 パーティにふさわしい、となるとタキシードになる。

 だが、これは切り詰めても最低二か月以上ないと作れない。

 しかも他の依頼もあるので更に遅れてしまう。

 

「いつまでに仕上げれば?」

 

『日取りはまだ決まっていない。だが、急に決まる可能性もある。だから、できるだけ早めに頼む』

 

 ……割と無茶な内容だ。

 時間が不確定なうえに、スーツよりも繊細なタキシードの製作。

 普通なら断るだろう。

 だが、相手がこの人だ。私から断る理由がない。

 

「努力はしますが、フォーマルスーツとなると最低二か月はかかってしまいます。なので、年が明けてからのお渡しになるかと思われますがそれでもいいなら」

 

 そう、早いものであと二か月で年が明ける。

 この街の住民はそこまで気にしないのかもしれないが。

 

『……分かった、それで構わん』

 

「ありがとうございます。今回は他に希望はありますか?」

 

『特にない。お前に全て任せる』

 

「分かりました。では、できるだけ早めに完成させますので」

 

『すまないな、やっと客がつきはじめた時に』

 

「貴方の頼みですから。こっちから断れませんよ」

 

『嬉しいことを言ってくれる。では、キキョウ。頼んだぞ』

 

 向こうが電話を切ったのを確認して、通話を終了する。

 これは、のんびりはしていられない。

 

 今依頼があるのは張さん以外で女性二人。

 

 先の依頼を優先させながら張さんの依頼にも手を付けないと間に合わない。

 ──これは、大仕事になりそうだ。



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19 珍客

 約束の納期まであと一か月と半月。

 他の依頼をこなしながら少しずつ手を付けていたので、残りの時間集中してやればなんとかなる。

 

 今日はタキシードに必要な小物を買いに行くため、市場に来ていた。

 いつもなら寄り道するところだが、早く作業を進めるため目当て物以外には目もくれず足早に帰路に就いた。

 

 そうして家の近くまで来たのだが、いつもと違う光景が目に入る。

 

 

 ──なんと、家の前に銃を持った一人の女性がドアに寄りかかり下を向いて座っていた。

 

 

 その女性は赤味かがった茶髪で、恐らく二十歳前後だろう。

 全身汚れていて、疲れているのか目を開けていない。

 

 ……これはこのままそっとしといたほうがいいんだろうか。

 触らぬ神に祟りなし、とも言うし。

 

 …………よし、裏口から家に入ろう。

 意を決し、静かに裏口へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 ──と、家に戻ってから三時間。

 ドアの前にいた女性を放置し、タキシード製作に打ち込んでいた。 

 

 やはり時間がないというのは嫌でも焦りが出てくる。

 だが、焦れば尚更失敗することは目に見えているので、ここで休息を取ろうと手を止めた。

 

 ……ふと、先ほどの女性が気になった。

 あれから時間も経っている。流石にいないだろう。

 一応そのままドアを開けるのも不安なので、裏口から出て様子を見ることにした。

 

 ──結果、女性はまだそこにいた。

 

 もしかして、死んでいるのではないか。

 女性に近づいて生きているか確認する。

 

 間近でみれば、微かだが息をしている。

 ひとまず死んでいないことに安堵する。

 

 問題は、この女性をどうやってここからどかすかだ。

 

 私では人ひとり満足に運べないので、仕方なく声をかけてみる。

 

「あの、大丈夫ですか? 立てますか?」

 

「……」

 

 女性は何も答えない。

 女性の肩を揺らし、声をかけ続ける。

 

「生きてますか? 生きてるなら返事してください」

 

「……」

 

「ここで死なれたら困ります、起きてください」

 

「……」

 

「生きてるのは分かってるんですよ。起きてください」

 

「……あ?」

 

 ここでやっと反応を示した。

 女性はゆっくりと顔をあげ、こちらを見た。

 そして、か細い声で言葉を発する。

 

「……お前、誰だ。さては、私を殺しにきたのか」

 

「あなたこそ誰ですか。勝手に人の家の前で長時間座り込んで。もし私が殺そうとしてたならあなたは今頃天国ですよ」

 

「……このあたしが、天国に行けるかよ。行くとしたら、地獄だろうぜ」

 

 女性は疲れていて気力もないのか、言葉が途切れ途切れになっている。

 

「大丈夫ですか? 立てます?」

 

「……これが、大丈夫に見えたら、あんたの目ん玉は飾りもんだ」

 

「そういう口がきけるってことはまだ余裕ですね。……はあ」

 

 面倒事は避けたいところだが、このまま放っておくわけにもいかないだろう。

 何しろ、このままだと私が集中できない。

 

 

「しっかりしてください。ほら、肩貸しますから」

 

「なに、すんだ」

 

「ここにいられても困るんです。自分で歩けるようになるまで休憩場所を提供しますよ。回復したら出て行ってくださいね」

 

「あんたの、世話になんか」

 

「言っときますけど、これは私のためにやってるので。このままだと気が散るので、早めに立ち去ってもらいたいだけです。他には何もないですよ」

 

「……はあ? 意味が、分かんね」

 

「分からなくていいですよ。あなたはとにかく、回復したら黙ってここから立ち去ってくれればいいんです」

 

 そう言いながら女性の手を自分の肩に回し、引きずるように家の中に入れた。

 引きずるようにベッドへ運び、ボウルに水を溜め濡らしたタオルで女性の顔を拭う。

 

「っ……」

 

「冷たいですか? 少しだけ我慢してください」

 

「なんで、こんなこと」

 

「さっきも言いましたよ。あなたには回復してもらって、一刻も早くここから立ち去ってもらいたいんですよ。そうしないと、私の気が散りますので」

 

「だから、意味わかんね、って」

 

「それ以外何もないんですよ。……今、私は大事な仕事を抱えてるんです。それはとても集中力が伴うものなので、気が散ると手が付けられない。──これは私のためにやっていることで貴女のためじゃない。分かりましたか?」

 

「……偽善は、身を滅ぼすぜ」

 

「じゃあ今すぐここから立ち去って別の場所で野垂れ死んでください。それなら私も集中して仕事できるので」

 

 こうして喋っている間も汚れているところを丁寧に拭く。

 力が入っていないため、首や腕などがとても拭きやすい。

 

「できないなら、黙って休んでてください。いいですね」

 

「……あたしを助けても、なんもでねえぞ」

 

 この人はどうにも疑り深いらしい。

 だが、この街で生き残るためには必要なスキルなのだろう。

 

 それとも、生きてきたから身についたことなのか。

 

 疑り深いなら、ちゃんと質問に答えるだけだ。

 

「何回言わせるんですか。いなくなってくれれば他には何もいらないんですよ。というか、立ち去ってくれることが私の望みなのでそれが報酬? みたいなものです。他に何か質問ありますか」

 

「ほんと、に、意味が、わかん……ね」

 

 気力を使い果たしたのか、女性は目を閉じて寝息を立て始めた。

 起こさないように、他にも汚れているところをタオルで拭う。

 身体が綺麗になったところで、彼女が握っていた銃をそっと手に取りテーブルに置いた後、起こさないようにベッドカバーを掛けた。

 

 寝ている彼女の顔立ちは中国系。

 可愛いらしい顔立ちをしているのに、あの口の悪さはもったいない。

 

 女性の寝顔を見ながらそう思った。

 

 この調子なら今日は起きないだろう。

 私はタオルとボウルを片し、手を洗った。

 

 

 

 

 

 

 ──作業を開始してから更に時間が経ち、外はすっかり暗くなっていた。

 

 今日はここで切り上げ、裁縫道具や布を片付け自室に戻る。

 

 ベッドに横たわる彼女は目を覚ます気配がなく、静かに寝息を立てている。

 よほど疲れていたのか、本当に一回も起きてこなかった。

 “何か”があってあんなところに座り込んでいたのだろうが、気にしたところで仕方がない。

 

 早く起きて、ここからいなくなってくれればそれでいいのだから。

 

 寝ている彼女を横目に夕食を終えた後シャワーを浴び、床にシーツを敷き目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

 ──翌日。いつも通り六時に起床し朝食を摂る。

 その間も彼女は目を開けなかった。

 起こしてもよかったのだが、寝ているところを邪魔して機嫌が悪くなられたら面倒だと思いそのままにしている。

 寝起きが悪い人間は、他の誰かに睡眠を邪魔されることを非常に嫌っているために不機嫌になる。

 こういう時は、自然と起きてくれるのを待つしかない。

 

 さて、今日もタキシードの制作だ。

 雑な仕事をすると礼服とは呼べないものになってしまうので、集中して取り掛かる。

 

 ──そこから一度も手を休めることなく作業を進めれば、お昼の時間を過ぎていた。

 時間を意識するとお腹が空いていたことにも気付く。

 昼食を食べようと自室に戻った時、ベッドに横たわっている彼女が眠りから覚めようとしていた。

 

「ん……」

 

「起きましたか」

 

「んあ……」

 

「寝る前の事覚えてますか?」

 

「……ああ」

 

 彼女は意識がはっきりしてきたのか、ちゃんと返事をしてくれた。

 ずっと眠っていたからか、声が掠れてしまっている。

 

 そんな彼女に水が入ったコップを差し出す。

 

「貴女、あれからずっと寝てたんですよ。よほどお疲れだったんですね」

 

「……てめえには関係ねえ」

 

「人の家の前で座り込んでおいてよく言いますよ。ま、確かに関係ないんですが。……水、いらないんですか?」

 

 

促しの言葉に彼女は黙ったままコップを受け取り、乾いているであろう喉に水を一気に流し込んだ。

 

 

「はぁッ」

 

「いい飲みっぷりです。見てて気持ちいいですよ」

 

「……うるせ」

 

「おかわりいります?」

 

「…………ん」

 

 もう一杯と言わんばかりに空になったコップを差し出してきた。

 そのコップを受けとり、水を入れて彼女に渡した。

 

 今度は一気ではなく少しずつ飲み始めた。

 

「なあ、あんた」

 

「はい?」

 

「なんであたしを」

 

「仕事に集中できないから、と何回か言いましたよ。お忘れですか?」

 

「気にしなきゃよかっただろ」

 

「家の前に死にかけてそうな雰囲気の女性が座り込んでいたらここの住民でも気にしますよ。“家の前で死なれたら邪魔だなあ”って。だからこれは偽善でもなんでもない。私の仕事のためです」

 

「……そうかい」

 

 女性は納得はしていないだろうが、口では理解したような返事をした。

 

「それほど喋れるってことは大分回復したようですね。立てるようなら、ここから去ってもらえるとありがたいです」

 

「ああ」

 

 コップの水を飲み干し、ベッドから降りるとそばに置いていた銃を持った。

 その銃をこちらに向けることなく、今度はしっかりと自分の足で裏口のドアへ歩いていく。

 

「世話になったな」

 

「ほんとですよ。もしまた会える時があれば、次はもっと元気な姿で会いたいですね」

 

「お互い生きていればな。……次、会った時は名前くらいは聞いといてやるよ」

 

「じゃあ、その時貴女の名前教えてくださいね。とりあえず、今はお互いのことを何も知らないままで」

 

「ああ」

 

短く返事をすると赤味かがった茶髪の女性は、裏口のドアからこの家から去っていった。



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20 珍客<女性side>

 ──本当にただの偶然だった。

 

 

 

 ニューヨークからこの街にきて半年が経ち、やっと慣れてきた。

 

 ここはスラム街にいた時よりもクソみたいな匂いがする。

 

 だが、どんな場所だろうとあたしの銃が的を外すことはねえ。

 そう思い込んでいた。

 

 数日前、酒場で一人で飲んでいた時、酔っぱらった男が絡んできた。

 めんどくさいから殺してやった。

 更にめんどくさいことに、その男はこの街のチンピラたちの仲間の一人で、その仲間たちは男を殺されたことに腹を立てあたしに銃を向けてきた。

 

 だから、あたしもそいつらに何発かお見舞いしてやった。

 その場はそれで済んだ。

 だが、それ以外にも仲間がいて、そいつらはしつこくあたしを追ってきた。

 

 この街の構図は相手の方がよく知っている。

 逃げても必ず追いつかれて、その度に相手を撃って……。

 

 仲間の死体が多く積み上がった頃、あいつらはあたしに敵わないと思ったのか、追っては来なくなった。

 だが、その頃には流石に体力の限界がきていて、視界が歪み、立つことさえままならなかった。

 

 ……こんな状態で襲われたら、きっと死ぬだろうな。

 そんなことを思いながら、人が来なさそうな通りでしばらく休もうと座り込んだ。

 

 

 座り込んでから、いつの間にか寝ていたらしい。

 誰かがあたしの肩を揺らしながら声をかけてきていた。

 

 

 

「生きてるのは分かってるんですよ。起きてください」

 

 

 

 女の声だった。

 一瞬、自分は死んでいるのかとも思ったがそうではないらしい。

 

 あたしが反応を示すと、女は少し安堵していた。

 

 こいつは一体誰だ。まさかあいつらの仲間か。

 

「私を殺しに来たのか」

 

 そう尋ねると、「そのつもりなら、今頃あなたは天国ですよ」なんて言いやがった。

 あたしが天国にいけるかよ。行くとしたら地獄だ。

 

 そうこうしている内に女はあたしの手を肩に回してきた。

 何をしているのかと聞けば、「邪魔だから回復するまでここに置いといてやる。だからさっさと出て行ってほしい」なんてぬかしやがった。

 

 あたしは誰の手も借りねえし、世話にもならねえ。

 ずっとそうしてきた。

 だからあんたの世話にはならない。

 

 そう言うと、「このままだと気が散るから」と返してきた。

 ……意味が分からない。

 話している内に、抵抗する気力もなく中に引きずられていった。

 

 どうやらあたしはこの女の家の前に座り込んでいたらしい。

 自室であろう部屋のベッドに下ろされ、濡れたタオルで顔を拭いてきた。

 

 ──冷たい。けど、それが妙に心地よかった。

 

 意識が朦朧としている中、見ず知らずのアタシを甲斐甲斐しく世話する女に「偽善は身を滅ぼす。助けても何も出ない」と、馬鹿にするように言ってやった。

 

 だが、そいつは怒るでも呆れるでもなく「出て行ってくれればいい」、「ただそれだけだ」とアタシの鼻にかけるような言葉を気にする様子もなく、淡々と返された。

 

…………本当に意味が分からない。

 

そこで、あたしは意識を手放した。

 

 

 

 ──あれからどれくらい眠っていたのか。

 女はあたしが目覚めたことを確認すると、水の入ったコップを差し出してきた。

 

 そこで初めて女の顔をちゃんと見た。

 

 東洋人の顔つき。

 黒い瞳。

 

 地味だが妙に整っており、美人だともてはやされそうな顔だった。

 

 あたしが受け取らずにいると、女が見かねて「飲まないのか」と聞いてきた。

 

 何か入っているのかと疑ったが、この女が殺そうとしていたならとっくに殺されていた。

 だから、今更そんなことはしないだろうと思った。

 

 それに、ずっと寝ていたせいか喉が渇いた。

 目の前に出された水を受け取り、一気に飲み干した。

 

 喉を通る水が渇きを潤す。

 その感覚がまた心地よい。

 

 もう一杯いるかと聞かれたので、ありがたく貰っておく。

 

 その水を片手に、あたしは尋ねた。

 

「なんでこんなことをしたのか」

 

 すると女は、寝る以前にも言ったようなことを言った。

「家の前にいると邪魔だ。あのままだと気が散って仕事ができない。だからお前のためではなく、私のためにやったことだ」と。

 

 ……相変わらず意味は分からない。

 だが、これ以上同じことを聞いてもきっと同じ回答しか返ってこない。

 だからそれ以上は聞かなかった。

 

 体力も少し回復し、自力で立てるようになった。

 もうここにいる必要はない。それに、これ以上世話になるわけにも。

 

 世話になった、もし次会うときは名前を聞いておくと告げれば、女は「なら、今度は貴女の名前を教えてほしい」と言った。

 

 今は何も知らなくていい。

 

 お互い、何も知らないほうが得なんだと理解していた。

 

 ──他人の便器を覗く奴は嫌われる。

 

 そして、あたしはそこから立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 ──もし、あいつが何かしてきたら殺すつもりだった。

 

 

 銃を持った瞬間、頭を撃ちぬこうかとも考えた。

 

 あいつが他の連中と絡んでいる可能性もあると思ったから。

 

 だが、少なくとも一時世話になった相手だ。

 なら、こちらから銃を向けることはしない。

 

 その後特に何かをするわけでも、追ってくるわけでもなく、本当に出て行ってほしかっただけなんだと、そう理解した。

 

 本当にもし次会える時が来たら、せめてこの銃をこっちから向けることはしないようにしよう。

 あたしには、それしかできないから。




洋裁屋、ここで原作のヒロインと出会う。


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21 新たな依頼人

 張さんのタキシード製作に打ち込んで早一か月。

 あと半月で完成させなければならない。

 

 一着だけに集中できているおかげか、作業は順調に進んでいる。

 集中して作業を続けていると、作業場の隅でつまんなそうにしている女性が声をかけてきた。

 

「ねえキキョウ。その服は一体どこのボーイフレンドにあげるのよ?」

 

「話しかけないでって言ってるでしょアンナ。今集中してるの」

 

「そんなこと言ってずーっと休んでないじゃない。たまには息抜きも必要よ。それに、もうご飯の時間じゃないの?」

 

「……はあ」

 

 私に話しかけてきたのは、約二週間前からよくここに遊びに来るようになった女の子だ。

 その女の子は、自分の化粧道具を全て渡そうとした、あの娼婦。

 

 名前はアンナ。

 褐色の肌と腰まであるウェーブがかった黒髪が特徴的だ。

 

 アンナは私の服を相当気に入ってくれたらしく、お礼を言おうとわざわざ家まで来てくれたのだ。

 その時の私の顔は相当酷かったらしい。疲れ切ってやつれていたとアンナから聞かされた。

 

 そこからも何度か様子を見に来てくれており、他愛もない話をしたりご飯を一緒に食べたりしている。

 

「あのねアンナ、この服を早く仕立てないと約束の日までに間に合わないかもしれないの。だから悠長なこと言ってられない」

 

「でもそれで倒れちゃったら間に合うもクソもないわよ」

 

「こういうのは慣れてるから大丈夫」

 

「それはそのやつれた顔をどうにかしてから言って。はい他に言うことは?」

 

「……」

 

「じゃ、ご飯食べよ」

 

 一体何度この会話をしただろうか。

 私がこの手の会話でアンナに勝てたことはない。

 

 自室に入り、アンナと自分の昼食を用意する。

 と言っても、私が作るのは手軽に済ませられるサンドウィッチ。

 

 パンにハムやチーズ、レタスを適当に挟んだもの。

 二つの皿に乗せた後、コップにミルクを注ぎテーブルへと運ぶ。

 

 ニコニコと座って待っているアンナの前に置き、向かい合うように座る。

 

 誰かと食事をとるのは久しぶりだ。

 この空間は、嫌いじゃない。

 

「それで? キキョウに無茶なお願いをしてきたのはどんな色男なのよ」

 

 サンドウィッチを食べながら、ニヤニヤした顔で聞いてきた。

 手を止め、思わず呆れた声音を出す。

 

「……またその話?」

 

「だって教えてくれないじゃない」

 

「他のお客さんのことは言わないようにしてるの。色々めんどくさいし」

 

「つれないわね。いいじゃないちょっとくらい」

 

 まるで幼い子供みたいに頬を膨らまし、不満そうな顔を浮かべている。

 そんな顔も可愛いと思ってしまっているのだが。

 

「お世話になってる人。以上」

 

「どんな人なの!?」

 

「これ以上は答えないよ」

 

「ケチ」

 

「ケチで結構」

 

 言葉を交わしながら再びサンドウィッチを食べ進めていると、アンナがまたニヤニヤしながらこっちを見ていることに気が付いた。

 

「……何?」

 

「キキョウはその人の依頼なら無理でも受けちゃうんだなぁって」

 

「まあ、ね。お世話になってるし」

 

「ふうん」

 

「……その顔をやめなさい」

 

 ずっとニヤニヤされるのはいい気分じゃない。

 その顔をやめさせたくてアンナの頬を抓る。

 

「いひゃいよぉ」

 

「何を考えてるのか知らないけど、そのニヤニヤはいい気分しない」

 

「ごめんなひゃい」

 

「分かったらさっさと食べて家に戻りなさい。私も忙しいんだから」

 

 抓るのをやめ、残りのサンドウィッチを食べ始める。

 アンナは抓られた部分をさすり、涙目になっていた。

 

「ひどいわ。乙女の顔を抓るなんて」

 

「なら抓られるような顔をしないで」

 

「むう」

 

「ほら、不貞腐れてないでさっさと食べて」

 

 そういうと、不満そうな顔のまま食べ始めた。

 

 先に食べ終わり、食器の片づけをする。

 アンナもやっと食べ終わったようで皿を持ってきてくれた。

 

「じゃ、家に戻りなさい。気をつけて帰ってね」

 

「うん。じゃあキキョウ、今度はもっとゆっくり話しましょ」

 

「半月ほど後じゃないと、ゆっくりはできないかな」

 

「……無理しないでね」

 

 アンナは心配そうな顔で私を気遣ってくれている。

 年下に心配されるなんて少し恥ずかしい。

 

「ありがとう。アンナも無茶なことはしないで」

 

「うん。……またね」

 

 アンナは最後にそう言って、少し不安そうな顔を見せながら帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──アンナが帰ってからもずっと作業を続けていると、気が付けばもう夕方になっていた。

 

 あの子に言われた通り、少し無茶しているのかもしれない。

 そう思い休憩しようと作業していた手を休める。

 

 自室に行き、乾いた喉に水を流し込む。

 作業場へ戻り続きをしようとした瞬間、ドアからノック音が聞こえてくる。

 

 

 

 ノック音が聞こえるときは自分から声をかけず、向こうの声が聞こえるまで出ないようにしている。

 少し間を置いた後、向こうから声が聞こえてきた。

 

 

 

「洋裁屋はご在宅かしら? もしいらっしゃるなら開けてくださると嬉しいのだけれど」

 

 

 

 芯のある女性の声だった。

 それはドア越しでもはっきり伝わってきた。

 

 だが、何の用件でここに来たのかは分からない。

 依頼じゃない場合もあるので、念のため確認する。

 

「ご用は何でしょうか? おっしゃっていただければ、内容によってですがお開け致します」

 

「あら、用心深いのね。ここに来る用件は限られていると思うのだけど?」

 

「……念のためです。あなたの口からお聞かせください」

 

「“依頼”よ。開けてくださるかしら?」

 

 どうやら、この人は冷やかしではなさそうだ。

 

 女性の言葉を聞いてドアを開ける。

 ──そこには、長いブロンドの髪を一つ結びにした顔に火傷の跡のある白人の女性と、後ろには顔に切り傷が刻まれた屈強な男性がいた。




ここでオリジナルキャラ&我らが姐御のご登場です。


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22 交渉、そして……

「こんにちは。どんな人かと思えば、結構かわいい顔してるのね」

 

 私の顔を見るなり女性が口の端を上げながら軽い挨拶の言葉を口にする。

 男性はただ黙ってこちらを見ているだけ。

 

 目の前の二人の異様な雰囲気に、ほんの少し違和感を覚える。

 冷やかしではない。だが、服を仕立ててほしいという雰囲気でもない。

 

「依頼、なんですよね」

 

「ええ」

 

「……すみません。今諸事情により依頼は受け付けてません。だから」

 

「話を聞いてくれるだけでもいいの。中に入れてくれないかしら?」

 

 話を聞いて依頼を受けるかどうか決めてほしいということか。

 少なくても、ちゃんと話をしようとする気はあるようだ。

 

 何か言っても帰ってくれそうにないので、ひとまず二人を中に招き入れる。

 

「散らかっててすみません。作業してたものですから」

 

「構わないわ」

 

 会話しながら椅子を二人に出そうとすると、男性は「自分は結構ですので」と丁寧な口調で断った。

 女性だけに椅子を出し、相手が腰かけたのを見てから向かい合うように自身も座る。

 

 ──何故か、この女性を見ると妙な緊張感を帯びてしまう。

 なにか見定められているような。

 

 心なしかどこか張り詰めたような空気を肌で感じながら、女性の顔を見据え口を開く。

 

「依頼ということですが現在別件を抱えてまして。受けるとしても、その別件を済ませてから貴女の依頼品を製作することになります。お急ぎの場合でしたら、別の方に頼んだほうがよろしいかと」

 

「その別件というのは、あのタキシードの事かしら?」

 

 女性は製作中のタキシードを指さした。

 

「……はい」

 

「あのタキシードは、誰に作ってるのかしら?」

 

「それはお答えできません。他の依頼者については、答えないようにしておりますので」

 

「ふうん。……ま、いいわ。では、こちらの話を聞いてくださるかしら?」

 

 女性はタキシードから私へ視線を移し、静かに話し始めた。

 

「私、最近“ある男”と喧嘩しててね。私もあの男も譲れないものがあってそうなっちゃったんだけど」

 

「はあ」

 

 男女の痴話喧嘩? この女性が相手だったら男が負けそうだ。

 

「けど、最近面白いことを聞いたのよ」

 

 女性は口元をニヤリと歪めながら話を続ける。

 

「その男、お気に入りの玩具が見つかったとかで浮かれているらしいのよ。……私と喧嘩中にも関わらず、ね。しかも、その玩具は自分のものだと言わんばかりに玩具の付属品を持ち歩き、周りに見せつけている」

 

 いい年こいた男性がお気に入りの玩具の付属品を持ち歩いている?

 それだけ聞いたら変な話だ。

 

 黙って話を聞いている私から目を逸らさず、女性は話し続けた。

 

「私としてはそれが面白くない。だから、その男を夢中にさせたその玩具で遊んでみたくなったの。

──そう、あの男が気に入っている玩具でね」

 

「……何の話ですか」

 

 本当に何が言いたいのか分からない。

 女性は私の質問には答えず、口元を歪めたまま。

 

「それで、やっと見つけたのよその玩具を。……でも、その玩具は私とは遊ぶ余裕がないと言ってきたわ」

 

 わざとらしく肩を竦めたような仕草を見せる。

 ……もしかして、玩具というのは人の事なのだろうか。

 

「しかも、その玩具はあの男だけが持てる付属品を生み出していて、それで遊べないんですって。ロシアでも、そんな扱いを受けたことは滅多にないわ。ましてや、たかが玩具如きにね」

 

 ──ロシア?

 

「ロシアから、来られたんですね」

 

「ええ。この街を支配下に置くためにね」

 

 彼女の言葉で目の前の人物が何者なのか想像がついてしまう。

 

 今、この街の利権を争っているのは三合会とロシアンマフィア。

 そして、この女性はある男と喧嘩中だといった。

 

 

 ここまでくれば、もう答えは一つしかないだろう。

 

 

「ねえ洋裁屋さん。この街を支配下に置くために戦っている相手が持っているのに、私が持っていないなんてそれは不公平だと思わない?」

 

「……」

 

「私にも、“誰もが目を引く服”を作ってくれないかしら?」

 

「……あなたなら、今のままでも十分目を引いていますよ」

 

 鋭い目つきでこちらを見る女性の顔を逸らすことなく告げる。

 

「あなたの言う“誰もが目を引く”服というのは、私には作れませんよ」

 

「随分謙遜するのね。自分の噂をご存じないのかしら?」

 

 噂とは、きっと張さんの服を作った時に出回ったもののことを言っているのだろう。

 

「たかが噂に過ぎません。私は、ただの洋裁屋です」

 

「そのたかが噂もあながち間違っていないことだってあるのよ。私はそれを確かめに来ただけ」

 

「あなたが何者かは存じませんが、たかが一人の洋裁屋の事なんてこの街じゃ気にも留めることではないでしょう」

 

「そう、ただの洋裁屋ならね。でも、その洋裁屋はあの男のお気に入りだと噂されている。使えるものがあれば何でも使う。そうしないと勝てない相手よ。──それにあなた、私が誰なのか予想ついているんじゃなくて?」

 

「……」

 

 分かるように言ったくせに。

 悪態をつくように心の中でだけ呟く。

 

「ま、今後付き合うこともあるだろうから、一応自己紹介はしておきましょうか。──ホテル・モスクワでタイ支部を任されているバラライカよ。あなたは?」

 

 ……できれば会いたくなかったな。

 そう思いながらも、何とか目だけは逸らさず自身も名乗る。

 

「洋裁屋、キキョウです」

 

「よろしくキキョウ。……さて、キキョウ。私にも、あの男が気に入ったというその腕、見せてもらえないかしら?」

 

 今までの言い草からして、本当は依頼しに来たわけではないのだろう。

 

 面白そうだから遊びたいだけ。

 恐らくそんなところだ。

 

 

 ──それにしても、玩具呼ばわりされるとは思っていなかった。

 

 どうしようか悩んでいると、黙っている私が気に入らなかったのか固さを帯びた声を発する。

 

「もしかしてあの男に世話になっているから受けれない、と言うつもりかしら?」

 

「それはないです。……Ms.バラライカ」

 

「なあに?」

 

 意外と私は気が立っていたらしい。

 散々人のことを玩具呼ばわりしといて、素直に依頼を受けると思っているのか。

 

 だが、ここで無下に依頼を断って銃を向けられるのも御免だ。

 

「先程も言った通り、今別の依頼を抱えていてそちらを優先させるため現在依頼を断っています。……ですが報酬によっては、依頼を受けるかどうか考えさせていただきます」

 

「ほう」

 

 “お前にも相手を選ぶ権利がある”

 

 あの人がそう言ってくれた。

 

 

 

「“あなたは、私になにをくれますか?”」

 

 

 

 依頼を受けるか受けないかは私が決める。

 あんたじゃない。

 

 そう意味を込めて問いかける。

 すると、バラライカさんは愉快だというように口元を歪めた。

 

「なにをくれるか、ね。その言い方だと、お金が目的ではないように聞こえるけど」

 

「勿論お金でも結構です。ですが、それで私があなたの服を作ろうという気になるか。それが問題なんですよ」

 

「つまり、服を仕立てるのはあなたの気分次第ということね」

 

「そういうことです」

 

 お互い目を逸らすことはなかった。

 

 

 もはや、これは私の意地だ。

 ここで引き下がってたまるものか。

 

 

「……ハッ。私と駆け引きしようとする奴は久しいな。とても愉快だ」

 

 

 先程までとは違う口調で呟いた。

 ──次の瞬間、唐突にバラライカさんが腰を上げ、抵抗する間もなく胸倉を掴まれて引き寄せられた。

 目の前には、鋭くとがった氷のような表情を浮かべた顔。

 

「威勢だけは褒めてやろう。だが、それだけではこの街を生き抜くことは難しいぞ」

 

「そう、でしょうね」

 

「では何故、お前は私にそんな強気な態度を取れる。私はいつでもお前を殺せる立場にあることは分かっているだろう」

 

「……確かに、あなたは私を殺すことなんて造作もないでしょう」

 

 人は頭に血が上ると恐怖を感じにくくなるらしい。

 胸倉を掴んでいる彼女の手の手首を掴み返し、言葉を続ける。

 

「私はね、もう誰かに振り回されるのはご免なんですよ。ただそこにある力に怯え、何もせず、ただ後悔するばかりの生活を送るくらいなら死んだほうがマシだ。……貴方はそんなことかと思うかもしれない。けど、私にとってそれは“命よりも大事なこと”なんですよ」

 

 手首を掴んでいる手に力が入る。

 

 

 そう、後悔するぐらいなら死んだほうがマシだ。

 

 こんなことで、負けてたまるか。

 

「Ms.バラライカ。これが、あなたの答えですか?  この力による脅し、それが私にくださるものなんですか」

 

「……」

 

 バラライカさんは黙ったまま何も答えない。

 

 こんなに長く喋るのは慣れてないせいか、少し呼吸が乱れた。

 呼吸を正しながら、私はバラライカさんが口を開くのを待った。

 

「……ハッ」

 

 しばらくたった後、彼女の口から息が漏れる。

 その瞬間、作業場にバラライカさんの甲高い笑い声が響いた。

 

「ハッハッハッハッハッハッ!!」

 

 突然の笑い声に驚き、頭に血が上ったことを忘れる。

 

 ……なんか、前にもこういうことがあったような。

 なんなんだ。マフィアはちょっと言い返したら笑う癖とかがあるのか。

 

 何がそんなに面白かったのか、しばらく笑っていたがようやく収まったようだ。

 そこで胸倉をつかんでいた手を緩められる。同時に自身もバラライカさんの手首を掴んでいた手を離す。

 

「フフッ。中々骨があるじゃない。成程、あの男が気に入るのも分かった気がするわ」

 

「はあ」

 

 彼女の顔は、冷たい表情とはうって変わって微笑の表情に戻っていた。

 

「そうそう。依頼の報酬の件だけど」

 

「え。結局、依頼されるんですか?」

 

「ええ、丁度入用だしね。それに、私もあなたのこと気に入ったわ。あなたが作る服がどんなものか、見てみたいと思ったの」

 

「……なにか気に入られるようなことしましたっけ?」

 

「フフッ」

 

 バラライカさんは笑うだけで、私の質問には何も答えなかった。

 

「話の続きといきましょうかキキョウ。私たち、表向きは貿易会社を経営してるの。だから、なにか欲しいものがあればこっちで世界各地から取り寄せることも可能よ。三合会よりは、物資に関して頼りがいがあると思うわ。それに、私たちが勝っても今の暮らしは保証してあげる」

 

 ……これは、どうしたものか。

 どちらの組織が勝っても私の物資調達には困ることはない。

 更に今の暮らしが脅かされることもない。

 

 だが、今張さんにパトロンとなってもらった時に出された条件と全く一緒とは。

 これはこれで問題な気がする。

 

「商売するならいくらか保険は必要よ。その“保険”になってあげる。これではダメかしら?」

 

 こちらの懸念を察してか、一言付け加えられる。

 

 確かに、バラライカさんの言うことも一理ある。

 張さんはまだこの街を完全に支配していないのだ。

 

 そして、張さんがいなくなった後、私には後ろ盾がいなくなる。

 そうすると、私がこの街で洋裁屋として生きていくのは難しい。

 

 ──もし張さんが彼女に負けてしまった後、私がこの街でこれからも洋裁屋として生きるために必要な“保険”として、これ以上の相手はいないだろう。

 

だが、

 

「一つ、いいでしょうか」

 

「なあに?」

 

「このことを、張さんに相談してもいいでしょうか」

 

「……あら、なんで?」

 

「どんな形であれ、あの人は今、私を洋裁屋としてここにいさせてくれている人です。でも、貴女はあの人の……謂わば敵です。そんな人を勝手に保険にするなんて、私にはできません」

 

 そこがどうしても気がかりだった。

 なんだか、恩を仇で返している気がするのだ。

 

「律儀なのね」

 

「相談といってもほとんど報告に近い形で連絡します。服を作ることには反対しないと思いますので、もし駄目だった場合は、別の報酬をいただくということでいかがでしょうか」

 

「……ということは、私の依頼受けてくれるのね」

 

 あそこまで駆け引きした相手で、尚且つ報酬として保険になってくれるというのだ。

 断る理由がない。

 

「はい、Ms.バラライカ。あなたの依頼、承りましょう」




<バラライカ>
喧嘩中なのに洋裁屋如きに現をぬかしやがって→どんなやつなんやろか→面白そうだからちょっかいだしてやろ→なんか駆け引きしてきたわ→あら、意外と骨あるじゃない→気に入ったわ。


<キキョウ>
なんか怖い人きた→玩具呼ばわりしやがって。むかつくわ→その気にさせてみろや→脅しにはのらんぞ→なんか気に入られたわ


こんな感じ…?


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23 採寸する際の心がけ

「──ドレス、ですか?」

 

「ええ。盛大な“パーティー”には、それなりの格好をしないといけないでしょ」

 

 どんな服が欲しいのか尋ねたところ、パーティーに着ていくドレスが欲しいとのことだった。

 

 女性用のドレスを作るのは好きだ。

 自分が女だからということもあるのかもしれないが、男物よりも勝手がわかるため比較的イメージしやすい。

 なにより、ドレスを着た女性はとても魅力的だ。

 

 

 さて、ドレスを作るとなるとその女性の正確な体のラインを知っておく必要がある。

 そのためには、ヌードサイズの採寸を行わなければならない。

 だが、採寸といえども他の人に触れられたり見られたりすることに嫌悪を示す人もいる。

 

 

 特に女性は。

 だから、必ず許可を得てから採寸を行う。

 

「バラライカさん」

 

「なあに?」

 

「ドレスを作るとなると、その女性に対して細かい採寸を行う必要があります。そのため採寸の際、今着ているものを脱いで、下着姿になっていただきます」

 

「……」

 

「私が聞きたいのは、そのような採寸を行っても大丈夫かということです。触れられたり、見られたりすることに嫌悪を感じる場合、こちらから無理やり採寸するわけにはいきませんので」

 

「なんだ、そんなこと? 別に構わないわよ」

 

 バラライカさんは私の質問にすぐ答えてくれた。

 

 採寸に対して許可をもらえたことで仕事が進む。 

 

「ありがとうございます。では、早速採寸を行いますがよろしいですか?」

 

「ええ。──軍曹、外で待機していろ」

 

「は、失礼します」

 

 あ、そうだった。あの男の人もいることをすっかり忘れていた。

 

 自分のことで精一杯だったのだ。

 忘れてしまうのも仕方ない。決して彼の影が薄かったとかではない。

 

 軍曹と呼ばれた男が出ていくと、バラライカさんは羽織っていた上着を脱いでいた。

 私はその上着を受け取り、ハンガーにかける。

 

 上着の下に着ていた濃い紅色のスーツを次々に脱いでいく度に、私は脱いだ服をハンガーにかけるということを繰り返した。

 

 人にじろじろと見られるのはいい気分ではない。

 それにそういうことをするのは依頼に来た人に失礼だ。

 

 だから、できるだけ体を見ないように意識した。

 

 ──一瞬見ただけなのだが、バラライカさんのスタイルがとてもいいことに気が付いた。

 女性なら誰でも憧れる、出ているところは出ていて、引き締まっているところは引き締まってる体型だ。

 

 ドレスを着たら、本当にすごく魅力的になるのだろう。

 

 そう思いながら、採寸するためメジャーとペン、メモ帳を取り出し準備は完了だ。

 

 「では、採寸していきます。私は細かく測るので少々不快になるかもしれません。その時は言ってください」

 

「ええ」

 

「では、失礼します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──以上で採寸は終わりです。すみません、長々と付き合わせてしまって」

 

「これくらい構わないわ」

 

 採寸が終わり、ハンガーにかけてる衣服をバラライカさんに渡す。

 露になっていた肌がまた赤い衣服に包まれていくのを確認し、完成したら連絡することを告げた。

 

 連絡先を尋ねると、胸ポケットから名刺を出してきた。

 

「何か用がある時はここに連絡してちょうだい」

 

「分かりました。あとすみません、もう一つ」

 

「何かしら」

 

「何かドレスに希望はありますか? 色とか、形とか」

 

 服を頼んでくる人はなにかしらこういうものが欲しいという希望が少なからずある。

 ドレスとなると多種多様な形があるため、何でもいいと言われてしまうほうが困る時もある。

 

「そうねえ。……動きやすいドレスを作ることはできる?」

 

 動きやすいドレス。

 バラライカさんに似合うのはタイトなロングスカートだ。

 その形を崩さずに動きやすさを求めるとなると、

 

「そうなりますと、スカートの裾にスリットを入れると大分動きやすくなります。片足を露出するものになりますが、それでもよろしければ」

 

「ならそれで。あとはあなたにお任せするわ」

 

「分かりました。今からですと二か月以上はかかってしまいますがよろしいですか?」

 

「できるだけ早めにお願い。いつパーティーが行われるかまだ決まってないから」

 

 日取りが決まってないパーティー。

 そういえば、張さんも同じことを言っていた。

 

 ……考えるのはよそう。私がするべきなのは依頼をこなすこと。今はそのことに集中しよう。

 

「少しお待たせするかもしれませんが、できるだけ早めに届けられるようにします」

 

「ありがとう。連絡待ってるわ」

 

 帰ろうとしてドアに向かったので、慌ててドアを開ける。

 

 玄関の横に軍曹と呼ばれた男が立っていた。

 その男に「帰るぞ」と声をかけると、男の人はバラライカさんの後を着いて行く。

 

「気を付けてお帰りください。」

 

「ええ。じゃあね、キキョウ」

 

 微笑みを浮かべながら告げると、バラライカさんは男の人をつれて去っていった。

 

 少し離れるまで見送り、ドアを閉めた。

 椅子に腰かけ、詰まっていた体の中の空気を抜くように息を吐いた。

 

 まさか、ロシアンマフィアが依頼に来るとは思ってなかった。

 たかが一人の洋裁屋にそこまで興味を持つものなのか。

 ……まあ、私が考えたって無駄なことだな。

 

 ともあれ、殺されずに済んでよかった。

 後悔したくないが、死にたいとも思っていない。

 ただ、殺されるなら後悔せずに死にたいと思っているだけなのだ。

 

 他の人は、これを“死に急いでいる”と言うんだろうな。

 

 本当に、なんで殺されないのか。

 自分ではわからない。

 

 これも考えただけ無駄か。

 

 さて、バラライカさんの依頼でもう一つ済ませなければいけない用件がある。

 考えることをやめ、作業台の上に置いておいた携帯を手に取りある番号にかけた。




きっと、バラライカさんの体は腹筋割れてて引き締まってるナイスバディだろうと妄想しました(変態)。

女性が憧れるナイスバディ。…私もそうなりたい人生だった。


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24 報告

『──で、依頼を受けたと?』

 

「はい」

 

 電話の相手は勿論張さんだ。

 バラライカさんの依頼を受けたこと、報酬として保険になってもらうことを話した。

 

 少し間をおいて、ため息のような音が聞こえてくる。

 

『別に依頼を受けるのは良いんだが、問題はその“報酬”だ』

 

「……」

 

『要は俺が負けた時の保険だろう? あまり嬉しくない報告だな、キキョウ』

 

 まあ、そうだろうとは思った。

 保険をかけるということは、最悪な事態を想定しているということ。

 

 “負けるかもしれないからバラライカさんを保険にする”。

 

 つまりはそういう意味で捉えられる。

 張さんからしたら面白くないだろう。

 

「私がここにいられるのは張さんのおかげですので、貴方が報酬に関して首を縦に振らない場合は別の報酬を考えます」

 

『依頼を断る、という選択肢はないのか?』

 

「ありません」

 

 張さんの問いかけに一瞬の迷いもなく答える。

 

 一度受けた依頼はやり遂げる。

 確かな実績があることで、依頼人との信頼関係が築き上げられる。

 

 そして何より、

 

「これもあなたにとって面白くないことかもしれませんが、私が“あの人の服を作りたい”と思ったんです。

交渉し、見極め、それで作りたいと思うなら作ればいい。そう、言ってくれたのはあなたですよMr.張」

 

『……ま、報告するだけマシだと思うべきか』

 

 半ば諦めたような声音で張さんは呟いた。

 やはり相談したことは間違っていなかったようだ。

 

『面白くないのは変わらんが、こっちが勝てば何も問題はないしな』

 

「ありがとうございます。すみませんでした、お時間を取らせてしまって」

 

『なに、気にするな。それに報告っていうのは結構大事なことだぜキキョウ。黙ってやられちゃ、こっちも色々考えないといけなくなるからな。──ところで、俺の依頼のほうはどうだ。順調か?』

 

 依頼を受けてから一か月半。もうそろそろ約束の二か月が経とうとしている。

 

 早めに完成させてほしいと言っているぐらいだ。

 やはり気になるのだろう。

 

 作業を邪魔されることは何回かあったが、特に問題はない。

 

「ご心配には及びませんよ。この一か月、あなたの依頼だけに集中してましたから」

 

『ならよかった。期待してるぞ』

 

「あまり期待しすぎないようにお願いしますね」

 

『そいつは無理な相談だ。俺はお前の服を気に入っている。勿論お前のこともな』

 

 服のことを気に入ってくれているのは素直に嬉しい。

 だが、私のことを気に入るというのはよく分からない。

 

「私はどこにでもいる普通の洋裁屋ですよ」

 

『普通の洋裁屋は銃を突きつけられて、あんなに堂々とはしないぞ』

 

「堂々はしていなかったと思うんですが」

 

『あれがか? 確かに声は震えてはいたが、そんな状態で真っすぐ相手を見るのは簡単じゃない。──俺には何か狂気的なものを感じるよ。お前のその“真っすぐな目”が』

 

 意識したことなんてない。

 だけど、真っすぐだと言われるのはきっと

 

「……私はもう後悔したくないだけです。ただ、それだけですよ張さん」

 

『死ぬのは怖くないと?』

 

「怖いですよ。でも、生きることより後悔せず死ぬということのほうが大事なんですよ。私にとっては」

 

 このただひたすらに“後悔したくない”という思いが、私をそうさせているのかもしれない。

 これが狂気的なものなのかは、分からないけれど。

 

『……ふっ。やはりお前は面白いな』

 

「え?」

 

『そういうお前を俺は気に入っているんだ。……そんなお前が作る服だから、より魅了されるんだろうな』

 

 言っている意味がよくわからずどう反応したらいいのか分からない。

 これは褒められてるんだろうか。

 

「あ、ありがとうございます?」

 

『意味は分からなくていい。ただ、お前はそのままでいてくれればいいのさ』

 

「……よく分かりませんが、私は変わりません」

 

 後悔したくない、という思いを曲げることは絶対にない。

 そのためにここにいるのだから。

 

『それでいい。……少し長話になっちまったな。ではキキョウ、連絡待ってるぞ』

 

「はい。それではまた」

 

 いつも通り張さんが切ったのを確認してから通話を終了する。

 

 なんだかよくわからない話になってしまったが、とりあえずバラライカさんの報酬については落ち着いた。

 これで依頼に集中できる。

 

 バラライカさんの来訪で中断していた作業を始めようと椅子から腰を上げた。



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25 合言葉

 バラライカさんに依頼されてから半月が経った。

 ようやく張さんのタキシードが完成し後は引き渡すだけの状態なのだが、彼に連絡を入れると「後日取りに行く」とのことだった。

 

 忙しいならこちらから届けると言ったのだが「今は一人で出歩くのはやめとけ」と忠告され、今は張さんからの連絡を待っている。

 

 ──そういえば、色々忙しない日々を過ごしている間に年が明け、一九九三年へと西暦が変わった。

 年が明けたことよりも、以前よりこの街の空気が変わったことの方が気になる。

 

 私が住んでいる場所は酒場や市場がある通りから少し遠い位置にあるためか、人の気配が他の場所よりも薄い。

 毎日のように発せられている銃声や怒号もそこまで気にならなかったのだが、最近は昼夜問わずここまではっきりと聞こえて来るようになった。

 

 その証拠に、ある日の真夜中にどこからか爆発音が聞こえて目が覚めた。

 瞬く間に銃の撃ち合いが始まり、激しい銃声が朝まで響いていたことがあった。

 

 

 ……恐らく、というか確実にこの騒ぎの中心はあの二人。いや、二つのマフィアの抗争だ。

 

 この半月で私にもわかるほど異様に争いの激しさが増している。

 

 

 銃声、怒号、爆発音、悲鳴。

 

 これらすべてが常に街中に響き渡っている。

 

 こんな状態の街に、身を守る術を持っていない女が一人で出歩くのは自殺行為に等しい。

 まだ死ぬわけにはいかないので、忠告通り一人で出歩かずただ待っている。

 

 まあ、普段からあまり外に出ないので生活スタイルはそこまで変わらない。

 

 今日も今日とてバラライカさんのドレス制作をしている。

 

 スリットが入った濃い赤のスレンダードレス。

 スレンダードレスはボディラインに沿っているため、スタイルがいいバラライカさんにはよく似合うはず。

 

 そう思いながら、今日もドレスを作ろうと作業に打ち込んでいた。

 型紙を作り終え、布に鋏を入れいていく。

 

 いつも通りの作業をしていると、机の上に置いていた携帯の着信音が鳴る。

 

 携帯を手に取り出てみると、相手はこの数日間連絡を待っていたあの人だった。

 

『すまないな連絡が遅くなって』

 

「大丈夫ですよ。……取りにこられるのは難しいですか?」

 

 抗争が激しくなっている状況だと張さんの立場上動き回るのは出来ないだろう。

 マフィアに関して知識のない私でもそれくらいは分かる。

 

『ああ、今俺は自由に出歩くわけにもいかなくてな』

 

「なら、やはり私が届けに」

 

『キキョウ、お前だって道端に捨てられたボロ人形みたいにはなりたくないだろう?』

 

 つまり、“死にたくなければ大人しくしていろ”ということだ。

 かといって、このまま受け渡しができない状態なのも何とかならないものか。

 

『分かったら大人しく家にいるんだ。──てことで、俺の部下をそっちに向かわせたからそいつに渡しといてくれ』

 

「え、もうこちらに向かってこられてるんですか?」

 

『ああ、急ですまないが』

 

 タキシードはいつでも引き渡せる状態だから問題はない。

 ただ、いつもこっちに向かう前に連絡をしてくれていたので急で驚いた。

 

「分かりました。ちなみにどのような方が?」

 

『名は彪 如苑。俺と同じような格好をしている奴だからすぐに分かる』

 

 

 似たような格好というとスーツとグラサンだろうか。

 三合会の人たちはみんなそういう格好をしている。

 

『それと、念のためそいつが来たら合言葉を言え』

 

「合言葉?」

 

『そうだ。合言葉はな──』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──本気で言ってますか?」

 

『シンプルで分かりやすいだろ』

 

 張さんが合言葉だといったその言葉はギャグとしか思えないものだ。

 この逼迫している状況でも彼のギャグセンスの無さは健在らしい。

 

『なんか失礼なことを思っている気がするのは気のせいか?』

 

「気のせいですよきっと」

 

 元気がない時の張さんは知らないが、少しでも余裕を持っていないとこんな冗談みたいなことは言えない。

 うん、そうに違いない。

 

『とにかく、そいうことだ。頼んだぞ』

 

「分かりました」

 

『ではキキョウ。またいずれ』

 

「はい、ではまた」

 

 通話を切り、タキシードを受け渡しできるようにスーツカバーに包む。

 後は、張さんの部下を待つだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──彼の連絡から待つこと十五分。

 ようやくドアから来客を告げるノックが聞こえた。

 いつものようにすぐドアを開けることはせず、向こうから声が聞こえたら何者で何の用なのか確認する。

 

「三合会の彪如苑だ。ボスの服を受け取りに来た」

 

 名前は合っている。あとは、合言葉。

 

 ……あんまり言いたくはないが、仕方ない。

 

「……“三合会は”?」

 

「“超サイコー”」

 

 一瞬の間もなく返ってきた。

 

 言っているこっちが恥ずかしくなってくる。

 なんでこれを合言葉にしているんだろうかあの人は。

 

 恐る恐るドアを開ける。

 

 やはりグラサンにスーツ。

 三合会はこういう格好しか許されていないのだろうかと疑問に思う。

 

「わざわざご苦労様です。とりあえず中へ」

 

「ああ」

 

 彪さんを中へ招き入れ、早速スーツカバーに包まれたタキシードを差し出す。

 

「これが張さんのタキシードです。今は持ち運びできるようにカバーに包んでいますが」

 

「確認しても?」

 

「どうぞ」

 

 スーツカバーを広げ中身を見せる。

 彪さんは特に気になることもなかったらしく「もういい」と言われたので、再びスーツカバーに入れそのまま彪さんに引き渡した。

 

「では、よろしくお願いします」

 

「ああ。それと、これは大哥からだ」

 

 大哥とは、恐らく張さんの事だろう。

 彪さんが差し出してきたのは金が入った封筒と銃だった。

 

「“護身用に持っておけ”とのことだ」

 

「……そう、ですか」

 

 確かにこの街で生きていくには必要なものかもしれない。

 だが、私みたいな素人が持ったところで何かが変わるとは思えない。

 

 それに、私は生きようとは思っていないのだから持っていたとしてもきっと使わない。

 

 

 使うとしたら、“殺さないと後悔する”時だけ。

 

 だが、そんな時は絶対来ない。

 

 

 あの男ほど憎いと思った人間は現れないだろうから。

 私が受け取ることを迷っていると、彪さんが困ったような顔で言ってきた。

 

「俺は、これを渡すまで帰るなと言われている」

 

「え」

 

「あの人の命令には背けない。だから早く受け取ってくれ」

 

 私が銃を素直に受け取らないと分かっていたのか。

 いや、分かってないとこんな手段はとらない。

 

 あの人のことだ。今、彪さんを無理やり帰したところで私が銃を受け取るまで無理にでも渡してくるだろう。

 

どのみち、ここは私が折れるしかないのだ。

 

「……分かりました」

 

 一言呟き、私は銃を受け取った。

 生まれて初めて持つ銃は、思っていたよりも重かった。

 

 これが人を簡単に殺せる道具かと思うと、更に重みが増したような気がした。

 

「確かに渡したぞ」

 

「ありがとうございました彪さん。張さんによろしくお伝えください」

 

「ああ、では失礼」

 

 彪さんは踵を返しこの場から去っていった。

 

 

 

 ──私は受け取った銃を自室のクローゼットの奥にある、二度と使わない錆びた裁ちばさみをいれている箱に納めた。

 

この銃を使う時がこないようにと願をかけながら。




どうしてもあの合言葉を使いたくて無理やり詰め込んだ感じが丸わかりですが…。

だって入れたかったんだもん!!!(多分もう二度と入れない…)


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26 たまにはゆっくりお話を

「──直してほしいところがあればいつでも言ってください。……はい、それではまた」

 

「終った? じゃあ休憩がてらお喋りしようよ」

 

「そんな暇ない」

 

「そんな根詰めてたら倒れちゃうわよ」

 

 翌日、いつも通りの時間に起床し作業を進めていた。

 そんな中、不定期で現れるアンナが訪ねてきて第一声に『大丈夫?』と言いながら心配そうな顔を見せた。

 

 度々アンナに休憩しようと言われ、そんな時間はないと私が言い、少しくらいなら大丈夫とアンナが言い返す……という押し問答を続けていると張さんから電話がかかってきて、今に至る。

 

 よほど心配だったのか、アンナは何かと“休憩しろ”、“息抜きは大事だ”と言ってくる。

 心配はありがたいが、今はそんなに余裕がない。

 

「ねえ、少しだけでもいいからさ」

 

「……アンナ、気持ちはありがたいけど今はそんな事している暇はないの。だから」

 

「“半月後はゆっくりできる”って言った。……だからずっと終わるの待ってたのに」

 

 アンナは不満そうな顔をしながら文句を言ってきた。

 

 そういえば、あの時はバラライカさんの依頼を受ける前だった。

 だから今頃は余裕があると思っていたのだが、まさかあの直後に依頼を受けることになるなんて誰が予想できる。

 

「あの時はそう思ってたんだけどね。そうもいかなくなったの」

 

「じゃあ、いつならゆっくり話せるのよ。……ねえキキョウ。私が依頼した時の事覚えてる?」

 

「覚えてるよ。それがどうしたの?」

 

 もう半年前になるが、私にとって初めて正式な依頼を受けたのがあの時だ。

 忘れるはずもない。

 一体それがどうしたというのか。

 

 アンナは、懐かしむように微笑みながら話し始めた。

 

「あの時、正直断られるかと思ったの。だって、使いかけの化粧道具なんていらないに決まってるし。私だったら絶対受けないもの。……断られたらあなたに体を売る気だったのよ」

 

「え、女相手に?」

 

「ここじゃ珍しくないことよ」

 

 女が女に体を売る。つまり、女同士で寝るということだ。

 私には全く想像がつかないのだが、一体どういう風にやっているのだろうか。

 ……知ったところで実践するわけではないが。

 

 アンナがそういう商売の仕方をしていると知っても、別に軽蔑しない。

 というか、それは私には特に関係のないこと。アンナの商売に口出しするつもりない。

 

「そんな私の商売柄、絶対軽蔑されるし舐められるわ。特に女相手だとね、“娼婦”は気持ち悪がられるの。……だから、嬉しかった」

 

「え?」

 

「娼婦相手に品を売ってくれないところもあるのに、私のことを馬鹿にも軽蔑することも、否定することもなく依頼を受けてくれた。ちゃんと私を見てくれた。そんなこと初めてだったの」

 

 実を言うと、私は娼婦がどんな生活をしているのかとかよく分かっていない。

 ただ、生きるために体を売っている女性ということだけは知識としては知っている。

 

 

 そんな私が否定する権利がどこにあるのか。

 

 

 生きていくために体を売って、その体を飾るための化粧道具を渡そうとした人の依頼を断る理由が見つからない。

 

 そう思ったから依頼を受けた。その気持ちは今でも変わらない。

 

「だからでしょうね。……あなたの傍はとても居心地がいいわ。つい来てしまうし、心配もしちゃうの」

 

「私は、自分のことしか考えてないよ。それにアンナが言っているほどいい人間じゃない」

 

「いいえ、あなたはとてもいい人よ。──まるで、“日向側の人間”みたい」

 

 日向側の人間。

 

 それはこの街に住んでいる人たちとは逆の人。

 

 犯罪に手を染めたことがない、光側の世界に住む人達。

 

「確かに、私はここの人達よりは日向に近いのかもしれないね」

 

「……なら、戻るべきよ。あなたにここは似合わなさすぎる。今からでも遅くないわ。まだ、間に合うわ」

 

 まだ間に合う、か。

 ここに来る前まではそうだったのかもしれない。

 だけど、もう戻れない。それは私が一番分かっている。

 

「ありがとうアンナ。でもね、私は戻れないの」

 

「どうして」

 

「そっちの私は、もういない。死んだの。だから戻れない」

 

 

 あの人が、私を殺してくれたあの時。そう覚悟を決めた。

 

 

「私はもう振り回されたり、後悔したりしない。そのためにここにいるの」

 

 言っている間、真っすぐ見つめてくるアンナの眼から逸らすことなくそう言った。

 

「……何をやらかしたのか知らないけどさ、キキョウ。とにかく、“戻れない理由”があなたにもあるのね」

 

「ええ」

 

「そっか。なら、仕方ないわね。もう何も言わないわ。……ごめんね、急にこんな話しちゃって」

 

「悪い気はしなかったし、いいよ。……たまにはゆっくり話すのも悪くないね」

 

 事実、不思議と過去を振り返っても嫌な気がしなかった。

 きっと、お互い深く入り込まないこの関係性が心地いいのだろう。

 

 これくらいが丁度いいとアンナもよく分かっている。

 

「その年齢で、ほんとしっかりしてるよ。アンナは」

 

「え、キキョウだって私とそんなに歳変わらないでしょ?」

 

 ──ちょっと待て。アンナは確か十七歳。

 そこまで変わらないということは、実年齢よりはるか年下に見られている。

 

「ねえアンナ、私のこといくつくらいだと思ってるの?」

 

「二十歳前後?」

 

 ……複雑だ。

 これは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。

 

「二十六よ、私」

 

「ええ!? 嘘よ絶対!! あと四年したら三十よ!? にしてはキキョウ若すぎよ!!」

 

「とりあえず、褒め言葉として受けとっとくね……」

 

 確かに東洋人は少し幼く見える節があるが、ここまでとは。

 

 アンナはよほど衝撃的だったのか、私の顔をじろじろと見ている。

 見られるのは少し恥ずかしいのでそろそろやめてほしい。

 

「アンナ、そんなじろじろ見ないで」

 

「あ、ごめん。つい気になっちゃって」

 

 そう言うと、アンナは素直に離れてくれた。

 羨ましい、とかなんとかぶつぶつ呟いていたが。

 

「じゃ、そろそろ帰るわ。……また、来ていい?」

 

「まだしばらくはゆっくりできないから相手できないかもしれないけど、それでもいいなら」

 

「ありがと。キキョウ、無理はしちゃだめよ」

 

「ええ、アンナも。気をつけて帰ってね」

 

 アンナは最後にそう言って、年相応の可愛い笑顔を向け帰っていった。

 

 あの子はきっと、この街に生まれていなければ娼婦として生きることもなく、普通に暮らし、普通に学校に通って、普通に恋愛をしていたのだろうと思う。

 

 

 だが、もうそうなってしまったものはしょうがないのだ。

 この街で生まれ、生きていくために体を売って娼婦になった。

 

 そうするしかなかったのだろう。

 

 だからといって、あの子のためになにかしてやろうとか、助けてあげようとかそんなことは思わない。

 生きていれば辛い目に合うのは誰でも一緒。

 

 きっとアンナもそれを分かっている。

 だから私が戻れない理由を聞くこともなく、仕方がないと言ってくれたのだ。

 

 そんなアンナの優しさが、私に洋裁を教えてくれた、あの優しくて温かいあの人を思い出させる。

 

 

 

 ──いけないな、こんなんじゃ。

 少しでも過去を思い出すとこれだ。

 

 

 

 アンナはあの人じゃない。だから、あの人に重ねるなんてしていいわけがない。

 

 私は頭を整理しようと自室へ向かった。

 そして、クローゼットの奥にしまっているあの錆びた裁ちばさみを持つ。

 

 ここに来た当初は、過去を振り返ってしまいどうしようもない不安に襲われた時が何度かあった。

 そんな時、この裁ちばさみを持っていると落ち着いた。

 

 “私がここに来た理由”を、再確認できるから。

 

 深く息を吸って吐く。この動作を何回か繰り返した後、裁ちばさみを元の場所に戻し、作業場に向かう。

 そして私は何事もなかったかのように、作業を始めるのだ。



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27 娼婦のお遊び

今回は2話分くらいのものを1つにまとめたので長いです。


「──やはり貴女もお忙しいのですね。バラライカさん」

 

『ごめんなさいね。せっかく連絡もらったのに』

 

「いえ、なんとなく予想はしてましたよ」

 

 張さんのタキシードが完成してから一か月と半月。

 バラライカさんのドレスも完成したので、貰った名刺に書かれていた連絡先に電話をかけた。

 

 完成したことを告げると、やはり抗争中だからかバラライカさんも容易には動けないらしく、“自ら取りに行くのは難しい”と言われた。

 

「どうしましょうか。私だと無事に届けられるか分かりませんし」

 

『そうよねえ。あなたに死なれちゃつまらないし、かといって私が動くわけにも』

 

「やはり、後日の受け渡しがいいのでしょうか?」

 

『あまり長引かせたくはないのよね。なんとかして受け取りに行きたいところなんだけど……ちょっと待ってね』

 

 バラライカさんは受話器の向こうで誰かと話しているようだ。

 その間、私は電話を耳から話すことなくただ待っていた。

 

 そして、三分経ったか経たないかぐらいでどうやら話が終わったらしい。

 

『お待たせ。受け取りの事なんだけど、私の代わりに部下が取りに行ってくれることになったわ。それでもいいかしら?』

 

 やはりこうなったか。

 むしろ、この方法しかない気がする。

 

「大丈夫ですよ」

 

『ありがとう。それで、いつ取りに行けばいいかしら?』

 

「いつでもいいですよ。そちらの都合のいい日に」

 

 私は外にほとんど出ないのだから、ここは向こうに合わせたほうがいい。

 

『じゃあ明日取りに行かせるわ。──楽しみね、あなたが作ったものがどれ程のものなのか』

 

「……たかが普通の洋裁屋が作ったものです。貴女が気に入るかどうか」

 

『“普通”ね。……ま、私が気に入るかどうかは実物を見てからのお楽しみってところね』

 

 そう、ここの私は“普通の”洋裁屋だ。

 納得していないのか、バラライカさんはその言葉を強調してきた。

 

『明日取りに行く部下だけど、この前私と一緒にいた顔に傷がある男。覚えてる?』

 

「はい。その方が取りに来られるんですか?」

 

『ええ、名前はボリス。じゃ、キキョウ。明日はよろしく』

 

「はい。では」

 

 電話が切れたことを確認し、携帯を作業台の上に置く。

 

 今は十三時。お昼の時間だ。

 自室に戻り、昼食のサンドウィッチを作る。

 

 椅子に座り、口に入れ咀嚼する。

 思えば、ゆっくり食べるのも久しぶりだ。

 

 ここ数か月ずっと大仕事ともいえるものをこなしていたのだから、少し気が張っていたのかもしれない。

 

 折角だ。今日はゆっくり何もせず過ごすのもいいだろう。

 こういう時は買い物をしたいところだが、生憎外は騒がしい。

 

 抗争による喧騒は、昼も夜も収まる気配はない。

 どちらかが負けなければ、きっと終わらない。

 

 

 私としては、終わってくれるのは大歓迎だが──あの二人、どちらも負ける気がしないのだ。

 

 力量とかそんなものは分からないが、どちらも負けるイメージがでてこない。

 

 負けたとしても、すんなり引き下がるような人たちでもないようにも思える。

 

 ……二人が言う“パーティー”が終われば、決着はつくのだろうか。

 

 ま、私はたかが洋裁屋なので考えたところでどうしようもない。

 依頼があればこなすし、なければただやりたいように過ごす。

 

 今はそれでいい。

 

 

 

 

 ──とは言っても暇ではあるので、布を収納したり作業台の上を片付けたりなどの作業場の整理を行うことにした。

 

 収納と言えば、大分前からあの場所に行っていない。

 依頼にばかり目がいってしまい、あの場所にある服のことを忘れていた。

 

 ……収納しているのは良いが、あのまま放置するのもよくない気がする。

 誰かのために作ったわけではないが、どうせなら誰かに着てもらいたい。

 

 かといって、“あまりものが欲しい”とかそんなことを都合よく言いに来る人間はいないだろうが。

 だが、もしそんな人間が来たら遠慮なく渡すつもりではある。

 

 そんなことを考えていた時、ドアから激しくノックする音と同時によく聞き慣れた声が飛んできた。

 

「キキョウ! お願い助けて!!」

 

 

 

 声の主はアンナだ。

 あの日以来、顔を見ていなかったから約一か月ぶりだ。

 

 ドアを開けるとそこには目に涙を溜め、膝上までの白いワンピースがボロボロに破けた状態のアンナの姿があった。

 驚きながらも、アンナを家の中に入れそのまま自室に向かう。

 

「アンナ、とりあえず着替え用意するからそこに座って」

 

「う、うん」

 

 小さなタンスにある自分の寝巻を渡し、座っているアンナに着替えるよう促す。

 アンナが着替えている間、温かいココアを作る。温かいものは心が落ち着く。

 

 これを飲んで少しでも落ち着いてくれればいいが。

 

「着替えたら、これ飲みなさい」

 

「……うん」

 

 アンナはゆっくりとココアを飲み始めた。

 いつもみたいに微笑みながらではなく、傷ついたような顔で。

 

 飲んでいる間、アンナの服をとりあえず作業台の上に置く。

 あっても邪魔だが、ほったらかしにするよりはマシだ。

 

 自室に戻ると、飲み終わったのかアンナは下を俯いていた。

 

 とりあえず私は、アンナから言葉を発するのを待った。

 かける言葉が見つからない、というのが正直なところだが。

 

 ──少しの間、沈黙が流れる。

 そして、ようやくアンナが口を開いた。

 

「ごめんなさい、キキョウ」

 

「大丈夫だよ。ちょうど依頼も終わってたところだったし。……アンナ、無理に話そうとしなくていいからね」

 

「え?」

 

「何があったのか知らないけど、私にそれを言う義務はないよ。言いたいなら話は別だけど」

 

 何かあったのは明白だが、それを聞いたところで私には何もできない。

 

 それに、この場では本人が言いたくもないことを無理に言う必要も、私が無理やり聞く権利もない。

 なら、ただいつものように接するだけだ。

 

「怪我とかしてない?」

 

「うん」

 

「……ココア、おかわりする?」

 

「……うん」

 

 空になったコップを受け取り、ココアを作る。

 できたココアをまたアンナに渡す。

 

「キキョウ」

 

「ん?」

 

「少しだけ……抱きしめても、いい?」

 

「……おいで」

 

 声を震わせながら言ってきたその願望に、応えない理由はなかった。

 私が声をかけると、アンナは真っすぐ私の胸に飛び込んだ。

 弱々しい力ではあったが、私の背中に手を回し、しっかりと抱きしめてきた。

 

 そんなアンナを受け止め、気が済むまで頭を撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──落ち着いた?」

 

 抱きしめられ、しばらく頭を撫でていると強張っていた体が少しずつ緩み始めていた。

 アンナ自身も落ち着きを取り戻したのか、声をかけるとゆっくりと離れた。

 

「うん。ありがとキキョウ」

 

「ならよかった。……もう少しここにいる?」

 

 今の状態のまま外に出すのは気が引けるし……。

 

「もう、大丈夫。ほんとにごめんなさい」

 

「謝らなくていいよ。……そのココアを飲み終わるまでは、ここにいなさい」

 

「……」

 

 私がそう言うと、アンナは温くなったココアに口をつけた。

 言葉だけではあまり美味しくなさそうだが、何も言うことなく飲んでいる。

 私たちはお互い言葉を交わすことはなく、ただココアを飲んでいる音だけが部屋に響いていた。

 

 飲み始めてしばらくした頃、アンナが声をかけてきた。

 

「キキョウ」

 

「なに?」

 

「ここまでしてくれて、本当に感謝してるわ。……やっぱり、言わなきゃね」

 

 どうやら、何があったのか話す気でいるらしい。正直気にはなっている。なってはいるが……

 

「アンナ、言いたくないなら言わないで。それに聞いたところで、私には何もできない」

 

「言いたくないけど、聞いてほしいの。キキョウに」

 

 アンナは、真っすぐ私を見てそう言った。

 そこまで言うのだ。聞かない訳にはいかない。

 私は観念して、話を聞くことにした。

 

「昨日ね──」

 

 

 

 

 

 

「──だから、ついキキョウのところに」

 

「成程ね」

 

 話の内容はこうだった。

 

 昨晩、いつものように客を取っていると酒癖が悪い男に絡まれたらしい。

 その男はアンナを気に入っているようで、アンナを見つけては声をかけてくる。

 普段は問題ないのだが酒が入ると暴力を振るうようになる野蛮な男のようで、しばらく誘いを断り続けていた。

 その男に昨晩見つかってしまい、いつものように誘われたが、他の客を相手にしようとしていた最中だったため今回も断ろうとした。

 酒のせいなのか、お気に入りの女から断られ続けている鬱憤のせいか、取っていた客をアンナの目の前で殺したのだ。

 

 その時はとにかく逃げ、なんとか家までたどり着くことができた。

 そして、今日の朝。なんとその男はアンナの家のドアをこじ開け入ってきたのだ。

 

 無理やり犯されそうになったのを置いてあった花瓶をぶつけ、そのまま家を飛び出した。

 とにかく走り、どこに来たのか分からない状態だった。

 ふと周りを見渡すと、私の家が見えたのでドアを叩いた。

 

 というのが一部始終だ。

 

「今の状況だと、家帰れないよね?」

 

「……」

 

 この話だと、その男はアンナの家を知ってしまっている。

 その家に帰れば、またいつ襲われるか分かったものではない。

 

 これは、由々しき問題だ。

 

「アンナ、この街で比較的頼れそうな人はいる?」

 

「……頼れるかどうかは分からないけど、お世話になった人はいる」

 

 それさえ分かれば十分だ。なら一刻も早く行動しなくては。

 

「じゃあ、その人のところに行こう。今すぐ」

 

「え、でも」

 

「でもじゃない。このままだといつまでも付きまとわれるよ。それに、ここから出て行ったあとどうするつもりなの? 私の家に住まわせることもできないし、ホテル暮らしするお金もない。私がお金を出すという手もあるけど、いつかはその生活も終わりが来る。そうなって、行く当てもなく彷徨ったらそれこそその男に捕まりやすくなる。なら、あなたが少しでも頼れそうな人を当たるしかないでしょ」

 

「……」

 

 アンナは何も言い返せなくなったのか黙ってしまった。

 私がいくら言葉を並び立てても結局はアンナの気持ちの問題。

 アンナがどうしたいか。それを聞く必要がある。

 

「だけど、その男に怯えながら暮らしたいならもう何も言わない。アンナはどうしたい?」

 

 私はアンナの目を真っすぐ見て問いかけた。

 少し考えた後、戸惑いながらも答えてくれた。

 

「……やれるだけ、やってみる」

 

 その一言を聞き、私はクローゼットの奥から拳銃を出した。

 張さんが護身用にとくれたあの銃だ。

 

 マフィアが抗争している最中でもあり、身近な危険が迫っている状態でもあるこの時に出さないほうが命知らずだ。

 ないより持っといたほうがいい。この街の状態であれば、堂々と持っていても変には思われない。

 できれば、使う状況にはならないでほしいが。

 

「場所は分かる?」

 

「うん」

 

「よし、じゃ行くよ」

 

 右手で銃、左手でアンナの手を握りしめながらその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

家を出て三十分ほど歩き、やっとたどり着いたのは『イエロー・フラッグ』という酒場だった。

 幸い騒ぎに巻き込まれることなくアンナも私も無事だ。

 

 まだ十六時前なので店は開いていないらしい。

 

 もうそろそろ日が傾きかける時間だからか、開店準備をしているのか店の中から物音がする。

 

「ここにいるんだね?」

 

「うん」

 

 アンナに確認し、躊躇うことなく店に入る。

 中にいたのは店主であろう男、ただ一人だった。

 男はこちらを向くこともなく言い放った。

 

「見てわかんねえか? まだ開店準備中だ。来るならもっと後にしろ」

 

「お忙しいときにすみません。少々お話ししたいことが」

 

「分かってんなら出ていけ。開店したら話位は聞いてや」

 

「バオ」

 

 アンナが呼びかけると、男はその声に反応したかのように初めてこちらを見た。

 バオと呼ばれた男は、アンナを見ると心底驚いた顔をしていた。

 

「──アンナか? お前、どうしてここに」

 

「……」

 

「私たちがここへ来たのは、貴方にご相談があるからです。……話、聞いてくださいますか?」

 

 二人の間に色々とあるのだろうが、とりあえず今は話をしに来たのだ。

 私は間髪を容れず店主に問いかける。

 

「そこのカウンターに座ってろ」

 

 眉間に皺を寄せながらも言い放った了承の言葉に少しだけ安堵した。

 

 

 

 

 ──私はアンナに代わり、事の一部始終を話した。

 しつこい客が目の前で人を殺したこと。その男に家がばれており、襲われかけたこと。行く当てがないこと。

 

 店主はただ黙って話を聞いてくれた。アンナは相変わらず何も言わないが。

 すべて話し終えると、ずっと黙っていた店主が口を開いた。

 

「アンナ、てめえのことだからもっとうまくやれているもんかと思ってたぜ」

 

「……」

 

「娼婦は客の機嫌を取るのも仕事だろうが。それを一つミスっただけで助けを請うなんざおかしい話だ。……自業自得だ、俺にゃ関係ねえ」

 

 それはつまり、殺されても文句は言えないと言っているように聞こえた。

 このままではアンナは本当に殺されてしまう。

 なんとか説得しなくては。

 

 言い返そうと口を開こうとしたとき、店主の口から思いもよらない言葉が出てきた。

 

「それが、“全部本当の話”ならな」

 

「……え?」

 

「アンナ、“遊び”で俺を巻き込むんじゃねえと言ってるだろうが」

 

 遊び? この男は何を言っている。

 私は今何が起こっているのか分からなかった。

 

「あははははははは!」

 

 困惑していると、黙っていたアンナが急に大声で笑い始めた。

 

「まさかこんなに信じるとは思わなかったわ! あーおかしいっ」

 

「……どういうことアンナ」

 

 このよく分からない状況に少しイラついてしまう。

 店主が呆れ顔を浮かべ頬杖を突きながら話し始める。

 

「嬢ちゃん、あんたはこいつに遊ばれたんだよ。こいつはこの街でも相当なやり手の娼婦で、客の趣味に完全に合わせるのが売りだ。客が望めばSM嬢のような強気さも処女みたいな恥じらいも出せる。そんなこいつに入れ込む客は少なくねえ。名女優だよ」

 

「そんなに褒めないでよバオ。照れちゃう」

 

「褒めてねえよ」

 

 店主の呆れ顔とは反対に、アンナは心底楽しそうな顔をしている。

 まるで、玩具で遊んでいる子供の様に。

 

 なら、店主の言っていることが本当だとすると、今まで見てきたアンナは全部演技だったということか?

 だとしたら、一体どこまでが本当でどこまでが嘘なんだ。

 

 男に襲われたのは。

 その男から必死に逃げてきたのは。

 

「どこからどこまでが本当なの?」

 

「大方、全部嘘だろアンナ」

 

「流石バオ、良くわかってるっ」

 

 全部、嘘。完全に騙された。

 よくあんな話が思いつくものだ。真実味を帯びるように服まで破いて、どうしてこんなことをしたのか。

 

「キキョウがどんな反応するのかなーって思って作った話よ。思ってたよりも面白い反応だったわキキョウ」

 

「……本当に全部嘘なんだね?」

 

「ええ。」

 

「男に無理やり襲われてないんだね?」

 

「だからそうだってば」

 

 何個か質問し、それらの事実が全くなかったことを確認する。

 私は大きく息を吸って吐いた。緊張感が一気に抜けてしまった。

 

「よかった。本当に」

 

「……は?」

 

「無理やり襲われたって聞いて、割と動揺してたんだよ。でもよかった、全部嘘で」

 

 私にとっては騙されたことよりも、全部嘘だったという事実のほうが大事だった。

 

 仮にも一緒の食卓で食事をした仲だ。心配もする。

 あの時の姿も嘘なのかもしれないが。

 

「何よ、それ。遊び半分で騙されて悔しくない訳?」

 

「全然」

 

「私は、あんたを騙したのよ。他に何か言うことあるでしょ?」

 

 実際、騙されただけであってお金を取られたりとかされてない。

 まあ、少し精神的に疲れたのはあるが。

 

「ないよ。特に被害受けてないし」

 

「もっと、ほら……騙してたのね、とか、普通は怒るものでしょ」

 

「騙されて嫌な気分になってないし、怒る必要ある?」

 

「……」

 

 怒ったところで疲れるだけだ。

 それに、本人が無事ならそれで結果オーライだと思う。

 これからの生活も心配する必要はなくなったわけだし。

 

「嬢ちゃん、あんた相当な変わりもんだな。被害を受けてないとはいえ騙されてんだぜ?」

 

 店主が解せないと言ったような口調で言ってきた。

 

「被害受けてないなら別に気にすることないのでは?」

 

「いや。まあ、あんたがそれでいいならいいんだけどよ」

 

「それでいいんですよ。……じゃ、もうそろそろお暇します。アンナ、またね」

 

「またねって……私とまた会うつもり?」

 

 また、と言われるとは思っていなかったらしくアンナは驚いた顔をしていた。

 

「ダメなの?」

 

「ダメっていうか、騙された相手には二度と会いたくないもんじゃないの?」

 

「さっきも言ったけど被害受けてないから何も問題ないよ。それに、大事なお客が減るのは避けたいしね。どんな形であれ、あなたは私の最初のお客だったんだからこれからも付き合っていきたいと思うのは、ダメかな?」

 

「……何よそれ、馬鹿じゃないの」

 

 ほぼ独り言のように呟いたその言葉は、本気ではそう思っていないように感じた。

 カウンターの席を立ち、店の入り口に真っすぐ向かう。

 

「アンナ、これからも“洋裁屋キキョウ”をよろしくね。あ、店主さんも何か服欲しければぜひ言ってください」

 

「あぁ」

 

「では失礼します」

 

そう言い残して店を出た。

またここから三十分歩かなければならないと思うと少ししんどいが、早く帰ってビール飲んで休もう。もう疲れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「してやられたな、アンナ」

 

「うるさい」

 

 キキョウが帰った後、バオは一杯のウォッカを出してくれた。

 私はそれを飲みながら悪態をつく。

 

「ああいうタイプは見たことねえ。どうしていいか分からなくなってウチに来たんだろ?」

 

「……うるさい」

 

「それにしても、あれが“三合会御用達の洋裁屋”か。どんな奴かと思えば、あんな変わった女だとは」

 

 そう、きっかけはその噂だった。

 客から“三合会のボスが気に入っている洋裁屋がいる”と聞いたとき、どんな奴なのか確かめたいと思った。

 聞くと、洋裁屋が『欲しいもの』を渡せばマフィアのボスが着ているような一級品を作ってくれるという。

 

 ただ依頼するだけじゃ面白くない。

 そう思い、少しからかってやろうといかにも貧乏くさい格好をしてそこら辺にいる下品な娼婦どもの真似をする。

 使いかけの化粧品と、少しの金を持って洋裁屋の元へ行った。

 

 その洋裁屋は私よりも少し背の高い東洋人の女。

 

 『依頼は何か』と言われ、『上品なドレス』と答えた。

 そこから当然報酬の話になり、私は『あなたが欲しいものはなんですか?』と聞いた。

 洋裁屋は、『逆に何をくれるのか』と聞き返してきた。

 

 私は持っていた使いかけの化粧品と金を出して『これが私の出せるものです』と言ってやった。

 絶対馬鹿にしてくるはず。

 こんなものしか出せない娼婦が上品なドレスを頼むなんて馬鹿げている、そう言うにきまってる。

 予想通り言ってきたら、奥の奥まで犯して私の虜にしてやるつもりだった。

 

 けど、洋裁屋は馬鹿にするわけでもなく、ただ『分かった』と。

 そして、『でも、この化粧品はあなたには必要なもの。これはお返しします。今回はこのお金だけで結構です』と。

 

 

 意味が分からなかった。だから素直に聞いた。

 『なぜ』と。

 

 私の問いに洋裁屋は『娼婦の命とも言える顔を着飾る道具を、やすやすと受け取れない。その道具を渡そうとしてきた心意気が見れた。それで十分』と答えた。

 

 初めてだった。

 娼婦相手に馬鹿にしたり、軽蔑する言葉を投げない人間は。

 

 それから何日かした後、予め伝えていた実際住んでいる場所とは違うボロボロの家に洋裁屋がドレスを届けに来た。

 

 一応、茶の一杯も出そうと思ったのだが、いらないと断られそそくさと帰っていった。

 

 丁寧に包装された中には、見たこともない綺麗な膝丈の青いドレスが入っていた。

 “一級品”とはまさにこのことなのだろうと思い知らされた。

 

 貶めることばかり考えていたが、そんなことが吹き飛ぶくらいに心が躍った。

 このドレスで出歩いたら今よりももっと客を取ることができると確信した私は、早速その日の晩、そのドレスに合わせて淡い色のメイクを施し、ドレスを着て街を歩く。

 思った通り、男だけでなく女までが私を見てきた。

 

 最高の夜だった。

 

 こんなドレスを作るあの洋裁屋にさらに興味がわいた。

 仲良くしておけばいざという時にも使える。

 

 私はその日から暇な時間ができたら遊びに行った。

 最初は驚いていたがなんだかんだ中に入れてくれて、無理に追い出すこともなく一緒に質素な昼食を食べた。

 

 そんなことをしているうちに、一つの疑問が生まれた。

 キキョウは、どこにでもいる普通の女。ニューヨークの大通りを歩いていても誰も気に留めることないだろう。そんな普通の女が、どうしてこの街にいるのか。

 話してはくれないだろうが、なにかは掴めるだろうと思い仕掛けてみた。

 

 結局、理由はよく分からなかった。

 だがあの時、キキョウも“普通ではない”ということだけは分かった。

 あの真っすぐな目は、純粋とかそんなもんじゃない。

 もっと何か、別のモノのような気がした。

 

 

 

 一体どこまで普通じゃないのか、知りたくなった。

 それが発端で、さっきの嘘話を作り、真実味を持たせるためいかにも襲われたと見せるように服を破いてキキョウの家に向かった。

 

 私のボロボロの姿を見て、とにかく落ち着かせようとココアを作ってくれた。

 砂糖も入れているらしく、とてつもなく甘い匂いがして飲むのを躊躇った。

 

 

 甘すぎるものは好きじゃない。

 女の子はみんな甘いものが好きだと思ったら大間違いだぞ。

 

 そう心の中で毒づきつつも飲み干したが。

 

 気まぐれで、抱きしめてもいいかと聞くと迷いなくおいでと言われ、抱き着くとただ頭を撫でられた。

 

 誰かに撫でられるのは初めてでこそばゆかった。

 

 その後、嘘話をすると本気で心配しているようだった。

 ここまで信じてもらえるとは思ってはおらず、それが予想外で。

 

 頼りになる人はいないのかと言われ、もうめんどくさいと思いイエローフラッグに行き、今に至る。

 

「──ま、なんだかんだ意外に楽しめたからいいわ。今回はね」

 

「あまり派手に遊ぶなよ。こっちまで巻き込まれちゃたまらねえ」

 

「はいはい」

 

 グラスに入っている酒を一気に飲み干す。

 ウォッカの中でもさっぱりとした口当たりで結構好きな種類だ。

 私の好みをよくわかってる。

 

「ねえバオ」

 

「ん?」

 

「やっぱり人も飲み物も、少し苦いくらいが丁度いいわよね」

 

 あのココアの味を思い出す。

 甘すぎるのは好きじゃない。

 だけど、あの洋裁屋が作る甘さもたまになら悪くないのかもしれないと思ってしまったのはここだけの話




やっとロアナプラ一有名な酒場を出せました。

本当にあったら行ってみたいけど、入店した時点で死にそう(白目)


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28 『パーティー』

 あの酒場から元来た道をたどり家に帰った。

 アンナの“遊び”に付き合わされ、精神的に疲れたのでベッドに少し横になる。

 

 アンナと知り合って半年以上経つが、まさかずっと演技しているなんて思わなかった。

 だからといって、悔しいとかそんなことは微塵も思っていない。

 逆に、あそこまで人を騙せることができる才能があることに敬意すら感じる。

 

 単に私が騙されやすいのかもしれないが。

 

 これからもアンナと付き合っていきたいというのは嘘ではない。本音だ。

 アンナが依頼してきたことで客も増えていたのは事実。

 そんな大事な客を遊びに付き合わされたってだけで突き放すのは気が引ける。

 ただそれだけ。私には何の問題もない。

 

 だが、次は少し気を付けようと思いながら、冷蔵庫からビールを取り出し一気に呷った。

 

 

 

 

 

 

 ──翌日、十二時過ぎくらいにバラライカさんから連絡が来て、『今から向かわせるからよろしくね』と言われた。

 すぐ渡せるように、スリットが入った濃い赤のスレンダードレスとドレスと同じ色のオペラ・グローブ、二の腕まである長いパーティーによく使われる長い手袋を折り目がつかないよう透明のビニール袋で丁寧に包装する。

 きっと、中身を確認したいといわれるので持ち運ぶ用の紙袋には入れない。

 

 連絡から二十分ほど経った後、ドアから三回ノックの音が聞こえた。

 

「ボリスだ。大尉の服を取りに来た」

 

 “大尉”という言葉に少し疑問を感じたが、その一言を聞き私はドアを開ける。

 そこには、バラライカさんと一緒にいた高身長で顔に傷がある男がいた。

 

「お待ちしてました、どうぞ中へ」

 

 中へ招き、男が入ったのを確認しドアを閉める。

 そして、バラライカさんのドレスを見てもらうため包装途中の物を目の前に出した。

 

「これがバラライカさんが依頼されたドレスです。あとドレスのほかにオペラ・グローブも作ってあります。手元に届いたら一度着ていただくようバラライカさんに伝えてください。そこで何か不備がありましたら連絡をお願いします」

 

「……ああ」

 

「では、紙袋に入れますので少々お待ちください」

 

 予め用意していた紙袋にドレスとオペラ・グローブを入れ、ボリスさんに渡す。

 ボリスさんは紙袋を受け取ると、封筒を出してきた。

 

「これは大尉からだ。依頼料として受け取ってほしいと」

 

「……こんなに受け取れませんよ」

 

 封筒の厚さからして、普通のオーダーメイドの料金よりも大分上乗せした金額だ。

 バラライカさんには保険にもなってもらっているのだから素直に受け取るのは気が引けてしまう。

 

「大尉からのご厚意だ。ここは受け取ってもらいたい」

 

 張さんもバラライカさんも、どうしてこんな大金を渡してくるのか。

 バラライカさんに至ってはまだ完成したドレスを見ていないというのに。

 

 私はなんとか少ない額で受け取ろうと話をしたのだが、ボリスさんは首を縦に振ることもなく頑なに受け取らせようとしてくる。

 その頑固さに負け、結局全額受け取ることになってしまった。

 

「やっぱり多いですよこの額は」

 

「あなたの腕なら当然の額だと思えるが。このドレスを見れば、大尉もそう仰るはずだ」

 

「……買い被りすぎですよ」

 

 だとしても多すぎだこの額は。

 けれど、受け取ってしまったものはしょうがない。

 

「では、俺はこれで失礼する」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 渡すもの渡して用もなくなったボリスさんは早々に出て行った。

 とりあえず、受け取った金をしまおうと自室に向かった。

 

 

 そこから暇になったので何か久々に自由に作ろうかと作業をしていると、携帯の着信音が鳴ったので電話に出る。相手はバラライカさんだった。

 

『ドレス、ちゃんと受け取ったわ。着てみたけど何の問題もないし、完璧よキキョウ』

 

「それはよかったです」

 

『流石、“一級品を作る洋裁屋”ね。あなたに頼んでよかった』

 

 とりあえず気に入ってもらえたようだ。

 作った服を気に入るかどうかはその人の好みによって変わるため渡すときはいつも不安になる。

 

「お気に召したようで何よりです。もし、何か不備がでてきたら遠慮なく言ってください」

 

『ええ。……キキョウ、これからもよろしくね』

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

『じゃあねキキョウ』

 

「はい、では」

 

 バラライカさんとの会話は淡々としていたが、とりあえず私の洋裁屋としての腕は信じてくれたのだろうと少し嬉しくなった。

 私は中断していた作業を再開しそのままその日を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

「──これで準備は整った。軍曹、私はこれからアイツに連絡を取る。少し一人にしてくれ」

 

「了解」

 

 バラライカはボリスにそう伝えると、ある番号に電話をかけた。

 その相手は、今まさに抗争中の敵である張維新だ。

 

『やあMs.バラライカ』

 

 張は電話に出ると軽い挨拶としてバラライカの名前を呼んだ。

 そんな挨拶を意にも介さず、バラライカは本題を張へぶつけた。

 

「張維新。──そろそろ、この戦争に決着(ケリ)をつける頃合いだと思わないか?」

 

『そう言うってことは、キキョウから服は受け取ったみたいだな。どうだキキョウの服は、お前もお気に召したかな?』

 

「世間話をしたいわけじゃない。……ま、噂通りの“一級品”を拵えて来たわね」

 

『そりゃそうだ。なんたってあいつは“俺のお気に入り”だからな』

 

 意味深な言葉を含んだその一言に、バラライカは少し苛立ちを覚える。

 その苛立ちを気取られないよう、心の内に留め会話をつづけた。

 

「──そんなお気に入りが、私の依頼を受けたと知った時のお前の顔を見てやりたかったぞ。さぞ面白かっただろうに」

 

『お前からの依頼を受けるのは予想していたさ。だが、俺には何の問題はない。ただ、あいつはあのままでいてくれればいいのさ』

 

「そこまで気に入っているとはね。ま、その気持ちは分からんでもないが。……キキョウのことは今後も私がきちんと可愛がってあげるから、安心してこの街を去るといい」

 

『はは、そいつはご免だな』

 

お互いを煽りながらのその会話は、電話越しと言えど他人が聞いたら背筋が凍るであろうほどの緊張感を帯びていた。

 

『それで? いつ決着(ケリ)をつけようかMs.バラライカ』

 

「一週間後。あの波止場ですべてを終わらせよう」

 

『分かった。折角のパーティーだ、お互い楽しもうじゃないか』

 

「ええ。その時は必ず──」

 

 

 

「お前を殺してやる」

『お前を殺してやる』

 

 

 

 

 

 

 その言葉を最後に、二人のマフィアによる会話は終了した。

 

 

 

 一週間後、二人はキキョウが作った服を身に纏い、波止場で一騎打ちを行った。

 お互いが放った弾は、バラライカは腹を、張は左腕を貫かれ2つのマフィアの抗争は相打ちとなった。

 

 

 

 ──これが、一九九三年に起きた三合会とホテル・モスクワの全面抗争の一旦の終結である。

 



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29 洋裁屋のちょっとした思い

──バラライカさんにドレスを渡した2週間後。

 この街の騒動の原因だった三合会とホテル・モスクワの抗争がボス同士の一騎打ちによって一旦幕を引いた、という情報がロアナプラ中に広まっていた。

 

 

 どちらが勝利を収めたかは分かってはいないが、この情報を聞いた者はとりあえず騒動は収まるだろうという見解を示していた。

 私としては、どちらが勝ったのか早く知りたいところなのだが、いずれ分かることなのでわざわざ電話をかけて確認することでもない。

 

 つい最近まで毎日昼夜問わず鳴り響いていた銃声が、今では嘘のように静まっている。多少は聞こえてくるが抗争の時よりは大分マシだ。

 

 張さんとバラライカさん以外の依頼をすべて断っていたのもあり、今はこなすべき依頼もなく自由に過ごさせてもらっている。

 

 抗争が一旦終わったのであれば、もう外に出ても大丈夫なのだろうか。

 なら、今日は久々に買い出しに行こう。

 そう思い立ち、金と物を入れるためのバッグを持ち出し家を出る。

 

 

 

 

 

 ──外に出てみると、やはり落ち着きを取り戻しつつあるように感じた。

 市場は以前と変わらず活気に満ち溢れており、抗争が終わった安心感からか、以前よりも更に人の声が飛び交っていた。

 

 そんな市場で繰り広げられる会話は、やはり抗争の話で持ちきりだった。

 あれだけ騒がせたのだ。この街にいる住民だけでなく、その他のマフィアやゴロツキ、ありとあらゆる人間が気になるのは至極当然のこと。

 ましてや、勝利を収めたほうがこの街の利権を手にし、支配者になるのだから気にならないほうがおかしい。

 

 ロシアンマフィアが負けた、三合会が負けた、はたまたどちらも死んだのか、ということで賭け事をしてる人もいた。

 それくらい、この街にとって歴史的な出来事だったのだと街の様子で認識する。

 

 

 そんな中でも私はいつも通り買い物を済ませる。

 布や糸だけでなく、ちょっとした食べ物など少々買いすぎたが、これが買い物の醍醐味だと思っているので特に気にしない。

 外に出て気分転換できたのもあってちょっとした満足感を感じながら帰路につき、収納場所にも結局行っていないことを思い出し、後で寄ろうと考えながら足を動かす。

 

 家に戻り、布や糸は作業台の上に置き、食材は冷蔵庫に入れ、暇なときに作った服とあの部屋の鍵を持ってまた家を出る。

 

 十分ほど歩いたところにある灰色のビルの二階。

 人の手に渡る予定が今のところない服が数十着以上あるその部屋のドアを開ける。

 

 特に変わった様子もなく、ただ服があるだけの光景が目の前に広がる。

 久々に来たので、こんなに作ったのかと少し感慨深くなる。

 

 籠った空気を入れ替えようと窓を開ける。これからは、定期的に空気を入れ替えに来よう。

 

 そんな小さな決心をし、暇なときに作った灰色のキャミソールと女性用のワイドパンツをハンガーにかける。

 その後はしばらく過去に作った服達を一つ一つ手に取る。

 

 最初にここに納めたバルーンスリーブのブラウス。

 そのブラウスに似合うだろうと作ったロングスカート。

 きっちりした雰囲気を出せる比較的薄い生地で作った女性用の黒いジャケット。

 スリランカの花を刺繍したTシャツ。

 

 以前は服を収める場所がなく、仕方なく燃やしていた。

 私は服を作ること以外何もしてこなかった人間だ。今までそれしかしてこなかった人間が唐突に洋裁をやめることができるはずもなく、創作意欲が出てくると同時に、誰も着るはずがない服が部屋に溢れかえった。

その時は洋裁屋として商売することは考えていなかったため、誰の手にも渡らず、ただゴミ屋敷のようになっていく部屋に丁寧な収納もされないなら、燃やしたほうがいいと思った。

 

 自分でも短絡的な考えだと思う。

 けど、私にはこれしか思いつかなかったのだ。

 だからせめて写真には残そうと燃やす前に撮っていたのだが、それでも自分が作ったものを燃やすのは、少し辛かった。

 

 そんな状況を変えてくれたのは紛れもない、張さんだ。

 銃を突きつけられたりもしたが、結果的に私を洋裁屋としてこの街に生かし、作った服を燃やさずにいれる環境を整えてくれた。

 

 あの人のおかげで比較的平穏だった日常は変わってしまったけれど、そう考えるとやはり頭が上がらない。

 

 マフィアという職業柄、死と隣り合わせなのは仕方ないこと。

 だが、恩人でもあり、この街で一番最初に私を“一流”だと褒めてくれた人が死ぬのは少し嫌だなと思ってしまう。

 だから、“生きていてほしい”と心の中で思うのも仕方のないことだと結論付ける。

 

 窓を閉め、ドアに鍵をかけてから外に出る。

 青く晴れ渡った空を見上げ、“この街には似合わない空だ”と思いながら私はその場を後にした。



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30 再会

収納場所を後にし、家に帰ろうと歩いていた。

 家が見える距離まで来た時、家の前に誰かがいることに気が付いた。

 

 しかも二人。

 

 細かい容姿は分からないが、恐らく初めて会う人たちだ。

 何が起きるか分からないため、とりあえず裏口の方から帰ろうと少し来た道を戻り、家の裏に回る。

 

 

 静かに家に入り、ドアの前で聞き耳を立てていると話し声が聞こえてくる。

 

「──ダッチ、やっぱりあたしはいらねえんじゃねえのか? それにノックしても反応ねえし。アタシは帰るぜ」

 

「レヴィ、まだ一回しかノックしてねえ。もう少し待て」

 

 声からして男女のようだ。

 男の方は初めて聞く声だ。

 だが、女の声はどこかで聞いたことがある気がする。

 どこで聞いたか思い出そうとしていると、ドアを3回ノックしてきた後男が呼びかけてきた。

 

 

「運送屋をやっているモンだ。バラライカからの荷物を届けに来た」

 

「……バラライカさんから?」

 

 唐突に出てきたその名前に思わず反応し、口に出してしまった。

 その声を聞き逃すこともなく、男は私がいると分かると返事をするように話を続けた。

 

 

「そうだ、あんたに渡してほしいと頼まれた。“ドレスの修繕を頼みたい”んだと」

 

 ドレスの修繕。

 確かにバラライカさんにはドレスを作ったが、まだ男の言葉を信用できない。

 本当かどうか確かめる必要がある。

 

 

「そのドレス、一体どんなドレスですか?」

 

「“スリットが入った赤いロングドレス”だ」

 

 

 返答を聞き、一瞬躊躇った後ドアを開ける。

 そこには、丸いサングラスをかけた黒人の男性と、見覚えのある赤みがかった茶髪の女性がいた。

 

 

「……あんたが、洋裁屋か」

 

 

 

 家から出てきた私を見てそう言ったのは、女性のほうだった。

 

 

 

 

 

 

 立ち話もなんだと私は二人を家に入れた。

 女性は少し躊躇っていたが、男性が入るのをみて渋々入ってきた。

 入ったのを確認し、ドアを閉める。

 

 

「すみません、少し散らかってて」

 

「なに、構わないさ。……とりあえず、自己紹介といこうか。俺はラグーン商会っていう運送屋をやってるダッチだ。そしてこっちが──」

 

「……」

 

 女性は何も言わず黙っている。

 私のほうを見ようともせず、ただそこに立っているだけだ。

 

 それを見かねて、ダッチさんは女性に声をかける。

 

「おいレヴィ。ガキじゃねえんだから挨拶くらいしろ」

 

「……」

 

 レヴィと呼ばれた女性は、それでも黙ったまま。

 このままでは埒が明かないと、私のほうから女性に声をかける。

 

「一応、お久しぶりと言うべきでしょうかね」

 

「クソ、やっぱり覚えてやがったか」

 

 女性が言っているのは、家の前で倒れていたのを私が少し世話したときのことだろう。

 何か月も前のことだが、今でもよく覚えている。

 というより、その出来事を忘れることのほうが難しいと思うのだが。

 

「生きて会えたら、お互い名前を教えるって言ったことも覚えてますよ。あなたは忘れてしまいましたか?」

 

「……忘れるわけがねえだろ、あんな失態をよ」

 

「なら、教えてください。“あなたの名前”」

 

「──レベッカ・リー。レヴィでいい」

 

「キキョウです。これからよろしくお願いします、レヴィさん。ダッチさん」

 

「ああ、よろしく」

 

「おう」

 

 ひとまずお互いの名前を言ったところで、ダッチさんが本題に入ろうと話を始める。

 

「これが、バラライカからお前さん宛の荷物だ」

 

 ダッチさんが出してきたのは紙袋だった。

 恐らく、この中にあのドレスが入っている。

 

「中身確認してもいいですか?」

 

「お前さんの荷物だ。どうぞご自由に」

 

 私は紙袋に入っている物を取り出す。

 それは確かに私がバラライカさんに作ったドレスなのだが、作った時とは明らかに違う状態だった。

 

「……これは、酷いですね。一体どんなパーティをしたらここまで」

 

「随分ど派手にやってたからな。そりゃそうなるだろうさ」

 

 腹部の部分には穴が開いており、その穴を中心に血が滲んでいた。

 そして恐らく海に入ったのか肌触りが壊滅的に悪くなっており、とても元に戻せる状態ではなかった。

 これは新しく作り直したほうが手っ取り早い。

 

 服の様子から、腹に銃弾を食らったのだろう。

 そんな状態で生きているということなのだろうか。

 

「バラライカさん、生きてるんですか?」

 

「姉御なら生きてるぜ。腹撃たれて海に落ちてたところをダッチが拾ったんだ」

 

 レヴィさんが私の問いに答えてくれた。

 腹に銃弾を食らって生きているなんてにわかには信じられないが、バラライカさんなら生きてそうだ。

 

 ということは、張さんは……?

 

「Mr.張も生きてる。相打ちだったんだと」

 

「……そう、ですか」

 

 ダッチさんが私の心を読んでいたかのように言ってきた。

 もし、それが本当なら二人とも生きていることになる。

 

 どちらかが死ぬと思っていたから、少し予想外だった。

 その結果に、どことなく安堵している自分がいる。

 

「これからどうなるんでしょうね」

 

「さあな、俺たちが気にしても仕方ねえことだぜキキョウ。……それにしても、あんたみたいなお嬢さんがあの二人のお気に入りとはな。俺にとってはそっちのほうが驚きだ」

 

「その話はよく分かりませんが、私もあの二人相手に仕事するとは思いませんでしたよ」

 

「……あんた、一体何したんだ」

 

 唐突に入ってきたその質問に、思わず声の主を見る。

 入ってきたのは、レヴィさんだった。

 

「ただ服を作ってるってだけじゃ、あの二人が“気に入る”ことなんざねえ。一体どんなテク使ったんだ」

 

「私もよく分からないんですよそれが。ただ、張さんの時もバラライカさんの時も殺されるかと思いましたけど」

 

「じゃなんで生きてんだあんた」

 

「それ、こっちが聞きたいですよ。私は、ただ自分の言いたいこと言っただけです」

 

「何を言ったんだ」

 

 レヴィさんからの質問攻めに少し戸惑ってしまうが、とりあえず答えておく。

 

「二人とも頼んできた状況は違いますけど、要約すると“あなたの条件では応じません”って最初断って、そしたらなぜか私の話を聞いてくれて、今に至る……みたいな?」

 

「……」

 

「……」

 

 二人は私の話を聞いても何も反応せず、黙ってしまった。

 あの、私も自分が何を言っているのか分からないのでこの沈黙はやめていただきたい。

 

「と、とりあえず、そんな感じです。はい」

 

「……意味わかんねえ。やっぱりあんたは変わりモンだ」

 

「私も、よく分からないんですけどね」

 

「ま、過程がどうであれ、あんたは張の旦那のお気に入りっつう立場になっちまってた上に、姐御にも気に入られた以上もう“普通の洋裁屋”じゃいられねえ。それだけは覚えておいたほうがいいぜ」

 

 レヴィさんがここにきて一番長く喋った。

 そして、その言葉に少しだけため息が出そうになる。

 だけど、あの二人の服を作ったことに後悔は微塵もないし、することもない。

 

「忠告ありがとうございます。でも、なってしまったものはしょうがないですから」

 

「ま、せいぜい気を付けるこった。ダッチ、そろそろ出ようぜ。長居しすぎた」

 

「おう。じゃ、キキョウ。何か運んでほしいものあったらいつでも言ってくれよ」

 

「じゃ、ダッチさんも何か作ってほしかったら言ってください。レヴィさんも」

 

「気が向けばな」

 

「じゃ、またいずれ」

 

 ラグーン商会の二人はそう言って家から出て行った。

 レヴィさんは出ていくとき、私を一度見たが何も言わずに去っていった。

 その行動が、何を意味しているのかは分からなかった。

 

 

 

 

 二人が去った後、運んできてくれたドレスをもう一度見る。やはり、酷い状態で修繕は難しそうだ。

 とりあえず、私は連絡を取ろうとバラライカさんに電話をかけた。

 コール音が何回か流れた後、通話に応じたことを確認し声を発する。

 

「キキョウです。今よろしいですか?」

 

『えぇ。ただあまり時間は取れないわ』

 

「構いません。…ひとまず、生きていたようで何よりです」

 

『私はそう簡単にやられたりしないわよキキョウ』

 

 軽い挨拶を交わし、本題に入る。

 

「……ダッチさんからドレス受け取りました。まさかあそこまでボロボロにされるとは」

 

『ごめんなさいね。せっかく作ってくれたのに』

 

 一応、謝るくらいは罪悪感があるのだろうか。

 服がこうなってしまったことを責めるつもりはないのだが。

 

「まあ、なったものは仕方ないですから。ですが、あの状態からは修繕は難しいです。新しいものを作ったほうがいいと思います」

 

『あら、残念。なら、それはあなたの好きに処分してもらって構わないわ』

 

「分かりました。……新しいもの、作りましょうか?」

 

『いえ、今は大丈夫よ。──キキョウ、私はこれからもあなたの保険でいるつもりよ。だから、あの男に愛想尽きたらいつでも言いなさい』

 

「ありがとうございます。でも、当分愛想は尽きないかもしれませんね」

 

 バラライカさんの厚意はありがたいが、あの人に恩を感じている間はこの関係をそのまま続けていきたい。

 その言葉を聞き、バラライカさんは『その時が来るまで待つしかないわね』と少し笑いながら言った。

 

『ま、そういうことで、改めてこれからもよろしくね。キキョウ』

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 これからも付き合っていこうという軽い挨拶を交わし、通話を切る。

 その後も、私は携帯を離すことができなかった。

 

 張さんは今どうしているのだろうか。

 

 この携帯で連絡を取ることはできる。

 だが、何の用もないのに電話することは躊躇われる。

 

 私はあの人の部下でも友人でも、ましてや恋人でもないのだから自分が気になるからと言って世間話をするように気軽にかけてもいいものではない気がする。

 それに、随分話していないのもあってなんと声を掛けたらいいのか分からない。

 

 そんなことを考えると、手に汗をかいてしまう。

 

 

 

 ……とりあえず、今はやめておこう。

 

 

 そう思い携帯を置いた瞬間、唐突に着信音が響く。

 突然の通知に驚きつつ、慌てて電話に出る。

 

「もしもし」

 

『やあキキョウ、久しぶりだな』

 

 電話から聞こえてきたのは、久しぶりに聞く、だけど聞き慣れた声。

 その声を聴いた瞬間、私の心は安堵感で包まれた。

 “本当に生きていてくれたんだ”と。

 

 

 

「──お久しぶりです、張さん」

 

 




やっと抗争が終わってヒロインの名前も出せたことだし、ひと段落といったところです。

ここからいろいろな話ができたらいいなぁなんて思ってます。


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31 あなたと一杯

『どうだ、調子は』

 

「いつも通り、ですよ。……バラライカさんとの“パーティー”はいかがでしたか?」

 

『はは、久々に少々羽目を外しすぎちまってな、おかげで痛い目に遭った。やはりレディのエスコートは慎重にやらないといけないな』

 

 ダッチさんは相打ちと言っていた。そして、この言い草からしても張さんも無傷ではないのだろう。

 ま、生きているだけでも十分なのだから私からは何も言うことはない。

 

「今度は、ドレスが血で染まらないパーティーをしてほしいものですね。」

 

『俺だって毎回ここまで派手にはやらんさ。だが、この街で血を見ずに済むってのは中々難しいかもしれんな。それは、お前も分かってることだろう?』

 

「言ってみただけですよ。それで場が収まるなら仕方のないことでしょうから」

 

 そう、仕方ないのだ。

 二人とも、自分が果たすべきことを果たそうとした結果がこれだ。

 私たち周りの人間にできたのは、自分が巻き込まれないようただ遠くから収まるのを待つだけだった。

 

 そして、これからもこういうことはきっと何度か起こる。

 ここはそういう街だ。だから“悪徳の街”と呼ばれている。

 

『分かってるならいい。……さて、世間話はこれくらいにして本題に入ろうか』

 

「はい、今回はどのような?」

 

『少しお前の服を汚してしまってな。折角作ってくれたんだ、どうせなら綺麗な状態で手元に置いておきたい』

 

 それはつまり、この人も服の修繕を頼みたいということだ。

 

 あれだけ派手にやれば、服がどんな状態になっているかは予想がつかない。

 少しと言ってはいるが、状態によってはバラライカさんのドレスのように修繕不可能な場合もある。

 

「分かりました。ですが状態を見ないことには何とも言えません。服の状態によっては直せないこともありますので」

 

『分かった。後日届けに行こう』

 

「よろしくお願いします。……張さん」

 

『なんだ?』

 

「抗争が始まってからどうなるのかと思ってましたが、ご無事で何よりです」

 

 嘘偽りのない、生きていてくれたことへの喜びの言葉を告げる。

 マフィア相手に言うのも普通はおかしいのだろうが、私にとっては関係ない。

 

 私の言葉が意外だったのか、少し間を空けてから言葉が返って来た。

 

『──ああ、おかげさまでな。なんだキキョウ、心配してくれていたのか?』

 

「……心配していなかった、といえば嘘になりますね」

 

 なんだか気恥ずかしく、素直には答えられなかった。

 だが、これは私の正直な気持ちだ。張さんもそれが分かっていると思う。

 

『素直じゃないな。だが、そこがお前の可愛いところでもある』

 

「冗談はやめてください」

 

『冗談ではないんだが。……ひとまず、行くときは連絡する』

「分かりました」

 

 以前にもこの会話をしたような気がするが気にせず返答する。

 

『ではキキョウ、また』

 

「はい、連絡お待ちしてます」

 

 いつものように、“また”と言って張さんは電話を切った。

 そのことを確認し、自分も電話を切り携帯を今度こそ作業台の上に置く。

 

 今日はいろんな人と会話した気がする。

 ラグーン商会にバラライカさん、そして張さんというなんと濃いメンバーだろうか。

 普段家に籠っているせいか、人と会話する事がない私にとって少し気疲れする一日だった。

 

 だが、不思議と悪い気はしない。

 理由は分からないけれど、なんだかそんな気分だ。

 

 とりあえず、この後はどうやって一日を過ごそうかと考え、久しぶりに刺繍をしようと思い立ち端切れと糸を取り出す。

 

 その時は、刺繍を動かす手がいつもより軽かった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

 張さんから電話がきて3日が経った。

 あれから、まだ連絡は来ていない。

 

 やはり、抗争の後始末とかそんなものがあって忙しいのだろうか。

 そんなことを考えながら、今日も依頼が来ないので自由気ままに過ごしている。

 

 今は七分袖の白いブラウスを作っている最中だ。

 何もせず、ただじっとするのは性に合わない。

 

 ──そうして作業を続けてから5時間ほどした頃。

 いつものように作業台の上に置いていた携帯が着信を告げた。

 

 布から手を放し、携帯を取り電話に出る。

 電話越しに聞こえてきたのは、この三日間連絡を待っていた相手の声だった。

 

『やあキキョウ。すまないな、連絡が遅くなって』

 

「いえ、こちらは大丈夫ですよ。……お忙しいんですか?」

 

『まあな。おかげで充実しているよ』

 

 やっぱり。

 なら、今回も部下の誰かが届けに来ることになるな。

 そうなると、またあの合言葉を言わなくてはいけないのか。

 

 そう考えていると、少し予想外だった言葉が発せられた。

 

『だが、俺もそろそろお前と直接話をしたいもんでな。今回は俺が直接出向く』

 

「でもお忙しいのでは?」

 

『久々に、お前が淹れてくれるコーヒーを飲みながらゆっくり話をしたいと思ってな。しばらく会ってないんだ、たまにはいいだろう?』

 

 そういえば、張さんとはスーツを渡してからは一度も直接会っていない。

 張さんが忙しかったため、電話でしか話していなかった。

 そんな忙しい中でも気にかけてくれて、何度も連絡をもらっていたからそんなに会っていない気はしなかったが、改めて考えると確かにしばらく会っていないことに気づく。

 

「そうですね。たまには、いいかもしれませんね。……今から来られますか?」

 

『ああ』

 

「分かりました。では、コーヒー淹れてお待ちしてますよ」

 

『楽しみにしてるよ。じゃ、また後で』

 

 口早に言い残し、張さんは電話を切った。

 

 本当に、なぜここまで気にかけてくれるのかは分からない。

 多分、私がまた何かしでかさないようにするためだとは思うが。

 

 私は、大事な客人を迎えるため作業机のうえを片付けようと動いた。

 片付けを終わらせ、鏡を見て自分の髪が変になっていないか確認する。

 

 そして、あの人が来た時はいつものように淹れていたコーヒーの準備をしながら来るのを待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連絡が来てから三十分ほど経った頃、客人を迎える準備が終わった状態で待っていると、正面のドアからノックの音が聞こえた。

 そしてそのあとすぐに、ドアの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。

 

「俺だ。開けてくれるか?」

 

 その言葉に、躊躇うことなくドアを開ける。

 

「久しぶりだなキキョウ」

 

「お久しぶりです、張さん」

 

 張さんは、私が作ったロングコートとスーツを着てくれていた。

 それがなんだが妙に嬉しくて、思わず顔がにやつきそうになる。

 

 お互いに軽い挨拶を交わし、そのまま中に招き入れる。

 椅子を出し、私は自室に向かいコーヒーを淹れる。

 

 そして、出された椅子に座った張さんにコーヒーを出す。

 これが、張さんが来た時に毎回行われている一連の流れ。

 

「コーヒーを淹れるのが随分うまくなったな。最初のは飲めたもんじゃなかったが」

 

 私が淹れたコーヒーを飲みながら、張さんは微笑を浮かべながら話し始めた。

 

「……コーヒー飲まないので淹れ方分からなかったんです」

 

「だからってあの濃さはなかっただろう。インスタントコーヒーを作れないやつは初めて見たぞ」

 

「今は飲めるくらいにはなったんですから、別にいいじゃないですか」

 

 コーヒーを買ったはいいものの、甘いものが好きな私はコーヒーを淹れたことがなく、分量が分からず適当に作っていた。

 その時張さんには『もっと薄いほうが好みだ』と言われたのを覚えている。

 それからは、張さんが来るたびに試行錯誤してなんとか飲めるくらいには淹れられるようになったのだ。

 

 

 

 今考えると少し恥ずかしい。

 

 

 

「それも、ひとえに俺のおかげだな」

 

「……とりあえず、タキシードの状態見せてもらっていいですか?」

 

 これ以上この話が長引かせるのを防ぐために話題を逸らす。

 その気持ちがバレているのか張さんはニヤニヤしながらも、持っていた紙袋の中からタキシードを取り出した。

 

 受け取り、状態を見てみると左袖に穴が空いており血が滲んでいた。

 だが、バラライカさんのドレスのように海水に浸かった様子はない。

 

「これくらいならなんとかなりそうです。一週間ほどかかりますがよろしいですか?」

 

「構わないさ。今回は急ぐ必要がないからな」

 

「分かりました」

 

 私はタキシードを丁寧にハンガーにかけた。

 血が滲んだ左袖を見ていると、その様子に気づいたのか張さんが声をかけてくる。

 

「やはり作った服を血で汚されるのは気に入らないか?」

 

「……気にならないといえば嘘になります。ですが、あくまでも着ている人間がその服をどんな場面で着こなすかを決めるんですから。それで傷ついたなら仕方ないことです」

 

 所詮洋裁屋は服を作るだけの人間だ。その服をどう着こなそうとその人の自由であり、洋裁屋が口を挟むことじゃない。

 その服がしっかり役割を果たしてくれればそれでいいのだ。

 

 今回は、バラライカさんと張さんにとって大事な“パーティー”で着るためのドレスとタキシードを作った。

 そして、二人ともちゃん着こなしてくれた。

 それで十分。

 

 だから、今回私がするべき役割も決まっている。

 

「その傷ついた部分を誤魔化すのも私の仕事です。それが、『洋裁屋』ですから」

 

 私はタキシードから張さんへ視線を移しそう言った。

 その言葉を聞いた張さんはとても愉快だというような顔をしていた。

 

「そうだなキキョウ。お前はよく自分の立場を理解したうえで物を言う。──俺と初めて会った時もそうだ。殺される立場だと分かっていながらも、自分の“信念”を言ってきた」

 

 張さんと初めて会った時。私はなぜ服をタダで渡したのかという質問に、銃を突きつけられながら『約束は守るべきものだから』と言った。

 

 今となってはもう懐かしい出来事だが、忘れられるはずもない。

 

 殺されると分かっていた。だけど、あそこで嘘をついて死ぬより自分が思っていることをそのまま言って死にたいと思った。そうすれば、後悔せず死ねるから。

 

 ただそれだけだ。

 

「私はただやりたいようにやっただけですよ」

 

「信念ってのは“譲れないもの”でもあるんだぜキキョウ。その信念を持ってる奴はいざって時覚悟を決められる。そしてお前はその覚悟を決めるとき、あの真っすぐな目をするのさ。──その時のお前は、とても魅力的だ。だから、俺はお前のことを気に入っているんだよ」

 

 

 

 この人の言っていることがたまによく分からなくなる。

 今回もそうだ。

 だが、きっと私が話の意味を理解していなくても問題はないということだけは分かる。

 

 だから、どう返答していいのか分からず困っていると、張さんは愉快そうな顔を崩すことなく一言付け足した。

 

「ま、お前はそのままでいてくれればいいのさ」

 

「私は変わりませんよ。これからもずっと」

 

「それでいい。──なあキキョウ、今夜空いてるか?」

 

 唐突の質問に少し驚いた。

 

 ……夜は特に用事もない。

 まあ、基本家に籠ってるからいつものことなのだが。

 

「空いてますよ」

 

「そうか、なら一杯やろう。お前ともう少し話をしていたくなった」

 

「なんか、今日はご機嫌ですね張さん。それよりいいんですか、今忙しいんじゃ」

 

「たまには息抜きが必要だろ?付き合ってくれるか」

 

「……分かりました、いいですよ」

 

こんなにご機嫌な張さんの機嫌を損ねることはあまりしたくない。

それに、恩のあるパトロンからのせっかくの誘いを断る理由もなかった。

 

私の言葉を聞いた張さんは再び満足げな顔を見せた。

 

「お前とはいい酒が飲めそうだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

 

 丁度日も暮れる時間帯だったので、そのまま酒場まで一緒に行くことになった。

 連れてこられたのは『イエロー・フラッグ』。

 

 ここに来るのはアンナの遊びに付き合わされた時以来だ。

 

 中に入ると、日が暮れてそんなに時間が経っていないにも関わらずテーブル席は埋まっていた。

 空いているカウンター席に張さんが座ったのを見て、その隣に腰かける。

 

「よおバオ、久しぶりだな。相変わらず賑わってるじゃないか」

 

「あんたらのおかげでつい最近まで客足が遠のいてた。まったくいい迷惑だぜ。ま、ドンパチが終わったおかげでまたぼちぼち来始めたけどよ」

 

「そりゃよかった」

 

 どうやら張さんとバオさんは知り合いらしく、お互い気軽に会話をしているように見えた。

 バオさんのほうは眉間に皺が寄っているが。

 

 ふと、バオさんがこちらに目を向けてきた。

 一応顔見知りだし、挨拶はしておこうと口を開く。

 

「お久しぶりですバオさん。私の事覚えてくれていますか?」

 

「忘れたくても忘れられねえよ、お前さんみたいな変わりもんは」

 

「おいおいバオ、人の連れに酷いこと言うじゃないか。もっといい接客はできないのか?」

 

「今更このスタンスを変えるつもりはねえよ」

 

 バオさんはそう言いながら張さんの前に『Jack Daniel's』と書かれたボトルと氷の入ったグラスを一つ出した。

 何も言われなくても出すということは、いつも飲んでいたのだろうか。

 

「バオ、もう一つグラス出してくれ。……ジャック・ダニエルは嫌いかな?」

 

「いえ」

 

 普段はビールを飲んでいるのだが、それは手に入れやすいからだ。

 ウィスキー、ウォッカ、ジン、ワインなど色々飲んだことはあるが、これと言って好き嫌いは特になく、出されれば何でも飲む。

 

 バオさんがもう一つ私の前に氷入りのグラスを出すと、張さんがそのグラスに酒を注ぐ。

 グラス一杯に酒を入れると今度は自分のグラスにいれようとしているところを見て、声をかける。

 

「お注ぎしますよ」

 

「ああ」

 

 ボトルを受け取り、入っていた氷が浸かるくらいまで注ぎ自分のグラスを持つ。

 そして、お互いのグラスを重ね、響きのいい音を奏でた後酒に口をつける。

 

 丁度よく冷えた酒が体に染みわたる。

 久々にビール以外の酒を飲んだが、悪くない。

 

「それにしても珍しいな、あんたがここに女を連れてくるなんて」

 

 バオさんがグラスを拭きながら張さんに話しかけてきた。

 その質問に、張さんはグラスを片手に口の端を上げ答えた。

 

「ここじゃ女は口説けないだろ、やるならもっといいとこでやるさ。それに、もう口説き終わった後なんでね。なら場所を気にする必要はないだろ?」

 

「その言い方だと誤解が生まれるのでやめてください」

 

「だが事実だろう? 俺の話に乗ったのはお前だぜキキョウ」

 

「それは、そうですけど……」

 

だからってもっと言い方があるだろうに。

 

「お前さんも厄介な男に気に入られたもんだな。苦労するぜこれから」

 

「苦労、ですか」

 

「アンナの時もそうだったろうが。“三合会のボスのお気に入り”ってなると、興味本位で近づく奴もいる」

 

「ま、気に入ってるのは俺だけじゃないがな。お前が作ったドレス、Ms.バラライカもすごく気に入っていたぞ。“血で汚すのは気が引ける”ってな」

 

「なら汚さないでほしかったんですが。と言っても無駄なんでしょうけど」

 

 半ば呆れた声を出し、また酒に口をつける。

 このお酒は意外と飲みやすくてつい口に運んでしまう。

 

「はは、よく分かってるじゃないか」

 

「……お前さん、あの“火傷顔(フライ・フェイス)”にも気に入られてんのか。一体何者なんだよ」

 

「私は普通の洋裁屋ですよ」

 

「普通、ねえ。謙遜するのは変わってないようだな」

 

「謙遜も何も、それが事実ですから」

 

 また気に入る気に入らないの話か。

 よく分からないので、その話はあまりしたくない。

 

「普通の洋裁屋はマフィアのボスと飲んだりしねえよ。もうちっと自覚しろ」

 

「バオ、もっと言ってやれ。こいつは少々自覚が足りなさすぎるもんでな」

 

「なんの自覚ですか」

 

「少なくともてめえは“普通”じゃねえってことだよ」

 

「ここじゃ、割と普通の人間だと思うんですけどね」

 

 犯罪都市とまで呼ばれているこの街の住民は一歩外に出れば大犯罪者と呼ばれるような人ばかりのはずだ。

 そんな人たちが住むこの街では、私は至って普通の人間…のはずなのだが、周りはそう思ってくれないらしい。

 

「ま、気に入っちまったもんはしょうがないんだ。諦めろキキョウ」

 

「本当に、なんで気に入られてるのか分からないですよ」

 

 このことに関しては何回説明されても理解できないだろう。

 実際、理解できていないのだから。

 

 私はただ、後悔しないために行動しただけだというのに。

 だが、ここまで言われてしまっては、自分は気に入られてしまったのだと認めざるを得ない。

 なぜそうなったのか理由や過程は分からない。だが、私が納得してようとしてなかろうとそれが事実なのだ。

 

「大変だな、お前さんも」

 

「そうですね。──でも、以前の生活よりは随分楽しくなった気がしますよ」

 

 それは嘘偽りのない、心から思っていることだ。

 

 私のその言葉を聞いて、張さんは更に機嫌がよくなったらしく満足げな顔を浮かべながら酒に口をつけていた。

 

 

 それからは二人で酒瓶を何本か空けるくらいまで飲んでいた。

 その間、初めて会った時のことや、スーツを作った時のこと、バラライカさんとの取引のこと、お互い私が作った服を着て一騎打ちをした時の事など、話が途切れることはなかった。

 

 お互い同じ酒を飲みながら話に花を咲かせ、そうして夜は更けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──イエローフラッグ店内。

 

 三合会とロシアン・マフィアの抗争が始まってすっかり遠のいていた客足が、抗争が終わったことにより徐々に客が戻り始めていた。

 

 いつもなら殴り合いや罵声の浴びせ合いがあり騒がしいのだが、それがある二人の男女の登場で店内が少しばかり静まる。

 

 これがただの男女なら、こんな空気間にはならない。

 

 つい最近までロシアン・マフィアと抗争をおっぱじめていた三合会のボスと見知らぬ女。

 その女は黒髪のショートカットで、灰色のシャツを着ていた。

 その姿からして、娼婦ではないということは一目瞭然。

 

 ここにいる人間はみんな気になっている。

 三合会のボスが連れているあの女は何者なのかと。

 

 周りの空気を気にする様子もなく、二人はカウンターで酒を飲み始めた。

 

 娼婦でもない普通の女とマフィアのボスが飲んでいるなんて誰も想像しないことだ。

 

 店内にいる人間は酒を飲みつつも二人の会話に聞き耳を立てていた。

 話を聞くと、どうやら女はあの噂の洋裁屋らしい。

 

 “欲しいものを渡すと一級品を作る”、“三合会のボスのお気に入り”。

 そんな噂があった。

 マフィアのボスに気に入られる洋裁屋。最初に聞いたときは笑い話だと思ったが、どうやら噂は本当らしい。

 

 更に話を聞くと、あのロシアン・マフィアにも一目置かれているそうだ。

 

 三合会とホテル・モスクワ。

 この二つの組織のトップに気に入られてる。

 

 それは店内の人間を驚かせるには十分な内容だった。

 

 

 

 ──三合会のお気に入り、一級品の腕の持ち主、そこに“ホテル・モスクワも気に入っている”という噂が加わるのは時間の問題だった。

 



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32 酒場にて

※注意:下品な言葉が出ます。


 三合会とホテル・モスクワの抗争から三か月。

 徐々にまた客が来始めて、依頼をこなしている最中である。

 

「ねえキキョウ、今日飲みに行きましょうよ。勿論二人で」

 

「そっちの仕事はいいの?」

 

「たまには息抜きしたいの。ダメ?」

 

「分かった。……最近、調子はどうなのアンナ」

 

 手を動かしている私に声をかけたのは、褐色の肌と腰まであるウェーブがかった黒髪が特徴的な娼婦。アンナだ。

 

 そう、二か月ほど前からまたアンナが遊びに来るようになったのだ。

 最初は、思わず「今度はどんな遊びを思いついたの」と聞いてしまった。

 

 そんな私の質問に、アンナは「もうあんたで遊ぶのは懲り懲りよ」と苦笑しながら答えていた。

 

 彼女は私を“遊び”に巻き込んだことには罪悪感など無いらしく、「あんたに更に興味が湧いた。それに“またね”って言ったのはあんただから別に遊びに来たっていいでしょ?」と言い訳していた。

 

 どこか照れくさそうな。ぶっきらぼうに言う彼女に「“あんた”じゃなくてちゃんと名前で呼びなさい」と頬を抓り、私が困ることはないだろうと今もこうして作業場に入ることを許している。

 

 ──頬を抓られたアンナは妙に嬉しそうな顔をしていた気がするが、そこにはあまり触れないでおく。

 

 

「上々よ。マフィアのパーティーが終わって、みんな緊張が解れたみたいで声をかけても警戒されなくなったわ。全く、こんないい女が声をかけてるのに銃を向けてくるなんてひどい話だと思わない?」

 

「それは災難だったね。ま、生きているだけでも幸運だと思いなさい」

 

「それもそうね。……ねえキキョウ、ホテル・モスクワの火傷顔(フライ・フェイス)にも服作ったってホント?」

 

 ホテル・モスクワの火傷顔(フライ・フェイス)

 どうやらこの街の人たちはバラライカさんのことをそう呼ぶらしい。

 

「一着だけね。急に何、アンナ」

 

「やっぱりホントだったのね。キキョウ、あなた随分有名人になってるわよ。三合会だけじゃなくホテル・モスクワにまで気に入られてるって」

 

「……気に入られてるとかの話は、もうお腹いっぱいなんだけど」

 

 もう何回目だこの話は。

 ここまでくると流石にうんざりしてくる。

 

「ま、これから“いろんな客”が来るだろうから頑張ってねって話よ」

 

「よく分からないけど、ありがとうって言っておくべきなのかな?」

 

「……はあ」

 

 アンナは私の言葉を聞いて深いため息をついた。

 

「意外と間抜けなのかしら」と何やら呟いていたが小声だったためその言葉は私の耳には届かなかった。

 

「とりあえず、また後で色々聞かせてもらうから。ゆっくり酒を飲みながらお話しましょ」

 

「はいはい。それで、どこで待ち合わせ?」

 

「イエロー・フラッグ。その方が場所も分かるでしょ?」

 

「分かった。仕事が一段落したら向かう」

 

「じゃ、また後でねキキョウ」

 

アンナは微笑みを浮かべながらそう告げると、長い黒髪を靡かせて家から去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──もうそろそろ限界なんじゃないのお? 無理しなくてもいいのよお?」

 

「うるせえな、この、アバズレ。まだまだいけるっての」

 

「アバズレェ? アバズレって、“品のない女”のことを言うのよぉ。あんたにピッタリの言葉よねぇ?」

 

「てめえだって、“品”なんてねえだろうが。おら、まだ酒が余ってるぞ。もう飲めません、お喋りしか出来ませんってか?」

 

「この程度であたしが酔うと思うわけぇ? こんな酒、ジュースよジュース。バオ、もっと強いのだして」

 

「そうだそうだ、もっと強いの持ってこい!」

 

 

 

 …………どうしてこうなったのだろうか。

 

 

 私は今、イエロー・フラッグで酒を飲んでいる。

 最初はアンナと二人で飲んでいたのだが、途中からラグーン商会のレヴィさんも参戦した。

 今、この二人は私を挟んで飲み比べしている。

 

 こうなった経緯というと──

 

 

 

 

 

 ──仕事を終え、店に着いた時にはカウンターに既にアンナが座っており、しばらく二人で飲んでいた。

 

 会話が途切れることもなく、話に花を咲かせていた時にレヴィさんが一人で店に来たのだ。

 

 レヴィさんが私から一つ空けた席に座ったのに気づき、顔見知りではあるので「お久しぶりですね、元気にしてました?」と軽く挨拶した。

 

 彼女は淡々ではあったが「ああ見ての通りピンピンしてるよ」と答えてくれた。

 

 

 ──が、ここから先が問題だった。

 

 

 アンナがレヴィさんを見た途端、「あら、二挺拳銃(トゥーハンド)じゃない。てっきり野垂れ死んだかと思ってた」と言ったのだ。

 

 どうやら二人は顔見知りらしいのだが、どこか険悪な雰囲気だった。

 アンナの言葉を聞いたレヴィさんは当然不機嫌になり、「うるせえな、てめえは黙って男に媚びてろクソ娼婦」としかめっ面で返した。

 

 

 

 彼女の言葉を皮切りに、二人の罵声の浴びせ合いが始まってしまった。

 

 

『あんたみたいに銃振りかざしとけばなんとかなると思ってる脳筋女よりは、賢い生き方だと思うけど?』

 

『少なくても、てめえみたいに男に媚売って生きるよりゃ百倍マシだ。てめえ一人じゃ何もできねえくせに、いばってんじゃねえ』

 

『あら、ごめんなさい。だってあんた、自分だけ満足して終わるオナニー気質なもんだからついムカついちゃうのよ』

 

『……んだと?』

 

『どうせ相手を満足にイかせたことないんでしょ? 何事も自分が気に入らなければBang! ってやって終わり。──私、何か間違ってるかしら“マンズリ女”?』

 

『てめえは自分を楽しませてくれねえ奴はどうでもいいって思ってるだろうが。遊び半分で男に付け入って、飽きたら捨てる。──随分高尚なお遊びに興じていらっしゃって何よりでございますわ“お嬢ちゃま”?』

 

『……あの、私を挟まないでくれます? お二人とも』

 

 こんな会話を間に挟まれた状態で繰り広げられ、耐えられず思ったことを口に出してしまった。

 とはいえ、お互い罵詈雑言が止まることはなく……

 

『ごめんねキキョウ、折角楽しくお喋りしてたのに。ほら、帰りなさいよマンズリ女』

 

『は、洋裁屋。こんな女とつるんでたら碌な目に合わねえぜ。気に入らねえならてめえが帰れクソ娼婦』

 

『……ほんとあんたとは気が合わない。とっととくたばってほしいわ』

 

『奇遇だな、あたしもそう思ってるよ。なんなら今てめえの脳天に弾ぶち込んでやろうか?』

 

『やめろレヴィ、てめえに抜かれちゃたまったもんじゃねえ。それにここは酒場だ、てめえらは黙って酒飲んでろコノヤロー』

 

 バオさんが横から入ってきてそう言うと、レヴィさんの前にBACARDI GOLDと書かれたボトルと空のグラスを出した。

 

 レヴィさんはグラスに酒を注ぎ、一気に飲み干していた。

 まだ言い足りなかったのか、アンナがまた余計な一言を言い放つ。

 

『これじゃ酔えるもんも酔えないわ、気分が悪い』

 

 わざと聞こえるように言ったその一言は、レヴィさんの機嫌を更に悪くするには十分だった。

 

『はっ、そんなジュースじゃ酔える訳ねえよな』

 

『は?』

 

『酒が飲めないのを人のせいにするってことは、やっぱりお前はまだガキなんだよ。ま、おこちゃまはおこちゃまらしく、家に帰ってオレンジジュースでも飲んでろってこった』

 

 最後の言葉を言い終え、馬鹿にしたような笑みを浮かべながら酒を呷っているレヴィさんを横目に、アンナは眉間に皺を寄せていた。

 

『私はガキじゃないわ』

 

『なら証明して見せろ。ほれ、あたしの酒分けてやるからよ』

 

 レヴィさんは私の前を通してアンナに酒が入ったグラスを差し出すと、アンナは乱暴に受け取りそのまま一気に飲み干した。

 

『……この程度の酒でそんな偉そうな態度取ってたわけ? 恥ずかしいとは思わないのかしら』

 

 その一言に遂にキレたのかレヴィさんは立ち上がり、アンナもそれに合わせるように立ち上がった。

 当の私は置いてけぼり状態で、座ったまま。

 

『バオ』

 

『もっと強い酒持ってこい!』

『もっと強い酒持ってきて!』

 

『だから私を挟まないで……』

 

 この私の呟きは無慈悲に誰にも届くことなく掻き消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そこから、アンナとレヴィさんによる飲み比べが始まり今に至る。

 

 飲み比べ開始から一時間ほど経ったが、酔ってないと言い張り酒を呷る二人に挟まれながら、私は自分のペースで酒を飲んでいる。

 

「まったく、人を誘っといて飲み比べするかな普通」

 

「すまねえな洋裁屋、こいつらはいつもこうなんだ」

 

 バオさんは呆れながらも、私と同様ずっと二人の様子を見守っている。

 

「いえ、バオさんが謝ることじゃないですよ。それに、こういうアンナは初めて見たので結構面白いです。……もう一本空けていいですか?」

 

「ま、アンナがここまで感情むき出しになるのはレヴィくらいだからな。これもいいストレス発散なんだろうよ。……同じのでいいか?」

 

「同じので。──この二人は仲がいいのか悪いのか分からないですね」

 

 こういう会話をしている間も、二人は私を挟んで罵詈雑言を言いながら飲んでいる。

 こんなやり取りをずっと見せつけられたら嫌でも慣れてしまい、今となっては諦観の域に達している。

 

 バオさんは私の前に『Jack Daniel's』のボトルを出し、グラスに氷を入れてくれた。

 このお酒は張さんと飲んだ時にハマってしまい、もし次来る時はこれを飲もうと決めていたのだ。

 

 今までは酒の好みなんてなかったのになぁ、と思いながら酒に口をつけていると、大分酒が回ったのかべろべろに酔ったアンナが腕を絡んできた。

 

「ねえ、キキョウ~~。私とこの下品な女、どっちがいい女だと思う?」

 

「……私よりもバオさんに聞いたら? 第一それは女に聞くことじゃないでしょ」

 

「だってどうせバオははぐらかすもん。ねえキキョウ、どっちぃ~?」

 

「おう、洋裁屋。正直に答えてやれよお? “てめえみたいなアバズレは眼中にねえよ”ってな」

 

 レヴィさんも相当酔ってるのか私の肩に手を置き、顔をニヤつかせながら喋っている。

 本当、どうしてこうなったのか。

 

 右腕にはアンナ、左肩にはレヴィさん。

 二人とも顔は整っている女性なので素面(しらふ)なら羨ましいと言われるのだろうが、今はただの酔っ払いなのでそんなこと誰も思わないだろう。

 

「……二人ともいい女なんじゃないの?」

 

 知らないけど。

 

「そういうのはいらないのー! はっきりしてほしいのー!」

 

「ほら、ひゃっきり言わねえとこのおこちゃま暴れだしちゃうぜようしゃいやー」

 

 アンナ、なんだその駄々っ子全開の態度は。

 レヴィさん、あなたに限ってはところどころ呂律回ってませんけど。

 

 ──これはもう、つぶれるまで飲んでもらうしかない。

 

 そうでもしないと、この圧倒的にめんどくさい状況がいつまでも続きそうだ。

 

「……この飲み比べで勝った方がいい女なんじゃない? どんなに飲んでも酔わない女ってことで」

 

 今考えた適当な言い分だが、酔っ払いには通じるだろう。

 案の定、私の言葉に乗った二人はお互いの顔を睨みながら言葉を投げた。

 

「じゃあ、どっちがいい女か決めようじゃないのとぅーはんど!」

 

「望むところだくしょ娼婦!」

 

 クソって言えてないレヴィさんがちょっと可愛いと思ってしまった。

 まあ、アンナも普段大人ぶってる様子からは想像つかないくらい子供らしい振る舞いをしていて可愛いとは思う。

 

 二人とも私から離れ、さらに酒を呷り続けた。

 私とバオさんは、それを二人が酔いつぶれるまで呆れながらも見守った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そうして二時間後。

 

 結果、二人ともほぼ同時に潰れようやく飲み比べが終了した。

 お互いカウンターに突っ伏して寝息を立てている。

 

「ようやく潰れたか。まったく、散々騒ぎやがって」

 

 バオさんはやれやれとため息をつきながら呟いた。

 

「すみませんバオさん。止めたほうがよかったですか?」

 

「なに大したことじゃねえ。それに、どうせ止めても無駄だってことはよく分かってるからな」

 

「なら、いいんですが。……お代どれくらいですか?」

 

「お前さんの酒代も含めきっちりこいつらに請求してやるから気にするな」

 

「いや、自分の分は払いますよ」

 

「迷惑料とでも思っとけ。こいつらも嫌とは言わねえだろ」

 

「……じゃ、今回はお言葉に甘えてもう少し飲んでいきますね」

 

 人の金で酒を飲むのは趣味じゃないが、今回は多少めんどくさい思いをしたのだ。これくらい許されるだろう。

 瓶に少し残ってる酒をグラスに注ぎ、バオさんに注文する。

 

「てことで、もう一本空けていいですか?」

 

「これで四本目だぞ。お前さんも割と飲んでるの気付いてるか?」

 

「え、そうなんですか? そんなに飲んでる感じはしなかったんですが」

 

「一時間毎に一本空けてた奴のセリフとは思えねえな。……そういやお前さん、張の旦那と飲んだ時もそうだったな。あん時も割と飲んでたが、酔ってる姿一つも見せなかった」

 

「流石にあの人の前じゃ酔えませんよ」

 

 そう言いながらも、バオさんは新しい瓶を出してくれた。

 グラスに中途半端に注がれた酒を飲み干し、氷を入れてもらい出された酒をもう一度グラスに注ぐ。

 

 氷の冷たさがグラス一杯に広がるまで揺らし、口をつける。

 この冷たさが、また心地よい。

 

「バオさん」

 

「なんだ」

 

「これからたまに、ここで飲んでもいいですか?」

 

「何言ってやがる。ここは酒場だ、好きな時に来りゃいい」

 

「……それもそうですね。やっぱり少し酔ってるみたいです」

 

 少し口の端を上げ、グラスに口をつけ酒を喉に通す。

 それから両隣に相変わらず酔いつぶれて寝ている美女二人を横目に、酒瓶がなくなるまで飲み続けた。

 

 これからたまに一人で飲みに来ようと思ったのは、気に入ったお酒と口は悪いけど気前のいいバーテンダーがいるこの酒場が気に入ったから。

 

 ──この日が、私にとって初めてロアナプラでお気に入りの場所ができた記念すべき日となった。

 



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33 協調体制

 イエロー・フラッグで美女二人の飲み比べに巻き込まれてから四か月。

 特に変わったこともなく、いつも通り来た依頼をこなしている。

 

 私に来る依頼はドレスやワンピースなどの女性ものの服が多い。

 この街ではオシャレに気を遣うのは断然女が多いのだから、男物が頼まれることはそうそうない。

 

 張さんのように見た目に気を遣わなければならないのであれば、話は別なのだろうが。

 

 今回は、くるぶしが隠れるくらいの丈の白いワンピースを仕立てた。

 

 これを依頼したのは茶髪の女の子だった。

 その女の子はとある酒場で手伝いをしているらしく、そこで初めてもらった給料で依頼してきた。

 ワンピースならここじゃなくても買えるだろうと一応言ってみたのだが、女の子は“お姉さんが作った服、私も着てみたい”と言ってくれた。

 どこで私が作った服を見てくれたのかは知らないが、そう言ってくれることは正直嬉しいので依頼を受けた。

 

 ──そうして、出来上がったワンピースを依頼主の女の子が働いている酒場に持っていった。

 開店準備に追われていた時間で少し申し訳なかったが、女の子はその場でワンピースを広げると、満面の笑みで「とっても可愛いわ」と言ってくれた。その言葉に、今回もなんとか気に入ってもらえたと安堵する。

 

 やはり、作ってもらった服を気に入ってもらえるのはとても嬉しい。

 

 この心地よい気分で飲む酒は美味しいだろうなと思い、一度お金を取りに帰ってからイエローフラッグに行こうと考え帰路に就いていると、その道中で後ろから声をかけられた。

 

「よおキキョウ、どうよ調子は」

 

「割と好調だよ。レヴィは?」

 

「ま、ぼちぼちってところだ」

 

 彼女とは、ここ二か月でお互い名前を呼び捨てにするくらいの関係にはなった。

 

 私は時々気が向いたり仕事を終えたりするとイエロー・フラッグで飲むのが習慣になりつつある。

 レヴィもよく来るらしくたまたま会うことが増え、そのまま二人で飲むということを何回かしているうちに友好関係が築き上げられ今に至る。

 

 最初ばったりと会った時は「てめえの酒代を払わされたおかげですかんぴんだ」と文句を言われたが、その時からなんだかんだ一緒に飲んでくれている。

 

「今日は仕事入って金あんだ。なあこれから一杯やろうぜ、付き合えよキキョウ」

 

「ご機嫌だねレヴィ。いいよ、私も丁度飲みたかったし。今お金取りに行ってくるから先に行ってて」

 

「お前ん家そう遠くねえだろ、ここで待ってる」

 

 そう言いながら煙草を口に咥え手を振るレヴィを見て、「すぐ戻るから」と言い残し足取り軽く家に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──てことがあってよ、おかげで船のメンテに付き合わされたってわけだ」

 

「災難だったねレヴィ。ま、たまにはいいんじゃない? ダッチさんにお世話になってるんだから」

 

「あいつちょっとでも船傷つけられると茹蛸みたいに怒るんだよ。それがまためんどくせえ」

 

「そんなこと言って、なんだかんだ手伝ったんでしょ?」

 

「手伝わねえ方がめんどくさくなるから仕方なくだ。ったく」

 

 私はいつものように『Jack Daniel's』、レヴィは『BACARDI GOLD』を飲みながらイエローフラッグのカウンターで会話を弾ませていた。

 すっかりここの常連になり、バオさんは私が来ると何も聞かずに必ず氷の入ったグラスとお気に入りのお酒を出してくれるようになった。

 

 今は二人で飲んでいるのでバオさんはカウンターの向こうでグラスを黙って拭いてるが、一人で飲むときはよく話し相手になってくれるため、おかげでここではいつも楽しく飲ませてもらっている。

 

「そういえば、張の旦那とは会ってんのか?」

 

「会ってないよ。ここ最近忙しいとは聞いたけど」

 

「てことは、やっぱりあの噂は本当なのか」

 

「噂?」

 

 張さんとはタキシードを届けに来てくれたあの日から会っていない。

 

 修繕したタキシードをまた彪さん経由で渡してほしいと連絡をもらった時に、確か「やらなきゃいけないことができてな、また忙しくなりそうだ」とかなんとか言っていた。

 やらなきゃいけないことというのがなんなのか、私が聞くのはお門違いなので「そうなんですか」とだけ返した。

 だから忙しいということしか知らない。

 

「なんだよ知らねえのか? マフィア達が相互利益のために協調体制になったって話」

 

「協調体制?」

 

「ああ。簡単に言っちまえば、複数のマフィアがこの街を治めるってことだ。……ま、協調体制なんて名ばかりだと思うがな。とにかく、今ロアナプラはその支配者達によって統治されつつあるってことだよ。おかげで、好き勝手してた奴らが身動き取れなくなって泣いているってよく聞くぜ」

 

「ということは、少しはこの街も落ち着くってことかな?」

 

「さあな。だが、今までとは違う街になるってことは確かだ」

 

 マフィア達が治めたところでこの街から喧騒がなくなるなんて想像がつかない。

 だが、私にとってはそれはどうでもいいことだ。この街がどう変わろうとこれからも洋裁屋として生きていくことには変わりないのだから。

 

「ま、アンタはこういう話興味ねえか」

 

「興味ないわけじゃないけど、知ったところで何かするでもないしね」

 

「そりゃそうだ」

 

 言葉を交わしながらレヴィの酒がなくなったグラスに私が酒を注ぐと、彼女は口の端を上げ酒を呷った。

 その様子を見て、私も自分の酒に口をつける。

 

 

 ──瞬間、突然後ろから大きな爆発音とともにたくさんの人の叫び声が店内に響いた。

 

 

「わ……っ」

 

 何事かと思い後ろを振り向こうとした時、レヴィに腕を引っ張られカウンターの向かい側に入った。

 

「……え、なに。どうしたの?」

 

 困惑しながらも、何とかレヴィに疑問を投げかける。

 床に膝を強く打ってしまい、痛む箇所をさする。

 

「とりあえず、ここに入っとけばカウンターにいるよりは安全だぜ。ま、生きて帰れる保証は無えけどな」

 

「また俺の店が……ちくしょう、どこのどいつだ」

 

 物騒な言葉とは反対に、楽しそうな顔を浮かべながらレヴィは自分の銃を両手に持っていた。

 バオさんも何かぼやきながらも銃を持っている。

 

「おい二挺拳銃いるんだろ!? 隠れてないで出てこいよ!」

 

 カウンターの向こう側から男の声が飛んできた。

 “二挺拳銃”とはこのロアナプラでのレヴィのあだ名のようなものだ。

 

 私は見たことはないが、相当銃の腕が立つらしい。

 

 男の言葉を聞いたバオさんが眉間に皺を寄せ怒った顔で、だができるだけ声を抑えてレヴィに話しかけてきた。

 

「おいレヴィ! なにてめえのダチ呼んでんだ!」

 

「知らねえよ」

 

「お前のせいで店壊されてんだぞこっちは! あとで請求書送りつけてやるからな!」

 

「あっちが勝手にやってきてんだ。あたしのせいじゃねえだろこのボケナス!」

 

 二人は何やら小声で色々会話しているが、その間もカウンターの向こう側では男たちがレヴィを探している。

 

「出て来いよ二挺拳銃。この間の借り、きっちり返させてもらうぜ」

 

「やっぱりお前のせいじゃねえか! また何かやらかしやがったな!」

 

「だから知らねえって言ってんだろうがっ!」

 

「……レヴィ、声大きいよ」

 

 バオさんと言い争っているうちに感情が昂ったのか、レヴィから凄まじい怒声が発せられた。

 それをレヴィを探している男が無視するはずもなく

 

「やっぱいるじゃねえか。おら出て来いよ二挺拳銃。てめえの体にもう一つ穴増やしてやるぜ」

 

「そりゃこっちのセリフだ。せっかく気分よく酒飲んでたのによ」

 

「……ほんとに何したのレヴィ」

 

「覚えてねえよ」

 

「レヴィ、とりあえず自分で蒔いた種は自分で処理しろよ」

 

「──あいよ」

 

 バオさんにそう言われるとレヴィは銃を握り直し、勢いよくカウンターの向こう側に身を乗り出した。

 瞬間、銃声が鳴り響くと同時に男の呻き声が聞こえてくる。

 

「ぐあっ…そ、そいつを撃て! 殺せ!」

 

 他にも仲間がいたらしく、男はその仲間に大きな声で命令した。

 その後も、ずっと銃声と呻き声が絶え間なく聞こえて来る。

 

 ふと、バオさんがさっき“壊されてる”とか、こういうことが初めてではない言い方をしていたのを思い出した。

 

「バオさん、もしかしていつも“こう”なんですか?」

 

「そういや、お前さんが来るときはこんなことはなかったな。気に食わねえが、ここじゃそっちの方が珍しいって思った方がいいぜ」

 

「……本当に自分の運の良さに感謝、ということですかね」

 

 こんな状況でも意外と冷静でいる自分は、やはりこの街に慣れてきたのだと自覚する。

 たが、銃声が鳴っている方を覗きこむような勇気はまだない。

 

「すみませんバオさん。終るまでここにいていいですか?」

 

「いくらなんでもこの状況で出て行けなんて言わねえよ。お前さんは常連だしな」

 

 常連には割と優しいのかもしれない。混乱している頭の中でそう思った。

 

 ──そこから三十分程銃声が鳴り止むことはなかった。

 やはり、この街から喧騒がなくなるなんて想像つかないと改めて感じた夜だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 “マフィア達が協調体制でこの街を支配するらしい”。

 

 そんな噂がロアナプラに広がる二か月ほど前の夜。

 

 いつもなら華やかで騒がしい空気で包まれている、とあるクラブのVIP席。

 今夜は異様なまでの静寂と緊張感、そして殺気にも似た空気がその部屋を埋め尽くしていた。

 

 一つの丸テーブルの周りにある五つの革張りの椅子の内、三つの椅子にそれぞれ腰かけている人物達。

 それが、この空気を作り出している原因であることは明白だった。

 

 三合会、ホテル・モスクワ、マニサレラ・カルテル。

 ついこの前までお互いの利益のために争った各組織のタイ支部のボスたちが一堂に集まっていた。

 このメンバーが集まったと聞けば、異様な空気になるのは間違いないとこの街の誰もが納得するだろう。

 その中の一人であるホテル・モスクワのタイ支部のボス、バラライカが葉巻を咥えながら不機嫌さを隠すこともなく口を開いた。

 

「──遅い、これ以上待っているのは時間の無駄だ。帰ってもいいかしら?」

 

「そうカリカリするなMs.バラライカ。今夜は大事な会合だということはあいつらも分かっているはずだ。じきに来る」

 

 バラライカの言葉に反応したのは三合会の張維新。

 これから空いている二つの椅子に座る人物たちに内心苛々していることは自覚しつつも、バラライカを宥めている。

 

「それが分かっていたら時間通りに来ると思うんだがな」

 

 張の言葉にコロンビアマフィア、マニサレラ・カルテルのボス、アブレーゴがウォッカを飲みながら反論した。

 

 ──次の瞬間、部屋のドアが開き二人の男が姿を見せた。

 

「おやおや、どうやら待たせてしまったみたいだな」

 

「てめえがちんたら準備してるからだろうが」

 

 一人は高身長の金髪にベージュのロングコートを羽織った男。コーサ・ノストラのボス、ヴェロッキオだ。

 そしてヴェロッキオよりも少し背が低く、灰色のソフトハットを脱ぎ整った黒髪を露にし、灰色のジャケットを肩にかけている男はなんの悪びれる様子もなく言葉を発した。

 

「すまないな諸君。今夜は決めない訳にはいかないと思ってな、つい服選びに時間がかかってしまった」

 

「身だしなみに気を遣うのは結構だが、大事な会合だと分かっているなら時間通りに来るべきじゃないのか」

 

「そう怒るなよMr.張。なんせこの街の行く末が決まる会合だ、そんな場に“決めて”こないのは俺の名が廃るのでね」

 

「お前如きの名前など我々にとってはどうでもいいことだ。イタ公というのは随分自分勝手な考えをお持ちの様ね」

 

「そんな怖い顔をしないでくれシニョーラ、美人が台無しだ」

 

「おいヴェスティ、ロシアの田舎者まで口説いてんじゃねえ」

 

 ヴェロッキオは隣の男の名前を呼び、眉間に皺を寄せながら空いている椅子に腰かけた。

 

 張やバラライカに臆することもなく、軽妙な口調で話しかける男はヴェロッキオの右腕としてこの場にいる。右腕ならば彪やボリスのようにボスの後ろに立つのが普通なのだろうが、ヴェスティと呼ばれた男はそのままヴェロッキオの隣の椅子に腰を掛ける。

 

 だが、それを咎める者はこの場に誰一人としていない。

 ロアナプラでのコーサ・ノストラはヴェロッキオとヴェスティの二人が仕切っており、右腕と言ってもほとんど立場は変わらないのである。

 

 それはヴェロッキオも容認しており、周りのボスたちもそれを理解している。

 

「そんなことを言うなヴェロッキオ。例えクソムカつくロシア人であっても彼女が美人なのには変わらない。美人ならば素直に褒めるのが常識だろう? だからお前はモテないんだ」

 

「てめえと一緒にすんな」

 

「内輪揉めは外でしろ。……それにしてもヴェロッキオ、自分の右腕にそこまで言われるなんて貴方の器量が知れてる証拠だわ」

 

 うんざりとした表情でバラライカはヴェロッキオに悪態をつく。

 その言葉にヴェロッキオも負けじと言い返す。

 

「んだと? てめえだって普段口説かれねえからって内心舞い上がってんじゃねえのか?」

 

「イタ公の冗談は羽虫を殺すよりも面白くないわね」

 

「すまないシニョーラ、こいつには女性との話し方を教えておくよ。──ところで」

 

ヴェスティは煙草をふかしている張に目を向け、愉快そうに尋ねた。

 

「ミスター。その着ている服、とても素晴らしい逸品だな。誰に仕立ててもらったんだ?」

 

 ヴェスティは常にオシャレに気を遣っており、服へのこだわりが尋常ではなくコーサ・ノストラの中でも生粋のファッショニスタと呼び声が高い。

 服へのこだわりが強いせいか、周りが着ている物もチェックする傾向がある。

 そのファッショニスタの目に引っかかったのは、張が着ている洋裁屋キキョウが作ったスーツだった。

 

「相変わらずだな、ヴェスティ。流石お目が高いというべきか」

 

「おい、俺たちは世間話をするためにここに集まったのか?」

 

 痺れを切らしたアブレーゴがウォッカを乱暴にテーブルに置き、本題にいつまでも入らないことへの苛々を隠すことなく言い放った。

 

「そうだな、世間話は置いといてさっさと話を進めよう」

 

 張のその言葉を皮切りに、その他のメンバーも真剣な面持ちとなった。

 

「これからのことについて、じっくりと話そうじゃないか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──やっぱり、噂の洋裁屋が仕立てたものだったとはな。どんなもんかと思ったが」

 

 この街で一際存在感のあるマフィアのボス共との話も終え、俺はヴェロッキオと事務所に戻るため車に乗り込んだ。

 この街でお互いの利益のために協同歩調をとると話が纏まったところで俺は張に再度尋ねた。

 

『その服をどこで仕立てたのか』と。

 

 張はあの腹立たしいにやり顔を見せながら、『ファッショニスタと名高いお前のことだ。見当はついてるだろう?』と言ってきやがった。

 今思い出しても腹が立つ。あのクソ童顔野郎が。

 

「おいヴェスティ、変な気起こすんじゃねえぞ。てめえの“悪い癖”を今あの野郎に向けちまったら、それこそ場が悪いぞ」

 

「分かってるさヴェロッキオ、俺もそこまで我慢出来ない訳じゃない。今のところはな」

 

「はあ」

 

 ヴェロッキオは眉間に皺を寄せてため息をついた。

 俺は相当信用が無いらしい。

 

 ま、今は俺のためにもこの街の体制を整える事が最優先だ。

 それに、“彼”以上の洋裁屋がいる訳がないのだからそこまで期待もしていない。

 だが、もし期待以上の腕であるならばその時は何が何でも奪い取ってやる。

 

 

 この街でまた一つ、愉快な事が起こりそうだと考えると口の端が自然と上がる。

 その俺の顔を見たのか、隣でヴェロッキオがまた深いため息をついていた。




新キャラ登場。割とお気に入りです。


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34 リップオフ教会

 イエロー・フラッグでレヴィとよく分からない男達の撃ち合いに巻き込まれて早三日。

 あの後、店内の悲惨な状況を見たバオさんはカンカンに怒って『俺の店があああ!』と叫んでいた。

 その悲痛な叫びを上げているバオさんに、私は自分が飲んだ酒代よりも少し多めに渡してそそくさと帰ろうとした。それに気づいたレヴィに『置いていくのかよ!』と言われたが、自業自得だと思ったので『自分で蒔いた種は自分でなんとかしなさい』と言って帰った。

 

「そんなことあったの、大変だったわねキキョウ。やっぱり普段の行いが悪いんだわあの女、いい気味」

 

「悪い顔してるよアンナ。……早いとこ、店直らないかな」

 

「よっぽど気に入ったのねあそこ。そのうちまたいつも通り営業するわよ」

 

「そうだといいけど」

 

 来ていた依頼もすべてこなし、暇になったので刺繍をしていると満面の笑みで来たアンナにイエロー・フラッグで起きたことを話した。

 アンナは「いつものこと」と言ってあまり気にしていない様だ。

 ……一体どれだけ壊されているのだろうか。

 

 お気に入りの場所がそう何回も潰れるのは少し困ってしまう。

 

「あの状態でも酒が飲みたいなら行ったらいいわ。出してくれるわよ」

 

「行かないよ、迷惑になるだけだから」

 

「あらそう? 意外と面白いのに。──ねえ、キキョウ。今依頼入ってないのよね?」

 

「入ってないよ。どうしたの?」

 

 

 会話をしている間も刺繍をしていた手を思わず止めた。

 アンナは私がこうして刺繍をしているときは必ず暇な時だと知っているので、依頼がないことくらい分かっているはずなのだが、わざわざ確認してきたことが意外だった。

 

「単刀直入に言うわキキョウ」

 

 アンナの顔が真剣になったので何事かと身構える。

 一度遊びとはいえ騙されているので、今回は何なんなのかと口を開くの待つ。

 アンナは少し息を吐いて勢いよく言葉を発した。

 

「“シスター服”を作ってほしいの!」

 

「……え?」

 

「シスター服よ! ほら、教会とかで女の人が着てるあれよ!」

 

「いや、それは分かってるんだけど……。今度はどういう遊びをするつもりなの?」

 

 

 予想外すぎて反応が遅れた。

 とてもアンナが教会で祈りを捧げるシスターになりたいとは思えず、これはまた何かする気なのだろうと疑ってしまう。

 

「遊びじゃないわよ! “シスターをハメてみたい”っていうお客がいるから一週間教会で体験させてもらうの」

 

「そんな理由でシスター体験をするの?」

 

「それくらいはしなくちゃね」

 

 この仕事に対するストイックさは尊敬できるレベルだ。

 そのストイックさがあるから娼婦としてこの街で名が高いのだろう。

 

 だが……

 

「なら、その教会で服を借りればいいんじゃ?」

 

「これからも着るかもしれないのよ。どうせなら自分の物が欲しいの」

 

「……残念だけど、私作り方分からないよ」

 

 そう、私は今まで一度も修道服を作ったことがないのだ。

 見たことはあるが、気軽に作ってはいけない気がして作ろうとは思えない。

 私の言葉を聞いて、アンナは不満そうに口を尖らせた。

 

「なんとなくでいいから作ってよー」

 

「そもそも実物をちゃんと見たことないし、服の構造も分からないの。だから」

 

「じゃあ、実物見れば作れるってこと!?」

 

 私が作れない言い訳を遮って、アンナは身をこちらに乗り出しながら聞いてきた。

 

「ま、まあ無いよりは」

 

「じゃ今すぐ見に行きましょ! きっと見せてくれるわ!!」

 

 そう言いながらアンナは私の手を引っ張って外に出ようとする。

 私は慌ててなんとか踏みとどまろうと足に力を入れ、アンナに声をかけた。

 

「ちょ、ちょっと待ってアンナ! どこに行くの!?」

 

「どこって、教会よ」

 

「この街に教会なんてあるわけないでしょ!」

 

「え、あるわよ教会。知らなかったの?」

 

 そんなきょとん顔で“知らなかったの”と言われても、知ってるはずもない。というか信じられない。

 この街の外の話だとばかり思っていた。

 

「信じられないんだけど」

 

「行けば分かるわ。ここから少し歩くから早く出ましょ!」

 

「ちょっと!」

 

 考える余裕を与えることなく強引に腕を引っ張るアンナは私の言葉を聞かず外に連れ出した。

 ここまで強引なアンナは初めてなので戸惑いながらも腹を括り、「せめて鍵だけかけさせて」と懇願し、今日はアンナと一緒に出掛けることになった。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 家から歩いて三十分以上は経っただろうか。

 中心街から少し離れた場所に位置するその教会は、ロアナプラ全体を見下ろすように建てられていた。

 

 “リップオフ教会”。

 世界で一番神に愛されなさそうな街に存在する教会の名前。

 まさか、本当にあるとは思わなかった。

 

 教会の入り口にある大きな扉の前に立ち、アンナが大きな声で呼びかけた。

 

「ヨランダいるー!? アンナよー!」

 

 しかし、扉の向こうからは何も反応が返ってこない。

 アンナはもう一度扉に向かって諦めずに声をかけた。

 

「ちょっと頼みたいことがあってきたのー! いれてー!」

 

 今度はドンドンと何回もノックしながら呼びかけた。

 それでもまだ反応はない。

 

 何度か声をかけたが向こう側から何か返答あるわけでもなく、最初は意気揚々としていたが反応がないことが面白くないようで不貞腐れたような表情を浮かべていた。

 

「アンナ、帰ろう。きっと忙しいんだよ」

 

 ここまで声をかけても反応がないということはきっと留守なのだ。

 だからこれ以上ここにいても意味がない。

 

 そう思い、未だ不貞腐れた顔をしているアンナに帰ろうと促す。

 

「残念だけど、また今度シスター? か誰かいる時にもう一回──」

 

「おや、アンナじゃないか。どうしたんだい?」

 

 不機嫌なアンナを宥めていると、後ろから急に声をかけられた。

 振り向くと、右目に眼帯をつけたシスターの格好をしている老女が立っていた。

 

 声をかけられた直後、その人物の元に真っすぐアンナが歩いて行った。

 

「ヨランダどこ行ってたのよ! 思わず無視されてるって思ったじゃない!」

 

「すまないねえ。ちょっとした買い物をしてたんだよ。とりあえず、二人とも中にお入り」

 

 シスターらしきその人は、大きな扉からではなく裏の方から入ろうとしているらしい。

 アンナが黙ってシスターに着いていくので、私もその後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 ──案内されたのは応接室のような部屋だった。

 教会に入ったことがなかったので、中がどうなっているのか見られるのかと少し期待したのだが、そんなちょっとした不満を言える訳もなくソファに腰かける。

 おもてなしで出された紅茶に口をつけずにいると、「キキョウも飲んでみてよ。ヨランダが淹れる紅茶は美味しいんだから」とアンナから促された。

 目の前で微笑みを崩すことなくこちらを見るシスターに「紅茶は嫌いかい?」と聞かれたので、そんなことはないと言い自分も紅茶に口をつける。

 

「それで、今日はどうしたんだいアンナ? まさか、ここにきてやめるだなんていうんじゃないだろうね?」

 

「やめるつもりで来たらもっと申し訳なさそうに来るわよ、一応。今日は、キキョウにシスター服を実際に見てもらおうと思って連れてきたの」

 

 アンナ、いろいろと説明が不足しすぎている気がするよ……。

 そう思ったので飲んでいた紅茶を置き、捕捉と自己紹介も兼ねて私は口を開いた。

 

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、洋裁屋をしているキキョウと申します。突然の訪問お許しください」

 

「おや、随分礼儀正しい子じゃないか。私はこの教会のシスターをやってるヨランダだ。アンナが突然来るのはいつものことだからね。慣れっこさ」

 

「……シスター・ヨランダ。先ほど言った通り、私達が来たのはシスター服を見せてもらうためです。実は今回シスター服を作ってほしいという依頼が入ったのですが、恥ずかしながら私はシスター服をちゃんと見たことがありません。そのため、依頼をこなすためにもぜひ実物を見せていただきたいのです」

 

 こんな感じでいいのだろうか。

 とりあえず、来た理由が伝わればいいのだが。

 

「成程、随分自分の仕事にストイックだ。──そうか、あんたが噂の洋裁屋かい。どんな人間かと思ったんだが」

 

 微笑みを崩すことなく紅茶を飲んでいるその姿に、何故だか妙に緊張してしまう。

 至って普通の光景だというのに。

 

 シスターヨランダは、アンナに目をやり話しかけた。

 

「アンナ、ちょいと二人きりにしとくれ。このお嬢ちゃんと話がしたい」

 

「えー、それじゃ私がつまらないわ」

 

「後でお菓子の詰め合わせあげるからそれで我慢しとくれ」

 

 お菓子の詰め合わせという言葉に乗せられたのか、はたまたシスターヨランダの有無を言わせない雰囲気に負けたのかアンナは「分かったわ」と一言言って部屋から出て行った。

 

 私は何故この目の前のシスターが二人きりで話したいなどと言ったのか不思議でならなかった。別に人前で話して困ることなんてないはずなのに。

 シスターは飲んでいた紅茶を置き、微笑みながらこちらを見つめゆっくりとした口調で話かけてきた。

 

「あんたの噂は聞いてるよ。なんでも洋裁に関しちゃ“一流の腕”を持ってるとか」

 

「一流ではありませんよ、私は」

 

「おや、随分謙遜するねえ。この前アンナが見せてくれたんだよ、あんたが作った逸品を。こんな街であんな品にお目にかかれるとは思わなかった」

 

「はあ……」

 

 世間話というには少し違和感があり、褒められたが素直にお礼を言えなかった。

 私が返答に困っている顔を浮かべていても、それに構うことなくシスターは話を続ける。

 

「だがそんな逸品を、あんたは少しの金とちょっとしたもので引き受けちまうって話じゃないか」

 

「……」

 

「それは実にもったいないとは思わないかい?」

 

 何が言いたいんだろうかこのシスターは。

 話の真意が読めてこない。

 困り顔の私を見て、微笑みながら言葉続ける。

 

「これは単刀直入に言ったほうがよさそうだねえ。……ねえお嬢ちゃん、うちと一緒に商売をしないかい?」

 

「はい?」

 

 その言葉を聞いてさらに意味が分からなくなった。

 うちで商売? ここは教会であって商売する場所ではないと思うのだが……。

 

「もしかして、本当にうちがただの教会だと思っているのかい? まったく、アンナは教えてくれなかったんだね。──うちは、裏で三合会認可のもとちょっとした道具を売って商売していてね。だが、それだけじゃちょいと稼ぎが少ない。あんたも商売をしてるなら、分かるだろう? せっかくいい腕を持っているんだ。どうせならもっとうまく稼ごうとは思わないかい」

 

 ここにきて、なんとなく分かってきた。

 このシスターの言っていることが本当なのであれば、今私に持ち掛けている話は『一緒に商売をしてもっと金を稼ごう』ということだ。

 ざっくりだが、そんなところだろう。

 

「よく分かりませんが、要は私の服の卸元になる代わりに分け前を貰いたい。ということでしょうか?」

 

「そういうことになるねえ」

 

 仮にもシスター服を着ている人間から“金になる話”を持ってこられるとは思わなかった。

 これが普通の教会のシスターなら信じられない話だが、“この街のシスター”ならば十分あり得るのかもしれないと少し納得している部分もある。

 

「お互いに損はないはずだ。どうだい、この話乗ってみる気はないかい?」

 

「お断りします」

 

 シスターの誘いに私は躊躇うことなく返答する。

 金のために服は作らない。そう決めているのだから当然答えはノーだ。

 

「シスター・ヨランダ、私は金のために服を仕立てている訳ではないのですよ」

 

「ならなぜ商売をしてるんだい」

 

「私が依頼を受けるときに報酬を貰うのは、私が服を作り続けられるようにしてくれた方と“自分の作品をタダで渡さない”ことを約束したから。ただそれだけですよ」

 

「服作りの環境を整えてくれたってのがそんなに重要かい?」

 

 解せないと言った風な口調だった。

 このシスターからしたら、金になるはずの商売をわざとしていないことが理解できないのだろう。

 ただ服を作る環境なら誰だって作れる。机、裁縫道具、布。最低これがあれば服は作れる。

 

 だが、あの人が私にくれたのはそんなもんじゃない。

 

「私は服を作ることしか能のない人間です。そんな人間が何の不安もなく、気軽に服を作れる環境を整えてくれたことに恩を感じないなんてことがありますか?」

 

 実際に、服を収める場所ができたことで服を燃やすストレスも収納場所に困ることもなく過ごせている。

 これがどれだけありがたいことか。

 

「そんな恩人との約束を破る。そんなことをするくらいなら、私は死ぬことを選びます」

 

「……」

 

 相変わらず余裕の笑みを浮かべている隻眼の老女の目から逸らすことなく告げた言葉は心の底からの本音だ。

 シスターは私の言葉を聞いた直後は黙っていたが、それも一瞬のことでまたすぐに口を開いた。

 

「随分と死に急いでいるじゃないか。そんな生き方じゃ長生きできないよ、お嬢ちゃん」

 

「生憎無駄に長く生きるよりは、後悔も後腐れもなく死んだほうがマシだと思ってるので」

 

「ますます分からないねぇ。──ねえお嬢ちゃん。なぜ、お前さんはこの街にいるんだい?」

 

「いきなりですね。もう“後悔しないため”ですよ、それ以上もそれ以下もありません。……シスター・ヨランダ。もう、こんな無駄話をするのはやめませんか。そろそろアンナも待ちくたびれてる頃ですよ」

 

 人に根掘り葉掘り聞かれるのは好きじゃない。だから、この話を終わらせたくて敢えて“無駄話”と表現し、アンナを引き合いに出した。

 私の言葉を聞いたシスターが饒舌だった口を閉じ黙ってしまったが、今度は私がそれに構うことなく結論として改めて誘いを断る言葉を告げる。

 

「とにかく、せっかくのお誘いですがお断りさせていただきます」

 

「……分かった、そこまで言うなら今回は諦めようかね」

 

 そのシスターの言葉にこれ以上無駄話をしなくて済む、と少なからず安堵する。

 中途半端に残った紅茶に口をつけ、少し乾いた喉に流し込む。

 

「さて、シスター服だったね。予備があるからそれを持っていくといい」

 

「え、持って行ってもいいんですか?」

 

「構わないよ。そっちの方がやりやすいだろう?」

 

「ありがとうございます。……すみません、先ほどは失礼なことを」

 

 年上は敬うものだと小さい頃から教えられてきたので、一応生意気な口を利いたことを謝っておく。

 

「いいんだよ。あれくらいのことを気にするほど心は狭くないさね」

 

 相変わらず微笑みを浮かべているので本当に気にしていないのかは分からないが、そこはあまり気にしないことにした。

 

 するとそこでドアを叩く音と、アンナの声が飛んできた。

 

「ねえまだ!? ちょっと長話しすぎじゃない!?」

 

「悪かったねアンナ、もう話は終わったよ。倉庫の場所はアンナが知ってる、連れて行ってもらいな」

 

「あ、はい。紅茶、ご馳走様でした」

 

「あぁ。出ていくときは声をかけとくれ」

 

「分かりました」

 

 そう言って席を立ち、待たされて不貞腐れているであろうアンナの元に行った。

 ドアを開けると案の定、不満げな顔をしていたので「可愛い顔が台無しだよ」と言うと「誰のせいよ」と言い返されてしまった。

 ごめんごめんと軽く謝りながら私は部屋を出た。

 

 

 

 

 部屋に一人残されたシスターヨランダが「Mr.張も中々のキワモノを気に入ったもんだ」と呟きながら温くなった紅茶を飲んでいたことなど知る由もなかった。

 




やっとロアナプラ観光名所(?)の一つ、暴力教会を出せました。

ああいうカッコいいおばあちゃんと仲良くなりたい。
けど怒らせたときのあの銃をぶっ放されそう。


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35 自分の価値

  ──部屋を出た後倉庫に向かい、本来アンナが着るためにクリーニングされたであろうビニールに丁寧に包まれたシスター服を持ち出し、シスター・ヨランダにお礼を言おうと再び部屋に戻った。

 シスターはアンナにお菓子の詰め合わせを渡し、教会の出入り口まで見送ってくれた。

 その時に「何かあればまたおいで。その時は紅茶でも飲みながらゆっくり話そうじゃないか」と言われたので、「今度訪れるときは、何か茶菓子でも持ってきますね」とだけ返答し、リップオフ教会を後にした。

 

 

 そして先ほど家に帰り着き、早速シスター服を広げどのような構造になっているのか確かめる。

 

「作れそう?」

 

「試作してからじゃないと何とも言えないけど、多分大丈夫」

 

 不安そうな顔で質問してきたアンナを安心させるためではないが、実物があればたとえ作るのが初めてであっても困ることはないだろう。

 

「じゃ、この依頼受けてくれる?」

 

「断る理由がなくなったからね、受けるよ」

 

「ありがとうキキョウ。それで、もう一つだけお願いがあるんだけど」

 

「今日は頼みごとが多いね。どうしたの?」

 

「実は、私服も何か新しいものが欲しいと思ってるの。なんでもいいんだけど、何か気軽に着られてダサくない服が欲しいの」

 

 その言葉を聞いて少し考える。

 気軽に着られるものなら収納場所にいっぱいあるのだが、ダサくないと言われてしまうと少し困る。

 そこでふと、一つの事に気が付いた。

 

 ……これはひょっとして溜まっているあの服達を人に着てもらえるチャンスなのでは? 

 あそこにある服はすべて私のサイズを基準にして作ってはあるが、ドレスのようにボディラインピッタリなものはないので私と似たような体型なら何も調整しなくても問題はないはずだ。

 

 服は人に着られて初めて存在価値が出る。

 そして、アンナは気軽に着られる服が欲しいと言っている。

 

 このチャンスは逃さないほうがいいかもしれない。

 

 そう思い、私は思い切ってアンナに提案をしようと口を開いた。

 

「ねえアンナ。ダサくないかどうかはあなたの好みによるんだけど、気軽に着られる服なら今たくさんある。その中から選んでもらうっていうのはダメかな?」

 

「それでもいいけど、どこにあるのよそれ。見たところどこにもない気がするんだけど」

 

「ここじゃなくて、また別のところに収納してるの。……とりあえず見に行く?」

 

「行く」

 

 即答だった。

 さっき帰ってきたばかりだが、アンナは椅子から腰を上げ外に出ようとしていた。

 私も手に取っていたシスター服を作業台の上に置き、鍵と服を持ち帰る用の紙袋を持って再び家を空ける。

 

 そこから十分程歩き、収納場所である灰色のビルの二階に着いた。

 

 部屋の鍵を開け、相変わらず数十着以上の服があるその部屋を見た瞬間、アンナはとても驚いたようで「……すごい」と呟いた。

 とりあえず、欲しい服を選んでもらうため好きに見てもらって構わないことを告げる。

 

「この中で気に入ったものがあれば言って。タダでは渡せないから選んだものによってお代考える」

 

「分かった。──それにしても驚いたわ、こんなにあるなんて」

 

「まぁ、好きなように作ってたらいつのまにかって感じなんだけどね」

 

「どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ」

 

「言うタイミングがなかったの」

 

 私の言葉にふーん、と適当な相槌を打ち部屋中の服を見始めたのでそれ以上何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 服を選び始めて十五分程経った頃、「ホントは全部欲しいんだけどね」と言っていたアンナが悩みに悩んで選んだ数枚のシャツ、スカート、ワンピースを持ってきていた紙袋に入れる。

 お代について考えていたところ、アンナがボソッと「キキョウの服をこんだけ買うってなったら二万バーツあっても足りない気がするわね」呟いていた。

 

 二万バーツは、確か日本円で七万円くらいだった気がする。──七万円!? 

 

「い、いやアンナ。いくらなんでもそこまでは取れないよ」

 

「え、そうなの? じゃあどれくらい貰う気でいるの?」

 

「えーっと」

 

 そう聞かれると困ってしまうのだが、二万バーツは取りすぎだと思うのでそれ以下の値段でこの服の量だと

 

「六千とか?」

 

 六千バーツは確か日本円で二万円だったはずだ。

 これでも割と取っている方だと思うのだが、安すぎるのもどうかと思うので微妙なラインを責めてみる。

 高いと言われると思っているので別にこれ以上低い値段でも構わないのだが、私から提案した金額を聞いて、アンナは「はあ!?」と何故か眉間に皺を寄せて怒ってきた。

 

「何考えてるのよ!? それじゃ商売にならないわよ!!」

 

「え、いやこれでも結構高い方だと思うんだけど……」

 

「馬鹿なの!? キキョウ、あなたマフィアのボスの服を仕立てた一流の洋裁屋でしょ! それがそんな安く売っちゃだめよ! 腕に見合う値段で売らないと!!」

 

 何故ここまで言われなきゃいけないのか。

 馬鹿だと言われたことに少しだけ納得いかないが、それを表に出さず自分が思っていることを伝えた。

 

「腕に見合う金額と言われても私は一流ではないし、そもそも色々な人が私の服を気に入ってくれているのは好みに合っているからであって」

 

「じゃあ一つ質問。キキョウに依頼した人達に一人でも『あなたの服気に入らない』って言われたことある?」

 

 アンナの質問に少し振り返る。

 思えば、今まで気にいらないとかここを直してほしいとか言われたことはない。

 ということをじっと見てくるアンナに一呼吸空けてから伝える。

 

「……ない」

 

「でしょ? それって本当にすごいことよ。依頼してくる全ての人の好みに合わせるだけじゃなくて期待してた以上の作品を作り上げるのって誰でもできることじゃないし、この街じゃそんな洋裁屋はいない。──そんな洋裁屋の服をそんな値段で売っていいと思う?」

 

 珍しく真剣に話すアンナの言葉に私はどうしても納得できなかった。

 私の場合好みに合わせて作っているのではなく、私の作った服がたまたまその人たちの好みに合っていただけなのだ。

 希望があればその希望通りに作るし、なければ似合いそうなものを作ろうと思っているだけであって。

 

 それに、私は本当の一流の腕を持った人を知っている。

 その人の傍でずっと見てきたから分かるのだ。

 私は一流じゃないということが。

 

 私の腕を一流だと言ってくれている人達だってあの人の服を見れば、そんなことは言えなくなるはずだから。

 

「ねえキキョウ。私も含めてこの街にいる人間は服に関しては素人だから、そんな人間から評価されても意味がないと思うのも仕方ない事だと思う。だけど、せっかくの評価をそんな簡単に否定するのはこちらとしては気分は良くないわ」

 

「否定してるわけじゃない。ただ、私は私の腕をそう思っていないってだけ」

 

「それが否定してるっていうのよ。まあ、「私は一流なのよ」ってふんぞり返られても困るけど……とにかく、あなたは服に関しては本当にすごいのよ。だから、せめて私からはこれだけ払わせて」

 

 そう言ってアンナが私に出してきたのは、二万バーツ分のお金だった。

 

「ダメだよ、ここにある服は私が趣味で作ったものだからもっと少ない額で」

 

「キキョウ、お願い受け取って。……あなたには迷惑かけたし、私にはこれくらいしかできないから」

 

 後半は小さく呟いていたがはっきりと聞こえた。

 なんとなく、アンナがここまで頑なになっている理由が分かった気がする。

 

「アンナ、確かに私は一度あなたに遊びに付き合わされたけど、それそこまで気にしてないからね」

 

「え」

 

「というか、迷惑かけたと思ったなら“ごめんなさい”って一言謝ればそれでいいのに。そういうのをお金で解決しようとされるのは好きじゃない」

 

「でも、私」

 

「とにかく、そういうことで出すお金なら絶対受け取らないよ私。お金のために、アンナとこうして喋っていると思われたくない。それにもし今、私が提示した金額より安く受け取ろうと思って演技していたとしてもそれでいいと思ってるから」

 

「……は?」

 

 アンナはまた眉間に皺を寄せた。

 遊びに付き合わされたことを気にしていないのもお金のために動いているわけではないのも本当だが、アンナの言葉が演技ではないと信じられないのも本音だ。

 

「さっきも言ったけど、ここの服は私の趣味で作ったものだからそもそもお金を払ってもらう必要はないと思ってる。だけど、そんなことしたらあの人との約束を破るからしないだけ。だから、本当に安い金額で渡そうと思ってる。それに、演技であってもさっきの言葉は嬉しかったしね。だから」

 

「なーんだ、気づかれてたのね。てっきりそのまま騙されてくれるもんだと思ってたけど」

 

 さっきまでの申し訳なさそうな顔はどこへやら、アンナがニヤリとした顔をしながら私の言葉を遮る。

 

「でも、キキョウの腕を評価してるのは本当よ。折角稼げる腕を持ってるんだからもったいないと思ってるわ」

 

「生憎、金のために洋裁屋をやってるわけじゃないから。……それで、どうする? とりあえず私は六千バーツでいいんだけど」

 

 アンナに人を騙すことをやめなさいと言ってもどうせやめない、というかやめられないのだろう。彼女はそれを面白がっている。私が服を作ることをやめられないように、彼女にとってそれが生きがいとまでは言わないが、癖のようなものだと思っているので言うだけ無駄だ。

 

 それに、今回も演技されたからと言って特に何か問題が起きたわけでもないので気にしない。

 この話を長引かせても時間を無駄にするだけなので、早々に本題へ戻す。

 

「キキョウがそれでいいなら私も別に構わないんだけど、あなたを気に入っているボスがなんて言うかしらね」

 

「なんでここでその人が出てくるの」

 

「だって、この街であなたのことを一番正当に評価しているのは三合会のボス様よ。そんな人がこの値段で売るのを許すとは思えないけど」

 

「タダで渡さなければそれでいいって言ったのはあの人だから。値段については特に何も言ってこないし、大丈夫」

 

「私だったら何考えてるのかって絶対怒るわね。ま、私はあなたの雇い主でもなんでもないから関係ないんだけどさ」

 

 そう言いつつ、アンナは六千バーツを差し出した。私はそれを受け取り、服の入った紙袋を渡す。

 

「お礼じゃないけど一つだけ言っとくわ」

 

 紙袋を受け取り、ドアノブに手をかけ部屋を出ていこうとしたアンナが振り返ることもなく声をかけてきた。

 

「こんなやり方を続けるなら、せめて相手に舐められないようにしなさいね。あなたのボスのためにも」

 

「……分かってる」

 

「……前に服を届けてくれたところにはもういないから、シスター服出来たらバオに預けといて。もし運よくその場に居合わせたら、その時は飲みましょ」

 

「分かった。じゃ、その時はアンナの奢りでいい?」

 

「そこはちゃっかりしてるのね。ま、別にいいけどさ。じゃキキョウ、またね」

 

「気をつけて帰ってね」

 

 最後まで振り返ることなく手をひらひらさせてアンナはこの部屋を出て行った。

 

 1人残った私は、とりあえず換気をしようと窓を開ける。

 そんな事をしている最中でも、さっきアンナに言われた言葉を思い出す。

 

 

 “──せめて相手に舐められないようにしなさいね。あなたのボスのためにも”

 

 

 その言葉の意味をちゃんと理解できている訳じゃない。

 

 私の評価は張さんの評価にも繋がる。もし私が噂通り一流でなければ見る目がないと言われ、とりあえず何でも渡せば服が貰えると思われれば、都合のいい人間を気に入っているだけと言われるのだろう。

 

 アンナが言ったのは恐らく“あんたが舐められれば、三合会のボスも周りに舐められることになる”という意味だ。

 

 私としても大恩ある人が自分のせいで舐められるのは避けたい。

 

 だが、私があの人をパトロンに選んだのはあの人のためじゃない。

 私が“服を作る”ために選んだのだ。その結果、なんだかんだあって“三合会のボスのお気に入り”というブランドが付いただけのこと。

 

 だから私がするべきなのは、“タダで服を渡さず、気に入らない奴には絶対服を作らない”こと。

 それさえ守れば、私のせいであの人が舐められることもなく自分のやりたいように服を作れる。

 

 それだけではいけないのだろうかと考えるが、やはり私にはよく分からないので考えることをやめ開けた窓を閉め部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 


 

 

 キキョウ達が去った後も、ヨランダは紅茶に口をつけながら“面白い子だ”と先程取引を持ち掛けた相手を思い出し、心なしかいつもより口の端が上がっていた。

 

 そんなヨランダがいる部屋に足音が近づいてくる。

 その足音はちょうど部屋の前で止まり、三回ドアをノックした後足音の主は部屋に入ってきた。

 

「ご機嫌よう、シスター・ヨランダ。今日の紅茶は何の種類かな?」

 

「相変わらずのようだねヴェスティ。今日はハロッズのアールグレイだ」

 

 掛けていたブラウンのサングラスを外しながら軽く挨拶を交わすヴェスティとヨランダの距離がだんだん縮まっていく。

 

「ご一緒しても?」

 

「茶菓子はあるんだろうね」

 

「勿論、それがなくては茶会にならない」

 

 ヴェスティは、持ってきた小さな紙袋から丁寧に小分けにされた茶菓子を取り出し、ヨランダに一つ渡す。

 その時に机の上に飲み終わった二つの紅茶カップが置いてあることに気づき、自分の前に誰かが来ていたことを知る。

 

「もしかして、俺が来る前にもう誰かと茶会をされていたのかなシスター?」

 

「あぁ、とても珍しいお客さんだったよ」

 

「それは実に興味深いな。一体どんなウサギとお茶を飲んでたんだ?」

 

 ヴェスティは手慣れた動作でヨランダの空いたカップと新しく出した自分用のカップに紅茶を注ぐと、ヨランダに向かい合う形でソファに腰かけ紅茶に口をつける。

 

「あんたが今一番気になっているやつさ。三合会御用達の洋裁屋だよ、まさか向こうから来るとは思わなんだ」

 

「……洋裁屋がなんでここに?」

 

 ヨランダの言葉を聞いたヴェスティは思わず紅茶から口を離す。

 あの気に入らない童顔の男が気に入っている一流の洋裁屋。

 オシャレに気を遣っている人間からすれば気にならない訳がない。

 

 この数か月、会いに行こうにも時間が割けられず少しばかり苛々が募りつつあった。

 その感情を表に出すことなく、微笑を浮かべながら再び紅茶に口をつける。

 

「“シスター服”を見せてほしいって言われてね。なんでもそういう依頼が入ったとか言っていたよ」

 

「そんなものまで作るのか。貴女のことだ、もしかして何か持ち掛けたりでもしたのか?」

 

「あんな金のなる木を逃すのは惜しいと思ってね。ちょいと誘ってみたんだが、振られてしまったよ」

 

「それは残念だったなシスター。──今なら俺の気持ちがよく分かるだろう? あんなにアプローチしたのに結局貴女は三合会の童顔野郎の誘いに乗った。俺からの誘いには一度も頷かなかったというのに」

 

 紅茶を置き、口の端を下げることなく向かいに座っているシスターを見ながら話しかける。

 その丁寧な言葉の裏には静かな怒りのようなものが混じっていた。

 そんな事を意に介さず、ヨランダは余裕の笑みを浮かべ返答する。

 

「お前さんの誘いよりもあっちの方が上手い誘い方をしただけの事さね。あたしゃそれに乗っただけだ。それであたしを責めるのはお門違いなんじゃないかい坊ちゃん」

 

 結局、コーサ・ノストラのナンバーツーであるこの男でさえ、ヨランダの前ではただの子供に等しいのだろう。

 そして、それは“坊ちゃん”と呼ばれた男もよく分かっている。

 だからこそ言われたことに腹を立てずゆっくりと息を吐き苦笑した。

 

「……そうだな、すまない。やはり俺は欲しいものを全て手に入れなければ気が済まない性分らしい」

 

「まだまだお子様だねえあんたも」

 

「全くだ。お恥ずかしいところをお見せしたお詫びに、今度はイタリアの紅茶と茶菓子のセットを持参しよう」

 

「それは楽しみだ」

 

「ふっ。さて、世間話はこれくらいにしてそろそろビジネスの話をしようかシスター」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──シスター・ヨランダとの茶会も終わり、俺は教会を後にした。

 協調体制となってから約三か月が経った今、徐々にその体制が浸透しつつある。

 

 その体制を整える初段階で俺はまず武器流通のルートを抑えることを優先的に行おうとしていた。

 その中でも武器だけでなく様々なルートを確保し、一際稼いでいた暴力協会の大シスターに目をつけ何回も茶会に参加した。

 

 だが、そう考えていたのはあの童顔野郎も一緒だったようで先回りされた。シスターから誘いを受けたと聞いたときは野郎を殺してやろうかとも思ったが、まだその時じゃないと頭では理解している。

 そして、今のままではまずいことも。

 

 この状況を放っておけば、俺たちコーサ・ノストラの立場は三合会やホテル・モスクワ、ひいてはマニサレラ・カルテルよりも圧倒的に低くなる。

 あの会合で上下関係なんて存在しないが、この街では組織の影響力がどれだけ強大か。

 それが自分たちの立場を決定づける。

 

 だからこそ、あのド派手な三合会とホテル・モスクワの抗争時に一足遅れた分を取り戻さなくてはならない。

 

 焦りは禁物だ。俺やヴェロッキオがそれを見せてしまえば組織全体が崩壊することにも繋がる場合がある。

 

 ヴェロッキオも曲がりなりにもボスであるため、俺と同じく組織の立場が危ういということに気付いているのだが、あいつは自分の気持ちをうまく隠せるほど器用じゃない。

 その焦りが今部下たちに伝わっているせいで街の体制を整えるための行動が上手くいっておらず、逆にどんどん混乱を招いてしまっている状況だ。

 

 そんな状況の自分たちの組織とは反面、ホテル・モスクワや三合会が徐々に幅を利かせているとあってはヴェロッキオの焦りからくる苛々も納得できる。

 

 そんなあいつを宥めつつ、組織が有利に立つために動くのが俺の役目。

 

 馬鹿で不器用なボスと無能ではないが有能とも言えない部下達。

 そいつらが待っている事務所へ帰らなければならないと思うと、心なしか足取りが重くなる。

 

 こんな俺の楽しみと言えば、部屋にあるコレクションを眺めることと噂の洋裁屋に会う瞬間を夢見ることだけ。

 そんな洋裁屋と出会えるのはもう少し先になりそうだと、思わずため息をついた。




頑張れヴェスティ!


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36 忠告

 ──アンナから依頼を受けて一週間が経った。

 なにせシスター服は初めて作るため慎重になり、何回も試作したおかげで時間がかかってしまった。

 ちゃんとできているか分からないが、実物と比べてそんなに変なところはないので、ひとまずこれで完成とする。

 

 言われた通りイエロー・フラッグに持っていこうと、シスター服を包装し紙袋に入れる。

 

 そういえば店は直ったのだろうか。

 どうせ行くならちゃんと酒を飲みたいものだ。

 

 そう思いながら、いざ行こうと紙袋を持った瞬間、ズボンのポケットに入れていた携帯が鳴りだした。

 躊躇うことなく手に取り出てみると、ここ何か月かずっと忙しいと言っていたあの人の声が聞こえきた。

 

『ようキキョウ、どうだ調子は?』

 

 私と電話する時、ほぼ毎回言っているこの言葉は軽い挨拶代わりのようなものとなっている。

 そんないつもの彼の言葉に、私間を空けずに答える。

 

「まあまあです。張さんは調子いかがですか?」

 

『俺の方もまぁボチボチと言ったところだ』

 

「それは何よりです。お忙しいと聞いていたのでお疲れかと思ったんですが」

 

『最近は落ち着き始めたおかげでゆっくりできてるよ。──と言いたいところなんだがな』

 

 何やら言いたいことがあるのか、少し間を空けて本題に入ろうとしていることが分かった。

 一体何の話をされるのだろうかと黙って待っていると、張さんは静かに話し始めた。

 

『お前、ようやく保管してた服を手放したらしいな。ずっとあそこに溜め続けるもんかとばかり思っていたが』

 

「……流石、耳が早いですね」

 

『お前が服をあげた女が街中で自慢してたんだよ。その時、ちょいと気になることを聞いたんだが……お前、あの量の服をあんな値段で売ったのは事実か?』

 

 私としてはタダで売った訳ではないのでそれでいいと思っていたのだが、どうやら今回は認識が違ったらしい。

 

「あれは私の趣味の産物です。なので、オーダーメイドとは大幅に値段が違うのは当たり前ですよ」

 

『だとしてもだ。俺は確かにタダで服を渡すなとは言ったが、あれじゃタダでやったも同然だぞ』

 

「正直、あれでも割と高いと思っているんですが」

 

『まあ、タダでは渡していないから強くは言わないが……今後はもうちょっと相応の値段で渡してほしいものだな』

 

「相応の……」

 

 なんだ相応の値段って。

 あれでも高いと思っているのに、それ以上に高く売れということだろうか。

 それじゃあまりにもぼったくりな気がする。

 この街じゃお金を持っている人間のほうが少ないというのに。

 

 ──そもそも、『タダで渡さなければいい』という話だったではないか。

 それ以上に彼との間に何か守らなければならないことがあるなんて、私は知らない。

 

「張さん、私は貴方との約束を守っています。そして、それでいいと言ってくださったのは貴方では?」

 

『……』

 

 確かにこの人には恩がある。だが双方納得した上でこの商売のやり方をしているのに、それをどんどん自分の都合のいいように変えられるのは困る。

 電話の向こうで黙っている張さんの言葉を待つことなく私は話を続けた。

 

「私は、そういう条件だったからこそ貴方との取引に応じました。あなたに受けた恩を忘れたわけではありません。ですが私と貴方の間には“タダで服を渡さないこと”、そしてそれを条件に収納場所を提供する。これ以上の約束はないはずです」

 

『なあキキョウ。俺がなんでお前に取引を持ち掛けたか覚えているか』

 

 さっきよりも低くなった声で問いかけられた。

 そのことに多少驚いたが、張さんからの質問に一呼吸間を空けて答える。

 

「不可解なことが起きていることが問題だ、と」

 

『そうだな。そして、今またその不可解なことが起きている。──言っている意味分かるな?』

 

 彼に言われた言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。

 この人の言い分でいけば、不可解なことを起こさないために取引をしたのに、それが功を奏していなければ意味がない。ということだ。

 

『約束は必ず守ると言っているお前のことだ。“約束を守ればそれでいい”と思ってたんだろうが、生憎こっちはそうじゃない』

 

「……」

 

『約束を守るのは結構だ。だが、約束するに至った“理由”を忘れるのは感心しねえなキキョウ?』

 

 

 ……この人の言うとおりだ。私は、私の都合だけ考えてた。

 この歳になって子供じみたことを言って、恩人に迷惑をかけて何が“約束を守る”だ。

 自分の都合のいいように認識を変えていたのは私じゃないか。

 

 自分の身勝手さに腹が立つ。それと同時に、我儘を言ってしまったことに申し訳なさが出てくる。

 

「そうですね、貴方の言う通りです。……すみません、我儘を言ってしまって」

 

『相変わらず物分かりが良くて助かる。ま、お前が自分の腕を過小評価しているのを知っているからな。いずれこの話をちゃんとしようと思っていたところだったから丁度良かった』

 

「本当にすみません。──あの、張さん」

 

『ん?』

 

「やはり、私としては作った服を誰かに着てほしいという思いはあります。趣味で作ったものまで高い値段で売ってしまうのは」

 

『お前はどこまでも“洋裁屋”だな。だが、客が出そうとしている額を素直に受け取らないのはよくない。だから、その客がその時出せる最大の額、もしくは金以外の価値ある何か。それを素直に受け取ってくれさえすれば俺は何も言わねえさ』

 

 

 一体どこまで知っているのだろうか。

 この言い方だと恐らくアンナが二万バーツを渡そうとしたことも知っているはずだ。

 こういう時、嫌でもこの人がこの街の支配者の一人であると認識する。

 張さんが発した言葉の裏には“お前が何かしでかせば必ず俺の耳に入る”という意味が込められている気がした。

 

『それに、もしお前を騙して出せたはずの額を渡さなかった奴がいればそれなりの対処はするつもりだがな』

 

「いや、それは騙された私に非があることですし別に気にすることでは」

 

『“俺が気に入っている洋裁屋の服をズルして手に入れている”ってことが問題なんだぜキキョウ。それに、そうした方がお前も商売がやりやすいだろう?』

 

 やりやすいのかどうかは分からないが、張さんが問題だというならそうなのだろう。

 

「できるだけ、派手にならないようにお願いできますかね?」

 

『はっはっは、そりゃ無理だろうな』

 

 一応その対処を目立たないようにできないか言ってみたが、やはり無駄だったようだ。

 

『ああ、それともう一つ』

 

 張さんは何か思い出したようで、新たな話題を切り出してきた。

 

 話の本題に入る前に息を吐きだした音が聞こえた。

 私の前では吸わないが、服から漂ってくる匂いからしてあの人は相当なヘビースモーカーだ。きっと今も電話をしながら吸っているのだろう。

 

 そんな様子を想像していると妙な事を言われた。

 

『“紳士ぶった着飾り野郎”には気をつけろよ。いずれお前に会いに来るだろうからな』

 

「紳士ぶった着飾り野郎?」

 

 着飾る人はともかく、この街で“紳士”に振舞っている人間がいるのだろうか。 

 ある意味とても目立ちそうだ。

 そういう人間を警戒しないことはないのだが、何故私に会いに来るのかが分からない。

 

「あの張さん、ただの洋裁屋にわざわざ会いに来る人なんてそんなにいないと思いますけど」

 

『いや、あいつは絶対来る。今は忙しいようでお前に会いに行けないと嘆いているらしいが……。──いいか、何か妙な真似されたら必ず俺に言うんだ。そん時は俺からそいつに直接言ってやる』

 

「一体どういう人なんですか?」

 

『会えば一目で分かる。とにかく気をつけろよ』

 

「……分かりました」

 

 よく分からなかったが、有無を言わさないような口調にそう答えるしかなかった。

 まあ、初対面の人にはどんな人でも警戒しなければ痛い目に遭うのがこの街だ。警戒しないに越したことはないだろう。

 

 張さんは私の返答を聞くと、また吸っているであろう煙草の煙を吐く音をさせてから言葉を発した。

 

『とりあえず、今日はそんなところだ。ではキキョウ、今度は一杯やりながらゆっくり話でもしよう』

 

「そうですね、貴方がゆっくりできる時が来れば」

 

『ああ。では、またいずれ』

 

「はい」

 

 いつものように『また』という言葉で通話が終了し、携帯をポケットに戻す。

 そして、アンナの依頼であるシスター服が入っている紙袋を持ち直し、イエロー・フラッグに向かった。



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37 邂逅

 家から三十分程歩いた場所にある酒場──イエロー・フラッグは一週間前にレヴィと男たちの愉快な騒ぎによって穴だらけになっていたが、何とか修繕は終っているようだった。

 

 店の中に入ると開店したばかりなのかまだ客が誰一人おらず、カウンターの向こう側で客を待っているバオさんに声をかける。

 

「バオさん、お疲れ様です」

 

「おう、キキョウか」

 

「お店直ったんですね。よかった」

 

「おかげさまでな。お前さん、あの時大目に金渡してくれただろう。今日は一杯だけサービスしてやるよ」

 

「え、ホントですか。まさかそんな気遣いができる人とは」

 

「おい」

 

「冗談ですよ。ではお言葉に甘えて……とその前に」

 

 一つ間を空けて、アンナに渡すためのシスター服を入れている紙袋をバオさんに差し出す。

 

「アンナから依頼されたんですが、完成したらあなたに預けてほしいと」

 

 バオさんは私の言葉を聞いた途端眉間に皺をよせ「アイツはまた勝手に」と呟き、渋々ではあるが受け取ってくれた。

 

「すみませんバオさん」

 

「別に気にしちゃいねえさ。……いつものやつでいいか?」

 

「勿論、お願いします」

 

 そう返答するとバオさんは、私がここに来るときいつも飲む『Jack Daniel's』のボトルと氷の入ったグラスを出してくれた。

 氷が浸かるくらいまで注ぎ、グラスが冷えてきたと感じたら酒に口をつけ喉に通す。

 

「やっぱり美味しいですね、このお酒は」

 

 一週間ぶりのお酒に、無意識に口端が上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そこから2時間ほど飲んでいると、その間にどんどん客が来始めてあっという間にテーブル席は埋まり、いつもの騒がしさが店内を包んでいた。

 初めてこの店に来た時は張さんと一緒だったからか妙な静けさがあったが、今では静けさの欠片もない。

 

 まあ、私がベリーショートでTシャツにズボンという色気も何もない格好をしているおかげか、カウンターに一人で座っていても誰かに声をかけられることがないので、周りが騒がしくても別に問題はない。

 

 いつものようにバオさんと喋りながら酒を飲んで、ボトルの中身がなくなれば新たにボトルを追加する。

 今まさに追加したボトルを開けようとしたその時、妙に店内の空気が変わる。

 

 だが、私は酒が入っているせいでそのことに気が付かなかった。

 嬉々としてグラスに注いでいると、店内の空気を変えた張本人が私の隣から顔を覗かせた。

 

「お隣良いかな、シニョリーナ?」

 

「……」

 

 今まで声をかけられたことがなかったので驚いてしまい、反応することができなかった。

 声がした方へゆっくりと視線を向けると、顔立ちはよく、整えられた黒髪にワインレッドのジャケットと同じ色のベスト、そして黒のYシャツとスラックスという格好をした男が目に入る。

 

「隣、座っても?」

 

「……あ、どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 もう一度声を掛けられハッとし返答する。

 男はジャケットを脱ぎ隣の席に置くと、私の隣に座った。

 

「やあ、バオ。アマレットジンジャーはあるかな?」

 

「あるぜ。まったく、くそ甘いもんが好きなのは相変わらずみたいだな」

 

「生憎、他の奴らみたいにウォッカやウィスキーを馬鹿みたいに飲むのは性に合わないんでな。どうだいシニョリーナ、君も一杯いかがかな?」

 

「……いえ、私はこれで十分ですので」

 

 遠回しにこの酒を飲んでいることを批判されたような気がして少しイラっとしたが、酒と一緒にイラつきごと飲み込む。

 男はバオさんから酒を受け取ると、機嫌がよさそうな声で再び話しかけてくる。

 

「すまない、君の気分を害するつもりはなかったんだ。お詫びに君のお代はこちらが出そう」

 

「いえ、結構です。自分の分は自分で払います」

 

「はは、随分芯がある女性だ。だが、君のような綺麗な女性はこんなところでそんなお酒を飲んでいるよりも、家でモーニングニュースを見ながら紅茶を啜っている方がお似合いだよ」

 

 なんなんだこの男は。

 妙に丁寧な言葉遣いというかなんというか。

 人を馬鹿にしているのか舐めているのか、はたまた私が女だから紳士ぶった口調をしているのか。

 

 ──紳士ぶった? 

 

 張さんから言われた“紳士ぶった着飾り野郎”という言葉が頭をよぎる。

 

「初対面なのに随分分かったようなことを仰いますね」

 

「ああ、そうかすまない。こちらは君のことを知っているものでね、つい」

 

 私を知っている? 

 私はこんな男と会ったことなんてないはずだ。

 

 勘ぐっていると、男は微笑みながら更に言葉を続けた。

 

「俺は、君にずっと会いたかったんだよMs.キキョウ」

 

 男はそう言って私の左手を取り、手の甲にキスしてきた。

 

「なっ……」

 

 男の行動に気持ち悪さを感じ、すぐに手を引っ込めた。

 私の動揺を知ってか知らずか、面白がっているようにも見える男の笑みに腹立たしさを覚える。

 

「随分可愛らしい反応だ。あの男からはこういう扱いを受けてないのかな?」

 

「……この街でこういうことをする人間の方が少ないでしょう」

 

「はは、それもそうだ。──さて」

 

 あの男というのは誰の事かは分からないが、今はそんなのどうでもいい。

 私の頭の中では、目の前の男に対してこれ以上近寄ってはいけないという警鐘が鳴り響いていた。

 

 男は私から警戒心をむき出しにされているにも関わらず、腹立たしい笑みを崩すことなく言葉を続ける。

 

「軽い挨拶はこれくらいにして、そろそろ名乗っておこうか。コーサ・ノストラのヴェスティだ、これからよろしくMs.キキョウ」

 

 コーサ・ノストラは、確かイタリアのマフィアだったはずだ。

 三合会とホテル・モスクワの存在感が大きすぎて他のマフィアの話はあまり聞かなかったのだが、どうやらこの街にもいるらしい。

 

「まさか、こんなに早く君と会えるなんて夢のようだよ」

 

「……私と誰かを勘違いされているのではないですか? 私はあなたが気にかけるような人間ではありませんよ」

 

 だからとっとと目の前からいなくなってほしい。

 折角いい気分で酒を飲んでいたというのに台無しだ。

 

「まさか。君を誰かと間違えるなんてありえない話だ。俺はここ数か月、君に会うことだけを楽しみにしていたというのに」

 

「生憎、私はあなたを楽しませることも退屈しのぎになることもできません。そういうことをお望みなら他の女性をお誘いください」

 

「この街の女性は確かに刺激的で面白いが、俺が求めているのはそれじゃない。──俺が興味を示しているのは、君の“腕”だよMs.キキョウ」

 

 私の腕? 

 この男が何を言いたいのかよく分からない。

 

「ああ、ちなみに言っておくがあの童顔や……Mr.張のお気に入りだから近づいたわけではないよ」

 

「は?」

 

「俺は、“一級品の服を作った洋裁屋”に興味がある。オシャレに気を遣う人間ならば気にならない訳がないだろう?」

 

 確かに、この男は多少なりとも身なりに気を遣っているようではある。

 自分に何が似合うのかよく分かっているのだろう。

 

 そんな人間がこの街にいるなんて思わなかったが。

 

「Ms.キキョウ。どうか、俺にも一つ仕立ててもらえないだろうか?」

 

「依頼であれば、このような場ではなく直接出向いてください。見ての通り私は今酒を飲んでいますので」

 

「ああ、これは失礼。少々気持ちが逸ってしまった」

 

「別に謝ることではないでしょう。……バオさん、また来ますね」

 

 私は一刻も早く気持ち悪い笑みを浮かべているこの男の前から立ち去りたくて、グラスの中のお酒を一気に飲み干しお金を出して席を立つ。

「おう」とバオさんが一言発したのを聞き歩きだそうとした瞬間、私の歩みはまた男が手を掴んだことによって止まった。

 

「…………なんでしょうか?」

 

 その時の私の顔は恐らく眉間に皺が寄っていて不快さが前面に出ていたと思う。

 それとは逆に、男の方はとても愉快だと言わんばかりに口角を上げていた。

 

 男は私の手を掴んだまま自分の酒に口をつけ話し始めた。

 

「まだ会ったばかりじゃないか。もう少し、この一人寂しく飲んでいる男との会話に付き合ってくれると嬉しいんだが」

 

「先程も言いましたが、そういうことをお望みなら他の女性をお誘いください。貴方なら選び放題なのではないですか?」

 

「それは誉め言葉として受け取っておこう。だが、俺が今口説きたいのは他の誰でもない君なんだよ」

 

「私を口説いても何もなりませんよ」

 

「女性を口説くのに何か理由でもいるのか?」

 

「しつこい男は嫌われるって聞いたことありませんか?」

 

 めんどくさい。非常にめんどくさいこの男。

 なんで私が初対面の男の暇つぶしに付き合わなければいけないのか。

 本当に早くここから立ち去りたい。いい加減この手を離してほしい。

 

 手を振り払おうとしたが、さっきよりも強い力で掴まれてしまい離すことができない。

 

「……離してください」

 

「そんなに嫌がられると傷つくな。ま、今日はとりあえずこれくらいで我慢しようか」

 

 男がそう言い終わった瞬間、掴まれている手を引っ張られ私の体は男に引き寄せられていた。その後腰に手を回され、何が起きたか分からないまま左の頬に柔らかい何かが触れる。

 

 ──頬にキスをされたのだと一瞬の間を置き理解した私は、男の体を力いっぱい押して距離を取った。

 すぐさま眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠すことなく睨みつける。

 

「フッ、本当に可愛い反応だ」

 

 気色悪い。

 その一言で更に嫌悪感が増した。

 

 これ以上言葉を交わしたくなくて、無言のまま振り返り足早に店の出入り口へ真っすぐ向かった。

 後ろから「また会いに行くよ」と声が聞こえ、あの腹立たしい笑みで言っているのだと思うと無性に苛々した。

 

 ……気色悪い、本当に気色悪い。

 帰ったらシャワーを速攻浴びようと決め、怒りのせいか酒のせいなのか熱くなった顔を夜風にさらしながら帰路に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 キキョウが去った後のイエローフラッグ。

 カウンターでは未だに酒に口をつけながらバオと話しているヴェスティの姿があった。

 

「──中々可愛いシニョリーナだったな。あんな反応をされてしまってはつい虐めたくなってしまう」

 

 愉快に口の端を上げながら酒を飲んでいるヴェスティを見て、バオは眉間に皺を寄せながら告げる。

 

「おい、あまりやりすぎると依頼も受けてもらえなくなっちまうぞ」

 

「それは困る。しかし、俺にとっては挨拶代わりのつもりだったんだが刺激が強すぎたらしい。一体張からどんな扱いを受けているのか心配になる」

 

「この街じゃ女どもにあんなことするのはお前さんだけだ」

 

「だからこの街の男どもはモテないんだ。ヴェロッキオもお前もな」

 

「余計なお世話だ」

 

 そうバオが言い終わると同時にヴェスティはグラスに入っている酒を飲み干し、追加を頼む。

 

「ま、やっと見つけたウサギをここで逃がすわけにはいかないんでな。これからはできるだけ慎重にいくとするよ」

 

「……ヴェスティ、お前ホントにキキョウを“口説き落とす”つもりか? そんなことしたら張の旦那が黙ってねえぞ」

 

「んなこと知るか。それに、これで俺の側についたらアイツの悔しがる顔が見れて、洋裁屋の腕も好きにできる。一石二鳥ってやつだ」

 

「ったく、どうなっても知らねえぞ」

 

「欲しいものが目の前に転がっていたら、迷わず手を伸ばさなきゃ手に入るモンも入らねえ。──俺の欲しいものは今目の前にある。なら手を出さねえわけにはいかねえだろ?」

 

「なら勝手にしろ。ただし、ウチに被害が出ないようにしてくれよ」

 

「できるだけ努力するさ。ま、もしド派手にやる時が来たら──」

 

 

 何が何でも潰してやる。

 

 

 そう呟いている彼の顔に浮かんだ酷く歪んだ笑みを見るのは、カウンターの向こう側でグラスを拭いている店主のみ。

 当の店主は彼の顔を見ようと動じずただ自分の仕事をこなし、周りの客は近くにいる客同士でヒソヒソと声を潜めながら会話をするという、酒場としてはあまりに異様な光景だった。







はい、フラグ即回収。


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38 嵐の前の……

 イエロー・フラッグから帰った後、私は酒を飲んでいたことにはお構いなしにシャワーを浴びた。

 飲み足りないと思い冷蔵庫にあるビール一缶を一気に飲み干しベッドで横になる。

 

 ──まさか、この街であんな風に振舞う人間がいるとは思わなかった。

 

 普通なら顔が整っている男性に口説かれたら多少は心が揺れ動くのだろうが、生憎私はそういう扱いを受けることに慣れていない。

 

 初対面でああいうことをしてくるのは、正直気味が悪いと思う。

 あの男の行動が本当に理解できなくて気色悪いという感情しか出てこなかったから拒絶したのだが、それを照れているだとかで片付けられ“可愛い反応”と言われたことにも嫌気が差す。

 

 男性からああいう態度をとられた時は、どういう対応をすればいいのだろうか。

 

 ……アンナなら分かるのかな。

 今度会ったら参考までに聞いてみようか。

 

 

 そう考えている間に、シャワーを浴びて心地よい温度感と酒が入っているおかげか段々瞼が重くなりそのまま目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──キキョウおはようー。可愛いアンナちゃんが遊びに来たわよー」

 

 朝起きて、刺繍をしてから三時間ほど経った頃。おはようと言うには遅い時間だというのに、そう言いながらアンナが家のドアを叩いてきた。

 刺繍していた手を止め、招き入れようとドアを開ける。

 

「おはよう、というかこんにちはだけどね」

 

 そう言いつつアンナを家の中に招き入れ、椅子を一つ出すとその椅子にアンナが腰かける。

 

「コーヒーでいい?」

 

「ええ」

 

 この前までアンナが来た時はココアを出していたのだが、『甘すぎる』と言われてしまってからはコーヒーを出すようにしている。

 

 コーヒーを淹れコップを手渡した後、あまり好きではないコーヒー特有の苦い匂いが漂ってくる中、椅子に座り刺繍の続きを再開した。

 何も言わず刺繍をする私を見て、口の端を上げながらアンナが話しかける。

 

「シスター服受け取ったわ。サイズもぴったりだったし、どこも変なところなかった。流石よキキョウ」

 

「それならよかった」

 

「はいこれ、服のお礼」

 

 と、札束が入った封筒とは別に手紙らしき白い封筒を手渡された。

 

「なにこれ?」

 

「お金は私からだけど、そっちの手紙はあなた宛てのラブレターよ」

 

 こういう話題は好きそうなものだからニヤニヤしてるのかと思えば、アンナの顔は意外にも面白くないといったような不満顔だった。

 

「なんでアンナがそんな顔するの」

 

「……その手紙を渡してきたやつ、顔が整ってていい男だと思ったから私から誘ったのよ。そしたらそいつ、なんて言ったと思う?」

 

「なんて言ったの?」

 

「『君の誘い方はこれっぽちもそそらない。もう少し男のツボを心得た方がいいぞ、Prostituta bambino』って」

 

 最後の言葉は恐らくイタリア語だ。どういう意味なのだろうか。

 私が考えていると、元々不機嫌だった顔を更に眉間にしわを寄せてため息をついたアンナがその意味を教えてくれた。

 

「……『子ども娼婦』って意味よ。私をガキ扱いしやがったのよ、あのエセ紳士」

 

 

 なるほど、通りでそんなに不機嫌なのか。

 

 

 アンナはこの街で割と有名な娼婦だと聞く。女の私から見ても綺麗だと思うくらい美人で、一人で歩けば必ず声をかけられるのだとアンナ自身から自慢されたこともある。

 そんな女性が自ら声をかけたのにも関わらず、「子ども」と一蹴されたら不機嫌にならない訳がない。

 

 特に、アンナは子ども扱いされるのを嫌うから尚更。

 

 

「更にムカつくのは、私がキキョウの客だと知った途端に“これを渡してほしい”って押し付けてきたことよ。──ねえ、キキョウ。あなた昨日妙にカッコつけたイタリアの紳士とイエロー・フラッグで飲んだ?」

 

 イタリアの紳士かどうかは分からないが、

 

「顔は整ってるけど、心底気色悪い紳士ぶった男には絡まれたよ」

 

 今思い出しても鳥肌が立つ。

 

「その男の名前聞いた?」

 

「確かヴェスティって言ってた気がする」

 

「やっぱり。あ、覚えなくていいわあんなクソムカつく男の名前なんて」

 

「……で、なんでそんな男から手紙を律儀に持ってきたの?」

 

 アンナからの話を聞いて疑問に思ったのはそこだ。

 ムカつく男が勝手に押し付けたのであればそれをわざわざ届ける義務もないはずなのに。

 

「あの男がどんな内容の手紙を書いたのか気になるじゃない。これで変な内容だったら街中に広めてやるわ」

 

 仮にこれが本当にラブレターだったとしたら、その内容を知られるのは誰でも遠慮したいものだ。

 だが私としては、この手紙を開けることを遠慮したい。

 

「開けなきゃダメ?」

 

「仮にもコーサ・ノストラのナンバー・ツーからの手紙よ。一応読んでおいたほうがいいと思うわ」

 

 あの男マフィアのナンバー・ツーだったのか。

 通りで身なりがいいはずだ。

 

 本当は今すぐ捨てたいところだが、アンナの言うことも一理あると思い封筒を開ける。

 中には便箋が一枚。その便箋には、たった一言だけ書いてあった。

 

 その手紙の一言は英語でもイタリア語でもない、この街では恐らく私しか読めない言語で書かれてあった。

 流石のアンナも読めないらしく、手紙を見た途端首を傾げる。

 

「ねえ、これなんて書いてあるの?」

 

「……」

 

「キキョウ?」

 

「さあ、私には意味が分からない」

 

「……」

 

 私はどうしたらいいか分からず、咄嗟に“分からない”と言ってしまった。

 いや、何と書いてあるのかは分かるのだが、()()()()()()()()()()()()()()()。その意味が分からなかった。

 

 恐らく、アンナには私が嘘をついているとバレている。

 その証拠に、目の前で小さくため息を吐いている。

 

「キキョウって嘘が下手くそよね。バレバレよ」

 

「……ごめん」

 

「いいわよ。──そんなに動揺してるキキョウは初めてだから無理には聞かない。だけど、どんな内容であってもあのクソ紳士の言いなりになる必要はないからね」

 

「……ありがとう、アンナ」

 

 今の言葉が演技なのかは分からない。だけど、その言葉が多少の気休めになっていたのは事実だった。

 

「その調子じゃ、今日は私はいないほうがいいわね」

 

「……ごめんね」

 

 アンナが気遣ってくれているのが分かって反射的に謝ってしまう。

 情けないな、と自嘲する。

 

「謝ることじゃないわよ。また今度、ゆっくり話しましょ」

 

「そう、だね」

 

 その言葉を発した後ドアが閉まる音がする。いつもなら見送るのだが、今はそんな気分ではない。

 それほどまでにあの男が寄越した一言の手紙は私にとって不可解極まりないものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 キキョウの家を出てからしばらく歩いていた。

 その間、私はずっと考え事をしていて上の空だった様に思う。

 

 大分前に男に襲われたふりをしても冷静に対応していたあのキキョウが、あのクソ紳士からのたった一言であそこまで動揺するのは予想外だった。

 

 あの男の私への態度も気に食わないが、その男がキキョウの“何か”を握っていることにも腹が立つ。

 相手はコーサ・ノストラのナンバー・ツー。私如きがどうにかできる相手じゃないことくらい分かってる。

 

 この苛立ちをどこへぶつければいいのか分からないまま歩く。

 大通りにでてやけ食いでもしようかと思ったその時、黒塗りの車が私の横に停まった。

 

 

 

「ようアンナ」

 

 

 

 高級そうな車の窓から声をかけたのは、この街で一番最初にキキョウを気に入り洋裁屋として営業させている人物──三合会の張維新。

 

 彼とは過去にキキョウ絡みで一度話をしている。

 キキョウが収納していた服を六千バーツで買ったと娼婦仲間と話した時に声を掛けられ、色々と話をした。そこから何回か顔を合わせる度に挨拶を交わすくらいの仲になった。

 

 残念なことにこの男も誘ってもノッてきてくれないのだが、ムカつく断り方をしてこないという点においてはあの男よりも好感が持てる。

 

「ご機嫌ようMr.張。この昼間から娼婦に声をかけるなんて、よっぽど溜まっていらっしゃるのかしら?」

 

「ありがたいことに女には困ってないんでな。見知った顔が見えたんで声をかけただけさ」

 

「それは残念。だけど調子はいいようで何よりだわ、色々とため込むのは体に毒だものね。……これからキキョウのところに?」

 

「あぁ、ちょっとした頼みごとをな」

 

「キキョウはあなたが来ることを知らない様だけど?」

 

「たまにはサプライズでも悪くないだろう。──キキョウは元気そうか?」

 

 元気かと言われれば元気なのだが精神的に元気じゃない。どう返答すればいいか迷ってしまったのもあり、早々に会話を終わらせようとする。

 

「ご自分で会って確かめてきたら? じゃ、私はこれからランチだから失礼するわね」

 

「おいおい、今日は随分つれないな。キキョウと喧嘩でもしたのか?」

 

「まさか、私とキキョウは大の仲良しよ? 喧嘩なんてするわけないでしょう」

 

「にしては不機嫌なツラをしている。仲良しな友人のところに行った後の顔とは思えねえな」

 

 恐らく私とキキョウの間に何かがあったと思っているのだろう。

 この男はキキョウのことになると過保護とも言っていいくらいに首を突っ込みたがる。

 それが功を奏して、比較的安全にこの街で洋裁屋として商売できているのだが。

 

 私としてもキキョウがいるおかげでここ最近退屈していない。

 それのほんのちょっとしたお礼のつもりで、私が知っていることを話そうと口を開く。

 

「──キキョウのところに一つラブレターが届いたのよ。あなたのお気に入りに手を出すなんて馬鹿な男もいたものね」

 

「……ああ、全くだな」

 

「で、その手紙の差出人は妙に紳士ぶったイタリアマフィア。そいつとキキョウは既に会ってるわ。あの様子じゃ何かされたんでしょうね」

 

「……」

 

 ここまで言えば相手は誰か分かるだろう。

 張は何か考えているようでサングラスをかけ直し黙ってしまった。

 私はそれに構わず更に言葉を続ける。

 

「ミスター、あまりキキョウを苛めないでね。キキョウは何も悪くないんだから」

 

「分かっているさ。キキョウについてはすべて正直に話すお前の事だ、今回も本当の事なんだろう?」

 

「ええ。それに個人的にあの男には少し痛い目見てもらわないと気が済まないの。だから何とかしてちょうだいね?」

 

「ああ。──すまないな、時間を取らせた」

 

 そう言いながら張はちょっとしたお小遣いを差し出してきた。

 情報提供の報酬なのだろう。キキョウなら“金をもらうために話したわけじゃない”って断るんだろうな、と想像して口の端が上がったが生憎私はそこまで自分に厳しいわけじゃないのでありがたく貰っておく。

 

「じゃ、ミスター。今度は柔らかいベッドの上でゆっくり話しましょ」

 

「考えておこう。──彪、出せ」

 

 そう言っていつも断るくせに。と心の中で悪態をつき、黒塗りの高級車が去るのを眺めた。

 

 勝手に言ったことを怒るかな。と私にしては珍しく変な心配をしてしまい、らしくないと頭を振り、何を食べるかだけを考えその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 アンナが出て行ってからも、私は貰った手紙を見ていた。

 そこに書いてあるのは私が生まれ育った国の言語。──そう、日本語だ。

 

 日本を発ってから約二年。

 まさかこの街で日本語を目にするとは思わなかった。

 

 しかも、私が動揺する一言を。

 

 とりあえず落ち着こうと手紙を自室の棚にしまい、砂糖をいれたココアを飲む。

 何回か口をつけ、飲み終わる頃にはどうにか落ち着きを取り戻した。

 

 止まっていた刺繍の続きを再開しようとした途端、表のドアから三回ノックが聞こえて来たかと思うと聞き慣れた声が飛んでくる。

 

「キキョウ俺だ。開けてくれるか?」

 

「……張さん?」

 

 今日は何も連絡を貰ってない。だが、あの声を聞き間違えるはずもない。

 私は恐る恐るドアを開けた。

 そこには相変わらずロングコートを羽織りサングラスをかけている張さんの姿。

 

「どうされたんですか?」

 

「なに、近くを通りがかったもんだからついでにな。入っても?」

 

「あ、どうぞ」

 

 私は戸惑いながらも張さんを中へ招き入れた。

 

 今までは私のところに来る時や誰かを向かわせた時は必ず連絡をしてくれていたのだが、何も連絡をせず急に来るのは初めてなので驚いた。

 

 困ることはないので別に気にしないのだが。

 

「コーヒー飲まれますか?」

 

「いや、今日はいい」

 

 これもまた珍しい。

 張さんがここへ来るときは必ずコーヒーを飲むので断られるとは思わなかった。

 未だに戸惑いつつも椅子を出し腰かけるのを見て私も椅子に座った。

 

 

 

「……」

 

「……」

 

 

 しかし、どちらも口を開かず沈黙が落ちた。

 

 

 

 どうしよう。

 なんでこんな微妙な空気になっているんだ。私が何かしたのだろうか。

 

 

 とにかくこのままじゃ埒が明かないと思い私から口を開き声をかける。

 

「──あの張さん」

 

「なんだ?」

 

「私、何かしましたでしょうか?」

 

 心当たりはないのだが、私がまた認識違いを起こし何かをやらかしたのかもしれない。

 だが、さっきも言った通り心当たりがないのでもう直接聞くしかないと思い切って尋ねた。

 私の質問を聞いて、張さんはサングラスをかけ直し一呼吸おいてから答えてくれた。

 

「いや、お前が何かしたとかじゃない」

 

「何かあったんですか?」

 

 思わず聞いてしまった。

 まぁ、これで“お前には関係ない”と言われれば素直に引き下がろう。

 そう思ったのだが、

 

「聞きたいのは俺の方だ。──単刀直入に聞こう。お前、ヴェスティに会ったのか?」

 

 逆に質問された。

 

 つい昨日の事なのに何故ここまで早く耳に入るのか不思議だ。

 だが隠すことではないので事実を話そうと張さんからの質問に答えた。

 

「昨日、イエロー・フラッグで会いましたよ」

 

「その時何かされたか?」

 

 何かされた、と聞かれればされたのだが私としてはあまりいい出来事ではなかったので言いたくはない。

 

「……あまり、いいことはされませんでしたね」

 

「何された?」

 

 どう返答しようか迷いながら答えたので曖昧な事を言ってしまった。

 だが、私のそんな迷いには構わず張さんは間髪入れずに質問してくる。

 

 これはちゃんと答えるまで逃がしてくれなさそうだと諦め、何をされたのかを話そうと息を吐いてから口を開く。

 

「いきなり左手と頬にキスをされました。初対面でそういうことをされたので不快極まりませんでしたよ」

 

「──そうだな、全くもって不快だ」

 

 私の返答を聞き張さんは一言そう言うと、椅子から腰を上げそのままこちらに近づいてきた。

 座っている私を見下げていつものように余裕そうな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

 

「お前の商売道具である腕だけでなく、可愛らしい顔にいきなり唾をつけるとは。紳士の風上にもおけねえな」

 

「可愛らしい顔については否定しますが、紳士の行動だったかどうかは確かに疑問を感じますね」

 

 先程の微妙な空気とは違い、普段喋るような気楽さが出てきたことに安堵して私も微笑を浮かべながら答える。

 

「何を言ってる、お前は顔が整っているんだ。少しは自信を持ってもいいと思うぞ」

 

「そんなことないですよ」

 

「相変わらず謙遜ばかりする。──いつか、お前が俺のために粧しこんだ姿も見てみたいものだ」

 

 そう言いながら張さんは微笑みがら私の左頬に触れてきた。

 少し驚いたが、特に意味はないのだろうと思い触れられたまま返答する。

 

「機会が来れば、いずれはするかもしれませんね。その機会がいつ訪れるか分かりませんが」

 

「なら、今はその時を待つとするか」

 

「待っていても来るのか分かりませんよ?」

 

「いつ来るか分からないのがいいんじゃないか。賭け事と一緒だ、分かっちまったらつまらないだろ?」

 

「賭け事と一緒にするのは結構ですが、その賭けは当たらないと思いますよ。私がイカサマするかもしれませんし」

 

「俺はそっち方面は得意でね。そのイカサマを見破るだけさ」

 

「それは、見破られないよう注意しないといけませんね」

 

「ふっ、せいぜい気を付けることだ」

 

 私は久々この人と世間話に花を咲かせている今の状況を無意識に楽しんでいた。

 

 

 だがそんな私の気持ちは、この会話が終わっても未だに張さんの手が頬に触れている事で薄れていく。

 ……一体いつまでこうするのだろうか。

 

「あ、あの張さん。そろそろ離していただけると」

 

「……ああ、そうだな」

 

 私が素直にやめてほしいと言うと、すんなりと頬から手を離してくれた。

 そして少し下がっていたサングラスをかけ直し、再び椅子に座り足を組んで話し始める。

 

「お前と会うとどうも口が回っていけねえな。お喋りな男は嫌いか?」

 

「いえ、貴方との会話は割と楽しめていますよ。それに、そんな事を今更気にする必要はないですし」

 

「それもそうか。ならお言葉に甘えて、もう一つ俺の話を聞いちゃくれないか?」

 

 私は「はい」と言って、そのまま張さんの話を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──では、また完成したら連絡しますね」

 

「ああ」

 

 話の内容は服の依頼で、今度は替えのスーツを二枚と白のスーツを一着ということだった。

 いつも黒ばかり着ているので白を頼むとは思わなかったが、この人の気まぐれなのだろうと自分で完結し特に何も突っ込まなかった。

 

 張さんは話し足りないのか、本題を言い終えても椅子に座っており再び私に話しかけてきた。

 

「たまには“完成した”以外の連絡をもらいたいもんだな」

 

「たかが洋裁屋がマフィアのボスに気安く連絡できる訳ないでしょう」

 

「お前からの連絡ならいつでも歓迎するんだがな。一人寂しく飲んでる時に誘ってくれてもいいんだぞ?」

 

「そんなことで貴方を呼び出すほど私は馬鹿じゃありませんよ」

 

「つれないな」

 

「そういう立場でしょう、私は」

 

 いくらこの人が誘いを待ってると言っても、酒に一杯付き合ってほしいというだけでマフィアのボスを呼び出す人間がどこにいるというのか。

 少なくてもそれができる人間は私ではない。

 

「なら、俺から誘えば付き合ってくれるのか?」

 

「……まあ、その時抱えてる依頼量によって変わると思いますが、張さんからの誘いなら断ることはないですよ」

 

「そうか」

 

 私の返答を聞くと張さんは満足そうに口の端を上げた。

 そして椅子から腰を上げ、ポケットに手を突っ込みドアの方に向かっていったので私はドアを開けた。

 部屋から出る前に、「ああ、そうだ」と張さんが声を出す。

 

「キキョウ、あの着飾り野郎と何を喋っても構わねえが“いいように”はさせるなよ」

 

 それは、あのヴェスティという男には警戒しろということだと理解した。

 昨日あったことを思えば警戒しない訳はないが、素直に「分かってます」と一言だけ返す。

 

「分かってるならいい。ではキキョウ、今度は一杯やりながら話そう」

 

 そう言ったあと、彼はいつものようにロングコートの裾を靡かせて去っていった。

 しばらく後姿を見送ったのだが、少し遠くなった頃にはなにやら煙草を吸っていたのが見えた。

 やはりここで吸うのを我慢してくれていたのだと、張さんの気遣いを再び感じつつドアを閉め中に戻る。

 

 

 

 

 

 ──少し遅めの昼食を摂ろうと自室に戻り、サンドウィッチを食べながらさっきの張さんの行動を振り返っていた。

 

 あの人と会って約一年が経つが、今日のようなことは初めてだった。

 

 まず何の連絡もなしに来たこと。そして、頬に触れてきたこと。

 連絡についてはサプライズだとか言って気まぐれで済むのだろうが、頬に触れてきたのには少し驚いた。

 ああいうことをするような人ではないと思っていたから。

 だけど、下心があってやった訳ではないと確証はないがそう思う。

 

 なら何を思ってそうしたのかと聞かれると、困ってしまうのだが。

 

 左頬に手をやり、そういえばあの男にキスされた場所だったと今更思い出す。

 それが張さんが触れてきたのと関係があるかは分からない。

 

 分からないことばかりだが、あの男とは違い張さんから触れられた時は何も嫌な思いをしなかった事だけは確かだ。

 あとは考えても無駄だと結論付け、皿を片し作業部屋に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 キキョウと話を済ませ、俺は近くに待たせてあった車に乗り事務所に向かっていた。

 好みである味の濃い煙草を何本か吸っていると、運転している彪が話しかけてきた。

 

「大哥。何か機嫌を損ねるようなことがあったんで?」

 

「あ?」

 

「いつもより煙草の数が多いと思いまして」

 

 そう言われ、確かにいつもより吸い殻が多いことに気づいた。

 俺は無意識だったのだが、腹心のこいつからすればそう思うのだろう。

 

 機嫌を損ねるようなことねえ……。

 あるとしたらあれしかない。

 

「──あの着飾り野郎、とうとうキキョウに手を出しやがった。別に接触するのは構わねえが、その手の出し方が気に入らねえ」

 

「あの男、なにやらかしたんです?」

 

 実際俺は見ていないから本当かどうかは分からないが、キキョウ本人がそう言ったのだから事実なのだろう。

 

「左の手の甲と頬にキスだとよ。全く、あいつはいつから絵本の中の王子様になったんだ。おとぎ話の住人ならそれらしく、馬で綺麗な王女様を見つける旅に出てほしいもんだ」

 

「その綺麗な王女様を見つけたからそういう行動をとったのでは?」

 

「もうすでに別の男に口説き落された後だってのにか? それはそれで物語は面白くなりそうだが、生憎俺はおとぎ話の住人じゃねえからな」

 

 そんな会話をしている間にもまた一つ、また一つと吸い殻が増えていた。

 それが俺の苛立ちを表しているようにも見えたが、そんなことはどうでもいい。

 

 問題は、あいつがわざわざ人目につく場所でそういう行動をとったということだ。

 まるで、“いつでも盗ることはできる”と言わんばかりに。

 

 高級品を自ら意図せず作り出すあの手は尊敬に値する。

 かく言う俺も尊敬している一人であり、その手は俺の手の内にあるモノだ。

 それがあの男に汚された。

 それは許しがたいことであり、これ以上キキョウに変なちょっかいを出されるのは気分が悪い。

 

 

 

 ま、あいつの行動をキキョウが「不快」だと言ったのは愉快だったが。

 

 

 

 俺はまた新しい煙草を出しライターで火をつけ、ため息のような息とともに煙を吐き出した。




今回はアンナと張さんのキキョウに対する思いの変化を書きました。
最初と今とでは少し違うことが表現できてたらいいなあ…と。


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39 洋裁屋の矜持

 コーサ・ノストラ事務所で俺は自分の持ち部屋でゆっくりしていた。

 

 俺としては、妙に殺風景なこの部屋をもうちょっとおしゃれにコーディネートしたいのだが、時間が作れなかったのでそれはもう少し先になりそうだ。

 

 だが、そんなことは気にならいくらい俺はここ最近で一番機嫌がよかった。

 なにせ昨日やっとあの洋裁屋に会えたんだ。

 

 

 

 ──イエロー・フラッグに通ってることは知っていた。

 昨日はたまたま近くを通りかかったもんだから、もしかしたらと思い寄ってみれば……まさか本当に会えるとは。

 

 この街では珍しい東洋人で短髪にズボン。そして、いつもカウンターに座っている。

 

 この特徴に当てはまっている人物がそこにいた。

 折角の機会を逃すまいと一言声をかけ、初めて顔を見た。

 

 化粧っ気はない。だが、素顔が整っているおかげで化粧をしなくても美人だと思える顔。

 なぜ、周りの男はこんな女性に声もかけないのかと不思議に思ったほどだ。

 張のお気に入りだからというのもあるのだろうが、それでも声をかけないとは周りの奴らは相当な腰抜けだ。

 

 顔を見た後、会えた喜びから俺らしい挨拶をしたのだが、どうやらお気に召してもらえなかったらしい。

 挨拶をした時の彼女の反応は本当に可愛らしく、つい頬にキスまでしてしまった。

 

 随分怒っていて何も言わず去ってしまったが、その時の反応もまた可愛らしかった。

 今思い出しても口の端が上がる。

 

 更に運がいいことに、その後洋裁屋と仲のいい客にも会えた。

 神はまだ俺を見放しちゃいないらしい。

 

 ひとまずあの洋裁屋と個人的な繋がりを持つため念のために書いたあの手紙を渡したが、果たして届いているだろうか。

 届いていなくても別に問題はないが、綴ったあの一言を言えば間違いなく食いついてくるはずだ。

 

 少し気になるのは俺の行動を知った張がどう動くかだ。

 忠告してくるのか、あるいは様子見をするか。

 どちらであってもそこまで気にすることではないのだろうが、あいつは意外に頭が回る。だから厄介だ。

 

 そんなあいつと今よりも対等にやり合えるよう、もうそろそろ俺も本腰をいれたいところなんだが、俺の周りは中々それを許してくれない。

 

 さっきヴェロッキオの部屋から怒号が聞こえてきた。

 これはあと五分もしない内に俺のところにお呼び出しがかかるだろうと少し憂鬱になる。

 

 この間『てめえの言動は組織の命に関わってくるから、せめて俺だけに八つ当たりしろ』と言ったばかりだというのに、どうやらあいつには響いていないようだ。

 

 そんな事を考えながら一服していると、可愛い部下が俺の部屋のドアをノックし「失礼します」といつもより覇気がない顔で入ってきた。

 

「……兄貴」

 

「なんだモレッティ。ブリスコラ(トランプゲーム)でもやりたくなったのか?」

 

「いえ、あの。ボスがお呼びで……」

 

「なんでそんな子犬みてえなツラしてんだ。ヴェロッキオにまた理不尽な事を頭から浴びせられたのか?」

 

「いや」

 

「ったく、お前も()()()()()ならもっと堂々としてろ。つっても、お前にそんな顔をさせてるのは俺たち頭なんだが」

 

 これはヴェロッキオだけの問題じゃない。その補佐役である俺がヴェロッキオの苛立ちを抑えられていないのも問題ではある。本当は自分の機嫌くらい自分でとってほしいもんだが、それを支えると決めたのだからやれるだけやるしかないのだ。

 

「いや、兄貴達のせいじゃ……俺たちが役に立ってねえから」

 

「そう自分を責めるな、らしくねえ。お前たち手足をどううまく扱うか考え、動かすのが俺たちの役目なんだ。だから、お前たちをうまく使えていない俺らに責任がある」

 

 全く、貢献しようと働いている部下をここまで追い詰めることもないだろうに。

 ま、必死に動いていようと結果が出ていないのでヴェロッキオが苛立つのも分かる。

 要するにどっちもどっちだ。

 

「──ま、後は俺に任せろ。その後に一杯やりながらゆっくり語り合おう」

 

「は、はい」

 

 そう言って心配そうな顔をしている部下の肩に手を置きながらそう言い部屋を出る。

 そこから真っすぐ廊下を歩けばすぐ我らがボスの部屋にたどり着く。

 

 ドアをノックして声をかける。

 

「俺だ、入るぞ」

 

 そう言って俺はドアを開け最初に目に入った一番奥で腰かけているボスの顔を見てため息を吐きそうになったが、それを我慢して部屋の中に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 張さんから依頼を受けて一か月。

 替えのスーツは完成し、今日から白スーツ製作に入る。

 

 あの人の依頼は他の人のものよりも少し気が張ってしまい、いつもより集中力が必要になる。

 そのため、ここ最近はあまり外に出ていない。

 

 外に出るのはちょっとした買い物の時か、依頼を受けた翌日にシスター服のお礼を言おうとリップオフ教会に足を運んだ時くらいだ。

 教会に行くとき茶菓子を持っていくのを忘れたのだが、シスター・ヨランダから逆に茶菓子をもらうという申し訳ない出来事が起きてしまった。

 シスターからは「たまにこうしてお茶してくれるだけでもいいさね」と言ってくれて、懐の深さを感じた。

 ついでと言わんばかりに「護身用になにかいるかい?」と銃を売りつけられそうになったので早々に帰ったが。

 

 

 そんな教会での出来事を思い出しながら、仮縫いを行おうと布を出す。

 

 とりあえず、作ろうと思っているのは同じスリーピースでパンツは裾が少したるんで余裕のある感じが出せるハーフクッション。ジャケットは襟を優美できっちりした印象を与えるピークド・スリム型にしようと考えている。

 

 ちょっとしたことが服や人の印象を変えるので、これをうまく再現できれば全く同じものが出来上がるというつまらないことにはならない。

 白と黒のスーツ、それぞれの違いが出せればいいと考えた結果だ。

 

 これがあの人のお気に召すかは分からないが、いつものようにやれるだけやるしかない。

 薄く線をいれ、いざ鋏で切ろうとした瞬間──ドアから来客を告げる音が響いた。

 

 今からという時に一体誰なのだろうか。

 ひとまず鋏を置き向こうから声をかけられるのを待っていると、ドアの向こうから聞いたことのある声であまり聞きたくない名前が飛んできた。

 

「コーサ・ノストラのヴェスティだ。ご在宅なら開けてほしい」

 

「……」

 

 開けたくない。

 あんなことをされたのだ、当然そう思う。

 

 私が開けるのを渋っていると、アンナを通じて渡されたあの手紙の一言をカタコトで喋ってきた。

 

「シゲトミハルタハゲンキニシテマスカ」

 

「……!」

 

 そう、あの手紙には『しげとみはるたは元気にしてますか?』と、たった一言そう書いてあった。

 

 しげとみはるた。

 これはある人の名前。

 今でも誰より尊敬し憧れてやまない、たった一人の私の──

 

 

「うーん、発音がいまいちだな。やはり日本語は難しい」

 

「……なぜ、その名前を知っているんですか?」

 

「やっと反応してくれたね。この話は長くなりそうだから中に入れてくれると嬉しい」

 

「……」

 

「この前みたいなことはしないさ」

 

 

 そう言われ、意を決しドアを開けた。

 

 信用したわけじゃない。

 ただ久々にその名前を聞いたのと、彼の存在を知っている人物がこの街にいる事実に心が動かされただけだ。

 例えこの男の思惑通りだとしても、話を聞かない訳にはいかなかった。

 何せ、“しげとみはるた”という人物は、

 

「さ、お茶でも飲みながらあの素晴らしい洋裁屋についてじっくり語り合おうじゃないか」

 

 

 私に洋裁を教えてくれた人だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──イエローフラッグという人目が付くところで見世物のように左手と頬にキスをしてきた男を中に入れ、来客用の椅子を出してから自分の椅子に腰かけ自分から声をかける。

 

「茶は出しませんよ。貴方がしたことを許した訳じゃありませんから」

 

「俺なりの挨拶のつもりだったんだが、気を悪くしたなら謝ろう。──だが、今は謝罪よりも聞きたいことがあるんじゃないのかな?」

 

 そう言っている男の顔は愉快だと言わんばかりに口の端が上がっていた。

 その表情に思わず顔が引きつる。

 だがこの男の言う通り、軽い謝罪よりも聞きたいことがあるのは確かだ。

 ため息を我慢し、重い口を開く。

 

「そうですね。聞きたいことは山ほどあるのですが、まず一つ。──どこでその名前を?」

 

「彼の作品に出会ったのは十五の頃だ。その時に一目惚れして、その作品を作った人物は何者なのか知ろうと俺なりに調べた。そこで彼の存在を知った、という感じだな」

 

「では、直接会ってはいないということですか?」

 

「ああ、残念ながら」

 

 心底残念そうな顔を浮かべている男に構うことなく次の質問を投げかける。

 

「……もう一つ、その人物と私が何故関係していると思ったんですか?」

 

 私が一番知りたいことはこれだった。

 恐らくあの人のことを調べているうちに私に辿り着いたのだろうが、私のことをどこまで知っているのか。それが気がかりだった。

 

「実は、彼のことをもう少し詳しく調べようと思ったんだが名声に拘ってるような人ではなかったらしく、彼について知っている人間はイタリアではあまりにも少なかった。俺が手に入れられたのは名前と日本人であることと、洋裁屋であることの三つだけ。組織を使って調べようとしたんだが、その時には彼はもう日本に帰ってしまっていてね。俺も後を追って日本に行こうとしたんだが、そんな余裕と時間は当時の俺にも我が組織にもなかった。だから、彼自身についてはよく知らない」

 

 つまり、会ってもない上に彼の話しか知らないが、確かに存在していると信じている──ということか。

 あの人について情報が掴めていないのであれば、私が彼に関係しているという情報は掴めないはずなのだが。

 

 

「だが、数少ない手がかりを調べていくうちに、彼はイタリアで数多くの作品を残している事を知った。俺は彼に会えないのであればせめて彼の作った作品を集めようと動いた。おかげで服に対する目利きが養われてね。腕のいい者が仕立てたのかも一目で分かるようになった。だが、特に養われたのは()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

「……」

 

「だから、君が作った服を見て一目で分かった。これは彼の作品だとね」

 

「話が長いです、簡潔にまとめてください」

 

 結局この男は何が言いたいんだ。遠回しすぎて分からない。

 男はクスッと笑うと再び口を開いた。

 

「君の作った服は彼の作った服によく似ている。まるで、()()()()()()()()()()()()()

 

「……」

 

「君は彼の教え子なんじゃないか? 少なくとも俺はそう思っている」

 

「その証拠は?」

 

「証拠はないが、これは確信に近い」

 

 

 驚いた。

 服一つでここまで考え至る人間がいるなんて思わなかった。

 私の反応を見て男は確信したのか更に上機嫌になり、言葉を続ける。

 

「それで、彼は元気なのかな? いつか会いに行きたいんだが」

 

「……残念ながら、もうこの世で会うことはできないですよ」

 

「……亡くなったのか?」

 

「二年前に」

 

「──そうか。それは、残念だ。とても」

 

 男は私の返答を聞いて意気消沈しているように見えた。

 ずっと会いたかった人物が亡くなったと知れば嫌でもそうなるのだろう。

 男はしばらく黙っていたが、やがてまた口を開き話し始めた。

 

「……ま、落ち込むことはないな。なんせ、まだ君がいるのだから。──Ms.キキョウ、一つ頼みたいことがある」

 

「聞くだけ聞きます」

 

「君が作った服を、もう一度見せてもらえないだろうか?」

 

 頼みたいことというのでてっきり服の依頼かと思ったが、服を見せてほしいと言われて少し拍子抜けだ。

 それくらいなら別に構わないのだが、今ここには張さんに作ったスーツしかない。

 

 だが、この男にさっさと帰ってほしい気持ちがある。

 あの人を知っているからと言って、信用できる人間でないことに変わりはない。

 

「触らないと、約束できるなら」

 

「分かった」

 

 誰に作っているのかというのは伏せておけば問題ないだろうと考え、私は昨日作り終わったハンガーにかけ上から更にカバーを被せている黒のスーツを取り出し男に見せた。

 

 男は顎に手をやり隅から隅まで見ていた。

 しばらく経って、やがて口を開き言葉を発した。

 

 

「ありがとう、もういいよ」

 

 

 そう言われ、私は再びスーツをハンガーにかけカバーを被せる。

 被せ終わったのを見計らって男が後ろから声をかけてくる。

 

「本当に素晴らしい、最高だ君は」

 

「褒めても何も出ませんよ」

 

「本当に、あの男には勿体ない」

 

 男はそう言うとあの時のように左手を掴んできた。

 

 油断した。

 この男を信じたわけじゃないが今までの話で少し気が緩んでいたのかもしれない。

 私は手を掴まれてすぐ振りほどこうとしたが、これも前と同じように振りほどけなかった。

 だが諦めることはせず、必死に振りほどこうとしている中懇願した。

 

「離してください……! あなた、何もしないって言ったじゃないですか!」

 

「目の前で欲しくてたまらない宝石が罠もなくぶら下がっているのに、それに手を伸ばさないのはよほどの臆病者だけだろう?」

 

「ふざけるな!」

 

 もはや丁寧な言葉を使う余裕もなくなり乱暴な言葉になる。

 私は必死に離れようとしたが男と女の力の差は歴然で微動だにしなかった。

 

「そんな乱暴な言葉は君には似合わないよ。──彼の作品はどんな手を使っても集めてきたんだ。なら今回だってそうするだけのことだ」

 

 

 ……どんな手を使っても? 

 

 その言葉にとてつもなく嫌な予感がした。

 聞かないほうがいいのかもしれないが、気にならない方がおかしかった。

 

「……一体、何をしてきた?」

 

「彼も君みたいに依頼を受けながら服を作っていたから、その依頼した人を片っ端から訪ねて譲ってほしいと金を出した。だが中には素直に受け取ってくれない奴もいてね。そういう奴は首を縦に振るまで拷問したりしたもんだ。あとは家族を目の前で殺したりとかかな。あ、拷問するときに殺したやつも何人かいたか」

 

 男は平然と当たり前のように言ってのけた。

 服のために人を殺したのか? 

 しかも、あの人がわざわざその人のためと思って作った服を無理やり奪うために。

 

「──自分が、何をしたのか分かってるのか」

 

 男の言葉を聞いて私は頭に血が上っていた。

 あの優しく温かい人と、その人が作った服に対する冒涜とも取れる行動に腹が立たない訳がなかった。

 

「依頼したということは、その人に一番似合うよう作られた筈だ。そこにはあの人の依頼人に対する思いが詰まっている」

 

 歯止めが利かず、次から次へと言葉が溢れる。

 

「あの人の洋裁屋としての思いだけでなく、あの人の依頼人への思いを踏みにじったんだお前は……ッ。それが、あの人の服が好きだと言った人間がすることか! あの人が作った服を何だと思っている!」

 

「勿論、最高の作品さ」

 

 男が何か言ったが耳に入らない。

 この男が喋ったことがもし冗談だとしても、それを許せるほど寛容じゃない。

 だが、恐らくすべて本当のことだ。

 この男はマフィアだ、それくらい平気でするはず。

 

 

 怒りで手が震える。

 怒りの中でも愉快そうにニヤついている男の顔を見ながら、更に言葉を続ける。

 

「お前はただ自分を満たすモノを手元に置いておきたいだけだろう! そんなことにあの人の服を利用するな!」

 

「そんな怖い顔をしないでくれ。……フッ、君のボスでもあるMr.張も自身の利益のため君を脅し、強引に君のパトロンとなった。あいつは良いのか?」

 

「黙れっ! 張さんとお前を一緒にするな!!」

 

「何が違う?」

 

 張さんとこの男の違い? そんなもの分かりきっている。

 

「彼は私の話を聞いてくれた。だから今もこうして何事もなく荒んだ街で服を作れて、周りの人に私の服を着てもらえている。お前のように洋裁屋とその服を侮辱したりなんかしない。……そんなあの人を、私の師を侮辱し続けているお前と一緒にするな!」

 

 張さんまで侮辱することは絶対に許さない。

 これ以上、私の恩人たちをこの男に侮辱されてたまるものか。

 

「──成程、これは随分な惚れようだ。あの童顔野郎も罪な男だな」

 

「それ以上口を開くな! ……いい加減離せ!」

 

 ずっと振りほどこうと暴れているのだが現状は無情にも変わっていない。

 

「離すわけないだろう? やっとこの腕を俺の手の中に収めるチャンスだというのに」

 

「私は絶対にお前のために服は作らない。例え銃を向けられても」

 

「……これは、もうちょっと落ち着いてから迎えに来たほうがいいな」

 

 男はそういうと掴んでいた手をようやく離した。

 すぐさま男と距離を取り、睨みつける。

 

「出ていけ。そして二度と私の前に現れるな」

 

「それは無理だな。今度はちゃんとした格好で来るよ」

 

「ふざけるな!」

 

「ふざけてなどいないさ。では、また」

 

 そう言って男は腹立たしい笑みを浮かべたまま部屋から出て行った。

 

 あそこまで声を出したのも感情を表に出したのも久しぶりで、息が上がっていたことに今更気づく。

 

 自室に行き、水を飲もうとコップに注いでいる間に深呼吸をする。

 注いだ水を一気に飲みほし、呼吸を整えようと再び深く息を吸って吐いた。

 

 それだけでは気持ちが落ち着かず、クローゼットの奥に入っている箱を取り出し錆びた裁ちばさみでも張さんから貰った銃でもなく、一つのハンカチを取り出す。

 

 それは、端に桜が散りばめられ李の花紋が刺繍されたもの。

 このハンカチはあの人が私にくれた最期の作品。

 死ぬ前に私に作ってくれたものだ。

 

 

 

 ──重富春太。

 血の繋がりが無いにも関わらず男手一つで私を育て、洋裁を教えてくれた私の育ての親であり師。

 小学生の頃から私は春さん、春さんと呼んで懐いていた。

 

 今ではその日々は遠いものとなってしまったが。

 

「春さん……」

 

 

 

 作ってくれたハンカチを握りしめながら、師の名を呟いた。








ここからどんどん物語が展開します。

私も書いていて「あれ?思ってたんと違う」ってなることが度々あるので、これからどうなるのか私も楽しみです←


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40 始まりの一夜

 あの男が帰り、昂った気持ちを抑えようと今は自室のベッドに横になっている。

 三十分程経ってなんとか落ち着きはしたが、どうにも仕事に集中できそうにない。

 

 どうしたものかと悩んでいると、またドアからノック音が聞こえてきた。

 まさかあの男が戻ってきたのではないかと一瞬体が強張ったが聞こえてきた声にその緊張は解れた。

 

「キキョウー! 遊びに来たわよー!」

 

 もはや聞き慣れた声を聞いて、私はベッドから降りて表のドアに向かう。

 ドアノブに手をかけ開けてみれば、そこには笑みを浮かべて立っているアンナがいた。

 その笑みは私の顔を見た途端なくなり、そして疑問を投げかけてきた。

 

「どうしたの? 随分疲れたような顔をしてるけど」

 

「……なんでもないよ。とりあえず入って」

 

 平静を装っていつものように中に入れる。

 私はそのまま自室に行き、コーヒーと自分用のココアを作りカップに注ぐ。

 既に座っているアンナにコーヒーを渡すと「ありがと」と口をつけ飲み始めた。

 私も椅子に腰かけ、甘いココアに口をつける。

 

 いつもはお喋りなアンナだが、今日はなんだか静かだ。

 私も自分から話しかける気分ではなく黙っているので部屋には飲み物を飲む音のみが響いている。

 そんな沈黙が続く中、先に口を開いたのはアンナだった。

 

「キキョウ、あなたには遠回しに聞いても無駄だから単刀直入に聞くわね。──何があったの?」

 

「……何もないって言ってるでしょ。気にすることないよアンナ」

 

「私からすれば、そんな分かりやすい嘘をついてるなんて“何かあった”って言ってるようなものよ」

 

「嘘なんてついてないよ」

 

「私は名女優のアンナさんよ。素人の演技なんてすぐ見抜けるわ。というか、キキョウの演技は分かりやすいから誰でも見抜けるわよ。……ねえキキョウ、もしかしてあのエセ紳士に何かされたの?」

 

 いつもならアンナなりに気遣ってなんだかんだ引き下がってくれるのだが、今回はそうしてくれないらしい。

 

「……話をしただけだよ。大分気に食わない話だったけど」

 

「話だけ? ほかに何かされてない?」

 

「本当に話だけ。話したおかげで、あの男には絶対服を作らないって決めることができた。だからいい機会だったと思うよ」

 

 そう、話をしただけだ。

 別に何かされたわけじゃない。

 あの腹立たしい男に服を作らないと思う決め手となったいい機会。

 そう思えば少しは気が楽になるかもしれない。

 

 アンナは私の言葉を聞いて、腑に落ちないと言ったような顔だったがそれ以上何か聞いてくることはなかった。

 再びコーヒーに口をつけ飲み終わったかと思うと、急に腰を上げ手を掴んできた。

 

「キキョウ、今から飲みに行くわよ。今日は私が奢る」

 

「え。ごめん、今依頼入ってるから飲みには」

 

「ムカついた事があった時は飲むに限るわ。さ、行くわよ」

 

「ちょ、ちょっとアンナ!」

 

 半ば強引に引っ張られたが、何故かその手を無理やりにでも振りほどこうとは思わなかった。

 教会に連れていかれた時のように鍵をかけさせてほしいと頼み、ドアの鍵を閉める。

 そしてそのまま私は引っ張られるがままアンナについていった。

 

 

 

「──キキョウ、そんなんじゃ酔えないでしょ? もっと飲みなさいよ!」

 

「アンナはちょっと飲みすぎなんじゃないの?」

 

 アンナに連れてこられたのは、私がよく通っている酒場イエローフラッグ。

 と言っても来るのは約1か月振りで、バオさんからも「よお、久しぶりじゃねえか」という挨拶をもらった。

 

「ご無沙汰してます」と言葉を返しいつものカウンターに座れば氷の入ったグラスとJack Daniel'sを出してくれた。

 

 アンナは「私はアブソルートね」と注文し、『Absolut Vodka』と書かれたボトルに入った酒を自分のグラスにいれ「今日はヤな事忘れましょ。とりあえず乾杯」とお互いのグラスを軽くぶつけ酒に口をつけた。

 それを見て私もグラスを軽く振ってから久しぶりのお酒を喉に通し体に染み渡らせた。

 

 そこから2時間ほど経ち、今はアンナの方は酔いが回ってきたのかよく笑っている。

 何故連れてきた本人が誘われた方よりも酔っているのか。

 

「私はまだ酔ってないわよお? だってまだ眠くないもん!」

 

「そういう言葉遣いになるってことは酔っぱらってる証拠だよ」

 

「だから酔ってないってば! さ、キキョウもどんどん飲んで!」

 

「あ、こら。そんな雑に注がないでよ」

 

 まるで日本の飲み会のようなノリだ。

 酔っぱらった時の絡み方は世界共通なのだろうか。

 

 酒を注いで早く飲めと言わんばかりにニコニコしながらこちらを見てくるアンナの顔を見て少し呆れもしたが、つられて口角が上がりそのまま酒を呷った。

 

「いい飲みっぷり! その調子よ!」

 

「……ありがとう、アンナ」

 

「……え?」

 

 私がお礼を言うと、アンナは驚いたような顔をした。

 

「アンナのおかげで、今日もいい酒が飲めてる。この前来た時は最悪だったから」

 

「ああ、あの男にキスされた時ね。それはどんな美酒でも汚水みたいな味になるわよ。そういえば、なんでバオも黙って見てたのよ。止めることくらいできたでしょ」

 

「仕方ねえだろ、相手はあのヴェスティだぞ。あそこで入ってたら俺が床とキスする羽目になってた」

 

「ヘタレね。あんたそれでも元軍人なの?」

 

「叩きだすぞてめえ」

 

 あの男の話題になるとアンナは私以上に不機嫌になる。

 子ども扱いされたのが本当に嫌だったらしい。

 

 話題を出してしまったのは私なので、なんとか別の話をしようと頭を回転させる。

 

「えっと……。そ、そういえばアンナは最近どうなの? 何か面白いこととかなかったの?」

 

「私? うーん、面白いことねえ……強いて言えば、キキョウとこうして話してることくらいかも」

 

「え」

 

 私の質問に酒が入って笑っていたアンナが笑わずに答えている。

 これは失敗したかもしれない。

 

 私がどうしようかと悩んでいるとアンナが頬杖を突き正面を向きながら、「──私ね」とポツポツと話し始めた。

 

「人が騙された時の顔を見るのが好き。私のことを売女とかクソ娼婦って侮辱したやつらがそんな女に騙されて、命も金も全部失った時のあの絶望した顔は傑作よ。……こんないつ誰かの恨みで殺されるか分からないここ最近の私の楽しみは、あなたと喋ることなのよキキョウ」

 

 今までの楽し気な笑いとは打って変わって、自嘲的な笑みを浮かべながら話すその姿は演技なのかはたまた本当なのか。だが、どこか寂しさを漂わせていた。

 

「前も言ったかもしれないけど、キキョウは娼婦だからってバカにすることもしなかった。それに私に騙されたと知ってもいつもどおり迎えてくれた。そんなこと、本当に初めてだったの。だからさらに興味が湧いて、もっと話したくなって、あなたの家に通って……。いつからか、“友人ってこんな感じなのかな”って私らしくないこと考えるようになってさ」

 

 酒に口をつけ、また話し出す。

 私とバオさんはそれをただ黙って聞いている。

 

「少なくとも、私はキキョウの事好きよ。だから私を侮辱したあの男がキキョウにあんな顔させたことがむかつくのよ。──ねえキキョウ」

 

 アンナは正面を向けていた体をこちらに向けて、微笑みを浮かべながら口を開く。

 

「私が死んだら、とびっきり綺麗なエンディングドレスを仕立ててくれる?」

 

 その笑顔は酷く儚げで、だけど“綺麗”だと思わせるほど魅力的だった。

 私はその言葉にどう返答したらいいか分からず、一瞬迷って口を開く。

 

「いきなりそんな、縁起でもないこと言わないでよ。らしく、ないよ」

 

 私の戸惑いが伝わったのか、アンナは少し間を空けて「……そうよね、らしくないわ」と言って酒を一気に呷った。

 

「おいアンナ、お前また懲りずにそんなクセえ演技をキキョウにしてんのか」

 

「もうバオ、なんでそんなこと言うのよ。せっかくいい雰囲気だったのに」

 

「でも、リアルだったよ。さすがだね、アンナ」

 

「そう? ありがと」

 

 そういうと、また正面を向いてグラスに口をつけていた。

 

 アンナは自他共に認める名女優だ。

 そう、さっきのも演技に決まってる。私よりもアンナを知ってるバオさんもそう言ったじゃないか。

 

 私は、胸の内にある妙な不安を取り除こうと酒を一気に呷った。

 それを見て「今日はとことん飲むわよ!」と意気込むアンナを横目に、グラスにまた酒を注ぐ。

 

 

 

 

 そこから更に2時間ほど経った時には、アンナが酔いつぶれてしまいカウンターで寝息を立てていた。

 

 

 

「……まったくここは休憩所じゃねえんだぞ。寝るなら家で寝ろってんだ」

 

「すみませんバオさん。アンナも無理して私に付き合わなくていいのに」

 

「こいつも飲みたい気分だったんだろ。昔からこういう時は自分の加減てやつを間違える」

 

 そう言いながらアンナに出していた酒を片付けるバオさんは、寝ているアンナを起こすこともなくそっとしている。

 

「それにしても、本当に寝顔可愛いですよね。バオさんもそう思いませんか?」

 

 私がそうバオさんに話しかけると、「相変わらず憎たらしい顔だよ」という言葉が返ってきた。

 その言葉に苦笑しつつ、残っている酒を飲み干し席を立つ。

 

「じゃ、私はこれで帰ります。今日はアンナの奢りだそうなので、起きたらアンナにもらってください」

 

「分かった」

 

 アンナには妙に甘いバオさんのことだ。無理やり外に放りだしたりはしないだろう。

 私はアンナをバオさんに任せてそのままイエローフラッグを出た。

 

 アンナのおかげで気分転換ができたような気がする。

 明日からまた仕事を再開しよう。

 

 そう思いながら私はできるだけ明るい大通りの方から帰ろうと、普段とは違う道をたどり帰路に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──なんだこれは」

 

 コーサ・ノストラが仕切っている店の一つである酒場。

 そこで普段は事務所か自宅で飲む派の我らがボス、ヴェロッキオが珍しく複数の部下を連れて酒を飲んでいた。

 俺と部下のモレッティは留守番として妙に静まり返っている事務所に残り、トランプゲームで賭けをしながら酒を飲んでいた。

 

 モレッティはよく俺の暇つぶしにも付き合ってくれるいい部下だ。

 俺を“ヴェスティの兄貴”と呼び、イタリアにいた頃から随分慕ってくれている部下の一人。こっちに来るときも一緒に行かせてほしいと懇願された。

 

 そんな可愛い部下と楽しい時間を過ごしていた時、俺の携帯に一つの連絡が入った。

 それは“ボスが部下と周りの客を殺した”というあまり嬉しくない報告で、それを聞いてすぐモレッティとともに現場に向かった。

 

 店につきドアを開ければ、そこにはせっかくのトレンチコートを返り血で真っ赤に染め銃を手にしているヴェロッキオと、ヴェロッキオに付き添った部下数名とその他いくつかの死体、傍には部下1名が腰を抜かしているという光景。

 

 その有様を目の当たりにした俺は「なんだこれは」と純粋な疑問を口にし、こちらに背を向け血だまりに立っているヴェロッキオに近寄る。

 

 こんなところに入って服を汚したくないんだが、仕方ない。

 

「──おいヴェロッキオ、人に鉛玉を打ち込むことにとっくに慣れてるお前ならパニックで俺の声が聞こえないなんてことはないよな? これはなんだ」

 

「……ああ、ヴェスティか。丁度いい、お前後始末しとけ。俺は帰る」

 

「勿論そのつもりで来てるさ。だが、それは元々する予定のなかった仕事だ。ボスであるお前がわざわざ俺たちの仕事を増やした訳を知りたい」

 

 俺の言葉にやっと反応したかと思えば何も言わず帰ると言いやがったこいつに少し苛ついたが、今はそれよりもどうしてこうなったか知る必要がある。

 コーサ・ノストラのボスであるヴェロッキオが、こんなところで見境なく銃をぶっ放すという感情に任せて殺すサイコキラーなことをしでかすのはよろしくない。

 

 ヴェロッキオは銃をしまい、俺の方に血で濡れた顔を向けて口を開いた。

 

「てめえは俺の部下だろうが。ボスの言うことに逆らうのか」

 

 その言葉に俺はヴェロッキオから回答を得ることを諦めた。

 目を伏せため息を吐きそうになるのを我慢し、今やるべきことをやろうと動いた。

 

「……モレッティ、ボスを自宅まで送れ。俺はここを片付ける」

 

「は、はい」

 

 一緒に来ていたモレッティにそう指示し、俺は店の前に停めていた車の後部座席のドアを開ける。

 そこにヴェロッキオが乗ったのを確認し、ドアを閉める前に一言ヴェロッキオに添えた。

 

「ボス、夜道は危ない。気を付けてお帰りを」

 

「ああ」

 

「モレッティ、頼んだぞ」

 

「はい」

 

 ドアを閉め、車がヴェロッキオの自宅に向かったのを見送り再び血の匂いが充満している酒場の中に入った。

 血の絨毯の上を歩きながら、相変わらず腰を抜かしている部下の目の前にしゃがみ目線を合わせ声をかける。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「あ、兄貴」

 

「何があった?」

 

「それが──」

 

 

 

 こいつから聞いた話は、なんとも馬鹿げたものだった。

 ヴェロッキオと複数の部下は、どこで拾ったのか数名の娼婦と酒を飲んでいた。

 そこで部下たちはボスと飲めているという優越感からなのか相当酔っていたらしい。

 

 ここまでは特に何もないのだが、ここから先が問題だった。

 

 ヴェロッキオがトイレで席を立っている間、部下の内一人が『あれがボスだなんて上も馬鹿だよな』と呟いたらしい。

 酒の勢いもあり、それに便乗して『あいつの頭が回らないのを俺たちのせいにされてもな?』と愚痴がポツポツと出てきた。

 傍にいた娼婦も『もう一人のボスはどうなの?』と聞いたところ、『あいつもダメだ。ボスに振り回されっぱなしで何も役に立ってねえ』と、そういう話で娼婦達と盛り上がったらしい。

 

 今生きている部下はその時に『ボスと兄貴のことをそんな風に言うんじゃねえ!』と激昂したが、周りの奴らはそれを聞き流した。

 

 そこで丁度トイレから帰ってきたヴェロッキオがその話を聞いていて、『俺とヴェスティにはついていけねえってか』と言って、怒りに任せて娼婦と部下だけでなくその他の客まで殺した──。

 

 

 

 

 

 

 

 ボスと来ている飲みの席でボスの愚痴を言うとは、なんと愚かで馬鹿な部下たちだろうか。

 ヴェロッキオが殺すのも頷ける。

 

 だが、部下やその娼婦だけでなく関係ない奴まで殺すのは仮にもコーサ・ノストラの看板を背負ってるボスがやるべきことじゃない。

 

 

 

 

 自分がやったことを自分で始末もつけず、右腕である俺にこうなった理由を言うこともなく去っていった身勝手なボス。

 

 酒に飲まれ己の愚かさを自分たちが仕切っている酒場で露にする馬鹿な部下。

 

 そのボスと仲間の愚行を命を懸けてでも止めなかった腰抜けな部下。

 

 そして、イタリアで蔓延っている何の取柄もない無能な幹部ども。

 

 

 どれもこれも嫌気が差す。

 

 

 

 

 

 

 

 ──もう、潮時だな。

 

 

 

 

 

「兄貴、すんません……。俺、あいつらもボスも止めれなくて」

 

「謝るだけなら誰でもできるんだぜ? ──そんな腰抜けなお前に一つ教えといてやる」

 

 俺は腰に差していた自分の銃を未だ尻を床につけている部下の眉間に当てる。

 

「“名誉ある男”は、そんな間抜けな姿は見せない」

 

 そう言って、俺は躊躇いもなく引き金を引いた。

 部下だった男の体はそのまま床に転がり、この死体の山の一つとなった。

 

 袖に血がついた。

 だから返り血を浴びやすい銃は嫌いなんだ。

 

「はあ」

 

 とりあえず、この死体をどうにかしなければならない。

 俺はポケットに入れていた携帯を手にし、控えさせていた部下に動くよう指示した。

 

 そして一旦店の外に出て、煙草に火をつけ煙を吐く。

 街灯がない道が誰も迷わないように月明かりで照らされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コーサ・ノストラのボスがちょっとした騒ぎを起こしてから一週間後の夜。

 月の光がすっかり街を包んでいる時間帯となれば街中の酒場はいつも酒飲み客で賑わっている。

 

 ラチャダストリートの一角にある酒場もその一つ。

 だが、今夜は1人の男の行動によって騒然とした空気になっていた。

 

「──―ヒャハハハハハハハ!!」

 

「おいしっかりしろ!」

 

「アー……ハハハッ、ハハハハハハハハ!!」

 

「なんなんだよこいつ……!」

 

「ハハ……ハ……ガハッ!」

 

「お、おい!」

 

 狂気の笑い声を響かせた後、男は血を吹き出しそのまま息絶えた。

 

 

 

 

 

 ──その様子をほくそ笑んで見ている男が一人。

 

 男はその笑みをすぐに消し、周りの客と同様の困惑顔を浮かべその場に溶け込んだ。














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41 ファッショニスタの欲望

「──お久しぶりです彪さん。わざわざありがとうございます」

 

「ああ」

 

 アンナとイエロー・フラッグで飲んで二週間が経った。

 白のスーツも完成したので連絡したところ、どうやら彼はまた忙しくなったらしく今回も彪さんが取りに来ることになったのだ。

 

 いつものように中に招き入れ、完成したスーツを確認してもらうと彪さんに見せる。

 そして丁寧に紙袋へいれ手渡す。

 

「確かに受けとった。……なあ」

 

 

 いつもなら服を受け取り報酬を渡して足早に帰るのだが、今日は何やら話があるらしい。

 

 

「なんでしょうか?」

 

「この一週間くらい、どっか酒場に行ったりしているか?」

 

「いえ、行ってませんけど」

 

 

 私が最後に飲みに行ったのは二週間前だ。

 なぜそんな質問をしてくるのか不思議で私は彪さんからの言葉を待つ。

 

 

「そうか。──実はここ最近、妙な事が起きててな」

 

「妙な事?」

 

「酒場で普通に飲んでいたやつが急に様子がおかしくなったかと思えば、ひとしきり暴れた後何もされてねえのに死んじまった。俺も直接見た訳じゃねえが、確かな情報だ」

 

「え……」

 

「しかも問題なのは、ここ一週間でそれが毎晩複数の場所で起きてるってことだ。三合会(俺ら)だけじゃなく、ホテル・モスクワ、コーサ・ノストラ、マニサレラ・カルテルの縄張りでだ。既に十人以上やられてる」

 

 確かこの四つの組織はこの街を治めようと協同体制をとっているはずだ。

 そして、それらの組織の縄張りで不可解なことが起きている。しかも自分の縄張りで死人が毎晩のように出ているとなると、組織が動くのも時間の問題。

 一連のことを引き起こしている人間がいるとしたら、その人間は自殺行為をしているも同然だ。

 

 

 この組織の支配者たちを敵に回したのだから。

 

 

「だから、収まるまではあまり外に飲みに行かない方がいい。それがあんたのためにもなる」

 

「分かりました。忠告ありがとうございます」

 

「あんたに死なれたら、大哥が機嫌を悪くしそうだからな」

 

 張さんが? 自分の部下ならいざ知らず、私ひとり死んだところで特に困ることもないだろうから、それはない。

 

「私が死んでもあの人は何も思わないですよきっと」

 

「どうだかね、俺らが思ってるよりも随分執着するタイプだからなあの人は」

 

「こんな凡人に執着してるなんて想像できませんけどね」

 

「それならいいんだがな」

 

 彪さんは張さんが一番信頼している部下の一人だ。

 そんな人がそういうならそうなのかもしれないが、私にはあの人が執着するような人にはどうしても見えない。

 

 そう考えていると、彪さんが「じゃ、俺はこれで」と帰ろうとしたのでドアを開け一言声をかける。

 

「わざわざありがとうございました。張さんにもよろしく伝えてください」

 

「ああ」

 

 私の言葉に短く返事をして、彪さんはそのまま去っていった。

 

 

 それにしても、今のロアナプラで妙な事を起こす人間がいるなんて一体どこの阿呆なのだろうか。

 折角仕事が終わったから飲もうと思っていたのにがっかりだ。

 だが、私もまだ死にたくはないので今日は大人しく家でビールを飲もう。

 

 

 そう思いながらドアを閉めて中に戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 教会でのシスター体験がやっと終わり、私は意気揚々とキキョウのところに向かっていた。

 

 キキョウに作ってもらったシスター服に身を包み、初日にヨランダから「シスターの一般的な生活」を教えられこの一週間信じてもいない神に祈りを捧げ、質素な食事という生活を送った。

 たまにヨランダの商売を少し手伝わされたりもしたが。

 

 私からすれば刺激的なことは特になくつまらなかったが、衣食住揃っている分この街で普通に生活するよりマシなのかもしれないと思った。

 

 だが、そんな生活ともやっとおさらばだ。

 教会を出る時、ヨランダが「あの嬢ちゃんと今日は飲んでおいで」と少し値段の張る酒を持たせてくれた。

 

 本当はイエロー・フラッグで飲みたかったのだが、最近酒場を中心に物騒なことが起きているので家で飲めばいいかとその酒をありがたく受け取った。

 

 そんなスキップしそうな勢いで道を歩いていると、向こうから紙袋を持ったサングラスにスーツの男が歩いてくるのが見えた。

 

 見覚えのあるその男が近くに来た時、気分がいい私は挨拶をしようと声をかける。

 

 

 

「ご機嫌よう彪。珍しいわね、あんたがボスといないなんて」

 

「アンナか。そのボスからお使いを頼まれたんだよ。お前こそ珍しく最近見ないと思ってたんだが、どこで何してたんだ」

 

「詮索する男は嫌われるわよ。ま、ちょっと教会で聖女のお勉強してただけなんだけどね」

 

「お前が聖女? ヤりすぎてとうとう頭がいかれちまったか?」

 

 

 全く失礼な男だ。

 

 

 彪とは張と一緒にいる時以外でも会うことが度々あった。

 最初は酒場で一人で飲んでいる彪に私から誘ったことがきっかけだったのだが、気分じゃないと断られ、そのまま酒を一緒に飲んでから顔を合わせるたび声をかけたりかけられたりしている。

 

 あれから何度も誘ったりしているのだが、この男も私の誘いを断り続けている一人。

 このボスにしてこの部下ありと言ったところか。

 

 

「あんた達マフィアにだけは言われたくないわね」

 

 

 マフィアっていうのはいつも何しでかすか分からないから。

 ……そういえば、あの妙に物騒な事には動いていないのだろうか。

 丁度いい機会だと私は彪に疑問を投げかけた。

 

 

「──イカれてると言えば、ここ最近あんた達相手に遊びまわってる本物のイカれ野郎は見つかったの?」

 

「頭のネジが飛んでる割には、身の隠し方は心得てる奴らしくてな。ボスも頭を抱えてる」

 

「てことは、もうそろそろあんた達が本腰いれるってことね?」

 

「そうなるかもな」

 

 

 ヨランダから少し聞いた。

 今回のことに関しては未だに情報が全然出てきていないらしい。

 

 彪がこう言うってことは、他は分からないが少なくても三合会はまだこの妙な事について何の情報も得られていないのだろう。

 

 マフィア達はそれぞれすでに動いているはずなのだが、

 未だに何の手掛かりもつかめていないのはマフィア同士の連携が今から行われる段階だからなのか、それとも相手が相当な手練れだからなのか。

 

 

 私にとっては別にどうでもいいことなのだが、このままでは困るのでマフィア達には頑張ってもらいたいものだ。

 

「なら、早くなんとかしてね。私の仕事にも支障が出るから」

 

「お前に言われなくてもそのつもりだよこっちは。……とりあえず、何か分かったら言ってくれ。お前の情報取集能力は凄まじいからな」

 

「じゃ、その時はとびっきりの報酬期待してるわね」

 

「あまり期待されても困るがな。頼んだぞ」

 

 そう言って彪は振り返ることもなく自分のボスの元へと帰っていった。

 私も早くキキョウに会おうとまた歩き出す。

 

 しばらく歩けば、もはや見慣れたドアが見えてくる。

 

 そして私はいつものようにドアをノックして声をかける。

 

「キキョウー! 遊びに来たわよー!」

 

 

 声をかければドアが開き、これもまたいつものようにキキョウが招き入れるがまま家の中に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

『自分たちの縄張りで気味が悪い事件が起きている』

 

 

 

 

 それがロアナプラの支配者であるマフィアのボスたちの耳に入ったのは、その事件が起きてから一週間後のことだ。

 

 普通の殺人なら気に留めることはないが、問題はその死に方と死人の量にある。

 

 酒場で普通に飲んでいただけの人間が急に狂い始め、しばらく暴れたかと思えば急に血を吐き出し、そのまま死んでしまう。

 事件が起きてから現在一週間と三日が経ち、その間はまだそれぞれの組織から被害は出ていなかったのだが、とうとう昨日それぞれ四つのマフィアの組員から一人ずつ死体があがった。

 

 これで死体の数は合計十五人となり、とうとうマフィアのボスたちが重い腰を上げた。

 

 

 今夜はコーサ・ノストラが仕切っている酒場の一室で、ボスたちによる“連絡会”が行われようとしている。

 

 大きい丸テーブルの周りに高級そうな革張りの椅子が5つ。

 その内二つの椅子には、すでにコーサ・ノストラのヴェロッキオとヴェスティが座っていた。

 

 

「なあ、ヴェロッキオ。この部屋ももう少しオシャレに衣替えしねえか? こんなとこで飲むやつは一人寂しく生きてきた孤独な老いぼれだけだぞ」

 

「今はそんなことしてる余裕ねえだろが」

 

「ノリわりいな。お前のその眉間に寄ってる皺を取ろうと世間話しただけじゃねえか。そんな顔しても何も解決しねえんだ、今のうちにリラックスしとけよ」

 

「てめえはリラックスしすぎなんだよ」

 

「全く気楽なもんだなお前たちは。羨ましいぞ」

 

 

 2人がそんな会話をしていると、三合会の張が部屋に入ってきた。

 それを見てヴェスティが声をかける。

 

 

「ようMr.張、相変わらず時間厳守だな。時間まであと十分あるってのに律儀なことだ」

 

「それが、俺の美徳の一つなんでな」

 

 そう言いながら張も椅子に腰かけ、煙草に火をつけた。

 

「そういえばミスター。あの可愛らしい洋裁屋は元気にしているのか?」

 

 ヴェスティはニヤリと口の端を上げ張に疑問を投げかけた。

 その言葉に張は一瞬片眉を上げたが、平静を保ちつつ返答する。

 

「ああ」

 

「そうか良かった。なんせこんなことが起きているんだ、何かあっては困る」

 

 ヴェスティのその言葉にまた片眉が上がり、張は煙を吐き出し口を開いた。

 

「……どういう意味だ?」

 

「あの子にはいつか俺の服を仕立ててもらいたいからな。そういう意味だよ、他意はない。だからそんな怖い顔をするなよ」

 

「そう思うならせいぜい嫌われないようにすることだ。また妙な事したら今度こそ嫌われるぞ、お前」

 

「ご忠告どうも。まさかあんな事でああいう反応をするなんて思わなかったんだ。好きな子ほど虐めたくなってしまうのはしょうがないだろう?」

 

「随分と盛り上がっているな。世間話をするために集まったのかお前たちは」

 

 2人の会話に入ってきたのは、ヒールをコツコツと鳴らしながら部屋に入ってきたバラライカだった。

 

「やあMs.バラライカ。今日も素敵だ」

 

「ヴェスティ、ロシアの田舎もんなんか口説く価値なんかねえぞ」

 

「どうしてイタ公っていうのは無駄口ばかり叩くのかしら」

 

 

 バラライカは心底つまらないといったような口調で話しながら席に座り、葉巻を咥え火をつけ口を開いた。

 

 

「張、こんな奴にちょっかいを出されるなんてあの子が可哀そうよ。この際あの子に言っといたらどう? “こいつに服を作ることはない”って」

 

「Ms.バラライカ、生憎それを決めるのは俺じゃない。決めるのはあいつだからな。──そういう“約束”だ」

 

 会話を聞いたヴェスティは『それこの前本人から言われたんだが、張は知らないのか』と心の中で呟いた。

 

 当のキキョウは“ヴェスティに服を作らない”と心に決めておけばそれでいい、それに報告するようなことじゃないと思っているせいでヴェスティと話したことを張に言っていない。そのため張が知らないのも当然なのである。

 

 これは好都合だと更に上がりそうな口角を必死に抑え再び口を開く。

 

「ま、次はあの子が嫌がらない方法でアプローチするさ。その時はお前も来いよヴェロッキオ、ついでにお前の服も依頼しよう」

 

「俺は服に興味ねえよ、知ってんだろ」

 

「イタ公二人に挟まれるなんて考えただけでおぞましいわね。あの子が作る服に豚の匂いが染みついたりでもしたらどうする気なのかしら」

 

「んだとてめえ!」

 

 

 そんな話をしていると、最後にやってきたアブレーゴが「相変わらずだな、ヴェロッキオ。またバラライカの挑発に乗せられてんのか?」と言いながら部屋に入ってきた。

 

 アブレーゴが座ったのを見た張は、『やっと揃ったか』と心の中で思い本題に入ろうと口を開く。

 

 

 

「──さて、諸君。世間話もほどほどに、早速本題に入ろうか」

 

 

 

 ボスたちは張に目線を向ける。

 そこから、それぞれどう動くべきか明確にさせるため張の言う本題について話し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マフィアのボスたちによる連絡会では『この連絡会によって支配されている体制が気に入らない奴の犯行』だろうという考えには至ったが、あまりにも情報がなさすぎるため、ひとまず情報収集にあたることになった。

 

 その結論に落ち着いた後、それぞれすぐさま行動を移そうと各々事務所に帰っていった。

 

 

 だが連絡会に出席していたヴェスティだけは、ヴェロッキオには適当に理由をつけ一人で帰らせてからとある廃墟ビルに来ていた。

 

 

 そのビルの三階の一番奥にある、長らく誰にも使われていない荒れた部屋。

 

 部屋のドアを開けると、奥にはソファが一つと十人の男達がそこにいた。

 

 

 その男たちに向かってヴェスティは声をかける。

 

 

「今終わった。まったく、意味のない会合だった」

 

「お疲れ様です。そりゃ、あなたにとっては無意味でしょうね」

 

「相変わらず不愛想だな。冗談言う時くらい笑顔でいてほしいもんだなラル」

 

「生憎そういう顔なので」

 

 

 喋りながらソファに腰かけ煙草を取り出すと、ラルと呼ばれた茶髪で高身長な男はヴェスティの煙草に火をつけた。

 煙を吐き出し、しばらく煙草を堪能した後ヴェスティが再び口を開く。

 

 

「お前らが優秀でよかった、おかげで事が上手く運びそうだ。本国から来たばかりだってのに観光させる暇を与えてやれず申し訳ないとさえ思うよ」

 

「俺らは観光目的でここに来たわけ訳じゃありませんし、別に気にしませんよ」

 

「そうそう、俺らはあんたの手足だ。いくらでも使ってください」

 

「それに、こんな街に観光名所があるとも思えねえ」

 

 

「違いねえ」と周りの男たちは笑う。それにつられてヴェスティの口の端も上がる。

 そんな中、不愛想と言われたラルだけは笑っていなかったがそれに構うことなくヴェスティは言葉を続けた。

 

 

「そう、お前らは俺の手足だ。──そんなお前たちがいたからこそ、俺は今まで欲しい物すべてを手に入れることができた」

 

 その言葉を男たちは笑うのをやめ、真剣な顔になり聞いた。

 声が止んだことで静かになり、ヴェスティの声がより鮮明に部屋に響く。

 

「今俺が欲しいものはあのクソムカつく男の手の中。そして、その男にあの洋裁屋もぞっこんときた。こんな酷い仕打ちがあると思うか? 俺はあの腕だけを求めて、求めて、求め続けて……ずっと焦がれてきたというのに」

 

 

 吸い終わった煙草が地面に落ちる。

 

 

「お前らなら分かってくれるだろ? 俺があの腕に出会ったあの喜びを。そして、その腕がよりにもよってあの男の手に渡り、更にその洋裁屋に拒絶された時の腹立たしさと悲しみを」

 

 再び煙草を取り出し、ラルがまたその煙草に火をつけた。

 

 

 

「俺はあの腕が欲しくてたまらない」

 

 

 

 煙を吐き出す。

 既に部屋にはヴェスティの煙草の匂いが充満していた。

 

「だが、ただ手に入れるんじゃつまらねえ。どうせならあの子のためにド派手な舞踏会を用意してやりたい。そのためにお前らがいる」

 

「そのことを我々は重々承知しています。今更何故?」

 

「……そうだな。悪いな、長々と話しちまって。いつも通りボスのご機嫌とりをさせられたことに少し苛ついちまった。ま、それももうすぐで終わる。あいつらも好き勝手やったんだ。なら、俺もそろそろ好きに動かせてもらう。──お前らも、もう“準備運動”は済んだだろ?」

 

 その問いかけに周りの男たちの真剣な顔がニヤリと歪んだ顔に変わった。

 彼らの顔を見てヴェスティも満足そうな笑みを浮かべたが、すぐ真剣な顔になる。

 

「今までとは訳が違う。俺らが相手取るのは世界的にも名を馳せている組織の一部を任されている奴らだ。ミスの一つも許されねえ、絶対にだ」

 

 二本目の煙草が床に落ち、それを靴の底で踏みにじる。

 

「明日から活動範囲を少し広める。時間帯は夕方から。次の標的は酒場と賭場。3日間はそれでいけ。その次は全飲食店も範囲に入れろ。行動起こすときは連絡を怠るなよ。……それと、これは俺の勝手な私怨でもあるが三合会の縄張りを中心に動け。あそこは飲食店も賭場も多いから都合がいいしな」

 

「……本当にその張という男が気に入らないようで」

 

「大嫌いだよ。本当は今すぐにでも殺したいんだが焦りは禁物だ。──さて」

 

 

 ヴェスティは再びニヤリと口元を歪め、長い脚を組んで言い放った。

 

 

 

「俺らChiaro di luna(キャロ・ディ・ルーナ)が、この街の奴らに“魂の快楽”への道を照らしてやろうじゃないか」

 

Sì, capo.(了解、ボス)









キャロ・ディ・ルーナ:イタリア語で月光
(イタリア語表記:Chiaro di luna)


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42 Piacere dell'anima

 

 

 張さんのスーツを渡してから一週間。

 どうやら街は私が知らないところで騒然としているらしい。

 

 彪さんから聞いたあの事件でこの1週間更に犯行が激しくなり、酒場だけでなく賭場や遂には昼に営業している飲食店でも被害が出るようになった。

 そして、その被害はどの組織の縄張りでも起きているが特に三合会の縄張りが中心らしい。

 

 それぞれのマフィアは常に警戒し見張っているが、たまにその見張っている人間がやられたりしてしまうなどもあるようで、なかなか見つからない状態なのだとアンナから聞いた。

『これじゃ仕事がやりにくくて仕方がない、早くなんとかしてほしい』と憤慨していた。

 

 続いてこの前張さんからも連絡があり、『収まるまで絶対に外で飲んだり食ったりするなよ』と忠告された。

 忙しいのにわざわざ連絡してくれることに驚いた。

 そんな彼の忠告通り、まだ家に引きこもっている。

 

 たまにアンナが遊びに来てくれるので退屈はしていないが、こんな状態で街中を歩いて大丈夫なのだろうかと心配になる。

 

 今度来たら一応言っておくか。

 そう思いながら暇つぶしと練習もかねて刺繍したハンカチを作ろうと椅子に座り、作業を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 本当にどうなってやがる。

 

 俺はこの不可解で気味が悪いことが起きている現状にどうしようもなく苛立っていた。

 

 事が起きてから二週間が経った今も何一つ情報が出てこない。

 

 連絡会に名を連ねている組織が総出で探ってもこれといって有力な情報を掴むことなくただ被害が広まり、今では死人が三十を超えていた。

 あのバラライカとヴェスティでさえ頭を悩ませている。

 

 ヴェロッキオやアブレーゴに至ってはいつも通り憤慨しまくっているらしい。

 

 可哀そうなのはそのボスのご機嫌取りをしながら組織を引っ張っているヴェスティだ。

 あいつのことはいけ好かないがその苦労は計り知れないだろうと同情する。

 

 だが、そんなこと今はどうでもいい。

 この件に関してはうちが一番被害を受けている。

 賭場や酒場、飲食店を多く抱えているうちにとっては相当な痛手だ。

 

 そう思ってはいても、情報が何も出てこないとなると動きようがねえ。

 遺体を徹底的に調べさせたところ、死ぬ前の症状と照らし合わせて薬物を入れられた線が濃厚になった。

 だから薬物や武器、飲食店の食材、酒場と賭場の酒のルートを徹底的に調べたが、何もおかしいところは出てこなかった。

 

 改めてその状況を考えると苛々が募り、また新しい煙草に火をつける。

 その時、テーブルの上に置いていた電話が鳴り響いた。

 

 

『ようMr.張』

 

「……ヴェスティか。なんだ」

 

『いくらこんな時だからって、そんなドスの利いた声出すんじゃねえよ。そんなんじゃ女だけじゃなく部下まで離れちまうぞ?』

 

「わざわざそんなこと言うために連絡をよこしたのか? お前は相当暇らしいな、羨ましい限りだ」

 

 こんな時までこういう言い方をするとは気楽なのか、はたまたそう見せかけているのか。

 どちらにせよ、今そんな口を利かれても無駄に腹が立つだけだ。

 

 ヴェスティは俺の返答を聞くと、『イラついてんなあ』と言ってきた。

 

『そんなお前に朗報だ』

 

「俺にとっての朗報は一連の事を引き起こしやがった畜生が見つかったということだけだ。それ以外の情報は聞きたくないね」

 

『なら、今からお前は喜びで震えあがるな。──うちの縄張りで妙に変な動きをしている奴がいたもんだから、ちょいと声をかけたら見事にビンゴだ』

 

「……なんだと?」

 

 それは、ずっと待っていた情報。

 

 このくそったれなパーティーを終わらせるための、大事な手がかりとなり得るもの。

 もしハズレだったとしても俺が自ら確認しない理由はなかった。

 

『今獲物は目の前だ。こっち来るか?』

 

「場所は?」

 

『迷わずに来いよ。場所は──』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ヴェスティに言われた場所へ俺は電話を切った後すぐに向かった。

 寂れたバーですでに被害を受けたのか女の死体が一つ転がっており、その女から飛び散った血がところどころついていた。

 

 そこには既に他のマフィアのボスたちも揃っていた。

 

 バラライカ、アブレーゴ、ヴェロッキオ、ヴェスティが見下ろす先には何回か殴られたのか顔が腫れていて、腕を後ろに拘束されている男が一人。

 

「こいつがそうか?」

 

「ようミスター。そう、こいつが俺らの縄張りを荒らした人間だ。お前が来る前に少し聞いたんだが、こいつはどうやら下っ端の下っ端らしいぞ」

 

「てことは、やっぱりグループで動いてるってことか。数は?」

 

「それを今から聞くところさ。──おい、お前のお仲間は何人いるんだ?」

 

「……俺含めて十一」

 

 男はヴェスティが質問するとあっさりと返答した。

 十一人? ここまで事を大きくしたには少なすぎる。

 嘘ではないかと疑いたくもなる。

 それはヴェスティも一緒らしく、さらに男に話しかける。

 

「おいおい、こんなド派手なパーティーをやらかしたんだ。そんな少ない訳ねえだろ」

 

「“この人数が丁度いい”、ボスはそう言っていた。それに、俺はもうお払い箱さ。今更嘘なんてつかねえよ」

 

 男は自嘲気味に話していた。

 俺は煙草に火をつけヴェスティが尋問する様を見ていた。

 他の奴らもいつにもまして真剣な顔をして、俺と同じようにただ黙って見ていた。

 

「成程、どうせ死ぬから嘘ついても意味がねえってか。その言葉が一番信頼できる。──なら、次の質問だ。お仲間の拠点は?」

 

「んなもんねえよ。各自好きなように動いてるのさ、集まる時はボスから連絡を受けて毎回違う場所に集まる」

 

「そのボスはどこにいる?」

 

「知らねえ。知ってたとしてもお前らには絶対教えねえ。あの人は、俺らの光なんだ。……あの人の命令だから、わざとこうして捕まってんだ。俺は、そのためにいる」

 

「どういうことだ。お前はボスの言いつけでわざと失敗したってことか?」

 

 俺は思わず疑問を口にしていた。

 今まで尻尾の先まで見せてこなかった連中が、何故そんな自分達の身を危険にさらすようなことをするのか理解できなかった。

 

 この場にいる全員、俺と同じことを思っているはずだ。

 

「……ああ、そうだ。お前らがあまりにも俺たちのところにたどり着かないから、ボスが痺れを切らして俺に言ったんだ。“もうそろそろヒントを与えてやれ”ってな。だから嘘を吐く必要も、逃げる必要もねえ。俺がやるべきことは、てめえらにちょっとした情報を与えて少しでもこのゲームを盛り上げること。ただそれだけだ」

 

「ふざけるなよ! てめえ俺らを舐めるのもいい加減にしやがれ!!」

 

 男の言葉を聞いた途端、ヴェロッキオが男の顔面を蹴った。

 怒りに任せて顔が変形するんじゃないかと思うくらい何回も踏みつけていた。

 

 ヴェロッキオがそうなるのも無理はない。

 

 こいつが言うボスは、つまらないゲームを盛り上げるために自分にペナルティを課したようなものだ。

 まるで、相手が子供だった時にするみたいに。

 

 未だに踏みつけているヴェロッキオを「それくらいにしろ、貴重な情報源だぞ」とヴェスティが諫めると、ヴェロッキオは舌打ちをしてカウンターに座る。

 

 そして、横たわっている男に尋問を再開する。

 

「次の質問だ。お前らはどんなやり口を使ってる?」

 

「元々、あった麻薬を、数量体内に入れると、最高に気分が良くなって、体に痛みが巡ってもその痛みに気づかないで死ねる、てやつに改良した。遅効性だからすぐには死なねえが、体内に入れれば1時間もすれば頭が狂いだす。それを飲みもんか食いもんに入れたらあとは待つだけ。……ヤクの名前は“Piacere dell'anima(ピアチェーレ・デラニマ)”。これを扱ってんのは世界でも俺らだけだ」

 

 麻薬のせいだということは分かった。

 

 だが、なぜここまですんなり教える。聞いてもいないヤクの詳しい性能と名前まで一気に答えるその姿に俺は些か疑問を覚えた。

 

「いいこと、教えといてやるよ……!」

 

 男はニヤリと酷く顔を歪め、本当に愉快だと言わんばかりの気味の悪い笑顔を浮かべ、狂ったように吠えだした。

 

「俺らは、Chiaro di luna(キャロ・ディ・ルーナ)! ボスのために動き、ボスのために死ぬ! ボスが望むことを叶えるために俺らはいる! ボスがいる限り俺らは止まらねえ!! せいぜい無い知恵絞ってボスを楽しませろ!!」

 

 そう言い終えるとでかい声で、自分の国の言葉で何かを叫んだ。

 

「Gloria al tuo capo!! ……ハハハハ……ヒャハハハハハハハハハハハ!!」

 

 叫んだかと思うと、堰が切れたように笑い出した。

 ヴェスティは「まだ話は終わってねえ」と男の腹を蹴ったが、それでも狂った笑い声が止むことはない。

 

「チッ」

 

 ヴェスティが舌打ちをすると、腰に刺していた銃を向け男の頭に弾を撃ち込んだ。

 そして、少しの沈黙があった後カウンターに座っているヴェロッキオにヴェスティが声をかける。

 

「──ヴェロッキオ、こいつが言ってることが本当なら俺たちが考えてるよりもやべえことになってるぞ」

 

「ああ」

 

 どうやらコーサ・ノストラの二人は思い当たることがあるらしく、お互い眉間に皺を寄せてなにか考えている。

 

「まさかお前達のオトモダチだった、なんてオチはねえよな?」

 

 アブレーゴが煙草を吸いながら訝し気に二人に質問した。

 その質問に、ヴェスティが返答しようと口を開く。

 

「──Chiaro di luna(キャロ・ディ・ルーナ)。イタリアで有名な麻薬販売組織。その正体は俺たちコーサ・ノストラも掴めてない。その手段も麻薬の入手ルートもメンバー構成何かもが不明。本当に存在するのかも疑われてる。まさか、こんなところでその名前が出るとはな」

 

「ということは、お前たちの中の誰かが手引きしているんじゃないのか? この街に詳しい人間が仲間にいればうまく事が運ぶ。同郷の者なら尚更」

 

 バラライカもまた眉間に皺を寄せ、不快極まりないといったような顔と口調でヴェスティとヴェロッキオに声をかける。

 

「仮にそうだとして、組織から被害が出ている事に説明がつかないだろMs.バラライカ。ま、疑いたくなるのも分かるがな」

 

「……とにかく、念のため自分たちの組織も再度洗ってみよう。特にコーサ・ノストラはな」

 

 俺がそういうとヴェロッキオは「分かってる」と、眉間に皺を寄せたまま答えた。

 どんな形であれ情報を得られたことに変わりはない。これで動き方も変わってくる。

 

 ボスとやらのお情けで貰った情報ってのが気に食わないが。

 

「とっととこのくそったれなゲームを終わらせよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そして、ヴェスティが姿を消したと俺の耳に入ったのはこの一夜の一週間後の事だった。











Gloria al tuo capo:我らがボスに栄光を
Piacere dell'anima:ピアチャーレ・デラニマ 魂の快楽



語訳はグー〇ル先生と一緒に頑張りました。


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43 王手は目の前に

キキョウは今回出てきません。


 

 

 ロアナプラで『狂ったダンスを踊る人間』が出てき始めてからもうそろそろ三週間が経とうとしていた。

 

 おかげで夜になると人ひとり見当たらないし、酒場はどこもかしこも閉まっている。

 酒場中心に毎晩死人が積みあがっていれば誰だってそうするだろう。

 私みたいな娼婦にとってそれは迷惑極まりないことで、当然客を取れない日々が続いた。

 

 そんな中でも、何故か被害が比較的少ないのはイエロー・フラッグ。

 バオは変わらず開店しているが、客入りは少ないようで一人もいない日もあるらしい。

 

 私はたまには遊びに行ってやろうと、イエロー・フラッグに向かっていた。

 今日も開店してるようで中に入ってみると、ここ最近にしては客が多い方で少し店内は賑わっていた。

 

「バオ、久しぶり。流石みんなの憩いの場イエロー・フラッグね、こんな状態でも開店してるなんて」

 

「ようアンナ。うちは被害が少ないからな、一つくらい酒場がねえとこの街の奴らはやってらんねえだろ。それこそ酒がねえって暴れだす奴がでてくるぜ」

 

「それもそうね。アブソルートちょうだい」

 

 カウンターに座りそう言うと、バオは『Absolut Vodka』とグラスを出してくれた。

 

「そういえば聞いた? 犯人はイタリアの麻薬販売組織って話」

 

「この街で知らねえ奴はいねえよ。おかげでコーサ・ノストラが一番神経質になってる」

 

「そうそう、それでイタリアから援軍呼んで血眼で探してるのよね。今街中を歩いているのはイタリア人ばっかり」

 

「ま、それもしょうがねえってこった」

 

 そんな会話をしながら酒を飲んでいると、一人の男が私から一つ空けた席に座ってきた。

 その男は「スイート・ベルモットはあるか?」と酒を頼んでいた。

 

 私は久々に仕事をしようと口の端を上げ男に声をかけた。

 

「随分と甘めのお酒を嗜むのね。でも、ここじゃただ甘い酒よりも少し苦い酒を飲んでる男の方が魅力的に見えるわよ?」

 

「そうなのか。では君のおススメはなんだ?」

 

「そうね、とりあえずこれは私のお気に入りよ。……飲んでみる?」

 

「いただこうか」

 

 男の返答を聞き、私はバオに「グラスちょうだい」と頼みながら男の隣に移動した。

 そのまま出してくれたグラスに酒を注ぎ男の前に置く。

 

 男はそのグラスを持ち、私の前にグラスを差し出し「乾杯」と言った。

 グラス同士がぶつかっていい音が鳴ると、お互い酒に口をつける。

 

「確かに、少し苦みがあるな」

 

「でしょう? それがまたいいのよ。──あなた、イタリア人?」

 

「ああ、よく分かったな」

 

「この街じゃ滅多に見れない物腰が柔らかい人だったからもしかしてと思って。それに、最近は妙にイタリア人が多いから」

 

「……まあ、あんだけの騒ぎだ。そりゃそうなるさ」

 

「そうよねえ。──ねえ、折角こんな美人といるんだからもっと楽しいお話をしましょ?」

 

 私がそう言って酒を呷ると、男も「そうだな」と言って酒に口をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく男は私に酒を注がれるまま飲み続けた。

 

 私は相手より酔わないようにたまに飲むふりをしているのでそこまで飲んでいない。男は意外と酒に弱かったらしく、最初の大人しそうな口調は消えていた。

 

 

 一時間休まず飲ませ続けたのでそうなるのも当然なのかもしれないが。

 

 

 

「やーっぱり俺ってイケてると思うんだよ! 君もそう思うだろ!?」

 

「ええ、十分魅力的だと思うわ」

 

 んなこと誰が思うかバーカ。私はもっと酒に強い男が好きなんだよ。

 

 そう思っていてもここで機嫌を損ねるようなことはしたくないので、微笑みながらそう答える。

 

 男は私の返答を聞き「だろ!?」と身を乗り出し、今度は不満ありげな顔で話始めた。

 

「なのに周りの奴らは“お前はまだ半人前”とか、もっとあの人を見習えとか、あの人の足を引っ張る事はするなよとか小言ばっかり言ってきやがる。……俺だってあの人から“頼りにしてるぞ”って言われてんだ。なめんじゃねえよったく」

 

 そう言いながら男はまた酒を一気に呷った。

 この男は、その“あの人”というのに心底惚れこんでいるらしい。

 一体どういう人物なのか気になった。

 

 私はもう少し話を聞こうと口の端を上げたまま男に話しかけた。

 

「随分、その人に惚れこんでるのね。少し嫉妬しちゃうわ」

 

「当たり前だ。あの人は俺たちの憧れなんだ」

 

「俺たち? やっぱり、あなたコーサ・ノストラの一員なのね?」

 

「誰があんなくそったれなマフィアに入るかよ。あの人を縛ってるそんな組織早く潰れちまえばいいんだ」

 

 驚いた。てっきりコーサ・ノストラの一員だと思っていたのだがどうやら違うらしい。

 

 

 

 ──待てよ、じゃあこの男が言う“俺たち”っていうのはなんだ。

 イタリア人で徒党を組んでいるのはこの街ではコーサ・ノストラしかいない。

 いや、もしかしたらこの男は別の組織に加入していることも考えられる。

 

 そう思考を巡らせている間も男は酒を飲みながら言葉を続けていた。

 

「ほんとあの人はすげえよ。自分が欲しいと思ったもんを手に入れるためならどんな奴を敵に回しても怖くねえって風にいつも飄々としてる。そこに憧れを感じちまうんだよなあ」

 

「へえ。……ねえ、その人って私みたいな女は好みかしら?」

 

「おっと、ボスに近寄ろうたって無駄だぜ。なんたってあの人は今一人の女にぞっこんだ」

 

「あら、残念。でも、あなたもすごく素敵よ。そんなあなたが憧れてる人を一目見てみたいって思うのはだめ?」

 

 女に溺れるのは男の性だ。こいつが言う“あの人”もその一人なのだろう。

 私は空になった男のグラスに酒を注ぐと、男はまた酒を飲みながら口を開いた。

 

「ダメとかじゃなくて無駄なんだよ。今のあの人を落とせるのは、一流の洋裁屋しかいねえぞお?」

 

「……洋裁屋?」

 

 なぜここで洋裁屋なんて単語が出てくる。

 私はそれが気がかりで疑問を口にすると、「……ここだけの話な」と内緒話をするようにコソコソと話し始めた。

 

「ボスは洋服が大好きでな。この街で一級品の服を見たとき、その服を作った洋裁屋に会って惚れたんだと」

 

 服が大好き。一級品を作る洋裁屋。

 私にはそれぞれ心当たりのある人物がいる。

 

 更に探りを入れようと質問を続けた。

 

「ねえ、その一流の洋裁屋を手に入れたらどうするの?」

 

「そりゃとっととこんな街からおさらばするさ」

 

「そう、それは寂しくなるわね。──ねえ、もっと色々お話ししない? なんなら二人きりで」

 

 私はバオに、上の娼館の一部屋を借りることを目で訴える。

 今日は娼館の管理をしているフローラがいないのでバオが管理しているのだ。

 

 私の訴えが伝わったらしく無言で部屋の鍵を渡してくれた。

 

 もし私の考えが当たっているなら、今ここでこいつを逃がすわけにはいかない。

 

 男は私の言葉に下心満載なニヤついた面で「……いいよ。本当に今日は最高な日だ」と言い私の肩を抱いてきた。

 私は男をそのまま二階に連れていき、バオがくれた鍵の部屋に入っていった。

 

 

 

 

 

 ──そこから三時間後。

 男はすっかりベッドの上で寝息を立てていた。

 こいつは酒と私からの適当な褒め言葉で舞い上がりごろごろと情報を提供してくれた。

 

 やはり洋裁屋とはキキョウの事で、そのボスとやらはキキョウを連れ去るためのカモフラージュとして今回のことを引き起こしたらしい。

 カモフラージュにしては少し大きすぎると思ったのだが、この男が言うには「どうせならど派手にぶちかましてやろう」というボスの意向で、三合会の縄張りを中心に荒らしたのはキキョウを囲っている張に一泡吹かせてやるためだという。

 

 確かに、こんなことが起きては張もキキョウの世話どころじゃなくなるだろう。

 

 肝心のボスのことを聞き出そうと思ったのだが、律儀にもこいつはボスの事だけは喋らなかった。

 ま、もう見当はついているがここから先はマフィア達の仕事になるだろう。

 幸いなことに、この娼館にあるすべての部屋には隠しカメラがあるから証拠もばっちりある。

 

 私は部屋にある電話でバオに繋いだ。

 

「バオ、じきにお客さんが来るわ。その客人が来たらこっちに通して」

 

『分かった。たく、てめえはいつも面倒な事持ち込みやがって』

 

「今回はあっちから転がってきたんだから不可抗力ってやつよ。仕方ないでしょ? うまくいけば、客足が戻るかもよ?」

 

『……逃げねえようしっかり見張っときな』

 

「任せて」

 

 私はバオとの電話を切り、また別の番号に電話をかけたが今も仕事で動いているのかなかなか電話に出ない。

 

 こんな肝心な時に出ないなんてみすみす獲物を逃すようなものなのにね。

 しばらくコールしていると、やっと相手が電話に出た。

 

「やっと出た。まったく可愛い女の子を待たせるなんて、随分冷たい男になったわね彪?」

 

『何の用だアンナ。生憎取り込み中だ、後にしろ』

 

 そんなこと言われても情報を寄越せと言ったのはあんたじゃないの、と思ったがそれは心の内に秘めておく。

 

「あらそうなの、それは残念。──あなた達が探し回ってる獲物が私の目の前にいるのに勿体ないことするのね」

 

『……どういうことだ?』

 

「酒をたらふく飲ませてちょっと褒めたらベラベラ喋ったわよ。“自分は気味悪いパーティーを拵えた一人”ってね」

 

『確かか?』

 

「半端な男は酒と女に弱いのよ。あなたも知ってるでしょ?」

 

 私のその返答を聞いて、彪は一瞬黙ったがすぐに質問を投げかけてきた。

 

『今一緒にいるのか』

 

「ええ、今はすっかり夢の中よ」

 

『場所は?』

 

「イエロー・フラッグの娼館。バオに言えば案内してくれるわ」

 

『分かった。俺たちが来るまでそいつを逃がすなよ』

 

「はいはい」

 

 その言葉を最後にお互い電話を切った。

 

 

 

 

 

 

 ──そこから二十分も経たないうちに黒いスーツに身を包んだ男たちがバオに案内されて部屋に入ってきた。

 女性がいると分かってるならノックくらいしてほしいものだ。

 

 私は待っている間飲んでいた酒をテーブルに置き彪に声をかけた。

 

「意外と早かったわね。もう少しかかると思ったけど」

 

「俺らは仕事が早い方でね。……このアホ面か?」

 

「ええ」

 

 そういうと、彪の後ろにいる男たちがベッドに横たわっている男の両腕足を拘束し始めた。

 

「まさか、お前のところに現れるとはな」

 

「ほんとにね。私の運の良さに感謝してほしいわ。……これで、パーティーを終わらせる準備ができるのよね?」

 

「ああ」

 

「じゃあとっとと終わらせて。あ、そいつがベラベラ喋ってるのビデオに撮ってあるから後でバオにもらってね」

 

「分かった」

 

 三合会の男たちは拘束されながらも寝ている男を運んでそのまま部屋を出て行った。

 彪は「礼はまた今度する。その時までに何が欲しいか考えとくんだな」と言って部屋を出ていこうとした。

 

 

 

「彪」

 

 

 

 私は名を呼んで立ち上がり、そのまま彪の元へ向かう。

 そして、少し背伸びをして乾いた唇に自らの唇を重ねた。

 

 

 

 

 触れてすぐに唇を離し、目の前にある少し驚いている男の顔を見て話す。

 

 

 

「──報酬はMr.張の右腕である貴方の唇でいいわ。この続きがしたくなったらいつでも言ってね」

 

「……相変わらずだなお前は」

 

「褒め言葉として受け取っておくわ。──早くこの気色悪いパーティーを終わらせて、ってMr.張に伝えてね」

 

「ああ」

 

 そう言って今度こそ彪は部屋を出て行った。

 まったく、こんな美人にキスされたのに喜ぶ顔一つも見せないなんて失礼な男だ。

 

 だが、今回はいつも無表情なあの男が驚いた顔が見れただけでもよしとしよう。

 口の端が上がるのを抑えることなく、上機嫌で残った酒を飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 鉄くさい無人倉庫。

 俺は煙草を吸いながら、ラルの携帯から鳴り響くコール音を聞いていた。

 コールしてから五分程経ってもその音が鳴りやむことはなく、相変わらず表情の読めない顔をしながらラルが言葉を発した。

 

「──ボス、やはりあいつと連絡が取れません」

 

「そうか」

 

 あいつらに“ヒント”を与えてから明日で一週間を迎えようとしていた。

 このままではつまらん、とメンバーの一人にこのゲームを盛り上げろといったところ「ゲームにイレギュラーはつきものですよね」と自分の命を懸けてあの行動を起こした。

 

 まさかあそこまでヒントを与えることになるとは思わなかったが、まあ別にいい。

 おかげでとても楽しい毎日を送れている。あいつに感謝しなくては。

 

 そんなあいつの命を無駄にしないためにも、これから更に注意深く行動しなければとメンバー全員にあの日から毎日連絡を欠かさないよう命令していた。

 

 だが、昨日から連絡がつかないメンバーが一人。

 そいつは三年前に加入した一番若い新入りで、元気はあるんだが少し馬鹿な部分があった。

 

 昨日はあいつに久々に息抜きして来いと休みを与えていた。

 馬鹿だが信頼に足る人物だと思っていたからこそ、1人で飲みに行くことも許した。

 

 そんなあいつが日をまたいでも連絡してこない。

 それどころか俺と他のメンバーからの電話にも出ない。

 

 考えられることは二つ。

 酒の飲みすぎで潰れているか、どこかの誰かに既に熱い歓迎を受けてるか。

 

 

 どちらにせよもう用済みだ。

 

 

 

「お前らも分かってると思うが、あいつは敵の手に落ちた可能性が高い。こうなっちまったら俺にたどり着くのも時間の問題だ。よって、お前らの出国日程が随分早まることになった。もう少し遊びたかっただろう?」

 

「ま、しょうがないでしょう。そうなってしまったんですから」

 

 ラルのその言葉に周りの奴らも同調する。

 その様子を見て、俺は口の端を上げ再び言葉を発した。

 

「物分かりが良くて助かる。俺としてもまだこの状況を楽しみたかったんだが、しょうがない」

 

 煙草を取り出すといつも通りラルが火をつけた。

 煙をゆっくり吐き出し、話を続ける。

 

「──三日後までにはこの街を出られるよう、手筈は俺とラルで整える。その間お前らはこの街とおさらばする準備をしてその時を待て。だが、連絡は今まで通り怠るな。常に生存確認はしておきたい」

 

「洋裁屋はどうするので?」

 

「俺が直接迎えに行く。当然だろ」

 

 また煙を吐き出し、吸い終わった煙草を床に落とす。

 俺の部屋にあるコレクションを捨てることになるのは少々痛いが、また作ってもらえばいいだけのことだ。

 

「よし、行け。また三日後、お前らと会うのを楽しみにしている」

 

 そういうと、隣に立っているラル以外は別々の出口へ向かっていった。

 隣に立っている頼もしい男と二人きりになったところで、俺は静かに声をかける。

 

「──さて、ラル。これからのことについてじっくり話し合おうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 とあるバーの奥の一室。

 そこには、お互いの相互利益のため協調体制をとっているマフィアのボスたちが再び集っていた。

 

 

 張は昨日この三週間自分たちの縄張りを荒らした一人を捕らえ、情報をあぶり出していた。

 キキョウが狙いだということ。コーサ・ノストラとは全く関係ないこと。

 そして、ヴェスティがボスだということ。

 それを知った張はすぐにヴェロッキオに連絡を取り、この情報を伝えた。

 

 だが、肝心のヴェスティと連絡が取れず行方が分からないことを知らされた。

 

 これを緊急事態だと判断した張は、この情報を共有しようと連絡会を開いたのだ。

 張から知らされた内容を聞いたバラライカは、眉間に皺を寄せながら口を開く。

 

「──ということは、すべてあいつが女一人手に入れるために仕組んでいたことだと?」

 

「そういうことになる。ヴェロッキオ、ヴェスティには今も連絡がつかないんだろ?」

 

「ああ。……ヴェスティは俺の部下だ、俺が見つけて殺す」

 

 ヴェロッキオは怒りを隠すことなく言い放った。

 それにバラライカが冷静に言葉を返す。

 

「お前たちだけでどうにかなる相手ではないことはお前が一番知っていることだろう? あいつは我々の裏をかき、ここまで事を荒立てた。一筋縄ではいかん」

 

 吸っていた葉巻を口から離し、ゆっくり煙を吐き出し再び静かに言葉を発する。

 

「──だが、これ以上好き勝手させるのは気に食わん」

 

「うちの縄張りも荒らされた。この借りは返させてもらう」

 

 バラライカに引き続きアブレーゴも眉間に皺を寄せたままそう告げた。

 その瞬間、外に控えていたはずのコーサ・ノストラの一員モレッティがボスたちのいる部屋をノックし怯えた声で「し、失礼します。コーサ・ノストラのモレッティです」と携帯を片手に入ってきた。

 

 その様に話をしていた四人は眉を顰める。

 ヴェロッキオはモレッティに向かって怒鳴り散らした。

 

「今は話の途中だ! 後にしろ!」

 

「あ、あの! ヴェスティの兄貴が」

 

 その名前に一同は目を見開いた。

 モレッティはそのまま言葉を続ける。

 

「ヴェスティの兄貴が、ボスと話がしたいと……」

 

 そういうと、ヴェロッキオの前に持っていた携帯を差し出した。

 それを無言で乱暴に受け取り耳に当てると、電話の向こうから『よう』とかつて自身の右腕だった男の声が聞こえてきた。

 

『相変わらず感情任せに怒鳴り散らしてんだな。それなんとかしたらどうだヴェロッキオ』

 

「てめえ、今どこにいやがる」

 

『それをお前に言う必要も理由も今の俺にはない。……その様子だと、もう全部知ってんだろ? なら、俺はもうお前の部下でも右腕でもなくなった。これからはお前ひとりで切り盛りしてくれ』

 

「ふざけんなよてめえ」

 

『ふざけてなんかない。お前が今まで好き勝手やったように俺も好きなようにやらせてもらってるだけだ。ただそれだけだよ』

 

 ヴェスティはヴェロッキオに対しただ静かに話していた。

 その様子を周りの人間はただ黙ってみている。

 

『──もし、お前が今も俺を部下だと言い張るならそこにいる誰よりも早く俺を殺しに来い。ま、あまり期待してねえがな』

 

「……随分舐めた口利くじゃねえか。てめえはいつからそんな命知らずになった? なあ“カルメロ”?」

 

『お前如きにやられる事はないって分かってんだよ。それに命知らずはお前の方だ。今度その名前で呼んだら、次はてめえに血のダンスを踊らせてやる』

 

「やれるもんならやってみろ、クソ野郎が」

 

『お前にクソ呼ばわりされる覚えはない。とにかく、お前に伝えることはそれだけだ。せいぜいそこにいるクソどもと無能な部下たちと仲良くしているがいいさ』

 

「おい、話はまだ終わってねえぞ」

 

Addio fratelli, ci vediamo di nuovo all'inferno.(じゃあな兄弟、地獄で会おう)

 

 その言葉を最後に声が途切れ、ツー、ツーと通話が終了した音のみが鳴っていた。

 

「……切りやがった」

 

「ま、あいつが何を言ってきたかは知らんが俺たちがやることは変わらん」

 

 張は吸っていた煙草を地面に落とし、煙を吐き切ってから言葉を続けた。

 

「ヴェスティを殺し、そしてキャロ・ディ・ルーナを殲滅する。異存はないな?」

 

 

 

 その言葉に誰一人として異を唱える者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──はあ……はあ……」

 

 

 無人の大型倉庫。

 

 その中には二人の男と、血を流しながら横たわっている黒髪で褐色の女が一人。

 男の一人が携帯を片手に誰かと話をしている中、もう一人は血の付いた白い手袋をはめたまま女の傍らに立ちただ黙って見下ろしている。

 

 

 やがて男は携帯を閉じ、女に向かって話しかけた。

 

 

「さて、君には本当に世話になったな。その礼を返そうと思うんだが……どんなプレイをお望みかな?」

 

「あんたの、悪趣味に付き合うほど、私は安くないのよ」

 

 女は数回殴られ血で汚れた顔を向け、自身に話しかけてきた男を睨みつけた。

 

「成程、それは好都合だ。俺も貴重な時間を君に割くのは痛い。だから早々に終わらせよう。──俺の計算を狂わせた罪はその軽い命で償ってもらう。だが俺も鬼じゃない、最期の言葉くらい聞いてやろう」

 

「……あんたってホント救いようのないただのクソガキよね。ま、せいぜいキキョウを追いまわして痛い目見るといいわ。それに、あの変わり者の洋裁屋はあんたの服を作る気なんてさらさらないわよ」

 

「生憎、そういう奴の扱いは慣れている。あの洋裁屋には丁重なもてなしをさせてもらうつもりだから安心しろ」

 

「ボス、そろそろ」

 

 女の傍らにいた男が口を開き少し離れている男に声をかける。

 その声に喋っていた男は自身の腰に差していた銃を出し、女に向けた。

 

「残念だが時間だ。君の哀れで醜くつまらない人生の幕引きといこうか」

「……それは、お互い様でしょ」

 

 

 女がその言葉を口の端を上げニヤリとした顔で言い放った瞬間、銃声が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──そう、明日だ。俺も準備ができ次第お前らと合流する。……最後まで気を抜かないようにな」

 

 電話を切り、煙草を取り出しそれに火をつけ肺に煙を入れた。

 

 事を起こして三週間。初めはあいつらを動かすのも久々で腕が鈍っているか心配していたがそれも杞憂に終わり、俺の計画は完璧に進行していった。

 だが、どんなことにもイレギュラーはつきもの。あの娼婦に誑かされたメンバーの一人がベラベラと喋りやがったせいで見事に狂わされた。

 

 

 メンバー達は俺に隠れ情報を集め、その娼婦が誰なのか教えてくれた。

 

『何もしないのはあんたらしくない』と。

 

 

 確かに誑かされた奴も許せないが、妙に勘のいい娼婦がいなければこんなことにはならずにすんだ。

 全く、ここまで気を使ってくれる奴に囲まれている俺は恵まれている。

 

 そして、ラルがその娼婦を俺の目の前に差し出してくれた。

 その心遣いを無駄にすることなくありがたく殺した。

 

 折角だからその死体を洋裁屋にプレゼントしようと思ったが、生憎そんな労力や時間は今の俺にはなかったので断念する。

 

 

 そんなこんなで色々あったが明日ですべてが決まる。

 

 

 

 俺が見事にゲームに勝ち賞品を貰えるか、殺されるか。

 

 

 

 

 ああ、明日が楽しみだ。



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44 最後に笑う者が、最もよく笑う

 彪さんや張さんに忠告され家に籠ってから三週間。

 今日も今日とて依頼はない。最近よく遊びに来ていたアンナもこの三日来ていない。

 

 私はこの頃刺繍をするか新しく服を作るかのどちらかしかしていないため、おかげで部屋には服が溜まってきている。

 今日は紫苑の花を刺繍したハンカチを作っている。

 これが終わったら溜まった服をあっちの部屋に移そう。

 

 そう考えながら作業をしていると、台の上に置いてあった携帯が鳴り響いた。

 出てみると、今かなり忙しいはずのあの人の声が聞こえてくる。

 

『ようキキョウ』

 

「どうされたんですか張さん」

 

『なに、ちゃんといい子にしているのか気になってな』

 

 張さんの子ども扱いのような言い方を特に気にすることもなく言葉を返す。

 

「あなたの言いつけ通りずっと家に籠ってますよ。おかげで暇を持て余してます」

 

『そうか、なら長話しても問題なさそうだ。……今日はお前に伝えることがあってな』

 

「……なんでしょうか?」

 

『これはお前にとっても俺にとっても胸糞悪い話だが──』

 

 

 張さんから電話越しに聞いた話は、あのヴェスティとかいう男が私を手に入れるために一連のことを引き起こしたという確かに気分を悪くするような内容だった。

 まさかそんなバカげた理由でここまでするとは思わず、聞いた後はため息しか出なかった。

 

「ほんとあの男は、この街の子供より子供ですね。自分の欲望に忠実すぎるというかなんというか」

 

『俺も聞いたときはそう思ったよ。しかもあいつは俺のことがとことん嫌いらしくてな、俺がお前を囲ってることが気に入らないんだと』

 

「だから嫌がらせのために三合会の縄張りを中心に荒らしたってことですか。呆れてものも言えませんね」

 

『全くだ。──そういう訳でお前には悪いが、まだ家でゆっくりしといてもらう必要がある』

 

 張さんが言っていることはつまり

 

「囮になれ、ということですか」

 

『でかい獲物にはそれ相応の餌が必要だろ? お前はいつも通り家にいるだけでいい』

 

「……分かりました。それであの男が消えてくれるなら喜んで協力しますよ」

 

『聞き訳が良くて助かる。お前が嫌だとか駄々をこねたらどうしようかと思ったんだがな』

 

「私がどう言おうと、貴方は餌にする気満々だと思ってたんですが違うんですか?」

 

 どう足掻いてもあの男が来るのは変わらない。

 それに、この人だって自分の縄張りが荒らされていい思いはしていないのだからあの男を殺すためならどんな手段でも使うはずだ。

 

『フッ、さあな。家の周りが少々騒がしくなっちまうかもしれんが、大目に見てくれよ?』

 

「その時だけは我慢しますよ。ですが、なるべく早めに終わらせてくれたらありがたいです」

 

『分かってるさ。──それと、もう一つ』

 

 この他にまた何か別の話があるらしく、一呼吸おいてからその話を切り出し始めた。

 

『お前の大事な客の一人だったアンナが、海岸沿いにある無人倉庫で殺されていた』

 

「……は?」

 

 言っている事が理解できなかった。

 

 

 張さんはいつもと変わらない調子で、そのまま話を続ける。

 

 

『見つけた時には、まるで肉の燻製を作るみたいに吊るされてたそうだ』

 

「……いつにも増して笑えない冗談ですね」

 

『信じられないかもしれんが、アンナはあいつの仲間を引きずり出した張本人だ。アンナのおかげであいつにたどり着いたといっても過言じゃない。自身の危機を招いた女をあの男が放っておくと思うか?』

 

「つまりアンナは報復のために殺された、ということですか?」

 

『このタイミングで殺されたってことは、関係しているのは確かだろうな』

 

 

 その言葉に何も言うことができず口を噤む。

 

 この人が今言っていることは冗談でも嘘でもないことくらい分かっている。

 それにアンナ自身も言っていた、“自分はいつ殺されてもおかしくない”と。

 

 だから、殺されていたとしてもそれはこの街にとっての日常であり仕方のないことだ。

 

 

 ……そう、仕方ないのだ。

 

 今更どう足掻いてもアンナが殺された事実は変わらない。

 

 私にできるのは、それを受け入れることだけだ。

 

「そうですか」

 

 私は溜まっていた息を吐き言葉を発した。

 

「あの子とはもっと色々話したかったんですが。残念です」

 

『……意外と冷静だな。もう少し取り乱すかと思ったんだが』

 

「殺されても仕方ない、あの子自身がそう言ったんですよ。それに、一々人が死ぬたびに取り乱したら身が持ちません」

 

 私はそう言いながらイエローフラッグでアンナに言われた言葉を思い出していた。

 

「──張さん、一つ我儘を言ってもいいですか?」

 

『ん?』

 

 

 

 “ねえキキョウ、私が死んだら──”

 

 

 

 あの酷く儚げな笑顔で言ったあの言葉。

 

 

「アンナの遺体、しばらく保管してもらうことは出来ますか?」

 

『何故だ?』

 

「“死んだときには綺麗なエンディングドレスを”、それがアンナから頼まれた最期の依頼でしたから。……お願いします」

 

 こんな時に頼むなんてどうかしてると思う。

 女一人の遺体をマフィアが大事に取っておくなんて普通はしないし、する必要もない。

 だけどもし許されるなら、周りの大人たちに負けまいと背伸びをし、自分を全く見せようとしなかった私の“友人”にせめてもの手向けを。

 

『あいつの葬儀を行う予定はないし遺体は邪魔になる。──だが、お前の初めての我儘を無下にはしたくないな』

 

「それじゃ」

 

『2日。それ以上は置かん。それでもいいなら我儘を聞いてやる』

 

「十分です。ありがとうございます、本当に」

 

 本当に感謝してもしきれない。この人のおかげで私はやりたいようにできている。

 いつかちゃんと恩返しをしなければならないな。

 

『言っておくが葬儀はしねえぞ。そこまで時間も人も割けない』

 

「分かってます。私にも考えがありますので、大丈夫ですよ」

 

『そうか。そっちの準備が出来たらいつも通り連絡をくれ』

 

「はい。──張さん」

 

『なんだ』

 

 私はまた溜まっていた息を吐き出し、一呼吸おいて口を開いた。

 

「終わったら、一杯付き合ってくれますか?」

 

『……ああ。その時は2人きりになれる所でゆっくり話そう』

 

「ええ。では、また」

 

『ああ』 

 

 そう言ってお互い電話を切る。

 

 息を吐き、眉間を抑えしばらく目を閉じた。

 5分程経った頃に席を立ち自室へ向かい、棚にしまっておいた二枚の小さな紙を取り出す。

 それぞれに書いてある番号にかけようと私は再び携帯を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 ──それから六時間。

 溜まっていた服の中にあるロングで長袖の白いワンピースを取り出し、そのワンピースからエンディングドレスを作ろうと作業していた。

 一から作るよりも、元々あったものを改変する方がダントツに早い。

 

 二日は遺体を保管してくれると言ってくれたが、早くできるに越したことはないだろう。

 

 先程ちょっとした修正を施し、簡易的ではあるがエンディングドレスが完成した。

 すっかり日も暮れ、ドアを開ければあたりはすっかり暗くなっていた。

 

 これは張さんに連絡するのは明日にした方がいいな。

 そう思いながらドアを閉め、中に戻りエンディングドレスを丁寧にたたみ紙袋へ入れた。

 

 そろそろ夕ご飯を食べようと自室に行こうとした瞬間、表のドアから来客を告げるノック音が聞こえた。

 

 こんな時間に一体誰が……。

 

 張さんから連絡は貰っていないし、こんな時、ましてやこんな時間にわざわざ依頼に来る人間などいるわけもない。

 私は妙な胸騒ぎがして、そのまま自室に行きクローゼットの奥から張さんにもらった銃を持ち、ドアの向こうから声をかけられるのを待った。

 黙っていると再びノック音が聞こえたが、私はただ黙ってドアを見つめていた。

 

 5分程経っても何も声が聞こえてこないので、悪戯か何かかと思ったその瞬間。

 突然銃声とドアノブが外れた音が聞こえた。

 

 あまりにも唐突の事で咄嗟に動くことができず、ただ体に緊張が走る。

 

 

 壊れたドアから姿を見せたのは、地面に着きそうなくらい長く黒いロングコートに黒のソフトハットを被り、黒手袋を嵌めた全身黒のコーデで埋め尽くされた男だった。

 

 

 帽子のせいで顔が見えず誰だか分からなかったが、声を聴いた途端確信する。

 

 

 

「迎えに来たよ、Ms.キキョウ。さ、俺とともに行こう」

 

 

 

 

 聞き覚えのある声で気色悪い言葉を聞いた直後、その男を睨みつけながら使ったことのない銃を反射的に構えた。

 

 

 

「二度と私の前に現れるなと言ったはずだ。何しに来た」

 

「言っただろ、俺は欲しいものは必ず手に入れる。その欲しいものを取りに来ただけだ」

 

「ふざけたことを」

 

「ふざけてないさ。──それより、その手に持っている物は君にはふさわしくない。今すぐ捨てるんだ」

 

 

 ヴェスティは気色悪い笑みを浮かべ、銃をしまいながらそう言ってきた。

 私はその言葉に一瞬の間を空けることなく返す。

 

 

「お前に命令される筋合いはない」

 

「君が持つべきなのは裁縫道具だ、捨てろ」

 

「うるさい黙れ。お前が私に命令するな」

 

「やれやれ困った。手荒な真似はしたくなかったんだが」

 

 

 

 そう言うと少し離れていた距離を一気に詰め、手を掴み銃をはたき落された。

 目の前には先ほどまでの笑みを消し、無表情の男の顔があった。

 

 

「……っ!」

 

 

 私は必死に逃れようといつものように抵抗したがやはりびくともしない。

 

 

「君は確か、利き腕は右だったな」

 

 

 そういうとヴェスティは私の左腕を力づくで伸ばした。

 

 

 

 嫌な予感がした。

 

 

 

 

「何を……ッ! 離せ!!」

 

 

 

 私は抵抗を続け、言葉でも離すよう訴えたがそれを聞き入れてくれるわけもない。

 そして、左腕に関節が曲がる方向とは逆に蹴りが入る。

 

 

 

 

 骨が折れる音と共に激痛が走った。

 

 悲鳴が無意識に上がる。

 

 

 

「あああああああ!!」

 

「これくらいしないと、君は言うこと聞かなさそうだからな」

 

 

 ヴェスティは痛みで身動きが取れずうずくまっている私を見下ろし、冷淡にそう言い放った。

 

 

 

「ッ……私が、こんなことで……お前の、言いなりに、なると思って、るのか!」

 

 

 激痛のせいで上手く声が出せない。

 そんな状態でも私はヴェスティの顔を真っすぐ見つめ、言葉を続けた。

 

「私は、銃を突きつけられようと、足を切られようと……お前なんかの、言いなりにはならない……!」

 

「そう、その君の態度があのアンナっていう娼婦を殺したんだ。君が俺を拒絶するからあの子は死んだ。それなのに、まだその態度をとるのか。君がそんな薄情な女性だとは思わなかったよ」

 

 

 私がアンナを殺した? 

 この男の愚かさと馬鹿さ加減に更に怒りが募る。

 

 

「本当に、お前は子供だ。アンナは私が、殺したんじゃない。アンナは、お前のそのクソッたれな欲望に、巻き込まれただけ……。邪魔したアンナを、気に入らなかったから殺した。そうやってアンナを盾にすれば、私が言うことを聞くんだと思ったんだろうが……その、浅はかな考えも、気色悪い欲望も、全部……吐き気がする!」

 

 

 私は痛みを感じながらその場に立ち、左腕を抑え再びヴェスティの目を見ながら口を開いた。

 

 

「今一度はっきり言う。私は、お前の服は作らない。そして、一緒に行くこともない」

 

「──そうか」

 

 

 ヴェスティが一言そう言った次の瞬間、左頬に衝撃と痛みが走った。

 殴られたのだと理解した時には、胸倉を掴まれヴェスティの顔が目の前にあった。

 

「言ったはずだ、俺は欲しいものは何が何でも手に入れる。君がどうこう言おうと拒否権はない。理解できるかな?」

 

「理解、する必要があるのか? そんな、子供じみた言い分を」

 

 そういうとまた左頬を殴られた。

 だが、殴られた後は怯むことなくまた真っすぐ目を見る。

 

 

 無理やりにでも連れていけるはずなのにそうしないのは、きっとこの男は私が恐怖で首を縦に振るのを待っているからだ。

 

 屈服した人間ほど支配しやすい。

 特にこいつのように暴力で解決しようとする男ほどそう思っている。

 

 でなければいつまでもこうやって押し問答をする理由がない。

 

 

「本当に君は頑固者だ。素直に首を縦に振ればいいものを」

 

「私が、そうしないのは、“作りたくない奴には作らない”と、決めているからだ。お前に作るくらいなら、死んだほうがマシだ」

 

 私はヴェスティの目をまっすぐ見続け、口の端を上げ言葉を言い放つ。

 

 

 

 

「誰がお前の服なんか作るかバーカ」

 

 

 

 

 

 ヴェスティが右手を振りかざし、また殴られるのかと思ったその時だった。

 

 

 

 

 

 

「おいおい、随分派手な口説き方だな」

 

 

 

 

 

 

 低い男の声が響きヴェスティの動きが止まった。

 その声は、私がこの街で一番信頼している人の声。

 

 声がした方を見てみると、そこには白いスーツと黒いロングコートを身に着けサングラスをかけたあの人が立っていた。

 

 

 

「そんなんじゃ女性は落とせないぜ、ジェントルマン」

 

 

 

 

 そう言いながら私のパトロンは自身の腰から銃を抜き、ヴェスティに銃口を向けた。











ヴェスティは次が最後の出番かな。

ヴェ「え……」


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45 最後に笑う者が、最もよく笑うⅡ



今回も少し長めです。


 張さんの言葉を聞いた途端ヴェスティは掴んでいた胸倉を離し、私の後ろに回ったかと思うと右手を前で抑えてきた。

 

 さっき以上に身動きが取れない態勢にさせた瞬間、ヴェスティも自らの銃を抜き張さんへと向ける。

 

 さっきは表情がよく分からなかったが、こうして真正面から見るといつもの余裕そうな笑みを浮かべてはいなかった。

 

 

 無表情で、何を考えているか分からない。

 この人のこんな顔を見たのはいつぶりだろうか。

 

 

 

「──よう、思ってたより早かったな。周りにいたお前のお仲間には眠ってもらったはずなんだが、流石この子の保護者ってところか?」

 

「計算高いお前のことだ、とっととキキョウを連れてこの街を離れる筈だと思ってな。俺のカンはまだまだ健在らしい」

 

「ここに来てまで自慢か? そんな暇あるならそのどうしようもない童顔具合を治したらどうだ。それに俺は今逢引き中だ、ここは二人っきりにしてほしいね」

 

 

 何が逢引きだ、気色悪いことを言いやがって。

 

 

「それにしては随分乱暴じゃないか。お前の口説き方はそんなレイプまがいのことなのか?」

 

「この子は俺にとっても大事な人だ、そんな下品なことはしないさ」

 

「……それが彼女の左腕を折った奴のセリフとは思えねえな」

 

「利き腕じゃないだけマシだと思って欲しいね。それに骨折くらいすぐ治る。それまで俺が愛情込めて世話するから安心しろ」

 

 

 この男の気色悪さがどんどん増している気がする。

 張さんもそう思っているのか、うんざりと言ったような表情をしていた。

 

 

「──お前のことを買い被ってたよ、まさか女一人のためにここまで事を荒立てるとはな」

 

「ただの女なら俺もここまでやらないさ。だが、この子の技術と作品の完成度に惚れてしまった。だから仕方ない、そう思わないか? なあ、Ms.キキョウ」

 

 

 そう言いながら耳元で名前を呼んできた。

 悪寒がする。

 

 

 眉間に皺をよせ、不快さを隠すことなく顔を背け口を開く。

 

 

「気色悪い、離せ」

 

「キキョウも嫌がっている、離してあげたらどうだジェントルマン?」

 

「それは無理だ。……おいおい、そんな怖い顔すんなよ張。思わず指に力が入っちまいそうだ」

 

「奇遇だな。俺もお前に今すぐ鉛玉をプレゼントしたい気分だよ」

 

 

 そうだ、何故張さんは撃たないのか。

 

 確かに張さんが撃てば、私は今この男の盾になっているようなものだから当たるのはほぼ確実だろう。

 

 それでもこの状況を打破できるのであれば私はそれで構わないし、張さんも私を撃つことに躊躇いなんてあるはずもない。

 

 なのに何故? 

 

 

 私と同じことを疑問に思ったのか、ヴェスティは鼻で笑い言葉を発した。

 

 

「流石のお前もこの子を盾にされちゃ撃てないってか? 随分甘い男になったなお前も」

 

「……馬鹿か、お前」

 

 ヴェスティの言葉に思わず反応してしまった。

 ボソッと呟いたつもりだったのだが、しっかりと耳に届いていたようで「何か、言ったかな?」と聞かれた。

 

 だから私は臆することなく、思っていることを吐き出した。

 

 

「この人がそんなことで撃ってこないと思ってるなら、とんだお気楽野郎だって言ったんだ」

 

「じゃ、君にはこの男が何考えているか分かっていると?」

 

「私に分かるわけないだろ。ただ一つ分かっているのはこの人には“私を撃てない”なんて考えはどこにもない。私はこの人の部下でも、ましてやお前みたいに服や私の腕に固執しているわけでもないんだから当然だろ。私はただの洋裁屋。この人が優先するような命を持ち合わせてない。──そうでしょう? 張さん」

 

 相変わらず無表情で銃を向けていた張さんに声をかけると、そこで初めてあのいつものにやり顔を見せた。

 

 

「やはりお前はよく分かっている。流石だなキキョウ」

 

「いつも思っている事を言っただけです。だから、早く終わらせてください」

 

「そうだな。──そろそろ長話にも飽きてきた」

 

 

 

 その一言を言い終わった瞬間、二つ分の銃声が鳴り響いた。

 

 

 

「がっ……!」

 

 

 どうやら張さんの放った弾丸はヴェスティの右目を撃ちぬいたらしく、私には何の衝撃も来なかった。

 そのおかげか掴んでいた力が緩み、私は手を振り払い片手で思い切りヴェスティの体を突き飛ばし離れる。

 

 張さんの方を見てみるとヴェスティが放った弾がサングラスに当たったのか、普段は隠れている素顔が露になっていた。

 血は流れていないところを見ると、どこも怪我は負っていないらしい。

 

 それを見て私は安堵したのも束の間、銃声を聞きつけた三合会の部下らしき人達が数人入ってきたかと思えば右目を抑えているヴェスティを三人がかりで床に押し付け、身動きを取れなくした。

 

 そんな中で張さんは銃をしまい、その様子を見ている。

 

 

 

 ……やっと、終わった。

 

 

 

「──あーあ、あともうちょっとだったのにな」

 

 

 ヴェスティは、床に伏せられているにもかかわらずニヤリとした顔で言葉を発した。

 

 

「残念だったな。全く気の毒だがメインディッシュを取り逃がして空腹のままあの世へ行ってもらう。地獄で残飯でも食っていろ」

 

「……本当に、てめえをとっとと殺せばよかったよ。このクソ童顔野郎」

 

「今日はよく気が合うな。俺もお前を早く殺せばよかったと後悔してるよ着飾り野郎。キキョウ、お前もこいつに迷惑かけられてんだ。一発ぶちかましとくか?」

 

 

 張さんはそう言って、床に落ちてある私の銃を拾い私に差し出してきた。

 

 無言でその銃を受け取り、そのままヴェスティの前に立ち見下ろした。

 

 

「君のその腕になら、殺されても本望だ」

 

 こんな時になっても微笑を浮かべ軽口が叩けることにむしろ敬意さえ覚える。

 私は銃を構えることなく、静かに口を開いた。

 

「私の腕は、服を作るためにある。──この男に銃を向けるのはあなたの仕事ですよ、張さん」

 

「その腕を折られたってのに何もしないのか? 寛大だな」

 

「別に許したわけじゃないですよ。ただ、なぜ私がわざわざこの男に喜ばれることをしないといけないのか、その理由が見当たらないだけです。……ですが、一つ気になっていることがあるのでもう少しだけ時間をください」

 

「気になっていること? 何かな?」

 

 

 ヴェスティは未だに口の端を上げ続けている。

 

 もはや呆れて物も言えない。

 

 

 

 だがこの男のそんな顔も、今日で見納めだ。

 

 

「私の師が作った服はどこに置いてある」

 

「……俺の家の部屋に飾ってあるよ。量はそんなに多くはないから運び出すのは簡単だ。だが、今はコーサ・ノストラが見張っているだろうから勝手に入るのは色々と面倒が起きる。念のためヴェロッキオに挨拶に行っといたほうがいい」

 

「ご丁寧にどうも。……すみません張さん、時間を取らせました」

 

「連れていけ」

 

 張さんの命令に部下らしき人達はヴェスティの手足を拘束し、布で口を塞ぐとそのまま連れて出て行った。

 

 

 てっきり張さんも出ていくと思ったのだがそこから動くことはなかった。

 

 

「手ひどくやられたな、キキョウ」

 

 

 私の目の前まで歩いてきた張さんは、私の左頬と左腕の様子を見ながらそう言った。

 

 

「別に、気にしてませんよ」

 

「女を一方的にここまで殴るとはな。顔を見たときは一瞬誰かと思ったぞ」

 

「それは貴方のことも言えますよ。……初めて、顔を見ました」

 

 

 改めてみると、思ったより可愛い顔立ちをしていることに気が付いた。

 だから童顔なんて呼ばれてたのか。

 

 

「そうか、お前に見せるのは初めてだったな。特別大サービスだぞ?」

 

「なら、ありがたく目に焼き付けた方がいいですかね?」

 

 私はその冗談に微笑みながら冗談を返す。

 それが愉快だったのか張さんも笑みを浮かべながら私の言葉に答えた。

 

「そう何度も見せるもんじゃないからな、今のうちによく見とけ。──と言いたいところだが、それよりもお前のそのナリをどうにかしないとな」

 

 張さんは踵を返し「来い、キキョウ」と私を呼んだ。

 

「あ、ちょっと待ってください」

 

 

 張さんにどこに連れていかれるのかは分からないが、ここを出ていくのであればそのままアンナに会いに行きたい。

 

 そして、“もう一つの用事”も一気に済ませたいと思いエンディングドレスが入った紙袋と、自室から大きめで黒いハンドバッグを持ち部屋を出た。

 

 

 張さんはそんな私を見て「大荷物だな」と呟いた。

 

「ピクニックに行くんじゃないんだぞ」

 

「分かってます。ひとつはアンナの服で、こっちはちょっとした“手土産”です」

 

「……何をやろうとしてるのか、後でじっくり聞かせてくれよ?」

 

「はい」

 

 

 

 私の返事を聞き、今度こそ家から出ようとする張さんの後を黙って着いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──夜七時を三十分過ぎた頃。

 

 海の傍にあるコンテナ置き場の一角で八人の男たちが集っている。だが男たちの顔には焦燥、困惑、混乱などそれぞれ浮かべている表情は明るいものではない。

 

 そして、とうとう堪えきれなくなったのか一人が自身の困惑を打ち明けた。

 

「おい、どうすんだよ。とっくに時間過ぎてんのに来ないぞボス……。連絡もつかねえし」

 

 一人が言葉に出すと、堰を切ったように他の男たちも次々と自身の考えを口にする。

 

「まさか、やられちまったんじゃ?」

 

「あのボスがそんなミスやらかすかよ」

 

「それにラルの奴も来てねえ。……俺ら、見限られたのかもしれねえ」

 

 男たちは、見限られたという言葉に沈黙する。

 だがそれも束の間、沈黙を破るようにまた別の一人が口を開く。

 

「あの人が俺たちを邪魔だと思ったんなら、それを受け入れよう。それが俺たちだ」

 

 それぞれ思うことはあれど、その一言に全員が頷くと再び沈黙が降りる。

 さざ波の音だけが響く暗闇の中、男達は自分達のボスを待ち続けた。

 

 

 

 

 そして、夜八時半を回ろうとした瞬間。突然コンテナ置き場が光に包まれる。

 男たちは反射的に銃を抜き、お互い背中合わせになり自分の身を守る態勢を取った。

 

 

 

 やがてコツ、コツ、コツとハイヒールの音がだんだん近づき、凛とした女性の声が響く。

 

 

「こんなところにコソコソ集まって何をやっているのかしら? ここには面白いものなんて何もないわよ」

 

 女性が言葉を発すると、一人が構えていた銃を声の主に向け引き金を引こうとした。

 瞬間別の方向で銃声が響き、男が持っていた銃は己の手に弾丸が貫いたことで地面に落ち弾が放たれることはなかった。

 

 

 それを皮切りに更に複数の銃声が響くのと同時に全員の手から銃は離れ、男達の武装は完全に無力化された。

 

 その男たちを顔半分が火傷の痕で覆われている女性は冷徹な目で見下ろし、尖った声を響かせる。

 

 

「──よく聞けドブネズミども。お前達が食い荒らしていい場所もモノも、そして生き延びていい理由も存在しない」

 

 一歩、また一歩と女性は言葉を発しながら男たちに近づき言い放つ。

 

「派手に食い散らかした罪は、その命をもって贖え」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──八人? 九人ではなく?」

 

『ええ。お仲間もどこに行ったのか分からないっていうものだから、てっきり貴方のところかと思ったんだけど』

 

「いや、こっちも一人だ」

 

『そう。ネズミを一匹でも逃すと後々面倒よ張』

 

「よく分かってるさバラライカ。これ以上食い散らかされるのはご免だ」

 

『なら、何が何でも吐かせることね。──張、あの子の腕がネズミに齧られて使い物にならなくなるのは私としても心苦しいわ。だからちゃんと責任もって世話しなさいね』

 

「言われなくてもそのつもりだよ」

 

『なら結構。分かったら連絡を』

 

「ああ」

 

 俺はヴェスティを捕らえることに成功し、拷問部屋に放り込みお仲間の居場所を吐かせていた。

 

 ヴェスティはしばらく拷問を受けたところでようやく吐き、その居場所はホテル・モスクワがよく使っていたためバラライカに連絡し向かってもらった。

 

 場所を知り尽くしている人間が行った方が事は早く済ませられる。

 バラライカからは「雑魚狩りに私たちを使おうだなんて良い御身分ね」と言われたが、彼女も鬱憤がたまっていたのかそれ以上は何も言わずネズミどもの巣窟へと向かってくれた。

 

 

 そして今、ネズミの駆除から帰還したバラライカから「一人足りない」というあまり喜ばしくない連絡を聞き、携帯を閉じて目の前で酷い有様で寝そべっているヴェスティに再び質問する。

 

 

「で、もう一人のお仲間はどこへ行った? これ以上お前に時間を割きたくない。さっさと答えろ」

 

「……なあ、今何時だ?」

 

「あ?」

 

「今何時だ」

 

 

 時間を気にする余裕があると言いたいのか、はたまた別の思惑があるのか。

 俺は正直に「二十時半だ」と答えた。

 

 

 それを聞いたヴェスティはどこから血を流しているか分からない状態にも関わらず口の端を上げ「そうか」と呟いた。

 

「これ以上引っ張っても意味はないな」

 

「随分素直だな」

 

「喋ったって問題ないからな。──その場に居合わせなかった俺の片腕は昨日のうちにこの街を出て今はどこか遠いところだ。行先はあいつの自由にしろと言ったからどこにいるのかは知らねえが」

 

 

 ……おいおい冗談だろ。

 

 

「つまらねえ漫談を聞きたいわけじゃねえ。どこにいるのかと聞いてんだ」

 

「だから知らねえって言ってんだろ。俺があいつに出した最期の命令は『この街を出た後に行く場所は自分で決めろ』だ。だからあいつはもうこの街にいないし、誰もあいつの居場所を知らない。勿論、この俺も。──何から何までお前らの思い通りにさせる訳ねえだろ。残念だったなあ、もう少し早けりゃ間に合ったかもしれねえのに」

 

 

 ヴェスティは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 その笑みに腹立たしさを感じ顔に蹴りを入れる。

 

 それでもなお笑みを崩さないその姿勢に苛立つが、煙草に火をつけ煙を吸ってから俺は口を開いた。

 

「今からお前をコーサ・ノストラに引き渡す。せいぜい熱い歓迎を受けるんだな」

 

「……は、あいつらにそんな芸当ができるかよ」

 

 その一言を言い終えた瞬間に踵を返し、部屋を出る。

 

 

 壁にもたれ掛かり、コートのポケットに入れていた携帯を手に取ってある番号にかけた。

 

「ようヴェロッキオ」

 

『張か』

 

「もう知ってるかもしれないが、ヴェスティは今うちで預かってる。仮にもお前の部下だった男だ、お前がとどめを刺すべきだと思ってな」

 

『お心遣い痛み入るぜ。だがお前もアイツに一杯食わされてんだ。てっきりてめえが殺すもんだと思ったよ』

 

「そのつもりだったんだが、もうあいつの相手をするのは懲り懲りだ。ここは、あいつの扱いに慣れてるお前が受け持ってくれると有難いね」

 

 

 ヴェスティはコーサ・ノストラの№2という決して軽くはない立場にいた男だ。

 そういう奴は自分がいた組織で然るべき処罰を受けるのが妥当だろう。

 

 ま、これ以上あいつの面を拝むのは遠慮したいのも本音だが。

 

『どこで引き渡す?』

 

「今からコーサ・ノストラの事務所に送る。そっちは色々と準備があるだろう?」

 

『ああ、あいつ好みのオシャレで盛大なパーティーを開いてやる。この俺が直々にな』

 

「そいつは素晴らしい歓迎だな。あいつも涙して喜ぶだろうよ」

 

『ふん』

 

「受け取ったら連絡をくれ。じゃ、頼んだぞ」

 

 

 そう言って俺は電話を切り、いつからか傍に立っていた腹心に声をかける。

 

 

「彪、そういうことだ。念のため手練れを連れてヴェロッキオの元に送ってけ」

 

「はい」

 

「……キキョウの方は?」

 

「今はアイツに診てもらってます。ひとまず大丈夫でしょう」

 

「そうか」

 

 俺は吸い殻を彪が差し出した携帯用灰皿に入れ、「後は頼んだぞ」と一言残しその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──まったく、こんな美人さんの顔をここまで腫れさせるなんて。あなたもとんだクソ野郎に目をつけられたわね」

 

「ははは……」

 

 家を出て、私は今張さんが手配してくれた家にいる。

 ここで暮らしているわけではないらしいが、何かあった時のための避難所みたいなものらしい。

 

 つまり隠れ家だ。

 

 まるで豪邸。というか屋外プールまである豪邸なのだが、ここまで広いと逆に目立つのではないのかと疑問に思う。

 

 その一室で予め呼んでくれていた三合会お抱えの医者に腕の状態を診てもらっている。

 

 

 

 名前は林 翠蘭(リン スイラン)

 

 切れ長な少し茶色かがっている目。身長は私より高く、医者らしく白衣を着ており“できる女”を体現したようなキリっとした女性だ。

 

 腕は確からしく、三合会だけではなく他からも依頼がよく来るらしい。

 

 そしてさっきの言葉はそんなリンさんが私の顔を診た最初の一言だ。

 もう乾いた笑いしか出ない。

 

「まあ腕は幸い正しい位置に戻して固定するだけで済む程度のものだから、一か月もあれば動かせるようになるでしょ。顔も治るまでいじらなければ特に問題ないわ」

 

「そうですか」

 

 一か月か。利き手じゃないとはいえこれじゃ満足に服作ることも刺繍することもできないだろうな。そう考えると少し長い。

 顔は……まあ別にどうでもいい。

 

 

 だが、今の私にはやることがある。嘆くのはそれを全て終わらせた後だ。

 

「じゃ、とっとと済ませましょ」

 

「お願いします」

 

 リンさんはそのまま腕の治療に専念し、私はただそれを見てることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──とりあえずはこんなもんね」

 

「ありがとうございます」

 

 治療を始めてから一時間ほど経った頃には顔の殴られた部分にはガーゼ、左腕は包帯とギブスで覆われた状態になった。

 ここまで酷い怪我を負ったのは久しぶりだ。

 

 

「ほんと、ここまでボロボロにする男に碌なやつはいないわ。こんな可愛い女の子の顔をぶつ奴は特にクソの中のクソよ」

 

「……可愛くないですよ。リンさんの方が綺麗です」

 

「ありがとう。でもそんな謙遜しちゃダメよ? 素直にお礼を言うのも世の中を上手く渡るコツ」

 

「生憎、こういう性分なので勘弁してください」

 

 リンさんは何故かここにきてから私の事を「可愛い」と連呼している。

 少し恥ずかしいのでやめてほしいと言ったのだが「可愛いものを可愛いと言って何が悪いの?」とばっさり切られてしまった。

 

 

「ジャパニーズは謙遜するものだって聞いたけど、皆こうなの?」

 

「人ぞれぞれだと思いますよ。まあ、基本謙遜する人の方が好かれたりしますね」

 

「ふうん、窮屈な生き方ねえ」

 

 丁度その時、部屋にある電話が鳴り響く。

 リンさんは電話を取りそのまま誰かと話し始めた。

 

 

「哦、大哥。现在结束了──」

 

 何を話しているか分からないが、中国語ということは恐らく相手は三合会の人だろう。

 しばらくしてリンさんは電話を切るとこっちを向いて「あなたのその怪我だけど」と声をかけてきた。

 

「今後ちゃんと治るまでアタシが治療する。あなたには完全に治るまでここにいてもらうわ」

 

「え」

 

「これはあの人の指示でもあるから。後でこっちに来るそうだからその時にでも詳しいことを聞いて頂戴。あ、アタシ二日に一回は来るから。風呂の入り方とかはそこの紙に書いてあるから目を通しておいて。……一人じゃ大変なら、アタシが付きっきりで面倒見てあげることもできるけど?」

 

「お気遣いありがとうございます。腕を折られるのは初めてではないので大丈夫ですよ」

 

「そう、それは残念。……本当はもっとお話ししたかったんだけど今日はこれで失礼するわ。張大哥によろしくね」

 

 リンさんは少し残念そうにしていたが、医療道具を片付けて出て行った。

 見た目は物静かそうな人なのによく喋る人だ。

 

 

 そんな騒がしい人が去り、一人部屋に取り残された私はあたりを見渡す。

 本当に広い。まるでセレブが過ごすような綺麗で豪華な部屋。

 日本にいた時もそこまで広い家に住んでいたわけではないので、狭い部屋で過ごすことに慣れている人間にとってここは広すぎて戸惑ってしまう。

 

 

 

 そういえば、あとで張さんが来ると言っていた。

 

 

 その間暇だなと思いながら片腕が動かせないというのもあって特に何もせず、ソファに腰かけたまま張さんが来るのを待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──それから三十分。

 あまりにも暇だったのでテーブルの上にあった雑誌を読んでいると表の玄関から物音がした。

 

 そのまま足音がこちらに近づいてきたかと思うと、部屋のドアをノックした後「俺だ、入るぞ」という声とともに未だに素顔を晒している張さんが姿を見せた。

 

 私は雑誌を置き、その場に立って迎える。

 

 

「色々とありがとうございます張さん。本当に」

 

「そんなかしこまるな。お前には迷惑かけちまったからな、その詫びとでも思っとけ」

 

 そう言いながら私の隣に腰かけるとこちらを座れと言わんばかりに見つめてきたので、「失礼します」と一言断り柔らかいソファに座る。

 

 煙草の匂いがする。さっきまで吸っていたのだろうか。

 

 煙草は吸わないしいい匂いと思ったことはなかったのだが、不思議と嫌悪感は感じなかった。

 

 

 そんなことを思っていると張さんが話しかけてきた。

 

 

「──キキョウ、お前アイツと一回話したそうだな」

 

「……はい」

 

「何故言わなかった」

 

 

 それは、ヴェスティがカタコトの日本語で私の家に尋ねた時の事を言っているのだろう。

 あの男には服を作らないと決めていたし、何より組織の上に立っている人間がたかが一人の洋裁屋に拒絶されたからと言ってあんな行動をするとは思っていなかった。

 

 だからわざわざ言う必要もないと考えていた。

 

「特に、話すようなことでもないと思ってたので」

 

「アイツはお前に酷く執着していた。それが今回の火種だ。……お前もアイツの事を心底軽蔑しているように見える。ただ変な挨拶をされただけじゃあんな態度をとる人間じゃないだろうお前は。何を話した」

 

「……面白くもなんともない話です。それでも構いませんか?」

 

「アイツ絡みの事で面白味なんてあるのか?」

 

 

 それもそうか。

 それに今更隠したって意味もない。

 

 

 あの時話したことを伝えようと言葉を発する。

 

 

「私には、洋裁を教えてくれた師がいます。その人の作る服は本当に素敵で誰もが魅了されるものでした」

 

 あの人の服は本当にすごい。

 私も魅了された一人でよく作業場にお邪魔していた。

 

 今となっては遠く、懐かしい思い出だ。

 

 

「師は一時海外で働いていたようで、その時にあの男も服に魅了されたと。

 イタリアでは師に会うことは叶わず、せめて服を集めようと躍起になっていたそうです。あの男が言うには服を集めるうちに師が作った服か否かを見極めることができるようになったらしく……どこで見たのかは分かりませんが、私が作った服を見て私があの人の教え子だと見抜きました」

 

「……それで?」

 

 張さんは私の話を聞いて面白くもないと言った風だった。

 

「あの男は師に会いたいと言っていました。ですが師はもうこの世にはいません。そのことを素直に伝えました。それを聞いたあの男は“今まで通り欲しいものを手に入れる”と」

 

「惚れた洋裁屋が死んだとなればその腕を継いだ教え子を手に入れる、か。分かりやすい方程式だ」

 

「……ですが私が気に入らなかったのは、その後に聞かされたことです」

 

 

 私に全てを与えてくれたあの人を侮辱している行為。今思い出しても腹が立つ。

 無意識に右手に力が入る。

 

 

「師の服を手に入れるため、依頼人たちから無理やり奪ったと。……師は素晴らしい洋裁屋です。依頼人のことを考えながら一つ一つ丁寧に、繊細に仕上げたはずです。そこにはあの人の洋裁屋としての誇りや依頼人に対しての思いやりが込められているはずなんです。……それをあの男は踏みにじり、侮辱した。私はなによりそれが許せなかった」

 

「……」

 

「だから私は、あの男には服を作らないと告げました。──それがこの結果です」

 

「成程。その左腕と顔はお前の“信念”を貫いた代償ということか。……ふっ、そういうのは嫌いじゃない。この話で唯一面白味があるとすればそこだろうな」

 

 顔を見ずに話しているのでどんな表情をしているのかは分からないが、きっといつもの微笑を浮かべているのだろう。

 

 そんな気がする。

 

 だが、私の話はこれで終わりではない。

 

 

 

「張さん」

 

 

 私には、やるべきことがある。

 それを終わらせるため聞かなければならない。

 

 この人なら絶対知っているはずだから。

 

 私は顔を隣に向け、いつものサングラスをかけておらず露になっている瞳を見てから口を開く。

 

「あの男は、師の服をこの街に持ってきている。それを処分するのが教え子である私の役目だと思っています」

 

 張さんは黙って私の話を聞いている。

 その顔は先程も見せた無表情で瞳は酷く冷めていた。

 

 

 私はその瞳を見続け、本題を口にする。

 

 

 

 

「ヴェロッキオとやらにはどこで会えますか?」







一応ヴェスティ騒動は終わりです。

ここからは後片付け的な感じの話になります。


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46 無様な洋裁屋の交渉

「まさか、その状態で行くつもりか?」

 

「はい」

 

「……俺はすでにお前の我儘を一つ聞いている。こんなくそ忙しいにもかかわらずだ」

 

「分かっています。ですから、連れて行ってほしいなんて言いません。場所だけ教えてください」

 

 これ以上この人に迷惑をかけてはいけない。

 だからここからは私一人で行く。

 

 ヴェスティが言っていたことが嘘であっても、同じ組織にいた人間なら何かしら知っているはずだ。

 行く価値はある。

 

 張さんは私の言葉を聞いて顔を上にあげ息を吐き呟いた。

 

 

「やれやれ。どうしてこうもお前はそんな無鉄砲なんだ」

 

「……」

 

「あの男は少なからず組織内では慕われていた方だ。そんな男がああなっちまった原因でもあるお前が単身乗り込むなんざ、狼の巣にウサギが一匹飛び込むようなもんだ」

 

「私は私のやるべきことをするだけです。それをしなければ後悔しか残りません。……それに、大事にするような命を私は持っていませんので」

 

 重富春太の弟子としてやるべきことを全うしなければならない。

 他の誰でもない、この私が。

 

 

「はあ……今のお前には何を言っても無駄、か」

 

 

 わざとらしくため息を吐いたかと思えば、諦めと呆れが混じったような声音で言われたその言葉に少しだけ罪悪感が湧いた。

 逸らしていた顔をまたこちらに向け、一呼吸おいてから張さんは話を続ける。

 

 

「──今からコーサ・ノストラにあいつを引き渡す。それに同行することを許してやってもいい」

 

 

 その言葉に私は一瞬驚いたものの、その厚意に感謝の言葉を述べようと口を開く。

 

「ありがとう、ございます」

 

「ただし、俺は行かん。ヴェロッキオにもお前が行くこと“だけ”伝える。これはお前自身の問題だ。お前が話をつけてこい」

 

 勿論張さんに同行してもらおうなんて少しも思っていない。

 むしろここまで世話をしてくれる事のほうがおかしいのだ。

 

「本当にありがとうございます」

 

 私は私の為すべきことを為す、そのために差し伸べられているこの手を掴む。

 今は手段なんて選んでいる場合ではないのだから。

 

 私が改めて礼を述べると、その瞬間張さんのポケットから携帯の着信音が鳴り響く。

 その携帯を無造作に取りだし電話の向こう側にいる相手と話し始めた。

 

「そうか。それなんだがな、ちょいとこっちに寄り道して来い。──なに、()()が一つ増えるだけだ──鋭いな、そのまさかだ──はっ、そんな怒るな。お前らはただ見届けろ。何もするな──ああ、別に構わん。それは本人が一番理解しているはずだ。物分かりが妙にいいのはお前もよく知っているはずだろ、彪」

 

 どうやら相手は彪さんらしい。

 話の内容からして私を同行させることに反対のようだ。

 当たり前の反応だろう。大事な仕事を行う時に私のようになんの役にも立たない人間が同行するのだ。

 張さんの言う通りお荷物以外の何でもない。それを喜んではい分かりましたと言う人間はまずいない。

 

 

 そこからしばらく話していたが、どうやら彪さんのほうが折れたらしく「じゃ、頼んだぞ」と言って電話を切りこちらを見てから再び口を開いた。

 

「俺の部下はお前がどうなろうと手を出さん。今以上に無様な姿になろうとな」

 

「……」

 

「だが、お前がどうしてもと言うなら守ってやらんこともない。折角拾った命だ、ここで捨てることはないんじゃないか?」

 

 何の力もない人間が敵地に向かう時にその言葉を聞いたら普通は懇願するのだろう。

 

 

『死にたくないので守ってください』と。

 

 

 

 だが、これは私の個人的な問題だ。おまけに高くはないこの命。

 この人が私を守る必要性はどこにもないしそれを望むのはお門違いだ。

 

 私にはこの人が何故そんな甘い言葉を吐いているのか分からないが、自分の立場は理解しているので答えは決まっている。

 

「お気遣いありがとうございます。ですが、これ以上貴方に甘えるわけにはいきません」

 

「そう言うだろうと思ったよ。やれやれ、たまにはとことん甘えてみるのもいいと思うんだがな」

 

 張さんは少し口の端を上げてそう言った。その言葉に私は特に何かを言うわけでもなく苦笑する。

 すると丁度部屋のドアをノックする音が響いた。

 

「大哥」

 

「時間だ、行ってこい」

 

 ドアの向こうから聞こえてきた彪さんの声を聞くと張さんは私にそう言った。

 私は部屋を出ようとソファから腰を上げ、家から持ってきた大きめの黒いハンドバッグを持った。

 

「生きて帰ってこれた時は“お帰りのハグ”をしてやろう」

 

 ドアの前に来たところで背中越しにそう言われ、振り返らずに口を開く。

 

「相変わらず面白くない冗談をいいますね」

 

 

 その言葉とは裏腹に自分の口角が上がっていたのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 迎えに来てくれた彪さんに「我儘に付き合わせて申し訳ありません」と謝罪を述べると、「俺たちの邪魔さえしなければそれでいい」と言ってくれた。

 もう十分邪魔したようなものだというのに。

 

 その寛大さに感謝しながら彪さんの後を着いていくと黒塗りの高級車が前後一列に二台停まっていた。後方の車の前には、黒いスーツに身を包んだいかにも極道ものだといわんばかりの雰囲気を持った四人の男達が立っていた。

 

 そのうちの一人に「お嬢様は大人しく籠っていればいいものを」と言われたが、意に介さず彪さんに言ったように謝罪を述べた。

 私の謝罪を聞いて面白くもないといった風に「ふん」と鼻で笑うとその男は車に乗り込んだ。

 それを見た他の男たちも次々と車に乗り込む。

 

 彪さんが「お前はこっちだ」と前方の車に私を誘導してくれた。

 その誘導に逆らうことなく後部座席に乗った。

 

 

 

 

 

 車に揺られること十五分。

 少し寂れてはいるが横に長い木造で造られた建物の前に止まると、彪さんが運転席から降りるのを見て私も車から出た。

 

 そこでちょうどいいタイミングで建物の中からイタリア人らしき男たちが数人でてきた。

 その内の一人が彪さんに声をかける。

 

「彪如苑だな。早速だが渡してもらおうか」

 

「ああ。──おい」

 

 彪さんは三合会の人たちに声をかけると、一人が車のトランクから大きいキャリーケースを取り出した。

 

 ……まさかあの中に人間が入っているのだろうか。

 一体どういう状態で入っているのか少し気になるがその思いをすぐに消し去る。

 

 キャリーケースを受け取ったイタリア人は、そのまま数人を連れて中へ戻っていった。

 その様子を黙って見ていたのだが、やがて彪さんの前に立っているイタリア人が私に気づき声をかけられた。

 

「お前が洋裁屋か?」

 

「はい」

 

「そうか、てめえが……ボスが中でお待ちだ。来い」

 

 張さんが事前に話を通しといてくれたらしい。

 本当に感謝しかない。

 

 

 

 さて、ここから先は私一人だ。

 私は建物の中に入る前に彪さんと他四人の三合会の人たちに向き直る。

 

「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。ここからは私一人で大丈夫ですので」

 

「大哥からは“見届けろ”と言われた。だから俺たちも着いていかせてもらう」

 

 彪さんのその言葉に私は驚いた。

 だが、これ以上私個人的な事に巻き込むわけにもいかない。

 その考えを伝えるため「しかし」と言葉続けようとしたが、別の一人がそれを遮る。

 

「これは大哥の命令だ。あんたの指図は受けねえ」

 

 その人はここに向かう前に私を「お嬢様」と呼んだ人だ。

 どうやら私はこの人に相当嫌われているらしい。

 恐らく自分のボスがこんな普通の女のために色々と世話しているのが気に入らないのだろう。

 

 これはあくまで憶測なので真実はわからないが。

 

 その言葉を聞いて私が黙っていると、中へ誘導しようとしていたイタリア人から「早くしろ」と催促された。

 こんなところで押し問答していても仕方ないので一人で行くことを素直に諦める。

 

「……では、もう少しだけ私の用事にお付き合いください」

 

 そう一言言って私は足を動かした。

 その後ろから三合会の人たちが着いて来ているのを背中で感じながら、イタリア人の誘導に従い建物の中へと入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──どうやら建物は二階建てで、階段を上り廊下を真っすぐ進むと一つの扉の前に止まった。

 私の前にいるイタリア人がコンコンとノックをし「失礼します。連れてきましたボス」と声をかけるとドアの向こうから「入れ」と男の声が返ってきた。

 

 ドアを開け目に入ったのは、大きいテーブルを挟むように置かれたソファが二つ。

 そして奥のソファに腰かけながら煙草を吸っている金髪の男と、その後ろにはこちらを睨みつけている数人の部下らしき人達。

 

 私が部屋に入ってきたのを見て、金髪の男が声をかけてきた。

 

「随分いかつい野郎どもを連れて、いいご身分だな」

 

 この挑発めいた言葉を発している男がコーサ・ノストラのボス、ヴェロッキオだろう。

 そう判断し、ソファに座らず立ったまま挨拶を済ます。

 

「Mr.ヴェロッキオとお見受けいたします。私、洋裁屋を営んでおりますキキョウと申します。お忙しいところにお邪魔してしまい申し訳ございません」

 

「ふん、礼儀は正しいようだな。まあ座れ」

 

 そう促されるがまま、私は「失礼します」と一言断り手前のソファに腰掛ける。

 ソファの後ろには彪さんを含めた五人の三合会の人たちが立っている。

 本当ならここに座っているのは張さんのはずだったのだろうが、今はそれを気にする余裕がなかった。

 

「張から話は聞いている。……で、俺の元部下を誑かした洋裁屋が何の用だ」

 

「話を聞いていただけることにまずは感謝いたします。──私の話はたった一つ、あの男が集めていた服。それを回収する許可をいただきたいのです」

 

 意外とすんなり話を聞いてくれることに少々驚いたが、堅苦しい挨拶をそこそこに切り上げ本題を口にする。

 ヴェロッキオさんが私の言葉を聞いて片眉を上げたのが見えたが、やがて静かに言葉を発した。

 

「あいつが集めていた服か。確かにあいつの家にはコレクション部屋があるが……てめえは俺の元右腕を誑かした女だ。そんな奴からの頼みごとをはいどうぞと受けると思うか?」

 

「そんなことは微塵も思っておりません」

 

 予想していた通りの言葉が返ってきた。

 相手からしたら私はこの男の言葉通り№2の立場にいた男を“誑かした”ように見えているのだから当然の反応だろう。

 

 やはりちょっとした手土産は役に立ちそうだ。

 

 

 

 私は持ってきていた黒いハンドバッグをテーブルの上に置き、中身が見えるように開けた。

 

 中身を見たヴェロッキオさんは多少なりとも驚いているようだった。

 それは周りにいた人間も同じようで動揺の声が上がったが気にすることなく話を続ける。

 

 

「二十万ドル。これであの男の所持している服を“買い取らせて”いただく、というのはいかかでしょうか?」

 

 そう、私が持ってきたのは取引するための金だ。

 今の私に出せるのはこれくらいしかない。

 マフィアとの取引ならこれが一番手っ取り早いだろう。

 

 

 だが、何かマフィアなりの矜持があるのか素直には頷いてくれなかった。

 

「……金を積めりゃいいってもんじゃねえ」

 

「申し訳ありません。私はマフィアでもなんでもないただの洋裁屋ですので金以外何も出せません。──左腕が折れてなければ服を仕立てることもできたのですが、貴方の部下……失礼しました、元部下のおかげでこの有様ですのでそれはできません」

 

「……随分生意気な口を利くじゃねえか。張のお気に入りだからっていい気になってんじゃねえぞ」

 

 私の言葉が気に食わなかったのか、ヴェロッキオさんだけでなく周りのイタリア人まで苛立ったような表情を浮かべた。

 今この部屋の空気は極度の緊張感で溢れている。

 

 普段ならこんなところに来るのは御免だが、来てしまったものはしょうがない。

 私は怖気づくこともなく向けられている鋭い視線から逃げずにヴェロッキオさんの言葉に返答する。

 

「お言葉ですが私はその立場に甘んじているつもりは全くありません。もし、ここで私が貴方に殺されてもあの人は何も感じないと思いますので、私を殺すべきだと判断したならば撃ってもらって構いません。後ろの方々もそれは承知しています」

 

 張さんは彪さんたちに“見届けろ”とそう言った。

 私が殺されかけても何も手は出さないし、起こったことをそのまま張さんに伝えるのがこの人たちの仕事だ。

 つまりはそういうことである。

 

 

 

 私の返答にヴェロッキオさんは鼻で笑った。

 

「は、たかが服ごときに命をかけるってか?」

 

「でなければこんな姿でここには来ません。──このまま他の誰かにあの男が集めている服が処分されるのを黙って見ているくらいなら、命を懸けてマフィアと取引したほうがよっぽどいい。だから私はここにいます」

 

「……」

 

 鼻で笑いながら言うその言葉に一瞬の間もなく返答する。

 私の言葉に何を思っているのか黙ってしまったが、その間も私は視線を外すことはなかった。

 

 だがその沈黙も一瞬で、再び口を開き締めの言葉を発する。

 

「Mr.ヴェロッキオ。どうかこの無様な洋裁屋の取引に応じていただけないでしょうか?」

 

 さあどうする。

 

 私は言うべきことはすべて言った。あとは相手の返答を待つだけだ。

 了承を得られれば万々歳、殺されればそれまで。

 

 しばらく沈黙が続き、その間ヴェロッキオさんは色々と考えているようだった。

 答えが出るまで待つしかないので私もそのまま言葉を発することなく返答を待つ。

 

 

 

 

 

 だが、返答は私の思いもよらないところから飛んできた。

 

「ボス! こんな女のいうことなんざ聞く事ないです!」

 

 ヴェロッキオさんの後ろに立っていた一人の部下が私に銃を向けながらそう叫んだ。

 その部下の顔は怒りで顔が真っ赤になっており、銃を持っている手も震えているようだった。

 

 そんな状態であっても、私の後ろに立っている人たちは身じろぎ一つもしない。

 流石張さんが信頼する部下だ。

 命令に忠実で、自分たちは何もせず起こっていることをそのまま見届ける気満々だ。

 

 私としてはそれが逆にありがたい。

 さっきヴェロッキオさんに「この人たちは何もしない」と告げたのでもし動いてしまえばそれが嘘になり、取引に応じてもらえる可能性が無に帰る。せっかく張さんがくれた機会だ。無駄にはしたくない。

 

 

 やがて銃口をこちらに向けている男は怒りを隠すことなく怒鳴り散らす。

 

「てめえが兄貴を誑かしやがったせいでこんなことになったんだ! 今ここでぶち殺してやる!」

 

 “兄貴”とは恐らくヴェスティのことなのだろう。

 

 なるほど、確かに張さんの言う通りあの男はコーサ・ノストラでは慕われていたらしい。

 慕っていた人物が自分たちを裏切るなんて考えたこともなかったのだろうし、この人にとっては相当ショックな出来事だったのだろう。

 だからヴェスティの裏切りを人のせいにしたいのかもしれない。

 

 だが、私にはそんなこと何一つ関係ない。

 誑かした覚えはこれっぽっちもないし、あの男の子供じみた行動を私のせいにされるのは心外だ。

 

 口からため息が出そうになるのを我慢して、できるだけ冷静に返答する。

 

「お言葉ですが、あの男はただ自分の我儘が通らなかったことに腹を立てて一連の事を起こし貴方がたを裏切った。それを私のせいにされては困ります」

 

「うるせえ! てめえのせいで兄貴は……!」

 

「……貴方は自分たちを裏切った人間をまだ“兄貴”と慕うのですか?」

 

 どうやら本当に尊敬されていたらしい。

 ここまで来たらもはや洗脳されているんじゃないかと疑いたくなる。

 

 周りのイタリア人達はその男を諫めることなくただ黙って見ている。

 ヴェロッキオさんに至っては新しく煙草に火をつけ顔を下に向けており、ここからじゃ表情は窺い知れない。

 

 男は未だに銃をこちらに向けたまま、私の言葉には反応せずさらに叫び続けた。

 

「あの人は俺たちの誇りだったんだ! てめえさえいなけりゃあの人も妙な気を起こさずに済んだ! てめえのせいだ!」

 

「……」

 

「今からてめえを地獄に送ってやる!」

 

 誰も止めない。そして、私も止めることはできない。

 きっと数秒後には引き金を引かれ、体のどこかには穴が一つ増えるだろう。

 だが、命を懸けて取引したのだ。後悔はない。

 そんなことを思いながらも、私は怒りで焦点が合わなくなっている男を見続けその時を待つ。

 

 

 

 そして数秒後、部屋に一つの銃声が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──のだが、私の体には何の衝撃もこなかった。

 

 代わりに今まで銃をこちらに向けていた男が苦痛の表情を浮かべていた。

 男は撃たれた腕を抑えながら、自身を撃った人物に声をかける。

 

「……ボ、ボス? なんで」

 

 男を撃ったのはヴェロッキオさんだった。いつのまにか銀色の銃を懐から出し、自分の部下の腕を撃ったのだ。

 その証拠に銃口からは煙が出ている。

 

 これには他の部下も驚いているらしく大金を見た時よりも動揺の波が広がっていた。

 後ろの三合会の人たちは分からないが、私も驚いている一人である。

 

 ヴェロッキオさんは煙を吐き出し、まだ吸えそうな煙草を灰皿に押し付けてからゆっくりと喋り始めた。

 

「どうやらこの女のほうがこっちの流儀を分かっているようだな。いいか、あの裏切り者をまだそんな風に慕うってんなら俺の下に置く理由も必要もねえ。そんなに好きなら一緒に地獄へ落としてやるぜ」

 

「そ、そんな! 俺はただ……!」

 

「俺は裏切り者やそいつを好いている人間を周りに置く趣味はない。──連れていけ」

 

 そう冷酷に言い放つと、他の男たちが数人で片腕を撃たれているイタリア人を引きずるように無理やり部屋の外へ連れ出した。

 連れ出されるまでずっと「待ってくれ」とか「離せ」とかいろいろ叫んでいたが、それに耳を貸す人間はどこにもいない。

 

 その叫びは部屋を出てからもしばらく続いたが、やがてそれも収まり再び部屋には静けさが戻る。

 

「洋裁屋」

 

「はい」

 

 沈黙の中、ようやくヴェロッキオさんが口を開き私に声をかけてきた。

 

「今回はてめえのそのどうしようもねえイカれ具合に免じて取引に応じてやる」

 

「ありがとうございます」

 

 その言葉は待ちに待った取引成立の報せを告げる言葉。

 イカレ具合に免じてというのはよく分からないが、なんであれ向こうが応じてくれる気になったのだ。理由なんかどうでもいい。

 

「ただし、一つ条件がある」

 

 安堵したのも束の間、今度は向こうから何か提案する気のようだ。

 その条件とやらを聞こうと身構えてから口を開く。

 

「……なんでしょうか?」

 

「その腕が治ったら俺の服を仕立てろ。とびっきり上等な奴をな。あそこまで啖呵切ったんだ、ぜひその腕前見せてもらおうじゃねえか」

 

 ……驚いた。

 まさかここで服を作れと言われるとは。

 

 少し拍子抜けだが、断る理由がないので快く了承する。

 

「それが条件であるなら、喜んで引き受けます」

 

 取引成立だ。

 

「回収するときはここに連絡しろ。部下たちには俺から話を通しておく」

 

 自身の懐からなにやら名刺のようなものを取り出しそう言うと、私の前に差し出してきたので遠慮せず手に取った。

 

「分かりました」

 

「話が終わったなら早く出ろ。俺は忙しい」

 

「はい。……では」

 

 私はソファから腰を上げ、部屋を出ようとドアに向かう。

 

「Mr.ヴェロッキオ」

 

 ドアの前まで来たときにその場で振り返り、私は改めて礼を言おうと声をかけそのまま言葉をつづけた。

 

「この度は取引に応じてくださり本当にありがとうございます。この借りはいずれ」

 

「これは正式な取引だ。だから貸し借りなんざ俺とお前には存在しねえ。とっとと行け」

 

「では、失礼いたします」

 

 

 

 一言そう残して、私は後ろに三合会の人たちを引き連れて今度こそ部屋を出た。






キキョウの前で電話した時の張さんはわざと英語で喋っています。
念のため、「お荷物」だということを認識させるためです。


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47 最期に為すべきことを

 ヴェロッキオさんとの取引が終わり、再び車に揺られ隠れ家に向かっている。

 建物を出た後すぐに後ろにいた三合会の人と少し話をしたのだが、なんだかよく分からない話だったなと思い返す。

 

 

 

『──張さんからの命令とはいえ、ここまでお付き合いいただきありがとうございました』

 

『……あんた、死にたいのか? あの時撃たれていたらどうするつもりだったんだ』

 

『死にたいとは思ってないです。ただ死ぬなら後悔せず死にたい、そう思ってるだけですよ』

 

『本当にそう思ってんなら大分イカれてんなあんた。……成程、あの人が気に入るわけだ。なあ彪、お前もそう思うだろ?』

 

『ま、あの人は物好きだからな。しかし、本当にヒヤヒヤしたぞキキョウ。あの時逃げるそぶり一つも見せねえもんだから銃を出しちまいそうだった』

 

『逃げても何もなりませんしね。あなた方が何も動かなかったおかげで取引がうまくいきました。本当にありがとうございます』

 

『……何もしてねえことに礼を言われるなんてな』

 

『大哥が言ってただろ? こいつは変わり者だってな。俺もここまでとは思ってなかったが』

 

『ま、何はともあれお互いの無事を喜ぼうぜ。ええと、キキョウさん?』

 

『キキョウでいいですよ』

 

『そうか。俺は(カク) 颯懍(ソンリェン)だ、以後お見知りおきを。じゃ、また会える時を楽しみしてるぜ』

 

『今日は本当にありがとうございました』

 

『おう』

 

 

 

 

 

 

 

 ──というのが会話の一部始終なのだが、なぜか郭さんは上機嫌になりそのまま他の人たちと帰っていった。

 

 あの会話のどこに愉快になる要素があったのか分からない。

 マフィアはこんな死にたがりと思われるような行動をする女が好みなのだろうか。

 

 

 そんなことを考えていると、運転席にいる彪さんから声をかけられた。

 

「何か考え事か?」

 

「……何故郭さんはあんなに上機嫌だったんでしょうか。最初はすごい嫌悪感をだしていたのにそれが不思議で」

 

「ああ。あいつは大哥に心底惚れているからな。あの人が気に入っている女がただの女じゃなかったことに安心しているんだろ」

 

「私そんな変わってますか?」

 

「自覚なしか。この街でも一等変わり者だよあんたは」

 

 私は普通ですよ、と言おうと思ったがやめた。

 私が何度も普通だと言い張ってもきっとそう思ってくれないのだろう。

 今までがそうだったように。

 

「もうそろそろ着く。大哥にちゃんと礼を言っとけよ?」

 

「はい」

 

 そう返事をし窓のほうに目を向ける。

 それからはいつもより人気の少ない街を眺めながら“あの男が荒らした後の街はこんなに静かになっていたのか”と物思いに耽り、何も言葉を発さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──隠れ家に着き、彪さんは張さんを車で待つらしく私は一人で車を降りた。

 そして、真っすぐ部屋に向かいノックしようとした瞬間ドアが開く。

 

 

 上着を脱いでワイシャツにズボンというラフな格好をした張さんが私の姿を見た途端、愉快そうな顔を浮かべながら言葉を発する。

 

 

「“お帰りのハグ”は必要か?」

 

「必要ですと言ったら抱きしめてくれるんですか?」

 

「何なら頬にキスもつけてやろう」

 

「……勘弁してください」

 

 張さんの冗談にいつもはノらないのでどう返答していいのか分からず目を逸らし呟く。

 その様子に「それは残念だ」と愉快そうに言いいながら部屋に戻りソファに腰かけたのを見て、私も部屋に入りドアを閉める。

 

 また隣に来いと言わんばかりにこちらを見てきたので「失礼します」と断りを入れてから腰を掛けた。

 

「一応、結果を聞いておこうか。どうなった?」

 

「ちゃんと許可をいただけました。あとは回収するだけです」

 

「ほう。てっきりアイツは断るかと思ったんだが、お前は予想以上に世渡り上手らしい」

 

「私はただ話をしただけですよ」

 

「話、ね。きっとその時のお前はとても魅力的だっただろうな。その姿を見れなかったのは残念だ。やはり俺も着いていくべきだったか?」

 

 ただ話をしただけだというのに魅力的とはどういうことなのだろうか。

 そんな様子を見ても何も面白いことはないのに。

 

「面白いことは何も起きませんでしたよ」

 

「ま、後で彪にでも話を聞くさ。──とりあえず、今はお前の無事を喜ぼう。無事というには少々ひどい格好だが」

 

 

 張さんはそう言いながらヴェスティに殴られ治療を施されている左頬に指先でそっと触れてきた。

 

 腫れているのとガーゼで覆われているのもあって触れられていることをあまり感じられないが、その行動に戸惑いを隠せず声をかける。

 

「……張さん?」

 

「痛むか?」

 

「いえ」

 

「そうか」

 

 短い言葉を交わした後も触れ続けている。

 

 あの時もそうだった。

 

 

 

 ヴェスティにキスされたと話した後、世間話をしながらそっと触れてきた出来事を思い出す。

 

 私を女としてみているわけでもないだろうに何故そんな行動をするのか不思議でならない。

 

 

 

 こうしてる間にも頬を指先で触れ続けるその行動にどうしたらいいか分からず、困惑の表情を浮かべたまま再び張さんに声をかける。

 

「あ、あの」

 

「ん? ああ、すまん。今のお前は満身創痍で、いつもとは違う魅力があるもんだからついな」

 

 この人は何を言っているのだろうか。

 左腕を折られ、頬が腫れている今の状況を見て何が魅力的だというのか分からない。

 

「今の私は、ただの無様な女ですよ」

 

「そう。無様な姿となっても尚、その凛とした姿を崩さない。満身創痍だからこそお前の“真っすぐ”さがより輝く。──武器もなく片腕が動かせないただの女が怖気づくことも逃げることもせず、ただひたすら目線を逸らさずに話すその姿は本当に綺麗で魅力的だったろう。ヴェロッキオはそれにあてられたのかもしれないな。まったく羨ましい限りだ」

 

「……」

 

 

 どこか機嫌がいいのは気のせいではないだろう。

 言っているその言葉の意味は理解できないけれど、満足気だということは愉快そうに口の端を上げている顔を見て分かった。

 

 そこでようやく張さんが頬から指を離した。困惑が薄れ、ゆっくりと口を開く。

 

「本当、貴方の言っていることがたまに分からなくなります」

 

「分かってもらおうだなんて思っちゃいないさ。ただ、俺はますますお前が気に入った。それだけの話だ」

 

「物好きですね、貴方も」

 

「はは、よく言われる」

 

 

 ま、いいか。

 私が考えたって分かるはずもない。

 この人が考えていることをすべて理解しようだなんて神様でもないのだから到底無理な話だ。

 

 そしてまだ、やるべきことは残っている。

 私が今すべきなのはこの人の考えを見抜くことより、為すべきことを為すために行動するのみだ。

 

 そう思い至り、未だに口の端を上げ続けている相手の顔を改めて真っすぐ見つめ口を開く。

 

 

 

「張さん。あの──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ──コーサ・ノストラの事務所から帰って一通り話した後、私は隠れ家の寝室で一夜を過ごした。

 張さんもそのままこの家で一夜を過ごそうとしたのだが、車で待っていた彪さんが呼びに来た時にその計画を止められ渋々と帰っていった。

 

 

 寝室のベッドもやはり大きく一人で寝るには広すぎてあまり落ち着かなかったのだが、高級ベッドの性能に負け、横になってから1時間もした頃にはぐっすり眠っていた。

 

 

 そして先ほど、朝の陽ざしがまだ窓に入ってくる前の時間に目が覚めた。

 朝の五時半を差す時計を一瞥し、これもまた広い洗面所に向かい顔を片手で洗う。

 

 いつもよりやりにくいので少し手間取ってしまったが、水を顔につけ頭を冴えさせる。

 

 今日はあの男がやらかした後始末を終わらせる。

 それが終われば、腕が治るまでしばしの休息だ。

 

 二度寝をする気分ではないので、私はリビングに向かいながらしばらく何をして時間を潰そうかと考えた。

 

 

 

 

 

 ──そして、午前十時半を回るころ。

 なにやら部屋の外から物音が近づいてきた。

 

 そろそろ時間かとソファから腰を上げ、持ってきている紙袋を手に持ったと同時にドアがノックされる。

 

「ラグーン商会だ。迎えに来たぜキキョウ」

 

 久々に聞くラグーン商会の社長である男性の声を聞きドアを開ける。

 

「わざわざありがとうございますダッチさん。例の物はちゃんと受け取りましたか?」

 

「ああ、何事もなく完璧だよ」

 

「ならよかったです。それがなくては始まりませんから」

 

 そう、この運び屋と“あれ”がなくては何もできない。

 とりあえず滞りなく用意できたのかと安堵する。

 

「仕事はスマートにってな。……それにしても、酷い姿だなおい」

 

 ダッチさんは口の端を上げながら自慢げに言った後、今度は私の顔と腕を見て感想を言ってきた。それにどういう顔をすればいいのか分からず苦笑してしまう。

 

「あはは……ほんと、見苦しい姿で」

 

「ま、殺されなかっただけ幸運の女神が微笑んでたとでも思っとけ。あんたの場合は中国のマフィア男だったわけだが」

 

「あはは……」

 

 

 言葉だけ聞くと碌なもんじゃないと思うのはきっと気のせいではない。

 真反対にも程がある。

 

 私は乾いた笑いをしながらダッチさんとともに部屋を出て、もう一人の運び屋が待っている車に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──なんで一発ぐらい殴ってやらなかったんだよ。それはあまりにも甘いんじゃねえのか? 蜂蜜に砂糖を混ぜたものを直で飲むくらいにな。聞いてるだけで胸やけしそうだ」

 

「レヴィ、私の拳で殴っても痛くないよ。それにあの男をどうにかするのは張さんの仕事だったし」

 

「だとしてもだ。商売道具の腕をやられて何もしないってのはどうかしてるぜ。アタシだったらその場で弾ぶっ放す」

 

「レヴィらしいね。けど、こっちから相手の喜ぶことをわざわざする必要はどこにもないでしょ。嫌いな相手なら尚更」

 

「そういうもんかねえ」

 

「盛り上がってるところ悪いがそろそろ着くぜお二人さん」

 

 荷物を運ぶ用の少し大きめの車に揺られること10分。

 

 その間、外で待っていたレヴィから「どうしたんだその面。でかい蜂に刺されでもしたか?」と顔を見るなり言われ、目的地に着くまでの暇つぶしとして事の顛末を話していた。

 

 話を聞いたレヴィは「で、あんたはちゃんとお返ししたのか?」と聞かれノーと答えたところさっきの会話が始まり、キリのいいところでダッチさんが目的地に着くことを告げた。

 

 その言葉通り、すぐに一見小さな倉庫のようなコンクリートの建物の前に止まる。

 建物の周りには黒いスーツに身を包んだ男たちが数人と、大きいドアの前には彪さんが立っており私たちを出迎えてくれた。

 

 紙袋を持って車から降り、真っすぐ彪さんのもとに向かい挨拶を交わそうと口を開く。

 

「彪さんすみません、今日も付き合わせてしまって」

 

「ただの引き渡しだろ? 昨日よりは楽なもんさ」

 

「そうかもしれませんね。……早速ですが見せてもらってもいいですか?」

 

「ああ」

 

 そう言って周りの人に合図を送り、大きいドアを開けると中から冷気が飛び出した。

 冷気で満たされている倉庫の真ん中には、ビニールシートの上に白い布を被せたものが置かれてある。

 

 

 

 私は“それ”に一歩、また一歩と近づく。

 

 

 

「一応、確認する前にこれ嵌めておけ」

 

 彪さんが後ろから声をかけて差し出してきたのは白い手袋だった。

 それを受け取りなんとか右手に嵌めてから“それ”の目の前まで歩き、白い布を手に取りずらす。

 

 

 

 

 ずらしたことで露になった“それ”に向かって私は手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

「ごめんねアンナ、少し遅くなった」

 

 

 

 

 

 

 

 そう、これが私のすべきことの一つ。

 アンナの遺体にエンディングドレスを着せること。そして、着せた後はあるべきところで眠ってもらう。

 

 眉間には弾を撃ち込まれたような穴が一つ空いていたが、なぜか顔は綺麗に拭かれており汚れ一つもない。そんなアンナの顔は口の端を少し上げているようにも見える。

 

 

 こんな時まで笑っていられるとは流石というべきか。

 

 

 そう思いながら目線を彪さんに移し声をかけた。

 

「今からアンナを着替えさせます。レヴィ、ちょっと手伝ってくれる?」

 

「あ? なんでアタシが」

 

「金額上乗せしてあげるから、お願い」

 

「……はあ」

 

 レヴィは私の頼みごとに渋々ながらも頷いてくれた。

 そして、いつのまにか周りに立っている他の人たちにも声をかける。

 

「男性の皆さんはすこし目線を外してください」

 

「見られたら何かまずいことでもあるのか?」

 

 彪さんは訝し気にそう聞いてきた。

 

 

 まずいこと? 当たり前だろう。

 

 

 

「レディは着替えを殿方に見られたくないものですよ」

 

 

 

 死んで動かなくなったとしても勝手に全裸を見られるのは嫌だろう。

 ……まあアンナなら別にいいとか言いそうだが、本人はもう口をきけないのでこれは私なりの気遣いでやっていることだ。

 

 私がそういった瞬間、すぐ近くで疑問の声が上がった。

 

「……キキョウ、お前これ死体だぞ? そんな気遣い無用だぜ」

 

 レヴィは解せないという顔をしている。

 それもそうだ。こんな街で死体に気にかける人間のほうがおかしい。

 だからこそ、張さんだってこのことを私の我儘だと言っている。

 

 

 それでもあの人がこのどうしようもない我儘を聞いてくれたのは──

 

 

 

「レヴィの言う通りかもね。でも、こんな状態であっても私の客だから気遣うのは当然のことだよ」

 

「はあ?」

 

 

 

 私の仕事の一つとして扱ってくれているからだ。

 私だってあの時イエローフラッグでアンナが頼んでいなければこんなことはしていない。

 

 

 いくら友人といえど、この街でわざわざ死体を綺麗に着飾る手間をかけるのは無駄なこと。

 

 

 だが、仕事であれば話は別だ。

 

 ……決して正式な依頼ではなかったけれど、どんな時でも私がその依頼を受けたいと思った以上はそれが仕事になる。

 

「エンディングドレスはあの世へ行くための最期の衣装。それを作ってほしいって頼んだのは紛れもないアンナなの。──このドレスを着せるまで、そしてその客を気遣うのも私の仕事のうち」

 

「……分かったよ。あんたがこれを“仕事”っていうんなら何も言わねえ」

 

「ありがとう。……彪さん」

 

 未だにこちらに向いている彪さんに目線を外すよう声をかける。

 私の声を聞き、ため息をつきながら後ろを向いてくれた。

 

 恐らくこの街で私が作った最初で最後のエンディングドレス。

 それを冷たくなった友人の体に纏わせていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──アンナの死を知らされてから、すぐさま二つの連絡先に電話していた。

 一つはラグーン商会。もう一つはリップオフ教会だ。

 

 ラグーン商会にはアンナの遺体運びと後で追加したヴェスティの服の運び出し。

 教会にはアンナの遺体用に棺を一つ頼んでいた。

 

 腐っても教会。棺くらいあるだろうと思い連絡を取ってみれば、考えは当たっていたようですぐ用意すると言ってくれた。

「お礼はアタシの茶の相手をしてくれればいいさね」と言ってくれてはいるがそれだけではなんだか申し訳ないので、今度行くときは少しばかりの礼金を持っていこうと密かに決めている。

 

 

 ラグーン商会に電話した時はダッチさんが「あんたから仕事をもらうなんて思ってなかった」と言いつつも快く依頼を受けてくれた。

 そのあとエンディングドレスを作っている最中に前金として5万ドル受け取りに来てもらった。

 

 そして、昨日。張さんが帰った後隠れ家の電話を借りて夜遅くではあったが再度連絡を取り、服の運び出しを頼んだ。

 急な追加だったにも関わらず「遺体運びだけであんなに払ってくれたんだ、別にそれくらい構わねえよ」と別料金はいらないと寛大な心で受けてくれた。

 

 そんな特急で用意してくれた黒い棺の中にエンディングドレスに身を包んだアンナを寝かせ、再び車に棺を戻す。

 

 その作業を終え、彪さんに改めてお礼を告げ次の場所に向かう。

 

 

 

 

 そうして、車に揺られること二十分。

 コーサ・ノストラの事務所の近辺にあるヴェスティの家。

 

 辿り着くと、やはり周りには複数のイタリア人が見張っていた。

 

 車からでてきた私を見たイタリア人は怪訝そうに睨んでいたが、隠れ家を出る前に事前にヴェロッキオさんへ連絡してたのが功を奏し、名前を告げるとすんなりと通してくれた。

「あんたが求めてるのは一番奥の部屋にある」とご丁寧に服の場所も説明してもらいドアを開ける。

 

 中へ入ってみると、どうやらいい生活をしていたようでソファやテーブルなどの家具はどれも高級そうなもので揃えられていた。

 

 これを見る限りでは、あの男は『高級なもの』が好きだっただけなのではないかと思ってしまう。だから春さん……師の服を集めていたのだろうか。

 

 

 

 まさかまた、ここまでイライラさせられるとは思わなかった。

 ため息が出そうになるのを我慢していると、一緒に着いてきているダッチさんに声をかけられた。

 

 

「あんたがそんな顔をするとはな、こりゃ驚きだ」

 

「え?」

 

「顔に出てるぜ、“クソむかつく”ってな」

 

「……そんなに分かりやすかったですか?」

 

「ま、気持ちは分からんでもないがな。さあ、とっととこの趣味悪い家から立ち去ろう」

 

 ダッチさんはそう呟きながら奥に一つだけぽつんと存在しているドアに向かっていったので、私も後を着いていく。

 

 鍵はかかっておらず、そのままドアノブに手をかけ中の様子を見る。

 昼間だというのに薄暗くよく見えないので、部屋の真ん中にある上から垂れ下がっている紐を引っ張る。

 

 電気がつき明るくなった部屋には、数種類の服が丁寧に収納されていた。

 

 その中にあるロングドレスを一つ手に取り端から端まで観察し一瞬で理解した。

 

 

 

 

 

 ──ああ、これはあの人の作った服だ。

 

 

 

 久しぶりに見る師が作った服。

 いつ作ったのかは分からないが手入れはされているようで、まるで最近作ったように見えてしまう。

 

 

 そこには私がかつて教えられた技術がふんだんに使われていた。

 

 

 あの人は淡い色を好んで使う人だったのだが、随分派手なオレンジ色の生地を使っていた。

 ただ派手ではなく、ところどころ薄い色を入れることによってまたその色の良さが引き立っている。

 

 それだけじゃない。

 

 

 基本ドレスにファスナーをつける場合は後ろにつけるのだが、恐らく依頼人が着やすいドレスをと頼んだのか腹部の横に入っている。

 ファスナーが目立たないよう薄いレースでうまく隠しており、それもまた自然な装飾となっていた。

 

 こんな素晴らしい服を作るあの人の腕にはきっと一生辿り着けない。

 やはり私は一流には程遠い。これからも研鑽を積まなければ。

 

 そう再認識させるほどの逸品だった。

 

 あの高級品が好きな男が求めるのも無理はない。

 

 部屋をもう一度見渡すとドレスだけではなく男物のスーツ、ワンピース、そして子供用のドレスやスーツまであった。

 

 子供用の小さく薄いピンクと白で作られたドレスを手に取ると、裾に少量の血が着いていることに気が付いた。

 こればかりは手入れのしようがなかったらしく、そのまま放置しているようで色褪せている。

 

 

 

 この服の様子からして、あの男がやってきたことが本当のことであれば子供にまで手を出したことになる。

 

 確かにこの服も素晴らしい逸品だ。

 だが、子供から無理やり奪い取った行動には虫唾が走る。

 

 やはりあいつは私の師を侮辱している。

 子供に手を出したことよりも、私は何よりそれが許せない。

 

 そんなことを思う私はやはり自分のことしか考えていないのだと自嘲する。

 

 

 

 心の中でそう思っていると、後ろでダッチさんが「どうすんだ」と声をかけてきた。

 

 私としたことが少し感傷に浸りすぎた。

 ここに来たのは回収するためだ。物思いに耽ることじゃない。

 たまっていた息を吐き出しダッチさんに向かって声をかける。

 

「すみませんダッチさん。早く回収してここを出ましょう」

 

「分かった。これくらいならすぐ終わるだろ」

 

 そう言うと、足を動かし「箱取ってくる」と告げながら部屋を出て行った。

 一人残された私は、改めて部屋にある服を見渡す。

 

 

 

 

 

 

 ──春さん。あなたが作った服は、私が責任もって処分します。

 

 

 

 

 目を閉じ心の中で唱え、師の優しい顔を瞼の裏に思い浮かばせる。

 ラグーン商会が慌ただしく入ってくる時まで、私はその姿勢を崩すことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──お前それにしてもよく生きてられたよな。コーサ・ノストラ相手に交渉するなんてよ」

 

 

 ヴェスティの家から服をすべて運び出し車に乗せた後、そのままラグーン商会が使っている船に直行した。

 そこにアンナが眠っている棺と服が入っている箱を積み上げ、海の真ん中へと向かう。

 

 

 “邪魔さえしなければ別にいい”と特別に同行することに許可をもらい、私も乗り込み今は船の密室で揺られながらレヴィと話を弾ませている。

 

 

「ヴェロッキオさんが意外と話を聞いてくれる人だったってだけだよ。まあ、正直殺されるかと思ったけどね」

 

「張の旦那にバラライカの姉御、加えてヴェロッキオときた。ほんとお前どんなテク使ったんだよ」

 

「だから話しただけだって」

 

「話だけで丸く収まるなら誰も殺されてねえよ」

 

 そんなこと言われても本当に話をしただけなのだが。

 いやヴェロッキオさんの時はちゃんと金を用意したが、ただそれだけだ。

 

 だから私にもなんであの人たちが私の話を聞いてくれるのかは分からない。

 まあ、半分あの人たちの気まぐれというのもあるのだろうが……。

 

 頭を捻り考えてみるが、これといって特に思いつくものはない。

 

 そんなことを考えていると、部屋のドアが開きダッチさんが姿を見せた。

 

「着いたぜキキョウ。レヴィ、とっとと終わらせるぞ」

 

「あいよボス。──こっちだ」

 

 どうやら目的地にたどり着いたらしい。

 レヴィの声掛けに従い、私は二人の後を着いていく。

 

 

 

 甲板に出てみれば、太陽が照りつけキラキラと輝いている綺麗な海が目の前に広がった。

 久しぶりに浴びる潮風。少し強く吹いているがそれがまた心地いい。

 

 

「キキョウ、ほんとにここでいいんだな?」

 

 

 ダッチさんが最終確認と言わんばかりに尋ねてきた。

 

 

 

 そう、この海の真ん中。

 

 

 人の喧騒からかけ離れたこの場所でアンナと師の服に眠ってもらうことにしたのだ。

 

 

 

 師の服を私が勝手に燃やすわけにもいかずどうしようかと思っていた時に、いつだったかアンナとの会話の中で『もし骨を埋めるとしたら一人でゆっくり過ごせる場所がいい』と言っていたことがあるのを思い出しこの結論に至った。

 

 

 

 下を見てみると底が見えない程深い。

 ここなら誰にも掘り返されることもない。眠ってもらうには最適な場所だろう。

 

 

 私は深く息を吸ってから、返答を待っている船長に声をかける。

 

 

「はい。では、よろしくお願いします」

 

「オーライ」

 

 私の言葉を聞き短く返事をすると、甲板の上に予め置いていた棺に被せているビニールシートを外し、レヴィと二人で運び始めた。

 

 

 

 

 そして、二人の手から棺が離され海の底へと沈む様子を何も言わず見守る。

 

 

 

 最期に何か一言添えるべきだったのだろうが、もう私にはアンナと話すことは何もない。

 

 

 私は希望通りエンディングドレスを作り、アンナはそれを身に纏った。

 

 

 

 

 

 

 

 それで十分。

 

 

 

 

 

「おい、これも全部ここでいいのか?」

 

 そんなことを考えボーっとしていると、今度はレヴィが尋ねてきた。

 親指で差しているのは師の服が入っている鉄の箱5つ。

 

 

 箱の山を一瞥し、無言で首を縦に振ると二人は次々と海の中へと投げ込んでいった。

 

 

 最後の一つが海の底へと沈み、目では確認できなくなるまで沈む様子を再び黙って見届ける。

 

 

 

「これで仕事は終わりだ。船を動かすぞ」

 

 ダッチさんがそう言い放った途端、一際強い風が吹き髪が乱れた。

 髪を抑え、太陽が照りつける海の果てを眺めてから中へと戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠い水平線の向こう側にある故郷で死んだ師と、今生きている場所の日常の一つのように死んでいった友人。

 

 

 

 

 

 二人の顔を思い浮かべたがすぐに消し去り、喧騒が鳴り響くあの街へと引き返した。

 

 

 

 




アンナ、どうか海の底で安らかに。


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48 往時渺茫の夢

※注意※
若干の鬱要素あり。






 アンナと師の服を海の底へ葬った後、再びロアナプラまでレヴィと密室で揺られていた。

 

 ただ、意外と疲れが溜まっていたようで瞼が重く会話をする元気がでない。

 気を抜けばそのまま眠りについてしまいそうだ。

 

 そんな私の様子を見かねたレヴィの「着いたら起こす」という言葉に甘え、瞼を閉じ、壁に背を預けて短い眠りにつく。

 

 

 

 

 

「──い、おい。着いたぜ、起きろ」

 

「……ん」

 

 何分経ったかは分からないが街に着いたらしく、レヴィが肩を揺らしたことで私の意識は眠りから戻った。

 少し寝たせいか体が重く思うように動かない。

 

 それでもなんとか体に鞭を打って立ち上がり、外に出ようとその場から足を動かす。

 

 レヴィの後を着いていき甲板に出ると、ダッチさんがこちらに背を向け煙草を吸いながら立っていた。

 改めて礼を言おうとその背中に声をかける。

 

「ダッチさん、おかげですべて滞りなく終わりました。急な追加だったにも関わらず本当にありがとうございました」

 

「堅苦しいぜキキョウ。こんな簡単な仕事に五万ドルも落としてくれたんだ、文句はねえ。なによりあんたみたいに羽振りがよくて裏もない人間は珍しい。これからも仲良くやっていきたいもんだ」

 

「そうですね。では、また何かあったときは遠慮なく頼みます。次依頼するのはいつになるか分かりませんが」

 

「ああ、これからもぜひご贔屓にってな。記念にこれから一杯誘いたいところだが……あんたにお迎えが来てるぜ」

 

「え?」

 

 お迎え? 私を迎えに来てくれる人はいないはずなのだが、見間違いではないだろうか。

 首を傾げつつダッチさんが向いている方向へ目をやる。

 

 停まっている船の横には桟橋があり、それを目線で辿った先にここには来るとは思っていなかった人物。

 

 

 黒塗りの高級車を背後に、白いストールを首にかけ黒いロングコートを靡かせながらその人はこっちを向いていた。

 

 

「……なんであの人がここにいるんですかね」

 

「さあな。ただ、早く行ってくれねえと俺が睨まれちまう」

 

 だからさっさと降りてくれ。という言葉が後ろに続き、私は困った顔をしていたように思う。

 とりあえず船から降りようと未だに重い足を動かしたとき、レヴィに「また今度一杯やろうぜ」と声をかけられ「そうだね」と微笑みながら返し甲板を降りる。

 

 

 桟橋を渡り、ここにいるはずのないその人の近くまで歩みを進めると声をかけられた。

 

 

「やるべきことは終わったのか?」

 

「はい。……どうして貴方がここに?」

 

「姫を迎えに行くのは騎士の役目だろう? ま、姫というにはちとボロい姿だがな」

 

「なら騎士らしくもっと綺麗な姫のために動くべきでは?」

 

「騎士にも選ぶ権利はあるんだぜ。俺はお前の迎えなら喜んで動くぞ?」

 

「心にもないこと言わないでください」

 

「嘘はついていないんだがな。……ひとまず帰るぞ、ここじゃ落ち着いて話もできん」

 

 いつものようにどう反応したらいいか分からない冗談を言い終えると、いつのまにか車の外に出ていた彪さんがドアを開けそこに張さんが乗り込んだ。

 

 にも関わらずドアを閉めようともせず、彪さんはこっちを見てくる。

 

 

 ……まさか本当に私を迎えに来たのだろうか。

 いや、そんなことあるはずがない。この人はマフィアのボスだ、そんなことでわざわざ動く理由がないだろうし。

 

 そんなことを思っていると「早く乗れ、潮風がきつい」と車の中から催促がかかった。

 

 

 先ほどの眠りからちゃんと目覚めていないのか上手く頭が動かせない。

 

 

 それもあって色々考えていたことを放棄し“失礼します”と一言断るのを忘れず素直に車に乗る。

 

 ドアを閉めると彪さんは運転席に座り、そこからすぐ車のエンジンがかかるとラグーン商会の船が早くも遠くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 車に揺られ二十分ほど経っただろうか。

 その間はほとんど誰も言葉を発さず、沈黙が大半を占めていた。

 

 一回だけ私が「煙草吸わないんですか?」と尋ねると「お前の前では吸わないことにしてる。匂いが着いたら職業柄大変だろうからな」と返された。

 だが、ここは張さんの車の中なので今度は私が気を遣う番だと思い「私の家で吸わなければ問題ありませんよ。ですからお気になさらず」と返答する。張さんはその言葉を聞いて「そうか、なら着いた後に隣で吸わせてもらうさ」とだけ言って吸うことはなかった。

 

 

 それが最後の会話だ。

 

 

 

 やはり眠気が抜けきっていないのか体と頭が重い。

 そのせいもあって喋る元気がなかった。

 

 私は窓の外に目をやり、過ぎ去る街の景色を眺めながら隠れ家までの道中を過ごした。

 

 

 そして今、目的地である隠れ家に着き車が止まる。

 

 張さん側のドアが開き、先に降りるのを確認してから私も自らドアを開け外に出る。

 外の空気を肺に入れ深呼吸し、隠れ家の中へ入る張さんの後についていこうと足を動かす。

 

 

 

 

 その時、視界がぐらりと揺れた。

 

 

 

 

 

 思考がままならない頭では何が起きたか分からず戸惑ったが、なんとかその場から動き張さんの背を追う。

 だが、動けば動くほど目の前が更にぐにゃりと歪み平衡感覚がなくなっていく。

 

 

 歩みはどんどん遅くなり、ついには止まってしまった。

 

 そんな私を見かねた張さんが振り返り呼びかける。

 

「キキョウ?」

 

 近くにいるはずなのにどこか遠くから聞こえるその声に、踏ん張って重い足を上げ一歩進もうとした瞬間。

 とうとう足がもつれてしまい重力に逆らうことなく体は地面に引き寄せられる。

 

 

 あ、と思った時には遅く、受け身をとる態勢がとれない。

 

 

 このまま思い切りぶつけるかと思ったが、私の体は地面に打ち付けられることはなかった。

 

 

 

 

 代わりに感じたのは武骨な手の感触と、煙草の匂い。

 

 

 

 

「まったく、こうなるまで気が付かなかったのか?」

 

 

 朦朧とする意識の中で、誰かが私の体を受け止めていると理解した。

 何をしているんだ私は。こんなところで倒れたら迷惑がかかるだけだ。

 

 僅かに残っている思考回路で咄嗟にそう思い、受け止めてくれている誰かにいつもより調子の悪い声で言葉をかける。

 

「すみ、ません。大丈夫、ですから……」

 

 なんとか立ち上がろうと力を入れようとするが体が言うことを聞かない。

 何でもいいから早く動け、と念じても無情に指一本動かすことができなかった。

 

 諦めずにもう一回体を動かそうと力を入れようとした時、急な浮遊感に驚き思考が止まる。

 一体何が起きているのだろうか。

 

「今は何も考えるな」

 

 すぐ近くで声がする。

 歪む視界の中で誰かがこちらを見ていることに気づいたが、はっきりと顔を見ることができなかった。

 

 最早なにも考えられない。再び重くなった瞼を閉じ、視界から光を遮る。

 ゆらゆらと揺れている体を動かすことを放棄しその言葉通り考えることをやめた。

 

 

 

「弱ってるお前もたまにはいいな」という声を遠くで聞きながら私は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

『──お願いします! もうこの子には手を出さないでください!』

 

 

 

 声が聞こえる。

 とても、懐かしい声。

 

 

 

 誰の声だったか。

 

 

 

 その声がする方向に目を向けると、綺麗な女の人が小さな女の子を抱きしめている。

 そして、それを冷たい目で見下ろす一人の男。

 

 

 

 

 

 これは……なんだ。

 

 

 

 

 

 

『お前はちゃんと母親だな。だが、俺の妻としては失格だ。どけ』

 

『お願いします! もうやめてください!』

 

『どけ』

 

『母さん!』

 

 女の人が男にぶたれ倒れてしまう。

 

 

 

 

 そうか、これはあの時の……。

 

 

 

 ああ、だめだ。これ以上は。

 

 

 

 

 次の瞬間、男が女の子に向かって拳を振り下ろす。

 

 

 女の子は叫びながら必死に抵抗する。

 

『なんで! あんたはいつもそうやって! どうして母さんを!!』

 

 

 なんで、どうしてと泣き叫ぶ女の子は腕を折られ悲痛な叫びをあげる。

 痛みで抵抗しなくなった女の子を男は無言で殴り続けた。

 

 

 

 

 

 ……そうだ、それでいい。そのままその女の子を

 

 

 

 

『逃げなさい!』

 

 

 

 その声とともに女の人は、女の子から男を引きはがして必死に止めていた。

 女の子は困惑し微動だにしない。

 

 

 

 ダメだ、ここで逃げるな。逃げたら君は後悔する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 君がその人を逃がさなければいけないのだ。

 

 

 

 

 

 

『逃げなさい“  ”!』

 

 

 

 

 最後は何て言ったのか聞き取れなかった。

 

 そして女の子はその声に反応し走り出してしまう。

 

 

 

 

 

 ……待ってダメ。

 

 

 

 

 

 

 

 お願い待って。ダメだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ダメだダメだダメだッ! お願い! 行かないで! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠くを行く女の子を止めようと後を追う。

 

 

 

 

 

 

 

 君が逃げたら誰が! このままだとあの人は……!

 

 

 

 

 お願い待って! 止まって!! 

 

 

 

 

 

 

 

 必死に大声で声をかけてもますますその姿は遠のいてしまう。

 それでも追うことをやめられず、ただ走り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──走り続けているといつの間にか景色が変わっており、どこだろうかとあたりを見渡す。

 

 

 

 

 

 

 そこは、また懐かしい場所。裁縫道具と布に囲まれている部屋。

 

 

 

 

 

 

 そういえばあの人は……

 辺りを見渡し、後ろにあの女の人がいたことに安堵する。

 

 

 

 ちゃんと逃げれたのか、よかった。

 

 

 

 

 そう思ったのは一瞬で、視界に入った顔はあの人ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔はよく似ている。だが別人だ。

 黒く腰まである髪。無表情で虚ろな目をして女の人は裁ちばさみを持っている。

 

 

『“  ”、遅いぞ。茶はいらないから早く話をしよう』

 

 

 遠くから呼び掛けるその声は、さっきまで女の人と女の子を殴っていた男の声。

 

 

 

 

 その声が聞こえてきた方へ目の前の女の人は歩みを進める。

 

 

 私は地に根が張ったように足を動かすことができず、ただその後姿を見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 映画が流れているように見せられたそれは、未だに脳裏に焼き付いて離れないかつての日々。

 

 

 

 ずっと目を背けていたいその景色を見たせいか背中と右腕が痛みだす。今そこは怪我していないはずなのに。

 

 

 

 

 痛みがどんどん増してくる。

 

 

 

 痛い……熱い……。

 

 

 

 痛みで息がうまくできずうずくまる。

 

 追い打ちをかけるように、火を押し付けられているような熱さが背中に何回も刺さる。

 

 

 

 痛い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛い痛い痛い痛い──

 

 

 

 

 

 

 

 いつになったらこの痛みは、熱さは収まる。

 

 

 

 

 もうやめて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛い。もう、嫌だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──キ──ウ』

 

 

 

 

 

 

 

 また声が聞こえる。もう一回あの画を見なければならないのか。

 はたまた別の画なのか。

 

 

 

 

 

『──キ──キョ』

 

 

 

 だが画は始まることもなく、何を言っているか分からない声がまた響く。

 

 

 

 

 なんだろうか。よく聞こえない。

 

 

 

 

『──キキョウ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “キキョウ”

 

 

 

 

 

 

 

 あの悪徳の街での私の名前。

 あの人が『いい名だ』と言ってくれた名前。

 

 

 

 誰かが呼んでいる。行かなきゃ。

 

 すぐ、そっちに行くから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──右の頬に冷たさを感じ、意識が底から戻ってくる。

 

 瞼を開け、目の前に広がるのは見たことのない白い天井。

 

 ここは、どこだろうか。

 

 

 

「キキョウ」

 

 

 先ほど聞こえてきた声が上から降ってくる。

 今度ははっきりと近くで聞こえるその声の方に目を向けると、こちらを見ている張さんがいた。

 

 体が熱い。

 おかげで目が潤んでしまっていて表情がはっきり見えない。

 

 おまけに喉が渇いているせいか声が出しにくい。それでもなんとかか細い声で呼びかける。

 

「張、さん……?」

 

「起きたか」

 

「……ここは」

 

「隠れ家の寝室だ」

 

 

 寝室。

 さっきまで私は外にいたはずだ。どうしてベッドで寝ているのだろうか。

 

 

 未だにうまく回らない頭で覚えている限りの記憶を辿る。

 

 

 

 

 ……ああそうだ、急に体が重くなって倒れたんだった。

 そしてそのまま誰かに受け止められたような。そこはあまり覚えていない。

 

 受け止めてくれた人物を思い出そうとしていた時、再び上から声が降ってくる。

 

「お前、普段ちゃんと食ってるのか?」

 

「……はい?」

 

「まさかあそこまで軽いとは思わなかったぞ」

 

 

 

 

 待て、ちょっと待て。

 この言い方だとまるでこの人が運んだみたいじゃないか。

 

 

 これ以上この人に迷惑をかけるわけにはいかないのに、そんなことをさせたのなら土下座だけじゃ済まされない。

 

 

 

 ……いや、まだそう決まったわけじゃない。だが念のため確認しなければ。

 

「張、さん。私をここまで、運んでくださったのは……」

 

 

 乾いている喉からまたか細い声を出し、恐る恐る疑問を投げかける。

 すると一呼吸間を空けてから上機嫌な声で答えが返ってきた。

 

 

「運ぶのには苦労しなかったな」

 

「……」

 

 

 

 

 土下座しよう。

 

 

 

 忙しい中私の身勝手な我儘を聞いてくれただけでなく迎えにまで来てくれた。

 そんな人に更に迷惑をかけたならちゃんと謝罪しなければ。

 

 折られた腕の方は包帯が外されているが、ギプスはそのままのためいつもより動きづらい。それに構わず起き上がろうと重い体に力を入れモゾモゾと動く。

 それを見かねた張さんが「おいおい、無理に動くな」と諫めてきたが、その声を聞き入れることなく動き続けなんとか上半身を起こすことができた。

 

 

 その瞬間、再び視界が歪み頭がくらくらし始めた。

 

 今度は手で体を支えたおかげで倒れることはなく、そのままの体勢を保ち眩暈が収まるのを待つ。

 

 

 

 動かなくなった私に、また張さんが声をかけてくる。

 

「何をしようとしてるのか知らんが、今はとりあえず寝てろ」

 

「……貴方に迷惑、をかけたのに、寝るわけには」

 

「はあ」

 

 私の言葉を聞いてため息をついたかと思うと、息を吸う度走った後のように上下している肩を掴んできた。

 

 

 驚いたのも束の間。後頭部に手が添えられ、そのまま抵抗できる間もなく後ろに押し倒される。

 不思議と衝撃を感じることなく、静かに体がベッドに沈む。

 

 

 

 

 歪んだ視界がはっきりし始めると目と鼻の先に張さんの顔があり、体の上に覆いかぶさられている状態だと気づいた。

 

 

 

 どうしてこうなっているのか分からず戸惑っている間に、かけていたサングラスを外し普段からは想像もつかない愛嬌のある顔を露にして言葉を発する。

 

「俺はお前の我儘を聞いた。なら、今度は俺の言うことを聞いてもらいたいもんだなキキョウ」

 

「……しかし」

 

「だってもしかしもない。──迷惑だと思ってるなら早く治して一杯付き合え。謝罪なんかよりそっちの方が断然いい」

 

「……」

 

 きっとこの人は私が何をやろうとしたのか分かっているのだろう。

 そうでなければこんなこと言うわけがない。

 

 

「その時に粧しこんでくれれば尚嬉しいね」

 

「……粧しこんでも、何も変わりませんよ?」

 

「俺のために手間暇かけたっていうのがいいんだよ。普段着飾らないお前が、な」

 

「あまり期待、しないで、くださいね」

 

 息苦しく言葉が途切れ途切れになってしまう。

 それでも心はさっきよりも穏やかになっていて、この会話が心地いいとさえ思っている。

 

 

 

 私の言葉に満足げに口の端を上げながら熱くなった右頬に触れてきた。

 その手の冷たさがまた心地いい。

 

「お前こそあまり俺を焦らさないでくれよ? ──ああ、早く着飾ったお前を拝みたいな」

 

 そう言いながらも頬を撫で続けているので、『この人は頬を撫でるのが好きなのだろうか?』と

 不思議に思ったが抵抗する力もないので特に何も言わず、心地よい手の冷たさに酔いしれようとした。

 

 

 のだが、次の瞬間飛んできた声でそれは叶わなかった。

 

「なら病人相手に口説くのをやめたらどうですか張大哥。それとも、無抵抗な女の子を無理やり犯すのがご趣味で?」

 

「お前の患者の状態をこれ以上悪化させないようにしただけだ。そう怒るな」

 

「どうだか。貴方だったら面白そうとかいってやりかねませんからね」

 

「手厳しいな。……ま、弱ってるところにつけこむのも悪くはないが」

 

 上に覆いかぶさっていた体が動き、右頬から手が離れる。サイドテーブルの上に置いていた自身のサングラスをかけ「そんなのはつまらん」と言葉を続けてベッドから腰を上げた。

 

「もしやるならアタシの目の届かないところでお願いしますね。……キキョウちゃん、体調はどう?」

 

「リン、さん?」

 

 私の目に入ってきたのは、昨日顔と腕に治療を施してくれたリンさんだった。

 リンさんは私の顔を見て「意識はしっかりしてるわね」と呟いた後、すぐ張さんに声をかけた。

 

「大哥、後はアタシが」

 

「ああ。──じゃ、キキョウ。ちゃんとそいつの言うこと聞くんだぞ」

 

 そう言い残し近くの椅子に掛けているロングコートを手に取り羽織ると、そのまま部屋を出て行ってしまった。私はその背中に声をかけようとしたがすぐ見えなくなってしまう。

 

 

 せめて、お礼ぐらい言いたかった。

 

 

 

「とりあえず水飲みましょうか。はい、口開けて」

 

 寝っ転がったまま微動だにしない私に、リンさんは病院とかでよく目にする吸い飲みを差し出してきた。

 

 

 そろそろと吸い口部分を口に含み、乾いている喉に水を流しこむ。

 

「倒れたのは疲労と怪我による体力消耗が原因よ。いわゆる発熱。ちゃんと薬飲んで寝とけば治るから、それまでは絶対安静。分かった?」

 

「……はい」

 

 熱を出すなんて何年ぶりだろうか。久しぶりすぎて感覚を忘れていた。

 

「次は汗拭きましょ。起き上がれる?」

 

 

 

 その言葉になんとか体に力を入れ動こうとしたが上手くいかない。

 私の様子を見かねたリンさんが後頭部と背中に手を添えて起き上がるのを手伝ってくれた。

 

 床に足をつけ、ベッドの端に座っている形になる。

 この動作だけでも一苦労だ。

 

 

 

「はい、じゃ服脱ぎましょ」

 

「え」

 

「脱がないと拭けないでしょ? それにそんな汗が染みこんだ服をいつまでも着るわけにいかないし」

 

 

 

 これは困った。服を脱ぐということは肌を見られるということだ。

 そしてきっと“背中”も見られる。他は別にいい、ただ背中だけは見られたくない。

 

 

 これは私の我儘だということも分かってる。だが、どうしてもそれだけは避けたかった。

 

 

「あの、自分で拭きますので」

 

「はあ? 何言ってるの、起き上がるのさえ自力でできないのに無理よ。それに片腕でできるとは思えない。何、見られたくないものでもあるの?」

 

「……」

 

 リンさんの一言に言葉が詰まる。

 

「でもダメよ、あなたはアタシの患者。医者の言うことに従ってもらうわ。はい万歳」

 

「ちょ……!」

 

 有無を言わさず服を脱がされそうになる。わずかな力で抵抗しようとしても意味をなさず、そのままTシャツを脱がされ上半身は下着姿になった。熱くなった体が外気に触れて少し寒気を感じる。

 

「あら、別に変なところないじゃない。じゃ、下着も脱がすわね」

 

「……」

 

 リンさんがブラを外そうとしている間、私はどうすれば背中を見られずに済むのか考えていた。だが、思考が回らない頭では考えつくはずもない。

 どこかから持ってきたタオルを手にしながら「拭いていくわね」と上半身の前半分をどんどん拭いていく。

 

 

 どうしようどうしようと焦っている間、前部分が拭き終わってしまい「次背中いくわね」と告げられ反射的にその手を掴んでしまった。

 

 リンさんは「これじゃ拭けないわ、離しなさい」と淡々と返してきた。

 

「……」

 

 その言葉に思わず黙っていると、掴んでいる手の上にそっと綺麗な手が乗せられる。

 

「大哥も言ってたでしょ? “言うことを聞け”って。あなたが何を見せたくないのか知らないけど、これはアタシの仕事。だからあなたの我儘は聞かない」

 

 リンさんはそう告げると、無情にも手を振り払い後ろに回る。

 その途端、背中を見たのか動きが止まる。

 

 

 

 ああ、見られたくなかったな。

 

 

 

「……これがあなたの見せたくなかったもの?」

 

「……汚い、でしょう? 子供の頃から、この状態です」

 

 私の背中は無数の火傷痕で埋め尽くされている状態だ。綺麗な部分はどこにもない。

 傷は完全に治っていて痛くはないのだが、痕が消えることはきっと一生ないだろうと諦めている。

 

 

「確かにこれは酷いけど、別に汚いとは思わないわね」

 

「……え?」

 

「ただ単に見慣れているだけかもしれないけど、とにかくアタシは気にしないから。じゃ、拭いていくわね」

 

「……」

 

 

 背中にタオルが触れる。

 瞬間体が強張ったが、優しく汗が拭かれていく感触に段々力が抜けていく。

 

「はい、終わり。とりあえず上に何か着ましょうね」

 

 そう言って部屋の奥にあるタンスからパジャマのような服を取り出すと、そのまま袖に腕を通される。

 

「はい、じゃ体楽にして。そのまま足を拭くから」

 

 リンさんは一言そう告げると衝撃が来ないように後頭部と背中に手を添え、再び私の体は静かにベッドに沈んだ。そしてそのままズボンを脱がし、新しいタオルで黙々と拭き始めた。

 

 やはりリンさんもこの街の住民だからなのか、この程度の痕には驚く様子一つ見せていない。

 詮索することも心配することもなく普通に仕事をこなすその様子に、私は有難さを感じていた。

 

 お礼を言おうと思ったがこの人はただ仕事をしているだけであり、わざわざ自分から話を広げる必要もない。そう思い開いた口を閉じる。

 

 私は黙って、汗ばんだ体がさっぱりしていくのを感じながら目を閉じた。

 そのまま襲ってきた眠気に誘われるがまま意識を手放す。

 

 

 

 

 今度はあの夢を見ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこから三日間、熱が長引いてしまいリンさんに付きっきり面倒を見てもらう事になるとはこの時の私はまだ知らない。









昔の夢を見る→張さんにお姫様抱っこされたのを知る→土下座しなきゃ→押し倒される

熱でてるのに大変だなあキキョウ((





そんなキキョウが何でも答えるコーナーを活動報告にて企画してます。
詳細は活動報告「キキョウが何でも答えるコーナー」にて。


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49 貴方になら……

 ──腕が折られてから一ヵ月。左頬の腫れも引きガーゼはとっくに剥がされ、あとは生活に馴染みつつあったギプスのみとなっていた。

 そして今日、ついに腕を固定していたものが外されいつもより軽くなった左腕を自由に動かしてみる。

 

「痛みはある?」

 

「まったくありません」

 

 左手を握ったり開いたり、腕を曲げてみたりしてみる。久々に動かすためなんだか変な感じだが特に問題はない。そのことに安堵してたまった息を吐く。

 

「ならよかった。今の状態なら帰っても大丈夫よ。大哥には私から伝えとく」

 

「本当にありがとうございました。リンさんのおかげです」

 

「どういたしまして。──じゃ、アタシはこれで。いつかまたゆっくり飲みましょ」

 

「その時は奢らせてくださいね」

 

 この一ヵ月、ずっと面倒を見てくれた医者のリンさんは「楽しみにしてるわ」と言い残して部屋から去っていった。

 腕を折られ高熱を出してしまった時、リンさんの看病のおかげもあって三日後には完全に熱は引いており、自分の家に帰ろうとしたのだがリンさんと張さんの二人に説得された。

 

 

 

 

『──私はもう大丈夫です。だから帰らせてください』

 

『ダメだ。腕が完全に治るまではここにいてもらう』

 

『何でですか』

 

『俺はお前のパトロンだ。なら最後まで世話するのは当然だろ?』

 

『もう十分お世話になりましたし、見ての通り大丈夫ですよ』

 

『キキョウちゃん。キキョウちゃんの大丈夫は大丈夫じゃないからその言葉の信頼度ゼロよ。それにまた無理して動かれたら腕の治りが遅くなる。アタシが面倒見た患者が中途半端な治りだって噂されて信頼が下がるのは避けたいの。だから完治するまで絶対ここにいてもらうわ』

 

『しかし』

 

『キキョウ』

 

『キキョウちゃん』

 

 

 

 二人の有無を言わさない空気と眼差しに負け、大人しく腕が治るまで用意してくれた隠れ家でお世話になることになった。

 説得された時『あんな威圧的な空気を出さなくてもいいじゃないか』とぼやきそうになったが、更に何か反撃を食らいそうなので口に出すことはしていない。

 

 そんなこんなで大人しく待っていた一ヵ月。とうとう腕も完治し帰ってもいい許可が出た。

 

 とはいっても張さんからはまだ許可は出ていないので、一応部屋で大人しくしておこう。

 ちゃんとお礼も言っていないのに勝手にいなくなるのは失礼千万だ。

 

 

 何もしていないのは落ち着かないなのでとりあえず左腕を動かし、いつもと違う感覚を感じながら『はやく服を作りたい』と心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──リンさんがいなくなってから三時間ほど経った頃。

 左手の感覚を取り戻そうと軽く動かし続けていると、部屋の外から足音が近づいてくるのが聞こえた。

 その音を聞いてドアノブに手をかける。

 

 ドアを開けてみると、真っすぐこっちに向かって来ている人物が目に入った。

 向こうも私の姿を捉えると、口の端を上げながら歩みを進める。

 

 その人は部屋まであと一歩というところで足を止め、愉快そうな声音でこちらに話しかけた。

 

「腕が治るまでちゃんといい子で待てたな。偉かったぞ」

 

「……もし待ってなかったらどうする気でしたか?」

 

「そりゃ、きついお仕置きをするつもりだったさ。俺としてはそっちでもよかったんだが、お前が聞き分けいいおかげでそれは叶わなかった」

 

「それは残念でしたね」

 

 勝手に出て行ったら何をされていたのやら。

 どんな仕置きをするつもりだったのかは聞かない方が身のためだろう。

 きっと碌な事じゃない。

 

 張さんは部屋に入ることなくそのまま踵を返し一言発した。

 

「来い、家まで送る」

 

「……それも、貴方の“世話”のうちの一つですか?」

 

 そう疑問を投げかけると肯定するかのように口の端をニヤリと上げる。

 

 一人で帰るつもりだったのだが、どうやら今回も拒否権はなさそうだ。

 拒絶することを諦めた私の態度を見て、ニヤついた顔のまま口を開く。

 

「言ったろ? “最後まで世話する”ってな」

 

 そう言い放ち再び歩みを進める。

 ロングコートの裾を靡かせている背中の後を追うように、一か月過ごした部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 『お前の家のことは気にするな』

 

 家の様子を見たいと再度頼み込んだ時にそう言われたことがあった。

 ただ本当にこの一ヵ月一度も帰っていないのでどうなっているのか心配していたのだが、それは杞憂に終わった。

 壊れていたドアノブは修繕されており作業場も特に荒れている様子はない。

 

 

 以前と違うのは、あの男の右目から垂れた血が床に染みついていることくらいだ。

 これは後で軽く拭いてカーペットか何かで隠せばいいので何も問題ない。

 ここまで面倒を見られているとなると、感謝より先に申し訳なさが勝ってしまう。

 

 一ヵ月ぶりに帰ってきた部屋を一瞥した後、ドアの近くで佇んでいる張さんに向き直り頭を下げる。

 

「張さん、ここまでお世話してくださり本当にありがとうございました。また、多大な迷惑をお掛けしてしまったことを心からお詫び申し上げます」

 

「おいおい硬いな。俺とお前の仲だ、もう少し気楽に」

 

「日頃からお世話になっている貴方にここまでしていただいてそんな態度はとれません。──どうかここは私の言葉を聞いてくださいませんでしょうか?」

 

「……」

 

 私の頑固としてこの態度を解かない姿勢に張さんは何も言わなくなった。

 その無言を肯定と受け取り、言葉を続ける。

 

「今回の大量殺人はあの男が引き起こしたこととはいえ、私が元凶であることは事実です。だからあの日、この場所で貴方に殺されることも覚悟しておりました」

 

 そう、私は殺されても仕方なかった。

 私の腕を手に入れるために一連のことを起こしたと、あの男はそう言った。

 なら例えどんな幼稚な理由であれど、私の存在が原因となったのは事実。

 この街の支配者の一人であるこの人が、行動を起こした人物はもちろん、元凶である人間を許すわけがない。そう思ってた。

 

「ですが貴方は、私を撃つどころか生かしてくれました。……洋裁屋にとって命ともいえる腕を守ることすらできなかった私を」

 

「……」

 

 私は洋裁しかできない人間だ。

 そんな人間の腕が使い物にならなくなれば、生かす意味も何もない。

 

 

「その腕が使い物にならなくなった時点で私は無価値な人間となっていました。貴方が認めてくださった洋裁の腕を振るうこともできなくなったあの時の私は、ただのお荷物でしかなかったはずです」

 

 

 

 ずっと考えていた。

 

 どうして私は生かされているのか。

 

 

 

 

 気まぐれなのか、それともまた何か別の思惑があるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 ──だが、そんなことは最早どうでもいい。

 

 

 

 

 

「そんな私を、貴方は生かしてくれました。どんな真意があれど、それが私にとっての全てです」

 

 

 そう、この人が何を思おうと私は()()生かされた。

 それは揺るぎない真実。

 

 

 なら、今私がこの人に伝えるべき言葉は謝罪と感謝。そして──

 

 

 

 私は下げていた頭を上げ、再び張さんの姿を目で捉え言葉を続ける。

 

「貴方によって生かされたこの命と腕は、もう貴方の物です。──だから」

 

 サングラスの奥にある瞳を真っすぐ見つづける。初めて出会った時のように、ただひたすら真っすぐに。

 そして、微笑みながら言い放つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私を不要だと思ったら、いつでも殺してください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 私を生かすも殺すもこの人次第。どんな思惑があれど、その事実からはもう逃れられない。

 後悔しないために行動する私を問答無用で殺していいのも、洋裁屋としての私を殺していいのもこの人だけだ。

 

 

「……はっ、何を言うかと思えば。やれやれ、どうしたもんか」

 

 

 私の言葉を黙って聞いていた張さんが、頭を掻くような動作をしながら呟いた。

 佇んでいた場所から足を動かし、真っすぐこちらに歩みを進めながらサングラスを外して素顔を露にする。

 

 私の目の前まで来たとき、愉快でたまらないと言わんばかりに顔をニヤリとさせた。

 

「一体どこでそんな殺し文句を覚えたんだ」

 

「口説いてるように聞こえましたか?」

 

「ああ、今ここで口づけをしたいほどにそそられたよ。──お前はどこまで俺を愉しませれば気が済む?」

 

「愉しませるために言ったつもりはありません。ただ思ってることを言っただけです」

 

「なら、その真摯な気持ちには真摯に返さんとな」

 

 言葉の続きを黒くて深い瞳から視線を逸らさずに待つ。

 

 やがて視線を合わせたまま、武骨な手が私の左頬に触れ親指で撫でてきた。

 少しこそばゆかったが何も言わずそれを受け入れる。

 

 

 

 弧を描いている口がゆっくりと開かれ、低い声が耳に響く。

 

 

 

 

「もしお前が俺の行く道の邪魔になった時は、俺がこの手で殺してやる」

 

 

 

 

 その言葉を聞いて、心なしか更に口の端が上がるのを感じていた。

 私はその顔を抑えることなく言葉を返す。

 

「きっと、貴方にならいつ殺されても後悔はないですよ」

 

「まったくお前は……あまり煽ると本当にキスしちまうぞ?」

 

「私の正直な気持ちです。というか、どこで煽りを感じたんですか」

 

 私はただ心から思っていることを言っただけだというのに。

 

「ここで引き下がるのは、男じゃねえな」

 

「え?」

 

 何か呟いたような気がしたが小声だったのでよく聞き取れず思わず聞き返した。

 すると頬を撫でていた指の動きが止まり、男性特有の大きい手の平が左頬を包み込み顔の向きを固定される。

 

 そのまま近かった顔が更に近づき、何をされるのだろうかと身構えている内に前髪を搔き上げられた。

 

 

 

 ──直後、感じたのは額に柔らかい何かが当たっている感触。

 

 

 

 何をされているのかは一瞬で理解できた。

 だが、なぜこんなことをこの人がしているのかが分からず、頭が真っ白になり体が硬直する。

 

 唖然としている間に額から柔らかい感触が離れ、目を細め満足げな表情の顔が自身の目に映りこむ。

 

 

「──あまり男を煽ると、これ以上の事されちまうぞ?」

 

 

 目と鼻の先で発せられるその言葉にハッとする。

 

 煽ったつもりは全くないというのになぜそんなことを言うのか。

 というか、今の行動に気恥ずかしさの欠片もないのだろうか。

 

 色々疑問が浮かび上がったが黙っているのも何なので、とりあえず何か返そうと口を開く。

 

 

「……貴方は煽られると、いつもこういうことされるんですか?」

 

 

 ああ、何を聞いているんだ。馬鹿なのか。そんなこと聞いてどうするんだ私。

 

 

「さあ? 俺を煽るやつは滅多にいないからな。なんなら今試してみるか?」

 

「……遠慮しておきます」

 

 心の内の嘆きを表に出さないようなんとか平静を装う。

 こんな状態でも会話を成立させている私をよくやっていると褒めてほしい。

 

 やがて頬を包んでいた手の平が「そいつは残念」と言葉とともに離れる。

 言葉とは裏腹に口の端が上がっていてご機嫌の様子だった。

 

 何故かは知らないが。

 

 

 外していたサングラスを再びかけ、あの黒い瞳を隠してから再び言葉が発せられる。

 

「久々の我が家だ、ひとまず今日はゆっくりしとけ。近々一杯付き合えよキキョウ?」

 

「では、やるべきことが終わってからご一緒させてください」

 

 腕が治った今、ヴェロッキオさんの服を作らなければならない。

 それは張さんも了承済みだ。

 

「できるだけ早く終わらせてくれよ。で、お前の時間が空いたら誘ってくれ。特別にそっちの都合に合わせてやる」

 

「分かりました」

 

 張さんは最後まで愉快そうな顔を浮かべながら、ロングコートの裾を靡かせて部屋から去っていく。

 その背中をしばらく見送り、ドアを閉める。

 鍵をかけた後、その場で力が抜けたようにしゃがみ込んだ。

 

「はああああ」

 

 顔を両手で覆い、溜まっていた息をすべて吐き出す。

 顔の熱と早まっている心臓の鼓動を抑えようと深呼吸を繰り返した。

 

 いや、別にあの人に恋心を抱いてるからドキドキしてます。とかそんな少女チックな事ではない、断じてない。

 

 私がこうなっている原因は自身の失言だ。

 何が『煽られると、いつもこういうことされるんですか?』だ。

 いくらなんでもあれはない。いかにも「期待しています」と言っているのと同義だろう。

 

 恥ずかしすぎる。

 ああいうことに慣れていないからとはいえ動転しすぎだ。

 

 

 

 思えば、あの男からキスされた時はここまでならなかった。あの時は怒りはあれどここまで動転してはいない。

 なら、今回だってちゃんと冷静になって言葉を発することもできたはずなのだが、多少気を許した相手だと違うのだろうか。

 

 

 

 

 しばらくうずくまり気持ちを落ち着かせた後、再び息を吐き立ち上がる。

 どうして自分があんなことを口走ってしまったのか分からない。

 

 これは考えてもどうしようないと思い、考えるのをやめ、ひとまず足を動かし一か月ぶりの自室に向かう。

 

 

 

 

 

 顔の熱はその頃にはすっかり引いていた。







今回は少しキキョウと張さんの関係が変わる話。


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50 遺された贈り物

――やっとヴェロッキオさんのスーツを作り終えたので、届けようとコーサ・ノストラの事務所に再びお邪魔していた。

 

あまり歓迎されていないような雰囲気ではあったが、あの時よりは大分マシだったので少し安堵する。マフィアの事務所に行って安堵するのもおかしい話ではあるが、それは気にしても仕方ない。

 

ヴェロッキオさんに作ったのはライトベージュを基調としたスーツ。

 

どういうのが好みなのかとか普段どんなものを着ているのか分からないので非常に迷ったが、スタンダードな黒だとどうしてもあの人と被ってしまうのでそれだけは避けようと落ち着いた上品な色を選んだのだ。

 

そのスーツをまじまじと見た後「腕は確かなようだな」とたった一言だけ発し、特に何も言ってこなかった。

イタリア人なのでもう少し派手な色が好きとか、何かこだわりがあるのではないかと冷や冷やしていたので拍子抜けだったが、不満の言葉が出てこなかったことにひとまず安心した。

 

スーツを渡した後、師の服のこともあり改めてお礼を伝えると「とっとと帰れ」と言われてしまったのでコーサ・ノストラの事務所を後にし、今家でくつろいでる最中だ。

 

 

 

 

 

 

ヴェロッキオさんの服を作っている間、時間も何もかも忘れて作業に没頭し、水だけ飲んで一日何も食べない時もあった。

それほどまでに服作りに飢えていて、やはり離れられないのだと改めて自覚する。

 

一か月鋏を触ってなかったので腕が鈍ってしまっているのではないかと心配したが、作業していくうちに段々と調子を取り戻し、無事終えることができた。

 

 

 

だから今、最高に気分がいい。

 

 

 

こんな最高の日は、久々にあの酒場へ繰り出しあの酒を飲むに限るだろう。

 

だが私の顔は、きっと人に見せられない程ニヤついてる。

それが収まってから家を出ることにしよう。

 

この街の憩いの場の一つであるあの酒場には人がたくさんいるから、こんな顔では到底行けない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――私ね、このお酒好きなの』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな行きつけの酒場の雰囲気を思い返していた時、ふと思い出す。

 

あのカウンターで隣に座り、よく一緒に酒を飲み笑いあっていたあの日々。

 

 

 

 

 

『このお酒、少し苦みがあって癖があるんだけどそれがまた美味しいの』

 

 

 

 

いつも同じ酒しか飲まない私を見かねて、違うものを勧めてきた時の言葉が頭をよぎる。

そのおかげでさっきまでの気分はどこかへ飛んで行ってしまい、顔のニヤつきがなくなっていく。

 

 

 

――ああ、そっか。あの酒場に行ってもあの子にはもう会えないのか。

 

 

その事実に悲しんでいるわけじゃない。だから一筋の涙も出てこない。

ただ、飲みに付き合ってくれる友人がいなくなったことに少し寂しさを感じているだけ。

 

それだけだ。それ以外なにもない。

 

 

 

溜まっていた息を吐き出す。

こんなこと考えてもしょうがない。すべて終わったことだ。

 

そう気持ちの踏ん切りをつけ、財布を手に取り家を出る。

ここから30分ほど歩く酒場までの道をただひたすら無言で辿って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久々に足を運ぼうとしている酒場の看板が見える距離から、まだ夕方だというのに外まで中の騒がしさが聞こえてきた。

騒動が収まり、街中の人間はやっと安心して酒が飲めるということで舞い上がっているのかもしれない。

 

今まで静まり返っていた街が、以前のような賑やかさを取り戻しつつあるのだと感じた。

 

その酒場の入り口の前に立ち、一瞬立ち止まってからドアを押して足を進める。

 

中へ一歩踏み込めば、そこは以前と変わらない酒飲み客で賑わっていた。

 

丸腰の女が入ったことによってこちらに少し視線が集中する。

その中には、カウンターの向こう側でグラスを拭いている店主の視線も混じっていた。

 

 

私は店主の視線を感じながら真っすぐカウンターに向かい、座る前に一言声をかける。

 

「お久しぶりですバオさん。相変わらず繁盛しているようで何よりです」

 

「ようキキョウ。お前さんも相変わらずで何よりだよ」

 

軽い挨拶を交わし、微笑みながら椅子に座った瞬間今度はバオさんから声がかかる。

 

「いつものでいいか?」

 

「……いえ、今日は別のものが飲みたい気分で」

 

「お前さんが別の酒を頼むなんざ初めてだな。何が飲みてえんだ?」

 

「そうですね。――『アブソルート』をお願いします」

 

 

私の注文に少し目を見開いたバオさんだったが、特に何か言うこともなく『Absolut Vodka』のボトルと氷の入ったグラスを出してくれた。

透き通ったその酒をグラスの半分まで注ぎ、氷の冷たさが広がるまで振った後口をつける。

 

確かに少し苦みがあるが、それがまた美味しさを引き立てている。

ジャックダニエルとはまた違った美味しさだ。

 

 

 

 

「このお酒、あの子が気に入る理由もわかった気がします」

 

「アイツが初めて飲んだ時は、苦すぎるって文句垂れてたもんだがな。――もうその文句を聞くことはねえが」

 

 

 

その一言に酒を飲んでいた手が止まる。

 

 

 

「お前さん、あいつの死体を海に棄てたんだってな。それもご丁寧に着飾らせてよ」

 

「やはりご存じでしたか。丁寧と言っても即席で作ったドレスを着せただけです。保護者の貴方からしたら気にくわない話では?」

 

「誰が保護者だ。気に食わねえもくそもねえよ。……この街じゃ珍しく手厚い葬儀されたんだ。あいつも文句はねえだろう」

 

「そうだといいんですが」

 

 

 

会話をしている中でも酒を体に染み渡らせていく。

久々の酒と酒場の雰囲気に思わず口の端が上がる。

 

それ以上バオさんは言葉を発することなく、私は無言で酒を煽った。

 

 

 

 

 

 

しばらく酒を飲んでいると、二階に続く奥の階段からドタドタと何やら激しい足音が響いてきた。

 

何事かと思い音の方へ目を向けると、大層ふくよかで厚化粧な女性が慌ただしい様子でこちらに真っすぐ走ってきていた。

 

「――バオ! もしかしてその子が噂の!?」

 

「おう、その噂の洋裁屋だよ。キキョウ、こいつは」

 

「んもうなんでもっと早く知らせてくれないのよ!!」

 

どうやらこの女性は私に用があるらしく、何が何だかよく分からず唖然としている私に自己紹介を始めた。

 

「初めまして、アタシこの上の娼館をやってるマダム・フローラよ。気軽にフローラって呼んでちょうだい」

 

「……初めましてマダム。私、洋裁屋のキキョウと申します」

 

唐突の自己紹介に驚いたが、ひとまず答えようと自身の名前を告げる。

少し困惑気味の私を見かねたバオさんが口を開いた。

 

 

「キキョウ、こいつは長いことアンナの面倒を見ていた女だ。だからアンナのことをよく知っている」

 

その言葉を聞いて更に驚いた。

アンナからはバオさん以外にそういう人がいるなんて聞いておらず、私は全く知らなかった。

 

 

 

目を見開いている私を見て、マダムはニコニコしながら再び口を開く。

 

「アタシ、ずっとアナタとお話がしたかったの。付き合ってくださる?」

 

そのお誘いにどうしたらいいか分からず返答することができなかった。

 

 

 

「行ってやれキキョウ」

 

 

困惑し、黙っている私にバオさんが誘いに乗れと言ってきた。

私もお世話になっているこの人から背中を押されては、もう断る理由がない。

 

「気の利いた話はできませんが、それでも良ければ」

 

「ありがとう。上にアタシの部屋があるから、そこで話しましょ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マダムに誘われ、案内されたのはイエローフラッグの上にある娼館『スローピー・スウィング』の奥にある一室。

その部屋はマダムのプライベートルームらしく、お客が入ることはないらしい。

 

部屋の真ん中には四角テーブルが一つと、大きいソファが二つ挟むように置かれていた。

マダムはワインを、私はさっきまで飲んでいたアブソルートをテーブルに置きソファにお互い腰かけ、向かい合って座った。

 

しばらく沈黙が流れたが、先に口を開いたのはマダムの方だった。

 

「アンナから話は聞いていたわ。よくお世話になってるって」

 

「……」

 

「あの子、とっても楽しそうにアナタのことを話していたのよ。私でも見たことないくらいの笑顔でね」

 

私はただ黙ってマダムの話を聞いた。

アンナのことを話すこの人の顔は、とても穏やかな気がして話を遮れる訳がなかった。

 

「アンナは、器用そうに見えて実は不器用でね。自分の気持ちを話すときはいつもはぐらかしていたものだわ」

 

「……そうですね。あの子が私に自分の気持ちを素直に言うことは、最後までありませんでしたから」

 

あの子が甘えられる人間は、どこにもいなかった。

私は当然として、もしかしたらバオさんやマダムにも甘えることはなかったのかもしれない。

 

だから、周りに馬鹿にされまいと背伸びをしていたのではないかと思っていた時期があった。

 

「アンナが死ぬ前にね、少しお話したの。その時言っていたわ、“死ぬときにキキョウの服を着れたら幸せだろうな”って」

 

「……」

 

「だから、アナタがあの子にドレスを着せて弔ったって聞いた時は驚いたわ。まさかあの子の願いが叶うなんて」

 

「……私はただ、アンナからの最期の依頼をこなしただけです」

 

「でも、例えそれが本音じゃなくても大好きなあなたに弔ってもらってきっと幸せだったと思うわ。――実は、アンナからアナタに渡してほしいって頼まれたものがあるの」

 

「え?」

 

マダムはそう言って腰を上げ、近くの棚から黒いポーチのようなものを出してきた。

それを私の目の前に置いて微笑みながら声をかけてくる。

 

「開けてみて」

 

私は黙ってそのポーチを開けた。

中にはなんと、新品の化粧道具が一式。そして小さく白い便箋が一つ入っていた。

 

便箋を手に取り、中に入っていたメッセージカードに書かれた一文を読む。

 

 

 

 

 

 

 

 

“綺麗な顔してるんだから、たまには化粧しなさいよ”

 

 

 

 

 

 

 

 

「……はッ」

 

 

あの子らしい一文だと思わず息が漏れる。

 

いつだったか、化粧するしないで揉めたことがあったのを思い出す。

 

 

 

 

 

『――ねえキキョウ、一回だけでいいから化粧してみてよ』

 

『嫌だ』

 

『なんで!? せっかく美人なのにもったいないと思わないの!?』

 

『思わない。というか美人じゃないし』

 

『お願い、一回だけでいいから』

 

『嫌だ』

 

『どんだけ嫌がるのよ。まあキキョウが化粧道具持ってるとは思えないし、やらないのは仕方ないかもしれないけど』

 

『よく分かってるね』

 

『はあ、本当にもったいない――』

 

 

 

 

 

 

「自分から直接渡しなさいって言ったんだけど、気恥ずかしかったのかもしれないわね。あの子が誰かのためにプレゼントを買うなんて初めてだったから」

 

「……」

 

「アナタに似合いそうな色とか、綺麗な肌を傷つけないようにって高くて上質なブラシを買ったり。全部アナタのことを考えて選んだのよ」

 

「……」

 

黒いポーチを眺めながら黙ってマダムの言葉を聞き続ける。

 

「ウチでも一番売れっ子だった女の子が一から十まで考え抜いて選んだ贈り物よ。――どうか受け取ってくださる?」

 

その一言に思わず顔を上げる。

穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見るマダムの目は、とても優しいものだった。

 

 

 

私はその目を見つめながら静かに口を開く。

 

 

 

「マダム。あの子はたった一人の男のクソみたいな欲望に巻き込まれて殺されました。ですが、殺された要因は私にもあります」

 

 

 

こんな話を聞かされてしまったせいかポツリポツリと言葉が溢れだす。

 

 

 

「私は、あの子に何もしてあげられませんでした。それどころかアンナの優しさに助けられてばかりで。……エンディングドレスだって、死ぬ前にあの子が頼まなければ作らなかったでしょう」

 

もしあそこでアンナが頼んでいなければあそこまで我儘を言わなかった。

仕事として割り切っていなければ、この街の日常の一つとして受け入れるだけで終わっていたはずなのだ。

 

「結局私は、自分の事しか考えていない人間です」

 

たった一人の友人の事でさえ依頼がなければ動かない。

こんな利己的な私が、アンナがわざわざ選んでくれたこの化粧道具を受け取れるわけがない。

 

「ですから、こんな素敵な贈り物を受け取る資格なんて私には」

 

「受け取らないなんて許さないわよ」

 

私の言葉を遮ったマダムの声は、柔らかさなど微塵も感じさせない尖ったものだった。

その声音に思わず押し黙る。

 

「これはアンナが“アナタのため”に選んだものよ。なら、使おうが使わなかろうがアナタには受け取る義務があるわ」

 

「……」

 

「何もしてあげられなかったって言うなら、せめてそれを受け取るぐらいはしてあげなさい。――それが、今アナタがあの子にしてあげられることよ」

 

「……」

 

ああ、この人は本当にアンナを可愛がっていたんだ。

言葉の端々からそれが痛いほど伝わってくる。

 

アンナを長いこと世話してきたというこの人にそう言われてしまっては、受け取らざるをえないではないか。

 

目を伏せ、せり上がってきていたものを落ち着かせるため一つ息を吐く。

 

 

 

 

メッセージカードをポーチの中に戻しチャックを閉めてから再び口を開く。

 

「本当に、あの子は……とても優しい子ですね」

 

「アンナのことをそう言ってくれるのはアナタだけよ。――ねえ、もう少しアタシとの一杯に付き合ってくれる?」

 

マダムの声から尖ったものはなくなり、また柔らかい声音に戻っていた。

 

「ええ是非。私も、貴女とまだ話したい気分ですから」

 

「よかった」

 

マダムはそう言うとワインを手にしグラスをこちらに向けてきた。

私も自身のグラスを持ち、向けられているワイングラスに軽くぶつけ音を鳴らす。

 

「今夜はたっぷり話しましょ」

 

グラス同士が奏でる音を聞き、お互い微笑みながら視線をぶつけてから酒に口をつける。

 

 

 

 

 

 

――甘さの中にキリっとした口当たりがある透き通った酒が、体中に染み渡っていった。

 

 

 

 

 

 




アブソルートウォッカ。
1879年に作られたスウェーデン原産のウォッカ。
酒名には究極の、または純粋のという意味があるそうです。その意味通り、見た目は透き通っていてとても綺麗です。






<キキョウの何でも答えるコーナー>
Q.キキョウさんが好ましいと思う色はなんですか?
キ「色に関しては好き嫌いで考えてはいないので難しいですね…。
強いて言うなら寒色系ですかね。見ていて落ち着きます。」


これからもぜひ、キキョウに聞きたいことを活動報告の「キキョウの何でも答えるコーナー」にてコメントいただけたら嬉しいです。


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51 またいつもの日常へ

序章、これにて終話です。







「――あのイタ公に目をつけられるなんて、災難だったわねキキョウ」

 

「本当に。おかげさまで一か月も休業する羽目になりました」

 

「まったく、欲しがってた腕を自分で壊すなんてどんだけ馬鹿だったのかしら」

 

「ただの子供だったということですよ、あの男は」

 

「なら、その子供の駄々に付き合わされちゃったのね。アナタも私も」

 

 

あの晩。マダム・フローラと朝日が昇るまで語り合ったおかげか大分親しくなり、話の流れでマダムから『私もアナタの服が着たいわ』と服を数枚依頼され、当然断る理由もなく快く引き受けた。

 

マダムのサイズを作ったことがなく初めての試みのため少し慎重になり、依頼を受けてから3日経ちようやく完成しそうな段階だ。

 

 

そして今日も引き続きマダムの服を仕上げようと作業をしていると、来客を告げるノック音とともに「キキョウ、いるなら開けて頂戴な」と久々に聞く女性の声が。

 

ドアを開けてみれば、私が仕立てたドレスの腹部に穴を空けた火傷痕のある女性と顔に傷のあるガタイの良い男性が立っていた。

 

開口一番に「あの男はちゃんと世話していたようね」と微笑を浮かべながら言われたのでそれに思わず苦笑しながらも二人を中へ招き入れ、今は話に花を咲かせている。

 

「それにしても本当によかったわ。あなたの腕があのクソガキのせいで終わるのは忍びないもの」

 

「あの人が何から何までお世話してくれたおかげです」

 

「自ら面倒みるといったからには最後までやらなきゃおかしい話よ。それに、あなたの腕が齧られた一つの要因は張の警戒の甘さもある。なら尚更世話するのは当然の事」

 

バラライカさんは何か気に食わないといった表情だ。

何故そんな顔を浮かべているのか察することはできないが、ひとまず会話を途切らせまいとその言葉に返答する。

 

「……例えそうだとしても手厚すぎる待遇でしたよ」

 

「手厚いも何もないわよ。そもそもあなたのところに来るって分かっていたのにも関わらずそうなった事が問題なの。私と戦争をした男が聞いて呆れる。――私だったら、そんなことは許さなかったでしょうね」

 

 

口端を上げ『私だったら』という部分を強調してきたバラライカさんに、何か言いたいことがあるのだろうかと勘繰ってしまう。

彼女のブルーグレーの瞳をじっと見つめ意味深な言葉の続きを待っていると、今度は優しく微笑みながら柔らかい口調で切り出す。

 

 

「ねえキキョウ。今からでも私に乗り換える気はない?」

 

「何故、そこまで私を気にかけるんですか?」

 

「フフッ。そりゃだってアナタが面白いからよ。いつもはそんな風に何の害もないような顔をしているけれど、自分の信念を守るためなら何を犠牲にしても厭わない。自分の命は当然、あの男も私も、この街の人間全て含めてね」

 

「……」

 

「アナタのその姿勢のせいで、どれだけの人間が巻き込まれ死体が積みあがろうと何の罪悪感も生まれない。――違うかしら?」

 

 

“自分の信念を貫くなら何を犠牲にしても厭わない”

 

 

 

自覚していないわけじゃない。

後悔しないために自分の命を懸け、周りを巻き込み、果てには人が死んでも仕方ないと受け入れることができる。

自分が後悔しないため動いたのに悪いことをしたと思うのは矛盾しているからだ。

 

私が謝るのは、信念を貫く必要がないときに相手に迷惑をかけた時だけ。

それこそ私が熱を出して倒れてしまった時のように。

 

だからアンナの死や今回の大量殺人に一因があれど、謝ることも涙を流すことはしない。

もし言う通りに服を作っていれば殺されることもここまで大事にもなってなかっただろうが、例えこうなる未来を知っていたとしても作らないと言い張っている。

 

 

 

そんな私の本性をバラライカさんは見事に当ててみせた。

たった一度しか会っていない彼女がここまで見破っているということは、きっとあの人はとっくに気づいてるのだろう。

 

 

 

 

「仰る通り、私は自分さえよければそれでいいと思っている人間です。そんな人間、貴女にとって面白いものとは思えませんが」

 

「本当にそれだけならね。私が面白いと思っているのは、それを自覚しても尚その真っすぐな目を向けてくることよ」

 

「真っすぐ、ですか」

 

「ええ。ただ命を捨てるだけじゃあの目はできやしない。ましてや自分以外どうでもいいと思っている人間は尚更」

 

「……」

 

「だからとても興味深いの。そんなアナタが私の知らないところで、どこの馬の骨とも知らない人間に殺されるのはつまらない。――キキョウ」

 

 

バラライカさんが愉快そうに微笑を浮かべ私の名前を呼ぶ。

その呼びかけに返事はせず、また黙って次の言葉を待った。

 

 

「私につけばいざっていう時ちゃんと安心させてあげられると思うわよ。あの男よりも、ね」

 

「……ありがとうございます。ですが、お気持ちだけ受け取らせてください」

 

「あら、もしかしてまだ愛想尽きてないの?」

 

「ええ。むしろ感謝しかしてないですよ」

 

 

 

 

『愛想尽きたらいつでも言いなさい』

 

 

電話でそう言ってくれたことがあったのを思い出した。

きっと今回の事で張さんの元ではやっていけない。そう言うに違いないと思っていたから、再び誘ってきたのだろう。

 

だが、さっき言った通り愛想は尽きていないし恩しか感じていない。

 

 

それにこの命と腕はもうあの人の物だ。

本人に宣言したのだから今更他の誰かに乗り換えるなんてあるはずもない。

 

自分の思いを告げたあの時の事を思い出すと自然と笑みがこぼれた。

 

 

その表情で誘いを断る私を見て、バラライカさんはフッと笑う。

 

 

「あらあら、振られてしまったわ。残念だな軍曹」

 

「そうですな大尉殿」

 

「本当、あの男のどこがいいんだか」

 

彼女の言い分でいけば、私は振った側なので返す言葉がなく二人の会話に思わず苦笑する。

 

「ま、気長に待つとするわ。アナタが私を選んでくれる時をね」

 

「諦めるという選択肢は?」

 

「愚問ね。――ひとまずこの話はここまでにしときましょうか」

 

アナタが始めた話でしょうに。

心の中で呟いたが口に出すことはせず、弧を描いたまま真っ赤な唇が動くの眺める。

 

「久々に会ったのだから、もっと楽しい話をしましょキキョウ」

 

愉快そうな声音で発するその言葉に一言「ええ」と返す。

 

 

街中の人々に火傷顔(フライフェイス)と呼ばれ恐れられている女性と普通の洋裁屋である私との間にゆったりとした時間が流れ、しばらくその空気に抗うことなく会話を弾ませた。

 

 

 

 

 

 

――そこから1、2時間。無言になることもなく会話を楽しんだ。

少々話し過ぎた気もするが、こういう日も悪くない。

 

キリがいいところで、そろそろ帰ると腰を上げるバラライカさんを見送ろうとドアを開けいつも通り客人を送り出す。

 

「じゃ、またねキキョウ。近々頼むかもしれないから、その時はよろしくね」

 

「今度は汚れる予定のない服の依頼だと嬉しいです」

 

「そう何回も汚さないから安心なさい。またいずれ酒でも飲みながら話しましょ」

 

そう言い残し、軍服のような服を靡かせながら去るバラライカさんの後をボリスさんが着いていく。

部屋を出る前にボリスさんからお辞儀されたので反射的に返し、しばらく二人の背中を見送ってからドアを閉める。

 

彼女とはこんなにゆっくり話したのは初めてで、最初は少し緊張していたのだが案外楽しめたような気がする。

 

マフィアのボス相手に楽しめたというのもどうかとは思うが。

 

 

――なんだか最近感覚が狂っているような気がする。

マフィア相手に命がけで交渉、取引して何故か生き延びていることに慣れてしまっている。しかもただのマフィアじゃなく、この街を支配している四大組織のうち3つの組織と関わっているこの状況に。

 

ただの洋裁屋がこんな異様な関係性を築いているなど、この街どころか世界の誰も思わないだろう。が、なってしまったものはしょうがない。

 

それにそのおかげで私が生き延びている理由の一つでもあるのだから、感謝こそあれど文句はない。強いて言うなら周りの人間が私を普通だと認知してくれないことに不満はあるが。

 

 

自室に行き渇いた喉に水を流し込む。

そして、馴染んだ裁ち鋏を手に再び中途半端に進んだ作業を始める。

 

気が付いた時にはもう外は真っ暗で、またどこか遠くで銃声が響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

マダムの服を作り始めてから2週間。ようやく全ての服が完成した。

 

彼女が頼んできたのは種類の違う5着のドレス。

職業柄なのか服にはそれなりに拘りがあるようで、『似たようなものがあってもつまらない』と少し変化を加えたものではなく、色や形などすべて違うものを依頼された。

そのため少し時間がかかってしまったが、なんとか要望に応えたものを仕立てることができた。

 

後は、これを届けるだけ。

 

マダムからは完成したらイエローフラッグに来てほしいと言われている。

一仕事も終えたことだし、そのまま飲んでいこうか。

腕が治ってからあの酒を飲んでおらずそろそろ恋しくなってきた頃なので、飲むタイミングとしては丁度いいだろう。

 

今はまだ14時半前。もう少し日が傾き始めたら向かおう。

 

 

そんな風に行きつけの酒場と馴染みの酒に思いを馳せていると、作業台の上に置いてある携帯から音が鳴り響く。

 

私の携帯にかけてくる人間は限られているので誰からの着信なのか予想することは容易い。

 

 

バラライカさんか、或いは――。

 

 

誰であれ待たせてしまうのはよくないので、4コールした頃に携帯を手に取り耳に当てる。

 

 

『ようキキョウ。調子はどうだ?』

 

 

やっぱり。

 

 

予想した通りの人物からの着信だったことで驚くこともなく、聞こえてきた声に返答しようと携帯に向かって話しかける。

 

「お陰様で前と変わらない生活が送れていますよ。貴方とリンさんには頭が上がりません」

 

『それは何よりだ。……で、いつになったら俺はお前と飲めるんだ? こっちはお前から誘いが来るのを今か今かと待ってるんだが』

 

 

少し不満げに言われたその言葉に思わず首を傾げる。

何故私から誘うことになっているのか。

 

 

「以前も言った気がしますが、私からは気軽に誘えないですよ」

 

『俺も以前言った気がするぞ。“一仕事終えたらお前から誘え”ってな』

 

 

 

……。

 

 

 

……あー、確かそんなこと言っていたような気がする。

ヴェロッキオさんのスーツを作り終えたら一杯やろう、都合に合わせてやるからお前から連絡しろと。

 

 

マダムの服作りに集中しすぎてすっかり頭から抜けており何も連絡していなかった。

 

恐らく、ヴェロッキオさんの服は完成したという話は耳に入ってきているのに連絡がこないことにとうとう痺れを切らして連絡してきたのだろう。

 

 

これは完全に私の失態だ。

 

 

『まさか忘れてた、なんて言うつもりじゃないだろうな』

 

「……すみません」

 

そのまさかです。

 

 

 

なんて言えるわけもなく素直に謝罪する。

 

『まったく、大方また別の誰かの依頼を受けてそっちに集中してたんだろ。お前らしいといえばお前らしいが、俺としちゃ寂しいぞキキョウ』

 

「本当にすみません。近々何かお詫びになるものを持っていきますので」

 

『お詫び、ね』

 

私が用意できるお詫びなんて服くらいしかないのだが、何もないよりはマシだろう。

今日明日あたりで特急で完成させよう。

 

今夜は酒を飲めないどころか寝れないかもしれないな、とため息をつきたくなることを考えていると電話の向こうから先ほどとは違う機嫌のいい声が聞こえてきた。

 

『なあキキョウ、それならお前明日着飾ってこい』

 

「……はい?」

 

『で、その格好で一杯付き合え。詫びはそれでいい』

 

待て待て、何を言ってるんだこの人は。

そんなものお詫びになるわけないだろう。

 

「いやいやいや、ちょっと待ってください張さん」

 

『もう十分待った。俺はこの数週間、お前からの連絡が来ないかととても心待ちにしていたというのに、まさか忘れられているとは思っていなかった』

 

「……」

 

『それに加え、お前の我儘を聞いてやったときの“迷惑料”もまだ払ってもらっていない』

 

「……」

 

『詫びと礼をしたいという気があるなら、俺の望みを叶えてくれよキキョウ』

 

矢継ぎ早に飛んでくる言葉に何も言えず黙ってしまう。

今回ばかりはどう考えても私に非があり断れる立場ではない。

 

それに、こんなことを言われてしまっては尚更だ。

 

 

私がするべき返事が『イエス』か『はい』しかないこの状況にため息を吐きたくなるのを抑え、腹を括り間を空けてからゆっくり息を吐き出すように返答する。

 

「……分かりました。普段とあまり変わらないと思いますがそれでもいいなら」

 

『俺のために手間暇かけたお前を見たいんだよ。――ああ、明日が待ち遠しいな。心が躍るよ』

 

「そんなに期待しないでください」

 

『ようやく着飾ったお前を拝めるんだ。期待するなって方がおかしいもんさ』

 

いや、本当に変わらないので期待するだけ無駄だと思うんですが。

 

 

前々から『着飾れ』と言われてはいたが、まさかここでその条件を出してくるとは。

なぜそんなに私のちゃんとした格好を見たいのか不思議でならない。

 

 

「着飾っても変わらない人がいるってこと証明してみせますね」

 

『それはそれで面白いことだ。ではキキョウ、また明日』

 

「はい、ではまた」

 

私がそう言うと、通話が切れたことを確認し携帯をズボンのポケットにしまう。

 

さて、どうしたものか。

 

着飾るということは服だけでなくちゃんと化粧をしなければならない。

 

だが、洋裁しかできない私が化粧に費やした時間といえばごく僅かで、せいぜい目の隈を隠す程度しかしたことがない。

それに服も今あるのはTシャツやズボンなどラフな物しかなく、収納場所にあるドレスも私が着るには派手過ぎる。

 

つまり、私に似合うように作っていないのだ。

 

洋裁屋としては自分に似合わない服を着ていくのは避けたいところではある。

 

 

そうやってしばらく頭を悩ませているとお腹が鳴り、今日はまだお昼を済ませていなかったと今更気づく。

空腹には逆らえないと、ひとまず遅めの昼食を摂ろうと自室に戻る。

 

あ、そういえばマダムの服も届けなければいけないんだった。

昼食を摂ったら少し早いがイエローフラッグに向かおう。

 

後の事を考えると自然と溜まっていた息を吐き出していた。

 

 

 

 

 

<一方そのころ…>

 

「――なあ彪」

「なんだ」

「大哥が妙に機嫌がいいのは気のせいか?」

「流石の観察眼だな郭」

「さっきまでキキョウから連絡が来ねえって若干不機嫌だったじゃねえか。俺がいない間に何があった?」

「そのキキョウと話し終えた途端にあれだよ。今にも口笛吹きそうだ」

「……何話したんだろうな」

「さあな」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昼食を終え、予定通りイエローフラッグへ向かう道中もどうしようかと考えていた。

だが特にいい案が思いつくはずもなく、ため息ばかりつきながらトボトボと歩いているとあっという間に着いてしまう。

 

まだ夕方にもなっていないので、ドアには『CLOSE』というプレートがかけられていた。

 

営業準備中のところ申し訳ないが、私も早く家に帰らなければならない事情があるのでドアを押して中へ入る。

 

すると見慣れた背中をこちらに向けている店主の声が飛んでくる。

 

「表の文字が読めねえのか? 今準備中だ、酒なら後で出してやらあ」

 

「本当は酒を飲みに来たかったんですが、生憎今日は別の用事なんですよね」

 

不機嫌な声にそう答えると、バオさんはこちらを見て一瞬驚いていたがすぐ平然な顔に戻った。

 

「なんだキキョウか。これまた珍しいな、お前さんがここにきて酒を飲まねえっていうのは」

 

「私もここに来て一杯もしないうちに帰らないといけないなんてちょっとした拷問を受けてる気分ですよ。……マダムはいらっしゃいますか? 今日は頼まれてた服を届けに」

 

「いるぜ。だが今は」

 

「相変わらずみんな可愛いわね。流石フローラ、目利きが違うわ」

 

「あらありがとう。今度はお客として来なさいな、アナタのお気に入りを用意してあげる」

 

「アタシが手を出さないって知ってるでしょ? 女の子とは仲のいいトモダチでいたいのよ。性欲処理に使うなんて御免だわ」

 

バオさんが言葉を続けようとした瞬間、二階に繋がる階段からマダムの声と聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。

会話をしながら現れたのはマダム・フローラと、白衣を身に纏っているリンさん。

 

 

あの隠れ家を出てから一度も会っていなかったのだが、まさかここで見かけるとは。

 

 

じっと見ている私の視線に気づいたのか、こちらに目を向けると一瞬驚いた顔をしたと思えば嬉しそうな笑みを浮かべ話しかけてきた。

 

 

「キキョウちゃんじゃない! 久しぶりね!」

 

「お久しぶりですリンさん」

 

「あれから腕の調子はどう?」

 

「折れていたのを忘れるぐらい快調ですよ。あの時は本当にありがとうございました」

 

「ならよかったわ」

 

階段から降り私の目の前まで来る間もずっとニコニコしながら話している。

私も久々のリンさんとの会話に口の端が上がった。

 

そんな様子を遠くから見ていたマダムが「あら、アナタたちお知り合いだったの?」と不思議そうに尋ねてきた。

 

「ええ。この前クソ野郎に可愛い顔と腕をやられていたもんだから私が愛情込めて治したのよ」

 

「あらあら、随分キキョウを気に入っているのねリン」

 

「当り前よ。だってとっても可愛いし綺麗なんだもの。我らが張大哥が気に入るのも頷けるってもんよ。って、マダムもキキョウちゃんのこと知ってたのね」

 

「ええ。少し前にお話をちょっとね」

 

「……あの、リンさんはなぜここに?」

 

世話になったのは感謝しているが、可愛いとか言いうのは少し勘弁してほしい。

これ以上続けられると居たたまれなくなるので、話題を変えようと少し気になっていたことを尋ねてみる。

 

 

「アタシは上の女の子たちの健康診断ってところよ。定期的にフローラから頼まれるの。そういうキキョウちゃんこそどうしてここに? まだ開店前よ」

 

「私は、マダムから依頼されていた服を届けに」

 

「もうできたの? 仕事が早いわねえ」

 

ニコニコとしているマダムに自ら近づき、ドレスが入っている紙袋を手渡す。

 

「何か不備があれば言ってください。すぐに修繕するので」

 

「ありがとう、後で確認しておくわ」

 

「よろしくお願いします。……では、残念ですが私はこれで失礼します」

 

服を届けるという仕事は終わった。本当はここで一杯やっていきたいのだが、明日の準備をしなくてはならない。

 

早々に立ち去ろうとしたのだが、それを許さないと言わんばかりに声が飛んでくる。

 

「え、もう帰っちゃうの? 折角だから一杯やりましょうよキキョウちゃん」

 

「そうしたいのは山々なんですが」

 

「そんなに仕事忙しいの?」

 

「いえ、仕事ではないんですが」

 

「じゃ大丈夫じゃない」

 

「いや、あの……」

 

 

間を空けることなく次々に言葉を投げられ戸惑ってしまう。

そんな私を見かねてマダムが助け舟とばかりに「まあまあ」と仲裁に入ってくる。

 

「そんなに押したら釣れるもんも釣れないわよ。でも、確かにアタシもキキョウと一杯やりたいわ。依頼受けてくれたお礼に奢ってあげたいのだけれど」

 

「折角の誘いなのですがまた今度に」

 

また今度にしましょう、と言葉を続けようとしたとき一つの考えが浮かぶ。

 

 

 

――マダムは確か娼館のオーナーだ。

ということは、着飾るための技術や服も揃っているかもしれない。

これは相談するにはピッタリの人材なのでは?

 

 

 

少し図々しいかもしれないが、何もしないよりはマシだ。

 

 

「……マダム。その依頼料の事でご相談したいことがあるのですが」

 

「あら、なあに?」

 

「実はその」

 

「ねえねえ、長話になるならゆっくり飲みながらするってのはどう? ぜひ、アタシもそこに混ざりたいのだけれどいいかしら?」

 

リンさんも割と身なりに気を使っている方で、メイクもしっかりしてるし髪型だってちゃんと整えている。

相談する相手は多い方がいいだろう。

 

「私は全然構いませんが」

 

「アタシもいいわよ」

 

「じゃ、決まりね。お話はマダムの部屋で?」

 

「そうね。ゆっくり話をするにはここじゃちょっとね」

 

マダムとリンさんがチラッと目線を向けると「悪かったな」とバオさんが不機嫌そうな声を出す。それを見た二人はクスっと笑い合う。

 

「じゃ、ひとまず上に行きましょ。話はそれからよ」

 

マダムはそう言って階段の方に足を動かす。私とリンさんもその後を追い二階に上がった。

 

 

 

 

 

 

「――それくらい構わないわよ。むしろやらせてほしいくらいだわ」

 

「本当ですか? あの、頼んどいてなんですがお仕事とか忙しいんじゃ」

 

「いいのいいの。アタシの仕事は女の子の管理だから仕事と言っても時間は基本余ってるのよ。明日も特に予定はないし、心配ないわ」

 

「ずるいわフローラ。アタシは夜仕事があるから最後まで手伝えないっていうのに」

 

「なら、アナタが仕事行く前までにちゃちゃっと終わらせましょ。それならいいでしょ?」

 

二階に上がり、マダムのプライベートルームに入った直後早速服の依頼料について相談した。

 

私がマダムに払ってほしい依頼料として話したのは『着飾るための手伝い』だ。

 

 

“ある人”との約束で着飾らなければいけなくなったこと。

私にはその着飾るための服と技術がないこと。

それらの理由でどうか手伝ってほしいこと。

 

 

恥ずかしい話ではあったがこれらを素直に伝えたところ、マダムはにっこりと笑って「なんだそんなこと」と茶化すことはなかった。

リンさんはというと「ある人、ねえ」とニヤニヤしながら見てきたので、一切目を合わせずに話を進めたのだが本人は私のその様子さえも面白いらしくずっと愉快そうにしていた。

 

敢えて名前を出さなかったのだが、リンさんが思い描いている人物は確実に当たっているだろう。だからといって、名前を出す気は更々ないが。

 

まあとにかくそんな感じでマダムとの交渉は成立し、リンさんも仕事の前までは手伝ってくれるという結論になった。

 

二人とも忙しいだろうに、急なお願いにも関わらず付き合ってくれるのは本当にありがたい。

 

「それにしても、本当にキキョウちゃんって健気よね。いくら約束したからって人に頼んでまで守るなんて。そんなタイプだとは思わなかったんだけど」

 

「約束を守るのは当然ですよ。そのために頼れる人を頼るのも」

 

「そんな不誠実な人間だなんてこれっぽちも思ってないわよ。そうじゃなくて、ほらキキョウちゃんは人に頼るってことしないじゃない。だから意外だったのよ」

 

やはり隠れ家で一か月一緒に過ごした経験があるからか私の事を多少分かっているようで、微笑みながらそう言ってきた。

 

「基本はそうなんですが、今回ばかりは私一人でなんとかできる問題ではないので。……やはりご迷惑でしょうか?」

 

「迷惑どころかむしろご褒美よ。普段おしゃれ全くしないんでしょ? そんなキキョウちゃんが着飾るところを拝めるなんてそうそうないだろうから」

 

「そうねえ、アナタとっても魅力的な顔してるんだから勿体ないわよ。いっそこの機会に毎日頑張ってみたらどう?」

 

「あはは……それはちょっと」

 

マダムもリンさんも彼と同じ様なことを言ったことに少し驚いた。

どうして周りの人たちは私の顔をそこまで褒めるのか理解できない。

 

今までこの顔立ちを褒められたことがないおかげでどういう言葉を言えばいいか分からず、二人の言葉に戸惑ってしまい苦笑いで返すしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

――それからしばらく三人で作戦会議を立てた結果。

 

服はマダムが似合いそうな服を見繕うと言ってくれた。

娼館のオーナーであるおかげか、私のサイズにピッタリな物が見つかりそれを着ていくことに。

最初は背中を露出させたベアバックのドレスを勧められたのだが、リンさんが気を遣って「これは狙いすぎ」と別の服を選ばせてくれた。

 

その服は少し光沢がある藍色。七分袖。胸下から直線的に裾が広がっているエンパイアライン、ふくらはぎの半ば辺りまであるミモレ丈という構造のパーティードレスだ。

 

露出は少なく、派手過ぎず地味過ぎず、尚且つドレスの状態もかなり良い。

試着したところサイズも完璧とまではいかないが、特に問題もなく着こなせる代物だ。

靴もこれに合わせた光沢感のある黒のヒール。

 

化粧はせっかくの機会だと思いアンナが揃えてくれた化粧道具で施し、髪はリンさんが簡単なアレンジをしてくれることになった。

 

これでいこうと全員一致で決まり、「話は纏まったことだし、ひとまず一杯やりましょう!」というリンさんの言葉でそこからまた三人で酒を飲み、笑いながら楽しい夜を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

「――素敵よキキョウちゃん! 綺麗になるだろうとは思ってたけど予想以上よ!!」

 

「何興奮してるんですかリンさん、落ち着いてください」

 

「逆に冷静でいる方が無理よ! ねえフローラ!?」

 

「そうねえ。いつもの格好も可愛いけど、更に魅力的になってるわよキキョウ」

 

「えっと、その……ありがとうございます」

 

1日が経つのは早いもので、私は今再びイエローフラッグの二階にある娼館『スローピー・スウィング』のオーナー、マダム・フローラのプライベートルームにいる。

 

昨日3人で話した通り、マダムに借りたパーティードレスに袖を通し、マダムが化粧を、リンさんが髪をアレンジしてくれたおかげで見た目がいつもとは違うものになっていた。

 

 

今の私が綺麗なのかは分からないが、ここまで整えてくれた二人の賞賛の言葉に戸惑いながらも『綺麗じゃありません』と否定するのは失礼なので、代わりにお礼を述べる。

 

改めて鏡を見てみるが、なんだか変な感じがしてしまいすぐ目を逸らす。

 

その行動を何回か繰り返していると、リンさんが心配そうな声で話しかけてきた。

 

「ねえ、やっぱり迎えに来てもらった方がいいんじゃない? そんな格好で出歩くなんて“襲ってください”って言ってるようなものよ。一人なら尚更」

 

「わざわざ迎えに来いなんて口が裂けても言えませんよ」

 

「……“お相手”はそこまで女性に冷たい人じゃないかもよ?」

 

「そういう立場なんですよ、私は」

 

普段から彼にはそんなこと頼める立場ではない。

それに、今回は彼へのお詫びのために着飾っているのに尚更言えるわけがない。

 

 

「それにしても本当に勿体ないわ。素材が違うとやっぱり見栄えも他とは段違いね。

ねえキキョウ、一回でいいからウチで働いてみない?」

 

マダムまで何を言っているんだ。

私のような話下手で見た目も普通な女が娼館で働いても利益は生まれないだろうに。

 

「私には男性を満足させるテクニックもトーク力もないので遠慮します」

 

「あら残念。ま、その気になったらいつでも言ってチョーダイ。歓迎するわよ」

 

「あはは……」

 

この手の話題は笑ってごまかすしか逃げる方法が見つからないので、マダムの誘いに乾いた笑いで返した。

 

「じゃ、残念だけどアタシはそろそろお暇するわ。キキョウちゃん、今度はその格好でアタシと飲んでね?」

 

「リンさんとはもっと気軽な格好で飲みたいです」

 

「それはそれで嬉しいわね」

 

そう言ってリンさんが部屋から出ていこうとした瞬間、テーブルに置いていた私の携帯が鳴り響いた。

 

 

「きっと今夜の“お相手”からよ。ちゃんと迎えに来てもらうよう頼みなさいね」

 

着信音が鳴り響く中。最後に一言添え、手をひらひらさせながら今度こそリンさんは部屋を出て行った。

 

また今度改めてちゃんとお礼をしよう。

 

 

何回かコール音を響かせた後、そのまま携帯を手に取り耳に当てる。

すると、リンさんが言った通りの相手の声が聞こえてきた。

 

『すぐ出れなかったところをみると、どうやらちゃんと準備しているらしいな』

 

「そういう約束ですから。それで、今夜はどちらに向かえばいいですか?」

 

 

準備は整ったので、後は向かうだけ。

とりあえず場所を聞いた後しばらくしたら出発しよう。

 

そう思っていたのだが、返ってきた言葉は予想していないものだった。

 

 

『おっと言ってなかったか? 今回は俺が迎えに行くつもりなんだが』

 

「……そんなこと聞いてないですよ。というか、そもそも今回は貴方への“お詫び”なんですから私が行くのが道理でしょう」

 

マフィアのボスが一人の女の迎えに来るなんて誰が考える。

一瞬驚いたが、流石にそんなことはさせられないと言葉を返す。

 

『俺がそうしたいからそうするんだ。大人しく待っとけ』

 

「いや、貴方は気軽にそういうことしちゃいけない気がするんですが」

 

『俺がどうしようと俺の勝手だ』

 

「しかし」

 

『俺への詫びなら好きにさせてもらっても構わないな?』

 

 

どうやら彼は今そういう気分らしい。

私がどう言おうと迎えに来るのは確定事項のようだ。

 

ここで自分の意見を貫けば折れるのかもしれないが、不機嫌になられるのも困る。

こんな気まぐれが発動した時の止め方を誰か教えてほしい。

 

彪さんあたりに今度聞いてみるか。

きっと『俺にもわからん』と言われるだろうが。

 

 

 

『お迎えはお前の家でいいのか?』

 

「……実は今、事情があってスローピー・スウィングにいるんですよ」

 

『おいおい、俺との一杯の前に誰かとベッドで戯れるつもりなのか?』

 

「……私がそうするとお思いなのですか?」

 

この言葉は冗談なのだろうが、聞いていてあまりいい気分にはならない。

その気持ちが声に乗っかてしまい不機嫌さが出てしまう。

 

軽い冗談も流せないのかと、いつか小言を言われそうだ。

 

『冗談だ、そう怒るな。――ちと今すぐは無理なんでな。暗くなったらイエローフラッグのカウンターにでも座っとけ』

 

「……あの、本当に来られるんですか?」

 

『なんだ、恥ずかしいのか?』

 

 

その声を聴くだけでも容易に携帯を片手にニヤニヤしながら話しているのが目に浮かぶ。

 

 

「いえ。ただ、貴方が来るととても目立つなと思っただけです」

 

『誉め言葉として受け取ろう。――楽しみにしてるぜ、キキョウ』

 

私のちょっとした嫌味を軽く流し、最後に私の名を呼ぶとそのまま通話を切った。

 

 

「お相手はなんて?」

 

「迎えに来ると」

 

「あら、よかったじゃない。待ち合わせは下で?」

 

「はい」

 

「分かったわ。じゃ、開店するまでここにいなさい」

 

今はまだ日が傾く前。

私はマダムの言葉に甘え、しばらく部屋でまったりと過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日が沈み、夜の闇が街を包む時間となれば街中の酒場はたちまち酒飲み客で賑わう。

それは、ならず者たちの憩いの場と化している酒場“イエローフラッグ”も例外ではない。

 

開店すればたちまちアウトロー達が集い、酒を浴びせ合い馬鹿騒ぎしている。

それがこの酒場の通常運転だ。

 

――だが今宵、そんな酒場には一つだけ違う点があった。

 

 

ショートカットで整えられた黒髪。藍色で七分袖のパーティードレス。

 

こんな世紀末に出てきそうな酒場で飲むにはあまりに場違いな格好をしている女性がカウンターに一人座り、店主となにやら話をしている。

 

やはり周りの人間は少なからず気になるようで、ちらりとその女性に目をやりヒソヒソと話し出す。

 

 

 

やがて、一人の男が顔をニヤニヤさせながら女性に近づき声をかけた。

 

「嬢ちゃん、こんな所で一人飲むより俺と一緒に飲まないか? 楽しませてやれるぜ?」

 

男はそのまま女性の隣に座り、ニヤニヤしながら返答を待っている。

 

「……せっかくの誘いですが人を待ってるので。すみませんが、別の女性をお誘いください」

 

男の方から顔を逸らし、丁寧な口調で断る女性の声はどこか冷ややかさがあった。

 

「そんなつれないこと言うなよ。あんたみたいな別嬪さんを待たせる男よりも、俺の方がいいと思うぜ? 色々な意味でな」

 

「お心遣いありがとうございます。ですが、私は待ちたくて待ってるので」

 

「冷てえなおい。いつもそうやって健気なフリして客取ってんのか?」

 

「……私を娼婦だと思っているのですか?」

 

「小奇麗な女が一人でカウンターに座ってたらそう思うだろうが」

 

「そうなんですか、それは知らなかったです。勉強になりました」

 

女性の嫌味にも聞こえるその言葉に、男は機嫌を悪くしたのか眉間にしわを寄せ機嫌の悪さを露にする。

 

「……ちょっと下手に出てりゃいい気になりやがって」

 

 

男がそう言った瞬間、入り口のドアが開かれる。

入ってきた人物に周りの客はどよめくが、それには構わずコツ、コツと革靴の音を鳴らしそのまま歩みを進めている。

 

 

機嫌が悪い男はそれに気づかず更に言葉を続けた。

 

「てめえの顔を人前に出れねえように崩してやろうか? ああ?」

 

「それは困ります。この前やっと治ったばかりなのに。……とにかく、先客がいるので私ではなく別の女性をお誘いください」

 

男の言葉に怯えることもなく、ただ冷たく言い放つ女性の言葉に男は更に不機嫌になった。

 

「てめえ、このクソア」

 

「お嬢さん、そんな野蛮な男より俺と一杯いかがかな?」

 

 

 

 

 

“このクソアマ”と続けようとした男の言葉は、カウンターに座る二人の後ろに立っている人物の声に遮られる。

 

その人物は、黒く長いロングコートと黒のスーツに身を包み、白のストールを首にかけ、夜だというのにサングラスをかけている男。

 

この男こそ、店内がどよめいた理由だった。

街の支配者の一人として君臨しているその男を知らない者はこの酒場にはおらず、なぜここにいるのかと全員が疑問に思っている。

 

当然カウンターに座っている男も、自身の声を遮ったその人物を見ると驚きで目を見開いた。

 

 

声をかけられた女性は店内で唯一動じておらず、背を向けたまま言葉を返す。

 

「貴方にはもっといい女性がお似合いですよ、きっと」

 

「俺はそのいい女性を誘ってるんだが」

 

「顔も見ていないのによく分かりますね」

 

「そういうのは、後姿だけでも分かるもんさ。――だが、どうせならその顔も拝ませてくれると嬉しいね」

 

「……はあ」

 

女性は一つ息を吐くと、ゆっくりと後ろを向く。

 

黒い瞳。傷一つない綺麗な肌。仄かに赤く染まった頬、艶やかな唇。

 

 

顔を見た周りの人間が思わず息を呑むほどに、女性はとても魅力的だった。

 

「ご感想は?」

 

「――予想以上だ。こんなことなら、もっと早く迎えに来ればよかったな」

 

「貴方を待っている間一刻も早く立ち去りたい気分でしたよ」

 

「そういうわけだ。悪いが、今日は引いてくれるか?」

 

「あ、ああ……」

 

隣で黙って会話を聞いていた男は顔を引き攣らせて返答する。

 

その様にフッと笑い、再び女性に目をやり声をかけた。

 

「では、行こうか。Ms.キキョウ?」

 

その言葉に女性は席を立ち、「バオさん、また来ますね」と店主に声をかけ男の傍に近寄る。

愉快そうに口の端を上げている男の隣に並び、男女はそのまま店を後にした。

 

そこで緊張感で包まれていた店内もやがていつもの騒がしさを徐々に取り戻す。

 

一人、カウンターに座っていた男は未だに冷や汗をかき内心『俺明日殺されるんじゃねえか』と思っていることなど周りの人間は知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――午前6時。そろそろ太陽の光が街を包む頃。

私はほぼ毎日といっていいくらいこの時間に起きる。

 

しかし昨夜はある男性と浴びるように酒を飲んでいたのと気が張っていたのもあり、いつもより大分遅めの10時に目が覚めた。

まあ、いつもは比較的健康的な生活を送っているのだからたまにはいいだろう。

 

朝食を摂ろうと台所に向かい、いつもの焦げ目のついたトーストとココアを食卓に出す。

コーヒーもたまに挑戦するのだが、あの苦さを未だに克服できていないので今日も大人しくココアを飲む。

 

朝食を食べ終えたら、動きやすい黒いTシャツと紺のイージーパンツに着替え作業場に入る。

 

愛用の裁ち鋏が錆びていないかチェックし、依頼されている服を作ろうと布に鋏を入れた。

 

その時どこか遠い場所で爆発音が聞こえたがこの街ではそれが日常なので特に気にすることはないだろう。

 

 

 

しばらく作業を進めていると、表のドアからコンコンコンとノック音が響いた。

 

 

「洋裁屋キキョウはここでいいかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

私はこの地の果てでこの街のBGMである銃声を聞きながら、洋裁屋を営んでいる。

 

さて、今日はどんな服を依頼されるのか楽しみだ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







やりたいことを全部詰め込んでしまったような形ですが、原作前のお話は今回で終わりです。
長い序章にお付き合いくださりありがとうございました。

次回からは原作主人公のホワイトカラーがロアナプラにやってきた頃から始まります。

原作編からはキキョウについてもう少し掘り下げていく感じになるかと思います。
序章はこれにて終わりますが、これからもキキョウの物語にお付き合いいただければ嬉しいです。


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本編【原作】
1 同国人


ここから原作編スタートです。










――タイの南部に位置する街。

35年前までただの寂れた港町だったその場所で毎日鳴り響くのは、銃声と断末魔。

 

 

潮風に乗って血の匂いが漂う街の名は“ロアナプラ”。

 

数多の危機を乗り越え『悪徳の都』として繁栄した現在、世界屈指のアウトロー達がひしめき合う。

 

 

1997年、そんな犯罪都市に白いワイシャツにネクタイを締めた男がやってきた。

 

 

名は岡島緑郎。

つい最近まで日本でサラリーマンとして働いていたどこにでもいる普通の男。

 

犯罪に手を染めたことがない“普通”である彼は、会社の陰謀に知らぬ間に巻き込まれ、海賊に拉致られ、挙句の果てには会社に見捨てられるという不幸に不幸が重なり悪徳の都に舞い降りた。

 

今は自身を拉致した“ラグーン商会”という運び屋稼業に身を置き、喧騒の日々を送っている。

 

 

そんな彼とラグーン商会の面々は、ロアナプラでも破壊された回数がダントツに多い“イエローフラッグ”という酒場でカウンターに座っていた。

 

 

「おいロック、なにそんなソワソワしてんだ。気色ワリい」

 

「いや、だって……」

 

「お前は告白前の女子か。まったく男なら堂々としろってんだ。なあベニー、お前からも何か言ってやれ」

 

「仕方ないさレヴィ。なんてったって、ロックにとっちゃこの街で初めての同国人だからね。緊張するのも無理ないよ」

 

レヴィと呼ばれた女は「はッ」と鼻で笑うと自身の酒に口をつける。

 

彼女の飲みっぷりに釣られるように金髪に眼鏡をかけている男、ベニーも酒を喉に通す。

 

「なあダッチ、その……本当に来るのか? 俺と同じ日本人の女性ってのは」

 

そんな中、岡島、いや、ロックはラグーン商会のボスである大柄な黒人、ダッチにおずおずと尋ねる。

 

「ロック。さっきも言った通りここはアイツの馴染みの場所ってだけで、いつもいるわけじゃねえ」

 

「そりゃそうだけど」

 

「お前にできるのは、向こうがここで飲みたい気分になることを祈るだけだ。ま、この街にいりゃ嫌でも会えるさ」

 

ダッチはそう言い放ち、グラスに口をつける。

ロックはダッチの言葉に納得はしていないものの、何も言うことはなかった。

 

「おいおいロック、そんなに同郷の女が気になるのか? あわよくば仲良しこよしになろうって寸法かい?」

 

「誰だって同じ国出身の人間がいたら気になるだろ? それもあんな話を聞かされた後なら尚更だ」

 

 

 

 

 

 

 

――遡ること3時間前。

 

ラグーン商会は特に仕事の依頼もなく、ダッチ、ベニー、ロックの三人はそれぞれ事務所でゆったりと過ごしていた。

 

そんな暇を持て余している三人のいる部屋に、外に出ていたレヴィがドアを蹴破るように入ってくる。

その様子に何事かとロックが声をかけようとするより早くレヴィが口を開いた。

 

「なあダッチ、今夜あたりイエローフラッグに繰り出さねえか?」

 

「おめえから誘ってくるのは珍しいな」

 

「さっきアイツに偶然会ってな。そこで今日あたり一仕事終わりそうだって聞いたもんだからよ」

 

「それでか。だが、今日来るとは限らねえだろ?」

 

「しかも、それは姉御の依頼なんだと。そんなヤマを終わらせたとあっちゃアイツが来ねえわけがねえ。それに、しっかり“誘ったしな”」

 

「成程」

 

「今度は絶対負けねえ。勝ったらこの間の飲み代の分も請求してやる」

 

「……なあ、さっきから言ってるアイツって誰の事?」

 

部屋にいる中でただ一人話題についていけていないロックは耐えきれず疑問を投げかけた。

その言葉に会話がピタリと止まる。

 

ロックは「え、何…」と唐突に訪れた沈黙にたじろいだが、その空気を破ったのは部屋の端で話を聞いていたベニーだった。

 

「あー、そっか。ロックはまだ会ったことなかったんだっけ」

 

「あ、ああ。えっと、姉御ってバラライカさんの事だろ。あの人から仕事をもらうなんて相当腕が立つのかい?」

 

「ああ。なんせその腕を気に入ってんのは姉御以外にもわんさかいるんだこの街には」

 

「へえ。じゃあさっきの話からするとレヴィは直接やりあったことあるんだろ? どうなんだ実際」

 

「……あーロック勘違いすんなよ。アイツの仕事は殺しとかそんなんじゃねえ」

 

「え、違うのか?俺はてっきり……。えーと、何か情報を流してるとか?」

 

「残念だがハズレだ」

 

「じゃあ武器か」

 

「アイツが武器流すどころか持ってるところも見たことねえよ」

 

「……」

 

じゃあなんだ? この街で武器を持っていないなんて、俺が言えることじゃないが相当珍しいぞ。

 

 

 

ロックは眉間に皺を寄せて考える。

その様子を口の端を上げて愉快そうに見ていたレヴィは「ま、分かるわけねえか」と再び言葉を発する。

 

「洋裁屋だよ、ロック」

 

「洋裁屋って……服を仕立てるあれか?」

 

「ああ」

 

「なんだ。割と普通な職業もあるんだな、この街には」

 

「やってることは確かに普通の洋裁屋と変わんねえな」

 

レヴィはそこでようやくソファに腰かけ、ズボンのポケットから煙草を取り出し火をつける。

ゆっくりと煙を吐きながら再びロックに向かって声をかけた。

 

「だがな、ロック。この街じゃアイツを普通なんて言う人間はどこにもいねえのさ」

 

「……どういう意味だ?」

 

「そのまんまだよ。なあロック一つおさらいだ。この街を牛耳ってる奴らは?」

 

「……イタリアンマフィア『コーサ・ノストラ』、コロンビアマフィア『マニサレラ・カルテル』、ロシアンマフィア『ホテル・モスクワ』。そして香港マフィア『三合会』。この四つのマフィアが街の利権を多く握っている、だろ? それがどうしたんだよ」

 

レヴィの唐突な質問に訝し気になりながらも、この街で生きていく上で必要だと教えてもらった情報を口に出す。

それが今更なんだというのか、と言いたげなロックに煙草を咥えたまま話を始める。

 

「アイツはな、その4つのボス共全員と身一つで渡り合って生き延びた人間だ」

 

「…………は?」

 

「しかも、今じゃその全員の服を仕立ててるんだと」

 

「ちょ、ちょっと待て。渡り合ったってどういうことだよ!?」

 

マフィアのボスと渡り合うなんて一体どういう技を使ったのか。

ただの洋裁屋がそんな芸当できるわけがない。

 

発せられた言葉に思わず声を上げたが、レヴィはそんなロックの様子に驚くこともなく話を続ける。

 

「確か、三合会には銃を向けられて、ホテル・モスクワには胸倉掴まれて、コーサ・ノストラの時は自分から本拠地に乗り込んで、マニサレラ・カルテルは……なんだったか?」

 

「確か、ボスが連れてきた女が気に入らないとか言ったんじゃなかったっけ?」

 

「ああ、そうだそうだ。んで話の続きだがどの時もアイツは殺される寸前だった。が、さっきも言った通り武器なんざ持ってねえ奴で、いつも身一つで真正面から向かってったのさ。その結果、運がいいのか悪いのか生き延びてる。この街牛耳ってるボスども全員と対面するだけでも普通じゃねえってのに、殺意向けられた後も街を歩けているなんざ異常だ」

 

「……」

 

話を聞いたロックは思わず絶句した。

日本育ちで平和ボケした人間であっても今の話の異常さを理解している。

 

マフィアのボスに目をつけられた人間が、こんな小さな町で生き延びられるわけがない。

ましてや武器も持っていないなら尚更。

 

「いったいどうやって」

 

「本人曰く、“話をしただけ”らしいぜ。それだけで済むってならこの街から銃を引っさげた人間はいなくなるだろうな」

 

「じゃあ、口だけでマフィアのボスに気に入られたってことか!?」

 

「本当に口だけなのかは知らねえが、姉御と洋裁屋のパトロン様は“目”を気に入ったんだと」

 

「目?」

 

「詳しくは知らねえ。そういうのは本人に聞いてみるのが一番さ。気になるなら、お前も来るかロック?」

 

「……ああ――」

 

この後流れるようにラグーン商会全員でイエローフラッグに向かうことが決まり、その道中で自分と同じ日本人だと知ったロックはさらに会ったことのない洋裁屋に興味を募らせた。

 

 

そして、今。

イエローフラッグのカウンターに座り、洋裁屋の登場を今か今かと待っているのだった。

 

 

「にしても遅えな。姉御のとこで何か話し込んでんのかねえ」

 

「ま、来ようと来まいと酒を飲むのは変わらねえがな」

 

「やっぱり今日は来ないのかな」

 

「いんや、アイツは絶対来る。だから安心しろよロック、もうすぐお望みのお姫様に会えるからよ」

 

「茶化すなよ」

 

ロックはレヴィの軽口を流し、自身の酒を煽った。

 

こんな地の果てで日本人、しかも武器を持っておらず身一つで生きている。

 

なにからなにまで今の自分と同じ境遇である人間に興味が湧かないわけがなかった。

もしかしたら、唯一自分と話が合うのかもしれないとまだ見ぬ人物に思いを馳せる。

 

「冗談が通じねえな。――そんなお前に、もう一つアイツ絡みの面白え話をしてやるぜ」

 

「面白い話?」

 

「ああ、一人の洋裁屋を巡ってとあるクソ紳士が暴走したって話なんだが――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――相変わらずいい仕事するわ。調子はいいようね」

 

「ええ、お陰様で」

 

「何か困ったことがあったらちゃんと言いなさいね?すぐ片付けてあげるから」

 

「ありがとうございます。ですが、貴女の“片づけ”はとても派手なのでどうしてもって時にお願いしますね」

 

「そうでもしないとここの連中は懲りないでしょ?」

 

「一応聞きますが、できるだけ穏便に済ませるって選択は」

 

「あると思う?」

 

「貴女も相変わらずで何よりです」

 

目の前で微笑みながら優雅に紅茶を飲んでいるのは、ロアナプラの顔役の一人であるロシアンマフィア、ホテル・モスクワタイ支部の女ボス通称バラライカ。

悪徳の都を支配し、街の住民から“火傷顔”と呼ばれ恐れられている彼女のそんな表情を見られるのは、ホテル・モスクワの組員を除くと指で数えられるほどしかいない。

 

その中に、この街の隅っこでひっそりと洋裁屋を営んでいる女が入っているなんて、誰だってどこのおとぎ話だと笑い飛ばすだろう。

 

 

 

5年前から洋裁屋キキョウとしてこの街に住んでいるが、幸か不幸か未だに生きている。

ある人にひょんなことから目を付けられ、洋裁屋を営むようになってからはそれまでの日常ががらっと変わった。

 

 

マフィア達に殺意を向けられたり、娼婦には騙され、馬鹿な男には商売道具である腕を折られたり。

他にも私が仕立てた服を盗む人や、私が作った証であるマークをそこら辺の服に入れて売る人が出たり、私が何かマフィアの貴重な情報を知っていると勘違いしたおバカさんに拉致られたりもした。その度にパトロンであるマフィアの彼やバラライカさんが動いてくれたおかげで何とかなったのだが、まさに踏んだり蹴ったりである。

 

 

 

他の人が聞いたらドン引くような散々な目に遭っているが、悪い事ばかりではなかった。

 

 

好きな時に好きなように、作りたい人のために作ることができる環境ができたこと。

お気に入りの酒場とお気に入りの酒が見つかったこと。

一生忘れないであろう友人ができたこと。

私が作った服が人に着てもらえること。

 

これらをすべて与えてくれた我がパトロンには頭が上がらない。

そんな彼とは、とある事件で救われた自身の腕と命を預けてからも服を依頼されたり、二人きりで飲むことが増えたりなど、ビジネスパートナーとして良好な関係が続いている。

 

 

 

 

 

今日は得意先の一人であるバラライカさんから頼まれた服を完成させたので、服を届けるため彼女の拠点であるホテル・モスクワの事務所に足を運んでいる。

 

彼女から依頼を受けた時は私が届けに行き、事務所の一室で紅茶を飲みながら談笑することが基本となっている。

なので今回も例外なく恐らく高級品であろうロシアンティーを片手に二人で談笑している最中だ。

 

 

 

「そういえば、最近ダッチのところにアナタと同じ日本人が入ったって知ってる?」

 

 

 

急に出てきた話題に思わず驚いた。

アジア系ならたくさん見かけるのだが、日本人というのは全くいない。

あんな島国からこんな街にわざわざ移り住もうなんて考えはまず浮かばないはずだ。

 

ラグーン商会は街では有名な運び屋だ。その商会にメンバーが新たに加わっただけでもすぐ噂になるというのに、職業柄家に籠りがちだからか耳には入ってきていない。

 

こういうところは未だに変わっていないのだと自覚する。

 

「その情報今知りましたよ。いつの間に……」

 

「一か月前くらいかしらね。中々のタフガイだったわよ、彼」

 

「もしかして、もうお会いになられたんですか?」

 

「ええ。アナタも近々会えるんじゃない? 同郷なら話が合うだろうし、仲良くしてあげてね」

 

「……そうですね、仲が悪いよりかは良い方がめんどくさくないですし」

 

「フフッ」

 

バラライカさんは口の端を上げクスッと笑い、紅茶に口をつけた。

私もそろそろお暇しようと温くなった紅茶を飲み干し腰を上げる。

 

「では、今日はこれで失礼します。紅茶美味しかったです」

 

「あら、もう少しゆっくりしてっていいのよ」

 

「マフィアの事務所に長居する訳にもいかないでしょう」

 

「今更そんな事気にするの?」

 

「気にしますよそりゃ。では、失礼します」

 

頬杖を突きながら残念そうにしているバラライカさんに軽く一礼し、そのまま背を向け足を動かす。

ドアノブに手をかけた時「相変わらず礼儀正しいわね」という言葉が聞こえたが、何も言わず微笑みで返しドアを閉め部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

ホテル・モスクワの事務所を出てから私は真っすぐある場所に向かっていた。

 

一仕事終えた後は酒を飲むに限る。

 

 

それに、服を届ける道中でばったりと出会ったレヴィに「イエローフラッグで待ってる」と言われている。

実はレヴィから十回は超える飲み比べを挑まれているのだが、先に潰れるのは決まって彼女だ。

それが悔しいのか毎回翌日には酷い二日酔いで悩まされるのにも関わらず、私が一仕事終えたと聞いた時は必ずと言っていいほど先にカウンターに座り勝負を挑んでくる。

 

 

「勝負しろ」と直接的には言わないが、今日のあれは確実にその申し出だろう。

 

レヴィからの申し出に応じなかった時が一回だけあったが、あの時のように会う度無理やりイエローフラッグに連れていかれそうになるのは御免だ。

 

まあ、私としては割と楽しく飲ませてもらっているので特に何も文句はないしこれからも受けれるときは受けるつもりだ。

 

 

 

これからあの酒を飲めることと、酒場の賑やかな空気に浸れることに心を躍らせ足を動かす。

 

 

 

 

そして20分ほど歩けば、目当ての酒場が見えてくる。

日が傾き始めたばかりだというのに、中からは馬鹿騒ぎしている声が聞こえてきた。

 

今や押しなれた木製のドアを開けると、目の前にはいつもの光景。

 

どのテーブルにも拳銃が置かれており、目つきの悪い男や露出の多い服を着た女たちが酒を片手に笑いあっている。

アウトロー達が特に集うこの酒場には普通の住民は近づかないらしいが、私にとってもここは憩いの場なので通うのをやめるつもりは更々ない。

 

そんな見慣れた店内を見渡すと、カウンターで横並びに座っているラグーン商会のダッチさん、ベニー、レヴィ、そして隣には見慣れない白シャツ姿の男性が座っているのが目に入った。

 

もしバラライカさんから聞いた新入りさんが彼なのであれば、私はこの街で初めて日本人に会うことにある。

 

こんな街に来る羽目になった同国人はどんな人なのか確かめてみよう、と止めていた足を動かしカウンターに向かう。

 

 

 

 

「――じゃあ、その人を巡ってマフィアと麻薬組織が争ったってことか?」

 

「ああ、しかもエセ紳士が連れてた子ネズミどもを一掃したのはあの姉御だ。騒動の後には“洋裁屋に手ぇ出すと三合会とホテル・モスクワに消される”って話で持ちきりだったよ」

 

「それは、怖いな」

 

「……」

 

二人が話している内容が耳に入り、大体何を話しているのか分かってしまい思わず顔が引き攣った。

ダッチさんとベニーはこちらに気づいているようだが、目の前の男女二人はどうやら気づいていない。

 

 

 

「はあ……レヴィ、その話あまりしてほしくないって私言わなかったっけ?」

 

 

ため息を一つ吐いてから話し込んでいる二人の背中に声をかける。

白シャツの男性は驚いたのか一瞬ビクッと肩を跳ねさせ、レヴィは「ようキキョウ」と口の端を上げた顔をこちらに向けた。

 

「お前が来るのが遅いから暇つぶしに楽しい話をしてやっただけだ。それに全部本当の事だろ?」

 

「私を巡ってマフィアが麻薬組織と争って後始末までしたっていうのが? 一万歩譲ってもそれはないから」

 

「悪かった悪かった、もうこの話は終いにするよ」

 

私の不機嫌さを感じ取ったのか相変わらず口の端を上げつつも半ば無理やり話を終わらせた。

そして、私の方を指さし隣の男性に再び声をかける。

 

「てなわけでロック、こいつが待ちに待ったお姫様だ。キキョウ、こいつはうちの新入りのロックっていうんだ。同じ日本人同士、仲良くしてやってくれ」

 

そう言うと、レヴィは隣に座ってやれと言わんばかりに自らの席を空け一つ隣に移動する。

「では、お隣失礼しますね」と一言断ってから未だにこちらを見たまま何も言わないロックと呼ばれた男性の隣に腰かける。

カウンター越しにいるバオさんと目が合うと、黙って『Jack Daniel’s』のボトルと氷の入ったグラスを出してくれた。

 

ボトルを開け、グラスに氷が浸かるまで酒を注いでから男性と顔を見合わせ口を開く。

 

「先ほどの話、あまり気になさらないでくださいね。あれは根も葉もないただの噂話ですから」

 

「そ、そうなんですか……えっと、あの」

 

顔を改めてみると、本当に日本人なんだなと実感する。そして今のスーツ姿も相まって日本のサラリーマン感が尋常じゃない。この街では所謂“浮く”格好だ。

 

そんなことを思いながらグラスを差し出し、その行動の意味に気づいた彼と打ち鳴らしたグラスの音が響く。

響きのいい音を堪能した後酒に口をつけ喉に通し、動揺しているのか落ち着きのないサラリーマン風の男性に再び話しかける。

 

「あ、自己紹介がまだでしたね。私はこの街でしがない洋裁屋を営んでるキキョウって言います。ま、覚えなくてもいいですよ」

 

「あ、その……俺は」

 

この人は何故こんなにどもってるんだ。私はただ挨拶しただけだというのに。

 

……あ、もしかして

 

もしかして、日本語の方が話しやすかったりしますか?

 

! ……いやその、想像してたのと少し違ってびっくりしてしまって。すみません

 

いいえ、謝ることじゃありませんよ。大抵ああいう話を聞いた人はもっと派手な人間を想像しますから、そういう反応は慣れっこです。……お名前を聞いてもよろしいですか?

 

えっと、岡島緑郎です

 

約6年ぶりに発した日本語に彼は安心したのかさっきよりも落ち着いて話してくれるようになった。

 

ああ、だからロックなのか。見た目は全然Rockじゃないのに、なんて思ったことは言わないでおこう。

 

なんというか、その意外でした

 

え?

 

貴女はどう見たって普通で、こんな街とは程遠そうな人間だなと。あ、そのすみません。失礼なことを

 

私からしたら貴方も意外ですよ岡島さん。なぜこの街に?

 

私は素直な疑問を岡島さんにぶつけた。

こんな無害そうな顔をして一体何をやらかしたのか気になってしまう。

 

まあ、言いたくないと言われたらそこで引き下がろう。

そう思っていたのだが、意外にも岡島さんはすんなりと答えてくれた。

 

実は、勤めていた会社に見捨てられまして。行くところがなくなってレヴィに誘われて……とまあそんな感じです

 

では、今までは普通に暮らしてきたということですか?

 

ええ、通勤するたび満員電車に揺られて、仕事が終われば酒を煽って。そんな普通の毎日でしたよ

 

日本に帰ろうとは思わないんですか

 

今のところ帰る予定は

 

……そうですか

 

今の話が本当なら、この人はあの平和な国で平凡に過ごしてきたごく普通の人間だ。

なぜ、そんな日常を捨ててまでこんな街に来たのか。

 

 

まあ、恐らくそんな普通に嫌気がさして刺激を求めてってところだろうが。

 

帰れるなら今すぐ帰れと言いたいところだが、彼の人生は彼の物だ。私がとやかく口を出すわけにもいかない。

 

 

 

 

喉まで来ていた言葉を飲み込むように再び酒に口をつけ体に染み渡らせる。

 

 

うん、やっぱりこのお酒は美味しい。

 

 

口に広がるほんのり甘い風味に浸っていると、岡島さんがなぜか私の顔をじっと見ていることに気が付いた。

 

あの岡島さん、私の顔に何かついてますか?

 

あ、いえ。その……すごく綺麗な目だなって。す、すみません……

 

そんな硬くならないでください。この街では数少ない日本人同士、仲良くしましょう

 

え、ええ。あの、キキョウさんはなぜこの街に?

 

その質問に思わず固まる。それを気取られないようすぐに顔を逸らし口を開く。

 

そうですね、私は

 

「おい、二人で盛り上がってるところ悪いが……なあキキョウ、そろそろアタシの相手をしてくれてもいいんじゃねえのか?」

 

岡島さんの質問に答えようとする私の言葉を遮ったのは、しばらく会話の外に放り出されつまんなさそうにしていたレヴィだった。

どう返答しようか迷っていたので、その横槍が今回ばかりは有難い。

 

胸を撫でおろし、少し不機嫌になっているレヴィに苦笑しながら声をかける。

 

「ごめんごめん、久々に日本人に会ったからついね。でもレヴィ、もうすでに何杯か飲んでるでしょ? その状態でするつもり?」

 

「当たり前だ。アタシが勝ったらこの間の飲み代全部返してもらうぞ」

 

「はいはい。じゃ、折角だし今回はラグーン商会全員分の飲み代も賭ける? レヴィが勝ったら私が前回の飲み代を返して、更に皆さんの飲み代も払う。で、私が勝ったらレヴィが私と皆さんの飲み代を払う。これでどう?」

 

「上等だ。おいバオ! ありったけの酒用意しとけよ!」

 

「懲りねえなお前も。今までキキョウにゃ一回も勝ったことねえ癖に」

 

「うるせえ! 今回勝つからいいんだよ!」

 

バオさんはレヴィの意気揚々とした姿に呆れていたがやめろとは言わなかった。

 

「すいませんダッチさん、勝手に巻き込んで」

 

「俺たちとしちゃどっちが勝っても飲み代がタダになるから文句はねえさ」

 

「というか、ほぼレヴィが払うの確定な気がするけどね」

 

「おいそれどういう意味だベニー!」

 

「そのままだよ」

 

ベニーの言葉に思わず苦笑する。

確かに一回も負けたことはないが今回は負けるかもしれないので、あまり自信を持ったことは言えない。

 

飲み比べでいつも飲むのはレヴィがよく好んで飲んでいる『BACARDI GOLD』だ。

私の好みから少し外れているが飲めないことはない程度。

 

そのボトルと新しいグラス二つをバオさんが私たちの前に出すと、レヴィは愉しそうにボトルを開けグラスに酒を注ぐ。

 

「よし、キキョウ。今日こそぜってえお前に勝つ」

 

「今日も楽しもうね、レヴィ」

 

私たちはそう言葉を交わし、互いのグラスをぶつけ響きのいい音を奏でた後ほぼ同じタイミングで一気に酒を呷った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ロック、今日はレヴィの奢りらしいからたくさん飲んどきなよ」

 

「いやベニー。まだレヴィが負けると決まったわけじゃ」

 

「さっきバオも言ってたろ? 一回も勝ったことがないって。つまりはそういうことだよ。なんなら賭けてみるかい? 僕はキキョウに2。ダッチは?」

 

「キキョウに3だ」

 

「ロックは?」

 

「……彼女、そんなに強いのか?」

 

「すぐに分かるよ。どうする?」

 

ロックは隣で酒を呷り続ける二人をちらりと覗き「レヴィに2」と呟く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――その3時間後のカウンターには、空になったBACARDI GOLDが十数本空いたところで潰れたレヴィとは反対に酔ったそぶり一つも見せないキキョウの姿があった。

 

酒に強い彼女が潰れているだけでなく、顔色一つ変えていない洋裁屋にロックは驚きが隠せなかった。

 

そして、隣で突っ伏している彼女を横目に「バオさん、新しいグラスとジャックダニエル出してもらっていいですか?」とまだ酒を飲もうとしているキキョウに開いた口が塞がらない。

 

そんなロックの肩にポンと手を置きベニーは声をかける。

 

「な? だから言ったろ」

 

「ああ、よく分かったよ」

 

 

隣でJack Daniel’sを飲み続ける彼女を横目に『この人と飲み比べは絶対しない』と会った初日で密かに心に誓うロックだった。

 

 

 

 





大変お待たせしました。これより、原作編開始です。
ここからが本番ですな。(ひえッ)






==キキョウの質問コーナー==
Q.好物は先に食べるタイプ?それとも後から食べるタイプ?

キ「後から食べます。最後に苦手なものを味わうのは嫌なので。」



Q.キキョウから見て、張が着ると似合いそうなカジュアル服ってどんなのがある?あの人のラフなスタイルの想像が今一つできなくて…。

キ「七分袖のシャツとジーンズっていうシンプルなものが似合いそうです。遊び心を加えたいなら、例えばデニム生地のシャツでボタンを空けて首元をゆったりさせる着方をするといいかもしれません。
張さんのように高身長で体つきがしっかりしてる方はダボっとしたものよりも、体のラインが分かりやすいものを着ると好印象になりやすいかと。
…まあ、彼がスーツ以外着るところなんて私にも想像できませんけどね。」



キキョウさんに聞きたいことは、活動報告の「なんでも答えるコーナーにて」


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2 住民との一時







レヴィと飲み比べが終わった後はいつも好きなお酒を飲んでいるので、勝負をふっかけてきた彼女が潰れてからもJack Daniel’sを続けて飲んでいた。隣で岡島さんが「うわ…」と信じられない顔をしていたが、私の飲みっぷりを見た人は皆同じような反応をするので最早気にしないことにしている。

 

 

そんな楽しいひと時を過ごしてから三週間後。

 

 

いつものように朝六時に起床し焦げ目のついたトーストとココアを胃に入れた後、2週間前に入った依頼の最後の仕上げを終わらせ出かける準備をしていた。

 

有難いことにここ数年で贔屓してくれる客も増え、今では一か月に一つくらいの頻度で新しい依頼が来る。

中には風俗店のオーナーや酒場の店主が従業員用の服をまとめて依頼してくることもある。

 

取り掛かっていた依頼もその内容で、飲み比べをしてから3日後にラチャダ・ストリートで風俗バーを営んでいるローワンという店主から従業員の服を10着ほど頼まれた。

 

ローワンさんは数か月に一回はこうやってまとまった依頼をしてきてくれるお得意様の一つなのだが、希望の服が「透けていてすぐ脱げるやつ」とか「胸を隠さない派手なドレス」など風俗店らしいもののためいつも頭を悩ませている。

 

一度「その専門の服屋に頼めばいいのでは?」と進言したのだが「アンタが作る代物が一番質がいいんだよ」となんとも断りづらい事を言われたので、今では特に何も言わず引き受けている。

 

 

そんなローワンさんから依頼された服が先ほど完成し、今から店に向かう。

あの店はローワンさんを始め従業員さんたちも皆いい人なのだが……

 

 

 

 

少し苦手だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――よーお洋裁屋! 待ってたぜえ」

 

 

20分ほど歩いたその風俗バーは何故か昼からもう営業している。

表のドアから入ると、天井輝いているミラーボールが店内を照らし、騒がしい音楽に合わせポールダンスを踊る女性たちと客の笑い声が響いている様が目に入る。

 

そんな店内の端の方にある大きなソファで両隣に胸を強調させている女性を侍らせ座っているアフロヘアーで黒人の男。

彼こそがこの店の主人ローワンである。

 

 

視線が合った瞬間、手を大きく振り「待ってたぜ」と声をかけられたので真っすぐ向かい依頼された服を手渡す。

 

「お忙しいときにすみません。……これが頼まれてたものです、直してほしいところがあれば言ってください」

 

「いつも仕事が早くて助かるヨ」

 

「貴方が依頼するものは布をあまり使いませんから」

 

そもそもこれは服と呼べるのか、という疑問は心の内に留めておこう。

 

「ねえローワン、今回はどんな衣装頼んでくれたの?」

 

「そりゃとびっきり派手で最高なモンだよ。今回もちゃあんと注文通りに作ってくれたんだろお?」

 

「ええ。“派手でラインがはっきりしてて且つ魅力的”という要望に私なりに応えたものです」

 

こんな無茶ぶり勘弁してほしいとは思ったが、礼は弾むと言われたのでそれならと承諾した。

 

黒で光沢のある皮素材とレースで作ったキャミソール型。

胸の谷間からへその上までV字にカットし、空いた部分に花模様の薄いレースを。衣装ということで少しでもサイズの調整が利くよう背中は細い紐で編み上げを施している。

 

こういう類の服はこの街に来てから作り始めたもので慣れていない。

そのため、考えに考えて仕立てたので、恐らく希望通りになっている…はずだ。

 

この2週間のことを思い返すと頭が痛くなった気がしたので、こめかみを押し痛みを和らげてから服が入っている紙袋の中身を見ているローワンさんに声をかける。

 

 

「あと、人を選んで作ってないので似合わない人も」

 

「“似合わない人もいるからそれは理解しろ”だろ? 分かってるよお。頼むたびに言われてんだ、これ以上聞いたら耳にタコができちまう」

 

「なら結構です」

 

 

私が毎回小言のように言うその言葉をローワンさんは軽く流した。

本当に分かっているのかは知らないが、一応言ったので後で“似合わない人がいる”など文句を言われても聞かない。

 

 

「ホレ、今回の依頼料だ。いつもより多めに入れといたぜ」

 

「ありがとうございます」

 

ローワンさんはジャケットの内ポケットから取り出した厚みのある封筒を渡してきた。

 

「確認しても?」

 

「どうぞお」

 

封筒をもらってから一言断り、その場で封筒を開け金が入っていることを確認する。

 

 

一度、過去に金だと思ったらただの紙だったということがあり、パトロンである彼から「お前の不注意も悪い」とお説教を食らったことがある。

それからは依頼料を金で受け取ったときのこの確認作業を怠ったことはない。

 

この歳で不注意による説教をされるのはもう御免だ。

 

「確かに受け取りました。……では、私はこれで失れ」

 

「えー洋裁屋さんもう帰っちゃうの? どうせなら少し飲んでいってよ」

 

「そうよ、たまには私たちともお話してチョーダイ」

 

私が依頼料を受け取りここに残る理由もないため帰ろうとしたとき、ローワンさんの隣に座っていた女性二人が話しかけてきた。

 

「えーと、実はまだ依頼が立て込んでて今すぐにでも取り掛かりたいんですよねえ」

 

「一杯くらいいじゃない。マダム・フローラの子たちとはよく絡んでるって聞くわよお?」

 

「アタシたちとは飲んでくれないの?」

 

彼女たちはそう言いながらソファから腰を上げ何故か私の隣に立ち、あろうことか逃げれる間もなく両腕を掴んでくる。

二人とも肩が凝りそうな胸の持ち主なので、当然柔らかい感触が腕を包んでいる。

 

女同士なので特に何も思わないが、この状況に思わず苦笑しながら口を開く。

 

「マダムにはよくお世話になってるので付き合いがあるのは当然ですよ。というか、この前も一杯付き合ったじゃないですか」

 

「本当に一杯だけ飲んで帰っちゃうんだもの。飲み代はローワンが奢ってくれるし、いいでしょ?」

 

「そうそう、女同士楽しくお話ししましょうよ」

 

「いや、そんな勝手にローワンさんの奢りだなんて言わない方が」

 

「アンタには世話になってるからな、別に構わねえヨ。それに、ここの女はみんなアンタと話したがってる。付き合ってやってくれよお」

 

ああ、またこのパターンだ。

 

 

実は私がこの店を苦手な理由もそこにある。

 

何故かは知らないが、ここの人たちは私に興味があるらしくいつも服を届ける度に「ここで飲んでいけ」、「話をしよう」と引き留められている。

 

この店で飲むことに抵抗はないのだが、問題は引き留め方だ。

 

こうやって逃げることを許さないように二人がかりでがっしりと腕を掴み、引き摺ってでも飲ませようとするのだ。

 

飲むのも話すのも構わないのだが、強引なやり方はあまり好きではない。

 

何回も「こういう誘い方は好きじゃない」と言っているのだが、「そうでもしないと飲んでくれないでしょ?」と全くやめる気配がない。

そして、さっきはああいったが依頼はすべて終わらせているので立て込んでいるどころかやるべきことがない。

 

最早私が折れるしかないと、一息ついてから口を開く。

 

「……私結構飲みますよ。それでもいいんですか?」

 

「店の酒を飲みつくさない程度で頼むぜ」

 

「さ、座って座って」

 

「何から飲む?」

 

私の諦めの言葉を聞いて、両隣の女性は腕をつかんだままローワンさんと向かい合う形で椅子に座らせられる。

そして、乾杯し一息つく間もなく騒がしいBGMに加えられる女性特有のマシンガントーク。これが何時間も続くのがここの恒例行事。

 

 

 

 

――申し訳ないが、やはりこの店は苦手だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 

――中心街から少し離れた小高い丘。そこには街全体を見下ろすように立っている一つの建物がある。

そこは神に祈りを捧げる神聖な場であるはずが、この街ではそれとは違う役割を果たしている場所。

 

 

リップオフ教会。通称“暴力教会”

 

 

マフィア達に統制されているこの街にも規律というものが存在し、その規律を破る者には支配者たちからの裁きが下る。

その破ってはいけない規律の中に“暴力教会以外で銃を売ってはならない”ことも含まれている。

 

三合会認可の下、この街で唯一武器の調達を許されており、住民達が武器を買い求める場所が暴力教会だ。

 

 

今日はそんな神に愛されないであろう教会に用があるため、紙袋を手に少しばかり長い道のりを辿っている。

平坦な道をまっすぐ歩き、最後の緩い坂道を上れば白い教会が目の前に姿を現す。

 

そのまま入り口となっている大きな木製のドアを3回ノックし、建物が大きいのでいつもより張った声で呼び掛けた。

 

「洋裁屋キキョウです。シスターヨランダはいらっしゃいますでしょうか?」

 

しかし、中から反応はない。

 

 

なのでもう一度ノックをしようとしたその瞬間ドアが開き、中からフォックススタイルのサングラスをかけた私よりも背の高いシスター服姿の女性が現れた。

 

「よおキキョウ、ひっさしぶりだなあ。景気はどうだ?」

 

「久しぶりエダ。景気は、まあまあかな」

 

彼女は数年前にこの街にやってきた“シスターエダ”。

暴力教会で働いている一人。

 

たまに“何らかの騒動”に巻き込まれて服をダメにしてしまった時などに修繕してほしいと依頼が来る。

私が仕立てたシスター服に穴をこさえる度満面の笑みで依頼してくるのは考え物だが、彼女のそんなお調子者感は嫌いじゃない。

 

「シスターヨランダは?」

 

「シスターはちょーっとした用事で留守だよ」

 

「そっか。――じゃあ、これ代わりに渡しといてくれる?」

 

今回の依頼、“使い古されたシスター服の修繕”が終わったので渡しに来たのだが、どうやら今日はタイミングが悪かったらしい。

 

なら仕方ないとエダに紙袋を渡そうとしたのだが、「まあ待ちなよ」とその行動を遮られる。

 

「そんな大した用でもねえしすぐ帰ってくると思うぜ。中で待っときな」

 

「部外者が長居するのはあまりよろしくないんじゃないの?」

 

「いいんだよ。逆にあんたをこんまま帰したら、あたしがシスターに大目玉食らっちまう。待っている間あたしが話し相手なってやるからさ」

 

「……本音は?」

 

「暇すぎて死んじゃいそう」

 

だろうと思った。

 

相変わらずのお調子者ぶりに本当にシスターなのか疑問に思うが、それは気にしたほうが負けな気がする。

 

 

一つ息を吐いて、エダに招かれるまま教会の中へ足を運ばせた。

 

 

 

 

 

 

 

「――で、最近どうなのよお? あのパトロン様とは」

 

神に祈りをささげる場所であるはずの礼拝堂。その奥には一つの教壇があり、それをはさむような形で椅子に座りエダと二人で話をしている。

教壇の上にはどこから持ってきたのか酒瓶が転がっており、私が来る前も目の前のシスターは飲んでいたようだ。そして今も新たな酒瓶を生み出そうと酒を呷り続けている。

 

ちなみに私はここで飲むのは気が進まないので酒に口をつけていない。

 

テーブルに肘をつき、エダの質問にすぐさま答えを返す。

 

「相変わらずだよ。今でもよくお世話になってる」

 

「そういう話じゃねえよ。もうヤッたのかヤッてねえのかって話だ」

 

「ねえ、エダ。その話題毎回のように出すのやめない?」

 

「いいじゃねえかよ、減るもんじゃないんだしさ。で、実際どうなのよ?」

 

こういう猥談が好きなのか、エダは私と二人で話すとき必ずと言っていいほどその話題を出してくる。

ステンドグラスが輝いている教会の広間では話さないような話題を、酒を片手にニヤニヤと切り出すその様に最早呆れつつある。

 

「……するわけないでしょ」

 

「おいおいおいおい、まさかまだ抱かれてねえのか? よく二人で飲んでんだろ?」

 

「そういうときは酒飲んで話して、それで終わり。その後は普通に帰るよ」

 

「ッはあーつまんねえな。男と女がやるこたあ一つだってのに」

 

「あのね何回も言ってるけど私と彼はそんなんじゃない。これからもそうだよ」

 

「分かんねえぞ? “手が入れば足も入る”。ひょんなことであんたとパトロン様の関係が一気に深く」

 

「ならないから。――そろそろ酒片づけたら? またシスターに怒られるよ」

 

 

とっととこの話題から抜け出そうと、目の前に乱雑に置かれている酒瓶達に指をさす。

 

 

「大丈夫だって。帰ってくるまでもう少し時間が」

 

「やれやれ、あたしゃただの留守を頼んでいたはずだが」

 

唐突に飛んできた声からは皺がれているものの威厳がはっきりと伝わってくる。

再び酒を飲もうとしたエダの体が固まった。

 

「ここで酒をやっていいなんて一言も言った覚えはないねえエダ」

 

「いやその、あーっと……シスターこれは」

 

こちらに段々近づいてくる人物に、エダは顔を引きつらせながら必死に言い訳を紡ごうとあたふたしている。

そんな彼女を横目に、持ってきていた紙袋を手にし腰を上げた。

 

「お留守でしたので勝手にお邪魔しております。ご迷惑でしたでしょうか?」

 

「アタシらとお前さんの仲だ、別に構わないよ」

 

「ありがとうございます。それと、これが依頼されていたものです」

 

軽い挨拶を交わし手にしていた紙袋を差し出すと、シスター服に身を包んだ眼帯の老シスターが微笑みを浮かべながら受け取ってくれる。

 

「相変わらず仕事が早い。どうだい、依頼料の手渡しも含めて茶でも飲みながらゆっくり話そうじゃないか」

 

「では、お言葉に甘えて」

 

「エダ、そこにある酒全部片づけときな。――おいでキキョウ」

 

困ったように眉尻を下げているエダに苦笑いを送ると頭を掻いてため息をついていた。

その漏れた息の音を耳に入れ、礼拝堂の奥にあるドアに向かっていくシスターの後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

――暴力教会のボスである大シスター、“シスターヨランダ”。

年の功からか常に余裕の微笑みを貼り付けている。それに加え眼帯をつけているのもあり、何を考えているか分からない。

 

そんな彼女は今となっては私の得意先の一つであり、仕事以外でもよく紅茶を飲む仲。

有難いことに、比較的可愛がってもらっている方である。

 

礼拝堂から直接繋がっている応接間のような部屋で、今日もシスターが淹れてくれた紅茶に口をつけた。

 

「シスター、今日の紅茶は……アールグレイですか?」

 

「正解だ。最初は紅茶の種類さえ知らなかったってのに、あんたも味が分かるようになったねえ」

 

「ここへ来るたび紅茶をご馳走してもらってますから、そのおかげですよきっと」

 

「フッ。――さて、これがアンタが注文してきた品だよ」

 

シスターの言葉とともに、机に置かれていた白い箱を目の前に差し出される。

 

「確認しても?」

 

「構わないよ」

 

了解を得て、そのまま箱の蓋を開ける。

 

そこには、黒い取っ手の部分には誰も触れられておらず、刃の部分は顔が映るほど磨かれている新品の裁ちばさみが一つ入っていた。

手に取ってみると持ちなれた重さが手にかかり、口の端が上がる。

 

「ありがとうございます、急な注文にも応えてくださって」

 

「それがアンタの出した報酬だからね、用意するのは当然さ。……それにしても、商売道具はもっと大切にした方がいいんじゃないのかい?」

 

「日頃から気を遣っているんですが……。まさか一回落としただけでああなるとは」

 

 

つい一週間前の出来事だ。

 

洋裁屋にとって重要な道具の一つ、裁ちばさみを不注意で落としてしまった。

 

まだそれだけならよかった。

 

毎日念入りなチェックと手入れをしているが、それでも使い続ければ道具は劣化していく。

落としてしまったことによって刃の部分が歪み、接合部分がずれ開閉できないという、もはや鋏としての役割を担えない代物へと成り果てた。

 

長年愛用していた裁ちばさみを思わぬところで手放さなくてはならなくなったところに、丁度シスターからの依頼。

 

シスター服の状態では糸と針で事足りるものだったので依頼を請け負い、その代わりに依頼料として質のいい裁ち鋏を注文。

 

 

それが、今目の前にある品だ。

 

 

「ま、道具には寿命がつきものさね。これがいい機会だったと思っときな」

 

「そうですね。――では、そろそろお暇致します。紅茶おいしかったです」

 

「そりゃよかった。アタシと茶会をしてくれるのは今のところアンタだけだからね、またいつでも紅茶飲みにおいで」

 

「ええ、ぜひまたゆっくり話しましょう。では、失礼いたします」

 

残っていた紅茶を飲み干し、正直な感想を述べるとシスターは柔和な微笑みを見せてくれた。紅茶好きにとっては、自分が淹れた紅茶を褒めてくれることが何より嬉しいのかもしれない。

 

ドアを開け軽く会釈をし、紅茶の香りが漂っている部屋を後にする。

 

礼拝堂に戻り、帰ろうとする私に「また今度一杯付き合えよ」と軽い口調で声をかけてきたエダへ「ここじゃなくて、酒場だったらいいよ」と返し、そのまま教会の外へ足を運ぶ。

 

 

 

彼女たちとは、これからもいい付き合いができそうだ。

 

 

 

 

 

 




=質問コーナー=
Q.キキョウさんの好きな食べ物は何ですか?また、レヴィとダッチについて一言お願いします。


キ「甘いものは全般的に好きです。特に好きなのはチョコレートなんですが、手が汚れてしまうので滅多に食べません。なのでいつも代わりにココアを飲んでます。

レヴィは飲み仲間としてこれからも気が向いたら一杯付き合ってくれると嬉しいかな。
ダッチさんとはこれからも“いいお付き合い”をしていきたいですね。」




いつもコメントありがとうございます。これからも質問お待ちしてますッ。


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3 和して同ぜず

――久々に立て続けに舞い込んできた複数の依頼を昨日終わらせたおかげで、今日は特に予定もない。

なので。久々に暇つぶしと練習もかねてカサブランカが二輪刺繍されたハンカチを作っている。

 

何もない時は、こうやって刺繍をするか自由に服を作って時間を潰すのが習慣だ。

 

 

時計を見ると針が13時を示している。

手を止めて昼食を摂ろうと自室に向かおうと腰を上げた。

 

 

 

そのまま作業場を出る一歩手前で、表のドアを叩く音が三回。

 

 

 

来客を告げるその音に『新たな依頼だろうか』と自室に向かっていた足を止めた。

こういう時は敢えてこちらからは声をかけず、一体何の用でここに来たのかドアの向こうにいる人物から発せられるまで待つと決めている。

 

だから今回も用心深く待とうと身構えた。

 

「キキョウちゃんいるー?」

 

瞬間飛んできたのは、聞きなれた呼び方とどこか軽さを含んでいる女性の声。

その呼びかけに帯びていた緊張を解き、足を動かしドアを開ける。

 

 

そこには、切れ長の目、真っ赤な唇、長い黒髪をポニーテールでまとめ、灰色のキャミソールに足のラインがはっきり分かるジーンズという背の高い細身の女性が立っていた。

 

「相変わらず可愛いわねえ、ほんと」

 

 

私の顔を見るなり開口一番ニコやかにそう言葉を発した女性に言葉を返す。

 

 

「挨拶代わりに毎回“可愛い”っていうのはやめてくださいよ」

 

「いいじゃない、アナタ可愛いんだから」

 

「……それで、どうされたんですかリンさん」

 

 

彼女の名前は“林 翠蘭(リン スイラン)”。

三合会に雇われている闇医者だ。

その腕は確かなようで、三合会以外からもよく依頼が来るらしい。

 

私もリンさんに一時期世話になったことがあり、今でも仲良くさせてもらっている。

が、顔を合わせるたびに『可愛い』と言ってくるのは勘弁してほしい。

 

 

「フフッ、今日は暇だからキキョウちゃんをデートに誘おうと思って」

 

「デート? それはまた急なお誘いですね」

 

リンさんはたまにこうして時間ができたりすると私を外へ連れ出そうとしてくる。

腕のいい医者として割と忙しいからか気分転換があまりできないらしい。

だから『可愛い女の子とお出かけ』することによって普段のストレスを発散している、と彼女自身が言っていた。

 

「アタシが忙しいの知ってるでしょ? もしかしてこの後予定があったりする?」

 

「いえ、そういうわけでは」

 

「ならよかったわ! じゃあ早速付き合ってくれる?」

 

優しく声音で聞いてくる表情はとても柔らかいものだった。

 

断る理由もなく、その笑みにつられるように口の端を上げながら肯定の言葉を投げかけると、柔らかい微笑みに嬉しそうな表情が加わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――疲れた。本当に疲れた。

 

久々のお出かけだったのか、妙にテンションが高いリンさんにデパートやら普通の市場やら連れまわされること七時間。

職業柄もあり、普段家に籠りきりの私にとって長時間外を歩き回るのは相当疲労が溜まる行為だ。

 

そして、リンさんはテンションが高くなると走ったり、競歩か!と思うほど異様に歩調が速くなったりする。

 

「リ、リンさん……」

 

「なあに?」

 

「もうそろそろ帰りませんか? ほら、もうすぐ日も暮れますし」

 

私は運動もしないので当然体力がなく、これ以上歩き回るのは少ししんどい。

なので、申し訳ないが出かける前と変わらないテンションで前を行くリンさんに疲れきった声で“お出かけの終了”を提案する。

 

 

「そうねえ。――じゃあ、あと一軒だけ付き合ってくれる?」

 

まだあるのか!?

 

……と叫びそうになったが寸でのところで言葉を飲み込む。

 

「……分かりました」

 

「ありがと。これで本当に最後だから」

 

私の憔悴しきっている顔を見たからか、子供をあやすような言葉を投げかける。

 

「じゃ、行きましょうっ」

 

そう言ってリンさんは私の腕を掴み、足取りが重い私を引っ張るように再び歩き始める。

抵抗せず、ただひたすらリンさんに連れられるまま私も足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――おいロック。いつになったらそのだっせえホワイトカラーを脱ぐ気になるんだよ?」

 

「何回も言ってるだろ。これが一番落ち着くんだよ」

 

「この際だ、どうせなら仕立ててもらえよ。お前が気になってしょうがないキキョウさんによ」

 

「うるさいな、いいんだよこれで。あと彼女のことは気になってない」

 

イエローフラッグという酒場で、俺は仕事仲間の一人であるレヴィとカウンターで飲んでいた。

 

俺がラグーン商会に入ってからもうそろそろ3か月。銃声が毎日響き、死体が身近に転がっているこの街の雰囲気にも慣れつつあった。

その証拠に最初イエローフラッグに来たときは世紀末の酒場かと疑ったが、今では何も不思議に思わなくなっている。

 

レヴィは俺のあしらいをものともせず、更に言葉を投げかけてきた。

 

「は、よく言うぜ。ここに来るたび辺りを見渡して。まるで“人を探してる”ように見えるのはアタシの気のせいかい?」

 

「……気のせいだよ」

 

いや、気のせいじゃない。

レヴィの言う通り、俺はここへ足を運ぶたびに常連だと聞いた“ある人”がいないか周りを見ていた。

 

 

 

 

 

――その人と会ったのは丁度一か月前。

 

仕事もなく暇を持て余していた俺とダッチ、ベニーが事務所でゆっくりしていると、レヴィが急に“イエローフラッグ”へ行こうと言い出したことがきっかけだった。

 

内容はある人に“勝負”を挑むというもの。

二挺拳銃と呼ばれ、腕の立つレヴィが勝負を自ら挑みに行くほどなのであればどれほど強い人なのだろうと思ったが、どうもそういう物騒な勝負ではないらしい。

 

 

話を聞けば、その人は洋裁屋で武器も権力も持っていない。

だが、この街の支配者たち全員から殺されかけたにも関わらず生き延びている。

 

どこの映画の話だと思ったが、ダッチやベニーも否定どころか肯定する始末。

 

これだけでも驚いたというのに、更に驚く事実を聞かされた。

 

それは、俺と同じ日本人だということ。

 

武器もない。権力もない。挙句の果てには遥々平和な島国からやってきた。

この共通点が揃い“会って話してみたい”、“この街で唯一話が合うかもしれない”という思いが募るのは自然な事だった。

 

そしてイエローフラッグのカウンターでその人を待っている間レヴィと話をしていると、後ろから声をかけられた。

レヴィが話してくれた5年前に起きた“エセ紳士の暴走”についての話が気に食わなかったらしく少し不機嫌気味な声だったが、どこか柔らかさを帯びていたように思う。

 

待ちに待った同国人の顔を拝もうと声の方向に振り向くと――

 

 

 

そこにはツヤのある黒髪、どこか引き込まれそうなほど純粋な黒の瞳をした日本人の女性が立っていた。

 

 

正直、同じ日本人でもとんでもない派手な人間なのではないかと思っていたのもあり拍子抜けだった。

 

そのせいか挨拶を交わすことを忘れ、彼女から声をかけられてハッとする。

 

 

俺の隣に座った彼女が何も注文していないにも関わらず、酒場の店主はさも当たり前のように『Jack Daniel’s』と書かれたボトルと氷の入ったグラスを無言でカウンターに置いた。

 

『そういえばダッチがここの“常連”だと言っていたな』と、一連の流れにも納得していた時、彼女は酒を注いだ自身のグラスを徐に差し出してきた。

 

 

その行動の意味を汲み取り、響きのいいグラスの音を奏でた後彼女が美味しそうに酒を飲む。

その様があまりにも穏やか過ぎて、俺は挨拶の仕方を忘れたかのようになんと声をかけたらいいか分からなかった。

 

なぜ自分がこんな風になっているのか分からなかったが、俺のヘンな様子に気を遣ったのか彼女の方から自己紹介してきた。

 

 

 

 

“キキョウ”

 

 

 

花の名前でもあるその単語を、脳にしっかり焼き付けてから自身も名乗ろうとするが緊張して言葉が途切れ途切れになってしまう。

自分でも分かるほど明らかな挙動不審さに、キキョウさんは俺が英語が苦手だという考えに至ったらしく日本語で話かけてくれた。

 

親しみある言語のおかげか少し緊張が解け、やっとまともに言葉を発する。

 

 

自己紹介を済ませたところで、思わず想像していたのと違う、と口走ると苦笑気味に「慣れてますよ」と返された。

 

そのあと、ここへ来た理由を問われ正直に伝えたところ“日本へ帰らないのか”という問いをされた。今のところ予定はないと伝えると、キキョウさんはただ「そうですか」と一言返し、それ以上は何も言わず酒に口をつけていた。

 

その時妙な間が空いていたが、それには構わず俺も純粋な疑問を彼女にぶつけたところで、本来何の用事で来ていたのかを思い出させるように、レヴィが横から声をかけたことによって俺とキキョウさんの世間話は終了した。

 

 

あの後俺の中にはまた話したいという思いが残り、イエローフラッグへ足を運ぶ度に常連である彼女が来ていないか無意識のうちに探すようになった。

 

 

 

 

――それをレヴィにとっくに気づかれていて、指摘されたことがなんだか気恥ずかしく思わず気にしていないと告げる。

 

「なんだよ、別に恥ずかしがる事でもねえだろ。なんならこのレベッカ姉さんがお目当てのキキョウさんに会わせてやろうかあ?」

 

「だから気になってないって言ってるだろ。いい加減しつこいぞレヴィ」

 

ニヤニヤとこっちを見ながら「それは悪うございましたね」とほざく仕事仲間に心の中で舌打ちしながら、俺もグラスの中の酒を一気に飲み干した。

 

 

 

 

 

「――レヴィ? レヴィじゃない!?」

 

 

 

 

その時、妙にテンションの高い女性の声がレヴィの名前を呼んだ。

彼女も唐突に自分の名前を呼ばれたことに「あ?」と声が飛んできた方向を見る。

 

俺もほぼ同じタイミングで後ろを振り返り、声の主が誰なのか目で確かめる。

 

そこには、切れ長の目に長い黒髪をポニーテールでまとめた背の高い女性が満面の笑みを浮かべ目をキラキラさせてこちらを見ていた。正確にはレヴィの方を。

 

中国系の顔つきをしているその女性を見た瞬間、レヴィが「げッ!」とあからさまに嫌悪するような声を出す。

そんな反応を意にも介さず、女性は突然走り出し熱いハグをレヴィに食らわせた。

 

「久しぶりー!! 会いたかったわアタシの“二挺拳銃ちゃん”!!」

 

「リ、リン! なんでてめえが……!」

 

「アタシだってここでお酒飲みたくなることくらいあるわよっ。それにしてもまたグラマラスになったんじゃない!? ねえそうでしょ!」

 

「くっつくな! 離れろ!!」

 

「なんでそんなこと言うのよ! いいじゃなーいアタシとアナタの仲でしょ!」

 

「気色ワリぃこと言うなこのビアンが!!」

 

「もう冷たいわねー。前はもっと素直……って、あら?」

 

俺は一体何を見せられているのだろうか。

 

 

 

唐突に目の前で顔が整っている方である女性同士のやり取りを見せられて唖然としていると、リンと呼ばれた女性がやっと俺に気づいた。

瞬間、嫌悪感を前面に出しているレヴィから罵声を浴びせられても尚崩さなかった満面の笑みが消える。

 

 

 

 

「――ねえ二挺拳銃、図々しくアナタの隣に座ってるこの男はどちら様かしら?」

 

 

 

先ほどの明るく上機嫌な声とは正反対の冷めた声と鋭い視線。

隠されることもなく向けられる明らかな敵意に思わず委縮する。

 

「そいつはうちの新入りだ。噂ぐらい知ってんだろ?」

 

「ああ、そう。アナタが。……ふうん」

 

「え、えっと……」

 

こちらをじっと見つめる女性の鋭い視線にたじろいでしまう。

 

「噂通りってところね。それで、レヴィとはどういう関係なのかしら?」

 

「ど、どういう関係……といいますと?」

 

「質問を質問で返さないで頂戴。さっさと答えて」

 

冷たく言い放たれた言葉に理不尽を感じたが、口答えを許さない雰囲気というのもあり何が正解か分からないが、比較的平和に終わらせられるであろう言葉を出す。

 

「ただの仕事仲間、です」

 

「レヴィ?」

 

「そうだよ」

 

「……そう。ま、いいわ」

 

 

何を疑っているのか分からないが、俺とレヴィの返答を聞いてひとまず納得したようだ。

 

なんなんだ、一体。

 

 

 

「じゃ、二挺拳銃ちゃん! 折角だから三人で飲みましょう!!」

 

また上機嫌になった彼女がレヴィを抱きしめながら飲みの席を共にしようという提案をしてきた。

正直、理不尽にもほどがある挨拶をしてきた相手と飲みたくはない。

 

彼女の言葉に「あ?」とレヴィがなにやら意外そうな声を出す。

 

「珍しいな、お前が男を飲みに誘うなんざ」

 

「え、何言ってるの。三人っていうのは」

 

「リンさん、あまり彼をいじめないであげてください」

 

突然背後から飛んできた声が、リンという女性の言葉を遮った。

 

 

 

 

 

 

耳に響いたのは一か月前にこの場所で聞いた柔らかい声。

 

 

 

 

バッと声の方へ振り向くと、呆れながらこちらを見ている女性が立っていた。

 

 

 

それは、俺がこの一か月無意識のうちに探していたその人で。

見た瞬間、俺の中には嬉しさのような感覚が巡る。

 

 

 

 

――ああ、やっと会えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――

 

 

「最後の一軒」と言ってリンさんが連れてきたのはイエローフラッグ。

 

リンさんはもっと落ち着いた雰囲気の酒場を好んでいるはずなのだが「急なお誘いに付き合ってくれたお礼」と、デートの締めとしてここを選んだらしい。

これが彼女なりの気遣いなのだろうとその言葉に甘え、日が沈んで間もないにもかかわらず既に賑やかな雰囲気に包まれている酒場へと足を踏み入れた。

 

 

 

「相変わらず賑やかねえ」とリンさんがあたりを見渡していると、ふとその行動を停止させある一定の方向を凝視していた。

 

目線の先を追っていくと、カウンターに見覚えのあるタンクトップに長髪の赤毛の女性と白シャツで黒髪の男性の後姿が。

 

 

 

あれは――レヴィと岡島さん?

 

 

あの後姿を見るのは一ヵ月ぶりくらいか。

レヴィもよくここへ飲みに来る常連の一人。恐らく、岡島さんはレヴィの一杯に付き合わされて一緒にいるのだろう。

 

 

 

「……レヴィ? レヴィじゃない!?」

 

 

リンさんは嬉しそうな声を上げ、いつの間にか勢いよく走りだしレヴィに思いっきり抱きついた。

 

「久しぶりー!! 会いたかったわアタシの“二挺拳銃ちゃん”!!」

 

「リ、リン! なんでてめえが……!」

 

リンさんはレヴィの事も相当可愛がっているようで、会える頻度が少ないためかその時間を埋めるようにこうして毎回熱い抱擁を食らわせている。

レヴィはその挨拶がよほど気に食わないらしく、抱きつかれるたび引きはがそうともがくがリンさんの執拗なひっつきが勝り離すことができない。

 

 

ということを何十回も見ているので、私としては見慣れた光景。

 

 

だが、隣に座っている置いてけぼりの岡島さんはそうではない。

まさしく開いた口が塞がらないようで、驚きで唖然としている。

 

レヴィとの攻防を繰り返していたリンさんが、その岡島さんにようやく気付き「…あら?」と動きを止めた。

 

 

 

 

「……ねえ二挺拳銃、図々しくアナタの隣に座ってるこの男はどちら様かしら?」

 

 

 

 

レヴィに抱き着いていった時のテンションを大幅に下げ、鋭い目線と冷たい声音を岡島さんへ送っている。

 

 

――ああ、また始まった。

 

 

 

これはリンさんの悪い癖でもある。

 

 

 

実はこの人、相当な男嫌いなのだ。

 

 

 

医者の仕事を請け負うときも、男に対しては報酬が高く、大金を持っている人物しか治療しないが、女性は格安で請け負うこともある。

 

例として『もし女性が頬に傷、男性が刃物で刺されている現場に遭遇したらどっちを先に手当てするか』という質問をしたら、一瞬の躊躇なく『女性』と答えるような医者。

 

 

 

それが理由でついた呼び名が「闇医者ビアン」。

 

 

 

その呼び名にリンさんは「ただ男が嫌いなだけ」と言っているが、あまり気にしてはいないようだ。

 

 

 

そんな男嫌いが岡島さんを例外にして敵意をむき出しにしない訳もなく、通常運転でレヴィの隣に座る同国人へ理不尽な態度を取っている。

何も知らない側からすれば、初対面の人に何故こんな理不尽を味わわされているのか理解に苦しむのが普通だ。

 

「じゃ、二挺拳銃ちゃん! 折角だから三人で飲みましょう!!

 

「あ?珍しいな、お前が男を飲みに誘うなんざ」

 

 

ひとまず岡島さんへの尋問を終わらせたリンさんがまた元のテンションに戻り言葉を発する。

誘いの言葉に岡島さんは複雑そうな顔を見せた。が、リンさんが男を飲みに誘うのは珍しいどころかありえない。

だからきっと、その三人の中に岡島さんは含まれていないはずだ。

 

 

 

ここまでくるともはや不憫でしかない。

 

 

 

「え、何言ってるの。三人っていうのは」

 

「リンさん、あまり彼をいじめないであげてください」

 

同じ日本人として少しくらい助け舟を出そうとリンさんの言葉を遮ると、岡島さんが勢いよくこちらを振り向いた。

 

 

私の姿を捉えた途端に少し嬉しそうな顔を浮かべたのは、きっとこの状況から脱せるという安心感から来ているのかもしれない。

その期待に応えられるか自信はないが何もしないよりはマシだろう。

 

 

 

「男性に対してそういう態度をとるのは貴女の悪い癖ですよ」

 

「あら、アタシは少しお話してただけよ?」

 

「私の目には理不尽に当たっているようにしか見えませんでしたが」

 

「しょうがないじゃない。アタシの二挺拳銃ちゃんの隣に見知らぬ男がいたら警戒心を向けるのは当然でしょ?」

 

「貴女のは警戒心じゃなくて殺意に近いですよ」

 

「随分この男に優しいのね。同じ日本人だから?」

 

「同郷の者と仲良くしたいと思うのはいけませんか?」

 

 

そう言葉を発しながらなぜまた岡島さんを睨んでいるのか。

おかげで嬉しそうな顔が引っ込みすっかり委縮してしまっている。

 

 

「おいリン! てめえいい加減離せ!!」

 

リンさんと押し問答していると、未だ体に巻き付いている手から逃れようと再びレヴィがもがき始めた。

その抵抗になぜか微笑みを浮かべ「あらあら」と言いながら逃がさないよう上手く絡んでいく。

 

 

この人、実は医術以外にも何か極めているのではないかと思うのはこれで何度目だろうか。

 

「しつけえんだよこのクソビアン!」

 

「いいじゃない、たまにしか会えないんだし! はいぎゅうーッ!」

 

「ぐえッ」

 

カウンターでドタバタとしている二人に苦笑を洩らし、その隣で困惑顔を浮かべている岡島さんに声をかける。

 

お久しぶりです、岡島さん

 

あ……お久しぶりです

 

こういう時は彼も気楽に話せる日本語の方がいいだろう。

そう判断し、あの時のように故郷の言語で話しかける。

 

彼女……リンさんは男性に対して少し厳しい人でして、男性と話すときはいつもああいう態度になるんです。だからあまり気になさらないでください

 

はあ

 

あんな態度を取られた後では気にしない方がおかしいが気休め程度にはなるだろう。

 

 

それが功を奏したのか、先ほどよりは困惑が薄れた表情に変わっていった。

 

「……あのキキョウさん、俺英語でも大丈夫ですよ?」

 

「え、そうなんですか? 私はてっきり」

 

流暢な英語を彼の口から聞かされ少し驚いた。

苦手じゃなかったのか……。

 

「すみません、誤解させるようなことを」

 

「いえいえ。――お隣いいですか?」

 

「あ、どうぞ」

 

きっと、あの時は同じ日本人ということに驚いただけだったのだろう。そう結論付けあまり気にしないことにする。

一言断りをいれてから岡島さんの隣に腰かけると、いつものようにバオさんがすかさずJack Daniel’sと氷入りのグラスを出してくれた。

 

 

「すみませんバオさん、騒がしくて」

 

「いつものことだ。おめえさんが気にすることじゃねえ」

 

やはり常連に優しいなこの人は。

 

気前のいい店主の心遣いに口の端を上げ、グラスの中に酒を満たしていく。

 

あの時のようにグラスを差し出すと、彼も自身のグラスを持つ。

 

「乾杯」

 

声を揃え、グラスのぶつかる音を打ち鳴らしてお互い酒を喉に通す。

 

 

 

「どこ触ってんだてめえ! クソ!!」

 

「ただのスキンシップじゃなーい。いいでしょ別に?」

 

「ふざけんな!」

 

 

静かに飲む私たちとは反対に、隣の美人二人は未だに激しい攻防を続けている。

 

その様をちらりと見ながら岡島さんは言葉を発した。

 

 

「ああいう人に躊躇いもなく、あんなに意見言えるなんてすごいですねキキョウさん」

 

「リンさんとは少々気心が知れてますから。ちなみに、ラグーン商会の皆さんもその中に入ってるんですよ」

 

「ええ、そんな気がします。……あの、キキョウさん。」

 

「なんですか?」

 

「失礼な話なんですが、キキョウさんは俺よりも年上だと聞きました。なので、その……敬語じゃなくても」

 

 

日本で育ったからか、年上から敬語を使われるのはあまり慣れていないのだろう。

私としては、そこまで親しくなっていない人に対しては敬語を使っているのだが、まあ彼がそれを嫌だというなら仕方ない。

 

 

「分かった、じゃあここからはこの口調でいくね。名前も呼び捨てで?」

 

「ええ」

 

「分かった。じゃあ、改めてこれからよろしくね岡島」

 

「はい」

 

彼の要望通り敬語を外すと、岡島さん…岡島は安堵したようで微笑んだ顔を見せた。

さっきまでの話し方がそんなに嫌だったのか…。彼も割と変わり者のようだ。

 

 

すっかり氷の冷たさが広がった酒に口をつけ、大好きな味を堪能する。

口内に広がる風味を楽しんでいると、岡島が恐る恐るといった感じで話しかけてきた。

 

 

「――キキョウさん」

 

「なに?」

 

「マフィアをパトロンにしてるって本当なんですか?」

 

この街では周知の事実なのだが、彼はまだここへ来て日が浅い。

私を“普通”だと評価する人間にとっては信じられないことなのだろう。

 

 

「うん、そうだよ。それがどうしたの?」

 

「いやその、抵抗はないんですか?」

 

「最初はあったよ。洋裁屋を営む前は、ひっそりと生きていこうって決めてたから」

 

「ならどうしてマフィアをパトロンに?」

 

「自分のため。それ以上もそれ以下もないよ」

 

彼は相当相手に対して関心が高いらしい。

この街では他人に深く突っ込まないのが常識でもあるのだが、それは今から叩き込まれていくのだろう。

 

 

 

一刻も早くそのルールが彼の身に染みてほしいものだ。

 

 

「キキョウさんは、日本へ帰らないんですか?」

 

「……」

 

私の名を呼んだ後に続いた言葉に思わず目を見開いた。

 

まさかここでそれを聞かれるとは思っていなかった。

――いや、考えてみれば彼が疑問に抱くのは当然か。

 

 

「私も、帰る予定はないね」

 

「なぜですか?」

 

「この街の居心地がいいから。それじゃいけない?」

 

「でも」

 

「岡島」

 

 

これ以上深入りされるのは正直遠慮願いたい。

私は何か言いかけた岡島の言葉を遮り、焦げ茶色の瞳を見つめる。

 

 

「私と君の関係は、今はただの顔見知り。……私はただの顔見知りに深入りされるのは好きじゃない。だから、今日は勘弁してくれないかな?」

 

「……すみません」

 

「分かってくれて嬉しいよ」

 

ここまで言っても引いてくれなかったらどうしようかと思ったが、素直に謝ってくれたのでまあ良しとしよう。

 

氷が次第に解け始め、少し味の薄くなった酒に口をつける。

 

 

 

――折角の酒が好みの味から少し遠ざかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




あの街に話が通じそうな人間がいるかもしれない時の安心感ってすごそうですよね。


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4 愛しき日常






――家から十分ほど歩いた灰色のビルの二階。

そこにある部屋は依頼以外で作った服。所謂趣味の産物である服を収納する場所となっている。

 

ここはパトロンである彼が用意してくれた場所で、家からも近く管理するにはとっておきで有難く使わせてもらっている。

たまにその服を買い取ってくれる人もいるので、収納したまま放置というわけにはいかず時々様子を見に行く。

 

 

そして今日、久々にその場所へ赴いた。

部屋に入り、少し籠っている空気を入れ替えようといつものように窓を開け、新しい空気を取り込む。

 

籠っていた空気が外へ流れていくのと同時に入ってくる風を感じながら、部屋を埋め尽くしている100以上の服すべてに触れ丁寧に状態を見る。

 

 

花が刺繍されたTシャツ、黄色のロングスカート、灰色のワンピース、淡い水色のワイドパンツ、膝丈の黒のパーティードレス――

 

 

部屋にある一つ一つ違う服全てに思い入れがあり、こうしてきちんと収納できることの喜びを訪れるたびに噛みしめる。

最後の一つを手に取りくまなく状態をチェックし終えたら窓を閉める。

 

 

私の習慣の一つであるこの数十分の行動は私の心に穏やかさをもたらしてくれる。

 

だからこそ、この時間と空間がとてつもなく愛おしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとしきり服に触れた心地よさに浸ってから部屋を後にし夕日に照らされた来た道を戻る。

 

今日は特に予定もないし刺繍でもして過ごそうか。

 

この後のことを考えながら10分ほど歩いていると、あっという間に見慣れた小さな我が家が見えてくる。

 

 

 

 

――そんな我が家の前に、遠目からでも分かるほど目立つものが立っていた。

 

 

 

 

近づけば近づくほど、その姿がはっきり見えてくる。

 

 

 

整えられた黒髪、漆黒のロングコート、首にかかった白のストール。

 

 

 

後姿であろうとその格好を見ただけで一体誰なのか分かってしまう。

それほどまでに、家の前に立っている人物の格好は私にとって馴染みのあるものなのだ。

 

何の躊躇いもなく近づいていく私を気配で感じ取ったのか、それとも足音で気づいたのかこちらに振り向いた。

 

ロングコートと同様の黒のスーツに身を包み黒のネクタイを締め、レトロ感のあるティアドロップ型のサングラスをかけた男性は私の姿を捉えると口の端を上げ、低い声で言葉を投げかける。

 

 

「珍しいな、お前が外を出歩いてるのは」

 

「久々に何もなかったのであの部屋に行っていたんですよ」

 

「成程、だからそんな機嫌がいいのか」

 

「ええ。――そういう貴方もなんだか今日は機嫌がいいようですね、張さん」

 

 

目の前で愉快そうに話すこの男性こそ、ロアナプラで最大の縄張りを持ち、街の支配者の一人として君臨している香港マフィア、三合会タイ支部のボス『張維新』。

 

この街で私が洋裁屋を営むことになったきっかけであり、命と腕を預けている人物。

 

「ああ、ついさっき一仕事終えてな。おかげでやっと羽が伸ばせる」

 

「お疲れ様です。……それで、そんな貴方がなぜここに?」

 

 

国際的なマフィア組織の一部を任されているこの人はいつも忙しなく動いており、この前も電話で忙しいと言っていた。

そんな彼がこんな街の端っこに来るのは何か私に話がある時か気まぐれが発動した時なのだが、果たして今日はどちらなのだろうか。

 

「なに、折角時間が空いたんだ。久々にお前と一杯やりたいと思ってな」

 

「それなら電話で呼び出してくれれば……。わざわざ来る必要なかったでしょう」

 

「たまにはこういうのもいいだろう?」

 

 

こんな感じで、たまに張さんから飲みのお誘いが来る。

電話をもらって私が向かうというのが基本なのだが、気まぐれが更に発動し自らやって来て誘ってくることもある。

 

どうやら、今回は後者だっだようだ。

 

「いいんですか? 貴重な空き時間を私との飲みに使って」

 

「それくらいお前との一酌は格別ってことだ。――付き合ってくれるか?」

 

一応こちらの意志を聞いてはくれるが、普段お世話になっている人からの誘いを断ることなんて私にはできない。

この人は、それを分かった上で聞いてくる。

 

「面白い話はできませんが、それでもいいなら」

 

「決まりだな」

 

私の返答を聞き更に上機嫌になった張さんは、着いてこいと言わんばかりに歩き始める。

念のため鍵がかかっているか再度チェックし、見慣れている背中に着いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そういや、ラグーンの新入りがお前と同じ日本人らしいな。」

 

「ええ」

 

「もう会ったのか?」

 

「二回ほど顔を合わせましたよ。まさかこの街で同郷の者に会えるなんて思ってませんでした」

 

「そりゃそうだ。遥々東洋の島国から肥溜め(こんな街)に移住する物好きはそうそういねえからな」

 

ロアナプラで特に高くそびえ立つ熱河電影公司(イツホウデインインゴンシ)という三合会が表向きで経営しているケーブルテレビ会社の本社ビル。

その最上階には社長室があり、客人を迎えるときはその部屋で対応しているらしい。

 

だが、私が張さんと飲むときに通されるのはその奥にあるプライベートルーム。

 

 

所謂張さんの自室だ。

 

 

彼曰く「気兼ねなく話せるから」という理由から私を部屋にあげているらしい。

 

マフィアのボスの自室に上がれて喜ぶべきなのか悩みどころではあるが、この人の気まぐれについて深く考えても無意味ということは、この5年で身に染みている。

 

 

 

そして今夜も例外なく、ガラス張りの向こうにあるネオンの光を眺めながら他愛もない話をしつつ酌み交わしている。

 

 

張さんは懐から新しい煙草を取り出し、ライターで火をつけると煙を吐き出した。

普段洋裁屋という職業柄に気を遣って私の前では吸わないが、こういう時は遠慮なく隣で煙草の匂いを漂わせる。

 

吸っているのは高級煙草で匂いは葉巻に似ているらしいのだが、私は全く吸わないので嗅ぎなれていてもその価値はよく分かっていない。

 

紫煙を燻らせ、吸うごとに生み出される灰を灰皿に落としながら話の続きを口にする。

 

「で、お前から見たそいつはどんな人間だった?」

 

「……“普通”、ですね」

 

「それは、どっちの世界での話だ?」

 

この人の事だからもうすでにどんな人間なのか調べていると思うのだが、まだ実際に会っていないのだろう。支配者の一人として少なからず新しい住民が気になっているようだ。

 

手にしているグラスに口をつけ酒を少量喉に通してから、張さんの質問に思ったことをそのまま伝える。

 

「“あちら側”です。少なくても、まだこの街に馴染んでいない今は」

 

「そうか。ま、いずれそいつも溶け込むだろうよ。せいぜい仲良くしてやれ」

 

「……そうですね。仲良く、できればいいですね」

 

岡島は本当に普通に暮らしてきた普通の人間だ。

だから、私と仲良くできるのかどうか怪しいところではある。それに、同国人だからこそあれ以上に深く突っ込まれることは遠慮したい。

 

そういう感情が言葉に乗ってしまったのか、張さんは「ほう」と物珍しそうにし、空いている手でグラスを持ちカラカラと氷がぶつかる音を奏でた。

 

「お前が人付き合いをそこまで嫌がるとは珍しいな。ヘンな口説かれ方をされたのか?」

 

「そんなわけないでしょう。私を口説いてくるのはとんだ物好きだけです」

 

「なら、俺はその物好きに入るってことだな」

 

「貴方はただ私の反応を楽しんでるだけでしょう」

 

「フッ、それもあるが……お前はそれほど魅力的ということだ」

 

張さんは一口酒を飲んでから自身のグラスを置き、慣れた手つきで私の左頬に触れてきた。

 

 

 

これはこの人の一種の癖だ。

 

 

数年前から始まったこの行動に最初こそ驚いたが、二人で会う度にされてしまえば慣れてくる。

 

だが私は張さんの恋人でも愛人でもなく、ましてや体の関係さえ一度も持ったことがない。すなわち、彼は私を“そういう目”で見ていないのだ。

 

だから頬に触れられるくらい別に問題ないと思い、こういう時は何も言わず好きにさせている。

 

「全く、いつになったら落ちてくれるんだ?――啊、 我可爱的花。(なあ、俺の可愛い花)

 

「……」

 

ここ数年で習得した中国語を聞き取り「またか」と思わず黙ってしまう。

この人は「キキョウ」が花の名前だと知った時からこういう呼びかけをするようになった。それには特に深い意味はなく、きっと私の反応を楽しみたいだけだなのだろうと勝手に結論付けている。

 

 

サングラスの奥にある瞳を見つめながら拙い中国語で言葉を返す。

 

 

和往常一样喜欢玩笑啊(相変わらず冗談がお好きですね)

 

听起来像玩笑吗?(冗談に聞こえたか)

 

(ええ)

(ええ)

 

会話をしている間も頬の上を親指で撫でている。慣れているとはいえ少しこそばゆい。

 

「……あと、いい加減そういう呼び方やめてください。聞いてるこっちが恥ずかしいです」

 

頬の上を滑る指の感触を感じながら言葉を続ける。

習得したといっても、私が話せるのは簡単なものだけなので英語に戻す。

 

「結構気に入ってるんだがなあ」

 

「張さん」

 

「はっはっは、そう睨むな。ま、気が向いたらやめるさ」

 

私の言葉を軽く流してからやっと頬から手を離した。

 

そして置いていたグラスを手に取り酒を呷るのを見て、私も自身の酒に口をつける。

 

 

丁度グラスが空になったのを見て、張さんが酒瓶をこちらに向けてきたので酒が入りやすいようにグラスを傾ければそのまま注がれていく。

 

「ありがとうございます」

 

「相変わらずペースが早い。そのまま酔いつぶれたお前を見せてくれると嬉しいんだがなあ」

 

「そんなはしたない姿は見せたくないです」

 

「寝顔もボロボロになった姿も見てるんだ。今更だろう?」

 

「それとこれとは話が別です。それに、私の酔った姿なんて面白くもないでしょうし」

 

飲み比べはレヴィだけで充分だ。

それにこの人の前で勢いよく飲むのは、なんだか妙な気恥ずかしさがあってあまりしたくない。

 

「俺としちゃ気丈なお前が弱みを見せることに面白味を感じるがな」

 

「……最近、酔狂さに磨きがかかってませんか張さん?」

 

「はは、そいつはお前なりの賛辞と受け取っても?」

 

「そうですね。そんな貴方とのこういうゆったりした時間は大切にしたいので、飲み比べは遠慮させてください」

 

「全く、つれないと思えば今度は嬉しい言葉のオンパレードか。流石の俺も照れるぞキキョウ」

 

そう言って張さんは酒を飲み干した。今度は私が酒瓶をとり、空いたグラスに酒を注ぐ。

 

「ああ、今日はいい夜だ。――最高だな」

 

上機嫌な彼の横顔を眺めながら、『ほんと、この人の考えてることは分からない』と心の中で呟き、再び酒に口をつける。

 

 

彼が軽い冗談を言い、それを困りながら流す。そんな私を見ながらまた彼が愉快そうに口の端を上げる。

 

 

 

五年前から変わっていないこのやり取りは、私の愛しき日常の一つだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――同時刻。ロアナプラより遠く離れた異国の地。

 

 

激しい争いの跡が残る場には、怯えて腰を抜かしている男。

 

そして、怯え震えているその男に一人の女が歩み寄る。

 

 

 

 

銃口を彼に向けながら。

 

 

 

「ま、待て! 待ってくれ!」

 

「……」

 

「あ、あのガキはもうここにゃいねえ! 先週ヘロインと一緒にここを出た!」

 

「…………」

 

「本当だ! 信じてくれ!」

 

「……渡し先は?」

 

「タイのロアナプラっつー街にいる運び屋に受け渡すことになってる!」

 

「そうですか」

 

「な、もういいだろ!? 頼むよ……!」

 

「では、ごきげんよう」

 

引き金を引いた女の眼鏡の奥に潜む瞳は、まさに“獲物を狩る獣”そのものだった。

 

銃声が響き渡り、沈黙が訪れる。

 

 

 

 

 

 

「――ロアナプラ。そこに若様が」

 

 

 

 

 

血と硝煙の匂いを纏わせた女の呟きは、誰にも聞かれることなく静けさの中へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




中国語は頑張りました。(が恐らく、いや絶対間違えてると思う…。むずかしいなあ…。)





=キキョウの質問コーナー=


Q.ドーモ、キキョウサン。キキョウサンノ趣味ヲ教エテクダサイ。

キ「こんにちは。(なんでカタコトなんだろう? あまり突っ込まない方がいいのかな)
えっと、趣味は刺繍と服作りです。服作りは仕事にもしてますけど、たまに依頼されたものだけじゃなくて自由に作りたいって思うときがあるんです。依頼がない時とか結構作ってますよ」


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5 お仕着せは災いの鐘

お仕着せとは、主人に当たる役柄の人物から支給される衣服のこと。






 

南シナ海。

太陽が照りつけ光輝くその洋上を一隻の船が浮かんでいた。

 

ロアナプラで運び屋を営んでいるラグーン商会自慢の高速魚雷艇である。

 

その船の操縦席には、何とも神妙な雰囲気が漂っていた。

 

「――それはなんともケツの収まりがワリい話だ」

 

「ダッチ、一度港に戻ろう。カルテルたちが嘘をついてるのは何かトラブルがあるからだ」

 

決して明るくはない雰囲気を醸し出し、船長であるダッチと新入りのロックはこの後の行動について話している。

 

 

事の発端は先日舞い込んできたマニサレラ・カルテルの依頼だった。

 

金さえつめば荷物の中身は問わないことでも知られている運送屋は、今回も例外なくマニサレラ・カルテルからの依頼で荷物の運び出しを行っていた。

 

金髪で小奇麗なその少年を受取先に運ぶのが今回の仕事。

 

短気で煽り耐性がなく子守に向いていないレヴィに代わり、未だ悪党に染まっていないロックは少しの間道中共にする少年と会話を弾ませていた。

すると、少年は自らをガルシア・フェルナンド・ラブレスと名乗り“南米十三家族の一つ、ラブレス家の次期当主”であることを告げる。

 

南米十三家族は南米の貴族階級であり、不正な儲け方を嫌い自由主義的な思想を持っているラブレス家はその中でも最も落ち目の貴族。

 

マニサレラ・カルテルから少年が孤児だと聞いていたロックは、どちらが正しいのか見極めるため、日本の商社マン時代に鍛えた交渉術と蓄えた知識を使いラブレス家に関する質問を投げかけた。

 

 

 

結果、ラブレス家の人間しか知らないような詳しい情報までガルシアが答えたことでこの依頼には裏があるという結論に至り、ダッチに自身の考えを話すと「妙だな」とロックと同様疑念が生じたようで、南シナ海のど真ん中に船を止め今も思考を巡らせている。

 

 

「ロック、言っとくが同情はなしだぜ。うちの商売の足しになってりゃそいつはノープロブレムだ。“正義がなくても地球は回る”」

 

「……同情がないって言ったら嘘になる。だけど依頼人の嘘が気になるのも本当なんだ」

 

愛銃であるソードカトラスの片方をクルクルと回しながら冷たく言い放つレヴィに、ロックは少し間を空けつつも自身の考えを述べた。

ロックの言い分にダッチも「確かに解せねえな」と同調する。

 

「ガキを攫った時点で相手に要求を出す手筈は整ったはずだ。だが、隠し事をしてまで売っ払う必要がどこにある」

 

「大方腹の虫が収まらなかったんだろうぜ。マフィアやカルテルって連中は自分の顔にクソをこすりつけられんのが一等嫌いだからな。……ま、とにかく決めんのはダッチだ。あたしはそれに従うよ」

 

「これはちっとばかり保険を掛けとくべき、か。バラライカに裏を取るよう頼んでみよう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――飛び入りのビジネス、ですか?」

 

『それも特急でね。相手がどうしてもすぐに入用だっていうから今ちょっと手が離せないの』

 

「そうでしたか。そんな時にすみません」

 

『いいのよ。いきなり来るより、こうして連絡くれる方がありがたいわ』

 

「ならよかったです。では後日、改めて連絡を差し上げる形でよろしいですか?」

 

『ええ。ではキキョウ、お詫びはいずれ』

 

 

相手が通話を切ったことを知らせる音を聞き、携帯を耳から離して作業台の上に置く。

 

 

今日は、バラライカさんから長持ちさせたいと定期的に依頼される赤いスーツの手入れをいつものようにこなしていた。

新品の時と大差ないパリッとした状態にさせたスーツをいざ持っていこうと連絡を取ってみたのだが、「急な仕事が入った」とかで忙しいようだ。

 

私としては完成品を早く依頼主の元へ届けたいのだが、得意先でもありよくお世話になっている人の仕事を邪魔したくない。

 

依頼品を届け、バラライカさんと談笑した後にイエローフラッグで仕事終わりの一杯を飲むというのが一日の流れになるはずだったのだが、そういう訳で陽が傾きかける時間まで暇を弄ぶしかない。

 

ちなみに仕事終わりの一杯を飲むのは確定事項だ。

 

 

さて、暇な時間には基本刺繍か自由に服を作るかなのだが、今日はいつもと少し違うものを作ってみるのもいいだろう。

 

とはいっても、何を作ろうか。

 

 

そう考えて頭にパッと浮かんだのはスカーフ、ネクタイ、絹手袋の3つ。

 

スカーフとネクタイは比較的作っている方ではある。

しかし手袋に関しては欲しがる人がいないこともあり滅多に作らない。

 

 

…よし、今日作るものは決まった。

 

絹手袋は冬に嵌める手袋とは違い、パーティーなどで使われることもある薄い手袋。

 

赤や黒で作るのもいいが、無難に白でいこう。

自身が使うわけではないがサイズはいつものように私に合わせよう。

 

 

これで今回の暇は完全に潰せそうだ。

 

 

 

 

 

――そして、作業に没頭すれば時間というのはあっという間に過ぎる。

 

ふと時計を見ると午後5時半過ぎを示しており、そろそろ向かおうと数時間保ち続けた姿勢を崩す。

腰を上げ、道具などを片づけてから外に出ると辺りはもう夕方の色に染まっていた。

 

 

暗くなる前には着きそうだな、と足取り軽くイエローフラッグまでの道のりを辿る。

平坦な道筋をただひたすら歩く中でも、私はこの後酒に浸れる楽しみで心が躍っていた。

 

 

大通りの一つ向かいにある小さな通りに入る。

 

 

 

「もし、そこのお方」

 

 

その瞬間、突然すぐ背後から声をかけられ立ちどまる。

全く人影が近づいていることに気づかず、冷や汗をかく。

 

いくら戦闘に慣れていないからと言って、ここまで人の気配を感じ取れないことなんてありえない。

ましてや、人通りが少ないこの道なら尚更。

 

ここで振り向いた瞬間、願ってもない“何か”をされるのでは。

 

頭の中に嫌な想定ばかりが浮かぶ。

 

「そこの、東洋の女性のお方」

 

しばらくしても振り向かない私に再び声がかかる。

しかも今度ははっきりと『東洋の女性』と指名して。

 

できれば別の人であってほしいと希望を抱いたが、一瞬にしてものの見事に打ち砕かれた。

 

このまま何もせず去ってしまいたいが、そっちの方が逆上を買って怖いことになりかねない。

 

意を決して、声の主を確かめようとゆっくり振り向く。

 

 

目に入ったのは大きなトランクを持ち、髪を三つ編みにまとめ、丸眼鏡をかけたメイド服姿。

 

この街ではとても“目立つ”格好をしている女性がそこに立っていた。

 

 

 

 

 

「……えっと、私に何か?」

 

その見た目で、この街の住民ではないことは一瞬で分かった。

だが、何を思って私に声をかけたのかはまだ謎なので油断は禁物だ。

 

「少々、お尋ねしたいことがございまして」

 

尋ねたいこと? 一体なんだろうか。

 

「この街には先ほど着いたばかりでして、右も左も分かりません。友人とイエローフラッグという酒場にて待ち合わせをしているのですが、どちらにございますか?」

 

あの酒場で待ち合わせ?

よくもまあ、この街に来るのが初めてである人間には少々刺激が強い場所を選んだものだ。

一体どういう目的でこんな目立つ格好をして友人と会おうとしているのか分からないが、イエローフラッグはこの街でも中立地帯となっている場所。

 

その友人がここの住民であれば、下手なことはしないはず。

 

なら、道案内ぐらいしたって別に問題ないだろう。

 

「では、そこまで一緒に行きますか?」

 

「いいのですか?」

 

「私も丁度その酒場に向かってたんです。だから問題ありませんよ」

 

「……ありがとうございます。では、ぜひご一緒させてくださいまし」

 

「なら、少し急ぎましょう。もうすぐ日が暮れてしまいますから」

 

 

さっき会ったばかりの人とあの酒場までの道のりを共にするなんて初めてだ。

きっとバオさんには驚かれるだろうな。

 

そんなことを考えながら、少々周りの目を引く格好をした女性とイエローフラッグまでの道を辿っていった。

 

 

 

 

 

 

 

道中、暗くなる前にたどり着こうと少々早歩きになってしまったせいかお互い無言のまま15分ほど歩いた。

そのおかげもり、日が完全に沈む前のまだ少し明るさが残っている時間に着く。

 

既に開店している酒場に足を踏み入れると、即座にメイドさんが辺りを見渡す。

 

「どうですか?」

 

「……見当たりません」

 

どうやらメイドさんの友人はまだここに来ていないらしい。

初めてこの街に来た人をこの酒場で一人で待たせるなんて友人としてどうなのか。

 

中立地帯であるからこそ様々な人間が出入りする場所だというのに、その友人は危機感がないのか、はたまたこのメイドさんをそこまで心配していないのか。

 

どちらにせよ、ここまで案内したのだから一人で放っておくのも気が引ける。

 

「では、そのご友人が来るまで一杯ご一緒しませんか?」

 

「しかし」

 

「折角ですから。お嫌ですか?」

 

「……なら、少しの間だけ」

 

「ありがとうございます」

 

私の誘いを受けてくれたことに感謝の言葉を述べ、そのまま真っすぐいつものカウンター席に向かう。

 

すると、私とメイドさんの姿を捉えたバオさんが物珍しそうな顔を見せた。

 

「お前さんがレヴィ以外の人間を連れるのは珍しいな。知り合いか?」

 

「つい先ほど初めて会ったんです。お隣どうぞ」

 

「失礼いたします」

 

そう一言断りをいれながらトランクを空いている席に置き、メイドさんが私の隣に座る。

 

 

トランクを置いた時にすごく重そうな音がしたが、女性の旅行時の荷物は重いものと相場が決まっているのでそれが普通なのだろうとあまり気にせず、バオさんに注文しようと口を開く。

 

「私はいつもので。貴女は?」

 

「では、お水を」

 

「ここは酒場だ。酒を頼め馬鹿野郎」

 

「……」

 

「えっと……もしかしてお酒あまり飲めない方ですか?」

 

「お恥ずかしい話ではございますが、仰る通りでございます」

 

なら、無理やり酒を飲ませるわけにはいかないだろう。

こちらから誘ったのだからそれくらいの気遣いはするべきだ。

 

「そうだったんですね。ここの店主は一杯でも頼んでくれれば何も言いません。なので、お酒じゃなくても何か飲まれませんか?ここは私が出しますので」

 

「……では、オレンジジュースを」

 

「バオさん、オレンジジュース一つください」

 

「たく、お前さんの連れじゃなかったら叩き出してるところだよ」

 

そう言いつつもバオさんは私のお気に入りのお酒とオレンジジュースを出してくれる。

この人の気前の良さに口の端を上げながら、目の前に出された氷入りのグラスにJack Daniel’sを注ぐ。

 

「ここで会ったのも何かの縁です。少しの間ですが、楽しみましょう」

 

そう言いながらグラスを差し出すと、彼女も自身のグラスを持ちお互いにぶつけ心地よい音を響かせた。

 

酒に口をつけ、慣れ親しんだ味が口内に広がっていくのを感じながらオレンジジュースをちびちびと飲んでいる彼女を横目に見る。

 

やはり、彼女が着ているメイド服は本物だ。

細部までこだわりがある手の込みよう、布の質感。そういう趣味を持っているから着ているのかもしれないと思ったが、これは素人では作れない。

 

洋裁屋だからか、滅多に見れない服をじろじろと見てしまう癖がある。普段は気を付けているのだが、今回は人生で初めてお目にかかる代物だったので無意識にその癖が無意識に出てしまったらしい。

 

メイドさんは私の目線に気づき、無表情なまま静かに声をかけてきた。

 

「何か?」

 

その声にハッとし、瞬時に服から目を逸らす。

 

「すみません。いけませんね、つい悪い癖で」

 

「癖?」

 

「実は私、しがない洋裁屋を営んでまして。職業柄のせいか他の方が着ている服を見てしまうんです。本当にすみません、不快でしたよね」

 

「慣れておりますのでお気になさらず」

 

「何が“しがない”だ。お前さんまだ自分のことをそんな風に言ってんのか」

 

「私はまだ修行中なんですよ、バオさん」

 

「ま、それがお前さんらしいがな」

 

そう言われても、私はまだまだ研鑽中なので自らを一流と名乗る気はない。

いや、“名乗れない”の方が正しいだろう。

 

こう言われる度に決まって「まだ修行中だ」と返しているのだが、返答を聞いた相手にはため息を吐かれるか、バオさんのように“らしい”と言うかの二パターンだ。

 

バオさんのその言葉に思わず苦笑しながら再び酒に口をつける。

 

「失礼を承知でお聞きいたします。貴女はこの街でそのような普通の職で生活を?」

 

相も変わらず無表情なメイドさんが、何か気がかりといったような声音で質問を投げかけてきた。

きっと、この街の有様を見た上ででた疑問なのだろう。

 

「ええ。私もまさかここで洋裁屋が営めるなんて思ってませんでしたけどね」

 

「……左様でございますか。通りで他の方々とは雰囲気が違うと」

 

「よく言われます」

 

 

周りの雰囲気に気づいていながら動揺していないのか。

この人実はメイド兼護衛も務めてて、それで闘いとかに慣れていて余裕が出ていたり――

 

 

な訳ないか。

 

 

いくらなんでもそれは妄想しすぎだ。

少しだけ気になるがどうせすぐお別れするのだ。気にしたって仕方ない。

 

そう思いながらグラスの中の酒を飲み干す。

 

するとメイドさんがJack Daniel’sのボトルを持ち、「どうぞ」と注ぎ口を向けてくれた。

メイドという職業柄なのか無意識にしてしまうのかもしれない。

 

その気遣いを無駄にしないよう、一言礼を述べながらグラスを傾ける。

 

氷の冷たさを酒全体に広げるためグラスを軽く振りカラカラと音を鳴らす。

 

 

「ようキキョウ、相変わらずその酒一筋なのか。好きだねえお前も」

 

 

好きな音に浸り酒に口をつけようした瞬間、背後から声が飛んできた。

聞きなれたその声に振り向かないまま言葉を返す。

 

「別にいいでしょ。私はレヴィにもこのお酒飲んでみてほしいんだけどね」

 

「ジャックダニエルは嫌いじゃねえんだが、アタシはどっちかっていうとラム派なんだよ。バオ、ペプシ一つくれ」

 

それは残念、と言いかけたのだがレヴィが頼んだ内容に思わず目を見開く。

 

――レヴィがジュース?

 

「レヴィ、大丈夫? リンさんに一回診てもらった方が」

 

「別にどこも悪くねえ。それにあのクソビアンに診られるのは御免だ。何されるかわかったもんじゃねえ」

 

レヴィがここに来て酒を飲まないとは、とうとうどこか悪くしたのではないかと疑ってしまった。

それはバオさんも同様らしく物珍しそうにしている。

 

「なんだレヴィ、ついに禁酒同盟でも入ったか?」

 

「だから違えって言ってんだろ。アタシが飲むんじゃねえんだ、ほっとけ馬鹿野郎。クソッ」

 

少し不機嫌気味なのか、いつもより語尾が荒っぽい気がする。

そんなに禁酒されたと思われたくないのかな…?

 

バオさんからペプシの缶を受け取ると、すぐ後ろのテーブル席へ行ってしまった。

 

そのテーブルへ目をやると、ラグーン商会のメンバー全員でなにやら真剣に話をしているのが見えた。

あの様子では挨拶に行かない方がいいだろうと判断し、飲もうとしていた酒に口をつける。

 

ふと、メイドさんがここへ来た理由を思い出す。

 

「そういえばご友人はまだいらっしゃらないんでしょうか? メイドさんの格好だとすぐ気づきそうですけど」

 

冷えたグラスを片手に店内をキョロキョロと見渡すが、こちらを気にしているような客は一人もいない。

 

「そのようでございます。しかし、もうそろそろこちらに来られるかと」

 

メイドさんがそういうならそうなのだろうが、それにしても少し待たせすぎなのではないだろうか。

 

「ならいいんですが……。早く会えるといいですね」

 

「ええ。――とても、心待ちにしております」

 

彼女はそう言いながらオレンジジュースを飲み干す。

 

 

 

 

 

 

同時に、入り口のドアが乱暴に開かれた。

 

そのまま大人数が大仰に真っすぐこちらに向かい、私たちの背後で立ち止まったのを感じ取り、酒の味を堪能しようとしていた手を止めグラスを置いた。

 

一体どの人物なのか確かめようとゆっくり振り向く。

 

目に入ったのは、褐色の肌にサングラスをかけた男とその男の後ろに立っている大人数の男たち。

 

この人たちは確か

 

「よお洋裁屋。お楽しみの時間を邪魔して悪いが、俺たちはそのMucama(メイド)に用がある。席を外してくれると有難い」

 

「……来て早々挨拶がそれですかセニョール。貴方がたはいつから大人数で観光客をいじめるお仕事をされるようになったんですか?」

 

「俺たちの仕事に口を突っ込まないことで有名なアンタがそんな事言うなんてな。その女とオトモダチってわけでもねえんだろ? なら、今回も素直にそうしてほしいんだが」

 

私と話しているこの男は、マニサレラ・カルテルのボス、アブレーゴさんの側近の一人。

 

アブレーゴさんとは一度だけ依頼絡みで一悶着あったが、今ではよく依頼してくれる良きクライアントだ。

そんな彼の仕事の邪魔をする気は全くないのだが、ロアナプラを牛耳る4大組織の一つである彼らがなぜこのメイドさんに用があるのか。

 

怪訝に男を見つめていると、メイドさんの口から思いもよらない言葉を投げかけられる。

 

「私からもお願いいたします。こちらの方々と少々込み合った話がございますので」

 

「え?」

 

「お世話になった貴女を巻き込みたくはございません。どうか」

 

 

丸眼鏡の奥から覗く真剣な眼差しと声音にこれ以上言葉をかけることを躊躇う。

私は自身の危険を冒してまで彼女を守りたいと思うほど善人ではないし、本人もこういっている。

 

 

――これは、素直にこの願いを聞き届けた方がよさそうだ。

 

 

「分かりました。では、私はこれで。バオさん、また来ますね」

 

「おう」

 

二人分の飲み代をバオさんに渡し、席を立って男たちの横を通り過ぎる。

 

まだ二杯も飲んでいないのにここを立ち去ることになるとは思わなかった。

まあ起きてしまったものはしょうがないので、この後は大人しく家で過ごそう。

 

そう思いながら出入口の方へ向かっていると、ふとラグーン商会のテーブルが目に入りいつもとは違う部分があることに気づいた。

 

金髪で小奇麗な少年がラグーン商会とテーブルを共にしている。

 

カウンターから上手く隠れていたようでその存在がいることに気づかなかった。

 

なぜここに子供がいるのか、そしてなぜラグーン商会と一緒にいるのか。

その疑問に答えてくれる人たちは今真剣に話をしている最中で、話しかけれるような雰囲気ではない。

 

分かったのは唯一、レヴィがどうして酒ではなくペプシを頼んだのかの理由だけ。

 

少しじろじろと見過ぎたのか、レヴィが私の視線に気づき声をかけてきた。

 

「なんだよキキョウ、もう帰るのか? 珍しいこともあるもんだな」

 

「今日のレヴィには負けるよ。――久々だね岡島、この街にはもう慣れた?」

 

やはりあの時の会話を気にしているのか、気まずそうにこちらを見ていた岡島に軽く声をかける。

確かにいい気はしなかったが、いくら深く突っ込まれそうになったからとはいえたった一度だけで邪険にするのはよろしくない。

 

 

これからしてこなければ何も問題ないのだから。

 

 

私の何も気にしていないという態度に安心したのか、岡島が安心したような表情を浮かべた。

 

「……お久しぶりですキキョウさん。ええ、来た時よりは大分」

 

「ならよかった」

 

あれ以来会っていなかったのだがどうやら元気そうだ。

 

 

ラグーン商会の面々を見渡すと、奥に座っている少年と目が合った。

 

ここで色々根掘り葉掘り聞くのは趣味じゃないし、ラグーン商会の仕事に関わっている可能性も否定できないので、じっとこちらを見ている少年の目線に微笑みだけ返す。

 

私なりの挨拶を受け取り、彼も軽い会釈を返してくれた。

 

「折角なのでぜひテーブルに混ぜてください。と言いたいところですが、今日はお忙しそうなのでまた今度誘いますね」

 

「助かるぜキキョウ。そん時はぜひご一緒させてくれ」

 

「ええ」

 

「僕も参加させてもらうよ。キキョウとは気兼ねなく飲めるからね」

 

「そう言ってくれて嬉しいよベニー。じゃあ、お仕事頑ばっ」

 

「があああッ!」

 

ダッチさんとベニーにも軽い挨拶を交わしたところで、そろそろ店を出ようとした瞬間。

 

私の言葉は唐突に後ろから聞こえてきた男の呻き声と、派手な銃声のおかげで途切れた。

 

 

 

驚いて音が発せられた方を見てみると、そこには狼狽えているマニサレラ・カルテルの面々を前に、先から煙が揺らめいている日傘を掲げている人物が一人。

 

 

 

それは、先ほどまで私の隣でオレンジジュースを飲んでいたあのメイドさん。

 

 

一体、何がどうなっているのだろうか。

 

 

 

あまりにも突然の出来事に頭の処理が追い付かず唖然としていると、隣から少年の戸惑いが隠せていない声が飛んでくる。

 

 

「ロ、ロベルタだ」

 

「何いいいいいいい!?」

 

 

 

 

少年の一言にラグーン商会一同が揃えて驚きの声を上げる中、私は一人ただメイドさんの姿を黙って見つめることしかできなかった。

 

 

 

 




あのロベルタがジュース飲んでたら可愛いよなあ。
それだけの理由で酒ではなくオレンジジュースにしました。後悔も反省もしていない。




質問コーナーについて少々変更いたしました。
詳しくは活動報告にて。


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6 お仕着せは災いの鐘Ⅱ






「――大尉殿、こちらが例の件の資料であります」

 

ホテルモスクワ事務所内の一部屋。

葉巻を咥え椅子に腰かけているバラライカに側近であるボリスが一つの封筒を手渡していた。

 

ホテルモスクワと友好関係にあるラグーン商会から、数時間前に頼まれたある一家とマニサレラ・カルテルの関係性。

 

バラライカはボリスから封筒を受け取り、中に入っている資料に目を通す。

 

「ラブレス家は南米十三家族でも一番落ち目の貴族。一家が所有している土地から発見された希土類を巡り、マニサレラ・カルテルと一悶着あったようです」

 

「希土類か。金にがめつい組織が放っておかないのも頷ける」

 

バカバカしい、と鼻で笑いながら資料とは別に入っていた一枚の写真を手に取る。

その瞬間、バラライカの視線は写真に写っている人物の一人に注がれた。

 

「そちらに写っているのは当主ディエゴ、一人息子のガルシア、そして唯一の使用人であります」

 

「よくないな」

 

「は?」

 

「よく見ろ軍曹、このメイドの目つきを。何か気づかんか」

 

気に入らないと言わんばかりに眉間に皺を寄せ、ボリスに写真を手渡す。

そして、ボリスはしばらく間を空けてゆっくりと口を開く。

 

「……兵士の目ですな」

 

「ああ。しかもそれだけじゃない。こいつは――」

 

 

とびきりの狂犬だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――こ、このクソッたれえええ!!」

 

「てめえら構うこたあねえ! ぶっ殺せ!!」

 

店内に銃声が響いたのと同時に撃たれた仲間を見て、マニサレラ・カルテルの面々は当然のように目の前のメイドさんに銃を向ける。

 

私は有難いことにイエローフラッグでこういう殺傷沙汰に巻き込まれることは滅多にないのだが、その運がどうやら尽きてしまったか。

 

「如何様にでも? おできになるならば」

 

メイドさんの挑発めいた言葉を皮切りに激しい銃の撃ち合いが始まった。

 

「キキョウ!」

 

「わっ」

 

一体何がどうしてこうなったのだろうかと考える前にレヴィに腕を掴まれテーブルの下に引きずり込まれた。

確かに棒立ちになって眺めているよりも比較的安全なのかもしれないが、さすがに大人5人と子供1人では少々狭い。

 

 

だが、文句は言っていられない状況であることは分かっているので口には出さないようにしよう。

 

 

「ったく、とんでもねえことに巻き込まれちまった。だが、連中がやりあっているのは好都合だ」

 

「なあダッチ、こっちは撃つのか撃たねえのかさっさと決めようぜ。こんなところで黙って蜂の巣にされるのは御免だ」

 

「いいこと言った。できれば撃たない方向で行こう」

 

「同感」

 

 

ラグーン商会の4人はテーブルの上で銃声が響き渡っている中でも比較的落ち着いて話をしている。

岡島も先ほど言った言葉は嘘ではなかったようだ。

 

 

 

私もこの後どうしようかと考えていると、隣にいる少年が青ざめた顔でメイドさんを見つめ震えている。

 

 

 

パニックになって妙な動きをされても困るので、できるだけ優しく驚かせないよう静かに声をかけようと口を開く。

 

「君、大丈夫? どこか怪我とかしてない?」

 

「だ、大丈夫……でも、ロベルタが。あんなんじゃ、ないのに……」

 

「ならよかった」

 

 

少年は話しかけてきた私と目を合わせて、目に涙をため声を震わせながら答えてくれた。

パニックにはなっているが、返答できるくらいには落ち着いているようだ。

 

 

 

こんな会話をしている中でも銃声は一層激しさを増している。

 

 

ここに残るよりはさっさと店を出た方が吉だ。

 

 

店内の様子を見渡し、メイドさんの猛攻撃に出入り口までマニサレラ・カルテルが下がったことによって脱出口がカウンター側にある裏口しかないことを確認する。

 

 

端の方に身を潜めながら移動すればなんとかなりそうだ。

 

 

 

「君、死にたくなかったら無闇矢鱈に飛び出しちゃダメだよ。いいね?」

 

「え?」

 

「じゃあ、皆さん。私はお先に失礼しますね」

 

「ちょ、ちょっとキキョウさん!?」

 

 

彼の様子なら、もしここに一人置いてもこの状態の中勝手に飛び出すことはないだろう。

それにどうやらメイドさんと無関係というわけでもなさそうだし、これはあくまで勘だが連れ回す方が何か面倒事が起きそうな気がする。

 

 

少年とラグーン商会に一言言い残して、テーブルから這い出て四つん這いになりながら裏口を目指す。

岡島がなにやら引き留めた気がするが、銃声のせいであまり聞こえなかった。

 

私もこの数年で大分度胸がついたのかもしれないな、と銃声が飛び交う中冷静でいられる自分に苦笑する。

 

 

「くそっ、また俺の店が……弁償しやがれってんだ!」

 

 

こそこそと身を潜めながら移動し、やっとカウンターまで辿り着くとカウンターの向かい側で銃を持ちながら座り込んでいるバオさんが何やら嘆いているのが目に入った。

 

 

その様子に思わず動きを止める。

 

 

 

私がこの騒動の引き金であるメイドさんをここに連れてきたのもあり、なんだか罪悪感が生まれてしまう。

普段お世話になっている分、無視する訳にもいかないとカウンターの裏に入り声をかける。

 

「バオさん」

 

「キキョウ?お前さんまだいたのか」

 

「すこし知人と話し込んでいたらいつの間にか巻き込まれました。……あの、今回の修繕費は私が出しますね」

 

「あん? なんでそうなるんだ」

 

「少なくとも彼女をここに連れ来たのは私ですし」

 

何も知らなかったとはいえ、連れてきたのは私なのだ。ならせめて修繕費を出すくらいしなければ。

 

「お前さんの事だ。何も裏はなかったんだろ?」

 

「それは勿論。ですがそれとこれとは」

 

「なら問題ねえよ。今回はマニサレラ・カルテルに請求書送り付けてやる」

 

「……私に少し甘くないですかバオさん」

 

「お前さん以外の客が厄介すぎるんだ」

 

本当、毎度この店主の気遣いには参ってしまう。こうなったら頑として私から詫び金を受け取ることはない。

 

今度飲みに来たときにでもこっそり多く金を渡そう。

 

そう心に誓い、息をもらした瞬間。

 

 

 

 

「いった!!」

 

 

 

ガンッ、とテーブルか何かが倒れた音と岡島の痛がる声が高らかに響いた。

 

 

同時に銃声が一瞬で止み、店内は嘘のように静まり返る。

 

「てめロック! ふざけんなよお前!」

 

「それはこっちのセリフだ! 急に後ろから殴りやがって!」

 

「手前がちんたらそのガキと話してるからだろ!」

 

銃声が止んだことで顔を出してもいいだろうと判断し、何が起きているのか確かめようと様子をこっそり見る。

 

そこには後頭部を抑えている岡島とその岡島に怒鳴り散らしているレヴィ。

 

 

 

 

 

……何をやっているんだあの二人は。

 

 

 

そして気づいているのだろうか。

 

 

 

ここにいる全員が自分たちに注目していることを。

 

 

 

 

 

 

「ラグーン商会!? てめえら頼んでた荷物はどうした! 向こうには行ってねえのかよ、おい!」

 

「ま、まあ待て! 料金についてはゆっくり話し合おう!」

 

ダッチさんとアブレーゴさんの側近の男がなにやら揉めている。

少年が何らかの仕事の荷物だという私の考えは当たっていたのか。

 

 

しばらくその様子を眺めていると、メイドさんが徐に口を開いた。

 

「――若様」

 

「……ロベルタ」

 

「こんな所におられたのですね。ご当主様も大変心配なさっておいでです、さあ」

 

ロベルタと呼ばれたメイドさんが一歩近づこうとすると、少年も一歩下がった。

 

そりゃ、遠慮なく人を撃つような人間に暴力の世界とは無縁そうな子供が恐怖を感じないわけがない。

 

メイドさんもそれが分かっているのか、それ以上無理に近づこうとしなかった。

 

「怖がられるのも無理はございませんね。理由はいずれご説明」

 

少年をあやす様に優しく声をかけていたメイドさんの言葉が中途半端なところで止まった。

 

 

 

「――その方々は?」

 

 

メイドさんの目線は少年のすぐ近くにいるラグーン商会に移った。

 

それに気づいたダッチさんが「やばい、目が合った」とまるで熊に遭遇したような態度をとっている。

ベニーと岡島も顔が青褪め引き攣っている。

 

 

 

そんな彼らへ無情にもメイドさんは再び銃弾が入っている傘の先を構えようとする。

 

「ま、待ってロベルタ! ダメだ! ……うっ」

 

「下がりなよ、メイド」

 

他の面々が固まっている中、動いたのはレヴィだった。

 

少年がメイドさんにとって“大事な人間”だと判断したのか、ラグーン商会きっての女ガンマンは、少年の首に腕を回しこめかみに銃口を向けられている様を目の前のメイドさんに見せつけた。

 

 

 

その行動は効果があったようで、傘を構える動きが止まった。

 

 

「ここにいる全員が屍になるより生きて朝日を拝みたいはずだぜ。てめえもこの坊ちゃんもな」

 

「バカよせ、それじゃ悪役だ!」

 

「うるせえ!」

 

岡島、世間では君たちも立派な悪役だよ。

 

というツッコミはしないでおこう。そういう雰囲気じゃない。

 

 

 

 

「無理な撃ち合いしなけりゃ、お前も坊ちゃんも五体満足で家に帰れる。床に血の絨毯を敷くことなくな。分かるか?」

 

「……考えております」

 

さて、彼女はどうするのだろうか。

この四方八方敵に囲まれている状況では、交渉に応じるのが普通だ。

 

「てめえら何勝手に話を進めてやがる! こっちの話はまだ」

 

さっきまでダッチさんと揉めていた男が自分を余所に話している様に痺れを切らし怒鳴り散らした途端、メイドさんが考え事の邪魔をするなと言わんばかりに容赦なく男の方へ弾を放つ。

 

その弾が男を打ち抜くことはなかったが、黙らせる程の効果は発揮したらしい。

 

 

 

 

再び静まり返る店内で周りが固唾を呑んで見守る中、しばらくするとメイドさんの口がゆっくりと開かれた。

 

 

「ご意向には添いかねます。若様には五体満足でお戻りいただきますが、ラブレス家の家訓を守り仕事をさせていただきます。」

 

 

 

そう言いながら傍に置いていたトランクを持ち、再びレヴィ達の方へ向き直る。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――Una vandicion por los vivos,(生者のために施しを、)una rama de flor por los muertos.(死者のためには花束を)

 

 

 

 

 

 

 

決して大きくはない、だが耳にはっきり聞こえる凛とした声音で英語ではない別の言語で何か喋っている。

 

 

 

 

 

Con una espada por la justicia(正義の為に剣を持ち、),un castigo de muerte para los malvados.(悪漢共には死の制裁を)

 

 

 

 

 

喋っている内容は分からないが、許しを請う言葉ではないことは分かる。

そして、メイドさんの雰囲気が先ほどとは違う異様なものになっていることも戦闘の素人である私でさえ読み取れた。

 

 

 

真っ向から対峙しているレヴィはそれを全身で感じ取っているのかいつも以上に緊張している面持ちだ。

 

 

 

 

Así llegamos (しかして我ら)――en el altar de los santos.(聖者の列に加わらん)

 

 

 

ひとしきり喋った後、一呼吸おいて持っていたトランクを勢いよく前に突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

En el nombre de Santa María,(サンタ・マリアの名に誓い、) juro castigar toda la maldad!(全ての不義に鉄槌を!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その最後の一言を高らかに響かせた瞬間、トランクから弾を乱射してきた。

あのトランク、重そうとは思っていたがただの旅行カバンじゃなかったのか。

 

身の危険を感じたレヴィが即座に反応し、少年を突き飛ばして銃をメイドさんへ撃ちながらこちらに走ってくるのが目に入る。

 

私は咄嗟に出していた頭を下に引っ込め、銃弾が当たらないよう身を潜める態勢を取った。

瞬間、乱射音がほんの一瞬止んだとともに頭上で爆発音が響く。

 

これはまた随分派手なものを容赦なく撃ちこんだものだ。

 

 

 

「うッ……!」

 

 

爆発音が止み、体勢を崩そうとした私の上に“何か重いもの”が急にのしかかり、ちゃんと受け止めることができず思わず呻き声を上げた。

 

「なに…?」

 

衝撃で閉じていた目を開き、降ってきたそれを確かめる。

 

 

 

 

 

 

 

「――レヴィ?」

 

 

 

 

目に入ってきたのは意識がはっきりしておらず、全身を微かに震わせているレヴィの姿。

咄嗟に身を起こし目の前で虚ろな目をしている彼女に必死に声をかける。

 

「レヴィ! しっかりしなさいレヴィ!」

 

声掛けも虚しく、レヴィが起きる様子はない。

だけど、死んでいるわけではない。

 

私はレヴィの意識を呼び戻そうと更に声をかけ続ける。

こんなところで伸びているのは、彼女らしくない。

 

「レヴィ! しっかり!!」

 

「キキョウさん! レヴィは!?」

 

遅れてこっちに走ってきた岡島とベニーが焦った表情でレヴィの様子を見る。

 

「ダメだ、軽い脳震盪を起こしてる!」

 

「くそっ、無茶な女だ。ケサンの攻防戦がピクニックに見えるぜ……!」

 

「レヴィ! レヴィ!!」

 

そんな中でも私は必死に声をかけ続けた。

こんなに大声を出したのは久しぶりで声が早くも掠れそうだ。

 

「キキョウ、レヴィは俺たちが連れていく。お前も早くこっから退散しろ」

 

ダッチさんが必死に声をかけ続ける私の肩を掴み声をかけてきた。

 

「まさか、この状態のレヴィを連れ回してあのメイドさんとやりあう気ですか?」

 

「あのメイドの目的は俺たちじゃねえあのガキだ。ガキはここに置いていく。それに、こいつがいつまでも伸びるような女じゃねえことはお前も分かってるはずだ」

 

「……ええ、よく分かってますよ」

 

そういうことなら何も心配ないはずだ。

そう判断し、私は大人しくレヴィをダッチさんに引き渡した。

 

 

「また今度、絶対一杯付き合ってくださいね」

 

「おう。――行くぞ! 走れ!!」

 

 

 

メイドさんがカルテルの方へ集中している隙にレヴィを背負っているダッチさんとベニーは裏口へ向かった。

 

 

さて、私もぐずぐずしている暇はない。

ダッチさんの言う通り、一刻も早く退散したほうが身のためだ。

 

 

幸い何やらカルテルの男が話をしている最中で銃声も止んでいる。

逃げるには絶好のタイミングだろう。

 

 

「バオさん、私たちもいきましょう」

 

「ああ」

 

 

メイドさんと男が話している隙に、私とバオさんもそそくさと裏口から店の外へ出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

その時後ろで「フローレンシアの猟犬が……!」という怒鳴り声が聞こえたが、今の私にはどうでもいいことだ。

 

 

 

 




「サンタマリアの――」の部分もきっとスペイン語だろうなと思ったので、あえてスペイン語にしてます。かっこいいですね。

そしてその家訓をキキョウは、カウンターからひょっこり顔を出して聞いてます。
可愛いですね。





=質問コーナー=
Q.初めまして。キキョウさんに質問なのですが、服以外の布製品の依頼を受けたことはあるのでしょうか?例えば、ぬいぐるみとか。もしあるならば何を作ったのかお聞かせ願いたいです。よろしくお願いします。


キ「初めまして。服を仕立てる以外の、というカテゴリであればありますよ。といっても、私は服専門なので一から作るものではなく簡単な修繕だけ請け負ってました。クッションカバーや小物入れ。それこそぬいぐるみもあります。
ロアナプラに来てからは、その依頼は全く来なくなりましたけどね」


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7 お仕着せは災いの鐘Ⅲ

メイド編、今話で終了です。







メイドさんとカルテルが何やら話し込んでいる隙にカウンターの裏側から速やかに裏口へ回り店の外へ出た。

 

ひとまず、怪我することもなく災禍の中心から脱せたことに息を洩らす。

 

這いつくばりながら移動したおかげで汚れてしまった膝の部分を手で払い、外からでは騒がしさの欠片も見当たらない店の方へ目を向ける。

 

「あのまま、話し合いで終わってくれればいいんですが」

 

「期待するだけ無駄だろ。たく、どいつもこいつもウチの店をなんだと思ってやがんだ」

 

「この前やっと修繕終わったばかりなのに。またしばらく家で飲酒生活になってしまいますね」

 

「……なあキキョウ、お前ウチがこうなっちまった時くらい他の酒場に寄ったらどうだ。ジャックダニエルくらいどこでもあるだろ」

 

「そんな寂しい事言わないでください。貴方の店で飲むお酒が美味しいから来てるんですよ私は」

 

バオさんが自ら常連を離すようなことを言うとは。

悲しいことに何回も店は壊されているから慣れていると思っていたのだが、どうやらセンチメンタルになる時もあるらしい。

 

 

「直ったらまた来ます。だから私がいつ来てもあのお酒が飲めるよう、用意しといてくださいね」

 

 

 

そう言葉をかけると、バオさんは少し目を見開いた後仏頂面のまま「……けっ」と吐き捨てた。

 

 

 

「相変わらずの変わり者っぷりだな、まったく」

 

「貴方の店の常連はほとんどが変わり者でしょう」

 

「言うようになったな、お前さんも」

 

この店主に“変わり者”だと言われたのは何回目だろうか。

そのことに嫌な気を感じないのは、最早これが彼とのちょっとした挨拶のようなものになっているからかもしれない。

 

 

 

「まだ飲み足りねえだろ? 騒ぎが収まった後酒出してやる。ま、あの惨状でも構わねえならの話だが」

 

「珍しいですね。貴方が店を壊されてるのに機嫌がいいなんて」

 

「うるせえ。嫌なら帰れ」

 

「嫌なわけないですよ。――では、店に酒が残っていたら飲ませてください」

 

「おう」

 

バオさんはこちらと目線を合わせず返事をし、取り出した煙草に火をつけて煙を吐き出した。

 

あのそっけない返事は彼なりのちょっとした照れ隠しなのかもしれない。

そう思うと口の端が上がるのを感じたが、あまりニヤニヤしても彼の機嫌をまた損ねそうなのでそこは我慢する。

 

店内が荒れている時に飲むのはバオさんの迷惑になるだろうと遠慮しているのだが、彼がこう言ってくれているし、飲み足りないのも事実なので今回は素直に言葉に甘えよう。

 

この店主の気前の良さには本当に頭が上がらない。

 

はやく終わらないかな、と隣で仏頂面を浮かべながら煙草を吸っている彼から再び目線を店の方へ向ける。

 

 

 

 

 

 

――だが、唐突に襲ってきた熱を放った猛烈な爆発音がそれを許さなかった。

 

 

 

 

 

 

 

唐突に巻き起こった爆風に踏ん張る間もなく押し倒され尻もちをつく。

 

 

 

 

「いった……」

 

地面に強打した臀部をさすりながら今度は何事かと熱風が飛んできた方向へ目を向け、入ってきた光景に思わず言葉を失う。

 

 

先ほどまで確かにそこに存在していた静かな雰囲気を持った酒場が、今では暗い空を明るく照らすほど轟轟と燃え上がり高熱を放っている建物へ成り代わっていた。

 

その様に思わず『この街でこんな大きな焚火をすることになるとは思わなかったな』と、この状況にはふさわしくない感想が浮かんだ。

私もとうとう末期だろうか。色々な意味で。

 

 

 

 

「……嘘だろ」

 

 

 

 

 

隣から今まで聞いたことのない情けない声が耳に入り、咄嗟に思いっきり彼を視界に入らせないよう顔を背けた。

 

先ほど不謹慎な感想が出たのもあって、隣にいる彼の姿を見ていられない。

 

 

もういっそこのままそっとしておいて帰った方がいいんだろうか。

だが、このまま何も声をかけずに立ち去るのも良くない気がする。

いやでも、声からして何を話しかけても無反応な気もしなくもない。

 

 

――ああもう、じれったい。

とにかく彼の姿をみてから色々考えよう、話はそれからだ。

 

それに声に相反して意外といつも通りということもある。

 

私は決して長くはない時間で思考し、その一縷の望みを胸に抱き意を決して隣の店主の姿を捉える。

 

「お、俺の店が……」

 

「……」

 

横顔からでも分かる絶望した表情。

呆然とした立ち姿からは覇気のはの字もないほど哀愁が漂っていた。

 

最早哀れすぎて言葉をかけるどころか目も当てられない。

 

再び静かに目を逸らし、火の勢いを増している建物だったものを見る。

今ではただ火を更に燃え上がらせるための薪と化している様に、残った酒を飲みたいという願望は捨てるしかなくなった。

 

店内が荒らされるまではいつも通りだが、ここまで跡形もなく木っ端微塵に吹き飛ばされるような大惨事は少なくても私は見たことない。

 

それは恐らく隣で棒立ちになってる店主もだ。

 

こんな無茶をやらかすような人間はあの場では一人しか思いつかない。

そして私は、その人物を店に案内した張本人。

 

やはりここは修繕……いや、建て替え費は出すべきだろう。

 

 

燃え盛る建物を瞬きも忘れたかのようにずっと見続けているバオさんに、少しの勇気を出して声をかける。

 

 

「バオさん、やっぱり私が建て替え費払います」

 

「……」

 

 

流石のバオさんも気前がいいことを言ってる余裕はないらしく、私の方を黙ったまま複雑そうな顔で見てきた。

だが先程自分から金は要らないといった手前からか、どうしたものかと悩んでいるようだ。

 

 

「彼女を連れ来たのは私ですからそれくらいは」

 

「……いや、さっきも言った通りお前さんが払うこたねえ」

 

「ですが」

 

「彼の言う通りですよ、Ms.キキョウ」

 

 

唐突に背後から名を呼ばれ反射的に振り向くと、そこには白人で黒髪の男性が一人立っていた。

 

 

「――メニショフさん?」

 

「お久しぶりです。まさか貴女がここにいるとは」

 

「それはこちらのセリフです。びっくりしましたよ」

 

 

 

私の名を呼んだのは、バラライカさんの部下の一人であるメニショフさんだ。

 

 

少し話を聞いただけで詳しくはないのだが、バラライカさんはロシアにいた頃軍隊に所属していたらしい。

軍にいた頃彼女は一つの部隊を率いていて、なんやかんやあってその部隊全員と共にホテル・モスクワへ入り今に至るという。

 

バラライカさんがボリスさんから「大尉」と呼ばれる理由もそこから来ているのだと、彼女とのお茶会の時に聞かされた。

 

ロシアから共にやってきた彼女が今も率いるその戦闘部隊はこの街で“遊撃隊(ヴィソトニキ)”と呼ばれ、

四大組織の中でも圧倒的な武力を誇っている。

 

 

そのせいかバラライカさんが遊撃隊(ヴィソトニキ)を動かすときは街に血の雨が降ると恐れられている。

 

実際、今まで彼らが動いた際に血が流れなかった時はほぼ存在していない。

 

 

 

私はホテルモスクワの事務所に訪れる時に遊撃隊の人たちとも挨拶を交わしたり、バラライカさんを待っているときに話をしたりするので比較的顔見知りが多い。

 

メニショフさんもその一人で、遊撃隊の一員でバラライカさんからの信頼も厚く、待ち時間によく話し相手になってくれる。

 

そんな彼がどうしてここにいるのだろうか。

 

 

「バオ、大尉からの伝言だ。『保証の心配は無用』だと」

 

「そりゃありがてえな。おかげでキキョウに金を出させる必要もなくなった」

 

「メニショフさん、もしかしてバラライカさんは貴方がたを動かしてるんですか?」

 

「ええ。ですが、そこまで大事にはならないでしょう。たかが一匹の猟犬を捕まえるだけですので」

 

そういえばさっきカルテルも『フローレンシアの猟犬』とか言っていた気がする。

数少ない情報の中だけで予想するのなら、恐らくその猟犬とはあのメイドさんの事だろう。

 

遊撃隊が動いたということは、それほど重要な人物なのか?

 

 

 

「Ms.キキョウ。失礼ですが貴女とあの猟犬はどういう関係で?」

 

 

考え事をしていると、メニショフさんが再び声をかけてきた。

彼が発した声音は先ほどのように世間話をするような柔らかいものではなく、その表情も声と似つかわしい硬いものだった。

 

バラライカさんの事だ。

私があのメイドさんと街を歩いていたことも、イエローフラッグで飲んでいたことも既に情報収集済みなのだろう。

 

だからといって、今なぜ私と彼女の関係性を聞かれているのか。

 

 

 

「……猟犬とは何のことか知りませんが、あのメイドさんとは今日知り合ったばかりです。私は彼女から“友人とイエローフラッグで待ち合わせをしている”と聞いたので、道案内しただけですよ」

 

「その友人の事は?」

 

「何も。事前に彼女の言っていた友人がカルテルだと知っていたら道案内なんかしません。アブレーゴさんも得意先の一つですから。――私が得意先に失礼を働くことが嫌いなことは、バラライカさんも貴方がたもご存じのはずですよ」

 

「……」

 

黙って聞いているメニショフさんの瞳を真っすぐ見据えて質問に答えた。

 

関係性を聞かれた理由については分からないが、何も話さず変な疑いをかけられるのは御免だ。

それに私には何も後ろめたい事は何一つないのだから、起きたこと、そして思っていることすべて正直に話すだけでいい。

 

私がこういう時嘘をつかないのを彼女はよく知っているはずだ。

なら、彼女の直属の部下である彼にそれが伝われば何も問題はない。

 

「――分かりました。では、大尉にはそのように伝えます」

 

「ぜひお願いします。彼女に命を狙われるのは本当に遠慮願いたいので」

 

「それもお伝えしたほうが?」

 

「きっと彼女なら笑い飛ばしてくれるでしょうね」

 

メニショフさんは私の言葉に嘘がないと理解してくれたのか、それ以上聞いてくることはなかった。

私と彼との間に走った緊張は解れ、いつもの世間話をするような雰囲気に戻る。

 

 

途端に後ろで建物が崩れる音が聞こえ、もう建物の形を保ってはいなかった。

 

「すまねえなキキョウ。店がこんなんじゃ出せる酒がねえ」

 

「本当に残念です。折角の誘いだったのに」

 

「代わりと言っちゃなんだが店が直ったら快気祝いに一杯奢ってやる」

 

「え、そこは私が奢る方じゃないんですか?」

 

「そういう気分なんだよ」

 

金の心配がなくなったバオさんは、意気消沈しどんよりした雰囲気から通常運転に戻り、新しい煙草に火をつけながらそう言った。

 

「貴方も私に負けず劣らずの変わり者ですよ、バオさん」

 

「言ってろ」

 

「……はい、まだそこに。……しかし報告は? ……了解。――Ms.キキョウ」

 

「なんでしょうか?」

 

バオさんとの会話にもはやこれ以上私がここにいる意味はないことを悟り、この場から去るため一言別れの挨拶を発しようとした矢先。

私がバオさんと会話している間誰かと連絡を取っていたメニショフさんが、私に向き直って声をかけてきた。

 

「大尉からの命令で、俺がこのまま貴女をご自宅へ送り届けます」

 

「……あの、自分で帰れますよ?」

 

「『夜の一人歩きは危ない。素直に甘えなさい』との事です」

 

この場にいない彼女が、しかもマフィアのボスでもある人がなぜそこまで気を遣ってくれるのだろうか。

いつも『そこまで気を遣わないでほしい』と言っているのだが、やめる気は更々ないらしい。

 

それは彼女だけではなく張さんもそうなのだが、あの二人の考えていることはよく分からない。

 

「私に断るという選択肢は存在しますか?」

 

「それを選んでしまわれては俺が大尉にお叱りを受けてしまいますね」

 

「それ、遠回しに『ない』って言ってるようなものですよ、メニショフさん」

 

「おや、気づかれてしまいましたか」

 

少し困ったように笑うメニショフさんにつられ口の端が上がる。

この人をこれ以上困らせるのは気が引けるので、今回は素直にバラライカさんからの厚意を受け取っておこう。

 

今度彼女に会った時は、こういうやり方はやめてほしいと言う必要があるな。

まあ、それもきっとうまいこと流されてしまうのだろうが。

 

「ではバオさん、また来ます」

 

「おう」

 

自身の店が燃えているにもかかわらず、悠長に煙を吐き出しているバオさんに今度こそ挨拶の言葉をかける。

バオさんはこちらには向かなかったが、一言だけ言って手を振ってくれた。

 

その返答を聞いて、後方でメニショフさんが立っている位置まで歩みを進める。

彼に誘導されるまま着いていくと、銀色の車の前で止まり後部座席のドアを開けてくれた。

 

「私に対してそこまで丁寧な対応しなくてもいいんですよ?」

 

「これくらいのエスコートは当然でしょう」

 

彼の気遣いが少し気恥ずかしくて素直にお礼が言えなかった。

こういうことをさも当たり前のように言ってのけるとは、バラライカさんの指導の賜物なのだろうか。と、エスコートについて語るバラライカさんを少し想像してしまう。

 

それを頭からすぐに振り払い、「失礼します」と一言断りを入れてから車に乗り込んだ。

 

私が座った後ドアが閉められ、メニショフさんが運転席に座りエンジンがかかり未だに火が消える気配のない酒場を後にする。

 

 

 

今日は少し疲れたな

 

 

とため息を漏らしそうになるのを我慢した。

 

 

 

 

 

 

 

――その三週間後、完全修復されたイエローフラッグで少々顔の腫れたレヴィと飲み比べをする羽目になるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

<後日談>

 

「この前は大変だったわね。道案内してた人間がまさか武装メイドだったなんて思わなかったでしょう」

 

「本当に。でもまさか、貴女に思わぬ疑いをかけられるとは」

 

メイドさんがイエローフラッグを爆散させてから三日。

 

イエローフラッグの二階で営業している娼館『スローピー・スウィング』のオーナー、そして数ある得意先の一つでもあるマダム・フローラから複数の服を依頼されていた。

 

その依頼をこなそうと朝から作業をしていたのだが、騒動の後始末が落ち着いたのかバラライカさんから数分前に依頼品を届けてほしいと連絡が来た。

そのため、急遽ホテル・モスクワの事務所へ行くことになりいつもの茶会を楽しんでいる。

 

 

 

いつも部屋の奥で紅茶を片手に迎えてくれる時のバラライカさんの穏やかな姿からは、街の人に恐れられている女ボスだと想像がつかない。

 

 

「アナタが私たちに対して何か良からぬことをするなんて思ってないわ。

――念のためよ。私の立場上、知らぬ存ぜぬって訳にもいかない。それはアナタも分かってるでしょう?」

 

 

彼女は私の事を信用してはくれている、と思う。

だが、バラライカさんはこの街の支配者の一人なのだから、どんな些細な事でも大きな火種に繋がりそうなモノは放っておくわけにもいかないのだろう。

 

それとこれとは話が別。つまりはそういうことだ。

 

「ええ。なのであの時メニショフさんに私なりに誠意を持って答えました」

 

「伍長が言っていたわ。『あの目で嘘をついているならとんでもない女性』だって。そういう時のアナタはいつも裏表ないから」

 

「流石、よく分かっていらっしゃいますね」

 

「フフッ」

 

メニショフさんに私の誠意ある返答が伝わってよかった。

『とんでもない女性』という部分には首を傾げたいところだが、結果信用してもらえたので別に気にすることでもないだろう。

 

「アナタはそういうところは変わらないわね。初めて会った時からずっと」

 

「変えるつもりはありませんからね」

 

「変われない、の間違いではなくて?」

 

「そうかもしれませんね。――貴女もそうではないのですか? まさか、今更生き方を変えようとは思っていないでしょう」

 

 

半分が火傷痕で覆われてなお美貌を失っていない端正な顔から目を逸らすことなく言葉をかける。

 

 

 

遠慮することなく投げかけた言葉を聞いたバラライカさんは少しだけ息を吐いた。

 

「言うようになったわね」

 

「お気に障ってしまいましたか?」

 

「いいえ、むしろ愉快だわ。私にそんなことを言うのは命知らずな馬鹿しかいないから」

 

「なら、私もその一人の仲間入りになってしまいましたね」

 

「アナタはその中でもとびきりよ。――だから、面白いのよねえ」

 

目のまえで優雅に紅茶を飲む彼女の顔が微笑みから酷く歪んだ笑みに変わった。

その様を目で捉えるだけに留め触れることはせず、紅茶の傍に置かれているジャムを少量スプーンで掬い、紅茶でその甘みを喉に流し込む。

 

 

 

 

――緊張した時に摂る甘いものは、やはり格別だ。

 

 

 






アニメでロベルタが爆破したイエローフラッグを膝をつきながら見ているバオの様子が本当に不憫だなあ……と初見時に思ったのを思い出しました。

いやあ、本当に可哀そう()




=質問コーナー=

Q.はじめまして。キキョウさんに質問ですが、レヴィに合いそうな服(ホットパンツは無しで)を何着か見繕ってください。


キ「はじめまして。これはまた楽しそうな質問ですね。……そうですね。薄い素材でできたVネックのシフォンブラウスに足のラインがはっきりしているジーンズの組み合わせとか、今着ているタンクトップに黒のフレアパンツ。あとバルーンスリーブのオフショルダーとレザーパンツ。あ、さっき言ったシフォンブラウスには膝までスリットが入ったロングスカートも合うと思います。違う視点からだと、チャイナドレスも似合いますよ絶対。下にガーターベルトと黒のストッキング履けばものすごく魅力的になるはず。

――ですが残念なことに彼女は服に一切の興味がないんです。いつも収納場所に置いてあるフリーサイズのものを買っていくだけで、今でも仕立てさせてもらえないんです。
似合うもの仕立てるって言ってるんですが……。

と、いうことで着てみないレヴィ?」
レ「めんどくせえ」
キ「そっか……」


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8 とある男女の丁々発止

今回はオリキャラのみの登場となります。





「――さ、キキョウちゃん。遠慮しないでドンドン飲んでね」

 

「ありがとうございます。それにしても、よくこんなに溜め込んでましたね」

 

「飲もうとは思ってたんだけど最近その暇がなくてね。まあアタシの職業柄この街で暇がある方が珍しいんだけど」

 

「お疲れ様です。あの、本当にいただいていいんですか?」

 

「いいのいいの! この量じゃどうせ一人で消費できないし」

 

 

 

立て込んでいた依頼をすべて終わらせ、仕事終わりの一杯を飲むためイエローフラッグに繰り出そうとしていた時の事。

 

片づけを終えいざ行こうとした瞬間、携帯から音が鳴り響いた。

 

電話に出た瞬間、もしもしと言い切る前に名乗りもせずすごい勢いで「この後暇!?」と聞かれ、驚いて思わず切ってしまいそうになった。

その気持ちを抑え落ち着いて話を聞いてみればリンさんからで、なんでも飲む機会を失った大量の酒を少しでも多く消費したいとのことだった。

 

別に置いといても問題ないのではないか、と尋ねたのだが『これ以上増えたら置き場に困っちゃうの』『キキョウちゃんお酒すごく強いから適任だと思って』など様々な誘い文句を言われた。

 

特にするべきこともない上に酒を飲みに行こうとしていた時だったので断る理由もない。

 

 

 

そういう訳で私は今、闇医者ビアンことリンさんの家にお邪魔している。

 

 

 

彼女の職場でもあるこの家は、比較的広いが隅々まで手入れが行き届いており、内装も落ち着いた雰囲気となっている。

一人で過ごすには広めなリビングの真ん中に置いてあるテーブルの上に酒をたくさん並べる彼女は満面の笑みを浮かべており、とても楽しそうだ。

 

「ほんとキキョウちゃんが仕事終わりで運がよかったわ。アタシの普段の行いがいいおかげね」

 

「あはは……」

 

貴女この前「クソむかついた男の内臓を二つ三つ売り飛ばした」とか言っていませんでしたっけ?

 

 

 

と言いそうになったが、お酒を振舞ってくれるリンさんの機嫌を損なるようなことはしたくないので心の中で呟くまでに留めておく。

 

「これで全部かな」と手を付けていなかった酒を全て引っ張り出す。

自宅に数十本もの酒を置けるなんて羨ましいとも思ったが、私はあの酒場で飲むのが常なので結局保管場所があっても意味がないな、と羨む気持ちはすぐなくなった。

 

「あ、ほらジャックダニエルもあるわよ。それもシナトラセレクト」

 

「そんなものまでほったらかしにしてたんですか。本当に勿体ない事してますね」

 

「ほったらかしてたんじゃなくて飲むタイミングを失ってただけよ。これから空ける?それとも別のにする?」

 

「最初からそれはちょっと勿体ないので、そこにあるジムビームにしましょう」

 

「はいはい」

 

私は基本的にジャックダニエルしか飲まないのだが、他の酒が飲めないわけではない。

人から酒を奢られる時は大体同じものをいただいているので、それなりの種類の酒を嗜んでいる。

 

ジムビームは割と飲みやすいと思っているので、最初の一杯はこれからいくのが妥当だろう。

 

リンさんは二つのグラスに氷を入れると、私が指した白ラベルの『Jim Beam』と書かれたボトルを開けて注いでくれた。

 

「じゃあ、今日は楽しみましょ! かんぱ」

 

 

自身のグラスを高らかに掲げ、心の底から楽しそうに発そうとした飲み始めの掛け声が止まる。

 

 

 

 

 

「……」

 

「……」

 

 

沈黙が落ちる。

 

 

 

その原因は家中に響いた来客を告げるチャイムの音。

 

 

目の前の彼女は先程までの満面の笑みと乾杯の姿勢のまま固まっている。

どことなく不機嫌な空気を醸し出しているのは気のせいではないだろう。

 

 

 

リンさんが出てこないからか、何かの用があって訪れた客人は催促するように再びチャイム音を鳴らす。

 

 

「…………」

 

「あ、あのリンさん。出なくていいんですか?」

 

「いいのよ。別に大した用でもないでしょ」

 

「気持ちは分かりますけど、そんなおっかない顔しないでください……」

 

 

彼女からしてみれば、折角の楽しい雰囲気をぶち壊しにされたのだから面白くはないだろう。

私だって楽しみのひと時を邪魔されればいい気はしない。

 

だからと言って、玄関の方向を鋭い眼光で睨みつけるのはどうなのか。

 

二回鳴らしても出てこないリンさんに痺れを切らしたのか、今度はドンドンと直接ドアを叩きながら大きな声で呼びかけてきた。

 

 

 

 

 

 

 

リン!いるのは分かってんだ! とっとと出てこい!!

 

 

 

 

 

 

 

玄関の方から飛んできたのは“中国語”で発せられる怒鳴り声。

 

 

その声を聞いた瞬間、機嫌の悪さが頂点に達したのか自身のグラスを乱暴にテーブルへ置き、鋭い眼光を携えたまま足早に部屋を出て行った。

 

 

 

 

嫌な予感しかしない。

それにあのおっかない顔のまま出て行ったところで話が丸く収まるとも思えない。

 

 

私もグラスを置き、リンさんの後を追おうと腰を上げる。

 

 

 

うるっさいのよアンタ! 一回で出なかったんだからその時点で帰りなさいよ!!

 

中から声が聞こえてんのに帰るやつがどこにいるんだ!

 

居留守を使ってるって分かってんなら察しなさいよ! 気持ちを汲み取ることもできない訳!?

 

なんで俺がお前の気持ちなんか汲み取らなきゃいけねえんだ!

 

 

先程の男性の怒鳴り声とリンさんの大声が一瞬の間も空けることなく交互に聞こえてくる。

リンさんとここまで派手に、しかも中国語で怒声を浴びせ合う人物は一人しかない。

 

 

少し遅れて玄関に着くと、私の姿を捉えた来客と目が合った。

 

「キキョウか? お前なんでこんなところに」

 

「お久しぶりです郭さん。先程リンさんに一杯のお誘いをいただきまして」

 

「相変わらずこの女の暇つぶしに付き合わされてるのか?迷惑なら断ってやればいいものを」

 

「仕事が終わって時間も空いてたので丁度良かったんですよ」

 

リンさんと怒鳴り合っている時のしかめっ面を引っ込め、

英語で声をかけてくれた男性の名は“郭 颯懍(カク ソンリェン)”。

 

 

黒い長髪を後ろでひとまとめにし、黒のスーツに身を包んでいる彼は、言うまでもなく三合会の一員。

 

体術に長けていて腕も立つことから、よく張さんの周りを警護しているらしい。

そして張さんの事を心から尊敬しており、自分に警護を任せてくれることを誇りに思っているようだ。

 

絶大な忠誠心を持ち、ボスの敵は必ず潰すという姿勢から彼の事は一目置いていると張さんから聞いた。

 

そんな自分のボスからあまり離れない彼がどうしてここにいるのか。

 

「そういう訳だから。ほらさっさと帰りなさいよ」

 

「俺だって長居するつもりはねえ。だが、お前から例のモン受け取ってこいって大哥から言われてる。それをとっとと渡してくれればお望み通り帰ってやるよ」

 

「……ほんとあの人は性格が悪すぎる。わざととしか思えないわ、このクソ野郎をよこすなんて」

 

呆れ顔で発された郭さんの言葉にリンさんは苦々しい表情を浮かべ呟いた。

雇い主である張さんの名前が出てしまえば、無理やり追い返すわけにもいかないのだろう。

 

「アンタも得意の空気の読めなさを生かして断りなさいよ。“なんで俺が行かないといけないんですかあ”って」

 

「そんな我儘誰が言うか。お前みたいに礼儀も知らねえクソ女じゃあるまいし」

 

「……なんですって?」

 

瞬間、この空間の温度が一気に下がった気がした。

敵意むき出しの鋭いその声で彼女が郭さんの言葉で更に不機嫌になっているのは表情を見なくても分かる。

 

というか見たくない。触らぬ神に祟りなしだ。

 

 

だが、そんなリンさんの目の前に立っている郭さんはたじろぐことなく口を開く。

 

「事実だろ。普段世話になってるはずの大哥に敬意の姿勢を一切見せねえ傲慢な女。何か間違ってるか?」

 

「うるさいわね。アンタのその異常な忠誠心をアタシに押し付けるなって何回も言ってるでしょ? 大哥がいなきゃ何もできない餓鬼が、偉そうにすんじゃないわよ」

 

「その歳になって礼儀の一つも覚えられねえお前の方が餓鬼だ」

 

「相変わらずクソむかつく野郎ね」

 

「お前ほどじゃない」

 

実は、こういうやり取りは今に始まったことではない。

リンさんと郭さんは昔から仲が悪いらしく、顔を合わせる度に嫌味や罵詈雑言をお互い浴びせるのだ。

 

最初こそこのやり取りに戸惑ったが、何年も見ていれば自然と慣れてくるもので今では恒例行事だと諦観している。

 

だが、これ以上この話を引っ張るのは互いのためにもならないはずだ。

なにより、氷がこれ以上溶ける前に酒を飲みたい。味の薄くなった酒が一口目なのは勘弁したいものだ。

 

「あの、郭さんは張さんの命令で何か受け取りに来たんですよね?なら早く渡した方がいいですよリンさん」

 

「ほらキキョウちゃんにまで気を使わせた。謝りなさいよ」

 

「自分の落ち度を他人のせいにするとはな。いい加減キキョウの謙虚さを見習え。――とまあ色々言いたいが、キキョウの言う通りだ。これ以上の話は無意味だ、早く出せ」

 

「アタシに命令しないで頂戴。……はあ」

 

 

一つため息をつき、リンさんは足を動かし奥にある部屋へ入っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「すまねえなキキョウ。見苦しいところ見せちまった」

 

「今更ですよ。それに、喧嘩するほど仲がいいとも言いますし」

 

「気色悪い冗談はやめてくれ」

 

郭さんは私の言葉に少し困ったような顔を浮かべた。

 

この人はあまり笑わない彪さんとは対極で表情が豊かだ。

愉快そうに口の端を上げる時の表情は、どことなく張さんと似ている。気がしなくもない。

 

「そういえば、張さんはお元気ですか?」

 

「ああ、今も立派に仕事をこなされてるよ。その仕事もそろそろ落ち着く。近々一杯誘いがあるかもな」

 

「どうして折角の空き時間を一人で過ごされないんでしょうかね」

 

「さあな、俺にはあの人の考えてることは分からねえ。ま、大哥と一杯やれるだけありがたいと思っとけ」

 

「ええ」

 

 

ダメもとで聞いてみたが、やはり分からないか。

彪さんにも前同じことを聞いてみたが、返答は全く同じだった。

三合会の中でも一番近く張さんを見ている郭さんと彪さんでさえ、未だに彼の考えていることは分からないらしい。

 

だが、別に知ったところで何かが変わるわけでもなし。

結局、私たちはそれでいいのだ。

 

 

 

 

「ほらとっとと持っていきなさいクソ野郎!」

 

 

 

リンさんの勢いがある声と共に、ものすごいスピードで私の背後から銀色で小型のキャリーケースを前に突き出した。

 

「てめえもっと丁重に扱え。これがどういう代物かお前が一番分かってんだろ」

 

「ちょっとした小遣い稼ぎの道具」

 

「ふざけやがってこのクソ女。早くどっかの男にでも刺されろ」

 

「アンタも早くそこら辺の野良犬の餌になりなさいクソ野郎。とにかく、渡すもん渡したんだから消えなさいよ。アタシとキキョウちゃんはこれからお楽しみなんだから」

 

「はあ」

 

ため息をつきながら受け取り中身を確認すると「確かに受け取ったぞ」とリンさんへ言葉を投げかけすぐにキャリーケースを閉じた。

 

あの中身が何なのか知ったところで意味もないので質問はしない。

それに、知らな方がいいこともある。

 

 

「邪魔したなキキョウ」

 

「お疲れ様です。張さんにもよろしく言っといてください」

 

「おう」

 

 

郭さんは私に一言そう言ってから、受け取るものを受け取って用はないという風に颯爽とその場から去っていった。

 

 

 

 

「アタシには最後まで一言も謝らなかったわあの野郎。……いっそアタシが完全犯罪で殺ろうかしら」

 

「リンさん、そんなことしたら三合会の人全員から命狙われますよ。多分」

 

言っていることが果たして冗談なのか本気なのかは分からないが、彼女なら本当にやりかねないので一応忠告をしておく。

 

「だからこその完全犯罪よ。ま、どうせすぐくたばるでしょうからアタシが手を下すまでもないだろうけど」

 

「それ言うの何回目か覚えてますか?」

 

「さあ、数えてないから知らないわ。ま、そんなことどうでもいいじゃない! さ、早く乾杯しましょ!」

 

「わっ、急に押さないでくださいリンさん」

 

リンさんは郭さんが来る前のテンションに戻り私の背中を押した。

この人はいつも切り替わりが早いので驚かされる。

 

だが、それが彼女のいいところでもある。

 

 

 

 

 

 

 

そしてリビングで放置されていた酒は、やはり氷が溶けていて薄くなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




郭さんも割とお気に入りです。


二人の掛け合いを本当は中国語で出したかったのですが断念しました……。
いつかちゃんと翻訳して修正できればいいなあ。


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9 小言は言うべし酒は買うべし






時計が午後の17時を指し示す頃。

こなすべき依頼もなく、久々に朝から刺繍に没頭していた。

 

今日の柄は様々な色のガーベラを一面にちりばめたもの。

赤、黄、ピンク、白、オレンジという明るい色で統一し、全ての花の輪郭に沿って白く小さいビーズも加えたので少し派手だが華やかさが感じられるものとなっている。

 

ハンカチのように使えるものにする訳でも人に売る訳でもないが、明るいものを作りたい気分だったので結果こうなった。

 

 

たまには趣味の物を贅沢に仕上げるのも悪くない。

 

 

 

 

さて、あと一輪だけ輪郭に沿ってビーズを縫えばこの作品も完成だ。

まだ陽が沈むまで十分時間があるのでゆっくり仕上げよう。

 

と、その前に喉が渇いたので一度手を止め水を飲もうと腰を上げる。

 

自室に向かい、コップに水を注ぎ少しづつ口に含み喉を潤していく。

やはり作業に集中していると自分の体の事は二の次になってしまうな。

 

これは昔からの性分なのできっと治らない。いや、治す気がないと言った方が正しいか。

 

 

 

半分以下となった残りの水を一気に飲み干そうと口に含んだ瞬間、唐突に聞きなれた音が響いた。

 

 

 

 

慌てて作業場に戻り、口の中の水を飲み込み音の発信源である携帯を手に取る。

 

「げほッ……はい、キキョウです」

 

何回かコール音を響かせた後、勢いよく飲んだせいで少し噎せながらも電話に出た。

 

 

『どうした、風邪でもひいたか?』

 

 

聞こえてきたその言葉と低い声で相手が誰なのか瞬時に理解する。

 

 

 

「失礼しました。至って健康なのでご心配なく」

 

『そうなのか? 久々に弱ったお前を見れると期待したんだがな』

 

「そんなもの見てどうするんですか」

 

『さあ? ただ、愉しいということだけは確かだな』

 

その言葉の後、一つ息を吐き出す音が聞こえた。

ヘビースモーカーである彼は、きっと今も煙草を吸いながら電話してきているのだろう。

 

優雅に佇みながら通話している様が目に浮かぶ。

 

「……それで、どうされたんですか張さん。わざわざ私の体調を気遣うためだけに連絡してきたわけではないでしょう?」

 

『はは、たまにはそれも悪くないな。――ちょいとお前に頼みたいことがあってな』

 

「服の依頼ですか?」

 

『あー……。まあ、そんなところだ』

 

張さんの返答に思わず首を傾げる。

いつもならもっとこう、気軽に依頼してきてくれるのだが今日は少し様子がおかしい気がする。

 

ただの気のせいだろうか?

 

『ひとまず、詳しいことはそっちに行ってから話す』

 

「あ、今回はこっちに来られるんですね」

 

『たまには、お前が淹れてくれるコーヒーを飲みながら話すのもいいだろう?』

 

私が淹れるコーヒーはいつもインスタントだ。

彼ならもっと上等な物を口にしてそうなものだが、なぜかそれでもいいと言ってくれている。

 

だから私は張さんが来るときは必ずと言っていいほどインスタントコーヒーを淹れてもてなしている。

これも五年前から続いている習慣の一つだ。

 

「今から来られますか?」

 

『ああ』

 

「分かりました。コーヒー淹れながらお待ちしております」

 

『楽しみにしてるよ』

 

そう言った後、張さんが電話を切ったことを確認しそのまま携帯を作業台の上に置く。

今から来るのであれば、恐らく20分前後で着くだろう。

 

それまでに、少し作業場の整理とコーヒーをいつでも出せる状態にしなければならない。

 

最初の歯切れの悪さが少し気になったが、まあ大したことではないだろうと結論付け、まず台の上の刺繍道具を片付けようと手を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――張さん、もしかして相当だらしない生活を送られているんですか?」

 

「誰だって気が抜ける時くらいある」

 

「気が抜けるのは仕方ありません。ですが、多すぎるんですよこうなるのが」

 

「……疲れてたんだ。俺が常に気が休まらない立場なのは知ってるだろう」

 

「疲れてるなら煙草吸う前に着替えて寝てください」

 

思っていた通り、連絡をもらってから20分ほどでやってきた張さんをいつものように招き入れ、淹れたコーヒーを手渡ししばらく世間話をしていた。

 

だが中々本題へ入ってくれないのでこちらから催促すると、少し困ったような表情を浮かべ

「あー…」とまた歯切れの悪い反応を見せた。

その様子に首を傾げつつも、彼が持ってきていた紙袋を受け取り中を見てみれば

 

 

 

 

胸の部分に一つ小さな穴が空いているワイシャツが出てきた。

 

 

 

 

穴の周りに燃えたような跡があるのが目に入り、原因が何なのかすぐ分かった。

 

 

この穴は煙草の火が落ちてできたもの。

これくらいなら修繕するのは簡単で別に作業も苦ではない。

 

だが、私はそれを見た瞬間盛大なため息を吐きたくなる症状に駆られた。

 

 

 

――実は、彼がこういう状態の服を持ってくるのは初めてではない。

 

この人は、これでもかというほど煙草で服に穴を空けるのだ。

 

この前はジャケット、その前はズボン、その前の前はコート……

と、もう癖なのかと言いたくなるレベルでタバコの火を服に落としている。

 

 

最初は『誰だってこういう時はある』とあまり気にしていなかったのだが、こう何回も穴を空けられると嫌でも気になってくる。

 

争いごとに巻き込まれたり他人に煙草を押し付けられたりという不可抗力ならまだしも、煙草の火をうっかり落として何回も空けられるのは、はっきりいって気分がいいものではない。

 

「その言い草、まるで母親だな」

 

「人にここまで言わせる貴方はまるで子供みたいですよ」

 

「そんな強張らせてると綺麗な顔が台無しだぞ」

 

「そう言えば私が動揺するとお思いなのでしょうがそうはいきませんよ」

 

 

例えお世話になっている人でも、今回ばかりははっきり言わせてもらう。

 

 

 

「私以前言いましたよね? 『服に穴を空けるのが趣味でないのなら気を付けてください』と」

 

「お前が仕立てた服を傷つける趣味は持ち合わせてないさ。ただちょいと不注意でな」

 

「この前も、その前も、その前の前も同様に“不注意”だと仰っていましたね。では貴方はその不注意を直す気はないと、そう捉えてよろしいので?」

 

「おっと、今日は一段とキツイな。――悪かった、だからそんな不機嫌になるなよ」

 

誰のせいだと思っているんだ、全く。というか本当に悪いと思っているのか。

 

 

再び言い返そうとした時、ニヤニヤとしている顔が目に入った。

 

 

「……私の小言はそんなに面白いですか?」

 

「ああ、すまん。そう言っていても、結局お前は俺の頼みを聞いてくれるんだろう?」

 

ああもう。なんでこういう時にそんなことを言うんだ。

色々小言を言ってはいるが、この人の言う通り断ることは全く考えていない。

 

それを簡単に言い当てられてしまい、思わず言葉を飲み込んだ。

まるで、今までの言葉は全部意味がないと言われているようで少し気恥ずかしい。

 

「分かりませんよ。私の気が変わるかもしれませんし」

 

「それは困る。お前が仕立てた服はお前しか完璧に直せないからなあ」

 

「ならもっと大事にしてください、本当に」

 

「俺もあれ以上の小言を貰うのは勘弁したいからな。いや、そういうお前は珍しいからたまにはいいか?」

 

「張さん」

 

冗談を諫めるように名を呼ぶと、張さんは愉し気な表情のままくくっと笑った。

 

 

この人にはこれ以上小言を言っても無駄な気がするな。

 

 

 

そう思いながら小さくため息をつき、サングラスの奥にある瞳を見ながらゆっくり口を開く。

 

「お怪我はありませんでしたか?」

 

「ああ。流石に自分の煙草で火傷を負うなんざ格好がつかない」

 

「服に穴空けてる時点でついてないですよ」

 

「それもそうか。なら、今すぐ挽回しねえとな」

 

張さんはそう言うと、優雅に組んでいた長い目の前に足を崩し腰を上げた。

空になったコーヒーカップを私の後ろにある作業台の上に置いたと思えば、そのまま顔が近づいた。

 

椅子に座ったままの私を見下げるその顔は、愉快だと言わんばかりに口の端が上がっている。

 

「なあキキョウ、俺にその挽回のチャンスをくれないか?」

 

「私に対してかっこつけても何の得もないと思うんですが」

 

「男は女の前じゃかっこつけたいもんさ。勿論、この俺も例外じゃない。――口説きたい女の前なら尚更」

 

普通なら「何を言っているんだ」と引かれるような台詞。

だが、雰囲気と合っているせいで全く違和感がない。それどころか、よりダンディズムさを感じさせるものとなっている。

 

これはきっと、この伊達男の為せる業なのだろう。

 

 

 

どうせなら、私のような女ではなくもっと綺麗な女性に使えばいいものを。

 

 

「……私にそういう冗談を言っても面白くないのによく飽きませんね」

 

「全く、少しは靡いてくれてもいいんじゃないか?」

 

「冗談を本気にするほど間抜けではありません」

 

「やれやれ。相変わらず気難しいことだ」

 

この人が洋裁にしか興味がないつまらない女を本気で口説くなんてありえない話。

だからこれは冗談なのだと結論付けいつものように受け流す。

 

こういうやり取りは、きっと彼が飽きるまで続くのだろう。

早くその時が来てほしいものだ。

 

「そんな困ったお嬢さんは、この後用事はおありかな?」

 

「……貴方からの依頼をこなす以外は特にありませんね」

 

飽きもせず彼から出た気障な口調に触れることなく返答する。

またため息つきたくなって少し間が空いてしまったが、まあ気になるほどではないだろう。

 

「そりゃよかった。なら、ちと早いが久々に食事でもどうだ。」

 

「酒ではなく、ですか?」

 

「ああ、たまにはパトロンとしていいもん食わせないとな。どうせまたサンドウィッチばかり食べてるんだろう?」

 

「別にいいじゃないですか。手軽ですし美味しいんですよ、サンドウィッチ」

 

毎日外食や宅配ピザより時間も金もかからない上に健康的。

これを咎められる筋合いはないと思うのだが。

 

「お前の食生活を責めてるわけじゃない、そう怒るな」

 

「怒ってないです」

 

「ふっ。さて、俺としてはこれからお前に美味い中華を食わせたいんだが、どうする?」

 

私としてはさっさと服の修繕を行いたいのだが、どうやら急ぎではないらしい。

それに、彼は今日“そういう気分”らしいので私に断る選択肢はほぼない。

 

「では、お言葉に甘えてぜひご一緒させてください」

 

「決まりだな」

 

私の返答を聞いた張さんは一言そう言うと、近づけていた顔を離す。

 

「では早速行こうか、Ms.キキョウ」

 

決まり文句のような台詞を言ったかと思えば、まるで女性をエスコートするかのように手を差し出された。

だが、なんだか照れくさくてその手を取ることが憚られる。

 

「俺のエスコートじゃ不満か?」

 

「……いえ、そういうわけでは」

 

「なら、取ってくれると嬉しいね」

 

ニヤニヤとしているその表情に顔が引き攣りそうになったが、お世話になっている人の手前そうする訳にもいかない。

 

結局、今私がするべきなのはこの人の気まぐれに付き合うことだけだ。

 

 

照れくさい気持ちのまま目の前にある武骨な手をおずおずと取る。

 

 

 

その時また、彼は満足そうな顔を浮かべくくっと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――やっと着いたね」

「ええ。とても長くて退屈だったわ」

「でも、これでまたいっぱい遊べるよ」

「そうね。どうせなら満足するまで遊びましょ」

 

「ああ、早く嗅ぎたいな。あの心地いい鉄錆の匂い」

「早く触れたいわ。あの愛しい温かさ」

「早く聴きたいな。あの綺麗で高らかな声」

「早く見たいわ。あの素敵な表情」

 

「待ちきれないね、姉様」

「本当に楽しみね、兄様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




<中華料理店にて>

「――ほら、遠慮することはないぞ」
「いや、遠慮とかじゃなくて」
「さっき美味しそうに食べてたじゃないか。好きなんだろう?」
「好きですけど、それとこれとは」
「じゃあ何も問題ないじゃないか。折角だ、たくさん食べとけ」
「もう満足です……。それに何回もおかわりするのは」
「好きなモン食うのは恥ずかしがることじゃない」
「そういう訳にもいかないんです」
「いいから食っとけ。おい、これもう一つくれ」
「あ、ちょっと――」







張さんが頼んだのはごま団子。
そして、ごま団子を食べてる時のキキョウは本当に美味しそうに食べるのです。
普段あまり感情をはっきり顔に出さないキキョウのその顔を見たいがために頼んじゃう。

そして、食事の後は二人で一杯――。




次回から、とうとうあの子たちのお話になります。


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10 落とした物は拾い得……?

今回から双子編です。






「――災難だったね二人とも」

 

「ほんとだぜ。こいつが早く取りに行きたいって駄々こねさえしなけりゃこんな濡れずに済んだってのによ」

 

「誰がいつそんな駄々をこねたんだよ。大体お前が傘なんていらないって言ったんだろ」

 

「あ? じゃあアタシのせいだっていうのかよ」

 

「まあまあ」

 

今私の目の前で話しているのは、ラグーン商会のレヴィと岡島。

二人は私が貸したタオルを首にかけ、コーヒーを片手にくつろいでいる。

 

彼らがここに来たのは十五分ほど前。

 

昼時だというのに陽が照っておらず、いつもより暗い上にジメジメしていた。

その理由は、亜熱帯で年中暑いこの街に雨が降っているからだ。

 

雨はあまり好きではない。

ただでさえどんよりする天気だというのに、湿気がすごいせいで暑さに拍車がかかり余計気分が滅入る。

 

そして困ったことに、雨季に入ったからか雨が降る日がここ最近増えてきた。

そういう季節のせいなのか依頼が入る数も減っているおかげで、最近は仕事よりも暇を持て余す方の時間が多い。

 

そんな数少ない依頼の中に、“ネクタイを締めた海賊”として名を広げている岡島のYシャツとズボンの作成が入っていた。

彼はこの街にきて半年以上経つというのに、未だに日本の商社マンらしいホワイトカラーを着続けている。

以前レヴィが「似合う服をキキョウに仕立ててもらえ」と進言したそうだが、どうも岡島はその格好が落ち着くようだ。

 

だが日本から同じものを数着持ってきているわけがなく、色々騒動に巻き込まれ服は汚れる一方。彼はそのことを憂いていたが、どこかから私の依頼料は高くつくと聞いてしまい依頼するのを躊躇っていたらしい。

それを見かねたダッチさんが岡島を連れて「ロックの新しい服を何着か仕立ててくれ」と、ちょうど一か月前に依頼に来たのだ。

 

普段から仲良くさせてもらっているダッチさんの依頼を断る理由はない。それに、岡島もいつか依頼したいと思ってくれていたようだったので当然承諾した。

 

 

 

今日その岡島の依頼を終わらせラグーン商会に連絡し、相談の上レヴィと岡島が取りに来ることになった。

二人が来るのを刺繍をしながら待っていると、連絡をしてから10分後には雨が降り、タイミングが悪いなと思いながら腰を上げもてなす準備をする。

コーヒーをいつでも出せるようになった丁度いいタイミングに、表のドアからノックの音と共にレヴィの声が聞こえてきた。

 

 

案の定ずぶ濡れな二人を部屋に入れ、タオルと淹れたてのコーヒーを渡し「雨が止むまでここにいなさい」ともてなしているのが今の状況だ。

 

 

「そんな苛々しないのレヴィ。まあ、気持ちは分かるけどね。おかわりいる?」

 

「いる。これがムカつかずにいられるかってんだ」

 

空になったレヴィのカップを受け取り、そのまま自室へ向かい温かいコーヒーを注ぐ。

 

「だから日を改めるか私が持っていこうかって言ったのに。はい、どうぞ」

 

未だ少しイライラ気味な彼女にカップを渡しながら話をする。

 

「いや、もともとこっちからお願いしたことですし。それに街がこんな状況なのに貴女をわざわざ一人で出歩かせるわけには」

 

「雨が降ってるだけでしょ? 私はそこまで貧弱じゃないよ。あ、でもせっかくの服を濡らしたくはないよね」

 

「え?」

 

「あ?」

 

一体岡島は私をどれだけか弱い人間だと思っているのか。別に雨が降ってるからと言って外に出れない体ではない。

 

 

 

正直にそう伝えると、なぜか二人は怪訝そうな声を出した。

何かおかしなこと言っただろうか?

 

 

 

「キキョウさん、もしかして知らないんですか?」

 

「え、何が?」

 

「何がって……」

 

「あーそうだった。ロック、こいつ基本引きこもりだから外の情報あまり入ってこねえんだよ。この反応だと今回もそうだ」

 

 

引きこもり……。

事実なので否定はできないのだが、なんだろう。

他人から言われると、なんかすごい劣等感を感じる気がする。

ここまではっきり言うのはレヴィくらいだから慣れていないだけかもしれないが。

 

「キキョウさん。あの、本当に知らないんですか?」

 

岡島が念を押すようにもう一度聞いてきた。

さっきの二人の会話からして外で何か起きているようだが、レヴィの言う通り私の耳には何も入ってきていない。

 

強いて言うなら、ここ最近知った情報は張さんが「私の小言がきつくなった」と少し嘆いていたということくらいだ。

 

これを側近である彼らから聞いた時は誰のせいだと思っているんだ、と電話で文句を言おうとも考えたが、張さんは忙しい身なのでつまらないことで時間を取らせるわけにはいかないと我慢した。

 

とにかくそういうわけで、特別気にかけるような街の情報は私の中にない。

 

「恥ずかしい話、レヴィの言う通り何も知らないよ。何かあったの?」

 

「……実は」

 

「殺しだよ、キキョウ」

 

この二人の言い方からして大層すごい事が起きているものかと思ったが、岡島の言葉を遮ったレヴィの言葉に思わず首を傾げる。

 

 

 

 

 

殺しがこの街で起きている?

 

 

 

「そんなのいつもの事でしょ。この街で死体が上がらない日があったら、その日は記念日に認定するべきだよ」

 

 

 

冗談ではなく本当に。

 

 

 

「は、“ロアナプラ平和記念日”ってか?それはそれで面白えが、今回はちと笑い話にならねえヤツでな。――なんせ、ホテル・モスクワに的が絞られてんだからよ」

 

「……は?」

 

「この一か月ですでにロシア絡みの死体が6つ上がってるそうです」

 

「……」

 

聞かされた話に思わず耳を疑った。

 

だがこんな事この二人が冗談で話すわけがない。だから十中八九本当の事だ。

殺し殺されが日常のロアナプラであっても、あのバラライカさんを敵に回す行為をするなんて異常だ。

 

ということは

 

「バラライカさんはもう彼ら(遊撃隊)を動かしてるの?」

 

「いや、それはまだだ。だが、今の状況が続けばいずれ動かすだろうぜ。なんせ姐御は戦争マニアだ、放っとくわけがねえ」

 

「そう……。それにしても、よりにもよってバラライカさんを相手にするなんて。犯人は分かっててやってるのかな」

 

この街の人たちは、好き好んでホテル・モスクワという強大な組織を敵に回すようなことはしない。

なぜなら絶対に勝てるわけがないと理解しているからだ。

 

バラライカさんが統率するホテル・モスクワはこの街で一等暴力に特化している組織。だからこそ恐れられている。

あの冷酷非情と謳われる女性を、犯人はどういう思惑で相手取る気でいるのか。

 

この街の力関係を理解している上で取っている行動なのであれば、犯人は相当な命知らずだ。

 

 

「さあな。だが、あえて狙ってるのは確かだろうぜ。どこの誰かは分からねえが、この街で超ド級の花火を打ち上げようとしてる。――血を見ねえではすまねえかもな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

――どこぞの愚か者が我が組織に牙を向けている。

 

そうバラライカが確信したのは四人目のホテル・モスクワ関係者が殺されてからだった。

 

無数に撃ち込まれた跡。

体の一部が切断。

鋭い刃物でつけられた深い切り傷。

 

これらが今までの死体に全て共通していることから、同一人物の犯行。そしてホテルモスクワを狙っていると断定し即座に動いたが、未だに手がかり一つも見当たらない。

 

一方的にただ蹂躙されているこの状況を彼女が面白いわけもなく、嗜好品である葉巻の吸い殻と眉間に皺を寄せることが多くなる一方である。

 

 

 

六人目が殺された今、自身の私兵を動かすべきかと考えていたバラライカに一つの連絡が入った。

 

 

相互利益の為に協調体制をとっている組織の連絡会を行うというものだ。

言わずもがな一連の事件についてであることは明白で、そうでなくても悪徳の都を支配する一人として参加しなくてはならない。

 

 

バラライカは重い腰を上げ告げられた場所へ時刻通り赴けば、そこには既に連絡会に名を連ねる組織のトップたちが集っていた。

 

 

 

雨のせいなのか元々の雰囲気のせいか暗い内装を感じさせる寂れたバーは、更に重々しい空気に満ち溢れている。

バラライカはため息を吐きそうになりながらも、コツコツとハイヒールの音を高らかに響かせその中心に向かう。

 

 

「よう火傷顔(フライフェイス)、随分遅い到着だな。ロシア人は相当ノロマらしい」

 

そんな彼女を余裕たっぷりの笑みを浮かべ嫌味を言い放ったのは、コーサノストラのヴェロッキオだ。

高身長で大柄であるヴェロッキオは、自身よりも少し背の低いバラライカを見下ろす。

 

「言動も行動も軽いイタ公よりマシだわ。ま、毎回つっかからないと気が済まないお子様には何を言っても無駄でしょうけど」

 

「口には気いつけろよ。女王様気取りのクソイワンが」

 

「二人とも口を慎め。我々がここにいるのは罵詈雑言を浴びせるためじゃないだろう」

 

 

 

横から二人の会話を諫めたのは、三合会の張維新。

張の抑止の声に、バラライカとヴェロッキオは睨み合いながらも口を閉じる。

 

 

 

「さて、本題に入ろう。今回の議題は言わなくても分かるな?」

 

一瞬の沈黙が下りたところで張は集ったボスたちに問いかける。

 

「こちらはまた一人殺された。今度は会計士よ。――ここが私の知らない間に紛争地帯になっているとは思わなかった」

 

その問いかけにいち早く反応したのはバラライカ。

戦争狂で知られる彼女の意味深な発言にすかさず張が言葉を返す。

 

「そうならないために我々はこうして共存の時代を歩んでいる。流血と銃弾の果てにようやく手にした均衡は大事にしたい。そうだろうMs.バラライカ?」

 

「あら、貴方には私が血も武器も惜しむような人間に見えているのねMr.張」

 

「少なくとも仲間の血を流すことは好まないはずだ」

 

 

 

バラライカは口元に弧を描きサングラスに隠れた瞳を見る。

張は彼女の視線を受けると煙を吐き、灰を地面へ落としゆっくりと口を開く。

 

 

 

 

「それは俺も一緒だよ。こっちの手の者もやられたと知ったときはガラにもなく驚いたものだ」

 

「……なに?」

 

「今朝方の話だ。14K(サブセイケイ)の系列組員と直属の幹部が一名、ラチャダストリートの売春窟で物言わぬ人形になって見つかった。手口はお宅と全く一緒だよ」

 

「……」

 

 

 

張の言葉にバラライカは眉間に皺を寄せる。

 

 

 

 

ホテルモスクワ関連の人間だけが被害に遭っているのなら、組織を良く思っていない人物が事を起こしたという単純な答えに行き着く。

今回もそれを前提としてバラライカは組員を動かしていた。

 

 

 

だが、他の組織も狙われているとなると話は違ってくる。

 

 

 

 

 

バラライカは一つの考えに至り、鋭い眼光を携える。

 

「天秤を動かそうとしている奴がいる。――私を見ろアブレーゴ」

 

恫喝にも等しい声音で自身からずっと目を合わせなかった褐色の男、マニサレラ・カルテルのボスであるアブレーゴに呼び掛ける。

 

「冗談はよしてくれバラライカ。確かに俺たちはアンタと揉めたことはあるが手打ちは済んでる。誰が好き好んで兵隊も揃わねえ中ドンパチなんざぶり返すかってんだ」

 

「……では、アブレーゴ。真犯人についてヴェロッキオに質問を」

 

「ざけんじゃねえ火傷顔。こっちだって手配師が一人やられてんだ」

 

「……」

 

おかしい。

こいつらの言っていることが正しければ、連絡会に名を連ねる組織の犯行ではないということになる。

張が言った“仲間の血を流すことを好まない”のはここにいる者全員そうだ。

 

だが、何故だ。そうであるなら何故“未だに情報が出てこない”。

よそ者の仕業ならすぐに分かるというのに。

 

 

 

 

 

 

バラライカは彼らの言葉に違和感を覚え、思えば以前もこういう事があったと考えを巡らす。

この連絡会というシステムが出来上がった直後に起こったあの大量殺人。

情けなくも、その時は犯人からヒントを与えられるまで何の情報も得られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の不快感も、あの時と全く同じもの。

 

 

 

 

 

 

 

「――は、成程な」

 

 

 

そう思い至り、目を伏せ息を吐き呟く。

 

 

 

「バラライカ?」

 

 

 

彼女の呟きに、張は怪訝そうに声をかける。

 

「いえ、少し思い出してね。そういえば、あの時もこんな不快感を抱いたものだと」

 

「あの時?」

 

「アブレーゴ、まさか忘れた訳はないでしょう。――五年前、一人のクソガキが引き起こした“あの事件”を」

 

 

 

 

 

 

その一言に一同は顔を強張らせた。

バラライカはそのことを意に介さず言葉を続ける。

 

「張、貴方の言うことも確かに一理ある。だが、今回の連絡会は何も意味は為さないぞ」

 

「つまり、俺たちの誰かがやっていると信じて疑わないってか。仲間犠牲にしてメリットがあるって?」

 

「イタ公は言うことが一緒なのね。身内から死人が出れば立派なアリバイが作れる。作ってしまえば周りから疑われることもない。――それを証明、実行したのは他でもないお前の元右腕だ。忘れたとは言わせんぞヴェロッキオ」

 

「――今日は一段と上から目線だな。イワンの女狐風情が」

 

 

再び二人は鋭い視線を交わす。

ボスの後ろに控えているそれぞれの部下たちは、凍てつく空気に直立の姿勢を崩すことができない。

 

 

 

 

「Ms.バラライカ」

 

 

 

 

しばしの沈黙を破り、張は煙草を地面に落とし徐に自身の考えを述べる。

 

「それを言ってしまえば元も子もない。あの時と状況は違うんだ、そう断定するのは些か性急過ぎる」

 

「張の言う通りだ。この街の仕組みを知らねえ奴の仕業っつうこともあり得る」

 

「だから協力して犯人を炙りだそうと言いたいのか? くだらない茶番だな」

 

「んだとてめえ!」

 

バラライカの発言に更に不機嫌になったヴェロッキオは怒気を孕んだ声を発する。

張もまた、片眉を上げ言い返す。

 

「そう思うのは勝手だ。だが、この街ごと吹っ飛ばすのは誰の本意でもない。君もそうだろう」

 

「私は親睦会をするためにここに来たわけではない。そのつもりならお前たちだけでポーカーを楽しむといい。――一つ言っておくぞ」

 

彼女は冷たく鋭い視線を彼らに向け、少しの間を置き宣言する。

 

「我々ホテル・モスクワは、道を阻むものを容赦なく殲滅する。親兄弟、必要であれば飼い犬までな」

 

 

 

もう用はないと言わんばかりの雰囲気を纏う彼女に従い、ボリスが入り口のドアを開ける。

雨の音が響く中、バラライカは自身を見続ける彼らに凛々しく言い放つ。

 

 

 

 

 

 

 

「我々に牙を向けたその意味を存分に思い知らせてやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

レヴィと岡島から話を聞いてから数日経った。

しかし、ホテル・モスクワを狙っている犯人は悪運が強いのかまだ捕まっていないらしい。

 

分かっているのは事件が起きるのは決まって夜だという事。

 

だから昼間は比較的安全。

 

 

と言っても、絶対安心できるわけではないし大した用もないのでいつも通り家に籠り、ハンカチに紫と白のライラックを一輪ずつ布に咲かせようと刺繍をしている。

 

今やっと紫の一輪が完成し、今から白の二輪目に入ろうとしているところだ。

 

一息つき、ふと時計を見るともう午後の3時を指していた。

 

元々今日は一週間ぶりに収納場所へ行こうと決めていたので、そろそろ向かおうと手を止める。

まだハンカチは完成していないが、帰った後にまた続きをすれば問題ない。

どうせやることもなく暇なのだから。

 

 

腰を上げ、家の鍵をかけてから収納場所へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しまった。全く何をしているんだ私は。

 

あの場所の居心地が良すぎてつい時間を忘れてしまい、気が付けば外はそろそろ陽が沈んで暗くなろうとしている時間だった。

こうなる前に帰ろうと思っていたのにとんだ不注意だ。

 

こんな街の端っこに犯人が現れるとは思えないが、警戒することに越したことはない。

 

早く帰らなければ、といつもより早歩きで帰路を辿る。

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ姉様、この通り何もないよ」

 

「ここが街の一番端っこなのかもしれないわね」

 

「こんなところ歩いても楽しくないよ」

 

「あらそう? 冒険って感じがしていいじゃない兄様」

 

 

 

 

 

 

そんな時、すぐ横から誰かが話している声が聞こえてきた。

 

驚いて声の方を向くと、そこには黒い服に銀髪の男の子と女の子が楽しそうに歩いていた。

 

 

どうしてこんなところに子供がいるのか。それもこれから暗くなるというのに。

…だが、私には関係ないことだ。だから声をかける必要も理由もない。

 

 

 

二人の背中から目線を外そうとした瞬間、女の子が持っていた長い棒状の荷物から何かが落ちていくのが見えた。

 

本人はそれに気づくことなくどんどん歩いていく。

 

数歩歩けば届く距離だったので気になってしまい、家路から少し足をずらし地面に落ちたものを手に取る。

 

 

 

 

それは、私の手の平に収まるサイズの青いクマのぬいぐるみ。

腕と足の付け根が片方ずつ千切れかけ、ところどころ糸が解れて綿がはみ出している状態だ。

 

 

 

 

ここまでボロボロになっても手放さないということは、よほど大事な物なのだろうか。

 

 

再び落とした本人の方を見ると、やはり気づいている様子はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああもう。

 

 

 

 

 

拾ってしまったものはしょうがない。

落とし物を子供に届けるだけ、だからきっと何も問題はないはずだ。

 

それに子供がここまで大事にしている物をまた地面に落とすのは忍びない。

 

幸いまだ声をかければ届く距離。

 

 

 

意を決して息を吸い口を開く。

 

 

 

 

「ねえちょっと! そこの女の子!」

 

 

 

 

呼び掛けると、女の子と隣にいる男の子は足を止めこちらに振り向いてくれた。

気づいてくれるか不安だったがどうやらちゃんと聞こえたらしい。

 

やはり知らない大人から声をかけられたからか、不思議そうな目でこちらを見ている。

 

私は怖がらせないようゆっくり歩く。

二人の前に辿り着き、しゃがんで女の子と目線を合わせてからできるだけ柔らかい声音で話しかける。

 

「ごめんね、急に呼び止めて」

 

「びっくりしちゃった。まさかこんなところに人がいるなんて」

 

女の子はそう言うと可愛らしい微笑みを浮かべた。

隣にいる男の子にも目をやると、女の子と顔が瓜二つだということに気が付いた。

この子たち、もしかして双子なのだろうか。

 

 

 

「それでどうしたのお姉さん。私に何か用があるの?」

 

 

 

そう考えていると、女の子が微笑みを崩すことなく声をかけてくる。

ハッとし、考えるのをやめ本題に入ろうと口を開く。

 

「ああ、ごめん。これ、君のじゃない? さっき落としてたのが目に入って」

 

先程拾ったボロボロのぬいぐるみを差し出すと、女の子は驚いた顔をして自身の荷物を見る。

 

「あら、気づかなかったわ。ありがとうお姉さん」

 

「どういたしまして。今度からちゃんと持っておかないとね。また落としたら大変だから」

 

「ええ。でも、ここまでボロボロになっちゃったらもう捨てるしかないわね」

 

「……でも、大事な物なんでしょ。捨てるのはもったいないんじゃない?」

 

「私お裁縫得意じゃないから直すことできないわ。だからしょうがないの。いらなくなったものは捨てるしかないでしょう?」

 

 

 

それはそうなのだが、このぬいぐるみの状態は直せない程酷いものではない。

だから今捨てるのはとても勿体ない気がする。お気に入りのものであるなら尚更。

 

 

 

「誰かに頼むとかしないの?」

 

「頼んだことあるんだけど断られちゃったの。そんなもの必要ないだろって」

 

いや、必要であるかどうかはこの子が決めるのであってその人ではないのでは?

まあ、今それを追及したところでどうにもならないので口にはしないが。

 

「ねえ、どうしてお姉さんはそこまで気に掛けるの? 初めて会ったばかりなのに」

 

そう問いかけてきたのは女の子ではなく今まで黙って聞いていた男の子。

急な質問に少し驚いたが、不思議だと言わんばかりの表情をしている男の子に言葉を返す。

 

「これ、確かにいい状態じゃないけどすぐ直せるよ。だから本当に捨てるのは勿体ないと思って」

 

「もう腕も足も千切れかけてるのに?」

 

「少し綿を追加して縫い付ければ問題ないよ。それに丁度いいサイズだから手間取る事ないだろうし。だから」

 

「ねえねえ、もしかしてお姉さんってお裁縫好きなの?」

 

だから捨てるのはやめといたら?

 

と言葉を続けようとしたのだが、それは女の子の明るい声に遮られた。

 

「……そうだよ。よく分かったね」

 

「だって話してるときとても楽しそうだもの」

 

「そ、そう?」

 

無意識に子供にも分かるほどはしゃいでしまっていたのか。

大の大人が何をやっているんだ。

 

「ごめんね、恥ずかしいところを見せて」

 

「謝ることじゃないわ。私も見ていて悪い気はしなかったもの」

 

「でも、僕はみっともないところ見せられたお詫びしてほしいな」

 

 

 

 

今まで黙っていた男の子の一言に思わず驚く。

 

確かに嫌な気分にさせてしまったのは申し訳ないが、男の子が詫びを求めるとは思ってなかった。どちらかというと女の子の方が求めるものだとばかり。

 

男の子の言葉に女の子は何か閃いた顔をする。

 

 

 

「そうねえ。考えてみれば確かにお詫びが欲しいわ」

 

「……一応、聞いておこうか。君たちが私に望んでるものは?」

 

 

 

まあ、この話の流れで大方予想はつくのだが全く別の事を言われる可能性もある。

だから、念のためこの子たちが私に何を求めているのか聞いておく。

 

 

 

「このぬいぐるみを直してほしいわ。すぐ直せるんでしょう?」

 

「すぐって言っても一時間はかかるよ。でももう暗くなるし、また明日ここに来てもらって」

 

「僕たちはまたこの後行くところがあるんだ。今はその暇つぶしで散歩してただけ。だから時間は大丈夫だよ」

 

「いや、でも」

 

「お詫び、してくれないの?」

 

 

 

女の子と男の子が期待している目でこちらを見ている。

 

 

 

私としてはこのまま帰らせたいところなのだが、この感じだとどうも諦めてくれそうにない。

それにこの子たちへのお詫びという事なら強く跳ね返すこともできない。

 

少し考えて、息を吐く。

しゃがんだまま、二人と視線を交わしつつ徐に口を開く。

 

「私の家すぐそこなの。少し狭くてもいいなら歓迎するよ」

 

「あら、お家に上がっていいの?」

 

「夜に依頼人をほったらかしにするのは趣味じゃないから」

 

「優しいのね、お姉さん。いいわよね、兄様?」

 

「勿論さ姉様」

 

二人は私の返答を聞いて嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

「じゃあ早速行こうか。こっちだよ」

 

しゃがんでいる態勢を崩し腰を伸ばす。そして、そのまま背後に小さな二人の客人を連れて仕事場でもある家に向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、本当に私は子供に甘い。

 

 

 

 

 




とうとう始まりました。

はてさて、どうなることやら…。


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11 天使のコンサート






先程までほんの少し明るかった空には既に月がはっきり出ていた。

月明かりが照らす道を辿り今度こそ家路につく。

 

 

いつもと違うのは、まだあどけなさが残る双子が私よりも遥かに小さい歩幅で着いてきていることだ。その子たちの歩調に少しでも合わせようとゆっくり歩き、5分もすれば見慣れた小さな家が見えてくる。

 

 

ドアを開け、中に入り可愛らしい客人たちを招き入れる。

 

 

「どうぞ」

 

そう言葉を投げかけると、二人は躊躇う事なく部屋に一歩踏み入った。

明かりをつけ、この子たちをもてなそうと子供には少し大きい椅子を出す。

 

「何もないけどゆっくりしてて。飲み物はココアでいい?」

 

「ココアは好きよ。お砂糖たっぷり入ったものはもっと好き」

 

「僕も甘いものは大好きだよ」

 

二人の素直な答えに思わず口の端が上がる。

 

子供はどちらかといえば好きだ。いい意味でも悪い意味でも素直でそれが可愛いと思っている。

 

この街に来てからも何度か子供を相手にすることはあったが、やはり年相応に素直なのはいいことだ。

まあ、大人びていてもそれはそれで可愛いと思うが。

 

この子たちの要望に応えようと、自室に向かい砂糖と牛乳を入れたアイスココアを2つ作る。

私が甘いものを摂りたくなった時によく作るので最早手慣れたものだ。

 

アイスココアの入ったマグカップ2つを手に作業場へ戻る。

 

「はいどうぞ。こぼさないようにね」

 

地面に着いていない足をプラプラさせて座っている二人に手渡すと「ありがとう」とお礼を言われる。

 

両手で持ちながらちびちびと飲む姿はとても可愛らしい。

 

「じゃ、とっとと終わらせようか。さっきのぬいぐるみ貸してくれる?」

 

「ええ。お願いね、お姉さん」

 

差し出されたぬいぐるみを受け取り、作業台の上にいったん寝かせる。

 

家を出る前にほったらかしにしていた未完成のハンカチは作業するには些か邪魔なので、片付けようと手を伸ばす。

 

 

 

 

 

「――リリアックだ」

 

 

 

 

その時、聞きなれない単語が飛んできて思わず反応してしまう。

 

声の方を向くと、男の子が少し驚いた顔をしてこちらを見ていた。

直後、椅子から離れ少し駆け足で近づき嬉々とした表情で私に話しかける。

 

「お姉さん、もしかしてリリアック知ってるの?」

 

「リリアック?」

 

「そのハンカチのお花のことよ」

 

「……ああ、ライラックの事ね。本で見ただけだけど、一応知ってるよ」

 

昔、よく花の写真集を買って眺めていた。

だが私が知っているのは形や色、ちょっとした知識くらいで、育て方や実際の匂いなどは分からない。

 

 

刺繍する花はいつもパッと頭に思い浮かんだもので、特にこれと言って選ぶ理由はない。

 

 

今日はたまたまライラックが頭に浮かんだから選んだだけなのだが、どうやら男の子はこの花に興味があるらしい。

男の子なのに珍しいものだ。

 

「リリアックは冬が終わって暖かくなってくると一斉に咲くんだ。とっても綺麗で、甘い香りがするんだよ」

 

「すごい、よく知ってるね」

 

「僕たち、昔この花が咲いている庭で遊んでたんだ。この花を眺めながら姉様の歌をよく聞いてたよ」

 

「懐かしいわね。……本当に、懐かしいわ」

 

「……そっか。じゃあ君はこの花が好きなんだね」

 

二人は柔らかい笑みを浮かべながらとても穏やかに話している。

だけど、どこか寂しそうにも見えるその顔に少し戸惑いながらも素直な感想を述べる。

 

「うん、とっても。――もう二度と見れないと思ってたんだけどな」

 

本当にライラックが好きだということが言葉と表情で充分伝わってくる。

男の子が後半に何か呟いた気がしたが、あまりにも小さくて聞き取れなかった。

 

「ねえお姉さん、一つお願いしてもいい?」

 

「なに?」

 

「そのハンカチ、僕にちょうだい」

 

あまりにも素直な言葉に思わず苦笑した。

真っすぐ見続ける男の子の目線から逃げることなく、できるだけ優しい声で答える。

 

「…ごめんね。実は、これまだ完成してないの。未完成な物をあまり渡したくはないかな。」

 

「僕それでいい、“それがいい”んだ。お願い」

 

……困った。

どうして中途半端な代物を欲しがるのか分からない。

 

経験上こういう頑なになっている子供を諦めさせるのは相当骨が折れる。

恐らく何を言っても「これが欲しい」と言い続けるだろう。

 

どうしてもと本人が言うなら気は引けるが渡してもいいとは思っている。

だが、なにしろ私には彼との“約束”がある。

この子がこう言っていても、報酬なしに渡すわけにはいかない。

 

「じゃあ、君は私に何をくれる?」

 

「え?」

 

「君がこれを欲しがる気持ちは十分伝わった。でもね、私はこれをタダで渡すわけにはいかないの」

 

「お金が欲しいってこと?」

 

「違うよ。有難いことにお金には困ってない」

 

怪訝そうに聞かれた疑問に即答すると、男の子は不思議そうに首を傾げる。

 

「ある人とそういう約束をしているの。だから、何か君から貰わないと私は何も渡せない」

 

「お金が欲しい訳じゃないなら、お姉さんは何が欲しいのかしら?」

 

「何でもいいよ。タダじゃなければそれでいいんだから」

 

子供が相手なのだから少しくらい良いのではないか、と周りは思うかもしれない。

だが、それでは彼との約束を破ることになってしまう。

 

それだけはどんなことがあっても犯してはならないタブーだ。

破ってしまえば今までの信頼がすべて水の泡となり、容赦なく殺されるだろう。

 

信頼を裏切って生き延びるより、約束を守って死んだほうがマシだ。

 

 

「ヘンな人だね、お姉さん」

 

「よく言われる」

 

私の返答を聞いて、よく分からないといった表情をしながら男の子はそう言った。

 

子供にまで変人扱いされることになるとは思わなかったが、悪い気はしなかった。

 

 

「うーん、じゃあ何あげようかな。お金なら持ってるんだけどそれじゃ面白くないもんね。何がいいかな姉様?」

 

「そうねえ。じゃあ、兄様のお歌聞かせてあげたら?」

 

「え、それなら姉様の方が得意じゃないか」

 

「私は兄様の歌好きよ。ねえ、あの曲久々に聴きたいわ」

 

「でも……」

 

「ねえお姉さん、兄様の歌とっても素敵なの。それに私以外の人に聞かせたことないはずだから特別なものになるわ。ちょっと聞いてみたくない?」

 

女の子は可愛らしい笑顔を浮かべ聞いてきた。

兄妹であろうこの子がそこまで言う“素敵な歌”に興味をそそられる。

 

「そうだね。少し、聞いてみたいかな。でも嫌なら無理しなくていいんだよ?」

 

「ですって兄様。どうするの?」

 

「……しょうがないね。お姉さんがそう言うなら」

 

「ありがとう。じゃあ、君の歌を聞きながらぬいぐるみを直そうかな」

 

 

私はしまう途中だったハンカチを丁寧にたたみ、作業の邪魔にならないよう端に置く。

 

「いつでもどうぞ」

 

「あまり、期待しないでね」

 

私の声掛けに男の子は少し恥ずかしそうに前置きすると、徐に口を開いた。

 

 

直後、部屋に一つの歌が響く。

その声は私の言葉では言い表せないくらいとても儚くて、綺麗で、美しいもの。

 

天使の歌声とはまさにこういうものなのだろうと素直にそう思った。

彼の歌っている姿に思わず魅入り、耳に心地よい歌声に浸る。

 

その歌声をしばらく聞いて、裁縫道具と寝かせていたぬいぐるみを手に取る。

とても贅沢なBGMだと思いながら、いつもより軽くなっている手を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――作業を始めてから三十分。

千切れかけてた腕と足は繋ぎ止められ、糸が解れ出ていた綿は中へ戻り普通のぬいぐるみになっている。

 

決して作業を邪魔する訳でもなく、だが全く聞こえない訳でもない丁度いい音量で歌ってくれたおかげで作業が捗り思ったより早く修繕が終わった。

 

つまり、彼が歌ってくれたおかげで私の作業スピードが上がったも同然だ。

 

恥ずかしがりながらも、素晴らしい歌声で何曲も披露してくれた彼に欲しがっているハンカチをあげない選択肢は私の中に残ってはいなかった。

 

先程「ぬいぐるみの方を終わらせてから渡す」と約束をし、彼は今か今かと待ちわびている。

 

そんな落ち着きのない様子に微笑みながら最後の仕上げをし、腰を上げて女の子の前に立つ。

 

「お待たせ。こんな感じでいいかな?」

 

視線を合わせるため、再びしゃがんでから修繕されたぬいぐるみを差し出し声をかける。

 

元通りになったお気に入りのぬいぐるみを手に取ると、女の子は嬉しそうな笑顔を見せた。

 

「すごいわお姉さん。こんなに早くできるなんて」

 

「彼の歌のおかげだよ。ありがとね、聞かせてくれて」

 

「喜んでくれて僕も嬉しいよ。人前で歌うのはお姉さんが初めてだったから緊張したけど」

 

改めてお礼を言えば男の子もまた柔らかい笑みを浮かべた。

 

その顔を見て自然と自身の口の端が上がったのを感じながら、再び作業台に戻る。

端の方に置いていたハンカチを取り、今度は男の子の前にしゃがんで話しかけた。

 

「一応聞くけど、本当にこのままでいいの?」

 

「うん。それがいいんだ、僕」

 

「そっか。君がそう言うなら、もう何も言わないよ」

 

私としてはこの状態のハンカチを渡すのはかなり気が引けるのだが、未完成の物を渡すには贅沢な報酬を貰ったのだ。彼がそれを欲しいというなら拒否する権利はない。

 

彼を説得するのを諦め、素直に彼が好きだという紫の花が一輪だけ刺繍されているハンカチを目の前に差し出す。

 

 

男の子はこれでもかというほど嬉しそうな顔で、未完成のそれを両手で受け取った。

 

「Mersi.」

 

嬉しそうな笑顔のまま、英語ではない言葉で何か呟いた。

意味が分からず思わず首を傾げる。

 

「じゃ、私たちもうそろそろ行かなくちゃ。ぬいぐるみ、今度こそ大切にするわね」

 

女の子は椅子から降りて、私に近づきそう言った。

そういえばさっきこの後何か用事があるとか。だが……

 

「ねえ、本当に今から外出歩くの? ちょっとやめといた方が」

 

「あら、心配してくれてるの? でも、すごく大事なお仕事だから行かなきゃいけないのよ」

 

「そう。僕たちにとってとても大事な、ね」

 

街の情勢を考えて子供が夜に出かけるのは危険なのではないかと思い提案したが一蹴されてしまった。

 

こんな子供が夜に仕事なんて一体何をさせられているのだろうか。

こうして客人として招いたのだ。多少の心配はする。

 

何やら意味ありげな言葉に少し疑問を感じたが、あまり深入りしても何も得はない。

それに、この子たちは“お仕事のため”に外へ出かけるのをやめる気はないようだ。

 

私にできるのは、この子たちに死体となって転がらない幸運が巡るよう祈る事しかない。

 

 

「じゃあお姉さん。また会えたら、今度は私の歌聞かせてあげる」

 

「楽しみにしてるよ。――じゃ、気を付けてね。外は危ないから」

 

「ええ。アイスココア、美味しかったわ」

 

「このハンカチ、大事にするね」

 

二人はドアの方に向かい、「Ciao!」とあの可愛らしい笑顔で言い残し部屋を出て行った。

 

 

……あ、そういえば名前を聞くのを忘れてた。もし、無事にまた会えたらその時にでも聞いておこう。

 

 

そう思いながら先程男の子が歌ってくれた曲を口ずさみながら、作業台の上を片付け始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―それにしても珍しいわね兄様」

 

「何が?」

 

「あんな我儘を言っているのを見たのは久々だわ」

 

月明かりが照らされている人通りの少ない道を、銀髪の双子は歩いていた。

姉様と呼ばれた少女は微笑みを浮かべながら隣の片割れに声をかける。

 

『兄様』は、先程自身が歌を披露し手に入れた紫色のライラックが一輪のみ刺繍されているハンカチから目線を隣の少女へ移す。

 

「逆に姉様は欲しくなかったの? こんなに綺麗なのに」

 

「私が気に掛けるより先に兄様が欲しがったんですもの。それに、私はぬいぐるみ直してもらえることで満足だったから」

 

「そっか。――ねえ姉様」

 

「なあに?」

 

「あの人、本当に不思議な人だったね」

 

「そうね。とても不思議」

 

言葉を交わしながら、自身の我儘を聞いてくれた裁縫が得意だと言った女性を思い返す。

 

「今まで見てきたどんな大人よりも優しかった。わざわざしゃがんで目線を合わせてくれる人なんて、初めて見たよ」

 

「ええ。それに、ちゃんと約束を守ってくれたわ」

 

「あの人は、いい人だね。……でも、あの部屋。姉様は気づいた?」

 

「ええ、血の匂いがしてたわ。きっと、誰も気づかないくらいほんの少しだけ」

 

先程招かれた布と裁縫道具に囲まれた部屋を思い出しながらお互い胸の内をぽつりぽつりと吐き出した。

 

「この街は本当に色んな人がいるんだね」

 

「ええ、とても楽しいわ。おかげで退屈していないもの」

 

「じゃあ、もっと遊ぼう。そして命を増やすんだ。――楽しもう、姉様」

 

「そうね、兄様」

 

「アハハッ」

 

「フフフッ」

 

 

子供らしく無邪気に楽しそうな笑い声を響かせながら、少年と少女は夜の闇へと消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえおじさん、僕たちと遊ぼう!」

 

「がっ……!」

 

「伍長!!」

 

「さ、楽しみましょう兄様」

 

「ええ、姉様」

 

 

――双子によるブラン・ストリートのカリビアン・バー襲撃が行われたのは、その数時間後の事だった。

 

 

 

 

 




男の子であっても歌が上手だろうなと思っております。



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12 道に落とした花

「――よお、ご苦労さん」

 

「ワトサップ、生存者は」

 

「残念ながら全滅だ。俺たちが駆け付けた時給仕は辛うじて息をしてたんだが、すぐ死んだよ」

 

「……そうか」

 

 

早朝、バラライカはホテル・モスクワの傘下として経営しているカリビアン・バーを訪れていた。

 

いつもは豪勢でも古臭いでもない普通のバー。

 

だが、眼前に広がるその店はあまりにも異常な様へと成り果てていた。

窓ガラスは割れ、中には血飛沫が舞った跡や血だまりがこびりつき、大量の薬莢が散らばっている。

 

この有様は、何者かによる襲撃によって出来上がったものだということは誰の目から見ても明らかだった。

 

 

 

だが、彼女にとって問題なのはバーの荒れ果てた姿などではない。

 

 

 

――昨日、深夜にカリビアン・バーで信頼に足る部下が殺されたのだ。

 

 

 

 

集金人としてカリビアン・バーに向かわせたのは、遊撃隊であるメニショフとサハロフの二人組。

彼らは昔からバラライカが率いる部隊の一員として数多の戦場を駆け抜け生き延びてきた。

 

バラライカは二人一組で行動させれば殺されることはないと思っていたからこそ、彼らに通常通りの業務をこなさせていた。

 

その戦友たちが、一人は腕が切り落とされ絶命。もう一人は遺体が見つからず行方不明という仲間の誰一人として予想していなかった事態となった。

 

自身が率いる遊撃隊に対し厚い信頼と情を注いでるバラライカは自ら現場へと赴いたのだ。

 

 

「今回も特に情報はないのか?」

 

「これといって目ぼしいものはな。俺たちが見つけたのは穴だらけの死体と妙に小奇麗なハンカチくらいだ」

 

「ハンカチ?」

 

「ああ、これがそうだ」

 

 

 

ロアナプラの警察署長であるワトサップがバラライカに差し出したのは、白い布に紫色の花が一輪刺繍されたハンカチ。

 

 

血まみれの現場に落ちていたにもかかわらず、汚れ一つもついていない。

 

 

バラライカはそのハンカチを受け取り、しばらく眺めてから懐に入れ再び口を開く。

 

 

 

「……ワトサップ、一連の件を中央へは漏らすな。色々と厄介なことになる」

 

「ああ、分かってるさ。俺もこの街は気に入ってる。それに、俺たちにも賞金は出るんだろ? なら尚更、んな野暮なことはしねえよ」

 

「……」

 

バラライカはワトサップの言葉に何も返さず、そのまま現場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――全く、不愉快な男だ。……しかし、酷い失態だ。二人一組で行動させればやられることはないと思い込んでいた」

 

「どんな不注意であろうと彼らが易々とやられるわけがありません、大尉殿。何か虚を突かれたか、或いは向こうも単独ではないか」

 

「だとしてもだ。私がもっと細心の注意を払っておけばこうなることはなかっただろう。――これは私の過ちだ」

 

バラライカは高級車に乗り込み、側近であるボリスと静かに言葉を交わす。

彼女が生み出す葉巻の煙と胸の内にある静かな怒りが車内を包み込んでいる。

 

「これ以上の犠牲を我が隊から出すわけにはいかん」

 

「では、モスクワ直下の人間で捜索班を結成させましょう。今はあまりにも情報が少なすぎる」

 

「ああ。……同志軍曹、これを見て何か思うことはあるか」

 

 

懐にしまっていた小奇麗なハンカチを取り出し問いかける。

 

ボリスはそれを受け取るとまじまじと見つめ考えこみ、やがて徐に口を開く。

 

 

 

「細かい部分まで丁寧に作りこまれておりますな。これはまるで」

 

「気づいたか軍曹。この街でこんなものを作れる人間は一人しかいない」

 

「しかし、彼女がこの件に関与しているとはとても」

 

「ああ。だが、確認しない訳にはいくまいよ」

 

 

 

バラライカは眉間に皺をよせ、深いため息とともに煙を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな二人の客人を招いてから一晩が経った。

 

目覚めてからいつものようにトーストとココアを食し、今日は何をしようかと考えながらゆっくり過ごしている。

 

自分の時間がたくさん持てるのはいいことだと思うのだが、こう何日も依頼がない日々が続くのも少し考えものだ。

 

 

とりあえず作業場に向かおうと腰を上げる。

 

 

 

その時、表のドアからノック音が聞こえてきた。

 

 

こんな朝早くに来客なんて珍しいことがあるものだと驚いていると、次の瞬間届いてきた声に更に驚かされた。

 

 

 

「キキョウ、いるなら開けて頂戴」

 

 

 

その女性の声は、得意先でありもしものための保険となってくれているバラライカさんのものだった。

 

訪れたのが大事な客人であることを理解し、待たせるわけにはいかないと急いでドアを開ける。

 

そこにはやはり、綺麗なブロンドの髪と顔に火傷跡がある女性と彼女の側近である体格のいい男性が立っていた。

 

 

 

「ごめんなさいね、こんな朝早くから」

 

「大丈夫ですよ。ここではなんですからどうぞ中に」

 

 

 

いつものように招き入れれば躊躇うことなくバラライカさんとボリスさんは中へ入ってきた。

 

来客用の椅子を一つ出し、彼女が腰かけたのを見て自身も向き合うように座る。

 

ボリスさんの分を出さなかったのは、彼が無言で椅子を出すのを手で制止したからだ。

 

これもいつもの事なので特に気にしていない。

 

 

 

「貴女が自らここに来るのは久しぶりですね」

 

「そうね。ここ最近はアナタに来てもらうことが多かったから」

 

「では、久々にコーヒーをお淹れしましょうか?」

 

「ぜひいただくわ。――と言いたいところだけど、今日は世間話をしに来たわけじゃないの。だから結構よ」

 

そう言うバラライカさんがいつになく硬い表情をしていることに気づき、一瞬にして体に緊張が走る。

彼女がわざわざここに来た理由は分からないが、その表情にお茶会をする雰囲気ではないことは嫌でも理解できた。

 

 

 

「早速だけど本題に入りましょうか。キキョウ、アナタこれに見覚えは?」

 

 

 

向こうから話を切り出すのを待っていると、バラライカさんは懐から何やら白い布を取り出し私に差し出してきた。

 

「少し見せてもらってもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

 

 

バラライカさんの手から受け取り、丁寧にたたまれたそれを広げ確かめる。

 

 

 

 

目に入ってきたものを見て、私は思わず目を見開いた。

 

 

 

「これは」

 

「その反応だと、やはりアナタが作ったものなのね」

 

「……ええ。なぜこれが貴女の手にあるのか、聞いてもよろしいでしょうか?」

 

 

今私が手にしているのは、昨日男の子にあげたはずの紫色のライラックが刺繍されたハンカチ。

 

 

 

どうしてこれがバラライカさんの手元にあるのか。

 

 

 

そしてなぜ彼女がこのハンカチをここへ届けに来たのか。

 

 

 

 

この人がわざわざ落とし物を届けにくる訳がない。

 

 

私の頭の中は一瞬にして数々の疑問で埋め尽くされたが、ひとまず一番気になることを聞いた。

その疑問を聞いて口を開いたのは、バラライカさんの後ろに立っているボリスさんだった。

 

 

「今朝、我々の同志であるメニショフ伍長が殺された」

 

「……え?」

 

「その現場に落ちていたのが、そのハンカチだ」

 

「この意味が分からないわけじゃないでしょう」

 

メニショフさんは遊撃隊の一人で、バラライカさんが信頼している部下。

その彼が殺された現場に私の作ったハンカチが落ちていた。

 

こんなことを目の前の女ボスが冗談で言うはずもなく、本当の事なのだと瞬時に理解する。

 

そして、バラライカさんがここへ来る動機は充分揃っている事も。

 

 

「キキョウ、これを一体どこの誰に作ったの?」

 

「……」

 

 

彼女の鋭い眼光を真っ向から浴びる。

私はこういう時、どういう対応をとるべきか知っている。

そしてバラライカさんも、私が知っていることを知っているはず。

 

暴力を用いて吐かせられるものを、こうして彼女にしては手緩い尋問で済ませてくれようとしていることが何よりの証拠だ。

 

そんな彼女とここ数年で築き上げてきた大切な信頼と一度会っただけの子供たちの情報。

 

 

天秤にかけるまでもない。

 

 

 

 

「――昨日の夕方の事です。私は収納部屋の様子を見るため外に出ていました」

 

冷たく鋭利な眼光から目を逸らさず、徐に口を開き静かに話を始める。

 

「帰る時にはすでに暗くなり始めていたので急いで帰ろうとしていました。……“あの子たち”と会ったのはその時です」

 

「あの子たち?」

 

 

強調したその言葉に、バラライカさんは片眉を上げて聞き返す。

 

 

「ええ。恐らく十代前半…もしかしたら十代に満たないかもしれません。顔が瓜二つの男女の双子で二人とも銀髪でした。男の子は短髪、女の子は腰までの長髪です」

 

「……」

 

流石の彼女も、まさか相手が子供だとは思ってなかったらしい。

 

ブルーグレーの瞳が少し揺らいだ気がしたが、それには触れず話を続ける。

 

 

「黒い服を着ていて、女の子は何か長い棒状のようなものを持ち歩いてました。それが何なのかは分かりません。あと、お互いを兄様、姉様と呼び合っていましたね」

 

「名前は?」

 

「聞きそびれてしまって……。すみません」

 

「……そう。容姿については十分分かった。他に何か気になったことは?」

 

 

 

子供が自分の部下を殺したなんて普通は冗談を言うなと激昂されそうなものだが、有難いことにひとまず私の話を信用したようだ。

 

だが、これだけでは何も分からないのだろう。

 

 

 

他に気になったこと……。

 

 

 

彼女の期待に答えようと必死に頭を巡らす。

 

 

 

 

 

ふと、手に持っていたハンカチの柄が目に入る。

 

 

 

 

そういえば、あの男の子は聞きなれない名前でこの花を呼んでいた。

 

その呼び名は確か――

 

 

 

 

「……リリアック」

 

「何?」

 

「この花の名前、一般的にはライラックと呼ばれているんです。ですが、男の子はこれを“リリアック”と呼んでいました」

 

「その呼び名に心当たりは?」

 

「ありません。少なくとも私は聞いたことがない呼び名です。これは憶測ですが、もしかしたら彼らの出身地特有の呼び方かもしれませんね」

 

 

ハンカチに刺繍された紫色の花を見せながら、少ししかない知識と憶測を述べる。

 

 

 

「あと、これを渡した時に小さくメルシーとか、出て行った時にチャオとか英語ではない言葉が出てきました。どこの言葉かは分かりません。……私が知っているのはこれが全部です。あまりお力になれないかもしれませんが」

 

あの子たちの情報、気になったことはこれで全部だ。

伝えそびれたことも嘘も何一つない。

 

 

相変わらず冷めている目を真っすぐ見つめ、これ以上話せるものがない事を言葉と目で訴える。

 

 

「いいえ、英語圏出身ではないことと詳しい容姿が分かっただけでも十分よ」

 

その訴えに偽りがないことを感じ取ってくれたのか、それ以上何か聞いてくることはなかった。

 

 

「邪魔したわね。この礼は、すべてが終わった後に」

 

「私の事はお気になさらず。これはお返ししたほうが?」

 

「もう必要ないわ。アナタの好きに処分なさい」

 

「分かりました。……バラライカさん」

 

もうここにいる理由がなくなりすぐさま腰を上げ立ち去ろうとしたバラライカさんを引き留める。

 

 

 

「メニショフさんのこと、心からご冥福をお祈りいたします。彼とはもっと話がしたかった。本当に、残念です」

 

 

メニショフさんはホテル・モスクワの事務所へ服を届ける時、いつも気軽に話しかけてくれた。そのたびに他愛のない世間話をし、楽しいひと時を過ごさせて貰った。

 

だがもう、その穏やかな時間を彼と過ごせることは永遠にない。

 

「……ありがとうキキョウ。この街で我々以外にそう言ってくれるのは、アナタだけよ」

 

私の言葉にゆっくりと振り向き、バラライカさんはそう言い残してボリスさんと共に今度こそ出て行った。

 

 

 

 

 

――お礼を言った時、彼女のブルーグレーの瞳が僅かに揺らいだのが今度ははっきり見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あの子は私の信頼と期待をいつも裏切らない。本当に有難いことだ」

 

「そうですな大尉殿」

 

キキョウの家を出た後、バラライカとボリスは再び車に乗り込みホテル・モスクワの事務所へ向かっていた。

 

一流と謳われる洋裁屋がもたらした情報はバラライカにとって有益すぎるものだった。

 

バラライカはこの数年の付き合いで、ある種イカレているあの女が真っすぐな目を向けて話す時に嘘をつかないこと。そして、子供の命よりも自身との信頼を優先することを理解している。

 

だからこそ、今回も嘘偽りのない情報だと疑う余地がなかった。

 

「しかし、まさか子供が刺客だとは。バンジシールを思い出させる」

 

「そうだな軍曹。――魂にも脂肪はつくものだ。それは我々の魂も例外ではない」

 

「その通りであります大尉殿。以後気を引き締めます」

 

バラライカが葉巻を口にするとボリスがすかさず火を着ける。

煙を燻らせ、車内を高級葉巻の匂いで包み込む。

 

「……あの共同墓地から戦死はこれで8名だ。何人死なせても馴染みはせん」

 

「あの日から戦死は覚悟の上であります。それはメニショフ伍長も同じだった事でしょう」

 

「もう殺らせはせん。殺らせてなるものか」

 

 

 

バラライカは、怒気を孕んだ声音ではっきりと言葉を口にする。

 

 

 

 

「同志メニショフの命は、ガキ共の命と血をもって贖わせる」

 

 

 

 

 

その鋭い眼光が見据えるは、自身の敵。

 

 

 

 

 

「――憎悪を込めて殺してやる」

 

 

 

 

 

彼女の誓いにも似た言葉は、酷く冷めていた。

 

 

 




ぬいぐるみは戻ってきましたが、ハンカチは再び彼の手に戻るのか。








==質問コーナー==

張さんへ質問です。
スーツに何度も煙草の跡を残してしまうのって、スーツの着心地が良すぎて自分がスーツ姿だと忘れてしまうからですか?


張「全くその通りだ。と言いたいところだが、資料とか見てるとつい灰を落とすのを忘れちまってな。だが、着たまま寝れるくらいに着心地がいいのは確かだぞ」
キ「その言い草だと一回寝ましたね張さん」
張「はっはっは」
キ「(笑ってごまかそうとしてるこの人)」


<華原は、張さんがそういうところはだらしない人だと思ってます>



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13 ディナーの下準備

※残酷な描写あり。


今回キキョウさんの登場なしです。





――この街には、俺たちコーサ・ノストラの傘下であるモーテルが複数存在する。

 

その一つであるメインストリートから少し外れた場所に位置する寂れたモーテルに、俺は最近できた新しい仕事のために日訪れている。

 

今日もあの人気のない建物へ仲間を数人連れて向かっている最中だ。

 

ここ一か月毎日のように行っているこの仕事でミスでもしようものなら、俺にとっても組織にとって命に関わる。

 

別に大仕事を任されるのが嫌だとかではないが、ただその仕事内容があまり引き受けたくはないもので、そのおかげかここ最近煙草の数が増えている。

 

車に揺られながら、本日何十本目かの煙を吸おうとライターを出す。

だが、オイルが切れていたらしくいくらやっても火がつかない。

 

「おい、誰かライター持ってねえか?」

 

「おらよ」

 

助手席から後ろに座っている仲間に声をかけると一人がポケットから出してくれた。

 

「ジッポか、趣味いいなお前」

 

「だろ? 男ならやっぱジッポだよな」

 

「ま、俺は吸えれば何でもいいけどな」

 

そう言いながら咥えたままの煙草に火をつけ、肺に煙を入れる。

 

「それにしてもめんどくせえ。なんで事務所から一番遠いところにしたんだろうな」

 

「さあな。ボスがそう決めたんだからしょうがねえだろ」

 

普段ならあんな場所に集金以外で来る必要もないのだが、ボス直々の命令とあっては仕方がない。

 

 

ボスの命令は絶対。それが俺たちが守るべきルールだ。

 

 

 

 

――だが、そんな組織の先頭に立ち引っ張るはずの栄誉あるボスが、事あるごとに部下に怒鳴り散らし殴りつけ、使い物にならなくさせるその行動はどうかと思う。

 

確かに、自分の思い通りにならない事が立て続けに起きていれば鬱憤が溜まる。

それと併せて誰かと優劣を比べられたら尚更。

 

 

だからと言って、自分が勝手に買った狂犬を飼い馴らせていないのを俺のせいにされるのはクソ腹が立つ。

 

昨日も『てめえがちゃんと管理してねえせいだろうが!』と腹を数回蹴られた。

 

「クソッ……」

 

今も少し痛む腹を撫でながら悪態をつく。

 

「どうしたモーリー。腹でも下したか?」

 

「まあ、そんなとこだ」

 

「おいおい、ここで漏らすなよ?」

 

「うるせえ、黙って運転しろ」

 

運転してるやつのちょっとした冗談に仲間が上品とは言えない笑い声を出す。

 

こいつらも表ではこうやって冗談を言って笑ってはいるが、内心今のボスに不満が日に日に募っているのは目に見えていた。

 

 

 

 

――特に、『あの人』がいた頃を知っているから余計に。

 

 

 

この街に拠点を置いた時、すでに勢いがあったロシア人と中国人相手に臆することもなく立ち回り、コーサ・ノストラを支配勢力の一角に据えさせた人物。

 

今コーサ・ノストラが支配している一帯は、ほとんど彼が築き上げたもの。

そのおかげで俺たちは四大組織の一つとして今も名を馳せている。

 

そんな彼に尊敬を抱かない訳もなく、一部を除いて仲間のほとんどがその背中を追っかけてた。

 

あの人がこの街に配属されると聞いた時、どうしても着いていきたいと頭を下げた奴はごまんといる。

この車に乗っている奴らも、俺もその一人。

 

 

あの人は、俺たちの誇りだった。

 

 

 

 

 

あの時までは。

 

 

 

 

 

 

 

「着いたぜ、モーリー」

 

少し感慨に耽っていると声をかけられた。

どうやらいつの間にか着いていたらしい。

 

 

「おう。早く終わらせて帰ろう」

 

 

考えることをやめ、ひとまず仕事を片付けようと車を降りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――手前たちは、一体全体何をやってるんだ……?」

 

「何って、遊んでるのよ。見て分からない?」

 

寂れたモーテルの一室。

 

そこは、見た目は可愛らしい銀髪の双子が居座っている。

何もしなければただのガキだが、こいつらは大人顔負けの腕前で何百人の命を刈り取ってきた死神だ。

 

本国の幹部会から圧力をかけられたボスが、あの火傷顔を殺すために呼び寄せた。

 

どこでネジを落としたのか、人を殺さずにはいられない性分で現に今もこの街を騒がせている一連の殺害は、こいつらが引き起こしている。

 

『火傷顔を殺せ』としか命令されていないにもかかわらず勝手に余計な死体を増やしてくこいつらにボスはお冠だ。

 

 

俺に与えられた仕事はこいつらの監視と世話。

 

だから、今日はこれ以上ボスの機嫌を損ねるような真似はするなと忠告するつもりで来ていた。

 

 

だが、今目の前に広がる光景にそのことが頭から抜けた。

 

 

双子がいる部屋のドアを開けた瞬間、飛んできたのは鼻を劈くような悪臭と、一人が何かを鈍器で殴り続けている様。

 

最早原形を留めていない何か…恐らく人だったものを真顔で潰している一人を片割れが楽しそうに見ている光景に一瞬言葉を忘れた。

 

人が殺される様や死体は見慣れたものだが、ここまで酷い有様は目にしたことがない。

 

 

 

息をするのさえ躊躇われる中、このまま何もせず帰るわけにはいかないとやっとのことで投げかける言葉を絞り出す。

 

 

 

「死体をサンドバック以上に痛めつけているのが、遊びだと?」

 

「まあ確かに、今は遊びというよりもイライラをぶつけてるって言った方が正しいかもしれないわね」

 

「……何にイライラしてるってんだ、お前の片割れは」

 

「兄様、とっても大切なハンカチを落としちゃったの。もうあそこには戻れないから取りに行けなくって。だから“ああ”なってるのよ」

 

ハンカチを落とした? ただそれだけで、人間を本当にミンチにする奴がどこにいるんだ。

 

「ふふッ、見てるだけでも面白いわよ。頭を強く殴り続けると頭蓋骨が割れて脳みそが綺麗なまま飛び出たわ。あと背中の骨に沿って切り込みを入れて脊髄を魚みたいに引き抜こうとすると、死んでるはずなのに全身がすごい動いたの。まるで玩具みたいにね」

 

そう言って楽しそうに笑う少女の顔は、まさに“無邪気に遊ぶ子供”そのものだった。

 

後ろで話の内容を聞いていた仲間の一人が想像しちまったのか、口を抑え胃の中の物を吐き出す。

 

部屋の奥ではまだ肉を叩く音が響いている。

 

こんな異様な空間から早く立ち去るため、伝えるべきことを伝えようと口を開く。

 

「いいか、殺せと言ったのはイワンの女狐ただ一匹だ。死体を持ち帰ってストレス発散でミンチにしていいなんて誰が言ったんだ」

 

そう言った瞬間奥で鳴っていた鈍い音が止まり、血にまみれた片割れがゆっくりとこちらを向いた。

静かになった空間で、言葉を続ける。

 

「いくらこの街でも、手前たち程の異常者を受け入れることはねえ。――頃合いだ。早いとこケリを着けてとっとと出ていけ。もう、うんざりだ」

 

「……」

 

「……」

 

 

ただそれだけ告げて、異臭を放つ部屋のドアを閉める。

 

 

 

 

 

「ぐえッ……うッ」

 

「おい、大丈夫か?」

 

後ろでえずいて丸まっている仲間に声をかけた。

そんな仲間の背中をさすり、腕を首に回して立ち上がらせる。

 

あんな光景を見せられた上にえげつない内容を聞かされたら、誰だって吐きたくもなる。

 

かく言う俺も最高に気分が悪い。

 

「信じらんねえ、あのクソガキども……。モーリー。ありゃ、本物の病気だ。それも絶対治らねえ質悪いヤツのなッ……!」

 

「あれを正常って呼べる奴がいたらぜひお目にかかりてえよ。もしいたら、そいつにあいつらのお守りをすぐ頼むのにな」

 

いつもより足取りが遅い仲間の言葉に半ば本気で思っていることを返す。

 

「なんであいつらを呼んだのかボスの気が知れねえ」

 

「どうせ最高幹部会(クーポラ)から何か言われて焦ってたんだろ。けど、自分じゃ手も足も出ねえから、ってことだと思うぜ」

 

「……“あの人”がいたら、絶対こうはならなかった」

 

 

 

 

立っているのがやっとなそいつが言ったその一言に、俺も含め全員が口を閉じた。

 

 

 

 

それは、彼がいた時代を知っている組織内の誰もが思っていて。

 

 

だが誰も言わなかった。言えなかった言葉。

 

 

「あの人なら、そもそもアイツらを呼ぶことも……イワンや中国人との差をつけられることも、最高幹部会から色々言われることもなかったはずだ」

 

「……」

 

ポツポツと喋るそいつを諫めようとしたが、かける言葉が出てこない。

後ろにいる仲間も同様で黙ったままだ。

 

「ボスは……俺たちはあの時から落ちぶれてる一方だ。あの壊れたクソガキどもの力を借りなきゃ、事を起こせない。――これが、あの人が愛した“名誉ある男”の有様かよ。はッ、我ながら呆れすぎて笑えてくる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――モレッティ。自身が決めたルールを最期の瞬間まで守った素晴らしい御仁の話を知ってるか?』

 

 

 

 

 

ふと、頭の中にあの人の言葉がよぎった。

 

まだこの街に来る前。

美しき本国で、海沿いにある小さなレストランでご馳走してくれた時に上機嫌で話してくれたあの話。

 

 

 

『そのお方の生き様は本当に見事だったよ。己がこうと決めたことは誰に言われようとも曲げず貫き通し、自身の生き方を周りに見せつけた。……初めて会った時痺れたよ。“世の中こんなカッケエ男がいるんだ”ってな。まるでガキみたいな感想だが、指針となるには十分すぎるきっかけだろ?』

 

 

そう話す彼はいつもの余裕そうに堂々としている様ではなく、昔を懐かしみ尖ったものが少し取れたような柔らかいもので、少し驚いたのを覚えている。

 

 

『なあ、モレッティ。俺の直属の部下になりたいなら、これだけは忘れるな――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「“己の力で全てを手に入れる男こそ至高”、か」

 

彼が愛してやまない“名誉ある男”の生き様を現したその言葉を呟く。

 

「……ああ、そうだ。俺たちは、そう言って突き進むあの人だから着いていったんだ」

 

俺の呟きを拾った仲間が、拳を握り言葉を続ける。

 

「ボスのご機嫌取りと、権力保持の為にここに来たわけじゃない」

 

 

声も震えているのは気のせいではないだろう。

あの人が組織を裏切った時から、語ることも、憧れることも、嘆くことも…兄貴と呼ぶことさえ許されなかった。

 

 

こいつが何を思ってこんなことを言っているのかは理解している。

 

そして、それが許されるほど俺たちの世界が甘くないことも。

 

 

例えどんな人間であっても裏切者を許すわけにいかない。

 

ギャングの世界じゃ常識だ。

 

 

「滅多なこと言うな。もう、あの人はいないんだ。嘆いたって何もならねえ」

 

「でもよモーリー。あの人は俺たちを裏切ったんじゃない、ボスを裏切ったんだ。ボスがあんなんじゃなけりゃこんなことにはならなかった。俺たちの中でも、一等可愛がられてたお前が一番そう思ってんだろ?」

 

「……」

 

 

今まで黙っていた後ろの仲間の問いに、俺まで手に力が入る。

 

 

己の内にあるものを正直に答えてしまえば“もう後には引けない”。

 

 

だから返す言葉をまた見失い、投げかけられた問いかけに答えることができなかった。

 

 

 

「なあ、モーリー」

 

 

 

ずっと下を向き呟いていた仲間が俺の顔を見上げ、自嘲したような顔を見せ口を開く。

 

 

 

 

「俺、もう限界だ」

 

 

 

 

 

――ああ、とうとう言わせちまったなボス。

 

 

 

 

声を震わせながら告げられたその言葉の意味を分からない人間は、この場にはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ねえ、姉様」

 

「あら兄様、もうお遊びはおしまい?」

 

「うん、飽きちゃった。それに、もう潰せるところなんてないし」

 

「フフッ、ちゃんと壊してあげるのはいいことだわ兄様。中途半端は可哀そうだもの」

 

イタリア人たちが去った後、銀髪の双子は異臭を放つ部屋で静かに言葉を交わす。

 

「でも、僕これだけじゃ足りないよ。もっと、もっとたくさん殺したい」

 

「そうね。私もまだまだ足りないわ」

 

「じゃあ、もうそろそろメインディッシュへ?」

 

「いいえ、メインの前に前菜を。いきなりは胃もたれしちゃうから」

 

血だまりの上で小さな指を絡め、お互いを見つめ笑い合う。

その会話の内容は、二人が浮かべる表情からは想像ができない血生臭いもの。

 

「さ、お風呂に入りましょ兄様。コース料理を食べるならちゃんとした格好をしないとね。」

 

「いい匂いだけど仕方ないよね。本当にもったいない」

 

 

二人は手を繋いだまま、血の足跡を残しながら風呂場へと向かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――“リリアック”? うーん、どこかで聞いたような』

 

「あなたなら前の職業柄分かるんじゃないかと思ってね」

 

『リリアック……。欧州課の誰かが教えてくれたような気がするんですが』

 

バラライカはキキョウの家を出た後事務所へ戻り、すぐとある場所へ電話をかけた。

 

そこは、自身がよく仕事を頼むラグーン商会事務所。

正確には、ラグーン商会に所属するロックへ連絡を取った。

 

彼が言語に堪能なことから以前の職業で海外出張を任されていたことはバラライカも知っている。

 

先程得た情報の中で聞きなれない言語が出てきたことで、下手に調べさせるよりその手に長けている者に直接聞いた方が早いと判断した上での行動だ。

 

唐突の連絡にロックは最初戸惑っていたようだが、バラライカからの用件を蔑ろにするわけにもいかず、大人しく発せられた単語について必死に情報を引き出そうとしていた。

 

『リリアック、リリアック……』

 

「何でもいいわ。何か思い当たることはない?」

 

『うーん。……ちょ、おいレヴィ! 今考え事してるんだ、ちょっと静かに』

 

向こうの事務所で凄腕の女性ガンマンが騒がしくしていたのか、ロックが諫めるような声を出す。

 

だが、その言葉は不自然に途切れた。

 

『――コウモリ』

 

「どうしたロック?」

 

『バラライカさん、やっと思い出しました。それ、ドラキュラの故郷の言葉です』

 

「なんだと?」

 

『リリアック、ルーマニア語でコウモリ。以前、職場の先輩が教えてくれたことがあっ。』

 

「確かか?」

 

『ええ。あと、確か花の名前にも使われています。貴女が仰った条件と一致しているかと』

 

バラライカはロックの返答を聞き、また一歩犯人に近づけたことを確信する。

 

 

「ありがとうロック、礼はまたはいずれ。――軍曹」

 

一言礼を告げ、電話を切り部屋で静かに待機していたボリスに声をかける。

 

「ロックが答えを出した。ガキどもの出身はドラキュラの故郷だ」

 

「ルーマニア、ですか」

 

「ああ。……軍曹、確かラチャダ・ストリートのローワンは密かに裏ものビデオを扱ってたな」

 

「そうでありますが、ローワンが何か?」

 

彼女は眉間に皺を寄せ、机の上にある箱から葉巻を取り出しながら口を開いた。

再確認するような言葉にボリスは思わず疑問を口にする。

 

「あの殺し方は生粋の殺し屋のやり方ではない。誰かが意図的……興味本位に仕込んだものだ。でなければあんな見世物にするような惨殺死体が出来上がるわけがない」

 

神妙な面持ちで葉巻の先をシガーカッターで切り、マッチで火をつけ煙を吐き出す。

 

そんな彼女の頭の中には、一つの勘が働いていた。

 

「至急ローワンをここに呼べ。手がかりがあるかもしれん」

 

「は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なあ、モーリー。本当にそれでいいのかよ? やるなら早くやっちまった方が」

「早まるな。折角だ、最後のチャンスくらい与えてやろうじゃねえか。どうなるかはアイツ次第さ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が降る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、ダメよ兄様。ディナーに行くなら準備はしっかりしていかなきゃ」

「ありがとう姉様。そうだね、折角のご馳走だもの。ちゃんと整えなきゃね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血を洗い流さんばかりの、雨が降る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大哥、ホテル・モスクワから連絡が」

「やれやれ、一体何を持ち込まれることやら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪徳の都に降るのは、血の雨か、それとも誰かの涙か。

 

 

 

 

それを知るものは、どこにもいない。

 

 

 

 

 

 




ここらへんが折り返し地点…かと。

元々、イタ公側の話は双子編で膨らませようと決めていました。





==質問コーナー==

キキョウさんと黄金夜会の方に質問です。
黄金夜会の会合にお呼ばれされる又はお呼びする事はありますか?

キ「ありえないです。というか一人一人ならまだしも、全員に囲まれるなんて御免ですよ」
張「さすがのお前もそうだろうな。まあ、酌をしに来てもらえるなら歓迎するぞ?」
バ「そうね。その時はおめかししてきなさいねキキョウ。そしたらあのムサイ空気が少しはマシになるでしょうから」
キ「……勘弁してください」


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14 壊れた笑顔

大変お待たせしました。
双子編4話目です。






「――人払いは済ませた? 張」

 

「ああ、デリケートな会合だ。これがデートなら歓迎するんだが」

 

「血の匂いをさせながら映画を観るわけにもいかないでしょう。それに、あなたがデートしたいのはあの子じゃなくて?」

 

「残念なことに振られてばっかりでね。相変わらず食事と酒だけにしか付き合ってくれん」

 

「欲張りなのね。なら全てが終わった後、記念に旅行でも誘ってあげたら?」

 

「君がそう言うってことは、終わらせる何かを握っていると期待していいのか?」

 

雨が降る中、傘もささずコンテナ置き場の一角に佇んでいるのは二人の男女。

この街で圧倒的な権力と縄張りを持つ二つのマフィアの頭目達。

 

 

張維新とバラライカである。

 

 

バラライカはお気に入りの葉巻よりも安物である煙草を咥え、本題に入るべく徐に口を開く。

 

「連中の正体が割れたわ」

 

「成程、興味が湧く話だ。どうやって割り出した」

 

「最終的には、ローワンのビデオコレクションの中から」

 

煙草に火をつけ、煙を吐き出し雨の音をBGMに静かに話し始める。

 

「彼に要求した内容は、ルーマニア人の双子が出演しているキッズ・ポルノ。またはスナッフ・ビデオ。――250本の変態御用達ビデオの中から見事にビンゴを引いたのよ」

 

 

冷えた声音で話すバラライカの脳裏には、自身も確認したビデオの内容が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

――砂嵐から始まった映像に最初映ったのは、一つの小さな影。

 

それは両手足を拘束された子供で、何かに怯え、震えながらこちらを向いていた。

 

しばらくその様子が映し出された後、唐突に怒鳴り声と泣き声が鳴り響き、画面に二つの何かが投げ出される。

 

最初に写っていた子供と違わないであろう銀髪の二人組。

 

 

顔が瓜二つの双子だ。

 

 

見分けをつけさせるためなのか、髪の長さを一方が腰まで。もう一方が肩までにされていた。

二人とも小さな両手首には頑丈な手錠が嵌められており、動くたび鎖の音が明瞭に響く。

 

やがて二つの鈍器が子供たちの前に投げられ、周りにいた人間が二人の名前らしきものを叫ぶ。

 

 

 

下卑た声で怒鳴り散らされたその名前は

 

 

 

 

「ヘンゼルとグレーテル。ガキどもはそう呼ばれていた。ルーマニアの政変以後、維持できなくなった施設から闇に売られた多くのガキども。“チャウチェスクの落とし子たち”」

 

「ド変態共のオモチャにされ、挙句の果てには豚の餌になる。そのガキ共も“そうなる運命のはず”だった」

 

「だが、その運命はバカ共の余興によって狂い始めた」

 

 

 

 

 

 

――怒鳴り散らすそのバカは、震え、動かない双子の髪を持ち上げ、無理矢理それぞれの小さな手に投げ捨てた鈍器を持たせる。

 

英語ではない言葉を聞いた子供たちは、泣きながら首を振り、彼らなりの必死の抵抗をした。

それでも尚怒鳴られ、殴られ続けた双子は、やがて諦めたようにユラユラと最初に映った子供の方へ歩みを進める。

 

 

そして震えている子供の前に立ち、やがて二人は鈍器を振り下ろす。

 

 

 

悲鳴が上がる。

 

 

 

二人も涙を流しながら叩きつける。

 

次第に悲鳴はなくなり、肉を叩く鈍い音のみが残った。

 

そして静まり返った場にあったのは、骨と肉が混ざり合った残骸の上で虚ろに立つ双子の姿と大人たちの拍手と嗤い声。

 

 

 

 

 

二人の顔に浮かんでいたのは、涙と血に濡れた歪んだ笑顔。

 

 

 

 

それが、ビデオに映った最後の映像だ。

 

 

 

 

 

 

 

「ガキどもは変態共の喜ぶ殺し方を覚え、夜を一つずつ越えて行き、いつしか“すべてを受け入れた”」

 

 

 

 

血と悲鳴が絶えない狂気の世界で生きてきた彼女は、二人の最後の笑顔が何を意味するのか理解していた。

 

バラライカは再びため息とともに煙を吐き出す。

 

「青空の下から去り、暗黒の闇へ身を落とすことを選んだ。それが、ガキどもが生き延びるために選ばざるを得なかった選択だ」

 

「……はは、そりゃ酷い話だ。俺たちの世界にふさわしい」

 

バラライカの話を聞いた張は乾いた声で笑った。

 

サングラスを外し、普段隠れている瞳をバラライカに向けながら話始める。

 

 

「俺は時々、でかいクソの上を歩いてる気分になる。特にその手の話を聞いた時はな。――だが」

 

 

レンズの上に雨粒が落ちる。

 

 

張は落ちる滴の数が増えるのを眺め、一つ息を吐く。

 

「俺には道徳やら正義やらは肌に合わん。その手の言葉と尻から出る奴は驚くほど似てやがる。そのガキどもに同情するのは、ミサイルを売って平和を訴えるド阿呆共とどっこいだ。そうだろ、バラライカ」

 

「その通り、私達に正義は必要ない。必要なのは利益と信頼のみ」

 

 

 

“自分たちが双子を救う理由と必要はどこにもない”

 

 

 

その意味が含まれている言葉に、バラライカは一瞬の間を空けることなくはっきりと答えた。

やがて懐から書類が入っている封筒を取り出し目の前に差し出す。

 

張は封筒を一瞥し、遠慮することなく受け取りすぐ中身を確認した。

 

「ローワンから先は簡単だったわ。販売ルートを調べるだけで事は足りる」

 

「……なるほど、こいつが卸元か。今回は君の読み通りだった、というわけだな」

 

「まさか、本当にあの男の二番煎じをやっていたとは思わなかったけどね。イタ公は同じことの繰り返しがお好きらしい。ただ、今回は躾ができていなかった分ボロがひどく出た。お宅の組員はそのあおりを喰らってやられたのよ」

 

「理由はどうあれ、けじめはつけさせてもらうさ。以前のようにな。――さて、バラライカ。俺に何を望んでいる?」

 

張はサングラスをかけ直し、本題と言わんばかりに話を切り出した。

その問いかけに、バラライカは紫煙を燻らせながら答えを返す。

 

「そうね。そろそろ街の色を、変える頃合いだと思わない?」

 

「もう一度戦争を呼び込むのか?」

 

「調律された紛争と言ってほしいわね。今回は理由も動機も成り立つ」

 

「“正しい戦争”だと? 綺麗ごとを言うタイプじゃないと思ってたんだがな」

 

「口実として正しいか、よ。正義かどうかなんて、犬にでも食わせておけばいい話」

 

吸い殻を水溜りの上に落とし、肺に残った煙をすべて吐き出した。

彼女はやがて口元に弧を描き、今後の行動を考えているであろう男に問いかける。

 

「組むか忘れるか。あとは、あなた次第」

 

「……まあ、本国に申し立て奉るまでもないか。この世で信奉すべきは剛力のみ。俺たちの流儀にして唯一の戒律」

 

「久々のガンマン姿が期待できるかしら?」

 

「鉄火場に立つのは嫌いじゃないが、面倒なことに今の俺には立場がある」

 

「よく言うわ。あ、それともう一つ」

 

立ち去ろうとした張の背中にバラライカは忘れていたと言わんばかりに声をかける。

 

「貴方からも、ちゃんとキキョウに褒美をあげなさいね」

 

「……キキョウに? なぜだ?」

 

「やっぱり知らなかったのね。何を思ったのかは分からないけど、あの子が自分が作ったハンカチをガキどもに渡したのよ。そのハンカチが私の部下が殺された現場に落ちていたから直接話をして、私の信頼と期待に応え偽りのない情報をくれた。だから、あの子のおかげで辿り着いたと言っても過言じゃないわ」

 

「全くあいつは……」

 

バラライカの言葉に困ったように頭を掻き、息を吐く。

 

 

あの洋裁屋はこの街では珍しく武力を持たない人間が故に、思わぬトラブルに巻き込まれることがある。

そのこともありパトロンである張は以前から『何かあればすぐに言え』と気にかけているにも関わらず、何も連絡しないことが多い。

それは彼女が、『自分の事なんか気にしないだろう』と謙虚と言うには度を過ぎている態度が原因である。

 

 

今回もその謙虚さが働いたか、もしくはバラライカが相手だったからか。

はたまたその両方か。

 

 

何にせよ自身の耳に届いていない事実が今、彼をほんの少し困らせている。

 

 

「私からも礼はするつもりだけどちゃんとした報酬は必要よ。飼い主である貴方からの、ね」

 

「わざわざどうも。――動くときは一報入れてくれ、同時に始めるよ。じゃあな」

 

彼女の余裕そうな声音に張は口早に一言言い残し、漆黒のロングコートの裾を靡かせ足早にその場から去っていった。

 

 

 

 

その背中を面白そうに眺めた後、バラライカは携帯を取り出し凛とした表情に戻す。

 

 

『大尉。』

 

「軍曹、張は提案に合意した。香港三合会とは現刻より共闘態勢に入る」

 

近くに停めていた車の中で待機していたボリスに部隊の指揮官らしく凛と言い放つ。

 

「同志戦友たちに伝達。一八〇五より準備待機、想定教則217、ケース5」

 

『“街区支配戦域に置ける要人戦略”』

 

Да.(そうだ)混乱が予想される。この街あげてのカーニバルが始まるぞ」

 

『賑やかなのはいい事です。それが銃弾の轟声ならばこの上ない』

 

「そうだな軍曹。今我々が持てる唯一の戦争だ。――大事に使おう」

 

 

 

 

そう言った女性の口端は、愉快だと言わんばかりに上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

バラライカさんが去ってから、しばらく手元に戻ってきた未完成のハンカチを眺めていた。

きっとこの後、自分の部下を殺した犯人としてあの子たちを血眼になって探すのだろう。

 

 

そして、探し出した暁には容赦なく殺すはずだ。

 

 

 

彼女は…というか、この街の住民で子供だからと言って情けをかけたりするようなお人好しはいない。

 

ホテル・モスクワに牙を向けた人間が相手なら尚更同情の余地はない。

 

彼女に歯向かった人間は、殺される。それがこの街の日常で、仕方ないことだ。

 

 

 

 

……そう、仕方ないことだと分かってる。

 

 

なのに、ハンカチを欲しがった時の無邪気な顔やココアを飲むときの子供らしい姿。

 

ぬいぐるみを直した時の嬉しそうな笑顔。

 

ハンカチを渡した時の柔らかい微笑み。

 

 

 

そして、天使のような歌声。

 

 

 

それらが頭から離れない。

 

 

 

同情しているわけでも、死んでほしくないと思っているわけでもない。

 

ただ、なんであの子たちなのだろうかとどうしても考えてしまう。

 

 

 

 

 

―――――いや、こんなこと考えたってしょうがない。

 

どんなに思ったって、悲しんだって、嘆いたって、憎んだって事実は変わらない。

 

5年前、そう改めて思い知ったはずだ。

 

周りに舐められまいと背伸びをして生きてた友人が死んだあの時に。

 

 

 

……そういえば、今年はまだ行ってなかったか。

 

そろそろ行かないと海の底で機嫌を損ねられるかもしれない。

 

バオさんのところへあの酒を買いに行かなければ。

 

 

まあ、それもこの騒動が終わってからだ。

それまでは家で大人しく待っておこう。

 

 

 

とりあえず、手元にある未完成のハンカチをどうにかしよう。

 

一度人の手に渡してしまったが、こうして戻ってきたのだから完成させたって問題ないはずだ。

 

 

それ以上考えるのを止め、作業台の上に刺繍道具を広げ静かに手を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

――そうやって昨日から黙々と作業を続けているのに、普段より作業スピードが遅い気がする。

 

それでも今日も何も考えずただ黙って作業を続けていると、集中していたおかげか時間が経つのは早い。

 

ふと時計を見れば、とっくに昼を過ぎていてお腹が空いていたことに気づく。

 

手を止めて、遅めの昼食を摂ろうと自室へ向かう。

いつものように手軽に済ませられるサンドウィッチを作り、『いただきます』と呟いて食べ始める。

 

 

だけど、お腹は空いているはずなのに何故かいつもより喉に通らなかった。

しかし食べなければ逆に集中できないことは経験上分かっているので、水で流し込んだりして何とか食べ終える。

 

そうして作業場に戻り、続きをしようと道具に手を伸ばす。

 

 

 

瞬間、台の上が定位置になっている携帯から着信音が鳴り響いた。

 

 

バラライカさんだろうか。

昨日話した情報に何か不審を持たれたか?

 

いや、でも内容に偽りはないし。

 

とりあえず、誰が相手でも待たせるのはよろしくないので携帯を手に取り通話に応じる。

 

「はい、キキョウです」

 

『よう』

 

聞こえてきた低い声に思わず驚く。

 

彼女からだと思っていた分、すっかり馴染みである声でも一瞬反応が遅れた。

 

 

「……張さん?」

 

『ひとまず元気そうで何よりだ』

 

「お陰様で。どうされましたか?」

 

申し訳ないが、正直あまり長話をしたい気分ではないので挨拶もそこそこに彼の用件を聞き出す。

 

『なに、お前と楽しい話をしようと思ってな』

 

「……生憎、私には貴方を楽しませられる話題は持ち合わせてないですよ」

 

『どうかな。双子の殺人鬼に貢ぎ物をして生き残った女の話は、割と面白そうだと思わないか?』

 

 

彼の言葉に目を見開く。

 

 

 

双子の殺人鬼。

 

 

 

……ああ、そうか。彼が今街を騒がせている人物を放っておくわけがない。

それにこの言い草だと、もう既に私が双子にハンカチを渡したことを知っているのだろう。

 

 

「相変わらず耳が早いですね。もしかして、バラライカさんからお聞きになりましたか?」

 

『彼女から“褒美をあげろ”と言われたよ。こっちはお前から何も聞かされてないもんだから何の話かさっぱりだ』

 

「……すみません」

 

私としてはバラライカさんが中心に動くのとタダで渡したわけではないから報告する義務もないと思っていた。

 

だが今回はその選択を間違ってしまったらしい。

 

 

『今回の事で、いっそお前の家に盗聴器を仕掛けるべきか本気で悩んだぞ』

 

「…………」

 

前々から報告する判断基準が分からずいつも連絡するべきか迷った時、結局言わずじまいとなることが多く毎回注意されてしまう。

 

最早、謝罪の言葉も言い訳も意味を為さないので返す言葉がない。

 

『冗談だ。バラライカにはちゃんと嘘偽りのない情報をやったと聞いた。それで十分さ。それとも、まだ何か隠していることがあったりするのか?』

 

「それはありません、絶対に」

 

『ならいい。――なあキキョウ』

 

隠し事がないことを電話越しでも伝わるように間髪入れず返答する。

 

それが功を奏したのか特にそれについては何も言われなかったが、まだ何か言いたいことがあるのか改めて名前を呼ばれた。

 

『お前の事だ、あのガキどもに同情する必要がないと理解した上でバラライカに正直に話したんだろう』

 

「ええ」

 

『だが、お前は妙に子供に甘い』

 

 

 

電話越しでも伝わる真剣な声音に再び押し黙る。

 

 

 

『いいか。あのガキどもには“何も必要ない”。同情も、情けも、優しさもな。かけたところで無駄なんだ。――分かるな?』

 

私が子供に甘いのをこの街で一番理解しているのは張さんだ。

彼はきっと、私がもし再び彼らに会った時の行動を気にしているのだろう。

 

だから敢えて分かりきったことを言い聞かせてきた。

 

今回は同情や情けをかける余地が全くないし、かけることは許されない。

だが、それは張さんから言われるまでもなく理解していることだ。

 

 

 

 

「分かってます。分かってますよMr.張」

 

 

 

ゆっくり息を吐いて彼の問いに答えを返す。

思ったより強張った声になってしまったが、気になるほどではないはずだ。

 

『それでいい。……もう少し話したいところだが、生憎時間がない。片が付いたら一杯やろう』

 

「ええ、ぜひ」

 

最後にまた酒の席を共にする言葉を交わし、向こうが電話を切った音が流れた。

ツーツー、と流れる機械音を余韻に浸るように聞いてから携帯を耳から離す。

 

椅子に腰かけ、先程よりも深いため息をつき彼から告げられた忠告にも似た言葉を思い出す。

 

 

 

“ガキどもには何も必要ない。同情も情けも優しさもな”

 

 

 

 

そう、必要ない。

私に必要なのは双子への甘さではなく彼との信頼を守る事、ただそれだけ。

 

それだけ理解していればいい。

 

 

改めてその事を胸に刻み、これ以上余計なことを考えないようハンカチに手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熱河電影公司ビルの最上階。

街全体を見下ろすことのできる社長室で、高級ソファに座り携帯を片手に話す上司の後姿を眺めていた。

 

「――片が付いたら一杯やろう」

 

『ええ、ぜひ』

 

受話器から微かに聞こえた女の声を最後に通話を終え、もう要らないと目の前に差し出された携帯を受け取る。

 

「郭、ホテル・モスクワからは?」

 

「まだ何も。ですが人員の手配は完了しているのでいつでも動けます」

 

「そうか」

 

そう言って大哥が嗜好品であるジタンを口に咥えたのを見てライターを取り出し火をつける。

いつもなら彪の役目だが別の仕事が入ってこの場にいない。よって、自然と傍にいる俺の役目となる。

 

 

 

「……大哥、なぜこのタイミングでキキョウに連絡を? 終わってからでもよかったのではないですか」

 

 

高級煙草の煙を吐き出している大哥に、俺は気になった点をぶつけた。

 

さっきまで連絡を取っていたのは、この街で一流と名高い洋裁屋。

今回の一連の犯人を特定できたきっかけだと聞いてはいたが、いくらお気に入りといえどいつ動くか分からないこの状況で連絡を取るべき相手でもない。

 

「まあそれでもよかったんだが、念のためってところだな」

 

「あの女は自分の立場をよく理解しているはずです。わざわざ大哥が言う必要が?」

 

「その通り、あいつはちゃんと理解したうえで行動する女だ。――だからこそ厄介な時もある」

 

天井を見上げ、再び煙を吐き出した。

それが少しため息のようにも聞こえたのは、きっと気のせいではない。

 

 

「あいつの行動理念はただひとつ、“後悔するかしないか”だ。後悔すると思った時周りの状況も自分の立場もすべて理解した上で、覚悟を決める」

 

 

今何を思っているのか表情からは全く読み取れない。

無表情にも似た顔のまま、大哥は言葉を続ける。

 

「俺が懸念しているのは、あいつが再びガキどもと鉢合わせちまった時の行動だ。もし“双子を助けなければ後悔する”なんて考えに至った時、あいつはバラライカとの信頼も俺ヘの恩も“敢えて”全部無視して行動するだろう。……まあ、そうなる可能性は低いだろうがないとも言い切れん」

 

「……」

 

 

大哥の言葉を聞いて、一つの光景を思い返していた。

 

 

 

数年前、片腕が折られ頬が腫れているというボロボロの状態でヴェロッキオと面向かって話したあの時の光景。

自分はただ結果を見届けるために着いていっただけだったが、無様な姿の女が命を捨てる覚悟で臨んだ交渉の場の異様な雰囲気は今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

『――何もせず黙って見ているより、命を懸けて取引した方がよっぽどいい』

 

 

あの自殺するのと同等とも言える行為の中で、マフィアのボス相手に臆さずそんなことを口にしていた。

 

あれから彼女は、何一つ変わっていないという事か。

 

 

 

「もし、キキョウがそういう行動をとった場合は?」

 

「そうだなあ」

 

 

俺の問いかけに、無表情だった顔が変わる。

 

 

 

「約束通り、俺の手で壊してやるさ。今まで楽しませてくれたお礼にな」

 

 

 

 

 

心の底から愉しんでいるような表情に思わず冷や汗が出た。

 

本当、どこまであのイカれた女を気に入っているのやら。

いや、“だからこそ”気に入っているのか。

 

我が上司ながら全くいい趣味をしている。

 

 

 

 

その時、俺の手元にあった携帯が鳴り響く。

 

大哥に一言断りを入れ、電話に出る。

 

それは、今か今かと待ち侘びた粛清を始める一報だった。

 

 

「大哥、ホテル・モスクワより“これより行動を開始する”と」

 

「……さて、一仕事といくか」

 

そう言って大哥は煙草を灰皿に押し付け、一流の洋裁屋が仕立てた高級品のロングコートを羽織る。

 

颯爽と歩く彼の後姿に着いていき、部屋を後にした。

 

 










誰か、オラに強いメンタルをおくれ…(白目)


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15 喧騒の一夜

―――とっくに日も暮れて、月明かりが夜道を照らしている時間。

街には静けさが訪れている中、コーサ・ノストラ事務所では一人の男の怒号が響いていた。

 

「どうなってやがるんだ! クソッ!」

 

ボスであるヴェロッキオは、集まっている部下たちを前に溜まっている鬱憤を吐き出すように怒鳴り散らしていた。

 

「とっとと女狐だけ片付けりゃいいものを! 余計な死人ばっかしこさえやがって!」

 

尋常じゃない程怒り狂うボスを前に、その場にいる誰もが口を閉じて様子を見ている。

 

「モレッティ! ガキどもの管理はお前に任せていたはずだな!?」

 

「はい、ボス」

 

部下達の先頭に立ち、一番近くで様子を見ていたモレッティに声がかかる。

 

ファミリーの中でも古株であるモレッティは、最早慣れたものだといきなり名前を呼ばれたことに動じずただ冷静に返事をする。

 

「一体今まで何をやっていた!? ガキのお守りもできねえのかこの腰抜けが!」

 

「……すみませんボス。しかしお言葉ですが、あのガキどもはあまりにも異常です。あいつらを好き勝手に操れるのはどこにも」

 

「うるせえ! てめえの無能さを言い訳するな!」

 

ヴェロッキオは怒鳴り声と共にデスクの上にあるグラスに注がれたワインを頭から浴びせ、グラスを地面にたたきつける。

だが、それでもモレッティは黙って顔にかかった酒を袖で拭い、ただ冷静に。冷淡に言葉を返す。

 

 

「ボス、ここらで終わりにしちゃどうですか」

 

「……なんだと?」

 

 

発せられた言葉にヴェロッキオは一瞬の間を空けて反応する。

 

「今なら幸い、街を荒らしたイカれた野郎を俺たちで片付けたことにできます。波紋を起こさず、ガキどもを始末するなら今しかありません」

 

「……」

 

「ボスの指示さえあればいつだってやれます。だから」

 

「随分な口を叩くじゃねえか。……おめえはいつから俺に偉そうに指図する立場になったんだ?」

 

臆することなく発言する様とその内容が癪に障ったのか、胸倉を掴み引き寄せた。

 

それでも尚、モレッティは動揺することなく言葉を続ける。

 

「俺はその立場になったつもりはありません。だが、俺は今後ろにいる奴らを代表してあなたに意見している。俺の言葉はここにいる全員の総意と受け取ってもらって構いません」

 

 

胸倉を掴まれながら怒りで真っ赤になっているボスの顔から視線を逸らさず静かに声を発する。

 

 

「お願いしますボス、“ここらで終わりにしてください”」

 

「……は、ふざけるのも大概にしろよモレッティ」

 

「……」

 

「“俺の言葉は全員の総意”だあ!? いつからお前はこいつらの頭になった!?」

 

「がっ!」

 

ヴェロッキオは怒号を浴びせながら、無表情で自身を見つめる部下の顔を殴りつけた。

モレッティの体は床に打ち付けられ口から血が流れていた。

 

「終わりにしろ? どの口が俺に意見してやがる! 今なんとかしなけりゃな、次の最高幹部会で俺はカモメの餌にされちまうんだぞ!!」

 

「しかし、ボス! このままじゃ最高幹部会じゃなくロシア人共に海の藻屑にされる! あんただけじゃなくここにいる全員が! そうなる前に俺たちでけじめをつけるべきだ!」

 

「いい気になるなよ三下が! その女狐の首だけを持ってくるよう躾すんのがおめえの役目だったろうが! その躾ができてねえ今、おめえが責任を取るべきだろうが!」

 

「かはッ……!」

 

口から流れた血を拭い、必死に声を上げるモレッティとその部下を何度も足で踏みつけるヴェロッキオ。

 

それを、周りの仲間はただ黙って見守り、全員が殺意を含ませ鋭い眼光を一人の男に向けている。

向けられている当の本人は怒りに狂いそのことに気づかず再び怒声を浴びせる。

 

「いいか、とっととクソロシア人の首を俺の前に持ってこい! でなきゃ俺がてめえを野良犬共の餌にしてやるッ!」

 

「……それが、俺たちの言葉に対するあんたの答え、でいいんだなボス」

 

モレッティは自身を踏みつけながらそう命令するヴェロッキオに静かに問いかける。

 

 

「同じことを何回も言わせるなよクソ野郎。いいからとっとと」

 

「折角最後のチャンスを与えたってのに、本当あんたの低能さには笑えてくるぜ。――なあお前ら?」

 

ヴェロッキオの答えを聞き、モレッティは先程とはまるで違う呆れたような声音と表情で言葉を発した。

 

 

 

 

瞬間、今まで微動だにしなかった男たちが一斉に懐へ手を伸ばす。

 

そして、銃口を男たちのボスだったヴェロッキオへ向ける。

 

 

「お、おめえら……これは一体何の冗談だ」

 

 

その様に、ヴェロッキオは目を見開き動揺を隠さず問いかける。

 

 

 

 

「冗談でこんなことやってると思うか?」

 

 

 

 

たじろいだ一瞬の隙をつき、モレッティは自身を踏みつけている足を思い切り払いのけ口に残っている血を吐き出し、言葉を続ける。

 

「さっき言ったはずだ。“俺の言葉はここにいる全員の総意”ってな。だが、それをあんたは何一つ聞かなかった。つまり、ここにいる子分全員の命をドブに捨てようとしたことに他ならねえ」

 

「それが何だってんだッ! そんなことで親に銃口向けてるのかおまえらは!? いつからここは腑抜け共の集まりになった!!?」  

 

「確かに子が親の為に命を捨てるのは当然だ。それが俺たちの美徳となることもある。――だがな」

 

言葉を区切り、よろよろと立ち上がりながら再び袖で力強く口元を拭う。

そして、今まで向けたことのない殺意と憎悪を含んだ視線を目の前で冷や汗をかいているかつての親だった男に向けた。

 

「俺たちだって命を捧げるべき相手を選ぶ権利はある。つまりはそういうことだ。理解できるか?」

 

「何ふざけたことぬかしてやがるッ!? 拾ってやった恩を仇で」

 

「てめえこそふざけたことぬかすなよ」

 

 

モレッティは怒鳴り散らす男の言葉を遠慮することなく遮った。

 

「拾ってやった? は、記憶違いも大概にしとけよ。――肥溜めでただ腐ったように生きてた俺を拾い、名誉ある男の生き様を説き、ここまで導いてくれたのは他でもない」

 

 

 

血が滲むまで拳を握り、腹の底で煮えている怒りと憎悪を向ける。

 

 

「ヴェスティの兄貴だ。俺はあの人にすべてをもらった。おめえじゃねえんだよ」

 

「……てめえ、俺の前でその名前を出すなっていったよなあ!? あ!? あのクソ着飾り野郎はただの裏切り者だ! それを」

 

「うるせえ臆病野郎! あの人をそうさせたのはてめえだろうが! 兄貴の忠告を全部無視して、てめえがまき散らしたクソの後始末を押し付けて……!」

 

 

 

 

モレッティは声を上げながら、尊敬している男との最後の会話を思い出していた。

 

 

裏切り者として最高幹部会の元に送られる前日に、最後にどうしても会っておきたいとひっそり彼の元を訪れた。

無機質なコンクリートの地下室に入れば、そこにいたのは最早生きているのか死んでいるのか分からない程痛めつけられたかつての兄貴分。

 

 

モレッティもまた、彼をそんなボロ雑巾に仕立て上げた一人。

 

 

 

『――ようモレッティ』

 

 

それでも彼は恨みの言葉を出すことも怯えるでもなく、現れたモレッティを目に映すと口の端を上げて名を呼んだ。

まるで、これから一杯やろうと言われそうな雰囲気で。

 

 

だから、モレッティもまたいつものように彼を呼んだ。

 

『……ヴェスティの兄貴』

 

『おいおい、裏切者を兄貴なんて呼ぶんじゃねえよ。ったく、またヴェロッキオに殴られるぞ。……で、もうすぐ本国送りにされる囚人に何の用だ?』

 

『兄貴。俺にはどうしても、あんたがたった一人の女の為にこんなこと起こしたとは到底思えない』

 

『野暮な事言うようになったなお前も。男が女に溺れるのは自然の理だろ?』

 

『あんたならこんな大事にせず済む方法なんざいくらでも思いつくはずなんだ』

 

『……』

 

『俺はずっとあんたの背中を見続けてきた一人だ。だから分かる。あんたは“わざと”事を大きくしたんだ』

 

『…………』

 

『教えてください。なんで、こんな馬鹿な真似を』

 

『やれやれ、買い被りにもほどがある。いいか、所詮俺も腐ったクズで馬鹿で愚かな男なんだよ。だから命を張って自分の思うがままにやってみたい、なんて餓鬼みてえな事も思い立つさ。――だが、そんな自分以上に愚かで腐り続ける仲間の姿は、目も当てられね。』

 

『……!』

 

『たった一人の男に子供の様に甘え、手足がなくなった虫のように何もできなくなっちまう奴を世話するより、命をかけて心の底から欲しいものを手に入れたくなった。だから使える駒を全て使って事を起こした。この答えじゃ不満か?』

 

『……兄貴、やっぱりあんたは』

 

『だから兄貴と呼ぶなって…まあいいだろう。こうなっても慕ってくれる可愛いお前に、俺から最後の言葉をくれてやるよ』

 

『え……』

 

『お前はまだ若い。その命の使いどころは慎重に選べよ、“モーリー”――』

 

 

 

 

 

親しみを込められたそのあだ名で呼ばれたのは、それが最初で最後となった。

 

 

あの時、モレッティはすべてを確信した。

 

 

 

「あの人がああなっちまったのは、洋裁屋のせいでも中国野郎のせいでもねえ」

 

 

 

高級椅子に座って踏ん反り返り、

 

ただただ自分の気の向くまま怒り散らすだけ散らしては部下を殺し、

 

部下たちの忠誠心や尊敬の念がなくなっていることを他の部下たちのせいにする。

 

かといって問題が起きた時には的確な指示は出せず、力任せですべてをねじ伏せようとする。

 

 

 

そんな野郎に、一体誰がついていく?

 

 

尊敬してやまない彼の最期の言葉がすべてを物語っていた。

 

 

 

「てめえが先に兄貴の信頼を裏切ったからそうなった。そして今、てめえは俺たちの信頼も裏切った。だから」

 

 

モレッティは自身の懐に手を伸ばし、銃を取り出す。

 

そして、目の前の男に突き付け告げる。

 

 

「ここで死ね、ヴェロッキオ」

 

 

――兄貴、俺の命の使いどころは決まった。

 

 

心の中で呟き、引き金を引く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、この人たちお先に楽しんでるみたいだわ兄様」

 

「ホントだね姉様」

 

 

だがその指は、唐突に飛んできた幼い声によって動きが止まる。

 

 

 

モレッティは勢いよく一つしかない部屋の入口へ振り向く。

 

 

 

 

「僕たちも混ぜてよ、おじさんたち」

 

 

 

 

そこには、双子の殺人鬼が微笑みを浮かべて立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――午後6時を過ぎた頃、ヴェロッキオファミリーの事務所周りはいつもより張り詰めた空気で溢れていた。

 

表には黒塗りの高級車が数台並び、全身黒のスーツに身を包んだ男たちが銃を持っている。

 

いわずもがな、香港マフィア三合会によるものだ。

張とバラライカの秘密裏で行われた会合により、普段は冷戦状態にあるホテル・モスクワと共に組員が殺されたけじめをつけさせようとしていた。

 

 

そんな厳戒態勢の中、裏口で見張っているのはたった一人の男。

 

彼、郭颯懍も他の組員と同じように三合会の一員らしく黒スーツに身を包んでいる。

ただ一つ違うのは、銃を持っていないことだ。

 

そんな身一つで待機している中、訝し気に事務所の二階に目を向ける。

 

「静かすぎる」

 

郭は裏口で見張りを続けてから違和感を覚えていた。

 

こんだけの人数で囲っているにも関わらずイタリア人が姿を見せる気配がない。

どれだけ息を潜めていたとしても、ここまで敵の動きを感じないのは異様すぎる。

 

これまで様々な死線を潜り抜けてきた郭は本能でそれを感じ取った。

 

 

「嫌な予感しかしねえな」

 

 

小さく呟き、スーツのポケットから黒手袋を取り出し手に嵌めた。

 

瞬間、果てしなく地の底にいるかのような暗い瞳へと変わる。

黒手袋に包まれた拳を握り、全方位へ更に意識を高め警戒態勢に切り替える。

 

 

武器は己の拳のみ。

だが、その武器こそ彼にとって剣や銃よりも遥かに信頼できるものだった。

 

 

彼は今まで拳一つで眼前に塞がる敵を地に伏せさせてきた。

これから現れるであろう敵にも例外なく、容赦なく叩き込む。

 

それが、己が畏敬の念を抱く兄貴分から与えられた仕事。

 

今回も全身全霊をもってこなすだけだ。

 

 

郭は異様な静けさの中、獲物を狩る獣のように神経を尖らせ続けた。

 

 

微動だにせずただ静かにその時を待っていると、空気が変わったのを感じ取り郭は再び事務所の二階に目線を注ぐ。

 

 

「があああッ!!!」

 

 

その後一呼吸置いて聞こえてきたのは、夥しい銃声と男たちの呻き声だった。

 

自分たち以外にヴェロッキオファミリーに襲撃しようとしている人間がいないことは確認済み。

 

なら、今事務所を襲っているのが誰なのかは簡単に予想がつく。

 

「とうとう飼い犬に手を噛まれたか。ったく」

 

郭は呆れたもんだと息を吐く。

襲っているのが例の双子であれば、あのキレやすいことで有名なヴェロッキオは最後まで狂犬の手綱を握ることも、自分たちでけじめをつけようともしなかったということだ。

 

 

つくづく自分は有能な上司に恵まれたものだと改めて認識した。

郭はその事実に少し口の端が上がったが、すぐさま思考を切り替える。

 

この混乱の中飛び込んでいくのはあまり褒められる行動ではない。

聡明な上司のことだ。きっと、彼も動かず様子見をするはず。

 

それに、連絡用の携帯に何も反応がない。

 

ということは――

 

「指示があるまでは動かず、ってところか」

 

自分が取るべき行動は向こうから仕掛けてくるまで大人しく待つことだと、一歩も動くことなく喧騒の音を聞き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――同時刻、ホテル・モスクワ事務所。

そこにはバラライカ、ボリス。その他に軍服に身を包んだ男たち。

各々片手には銃を持ち、緊張な面持ちで上司である女性からの言葉を待っている。

 

やがてバラライカは先ほどかかってきた三合会からの電話を切り、凛とした声音を発する。

 

「同志諸君、今夜ヴェロッキオファミリーが襲撃を受けた。だが何も問題はない。予定通り、これより状況を開始する」

 

彼女たちにとっての本命は仲間を殺した双子。

ヴェロッキオファミリーがどうなろうと知ったことではない。

 

バラライカは静かに言葉を続ける。

 

「……勇敢なる同志諸君。サハロフ上等兵、メニショフ伍長はかけがえのない戦友だった」

 

その言葉にかつての同志を想い涙を流す者。目を瞑り黙祷を捧げる者。

反応は様々だが、この場において誰一人彼らの死を悼まぬ者はいなかった。

 

 

「彼らの生き様と魂は誇り高く称えられるべきものだった。その彼らと共に歩んだ我らが鎮魂の灯明を灯さず誰が為す」

 

 

彼女の呼びかけが、部下たちの闘志に火を着ける。

 

 

「亡き戦友の魂が、我々の銃を復讐の女神へと変える」

 

 

ブルーグレーの瞳には敵への憎悪と確固たる決意が秘められていた。

バラライカは仇を討つという誓いを胸に、鋭く、高らかに信頼する仲間に告げる。

 

 

 

「カラシニコフの裁きの元、5.45ミリ弾で奴らの顎を食い千切れッ!!」

 

 

 

彼女の宣言に、男たちは戦場にいた頃のように銃を高く掲げ鬨の声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ヴェロッキオファミリーの事務所から銃声と悲鳴が今も尚鳴り響いていた。

しばらくすると音が止み、再びその場には静けさが落ちる。

 

「……」

 

郭は神経を研ぎ澄ましたまま瞬時に思考を巡らす。

 

静かになったということはどちらかが、或いはどちらも死んだか。

少なくても大人数で狙われれば大抵の人間はひとたまりもない。普通に考えればイタリア人共が敵を殲滅したと考えるだろう。

 

だが、今回相手にしているのはただの子供ではない。

 

あのホテル・モスクワと正面から殺り合おうとしているイカれた殺人鬼。

武力もそこまで誇れるものがなかったヴェロッキオファミリーに易々と殺されるわけがない。

 

特に、虚をついての襲撃なら尚更。

 

 

郭は冷静に状況を判断し、目の前にある裏口の扉に集中した。

 

あの扉が少しでも動いた瞬間に己の拳を叩き込む。

いつでも行動できるよう力み過ぎない程度に体に力を入れる。

 

 

 

 

瞬間、表の方から銃声が響く。

 

同時に聞こえてきたのは、仲間たちの呻き声。

 

 

 

 

その事実に郭は驚きを隠せなかった。

 

普通であれば大人数が待ち構えている正面からではなく、たった一人しかいないこの裏口から出てくるものだと予測していたからだ。

 

その予測が見事に外れた。

 

「クソッ!!」

 

今の状況を理解したのとほぼ同時に銃声が鳴り響いている方向へ走り出す。

 

表にいるのはあの張維新だ。そう簡単にやられるわけがないと理解している。

 

だが、郭颯懍にとって張維新とは絶対であり命を賭して守るに値する人物。

その彼が命を狙われているとなれば動かないわけにはいかなかった。

 

 

 

裏口から未だに銃の撃ち合いが鳴り響いている場へ全速力で回り込む。

短い時間であっても、早く辿り着きたい彼にとってはとても長い時間に思えた。

 

 

そうして郭が表へ出たのと銃声が止んだはほぼ同時。

 

「あはは!おじさんやるうッ! でも隠れてちゃ楽しめないわよ?」

 

「ありがとよ、お嬢ちゃん。撃ってこないってならおじさんも出てきてやるんだがな」

 

 

全速力で駆け付けた郭の目に入ったのは、先程まで生きていた仲間の死体と銀髪で長い髪の少女が銃口を兄貴分の声がする方向へ向けている様。

 

その光景を目の当たりにし、考える前に体が動いた。

 

 

息を潜め地面を蹴り、真っすぐ少女に向かう。

 

己の射程距離に入った瞬間、拳を振りかぶり少女の頭に叩き込む。

 

 

しかし、少女が自身の危険を察知したのか間一髪で横に逸れたおかげでそれは叶わなかった。

 

「びっくりしたあ。いきなり殴りかかってくるなんて怖いわお兄さん」

 

「……おいたが過ぎるぞ、クソガキ」

 

 

 

郭は拳を握り直し、溢れんばかりの殺気を微笑みを浮かべている少女に向ける。

 

 

「あの人に銃を向けたこと、地獄で後悔しろ」

 

 

 

怒気を孕んだ低い声で告げる。

 

 

そして今度こそ少女の頭に叩き込もうと一歩踏みこうもとした瞬間。

すぐ隣で何かが動くのを感じ咄嗟に後ろへ下がった。

 

郭はすぐ様動いた正体を目で捉える。

そこにいたのは、少女と瓜二つな斧を片手にこちらを見ている少年。

 

「姉様遊んでる暇はないよ! 早く行こう!」

 

「そうね兄様。――残念だけど今はお兄さんに構ってる時間がないわ。また今度ちゃんと遊んであげる」

 

少女はにこやかにそう言うと、いつの間に取り出したのか発煙弾の栓を抜き郭へ投げつけた。

 

煙を発しながら飛んできた小さな缶をはたき落とし、双子の姿を捉えようとするが一面に広がる煙のせいで視界が遮られる。

 

「逃がすか!」

 

 

郭は気配だけで双子がいるであろう位置に蹴りを入れるが、姿はなく空振りに終わった。

それでも諦めることなく、なんとか煙幕の外に出て二人を探すがもう既に夜の闇へと消えた後。

 

「……クソッ」

 

己の敵を。兄貴分に銃を向けた人間を殺すどころか逃がしてしまった。

その事実に己の不甲斐なさと力量不足に腹立たしさを覚える。

 

 

 

煙幕が薄れていく中、郭は少し息を吐いて踵を返し後ろで穴だらけになった車のボンネットに腰かけている男の元に近寄る。

 

 

「大哥、敵を取り逃がしました。申し訳ありません」

 

「ま、今回ばかりは仕方ないとしか言いようがない。お互い、こうして生きているだけ運がよかったさ」

 

張は心の底から謝罪する部下を咎めることなく静かに言葉を返す。数々の鉄火場を潜り抜けてきたからこその冷静な態度だ。

 

 

ふと、彼は自身が着ているロングコートの裾を見つめる。

そこには二つほど銃で撃ちぬかれたような穴が空いていた。

 

張は少し眉を下げ、裾を持ち上げその穴を撫でる。

 

 

「あー、こりゃまたキキョウに小言を喰らっちまうな。困ったもんだ」

 

「全然困ったように聞こえないのは俺の気のせいですかね?」

 

「さあ? どうだろうな」

 

そう言って張は懐から煙草を取り出し咥える。

そこにすかさず郭が火を着けた。

 

「今後はどうされますか、大哥」

 

「とりあえずバラライカに連絡だな。あとはあいつが」

 

その時、遠くから何やら騒がしい音が張の耳に届き言葉が不自然に途切れる。

 

「……やれやれ」

 

 

 

段々と近づいてくるサイレンの音を聞きながら、張はため息と共に煙を吐き出した。







郭さんは拳での撲殺が得意なのです。(物騒)



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16 最後に手向けられたのは…

今回は少し長いので2話に分けての投稿です。






ハンカチに手を付けてから何時間か経ち、やっと完成した。

外をみれば、いつの間にか暗くなっている。

 

いつもならもう少し作業スピードも早かった気がするが、結果完成できたのだから別に気にすることはないだろう。

気にしたところで何かあるわけでもなし。

 

ずっと座りっぱなしだったおかげで腰が少し痛い。

固まっていた筋肉を解す様に背を伸ばし、紫と白のライラックが一輪ずつ刺繍されたハンカチを片そうと丁寧に畳む。

 

 

しかし、それは思わぬところで阻まれた。

 

 

 

 

 

 

――バンッ!!

 

 

 

 

 

と、聞き慣れた銃声に遅れて壊されたドアノブが地面に落ちる。

唐突に響いた音とその惨状に手どころか体全体が硬直した。

 

そのせいか、自室にある護身用の銃を取りに行くという行動さえ起こせない。

 

私はこの街に来て数年経つが、戦闘に関してはからっきしなのだ。

こんな唐突の出来事に余裕を持てる訳はなかった。

 

困惑している中、ゆっくりとドアが開かれる。

 

 

 

「こんばんはお姉さん」

 

 

 

そこに現れたのは、大きい銃をこちらに構えているあの銀髪の女の子が笑いながら立っていた。

 

戸惑いながらも、ハンカチをポケットに入れ逃げることなく見据える。

抵抗しないことを確認すると、女の子は笑顔を携えたまま中に入ってきた。

 

「乱暴な真似してごめんなさい。時間がないから仕方なかったの」

 

「……口先だけの謝罪をするくらいならしない方がいいと思うよ」

 

「あら、怒られちゃったわ。こんな状況でも随分余裕なのね、お姉さん」

 

「残念なことに心の中は全然穏やかじゃない。どうしてここに?」

 

この子はメニショフさんを殺した殺人鬼で、バラライカさんが殺そうとしている子供だ。

彼女から追われている身であるこの子にこんなところで油を売ってる暇があるとはとても思えない。

 

素直な疑問を口にすると、銃を向けたまま答える。

 

「ここなら人目につかないと思って。それに、殺しに慣れてなさそうなお姉さんなら私のお願い素直に聞いてくれるかなって」

 

「お願い?」

 

「そ。実は私たち、もうそろそろこの街から出ないといけないのね。でも雇い主たちを殺しちゃったから手引き役もいなくなっちゃって。だから、お姉さんに手伝ってほしいの」

 

雇い主を殺した。

それは、つまり裏切ったということか?

 

だからもうこの街には用がないから二人で逃げようとしているのか。

 

 

 

……そういえば、もう一人はどうしたのだろう。

 

 

 

「あの男の子はどうしたの?」

 

「兄様はロシア女を殺しに行ったわ。だからいつでも逃げれるように準備をしなきゃいけないの」

 

その答えを聞いて目を見開く。

ロシア女とは十中八九バラライカさんの事だろう。

 

雇い主を殺した時点でもう用はないはずなのに、どうしてバラライカさんを殺そうとしているのか。

これ以上殺したって何もないことくらい私にだって分かる。

 

 

 

不可解すぎる。

 

 

 

「ねえ、そんなことしたって意味がないのは分かってるでしょ? どうして続けるの」

 

「どうして? アハハッ、そんなの決まってるじゃない」

 

訝し気に問いかけると、可笑しいと言わんばかりに笑った。

そして、言葉を区切り一瞬の間をおいて当然だというようにすんなりと返答する。

 

 

 

 

 

「――“そうしたいからよ”。そうしたいからそうするの、理由なんてないわ」

 

 

 

 

そう言う彼女は、心の底から楽しそうな笑顔を見せる。

だが、あの時見せてくれた笑顔とはどこか違うものであることは確かで。

 

 

そうしたいからそうする、か。

 

 

周りの人間からしたら意味がないだとか理解できないと思われる行動だとしても、自分にとって意味があればそれでいい。

私もそうやって自分勝手に生きている人間だ。だからこそ、咎める言葉をかけることができない。

 

この子にどういう経緯があって人殺しを楽しむような人種になってしまったのかは知らない。

 

だが、もうそうなった。なってしまったのだ。

なら、何も言う必要はない。

 

そして、そんな子供に殺されてもいいとは微塵も思わない。

この子に今殺される意味もないのに撃たれるのは真っ平ごめんだ。

 

だから私にできるのは、向けられている銃口の的にならないよう行動することだけ。

 

「そんなことはどうでもいいわ。さっさと本題に入りましょ。――お姉さんに手伝ってほしいのは、ある逃がし屋までの道案内」

 

逃がし屋?

生憎、私はこの街では人脈が広い方ではない。

 

いや、マフィアは置いといてその他の殺し屋とかそれこそ逃がし屋については全くと言っていいほど関りがない。

そんな私と関りがある逃がし屋と言えば一つだけ。

それ以外は案内しろと言われても所在を知らないのでしようがない。

 

さて、どうしたものか。

 

 

「ラグーン商会っていうんだけど、案内してくれる?」

 

 

女の子が告げられた聞き覚えのありすぎる逃がし屋の名前に一瞬目を見開くが、同時に安堵する。

もしここで知らない名前を出されたら頭を悩ませるところだったが、ひとまず言い訳をする必要がなくなった。

 

普段仲良くしてもらっている人たちに重荷を背負わせるようなことはしたくないのだが、この子に殺されるのよりマシだ。

 

「……ここから少し歩くよ、それでもいい?」

 

「もちろん」

 

「分かった。でもその前に、銃を下ろしてくれると嬉しいかな」

 

「ダメよ、逃げられたら困るもの」

 

即答されてしまった。まあ、当然か。

私には殺人鬼から逃れるほどのスキルは持っていないのだが、彼女なりに警戒しているのだろう。

 

だが、その銃を向けられたまま歩くのは遠慮したい。

 

 

特に子供からは。

 

 

 

少し息を吐き、あの時のようにしゃがみ目線を合わせからて口を開く。

 

 

「じゃあ、私が逃げないように手をつないでくれないかな?」

 

「……え?」

 

「逃げられるのが嫌なんでしょ? なら、手を繋いでくれれば一応拘束されることになる。私も銃を向けられなくてよくなるし」

 

「……」

 

 

女の子は私の提案に驚いたようで、目を見開いた。

その顔から笑みは消え、銃を構えたまま訝し気にこちらを見据える。

 

「君もさっき言った通り、私は人を殺すことに慣れてない。君の方が人殺しに関しては上だと思う。だから、私が君を殺せる確率はゼロに近いよ」

 

「……そうだと分かってるのになぜ? 私はいっぱい人を殺してるわ。お姉さんの事だって簡単に殺せるのよ。怖くないの?」

 

「怖いよ。でも、銃を向けられて歩くよりよっぽどマシ。ただそれだけだよ」

 

「…………」

 

 

こんなこと頼むなんてどうかしてると自分でも思う。

だけど、私には銃口を逸らす方法がこれくらいしか思いつかない。

 

 

 

「銃を下ろしてくれる代わりに君をちゃんと逃がし屋まで案内する。――約束するよ」

 

 

 

女の子の灰色の瞳を真っすぐ見つめ告げる。

 

 

もしかしたら、例え生き残って帰れたとしても張さんやバラライカさんに殺されるかもしれない。

『犯人を逃がす手伝いをした人間』として。

 

彼が自分に、この街に不利益をもたらす人間を許す訳がないのは分かりきっている。

だけど、どうせ殺されるならこの子ではなくあの人がいい。

 

だからここで殺されるわけにはいかない。

今は自分の命がこの子に奪われる可能性を少しでも低くできればそれでいい。

 

 

しばらく私を見つめていた女の子が、やがて「フフッ」と息を洩らし微笑みを浮かべ口を開く。

 

 

「本当に不思議な人ね、お姉さん」

 

 

そう言って女の子は構えていた銃を下ろす。

そして、空いている方の手を差し出してきた。

 

女の子の行動の意味を察し、ゆっくりとその小さな手を握り返す。

 

「じゃあ行きましょ、お姉さん。離れたらダメよ?」

 

「分かってるよ。……ねえ、もうひとつ聞いてもいい?」

 

「なあに?」

 

「君の名前、教えてくれる?」

 

今度会った時、名前を聞いておこうと決めていた。

 

それに、少しの間とはいえ道中共にする仲だ。

名前を聞いたって罰は当たらないだろうと素直に聞いてみる。

 

すると、女の子は微笑みを崩さず可愛らしい声で発した。

 

 

「グレーテル、皆そう呼ぶわ。お姉さんの名前は?」

 

「キキョウだよ」

 

「いい名前、素敵よ。」

 

「ありがとう」

 

他の人が見たらきっと異様に映るであろう光景。そんな中でお互いの自己紹介を済ませ腰を上げる。

 

 

 

そしてそのまま、小さな手をしっかりと握り家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――街の一角にある噴水広場。

中央にある大きな噴水の縁に、バラライカは一人ただ静かに腰かけていた。

 

ヴェロッキオファミリーを襲撃しても尚、自身を殺そうと動いていた双子を追い込もうと彼女は遊撃隊に指示を出していた。

途中でそれぞれ別行動を取ったらしく一人を見失ったが、もう一人を捉え続けることに専念する。

 

そして、広場の周りで先ほどまで轟いていた自身の部下たちが標的と戦っている銃声が今は嘘のように静まり返っている。

それは、彼女の思惑通り敵を誘導できた証拠に他ならない。

 

 

無線で部下の報告を聞き、静けさの中バラライカは瞑っていた目をゆっくりと開けた。

 

 

 

「隠れることないわ、でてらっしゃい」

 

「……気づいてたんだ。流石だねおばさん」

 

 

その声掛けに応えたのは、銀髪の少年ヘンゼル。

ヘンゼルはニコやかに笑いながら歩みを進める。

 

「部下だって優秀なわけだ。追いかけっこしてた割には一人も殺せなかったよ」

 

「……」

 

バラライカは紫煙を燻らせ、張り付けられた壊れた笑顔を黙って見据える。

その視線は鋭く、冷たいもの。

 

「ねえおばさん。楽しませてくれたお礼に一つ話してあげるよ。――僕らが殺したあの男の話さ」

 

「……」

 

「あの男ね、腕や足を千切っても、腹を裂いても、頭を強く殴っても命乞い一つもしなかったんだ。そんな男が最期に呟いた言葉、なんだと思う?」

 

 

ヘンゼルはニヤリと顔を歪め、言葉を続ける。

 

 

 

「“大尉、先に逝くことをお許しください”だって。馬鹿だよね、誰かに死ぬことを謝るなんて。それだけ言って死んじゃったから、楽しませてくれたお礼にちゃんと全部潰してあげたよ」

 

「…………ふうん、そう」

 

 

聞かされた話に一言だけそう返すバラライカに、「冷たいね、おばさん」とつまらなさそうにする。

 

 

「でもね、おばさんもすぐにあの世へ送ってあげる。本当はあの男と同じように全部潰してあげたいけど、時間がないんだ。残念だよ」

 

そう言って、しまっていた斧を取り出す。

バラライカは動揺することなく、徐に口を開く。

 

「そうね。本当に残念。坊やには悪いけど――あなたはここでお終いなのよ」

 

胸の内の怒りを表に出さないよう、冷静に言葉を続ける。

 

「でもその前に、悪いことをしたら謝らないとね坊や」

 

煙を吐き出し、射貫くような鋭い視線を注ぐ。

 

「とりあえずそこに跪きなさい」

 

「……フフッ、そんなこと言って」

 

「跪け」

 

 

 

 

 

瞬間、一つの銃声が轟いたのと同時にヘンゼルの右膝に穴が空く。

何が起きたのか理解できないまま、驚きと痛みの中でその場に倒れる。

 

咄嗟にもう一つの斧を取り出しバラライカへ投げようとするが、再び銃声が響きその腕が半分吹き飛んだ。

 

 

「おしまいなんだよ、坊や。もう少し理性が働けば気づいたはずだ。自分が敵地の真ん中に来てしまったことを」

 

片足と片腕から血を流し痛みに耐えるヘンゼルに、冷たい声音と言葉がかけられる。

 

「お前の最期に手向けられるのは花ではなく、我々の銃弾だ。……結局お前は、どうしようもなく壊れた哀れなクソガキのままここで死ぬ。なんとも哀れだ。」

 

「……ふ、ふふ。おかしいや、何言ってる、の? 僕は、死なない。死なないんだ。だって、いっぱい人を殺して来たんだ。いっぱい、いっぱい」

 

 

その言葉にヘンゼルは焦点が定まってない目でバラライカを見つめ、言葉が途切れ途切れになりながらも笑顔を浮かべた。

 

 

 

「殺してきたのよ。私達はその分、生きられるの。命を増やせるのよ」

 

 

 

唐突に、少年の声から少女の声に切り替わる。

 

 

 

 

「僕たちは永遠の命(ネバーダイ)。永遠なんだ」

 

 

 

 

そして、また少年の声に戻る。

 

今血を流し倒れている子供は、少女なのか少年なのか。

それは子供自身にも分からない。

 

それ程までに、子供の体はボロボロにされていたのだ。

バラライカはそのことを見抜いたが、同情も情けもかける気は起きなかった。

 

どんな理由や過去があろうと、自身の仲間を殺したことには変わりないのだから。

 

「それがお前の宗教か。素晴らしい考え方だが、永遠なんてものは存在しない。お前たちはそう考えなければ耐えられなかったのだろうが、それが覆ることのない真実だ。――さて」

 

 

 

葉巻を地面に落とし、言葉を区切る。

 

「これからお前を、お前が私の部下にしたように手足を千切り、腹を裂き、頭を砕けば同志の仇も討てるだけでなく、私の怒りも少しは晴らされるだろう。――だが、生憎そこまで下品な嗜好は持ち合わせていない」

 

 

バラライカは目の前で瀕死の子供に対し、冷静に告げる。

 

 

「だから私は、お前の死に様をただ眺めていよう。お前がこの世を去るまでの時間を、我が同志の鎮魂へあてる」

 

「……ハッ……ハッ……!」

 

ヘンゼルはうまく息ができない中、自身の命の終わりが近づいているのをひしひしと感じていた。

 

 

 

本当は分かっていた。だけど分かりたくなった。

 

 

 

 

自分たちが手にかけてきた人たち。

 

 

その中には、あの凄惨な状況を一緒に生き抜こうと仲良くなった友もいた。

 

今となってはその顔も思い出せないが、その友や他の人間のように無様に横たわる肉袋になりたくないと必死に殺してきた。

 

 

 

 

 

生きるためには仕方なかった。生きるために殺し続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――だが、その日々も終止符を打たれようとしている。

 

 

 

怖い、痛い、苦しい。そんな感覚がヘンゼルを覆う。

 

 

その感覚とは別に、彼はどこか安心を感じていた。

 

 

 

 

“ああ、やっと終わるのか”と。

 

 

 

 

「ヒュッ、ハッ……ウグッ……ウッ……」

 

「泣くな、馬鹿者」

 

息苦しいのと安心した感覚が混じり、彼の目からは大粒の涙があふれる。

その様にバラライカは咎める言葉をかけるが、その声音は先程よりも尖ったものがとれているようだった。

 

「ハッ……ハッ……ハ…………」

 

ヘンゼルの苦しそうな息だけが響く中、バラライカは黙祷を捧げる。

 

 

 

 

 

 

 

――そして数分後、その音が完全に止まり再び静けさが落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

『大尉』

 

「軍曹、こちらは片付いた」

 

『肝が冷えますよ、大尉。引き金に指がかかりっぱなしだ』

 

「すまん、私の我儘に付き合わせてしまったな。……片割れの行方は?」

 

『捜索を続けておりますが、未だに掴めておりません』

 

「……そうか」

 

 

バラライカは無線で報告を受けた後、溜まっていた息を吐き空を見上げる。

 

 

 

その空は、夜明けが滲んでいる色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――大尉』

 

「なんだ」

 

『片割れの行方なのですが』

 

「掴んだか?」

 

『はい。ですが、その……』

 

「どうした」

 

『それが――』

 

 

 



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17 最後に手向けられたのは… 2

――海の真ん中。私は今、潮風が吹き太陽が照りつけている海上にいる。

正確には、その海上に浮かんでいるラグーン号の船内だが。

 

ラグーン号の中にある密室には私の他に銀髪の女の子グレーテルと岡島もいる。

 

本来であれば私は今頃自分の部屋でゆっくり過ごしているはずなのだが、こうなったのには訳がある。

 

 

 

 

グレーテルに脅されてそのままラグーン商会まで案内したのだが、事務所に着いた途端「場所の案内まで、っていう約束だものね。それに、こっちの方が話が早いわ」と再び銃を向けられた。

 

やられた、と為す術もなくそのまま事務所のドアを叩けば商会のメンバーは動揺を隠せなかったようで、岡島は食べかけのピザを下に落とすし、レヴィはすごい形相で銃をこちらに向けるし、

ダッチさんとベニーに至ってはグレーテルが喋るまで固まっているというカオスな状況に。

 

 

私よりも騒動に巻き込まれているのには慣れているのだからそんなに動揺しなくてもいいのでは?と思ったのは口に出さないでおいた。

 

そんなおかしな状況で、グレーテルが自身の逃がしの依頼と報酬について話すとダッチさんは渋々ではあったがその依頼を引き受けた。

 

 

 

これで解放されると安堵したのも束の間、グレーテルが「お姉さんも途中まで一緒に行きましょ?」と驚いた提案をしてきたのだ。

 

 

 

何故、と問えば「もっとお話がしたい」とのことで、それを聞いた瞬間レヴィが「キキョウ今すぐソイツから離れろ! ダッチ、いっそここで殺しちまおうぜ!」と激昂した。

レヴィの怒鳴り声が響く中、「一緒に来てくれるならもう銃は向けないわ。……約束するから、お願い」と懇願された。

 

 

しばらく考えた末、私はお願いを了承した。

 

 

だが、そこに待ったをかけたのが岡島で「キキョウさんが着いていく理由はないはずでは?」と聞かれたので「これでスムーズに話が進むなら別にいいんじゃないかな」と可もなく不可もない答えを返した。

 

 

ダッチさんは「お前をこのまま見捨てたらバラライカや張に何言われるか分かったもんじゃねえな」とこれもまた渋々といった感じだったが、私が同行することも許してくれた。

レヴィと岡島は納得していない様子だったが、ボスでもあるダッチさんの決定である以上あまり口出しはしないようで二人とも静かになった。

 

 

 

 

――そんな訳で、グレーテルの逃亡劇に付き合わされ、今は二人で話しながら暇を過ごしている。

 

 

 

「キキョウお姉さんってとっても綺麗な瞳してるのね。見てると吸い込まれそう」

 

「そうかな? あまり気にしたことないけど」

 

「いいなあ、私も黒い瞳で生まれたかったわ。黒はとっても純粋な色だから羨ましい」

 

「純粋?」

 

「そ。だって唯一何にも染まらない色だもの。白よりも綺麗だと思うわ、私」

 

グレーテルはそう言いながら私の膝の上にちょこんと座ってきた。

少し驚いたが、あまり重くないのもあってどかそうという気は起きなかった。

 

やがて、こちらを見ながら微笑みを浮かべると「うふふっ」と笑った。

 

「やっぱりお姉さんは不思議な人ね」

 

「え?」

 

「初めて会った時からずっと思ってたのよ。あの街の人たちや私達とも違う。けど、そこにいるお兄さんみたいに全く別の世界の人ってわけでもないって」

 

「……どういうこと?」

 

子供らしくない大人びた発言に驚きながらも、その言葉の意味を聞く。

岡島も気になったようで、口出しはしないがこちらを黙って見ている。

 

「そのままの意味よ。私、いい人と悪い人の見分けは得意なんだけどお姉さんは少し難しいの。優しくて温かいけど、それとは違う何かを漂わせてる」

 

 

私が優しい?見当違いも程があるだろう。

子供からしたら、自身の我儘を聞いた人間は優しいの部類に入るのだろうが。

 

 

 

「私は優しくないよ。ちっともね」

 

「少なくても私はこんなに甘やかされたことはないわ。――我儘なんて、何一つ言えなかったもの」

 

「……」

 

そう言ったグレーテルは、どこか寂し気な雰囲気を纏っていた。

この歳で我儘の一つも言えないなんて、相当酷い環境で育ったのかもしれない。

人殺しを楽しむような人格になってしまったのも、その環境のせいなのだろうか。

 

だが、気になってはいてもこの子とはすぐお別れするのだ。

彼女の過去を知ったところでどうしようもない。

 

 

 

「私達ね」

 

 

 

そう思い黙っていたのだが、グレーテルはやがてぽつぽつと語りだした。

 

「灰色の空と壁ばかり見つめて育ったわ。とっても寂しくて、暗いところ。……そんな場所で、唯一綺麗な色をしていたのがリリアックなの。咲いたら花を摘んで、甘い匂いに囲まれながら兄様と一緒に歌を歌うことが私達の楽しみだったわ」

 

 

膝の上で話す彼女の声音に、聞いているだけで寂しさを感じさせた。

 

 

「そんな日々が、ずっと続いてほしいって二人で神様にお願いしてたわ。でも、おじさま達に引き取られてから、血と闇しか見ることができなくなった。殴られて、蹴られて、その度に泣いていたらまた殴られて。そんな毎日だったわ」

 

 

 

彼女が語る内容にあまり驚きはなかった。

だけど、少しだけ手に力が入る。

 

 

 

「“どうして私たちがこんな目に”って何度も思ったわ。そんな時にね、『耐えればいつかこんな日々も終わる。だから頑張ろう』って、一緒にいた子が励ましてくれたの。兄様も私も、その言葉を信じてその子と一緒に耐え続けたわ。――でもね、気づいたの。」

 

 

 

グレーテルは膝から降りて、私と向かい合って言葉を続ける。

 

 

 

「その子が私たちの前に連れてこられて、道具で殴り続けて殺したその時にね。この世界で生きるということは、誰かの命を奪う事なんだって。それが“世界の仕組みだ”って気づいた時兄様も私も笑ったわ」

 

 

何かがあってこの子がこんな風になってしまったことなんて予想できていた。

聞かされたところでどうしようもないことも理解できている。

 

それでも告げられた内容に更に手に力が入る。

 

 

 

「殺し殺され、また殺して。そうやって世界は回っている。耐えたって何にもならないの」

 

「……そのためにお兄さんが死んで、悲しくないのかい?」

 

 

今まで黙っていた岡島が耐えかねたように聞いてきた。

その質問にきょとん、とした顔をした後頭に手を添え動かす。

 

 

 

 

「何言ってるの? 僕はちゃんとここにいる。僕たちはいつだって一緒なんだ」

 

 

 

長髪のウィッグを取り現れたのは、グレーテルが兄様と呼んでいたあの男の子。

先程までの女の子の声から一変、男の子の声でその子は岡島に答える。

 

その様を目の当たりにし、今度は目を見開いた。

それと同時に困惑する。

 

 

 

 

この子は、グレーテル?いや、兄様の方?

常に入れ替わっていたのだろうか。

 

 

 

 

頭が混乱している中、その子はまた静かに語り始めた。

 

 

 

 

「だって僕たちはいっぱい人を殺してきたんだ。殺した分だけ命は増える。そしてこれからも増やし続ける。だから死なない。……でも、誰も分かってくれないんだ。“それは狂った考えだ”って」

 

岡島にそれだけ言うと、再びこちらを向いて目の前まで歩みを進めながら言葉を続ける。

 

「ねえ、僕たち間違ってないよね? 優しいお姉さんなら、分かってくれるよね?」

 

そういう男の子の顔に浮かんでいたのは、どこか不安そうな、それでいて歪な笑顔。

その表情を見て、男の子が手にしているウィッグを優しく取る。

 

 

「そうだね、君たちは間違ってないよ」

 

「キキョウさん……!?」

 

 

岡島は私が肯定するとは思ってなかったのか驚いた声を出す。

手に取ったウィッグを男の子の頭に戻し、そのまま手を乗せ撫でる。

 

 

 

「よく、ここまでこれたね」

 

「……お姉さん?」

 

 

 

目の前に立っているその子はグレーテルの声音に戻り、私の言葉と行動にすこし困惑したような表情を浮かべた。

 

 

「君たちは、“そうするしかなかった”んだよね」

 

 

この子たちは自分たちの考えを正しいと思い込んで、人を殺さないと生きられなかった。

暴力に支配された何の力もない子供が生きるには、その世界に順応するしかない。

 

それを嫌というほど思い知っている私が、『間違っている』なんて言えるはずもない。

 

 

 

 

「――ああ、そっか。やっと分かったわ」

 

 

グレーテルは微笑み、何か納得したような声音を出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お姉さんも、“そうだった”のね。生きるために命を紡いだ、違う?」

 

 

 

 

 

 

グレーテルの言葉に一瞬手を止める。

 

 

「……私の場合は、“紡がれた”っていう方が正しいかな」

 

呟くと、意味が分からなかったのか不思議そうに首を傾げていた。

 

 

「私と君は少しだけ違う、っていう話だよ」

 

 

 

私と彼女たちとの違いは、“その世界から逃がしてくれる人と巡り会えたかどうか”だけ。

 

でなければ、私は今ここにはいない。

私はその運に恵まれて、この子たちは恵まれなかった。

 

たったそれだけだ。

 

頭を撫で続けていると、グレーテルが「やっぱり、お姉さんは優しいわね」と少し嬉しそうに微笑んだ。

 

 

その時、密室のドアからノック音が響いた直後「お話し中ごめんよ」とベニーが出てきた。

 

「キキョウ、君にある人から連絡がきてる。ちょっと来てもらっていいかい?」

 

「私に?」

 

私がラグーン号に乗っていることを知っているのは、商会のメンバーだけだ。

あの街で知っているのは誰もいないはず。

 

――いや、よく考えてみればいるじゃないか。

 

 

あの街の大体の情報を掴むことができて、尚且つグレーテルを殺そうと血眼になって探している人物。

その人物が彼女の行方を突き止めるのは容易い事で、私の行動を知られることも時間の問題だったということだ。

 

 

少し息を吐き、グレーテルに一言上からどいてもらうようお願いし意を決して立ち上がる。

 

 

「少しお話してくるね」

 

「ええ、待ってるわ」

 

グレーテルと軽く言葉を交わし、そのままベニーの後を着いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベニーに連れてこられたのは、初めて立ち入る操縦室だった。

そこには船を操作しているダッチさんの姿もあった。

 

「お前さんにだとよ。今繋がっているからそのまま話せ。……うまくやれよ」

 

少し意味ありげな事を言いながら、ダッチさんは連絡用に使っているであろうイヤホンマイクを差し出してきた。

それを受け取り、耳に当て口を開く。

 

 

「代わりました」

 

『何の用か分かるわね? キキョウ』

 

 

聞こえてきた声に、やっぱりかと予想通りの相手からだということを確信する。

 

 

 

「私がラグーン商会にあの子を案内したことが不可解なのでしょう?」

 

 

 

その問いに一瞬の間を空けることなく返答する。

バラライカさんは私の言葉を聞き、イヤホン越しでも分かるほど冷たい声音で話し出す。

 

 

『ダッチたちは自分たちの仕事をこなしているだけ。それは理解できる。だけど、“あなたが”ガキを手助けしようとした行動は理解できない上に許容の範囲外。……なぜそんなことを?』

 

「脅されたんです。だから、仕方ありませんでした」

 

『あなたが自分の命の心配? ハッ、ありえないわね』

 

「……」

 

 

彼女は私の言葉を信じていないのか鼻で笑った。

 

 

 

『キキョウ、自分が何をしたのか分かっているの?』

 

「ええ。貴女の不利益になりかねないことをしているのは重々承知です」

 

『ならばなぜ? ――私がそれを許すとでも思っているのか』

 

なったバラライカさんの口調が変わる。

彼女に敵意を向けられたのは久しぶりだ。

 

それに怖気づくことなく、今までと変わらず冷静に言葉を返す。

 

「そんなことは微塵も思っていません。だからこそですよ」

 

『なに……?』

 

「貴女はそういう類の人間を許す訳がない。敵と認識した相手には一切の躊躇なく、徹底的に殲滅する。私は貴女がそういう人だということを知っています」

 

そう、彼女が自身の敵を逃がすなんてありえない。

それはこの数年の付き合いでよく知っていることだ。

 

「私一人があの子を逃がそうと本気で画策したとしても、貴女の武力の前では何の意味も為さない。これは貴女のやり方と武力を信じているからこその行動です」

 

『……』

 

「それに、あの子にあのまま殺されるのは御免だと思いました。どうせ結果は変わらないのなら、せめて殺される相手は選びたい。そう思ったんです」

 

『つまり、ガキへの情けではないと』

 

「ええ」

 

 

今言った言葉はすべて本音だ。

あの子への情けではなく、すべて私の為に起こした行動。

 

殺されるとしても、自分なりに納得のいく行動をしたのだ。

後悔はない。

 

 

 

全て覚悟の上だ。

 

 

 

 

『……そうね。そうだったわ。貴女はただの死にたがりではないことを忘れかけてた。』

 

「思い出していただけたようで何よりです」

 

『全く。――私は貴女に借りがある。今回はその借りを返すってことでチャラでいいわ』

 

「ありがとうございます」

 

ひとまず私の言葉を信じてくれたようだ。おまけに寛大な心で許してくれるらしい。

そのことに素直にお礼の言葉を伝える。

 

『張にはなんて言うつもりなの? あの男もこの事はすでに知ってるわよ』

 

「貴女に伝えた通りに」

 

『それで納得するかしらね』

 

「納得されずに殺されるとしても構いませんよ。例え理不尽だとしても、彼が相手なら後悔はないですから」

 

『そう、なら好きになさい。――ではキキョウ、健闘を』

 

「ええ、貴女も」

 

その言葉を最後に、彼女との会話が終わった。

傍で私たちの会話を聞いていたダッチさんにイヤホンを返す。

 

 

 

「全く、聞いてるこっちがヒヤヒヤしたぜキキョウ。ほんとお前はこういう時程どうしようもないイカれ具合を発揮するな」

 

「イカれてるつもりはないんですけどね」

 

ダッチさんの言葉に苦笑する。

私は私の思っていることを言っただけなのだが、彼にはあまり理解されなかったようだ。

 

 

まあ、そんなことはもはや慣れっこだ。

 

 

「もうそろそろ目的地に着く。すまねえが、もう少しだけガキの相手をしててくれ」

 

「分かりました。では、失礼します」

 

一言そう言って、操縦室を後にする。

 

密室に向かいながら、溜まっていた息を盛大に吐き出した。

彼女とは短くない付き合いとはいえ、ああいう会話はやはり遠慮したいものだ。

 

「どうしたキキョウ。ガキのお守りに飽きたってなら後はロックに任せたらどうだ? あいつはそういうのに慣れてるからよ」

 

「……そんなんじゃないよ。レヴィこそ、たまにはお守りしてみたら? いい経験になると思うよ」

 

「そんな経験いらねえ」

 

今は岡島とグレーテルがいる密室の前に、見張りとしてやってきたのかレヴィが立っていた。

それに気づかず盛大なため息を聞かれたことに少し気恥ずかしさを感じながら返答する。

 

「キキョウ、お前本当にあのガキに対して何にも思ってねえのか?」

 

「思ってないよ。思ってたとしても何の意味もない。もう二度と会えないんだから。」

 

「……そうかい。すまねえ、余計なこと聞いた。お前は何かと他人に甘い部分があるから少し気になっちまった」

 

「やっぱりレヴィとしてはムカつくかな?」

 

「いや、そんなアンタだからアタシは助けられたんだ。だから文句もなにもねえよ」

 

「ならよかった」

 

口の端を上げているレヴィにつられ、自身も微笑みながら言葉を返す。

レヴィは煙草を咥え、火を着けて煙を吐き出した。

 

「アタシはそこで見張ってるから何かあったらすぐ言えよ? そん時はぶん殴って黙らせてやるから」

 

「分かった」

 

彼女の物騒な言葉に苦笑しながら、あの子が待っている部屋に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――どこかの街の港。

名前も分からないその場所に、どうやら逃がし屋がいるようだ。

 

着いたところで、グレーテルが自分の荷物を手に外へ出た。

私も最後なのでお見送りくらいしようと、レヴィの誘導に従い青空の下に出る。

 

「ダッチ、久しぶりだな」

 

「ああ、しばらくだ」

 

桟橋の向こうからやってきたサングラスをかけアロハシャツを着ている男性にダッチさんが軽い挨拶をしているのが見えた。きっとあの男性が逃がし屋なのだろう。

 

二人が何かを話している中、グレーテルは軽々と船から桟橋へ降りた。

 

「キキョウお姉さん!」

 

私の名を呼びながら、大きな黒い帽子から笑顔を覗かせる。

 

「またいつか、必ず会いましょ! それまで元気でね!」

 

 

ハンカチを渡した時のような可愛らしい笑顔で話す彼女に、どういう顔をしたらいいか分からなくなった。

 

 

またいつか、か。

 

 

目を瞑り、すぐに微笑みを浮かべ口を開く。

 

「……ええ、君も元気で」

 

 

 

 

 

 

 

――――バンッ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞬間、その場に銃声が響く。

 

同時に、グレーテルの頭から血が流れ彼女は地に膝をついた。

 

 

 

その様に一瞬目を見開いたが、取り乱すことはなかった。

 

 

 

 

 

『またいつか』

 

 

 

 

 

そんなものは私と彼女の間に存在しないことは分かりきっていた。

 

バラライカさんは、必ずどこかで彼女を殺す。

だからまた会えるなんてあり得ないことなのだ。

 

 

 

グレーテルは頭から血を流し、空を見上げる。

 

 

 

灰色の瞳に映るのは、とても美しい晴天の色。

 

 

 

 

 

 

「――空。こんなに、綺麗……だった、のね」

 

 

 

 

 

彼女はその言葉を最期に空を仰ぐようにして倒れた。

 

 

 

 

 

彼女の最期を見届け、先に密室に戻ろうと足を動かすとポケットから何かが落ちた。

落とした物を手に取ってみると、それは完成させた紫と白のライラックが一輪ずつ刺繍されたハンカチ。

 

グレーテルに脅された時から入れっぱなしだったのをすっかり忘れていた。

 

 

そういえば、元々これはあの男の子にあげたもの。

だから私の手に戻ってきても、厳密にいえばこれは私の物ではない。

 

だが、あげた本人はここにはいない。

 

 

 

 

 

――姉弟である彼女になら、いいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

ハンカチをしっかりと持ち、意を決して船から降りる。

 

「キキョウ?」

 

ダッチさんが急に降りてきた私に訝し気に声をかける。

その呼びかけに答えることなく、安らかに眠る彼女に近づく。

 

「おい、死体には触るなよ」

 

ダッチさんの忠告に無言で頷き、彼女の傍で立ち止まる。

 

 

 

 

そして、そっと胸元にハンカチを置いた。

 

 

 

 

同情でも情けでもない。

ただ、持ち主の元に返しただけ。それ以外何もない。

 

 

少しの間彼女を見続け、何も声をかけずそのまま黙って船上に戻る。

 

 

 

 

 

 

――彼女の胸元に置かれたハンカチの花模様が、まるで手向けの花のように思えたのはここだけの話。








ライラックの花言葉:思い出






この後はエピローグ的な話を投稿予定です。
もう少しだけお付き合いください。


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18 生きることは病であり、治すのは死のみである

双子編エピローグです。


題名はマックスウェーバーの名言を基にしました。










――グレーテルが逃がし屋に殺され、私たちはすぐにロアナプラへの道を戻っていた。

 

今は岡島と二人きりで船の密室で揺られている。

お互い世間話をする気分ではなく、重々しい空気が漂いずっと無言の状態が続いている。

 

「……あの、キキョウさん」

 

「なに、岡島」

 

そんな中、沈黙を破ったのは岡島だった。

恐る恐るといった感じで声をかける岡島に、できるだけいつもの調子で反応する。

 

「どうして、あんなことを言ったんですか?」

 

「あんなこと?」

 

「人殺しを間違ってない、なんて……あんな、子供に」

 

岡島は私の発言に強い疑問を感じていたようで、納得できないような顔を見せている。

 

 

まあ、彼が言いたいことは分かる。

大方、人殺しをしていることを肯定するなんて信じられないというところだろう。

それが子供ならば尚更。

 

 

だが、それは普通に生きていればの話。

 

 

彼が数か月前まで生きてきた場所の常識や倫理観なんてこの世界じゃ通用しない。

それを実感できる出来事を味わっていないのか、まだちゃんと理解できていないのだろう。

 

こういう時、彼は痛みや恐怖で支配されずに生きてきた普通の人間なのだと思い知らされる。

 

「間違ってないとは言ってない。殺しは理不尽そのものだからね。」

 

「じゃあなんでですか。――キキョウさんは、何も思わなかったんですか。あんな子供が人を殺して、あんな顔で笑っていることに」

 

「……」

 

 

そこで初めて岡島の拳が震えているのに気づいた。

 

 

きっと、彼なりにあの子の事を想っているのだろう。

私がバラライカさんと話している間二人で何か話していたようだし。

 

ここは下手に気を遣うよりちゃんと話した方がよさそうだ。

 

 

 

俯いて拳を握っている彼に、冷静に声をかける。

 

「岡島、あの子たちはどうして人を殺してきたと思う?」

 

「え?」

 

「優しい人もごまんといるこの広い世界で、どうしてあの子たちはそうしてきたか。……いや、そうしないといけなかったか分かる?」

 

「……」

 

微かに揺れている焦げ茶色の瞳を見据え質問を投げかける。

言葉が出てこないのか、はたまた私の言葉を待っているのか岡島は黙ってしまった。

 

その様に彼からの返答は期待できないと確信し口を開く。

 

「あの子たちの世界には、優しい人がいなかった。誰も助けてくれない無情な世界で生きるために、死なないために人を殺し続けたんだよ、あの子たちは」

 

「それは、貴女でもよかったはずだ。貴女ならあの子をこの暗い闇の世界からきっと救えた……! あの子が優しいと評した貴女なら“救えたはず”なんだッ!!」

 

岡島は目に涙をため、声を荒げた。

拳は血が滲みそうな程強く握られている。

 

感情を昂らせる彼に言葉が届くようはっきりと告げる。

 

「買い被りすぎだよ。私にはその力も、優しさもない。何より、あの子たちはもう人殺しを“娯楽”として捉えてた。そんな殺人鬼が、誰に何を言われたところで人殺しを止められるはずがない」

 

「でも!」

 

「あの子たちの世界にほんの少しでも優しい人がいれば“ああ”はならなかった。――だけど、そうならなかった。“ならなかったんだよ”岡島」

 

 

辛そうな表情を浮かべている彼から目線を逸らすことなく呼び掛ける。

 

「岡島。私達が立っているこの世界は、理不尽と恐怖と暴力で支配されている。大人であっても耐えることができない程残酷で、情けなんて存在しない世界。それはあの街に住んでる君ならもう十分分かってるはずだよね?」

 

「……」

 

「あの子たちはそんな世界で人格が歪むほど必死に生き抜いた。……もう、楽にしてあげても良かったんじゃないかな」

 

死は一つの救いだ。

辛く苦しい世界から永遠に逃げられる唯一の方法。

長年血と悲鳴の環境で育ち受け入れた人間がその世界から解放されるには、きっと死ぬしか方法がない。

少なくても、あの子たちを救える人間がいない限りは。

 

 

私の言葉に岡島は震えた声を出す。

 

 

「……死ぬことでしか、あの子は楽になれなかったと」

 

「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。だけど一つ言えることは、死ねば確実に楽になれるってことだけ。それに、苦しみから解放されるために死ぬのは悪い事じゃないよ」

 

「……なぜ、そこまで死ぬことを前向きに捉えてるんですか」

 

やはり私の返答が納得できないのか、訝し気に聞いてきた。

その質問にどう答えるべきか少し悩み、息を吐き考えを口に出す。

 

 

 

 

「死にたかった時に死ねなかったから、かな」

 

「……」

 

 

 

そう言った瞬間、自嘲的な笑みが自然と零れた。

岡島は私の返答に目を見開いたが今度は納得したのか、また言葉が出なかったのか再び黙る。

 

「ごめんね、偉そうに話して」

 

「……いえ。俺の方こそ、感情的になってすみませんでした」

 

「謝ることじゃないよ。気にしないで」

 

「…………はい」

 

彼も気持ちが少しだけ落ち着いたのか、感情を露にしたことを謝罪してきた。

そこは別に気にしていない。

だからその言葉は必要ないと素直に伝える。

 

 

そこからはお互い、あの街に着くまで一言も発しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして数十分ほど密室で静かに揺られていると、やがて船の揺れが止まった。

 

 

「着いたぞ二人とも」

 

「分かった」

 

「ほらロック、お前もとっとと降りな」

 

「……ああ」

 

部屋の外で待機してたであろうレヴィが、静かに到着を待っていた私達を呼びに来る。

その呼びかけに私は直ぐに腰を上げ、岡島は遅れて反応し三人で日差しが照り付ける甲板に出た。

 

既に船首で立ったまま煙草を吸っているダッチさんに後ろから声をかける。

 

「ダッチさん、この度はご迷惑をおかけしました」

 

「俺達はただ仕事をこなしただけさ。お前はそれに巻き込まれただけ、気にすることはねえよ」

 

「そういう訳にはいかないでしょう。普段仲良くさせてもらっているんですし」

 

「それはお互い様ってヤツだぜキキョウ。ま、どうしても気になっちまうってなら酒でも奢ってくれりゃいい」

 

こちらを見向きもせずそう言うダッチさんに思わず笑みがこぼれる。

なんだかんだこの人も、私に対して少し甘い所があるのは気のせいだろうか。

 

「それでいいなら、いつでも喜んで奢りますよ。もちろん、ラグーン商会全員分」

 

「気前がいいことだ。なら、これからすぐにでも行こうか。……と言いたいところだが、お前さんにお迎えが来たみてえだぞ」

 

「え?」

 

その言葉に思わず首を傾げる。

私を迎えに来る人に心当たりは全くない。

一体何を見てそう思ったのか、ダッチさんの隣まで歩みを進め彼の目線の先を辿る。

 

 

 

桟橋の入り口の近くで停まった黒塗りの車から出てきたのは、黒いスーツに黒いサングラスの男性。

 

 

いつもと少し違う格好だが、それが誰なのかすぐに分かった。

 

 

「……なんであの人がここにいるんですかね」

 

「さあな。ただ、俺達に用がないのは確かだな」

 

ダッチさんが言う俺たちというのは確実に私は含まれていないだろう。

 

 

…そういえば、前にもこういう事があったような。

これがデジャヴというやつか。

 

「ほら、早く行ってこい。……健闘を祈るぜ」

 

「ありがとうございます。生きて会えたら、必ず奢りますね」

 

「あまり期待しないでおいた方がいいかな?」

 

「お好きなように」

 

ダッチさんは口の端を上げ冗談っぽくそう言った。

私もつられて頬を緩ませ、軽い言葉で受け流す。

 

向こうで早く来いと言わんばかりにこちらを見つめる彼の元へ行こうと足を動かす。

 

 

 

「キキョウさん」

 

 

 

船を降りようとしたとき、後ろから岡島に呼び止められる。

振り向くと、何か言いたげな表情でこちらを見ていた。

 

「最後に一つだけ教えてください。――俺は、甘すぎるんでしょうか」

 

「……」

 

その質問に少し目を見開いた。

一つ間を空けて、素直に思っていることを伝えようと口を開く。

 

「私も人の事はあまり強く言えないけど、この世界じゃ甘い方だとは思う」

 

「……」

 

「だけど、その生き方を貫きたいなら貫けばいいんじゃないかな」

 

「え」

 

「それがこの街で通用するかは、保証しないけどね。ま、どうするかは岡島の自由だよ」

 

 

私の返答に岡島がまだ何か言いたげな顔をしていたが、それには構わず足を動かす。

少し遠い距離にいるレヴィが手を振るのが見えたので、振り返すと彼女は煙草に火を着けた。

その様を横目で見ながら今度こそ船から降りる。

 

 

桟橋を渡り、未だにこちらを見つめ立っている男性の元へまっすぐ進む。

 

彼の目の前まで来たとき、いつもより少しだけ重苦しい空気を漂わせていることが分かった。

そんな雰囲気の中、彼が徐に口を開く。

 

 

 

「殺人鬼とのクルージングは楽しかったか?」

 

 

 

どこか嫌味にも聞こえるその質問に苦笑いを浮かべながら言葉を返す。

 

「あまり、いい気分ではなかったですね」

 

「そうか」

 

「……張さん、何故ここに?」

 

「お前の事が心配でたまらなくてな」

 

「御冗談を」

 

「割と本気で心配したぞ。――その命が俺以外の奴に奪われやしねえかってな」

 

その言葉に思わず一瞬言葉に詰まる。

黙っているわけにもいかないと、サングラスの奥から覗く瞳に射貫かれたまま口を開く。

 

「それは、とんだご心配をおかけいたしました」

 

「はッ。まあ、言い訳は後でたっぷり聞いてやろう」

 

そう言って、彼は車のドアを開け「乗れ」と私に命令する。

彼が自らその行動をしたことに内心驚いたが、命令に背かせる気が全くない空気に「失礼します」と断りながら後部座席に乗り込む。

 

私が乗ったのを確認すると、ドアを閉め彼は私の隣に座った。

 

運転席にいる腹心に「出せ」と彼が一言言うと車のエンジンがかかり、ラグーン商会の船がすぐさま遠くなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――俺は、彼女が張さんに連れて行かれるのを見届けた後もその場から動けずにいた。

いや、正確にはキキョウさんの最後の返答からだ。

 

キキョウさんの答えに、少し戸惑っているから動けないのかもしれない。

 

 

 

思えば、昨日から驚きと戸惑いの連続だ。

 

 

 

昨夜、ラグーン商会の事務所にロアナプラの恐怖の一夜を引き起こした犯人に銃を向けられた彼女が現れた時は全員驚きで一瞬固まった。

 

俺は食べかけのピザを落とすし、ダッチとベニーもどうしたものかと戸惑っている様だった。

レヴィはキキョウさんに妙に懐いているのもあって、すぐ殺気を放ちソードカトラスを抜き出して激昂する始末。

そんなレヴィを俺が宥めている間、意外にもとんとん拍子で話が進み女の子の依頼を受けることになった。

 

やっとレヴィも落ち着いたと思ったら、なんと女の子が「お姉さんも一緒に行きましょ」とキキョウさんに言った。

その提案に再びレヴィの怒りのスイッチが入り収めていたソードカトラスを再び抜いた。

 

今にも事務所中を穴だらけにしそうな仕事仲間をまた宥めようとした時、なんとキキョウさんが「いいよ」となぜか了承したのだ。

 

てっきり彼女はその提案に乗らないものとばかり思っていた。

だから「着いていく理由はないはず」と素直に疑問をぶつければ、「スムーズに話が進むなら」と少し困ったように答えてくれた。

 

キキョウさん自身がそう言っているのと、ラグーン商会のボスであるダッチがそれを許したとなれば俺達には何も言うことはない。

だが、俺が言うのもなんだが武器も持っていない彼女が、子供とはいえ殺人鬼と共にいることはあまり得策ではない。

レヴィも俺と同じことを思っていたのか多少……いや、大分不満気な感じだったが渋々銃を下ろした。

その後も女の子を鋭い目つきで睨んでいたので、それを咎めようとすると「あ?」と今度はこっちが睨まれたのでもう何も言うまいと放っておいた。

 

 

そこからは、女の子を逃がし屋に連れて行くまで監視という名目でキキョウさんと依頼人の部屋に俺が居合わせることに。

別にレヴィでもいいんじゃないか、と進言したが「レヴィだといつキレるか分かんねえからな。アイツはキキョウの事となるといつもより殺気立つ」とダッチに言われたので結果そうなった。

 

確かに、この前キキョウさんの事を「マフィアに取り入ってる売女」とか言っていた男を問答無用で撃ち、ぶん殴っていた。

何故レヴィがそこまでキキョウさんに対し敏感になっているのか本人に聞いても教えてくれないので、そこはよく知らない。

 

 

そんなレヴィが密室の外でソードカトラスを構えている中、俺はただ二人の会話を聞いていた。

 

 

 

話の内容は、子供が話すにはあまりにも残酷で。

“殺し殺されるのがこの世の理”だと、女の子はさも平然と言ってのけた。

 

 

その時思わず「お兄さんが死んだとしても悲しくないのか」と聞いた。聞かずにはいられなかった。

すると女の子は長髪のウィッグを取り、今度は男の子の声で「僕らは殺した分だけ生き続ける。だから死なない」とこれもまた当然だと言わんばかりにすんなりと答えが返ってきた。

 

その様に驚いている俺を一瞥し、今度はキキョウさんに向かって「僕たちは間違っていないよね?」と少しだけ不安そうな声で尋ねていた。

 

 

この子はきっと、肯定の言葉が欲しいだけだということはすぐに分かった。

だけど、子供が人殺しをすることを間違っていないなんて言えるのか。

そんなあまりにも残酷なことを、すんなり肯定できる訳がない。

 

きっとキキョウさんだってそう思っているはずだと、信じていた。

 

 

だが、キキョウさんは“間違っていない”とはっきり告げた。

俺は驚いて思わず何を言っているんだと声をかける。

 

 

俺の呼びかけには応えず、彼女は女の子の頭にウィッグを戻し優しく撫で始めた。

 

 

 

「そうするしかなかったんだよね」

 

 

そう話す声音と表情は、撫でている手つきと同様に優しいもの。

あまりにも穏やかで、まるで母親が子供にするような。

その様に、俺は何も言葉が出てこなかった。

 

女の子は頭を撫でられながら、やがて「お姉さんも命を紡いだのね」と納得したような声音で話した。

その言葉にキキョウさんは「私の場合、紡がれたっていう方が正しいかな」と少しだけ口の端を上げていた。

 

彼女の言葉がどういう意味を孕んでいるのかよく分からなかった。

 

そこで丁度ベニーがキキョウさんを呼びに来た。

「話してくる」と一言言い残し、彼女が出て言ってしまったため二人きりの空間になってしまう。

 

そうなると、女の子の話し相手は自然と俺へと切り替わる。

 

 

 

『――ねえねえお兄さん。お兄さんはどう思う?』

 

『……なにがだい?』

 

『私達の事、怖い?』

 

『……』

 

『いいのよ、気にしなくて。それが皆の反応だもの。――でもキキョウお姉さんはね、私が銃を向けてお兄さんたちのところまでの案内を頼んだ時、“手をつなごう”って言ったの』

 

『え』

 

『“逃げないように手をつないで”って。その時怖くないのって聞いたら“怖いけど、銃を向けられるよりよっぽどマシ”って言われたの。……自分が殺されるかもしれないのにそんなこと言うなんて思わなかったから、びっくりしちゃった』

 

『……』

 

『もし逃げようとしたら殺すつもりだったわ。でもお姉さんは、最後までその手を離さなかったの。…キキョウお姉さんは約束を守ってくれて、私達の我儘も聞いてくれた。そんな人初めてで…とっても嬉しかったの』

 

『じゃあ、君にとってキキョウさんは初めて出会った優しい人、なんだね』

 

『ええ――』

 

 

その時の彼女の笑顔は先程浮かべた歪なものではなく、その顔に似つかわしい可愛らしい少女そのものだった。

 

だから尚更、こんな子供が人を殺していることをキキョウさんがすんなりと肯定したのが理解できなかった。

 

 

 

 

そして逃がし屋の場所まで送り届けた時、女の子は殺された。

 

 

 

ホテル・モスクワが裏から手を回したのだ。

頭を打たれ、空を仰いで倒れた女の子にキキョウさんはハンカチを胸元に置いた。

まるで花を供えるように、そっと。

 

 

 

 

 

港で依頼人が殺されそのまま街へと戻る道中、船の密室で今度はキキョウさんと二人きりになった。

 

俺はこの機会を逃すまいと、思い切って気になっていたことを尋ねた。

 

『なぜ、人殺しを肯定したのか』。

 

俺の問いに彼女は「あの子たちは優しい人に巡り合えなかった。だから必死に生きただけ」と冷静に答えた。

 

確かに、あの子たちに手を差し伸べてくれる人間が一人でもいればあんな死に方はしなかっただろう。

 

 

今までの生き方であれば。

 

 

 

 

あの子たちにはまだ未来があったはずだ。

どうしてここで死ぬ必要があったのか。

貴女なら、今までとは違う生き方をさせられたはずじゃないのか。

 

 

 

あの子が優しい人だと認めた貴女なら。

 

 

 

色々な思いがこみ上げて声を荒げてしまう。

 

そんな俺に「あの子たちはもう十分頑張った。だから楽にしてあげてもよかったのではないのか」、「楽になるために死ぬことは悪い事じゃない」と言い聞かせるように言ってきた。

 

まるで死ぬことが希望だと言わんばかりの返答に、「なぜ死ぬことを前向きに捉えるのか」と疑問をぶつけた。

キキョウさんは少し考えた後、微笑を浮かべ「死にたかった時に死ねなかったから」と答えた。

 

返す言葉が見つからず、黙ってしまう。

 

 

 

 

そこから街に戻るまでずっと考えていた。

 

 

暴力で支配されているこの世界で、子供に対して情けや優しさをかける事は間違っているのか。

起きることを全て受け入れることが正しい選択なのか。

 

俺の考えは、甘いのか。

 

街に着いてキキョウさんが船を降りようとした時、最後にそれだけ聞こうと呼び止めた。

 

何回目の質問だと鬱陶しがられるかもしれない。

だがキキョウさんは邪険にすることなく、こちらを見据え答えてくれた。

 

 

 

『どうするかは俺の自由』だと。

 

 

 

それだけ言って彼女は今度こそ船から降り、この街の顔役の一人である男の元へと向かって行った。

 

 

 

 

俺はずっと、彼女も俺と同じ人間なんだと思っていた。

いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。

 

同じ日本で生まれ育ち、武器も権力もない普通の人間。

だから俺と考え方が一緒なのだと信じ込んでいた。

 

 

だが、その考えがこの短い間に崩れ去った。

 

 

彼女は普通の世界の常識とこの街の常識どちらも理解している。

レヴィのように自分の経験したことや考えだけを正しいと思っているのではなく、理解したうえで“受け入れている”。

これは俺の憶測で確証はないが、きっと彼女が全く語ろうとしない過去に関係しているのだろう。

そうでなければ、全てを受け入れた上で少女にあんな優しさを向けられるはずがない。

 

 

 

それに、彼女が言った『死にたいときに死ねなかった』という言葉。

その言葉を発した時の彼女の表情は、儚さや寂しさを漂わせていて――

 

 

 

 

 

 

それが、とても綺麗だと思った。

 

 

 

 

 

 

 

悪徳の都に住まう人間があそこまで綺麗な表情ができるのかと、正直驚いた。

 

そんな彼女が何故この街にこだわっているのか。

何故、平和な世界で生きていないのか。

何故、マフィアとああも好意的に接しているのか。

 

 

何もかもが分からない。

 

 

 

だからだろうか。

 

 

――彼女をもっと知りたいと思ったのは。

 

いつもこの街で凛と生きているかと思えば、ふとした瞬間に儚さと寂しさを漂わせる彼女のことをちゃんと知りたい。

 

 

そう思うのは、少し欲張りだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいロック、事務所帰るぞ。色々と整理せにゃならん」

 

「ああ、分かってるよダッチ」

 

いつの間にか桟橋に移動していたダッチに声をかけられ、自分もそのまま船を降りる。

 

彼女があの男の元へ内心喜んでいるような顔をしながら向かっていた姿を思い出す。

その時少し眉間に力が入った気がしたが、あまり気にすることなく前を行くボスの後に着いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――家に着くまでの間、迎えに来てくれた彼は無表情で、無言でただ煙草を吸っていた。

どこか重苦しい空気を感じ取り、口を開くことなく窓の外を眺めながら目的地まで時間を過ごした。

 

 

そして、車に揺られ20分もすれば港から家に辿り着く。

 

車が止まった瞬間、運転席で少し気まずそうにしていた彪さんへ一言お礼を言ってから車を降りた。

当然無表情で隣に座っていた彼がこのまま帰る訳もなく、片手にいつものロングコートを持ち、少し遅れて家に向かう私の後を何も言わず着いてくる。

 

 

「……」

 

「……」

 

 

マフィアに無言で後を着かれるのは冷や汗ものだが、これまでの状況を考えれば文句は言えない。

この後私がどうなるのか想像すれば、今の状況なんて些細なことだ。

 

我が家の木製のドアの前まで来たとき、あの子のおかげで壊れていたはずのドアノブが直っているのに気づいた。

これが誰の計らいなのかは分からない。

だが今はそんな事よりも一刻も早く彼と話をし、けじめをつけることの方が最優先だ。

 

 

きっと中に入ればもう後には引けない。

自分の家のはずなのにいつもと違う場所のように思える。

 

意を決し、新しくなったドアノブに手を伸ばし鍵のかかっていないドアを開ける。

 

「どうぞ」

 

すぐ後ろにいた彼を先に中へ通し、入ったのを確認した後自身も見慣れた作業場へ踏み入る。

 

そしていつものように椅子を出そうと動いた時、今まで黙っていた張さんが口を開く。

 

「今日はくつろぐ気なんざない。お前だって世間話をしたいわけじゃないだろう」

 

「……ええ」

 

遠回しに椅子はいらないと言われ大人しく彼の前に立ち、顔を見据える。

 

サングラスをしていて相変わらず表情は読めない。

こういう時の彼はいつにも増して抗えない雰囲気を纏っている。

 

「さてキキョウ、早速だが言い訳を聞かせてもらおうか。なぜ片割れを逃がそうとした」

 

「恥ずかしながら、子供に逃がし屋まで案内しなければ殺すと脅されたんです。なので仕方ありませんでした」

 

「はっ、お前が脅しに屈するとはな。これは驚きだ」

 

いつもの冗談のように聞こえる言葉が冷えた声音で発せられる。

私にできるのは、無駄口を叩かず聞かれたことに対し正直に話すだけ。だから黙って話の続きを待つ。

 

「言い方を変えようか。俺との信頼よりもガキの命を優先したのは何故だ?」

 

「私が優先したのはあの子の命ではありませんよ」

 

「――本当にそうかな?」

 

そうではないと間を置かずに返答する。

だがその答えに納得がいかないのか、張さんは冷えた声音のままそう言うとじりじりとこちらに詰め寄ってきた。

 

 

 

「キキョウ、俺は以前言ったな? “ガキには何も必要ない”と」

 

 

 

抗えない雰囲気に、思わず足が後退る。

 

 

 

「だが、お前は子供に甘い。俺とお前が出会ったのもその甘さが発端だ。忘れたわけじゃないだろう」

 

「……」

 

 

 

私と張さんが出会ったきっかけ。

 

この街でまだ洋裁屋として商売を始める前。

私の服を欲しいとしつこく強請ってきた子供に負けてタダで渡した事があった。

 

そんな些細なきっかけのおかげで今この街で洋裁屋として生きている。

 

あの時にすべてが変わったのだ。忘れるはずがない。

 

 

 

 

コツ、コツと革靴の音を鳴らしながら、張さんは話を続けた。

 

 

「そしてお前は、後悔しないためなら覚悟を決める女だ。そんな奴が子供を逃がしたとなれば、情けや同情で行動したとしても不思議じゃない」

 

 

 

持っていたロングコートを作業台の上に置き、また更にこちらへ近づく。

 

そしてとうとう、壁際に追い詰められる。

身長差のおかげで、自然と上目遣いになりながら顔を見据えた。

 

 

こんな近くで彼の顔を拝んだのはいつぶりだろうか。

 

 

 

「キキョウ、お前は本当にあのガキに対し情がなかったと言えるのか?」

 

 

 

 

この質問に返すべき答えは、もうすでに持っている。

だから躊躇せず、この距離で辛うじて見える奥に隠れている瞳を見据え口を開く。

 

「確かに、私の行動は傍から見れば情で動いたように思われるでしょう」

 

「……」

 

「ですが、私が動いたのはそんなもののためではありません」

 

黙って私の話を聞いてくれる張さんに誠実な態度を示すため、嘘偽りない自身の気持ちを告げる。

 

 

「結論から申し上げて、私は貴方に殺されたいからあの子の脅しを聞いたんです」

 

 

その言葉を聞いて驚いたのか、一瞬だけ張さんの方眉が上がった。

 

「ご認識の通り私は後悔しないために行動します。私はあの時、あの子に殺されたら後悔すると思ったんです」

 

張さんは微動だにせず、私の話を黙って聞き続けている。

何を思って聞いているのかは分からないが、途切れさせまいと更に言葉を発する。

 

「脅しを聞かなければあの子に殺される。だけどあの子を逃がそうとすれば貴方に殺される。……どのみち行き着く先が変わらないのなら、せめて行き着くまでの過程は選びたい」

 

 

結局、私も自分の事しか考えていないのだ。

本当に情で動く人間は、わざわざ見殺しにするような真似はしないのだから。

 

そう改めて認識すれば、自嘲にも似た笑みが浮かぶ。

一呼吸間を空け、口元に弧を描いたまま口を開く。

 

 

「Mr.張。こんな利己的な私があの子に情をかけて動いたと、本気でそう思われますか?」

 

 

情けで動いたのではないか、と疑った張さんに今度は私から問いを投げかける。

私の今までの話を聞いても尚、彼がそう思うなら仕方ない。

 

だが、私は私の素直な気持ちを彼に伝えられた。

 

それだけでも、十分だ。

 

 

 

私の問いかけを聞いた後張さんは口元を手で覆い隠し、何か考えているようだった。

彼の言葉を聞こうと大人しく待つ。

 

 

「……くッ」

 

「え?」

 

「はっはっはっは!」

 

 

張さんはたまらずといった風にいきなり笑い声を上げた。

ついさっきまでの無表情を崩し、楽し気に笑う彼の姿に思わず呆気にとられる。

 

一体どうしたというのか。

私はただ質問しただけだというのに。

 

 

「あー、全く」

 

 

あまりにも突然すぎてどう反応をすればいいか困惑する。

しばらく笑い続けやっと収まったのか、口元に弧を描きながら話しかけてきた。

 

「本当にお前は変わらんな」

 

浮かべる表情は変わっても壁に迫られている状態は変わっていない。

至近距離で静かに発せられる言葉に黙って耳を傾ける。

 

「こんな肥溜めの中で死ぬことは、そこらの野良犬共の餌と化し糞と成り果てることと同義だ。例え誇りだなんだと言いながらくたばったとしても、その事実は変わらない」

 

「……」

 

「短いとは言えない時間をこの街で過ごしてきたお前なら、それをよく分かっているはずだ」

 

そこまで言うと、やがて徐に右手を壁につける。

おかげで更に逃げられないような体勢へと変わった。

 

 

 

「だというのに、お前は命を無駄にする時ほどその瞳を向ける」

 

 

 

近かった顔を更に近づけられる。

今にも額同士がぶつかりそうな距離で張さんは話を続けた。

 

「俺に銃を向けられた時やヴェロッキオの所へ乗り込んだ時も、そして今回も愚かなほど素直に、哀れなほどの死にたがりっぷりを見せた。ここまで真っすぐ自殺願望を唱える奴はいないだろう。――そんなお前は儚く無様で、とても魅力的だ」

 

私はただ、後悔するくらいなら死んだ方がマシだと考えているだけ。

無駄に生き延びるより、満足して死ぬことを望むのがイカレているとはどうしても思えない。

 

張さんは愉快そうに口の端を上げ、今度は左手を動かし私の右頬へそっと触れてきた。

 

 

これはもうとっくに慣れた彼の癖。

今回もいつものように、指先で頬の上をなぞる感触を受け入れる。

 

 

「だから、こんなことで殺すには“勿体ない”」

 

 

その言葉に思わず目を丸くする。

張さんはそんな私の表情を見て「フッ」と笑う。

 

彼の言葉の意味はつまり…

 

「私を、生かしてくれるんですか?」

 

「ああ、あんな情熱的なアプローチをされたんだ。まだまだ愉しませてもらわねえとな。それに、バラライカが生きることを許したんだ。ならこれ以上、お前を責め立てる必要はどこにもない」

 

恐る恐る問いかけてみれば上機嫌に返された。

『情熱的なアプローチ』とは何のことかさっぱりだが、今はとりあえずまた生かされたことを感謝するべきだろう。

 

例え彼の気まぐれであっても。

 

「本当貴方には、何度お礼を言っても足りないですね」

 

「礼を言う事じゃない。今回も、お前が俺に生かしておきたいと“思わせたんだ”。感謝するなら自身の行動に、な」

 

「そんな私の自分勝手の行動を寛容に許してくださったんです。感謝しない訳がありませんよ。」

 

「フッ、そうか」

 

そう言いながら張さんは、また頬の上を親指でなぞり始める。

 

 

この人はマフィアのボスで、誰よりも手を血で汚してきたのだろう。

だが私は何度もこの手に救われた。

そんな武骨で大きく冷えた右手が左頬を包むこの感触は、嫌いじゃない。嫌いになれるはずがない。

 

 

 

そう思えば自然と口の端が上がる。

 

いつもなら少しの戸惑いとまたかという気持ちが混ざるが、今はそんな感情は全く湧き出てこなかった。

 

「……お前がここでそういう顔を見せてくれるとは」

 

私の顔を見て少しだけ驚いた後、ティアドロップのサングラスを外し素顔を晒した。

そしていつものにやり顔を見せ、微笑を浮かべながら口を開く。

 

 

 

终于落入我的手中吗?(やっと俺の手に落ちてくれるのか?) 啊、可爱的花(なあ、可愛い花)

 

 

小恥ずかしいあの呼び方をしながら、深く黒い瞳を私の目線と合わせてきた。

投げかけられた質問に少し戸惑ったが、再び素直な気持ちを告げようと瞳を見据えながら言葉を発する。

 

 

五年前的那时候起、(五年前のあの時から、)我的命是你的(私の命は貴方の物ですよ)

 

 

ああいう質問は何度かされているのだが、実は未だに意味がよく分かっていない。

私の命と腕はこの場所で告げたあの時からとっくに彼の物だ。

その二つ以外に彼が私に求めるものが分からず、今ではただの再確認なのだろうと勝手に思っている。

 

だから何故今その質問がされたのか不思議だが、何も言わないよりはマシだろうと当然の事を返した。

 

拙い中国語ではあるが、意味はちゃんと伝わっているはずだ。

 

 

 

 

「我不是那个意思」

 

「え?」

 

「……いや。まあ、もうしばらくはこのままの方が面白そう、か」

 

一呼吸おいて何か呟いていたが、この距離でも分からない程小さい音量だったので聞き取れなかった。

何を言ったのか気になって聞き返してみたが、彼の言葉に更に首を傾げた。

 

どういう意味なのか分からず困惑していると「気にするな」、と言いゆっくり頬から手を放し、詰めていた距離を開けた。

 

「相変わらずたまによく分からないことを仰いますね」

 

「分かってもらおうなんて思ってないさ」

 

上機嫌なままサングラスをかけ再び瞳を隠した。

その時「ああ、忘れるところだった」と何か思い出したかのような口ぶりで話し出す。

 

 

「昨日そこのコートに二つばかり穴が空いちまってな。また直しておいてくれないか?」

 

そう言いながら指さす方向には作業台の上にあるロングコート。

ひとまず壁から背中を離し、無造作に置かれたものを手に取り状態を見る。

 

一見どこが空いているのか分からないが、よく見てみると左側の一番端に彼の言った通り二つ穴が空いていた。

だがそれはいつもの煙草によるものではなく、銃で撃たれたような綺麗な穴だった。

一瞬目を見開いたが、すぐに張さんへ言葉をかける。

 

「……ひとまず、撃たれたのがコートだけでよかったです」

 

「ああ。なら、今回はお咎めなしってことでいいのかな?」

 

ニヤニヤしながらそう言ってきたのでため息が出そうになったが、なんとか我慢する。

 

「撃たれたということなら、穴が空くのは仕方ないので」

 

言いながら再びロングコートの状態を見る。

このコートも何度か私が手入れを施してはいるが、やはり少し生地のメリハリがなくなっている。

 

穴を修繕するのもいいが、折角なので一つの提案を投げかける。

 

「張さん、よろしければ新しいものお作りしましょうか? もうそろそろ買い替えた方がいいかと」

 

「お前がそういうなら、そうした方がいいんだろうな」

 

「では、こちらは一応修繕されますか?」

 

「いや、いい。新しいのが来るなら着る必要はなくなる」

 

「分かりました」

 

彼は服には何の執着も特にこれといった拘りもないため、こういう時は私の提案を丸々了承するのが多い。

唯一彼が服に対して拘りがあるとすれば、“自分の存在を引き立たせるもの”ということ位だ。

 

私の腕が、彼のその拘りに見合う服が仕立てられると認めてもらえているからこそ、いつもこうして任されている。

 

本当にありがたいことだ。

 

 

「できたら連絡くれ。その時にでもまた一杯やろう」

 

「ええ、ぜひ」

 

「また来る」

 

そう言ってドアの方に向かったので、客人を送り出そうと慌ててドアを開ける。

そのまま部屋の外へ出て行った彼の背中を見続ける。

 

煙草に火を点け、煙を燻らせながら車に乗り込んだのを見届け中に戻った。

 

 

 

 

椅子に腰かけ、無意識に溜まっていた息を吐く。

さっきまで殺されると思っていたのに、いつの間にか普段織りなす会話をしていたことに安堵する。

 

 

私は本当、人に恵まれすぎている。

 

そう考えた時、一瞬人に恵まれなかった子供たちの笑顔がちらついた。

だが、それはもう余計なことだと踏ん切りをつけ、入ってきた仕事をこなそうと裁縫道具を手に取る。

 

 

 

 

 

――例え子供を見殺しにしたとしても、結局私はこの街で洋裁屋として生きてければそれでいいのだ。





















この後も若干触れたりすることはあると思いますが、双子編これにて完結です。
双子編を書くにあたり、色々と複雑な思いがありました。

それについて、ここで少しだけお話させてください。


序章を書き終え、原作編を手掛けた時からこの結末にすることは決めていました。
本編でも触れていますが、キキョウでは双子は救えないのです。

あの子たちが助かるには、
・生き永らえさせたいと思う心
・バラライカさんや張さんと互角に渡り合える力
これが必要不可欠だと思っています。


何度かあの子たちを救える方法はないかと考えましたが、救うためにはあの真っすぐなキキョウが「あの子たちになんとしてでも生きてもらうんだ!」という正義心が芽生えることが必要だと思います。

ですが彼女の根本には張さんも言っている通り「死にたがっている」部分があります。
そんなキキョウが苦しんで生きてきた人に生きていてほしい、なんて思うわけがなく…。


見殺しにし、ハンカチを供えたのはそんな彼女なりの優しさです。



ちなみに、張さんはもともとあの時点で殺す気は全くありません。
だけど、一応何か言っておく必要があったのと、キキョウがなんて答えるのか興味があったため、あえて尋ねています。

だとしても、あの人に無言で後ろから着いてこられたら怖くて歩けませんね。



とまあ、少々長くなってしまいましたが、9話に渡る双子編に付き合っていただきありがとうございました。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。



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19 忠誠の食い違い







双子の殺人鬼がロアナプラを震撼させ、命を落とした日から一週間。

やがて長かった雨季も終わり、やっといつものカラッと乾いた気候に戻った。おかげでいい天気が続いている。

 

だが、私は相も変わらず家に籠っている。

 

この一週間で一日だけ、バラライカさんにもちゃんとお礼をしようとホテル・モスクワの事務所へ張さんと話した翌日に赴いた。

彼女はあの事があっても尚、いつも通りに迎えてくれた。

ロシアンティーを片手に二人で話したのは、これもまたいつもと変わらない世間話。

その時「まさかあそこで惚気話を聞くことになるとは思わなかった」と少しため息をつかれた。その意味がよく分からず首を傾げたが、バラライカさんは教えてはくれなかった。

 

そこからは天気がいいにも関わらず、張さんの新しいコートの作成のため外には出ていない。

 

もう何度も作っているので手慣れたものだが、それでも油断は禁物。作り終えた後は必ず細部まで最後のチェックを行う。

 

今回も特に問題はなさそうなので、約束通り彼に連絡を取ろうと作業台に置いてある携帯を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

――そうして張さんへ連絡を取ってから20分。

どうやら彼はまた少し忙しくなったらしく部下の人に取りに行かせるそうだ。

誰が来るのかは言わなかったが、大体は彪さんが来てくれるので今回も多分彼が来るのだろう。

彪さんにもコーヒーを淹れてもてなそうとするのだが、彼はやることをやってとっとと帰ってしまう。なのでいつも余ったコーヒーは、少量ずつココアに加えたりしながらなんとか消費している。

 

それでもお世話になっている人なので今日もコーヒーを作った。

独特のほろ苦い香りが微かに漂う中、今か今かと受け取りに来るのを待っている。

 

……それにしても暇だ。

すぐに客人が来ると分かっているのに刺繍などして机を散らかす真似はしたくない。

自分があまりにも趣味を持ち合わせていない事を苦に思う時が来るとは。もうそろそろ来てもおかしくないと思うのだが、今回はどうにも時間がかかっている気がする。

 

まあ、ここから一時間とか待たされることはないだろうから大人しく待っておこう。

 

 

 

 

「――ちょっとなんで付いてくるのよ! アンタと歩いてるとこなんて見られたらたまったもんじゃないわ!」

 

「お前が俺に付いてきてるんだよ。そんなに嫌ならおまえがどっか行きやがれ」

 

「アタシはこの先に用があるのよ! とびっきり可愛い女の子のとこにね!」

 

「奇遇だな、俺もこの先に用があるんだ。お前とは違ってちゃんと仕事のな」

 

「息抜きの一つもできない男は女に嫌われるわよ。あ、アンタの事好いてくれる女の子はいなかったわね」

 

「気遣いのできない女は女にも嫌われるぞ。お前みたいなやつは特にな」

 

どうやって暇をつぶそうか考え始めた時、表から聞き覚えのある男女の声が聞こえてきた。

私の周りで気兼ねなく罵り合いをするのはあの人達しかいない。

 

未だに聞こえてくる罵詈雑言の嵐を聞きながらドアを開ける。

 

 

「……何してるんですか、お二人とも」

 

 

やはりそこにはバチバチと火花を散らしているリンさんと郭さんが立っていた。

二人が揃ってここに来るなんて珍しいこともあるものだ。

私がドアを開けても二人はこちらを見てくれなかったので、一呼吸空けて声をかける。

 

「あ、キキョウちゃん。ごめんなさいね、うるさくしちゃって。このクソ野郎がいつまで経っても付いてくるからつい」

 

「俺はただの仕事で来てるだけだって言ってるだろ、人の話を聞きやがれクソ女。……すまねえキキョウ、遅くなった」

 

郭さんはうんざりといった顔で悪態をついた後、なぜか私に謝罪してきた。

この言い草だともしや

 

「もしかして、今回は郭さんが受け取りに?」

 

「ああ。大哥にたまにはお前が行けって言われてな」

 

「あら、とうとう厄介払いされたんじゃない? いい気味ね」

 

「それなら俺はとっくに殺されてるよ。一々嫌味を言わねえと気が済まねえのかお前は」

 

「と、とりあえずお二人とも中にどうぞ」

 

何やらまた言い合いが始まりそうな雰囲気を感じ取り、そうはさせまいと声をかける。

このままドアの前で罵声の浴びせ合いを行うのは遠慮したい。

 

家の中へ促せば二人はほぼ同時に顔を逸らす。先に「ありがと」とリンさんがお礼を言いながら遠慮することなく足を踏み入れた。その後無言で郭さんが入ったのを確認しドアを閉める。

 

 

「コーヒー飲まれますか?」

 

「ぜひいただくわ」

 

「郭さんは?」

 

「俺は受け取りに来ただけだからな。今回は遠慮させてもらう」

 

やっぱり。

郭さんはよく顔を合わせたら話し相手になってくれたりする。

だが彼は張さんの護衛に心血を注いでいるような人だ。そんな人がのうのうとボスの元を離れてコーヒーを飲んでいるのは想像がつかない。

 

「これだから堅物は。折角キキョウちゃんが淹れてくれたのに飲まないなんて」

 

「じゃあ俺の分までお前が飲み干しておいてくれ。よかったなあ、キキョウのコーヒー独り占めできるぞ」

 

「それは確かに喜ばしいことだわ。よく考えたら、アンタにキキョウちゃんのおもてなしは勿体ないものね」

 

「そんなこと言う暇あるならキキョウの客人の招き方を見習ったらどうだ。お前は大哥が来た時でさえ茶の一杯も出さねえじゃねえか。――ああ、出せないの間違いか。お前料理の腕は壊滅的だもんな」

 

「アタシのは味が独特ってだけ。というか、料理に関してアンタにだけは言われたくないわ」

 

「焼けてりゃなんでも食えるだろうが」

 

「言っとくけど、炭は食べれるものじゃないわよ?」

 

二人がそんな会話をしている間に、私はさっさと椅子を差し出し自室へ避難……じゃなかった、コーヒーを注ぎに行っていた。

自室にいても作業場からの声は普通に聞こえるので客人達の話は全部筒抜けだ。

 

話を聞いて『料理についてはどっちもどっちでは?』と思ったが、巻き込まれるのは御免なので心の中に留めておく。

 

「どうぞ、リンさん。熱いので気を付けてください」

 

「ありがとう」

 

椅子に座っているリンさんに淹れたてのコーヒーを手渡せば、郭さんに向けていたしかめっ面を瞬時に笑顔へと変える。

この切り替わりの速さは本当に尊敬できるレベルだ。

 

そのまま郭さんに確認を取ってもらおうと、ハンガーに掛けていた張さんのコートを手に取る。

 

「こちらが張さんのコートです。ご確認いただけますか?」

 

「……もしかして、いつもこうやって見せてるのか?」

 

「ええ。中に何が入っているのか確認してもらった方がいいと思いまして」

 

三合会(うち)にはお前が大哥に何かしようだなんて疑う奴はいねえぞ」

 

「ありがたいことですが、念のためですよ」

 

私がよく熱河電影公司ビルにお邪魔するため、三合会の人たちには恐らくほとんどの人に顔が知られている。最初はよく睨まれていたが、郭さんと彪さんを始め色んな人と話していくうちに段々そういうことはなくなった。

今では信頼されているのか、はたまた何の力も持っていない女だからか警戒はされていないようで、街中にいてもよく話しかけられたりする。

 

本当にありがたいことだが、その信頼を崩したくないので例え些細な確認でも怠りたくない。

 

「……そうか」

 

私の言葉を聞き一呼吸空けてそう言うと、やがて郭さんは懐からあまり使われていないであろう黒い手袋を取り出した。そしてそのままコートに触れ、端から端まで確認する。

 

「……終わったぞ」

 

「ありがとうございます。では今から紙袋に入れますので少し待っててくださいね。」

 

郭さんがコートから手を離したので、そのまま皺がつかないよう綺麗に畳む。

予め用意していた紙袋に入れ、郭さんに差し出し伝えるべきことを伝える。

 

「張さんにこちらを渡す際、何かあればいつも通りすぐ対処するとお伝えください」

 

「分かった」

 

「では、よろしくお願いいたします」

 

「ああ。……なあキキョウ」

 

紙袋を受け取り、郭さんは何か言いたいことがあるのか私の名を呼んだ。

正直、ここでもう帰るんだろうなと思っていたので呼びかけられたことに少し驚いた。

 

しかもその表情は、どこか真剣さを帯びている。

一体何を言われるのか内心ドキドキしながら、言葉の続きを待つ。

 

「お前の事だ。大哥を裏切るだとか甘えるだとか、そんな考えを持っていないのは分かる。」

 

「はい」

 

「だが、大哥に捧げたはずのその命を他の奴に易々と差し出す行為は考え物だ」

 

「え?」

 

「ちょっと、キキョウちゃんにまでアンタの忠誠心を押し付けるんじゃ」

 

闭嘴、林(黙ってろ、リン)

 

郭さんの発言に見かねたリンさんがすかさず止めに入ったが、低い声音に口を閉ざした。

あのリンさんが押し黙るとは予想外だったが、それほど彼は真剣に話をしているのだと瞬時に理解する。

 

「あの人はお前や俺らが思っている以上に、お前の事を気にかけている。それこそ自分以外が殺すことを許さないほどにな」

 

「……」

 

「だから、他の誰かが奪うことは許されない。ましてや、自ら他の誰かにその権利を渡すなんざな」

 

成程。彼はきっと今回の双子に対する私の対応に疑問を感じたのだろう。

だからこそ、こうしてわざわざ忠告にも似た言葉を言ってくれている。

 

「お前は三合会の人間じゃないからこんなこと言うのはお門違いだと重々承知だ。

だが、同じ人間に命を捧げている者として敢えて言うぞ。――あの人に少しでも恩を感じているのなら、自分の気持ちだけで突っ走るのは控えてくれ」

 

彼は私の知る三合会の人間の中で一番と言っていいほど律儀で忠実で、常に張さんのために行動している人だ。

今の言葉も郭さんなりに彼の事を思って発言しているのだろう。

 

だが、私は後悔しないために動く人間だ。

それだけは、真摯に気持ちを伝えてくれた彼にちゃんと言わなくてはならない。

 

こちらを見据える彼の目線から逃げることなく言葉を返す。

 

「郭さん、私は確かに彼に命を捧げました。ですが、私は彼の為に命を捧げたのではなく自分の為に捧げたんです」

 

「……」

 

「もし張さん以外の誰かに殺されたいと思う時が来れば、その時は何の躊躇いもなく鞍替えします」

 

これは限りなくありえない話ではある。

腕と命を助けてくれた彼以上に殺されたいと思う人間はきっと現れない。

だが、それは絶対とも言い切れない。

 

もしその時に少しでも後悔してしまうと思えば、私の行動は決まってくる。

そんな私とは反対に、郭さんは例え後悔したとしても今までの恩を考え必ず張さんにつく。

 

 

 

そこが私と郭さんの決定的な違いだ。

 

 

 

「私と張さんは、自分の為にお互いを利用しているだけなんですよ。それはこれからも変わりません」

 

結局私たちはそうなのだ。

お互いの利益の為になれればそれでいい。

 

 

 

「それだけは、頭の片隅にでも留めておいてください」

 

 

 

郭さんに何をどう言われようと、私と張さんの関係は変わらない。

だから遠回しに、“貴方の忠告は聞けない”とそのまま伝えた。

 

 

 

 

沈黙が落ちる。

しばらくお互いの瞳を見据え続けたが、やがて郭さんが目を伏せ盛大なため息を吐いた。

 

「はあああ。そうだったな、お前はそういう女だったよ」

 

納得したような呆れたような声で呟くと、頭を掻きながら困ったような顔を見せる。

 

「たく、お前だけだぞ。こうもはっきり“張維新とは自己満足の為に付き合ってる”なんて言うのは」

 

「そう聞こえてしまいましたか」

 

「それ以外に聞こえねえよ。……お前は相変わらずイカれてるな、キキョウ」

 

郭さんはどこか嬉しそうな笑みを浮かべそう言った。

てっきり、彼はこういう話を聞いていい気はしないものとばかり思っていた。

だからその表情をみて、少し拍子抜けする。

 

「長々と邪魔したな。じゃ、俺はこれで」

 

「あ、はい。張さんにもよろしく言っといてください」

 

「ああ」

 

 

もうここにいる必要がなくなり、最低限な言葉だけを残し彼は部屋を出て行った。

送る暇もなくさっさと立ち去った郭さんの上機嫌な様子に首を傾げる。

 

 

 

「気にすることはないわよキキョウちゃん」

 

すると、隣で黙って聞いていたリンさんがコーヒーに口をつけながら声をかけてきた。

 

「頭空っぽの癖に色々考えてたんでしょアイツも。それで勝手に納得して帰った、ただそれだけだから」

 

「いや、そうだとしても上司のことをああ言われたら上機嫌にはならないと思いますけど」

 

特に郭さんなら。

疑問を素直にぶつけると、リンさんはコーヒーを喉に流し込み、一息ついた後再び口を開いた。

 

「何様なのかって話だけど、アイツなりにキキョウちゃんを認めてるのよ。――じゃなきゃ、今頃頭吹っ飛んでるわ」

 

「え」

 

「昔からそう。アイツ大哥に逆らったり、大哥の事を冗談でも悪く言う奴は考えなしに殺してきたのよ。それはこの街に来てからも変わってない」

 

面白くないと言わんばかりに、私の前ではいつも笑顔を見せる彼女らしくない表情を浮かべながら静かに話し始める。

この人もあまり過去の事を言わない。というか、リンさんに限らずこの街の人間が大体そうだ。だが、たまに少しだけ語りたくなる時もあるのだろう。

何も言わず、ただ静かに彼女の話に耳を傾ける。

 

「そんなアイツが張大哥を馬鹿にしても殺さない人間は、大哥自身に利益があると判断した奴だけよ。まあ、大哥が殺せって言ったらすぐに殺るだろうけど。……とにかく、アイツにとってキキョウちゃんは“有益な人間”だと判断された。それ以上もそれ以下もないの。本当、上から目線でムカつく話ではあるけどね」

 

「何をどうあの話を聞いたらそういう結論になるんですかね」

 

「知らない。アイツ脳筋で頭空っぽなクソ野郎だもの。どういう思考回路してるかなんて興味ないし知りたくもないわ」

 

彼女はそう言うと、ズズッと再びコーヒーに口をつける。

なんだかんだ言って、リンさんも郭さんの事をちゃんと理解している。逆に郭さんもリンさんのことを理解している。

 

あれだけ罵倒し合っているのに。

いや罵倒し合える関係だからこそ、というべきなのか。

 

まさにこれを“喧嘩するほど仲がいい”というのでは?

 

そう思ったが、これを言ってしまえば不機嫌になることは明白。

だから代わりに違う言葉を投げかける。

 

 

 

「彼と腐れ縁である貴女でも分からないなら、私に分かるわけないですね」

 

「それならとっとと腐り落ちて欲しいもんだわ」

 

彼女は腐れ縁であることは否定せず、代わりに半ばやけになりながら残っていたであろうコーヒーを飲み干した。

 

「まあ、何はともあれ様子を見に来てよかったわ。アタシも見てて面白かったし」

 

「どこに面白さを感じたんですか?」

 

「キキョウちゃんのああいうはっきりした態度、見てるだけでスカッとするのよ。どいつもこいつも言い訳ばっかりで自分のしたことを取り繕おうとするから。だから、アタシはキキョウちゃんが好きなのよ」

 

リンさんはそこでやっといつもの笑顔を見せた。

ここは褒められているからお礼を言うべきなのだろうか。

 

「あ、ありがとうございます?」

 

「なんで疑問形なの。フフッ」

 

可笑しい、と声を洩らす彼女につられて自身の口端も上がるのを感じた。

 

 

「ねえキキョウちゃん。折角だから、今からイエローフラッグで一緒に飲まない?」

 

「いいんですか? リンさん自宅か静かなバーで飲みたいんじゃ」

 

「たまには馬鹿騒ぎしながら飲むのもいいでしょ。今日はそういう気分なの」

 

これはまた珍しいこともあるものだ。

男ばかりが出入りするあの酒場で飲もうなんて。

 

だがきっと、多少でも気心の知れている彼女とお気に入りの酒場で飲む酒はとても美味しいだろう。

 

断る理由がなかった。

 

 

「そういうことなら、ぜひ」

 

「ありがと。じゃ、早速行きましょ」

 

リンさんから空いたコーヒーカップを受け取り、自室に向かい台所のシンクに置く。

そしてそのまま、すでに外で待っている彼女の元へ急ぐ。

今から飲める酒の味に心躍らせ、リンさんと共にイエローフラッグへと向かった。









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20 眠る貴女に献杯を

久々に、あの子についてのお話です。










「――ダッチ、今帰ったよ。はいこれ、ローワンさんから」

 

「おう、ご苦労さん。どうだった?」

 

「また金額が高くなってるってぼやいてたよ」

 

「いつも通りだな」

 

太陽が高い位置に昇る時間。

一番日照りがきつい中、最早俺とレヴィの担当となりつつある荷物の受け取りをこなしていた。

初めてこの業務を任された時、レヴィとちょっとしたいざこざがあったが今ではお互いの役割を理解し、難なくこなせている。

今日はラチャダストリートのローワンだけだったので、これといって問題もなくすぐに終わった。その他にこなすべき仕事もないようで、ダッチもベニーもクーラーが効いたこの部屋でくつろいでいる。

 

「あっちいい。たく、歩いているだけで溶けそうだったぜ」

 

「ご苦労さん。ほらよ」

 

「サンキュー、ダッチ」

 

冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ダッチがレヴィへ投げ渡す。

見事に受け取りドカッ、と彼女はソファへ身を預けた。そして炭酸が抜ける爽やかな音を鳴らし、豪快に飲み干していく。いい飲みっぷりを横目で見ながら俺もソファへ腰かけると、ダッチが今度は俺の方へ冷えた缶を投げてきた。両手で受け取り、熱く火照った体に心地よい刺激と冷たい液体を染み渡らせる。やはり暑い時と一仕事終えた時のキンキンに冷えたビールは最高だ。

 

「なあダッチ。今日はもう仕事ねえんだよな?」

 

「ああ」

 

「最近しけた仕事しか入ってこねえよな。ここのところ毎日暇だぜ」

 

「まあ確かに平和すぎて落ち着かねえが、たまにはこういうのもいいだろうよ」

 

「あー、暇だ」

 

この街でも好戦的で有名な彼女からしたら、確かにこの何も起きない平和な時間は退屈なのだろう。

だが、俺はこの時間ができるだけ長く続けばいいと心の底から願っている。

多少慣れてきたとはいえ、銃の撃ち合いに巻き込まれるのは真っ平ごめんだ。

 

暇だなあ、とレヴィがわざと大きい声で言った瞬間。事務所内に電話のコール音が鳴り響く。基本こういう時は俺が取るようになっている。予め決めていたとかではなく、自然とそうなった。

ソファから腰を上げ、壁にかかっている受話器を取りいつもの言葉を発する。

 

「はい、ラグーン商会」

 

『その声は岡島、かな?』

 

聞こえてきた声に思わず反応が遅れる。

俺の事を名字で呼ぶ人はこの街で一人しかない。

 

「……キキョウさんですか? 珍しいですね、貴女がここにかけてくるなんて」

 

『ちょっとね。ダッチさんいる?』

 

「ええ、今代わりますね。――ダッチ、キキョウさんから」

 

ソファで雑誌片手に寛いでいたダッチに声をかける。多少気心が知れている彼女からのご指名にダッチは文句ひとつも言わず腰を上げた。そのまま受話器を手渡せば、彼は「ようキキョウ」と軽い挨拶を発する。こうなれば俺の出番はもうないだろう。

ソファに戻り、レヴィがどことなくソワソワしている様を眺めながらビールを少しずつ消費する。

彼女の事だ。キキョウさんが何の用でウチにかけてきたのか気になっているのだろう。

かくいう俺も気になっている一人である。

 

 

 

「――分かった。じゃあ、いつも通りに。……ああ、それじゃ」

 

話が終わったようで、受話器を元に戻すと寛いでいる俺達の方を向いた。

 

「お前ら、急で悪いが俺は今から事務所を空ける。飛び入りの依頼だ」

 

「依頼って、キキョウさんから? 一体どういう」

 

「ダッチ、もしかして“例”のか?」

 

「ビンゴだレヴィ。いつものアレだよ」

 

洋裁屋である彼女は必ずと言っていいほど自分で品の受け渡しを行っている。そんなキキョウさんが俺達に依頼することなんて、正直ないと思っていた。

だから素直に「一体どういう内容なのか」とダッチに問おうとしたが、食い気味に発せられたレヴィの言葉に遮られてしまう。

 

 

だが、そんな事よりも目の前で繰り出される二人の会話の方が気になった。

 

 

「いつもの?」

 

「ん? ああ、ロックはまだ知らねえか。アイツは毎年この時期になるとウチに依頼すんだよ」

 

「何かを運ぶのか? 正直、彼女の職業柄ウチに頼むようなことはないと思うんだけど」

 

「これは洋裁屋の仕事とは関係ねえよ。完全なプライベートさ」

 

不思議がる俺の質問に答え、レヴィはビールを一気に煽る。空になったであろう缶をテーブルに置き腰を上げた。

 

「来る気満々だな、レヴィ」

 

「暇だしな。キキョウも何にも言わねえだろ」

 

「着いてきても暇なのは変わらねえだろ」

 

「ここでじっとするよりアイツのクルージングに付き合う方がマシってだけだ」

 

詳しくは分からないが、クルージングということは船を出すようだ。

それも、レヴィの言い草だとキキョウさん自身も船に乗り合わせることが窺える。

 

「僕はここに残るよ。誰かは留守番しといた方がいいだろう?」

 

「助かるぜベニーボーイ」

 

キキョウさんからの依頼、一体どういうものなのか。

この街でも異彩を放っている彼女の依頼に、俺の好奇心がそそられない訳がなかった。

 

「――ダッチ。彼女のクルージング、俺も同行していいか?」

 

意を決して、船長である彼に同行の許しを請う。たった一言なのに、少しだけ緊張してしまった。

 

「……言っとくが、俺達は何もしねえぞ?」

 

「ダメか?」

 

「まあ俺は別に構わねえが、最終的に決めるのはキキョウだ。それを忘れるなよ?」

 

「ああ、ありがとう」

 

クルージングの船員を決めるのはあくまで依頼人である彼女。それは重々承知の上だ。

だが、彼女と共に行動できるかもしれないという期待に胸を膨らまさずにはいられなかった。

 

「さて、一仕事といこうかね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――なあレヴィ」

 

「なんだよ」

 

「彼女の依頼って、大海原の真ん中で酒を飲むことだったのか?」

 

「ああ」

 

「ええ……」

 

ロアナプラから1時間以上船を走らせやっと着いたのは、周りに何もない海の上。

海の表面が太陽の光が反射してキラキラと輝いている。

ラグーン号の船首には、グラス片手に潮風に当たっているキキョウさんの姿。

 

 

 

――電話をもらって数十分後、彼女は紙袋を持って俺たちの元へやって来た。

手ぶらにも等しい格好に違和感を覚えたが、ひとまず俺とレヴィが乗り合わせてもいいか尋ねることを優先した。キキョウさんは躊躇いもなく、「面白いものはないけどそれでもいいなら」とすんなり許可してくれた。

 

そのままベニーを事務所へ置いて、大海原へと船を出す。

船に揺られている間暇を潰す様にレヴィ、キキョウさん、俺の三人で目的地まで他愛ない話をした。おしゃべりが好きというイメージがあまりないレヴィもキキョウさん相手だと心なしか楽し気に会話しているようだった。

 

 

そうして話に花を咲かせていれば、時間はあっという間に過ぎる。

ダッチが目的地に着いたことを知らせると、キキョウさんはすぐさま外に出て行った。

 

船首に座り、紙袋から透明の酒が入った瓶とグラスを取り出す。そのまま酒を注ぎ、高らかに掲げ「乾杯」と発し無言で酒を呷り始めた。

 

恐らく、この前のような余程の事がない限りウチに依頼することがないであろう彼女が、まさかただ酒を飲むために海の真ん中に来るなんて予想していなかった。

 

「……レヴィ、確か彼女は毎年ここに来るんだよな?」

 

「ああ」

 

「何か、思い入れでもあるのかな」

 

「なかったら引きこもりのアイツがわざわざ来るわけねえだろ」

 

「レヴィは知ってるのか? その理由」

 

俺と同じようにキキョウさんの方を見つめていたレヴィに尋ねてみた。俺よりも彼女の方がキキョウさんと付き合いが長いし気心も知れている。

だから、あまり外に出ないキキョウさんが毎年わざわざ来る理由も知っているはずだと思った。

そんな俺の期待に応えるかのように、レヴィは煙草に火を点け口を開く。

 

 

 

「――5年前、キキョウが着飾らせた上にわざわざ棺桶に入れて弔った女がいたんだよ。その女がこの海底に眠ってる」

 

「……え」

 

「あの女が死んだこの時期になると、律儀にアイツは墓参りにやってくるのさ」

 

「あの人、そういう事もやっているのか?」

 

「キキョウ曰く“最期の依頼だったから”らしいぜ。まあ、それも建前だろうけどな」

 

レヴィは面白くないと言わんばかりに無表情だった。その視線は、酒を呷っている彼女の背を見つめたまま。

 

「……たく、いつまであのクソ娼婦に拘ってんだか」

 

「え、なに?」

 

レヴィが何か呟いた気がした。だが、音量が小さかったのと波の音で聞き取れない。

 

「いや、何でもねえ。……先に中に戻ってるぜ。お前もやることないんだ。アイツの気が済むまで涼しい部屋で気長に待とうや」

 

そう言って吸い殻を落とし足早に船内へ戻っていった。レヴィの背が見えなくなり、再び船首の方へ目を向ける。

空になるまで飲むつもりなのか、酒を呷り注ぎ足す行動は止まらない。

休まず飲み続けているからか、十数分しか経っていないはずなのにボトルには透明な液体がもう半分しか残っていない。彼女の酒豪ぶりは健在のようだ。

 

しばらく見届け中に戻ろうかとも思ったが、すごいペースで飲み干していく彼女がなんだか気になってしまう。

意を決し、足を船首の方へ動かす。

 

 

 

「一人で寂しくないですか」

 

 

 

俺よりも一回り小さい背中に向かって声をかけてみる。

振り向きこそしなかったが、呷っている手を止め俺の声に明らかな反応を示す。

 

「寂しそうに見えた?」

 

「少しだけ」

 

「そっか。――そんな寂しく飲んでる女の話し相手になりに来たの?」

 

「そのつもりです、と言ったら?」

 

「……お隣どうぞ」

 

キキョウさんは躊躇うことなく答えた俺を一瞥し、やがて一呼吸空けて促した。その言葉に甘え、彼女のすぐ隣に腰を下ろす。

酒場のカウンターで何回か隣に座ることはあったが、ここまで距離が近いのは初めてで心なしか体に緊張が帯びている気がした。

 

 

「……」

 

「……」

 

 

沈黙が落ちる。

 

ああ、何やってんだ俺は。隣に座ったはいいが何を肝心の話の切り出しが出てこない。

あんなカッコつけた感じで声をかけたというのに、なんだこの体たらくは。

 

何か話さなければ。

胸の内の焦りを出さないよう頭を回転させる。

 

 

 

頑張れ岡島緑郎。サラリーマン時代に培った接待スキルを今こそ生かす時だ。

 

 

 

そんな俺の内心を知ってか知らずか、キキョウさんは再びグラスの酒を飲み干した。

話しかける絶好のタイミングを逃すまいと、すかさず口を開く。

 

「注ぎますよ」

 

「私にそんな気遣いしなくていいんだよ。日本にいた頃の癖でやってるなら」

 

「それもありますけど俺がやりたくてやるんです。――お酌、させてください」

 

一人で飲んでいたところに俺がお邪魔したようなものだ。だからせめて、これくらいの事はさせてほしい。

向けられている黒い瞳を見据え答えると、彼女は徐に半分以下に減ったボトルを差し出してきた。その行動の意味を汲み取り、目の前にある瓶を受け取る。

 

中身が満たされるのを待っている空のグラスに透明の酒を注いでいく。

 

「ありがとう」

 

短いお礼を告げると、今度は一気にではなくちびちびと飲み始めた。

 

その様に、彼女から話題を出すことは期待できないと確信する。

飲んでいる様子をじろじろと見るわけにもいかず、とりあえず手に持っているボトルに目を向ける。

 

そこにはデカデカと青い文字で『Absolut Vodka』と酒の名前が書かれていた。

確か、スウェーデン発祥のウォッカでストレートだと味はあんまり感じられない酒だ。

そのせいか、人によっては苦いと感じることもあるとかないとか。

 

味がはっきりしているあのウィスキーを好んでいる彼女がこの酒を進んで飲むとは。

 

「岡島、その酒飲みたいの?」

 

「うえッ! な、なんですか!?」

 

「そんなに驚かなくても……。ずっと瓶を見つめてるから飲みたいのかなって」

 

「いやその、えっと……キキョウさんがこの酒を飲んでるの意外だと思いまして」

 

向こうから声をかけられるとは露ほども思っていなかったので変な声を出してしまった。それが妙に恥ずかしくてしどろもどろになりながらの返答になる。

 

ああ、みっともないにも程があるだろう俺。

 

「まあ、確かに普段は飲まないね。でも、ここに来るときはこの酒を飲むって決めてるの」

 

「何か拘りが?」

 

「それなりにはあるよ」

 

キキョウさんは再びグラスに口をつけ酒を喉に通す。

 

 

 

「――この酒はね、ある女の子が好きだった酒なの」

 

 

一口飲み、水平線の向こうを眺めながら彼女が静かに口を開いた。

 

 

「その女の子は街でも割と有名な娼婦だったんだけど、年相応に子供らしいところもあってね。嫌なことがあると不貞腐れたり、新しい服作ってあげると無邪気に喜んでくれたり。同じ酒しか飲まない私を見かねて、よく『これも飲んでみて』ってアブソルート勧められてたなあ」

 

口ぶりから察するに、昔を懐かしんでいるのだろう。

遠くを見つめている横顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。

 

「イエローフラッグでレヴィと鉢合わせては私を挟んで口論して、飲み比べして、同時に潰れて。今思えば、その様子を見るのも一つの楽しみだったんだろうなって思うよ」

 

「その女の子の事、キキョウさんは大事に思ってるんですね」

 

「そう思う? 実はそうでもないんだよ岡島」

 

「え?」

 

「……5年前、ある事がきっかけでその女の子は殺された」

 

唐突に告げられた内容に、一気に空気が変わる。

 

「私と女の子を殺したその男にはちょっとした因縁があってね。男は私に服を作ってもらいたかったらしいんだけど、色々事情があってソイツには作らないって決めてた。それが気に入らなくて、男は麻薬をバラまいて大量殺人を起こした。犯人があの男だって張さん達が気づいたのは女の子がきっかけで、自分の犯行だとバレた原因であるその子を腹いせで殺したの」

 

恐らく、彼女が言っているのはレヴィが言っていた『クソ紳士の暴走』の話だろう。

コーサ・ノストラの幹部が組織を裏切り、キキョウさんを手に入れるため引き起こした事件。

当時はマフィア達による統治が始まったばかりで情勢も落ち着いていなかった。

そんな中で起きた大量殺人のおかげで、情報網やマフィア達の連携がより強固になったと聞いた。

 

「なのに、その男は私にこう言ったの。“あの娼婦は君が頑固な態度を取ったせいで殺されたんだよ”って」

 

「……それは、キキョウさんのせいじゃ」

 

「そう、女の子は男の欲望に巻き込まれて殺されただけ。――でも、殺された要因の一つは私にもある。どんな言い訳を並べようと、それが事実」

 

今までの話からキキョウさんは女の子に対し、少なからず特別な思いがあるというのは読み取れた。

その女の子の死に自分が関わっているなんて受け入れたくない事実のはずなのに、淡々と無表情に話していた。

彼女は今、どういう気持ちで話してくれているのだろうか。

 

「でもね、私は全く後悔してないの。あの男に服を作らなかったこと」

 

「え……?」

 

「私はあの男に服を作るなら死んだ方がマシだと心の底から思ってた。だから、あの子が死ぬと分かっていたとしても同じ行動を取ると思う。……死んだって聞いた時、最初に思ったのは“仕方ない”だったの。誰かに恨まれるような事もしてた女の子が死ぬのはあの街じゃ日常の一つで、嘆いたり涙を流したり、あの子を思って謝罪しても何にもならない。私にできたのは、最期の依頼だったエンディングドレスを仕立てて着せて、静かな海底に沈めることだけ。でも、それだってあの子から依頼がなきゃ絶対しなかったんだよ」

 

キキョウさんはそこまで話すと、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

 

「こんな私があの子を大事に思ってるなんて、お笑い種だよ」

 

彼女の顔には、自嘲したような微笑が浮かんでいた。

その表情に思わず息を飲む。

 

彼女の言い分は、『自分は女の子に対して特別な感情は持っておらず、ただ依頼をこなしただけ。それ以外何もない』。

 

どことなく帯びている緊張に押しつぶされないよう息を吸い込む。

 

 

 

「――なら、なぜ貴女はここでこの酒を飲むんですか?」

 

「……え?」

 

「何も思ってないなら例え依頼だろうとわざわざ弔ったり、遠い海の真ん中に毎年来ることはしないはずです。少なくともあの街にそんなことする人間がいないことくらい、俺にだって分かります」

 

「……」

 

「やっぱり貴女は、とても優しい人間だ。――だからこそ、何故あの街にいるのかが分からない」

 

そう言い放つと、彼女は驚いたのか少し目を見開いた。

間を空けず、自然と手に力が入るのを感じながら言葉を続ける。

 

「ずっと気になってるんです。この前の双子の時……いや初めて会った時からずっと。何故貴女があの街に拘っているのか」

 

彼女に対し感じていた疑問をここぞとばかりにぶつける。

以前、イエローフラッグで日本に帰らないのかと聞いた時、深入りしようとする俺に彼女が言った。

 

『――ただの顔見知りに深入りされるのは好きじゃない』

 

その言葉を思い返しながら、意を決して再び口を開く。

 

 

 

 

「キキョウさん、貴女にとって俺はまだ“ただの顔見知り”でしょうか?」

 

 

 

 

知りたい。彼女がこの街に拘り居続けるその理由を。

 

質問をぶつけられたキキョウさんは、しばらく俺を見続けた後グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。そして少しの間を空け「はあ」とあからさまなため息をつく。

 

「あまり言いたくはないけど、長々とつまらない話に付き合わせちゃったからね。……そのお礼じゃないけど、少しだけ教えてあげる」

 

あの引き込まれそうな黒い瞳がこちらに向けられた。

ずっと気になっていた疑問の答えが、今返ってくる。

そう思うと、期待と緊張で鼓動がうるさくなった。

 

力んでいた拳に更に力が入るのを感じながら静かに彼女の言葉を待つ。

 

「―――私があの街に拘るのは、“あの街だからこそ”理想の自分として生きていけるから」

 

「……あの、街でしか?」

 

「そう。国際的な犯罪者が集まる悪徳の都だからこそ、日本じゃ手に入らなかったものを私は手に入れた。だからあの街にいるんだよ」

 

彼女の人との関わり方や容姿。ましてや一流の洋裁の腕があれば手に入らないものなんて殆どないように思える。

だが彼女は、平和な日本ではなく無頼者なら一度は聞いたことがあるロアナプラで手にできたのだと、今確かにそう言った。

 

「日本で手に入らなかったものって、一体」

 

「教えられるのはここまで。これ以上は言いたくない」

 

「でも」

 

「詮索されるのは嫌い。例え顔見知り以上だとしてもね」

 

「……ッ!」

 

結局、新しい疑問が増えただけだった。知れば知るほど謎が深まるばかり。

それがやるせなくて俯いてしまう。

 

「……岡島、君がなんでそこまで詮索するのか知らないけどさ」

 

意気消沈にも似た雰囲気を纏っているであろう俺を横に、キキョウさんは続けて言葉を投げかけてきた。

徐に目線を上げ、再び黒い瞳を見つめる。

 

「他の人だったら問答無用で殺されてる。今後は気を付けた方がいいよ」

 

詮索屋は嫌われる。それは十分理解している。聞いたって意味がないことも分かってる。

だから普段は他人にここまで深入りしようだなんて思ったことはない。

 

だけど、彼女を前にするとそれら全てが頭から抜ける。

俺がここまで詮索しようとする相手はこの街で彼女だけだ。他の人にはしない。

 

――そう思っていても、本人に伝えるのはどこか気恥ずかしく口には出せない。

 

 

「……忠告、ありがとうございます。これからは、気を付けます」

 

だから、俺が返せるのはこんなありきたりの言葉だけ。

 

キキョウさんは特に何も言わず、俺が持っていたボトルに手を伸ばす。

抗うことなく引き渡すと、彼女は徐に腰を上げる。

 

すると、まだ酒が残っているにも関わらずそのボトルを海へ投げ捨てた。

 

驚いて目を見開いたが少しだけ考えて、海底に眠っている女の子へのおすそ分けなのだろうと勝手に解釈する。

 

「じゃ、そろそろ戻ろうか。話に付き合ってくれてありがとう」

 

「いえ、こちらこそ付き合っていただきありがとうございました」

 

彼女について少しだけでも知れてよかった。それに、顔見知り以上の関係だと認めてもらえた。今はそのことを嬉しく思うだけでいい。

 

そう結論付け、船内へと戻る彼女の後に着いていった。

 

 

 

――街へ着いた後、キキョウさんが急な依頼に応えてくれたお礼として、依頼料とは別にイエローフラッグでラグーン商会全員分の飲み代を奢ると言ってきた。

その言葉に甘え、5人で朝まで飲み続けバオに「とっとと帰れ」と追い出される羽目になるのは数時間後の話。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そりゃ災難だったな。アンタも割と巻き込まれ体質らしい」

 

「本当なんでだろうね。結構地味に暮らしてるつもりなんだけど」

 

「マフィアをパトロンにしながら正真正銘の一級品を拵えてて、尚且つ街でも顔が利くアンタが地味? 面白いジョークだな」

 

ステンドグラスが光り輝く広間の一番奥。いつものようにそこに位置する教壇を挟んで、エダと話をしている。

 

ここに来たのはシスターヨランダに依頼品を届けるためだったのだが、生憎今日は帰ってこないらしい。済ませるべき用事がなくなったことで、暇を持て余しているエダの話し相手として付き合わされている。

エダもこの街では情報通のようで、私が街を騒がせた双子を逃がそうとしたことを知っていた。彼女は実際どうだったのか気になっていたようで、その時の事を根掘り葉掘り質問された。

隠したところで意味はないので自身が体験したありのままを伝えた。

 

私はこの街で特に派手なことをしたことも、目立つようなを事した心当たりはないのだが、エダは私の事を地味だとは思っていないようだ。

周りと私の認識の齟齬があるのは前からなのであまり気にしていない。いや、正確には考えるのを諦めたと言った方が正しいのかもしれないが。

 

「冗談のつもりで言ったわけじゃないよ」

 

「そう不貞腐れるなよ。美人が台無しだぜえ?」

 

「美人じゃないし不貞腐れてない」

 

「相変わらずの謙遜っぷりだなあ。――で、そんなアンタはわざわざ出迎えてくれたパトロン様と何か進展あったのか?」

 

……またか。

毎回そういう質問をしないと気が済まないのかこのシスターは。

ため息が出そうになるのを何とか我慢し、一呼吸空けて口を開く。

 

「エダ、欲求不満なら私じゃなくて男の人を相手にして欲しいんだけど」

 

「つれねえなあ。言っとくけど、アンタと張の旦那の関係が気になってんのはアタシだけじゃねえんだぞ?」

 

「は?」

 

「周りから見てもあの旦那は普段からアンタに特別目をかけてる。マフィアのボスが空いた時間ができる度部屋に呼び出してるなんざ、例え専属の洋裁屋だろうと普通はあり得ねえ話だ」

 

いやいやいや、何を言ってるんだ。

 

「それは勘違いにもほどがあるよ。あの人にとって私はただの洋裁屋であって特別なんてこと」

 

「いんや。どっからどうみてもアンタ達の関係はただの仕事上の付き合いには見えねえんだよ。――この街の人間が、そんな街の支配者とイカれた女の関係が気にならない訳ねえだろ?」

 

なんだろう。話を聞いているだけなのに心なしか頭が痛くなってきた。

確かに私は彼に命と腕を捧げた。だから普通ではないと思われるのもまあ仕方ないだろう。そこは理解できる。

だが、何故私と張さんが体の関係を持っているという考えに至るのかは全く持って理解できない。

 

とうとう我慢することができず、盛大なため息を吐き出す。

 

「はあ……。この際だからはっきり言わせてもらうけど、確かにただの付き合いじゃない自覚はある。だけど、私と彼には一切そういう関係はない。お互い自分の利益の為に今の関係を築いたの。それ以上もそれ以下もない。――それに彼が私をそういう目で見ることは絶対にないよ」

 

「なんでそう言い切れる」

 

「あの人がもし私をそういう目で見てたらとっくにそうなってるはずだから。だけど、現時点でないってことはそういうことだよ」

 

「……分かってないねえ、アンタは」

 

エダは目の前に置かれていたグラスを振り、氷がぶつかる音を奏でた。

酒と氷が揺れる様を眺めながら言葉を続ける。

 

「キキョウ、他の連中は外に一歩でりゃクソ以下だと評価されるような人間ばかり。そんなクソ共と長年銃を使わず渡り合ってきたアンタは、この街の誰よりも他人との距離感ってのに敏感だ。だからこそ、アンタと付き合いのある人間はほぼ全員信頼を寄せている」

 

「……何が言いたいの」

 

「だけど、アンタは全くと言っていいほど自分の事を理解していない」

 

揺らしていたグラスの動きを止め、一口飲むと教壇の上に再び置いた。

サングラスで瞳は隠れているが、こちらを真っすぐ見ているのは感じ取れる。

 

「謙遜ってのは、自分の“本当の価値”ってもんを理解していないからするもんだ。日本人の癖だとは知っているが、それにしてもアンタの謙遜癖は度を越えすぎてる。――だから、女として向けられる好意には絶対気づかない」

 

「……つまり、私が鈍感すぎるから彼がそういう目で見てるってことを理解してない。そう言いたいわけ?」

 

「ご名答」

 

「――エダ。百歩譲って彼が私に好意があったとして、そういう行為に及んだと仮定しよう」

 

彼女の話に鼻で笑いそうになる。

私が鈍感? 違う。

周りの人間が私の全てを知らないからそういう事が言える。

私の事は私が一番理解している。

 

「だけど、彼が抱くことは絶対にない。その理由はただ一つ」

 

「……」

 

「私が女性として男性を満足させてあげることはできない。それが嫌でも分かってしまう。だから、男性が私と体の関係を持とうなんて考えはすぐなくなる。それが変わらない事実」

 

「はあああ……やっぱりアンタは男ってもんを分かってない。分かってなさすぎる」

 

エダは盛大なため息をつき、やれやれと言った感じで眉間を押さえていた。

ため息をつきたいのはこっちの方だ。今度シスターヨランダにここで酒飲んでたこと言いつけてやる。

 

「まあ今のアンタには何言っても無駄だろうけどさ。ひとつだけ確かな事を教えといてやる」

 

残っていたグラスの酒を一気に飲み干し、いつものにやり顔を見せる。

 

「男女の事で“絶対”なんてもんはねえんだぜ。……それこそ、もうじきやってくるかもしれねえぞ? アンタが言い切るその絶対を覆すきっかけが、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――おいどこ行った!」

 

「まだ近くにいるはずだ! 片っ端から探せ!」

 

「超貴重な人質だぞ! これで取り逃がしたら俺達がヤバい!」

 

「やっとここまで来たってのに……! このままじゃ全部パアだぞ!」

 

「クソッ……。なんとしてでも見つけてやる!」

 

街の海沿いに存在する倉庫街。

そこには誰にも使われていない古びた倉庫が存在し、人知れず無断で誰かが使っていることもある。

そんな複数ある無人倉庫の一つに、今日も今日とて誰の許可も借りず勝手に出入りしている男たちがいた。

 

数人の男達は大声を発しながら、大慌てで外に飛び出して行く。

 

 

 

 

 

――その騒ぎを遠くで聞く女が一人。

 

 

 

 

「アンタたちなんかの、出迎えなんて御免よ。……それにしても、ここどこなの……」

 

女は見知らぬ土地に立っている事実にしゃがみこんで震えていたい気持ちだったが、頭を振り胸の内にある不安をなんとか打ち消す。

 

「……劉帆(りゅうほ)さん、絶対貴方の元に帰ります」

 

左手の薬指にある指輪の跡を撫でながら呟いた後、女はその場から足を動かした。

 










この話を書いてるとき「そっか、もういないのか」とちょっと切なくなったり。
私もキキョウさんも、今でもあの子が大好きです。着飾り野郎許すまじ←

あと、頑張れロック。




そして、次からオリジナルのお話になります。
果たして、謎の女性がエダの言う「きっかけ」になるのか。




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21 新たな出会い


今回からオリジナルのお話です。








お昼の13時を過ぎた頃。この前は不在だったため届けられなかった服をシスターヨランダに渡すためリップオフ教会に出向いていた。

いつものように紅茶でもてなされ、少し世間話をした後すぐ腰を上げる。

 

今日は複数の服を届けに行かなければならず、いつもより少しだけ忙しいのだ。

「残念だね」と言葉を投げかけられ苦笑しつつ、また来ると告げその場を後にする。

その時、「エダが広間で酒を飲んでましたけど遂に許されたんですね」と一言残すのも忘れずに。

 

この前意味が分からない話をされたのだ。これくらいの仕返しは許されるだろう。

 

 

 

 

そうして次はチャルクワンストリートの一角にある静かなバーに向かう。

そのバーはリンさんの行きつけでもあり、少しお高めの値段で酒と落ち着いた空間を提供している店だ。私も連れて行ってもらったことが何度かある。

 

新しい従業員が入ったとかでバーテンダーの服装である、白シャツ、黒ベスト、スラックス一式をバーのオーナーに頼まれた。

 

真っすぐ向かえばまだ夕方前なので当然開店してる訳もなく、着いた時はオーナーと新しい従業員さんが遅めの昼食を摂っているところだった。

ゆったり過ごしている時に来てしまい申し訳ないと思ったが、こちらも仕事なので仕方ないと踏ん切りをつけるしかない。服が入っている紙袋を手渡し、金を受け取った時にオーナーから「たまにはウチにも寄ってくれよ。サービスするぞ」と気前がいいことを言われた。その言葉に微笑みを浮かべ、お礼を告げる。

 

そして、またここにも長居する理由はないので次の依頼主の元へ向かう。

 

 

 

 

最後の届け先はイエローフラッグの二階にある娼館、スローピー・スウィングのオーナーのマダム・フローラ。

 

娼館で働いている娼婦の一人が最近売り上げがいいらしく、上機嫌なマダムが褒美として新しい服を頼んできたのだ。着る本人から「スタイルがはっきり見えて綺麗なドレスが欲しい」と要望をされたのもあり、赤を基調とした胸とお尻の豊かさとウエストの細さが強調されるアワーグラスドレスを仕立てた。

 

私なりに要望に応えた服を仕立てたつもりだが、気に入ってくれるかどうかは本人次第。いつも通り依頼人が満足してくれるかどうか不安な心持ちのまま、イエローフラッグまでの道のりを辿る。

 

寄り道せず真っすぐ30分ほど歩けば、夕方に差し掛かる時間から営業している酒場が見えてくる。

 

既に賑わっている雰囲気が伝わってくる店内へ臆することなく入っていった。

 

 

 

 

 

「――ありがとうフローラ! Ms.キキョウが作る服、ずっと前から欲しかったの!」

 

「アナタ最近頑張ってたからご褒美よ。今日はそれ着ていつもよりいい女になった姿見せびらかしてきなさいな」

 

「ええ勿論そうするわ! Ms.キキョウもありがとう! とっても素敵よこのドレス!」

 

「喜んでもらえてよかったです」

 

二階のマダムの自室に案内され、今か今かと待っていた娼婦にドレスを手渡すと笑顔で喜んでくれた。

嬉々とした様子のままドレスに身を包んだ彼女は上機嫌にマダムと私にお礼を言ってきた。

その様に自然と口の端が上がる。

やはり自分が仕立てたものをこうも喜んできてくれるのはとても気分がいい。

 

 

「じゃあ行ってくるわね!」

 

「いってらっしゃい」

 

 

そう言って娼婦はパタパタと少し駆け足で外へ出て行った。

マダムがソファに腰を下ろし、「こっちにいらっしゃい」と私にも腰かけるよう言ってきたので一言断りを入れてからテーブルの向かい側に座る。

 

「流石ねキキョウ。アナタに頼んでよかったわ」

 

「そう言ってもらえて何よりです」

 

「はい、これ今回のお礼」

 

満面の笑みで差し出された封筒を目にし、少し違和感を覚える。

今回依頼されたのはドレス一着だけ。だというのにいつもより分厚いのは気のせいだろうか。

 

「……確認してもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

何はともあれ受け取らないことには確認のしようがないので、一瞬躊躇った後封筒を手に取る。封を開け、中身を見た瞬間思わず目を丸くする。

 

 

なんと封筒の中には、ざっと見ただけでも10万バーツ以上あるのだ。

 

確かに素材とかこだわっているが、ここまで高い値段で仕入れたものじゃない。

だからこの金額は易々と受け取れない。

 

 

「あ、あのマダム。この金額は少し……いえ、大分多いように思えるのですが」

 

「そうでもないわよ。アナタの腕はもっと高くつくはずなんだから、むしろ安いくらい」

 

「いやいや」

 

いくらなんでも多すぎだろう。

 

「アナタにはいつもお世話になってるし。それにあの子もとっても喜んでた。だからこれくらいは出させてちょうだい」

 

「ですが」

 

「キキョウ、人の厚意は素直に受け取った方がいいわよ?」

 

にっこり、と効果音が付きそうな微笑みを浮かべられ顔が引き攣る。

彼女がこういう顔をする時は大体頑として譲らない時だ。過去に何回も色々意見を言ってきたが、彼女の意思を曲げられた例が一回もない。

 

私の諦めにも似た空気を感じ取ったのか、マダムは表情を変えず柔らかい口調で言葉を続ける。

 

「受け取ってくれるわね」

 

「……分かりました。でも、今度からは見合った金額しか受け取りませんからね」

 

「なら、次はもっと多く用意しなくちゃね」

 

「マダム」

 

「ウフフッ」

 

彼女の言葉は冗談なのか本気なのか。どちらにせよ勘弁してもらいたいものだ。

 

「キキョウ、アナタ今日も下で飲むのかしら?」

 

「そのつもりですが」

 

「できればアタシも一緒に飲みたかったんだけど、この後用事がね。代わりと言っちゃなんだけど、今夜の飲み代はアタシが出すわ。バオにはそう伝えとくから」

 

「マダム、流石にそこまでは」

 

「いいからいいから。じゃ、アタシはそろそろ出るわ。また頼むと思うからその時はよろしくネ」

 

「ちょ、ちょっとマダム……!」

 

マダムは口早にそう言うと、私を置いて部屋の外に出て行ってしまった。

そういう気分だったのかもしれないが、にしても今日は少し強引すぎる。

だがそれを咎める相手はいないので、一つため息をつきポケットに封筒をしまう。

腰を上げ、そのまま広々とした部屋を後にした。

 

 

廊下をまっすぐ進み、下へとつながる階段を降りれば見慣れた光景が目に入る。

 

 

ロアナプラでも特に悪党が集うこの酒場は、毎日のように喧騒が鳴り響く。

今日も今日とて酒を浴びせ、殴り怒鳴り合う騒がしさが店内を包んでいた。

すっかり常連となったこの店内の雰囲気に、今では居心地の良さも感じている。

他の空いている席には目もくれず、真っ先に空いてるカウンターへと腰かけグラスを拭いている店主に声をかける。

 

「バオさん、今日も賑わっているようでよかったです」

 

「ようキキョウ、おかげさんでな」

 

バオさんはそう言いながら氷の入ったグラスとジャックダニエルを出してくれる。

いつもの流れに身を任せ、ボトルを開け酒を注いでいく。

 

「今日はフローラの奢りなんだろ? なら勿体ぶらずにたらふく飲んどけよ」

 

「……奢られる気は全くないんですけど」

 

「金も受け取ってる。足りない分はアイツに請求するよう言われてるから安心しろ」

 

「お金の心配じゃなくて、これ以上甘えるわけにはいかないって話なんです」

 

「いいから黙って飲んどけ。じゃねえとめんどくせえ不貞腐れ方をしやがるぞアイツ」

 

彼女のそのめんどくさい不貞腐れを味わったことがあるのか、バオさんは少しうんざりといった表情をしていた。

その顔に苦笑しつつ、氷で冷えた酒に口をつけ喉に通す。

 

 

依頼をこなし、少し多めの報酬をもらい、仕事終わりの一杯を楽しむ。

 

これが私の日常だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――はあ……はあ……」

 

一体どれだけ走っただろうか。

高い建物が聳え立つ街の中心に行こうとすると、遭遇したくない男たちが行く先々にいて街の端へ端へと追い詰められる。

地名も、地理も分からない見知らぬ土地で数時間も逃げきれているのは運がいい方だろう。

 

 

だが、その運が尽きる前に自身の体力が限界を迎えそうだった。

 

 

「はあ……ダメ、まだ止まっちゃ……」

 

 

呼吸が乱れ上手く息が吸えず整えることもできない。尚且つ足まで震えてきている。

それでもここで立ち止まるわけにはいかなかった。

 

 

 

――なんとしてでも“あの人”の元へ帰る。

 

 

 

その揺るぎない決意を胸に、重くなった足を一歩、また一歩と踏みしめる。

月が高く昇り、街灯も照らされていない真っ暗な道を訳も分からず進んでいく。

視界が揺らいでいる上に暗闇の中とあっては、普通であれば気づくであろう障害物にぶつかってしまう。

 

「うッ……!」

 

地面に吸い寄せられるように体が打ち付けられる。

なんとか立ち上がろうとするものの、体に力が入らない。

 

「ダメ……早く、動かないと……」

 

とっくに乾ききった喉で発せられるか細い声で呟きながら力を入れる。

だが無情にも指一本でさえ動かせなかった。

 

「劉帆、さん……」

 

ある人物の名を発すると自然と涙が零れ落ち、その視線は左手の薬指に注がれていた。

 

とうとう体力の限界を迎え、瞼が重くなっていく――

 

 

 

 

 

 

 

「――こんなところで何してるんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

唐突に上から降ってきた声に、閉じかけていた瞼が一気に開く。

 

「生きてますか? 生きてるなら何か反応ください」

 

優しくかけられる言葉に、何とか最後の力を振り絞る。

 

一体どういう人物なのか皆目見当もつかない。

だが、自身の本能が全身全霊をもって告げていた。

 

 

 

 

“何もしなければ今度こそ終わる”と。

 

 

 

歯を食いしばり、霞む視界の中腕を伸ばし必死に誰かの一部を掴む。

 

 

 

助けて……私には……帰らないといけない、場所……が……

 

 

 

それだけ発し、とうとう掴む力も気力も尽きついに意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――どうしてこうなったのか。

 

あの後イエローフラッグで長い時間飲んで、月もすっかり高くなった頃に家路についた。

 

何事もなく依頼をこなしゆっくりとお気に入りの酒が飲めたことで上機嫌だった私は、いつもより軽い足取りで家に向かっていた。

 

街灯もなく、月明かりだけが照らされている道を突き進み家の近くまで辿り着く。

 

 

上機嫌なまま中に入ろうとしたのだが、あと数歩という距離でそれが目に入った。

 

 

 

家の前で人が倒れ、何か呟いている。

 

 

こんな真夜中にあんな客人は御免だと、すぐには近づかずしばらく様子を窺った。

するとその人物を月明かりがスポットライトのように照らし、今度こそはっきりと見えてくる。

 

その人は、長い黒髪で白いワンピースを着た女性。

よく見ると服はボロボロで裸足という酷い格好をしている。

女性は最後に一言何か呟いた後、とうとう意識を手放したのか身動き一つ取らなくなった。

 

 

 

私は医者ではないし人をほいほいと拾う趣味も持ち合わせてない。だからここで死なれるのは非常に遠慮願いたい。

 

そういえば、レヴィと初めて会った時もこんな感じだった。

女性の姿を見てふと思い出し「懐かしいなあ」と少し口の端が上がったが、すぐ思考を切り替え真っすぐ女性の前に行きしゃがみ込む。

 

 

そして、反応を見ようと上から言葉を投げかけた。

 

 

やはり一、二回では反応があるはずもなく、今度は体に触れ起こそうと手を伸ばす。

指先が当たる寸前、突然勢いよく女性がズボンの裾を掴んできた。

茶色の瞳は涙で濡れている上に、意識が朦朧としているのか焦点が定まっていない。

 

そんな状態でも弱々しい力で掴み続け何か言葉を発してきた。

 

 

助けて。私には、帰らないといけない場所が……

 

そう言って体力が尽きたのか意識と共に掴んでいた手を離した。

 

 

聞き取るのもやっとなか細い声で中国語を話した。

途切れ途切れに告げられた数少ない言葉から察するに、恐らく街の外からやってきたのだろう。

いや、やってきたというより連れてこられたと言った方が正しいのかもしれない。

それに、この街の人間であれば安易に人に助けを求めるような真似はしないはずだ。

 

 

 

――さて、これからどうするべきか。

 

 

 

すぐさま思考を巡らす。

もし、このまま放っておいて死んだとしよう。私の性格上、玄関前で人が死んでいる中仕事に集中できるわけもない。

 

それに道端で倒れている状態で発したのが中国語というのが気にかかる。この街で中国語を主に使う人間は大体三合会の関係者だ。保護するのは私の役割ではないが、もし彼女が何らかの関りがあった場合「なんでお前の家の前で死んでるんだ」とまためんどくさいことになりかねない。

 

 

 

深いため息をつき、とりあえず家のドアを開ける。

 

そして、ぴくりとも動かない女性を引き摺りながら家の中へ運ぶ。少々不格好な運び方だが本人は気絶しているのだ。文句は出てこないし、出たとしても受け付けない。

そのまま奥の自室のベッドになんとか寝転がし、ボウルに水を溜め濡らしたタオルで汚れた箇所を拭いていく。

 

 

その時、手首に何かで縛られてたような痕が目に入った。

よく見ると、両足首にも同じような痕がある。

 

ボロボロの衣服、縛られていたような痕、そして「助けて」という言葉。

これはほぼ無理やり連れてこられたのは確実だろう。

 

 

 

ひとまず汚れた箇所を全部拭き取り、改めて女性の顔を見る。

 

――小顔で、鼻筋はすっと綺麗に通り、睫毛も長く、よく手入れされていたであろう艶のある黒髪。恐らく中国人なのだろうが、それにしては肌が白い。

 

今はストレスからなのかやつれていて少し頬がこけてはいるが、ちゃんと整えて健康的になればとっても綺麗で可愛らしい女性になることは安易に想像できた。

 

見た目だけで言えば純粋無垢という言葉が似合うこの女性が、一体何故この街に連れてこられたのかは分からない。

 

だが、私にとって重要なのは連れてこられた経緯ではなくどう彼女を扱えばいいかだ。

なるだけ早く三合会の関係者に相談したほうがいいのだろうが、連絡するにはあまりにも迷惑な時間帯。

 

 

目の前でスースーと寝息を立てている女性にそっと布をかける。

その様に「よく眠れるな」と感心を覚え、とりあえず今日の分の疲れを流そうと浴室へと向かう。

 

 

 

明日は忙しくなりそうだと、本日何回目かのため息が零れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

「――失礼します、大哥」

 

「街を這いずり回ってた鼠どもが吐いたか?」

 

「ええ。それについて至急耳に入れたいことが」

 

「聞かせろ」

 

街を見下ろす様に高く聳え立つ熱河電影公司ビル最上階の社長室。張維新は月明かりに包まれている街をガラス越しに眺め紫煙を燻らせる。

彼の腹心の一人である彪如苑は、その上司の背中に近づき“鼠ども”について報告を始める。

 

 

 

――数時間前、複数の男が三合会の縄張りで妙な騒ぎを起こしていた。

男達は中国語で書かれている看板の店を片っ端から尋ね、一つの言葉を投げかける。

『この辺りで茶色の瞳に長い黒髪を持った華奢な女を見なかったか』

中国語で発せられた質問に当然すんなりと街の住民が答えることもなく、門前払いしかされなかった。それにキレた男達は気が済むまで暴力を振るい、また次の店へと出て行く。

 

何十店目かが被害を受けたことで、その騒ぎがとうとう張の耳にまで届いたのだ。

訳も分からずドブネズミのように荒らされる真似を長たる彼が見過ごすわけもなく、直属の部下を動員し事を収めるまでとなった。

 

「狙いの女については?」

 

「あの、それが……実はその女が割とまずい人物でして」

 

「あ?」

 

「信じ難いですが、何でもあいつら――」

 

 

 

彪から発せられた内容に張は片眉をあげた。

そして、煙を静かに吐き出し神妙な面持ちへと変わる。

 

「確度は」

 

「特徴に当てはまる目撃情報が多数。しかし、今どこにいるのかまでは」

 

「それだけじゃ俺達が大々的に動くには足りん。それにその女性が“今、この時期”にこの街にいることは到底あり得ない話であると俺は考える。――が、その話が本当だった場合、可及的速やかに解決せにゃならん大問題だ」

 

「では」

 

「ああ、早急に事の大きさを把握する必要がある」

 

 

彪が懐から携帯を取り出し張の手へと渡される。

吸い殻を灰皿に押し付け、肺に残った煙をすべて吐き出す。

 

 

電話のコール音が何回か鳴り響いた後、張は徐に口を開いた。

 

 

 








さて、始まりました。
久々のオリジナルストーリーとなります。

日本編の前に、「張さんとキキョウさんの関係このままでいいのか? うーん」という悩み(?)から生まれたこのお話。

内容としては、キキョウさんの洋裁屋としての本領発揮や、張さんのキキョウさんに対する思いなどを書いていこうと思っています。

長くなるかもしれませんが、お付き合いいただければ嬉しいです。




P.S.
ご感想、いつもありがとうございます。
私としては、ここまでたくさんの方に読んでいただいていることにとても驚きと嬉しさを感じています。

少ないお礼の気持ちとして、これからはいただいた感想についてできる限り返信を行おうと思っております。


これからも、ぜひよろしくお願いいたします!


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22 迷い込んだ華の名





オリジナルストーリー二話目。
少し長めです。




――翌日、早朝。

起きた時に昨日のは夢だったのだろうかと一瞬思ったが、ベッドの上で寝ている名も知らない女性を見てそれは崩れ去った。

 

このまま放っておくのもよくないので、そろそろいいだろうとある人物に電話をかけた。

数回コール音が鳴った後、ようやく電話に出た相手はすごく眠そうな声を発していて申し訳ないと思った。が、引くわけにはいかないので遠慮せず用事の内容を伝え、今はその人物がここへ来るのを待っている最中だ。

 

ふと、相も変わらず静かな寝息を立てている女性の顔を見る。特に苦し気な表情を見せることなく、穏やかな眠りについている。

こうして見ると本当に純粋無垢と言うにふさわしい整った容姿だ。だからこそ、こんな女性がこの街に何故連れてこられたのか不思議でならない。

女性に対し改めて強い疑問を感じたところで、表のドアから音が響く。

 

 

 

「――キキョウちゃん」

 

 

 

すぐさまノック音と共に飛んできた聞きなれた声の方へ向かい、待ちに待った人物を迎え入れようとドアを開ける。

目の前に現れたのは片手に大きめのバッグを持ち、黒く長い髪を下ろし白衣に身を包んだ女性。

 

「遅くなってごめんね。色々準備してたもんだから」

 

「むしろ謝るのはこちらの方ですよ。こんな早い時間にすみません。――早速ですがお願いできますか?」

 

「勿論よ」

 

「ではこちらに」

 

そう、私が呼んだのは医師として腕の立つリンさんだ。

眠そうなリンさんに「美少女が家の前で倒れてたので診てください」とお願いすれば、彼女は「すぐに行く」と闇医者ビアンの呼び名にふさわしい反応をしてくれた。

リンさんは三合会の関係者である上に、こういう状態にある人間を任せるのに一番信頼できる。だからこその人選だ。

 

医術のスペシャリストである彼女を奥で眠っている女性の元まで案内する。

リンさんは寝ている女性を目に捉え、躊躇うことなく触れていく。

 

 

「呼吸は乱れてない。脈も正常。……こうなる前に何か痛がってた様子はあった?」

 

「いえ、特に。一言言い残して突然意識を失ったんです」

 

「なるほどなるほど」

 

慣れた手つきで体のあちこちに触れていく。やがて腕に注射を打ち込み始めたが、それでも全く起きる様子を見せない。

やがて彼女の診察が終わったのか、リンさんは微笑みを浮かべこちらに振り向いた。

 

「特に命に関わるような外傷もないから安心していいわ。意識を失ったのは極度の疲労のせいだと思うから、このまま自然と起きるまで寝かせてあげるべきね」

 

「そうですか。……あの、リンさんはこの女性について心当たりとかあったりは?」

 

「え、ないわよ。会ってたら忘れるわけがないもの、こんな可愛い子」

 

「……そうですか」

 

 

まあ、最初の反応でそうだろうとは思った。

だが一応聞いておく必要があると思い淡い期待を込めて尋ねたのだが、やはり知らなかったか。

 

 

「どうしたの急に」

 

「……彼女、倒れる前にこう言ったんです。“助けて、私には帰る場所が”って」

 

「……」

 

「既にお察しかもしれませんが、彼女はどこかから無理やり連れてこられた可能性が高いです」

 

「まあ、両手足の跡とこのナリ。おまけにそんな言葉まで吐いたとあったら確実にそうでしょうね」

 

リンさんはちら、と女性の方へ目を向けた。

 

だが、すぐにこちらに目線を戻し口の端を上げ言葉を続ける。

 

 

「でも、キキョウちゃんのことだから“帰してあげよう”なんてお節介な考えはこれっぽちもないんでしょ?」

 

「流石、よくご存じで」

 

「そんなアナタがこの子の何に引っかかってるの?」

 

「彼女、“中国語”であの言葉を残したんです。意識を失う寸前という状態なのに、英語ではなくその言語を使ったのは慣れ親しんだものだからでしょう。……この街で中国語を扱うのはあなた方くらいだと認識してます」

 

 

 

リンさんの表情が真剣なものへと変わる。彼女なら私の言葉の意味が分かるだろう。

 

 

 

「――なるほど。もしこの子が三合会の何かに関りがあるとしたら、黙って世話するのもほっぽり出すのも後々面倒になるわね。キキョウちゃんが気にかけるのも納得だわ」

 

「ええ。しかし、貴女が知らないとなると関りはないということでしょうか。偶然東洋からこの街に」

 

「アタシには組織の情報が全部回ってくるわけじゃないから何とも言えない。だけど、わざとこの街にっていう可能性もある。その可能性が捨てきれない以上、この子を放っておくのはデメリットの方が大きい。なんてったって、中国系の商いはほぼ三合会が握ってるからね」

 

真剣な表情のまま自身の考えを口にした後、何やら考え込み始める。

しばらく沈黙が流れたが、考えが纏まったようで徐に口を開いた。

 

「普通に考えれば、拉致られて売られそうになったところを逃げ出したっていう線が濃厚。だけど、アタシたちの予想の範疇外の何かがあることもある。懸念はないに越したことはないから、今日彪あたりに聞いてみるわ」

 

「よろしくお願いします。忙しいのにお手数をおかけしますが」

 

「こうして診察したアタシも無関係じゃいられないからね。それに、キキョウちゃんが困ってるなら放っておけないし」

 

「ありがとうございます」

 

彼女がいつもの笑顔を浮かべ、ありがたいことを言ってくれた。

それが本心かは分からないが素直にお礼を述べ、つられて自身の口の端があるのを感じる。

 

「じゃあ、アタシはそろそろ行くわ。何かわかったら連絡する」

 

「分かりました。こちらも何かあればすぐ知らせます」

 

そう言って白衣の裾を翻し、表のドアへと向かっていく。

早朝の急な呼び出しに応えてくれた彼女を見送ろうと後を着いていき、ドアを開ける。

 

「じゃあまたねキキョウちゃん。お代は落ち着いた時に貰うわね」

 

「その時はちゃんとした金額を出させてくださいね」

 

「相変わらず真面目さんねえ。ま、一応考えとくわ」

 

片手を軽く掲げひらひらさせながら、彼女は朝日に照らされ始めたばかりの外へ出て行った。

中へ戻り、診察の時から目を開ける様子が一向にない女性を一瞥する。

はたして彼女は今日目覚めるのだろうか。いや、目覚めてくれなければ困る。

だが無理には起こさない方がいいとリンさんにも言われたので、そんなことはしない。

 

私にできるのは、一刻も早く彼女が意識を取り戻すのを願う事だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――まさか、本当にそんなことが。正直、貴方に聞かされた今でも信じられません」

 

『全く胸糞悪い話だがすべて事実だ。事を起こしやがったのも許せんが……なにより、虫けら共がそのクソに塗れた手で彼女に触れやがった事は万死に値する』

 

キキョウとリンが謎の女性について話を始める数時間前。

張は携帯越しにある人物を言葉を交わしていた。

その表情と声音は、普段の飄々としているものからは明らかにかけ離れている。

彼がそうなる原因の一つには、電話の向こう側にいる相手の不機嫌さが手に取るように分かる事にもあった。

 

 

『張、彼女の所在は今も掴めてないんだな?』

 

「ええ。その虫共が言うには、逃げられたと」

 

『彼女がこの状況でじっとしてる訳がない。何が何でも俺の元に帰ろうとするに決まってる。ウジ虫如きに抑えられるなんざ無理な話だ。まあ、その気概は嬉しいんだが……お前のいるその街でその行動は些か、いや大分まずいな』

 

「ええ、なんせここは“ロアナプラ”ですから。しかし、失礼な話ではありますが遺体となっているなら既に見つけております。見つかっていないということは、どこかで必ず生きていらっしゃるはずです」

 

悪党どもが集う悪徳の都ではそこら辺で歩いている女や子供まで悪に染まる。

そんな街の噂は、ギャングであれば一度は耳にしたことがあるほど世界中に轟いているのだ。

 

 

張と話をしている男もその噂を知っている一人。

 

 

『香港にいる俺にできるのは、現地のお前に頼るしかねえってことか。――すまんが、お前にこっちの尻拭いをさせることになる』

 

「総力を挙げて必ずお探しいたします。貴方がたの晴れ姿を、これ以上先延ばして披露するのはあんまりでしょう」

 

『その気遣い有難く受け取ろう』

 

 

海の向こう側にいる男はそう返答した後、小さく『……はあ』と一つ息を吐いた。

 

 

『こんなに虫の居所が悪いのは久しぶりだ。おかげで控えていた煙草が止まらん』

 

「心中お察しいたします。ですが、こちらに足を運ぶのはもう少々お待ちを。

 

――お迎えに上がるまでの辛抱ですよ、香主(シャンジュ)

 

 

 

 

 

張の言葉に香港三合会香主、(テイ) 劉帆(リュウホ)は『ああ、分かっている』と不機嫌さを隠すことなく呟いた。

 

 

 

 

 

『彼女は俺が迎えに行く。見つけたら俺が来るまで預かっといてくれ』

 

「勿論です。貴方の出迎えなしでは不貞腐れるのが目に見えておりますから」

 

『はは、違いない』

 

気休め程度の冗談に両者は少しだけ口端を上げた。

だが、いつまでも冗談を楽しんでいる訳にもいかず、張はすぐさま言葉を切り出す。

 

「香主、この件について龍頭(ロンタァウ)はなんと?」

 

『“愚者には龍が直々に手を下す”と。……俺と龍頭は、事を起こした張本人はこちらのテリトリーにいる人間だと考えている。でなけりゃ、こんな簡単に遥々海の向こうまで運べるわけがない。己の手の届く範囲なら、龍頭も動かずにはいられないんだろう』

 

香主よりもさらに上。三合会総主、(ツゥン) 戴龍(ダイロン)の言葉を聞き目を見開く。

黒社会の中でも大組織である自分たちの首領が自ら動く。

事態が事態なので予想しなかったわけではないが、それでも驚きを隠せなかった。

だがそれ以上に、トップの二人が動いているという事実がとてつもない頼もしさを感じさせた。

 

 

この二人が動くのであれば、離れた土地にいる人間が余計な手出しをするべきでない。

 

 

「承知いたしました。では馬鹿どもの制裁は貴方がたにお任せし、我々は我々の役目を全ういたします」

 

『ああ。……はは、あの時の龍頭の姿をお前にも見せたかったぞ。笑みを浮かべているというのに、握っている杖からはミシミシと音が聞こえてた。我らが()は相変わらずおっかない』

 

「全く仰る通りで」

 

そう言いながら、張は「想像するだけで背筋が凍りそうだ」と内心で呟いた。

 

 

『――張』

 

 

唐突に、だが静かに己の名が呼ばれる。

たったそれだけだというのに、一瞬にして再び緊張感を帯びざるを得なかった。

香主は一呼吸間を空け、静かな声音のまま言葉を続ける。

 

 

 

 

『俺はお前を信頼しているぞ』

 

 

 

 

自身よりも上の地位にいる人間からの“信頼している”という言葉。

短い一言に込められたその意味を、張は正確に理解し然るべき返答を発する。

 

「必ずや、その信頼に応えた結果を貴方に」

 

『一刻も早い報せを期待している。では、再見』

 

 

相手が通話を切ったことを確認し、後ろで一部始終を聞いていた彪に携帯を返す。

受け取りながら、彪は確認するように声をかけた。

 

 

「すぐに動きますか、大哥」

 

「ああ、だがいつも以上に慎重にな。でなければここの連中は彼女に何をしでかすか分からんぞ」

 

「しかし、わざわざ香港からこっちに運んできたとは。一体何が目的で」

 

「まあ、こんな事をしでかす虫けらが考えることは決まってつまらないもんだ。

……何にせよいい迷惑だ。俺にとっても、香主にとってもな」

 

煙草を取り出し口に咥えれば、慣れた手つきで彪が火を点ける。

煙を吐き出し、張は思考を巡らせた。

 

事を起こした犯人がどんな目的を持っているかはこの際どうでもいいことだ。

むしろ問題なのは、香港から連れ出した彼女の安否にある。

 

 

信頼に応えると告げた以上、“彼女を五体満足で香主の元に帰す”という最良の結果を届けなければならない。

この街で数時間も見つからない状況は非常に好ましくないが、やれるだけやるしかないのだ。

 

 

「しかし、香主のことだ。彼女の周りには相当な手練れを付けてたはずなんだが……相手はそれを掻い潜ってここまで来た、ということか」

 

「こっちでも探りをいれますか?」

 

「いや、そっちは本国が対応する。ひとまず俺達は俺達の役目をこなすことだけ考えてりゃいい」

 

一気に煙を吸い、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。

 

「こりゃ、久々に骨が折れる大仕事だな」

 

ガラス越しに街のネオンの光を眺め、肺にある煙をすべて吐き出し低い声で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

リンさんが出て行ってから数時間が経った。

もうすでに陽が高く昇ったというのに、目覚める気配が全くない。

だが無理に起こすことはせず、いつものように端切れに刺繍を入れていく。

 

今日は真っ赤な牡丹の花。

豪華絢爛さが表れている柄によく見かけるものだ。

私自身すごく派手な物が好きとかではないのだが、ふと頭をよぎったのがこの花だった。

 

派手と言えば、この前レヴィが「張の旦那の銃、今度ちゃんと見てみろよ。ドラゴンが彫ってあるんだぜ」と酔いながら言っていた。

そんな派手な銃を持っていることをあまり本気で信じてはいない。だがもし本当に彫られているのなら、彼のセンスはまるで中学……。

 

 

これ以上言うのはやめておこう。好みのセンスは人それぞれだ、うん。

 

 

 

そんな事を考え一息つこうと手を止める。ふと時計を見やると、既に11時を過ぎようとしている頃だった。

少し早いが、手を止めた丁度いいタイミングなので昼食を摂ろうと腰を上げる。

 

自室に入り、適当にサンドウィッチを作ろうと冷蔵庫を開けた。

 

 

「……ん……」

 

 

瞬間、隣から自分以外の声が聞こえた。

勢いよく声のした方を向くと、今まで身じろぎ一つもしなかった女性が少しだが明らかに反応を示していた。

すぐさまベッドの傍に椅子を置き、彼女が完全に目を開けるまで待つことにした。

 

 

 

――そうして待つこと10分。やがて女性の目がゆっくりと開かれる。

 

 

 

「起きましたか。私の声が聞こえますか?」

 

「あ……」

 

私の声に反応し女性の目がこちらに向いた。だが、まだ少々不安なので同じ問いかけをする。

 

「私の声が聞こえますか?」

 

「……」

 

今度は声をかけても何も反応しなかった。

目ははっきり開いているし、昨日のように焦点が定まっていない様子もなく目線もこちらをしっかり捉えている。

なのになぜ反応を示さないのか。

 

考えられる可能性としては、こう見えても意識がまだはっきりしていないのか或いは……。

短い時間で思考を巡らし、物は試しだと再び口を開く。

 

能听到我的声音吗?(私の声が聞こえますか?)

 

もし英語が分からないのなら、中国語ならどうだろうか。

まだ完全に喋れるわけではないが、ちゃんと伝わるはずだ。

 

 

女性は驚いたのか微かに目を見開き、やがて徐に口を動かす。

 

 

「……聞こえ、ます」

 

「よかった。起き上がれそうですか?」

 

「……ええ」

 

色々と困惑している様ではあるが、ひとまず体を動かせるくらいには回復したようだ。

声を聞く限り喉が渇いているようで掠れていた。もそもそと動き始める彼女を横目に、水分を摂ってもらおうとコップに水を注いでいく。

相手が何者だろうと、これくらいの事は許されるだろう。

 

「飲めますか?」

 

「……ありがとう、ございます」

 

上半身を起き上がらせた女性にコップを差し出せば、彼女は恐る恐るといった様子で受け取った。

 

「それ、ちゃんと飲んでくださいね」

 

受け取ったまま口をつけようとしない彼女に一言言い残し、リンさんに連絡を取ろうと作業場に戻る。

台の上にある携帯を手に取り、真っ先にリンさんの番号へかければ2コールもしない内に出てくれた。

 

『はい、こちら闇医者ビアンことリンさんのお電話です』

 

「……リンさん。いつから自分でそう名乗るようになったんですか」

 

『あら、キキョウちゃん。さっきぶり。どうしたの? もしかしてあの女の子に何か?』

 

「ええ、女性が先程目覚めました。なので連絡しておこうと思って」

 

『そうなのね、よかった。ならすぐそっちに行きたいんだけど……ああ、もう。なんでこのタイミングなのかしら』

 

 

どこか苛立ったように呟いている。

 

この言い草だと、よほど何か重要な仕事が入ったのだろうか。

 

「リンさん、もしかして今お忙しいんですか?」

 

『忙しいっていうか……なんでか知らないけど、ついさっき大哥に呼ばれちゃってね。今からビルに向かうとこだったの』

 

「そうでしたか。なら、終わってからでもいいので来てくださると」

 

『勿論よ。行くついでに大哥にもその子の事聞いとく。とりあえず、アタシが来るまで水以外何も与えちゃダメよ。お腹空いて愚図るようだったら“医者が来るまで待ちなさい”って言い聞かせなさい』

 

「分かりました。ではよろしくお願いします」

 

『ええ。じゃあまた後で』

 

リンさんは忙しなく駆け足で会話を終わらせると、すぐに電話を切った。

やはり雇い主である彼に呼ばれたとなればゆっくりしている暇はないのだろう。

通話が切れた音を止め、携帯を片手に持ったまま自室へ戻る。

 

どこかぼうっとしている女性は戻ってきた私の姿を捉え、茶色の瞳をこちらに向ける。

ふと、彼女の手にあるコップの中身が既に空になっていた事に気づく。

 

「水、ちゃんと飲んだんですね。よかった」

 

「あ、あの……」

 

彼女は戸惑ったような表情を浮かべ不安そうに口を開いたが、続きの言葉が出ることはなかった。

この様子だと、聞きたいことが山ほどあるのだろう。だが何から聞けばいいのか分からず混乱しているのかもしれない。

 

このまま無言の状態を続けてもいいが、こちらも確認しなければいけないことがある。

再びベッドの傍に置いてある椅子に腰かけ、未だ沈黙している女性にこちらから声をかける。

 

「貴女が何を聞きたいのか何となく分かっています。ですがその状態では質問はいつまでも出ないでしょう。なので、先にこちらの質問に答えてください。いいですね?」

 

「……はい」

 

混乱している状態でも分かるようできるだけゆっくりと話す。そのおかげか、彼女は少しだけ落ち着きを取り戻したように見えた。

こちらからの質問が終わる頃には、きっと今より冷静になっているはずだ。

 

 

その時にでも彼女からの問いに答えればいい。

 

 

「では、まず一つ目。昨日貴女が意識を失う前、私に言った言葉を覚えていますか?」

 

「……はっきり覚えているのは倒れて、誰かに声をかけられたところまで、です。そこからは曖昧で」

 

まあ、意識を失う寸前だったのだ。曖昧だったとしても仕方がない。

ということは、彼女は私に助けを求めたということを知らない状態。

話をできるだけスムーズに進めるためにも状況を説明してあげよう。彼女が持っているであろう疑問も少しは晴らされるはずだ。

 

「そうですか。……私は、貴女が家の前で倒れていたので声をかけました。その時貴女は助けを求めたんです。“帰る場所がある”と」

 

「……」

 

「そこで二つ目の質問です。貴女はその帰る場所からこの街に無理やり連れてこられた。そういう認識でいいですか?」

 

「……はい。外を歩いていたところに、知らない男達に急に囲まれて……それで」

 

「あ、そこら辺の詳しい説明は大丈夫です。連れてこられた、ということが分かれば十分なので」

 

説明されても特に意味はない。それに、普通の女性からしたらあまり思い出したくないだろう。

 

彼女が普通なのかは知らないが、必要のない情報まで喋らせる必要はどこにもない。

なので、次の疑問をぶつけようと言葉を続ける。

 

「それで、貴女はどこに帰ろうとしてるんですか?」

 

「……香港、です」

 

一呼吸間を空けて告げられたその場所に驚きを隠せなかった。

 

 

――確かに中華圏から来たということは予想していたが、まさかの香港。

 

 

香港は彼らの本拠地だ。そこから連れ出された美女となると、三合会と繋がっている可能性が各段に跳ね上がる。

ここからは更に慎重に話を進める必要がありそうだ。

 

「貴女はこの街について何か知っていますか?」

 

「何も。ですが街を見る限りタイなのかな、と。タイ語らしき看板が多かったので」

 

「では、この街の名前もご存じないと」

 

「はい」

 

彼女の予想は見事に的中している。逃げながらもここがどこなのか自分なりに把握しようとしたのだろう。逃げてきたことといい、見た目に反して割と行動力がある女性らしい。

そんな彼女の不安そうに揺れている瞳を見つめ再び口を開く。

 

「貴女の考えている通りここはタイのはずれの港町です。街の名前は、ロアナプラ」

 

「……ロアナプラ?」

 

「小さな街ですから知らないのも当然です。ですが住み心地はいいですよ」

 

まあ、そう思うまでには少々時間が必要なのだが。

 

この情報は彼女を更に不安にさせるだけなので今はあえて伏せておく。

街の名前を聞いて、彼女は何か考え込むように黙ってしまった。一体何を考えているのか知らないがまだ最大の疑問が残っている。今はそれを解消しなければならない。

 

「続いての質問です。……貴女は一体何をしでかしてこの街に連れ出される羽目に?」

 

これは割と核心をつく質問だ。返答によっては、これで彼女が関りがあるかどうか見極められるはず。正直彼女自身が何かしでかしたというのは想像できないが、人は見かけによらず……ということを何度も実感している。

 

素直に答えてくれるかは分からないが、聞かないよりはマシだ。

 

「……私自身が何かしたとか、そういうのはありません」

 

「では連れ去られる心当たりはない、と」

 

「……」

 

今までなんとか私の質問に答えてくれたのが、今度は何も反応してくれなかった。

 

顔を逸らし、瞳が微かに揺れている。

その様は、どこか答えるのを躊躇っているようにも見える。

 

 

ないならないとはっきりそう言えばいい。だが、そうしないということは彼女の中で少なからず心当たりがあるということだ。

無理に聞き出すのはあまりしたくないが、このまま何も分からず預かっているわけにもいかない。

 

どうしたものかと思考を巡らせていると、女性が「……あの」と恐る恐る声をかけてきた。

 

「ここって“ロアナプラ”なんですよね?」

 

「……ええ、そうですけど」

 

再確認と言わんばかりに聞かれた質問に一呼吸間を空けて答える。

すると何を思ったのか、彼女は意を決したようにこちらを見据え口を開く。

 

「ここに、三ご……熱河電影公司という会社はありますか?」

 

「……」

 

思わず耳を疑った。なぜ彼女からその会社の名前が出るのか。

唐突の質問に驚きで反応が遅れたが黙っているわけにもいかないので、落ち着いてから話をしようと深く息を吸う。

 

「……ありますよ。いくつか建っている高層ビルの一つが本社ビルです」

 

「やっぱり……あの、どうかそこに案内」

 

「残念ですが、このまま案内するわけにはいきません」

 

何が目的か知らないが、見知らぬ人間を訳も分からず連れて行くのは御免だ。

彼女の言葉を遮りそのまま話を続ける。

 

「キツイことを言うようですが、私は慈善家じゃありません。たった一人の女性の為に、そこまで動く義理はありません」

 

「……」

 

「それに、あそこはそう気軽に入っていい場所じゃありませんよ」

 

あのビルにはこの街の支配者であり、国際的なマフィア組織の一部を任されている程の人物が住んでいるのだ。三合会と何らかの関りを持っていたとしても、彼らが正体も分からない女性を快く出迎えてくれるはずもない。

少々キツイ言葉を投げてしまったが、これくらいは言わなければ。

 

 

「……そう、ですね。貴女の言う通りです」

 

 

一呼吸間を空け、彼女は目を伏せたまま呟いた。やがて息を吐き、なんと頭を下げてきた。

 

 

 

 

「――助けていただいたというのに図々しい真似を致しました。このご無礼、どうかお許しください」

 

 

 

 

先程までの戸惑った様子はどこへいったのか、礼儀正しい姿勢と言葉に思わず呆気にとられる。

 

 

「見ず知らずの私に手を差し伸べ、尚且つ看病までしてくださり本当にありがとうございます。遅くなりましたが、貴女に心からの感謝を」

 

 

ここまで丁寧な言葉遣いを耳にしたのが久しぶり過ぎて、今度はこっちが戸惑ってしまう。

こういう時どう返答するのが正解だったか。

 

「えっと……と、とりあえず頭を上げてください。これじゃ落ち着いて話もできませんし」

 

「……」

 

困惑しながらそう提案すれば彼女はゆっくりと頭を上げる。

こちらを真っすぐ見据える瞳はもう揺れてはいなかった。

 

「その様子だと、大分冷静になったようで」

 

「はい」

 

「では、ひとまずこれが最後です。この質問が終わったら、次は私が貴女からの疑問に答えます」

 

私が一番気になっていること。今までの話の流れからしてほぼ確定だが、本人にちゃんと確認しておきたい。

 

 

 

「貴女は、香港三合会と何らかの関りがあるんですね?」

 

 

 

街の名前を聞いた時の反応と熱河電影公司と言う前に三合会と言いかけたこと。

そして、香港から連れ去られたという情報。これで何にも関りがないという方がおかしい。

 

私の質問に彼女は何か意を決したような表情を浮かべ、一呼吸間を空けて口を開く。

 

 

 

「――はい」

 

 

 

肯定の言葉に少なからず安堵する。

一体どういう関りがあるかは分からないが、彼女が香港三合会と無関係ではないことが分かっただけでも大きな収穫だ。

もし彼女が嘘をついていたとしても、彼らから制裁が下るだけなので私にとって問題はない、はず。

 

「分かりました。――私の質問はひとまず終わりです。今度は貴女からの質問に答えます。何かありますか?」

 

「……あの、貴女はこの街の三合会と何か関りは?」

 

私と三合会の関係か。

何故そこが気になったのかは置いといて、質問に答えると言ったのでとりあえず返答する。

 

「彼らには普段からお世話になっている身です。私はこの街で洋裁屋を営むため、三合会のある方に長年パトロンとなってもらっています。所謂ビジネスパートナーです」

 

「マフィアをパトロンに、洋裁屋を?」

 

彼女は信じられないといった表情だった。ずっとこの反応をされてきたので最早慣れっこだ。

 

「ええ」

 

「なぜそんな真似を」

 

「私に利益をもたらしてくれているからです。この街で三合会ほど頼りになるパトロンはいないでしょうし、これからも良好な関係を続けていきたいと思ってますよ」

 

「……そう、ですか」

 

 

まだ驚いた様子ではあるが、彼女はどこか納得したように呟いた。

 

 

「そんなこと言う人を見たのは、初めてです。マフィアとこれからも付き合っていきたいなんて」

 

「まあ、中々いないでしょうね。ですが嘘偽りない気持ちですよ」

 

「そうですか。……フフッ」

 

私の言葉を聞いた彼女は、初めて笑みを見せた。

なぜここでその表情になるのか不思議だが、追及したところで意味はない。

 

「あと一つだけ、聞いてもよろしいですか?」

 

「なんでしょう」

 

「『ある方をパトロンに』と仰っていましたが、それはもしかして張維新という人物で?」

 

「……張さんをご存じなんですか?」

 

まさかここで彼の名前が出るとは。

いや、関りがあるなら知っていても不思議じゃないのだが、それでも驚かざるを得なかった。

 

「ええ。私も彼にはよくお世話になっていましたから」

 

「……そうでしたか」

 

本当に、彼女は何者なのだろうか。聞けば聞くほど疑問が深まっていく。

 

疑問が募るばかりだが、今はそれを解消するよりやるべきことがある。

 

 

「貴女が彼らと無関係でないことは分かりました。ですが、それでもこのまま貴女を案内するわけにはいきません」

 

「……信じてもらえないのは、仕方ありません。なら、せめて場所だけでも」

 

「急ぐ気持ちも分かりますが、最後まで話を聞いてください」

 

 

彼女は本当に香港へ帰りたいのだろう。

不安と焦燥が混じった顔を浮かべ懇願してきた。

 

だが、こんなボロボロな姿の女性を悪徳の都に放り出してしまえば今度こそ死んでしまう。

今の時点でそれは避けなければならない。

 

「私としては、三合会と関りのある貴女をこのままこの街にまた放り出すのは忍びないんです」

 

 

 

なら、私が速やかに取るべき行動は一つ。

 

 

 

「なので、今から張さんに連絡を取ります。それで貴女を案内するべきかどうか判断させてください。いいですね?」

 

 

 

また不安で揺れていた目が大きく見開かれた。

そして、少しの間を空けて真剣な表情で言葉が返ってくる。

 

「はい、ぜひお願いします」

 

まるで問題ないと言わんばかりの口ぶりが、さらに信憑性を増していた。

まあ、ここで拒否されたとしても問答無用で連絡するつもりではいたが。

 

「では、連絡するにあたって聞きたいことが」

 

「なんでしょうか?」

 

「貴女のお名前を教えてください」

 

聞く必要があるのか分からなかったため聞いていなかった。

だが、彼に連絡するのであれば名前を控えておく必要がある。

 

彼女はハッとし、「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」と呟いた。

 

 

 

(ツゥン) 桜綾(ヨウリン)と申します。――この名前を出せば彼も分かってくれるはずです」

 

 

「……では、少しだけ待っててください」

 

その容姿に見合う綺麗な名前だと思った。名は体を表すとはよく言ったものだ。

一言言い残し、作業場に置いてある携帯を取りに腰を上げた。










桜綾の見た目は、ザ・お嬢様をイメージしてます。
小説のトリシアとはまた少し違う感じ。
そんな女性がロアナプラに連れてこられたなんて、流石のキキョウさんも何かあるだろうと思っちゃいますよね。






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23 迷い込んだ華の名Ⅱ










――洋裁屋キキョウの家でそのような会話が繰り広げられている一方。

熱河電影公司の最上階にある社長室前には、今まさにドアを叩くリンの姿があった。

 

 

「張大哥、リンです」

 

「入れ」

 

 

礼儀がなっていないと郭にどやされている彼女だが、流石に雇い主がいる部屋にノックもせず入るような無礼はしない。

返ってきた声に「失礼します」と一言告げてからドアを開ける。

 

「珍しいですね、貴方がアタシをわざわざここへ呼び出すなんて。遂にご自身の健康状態に不安を感じたので?」

 

「はっ、それは気にしたってしょうがねえだろうな」

 

一番奥にある椅子に腰かけ優雅に紫煙を燻らせている人物。張維新はリンの冗談を軽く受け流す。

 

彼の背後に立っている腹心の部下である彪と郭は黙って二人の会話を聞いている。

 

「しかし、本当にどうされたんですか? ……アタシとしては、そこで控えているクソ野郎の顔をこれ以上見たくないんですが」

 

「それはこっちのセリフだクソ女」

 

罵倒を浴びせられた郭は鋭い視線をリンへ向けた。その郭を睨み返すリン。両者とも雇い主を挟んでいることはお構いなしに睨み合いを続ける。

 

挟まれている当の本人は眉一つ動かさずただ煙草を吸っている。

 

 

「相変わらずだなお前たちは。仲睦まじいようで何よりだが――今は世間話をする時間も惜しい。挨拶はそこら辺にしろ」

 

「……失礼しました」

 

 

張の言葉に郭はすぐさま謝罪を述べ、リンは真剣な表情へと切り替える。

こうして優雅に寛いでいるように見える三合会タイ支部のボスが、時間がないと言うほどに切羽詰まっている。

 

 

ここにいる人間の中でその意味が分からない馬鹿はいない。

 

 

「……どうやら、アタシの予想以上の事が起きているようで」

 

「ああ。なんせ、今回は本国も動いているからな。――問題なのは、それ程の事がこの街にも関わっていることだ」

 

 

告げられた内容に思わず目を見開く。

彼がそんな冗談を言わないことはリンもよく知っている。が、俄かに信じられない話であった。

 

世界に名を馳せる我が組織の本部が動くほどの大問題が起きている。

それが遠い海の向こう側に位置するこの街にも関係しているなど。

 

 

張はそんなリンの様子を目に留めながら話を続ける。

 

 

「順を追って話そうか。――お前、龍頭に娘御がいるのは知っているか?」

 

「……噂は聞いてます。総主の一人娘で、確か数年前に十歳以上年上の香主とご婚約されたとか」

 

「そうだ。一人娘が故に龍頭に可愛がられながらも立派に育ち、今や香主と肩を並べて歩いているお方だ。お前らにとっては雲の上の存在といったところか」

 

煙を吐きデスクの上に足を乗せる。

リンは「何故今その話を?」と疑問を感じたが、黙って話の続きを待つ。

 

令爱(お嬢)が大学を卒業後にすぐご結婚される予定だったんだが、色々と邪魔が入り先延ばしになっていた。それが今やっとあの二人の晴れ姿を披露する準備が進み、二か月後に本国で盛大な式を挙げられる」

 

「それはおめでたい話ですね」

 

「ああ、なんせ令爱の長年の想いが叶う時でもあるからな。幼い頃を知っている俺としても喜ばしい。――だが」

 

 

 

比較的いつもの調子で喋っていた張の声音が、途端に低いものへと変わる。

 

 

 

「何故か彼女は、どこぞのクソ虫共のおかげでこの街にいる。そして今、一人でどこかを彷徨っている」

 

 

 

その言葉にリンは今日一番に驚いた。そして、話を聞いて感じた最大の疑念を遠慮せずぶつける。

 

 

 

「連れさられたというならそのクソ虫共のところにいるのでは? どういうお方かは存じませんが、腕が立たない女性であれば逃げ出せるとはとても」

 

「令爱は“こういう時”のための術は叩き込まれてる。尚且つ、彼女の香主の元へ帰ろうとする執念は凄まじいからな。……虫共は令爱のその執念深さを侮っていた。だから逃げられた」

 

「その馬鹿どもは?」

 

「今は文字通り虫の息ってやつだ」

 

 

リンはようやく事の重大さに気づく。

自身が直接お目にかかることはないであろう人物たちの大事なお嬢様が、たった一人この街に放り出されている。

 

 

本国が動くのも、直属のボスである彼が焦るのも納得の大問題だ。

 

 

「たった一人の女性を複数でなんて、これだから男は。――それで、ただの闇医者であるアタシにどうしろと?」

 

「お前はウチでも一人での行動がしやすい。それに、美人には特に目がないお前なら目敏く見つけられるかもしれんしな」

 

「いくらアタシでも顔が分からないんじゃ見つけようがありませんよ」

 

「分かっている。……彪」

 

 

命令に従い、静かに立っていた彪がリンに近づく。

そして、懐から一枚の写真を取り出した。

 

 

「俺達は、その女性を香港に五体満足で送り返さねばならん。なんとしてもだ」

 

 

張の言葉を聞きながら、差し出された写真を受け取る。

 

 

――そこに写っていたのは、長い黒髪に茶色い瞳の綺麗な女性が笑顔を浮かべている姿。

 

 

 

写真を見た瞬間、リンは再び目を見開いた。

 

「え、この子って……」

 

 

小さく呟いたその瞬間、唐突に社長室にコール音が鳴り響く。

張はデスクの上で震えている携帯を一瞥し、やがて徐に手に取り耳に当てる。

 

 

その様を他の三人はただ黙って見届けている。

 

 

 

 

 

 

『――キキョウです。お忙しいところ失礼します』

 

 

 

 

 

 

聞こえてきた声と言葉に張は一瞬目を見開いたがすぐさま口を開く。

 

 

「ようキキョウ。今はお前に何も頼んでいないはずだが……とうとうお前から一杯誘ってくれる気になったのか?」

 

『私から気軽に誘えないことは貴方が一番ご存じでしょう』

 

この部屋にいる人間で、張から出た名前を知らない者はいない。

自分たちのボスが目をかけている洋裁屋がこんな時に何の用かと、張を始め郭と彪は勘繰った。

 

ただ一人、リンは思考を巡らせ「まさか?」と一つの予想を頭の中で浮かべている。

 

 

「なら、なんだ? 生憎、今こっちも暇じゃないんでな。急ぎじゃないなら後でもいいか?」

 

『お時間はとらせません。どうしても今すぐ確認したいことがあって』

 

「――珍しいな、お前がそこまで急いでいるとは。どうした」

 

 

出会ってから今までほぼ「依頼品が完成した」という連絡しか寄こさない彼女が、自身に確認したいこととは何なのか。張は違和感を覚えながら尋ねた。

 

 

『実は、こちらに貴方のお客人が来てまして』

 

「……俺の客?」

 

一体何のことだと、キキョウの言葉に疑問が浮かぶ。

訝し気に聞き返すと一切の間を空けず返答が来た。

 

 

『ええ。張さん、“(ツゥン) 桜綾(ヨウリン)”という女性はご存じですか?』

 

 

 

短くなった煙草を灰皿に押し付けていた手が止まった。

 

少しの間を空け、再びゆっくりと言葉を発する。

 

 

 

「……今、なんと言った?」

 

『“荘 桜綾”という女性はご存じですか?』

 

先程と一言一句違わない言葉が返ってくる。

 

 

「何故その名前を」

 

『その反応だと、やはりお知り合いのようで』

 

「答えろキキョウ。なぜお前からその名前が出る」

 

 

 

張の声音に一瞬にして最大の緊張感が部屋の空気を包む。

その雰囲気は携帯越しであろうとキキョウにも十分伝わっていた。

 

 

彼女も戸惑っているのか沈黙が落ちる。

返事がないことに張が眉を寄せた途端、やがて静かに声が返ってきた。

 

 

『……それについては、ご本人から説明するとのことです。代わってもよろしいでしょうか?』

 

どういうことだ。彼女がキキョウと一緒にいる?

一体何がどうなっている。

数々の疑問が一瞬にして募ったがそれらすべてを押し込み、張は最優先するべき行動を取るべく口を開く。

 

「そこに、彼女がいるんだな?」

 

『ええ』

 

「代わってくれ」

 

『はい。……どうぞ』

 

 

キキョウの声が少し遠くなり、やがて少しの間を空け別の声が飛んでくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

『――張兄さん』

 

 

 

 

 

 

自身を親しみを込められたその呼び名で呼ぶ女性はたった一人。

それは、今まさに自分たちが必死に探していた人物に他ならない。

 

 

 

「桜綾令爱」

 

 

 

久々に聞く声に張は驚きと安堵を感じながら、彼女の名前を口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「――お久しぶりです。……ええ、大丈夫です……はい、そうです……ええ」

 

張さんに連絡を取り、彼女の名前を出すと彼は携帯越しでも緊張感を帯びさせる硬い声音を発してきた。

正直彼がそこまでなるとは思わず驚いていると、いつのまにか自室から出てきていた彼女が「私が彼と直接お話をします」と提案してきた。

いつもより必死になっている様子な彼には長々とした説明は逆効果だろう。

そう判断し、彼女の言葉に甘え電話を替わってもらった。

 

彼女の“張兄さん”と親しみを込めた呼びかけから会話が始まり、私はその様をただ静かに見守っている最中だ。

 

張さんをあんな風に呼ぶなんて、本当に一体何者なのだろうか。

もしかしたら、彼女は予想以上に三合会と深く関りがある人物なのか?

 

疑問が募るばかりだが、私の本来の目的は彼女をどう扱うか見極めること。

もし張さんや彼女自身から聞けなくても、それさえ分かれば何も問題はない。

 

 

 

「……それは私自身が伝えます。……はい……分かりました」

 

 

改めてそう認識した途端、彼女は携帯を耳から離しこちらを向いた。

 

「あの、張に……張さんが貴女に代わってほしいと」

 

そう言って携帯を差し出される。

何を言われるのか内心ドキドキしながら手に取り、呼び掛ける。

 

 

「代わりました」

 

『お前には色々と聞きたいことが山ほどあるんだが、それはまた後だ。――急で悪いが今から俺がそっちに行く。すまんが、もう少しだけ彼女を預かってもらえると有難い』

 

「その彼女は何者なのか、というのも今は聞かない方がよろしいですか?」

 

『それは彼女からきちんと言いたいんだそうだ。俺が来る間にでも本人に聞いてくれ』

 

「分かりました。……彼女のためにも、なるべく早くお迎えに来てあげてくださいね」

 

『言われなくてもそのつもりだ。では、また後程』

 

 

 

口早にそう言い終えるとすぐ通話が切れた。

一体何が起きているのか理解できていないが、彼が今からここへ来るのだけは確かなようだ。

 

携帯を台の上に置き、こちらを見ている彼女へ向き直る。

ちょっとした沈黙が落ちた後、やがて先に口を開いたのは彼女の方だった。

 

 

「改めて名乗らせていただきます」

 

 

その声音は、先程とは少し違う凛としたもの。おかげで彼女の一言で妙な緊張感が部屋に広がった。

 

 

「――私、香港三合会龍頭の荘 戴龍が娘。荘 桜綾と申します」

 

 

 

ロンタァウ?

 

この口ぶりからして三合会のお偉いさんというのは分かるのだが、一体どこらへんの立場なのか分からない。

張さんやその他の人たちからは組織について教えてもらってないのもあり、この街以外の三合会についてはあまり知らないのだ。

 

私がよく分かっていないのを感じ取ったのか、彼女……荘さんが付け加えるように言葉を続けた。

 

「龍頭は三合会の一番上の立場にあたります。“首領”と言った方が分かりやすいでしょうか」

 

 

 

……いやいやいや、ちょっと待て。

 

 

荘さんが言っているのは、つまり彼女は我がパトロンよりも上の立場にいる人間の家族ということだ。

張さんの焦っている様子からしてそれは事実なのだろう。

 

だとしたら、そんな人物がこんなところにいるのはおかしい話ではないのか。

三合会本部の実情は知らないが、こんな易々と海の向こう側に連れてこられるものとは考えられない。

それも、張さんが支配しているこの街に。

 

「父の立場上、私が狙われるのはいつもの事なんです。恨みを買いやすい三合会のトップの一人娘。それだけで攫う価値があるのでしょうね」

 

ああ成程。だからさっき心当たりはないけどある、みたいな返答になったのか。

だが、いつもの事であるのなら尚更ここにいるのはおかしいのでは?

そんな何回も攫われるような真似は許さないと思うのだが。

 

若干混乱しそうになっている私に構わず、荘さんは話を続ける。

 

「ですが、まさかこんな時に攫われるなんて思ってませんでした」

 

「こんな時?」

 

「ええ。――実は私、もうすぐ結婚するんです」

 

 

なんと。これはまた驚くべき事実を聞かされた。

そんなめでたい時に攫われるとは。

それだけでも災難なのに、連れてこられたのがロアナプラというのもまた酷い話だ。

相手は結婚するというタイミングを狙ったのか、またはただの偶然か。

 

 

……まあ、こんな事を考えたところで私にはどうしようもないか。

それに、彼女の事に関しては彼らの仕事だろう。

 

 

今は色々考えるのをやめて、とりあえず荘さんの話に付き合おう。

 

「それは、おめでとうございます」

 

「ありがとうございます。……もっと早く式を挙げる予定だったんですけど、色々あって随分伸びてしまって。父や婚約者が必死になって整えてくれて、私の周りをいつも以上に警戒してくれていました。なのに、一瞬の隙をつかれてまんまと……自分の力のなさをこれほど悔やんだことはありません」

 

荘さんは拳に力を入れ俯いた。

私からすれば、逆にこの街で一人で逃げ切ったことだけでもすごいと思う。

何も分からないまま、ただひたすら戻りたい一心でここまで来たことは賞賛に値するレベルだ。

 

やがて顔を上げ、茶色の瞳でこちらを見据え再び口を開いた。

 

 

「貴女が手を伸ばしてくださらなければ、きっと私はあの人の元に帰れることなく一生を終えていたでしょう」

 

 

 

そう言葉を発する彼女の瞳には、少しだけ涙が溜まっていた。

その様に何も言えず、黙って話に耳を傾ける。

 

 

「貴女は私の。私たちの恩人です」

 

「……そんな畏まらないでください。私はただ、自分のために貴女を家に招いただけですよ」

 

「え?」

 

「自分の家の前に死人が転がっていたら、誰だって仕事どころじゃなくなるでしょう?」

 

彼女の為に助けた訳じゃない。全て自分の為にやったことだ。

だから、恩人と言われる筋合いはどこにもない。

 

「ですから、恩人だなんて」

 

「そのお仕事の邪魔をしてしまった私を、こうしてベッドを貸していただいただけでなく、私が自然と起き上がるまで待っててくださいました。そして、わざわざ張兄さんに連絡も取ってくださいました。どんな理由があろうと、貴女の行動に私は救われたんです」

 

 

荘さんは凛とした声音で私の言葉を遮った。

未だ瞳をこちらに真っすぐ向けたまま、話を続ける。

 

 

 

「改めて、お礼をお申し上げます。本当にありがとうございます。このお礼は必ず」

 

「……」

 

 

そう言って再び深々と頭を下げた。

ここまで真っすぐ、礼儀正しくお礼を言われてしまっては無下にすることもできず、彼女の真剣な様子に何も言えなくなってしまう。

 

だが、いつまでも頭を下げさせる訳にもいかない。

彼女の畏まった姿勢を崩す何かを見つけようと思考を巡らせ、やがてしばらく続いた沈黙を破るため口を開く。

 

 

「頭を上げてください。……とりあえず、張さんが来るまでにその服着替えませんか?」

 

「え?」

 

「彼の客人である貴女に、そんな恰好をいつまでもさせているわけにはいかないですし」

 

「しかし」

 

「このままにしておくと、私が彼に叱られてしまいます。それは少し嫌なので協力してくださいませんか?」

 

私としては、張さん自ら迎えに来るほどの人物をこんな姿のまま送るのは気が引ける。

今から収納場所に向かう時間はないので、私のおさがりを着せてしまうことになるが今の服よりマシだろう。

 

荘さんは戸惑いながらも、少し間を空けて「では、お言葉に甘えて」と申し訳なさそうに返答してくれた。

 

「では少し待っててください」

 

「は、はい」

 

すぐに用意できるのは、外に出ても恥ずかしくはない無難なTシャツとイージーパンツ。

サイズが合うかは微妙なところだがそこは仕方ない。

 

新しい物はどれだったかと、タンスの中を探り始めた。

 













桜綾は子供時代に三合会入りたての張さんによく遊び相手になってもらってた、という設定です。
羨ま……


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24 もてなす準備

 

 

――自分用の服で一番新しい物を荘さんに着せ、後は張さんが来るのを待つだけとなった。

やはり背丈が私よりも小さいので若干サイズが合ってはいなかったが、見かけは特別気になるほどではない。

彼女自身も着てみてさほど気にならなかったようで文句ひとつ言わず着てくれている。

 

その様に少しの安堵を感じつつ、先程まで着ていたボロボロのワンピースを手に取りできるだけ丁寧に畳んでいく。

 

「こちらの服はどうされますか? よろしければ私が処分しますが」

 

「いえ、持って帰って自分で処理します。恩人にごみ処理を任せるなんてしたくないですから」

 

「そこまで気を遣わなくていいんですよ?」

 

「これくらいは当然です」

 

この様子だと、何を言われようと私に処分させる気はないらしい。

 

「……分かりました」

 

彼女の意思を変えることはできないと諦め、ワンピースを持って作業場へ向かう。

常備している紙袋に入れ、ベッドにちょこんと座り大人しく待っている彼女に差し出す。

 

「どうぞ。この方が運びやすいでしょう」

 

「ありがとうございます。何から何まで」

 

「いえいえ」

 

「あ、あの……」

 

「なんですか?」

 

紙袋を受け取ると彼女は何か言いたいことがあるのか、瞳を真っすぐ向けながら声をかけてきた。

 

「お嫌でなければ、ぜひ貴女のお名前を」

 

あ、そういえば名乗っていなかったか。

自身が洋裁屋であることを告げたので既に名前を教えた気になっていた。

別に嫌ではないので彼女の期待の眼差しに答えるべく、こちらも相手の目を見据える。

 

「キキョウといいます」

 

「キキョウ様。……とても良いお名前ですね」

 

荘さんは噛みしめるように呟きながら柔らかい微笑みを浮かべた。

私は彼女から“様”をつけられたことに驚いてしまい、お礼を言う事もなく慌てて言葉を返す。

 

「あの荘さん、様はつけなくても」

 

「もしかしてお嫌でしたか?」

 

「嫌というか……」

 

こちとら様をつけて呼ばれるなんて何かの式典とかくらいしかないのだ。

ましてや、私をそんな風に呼ぶ人間はどこにもいない。

 

あまりにも慣れてなさすぎる呼び方に動揺するのも当然だろう。

 

 

「貴女は恩人です。なのでそう呼ぶのは当然だと思っております。……ダメ、でしょうか?」

 

いや、私としては我がパトロンよりも上の立場にいる人にそんな呼び方をされるのは遠慮したい。

 

そんな悲しそうな眼をされても自身の立場を弁えなければいけないので、ここははっきり言わなければ。

そうしないと後で張さんに何を言われるか分かったもんじゃない。

 

「私はその呼び方に慣れていないので、様は外してくれると嬉し……」

 

呼び方を改めてもらうため正直な気持ちを伝えていると、中途半端なところで途切れた。

 

 

その原因は、表のドアから聞こえてきたノック音。

 

 

 

「――キキョウ」

 

 

 

間が空くことなく聞きなれた低い声が飛んでくる。

できるだけ早くとは言ったが、少しタイミングが悪いと思ってしまった。

 

もしかしたら、私が言うよりも張さんが言ってくれた方が呼び方を改めるかもしれない。

もう後はその可能性に託そうと話を続けることなく自室を出る。

 

 

ドアを開ければ、腹心である二人を後ろに控えている人物の姿が目に入る。

いつもの飄々とした表情ではない彼へ早速言葉をかける。

 

「お待ちしてましたよ」

 

「彼女は?」

 

「自室で待たせています。お呼びしますね」

 

一刻も早く荘さんの無事を確認したいのだろう。

いつもの軽い挨拶をすることなく真っ先に聞いてきた事でそれは手に取るように分かった。

 

 

ならば私の役目は、彼女を張さんの前に早く連れて来ることだ。

 

 

早足に自室へ戻り、いつのまにか紙袋を片手にベッドから腰を上げていた彼女へ声をかける。

 

「お迎えがいらっしゃいましたよ。さ、行きましょう」

 

「はい」

 

素直に私の言葉に従い、作業場の方へと足を動かした。

私はそんな彼女の後ろに静かに付いていく。

 

張さんは自室から出てきた荘さんの姿を捉えると、何も言わずつかつかと彼女に歩み寄る。

 

「令爱、よくご無事で」

 

「張兄さん、ご心配をおかけいたしました。……こうして生きていられるのも、キキョウ様のおかげです」

 

彼の前で様付けは本当にやめていただきたいのだが、それを主張できる雰囲気ではないので黙っておく。

張さんは私の方をちらりと一瞥したが、すぐさま彼女へ目線を戻し口を開いた。

 

「香主がお迎えに上がるまで貴女を保護するよう仰せつかっております。この街では我々が責任もって貴女をお守りいたします」

 

「ありがとうございます。ですが、私は早く劉帆さんの元に」

 

「お気持ちは分かりますが、今はご辛抱を。香主もそれをお望みです」

 

「ですが」

 

「詳しい話はまた後程。――さあ、参りましょう」

 

二人とも間を空けることなく言葉を交わし、やがて張さんは促す様に道を空ける。

それに倣い、後ろの二人も同じように真ん中を空けた。

 

「……ええ」

 

顔は見えないが、荘さんがどんな表情をしているのかは声音で想像できた。

不服そうにしながらも、張さんの言葉に従い彼女はゆっくりと足を動かす。

 

ここでいつまでも押し問答を続けられては困るので、私としてもその行動は有難い。

 

「キキョウ様」

 

 

部屋を出る一歩手前のところで何を思ったのか足を止め、荘さんはこちらを振り向いた。

 

「この度は本当にありがとうございました。この恩は一生忘れません」

 

「……」

 

そういってまた深々と頭を下げられる。なんと返そうか迷っている間に、今度こそ部屋を出て行った。

その後ろを腕の立つ郭さんが護衛としてなのか黙って付いていく。

 

てっきり張さんも何も言わず行くのかと思ったが、こちらを見据えやがて話を切り出す。

 

「今ここで説明したいところだが、今は彼女の傍を離れるわけにいかん。説明はもう少し後でも構わないか?」

 

「勿論ですよ。私よりも彼女の方を優先すべきでしょうから」

 

「相変わらず物分かりがよくて助かる。それと、これも急で悪いが彼女の替えの服を何枚か後で持ってきてもらいたい」

 

「彼女のサイズにピッタリな物はすぐには難しいです。それでもよろしいですか?」

 

「彼女に安物の服を着せるわけにいかないんでな。今はそれでいい。ちゃんとしたものはまた今度仕立ててくれ」

 

「分かりました」

 

安物でも服は服なのだから別にいいのでは? と一瞬思ったが、今から買いに行かせるよりも私に頼んだ方が早いと判断したのだろう。

彼がそれでいいというなら、私から何も言う事はない。

 

「別で車を待たせてある。服が用意出来たら彪に乗せてもらえ」

 

「え、自分で歩いていきますよ?」

 

「早いに越したことはないからな。――それに、何であれお前には大きな借りができた。送迎くらいさせてくれ」

 

私は貸しを作ったなんて全くこれっぽちも思っていないのだが、話し込んでいる場合ではない。

今は何も言わず、また後で話をすればいい。

 

「ではキキョウ、頼んだぞ」

 

「はい」

 

そういってロングコートの裾を翻し颯爽と部屋を出て行った。

いつもより歩くスピードが速かったのは気のせいではないだろう。

 

本当に残された彪さんは、張さんが完全に去ったのを見届けた後こちらに向き直り口を開く。

 

「ぼーっとするなよキキョウ。早く令爱の服見繕ってこい」

 

「はい。あの、彼女はどのくらいこの街に滞在されるご予定で?」

 

「まあ、今の状況じゃ何とも言えないが……最低でも一週間はいるかもな」

 

「分かりました。ではすぐ取ってくるので少しだけ待っててください」

 

「あの部屋までこっから10分くらいあるだろ。車で送った方が早い。行くぞ」

 

「すぐ準備します」

 

彪さんはそう言って、車を置いてあるであろう方向へ足を動かし始める。

彼に置いていかれないよう、急いで数枚の紙袋とサイズを測るためのメジャー、そして鍵を持ち出す。

 

ドアに鍵をかけ、少し先を歩いている彪さんの背を走って追いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

数枚のTシャツとズボン、ワンピースを収納場所から持ち出し、彪さんに荘さんがいる場所へと送ってもらった。

てっきりビルの方へ向かうものと思っていたが、まったく違う場所へと向かっていると気づいたのは数分経ってからだ。

 

 

そうしてしばらく車に揺られること数十分。車が停まったのは見覚えがある場所。

 

 

 

そこは、私も数年前お邪魔したあの広々とした隠れ家。

ここに訪れるのはあの時以来で、なんだか懐かしい気持ちになった。

 

 

家の入口には三合会の組員らしき黒いスーツに身を包んだ人たちが数名立っていた。

彪さんが先導して歩いてくれているのもあり、警護として立たされている彼らから「よう洋裁屋」と軽い挨拶をされただけで、何も言われることなくすんなり中へ通された。

 

その後彪さんから「先に服を届けてこい」と言われ、荘さんがいる部屋を教えてもらった。

先に張さんへ挨拶しに行こうか迷っていたが、彼の腹心である彪さんからそう言われたのであればそうするのが先決だろう。

 

教えてもらった部屋へ向かい、大きな扉の前に立つ。

一つ息を吐いてから、ノックし声をかける。

 

「キキョウです。服を届けに参りました」

 

「――どうぞ」

 

中から返ってきた声を聞き、「失礼します」と一言断りを入れながら扉を開ける。

 

広々とした綺麗な部屋の奥にはソファに腰かけている荘さんと、彼女の腕に包帯を巻いているリンさんの姿があった。

 

「キキョウ様、申し訳ありません。お出迎えもせずに」

 

「桜綾様、まだ動かないでください。もう少しで終わりますから」

 

すぐさま立ち上がろうとした荘さんを私よりも先にリンさんが諫める。

その言葉に眉尻を下げ、まるで叱られた子供のような表情を見せた。

それが少し可愛らしいと思ったのは今は言わないでおこう。

 

「……はい、終わりましたよ。激しい運動を控えめになされば、すぐに痕も引くでしょう」

 

「ありがとうございます。流石、張兄さんが見込んだお医者様ですね。とても早い処置で驚きました」

 

「有難きお言葉です。貴女のような女性にそんな痕は似合いませんから」

 

……なんだろう。

こんな落ち着いたリンさんを見たのは初めてな気がする。

彼女の全てを知っているわけではないが、私の中ではリンさんが女性と話すときはいつもテンションが高いイメージだ。

加えて直属の上司である張さんに対してもここまで丁寧な姿勢は取らない。

だから、彼女の腰の低い様を見たのは初めてで少し驚いた。

まあ、荘さんが相手なら三合会の人間は皆そうなるのかもしれないが。

 

物珍しくじっと見ていると、荘さんが私の目線に気づいたのか腰を上げパタパタと小走りで近づいてきた。

 

「わざわざありがとうございます。本来ならこちらから受け取りに行くべきだったのですが……」

 

「これが私の仕事なので。ですからそこまで畏まらないでください」

 

また頭を下げられそうな勢いだったので、そうなる前に気にしないでほしい事を伝える。

こんなやり取りが続く前にやるべきことを済ませるべく、間を空けずに言葉を続ける。

 

「ひとまず、2、3日分の服を適当にこちらで見繕ってきました。どれほど滞在されるか不明瞭とのことなので、足りない際にはまた追加でお持ちいたします。急でしたので今はあり合わせの物しかご用意できませんが、今度は貴女のサイズに合ったものをお届けできればと。……貴女の好みではない服かもしれませんが」

 

「お気遣いありがとうございます。ですが、服に関してはこの街でキキョウ様の右に出る者はいないとお聞きしました。そんな方が用意してくださった服を着れることに嬉しさはあれど、不満なんてあるはずがありませんよ。それに、貸していただいたこの服もサイズが気にならない程着やすいです」

 

「……ありがとうございます」

 

そこまで期待されても困るのだが、なんと返していいか分からなかったのでとりあえずお礼を言っておく。

 

まったく、なんでそんなことを彼女に言ったのか。

これで彼女の期待通りにいかず、私が仕立てた服に心底がっかりされたらどうしてくれるんだ。

荘さんに似合うように作っていないので好みに合っていないのは仕方ない。

だが、勝手に期待を煽られるような真似はされたくない。

 

誰から聞いたのかは何となく予想はついているのだが、ここで問い詰めたところで時間が無駄に過ぎるだけだ。

 

「では、私はこれから張さんに挨拶に行かなければならないので、ひとまずこれで失礼します。服に関して何かあればいつでも言ってください」

 

「はい」

 

「桜綾様、アタシもこれで失礼いたします。お怪我が治るまで何回か様子を見に来ることになるでしょう。治りを早くするためにも、激しい運動は控えめに」

 

「ええ」

 

「では、失礼いたします。キキョウちゃん、行きましょ」

 

声をかけられ、颯爽と立ち去ろうとするリンさんの後についていく。

出る前に軽く会釈しドアを閉め部屋を後にする。

 

 

 

「……」

 

「……」

 

 

 

 

広い廊下をしばらく無言で歩き荘さんの部屋から遠ざかる。

あの大きなドアが視界に入らなくなり、ちょっとした緊張感から解放され息を吐いた瞬間。

 

 

隣で一言も発しなかったリンさんが急に勢いよく肩を掴んできた。

 

 

「リ、リンさん?」

 

「……き……た」

 

「え、なんですか?」

 

 

一体何事かと、驚きながら尋ねてみる。

下を向き、何やら呟いているリンさんを訝しみながらもう一度言葉を投げかけた。

 

 

 

 

「きんっちょうしたああ! キキョウちゃんが早く来てくれて本当によかったわ!」

 

「ぐえッ」

 

「まさかあの子が龍頭の娘さんなんて思わないじゃない! こんな街でお目にかかれるなんて予想できる!?」

 

「ちょ、リンさん……くるし」

 

「大哥に一応様子見てたこと報告したら『もっと早く言え』って言われるし! しかもその時すんごい睨んできたのよ!? 彼女が桜綾令爱だって知ってたらとっくに言ってるっての!」

 

「わ、分かりました。分かりましたから落ち着いてください」

 

ぶつぶつと喋っていたかと思いきや、いつものテンションの高い喋り方に戻った。

思い切り抱きしめられ呻き声を上げた私を気遣う余裕はないのか、力を緩める気配はない。

 

よほど張さんとの話が気に食わなかったようで、溜まったストレスを吐き出すように話している。

 

吐き出して大分落ち着いたのか、声をかけると離れるまではしないが少し力を緩めてくれた。

というより、力が抜けたと言った方が正しい。

 

私の左肩に頭を乗せ、心の底から疲れたと言わんばかりのため息を吐く。

 

「はあ。ほんと、なんでこんなところにいるんだか」

 

「……珍しいですね。貴女が美人さんと話して“そう”なるなんて」

 

リンさんの事だからてっきり『あんな可愛い子と話せるなんて!』と喜ぶものと思っていた。

 

だが、今の彼女は嬉しさよりもどこか迷惑がっているような様子だ。

 

 

「そりゃこうなるわよ。もし彼女に何かあったらアタシたち全員家畜の餌にされてもおかしくないのよ。龍頭が娘を溺愛してるって噂では聞いてたけど、大哥のあの様子なら本当っぽいし」

 

「……」

 

「キキョウちゃんが拾わなかったらって考えると冷や汗が止まらない。それは全員が思ってることよ。――特に大哥は安堵してると思うわ」

 

「私は自分の事しか考えなかっただけですよ」

 

「だとしてもよ。……ま、そこら辺についても大哥から話があると思うわ。行きましょ」

 

肩に乗せていた頭を上げゆっくりと離れる。

微笑を浮かべ、先程までの疲れた様を見せず軽快な足取りで前を行く。

 

相変わらず切り替えが早いと感心しつつ、置いていかれないよう少し早足で背中を追った。

 

 

 

 

 








溺愛してる娘が誘拐されたらお父さんが激怒して、組織使ってまで探すのは当然ですよね。


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25 もてなす準備Ⅱ

 

 

 

 

「大哥、キキョウちゃん連れてきましたよ」

 

「入れ」

 

荘さんのいる部屋よりも少し小さいドアの前で立ち止まり、リンさんがノックをし声をかけると反応が返ってきた。

「失礼します」と断りを入れつつ中へ入れば、部屋の奥で高級そうなソファに腰かけている張さんの姿が目に入る。

ロングコートとジャケットは脱いでおり、Yシャツにスラックスといういつもよりラフな格好だ。

 

優雅に足を組んでいる彼の後ろには、郭さんと彪さんが腹心らしく静かに立っている。

 

「面倒をかけたな」

 

「服の事ならお気になさらず。仕事ですから」

 

「それもあるが――俺が言っているのは彼女の事だ」

 

私の姿を捉えるや否や言葉を投げかけてきた。

部屋の中だというのに頑なに取ろうとしないサングラスから一瞬だけ瞳を覗かせる。

黒い瞳がこちらを真っすぐ見据えていることは、その一瞬だけで分かった。

 

「俺はお前に聞きたいことが山ほどある。だが、それはお前も同じだろう?」

 

「ええ。ですが、彼女に関しては貴方がたの仕事です。何もできない私が聞いてもいいんですか?」

 

「ここまで来て何も説明なしってのはな。それに、心配しなくてもお前に聞かれて困る話はこっちで勝手に伏せさせてもらうさ」

 

「そうですか。なら、安心して話ができますね」

 

ニヤりとした彼につられて、自身も口の端を上げながら軽い冗談を返す。

 

「少しばかり長話になるだろう。まあ座れ」

 

「失礼します」

 

そう促され、彼とは反対側のソファに腰かける。

相変わらず優雅に足を組んでいる彼と向かい合い、お互い顔を見据えた。

 

「さて、とりあえず状況を整理しようか。まずは俺の質問に答えてもらいたい」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

――そうして、張さんから次々に質問が飛んできた。

 

彼女とどこで、どんな経緯で出会ったのか。

何故彼女を助けたのか。

何故すぐに連絡しなかったのか。

 

 

 

繰り出される質問に対し起きたことをありのまま話す。

 

 

 

ボロボロな状態で家の前に倒れていたこと。

人が倒れているのを放置した状態で仕事が捗らないため保護したこと。

色々考えたうえで、関係者であり医者であるリンさんに連絡したこと。

三合会と関係があると確信を得た上で張さんに連絡しようとしたこと。

 

 

 

嘘偽りない内容を伝えている間、張さんはただ黙って聞いてくれた。

最後の質問に答え終わると、何か考え事をしているのかしばらく沈黙が落ちる。

 

 

 

「……」

 

「……」

 

 

 

誰も何も話さない。

沈黙が重く感じる空気になんとか耐えながら、彼の言葉を待つ。

 

長い足を組み替え、やがて一つ息を吐き口を開いた。

 

「お前がこういう時嘘をつかないことを俺はよく知っている。それに、リンから事前に話は聞いていたしな。疑う余地はない。……だが、お前は特にメリットがない拾い物をするタイプだったか?」

 

「今回はデメリットの大きさを危惧しただけですよ。貴方が彼女を知らないと仰っていたら、問答無用で追い出すつもりでしたし」

 

「そうか。――まあ何にせよ、お前が彼女を拾い俺達の元へ連れてきたのは事実だ」

 

真剣な表情で発したその声音はいつもより少し固いもののように感じた。

張さんはこちらを見据えたまま話を続ける。

 

「彼女の事はどこまで知ってる?」

 

「三合会トップの方の娘さんということと、無理矢理連れ去られたことだけです。あ、後はもうすぐご結婚されるとかなんとか……」

 

「ほう、令爱がそこまで喋ったとはな。結婚のことについてはあまり他言しなくなったんだが……成程、彼女がお前を様付けで呼ぶ理由が掴めた」

 

真剣な表情から一変、彼は愉快そうに口の端を上げる。

一体どこに愉快に思う要素があったのか分からず首を傾げた。

 

そんな私の様子を気にすることもなく、そのまま話を続ける。

 

「お前が認識してる通り彼女は俺たちの首領、龍頭の娘御だ。そして、近いうちに香主とご結婚されるお方でもある」

 

「……シャンジュ?」

 

「三合会で二番目の地位。すなわち次期龍頭にあたる」

 

ということは、だ。

荘さんは龍頭の娘でもあり、未来の龍頭の奥さんになる。

 

なんというか……『なんて凄まじい道を歩むんだ』と思ってしまった。

 

 

いや、そんな感想はどうでもいい。

気になるのはやはり――

 

「あの、なんでそんな彼女がこの街に? 三合会の実情は知りませんが、こんな易々と攫えるものとは」

 

「俺としてもそこが不可解でな。どんな手段を使いこの街に連れてきたのかは分からん」

 

「なら、犯人はまだ掴めていないと」

 

「この街に運んできた連中を捕らえるのは容易だった。だが、肝心の親玉については未だ掴めていない。……まあ、そこについては香港の方で動いている。俺達にできるのは、向こうが落ち着くまで令爱を預かっておくことだけだ」

 

この言い方だと、その親玉は少なくてもこの街にはいないということか。

そうであれば、離れた土地にいる張さん達ができることはそんなにないのだろう。

 

ひとまず現在の状況は分かった。

あとは彼女がいつ香港に帰れるのか。

 

いくら張さんが保護しているからといって、あの様子だと彼女自身早く香港へ帰りたいだろう。

 

 

それに、彼女にこの街は似合わない。

 

「帰せる目途は立っているんですか?」

 

「今のところは何とも言えん。だが、すぐに落ち着くだろうさ」

 

「確証はあるんですか」

 

「本部が本腰を入れて事にあたっているんだ。なら、こっちはただ吉報を待つだけだ」

 

「……そうですか」

 

彼は憶測で物を言うタイプではない、と思う。

立場のせいもあるのだろうが、確信を得ないまま自ら行動を起こすなんて滅多にない。

少なくても、そうなった事を私は見たことも聞いたこともない。

 

そんな人が、こうも堂々と断言している。

彼女が帰れる時が来るのは、意外と早いのかもしれない。

 

「しかし、まさかお前のところに来ていたとはな」

 

張さんは再び足を組み替え、いつもの声音で呟いた。

 

「私も、まさか家の前で倒れてたのが三合会と深く関わっている人だなんて思いませんでしたよ」

 

「だろうな。……普段なら褒められる行動ではないが、今回に関しちゃ話は別だ」

 

真剣な表情を携えたまま、彼は静かに話を続ける。

 

「俺の元に、『令爱がこの街にいる』という情報が届いたのは昨晩。“彼女を五体満足で香港へ送り帰す”ことが俺達に課せられた重要な任務となった。彼女に万が一のことがあれば、俺も含めた全員の首が飛んでいただろう」

 

リンさんと同じことを言っている。

いくら冗談好きな張さんでもこんなことを軽々しく言う訳がない。

それほどまでに、三合会の人たち全員にとって切羽詰まっていた状況だと今更ながら理解する。

「お前が令爱を拾わなければ、こんな短時間で保護することは絶対不可能だった」

 

「……」

 

「お前がどんな気まぐれを起こし彼女を拾ったのかは知らん。だが、その行動のおかげで俺は今こうしてゆっくり話ができている」

 

いったい何が言いたいのだろう。

私の行動は私のためだけに起こしたもので彼らのためではない。さっき言ったはずなのだが伝わっていないのか。

 

訝し気になりながら黙って話を聞いていると、張さんは口の端を上げニヤリとした表情を浮かべた。

 

「キキョウ、お前は俺に……いや俺達に最大の利益をもたらしてくれた。さながら幸運の女神のようにな」

 

「やめてくださいその言い方。今回は私の行動がたまたま貴方達にとって有益だっただけの話でしょう」

 

「その利益があまりにも“大きすぎる”んだ。なら、ただの偶然だとしてもそれなりの礼はして然るべきだろう」

 

「……なんだか、随分ご機嫌ですね」

 

「ああ、今すぐ手の甲にキスしたいほどにな」

 

表情や声音からしていつも以上にご機嫌だというのは手に取るように分かった。

 

「冗談はやめてください」

 

「冗談じゃないさ。――本当に最高だお前は」

 

これは、今まで見た中で一番機嫌がいいのでは?

今にも大声で笑いだしそうな雰囲気だ。

 

酒も煙草も口にしていないのにここまでなるとは。

 

「さて、そんな幸運の女神さまは何か欲しいものはないのかな」

 

「ありませんよ。強いて言うなら、今すぐその呼び方をやめてほしいですね」

 

「そんなに気に入らなかったか?」

 

「ええ、これっぽちも」

 

「そりゃ残念」

 

彼の冗談に躊躇なく真顔でそう返すと、くくっと笑い心底愉快そうな表情を見せる。

私としては“女神”なんてガラでもないので、またそう言われるのは本当に遠慮願いたい。

 

「とりあえず、お前への報酬はまた考えておく」

 

「いや、ですから報酬も何もいりませんよ?」

 

「まったく、相変わらず欲がねえな。貰えるもんは貰っといた方がいいと思うがね」

 

呆れたような感心したような声音を出し、小さくため息を吐いた。

そんなことを言われても、今回は報酬を貰うために行動をしたわけではないので本当にいらないのだが。

 

「ま、一応少しは何か考えとけ。ひとまず俺からの話は終わりだ。お前の方は?」

 

「気になることは大体聞けたので特には。……あ、彼女の服についてなんですが私が持ってきたのが2.3日分なんです。なので足りない時はご連絡いただけると」

 

「分かった。その時は彼女のためだけの服を持ってきてくれ。そっちの方が令爱も喜ぶだろう」

 

「ええ。そのためにも彼女のサイズを測らせていただきたいんですが、今は遠慮した方がいいでしょうか?」

 

彼女はマフィアのボスの娘だが、話した感じだとこの街の住民たちとは明らかに違う。

周りの環境が普通とはかけ離れているから異質だと感じるだけであって、荘さん自身は普通の女性のように思える。

そんな女性であれば、保護されたばかりで気持ちが落ち着いていない可能性だってある。

 

もしそんな状況なのであれば、採寸は急ぐ必要はないのでまた後日にすればいい。

 

「いや、彼女なら大丈夫だろう。ああ見えて肝が据わってる。それに、相手がお前ならむしろ喜ぶと思うぞ」

 

「え?」

 

「俺もまた後で令爱のところに行く。それまで彼女の話し相手になってやってくれ」

 

「……分かりました」

 

私よりも荘さんの事を知っている彼がそう言うのであればきっとそうなのだろう。

この街での保護者である張さんから許可が下りたので、後は彼女自身に許しを貰おう。

よく分からないことを言われた気がしたが、彼の言う通りひとまず採寸ながらでも話し相手になればいい。

 

「リン、お前はキキョウについて行け」

 

「喜んで」

 

「では、また後で」

 

短くそう挨拶し、ソファから腰を上げ足を動かす。

後ろで黙って聞いていたリンさんと目を合わせそのままドアの前まで歩く。

部屋を出るとき、軽く会釈をし再び彼女のいる部屋へと二人で向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――確かに一刻も早くとは言ったが……ちと早すぎないか』

 

「俺自身も驚いています。まさか昨日の今日で令爱を見つけることができるとは」

 

『仔細を』

 

リンとキキョウが去った後、張はすぐさま携帯を手に取りとある番号へとかけた。

相手は言わずもがな三合会香主、鄭 劉帆である。

多大な労力と時間を要するかと思われたが、たった数時間で自身の婚約者が見つかったと報告を受け、流石に香主と言えども驚きを隠せなかった。

 

「我が知人が偶然令爱を拾ったと。話によれば、疲れ果て家の前に倒れていた彼女が我々と関りがあると考え保護した、とのことで」

 

『たったそれだけの理由で正体も知らない人間を拾うわけがない。何か見返りでも求められたか?』

 

「いえ、何も」

 

『あ?』

 

「“何もいらない”と、はっきりそう言われました」

 

『……』

 

張の返答を聞き、香主は口を噤んだ。

 

 

世界中の悪党が集い、悪党どものためだけに存在するロアナプラ。

その悪徳の都に住まう人間が見返りもなしに正体も知らない女性を保護するなど、あり得ない話だ。

 

「そいつは少々変わり者でして。そいつにとっての見返りは、強いて言えば“自身の仕事に支障をきたさないこと”。それ以外に望むものはない、ということなのでしょう。何か見返りを求め行動を起こしたのなら、素直に言うはずですから」

 

『随分信頼しているようだな』

 

「ええ。この街で数少ない、我々の仲間以外で信頼するに足る存在の一人です。それに、令爱も短い間で気を許したようで」

 

『桜綾が?』

 

「はい。自ら貴方とのご結婚の事まで話し、様付けで呼ぶ程に」

 

『……珍しいな。彼女は滅多にそのことを話さなくなったはずなんだが』

 

知りもしない相手の利益のため幾度も攫われ、傷つけられ、己を害する者から狙われ続けた総主の一人娘は簡単には心を許さなくなっていた。

 

常に疑り深く、慎重に行動する。

 

そんな彼女がたった数時間前に会った人間に気を許したなど、傍で見ていた鄭にとって予想だにしなかった異例中の異例だ。

 

『まあいい。その知人の事は桜綾からも直接聞いておこう』

 

「令爱は貴方と話すのをとても心待ちにしておりますよ。……それで香主、そちらの方はいかがですか」

 

『足は掴めた。後は核心に至る証拠ってところだ。あと2.3日で親玉を炙り出せるだろうな』

 

香主の言葉に張は少しだけ目を見開いた。

ここまで大きな事を起こしたにも関わらずこの街まですんなり運んできた相手であれば少々手こずってもおかしくないと踏んでいた。

いや、彼らが動いた時点でそんな考えは杞憂だったのかもしれない。

 

「流石、としか言えませんね」

 

『今のところは、の話だ。少し気になることもある。だから彼女にはもう少し待ってもらうことになるが……張、桜綾はどうしてる?』

 

「我が知人と話してる最中です。また後程、すぐにそちらへかけ直します。その時にでも令爱を宥めていただけると」

 

『あんまり期待はするなよ? ――龍頭も彼女の声を聞きたがっている。なるべく早くな』

 

遵命(かしこまりました)

 

そう言葉を交わし、やがて向こうから通話を切られた。

ツーツー、という音を何回か聞いた後、張は携帯を後ろで静かに聞いていた彪へ手渡す。

ふといつもの癖で懐に手を伸ばしたが、客人である彼女が婚約者以外の煙草の臭いが付くのは好いていないことを思い出し取り出すのをやめた。

頭を掻き、一つ息を吐き腰を上げる。

 

「令爱が駄々をこねなきゃいいがなあ」

 

 

 

十数年前に自身も手を焼いた“やんちゃで我儘なお嬢様”の姿を思い返しながら、女性の話し声がする部屋へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――香港。

 

高層ビルがいくつも聳え立ち、煌びやかなネオンの光が輝いている街中にはかび臭くいつ倒壊するか分からない程ボロボロな家屋も存在する。

何もかも失った哀れな人間が所々に横たわっている場所にも、誰も使おうとは思えない家屋がある。

 

水漏れし、天井から滴が落ちる音が響く部屋には、黒髪をオールバックに整え、眼鏡をかけた中国系の男が携帯を片手に誰かと言葉を交わしていた。

 

『――話が違うじゃねえか! この計画はお前が提案したもんだぞ!』

 

「“張維新失脚のためなら何だって差し出す”と言ったのはそちらです。私はその心意気を買い、チャンスを与えたに過ぎません。その大きなチャンスのために三合会すべてを揺るがすことのできる高貴な人質も確保した。そこから先は貴方の役目だったはずですよ」

 

『お前だってアイツに恨みがあったからやったんじゃねえのか!? なら最後まで付き合うのが道理ってもんだろ! てめえ一人だけ助かろうなんざ』

 

「マフィアの貴方から道理という言葉が出てくるとは。我々のような人の善意につけこんで稼ぎ、食っている人間に初めから道理なんてものは存在しない」

 

男は鼻で笑いそうになるのを堪え、指で眼鏡を押さえながら話を続ける。

 

「それに、私は『貴方と最後まで付き合う』なんて一言も言っておりませんよ」

 

『ふざけんな! このままじゃ俺に全部飛び火がくる!』

 

「それは貴方の自業自得。そもそも自身を拾った恩人の一人娘を攫おうという計画にのった時点で“終わっていた”んですよ。――恩を仇で返すようなクソ虫の行く末なんざ、知ったことではない」

 

『舐めた口聞いてんじゃねえ、たかが売人風情が! 密売ルート渡してやったこと忘れたのか!』

 

「忘れていませんよ。だからそのお礼に、張が失脚する“かも”しれない一歩手前まで駒を進めた。それで十分では?」

 

自分の本音がつい漏れてしまったことに苦笑を洩らしつつ相手の怒号を流す。

飽きもせず大声を出し感情を爆発させていることに呆れながらただ冷静に言葉を返す。

 

「ルートを渡してくださったことへの礼を返した今、私が貴方と手を結ぶ理由はない。更に言わせてもらえば、計画が頓挫した状況でこれ以上付き合うメリットも。なので、私は私のため貴方と手を切らざるを得なくなっただけのこと」

 

『てめえ、まさか最初から……!』

 

「ご想像にお任せします。――残念ですが私も少々忙しい身。ではこれにて」

 

『おい! まだ話は』

 

相手が言葉を続けているにも関わらず、問答無用で電話を切る。

男はそこで溜まりに溜まったため息を盛大に吐き出した。

 

「はあ、これだから直情型の馬鹿は。アンタに張の相手が務まるわけないというのに」

 

Camelと書かれた箱から煙草を取り出しライターで火を点ける。

煙を吐き出し、眼鏡を小さなテーブルへ置く。

 

「にしても、まさか1日でお嬢様を見つけるとは。ひ弱な女が“あの街”で生き延びれるとは思えないが」

 

男は顎に手を添えながら思考を巡らせた。

眉間に皺を寄せながら、様々な可能性を浮かべては消し、浮かべては消しを繰り返す。

 

「……ま、今となっちゃどうでもいいか。やるべき事は済んだ。後はタイミングを待つのみだな」

 

椅子から腰を上げ、眼鏡を再びかける。

黒いガジェットバッグを片手に、咥えていた煙草をベッドの上に投げ捨てた。

 

 

 

 

 

――数時間後、その家屋は跡形もなく消し去るように燃え盛っていた。

 

 

 

 












桜綾さんは無事に保護されましたが、まだまだお話は続きます。


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26 重なる花びら

 

 

「――キキョウさん! お待ちしておりました!」

 

「お待たせしました。本日もお元気そうで何よりです桜綾さん」

 

三合会龍頭の娘である彼女がロアナプラにやってきてから早4日。

香港の方は落ち着いておらず未だ帰れないようで、今もこの広い隠れ家に滞在されている。

 

「昨日また張兄さんが新しいお茶を持ってきてくださったんです。よろしければご一緒しませんか?」

 

「あの桜綾さん。そんな毎回お茶を出してもてなさなくても」

 

「お茶は誰かと一緒に飲む方が美味しいですから。……お気に召しませんでしたでしょうか?」

 

「いえ、そういう訳では。いつも美味しくいただいております」

 

「よかった。ではぜひ今日もお茶召し上がってください。私の話に付き合っていただいているのですから、それくらいはさせてください」

 

「……分かりました。なら、お言葉に甘えさせていただきますね」

 

「どうぞおかけになってお待ちくださいっ」

 

そう言って桜綾さんは嬉々としてお茶を淹れる準備を始めた。

今にも鼻歌を歌いだしそうな雰囲気だ。彼女のこんな姿を目に映すのもこの数日で慣れてきた。

 

 

 

――本来私は服を届ける以外にお邪魔してはいけない立場なのだが、ほぼ毎日彼女の元へ訪れている。

 

何故こんな事になったのか、正直私もよく分かっていない。

 

ただ一つ言えるのは、採寸している時から妙に懐かれていることだ。

私はただ話を聞き相槌を打ってを繰り返しただけで、親しまれるようなことはしていないはず。

 

 

だというのに、リンさんと私とでは話している時の表情が明らかに違う。

笑顔を向けられるのは別に嫌ではないが、なぜそこまで態度が異なるのか謎過ぎて戸惑っている。

 

その話を聞いて何を思ったのか、張さんが「彼女が帰るまでなるべく話し相手になってほしい」とお願いをしてきた。

彼曰く「遠い場所から一人やってきた心細い女性を気遣うのは当然だろ」と言う事らしい。

 

面白い話ができない私にそんなことを頼むなんて何を考えているのかと思ったが、桜綾さんにももっと話がしたいと言われたのもあり“入ってきた依頼を優先する”ことを条件に承諾した。

 

その時ついでに様付けを外してほしいことも伝えた。

彼女は中々首を縦に振ってはくれなかったが、“様付けを外す代わりに名前で呼んでほしい”という交換条件を出された。私と彼女の立場的にその呼び方はいい事なのか不安ではあったが、様付けされるよりましだと思い、今は『キキョウさん』『桜綾さん』と呼び合っている。

 

 

 

 

そこからは彼女の話し相手になった後、少し急ぎでサイズにピッタリな服を仕立てるという日々を過ごしていた。

 

 

「どうぞ、冷めないうちに」

 

「ありがとうございます」

 

 

桜綾さんは笑顔を浮かべながらお茶の入った白い容器をこちらに差し出してきた。

お礼を言いながら受け取り、緑茶らしい色をしたいい香りが漂うそれに口をつける。

この街に来てからはお茶らしいものは紅茶くらいしか飲んでいなかった。

 

口に含み、懐かしい味を堪能する。

 

「……お茶は淹れ方ひとつで不味くなると聞きますが、貴女が淹れたものは全部美味しいですね」

 

「お気に召していただけたようでなによりです。どんな客人が来ても美味しいお茶でもてなすのが私の役目でもありますから、たくさん勉強したんです」

 

可愛らしい微笑みを浮かべ嬉しそうに話している。

この言い草だと、こうなるまで誰かのために努力したのだろう。

その“誰か”というのは言うまでもない。

 

「努力家なんですね」

 

「よく言われます。――だけど、あの人の為ならこれくらい当然です」

 

そう言って、今度は先程とは少し違う笑みを浮かべた。

何かを愛しく思うようなその笑みを見せるときは、決まって“ある人”の事を考えている。

 

「本当に、婚約者の方が好きなんですね」

 

「ええ、とっても。だから早く会いたいのですが、さっき電話で“もう少し待ってくれ”って……」

 

桜綾さんは眉を下げ、寂し気な声音を出す。

しまった。わざわざ思い出させる必要はないのに、つい話を振ってしまった。

 

「すみません、思い出させてしまいましたね」

 

「いえ、大丈夫です。必ず迎えに来るって約束してくれたので、我慢できます。劉帆さんは私との約束破ったことありませんから」

 

「……随分、信じていらっしゃるんですね」

 

「もうすぐ夫婦になるんですもの。それくらい当然です」

 

夫婦になるからと言って、そんなに信じられるものなのだろうか?

血が繋がっていても信用できないこともある。それが他人なら尚更だ。

まあ彼女と香主は昔馴染みらしいので、それも関係しているのかもしれないが。

 

 

 

「――幼い頃、劉帆さんと“一週間毎日遊ぶ”という約束を交わしたことがあるんです」

 

 

 

そんな疑問を浮かべていると、彼女はお茶を片手に静かに話し始めた。

 

 

 

「最初は何事もなかったんですが、3日目くらいに彼が何者かに襲われて大怪我を負ってしまって。立っているのもやっとなはずなのに、その後一日も欠かさず遊んでくれたんです。しかも私に気づかれないように平気なフリしてまで」

 

「……」

 

「結局、最終日に家で倒れて病院に運ばれた時に私にばれてしまったんですけどね。彼が寝ているベッドの横で泣きながら“ごめんなさい”って謝る私に、“また一緒に遊びましょう”って言ってくれたんです」

 

その時の事を思い出しているのか、クスっと笑みをこぼす。

柔らかな雰囲気に、私は何も言えずただ静かに聞くことしかできない。

 

桜綾さんは懐かしむような表情を浮かべたまま話を続ける。

 

 

「そんな不器用だけど優しくて、律儀な人は今まで一度も約束を破ったことないんです。だから疑う余地はありません」

 

 

この四日間、彼女の口から“劉帆さん”の話が出ない日はなかった。

 

 

自分の前でだけ見せる笑顔が好きなこと。

婚約してからずっと煙草を控えてくれていること。

小さい頃に木登りして降りられなくなった時助けてくれたこと。

その時から彼に恋をしていたこと。

 

 

彼にどんな風に愛され、彼をどう愛しているのかを話してくれる。

彼女が語るのは、私が知らない夫婦の在り様。

まるでお伽話を延々と聞かされている感覚だ。

 

 

その話をしてくれる彼女の瞳は澄みきっていて、心の底から思っていることなのだと思わせられる。

 

 

「そうですか。……先程は失礼なことを言いました。申し訳ありません」

 

「謝る事ありませんよ。人を信用できない気持ちは私にも分かりますから」

 

私の発言に思うことがあったから今の話を聞かせてくれたのだろう。

余計な事を言った非礼を詫びたが、彼女はそんなこと気にしていないとでも言うように柔らかい表情を崩さなかった。

 

本当に思っているかは分からないが、ひとまず不機嫌になった様子がないことに安堵する。

 

「あ、そういえばキキョウさんの事を話したら“ぜひ挨拶したい”と言ってました! その時、ちゃんと劉帆さんの事紹介しますね」

 

「……え?」

 

「世話になった御仁にみ……未来の夫、から挨拶しないのは失礼だ、とのことらしいです」

 

恐らく“未来の夫”という単語のせいか、桜綾さんは頬を赤らめて照れている。

 

一方私は聞かされた話に一瞬思考が停止し、その様を気にする余裕などなかった。

 

 

 

 

 

――この人今、三合会のナンバーツーが私に挨拶したいと言ったか?

 

 

 

 

 

「あ、あの流石にそこまで気を使わなくても。貴女を世話したなんてつもり全くありませんし」

 

「私は十分お世話になったと思っていますよ」

 

「いや、でも香主はお忙しいのでしょう? なら私なんかに構わず……」

 

「貴女は私たちの恩人です。そんな方に何も挨拶しないなんて無礼を彼はよしとしません」

 

だからって……。

張さんよりも偉く、尚且つ大組織のいずれトップになる人にわざわざ挨拶されるような立場ではない。

そんな人間が今の話をすんなり受け入れられる訳がないだろう。

 

「……やっぱりマフィアの偉い立場にいる人と話したくない、ですか?」

 

「マフィアだからじゃありません。そうじゃなくて、ただの洋裁屋へわざわざ挨拶に来る必要ないでしょう」

 

何か勘違いをしているようなので、これだけははっきり言わせてもらう。

何年もこの街のマフィア達と関わってきたのだ。

今更『話したくない』『関わりたくない』なんて感情が出るわけない。

 

「私は仕事を捗らせるためだけに貴女を保護しただけです。そんな人間相手に無礼も何も」

 

「キキョウさん、どうか自分をそんなに卑下しないでください」

 

 

 

自分の気持ちを正直に話していると、桜綾さんが急に真剣な表情と声音で私の話を遮った。

彼女がそんな事をしたのは初めてなのもあり、驚きで何も言えなくなる。

 

 

 

「貴女はいつもご自分の事を“こんな人間”とか“ただの洋裁屋”だと言います。貴女に仕立ててもらったこの服や張兄さんが気に入っているロングコートとスーツも素晴らしい逸品です。それを作り上げる貴女はただの洋裁屋なんかじゃありません。それに依頼が来ていないからとはいえ毎日話し相手になってくれて、おかげで私はここに来てから心細くないんです」

 

「……」

 

「ただ拾ってくれただけなら彼も挨拶がしたいなんて言いません。普通なら張兄さんに貴女への応対を任せればそれでいいんです。――そうしないのは貴女が私の我儘を聞き、ずっと優しい対応をしてくれているからです。そんな何から何までお世話になっている人から礼もなにもいらないと言われてしまったら、せめて挨拶したいと思うのは当然です」

 

「……買い被りすぎですよ」

 

「買い被ってなんかいません。この4日間、ちゃんと話してみた上で思ったことです。……自分を下に見た方が何かと気楽なのも分かります。ですがキキョウさんはもっと自分を大切になさるべきです」

 

 

 

ここ最近、優しいと言われることが多くなった気がする。

どこをどう見て“優しい”というのか全く理解できない。

 

 

私の事は私が一番理解しているし、正当な評価をしているつもりだ。

だが、何故かいつも周りの私への評価と差がある。

 

 

 

数年前からそれはずっと変わらない。

いつからか、“私をよく知らないからそんなことを言うだけだ”と勝手にそう思うようになった。

 

彼女もたったの4日間で私の全てを知ったわけではないのだから、我儘を聞いてくれたから優しいという結論に至っただけ。

 

私の事をよく知っていれば、優しいなんて言葉出てくるはずがないのだ。

その証拠に、この街で一番付き合いの長い張さんが私を優しいと評価したことはない。

 

 

 

 

――だというのに、彼女の言葉に戸惑っている自分がいる。

 

 

 

いつものことなのに、どうして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『“  ”、あなたはとっても優しい子よ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと、懐かしい言葉と声音が頭によぎる。

 

 

 

 

 

 

『あの人はあなたにとても酷い言葉を言うけれど、そんなことない』

 

 

 

 

 

この街に来る遥か前に、言い聞かせるように言われ続けた言葉。

 

 

 

 

 

『私の為にいっぱい我慢して、一緒にいてくれる。こんな優しい子に育ってくれて、私は本当に嬉しいわ』

 

 

 

 

自分の方が辛いはずなのに、励ます様に言ってくれた言葉。

 

 

 

『“  ”、だからお願い――』

「キキョウさん、お願いですから」

 

 

 

 

桜綾さんの言葉と、脳裏に浮かぶ言葉が重なる。

 

 

 

 

 

 

『自分の事を、“こんな人間”なんて言わないで』

「ご自身の事を“こんな人間”だなんて言わないでください」

 

 

 

 

 

 

桜綾さんの真っすぐこちらを見つめるその姿が酷く“とある人”と重なった。

 

 

 

 

 

 

……ああ、そっか。似てるんだ。

 

 

 

 

喋る言葉も生きた場所も時間も違うのにそう感じるのは、柔らかいあの微笑みと話し方のせいだ。考えてみればあの人と似ている部分が多い。

だから、他の人の言葉よりも揺らぐのか。

 

 

 

“桜”と名が入っていることも、ちょっとした因果かもしれないな。

 

 

 

心の中でそう呟いて、目を瞑り小さく息を吐き言葉を返す。

 

 

 

 

「……善処、します」

 

 

 

 

私の返事を聞いて、桜綾さんはにっこりとまた微笑んだ。

 

 

 

その顔を見て、背中の痕が少し痛んだ気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

桜綾とキキョウがそんな話をしている最中、別室では携帯を片手に話をしている張の姿があった。

電話の相手はこの数日何回も連絡を取り合っている鄭劉帆。

今日は珍しく彼からかかってきたが、いつもの口調を崩すことなく言葉を交わす。

 

最初はちょっとした緊張感を帯びただけだったが、鄭から聞かされた言葉によって部屋が一気に重々しい空気へと変わる。

 

「まさか、アイツがそんな事の為に行動したとは」

 

(ソン)は昔から馬鹿だったからな。自分よりも頭のいいお前を陥れる方法がこれしか思いつかなかったんだろ。馬鹿は馬鹿でも桜綾に手を出せばどうなるかくらい考えられる脳みそはあっただろうに』

 

「所詮虫けらの親玉はただの虫だったという事でしょう。いい迷惑です」

 

鄭から聞かされたのは、張よりも長く組織にいる“(ソン)  宇辰(ユーチェン)”という幹部が事を起こしたという知らせだった。

なんでも、桜綾を攫いその罪を張に着せちょっとした恨みを晴らそうとしたらしい。

 

そのちょっとした恨みというのは、自分より遅く入ってきた若造が先に出世したことというつまらないもの。

前々から反りが合わなかったが、そんなことで事を起こされるのははっきり言って大迷惑である。

 

 

 

舌打ちしそうになるのをこらえ、再び頭を回転させる。

 

 

孫は決して頭がいい方ではなかった。

目先の利益に目が眩んで行動するような男。

 

そんな男が、三合会の包囲網を潜り抜け香港からこの街に桜綾を運び込めるとは到底思えない。

 

 

 

「香主、その馬鹿が一体どこの誰に上手い事乗せられたのかは」

 

『そう、問題はそこだ。――奴から聞いた話では、“() (ハオ)”という男に計画を提案されそれに乗った。桜綾をお前の街まで運んだのもそいつの仕業らしい』

 

「身元は」

 

『最近こっちで把握してない麻薬が出回ってな。それを売り捌いていた張本人。ようするにただの売人だ。そいつの顔写真もいつ香港に入ったかの入国記録も手に入っている。探し出せるのは容易だと思ったんだが……』

 

「まさか、まだ」

 

『ああ、未だ見つかっていない。それどころか桜綾が保護したと分かった時からそいつの目撃情報がぱたりと途絶えた。警察の助力を得て香港中の監視カメラを漁ったがどこにも見当たらない。まるで透明人間になったかのようにな。出国した形跡はないがもういないのか、はたまたうまく隠れているのか。……何にせよ厄介な相手だ。ただの売人風情が俺達相手にここまで上手く立ち回れるわけがない』

 

今こうしている間にも、彼らは本気で動いているはずだ。

龍頭や香主はこんなことをしでかした愚か者を許すほど寛容な人ではない。

 

『そういや確か孫はこうも言っていた、“李とは張に恨みがある者同士だから手を組んだ”とな。張、お前麻薬密売人の恨みを買った覚えは?』

 

「ありすぎてどれか分かりませんね。その名前を聞いたのも初めてです」

 

『だろうな』

 

この稼業で人の恨みを買わないことの方が珍しい。

鄭もそれを分かった上で聞いたのだろう。張の返しにすんなりと納得した様子を見せた。

 

『そんなやり手の売人なら自然と俺達の耳にも入る。入っていないということは完全に偽名だ。引きずり出せるのはもう少し先になるだろう』

 

「では、令爱は」

 

『もう少し待ってもらうことになる。さっきそれを伝えたら“我慢します”って言われちまった。……そうは言っていても、もう限界だろうな』

 

「なんとか耐えていらっしゃいますがあの様子は相当我慢されています。このままだと近いうちに話も聞かず何が何でもそちらに帰ろうとしますよ」

 

『分かってるよ。だからこっちであと数日動きがなければ迎えに行く。いつまでもそっちに置いておくわけにもいかんからな』

 

彼女が一人になった時、鼻をすすっているところをよく見かける。

人前では気丈に振舞っているが、ああ見えて寂しがり屋であることを張はよく知っている。

 

 

それでも何とか耐えていられるのは、キキョウと話をして気を紛らわせているおかげでもある。

 

 

 

『そういえば、桜綾からキキョウとやらに世話になっていると聞いた。迎えに行くときにでもちょっとした挨拶をしたい』

 

「貴方が直々に、ですか?」

 

『知らないか? 彼女は毎回“キキョウさん”のことを楽しそうに話すんだよ。友人らしい友人も敢えて作らなかったあの桜綾がだぞ。さらに、お前が“信頼に足る”と評したとあっては気にならないわけがないだろう。なら桜綾だけでなく、お前も世話になっていることの礼を言わねばな』

 

「……そう言うことなら事前に話を通しておきましょう。俺の分もしっかり挨拶してくださいね“鄭大哥”」

 

『は、お前にそう呼ばれたのは久々だな。懐かしいな。――ひとまずまた連絡する。彼女の事、もうしばらくの間頼んだぞ』

 

お互い軽い冗談を言い合った後、鄭はそう締めの言葉を残し電話を切った。

彼は、今の言葉は幼い彼女を世話した者と旦那となる者の両者として発した。

たまに親心のようなものを見せることがあるのは、昔の名残だろう。

 

 

 

だが、かつて彼が“大哥”と呼ばれていた頃の兄貴分としての性分も残っていたのは意外だった。

 

 

不思議なことに、彼に兄貴心を見せられたことに対して嫌な気は全く起きない。

張は「俺もまだまだってことか」と口端を上げ、笑みを浮かべた。

 

 

 

そしてその面持ちのまま、恐らく香主が挨拶に来ることを快く思わないであろう洋裁屋になんと言おうか考え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「――李さん、外はまだ三合会の連中がウロウロしてる。どこもヤクザ者だらけだ」

 

「必死だな。やっぱ今動くのは得策じゃないか。しばらく商いはおあずけだな」

 

「てことは、まだこっちに残るんで?」

 

「ああ、この状態で無理に出て行こうとする方がボロが出る。それに、近くにいた方が気づかれないこともある。灯台下暗しってやつだ」

 

三合会の龍頭 荘戴龍と香主 鄭劉帆の指示の元、組織が血眼で探している当の本人は前の拠点よりもいくらかマシなアパートの一室でベッドに横たわり本を読んでいた。

そんな彼に近づき親し気に話しかけるのは、腕に“フードを被った髑髏の刺青”を入れた男。

 

「しばらく退屈させちまうが、お前も俺が言うまで絶対動くなよ」

 

「仕方ないですよ。俺だってアンタと世界中を飛び回りたいんだ。そのためなら喜んで待てもする」

 

「犬も見習うほどの忠犬っぷりだな。頭でも撫でてやろうか?」

 

「冗談きついですよ」

 

李は本から目を離し苦笑を浮かべる若い男を一瞥する。

そのまま体を起こし、Camelの煙草を取り出し火を点ける。

 

「でも、いつまでも動かないわけにはいかないですよね? 動くとしていつくらいになるんで?」

 

「そうだな。このままいけば、二か月後にはこの国を出れるんじゃないか」

 

「なんで二か月後?」

 

「……お前忘れたのか。二か月後は三合会の“ビッグイベント”があるだろうが」

 

少し呆れたような声音と共に煙を吐き出す。

その言葉に若い男は「あ」と何かを思い出したかのような反応を示す。

 

「でも、その時の方が警戒されるんじゃ」

 

「このままいけばって言ったろ。何も動かず、尻尾を見せさえしなければあっちは俺達なんかよりイベントの方に集中するはずだ。いつまでも掴めない亡霊の存在を追いかけ続ける真似を大組織がするわけがない。手を出してこない大人しい亡霊が相手なら尚更な」

 

ずれた眼鏡を指で押しながら、自身の考えをすらすらと口にする。

その様に若い男は憧憬の念を抱き、「すげえ」と言葉を洩らす。

 

「やっぱアンタすげえよ。孫なんかよりよっぽど」

 

「あのお馬鹿さんと比べられるのは御免だが、その誉め言葉は素直に受け取っておくよ」

 

李は男の賞賛を軽く受け流し、吸い殻を灰皿に押し付ける。

 

 

 

 

「――お前もやればできるんだ。俺と一緒にいればそれを証明させてやるよ」

 

 

 

 

眼鏡の奥で怪しく光る眼光に気づかず、その言葉に男は歓喜に打ち震えた。

言葉一つで喜ぶ無様な男の姿に、李は心の中でほくそ笑んだ。










桜綾は、父親がマフィアのトップということもあり中々友人に恵まれない幼少期を過ごしています。
そんな中で、初めて“マフィア? 別に気にしませんけど”って言ってくれたのがキキョウさん。

男所帯で信頼できる“お姉さん”がいなかった分、キキョウさんに懐いている・・・という感じです。

可愛いですね。



=(久々の!)質問コーナー=
Q.はじめましてキキョウさん。質問ですが、シェンホアとソーヤー、この二人に仕立てるとしたらどんな服を仕立てますか?


A.(すでに二人と出会っている、という前提で)

キキョウ「はじめまして。シェンホアさんにはチャイナ服以外ならテーパードスカートとかタイトスカートみたいなすっきりしたものにカシュクールとか似合いそうです。
ソーヤーはヴィジュアルバンドとかがよく着ているダメージジーンズとか、ダーク系の色が基調でフリルをふんだんに使ったファッションだと喜びますね」


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27 待ち人来たり

 

 

 

 

 

 

 

桜綾さんが来てとうとう七日目が経過した。

彪さんも一週間はいるかもしれないと言っていたのでそれほど驚いてはいないが、そろそろ迎えに来てあげてもいい頃なのではと思い始めている。

 

幸か不幸かこの一週間依頼は何も入ってこず、相も変わらず桜綾さんと話をし、その後は張さんに彼女の様子を報告して帰るという日々を送っている。

たまにリンさんも入れて女性三人で話す機会もあったのだが、桜綾さんが“劉帆さん”の話を始めると次第に何故かそそくさと逃げるようになった。

 

気になって聞いてみれば、「あんな長時間も惚気話聞かされるのは苦手なのよ。恋する女性は素敵だけど、あれはちょっとね」と目を逸らしながらそう言われた。

確かに、桜綾さんは“劉帆さん”の話になると歯止めが利かなくなる時が多い。

 

この前は二時間……いや三時間ほどノンストップで“劉帆さんをどれほど愛してるか”について語ってくれた。

 

私としては自分の知らないお伽話のような内容なので、別にそれほど苦ではなかった。

 

というか私の役目は彼女の話し相手なのだから、楽しそうに話す桜綾さんを前にして逃げるなんてできるはずもない。

やるべきことをこなしているだけなのに、なぜか「やっぱりお前に頼んで正解だった。俺も含めて彼女の恋バナに最後まで付き合える人間はそういない」と張さんに感心された。

 

 

 

――そして、彼女の話し相手となるべく今日も今日とて行きなれた隠れ家に向かう。

寄り道もせず歩いて行けば、すぐに隠れ家というにはあまりにも大きな家屋が見えてくる。

 

 

その入り口近くに高級車が停まっているということは、もうすでに張さんもいるのだろう。

そういう時は先に彼に挨拶をしてから桜綾さんの元へ行くのが最早決まりになりつつある。

別にそうしろと言われたわけではないが、無断で彼女と話すよりその方がいいだろう。

 

真っすぐ入口の方へ足を進めていると、護衛として立っている三合会の人たちと目が合った。

 

「よう洋裁屋、今日も令爱のお相手か?」

 

「キキョウさん、お疲れ様っす」

 

「ええ、貴方がたもご苦労様です。張さんはもういらっしゃってますか?」

 

「ああ、ついさっきな」

 

「大哥はいつもの部屋にいるっすよ」

 

「ありがとうございます」

 

 

この二人とこうして挨拶するのも恒例になりつつある。

最低限の言葉を交わし、すんなりと中へ通された。

 

 

そのまま家の中へと入り、広い廊下を進み彼がいるであろう部屋の前に立つ。

 

 

 

「――本当ですか! 本当に本当に本当に!?」

 

ドアをノックしようとした瞬間、部屋の中から聞きなれた女性の声が飛んできた。

 

「令爱、どうか落ち着い」

 

「無理です! だって彼の姿をもう1週間以上も見てないんですよ! これが喜ばずにいられますか!?」

 

「飛び上がるほど嬉しいのは分かりましたから落ち着いてください」

 

いつもより興奮気味の桜綾さんの声とそれを諫める張さんの声が交互に聞こえてくる。

お淑やかな彼女からこんな声が聞けるとは思わず驚いた。

 

 

 

そのおかげかノックする動きが止まり、完全に叩くタイミングを逃した。

 

二人の声を聞きながらどうしよう、と立ち往生してしまう。

 

「キキョウちゃん何してるの。入るならさっさと入ればいいのに」

 

行き場を失った手をどうするべきか悩んでいると、私の後ろから今度は別の声が飛んできた。

 

「……ノックするタイミングを失ってしまって。リンさんいつからそこに」

 

「桜綾様の大きい声が飛んできた辺りから。その時ちょうど話しかけようとしたらキキョウちゃん固まったんだもの。何かの発作かと思ったわよ」

 

「えっと、持病はないのでご心配なく……」

 

この返しはどうなのかと我ながら思うが、他にどう返せと言うのか。

あたふたとしていた様を最初から見られていたことへの妙な気恥ずかしさを感じつつ、今度こそドアをノックする。

 

「張さん、キキョウです。入ってもよろしいでしょうか?」

 

「……入れ」

 

一瞬の間を空けた返事にドアノブを回す。

整えられた綺麗な部屋には張さんと二人の腹心、そして満面の笑みを浮かべている桜綾さんがいた。

 

「お話し中すみません。今日も桜綾さんとお話を……」

 

「キキョウさん! 今日も来てくださってありがとうございます! 実はさっきですね!」

 

「うわッ……桜綾さん、いつも以上にお元気そうで」

 

「ええ! 今私とっても嬉しいんです! もう走り回りたいくらい!」

 

「それは楽しそうですね。でも走り回る前に、その嬉しくなった理由をお聞かせくださいますか?」

 

張さんへ話しかけている途中で、桜綾さんが先程と違わない興奮したような声を出しながら勢いよく抱き着いてきた。

いつもは礼儀がよくしっかり者の印象がある彼女が、落ち着きのない少女のような行動を取ったことに驚愕する。

 

そんな状態でなんとか彼女を受け止めつつ、そんな状態に至った理由を聞きだす。

 

「実は今日、劉帆さんが迎えに来てくださるんです! もうこちらに向かっているそうで!」

 

「……え、今日ですか? 明日ではなく?」

 

「ええ、今日です! あと少しで会えるんです! ようやくちゃんとキキョウさんに紹介ができます! ああ、こうしてはいられません! 私ちょっと準備してきます!」

 

「あ、ちょっと桜綾さん!?」

 

正直、そういう事だろうとは思っていた。

彼女の様子とさっきの会話からして誰だって見当はつけられる。

 

だが、まさか“今日”三合会の香主が迎えに来るとは流石に予想していなかった。

 

呆気にとられる間もなく、桜綾さんは早口で言った後すぐ部屋を出て行ってしまった。

私の引き留める声も聞こえていないのか、パタパタと駆ける足音はもうすでに遠くなっている。

 

嵐が去った後のような静けさが落ちる。

徐に部屋の奥を見やると、張さんがソファに腰かけ少し困ったような表情を浮かべていた。

 

「お疲れ様です張さん」

 

「ああ。まったく、ああいうところは昔から変わってない」

 

「でもよかったじゃないですか。元気がないよりは大分マシでしょう?」

 

「まあな」

 

張さんを翻弄できる女性なんてこの世で彼女だけなのでは?

マフィアとずっと関わってきたからこそできる芸当なのかもしれない。

 

やれやれと一息つき、彼が再び静かに口を開く。

 

「さっき彼女から話があった通り、香主が今日ここへ訪れる。勿論彼女の迎えのためだ。だが彼の用事はそれだけじゃない」

 

「……」

 

「分かってるなキキョウ」

 

「ええ、ここまで来て“知りません”なんてしらばっくれるつもりはありませんよ」

 

 

 

香主がここへ来た時に済ませる用事。

第一に桜綾さんの迎え。

 

第二に――私への挨拶。

 

 

桜綾さんから話を聞いたその日、なんと張さんからも同じことを言われたのだ。

 

 

あの時も私は中々納得ができず、少ない語彙力で説得を試みたのだが……

 

 

 

 

 

『――香主が令爱を迎えに来られるとき、ついでにお前にも挨拶したいんだそうだ。事前に話を通しておくべきだと思ってな』

 

『私に挨拶なんてはっきり言って必要ないでしょう。私はなにも見返りが欲しくて彼女を拾ったわけじゃないんですから』

 

『それも分かった上でのことだ。香主は誰も彼も会うような方じゃない。そんな人が“わざわざ”挨拶に行くと言っている。その気遣いを無駄にするのはよろしくないだろう』

 

『よろしいよろしくないの問題じゃないです。私はただの洋裁屋ですよ? 国際的なマフィアのナンバーツーに挨拶される立場じゃ』

 

『今回は洋裁屋がどうとかの話じゃない。彼の妻となる女性を救った恩人への挨拶だ』

 

『何回も言っていますが恩人なんて大げさすぎです』

 

『お前がどう言おうと俺達はお前に大きな借りができたことは変わらない。そんなお前に何も要らないと言われたんだ。なら挨拶くらいさせてほしいと思うのは必然。律儀で有名な彼なら尚更だ。――だが、お前がどうしても嫌だというなら仕方ない』

 

『え?』

 

『そこまで言うなら、俺が誠心誠意頭を下げて断っておこう』

 

『……は?』

 

『はあ、“俺達の頭である彼”の気遣いを無駄にするのは忍びないが仕方ない』

 

『ちょ』

 

『俺としてはぜひ受けてほしかったんだが、無理強いはよくないしなあ。やれやれ困ったもんだ』

 

『……その言い方はずるいですよ張さん』

 

『こうでも言わないと首を縦に振らないだろう?』

 

『本当、ずるいですよ――』

 

 

 

 

 

とまあ、こんなやり取りを行い渋々香主の挨拶に応じることを承諾した。

正直今この瞬間も香主の気が変わらないだろうかと願っているのだが、それが叶う可能性は極めて低いだろう。

 

完全に納得していないとはいえ、一度応じると言ったのだから逃げ出すわけにもいかない。

 

「腹は括ったようだな。まあ、挨拶と言っても少し話すだけだ。いつも通り堂々と応対してりゃいい」

 

「貴方が敬服している方を相手にですか? 勘弁してください」

 

「何も取って食おうとしてるんじゃないんだ、そう気負い過ぎるなよ」

 

私の気持ちを知ってか知らずか、彼はいつもの余裕を見せる表情を浮かべている。

ため息を吐きたくなるのを何とか堪え、顔を見据え口を開く。

 

「もうこちらに向かっていらっしゃるんですよね。ということは後2、3時間ほどですか?」

 

「ああ、空路でこっちに直行だ。直接ウチのビルに来ることになってる。彼が着くまで、令爱と最後の話し相手を務めてもらいたい」

 

「分かりました」

 

“最後”か。

短かったような長かったような不思議な感覚だが、彼女にとって喜ばしい事なのだ。

少し寂しいなんて、口が裂けても言えない。

 

「では、桜綾さんとの最後の茶会に行ってきますね」

 

「ああ。リン、お前も今回は最後まで付き合ってやれ」

 

「かしこまりました。ついでに、怪我の具合もチェックしてきますよ」

 

「失礼します」

 

これ以上話すこともないので、数日任された役目を全うしに足を動かす。

 

 

ドアを閉め、一緒に部屋を出たリンさんと目が合う。

瞬間、いつもの微笑みを向けられた。

 

「頑張ってね」

 

「リンさん、今回は絶対逃がしませんからね」

 

「あら怖い。最後くらいちゃんと付き合うわよ、多分」

 

「リンさん」

 

「はいはい。ほら、さっさと行きましょ!」

 

ごまかす様に背中を押すリンさんに促されるまま廊下を進む。

その先にある大きな部屋から、機嫌がいい女性が奏でる鼻歌が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「――キキョウさん、私どこもおかしくないですか?」

 

「そんな数分では変わりませんから安心してください。大丈夫ですよ」

 

「すみません。彼に会えると思うとなんだか落ち着かなくて」

 

「とりあえず座りましょう。ずっと部屋の中を歩き回ってたら会う前に疲れてしまいますよ」

 

「そうですよ桜綾様。香主に元気な姿を見せるためにも落ち着きましょう」

 

香主がこちらへ向かっていると聞いてから2時間後、もうそろそろ着くらしいと張さんから報せを受け、私たちは熱河電影公司ビルへ移動した。

 

客人を招くための応接室に通され、桜綾さんの付き添いとして私とリンさんも彼の到着を今か今かと待っている。

 

部屋に通されてから桜綾さんは中々落ち着かないらしく、鏡の前を行ったり来たり、ガラス越しに空を何回も見上げたり、座ったと思ったらすぐ立ち上がって部屋中を歩き回るというそわそわした様子を見せた。

 

そんな彼女をなんとか落ち着かせようと、リンさんと二人であの手この手でじっとさせようと試みている。

そうやって根気強く何回も同じやり取りをしたおかげか、段々こちらの言葉を聞きいれるほどには落ち着いたらしい。

 

私達の言葉を聞き、少しだけソワソワしながらも良い素材で作られたチェアに腰かけてくれた。

 

「もう2時間経ったのに……。なにかあったんでしょうか」

 

「そんな顔しないでください。妻たるもの夫を信じるべきなんでしょう? なら今も信じて待つべきです」

 

「それに、何かあればすぐ大哥へ報告が行くはずです。知らされていない間は何もありませんから、安心してください」

 

「……はい」

 

渋々ながらも、なんとか納得したようで素直に返事をしてくれた。

眉尻を下げ、とても悲しそうな表情を見せていることについてはあまり触れないでおくべきだろう。

 

香主の事となると、彼女は普段よりも感情を露にし落ち着かない様子を見せることがある。

彼女も自覚はしているようでなんとか抑えようと頑張っているらしいのだが、今回のように何日も離れている時は中々上手くいかないのだと桜綾さん自身から聞いた。

 

 

今も抑えようとしているのか、窓の方を見つめながら左手の薬指をずっとさすっている。

 

この一週間よく見かけたその癖は、彼女が自身を支えるための行動なのだと勝手に解釈している。

 

 

「劉帆さん……」

 

「……」

 

 

だが、この様子ではあとどれくれらい持つのか分からない。

この一週間、彼女をずっと見てきたのだ。

 

今まで見たことないほど不安であることは手に取るようにわかる。

 

だからといって、私にどうにかできる術がある訳もない。

 

 

 

 

「キキョウちゃん」

 

 

 

 

どうしたものかと頭を悩ませていると、小さな声でリンさんに呼びかけられた。

桜綾さんに聞こえないようお互い顔を近くに寄せ、こそこそと話し出す。

 

「どうしたんですか」

 

「アタシちょっと大哥のところ行ってくるわ」

 

「え?」

 

「逃げるわけじゃないのよ? 香主があとどれくらいで着くのか一応聞いてくるだけ。このまま待ち続けるより大分マシだと思うから」

 

「分かりました。その間は私一人で対応します」

 

「よろしくね」

 

そう言って私の肩をぽん、と叩きそのままドアの方へ向かっていく。

 

 

「……あら?」

 

 

ドアを開ける音が聞こえた瞬間、ふと後ろでリンさんの不思議がる声が飛んできた。

そのまま部屋を後にするものだと思っていたのもあり、訝し気に振り向くとドアを開けたまま動かないリンさんの姿が目に入った。

 

「丁度いいタイミングで。令爱が待ちくたびれてますよ」

 

そう言ってドアを更に開けると、ロングコートは置いてきたのか、スーツ姿の張さんが部屋に入ってきた。サングラスは相変わらず取る気はないようでそのままだ。

 

「令爱」

 

「張兄さん。劉帆さんは……?」

 

「ご安心を、先程香主がこの街に入りました。あと数分でこのビルに着きます。ご準備を」

 

「……はい!」

 

「ご到着された際はこちらにお連れします。それまでもう少々お待ちください」

 

「ええ!」

 

「キキョウ、お前もな」

 

「分かってますよ」

 

「では令爱、また後程」

 

今はただ報告に来ただけなのだろう。口早に言い終えると、颯爽と部屋を後にする。

張さんがもたらした報せに桜綾さんは先ほどとは打って変わり、本当に嬉しそうな満面の笑みを見せていた。

 

私はと言えば、もうすぐ来てしまう『挨拶の時間』にお腹が痛くなりそうな心持だった。

 

「キキョウちゃん、頑張ってね」

 

「……何をですか」

 

「緊張で吐かないこと?」

 

「はあ……」

 

その軽口が少し恨めしいと思ってしまう。

目の前で喜びに浸っている女性には、私のため息は聞こえていないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熱河電影公司ビルの屋上。

風が吹いている場所には、ビルの主である張が部下数名を控え立っていた。

煙草を咥え、ただ黙って煙を吐き出している。

 

下に落とした吸い殻が何本目かとなった時、彼らの元に一際強い風とヘリ特有の轟音が近づいてきた。

 

数名の部下がそのヘリを誘導する様と近づいて来るヘリを目に収める。

 

 

 

――やがて頭上から降りてきたヘリが、ビルの屋上に着地する。

 

 

 

それとほぼ同時に、張は風に吹かれながら足を動かす。

後ろには、部下数名を引き連れて。

 

真っすぐ歩みを進めているとヘリのドアが唐突に開き、一人の男が姿を現した。

歩みを止めることなく、サングラスで隠れた瞳でその姿を見据える。

 

高級なテーラードスーツに身を包み、強面な顔をした男の傍に近寄り張は言葉を投げかける。

 

「――お久しぶりです」

 

「久方ぶりだな張。相変わらずサングラスは必需品なようだ」

 

「ええ。貴方に『掛けた方がいい』とアドバイスをいただいた時から変わっていませんよ」

 

「お前、そんなに素直だったか? ま、言いつけを守ってるのは良いことだが」

 

「俺もこのスタイルは気に入っているので」

 

「はは、そうかそうか」

 

二人はそんな軽い挨拶を交わし、お互い口の端を上げた。

 

「これからじっくり話でも……といきたいところだが、その前に彼女に会わせてもらいたい」

 

「勿論、どうぞこちらに。――令爱が待ちくたびれていますよ、香主」

 

「ああ」

 

張の誘導に、香主は素直に従い着いて行く。

 

周りの部下たちは、初めて目にする香主の姿にいつも以上の緊張を感じざるを得なかった。










やっと香主登場。


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28 ご招待







今回は二話に分けて投稿しています。



 

 

 

 

――張さんからもうすぐ来ると知らせを受けてから数分。

今まで以上にソワソワした様子を見せる桜綾さんに「もう少しですから落ち着いて」と言葉を投げかけ続けながら、香主の到着を待っている。

 

リンさんはそんな彼女に声をかけるのをやめてしまい、「もうすぐ来るんだからほっといてもいいんじゃないの?」と諦めたように小さく呟いていた。

 

そういう訳にもいかないと分かっているのだが、正直これ以上は私たちの手に負えないのではないかと思い始めてしまい、心の中で早く来てほしい気持ちが次第に膨れ上がっている。

 

そして今にも部屋を出て行きそうな勢いの桜綾さんを目に留め、本日何回目かの言葉を投げかける。

 

「桜綾さん、もう少しですから大人しくこの部屋で待ちましょうね」

 

そう言うと、ぴたっと動きを止め渋々こちらへ戻ってくる。

 

このやり取りを行うのはこの数十分ですでに5回……いや、今ので10回は超えただろうか。

最早私と桜綾さんの耐久戦と化しているのは気のせいではないだろう。

まだ戻ってくるだけマシだとは思うが、この様子では我慢が利かなくなって飛び出していくのも時間の問題だ。

 

 

――ああ、早く迎えに来てくれないだろうか。本当に一刻も早く。

 

 

心の中で呟きドアに目を向けた瞬間、ノック音が響き渡った。

 

 

 

「令爱、失礼します」

 

 

直後張さんの声が届き、ドアが開かれる。

桜綾さんは先ほどまでの落ち着かなさはどこへやら、彼の方を向いたまま固まっている。

 

 

 

正確には、張さんより奥の方へ目を向けて。

 

張さんが誰かを部屋に促す様に道を空ける。

 

 

 

そこに現れたのは、いかにも極道者と言わんばかりの風貌をした男性。

 

 

 

 

「――桜綾」

 

 

 

低い声音が静かになった部屋に響く。

 

 

 

 

 

 

 

「……劉帆、さん」

 

 

 

 

 

瞬間、桜綾さんがこの数日何回も聞いた呼び名を震えた声音で発する。

 

 

 

そのまま、一歩、また一歩と彼に近づき、やがて堰を切ったように走り出す。

 

 

 

「劉帆さん!」

 

 

 

名を呼びながら一目散に向かい、男性の胸元へ思い切り抱き着いた。

 

 

 

「ふッ……う……ッ」

 

「遅くなった」

 

「……ッ……くッ……」

 

「長らく待たせてしまったな。すまない」

 

「りゅう……ほさ……ッ……りゅ、ほさん……!」

 

「ああ、ここにいる」

 

今まで気丈に振舞っていた女性は、やっと会えた婚約者の腕の中で肩を震わせている。

男性は言葉をかけながら、桜綾さんを落ち着かせるように頭を撫でた。

 

 

 

――まるで映画やドラマのワンシーンを見ているようだと思った。

 

 

演技でも何でもない、あんな風に抱きしめ合う夫婦を現実でみたのは初めてだ。

いや、本当のところお互いがどう思っているのかは知らないが、見てくれは本当に“愛し合っている”ように見える。

 

 

 

お互いを愛し、愛され、何の利益もないのに傍に置き、一生を添い遂げる。

 

 

正直、そんな夫婦は物語の中だけだと思い込んでた。

 

 

だけど目の前で繰り広げられた一連の行動は、紛れもなく現実で。

その事実に、少しだけ戸惑っている自分がいる。

 

そのせいか、彼女たちの感動の再会から自然と目を逸らす。

 

 

逸らした先で張さんと目が合い、瞬間「こっちに来い」と言わんばかりに顎をしゃくる。

きっと、二人きりにしてあげようという張さんなりの気遣いなのだろう。

 

彼の行動の意味を汲み取り、何も言わず指示に従う。

 

 

リンさんも張さんの行動に気が付いたようで、静かに私の後ろを付いてきた。

 

 

未だ抱き合っている二人を残し、部屋を後にする。

 

 

 

ドアを閉め、広い廊下を少し歩くとやがて張さんの足が止まる。

徐にこちらを振り向き静かに口を開く。

 

 

「まさか、お前がああいう反応をするとはな」

 

「え?」

 

「随分驚いた様子だったが、何を考えてた」

 

「……特に何も」

 

「相変わらず嘘が下手くそだな。まあ、“ああいう”二人を見て驚かない方が難しいが」

 

壁に背をつき、やがて口元に弧を描く。

 

「お前にしては珍しい表情をしたもんだからな。少し気になっただけだ」

 

「そんなに変な顔をしてましたか?」

 

「いや? ただ“未知のものに出会った”と顔に書いてあったな」

 

「……そんなこと思ってませんよ。少し驚いただけです」

 

 

 

なんでこの人はこんなにも人の気持ちを見抜いてくるのか。

人の上に立っている人間だからこそなせる業なのだろうか。

 

そして、誤魔化す様に発したさっきの言葉も私の本音ではないことを見抜いているのだろう。

 

彼は「そうか」とだけ言い、クスッと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――桜綾から話は聞いている。キキョウさん、でいいのかな?」

 

「キキョウで結構です。こちらも貴方の話は張さんや桜り……奥様から兼ね兼ね伺っています」

 

「そうか。だが、これでも一応お互い初対面だ。改めて名乗っておこう。――三合会香主を務めている鄭 劉帆だ」

 

「洋裁屋、キキョウです」

 

部屋を出てから三十分ほど経った頃、桜綾さんがようやく落ち着いたらしく私達は部屋に呼び戻された。

少し目が赤くなった桜綾さんが「お恥ずかしいところをお見せしました」と顔を赤くしながら出迎えてくれた。

そんな彼女の左手の薬指に先程までなかった指輪が光っているのを目にしながら、促されるままチェアに座り強面の男性と対面する。

 

張さんが隣に座ってくれているおかげか思ったより緊張はしておらず、いつも通りの対応ができそうだと少し安心している。

 

そうしてお互い改めて名前を名乗り、握手を交わす。

香主の隣で何故か嬉しそうにしている桜綾さんについては触れないでおく。

 

 

 

「さて、貴女には桜綾が大変世話になった。三合会を代表し心から感謝する」

 

 

 

香主は真剣な声音で真っすぐこちらを見据えたまま感謝の言葉を発する。

 

 

 

「既に聞いているかと思うが、我々の婚儀には何かと障害が付きものでね。そのせいか中々準備が整わず、予定より3年も遅れてしまった」

 

「存じています。やっと式を挙げられると、奥様から」

 

3年というのは聞いていなかったが、大分遅れての挙式だということは知っている。

 

細かいことは今掘り下げるべきではない。

 

 

「ああ、だからこそ慎重に事を進めてきた。だが、どこぞの鼠のおかげでまた台無しにされるところだった。――今度は取り返しがつかなくなる一歩手前までにな」

 

 

彼が言っているのは、“桜綾さんが殺されていたかもしれない”ということ。

式の準備はまたやり直しがきくが、肝心の主役がいなくなってしまっては元も子もない。

 

つまりそういうことだろう。

 

 

どことなく、香主の声音がさっきよりも硬くなっている気がした。

 

 

 

「そうならなかったのは貴女が桜綾を拾い、張の元へ連れてきたからに他ならない」

 

「……たまたまですよ」

 

「たまたまだろうが気まぐれだろうが何でもいい。重要なのは、“貴女の行動のおかげで桜綾が救われた”という結果だ。我々の世界では結果がすべてなのでね」

 

「……」

 

「そして、恩を受けたからには何か返さなければならない。それが“常識”だろう?」

 

またこの話か。

彼も私が何も要らないと言っているのは知っているはずなのだが。

 

「折角の気遣いですが、お気持ちだけ受け取らせてください。私は見返りを求めているわけではありませんので」

 

「そういうわけにもいかないだろう。――後から恩に着せてとんでもない要求をされては困る」

 

「劉帆さん! キキョウさんにそんな言い方……!」

 

「桜綾さん、いいんですよ」

 

 

成程。どうして彼らがここまで私に何かを求めるよう言ってくるのかやっと分かった。

誰もここまではっきり言ってくれなかったので、気づくのが遅くなってしまった。

 

 

だが、何か欲しがれと言われても欲しい物なんてない。

無いものを無いと言って何が悪いのか。

 

 

「信じてもらえるか分かりませんが、今回の事を後から出す気は更々ありませんよ」

 

「言葉ではどうとでも言えるぞ」

 

「生憎言葉でしか伝えられないので」

 

「なら聞かせてもらおうか。なぜそこまで頑なに何も欲さない? 何もないのなら適当に金でも要求すれば簡単に済む話だ」

 

「先程申し上げたはずですよ。“見返りを求めている訳ではない”と。そう言った以上、『もうめんどくさいからじゃあ金で』なんて適当な対応をするつもりはありません」

 

 

 

普段世話になっている人に、そんな対応できるわけがない。

彼が敬服している相手なら尚更。

 

 

 

「私は何か欲しければ張さんに相談します。彼がパトロンとなってからずっとそうしてきました。ですが今、欲しいものが本当にないんです。だから彼にも貴方にも、何も要らないと申し上げているだけです」

 

「張に用意できないものを用意する、と言ったら?」

 

「彼に用意できないもので私が欲しい物なんてないですよ」

 

「なぜそう断言できる」

 

「彼と出会ってから私が欲するものを手にできなくなったことはありません。それが全てです」

 

私が本当に欲しかったものが、この街に全てある。

それを用意してくれたのは紛れもない張さんだ。

 

「私はただの洋裁屋としていれればそれでいいんです。それ以上に欲するものなんてありません」

 

「……」

 

そんな悪徳の都の支配者である彼に用意できないものは、きっと私には必要ないもの。

 

 

 

これははっきりと断言できる。

 

 

 

 

「こんな掃き溜めの街でか?」

 

「ええ」

 

「クズどもが集まるこの街をあえて選ぶと? ただの洋裁屋として生きたいならそれは誤った選択だ」

 

マフィアのナンバーツーらしい緊張感をだしながらはっきりそう言われる。

 

その緊張感にあてられたせいか、自然と手に力が入る。

 

「君は張のオンナではないんだろう? そんな人間を守るのは、いくら最大の縄張りを持とうと限界がある。特にこの悪徳の都ではな」

 

「申し訳ありません、言葉足らずでしたね。――私はこの街でただの洋裁屋として生き、ただの洋裁屋として死にたい。それが最大の望みです」

 

 

それが叶うのは、この街でしかないのだ。

 

 

 

「先程貴方は張さんに用意できないものを、と仰いましたが」

 

 

 

いつ殺されても後悔しない。そんな相手が支配するこの街でしか。

 

 

 

 

 

「私の最大の望みを叶えられるのはこの人だけです。貴方じゃありません」

 

 

 

 

 

無礼であることは百も承知だ。

だが、ここまで言わないと彼も分かってくれないだろう。

 

 

 

「……ハッ、そうか。なるほどなるほど」

 

「……」

 

「あー、参ったな。これはなんともまあ……張、お前もとんだ色男になったなあ。くっくっく……!」

 

「お褒めにあずかり光栄です、と言った方が?」

 

香主は私の言葉を最後まで聞くとどこか納得したような面白がるような声音で呟き、声を潜めて笑っている。

生意気な事を言った自覚はあるのだが、面白がるような事を言った覚えはこれっぽちもない。

 

香主の隣で桜綾さんも口元を手で押さえ「まあ」とどこか驚いた様子だ。

 

「張兄さん、よかったですね。他ならぬキキョウさんにあそこまで言ってもらえて」

 

「令爱、からかわないでください」

 

「からかっていませんよ。私も劉帆さんも嬉しいだけです。フフッ」

 

「そうだぞ。女と長続きしなかったお前がまさかここまでなあ? くくッ」

 

「お二方、どうかそこらへんで勘弁してください」

 

彼らの会話に更に頭の中では疑問符が飛び交う。

戸惑いながらも隣に座っている張さんを見やる。

 

私の視線に気づいたのか、張さんもこちらを見たがすぐ目を逸らされてしまう。

 

「あの、張さん……?」

 

「いや、お前は何も気するな。気にしなくていい」

 

そう言われても、この状況で気にしない方が無理があるのでは?

後ろに控えている郭さんと彪さんに目で助けを求めたが、二人にもなぜかほぼ同じタイミングで目を逸らされた。

 

そんなにおかしなこと言っただろうか?

 

首を傾げ、自身の言動を振り返っていると先程までの真剣な顔はどこへやら、口元に弧を描いている愉快そうな香主が言葉を発する。

 

「すまない、君の言葉を笑っているんじゃないんだ。ただ、あんまりにも真っすぐ熱い思いを語ってくれたことに驚いてしまっただけだ。本当に気にしないでくれ」

 

「はあ……」

 

「君の気持ちは分かった。ああまで言われて、無理に何か要求しろというのも無粋だな」

 

「えっと……?」

 

「だがやはり俺としては何かを返したい。このまま恩人に何も返さずというのは龍頭に顔向けができないのでな。そこは理解いただけないだろうか?」

 

私の話をちゃんと聞いてはくれたようで、先程よりも無理矢理言わせるようなことはしなくなった。

方針を変えてくれた相手の言い分を理解できないと突っぱねるのはよくないだろう。

 

「仰っていることは分かります。ですが、やはり何も思いつかなくて……」

 

「だろうな。――そこでだ、こちらから一つ提案をしたい」

 

「え?」

 

提案?

 

「キキョウさん、ぜひ私たちの結婚式に来てくださいませんか?」

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

 

……ん?

 

 

 

 

「え?」

 

「劉帆さんと話したんです。キキョウさんはきっと何もほしがらない。それなら式に招待するのはどうだろうかって」

 

いや、なんでそういう結論になるんだ。

何か返さなければ気が済まないからと言って、誘拐された直後に部外者を招くのはどうなのか。

 

混乱しそうになりながら、何とか言葉を発する。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。折角のご招待ですが、やっと整えられた式に部外者が参列するのは」

 

「ああ、“ただの”部外者ならな。だが俺と君はもう面と向かって話した間柄だ。短い時間だったが招待してもいいかどうかの見分けはつけられた。なら別に問題はない」

 

「で、ですが龍頭? が許すとは到底思えませんし」

 

「ちゃんと私達から話をします。父も劉帆さんと張兄さんが認め、尚且つ恩人であるキキョウさんを招待することを嫌とは言わないでしょう」

 

「……」

 

どうしようどうしよう。こんなことになるなんて誰が予想できる。

ただの洋裁屋がマフィアの結婚式に参列するのはどう考えても場違いだろう。

 

それに張さんだってこの話をすんなり了承する訳がない。

 

 

「ちゃ、張さん……」

 

 

もう私にはこのカードしかない。

 

別に式に招待されたことが嫌なのではなくて、見返りにしては大きすぎるのだ。戸惑うのも当然である。

私の助けを請うような声に張さんは目を合わせた。少し口の端を上げたかと思うと、目の前の二人を見据え口を開く。

 

「お二方、折角の申し出ではありますが少々お待ちを。彼女もいきなりのことで驚いています」

 

そう、そのまま貴方から断りの言葉を言ってください。

私の代わりに。

 

「ですので後日返事を差し上げる形でよろしいでしょうか? 落ち着いて考える時間が必要でしょうから」

 

「分かった」

 

 

 

……は!?

 

 

 

「ちょ、ちょっと張さ」

 

「式には俺の付き添いとして連れて行きます。龍頭にはそう話を通していただけると」

 

「分かりました! 楽しみですね劉帆さん」

 

「そうだな」

 

待て待て待て待て。

なんでもう参加する流れになっているんだ。

 

「あ、あの」

 

「すぐにでもいい返事を差し上げますので、期待してお待ちください」

 

「ええ!」

 

私の言葉を遮って話し続ける張さんを睨みつけたい感情に駆られた。

 

この人、何が何でも私を式に連れて行く気だ。

逆になんで連れて行く気になるのか不思議でならない。

 

「キキョウさん、招待状はまた後日お送りいたしますね!」

 

ガシッ、と両手を掴まれキラキラとした瞳で見つめられる。

ここで「いや行きませんけど」と言えばその瞳が曇るのは考えなくても分かる。

 

 

 

「……楽しみにしてます」

 

 

 

どう返答しようか頭をフル回転させてやっと捻りだした言葉は、最早「出席します」と言っているにも等しいものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――張さん、なんであんなこと言ったんですか」

 

「何の話だ?」

 

「式の参列の話ですよ。あれじゃ断れる訳ないじゃないですか」

 

「断らせる気はなかったからな」

 

「冗談はやめてください」

 

式に参列するかどうかの話をした後、いつまでも香港を空ける訳にもいかないらしく香主と桜綾さんはそのまま帰っていった。

 

ヘリに乗る時、彼女は「張兄さんのこと、これからもよろしくお願いします」と言い残した。

 

彼について何をよろしくされたのかもよろしくされる理由も分からなかったが、遠ざかっていくヘリを見てどこか肩の荷が下りたような気持ちになった。

特に張さんは桜綾さんを何事もなく送り帰せたことに上機嫌で、「折角だし一杯やろう」と誘われた。

 

私も彼に話したいことがあったのでその誘いを受け、いつものように彼の自室で酒を酌み交わしている。

 

 

乾杯し一杯目を飲み終え、そろそろいいだろうとこちらの話を切り出している最中だ。

 

「彼らの盛大な結婚式にああも歓迎されているんだ。断る理由がどこにある?」

 

「百歩譲ってその理由がないとしても、私の言葉を遮って話を勝手に進めた理由にはならないと思いますが」

 

「お前だって最後には招待受けたじゃないか。後からああだこうだ言っても仕方ないだろう」

 

「ええ、最終的に決めたのは私ですよ。ですが今後もああいうことをされるのは御免なのでこうして話してるんです」

 

あの時、この人は“わざと”私の言葉を遮り続けた。

基本そんなことをしない人がなぜその行動をとったのかは知らないが、少なくてもいい気分ではない。

 

「そう怒るな。――あの二人の前で調子を狂わされたんだ。これくらいの意趣返しは許されてもいいだろ?」

 

ニヤリと口の端を上げながら発せられた言葉に首を傾げる。

 

「……何の話ですか」

 

「やはり自覚なしか。まったく、ああいう熱いアプローチは俺だけの前でしてほしいんだが」

 

笑みを崩さずこちらを見据えながらそう言われた。

 

彼が何を言っているのか分からない。

私は香主に自分の気持ちを素直に伝えただけだ。

 

「アプローチが何のことかは分かりませんが、私は思っていることを彼に言っただけですよ」

 

「知ってる、お前はそういう女だ」

 

そう言ってグラスを置き、武骨な手が頬に伸びてきた。

なぜここでこの癖が出たのか不思議に思いながら、その手を受け入れる。

 

 

頬の上を指で撫でながら、張さんは話を続ける。

 

 

「――ああいう時ほど真っすぐな目を向けるのも、愚かなほどに素直なことも。そして誰が相手でもそれが変わらないことも、俺は知っている」

 

「……」

 

「そんなお前が、自分を満足させられるのは俺だけだと言ったんだ。これが調子が狂わずにいられると思うか?」

 

私をいつでもただの洋裁屋として殺してくれるのも、その行動に後悔しないのも彼だけなのだからそう思うのは当然だ。

彼もそれを分かっているはずなのだが、何故今になってこんなに嬉しそうに言うのだろうか。

 

訝し気に見据えていると、張さんは心の底から愉快そうな笑みを浮かべた。

 

 

そして、サングラスを外し素顔を露にする。

 

 

 

 

「キキョウ、本当にお前は最高だ」

 

 

 

その言葉と共に頬から手が離れていく。

やっと気が済んだのかと思ったが、何故かそのまま私の右手を手に取った。

 

 

 

目を見開き、戸惑いながら口を開く。

 

 

「張さん……?」

 

 

呼びかけには応えず、代わりに私の手を自身の顔に引き寄せる。

 

 

 

 

――次の瞬間、彼は目を伏せ私の指先に唇を当てた。

 

 

 

 

突拍子に起こしたその行動に、頭が真っ白になる。

 

次第に今の状況を理解し、咄嗟に手を引っ込めた。

 

「なに、してるんですか」

 

「熱いアプローチの礼、とでも言っておこうか」

 

「……意味が分かりません」

 

「幸運の女神さまには手の甲の方がよかったかな?」

 

「ふざけないでください」

 

「はっはっは」

 

からかうように言う彼の様子に、今回もただ私の反応を楽しんでいるだけだと確信する。

顔に熱があるのを感じつつ諫めるように言葉を投げかけたが、張さんは気にもかけず笑い飛ばした。

 

「ここで止めといてやる俺の紳士さに感謝しろよ? 他の男ならここで押し倒してる」

 

「男性と個室で二人きりになること自体そんなにありませんからご心配なく」

 

「そいつはいい事を聞いた」

 

「それに、私を押し倒す男性なんていませんよ。貴方だってそうでしょう?」

 

「まあ、そうだな」

 

彼は笑みを崩すことなく、再びグラスを手に取る。

 

「……现在啊」

 

「え?」

 

「いや、何でもない。――さ、久々の酒の席だ。もっと飲んでいけ」

 

何か呟いたようだが、小さい声だったのでよく聞き取れなかった。

別に深く気にすることでもないだろうと判断し、上機嫌な彼の言葉に甘え自身のグラスに入っている酒を飲み干した。

 

 

そこから陽が沈み、月が昇る頃にはすっかり顔の熱も引いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――その3日後、私の元に一つの便箋が届く。

 

 

それは言わずもがな、あの二人の結婚式の招待状だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

=ビルを離れたヘリにて=

 

「――劉帆さん、あんな言い方しなくてもよかったんじゃないですか? キキョウさんは私の命の恩人なのに」

「別に意地悪がしたくて言ったんじゃない。俺達の式に呼んでも問題ないか確かめる必要があった。それは桜綾だって分かっているだろう?」

「むう……」

「そんな不貞腐れた顔をしないでくれ」

「だとしても、あんなけしかけるような言い方」

「あの程度で激昂するならそれまで。張の目が節穴だったという結果だけが残る。

――だが、そうはならなかった」

「だから言ったでしょう、“キキョウさんは信頼できる”って」

「あの張でさえ信頼できると言った人間だ。疑っていたわけじゃない。……ただ、あそこまで入れ込んでいるとは思わなんだ」

「張兄さん、キキョウさんが話しているときとっても楽しそうでしたよ。頑張って隠そうとしてましたけどね」

「その後にあんなことを真っすぐ言われて照れていたな。くくッ、龍頭にいい土産話ができた」

「話を聞いたら父もキキョウさんと話したくなるかもしれませんね」

「きっとそうなるだろうさ。――彼女が来るのが楽しみだな」

「ええ!」

 

――――――――――――――――――――――――――――

 



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29 揺らめく影





今話は短めです。


 

 

 

――三合会トップの娘さんがこの街を去ってから二か月。

早いもので、五日後には桜綾さんと香主の結婚式が挙げられる。

 

結局、あの後すぐに彼女たちへ式に出席することを張さんが伝え、その三日後には赤い紙で綺麗に包まれた招待状が手元に届いた。

 

正確には張さんがわざわざ持ってきてくれたのだが。

 

 

その時「龍頭が“折角来てくれるならぜひ話したい”だそうだ」と最後にサラッと重要なことを言われた。

 

 

どういうことだと問い詰めようと思ったのだが、それを予測したのかそそくさと帰ってしまった。その後電話で話をしたが、「お前なら別に心配いらないだろ」と言い残し切られた。

 

それは信頼されているのか、はたまた龍頭が私如きの言葉で動じることはないと思っての言葉なのか。

どういう思惑でそう言ったのかは知らないが、私がなんと言おうと香主の時と同じように何が何でも会わせようとするのだろう。

 

 

そして、最終的に言いくるめられることも目に見えている。

なら、うだうだ考えるよりも腹を括った方がいいだろう。

 

と言っても、向こうはちょっと話すだけだろうし、桜綾さんの時のように相槌を打って相手に合わせていれば特に問題もない、はずだ。

 

その時はきっと張さんも傍にいてくれるはずだし、私が何かしでかしそうになれば彼が止めるだろう。

 

それでも、いつか来る三合会トップとの“お話”に心なしかため息を吐きたくなる。

 

一つ息を吐き、作業台に置いてある“彼女への贈り物”を完成させようと手を伸ばす。

 

結婚式に参列すると決めた以上、手持ち無沙汰なのはよくない。

それは分かっていたのだが、恐らく私が用意できるものをほとんど自分たちで手に入れられる彼女たちにどんな結婚祝いを持っていけばいいのか悩んでいた。

 

桜綾さんならまだしも、香主の事をよく知らない。

 

なので、私よりも二人の事をよく知っている張さんにすぐ相談した。

私の話を聞いた彼は「それなら香主への結婚祝いは俺が用意する。お前は彼女の分を用意しておけ」と言ってくれた。

 

 

 

それが一か月と二週間前の話だ。

 

 

 

そこから何を贈ればいいのかを決め、たまに来る依頼をこなしながらその贈り物を制作している。

それは私が今まで作ったものでも特に繊細な代物となっており、何回も何回もやり直したおかげで随分時間がかかってしまった。

 

だが、この調子でいけば今日中には完成できるだろう。

――というより、今日までに完成しなければいけないのだ。

 

 

 

早速作業を始めようと針に糸を通す。

 

布に針を入れようとしたその時、唐突に携帯が鳴り響く。

 

私としては作業を早く進めたい気持ちが強いが、電話に出ないのは失礼なのですぐさま携帯を手に取り通話に応じる。

 

「はい、キキョウです」

 

『よう』

 

聞きなれた低い声に驚くこともなく、間を空けることなく言葉を投げかける。

 

「どうされましたか? 申し訳ないんですが、今急いでいるので長話はちょっと」

 

『その言い草だと、まさか彼女への贈り物がまだできていないのか?』

 

「……少々時間をかけすぎてしまって」

 

『仕事が早いお前にしては珍しいな。まあ、一流なお前の事だ。“用意できませんでした”なんてことは起きないだろう』

 

「勿論。今日中には完成しますのでご安心を」

 

『ならいい』

 

一流でなかろうがなんだろうが、大事な贈り物を用意できないのは問題だろう。

だが、張さんがそんなことを言うためだけにわざわざ電話をかけてきた訳がない。

 

今日は一体何の用があるのだろうか。

手を動かしたい気持ちを抑え、黙って話の続きを待つ。

 

『明日の話だが、午前中にリンをそっちへ向かわせる』

 

「え? 確か出発は午後のはずじゃ」

 

『向こうに着いたらそのまま龍頭とご対面だ。普段と同じ格好では困るんでな』

 

「……まさかそのためにリンさんをこちらに?」

 

『化粧は苦手なんだろ。ならアイツにやってもらえ。いつもの格好も素敵だが、俺達の頭に会うのであればそれなりには整えてもらわんとな』

 

「からかわないでください。……とりあえず、準備が整い次第リンさんとそのままそちらへ向かえばいいですか?」

 

『ああ。時間厳守で来いよ。――久々に着飾ったお前が見れるのを楽しみにしてるぞ』

 

 

またからかったような言葉を吐いた後、すぐ電話が切られる。

どうやら、今回はただ用件を伝えるために連絡をしてくれたようだ。

 

 

 

 

 

――そう、いよいよ明日には香港へ経つ。

 

 

 

 

 

私を着飾らせるとき、妙にテンションが高いリンさんが来てしまえばもうこの贈り物に手は付けられない。

なんとしても今日中に完成させなければと誓い、余計な事を考える間もなく再び針を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――まさか、まだヤクザ者がここまで蔓延っていたとはな。まあ、香港らしいっちゃらしいが」

 

香港の街は昼も夜も関係なく大勢の人間が闊歩し、常に活気に満ち溢れている。

そんな活気が届かない路地裏に、サングラスに長い黒髪の男が一人佇んでいた。

 

「くそ、やっぱり長髪のウィッグやめときゃよかったな。暑すぎる」

 

愚痴をこぼしながらCamelと書かれた箱を出し、煙草を取り出す。

 

「にしても遅いな。来るとしたら今日だと思ったんだが……」

 

男は煙草に火を点けながら、とある場所へ目を向けた。

鋭い視線の先には、黒社会の香港を実質的に握っている三合会の人間が多く出入りする高層ビル。

 

「折角なら今のアイツがどうなってるのか一目見ておきたかったなあ」

 

煙を吐き出し、雲一つない晴天を見上げる。

 

 

 

――その時、高層ビルの前で一つの車が停まった。

視界の端でその光景を捉えた男は、一回しか吸っていない煙草を地面に捨てすぐさま視線を集中させた。

 

 

しばらくしない内に、黒塗りの高級車から一人の男が出てきた。

その人物は整えられた黒髪に黒いロングコート、そして白いストールを首にかけた格好をしている。

 

 

「……なんだ、見た目はそこまで変わってねえな」

 

 

自身は直接話したことはない。

だが、数年前あの街で見かけたその見た目は当時と何も変わっていない。

 

男はよかったよかった、と無表情で呟いた。

 

この目で確認できたことに満足し、新しい煙草を取り出しながら踵を返そうとした。

だがその足は不自然に、唐突に止まる。

 

 

 

驚きで見開かれたその瞳には、一人の女性の姿が映された。

 

 

 

 

短く切られた黒い髪。

 

 

黒い瞳。

 

 

傷一つない肌。

 

 

 

 

 

 

「――なんで、あの女がここに」

 

 

 

 

 

何度も何度も写真で確認したあの容姿。

膝丈の灰色のスカートに白い長袖のシャツという、あの街でいつも着ていた格好とは違う。

 

だが、己の目が他の誰かと見間違えるはずなどなかった。

 

「あの女は中々外に出ないって聞いてたんだが……張が連れてきたのか? だとしたら何のために……」

 

張のお気に入りと言えど三合会本部に連れて来る理由は無いはず。

だが今、あの女を連れて来ているのは紛れもない事実。

 

「アイツのオンナになったか? いや、そんな情報はどこにもなかった。……このタイミングで来たということは式に呼ばれた? 洋裁屋がマフィアの式に呼ばれるなんてドレスの準備くらいか。だがドレスも何もかも準備は終わっている。それにそのつもりならもっとラフな格好のはずだ」

 

男は頭をひたすら回転させ、考えを小さな声で言葉にする。

 

 

 

だが、やがて思考を止め「……ハッ」と鼻で笑う。

 

 

 

「んなこと考えたってどうにもならねえな。起きちまったことは何があろうと変わらねえ。

――重要なのは俺の前にあの女が現れた。それでいいじゃねえか」

 

男は口元をニヤリと歪ませ、隣の男にエスコートされる日本人の女を睨みつける。

今度は火も点けていない煙草を握りつぶし、地面に落とした後更に踏みつけた。

 

 

 

「このまま何もしねえのは、俺の気が済まない」

 

 

 

そのままポケットからカメラを取り出し、目線の先の風景を写真に収めた。

 

 

 

「ちょっとした意趣返しをお見舞いしてやる」

 

 

 

一際低い声音で呟いた後、男は今度こそ路地裏の奥へと足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここでやっと折り返し、だと思います。
やりたいことを詰め込んだら思ったより長くなりました。


次話から舞台が香港となります。
ここから色々と話が動くかな……と。



キキョウさん、いざ香港へ――


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30 花の蜜は苦し



今話から舞台は香港です。

そして過去最高に長い一話となってます。










 

 

 

「――お帰りなさいませ、張白紙扇。それとお連れ様、ようこそ香港へ」

 

「ああ」

 

「龍頭はすでにお待ちです。どうぞこちらに」

 

彼女たちの式まで残すこと後四日。

少し早めに行こうという張さんの意向で、ロアナプラから約3時間を費やし先程香港に着いた。

 

ロアナプラに住み始めて、初めて街の外へ出た。

それに今まで訪れたことがない場所というのもあり、空港に着いた時緊張感が高まった。

車の窓から高層ビルが並び人々の活気で溢れている先進国らしい風景を目にしながら、今から会わなくてはならない人物との話に更に緊張感が増す。

 

それを知ってか知らずか、車に揺られている間ずっと張さんとリンさんが他愛ない話を繰り出していた。

特にリンさんはこの国を好いているらしく、「夜景がロアナプラなんかと比較にならない」、「料理も美味しいし、何より美人が多い」と嬉々としてこの国の事を教えてくれた。

 

――リンさんは元々来る予定ではなかったのだが、彼女にしては珍しく駄々をこねたらしい。式に参列するときに私の化粧を手伝うことを条件に張さんが彼女の同行を許した。確かに私は化粧は苦手なのでそれは有難いのだが、なぜその条件で許可したのかはよく分からない。

久々の故郷に帰れたことで浮かれているのかとも思ったが、そのおかげでほんの少し緊張が解れた気がする。

 

 

そんな二人の話に耳を傾けていれば、あっという間に目的地に辿り着く。

 

 

 

――車が停まったその場所は、彼らの本拠地でもある高層ビルの前。

 

 

 

履きなれないヒールといつも以上の緊張感で足を挫いてしまうのではないかと不安になる。

その不安を組み取ったのか、はたまたいつもみたいにからかっているのか車を降りる時張さんが手を差し出してきた。

 

一瞬躊躇ったが、転ぶよりマシだと彼の手を取った。

愉快そうな表情を浮かべた気がしたが、気恥ずかしさから顔は見れなかった。

 

そのまま高層ビルの中へ入り、出迎えてくれた三合会の組員らしき人の誘導に従う。

 

エレベーターに乗り、しばらくすればすぐに最上階へと着く。エレベーターを降り豪邸のような綺麗で広い廊下をまっすぐ進むと、見たこともない大きな扉が見えてくる。

 

「では私はこれにて」

 

「ご苦労。お前らは外で待機しろ」

 

遵命(かしこまりました)

 

誘導してくれた人と後ろを着いてきていたリンさんや郭さん、彪さんまでもが立ち去り静けさが落ちる。

この扉の向こうにある人物がいると思うと自然と体が硬くなった。

 

 

拳に力を入れ、息を吐く。

 

 

「そう堅くなるな。いつも通り自然に、堂々と。な?」

 

「……努力します」

 

いつもと違う私の様子が気になったのか、張さんが隣から顔を覗かせ言葉を掛けてくれた。

口の端を上げ、いつもの余裕な表情。

 

彼なりに気を遣ってくれたのだろう。それが分かってしまい苦笑する。

張さんは「フッ」と笑い、再び顔を正面に向け、手を動かした。

 

 

 

「龍頭。張維新、ただいま戻りました」

 

「――入れ」

 

「失礼します」

 

扉越しでもはっきりと伝わる荘厳な男性の声音を聞き、張さんがドアノブに手をかける。

そしてそのままゆっくりと大きな扉が開かれた。

 

中は高級ホテルのような綺麗で豪勢な部屋。奥には香港の街を見下ろす様にガラス張りとなっている。

 

 

――そのガラスをバックに、杖をついて立っている男性が一人。

 

 

「張、久しぶりだな。景気はどうだ」

 

「まあまあ、と言ったところです」

 

「そうか。ま、何事もなければいいんだ」

 

白髪に髭を整えたその男性は、柔らかい口調で張さんに話しかけた。

張さんは笑みを浮かべ、答えながら中へと入っていく。

 

――彼が、三合会のトップ?

 

「お嬢さん、折角来てくださったんだ。そんなところに突っ立っていないで、こっちに来て話をしよう」

 

「……あ、えっと。失礼します」

 

男性から声をかけられ、ハッとし部屋の中へと歩みを進める。

想像と少し違ったのもあり呆然としてしまった。

 

もっとこう、なんというか……少なくてもこんな物腰が柔らかそうな人とは思っていなかった。

 

こんなことを口にするほど度胸はないので、胸の内に秘めておく。

高級そうなソファに男性は腰かけ、薄笑いを浮かべ「二人とも、かけてくれ」と促す。

 

張さんが座ったのを確認し、一言断りを入れ自身も腰を下ろした。

 

「私の事はすでに知っているだろうが改めて。三合会総主、荘戴龍だ。遠路はるばるよく来てくださった」

 

「キキョウと申します。こちらこそ、ご招待いただきありがとうございます」

 

香主の時と同じようにお互い名を名乗り、握手を交わす。

握った手はとても武骨で、少し冷たかった。

 

「いい名前だ。確か“桔梗(ジエガン)”を日本語で言ったものだったか」

 

「よくご存じですね」

 

「妻が花を好きだったものでね。特に、日本の花がお気に入りでよく話を聞かせてくれた」

 

「……では、娘様のお名前はもしかして」

 

「ああ、妻がつけた。人々を惹きつけてやまない、最後まで美しくあってほしいと意味を込めて」

 

中華圏の人の名前に“桜”と入っているのが珍しいとは思ってはいたが、そういう理由だったか。

確かに、そのような意味を込めるなら花びらが舞い散る様さえ綺麗なあの花がぴったりだろう。

 

「だが、その最後を迎えるにはまだ早すぎる。まだまだ咲き誇っていてもらいたい。

――この度は娘が本当に世話になった。親として心から感謝する」

 

「……頭を上げてください」

 

そう言って龍頭は座ったまま深々と頭を下げてきた。

一瞬驚いたが声を荒げる訳にもいかず、息を吸い落ち着いてから言葉をかける。

 

桜綾さんがなぜあそこまで礼儀正しいのか何となく分かった気がした。

この親にしてこの子あり、とはよく言ったものだ。

 

「私は自分の為に動いただけですから」

 

私の言葉に龍頭は頭を上げ、口元に薄笑いを見せる。

 

「なんであろうと貴女の行動があの子を生き延びさせた。それだけでなくあの子の話し相手も務めてくれたと聞く。そんな恩ある御仁に礼節を持たず接するのは愚か者でしかない。私はそこまで落ちぶれたつもりはないのでね」

 

「……私に頭を下げなかったくらいで、三合会トップである貴方が落ちぶれるなんて考えられないです」

 

仕事の邪魔になるから拾い、元の場所に帰した。

そして、お世話になっている人の頼みだから話し相手になった。

 

ただそれだけだ。

 

彼らは皆同じことを言うが、私にはどうしても理解できない。

逆に、私に頭を下げる方が異常ではないのか。

 

「はは、そう言ってくれる人間は残念ながらあまりにも少ない。――なんせ、我々はヤクザ者だ。そこら辺を歩いている一般人より落ちぶれている。例え大組織の頭であろうとそれは変わらない」

 

「……」

 

「だからこれ以上クズに成り果てないため、せめて恩人に礼節を持って接する。私たちが貴女に頭を下げたり礼を返そうとするのはそういう“矜持を保つため”だ」

 

柔らかい微笑みを浮かべているのに、その視線の鋭さと言い聞かせるような声音に何も言えなくなる。

隣にいる張さんも口を挟む雰囲気はない。

 

「貴女が頑なに礼を受け取らないその言動は“そんなことに付き合わされるのは御免だ”ともとれる。……つまらない矜持のためにヤクザ者から礼を受けるのは嫌だと、そう捉えてもいいのか?」

 

「……」

 

 

……どうしよう。

 

まさかそんな風に捉えられるとは思っていなかった。

 

この人は、きっと桜綾さんや香主から私がお礼を受け取らなかった話を聞いていたのだろう。

そうでなければいきなりこんな事を言うはずがない。

 

だが、こっちは隣のヤクザ者と何年も付き合っているのだ。

“マフィアとつながりを持ちたくない”という気持ちが浮かぶ時期はとっくに過ぎた。

 

ここで言葉を間違えたら取り返しのつかないことになるのは明白。

しかも、今度は張さんの立場もかかっている。

 

いつも以上に、慎重に言葉を選ばなければ。

 

 

 

手に力を入れ、深く吸い込み静かに息を吐く。

 

 

 

「そう捉えられてしまうようなことを言ってしまい申し訳ありません。ですが、決してそのようなことは微塵も思っておりません」

 

「……」

 

「私には、貴方が仰るその“ヤクザ者の矜持”とやらは分かりません。きっと誰になんと説明されようと理解できないでしょう。ですが一つだけ言えるのは、そんな貴方がたのおかげで私はあの街で……悪徳の都で安心して洋裁屋を営めています」

 

「……」

 

「私にとって重要なのは、洋裁屋として生き後悔せず死ぬこと。それが満たされればなんでもいいんです。そのために彼にパトロンになってもらっています。だから、今更“ヤクザ者からの礼は受け取れない”なんて考えこれっぽちも浮かびません」

 

黙ってこちらを見据えている龍頭の目線から逸らさず、言葉を区切り再び息を吸う。

 

「むしろ私の望みを叶えてくれている彼が敬服している方々から何か貰おうだなんて、それこそ愚か者の考えでしょう」

 

「……」

 

「それにこうして招いてくださっただけでも、十分すぎるお礼です。これ以上貰ってしまったら罰が当たってしまいます」

 

「……ふむ」

 

龍頭は一呼吸間を空けて反応を示す。

顎鬚をなぞりながら、微笑みを崩さずゆっくりと口を開く。

 

「話には聞いていたが、成程な。……張、席を外せ。お前とはまた後でゆっくり話そう」

 

「は?」

 

「え?」

 

龍頭の唐突の言葉に私たち二人は驚きを隠せなかった。

重なった疑問の声に動じず、彼は張さんに向かって話を続ける。

 

「このお嬢さんと二人で話がしたくなった。構わんな?」

 

「しかし」

 

「外せ」

 

「……は」

 

有無を言わさない龍頭の声音に張さんは何も言えなくなった。

そのままちら、とこちらを一瞥し「失礼のないようにな」と言って腰を上げた。

 

いや、ちょっと待て。

何でいきなり二人きりになるんだ。

 

唐突の事に若干混乱している間に隣にいてくれた彼は颯爽と部屋を出て行ってしまう。

 

しん、と静まる空間に心の準備ができてないまま取り残されどうしていいか分からなくなる。

ひとまず扉から目を逸らし、躊躇いながらも再び龍頭の顔を見据えた。

 

「すまない。少し踏み入ったことを話したくなってな」

 

「いえ、お気になさらず……」

 

踏み入ったこと?

張さんを出て行かせるほど重要な話なのだろうか。

 

一体何を言われるのか、緊張で固くなった体を身構える。

 

「正直驚いた。まさかあそこまではっきり言うとは」

 

「本心ですから」

 

「だが分かっているだろう。あの街にいれば寿命を迎えることなく死んでしまう。理不尽に、無残にな。君が言う“洋裁屋として満足して死ぬ”ことは到底叶わない街だ。邪魔になれば躊躇なく殺し棄てる。それが最も許される場所だ」

 

「……」

 

「日本には帰らないのか?」

 

「……はい」

 

「何故?」

 

「あの街の居心地が好きだからです」

 

急に何の話だ。

龍頭の質問の真意が読めず戸惑いながらも返答する。

 

「帰れない、の間違いではないのかな?」

 

「え」

 

「貴女は我々とも日向側の人間とも違う。その生き方じゃどちらにいようと生き辛い。あの閉鎖的な島国では特にそうだろう」

 

「……」

 

何が言いたいのだろうか。

張さん以上にこの人が何を考えているか分からない。

 

口の端を下げることなく向けられている視線は、逃げることを許さないと言わんばかりに鋭利なもの。

 

「こちらから見た貴女はあまりにも真っすぐで、綺麗で眩しい。その姿は荒野に咲く一輪の花や砂漠の中のオアシスのように、我々に尊いと思わせる」

 

「……そんな綺麗な人間じゃありません。私はそんなんじゃ」

 

「そんなんじゃないと言い聞かせているだけじゃないのか」

 

脳に響く老いを感じさせる声に思わず言葉が詰まった。

それと同時に、どこか心の奥底を見透かされているような感覚に陥る。

 

「本来の自分を否定しそうやって言い聞かせているのは、あの街に溶け込むため“我々と同じ人間でありたい”と渇望しているからではないのか」

 

「……」

 

「そんな貴女は、あまりにも無様だ」

 

とうとう龍頭から微笑みが消えた。

部屋に充満している最大の緊張感が全身を包み込んでいる。

 

 

だがそんなことを気にする前に、彼の言葉に対し腹の底から何かがこみ上げてきていた。

 

「だったら、なんだっていうんですか」

 

「……」

 

「私が、どこでどう生きようと、貴方には関係ないでしょう」

 

拳に更に力が入る。

何故、今さっき会ったばかりの人間にそんなことを言われなければならないのか。

 

私の生き方に口出しする権利は彼にはないはずなのに。

 

「私はあの街で、後悔せずに生きると決めたんです。だから」

 

「そんなのは無理だ」

 

「え……」

 

鋭い声が私の言葉を遮った。

今まで以上に固い声音に、喉に何かが詰まっているかのように再び声が出せなくなる。

 

「貴女は本当に自分を騙すのが得意なようだ。後悔するかしないかは神でもない限り分かるわけがない。そんなことを言いながら、実際何回も後悔しているはずだ」

 

「……そ、んなこと」

 

「ないとは言わせんぞ。その性分であれば後悔するたびに“仕方ない”だの“これでよかった”だのと言い聞かせてきたんだろう」

 

なんとか捻りだした否定の言葉を彼は難なく跳ね除けた。

言葉と声の重みに上から押しつぶされそうになり、今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られる。

 

だが、そんなこと許されるわけもない。

拳を力いっぱい握りしめ、腹の底でふつふつと湧き上がる感情を必死に抑える。

 

「そんな滑稽な生き方が、貴女の本当の望みなのか」

 

「私、は」

 

「心の底から望むものがあの街にあると、本気で思っているのか」

 

瞬間、頭の中で何かが切れた。

 

 

 

――滑稽? だから何だ。

 

 

私がそれでいいと思っているのだから別にいいじゃないか。

 

 

あの街で生きたいと思って何が悪い。

 

 

 

 

「……昔、心の底から欲したものがありました。それを周りが平然と持っていることに、嘆いたこともたくさんあります。――だけど、それはもう絶対手に入らない」

 

「……」

 

 

 

声が震える。

 

息を深く吸い込むこともできず、落ち着きを取り戻すことはできない。

 

 

目の前で悠々とこちらを見ている男性を睨みつけるように見つめ返す。

 

 

 

「手に入らないことを嘆き、ああすればよかった、こうすればよかったと思いながら生きるより、その時その時を必死に生きて死ぬ。これのどこが、滑稽なんですか」

 

「……」

 

「生きるも死ぬも、誰かに命を預けるのも、全てがあの街で自由に選択できるんです。

――何もかも支配され選ぶことを許されず、そのせいで何かを選択するのでさえ恐怖に感じていた人間にとって、それがどんなに尊い事か、貴方に分かりますか?」

 

「……」

 

声の震えが止まらない。それどころか拳まで震えてきてしまっている。

 

ここまで自分の気持ちを吐露したのは、いつぶりだったか。

 

 

 

「私はあの街で“自由に生きている”」

 

 

 

あの場所は、私がどう生きようと誰も咎めたりしない。

自分が何者だろうと受け入れてくれる。

 

 

だから――

 

 

張維新(ヤクザ者)が支配するあの悪徳の都が、私の居場所です……ッ」

 

 

息が荒くなりながらも言い放つ。

 

彼が何をどう言おうと、これが私の本心だ。揺らぐことはない。

 

体の震えを何とか落ち着かせようと、肩を上下させ呼吸する。

息を吸い込み、ゆっくりと吐く。

 

 

「……そうか。そこまで言うなら、もう何も言うまい」

 

 

私の様子を黙って見ていた龍頭が、やがてゆっくりと口を開く。

 

 

「すまなかったな。急に」

 

「……いえ」

 

「桜綾と劉帆から“あんな欲がない人間は見たことがない”と聞いていたのでな。――この世に欲がない人間なんざいない。最初の感じでは君の本当の望みが聞けないと思った。娘を助けてくれた恩人の望みを叶えたいと思ったが故に、話を切り出した」

 

「……」

 

「だが、もう貴女の望みは叶っているんだな。そうとも知らず勝手なことを口走った。申し訳ない」

 

「……大丈夫です。こちらこそ、失礼なことを」

 

「先に無礼を働いたのはこちらだ。不快に思うのは当然のこと。だから貴女が謝る必要はない」

 

この人は本当にそれだけの為にあの話を切り出したのだろうか。疑問に感じたが、これ以上掘り下げるのはやめておこう。

……少し疲れた。

 

「長々とすまなかったな。私の話は以上だ。――今度は張と二人で話がしたい。表にいるはずだから呼んできてくれないだろうか」

 

「分かりました」

 

彼から話は以上と言われたのであれば、もうここに長居する必要はない。

というか、これ以上ここにいたくない。

 

――あそこまで心の奥底を見透かされたのは、彼が初めてだ。

世界に名を馳せる大組織のトップからすれば、小娘一人の胸の内を言い当てるのは簡単な事なのかもしれない。

そのせいか、少し話しただけなのにもう苦手意識を持ってしまっている。

 

だから一刻も早く去ってしまおう。

そそくさと腰を上げ、足早に扉に向かう。

 

 

 

「キキョウさん」

 

 

 

扉の取っ手を掴もうとした瞬間、後ろから名を呼ばれる。

振り返れば、またあの何を考えているか分からない微笑みを浮かべている龍頭と目が合う。

 

「あの街に嫌気が差したらいつでも香港へ来るといい。歓迎しよう」

 

「……お気持ちだけ、受け取らせてください。では失礼します」

 

口の端を上げ答えたが、きっとうまく笑えていなかったはずだ。

それを取り繕う間もなく軽くお辞儀をし、今度こそ部屋を出る。

 

その時「怖がらせてしまったか」と龍頭が呟いていたことは知る由もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――煌びやかなネオンの光に包まれる時間。

寂れた住宅街の端にある、一等人を寄せ付けない家屋。一つの電球だけが照らすその部屋に、二人の男が酒を片手に話をしていた。

 

「珍しいすね、李さんが酒を飲むなんて」

 

「たまにはな」

 

「何かいいことがあったんで?」

 

「まあな」

 

眼鏡を外し酒を嗜む李の様子に腕に刺青を入れている男は興味を示す。

 

「もしかして、そろそろ香港を出れる目途が」

 

「それもある。が、機嫌がいいのはそれだけじゃない。これにはお前も喜ぶと思うぞ」

 

「え、俺も?」

 

「ああ、とびっきりの朗報だ」

 

李はグラスを置き、薄笑いを浮かべながら静かに話を続けた。

 

「今日外に出てアイツらの様子を見に行ったんだ。その時に思いがけない人物を目にした」

 

「思いがけない人物?」

 

「詳しくは話せないがそいつとはちょっとした因縁があってな。張にも恨みはあるが、それ以上に憎くてたまらん。……それがなぜか張と一緒にこの国へ来ていた。ご丁寧にエスコートまでされてたよ」

 

足を組み、苛立ちを隠すことなく舌打ちをする。

その話を聞いている男は首を傾げ疑問を投げかける。

 

「それがなんで朗報なんすか?」

 

「俺にとってあの女は地球上で一番殺したい人間だ。それが目の前に現れた。すなわち、ちょっとした意趣返しをお見舞いできるチャンスが来たってことだ。そのチャンスを使わない理由はどこにもないだろう」

 

「うーん……アンタがそいつをぶち殺したいって気持ちは分かったんすけど、俺が喜ぶ理由ってのは」

 

「そう急くな。こいつを見れば一発で分かる」

 

李は胸ポケットに手を伸ばし、一枚の写真を取り出す。

刺青の男は不思議に思いながら受け取り目に映した。

 

「これって」

 

「髪は短いが黒だ。瞳もその髪と同じくらい黒く顔も整っている。――おまけに、純粋な日本人だ」

 

「……マジすか?」

 

「ああ。どうだ、お前の好みにドンピシャだろ?」

 

写真に写っているのは、男に手を引かれている日本人の女性が遠い距離から撮られたもの。

 

男はその女性に視線を注ぎ静かに口を開く。

 

 

「写真じゃはっきり分からねえけど、綺麗な髪だな……短くしてんのが勿体ねえ。けど柔らかくて、手触りは最高なんだろうなあ。この瞳も絶対実物の方が綺麗なんだ。肌も白くて傷一つねえ。しかも日本人か。――ああ、隣の男が羨ましい」

 

 

恍惚とした表情を浮かべながら男は写真から目を離さずに呟いた。

 

李はその様を眺め、ニヤリと口元を歪める。

 

「気に入ったようだな。そこで、俺からお前に一つ頼みたいことがある」

 

「……なんとなく予想はつきますけどね。なんすか?」

 

そこでようやく写真から李へと目線を写し、ニヤニヤしながら言葉を待つ。

 

 

期待に応えるように、はっきりと告げる。

 

 

 

「その女を殺してもらいたい。もちろん、たっぷり可愛がった後でな」

 

「それは“依頼”すか?」

 

「ああ」

 

「俺のやり方で殺しても文句はない。そういう認識でいいんすね?」

 

「俺はあの女が苦しんで死んだという結果さえあればなんでもいい」

 

その返答を聞き、男はさらに口を歪め嬉々とした声音を発する。

 

「ならその依頼。この殺し屋“(ヨウ) 一诺(イーヌオ)”、喜んで引き受けますよ」

 

「そう言ってくれると思っていた。――さて、早速だが作戦会議でもしようか。行動を起こすのは早いに越したことはない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――龍頭と話をしてから数時間後。

すっかり陽は沈み、香港では人工的な光が辺り一面に輝いている。

 

「ここから見下ろす景色は素晴らしいぞ。俺も気に入っている」

 

「そうなんですか」

 

「ほら、お前もこっちに来い」

 

「いえ、私はここで」

 

「いいから来い。ここで飲む酒は格別だぞ」

 

あの街よりも高く聳え立つビルの一室。そのバルコニーから、ネクタイを取りYシャツにスラックスというラフな格好をした張さんから呼びかけられる。

 

――この部屋は彼の持ち家。つまり自宅だ。

私はてっきりそこらへんのホテルで過ごすものと思っていたのだが、「部屋に空きがあるからそこを使えばいい」となぜか連れてこられてしまった。

 

勿論最初は断固拒否した。私の立場で彼の自宅にお邪魔するのは図々しいにもほどがある。

だが拒否権はないと言わんばかりに全く聞く耳を持たず、私が何を言っても上手い事かわされた。

 

私一人じゃどうにもならないと、彪さんと郭さんにも助けを求めたが二人とも「大哥がそこまで言うなら」と彼の腹心らしい忠実さを見せてくれた。

もうこうなったら最後の手段だとリンさんの背に隠れてみたが、まさかの「ごめんね、今夜はアタシ行くところあるから」とやんわり見放された。

 

絶望にも似た感情に襲われながらも、彼にそのまま引きずられるような形で連れてこられ今に至る。

 

 

広いバルコニーの奥から手招きされるまま彼の隣に歩みを進める。

 

「サングラスかけたままじゃ折角の景色も見えないんじゃないですか」

 

「外してほしいのか?」

 

「どちらでもいいですよ。ただ気になっただけです」

 

「そうか。まあ確かに、美人が隣にいるのにこれは無粋だったな」

 

口元に弧を描きながらサングラスを外し、そのまま胸ポケットに差した。

 

 

本当に、よくもまあ飽きないものだ。

ここで反応を示せば更に何か言われるのは目に見えているので、静かに視線を正面に向ける。

 

 

「でも、本当に綺麗ですね」

 

「向こうより何倍もいいだろ」

 

「私はあの街の夜景も好きですよ」

 

「それは俺と見ているから、と言ってくれないのか?」

 

「……今日はいつもより変な冗談ばかり言うんですね」

 

「そう怒るなよ。これでも飲んで機嫌直せ」

 

誰のせいだと思っているんだ。

こちとらあの何を考えているか分からない龍頭の話に少し疲れているのだ。

そのせいもあり、彼の冗談にノる気力はない。

大人げないと思いつつも、彼から差し出されたグラスを受け取る。

 

干杯(乾杯)

 

二人同時に言葉を発し、そのままグラスに口をつけた。

 

「シナトラセレクトですか。贅沢ですね」

 

「この夜景をお前と見るんだ。折角なら上等な物をな」

 

「お気遣いありがとうございます」

 

「まあ、これを出した理由はそれだけじゃないが」

 

ジャックダニエルの中でも高級なこの酒は滅多に飲まないのだが、彼が出してくれるのであれば有難く飲んでおこう。

値が張るだけあって、とても上品なこの味わいは割と好きだ。

 

「龍頭にちっとばかし苛められたんだ。いい酒飲んで気分を晴らしてやるべきだと思ってな」

 

「……聞いてたんですか」

 

「何を話したのかは知らん。だが、部屋から出てきたお前の顔を見れば一目瞭然だ」

 

「そんなに顔に出してましたか?」

 

「ああ、あんなしょげている様を見れるとは思わなかった」

 

しまった。

私なりに平然を装っていたつもりだったのだが、自覚している以上に参っていたらしい。

 

「すみません……みっともないところをお見せして」

 

「別にそうはいっていない。――ただ、面白くなかったのは確かだな」

 

「え?」

 

「相手があの方とはいえ、会ったばかりの男にこうも短時間で俺の前では絶対見せない表情を引きずり出された」

 

 

普段人前では見せない素顔をこちらに向け、お互いの目が合う。

 

 

「俺は嫉妬しているんだぜ、キキョウ。ここまで大事に育ててきた花が見たことない咲き方をしているのを、俺以外の誰かに見せたことに」

 

「貴方が嫉妬? その冗談を彪さん達が聞いたら笑ってくれると思いますよ」

 

「冗談だと思うのか? ……だとしたら、お前は相当な勘違いをしている」

 

今度は顔だけではなく、体ごとこちらに向けてグラスを置いた。

その表情は、薄笑いを浮かべてはいたがどこかいつもと雰囲気が違う気がする。

思わず自身もグラスを置き、話の続きを待つ。

 

「いいか、俺はお前が思っているほど淡白じゃない。目の前で“殺されても文句はない”と告げられた上に、人前でああもはっきり俺と付き合ったことに一切の後悔はないと言い放った女に何も思わない訳がない。それが俺だけとなれば尚更」

 

「……」

 

「そんな女の全てを手に入れ、独占したいと思うのは男の性だ」

 

一体この人は何が言いたいのだろうか。

彼ほど人心掌握に長けている人物であれば、人生と命を差し出す人間は組織内にもたくさんいるだろうに。現に郭さんがいい例だ。

 

だから何故そんなことを言っているのか理解できなかった。

訝し気に彼を見つめ、黙って言葉の続きを待つ。

 

「なあキキョウ、ここまで言っても分からないのか? 俺がどれほどお前を欲しているのか」

 

「……何を言っているんですか。何回も言っている通り、私の命と腕は貴方の物ですよ」

 

「そういうことじゃない。――本当は分かっているんだろう」

 

彼の口元から笑みが消える。

それと同時に、武骨な手を伸ばし右頬に触れる。

 

 

夜風に当たっているからか、それとも酒が入っていて自身の体温が上がっているせいなのかいつもよりその手は冷たく感じた。

 

 

「確かにお前の命と腕は俺の物だ。だが、男ってのは貪欲でな。手に入れた途端更に求めてしまう。この俺だって例外じゃない」

 

「……私にこれ以上、何を求めているんですか」

 

「全てだ」

 

私の疑問に彼は真剣な声音で即答した。

そこでいつもの雰囲気と違うことをはっきりと感じ取り戸惑ってしまう。

 

 

瞬間、右頬から手を離したかと思えばすぐさま右手を掴まれ引っ張られた。

 

 

 

 

 

――気づいた時には、張さんの顔が目と鼻の先に。

 

 

 

そして逃がさないと言わんばかりに腰に手が回る。

 

 

 

 

あまりにも唐突のことで頭が真っ白になる。

 

 

 

「なに、して」

 

「こうでもしないと、お前は分かってくれないだろう」

 

 

何か言わなければと、混乱し目を逸らしながら言葉を発する。

 

 

「御冗談が、過ぎますよ」

 

「俺の目を見ろキキョウ。冗談だと本気で思っているなら、いつものあの真っすぐな目で一蹴しろ」

 

「……」

 

何故、彼がこんなことをしているのか理解できない。

だからどうしていいのか、何を言えばいいのか分からなくなる。

 

 

目を合わせることでさえできなくなるほどに動揺していた。

 

 

「気丈で儚く、強かで、いざという時は必ず人の目を見るお前が“こういう時”だけはいつも目を逸らす」

 

直ぐ上から彼の声が降りてくる。

 

 

その声音は、冗談だと言うにはあまりにも真剣でいつものように流すことができない。

 

 

 

「――俺はお前の全てが欲しい。身も心も何もかも」

 

 

 

彼は今どんな表情で話しているのか。

体が思う通り動かず、手を振り払うこともその顔を窺い知れることもできない。

 

 

深呼吸を繰り返し、やがてゆっくりと自身の口を開く。

 

 

「私には、貴方が今何を言っているのか、本当に分かりません」

 

「……」

 

「だけど、一つ言えるのは……私にはもう貴方に差し出せるものは、ありません」

 

「……」

 

「この体は、貴方に差し出せるような代物じゃないんです。心だって、“殺されてもいい”というのが精一杯なんです。私にとって、それが限界なんです」

 

自分でもなにを言っているのか分からない。

 

だけど背中のこれは、この人にだけは見せたくない。

心も殺されたいと思う以上の感情はきっとでない。

 

これは揺るぎない、確かな思いだ。

だから、もう差し出せるものは何もない。

求められても困るだけだ。

 

 

「俺では、役不足だと?」

 

「え?」

 

「俺ではお前の全てを受け入れられないと、そう思っているのか」

 

その疑問に思わず顔を上げる。

 

視線が合わさった瞳は、人を撃つ時に見せる昏いものでも、冗談を言っている時のからかったようなものでもなかった。

 

今まで見たことがない眼に、言葉が見つからず黙ってしまう。

 

「お前以上に醜く、腐った人間を今まで嫌というほど見てきた。そして俺は、そういう奴らより何倍も穢れている。――だからこそ、例えどんな傷があろうと、醜い心であろうと受け入れられる」

 

「……」

 

「それでもまだ、足りないのか」

 

 

 

“お前の全てを受け入れる”

 

 

 

 

 

その言葉に胸の鼓動が早まる。

 

 

本当に、そんなことあり得るのだろうか。

 

いや、あり得ない。

いくら彼であっても、こんな醜い体を。ましてやこんなめんどくさい女を欲しがるとはとても思えない。

 

 

 

 

――でももし、言葉通り受け入れてくれるのだとしたら。

 

 

 

もしすべてをさらけ出した時、いつものように笑い飛ばしてくれるのだとしたら。

そんなことが本当にあり得るのだとしたら、どれほど楽だろうか。

 

彼がいつもするように、自身の空いている左手で彼の頬に触れれば、それは肯定と受け取られるのだろうか。

 

この左手を動かして、後悔しないか。

 

もし本当に、許されるのであれば……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――本当に役立たずだな、お前は』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左手を動かすか迷った瞬間、ふと脳裏で蘇る。

 

 

 

 

 

『愛想の一つも振りまけず、ただただ金を毟り取る寄生虫。それがお前だ』

 

 

 

 

 

この数年、ずっと思い出すことのなかった言葉の羅列が重くのしかかる。

 

 

 

 

 

『しかも背中にそんな痕があっては女としても終わりだな。本当に使えない』

 

 

 

 

 

体が硬直する。息を吸うのさえ忘れるほどに、何もできなくなる。

 

 

 

 

 

『お前は誰にも必要とされない。ただの害虫だ』

 

 

 

 

 

 

その言葉を思い出した瞬間、左手を動かす気が失せた。

 

 

 

 

 

――何が“もしも”だ。

そんなことある訳ないと分かっていたはずなのに、何を考えているんだ私は。

 

 

 

「……キキョウ?」

 

「張さん。さっきの言葉、冗談だったとしても嬉しかったです。……でも」

 

一つ息を吐き、右手を掴んでいる武骨な手の上にそっと自身の左手を重ねる。

 

「その言葉は私ではない、いつか出会う本当に口説きたい女性に、言ってあげるべきですよ」

 

 

真剣なまなざしを見据え、微笑みながら言葉を放つ。

 

 

 

「……そうか」

 

 

 

私の言葉を聞いた張さんは一呼吸間を空け、目を伏せながらそう呟いた。

そしてゆっくり右手と腰から手を離し、一歩引いて距離を取った。

 

「全くお前は。俺がここまで言ったというのに、そう返すのか」

 

「……」

 

「一つ聞かせろ。さっきの“冗談でも嬉しかった”は、本音か」

 

「……ええ、嘘偽りはありませんよ」

 

「そうか。それが分かっただけでも十分だ」

 

「え?」

 

「いや、気にするな」

 

何が十分なのか分からず首を傾げる。

だが、気にするなと言われてしまってはそれ以上聞くこともできない。

 

「今日はもう疲れたろ。明日は令爱と香主に改めて挨拶だ。明日に備えて早く寝とけ」

 

「は、はい。……では、張さん。おやすみなさい」

 

「ああ、おやすみ」

 

あそこまで思い切った行動をされたのは初めてで、正直このまま酒を飲む気分ではなかった。きっと張さんもそれを察してくれたのだろう。

 

 

その気遣いを無駄にしないため、短く挨拶を交わし足早にバルコニーから中へと戻る。

 

 

 

 

 

『――俺はお前の全てが欲しい』

 

 

 

 

彼の言葉が頭をよぎり足が止まったが、これ以上考えるのはよそうとすぐさま客室へ歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「――やれやれ、まさかあそこまでとはな」

 

キキョウが去り、広々としたバルコニーで俺はただ一人酒に口をつけていた。

 

「ここまでお膳立てしたってのに。……ちいとばかし性急すぎたか」

 

脳裏には、先程まで腕の中にいた女の戸惑った顔が浮かんでいた。

 

 

――龍頭と話をした後のアイツの顔には正直驚いた。

不器用なりに、基本自分の気持ちを隠そうとするキキョウがまさか初対面相手にあそこまで取り乱していたのは初めて見た。

 

 

だからその後、彪にアイツが好きなジャックダニエルの中でも一級の酒を用意させ、俺のお気に入りの夜景を眺めながらいつものように過ごし、ついでに自分の機嫌をよくしようとした。

 

だが、俺が知らない表情を浮かべたことにどうしようもない苛立ちを感じていたことは無視できず、ついその感情を口走った。

 

もう止めることはできないと、一か八かの賭けに出た。

 

 

 

結果、惨敗だ。

 

 

 

 

だが――

 

「嬉しかった、か。ったく、本当に罪な女だ」

 

全てを受け入れると言った俺の言葉に、あいつは確かに“冗談でも嬉しかった”とそう言った。それは、完全に振られたわけではない。あともう少し、あと一歩で手に入れられる可能性を示す言葉。

 

俺が冗談のように言う口説き文句をいつも呆れたような表情で流してきたアイツが、下手くそな作り笑いで手をかすかに震わせながら告げた。

 

それがどれほどの手ごたえを感じさせたか、誰にも分かるまい。

 

 

「……にしても、一体何に怯えてんだかな。俺の可愛い花は」

 

 

キキョウが僅かに見せた、まるで何かを怖がっている子供のような表情が思い浮かぶ。

その表情は俺ではないまた別の誰かに対してのものだということは一瞬で分かった。

 

 

 

――だが、今度はそんな邪魔者が入る隙なんざ与えない。

 

 

 

この賭けは“まだ続いている”。

最後に勝つのは俺だ。花に巣食う虫如きに負けてたまるか。

 

 








=キキョウが去った後、龍頭と張さんの会話=

「――龍頭、あまりアイツをいじめないであげてください」
「いじめたつもりはないんだがな」
「アイツのあんな表情は俺も初めて見ました。一体どんな話をされたんです?」
「なに、ちょっとだけ“核心”をついただけだ。――ガラにもなく無粋な事をしてしまった。ああいう若い者を見るとどうにも口うるさくなってしまう。私も老いたものだ」
「……」
「張、ああいう女はいつ壊れるか分からん。慎重に扱わなければ跡形もなく消える。それほどまでに儚く、脆い。そんな彼女があの“真っすぐな目”を持っていることに興味が湧いたんだろう?」
「何もかもお見通し、というわけですか」
「まあな。――いいか、彼女を手中に置いていたいならどんなことがあっても手放さないことだ。一度離したら二度と戻らんぞ、あの手の女は」
「……ええ、よく分かっていますよ」
「そうか。……まったく、お前も大変な女を選んだもんだ」
「誉め言葉として受け取っても?」
「好きなように」












やりたいこと全部詰め込みました。
なので結構なボリュームになってしまいました。
だけどその分読みごたえはあったかな、と。

こんな感じでこれからもやりたいこと遠慮なくやっていきたいと思いました。


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31 壊された形見






――翌日、まだ朝日が昇って二、三時間。

結局あの後、色々考え事をしてしまいあまり寝付けなかった。

 

 

なぜ彼が急にあんな行動をとったのか。

 

今までずっと、ああいう時言われる言葉はすべて面白半分なものだった。

なのに、昨夜のあれはいつもと全然違っていて。

演技なのかもしれないと思ったが、それを見抜くことは素人目でできるはずもない。

 

 

……だが冗談だったとしても、あの時の彼の言葉はあまりにも“甘すぎた”。

 

それこそ、縋りついてもいいのだろうかと思わせるほどに。

 

 

全てを受け入れるなんて、そんなことあるはずないと分かっているのに……揺らいでしまった。

 

 

きっと初めてあの腕に包まれたから、混乱して冷静な判断ができなかっただけなのだと、そう結論付けた。

彼がもし私を本当にそういう目で見ていたとしても最後まで抱かれることはない。

 

過去にあの街で彼の隣を歩いていた女性達を見ればわかる。

皆綺麗で、傷一つなさそうな美女ばかり。

 

バラライカさんは私よりも傷が多いが、彼女の傷は戦場で戦ったが故の勲章のようなものだと思っている。

女性の顔についた傷を勲章と呼ぶのはどうかと思うが、とにかく私の背中のこれとは明らかに別物。

 

 

私はそんな女性たちとは、違うのだ。

 

 

万が一この痕を見られた時、あの人に「醜い」と言われ切り捨てられるのは少し嫌だ。

“アイツ”と同じ言葉を彼から聞きたくない。

 

 

 

――改めてそう自覚し、目を閉じて寝付けない夜を過ごせばあっという間に朝日が昇る。

部屋に差し込み始めた陽の光を浴びながらのそのそと体を起こす。

 

部屋を出て、広いリビングに踏み入れる。

家主である彼はまだ寝ているのかしん、と静まり返っていた。

 

顔を洗うべく、昨日案内された洗面台へと歩みを進める。

勝手に借りるのは少々気が引けるが、寝ているところを無理に起こす方がよくないだろう。

少し暗いリビングを後にし、小奇麗な洗面台の前に立ち水を出す。

冷たい水で顔を洗い、残った眠気を覚ましながら近くに置いてあるタオルを手に取る。

勝手に使っていいと他ならぬ彼が言ってくれたので、遠慮なく使わせてもらう。

これもまた質の良いタオルで、柔らかい触り心地で気持ちいい。

 

 

――気持ちよく顔を拭いていると、リビングから唐突に音が聞こえてきた。

 

 

驚き慌てて戻ってみれば、部屋中に鳴り響いているのは固定電話から流れるコール音。

 

 

これは私が取るべきなのだろうか。

いや、でも勝手に出るのはよろしくないだろうし……。

それにもうすぐ起きてくる可能性も……というか、起こしに行った方がいいのだろうか。

 

 

どうしよう、と悩んでいるうちに音が止み、留守番に繋がる。

 

 

 

『――張、俺だ』

 

 

 

聞こえてきたのは、約一か月ぶりに聞く男性の声。

今日改めて挨拶するために会うはずの香主、鄭さんのものだった。

 

『張、いないのか? ッたく、急ぎだっていうのに……』

 

……香主からの連絡をここで無下にしたほうがよくない気がする。

それも急ぎの用であるなら尚の事だ。

 

勝手に出たことは後で謝ろう。

 

 

そう決心し、思い切って受話器を手に取る。

 

 

「お待たせしました。香主、でお間違いないでしょうか?」

 

『……その声は、キキョウさんか? 何故張の家に』

 

「成り行きで……。えっと、張さんまだ寝ているようで。今すぐ起こしてきますので、少しお待ちいただけますか」

 

『いや、ちょうどいい。――実は、俺が用があるのは君なんだ』

 

香主が彼に急ぎの用事でかけてきたのであれば、私が聞くよりも張さんに直接話した方が色々と問題は起こらないだろうと思っていた。

 

だが香主は“私に用がある”と、はっきりそう言った。

 

『今ここで説明するのもいいが、直接見た方が話は早い。張を起こしてすぐこちらに来てもらいたい』

 

「えっと……」

 

『頼む、急ぎの用件だ。張にも後で説明すると、そう伝えてくれ』

 

香主がここまで言うということはそれほど大事な何かがあったのだと理解するのは、いくら私でも容易かった。

一体何があって張さんではなく私に用があると言っているのか分からないが、私がここで返す言葉は決まっている。

 

「分かりました。それで、どちらに向かえば」

 

『すまない。場所は――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――首尾は?」

 

『ばっちりですよ』

 

「そりゃよかった。……いいか、ここからはお前の腕にかかっているんだ。しくじったら一巻の終わりだと肝に銘じておけよ」

 

『俺だってプロだ。んなこと分かってますよ』

 

本当に分かっているのか?

男は出かかった言葉を飲み込み、眼鏡を指で押さえ話を続ける。

 

「その言葉忘れるなよ。また生きて会えることを心から楽しみにしている」

 

『ご期待に沿えるよう頑張りますよっと。じゃ、また三日後に』

 

暗いコンクリートの部屋にツーツー、と音が響く。

 

「たく、若いやつはこれだから。相手を分かっていないというかなんというか……」

 

煙草をポケットから取り出し、ライターで火を点ける。

そのまま肺に煙を入れゆっくりと吐き出した。

 

「俺だったら、敵の本拠地でまた行動を起こそうとする人間を信用なんざできねえがなあ。少し考えればいいように使われていることくらい分かるだろうに」

 

香港に入ってから約半年。短い間で異様に懐いた若者が自身に向ける尊敬の眼差しを思い出し、男は冷ややかな笑みを浮かべる。

 

「若気の至りにしちゃちょっと馬鹿すぎたな。本当に哀れだ」

 

再び煙草を口に咥え、今度は胸の内ポケットから一枚の写真を取り出す。

 

「この女はそんなお前如きにいいようにされるほど軟じゃない。だから“お前には無理だ”」

 

そう呟く男の目は、生気などまるで感じない濁ったもの。

 

「――張維新もこの女も、まとめて俺が“あの街”で始末する。お前じゃ役不足なんだよ」

 

憎悪を胸に抱き、男は吸い殻を下に落とす。

やがて傍らに置いていた黒いガジェットバッグを手に、そのまま冷たく暗いコンクリートの部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――香主から電話を貰って十数分後。

あれから大急ぎで張さんを叩き起こし、自分も外に出て恥ずかしくはない格好に着替え、今は告げられた場所に二人で向かっている。

 

起こそうとしたとき、香主が呼んでいると言っているにも関わらず「夜這いか?」と寝ぼけたことを言ってきたので、水をたっぷり含ませたタオルを顔に被せた。

瞬時に「殺す気か」と言われたが、香主から急ぎの用件で私たち二人に呼び出しがかかっているともう一度丁寧に説明すれば文句を言う気はなくなったのか、黙っていそいそと準備してくれた。

 

そんな感じでバタバタと準備をし、いつの間に呼んだのか郭さんと彪さんが用意した車に乗り込み、黙って揺られている。

 

 

それにしても、一体こんな時間から何があったのだろうか。

香主がわざわざ「私に用がある」と言うほどなのだから、きっと私も無関係ではいられないはず。

 

だが呼び出されるような事をした覚えもない。

もう一度何か思い当たる節はないかと思考を巡らせる。

 

 

……もしかして、昨日の会話で龍頭の怒りを買ってしまったとか?

 

 

確かに、あの時色々と失礼なことをしてしまったのでそれなら納得がいく。

彼は「気にしないでくれ」と言ってくれたが、やはりまずかったのだろうか。

 

「……何をそんな考えているんだ。彼の呼び出しに思い当たる節でもあるのか?」

 

自身の言動を必死に振り返っていると、隣に座っている張さんが怪訝そうに声をかけてきた。

 

「思い当たるというか……やはり龍頭に失礼を働いてしまったことで呼び出されたのかな、と」

 

「それはないから安心しろ。俺と話した時、龍頭は別に怒っちゃいなかった。それどころかご自分が“余計な事をした”と反省までしてたんだ。そんなあの方が後になって、なんてのは考えられん」

 

「じゃあ、なんで」

 

「知らん。だが香主が急ぎだと言ったのであれば、“いい報せ”ではないかもな」

 

その言葉に思わず緊張が走る。

香主の用事がいいものだろうとなんだろうと、少なからず私もそれに巻き込まれることは必然。

 

……できるなら、比較的悪くないものであってほしい。

 

そう心の中で願ったのと同時に盛大なため息を吐きそうになったが、必死にこらえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――お待ちしておりました。どうぞこちらに」

 

車に揺られ数十分。たどり着いたのは香主から電話で聞いていた場所。

 

 

――そこは、3日後に行われる披露宴の会場となっている高級ホテル。

 

海の傍に建てられた高く聳え立ち、景色も最高だということで有名なそのホテルの中で盛大な結婚式が行われる。

 

そんな式の当日に初めて訪れる予定だったのが少し早まった。

その早まった理由を確かめるべく、昨日と同じように三合会の組員らしき人の誘導に従う。

今日はハイヒールではないので、足早な誘導にも問題なくついていける。

 

広いエレベーターに乗り込み会場のある階へと辿り着く。

 

 

 

――ドアが開き、眼前に広がった光景に思わず目を見開いた。

 

 

 

ロビーには、なぜか数十人が集まっている。

目に入ったのはガタイがいい人や顔に傷がある人、鋭い目つきをしている人など様々だったが、ここにいる人たちが“一般人”ではないことは手に取るように分かった。

 

そして、次の瞬間。そんな人たちが一斉にこちらに目線を向けた。

しかも、歓迎しているのか分からない鋭いものを。

 

思わずこのままドアを閉めてしまいたい気持ちに駆られた。

 

「怖くて歩けないなら俺が手を引いてやろうか?」

 

「……結構です」

 

私のそんな様子に、張さんがいつものような冗談を言ってきた。

気を遣ってくれたのかは分からないが、その言葉のおかげでほんの少し緊張が解ける。

 

彼はこういう事に慣れているのか私よりも悠々としており、「フッ」と笑うと歩みを進めた。

その様に『この人について行けば問題ない』と確信し、すぐさま自身も足を動かし後を追う。

 

誰とも目線が合わないように、広い背中だけを見つめ突き進む。

 

「あれが噂のか?」

 

「ああ。なんでも龍頭も認めたって話だぜ」

 

「信用できんのか? 日本人なんだろ、あの女」

 

「思ったより貧相だな。美人っていうからどんなもんかと思ったんだが……」

 

其処彼処で話しているのが聞こえてくる。それでひそひそ声のつもりなのか、または敢えて聞こえるように言っているのか。

別に気にするようなことでもないが、何か言いたいなら直接言ってほしい。

 

陰で噂を話したり聞いたりするのが好きなのはどこの人間も一緒のようだ。

 

再びため息が出そうになったが、めんどくさいことになりそうなのでなんとか押し込む。

今は私よりも大きい歩幅に置いていかれないことだけを注意しよう。

 

 

 

大勢の人間の視線を浴びながらひたすら歩けば、やがて一つのドアの前で立ち止まる。

傍らに立ててある看板には、「等候室」の文字。つまり、控室だ。

 

 

「失礼します。張白紙扇、キキョウ様をお連れしました」

 

「入れ」

 

ここまで誘導してくれた男性がノックし声をかけると、今朝電話越しに聞いた声が返ってきた。

ドアが開かれるとすぐさま「失礼します」と改めて張さんが断りを入れながら中へと進む。

 

「すまないな張、こんな早くに」

 

「お気になさらず」

 

出迎えてくれたのは、約一か月ぶりに会う香主と桜綾さん。

 

 

広い控室には二人以外に、奥のソファに龍頭が座っており、その後ろには部下らしき人達が立っている。

龍頭と目が合い、反射的に会釈すれば彼も軽い会釈を返してくれた。

 

だが、やはり昨日の事で苦手意識を持ってしまっているせいですぐさま目線を外す。

その時目の端で龍頭が困ったように頭を掻いているのが見え、少し申し訳なく思った。

 

「キキョウさん、お久しぶりです。ごめんなさい急に呼び出してしまって」

 

「お久しぶりです桜綾さん」

 

目の前にパタパタと駆けてきた彼女が、3日後には念願の式を挙げられる。

桜綾さんにとって幼い頃からの願いであった分、その顔はとても幸せそうな表情。

 

 

 

――とはかけ離れたものだった。

 

 

 

「相変わらずお元気そう……ではありませんね。どうされたんですか」

 

話し相手を務めていた時、あんなに楽しみにしていたとは思えない程悲しそうな瞳をしている。

折角の結婚式が間近に迫っているというのに、一体何があったのだろうか。

 

「……見ていただいた方が早いと思います。どうぞこちらに」

 

一呼吸間を空けてそう言うと、私の手を取り引っ張っていく。

それに逆らうことなく、誘導されるまま足を動かす。

 

後ろから数人着いてきているのを感じながら、部屋の奥にあるドアの前で止まる。

 

「ここは私の衣裳部屋です。ウェディングドレスと披露宴用のドレスを置いてたんです」

 

桜綾さんはどんな部屋なのか説明しつつ、そのドアを開ける。

明かりが点いておらず、中の様子が全然分からない。

 

目を凝らして見ようとしていると、彼女がすぐに電気をつけてくれた。

 

 

 

――瞬間、目の前に広がった光景に驚愕する。

 

 

 

「……これは」

 

「昨日の夜までは普通だったんです。それが、今朝見に来たらこんなことに」

 

「……」

 

あまりの出来事に言葉が出てこない。

 

 

披露宴用であっただろう紫、黄色、薄桃色の三着のドレス。

そして、彼女が一番思い入れがあるはずの純潔の象徴である白のウェディングドレス。

 

 

 

――それらすべてが、ズタズタに引き裂かれている状態でトルソーにかけられていた。

 

 

 

近くの机の上には、恐らくこうなる時に生まれたであろう布の残骸が山のようにまとめてある。

 

「これは酷いですね」

 

「ああ。特にウェディングドレスが酷い有様だ」

 

後ろで張さんと香主が会話しているのが聞こえてくる。

どことなく、怒りの感情が声音に乗っているような気がした。

 

「ずっと前から準備してたんです。このウェディングドレスを着て式を挙げることが、夢だったんです。それなのに……ここにきてこんなことに」

 

桜綾さんの瞳には涙が溜まり、今にもあふれ出しそうだ。

 

「……桜綾さん。こういう状況なのであれば、今すぐにでもこのドレスを仕立てた方や業者に直してもらうか、新しいものを用意するべきです」

 

「……」

 

「幸いまだ3日あります。既存の物になるでしょうがないよりは」

 

「あのウェディングドレスは、母の形見なんです」

 

「……え?」

 

「母が父と結婚するときもあのドレスを着たんです。私が4歳の頃にちゃんと式を挙げて……。あの時の母の幸せそうな顔は今でも忘れません」

 

母の形見。

そんな大切なドレスがこんな有様では、泣きたくもなる。

それどころか犯人を罵詈雑言で責めても足りないくらいではないのか。

 

「滅多に依頼できない素晴らしい腕を持った洋裁屋さんに特別に仕立ててもらったものらしいんです。その方がどこにいるのかは分かりません」

 

「なら業者に頼むべきですよ。この国にだって腕のいい洋裁屋は何人でもいるでしょう」

 

「それが……」

 

「色々当たったんだが、“こんな代物をこの状態から完全に修繕するのは無理”だと断られた。早く新しいものを買った方がいいと、全員口を揃えて言いやがった」

 

言い淀む桜綾さんの代わりに香主が怒気を隠さずに話してくれた。

 

「それでも、どうしても着たいんです。……我儘だって分かってます。でも、やっとここまできたのにそんなすぐに諦めたくない」

 

肩を震わせ、悔しそうな表情を浮かべる彼女を何も言わず見据える。

やがて桜綾さんは目に涙をためたまま、再び口を開く。

 

「キキョウさん、貴女は私が知る洋裁屋の中でも一流の腕を持っていらっしゃいます。もう私たちが頼れるのは貴女しかいません」

 

「……」

 

「無礼であることは百も承知です。助けてもらった上に客人である貴女に、頼むのは本来するべきことでないことも分かっています。でも、どうしても諦められないんです」

 

「……」

 

「キキョウ様。どうか、せめて母の形見だけでも式までに修繕していただけませんでしょうか? ――お願いします」

 

桜綾さんは凛とした声音でそう言うと、すぐさま頭を下げてきた。

 

 

 

まさかここにきて依頼が来るとは思わなかった。

それも、とてつもなく切羽詰まった悪い状況というおまけつき。

 

 

 

再び、酷い有様と成り果てたドレスたちを目に映す。

 

 

 

見た感じ、確かに披露宴用のドレスよりもウェディングドレスの方が被害が大きいように感じる。

元の形が分からないので何とも言えないが、構造が複雑な物であれば3日……いや、正確には2日と数時間では完全に修繕するのは難しいかもしれない。

もっと時間に余裕があればまだ可能性はあっただろうに。

 

だが、私の腕を見込んでわざわざ頭を下げてまで依頼する彼女の気持ちを知ってなお、「いや無理です」と頭ごなしに断るのはしたくない。

 

 

どうしたものかとしばらく考え、「これならば」と意を決して頭を下げたままの桜綾さんに声をかける。

 

 

 

「頭を上げてください、桜綾さん」

 

「……」

 

「今から依頼を受けるか受けないか決めるための話をさせていただきます。面と向かって話したいのでどうか上げてください」

 

「え?」

 

断られると思ったのか肩を一瞬ビクッとさせても頭を上げてくれなかったが、二回目には不思議そうにしながらもこっちを見てくれた。

不安そうに揺れる瞳を見据えながら、話を続ける。

 

「ひとまず、ドレスの状態をちゃんと見させてください。それと、こうなる前のウェディングドレスの写真はありますか? それも含めて検討します」

 

「は、はい……! ぜひお願いします!」

 

「ありがとうございます。あ、あとすみません。どなたか手袋を貸していただけませんか? 直接触ってこれ以上汚したくないので」

 

「郭、お前持ってるだろ。綺麗なら渡してやれ」

 

「は」

 

こんな状態であろうと、着るかもしれないドレスなのだ。なら丁重に扱うのが普通だろう。

私の頼みに張さんが即座に反応し、持ち歩いているであろう郭さんに声をかけた。

郭さんが歩み寄り「まだ使ってないヤツだ」と言いながら差し出してくれた手袋を礼を言いながら受け取る。

 

 

瞬時に両手に嵌めて、「では失礼します」と断りをいれてからドレスに手を伸ばし状態を見る。

 

 

 

 

見た感じ、これは恐らく元の形はマーメイドラインだ。

膝までは体にフィットさせ、裾が人魚のように広がっているもの。

体のラインが特に強調されるこのドレスは、高身長ですらっとしている女性が着ることが多い。

 

「これが、ドレスの写真です」

 

「ありがとうございます。拝見しますね」

 

これはあくまでも予測なので実際はどうなのかと写真を見る。

 

 

 

――そこにはマーメイドラインのウェディングドレスを着た桜綾さんと、白のタキシードに身を包んだ香主の姿。

 

いつもなら「幸せそうですね」と一言添えるべきなのだろうか、生憎そんな余裕はないので今回は勘弁してもらおう。

 

 

 

改めて写真とドレスを見比べる。

 

 

 

確かに、一見すればマーメイドラインと区別されるドレス。だがよく見ると、裾の一部にスリットが入りその部分に素材の違う布を挟んでいる。そのおかげでピシッとした印象だけでなく、柔らかな雰囲気も感じさせる。

それだけでなく、このドレスにはあまり見られない先が三角形となっているポインテッド・スリープという袖となっている。

 

――普通、ウェディングドレスにスリットを入れようとする花嫁はあまりいない。

近年確かにセクシーさを売りにするドレスが流行りつつあるが、ウェディングドレスとなるとまだまだ馴染みのある形ではない。

それに上半身と裾で布の素材を分けることはあっても、裾の部分でこうもあからさまに違う素材を使うのもあまり見られない。

だが、エレガントとセクシーさ、そして柔和さを絶妙なバランスで醸し出せるこのドレスを仕立てるにはそれなりの大胆さは必要である。

 

こんな型破りなことをしながら何一つ魅力を欠かすことなく仕立て上げる職人を、私は一人だけ知っている。

 

だが、香港で働いていたなんて聞いたことない。

 

 

あの人とはまた別の人なのだろうか。

 

「あの、キキョウ様?」

 

「……すみません。少し考え事をしてました」

 

後ろから桜綾さんに声をかけられハッとする。

今は誰が作ったなんて考えている場合じゃない。

 

問題なのは目の前にある“一級品”をどうするかだ。

 

「単刀直入に申し上げます」

 

振り帰ると、いつの間にか龍頭と複数の部下の人たちも来ており一瞬驚いたが、すぐさま気を取り直し不安げな表情の彼女を見据える。

 

「これは完全に修復するのは不可能です。このような状態から以前の形に何の違和感もなく修繕できるのは、このドレスを仕立てられた方しか無理です」

 

「え……」

 

「このドレスはそれほどまでに“素晴らしすぎる”んです。他の方々が口を揃えて“無理”だと言ったのは、その逸品を実物を見たこともないまま再現するにはあまりにも期限が短すぎることにあります」

 

写真を見ただけでもこの魅力であれば、実物はそれ以上に魅了される。

そんな代物をたった2日と数時間で修繕するのは、私がどんなに頑張っても無理だ。

 

 

――完全に修繕することは。

 

 

「どうしても以前の状態へ完璧に戻したいのであれば、何が何でも仕立てられた方を探すしかありません。残念ですが」

 

「そんな……」

 

「……」

 

桜綾さんは再び下を俯き、そのすぐ後ろで香主は真剣な顔で黙っている。

何人かに鋭い目線を浴びせられているが、それには構わず再び口を開く。

 

「――ですが、全く用意できないわけじゃありません」

 

「……え?」

 

さて、ここから本題だ。

この話を受け入れてもらえなければ、もう私にできることは何もない。

 

「ここにある切れ端とそこに掛けてある状態の物を基に、違う形のドレスを仕立てあげることはできます」

 

「……それは」

 

「勿論、元の形とはかけ離れたものになるでしょう。しかし“このドレスを着て式に出る”という貴女の願いを、短い時間で叶える方法はこれしかありません」

 

「……」

 

そう、私達洋裁屋が無理だと言ったのは“完璧な状態”に戻してほしいという依頼だったからだ。それに加え短い時間でという条件なら尚の事。

 

だが、元の形に拘らないのであれば話は変わってくる。

かなりギリギリではあるが、やれないことはない。

 

「貴女がこの話を受け入れてくれるのであれば、私は全身全霊をかけて貴女に似合うドレスを仕立てることを約束します」

 

「……」

 

「ですが決めるのは貴女です。どうしてもお母様と全く同じものを着られたいなら、断ってください」

 

「……」

 

「どうなさいますか?」

 

私の問いかけに桜綾さんは俯き、黙ってしまった。

 

これは彼女にとって苦渋の決断となるだろう。

あんなにも拘っていたものを諦めなければならないのだから。

 

だが、それでもいいと言ってくれたなら、私なりにその思いに全力で応える。

私にはそれしかできない。

 

「――令爱」

 

しばらくしても何も言わない桜綾さんに、今度は張さんが話けてきた。

 

「このドレスを仕立てた人間がどれほど一流なのかは知りません。ですが、目の前にいる洋裁屋はそれと同等。それ以上の腕を持っています」

 

彼の言葉に耳を疑う。

一体何を言い出すんだこの人は。

 

そうやって期待を煽るのはやめてほしい。

だがこの雰囲気で話を遮る勇気もなく、黙っていることしかできなかった。

 

「そんな一流の洋裁屋が“全身全霊をかけて依頼をこなす”と約束した。なら貴女にこの世で一番似合う最高なドレスが出来上がるはずです」

 

「……」

 

「こいつはできないことを易々と請け負う人間じゃない。そして、自分でした約束は必ず守ります。――そうだな、キキョウ」

 

「……ええ。約束を守らないのはただの屑ですから」

 

約束を守る。それが私にとって一番の信条であることは彼はよく知っている。

何を考えてあんなことを言ってるのか分からないが、余計なことは言わず素直に肯定する。

 

桜綾さんは張さんの話を聞いても俯いて黙ったまま。

 

「桜綾、もう子供じゃないんだ。いつまで悩んでいても何も解決しないことくらい分かっているだろう」

 

「……」

 

「早く決めなさい」

 

龍頭までもが真剣な声音で決断を促す。

それでも未だ俯いて何も話してくれない。

 

 

これは、どうしたものか。

 

 

父親である彼の言葉も効かないなら、もう何も言うべきではないのかもしれない。

だが時間がないのも事実で、やるなら早く動きたいのが本音だ。

 

そう思っていても、彼女の決断がない限りどうすることもできない。

 

 

 

「――桜綾、君があのドレスに強く拘っていることは俺が誰より知っている」

 

 

 

どうしたものかと頭を悩ませていると、香主が桜綾さんの両肩を掴み、柔らかい声音で話始めた。

 

 

 

「だが俺は、正直何でもいいと思っている」

 

「え……?」

 

「例えボロ布に身を包んでいようと、俺の妻であることは変わらない」

 

「……」

 

「だが叶うなら“世界一のドレス”に包んだ君を拝んでみたい。幸いなことに、ここにそれを仕立てることができるらしい洋裁屋もいらっしゃっている」

 

「……」

 

「桜綾、俺のその願いを、我儘を聞いてくれないか?」

 

 

目の前で繰り広げられた会話に思わず「うわ」と声に出しそうになった。

 

いや、別に悪い意味ではなく、単純にずるい言い方だと思った。

幼い頃から惚れていた彼にあんなことを言われた上で“お願い”されれば、彼女が無下にできる訳がない。

 

 

ずっと傍にいた婚約者だからこそできることなのだろう。

 

 

 

「――キキョウ様」

 

 

 

やがて、今まで俯いていた顔をこちらに向け、あの綺麗な茶色の瞳で見据えられる。

 

 

 

 

「私に最高なドレスを、仕立ててくださいますか?」

 

 

 

 

 

意を決したような表情で告げられたその言葉は、彼女が苦渋の決断を下した何よりの証。

 

 

ここで私が返すべき答えは、たった一つ。

 

 

 

 

 

「荘 桜綾さん。貴女のその依頼、承りましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 








龍頭「(なんでいつも劉帆の言う事はすんなり聞くんだ。父の言葉には何も反応しないというのに)」
香主「(……龍頭の視線が痛い)」
張「(目合わせたらとばっちりを喰らいそうだ)」


みたいなことを思ってたり……。






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32 一流たる所以








 

かつて、「東洋のカスバ」という異名で名を馳せたスラム街があった。

国の法が一切通用しない無法地帯では売春、麻薬の取引は当たり前。殺人なんて珍しい事ではなかった。

密集していた建物と建物が支えている状況でなんとか保てられていたその場所は今や取り壊され、観光地として様々な人間が往来し以前の狂気さは失われている。

 

 

 

――跡地の一部である優雅な公園を昼間から一人で歩いている男もまた、そのスラム街で生まれ育った一人。

 

 

 

男はベンチに腰かけ、晴れ晴れとした雲一つない空を見上げた。

 

 

 

「これでここも見納めか。いやあ、長かったな」

 

 

男はそう呟きながら、この場所で受けてきた数々の仕打ちを思い返していた。

母は外に男を作り自分を捨て、父は酒と麻薬に溺れ金を湯水の如く使い、金がなくなっては作ってこいと殴られた。

 

そんな親を親と思わなくなるのに時間はかからなかった。

 

殺し殺されるのが許される場所で育った子供が親の血で手を汚すことに躊躇いがあるはずもない。

元より一人で生きていたようなもの。それからは貧しさから逃れられなかったものの、父親の面倒を見ているときより何倍もマシだった。

 

時には麻薬の密売を手伝い、潜り込んでいた警察官に賄賂を渡し罪を逃れ、女だろうが子供だろうがムカつく人間は殺す。

そうやって生きていれば裏家業というものに就くのは自然なことで、17歳になった頃には依頼で人を殺すようになっていた。

 

 

 

死んだように生きていた。

 

 

 

 

――そんな男に半年前、思わぬ転機が訪れた。

 

 

 

よく依頼を持ってくる三合会の幹部の一人の紹介である男と出会った。

世界中を飛び回り、独自の麻薬流通ルートをいくつも持っているという凄腕の密売人だという。

 

その人物は男を見つけては食事に誘い、いろんな話を男に聞かせた。

 

イタリアで流行り、最も危険視されている麻薬を再び世に放ったこと。

アメリカで警察官相手に取引していること。

黒社会であるこの香港で自分の腕を試したくて来たこと。

 

気さくな態度で話されるその内容に、裏社会で生き、ドブネズミと蔑まれた男が興味を惹かれない訳がなかった。

 

そんな密売人と酒の席を共にしている中で「この国を出ないのか」と問われた。

自分のような人間はこの腐った場所で腐るように生きるのが丁度いい。酔った勢いでいつもは言わない弱音に似た言葉を返す。

 

 

それを聞いた密売人は、いつもより真剣な表情で話を始めた。

 

 

『――自分の限界を決めるのは自分だけだ。まだ若いのに勿体ないと思わないのか』

 

『……あのねえ、俺はあんたと違って頭も器量もよくないんすよ。ドブネズミにはドブネズミの生き方が』

 

『俺は鼠と食事や酒を共にする趣味はないぞ』

 

『……え?』

 

『ただのドブネズミがマフィアの幹部によく使われる殺し屋にはなれやしない』

 

『あいつらは切り捨てやすい人間を使っているだけだ』

 

『少なくても俺は、お前の殺しの腕は世界にも名を轟かせられると思っている。それほどお前を評価しているつもりだ』

 

『……冗談止めてくれよ。気色ワリぃ』

 

『気色悪いか。なら回りくどいのはやめにしよう。――自分の腕がどこまで通用するのか試してみたくないか?』

 

『は?』

 

『自分がただのドブネズミではないと。自分を侮辱した人間を見返し、自分は優れていることを見せしめたいと思わないか』

 

『なに、言ってんだ』

 

『自分の生きた証をより多くの人間に刻み、名を聞いただけで恐れられる。これ以上に殺し屋冥利に尽きる事はないだろう』

 

『……』

 

『こんな小さい国でちまちま稼ぎながら大したことのないスリルを味わい続けるより、世界に名を馳せ続けるために生きた方がよっぽど楽しいと思わないか』

 

『……俺は』

 

『己が本当に欲しいものを手に入れろ。お前にはその権利がある。“強者”としての権利がな――』

 

 

次々と投げられる密売人の言葉に、男は心を動かされた。

 

 

 

 

“こんなところで終わる人間ではない”

 

 

 

そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。

 

 

 

少しだけあった憧憬の念が、男の中で盛大に膨れ上がった瞬間だった。

 

 

 

――それから男は密売人に心の底から惚れこみ、行動を共にした。

 

 

その時間は人生で一番と言ってもいいくらい充実し、満たされていた。幸福とはこのことかと本気で感じるくらいに。

 

そんな時間をくれた憧れの人物から初めて依頼された。

“期待に応えたい”と思うのは当然で、今まで一番やる気に満ち溢れていた。

 

 

男はポケットから一枚の写真を取り出し、ニヤリと口の端を上げる。

 

 

 

「本当に綺麗だなあ。ああ、早く会いたい」

 

 

 

写真に写る一人の女性を見ながら恍惚な表情を浮かべる。

 

 

「その素晴らしい黒髪も、純粋な黒い瞳も、整った顔も、柔らかい胸も、綺麗な指先も全部可愛がってやる。その後は苦痛で流れる涙を舐めながらゆっくり殺してあげるからな」

 

そう呟いた後、男は舌を出し写真を舐め上げる。

唾液に塗れたその写真を大事そうにポケットへ戻し、軽い足取りでその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――キキョウちゃん、いい加減仮眠取って」

 

「大丈夫です」

 

「ダメよ、今すぐ寝なさい。2時間経ったら起こすから」

 

「ここで手を休めたら確実に間に合わなくなります」

 

「完成する前にアナタがぶっ倒れるわよ。いいから寝なさい」

 

「修繕が終わったら寝ます。……すみません、お願いですから今は話しかけないでください。集中が切れます」

 

「……はあ」

 

桜綾さんから依頼を請け負ってから2日目。

やはり作業がそう順調に進むはずもなく、睡眠も食事もほぼ取らず動きっぱなしな状況だ。

後から事情を知ったリンさんが今朝私の様子を見に来た途端、「このままじゃドレス仕上がる前にぶっ倒れますよ!」と張さんに激怒していたのは覚えている。

部屋中に響く声で繰り出されている会話を聞いてる余裕はなく、ひたすら手を動かしていたので細かいところは曖昧だ。

 

――そこからリンさんは何回も「寝ろ」と言ってくるが、そのたびに「大丈夫」と言い張り作業を続けている。

正直、このまま動き続けているのは辛い。本音を言えば今すぐ部屋にある柔らかい高級ベッドにダイブして寝てしまいたい。

 

だが、そんな余裕はないし一度寝たらもう終わりだ。

 

桜綾さんに似合う最高のドレスをあと一日と十数時間で完成させなければならない。

 

デザインを考えて考えて考え抜いてやっと納得のできるものを見つけ、簡単な型紙を作り、ひたすら布を切ってはミシンで糸を通し、仮の形に仕立てイメージと違えばまた作り直す。

 

 

つまり、ほぼ一から作っているのと変わらない。

 

ウェディングドレスだけでもこの状態なので、他のドレスについては別の物を用意してもらうことになった。少し申し訳なかったが、これ以上仕事を増やしてしまえば確実に間に合わない。

 

 

なので、かつてないほど作業に全力を注がねばならない。

そのために、パトロンである彼に色々と注文した。

 

人の出入りが少なく作業場となるような広い部屋。

職業用ミシンと私では滅多に手に入れられない高級な布。

念のため持ってきていた私の裁縫道具。

その他諸々の細かい道具と小物。

 

私が依頼をこなすために必要な物をすべて頼んだ。

 

今までこんなに遠慮なく頼ることはなかったため彼も少し驚いていたが、「パトロンとして当然だな」と快く用意してくれた。

 

 

そのおかげでこうして気兼ねなくドレス製作に集中できている。

 

そんな彼の行動に感謝しながら一刻も早く完成させるべく無言でミシンを動かし、布と布と縫い合わせスカートの部分を作る。

上半身は元々形を少しだけ変えるだけだったのでそこまで時間はかからなかった。

後はスカートの部分なのだが、これが思った以上に難しい。

 

私が考えたデザインは、スカートの部分が何よりの決め手となっている。

長さ、緩やかさ、すべてに置いて気が抜けない。

しかも、破られたときに生まれた切れ端と高級な布のバランスも考えなければならない。

 

仮縫いの時点で何回も何回もイメージと違うものとなってしまい、行き詰ってしまっている。

 

心の中で次々と生まれる不安と焦りを感じながら、端まで縫い終わり上半身と合わせようと立ち上がった瞬間。部屋に置いてある時計から十六時を知らせる音が鳴る。

 

 

丁度いいタイミングだと、布から手を離し足を動かす。

 

「ちょっとキキョウちゃん、どこ行くの?」

 

「シャワー浴びてきます」

 

「その前に寝た方がいいわよ」

 

「ですからそんな時間ないんです」

 

「シャワー浴びる時間はあるのに?」

 

「体が汚い状態で触るわけにはいかないので、これも仕事の内です。……というか、リンさんまだいたんですね」

 

「いけない?」

 

「そうですね。一人の方が集中できるので」

 

「……」

 

「……すみません、今は気遣える余裕がないんです。なので、私がシャワー浴びてる間に部屋を出てもらえると有難いです」

 

心配してくれている人にこんな言い方普段はしたくないがもうそんな余裕はない。後でいくらでも文句は受け付ける。だから今は勘弁してほしい。

 

その意味も込めて言葉を放つ。

黙ってしまったリンさんを見ることなく、そのままシャワー室へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――本当に根っからの職人って感じね。まあ、それがキキョウちゃんらしいけど」

 

キキョウちゃんがシャワー室へ入ったのを確認し、アタシは洋裁屋の作業場と化している部屋を出た。

この国に来てまで依頼をこなすあの子もそうだが、それ以上に桜綾様のドレスが破かれたという事実に驚きを隠せなかった。

話を聞いた時、周りの人間は何しているのかと呆れたものだ。

 

香主と龍頭が気を抜くことはあり得ないと我らがボスは言っていたが、だとしたら相手が相当上手か、三合会の人間が役立たずかのどちらかだろう。

自身が身を置いている組織がそんな体たらくではないことを心から祈るばかりだ。

 

 

――普通、強引と言ってもいい手段で招かれた挙句、落ち着く暇もなく無理難題を押し付けられたなら嫌味の一つ、文句の二つや三つ言いたくなるものだ。

 

 

だが文句も、泣き言も一切出すことなくすんなり依頼を受けたと聞いた。

 

あの超一流の可愛い洋裁屋は、依頼をこなすためなら自分を追い詰めることを平気でする。

 

いつだったか、依頼がひっきりなしに入っているのを把握してなかった大哥がいつものように一杯誘おうと家に行ったら、やつれた顔のあの子が床に倒れていた。ということがあった。その時の大哥の様子は今思い出しても笑えてくる。

 

……まあとにかく、あのイカれていることで有名な洋裁屋は自分の体がどれほど悲鳴を上げようと、依頼をこなすか倒れるまで動き続ける。

 

アタシからしてみれば気が気じゃないのだが、本人がそれで死んでも別にいいと思っているので色々な意味で何も言えない。

 

そんなあの子がすんなり休んでくれるわけもなく、それどころか忠告するアタシに向かって「邪魔だから出て行け」とまで言ってくる始末。

普段どんな相手であっても温厚に、柔軟に対応するあの子がそんなことを言うとは思わず驚いたが、それほどまでに切羽詰まっているのだと改めて理解した。

 

 

 

――だが、あの様子ではいつ倒れてもおかしくない。

 

職業柄家に籠りがちなあの子は全くと言っていいほど体力がなく、走ったり階段の上り下りをすれば息切れを起こし、熱を出そうものなら必ず三日は寝たきりの状態になる。

 

そんな、ザ・インドアな人間が昨日から口にしているのは少量の水のみ。それに加え一睡もしてない状況で休まず動き続けているのは非常にまずい。

 

人間は二日寝ていない状態が続けば、死にはしないが正常な判断が難しくなり、記憶障害や精神パニックを起こしやすくなる。その上に一日で最低限必要な水分も摂っていないとなると尚更だ。

 

あの子の様子を知っていたはずの大哥や彪、郭のクソ野郎は人間はその程度では死なないと本気で思い込んでる節がある。

あの顔色の悪さを見てアタシに何も言ってこなかったのはそのせいだろう。

 

ヒトは小さな傷口から入った細菌一つ、小さな石ころ一つ、ちょっとしたストレスで死ぬ脆い生き物。

それを彼らは全く理解していない。

鉄火場を生き抜いてきた人間のそういうところが嫌いだ。

アイツら全員一回病気で死にかけてみればいいと思ったのは言わないでおく。

 

 

まあ、馬鹿な男たちの事はこの際どうでもいい。

アタシとしては、あの可愛い女の子が無理をして倒れるのをどうにかしたい。

あのままじゃあの子が一番成し遂げたいことを為す前に倒れてしまう。

それはあの子は勿論、ひいては香主や桜綾様、大哥にとってもよろしくないことだ。

 

医者として、あの子の付き添いとしてこの状況を見過ごすわけにもいかない。

 

ならアタシがするべきことは、比較的あの子が言う事を聞く人物に一刻も早く報告し、対処してもらうこと。

 

昨日から自宅ではなくこのホテルの一室に泊っている我がボスに会いに行こうと足早に廊下を歩く。

その部屋まであと少し。

 

 

――というところで、やはり警備に当たっていた“アイツ”と目が合った。

 

「リン、まさかまだキキョウのところにいたのか」

 

「うっせえクソ野郎。アタシの前にその顔見せんな」

 

「お前からやってきたんだろうがクソ女」

 

「……チッ」

 

ああもう、彼の周りには必ずこいつがいるからあまり行きたくないのに。

いつもより苛立っているせいもあり、言葉遣いが荒くなる。

腐れ縁であるこのクソ野郎はアタシの言葉に眼光を鋭くさせてきたので、舌打ちだけ返してやった。

 

「いつもより機嫌悪いじゃねえか。ま、大方キキョウが言うこと聞かなかったんだろうが」

 

「あ?」

 

「お前は昔から上手くいかないときはそういう口調になる」

 

「ならさっさとそこをどけクソ野郎。ここにアタシが来た理由くらいその空っぽな脳みそでも分かるだろうが」

 

「一言余計だクソ女。……大哥の前ではその口調控えろよ」

 

一応直属の上司である彼にこんな言葉遣いはしないわ馬鹿野郎。

 

そう反論するのもよかったがこいつにいつまでも構っていられない。

郭がドアの前から退いたと同時にノックをする。

 

「大哥、リンです。少しお話ししたいことが」

 

そう投げかければすぐさま「入れ」と声が返ってきた。

許可の言葉を聞いた瞬間、一言断りを入れながら中へと入る。

 

珍しく少し髪を乱れさせ、ソファに腰かけながら紫煙を燻らしている人物へ歩み寄る。

 

「束の間の休息中失礼します。アタシの話はお分かりでしょう?」

 

「キキョウの事だろう。どうだアイツの様子は」

 

「はっきり言って無茶です。あれじゃドレスが出来上がる前に倒れます。というか、もう倒れてもおかしくありませんよ。今動けている方がおかしいです」

 

「……で?」

 

だからなんだ。と言いたげな口調に苛立ったが平静を保ちつつ話を続ける。

 

「大哥、非常に残念ですがアタシの言葉じゃあの子を動かすことはできません。三時間、いやせめて二時間だけでも寝るように貴方から言って」

 

「分かってねえな、お前」

 

「は?」

 

「今のアイツがたかが言葉一つで手を休めると思うのか?」

 

何言ってんだこのグラサン野郎。

 

アタシだってあの子を見てきたひとりだ。

アタシの言葉よりあんたの言葉の方があの子にとって重要なのだと分かっている。

 

 

だからこうして話をしてるんだろうが。

 

 

「……貴方の言葉はあの子によく効くんですよ。それは貴方が一番分かって」

 

「俺の言う事なら何でも聞くと? それならどんなによかったかねえ」

 

目の前のマフィア野郎が何を言いたいのか分からない。

優雅に次の一本を吸おうとしている行動も相まって更に苛立ちが募る。

 

「アイツがこういう時俺の言葉を素直に聞いたことは滅多にないんだぜ。そしてアイツは“死んでも仕事を為す”つもりだ」

 

「死んだら仕事もクソもないでしょう。ドレスを完成させることができるのはあの洋裁屋だけ。その洋裁屋が仕事を為せなかった時はアンタも無事じゃすまない。なんたってアンタはあの子の飼い主に他ならないですからね」

 

「まあ、お前の懸念はごもっともだ。……ハッ」

 

 

 

……この男、今鼻で笑ったか?

 

 

たった一つの些細な事。

だがアタシの言葉を“馬鹿らしい”と言わんばかりのその態度に忍耐力が限界を迎えそうだった。

 

「確かにアイツはこれまで何度も自分の限界を超え、その度お前の世話になった。それは事実」

 

「……」

 

「だが、アイツは仕事の途中で倒れたことは一度もない。そうだろ?」

 

その言葉に目を見開く。

 

――確かに、考えてみればあの子は全て仕事を終わらせてから倒れていた。

仕事を途中で投げ出すような真似は一切見たことがない。

 

どんなに大量の依頼を抱えていても、どんなに難しいものであっても、依頼人が届けてほしい日までには必ず間に合わせる。

 

 

 

それが、洋裁屋キキョウが悪徳の都で数々の信頼を得ている所以の一つ。

 

 

「それは今回も変わらない。――アイツは必ずやり遂げる。必ずな」

 

「……」

 

「俺達にできるのはな、リン。キキョウの仕事の邪魔をしないこと。そして、大仕事を終えた暁にはたっぷり甘やかしてやることだけさ」

 

堂々と言ってのけるその様に、何も言えなかった。

やはりこの男があの子の手綱を握っているのだと嫌でも思い知らされる。

 

そう思いながら、これ以上の話は無意味なので「そうですか。では失礼します」と短く返答する。

 

 

 

――ああ、そのクソむかつくドヤ顔を一発殴ってやりたい。

 

 

 

そう心の中で呟き、足早に部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

――リンが苛立ったような表情でこの部屋を出て行ってから数十分後。

少し乱れていた髪を整え、黒いジャケットを羽織り自身も部屋を後にする。

 

向かうのは、数分前に俺の携帯にかけてきた人物の元。

この時期にまた問題を起こされた、起こしてしまった事実に一番苛立っている人物。

正直あの方の今の状態を目の当たりにしたくはないが、呼び出しに応じないわけにもいかない。

 

十分もしない内にたどり着くその部屋からは、心なしかどす黒い空気が流れているような気がした。

ノックするのを躊躇うほど嫌な雰囲気を感じながらドアを叩き、一言断りを入れてから中へと入る。

 

「龍頭、お待たせしました」

 

「ああ。そこに座れ」

 

「は」

 

杖をついている老人とはいえ、大組織のボスが漂わせる威厳は衰えていない。

そんな人物が静かな怒りを携えている時の威圧感は凄まじいもの。

 

たった一言だろうと、体全体が重くなった感覚に陥る。

 

「やれやれ困ったものだ。鼠を捕まえたと思ったのも束の間、また別の鼠が我々のテリトリーを食い荒らす」

 

「……」

 

「それだけでなく、その食い荒らされた尻拭いを恩人に頼む始末。この体たらく、この間抜けな現状をお前はどう思う」

 

「……その鼠は尻尾を隠すのが非常にうまく、尚且つ餌にもかからない。今までのやり方では捕まえるのは少々難しいかと」

 

香主が令爱の傍につきっきりで自由に動けない代わりに、龍頭が鼠狩りに参じている。

彼が重い腰を上げたこの意味を三合会の中で分からない人間はいないはずだ。

もし意味も分からず優雅にこの国を闊歩しているのであれば、そいつは我が組織で長く生きられないだろう。

 

勿論俺も優雅に寛ぐわけにはいかず、昨日から彼の狩りに参加し動いている。

 

 

――だが、一向に獲物が見つかる気配がない。

 

 

この現状を一番に憂いているのは紛れもなく、目の前で酷く冷めた笑みを浮かべている彼だ。

 

「獲物が好みそうな餌を満遍なく、これ以上にないくらいまき散らした。それに噛みつかないとなるとよっぽど我慢強いと見える。……だが、ここまでくると何が目的なのかが見えてこん」

 

「今回の事を起こした犯人は令爱を攫った人間でしょう。真の目的は何なのかは測りかねますが、その“目的を果たすための手段”として式の中断を目論んでいる、と考えるのが妥当かと」

 

「……」

 

「――ですが、それにしては回りくどすぎる」

 

相手が本気で式の中断を目的とするなら、ドレスという替えの利くモノを3日前なんて多少でも余裕のある時に壊すわけがない。当日、せめて前日という余裕が全くない状況でやるのが普通だ。

 

それに、余程の馬鹿でない限り保険もかねてドレス以外にも何かしら壊すはず。

 

 

 

だが、相手はドレスのみを傷つけた。

しかも常に警戒していた部屋の奥にあるものを敢えて狙ったのだ。

 

 

あれだけの厳戒態勢を掻い潜れるほどの手腕を持っている人間であれば、式の中断のためだけに何の保険もなくこんな回りくどい真似をするわけがない。

 

「俺は、向こうは式の中断以外の何かを目的として動いていると考えます。その目的が何かまでは分かりかねますが、確実に別の狙いがあるはずです」

 

「そのために必要な手段が“ドレスの破壊”だったわけか。桜綾を攫った理由と動機はあからさまだったが、今回は全く読めんな」

 

「ええ。ただの嫌がらせにしては相手にもリスクが高い。ですがその高いリスクを払ってでも為すべきことが、向こうにはあるのかもしれません」

 

「何であろうとこれ以上邪魔をさせるわけにはいかん。――あの二人の親としてなんとしてでも無事に式を挙げさせる。どんな犠牲を払ってでも」

 

 

その一言で、部屋中が最大の緊張感で満たされる。

おまけに目の前で杖をミシミシと音を立てておられる状況にストレスで胃に穴が空きそうだと本気で思った。

 

 

 

「たかが鼠とタカを括ったツケが回ってきたか。本当、俺も衰えたものだ」

 

 

 

龍頭は眉間を指で押さえ、滅多に出さない疲弊した声音でそう呟いた。

 

「今の貴方を衰えたと評価する愚か者はおりません。――我らが龍は、何一つお変わりない」

 

どこまでも恐ろしく、鋭利で、底の知れなさはまさに“龍”。

誰もが畏怖するこの人物だからこそ、何千人ものヤクザ者がついていくのだ。

 

俺の言葉に龍頭は何も言わず、またあの冷めた笑みを浮かべる。

その笑みの裏にある感情が俺如きに分かるはずもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

桜綾さんの依頼に取り掛かってから二日と数時間。

あともう少し調整をすれば、このドレスは完成する。

 

完成まであと間近。それでも気を抜くことは許されず、これまで以上に慎重に、尚且つ急がねばならない。

 

なんといっても今日が結婚式当日。

本当にあと数時間で完成させなければならない。

 

目をつぶれば一瞬で寝てしまいそうな状態の中、手を一切休ませず動かし続ける。

 

――この三日間、まともな食事と睡眠を摂っていない。いや、摂れなかったと言った方が正しい。それでもまだ動き続けていられるのは、リンさんが全面的にサポートしてくれているからに他ならない。

 

昨日シャワーを浴びた後いなくなった彼女が、しばらくすると真剣な表情を携え戻ってきてすぐさま話を切り出された。

 

『――キキョウちゃん、アナタの気持ちは分かった。だからもう寝ろなんて言わない。だけどね、このままだと依頼をこなす前に確実に倒れるわよ』

 

『ですが休むわけには』

 

『だからアナタの仕事が終わるまでアタシが全力でサポートする。ここまで来たら何が何でもやり遂げるわよ』

 

『……どうしたんですか、急に』

 

『可愛い女の子が倒れるのを黙って見るのは我慢ならない。だからアタシにしかできないことをするだけよ』

 

そう話すリンさんはどこか苛立ったような声音だった気がするが、そこはあまり覚えていない。

一体何を思ったのかは知らないが、腕のいい医者がサポートすると言ってくれた。

知らない間柄ではないし、信用もできるのでその申し出を有難く受け入れる。

 

そこからはリンさんが持ってきてくれる薬やゼリー飲料、眠気覚ましの漢方薬、何かが混ざっている水などを口にしながら作業を進めている。

 

リンさんから聞いた話では、寝ずに動き続けるにはその分栄養を取らなければ非常に危険だという。

この対処法はその必要最低限な栄養を急速に摂る方法で、結婚式が始まるまでは辛うじて動けるが、後になったら必ず無理をした“ツケ”が回ってくるとのこと。

それだけは覚悟しなさい、と固い声音で忠告された。

 

 

――だが、それで十分。

 

 

桜綾さんが苦渋の決断を下しやっとの気持ちで私に依頼してきた。

その依頼を引き受けた以上、途中で投げ出すことは洋裁屋としての死だ。

後になって倒れようがなんだろうが、洋裁屋として最高の依頼をこなし、依頼人に満足してもらえた上で死ねるなら何も後悔はない。

 

そんな私の無茶に付き合って昨日は一睡していないようで、目に隈を作ったリンさんが部屋の奥からこちらを見据えている。

腕のいい医者からここまでサポートしてもらっているのであれば、尚更ここで止まるわけにはいかない。

 

静かに真っすぐ向けられる視線を浴びながら作業を進めていると、やがて午前3時を告げる音が部屋中に鳴り響く。

 

「キキョウちゃん、時間よ。はいこれ飲んで」

 

「……」

 

そうやって差し出された薬と水を手に取りすぐさま口に含む。

 

渇いていた喉が潤い、体全体に水の冷たさが沁みていく。

 

ペットボトル一本分の水を飲み干し短く「ありがとうございます」と礼を告げ、躊躇うことなく元の位置に戻る。

 

――結婚式まであと数時間。

かつてないほどの疲労と焦燥感を携えながら、再び手を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝日が昇り始める前の早朝五時。

私は中々寝付くことができず、浅い眠りから目を覚ました。

 

今日は待ちに待った彼との結婚式。

幼い頃からずっと好いていた殿方と一生を添い遂げるための儀式に、落ち着けるはずもなかった。

 

だが、眠れなかったのはそれだけではない。

 

一か月前、何者かの差し金で唐突に見知らぬ土地に連れてこられた。

昔から誘拐されたときの対処を学んでいたおかげで逃げ出すことはできたものの、頼りもいない場所で何も持たない女がどうにかできる訳もない。

 

逃げて逃げて、逃げ続けることしかできなかった。

 

とうとう体力の限界を迎え倒れた時、父にも、家族同然の三合会の人たちとももう会えない。そして、彼の元へ帰れることはないだろうと諦めかけていた。

 

 

このまま死ぬのだと、心の底から絶望した。

 

 

 

 

――そこに救いの手を差し伸べ、私を彼らの元へ帰してくれたのが他ならぬキキョウさん。

 

 

 

彼女は気にしなくていいと今でも言っているが、私にとってあの時の事は一生かけても返せない程の大恩。

そんな恩人を式に招き、盛大にもてなすつもりだった。

 

 

 

それが、こんなことになるなんて思ってもみなかった。

 

 

 

母の形見であるウィディングドレスが破られ、一刻も早く直そうと三合会とつながりのあるテーラーに片っ端から声をかけた。

最初は意気揚々とドレスの状態を見ていた彼らは、次第に真顔で“無理だ”と口を揃え去っていった。

 

あのドレスは、十数年前に母が式を挙げた時着ていたもの。

 

まだ杖をついていなかった父の隣を歩いていたあの時の幸せそうな顔。

美しく、可憐で、柔らかな表情を携えた母のその姿に憧れ、このドレスを着て劉帆さんと式を挙げることが夢だった。

 

 

それが無残な姿に変貌し、直す術も絶たれた。

絶望を抱きながら新しいものを用意するかしないかを話し合っていた時、近くに掛けていた“ある物”が目に入った。

 

 

 

 

――それは、彼女に仕立ててもらった白いワンピース。

 

 

 

 

瞬時に張兄さんから言われていた言葉を思い出す。

 

“洋裁屋キキョウは超一流ですよ”

 

 

 

私も彼女の服に身を包んだ一人。

彼のその言葉が過大評価ではないことは実感している。

 

だから彼女ならもしかしたら、と馬鹿な考えが頭をよぎった。

大恩人にこれ以上迷惑をかけるなんて許されるはずがない。

 

だが、夢をあきらめたくもない。

 

私一人で決めることではないと、思い切って劉帆さんと父に相談した。

 

二人とも最初は渋ってはいたが私の思いを聞き、やがて「無理だと言われたら諦める」ことを約束し恥を忍んで彼女へ頼んだ。

 

正直、たくさん文句を言われるものだとばかり思っていた。そして、言われるのも仕方ないことだと覚悟もした。

招いた当の本人が、厚顔無恥にも程がある行為をしているのだから。

 

それでもキキョウさんは頭ごなしに「無理」とは言わず、代替案をだしてくれた。

 

 

 

『ボロボロになったドレスを基に新しく作り直す』

 

 

 

それは、母が着ていたものと全く同じドレスを着ることは叶わない。

だけど決して無駄になるわけじゃない。

 

頭では理解していたが、未熟な私は十年以上憧れていた思いをすんなり切り替えることがでなかった。

張兄さんや父の促しにも首を縦にふれなかった私を、劉帆さんが「世界一のドレスを着た君を見たい」と決めの一手となる言葉を言ってくれた。

 

覚悟を決め依頼する旨を伝えれば、文句ひとつ言わず受けてくれた。

 

 

 

――そんな優しく、一流の洋裁屋に頼んで三日。

あれから彼女はろくに食事も睡眠も摂っていないと聞いた。

その話を聞いて昨日彼女の元を訪れたが、先にこっそり様子を見に来ていた張兄さんに「今は集中させてやってください」と言われてしまい、結局その姿を見ていない。

 

それほどまで自分を追い詰めながら依頼をこなしているのだと思うと、胸が痛くなる。

頼んだ分際でふざけるなと言われるだろうが、あの街でよくしてくれた恩人をここまで追い詰めてしまったことに心の底から申し訳なく思う。

 

 

だが、それはすべて私が決めたこと。

 

 

申し訳ないと思う気持ちはあれど、頼まなければよかったなどとは微塵も思わない。

逆に、ここまでしてくれる方にそんな思いを抱く方が失礼千万。

 

私にできることは、信じて待つこと。ただそれだけ。

 

 

 

それだけなのだが……

 

 

 

「桜綾、早いな。もう起きたのか」

 

「おはようございます劉帆さん」

 

「おはよう。まだ少し時間がある。それまで寝て」

 

「いえ、このまま起きてます。……なんだか眠れなくて」

 

「そうか」

 

隣で寝ていた劉帆さんが身を起こし、沈黙が落ちる中こちらを見てきた。

 

「不安か?」

 

「不安じゃない、と言えば嘘になります。だけど私には信じて待つことしかできませんから。……でも」

 

「でも?」

 

「恩人に無理をさせてしまっている状況で貴方との結婚を素直に喜んでいいものか、悩んでいます」

 

「……」

 

「ごめんなさい、劉帆さん」

 

隠し事はなるべくしたくない。

だが、長い間慎重に準備を進めてきてくれた彼にこんなこと言っていいはずがない。

 

「謝らなくていい。恩ある御仁に無理を頼んだことに不甲斐なさを感じているのは俺もそうだ。――だが、何よりも為さねばならないのは君があのドレスを着て“式を無事に終わらせること”。それが龍頭、ひいては今も無理をしているあの恩人への最低限の礼儀だ。それができなければ本当に顔向けができん。そこに俺達の感情は必要ない」

 

「……」

 

「どうしても頭を下げたいなら勿論俺も一緒だ。だがそれは式が終わってからだ。喜ぶべきか嘆くべきか今考えたところでどうしようもない」

 

 

ああ、彼はどうしてこんなに――

 

 

 

「フフッ」

 

「桜綾?」

 

「いえ、やっぱり私は幸せ者ですね。こんなに優しい殿方と結婚できるなんて」

 

「……ここは普通“ひどい人間だ”と責めるところだと思うんだが」

 

「組織だけでなく私の事まで考えてそう厳しく仰ってくださっているんですもの。それが貴方の優しさだと言うことを私はよく知っていますから」

 

香主の妻として為すべきこと為せ。嘆き、謝罪するのはその後いくらでもすればいい。

 

 

他の人からすればきっと冷酷だと勘違いされるだろう。

だが裏返せば、私を妻として認めてくれている。そしてやるべきことを果たした時に、我慢したものを吐き出せばいい。そう言う意味だ。

 

それに、自分の感情に翻弄され一つの事も成し遂げられない様では長たる彼の傍になんていてはいけない。三合会の皆さんも決してそんな女が彼の隣に立つことは許さない。

私がこれから立つのは、そういう場所だ。

 

それを敢えて厳しい言葉を使い、改めて認識させてくれた。

酷い人などと思うわけがない。

 

「先ほどは失礼しました。どうか忘れてくださいませ」

 

「……全く。いつの間にこんなご立派になられたのやら」

 

劉帆さんは口の端を上げ、困ったような、嬉しいような表情を浮かべた。

徐に彼の手が伸び自然と抱き寄せられる。逞しい腕と嗅ぎなれた匂いに包まれ、自身も彼の背中に手を回す。

 

お互いの体温を感じながら、やがて視線を合わせる。

 

彼の顔が近づき、やがて数えきれないほど味わった感触が唇に落ちる。

甘んじてそれを受け入れ、しばらくするとゆっくりと離れた。

 

再びお互い顔を見据え、堪らなくなって同時に微笑む。

 

 

 

 

――その時、唐突に部屋中で機械音が鳴り響く。

 

 

 

サイドテーブルの上にある固定電話から発せられるその音に、劉帆さんは真剣な面持ちで受話器を手に取った。

 

 

「俺だ。どうした? ……ああ、大丈夫だ。……そうか。して、彼女の様子は? ……それはよかった。……分かった、すぐ行く。ではまた後程」

 

口早に電話の相手との話を切り上げると、すぐさまこちらを見据え口を開く。

 

「桜綾、今から出るぞ。準備を」

 

「どうされましたか?」

 

急に呼び出されるなんて、まさかまた何かあったのだろうか……。

その不安を気取られないようにしたつもりだったのだが、彼にはお見通しらしく少しだけ口の端を上げた。

 

「安心しろ。今あった電話はいい報せだったぞ」

 

「いい報せ?」

 

「ああ。――超一流の洋裁屋が世界一のドレスを仕立て上げたそうだ。式の前に試着してほしいと、キキョウさんからのお呼び出しだ」












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33 鼠の愚行Ⅰ







 

 

「――どこか気になるところはありますか? すぐに直します」

 

「いえ、どこも」

 

「本当ですか? ここが気に入らないとかあればできる限り応えますよ」

 

「本当に大丈夫ですよ。こんな素敵なドレスに文句ひとつある訳がありません」

 

最後の仕上げに入ってから二時間後。

 

やっと自分の中のイメージ通りのウェディングドレスが出来上がった。

本来なら数か月かけて仕立てたいところをたったの三日で終わらせたので色々と不安ではあるが、これ以上は依頼人の好みの問題となってくるのでひとまず私個人でできることはここで終わりだ。

 

まだ朝日が昇る前ではあったが今日は式の当日でもう時間がない。

遠慮することなくまずは張さんに連絡を取り、寝ぼけた声を出す彼に遠慮なくドレスが完成したことを報告し、桜綾さんに試着するよう言伝を頼めばすぐさま動いてくれた。

 

そのあと三十分もしない内に張さん、桜綾さんと香主が部屋へとやってきた。

桜綾さんは私の顔を見た途端驚き、心配そうな表情を浮かべたがそんな事には構わずドレスを見てもらう。

 

私が仕立てたウェディングドレスは、腕の部分はレースの七分袖、裾が広がっているプリンセスラインのもの。

確かに元のマーメイドラインのドレスも似合っていたが、桜綾さんはどちらかと言えばエレガントさよりも可愛らしさが勝っている。

だから可愛らしさを主張するドレスが似合うはずだとこの形に変えた。

だが、ただ可愛くするのではなく、大組織の妻たるものとしての上品さと威厳も表わすべきだと思った。

そのために、腰の部分には布の残骸を縫い合わせて作ったバックリボンを取り付け、スカートは独特の光沢とハリがあるシカドミルクという高級の布で拵えた。

上半身の部分は前のドレスのスカート部分の布を使い丸い形のラウンドネックに整え女性らしさを引き立てるものにした。

 

その他にも煌びやかさを出すためにリボンの部分には少しだけラメが入っている布を所々縫い合わせたり、地面に着いている裾には引きずってすぐ傷つかないよう下に別の布を重ねている。

 

……とまあ、こういうことを桜綾さんに説明し、すぐさま試着してもらった。

着せているとき、本当はこれ以上に拘りたかったのだが時間がないためこの程度でしかできなかったことを謝罪すれば「謝る必要はどこにもありません」と即座に返された。

 

そして今、特急で仕立てたドレスに身を包んだ桜綾さんは嬉しそうに「ありがとうございます」とお礼を告げ、待っていた香主と張さんにお披露目している。

 

 

「――超一流の洋裁屋と名高いだけある。流石だ、キキョウさん」

 

「ありがとうございます」

 

 

超一流というには私の腕はまだまだ未熟なのだが、今はそれを否定する元気がない。

山場を越えたので気が緩みそうになるが、式はまだ終わっていない。

休むのは最後まで仕事をやり遂げてからだ。

 

 

「桜綾さん、このウェディングドレスの出番が終わるまで私が貴女の着替えの手伝いをさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「……キキョウさん、これ以上は大丈夫です。もうお休みになって」

 

「では一つお聞かせください。式の途中でそのドレスに何かあった時、私以外に対処できる人間はおりますか?」

 

「……」

 

「確かに、ドレスを仕立ててそれで終わりというのもいいでしょう。ですが、このドレスの役目は“式を無事に終わらせる”ことに他なりません。それを全うするまでが私の仕事だと認識しています」

 

「しかし」

 

「ご心配してくださっているのは分かります。――ですがどうか、貴女が苦渋の決断をなさってまでしてくださったこの依頼を最後までこなさせてください」

 

 

桜綾さんの心配は有難いが、こればっかりは引くわけにはいかないのだ。

 

 

「……張兄さん」

 

「令爱、こうなったら俺が何を言ったところで聞きませんよこいつは」

 

「……」

 

「キキョウに何かあればすぐ対応できるようリンを傍につけさせます。式が終わり次第すぐ休ませますので」

 

張さんに言えば何とかなると思ったのだろうが、生憎私が仕事に関して頑に揺らがないのを彼は嫌という程分かっているはず。

 

だから私に最後まで付き合わせることを選択し、桜綾さんにああ言ってくれた。

 

本当、彼には頭が上がらない。

 

「式が終わってウェディングドレスを脱いだら、ちゃんと休んでくださいね」

 

「約束します」

 

「劉帆さんもそれでいいですか?」

 

「お互いそれで気が済むのであれば」

 

「ありがとうございます」

 

主役二人の許可も得たところで、彼女に一言声をかけようと口を開く。

 

「リンさん、もう少しだけ私の無茶にお付き合いくださいますか?」

 

「勿論。言ったでしょ、“仕事が終わるまでサポート”するって」

 

目の下に隈を作ったリンさんが不敵な笑みを浮かべる。

心の底から頼もしいと感じるその表情につられて自身の口端も上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

桜綾さんのドレスが完成してから数時間後。

控室の外からは多くの人の声が聞こえ、目の前では化粧を施し、私が仕立てたウェディングドレスに身を包んだ綺麗な花嫁が緊張した面持ちで立っている。

 

 

――そう、あと数分で結婚式が始まる。

 

 

彼女の念願の夢が叶う時が、やっときた。

 

 

その瞬間を台無しにしないためにもドレスの最終チェックを行う。

 

「どこか違和感はありますか?」

 

「ありません」

 

見たところ、どこにも異常はない。

先程少し歩いてもらったが形が崩れたりすることはなかった。

立ったり座ったりしてもこの状態を保っていれるなら、心配はなさそうだ。

 

「この状態であれば無事に式が終わるまでドレスの形が崩れることはないはずです。安心して式をお挙げください」

 

「はい。……キキョウさん」

 

一言そう告げれば、桜綾さんが真剣な声音で私の名を呼んだ。

 

「式が終わってお疲れが取れたら、二人きりでお話がしたいです。よろしいでしょうか?」

 

「でも、式が終わった後もお忙しいんじゃ」

 

「なんとかして時間を作ります。どうしても、お話したいことがあるんです」

 

何やら思いつめたような表情を浮かべる彼女に何も言えなくなる。

一体何を話したいのか分からないが、黙ったままな訳にもいかず一呼吸間を空けて返

答する。

 

「分かりました。私でよければ、ぜひ話し相手になりましょう」

 

 

どんな話であれ、あの時のように話し相手になればいい。

私も彼女に渡さなければならないものがあるし丁度いいだろう。

 

「――桜綾」

 

 

するとノックの音が響いた直後、龍頭の声が飛んできた。

 

 

桜綾さんは息を吐き、足を動かす。そして私とリンさんは取っ手を掴み、二人でドアを開け同じ言葉を口にする。

 

 

 

「いってらっしゃいませ」

 

 

 

私達の声掛けに純粋無垢な花嫁はあの可愛らしく柔らかい微笑みを浮かべ、父親の腕に引かれながら式場へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あともう少しよ、キキョウちゃん。待ち時間長いと思うから少しだけでも寝たら?」

 

「いえ、このまま起きてます。式の途中でドレスに何かあった時すぐ動けるようにしたいんです」

 

「全くもう……。じゃあ、気を紛らわすために何かお話しましょうか」

 

「いいですね。何話しましょうか」

 

「大哥の愚痴とかは?」

 

「それリンさんが言いたいだけでしょう」

 

「キキョウちゃんも大哥に対しての鬱憤、少しくらい晴らした方がいいと思うけどね」

 

久々のゆったりした時間に先程までの緊張感は解れ、お互い疲れた笑みをこぼし話に花を咲かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――さて、そろそろか」

 

三合会香主と龍頭の一人娘の盛大な結婚式が行われている中、ホテルの暗い部屋で清掃員のような服に身を包んだ男が一人ニヤリと口元を歪めていた。

 

短く呟き、ポケットから徐に一枚の写真を取り出す。

 

「もうすぐ会いに行くからな。……ああ、楽しみだ」

 

恍惚な表情で写真を眺めた後再びポケットにしまい、口端を上げたまま軽い足取りでその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――リンさんと他愛ない話を一、二時間ほどしているといつの間にか式が終わったようで、幸せそうな顔をした桜綾さんが控室に帰ってきた。

 

そのまま急いでウェディングドレスを脱がせ、ついでに披露宴用のドレスの着替えも手伝った。

 

 

そして「本当に後は大丈夫です。もうお休みになってください」と桜綾さんから言われたことで、私の仕事は終了した。

 

 

 

追い出されるような形でリンさんと部屋を出たすぐ後、結婚式と披露宴の間で少し時間が空いた張さんが様子を見に来た。

あのニヤリとした表情を見せながら「流石だなキキョウ、よくやった。後はゆっくり休め」とパトロンらしい言葉をかけてくれた。

褒められたことに少なからず嬉しくなり、素直に「ありがとうございます」と返しリンさんと共に作業場となっていた部屋へと戻る。

 

 

 

――そして今、念のためとリンさんから診察を受けている最中だ。

 

 

 

「極度の睡眠と栄養不足以外特にないけど、普通だったらもう倒れてもおかしくないんだからね。これからはここまでの無茶はしないように」

 

「リンさんにも無茶をさせました。今度何かお礼を」

 

「なら元気になった姿で香港を観光しましょ。これ以上大哥なんかに譲ってやんないんだから」

 

「……何の話ですか?」

 

「こっちに来た初日の話。あの時大哥はキキョウちゃんと二人きりになりたくてしょうがなかったのよ。それを察した勘のいいアタシが、特に用事もないのに身を引いたってわけ」

 

ああ、あの用があるとか言って見放された時の話か。

というか、なぜ彼が二人きりになりたかったのだろうか。

 

まあ、二人きりになったことでああいうことを言われたが、結局関係性は何も変わっていない。

ということは、やはりあれも冗談だったのだろう。

 

真に受けず正解だった、ということか。

 

彼の演技力にはきっとハリウッドスターも称賛を送るだろう。

 

 

「――キキョウちゃん、二人きりになった時何言われたか知らないけど」

 

 

診察道具を片し、リンさんはこちらを見据え真剣な声音で話始める。

 

 

「大哥はアタシたちが思っている以上にアナタを……」

 

「え?」

 

「……何でもないわ。男女間の事で口を挟むのは野暮ってね」

 

最後まで言うことなく、息を吐いて微笑みを浮かべた。

一体何を言いたかったのだろうか?

 

「じゃ、アタシは別の部屋で寝てくるわ。キキョウちゃんもさっさと寝るのよ」

 

「は、はい。ありがとうございましたリンさん」

 

「お礼は香港観光よ、忘れないでね」

 

そう言ってリンさんは颯爽と部屋を出て行った。

静けさが落ちる中、道具や布、紙が散乱している部屋を見渡す。

 

 

思えば、こんなに切羽詰まった依頼を受けたことはない。

 

初めて張さんのコートとスーツを仕立てた時も少しだけ無理はしていたが、自分のペースで作業できていた分今回より何倍もマシな方だろう。

 

 

正直、ものすごくしんどかった。

 

途中で何度も手を休めたいと心の底から思った。

 

そんな甘えを何とか振り払い動き続け、やっとのことで依頼をこなした。

 

 

 

――だから今、かつてないほどの達成感に満たされている。

 

 

 

今回の依頼は確実に私の大きな糧となった。

未熟が故に、あんな切羽詰まった状況で成し遂げたという事実が成長の大きな一歩となったことが何より嬉しい。

 

こんな時はあの酒場であの酒をたくさん飲みたいのだが、今はそれよりも休むのが先決だ。

 

 

……とはいえ、やはり散らかりすぎだ。

せめて道具だけでもちゃんと片付けよう。

 

 

そう思い、机の上で開いたままの裁ちばさみを手に取ったその時だった。

 

 

部屋にノック音が三回鳴り響いた。

 

 

リンさんが何か忘れ物をしたのだろうかと足を動かす。

 

 

あの街でなら、いつもは声がかかるまで開けないようにしている。

 

だが寝不足で頭が働いていないこともあり何の疑いもしなかった。

 

 

 

 

――それが、大きな過ちだった。

 

 

 

 

急かす様に再び三回ノック音が響き、駆け足でドアへと向かう。

 

 

 

「リンさんどうされましたか? 何か忘れ物でも……ッ!」

 

 

 

ドアを開けた瞬間、勢いよく口元に布のようなものを当てられたのと同時に部屋の中へ引きずり込まれる。

 

 

「……ハッ……ン!」

 

「大人しくしててくれよ。騒がれたら困るからさ」

 

「ッ! ……フッ……!」

 

 

 

何が何だか分からないまま抵抗していると後ろから男の声がした。

 

疲れている女の腕力では男に敵うはずもなく身動きが取れない。

 

 

そしてそのまま、布から放たれる独特の臭いに次第に視界が揺らぐ。

 

 

 

寝不足のせいか、すぐに瞼が重くなり視界が暗くなる。

 

意識が遠のくのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

「――やっと会えた。やっぱ実物は違うなあ」

 

 

 

 

 

 

気色悪い声音を最後に、私は完全に意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――キキョウちゃん、ごめんなさいちょっと忘れ物しちゃって」

 

キキョウと別れてから数分後、部屋に置いてきてしまった自身の腕時計を取りに来たリンがそのドアを叩いていた。

やはり疲れ果て寝ているのか、中から返答はない。

 

その事にリンは安堵した表情を浮かべ、ドアノブをそっと手に取る。

 

 

「よかった、ちゃんと寝、て……」

 

 

念のため鍵がかかっているか確認しようと思っていたが、すんなりとドアノブが回ったことに違和感を覚えた。

 

 

瞬間、リンは自身が感じ取った妙な胸騒ぎに勢いよくドアを開け中へと踏み入る。

 

 

 

 

――そこは寝ているはずの当の本人がいない、散らかったままの部屋。

 

 

 

「キキョウちゃん! どこいるのッ!?」

 

浴室、トイレ、クローゼット。

部屋の至るところを探したが、キキョウの姿はどこにも見当たらない。

 

酷く疲弊していた状態で外に出ることは考えられず、リンの背中には嫌な汗が滲んでいく。

 

 

 

そして瞬時に、ある事を思い出す。

 

 

 

ドレスを破った犯人はまだ見つかっていないこと。

 

 

その犯人は何の目的で事を起こしたのか不明瞭だと言う事。

 

 

 

いつもより冴えない頭を回転させ、ひとつの可能性を導き出す。

 

 

 

かなりあり得ない話であり、まだいなくなったと決まったわけではない。

 

 

だが、本当に自身の考えが合っているのであればこの現状は非常にまずい。

 

 

 

「くそったれが……ッ!」

 

 

 

 

リンは自分の考えすぎであってほしいと願いながらポケットから携帯を取り出し、素早くとある番号へとかけた。


















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34 鼠の愚行Ⅱ












「――いつだ」

 

「午後二時まではアタシもこの部屋にいました。その後もう一回この部屋に来た時にはすでに姿は見えず……」

 

「……」

 

「アタシが出て行ってから十分も経っていないんです。ゴミカスクソ野郎はその間にキキョウちゃんを」

 

「そのゴミカス野郎の姿は」

 

「アタシは誰ともすれ違いませんでした」

 

「彪、監視カメラは」

 

「今郭が調べてます。アイツの観察眼ならゴミの見極めはすぐに済みます」

 

キキョウの姿が見えなくなってからリンはすぐさま自身の上司へと電話をかけた。

だが披露宴の最中だったこともありリンからの着信に張も含め側近二人も応答せず、やがて痺れを切らしたリン自ら披露宴の会場に赴いた。

最初は身なりが整っていない女性ということで警戒心を向けられたが張維新の連れということが遅れて発覚し、やっとのことで通された。

 

優雅に酒を飲んでいる上司の元へ足早に向かうとリンの姿に張は驚いた表情を見せる。

挨拶もそこそこに事情を説明すれば張はすぐさま席を立ち、香主と何やら話した後側近二人とリンを連れキキョウがいた部屋へと直行する。

 

 

――キキョウが忽然と姿を消してから、この時点で既に三十分は経過していた。

 

 

「まさか、狙いがキキョウとはな。これでドレスを破ったのも説明がつく」

 

「え?」

 

「職人ってのはどんな奴でも自分の職に誇りを持ってる。謙遜の塊であってもキキョウは一流だ。そんなアイツが自分の腕を見込んでドレスの修繕を頼まれれば断るわけがない。それも、特別な思い入れがあるものなら尚更な」

 

 

張は固い声音で自身の考えを淡々と告げる。リンと彪は黙って話に耳を傾けた。

 

 

「相手はそれを“知っていた”。令爱があのドレスに拘っていたのも、キキョウが一流だと言う事も、職人の気質ってやつも全てな。だからドレスを破り、修繕を終え気が抜けたところを、ってところか。ま、これはあくまで予想にすぎないがな」

 

「だとしても、ホテル全体が気を緩めていたわけじゃないでしょう。怪しいやつがいればすぐにだって」

 

「令爱が攫われた件もあったからな、かつてないほどの厳戒態勢を敷いている。勿論この部屋も例外なくな。だが三合会にとっては令爱と香主を守り、式を無事に挙げることを最優先させなければならん。修繕の間ならまだしも、終わった後では少なからず警戒が薄くなる。……それなりの手練れは置いていたはずなんだが、こんなあっさりと入られるとはな。俺も驚いてるよ」

 

「……意外ですね。貴方はもっと苛立つものだと思ってたんですが」

 

いつもと変わらず冷静に話す彼の様子に、リンもまた冷静に言葉をかける。

 

瞬間、張は口端を上げ「ハッ」と笑った。

 

「寧ろ相手には賞賛の言葉を贈りたいね。二度も俺達の警戒を潜り抜けてきたんだからな。尊敬すら覚えるよ」

 

「口説き続けた女が見知らぬ人間に攫われて出てくる言葉がそれですか。そんなんだからあの子に振られ」

 

「苛立ってんのはお前の方だろ。あと、それ以上軽口を叩くんじゃねえぞリン」

 

リンが眉を潜め話を続けていると第三者の声によって遮られた。

先程までホテルの監視カメラをチェックしていた郭である。

 

郭の言葉に「ちっ」と舌打ちし、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 

「大哥、監視カメラの映像をチェックしたところ気になるところが何点か」

 

「仔細を」

 

「は。――十四時ちょうど、この清掃員らしき男がこの部屋付近をうろついております。不審に思った二人の警備担当が声をかけた直後、近くの個室トイレの中で殺害。先程確認したところ、そこに死体が捨てられておりました。そして二人を殺害した十分後に、キキョウを連れ去っています。部屋に訪れたこいつを警戒心が薄れた彼女が疑いもなしに招いた直後、一分もしない内に用具入れにキキョウを詰めこんでこの部屋を出ております」

 

説明しながら内ポケットから男の姿が写っている写真を取り出し、張へ手渡す。

だがその顔はマスクで隠れており全体は見れない。

 

「十四時二十分、スタッフ用の出入り口から抜け出しこの小型トラックでホテルを去っています。ナンバーも把握済みです」

 

引き続きそのトラックが写っている写真を手渡す。

張はしっかりと目に映し、すぐさまポケットへしまう。

 

「上出来だ。後はこのトラックの行先だがこいつはすぐに足がつくだろう。――だが妙だな」

 

「ええ、なので念のためドレスが破られた日まで巻き戻し、桜綾様の部屋周りもチェックしました。……四日前の深夜、この男とはまた別に黒いジャージ姿の男がホテル周りをうろついていました」

 

「……」

 

「うろついていた時間はドレスが破られたと発覚する一時間前。しばらくうろついた後に姿を消し、そこからはドレスが破られるまでの間、ホテル内外どちらの監視カメラにも映っておりませんでした。しかし、早朝五時半頃に高級スーツに身を包んだこの男がホテルの正面口から外へでています。ですが、ホテルマンの話によればこの日はそのような時間帯に出入りする客の記録は残されていないとのこと」

 

今度は二枚の写真を同時に取り出し、再び張に手渡しながら郭は話を続ける。

 

「また、服装は異なりますがジャージ男と背格好はほぼ一致しており、桜綾様の控室の方から出てきたことから同一人物である可能性が。……残念ながら顔をマスクで隠しており、分かっているのは高身長だという事だけです」

 

 

郭はそこで言葉を切り、一つ息を吐いて再び口を開いた。

 

 

「こんな慎重に事を起こした人間がここにて来て監視カメラに自身の犯行現場を、ましてや車のナンバーを映す訳がありません。キキョウを攫った男はあくまで実行犯と考えるのが妥当かと」

 

「なるほど、令爱を攫った時と手段は全く一緒だな。自分は準備を整える脇役とし動いているように見せかけ主役はお前だと唆す。だが実のところ、相手を貶めることしか考えていない奴の手口だ。――まったく見下げ果てたクズ野郎だな。俺達の相手にふさわしいじゃないか」

 

ニヤリと口元を歪め、張は愉快そうに言い放つ。

だがその声音は、ただ楽しんでいるだけのものではないとその場の誰もが理解していた。

 

「ひとまず龍頭に報告しに行くぞ。動くのはそれからだ」

 

これからの行動を口にし、颯爽と足を動かす。

その後に、側近二人とリンは静かについて行く。

 

「ああ、そうだ。言い忘れていたがなリン」

 

ふと立ち止まり、眉を顰めたままのリンに張は呼び掛ける。

 

「俺はまだ振られていない。決めつけるのはよくないぞ」

 

「……それは失礼いたしました」

 

 

 

まだ、ねえ……。

 

リンは心の中で呟き、ため息を吐きたくなるのを我慢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――体が重い。

 

 

 

 

 

鉛のように重く、動かす気力が起きない。それに加え頭が働かない。

 

 

 

 

 

そういえば、私は今まで何をしていたんだったか。暗い視界の中でゆっくり思い返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

……ああそうだ。

 

 

 

確か桜綾さんのドレスを仕立てあげて、リンさんの診察を終えてそれから……?

 

 

 

何故かリンさんが出て行ってからの記憶が曖昧で思い出すことができない。

 

 

 

 

あ、そういえば披露宴は無事に終わったのだろうか。

 

 

 

桜綾さんから話がしたいと言われてたのを思い出し、そろそろ起きた方がいいだろうと重い瞼をゆっくり開ける。

 

 

 

 

 

 

 

「お、起きた。もう少しかかるかと思ったけどな」

 

 

 

 

 

 

瞬間、見知らぬ男の声が飛んできた。

 

 

 

同時に、曖昧だった記憶が蘇る。

 

 

 

 

 

――そうだ、急に口元に布か何かを当てられて意識を失ったんだ。

 

 

 

 

思い出したことで意識がはっきりし、体を起こそうと力を入れる。

 

が、両手足首に何かが掴まれていて思うように動けなかった。

 

先程までぼやけていた視界が鮮明になり、目に映ったのは薄暗いボロボロの部屋。

その光景に自分が今いるのは見知らぬ場所だと理解する。

 

「おはよう。気持ちよく寝てたみたいだけど、気分はどう?」

 

「……ッ!」

 

「ああ、ごめん。今は念のため口抑えてるんだ。もう少ししたら外してあげるからさ」

 

軽い口調で発せられる声の方を見ると、そこには腕にフードを被った髑髏の刺青を入れた短髪の男が笑顔でこちらを見つめていた。

どういう状況か未だ読み込めず混乱している私に男は歩み寄りその顔を近づけた。

 

「本当はもっといいベッドを用意したかったんだけど時間がなくてさ。あ、だけどこれからアンタの血で汚れるからそこは気にしなくていっか」

 

その言葉に、思わず息が止まる。

争いごとに巻き込まれるのも痛い目に合うのも多少慣れているとはいえ、こんな状況はいくらなんでも受け入れ難い。

 

 

だが、これだけは分かる。

一刻も早くここから逃げなければ自分にとって良くないことが起こる。

 

反射的に体を動かそうとしたが、やはり思うように動かない。

もがく度にベッドの軋む音だけが響く。

 

「暴れても無駄だよ。どうせここから逃げられやしない」

 

「ンーッ! ……フ……ッ!」

 

「あー。たく、しょうがねえな」

 

必死に逃げようともがき続ける私の上に、男は笑顔を携えたまま乗っかってきた。

そして、両手を掴まれた上にゆっくりと体重をかけられ次第に動けなくなる。

 

「ッ……」

 

「今は怪我をさせたくない。――綺麗な姿のまま可愛がりたいんだ。暴れないでくれよ」

 

 

愉快そうに言う男の声音と言葉に悪寒が走った。

体が密着しているこの状態から早く抜け出したい気持ちに駆られる。

 

 

更に近づいてくる男を顔を逸らしながら睨みつける。

 

 

「いいねえその表情。やっぱ写真よりも本物の方が何倍も綺麗だ」

 

 

一体何をしようとしているのか分からないが、この男の思い通りには絶対動くものかと心に決める。

 

 

「写真で見た時からずっと会いたかったんだ。……この黒髪も、肌も、胸も全部触れるのを夢にまで見た。特に、この瞳を間近で拝みたかったんだ」

 

 

この男の言葉に気色悪さを覚える。

逸らしていた顔を無理やり元の位置に戻されると、ゆっくり頬を撫でてきた。

 

 

「ッ!!」

 

「本当に綺麗だ、キキョウさん」

 

 

あの人とは違う手の感触と名を呼ばれたことに心なしか吐き気がこみ上げてくる。

今すぐにでも振り払ってしまいたいのに、自分の力ではそれは叶わない。

手に力を込め、吐きたくなるのを我慢し思いっきり顔を逸らす。

 

 

私の行動に男は尚も笑顔のまま。

 

 

「もうこれ外すか。そろそろ君の声が聞きたい」

 

 

そう言って、男は口元を押さえていた布を外す。

 

 

「……ゲスが」

 

「開口一番それか。もっと綺麗な言葉を聞かせてくれよ」

 

「誰がアンタの言う事なんざ聞くか」

 

「おいおい、自分の置かれている状況が分かってないのか?」

 

「そんなこと知るか。何であろうとアンタの言う事は絶対聞かない」

 

「短時間で随分嫌われちまったな。ま、それはいいとして」

 

 

男は口元をニヤリと歪め、上機嫌に話を続ける。

 

 

「状況が分かっていないようだから教えてやるよ。――アンタは今から俺に犯される。その後無残に殺されるんだ。これだけ言えばわかるか?」

 

心底愉しそうに言い放つ男に更に拳に力が入った。

 

「随分女に飢えてるんだな。こんな地味な女を攫ってまでやることがそんなことなんて」

 

「地味? アンタが? は、そんな見た目しててよく言うぜ」

 

「は?」

 

「顔が整ってる上に、服で隠してるがスタイルもいい。そして綺麗な瞳をしてると来た。こんないい女、男だったら一度は抱いてみたいって思うさ」

 

「……生憎、私にそんな魅力はない。もっと他の女性に目を向けたらどうだ」

 

 

女として何の魅力もない私を抱き、殺すことのどこにメリットがあると言うのか。

 

 

この男の本当の目的が見えてこない。

 

 

「面白え冗談を言うんだな。まさか今まで一度も言い寄られたことがない、なんて言うつもりかよ。だとしたら周りの男の目は節穴だ。俺だったら一目見てすぐ動くけどな」

 

「……」

 

「まあ、そんなことはどうでもいい。それに――もう、我慢できねえ」

 

「なッ……!」

 

 

 

男は低い声音で呟いた後、私の首筋を舐めてきた。

 

 

生まれて初めて感じる感触に、全身に鳥肌が立つ。

 

 

 

「離せッ! 気色悪い!!」

 

「暴れるなよ。これじゃ可愛がれないだろ?」

 

「ふざけるな!」

 

かつてないほどの悪寒に先程よりも激しく抵抗する。

もう目的が何だとかそんなことどうでもいい。そんなこと考える暇があるなら悪足掻きでもなんでもいいから動け。

拘束されているのもお構いなしに、この男から離れようと全力で暴れる。

 

「意外と初心なのか? この程度なんでもないだろ、処女じゃあるまいし」

 

「ッ!」

 

 

 

その言葉に、思わず動きが止まる。

 

 

 

「……あれ、もしかして本当に処女なのか?」

 

「ッうるさい! いい加減離れろ!」

 

処女だろうがなんだろうが知らない男に触れられたら誰だって抵抗するだろう。

私の反応に男はさらにニヤリと口の端を上げた。

 

 

「――へえ、これは思わぬ吉報だな。そうか、処女なのか。ハッ、嬉しいねえ。アンタの最初で最後の相手が俺なんて」

 

 

男は私の耳元でうっとりとしたような声音で呟いた。

 

 

 

この男の言葉も行動も何もかもが気持ち悪い。

 

 

無理だ、受け入れられない。

 

 

拒否反応のように吐き気が再びこみ上げる。

 

 

 

「それじゃ、とびっきり楽しませてやらないとな」

 

 

 

何を思ったのか、男は鼻歌を歌いながらベッドから腰を上げ近くの棚を探り始めた。

 

そして、何かを手に取りすぐさまこちらに戻ってきた。

 

「あの人から貰っといて正解だったな」

 

「なに、を」

 

「いい気分になれるお薬だよ」

 

男の手には、注射器と液体が入っている小瓶。

短く答えながら慣れた手つきで液体を注射器に入れていく。

 

「処女でも効果覿面らしいから安心しろよ。すぐよがり狂うようになるさ」

 

「何言って……ッ」

 

必死の抵抗も虚しく、すんなりと腕に注射器の針が刺さる。

 

「血管に直接注入したから即効性だ。すぐ良くなるぜ」

 

「何を」

 

「だからいい気分に……ああ、処女だから分かんねえか」

 

 

注射器を床に捨て、気色悪い笑みを浮かべながら再び顔を近づけてきた。

 

 

「媚薬だよ。どんな女でも男が欲しくてたまらなくなって、早く子宮に精子を注いでくれって懇願するようになる。ちょっとした痛みもすぐ快楽に変わるらしいから、処女なら尚更気持ちよくなるかもな」

 

「……ッ」

 

「あと二、三分で効果が出始めるはずだ」

 

 

媚薬なんてもの摂取したことはない。

だからどんな効果をもたらすのかははっきり言って分からない。

 

だが、どんなことがあってもこの男に抱いてほしいなどと思う訳がない。思ってたまるか。

 

「そう怖い顔すんなよ。効果が出るまで、その体全部触ってリラックスさせてやるからさ」

 

「触るな、気色悪い……ッ。離せ!!」

 

「嫌だね。ぜってえ離してやらねえ」

 

「やめ……!」

 

「さ、楽しもうぜキキョウさん?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「――鼠の行方は」

 

「捜索中です。ナンバーも分かっているのですぐ見つかるでしょう」

 

「そうか」

 

キキョウが姿を消し、張はすぐさま披露宴に出ていた龍頭に「話がある」と呼び出し事の顛末を報告していた。

話を聞いた龍頭は真剣な表情を携え、冷えた声音をだした。

張に着いてきた三人は一気に最大の緊張感に見舞われる。

 

「にしても、狙いが彼女だったとは。まさか、洋裁屋一人攫うのにここまで大事にするとは思わなんだ」

 

大組織のボスは淡々と言葉を並べる。

 

「最早何の目的があってなどと考えまい。そんなもの今となってはどうでもいい。――そうだろう、張」

 

「ええ、龍頭。鼠どもには我々による制裁を」

 

「全力で叩き潰せ。肉片一つ、骨の一本も残してはならん」

 

鋭い目線と芯まで凍りそうな冷えた声音を向けられ、張は一瞬の間を空けず再び口を開く。

 

「彼女を連れ去った鼠の処分は全てお前に任せよう。親玉についてはこっちが動く。情報を掴み次第すぐ報せろ」

 

「……よろしいのですか?」

 

「己の顔を今すぐ鏡で見てこい。“やりたくて仕方ねえ”ってツラしてるぞ」

 

瞬時に返された言葉に張は苦笑を洩らした。

すぐさま気を取り直し、再び真剣な表情へと戻す。

 

「龍頭、このことを令爱には」

 

「言う必要はないだろう。言ったところで何の意味も」

 

 

その時、唐突にバンッとドアが乱暴に開かれた。

 

部屋にいる全員が目を向けた先には、紫のドレスに身を包み、真剣な表情を浮かべた桜綾が二人を見据えていた。その後ろでは、護衛たちが困惑した顔で立っている。

 

「令爱、なぜここに。まだ披露宴は」

 

「張兄さん、今の話本当ですか」

 

「……令爱が気になさることでは」

 

「答えてください。キキョウさんが攫われたというのは本当なんですか」

 

あまりにも真っすぐすぎる質問に張は眉尻を下げ、返答に困ってしまう。

しばらくし、やがてゆっくりと再び口を開いた。

 

「ええ、全て事実です」

 

「……そうですか」

 

「桜綾、今すぐ戻りなさい。主役がいなくなっては」

 

「今は衣装替えで席を外してるだけ。まだ時間があるからお父さんも呼ぼうと思って来てみたら話が聞こえてきたの。――私に言う意味がないって、どういうこと」

 

静かな怒りを声に乗せ、桜綾はつかつかと龍頭と張に歩み寄る。

 

「お前が気にしたところで状況は変わらないんだ。それにこれは我々の問題だ、お前には関係ない」

 

「キキョウさんは私と劉帆さんが招待したお客人です。関係ないなんて例え龍頭である貴方でも決めることではありません。――それに私はもう香主、鄭劉帆の妻。誰かが殺されようと自分が為すべきことを必ず為します。その覚悟は、もう決めています」

 

「……」

 

その場にいる全員が何も言わなかった。言えなかった。

凛と言い放つその姿は、もうかつての泣き虫で我儘なお嬢様ではない。

 

 

「ですが、彼女には大きすぎる恩があります。その恩を返す前に殺された、なんてあまりにも無様な結果は私と劉帆さんはもちろん、誰一人望んでいません」

 

 

 

 

香港三合会の未来を担う御仁の妻たる姿が、そこにはあった。

 

 

 

「張兄さん。――いえ、張白紙扇」

 

 

 

綺麗な瞳で張を射貫きながら、静かに言い放つ。

 

 

「どうか彼女を、なんとしてでも私の元に連れ戻してくださいませ」

 

「――仰せのままに、“大姐”」

 

本当、ご立派になられたもんだ。

そう心の中で呟き、彼女の命に応えるべく張は部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――大哥、鼠の居所を掴みました。人員の手配も完了。いつでも動けます」

 

「ああ」

 

「……大哥、アタシもついて行ってよろしいですか」

 

「何故?」

 

「あの子にもしものことがあったらすぐ対処が必要でしょう?」

 

香主の妻より命を受けてから十数分後。

ホテルの外には張を始め、何十人もの三合会の組員が今か今かと敵の情報を待っていた。

煙草をふかし彪からの報告を聞いている張に、リンが医療バッグを片手に話しかける。

 

 

リンの言葉に張は口の端を上げ、「ハッ」と笑う。

 

 

「お前の出番がないに越したことないんだがな。まあ念には念を、だ。お前は郭と行動しろ。いざという時お前たちは息を合わせるのが得意だからな」

 

 

その言葉にリンは苦虫を潰したような表情を見せたが、張はそれに構うことなく吸い殻を地面に捨てる。

 

 

 

「――さて、俺の花をそろそろ返してもらおうかね」
















いやほんと、知らない人に首舐められたら普通気色悪さと怒りで爆発すると思います。


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35 熱に浮かされて――

 

 

 

 

 

 

「――ハッ……! ンッ!」

 

「おいおい、声我慢すんなよ。最後なんだから思いっきり楽しむべきだぜ」

 

「ふざ、けんな。殺すなら、とっとと殺せばいいだろ……ッ!」

 

「んな勿体ねえことするかよ。言われなくても、もっと楽しんだ後にちゃんと殺してやるから安心しろ」

 

 

 

 

一体どれくらい時間が経っただろうか。

 

 

名も知らない男に連れ去られ、ずっと気色悪い言葉を浴びせ続けられている。

服を上も下も破られ下着と素肌を晒している私を、上に乗っかっている男は愉快そうに眺めながら触れてくる。

 

 

生まれて初めて異性にここまで肌が露になっている姿を晒しているこの状況に、羞恥と怒りが混じり口調が荒くなる。

 

 

男はその様さえ面白いのか、ずっと不気味に笑ったままだ。

 

 

「気持ち悪い……ッ、いい加減離せ!」

 

「おいおい、まだそんな口きけんのか。ま、それも今の内だ。精々必死に抵抗しろ。そっちの方が燃える」

 

「ヒッ」

 

男はそう言ってまた首筋を舐めてきた。

そのままどんどん下へと移動し、今度は胸の谷間に舌を這わせてくる。

 

どんなに激しく抵抗しても男は動じず、私はただ為されるがまま。

 

「邪魔だな」

 

「やめッ……!」

 

短くそう呟くと、すぐさま乱暴にブラジャーを外した。

 

辛うじて隠れていた胸がさらけ出され、更なる羞恥が襲い掛かり拳を強く握りしめる。

 

 

「へえ、思ったよりでけえな」

 

「クソが! くたばれクソ野郎!! とっとと死ねッ!!」

 

「おお、怖い怖い。……それにしても、まだ効果がでてねえのか? そろそろ出てもおかしくねえんだけど」

 

うーん、と男は何やら考え始め動きが止まる。

私はその間も逃れようと必死に暴れた。

 

「ここまで動けるってなるとこりゃ不良品か? いや、でもあの人の事だしそんなもん渡すわけねえしな」

 

藻搔く私をものともせず、男は一人でぶつぶつ何か呟いている。

 

そうやって一生考えていてほしいと心の底から願った。

 

「いい加減そこをどけクズ野郎! こんなことして何の意味が……!」

 

 

 

どうせ殺すなら早く殺してほしい。

 

 

私にとってこの男に犯されることの方が死よりも辛い。

この男が何故私を犯そうとしているのか分からないが、そんなことになるなら死んだ方が何百倍もマシだ。

 

「意味? 大いにあるぜ。アンタを苦しませてから殺せば、ある人がすっげえ喜ぶんだよ」

 

「……ある人?」

 

「あ、やっぱ興味ある? あまり人に喋るなって言われてんだけど、まあ最後だし別にいっか」

 

 

男は再び顔を近づけてきたので自然と顔を逸らす。

 

 

その様にクスッと笑みを漏らし、静かに話し始める。

 

「俺がアンタを攫ったのはある人の依頼だから。その人は俺に教えてくれたんだ。“男なら世界に名を馳せてなんぼ”だってな。そんなこと考えたこともなかったよ。この俺が世界中に恐れられる殺し屋になれるなんてな。でももしそうなったらって考えるとニヤけが止まらねえ」

 

「……」

 

「生きる理由をくれたその人が、初めて俺を頼ってくれた。なら期待に応えたいと思うのは当然だろ?」

 

「……ならとっとと殺せばいいだろ。私を犯す意味なんて!」

 

「ただ殺すんじゃ物足りねえってさ。俺もアンタの見た目超好みだし丁度良かったよ。……あとな、キキョウさん」

 

 

男は私の名を呼ぶと、耳元に口を寄せる。

 

 

「男が女を抱くのに理由なんざあるかよ。どんなに醜かろうと、どんなにクソみたいな女でも抱きたいと思えば躊躇いなく喰らい尽くす。それも惚れた女なら尚更、考える前に体が動いちまう。――男ってのはそういう生き物なんだぜ」

 

 

こいつの言っている意味が全く理解できない。

 

だが一つ、私がどんなに拒否しようが罵倒しようが無意味だということだけは分かった。

 

 

「アンタの体にそれを今からたっぷり分からせてやる。そして、男は獣だってことを実感しながら死んでいけ」

 

「……ッ!」

 

口を耳へより一層近づけたと思えば、男の唾液に塗れた舌先が触れる。

瞬時に限界まで顔を逸らし、目だけを動かし睨みつける。

 

「その表情は男を煽るだけだぜ? ……にしても、本当に遅いな。あんた意外と薬に慣れ」

 

 

 

訝し気にこちらを見つめ呟いた途端、男の言葉は中途半端なところで切れた。

 

 

そして、瞬時に私の口を手で塞ぐと少し遠い所のある物へ目を向ける。

 

 

 

 

 

――男の言葉を遮ったのは、鉄製のドアから響く音。

 

 

 

 

動かずしばらく見つめていると、再びドアを叩く音が聞こえてきた。

 

「おかしいな。ここには誰も来ないはずだって」

 

「ンー! ウッ……!」

 

「騒ぐなよ」

 

低い声音で短く告げると、更に強い力で抑えてきた。

同時に自身の腰に差していた黒い拳銃を手に取る。

 

抵抗することに夢中で銃を持っていることに気づかなかった。

 

元々身動きが取れない状態で更に口を押さえられているとあっては私にはどうすることもできない。

 

 

お互い全く動かず、男はドアを注視したまま。

しばらくすると反応がなかったからか、ノックの音はしなくなった。

 

 

その事で男は気が緩んだのだろう。

口元の手の力が少しだけ弱まった。

 

 

その一瞬の好機を逃すまいと、思いっきり口を開ける。

 

 

 

「いっ!!」

 

 

その呻き声と同時に、男は瞬時に口元から手をどけた。

 

「このクソアマ……! そんなに死にてえか!」

 

自身の手を押さえこちらを睨みつけ大声を出す。

 

殺気にも似た視線に怖気づくことなく真っすぐ見つめ返し、息を吸い込みはっきりと告げる。

 

 

 

 

「アンタにいいようにされるくらいなら死んだ方がマシだ変態野郎ッ!」

 

 

 

 

――瞬間、ガラスを打ち破るような音が鳴り響く。

 

 

 

 

何事だと驚き音がした方を見ると、黒いスーツに身を包んだ人がそこに立っていた。

 

 

しん、と一瞬静まり返った後、拳銃を持った男が口を開き言葉を発する。

 

 

 

「……てめえ、三合会の人間か! 何でここが!?」

 

 

黒い手袋を嵌めた長髪のその男性は、銃を向けられているにも関わらず一目散に駆けだした。

 

凄まじいスピードで近づいて来る彼に男は少なからず動揺したようで、一瞬躊躇った後銃口をこちらへ向ける。

 

 

「近づくんじゃねえ! それ以上近寄ったらこの女を……がッ!」

 

その言葉を吐いている途中で一気に距離を詰められる。

そして、問答無用で見事な蹴りが直撃し男はそのまま床に倒れた。

 

 

そこからあっという間に男は床に押し付けられ身動きが取れない状態にされていた。

 

 

彼の体術を目の当たりしたのは初めてで、目の前で何が起きているか分からなかった。

 

 

「動くな。動いた瞬間折る」

 

「クソッ、なんでここが……! 退きやが、ああああああッ!」

 

「動くなって言ったろ」

 

彼の下で足掻いた瞬間、忠告通り右腕を曲げられた男が悲鳴を上げる。

男の呻き声が響く中、郭さんは私の方をちらりと一瞥しすぐさま目を逸らす。

 

 

それと同時に表のドアが勢いよく開けられ、一人がまっすぐこちらへ走ってくるのが見えた。

 

 

「キキョウちゃん……!」

 

「リン、さん?」

 

「殴られてはないみたいね。今外してあげるからちょっと待ってて」

 

私の姿を見て安堵した表情を浮かべ、リンさんは両手足首を縛っているロープを切ってくれた。

 

 

なぜ彼らがここにいるのか。

まさか、助けに来てくれたのか。

いや、ただの洋裁屋如きに彼らが動くわけがない。

というかなぜリンさんが郭さんと一緒に? この二人はあまり一緒にいたがらないのに。

 

 

次々と新たな疑問が浮かび、頭が混乱する。

 

 

「起きれる?」

 

「……ええ」

 

心配そうな表情のリンさんが差し伸べてくれた手を取り体を起こす。

服が破かれてしまっているので、代わりに手で胸を隠す。

 

「何か羽織れるもの……。郭! アンタのジャケット貸しなさい!」

 

「今こいつから手が離せねえの見て分かんだろ! 他の奴に借りてこい!」

 

「そんなドブネズミとっとと殺しなさいよ!」

 

「こいつは大哥の獲物だ! そう言うわけにはいかねえんだよ!」

 

「たく、こういう時まで口喧嘩か。相変わらず仲睦まじいことだ」

 

 

リンさんと郭さんがいつも以上の口論を繰り出していると、ドアの方から聞き慣れた低い声が聞こえてきた。

 

 

声の方を見ると、そこには後ろに複数の部下を連れ、いつものロングコートに身を包んだ彼が立っていた。

 

 

心なしか安心したような気持がこみ上げてきたのと同時に、自分の今の姿を思い出す。

あまり見られたくない姿だがこれ以上隠すことができず、羞恥から自然と顔を逸らす。

 

 

 

「……つまんねえ歓迎だな」

 

 

 

彼が面白くないと言わんばかりの声でそう言った後、コツコツと靴の音がこちらに近づいてくる。

こんな姿を彼に晒してしまっている事実に、目の前に来たと分かっても顔を合わせられなかった。

 

 

 

 

――すると、少しの間を空けて何かが私を包み込んだ。

 

 

驚いて顔を上げれば、彼が自分のロングコートを私に着せていた。

 

「張さん、あの」

 

「こういう格好は俺以外に見せないでほしいんだがな」

 

張さんは、困ったように眉を下げそう呟いた。

 

「……ごめんなさい、見苦しい姿を」

 

「そう言う意味じゃねえよ。……怪我は、ねえみたいだな」

 

「ええ、お陰様で」

 

「そりゃよかった」

 

彼がよく好んで吸っている煙草の匂いに包まれながらいつものように言葉を交わす。

 

 

そして、武骨な手が頬に触れた。

 

 

あの男の手とは違い、気色悪さなど微塵も感じない。

 

その事に安心感にも似たものを抱きながら、これもまたいつものように受け入れようとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――瞬間、体に異常な何かが起きた。

 

 

 

 

 

 

彼に触れられている部分が、異様に熱い。

 

そう感じたのと同時に体全体にその熱さが巡る。

 

 

 

 

今まで感じたことのない感覚に動揺し、思わず彼の手を跳ね除ける。

 

 

 

「キキョウ?」

 

「……すみ、ません。なんでもない、です」

 

「……どうした」

 

「なんでもない、です……!」

 

これは、なんだ。一体何が起きている。

何が何だか分からない。

 

だが体は熱くなる一方で、更に頭が混乱する。

 

「キキョウ、落ち着け」

 

「大丈夫、です。何でも、ないですからッ」

 

張さんは私が冷静でないことを見抜いているのだろう。

離れようとする私を逃がさないと言わんばかりに腕を掴まれる。

 

彼が触れてくる部分が、特に熱い。

火傷するような熱さではなく、それとは違う感覚。

 

何もかも分からない。

だが彼にこれ以上触れられたら、もっとおかしくなることだけは理解した。

 

「離して、ください!」

 

だから触られたくなくて、彼の体を押し返そうとするがびくともしない。

それどころか、その自分の手にも熱が籠ってくる始末。

 

「キキョウ、こっち向け」

 

「ッ……」

 

言い聞かせるような低い声音で発しながら顎に手を添えられ、無理やり顔を上に向かせられる。

 

見上げた先には、真剣な表情をした彼がこちらを見据えている。

 

 

その視線に、更に熱に浮かされたように息苦しくなる。

 

 

 

さっきまでこんなことなかったのに。なんで急に……

 

 

 

 

「――おい、ドブネズミ。こいつに一体何をした」

 

「……知らねえ」

 

「郭」

 

「は」

 

張さんは私の顔を見た後すぐさま視線を別の方へ向け、ドスの利いた声で床に押さえつけられている男に声をかけた。

男は彼の質問に素直に答えず、郭さんの名が呼ばれたその後すぐにまた悲鳴が上がる。

 

「び、媚薬だよ! 腕から直接……ッ、打ったんだ! でも、さっきまでは、そんな反応一つも……!」

 

「……」

 

張さんは顎から手を離すことなく、サングラスの奥から鋭い視線を男に浴びせていた。

 

「張、さん。私は、大丈夫ですから。……こんなのすぐ、収まります。だから、もう離して……くださいッ」

 

「リン」

 

「媚薬の効き目の程度は多種多様ですが、種類が何であれこうなったら抑制剤使って収まるまで待つか――」

 

 

 

リンさんは淡々と、静かに話す。

 

 

 

「セックス、またはオナニーで発散させるか。下手に抑制剤使うよりはそっちの方が効果的です。……アタシとしては、圧倒的に安全に済むであろう後者をおススメします」

 

 

 

今、彼女は何と言った。

 

おススメすると言ったその行為は知識はあれど、洋裁のことしか考えてこなかった私は体験したことない。

というか、今まで興味が湧かなかったのだからするはずもない。

 

 

 

なら、我慢するしかない。そのためにも彼から離れなければ。

 

「私は、大丈夫です。収まるまで我慢できます……ッ」

 

「……」

 

「だからもう、離して……。お願いだから、離してくださいッ!!」

 

これ以上触れられたら自分がおかしくなりそうで怖い。

知らない感覚に襲われ、どうしていいのか分からず声を荒げてしまう。

 

 

力いっぱい彼の体を押し返す。

だがそれよりも強い力で掴まれ、離れることを許さない。

 

 

 

「悪いが、その我儘だけは聞けねえな」

 

 

 

張さんが短くそう言った次の瞬間、強引に腕を引っ張られ背中に手が回る。

 

 

 

今度は熱さではない、痺れたような感覚が全身を巡った。

そのせいで、一瞬身動きが取れなくなる。

 

 

 

――そして考える間もなく、横抱きの態勢へと変わる。

 

 

一体何が起きたの変わらず、頭が真っ白になる。

 

「郭、こっちの用が済むまでに全部吐き出させておけ」

 

「御意」

 

「彪、車持ってこい」

 

「は」

 

口早に二人に命令すると、そのまま歩き出した。

 

「張、さん」

 

「今は何も考えるな」

 

こちらを見向きもせず、ただ一言そう言った。

下から見上げた彼の顔は、どことなく苛立っているような表情を携えていた。

 

何故彼がそんな表情をしているか分からず何も言えなくなる。

逞しい腕の中で揺られながら、彼が触れているところから体中に伝わる痺れと熱を感じることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

アタシは我がボスが可愛い女の子を抱え去っていった後姿を見送り、すぐさま床に転がっている男を睨みつけた。

あの子の様子からして、犯される直前だったのだろう。

服が破られ肌が露になり、両手足が拘束されている姿を見た瞬間心の底から殺したいと思った。

 

 

――そして、彼女を異様な程気に入っている彼はアタシ以上にキレていた。

 

男という生き物が、自分がずっと大切に育ててきた獲物が横取りされそうになるのを我慢できるはずもない。

 

彼もれっきとした男なのだがら、当然と言えば当然だ。

 

「で、アンタは“これ”をどこで手に入れたのかしら。見たところ、ただの媚薬じゃなさそうだけど」

 

「……」

 

「だんまりってわけ。まあ、どうせ吐かされるだろうから別にいいんだけど」

 

下に転がっていた小瓶を拾い、見せつけるように揺らしながら尋ねたが無視された。

 

愚かな男だ。

今だろうが後だろうが殺されるのは変わらないというのに無駄な抵抗を続けている。殺しの腕は相当立つのだろうが、頭の方は大分弱いらしい。

 

「リン、その薬知ってんのか?」

 

「知らないわよ。だけど、キキョウちゃんのあの様子だと催淫系の麻薬も混じってるタイプね。注射性であっても短時間であそこまでの効果を発揮するには脳に作用しやすいものを混ぜなきゃ無理」

 

「大哥にそれ説明しなくてよかったのか」

 

「必要ないでしょ。麻薬だろうが何だろうが対処法は変わらない。どうせあの人はやる事やるつもりなんだから」

 

「……」

 

あの子は大哥だけでなく、その他の三合会の人間にもどちらかといえばいい印象を持たれている。今まで大哥の隣にいた女性は美人ではあったが、部下に対しての横柄な態度や媚をとことん売ったりなど“少しだけ”癖が強いタイプばかりだった。

 

だがキキョウちゃんはそんな女性たちとは違い、大哥に気に入られているからと言って自分たちを決して下には見ず、それどころか「彼の大切な部下」として礼節をもって接してくれている。

 

 

だからこそ郭を始め、多くの人間が認めている。

 

 

ここにいる大哥直属の部下は、そんな二人の仲を傍で見てきた人間だ。

 

だからこそ、今のあの子をどうにかできるのは彼しかいないこと。そして、彼がこれからとる行動も全て知っている。

 

「ドブネズミ、よく聞きなさい。アンタが手を出した女はね、アタシたちのボスがこれまで必死に喰らうのを我慢し育ててきた大事な大事な獲物なのよ」

 

あの子の事をこんな風に言いたくないのだが、頭の弱いクズにも分かるようにクズが使う言葉を敢えて出してやる。

 

「そんな獲物を横からかっさらい、その上こんなクソみたいなものを与え喰らおうとしたその罪。死ぬだけじゃ足りない」

 

媚薬を盛られたと知った大哥の顔は正直背筋が凍った。

あの様子じゃ、この男に待っているのは生半可な覚悟じゃ到底耐えられない制裁だ。

 

ただ殺すなんて、彼の気が収まるわけがない。

 

「早く死ねるといいわね、クソ鼠」

 

にっこりと笑顔で言い放つと、郭が呆れたようにため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――あの古びた部屋を出て、彼は私を横抱きにしたまま車に乗り込んだ。

膝の上に乗せられている態勢に、羞恥のせいもあり全身に熱が巡る。

逃れようと藻搔いたが時折痺れるような感覚が襲い、その度に動けなくなってしまう。

 

そして動きが止まった隙に体を更に引き寄せられる。

どう足掻いても逃げられないことを察し、奥歯を噛みしめ体全体に力を入れ我慢する。

だがそれだけでは足りず手を噛もうとしたのだがそれを呆気なく彼に止められた。

 

 

『手噛むな。傷になる』

 

 

そう言って両手を押さえつけられる。

身動きが取れない状況に、再び奥歯を噛みしめ我慢するしかできなかった。

 

そうやって過ごしていれば、目的地に着いたのか車が停まる。

 

そこは、数日前お邪魔した彼の自宅のマンション。

 

ロングコートに身を包んだ私をそのまま抱きかかえ、中へと入っていく。

エレベータで上がり、器用に片手でドアを開けるとあっという間に覚えのあるリビングが目に入る。

 

 

そのまま私が使っていた部屋へと入り、ゆっくりとベッドへと降ろされた。

 

彼はサングラスを外し、寝っ転がっている私を見下ろしている。

 

「気分はどうだ」

 

「……よく、分からない、です」

 

「そうか」

 

熱が出た時のように肩を上下させ息をする。

そんな私の様子を彼は黙ったまま見てくる。

 

 

その視線から逃れたくて、顔を逸らす。

 

 

「運んでくださり、ありがとう、ございました。今は、一人にしてくだ、さ……」

 

「キキョウ」

 

私の名を呼びながら、彼が上に覆いかぶさる。

 

「今のお前を放置なんざできるか」

 

「大丈夫、です……ッ。お願い、ですから」

 

「キキョウ、俺を見ろ」

 

「ッ!」

 

先程のように無理やり顔を合わせられる。

何度も見たあの瞳が、真っすぐこちらを見つめていた。

 

「この俺が、ずっと手に入れたいと願った女がクソ鼠にいいようにされた姿を見せられ、我慢できると思うのか」

 

「……張、さん?」

 

「お前も俺もこんなことは非常に不本意だ。……だが、今のお前はオスを誘うメスそのもの。これ以上他の男にその姿を晒すくらいなら、いっそ俺が今ここで喰らってやる」

 

「何、言って」

 

そう話す彼の表情は、真剣さを帯びてはいてもどこかいつもと違うもの。

 

 

一体、何を言っているんだ彼は。

 

 

喰らう? 何を?

 

「分からないか。ならもっと分かりやすく言ってやろう」

 

 

 

 

彼の顔が耳元に近づき、低い声が脳裏に響く。

 

 

 

「――今から俺がお前を抱く。それが楽になれる一番の近道だ」

 

 

 

 

その言葉に思考が停止する。

 

 

 

 

私を抱く?

 

 

 

 

 

彼が?

 

 

 

 

 

今から?

 

 

 

 

 

「……私は、大丈夫ですッ! そんなことしなくても、平気です!」

 

「……」

 

「私なんかを相手にッ、する必要、ないんです……ッ」

 

 

これ以上、酷い有様を彼に見られたくない。

背中の痕も、訳も分からず混乱している姿も何もかも。

 

 

「貴方が私を、抱くなんて、冗談が過ぎますよッ!」

 

さっきの言葉が冗談だったとしても、いつものように流す余裕はない。

だから必死に言葉を紡ぎ、拒否することしかできない。

 

「……冗談だと?」

 

「……そう、でしょう。今の私を面白がって、反応を見ているだけ……でしょうッ。無様だと、哀れだと、そういってッ」

 

「それ以上戯言をほざくなよ、キキョウ」

 

瞬間、底が冷えそうな声が降り注ぎ、思わず口が止まる。

 

「いいか、所詮俺も一匹の雄だ。今まで大事に育ててきた花が何処の馬の骨とも知らねえ奴に摘まれかけたこの状況下で冗談を言える余裕なんざない」

 

「え……?」

 

「お前の肌に触れるのも、その欲情した顔を見るのも、欲をさらけ出すお前を受け入れるのも俺だけだ。俺だけに許された権利だ。……それを横からかっさわれた時の俺の怒りが分かるか?」

 

「……」

 

「キキョウ、俺はお前を抱きつぶし、骨の髄まで喰らいたい。目の前にいる男は、そういう獣なんだぜ」

 

「ンッ……!」

 

張さんはそう言って耳を噛んだ。

彼の言葉を正確に理解したわけじゃない。

だが、どういう意味を持とうと彼にこれ以上の痴態を見せるわけにはいかない。

 

 

だから恥を押し殺し、口を開く。

 

 

「待って、くださッ! 私は……私は、貴方を、満足させること、が、できないですッ! そんな女抱いたって、面白くない、でしょう……!」

 

「何の心配をしているか知らんが、今はお前を抱けること以外何も求めていない。それに、こういう時は男が女を満足させるもんだ。今までお前を抱いてきた男は腑抜けばかりだったのか?」

 

「ちがッ……! 今まで、抱かれたことなんて、ありませんッ! ……処女なんです!」

 

躊躇った後、はっきりと事実を告げる。

 

なんでこんなことを言わなければいけないんだと羞恥が募るが、言わなければ分かってくれないだろう。

 

私のカミングアウトに張さんは一瞬驚いたような表情を見せた後、「……ほう」と呟いた。

 

「そうか、通りで。今までの反応もその初心さ故、か」

 

「処女の、相手はめんどくさ、いでしょう……ッ。だから」

 

「だから? それがお前を抱かない理由になるのか」

 

「は……?」

 

「確かに処女をめんどくさいという男はいるがな。少なくても俺は、お前の初めてを奪えることにかつてないほどの喜びを覚える」

 

「何言って……!」

 

「処女だから抱かない。そんな考えはないってことだ」

 

 

 

どうしよう。どうしようどうしよう。

 

 

まさかこれでもやめないとは思ってなかった。

 

このままいけばこれ以上みっともない姿をさらけ出してしまう。

 

 

それだけは阻止しなければ。

 

 

 

「ヒッ!」

 

 

 

耳を舐め上げられ変な声が出てしまう。

 

本能が逃げなければと全身全霊で告げていた。

このままではまずいと、力いっぱい彼の体を押し返そうとするがぴくりとも動かない。

 

「諦めろ。お前を逃がすつもりはない」

 

その言葉に、どうしようもなく焦っていた。

無情にも熱は体から出て行かず、痺れが巡る。

 

「い、やッ……! 離して、ください……ッ」

 

「キキョウ」

 

「離してッ!!」

 

できる限り体をひねり、彼に背中を向ける。

そのまま逃げようとしたのだが、武骨な手がそれを許してくれなかった。

 

「……これは」

 

「……あ……」

 

 

捕まったままの態勢で、彼が驚いたような声音を出した。

 

 

 

 

その瞬間、今の状況を理解する。

 

 

破られた衣服では隠すにはあまりにも役不足で、背中の痕が露になっていたことを忘れていた。

 

 

 

 

 

――彼の目線は、明らかに私の背中に向けられていた。

 

 

 

 

 

「……」

 

「……以前、言ったでしょう。この体は、貴方に差し出せる、代物ではないと」

 

「……」

 

「もう、いいでしょう……。もう、離して……」

 

 

 

私は馬鹿だ。

 

 

背中を見られまいと逃げようとしたのに、その行動で見られてしまっては意味がない。

 

 

 

手が震える。

醜いと言わるのも時間の問題だろう。

 

 

だが、もう見られてしまったものはしょうがない。

それに、これで彼もきっと離すだろう。

 

 

こんな体、抱こうと思うわけがないのだから。

 

 

そう思い、彼から離れようと動き出す。

 

 

 

 

――だが、何故か武骨な手は掴んだまま離さない。

 

 

 

「張、さん。何してるん、ですか……早く手を」

 

「悪いが、離す気は更々ない」

 

「……は?」

 

「こんな痕如きで、俺が離すと思うのか」

 

 

 

――何、言っているんだ。

 

 

 

「確かにこれは酷い。他人から見れば、思わず触るのを躊躇うほどに」

 

「ならっ」

 

「だが、俺にとっては気にする程のもんでもない」

 

 

そう言いながら、再び私の体を引き寄せた。今度はうつ伏せの状態で彼の下に敷かれ、両腕を抑えられる。

驚いて彼を見やると、その視線は背中の痕に向けられたまま。

 

「見ないで、くださ……ッ」

 

「こんなもの、俺とお前の間じゃ何の意味も為さない。故に、俺がお前を求めない理由にはならない」

 

「な……!」

 

 

そう告げた瞬間、彼が背中に唇をつけた。

 

予想外の行動に思わず声を上げる。

 

「何、して……ッ、汚い、ですよ!」

 

「汚い? どこかだ。俺が触れたいと思ったから触れているだけだ」

 

「や……!」

 

「お前にどんな傷があろうと、俺には関係ない」

 

「ン……ッ」

 

 

 

また背中に唇をつける。

 

 

彼の行動に困惑し、動揺する。

 

 

そして唇が触れるたびに、熱と痺れが襲う。

 

 

「ッあ……い、やッ」

 

「今はただ、俺に身を委ねろ」

 

「んッ――」

 

 

 

彼の手が、強く握っている拳の上に重なる。

 

 

逃がさないと言わんばかりに、手の震えを止めるように強く包み込む。

 

 

嗅ぎなれた煙草の匂いが鼻を通り、辛うじて残っていた理性が飛びそうになる。

 

 

熱く、汗ばんだ体の火照りは段々強まるばかり。

 

 

 

 

 

 

――そこからは彼からもたされる熱と言葉を受け入れることしかできなかった。

 

 

 

 

 

ただただ甘く、刺激的で、狂気的な彼との行為に私の頭はゆっくりと溶かされていった。

 

 

 

 

 

 

 






やっと一番書きたいところを書けました。ちょっと満足してます。

最初キキョウさんのファーストキスも鼠さんに奪わせようとしてたんですが、それはあんまりだと思ってやめました。

今回は薬を盛られた上に二人とも望んでない上での行為ですが、これを乗り越えて今後どうなるのか私も楽しみです。






『告知』
また別にR18用のお題で二人の濡れ場を次話と一緒に投稿する予定です。
勿論、読まなくても本編に支障がないようにいたします。
それでも興味がある方は、投稿した際に読んでいただけると嬉しいです。

こちらのお題については、また後日活動報告にて詳しくお話したいと思います。


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36 哀れな囮







 

――綺麗に整えられた広い部屋にあるベッド。

そこには人前では整えている髪を乱し、上半身をさらけ出し腰かけている張の姿があった。

 

隣では、一糸纏わぬ姿でキキョウが寝息を立てている。

 

無防備に寝ているキキョウにそっとシーツをかけ、傍に置いていた煙草を手に取り火を点ける。

 

煙を吐き出し、再びちらと隣の女を一瞥し先程までの行為を思い返す。

 

普段どんな相手でも凛とした姿勢を崩さない女が、子供のように感情を露にし、嫌だ、怖いと滅多に吐かない言葉を口にしながら自身の下で乱れていた。

 

何度も無理矢理にでも己の物にしたいと思ってきた。

乱れる姿を想像した数は数えきれない。

今でもこの女の全てを欲している。

 

それでもこれまで抱かなかったのは、自身に身も心も委ねていいとキキョウの口から言わせた上で完全に落とすつもりだったからだ。

異常とも言えるほど女としての魅力を自覚していないせいか、口説き文句を冗談だと流され、どんな言葉を口にしようと決して揺らいではくれなかった。

 

 

――だが、ここ最近その反応が変わっていた。

 

冗談だと受け流しながらも、あの真っすぐな瞳が戸惑ったようにほんの一瞬揺らぐようになった。

それだけでなく、癖のように頬に触れれば何も言わず受け入れ、時折少しだけ口の端を上げ微笑むのだ。

 

そして、数日前のあの反応。

体を抱き寄せ手を掴んではいたが、全く逃げ場を作らなかったわけではない。なら激しく抵抗することもできたはずだった。

だが、そうしなかった。

良くも悪くも素直な彼女がそうしなかったということは、少なからず己に心を許しているのだと確信した。

 

 

ここまで来るのに、本当に長い時を要した。

 

 

 

――だからこそ、どうしようもない苛立ちが湧き上がる。

 

 

 

下卑た鼠が綺麗な女に欲情するのはムカつくがまあ理解できる。

クソに塗れた手で触れただけであれば、まだ殺すだけでよかった。

 

だが、媚薬を盛り無理矢理欲情させ、すべてを狂わせたのは我慢ならない。

長い時間をかけてここまで来たというのに、こんなクソみたいなきっかけで抱くことになるとは。

彼女を抱いたことに一切後悔はないし、かつてない程の満足感を味わった。

だがそれとこれとは話は別であり、控えめに言って反吐が出るほど不愉快である。

 

舌打ちし、灰皿へ乱暴に煙草を押し付ける。

新たな煙草を取り出し口に咥えたその時、すぐそばで携帯の着信音が鳴り響いた。

 

 

コール音を聞きながら火を点け、煙を肺に入れ携帯を手に取る。

 

 

『もしかして、まだお取込み中でしたか?』

 

「……いや、俺も丁度お前にかけようと思っていたところだ」

 

『それはよかった。……ひとまず、あの鼠は例の場所へ郭達が移送させました。今はあの悪趣味野郎の玩具になっています。得た情報については後程彪から説明が。貴方の参上を、皆今か今かと待っていますよ』

 

「そうか。アイツには俺が来るまで壊すなと伝えておけ」

 

『かしこまりました。……大哥、あの子は』

 

「今は寝ている。とうとう限界が来たんだろう」

 

煙を吐き、淡々と言葉を交わす。

この数日、体に鞭を打ち続けた上に更に体力を削る行為をしたとあっては無理もない。

 

「リン、後は頼まれてくれるな」

 

『勿論。貴方は鼠の処理を心ゆくまでお楽しみください』

 

「そいつはちっとも心が躍らねえな」

 

『言ってみただけですよ。……すぐそちらに向かいます。また後程』

 

「ああ」

 

信頼に足る医者の軽口を聞いた後、通話を終わらせる。

ツーツーと機械音が流れる中、再びキキョウの方へ目を向けた。

張は安らかに眠るその寝顔をしばらく眺めると、徐に手を伸ばし今は熱が引いた頬に触れる。

最早数えきれないほど触れてきたその頬を、いつものように指で撫でる。

それでも深い眠りについているキキョウは起きることはない。

数回指を滑らせた後腰を上げる。

乱暴に投げ捨てられたワイシャツを手に取り、一度も振り返ることなく部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――外の光が完全に遮断されたとある部屋。その部屋を照らすのは、中央にぶら下がっている一つの小さな電球のみ。

冷たく、固いコンクリートの壁には、黒く変色した液体が染みついている。

 

「ああああああああああッ!!」

 

錆びた鉄の匂いが充満するその空間で、悲鳴が響き渡っていた。

悲鳴の主は、椅子に両手足を括りつけられ血を流している男。

髪の毛は毟り取られ、足と手の爪は剥がされ、至る所に釘を刺され、皮膚は所々削がれている。

 

そんな様と成り果てた、腕に“フードを被っている髑髏マーク”を刺れている男を見下ろすのは、黒いスーツに身を包んだ男達。

 

そして、目の前では唯一ワイシャツにスラックスというラフな格好をした男が立っている。白いシャツに数々の返り血をつけ、ニヤニヤと愉しそうな表情を浮かべている。

 

「いてえ……いてえよお……」

 

「痛いかあ。なら早く全部吐いちまった方がいいと思うぞ? お前まだ懐に何か“餌を隠し持ってやがる”だろ」

 

「もう、全部しゃべった……たのむよ……たす」

 

「ん? 何か変な言葉が聞こえた気がするぞ。もう一回はっきり言ってくれるかなあ?」

 

「た、たすけて」

 

「ぷっ……ぎゃははははは! おいおい、聞いたか郭! こいつ今はっきり“助けて”って言ったぞ! マジでこいつおもしれえ! はははははっ」

 

(フー)、お前な……」

 

胡と呼ばれた男は、郭に話しかけながら笑い声をあげた。

郭はそんな胡に呆れながら口を開く。

 

「あまり楽しむんじゃねえぞ。あの方が来る前に殺しちまったら今度はお前がこういう目に合う」

 

「んなこと分かってるよ。あの人にはただ皿の上の料理を平らげていただくだけが一番いい。仕込みを少しでも客に任せる料理人なんざどこにもいねえだろ? ましてや、料理を客に出す前に平らげるなんてご法度中のご法度ってな」

 

「にしてはやりすぎだ。お前のそのテンションじゃ確実に殺しちまうぞ。代われ、後は俺がやる」

 

「やだね、お前に任せた方が絶対死ぬ。――力加減できずに殺しちまって、何回大哥にお叱りを受けた?」

 

「……14回だ」

 

「覚えてんのかよ。なら大人しく引っ込んでろ。動きたい気持ちも分かるけどよ、忠犬は忠犬らしく飼い主を待つべきだぜ」

 

「……」

 

郭は内心舌打ちをしながらも、ため息を吐き渋々と口を閉ざす。

胡はそんな郭を一瞥した後、再び愉しそうな表情で血を流し続けている男に向かい合う。

 

「えーと、なんだったっけ? ……ああ、そうそう。お前が全部喋ってくれれば俺もこれ以上手は出さねえよ。どうせ結果は変わらねえんだ。なら早く吐いて、せめてあの人が来るまでは痛めつけられない方を選ぶべきだと思わねえか?」

 

「……本当に、俺は全部」

 

「はい、また嘘ついたな。じゃ、もう一本刺そうか」

 

「ま、まてっ……がああッ!!」

 

胡は問答無用で、右手に思いきり釘を打ち込む。

何回も何回も打ち付け、肉に埋もれていくのと同時に再び悲痛な叫びが響く。

 

「――臭えんだよお前は。ゴミみたいな臭いがその口から漂ってる。無駄な意地張ってんじゃねえよ」

 

「う……っ」

 

「もう一度聞くぞ。李について他に何を知ってる」

 

「だから、さっき話したので全部、だ……本当に、他は何も知らねえ」

 

「どう思う、郭」

 

「……釘三本の時点でべらべら喋った男だ。ここまで言っても喋らないってことは、本当に知らないんじゃないか」

 

「だとしたらこいつ相当なお馬鹿さんだぞ」

 

男を見下ろす胡は口の端は上がっていたが、目は一切笑っていない冷徹なもの。

やがて近くの椅子を取り、男の目の前で腰かける。

 

腕を組み、表情を一切変えずに再び静かに話しかけた。

 

「大哥にこのままぶち殺されるなんて少し可哀想に思えてきたよ。そんな哀れなお前に同情して、俺達が今知ってる情報を教えてやる」

 

「おい」

 

「別にいいだろ。どうせ死ぬんだ。最後くらい真実を教えたって罰は当たらないさ」

 

余計なことを言うなと言わんばかりに郭がすかさず口を挟んだが、胡は淡々と言葉を返し男に向かって話を続ける。

 

「お前が心底憧れている李豪という男はこの国どころかこの地球上に存在しない。……お前が言っていたイタリアで危険視されてたなんとかって麻薬を世に放ったのはイタリア人のグループ。そのグループは今や壊滅し、唯一生き残ったメンバーは消息不明。で、アメリカで警察と手を組み大量の麻薬を仕入れたのはオランダ人。こいつも絶賛逃亡中。あとはイギリスとかスウェーデンとかヨーロッパらへんで活動していたとお前は聞かされていたようだが、全員違う顔と名前だった」

 

「え……」

 

「その男に関して共通しているのは180㎝超の長身。名前も経歴も顔もすべて偽物であること。取引が済むと姿を完全に眩ませること。そして、行方を眩ます際は決まって誰かを生贄にしていること。その生贄共は全員口を揃えて“あの人はすごい”“あの人は生きる理由をくれた”と心酔していたようだ。――今のお前と同じだなあ?」

 

「で、でも……一緒に、国を出ようって」

 

「俺は違うってか? 本当に可哀そうだなお前。……ここまで世界中を敵に回して生き永らえてきた男が、今更馬鹿な足手まといを連れて行くと思うか?」

 

戸惑ったような表情を見せる男を憐れむような眼で見据えながらも口を休ませない。

 

「連れ回すよりも自分が確実に逃げるために使った方が便利だと判断し、喜ぶ言葉を与え人心を掌握し、いいようにこき使うことを選んだ。――結局、お前も可哀想な生贄にされたってことだよ」

 

途端、絶望した顔へと変わったのを胡は見逃さなかった。

更に口の端を上げ、痛めつけた時と同じように心底愉しそうに笑う。

 

「よかったじゃないか、最後に生きる目的とやらを貰えて。そのおかげでこんな目に合っているわけだが、別に何とも思わないだろ。スラム街で生きてきたドブネズミにしては勿体なさすぎるご褒美だと思うぜ」

 

「……」

 

「尚且つ最期の最期で一目惚れした女の体に触れたんだ。いやあ羨ましいね。俺も最期には惚れた女に触れてから死にた」

 

「そいつは俺も同感だ。――だが、人が折角育てた獲物に横から手を出すのは関心しねえがな」

 

ニヤニヤしながら話を続けていると、唐突に後ろから聞こえてきた声に遮られた。

胡は表情を一切変えることなく腰を上げ、声がした方へ振り向く。

そこには、黒いロングコートに身を包んだ張維新が悠然と立っていた。

 

「こいつは目先のことしか頭になかった大馬鹿野郎ですよ大哥。大方、獲物の後ろに立っていた虎に気づかなかったんじゃないですか? ま、今回は虎だけじゃなく龍もテリトリーにいたわけですが」

 

「相手を知らないただの馬鹿ならまだマシだったんだがな。こいつらは()()()()()()()()()()()()

 

「そんな恐ろしい事すんのは余程の間抜けか向こう見ずの勇者と相場は決まってる。こいつはどっちでしょうね」

 

「はっ。これはまた腐った勇者様だなあ、おい」

 

革靴の音が部屋中に反響する中二人は軽く言葉を交わす。

だがお互いの声音は淡々としたもので、どこか冷たさを帯びていた。

 

胡は椅子を手に取り、郭の隣へと移動する。

張は入れ替わるように男の目の前まで歩みを進め、サングラスの奥から鋭い視線を向けた。

 

「よおドブネズミ君、随分アイツに遊んでもらったようだが気分はいかがかな?」

 

「……あんたが、張維新か」

 

「悪いが自己紹介する気は更々ない。こっちはお前のことを既に知っている上に、礼儀を正すべき間柄でもないだろ。――あと、その汚ねえ口で気安く呼ぶな。不愉快だ」

 

「……」

 

「お前には散々世話になった。いや、どちらかというとお前の御主人にか。……まあ何であれ、お前にも返さなきゃならん礼がある」

 

張は淡々とした口調のまま、己を見上げるその男を見据え続ける。

動揺からか、または恐怖からなのか男の瞳は微かに揺れていた。

 

「楊一诺という殺し屋の話は以前から聞いていた。若くして殺しの才能を開花させ、名を上げていったとな。だが、今回は手を出す相手を見誤ったな。どれほど馬鹿であろうとこの国の人間、ましてや裏家業の人間なら三合会に手を出せばどうなるかくらい簡単に分かるはずだ」

 

「……」

 

「お前達は()()()()()()()()()一番手を出すべきではなかった龍の子に触れた。それも、不快極まりない理由でな」

 

「……」

 

あの街でかつての仲間と見知らぬ密売人のつまらない理由で自分が巻き込まれたことを思い返しながら、腰に差していた自前の銃を一つ手に取った。

 

その銀色の銃のグリップには、天帝の二文字と一匹の龍が刻印されている。

二挺拳銃の使い手である張維新の愛銃として名高い天帝双竜の片割れが姿を現した。

 

周りの人間は「ださい」だの「変えないんだろうか」と思っているのだが、郭だけは滅多に見れないその光景に喜びに打ち震えたい心情を抱えていた。

三者三様に思う事はあっても、部屋中に満たされている緊張感のおかげで誰一人自身の感情を表に出すことはない。

 

張はクルクルと銃を回しながら淡々と言葉を続ける。

 

「更にそれだけでは飽き足らず、彼女の恩人であり俺が長い時をかけて育てた花にも手を出した。――この事には流石の大姐もご立腹だったよ。温厚な彼女が“一切の慈悲は無用”とまで仰った。まあ、それは彼女に言われるまでもないが」

 

張は先程電話での桜綾との会話を思い出していた。

キキョウが“少し痛い目に合わされた”と知った時の彼女の声音は、電話越しでもわかるほど冷たく怒気が含まれたもの。

彼女からそんな声音が聞けるとは思わず一瞬驚いたが、すぐさま気を取り直しあるべきことを約束した。

 

 

――それは、自分たちに歯向かった哀れな子羊に制裁を下すこと。

 

 

暗黒社会の中心で生きてきた人間がもたらすは、血に塗れた鉛と断末魔。

今回も例外なく、愚かな羽虫に制裁を下すだけだ。

 

 

やがて銃を回すのを止め、誰にも感情を気取られない顔で再び話を続ける。

 

「そう、彼女に言われるまでもなくお前に慈悲なんざ与えるつもりはない。……はっ、お前には分からんだろうな。すぐにはすべてを手に入れられないと分かった時から長い時間をかけてきたというのに、あと一歩というところで鼠に味見された気色悪さも、犬の小便にも劣る汚物を与えられた後処理を任された不愉快さも、分かるはずがない」

 

冷めた視線と一層低い声音が男の上から降り注ぐ。

隠しきれない殺気に直立の姿勢を崩せない周りの人間は、ただ静かに見守っている。

 

「罵詈雑言を浴びせ、原形を留めない程殴り気分を晴らすのもよかったが、よく考えればこれ以上お前如きに時間を割くのは時間と労力の無駄でしかない。――だから、とっとと終わらせよう」

 

冷徹に言い放った途端、銃の安全装置を外す音を鳴らす。

 

そして男の額に銃口を押し当てた。

 

「ああ、忘れるところだった。ついさっき入った情報だが、お前たちが落ち合うはずだった場所に一つの便箋があったそうだ」

 

「……え?」

 

「その便箋には、たった一言こう書いてあったらしい」

 

グリップを強く握りしめ、軋む音を鳴らす。

 

「“人の言葉一つに踊らされる色ボケとやっていく趣味はない”。これがお前のご主人様からの最期の言伝だ」

 

「なッ……!」

 

「では御機嫌よう、ドブネズミ君」

 

ただ一言告げ、やがて一つの銃声が鳴り響く。

 

 

 

張が放った弾丸は、男の体にもう一つ穴を空けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――だが空いた場所は頭ではなく、太い右腕だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああああああああッ!」

 

 

悲鳴が響く中、張は表情を一切変えることなく目の前で痛みで藻搔いている男を見据える。

 

 

「そう、俺がお前の為に割く時間は無駄でしかない。だが、死ぬには“まだ足りない”。なあ、お前らもそう思うだろ?」

 

「全く持ってその通りですね。こいつには何もかもが足りなさすぎる。だが、貴方の相手には役者不足だ。――そこで、俺から一つ大哥に提案が」

 

「ほう?」

 

部下からの言葉に、張はここで初めて口の端を上げた。胡もつられてニヤニヤした表情で話を続ける。

 

「そいつを預けていただければ、俺が貴方の代わりに愚かな鼠に制裁を与えますよ。勿論、残虐の限りを尽くし、文字通り身も心も全て壊すまで」

 

「そりゃ妙案だ。なら、こいつはお前に任せよう。――久々の玩具だ。たっぷり可愛がってやれ」

 

「喜んで」

 

愉しそうに笑う胡へ一言言い残し、ロングコートの裾を翻す。

その後ろを、郭が何も言わず着いて行く。

 

一切振り返ることなく、出入り口の方へまっすぐ進む。

 

後ろでは、「何して遊ぼうかなあ」と楽しそうな声が上がっていた。

 

 

 

 

 

「――お疲れ様です」

 

「ああ」

 

「これからはどのように」

 

「まずは龍頭に報告して、そのまま指示を仰ぐ」

 

「は」

 

部屋の外で壁に背中をつけながら淡々と言葉を交わした後、彪は携帯を取り出し張へ手渡す。

煙をため息とともに吐き出し、部屋の中からまたもや響いている男の叫びを聞きながら静かに自分たちのボスの番号へとかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

高層マンションの中にある我が上司の自宅。

その客室のベッドの上にはキキョウちゃんが寝息を立てている。

汗ばんだ体を拭き、着替えさせている間も起きる気配は全くなかった。

今は休息をとるように深い眠りについている。

元々相当疲労がたまっていた体に薬を盛られ、その状態で大哥と性行為したのであれば当然と言える。目覚めるのは数日後になるだろう。

 

先程急いで訪れたアタシに「後は頼んだ」と口早に告げ颯爽と出て行ったのであまり言葉を交わしてはいないが、相当苛立っていると分かるのは容易だった。

 

傍から見て、何度も口説き様々なアプローチをかける大哥とそれを本気にしないキキョウちゃんの様子ははっきり言ってとても興味深かった。

普段、性欲処理の為に女を抱きはするがそれ以上の関係を築こうとは全くせず、それどころかめんどくさい女は全部切り捨ててきた。

そんなクズ野郎と評されても納得しかできないあの大哥が、一人の女相手に必死に手を出すことを我慢し口説き続けてきたのは異常事態といっても過言じゃない。

部屋に招いた後本当に酒を飲んで帰らせていた事実を知った時は、アタシだけでなく周りの人間も驚いていたものだ。

 

はじめて大哥の部下になった人間がキキョウちゃんのことを「大哥の女」と勘違いするのは恒例になりつつあり、そんな二人がどうなるのか部下たちの間で話が盛り上がったのは数えきれない。

 

 

 

――それが、まさかこんな結果になるとは誰も予想していなかった。

 

 

そして、きっと一番この結果を望んでいなかったのは他でもない大哥のはずだ。

強引にでも抱かなかった女に薬を盛られ、その後処理をするように抱いたのだから。

望まないことではあったが、口説いてきた女が目の前で欲情していれば抱かないという選択肢はなかったのだろう。

 

 

彼はこれからどうするのか。

そしてこの子はどうなるのか。

 

二人の関係にアタシたちは口出しできない。

なら、これまで通り二人の行く末を黙って見守るだけだ。

 

 

 

――だが、心のどこかで『今後少しでもこの子にとっていい結果があればいいのに』とらしくないことを思っている自分がいた。

 

 

 









張さんが「お前には分からんだろう」と言っているあたりの心情。

胡「(うわ、マジでキレてんじゃん。久々に見たなあ。おっかね)」
彪「(まさかここまで入れ込んじまうとはな)」
郭「(声音だけでここまで相手を委縮させるとは、流石大哥)」


胡は拷問をよく担当してます。
キキョウさんと面識はありますが、彪や郭ほど親しいわけではないです。
だけど顔を合わせたら挨拶はする仲。

また出せたらいいなあ。







R18用のお題投稿しました。
詳細な内容は活動報告にて。


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37 桜の花

 

 

 

 

『――やめてください……っ、こんなこと……!』

 

『ほら、いいだろ? 見られて興奮するタイプだもんなお前は』

 

『こんな、こと……ッ、もうやめ……!』

 

『そんなこと言って、体は正直だぞ』

 

『いっ、た……!』

 

 

 

苦しそうな女の人の声と上機嫌な男の声が響く。

 

一体何事かと閉じていた眼を開ける。

 

視界が霞み目の前がはっきり見えず、何回か瞬きを繰り返す。

 

 

 

段々はっきりしてきた視界に映ったのは、顔を殴られたのか頬が腫れている女性に男が口の端を上げながら乗っかっている様。

 

 

 

これはなんだと思ったのも一瞬で、すぐ一つの答えに辿り着く。

 

 

 

――これもまた、何度も見てきた光景。

 

 

決して忘れることのできない記憶が、またこうして映画のように見せられているのだと。

 

 

女性が悲痛な声で必死に抵抗しているにも関わらず、男は気色悪い笑みを浮かべている。

やがてこちらを見ると、楽しそうな声音で話し出す。

 

 

『――は、自分が生んだ子供の前で犯されるのはどんな気分だ?』

 

『“  ”、こっちを、見ちゃダメ……!』

 

『あ……』

 

女性もこちらを見ながら必死に声を出す。

 

正確には私のすぐ隣で縮こまっている女の子の方を。

 

 

十歳にも満たないであろうその女の子は怪我をしているのか腕と足に包帯を巻いている。

 

女の子は男の言葉に体を震わせ、怯えたような表情を見せる。

 

 

 

私は近づくことも声を出すこともできず、ただ見ることしかできない。

 

 

 

『お前も目を逸らすなよ。言う事聞かなかったら分かってるな』

 

『……っ』

 

『なんて、こと……! あなたの娘でも、あるのに!』

 

『あれは女としての役目も果たせない俺を苛々させるだけの害虫だ。背中にあんな痕がある女を欲しがる男がいるならすぐくれてやるんだがな』

 

『あなたがっ、無理矢理つけたもの、でしょう……! それを』

 

『うるせえな。いい加減黙れ』

 

『うっ……!』

 

 

 

拳を振り、女性の顔を殴る。

 

 

そしてまた腰を動かし、女性の苦しそうな声が響く。

 

 

 

隣の女の子は男に逆らうこともできず、目を逸らさず目の前の光景を見続ける。

目には涙を溜め、唇を噛みながら必死に泣くのを堪えている。

 

 

 

――この子は今、大好きな母が苦しそうにしているのに何もできない歯痒さと男への恐怖心に挟まれている。

 

 

 

何もできないことに悔しさを感じているのなら動けばいいじゃないか。

 

動けば少なくても矛先は君に向く。

 

少しの間であっても母親が苦しまなくて済むなら、それでよかったはずじゃないのか。

 

 

 

どうして、ここで動かなかった。

 

どうして、自分が犠牲になろうとしない。

 

動かなければいけないと分かっているのに、どうして。

 

 

 

 

そう思っていても、声を出すことも手を動かすこともできない。

 

 

 

“また”見ていることしかできない状況にどうしようもない苛立ちを感じながら、女の子と一緒に時が過ぎるのをひたすら待つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

――しばらくして男は気が済んだのか、息が上がっている女性を置いてどこかへと立ち去っていた。

 

 

 

酷い顔で床で横になっている女性は、女の子を見て柔らかく微笑むとゆっくりと体を起こした。

 

 

 

『“  ”、ごめんね。怖かったでしょう?』

 

『……かあ、さん』

 

『おいで』

 

『……』

 

 

女の子は恐怖が残っているのか呼ばれても動くことはなかった。

 

相変わらず震えている女の子に、女性はこちらに手を伸ばし再び優しい声音で話しかける。

 

 

『“  ”。こっちに来て、顔を見せて……』

 

 

女性の切ない声から出た願いに女の子は震えながらも立ち上がり、恐る恐る歩き出す。

 

やがて目の前に来た女の子へ手を伸ばし、壊れ物を扱うように抱きしめた。

 

 

 

『あんなもの見せられて……びっくりしたわよね』

 

『……ごめんなさい。私のせいで、母さんが』

 

『あなたのせいじゃない。あなたは何も悪くないのよ』

 

『私が役立たずだから……こんな、ひどいこと……っ。ごめんなさい……ごめんなさい』

 

『そんなことない。そんなことないのよ』

 

 

 

女の子は女性の腕の中で堪らず涙を流す。

 

ごめんなさいと繰り返す女の子を女性は優しく撫でている。

 

 

 

『ごめんなさ……私なんか、いなければ……ごめんなさい……』

 

『謝らないで。謝らなくていいのよ』

 

『でも』

 

『本当なら私が……』

 

 

抱きしめている腕と声が震えている。

 

女性は震えを止めることができないまま、言葉を続ける。

 

『本当なら、私があなたを守るべきなのに……。ごめんね、弱いお母さんで……っ』

 

『え……?』

 

『あなたは何も悪くない。悪くないのよ……っ。ごめんね、こんな目に合わせて』

 

『……』

 

 

 

悲痛な声だった。

 

 

 

心の底からの謝罪の言葉。

 

 

 

 

それに対し女の子は、驚きで目を見開いている。

だがその表情は、すぐさま怒りのようなものへと変わる。

 

 

 

 

――ああ、そういえばこの時だったな。

 

 

 

あの男に対して明確な怒りを感じたのは。

 

 

母親が泣いているのは自分のせいだと分かっていた。

 

 

だがそれ以前に、あの男が私だけに矛先を向ければよかったのではないか。

 

 

あの男と自分さえいなければこの人はこんなに苦しまなくて済んだはずだ。

 

 

なぜ母は何も悪くないのにこんなに謝る必要があるのかと、子供ながらに思ったのを鮮明に覚えている。

 

 

 

『……ねえ“  ”、あの人はあなたにとても酷い言葉を言うけれど、そんなことないの』

 

『え……?』

 

『こんなに痛い目にあっても、酷いことを言われても逃げずに傍にいてくれる。一緒に耐えてくれている。あなたは自慢の娘よ』

 

『……そんなこと、ないよ。こんな、役に立たない人間』

 

『いいえ、あなたはとっても優しい子。……そんなあなたにつけられた傷は深くて、中々治らないと思う』

 

『……』

 

『だけどいつかその傷も含めて、あなたの全てを受け入れてくれる人がきっと現れる』

 

 

 

 

その言葉に思わず目を見開く。

 

 

 

 

 

 

“――お前の全てを受け入れる”

 

 

 

 

 

 

数日前、そういってくれた人が確かにいた。

 

 

 

 

心なしか鼓動が早まり、自身の手が震えている。

 

 

 

 

『ねえ“  ”、もしそういう人に出会えたら――』

 

 

 

 

女性は腕を緩め、女の子の頬に触れる。

 

 

 

 

『恐れずに、信じてあげなさい』

 

 

 

 

 

 

そう言った母の顔を見た瞬間、頬に温かいものが流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――キキョウ」

 

 

 

誰かの声が聞こえ、意識が底から戻ってくる。

重い瞼を開けると、何故か視界がぼやけていた。

 

 

何回か瞬きをすれば、目から涙が流れるのと同時に視界が段々はっきりしてくる。

 

「起きたか」

 

「……張さん?」

 

 

声がした方を向くと、素顔を晒している張さんがこちらを見ていた。

 

やがて武骨な手で頬に触れ、流れている滴を指先で拭いながら言葉を続ける。

 

「随分魘されていたようだが、何か悪い夢でも?」

 

「……少し、懐かしい夢を見てました」

 

「そうか」

 

 

武骨な手の感触にいつも以上の安堵感を抱く。

 

 

あの夢を見たせいなのか、また別の理由からなのか分からない。

 

 

 

だけど、今はその安心感に浸りたいと思った。

目を瞑り、頬を包む大きな手を黙って受け入れる。

 

「お前がこうして甘えるのは、初めてだな」

 

「……ダメ、でしょうか」

 

「これはまた随分素直だな。――構わん。お前の気が済むまで、好きなだけ甘えろ」

 

 

その言葉に口の端を上げ、顔を摺り寄せる。

今は恥とか失礼だとかいう考えは浮かばなかった。

 

 

 

彼もまた、私の行動を拒否することなく受けいれてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

――そうしてしばらく心地よさに浸れば、自身の気持ちも落ち着いた。

 

 

 

 

「もう、大丈夫です。ごめんなさい、我儘を言ってしまって」

 

「構わんと言ったろ。普段もこうやって甘えてくれれば嬉しいんだがな」

 

「それはちょっと……」

 

「つれないな」

 

ゆっくりと体を起こし彼の手から離れれば、いつもの雰囲気へと戻る。

 

 

少し話をしたところで、張さんが真剣な顔で言葉を続ける。

 

「お前、あれから3日寝ていたんだぞ」

 

「え……」

 

「眠る前のことを覚えているか?」

 

張さんから告げられた話に驚きを隠せなかった。

 

 

そして、必死に寝る前の記憶を辿る。

 

 

 

確か、桜綾さんのウェディングドレスを完成させた後、何も分からないまま無理やり男に連れ去られ、犯されそうになったところまでは覚えている。

 

その後、リンさんや郭さんが助けに来てくれて、そこからは――。

 

 

 

一つ一つ丁寧に思い返していけば、やがて眠る前までの記憶が蘇る。

 

 

 

 

 

 

――そうだ。

 

 

何故か体が異様に熱くなって、彼にこのベッドの上で……。

 

 

 

 

 

 

男女の性行為は何度も見た。

 

女性が痛がっても男が絶対やめないその行為は、見てて辛く、恐ろしかった。

 

 

 

だがあの時の彼とのそれは、痛みだけではなかった。

細かいことはよく覚えていないが、多少の痛みはあったものの、過去に何回も見てきた行為とは何かが違っていて。

 

 

彼に抱かれたという事実とこの背中を見たのに何故抱いたのかという疑問。そして、どういう顔をすればいいのか分からない戸惑いで頭が混乱していく。

 

 

「その顔だと、今思い出したって感じだな」

 

「えっと、その……私……」

 

 

 

どうしよう。

 

どんな顔すればいいのか本当に分からない。

 

 

背中を見られたというだけでも耐えがたいのに、みっともない姿を晒してしまったことに動揺してしまう。

 

 

 

顔を逸らし、俯いて言葉を返そうとするが何も出てこない。

 

 

「そう不安そうな顔をするな。何も心配することはない」

 

「え……?」

 

「俺は――」

 

「お話し中失礼します! 大哥! キキョウちゃん起きたらすぐ呼んでくださいってアタシ言いましたよね!?」

 

張さんが何か言いかけた瞬間、ノックしたのと同時にドアを開け大声を出しながら誰かが部屋に入ってきた。

驚いている間にもつかつかと歩み寄るその人は、どこか疲れたような顔をしていたリンさんだった。

 

リンさんの登場に張さんは眉根を下げ、サイドテーブルに置いてあったサングラスをかける。

 

「お前な……ノックの意味知ってるか?」

 

「貴方が“キキョウが起きたら呼ぶ”と言ったからリビングで待ってたんですよこっちは! だというのに、いつまでも戻ってこないから様子見に来たらこれですよ! ノックしただけマシだと思いますけどね!?」

 

「そう騒ぐな、お前の声はうるさくて敵わん」

 

「誰のせいだと……はあ。――キキョウちゃんおはよう。気分悪いとか痛いところとかない?」

 

「お、おはようございます。えっと……特にないです」

 

「よかった」

 

リンさんの言葉をあしらいながら張さんはベッドから腰を上げた。

彼女は安堵したような表情を見せた後、再び張さんの方を向き口を開く。

 

「大哥、この子にはアタシから話をします。終わりましたらまたお呼びしますので」

 

「出て行け、だろ? 言われなくてもそのつもりだよ。ったく」

 

頭を掻き、やれやれと呟きながらリビングの方へ向かっていく。

部屋を出る前に目が合ったが、すぐさま目を逸らしそのままドアが閉まる。

 

リンさんと二人きりになり沈黙が落ちる。しばらくすると、やがて彼女が先に口を開く。

 

「キキョウちゃん、本当に体に違和感ない? この前の、その……変な感覚とか今はない?」

 

「……ええ、大丈夫です。強いて言うなら、寝すぎたせいか少し頭がボーっとするくらいですね」

 

「そう……」

 

リンさんが言っているのは、あの熱く、痺れたような感覚のことを言っているのだろう。

彼に触れられた瞬間急に襲ってきたあの感覚は、嘘のように全く感じない。

 

私の返答に彼女は安堵したような声を出した後、どこから持ってきたのか水が入っているペットボトルをこちらに差し出してきた。

 

「喉渇いてるでしょ。先にこれ飲みなさい。話はそれからよ」

 

「ありがとうございます」

 

そう言われてみれば、確かに喉が渇き声が少し掠れている。

三日も寝ていたのだから当然か。

 

夢見が悪かったのと混乱していたのもあり、起きてから全然気にならなかった。

 

 

ひんやりとしたペットボトルを受け取り、そのまま水を口に含む。

 

喉を潤しペットボトルから口を離すと、リンさんが真剣な表情で話し始める。

 

「……キキョウちゃんがあのクソ野郎に打たれた薬、ちゃんと調べたのよ。そしたら、やっぱり催淫系の麻薬も混じってたわ。所謂、普通の媚薬よりも効きやすいものよ」

 

「……」

 

「麻薬による依存性や効果の持続性は低い。だけど、今後あの時みたいな状態にならないとは言い切れない。直接血管に打たれたんだったら、尚更その可能性はあり得る」

 

「……そう、ですか」

 

薬物中毒者はあの街で遠目から見たことはあるので、重症化すればどうなるかくらいは分かっているつもりだ。

何回も麻薬を摂取しているからああなっているのであって、今後自分が摂らなければ何も問題ないだろう。

 

 

だが、これはあくまでも素人の考えだ。完全に問題がないとは確かに言い切れない。

 

 

「リンさん。もしまたあの状態になったら……我慢するしかない、ですよね」

 

「それでもいいけど、一番は今回みたいに発散させることね。薬を使うと段々効果が薄れてそのうち効かなくなる上に、そのせいで逆に中毒症状にもなりかねないから」

 

「薬で済むなら、私はそっちの方がいいです」

 

 

 

あんなみっともない姿を誰かに晒さずに済む方法があるならそっちを取りたい。

自慰なんてしたことないし、性行為をする相手も見つかるわけがないのだから。

 

 

「……キキョウちゃん。アタシが言うのもあれだけど、そうなった時は大哥に頼るのも一つの手じゃないかしら」

 

「……え?」

 

「背中の痕も見られたんでしょ? それでも大哥は貴女を抱いた。――なら、そういう点では誰よりも頼りやすいんじゃないかしら」

 

「……」

 

 

 

確かに、彼は私の背中の痕を見ても“気にしない”と言ってくれた。

 

 

 

それは覚えている。

 

 

 

 

――だが、それが本当の言葉なのか分からない。

 

 

 

 

今回だって彼の気まぐれの可能性だってある。

 

 

その言葉を本気にしてもう一回痕を見せた時、彼から“やっぱり醜い”と言われるかもしれない。

 

 

それで今までの関係が壊れたら、きっと私は彼に体を許したことを一生後悔する。

 

 

彼が気まぐれで抱いたのか、それとも本当に痕の事を気にしていないのかを確認する勇気は私にはない。

 

 

 

それに、さっき話した時いつもと変わらなかった。

なら、わざわざ自分から関係が壊れるかもしれない危険を冒す必要はない。

 

 

 

 

……そうだ、気にしなければ今までと何一つ変わらないのだ。

 

 

 

そうすればまた彼にみっともない姿を晒すことも、関係が壊れることもない。

 

「リンさん、それは無理ですよ」

 

「どうして?」

 

「また彼にあんなみっともない姿晒したくありませんから」

 

「そんなこと大哥は気にしないと思うけど」

 

「私が気にするんです。それに、こんな汚い体をまた抱くなんてあり得ないですよ。彼はもっと綺麗な女性が好みなはずですから」

 

「……これは手強いどころの話じゃないわね」

 

リンさんが怪訝そうな顔で聞いてきた質問に素直に返す。

すると何やらぶつぶつと呟き始めてしまった。

 

その様を首を傾げて見ていれば、私の視線に気づいたリンさんが一つ息を吐いて再び話し始める。

 

「まあ、キキョウちゃんがそう言うなら無理に言わないけど……。これからは少し様子を見ましょう。それで薬を用意するか決めるから。でも、使わないに越したことはないんだからね」

 

「ありがとうございます」

 

「ひとまずアタシからの話は終わり。一応、体に異常がないかちゃんと診ましょうか」

 

「お願いします」

 

 

 

そう言って私の方へ手を伸ばし、彼女による診察が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――キキョウさん、よかった……本当に……」

 

「ご心配をおかけしました。桜綾さんも、何事もなかったようでよかったです」

 

リンさんの診察を受けている間に張さんが龍頭や桜綾さん達へ私が目覚めたことを報告したらしく、「彼らがすぐこっちへ来たいそうだ」という驚きの報せを受けた。

急すぎる内容にリンさんも驚いた様子で、慌てて栄養不足な状態を何とかしなければならないから急にはやめた方がいいと張さんに進言していた。

だが、向こうもがどうしても会いたいと言っているようで、それならば数時間後ではどうかという結論に至った。

途中、私が会いに行こうかと提案してみたのだが、リンさんに「絶対ダメ」と言われ敢え無く却下された。

 

 

そういうことで、大人しくリンさんお手製のお粥をちまちまと食べながら時間を過ごす。

リンさんの手料理ということで少し不安だったのだが、少量の塩と米だけなら味が変になることもなかったようだ。

 

 

時間をかけようやく食べ終わり、彼女たちを迎えようと身支度を整える。

と言っても、髪を梳かしたり顔を洗ったりなど簡単なものだが。

服もリンさんが持ってきたもので、Tシャツとお腹を締め付けないワイドパンツというゆったりとした格好だ。

 

仮にも大組織の№2とその妻である二人の前に出るには少しラフすぎるかもしれないが、別に問題ないだろうと張さんから言われたので気にしないことにした。

 

出迎える準備もでき、そこからは彼女たちが来るのをリンさん、張さんと話しながら待っていた。

話の中で、張さんが桜綾さんの事を「大姐」と呼び方を改めていたことに驚いたが、彼なりに彼女を認めたのだろうと勝手に解釈した。

式を終えてから何か変わったのだろうかと、少しドキドキしながら待っていた。

 

 

そうしてしばらく話に花を咲かせていれば、遂に約束の時が来る。

 

張さんが彼らを出迎えに行き、数分もしない内に桜綾さんと香主が姿を現した。

 

 

 

――私の姿を見た途端、桜綾さんがパタパタと駆けてきて先程の言葉を掛けてきてくれたのだ。

 

 

「すみません、話をすると約束したのにお待たせしてしまい」

 

「こちらこそお疲れが取れていないのに押し掛けてしまって。キキョウさんが起きられたと聞いて居ても立っても居られずつい……」

 

「私の事はお気になさらず。――香主も、わざわざこちらに足を運んでいただきありがとうございます」

 

「恩ある御仁にこれ以上無礼を働くわけにはいかないからな。なら、こちらから出向くのは当然だ」

 

その言葉に思わず苦笑する。

何回も「気にしないでほしい」と言っているのだが、どうもそこは譲らないようだ。

 

「そこまで気遣っていただく必要はありませんよ。私は私のやるべきことを為しただけですから」

 

「そういうわけにはいきません」

 

苦笑しながらいつものように気にしないでと伝えると、唐突に桜綾さんが横から真剣な声音で話し始めた。

彼女の顔は、声音と似つかわしい表情を浮かべている。

 

「……皆さん、私からキキョウさんに大事な話があります。少しの間、二人きりにしていただけますか?」

 

「桜綾、それは」

 

「劉帆さんも、お願いします」

 

「……分かった」

 

彼女の言葉に張さん達が素直に部屋を出て行く。

その時香主が何か言いかけたような気がしたが、特に何かいう訳でもなくそのまま去っていった。

 

 

呆気にとられていると、桜綾さんは私を見据えたまま話を続ける。

 

 

「急にごめんさい。どうしても二人で話したくて」

 

「大丈夫ですよ。……それで、お話というのは?」

 

わざわざ人払いをしてまで話さなければならないとは。

どういう内容なのか気になるのは当然だろう。

 

早速本題に入らせようと声をかけると、彼女は一つ息を吐き意を決したように再び口を開く。

 

「キキョウさん、今回も本当にありがとうございました。――そして、ご迷惑をおかけしたことを心からお詫びいたします」

 

その言葉と共に、桜綾さんは頭を下げてきた。

まさか、こんな行動をするとは予想できるはずもなく、一瞬の間を空けた後すぐさま声をかける。

 

「頭を上げてください。別にどこか怪我をしたわけでもありませんし」

 

「あの街で助けてくださっただけでなく、ドレスを修繕していただいた貴女をおもてなしするどころか危険な目に遭わせてしまいました。どんな謝罪の言葉を述べようと、どんなに頭を下げようと許されることではありません」

 

「……それは貴女のせいじゃないでしょう。桜綾さんが謝る必要なんてどこにも」

 

「恩人である貴女にここまでの無礼を働いてしまったのは、招待した私に責任があります。直接的な原因がなくても、もっと注意を払っていれば少なくてもこんな目には遭わずに済んだんです」

 

 

そう話す桜綾さんの肩が少しだけ震えているのに気づいた。

 

 

あの男は、私に何かしらの恨みを持っている人間から依頼されたと言っていた。

 

 

なら、こうなったのは誰のせいでもなくただの自業自得。

 

それどころかドレスの修繕をする時も、三合会の人たちは私の部屋の周りを警備してくれたと聞く。

 

 

 

何故、何も悪くない人がこんなに震えながら謝らなければならないのか。

 

 

「あの街で助けていただいただけでなく、無茶な依頼にも応えてくださいました。私達にとってそれは一生かけて返すべき大きな恩です」

 

 

 

やめてほしい。

 

 

謝る必要なんてどこにもない。

 

 

何も悪くない彼女が、声を震わせてまでするべきではない。

 

 

「それなのにこんな、恩を仇で返すようなことに……最早どのような謝罪の言葉も、意味を持ちません」

 

「桜綾さん、もうその辺で」

 

「どんなに罵倒されようと、仕方ないことです」

 

息が詰まり、腹の底からせり上がってくるものを感じながら拳を握る。

 

 

 

これ以上、彼女から自分を責めるような言葉は……聞きたくない。

 

 

「キキョウさん。私達の式でこのような結果を招いてしまい、心からお詫びいたします。……本当に申し訳」

 

「謝ってどうするんですか」

 

「……え?」

 

 

自分でも驚くほど、低い声が出た。

声を荒げたい感情を抑え、桜綾さんの言葉を遮ったことも気にせず、できるだけ冷静に話を続ける。

 

 

「貴女を拾ったのも、ドレスを修繕したのもすべて私がしたいからしたこと。そして、私を連れ去ったのは私に恨みを持つ人間。ということは、私の自業自得です。これのどこに貴女が謝る必要があると?」

 

「……私達の式で、こんな危険な目に遭わせたのは私達に責任が」

 

「私の何かしらの行動で恨みを持った人間に殺されかけたというのに、張さんのおかげでこうして生きている。それが全てであり、それ以上何もいりません」

 

「……」

 

 

責任? 知ったこっちゃない。

彼女は本当に自分を責めているのだろうが、そんなのは無駄だ。

 

 

「私は私のために貴女を保護し、ウェディングドレスを仕立てた。そして、私が殺されかけたのは自業自得であり、三合会の方々は何も悪くない。――何も悪くないのに謝るのがヤクザ者の矜持なんですか?」

 

 

龍頭から言われた言葉を思い出す。

 

“貴女に頭を下げるのは、これ以上クズに成り果てないために。そういう矜持を保つためだ”

 

 

 

――頭を下げる必要がないのに謝っている彼女の行為は、逆にその矜持は保たれないのではないのか。

 

 

「お願いですから、何も悪くない貴女がそれ以上謝らないでください。……お願いします」

 

幼い頃、今の彼女と同じように震えながら私に謝る女性がいた。

その女性も何も悪くないのに、泣きながら「ごめんね」と繰り返していた。

 

桜綾さんの今の姿は、そんなあの人と全く同じだ。

何も悪くない人が震えて謝る姿は、これ以上見たくない。

 

私のお願いに、彼女はようやく頭を上げてくれた。

それでも、どうしていいか分からないと言ったような表情で少し俯いてしまった。

 

 

「失礼を言ってしまい申し訳ありません。ですが、貴女が謝る必要は全くないんです。――むしろ、こちらからお礼を言わせてください」

 

「え……?」

 

そう言うと、彼女の茶色の瞳と目が合った。

戸惑っている彼女に、いつもの声音に戻し話を続ける。

 

「大事な式に招いてくださったこと。未熟な私に大切なドレスを預けていただいたこと。そして、修繕の間も三合会の方のお力を貸していただいたことに心から感謝いたします」

 

「……」

 

「おかげでこの数日間、洋裁屋としてもキキョウ個人としても充実した時間を過ごせました。この体験は、本当に貴重な糧となりました」

 

「……来なければよかったと、思わないのですか?」

 

 

桜綾さんは不安そうな表情を浮かべ、声を震わせている。

 

 

「無礼を働いただけでなく、こんな酷い目に遭ったのに……それでも尚、招待したことに感謝するというのですか」

 

「ええ、感謝しかありませんよ。それに、今まであの街で大分危険な橋を渡ってきました。私は貴女が思っているよりも、こういう殺し殺される世界に慣れてるんですよ」

 

「……」

 

「今回の事もちょっとしたハプニングだと思えば、何ともありません」

 

何の力も持っていない人間がこの世界で順応していくには、「生きていれば上等」というスタンスを持っている必要がある。

まあ今回は彼との間で色々あったが、桜綾さんには関係ない話なので今は細かいことは気にしないでおこう。

 

 

だが、桜綾さんは腑に落ちないらしく、瞳は未だに不安で揺れている。

 

 

どういう言葉をかけるべきか頭を悩ませていると、ふと目の端に“ある物”が映る。

おかげで、やるべきことがもう一つあるのを思い出した。

 

「……そういえば、まだちゃんと言っていませんでしたね」

 

小さく呟き、ベッドから腰を上げる。

そして、部屋の隅に置いていた小奇麗な紙袋を手に取り桜綾さんの前に立つ。

 

「桜綾さん、遅くなりましたが」

 

「……これは?」

 

紙袋を差し出したのだが、状況を読み込めていない彼女は素直には受け取ってくれなさそうだ。

 

「私からのお祝いです。気に入ってくださるか分かりませんが」

 

「そんな……いただけません!」

 

「未熟な洋裁屋からの贈り物は受け取りたくありませんか?」

 

「そうではありません! 迷惑をかけた方から貰うなんて」

 

「私が貴女の為に、時間をかけて作らせていただいたものです。――もし、今でも私に何かしたいと言うのであれば、どうか受け取っていただけませんでしょうか? 謝罪よりも、そっちの方が嬉しいですよ」

 

この言葉は数年前、ある人から言われたことだ。

 

 

“これはあの子がアナタのために選んだものよ。なら、どんな理由があろうとアナタには受け取る義務がある。――何もしてあげられなかったというなら、せめて受け取るくらいはしてあげなさい”

 

 

友人からの最期の贈り物を受け取れないと言った時、真剣な顔をして言われたもの。

まさか自分が言う側になるとは思わなかったが、ここは有難く使わせてもらう。

 

「受け取っていただけますか?」

 

「……貴女は本当に、お優しい方ですね」

 

桜綾さんはどこか諦めたような声音で、微笑みながら呟いた。

やがて恐る恐る紙袋を受け取ってくれた。

 

「開けてもよろしいですか?」

 

「どうぞ」

 

そう言って彼女は紙袋の中に手を伸ばし、丁寧に包装された物を取り出す。

包装を開けていけば、次第に中身が見えてくる。

 

その様を私はいつものように気に入ってくれるかどうかドキドキしながら見守る。

 

「これは……」

 

「これから寒くなるので羽織るには丁度いいかと。ですが、一年中使っても問題ない素材を使っています。――あと、以前桜を一度も見たことがないと言っていたのでこちらの柄を誂えました」

 

「……綺麗」

 

 

桜綾さんが手にしているのは、白い布に桜が刺繍されたショール。

ショールの端には桜の花びらを一面に散らし、鮮やかな薄桃色が映えている。

あの街で話し相手をしていた時、『自分の名前に入っている花をいつか見てみたいんです』と言っていた。

 

 

もう何年も見ていないが、この花は私にとっても思い入れが強いのもあり、刺繍するのは苦戦しなかった。

 

 

「桜は満開に咲き誇っているだけでなく、散っていく様でさえ美しい花です。花弁が風に舞う姿は儚さと尊さを感じさせ、そのせいか日本人はそんな花に人生の儚さを重ねてみることもあります」

 

 

 

他の花よりも長く咲き誇るのにあっという間に散ってしまうと感じるのは、命と人生の儚さを重ねてしまうからだとどこかで聞いた。

だがその儚さを感じさせるからこそ、より美しく見えるのだとも。

 

 

どこまでも儚く、散っても尚見た人の中で生き続ける美しい花。

 

 

「貴女はとても芯が強く、凛とした美しい女性です。そんな貴女に惹きつけられる人は、この世界にたくさんいるでしょう。桜のように、最後まで綺麗な生き様をそんな人たちに見せつけてあげてください」

 

 

かつて、その花の名前を持っている女性が美しいとは言えない無残な死を向かえてしまった。

だが彼女には、誰もが羨む幸せな、美しい最期を迎えてほしい。

 

 

 

「――この度は、ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」

 

 

 

偽りではないその言葉を、微笑みながら投げかける。

桜綾さんは一瞬目を見開いたが、やがてゆっくりと口を開く。

 

 

 

 

「ありがとう、ございます」

 

 

 

 

 

彼女の顔には、あの綺麗で可愛らしい微笑みが浮かんでいた。

 













香港編は次の話で完結となります。


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38 花束を手に



香港編、最終話です。


 

 

「――すまないな。本当ならこちらから出向くべきところ」

 

「お気になさらず。いつまでもベッドで横たわっているわけにはいきませんから」

 

「あそこまで無茶をしたんだ。もう少しゆっくりしてもいいと思うがな。……体に変わりはないか?」

 

「ええ、お陰様で」

 

「それはよかった」

 

心配してくれていたような言葉をかけてくれたのは、あの何を考えているか分からない微笑みを浮かべている龍頭。

初めて会った時より緊張は帯びていないが、やはり気兼ねなく話すということはできず体に力が入っている。

 

 

 

――桜綾さんと話を終えた後のこと。

 

香主と桜綾さんは式が終わっても方々に挨拶回りなど忙しいようで、ゆっくり世間話をする時間はなかったらしい。香主にも感謝を告げられた後、私からの結婚祝いであるショールを羽織った桜綾さんと香主はすぐさま帰っていった。

 

その時、「父も貴女に会いたがっています。貴女の都合がいい時にでも会ってくださいませんか?」と桜綾さんから捨て台詞のように言われた。

 

龍頭がそう言っているならすぐにでも会った方がいいだろうと思い、すぐさま張さんへ相談し連絡を取ってもらった。

忙しいはずだからそんなすぐには無理かと思ったのだが、龍頭が時間を作ってくれたようで翌日話すことになった。

 

いつの間にか夜になり、念のため酒を控えリンさんと話をして過ごした。

体に異常が見られずひとまず大丈夫だと言うことで、リンさんもゆっくり寝るために自分の家へと帰っていった。

 

 

張さんともその後少しだけ話を交わしたが、特にいつもと変わらなかった。

その態度に、やはり何も変わらないのだと安堵しつつそのまま眠る。

 

 

 

そして一夜を過ごし、約束の時間となり香港へ来た初日に訪れたビルへと向かえば、杖をついた彼が出迎えてくれた。

 

ちなみに張さんは龍頭からの「二人きりで話がしたい」という言葉に従い、部屋の外で待っている。

 

「桜綾から話は聞いた。貴女の言う通り、確かに事の元凶はどこぞの鼠であり、もしかしたら貴女自身にもあるかもしれない。傍から見れば我々が謝る必要はないだろう。だが、よりにもよって我々の本拠地で、我々自身が招いた客人を危険な目に遭わせたのは警戒の甘さが招いたこと。それだけは、責任逃れすることは許されない」

 

「……」

 

「私からの謝罪の言葉も、聞いてくれる気はないのか?」

 

微笑みから真剣な表情へと変え、こちらを真っすぐ見据えている。

そんな彼の言葉に、自身が思っていることを告げようと一つ間を空けてから口を開く。

 

「失礼を承知で申し上げます。桜綾さんにはお伝えいたしましたが、私の何かしらの行動を快く思わなかった人間が事を起こしたのは事実。ということは、私の自業自得です。しかし、私は貴方や張さんの裁量によって命を救われました。私が頭を下げる理由はあれど、貴方が私に頭を下げる理由はどこにも見当たらないでしょう」

 

 

きっと、私がなんと言おうと彼は頑なに謝ろうとしてくるはずだ。

 

彼女を育てた父親だというなら、それくらい予想できる。

 

 

だが、今回に関しては彼が頭を下げる事にどうしても腑に落ちないのだ。

 

 

「貴方がた三合会は責任もってお二人の式を無事に終え、尚且つ私の命を救ってくださいました。この結果をもたらしてくれた貴方がたが責任逃れをしているなんて、誰が言えますか」

 

「……」

 

「寧ろ、私から感謝の言葉を伝えさせてください。――今日はそのために来たんです」

 

何も言わず話を聞いている龍頭を見据えたまま、腰を上げる。

 

そしてそのまま、彼に向かって深々と頭を下げた。

 

 

一つ息を吐き、再び口を開く。

 

 

「この度は盛大な式に招いてくださったこと。そして、私の命を救っていただいたことに心から感謝いたします。本当に、ありがとうございました」

 

 

張さんから、私が連れ去られたとき彼も動いてくれたと聞いた。

なら、感謝するのは当然であり逆に謝られるなんて言語道断だ。

 

私にとっては、ドレス修繕を無事に終えた上にちゃんと生きているこの結果がすべてだ。

その過程で色々と悶着あったが、今は気にすることではない。

 

「……頭を上げてくれ」

 

「……」

 

私の言葉を聞いた後、龍頭はしばらく間を空けた後声をかけきてた。

素直に従い、頭を上げて再び彼の顔を見据える。

無言で座るよう促され、高級椅子に腰かける。

 

「まさか、感謝の言葉を返されるとは。それも、偽りや形式ではないものを」

 

「当然ですよ。心から感謝してしますから」

 

「……ここまで言ってくれた相手に謝罪するのは逆に失礼にあたる、か」

 

そう呟くと、ふむ、と何やら考えるように顎に手を添えた。

お互い何も喋らず、沈黙が落ちる。

 

彼が何を考えているか分からないが、こちらは大人しく彼からの話を待つしかない。

しばらくするとようやく龍頭が顎から手を離し、こちらを見据え再び口を開く。

 

「これ以上、謝罪の言葉は不要だな。ならせめて、こちらからも礼を言わせてほしい。――貴女のおかげで、無事に式を済ませることができた。二人の親として、心から感謝する」

 

「……」

 

「言葉だけでなく何か返したいのだが……今も望むものは何もないか?」

 

 

やはりそうきたか。

 

これまでのやり取りから、彼が感謝の言葉だけで済むはずがない。

 

 

――私が今望むもの、か。

 

 

「ではお言葉に甘えて、一つだけ聞いてもいいですか?」

 

「……なんだ」

 

少し驚いたような表情を見せた彼に向かって、緊張した面持ちで言葉を返す。

 

「桜綾さんのお母様……貴方の奥様が着ていたというドレスについてです」

 

「あのドレスが何か?」

 

「……以前申し上げたと思いますが、あのドレスはとても素晴らしいものでした。どんな洋裁屋であっても、短期間では決して完璧に直せない程に。――ですが、使われていた技術は私にとって見覚えがあるもの……いえ、私がある人から受け継いだものと“非常に似ています”」

 

手に取って写真と見比べた時はただの偶然かもしれないと思っていた。

 

だが、触れていく内に明らかになっていく技法や、布の使い方。

 

それら全てを直接確かめたことで、ある一つの疑念が確信へと変わっていった。

 

「確か、仰っていましたよね。“滅多に依頼できない洋裁屋”に仕立ててもらったと。その洋裁屋について、貴方が知っていることを教えてください」

 

あの人がこの国でも洋裁屋として生きていたという事実を確かめたい。

もし私の考えが外れていたとしても、あの素晴らしいドレスを仕立てたのがどんな人なのか知りたい。

 

 

緊張からか自然と拳を握る。

 

龍頭は私の言葉を最後まで聞くと、徐に口を開いた。

 

「――二十年も前の事だ。結婚する時、滅多に我儘を言わない妻が“とある洋裁屋にドレスを頼みたい”と言ってきた。その洋裁屋は妻が日本で知り合った友人だったみたいでな。結婚する時必ず依頼すると約束していたらしい。……だが、私は反対した。当時は今以上に敵が多く、そんな中で会ったことのない、信頼できない人間に頼むことはしたくなかったんだ」

 

昔を懐かしむように、龍頭の顔には微笑みが浮かんでいた。

 

その表情を携えたまま、話を続ける。

 

「なら会ってみたらいいと、半ば強引にその洋裁屋を彼女がこちらへ招いてしまってね。“彼”と会ったのはその時だ。――いかにも暴力とは無縁の世界で生きてきたような人間だった。我が妻にあのような知り合いがいたことに驚いたものだ」

 

「……」

 

「だが、彼はそんな見た目に反して我々ヤクザ者を前にしても堂々と振舞っていた。私が脅しにも似たような言葉を浴びせても動じるどころか、“依頼するのが嫌なら他を当たれ”と言われたよ。――彼も貴女のように真っすぐで、自分の職に誇りを持った素晴らしい職人だった」

 

「……その、職人の名前は」

 

「重富春太。そう名乗っていたよ」

 

 

彼の口から出た名前に、驚きはなかった。

 

大組織のトップである彼からあそこまで評価された事実に、自分の事のように嬉しくなる。

 

 

それと同時に、申し訳ない気持ちが生まれた。

 

 

尊敬してやまないあの人が仕立てたものを、私のような未熟者が手を加えたことに。

 

 

複雑な心情に、拳に更に力が入った。

 

 

「先程“受け継いだものと似ている”と言っていたな。……貴女は彼の弟子なのか?」

 

「……ええ。彼には、色々な事を教えてもらいました」

 

「そうか。――親子共々、貴方がた師弟に世話になるとはな。なんとも奇妙な巡り合わせだ」

 

「そうですね。本当に不思議な事です」

 

龍頭の微笑みにつられ自身の口の端も上がる。

悪徳の都で偶然家の前で倒れていたのが三合会龍頭の娘で、その娘の結婚式で師が仕立てたドレスを目にし、更には手を加えることとなった。

 

 

偶然だとしても、あまりにも不思議な巡り合わせだ。

 

 

「今回の件、実は彼に頼もうと思っていたんだ。貴女の言う通り、仕立てた本人ならばなんとかしてくれるだろうとな。……そこで数年前に彼が亡くなっていたことを知った。遅ればせながら、師匠殿にはご冥福を」

 

「……ありがとうございます」

 

「あれから彼と会ってはいないが、私にとって今でも忘れられない人物の一人だ。それほどまで、彼はどこまでも真っすぐな人間だった。――そんな彼と貴女はよく似ている。彼の全てを受け継いだのだとその身をもって示すようにな。彼もきっとこんな素晴らしい、一流の洋裁屋を育てたことに誇らしく思っているはずだ」

 

「……それは、どうでしょうね」

 

 

あの人は普段は温厚で優しかったが、洋裁となるととことん厳しい人だった。

教える時も一切怒らないが一つでもミスしようものなら、どうしてミスしたのか。ミスしないためには何が必要か。起こしたミスでどのようなリスクが伴うか。ミサイルのように飛んでくる彼の質問にすんなり答えられるまで、一切裁縫道具を触らせてはくれなかった。

 

彼の教え方は怒鳴って分からせるものではなく、諭すようなやり方だった。

そのおかげで私の洋裁屋としての腕は上がったように思う。

 

 

……だが、それでも彼の腕にはまだまだ程遠い。

ずっと隣で見てきたのだ。彼に比べて未熟者であるのは誰より理解している。

 

 

その上、私は人に誇れるような人生を送ってはいない。

 

 

そんな私が彼の誇りとなっているとは、到底思えない。

 

 

「彼は私を、一流だと称したことはありませんでした。それどころか、恩返しができないまま最後まで迷惑をかけて。そんな不孝者を誇りだなんて言うとはとても」

 

「だが貴女は見事に此度の依頼をこなしてくれた。立派に自分の教えを受け継ぎ生きているだけでも十分な恩返しだと思うがね。……自分が手塩に掛けた娘なら尚更だ」

 

龍頭が何を考えてそんなことを言っているのか分からない。

私はどうしても納得できないが、目の前の彼は先程までとはどこか違う微笑みを浮かべていて何も言う事が出来なかった。

 

「まあ、これは他人が口出すことではないな。だが、そこまで自分を卑下するのは師である彼にも失礼だ。改めた方がいいとだけ言っておこう」

 

「……ご忠告ありがとうございます。できるだけ、善処します」

 

桜綾さんにも同じようなことを言われたことがあるが、やはり親子だからか気にしてしまう部分は一緒らしい。

 

 

苦笑いで返答すれば、彼は何も言わずまたあの微笑みを返してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しばらく龍頭と依頼の報酬やちょっとした世間話などを話した後、今度は張さんと話がしたいそうで、入れ替わるように豪勢な部屋を後にした。

張さんとすれ違った時「今度はいじめられなかったみたいだな」と嫌味にも似た言葉を浴びせられ、言葉を返そうとしたがさっさと部屋へ入ってしまった。

 

なので気にしたほうが負けだとそのまま歩みを進め、近くで待機している郭さんや彪さん。

そして、久々に顔を合わせる胡さんと合流する。

 

「よう洋裁屋。こうして話すのは久々だな」

 

「お久しぶりです胡さん」

 

「相変わらず硬えなあ。もっと気楽に喋ろうぜ」

 

「これでも割と気楽に話してるんですよ」

 

「そうかい」

 

胡さんとはロアナプラでもちょくちょく顔を合わせては挨拶をする仲だ。

彼の仕事は主に邪魔者にお灸を据えることだと本人から聞いたが、実際の仕事風景をお目にかかったことはない。というか、あまり見たくはない。

 

「あ、そうそう。あの変態鼠とはしっかり遊んでやったぜ。向こうも泣いちまうほど楽しかったみてえで、最期は歓喜で震えながら地獄にいったよ」

 

「あはは……。えっと、ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

「まったくお前は。キキョウに話さなくてもいいことを」

 

笑顔でそう話す胡さんにどう返答していいか分からず、苦笑しながら一言お礼だけ返す。

そんな胡さんに郭さんは呆れたようにため息を吐くと、今度はこちらに言葉をかけてきた。

 

「災難だったな。体はもういいのか」

 

「ええ、お陰様でこの通り」

 

「そうか」

 

「元気そうで何よりだよ」

 

郭さんに便乗して彪さんも口を開いた。

軽く言葉を交わしたところで、一呼吸空け二人を見据える。

 

 

「……お二人もありがとうございました。色々と動いてくださってたみたいで」

 

 

あの街から張さんが連れてきた彼の直属の部下さん達は、私が連れ去られたとき文句ひとつ言わず動いてくれた。

特にこの二人は率先して動いたとリンさんから聞いた。

 

いくら張さんの命令とはいえ洋裁屋一人のために彼らが動いたことには驚いたが、そのおかげで生きているので素直に感謝を伝える。

 

「気にするな」

 

「そう、俺達は大哥の命令をこなしただけだ。礼を言われる筋は」

 

「相変わらずの忠犬ぷりっだな郭。悪意のない感謝の言葉は素直に受け取った方が吉だぜ?」

 

「素直も何もそれが事実だろうが。もう一回そのクソむかつくこと言いやがったら歯折るぞ」

 

「怖えなおい。なあ洋裁屋、こいつ張大哥の獲物を俺に横取りされたから嫉妬して俺に八つ当たりしてんだ。こんな女々しい男どう思う?」

 

「おい、表出ろ」

 

「あはは……」

 

郭さんの鋭い目線をものともせず胡さんはヘラヘラと笑っている。

 

そんな二人の様子に彪さんは再びため息を吐いた。

 

 

「お前ら、ここで喧嘩すんのはやめとけよ。ったく……」

 

「お二人仲いいですね。彪さんも混ざったらどうですか」

 

「俺が入り込む隙はねえな。――は、冗談言うくらいには余裕ができたみたいでよかったよ」

 

「貴方達のおかげです。本当に感謝してます」

 

「俺はその言葉を素直に受け取っとくよ」

 

彪さんの軽い返答に、思わず口の端が上がった。

そこからは他愛もない話に花を咲かせ、張さんが来るまでの時間を潰した。

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――キキョウが去った後、入れ替わるように部屋へ入ってきた張は龍頭と向かい合うように高級椅子へ腰かけた。

挨拶もそこそこに、龍頭は微笑みを消し一つ間を空けてから本題へと入るべく再び口を開く。

 

「張、用件は分かってるな」

 

「哀れな生贄を使った臆病な鼠についてでしょう」

 

「ああ。今も国中を隈なく探してはいるが一向に見つからん。この状況から考えられることは」

 

「またナリを潜めているか、とっくに国を出たかのどちらかでしょう。ですが、ここまで大きく事を起こした上にあの便箋を置いていった。なら、後者である可能性が非常に高いかと」

 

「一体どんな手段を使ったのか知らんが、我々がこうまんまと逃がすとはな。黒社会を牛耳る組織としてこれは大失態に外ならん。……まあ、恩人を生かして取り戻せた事だけでも幸いと思うべきか」

 

 

龍頭が醸し出す緊張感の中で、張もまた淡々と話を続ける。

 

 

「ええ。そして、これもまた不幸中の幸いか親玉はキキョウに異常に執着しております。自分の首を絞める真似をしてまで欲したのがキキョウの死であるなら、また彼女の元に現れるはずです。彼女が我々の手の中にいる内はいくらでもチャンスはあるでしょう」

 

「……彼女を餌に鼠を捕まえるか。少々気が引けてしまうが、背に腹は代えられんな」

 

「勿論、できるだけキキョウに害が及ぶ前に終わらせるよう尽力します。これ以上、思い通りにさせるのは我慢ならないことですから」

 

「すんなり捕まってくれればいいがな。――ここまで我々のテリトリーを食い荒らし、尚且つ逃げ切った相手だ。お前に言うまでもないだろうが、最大の注意を払え」

 

「御意」

 

「我々を侮辱したその罪は、何が何でも安い命で贖ってもらわねばな」

 

言い放たれたその言葉と共に、大組織の頭らしい冷徹な微笑を浮かんだ。

その表情を目の当たりにし、張はまだ見ぬ敵に少なからず同情する。

 

こんな恐ろしい人物をここまで怒らせた。なら世界のどこにいようとも追い詰められるだろう。

“ま、自業自得だがな”と、胸の内で鼻で笑った。

 

 

「ああ、そうだ張。これはまた別の話になるんだが」

 

 

龍頭はいつもの柔らかい微笑みへと戻し、思い出したように言葉を投げかける。

 

 

「彼女の出自、お前は知っているのか」

 

「……キキョウの、でしょうか? そこまで詳しくは知りませんが、それが何か」

 

「何を知ってる」

 

唐突の質問に張は驚いたものの、動揺することなく冷静に口を開く。

 

 

「とある洋裁屋の弟子であったことは彼女自身からも聞いておりました。その洋裁屋について調べたところ、確かに一人弟子を連れて世界を飛び回っていたことが確認されました。……ですが」

 

 

言葉を区切り、一呼吸間を空けてから真剣な表情で話を続ける。

 

 

「その弟子は、7年前から日本の戸籍上では死んだことになっています。これ以上探ろうにも二人について詳しく知る者はおろか、弟子については顔写真さえ手に入りませんでした。彼女が本当に重富という洋裁屋の弟子だったのかは本人しか分かりません。……何であれ、彼女もあの街に流れ着いた人間です。碌な人生は歩んでいないでしょう」

 

「やはりな。だが、さっきも彼女は私に彼の弟子だとはっきり言った。良くも悪くも嘘がつけない彼女の事だ。あの様子で嘘をついているとは到底思えん」

 

龍頭は張の報告に驚く様子を見せず、納得したような声音を出した。

「ふむ」と何やら考え事をしているのか、部屋には沈黙が落ちる。だがそれも束の間、すぐさま龍頭は口を開く。

 

「まあ、どんな過去があろうとお前と信頼を築いた人間だ。お前も別に問題がないと判断したからこちらへ連れてきたのだろう?」

 

「ええ。そしてもし、こちらに何か害を及ぼす真似をした時は俺がこの手で殺します。――それも、キキョウとの約束なので」

 

 

口の端を上げ話す張の様子に、龍頭は「ほう」と興味を示した。

 

 

「お前がそんな約束を律儀に守ろうとするとはな。だが気をつけろよ。女は恋愛と復讐においてとてつもなく苛烈だ。約束を破ろうものなら、とんでもない報復を受けることになるかもしれんからな」

 

「その言葉、しかと胸に刻みましょう」

 

二人はお互いの顔を見据えたまま、同時にクス、と小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

香港に来てから八日。予定では式の翌日に帰る予定だったのだが状況が状況だったので、数日遅れての帰国となる。

だが、いつまでもあの街を離れているわけにもいかないようで今夜には飛行機に乗るらしい。

 

それまでの時間、張さんの計らいでリンさんとの約束でもあった香港観光へ行けることになった。

この前の事もあり二人きりでは出歩かせるのはよくないと、その時は張さんと彼の部下たちが付き添ってくれた。

 

「折角来たんだ。少しくらい楽しんでもらわんとな」という彼なりの気遣いを有難く受け取り、ハイテンションなリンさんとともに数時間色々な所を見て回る。

 

 

――そんな中、布や糸などの素材を売っている専門店に巡り合った。

道中を歩いているときに端の方でひっそりと店を構えているのが目に入り、我儘を言って寄らせてもらった。

 

 

店内は薄暗く、人気は感じられない。入店した時本当に営業しているのか疑心暗鬼だったが、奥から店主らしき高齢の女性が驚いた様子で出迎えてくれた。

話を聞けば、その女性が一人で切り盛りしており、何十年も前から営業しているのだが客の入りは良くないらしい。そして歳が歳なのでそろそろ店を畳もうと考えているようだった。

「好きなだけ見てっておくれ」と嬉しそうに言ってくれた言葉に甘え、じっくりと店内に並んでいる商品を見る。

 

どこでも買えそうなものだけなく、私でさえ見たことない布やボタンなど仕事で使えそうなものばかり。その上、素材がいいものを取り揃えており品揃えは悪くない方。いや、むしろ良い方だろう。

 

こんな素晴らしい店を畳んでしまうなんてもったいないと思ったが、彼女もやっとの思いで決断したのだろう。長い事切り盛りしてきた店を手放すのは簡単に割り切れりることではない。だから何も言わず、ただひたすら商品を眺めていた。

 

そんな私が珍しいのか「若いのにこういうのに興味があるのかい?」と尋ねられた。

こういうことを職業にしていることを伝えれば、また嬉しそうに笑顔を見せ、店内の商品について色々と教えてくれた。

 

 

そこから意外と話が盛り上がり、何故か「お代は気にしなくてもいい。気になった物を全部持って行っていいよ」と唐突に気前がいいことを言ってきた。

 

そういう訳にもいかないとすぐさま返したのだが、「どうせ廃棄されるならあんたみたいな人に使ってもらいたい」とある意味反応に困ることを言われた。

その言葉は嬉しいのだが、気になる物がたくさんありすぎる。というか、できることなら全部譲り受けたいのだがどう考えても持ち運べる量ではない。

それにやっとの思いで手放す商品をタダで貰うのはどうしても避けたいが手持ちでは足りない。

 

だが、彼女の気遣いも無下にはしたくない。

 

 

どうしたものかと悩んでいれば、中々出てこない私に痺れを切らしたのか外で待っていたリンさんが様子を見に来た。

 

 

何を話し込んでいるのかと怪訝そうに聞いてきたので事の顛末を話せば、「こういう時こそパトロンを頼ればいいんじゃ」とさも当たり前のように言われた。

忙しいはずなのに連れ添ってもらっている時にこういう我儘を聞いてくれるとは思えず渋る私に「大丈夫だから」と半ば強引に手を引っ張られ、外で煙草を吸っていた彼の元へ連れ出された。

 

不思議そうにこちらを見る彼の様子に、ここまで来て何でもないと言うには些か苦しく腹を括り全てを話す。

 

話を聞いた張さんは「お前がおねだりするのは珍しいな」といつものにやり顔を見せ、何も言わず店内へと入っていた。

慌てて彼の後へ着いて行けば店主と何やら話しており、口を挟める雰囲気ではなかった。

 

 

少し話した後、ようやく彼がこちらを見て「話はつけた」とたった一言告げた。

どうやら、この店にある物をあの街に運ぶよう手筈は整えてくれるらしい。

 

お代も彼が持とうとしているらしくそれは流石に甘えすぎなのであの街で金は返すと言ったのだが、「ドレスの報酬だと思っとけ」と何が何でも受け取る気はないようで、いつものようにこちらが折れるしかない状況となった。

 

その後、店主に一言お礼を伝え店を後にし次の目的地へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

――そこからまた様々な場所を巡っていれば、あっという間に時間が過ぎる。

 

 

 

 

 

数十分車に揺られ空港に到着し、飛行機へと向かう。

 

 

 

搭乗口まで歩みを進めれば、そこには挨拶回りで忙しいと聞いていた桜綾さんと香主の姿があった。

 

目を見開いていると、私が結婚祝いで贈ったショールを羽織った桜綾さんがこちらに真っすぐ駆けてきた。

 

 

 

そして私の目の前まで来ると、柔らかい微笑みを浮かべながら口を開く。

 

 

 

「どうしてもお見送りしたくて来てしまいました。何も言わずにすみません」

 

「お忙しいのにわざわざ。ありがとうございます」

 

「父は所用があってどうしても来れず、“最後まで見送れず申し訳ない”と言っていました」

 

「では、お気になさらずと彼に伝えてくださいますか?」

 

「相変わらずですね、キキョウさんは」

 

可愛らしい微笑みを携えながら話すその様は、あの街で話し相手となっていた時と何も変わらない。

彼女の表情につられ、自身の口の端も上がっているのを感じる。

 

 

今後、こんな風に話すことはしばらくないだろう。

いや、もしかしたらこれで最後かもしれない。

 

 

そう思うと少し寂しい気がするが、私には帰るべき場所がある。

 

 

「キキョウさん、私はもう謝りません」

 

 

突然、桜綾さんが真剣な表情でこちらを見据えながらはっきり告げてきた。

 

 

「優しい貴女があそこまで仰ったのであれば、謝罪は逆に失礼でしょう。ですが、お礼だけは言わせてください。――改めて、この度は本当にありがとうございました」

 

「……桜綾さ」

 

「きっと、貴女は気にしないでほしいと言うのでしょう。しかし貴女から受けた恩はあまりにも大きすぎて、気にしないなんてことはっきり言って無理です。このまま私個人から何も返さないのは、嫌なんです」

 

「……」

 

「だから今、私が差し出せるものを貴女に贈らせてください」

 

こちらが言おうとしていたことを先に封じられてしまい何も言えなくなる。

黙って彼女の話を聞いていると、桜綾さんが話を区切り後ろを振り向いた。

 

そんな桜綾さんの様子を訝し気に見ていると、後ろで控えていた部下らしき人が何やら白い紙袋を手にこちらへ近づいてくる。

 

彼女は小奇麗な紙袋を受け取り中へ手を伸ばした。

 

 

次の瞬間、目の前に白と淡いピンクでまとめられた小さな花束が姿を現した。

 

 

「招待した時から貴女へ渡そうと決めていました」

 

「え……?」

 

「このブーケはトルコキキョウという花で作ってもらいました。貴女の事を考えて、私が職人さんにこの花を使ってほしいと頼んだんです」

 

 

ブーケを渡す意味は、確か幸せのバトン……だったか。

 

 

正直、彼女からの素敵な贈り物を受け取るのは少し気が引けてしまう。

 

それに、今以上の幸せを望んではいないのだから尚更。

 

「桜綾さん、私にはそんな素敵なモノ勿体ないですよ」

 

「……花束なんか貰っても嬉しくありませんか?」

 

「そういうことじゃ」

 

「ならぜひ受け取っていただけませんか? ――貴女だから受け取ってほしいんです」

 

真剣な眼差しに何も言えなくなる。

 

昨日彼女に無理やり贈り物を押し付けたのもあり、強く拒否することもできない。

それに、これ以上押し問答を続けるのも張さん達に迷惑だろう。

 

完全に納得したわけではないが、ここは私が折れるしかないと諦め口を開く。

 

「私でよければ」

 

「貴女に更なる幸せが訪れることを、心から願っております」

 

 

嬉しそうに話しながら綺麗なブーケを目の前に差し出される。

返せる言葉が見つからず苦笑したままゆっくりと手を伸ばし、しっかりと受け取った。

 

 

「キキョウ、そろそろ」

 

「……ええ」

 

張さんの声掛けに一呼吸間をおいて返事をし、改めて桜綾さんを見やると少し寂しそうに微笑んでいた。

 

「キキョウさん、お元気で。張兄さんの事、これからもよろしくお願いします」

 

「張に嫌気がさしたらいつでもこっちへ来たらいい。歓迎するぞ」

 

「ありがとうございます、あなた方もお元気で」

 

 

夫婦となった二人の言葉に再び苦笑しつつ一言だけ返す。

 

近くで待っていてくれた彼の隣に行き、そのまま彼も足を動かし今度こそ飛行機の中へと進む。

 

 

 

 

本当に、この短い滞在期間で色々な事があった。

 

 

 

 

だが、あの街での日常を思い返せば大したことはない。

 

 

 

 

そんな喧騒な日常が待っている、彼が支配する悪徳の都へ帰る。

 

 

 

 

 

 

私の居場所であるあの街の雰囲気を思い返せば、自然と口の端が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――光り輝いている海面の上に浮いている一隻の大型船。

多くの貨物と人間を運んでいるその船には、それぞれの目的地に着くまで休まるための部屋も存在する。

 

 

その一室で、煙草を吹かし窓から海を眺めている男が一人。

 

 

「アイツはもう死んでる頃か。ま、あんな馬鹿の事なんざもうどうでもいいが」

 

 

煙を吐き、灰皿に短くなった煙草を押し付ける。

黒髪の男は懐から一枚の写真を取り出し、眉根を寄せて眺めた。

 

再びすぐさま写真を収め、そのまま頭へと手を伸ばす。

 

髪を掴み下へと思い切り引っ張ると、茶色の髪が現れる。

 

 

先程まで被っていたウィッグよりも少し長い髪を搔き上げ口の端を上げる。

 

「次は、日本か。あそこは平和ボケした人間しかいねえから、楽に事を終えられるかもしれねえな」

 

Camelと書かれた箱を手に取り、新しい煙草を取り出す。

火を点け、煙を肺にいれた後ため息とともに吐き出した。

 

 

天井を仰いた瞬間男の顔は無表情へと変わり、徐に口が開かれた。

 

 

 

 

 

「――Sono un po' stanco.(少し疲れたな)

 

 

 

 

 

 

イタリア語で小さく呟かれた言葉は、誰にも聞かれることなく外で響く波音に掻き消されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




<あとがき>

やっと……書き切りました。

令爱誘拐&香港編を始めた8月(!?)から18話(!!?)もかかってしまいました。
(予想ではもっと短くなるはずだったのに……)

まずは、長々なオリジナルのお話にお付き合いいただいた皆様に感謝を。

いつも以上にやりたいことを詰め込んだ話となりました。
そのおかげか、書いててとても楽しかったです。

また次回からあの街での生活に戻ります。
ですが、張さんとの関係は今まで通り……という訳にもいかないでしょう。

なので、二人の関係についてはもう少しだけ話が続きます。
「まだあんのか!」と思われるかもしれませんが、ご容赦を。


最後に、沢山の方に閲覧いただき日々とても嬉しい気持ちでいっぱいです。
今回の話も楽しんでいただけていたら幸いです。


改めて、キキョウのお話にお付き合いいただいている皆様に感謝を。
これからも、暖かい目で見守ってください。


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39 変わりゆく日常

大変お待たせしました。
香港から帰った後の二人のお話です。








――キキョウが香港へと発ってから四日後。

ロアナプラでは三合会の長たる張がいないことで、浮足立っている者が出始めていた。

 

そんな輩たちの好きにはさせまいと、火傷顔ことバラライカが遊撃隊を用いて事態の収拾についていた。

だが、流石の彼女たちであっても全てを丸く収めることはできず、街のどこかでまた銃声が鳴り響いている。

 

そんな街の様子に運び屋であるラグーン商会は巻き込まれないようちょっとした注意を払いつつ、いつも通り仕事をこなす日々を過ごしていた。

 

その日はたまたま依頼がなく、レヴィはどこかへと出かけ、ロックは事務処理、ベニーとダッチは事務所でゆったりするなど、各々好きなように動いていた。

 

何事もなく、平和に一日が終わろうとしている。

 

ロックはどこかで響いている銃声の音を聞きながら、自分が生きていることに少しだけ安堵した。

 

 

そんな彼の心中を知ってか知らずか、事務所のドアをノックもなく乱暴に開ける女が一人。

 

 

「よおダッチ、今戻ったぜ」

 

「おう。どうよ街の様子は」

 

「今日も姐御が大喜びで自分の部下に相棒(カラシニコフ)持たせて街歩いていたぜ。まるで軍隊行進みたいによ」

 

「そりゃ頼もしいな。俺達はその行進を傍から見ておくだけに留めておこう」

 

「誰も姐御の邪魔なんざできねえよ」

 

レヴィは事務所のソファにどかっと座り、ポケットから煙草を取り出し火を点けた。

 

「そういえばさっきよお、エダから面白そうな話を聞いた」

 

「ほう、そりゃ興味深いな」

 

「なんでも、アイツがやっと旦那の女になったってもっぱらの噂だ」

 

「……おいおい、そりゃ」

 

「そう、今まで何回もその噂はあったが、全部ただの噂で終わった。けどよダッチ、今回はちゃんと証拠があるらしいんだよ」

 

ロックとベニーは決して会話に入ろうとはしなかったが、繰り広げられる話に耳を傾けた。

ロックは一体誰の話だろうかと興味を示す。

 

レヴィはそんな期待に応えるかのように、話を続けた。

 

「旦那が香港にアイツを連れてってるんだとよ。ここに残ってる三合会の人間が話していたから確かな情報だって言ってたぜ」

 

「おいおいおい、あの二人いつの間にそんな関係になったんだ」

 

「さあね。けど、キキョウがいなくなったのと張の旦那が里帰りした時期は一致してる。これだけでも信憑性が」

 

「ええ!?」

 

レヴィがテンポよく話を続けていると、突然ロックが驚きの声を上げた。

その声に部屋にいる全員が、彼に視線を集中する。

 

「どうしたのロック。何をそんな驚いてるんだい」

 

「いや、えっと……」

 

「……あ! お前もしかして」

 

ロックの妙な態度にレヴィは何か気づいたのか、ニヤニヤしながら言葉を投げかける。

 

「キキョウと張の旦那の関係が気になんのか? なあそうだろ!」

 

「いや、その」

 

「へえ、前から思ってたが……やっぱりそうか、ふうん」

 

「レヴィ、こういうのはあまり茶化すもんじゃねえよ。ロックも男だ。女の一人や二人、気になる奴くらいいるだろう」

 

「……ダッチ、それフォローしてるつもりなのか?」

 

「さあな」

 

二人の自身を馬鹿にしたような口調に、ロックは面白くなさそうに眉根を寄せた。

だがこんな状況でも、浮かんでいた疑問を解消するべくロックは徐に口を開く。

 

「……なあレヴィ」

 

「あ?」

 

「さっき彼女が張さんの女になったって言ってたけど、どこにそういう証拠が」

 

「そりゃ、自分の故郷に連れ帰ったってことはそう言う事だろ。ただの女をわざわざあの旦那がエスコートして連れていくと思うか?」

 

「でも、キキョウさんが張さんとは何もないって最近まで言ってたじゃないか。なら、今回だってただの噂話の可能性が高いんじゃ」

 

「おいおい、お前普段あの二人の何を見てきたんだよ。旦那が何も考えず自分のテリトリーに入れる訳がねえだろ。あの二人がお互い何を思っているかは知らねえが、帰ってきたら二人の関係は少なからず変わってると思うね」

 

「……そんなの、分からないじゃないか」

 

レヴィの話に、ロックは腑に落ちないと言ったような表情を浮かべていた。

そんなロックの言葉に、最初は面白そうに見ていたダッチの顔が段々と真剣なものへと変わる。

 

「たかが噂だろ。それに、それだけの情報であの二人がそういう関係になったって証拠には」

 

「おいロック。そこら辺にしとけ」

 

 

どこか不機嫌そうに話すロックの言葉を遮ったのは、ダッチの真剣な声だった。

 

 

「俺達の仕事に支障がなけりゃ別に女に入れ込むのは構わん。――だがなロック、あの女だけはやめておけ」

 

「な、なんだよダッチ。俺は別に」

 

「俺達の商いが上手くいっているのは、あの旦那との信頼関係があるのも一つ。そして、マフィアが女を囲うのは自分の敵か否かを見極めやすくするためでもある。キキョウ自身がどう思おうと、この街でアイツは既に“そういう役割”になってんだ」

 

「……」

 

「あの旦那がずっと飽きもせず手元に置いている女に手を出せばただじゃ済まねえ。例え“そういう関係”でなくてもな」

 

「……」

 

「だからもう一度言うぞ。“あの女だけはやめておけ”。地雷を踏んじまったらお前だけじゃなく俺達にも飛び火が来る」

 

「……俺は別に、何も考えてないよ」

 

ダッチの忠告に小さくそう返すと、ロックは腰を上げ足早にドアへと向かう。

そのまま何も言わず部屋を去っていった。

 

 

 

ロックがいなくなった後、三人はしばらくの間何も話さなかった。

 

 

 

変な空気を打ち破るかのように動き始めたのは、話を持ち出したレヴィだった。

 

 

 

「なあダッチ、あたしゃ割と冗談だと思ってたんだが……あれは」

 

「皆まで言うなレヴィ。……ったく、よりにもよってキキョウか」

 

「いやあ驚いたね。前から妙に彼女を気にかけていたとは思ってたけど、そういうことだったのか」

 

「……まあ、一応釘は差しといた。後は妙な気を起こさねえよう祈っておくしかねえ」

 

 

 

 

ダッチはそう呟いた後盛大なため息を吐き、近くの棚から私物の酒瓶を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

香港から帰ってきて早一週間。

 

やはり少し経ったくらいでは劇的に何かが変わるわけでもなく、街はいつも通りのようだ。

私の方も帰ってからは何事もなくいつもの日常を送っている。

 

 

帰ってきた三日後くらいに久々にイエローフラッグへ出向きあの酒を飲み、バオさんが私がいなかった間の街の事を話してくれた。

 

張さんがいなかった間好き放題する人間もちらほらいたが、バラライカさんが持ち前の武力で抑えていたようで目立つような問題もなかったらしい。

彼女なら嬉々として動きそうだと思ったのは口に出さないでおこう。

 

 

そして、バオさんから「お前さんの方はどうだったんだ? 張の旦那と旅行に行ったんだろ」と好奇心を覗かせ聞いてきた。

私は誰にも彼と香港へ行くことを言っていなかったのだが、小さい街だからか噂がたつのは早いらしい。

 

彼は別に間違ったことは言っていないはずなのだが、何故か妙に引っかかる言い方だった。

だがあまり詳しいことを言う必要もないと思い否定はせず、「中々楽しかったですよ」とだけ返した。

 

バオさんも「そうか」とだけ言い、それ以上は何も言わずいつものように他愛ない話をして酒を飲んだ。

 

そのしばらく後、私が帰ってきたと聞いたマダムがドタドタと駆けてきて「お帰りなさいキキョウ!」と熱い抱擁を食らう。

「服を頼もうと思ったらアナタMr.張と海外旅行に行ったって聞いて、ずっと帰るのを待ってたのよお」と嬉しい事を言ってくれた。

 

 

そこからマダムのプライベートルームに移動し、どんな服が欲しいのかなど仕事の話をした。

依頼の話が終わると、マダムから「それで、Mr.張とは少し進展したの?」と、ニヤニヤした顔で切り出された。

 

 

その時のマダムのしつこさと言ったらとんでもなかった。

 

 

『――勿論、彼と熱い夜を過ごしたのよね? ねえ、そうなんでしょキキョウ』

 

『……まあ、確かにあの国も熱かったですね』

 

『とぼけようたって無駄よ。ね、どうなのよ』

 

『別に、いつもと変わらないですよ』

 

『嘘おっしゃい。“あの”Mr.張がアナタを旅行に連れてって手を出さなかったなんて絶対あり得ないんだから』

 

『嘘じゃありませんよ。なぜそうも断言するんですか』

 

『そりゃだって彼はアナタにぞっこんだもの。それに気づいていないのはこの街でアナタだけよ』

 

『そんなことないです。どこをどうみてそう解釈したんですか』

 

『彼が異様にアナタに執着していることくらい誰だって分かるわ。男が女に執着するのは、“手に入れたい”っていう欲望から来るものよ』

 

『よく分かりませんがこれだけは言わせてください。私と彼は何も変わりません。これまでもこれからも』

 

『にしては、少し雰囲気が変わったように思えるわね』

 

『え?』

 

『前よりも女らしさが滲み出てるわよ。まるで初めて男に抱かれた後の女の子みたいに、垢が抜けた感じがする』

 

『……気のせいですよ』

 

『ふうん。ま、今はそう言う事にしといてあげる。――だけどねキキョウ』

 

『……?』

 

『男の執着心を甘く見てたらいつか痛い目に合うわよ』

 

 

 

彼と何もなかったわけではない。だけど、何かが変わったわけでもない。

 

 

なら気にしたってしょうがない。

 

 

だからいつも通り振舞ったのだが、マダムの目には私の様子がいつもと少し違ったように見えたらしい。

 

彼女の言っている意味はよく分からなかったが、最後の言葉は何故か頭に強く残った。

 

 

私からそれ以上の話は聞けないと判断したのか、マダムは気を取り直したように別の話題を切り出し、それ以上彼との関係について聞いてくることはなかった。

 

 

 

 

 

――そんな彼女から依頼された服を仕上げようと、今日も今日とて手を動かす。

 

マダムが頼むのは決まって種類の違う数着のドレスだ。

急ぎではないようで特に何も言われなかったが、できるだけ早く届けてあげたい気持ちはあるので集中して作業する。

 

ふと時計を見れば、日が傾き始める夕方の時間帯となっており、外も夕焼けの色に染まっていた。

渇いた喉を潤そうと、裁縫道具を作業台の上に置き腰を上げる。

 

 

それと同時に、部屋中に機械音が鳴り響く。

 

 

唐突に鳴り響いた音の発信音である携帯を手に取り、耳に当てる。

 

 

『ようキキョウ、調子はどうだ?』

 

「良い方ですよ。またお忙しくなったと聞きましたが、貴方の方は?」

 

『やっと落ち着いたところだ。ったく、香港から帰ったばかりだってのに俺の周りは休ませてくれんらしい』

 

「お疲れ様です」

 

名乗りもしないその相手は、聞き慣れた低い声で誰だか一瞬で分かった。

この街の支配者たる彼は、香港にいる間溜まっていた仕事を片付けるのに忙しいとリンさんから聞いた。

 

何日も働き詰めだったのであれば、流石の彼も疲れるのは無理もない。

 

 

そんな彼が、私にわざわざ電話をかけてきた理由は一体何なのか。

 

 

「それでどうされましたか張さん。もしかして、また服に穴を空けたりしたんですか?」

 

『今のところそれはないから安心しろ。にしてもつれねえな。何か用がなきゃお前の声を聞くことも許されねえのか?』

 

「別にそういう事じゃありませんが、お忙しい貴方がそんなことでかけてくるとは考えられないので何かあったのかなと」

 

『そんな大層な事じゃねえ。俺はただ、一人の女と夜を共に過ごしたいと思っているだけさ』

 

彼の冗談をいつものように流し用件を聞き出すとそんなことを言ってきた。

何故そんな言い回しで誘ってきたのか気になるところではあるが、深堀することでもないだろう。

 

依頼は終わってはいないが、急ぎではないのでパトロンである彼の誘いを受けても問題ないと判断し、口を開く。

 

「分かりました。今夜も貴方の部屋で?」

 

『ああ』

 

「では、今から向かいますがよろしいですか? それとももう少し時間をおいてからがいいでしょうか」

 

『別に今からでも構わん。俺も早くお前と会えなかった時間を埋めたいんでな』

 

 

 

……なんか、いつもより冗談が多いのは気のせいだろうか。

 

 

だが一々真剣に相手にしてはキリがないので、今回もまた気にせず必要最低限の返事をする。

 

「すぐ向かいます。また後程」

 

『ああ、待っている』

 

短くそう言葉を交わし、通話を終わらせる。

そのまま散乱している道具を片し、鍵を持って足を動かす。

 

彼の誘いに応じるべく、夕焼けの色に包まれている道を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――ようキキョウ、待ってたぞ」

 

「お待たせしました」

 

「ほら、こっち来い」

 

「失礼します」

 

自宅から数十分歩き、ようやく熱河電影公司ビルへと辿り着く。

 

最早顔馴染みとなっている受付の人に話しかければ、「張さんがお待ちしてますよ」といつも通り何も言わず通してくれた。

 

すれ違う三合会の人たち何人かに声をかけられては言葉を返しつつ、彼の自室へと向かう。

その時にどこからか「いつもと同じだぞ?」「もしかしてアイツ分かってないんじゃ」と何やらひそひそと話し声が聞こえたが、何のことか分からなかったので気にしないことにした。

 

 

そんなこんなで辿り着いた社長室のドアを叩けば、これもまたいつも通り口の端を上げた張さんが出迎えてくれた。

 

 

彼の誘導に従って中へ入り、更に奥にある彼の自室へと進む。

綺麗に整えられた部屋の真ん中には、既に酒とグラスが二つと氷が用意されていた。

 

 

彼が高級ソファへと腰かけたのを見てから、一言断りを入れてから隣に座る。

 

 

「お前とここで酒を飲むのも久々な気がするな」

 

「そうですね。実際、前にお邪魔した時から一か月以上経ってますから」

 

「早いもんだ」

 

言葉を交わしながら、二つのグラスに氷を入れてから酒瓶を手に取り中へ酒を注いでいく。

 

パトロンである彼を動かすわけにもいかず、彼と飲む時これは私の役目となっている。

慣れた手つきで酒を氷を半分浸からせるまで注ぎ、先に彼へと手渡す。

彼がグラスを受け取った後、自身のグラスにも酒を入れ手に取る。

 

 

「乾杯」

 

 

ほぼ同時に言葉を発しグラスを軽くぶつけた。

心地の良い音が響いた後、お互いそれぞれのグラスに口をつけ、喉に酒を通す。

 

 

やっぱり、彼もいつも通りだ。

 

 

マダムや周りの人たちは何を勘違いしていたのやら。

 

 

ため息が出そうになるのを堪え、再び酒に口をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――それから数十分は経っただろうか。

お互い話と酒が進み、三、四杯目に行こうとしていた。

 

 

ふと、張さんが私の顔をじっと見たかと思えば、徐に口を開く。

 

 

「やはりお前との酒は格別だな。どの女と飲むより美味い」

 

「……嬉しい言葉ですが、美人さんにお酌された酒の方がもっと美味しいと思いますよ」

 

「お前だから酒が美味いんだ」

 

唐突に投げかけられた言葉に一瞬間をおいてから返答すると、張さんはいつもの癖を出してきた。

今ではとっくに慣れた、指先が頬の上を滑る感触を受け入れながらサングラスで隠れている彼の目を見つめる。

 

 

「気高く、どこまでも真っすぐで、気丈なお前が注ぐ酒だからどんな安い酒も美酒だと思える。だが、俺が今最も欲しいのはそれじゃない」

 

「え?」

 

グラスを机に置き、流れるようにサングラスを外すとあの黒い瞳でこちらを見据えてくる。

 

 

やがて大きくて武骨な手が、頬を包んだ。

 

 

彼の表情は、機嫌がよさそうだったものから真剣なものへと変わっていた。

 

 

どこかいつもと雰囲気が違うことに、少なからず動揺する。

 

 

「なあキキョウ、俺が何故お前をこの部屋に呼んでいるか分かるか?」

 

「……酒を飲むためでしょう」

 

「それだけじゃない。――やはり、お前は何も分かっていないようだ」

 

 

低い声で呟いた後、頬に触れていた手が私のグラスへと伸ばされ思わずそのまま渡してしまった。

 

 

彼が私のグラスを机に置いた次の瞬間、両肩をすぐさま掴まれ強い力で押される。

 

 

 

 

何が起きているのか分からないまま、背中に感じた衝撃で目を瞑る。

 

 

 

 

 

――目を開いた時には、彼の顔が目の前に。

 

 

 

 

押し倒されているのだと理解したのはそのすぐ後。

 

頭が混乱し動揺している中、何か言わなければと口を開く。

 

 

「なに、して」

 

「一度抱かれた男の部屋にこうも易々と転がり込むとは。お前の警戒心の無さは考えもんだな」

 

「何言って」

 

「さっきの話の続きだ。……いいかキキョウ。男が女を部屋に呼び二人きりになるのは、たった一つの目的でしかない」

 

 

混乱している私を余所に彼は話を続ける。

 

 

「その女を抱くため、誰にも邪魔されない空間に引き入れる。――ここまで言えばわかるだろう」

 

「……分かり、ませんよ。今までだってこの部屋に来た時、貴方は、そんなそぶり一つも見せなかったじゃ、ないですか」

 

「それもお前を手に入れるための計画だとしたら?」

 

「え……?」

 

「お前は誰よりも自分を卑下し、それが自分の価値だと信じて疑っていない。そんな女の全てを手に入れるには、長い時間をかける必要があった」

 

 

彼が何を言っているのか分からない。

 

 

こんなこと今までなかった。

 

 

なのに、なぜ急に……

 

 

「ただ抱くならいつでもできた。それをしなかったのは、お前の身も心も全て欲しているからだ。――だがあの日、どこぞのクソによって全てが狂わされた」

 

「……」

 

「俺が長年我慢し続けてきた甲斐も、計画も、何もかもが台無しとなった。そんな今となって、一度抱いた女に何を遠慮することがある?」

 

「なに、言って」

 

「お前は何も変わらないと思っていたんだろうが、一度交わった男女が元の関係に戻れるはずがない」

 

 

この人が何を言っているのか分からない。

 

 

気にしなければ、何も変わらない。変わらないはずじゃないのか。

 

 

 

張さんは真剣な表情のまま、再び私の頬へと触れる。

 

 

その感触に体がびく、と震えた。

 

やがて更に顔を近づけ、低い声音で呟く。

 

「俺はなキキョウ。今でもお前の全てを、心から欲している」

 

 

 

 

――次の瞬間、唇に柔らかい感触が落ちた。

 

 

 

 

また何が起きているのか分からず、頭が真っ白になる。

 

 

 

次第に触れているのが彼の唇だと理解し、離れようと抵抗する。

 

「んっ……! んー!」

 

「……は……」

 

 

 

やっとのことで唇が離れ、必死に言葉を紡ぐ。

 

 

 

「はあ……っ、なに、してるんですか……! なんでこんなっ」

 

「言ったろ、男が女を部屋に呼ぶのは抱くためだってな。なら、俺とお前がすることもたった一つだ」

 

「そんなの、知りません! 私なんか抱いたって」

 

「面白くない、か? それとも、痕があるから抱く価値がないとでも言うつもりか」

 

必死に抵抗しながら、なんとか言葉を紡ぐ。

だが遮られた声に思わず何も言えなくなった。

 

 

彼はそう言うと私の耳元へ口を寄せ、低い声で言葉を発する。

 

 

「俺は一度お前を抱いた。今更そんな言い分が通用すると思うな」

 

「ひっ……!」

 

そう言うと、そのまま唇を耳につけてきた。

 

 

その感覚に思わず声が出る。

 

「やめて、くださ……! 張さんッ!」

 

「やめろ? 抱かれた男の部屋にのこのこ上がっといてよく言えたもんだ」

 

「貴方が、誘ったんじゃないですか! 酒を飲むって、いつもみたいに!」

 

「誰がいつ酒を飲むと言った? 俺は“夜を共に過ごしたい”と言ったんだぜ」

 

「な……! そんなの」

 

「卑怯だってか? んなもん知らねえな」

 

「や、め……ッ!」

 

「――俺の執着心を甘く見たお前が悪い。諦めろ」

 

 

 

そんなの知らない。

 

 

彼が私をそんな理由で部屋に呼んでいたことも、私を抱こうとしていたことも、全部知らない。

 

 

 

知るはずがない。

 

「ん……!」

 

「やめてと言いながらも随分反応がいいみたいだな。耳舐めただけだってのに」

 

「い、や……っ、そんな、違っ」

 

「何が違う」

 

「ひッ」

 

「あの時も口では嫌と言いながら、触れるたび体を震わせ俺を求めていたな」

 

「ッ……!」

 

 

 

耳に舌先が触れ、あの時程ではないが体に熱が巡る。

覆いかぶさっている彼の体を押しのけるには女の力では役不足で、どんなに抵抗しても離れることができない。

 

虚しい抵抗を続けていると、やがて彼の手が服の中に入ってきた。

 

 

その事に思わず声を上げ、更に激しく抵抗する。

 

「やめてくださ……っ、張さん!」

 

「断る」

 

 

言葉で懇願しても聞きいれてくれるわけもない。

 

 

だがそれでも対抗せずにはいられなかった。

 

 

 

それほどまでに、彼が私にしている行動は受け入れがたいもの。

 

 

「いい加減に……してくださいッ!!」

 

「ッ……!」

 

 

 

その言葉と一緒に、彼の体を思い切り押そうとした。

 

 

 

だが、私の手が何か別の物に当たったのと同時に乾いた音が響く。

 

 

 

 

 

驚いて見上げれば、彼が頬を手で押えていた。

 

 

 

 

瞬時に、私の手が彼の胸板ではなく勢いあまって頬へ当たってしまったのだと理解する。

 

 

 

 

――次第に、自分が犯したことの重大さに青ざめていく。

 

少なくても今の時点では手をあげるつもりは全くなかった。

普段お世話になっている人に事故とはいえとんでもないことをしてしまった。

 

 

 

私の頭から押し倒されていた事は抜け、今のこの状況にどうしようもなく混乱する。

 

 

 

「ご、ごめんなさ……こんな、つもりじゃ」

 

「……」

 

 

沈黙が落ちる。

 

 

 

どうしよう。

 

 

どう詫びればいい。

 

 

いや、言葉でいくら謝ったってこんなことして許されるはずもない。

 

 

 

動揺してる中でも、彼が冷たく鋭利な視線を向けていることは感じ取ってしまう。

 

 

この部屋の空気が一気に冷めたものへと変わったのは嫌でも分かった。

 

「……」

 

「……」

 

お互い無言の状態がしばらく続いた。

 

そんな中で先に動いたのは張さんだった。

 

徐に私の体から離れソファへ深く腰掛ける。

そして、何事もなかったかのようにグラスを持ちこちらを見ずに口を開く。

 

「今夜はもう帰れ」

 

「……あの、張さ」

 

「聞こえなかったか。帰れと言ったんだ」

 

有無を言わせない声音に何も言えなくなる。

こうなってしまっては、これ以上何かを言ったとしても寧ろ逆効果だろう。

 

 

私にできるのは、彼の言葉に従う事だけ。

 

 

体を起こし、そのまま腰を上げて口を開く。

 

「失礼、します」

 

思った以上の震えた声音で短く告げ、逃げるように彼の部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――まさか、あいつからビンタを貰う羽目になるとは」

 

 

一人となった部屋で、張はじんじんと痛む頬を撫でながら呟いた。

 

その顔は、感情など一切ない無表情。

 

 

 

だが次の瞬間、その口元は楽しそうに弧を描いた。

 

 

 

「は、はは……はははははッ! やっぱアイツは最高だな!」

 

 

 

堰を切ったように高らかに笑い、部屋中に笑い声を響かせた。

 

 

 

「まさか、あそこまでされたってのにただの事故でああも謝るとはなあ。これじゃ、俺に気を許したと言っているのと同じだぞ」

 

 

 

くくっ、とまた一つ笑い、張は再び自身の頬を撫でた。

愛おしいものへ触れるように、何度も何度も撫でながら内心で舌なめずりする。

 

 

 

「仕込みは終えた。残すは仕上げのみ、か」

 

 

 

 

そう呟いた張の瞳は、獲物狙う獣の如く鋭いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 





二人の関係性がこれまでとは違うものになる大事なお話のため、書くのに少し時間がかかってしまいました・・・。
あとロックがキキョウさんにどういう感情を抱いているのかも、これから徐々に掘り下げていく予定です。



これから更新のペースが若干遅くなるかもしれませんが、温かい目で見守ってください。


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40 変わりゆく日常Ⅱ








――張さんの頬を叩いてしまってから二週間。

 

あれから、彼からの連絡はない。

 

 

私からも何度か連絡を取ろうとしたのだが、謝れば許されるとは思えないし、逆に電話したところでまともに取り合ってくれないかもしれない。

 

 

こんなことは初めてでなんて言葉をかければいいのか分からず、電話することができなかった。

 

 

 

そんな不安な日々を送ろうと、依頼はこなさなければならない。

私情で仕事を放りだすのはよろしくない。

 

だから手を止めることはなかった。

 

だがいつにも増して手が重く、作業スピードが心なしか遅くなっている気がする。

それどころか集中が長く続かず、依頼人に届けられる日が遠くなってしまう。

今回は急ぎではないものだったことが幸いだった。

 

 

なんとか手を動かし続け、やっと今日依頼品がすべて完成した。

 

依頼品を丁寧に包装しながら、ふと思いに耽る。

 

 

 

 

 

――こんなこと、本当に初めてだ。

 

 

 

 

あの人が私を女として見ることはないはず。

今までの口説くような言葉はすべて冗談。

一回抱いたからといって、また抱くなんてありえない。

背中の痕を受け入れてくれるなんていくら彼でもできはしない。

 

 

そう、本気で思っていた。

 

 

だからこそ、あの日彼が押し倒してきた事実が私をどうしようもなく動揺させた。

 

 

それでも、まさか私が彼に手を上げる日が来るとは。

無理矢理犯されそうになったのなら手を上げても無理はないと思う事もできた。

 

だが、そう思えない程彼への恩がありすぎる。

 

だから、どうしていいか分からないのだ。

 

これから彼とどんな顔をして会えばいいのかも、このままの状態でいいのかよくないのかも、私はどうすればよかったのかも、胸が詰まるような感覚の抑え方もすべてが分からない。

 

 

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

…………いや、今はそんなことよりも仕事をこなさなければ。

 

 

 

考えれば考えるほど複雑な心境へと追い込まれそうになる。

頭を振り、考えることをやめマダムの元へ届けようと紙袋を手にした。

 

 

 

瞬間、表のドアから来客を告げる音が鳴り響く。

 

 

 

一体誰だろうかといつものように声がかかるのを待っていると、向こうからとっくに聞き慣れた。だが今は聞きたくなかった声が飛んでくる。

 

 

 

「キキョウ、俺だ。いるなら開けてくれ」

 

 

 

……どうして、彼がここに。

 

一気に緊張感で体が固まってしまう。

 

 

そのせいですぐにドアを開けることができなかった。

それどころか、地に根が張ったように足を動かすことさえできない。

 

そんな状態であっても、問答無用で再び彼の声が聞こえてくる。

 

「キキョウ、いるんだろう」

 

「……」

 

「お前と話がしたい。開けてくれないか」

 

いつもと変わらない声音だった。

だが、動揺しすぐさま動くことができない。

 

……いや、よく考えればいい機会じゃないか。

 

このままでは、私にとって不利益でしかない。

なら、彼が折角来てくれたことで訪れたこのチャンスを無駄にするわけにはいかないだろう。

 

深く息を吐き、肺に空気を入れてから意を決しドアの方へ向かう。

 

ドアノブに手をかける時一瞬だけ躊躇ったが、迷いを振り払い思い切って鍵を開けドアノブを回す。

 

「よう」

 

ドアを開ければ、いつもと何も変わらない格好をした彼が立っていた。

少し違うのは、どこか重々しさを感じさせるその纏っている雰囲気だ。

 

「……どうぞ」

 

私の方は動揺していることを悟られまいと、精一杯冷静に振舞おうと努めた。

だが、目だけは合わせることができず顔を一瞬だけ見て中へと促す。

 

彼は私の誘導に躊躇いもなく部屋の中へと足を踏み入れた。

来客用の椅子を取り出そうとしたが、彼が冷淡に放った「いらん」の一言でそれは制された。

 

「……コーヒーは、いりますか?」

 

「くつろぐために来たと思うのか」

 

「……」

 

彼が放つ空気に耐えられず、思わずいつもの言葉を投げかけてしまう。

それもあっさり跳ね除けられ、最早何も言うことができず黙るしかできなくなる。

 

「……」

 

「……」

 

どうしても顔を見ることができず、私はずっと目を逸らしたまま。

だが、目の前の彼がサングラス越しにこちらを見据えていることは分かった。

 

それほどまでに彼の視線が痛い。

 

 

……彼がずっと黙っているのは、私から何か言うのを待っているという事なのだろうか。

 

 

このままお互い何も喋らず、という訳にもいかない。

 

ここは腹を括るしかないと、静かに息を吐き、意を決して口を開く。

 

「……張さん、その……申し訳ありませんでした」

 

「何がだ」

 

「頬を、叩いてしまって。……事故にせよ謝って許されるとは思っていません。ですが、私には謝る事しか」

 

「そんなもん気にしちゃいない」

 

「え?」

 

「俺が欲しいのはその言葉じゃない」

 

「……」

 

震えた声で謝罪の言葉を口にしていると、彼が冷たい声音で遮った。

張さんが言った内容に驚き、思わず顔を上げる。

 

真剣な表情でこちらを見ている彼の視線を浴びながら、必死に考える。

 

 

――頬を叩いたことを気にしてはいない?

 

 

 

彼が欲しい言葉?

 

 

一体なんだ。

 

 

そもそも謝罪を私に求めていないのか。

 

 

なら何を求められている。

 

どんなに考えても、彼が求めているモノが何なのか分からず不安で再び俯いてしまう。

 

「キキョウ、お前が俺に対しどう思っているのか。今日はそれを確かめに来た」

 

「……」

 

どう思っているか?

 

一体、どういう意味なのか。

 

彼の言っている意味が分からない。

 

 

 

「お前は今まで俺の言葉をすべて冗談だと流してきた。――だが、今回ばかりはそうはさせん」

 

 

 

低い声音で告げた後、張さんは徐に足を動かした。

 

 

 

「これまで、俺はお前に多くの言葉を捧げた」

 

 

 

そう言いながら一歩、また一歩とこちらへ歩み寄ってくる。

じりじりと詰められ、思わず後退る。

 

 

 

「お前を欲していること、そしてお前の全てを受け入れることも冗談ではない。なんならこの場で、嘘偽りでないことを神なんてものに誓ったっていい」

 

彼から発せられる言葉に耳を傾けながら、色々な思いが湧き上がる。

 

 

どうして、そんなことをそんな表情で言っている。

 

『神なんざ何の足しにもならん』と言っていた貴方が、神に誓うのか。

 

なんで、冗談だと流せないほど真剣な声音を出している。

 

 

 

 

胸が詰まる。

 

 

 

そんな私の心境を知ってか知らずか、彼の歩みは止まらない。

 

 

――とうとう壁際に追いやられ、逃げ場がなくなってしまう。

 

 

体が密着しそうなほどの近い距離でも俯く私に、張さんは低い声音で上からさらに言葉を降らせる。

 

「今一度言う。俺はお前の身も心も全て欲しい。背中の痕も、お前の過去に何があろうと何もかも受け入れられる。――あの日、俺はそれを証明してみせた。背中の痕を見ても尚、抱いたことが何よりの証拠だろう」

 

「……ッ」

 

「なあキキョウ、俺のこの言葉に対するお前の答えを聞かせろ」

 

私の、答え?

 

 

何か言わなければと、必死に頭を回転させる。

 

 

 

背中に刻まれた痕は、私にとって負の遺産。

 

アイツから貰った憎いものの一つ。

 

そんなもの、彼に触られたくなかったし触られると思っていなかった。

 

 

……絶対に、醜いと切り捨てられる。そう思っていたから。

 

 

そして、例え受け入れると言ったとしても今後切り捨てられることだって十分あり得る。

こんな醜いもの、彼が受け入れてメリットなんざ何もないのだから。

 

「……この背中の痕は、ある男からつけられたものです。その男は、とんでもないクソ野郎で、思い出すだけでも吐き気がします。……そんなクソみたいな男がつけたこの傷は、醜いものでしかありません」

 

「……」

 

「そんな醜い体、貴方に触れられたくなかった……今だって、触れられたくない……」

 

「……」

 

「貴方に醜いと、あの男と同じ言葉でいつか切り捨てられるくらいなら……こんな傷、一生隠した方がいいに決まって」

 

「俺とそのクソ野郎を一緒にするなキキョウ」

 

必死に言葉を紡いでいると、張さんが途端に低い声音で遮った。

腹の底まで響くその声に言葉が止まる。

 

「俺がいつお前を醜いと言った。……確かに背中の痕は酷いものだ。だが、醜いと言った覚えは一つもない」

 

「……これのどこを、醜くないと……言うんですか……。何もできない私を嘲笑いながら、クズがつけたこの痕が、醜くないわけないでしょうッ」

 

「その痕が今のお前を作った。それがキキョウ(お前)という花を咲かせたのなら、その棘ごと手に取るさ。――だが、いつまでも蔓延る寄生虫の存在を許すつもりはない」

 

昂る感情を必死に抑えながら、途切れ途切れになる言葉をなんとか紡ぐ。

 

手を震わせ感情を露にした私を見据えながら、張さんは低い声音で話を続ける。

 

「キキョウ、いつまでそんなクソ野郎に囚われているつもりだ」

 

「……ッ!」

 

「お前がそのクソ野郎の何に怯えているのか知らん。だが何であろうと、俺とお前の間に寄生虫が入りこむことは許さん」

 

「……私は……」

 

「キキョウ、俺を見ろ」

 

言葉を返そうとしたとき、彼がそう言いながら私の頬に手を伸ばした。

 

とっくに慣れたはずなのに、今では違うものに感じてしまう。

 

だが、振り払う気は起きなかった。

抵抗せずにいると、そのまま半ば強引に顔を上げさせられた。

 

 

いつの間にかサングラスを外しており、至近距離で彼の黒い瞳と視線が交差する。

 

「お前が身も心も預けてくれるなら、背中の痕も、過去も、何もかも受け入れる。お前がクソ野郎から与えられた全てを忘れさせてやる」

 

「え……」

 

 

 

全てを、忘れる?

 

 

 

身を委ねれば、あの男から与えられた苦しみも、未だに残っている言葉の残滓も、すべて忘れることができると、そう言ったのか?

 

 

 

 

この人が、それを叶えてくれるというのか。

 

 

 

「……そんな、こと」

 

「できるさ。お前をこの街で一番知っている俺ならばな」

 

彼の言葉に、心が揺らぐ。

 

 

 

 

この街で一番信頼している悪人の言葉が、真剣な目線が私の調子を狂わせる。

 

 

 

 

「クソ野郎から与えられた恐怖も言葉も必要ない。お前自身の気持ちを、言葉を聞かせてくれ」

 

 

どうしたらいい。

 

彼の言葉を信じて預けるか、信じずに今までのように冗談だと流すのか。

 

だが、ここまで真剣に言ってくれた彼に後者の態度を取るのはあまりにも無礼だろう。

それに私にはこんな状況で冗談だと流せる気概はない。

 

 

 

なら、信じて預けるのか。

 

すんなりそうすることができたなら、どれほど楽だろうか。

 

だが心のどこかで、信じ切れていない自分もいる。

 

 

……いや違う、信じて捨てられるのが怖いんだ。

 

だけど、あのクソ野郎と張さんは違う。

それは頭では分かっている。

 

それでも、心の中で踏ん切りがつかない。

 

「ちょっと……待ってください……」

 

「……」

 

「どうすれば、いいのか……分からな」

 

「どうすればいいかじゃない。――お前はどうしたいんだ」

 

 

私が、どうしたいか。

 

 

その答えは、どうやって出したらいい。

 

 

 

彼を拒絶したいわけじゃない。

たが、すべてを信じるのはあまりにも怖い。

 

頭が混乱して、どうしたいのかさえ分からない。

 

「……わから、ない……です」

 

「……」

 

「今、いっぱいいっぱいで……どうしたいのかも……」

 

「分からないか。――なら、もう少しだけ待ってやろう」

 

「え……?」

 

張さんは私の頬を撫でながら、言葉を続ける。

 

「いきなり全てを預けろとは言わん。まずはその身を預けてもいいか考えろ。それで俺に身を預けてもいいと、俺に抱かれてもいいと少しでも思ったなら――三日後の夜、着飾った姿でイエローフラッグで待っていろ」

 

「三日……?」

 

「そう三日だ。それ以上は待てん」

 

頬を撫でるのをやめ、彼は私の耳元に顔を近づけた。

そしてそのまま口を開き、はっきり聞こえるように低い声音で告げる。

 

「俺の言葉を少しでも信じてくれることを心から願っている」

 

たった一言だけ告げ、やがて体が離れる。

 

「色よい返事を期待しているぞ」

 

彼は短くそう言うと、颯爽と踵を返しコートの裾を翻しながら部屋を去っていった。

 

 

 

 

 

――彼が去って一人残された後も、しばらく動けなかった。

 

やがて、力が抜けたようにその場に座り込む。

 

 

『お前はどうしたいんだ』

 

 

 

その言葉が頭の中で響き、胸が詰まる。

 

 

私は、どうしたいのか。

 

できることなら、後悔しない方を選択したい。

 

だがどの選択肢を取ったら後悔しないと言い切れるのか、今では答えがだせない。

それほどまでに、彼がもたらした言葉はどうしようもなく私を揺るがせた。

 

あの場ではすぐ答えが出せないと、彼は分かっていたのだろう。

だから“三日”という猶予を与えてくれた。

 

 

 

――三日。

 

三日後までに答えを出さなくてはならない。

 

 

こんな状態で考えたところで答えが出せるのか?

 

 

……もう、分からない。

何もかも、分からない。

 

不安でしょうがない。

 

 

胸がさらに詰まる感覚を感じながら、溜まっていた息を吐く。

何回か深呼吸を繰り返し、ふと目の端にあるものが留まる。

 

それは、マダムへ届ける依頼品。

おかげで、やるべきことがあったのを思い出す。

 

 

こんな状態であっても、仕事を放りだすわけにはいかない。

 

 

この依頼品を届けて、三日間は依頼を受けないようにしよう。

 

そうでもしなければ、仕事に支障を来すに決まっている。

仕事で気を紛らわすこともできるだろうが、そんなことはしたくない。

 

再び息を吐き、気を取り直すように勢いよく立つ。

 

 

紙袋を手に取り、まずは仕事を終わらせようと家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

「――営業前に失礼します。バオさん、マダムは今いらっしゃいますか?」

 

「よおキキョ……おいおい、お前どうした」

 

「え?」

 

「んなしけた面、初めて見たぞ」

 

「……何でもありません、お気になさらず。それで、マダムは?」

 

「ん? ああ、フローラはいつもの部屋にいるぜ」

 

「ありがとうございます」

 

イエローフラッグまでの道も考えながら歩いていれば、いつも以上に足取りが遅くなった。

張さんの言葉への返答。そう短時間で出る訳もなく、とぼとぼと歩いていればあっという間にイエローフラッグの看板が見えてくる。

 

気を取り直し仕事をこなそうと、CLOSEの表がかけられたドアを押して中へと入る。

 

できるだけいつも通りの調子で声をかけたのだが、バオさんは私の顔を見た途端驚いた表情を見せた。

それほどひどい顔をしていただろうかと思ったが、早く帰りたい気持ちが勝りすぐさまマダムの居場所を聞き出す。

 

バオさんからの返答を聞き、仕事を終わらせようと足を動かし階段を上る。

少し長い廊下をひたすらまっすぐ歩き、一番奥の部屋の前で止まる。

 

そのまま躊躇いなくノックをし声をかければ、中から「はーい」と明るい声が聞こえてきた。しばらく待っていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえ、すぐさまドアが開かれた。

 

「いらっしゃいキキョウ! 待ってたわあ」

 

「お待たせいたしましたマダム。もしかして、今お忙しかったですか?」

 

「大丈夫よお。今日は特に問題ないし、ゆっくりしてたところよ。……それにしてもキキョウ、アナタ酷い顔してるわよ。何かあったの?」

 

「……いえ、特に何も」

 

「ふうん。……ま、とりあえず入って頂戴。報酬も渡さないといけないし」

 

「失礼します」

 

心配そうにかけてくれた言葉に一つ間を空けて返せば、マダムは何やら納得してなさそうな声を出した。

私はそれを気にかけることなく、マダムの誘導に従い部屋の中へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

「――はい、これが今回の依頼料」

 

「確認しても?」

 

「どうぞ」

 

いつものように向かい合うように座り、マダムから差し出された封筒を手に取る。

今回は特に多くも少なくもない妥当な金額であることを確認し、ニコニコと笑顔を浮かべている彼女へ声をかける。

 

「確かに受け取りました。不備があればいつでも言ってください。すぐに直しますので」

 

「分かったわ。でも、アナタに頼んで不備なんてあったことないけどね」

 

「念のためですよ。……ではマダム、すみませんが私はこれで」

 

「待ちなさいキキョウ」

 

仕事はこれで終わった。

だから一刻も早く帰ろうと思い腰を上げようとした瞬間、マダムが私の行動を制するように声をかけてきた。

 

「ちょっとアナタと話したいことがあるの。付き合ってくれない?」

 

「……すみません、今日は」

 

「少しでいいの。そんな長い話じゃないから」

 

相変わらず微笑みながら話すその声音は、いつもとは少し違うものだった。

そこに「お願い」と言われれば、普段よくしてもらっている相手を無下にできるわけがない。

 

渋々と再び椅子に座り、黙って彼女からの話を待つ。

 

「ありがと。……ねえ、キキョウ。今日のアナタ本当に酷い顔してるわよ。一体何があったの」

 

「……何もありませんよ。お気になさらず」

 

「下手な嘘はやめなさい。そんな顔して何もないだなんて、アナタなら絶対あり得ないんだから」

 

「……どうしてそう言い切れるんですか」

 

「アナタ嘘つくの下手くそだもの。こんなに素直な女の子はこの街じゃアナタ以外に見たことないわ。素直さは時に毒にもなるから」

 

マダムは微笑みながらこちらを見据えてくる。

その視線に何もかも見透かされそうで、思わず目を逸らしてしまう。

 

 

そんな私の態度を気に留めることなく彼女は話を続ける。

 

 

「自分だけじゃ解決しそうにない時は誰かに話すのも一つの手よ。全部じゃなくても、少し話すだけで何かが変わるかもしれないし」

 

「……」

 

「いつまでもそんなしけた面したくないでしょ?」

 

彼女の言葉に目を見開く。

どうして何も話してないのにそこまで分かるのだろうか。

 

一人で悩んでいることも、そしてそれが解決しそうにないということも見透かされた。

やはり、娼館のオーナーだから人の表情から読み取ることは得意なのだろうか。

 

「……貴女には何もかもお見通しですか」

 

「オンナの勘よ。ま、ここまで分かりやすいと勘を働かせるまでもないけどね」

 

「そんなにひどい顔でしたか?」

 

「ええ。そんな顔、美人なアナタには似合わないわよ」

 

 

マダムの軽い口調に心なしか口の端が上がる。

 

 

 

本当、この人は優しい女性だ。

 

従業員でもない私の事なんか放っておけばいいものを、こうして気にかけてくれる。

 

 

これは私一人の問題だ。私が決めなくてはならない。

だが、考えたところで結論が出るとは到底思えない。

 

 

……彼女の言葉通り、少し話せば何か変わるのだろうか。

 

 

苦笑にも似た表情を浮かべ、しばらく間を空け口を開く。

 

「……では、お言葉に甘えて少しだけ話を聞いてもらってもいいですか」

 

「勿論」

 

「ありがとうございます」

 

マダムの柔らかい声音と表情に、どことなく安堵を抱く。

拳に力が入るのを感じながら、静かに口を再び開く。

 

「私は後悔するくらいなら死んだ方がマシだと思っています。後悔しないとはっきり言えればそれでいい。……だけど今は、それが分からないんです」

 

「……」

 

「今までは例え人が殺されようと、私自身がどうなろうと割り切ることができました。それが、たった一つの答えを出すのにここまで乱されたのは初めてで……どうしたいかも、どうすればいいかも分からない」

 

 

私は後悔したくない。しないためにこの街に来た。

後悔せず死ねるならなんだっていい。

 

 

だが、彼に抱かれたいか。抱かれても後悔しないか。

 

 

これだけは、どうしても分からない。

 

 

「――ある人が冗談で言っていたと思っていた言葉が、本気だと知りました。今までそんな素振り一つも見せなかったのに……全てを受け入れるから身を預けてほしいと。身を預けてもいいと思っているかの答えが欲しいと、そう言われました。……そんなこと急に言われても、すぐに答えなんか出せる訳がない」

 

 

今までは冗談だと流せてきた。だが、それができない今私には為す術がない。

 

拳と声が震える。

 

みっともないと思いながらもこうして話を続けられるのは、マダムが何も言わず聞いてくれるおかげなのだろう。

 

 

胸が詰まる感覚を抱きながら、自身の気持ちを口に出す。

 

 

 

「――怖いんです。身を委ねた後に切り捨てられるのも、どうしたらいいか分からないこの現状も……こんなこと初めてで……」

 

 

 

溜まっていた不安を表すような言葉に、我ながら情けないと自嘲する。

きっと傍から見れば笑う人間もいるだろうみっともない自分の有様に、たまらなく嫌気が差す。

 

「そんな泣きそうな顔しないの。美人が台無しよ」

 

私の話を聞いたマダムが、しばらくした後柔らかい声音のままそう言った。

 

「キキョウ、アナタは本当に恵まれてるわね」

 

「え?」

 

「それはこの街の女からしたら贅沢なことよ。詳しいことは分からないけど、それってアナタの気持ちの整理がつくまでは手を出さないってことでしょ。アタシからしたら、そんな紳士な人の申し出を断る理由がどこにあるのか分からないわ」

 

「……すみません、嫌な思いをさせたなら」

 

「そんなこと言ってないわ。ただ、ちょっと羨ましいと思っただけよ」

 

柔和な表情でマダムはそう呟いた。

彼女の話の全てを理解できないが、とりあえず不機嫌ではないことは分かり少し安堵する。

 

「ねえキキョウ。少し考えてみてほしいんだけど、もしアナタに迫った男が別の男だったとしましょ。そしたらアナタはどうしてたの?」

 

「え?」

 

「身近で言うとしたら……まあ、バオでいいわ。もしバオがアナタにその人と同じことを言って来たらどうするの?」

 

「……バオさんがですか?」

 

「例えばの話よ。で、どうするの」

 

バオさんが張さんと同じことを言うなんて想像できないんですが……。

そう思いながらも、マダムの質問にとりあえず考えてみる。

 

もし、バオさんや他の人が彼と同じことを言って来たら――

 

「その場で断ります、かね」

 

「もしそれが本気だとしても?」

 

「ええ」

 

「なら、他の男だったらここまで悩んでない。そういうことになるわよね?」

 

「……そう、かもしれませんね」

 

「それが答えよ、キキョウ」

 

マダムの言葉に思わず言葉が止まった。

 

 

 

それが答え?

 

 

今のどこに答えがあったのだろうか。

 

「今のアナタはその人だからここまで悩んでる。それって少なからず、その人に心が揺らいでる証拠よ」

 

「え……?」

 

「抱かれたくないと思ってる相手なら普通ここまで悩む必要はないわ。特にアナタはそこらへん気持ちの線引きしっかりしてるから、悩むことなんてありえない。でも今アナタが悩んでいるってことは、ほんの少しでも抱かれてもいいと思っているからよ」

 

「……」

 

「自覚してなくても、アナタの行動がすべてを物語ってるわ」

 

瞬間、何かの衝撃が来たかのように息が止まった。

 

 

 

 

――こんなに悩んで苦しいのは、彼だから?

 

 

 

こんなに不安な気持ちになるのは、彼以外にありえないと。

あの人の言葉だから、こんなに乱される。

 

 

マダムはそれを、“抱かれてもいい”と思っているからなのだと、確かにそう言った。

 

 

「ねえキキョウ、一度でいいから後悔するとかしないとか抜きに考えてみなさい。アナタはその人に抱かれるのは嫌なの?」

 

「……嫌、というより……怖いです。やっぱり切り捨てられたら」

 

「そういうのは置いといての話よ。嫌か嫌じゃないかだけで考えなさい」

 

「……」

 

後悔とか、切り捨てられるとか、そういうのを忘れて……彼に抱かれてもいいか?

 

 

もし、本当に切り捨てられないのだとしたら。

もし、後悔しないのだとしたら。

 

 

――もし、彼が本当に醜い物すべてを受け入れてくれたら。

 

「……よく、分かりません」

 

「……」

 

「でも、そういうのを全て抜きにして考えるなら……私は……」

 

「そこから先は、アタシじゃなくてその人に一番最初に言ってあげなさいね。――とにかく、それがアナタの答えよ」

 

答えを言おうとした私の言葉をマダムは途中で遮った。

にっこりと、いつものニコやかな笑顔で。

 

 

自分の気持ちを自覚することはなんとかできた。

だが、それでもやはり大きな不安を取り除くことはできない。

 

 

その気持ちを露にするように、自然と顔が下へと俯いてしまう。

 

 

マダムがそれを察したのか、すぐさま声をかけられる。

 

「ねえキキョウ。それでも不安なんだったら、一つアタシからアドバイスしてあげる」

 

「え……?」

 

「フフッ」

 

 

首を傾げる私を見て、マダムはニコニコした表情を崩さずに話を続けた。








今回はキキョウさんの核心もついた話になりました。

「いつまでクソ野郎に囚われているつもりなのか」

今まで書いててずっとキキョウさんに言ってあげてほしかった言葉です。
そして、自覚してなくても誰かに言ってもらいたかったはず。
それを他の誰でもない張さんが言う事で、より心が揺さぶられたのかな……とか思ったり。


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41 変わりゆく日常 Ⅲ







「――はあ」

 

「……」

 

「……はあ」

 

「…………」

 

「………………はあ」

 

「うるせえええええ! おいロック!」

 

「うわっ! な、なんだよ急に!」

 

「それ以上アタシの目の前でため息吐いてみろ! チーズみたいに穴空けた後外のネズミに食わせてやるぞ!!」

 

「え、俺そんなに吐いてたか?」

 

「ああ。ったく、うぜえったらありゃしねえ」

 

ラグーン商会事務所。

ダッチとベニーは船と設備のメンテナンスで出払っており、特に用事もない俺とレヴィで留守番を任されている。

 

レヴィがソファでくつろいでいるのを横目に、俺は早く片付けてしまいたい会計処理を終わらせようと作業していた。

だがここ最近、胸の内にすっきりとしない、しこりのように残っている何かのせいで集中が続かない。

今日も今日とて処理作業がスムーズに進まない事は自覚していたが、ため息をついていたのは無意識だった。

 

レヴィは短気過ぎる性格だ。そんな彼女がため息を何度も目の前で吐かれて我慢できる訳もない。

だからと言って、急に怒鳴りつけるのはどうなのか。

 

「ごめん、無意識だったよ」

 

そう思っていても不機嫌な彼女を前に言えるわけもなく、とりあえず謝っておこう。

ソードカトラスで穴あきチーズにされるのは御免だ。

 

「ヘイ、ロック。お前最近ずっとその調子じゃねえか。しっかりしろよベイビー、そんなんじゃ足元掬われるぜ」

 

「……ああ」

 

「ま、お前がなんでそうなってんのか大体分かってるけどな」

 

「え?」

 

「どうせアイツの事だろ? アイツが帰ってきてからたまに上の空になる時がある」

 

「……アイツって、誰の事だよ」

 

「とぼけんなよ。あんなあからさまな態度出しといて誤魔化しはきかねえぞ」

 

煙草を吹かしながら淡々と投げられる言葉に思わず目を逸らす。

 

 

――レヴィが言っている“アイツ”というのは、十中八九あの人のことだ。

 

前々からあの人については気になっていた。

見た目は普通の女性。だがこの街で武器も持っていないにもかかわらず、凛とした姿でこの街で生きている。

初めて会った時から感じていたあの異質さに、興味を引かれないわけがなかった。

そして、この街にいればその人と街の支配者の一人との話は嫌でも耳に入ってくる。

 

この街で有名なあの二人は男と女の関係ではない。だが、ただのパトロンと職人の関係性でもない。

一体どういう関係なのかと、多くの人間が興味を示していると分かった。当然俺もその一人となるのにそう時間はかからなかった。

 

そんな時、いつも通りイエローフラッグで飲んでいるあの人にレヴィが世間話のように「そういう関係になったのか」と聞いた。

隣で飲んでいた俺は話には入らず、ただ耳を傾けた。

酔っぱらった勢いで聞いてきたレヴィのその問いに、あの人は「そういうのはないよ」と呆れながら答えた。

 

その答えに、「ああ、この人は誰にもその姿勢を崩さないし、崩されたりしないんだ」と安堵したのを覚えている。

 

この街のどす黒い空気を忘れさせるほどの清らかさ。穏やかな微笑み。そして何より、あの綺麗で真っすぐな瞳。

 

それら全てを、誰かに奪ってほしくない。

何故だか心の底からそう思った。

 

だから約三週間前、とある噂についてレヴィから聞いた時正直面白くなかった。

 

たかが噂と高を括れば痛い目に遭う。それがこの街だ。

だが、どうしても信じたくなかった。

 

その噂が本当なのか、俺に確かめる術はない。

本人に聞くのが一番手っ取り早いのだが、そんなことできるわけがない。

 

あの人が帰ってきたと聞いた時から、何もできないもどかしさが酷くなる一方だ。

それでも俺なりに仕事に支障を来さないよう振舞ってきたつもりだが、レヴィにそれを見抜かれていたらしい。

 

「ロック、ダッチも言っていたがアイツに手を出すのだけはやめておけよ」

 

「だから、俺は別に何も」

 

「何も考えてねえ奴があんな態度出すかよ。“面白くねえ”って空気ダダ漏れだったぜ」

 

「……誰だって、普段よくしてもらっている人が根も葉もない噂を立てられるのは面白くないだろ」

 

「ハッ。だが、今回は根っこの部分はちゃんとあるかもしれねえ話だ」

 

レヴィは俺の言葉を鼻で笑い、吸い殻を灰皿へ押し付けた。

そのまま新しい煙草を取り出し、火を点け乍ら再び話を始める。

 

「考えてもみろ。いつも立場がどうとか言っている“あの旦那”が、普段から部屋に連れ込んでる女を故郷に連れ帰って何もねえって方がおかしい。香港の夜景を見ながら酒を飲んではいおしまい、なんて伊達男の名が泣くに決まってらあ」

 

「……でも、今までは部屋に連れ込んでも何もしなかったんだろ。じゃあ今回だって」

 

「それも旦那の計算だったりするかもな。お堅いアイツを口説き落とすための」

 

「そんな回りくどいやり方、彼がするとは思えないけど」

 

「さあ? まあ、ともかく。旦那が本気で落としにかかったら、流石のアイツも骨抜きにされるかもな。なんたってアイツも割と旦那に拘ってるからな」

 

「――え?」

 

あの人が、マフィアの男に拘っている?

そんなそぶり、今まで見たことがない。

 

どちらかというと、彼が彼女に詰め寄っているというイメージだ。

 

「これはあくまでもアタシの勘だが、アイツは旦那に殺されたがってる」

 

「……は?」

 

「これだとちっと語弊があるかもしれねえがな。……アイツはいつも後悔しないためなら死んでもいいだとか、馬鹿げたこと抜かしてる。そんな街でも一等の死にたがりが自ら“命を預けた”。それは、あの旦那に命の天秤を委ねたいって思ったからだろ。そして、それで死んだとしても後悔はないってことだ」

 

「……」

 

「おい、本気にとんなよロック。これはあくまでアタシの憶測にしか過ぎねえんだからよ」

 

「あ、ああ」

 

「まあなんであれ、あの二人はただの男女って枠に収まる関係じゃねえってこった」

 

「……」

 

ただの男女関係ではない。

それは何となく分かっている。

パトロンと職人の関係にしても、それ以上の信頼を築いているだろうということは俺でも分かった。

 

きっと、長年付き合ってきた結果なのだろう。

 

――だが、どこか腑に落ちない。

話を聞いて、胸の中のしこりが余計に重くなったような気がした。

 

「ロック、お前が何を考えてんのかは知らねえ。――だが、これだけは一言言っておくぞ」

 

レヴィが唐突に真剣な声音で話しかけてきた。

なんだ、と顔を見ると、その瞳はこちらを真っすぐ見据えていた。

 

「アイツに余計な手を出したら、牙をむくのは旦那の銃だけじゃねえと思え」

 

「え」

 

「それを忘れるなよ」

 

「……ああ、分かった」

 

レヴィの有無を言わせない雰囲気に、俺は一言そう返すしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――こちらが今月分の資料です。ご確認を」

 

「ああ」

 

「あと、例のモノは先日貴方が送ってきた男で試しました。一週間様子を見ましたが特に問題ありません。いつでも実用可能です」

 

「そうか。それで、ブツはどれくらい用意できるんだ」

 

「一週間いただければ二十人以上沈められる分は」

 

「上出来だ」

 

――街全体が夕陽に包まれる時間。

街全体を見下ろす熱河電影公司ビルの社長室には、リンからの報告を受ける張の姿があった。

リンは淡々と言葉を交わしながら、紫煙を燻らし優雅に佇む上司を見据える。一見いつも通りに見えるが、彼女の瞳には少しだけ彼の機嫌がいいように映った。

 

「随分機嫌がいいようで」

 

「そう見えるか?」

 

「ええ。浮かれていると言った方が正しいかもしれませんが」

 

「はっ。まあ確かにそうかもしれんなあ」

 

張は煙草の灰を灰皿に落とし、口の端を上げた。

 

「今夜は狙い続けた獲物が手に入るからな。浮かれねえ方がおかしいだろう」

 

「……」

 

リンは思わず眉間に皺を寄せた。

彼が発したその言葉の意味は手に取るように理解していた。

 

「その獲物が逃げ出すということは考えないので?」

 

「それはあり得ねえ話だ。あれは必ず自らの意思で俺の前に現れる、必ずな」

 

「大層な自信ですね。――この前は逃げられたというのに」

 

リンは面白くないと言わんばかりの表情を浮かべていた。

そんな彼女の様子に張が方眉を上げる。

 

だが、躊躇うことなくリンは話を続ける。

 

「何故急に手を出したんです? 何年も耐えてた貴方らしくもない」

 

「下卑た鼠に手を出されたままで我慢できると思うのか」

 

「にしては性急すぎましたね。……あの子の事です。信頼している貴方から急に押し倒されたら、怖がって混乱するに決まっているでしょう」

 

「……」

 

「“恩があるから仕方なく抱かれる”、なんてあの子が思う訳がありません。例え貴方が相手であっても無理矢理押し倒しされたのに自ら抱かれに行くなんて」

 

「そこまでにしておけリン」

 

少し苛立ったように話すリンの言葉を遮ったのは、張の有無を言わせない低い声。

 

「最近少し調子に乗ってるようだな。今お前と話しているのは誰だ」

 

「……」

 

「俺がこうしてお前のつまらないごっご遊びに付き合ってやっているのは、お前がウチにとって“今は”有益だからだ。――そしてお前は俺に大きな借りがある。アイツと俺の関係に口出せる身分か?」

 

「……ごっご遊び?」

 

「お前がアイツの事で俺につっかかるのは、重ねてみているからだろう」

 

張は短くなった煙草を灰皿に押し付け、肺に残った煙を吐き出す。

 

「――アイツはお前の妹じゃない。お前のくだらない家族ごっこに俺とアイツを巻き込むな」

 

その言葉を吐いた瞬間、リンの目が一瞬大きく見開かれた。

次第に明らかな怒気を孕んだ表情を浮かべる。

 

サングラスの奥から感情を殺したような瞳を向け、目の前の女を見据える。

 

「今一度、お前はどういう立場なのかよく考えろ」

 

「……」

 

張が纏っている重々しい空気と底の冷えそうな声音に、リンは出かかっていた言葉を飲み込んだ。

そして静かに目を伏せ、自身のボスである彼に忠誠を示すように頭を下げた。

 

「…………過ぎた真似をし大変失礼いたしました。いかようにもご処分を」

 

少しの間のあと捻りだされたその声音は冷徹そのもの。

感情を殺し淡々と謝罪の言葉を述べる。

 

その姿勢を張は冷めた目で見据えた。

 

「分かったならいい。下がれ」

 

「は。失礼します」

 

短く言葉を交わし、リンは足早に部屋を出て行った。

一人残された張は「やれやれ」と椅子の背もたれに体を預け、デスクの上に足を乗せた。

 

懐から新しい煙草を取り出し口にくわえる。

火を点け、煙を思い切り吸い込んだ。

 

煙を吐き出した後、徐に右手にある腕時計を一瞥する。

 

「あと三時間か」

 

ガラス張りの向こうにある夕陽を眺めながら、ニヤリと口角を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――はい、これでお終い。相変わらず化粧すると段違いに美人さんになるわね」

 

「ありがとうございます、何から何まで」

 

「今日は貴女にとってビッグイベントだもの。ちゃんと着飾らないとね」

 

夕日が沈みかけ、そろそろ夜の闇が覆う頃。

スローピー・スウィングの一部屋で私は普段なら絶対着ないであろうパーティドレスに身を包み、顔には化粧を施している。

何らかの理由で着飾ることがこれまでも数回あったが、その度にリンさんかマダムに頼むのが恒例となっていた。

 

今回も例に漏れずマダムに頼み込み、着飾る手伝いをしてもらっている。

 

「アナタもありがとね、仕事前に」

 

「マダムの頼みだもの、お安い御用よ。それにMs.キキョウが着飾った姿なんて滅多に見れないから」

 

「年に一回あるかないかだものねえ。その顔もっと活かしたらいいのに」

 

「あはは……」

 

マダムの隣で笑って話しているのは、娼館で働いている女性の一人。

人手がいるだろうとマダムが呼び出したのだ。

 

その女性の服も一度仕立てたことがあり、初対面というわけではないが親しいわけでもない。

だというのに、私の準備の手伝いをマダムがお願いした時文句ひとつ言わずに引き受けてくれた。

勿論タダではなく、マダムからのお小遣いと私が服を仕立てるという条件付きでだが。

 

「じゃ、アタシはもう行くわ。Ms.キキョウ、熱い夜を楽しんでね」

 

「え」

 

「お駄賃は仕事終わったら取りに来てチョーダイね」

 

「はーい」

 

女性は仕事の準備があるのか、さっさと部屋を出て行ってしまった。

その時、ウィンクで何やら意味深な言葉を残していった。

 

首を傾げていると、マダムが「フフッ」と笑みを漏らした。

 

「アナタが男と会うことあの子も気づいてるのよ」

 

「何も言ってないのに分かるものなんですか?」

 

「そりゃそうよ。普段おしゃれを全くしない女が急に着飾るってなったら、普通は男と会うもんだって勘づくものよ」

 

「……この街の女性は勘が鋭すぎませんか」

 

「アナタが鈍すぎるのよ」

 

マダムの言葉に思わず苦笑する。

だが、すぐに口の端が下がる。

 

 

 

――そう、今日があの人と約束の日。

 

多少の不安を抱えながらも、私はイエローフラッグに行くことを決めた。

 

彼の問いに答えるため。

そして、私のどうしようもない不安を打ち消すために。

 

迫ってくる時間に、心なしか緊張が走る。

そのせいか、思わずため息を吐いてしまう。

 

「緊張してるの?」

 

「まあ、少しだけ」

 

「いいわねえ。初心な女はここじゃ珍しいから新鮮だわあ」

 

「からかってます?」

 

「まさか。可愛らしいと思ってるだけよお」

 

ニッコリと笑うマダムに釣られ、再び口の端が上がる。

 

「そうそう、そんな風に笑ってなさい。女の一番の化粧は笑顔なんだから」

 

「……その時になったら、上手く笑える自信がありませんけどね」

 

「アナタ不器用だものねえ。ま、それも含めてアナタらしいから気にしなくていいかもね」

 

「あはは……」

 

どう返答していいか分からず、とりあえず笑って誤魔化した。

ちら、と時計を一瞥すると、針が午後六時を指していた。

 

一時間後には、彼と会うことになる。

 

心なしか鼓動が早くなった気がした。

 

「今はまだ早いからあと少ししたら下に行きなさい。バオにはカウンター席空けておくよう言ってあるから」

 

「ありがとうございます。今度ちゃんとお礼させてください」

 

「お礼は今夜の話を聞かせてくれればそれでいいわ。どういう結果になったのか知りたいもの」

 

「あまり、詳しいことは言えないかもしれないですが」

 

「それでもいいわよ。……フフッ、アナタから男の話を聞くのが楽しみだわあ」

 

柔和な笑みを浮かべているマダムに、苦笑だけ返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――陽が沈み、街が夜の闇に包まれる時間。

人工的な光に照らされている道のりをロックは歩いていた。

普段はレヴィを連れているが、今夜は何故か一人である。

 

そんな彼が目指すのは、この街でも一等悪党が集うと噂される酒場イエローフラッグ。

ロアナプラに来てからもうそろそろ一年が経っているというのもり、すっかりあの騒がしい雰囲気にも慣れていた。そのおかげか、足を運ぶのに躊躇うことはなくなった。

 

ただひたすらまっすぐ歩いて行けば、すぐさま目的地へとたどり着く。

そのまま躊躇いなくOPENという表が下がっているドアを押す。

 

瞬間、広がったのはいつも通り騒がしさで満ち溢れている風景。

 

 

 

――ではなかった。

 

 

決して静かではない。だが、どこかいつもと何かが違う。

 

妙な雰囲気に首を傾げつつ店内を見渡すと、ふと一つのものが目に映った。

 

店内の奥に位置するカウンター席。

 

その一つに、この酒場では滅多にお目にかかれない容姿の女性が座っていた。

その女性は黒い短髪で、グリーンのパーティドレスに身に包み、何やら店主と話し込んでいる。

 

あまりにも場違いな服装でたった一人、この酒場で酒を飲むなんて物好きな女性だ。と、ロックはやや驚いたが動揺することはなかった。

周りの客がカウンター席の方を向きながらヒソヒソと話している異様な雰囲気を感じ取りつつ歩みを進める。

 

「やあバオ」

 

「よう、珍しく一人なんだな」

 

「ああ、レヴィは用事があるとか言って来なかったんだよ。まあ、たまには一人で飲みたかったし」

 

「そうかよ」

 

ちら、とカウンターに座っている女性を見やる。

妙に落ち着いた女性の雰囲気はやはり場違いではないかと思わされた。

顔は見ずに、そのままカウンターに座る。

 

「一人で飲むようになったんだ。この街に馴染んできた証拠だね」

 

「はは。まあそろそろ一年経ちますしそりゃ嫌で、も……」

 

ロックはどこからか飛んできた声に何の疑問もなく返答した。

だが、瞬時に一つの違和感を感じ取る。

 

今自然と答えたが、一体自分は誰の言葉に反応したのか。

 

ロックは驚きながら、声が飛んできた方向へ素早く顔を向ける。

 

 

――その時初めて、二席分向こうのカウンターに腰かけている女性の顔を拝んだ。

 

短い黒髪。グロスが塗られた艶やかな唇。ほんのり赤く染まった頬。

 

目に映るその顔は化粧が施されていても、見間違えるはずがない。

だが、いつもと違いすぎる雰囲気に思わず目を見開いた。

しばらくじっと顔を見た後、ロックはやっとのことで声を絞り出す。

 

「……キキョウさん?」

 

「久しぶり岡島。元気そうでよかった」

 

「え、ええ……お陰様で」

 

いつもの化粧っけのない、素朴ながらも魅力がある出で立ちとはまるで真逆。

今まで見たことない彼女の女としての魅力が曝け出されている。

 

息を飲むほどの変わりように、ロックが動揺するのは無理もなかった。

 

「あの……その格好は」

 

「あまり着飾るとかしないんだけどね。でも、今日はそういう約束だからしてるってだけ。あまり気にしないで」

 

「はあ……」

 

気にしないでって言われても……と、ロックは内心呟いた。

これまで一回も彼女が化粧どころか黒いTシャツ以外に着ているところを見たことがなかったのだ。

唐突に変貌を遂げた女性を前に気にしないというのは、ロックにとって無理があった。

 

「キキョウさんがそういう格好をするの、初めて見ました」

 

「おかしいよね。だからあまり人に見せたくなかったんだけど」

 

「いえ、そんなこと。……とても、綺麗です」

 

「……ありがとう」

 

苦笑しながらそう言うキキョウに、ロックは一瞬躊躇った後素直な感想を口にする。

その言葉を本気にしているか分からないような声音でキキョウは一言返した。

 

途端、ロックの中には一つの疑問が浮かぶ。

 

普段着飾ることをしない人が、何故急に酒場でその姿で現れたのか。

本人もあまり人に見せたくなかった、と言っている。

なら何故尚更人目につくこの場所をわざわざ選んだのか。

 

一体何のために。

 

まさか……とロックは短い時間で思考を巡らせ、一つの可能性を導き出す。

そして、その答えを確かめようと意を決して口を開く。

 

「あのキキョウさん」

 

「なに?」

 

「その格好は、誰の為にしているんですか」

 

ロックの質問に、キキョウは少しだけ目を見開いた。

 

すぐさま目を逸らされ、少し間を空けた後徐に返答する。

 

「……言いたくない、かな」

 

「……」

 

「でも、その答えは多分すぐ分かると思うよ」

 

「え?」

 

その瞬間、店のドアが静かに開かれた。

直後現れた人物に、店内に動揺の波が広がっていく。

 

革靴の音を高らかに鳴り響かせながら、その人物は真っすぐ歩みを進める。

 

その事にロックは気づかず、再びキキョウに声をかけようとした。

 

「すぐ分かるって、どういう」

 

「なってねえなロック。そんな余裕のねえ面じゃどの女も引っかからねえぞ」

 

ロックの言葉を遮ったのは、街の支配者の一人であるマフィアの低い声。

唐突に現れたその人物に驚くのは無理もなく、すぐさま後ろを振り返り動揺しながら名を口にする。

 

「ちゃ、張さん……」

 

「ま、こんな美人をナンパするとなれば流石に緊張はするかもしれねえな」

 

「お、俺は別にそんな……!」

 

「そんな動揺すんな、冗談だ」

 

余裕そうな笑みを浮かべロックをからかった後、張は未だにこちらを振り向かないキキョウを見やる。

 

動揺しているロックを放置し、表情を変えずに「はは」と笑った。

 

「懐かしいもんだ。お前はあの時もこうやって男に絡まれていたな」

 

「そんな言い方しないでください。彼には貴方が来るまでの間、少しだけ話に付き合ってもらっただけです」

 

「随分こいつに甘いな。思わず嫉妬しちまいそうだ」

 

「御冗談を」

 

「冗談じゃねえさ」

 

二人の淡々と聞こえる会話。

だが、どこか妙な雰囲気を帯びておりロックに入り込む隙などなかった。

 

「……」

 

「……」

 

誰も何も話さない。

張の登場により、店内にいる誰もが彼に目線を集中させ事の顛末を見守っている。

そのせいか、店内はかつてない程の静けさが落ちていた。

 

しばらくした後、張は先程とは違う真剣な表情と声音で話しかける。

 

「――キキョウ。それがお前の答えだと、受け取っていいな?」

 

その問いの意味を知る者は、この場においてただ一人。

 

「……ええ」

 

キキョウは質問の意味を理解した上で、はっきりと肯定の言葉を返した。

 

「てなわけで、こいつは俺が先約だロック。悪いが今日は引いてくれるな?」

 

「え……」

 

「では行こうか、Ms.キキョウ」

 

ロックが答える間を与えずキキョウの名を呼ぶ。

張の声掛けに抗うことなく、キキョウは席を立った。

 

「じゃあバオさん、また来ます」

 

「おう」

 

「岡島、話に付き合ってくれてありがと。またね」

 

「あ……」

 

ロックが何か言いたげな表情を浮かべているのに気づかず、キキョウは張の元へと向かっていく。

キキョウの背中を見つめていると、サングラスで隠れている張の瞳と視線が合わさった。

張はロックを見て何を思ったのか、ニヤリと口端を上げ何やら勝ち誇ったような表情を見せる。

 

明らかに自身へ向けられたその表情に、思わずロックは顔を引き攣らせた。

 

そんなロックを鼻で笑い、張は隣に来たキキョウと共にそのまま出入口の方へと向かう。

その時ロックの瞳に映ったキキョウの顔は、どこか固い表情だった。

 

やがて二人は店内から姿を消し、しばらくすると店内には次第にいつもの騒がしさが戻っていく。

 

 

――そんな中、ロックは先ほどの張の笑みを思い返し「……クソっ」と小さく吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

――陽が沈み、イエローフラッグに客が出入りし始める時間。

騒がしい雰囲気の中、滅多に着ないパーティドレスに身を包みカウンターに座っていれば嫌でも背中越しに視線が刺さる。

その視線に何とか耐えていた時、救世主とばかりに岡島がやってきた。

 

いつもみたいに声をかけてみたのだが、やはり岡島も私が着飾っていることに相当驚いていたようで少しだけ様子がおかしかった。

 

 

私としてはバオさん以外に話せる人がいるだけでも気がまぎれるので、彼が来るまで話し相手となってもらった。

今度お礼に酒でも奢ろうかな、と思った時。

 

 

――三日前の約束通り、彼が現れた。

店内のざわめきが少し変わったのを感じ取り、本当に来たのだと一気に最大の緊張感に包まれる。

 

それでもなんとか冷静にいつも通りの会話をしていると、唐突に真剣な声音で質問された。

 

『それが答えだと受け取っていいんだな』

 

その問いに今更「なんのことか」ととぼける真似は許されない。

あまりの緊張に振り向くことができないまま、だがはっきりと肯定の言葉を返し彼に誘導されるがまま、二人でイエローフラッグを後にした。

 

外で待たせていたであろう黒塗りの高級車に乗せられ、どこへ連れていかれるかも言われないまま車が動き出す。

車内で誰も言葉を発さず、そして何故かヘビースモーカーである彼が一本も煙草を吸わなかった。そのおかげか、ただエンジン音と車が走る音だけが耳に響く。

それがさらに自身の緊張感を煽り、隣にいる彼の顔を一度も見ることができなかった。

 

 

しばらく車に揺られ、着いた先は今まで何度も訪れた高層ビル。

 

履き慣れないヒールで彼の後を黙って着いて行く。

途中で何度か三合会の人たちと目が合ったが、いつものように声をかけられることはなく上司である彼にお辞儀だけしてすぐさま目を逸らされた。

 

エレベーターに乗り最上階へと昇れば、すぐさま見慣れたドアが見えてくる。

 

いつもと同じドア。だが、開けて入ったらもう後戻りはできない。

そして、きっと逃げることも許されないだろう。

 

私の心中を知ってか知らずか彼は当然躊躇うことなくドアを開け、先に中へ入るよう促される。

「失礼します」と小声になりながらも断りを入れ、ゆっくりとした足取りで部屋へと踏み入る。

 

そのまま社長室の奥にある彼の自室へと流れるように誘導され、これもまた先に中へと歩みを進める。

 

月明かりだけが照らしている薄暗い部屋。

これまで何度も目の前のソファで酒を酌み交わし、他愛ない話をしてきたいつもの部屋。

 

だが今日は、何もかもが違う。

 

後ろでドアが閉まる音が響き息が一瞬止まる。

緊張で振り向くことができないでいると、こちらに段々足音が近づいてきた。

 

すぐ後ろに彼がいることを気配で感じる。

 

こういうとき、一体どんな顔をすればいいのか。

それが分からず、今もまだ振り向けずにいる。

 

 

「キキョウ」

 

 

そんな私に痺れを切らしたのか、彼の低い声音が響いた。

 

 

「いい加減その顔を見せちゃくれねえか?」

 

「……」

 

張さんの言葉に促されるまま、無言で後ろを振り向く。

一瞬だけ顔を見たが、どうしても直視できずすぐさま俯いてしまう。

 

「キキョウ」

 

再び私の名を呼ぶと、彼の武骨な手が頬へと触れた。

その感触に思わず体を震わせたが、抵抗することなく受け入れる。

 

とっくに慣れた癖のはずなのに、今は全く違う。

 

「もう後には引けねえぞ」

 

「……」

 

「分かっているんだな?」

 

「……はい」

 

震える声で、なんとか短く言葉を返す。

 

もう後戻りはできない。

逃げることも許されない。

 

 

「――張さん」

 

「ん?」

 

「その前に少しだけ……私の話を、聞いてくださいますか?」

 

「……なんだ」

 

今この時でさえ、どうしようもない不安が胸に募る。

 

彼に身を委ねた後、切り捨てられないか。

 

本当に後悔しないか。

 

 

 

――だがそんなことはいくら考えたってわからない。

 

 

 

「私はまだ、貴方に身を預けるのが……正直怖いです」

 

「……」

 

「これから起こることに後悔しないかも、後悔していいのかさえ分からないまま、ここにいます」

 

「キキョウ、それは」

 

「貴方の言葉が偽りでないことは分かってます。でも、頭では分かっていてもどうしようもなく、不安なんです」

 

声の震えが止まらないまま、言葉を続ける。

心なしか手まで震えている気がする。

 

だが、これだけはどうしても彼に話しておきたい。

 

「張さん。貴方がご存じの通り、私はどんなことであっても後悔したくありません。貴方が相手であろうと、それは変わらない」

 

「……」

 

「だから一つだけ……私の我儘を聞いてください」

 

そこで言葉を区切り息を吐く。

心臓の音が脳にまで響き、眩暈を起こしそうになる。

 

 

「もし、本当にこんな醜い体でも欲しいと。私を、抱きたいというのなら」

 

 

 

――震える両手で頬にある彼の手に触れる。

 

 

手の冷たさを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。

 

 

いつのまにかサングラスが外され露になった瞳を真っすぐ見据え、意を決して口を開く。

 

 

 

 

 

 

 

「――どうか、後悔だけはさせないでください」

 

 

 

 

 

 

 

こんなとんでもない我儘、聞いてくれる訳がない。

 

 

上から目線だということも分かってる。

 

だけどもし、この我儘を聞いてくれるなら。

この場で約束してくれるなら、胸の内の不安が多少マシになるはずだから。

 

私の言葉を聞いた張さんは驚いたように目を見開いた。

やがて口の端を上げ、「はっ」と息を洩らす。

 

 

「たくお前は。ここでその瞳を見せるか」

 

 

その声音はいつもの愉しそうな、だがどこか安心したようなもの。

すると、すぐさま空いているもう一方の手が腰へと回る。

 

香港で彼の自宅でされたときと同じように、彼の腕に包まれる。

 

驚きながらも今度は視線を合わせたまま言葉の続きを待つ。

 

 

 

 

「――按您希望的那样、可爱的花(お望みのままに、可愛い花)

 

 

 

 

 

中国語で囁かれたその言葉がはっきりと耳に響く。

 

彼らしい気障な言葉遣いと胸の内に生まれた安堵感に自然と口の端が上がる。

 

 

 

 

もうこれ以上、言葉はいらない。

 

 

 

きっと彼もそう思っているのだろう。

 

 

それ以上何かを言ってくることはなかった。

 

 

 

 

やがて彼の口角が下がり、ゆっくりと顔が近づいてきた。

 

相変わらずうるさい心臓の音を聞きながら、顔を上げたまま目を瞑る。

 

 

 

 

 

――そのままもたらされた彼の口づけを、ただ黙って受け入れた。

 

 

 

 

 









R18版の方も更新しております。
興味ある方はぜひ。


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42 友人からのお誘い


久々に、あの人の登場です。







 

 

「――よおキキョウ、久々だな。調子はどうだ」

 

「相変わらずかな。レヴィの方は?」

 

「まあまあだ」

 

「ありゃ、意外とそっけないねえレヴィ。もっと喜ぶと思ったんだが」

 

「あ?」

 

「アンタ、キキョウの帰りを誰よりも待ってたじゃねえか。まるで子犬みたいによ」

 

「くだらねえ嘘ついてんじゃねえ、ぶっ殺すぞエダ」

 

リップオフ教会の礼拝堂。

ステンドグラスが輝く空間の中央奥にある教壇には、罰が当たりそうな程大量の酒瓶。

その酒を消費しているのは、目の前でグラス片手に寛いでいるエダとレヴィ。

この二人が教会で酒を飲んでいる光景は見慣れたもので、最早色々言う事もなくなった。

 

 

――数日前、久々にシスターヨランダから服の修繕を頼まれ依頼品を取りに来たのだが、タイミングが悪く彼女は急用とかで出かけてしまった後だった。

代わりに現れたのは、酒の匂いを纏わせたこの二人。

 

二人とは香港から帰ってから会ってなかったので、レヴィの「混ざれよ」という誘いに乗り久々に話をしようと言葉を交わしている最中だ。

 

「嘘なんかついてねえぞお? キキョウ、こいつアンタの帰りが待ち遠しくてアタシに“いつ帰るのか”って何度か話を振ってきたんだぜ」

 

「今すぐ黙れ。じゃねえと顎砕くぞ」

 

「あら怖い。別に恥ずかしがることじゃねえだろお。健気に待ってた子犬の頭でも撫でてやれよキキョウ」

 

「よし、そこ動くなよ」

 

「まあまあ……」

 

ニヤニヤしながらからかっているエダを鋭い視線で睨むレヴィを苦笑しながら宥めつつ、空いている椅子に腰かける。

 

「帰ってから何回かイエローフラッグ行ったんだけど、全然会わなかったね。仕事忙しかったの?」

 

「旦那が留守の間ちょっとした騒ぎがあってな。その後始末ってところだ」

 

「そうだったの。あれ、でも岡島は飲みに来てたけど」

 

「今回に関しちゃアイツは戦力外だったってだけだ。……って、お前ロックに会ったのか」

 

「少しの間しか話せなかったけどね」

 

「いつだ」

 

「え?」

 

「いつ会ったんだ」

 

レヴィが岡島と会った件についてここまで気になっていることに少し驚いた。一体どんな理由があって聞いてきているのかは分からないが、隠すことでもないのでここは素直に答えておく。

 

「ちょうど一週間前だよ」

 

「……あー成程、そういうことか。たく、あの野郎」

 

私の答えを聞いた途端、眉根を寄せ何やら呟いている。

どこか苛立ったような表情を見せるレヴィを無視することはできなかった。

 

「レヴィどうしたの。岡島と何かあった?」

 

「いや、別に大したことじゃねえ。お前が気にするこたねえよ」

 

そう吐き捨てると勢いよくグラスの中の酒を飲み干した。

レヴィがああ言うなら私が気にしたところでどうにもならないのだろう。

何があったのか知らないがなんだかんだお互いを認めている二人の事だ。これからもいつも通り仲良く仕事をこなすはずだ。

 

「へへ、まあ確かに色男の事も気にはなるが――アタシが今一番聞きたいのはアンタの話だ」

 

「……え、私?」

 

しばらく私達の会話を黙って聞いていたエダが、唐突に私の方を指さして話を振ってきた。

 

一体何のことか分からず首を傾げる。

 

 

「勿体ぶってんじゃねえよ。お前、とうとう旦那とヤッたんだろ?」

 

「あ、アタシもそれ気になってた。どうなんだよ実際」

 

「…………」

 

そうだった。彼女はこういう人だった。デリカシーがないというかなんというか……。

 

まあ、この街ではそれが普通なのかもしれないが。

というか、まさかレヴィもこの話に乗ってくるとは意外だ。自分に振られるのは嫌でも他人のこういう話を聞くのは好きらしい。

 

どう答えたものかと悩み、束の間の沈黙の後ゆっくりと口を開く。

 

「そんな気にすること?」

 

「あったりめえだろ! 街中で噂になってるぜ、“やっと張の旦那のオンナになった”てな」

 

「それと、イエローフラッグで着飾って待ってたお前をわざわざ旦那が迎えに行ったこともな」

 

「香港から一緒に帰った後にその話を聞きゃ誰だって気になるもんさ」

 

「……」

 

やっぱりか。

彼がわざわざ迎えに来てくれたとあってはこの街で噂が立たない方がおかしい。

それを重々承知の上であそこで待っていたのだ。

だが、そこで“彼のオンナになった”というおまけまでついてくるとは思わなかった。

 

「一体何をどうしたらそういう噂に……」

 

「いや、自然だろ。これで逆に“抱かれてない”なんて考えるのはヤクで頭が宇宙の彼方に吹っ飛んでる奴しかいねえよ」

 

「レヴィの言う通りだ。で、どうなんだよ」

 

二人はじっ、とこちらを見つめ期待の眼差しを向けてくる。

その視線にため息を吐きたくなる衝動に駆られながら言葉を発する。

 

「彼のオンナになった覚えはないよ」

 

「嘘つけ! ここまできて誤魔化しはきかねえぞ!」

 

「エダの言う通りだ! アタシらの仲だろ!? 隠す必要ねえじゃねえか!」

 

「いや、本当だって」

 

確かに、私はあの日彼に抱かれた。だが、それで“彼のオンナ”になったというのは違うだろう。そういう肩書きを持つのは彼と肩を並べ歩ける女性。つまり、彼を支えられる存在だ。

二人の理屈でいけば、今まで彼に抱かれた女性全員がそうなってしまう。

だが勿論、その女性は間違いなく私ではない。彼を支えることなどできはしないのだから。

 

だから今までの関係が変わるわけじゃない。

これまで通り、パトロンと洋裁屋として付き合っていく。

基本的には今まで通りだ。

 

「あの人との関係は変わらないよ」

 

「……おい、おいおいおいおい! まさかホントに何も変わらないってわけじゃねえだろ!?」

 

「そうだぜ! なんたって“あの旦那”だぞ!? ここにきて何もしねえ訳がねえ!」

 

「お、落ち着いて二人とも……」

 

「これはアタイらにとっても大事な情報なんだよ! 旦那のオンナとくりゃ変わってくることもある! そこらへんしっかりしといて貰わねえと困るぜ!」

 

「んな小難しいこと言うんじゃねえよ二挺拳銃! それはアタシらだけが考えりゃいい話なんだから。今聞くべき話はこいつが処女を捨てた時の感想だろ!」

 

「おめえはただ楽しみたいだけだろうが!」

 

私を挟んで言い合いする二人を苦笑しながら眺めていると、気が済んだのか程なくして二人同時に「はあ」とため息を吐き口を閉じた。

 

少しの沈黙の後、サングラスをかけ直しエダが再び話を切り出す。

 

「……キキョウ、アンタさっき“オンナになった覚えはない”って言ったよな? まあ、確かにただ抱かれただけじゃそうとは言い切れないよな。特にアンタはそういう性分だし」

 

「……」

 

「オンナになったかはこの際置いておこう。結局、抱かれたのか抱かれてねえのかどっちだ」

 

「旦那にとっても別に今更話されて困る内容でもねえと思うぞ」

 

さっきとは打って変わって静かな口調で聞いてくる二人の様子に一瞬目を見開く。

この状況だと、恐らく嘘をついても納得はしないだろう。

 

だが、正直あまり言いたくはない。

こういう類の話に慣れてないせいか、はっきり「抱かれました」と誰かに言うのは抵抗がある。

頭の中でどう言おうか考え整理し、こちらを見据えている二人の視線を浴びながら口を開く。

 

「もう一度言うけど、私と彼の関係は何も変わらない。これまで通り洋裁屋とパトロンっていう関係はそのままだよ」

 

「……」

 

「……」

 

「――ただ」

 

 

黙ったままの彼女たちとそれぞれ目線を合わせ、言葉を区切り息を吸う。

 

 

「ただ、私が彼に預けるものと彼との約束が増えた。それだけ言っておくね」

 

 

そうはっきり告げると、二人は大きく目を見開いた。

すぐお互いの顔を見合わせると、エダは「はっ」と息を洩らし、レヴィは頬杖を突き口の端を上げた。

 

「そうかよ。そりゃ、何よりだ」

 

「キキョウ、それほぼ答えだぞ」

 

「レヴィ、こいつこの前まで処女だったんだぜ? そりゃはっきり言うのは恥ずかしいよなあ」

 

「ちょっとエダ、なんで知ってるの」

 

「さあ? 神のお告げ?」

 

冗談めかして言うエダにつられ自身の口の端も上がる。

彼女に私の心情が見抜かれていたことに気恥ずかしさを感じたが、そこは私よりもエダの方が一歩上手だったから仕方ないと思うしかない。

 

「何はともあれ、だ。アンタの処女喪失と旦那の頑張りが報われた記念にぱーっと飲もうじゃねえか」

 

「何か嫌なんだけどそれ。というか、あの人の頑張りってどういう」

 

「まあまあ、こっからは酒がなくちゃ始まらねえよ! レヴィ、グラス!」

 

「私がここでは飲まないって知ってるよね?」

 

「んだよノリ悪いな! ここからが一番盛り上がるってのに!」

 

「じゃあ今からイエローフラッグ行こうぜ! もうすぐ開店時間だし、丁度いいだろ」

 

「それならいいよ」

 

「よっしゃ!」

 

エダとレヴィは何故か上機嫌になり、テンションが高い状態で腰を上げた。

そのまま二人は表の大きなドアに向かって歩き出す。

 

私は、苦笑しながら二人の背中に声をかけようと口を開く。

 

「その前に、ここ片付けてからだよ」

 

そう言葉をかけると、なんだかんだ仲のいい彼女たちは「めんどくさい」と言った表情を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そういやよ、二挺拳銃。ロックがどうとか言ってたが、あの色男と何かあったのか?」

 

「あ?」

 

「教会で話したろ。キキョウにやけにつっかかってたじゃねえか」

 

「……ああ、あれか」

 

夜も更け、大勢の客で賑わっているイエローフラッグのテーブル。

開店してから今まで一緒に飲んでいたキキョウが「明日用事があるから」と先に帰ってしまったのを皮切りに、エダは気になっていた話題をレヴィへと持ち掛けた。

 

「別に大したことじゃねえよ」

 

「おいおい、何のためにキキョウがいなくなったタイミングで話振ったと思ってんだよ。アンタのあの様子じゃキキョウの前で話せない。いや、話したくなかったんだろ?」

 

「……ただ話す必要がなかっただけだ。アイツには関係ねえ」

 

「でもアイツはもういない。なら話してくれたっていいだろお? ダチなんだしさあ」

 

エダがよく見せるニヤリとした表情に、レヴィは眉根を寄せながら酒を呷る。

グラスを置き、多少気心知れる女を一瞥し盛大なため息を吐く。やがて観念したように静かに口を開いた。

 

「キキョウと会ってから何か妙に上の空っつーか、前にも増して辛気臭え顔を見せやがる」

 

「なるほどなるほど。ま、何となくそんな感じじゃねえかと思ってたけどな」

 

「今んとこ仕事に支障はねえし、アタイらに迷惑はかかってねえんだが……なんか嫌な予感がする」

 

「……けどよ、流石のロックも変な気は起こさねえんじゃねえか? 今のキキョウは旦那の妾といっても過言じゃねえ。そんな女に手を出せばどうなるかくらい子供でも分かる。アイツもそろそろ一年経つんだ。んな心配いらねえだろ」

 

「だといいんだがな」

 

レヴィはエダの話を聞いた後、グラスに酒を入れ再び一気に飲み干した。

エダもグラスに口をつけ、少量の酒を喉に通しながらふと一つの出来事を思い返す。

 

――それは数か月前、ロックとキキョウが話している場面に遭遇した時の事。

いつもはレヴィも混ざっているせいか二人きりということが珍しく、面白そうだと自身はしばらく遠目から見ていた。

 

どんな話かは知らないが、ふとキキョウがロックの話に微笑みを浮かべた。

そのキキョウの顔を見たロックの視線と表情が少し変わったのをエダは見逃さなかった。

どこか嬉しそうに口の端を上げ、キキョウの表情を食い入るように見つめている。

それは、自身やレヴィと話しているときには決して向けないもの。

 

その時、一瞬で理解した。

 

彼はキキョウを“そういう目”で見ているのだと。

 

そして、ロックの傍にいるレヴィはとっくにその事を見抜いているはずだ。

だからこそ誰よりも懸念しているのだろう。

 

エダは口の端を上げたまま、そんな苦労性の“ダチ”へと静かに声をかける。

 

「レヴィ。大好きなキキョウと仲間の事が気がかりなのは分かるけどよ、女一人の為に命を懸けれる男は映画の中だけに存在するもんだぜ」

 

「あ?」

 

「ロックはそんなタマじゃねえ。そして、キキョウは超がつく程鈍感だ。誰も何も言わなけりゃアイツは絶対ロックの気持ちに気づかない。だからそんなに心配する必要はねえだろうさ」

 

「確かにキキョウは気づかねえだろうよ。――だがよエダ。張の旦那は違うだろ」

 

レヴィのいつになく真剣な表情と固い声音。そして発せられた言葉にエダも思わず口の端が下がった。

 

「旦那はそこいらのヤクザより頭が切れる上に人を見る目が確かだ。そんな旦那がロックの視線に気づかない訳がねえ」

 

「……だとしてもだ。もし気づかれても最悪アイツが消されるだけ。Mr.張もラグーン全員に手を出すなんて行き過ぎたことはしねえはずだ」

 

「……」

 

「この世界じゃまず自分の命が最優先だ。そうだろレヴィ」

 

「……分かってるよ。けどよ、このまま放っておくのは良くねえだろ」

 

「アイツのためを思うならよくねえだろうな。ま、それは仲間内でなんとかしな」

 

「お前に言われるまでもねえよ色情魔。……ったく」

 

そう吐き捨てた後、レヴィはグラスの中に残っていた酒を飲み干していく。

雑に酒を注いで飲む彼女の様を見て、エダは口の端を上げいつもの軽い声音を出す。

 

「そう気負い過ぎるなよ相棒。早く老けちまうぜ」

 

「うるせえクソ尼! 余計なお世話だッ」

 

レヴィらしい乱暴な言葉を聞き、エダは愉快そうに高らかに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

陽はとっくに昇り、きつい日差しが照り付ける時間。

 

こんなに天気がいい日であっても普段なら家に籠り依頼をこなすか暇を持て余すかのどちらかなのだが、今日は外に出なくてはいけない理由があるため街中を歩いている。

お昼時だからなのか並んでいる露店には人だかりができ、賑やかな雰囲気を醸し出している。

 

そんな大通りを抜けひたすら歩いていれば段々人通りが少なくなっていく。

 

その理由は、私が向かっている場所にある。

そこは街の人たちならば自ら行こうとは思わない。というより、招かれるか滅多なことがない限り立ち入ることはできない領域。

 

私がそこへ向かっているのはある人から呼び出されたからだ。

電話を貰った時依頼かと思ったのだが、ただ「話をしたい」とだけ言われたので招かれた理由は分からない。

だが特に用事も断る理由もないので、あまり深くは聞かないまま呼び出しに応じた。

まあ、あの人の呼び出しを断れる人間がこの街にいる訳がないのだが。

 

ひたすら寄り道せず歩いて行けば、あっという間に目的地へ辿り着く。

どこか異様な空気を放っているその建物の前には、門番のように武器を持った男性が数人。

そんな彼らに近づけばすぐさまこちらに気づいた。

 

「久々だな洋裁屋」

 

「お久しぶりです」

 

「元気そうで何よりだ」

 

「お陰様で。貴方がたも変わりないようでよかったです」

 

「鍛えてるからな」

 

ここへ何度も来ているおかげか、彼らは敵意を向けることなく気楽に話しかけてくれた。

彼らとこうして挨拶を交わすのも久々でもう少し話したいところだが、呼び出した張本人を待たせるわけにはいかない。

 

「あの、今日は」

 

「ああ、分かってる。首を長くして待っておられるぞ」

 

「いつもの部屋にいるそうだ」

 

「ありがとうございます」

 

恐らく彼らも私と同じことを思っていたのか、それ以上話に花を咲かせることはなかった。

彼らが促すまま建物の中へと入り、途中で目が合った人たちに軽く挨拶しながらとある人物が待っている部屋へと向かう。

そうして辿り着いた部屋の前に立ち、少し息を吐いてからドアをノックし声をかける。

 

「キキョウです」

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

中から聞こえてきた凛とした女性の声を聞きドアを開ける。

 

部屋の奥にあるテーブルには紅茶のセット。

 

 

そして、そのテーブルの前には綺麗なブロンドの髪を持った女性が微笑みを携えこちらを向いていた。

 

「久々ねキキョウ。変わりはなくて?」

 

「ええ、貴女がたのお陰でいつも通りの日々を送れていますよ」

 

「それはよかった」

 

「そんな貴女もお元気そうで何よりです、バラライカさん」

 

右半分が火傷痕で覆われている顔を見据えそう言えば、彼女は「ふふっ」と笑った。

こういう時の彼女は、この街で恐れられている人物とは思えない程穏やかな雰囲気を醸し出している。

 

「さ、こっちにいらっしゃい。紅茶でも飲みながらゆっくり話しましょ」

 

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 

そんな彼女の雰囲気に釣られ、微笑みながら促されるまま更に奥へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――それでどうだったの? あの男との海外旅行は」

 

「まあ、退屈はしませんでした。それなりに充実してましたし」

 

「そう」

 

彼女が用意してくれたロシアンティーを口にしながら話に花を咲かせていると、唐突に話題を変えてきた。

街の人たちでさえ何故か知っていたのだ。バラライカさんが知っているのは当然だろうとあまり驚かなかった。

 

だから当たり障りのない返答をすれば、彼女は少しつまらなさそうな表情を浮かべた。

 

「私の“友人”を黙って連れて行ったんだもの。退屈させる真似は許さないわ」

 

「……友人?」

 

「あら、いけなかった?」

 

彼女の口から出た言葉に目を見開く。

バラライカさんは一瞬の間を空けることなく驚いている私に聞き返してきた。

戸惑いながらもなんとか自身の思っていることを素直に口に出す。

 

「いえ、その……まさか貴女がそう言ってくださるとは思ってなくて」

 

「こうして一緒に紅茶を飲んで他愛ない話をする間柄は友人でしょ。それとも、私と友人になるのは嫌かしら?」

 

「そんなことありませんよ。逆に私なんかでいいのかと思ってます」

 

「相変わらずの謙遜癖ね。アナタだからそう言ってるのよ」

 

彼女が本当に私の事を友人だと思っているのかは分からないが、全く嫌な思いはしていない。

私にとってバラライカさんは張さんと同じくらい信用している人物の一人。

そんな人から“友人”だと言われれば、例え嘘だとしても嬉しさを感じないわけがなかった。

 

「なら、これからは“Ms.バラライカとは友人”だと言ってもいいんですか?」

 

Да(勿論)。アナタならその立場を悪いように使わないでしょうから」

 

「当然ですよ。そんなことしたら折角の信頼関係も崩れますしね」

 

「よく分かってるじゃない」

 

バラライカさんはどことなく嬉しそうに微笑み、紅茶に口をつけた。

流れている穏やかな時間に自身も口の端が上がり、ジャムを口に含み温かな紅茶を喉に通す。

 

「では、ここからは友人として話をしましょうかキキョウ。――アナタ、とうとう張の愛人になったの?」

 

「ぶっ……!」

 

単刀直入過ぎる彼女の質問に、思わず紅茶を吹き出しそうになった。

彼女に口に含んでいたものを浴びせる訳にもいかないので何とか抑えたが、無理矢理飲み込んでしまったせいで噎せてしまう。

 

まさかバラライカさんからその質問が飛んでくるとは思わず、再び目を見開きながら言葉を返す。

 

「げほッ……な、なに言ってるんですか?」

 

「あ、ごめんなさい。愛人じゃなくて妾の方が合ってるかしら」

 

「そう言う事じゃなくて、なんでいきなりそんなこと」

 

「だって気になるじゃない。あの男ずっと分かりやすいアプローチをかけてたのにアナタ全く気付かなかったんだもの。そんなアナタが張の里帰りに付き合って、更にこの前のイエローフラッグでのエスコート。何もないって方がおかしいわよ」

 

「よく分からないですけど、なんかいきなり過ぎませんか?」

 

「アナタには回りくどく聞くよりこっちの方が話早いんだもの。……それで、どうなのかしら? 友人としても、ホテル・モスクワの頭としても気になるところなんだけど」

 

いや、レヴィやエダのように興味だけで聞いてくる方がまだ分かる。

だが、彼女は今“ホテル・モスクワの頭としても”と確かにそう言った。

何故その立場で気になるのかがどうしても分からない。

 

百歩譲って私が彼とそういう関係だったとしても、ホテル・モスクワには関係ないのでは。

 

「あのバラライカさん。何故、組織の頭としても聞きたがっているんです? 彼の女性関係も私の男性関係も知ったところで貴女に利益も不利益も生まれないのでは」

 

「張がそこらへんの女とっていうなら私も気にはしない。私にとって“アナタと張が”っていうところがポイントなのよ」

 

「え?」

 

「客観的に考えてみなさい。数年前に私と戦争をした男と、私との信頼を長年崩さなかった何の力もない一人の職人。そんな二人が親密な関係を築いたことをホテル・モスクワの頭目が知らなかった、なんてあまりにも滑稽だわ」

 

「……」

 

「まあ、本音を言うとそんなことどうでもいんだけど」

 

「え?」

 

「男に全く興味がないって感じだったアナタに男ができたなんて、そりゃ気になるじゃない。今回は私個人的に知りたいってだけだから、そんな気負わず話して頂戴な」

 

いや、あんな話聞かされた後で気負わずにって言われても……。

多分、ホテル・モスクワの頭目としての話は建前だったのだろう。その証拠に、目の前の彼女はどことなく期待しているように微笑んでいる。

 

まあ、レヴィやエダには話したので彼女に話さないのは今更だろう。

一呼吸間を空けた後、意を決しバラライカさんを見据えながら口を開く。

 

「私は張さんの愛人とか妾にはなってませんよ。パトロンと職人の関係はこれまで通りです」

 

「……」

 

「ですが、彼と何もなかったというのは嘘になります。彼に腕と命の他にも預けるものができた、とだけ」

 

「その預けるものっていうのは、もしかして体のこと?」

 

「……ご想像にお任せします」

 

「ふうん。ま、今のアナタの態度でなんとなく分かったわ」

 

私の言葉を聞いたバラライカさんは、にっこり、と効果音が付きそうなくらいの笑顔を浮かべた。

 

「でもそれってセフレみたいなものでしょう? そんなの娼婦と客の関係と変わらないじゃない。それでいいの?」

 

「彼も特定の女性一人に縛られるのは嫌でしょうし、いつでも切り捨てれる方が楽でいいんじゃないでしょうか」

 

「それは張の都合でしょう。アナタはどうなの」

 

「私も別にいいですよ。これ以上の関係を求めるのはおこがましいことです。それに、彼の隣に立てる女性は少なくとも私じゃありませんから」

 

「……そう」

 

思っていることを素直に言えば、彼女は一言そう言った後何か考え込んでしまった。

何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げていると、やがて「はあ」とため息を吐き微笑みを浮かべながら徐に口を開く。

 

「アナタがそう言うなら別にいいわ。でも、あの男に泣かされたらいつでも頼りなさいね。この街ではあの男と対等に渡り合えるのは私くらいだから」

 

「ありがとうございます。でもそこまで気にかけていただかなくてもいいんですよ?」

 

「友人が悪い男に痛い目遭わされるのは我慢ならないわよ」

 

「あはは……」

 

この街に“悪くない男”なんて滅多にいないでしょう。

心の中でそう呟きながら苦笑だけ返しておく。

 

「じゃあ、あの男とそこまで親密になってないのなら貴女に頼んでも問題なさそうね」

 

「え?」

 

「キキョウ。あの男との関係についても気になってたけど、今日の本題はまた別なの」

 

「本題?」

 

「そう」

 

バラライカさんは紅茶を置いた後、微笑みを崩すことなく頬杖をつく。

確かに、考えてみれば彼女が呼び出した理由が私と彼の関係を確認するためだけなはずがない。

わざわざ呼び出してまでしたかった話は何なのか、少し身構えながら彼女からの話を待つ。

 

「そんな身構えないでちょうだい。これはあくまでもキキョウ個人へのお願いよ」

 

「え……洋裁屋としてではなく、ですか?」

 

「ええ」

 

当然だが、彼女が私個人へお願いすることはこれまで一度もなかった。

バラライカさんが私に頼むことと言えば服の仕立てぐらいのもの。

洋裁屋ではない私にできることはあまりにも少ない。私にできることでバラライカさんができないことはないと言っても過言じゃない。

 

だからこそ、彼女からの頼みごとが何なのか気にならずにはいられない。

 

一体何を頼まれるのかと固唾を飲んでただ彼女からの話を待つ。

 

「実は仕事でしばらくこの街を離れることになってね。その仕事に私の付き添いとして一緒に来てほしいの」

 

「仕事って……私は洋裁しかできませんよ? 付き添ったところで何も」

 

「アナタだから頼みたいのよ。この街でも信頼しているアナタにね」

 

いや、信頼してくれているのは嬉しいのだが彼女の仕事で私が役に立てるとは到底思えない。

この街での彼女の働きぶりを見ればそんなこと誰でもわかるだろう。

 

「アナタに頼みたいのは、現地の人と私の通訳」

 

「通訳?」

 

「そう。仕事場はアナタの故郷」

 

 

 

バラライカさんの言葉に、思わず息が止まった。

 

 

 

 

――私の故郷。

 

 

 

 

つまり、彼女の仕事先は

 

 

 

「日本、ですか」

 

「アナタは日本人で私と信頼があるから適役でしょ」

 

「……」

 

「本当は私が出向くべきでもなかったはずなんだけど、日本支部がどうにも頼りなくてね。仕方なく私が派遣されることになったのよ」

 

「……」

 

「勿論謝礼はたっぷり出すわ。それと、面倒になる前にあの男には私からも話を通しておいてあげる」

 

「……」

 

「キキョウ、私のお願い聞いてくれる?」

 

「バラライカさん、その話はお断りさせていただきます」

 

一瞬の間を空けずに返ってきた私の言葉にバラライカさんの顔から微笑みが消えた。

彼女はきっと私なら断らないと思っていたのだろう。

 

 

 

だが、こればかりは流石に彼女のお願いでも聞けない。

 

 

 

「どうして?」

 

「貴女の付き添いが嫌とかではないんです。問題なのはその場所です」

 

「……日本で何があったのか知らないけど、アナタの身の安全は私が保証するわ」

 

「ごめんなさい。私はあの国にどうしても行けない……いえ、“行きたくない”んです。例え貴女の付き添いだとしてもあの国だけはダメなんです」

 

「香港へは行ったのに? ――アナタの中であの男と私じゃ信頼の差があるということかしら」

 

「そうじゃありません。あの時は“日本じゃなかったから”行ったんです。例え張さんであっても行先が日本だったなら同じように断っています」

 

「……」

 

あの国にはもう何もない。

帰れる場所も、親しい友人も、愛すべき家族も何もない。

 

もう二度とあの忌々しい国の土地は踏まない。

 

 

この街に来るときそう決めた。

 

 

「日本でなければいくらでも付き添います。中国だろうとロシアだろうとアメリカだろうとどこでも行きます。ですがその国だけはダメなんです」

 

「……」

 

「私の事を信頼して頼んできてくださったのは本当に嬉しかったです。ですがこれだけはどうしても譲れません」

 

「……」

 

「Ms.バラライカ。貴女のその頼みを聞きいれられないこと、どうかお許しください」

 

彼女のブルーグレーの瞳を見据えながら、はっきりと告げる。

 

しばらく沈黙が流れた後、先に口を開いたのは彼女の方だった。

 

「大分前にね、アナタの出自を念のため調べたことがあったのよ。でも、いくら探っても顔写真どころか本名さえ分からなかった。アナタの師であるハルタ・シゲトミについて調べてもその弟子については世界を一緒に回っていたことと数年前に死んでいる情報しか得られなかった。張に聞いても全く同じ成果。――いくらなんでも情報がなさすぎるのよ。まるで存在を消されたようにね」

 

「……」

 

「だから何かあるんじゃないかとは思ってたけど、まさかアナタがそこまで嫌がるなんてね」

 

「……」

 

「キキョウ、アナタ一体あの国で何をしでかしたの」

 

バラライカさんが淡々と話す内容を黙って聞いていると、彼女は鋭い視線を浴びせてきた。

その鋭利な視線から逸らすことなく、少しの間を空けてから返答する。

 

「詳しいことは言えません。ですが、友人として一つだけお教えします」

 

「……」

 

「私は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――意外ですな。彼女が貴女の頼みを断るとは」

 

本題を話し終えしばらく世間話に花を咲かせた後、キキョウはホテル・モスクワの事務所を去り、バラライカは残っていた紅茶を一人で飲んでいた。

無表情で紅茶を啜るバラライカの隣に立ったのは彼女の片腕であるボリス。

長年バラライカを支えてきた彼は、どことなく彼女が不満気にしていることを感じ取り、一瞬躊躇った後声をかけた。

ボリスの言葉にバラライカは残り僅かとなった紅茶を一気に飲み干し、淡々とした声音で話し出す。

 

「非常に残念だが仕方ない。……あの子は一度こうと決めたら誰の言葉であろうと動かない。例え私や張であってもな」

 

「一体なぜ断ったのやら」

 

「さあな。――だが、興味深いことは言われた」

 

「興味深いこと?」

 

その時、初めてバラライカの口の端が上がった。

ボリスは咄嗟に聞き返し、彼女の話の続きを待つ。

 

「ああ。軍曹、私が“あの国で一体何をしでかしたのか”と聞いた時、あの子は何て言ったと思う」

 

「は?」

 

「“一人の男を最後まで否定しただけ”だと。――これはあくまでも私の勘だが、その男があのイカれた女を作った張本人かもしれんな。その場合、国に帰れない理由がその男にあるとなればただの一般人ではまずない」

 

「調べますか」

 

「いや、放っておけ。これまで我々と張が動いたにも関わらず何の情報も得られなかった。だとすれば今度も成果は得られない。それに、そんなことしなくても既に私とあの子の間には信頼が築かれている。なら尚更そんな無駄な労力をかける必要はない」

 

「了解」

 

バラライカの言葉にボリスは異を唱えることなく返事をする。

キキョウと自身の上司の間に長年の付き合いで培われた信頼は厚いことをよく知っている。

 

現にこうしてバラライカが己の領域に踏み入れることを許し、尚且つ自身が紅茶でもてなす人間など彼女くらいのもの。

今更キキョウの出自を詳しく知ろうと、バラライカにとって何も意味を為さない。

知ったところで何かが変わる訳もないのだから。

 

「さて、あの子に断られたとあってはすぐ代わりを立てねばならん。……となると、やはり彼しかいないか」

 

「どうされますか」

 

「数少ない人材だ。代わりとしては最適だろう。――軍曹、至急連絡を取ってくれ」

 

「は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

――バラライカさんからの思いもよらない誘いを断った後。

私が日本へ行くつもりが全くないことを察したのか、渋々ではあったが最終的に引いてくれた。

「土産はSAKEがいいかしら?」と話題を変え、そこからは彼女から日本について聞かれながら楽しいひと時を過ごした。

彼女と友人だとまだはっきり明言はできないが、あの時は友人らしい会話ができた。と思う。

 

そんな彼女から後日「近々服の依頼に行かせる」と連絡が来た。

どうやら私の代わりに付き添いを頼んだ人物が見つかったようで、その人物の服を仕立ててほしいということだった。

 

連絡を貰ってからそう時間が経たない内に、服を着る本人が私の家に訪れた。

その人から過去に何回も依頼を受けたことがあった上に、仕立てる服がスーツというのもあって依頼をこなすには苦労しなかった。

 

そして依頼を受けて丁度二週間の今日。依頼品が完成したので後は本人に渡すのみとなった。

私が届けに行こうかと提案したのだが、「自分が取りに行く」と言われたので今は本人の到着を待っている。

 

コーヒーをいつでも出せるようもてなす準備をしていると、奥からドアをノックする音が響いた。

 

「キキョウさん、お待たせしました」

 

すぐさま聞こえてきた声に少し早足でドアに向かい躊躇いなく開ける。

 

「ようキキョウ」

 

「遅くなりすみません」

 

「そんなに待ってないから大丈夫だよ。どうぞ」

 

そこにいたのは、ラグーン商会の岡島とレヴィといういつもの二人組。

二人は私の促しに部屋の中へと入っていく。

 

「コーヒーあるけど飲む?」

 

「飲む」

 

「岡島は?」

 

「……いや、俺は結構です」

 

いつもなら岡島も飲むのだが、どうやら今日は気分じゃないらしい。

来客用の椅子を出しながら言葉を交わし、レヴィの注文通りコーヒーを出そうと動く。

 

自室でカップに注ぎ、ほろ苦い香りを漂わせながら待っている客人へ渡す。

 

 

「はい、レヴィ」

 

「サンキュ」

 

素直にお礼を言った後、レヴィはすぐさまコーヒーへ口をつける。

すぐさま傍に置いていた紙袋を黙って待っている岡島へ差し出す。

 

「はい岡島。これが君のスーツだよ」

 

「ありがとうございます」

 

「何か不備があったらすぐ言ってね。彼女の付き添いの前に直したいから」

 

「はい」

 

そう、バラライカさんが私の代わりに通訳として頼んだのは岡島だった。

確かに私と同じ日本人だし英語も堪能。代わりとしては最適な人材だろう。

 

ヤクザ者である彼女の仕事に付き合うからにはそれなりに身なりも気を遣わなければいけない。

流石にスーツ一式は持っていなかったようで、バラライカさんを通して私に依頼してきたのだ。

彼の依頼料は彼女が“必要経費”として出すらしく、後日渡してくれることになっている。

 

受け取った様を見て、今回も問題なく依頼をこなせたと微笑む。

だが、紙袋の中身ではなくこちらをじっと見続ける岡島の視線に、段々と口の端が下がっていく。

 

「あの岡島、一応中身を確認してほしいんだけど……」

 

「……ええ」

 

私の言葉に岡島はようやく紙袋の中身へと視線を移した。

どことなくいつもより表情が暗い気がするが、多分気のせいだろう。

そんな彼を見つつ、静かにコーヒーを飲んでいるレヴィへも声をかける。

 

「レヴィも岡島について行くんでしょ? 服はどうするの」

 

「向こうで適当に買う。お前のコレクションは全部夏物だからな」

 

「いや、でも一応バラライカさんと一緒の場に行くなら」

 

「アタシはあくまでもこいつの護衛としていくんだ。姐御はこいつの身なりさえなんとかなりゃそれでいい。それに、今からお前に頼んだって間に合うか分からねえだろ」

 

「……頑張ればなんとかなる、と思う」

 

「無理すんなよ。お前に無茶させたら姐御や旦那に何言われるか分かったもんじゃねえ」

 

レヴィはそう言ってずずっ、と再びコーヒーを啜った。

 

彼女も岡島の護衛として日本へ一緒に行くと聞いたのは数日前。

その時も服を仕立てようかと言ってみたのだが、「ロックの方を優先しろ」と彼女なりの気遣いでやんわりと断られた。

 

まさかレヴィまで一緒に行くとは思ってなかったのだが、きっと相棒である岡島の事が心配になったのだろう。

口では決してそんなことは言わないが、ここ最近のレヴィと岡島の関係を見ていればなんとなく分かる。

 

「……キキョウさん」

 

「確認した?」

 

「ええ、いつもありがとうございます」

 

「仕事だからね」

 

中身の確認が終わったのか、岡島が恐る恐る声をかけてきた。

短く言葉を交わした後、何故かまた岡島はこちらをずっと見つめてくる。

 

首を傾げていると一瞬だけ目を逸らした後、すぐさま真っすぐ瞳を向け再び口を開く。

 

「キキョウさん。一つ聞いてもいいですか」

 

「何?」

 

「何故、バラライカさんの頼みを断ったんですか」

 

その言葉を放った岡島の表情と声音はあまりにも真剣で少し驚いた。

レヴィも唐突のことで目を見開いていたが、何も言わずただ岡島を見つめている。

 

何故彼が気になっているかは知らないが、黙っているわけにもいかないので徐に言葉を返す。

 

「どうしたの、急に」

 

「バラライカさんから聞きました。最初は貴女に頼んだが断られたと。――断った時の言い訳も」

 

「……なら、もう理由は知ってるよね? 行きたくないから断った。ただそれだけだよ」

 

「何故行きたくないんですか」

 

「え?」

 

「何故、日本へ帰ろうとしないんです」

 

まあ彼女に隠しておいてほしいとは言わなかったし、岡島に伝わるのも仕方ない。

だが、ここまで質問攻めされるのは正直いい気分はしない。

 

彼の真っすぐな視線を真っ向から浴びながら口を開く。

 

「あの国が嫌いだから。それ以上もそれ以下もないよ。バラライカさんの頼みを断ったのは私の我儘ってだけで」

 

「世話になっているバラライカさんの頼みを貴女が好き嫌いで断るはずがないんだ。彼女や張さんと長年信頼を築いてきた貴女が“そんなことで”断るわけがない」

 

「……」

 

一体、彼は何が言いたいのだろうか。それにここまで聞いてくる理由も分からない。

真意が読めず、どこか緊張しているような面持ちの岡島をただ黙って見据える。

 

 

 

「――キキョウさん、俺と一緒に日本へ行きませんか」

 

「……え?」

 

「お、おいロック!?」

 

岡島が発した言葉に耳を疑った。

 

 

 

今、彼は“一緒に行こう”とそう言ったのか?

 

 

 

何故、急にそんなことを。

 

 

あまりにも唐突の事で頭の思考が停止した。

レヴィも同じようで、驚いたように岡島へ声をかける。

 

「ロック、勝手なこと言うんじゃねえ。第一こいつは姉御の誘いを断ってんだ。お前の誘いに乗るなんてこと」

 

「キキョウさん、貴女はとても優しい人間だ。そんな貴女はこの街にとても似合わない」

 

「……は?」

 

「お、おい!」

 

レヴィはどこか焦ったような声音を出しながら勢いよく立ち上がり、岡島の傍へと近寄った。岡島は彼女の制止を聞かず、肩を掴もうとする手を跳ねのける。

 

私は彼が発している言葉が理解できず目を見開くことしかできない。

そんな何もできない私に彼はずかずかと目の前へと歩み寄ってくる。

 

「貴女は、日本へ帰るべきです。貴女の帰りを待ってる人がきっといるはずだ」

 

「……」

 

「キキョウさん、どうか一緒に」

 

「岡島」

 

彼の言葉を遮り、名を呼び掛けた。

そこでようやく意味が分からない言葉の羅列が止まる。

思ったより低い声音になってしまったが、気にすることなく言葉を続ける。

 

「岡島。君が何を考えてそんなことを言ってるのか知らないけど、改めて言っておくね。――私は日本へ戻れないし、戻りたくないの」

 

「……なぜ」

 

「そこまで言う必要はないでしょ。とにかく、私には日本に戻る必要も理由もないの」

 

あの国に私の帰りを待ってる人間なんていない。

 

ただ一人恩人はいるが、その人からも“二度と会わないことを祈る”と言われたのだ。

 

 

なら尚更、戻る理由はこれっぽちもない。

例え一時的な帰国だとしても、一瞬でもあの国へ立ち入ることはしたくない。

 

「私はこの街にいたい。だから帰らない」

 

「――それは、あの男がいるからですか?」

 

「え?」

 

「あのマフィアがここにいるから……この街にいたいと、言ってるんですか」

 

岡島は眉間に皺を寄せて、どこか苛立ちを含んだ声音で静かにそう言った。

岡島が言った“あのマフィア”というのは多分張さんだろう。

 

何故ここで彼が出てくるのか分からないが、あの人以外に思い当たる人物がない。

 

一体何を勘違いしているのやら。

ため息を吐きたくなる衝動を抑え、彼にはっきりと告げる。

 

「張さんは何も関係ない。張さんがもしこの街からいなくなったとしても、私はここに居続ける」

 

「え……」

 

「ここが悪徳の都である限り、私はこの街を離れない」

 

確かに、張さんのお陰で私はこの街で生きていけている。

だが私の根本には後悔せずに。ただの洋裁屋として死ねればそれでいいという思いがある。

 

――それが叶うこの街を離れるわけにはいかない。離れたくない。

 

「……とりあえず、それだけ。他に言う事は何もないよ」

 

「で、ですが」

 

「ロック、その辺にしろ。……すまねえキキョウ」

 

「いいよ。今日は岡島の調子がよくなかったってことにしとく」

 

「そうしてくれるとありがてえ」

 

まだ何か言いたげな岡島の言葉をレヴィが真剣な声音と表情で遮ってきた。

これ以上何か言われるのは流石に遠慮したいところだったので本当にありがたい。

 

しつこく聞かれていい気はしなかったが、普段仲良くさせてもらっている仲だ。

今回はあまり責めるようなことはしないでおこう。

 

「ほらロック、帰るぞ」

 

「……」

 

「ロック」

 

 

レヴィの呼びかけに岡島は納得していない表情だったが、徐に距離を空け口を開く。

 

 

「キキョウさん。その、俺……」

 

「何があったのか知らないけど、こういうのは勘弁してほしいかな」

 

「……すみません」

 

「レヴィに免じて今回は大目に見てあげる。レヴィもあまり怒らないであげてね」

 

「なんでだよ」

 

「そういう気分って誰でもあるでしょ」

 

「あたっていい相手がいるだろうが。ったく」

 

そう言うレヴィは苛々している時に割と誰彼構わずぶつけていると思うのだが、口にするのはやめておこう。

いつもの調子で喋っていれば、どことなく緊張を帯びていた雰囲気が和らいでいく。

 

「ロック、帰るぞ」

 

「ああ」

 

「キキョウ、土産楽しみにしてろよ」

 

「期待して待っとく。二人とも気を付けてね」

 

「おう」

 

「ええ」

 

そう言葉をかければ二人とも短く答えてくれた。

二人はそのままドアの方へと向かい、その後は何も言わず外へと出て行った。

ドアが閉まる前に岡島がこちらを見た気がしたが、一瞬の事だったので気にかける間がなかった。

 

 

二人が居なくなり、静まり返る部屋の中で先程岡島に言われた言葉を思い返す。

 

 

 

“貴女はこの街に似合わない”

 

 

 

まさか、そんなことを言われるとは。

 

 

よりにもよって、“あの”岡島に。

 

 

 

……いや、彼だからこそそう言ってきたのかもしれない。

 

私の事をよく知りもしない、付き合いもそこまで長くない彼だからこそ言える台詞なのだろう。

 

私からしてみれば、彼の方がこの街に似合わない。

 

そう思えば少し苛立ちにも似た感情が湧き上がるが、どうこう言ったところで何の意味もない。

ため息を吐き、依頼料についてバラライカさんと話そうと携帯を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「おい、ロック」

 

「どうしたレヴィ」

 

「どうしたもこうしたもねえ。お前なんのつもりだ」

 

「何のことだ」

 

「こういう時誤魔化されんのは嫌いだ。――お前、なんでキキョウにあんなこと言ったんだ」

 

キキョウの家を出た後、ロックとレヴィはラグーン商会事務所までの道をしばらく無言で歩いていた。

レヴィから時折向けられる視線に気づいてはいたが、ロックは言葉を交わす気分にならなかった。何度も目が合っているにもかかわらず口を開かない様子にレヴィがとうとう痺れを切らし、浮かない表情をしているロックへと真剣な声音で話しかけた。

 

“なんのつもりか”と問えば、彼がすっとぼけるような真似をしたせいでレヴィの苛立ちは増していく。

それでも彼女がまだロックの胸倉を掴んでいないのは、キキョウの“あまり怒らないで”という言葉があるからである。

 

忘れられない多大な恩が彼女にあるが、本人から恩着せがましい態度を取られたことは一度もない。

そんなキキョウは、レヴィにとって今では仲間以外に心を許せる数少ない一人。

だからこそ、キキョウが詮索されるのを黙って見ていられなかった。

詮索されるのが嫌いなはずなのに、ロックからしつこく聞かれたにもかかわらず、自身に“怒るな”と言った。

 

 

それを聞かずロックを殴ってしまえば彼女の気遣いを無駄にすることになる。

 

 

そんなことはしたくないと、今“だけ”拳を振りかぶるのを我慢する。

 

「ヘイロック。お前が何を考えてんのかは知らねえ。だけどな、勝手な真似すんのは許さねえぞ」

 

「……」

 

「相手がキキョウだったからよかった。甘ちゃんで、銃もロクに撃てないアイツだったからあんなことしてもこうして生きてる。――けどなロック」

 

瞬間ギロ、と怒気を孕んだ鋭い視線を向ける。

その事実にロックは息が一瞬止まり、背筋が凍るのを感じた。

 

「今度アタシの前であんなことしてみろ。今度は説教だけじゃすまさねえからな」

 

「……ああ、悪かった」

 

特に言い訳するでもなく素直に謝罪するロックの姿勢に一つ息を吐いた。

煙草を取り出しながら、気を取り直したようにいつもの雰囲気で再び話しかける。

 

「で、なんでいきなりあんなこと言ったんだ。まさか、本気でアイツがお前の誘いには乗ると思ってたのか?」

 

「別に……ただ」

 

「ただ?」

 

「あの人がいるべきなのはここじゃない。そう思ったんだ」

 

「……」

 

浮かない表情のままロックが放った言葉に、レヴィは一瞬目を見開いた。

そしてすぐさま無表情に切り替え、煙を肺に入れる。

 

彼がどうしてそう思うのか全く分からない訳ではない。

血の匂いを漂わておらず、一人でも生きていけるであろう職人の腕とあの人当たりの良さ。

かつて、自身もキキョウがこの街に留まる意味が分からなかったし、馴染めないだろうと思っていた。

 

 

 

だが、その考えは次第に無くなった。

 

 

 

自分と自分にとって利益のある人間が生きていればそれでいい。

自分さえよければなんでもいい。

 

 

あの女は心の底からそう思っている。

 

 

長い付き合いの中で、この街の人間らしい淡白さが彼女にもあると知った。

そして何より、自分の利益のためなら自分の命を賭けることさえ厭わないイカレ具合。

それが土壇場だけならいざ知らず、常にそう思っているのは異常としか思えない。

だからこそ、キキョウという洋裁屋はこのイカれた街に馴染んでいる。

 

彼女のこと知れば知るほど、表では生きづらかったということが分かる。

 

 

 

――そう思えないロックは、まだまだ彼女の本質に触れていないのだ。

 

 

 

「ま、だからと言って日本に一緒についてこいっていうのはちと違うと思うけどな」

 

「……」

 

「とりあえず、このことはバラライカの姉御には言うなよ。面倒は御免だ」

 

「ああ」

 

淡々と言葉を交わしながら、ひたすら帰路を辿る。

レヴィははあ、とため息と共に煙を吐き出し、短くなった煙草を捨てた。

 









やっぱりキキョウさんは男女関係についてピュアというか知らないことが多すぎるので、ああいう反応になっちゃうっていう。



さて、いよいよ次話から日本編になります。
ですが、話の通りキキョウさんは日本には行きません。

なのでしばらく出番はないものと思ってください(主人公なのに)。

代わり(?)に日本編では、キキョウさんと関りが深い人物が出ます。
そこでキキョウさんの過去についても今まで以上に曝け出していく感じになるかと。


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43 雪が降る街に悪党が集う

今回より日本編です。


『――どうですか、そちらは』

 

「ロシア程じゃないけど少し寒いわね。そっちの気候に慣れてしまったからかしら」

 

『今の時期だと雪が降りますから。やはり冬用のスーツを近場で買った方が』

 

「安物を着るのは嫌よ。それにこれくらいなら平気だわ」

 

『風邪ひきますよ』

 

「私はそんな軟じゃないわよ」

 

多くの人が往来する交差点。しんしんと雪が舞い降る中、行く人々が口から白い息を吐きながら早足で歩く。

そんな混雑した風景を、バラライカは広い道路を走る白い高級車の中で眺めながら通話している。

 

電話の相手は、悪徳の都にいる友人と称せる人物である。

 

 

「そっちはどう? あの男は上手くやってるかしら」

 

『私は外にあまり出ないので詳しくは分かりませんが、貴女が去ってから一層銃声が響くようになりました。彼は“馬鹿どものせいでゆっくり酒が飲めない”と嘆いてましたよ』

 

「ま、彼には頑張ってもらわないとね。私もなるべく早く帰れるよう努力する、と伝えといて頂戴」

 

『話す機会があれば伝えておきます』

 

「お願いね。あ、あとお土産は何がいいかちゃんと考えときなさいね」

 

『私としては、貴女が早く帰ってくれることが何よりの土産ですよ』

 

「嬉しいこと言ってくれるじゃない。……残念だけどそろそろ切らなきゃ。キキョウ、くれぐれも気をつけなさいね」

 

『ええ、貴女も』

 

最後にそう言葉を交わし、バラライカは携帯をポケットへ入れる。

会話の一部始終を聞いていたボリスは彼女へ言葉をかけようと口を開く。

 

「やはり向こうは馬鹿どもが暴れだしましたか」

 

「こうも早くお祭り騒ぎとは節操のない連中だ。まあ、しばらくは張に任せるしかない」

 

先の通話は友人との気軽な話に見えて、あの街の情勢を少しでも詳しく知るための情報収集でもあった。

ロアナプラに置いてきたホテル・モスクワの仲間からの報告もあるが、街に住む一般的な人物からの話はよりリアルなもの。

普段は自分たちの力に怯え大人しくしている愚か者共がこの機会を逃すわけがないと思っていたが、たった数時間もしない内にこの有様。

 

呆れたように一つ息を吐き、懐から葉巻を取り出すとボリスが手慣れたように火を点ける。

煙を吸いながら窓の外を眺めるバラライカの様子に、ボリスは思ったことを隠さず口にする。

 

「心配ですか、彼女が」

 

「いや、あの子の事だ。あまり外を出歩かない分安全だろう。だが張があの子にかまけていられない以上、何かがあった時守る人間がいない。レヴィもこっちに連れてきたことだしな」

 

「珍しいですな、貴女がそこまで気にかけるのは。あの街で唯一のご友人だから、ですかな」

 

「からかうな軍曹」

 

あの街で自身の友人を託せる人間は一人しかいない。

だが、その人物が忙しなく動いている間は彼女の身を守るなど期待できない。

 

バラライカにとってキキョウは遊撃隊の他で数少ない信頼が厚い友。決して人間としての情をなくした訳ではない彼女にとって、その友人をより一層無法地帯と成り果てた街に置いておくのは少しばかり気がかりであった。

敵とみなした者には一切の躊躇なく叩きのめす冷酷非情な彼女が、何の武力もない女性をここまで気にかけることがボリスにとってとても興味が湧くことだった。

 

「着きました、大尉」

 

「……ああ」

 

運転手が車を停めバラライカへと声をかけると凛とした声音が響く。

窓の外に視線を向けライトが照らされている入り口を見た後、再び携帯を手に取りとある番号へとかける。

相手が電話に出ると、ニヤリと口元を歪めロシア語で話し出す。

 

Товарищи-работа(同志諸君、仕事だ)――Наслаждайся этим войной в (平和な島国での)мирном островном государстве(戦争を楽しもう)

 

戦争狂らしくそう放つ彼女が足を運んだ地は――日本。

灰色の冬の空に悪徳の都からの刺客が舞い降りた。

東京の冬に降るは雪のみか。はたまたその雪に血が混じるのか。

 

それは後に、彼女に関わった者たちは全員知ることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――今日が初顔合わせですな。遠いところから遥々よう来てくださった」

 

こちらこそ歓迎いただきありがとうございます

 

「改めて自己紹介といきましょか。儂は鷲峰組の若頭を務めとります坂東言います」

 

よろしく坂東さん。私の事はバラライカとお呼びください

 

東京、新宿。歌舞伎町にある一つの煌びやかなバー。

テーブルを囲って座るのはロシアンマフィア、ホテル・モスクワの頭目の一人、バラライカと彼女の仲間。隣には通訳として連れてこられたロック。

そして彼女たちと向かい合っているのは、関東の極道が名を連ねる和平会の一角。鷲峰組の組員達。

 

 

一流の洋裁屋に仕立ててもらった高級スーツに身を包み、ロックは緊張した面持ちで自身の仕事――通訳に臨んでいた。

 

 

お話はラプチェフ氏より伺っております。我々は永らく東京に本拠を築きたいと思っておりましたが動きが取れず、どうしたものかと頭を悩ませておりました。そこに貴方がたにお力添えいただけると聞き、大頭目を始めホテル・モスクワ一同ご協力に感謝しております

 

「おたくらとウチが手を組めば怖いものなしだ。話の通り、関東和平会はどうにも外人を閉め出したがっておりましてな。ラプチェフさんもそうやって追い出された口だ。そこでウチが助け舟出そうと思いましてね」

 

バラライカは口の端を上げたままブルーグレーの瞳で坂東を見据えた。

 

坂東さん、貴方がた鷲峰組も関東和平会に名を連ねている。我々に手を貸すのはあまり喜ばれることではないのでは

 

「おたくの懸念はご尤もだ。……だが、今となっちゃそんなこと気にしてられねえ状況でな」

 

と、言いますと?

 

鷲峰組(儂ら)はこれまで関東和平会に随分尽くしてきたつもりだ。親の香砂会にも大層な額の上納金を入れてるにも拘らず、未だ義理場で末席。――こんなんじゃあ義理を通すのも限度がある」

 

なるほど

 

坂東はどこか怒気を孕ませ言い放った。

バラライカは微笑を崩さず、長い脚を組み替える。

 

貴方がたは我々の力を。我々は貴方がたの力を欲している。利害は一致しているというわけです。この街に新たな火を灯すためにも尽力いたしましょう

 

「話が早えな。おたくらで香砂会を抑えてくれりゃ和平会も嫌とは言えねえ」

 

新たな葉巻を咥え、ボリスが火を点けた。

煙を優雅に吐き出すバラライカに、坂東は一呼吸間を空けて話を続ける。

 

「ところでおたくら、ロシアの連中の中でも一等鉄火場に慣れてるらしいが、儂らは実際のところどんなもんか知らん」

 

確かに、お互いの力を測るのは仕事において重要な事。今日はそのためにも来たのです

 

 

途端、不敵な笑みを浮かべバラライカは言葉を紡ぐ。

 

 

我々の力はこの国のそれと比べ物にはなりません。我々は軍隊であり邪魔するものは容赦なく殲滅する。――それを今から、お見せしましょう

 

 

視線を交わし差し出されたバラライカの手へすぐさまボリスが携帯電話を渡す。

流れるように番号を押し通話を始める。

 

「私だ。配置についているか?」

 

『はい大尉。いつでも動けます』

 

「よろしい。始めろ」

 

ロシア語で短く言葉を交わし、通話を終える。

訝し気な表情を浮かべている坂東を見ながら、ボリスの手へと携帯電話を戻す。

 

 

途端、間を空けずに爆発音と悲鳴が外から響く。

 

 

唐突の出来事に坂東を始め鷲峰組の組員達は驚愕し、戸惑っている様子を見せる。

一切表情を崩さないバラライカに気づき、坂東は気を取り直しすぐさま低い声音で言葉を発する。

 

「……あんたらか」

 

ええ。手始めに、香砂会の持つクラブを一軒吹き飛ばしました

 

「ふ、吹っ飛ばしたあ!?」

 

バラライカから発せられた言葉に坂東の隣に座っていたパンチパーマの男が声を上げる。

日本は世界一平和な国と呼ばれ、その呼び名は伊達ではない。

 

そんな国で建物を爆破するという行為は、あまりにも荒事が過ぎる。

 

 

最初からそんなことをしでかすとは予想しておらず、余裕そうな笑みを浮かべている彼女に向かって男は大声で怒鳴る。

 

 

「馬鹿野郎! テメェ何考えて」

 

拳銃で威嚇などお話になりません。そんなことそこら辺にいる子供に銃を渡すだけでもできますよ。初手から威力を見せつけ、相手を怯ます。これが我々の示威行動です

 

 

日本での戦争が始まったという現状にバラライカは口元を歪め、心底愉しそうな笑顔を浮かべた。その笑顔に、坂東は背筋に冷や汗が伝ったのを感じる。

 

 

先程申し上げた通り、我々は邪魔するものは容赦なく殲滅する

 

「……」

 

どうかご安心を、Mr.坂東。我々が協力すると約束したからには、貴方がたの障害も必ずや排除してみせましょう

 

「……は、はは」

 

その言葉に、他の組員達は息を飲むしかなかった。

 

 

一人、坂東は息を洩らしなんとか笑みを浮かべる。

 

 

 

 

「いいじゃねえか。喧嘩はじめにゃ一等の大花火だ。気に入ったぜ、バラライカさんよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

バラライカさんと鷲峰組の会合が終わると同時に俺の役目も終了した。

 

この後俺の出番はないため、ホテル・モスクワとは別行動となる。

今は護衛として着いてきてくれたレヴィとタクシーでホテルへ向かっている。

 

 

「ヤクザ共の顔見たか? 全員目ん玉剥きだして驚いてたな」

 

「そりゃいきなり“店爆破しました”って言われたら誰だってそうなるよ。久々に戻ったってのにあんまりだ」

 

「姐御は戦争マニアだからな。向こうからど派手にやれって言われたらビルの一つや二つ喜んで吹っ飛ばす。ここ最近ロアナプラじゃ大したドンパチなかった分大はしゃぎだ」

 

「どうかしてるよ」

 

あの街に一年近くいたおかげか、鷲峰組ほど取り乱すことはなかったが流石に驚いた。

まさか自身のテリトリーではない国でもロアナプラと変わらない行動をとるとは思わなかった。自身はそんな彼女の付き添いという事実に思わずため息が出る。

 

「姐御がイカレてんのは今更だろ。……と?」

 

「どうしたレヴィ」

 

「ロック、あれはなんだ」

 

「……ああ、縁日だ。年始には色んな露店が出て賑わうんだよ」

 

レヴィが指さす窓の外には、数々の店が並び多くの人が集まっている神社。

自身は見慣れていて“懐かしいな”という感想しか浮かばないが、レヴィは初めて見る光景に興味が湧いたようだ。

 

「へえ、カーニバルみたいなもんか。面白そうだ」

 

「覗いてみるか?」

 

「おう。Yo’driver, stop here.(運ちゃん、停めてくれ)

 

レヴィはどことなく楽しそうな声音を出してタクシーを停めた。

 

神社の目の前で停まるとレヴィはすぐさまタクシーから降りる。

運転手に金を渡し、物珍しそうに周りを見渡している彼女に追いつく。

 

「観覧車がねえな」

 

「日本じゃそういうのはないんだよ」

 

「ふうん。……お、ロック。あれはなんだ?」

 

「たこ焼きだね。買ってこようか?」

 

「たこ!? この国はあのゲテモンをカーニバルでも食ってんのかよ!」

 

「割といけるぞ。俺は買ってくるけど」

 

「アタシはいらねえ。とっとと行ってこい」

 

「ああ、すぐ戻ってくるよ」

 

“ありえねえ”という表情を見せるレヴィに苦笑しながら香ばしい匂いを漂わせている屋台へ歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――これで三個目。は、チョロいもんだぜ」

 

二挺拳銃(トゥーハンド)の面目躍如ってところだな」

 

「あたりめえだろ。銃を持たせりゃ天下無双のレヴェッカ姉さんにとって、こんなゲームはイージーモードだ、ぜ」

 

さっきまで物珍しそうに周りを見るだけだった彼女だが、少しこの雰囲気に慣れてきたのか今では得意満面に射的を楽しんでいる。

始めてから一回も的を外していないのは、流石彼女の腕前と言ったところか。

玩具であっても銃となればレヴィの独壇場だ。

 

なんだかんだ楽しめている雰囲気に口の端を上げさっき買った出来立てのたこ焼きを頬張る。

 

「あーあ、残念だ。カトラスがありゃ数秒で店仕舞いできるってのに。やっぱあれが手元にねえってのは気合が入らねえ」

 

「しょうがないだろ。銃をこっちに持ち込むのは特別な許可が必要なんだよ」

 

「分かってるよ。まあ、ここは世界一ドンパチがやりにくい。警察も賄賂が通じねえし、豚箱に放り込まれたらことだ」

 

「ああ」

 

そう。レヴィの言う通りここは平和だ。

自分が生まれ育った平和の国。

普通に暮らしていれば争いごとに巻き込まれず、血を見ることなく一生を終えることができる。

 

 

あの街とは、何もかもが違う。

 

 

血と硝煙の匂いが常に漂っている悪徳の都に慣れてしまったからか、ここが知らない場所のように思えてしまう。

 

 

それと同時に、もう一つの疑念も湧き上がる。

 

 

 

――自身と同じでこの国で育ったあの人は、どうして帰りたがらないのか。

 

バラライカさんからの誘いを断ったと聞いた時、驚きを隠せなかった。

 

居てもたっても居られず、“一緒に帰ろう”と誘った。

それでも尚同じ言い訳を繰り返す彼女に、つい“張さんがいるからなのか”と口走った。

 

 

何故あんなことを言ってしまったのか自分でも分からない。

 

あの街の住民なら、あの時点で怒ってもおかしくない。

感情任せに詰め寄ったにも拘わらず、彼女は大目に見てあげると。“そういう時もある”と言って許してくれた。

 

そんな優しい彼女に、もっと生きるのにふさわしい場所があるのではないのか。

マフィアや荒くれ者たちと関わらずとも、生きていける場所が。

 

 

ロアナプラでは珍しく、悪に染まりきってない彼女はこの場所の方が似合っている。

 

 

この国に帰ってから、より一層そう思えて仕方ない。

 

 

「――ク。おい、ロック!」

 

「……え、何?」

 

「お前、さっきから話しかけても全然反応しねえからどうしたもんかと思ったぜ。何か考え事か」

 

「いや」

 

「たく、そう浮かない顔すんな。……またキキョウの事か?」

 

「え」

 

「図星か」

 

「……ごめん」

 

「謝ることじゃねえよ」

 

レヴィから何回か声をかけられてたらしいが、全然気づかなかった。

はあ、と一つ息を吐くと今度は少し遠慮がちに話し始める。

 

「アイツの事もいいけどよ、お前はどうなんだ」

 

「どうって、何が?」

 

「何がじゃねえよ。――ここはお前の国だろうが」

 

「……」

 

その一言で、レヴィが何を言いたいのか察する。

 

「お前だって誰か……なんかいるだろ。家族とか、友人とか」

 

「……まあ、な」

 

「だったら連絡くらい入れとけ。親も心配くらいはしてんだろ」

 

 

家族、か。

その単語に思わず苦笑を洩らす。

 

 

「俺さ、家族仲が良くなかったんだ」

 

「……」

 

「兄貴は出来が良くて省庁に入れたけど、俺は大学を一浪して普通の会社員だ。親はそんな兄貴と俺を比べることなんかしょっちゅうで、期待されていないってのは分かってたよ」

 

「……」

 

「だから、案外どうでもいいのかもな」

 

「それでも会っておくべきだぜ。まだ“後ろに手が回ってねえ”今しかねえんだ。こんなことやってたら、いずれ会えなくなる」

 

間髪入れず帰ってきた言葉に一瞬目を見開く。

レヴィは無表情で、新しい弾を先端に入れながら話を続ける。

 

「あたいらから見たら普通の家だ。帰る価値はある。盗みも殺しもせず、ここまで来てんだから」

 

「……それは、キキョウさんだってそうだろ」

 

「今はお前の話をしてんだロック。アイツはアイツ、お前はお前だ」

 

 

また一つ、射的の的が落ちる。

 

 

「ま、お前がどうしたいかはお前が決めることだ。ただ顔ぐれえ見てこいってだけの話さ」

 

「……」

 

そう話すレヴィの表情は、どことなく寂しさを漂わせていて何も言えなくなった。

 

「――よし、あれ落とせば最高得点だ。よっと」

 

気を取り直したように、レヴィは再び的に弾を当てた。

だが落ちることはなく、その事実にレヴィは眉根を寄せる。

 

「あー、重り突っ込んでやがる。くそ」

 

「あ、おい!」

 

「これで一等賞だな? ロック!」

 

「えー……あのう、一等賞の得点に達したから景品くれって」

 

「駄目駄目。お客さん、先で小突いたろ。ズルはあかん」

 

What did he say?(何だって?)

 

Says you cheated. Claims you knocked it over the gun.(無効だってさ 突いて落としただろって)

 

What the fuck!?(なんだと)

 

店主の言葉を伝えると、レヴィは持ち前の短気さで怒鳴り始めた。

俺は慌てて身を乗り出す彼女を抑える。

 

ああもう、こんなところで大事になんかしたくないんだけど。

 

レヴィ、落ち着けって!

 

言いがかりつけてんじゃねえよおっさん! こんな重り入れといてよ!

 

「な、なんじゃあコラァ! 何言ってんか分からんわ! ここは日本だ! 日本語で喋れ!」

 

んだとコラ!? 今悪口言っただろ!! 大体こんなもんこんな値段でとる代物かよ! ぼったくりにも程があらあ!

 

やめろレヴィ! よせってこんなところで!

 

Oops!(おっと)

 

必死に暴れる彼女を抑えていると後ろで誰かとぶつかってしまう。

咄嗟に振り返りながらも彼女から離れることはせず、口だけで謝罪を述べる。

 

「す、すみません!」

 

あー、いいんだ。兄さんも大変だな

 

「本当にすみませ……おいレヴィ暴れるなよ!

 

離せロック! 一回ぶん殴らなきゃ気が済まねえ!

 

彼女の怒りは収まらないらしく、どんな言葉をかけても全然引いてくれない。

周りの人の目線が痛い……。

 

どうにかこの場を収める方法はないかと頭を巡らせる。

 

 

 

「――お客さん」

 

 

 

その時、低い声音が聞こえてきた。

声の方を見ると、サングラスをかけロングコートを羽織った高身長の男。その男の隣にはセーラー服を着た少女が立っていた。

 

「松の内じゃねえですか。楽しくやりましょうや」

 

「銀さん……」

 

「どうか、悋気はお収めなすってくださいよ」

 

「――What the fuck are you?(なんだてめえ)

 

レヴィは鋭い視線で男の方を見ながら怒気を孕んだ声を出した。

 

ああもう、今日は散々だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――やれやれ、祭りの日にあんな騒ぎに巻き込まれるとは。幸先悪いな」

 

神社の鳥居を出た少し先。

人の往来が激しい街道を金髪に碧眼の男が一人ぼやきながら歩いていた。

ヨーロッパ系の顔立ちをしたその男は、ため息とともに白い息を吐き出す。

すぐさま賑わっている表通りとは別の雰囲気を漂わせている小さな道へと入り、革靴の音を高らかに鳴らしながら進む。

 

人の賑わいを一切感じさせない寂れた酒場の前に立ち、すぐさまドアを開け中へと入る。

 

「よう、いつもより遅かったじゃねえの。なに、ナンパとかしてたのか?」

 

「おや、今日は貴方の方が早かったようで。少し騒ぎに巻き込まれましてね」

 

「そいつは災難だったな」

 

一人のバーテンダーが営んでいるその小さな酒場のカウンターに座っている人物は、軽い口調で男を出迎えた。

髪を金に染め、耳だけでなく鼻や眉にもピアスを開けており、派手な色のスーツを着た軽薄そうな男はニヤニヤとした表情を浮かべている。

男が隣に座り、すぐさま表情を崩さず再び軽い口調で話しかける。

 

「それにしても、相変わらずこんなボロい店を選ぶんだな。俺の店の方が楽しくお喋りできると思うぜ? 女も酒もあるんだし」

 

「商売柄人目につく場所は避けたいのです。常に慎重に行動するのが私のモットーでもありますから。どうかお付き合いください」

 

「堅いねえ。外人にしちゃ堅すぎやしねえか?」

 

「用心深いと言ってください。貴方の店にはこの国での仕事を終わらせた暁にお伺いさせていただきますよ」

 

「仕事終わりの一杯ってか。そん時や上等な酒と女用意してやるよ」

 

「楽しみにしておりますよ、Mr.チャカ」

 

 

チャカと呼ばれた軽薄そうな男は、既に頼んでいた酒を上機嫌に飲み干す。

グラスの中が空になったのを見計らい、今度は自らチャカへ言葉をかける。

 

 

「チャカさん、それでそちらの調子はいかがですか。私の商品は役に立っておりますか?」

 

「それがもうバカ売れでよ! アンタのブツが一番ぶっ飛べるって今じゃ大人気だぜ! おかげでボロ儲けだ!!」

 

男の質問にチャカは興奮しながら答えた。

その様子に男もまた口端を上げて機嫌がよさそうな声音を出す。

 

「それはよかった。まだ新宿のみに?」

 

「んな勿体ねえことするかよ。今は六本木や渋谷にも手を回してる」

 

「他のヤクザ達には?」

 

「まだ俺達が出処だってのはバレてねえ」

 

「貴方が所属してる鷲峰組には?」

 

「今はなんかバタバタしてっから気にすることねえよ。なんでもロシア人と手を組んで派手なパーティ開くらしいぜ」

 

「……ロシア人?」

 

 

 

英語でテンポよく話を進めていると、男はチャカの言葉に反応する。

 

 

「さっきここらでビルが爆破されたって大騒ぎだったろ。あれウチの若頭がロシア人呼んで起こしたらしいぞ」

 

「何故鷲峰組がロシア人と?」

 

「さあな。時代遅れのおっさん共の考えることは知らねえが、吉田の話じゃ和平会に一発ぶちかまそうって感じだったかなあ」

 

「……なるほど、そう言う事ですか。利害が一致している者同士、徒党を組んで事を為す。結局、考えることは皆一緒ということですね」

 

「ま、俺達はただ金儲けできりゃそれでいい。そうだろ、ジェイクさんよ」

 

「ええ。私達は私達の利益の事だけ考えておきましょう」

 

そう言ってジェイクと呼ばれた男は、ポケットからCamelと書かれた箱から煙草を取り出す。口に咥えると、チャカが自身のライターを差し出し先端に火を点ける。

 

 

 

煙を吐き出しお互い目線を合わせると、同時にニヤリと口元を歪めた。

 

 

 



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44 雪が降る街に悪党が集う 弐

※蔑称あり


今話は少し短めです。








高級ホテルの食事スペース。

そこにはロシアンティーを飲んでいるバラライカと新聞を手にしているボリス。そして彼女たちと同じホテル・モスクワの日本支部長、ヴァシリ・ラプチェフがテーブルを囲んでいた。

朝から厚いステーキを頬張るラプチェフを横目に、二人は軽く言葉を交わす。

 

「ロシアンティーなら別に用意させましょうか」

 

「いや、手間がかかるのはご免だ」

 

「ではトーストは」

 

「食べたいか、軍曹」

 

「いえ、自分は結構で」

 

「朝食を抜くのは体に良くないぞ軍曹」

 

自分の部下の体調を気遣ったところで、バラライカは本題を口にする。

 

「さて、軍曹。状況の推移を」

 

「は。昨夜から攻撃対象を地下賭博場へ変更。二件を壊滅、損害無し。痕跡は消毒済みであります」

 

完璧(スパシーバ)だ、軍曹。別動班は?」

 

「〇二三〇時に香砂会系組事務所を襲撃、殺害、確認戦果十二――損耗なし、負傷なし。〇二三七時までに総員、敵地より撤収」

 

「第三勢力の介入は」

 

「〇三〇五時より各作戦区において封鎖を開始。現刻に至るも、非常警戒体制を継続中です。警察無線の詳しい内容は鷲峰組組員に記述させました。詳細はロックの翻訳を待たねばなりませんが」

 

「情報の確度は生死を分ける。迅速に翻訳させろ」

 

一瞬の間もなく交わされる会話は、朝食の優雅な一時にはあまりにも物騒すぎるもの。

だが、ロシア語で交わされているおかげでその内容に気づく者は彼女たち以外一人としていない。

ラプチェフは彼女たちの様子に口の端を上げ、感心したような声を出す。

 

「ふん、流石だなバラライカ。スレヴィニン頭目もアンタに一目置くわけだ。仕事も話も早い」

 

「…………」

 

途端、バラライカは盛大なため息を出しそうになりながら呆れた表情を浮かべる。

数秒の沈黙の後、口を開いた。

 

「誰の尻拭いをしていると思っているのかしらね、ヴァシリー。あなたは組織の面汚しだわ。こんな遊び場の制圧ですらろくに行い得ない。大頭目(ピョートル)がなぜあなたを頭目の一人に据えたのか理解に苦しむわ」

 

「な……」

 

「とにかくここの仕事を片付けて、私は一刻も早くロアナプラへ戻りたいの。あそこは火薬だらけでいつまでも放っておけない。ここで遊んでいる暇は私にはないの」

 

ラプチェフは彼女の言葉に眉間に皺を寄せた。

それには構わずバラライカは席を立ち、軍用コートを羽織る。

 

「では、六時間後」

 

「……調子に乗るんじゃねえぞバラライカ」

 

立ち去ろうとするバラライカの背中にラプチェフは少しの間を空けた後、怒りを露にして声をかける。

 

「お前がここまで上手くいってんのは“あのヤクザ”がいねえからだ。あれがいたらここまで好き放題させる訳がねえ」

 

「……“彼”に取り入ることができず、何の成果も得られていないのはあなたの力不足。私は彼が万が一ここにいた場合も、予定より早く帰ってくる場合も想定して動いている。

私達の本目標を考えれば当然の事よ。――“腕より金で昇った人間ほど自分の無能さを理解できない”。本当に愚かだわ」

 

同じホテル・モスクワの組員同士であるはずの二人は、冷たい雰囲気を纏わせる。

今にも一触即発な空気に、ボリスは更に堅い面持ちとなった。

 

「吠えやがれ、軍人崩れの雌犬が!」

 

ラプチェフは怒りに任せ罵倒の言葉を彼女に浴びせた。

バラライカは溜まっていた息を吐き出すと、瞬時にラプチェフの前髪を掴み上げる。

 

「がッ……!」

 

そのまま力任せに片腕のみでラプチェフの体をテーブルに叩きつける。

 

今は本物の戦場に立つ軍人ではないにしろ、長年鍛え上げられた彼女にしてみれば軟弱な男の体一つ、力でねじ伏せることは容易い。

 

 

 

「――忠告だけしといてやる」

 

 

 

バラライカはニヤリと口元を歪め、鋭い視線と声音をラプチェフに浴びせる。

 

 

 

「私がこの世で我慢ならんものが二つある。一つは冷えたブリヌイ。そして、間抜けなKGB崩れのクソ野郎だ」

 

 

苦痛な表情を浮かべているラプチェフにより一層顔を近づけ、底が冷えそうな冷徹な声で囁く。

 

 

 

「弾にだけは当たらんよう、頭は低く生きていけ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

縁日で連日数多くの人で賑わっている神社。

ずらりと並ぶ露店の中に、誰もが目もくれず通り過ぎる店がある。

戦隊ものや可愛いマスコットキャラクターの仮面が並ぶその露店を切り盛りしているであろうサングラスをかけた大柄な男は、ただ客が来るのを座って待っていた。

 

 

そんな男の元に、一つの人影が近寄ってくる。

 

 

「銀公、景気はどないや?」

 

「……若頭(カシラ)、何しに来たんで」

 

男に声をかけたのは、鷲峰組若頭である坂東次男。

店主のあまり歓迎してなさそうな空気を敢えて読まず、坂東は躊躇うことなく再び声をかける。

 

「我の面ぁ見に来ただけや、そない邪険にすな。……隣、ええか?」

 

何も答えない男の態度に、無言は肯定と受け取ったのか坂東はそのまま隣に座る。

コートのポケットから煙草を取り出し火を点ける。

 

「今日びの子供(ジャリ)ァよ、こんなモン買うたりせんよなあ。ピコピコやらのほうがええンやろ。

 ――なあ銀公」

 

煙を吐き出し、しばらくの沈黙の後話を続ける。

 

「我ァ、何時までこないな商売(シノギ)続けるつもりや」

 

「テキ屋はこいつが仕事でしょうよ」

 

「組ン中じゃワレのシノギァ、尻っぺたから勘定したほうが早いンやぞ。そこんところわかっとンのかい、銀公」

 

「……シャブ売ったり女売ったりするよッか、“なんぼかマシじゃアねェですか”」

 

どこか意味深にそう呟く男に、坂東は尚も調子を変えず言葉を返す。

 

「銀公、儂が好きでこんなシノギをやっとる。そう抜かすんかい」

 

「…………」

 

組長(オヤジ)が忌んでからよ、左前はずっと左前や。いや、左前だったんはその前からやが」

 

言葉を区切り、坂東はこれまで自身の組に起こったことを思い返す。

 

「上納金もろくに納められへんこんな組を残してたんは、組長と香砂ンところの先代が、兄弟盃交わしてたからや。それがのうなった今、香砂会にウチの面倒見る義理はあらへん。それでも今ウチが存続できとんのは“あん人”のおかげでもあるが……いくらあん人でも香砂をいつまでも抑えるのは無理がある。代行人のことも、もう限界や」

 

「……」

 

「組長に恩義のあるんは儂かて同じや。上方のほうから流れた儂に、ホンマようしてくれはった。――だからよ、何があっても看板だけは守らなあかん。何があってもや」

 

「組長もあの人も、そうは言ってねえ」

 

「看板がのうなりゃ極道もクソも関係あれへん。外道に手ェ出すんは極道の恥っつうのも、看板あっての話やないか」

 

灰を落とし再び煙草を口に咥えると、坂東は男の肩を掴み顔を近づけた。

 

「銀公、儂ァ今でかい仕事(ヤマ)打ってるんや。ロシア人と組んで親を刺す――そう言う話よ」

 

「……若頭、己の言ってることァ、分かってるんですかい」

 

「子分を潰すいうんはあっちが先や。何遠慮することがある」

 

「そうじゃねえ。あの人は――親っさんはそのこと知ってるんですかい」

 

「…………」

 

 

 

坂東は男の言葉に沈黙する。男は次第に眉間に皺を寄せ、低い声で話し出す。

 

 

 

「留守の間にんなことしでかして、あの親っさんが許す訳がねえ」

 

「分かっとる。それも覚悟の上や。――あん人には、北から帰ってきた時に儂から話をするさかい。……あん人は香砂とは違うからな、少しは話を聞いてくれるはずや」

 

「あっしが言ってんのは、恩を仇で返すのかってことですぜ若頭」

 

「自分らの組のことは自分らでなんとかする、それが筋ってもんや。……親っさんにはもう十分面倒をかけた。これから先、ずっと甘えるわけにはいかんやろ」

 

 

坂東はそう言うと、ため息とともに煙を吐き出した。

 

 

「あん人が外の者を毛嫌いする理由が今回でなんとなく分かったわ。外人はどこまで言っても外人や。義侠なんて考え、連中カケラもあらへん。――だからこっちも手練れ使てな、締めるところは締めんとあかん」

 

「……いったい、何が言いたいんで」

 

「己に、もう一度白鞘を握ってほしいんや。近在の極道者やったら震える“人斬り銀次”をよ――もっぺんここらで見せちゃアくれねェか?」

 

坂東は己の考えを理解してくれるであろう男――松崎銀次に鷲峰組の切り札となってほしいことを告げた。

銀次も根っからの極道者であり、坂東がロシア人と手を組んでまで香砂を潰そうとしている理由もすべて分かっている。

 

 

 

 

だが、それでも銀次は首を縦に振らなかった。

 

 

 

 

「若頭、お嬢の養育費やら何やらで面倒見てくれてんのは感謝しておりやす。言ってることも分かりゃします。――ただね、あんたの言ってることにゃ一ッ欠片も仁義がねえ。あっしが組長んところで白鞘握ってたのは、“そいつ”があったからですよ」

 

サングラス越しに坂東を見据え、己の意見を貫く。

その姿勢に坂東は了承を得られないことを悟り、煙草を地面に押し付けた。

 

「ほうか。しゃあない、また来るわ」

 

「若頭」

 

「あ?」

 

「くれぐれも気をつけなせえ。あの親っさんが注意深く見張ってた連中だ。下手をこくと自分に刃が返ってきやすぜ」

 

「……ああ。分かっとる」

 

坂東は一言そう返し、露店が並ぶ通りを歩いていく。

遠くなっていく坂東の背中を、銀次は見えなくなるまで見続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

「はあ、ここの気温は年寄りにはきついな。これはもう一種の異常気象だと思わんか、高橋」

 

「北海道はずっとこうでしょう。今更何言ってるんですか」

 

「相変わらず冗談が通じない男だな。たまにはこの老い先短い老人を労わってくれ」

 

「この前の健康診断であと十年以上は生きるって言われたでしょう」

 

「人生何が起きるか分からんぞ。そこらへんにいる若者に儂が襲われてぽっくりと」

 

「それはないでしょう。寧ろそうなったら相手の方を心配します」

 

「はは、嬉しいことを言ってくれるな。照れるだろう」

 

 

大雪が降る中、暖房が効いている旅館の一室で老人と若い男は和やかな雰囲気で談笑していた。

窓の外で雪が積もる様を眺めながら老人はずず、と若者――高橋が淹れた茶を啜る。

 

 

「すまんな、ここまで付き合わせて。本当は儂一人でもよかったんだが」

 

「一人にするわけにはいきませんよ。というか、付き添い俺一人って方がおかしいんです。もっと連れて来た方がよかったんじゃ」

 

「大勢で道中を歩くのは好かん」

 

「でしょうね。ですが、本当一人にするわけにはいかないので。どうか勘弁して下さい」

 

「ま、たまにはこうして若いもんとゆっくり過ごすのもいいだろうさ」

 

そう言って柔和な笑みを浮かべ再び茶を啜る。それでも高橋はぴしっとした姿勢を崩すことはない。

何故なら、彼にとって目の前の老人は姿勢を崩して話をすることは許されない相手だからだ。

 

だが、柔らかい表情に釣られ自身の口の端も上がった。

 

 

――瞬間、高橋の上着のポケットから軽快な音が流れ出す。

 

彼の趣味であろうポップな音楽が響く中、高橋は無言で老人に伺いを立てる。

 

「早く出てやれ」

 

「は。失礼します」

 

軽く頭を下げ、高橋は携帯電話を片手に部屋の外へと出て行った。

高橋が電話で何かを話しているのを聞きながら、老人はテーブルの上に置いてあるお茶請けの一つを手に取る。袋を開け、中から饅頭を取り出しゆっくり食べ始めた。

 

余生はこんな風に過ごしたいものだと、饅頭の味を堪能しながら老人はそんなことを考えていた。

 

全てを食べ終えもう一個と手を伸ばした途端、通話を終えた高橋が部屋に戻ってくる。

 

 

 

――その表情は、先程の柔らかな雰囲気を打ち消すような堅いものだった。

 

「どうした、そんな怖い顔して」

 

「先程、佐伯から報告が」

 

「そうか。で、向こうはどうだって?」

 

「それが、最近東京で動きがあったらしく」

 

「またどっかの馬鹿がウチに喧嘩吹っ掛けてきたのか」

 

「いえ、今のところウチに影響はないです。ですが、至急耳に入れておいてほしいと佐伯が」

 

「……ほう」

 

二個目の饅頭をテーブルに置き頬杖をつく。

彼の話を聞こうという姿勢に、高橋は電話で聞いた内容をそのまま口にする。

 

「ここ数日ロシア人が東京で暴れてるようで。香砂組系列の事務所や店がすでに三件以上爆破や銃で乗り込まれたりなどの被害に遭ってます」

 

「あの露助がか? あの金の亡者な軟弱者にそんな気概があったとは」

 

 

老人は先ほどの柔和なものとは違う笑みを浮かべる。

 

 

「ま、何にしろ好都合だ。このまま香砂が潰れてくれりゃ儂の手間も省ける」

 

「それはそうなんですが、事を起こしているのはラプチェフではなく新しく見る顔のようで」

 

「新顔か」

 

「ええ。佐伯からの話だと、その新顔は特に鷲峰組と関わってるらしく」

 

「……鷲峰が?」

 

途端、老人の顔から笑みが消えた。

真剣な表情へ変わり空気が一気に緊張感で満たされる中、高橋は言葉を続ける。

 

「なんでも、鷲峰組がロシア人と手を組んで香砂組を潰そうとしているようです。新顔と何回か会合をしていることも確認済みです。香砂もそろそろ動き始めるだろうと」

 

「たく、坂東の野郎焦りやがったな。……だが、そうか。その新顔さんはよほど派手好きらしい。たった数日でそこまでやらかす奴は珍しいな。そいつについて分かってることは?」

 

「詳しいことはまだ。分かっているのは、ロアナプラから呼び寄せたと」

 

「――なんだと?」

 

高橋が“ロアナプラ”という言葉を口にした瞬間、老人は低い声音を出した。

眉間に皺を寄せ、顎鬚を撫でながら呟く。

 

「坂東もそれなりの覚悟と考えがあって動いたんだろうが……そのロシア人と手を組むのはあまりにも危険だ」

 

「ロシア人について何か心当たりが?」

 

「そいつに関しては知らん。だが、ロアナプラで生き残ってる人間が東京で暴れてるとなると、相当厄介だぞ」

 

 

ロアナプラは悪党どもの住処として世界に名を馳せている街。

その名を聞けば、悪党であれば一度は憧れる背徳の都。

 

そんなイカれた街を生き抜いている人間となれば、日本という国で発揮される力は想像以上だろう。

日本に拠点を置こうと躍起になっていたロシアンマフィアがとうとう最強の刺客を送り込んできた。

 

 

 

――老人はその事実に優雅に茶を飲んでいられる程、衰えてなどいなかった。

 

 

 

「下手するとこっちにまで飛び火が来るかもしれん。火種が大きくなる前に手を打つしかない、か」

 

はあ、と一つ息を吐き姿勢を正している高橋を見据える。

 

「高橋、すぐ飛行機の手配をしろ。一刻も早く東京に帰るぞ」

 

「え、ですが宗谷叔父貴との食事会は」

 

「んなもん後回しだ、こんな状態でゆっくり食事なんかしてられん。あいつには儂から話をしとくから、お前はとにかく東京に帰る準備を済ませろ」

 

「は、はい」

 

高橋は信頼ある兄弟分との会合をすっぽかす程か? と疑問に思ったが、目の前の老人がここまで言うのであればそれなりの理由があるのだろうと結論付けた。

 

 

己は彼を信じ、従うのみ。

 

 

 

高橋は彼の命を遂行するべく、再び携帯電話を片手に部屋の外へと出た。

 

 






饅頭を食べてたご老人、一体何者なんでしょうかねえ。


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45 動き始めた盤上









六本木のクラブハウス。中央に設置された広いステージの上には、露出が激しい衣装に身を包んだ女たちが鞭を片手にSMショーを披露している。目の前で繰り広げられる刺激的な光景に、ステージを囲んでいる客たちは上機嫌に酒を煽っていく。

 

――そんな光景を見下ろすことのできるVIPルームでは、鷲峰組とホテル・モスクワの会合が行われていた。

バラライカはつまらなさそうに葉巻に火を点け、煙を吐き出した。

 

そんな彼女の隣には、当然ロックも席に着いている。

 

「すまねえな姐さん、こんな場所で。女のあんたにゃ面白くねえ場所だろう」

 

場所も女の裸も大した問題ではありません。が、私はうるさい場所があまり好みではありませんね

 

「新宿はまずい、香砂会が動き始めた。六本木なら外人も多い、目立たなくていいんだよ」

 

我儘を言うつもりはありません。大事なのは仕事ですから。――さて、話を進めましょう

 

バラライカが本題を切り出すと坂東も煙草を口に咥え、隣に座っている男が火を点ける。

 

我々は順調に当初の攻略目標をクリアしています。しかし、祝杯をあげるにはまだ早い。香砂会を締め上げるにはまだ足りない。第二次段階へ移行するため、攻撃目標の転換を始めます

 

「転換?」

 

そう、転換です。我々は迅速な解決を欲しています。前段階として資金源となるべき、店舗、風俗店、産廃屋に対し合法的な封じ込めを

 

「連中も素人じゃない。ある程度以上やりこめれば流石に気づく」

 

勿論、これはあくまで揺さぶりに過ぎません。本目標は別にあります

 

「……どういうことや?」

 

どこの国の、どんな場所でも通用する方法ですよ。状況の進行度によっては、すべての懸案を解決できる

 

坂東は一呼吸間を空けた後、素直な疑問を口にした。

その質問にバラライカは少しの間を空けることなく答えを返す。

 

誘拐ですよ、坂東さん。目標は香砂会会長、香砂政巳の家族。我々はいつでも実行に移せる段階まで来ている

 

さも当然と言わんばかりに口端を上げながら言われた内容に、その場は動揺の波に包まれた。

坂東の隣に座っている男は「若頭……!」と焦ったように声を出し、周りに立っている他の鷲峰組組員も狼狽えた様子を見せた。

 

 

 

「――バラライカさん」

 

 

眉根を寄せながら、坂東は固い声音と表情で話し出す。

 

 

「水を差すようやがそれだけはあかん」

 

What was that?(なんだって)

 

He said “We can't do that”.(“それはできない”と)

 

訝し気な様子のバラライカにすぐさまロックが通訳する。

バラライカはロックの答えを聞いた後、訝し気な表情のまま坂東を見やる。

 

「お宅らに求めとるんは香砂会からの圧力を緩めるようにする、そういうケンカや。適当に暴れてくれりゃあとは口八丁でどうとでもなる」

 

「……」

 

「それにな、極道の家族と言えども堅気。堅気に手を出すのは儂らにとって最大の禁忌や。――東京にはそれを絶対許さへん人間がおる。そん人だけは怒らせたらあかん」

 

……成程

 

坂東から一通りの言い分を聞いた後、バラライカはただ一言そう呟いた。

数秒何かを考え、やがて足を組み替え徐に話を再開する。

 

貴方がたの考えは理解しました。では、こういうのはどうでしょう

 

「……なんや」

 

貴方の言い方から察するに、その人物は香砂政巳より権力を誇っているのでしょう。その人物が今回の最大の障壁。そして、今回の件において堅気に手を出してはいけないというルールを遵守するのであれば、道は一つです

 

坂東は眉根を寄せたまま、ただひたすら彼女の言葉を待つ。

 

 

バラライカは口元をニヤリと歪め、不気味な程愉しそうな表情を浮かべる。

 

その人物を東京にいられない程徹底的に叩くのです。香砂政巳より影響力が強い人物を叩きのめせば貴方がた鷲峰組の地位は確固たるものとなり、我々も拠点を築きやすくなる。香砂も強くは出られなくなるでしょう。まさに一石二鳥というわけです

 

「なんやと……!?」

 

バラライカの代替案に、先程よりも大きな動揺の波に包まれる。

坂東は冷や汗をかきながら、必死に彼女の考えを改めさせようと制止の言葉をかける。

 

「そないなことすれば関東だけやない、日本中のヤクザが儂らを潰そうと躍起になる! 香砂を真っ先に潰す方がよっぽどましや!」

 

ならどうするのです。あれもだめ、これもだめと躊躇っていては何も成しえませんよ。下剋上なら尚更。――それに、その人物が東京にいない今がチャンスなのでは?

 

坂東はバラライカの言葉に息を呑んだ。

自分は一切とある人物について名前を出していない。

 

 

 

だが、目の前のロシア人は確実に“知っている”。

 

 

 

 

東京の極道者にとってどれほどの影響力があるのか、全て分かった上で言ってるのだと坂東は悟った。

 

 

「……あんた、あん人のこと知っとんのか」

 

ええ、我らが大頭目も彼には一目置いていますから。それなりに調べさせていただきました

 

バラライカは短くなった葉巻を灰皿に押し付け、話を続ける。

 

――藤崎仁。関東和平会を設立した一人であり、年老いても尚絶大な権力を誇っている人物。関東だけでなく日本中に彼の世話になったヤクザ者が数多くおり、多くの尊敬と畏怖を集めている。貴方がた鷲峰組も彼に恩ある組の一つ。まさに、ヤクザ者の頂点と言っても過言ではない。我々ホテル・モスクワは、そんな彼を関東和平会の最高権力者と見なしています

 

「……よう調べたな。そこまで分かっとんのやったら」

 

ですが、我々には何一つ関係ない

 

はっきり告げられた言葉に、坂東は目を見開いた。

 

坂東さん、最初に申したはずです。“我々は邪魔するものは容赦なく殲滅する”と。それが誰であろうと関係ないのです。そう、それがどれほど強大な敵であろうとやることは変わらない。藤崎仁が最大の障壁なのであれば、それを切り崩し道を拓くのみ

 

 

バラライカは鋭い視線を坂東へ浴びせる。

 

 

我々は無条件の力を行使し、利潤を追求する。それがマフィアというものだ。その上で我々は多くのリスクを負担している。つまり、すべての決定権はあなた方ではなく我々にある

 

「……」

 

貴方がたと我々が欲しているものを手に入れるには、これくらいの事はしなければ。……まあ、藤崎組を叩くのはあくまでも最終手段です。当面の作戦に早期解決が望めないと判断した場合に実行します

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ……それは」

 

坂東が戸惑った声で言葉をやっとのことで絞り出す。

 

 

――だが、その言葉は唐突に流れてきた軽快な音楽に遮られた。

 

 

あまりにも場違いな音楽が鳴っている方向へ全員が目を向ける。

そこには、派手な色のスーツに身を包んだ金髪の男が立っていた。男は周りからの目線を気にすることなく、平然と音の発信源である携帯電話を手に取る。

 

「はい、もしもし? ……ああ、ジェイクさん? この時間かけないでくれって言ったじゃないすか。――例のアレっすか。六番のロッカーに置いてあるっすよ。鍵はこの前渡したので開くんで。またこっちから連絡するんで、そん時に結果教えてくださいや。じゃ

 

「チャカ坊! テメェ何やってやがんだこの野郎! どういう話してんか分かってんのか!」

 

「え? あー悪ィっす、えへへへ」

 

坂東の隣に座っていたパンチパーマの男は大声でチャカに怒鳴りつけた。

その怒号に怯むことなく、チャカは軽い口調で謝った後誤魔化す様に笑う。

 

「いやあ、かけんなって言っといたんですけどね。でも、こっちも大事なビジネスの話だったんで無視する訳にいかなかったんすよ」

 

「あっち行っとけ! あほ!」

 

「吉田、ええわい」

 

チャカの態度に吉田は更に怒声を浴びせるが、坂東の制止の言葉に口を閉ざす。坂東は気を取り直すように、バラライカへと言葉をかける。

 

「お騒がせして申し訳ない。話の続きやが、今の件はこっちのみんなで改めて相談せなあかん。少し、時間をもらえへんか」

 

勿論。作戦計画に支障のない範囲でならお待ちします。祝杯は互いのためにあげられるよう

 

バラライカは余裕そうな笑みを浮かべ、坂東の申し出をすんなり了承した。

二人はそれぞれ真逆の表情を浮かべたまま会合は終了となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ねえタカさん、あの女なんなんすか?」

 

「あ?」

 

「ほら、あそこにつっ立ってる」

 

「馬鹿野郎、チャカ。おめえまだ懲りてねえのか。誰のせいで藤堂がムショ食らってると思ってんだ」

 

「いやいや、そーゆーんじゃねえっすよ」

 

「ったく」

 

チャカは吉田に怒鳴られた後、隅の方で煙草を吸いながらしばらくあるものを見つめていた。

その視線の先には、壁に寄りかかりながら煙草を吸っているレヴィの姿。

 

「ありゃおめえ、あのトッポイ通訳の用心棒だ。ロシア人やらと一緒にロアナプラから来たっつう」

 

「へえ! 女なのにやれるんすか! マジすか!」

 

「チャカ坊、でけえ声で喋んじゃねえ。声落とせ馬鹿野郎」

 

チャカは興奮気味に喋ると今度は嬉々とした表情でレヴィを見つめた。隣で話している男は眉根を寄せ、小さい声で諫める。

 

「マジでやめとけよ。客相手に問題起こされっとたまんねえぞ」

 

「……分かってますよぉ、心配性だなあタカさん」

 

口の端を上げそう一言だけ返すと、チャカは再びレヴィへ熱い視線を送る。

心の中で“でも、やれるもんなら見てみてえよな”と思っていることなど本人以外に知る由もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ロック、姐御はまだいるのか?」

 

「ああ。ここから先は社交の時間だって」

 

「くだらねえな、さっさと帰って寝てえよ」

 

「ぼやくなよレヴィ。どこの世界でも物事を丸く回していくのは必要さ。それで話に片が付けばそれが一番安上がりなんだ」

 

鷲峰組とホテル・モスクワの会合がひと段落終了し、一足先にVIPルームを出でレヴィとロックは広い廊下で言葉を交わしていた。

ロックは最後にそう言い残すと、トイレの中へと入っていく。一人残されたレヴィは壁に寄りかかり、ポケットから煙草を取り出し火を点ける。

 

「理解できねえな。社交なんざ時間の無駄だってのに」

 

ため息を吐きそうな心持でレヴィは煙を吐き出す。

煙草の味を堪能していると、次第に足音が近づいてくる。

 

 

「お、いたいた」

 

 

足音の主は機嫌がよさそうな軽快な声で呟き、真っすぐレヴィの方へ向かってくる。

やがて目の前までやって来ると、勢いよく壁に手をついた。

 

レヴィは無遠慮に近い距離に入ってきた男を不機嫌そうに見やる。

 

「あのさあ。聞いたんだけど――君、ガンマンなんだって?」

 

日本語で話しかけられ何を言っているのか分からず、レヴィは鋭い視線を浴びせながら口を開く。

 

「……I don't speak no stinkin' Japanese. Speak English.(日本語、分かんねえんだよ。英語で喋れ)

 

レヴィはもう既に第一印象が最悪なこの男に不機嫌さを声に乗せ英語で返す。

 

 

初対面からここまで距離を詰められ機嫌など良くなる訳がない。

 

 

だから英語で返せば他と同様勝手にいなくなり、大人しく一人にしてくれるはず。寧ろ消えてくれた方がありがたい。

 

 

Oh right! Is that better?(あー、悪いね。これでいい)

 

 

 

――だが、そんなレヴィの考えとは裏腹にチャカは去るどころか流暢な英語で喋りだす。

 

 

 

「ここ、俺の店なんだ。土地柄、英語は喋れないと商売になんないんだよ」

 

「……」

 

「君さ、ロアナプラから来たんでしょ? 国際的な犯罪者がより取り見取り揃ってるって噂だけど」

 

「…………」

 

「ねえ、ヒト撃ったことあんの? 俺もあるよ、十人とか」

 

「おい色男。一言、言っていいか」

 

心底どうでもいい話に付き合わされ、レヴィは痺れを切らしチャカの話を遮る。

 

 

――やがて肺に残っていた煙をチャカの顔へと吹きかけた。

 

 

 

Your breaht stinks, fuck head.(息が臭えんだよ、クソボケ)

 

「ゴホッ、ゲホ……ッ」

 

チャカは唐突に煙を浴びせられ思い切り噎せる。

その様をレヴィは冷たい視線のまま眺めるだけ。

 

 

「香水ふっててもてめえの臓物が腐ってんのが丸わかりだボケ。……ほんと、キキョウの服着てこなくてよかったぜ。アイツの作った服にこんな匂いが移ったらたまったもんじゃねえ」

 

 

レヴィは再び煙草を口に咥えそう呟いた。

一刻も早くこの場から離れたかったが、まだ動くわけにはいかない。

 

 

いつまでかかってんだクソロック、と心の中で呟いたのと同時に、登場を待っていた人物がやっとトイレの中から現れた。

 

「レヴィ、お待たせ……って」

 

ロックはレヴィの近くにいる何やら噎せている男に気づくと、どことなく異様な空気が漂っているのを瞬時に感じ取った。

次第に眉を顰め、すぐさまレヴィへと近づきながら声をかける。

 

「……行こうレヴィ、バラライカさんが待って」

 

瞬間、レヴィに近づくのを許さないようにチャカはロックの前に足を出し壁を蹴った。

 

「あのね、通訳さん。見て分かんねえすか、今話し中」

 

「……」

 

チャカの態度と苛立った表情に、ロックの顔は険しいものへと変わっていく。

 

「割り込まんでくださいや。失礼とか思わねえすか?」

 

「……すみませんが、もう行かないといけないので。Revy. Let's go.」

 

淡々とした声音であしらうような言葉を口にし、二人でその場を立ち去ろうとする。

 

 

瞬間、ロックの腹から鈍い音が響いた。

 

 

唐突やってきた衝撃と痛みに、ロックは床に膝をつき腹を抑える。

 

「ごほっ……!」

 

「おい、何様だテメエその態度。何シカトぶっこいんだ、ンなろ」

 

チャカは怒気を孕んだ表情と声音で、うずくまっているロックへ言葉を浴びせた。その様をレヴィは一歩も動くことなくただ眺めるだけ。

 

「俺な? 神経切れっとワケわかんなくなんだよ。おい、聞いてんのかこの野郎!!」

 

未だ立ち上がらないロックを今度は足で蹴り上げる。

目の前で繰り広げられる仲間への一方的なリンチに、チャカを見るレヴィの目には次第に殺意も混じっていく。

 

「なあ姉ちゃん。女の前で殴られっぱなしなの、格好悪いよなあ。悪いことは言わないから、俺に乗り換えれば?」

 

「……」

 

チャカはニヤニヤしながら腰に刺している銃に手をかけ、黙っているレヴィへ声をかける。

舐めるように見つめてくる視線に気色悪さを感じ、レヴィは拳を握り必死に我慢する。

 

まだだ。ここで動けばこいつの思うツボだ。

 

心の中で何度もそう呟き、必死に殺してしまいたい衝動を抑える。

 

「こんな腑抜けのいちもつじゃ、君だって満足できないだろ?」

 

その言葉がレヴィの僅かな忍耐力を一気に削いでいく。

確実に己よりも遥かに格下のこの男に仲間を侮辱された挙句、自身を舐め切っている態度を向けられ続け、最早我慢の限界だった。

 

 

 

「おい! 何やっとんだチャカ!!」

 

 

 

懐にある銃へ手を伸ばしかけた時、騒ぎを聞きつけたのかVIPルームから吉田を先頭に鷲峰組組員達とバラライカらがぞろぞろと出てくる。

吉田は足早に三人の元へ駆けつけ、真っ先にチャカの胸倉を掴み上げた。

 

「お前何さらしとんねんッ! 場所と相手見ィやこのガキ!」

 

「あー、ヤダなあ吉田さん。ちょっとじゃれてただけっすよぉ。マジでやるわけないじゃないですか」

 

へへ、と軽く笑い、チャカは怒りを表す吉田に言い訳を並べた。数秒遅れて坂東もロックの元へ駆け寄り言葉をかける。

 

「兄ちゃん、大丈夫か? えらいすまんなあ、厳しく言っておくさかいに」

 

「……大丈夫です。ご心配なく」

 

「ロック、起きれるか?」

 

息を吐き、やっと解放されたレヴィもロックの元へ行き、背中を支え起き上がるのを手伝う。

 

「無能な上官に命令無視の兵隊。いよいよたまらんな軍曹」

 

「戦場であればよかったですな。すぐに戦死で厄介払いだ」

 

その様を遠くから見ていたバラライカは鼻で笑い、ボリスも呆れたような表情を見せた。

 

「助けに入れなくて悪かった。あの野郎は」

 

「分かってるよ、大丈夫だ。あいつは、ずっと拳銃に手をかけてた。お前に銃を抜かせたかっただけだ」

 

「よく見てたな。ダイヤの魂が入ってきた証拠だ」

 

鼻血を出しながらすぐさまそう答えたロックにレヴィはほんの少し口の端を上げる。

 

「お前がここで抜いてたら、俺達だけじゃなくバラライカさんもややこしいことになってた。……でも、よく耐えたなレヴィ」

 

「アタシだってそれくらい分かってたさ。それに、アイツの思い通りになるのも癪だったからな。――だが、あれ以上耐えるのは無理だった。連中があそこで来てくれてよかったぜ」

 

二人は何やら話している様子の坂東を含めた鷲峰組へ視線を向けながら言葉を交わす。

 

 

レヴィは「はっ」と息を洩らす、徐に立ち上がる。

 

「ロック、こりゃあカトラスが要り用になるかもな」

 

「……レヴィ、まさか」

 

「心配すんな、あたしからは手を出さねえよ」

 

ロックもレヴィに続き、ハンカチで自身の血を拭いながら立ち上がる。

レヴィの意味深な言葉にロックは浮かんだ予想に咄嗟に声をかけたが、彼の不安を打ち消すように一瞬の間もなく言葉が返ってきた。

 

 

 

「あのクソ野郎はどっかの段階で絶対何かをやらかす。尻と頭の区別もつかねえかけ値なしのノータリンだからな」

 

レヴィは少し離れた場所で吉田に何かを言われているチャカを見やる。

 

 

 

 

――その視線は、底が深く、光など一切ない冷徹なもの。

 

 

 

 

「こっちにまた今度銃を向けてきたら、そん時ゃ絶対殺してやる」

 

 

 

 

怒りの籠った声音で呟かれたその言葉は、ロックの耳にしっかりと届いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――なあ、頼むよ……もうアレがねえとダメなんだよ俺は……」

 

「サキにカネをハラッてクダサイ。ハラッテくれレバワタシマス」

 

「今、これくらいしか……」

 

「コレじゃタリナイデスよ」

 

「頼むよ……アレがねえと、生きた心地しねえんだ……頼むよ……」

 

人が寄り付かないほど薄暗く、細い路地。そこでは金髪で長身の男とボロボロの服に身を包んだ男が言葉を交わしていた。

 

 

片言な日本語を喋っているヨーロッパ系の顔つきをしている男は、地面に膝をつきながら乞う目の前の日本人を憐れんだ目で見つめる。

 

 

「カネガナイならアキラメテくだサイ。デハ、しつレイ」

 

「待ってくれ! 金は必ず払うから……! 頼むッ!」

 

淡々と告げれば、日本人は外国人の男の足に縋りつき、一段と大きい声で何かを強請った。

 

あまりにも惨めな姿にため息を吐きそうになったが何とか堪え、どうしたものかと思案する。

 

 

 

しばらく思考を巡らした後、やがて口端を上げ碧い瞳を日本人へ向ける。

 

 

 

「アナタニはイツモオカイアゲいただイテイマス。ダカラ、コンカイはトクベツにテモチノカネでワタシまショウ」

 

「本当か……!」

 

「エエ。デスガ、カワリにワタシのオネガイをキイテクダサイマスカ?」

 

「お願い?」

 

「ソウ。ソンナにムズカシイコトじゃアリマセン」

 

拙い発音で発せられた言葉に、地面に膝をついたまま日本人は首を傾げた。

外国人の男は上着のポケットから小さな紙袋を取り出し見せつける。

 

「コレハ、ワタシがツくったモウヒトツの“サクヒン”デス。コレノカンソウをオシエてホシイのデス」

 

「それを試してアンタに感想を言えば、売ってくれるんだな?」

 

「モチロン。ヤクソクはマモリマス。イマココデタメシて、ツかったカンソウをオシエテくだサイ」

 

「わ、分かった! それで手に入るなら安いもんだッ」

 

日本人は口早にそう言うと男の手から紙袋を奪い取る。

早く何かを手に入れたがっているのか、雑に紙袋の中に入っているものを取る。

 

 

中から出てきたのは、透明の液体が入った小瓶と一つの注射器。

 

 

 

「これは……?」

 

「ソノままノムカ、チュウシャキをツカウかドっちでもイイデス。トニカク、ソレをタイナイにイレテどんなカンカくなのカ、オシエテクダサイ」

 

「これを飲めばいいんだな……!?」

 

男は瓶の中身が何なのか問うことなく、興奮したように乱暴に瓶の蓋を開ける。

そのまま口をつけ一気に中身を飲み干す。量が少ないおかげか、ほんの数秒で空になった。

 

「ドウデスカ?」

 

「……何もねえな」

 

「アじはシマシタか?」

 

「いや?」

 

「ニオイハ?」

 

「しなかった」

 

「シタやクち、ノドニシビレやイワカンはアリマスカ?」

 

「本当に何もねえよ。何だったんだ、あれ」

 

「タイシタものではアリマセン。キニナサラず」

 

今更になって中身が気になったらしく日本人は疑問をぶつけたが、外国人は軽くあしらった。外国人の男は感想を聞き満足そうな表情を浮かべ、今度は地面に置いていた黒いアタッシュケースを開き中から何かを取り出す。

 

男の手には、小奇麗な白い箱。

箱の蓋を開ければ、中にはさらに小分けにされた小さな袋がいくつも入っていた。

 

「ヤクソクデス。コレを」

 

「ああ……それだ! ホントにくれんのか!?」

 

「エエ。コノコトはヒミツデスヨ?」

 

「あああ……ありがてえっ! アンタ最高だよ!」

 

袋を二つ差し出せば、嬉々とした表情で日本人は受け取った。

箱を閉じてアタッシュケースの中へ戻し、既に袋の中身に夢中な目の前の男に笑顔で声をかける。

 

「コレカラもゴヒイキニ。デハ、シツレイ」

 

「ああ……最高だ……最高な気分だよ……」

 

最早何の言葉も聞こえていないのか、その場を離れる男には目もくれず袋の中身を堪能し続けている。

 

 

背後で日本人の悦に入った呟きを聞きながら、ニヤニヤと口端を上げ左腕の腕時計を見る。

 

 

 

「あと10分かな」

 

 

 

男はイタリア語で呟き、上機嫌に軽い足取りで歩く。

 

 

 

「どこにでもいるもんだな。ああいう救いようのない人間てのは」

 

上着のポケットからお気に入りの煙草――Camelを取り出し、口に咥える。

火をつけながら歩いていると、ふと一つの標識が目に入った。

 

「……へえ、GINZAはすぐそこなのか。気づかなかったな」

 

標識に書かれている“銀座”という文字を見やり、数回しか踏み入ったことのない場所だと思い返す。

 

 

途端、男の脳裏には数日前に商売仲間が話していた内容が浮かぶ。

 

 

 

 

 

『ジェイクさん、銀座の近くで商売やるなら今しかねえぞ』

 

『何故?』

 

『そこを仕切ってる組は鷲峰(うち)や香砂よりも立場がでけえ。その親玉が今東京にいねえんだ』

 

『どこにでもいるんですね、ヤクザというのは。それで、一体どんな組が仕切ってるんです?』

 

『あそこはな――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――藤崎組か。ま、気にしたところで手遅れだしな。どうでもいいか」

 

男は煙を吐きながら、心底興味がないと言わんばかりの声音で独り言を発する。

銀座とは真逆の方向へ歩みを進め、次第に人だかりが多くなっていく大通りへ去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――数時間後、小さな路地裏で一人の男が静かに横たわっていたのが警察によって発見された。

 

傍らには、白い粉が入っている小さな袋が一つ落ちていた。



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46 動き始めた盤上 弐









雪が降りしきる中、山手線のホームには多くの人が遅延している電車を今か今かと待っている。

俺もその一人で、電車が来るまでの間丁度いいと公衆電話の前に立ちある番号へかけていた。

 

『やあロック、調子はどうだい』

 

「まあまあさ、ベニー」

 

程なくして、海の向こう側にいる同僚が通話に応じた。

その声を聴くのが久々だと感じたのが自分で可笑しくなり、自然と口の端が上がる。

 

「必要な物はだいたい揃えたよ。他に何か足りないものは?」

 

『ありがとう、助かったよ。泥棒市場に足を運ぶのはちょっと遠慮したいからね』

 

「確かに、俺もあそこはあまり馴染めないな」

 

今自身が立っている地よりも遥かに遠い場所を思い返し言葉を交わす。

 

故郷である日本よりも物騒で、いつも死が隣り合わせな悪徳の都。

普通ならこのまま日本に居座るのだろうが、俺の中で何故かその選択肢は残っていない。

その理由は明確には分からないが、あの街が魅せる闇に少しだけ心が惹かれているのもまた事実。

 

きっと、それがこの国に留まらない理由の一つとなっているのだろう。

 

「そうだベニー、レヴィから頼まれものが」

 

『なんだい?』

 

あの街の雰囲気を思い返すのもそこそこに、次の硬貨を入れる羽目になる前に本題を切り出す。

 

「“ソード・カトラス”を送ってくれと。ブーゲンビリアに渡しておけば、海兵隊特急便でここに着くはずだ」

 

『穏やかじゃないな。嵐が吹きそうか?』

 

「まだ、分からない。そうでなきゃいんだけど」

 

『同感だね。とりあえず手配しとくよ。じゃあまたね』

 

ベニーは早々に話を切り上げ、通話が終了した音が流れる。

自身も受話器を置き、ベニーからの頼まれものを手に取ったのと同時に、ホーム全体にアナウンスが流れ始めた。

 

『……線をご利用のお客様にお知らせいたします。現在ポイント故障のため上下線共に運転を見合わせており――』

 

「…………はあ、参ったな」

 

白い息と共にため息を吐き、寝泊りしているホテルへどう移動するか思案する。

 

「こんな雪じゃ車もダメっぽいし……だけど、歩いていくのもなあ」

 

とりあえずここを出よう。

この調子だと運転再開の見込みはしばらくかかりそうだ。

 

足を動かし改札へ戻ろうとホームの出口へ向かう。

その時、見覚えのある顔がこちらへ向かってくるのに気づいた。どこで会ったかと、必死に思い返す。

 

俺の視線に気づいたのか、相手と目が合った。

 

お互い目の前で止まり、そこでやっと思い出す。

 

「あ、この間の」

 

長い黒髪で眼鏡をかけた女の子と言葉が被る。

 

 

 

 

その子は、高市で会った女子高生だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――こんなに雪を見たのは久しぶりだよ」

 

「タイにおられたんですもんね。滅多に雪は降らないでしょう」

 

先程駅のホームで再開した女の子と話の流れでしばらく近くの喫茶店で過ごすことになった。

お互い適当に注文し、暖かい店の中で和やかな雰囲気で言葉を交わす。

 

 

こんな風に“普通の人”と話すのも久々だ。

 

 

 

「日本はお久しぶりなんでしょう? ……ええと」

 

「あ、そうか。まだ名前教えてなかったね。僕は岡島、岡島緑郎です」

 

「岡島さんはご実家には帰られたんですか?」

 

「……実家には、戻ってないんだ。あんまり会いたくなくてね」

 

日本に帰ってから一度も実家に行っていない。

どうしても帰る気になれず、足がそこへ向かわないのだ。

 

「一年も音沙汰なかったんだ。今更どんな顔して行ったら、てなものさ」

 

「でも、顔を見ればきっと喜ぶと思いますよ」

 

「どうかな。きっと厄介払いされるのがオチさ」

 

日本にいた頃仲が良かったわけでもない上に、期待に応えられなかった出来の悪い息子。

 

 

そんな俺が実家に顔を出したところで恐らく歓迎はされないだろう。

 

 

それに縁日の時レヴィから話を持ち掛けられるまで一瞬でも家族の事を思い浮かべなかった。

 

 

真っ先に思い浮かんだのはあの街での荒々しく、生と死が満ちている生活。

 

そして、凛と生きている彼女の事。

 

 

 

結局、俺は家族よりもあの街での生活や住人の方を優先しているのだ。

 

 

 

自嘲気味に笑い、届いたコーヒーに口をつける。

そんな俺に彼女――雪緒ちゃんは静かに言葉を発した。

 

「岡島さん、家が嫌いなんですね」

 

「そうかも。いや、最早嫌いとかも思わないかな。もう、どうでもいいんだ」

 

「どうでもいい?」

 

「ああ。だから会ったところで何の意味もない、かな」

 

「……そうですか」

 

彼女はオレンジジュースをちびちびと飲んだ後、やがて再び口を開く。

 

「皆境遇は違うからそんなに強くは言えませんけど……自分で選択したことならそれでもいいと思います。でも、なんであっても育ててくれた家があったから自分がこうしていられる」

 

「……」

 

「私は父が死んでからそう気づいたんです。自分の帰るべきところはそこなんだって。だから私は父の事も家の事も今は愛してますよ」

 

「……しっかりしてるな、君は」

 

自分よりも年下の女の子に説教をされてしまった。

彼女の言う通り、俺がここまで生きてこれたのは両親のおかげだ。だから顔を見せるべきだという言い分も理解できる。

 

が、それでも家族に会いたいという気持ちは湧かない。

彼女の言い分を理解しながらも納得できていない事実に苦笑を洩らしながら呟く。

 

 

それと同時に、彼女の通学カバンから携帯の着信音が鳴り響いた。

 

「あ、ちょっと待って下さいね」

 

一言そう断ってから、雪緒ちゃんはいそいそと通話に応じる。

 

「はい、雪緒です。……なんだ、銀さんか。知ってるよ、銀さん心配性なんだから。……今は岡島さんて方と一緒に雪宿り中です。ほら、この間の高市でお会いした」

 

話の内容から察するに、相手は恐らく縁日の時一緒にいたサングラスをかけた男だろう。

確か、“父親の弟子みたいな立場の人”とか言っていた。

 

そう思い返しながら、すっかり湯気も立たなくなったコーヒーを片手に彼女の言葉を右から左へと聞き流す。

 

 

 

「え、坂東さんがいらっしゃってるの? じゃあ早く帰らないと」

 

 

 

 

――その時、聞き流すことができない名前が彼女の口から発せられた。

 

 

 

瞬時に俺の中には一つの可能性が浮かぶ。

 

 

 

……いや、偶然同じ苗字ということもある。それにこんな普通の女の子が関わっているはずがない。

 

 

 

妙な胸騒ぎに冷や汗が背を伝う。

 

 

 

「すみません、岡島さん。じゃ、私これで」

 

「雪緒ちゃん」

 

「はい?」

 

 

彼女の濁っていない澄んだ瞳から目を逸らし名を呼び掛ける。

 

 

 

「あの、さ……君の苗字、まだ聞いてなかったかもね。何ていったっけ?」

 

 

動揺を悟られないよう、なんとか疑問を口にする。

心の中で、どうか違ってくれと願いながら。

 

 

「はい、鷲峰です。いかめしい苗字でしょ? だから名前は女の子らしくしたって父が言ってました」

 

 

そうにこやかに話す彼女の口からでた苗字に、密かに眉根を寄せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――美味い」

 

雪緒が席を立つ少し前。ロック達が座っている場所の斜め後ろの席に、一人の老人が小さな抹茶パフェを一人堪能していた。

 

少しの砂糖で作られたメレンゲとほんのり広がる苦みで丁度いい甘さとなり、自分好みの味に満足気に次々と頬張っていく。

焦げ茶色の着物に身を包み、傍らに杖を置いている老人は最後の一口を口に運ぶ。

 

「どうぞ」

 

「……おや? これは頼んでないが」

 

食べ終わるのを見計らったのか、メニューに載っている350円のコーヒーをウェイトレスが老人の席に運ぶ。老人は柔和な笑みを浮かべながら、素直に自分の注文ではないことを伝える。

その言葉にウェイトレスは営業スマイルを浮かべながら返す。

 

「店長からです。サービスさせてほしいと」

 

「そうか。では有難くいただこう」

 

老人は柔和な笑みを崩さず、納得した声音を出しコーヒーを受け取った。

ウェイトレスは代わりに中身がないパフェの容器を持ち、そのままその場から足を動かす。

普段は緑茶を好んでいるが、たまにはこの苦さも悪くないと老人は心の中で呟きながらサービスされたコーヒーに口をつける。

 

そのまま黙って飲み続け、ようやくカップの中身が空になった。

ふと、左腕につけている時計を見やり「おっと」と反射的に声を出す。

 

 

「ゆっくりしすぎたな。アイツらの機嫌を悪くしちまう」

 

 

苦笑いを浮かべそう呟きながらゆっくりと腰を上げた。杖を手に、レジに向かいながら右袖に入れてある財布を取り出す。

 

 

同時に、白い何かが老人の袖から落ちた。

 

 

雪緒が店を出た後、一人項垂れていたロックは目の端でそれを捉えていた。

老人の方はそれに気づくことなくすたすたと歩いていく。

 

落とし物は届けるべきという日本人の常識が働いたのか、ロックは座ったまま落ちた何かを拾い上げ、すぐさま落とし主に声をかける。

 

「あの、すみません」

 

「おや。何か用かな、青年」

 

「これ、落としましたよ」

 

「なんと……すまないな。ありがとう」

 

「いえいえ」

 

突然声をかけられた老人は後ろを振り向き、ロックの手にある物を見るとすぐさま柔和な笑みを浮かべ礼の言葉を口にする。

ロックは少し口の端を上げ、手にしている白いそれを差し出す。

 

 

次の瞬間、さっきは慌てていたせいか見えていなかったものが自身の目に映る。

 

 

 

 

ロックの目に映ったのは、藤の花が刺繍されている小奇麗なハンカチの端にあるマーク。

 

 

三日月のような円の中に桔梗の花が一輪。

 

 

 

それは、今自分が着ているスーツに刺繍されているものと全く同じ。

 

 

 

――悪徳の都で一流と謳われている洋裁屋が、自身の手掛けた服に欠かさず入れる印。

 

 

 

あの街の住民にとってブランド品の証であるそのマークを見た途端、ロックは息が詰まるような感覚に陥った。

 

 

 

洋裁屋としての癖であること。

このマークを入れるようになったのはこの街に来てからであること。

そして、日本にいた頃は恩師のマークしか入れてないこと。

 

 

 

かつて、本人からそう聞いていた。

 

 

だが、ならば何故目の前の老人がこのマークが入った代物を手にしている。

 

 

ロックが息の仕方を忘れたかのように止まっている間に、老人はロックの目の前まで戻り差し出されたハンカチを受け取る。

 

 

「やれやれ、落とし物に気づかなかったとは。つくづく自分は年寄りだと思い知らされるなあ。困ったものだ」

 

「……素敵な、ハンカチですね」

 

「お目が高いな青年。儂もこのハンカチは気に入っていてね。拾ってくれてありがとう」

 

「いえいえ……あの、それはどちらで」

 

「はは、これは親友の娘が数年前作ってくれてなあ。綺麗だろう」

 

「ええ、とっても。……ここまで綺麗な物を作れるなら、きっと素晴らしい職人さんなのでしょうね」

 

 

自分に目利きの才能はない。

 

彼女の作品か否かを見極めることはできない。

 

 

 

だが、ロックの中で確信にも似た勘が働いていた。

 

 

 

“これは洋裁屋キキョウの作品”だと。

 

 

 

ロックは短い時間で思考をフル回転させる。

親友の娘が作ったと目の前の老人は今はっきりそう言った。もし本当にこれがあの洋裁屋の作品であるならば、この老人は確実に彼女と親しい人物のはず。

 

「ああ。あの子は親友に似て針仕事が得意だったからな」

 

「なら、僕もその人が作ったものを買いに行きたいなあ……なんて」

 

「ほう。お前さん、若いのにこういうのに興味あるのか?」

 

「ええ、それなりに」

 

ロックはこの機を逃すまいと小さな嘘をつく。見抜かれないよう、口の端を上げたまま返答する。

 

老人も「ほう」とロックに興味を示し、微笑みを携えたまま話を続ける。

 

「はは、それは嬉しいことを言ってくれる。死んだ親友もあの世で喜ぶだろう。だが、残念ながらそれは叶わないぞ」

 

「……何故ですか?」

 

「今は遠いところにいるからな。心苦しいが、諦めてくれ」

 

老人の柔和な笑みが、その時ほんの少しだけ何かが変わったのをロックは見逃さなかった。

 

 

その表情に何も言い返せないでいると、老人は大事そうにハンカチを袖へ戻す。

 

 

「すまないが、儂はこの後用事があるんでな。もう少し話していたいがこれで失礼する。それとこれはほんのお礼だ。釣りは取っておきなさい」

 

老人はそう言いながらテーブルの上に何かを置いた。目の前に置かれた一万円札にロックは目を見開き、咄嗟に声を上げる。

 

「え、こんなに!? いやいや、大丈夫ですよ!」

 

「大事な物を拾ってくれたのと、老人の話に付き合ってくれたお礼だ」

 

「でも」

 

「老人の厚意は素直に受け取っておくものだ、青年。じゃあな」

 

「あ、あの……!」

 

ロックの声を聞きいれることはなく、老人は真っすぐレジへと向かっていった。

手早く会計を済ませると、今度はハンカチを落とすことなく外へ出て行った。

 

その様を呆然と眺め、老人の姿が見えなくなると困ったように眉を寄せ「……はあ」とため息を吐く。

ロックの中には、大きな魚を取り逃がしたような悔しさ。そして先程の老人に対しての疑念が残っていた。

 

 

その思いを、声音に乗せて呟く。

 

 

「……折角のチャンスだったのにな」

 

 

 

雪緒の苗字が鷲峰だと言う衝撃は、もう彼の中から消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

喫茶店を出ると、老人は停まっている車の前まで杖をつきながら歩みを進める。

助手席に座っていた黒髪をオールバックにし眼鏡をかけた男は、老人が近づいてきたのを目に留め外へ出る。

 

 

老人が車の前まで近づくと、オールバックの男は後部座席のドアを開けた。

 

 

 

「待たせたな」

 

「随分遅かったですね。何かあったんで?」

 

「なに、ちょっとばかし青年と話をしていただけだ」

 

「青年?」

 

「ただの堅気だ。そう眉間に皺を寄せるな」

 

言葉を交わしながら車へ乗り込んだのを確認しドアを閉めた。

そのまま助手席へ戻りシートベルトを締めると、運転手に「出せ」と声をかける。

エンジン音がかかり、ゆっくりと雪道を進んでいく。

 

 

「それで、例の件はどうだ」

 

「まだ手を切る動きは見られません。やはり忠告したほうが良かったのでは」

 

「今はまだ様子見だ。儂らが手を出すには早い」

 

「ですが」

 

「向こうの出方を探るのも一つの手だ。焦る気持ちは分かるが、ちったあ落ち着け佐伯」

 

「……すんません」

 

佐伯と呼ばれた男は座ったまま頭を下げた。

 

「もう一方は」

 

「そっちに関してはもう証拠を掴んでます。予想通りあそこの下っ端が出処でした。自分の組が慌ただしい時に乗じてってところかと」

 

「どこにでもいるもんだな。そういう馬鹿な野郎ってのは」

 

老人は呆れたような表情で小さく息を吐いた。

佐伯はどことなく苛立っているような空気を感じ取りながら、恐る恐る言葉をかける。

 

「それも含めて今はまだ様子見を?」

 

「いや、先にそっちを片付ける。本題に持ち込むための材料でもあるからな。早く揃えるに越したことはない。すぐ動けるようにしとけと全員に伝えろ」

 

「は」

 

佐伯は老人の言葉を聞き、短く返答する。

二人の会話を傍から聞いていた運転手は「それにしても」と真剣な表情で話し出す。

 

「ウチの縄張り(シマ)でヤクばら撒いたなんて、あいつら何考えてんですかね」

 

「いや、あれは多分単独だろう。組絡みで動いてるってんならもうちっと上手くやるはずだからな」

 

「出処の野郎は外人と一緒にいたんですよ? 組がロシア人と手を結んでる時点で黒に近いと思いますが」

 

「高橋、憶測で物を言うなと言っているだろう。ま、そう考えるのが妥当だろうがな」

 

「じゃあ」

 

「それも含めてアイツに話を持ち掛ける。そん時にその怒りを爆発させろ。今は抑えんか」

 

「……はい」

 

老人のその言葉に、運転手――高橋のハンドルを握る力が少し弱まった。

前にいる二人の様子を後ろで眺め、口の端を上げながら言葉をかける。

 

「お前達には先頭に立って暴れてもらう。相手は取るに足らないチンピラだ。血気盛んなお前らには役不足かもしれんが」

 

「相手がどんな奴だろうとツケは払ってもらわないとでしょう。まあ、チンピラだろうとぶん殴れば少しは気が晴れる」

 

「というより、気が晴れるまで相手をしてもらうつもりですけどね」

 

「はっはっは、相変わらずだなお前達は。こりゃ、しばらく儂の出番はなさそうだ」

 

「残念そうにしないでください。チンピラの相手は俺達に任せて、いざって時に腰を上げてください。親父」

 

 

 

佐伯の言葉に老人――藤崎 仁は苦笑を浮かべ杖を撫でる。

 

 

 

 

「儂もまだまだ動けるんだがなあ」

 

 

 

 

そう残念そうに呟かれた言葉に、前の二人は同時にため息を吐きそうになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

喫茶店を出て、雪緒は真っすぐ帰路に着いていた。

雪が積もっている道を数十分歩けば、見慣れた家が見てくる。

 

“鷲峰”と書かれた表札が下がっている大きな家屋。

 

 

どこか厳かな雰囲気も漂っている玄関へ躊躇いもなく入っていく。

 

 

綺麗に並べられた靴が一つ置いてあり、雪緒はその靴の主が誰なのか一瞬で理解する。

 

 

広い廊下を進んでいくと、客人と自身を守ってくれている男の話声が聞こえてきた。

 

「……それは本当ですかい」

 

「ああ、そうや……思ったより早い帰り……」

 

「親っさんのことだ……ずっとこっちの情報を把握して」

 

 

話し声のする部屋へ近づいて行けば、段々話の内容がはっきりと耳に入る。

 

 

「香砂と儂らだけの喧嘩ならまだ手切れ金で片がついた。だが、もしロシア人共があの組のシマ荒してみい。関東から追い出されるだけマシ。下手したら儂ら全員首を吊ることになるで」

 

「それだけはなんとしてでも止めなきゃならねえ」

 

「ああ。だからあん人が帰ってきたっちゅうなら話をせんといかん。ロシア人に手を出される前にな」

 

 

雪緒は部屋の前で立ち止まり、黙って話を聞いている。

一瞬躊躇った後、意を決して戸襖に手を伸ばす。

 

 

部屋の中には、夕食が並んでいる座卓を囲んでいる坂東と銀次の姿があった。

 

「お嬢、帰っておられたんでっか」

 

「気づきませんでとんだ失礼を」

 

「……坂東さん。今のお話、詳しく聞かせていただけますか」

 

 

 

雪緒は真剣な表情で目の前の二人を見据え声をかける。その表情に、二人はお互い目を合わせ少し眉を寄せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




極道が出てくる話では、すごい貫禄あるご老人が割と好きです。
普段穏やかなおじいちゃんなのに、実はすごい人だったというパターンも好物。

趣味全開ッ!!


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47 散りゆく花

 

高級ホテルの食事スペースで、二組の男女が同じテーブルを囲んでいた。

バラライカとボリス、そしてロックとレヴィ。

それぞれ別のモノを口にし朝食を摂っている中、ロシアンティーを飲んでいるバラライカが凛とした声音で話を切り出す。

 

「軍曹、鷲峰組からは何か?」

 

「いえ、まだ検討中かと」

 

「時間の無駄だな。その他の動きは」

 

「香砂会組長と事務所へ機動隊を張り付け襲撃に備える模様。〇六〇〇時に鷲峰組事務所に捜査課の警官が事情聴取へ」

 

「順調そのものだな。予定通り、明日には本隊をマリアザレスカ号に移動させる」

 

「ラプチェフ頭目にこのことは?」

 

「教える必要はない。大頭目にも裁可を取っている。何一つ為せなかった人間にはせめて死に様で役に立ってもらおう、ということだ」

 

新しい葉巻の先端をシガーカッターで切り取りながら冷笑を浮かべ淡々と告げた。

レヴィとロックは二人の会話をただ朝食を口に運びながら黙って聞いている。

 

紫煙を燻らせ、バラライカは話を続ける。

 

 

「“彼”の方は?」

 

「彼自身は昨日帰宅してからは何も。ですが、組員を総動員し縄張りを見張っているようです」

 

「目的は」

 

「現状不明です。恐らくこちらの動きを見定めているのかもしれません」

 

「自分の縄張りが侵されていないか調べているだけ、とも考えられる。まだ彼からコンタクトはこないと見るべきだろう」

 

「そろそろ仕掛けますか」

 

「いや、まだだ。我々もしばらく様子を見る」

 

「了解」

 

どことなく愉しそうな表情を浮かべているバラライカの話をロックはあることを考えながら聞いていた。

 

 

それは、喫茶店で話した少女の事。

もし雪緒が鷲峰組の関係者であるなら、確実にバラライカが引き起こす荒事に巻き込まれる。

 

裏の世界と何も関係がない普通の人間が巻き込まれることに何の感情も湧き出てこない程、ロックはまだ“染まりきっていなかった”。

 

 

 

「……あの、バラライカさん」

 

「あら、なあに?」

 

ロックは自身の気持ちを悟られないよう、必死に冷静を装い意を決してバラライカへ声をかけた。

 

「その、もし鷲峰組が協定を破棄する場合」

 

「ロック、貴方に何か関係が?」

 

「いえ……」

 

「そうよね? 居るべきところを間違えるのはよくないわ」

 

バラライカは淡々とした声音ででロックを突き放す。今自身の雇い主である彼女の様子に、ロックは押し黙った。

 

「つれねえな姐御、いいじゃねえかよ」

 

沈黙が流れかけた瞬間待ったをかけたのは、朝食を頬張っているレヴィだった。

 

「別段秘密の話でもないんだろ? 教えてやんなよ、聞きたいって言ってんだから」

 

「えらく肩を持つじゃない、二挺拳銃。沈黙は金」

 

「そらまあそうだけどよ、ロックは身内だろ。互いの信頼も大事なんじゃねえのか」

 

「口が達者になったわね。まあいいわ」

 

レヴィの言葉に、バラライカは煙を吐き出しながら再びロックの方へ目を向ける。

ごくり、と固唾を飲みながらロックは黙って話の続きを待つ。

 

 

「ロック、この前の会合で私が出した男の名前覚えてる?」

 

「……確か、藤崎仁だと」

 

「その男の事は、この前あなた達も聞いていたわよね」

 

「はい」

 

「ああ」

 

 

 

 

“――我々ホテル・モスクワは、彼を関東和平会の最高権力者とみなしています”

 

 

 

 

ロックは自分が通訳し伝えた言葉を思い出す。

世界にも名を馳せているロシアンマフィアが一目置いている人物が、まさか日本にいるとは思っていなかった。

その人物の名前を出した途端あの場にいた鷲峰組全員が動揺していたことから、その人物は彼ら極道者にとって大物なのだとロックはその時認識した。

 

 

「藤崎組は私達のように外から来た者を好きにさせないよう上手く動いてる。少しの活動拠点は与えるけどそれ以上幅を利かせないよう圧力をかける。だから私達が確固たる拠点を構えるには彼は少し邪魔なのよ。逆に言えば、藤崎組の力さえあれば後はどうにでもなる。本当はラプチェフが彼の協力を取り付ける役割だったんだけど、彼には荷が重すぎた。だから私達が行かざるを得なくなった。一通り暴れれば彼も出てくるはずだとね。何せ彼は自分の縄張りだけはどんな手段を使ってでも守ろうとする人物らしいから」

 

 

葉巻を口に咥え、バラライカは淡々と話を続ける。

 

 

「そして予想通り、私達の動きを聞きつけた藤崎仁が予定よりも早く自分の縄張りに帰ってきた。つまり彼が動き始めようとしている今、もう鷲峰の協力はほぼ必要ない」

 

「え……」

 

「彼らの役目は私達に暴れる理由を与えてくれること、ただそれだけ。その役目を彼らはちゃんと全うしてくれた。だからもう用済みと言っても過言じゃないわ」

 

「それはつまり……鷲峰組と争うってことですか?」

 

「彼らが私達の邪魔をするならそうなるわ。だけど鷲峰組が藤崎組や香砂会に牙を向ける覚悟を決めたなら、しばらく協力関係はそのまま。とどのつまり、向こうの出方次第ってところよ」

 

「……」

 

バラライカの口から告げられた内容に、ロックは思わず眉根を寄せた。

彼女が言っているのは鷲峰組はあくまで目的のための手段。つまり、藤崎仁とやらと連携するための踏み台であるということ。

なら目標を達成した時、鷲峰組はどうなるのか。

 

「バラライカさん。藤崎仁と協力関係にこぎつけた場合、鷲峰組は」

 

「そうねえ。そうなった後は彼の采配に任せるってところかしら。日本人のことは日本人に任せるしかないから」

 

「……」

 

「まあ、でも」

 

 

バラライカはそこで言葉を区切り、ニヤリと口元を歪める。

 

 

 

「これまで歓迎してこなかったよそ者に協力した人間を、彼は許すかしらね」

 

 

 

まるで鷲峰組が決して無事では済まされない事を見抜いているかのような言い方に、ロックの心中は更に穏やかさが無くなっていく。

 

 

 

そして愉し気に言い放った彼女は、やはりロアナプラの支配者の一人なのだと改めて思い知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

「――どの国でもこういう場所は辛気臭いな」

 

東京の中心街から少し離れた場所。そこは多くの墓石が並ぶ大きな墓地。

誰一人いない中、雪道を黒髪に茶色の瞳をした高身長の男は歩いていた。

右手には数本の紫の花。左手にはベージュのロングコートのポケットから取り出した一つの紙切れを持っている。男は紙切れと墓石を交互に見ながら、歩みを進めていく。

 

 

 

ひたすら歩き、やがて一つの墓の前で足を止めた。

その墓石には、“重富春太之墓”と刻まれている。

 

そして墓石の前では初老の女性が一人、線香をあげ手を合わせている最中だった。

日本での墓参りのマナーは知識として知っていたお陰で、ヨーロッパ系の顔つきをした男は邪魔をしないでおこうと女性が動き出すまで待つことにした。

 

――数分後、女性はやがて徐に腰を上げ後ろを振り向いた。

気配を感じていなかったのか、黙って突っ立っている男を見て女性は驚いたような表情を見せる。

 

 

一呼吸間を空けた後、男から先に口を開いた。

 

 

「オドロカセてしまいスミマセン。ここは、ハルタ・シゲトミのハカでマチガイナイでショウカ?」

 

「え、ええ。あなた、外人さん?」

 

「ハイ。カレがイタリアにイタトキ、セワにナリマシタ」

 

女性は戸惑いながらも、柔らかい口調で男の質問に答えた。

男も柔和な笑みを浮かべ、片言で女性との話に応じる。

男の答えに「まあ」と女性は嬉しそうな表情を浮かべ、再び口を開く。

 

「そうなの。日本語お上手ねえ」

 

「ソレホドデモ」

 

「あなたも彼の服、着たことあるの?」

 

「エエ。トテモステキナフクをシタテテモライマシた」

 

「あら、じゃあ私達揃って彼のファンってことになるわねえ」

 

「ソウデスネ。ホントウに、ナクナラレタのがザンネンです」

 

「……そうね」

 

眉を下げ、寂しそうに男は微笑んだ。

その表情に釣られ、女性も一呼吸間をおいて言葉を発した。

 

少しの沈黙の後、女性は墓を見ながらぽつぽつと喋りだす。

 

「彼はとても素晴らしい仕立て屋さんだったわ。人柄の良さなのか、皆彼の事が大好きで。亡くなった今でも色んな人が墓参りに来るのよ」

 

「……」

 

「特にたった一人のお弟子さんはものすごく彼を尊敬しててね。だから彼が亡くなった時、誰よりもショックを受けてしばらく引き籠っちゃって……。だけどね、何か月かした後その子が重富の看板を掲げてまた商売を始めたの。それを聞いた時、私も含めて沢山の人が喜んだわ」

 

「……」

 

「でもまさか、あんな事が起こるなんて思わなかったわね」

 

「……アンナコト?」

 

男はしばらく黙って聞いていたが、衝動的に疑問を口にする。

女性は男の期待に応えるように話を続ける。

 

「お弟子さん、商売を再開して数か月後に亡くなったのよ。それも、父親と無理心中したって」

 

「……オヤと、シンジュウ?」

 

知らない。そんな情報どこにもなかった。

これまでいくら調べても重富春太の弟子について何も出てこない。

何の手がかりもないのかと諦めていた。

 

だが、目の前の女性は自身が知ることができなかった貴重な情報を持っている。

これは絶好のチャンスだと男は心の中でほくそ笑んだ。心の内を悟られないよう、真剣な表情を浮かべる。

 

 

「ドウシて、ソンナことシタンデショウか」

 

「お弟子さんとお父さん、何年も会ってなかったらしいの。自分の子供に会えなくて自暴自棄になった父親が無理矢理……って聞いたわ」

 

「ソンなハナシ、ハジメテキキマしタ」

 

「無理心中の話は当時すごいニュースになってたけど、その子が重富さんのお弟子さんっていうのはあまり知られてないの。彼もお弟子さんもあまり外に出たがらなかった上にしばらく海外へ行っていたから」

 

「……ナラ、ドウシテあなたはそのジョウホウをシッテイルノですか?」

 

「私は重富さんが洋裁屋を始めた時からの知人だったの。そのお弟子さんとも少し仲良かったのよ」

 

彼女の言葉に思わず目を見開く。

そして、緊張で心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。

目の前の女性は自分が一番知りたい情報を確実に持っている。

 

ここで逃がしたらもう二度と手に入らない。

久々に味わう失敗できないという緊張感の中唾を飲み込み、徐に言葉を発する。

 

「ゼヒ、ソノオデシサンのオハカにもオジャマシタイデス。オデシサンのオナマエをオシエテクダサイ」

 

「……遠路遥々、外国からこっちに来たんだものね。アナタになら教えても大丈夫でしょう」

 

女性は微笑みを浮かべ、再び柔らかな声音を出した。

男は無意識に花を持っている手に力を入れ、彼女からの答えを待つ。

 

「あの子の名前はね――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ちょっとした報告をするつもりで来ただけだったんだが、まさかこんなところで貴重な情報を手に入れられるとは。二時間以上かけて来た甲斐があった」

 

女性とひとしきり喋った後も、男は一人墓の前に立っていた。人一人いない中、イタリア語で墓に語りかけている。

 

「あんたの弟子、ホント不幸な体質だよな。何があったのかは知らねえが、親と無理心中っていう汚名を着せられている上にあの街に住んでるんだからよ」

 

一切光が入っていない底の深い暗さを持った瞳で墓を見据え、冷笑を浮かべる。

 

「知ってるか? あんたの弟子、今は“キキョウ”って名乗って世界中の悪党どもが集う街で身一つで洋裁屋営んでんだ。しかもマフィアに媚び売って、今じゃ香港マフィア野郎の妾になってる。……可哀想だなあ、たった一人の弟子がそんな売女に成り下がっちまって」

 

 

鼻で笑い、憐れむような目線を墓に注ぐ。

 

 

 

「あんたもそっちで何時までも一人じゃ寂しいだろ? 哀れな弟子で喜ぶかは分からねえが、俺が直にそっちに送ってやる。まあ、行先が地獄なのか天国なのかは知らねえがな。あ、言っとくが殺さないって選択肢はねえぞ。“あの人”を追いやった罪は、命で償ってもらわねえとな」

 

 

 

くくっ、と一つ笑い、男は持っていた花束の包装を丁寧に外す。続いてポケットからライターを取り出し火を点けた。

 

 

 

 

 

「本当、ここに来れてよかったよ」

 

 

 

 

嬉しそうな表情を浮かべそう呟いたのと同時に、ライターの火へ花を近づける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――そして、すぐさますべての花に火が移る。

男は見せつけるように花を前に突き出し、燃えている様を眺めた。

 

やがて手元に火が来る前に雪が積もっている地面に落とす。火が小さくなったのを見やり、男は追い打ちをかけるように花を踏みつぶした。

 

 

 

 

 

 

綺麗に咲いていた桔梗の花の残骸を残し、男は口元を歪めながらその場を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

鷲峰組本邸で雪緒や銀次と夕食を摂った後、坂東は一人雪道をひたすら歩いていた。

白い息を吐きながら、亡き組長の一人娘と若頭代行との先程の会話を思い返す。

 

『――あたしは反対だ。お嬢にゃ何の関係もねえ話だ』

 

『銀公、お嬢はなんのかのいうても親父の直系や。身の振り考えていただく猶予は必要やろ』

 

『冗談じゃねえ。親父の命に逆らうんですか』

 

『銀さん、関係なくはないんです。……私はこの家で育った、鷲峰龍三の娘です。関係ないなんて、言えないんですよ』

 

そう言い放った彼女の表情はどこか戸惑いが滲んでいたのを坂東は分かっていた。

だが、それでも話を聞かせないわけにはいかなかった。

 

『実を言うと、親父が忌んで最初の総会でほぼ鷲峰組を解体するっつう方針になりかけとったんです。上納金もろくに納められん組を存続させる理由はない言うて、香砂は強引に解体にこぎつけようとしとった。――そこに待ったをかけてくれたのが藤崎の親っさんだった』

 

『藤崎……』

 

『親父の葬儀ん時に香砂政巳や他の組長達が頭を下げていたご老人、覚えておりやせんか?』

 

『……あの人が?』

 

『関東和平会を立ち上げた大物ですわ。親父もあん人には世話になったとよう話を聞かせてくれた。とにかく、そん人が総会ん時なんとか解体を免れるよう納めてくれたんやが、あの香砂が素直に首を縦に振るわけがなかった。組を解体しない条件として、直系が組長を継げと言ってきやがった』

 

『それじゃあ』

 

『そう、直系だ。そりゃお嬢しかいねえんです』

 

『藤崎の親っさんもそれはあまりにも横暴だと言ってくれたんやが、いくらあん人でも親と子の関係にそこまで強く口出しはできへん。ならせめて代行を送るっちゅう事で話はついた。今の鷲峰組は、親っさんのおかげで首の皮一枚繋がっとる』

 

『だが、その代行もろくなもんじゃなかった。うちの縄張りを内側から狭めて、尚且つ盃の格を下げる。じわじわ首を締めにきやがる』

 

『だから、和平会と何の関係もないロシア人と手を組んだんですか』

 

『ええ。もうこれ以上、親っさんの脛をかじって生き永らえるわけにはいかねえんです。自分らの組の事は自分らで立て直さなあかんでしょう――』

 

そう。自分たちの事は自分たちで何とかしなければならない。

だからこそ、関東和平会の枠組みに当てはまらないよそ者と手を組んだ。

だが、こちらのルールを一切無視し、何もかも荒そうとすることまで予想ができなかった。

 

それが自分の最大の過ちだったことを、坂東は雪緒に話を聞かせている間改めて自覚した。

 

己のせいで組にとって大恩ある人物に火の粉が降りかかろうとしている。

その火の粉がかかったら最後。組員だけでなくもしかしたら雪緒まで巻き込んでしまうかもしれない。

 

さく、さくと雪道に足跡をつけながら、坂東は灰色の空を見上げ盛大に息を洩らす。

 

やがて意を決したように、コートのポケットから携帯電話を取り出した。

ある番号の一桁目を押した瞬間、数歩先に一台の車が停まっているのが目に入る。

その銀色の車の前には、黒髪のオールバックに眼鏡をかけた男が煙草を吸いながら立っていた。

 

男の姿をはっきり目に映すと、携帯電話をポケットの中に戻し真剣な面持ちで近づいていく。男は近づいてくる坂東に気づくと煙草を携帯用灰皿に入れ、眼鏡の奥から坂東を見据え口を開いた。

 

「よう坂東、久しぶりだな」

 

「お久しぶりですな、佐伯さん」

 

「散歩か?」

 

「いや、今から帰るとこですわ。佐伯さんはどうしてここにいらっしゃるんで?」

 

「親父の使いでな。――自ら手を組んだロシア人の事で手をこまねいているはずの男を迎えに行けとな」

 

「……」

 

佐伯の言葉に坂東は目を見開いた。

やがて納得したように徐に目を閉じ、深く息を吸って吐いた。

 

「藤崎組の若頭に迎えに来てもらえるとは、こりゃ贅沢ですな」

 

「軽口を叩くくらいには元気そうでよかったよ。……覚悟はできてんだろうな」

 

「親を刺そうとした時からとっくに決めとりますよ」

 

「そうか。じゃ、早速このまま向かうぞ。乗れ」

 

「へい」

 

佐伯はそう言うとすぐさま助手席へ乗る。運転席には佐伯と行動をほぼ共にしている高橋が座っていた。

坂東は一呼吸間を空けた後、後部座席へ乗り込んだ。

バックミラー越しに高橋が見据える中、坂東は徐に彼にも声をかける。

 

「すんませんなあ、高橋さん。あんたにも迎えに来ていただいて」

 

「……敬語はやめてくださいよ坂東さん。俺はあんたよりも遅くこの世界に入ったんだから」

 

「そういう訳にはいかんでしょうや」

 

ほんの少し口の端を上げている坂東とは対照的に高橋は無表情で言葉を交わす。

 

「出せ、高橋」

 

エンジン音が響き、ゆっくりと車が動き始める。

目的地に着くまで誰一人言葉を発さず、ただ殺伐とした空気が充満していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐伯と高橋に車で連れられた先は、鷲峰組本家よりも遥かに広い日本家屋。

若頭である佐伯に着いて行き大きな門を潜る。廊下を歩いていくと、これもまた広い庭園が見えてくる。

砂利が敷き詰められたその庭には、葉一つない寂れた桜の木が一本聳えている。

桜の木を一瞥し、数か月後には満開に咲くであろう様を思い浮かべた後すぐさま視線を再び佐伯の背へと向けながら歩みを進める。

 

しばらく歩いていれば、ふと佐伯が一つの部屋の前で足を止め部屋の向こうに声をかける。

 

「親父、連れてきました」

 

「入れ」

 

「失礼します」

 

部屋の中から聞こえてきた声に、坂東は一気に凄まじい緊張に覆われた。

その心情を知ってか知らずか、佐伯は躊躇いなく襖を開ける。

 

 

 

広い畳の部屋の奥には、悠然と居座っている老人が一人。

 

 

 

「よう坂東、久しぶりだな」

 

「お久しぶりです、藤崎の親っさん」

 

「立ち話もなんだ。まあ座れ」

 

「失礼しやす」

 

坂東にとって普通ならこうして会うことも言葉を交わすことも叶わない人物。

極道者の頂点として名高い藤崎組組長の視線は、真っすぐ坂東を射貫いていた。

 

だが、極道者の端くれとして。一つの組を背負うものとして怖気づくわけにはいかなかった。

しっかりとした足取りで中に入り、藤崎仁と向かい合わせるかのように置かれている座布団の上に正座する。

 

「佐伯、表に出てろ。二人きりで話がしたい」

 

「は」

 

短くそう告げると、佐伯は言葉通り颯爽と部屋を出た。ぱたん、と襖が閉まる音が静けさが落ちている部屋に響く。

藤崎と坂東はお互い見据えたまま、一向に口を開かない。

 

坂東は心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、ただ相手からの言葉を待つ。

 

この場で先に口を出せる権利など己にはない。

それほどの事をしでかした。当然のことだ。

 

自身にそう言い聞かせながら、己を見据える瞳から逃げないよう真っ向から見つめ返す。

 

 

 

 

――しばらくした後、やがて先に動いたのは仁の方だった。

 

 

 

 

「自分の立場は理解してるようだな。それだけは褒めてやる」

 

「……」

 

「さて、言い訳を聞かせてもらおうか? 他でもないお前の口からな」

 

「……はい」

 

一言一言が全て重い。

その重さに押しつぶされそうになりながらも、坂東は何とか言葉を紡ぎ続ける。

 

 

 

 

 

代行人を抑えるのは限界であること。

自分たちの組の事は自分たちで何とかしなければならない。故に行動を起こしたこと。

ロシア人なら和平会に囚われることなく動いてくれると考え手を組んだこと。

藤崎仁にこれ以上甘えるわけにはいかないこと。

 

 

 

――それら全てを吐き出した。

 

 

 

 

仁は坂東の話に呆れることも嘲笑するでもなく、ひたすら真剣な表情で耳を傾けた。

 

話を終え、拳を握り眉根を寄せている坂東を見据え徐に口を開く。

 

「全くお前は。どうしてそう切羽詰まる前に儂に……いや、もう儂には頼りたくないんだったな」

 

「……」

 

「まあ、それはもういい。起きちまったことは変わらん。今は先の話をしようか」

 

鋭い視線を向け、低い声音へと変わる。

 

「お前、儂が外のモンからの圧力を抑えるために動いていたのは知ってたはずだよな?

そんなお前が自ら露助を手引きした。そのおかげで、儂のこれまでの行動全てが水の泡となってもおかしくない状況になっている」

 

「……」

 

「お前、この落とし前どうつけるつもりだ」

 

その言葉に更に拳を握る力を強めながら、坂東は自身の考えを言葉にする。

 

「ロシア人のボスと話をつけます。何があろうと、これ以上親っさんに迷惑は」

 

「あの暴風雨のような露助に話が通じると思ってんのか? ラプチェフが相手ならまだしも、武力に特化したマフィアなら話が違ってくる。東京でも力がある香砂でさえ抑えられてねえ相手をお前ひとりでどうにかできるなんてのは甘い考えだ」

 

「……」

 

「それとも、刺し違えようって考えだったか?」

 

瞬間、飛んできた言葉に思わず目を見開いた。

その表情を見逃すわけがなく、仁は「図星か」と呆れたように呟く。

 

「そうしたところでお前が死ぬだけで、向こうはただ好きに暴れるのは変わらんぞ」

 

「な……」

 

「そうだろうが。相手は一等暴力に長けた人間だぞ? その頭となれば一筋縄じゃいかねえ。お前がそれを一番理解してんじゃねえのか」

 

「……」

 

「それで、そうなっちまったら残りの鷲峰組の連中はどうするんだ。お前が死んだ後、あいつらがそのまま引っ込むと思うのか」

 

「……」

 

「あいつらも極道者だ。自分たちの頭がロシア人に殺されて黙ってるわけがない」

 

自分の命で事足りるならそれでよかった。

 

しかし、それでは終わらないと目の前の大物は断言している。

 

――だが、それでも坂東には引くわけにはいかない理由があった。

 

「だとしても、これは儂が招いた結果や。なら儂が先にけじめをつけるのが極道の筋ってもんでしょう」

 

組の頭として。一人の極道者として筋を通し死ぬ。

それでしかけじめをつけられないところまで来ていることを坂東は理解していた。

 

「アンタも言ったようにアイツらも極道や。儂が死んだあと、ロシア人と決するゆうならそれも覚悟の上でしょうや」

 

「……」

 

「儂らはアンタも認めた鷲峰龍三の息子や。命の一つや二つ、いつでも捨てる覚悟はできてるさかい」

 

微動だにせず自身を見据える坂東の視線を藤崎は真っ向から浴びる。

覚悟を決めた男の目を、藤崎もまた同じように見つめながら低い声音で言葉を返す。

 

「そう、儂らはそういう生き物だ。筋だ仁義だと言いながら死ぬのが本望。お前らがそう思うのも自然だろうさ。――だが、龍三の娘は違うだろ」

 

「……ッ!」

 

「お前らが居なくなった後、あの娘はどうするんだ」

 

「それ、は」

 

「香砂がそこにつけこまない訳がない」

 

「……お嬢は堅気だ。アイツらもそうそう手出しは」

 

「香砂だけじゃない。ロシア人だって狙いをつけるぞ。人質に取るくらい簡単にできるだろうよ」

 

坂東は藤崎の口から出た人物に思わず動揺する。

先代組長が遺したたった一人の忘れ形見。

彼が心の底からこの世界とは違う平和な人生を歩んでほしいと願った一人娘。

 

 

もし自分たちが居なくなった後、誰が彼女を守ってくれる?

 

 

頼りがない状況で、一体誰が。

 

 

けじめをつけることしか頭になかったせいで、雪緒を蔑ろにしていたことを坂東は今思い知った。

俯きひたすらどうすればいいか頭を回転させていると、藤崎は一呼吸間を空け更に言葉を続ける。

 

 

「それに、お前がけじめをつけるべきものはもう一つある」

 

 

唐突に出された話に、坂東は思わず顔を上げた。仁は着物の袖から数枚の写真を出し話を再開する。

 

「これに写ってる男。お前んとこのもんで間違いねえか?」

 

「……ええ。確かにこいつはウチの若いモンです。こいつが何か?」

 

「やっぱ知らなかったんだな。たく、若いモンの管理もできなかったほど余裕がなかったのか」

 

はあ、とあからさまなため息を吐かれ坂東は眉根を寄せる。一体何の話だと、藤崎からの言葉を待った。

 

「そいつはな、藤崎組(うち)縄張り(シマ)でヤクをバラまいてやがった。しかも、日本じゃ確認されなかった新しいモンだそうだ。警察から色々聞かれたが、儂がその商売を好まんことは奴さんも知っているからな。そこまで大事にはならなかった」

 

「なっ……!」

 

「こいつがロシア人とは別の外人と手を組んで銀座で商売をしてやがった。大元の売人はこのいけ好かない西洋人だが、少なくてもお前んとこの若いモンがヤクを広めたのは確かだ」

 

坂東は仁から聞かされた話に驚きを隠せなかった。

ロシア人絡みでも何でもない部分で、自分の組がすでに藤崎組に喧嘩を売っていたことなど考えもしなかった。

正直今でも信じられない。

 

だが差し出されている数枚の写真には、外人と仲良さげに喋っている自分の組員の姿が写っている。

そして何より、目の前の人物の表情がそれら全てが本当の事なのだと物語っていた。

 

「ロシア人の事だけならまだマシだった。儂の組には今のところ被害も損もなかったからな。だからお前の好きにけじめをつけさせようと思っていた。――だが、これに関しちゃ話は別だ」

 

坂東は頭を押さえつけたくなる感覚に襲われた。

ロシア人や雪緒の事だけでも手一杯だというのに、こんな予想だにしない異常事態にどう対応すればいい。

 

最早思考を動かすことさえ億劫になる。

 

「どちらかと言えばこっちの方をどうにかしてもらいたいんだが……余裕のねえお前にこれ以上求めても何も出ねえだろうな」

 

「……親っさん、そいつについてはロシア人の前に早急に儂らが片をつける。だから」

 

「いや、ここまで事を起こしやがったお前らにはもう何も期待していない。“何もな”」

 

「ッ……!」

 

恩ある御仁にここまで言われてしまえば、もうこちらの言い分は何も通用しないだろう。

けじめをつけようにも、それさえも求められていない。

坂東はあまりにも滑稽な様に、自分で笑いそうになった。

 

何も言い返せないまま黙っている坂東を目に映し、仁は再び口を開く。

 

「だから、お前のけじめのつけ方は儂が決めさせてもらう。それで文句はねえな?」

 

「……え」

 

「あるとは言わせねえぞ。もうお前にはその道しかねえんだ、腹括れ」

 

「……」

 

坂東は仁の言葉に再び目を見開いた。

自分が考えたけじめはつけさせてはくれない。

だが、どんな形であろうと己にけじめをつけさせようとしてくれる彼の裁量に坂東は心の中で感謝した。

 

ここまで来てしまえば、確かに他の道はない。

 

 

 

坂東は一つ息を吐き、やがて床に手をつき頭を下げた。

 

 

 

 

「この坂東次男、どんなけじめも受け入れやす」

 

 

「いい覚悟だ。――極道者らしいじゃねえか、坂東」

 

 

 

 

坂東の上から降り注いだ声には、どこか嬉しそうなものが滲んでいた。









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48 混沌の一歩手前





日本編 六話目です。


 

 

 

 

「――今、なんて言った?」

 

『ですから、客の一人が商品を使用した後死んだみたいで。おまけにその客は友人に宣伝したらしくそこから銀座中に噂が広がった、という状態になってます。警察も動き出してるみたいですし、私達に辿り着くのは時間の問題でしょうね』

 

「そこじゃねえ、その前だ。てめえふざけたこと抜かしたよな?」

 

『よく分かりませんね。どの部分がお気に触ったんでしょうか?』

 

坂東が藤崎仁に呼び出される少し前。チャカは一人、寂れたバーで一人電話片手に英語で誰かと話していた。その顔は、いつになく不機嫌そうな表情を浮かべている。

 

チャカは苛々を隠さず、怒気を孕んだ声音を発する。

 

「“勝手に銀座でバラまいた”、てめえそう言ったよな? なんで俺に黙ってやがった」

 

『正確には銀座近くでですね。いやいや、やはり二、三か月じゃ地理をちゃんと把握するのは難し』

 

「てめえふざけんのも大概にしろよボケが!」

 

聞こえてきた呑気な声音にチャカは怒鳴り声を上げた。

電話の向こうにいる商売仲間に対し、どうしようもない怒りが湧き上がる。

 

 

 

――チャカはこれまで自分のやりたいようにやってきた。

 

 

女を抱いては捨て、気に入らない人間は傷つける。

極道になればより思ったように動けるものだと考え、鷲峰組組員となった。

 

だが、組に入ってからもそこまで以前と変わらない生活。

それどころか理解できない仁義だ筋だのというものに縛られるている人間が上にいるおかげで、自身もそんなつまらないものに付き合わされる始末。

 

“極道は意外とつまらねえな”と退屈にさえ思っていた時、一人の男と出会った。

 

その男は、百八十以上ある長身。金髪に碧眼。

妙に整った身なりをした外国人は、チャカが仕切っている店に現れ、オーナーであるチャカに拙い日本語で話しかけてきた。

 

 

『アナタガ“チャカ”さんデスか?』

 

 

不審に思ったが、外人の客かと英語で喋ると安心したのか流暢な英語で返された。

 

 

『――お楽しみのところお邪魔します。実はビジネスの話をしに来たんです』

 

『ビジネスゥ? 悪いけど、俺は知らねえ人間と手は組まねえんだわ。他当たんなよ』

 

急にやってきたかと思えばそんなつまらない話かとチャカは軽くあしらった。

だがそれで引きはせず、外国人は更に言葉を続ける。

 

『きっと、貴方にとっても悪い話じゃないですよ。上手くいけば、鷲峰組以上の権力と今以上の稼ぎが手に入ります』

 

『……へえ、言うじゃん』

 

その言葉に興味をそそられ言葉を交わせば、面白い話を聞かせてくれた。

 

 

自分は世界中を飛び回っている麻薬の売人で、仕事がしやすい日本に来てみたかったこと。

 

イタリアと香港で麻薬をバラまき、マフィアと警察を同時に相手取って今まで生き延びていること。

 

 

次から次へと出てくる男の話にチャカの興味は尽きなかった。

 

 

 

だが、信用するにはまだ足りない。

 

 

自分にとって有益なのか見極めるため、男が取引の為に持ってきていた麻薬を早速仲間で試してみた。

すると仲間はたちまち興奮し、“最高の気分だ”と言いながら恍惚な表情を浮かべていた。

 

次の日にはもう“あれがないと生きていけない”と言うほどに麻薬の虜になっていた。

 

その麻薬の効果に、男の言葉は過剰表現ではなかったことを確信する。

 

 

“鷲峰以上の権力と稼ぎが手に入る”。

 

 

つまらない日々を送っていたチャカにとって、男からの誘いは刺激的、かつ魅力的なもの。

最早断る理由がどこにもなかった。

 

そこからは二人で色んな場所で麻薬を売り捌いた。

鷲峰組に内緒で自分の利益を増やし、いつ組に歯向かっても損がないように。

 

これまで本当に順調だった。

 

 

 

 

 

 

――そう、ここまでは。

 

 

 

今日もいつも通り仕事の話をしようと予め決めていた集合場所であるバーで待っていた。

だが、いつもなら時間までに必ず来る男がいつまで経っても現れない。

 

痺れを切らし、苛立ちつつ商売仲間へ電話をかける。何回かコール音が鳴り響いた後、相手がやっと通話に応じた。

 

『ああ、貴方ですか』

 

開口一番に聞こえてきたその言葉にチャカは舌打ちするが怒鳴ることはせず、すぐさまどこにいるのかと聞き出そうとした。

だが、その前に相手から予想だにしない話を聞かされた。

 

『丁度報告したいことがありまして。昨日、銀座周辺で商売をしましてね。そこから少し面倒なことに――』

 

 

その話にチャカは目を見開いた。

 

 

銀座はヤクザ者の頂点と言われる藤崎仁が仕切っている縄張り。藤崎仁は鷲峰組だけでなく、東京で一際目立っている香砂会も手が出せない程の大物。

近頃では珍しい、麻薬をとことん嫌っている事でも有名なヤクザ者。

 

その証拠に、これまで自分の縄張りで麻薬を捌いていた人間がどこの組員だろうが外人だろうが全て消されている。

 

裏社会に入って短いチャカは半信半疑ではあったが、念には念を入れようとまだ銀座にだけは踏み入ってなかった。

いつか手を出そうと思っていたが、銀座で動くなら必ず二人でやるべきだと判断しチャカは機会を伺っていた。

そのことを相手にも話していた。向こうも“分かりました”と笑顔で返事していた。

 

だというのに、何故か勝手に行動を起こした。

本当にここまで順調だったというのに、何もかもが台無しになった。

 

 

悪びれもせず軽く言ってのけるその口調にも腹が立つ。

 

 

 

――チャカは怒りを爆発させ、荒々しい口調で相手に言葉を浴びせる。

 

 

「俺言ったよなぁ!? 銀座に手を出すのは藤崎仁が帰ってくるまでの間! だがアイツは予定よりも早く帰ってきた、だから手を出す前にしばらく様子を見る! アンタも俺の話に頷いたよな!? あれはなんだったんだ! ああ!?」

 

『ええ、だから“銀座には”手を出していませんよ? それで問題ないと思ったんですがねえ』

 

「ふざけんなこのクソ外人野郎!! てめえ馬鹿か!? 近くでバラまきゃ広まるのは確実だろうが! んなもん子供でも分かるぞ! それでもプロかよ!」

 

『……』

 

「藤崎仁は根っからのヤク嫌いで有名だ! そんな堅物ジジイがみすみす俺達を見逃すと思うのか!? クソジジイが組を動かしちまえば俺達は消されるんだ!」

 

『……貴方はいつかその縄張りに手を出す気でいたんでしょう? それが早まっただけなのでは』

 

「アイツがいない間にな! テメエのせいで全部台無しだ! 縄張りにさえ入らなきゃまだなんとかなったってのによ!!」

 

『……』

 

どれほど怒鳴ろうと、チャカの怒りが収まることはない。

客が一人しかいない店内で怒鳴り散らしているチャカを、バーの店主がちらちらと様子を窺がっている。

 

チャカは言葉を途切り、酒を一気に飲み干す。

やがて盛大に息を吐いた後、ドスの利いた声音で話し出す。

 

「それで? 律儀に報告したってことは、俺に殺される覚悟はあるんだよな? いや、俺が殺さねえと気が済まねえ」

 

『……』

 

「なあ今どこにいんだよ? 教えてくれや、ジェイクさんよお」

 

『…………』

 

 

男――ジェイクはチャカの質問に答えない。

しばらく経っても返答が来ないことに、チャカは盛大な舌打ちする。

 

 

血管が切れる音と共に再び口を開く。

 

「てめえ、聞こえてんの」

 

『やれやれ、やっぱりただのチンピラと手を組むのは良くないな。前の(よう)の方がプロだった分マシだぞ。チンピラなら単純で動かしやすいかもと選んだわけだが、これはあんまりだ』

 

途端、ジェイクは呆れたような声音でチャカの話を遮った。

先程とはまるで真逆な話し方に、チャカは思わず言葉を止める。

 

『お前、本当に極道者か? にしてはレベルが低すぎるぞ。まるで道を踏み外すのがかっこいいと思っている思春期真っ盛りの子供のようだ。あ、もしかしてヤクザってのはお前みたいな奴ばかりなのか?』

 

「……は、それがテメエの本性ってわけか。丁度いい、俺もあの上っ面な喋り方は気に入らなかったんだ。だがよ、その舐めた言葉は今すぐやめろ。じゃねえと殺すだけじゃ済まねえぞ」

 

『お前のような子供に捕まるほど俺は愚かでも馬鹿でもない。それと、そういう恫喝は自分より強い相手には意味を為さない。覚えておくんだな、坊や』

 

ジェイクの言葉にチャカの怒りは更に募っていく。

挑発しているかの言いぶりに、再び怒鳴り声をあげる。

 

「てめえふざけてんじゃねえぞ! 今すぐぶち殺してやる!」

 

『場所も分からないのにどうやって? はは、後先考えず物を言うとは本当に子供だな。――そんなお前を憐れんで、少しだけヒントを与えてやる』

 

ジェイクはチャカの怒号に怯むどころか鼻で笑いあしらう。

 

少しの間を空けて、携帯電話の向こうから船の汽笛の音が鳴り響いた。

 

『聞こえたか? 俺が今どこにいるのか、これで何となく分かるだろ』

 

「……港か」

 

『正解だ。お馬鹿さんでもこれは簡単だったかな』

 

あまりにも自身を見下している発言に、チャカはとうとうテーブルを叩く。

 

「くそったれが! てめえ逃げるつもりか!」

 

『元々俺の本当の目的は別にあったんだよ。麻薬で金を稼ぐのは単なるおまけ。その目的を果たした今、留まる理由はない。だからこの国を去るだけだ、逃げるわけじゃない』

 

淡々と言葉を投げた後、息を吐く音がする。

煙草を吸っているのかはたまた寒さのせいなのかは分からないが、それがため息にも聞こえチャカは更に苛々を募らせる。

だが、ジェイクはチャカが声を出すのを遮るようにすぐさま話を再開する。

 

『フジサキってのは麻薬が嫌いなんだろ? じゃあお前を放っておくわけがないな。俺の分まで麻薬をバラまいた張本人としてしっかり罰を受けてくれ』

 

「ふざけんな、なんで俺が! 大体てめえが持ち出した話だろ! 全部俺になすりつけようたってそうは」

 

『俺がこの国を去れば怒りの矛先は全てお前に向く。そういうもんだ。……残念だが時間だ。最期までせいぜい足掻いてみろ。ま、お前のようなガキはすぐ死ぬのがオチだろうがな』

 

「待て、まだ話は……!」

 

Addio,ragazzo.(じゃあな、坊や)

 

 

 

ジェイクはイタリア語で告げた後、チャカの言葉を待つことなく通話を切る。機械音が流れた後、チャカは乱暴な手つきですぐさまかけ直す。

 

 

 

『――お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』

 

 

 

舌打ちし、再び同じ番号にかける。

 

だが、何度かけ直しても同じアナウンスが流れるだけ。

 

チャカはわなわなと手を震わせ、テーブルを強く叩き、より一層声を荒げた。

 

「くそが! あのクソ外人野郎! 舐めた真似しやがってッ!!」

 

チャカの様子をずっと窺がっていた店主が、一番激しい怒号にびく、と肩を震わせた。

 

「ぜってえぶち殺してやる!!」

 

そう言って席を立ち、苛立ちをぶつけるように自身が座っていた椅子を蹴る。

 

 

舌打ちし、店のドアへと向かいそのまま外へと出ていった。

 

 

 

 

しん、と静まり返ったバーでは「お代……」と呟く店主が一人残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――面白いくらい同じことしか言わなかったなあの坊や。子供のまま大人になったってのを見事に体現してた」

 

汽笛が鳴り響く大型の客船の一室で、一人の男が窓から覗く夕焼けの海を眺めていた。

 

上着のポケットからCamelと書かれた箱を手に取り、一本の煙草を取り出す。

ライターで火を点け、煙を吐きながら傍らに置いてある黒いバッグへ手を伸ばす。

 

 

中から何枚かの紙を出し、書かれている文字を目に映す。

 

 

男が手にしている書類には、一人の女性の顔写真。

そしてその女性についての経歴が全て書かれていた。

 

 

男は文字を目で追いながら、上機嫌な声音で呟き始める。

 

 

「まさか、こんなことがあったなんてなあ。政治界の沽券とやらに関わってくる話だ。そりゃ隠したくもなる」

 

 

煙草の灰を灰皿に落とし、再び煙を吐き出す。

 

 

「おかげで警官にまで扮装する羽目になったが、これは確実にあの女を地獄に落とすためのカードになる。手間をかけた甲斐があった」

 

 

男は写真に写っている女性の顔を見つめ、ニヤリと口の端を上げる。

 

 

 

「次はとうとうあの街だ。――待ち遠しいな」

 

 

 

 

 

男の呟きは、出航を告げる汽笛に掻き消されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――とある地下駐車場。多くの車が停まっている場所に、三人の人影があった。

坂東とバラライカ。そして通訳で連れてこられたロック。

 

坂東は真剣な面持ちで目の前のロシアンマフィアを見据えていた。

そんな坂東へ余裕そうな笑みを浮かべながらバラライカは声をかける。

 

さしの会談にしては面白い場所を選んだものですね。それで、方針とやらはお決めになって?

 

「……」

 

極道者である二人はお互い一切目を逸らさない。二人が生み出している異様な雰囲気にロックは固唾を飲んで様子を見守るしかできなかった。

 

沈黙が少し流れた後、やがて徐に坂東は口を開く。

 

「姐さん、今いっぺん聞きまっせ。肩ァ並べて、一緒にやってく気はおまへんのか」

 

それは私に問う事ではありません。あなた方が問われること。“全ての決定権はこちらにある”こと、お忘れですか?

 

「……そうか。そう言う事なら、もう手を組むことはできへんな」

 

すかさず冷淡な声音で返ってきた言葉に、坂東は眉一つ動かさずただ一言そう呟いた。

 

残念です。今暫く続いていれば、こちらも気が楽だったのですが。まあ些細な事だ。気にしたところで仕方ない

 

「残念、か」

 

途端、坂東はふっ、と初めて笑みを見せた。

 

「最初から鷲峰組(うち)をダシに使うとしたくせによう言うわ」

 

……さあ、何のことでしょう

 

鼻で笑いながら言われた言葉に、バラライカは笑みを消す。

 

「今更とぼけんでもええわ。――あんたらの狙いは藤崎の親っさんただ一人。あん人はあんたら外人にとって邪魔な存在に外ならん。だが潰すにはあまりにも大きすぎる。だから真っ向から潰すよりも協力関係にこぎつけることを選んだ。儂らや香砂会はその土台に過ぎん」

 

「……」

 

「あんたらのこれまでの動きを見返せば考えつくわ。……親っさんが動き始めた今、儂らはお払い箱。元々、肩を並べるどころか切り捨てるつもりやった。そうやろ?」

 

坂東は間を空けることなく次々と言葉を投げかけた。

ロックは戸惑いながらもバラライカへ坂東の言葉を伝える。

 

ロックの通訳を聞き終えた後、バラライカは鋭い視線を向けた。

 

そんなバラライカの視線を浴びても尚、坂東は笑みを浮かべたまま話を続ける。

 

「あんたら、本気であん人に取り入ろうとしとるんか? なら短い間であろうと手を組んだ仲や。教えといたるわ」

 

坂東はコートのポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

煙を吐きながら、口の端を上げたまま話を続ける。

 

「あん人は外人をとことん毛嫌いしとる。ちっとやそっとじゃあんたらの思い通りにはならへんで」

 

……ご忠告どうも。もう話は終わりかしら?

 

「まだや。――まだ始末が残っとる」

 

低い声音で言い放ち、吸い始めたばかりの煙草を地面に落とす。

同時に坂東の懐から出てきたのは――白鞘の短刀。

 

 

鞘から刃を抜き、殺意をバラライカへ向ける。

 

バラライカを射貫くその視線は、刃に劣らなない鋭いもの。

 

 

「儂は……儂らは親っさんに恩がある。このままアンタを、みすみす放っておく訳にはいかんのやッ!!」

 

坂東はそう叫ぶと勢いよく駆け出した。怒りを刃先に込め、一気に距離を縮ませバラライカの体へ突き刺そうとする。

だが、相手はかつて第三次世界大戦を迎えるために鍛えられた元軍人。殺し合いにおいてこの場で彼女の右に出るものはいない。

バラライカは真っすぐ突っ込んできた坂東の顔を肘で殴る。衝撃で意識を失いかけた短い時間の中で、坂東の左腕から鈍い音が響く。

倒れる寸前の坂東の背後へと回り、コートの襟を持ち上げ無理矢理立たせる。

 

そのまま流れるように首を絞め、苦痛の表情を浮かべている坂東を見据えた。

 

「白兵戦は久々だが、体は覚えているものだ。――ロック、私の言葉を訳せ。なるべく強い言葉でな」

 

一連の流れを驚きと困惑で黙って見ていたロックは、バラライカの言葉に狼狽える。

 

「し、しかし……ッ」

 

「訳せ」

 

有無を言わせない声音と視線に、ロックは冷や汗をかく。その様を一瞥し、バラライカは徐に口を開いた。

 

 

今夜は特別だ。本当の事を話してやろう

 

 

坂東は血で濡れた顔のまま目だけをバラライカの方へ向けた。

ロックは二人の様子を眺めながら、少し震えた声で通訳に務める。

 

貴様が先程言った通り、鷲峰組や香砂会は我々にとってどうでもいい。藤崎組と対等な立場となれば全て丸く収まる。そこまで分かっていたことは褒めてやろう。――だが、一つ貴様は勘違いをしている

 

バラライカは口元を歪め、愉しんでいるような声音で話を続ける。

 

私が望んでいるのは破壊と制圧。どこまで地獄の釜底で踊れるのか、それ以外に興味がない。例え貴様が心酔しているあの藤崎仁であろうと必要とあらば全力で叩き潰す。相手にとって不足はないだろう

 

その言葉に坂東は目を見開いたのと同時に確信した。

 

 

“この女はイカレている”のだと。

 

 

ここまでイカレている人間は己が生きてきた極道の世界でも見たことがなかった。

 

それでは時間もない。またいずれ

 

冷淡にそう言い放つと、バラライカは思い切り坂東の首をへし折った。

鈍い音と共に坂東は息絶え、そのまま地面へ倒れる。

坂東の死体を口の端を上げて眺めるバラライカの様子を、ロックは再び黙って見ることしかできなかった。

 

 

 

 

「――さて」

 

 

 

しばらく沈黙が流れた後、バラライカは徐に口を開く。

言葉を区切り、横たわっている死体から前方にある柱の方へ目線を移す。

 

 

「そんな所に隠れてないでそろそろ出てきたらどうかしら。それとも、盗み聞きするのがご趣味で?」

 

 

その言葉にロックは驚きながらバラライカの目線の先へ勢いよく顔を向けた。

異様な空気が漂う中、やがて柱の陰からゆっくりと一人の男が現れる。

 

 

革靴の音を鳴り響かせながら近づいてくる男を目に映すと、バラライカは「あら」と目を見開いた。

 

 

 

「貴方は確か――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

坂東とバラライカの会談が終わってしばらく後。

大きな日本家屋である藤崎組本邸、その一室にある広い畳の部屋では藤崎仁が茶を啜っている。

 

一見ゆったりした時間を過ごしているかのような風景。だがその顔は穏やかさとは離れており、真剣な表情が浮かんでいた。

 

湯呑みの中にある茶を半分まで飲んだところで、廊下からこちらへ近づく足音が聞こえてくる。

座卓の上にこと、と湯呑を置いたのと同時に襖の向こうから藤崎組若頭補佐。高橋の声が飛んできた。

 

「親父、ただいま戻りました」

 

「入れ」

 

「失礼します」

 

その言葉を聞きすぐさま高橋は襖を開ける。そのまま部屋の中を進み、仁の前で正座する。

 

「意外と早かったな。もう少しかかるかと思ったんだが」

 

「相手はただのチンピラです。俺達の相手じゃありません」

 

「そうか。して、もう一人は?」

 

「それが、現在は行方が掴めていません。しかも変装してやがったのか俺達が知っている容姿をした男は誰も見ておらず」

 

「……そうか」

 

「チンピラの話だと二時間前には港にいたらしいんですが、恐らく船で大海原へ出た後かもしれません。……すんません、もっと早くそいつを追っていれば」

 

「まあ、この国からいなくなったのであればそれはそれでいい。儂らの本命はあくまでもそのチャカとかいうチンピラだ。逃げた外人なんざ今更気にすることはない」

 

「……はい」

 

藤崎組の目的は自分たちの縄張りに麻薬をばら撒いた愚か者を炙り出し、捕らえること。

それが成し遂げられた以上、逃げた人間を気にする必要はない。

 

 

仁のその言い分を理解しているからこそ、高橋は眉間に皺を寄せながらも短く返事をする。

 

 

「で、そいつは今どうしてる」

 

「“俺じゃない”とか色々喚いて煩かったのでしばらく殴って強引に眠らせました。今は車のトランクで夢の中です。いつでも連れていけます」

 

「気を失うまで殴ったのか。相変わらずだなお前は」

 

高橋の報告を聞いた仁は呆れつつも嬉しそうに少し口の端を上げた。

 

「お前の事だ。堅気の目に映らないところでやったんだろ?」

 

「勿論」

 

「上出来だ。――よくやった、高橋」

 

微笑を浮かべながら放たれた激励の言葉に、高橋は自然と頬が上がるのを感じた。

その緩んだ表情を見られまいと、頭を下げる。

 

「勿体ない、お言葉です」

 

「こういう時照れるのは相変わらずだな」

 

「からかわないでください親父」

 

「はっはっは」

 

軽快な笑い声を響かせた後、一呼吸間を空け左手首にある腕時計を見やる。

 

「あっちももういい頃合いだな。高橋、佐伯からまだ連絡はないのか」

 

「今はまだ。俺の方から連絡を取ることはできますが……」

 

「やめておけ。あいつの最後のけじめの場に水を差すのはあんまりだろう」

 

そう言って、再び湯呑を手に取り温くなったお茶を飲み始める。

ずず、と仁が茶を啜る音だけが響く。

 

湯呑みの中身が無くなったらしい様子を目にし、高橋はすぐさま立ち上がり仁の隣へと移動する。急須を手に取り、手慣れた動作で空になった湯呑へ茶を注ぐ。

 

丁度急須の中身もなくなり、新たなお茶を作ろうと手を動かそうとする。

 

その瞬間、高橋のポケットから携帯の着信音が鳴り響いた。

 

高橋は仁に無言で伺いを立て、携帯電話を取り出し通話に応じる。

 

 

「俺だ……ああ、少し待ってくれ。――親父、佐伯からです。変わりましょうか?」

 

「ああ」

 

 

待ちに待った相手からの連絡。一番結果が気になっているであろう仁が最初に話を聞くべきだと判断し、高橋は仁へ携帯を手渡した。

 

 

「儂だ、随分と時間かかってたな。……謝る事じゃない。それで結果は? ……そうか。……いや、これでいい。お前の役目は見届けることでもある、これでいいんだ」

 

淡々と紡がれる人の言葉で高橋は全てを理解する。今起こっている事実に少しだけ拳に力が入った。

 

「遺体は? ……よし、向こうにはまだ伝えるな。そのまま病院に運んで保管してもらえ。話は通してあるから手間取らないはずだ……ああ、そうだ。儂の言葉はちゃんと伝えたか? ……上出来だ。病院まで運んだらなるべく早くこっちに戻れ、いいな? ……ああ、じゃあまた後でな」

 

その言葉を最後に仁と佐伯の通話は終了した。

仁は硬い表情を浮かべている高橋へ声をかける。

 

「佐伯が戻ったらすぐ動く。皆にもそう伝えろ」

 

「はい」

 

仁の命令に高橋は腰を上げる。

そのまま廊下へと向かい、「すぐ戻ります」と言い残し襖を閉めた。

 

 

しん、と静まり返った部屋の中で仁は湯呑を手に取り残りの茶を啜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――そいつは本当ですかい」

 

「ああ……」

 

「何時から」

 

「昨日の夕方からや。銀公、お前若頭と一緒におったんやろ? 何か言ってなかったんか」

 

「いや」

 

「そうか……くそっ、ロシア人とも連絡つかんし、一体何がどうなっとるんや」

 

鷲峰組本邸。広間では焦燥の色を浮かべている吉田と眉間に皺を寄せている銀次が話をしていた。縁側では二人の話を雪緒が黙って聞いている。

 

二人が固い表情をしている原因は、坂東が鷲峰組の本邸に顔を出してから組員の誰とも連絡が取れなくなったことにある。

それどころか定期的に連絡を取っていたバラライカらも音沙汰がなく、ラプチェフも彼女の居所が分からないらしい。

この異常事態に落ち着いていられる訳がなかった。

 

「組のモン全員に伝わるのも時間の問題や。このままやと組全体が混乱するで」

 

「ああ。それを防ぐためにもまず総会を開きやしょう。――こんなこと言いたくねえが、若頭が戻らなかった場合の対処も考えねえといけねえ」

 

「……そうなったら、この先わしらどうなるんや」

 

「…………」

 

吉田は拳を握り、少し震えた声音で呟いた。

銀次はその言葉に何も返せず、部屋には沈黙が落ちる。

 

「もしこのまま若頭が戻らんかったら組を引っ張る者がおらん。ロシア人の暴走を止めようにも頭がおらな始まらん」

 

「……」

 

「それに香砂にこのことが伝わったら確実にそこを突いてくる。そうなったらわしらにできることはあらへん」

 

「……だとしても、何もしねえってのは違うだろ吉田」

 

坂東の消息が絶たれた事により不安は募っていくばかり。それは吉田だけではなく銀次にも言えることだった。

だが、嘆くだけというのはあまりにも無様すぎる。

 

銀次はサングラスで隠れた瞳を真っすぐ吉田へ向ける。

 

「若頭がいねえ今だからこそ、俺らがしっかり組を守らねえといけねえ。ここが正念場だ」

 

「……ああ、そうやな。すまん銀公」

 

銀次は己の言葉を自身にも言い聞かせ、襲い来る不安の波を打ち消した。

二人の会話を一部始終聞いた雪緒は、しんしんと降る雪を眺めながら徐に口を開く。

 

「銀さん、吉田さん」

 

唐突に呼ばれ、二人はほんの少し驚きながら雪緒の方へ顔を向ける。

 

「私、考えたんです。坂東さんがいなくなった今、すぐに代わりの人を立てなければならない。それも組員だけでなく、香砂も認めるような人材を」

 

「……お嬢?」

 

淡々と紡がれる言葉に、銀次は訝し気な表情を浮かべた。それと同時に先程とは別の不安が生まれる。

 

「お二人とも覚えていますか? 香砂会の取り決め――私であれば対等の条件で引き立てるという、あの件を」

 

「お嬢、そいつは……!」

 

「あんなもん香砂のちんぴらの因縁だ、真に受けちゃいけやせん。それにお嬢は何も関係ねえんです」

 

銀次と吉田はそこで雪緒が何を言おうとしているのか理解しすぐさま言葉を返す。

今は亡き鷲峰組組長の一人娘であってもただの堅気。普通でしかない少女を荒事に巻き込ませるわけにはいかない。

 

「私がこのまま陽のあたる路を歩む代わりに、組のために尽くしてきた百十余名が冥い野辺を彷徨うことになる。……私はあなた達と共に生きてきた。だから、そこから逃げるわけにはいかないんです」

 

「――お嬢、あっしはそれだけは認められねえ。俺は、お嬢にはまっとうな幸せを掴んでいただく、それだけが願いなんだ。誰もお嬢がこちら側に来ることを望んちゃいねえんです……ここでお嬢を巻き込んだら俺は、俺達はあの世で親父に合わす顔がねえ……!」

 

「でも、他にはないのでしょう?」

 

「ッそれ、は……」

 

「組を存続させるための道標が私だけなのであれば、それはもう仕方ない事なんですよ」

 

「……」

 

「……」

 

銀次と吉田は思わず言葉を詰まらせた。

確かに、雪緒が組長となれば今の状況を打破できる可能性がある。

 

 

しかし、その道は苦しく険しいもの。

 

 

そんなものを一人の少女に背負わせるのは、あまりに酷すぎる。

 

 

だが、それ以外に鷲峰組が生き残る道がないことも二人は理解していた。

 

 

理解しているからこそ、何もできない自分に腹立たしさを覚える。

 

 

「銀次さん、吉田さん」

 

 

雪緒はそこで初めて二人に顔を向ける。

再び名を呼ばれ、銀次と吉田は俯いていた顔を上げた。

 

 

 

 

「お二人の命を、私に預けていただけますか」

 

 

 

つい先日まで普通の女子高生だった少女が向けるのは、覚悟を決めた瞳。

自分たちヤクザ者のために命を投げ打とうとしている彼女に、もはや肯定以外の言葉を出すことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 








ここが折り返し地点……かも……?


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49 少女の慟哭



日本編、七話目です。






 

 

道路沿いに並んでいる様々な店舗。その内の一つである、ロシア語で書かれた看板を掲げているレストランでは、ヴァシリ・ラプチェフが夕食を摂っている。

ラプチェフが黙々とステーキを口に運んでいる中、テーブルの周りを囲んでいる数人の部下の一人が誰かへ電話をかけていた。

 

誰一人言葉を発さず、ただ携帯のコール音が鳴り響く。

 

だが、いくら待とうと相手は通話に応じない。

 

痺れを切らし、携帯電話を手にしている男はラプチェフへ声をかける。

 

「ダメです、ボス。バラライカにも他のメンバーにも連絡が取れません」

 

「もう一度だ。繋がるまでかけ直せ」

 

「ホテルも引き払ってるし、移動したところも見てない。一度モスクワに指示を仰いだ方が……」

 

部下が不安げな表情で提案した途端、ラプチェフは肉を切る手を止める。

瞬間、手にしていたナイフを目の前にいるその部下の手に勢いよく突き刺した。

 

「が、ああ……ッ!」

 

「指示を仰ぐなんてスカした言葉を使うな。俺が“もう一度”と言ったら“もう一度”なんだ。たまには椅子を尻で磨く以外の事でも気を遣ったらどうだ?」

 

呻く部下を鋭い視線で見据え、怒気を孕んだ声音で言い放つ。

少しの間を空けた後、ラプチェフは眉間に皺を寄せ焦燥の色を浮かべた。

 

「くそ……くそ、くそ、クソッ! あの雌犬焚きつけやがったな。でなけりゃ大頭目が俺を裏切る訳がねえ……!」

 

「で、でもどうしてあの女が俺達をハメるんで?」

 

ホテル・モスクワの大頭目から直々の命を受けタイから日本へとやってきた幹部。その女はかつて国に見捨てられた軍人だった経緯のせいか、例え同じホテル・モスクワの人間であろうと容赦なく潰す。

 

その証拠に、これまで何人もの仲間がバラライカによって文字通り“消されている”。

 

そんな狂気を纏っている女と連絡が取れなくなって既に数時間も経過していた。

 

ラプチェフ自身もバラライカら軍人を見捨てた側であったことから、今の状況に落ち着いていられる訳がなかった。

 

「あの女はアフガンに憑りつかれてる。KGBやGRU、高級党員層も憎くて仕方ねえんだ。そんなイカれポンチが俺を放っておく訳がねえ!」

 

ラプチェフの言葉に部下達の間で動揺の波が広がっていく。

 

「くそ、くそッ! このままじゃ俺はアイツに消され」

 

切羽詰まった様子で嘆いていると、唐突に言葉が止まる。

ラプチェフの言葉を遮ったのは、血を流している部下の手元から鳴り響く着信音。

すぐさま腰を上げ、ラプチェフは遠慮することなく乱暴に携帯を取り一瞬の間を空けず通話に応じる。

 

 

 

『――もしかしてご夕食中だったかしら? 随分優雅なことね』

 

 

 

聞こえてきた声音は、今まさに自分が連絡を取ろうと必死になっていた相手のもの。

憎たらしい言葉と馬鹿にしたような口調に青筋を立てながらも口を開く。

 

「てめえの方こそ、こっちの連絡を無視しやがったってのにいいご身分だな?」

 

『こっちは色々と準備があって忙しいのよ。あなたの様に寛げる暇もない程にね』

 

「……舐めた口利きやがって、このクソ売女」

 

『はッ、負け犬はよく吠えるとはこのことだな』

 

鼻で笑われ声を荒げたい衝動に駆られているラプチェフが次の言葉を吐く前にバラライカは話を続ける。

 

『我々は本目標を達成できる目前まで到達した。こんな遊び場で何も為しえなかった貴様はただの足手まとい。よって、もう貴様を生かす価値はない』

 

「……なんだと?」

 

『後任は僧侶、ブルガジビリだ。貴様よりはいい働きをしてくれるだろう』

 

「おい、ちょっと待て」

 

『“貴様には充分時間をやった。ただ金を毟り取る馬鹿にこれ以上割くものはない”。これが大頭目からの最期の言伝だ。よく噛みしめろ』

 

こちらの話を聞く気がないと言わんばかりに次々と言葉が投げかけられる。

バラライカの態度にとうとう我慢の限界が来たのか、ラプチェフはテーブルをバンッと叩いた。

 

「ふざけてんじゃねえぞこの雌犬が! てめえが大頭目を誑かさなきゃこんなことには」

 

『私から伝えることは以上だ。――それでは御機嫌ようヴァシリー。あの世でお仲間のKGB諸君によろしくな』

 

その言葉を最後に、携帯からはツーツーと通話の終了を告げる音が流れる。

すぐさまかけ直すが、いくらかけても応じる気配がない。

 

「クソッ! あのアフガンの亡霊がふざけやがって!!」

 

ラプチェフは怒号を響かせ携帯を地面に叩きつけた。怒りに任せ更に携帯を何回も踏みつける。

息を荒げ、潰れた携帯をしばらく見つめていた。

 

長い沈黙の中、ラプチェフはふと小さい音が鳴っていることに気づいた。

ピッ、ピッ、ピッと響く機械音を一瞬不審に思ったが、瞬間先程のバラライカの言葉を思い出す。

 

 

“あの世でお仲間のKGB諸君によろしくな”

 

 

 

ラプチェフは顔を青褪め、すぐさま棒立ちになっている部下達へ声をかける。

 

 

「ッお前ら! ここから早く逃げ――」

 

最後まで言い切る前に、凄まじい爆発音と熱風がラプチェフごと包み込んだ。

 

――轟々と燃え盛る店の中には、誰一人生きている者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――店内から逃げた様子は無し。無事片付いたかと」

 

「まさかゴミ処理までする羽目になるとはな。大頭目は人使いが荒い」

 

「全くですな」

 

とあるホテルの一室。そこではバラライカを始め、ボリスやその他の遊撃隊(ヴィソトニキ)の顔ぶれが揃っていた。

バラライカは葉巻を口に咥え、煙を吐き出しながら話を続ける。

 

「軍曹、彼からまだ連絡はないのか」

 

「ええ」

 

「そうか」

 

ソファに腰かけ優雅に紫煙を燻らす。口角を上げているバラライカにボリスは一呼吸間を空けて声をかける。

 

「随分機嫌がよさそうですな、大尉殿」

 

「ああ、なんせ向こうから我々と接触してきたんだからな。これであの街への帰還が幾分か早まった。彼の行動力の高さは評価に値する」

 

「ええ。このまま無事に事が済めば、彼女にも早く会えることでしょう」

 

「……そうだな。一刻も早く、我が友人と酒を飲みたいものだ」

 

ボリスの言葉に一瞬目を見開いた後、バラライカは角が取れたような声音で返答する。

そんな彼女の様子に周りの部下たちも笑みを浮かべた。

やがて短くなった葉巻を灰皿へ押し付け、ニヤリとした表情へと変える。

 

「諸君、本目標到達まであと少しだ。少々拍子抜けだが、最後まで気を抜かぬようにな」

 

「は」

 

バラライカの凛とした声音に、周りの遊撃隊のメンバーは全員口を揃えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

東京では連日雪が降り積もっている。

 

今夜も灰色の空から雪花が舞い落ちる。

 

東京の冷気に包まれた鷲峰組本邸では、前組長の時代から属している組員達が揃っていた。

広い座敷で正座し、全員同じ方向へ視線を向けている。

彼らの視線の先には白鞘を握っている銀次と吉田。そして、二人の間にいる雪緒が組員達と向かい合うように座していた。

 

「おい、チャカはどうした」

 

「それが連絡がつかなくて……」

 

「あの阿呆が……まあ、今はアイツだけに構ってる時間はねえ。――チャカ以外は全員揃ったな」

 

困惑と動揺が混じっている空気を感じながら、吉田は組員達を一瞥し再び口を開く。

 

「では、お嬢」

 

「はい」

 

雪緒は短く返事をし、一呼吸間を空けてから目の前のヤクザ者達を見据える。

 

 

「皆さんに集まっていただいたのは、鷲峰組の今後の指針についてお話するためです」

 

 

固い声音で始まった話に、銀次は白鞘を握る力を強めた。

 

「現状、若頭である坂東次男の消息が途絶え、現在も行方は分からないまま。ロシアンマフィアとの連携も閉ざされ、鷲峰組は窮地に立たされつつあります」

 

告げられた内容に組員達の間では動揺の波が広がっていく。

雪緒は緊迫した空気を感じ取りながらも、凛とした姿勢を崩さない。

 

「勿論、この現状を香砂会も黙ってはいないでしょう。頭がいないこの機に組をどこまでも追い詰め、徹底的に潰そうとしてくるはずです」

 

眼鏡の奥から除く瞳は微かに揺れ、不安げなものだっだ。

 

「統率が取れなければ、対抗できるものもできない。よって、勝手ながら幹部会にて鷲峰組の跡目について協議いたしました」

 

胸の内にある感情を気取られないよう、雪緒は間を空けずに話を続ける。

 

「親である香砂会からの条件を受け、この度鷲峰龍三が息女――不肖、鷲峰雪緒が跡目を継承することと相成りました」

 

途端、ざわっと更に強い動揺と困惑が広がった。

 

つい最近まで極道の世界とは関係なかった女子高生が自分たちの頭になろうとしている。

 

突き付けられたその事実にどよめかない訳がなかった。

 

「不服も無論承知の上。でもこの組の大事、皆様の力を拝借したくございます」

 

雪緒が最後の言葉を言い終えても、組員達のどよめきは引くことはない。

不安や焦燥が入り混じる雰囲気に、雪緒は無意識に拳を握る。

 

少しの間を空けた後、黙っていた吉田が徐に腰を上げた。

 

「おどれら、お嬢がなんでここにいる思うとるんや」

 

吉田が組員全員に聞こえる声で発した瞬間、ぴた、とざわめきが止まる。

 

「儂らが香砂んところのど腐れどもに全部かっさらわれて、おっ放り出されるのをみちゃおれんと立ったんと違うんか」

 

真剣な表情と声音で言い放たれる内容に、組員は黙って耳を傾ける。

 

「お嬢自ら命張ろう言うてんねん! 己らの侠気咲かせるンやったら、ここをおいて外はあらへ」

 

「し、失礼します! 吉田さん、大変です!!」

 

「何やこらあ! 今どんな話してるか分かっとんのかッ! タイミング見ろやぼけ!」

 

高らかに告げようとした吉田の言葉は、屋敷の外で見張っていた下っ端の組員によって遮られた。

何やら焦っている組員の様子に、他の組員達は訝し気に眉根を寄せた。

 

「この総会以上に優先することがあるんか! 何があったんか知らんが後にしろや!」

 

「それが……!」

 

「邪魔するぞ」

 

言葉を続けようとした組員の後ろから別の声が飛んできた。鷲峰組がどよめいている中、すぐさま声の主は姿を現す。

 

その人物は、着物に身を包み、杖をついている老人。

 

 

関東和平会を設立し、極道の中の極道として全国に名を馳せている人物。

そして、その人物の後ろには彼を隣で支える有能な右腕。

 

――藤崎組組長、藤崎仁。そして若頭である佐伯。

 

二人の登場に部屋にいる全員が目を見開いた。

 

 

「ふ、藤崎の親っさん……!?」

 

「おう吉田。久々だな」

 

どよめく鷲峰組とは反対に、仁は冷静に声をかける。

 

「どうしてここに親っさんが……」

 

「急ですまん。だが、どうしてもお前たちに話しておかなければならないことがあってな」

 

「……親っさん、すんませんが見ての通り鷲峰組は総会中だ。どんな用件か知りやせんが、どうか後にしてもらえねえでしょうか?」

 

淡々と話す仁に銀次は眉根を寄せながら口を開いた。仁は表情一つ変えず言葉を続ける。

 

「そう睨むな銀次、お前らの状況はよく理解してるつもりだ。その上で話をしに来た」

 

「しかし」

 

「お前らが総会を開いてんのは坂東がいなくなったからだろ」

 

仁の口から出た名前に、銀次だけでなくその場にいる全員が再び目を見開いた。

 

「その坂東についてお前らには話しておくべきだと思ってな」

 

「……貴方は坂東さんの行方を知っていると、そう仰りたいのですか」

 

「ああそうだ。今あいつがどうなっているのかもすべて知っている。――それにしても、大きくなったな。お前さんと会うのは龍三の葬式以来か」

 

「……」

 

雪緒を見て仁はほんの少し柔らかな声音を出した。

多くの人間は早く坂東について話してほしいと声を上げたい衝動に駆られるが、普段お目にかかることがない大物の話を遮る者は一人もいなかった。

 

「ま、今は悠長に話している時間はないな。ひとまず前口上はここまでにしようか」

 

部屋には入らずひんやりとした廊下で立ち止まったまま、仁は真剣な表情で本題を切り出す。

 

「結論から言おう。――坂東は死んだ。けじめをつけるため一人でロシア人の元へ向かい、命を散らした」

 

「は……?」

 

「……そんな……嘘や! 若頭がワシらに黙ってそんなこと」

 

「ほう、あいつは最後までお前らに言わなかったのか。儂の言いつけもしっかり守ったようだな」

 

「…………言いつけ?」

 

吉田が堪らず上げた声に仁は感心したように呟いた。

その呟きを雪緒は聞き逃さなかったらしく、眉根を寄せ聞き返す。

 

 

「ああ。あいつにロシア人とけじめをつけさせたのは、儂だ」

 

 

平然とした顔で言い放たれた言葉に、ここまでで一番の動揺の波が広がる。

雪緒は仁を睨みつけ、できるだけ冷静に続きを促す。

 

「どういう、ことですか」

 

「前々からロシア人……ホテル・モスクワから協定を結んでくれと言われていてな。“利益をもたらす代わりに日本拠点を置く協力をしてほしい”、そう言って儂の縄張り(シマ)を荒すような真似もされた。それでも儂があいつらと手を結ばなかったのは、外のモンと儂らの考えが何もかも違うからだ。あいつらには仁義なんてもの理解できない。そんな奴らと徒党を組んだところで得なんざ何一つない」

 

自身の考えを冷静に告げる。

誰一人口を挟むことを許さない緊張感が部屋全体に満たされていた。

そのせいもあり、鷲峰組はただ黙って仁の言葉を聞いている。

 

「これ以上儂らが築き上げてきたものを崩されるのは堪らん。だからこそ、好き勝手させないように動いてきた。それはお前らも知っていたはずだ。――だというのに、坂東を筆頭にお前らが露助どもを引き入れやがった」

 

瞬間、底の冷えるような声音が響く。

血と闇の世界で生きてきた男達であっても、これほどまでの重圧を感じたのは初めての事だった。

雪緒を始め、誰もが息を飲む。

 

「好き放題させないようにしておけるならまだよかった。だがどうだ。その結果ロシア人は大暴れ。より一層外のモンが調子に乗り始める始末。香砂会も自分らの事で手一杯で、いつまでたっても親らしいことをしない。――だから儂が坂東にけじめをつけさせた。“組員達に会うことなく、ただ一人で死ね”ってな。それでロシア人を殺せれば儲けものだと思ったんだが、アイツは死闘の末に敗れ死んだ。そうだな、佐伯」

 

「ええ。極道者らしく、きちんと筋を通して死にました。……立派な死に様だった」

 

佐伯は組員全員に聞こえるように坂東の最期を伝える。

そして、懐から白い布に包んだ何かを取り出す。

 

そのまま吉田の前まで歩みを進め、それを差し出した。

 

吉田は恐る恐る受け取り、ゆっくりと白い布を外す。

 

――出てきたのは、坂東が愛用していた白鞘の短刀。

 

その短刀を目にした途端、吉田は目を見開きながら言葉を洩らす。

 

「これは兄貴の……」

 

「確かに渡したぞ」

 

佐伯はそう言って、すぐさま仁の後ろへと戻る。

仁の話に始めはあり得ないと思っていた者たちは、佐伯が持ってきた白鞘を見て“坂東が死んだ”のだと確信する。

 

その事実に目に涙を溜める者。拳を強く握る者。思いつめたような表情を浮かべる者。

 

反応は様々だが、誰もが坂東の死を悼んだ。

 

「坂東は命を賭してしっかりけじめをつけた。ロシア人の事に関しちゃもうお前らを責めることはしない。――だが、まだお前らにはまだ始末をつけてもらわなきゃらんことがある」

 

「は……?」

 

耐えがたい事実を突き付けられてから切り替える間を与えることなく、仁は更なる話題を口にする。

 

「佐伯」

 

「はい。――高橋!」

 

その場にいる鷲峰組組員が混乱している中、仁が声をかけると佐伯はすぐさま縁側のガラス戸を開け、外の方へ呼び掛けた。

しばらくすると、庭の奥の方から次第に音が近づいてくる。

 

「――おら、しっかり歩け! てめえのその足は飾りか!?」

 

「うッ……! くそ、なんで俺がこんな」

 

「うだうだ言ってねえでとっとと歩け!」

 

怒号と共に現れたのは、藤崎組若頭補佐である高橋と複数の藤崎組組員。

そして、高橋たちに引き摺られるように連れてこられた一人の男。

その男は、鷲峰組の組員であるチャカ。

 

両手は後ろで縛られ、何度も殴られたかのような大きく腫れた顔。血が付いた薄汚れたスーツ。

 

チャカの姿に鷲峰組の組員達は全員驚愕する。

 

「チャカ!? お前なんで……!」

 

「藤崎の親っさん、これはどういうことなんで?」

 

吉田が動揺している隣で、銀次は咄嗟に仁へ疑問を投げかけた。

二人に挟まれている雪緒は目を見開き黙ったままチャカを凝視している。

 

「お前ら、こうなっちまった理由に心当たりはねえのか?」

 

「は?」

 

「あの男が何故藤崎組(儂ら)に捕まってるのか分からねえのかって聞いてんだ」

 

鋭い視線と声音を浴びせる。刹那、先程以上の緊張感が襲い掛かる。

 

「どうなんだ、誰でもいいからさっさと答えろ」

 

「…………」

 

返答を促す言葉でさえ重圧が更に押しかかる。

その上、チャカが捕らえられている理由が分からいのもあり答えを返せない。

 

誰もが口を噤む中、少しの間を空けた後雪緒がゆっくりと口を開く。

 

「分かりません。何故チャカさんが貴方がた藤崎組にこのような仕打ちを受けさせられているのかも、貴方が言う本題も皆目見当がつきません」

 

「……」

 

「藤崎さん、“うちの組員”が何かしましたでしょうか」

 

ほんの少し声を震わせながらも、そう言う雪緒の視線は仁を真っすぐ射貫いていた。

仁は一瞬目を見見開いた後、すぐさま鋭い視線を雪緒へと注ぐ。

 

「そういうってことは、本当にお前さんが鷲峰組を継ぐってことだな?」

 

「はい」

 

「……そうか。では可愛らしい組長さん。はっきり答えたその気概に免じて、教えてやろう」

 

「……」

 

鋭い声音のまま、仁は雪緒に向かって話を続けた。

 

「こいつはな、儂の縄張り(シマ)で麻薬をバラまいていた。確固たる証拠もある」

 

「なッ! 親っさん、それはホンマですか!?」

 

「ああ。本人は認めてはいないが、こいつのお陰でうちが損害を食らったのは事実。……お前らは儂がヤクでの商売を許さないのは知ってるよな? ――そして、儂のシマにヤクを流したヤツがどうなってきたのかも」

 

より一層低い声音で言い放たれる。

 

こんな冗談を言うような人物ではない。

そのことを理解している鷲峰組組員達は、仁の話が嘘ではないことを確信するのと同時に冷や汗を流す。

 

自分達の仲間が藤崎組の縄張りで勝手に麻薬を捌いた。

“鷲峰組が藤崎組に喧嘩を売った”と見なされても文句を言えない。

 

それがどういう意味を持つのか、分からない人間はいなかった。

 

「……まあ、そうは言っても儂とお前らの仲だ。争うつもりはない」

 

その言葉に誰もが安堵の息を洩らす。

ただ一人、仁は固い表情のまま話を続ける。

 

「だがこのまま何もなしってわけにはいかん。だからこいつのけじめをつけてもらう。――組長さん、お前さんにな」

 

「……え?」

 

急に再び声をかけられ、雪緒は戸惑ったような声を出す。

 

「お前さんに今ここで、儂の目の前でこいつを殺してもらう。それでこの件はチャラにしてやる」

 

「な……ッ!」

 

仁から告げられた言葉に、藤崎組以外の人間は全員目を見開きどよめき始める。

いち早く仁に抗議の声を発したのは銀次だった。

 

「親っさん、そんなことお嬢にはさせられねえ! そいつのけじめはあっしが……!」

 

「お前らじゃ意味がねえんだ。どの道そのお嬢さんがお前らの命背負うんだろうが。なら、これくらいやってもらわねえとな」

 

「親っさん!」

 

「組を背負うってことはそう言う事だ。子がやらかしたことは親が責任を取る。それが組長の義務なんだよ」

 

「それは……!」

 

「自分の手を血で汚す覚悟もねえ奴が頭になるなんざ、そんなの笑い話にもなりゃしない」

 

「だが、お嬢はついこの前までただの」

 

「堅気だったからそれは酷いってか? はっ、呆れすぎてものも言えねえな。善人だった奴が急に手を血で染めるってのはよくある話だ」

 

「お嬢は俺達の為に覚悟を決めなさった! そんなお嬢のためならいくらでも手を汚す! 血に濡れるのは俺達だけで十分なんだ! だから」

 

「うるせえぞ、銀次。餓鬼みてえにピーピー喚いてんじゃねえ。お前らはこの子に自分たちと同じ世界を生きることを望んだ。例えどんな理由があろうと、組長に据えようとしているこの現状がすべてを物語っている。――お前らはそんな覚悟もしてねえくせにその子を親にしようとしてたのか? あの龍三の舎弟も落ちぶれたもんだ」

 

銀次の昂ったような様子とは反対に仁は冷静に淡々と言葉を返す。

最後に呆れたように呟くと、銀次は苦い表情を浮かべとうとう押し黙った。

 

そして、それは他の組員達も同じだった。

 

自分たちが死ぬ覚悟はできていても、雪緒自身の手を汚すことを考えていなかった。

それを見抜かれてしまい、誰もが返す言葉を失っていた。

 

 

 

「組長さん、お前さんの覚悟を見せてくれ」

 

 

 

そう言って仁は懐から黒い脇差を取り出し、雪緒の方へ投げる。

目の前に転がったそれを目にし、雪緒は拳を握る。

 

誰もが黙って見ている中、目を瞑り一つ息を吐く。

やがてゆっくりと手を動かし、仁が投げて寄こした脇差を手に取った。

 

「お嬢!」

 

「銀さん、もういいんですよ。……藤崎さんの言う通り、組員()が犯した失態は組長()が拭わなければならない。だから、私がやらなきゃいけないんです」

 

「……ッ」

 

「皆さんも、どうかそのまま見守っててください」

 

思いつめたような表情を浮かべる組員達に笑みを見せそう言うと、腰を上げ中庭の方へ足を動かす。

 

「アイツは高橋らが抑える。安心して喉元をかっ切るといい」

 

「…………お気遣い感謝します」

 

隣を通り過ぎようとした時、仁は告げる。

その言葉に立ち止まり、一瞬時の方を見ると一言だけ返し再び歩き始めた。

靴も履かないままさく、さくと雪の上を進む。

 

やがて、藤崎組の組員達に身動きが取られぬように抑えられているチャカの前に立つ。

 

「お、お嬢? まさか本気で俺を殺すなんて、んなことしねえよな?」

 

「……」

 

「俺は藤崎組のシマに手を出してねえんだ。手を組んでたやつが勝手にやっただけで……なのにこいつら勘違いして」

 

「でも、貴方が捌いていた麻薬が出回ったのは事実。……藤崎さんのことは銀さんや坂東さんから聞いていました。義侠を重んじ筋を通す人物。“彼こそ本物の極道”だと。彼らがそこまで言う人物が嘘をついているとも、勘違いを起こし貴方をこんな目に遭わせるとも思えない」

 

「お、おいおい……まさか組員の俺よりその堅物ジジイの言う事信じるってのか? それはちょっと酷いんじゃないかなあ雪ちゃん」

 

「私たちは今躓く訳にはいかないんです。こんなところで、躓いている場合じゃないんです」

 

チャカを見据えながら、手にしている脇差を両手で握り刃を抜く。

鞘から現れた刃は少しの曇りもなく、冷たく光っている。

 

「今の貴方は鷲峰組には必要ありません」

 

「ちょっと待ってくれよ! そんなひでえこと言うなよ雪ちゃ」

 

「いい加減その臭え口閉じやがれ。てめえも極道の端くれなら黙って組長の刃を受け入れろッ」

 

「が!」

 

軽い口調でだらだらと喋る様に我慢できなくなったのか、高橋はドスの利いた声を発しながらチャカの顔へ拳を叩き込んだ。

 

真っ白な雪の上に血が飛び散った。

 

髪を掴み、無理矢理顔を上げさせる。

雪緒は口から血を流しているチャカを見据え、両手で脇差を握りなおす。

やがて、徐に無防備となっている喉元へ刃先を向けた。

 

部屋から庭の様子を窺がっている組員達と仁は、ただ黙って見守っている。

 

 

――だが、数分経っても雪緒は刃を突き立てることはなかった。

 

 

手は震え、何度も白い息を荒く吐き出している。

 

やがて痺れを切らした仁が促すように言葉を投げかけた。

 

 

「どうした、さっさとやらんか」

 

「……」

 

「さっきまでの威勢はどこへ行ったんだ。ほら、あと数センチ前に動かせばそいつを殺せるぞ」

 

「…………」

 

仁の言葉に雪緒は手を動かそうとする。

 

 

 

 

だが、何故か手が言う事を聞かない。

 

 

目の前にいる男を自分が殺さなければいけない。

そうしなければ前に進めない。

自分の手を血で染めなければ、彼らと同じ世界に立てない。

 

 

 

それは頭では理解している。

 

 

 

――理解していても体が拒んでいた。

 

 

 

 

自分が人の命を奪わなければならない現状に、どうしようもなく怯えていた。

その怯えが、手の震えを一層激しくさせる。

 

そんな雪緒の様子に、仁は一つ息を吐き口を開く。

 

「どうやら、組長の役目はお前さんには重すぎるらしいな」

 

「……」

 

「お嬢……」

 

「分かったか? 自分らの軽い命のために堅気にここまで望んだのは、他でもねえお前らだ」

 

仁は部屋にいる鷲峰組全員に低い声音で話しかける。

 

「本当に呆れ果てた野郎共だ。年端もいかねえ娘にこんなもん背負わせやがって。誰も止めなかったのか」

 

「それは」

 

「違うんです、藤崎さん。……これは全部、私が決めたことなんです」

 

「……」

 

雪緒は震える声音で仁に背を向けたまま口を開く。

 

「彼らは必死で止めてくれようとしてました。だけど、私はこの家で育った鷲峰龍三の娘。そんな私が一人だけ日の当たる場所でのうのうと生きるなんて、できません」

 

「……」

 

「坂東さんがいなくなった今、親である香砂会と対等となるには向こうの条件を呑むしかない」

 

「…………」

 

「私が組長を継ぐことで少しでも皆さんの助けになるなら、そうするしか」

 

「お前さん、何を勘違いしてやがるんだ?」

 

「え?」

 

「お前さんみたいな小娘が組長になった所で何かが変わる訳ねえだろう」

 

さも当然と言わんばかりに言葉に、雪緒は思わず振り向いた。

目に入ったのは、心の底から呆れたような仁の表情。

 

「どう考えたって香砂政巳が言ったことは言いがかりの難癖だ。そんなもん真に受けたところで、あのクソガ……組長が素直に受け入れるわけがない」

 

「……」

 

「香砂会は和平会でも一際目立ってる。東京で馬鹿みたいに圧力をかけまくってるからな。そんな組を仮にも引っ張ってる男はお前さんより上手だ。組を継いだところで、また変な言いがかりをつけて盃の話を無かったことにするだろうさ」

 

「…………」

 

仁は次々と言葉を投げかける。

次第に雪緒は顔を下に向け、黙ってしまう。

 

 

 

 

「――じゃあ、どうすればいいんですか」

 

 

 

 

間を空けて返ってきたのは、未だ震えている雪緒の声。

 

 

 

 

「じゃあどうすればここにいる皆が助かるっていうんですか!」

 

 

 

瞬間、雪緒は顔を上げ吼える。

脇差を力強く握り、目に涙を溜め、仁を睨みつけながら言葉を続ける。

 

「このままだと皆が香砂会に潰されてしまうんです! 例え香砂にその気が無くても、直系でと言ったなら私が背負うしかないんです! ここにいる皆の命が、明日が、名誉が私にかかかっているのなら、そのために覚悟を決めること以外に私に何ができるっていうんですかッ!」

 

「……」

 

「私が組を継げば皆が少しでも窮地から脱せる可能性があるならそうするしかないじゃないですか! 日向の世界から背を向けて、闘おうとして何が悪いんですか!?」

 

雪緒の中でこれまで必死に抑えていた感情が溢れ出す。

響き渡る悲痛な叫びを、その場にいる全員ただ黙って聞いている。

 

激しく呼吸を繰り返し、やがて目に溜めた涙が雪緒の頬を伝うのと同時に脇差が手から滑り落ちた。

 

「もう私に残された道は、これしか、ないんですよ……」

 

大粒の涙を流し、俯きながら絞り出すような声で呟いた。

仁は一つ息を吐き、やがて自身も中庭へと降りる。

項垂れている雪緒の前まで歩みを進め、今度は柔らかい声音で話しかける。

 

「酷な事を言うが、お前さんにできることは何もない。これは儂ら極道者の話なんだ。龍三の娘であってもこっちの話に関わらせちゃいけねえんだ」

 

「……」

 

「お前さんは、日向の世界で生きるんだ。その方が龍三やこいつらの為にもなる」

 

「でも……それじゃ、皆が」

 

「ああ、このままじゃ全員死ぬかもしれん。――だが、そんなのは儂も気に食わん」

 

「……え?」

 

雪緒が顔を上げると、仁は口の端を上げた。

涙に濡れた顔を見ながら話を続ける。

 

「儂も香砂は嫌いでな。このままアイツの思い通りにはさせたくない。だが、さっきも言った通り香砂は一際目立っててな。人手は多いに越したことはない」

 

「えっと……?」

 

話題が唐突に変わり、雪緒は困惑した表情を見せる。

そんな雪緒を見据え、仁は口の端を上げたまま一呼吸間を空け再び口を開く。

 

「ここに来た一番の目的は、香砂を潰すために手を組まねえかって話を持ちかけるためだ」

 

はっきり告げられた内容に、鷲峰組は再びざわついた。

雪緒は目を見開き、言葉の続きを待つ。

 

「香砂と争うとなればそれなりの覚悟が必要だ。……だが、今のお前さんの様子じゃそれは期待できない」

 

「……」

 

「だからここにいる全員の命、儂に預からせてもらえねえか?」

 

「え……?」

 

「儂がここにいるヤクザ者どもの命を背負ってやる。お前さんが背負おうとした全てを、儂が肩代わりしてやる」

 

「……でも、香砂がなんていうか」

 

「儂が全部責任取るっていうんだ。それに、あいつにはちょっとした“貸し”があるんでな。なら尚更そうそう強くは出ないだろうさ。老いぼれがどこまでやれるか分からんが、ここまで来たらとことんやってやる」

 

仁は雪緒へ余裕の笑みを見せる。

 

「後は儂に任せてくれるか?」

 

ヤクザ者の頂点と名高い極道が、自分の代わりに組を引っ張ってくれる。

自分以上に香砂と対等に渡り合えるであろう人物が、自ら名乗りを上げてくれた。

 

血に濡れる覚悟を見せれなかった自分は足手まとい。

だが、この誘いに乗って裏切られるかもしれない。

 

様々な感情がこみ上げる中、雪緒は再び仁の目をきちんと見つめる。

多くの非道を行ってきたはずの極道者のその目は、恐ろしい程真っすぐだった。

 

 

――自身を射貫くその目を見つめ返しながら、雪緒は無言で頷いた。

 

雪緒の了承を得、仁は満足そうな表情を浮かべ後ろを振り返り、唖然としている鷲峰組組員へ凛とした声音で話しかける。

 

 

 

「組長さんの了承は得た。お前らの命はこれから儂が預かる。文句ある奴はいるか?」

 

 

 

仁から叱責を受け、雪緒の心情も知った。

そして堅気に命を張らせようとした情けない自分たちを、彼が生かそうと動いている。

 

そんな現状に誰が文句などつけられるというのか。

 

 

――二人の組長の意思に誰も異を唱えることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あの子はちゃんと部屋に戻ったな?」

 

「ええ」

 

「よし。じゃあ始めろ、銀次」

 

鷲峰組と藤崎組が手を組んだこととなった後、仁は雪緒をその場から去らせた。

雪緒が自室に戻ったのを確認し、銀次へと声をかける。

 

銀次は白鞘を握りしめながら、中庭へと降りる。

 

その足は、未だ高橋たちに抑えられているチャカの方へと真っすぐ向かっていた。

 

「声は出させるな。一瞬で終わらせろ」

 

「承知」

 

短く返答すると、銀次は鞘から刃を抜く。

 

切っ先をチャカへと向け、構える。

 

「お前さんがやった事にしちゃ軽いが、親っさんからの命だ。声を上げる間もなく冥土に送ってやりやしょう」

 

「ま、待ってくれよ……ッ! 俺はただ利用されただけだ! 殺すのはあんまりじゃ」

 

「聞いてられんな、無様な男の喚きというのは。なあ佐伯」

 

「そうですね」

 

いつの間にか部屋の方へ戻った仁はチャカの様子を佐伯と共に嘲笑した。

途端、チャカは頭に血を上らせ激昂する。

 

「んだとこのクソジジィッ! ああ!? テメエはただの老いぼれだろうが! 古くせえジジイが調子に乗ってんじゃ」

 

「銀次、早く終わらせろ。聞くに堪えん」

 

 

吼えるチャカを冷めた目で見ながら、呆れたような声音で銀次へ声をかけた。

 

 

 

刹那、白鞘の刃がチャカの首へと振り下ろされる。

 

 

 

 

――降り積もる雪の上に、鮮血が滴り落ちた。

 

 

 

 

もうこの場にうるさく喚く人間はいない。

 

 

 

「見事だ、銀次」

 

「勿体ないお言葉で」

 

仁は短い賞賛の言葉を贈り、銀次はそれに冷静に返した。

白鞘に着いた血を懐紙で拭う銀次に微笑を浮かべながら呟く。

 

「これでうるさい者はいなくなった。お前らがつけるべきけじめもつけさせた。――さて」

 

 

 

言葉を区切り、鷲峰組全員に聞こえるよう凛とした声音を出す。

 

 

 

 

「一世一代の大勝負だ。ど派手に行くぞ、お前ら」

 

 

 

 

これから起こるであろう激しい争いに思いを馳せ、仁は愉しそうに口の端を上げた。






本格的におじいちゃんが動きます。




◇余談

今話で「ロアナプラにて――」が100話目に突入しました。
書き始めはまさかここまで続くとも、たくさんの人に見ていただけるとは思っていませんでした。

改めて、ここまでキキョウの物語を見てくださった方々に感謝を。
まだまだお話は続きますので、暖かい目で見守ってください。

これからも、よろしくお願いします。

――華原より、皆様へ。


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50 釁の藤―ちぬるのふじ―

――港に停まっている一隻の大型船。

Мария Зареска(マリアザレスカ)”と書かれているその船は、バラライカを始めとするホテル・モスクワの組員の拠点となっている。

 

バラライカは船内にある一室で葉巻を咥え椅子に腰かけていた。

その他にボリス以外の姿はなく、二人だけの空間にただ葉巻の煙が充満していく。

 

「軍曹、ロックは?」

 

「部屋に待機しております。連絡があるまでは大人しくしろと伝えてあります」

 

「今日ばかりは動かれるわけにはいかないからな」

 

自身が連れてきた通訳の所在を聞き、足を組み替える。

ふと、左腕にある腕時計を一瞥し、煙を肺に入れ再び吐いた。

 

「ブルガジビリは何に手間取っているのやら。これでは彼との会合に間に合うかどうか」

 

途端、鳴り響いた音に言葉を止める。バラライカは目の前にある受話器に手を伸ばし通話に応じた。

 

電話の相手と短く言葉を交わし、「ではまた」と告げ受話器を置く。

すぐさま腰を上げ、ボリスへニヤリとした表情を向ける。

 

「軍曹、時間だ。同士たちに伝えろ」

 

「は」

 

「これで、やっと私の仕事も終わる」

 

ボリスはバラライカの指示に従い、速やかに自身の携帯電話で遊撃隊の部下に連絡を取る。

バラライカは近くに置いていた軍用コートを羽織り、ブロンドの髪を靡かせた。

 

 

 

――鷲峰組と藤崎組が協定を結び数日。

ホテル・モスクワや香砂会から身を守るため、雪緒は藤崎組本邸で過ごしていた。

藤崎組と手を組んだことは他の組には知られておらず、今鷲峰組は孤立無援ということが周知の事実となっている。

そんな状態で弱点となる雪緒がいつ狙われるか分からない。

そこで仁の計らいで藤崎組が保護することなったのだ。

 

 

騒動が収まるまで予備校は休むべきだと仁に言われ、雪緒はそれに従い藤崎邸へ来てから外へ出ていない。ずっと広い屋敷で藤崎組に“客人”としてもてなされている。

 

つい先日までの重苦しさが嘘のような穏やかな日々。

 

だがふとした瞬間、こうしている間も鷲峰組の組員達……銀次はどうしているのかと思ってしまう。

藤崎組に来てからたまにしか顔を出してくれず、ほぼ会えていない。

会った時に最近はどうなのかと聞こうとすると、皆口を揃えて『お嬢が気にすることじゃない』と組の状況など極道の世界に関することを全く教えてくれない。

 

やはり今まで一緒に過ごしてきた人たちの身を案じないなどできはしない。

それに、一度は組長を継ぐと覚悟した身。だからこそ、尚更雪緒は気が気でなかった。

 

自身にできることは何もないと、今日も大人しくあてがわれた部屋で仁が暇つぶしにと与えてくれた本を読んでいた。

少ししか残っていなかったページを読み終え、外の空気を吸おうと立ち上がった瞬間。廊下から足音が聞こえてくる。

 

こちらに段々近づいてくるのに気づき、雪緒は恐る恐る襖を開け廊下に顔を出す。

 

「藤崎さん? どうされたんですか」

 

「なに、そろそろ読み切ると思ってな。新しいものを持ってきた」

 

「そんなわざわざ……ありがとうございます」

 

「籠らせてしまってるのはこっちのせいだからな。これくらいはさせてくれ」

 

仁は雪緒の前まで歩み進めると、片手にある文庫本を三冊手渡した。

 

「雪緒、この後客人が来る。少々騒がしくなるかもしれん」

 

「客人?」

 

「ああ。相手方ととても大事な話をするんだ。客がいる間は部屋で過ごしてなさい」

 

「……出歩くなってことですか?」

 

「すまない」

 

怪訝そうな雪緒へ仁は申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べた。

屋敷内は自由に出歩いていいと言われていたが、客人が来るとなるとそうもいかないのだろう。

 

 

「分かりました」

 

 

雪緒は仁の言葉に嫌がることなくたった一言そう返す。

物分かりが良い少女の返答に仁は微かに安堵の笑みを浮かべた。

 

「少しばかり時間がかかるかもしれん。本だけじゃつまらんだろうから、何か欲しいものがあれば携帯で高橋に言いなさい」

 

「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」

 

「だが」

 

「読書は好きなので全然苦じゃありません。それに、藤崎さんが持ってきてくださる本は読んだことがないものばかりで、とても楽しいです」

 

少々過保護気味な気遣いに思っていることを口にする。

仁の対応は雪緒の中でこれまで共に生きてきた鷲峰組の組員達と重なり、自然と笑みが零れた。

 

「大人しく待ってます。夕飯の時に本の感想を伝えますね」

 

「なら、それまでには戻らんとな。楽しみにしてるぞ」

 

雪緒の微笑みに安堵の顔を浮かべる。

最後にそう言い残し、仁は踵を返しその場を去った。

 

部屋に一人残された雪緒は、早速仁が持ってきた本の一冊を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――雪が解け、露になった道路を一つの車が進んでいる。

その車はやがてとある日本家屋の前で停まった。

 

ドアを開け、中から現れたのは軍用コートを羽織ったバラライカとボリス。そして、通訳として連れてこられたロック。

バラライカは余裕の笑みを浮かべながらカツ、カツとヒールの音を鳴らし、重厚感のある大きな門の前まで歩みを進める。

 

「そう固い顔しないで頂戴ロック。あなたは私の通訳さんとして堂々と振舞っていればいいのよ」

 

「……はい」

 

バラライカがロックへ声をかけている間、ボリスは門の端にあるインターホンを鳴らす。

何か考えているような、思いつめているかのようなロックの表情にバラライカは再び口を開く。

 

「ねえロック、あなた何か私に言いたいこと。いや、聞きたいことがあるのかしら?」

 

「えっ」

 

「お出迎えが来るまでなら話を聞いてあげる。話してみなさい」

 

「……どういう風の吹き回しですか」

 

「気まぐれ、が一番近いかしら。そう深い意味はないわよ」

 

バラライカが仕事前に自身を気にかけるなどあり得ないことだと思っていたロックは訝し気に彼女を見る。

本当にただの“気まぐれ”なのか、または別の思惑があるのか。だが彼女の本心を知る術を持っていない。

ならば彼女の気が変わる前に動こうと、ロックは意を決し話を切り出す。

 

「バラライカさん、鷲峰組は……一体どうなるんですか」

 

「さあ? 前も言ったと思うけどそれは彼次第。まあでも、こちらから仕掛けることはないわ。なんたって、今鷲峰組は彼が面倒見てるようだし」

 

「藤崎仁が鷲峰組を、ですか?」

 

「偵察班の話では鷲峰組組員の何名かが毎日藤崎邸に出入りしているそうよ。それに、彼に話を持ちかけられた時から鷲峰組からこちらへ何のアクションもない。これらの行動からしてそう考えるのが自然」

 

「……そう、ですか」

 

バラライカの言葉に安堵を感じながらも、結局鷲峰組がどうなるかはこれから会う人物の考え次第で決まるという事にロックは複雑な心情となった。

卑劣な裏切りと悪意に満ちた世界とは無縁の少女。

何の罪もないただの女子高生が、そんな世界に巻き込まれてしまうのではないかとロックは気が気ではなかった。

 

――ロアナプラで今も凛と生きているであろう彼女のように、似合わない世界で生きてほしくない。

 

ロックは心の中でそう呟きながら、ほんの少し拳を握る。

 

それを知ってか知らずか、バラライカはやや間を空けてから再び声をかける。

 

「ロック、何故あなたがそこまで鷲峰組の行く末を気にしているのか知らないし興味もない。――だが、今日ばかりは言わせてもらう」

 

冷たい声音で威圧感を浴びせる。

ロックはすぐさまバラライカの方へ顔を向け、ブルーグレイの瞳を見据えた。

 

「どう思おうとお前には何も関係ない。此度の会合は我々が為すべき最後の大仕事だ。余計な事で下手をこかれるのはごめんだぞ」

 

今回の会合がホテル・モスクワにとってどれほど重要なものかは、ただの通訳であるロックであっても知っている。

だからこそ、バラライカがそこまで言う理由も全て理解していた。

 

ロックは冬の冷気とは別の寒さを感じながら、間を空けて返答する。

 

「分かっています。仕事はきちんとこなしますよ」

 

「それでいい」

 

ロックの言葉に満足し、バラライカはほんの少し口の端を上げた。

 

次の瞬間、遂に門の鍵が開けられる音が鳴る。

次第に門が開いていき、中から現れたのは黒髪をオールバックにまとめた眼鏡の男。

 

「お待たせしました、Ms.バラライカ」

 

「Mr.佐伯。お出迎えありがとうございます」

 

「こちらこそ、わざわざお出向きいただき感謝を」

 

「貴方に会うのはあの日以来ですわね。お変わりないようで何より」

 

「ええ、貴女も」

 

ロックを介さず、二人は英語で軽い挨拶を交わしている。

心の中で“俺いるかな”とロックは疑問を感じていた。

 

「通訳さんも、あの時はきちんと挨拶ができず申し訳ない。若頭を務めています佐伯と言います。既に聞いているかと思いますが、親父との会合の時は貴方に通訳を全てお任せします」

 

「え、えっと岡島です。でも佐伯さんも英語がお上手なのに」

 

「その方がそちらも安心できるだろうと親父が。ですが念のため俺も居合わせていただきます」

 

「そうでしたか。なら、そんな彼のお気遣いには感謝を伝えなければなりませんね」

 

バラライカの手前だからか、佐伯は日本人であるロックにも英語で話しかけた。

ロックへ通訳の仕事について概要を話したところで、佐伯は再びバラライカの方を見据える。

 

「親父が中でお待ちです。ご案内します」

 

そう告げると、佐伯は踵を返し門の中へと入っていく。バラライカ、ボリス、ロックも後を追うように続く。

三人は、そのまま藤崎と書かれた表札の隣を通り過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤崎邸へ招かれた三人は広い廊下を進む佐伯の後をついて行く。

解けずに残っている雪は、庭園を更にどこか寂しさを漂わせつつも美しさを感じさせるものとなっている。

 

そんな風景を目にしながら歩いて行けば、やがて佐伯は襖の前で足を止める。

 

「親父、お客人を連れてきました」

 

「ああ」

 

中から聞こえてきた声には、老いを感じさせながらも凛としたものが滲んでいた。

短い返答を聞き、佐伯は流れるように襖に手をかける。

 

 

これまでの和風な様式とは違い、皮造りの椅子が四つと低めのテーブルが用意されている部屋。

それ以外余計な物は置かれていないシンプルな部屋の中には、たった一人老人が椅子に腰かけていた。

 

穏やかな雰囲気を纏っている彼こそが、バラライカらを招待した人物。藤崎組が組長、藤崎仁である。

 

ロックは仁の姿を目にした瞬間、体中に電撃が走ったような感覚となった。

 

なんせ彼は、数週間前に雪緒と話した喫茶店で例のハンカチを落とした老人。

ロックの頭の中には明瞭に彼の顔が刻み込まれており、同一人物であると確信に近いものを感じた。

 

「急な呼び出しにも関わらずよく来てくださった。足を運んでくれたことにまずは礼を言う」

 

そんな中、仁は日本語でバラライカへと声をかけた。だが、ロックはすぐに反応ができなかった。

 

もう二度と会えないと思っていた人物が目の前にいること。

それが極道の中の極道として名高い人物だったこと。

 

その事実により様々な疑問が次々と生まれていく。

思わず自身の仕事を放り出してしまいたくなるほどの衝動がロックを襲っていた。

 

「ロック?」

 

寸でのところで自分の役目を思い出させたのはバラライカの声。

ここでしくじれば彼女に後でどんな目に合わされるか想像するのは容易いこと。

 

「……すみません、何でもないです」

 

ロックは喉から出かかったものを押さえ込み、代わりに謝罪を述べた。

次にすぐさま仁が放った言葉をバラライカへ通訳する。

 

一瞬怪訝そうな顔を見せたバラライカだったが、ロックが自身の役目を全うしようとしている現状に何も言うことはなかった。

 

こちらこそお招きいただきありがとうございます。お目にかかれて光栄ですわ、Mr.藤崎

 

「口が上手い事だ。まあ、とにかくお座りなさい。話はそれから」

 

ええ

 

仁の促しにバラライカとボリスは流れるように椅子へ座る。ロックも一足遅れてバラライカの隣へ腰を下ろした。

 

組織の長たる二人は笑みを浮かべながらお互いを見据えている。

だが、その空気はどこか冷たく、張り詰めたもの。

 

そんな中で二人以外に笑みを浮かべることのできる人間はここにはいなかった。

 

「さて、早速だが儂らの関係をはっきりさせよう。今後のためにもな」

 

勿論。そのために日本へ来たと言っても過言ではありませんから

 

「まずはお互い求めているモノを改めて認識しようか。――儂が貴女に求めるものは、これ以上戦火を拡大させないこと。一切儂の組に手を出さないで貰いたい」

 

こちらが求めているのは一つ。日本にホテル・モスクワの確固たる拠点を。それ以外にありません

 

「儂が言ったことを約束してくれるなら最大の助力をすると約束しよう。――と、言いたいところだが、その前に一つ確認したい」

 

「……なんでしょうか

 

「今後は貴女が日本に居座るのか?」

 

バラライカは意外とスムーズに自分が求めていた言葉を引き出せたことに違和感を覚えた矢先、やはりそのまま話がまとまるまではいかなかった。

キャリアウーマンのようなビジネススマイルを浮かべながら仁の質問に答える。

 

いえ、私は一時的な派遣に過ぎません。先日、日本支部長であったラプチェフ氏が“不慮の事故”で亡くなってしまったので、この後はモスクワからの後任が引き継ぎます

 

「ああ、あのレストランの爆破事故か。なんでもガス漏れによる引火が原因だったとか。巻き込まれたとは災難な」

 

ええ、何とも不幸な男です

 

ラプチェフを地獄へと導いた張本人は何の感情も込めることなく平然と言ってのけた。

仁もまた、顔に張り付けた笑みを崩すことなく話を進める。

 

「近頃の東京はとても物騒だ。今はどこもかしこも血の匂いが漂って仕方ない。例えただの事故だと言われても、何らかの陰謀があるとしか思えん。どう思うかね、お嬢さん」

 

さあ? ただ、血の匂いは我々にとって嗅ぎなれたもの。平和な島国でその匂いを嗅げたことは、僥倖とも言えるべきでしょう

 

仁の柔らかな表情に隠された言い難い“何か”を感じとりながら、バラライカは一瞬の間を開けることなく淡々と返した。

 

「そうか。そこに関しちゃ儂も強くは言えないな。……さて、話が逸れたな。別の人間が居座ると言うのなら、拠点についてはその後任と話を進めたい」

 

それはつまり、助力をいただけるかは本日の会合では決められない、ということでしょうか

 

「今の時点では協力するつもりではある。だが、お互いの利のため、信頼のため今後関わる人間と話がしたい。どう動くかはそこから決める。その方が色々と動きやすいんでな」

 

……困りましたね。それでは困るのですよ、Mr.藤崎

 

 

 

刹那、バラライカの瞳に鋭利さが帯びる。グロスが塗られた艶やかな唇を歪ませ、長い脚を徐に組んだ。

 

 

 

我々ホテル・モスクワは一刻も早く東京に拠点を築きたい。そのためには貴方の助力は必要不可欠。ここではっきり決めていただかなければ、私もここを去る訳には行かないのです。—―我々の力を未だ理解できていないのであれば、今まで以上の戦火を御覧に入れましょうか。勿論、貴方の傍で

 

 

仁の後ろで控えていた佐伯は思わず眉を顰めた。

 

 

 

明らかな挑発。

 

 

“この場で決断しないのならお前の縄張りで暴れる。それが嫌ならこちらの条件を飲め”。

 

 

彼女はそう言ってのけたのだ。

 

佐伯はふざけるなと叫びたい衝動に駆られた。少しばかり自身より短気な高橋がこの場にいたなら、彼女を思い切り罵倒していたかもしれない。

いや、仁を慕う人間ならばそうするのが普通だろう。

 

だが佐伯は若頭として立場を弁えることを優先し、その衝動を腹の底で押さえつけた。それでも藤崎仁の後継者である彼の瞳には怒りの色が滲んでいる。

 

背後で醸し出されている怒りの空気に仁は内心苦笑しながら、ゆっくりと口を開く。

 

「はっはっは、何とも血の気が多いお嬢さんだ」

 

 

仁は冷たい空気をあしらうかのように、軽快な笑い声を出した。

 

 

「そちらの武力を侮っているわけじゃない。寧ろ、危険視しているからこそこうして話をしている。放っておいても問題なければ、ラプチェフ殿と同じように相手にしなかったよ」

 

では、何故あのようなことを? ここで“助力をする”とはっきり言ってくれれば話はすぐに済むというのに

 

「今ここで貴女とそう約束したとして、その後任とやらがこちらに何の害もないとは言い切れない。会ったこともない人間を信頼するなんてのは無理なのでな。その上、儂らヤクザ者とマフィアは相容れない。例え同じ闇の世界の住人だとしてもな」

 

鋭利な視線を向け続けるバラライカへ、微笑みながら話を続ける。

 

「そんな相容れない者同士、肩を並べようと言うんだ。ならそれなりに慎重に事を運びたいと思うのは当然じゃないか?」

 

――意外ですね。まさか、貴方がそのような事を言うとは

 

微笑を浮かべてはいるものの、その声音は先程よりも鋭さを帯びていた。

隣に座っているボリスは、彼女の様子に戸惑ったような表情を浮かべている。

 

かつて貴方は敵対していた多くのヤクザ者を潰し、たった一人でその地位まで昇りつめた。その強さから恐れと尊敬を集め、今も尚その権力を誇っている。金と権力ではない。力のみで這いあがってきた。そんな貴方は“私と同じ”だと思っていたんですが

 

「……貴女と同じ、とは?」

 

血と喧騒に満ちている世界で生きてきた。そんな人間がここまで挑発されても尚平穏無事に終わらせようなんて、笑い話にもなりはなしない

 

途端、お互いの顔から笑みが消える。

言葉では言い表わせない程の冷たさが、部屋にいる全員を包み込んだ。

 

沈黙が落ち、誰もがこの会合の行く末を見守ることしができずにいる。

 

 

 

「は、ここまで言う奴は久々だな」

 

 

 

しばらくし、先に口を開いたのは仁だった。

 

 

「“お前”、本当は一体何を望んでる。ここまで来ると、こっちと全面戦争したいとしか思えねえぞ」

 

そうなっても構いません。だが、戦争になって困るのはそちらでは?

 

「舐められたもんだ。まあ、ここ数年若いモンにそういうのは任せきりだから落ちぶれたと思われんのも仕方ねえか」

 

仁は独り言のように呟き「はあ」と一つ息を吐いた後、再びバラライカを見据えた。

 

その瞳は、バラライカのものよりも鋭く冷徹で一切の光が入っていない。

先程まで隠されていた彼の感情が表立っている。

 

 

 

――殺気。

 

 

 

その言葉が一番ふさわしい彼の視線に、ロックは言わずもがな、数々の修羅場を潜ってきたボリスでさえも息を詰まらせた。

目の前で真っ向から浴びているバラライカは、久々に最大の緊張感に見舞われ身動き一つとれなくなっていた。それでも目を逸らすことなく、彼の瞳を見据え続ける。

 

 

「確かに、お前らと殺り合ったらタダじゃすまない。血は多く流れるだろう。――だが、儂らはそれを惜しむような生き方はしていない」

 

 

ロックは震えた声音で仁の言葉を伝える。

 

 

「儂や儂の組員は仁義の為ならいくらでも血と命を差し出せる。儂ら極道は仁に生き、義のために死ぬが本望。それはお前ら外のモンには到底理解できないことだと知っている。そんな奴らと争って香砂のバカにいい思いをさせるなんざ御免なんだよ」

 

「……」

 

「あくまでも戦争を望まないのは自分の保身の為じゃない。香砂につけ入る隙を与えないためだ。――だがな、こっちの話を聞かずお前が己の欲望のままに動くってんなら、容赦はしねえ」

 

 

 

言葉を区切り、身を乗り出す。

殺気に満ちた視線を向けながら、極道の頂点と呼ばれている男が告げる。

 

 

「俺の縄張り。子供らに手を出したその時は、俺が直々にその首落としてロシアに送り付ける」

 

「……」

 

「利益のためだけに動いている自分らの物差しで測ってこっちの事を知った気でいるようなら、それはとんだ間違いだぜ。お嬢さん」

 

 

 

 

約四十年前、極道による抗争で多くの血が流れた。

東京では数々の組が存在し、お互いの縄張りを侵そうと抗争による火種は大きく広まっていた。

 

そんな血の連鎖を止めようと、一人の男が動いた。

杖に仕込まれた刀を携え、自身の組に抗争を仕掛けた組を残らず壊滅に追い込んだ。

 

組長であれば基本後ろで構えているものだが、彼はそんな男ではなかった。

自ら前線に立ち、先陣切って血を浴び続けたのだ。当時、背中に掘られた藤の花の刺青には、まるで雨のように常に血が滴っていたという。

 

やがて彼の鬼神の如き強さに恐れた周りの極道たちは、彼の傘下に入ることを決めた。

これが関東和平会設立の発端となり、抗争の激動を終焉に導くこととなった。

 

 

 

そんな背中の藤の花に血を滴らせながら抗争を終焉させた人物を、周りは“(ちぬる)の藤”と畏敬の念を込めて呼ぶようになった。

 

 

 

――闘争心と侠気は、老いた今でも尚衰えてはいない。

 

 

バラライカはそれを今、身をもって実感した。

同時に“戦争となれば自分もタダでは済まない”ことも。

 

仁が最後まで話し終えてからしばらく間を空けて、バラライカはやっとのことで口を開く。

 

 

――どうやら、私は貴方をとことん見くびっていたようです。大変失礼なことを言ってしまい申し訳ありません、Mr.藤崎

 

「なに、自分の力を誇示しようとするのは力を持っている人間の性でもある。特に、貴女のように強い力をもっていれば尚更だ」

 

貴方ほどではありません。これほど見事な殺意に当てられたのは久々です

 

「怖がらせてしまったかな?」

 

いえ、寧ろ貴方のような強者に出会えたことに喜びを感じていますよ

 

「はは、物好きなお嬢さんだ」

 

バラライカが素直に謝罪の言葉を述べると、仁は殺気を無くし柔らかな表情へ戻る。

 

Mr.藤崎。貴方の考え、理解いたしました。では、今この時を以て我々は武装を解除し、本来の持ち場へと帰還します。今後の事は、全て後任に一任いたします。貴方とホテル・モスクワが無事組めたのか、その結果を楽しみに待つとしましょう

 

「その後任へはこちらから連絡を差し上げた方が?」

 

いえ、今度はこちらからコンタクトを取らせていただきます。貴方にまた手間を取らせるわけにはいきませんので

 

「分かった」

 

先程までの冷徹さは無くなり、すんなりと会合の結論が出された。

それはつまり、バラライカの日本での仕事が終了したという意味となる。

 

 

ロックはこうもあっさり終わることに少し驚きながらも、どこかで安堵を感じていた。

 

 

ロアナプラでも滅多に味わえないとてつもない殺気をバラライカの横で浴びたのだ。

アウトローの世界に多少慣れていたとしても、彼にあの突き刺さるような視線は刺激が強すぎた。

震えた声でもちゃんと通訳できたことに我ながら凄い、と思うのも無理はないだろう。

 

 

ほんの少し余裕が生まれ、ロックの中では再び彼に対しての疑問が浮かんでくる。

 

 

ヤクザ者の頂点であるということは嫌でも理解させられた。

 

そんな彼と“彼女”に一体どういう関りがあるのか。

 

喫茶店で話していた“遠いところ”というのはロアナプラなのだろうか。

 

この人なら、彼女がなぜあの街にいるのか知っているのだろうか。

 

そう考えながら、柔和な笑みを浮かべている仁へロックは視線を向ける。

だが、今この場で聞ける勇気は無い。

 

バラライカに“邪魔するな”と釘を刺された上に、先程の彼の様子を見たとくれば尚更個人的な事で口を開くのは“非常によろしくない”。

 

 

だが、分かっていてもロックの視線は仁を捉えたまま外さない。

 

 

 

「通訳さん、儂の顔に何かついてるか?」

 

「……えッ!?」

 

その視線に気づいたのか、仁はロックへと声をかけた。

あまりに唐突なことに、ロックは変な声で反応する。

 

「さっきからこっちを見ていたのでな。何かあるのかと思ったが」

 

「い、いえ……その……すみません」

 

「ロック?」

 

「え、えっと……」

 

バラライカの固い声音での呼びかけにロックは言い淀む。その様子に、仁は微笑みを消すことなく言葉を続けた。

 

「さて、ひとまず結論も出たことだし少し休憩にしないか? その後、また今後について話をしよう」

 

戸惑っているロックに代わり、後ろで控えている佐伯が仁の言葉を伝える。

バラライカはロックを一瞥した後、微笑みながら返答する。

 

「分かりました」

 

「その間なんだが、この青年をお借りしたい」

 

「え?」

 

彼を、ですか?

 

「たまには組員以外の若者と話すのもいいと思ってな。なに、貴女には何も関係ない話だ。この会合には何の支障も生まないことを約束しよう」

 

仁の言葉にロックは更に困惑の表情を濃くさせた。バラライカは訝し気に仁を見つめた後、やがて再びロックへ視線を向ける。

 

 

「あの、バラライカさん……?」

 

 

自身を見つめるバラライカの視線に、ロックは思わず彼女の名を呼びかける。

少しの間を空けた後、口端を少し上げながら仁の方へ視線を戻す。

 

そこまで言うなら、構いませんよ

 

「ありがとう。通訳さんも構わないか?」

 

「お、俺も大丈夫、です……」

 

断れるわけないよ、と内心呟きつつ答える。二人の答えに仁は満足そうに微笑み徐に腰を上げた。

 

「何かあれば佐伯に遠慮なく言ってくれ。じゃあ通訳さん、早速だが着いてきてくれ」

 

「は、はい」

 

「ロック――くれぐれも、粗相のないようにね」

 

その冷徹さを帯びた声音に、ロックは「はい」としか答えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すまないな、急に連れ出して」

 

「いえ……」

 

なんでこんなことになったんだ。そうロックは思っていた。

今自分は別の部屋で、藤崎仁と二人きりで話をしている。そんな状況をすんなり飲み込むことは出来なかった。

畳の上に敷かれた座布団の上で正座し、緊張の面持ちで仁の顔を見据える。

 

「一つ確認なんだが、君は喫茶店で儂のハンカチを拾った青年だよな? 儂の事は覚えているかな」

 

「……はい」

 

「そうか、よかった。間違いだったらどうしようかと思っていたところだ。――まさか、こんな形で再会するとはな。人は見かけによらないとはまさにこのことだ」

 

仁は微笑みを浮かべ呟き、胡坐をかきながらロックを見つめる。

 

「君もロアナプラからこっちへやってきたと聞いた。元は日本で何してたんだ」

 

「しがないサラリーマン、です」

 

「だろうな。まだ君からは“日向”の気配が消えていない。だから儂も見抜けなかったわけだが……そんな君がどうして裏社会に身を投げたんだ」

 

「……会社に見捨てられて、そこで今の仲間に拾われました。そこからはそこで生きている、という感じです」

 

「なるほど、それは災難だったな。だが、いつでも日本へ帰れただろうに」

 

「……」

 

仁の言葉にロックは口を噤んだ。

彼の言う通り、確かにいつでも帰れただろう。だが、それでも帰らなかった。帰ろうと思わなかった理由は、自分自身が一番理解しているからこそ言葉にするのに躊躇いがあった。

黙ってしまったロックに仁は苦笑を浮かべ、再び口を開く。

 

「まあ、君について深く聞くつもりはない。儂よりも君の方がこちらに聞きたいことがあると見受けられる」

 

「え……」

 

「違うのか? さっきの反応からそうだと思ったんだが」

 

そう言うと、仁は徐に着物の袖の中へ手を伸ばす。

中から取り出したのは――喫茶店で目にした例の白いハンカチ。

 

「君にはこのハンカチを拾ってもらった恩がある。恩返しと言っては何だが、儂に答えられるものなら答えよう」

 

ロックはそのハンカチを目に映すと、無意識に拳に力を入れる。

 

 

 

――あの時逃したチャンスが目の前に。

 

 

また逃がせば、今度こそ二度と訪れない。

 

そう思うと、心臓の鼓動が異様に早くなるのを感じた。

意を決し、これ以上ない程緊張しながらゆっくりと口を開く。

 

 

 

「俺が聞きたいのは、そのハンカチを作った人物についてです」

 

 

ほんの少し震えた声音を出しながら、ロックは仁を見据える。

 

 

 

「貴方が大切にされているハンカチ。そのハンカチに刺繍されているマークを俺はよく知っています」

 

「……」

 

「そのハンカチにあるマークは、あの街で彼女が作った服全てに刺繍されているものです。今俺が着ているスーツにも」

 

「…………」

 

ロックの言葉を聞いた瞬間、仁の顔から微笑みが消えた。

真剣な表情で、ただロックの話を聞いている。

 

「貴方はあの時、“親友の孫娘が作ったもの”だとそう言いましたよね。なら、貴方は彼女について必ず何かを知っているはずだ」

 

「………………」

 

「あの人――キキョウさんについて、貴方が知っていることを教えてください」

 

 

“詮索されるのは嫌い”

 

 

そう言った彼女は日本でこんなことをしている自分を許さないだろう。

だがそれでも、聞かずにはいられなかった。

 

ロックが最後まで言い切った後も、仁は黙って見据えるだけ。

沈黙がしばらく流れ、やがて徐に口を開く。

 

「青年、そのキキョウとやらはロアナプラで洋裁屋を営んでいるのか?」

 

「はい」

 

「その洋裁屋の師の名前は、分かるか?」

 

「確か、重富春太と。彼女本人から聞きました」

 

一流である彼女が“自分は一生追いつけない”と評した洋裁の師。

少し前に、その師に育てられたのだと話してくれた。

 

その師の名前を聞いた途端、仁は目を見開いた。

そして、目を伏せ一つ息を吐く。

 

 

「そうか、あの子はまだ……そうか……」

 

 

仁はどこか安心したような。だが僅かに困惑の色が滲んでいる声音で呟いた。

少しの沈黙が流れたが、すぐさま仁はロックへ再び視線を向ける。

 

「確かに儂は、このハンカチを作ってくれた子の事をよく知っている。何故あの街にいるのかの理由もな」

 

「じゃあ」

 

「だが、君がそこまで肩入れする理由がわからん。あの子と何か特別な関係を築いているのか?」

 

「俺と彼女はただの客と職人という関係です。ですが、あの街に住む数少ない日本人としてどうしても気がかりなんです。――裏切りと血で満ちている世界に、あんなとても優しい人がいるのかが分からない。周りのように血で手を染めたわけでもない、普通の人が悪徳の都で何故日本に帰らず、悪徳の都に拘る理由を少しでも知りたい」

 

「興味本位か」

 

「違うと言えば嘘になります。ですが、どうしても知りたいんです」

 

 

一瞬の間も空けず答えたロックを見据え、一つ息を吐いて仁は半ば諦めたような表情を浮かべた。

 

 

 

「長い話になるぞ」

 

 

 

 

やがて、静かに自身がよく知るある女性の事について話し始めた。




老人のキャラ設定で「昔○○」と呼ばれていた、っていうのよくあるじゃないですか。
ああいうありきたりなものもすごく好きなんです。



早くも、あと二話くらいで日本編も終わりです。




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51 花の影

 

 

「――かつて儂には一人の親友がいた。そいつは由緒ある和裁師の家の生まれだったらしいが、何があったんだか勘当されたらしくてな。儂が出会った時には既に一人で生計を立ててたよ」

 

仁は懐かしむように、ほんの少し口の端を上げる。

 

「和裁師の血が濃かったせいか、基本的に服作りの腕を上げることにしか興味がなくってな。自分の事は二の次、どんだけ腹減っても食事を摂らず、一つの服を完成させるまで何日も寝ないのが当たり前。ヘラヘラして“大丈夫”と繰り返すアイツに何度ぶち切れたか」

 

 

そう話す様は、ヤクザ者とは思えない程穏やかで、柔らかいものだった。

 

 

「そんなアイツが急に子供を引き取ったって言ってきてな。自分の事も顧みない馬鹿が子供なんか育てられるかって、何度も怒鳴ったしぶん殴ったこともある。人ひとりの命を背負うことがどういうことなのか、アイツは分かってないと思ってた」

 

「……」

 

「だがな、そんな儂の予想に反して彼女を立派に育て上げたようだ。親友が託したものをちゃんと受け継いで、アイツを最期まで支えてくれてたらしい。まあ、自分を顧みないっつう悪い癖も受け継いじまったみたいだがな」

 

「……まるで他人事みたいですね」

 

「そりゃ、アイツが生きてた頃はその娘に会ったことがないからな。ヤクザ者と会ったところであの子にとって得にはなりゃしない」

 

ロックは思わず言葉を口にした。

よく知っていると言っていた割には、まるで他人から聞いたかのように話していたからだ。

 

仁の言葉に素直に納得し、話の続きを待った。

 

「親友の話では、その娘は父親が奥さん……娘の母親を殺しちまって一人になったんだと。父は当然引き取ることもできず、親戚もいない。よく自分の店に来て服を楽しそうに見てくれていたその子とは元々仲が良く、そのまま放っておくことができず引き取ったんだそうだ」

 

「……父親が、母親を?」

 

「当初は殺意がなく、過失だって判決で終わった。だが、その父親はちょいと日本じゃ有名人だったんでな。父親だけでなく娘であるその子にも飛び火が来た。周りからは“殺人者の娘”だと罵られ、その上マスコミにもつけ回されて。親友に引き取られた後も苦労していたようだ」

 

何とも酷い話だとロックはただそう思った。

平和な日本では、人一人殺すだけで日本中で大きく取り上げられる。

それだけでも、相当肩身の狭い思いをしてきたというのは容易に分かる。

 

「親友も流石にこのままじゃいかんと思ったのか、その子を連れて海外へ行ってな。その間の事は分からんが、数年後二人で帰ってきた後はあの事件の熱は収まり、順風満帆だった」

 

「……」

 

「だが、しばらくしてアイツが病で死んじまって、その子一人で店を切り盛りしようって時だ。あの子の前に父親が現れてな。丁度六年前―― 一九九一年に、あの出来事が起きた」

 

六年前。自身がロアナプラへ踏み入るより遥かに前。

あの街でマフィア同士の連絡会というシステムが出来上がったのが四年前の一九九三年。

彼女はその少し前からロアナプラに住んでいるとレヴィが言っていたのを思い出す。

 

 

――丁度、彼女があの街へ流れついた時期と重なる。

 

 

「青年、ここまで話しといてなんだがここから先を聞けば後には引けん。これは大きな“地雷”だ。踏み入ったら最後、何をされても文句は言えないと思え」

 

「……」

 

「それでもいいのか」

 

「……構いません」

 

ロックは話を切り出した時から、例え踏み入って殺されてもいいという覚悟を決めていた。

 

 

 

――訳ではなく、一つの確信があったが故の言葉だった。

その確信が功を為すかは、その時にならなければ分からない。

 

 

 

「何がお前さんをそこまで駆り立てるのやら」

 

また一つため息を吐いて、仁は意を決したようにロックの目を見据えた。

 

「あの子はな――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「――まさか、そんな……本当に……?」

 

「嘘などつかんよ。ともかく、それが真実だ」

 

「……それが本当だとしても、何故行き着いた先がロアナプラだったんですか」

 

「あの日、既にもう事が終わっちまっていた時に儂は初めてあの子と対面した。その時、呆然としていたあの子は儂に言ったんだ。“帰るべき場所も生きる意味も、全てを失った。もう疲れたから死にたい”だの、“こんな私がのうのうと生きていいはずがない”とな」

 

「……」

 

「あの子はずっと実の父親に苛まれていた。アイツが遺した忘れ形見にそんな惨めな思いをさせたまま死なせてたまるかと、外へ逃がした。今度こそ自由に、自分の思うままに生きてみろと」

 

「…………それは、あの街じゃなくてもできることだ」

 

ロックは拳を強く握りしめ、自身の考えを真っすぐ仁へ告げる。

 

「そう思うなら今度は貴方があの人を引き取れば、少なくてもあんな欲と闇に塗れた世界で厄介ごとに巻き込まれることもなく、今もまだ日本で平和な生活を送っていたはずなんだ」

 

「日本じゃダメなんだよ。ここじゃどこへ行こうと父親の影が纏わりついちまう。あの子にとって父親は一番の障害であり、今も取り払えない大きな壁だ。――海外ならその影をとことん小さくできる。少なくても当時のあの街はまだそこまで裏の世界に影響力がなかった。何もしなければ問題なく暮らせるほどの治安。それでも罪を犯した者が多く、あの出来事を起こしちまったあの子なら普通の街よりも暮らしやすいだろうと選んだ。まあ、一年後ぐらいから悪化しちまったがな」

 

 

仁は何を考えているか分からない表情で淡々と話す。

 

だが、まだロックは納得しきれていなかった。

胸の内に燻る感情を必死に抑えながら、再び口を開く。

 

 

 

 

 

「それでも、死ぬよりマシじゃないですか」

 

 

 

 

 

更に拳に力を入れ、微かに震わせながら言葉を続ける。

 

 

 

「今あの街はバラライカさんの様な人間が山ほどいる。そんな街で破壊的なまでの暴力の渦に巻き込まれながら悲惨な死を遂げるより、平和な国で争いにも巻き込まれず、血をこれ以上浴びない人生の方があの優しい人には似合ってる。――あんな街に逃げて、幸せになんかなれるはずがない……あの人にとって救いなんてあるはずないんだ……ッ」

 

拳と共に声も震わせながら自身の胸の内を吐露する。

今発した言葉は、ロックの嘘偽りない心情だった。

 

仁はロックの顔を暫く見据え、無表情のまま言葉を返す。

 

「何が幸せなのかは己しか分からん。それに、あの街へ行くと決めたのは他ならないあの子だ。そして今もあの街で生きているというのなら、悪徳の都で満足のいく生活を送っているという事。それを違うだの、似合わないだのと自分の価値観を押し付けるのはお門違いだ」

 

「だけど……!」

 

「あの子は確かに優しい子だ。母親のために理不尽に襲い掛かる恐怖に何年も耐え続け、拾ってくれた恩師の腕を絶えさせまいと自信が無いながらも必死に技術を磨き、最後にはその二人のために怒り行動した子だ。――だがな、世の中はあまりにも無情で不平等だ。幸せに生きるべき人間が不幸を被り、幸福を感じることなく死ぬのは特別なことじゃない」

 

「……でも、俺は」

 

「青年、儂らにできることは何もない。君がなぜそこまであの子の人生に踏み込みたがるのか知らんが、軽率な行動は謹んだ方が身のためだ。人の人生に軽々しく踏み入って、痛い目を見ないってのはそうそうない」

 

「……」

 

「それでも踏ん切りがつかないってなら本人と直接話をすればいい。そうすりゃ、少しは胸の内の鬱憤が晴れるかも知れんな」

 

「…………助言ありがとうございます。一旦、考えてみます」

 

仁から放たれた言葉を聞き終わった後も様々な思いが次々に浮かんでくるが、ひとまずここは冷静に、仁の言う通り慎重に動こうと密かに心の中で決める。

 

「儂が知っているあの子についての話は以上だ。これで満足かな?」

 

「最後にもう一つだけ、いいですか」

 

「なんだ」

 

「彼女とその父親の名前を教えてください」

 

できれば言わずに終わろうと思っていた仁だったが、ロックははっきりと“父親が日本じゃ有名人”だという一言を忘れてはいなかった。

有名人だというのであれば、調べれば仁から聞いた話以上の情報が得られるかもしれない。

彼女の本名を知りたがったのは、少しというにはあまりにも不釣り合いな興味本位。

 

ここまで話してしまったからには最後まで付き合うしかないか、と仁は内心呟き、徐に言葉を発する。

 

「まず、父親の名だが――」

 

 

 

次に言い放たれた二人の名前をしっかりと脳に刻み、やがて仁へ頭を下げる。

 

 

 

 

 

「ありがとうございました。俺から聞きたいことは以上です」

 

「満足したようで何よりだ」

 

仁は微笑みを携えていながらも、どこか固い声音で発する。

 

「……青年、一つ聞かせてくれないか」

 

「なんでしょう」

 

今度は、仁が遠慮気味にロックへと言葉をかける。

しばらく間を空け、やがて先程よりも緊張したような色が滲んだ声音で問いかけた。

 

 

 

「キキョウは……あの街で生きているあの子は、お前さんから見てどんな人間だ」

 

 

 

 

拳を強く握り、どこか不安そうな瞳でロックを見据える。

そんな仁の様子に少し目を見開きながらも、しっかり答えようと姿勢を正す。

 

「悪徳の都の住人とは思えない、綺麗で凛とした女性です。マフィアだろうと殺人鬼だろうと真っすぐな姿勢を崩すことはない。――彼女にあの街は似合わない。俺は貴方から話を聞いても尚、そう思います」

 

「……そうか」

 

仁は再び柔らかい微笑みを浮かべながらも、僅かに悲しそうな色を滲ませた。

短く息を吐き、ハンカチを裾の中へ戻し「さて」と腰を上げる。

 

「そろそろ向こうさんが待ちくたびれている頃だろう。これ以上待たせるのはよくない。通訳さん、後も頼んだぞ」

 

「はい」

 

そう言って二人は和室を後にし、バラライカらが待っている部屋へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――大使館に寄って、モスクワの後任に引き継いだら姐御の仕事は終わりだ。今日中には日本を出るってよ」

 

藤崎仁とバラライカの会合はひとまず無事に終わり、同時にロックの通訳としての仕事も終了となった。

バラライカらが残りの仕事を片付けている間、ロックはレヴィと共にとある住宅街の公園へ来ていた。

 

子供たちの声が響いているその公園は、ロック――岡島祿郎の実家の近くにある。

 

“日本を発つ前に会っておくべきだ”というレヴィの強い提案により、彼は約一年振りに実家への道を辿っていた。

二人は公園のベンチへ座り、昼間とはいえ寒い空気の中缶コーヒーを片手に言葉を交わしている。

 

「折角カトラス取り寄せたってのに出番がなかった。あのクソ野郎を先に鷲峰組が片付けたおかげでこっちはずっと退屈だったぜ。チクショウ」

 

「弾を消費しなくてよかったじゃないか。あの街でまた銃の撃ち合いをするだろうからその時に鬱憤を晴らしなよ」

 

「そういう問題じゃねえんだよ」

 

レヴィは「けっ」と吐き捨てると、コーヒーを喉に通す。

徐に白い息を吐き出し、どこか遠くを見つめているロックへ促すよう言葉をかける。

 

「ロック。結局お前、どうすんだ」

 

「……」

 

「もうあっちに帰っちまったら、二度とここへは戻れない。――お前はまだここに戻れる」

 

「……」

 

「日本に残るか、アタイらと同じ世界で生きるのか。それを決める“最後のチャンス”だ」

 

「……」

 

「決めるのはお前だ」

 

闇の裏社会でロックとして生きるのか、それとも岡島祿郎として再び日本へ戻るのか。

 

日本へ来てから一瞬も考えなかった訳ではない。

 

日向側の世界は向こうよりも圧倒的に平和で穏やかなもの。

ロアナプラでは決して味わえない安寧の日々。

 

“いつでも戻れる”という甘い選択肢があったお陰で、はっきり決めることを無意識の内に避けていた。

 

 

 

――しかし、今となってはもうその選択肢はロックの内から消えている。

 

 

仁から話を聞いた時から、彼の中でやるべき事が決まっていた。

それを為すには、あの街へ帰らなければならないのだ。

 

「確かに、もう二度とここへは帰れないだろうな」

 

「……」

 

「だけど、あの街でどうしてもやらなきゃいけないことができたんだ。それを為すために、俺はあの街へ戻る必要がある」

 

「……それはこの国での平和な生活を捨てでもやらなきゃいけねえことなのか?」

 

「俺にとってはそうだ。――このまま何も為さずにのうのうと生きるより、あの街で“ロック”としてやりたいようにやってから死ぬのも悪くない。そう思ったんだ」

 

“その生き方を貫きたいなら貫けばいいんじゃないかな”

 

ロックはかつてキキョウに言われた言葉を思い返していた。

 

この世の無情さを目の当たりにし、自分の考えが間違っているのか疑問に感じた時に彼女が言ってくれた。

 

あの悪徳の都で正しいのか正しくないかではなく、自分が後悔しないために生き方を貫いている彼女だからこそそう言ったのだ。

正直あの時は慰めで言っているのかもしれないと少し思ったが、今では心の底から彼女らしい言葉だったと思える。

 

――そんな彼女の生き様は、この国で味わってきた苦しみから出来ていることを知った。

 

あの街に留まっていればこれまで以上の苦痛が彼女に必ず襲い掛かってくる。

マフィアの男の傍にいるのなら、尚更それは避けられないだろう。

 

無事に逃げ切り今を生きているからこそ、今度は平和に穏やかに暮らしてほしい。

 

だが、それを彼女に望んでいる人間はあの街に誰一人としていない。

なら、自分がやらなければ。

 

他の誰でもない、彼女の核心を知り得た自分が。

 

 

「そのやるべき事が終わったら?」

 

「勿論、あの街に居続けるさ」

 

「どうしてだ」

 

「あそこが俺の居場所なんだ。ここは生者が生きる場所で、ロアナプラは歩く死人の街だ。……一年前、お前と出会ったあの時から俺はもう死んでる。なら帰る場所はお前と一緒だよ、レヴィ」

 

言い放たれた言葉にレヴィは目を見開いた。

 

この国に舞い戻るならそれでもいいと決めていた。

血と硝煙の匂いが漂う街で本音をぶつけ合い、幾つもの修羅場を共に潜った仲間だからこそ止めようとは思わなかった。

自分とは違い、平和な世界で生きてきたロックはてっきり日本に留まるものだと決めつけていた。

 

そんな少し前までどっちつかずの事を言っていた男が、今はっきりと自分と同じ死者だと告げた。

 

他でもない彼がそう言ってくれた事実に、レヴィは思わず「はっ」と息を洩らした。

 

「ここを捨ててアタイらと同じ世界に落ちるなんざ、とんだイカれた野郎だな」

 

「そうじゃないと、お前たちと渡り合えるなんて無理な話だからな」

 

「後悔しても知らねえぞ」

 

「後悔ならとっくに済ませたさ。――それに、覚悟ももう決まった」

 

その言葉にどこか嬉しそうな、だがどこか困ったような笑みを浮かべる。

残っていたコーヒーを勢いよく飲み干し、置いてあるゴミ箱へ缶を投げ捨てた。

 

 

「そうかい。これからもよろしく頼むぜ、相棒」

 

「ああ。――じゃあ帰ろうか、レヴィ。“俺達の街”へ」

 

悪徳の都の住民である二人は揃って腰を上げ、足早に公園を去っていった。






=ちょっとした裏話=

仁さんとお師匠さんは50年以上の付き合いがあり、仁さんがヤクザ者になり始めた時からの大親友です。
キキョウさん以上に仕事にのめり込むタイプのお師匠さんはしょっちゅう倒れてしまい、その度に仁さんが介抱してました。(キキョウさんを引き取ってからはそこまで無理することはなくなりました)

そんな二人は一度も喧嘩したことはありませんでしたが、唯一お師匠さんがキキョウさんを引き取った時口論になりました。

結局お師匠さんの頑固さに負けて、「死んでもしっかり育てろ」と告げています。

仁さんはキキョウさんに会う気は全くありませんでしたが、そうも言ってられない状況になったため、最後に一度だけ顔を合わせ、ロアナプラへ送り出しています。

それからもキキョウさんの事は気がかりでしたが関わることはなく、どうなったかも把握していませんでした。

ロックの話を聞いて安堵と心配が入り混じり、複雑な心境となってます。

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日本編も残すところ次回で最終話です(ボソッ)


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52 雪解け


日本編、最終話です。






――午前六時。冬の朝の空にはまだ陽は昇っていない。

藤崎仁はそんな薄明るい空を見上げ、縁側でただ一人佇んでいる。

 

 

感情を全く乗せていない表情で、白い息を吐いた。

 

 

刹那、すぐ近くから微かに足音が聞こえてくる。

老いて耳が遠くなってはいても、人の気配には敏感な仁は誰かが近づいていることに気づいた。

すぐさま、僅かに聞き取れた足音とその気配が誰のものか瞬時に理解する。

 

「雪緒か。おはよう」

 

「……おはようございます」

 

薄暗い廊下の奥から現れたのはパジャマに身を包んだ雪緒だった。

雪緒は声を掛けられたたことに驚きつつ、丁寧に挨拶を交わす。

 

「どうしたんだ、こんな朝早くから。散歩か?」

 

「いえ、その……えっと……」

 

 

言い淀む雪緒の姿を目にし、仁は柔らかく微笑んだ。

 

 

「丁度一人で暇していたところなんだ。こっちにきて老人の話に付き合ってくれないか?」

 

仁なりに気を利かし、そう言いながら隣をぽんぽんと叩き座るよう促す。

その誘導に少し躊躇った後、雪緒はゆっくりと足を動かし仁の隣へ腰かけた。

 

「寒いだろう。これでも羽織っておきなさい」

 

「私は大丈夫ですよ」

 

「いいから羽織りなさい。君に風邪を引かれたら銀次たちにどやされちまう」

 

そう言いながら自身が着ていた羽織を雪緒へ差し出した。

相変わらずの頑固ぶりに雪緒の方が折れ、苦笑しながら「ありがとうございます」と羽織を受け取る。

灰色の布で仕立てられた、人肌の温もりがある羽織に身を包み小さく息を吐いた。

 

「……」

 

「……」

 

どちらも言葉を発さない。

仁はただ微笑みながら再び空を見上げ、雪緒は困ったように眉を顰め仁をちらちらと見ていた。

雪緒の視線に堪らず「ふっ」と息を洩らす。

 

「そんなに見つめられたらこの老人の体に穴が空いちまうぞ」

 

「あっ、すみません……」

 

「別に構わんさ」

 

クスクスと笑った後、微笑みを携えたまま庭の方へ顔を向ける。

 

「お前さん、儂に何か話したいことがあるんだろう」

 

「……」

 

「最近ゆっくり話すことができなかったからな。気づいてやれずすまん」

 

「いえ……」

 

「またこの後も動かなきゃならんくてな。話すなら、今日はこの時間しか取れない」

 

「…………」

 

「話してみなさい」

 

柔らかい声音で話を切り出す。

仁の言葉に雪緒は拳に力を入れ、やがて意を決したように口を開く。

 

「藤崎さんには、感謝しています。裏社会の事について私に知られないよう気を遣っていただいて……おかげで、あの日から嘘のように穏やかな日々を過ごせています」

 

「……」

 

「銀さんや吉田さん達もよくしてもらっていると聞きました。――本来私達にここまでする義理はないはずの貴方に、こうしている今も救われています。生き残った鷲峰組全員が、こうして無事にいられるのは貴方のおかげに外なりません」

 

 

まるで自身でその言葉を噛みしめるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 

 

 

「でも……それでもやっぱり、私は皆さんの事が、心配です」

 

「……」

 

「私がこうして平和に過ごしている間、いつか貴方たちが香砂会へ襲撃をかけ……もし、大怪我を負っていたら? もし、もう二度と戻らなくなったら? そう考えると、どうしようもなく不安なんです」

 

「……」

 

「何も知らないまま、ただ平穏に過ごすなんて嫌なんです」

 

寒さのせいか。はたまた緊張のせいか。或いはその両方か。

その声音はほんの少し震えていた。

 

仁は横目で雪緒の不安そうな表情を一瞥し、黙って続きを待つ。

 

 

 

「せめて、今どういう状況なのかだけでも教えてください」

 

 

 

 

懇願するように仁の方を見据え、はっきりと告げた。

その真っすぐな目をしばらく見つめ、仁は真剣な表情で話し出す。

 

「一度組を継ぐと決めたお前さんの事だ。確かに、気にするなというのは無理な話しだったな」

 

「ごめんなさい、折角気遣ってくれたのに……」

 

「謝らないでくれ。お前さんの気持ちを察してやれなかった儂にも非はある」

 

「……」

 

「詳しいことは教えてやれん。教えてやれることと言えば……今は最後の局面まで来ているってところか」

 

「最後?」

 

 

白い息を短く吐いて、腹を括り仁は話を続ける。

 

 

「――今日、香砂会に仕掛ける」

 

「……そう、ですか。とうとう」

 

いつか来るとは思っていた。

香砂会を潰すために鷲峰組は藤崎組と手を組んだのだ。

今日がその日だということに驚かざるを得なかったが、元々覚悟を決めていたのもありそこまで動揺はしなかった。

 

「といっても、いきなり銃やら刀やら持って突撃する訳じゃない。最初は穏便に、だが最終的には確実に息の根を止める。そのための手札も戦力も揃えたんだ」

 

そう言う仁の目は、覚悟を決めたヤクザ者のそれだった。

あの日、泣き崩れた雪緒に見せた――とてつもなく真っすぐな瞳と同じもの。

 

 

「無傷ではすまんかもしれん。だが儂も、鷲峰組の奴らも必ず生きて帰ってくる。――約束だ」

 

 

雪緒は告げられた言葉に目を見開き、やがてゆっくりとほんの少し微笑みを浮かべ口を開く。

 

 

 

 

「約束ですよ」

 

 

 

そう言って、右手の小指を差し出した。

仁も微かに笑みを浮かべ、同じように小指を立て絡ませる。

 

「破ったら針千本、ですよ」

 

「なら、何が何でも帰らねえとな」

 

お互い顔を見合わせ同時にくす、と笑みを漏らす。

 

 

 

――そんな二人は、傍から見れば血の繋がった孫と祖父のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――という訳で、こいつらの面倒は儂が見る。ロシア人の方も好きにさせないようこっちで動く。これで文句ねえだろ」

 

「勝手なことされちゃ困るぜ、藤崎さんよ。鷲峰組は香砂会(うち)の傘下。面倒を見るのはうちの仕事だ」

 

陽も高く昇り、雲の隙間から暖かい日差しが差している頃。

藤崎邸に負けず劣らずの大きな日本家屋――香砂会本邸では香砂会会長、香砂政巳と藤崎仁が対面していた。

 

二人はそれぞれ何らかの理由によりお互いを毛嫌いしており、元より仲は良くない方ではあった。

だが、その仲をより険悪なものへと変貌させた決定的な出来事があった。

 

それは、数年前の関東和平会の総会。

鷲峰龍三が亡くなり鷲峰組をどうするかの話の場で、当時鷲峰組を陥れようと次期組長を直系のみしか認めなかった香砂政巳と、堅気を巻き込むことを禁忌とする仁はお互いの意見のすれ違いで長い間対立していた。

そんな二人が相容れるはずがなく、現在もその仲の険悪さは健在である。

 

――犬猿の仲である二人が醸し出す雰囲気は、極寒と呼ぶに相応しい冷たさと針で刺されるかの様な鋭さを纏っている。

お陰で、仁に着いてきた銀次、吉田、佐伯。香砂の後ろに立っている香砂会組員、両角は指一本動かせない状態になっていた。

 

「勝手、なあ……それをお前が言うのか」

 

「なに?」

 

「自分の利益のためだけに堅気の女の子をこっちの世界に巻き込んだ。勝手な事をしてきたのはお前の方だろうが」

 

「まだそれを根に持ってんですか。“そんなもん”今蒸し返す話じゃねえでしょう」

 

「――そんなもん、だと?」

 

瞬間、仁の声音が更に冷徹なものへと変わる。

殺されそうな程鋭い目線で射貫かれ、大組織である香砂会会長でさえも一瞬息が止まった。

 

「儂の前でもう一度その言葉を吐いてみろ。二度とその口利けねえようにしてやる」

 

「……まあ、ここでその話をする必要も理由もない。今は先の話をしましょうや、藤崎さん」

 

流石にこれ以上怒りの琴線に触れるのはまずいと思ったのか話題を切り替える。

目を伏せ、小さく息を吐いてほんの仁の目線から少し鋭さが無くなった。

 

「さっきも言ったように、鷲峰組はうちの傘下。こいつらをどうするかはこっちが決めさせてもらう」

 

「お前が儂より先に露助の事を何とかしていたらそれでもよかったさ。だが、東京で常に大手を振って歩いてる割には肝心な時は速やかに動けず、自分の縄張りもロクに守れない。そんな奴に任せるのはあんまりだろう」

 

「…………あんたもこっちと同じ状況になりゃそんな口叩けねえと思いますがね」

 

「一緒にすんじゃねえよ。儂がどれほど外のモンについて気を張らせてると思ってんだ。それだけじゃない、自分の縄張り(シマ)でどっかの馬鹿がヤクまき散らさねえよう常に動いてんだ。――いつ血を浴びせられるか分からないのがこの世界。どんな些細な変化だろうと気を巡らせ、動くのが常識だ。多くの組員達が路頭に迷わないようせめてそうするのが組長の義務だろう。んなことも分からねえ若造が舐めた口叩くな」

 

「ありがたいご高説をどうも。だが、いくらあんたでも親と子の関係に口を出すのは許されねえ。うちが鷲峰の親である限りこれだけは譲れないな」

 

「……そうか、じゃあ聞かせてもらおう。鷲峰組(こいつら)をどうするつもりなのか」

 

頑なな香砂の姿勢に、ひとまず話を聞こうと問いを投げかける。

香砂政巳はそこで初めて少し口の端を上げ話し始めた。

 

「結論から言わせてもらえば、鷲峰組は解体させる。親であるうちに喧嘩吹っ掛けた上、あんたに火の粉をかかせようとしたその罪は重い。たかが一人の命を賭けたからといって、それはけじめの内には入らねえ」

 

「解体した後は」

 

「全員東京を出て行くか、首を括ってもらう」

 

「成程、お前にしては賢明だな。そうでもしなけりゃまた同じことをやらかそうとするヤツが現れる」

 

「やるからには徹底的にだ。それが極道ってもんでしょう」

 

 

 

お前が極道を語るなクソガキ。

 

 

 

瞬時にそう口をついて出そうになったが、何とか堪えすぐさま思考を切り替える。

 

少しの間考え込むように黙り、顎鬚をなぞる。

やがて、何を言うか決めたらしく仁は再び口を開く。

 

「解体はまあしょうがない。お前がそれで納得するなら別にいいだろうさ」

 

「じゃあ、後はこっちに任せ」

 

「もう一つ聞かせろ。解体させた後、鷲峰雪緒……龍三の娘のことはどうするんだ」

 

「それはあんたが引き取るつもりなんじゃないんですか? あの娘をどっかに匿ってんでしょう」

 

一体どこでその情報を仕入れてきたのか。

仁は一瞬気にはなったが、とりあえず話を進めることに専念する。

 

「儂が引き取るつもりはない、と言ったら?」

 

「娘はもう十六だ。だったら仕事して一人で暮らすってのもできなくはない。それに、女なんだったら運が良ければ嫁に貰ってくれる奴がいるかもしれないしな」

 

「……まだ高校生だぞ。そんなんじゃ確実に路頭に迷う」

 

「知りませんね。そいつらが蒔いた種だ。そこまで面倒をみる義理はない」

 

平然と言ってのけた香砂にこれまで以上の殺意を抱いた。

しかし、それは仁だけではない。

後ろに控えている吉田と銀次は今にも殴ってしまいそうな面持ちを携えている。

特に銀次は雪緒を傍で見てきたせいか、より一層瞳には怒りが込められる。

 

そんな二人が行動を起こしていないのは、仁から予め“何を言ってこようと絶対に動くな”と言われているからである。

このどうしようもない怒りをぶつけるのは今ではないと、辛うじて保っている理性でなんとか気持ちを押し殺す。

 

 

「お前の言い分は分かった。ならこっからは儂の言う事を聞いてもらおう」

 

 

仁も湧き上がる殺意をぐっと抑え、できるだけ冷静に言葉を紡ぐ。

 

 

「以前香砂会が中国人に縄張りを荒され崩れかけた所に助け舟を出した時の事、覚えてるか」

 

「……勿論、忘れる訳ないでしょう。それがなんですかい」

 

「その時の借りを今ここで返しちゃくれねえか」

 

「というと?」

 

「鷲峰組解体後、組員達は全員儂の組に加わってもらう。それを何も言わず認めろ。それであん時の借りはチャラだ」

 

香砂は思わず顔を引き攣らせた。

次第に眉を寄せ、不機嫌さを隠すことなく声音に乗せる。

 

「あれは前組長の時の話だ。俺には関係ないですね」

 

「お前もそん時若頭だっただろうが」

 

「少なくてもあの時兄貴がしっかりしてりゃ、あそこまで追い込まれることはなかったんだ」

 

「中国人につけ入れられた隙を作ったのはお前だろうが。あん時お前が麻薬の取引でアイツらを騙そうとしたせいで話がこじれた。それをあいつはなんとか自分の組だけで場を納めようと躍起になって動いていた。だというのに、関係ねえなんてよく言えるな」

 

「騙そうとしたわけじゃない、向こうさんがこっちの言い分を無視して行動していたから、少しばかり優位に動こうとしただけだ。――結局、その後俺がここまで香砂を立て直した。俺にはあんたに借りなんてありませんね」

 

悪びれもしない香砂に、仁は怒りを通り越して呆れていた。

尊敬すら覚えるほどのクズ野郎に成り下がっていたとは、流石に仁も思っていなかった。

 

 

 

「そうかそうか……お前の言うことは、よおく分かったよ……」

 

 

 

仁は何の感情も乗っていない声音で呟いた。

 

徐に、傍らに置いていた自分の杖を手に取る。瞬間ミシッ、と音が鳴った。

 

 

「ここまで落ちぶれていたとはな政巳。お前の兄貴も向こうで泣いているだろうよ。自分の弟が糞にも劣るカスに成り下がり、平然と生きていることにな」

 

「あ?」

 

「せめて借りを返す気概があったならまだてめえを五体満足で生かしておいてもよかった」

 

底の冷えた声音で呟かれたその言葉と共に立ち上がり、杖の中に隠されていた刃を抜く。

常に持ち歩いていた仕込み杖から現れた刃は、仁の瞳に負けず劣らずの鋭さ。

 

かつて刃を振るい、常に血を滴らせ“釁の藤”と恐れられた男が刀を抜いた。

 

 

予想だにしていなかった仁の行動に、香砂はここで一番の動揺を見せる。

 

 

「おいおい……! てめえ、一体何のつもりだッ!」

 

「見て分からねえか。そこまで勘が鈍ってるならどの道お前はもう終わりだ」

 

「ふざけんな! てめえ俺を殺そうってのか!? そんなことしたら例えアンタでも和平会は黙ってねえぞ!!」

 

「だろうな。だから事前に話を通してある」

 

「は?」

 

「佐伯」

 

「はい」

 

表情を一切変えることなく不動を貫いていた佐伯は懐から一つの書状を出した。

流れるような手つきで封を開けながら仁の隣へ立つ。

文面を香砂の方へ向け、凛とした声音で告げる。

 

「ここには、関東和平会に名を連ねる貴方以外の親分衆全員の署名があります。内容は、不肖この佐伯秀が拝読させていただきます」

 

何が起きているのか理解できていない香砂を一瞥した後、手元にある書状の内容を読み上げる。

 

「当文書に名を記した者は、香砂会を関東和平会脱退に同意したものとする。署名後、同意の取り消し、香砂会への助力を一切禁ずる―― 一部略しましたが、内容はお分かりになったかと」

 

「……は?」

 

淡々と読み上げられた内容を把握できず、香砂は口を開け呆然した。

理解が追いついていない様子に仁は無表情で冷淡に告げる。

 

「和平会に名を連ねる総勢十六名の親分衆が香砂会を和平会から追い出すってのに同意した。親分衆の過半数以上が認めたものは覆せない。つまり、香砂会はもう和平会に名を連ねていないんだよ」

 

「なに、言ってやがんだ」

 

「とどのつまり、お前をどうしようと和平会は動かない。ここでどんなに惨めな殺され方をしても“和平会の者じゃない人間”のことなんざどうでもいいんだよ」

 

あまりにも唐突の事で香砂は頭が真っ白になる。

だが組長としての意地なのかそれでもなんとか言葉を続ける。

 

「そ、そんなもん無効に決まってる! 第一うちを追い出してメリットなんざ何もねえ! 上納金もウチが一番多いんだ! そう簡単に親分衆が認める訳がッ」

 

「儂がお前を終わらせるためにどれだけの時間をかけたと思ってんだ。まさか、一年やそこらで全員に署名させられるわけねえだろ」

 

はっ、と鼻で笑い、哀れむような目を向ける。

香砂は目を見開き、微かに声を震わせた。

 

「一体、いつから」

 

「お前が組長になって権力振りかざすようになってからだな。そん時から潰したくてたまらなかったよ。ここまで来るのに本当に長かった……これに関しちゃ佐伯に一番苦労をかけたな」

 

「署名のお願いをした時、二橋の親分に殺されかけたこともありましたね」

 

懐かしい、と佐伯はほんの少し口の端を上げた。

香砂は事の重大さを改めて感じ、焦燥の色を浮かべ声を出す。

 

「冗談じゃねえ! こんなこと認められるか!」

 

「お前に認める認めないの権利なんざねえよ」

 

「うるせえ老いぼれがッ! 下手に出てりゃいい気になりやがってッ!!」

 

「そりゃこっちの台詞だクソガキ」

 

感情を昂らせる香砂とは対照的に仁はただ淡々と言葉を交わす。

やがて、仁は底の暗い瞳を見せながらゆっくりと香砂の方へ歩み始める。

 

明らかな殺意を纏わせ、近づいていく。

 

香砂は仁が本気だと分かると、勢いよく立ち上がり懐に入れていた銃に手を伸ばし銃口を向ける。

 

 

「それ以上こっちに近寄るなクソ爺ィ!」

 

 

だがそれでも仁の歩みは止まることはない。

我を忘れて引き金に指をかけようとした瞬間、仁は老人とは思えない速さで距離を詰める。

 

発砲される一瞬前に体を少し横に逸らし、勢いよく香砂の手首へ刃を切り込む。

銃を握った形のまま右手は腕を離れ血飛沫と共に宙を舞う。

 

「が、ああああああ……ッ!」

 

右腕を抑え、蹲りながら呻き声を上げる香砂を見下ろしながら刀についた血を振るい落す。

 

「親父ッ! てめえよくも……!」

 

狼狽えていた両角が親を切られ怒りを露にし、彼も腰から自前の銃を抜きすぐさま仁へと向ける。

刹那、佐伯も勢いよく駆け出し、一瞬で両角の前に移動した。

そのまま流れるように顎を殴り、意識を飛ばした後銃をはたき落とし首を掴み床に叩きつけた。

 

「銀、吉田。どっちかこいつ抑えるの手伝ってくれ。俺一人じゃ力負けしちまうかもしれねえ」

 

「佐伯さん、あっしが」

 

「頼む銀。吉田は外見張ってろ」

 

「へ、へい分かりやした」

 

二人はすぐさま立ち上がり、指示された通り動き始めた。

 

そんな中、仁は蹲る香砂の髪を掴み顔を上げさせる。

苦痛を感じながらも香砂は仁を鋭い目線で睨みつけた。

苦し紛れの抵抗なのか、残っている手で仁の手首を掴み返す。

 

「こんなことしてタダで済むと思うなよッ……!」

 

「負け犬の遠吠えだな。お前とはもう口をききたくない」

 

そう言うと、仁は刀の切っ先を香砂の口へと向ける。

そのまま紙を割くようにいとも簡単に口の端から奥まで切り込んだ。

 

 

「が、あッ!」

 

 

呻き声を上げる様を無表情で見つめながら、反対側にも同じように切り込みを入れていく。

口からは大量の血が流れ、ボタボタと床に赤い滴が落ちる。

 

「今頃、香砂会系列の事務所には元鷲峰と儂の組員が襲撃してるはずだ。降参する者は生かし、抵抗する者は容赦なく殺す。一体何人生き残るだろうな?」

 

「はがッあ……!」

 

「喋ろうとするな、着物に血が付く。――本来ならここで殺してやりたいとこだが、生憎約束があるんでな。非常に残念だが生かす必要がある」

 

仁はそう言いながら香砂の太ももへ刃を突き立てる。

 

「あ、がッ!」

 

「逃げられちゃ困るからな」

 

「ぐぞ……ッ、いづがぜっだい、ごろじでやる……!」

 

太ももに深く刃が突き刺さっているにもかかわらず恨み言を忘れない香砂の様子に、哀れみの目を向けながら鼻で笑った。

 

すると、廊下から何やらドタドタと慌ただしい足音が近づいてくる。

外を見ていた吉田は現れた見知った顔を、そのまま部屋に通す。

 

姿を見せたのは、屋敷で香砂会組員を抑えるための人員をまとめていた高橋だった。

高橋は仁を目に映すとすぐさま声をかける。

 

「親父、無事で何よりです」

 

「言ったろ? 儂もまだやれるんだよ」

 

「だからといって無理はしないでくださいよ」

 

「分かってる分かってる。……それで、もう来たのか?」

 

「はい、表玄関に豪華な送迎車が到着してます」

 

「流石、仕事が早いな」

 

高橋からの報告を聞いた仁は、ゆっくりと香砂の太ももから刃を引き抜いた。

一人では歩けない香砂を髪の毛を掴んだまま歩き出す。

刀を吉田と渡し、引き摺る様に部屋を出てそのまま廊下を突き進む。

 

その後ろを高橋は無言でついて行く。

 

「どごに、いぐんだ……ッ、はなぜっ」

 

「行けば分かる」

 

短く答え、仁はひたすら香砂を引っ張る。

そのまま家の外へ連れ出し、表玄関までの道を辿る。

 

やがて大きな門の前で立ち止まると、仁は冷徹な声音で香砂へ言葉を投げかける。

 

 

 

「家畜にも劣るお前には、豚箱が一番お似合いだ」

 

 

 

そう呟いたのと同時に、高橋が門の扉を開けた。

 

 

――扉が開いたそこには、武装した大勢の警官が二人を待ち受けるように立っていた。

 

 

「待たせてしまったかな。高槻警部殿」

 

「挨拶はいい藤崎。……にしても、ちょっとやりすぎじゃねえか?」

 

「ちと暴れられて仕方なかった。不可抗力じゃ通らんかね?」

 

「こっちにも書類ってもんがあんだ。仕事増やさないでくれよ」

 

「いいじゃないか、これでお目当てのもんを捕まえられてお前さんも出世できるんだから。――ほら、約束だ。とっとと持っていけ」

 

そう言うと香砂を前に投げ飛ばす。

瞬時に複数の警官が身動きが取れない香砂を抑え、手錠を嵌めた。

 

「サツどもとでをぐんでやがっだのが……!? ごのじじいッ」

 

「早く連れってってくれ。そいつの相手はもう懲り懲りだ」

 

呆れたように吐き捨てると、警官たちは香砂を引き摺る様に護送車へと連れていく。

香砂の姿が見えなくなり、仁は一つ息を吐いた。

 

「高槻、すまんがもう少し儂の我儘に付き合ってくれ」

 

「こっちはあんたに今までの借りがあるからな。だが今回きりだぞ」

 

「分かってる。そう何度も警察と手を組むのは気が引けるからな」

 

「こっちの台詞だよ」

 

普段は敵対している同士ではあるが、今回は特別であった。

仁は香砂会との抗争にしばらく静観を決めてもらう事を条件に、香砂政巳を捕らえる警察の目的を果たさせるという協力関係を結んでいた。

過去に仁のお陰でヤクザ者が引き起こした事件を解決できたのもあり、警察は仁からの申し出を強く断ることができなかった。

 

「いつかお前も捕まえてやるからな。覚悟しとけよ」

 

「おお、怖い怖い」

 

何年も自身を逮捕する機会を窺っている高槻の言葉に、仁はどこか嬉しさも滲ませた精悍な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

――香砂会と藤崎組の抗争はそう長引くことはなかった。

仁が用意周到に以前から準備していたのと、香砂会を潰すことに心血を注いだ鷲峰組が加わったことにより、広い縄張りを持てど頭を失った組は本気で殺しにかかった彼らの相手ではない。

 

 

一般市民も巻き込むかと思われた抗争は、ヤクザ者以外被害者を出すことなく終結した。

 

 

慌ただしかった空気も今では穏やかな日常へと戻りつつある。

かつて極道のいざこざに巻き込まれた雪緒もそれを実感する日々を送っている。

 

雪が解け、春の訪れを報せる暖かな空気を肌で感じながら、縁側に座り藤崎邸の庭園を眺めていた。

そんな彼女の隣には、誰よりも雪緒の幸せを願った銀次の姿。

 

「もうすぐ春ですね、銀さん」

 

「ええ。すっかり寒さもなくなりましたね」

 

「暖かいですね、本当に」

 

庭の方へ顔を向けたまま、二人は静かに言葉を交わす。

雪緒はほんの少し微笑みながら、話を続ける。

 

「まさか、またこんな平和に暮らせるなんてあの時は正直思ってませんでした」

 

「……これも全て、親っさんのおかげだ。あん人がいなけりゃ、ここまでできなかった。もう一生あの人には頭が上がらない」

 

「そうですね。――藤崎さんに、全てを救われました」

 

結局鷲峰組は、頭のいない組となり存続させる理由がないとして解体となった。

元鷲峰組組員達は現在藤崎組の配下に加わり、仁の元で今も生きている。

 

当初の目的だった組の存続は叶わなかった。

だが、もう二度と再興できないほど徹底的に潰し、これまで味わってきた雪辱を晴らせた。志半ばで息絶えた坂東の仇もこれで果たせただろう。

 

満足のいく結果を迎え、鷲峰組で文句がある者は誰一人いない。

 

「……お嬢。親っさんから言われた、“あの話”はどうなさるんで」

 

銀次は遠慮気味に雪緒へ問いかけた。

その問いに少し苦笑しながら、一つ間を空けて返答する。

 

「藤崎さんはとても信頼できる人です。きっと、私が養子となることを了承したらこれまで以上に守ってくださると思います」

 

「……」

 

「でも、いきなり家族というのは……正直まだ答えが出せません」

 

「……これはお嬢の問題だ。あっしが何か言える立場じゃないのは重々承知です。――ですが、一つだけ言えるのは」

 

 

銀次は一つ深く息を吐き、意を決したように言葉を続ける。

 

 

 

「あの人の傍なら、どんなヤクザ者よりも安心できると思いますよ」

 

 

真っ当な幸せを掴んでもらいたい。

そのためだけにここまで生きてきた。

 

例え自分の傍から離れるとしても、望みが叶うのならそれでいい。

 

雪緒はここで初めて銀次の顔を見据え、柔和な笑みを浮かべる。

 

「幸いなことに考える時間はたっぷりあります。あの人と親子となるかは、もう少し一緒に過ごしてから決めようと思います」

 

「……ええ、そうですね。それがいい」

 

そう、彼女には時間がある。

自分の行く末を、とっくりと考える時間が。

その事実がどうしようもなく銀次の胸を熱くさせた。

 

雪緒ははっ、と右手の腕時計に目を映し、すぐさま腰を上げた。

 

「銀さん、私そろそろ」

 

「……ああ、もうそんな時間で」

 

「復学初日から遅刻はまずいですもの。もう行かなくちゃ」

 

久々に身を包んだ制服をチェックし、よしと意気込み足を動かす。

 

振り返り、銀次の顔を見据え口を開く。

 

 

 

「じゃあ銀次さん、行ってきます」

 

 

 

挨拶を告げた雪緒の顔は、とても穏やかで柔らかな笑み。

そこにいたのは、もう二度と見られないと思っていた“堅気”そのものである本来の彼女。

 

その姿を目にし、ほんの少し震えた声音で言葉を返す。

 

「行ってらっしゃい、お嬢」

 

できるだけ笑顔を努めそう言うと、雪緒は笑顔でその場から去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

――残された銀次は、人知れず一筋の涙を流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう、遅くなってすまなかったな」

 

東京の中心街から少し離れた場所に位置する大きな墓地。

多く並ぶ一つの墓石の前に、日本酒とおちょこの入った紙袋を下げ、杖をついた藤崎仁が立っていた。

その後ろには、色鮮やかな花束を抱えた佐伯が着いてきている。

 

ヤクザ者の頂点と名高い男とは思えない程、穏やかで柔らかい表情と声音で墓石に話しかけた。

 

 

その墓石には“重富春太之墓”と刻まれている。

 

 

 

数年前にあの世へ旅立った親友の墓参りを仁は毎月欠かさず行っているのだ。

 

 

佐伯がバケツに汲んできた水を仁がゆっくりと暮石へかけ、一切の汚れを許さないようにスポンジで丁寧に磨いていく。

親分のその様を目の端で捉えながら、佐伯はてきぱきと花瓶に入っている水と花を新しいものへ入れ替える。

 

軽く周辺を箒で掃き綺麗になったところで火を点けた線香をあげ、二人は目を瞑り同じ時間合掌する。

 

しばらくし目を開け、仁は佐伯に声をかけた。

 

「手伝ってくれてありがとな、佐伯」

 

「いえ」

 

「すまんが、二人きりにしてくれ」

 

「はい。車で待ってます」

 

淡々と言葉を交わし、佐伯は仁の言う通りに足を動かしその場を去った。

 

一人残された仁は、持ってきた日本酒を二つのおちょこへ注ぐ。

一つは自分に。もう一つは唯一無二の親友へ。

 

墓石の前へ置き、軽くおちょこをぶつけた。

 

静かに酒へ口をつけ、喉に通す。

 

 

やがて仁は徐に口を開き、墓石へと語りかける。

 

 

「ここ数か月ちいとばかし忙しくってよ、来るのが遅くなっちまった。……色々あった。極道の恥だったクソ野郎のせいで、堅気の女の子がこっちの世界に巻き込まれちまったんだ。その子を放っておくことができなくて、養子にならねえかって提案した。“俺”らしくねえよな」

 

 

 

穏やかな口調で話すその表情は、どこか寂しさの色が滲んでいる。

 

 

 

「守るものが増えた。だからまだそっちへはいけねえ。もう少しだけ待っててくれよ、ハル」

 

 

 

親友の名を口にし、再び酒を飲む。

一つ息を吐き、今度は固い声音で言葉を発する。

 

 

 

「この前、話を聞いたんだ。……お前の家族がよ、あの街でまだ生きてるんだって。お前から受け継いだものを糧として、無頼者の街で洋裁屋を営んでるんだと」

 

 

 

おちょこの中にある透明な清酒を見つめながら、話を続ける。

 

 

 

「“キキョウ”って名乗ってるそうだ。お前があの子に似合うって言ってた花を名前にしてる。あの子のためにお前が考えたこの印も使ってるらしいぞ」

 

 

 

懐からハンカチを取り出し、懐かしむように指で撫でた。

 

 

 

「俺は、さ……正直もう死んでるもんだと思ってた。せめて最後くらい父親に縛られず、自由に生きて死んでもらおうと思っただけなんだ……それがまさか、これほど功を奏するとはな」

 

自嘲するような笑みを浮かべ、ハンカチを持つ手の力を少し強めた。

 

 

同時に、仁は親友と最後の会話を思い出す。

 

当時の親友は、病のせいでやつれた顔とやせ細った体という変わり果てた姿と化していた。

それでも、彼自身の優しさを表している柔らかな微笑みだけは変わらない。

 

 

 

その微笑みを携えながら、親友は話を切り出した。

 

 

 

『――あの子に作ってもらったカーディガン、本当に着心地が良いんだ。仁も作ってもらいなよ』

 

『お前、貰ってから何回おんなじこと言うんだ。もう十回は聞いたぞ』

 

『そうだっけ? でも本当に着心地が良いんだ。自慢の教え子だよ』

 

『……そうか』

 

『僕は本当に幸せ者だ。――なあ仁』

 

『なんだ』

 

『親友の君に、あの子の育ての親として聞いてほしい頼みがある』

 

『……言ってみろ』

 

『あの男を、もう二度とあの子に会わせないでほしい』

 

『…………』

 

『やっと、笑えるようになったんだ。最初に会った時も、服作りを見せてほしいって頼んできた時も、ものすごく震えてたんだ。まるで何かに怯えるみたいに。……あんな男が父親じゃ、笑うことも、我儘を言うこともできないはずだよ。そんなあの子が、服を作ってる時はとても生き生きしてるんだ。腕が上達してくごとに、どんどん自信がついて……少しづつ笑えるようになったと思ったら目の前で“あんなこと”が起きて、また心を閉ざして……でもね、このカーディガンを渡してくれた時、今までで一番の笑顔で、“育ててくれて、ありがとうございました”って……“幸せだ”って……!』

 

『分かった、分かったよハル。よく、分かったから』

 

『だから、頼む。もうあの子は、あいつに振り回されちゃいけないんだ。だから……』

 

『分かった。必ず、お前の“家族”に、あの男は近づけさせない。約束だ、ハル』

 

『ありがとう、仁――――』

 

 

 

普段滅多に取り乱すことのない親友が、最期に見せた辛そうな表情。

今にも死にそうな体で必死に懇願してきた。

 

結局、たった一人の親友が命尽きる瞬間まで想っていた家族を“あの男”から守ることができず、裏社会が根付いている街へ逃がすことになってしまった。

 

 

 

 

「お前はどう思う。あんな危なっかしい街にたった一人の家族を放り込んだ俺を……最後の約束さえ守れなかった俺を、甘いお前でも許さねえか?」

 

 

 

 

仁は悲し気な表情で、答えが返ってくるはずのない墓石へと問いかけた。

 

刹那、一つの風が吹いた。

咄嗟に目を瞑ると、ふと脳裏に蘇る。

 

 

 

 

『馬鹿だなあ、仁』

 

 

 

 

かつて、ヤクザ者の立場から何度も迷惑をかけ、その度に謝る自身に毎回あの柔らかな微笑みで返してくれた言葉。

 

寂しそうな、呆れたような。はたまたどこか嬉しそうな。

仁は様々な色が入り混じった表情を浮かべ、おちょこに残った酒を飲みほした。

 

 

「また来るよ、ハル」

 

ただ一言最後に告げ、颯爽とその場から足を動かす。

 

 

 

 

――春を告げる暖かな風が、墓石の前の酒を少し揺らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――なあ」

 

「なんですか?」

 

「キキョウってのは、誠実、気品って花言葉があるそうだぞ」

 

「それが何か」

 

「いや、随分お前らしいと思ってな」

 

「……名前負けしてると思いますけどね」

 

「お前以上にこの花言葉が似合う人間はこの街にいないさ。誰につけてもらったんだ? それとも自分で?」

 

「……師から“これが似合うよ”と言われたので、この街で新たな人生を歩むのに使わせてもらっただけです」

 

「ほう。ということは、本名じゃねえってことか。俺はそろそろ、お前の本当の名前を知りたいね」

 

「……内緒です」

 

「どうしてもか?」

 

「キキョウじゃ不満ですか」

 

「いや? ただ、お前の事は何でも知りたいと思ってるだけだ」

 

「…………」

 

「照れてるのか?」

 

「照れてません」

 

「はは。まあ、教えてくれるまで待つとするさ」

 

日本から離れた異国の地――ロアナプラで張とキキョウがそんな会話を繰り広げている。

キキョウは張のからかうような口調を受け流しながら、一つの言葉が頭をよぎっていた。

 

 

『“ ”ちゃんにはこの花が似合うよ。凛としててとても綺麗だから』

 

 

 

張の「飲み足りないだろ」という声にすぐさま脳裏から言葉を消し、いつものように酒を堪能する。

 

 

 

――そんな彼女の過去に触れた一人の男が街に帰ってくる。

 

 

 

 

彼の帰還は彼女にどんな影響をもたらすのかは、神以外誰も分からない。










日本編、これにて終話です。

実は双子編よりも日本編の終わり方に衝撃を受けました。
双子は場所がロアナプラっていうのもありああいう結末になるのはまだ納得できたのですが、誰も死ぬことを望んでなかった雪緒が最後に自害するという結末が衝撃過ぎて「えっ」て声に出てました。

日本編をどうしようか考えた時に原作で銀次が言っていた「誰かが許してくれるなら」という言葉を思い出して、仁というなんとかできそうなキャラを登場させました。

少なからず犠牲を出したものの、雪緒や銀次にとって最良の結末なのかな? と思っております。




ここからは、再びキキョウさんのロアナプラでの生活に戻ります。
キキョウさんが過去に何をやらかしたのか、次回で分かります。
今まで過去に何があったのか、なんとなく察しがついている方もいるかと思いますが、いつものように温かい目で見守ってくれると幸いです。


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53 花弁についた血

「一か月ぶり、ですかね。何事もなかったようで何よりです」

 

「ええ。そっちも元気そうで良かったわ。アナタと酒が飲みたくて急いで帰ってきたのよ」

 

「そう言うってことは、向こうの仕事は退屈だったんですか?」

 

「いや、割と楽しめたわよ。あんな人物に出会えるなんて、日本もまだまだ捨てたもんじゃないわね」

 

――バラライカさんがいなくなったロアナプラでは一層銃声が鳴り響き、ここぞとばかりに力を振るう人たちで溢れていた。

そんな暴れ者たちを主に三合会が抑えてくれたおかげで、なんとか街の秩序は保たれていた状態だった。

 

私の方は依頼はめっきり減り暇を潰すことの方が多かったが、たまに街の支配者たる彼の息抜きに付き合うこともあった。

 

電話で他愛ない話をしたり、二人で酒を飲んだり。

 

 

あと……何回か彼のベッドで一夜を過ごしたりもした。

 

 

その時のことは少し恥ずかしいので、あまり振り返らないでおこう。

 

 

 

とにかく、そんな喧騒な日々にようやく彼女が舞い戻ってきたことで次第に銃声も収まり、以前のように大通りを何の気なしに歩けるようになった。

 

そして、バラライカさんが日本から帰ってきて三日後。

彼女自身の仕事が落ち着いたのか“話がしたい”と呼び出され、淹れてくれた紅茶を片手に今こうして言葉を交わしている。

 

「随分ご機嫌ですね」

 

「そりゃ、あんな見事なヤクザに出会えたんだもの。全力で殺り合いたかったけど、今回は見送りにするしかなかった。それだけが本当に心残りだわ」

 

「ヤクザ?」

 

「ええ。――ねえキキョウ、あなたジン・フジサキって知ってるかしら?」

 

彼女の口から出た人物の名に思わず紅茶を飲む口が止まった。

動揺を悟られないよう、できるだけ平静を保ちつつ言葉を返す。

 

「……その人がどうかしたんですか?」

 

「彼、とっても素晴らしいご老人だったわ。一瞬とはいえこの私が怖気づく程の殺気を浴びせてきたの。この街でさえそんな人物はいないというのに」

 

「貴女が、ですか。それはとんでもないですね」

 

「ホントにね。今後また会うかもしれないから、アナタがもし知ってたら彼についての情報を教えてもらおうと思って」

 

そう言うバラライカさんはとても上機嫌で、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気だ。

彼女が私に聞いてきたのは、自身をここまで湧き上がらせた彼の事をもっと知りたいという、単なる興味本位だけなのかもしれない。

 

だが、生憎私は彼についてそこまで詳しいことは分からない。

それどころか、バラライカさんよりも彼について知らない部分が多い可能性の方が高いだろう。

 

 

だから、彼女の期待に応えることはできない。

 

 

「その人について貴女に教えられる情報は私にはありませんね。残念ながら」

 

「本当に?」

 

「本当ですよ。……それにしても珍しいですね、貴女がそこまで興味を持つなんて」

 

「それほど活きがいいヤクザ者だったのよ。彼に会えただけでも僥倖だったわ」

 

一体あの国で何があったのか知らないが、きっと彼女を満たしたきっかけがあったのだろう。

バラライカさんはその時の事を思い出しているのか、また満足げな笑みを漏らしている。

 

「そうそう、アナタにお土産があるのよ。今日はそれを渡そうと思って」

 

「そんなわざわざ……日本酒ですか?」

 

「洋裁に関する何かでもいいと思ったんだけど、それはいつでも取り寄せられるしね。折角なら現地でしか手に入らないものの方がいいでしょ。アナタ無類の酒好きで酒豪だし、ぴったりじゃない」

 

「ありがとうございます」

 

にこやかにバラライカさんが取り出した四合瓶の日本酒を受け取る。

瓶が入っている箱には純米大吟醸と書かれており、久々に見た文字に思わず口の端が上がった。

 

「バラライカさん」

 

「なに?」

 

「このお酒、よければ一緒に飲みませんか。結構飲みやすい種類なので貴女の口にも合うかと」

 

先程、彼女は“私と酒が飲みたい”と言ってくれていた。

思えば、バラライカさんとは主に紅茶を飲みながら話すことの方が多かった。

 

折角の機会だ、機嫌のよさそうな“友人”と酒を片手に話すのも悪くないだろう。

 

私の誘いにバラライカさんは一瞬目を見開いた後、口端を上げた。

 

 

「ええ。ぜひ“友人”として、楽しくお話しましょキキョウ」

 

 

 

その時のバラライカさんはいつもより少し柔らかな微笑みを携え、機嫌の良さそうな声音を発していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

バラライカさんと日本酒を片手にお喋りした翌日。

こなすべき依頼もなく、いつものように刺繍をして時間を潰していた。

今日はバーベナという小さな花びらがいくつもまとまって咲く花。

紫や白、ピンクといった様々な色で構成し、鮮やかな模様を満遍なく入れていく。

 

ほとんど手を休めることなく作業を続ければ、外はいつの間にか夕陽が差し掛かっていた。

 

ふと時計を見やると、丁度十六時半を指し示していた。

 

まだまだ余裕があることを認識し、道具を作業机の上に置く。

渇いた喉を潤そうと腰を上げ、奥の自室へと向かう。

 

コップに水を入れ少しずつ喉へ通し、飲み切った後一つ息を吐く。

 

その時、ふと昨日のバラライカさんとの会話を思い出す。

 

 

『ジン・フジサキって知ってる?』

 

 

 

知らない訳ではない。

寧ろ、あの人にはとてつもない恩がある。

 

 

一生忘れることのできない恩人の一人。

 

 

だが、そうは言っても私と彼が顔を合わせたのはたったの一回。

その上、話した時間は数時間と満たないだろう。

 

そのせいか、私は彼については本当に何も知らない。

知っているのはヤクザ者であることと、師の友人だったということだけ。

 

この情報はバラライカさんが求めているものとはきっと違う。

だから“教えられる情報はない”と伝えた。

 

嘘ではないし、それで彼女も納得したのだから問題ないはずだ。

 

空になったコップをテーブルに置き、続きを再開しようと作業場へ戻る。

椅子に腰かけ、刺繍道具を手にしたその時だった。

 

ドアの方から聞き慣れた音が響き、咄嗟に視線を一点に向ける。

来客を告げる音が鳴ってから少しの間も空けることなく、久々に聞く声が飛んできた。

 

 

 

「キキョウさん」

 

 

 

私の名を呼ぶその声は、通訳としてバラライカさんと共に日本へ行った岡島のもの。

やはり、彼も街へ帰ってきたのだと今この瞬間に実感する。

 

 

 

「キキョウさん、いらっしゃいますか。ロックです」

 

 

 

何やら急かすように再び呼びかけられ、すぐさま腰を上げ足を動かす。

ドアを開ければ、そこには相変わらずホワイトカラースタイルの岡島が立っていた。

 

「久しぶり岡島。帰ってきてたんだね」

 

「ええ。お久しぶりです、キキョウさん」

 

「それでどうしたの。何か依頼?」

 

「いえ……少し、貴女と話がしたくて」

 

「話?」

 

「はい」

 

そう答える彼の表情と声音は真剣なもので、一体何だろうかと訝しく思ってしまう。

 

「……とりあえず、立ち話もなんだから中にどうぞ」

 

それでも昨日今日知った仲ではないので、ひとまず部屋へ入れる。

「失礼します」と丁寧に断りを入れながら入ってきた岡島を一瞥しドアを閉めた。

 

「コーヒーいる?」

 

「いえ、結構です」

 

即答されてしまった。

前まで遠慮しつつも私なりのもてなしを受けてたというのに、彼は最近コーヒーを飲まなくなったんだろうか。

 

まあ、人の味覚が変わることもある。そこを気にしたところで何もならないだろう。

 

そう考えながら来客用の椅子を取り出し、岡島の傍に置く。

自身も先程まで座っていた椅子を引っ張り、彼と向かい合う形で座る。

 

「あれ、そういえばレヴィは?」

 

「置いてきました」

 

「そっか。珍しいね一人で来るなんて」

 

「ええ、まあ……」

 

「……」

 

「……」

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 

……あれ?

 

 

なんだろうかこの空気は。

 

 

 

もう話をする準備は整ったというのに、肝心の彼はどこか固い表情をするだけでまだ何も言ってこない。

岡島が緊張でもしているせいか、変な空気が流れてしまう。

 

どこか妙な雰囲気に首を傾げながらも、ひとまずこちらから声をかけてみる。

 

「岡島、話ってなに?」

 

私は彼のように気を遣う言葉をかけたりだとか空気を和ますような話をするのが得意ではないので、早速本題を切り出す。

 

声をかけると、岡島は俯いて一つ息を吐いた。

そして一呼吸間を空けた後、意を決したのかこちらを見据え徐に口を開く。

 

「日本で、ある人と会ってきました」

 

「ある人?」

 

「その人は日本の極道の頂点と呼ばれています。俺はバラライカさんと彼の会合に通訳として居合わせた時、何故かその人と話す機会がありました」

 

「……」

 

「彼はあるハンカチを持っていて、それには見覚えのあるマークが刺繍されてました」

 

「……マーク?」

 

「貴女自身が作った証として入れている、桔梗の花がメインのあのマークです」

 

その言葉に、思わず目を見開いた。

私があのマークを入れ始めたのはこの街に来てからだ。

 

――だがたった一つだけ、この街に来る前にそのマークを入れた物がある。

それを渡したのは勿論一人だけで、その人はバラライカさんの口からも出た人物。

 

「彼の名前は藤崎仁。この名に覚えがあるはずです」

 

「……岡島、急になに」

 

「藤崎さんに貴女の事を教えてもらいました。――貴女がこの街に来たきっかけとなった出来事を」

 

私の言葉を遮って、岡島ははっきりと言い放った。

彼に告げられた内容に、息が止まるような感覚に陥る。

 

 

私が、この街に来たきっかけ。

 

 

それを知っているのはこの街で誰もいなかった。

 

あのバラライカさんや張さんでさえ、私の過去は調べようがなかったと言っていた。

この街に来てから誰にも知られることのなかった“汚点”を、よりにもよって彼に一番に知られるとは。

 

 

だが、それよりも別の事実の方へ怒りが湧き上がる。

 

 

彼は、私が知らないところで私の過去をまさぐったのだ。

藤崎さんがただの通訳に話すわけがない。

 

つまり、岡島が自ら藤崎さんに進んで聞いたという事だ。

 

詮索されるのは嫌いだとあれほど言ったというのに、この男は……。

 

 

声を荒げそうになるのを必死に押さえ込み、何とか言葉を紡ぐ。

 

 

「それで? それを知ったところでどうするの」

 

「どうもしません。ただ、俺は知りたいだけです」

 

「何を」

 

「貴女がここへ来るきっかけは分かっても、結局この街に拘る理由は分からなかった」

 

またか。

一体何度この話をすれば気が済むと言うのか。

 

「前にも言った。私が欲しかったものを手に入れることができたから。だからこの街に」

 

「自分と同じ境遇を持った人間に囲まれて、無残に死ぬかもしれない日常が欲したものですか」

 

この男、さっきから私と会話する気が全くない。

その態度も相まって更に苛々が募っていく。

そんな私の内心を知ってか知らずか、彼は強引に話を続ける。

 

「一九六六年、四月四日。ある政治家と一般女性の間に一人の女の子が生まれた」

 

淡々と告げられる内容を、驚きも重なり黙って聞くことしか出来ない。

 

「その政治家は法務省勤めで、様々な地域活動にも参加しとてつもない人望を集めていた。次期総理大臣と噂されるほど、彼の人気は凄まじかった。――だが、ある事がきっかけでその道は閉ざされた」

 

一体、彼はどこまで知っているのだろうか。

そんなことまであの人は彼に教えたのか。

 

「政治家が最愛の妻を事故で殺害した。それがあまりにもショックだったのか、彼は精神が不安定になり政治活動は愚か、一人娘を育てることもできない。そんな中、娘を引き取ろうとある人物が名乗りを上げ、その人の元へ預けられた。その人物は、重富春太という洋裁屋だ」

 

「岡島、そろそろそこら辺に」

 

「娘が25になり、その洋裁屋は病で死亡。二人で切り盛りしていた店を娘一人で営もうとした時、実の父親が娘の前に現れた」

 

「……」

 

「その父親は唯一の娘と長く会う事ができなかったせいで更に精神に異常を来し、一九九一年に娘を殺し、家に火を放って無理心中した。――と、表向きにはなっている」

 

「…………」

 

「実際に俺が今言った情報は真実といくつか食い違っている部分がある。そうですよね」

 

「…………」

 

 

 

答える気はないことを目線と態度で訴えれば、彼はまたお構いなしに話を続ける。

 

 

 

 

 

 

「実際は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡島は一つ間を空けて、言葉を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「貴女が父親を殺したんですよね? ――如月李織さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼がはっきり告げたその名前に一瞬目を見開いた。

息がつまるような感覚になりながら、俯いて目を瞑る。

 

思い切り息を吐いて、静かに口を開く。

 

 

 

 

その名前で呼ばれたのは久々だな

 

 

 

 

最早怒りを通り越して、笑ってしまいそうになった。

本当なら今すぐ怒鳴ってもおかしくないのに。

 

人間は、怒り以上の感情を抱くと逆に冷静になるらしい。

 

顔を上げ、岡島の瞳を真っすぐ見つめる。

 

ここからは日本語で話そうか。君と私だけの内緒話だし、丁度いいでしょ

 

「……」

 

少し、昔話をしようか

 

半ばやけくそになりながらも、なんとか言葉を紡ぐ。

 

いつもなら、ここで“知らない”と突っぱねて追い返していただろう。

 

だが、何度も彼には詮索するなと忠告した。

それを無視してここまで話してきたのだ。

 

きっと、彼は自分が求めている答えを得るまで諦めないのだろう。

 

ならもう今回で終わらせるしかない。

 

ここでちゃんと終わらせなければならない。

 

 

そのためには、腹を括って事実を伝える他ない。

 

 

当時、確かにアイツは日本じゃ有名な政治家だった。表じゃ愛妻家なんて言われてたみたいだけど実際にはそうじゃない。――私と母を殴るなんて当たり前、その上毎日のように母親をレイプする様を見せつけられた。終いには、母を殺した後もその死体を犯し続けてたよ。そんなヤツ父親だなんて思ったことは一回もない

 

 

無意識に拳に力が入る。

 

今でもたまに夢に出てくるあの日々をなんとか言葉で伝える。

 

 

岡島はそんな私の言葉をただ黙って聞いている。

 

表向きではいい顔をしていた政治家が妻を殺したってなれば、マスコミが動かないわけがない。母が死んだ時、一年間くらい毎日つけ回されてたよ。“人殺しの娘になった気分はどうか”、“罪を償う気はないのか”って何回も言われた。……おかげで私を引き取ってくれた人の商売にも支障が出て、日本じゃ何もできないって一緒に海外へ逃げたの。そこから騒動の熱が収まるまで日本には戻らなかった

 

「……」

 

日本でその熱が過ぎ去った頃、アイツが私の前に現れてね。その時言われた言葉を今でも鮮明に覚えてるよ。“育ててくれた男とは寝たのか”、“母親と似ていたぶりがいのある顔”だって。――母は私をアイツから常にかばい続けた末に死に、師は私を育てるために無理して病気で死んだ。私は二人がいたから生きてこれた。……そんな二人を、よりにもよってあの男が侮辱したことが何より許せなかった

 

 

十数年ぶりに会った娘へ最初に放った言葉がそれだった。

 

 

ニヤニヤした顔で言われた言葉の羅列は聞くに堪えないもの。

 

 

今思い出しても腸が煮えくり返りそうになる。

 

 

だから殺した。あの時、結局自分の感情のまま人を殺した私はあの男と血が繋がっているんだって嫌でも思い知らされた。そう思ったらもう全部がどうでもよくなって死のうとした時に、影でずっと気にかけてくれた藤崎さんが手配してくれて、ここへ辿り着いた。それがこの街へ来ることになったきっかけの真実

 

「……」

 

でもさ、私が体験したことでこの街の人たちからしたらものすごく普通の事なんだよね

 

……え?

 

父親に恵まれなくて、暴力を振るわれて、仕返しの為に殺して。……いや、どちらかといえば私はすごく恵まれてる方だと思ってる

 

なに、言ってるんですか

 

淡々と自分の考えを告げれば、岡島は戸惑ったような声音を出した。

 

岡島、私はね普通になりたかったんだよ。普通に円満な家庭で育って、普通に学校に行って、普通に恋して結婚して。そういう人生を送りたかった。――でも、それは日本は当然、どこに行こうと絶対手に入らない

 

「……」

 

この街でアイツの名前を知ってる人間はいない。いたとしてもすぐに忘れ去られる。尚且つ人を殺しても誰も責めてこない。この街なら私は“普通”になれるの

 

岡島の困惑している表情を見据えながら、言葉を続ける。

 

似た境遇の人に囲まれながら、如月李織としてではなくただのキキョウとして死にたい。これが私が心から欲したものだよ

 

 

 

そこまで言ってから徐に腰を上げ、足を動かす。

 

 

 

キキョウさん……?

 

ちょっと待ってて

 

戸惑う岡島を置いて足早に自室へと戻る。

そして、クローゼットの奥にある箱に手を伸ばし、その箱を持ったまま再び作業場へ向かう。

岡島は埃被った箱を持っている私を怪訝そうに見てくる。

 

作業机に箱を置き、蓋を開けた。

そこには、張さんから貰った銃と師から貰ったハンカチ。

 

 

 

そして――血で錆びた裁ちばさみが入っている。

 

 

ここ何年か手にすることはなかった裁ちばさみを持ち、数回刃の上を撫でながら話を再開する。

 

 

岡島、私何回も言ったよね。“詮索されるのは嫌いだ”って

 

……はい

 

それを分かった上で、ここまで踏み込んだんだよね

 

…………はい

 

そう。――なら、私に殺されても文句は言えないってことも分かってるよね

 

 

ナイフのように鋏を持ち、ゆっくりと岡島の方へ近づいていく。

 

 

 

目の前まで歩みを進め、彼を見下ろす。

 

 

 

未だ動かない岡島の胸倉を掴み、顔を近づける。

 

 

 

 

 

だが、彼の目には恐怖どころか、先程までの戸惑ったような色さえなかった。

こちらを見据え、ただ成り行きを見届けるかのような余裕さえ感じられる。

 

 

 

殺されかけているというのに、なぜこんな態度がとれるのか。

 

 

抵抗しないんだ

 

ええ

 

怖くないの?

 

全く

 

どうして

 

貴女にその気がないからですよ

 

即答されたその言葉に、思わず目を見開いた。

眉を顰め、訝し気にしながらも話を続ける。

 

私は一度人を殺してる。君を殺すことに躊躇いなんてないんだよ

 

いいや、貴女は俺を殺すことはないですよ

 

どうしてそう言い切れるの

 

殺すなら鋏じゃなく銃でやった方が早い上に抵抗もしにくい。だけど貴女は敢えてその鋏を手に取った。抵抗できる距離なら男の俺の方が優位になる。そして何より、貴女は己の感情だけで人を殺してしまったことを悔いている。俺をここで感情のまま殺せば、また父親のような振る舞いをしたことになる。それは貴女が嫌っていることのはずだ

 

「……でも、私には君を殺す動機が揃っている。あの時とは違う。それにここで君を殺したって誰も私を咎めない。あの男と同じだと言わない

 

周りがどう言うかじゃない。貴女は“自分が納得できるかどうか”で動く人間だ。――そんな貴女が、俺を殺す訳ないんですよ。現に今その刃を突き立てず、俺の話を聞いてくれていることが何よりの証拠だ

 

 

違う。

 

 

私は本気で彼を殺そうとしている。

 

 

裁ちばさみを手に取ったのは、こんなくだらないことで彼から貰った銃を使いたくなかったからだ。

 

 

岡島の話を聞いたのは、不可解なことを不可解なままにしたくないから。

 

 

 

 

ただそれだけだ。

 

それだけなはずだ。

 

 

私には殺しの才能なんてない。

だが、彼は今無抵抗だ。

 

ここで一回でも喉に刃を突き立てば、例え男相手だろうといくらでもチャンスはある。

 

 

 

あの時だってそうだったじゃないか。

 

 

 

アイツの隙を見て、背中から一突きして、その後無我夢中で刺して。

 

 

一人でも男を殺せたのだ。

なら、彼だって殺せるはず。

 

 

 

 

 

 

――なのになぜ、手が動かない。

 

 

 

 

 

人を殺すことに躊躇いなんてあるはずもないのに、どうして。

 

 

自分の行動に少し動揺していると、ふと岡島の手が動いた。

 

 

そのまま胸倉を掴んでいる私の手の上に重ね、ぎゅ、と強く握ってきた。

 

 

李織さん……いえ、キキョウさん。俺は藤崎さんから話を聞くまで貴女は血に染まってないと信じ込んでた。それが貴女の凛々しさを目立たせる一つの要素だとも

 

……何言って

 

でも、この手を血で染めても尚、貴女は優しさを捨ててはいない

 

…………優しくないって何回も言ってるでしょ

 

この街の闇に染まった人間は誰でも目が濁り、一かけらの情さえかなぐり捨てる。でも貴女はこの街で誰よりも優しく、凛々しくて、綺麗な女性だ。父親を殺したのだって自分の利益のためじゃなく、母親や恩師を侮辱されて怒り、行動した故の結果だ。人殺しは決して世間から許されることじゃない。だけど、貴女の“それ”は街の住民たちの“それ”と全く違うんだ

 

全部知ったかのように放たれる言葉の羅列が全く理解できない。

だが、岡島の瞳はあまりにも真っすぐで、本気で思っているのだと感じさせた。

 

 

俺は、貴女の過去を知っても尚この街に居るべきではないと思ってます

 

「……は?

 

このままここにいれば、どんな死に方をするか分からない。貴女のように幸せになるべき人はここにいちゃいけないんだ

 

「……」

 

キキョウさん、どうかこの街ではないもっと安全な場所で

 

それ以上戯言いったら本当に刺すよ、岡島

 

 

余りにも身勝手な事を言われ、きつめな言葉になってしまう。

だが、この際そんなこと気にしてる余裕はない。

 

 

きちんと伝わるように、目を見据えたままはっきり告げる。

 

 

何で勝手に私の居場所を君が決めるの。私の幸せも、居場所も私が決める。それが私が求めた自由で、幸せそのものなの。過去を知ったからって、その権利もあると思ったら大間違いだよ

 

「…………」

 

それに、私からしてみれば君の方がこの街に似合わない

 

「え?」

 

どうして日本に残らなかったの。例え会社に見捨てられても、まだ手を血で染めてない君なら日本でいくらでもやり直せるはずだよ

 

「……それ、は」

 

私が求めていたものを全部持っていたのに、どうしてそれを捨てたの。何もかも持ってた君が、どうしてそんな身勝手な事が言えるの

 

 

 

心なしか声と拳が震えてくる。

 

 

 

そう、岡島はかつて私が日本にいた頃求めていた普通を持っていた人間だ。

 

 

暴力に苦しむことのない家庭に生まれ、学校にも普通に行けて。

 

 

普通に暮らして、平穏な日々を過ごす。

 

 

そんな素晴らしいもの全て捨てて、彼はここへ舞い戻ってきた。

 

 

 

私にはそれが到底理解できない。

そんな彼に“この街に似合わない”なんて一番言われたくない言葉だ。

 

 

嫌味とさえ思えてくる。

 

 

 

 

ただ正義漢ぶって何もできない君にだけは、幸せだのなんだの言われたくないよ

 

 

 

過去を知って何か力になりたいだとかそんなことを思ったんだろう。

本当に私をこの街から追い出したいなら、どんな手段を使ってもするはずなのだ。

 

だが彼にはその手段を思いつくことも、実行できる力もない。

そんな上辺だけの人間に動かされるほど私は馬鹿じゃない。

 

じゃあ、あのマフィアならいいんですか

 

え?

 

張さんに俺と同じ言葉を言われても、納得できるんですか

 

……あの人は絶対言わないと思うけど、もし言われたら少なくても君よりかは響くよ。彼は私をこの街で一番知っている人だから

 

あの男はただのマフィアですよ!? いくら気に入られてるからって価値がないと思えば何の気兼ねなく切り捨てる! そんな男の何が貴女をそこまで……ッ!

 

何が言いたいのか分からないけど、彼は私を洋裁屋として生かしてくれた。そんな彼だから切り捨てられようと、殺されようと、この街から追い出されたとしてもきっと後悔しない。私にとって彼はそういう人なんだよ

 

岡島はどこか怒ったような表情を見せたが、それには構わず淡々と返す。

私の言葉に驚いたのか唖然とし、何も言わなくなった。

瞬間、握られていた力が弱まったのを見計らない胸倉から手を離す。

 

 

困惑で揺らいでいる岡島の瞳を見据えながら、再び口を開く。

 

 

「岡島、今回は君の勝ち。殺さないでおいてあげる」

 

「……」

 

「その代わり、絶対に私の過去は口外しないこと。それを破ったら張さんに頼ってでも君を殺すからね」

 

「…………はい」

 

 

まあ、きっと彼はこんな個人的なことに付き合わないだろうが。

 

そんな事を思いながら裁ちばさみを箱へ戻し、蓋を閉める。

 

 

「もう君と話すことはないよ。帰りなさい」

 

「……」

 

「岡島、さっさと出て行って」

 

「最後に一つだけ、いいですか」

 

「なに」

 

まだ何かあるのか。

その感情が声音に乗ってしまったが、こればかりは仕方ないだろう。

 

 

「貴女は張さんに……」

 

 

 

そこまで言うと、岡島は言葉を止め、そのまま黙ってしまう。

 

一体何なのだろうか。

 

聞くならさっさと聞いてほしい。

 

 

「…………いいえ、やっぱりなんでもないです」

 

「そう」

 

しばらくしてやっと出た言葉に短く返答し、小さく息を吐く。

全く気にならないと言えば嘘になるが、正直これ以上

 

 

 

「話はこれでお終い。レヴィによろしく伝えといて」

 

 

突っぱねるように伝え、箱を手に取り自室へと戻る。

クローゼットの奥へ箱を戻している間、足音とドアが閉まる音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「はああああ……」

 

 

 

 

岡島がやっと帰った事実に、大きなため息が出た。

あそこまで詮索されたのに割と冷静に話せていたことは我ながら凄いと思う。

 

ただ、一つ気がかりなのはあそこで殺さなかったことを後悔しないかだ。

 

だが、あそこで手が動かなかったということは、無意識で彼を殺すことに抵抗があったのかもしれない。

 

 

まあ、彼が言いふらしたりしなければ後悔することはないはずだ。

後は岡島が誰かに言わないことを祈るしかない。

 

それにしても、本当に疲れた。

まさか、仕事以外でここまで疲れることがあるとは。

 

 

 

 

“貴女はこの街に居るべきじゃない”

 

 

 

 

ふと、先ほど言われた言葉が頭の中で反響する。

そのせいか、収まっていた胸の内のモヤモヤが再び湧き上がってくる。

 

そのモヤモヤをどう処理していいか分からず、もう一度大きなため息を吐く。

 

 

 

 

 

しばらくその場から動かず考え、こういう時は酒を飲むに限ると家の鍵と財布を手に足を動かした。







ここで、本編では語らないキキョウ/李織さんの家庭事情を。


政治家だった父親は息子が欲しかったのですが、生まれてきたのは女の子。
それが気に入らなかった父親は娘である李織にきつく当たりました。(この時点ではまだ暴力はない)
そのことに母親が酷いストレス状態となり何度も妊娠しましたがその度に流産し、ついには妊娠できない体となります。

母親が妊娠できなくなったのは李織のせいだと考えた父親はついに暴力を振るうようになります。
この子だけは守ろう、と母親は必死に李織をかばい続けました。

そんな生活が小学校まで続き、ある時李織は重富春太と出会います。
春太と話していくうちに自分の家庭が異常であることを再認識し、母親が殴られているところを見て、勇気を出し始めて父親に抵抗します。

激昂した父親は怒りに任せて李織の腕を折り、殺そうとしますが母親が必死にしがみつき李織を逃がします。
春太のところへ逃げ、警察とともに再び家へ戻ると既に死んでいる母親を犯している父親の姿がありました。

父親は金がある政治家ということもあり実刑には至らず、国の監視の元、李織と離れて暮らすことになりました。
李織は春太と過ごしている間は、とても平和な日常をおくります。


キキョウさんはずっと大好きな母親が自分のせいで死んだと思っています。
父親を殺した時、「こんな自分は生きてはいけない」と思い自殺しようとします。
そんな時に仁さんがやってきてなんとか生きるよう説得し、ロアナプラで今も生きています。

ちなみに……母親は「如月 桜」という名前です。
容姿はただキキョウさんの髪が長くなった感じ。
香港編でキキョウさんが桜綾さんに一層母親に重ねていたのは、名前のせいでもありました。



大分長くなりましたが、キキョウさんの過去については以上です。
次の話はキキョウさんがやけ酒するお話となります。
少しだけでも楽しみにしていただけたら嬉しいです。


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54 生酔い本性違わず

意味:酒にかなり酔っても、その人が本来もっている性質に変わりはない。





 

 

Ms.バラライカが街へ帰ってきてから数日。

彼女がいなくなったことで暴れていた馬鹿どもがようやく落ち着いたのか、街は以前の雰囲気に戻りつつあった。

 

我らが三合会は彼女がいない間、馬鹿どもを牽制しつつ通常の業務をこなさなければならなかったため大忙しだった。

 

殺し合いが増えたお陰で三合会からも重軽傷者が多く出てしまい、私の方もしたくもない男の治療に勤しむ羽目になった。

張大哥や郭も鉄火場に繰り出していたはずだが、二人は全く怪我を負っていない。

 

下っ端どもはそこを見習ってくれたらいいのにと何度思ったことか。

 

そんなこんなで、まだ完治していない野郎も少なからずいるが特に私が気にかける程でもないためいつもの忙しさへと戻った。

 

今日は定期的な仕事の一つである、スローピー・スウィングの女の子たちの健康診断をしている。

風俗は女の子の体に気を遣わなければならないからか、一か月に一回はフローラから依頼が来るのだ。

 

ここ最近毎日のように男どもの裸を見てきた私にとって、女の子と触れ合える至高の一時。

 

「リン、久しぶりい! 元気だったあ?」

 

「野郎どもの体ばっか触ってたから毎日最悪な気分だったわよ。でも、イザベラの顔見たらそんなことどうでもよくなっちゃった!」

 

「相変わらずの男嫌いねえ」

 

 

 

ああ、可愛い。

 

 

女の子と話すだけでなんでこんなに癒されるのかしら。

 

「アナタの方はどう? あれから良くなった?」

 

「ええすっかり。リンがくれた薬のおかげよ」

 

「それは良かったわ」

 

イザベラは何回か前の診断で、生理痛がいつもより酷いと訴えていた。

ホルモンバランスが崩れているということが分かり、彼女の体調に合わせた薬を処方し、様子を見ることになったのだ。

 

彼女の今の様子だと本当によくなったらしいので、アタシとしてもとても喜ばしい。

 

「じゃあ、いつものをちゃちゃっとやりましょうか。そろそろ営業準備しなきゃでしょ?」

 

「ええ、お願いね。リンセンセー?」

 

スローピー・スウィングでも売れている方である女の子の言葉に、満面の笑みを浮かべながら診察を始めた。

 

 

 

 

――そんな風に調子よく最後の一人まで診察を終える。

可愛い女の子達と離れ難いが、いつまでもここにいる訳にはいかないので渋々帰る準備をする。

 

最後の道具を鞄に入れた瞬間、ノック音と共にフローラがドアを開けて入ってきた。

 

「リンお疲れサマ~! いつもありがとネ」

 

「礼を言いたいのはこっちよフローラ。今日もみんな可愛かったわあ。お陰で気分最高よ!」

 

「それは良かったわあ。それで、どうだった? 問題の子いる?」

 

「気になったのはエルね。生理がしばらく来てないみたいだからちょっと様子見。妊娠してるようだったら、その時また彼女の意志に沿った対応をするわ。あ、あとマチルダが豊胸手術したいそうよ。フローラが許可するなら私がすぐに格安で請け負ってあげるけど?」

 

「アナタなら大丈夫だから任せるわ。マチルダにはアタシからも話しておく」

 

「あの子胸なんか無くても十分可愛いのにね」

 

「職業柄、あった方が何かと便利なのよぉ」

 

診察が終わった後は、こうして気になったことを報告して、どうするかをフローラに聞いている。

彼女は多くの女の子を束ねるオーナーでもあり、アタシの友人でもある。

 

そんなフローラと交わす他愛ない会話はとても心地がいい。

 

 

もう少し話していたいところだが、彼女たちはそろそろ営業に入るので邪魔するわけにはいかない。

 

「じゃフローラ、お金はいつもの口座に入れといてね」

 

「はいはい。あ、そういえばリン」

 

 

そう言って部屋を出ようとした時、フローラが思い出したかのような声を出した。

 

 

「キキョウが今下で酒飲んでるわよ。営業開始と同時に来るなんて珍しいわよねえ」

 

「えっ、キキョウちゃんが!?」

 

「どうせなら付き合ってあげたら? 普段あなた急がしいって飲めないらしいじゃ」

 

「ありがとフローラ! じゃあまたねっ!」

 

アタシはフローラの話を聞いて、居てもたっても居られずすぐさま部屋を出て行った。

 

最近大哥があの子を独り占めしているので実は中々話せていないのだ。

 

アタシ一押しの可愛い女の子が下で一人酒を飲んでいるのなら、駆け付けないわけにはいかないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……相変わらずキキョウ大好きねえ。でもあの子、ちょっと様子がおかしかったけど大丈夫かしら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――バオさん、もう一本ください」

 

「お前……一体どんだけ飲むんだ。もう十本以上空けてんの分かってんのか」

 

「まだ飲み足りないんです。まだ……気分が晴れなくて」

 

「……お前さんがそうなるのは初めて見たな。何があったんだよ」

 

「別に、大したことじゃないです。……バオさん、早くお酒ください」

 

「……言っとくが、介抱はしねえからな」

 

「バオ、介抱はアタシがするから心配ないわよ」

 

「心配なんざしてねえよ。ったく」

 

イエローフラッグ店内。

カウンターにはキキョウと一つ空けた席にリンが座っていた。

 

テーブル席で賑やかに多くの客が酒を飲んでいる中、カウンター側の雰囲気は賑やかさとは程遠いものだった。

 

キキョウは無表情で酒を飲み続け、リンはそんなキキョウを少し心配そうに見守り、バオは眉を寄せながら二人の様子を見ている。

 

キキョウは何年もイエローフラッグの常連として通っており、いつも機嫌よくジャックダニエルを飲んでいる。

酒豪である彼女はどんなに酒を飲もうと他の客のように店主に対して迷惑をかけたことが一切ない。

 

そんな彼女が営業時間開始ぴったりにやってきて開口一番、「ジャックダニエルとアブソルート以外の酒をください」とバオに注文したのだ。

イエローフラッグに来るときは、毎回欠かさずジャックダニエルを頼む彼女がそう言った。

 

それだけならまだ心境の変化だろうと納得はできるが、その後恐ろしい程のペースで酒を飲み干しているのだ。

その証拠に、カウンターの向こうにはたった三時間でキキョウが空けた酒瓶が既に十二本転がっている。

 

 

 

しかも、酒を飲むときは機嫌がいい彼女が、今日は何やら荒れたように休む間もなく飲み続けている。

 

 

――いつもと全く違うキキョウの様子に、彼女の“いつも”を知るリンとバオが気にならない訳もなかった。

 

リンはキキョウの様を見兼ねて何回か声をかけたのだが、「今は一人で飲みたい」と言われてしまい、どうすることもできなかった。

やがて諦め、今は話しかけることもなく酔いつぶれた時のため傍にいるだけ。

 

 

 

「……それにしても本当初めて見たわ。この子がこうなってるの」

 

「張の旦那となんかあったんじゃねえか?」

 

「そうだったら大哥も少し機嫌が悪くなると思うわ。でも今日会った時はいつも通りだったし、また別のことかも」

 

「……なんかの予兆か? こりゃ」

 

「またこの店爆破されるんじゃない? この前のメイドの時みたいに」

 

「冗談でもやめてくれ」

 

男嫌いであるリンはバオともそこまで仲がいい訳ではないが、今は心配事があるせいか敵意を出すことなく言葉を交わす。

 

「……バオさん、もう少し強いお酒ないですか」

 

「おいおい、まだ飲むのか」

 

「まだ飲み足りないですよ……もう一本お願いします」

 

「……今日は本当腐ってんな」

 

キキョウの懇願するような声音に、バオは一瞬躊躇った後次に出す酒を選び始めた。

リンは一つため息を吐き、自身のグラスに口をつける。

 

瞬間、ポケットから携帯の着信音が鳴り響く。

眉を寄せ、盛大にため息を吐きバオへ声をかける。

 

「バオ、アタシちょっと席外すから。アタシが戻るまでこの子の事ちゃんと見てなさいね。じゃなきゃ殺すから」

 

リンはそう吐き捨て、バオからの返答を聞くことなく席を立ち人気の少ない位置へと歩み出した。

 

バオはカリカリと頭を掻き、キキョウの前に新しい酒を出す。

そのまま無言でグラスに注ぐ彼女を見ながら、呆れたように息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――バオさん、お手洗いお借りしますね」

 

「頼むから吐くなよ?」

 

「あ、アタシも」

 

開店から4時間。

まだキキョウは酒を飲み続けていた。

既に空けた酒瓶は二十を超えようかという本数になっている。

 

トイレに向かうキキョウの後を追うようにリンも席を立ち同じ方向へ向かう。

 

バオは誰もいなくなったカウンターを見やり、やがて空いた酒瓶を片そうと動く。

一人でこんなに空けた奴なんざいねえぞ。と心の中で呟きながら、かがんで複数の酒瓶を手にする。

 

途端、次第に店内の賑やかさが無くなっていく。

バオはそのことに素早く気づき、顔を上げ店内の様子を窺がった。

 

 

瞬間、客が大人しくなった原因を理解する。

バオは一瞬目を見開いたが、段々こちらへ近づいてくるその原因に平然とした声音で話しかける。

 

「珍しいな、アンタがここに来るなんて」

 

「なに、面白いもんが見れるって聞いたんでな」

 

声をかけられた相手――夜だというのにサングラスをかけ、漆黒のロングコートに身を包んだ男は口端を上げながらバオと言葉を交わす。

 

 

 

 

「それで、俺の可愛い洋裁屋はどこに行ったんだ」

 

 

 

 

張維新の言葉に、バオは一つ間を空けてから「……待っときゃ帰ってくるぜ」と一言だけ返す。

 

 

その答えを聞き、張は「そうか」と上機嫌に呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キキョウちゃん、大丈夫? トイレ長かったみたいだけど」

 

「吐いてないので大丈夫ですよ。お待たせしました」

 

「そう、それならいいけど……」

 

トイレに五分以上籠り、やっと出てきたキキョウをリンは心配と呆れが混じった表情で見やる。

短く言葉を交わした後、キキョウはそのまま自分の席に戻ろうと歩み始めた。まだ飲むつもりであろう彼女にリンはため息を吐きながら後ろをついて行く。

キキョウは次は何を飲もうかと、顔を洗ってほんの少しすっきりした頭で考えていた。

 

 

 

店内が見えてくる所に来ると、ふとキキョウの足が止まる。

 

 

同時に、カウンターから男の声音が飛んできた。

 

 

 

 

 

「お嬢さん、一人なら俺と一緒に飲まないか?」

 

 

 

 

気障な口調で上機嫌にそう声をかけたのは張だった。

ジャック・ダニエルが入ったグラスをゆらゆらと揺らし、サングラスの奥からキキョウを見据えている。

 

キキョウは驚いているのか張の声に反応せず足を止めたまま。

リンはキキョウの後ろで「ほんとにきた」と呟いていた。

ふと店内を見渡せば、張の護衛らしき三合会の人間がいくつかのテーブル席を埋めているのが目に入る。

 

そのおかげでここまで静かになっているのかとリンは一人納得した。

 

「キキョウ、そんなとこに突っ立ってないでこっちこい。男の一人酒は寂しくてな」

 

「……」

 

促すように張が再び声をかけるが、キキョウは一歩も動かない。

その様に張は口端を下げ、訝し気な表情を見せる。

 

「おい、キキョ」

 

「張さん! 張さんじゃないですか!」

 

 

張が名を呼ぼうとした瞬間、キキョウは大きな声を発した。

 

 

 

 

満面の笑みを浮かべながらとたとたと駆け寄ってくるその様は、まるで純真無垢な子供のよう。

 

 

 

 

キキョウのその様子に張だけでなくリンやバオ、テーブル席にいる三合会の組員までもが驚いた。

 

 

 

「珍しいですね、ここに来るなんて! いつもは自室で飲むのに!」

 

「……」

 

「あ、お隣いいですか? ぜひご一緒させてください!」

 

「……ああ」

 

普段のキキョウから想像できない様子に張は一瞬反応に戸惑った。

困惑している張の返答を聞き、キキョウは嬉しさを前面に出すように笑い、嬉々としてカウンターに座る。

 

リンもハッとしたように、静かに郭と彪、胡がいるテーブルへ向かう。

三人から「あれはなんだ」と聞かれたが「それはアタシも知りたい」と一蹴し、ただ張とキキョウの様子を見守ることにした。

 

「おいバオ、今日はずっとこの調子だったのか」

 

「いや、アンタが来るまでは腐ってたんだが……」

 

「ほう? ――なあキキョウ」

 

「なんですか?」

 

 

 

張はバオの言葉を聞き、ニヤリとした表情を浮かべる。

 

 

 

「俺が来てそんなに嬉しいのか?」

 

「はい!」

 

 

 

 

即答だった。

 

 

 

しかも、心から嬉しいと思っているような表情を浮かべている。

 

 

いつもなら冗談だと流す彼女がそう返すとは思わず一瞬目を見開いたが、間をおいて再び口の端を上げた。

 

 

 

「そうか……はっはっは! そうかそうか!」

 

 

張の顔からは困惑の色は消え失せ、代わりに高らかに笑った。

 

 

「俺もお前に会えて嬉しいぞ、キキョウ」

 

「ふふっ、そう言ってもらえて更に嬉しくなりました」

 

 

とても幸せそうに言われ、「はっ」と息を洩らし、キキョウの空いたグラスにジャックダニエルを注いでいく。

 

「乾杯」

「乾杯!」

 

 

 

お互い上機嫌にグラスをぶつけ、酒に口をつけていく。

酒を喉に通したキキョウがまたもや「ふふ」と笑みをこぼす。

 

 

「貴方と飲むお酒はいつも美味しいですね。今日は特に美味しいです」

 

「そりゃよかった」

 

「張さんはどうですか? 私と飲むお酒は美味しいですか」

 

「ああ、格別だ」

 

「よかった!」

 

 

 

満足そうに笑みを浮かべながら、キキョウは酒を呷っていく。

 

 

 

「ねえ、張さん」

 

「ん?」

 

 

やがてテーブルに肘をつき、張の顔を見据えながら声をかける。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、貴方の事好きですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唐突のキキョウの告白に、張を含め会話を聞いていた全員が目を見開いた。

何人かは飲んでいた酒を吹き出し、郭、彪、リンはあまりの出来事に固まっていたが、唯一胡は面白そうに「へえ、やるなあ」と呟いている。

 

 

張はキキョウの言葉にゆっくりとグラスを置き、真剣な声音を出す。

 

 

 

「……なんだと?」

 

「バラライカさんもリンさんも、レヴィやダッチさんも三合会の人も、街の人みんな大好きです」

 

「…………そうか」

 

キキョウのさっきの言葉は誰もが思っていたものとは違う意味を有していた事を知り、全員「そっちか」と内心でつっこんだ。

 

そんな事を知る由もなく、キキョウは話を続ける。

 

「私みたいに何も持ってない人間でも認めてくれて、普通に接してくれて……貴方がパトロンとなってから普通の洋裁屋として生きていけている。だから私、今とっても幸せなんです」

 

「……」

 

「でもね……私、この街にいちゃいけないんですって」

 

そう言った時の彼女の笑みには、どこか寂し気な色が滲んでいた。

張はただキキョウの話を黙って聞いている。

 

 

「アンタみたいな人間はこの街に似合わないって……この街から出ていけって言われちゃいました」

 

「……」

 

「だけど、どうしてそれを彼に言われなきゃいけないのかが分からないんです」

 

そこで張の顔からグラスに視線を向ける。

グラスを持っている手の力が、無意識に強まっていた。

 

「今まで平和に生きてきた奴がどうしてそんな上から目線で物を言ってきたのか。私のことをよく知りもしないくせに、少し過去に触れたからって全部知ったような気になって、私の幸せまでも決めつけて……よりにもよって、私が欲していたものを持っていた奴にあんなこと言われたのが、どうしようもなく苛立つんです」

 

そう言いながら徐にテーブルに突っ伏す。

頭を腕に乗せ、グラスに視線を注いだまま言葉を続ける。

 

「確かに私がここまで無事に生きてこれたのは運がよかっただけ。何かあればすぐ死ぬのは分かってる。でも、それでも日本じゃ手に入らなかった幸せを手放してまで生きようとは全く思わない」

 

「……」

 

「ねえ、張さん」

 

 

 

張の名を呼び、顔だけを彼の方へ向け寂し気な笑顔で投げかける。

 

 

 

 

 

「私、この街にいてもいいですよね?」

 

 

 

 

不安そうに放たれたその言葉を聞き、張は無表情でしばらくキキョウの顔をサングラス越しに見つめた。

やがて目線を外し、徐に酒に口をつけた後、彼女の短い問いかけに答えようと口を開く。

 

「この街はどんな悪党だろうと受け入れる悪徳の都だ。踏み入るも、出て行くも己の自由。お前がここにいたけりゃいりゃいい」

 

「……」

 

「だが、それを踏まえた上で敢えて言わせてもらうとすれば――」

 

こと、とグラスを置き、口の端を上げいつもの余裕そうな笑みを浮かべた。

 

「俺はお前の存在を認めている。俺に真っ向から歯向かったあの時から、ずっとな」

 

やがて、張は晒されているキキョウの頬へと手を伸ばす。

酒で火照った顔にもたらされた冷たい感触を心地よく感じながら、キキョウは再び満足そうに微笑んだ。

 

 

「よかったあ」

 

 

キキョウは安堵した声音で呟く。

張もまた機嫌がよさそうに微笑み、二人は柔らかな雰囲気に包まれた。

 

「もしお前がいなくなったら俺は寂しすぎて死んじまうかもなあ」

 

「嘘……バレバレですよ」

 

「はは。だが、お前がいないと本当につまらん。まだまだ俺を楽しませてくれよ、キキョウ」

 

「ふふ……ほんと、ご冗談がすき……ですよ、ね……」

 

言葉を交わしていくうちに、段々キキョウの瞼が落ちていく。

やがて完全に目を瞑り、次第に寝息が聞こえてくる。

 

幸せそうに微笑んでいる寝顔をしばらく眺め、やがて頬から手を離した。

 

二人の会話が終了したと判断し、リンは席を立ち張の元へ足を動かす。

穏やかに寝ているキキョウを一瞥し、間を空けて話しかける。

 

「お話は済みましたか?」

 

「ああ」

 

「随分楽しそうでしたね」

 

「羨ましいだろ?」

 

「ええ、アタシだってあんな笑顔見たことなかったのに。嫉妬で狂いそうですよ。……野暮な事聞くようですが、この子がこうなった理由とかお分かりに?」

 

「詳しくは知らんが、大方どっかの馬鹿に変なこと言われたんだろう。だが、まさかこいつがそれを気にするとはな」

 

「……」

 

「まあ、俺としちゃ面白い様を見れたから有難いがな。礼を言いたいくらいだ」

 

「調べますか?」

 

いつの間にか郭と彪も張の元へ移動し、淡々と彪が問う。

胡は別のテーブル席に移動し、他の三合会の組員と何やら話をしている。

 

「いや、探る必要はないだろう。大体予想はついてる」

 

「消しますか?」

 

今度は郭が物騒な問いを投げかけた。

張は「はっ」と笑い、グラスをゆらゆらと揺らす。

 

「俺がそんな物騒な男に見えるか? んな手荒な真似はしねえさ」

 

三合会(うち)で一番おっかないのはアンタでしょうに。

とリンと彪は同時に心の中で呟いた。

 

張はグラスの中の酒を飲み干し、カウンターから腰を上げる。

 

「バオ、こいつの飲み代はうちに請求書送っとけ。どのみちこれじゃお代貰えねえだろ」

 

「ああ」

 

「で、一体どんだけ飲んだんだ。こいつが酔っぱらうってなると相当だろう」

 

「一人で二十本近く空けやがった。店の酒飲みつくされるかと思ったぜ」

 

「……やれやれ」

 

 

半分本気で言ったバオの言葉に張は苦笑を浮かべ、すやすやと寝ているキキョウを見やる。

 

 

「ほら、キキョウ。出るぞ」

 

「……」

 

「キキョウ」

 

「……ん……」

 

張の声掛けにゆっくりと顔を上げるが、目は閉じたまま。

このまま再び寝てしまいそうなキキョウの腕を掴み引っ張る。

 

「ほら」

 

「ん……」

 

脱力したままの体を椅子から落ちないよう上手く支える。

そのまま流れるように横抱きにし、キキョウの体を持ち上げた。

 

「バオ、世話になったな」

 

「ああ」

 

最後にそう言い残し、張はキキョウを抱きかかえたまま足を動かす。

張の腕の中でも、キキョウは幸せそうに寝息を立てている。

 

いつもより酒の匂いを纏わせている女の顔にフッ、と小さく笑みを漏らした。

 

颯爽と歩いていく張の後ろを郭と彪、リン、胡、その他三合会の組員がついて行く。

彼らがやがて店をでると、静かだった店内に再び騒がしさが戻る。

 

 

 

 

――その日のイエローフラッグでは、やはり張とキキョウの話で持ちきりとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キキョウさんと話をし、俺は家に帰った後ベッドに腰かけひたすらビールを呷っていた。

 

 

勢いよく酒を飲みほしていく中、先程彼女から言われた言葉が何回も頭の中に響いていた。

 

『ただ正義漢ぶって何もできない君にだけは、幸せだのなんだの言われたくないよ』

『彼に殺されようと、切り捨てられようと後悔しない』

 

自分は彼女にとってあまり価値のない人間だ。

口だけ達者では何もできないのも分かってる。

 

だが、それを自覚しても尚、彼女の言葉に対して言い表せない程の“何か”を感じていた。

怒りのような、悔しさのような何か。

嫌でも頭の中に残っている言葉を繰り返されるたび、単純ではないそれが徐々に膨れ上がってしまう。

 

 

あのマフィアは貴女を簡単に切り捨てる。

 

必要とあらば殺すだろう。

 

なのに、どうしてマフィアにそこまで入れ込んでいる。

 

あんなマフィアの傍にいたって、無残に死んでしまうだけかもしれないのに何故そこまで。

 

 

 

――俺なら、貴女をそんな簡単に見捨てないのに。

 

 

どうしたら、彼女の中で俺の存在は大きくなるんだ。

 

そう思いながら、思考を巡らす。

 

 

彼にあって俺にはないもの。

 

この街での権力。

金。

武力。

人を人と思わない冷徹さ。

 

 

……確かに、冷静に考えてみれば俺と張さんじゃ比べる間もなく何もかもが違いすぎる。

 

圧倒的に俺には“力”がない。

誰かを動かすことができるほどの力が。

 

なら、俺はこの街で何ができる。

武力を持っていない俺にできること。

 

煙草に火を点け、煙を肺一杯にいれ吐き出しながら考える。

 

思えば、彼女はまだ俺を日本で平和に暮らしてきたサラリーマンとして扱っている節がある。

未だ俺を“岡島”と呼ぶのはそのせいだろう。

 

 

 

――なら、もし“ロック”として認められたら。

日本の元サラリーマンではなく、悪徳の都の住民として認められたら、彼女の中で俺の存在価値は少なからず変わるかもしれない。

 

 

 

そう考えると、胸の内に燻っていた何かが少し落ち着いた。

一つため息を吐き、再び缶ビールを勢いよく呷った。

 












◇翌日
「すみませんでした」
「お前がまさかあそこまで酔うとはな」
「本当にすみません、まさか自分でもああなるとは……あんなに酔っぱらったのは初めてで……」
「いやあ。子供みたいに無邪気に笑いながら駆け寄ってきた時なんか、思わず抱きしめちまいそうだった」
「一生のお願いです、どうか忘れ」
「断る」
「そんな即答しなくても……」
「ははっ。――で、お前をあんなに酔わせた悪い男はどこのどいつだ?」
「……覚えてないです」
「嘘が下手だな」
「…………嘘じゃないです」
「はっ、まあ今はそういうことにしといてやろう」

――――――――――――――――――――――――――――




あの後、張さんの部屋で一緒に寝て、翌日起きたキキョウが二日酔いの頭痛に悩まされながらもベッドの上で謝る。
それをニヤニヤと愉しそうに聞いている張さんとの会話です。

キキョウさんは酔っぱらうと子供っぽくなります。
ただ、記憶は残るので酔いが醒めた時に「うわああああ」ってなるタイプです。


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55 青いバラ

イエローフラッグで浴びるように酒を飲んでから二日。

あの日以降、特に何事もなく比較的いつも通りの日常を送っている。

 

あの時は岡島との会話のせいであまりいい気分ではなかった。

普段は少し嫌な事があっても酒があれば大抵気が紛れる。

 

だからいつものように酒で気分を上げようと飲んでいたのだが、自分が思った以上に参っていたらしく大量の酒をとんでもないペースで飲み干してしまい、いつの間にか相当酔っていた。

 

どんなに飲んでも気分が晴れず少しイライラしていた時に、張さんの姿を見て思わず気が緩んだ。

 

 

そのせいか、あんな醜態を晒してしまった……。

よりにもよって、あの張さんにだ。

 

 

案の定張さんはもちろん、あの場にいた三合会の人やリンさん、バオさんまでからかわれる始末。

全員が「珍しいものを見た」と面白そうに言うものだから私としては堪ったものじゃない。

 

 

もう二度とあんなに酒は飲まないと固く誓った。

 

はあ、と一つため息を吐き、今日も今日とて依頼がないので暇つぶしに刺繍をする。

 

ただひたすら無言で手を動かし続け、水を飲もうと立ち上がったその時だった。

 

玄関のドアからコンコンコンと来客を告げるノックが響く。

依頼なのかまだ分からないので、いつものように声がかかるのを待つ。

 

 

「あの、洋裁屋さんはいますか? その……服を頼みたくて」

 

 

飛んできたのは少し高めの男の子の声。

たまに女の子が来ることはあるが、男の子が態々私のところまで服を依頼しに来るのは滅多にない。

 

珍しいな、と思いながら足を動かし、ドアノブへ手をかける。

 

そのままドアを開ければ、目の前には短い黒髪に褐色の肌をしている少年が立っていた。

身長は私の胸あたりまである。背格好からして十二、三歳といったところか。

彼の顔はまだ大人になる前だからか少し丸顔で可愛らしい顔立ちだ。

 

その上、今は緊張した面持ちをしていて更に可愛らしく思えてしまい、思わず口の端が上がった。

これ以上緊張させないよう、できるだけ柔らかい声音で話しかける。

 

「こんにちは」

 

「……こんにちは」

 

短く返された挨拶に笑みを零しながら話を続ける。

 

「よく来たね。ぜひ君の依頼を引き受けたいんだけど、その前に一つだけ確認」

 

「何ですか?」

 

「お金はある? または何かお金の代わりになるものとか」

 

失礼な質問かもしれないが、子供が依頼に来るときはできるだけ聞くようにしている。

過去に何度か子供がお金も代わりになる物もない状態で依頼しに来ることがあったためだ。

 

それでも子供の方は中々諦められず、押し問答を続けるというのがいつもの流れになる。

 

この子はどうなんだろうかと考えていると、少年は少し間を空けて微笑んだ。

 

 

「噂通りだ。本当にあの時から変わってない」

 

「……え?」

 

「今でも誰かとの約束、守ってるんだね。すごいや」

 

「えっと……」

 

「僕の事覚えてない?」

 

 

先程までの緊張した顔はどこへやら、今はニコニコとどこか嬉しそうな表情を浮かべている。

その少年の顔を見ながら、必死に過去の記憶を探る。

この歳の少年が依頼に来たことはない。少し前ならばもっと背も小さかったはずだろう。

 

ここへ来た依頼人の中で褐色の肌に黒髪の男の子がいたかどうか思い返すが、中々記憶から出てきてくれない。

 

しばらく唸っていると、少年は笑顔を崩さず再び口を開く。

 

「僕とアナタが初めて会ったのは――アナタが洋裁屋を本格的に営み始めた少し後」

 

「……大分前だね」

 

「うん。あの時、どうしても服が欲しかったけどお金も何も出せなくて困ってた僕に、採寸する代わりにアナタはあるものをくれた。それがこれ」

 

少年はそう言って、ズボンのポケットから何かを出した。

 

 

出てきたのは、白い布に青いバラが刺繍されたもの。

 

 

布の隅には、私が作ったものの証であるあのマークもある。

 

少年の手にあるそれを見て、一瞬で記憶が呼び起こされる。

 

 

張さんに初めてロングコートとスーツ一式を仕立て上げたしばらくした時。

私が仕立てたその服を見た男の子が「あの人が着てた服がほしい」と言ってきたことがあった。

 

その子はこの街で生まれ育った子供で、黒髪に褐色の肌だった。

 

 

子供故に何も出せなかったその男の子の押しに負けて、子供のサイズを計らせてもらう代わりにあるものを渡した。

 

 

 

――それが、今目の前にある青いバラが刺繍された布。

 

 

これをこの子が持っているということは、つまり

 

 

 

「……君、あの時の」

 

「久しぶり、お姉さん!」

 

思い出した私の様子を見て、洋裁屋として名を広めるきっかけとなった男の子は満面の笑みを浮かべた。

 

そしてすぐさま、布に刺繍された青いバラを見ながら話を続ける。

 

「あの時は金の稼ぎ方も、大人と交渉する時には金が多少必要な事も分かってなかった。だからあんな我儘を言っちゃったんだ」

 

「……」

 

「あれからもね、正直言うと盗みもいっぱいやった。生きていくのに必死で、綺麗ごとなんて言ってられなかった。でもね、このバラを見てそういうお金じゃきっとお姉さんは受け取ってくれないかもって思って……新聞配達とか、酒場の雑用とかできるだけ汚れてない仕事を見つけて、なんとかお金を作れるようになったんだ」

 

少年はぎゅ、と布を握りしめた。どこか真剣な声音を滲ませて話す彼を見つめ、ただ黙って耳を傾ける。

 

「きっといつか、もう一回ちゃんと依頼しようって決めてたんだ」

 

そう言って男の子は私の目を真っすぐ見つめてきた。

少し青みがかった瞳は、陽の光が入って綺麗だと思わせる。

 

「お金はある。これで作れる分だけでいい。僕に服を仕立ててください!」

 

意気揚々と告げられた言葉と共に恐らく金が入っているであろう封筒を差し出される。

黙ってその封筒を受け取り、中身を確認する。

 

中には六千バーツ。正直オーダーメイドを作るには少ない額だ。

だが、前とは違い必死に貯めたお金を差し出し、尚且つ作れる分だけでいいと言ってきた。

 

この年頃はもっと違うことに金を使いたいはずなのに、私の依頼料に充てようとしている。

 

参ったな、と頭を掻き、息を洩らす。

ここまで言われてしまったら、断れる訳がない。

 

口の端を上げ、再び緊張した顔をしている少年を見据え口を開く。

 

「とりあえず、中に入って。どんなものがいいかとか、色々話すこともあるから」

 

私の言葉に少年は顔を輝かせ「うん!」と年相応の笑顔を再び見せた。

 

 

 

 

 

 

 

「――大きくなったね。前と全然サイズが違う」

 

「前って、もう五年前だよ? そりゃ少しは成長するよ」

 

「あの時は私の腰まで位しかなかったのに。男の子はやっぱり成長が早いのかな」

 

「いや、普通だと思うけど」

 

和気あいあいと話しながら彼を採寸し、やはり以前計ったサイズとは明らかに違うことに時が経つのは早いものだと実感する。

 

「ルカ、あの布まだ持ってたんだね。正直びっくりしたよ」

 

「だって、あれは僕の宝物だもん。何回か盗られかけたり売ってくれって言われたこともあったけど、絶対手放したくなかった」

 

「そっか。ありがとね、大事にしてくれて」

 

「えへへ」

 

素直にお礼を言うと、少年――ルカは照れたように笑った。

そうこうしている間に採寸も終わり、自身も口の端を上げながら本題を切り出す。

 

 

「それで、どんな服が欲しいの?」

 

「なんでもいいよ」

 

なんとアバウトな希望だろう。それだけでは流石に作れないので、彼から何かを引き出さなければ。

少し苦笑しながらルカを見つめ言葉をかける。

 

「もうちょっと具体的に教えてほしいかな。例えば……」

 

そう言いながら棚にある一冊のファッション雑誌を手に取り、ページをめくりながら彼に見せる。

 

 

「ルカの背格好だとスーツみたいにきっちりしたものは浮いちゃうから、少しゆったりとしたものが似合うかも。あ、これとかゆったりだけど男の子らしいかっこよさは出てくるよ」

 

「うーん……いっぱいあってよく分かんないや」

 

雑誌にある一つの服を指さしながら説明してみたのだが、少し難しいらしい。

どうしたものかと頭を悩ませていると、「あのね」とルカから話しかけられる。

 

「僕、キキョウさんが作ってくれた服なら本当に何でもいいよ」

 

「え?」

 

「きっとキキョウさんが作ってくれた服なら満足する。皆“キキョウの服にハズレはない”って言ってるし。それに僕はキキョウさんに服を作ってもらえるなら何でもいいんだ」

 

「でも、折角貯めたお金を使うなら自分が求める服を頼んだ方がいいと思うよ」

 

「キキョウさんが僕の為に作った服が欲しいんだ。ダメ、かな?」

 

 

さっき話とこの言い分からして、ちゃんと依頼したいという考えだけで数年頑張ってきてくれたのだろう。

そのせいか、どんな服がいいのかという拘りも本当に持ってないようだ。

 

まあ、正直今までも似たような依頼は何回も受けたことはある。

 

「自分に似合う服が欲しい」と言われたときは、私なりに考えて仕立てている。

今回もそっちで進めた方が話が早いだろう。

 

 

「そこまで言ってくれるなら折れるしかないね。ひとまず、渡してくれた予算内で君に似合う服を作る。今回はこれでいいかな?」

 

「うん!」

 

ルカは満面の笑みを浮かべ元気のいい返事をする。

その顔を見て、自身も釣られて口の端が上がった。

 

すると少し間を空けて、ルカが何やら言いにくそうに「あのね」と再び口を開く。

 

「その、もし出来たらでいいんだけど……」

 

「なに?」

 

言葉に詰まった彼を見ていると、やがてもじもじと恥ずかしそうにしながら言葉の続きを告げた。

 

「服が出来上がるまでの仕事ぶりを見てみたいんだ」

 

「……服作りに興味あるの?」

 

「うん。街でキキョウさんが作った服を何度か見かけたことあって、本当に色んな服を作るんだなって。どんな服でも着てる人たちがすごい嬉しそうにしてて、文句を言う人なんて誰もいなかった。皆が満足するものを作れるのが、とてもすごいなって思ったんだ」

 

「……」

 

「そんな服をどうやって作ってるんだろうって、知りたくなったんだ。勿論仕事の邪魔はしない。傍で見せてくれるだけでいいんだ」

 

「……面白くもなんともないよ。ただ黙って作業してるだけだし」

 

「それでもいい」

 

これはどうしたものか。

別に見られて困るものはない。

 

だが、正直一人で仕事に集中したいのが本音だ。

邪魔しないとは言うが、傍にいるだけで気が散るかもしれない。

それで彼の依頼が遅れるのは避けたいが……。

 

ふとルカの方を見ると、真剣な表情を浮かべそわそわと私の返答を待っている。

 

 

しばらく考え、小さく息を吐いた後意を決して彼に言葉を投げる。

 

 

「そこまで言うならいいよ。でも、一回でも仕事の邪魔をしたら二度と見せないからね」

 

「分かった!」

 

ルカは先程と同じように元気な返事をした。

 

まあ、一度見て飽きたらそれでも良し。

それに、彼一人がいるだけで切れる集中力ならないも同じだろう。

自分の修行だと思えばいい。

 

 

そう考えながら、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべているルカに釣られ、再び笑みがこぼれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――じゃあ、そういうことで。頼りにしてるぞ、ダッチ?」

 

「ああ。金はきっちり入れといてくれよ、旦那」

 

「いつもの口座に、だろ。分かってるよ」

 

キキョウが依頼に来た少年、ルカと話をしている同時刻。

ラグーン商会事務所には商会のメンバー四人。そして彼らに仕事の依頼のため、張維新が部下達と共にやって来ていた。

 

机の上に足を乗せ優雅に寛ぎながら張は吸い終わった煙草を灰皿へ押し付け、新しい煙草を取り出せばそこへすかさず彪が火を点ける。

煙を吐き出し、サングラスの奥に隠れた瞳を自身を見つめているロックへ向けた後、やがて徐に話を切り出す。

 

「そういや、この前ちと面白いもんを目にしてな」

 

「面白いもん?」

 

「旦那がそう言うってことは鉄火場での話か?」

 

「最近そういうのは部下たちに任せてるんでな。もっと平和な話だよ」

 

「この街でそんな話があるとは驚きだな」

 

「俺にとっては、という前置きがつくがな」

 

唐突に切り出された話題に驚くことなく、ダッチとレヴィはそれぞれ思ったことを口にした。

ベニーとロックは黙ったまま目の前で繰り広げられる話に耳を傾ける。

 

「一昨日、キキョウがイエローフラッグで酔い潰れてな。聞きつけた俺が介抱してやったんだが、まさかあんなアイツを見れるとは思ってなかった」

 

「……噂は聞いてたが、まさか本当だったとはな」

 

「旦那、アイツが酔うなんて相当じゃねえか? アタシは一回も見たことねえぞ」

 

「そう、どんなに飲んでも酔わねえ。あのバラライカでさえ感嘆するほどの酒豪がだ。そんなヤツが酔っぱらうとなりゃ羽目を外したか、何か気に食わねえことがあったかのどっちかだ」

 

再び煙草に口をつける。

 

 

ゆっくりと煙を吐く様をロックは拳に少し力を入れながら見ていた。

 

「なんでも、どっかの馬鹿に変な事を言われたらしい」

 

「……変な事?」

 

「この街から出ていけ、だとよ。酔っぱらいの言う事だからどこまで本当か知らねえが……まあ、どこぞの馬鹿のおかげで俺は楽しいひと時を過ごせた。そこに関しちゃ感謝だな」

 

 

瞬間、ニヤリと張の口元が愉しそうに歪む。

 

 

「いやあ、本当に愉快だった。アイツ俺を見た途端満面の笑みで駆け寄ってきてなあ。終いにゃ“大好き”なんて言われたぞ。なりふり構わず抱きしめちまうところだった」

 

「……そりゃ何かの冗談だろ、張の旦那」

 

「冗談じゃねえさ。なあ郭?」

 

「まあ、そうですね」

 

「おいおい、カクはアンタの忠犬だろ。言われるがまま頷いてるだけじゃねえの?」

 

「どう言おうと勝手だが、大哥の言葉に嘘はない」

 

ベニーとレヴィは張の話に信じられないと言った表情を浮かべている。

 

そんな二人を目の端に、ダッチは無表情で思考を巡らしていた。

 

 

無駄話が嫌いであるはずの張が、こうして世間話をするのには何か理由があるのではないか。

 

 

キキョウについて自慢したいだけならそれまで。

 

だが目の前にいる男は“そんなこと”で時間を潰すような人間ではないことをダッチはよく理解していた。

 

 

 

理解しているからこそ気がかりだった。

 

 

 

そんな中、ただ一人ロックだけは少し眉根を寄せている。

彼なりに隠しているつもりだったが、その不機嫌さは張へ向けている視線でダダ漏れであった。

 

張は足を組み替え、はああと煙を再び吐きながら話を続ける。

 

「あん時のアイツはいつも以上に素直でいいもんだった。だが、俺としちゃ少しばかり気がかりでな」

 

「……」

 

「気にかけてる女に妙なちょっかいかけられたってのは正直面白くねえ。――お前もそう思うだろ、ロック?」

 

「……えっ」

 

自分に話しかけられるとは思わず、一足遅れて反応する。

声をかけられたことにより、その場の視線は全てロックへと向けられた。

 

「お前はアイツとよく話すっていうじゃねえか。普段世話になってるキキョウにちょっかいかけられるのはお前だって嫌だろう」

 

「……ええ、まあそうですね」

 

「いくらキキョウがこの街にいることに理解できないとしても、無理矢理追い出すのはお門違いだよなあ? 例えそこにどんな思いがあったとしても、だ」

 

意味深な言葉を並べる張に、ロックは訝し気な表情を見せる。

 

 

“この男は一体何が言いたいのだろうか”と。

 

 

 

その心中を知ってか知らずか、張は平然と言葉を続ける。

 

 

 

 

「そう、例えば――男のクソつまらねえ嫉妬、とかな」

 

 

 

淡々と放たれるのと同時にサングラスの奥から鋭い視線を向けられる。

瞬間、部屋全体の空気が張り詰めたものへ変わったのを誰もが肌で感じ取った。

特に、ロックは目を見開きながら息がつまるような感覚に陥る。

 

 

背中には冷や汗が滲み、自然と拳を握る力が強まっていく。

 

 

「だが、さっきも言った通り俺は良い思いをしたんでな。別にその馬鹿野郎がどこのなんであれ今回は手を出さねえさ」

 

「……あんたにしちゃ寛大だな。てっきりさっさと殺すもんだと思ってたぜ。特にキキョウはあんたの“大のお気に入り”だからな」

 

張は机から足を下ろし、いつも通りの軽快な声音へと戻る。

しばらく静観を決め込んでいたダッチが、少し声音に固さを帯びつつも言葉を返す。

 

「おいおい、どいつもこいつも俺をとんだ野蛮人だと勘違いしているらしい」

 

「あんたの今までの行動を見りゃ誰だってそう思うぜ」

 

「はっ。まあ、またちょっかいかけられちまったらそん時はどうなるか分かんねえなあ。うっかり手を滑らせて銃の安全装置(セーフティ)を外しちまうかもしれん」

 

口の端を上げながら放たれた言葉をこの場で冗談と受け取る者は誰一人いなかった。

 

 

 

“次はない”

 

 

 

張の言葉にその意味が込められていることはロックでさえ容易に理解できた。

そして、それが自分に向けられていることも。

 

張は煙を吐きながら短くなった煙草を「さて」と呟きながら灰皿へと押し付けた。

 

 

「長々と邪魔したな。じゃ、仕事の方頼んだぞ」

 

「おう。旦那、キキョウによろしく伝えといてくれ」

 

「ああ」

 

ダッチとそう言葉を交わし、ロングコートの裾を颯爽と翻す。

数名の部下と共に部屋を去り、残されたのはラグーン商会のメンバーとどこか重苦しい空気。

 

誰も言葉を発さない中、しばらくした後ダッチはポケットから煙草を取り出し口に咥える。

火を点け、煙を吸った後「はあ」とため息とともに吐き出す。

 

 

そして、まだ吸える部分が半分以上残っている吸い殻を勢いよく灰皿へと押し付け、立ち上がる。

 

 

 

「おいロック」

 

 

 

たった一言呟かれてしばらく後、部屋中に大きな音が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

――それから数日間、ロックは顔に大きな痣を負いながら街を歩くこととなった。

 





=張さんが帰った後のダッチとロックの会話=
「俺は言ったはずだ。アイツだけは止めとけってな」
「……別に、俺は」
「アイツは地雷なんだ。やらかせばお前だけじゃなく俺達まで地の果てまで吹っ飛ぶことになる」
「……」
「お前が何を話したかはこの際どうでもいい。今俺達は張の気まぐれで生かされていたに過ぎねえ。それをよく噛みしめろ」
「……」
「今の一発で済ませてやる。これに懲りたら二度と突っ走んじゃねえ」
「……」
「お前がキキョウと会う時は必ず俺達の誰かをつける。議論はなしだ」
「…………ああ」




――――――――――――――――――――――――――――



新キャラ登場です。
果たしてルカ君はキキョウにどんな影響を与えるのか……。


P.S
短編の方にもお話を投稿しました。よろしければ見ていただけると嬉しいです。


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56 素直になれない彼女との一時

ロックに口出し(?)されてからしばらく経った後です。
それと合わせて偽札編も入ってます。二話くらいで終わるかと思います。(短い!!)






 

 

「――我儘言って困らせるなよ、お嬢ちゃん」

 

「今の状態じゃ半端すぎるのよ」

 

「確かに出来がいいに越したことはない。だがな、どんなものにもタイムリミットってもんがある。野球にもサッカーにもファックにもだ」

 

「分かってるわ。だけどこんなもの表になんか出せない」

 

「だとしても限度ってもんがあるだろ。あんたは最初に提示した予算を二十万ドルオーバーし、約束の日は二か月も前になる」

 

「だけど、これはあまりにも」

 

「何も造幣局を騙そうとしてるわけじゃない。それは、この部屋であんたら二人だけだ」

 

パソコンから出る光だけで照らされている薄暗い部屋。

その部屋の中でキーボードを打っている音をBGMに、二人の男女が言葉を交わす。

 

 

男は女の顔を見据えながら、煙草に火を点け再び口を開く。

 

 

「幹部の何人かは、あんたが俺らを虫以下の脳みその持ち主と思っていて、不出来な芝居でうまくカモろうとしているんじゃないかとよくない感想を抱いている。ああ、勿論俺はそんなこと微塵も思ってないんだが――もしそうなら、俺はアンタを粉微塵にしなくちゃならねえ」

 

男が淡々と告げると、周りにいる男達の一人が銃のスライドを引いた。

その行動に、女は拳を握り冷や汗を流す。

 

「おいおい、俺が女に手を上げるように見えるか? 見えないだろ」

 

 

 

その言葉が放たれた直後、銃声と共にキーボードの音が止む。

 

 

 

「なんてことしたの……! これじゃ」

 

「喚くな。きっちり仕事をこなしてくれれば文句はないんだ」

 

 

目を見開いている女に、男は煙を吹かしながら告げる。

 

 

「こうなりたくなきゃ、あと四十八時間以内にいい仕事をしてくれよ。お嬢ちゃん?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

時計が午後一時を示す頃。

受けていた依頼を先程完成させ、届けるための準備をしている。

 

そんな私の作業を、部屋の端で椅子にじっと座り黙って見続けている少年が一人。

 

 

服の依頼と同時に私の仕事を見学したいと言ってきたルカである。

 

 

 

ルカが依頼に来てから、望み通り彼自身の服が完成するまでの間も見続けられていた。その間、彼はただ黙って椅子に座るだけで約束通り仕事の邪魔をすることはなかった。

 

そして彼の服が完成し渡した時、「また来ちゃダメかな」と引き続き私の仕事を見たいと言ってきた。

今までの行動を鑑みて、これからも邪魔することはないだろうと判断し、好きな時に来ればいいと了承した。

 

 

それからというもの、彼はほぼ毎日ここへ来ては私の作業ぶりを観察している。

依頼がない日でも、刺繍をしている手つきを見たいといってここに居座る。

 

 

 

――という訳で、ルカは今日も今日とて私の仕事ぶりを見に来ているのである。

 

 

 

そしてもうここですることはないので、こちらをじっと見てる彼へ言葉をかけようと口を開く。

 

 

 

「この後は依頼人に届けるだけだから、今日は帰りなさい」

 

「ええ、もう?」

 

「そんな不貞腐れた顔しないの」

 

子供らしく頬を膨らませる姿に思わず苦笑する。

ルカは背伸びをし、床についていない足を揺らし始めた。

 

「あーあ、もう少し見てたかったなあ。キキョウさんの仕事見てるとあっという間に終わるんだもん。家で真似しようにもできないや」

 

「え、ルカもしかして家で練習してるの?」

 

「基本的な裁縫ならやり方分かるからね。それに僕覚えるの早い方だから何とかなるかなって思ったんだけど……キキョウさん仕事早すぎて覚えようにも覚えられないよ」

 

少し不満そうに溢す彼に複雑な心境を抱きつつ、依頼品を丁寧に包んでいく。

その時、どこからかぐう、と音が鳴った。

 

 

それがルカのお腹から聞こえてきた音だと理解するのに数秒とかからなかった。

 

 

 

「……へへっ」

 

 

 

 

と、恥ずかしそうな笑みを見せる彼に釣られ、自然と口端が少し上がる。

 

「サンドウィッチしかないけど、食べてく?」

 

「いいの!?」

 

「いいよ。一人より二人の方が食事も楽しいしね」

 

「やった!」

 

急ぎの依頼ではないし、今日はまだ時間もある。

それにルカは食事を共にしても問題ないだろう。

 

依頼品を最後に紙袋へ入れ、昼食を食べようとルカを連れて自室へと入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ルカと昼食を終え皿を片付けた後、彼は「また明日ね!」と元気に言い残して帰っていった。

そこからすぐさま気を取り直し、服を依頼人へ届けるため身支度を整える。

 

 

鍵、財布、ハンカチ。そして依頼品が入っている紙袋を手に持ち足を動かす。

ドアを開け外へ出ようとしたその時、驚きで動きが止まった。

 

 

一つ間を空け、目を見開きながら口を開く。

 

 

 

「レヴィ?」

 

「……よう」

 

 

 

ドアの前にはいつものホットパンツとタンクトップ。そして二挺の拳銃を下げているレヴィが立っていた。

 

 

彼女は今まさにドアをノックしようとしていた手を下ろし、どこか気まずそうな表情を浮かべている。

 

「どっか出かけんのか?」

 

「うん。今から依頼品を届けに行くところだよ」

 

「そうか」

 

「どうかした?」

 

「いや……」

 

どこか歯切れが悪い彼女の様子に首を傾げる。

レヴィは基本的に臆することなく言葉を発する性格なので、言いにくそうにしているのはとても珍しい。

 

 

 

そう思うのと同時に、彼女にとって見過ごせない“何かが”あってここへ来たのだろうと確信に近いものを感じた。

 

 

 

レヴィにはずっとよくしてもらっているので、無下に帰すわけにはいかないだろう。

 

 

 

「ここじゃなんだから、とりあえず中に」

 

「やっぱいい。仕事の邪魔して悪かったな」

 

「届けようと思ってたのは急ぎじゃないの。レヴィと話す時間はあるから大丈夫だよ」

 

「けどよ」

 

「それに私もレヴィと久々に話したいし。――付き合ってくれる?」

 

帰ろうとしたレヴィにそう声をかけると彼女は一瞬目を見開いた後、困ったように頭を掻きながら「はあ」とため息を吐いた。

 

「その言い方はずるいぜ。なんつうか……相変わらずって感じだな」

 

「そんな急には変われないよ」

 

「知ってるよ。お前は特に頑固者だからな」

 

そう言って、レヴィは少し口の端を上げた。自身もつられて自然と口の端が上がる。

どことなく柔らかな空気が流れた後、すぐさまドアを更に開き「どうぞ」と一言声をかける。

 

 

私の促しに抗うことなく彼女は「おう」と呟き部屋の中へ足を踏み入れた。

ドアを閉め、来客用の椅子を渡せばレヴィは何も言わずに腰を下ろす。

 

 

「コーヒーいる?」

 

「いや、すぐに済む。だからいらねえ」

 

「そっか」

 

短く言葉を交わし、自分用の椅子を取り出しレヴィと向かい合うように座る。

 

「それでどうしたの? レヴィが態々話をしに来るなんて珍しいよね」

 

「まあ、このまま何もしねえのはちとまずいと思ってよ」

 

煙草を取り出し、そのまま口に咥え火をつけようとする。が、ここが私の仕事場であることを思い出してくれたのか一瞬手を止め、そのままライターをポケットに戻した。

 

 

煙草を口に咥えたまま、少しの間を空けてから本題を口にする。

 

 

 

「その……悪かったな。うちの馬鹿がお前に余計な事言ったって」

 

 

 

彼女の口から出てきた言葉に思わず驚いた。

この口ぶりからして、十中八九岡島が私の過去を知って色々と言ってきたことだろう。

だが、何故レヴィがそのことを知っているのか。

 

 

「もしかして岡島から聞いたの」

 

「張の旦那がウチに仕事頼んだ時、アイツがお前と話をしたって聞いた。けど何を話したのかは知らねえ。ロックは殴られても口を割らなかったよ」

 

「……そう」

 

あの日、私は彼に“私の過去を話すな”と言った。

それをちゃんと守っているということが分かりほんの少し安堵する。

 

 

だが、それでも詮索された上に変な事を言ってきた行動を許すつもりはないが。

 

「確かに、岡島との話は気分悪くなったし許すつもりもないよ。だけど、これはあくまでも岡島の問題でレヴィは何一つ悪くない。謝る必要なんてどこにもないんだよ」

 

「……」

 

「だから」

 

「ならなんで殺さなかった」

 

 

 

途端、レヴィの声音が冷たいものへと変わる。

唐突の事で思わず言葉が止まった。

 

 

 

「お前がそう言うってなると相当だろ。そこまでされておきながらなんで生かした」

 

「……仲間を殺してもよかったの?」

 

「ここじゃ相手の逆鱗に触れたら一発で殺される。それが常識だ。そして、ロックは殺されても文句は言えねえとこまで来ちまった」

 

「……」

 

「どう考えても殺さない理由が見当たらねえ。分かんねえんだ。――だから教えてくれよ。殺さなかった訳を」

 

レヴィは幼い時から人を殺し、殺さなければ生きていけない世界にいた人間だ。

暴力が物を言うこの世界でずっと生きてきたレヴィにとって、私の行動は不可解なのだろう。

 

だからこうして話をしに来た、というところか。

 

彼女の言い分でやっとそれを理解する。

こちらを向いている光が入っていない昏い目を見据えながら、徐に口を開く。

 

「私が彼を殺さなかったのは、その気が無くなったから」

 

「は?」

 

「私はあの時彼を殺そうとした。レヴィの言う通り私に彼を殺さない理由がなかったし、殺した方が自分のためにもなるって思ってた。……でも、なんか呆れちゃってさ。殺す気も失せたの」

 

 

 

岡島から色々言われたにも関わらず、何故殺さなかったのか自分でも分からなかった。

あの後冷静に考え、彼の言い分が余りにも馬鹿馬鹿しすぎて殺す気を失わされたから殺さなかったのだと、そう結論付けた。

 

 

実の父親を殺せた私が彼を殺さなかった理由は、それ以外に思いつかない。

 

 

 

「だけど、もし彼がまた余計なことしたり、私との約束を破ったら今度こそ殺すつもりだよ。例え彼にどんな言い分があったとしてもね」

 

変わらず昏い瞳を向けるレヴィへ、はっきり告げる。

しばらく沈黙が落ちた後、やがて彼女は「はあ」とため息をついた。

 

「ほんとお前は甘いよな。殺ってくれりゃ、あいつの馬鹿な行動はそこで止まったってのに」

 

「殺してほしかったの?」

 

「別に。ただ、どっかのクソよりアンタに殺られた方がマシだと思ってるだけだ」

 

多分アイツもあの世で喜ぶだろうぜ、とレヴィは続けた。

レヴィの言っている言葉の意味が理解できず首を傾げる。

 

だがそう言う彼女の表情はさっきよりも幾分か柔らかいものになっていて、まあいいかと深く気にしないことにした。

 

「アンタの言い分は分かった。また何かあったらすぐに言えよ? その時はアタイが殺すのを手伝ってやる」

 

「ありがとう。でもいいの? 仲間なのに」

 

「仲間だからこそだよ」

 

「そういうものなの?」

 

「そういうもんだよ」

 

 

 

少し口の端を上げるレヴィに釣られ、自然と微笑みが浮かぶ。

お互い顔を少しだけ見つめた後、彼女は徐に腰を上げた。

 

 

 

「それ、届けに行くんだろ? 送ってやるよ」

 

「え……でも、レヴィも仕事とかあるんじゃ」

 

「今日はねえ。暇してたし丁度いいだろ」

 

どういう風の吹き回しなのか分からないが、ほんの少し機嫌がよさそうに放たれた提案を断る理由はない。

口端を上げたまま紙袋を手に取り、外へ出る準備をする。

 

「じゃあその後飲みに行こっか、久々に」

 

「おう」

 

レヴィはそう短く返し、颯爽と外へ出る。

彼女がドアを開いて待っている姿を見ながら、自身も軽い足取りでドアをくぐった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――で、なんでよりにもよってここなんだ」

 

「おいおい二挺拳銃、そんな不機嫌なツラ見せんじゃねえよ。酒がまずくなる」

 

「誰のせいだと思ってんだこのアバズレ。帰って男の尻でも追っかけてろ」

 

「おお、コワ。キキョウ何とか言ってやってくれよ」

 

「まあまあ」

 

レヴィの付き添いの元、やって来たのはリップオフ教会。

依頼人は勿論シスターヨランダだが、彼女が着るためのものではない。

最近新しく神父見習いが入り、その人の為に新しい神父服――キャソックが今回の依頼品だ。

 

 

今日はその神父服を届けに来たのだが、肝心のシスターヨランダは“ちょっとした用事”でいないらしい。

なので一度服を着る本人に渡し、彼女が帰ってくるまで待つことになった。

 

その間、留守を任されているはずが酒を飲んでいるエダと話に花を咲かせている。

レヴィは何故かむす、と不貞腐れたような表情を浮かべグラスの中の酒を飲みほしている。

 

 

ちなみに、私はいつものように酒に手を付けていない。

 

 

「そういやよキキョウ、この間酔いつぶれてたんだって? 珍しいじゃねえか、アンタが酔っぱらうなんて」

 

「……あの時はちょっと気が抜けてただけ。というか、なんで知ってるの」

 

「この街でアンタが酔っぱらった姿なんざ今まで誰一人見たことなかったんだ。それもあのMr.張でさえもな。そりゃ嫌でも噂は広がるもんさ」

 

「女一人が酔っぱらっただけなのに?」

 

「アンタはこの街で目立つ方だからな、そういうもんだって割り切っとけ」

 

この街では私は地味な方だというのに、割り切れっていうのは少々無理があると思うのだが。

 

 

……いや、今回は彼があの場に現れたのも原因だろう。あと、彼が私の醜態を言いふらしていたのも。

 

 

 

 

ということは、私ではなく主な要因は彼にある。

 

うん、そうだ。そうとしか考えられない。

 

 

 

そう結論を出し自分の中で勝手に納得する。

少々無理矢理かもしれないが、別にいいだろう。

 

「いやあ、それにしても面白いくらい次から次へと湧き出るねえアンタの噂。やっぱモテる女は違うわあ」

 

「からかわないでよ」

 

「へへ。レヴィ、あんたキキョウの爪の垢ちょっとくらい分けてもらえよ。この謙虚さ少しは見習った方がいいぜえ?」

 

「それはテメエの方だろうがこのクソ尼ッ!」

 

エダがニヤニヤと言葉をかけると、レヴィは悪態をついて勢いよく酒を飲みほした。

よく飽きないな、と心の中で呟きながら静かに一つ息を吐く。

 

 

 

本当この二人は仲がいいのか悪いのか分からないな、と心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――はあ、はあ……!」

 

「待ちやがれこのクソアマッ!」

 

「黙って……豚の餌になるなんてごめんよッ……!」

 

ロアナプラのとある大通り。

多くの人で賑わうその通りで、どこからか車のクラクションと共に女と男の声が響き渡っていた。

叫びながら必死に逃げる女を複数の車が追いかける。

 

そんな鬼ごっこに住民たちはなんだなんだと目線を向けるが、離れていくと何事もなかったかのように振舞う。

 

ただ見ているだけで気にかけてくれる様子もない住民達に、女は「Fuck!」と吐き捨てながら走り続ける。

 

車に対し人の足では逃げきれれないと理解している女は、車が通れないほどの小さな路地裏へと入った。

 

「あっ、てめえ待ちやがれ!」

 

「待てって言われて誰が待つのよ!」

 

そう言いながら女は路地裏の奥へと消えていく。

男たちは別の道を探そうと車を再び動かす。

 

はあ、はあと息切れを起こしながら、ふと視線を上に向ける。

 

金髪と褐色の肌を持った女の瞳に映るのは、小高い丘にある一つの白い建物。

 

眼鏡をくいっと直し、女は一縷の望みをかけながら再び走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっちい……ここクーラー効いてねえのかよ」

 

「今ぶっ壊れてんだよ。氷で我慢しろ」

 

「くそっ。なあキキョウ、金はまた今度でいいだろ。とっとと行こうぜ」

 

レヴィはそう言って立ち上がった。

確かにここは密閉された空間なので熱気が籠っている。

私は時折ハンカチで拭う程度で済んでいるが、レヴィは代謝が良いせいか私よりも汗を多く滴らせている。

 

 

ここから出て行きたい気持ちを察しつつ、苦笑しながら口を開く。

 

 

 

「そういう訳にはいかないよ。レヴィだって金のやり取りはちゃんと済ませたいでしょ?」

 

「けどよ、ここにいたら溶けちまいそうだ」

 

「だったらレヴィは先に行ってていいよ。私は後で合流するから」

 

「……ちっ」

 

私の言葉にレヴィは舌打ちし、渋々と座った。

てっきりそのまま出て行くと思ったので、戸惑いを隠すことなく声をかける。

 

「レヴィ、先に行ってても大丈夫だよ?」

 

「残る」

 

「え、でも」

 

「察してやんなキキョウ。こいつはアンタと一緒に居たくてたまらねえんだよ」

 

「別にそんなんじゃねえよ。顎叩き割んぞアバズレ」

 

「素直じゃねえなあ。そんなんじゃキキョウにも嫌われちまうぜえ?」

 

「うるせえこのクソアマッ!」

 

「まあまあ」

 

怒鳴られているにも関わらず豪快に笑うエダにため息が出そうになりつつ、今にも銃に手をかけそうになっているレヴィを宥める。

ちっ、と舌打ちした後、レヴィは勢いよく酒を飲みほしていく。

 

 

エダも傍らにあった団扇で仰ぎながらほぼ同じタイミングで酒に口をつけた。

 

 

 

 

 

――刹那、突然礼拝堂に大きな音と声が響き渡った。

 

 

 

 

「ハロー! ハロー! 誰かいませんか!?」

 

 

 

本当に唐突で、思わず汗を拭っていた手が止まる。

ふと彼女たちの顔を見やると、眉を顰め、“めんどくさい”と言わんばかりの表情を浮かべていた。

私も自分から面倒事に突っ込む気はないので、とりあえず何も言わないでおく。

 

 

 

「追われてるの! 助けてッ!!」

 

女性の切羽詰まった声が響こうと誰も応えない。

それでも尚扉を激しく叩かれ、助けを乞う声が止むことはない。

 

暑さで苛々が募っていたのもあるのか、レヴィがとうとう耐えかねて「……呼んでるぜ」とエダに声をかけた。

 

エダは団扇を激しく扇ぎながら大きく口を開く。

 

 

 

「営業時間外だよー」

 

 

 

やる気を一切感じない声音で発せられた言葉に、思わず顔も知らない女性に同情しそうになった。

当の本人は中に人がいるのを知ったからか、更に激しく扉を叩き声を張り上げる。

 

「早く早く早く! 開けて開けて開けて!!」

 

「めんどくせえ……アンタ出なよ」

 

「なんでアタシが。てめえが行け」

 

「あー、じゃあキキョウ。お前、ああいうの相手にすんの得意だろ。ちょっと出てくんね?」

 

「嫌だよ。エダがここの留守任されてるんだからエダが行って」

 

「そうだそうだ」

 

「この薄情者どもめ……はああああッ」

 

本当に行きたくないらしく、エダは私とレヴィに促すが首を縦に振る訳もない。

一瞬の間を空けず断った私達を行かせるのは無理だと諦めたのか、盛大なため息を吐いてエダは重い腰を上げた。

 

 

そのままスタスタと早足で扉の方へ向かっていく。

 

 

「お願いここを開け、ぐッ……!」

 

女性が叫んでいる最中でも構わず、エダは勢いよく扉を開けた。

 

「ヨハネ伝第五章でイエスが言ったの知ってるか? “厄介ごとを持ち込むな、このアマ”だよ」

 

とっととここから消えろ。

 

 

 

エダは開口一番にはっきり言った。

女性もその意味を理解したのか、すぐさま大声で反応する。

 

「ッ……だって、ここは教会でしょ?」

 

「だから? 神は留守だよ、休暇取ってベガス行ってる」

 

「信じられない、貴女それでもシスター!?」

 

「そういう街で、そういう教会だ」

 

女性のあの言い方からして、教会だから困ってる人を助けてくれるはずと思っているのだろう。

だが、ここは普通の教会ではない。

この街で唯一の武器屋である暴力教会。

 

 

 

そんな教会のシスターが、慈悲を持って助けてくれるはずがない。

 

 

 

女性はよほど切羽詰まっているのか、エダの突っぱねるような言い方にもめげず縋りつくように言葉を発する。

 

「お願いよ、追われてるの。でもこの街じゃ警察なんてあてにならないし、私はこの街の人間じゃないし! 教会ならなんとかしてくれるんじゃないかって……!」

 

「大変だなあ、聖職者ってのは」

 

小馬鹿にするようにレヴィが呟いた。そのままグラスを揺らし、酒に口をつける。

エダの方は女性の懇願を聞きいれる気は全くないようで、淡々と言葉を返す。

 

「審判の日に来るんだね。そうすりゃ神も――」

 

「いッ……!」

 

エダの言葉は途中で止まる。

そして、自然と己の口から呻き声が上がった。

 

 

 

――その原因は、唐突に鳴り響いた銃声。

 

 

 

銃声が聞こえてきた一瞬の間の後、右腕に痛みが走ったのだ。

 

 

 

 

 

すぐさま痛みがある部分を見やると、Tシャツの袖の部分は少し裂け、二の腕に銃弾が掠ったような火傷痕が出来ていた。

 

 

「キキョウ!」

 

 

呻いた直後、レヴィは勢いよく立ち上がった。そのまますぐ隣まで近寄り私の右腕を掴むと、上に動かし掠った部分を睨むように見つめた。

数秒にも満たない内に慣れた手つきで私が持っていたハンカチを取り、アイスペールの中にある氷が溶けて出来た水へ浸ける。

 

片手で軽く絞られた後、ひんやりとしたハンカチが二の腕に触れた。

 

「ッ……」

 

「動かせるか?」

 

「うん、大丈夫。掠っただけ」

 

「このまま抑えてろ――動くなよ」

 

「え、ちょっと……レヴィ!?」

 

そう言うと、レヴィは祭壇に置いてあったエダの銃を手に取り、勢いよく走り出した。

いきなりの事で思わずレヴィを呼び止めたが、もうこちらの声は聞こえてないようで「エダ!」と大声を出していた。

 

 

 

――そしてレヴィが銃をエダに渡した直後、多くの銃声が響き渡る。

 

 

 

 

私は銃を撃っている彼女たちの後姿を見ることしかできず、レヴィがくれた濡れたハンカチを呆然としながら抑えた。

 

それにしても、弾丸が掠ったのは初めての経験だ。

腕を貫かれなかっただけ幸運だが、それでも腕に伝わる痛みは相当なもの。

人を簡単に殺せる弾が掠っただけでも脅威になり得るのだと、普段聞き慣れているはずの音の元凶の威力を改めて思い知った。

 

 

それにしても、本当に痛い。

いや耐えられないほどではないのだが、右腕はまだ本調子で動かせない。

 

ほんの少し腕を動かそうとした瞬間、奥のドアから勢いよく一人の男性が出てきた。

その人は黒髪に褐色の肌の男性で、神父服に身を包んでいる。

 

服装だけならただの聖職者と分かるが、彼は少し違う。

 

その証拠に、大きな銃を担ぎ、数多くの弾を持っている。

彼は私に気が付いたのか、笑顔で声をかけてきた。

 

「あれキキョウさん! どうしたんすか、そんなとこで」

 

「リコさん、早速私が作った服着てくれてるようで。サイズとかどうですか?」

 

「いやあピッタリっすよ。着心地もいいし、流石一流って感じが……いやいやそんなことより、右腕どうしたんすか?」

 

「あー、ちょっと掠ってしまって。血は出てないし、少しは動かせるので大丈夫ですよ」

 

そう、彼こそ私が今日届けた依頼品を切る本人だ。

名前はリカルド。最近神父見習いとしてこの教会のメンバーに加わり、リコという愛称で呼ばれている。

 

まだそこまで親しい中ではないので、年下であっても敬語で話すようにしている。

 

「表の奴らにやれたんですよね? 俺もちょっとばかり姐さん達に加勢するんで、任せといてください!」

 

屈託のない笑顔で放たれた言葉にどう返せばいいのか分からず苦笑する。

 

「えっと……お願いします?」

 

「はい!」

 

疑問形になりながらなんとか短く返す。

この返答で合っているのかどうかは分からないが、今は深く考えないでおこう。

 

リコさんは笑顔のまま、颯爽と走り出し「姐さん!」と流れるように撃ち合いに加勢していった。

 

 

外では銃声はもちろん、何かが爆発した音や男たちの叫び声が響いている。

 

ここからではあまり様子を窺がえないが、きっととんでもない光景になっているのだろう。

遠慮なく銃を撃ちこむ三人の後ろ姿を、黙ったまま見つめる。

 

 

 

「おやおや、なんだいこれは」

 

 

 

すると、いきなりすぐ隣から聞き慣れた声が聞こえてきた。

驚いて視線を向けると、微笑を浮かべているシスターヨランダが飲みかけのグラスを持っていた。

 

「お前さんも一緒に飲んでたのかい、キキョウ」

 

「いえ、私は話をしてただけですよシスター」

 

「そうかい。全く、アイツにはいつもここで飲むなと言ってるんだがねえ。ちっとも聞きやしない」

 

「あはは……」

 

一つため息を吐いて、シスターはグラスを置いた。

 

「ところで、その右腕は表の連中にやられたのかい?」

 

「えっと……多分。でも掠っただけなので、特に心配はなさそうです」

 

「まあ、とりあえず後でちゃんと処置をしようかね。痕になったら大変だ」

 

「えっと……そこまでしなくても大丈夫ですよ?」

 

「自分の腕を蔑ろにするもんじゃないよ」

 

血は出てないし、今日中には痛みは取れると思う。なのでああいう返答をしたのだが、何故か叱られてしまった。

 

 

 

「さて、おいたしたクソガキにはきちんとお灸をすえなくちゃね」

 

 

 

そう呟き、あの何を考えているか分からない微笑みを携えながら、シスターは懐から自前の銃を取り出した。

スタスタと歩いていくシスターの後姿を、私は再び苦笑いを浮かべ見届ける。

 

 

ここまで大騒ぎになってしまっては、もう止めることはできないだろう。

 

 

 

――案の定、シスターが加勢した後は爆発音と銃声がより一層激しくなる。

四人が一心不乱に銃を放っている様を眺めながら、じんじんと痛む右腕を抑えた。







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57 職人の違い

偽札編 二話目です。





 

「――連中はヌエヴォ・ラレド・カルテル。フロリダに縄張りを持つジェローラモ・ファミリアの下部組織。カルテルから私が依頼されたのは、旧ドルの偽造」

 

レヴィと教会メンバー達の総攻撃を前に相手は歯が立たなかったらしく、銃の撃ち合いは呆気なく終わった。

シスター達も少なからず被害が出たので放っておく訳にもいかず、今は騒動の原因である女性を礼拝堂へ入れ事情を聞いている最中だ。

 

ちなみに、私は隣でリコさんに右腕の手当てをしてもらいながら彼女の話に耳を傾けている。

 

「私の仕事はね、偽札のデザイン。チームは世界中に散ってるけど、ネットで連携をとってるから問題ないわ。私はチームの統括。ま、リーダーってところ」

 

「で? 何をしくって追っかけられる羽目になったんだ」

 

「誰もしくってなんかないわ。連中に堪え性がなかっただけよ」

 

褐色の肌に金髪。そして眼鏡をかけた女性――ジェーンさんはシスターの言葉に眉根を寄せた。

 

「いいかしら? 私がこの仕事を引き受けたのは“完璧な贋札を作れる”って話だったからよ。スーパーノートは実にショックだったわ。紙の仕上がりは全く完璧で、特にその配合率。コットン、リネン、パルプの比率ははっきり抑えてて。それにね、そこらにあるレーザー・プリンターで片付ける連中もいるけれど――」

 

さっきよりも張った声で、ジェーンさんは何やら語り始めた。

恐らく贋札の作り方についてなのだろうが、聞き慣れない言葉ばかりで何を言っているのかさっぱり分からない。

 

 

 

確かに、自分の腕を見込まれ依頼されたのなら力が入るのは当然。

自らが拘っている部分があるのなら尚更人に語りたくなるものだ。

 

物は違えど、私も何かを作り出すという点においては彼女と同じなので分かる。

 

だがここまで長々と、それも自分にしか分からない言葉で堂々と説明するということは自分の技術に相当な自信があるのだろう。

 

ほんの少し、その自信に満ち溢れてる様を羨ましく思う。

 

 

「終わりましたよキキョウさん。けどこれは応急処置なんで。後はちゃんとした医者に診てもらってください」

 

「ありがとうございますリコさん」

 

止まることのないジェーンさんの説明が流れる中、リコさんが声を潜めて話しかけてきた。銃弾が掠った部分には丁寧に包帯が巻かれている。

 

「紫外線硬化型のインクを使えばもっと自然な形でレッド・ブロー・インクの印刷ができるわけ。グリーンとブラックの二重印刷の部分は問題ないけどさっきのやり方だと――」

 

「それにしても長いっすねえ。何言ってんのかさっぱり分からねえ」

 

「まあ……こういう時大体喋ってるだけで満足するので、聞き流すのが吉ですよ」

 

「さっさと本題入ってくれねえかなあ……」

 

 

はあ、と彼はあからさまにため息を吐いた。

苦笑を浮かべながらジェーンさんの顔を見やると、どこか得意げな表情で未だ贋札の話を続けている。

 

ジェーンさんと向かい合うように座っているレヴィとエダは、彼女の終わらない説明に貧乏ゆすりをしながら煙草を吸っていた。

 

目の前にいる彼女たちの様子に気づいていないのか、それでもジェーンさんの口は止まらない。

それと呼応するかのように、二人の貧乏ゆすりは激しくなっていく。

 

 

そろそろ止めた方がいいのだろうかと、少しハラハラしながら声をかけようか悩む。

 

 

「――の作ったシリーズ一九九〇で肖像画の」

 

「ヘイヘイヘイ! 話の途中で悪いんだけどさ、質問」

 

「……何よ」

 

「この講演会、小休憩はあるのか? 尻が痛くなりそうだ」

 

「理由を聞いたのはあなた達じゃない。何、退屈なわけ?」

 

「エダ、思い出した。こいつの態度は福祉センターのクソババアだ。通りでイライラする訳だ」

 

レヴィがうんざりと言った表情をしながらジェーンさんを指さした。

福祉センターの人が皆同じとは思わないが、言いたいことは何となく分かってしまい計らずも苦笑が浮かぶ。

 

「まあいいわ、ともかくそういったリサーチにはお金と時間がかかるわけ。それは当然よね、だから」

 

「ヤヤヤヤヤ、だいたい分かったもう十分」

 

再び始まりかけたジェーンさんの説明をシスターヨランダが止めてくれた。

またあの長い話をされたらいつまで経っても本題に辿り着かない気がするので、内心安堵する。

 

「とにかくそういう触れ込みで連中をカモろうとしたってわけだね?」

 

「はあ……あのお馬鹿さん達と同じこと言うのね。いいわ、論より証拠」

 

エダの言葉にため息を吐く。

ジェーンさんは眉根を寄せながら、ポケットから二枚の紙幣を取り出した。

 

「ふん、品定めしろってか」

 

 

差し出された紙幣を手に取り、レヴィはつまらなさそうに呟く。

 

「こんなの一目見て分かるぜアホらしい。こっちが本物、こっちは贋札だ」

 

 

その言葉通り、レヴィは本当に一目見ただけでどちらが本物か分かったらしくはっきり告げた。

少し見えづらいが、私からすればどっちも同じ紙幣に見える。

 

 

どうして分かったのだろうかと、首を傾げる。

 

 

「こっちは半インチも印刷がずれてるし、財務省マークのグリーンがキツすぎる。大してこっちはラース・ワーク(木刷り)も細かく出てる」

 

あの一瞬でここまで見抜いていたのか。

常に贋札が潜り込む裏の世界いるからこそ身に着いた特技なのかもしれない。

得意げな顔で「ビンゴだろ」と言うレヴィに、ジェーンさんはニヤリと口端を上げた。

 

「ふうん。じゃあ貴女はそっちの札を持ってショッピングを楽しむつもりなのね。――ああ可哀想、貴女は監獄行きだわ」

 

「あ?」

 

「連邦準備銀行の印、よく見て御覧なさいな」

 

 

彼女の言葉にレヴィとエダは訝し気にしながら贋札の方である紙幣を覗き込む。

 

 

「七〇年代に印刷された紙幣には印刷のズレやムレは珍しくないわ。そして、造幣局にMのつくアルファベットは存在しない」

 

「はは、レヴィ嬢ちゃんの目ん玉はガラス玉だって事が証明されたねえ」

 

自慢げに語るジェーンさんとシスターヨランダの言葉にレヴィは「ちっ」と舌打ちした。

少し不機嫌そうな顔になったレヴィを見て、まるで不貞腐れた子供みたいで可愛いと思った。

 

 

こんなことを言ったらきっと彼女はさらに不機嫌になるので、心の中で留めておく。

 

「まあいい、信じるさ。じゃ、核心のところを聞かせてもらおうか」

 

 

 

ここまで来てようやく本題に入るようだ。

 

 

 

彼女がなぜカルテルから追われることとなったのか。

ここまでの技術があるなら、例え相手が犯罪組織でも多少の事は大目に見てくれそうなものだが。

だが追われていたということは、その技術であっても拭えない不利益をもたらしたからだろう。

 

 

 

少しの間沈黙が落ち、どこか言いづらそうにジェーンさんは話始めた。

 

 

 

 

 

 

「…………期限が大幅にオーバーしてたのよ」

 

 

 

 

 

 

 

――ああ、成程。

 

 

 

 

 

 

「でも私には目標がある以上譲れなかった。そしたら奴ら、一緒にドイツから来たオペレーターを撃ちやがったの。彼はネット上でメンバーが作ったデータを管理する役目だったのよ。ここまでの苦労が水の泡だってのに、連中は何も分かってないのよ!」

 

ジェーンさんは怒りをぶつけるように声を少し張り上げた。

彼女の嘆きにも似た言葉に色々と思うことはあるが、遮るわけにはいかないと黙って話に耳を傾ける。

 

「そんな訳で嫌気がさした私は野ゴリラの群れにサヨナラしたってわけ。これで全部」

 

「成程な、そりゃお前が悪い」

 

「まあそうだな」

 

「な!」

 

 

レヴィとエダは真顔で淡々と告げた。

 

 

「この手の話アタシは何度も聞いたことがある。同じ職人としてどう思うよキキョウ」

 

「……え、私?」

 

「今の話聞いて色々思ったことあるだろ? 言ってやんなよ」

 

レヴィは嘲笑するような笑みを浮かべ、私に話を振ってきた。

まさか振られるとは思わず、驚きで反応が遅れる。

 

全員に視線を向けられ、喋らなければならない雰囲気を嫌でも感じ取ってしまう。

言うつもりはなかったが、まあいいかと小さく息を吐き口を開く。

 

「何かを作るなら完璧なものを仕上げたい。その気持ちは分かります。――ただ、依頼人の希望を通せなかった上、自分のためだけに契約を反故にするのはよくないと思いますね」

 

「こ、こっちは殺されかけてるのよ! 逃げるのが普通じゃない!」

 

「……あの、相手がカルテルだって分かってて依頼を受けたんですよね? 期限過ぎればすぐ殺されるとは考えなかったんですか」

 

「まさか本気で人を撃ち殺すとは思わないじゃない! こっちはただ“贋札を作れ”って言われただけなんだから!」

 

「…………貴女、それでよく今も生きてますね」

 

「うるさい! どうせ理解なんてできないでしょう! 大したモノ作れない、こんなクソみたいな街でしかいきがれない平凡な職人にはね!」

 

 

てっきり相手を分かっていて逃げる行動を取ったのかと思っていたが、彼女はどうやら私が予想している以上にカルテルというものを分かってなかったらしい。

思わず呆れて一言余計な事を言ってしまった。

 

 

私の言葉を彼女が気に食わなかったようで、椅子から立ち上がり怒ったような形相を浮かべているジェーンさんから罵声を浴びせられる。

 

 

私はいきがったつもりはないが、平凡な職人というのは否定できないのでどう返せばいいのか困ってしまう。

 

 

 

「――ヘイ、ジェーン。それ以上つまんねえこと口走んじゃねえぞ。てめえのその軽いオツムを吹き飛ばされたくなけりゃあな」

 

 

 

返答に困っていると、レヴィが一つ間を空けて不機嫌そうな声音と表情を彼女へ向けた。

ついでに、いつの間にか手に取っていた銃も。

ジェーンさんも唐突のことで驚いた表情になっている。

 

 

何故レヴィがここまで不機嫌になっているのか分からず首を傾げる。

 

 

 

「レヴィよしな、アンタの気持ちは分かるがこれじゃ話が進まない。銃下ろしな」

 

「……」

 

「レヴィ」

 

「……ちっ」

 

エダの言葉にレヴィは舌打ちした後渋々と銃を下ろした。

そして苛々したようにポケットから煙草を出し、火を点け煙を肺に入れている。

 

「嬢ちゃん、神の御導きだ。実に運がいい。あんたに銃を突き付けたその娘は逃がし屋だ。――その原版で手を打ってやってもいいんだがねえ」

 

 

 

話がひと段落着いたところで、シスターヨランダが微笑を浮かべジェーンさんへ提案を投げかけた。

金に敏感な彼女の事だ。よくできた贋札の原版があれば稼げると踏んで取引しようとしているのだろう。

 

前に彼女から取引を持ち掛けられた時のことを思い出し、相変わらずだなと少し口端が上がった。

 

 

そんな私とは反対に、ジェーンさんは苦々しい表情を浮かべる。

 

 

 

「不完全なものは渡したくないわ。でも火急の時だし贅沢は言わないけど……逃走経費とは別に三万ドルで買い取ってよ」

 

どうやら、ジェーンさんもシスターに負けず劣らず金のことはきっちりしているタイプのようだ。

もし私が彼女の立場なら、逆に“自分の作品をタダで上げるだけで逃がしてくれるのか”と思うだろう。

 

同じ職人でもやはり彼女と私は真反対の気質だ。

 

 

 

「じゃあ仕方ない。別の神様にでも頼むんだね」

 

「なっ……! 神様に仕えてるんでしょ貴女たち!」

 

「ルカ曰く、『不誠実な金を使ってでも友人は作るべし』だ」

 

「構わねえよエダ。勝手におッ死にな、姉ちゃん」

 

原版渡さないなら手助けしない。

シスターはあっさりそう言ってのけた。

彼女に続いてエダやレヴィもそのスタンスを貫くつもりらしい。

 

分かってはいたが、金にならないことにはとことん興味がないのは相変わらずのようだ。

 

 

まあ、私も自分には彼女がどうなろうと関係ないので口出しはしないが。

 

「あんたの助けなんか借りないわよ。窮地を救ってくれたことにだけ感謝するわ。じゃあさようなら」

 

「へいちょい待ち! あんた、今夜のねぐらは決まってんのか?」

 

彼女たちの態度にジェーンさんは諦めたのか、一言告げてこの場を去ろうと扉の方へ向かおうとした。

そんな彼女にエダが待ったをかけるように質問する。

 

「適当に探すわよ」

 

「適当ね。そこらのモーテルじゃアンタ、靴下を脱ぐ間もなく体に新品の穴をこさえることになるよ」

 

エダは一体どういうつもりなのだろうか。

さっきまでジェーンさんの事なんかどうでもいいと言ったような態度だったのに、今はまるで忠告しているかのような言いぶりだ。

 

彼女の意図は気になるが、とりあえず黙って成行きを見守る。

 

「さてそこでだ。チャルクワンの市場を抜けたところに、ランサップ・インて安宿がある。“教会から来た”と言や、空き部屋に通してくれるはずさ。一息入れて、そっから身の振り方を考えんのも一つの手じゃねえか?」

 

「…………気持ち悪いわね」

 

本当どういうつもりなのか。

ここまで来ると何か裏があるとしか思えない。

ジェーンさんもそうなのか、エダの言葉に訝し気な表情を浮かべた。

 

「勿論、タダとは言わねえさ。そこの盆に三百ドル布施していきな。紹介料としちゃ納得の値段だろ?」

 

確かに、普通なら納得はできる。

だが、あのエダがたった三百ドルの為にここまでするとはどうしても思えず、一人思考を巡らす。

 

 

ジェーンさんの方は特に疑問を持つことなく、納得したような顔を見せた。

 

 

 

「……なるほど? 腐っても教会ね。それで手を打ちましょ」

 

 

 

一言そう呟くと、彼女はどこか軽い足取りでドアを潜っていった。

ジェーンさんの姿が完全に見えなくなり、早速エダへ声をかける。

 

「エダ、一体どういう風の吹き回し?」

 

「ん? 何がだ」

 

「何がって……」

 

「キキョウがこう言うのも分かるぜ。なんのつもりだエダ」

 

「なんだよ寄ってたかって」

 

レヴィも同じことを思っていたらしくエダへ問い詰める。

それでもエダは私達の疑問に答えようとしない。

 

 

すると、横からどこか機嫌のよさそうな声が飛んでくる。

 

「上々だシスター・エダ。金の成る木さ、見失わないよう気を配りな」

 

「イエス・サー・シスター。田舎者は扱いやすくていいわねえ――と」

 

シスターの言葉にエダは口端を上げ、ニヤリとした表情を浮かべるとポケットから携帯を取り出し誰にかに電話をかけ始めた。

一連の行動から彼女たちが何を考えているのか察しがついたらしく、レヴィは目を見開き「あッ!」と声を荒げる。

 

「よーお、リロイ。ひっさしぶりィ。いまチョロス(メキシコ人)どもが追っかけてる女いるだろ。そうインド系の。あいつの居場所な、相場はどれっくらいだ?」

 

「お前、汚えぞ!!」

 

 

 

 

エダの発言とレヴィの怒号に、思わず再び苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「ん」

 

「なんだよ手なんか出して。生憎手相占いはしたことねえぞ?」

 

「とぼけんじゃねえ。汚ェ手で稼ぎやがって、半分寄こせ」

 

「だからアンタは馬鹿だってのよ。もっと頭使いな」

 

「ぶっ殺すぞこのアマ。結局こいつの服代もアタシに出させやがって」

 

「だから自分で出すって言ったのに。何なら今返すよ」

 

「いや、こいつから出させねえと気が済まねえ」

 

「あんた本当キキョウ大好きっ子だねえ。もういっそ運び屋なんかやめてキキョウの護衛についたらどうだ?」

 

「そういうんじゃねえ! 顎割るぞこのアバズレッ!」

 

「ま、まあまあ……」

 

エダが情報屋と電話した後、エダの提案でそのままイエローフラッグへ向かう事となった。

その道中、私の袖が少し破けているのと腕の包帯を見かねたレヴィが「替えの服を買った方がいい」と言った。

別にこのままでも大丈夫だと伝えたのだが、何を思ったのかエダもレヴィに賛同し適当に服が売っている店へ入った。

 

 

そこで、三人でサイズがぴったりな白いTシャツとシースルーという薄い生地で作られた上着を選んだ。

金は自分で出すつもりだったのだが、「エダが悪いからエダに出させろ」とレヴィが言ったことによってエダとレヴィがどっちが金を出すかの口論に発展してしまった。

 

 

その隙を狙ってこっそり自分で出そうとするとレヴィが気づき、颯爽と金を出してくれたのだ。

 

その後「てめえがさっさと払わねえからだ」とレヴィがエダに食ってかかっていたが、エダは何故か面白がって笑うだけだった。

 

 

 

とまあ色々ありながらもイエローフラッグに辿り着き、今はカウンターで酒を飲んでいる。

 

 

 

「で、今度は何を企んでやがるんだ」

 

「別にい? ただああいうのは寝かせてから食っちまった方がドバドバ銭を撒く。そういう寸法よ」

 

エダは酒に口をつけながら、ニヤリと口元を歪めた。その表情にレヴィも訝し気にエダへ視線を向ける。

 

「悪い顔になってるぜエダ。一体何を仕掛けたんだ」

 

「あたしゃ稀代のトリックスター、ガラリヤの湖上を歩く男に仕えてんだ。これくらい朝飯前ってな」

 

カラカラとグラスを揺らしながら、今度は得意げな表情でそう呟いた。

私とレヴィは彼女の言っている意味が分からず、思わず顔を見合わせる。

 

「ま、後でわかることだ。――さて、そろそろロックが車廻してくるんだろ? 行こうぜ」

 

「おい、どういう仕掛けか教えろって!」

 

「だから後でわかるって。キキョウ、アンタも来るか?」

 

「……遠慮しとく。何か嫌な予感がするから」

 

「別にそんな大したことにはなりゃしねえって。ま、ちと血は出るかもしれねえが」

 

「じゃあ尚更行かないかな」

 

 

 

ジェーンさん絡みならきっと何とかカルテルやらも関わってくる気がする。

それに、岡島とはあまり顔を会わせたくないのでここは遠慮させてもらう。

 

 

これから“金を稼ぎに行く”であろう彼女に、少し口の端を上げて言葉をかける。

 

「よく分かんないけど、二人とも頑張って」

 

「おうよ。金が入ったら今度はアタシが酒奢ってやるよ」

 

「楽しみにしとく」

 

「へへ。レヴィ、行くよ」

 

「あ、おい! ……たく。キキョウ、その腕一応リンとかに診せとけよ。――おいエダ! エダってばおい!」

 

レヴィは最後にそう呟くと、颯爽と歩いていくエダに早足でついて行った。

出入り口付近でエダがこちらに手を振ったので、反射的に振り返す。

 

二人の姿が見えなくなり、一人になったカウンターでグラスに口をつける。

 

 

「それにしても、今日はいつもより客が多いですね。テーブル席全部埋まってるなんて」

 

「俺としちゃただ酒を飲んで帰ってくれりゃ何でもいい」

 

「確かに、何事もなければそれが一番ですもんね」

 

普段も大体の席は埋まってるが、ここまで満員の状態は久々に見た。

だが彼らはあまり酒を注文していないようで、バオさんは暇そうに新聞を読んでいる。

 

 

店内を一度見渡し、私が気にすることでもないかと再び酒を喉に通す。

 

 

 

「お前も羽目外すなよ。この前みたいに酔いつぶられんのは御免だからな」

 

「もう二度とあんな姿は晒さないと誓ったのでご心配なく。もしまたなりそうだったら殴ってでも止めてくださると嬉しいです」

 

「お前さんを殴ったら倍で返ってきそうだ。主に張の旦那から」

 

「そんなことは万が一にもないでしょうから大丈夫ですよ」

 

「どうだかねえ」

 

いつものように他愛ない会話をし、機嫌よく空いたグラスにジャック・ダニエルを注いでいく。

グラスを揺らし、氷の冷たさが酒全体に広がった後口をつける。

 

 

好きな酒の味を堪能すれば、自然と口の端がほんの少し上がる。

 

瞬間、後ろで大きな音と共にざわめきが広がった。

驚いて後ろを振り向くと、テーブル席にいる人たちが騒いでいるようで各々何かを言っている。

 

 

すぐさま誰かの「じゃあ行くとしようか」という掛け声をきっかけに、その場にいた全員が席を立ち、次々と店を出て行った。

 

 

一人残されたカウボーイのような格好をしている男性が「くそっ」と吐き捨てながら、こちらへ向かってくる。

 

「あいつらの代金は後でロボスって野郎が払いに来る。そいつに貰え」

 

「話は聞いてるよ。酒飲まねえならとっとと帰れ」

 

「言われなくても出て行ってやるよ」

 

どこか苛立った声音で言い残すと、足早に出入り口の方へ向かっていった。

先程まで満員だったテーブル席はガラ空きになり、静けさが落ちる。

 

「たく、うちの店は殺し屋共の集会場じゃねえってのによ」

 

「……もしかして、さっきの人たち殺し屋だったんですか?」

 

「お前、気づいてなかったのか」

 

「お世話になることないですし……」

 

「まあ、お前さんはそうだろうが……もうちっと周りに目を配れ。じゃねえと足元掬われるぞ」

 

「――そうですね、分かりました。御忠告ありがとうございます」

 

「やけに素直じゃねえか」

 

「優しい店主の言うことは聞いた方が吉でしょうから」

 

「お前、からかってんだろ」

 

「いえいえ、そんなことは」

 

 

 

眉根を寄せカリカリと頭を掻くバオさんに、くす、と笑みを溢す。

 

そのまま酒に口をつけようとした時、ふとすぐ側で電話が鳴り響く。

何回か呼び出し音が響いた後、バオさんは徐に受話器を手に取った。

 

 

誰かと話している様を目の端で捉えながら、残っている酒を飲み干していく。

グラスの中が空になり、新しく酒を注ごうと瓶の蓋を開ける。

 

 

 

酒瓶を手に取ったのと同時に、電話していたはずのバオさんから「おい」と声がかかる。

 

 

 

「なんですか?」

 

「お前さんにだとよ」

 

「私に?」

 

何故イエローフラッグで私に電話がかかってくるのか。

というか、態々この店にかけてまで私に用事がある人物は一体誰なのだろうか。

 

 

「ちなみにお相手は?」

 

 

そうバオさんに問いかけると、間を空けず相手の名前を聞かされる。

その人物の名前を聞いた瞬間、驚きで目を見開いた。

 

冗談であの人の名前をバオさんが出す訳がないと瞬時に判断し、バオさんから受話器を受け取る。

 

 

 

「代わりました、キキョウです――」

 

 

 

 




二話で終わらなかった……。
まあ、ジェーンさんの登場はここで終わりです。

次話は、“あの人”がキキョウさんの怪我を知るお話です。


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58 掠めた傷の波紋

――街灯ひとつない狭い路地裏。

そこには、ラグーン商会が所有している車が静かに停まっていた。

車の中では、後部座席に座っているエダがレヴィとロックに話している。

 

彼女の話が終わり、レヴィは呆れたような顔を浮かべた。

 

「あほらし、んなもんに誰がノるってんだ」

 

「いいんだよ、これくらい分かりやすい方が」

 

「自信たっぷり言うもんだからなんだと思えば下らねえこと言いやがって。やっぱ付き合うんじゃなかった」

 

「うるさいねえ、これが上手く行きゃ一攫千金。百万ドルが手に入る折角のチャンスだ。やってみる価値は十分あるだろ?」

 

「そう簡単にいくかよ」

 

はあ、とため息を吐きレヴィは煙草を取り出し火を点けた。

エダはそんなレヴィに「けっ」と吐き捨て眉根を寄せた後、今度は黙っているロックへ声をかける。

 

「ロック、アンタはどうよ。この話乗ってくれるよな? なんたって大金が手に入るんだからよ」

 

「……金はどうでもいいよ」

 

「おいおいノリが悪いなあ。賭けてみてもいいんじゃねえの?」

 

「だから、んなもん誰も」

 

「勝算はあるのか?」

 

「あ?」

 

「この賭けに勝てる勝算だよ。そこまで言うってことは、何かあるんだろエダ」

 

「ロック、お前何言い出すんだ」

 

「……いいねえ、ノッて来たじゃないの色男」

 

ロックの問いにレヴィは戸惑ったような声を出す。

エダは彼の態度にほんの少し違和感を感じながらも、ニヤリと口元を歪め前に身を乗り出す。

 

「今まで七回試して四回上手くいった。確率は今のとこ半々だが、あのインド女は恐ろしく察しが悪い。なら、確実にこっちの誘導に乗ってくる」

 

「彼女がここに来るまで殺されない確率は?」

 

「そこはアイツの逃げ足の速さにかかってる。まあ、そこで殺されたらそこまでだ」

 

「……あまり、分は良くないな」

 

「だけど、賭ける価値はある」

 

「おいロック、まさかこんな話に乗るつもりじゃねえだろうな?」

 

レヴィが訝し気に眉根を寄せ問いかける。

ロックはそんなレヴィを一瞥し、一つ間を空けて再び口を開く。

 

「エダ、これは正式にウチへの依頼ってことでいいんだよな」

 

「ああ。金も即金で出す」

 

「だってさレヴィ。依頼なら断る理由はないんじゃないか?」

 

「…………」

 

微かに口端を上げレヴィへと投げかける。

ロックの表情を目にし、レヴィは「はあああ」と盛大なため息を吐いた。

 

「ヤキが回ったなお前。どういう風の吹き回しだ」

 

「別に? ただやってみる価値はあるって思っただけだよ」

 

「あの話をどう聞いたらそう思うんだ」

 

「そう来なくちゃ。流石色男」

 

エダはロックの言葉に更に口端を上げる。

だが胸の内では「まさかこいつがノッてくるとはね」とロックに対し猜疑心にも似たものを抱いていた。

 

 

 

彼女の中でのロックという男は、撃ち合いを嫌い、この街に来て一年しか経っておらず未だ平和ボケが抜けていない人間。

 

 

 

決して、こんな賭け事を自ら好んでやるような男ではなかった。

 

 

だが確かに今、ロックはどこか楽しんでるような表情を見せ自分の誘いに乗った。

 

 

 

 

一体、彼の中で何があったのか。

 

 

 

エダはロックの顔を少しの間見据え、「まあ、どうでもいいか」と、カモが来るであろう方向へ笑みを浮かべたまま視線を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

――イエローフラッグにかかってきた電話に応じて数十分。

 

 

電話の相手から急に呼び出されたので、イエローフラッグでの一人酒をやめ、とある場所へ向かっている。

もう夜なので路地裏は避け、多くの明かりで照らされている大通りを進む。

相手から迎えに行こうかと言われたが、そんなことはさせられないため一人で街を歩いている。

 

 

そうして明るい道をしばらく歩いて行けば、やがて目的地へと辿り着いた。

 

 

何十階とあるビルの中へと進み、すれ違う顔見知りの人たちと挨拶を交わしていく。

奥にあるエレベーターへ乗り、最上階のボタンを押す。

 

 

 

何十秒後には最上階へ着き、見慣れた綺麗で広い廊下を進んでいく。

やがて一つの部屋の前に立ち、シースルーの上着を少し整えてからドアをノックする。

 

 

「キキョウです、お待たせしました」

 

「入れ」

 

「失礼します」

 

聞こえてきた言葉に、ドアノブに手をかけ開ける。

 

 

 

――見慣れた社長室の奥には、高級椅子に腰かけている彼の姿があった。

 

 

 

「よう」

 

「わざわざイエローフラッグに電話しなくてもよかったんじゃないですか? 何事かと思いましたよ」

 

「携帯にかけても出ねえからだ。外出るなら持ち歩けと言っただろう」

 

「すみません、あまり外に出ないので……癖付けようとは思ってるんですが」

 

「おいおい、少しは危機感ってのを持ってくれないか?」

 

「……善処します」

 

「全く。ま、説教はこれくらいにしておこうか。時間が勿体ねえ」

 

上機嫌な声音で彼――張さんはそう言った。

 

イエローフラッグで彼の名前が出た時、本当に何事かと少し緊張したのだが、電話をかけてきた理由が“一杯の誘い”だと知り拍子抜けした。

まさかたったそれだけの理由で彼がわざわざイエローフラッグに電話してくるとはこの街の誰も思わないだろう。

 

 

道中、本当に酒の誘いだろうかと疑ったが、彼の様子だとどうやら他に用事もなさそうだ。

 

こっちに来い、と手招く張さんの誘導に素直に従い足を動かす。

かけていたサングラスをデスクの上に置いた後、彼は席を立った。

 

「そういえば、今日はちと違う格好だな」

 

「……たまには変えてみるのもいいかと思いまして。おかしいですか?」

 

「いや、白も映えていいと思っただけさ」

 

「…………汚れが目立つのであまり着たくないんですけどね」

 

少し垂れ気味の目を見据えながら言葉を交わす。

彼は機嫌がよさそうに「そりゃ残念」と呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あれから馬鹿な野郎にちょっかいかけられてねえか?」

 

「ええ。顔も合わせてません」

 

「お前がそこまでなるとは相当だな。やっぱ消しとくべきだったか」

 

「これは彼と私の問題なので、貴方がわざわざ動く必要はありませんよ。まあ、そうは言っても貴方は動くつもりはないでしょうが」

 

「お前のためなら男の一人や二人喜んで殺してやるさ」

 

「……相変わらず冗談がお好きですね」

 

「冗談じゃねえさ」

 

社長室の奥にあるプライベートルームへ移動し、いつものように大きめのソファで張さんと酒を飲む。

空いた彼のグラスに酒を注ぎながら、物騒な冗談を聞き流す。

 

 

この部屋に来るのは、この前酔っぱらった時以来だ。

 

あの時はただ寝て一夜を過ごしただけだったが、最近は酒を飲んだ後流されるように彼のベッドで一夜を過ごすようになった。

 

今夜も彼にその気があるのかは知らないが、私はあくまでも酒の誘いに乗っただけなので期待はしない。

 

 

 

――だけどもし……もし万が一にも“そうなる”のであれば、その時は抵抗する気もない。

 

 

 

そうなる可能性も踏まえてこの部屋に来たのだ。

だが未だあの行為は慣れておらず、意識するとどうしていいか分からなくなってしまう。

 

 

張さんにそのことを悟られたくなくて、この部屋に来てもできるだけ意識しないようにしている。

 

「何考え事してるんだ」

 

「……いえ、特に何も」

 

「ほう。この部屋に来て何も考えてないと? ――俺の部屋に来ておきながら、そんなこと言うのか」

 

目線を逸らし返答すると、彼は徐にグラスを置いた。

やがて、グラスを持っていた手を私の左頬へと伸ばす。

 

グラスの冷たさが残っているその手の感触に、思わず肩が震える。

 

そのまま半ば強引に顔を彼の方へ向かされ、黒い瞳と視線が交差する。

 

「入れ込んでる女と久々に二人きりになって喜んでる男を前にそんな悲しい事言うとは、冷てえじゃねえかキキョウ」

 

「久々って……前会った時から一か月も経ってないじゃないですか」

 

「一日二日会えないだけで干からびそうなんだぜ、俺は」

 

「言っている意味が分かりません」

 

今まで一か月以上会わないことの方が多かった。

だというのに、何故こんなこと言っているのか理解できない。

 

「俺はやっと手に入れたお前を毎日抱きたいって考えてんだ。そんな男にとって一か月近く我慢するのは拷問に近い」

 

「なっ……なに、言ってるんですか」

 

急に何を言い出すんだこの人は。

いきなり恥ずかしいことを言われ、反応に困ってしまう。

思わず頬に触れている彼の手から逃れ、思い切り顔を逸らす。

 

 

羞恥のせいか、心臓の音が脳まで響く。

 

 

 

「この部屋で初めて抱いたあの時から、無理矢理にでも俺の傍に縛ってもよかった。だが、それを必死に我慢し今まで通り自由にさせているんだ」

 

「…………」

 

「なあキキョウ」

 

 

 

心臓の鼓動を聞きながら彼の言葉に耳を傾ける。

 

 

私の名を呼ぶと、張さんは再び頬へ手を伸ばし顔を耳元へ近づけた。

 

「ちゃんといい子で我慢できた俺に褒美をくれよ」

 

「ッ……!」

 

低い声音が耳から全身に伝わる。

脳裏に響く甘い囁きに、背骨に電流が走ったような感覚が巡った。

 

 

 

同時に彼が“その気”なのだと理解し、慌てて言葉を口にする。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待ってくださ」

 

「待てない」

 

「ん……ッ」

 

短く呟かれた後、彼の唇が耳へ触れた。

そのまま肩を掴まれ、後ろへ倒される。

 

 

 

 

 

――その時、右腕から急に痛みが走った。

 

 

 

 

 

 

「いった……!」

 

 

 

唐突の痛みに思わず呻き、右腕を抑える。

押し倒された衝撃で、先程負った火傷痕が痛んだのだと理解する。

 

 

そんな事を知りもしない張さんは、顔を上げ訝し気な表情を露にした。

 

 

「どうした」

 

「……すみません、少し右腕が」

 

「見せろ」

 

「え? ……ちょっと、張さん!?」

 

一言そう言うと、張さんは私の上着を掴み肩から無理矢理ずらす。

その行動があまりにも早すぎて抵抗する間もなく巻かれている包帯が晒される。

 

 

 

張さんは包帯を見た途端、眉根を寄せ低い声音を出す。

 

 

 

「何故言わなかった」

 

「えっ……」

 

「何の傷だ」

 

「えっと、銃弾が掠って」

 

「誰にやられた」

 

「あ、あの」

 

「相手の顔は覚えてるか? 特徴は?」

 

「あの、ちょっと待って下さ」

 

「これは医者に診てもらったのか?」

 

「い、いえまだ……」

 

 

答える間もなく次々に飛んで来る彼の言葉に戸惑ってしまう。

最後の問いに答えると、張さんは眉根を寄せたまま起き上がる。

 

そのままテーブルの上にある携帯を手に取ると、番号を押し始めた。

慌てて起き上がり、戸惑ったまま彼に声をかける。

 

「張さん、一体何を」

 

「リンを呼ぶ。今すぐアイツに診てもらえ」

 

「えっ……そんな、大丈夫ですよ。ぶつけたりしなければ痛くないですし……現に今の今まで忘れてたくらいなので」

 

「放置すると酷くなることもある」

 

「で、でも応急処置はしてもらったので」

 

「素人にだろ。いいから黙っとけ」

 

最後にそう言うと、本当にリンさんへかけ始めた。

彼女は二つ返事で了承したらしくあっという間に話が終わり、急遽リンさんがこちらへ来ることになった。

 

 

電話を終えた後、張さんは携帯を置き、こちらを見て眉根を下げる。

 

「全くお前は……怪我してるならそう言え」

 

「別に動かせますし、わざわざ言う必要ないと思ったんです」

 

本当に忘れていたというのもあるが。

 

 

 

私の言葉に、彼は眉間を押さえ「はああ」と盛大なため息を吐いた。

 

 

 

「お前な……商売道具をそう蔑ろにするな。使い物にならなくなったら困るのはお前だぞ」

 

「ですが今は大丈夫ですし」

 

「今回は運がよかっただけだ。こういうことがあったら次からすぐリンに診てもらえ」

 

「しかし……」

 

「分かったな?」

 

 

 

彼の有無を言わせない声音に言葉が出ず、ただ「……はい」と返事することしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――ったく、好き放題やりやがって。後処理にどんだけ手間がかかると思ってんだ」

 

とあるモーテルの一室。

その部屋の前で呟いたのは、黄金夜会に名を連ねていないマフィア組織に身を置いている男。現在ラグーン商会の客となったジェーンを連れ戻すため殺し屋たちに声をかけていたロボスである。

 

ロボスは自身の顔についた血を拭きながら、ため息を吐いた。

 

「まあ、中国人やロシア人共と戦争になるよりかマシ」

 

「中国人がどうしたって?」

 

「うおっ!」

 

三合会(うち)と戦争する気だったのか? そりゃねえぜロボスさんよ。アンタと俺らは割と仲良くやってたと思ったんだけどなあ」

 

気配もなく現れた男にロボスは思わず拭っていたハンカチを落とす。

男はそのハンカチを拾い、汚れを落とすようにはたきつつ軽口を投げる。

 

口端は上がっていても目は一切笑っていない男を前に、ロボスはできるだけ冷静に言葉を返す。

 

「アンタらと戦争する気も武力もウチにはないさ。寧ろ、起こしかねなかった馬鹿を今始末したところでね」

 

 

「へえ、そりゃよかった」

 

「ところで、三合会の拷問人のアンタが一体何の用だ。今から後処理しねえといけねえんだが」

 

差し出されたハンカチを受けとりながら、三合会の組員――(フー)を見据える。

胡は口端を上げたまま話し始めた。

 

 

「何の用、ね。その様子だと心当たりなさそうだな」

 

「あ?」

 

「昼間、アンタのお仲間が暴力教会に喧嘩売ったろ? そん時、ウチのボスが大層可愛がってる女が巻き込まれた」

 

「……あん時死人は出てなかったはずだが」

 

「死んじゃいねえさ。ただ、腕に銃弾が掠ったんだと」

 

 

 

胡はやれやれ、と言ったように肩を竦め言葉を続ける。

 

 

 

「アンタならその女が誰なのか。そして、その女の腕にどれほどの価値があるのかも分かるはずだ」

 

「…………」

 

「このことに大哥は大変お怒りでいらっしゃる」

 

 

 

ロボスは胡の言葉に、全身から汗が噴き出すのを感じていた。

 

 

 

三合会という最大の縄張りをもつ張維新のオンナを傷つけた。

 

ただのオンナならまだいい。

 

だがよりにもよってあの“黄金夜会御用達”の洋裁屋の腕を自分の身内が傷をつけた。

張だけでなく、あのバラライカも贔屓していると聞く。

 

 

下手したら三合会だけでなくホテル・モスクワも動きかねない。

 

 

 

 

“ほんと余計な事しかしやがらねえあのクソ野郎”と、ロボスは心の中でこぼす。

 

 

 

 

「それで、ウチを潰しに来たってわけか」

 

「いや? 俺はただ“銃口の先を見据えられない愚か者に忠告を”と言われただけだ。だけど、アンタがその愚か者を始末したんだろ?」

 

「ああ。だからここは」

 

「分かってるよ。大哥には俺から言っておく」

 

「助かる」

 

「借りは返してくれよ?」

 

じゃ、と手をヒラヒラさせて胡はその場から立ち去った。

ロボスは何事も無く終わったことに、一人胸を撫でおろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――モーテルを出、胡は仲間が待っている車に足早と向かう。

煙草に火を点け、煙を吐きながら口を開いた。

 

 

「にしても、マジで入れ込んでんのなあ」

 

 

 

街灯が照らされていない道を歩きながら、一人呟く。

 

 

 

 

「あの人がたかが一人の女のために俺を動かすなんて。今までこんなことなかったのに」

 

 

 

 

自分たちのボスは、今まで女に対し良くも悪くも無関心だった。

性欲を満たし、自分に害がなければ何でもいい。そんな態度だったように思う。

 

 

 

 

そんな男が、女を少し傷つけられたからと拷問が主な仕事の自分を駆り出してまで相手に忠告させようとした。

 

 

 

今までも彼女を気にかけていた部分があったが、香港から帰ってきてそれがより一層強まっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……いつか、アイツを大姐と呼ぶ時が来るんかねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

それはそれで楽しそうだ、と胡は先程とは違う笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

~リンさんの診察が終わった後~

 

「お前がこのナリだと正常位は難しそうだな」

「なっ」

「ああそうだ。折角だから別の体位もやってみるか」

「何言ってるんですかっ。というか、まだその気が」

「あるに決まってんだろ。傷の事黙ってた仕置きもしねえとな」

「は? え、ちょっと……!」

「今日はお前に頑張ってもらおうか」

「ちょ、っと……まっ――」

 

 

 

 

という会話をドアの前で聞いてしまったリンさんの心境。

「本当ふざけんなよあのグラサン。絶対分かっててやってんだろ」

 







こういうシーンが好きで我慢できず書いてしまいました。
相変わらずの趣味全開。


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59 小さな蕾

チャイナドレスとは中国の代表的な衣服の一つ。

ほとんどが思い浮かべるのはスリットが入っており、女性の上半身のラインに沿った形だろう。

そんな特徴的な衣服ではあるが、他の衣服と同様たった一つの何かを加えたり変えたりすることで、周りに与える印象は一気に変わる。

端から端まで派手な模様があれば絢爛さを、スカート部分を短くすれば活発さを。白一色ならば清純さを。

 

 

――そして、目の前にある異様に深いスリットが入ったものであればセクシーさが際立つものとなる。

数時間前までトップの部分に二つ穴が空いていたが、今は私の手によって修繕され塞がっている。

この赤いサテン生地で仕立てられた深いスリットのチャイナドレスの持ち主は、妖艶さを纏っている中国美人。そのためか、着るのを憚りそうな服を違和感なく着こなしていた。

 

そんな美人さんがここへ来るまでに、いつでも手渡せるよう丁寧に畳み、透明のビニールで包んでおく。作業台の上に紙袋を置き、準備完了だ。

後は、彼女を待つのみ。

 

約束の時間まで少しあるので、暇つぶしもかねて刺繍道具を手にしようとした途端、表で何やら喋り声が聞こえてくる。

 

「――なんでアンタら着いてきたネ? ヒマ人カ?」

 

「たま、タま……シごと……なかっタ、だけ……」

 

「僕もたまたま用事がなかっただけだ」

 

「つまり二人ともヒマね。言っとくますけど、来ても何もないですだよ」

 

「別ニ……何も、キタイ……シてなイ、わ」

 

一人はカタコトの英語。一人は女性か男性か判別できない機械的な音声。一人は普通の男性。という、声だけで異色な三人組ということが分かる。

 

連れがいるとは聞いてなかったが、忘れることない特徴がある喋り方と声は明らかに彼女なので、深くは考えずドアへと向かう。

 

「何もないなら来なくてよかたよ。うっとーし」

 

「いらっしゃいシェンホア」

 

「――アイヤ、キキョウ。好耐 冇見(久しぶり)

 

好耐 冇見(久しぶり)

 

ドアを開け、後ろの二人と話していた中国人――シェンホアへ声をかければ中国語で挨拶が返ってきた。

腰まである艶やかな黒髪に、青くスリットが深いチャイナドレスに身を包んだ彼女が、今回の依頼人。

三週間ほど前に受け持った仕事で“やらかして”しまい、その時に気に入りの服に穴を空けてしまったらしい。リンさんに治療を受けた時に私を紹介され、修繕してほしいと依頼してきたのだ。

シェンホアとはその時初めて会ったのだが「貴女とお話したかった」と中国語で色々話したおかげで、気軽に話せるくらいの仲にはなった。特に、彼女も三合会とよく関わってる人間なので何かと気が合うのだ。

 

 

あなたも相変わらず元気そうね

 

まあね。そっちは怪我の具合どう?

 

少し痛むけど、別に何ともないわ。後は貴女から服を受け取れば仕事に復帰よ

 

痛むならもう少し休んだほうがいいんじゃ……

 

十分休んだし、そろそろ戻らないと。大哥から仕事貰えなくなっちゃうかもだし

 

そんなことないと思うけど……まあ、ほどほどに頑張ってね

 

ありがと

 

彼女が話しやすいように中国語で言葉を交わす。

一通り挨拶も済ませたので部屋に案内しようとしたが、ふと後ろのゴスロリの服に身を包んだ女性と目が合った。

 

「シェンホア、後ろの二人は友達?」

 

「ああ忘れてた。――お二人さん、こっちはキキョウ。洋裁屋ね。この色男はロットンで、この街に来たばっかよ。こっちのゴスロリはソーヤー、掃除屋やってるますよ」

 

「キキョウです、初めまして」

 

「ロットン・ザ・ウィザードだ」

 

「……よろシク」

 

シェンホアの簡単な紹介を受け、一言挨拶を投げれば二人も返してくれた。

色々聞きたいことはあるのだが、初対面で根掘り葉掘り質問するのはよくないので、今はここで留まっておく。

 

「チャイナドレス、修繕出来てるよ。とりあえず、狭いけど三人とも中に入って」

 

そう促すと、異色な三人組は私の作業場へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

「――じゃあ、そのチョーカーみたいなのが人口声帯なんですね」

 

「そう。リンに、ちょうタツ……してモラッタ、の」

 

「今はこういうのもあるんですね。ゴスロリなのでパッと見アクセサリーに見えて違和感ないですし」

 

「……」

 

「……あ、別に嫌味とかではなくて……」

 

「分か、テル……そんな、コトで……おこら、ナイ……ワ」

 

三人を部屋に招き入れ、シェンホアへ修繕したチャイナドレスを手渡した。

依頼料を受け取った後、彼女から「ここで着替えていきたい」と言われたので、奥の自室へ入ってもらった。

シェンホアの着替えが終わるまでの時間つぶしとして、ソーヤーさんロットンさんと話に花を咲かせている。

 

「ロットンさんはこの街に来てまだ日が浅いんですよね」

 

「ああ」

 

「慣れました?」

 

「いや、まだ……」

 

「そうですよね。まあでも、住めば都と言いますし」

 

「そうなるまで色々苦労しそうだ」

 

「否定はできませんね」

 

さっき、シェンホアからロットンさんはこの街に来てまだ一か月程しか経っていないと聞いた。

この街に来た人は何かしらの理由ですぐいなくなる印象だったが、彼は優男の見かけによらず意外とタフらしい。

 

「君こそ大変だっただろう。見たところ銃も持ってなさそうだ」

 

「持ってはいるんですが、有難いことに全然使う機会なかったんですよね」

 

「そうなのか? 君は一体どれくらいこの街に?」

 

「七年程です」

 

「……随分経ってるんだな」

 

「私もすぐ死ぬかと思ってたんですが、何故か運よく生き延びてるんです」

 

「じゃあ、意外と平和なのかもしれないな」

 

「ロットン、キキョウの言うこと真に受けるのよくないね。ロアナプラで武器もてない女が生きてるのは、誰かに守られてるからヨ」

 

ロットンさんと話していると、着替え終わったシェンホアが自室から戻ってくるなり話に割って入ってきた。

いつものようにチャイナドレスを見事に着こなしている彼女へ声をかける。

 

どうシェンホア。穴空いてたところ以外特に弄ってないけど、違和感とかない?

 

無いわ。いつも通りよ

 

それならよかった

 

じゃ、用も済んだし帰るわ。張大哥によろしくね

 

私よりもシェンホアの方が会うと思うけどね。まあ、気をつけて帰って

 

ええ――ほら二人とも、帰るですだよ」

 

シェンホアは着ていた服を作業台の上にあった紙袋へ手早く入れると、二人へ声をかける。

彼女の声掛けに二人もドアの方へと向かっていく。

 

「邪魔したな」

 

「マた、会えタら……あいま、ショう」

 

「お二人も気をつけて」

 

最後に一言そう挨拶を交わし、三人を外まで見送る。

シェンホアが軽く手を振ったのを見て、振り返してから中へと戻ろうとした。

 

だが、その足はとある声で止まった。

 

「あ、キキョウさん!」

 

声の方を向くと、笑顔で手を振りながらルカが駆け寄ってきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ルカ、仕事してるって言ってなかった? 最近よく来るけど大丈夫なの?」

 

「軽く仕事終わらせてから来てるんだ。日雇いだし、そこまで心配しなくていいよ」

 

この子も生活のために仕事をこなしていたと聞いていたが、ほぼ毎日ここへ来ているので少し心配になった。

なので今日も今日とて私の仕事ぶりを見に来たルカへ聞いてみたが、当の本人は心配ないよと言いたげに満面の笑みを浮かべている。

 

折角来てくれ少なからず嬉しいのだが、生憎こなすべき依頼はない。

そう伝えたものの「じゃあ刺繍してる姿見てる」と素直に引き下がらない様子だったので、部屋に招き入れている。

 

「それに、キキョウさんがたまにご飯食べさせてくれるから食い物には困ってないしね」

 

「……もしかして、それが本当の狙いなんじゃ」

 

「ち、違うよ! でも恵んでくれる人なんていないから、それはそれで嬉しいけど……キキョウさんの技術見たいのはほんとだもん!」

 

「分かってるよ。ちょっとからかっただけ」

 

「むう……」

 

「ごめんごめん」

 

一生懸命否定する姿が可愛くて、思わず口端が上がった。

それを見てルカはむくれてしまったが、それも可愛くて余計に口角が上がりそうだ。

 

「じゃあいつも通りそこに座ってて。飲み物いる?」

 

「うん!」

 

「はいはい」

 

ルカが来るときはほんの少しだがもてなしている。折角私の腕を見込んで来てくれているのだ。

これくらいはいいだろう。

ルカの屈託のない笑みと返事に釣られ再び口端が上がるのを感じながら台所へ足を動かす。

グラスに牛乳で溶かしたココアと氷を手早く入る。

カラカラと氷がぶつかる音を響かせながら作業部屋で待っているルカへと持っていく。

 

「どうぞ」

 

「ありがとう!」

 

元気なお礼に笑みをこぼし、ルカへアイスココアを手渡した後作業台へ向かう。

 

「じゃあ、今から刺繍するけど、飽きたら帰っていいからね」

 

「うん。……ねえキキョウさん」

 

「なに?」

 

「えっと……」

 

「どうしたの?」

 

「……あのね」

 

アイスココアを両手で持ちながら、こちらと目を合わせることなく何やらもじもじし始めた。

今までルカから作業前に話があると持ち掛けられたことはなく少し驚いたが、別に急ぎの用もないので急かすことなく彼の話を待つ。

 

中々言い出せない様子だと、話しにくい内容なのだろうか。

 

首を傾げしばらく待っていると、やがて意を決したように目を合わせ口を開く。

 

「僕――キキョウさんに服作り教えてほしいんだ」

 

グラスを握りながら、真っすぐ真剣な顔で放たれた言葉に思わず目を見開いた。

ルカの顔を見据え、どうしたものかと考えを巡らす。

少しの沈黙の後、未だこちらをじっと見ているルカへ言葉をかける。

 

「折角の申し出だけど、私弟子取ってないの」

 

「どうして?」

 

「教えられるほどの腕じゃないから」

 

「じゃあなんで見ることは許したの?」

 

「ただ見せるのと教えるのとじゃ全然違うと思う。私教えたことなんてないし。基本的な洋裁だったら別のところでも、なんだったら本でも学べるよ」

 

「僕文字読めないし、この街で子どもにわざわざ教えてくれる人なんて絶対いない。それに、キキョウさん以上の洋裁屋なんていないからキキョウさんに教わりたい」

 

「……ねえ、ルカ。どうしてそこまで洋裁に拘るの。器用な君ならもっと別の職だって」

 

「この街で真っ当な職なんてない。確かに色んな職はあるけど、僕みたいな子どもがここで大人になるまで生きるには、金を盗みながら人を殺すか麻薬を売るか……。生きるのに必死で、手に職をつける余裕なんてない。どっちにしろ、生きるためには大人に利用され続けるしかないんだ」

 

「…………」

 

ルカの子供らしからぬ発言に黙って耳を傾ける。

確かに、この街で子どもが真っ当に生きるのはとてつもなく難しい事だ。

アウトロー達が蔓延る悪徳の都で育った子どもだからこそ、それを強く実感しているのだろう。

きっと、この子も相当苦労してきたはずだ。

 

「大人なんて嫌いだ。僕たちを道具にしか思ってなくて、用がなくなったら捨てる。そうやって皆死んでった……アイツらはゲロみたいな匂いを漂わせてて、会うたびに吐き気がする。――でもね、キキョウさんだけは違うんだ」

 

「……」

 

「僕の我儘聞いてくれて、いつももてなしてくれて。何か裏があると思ったけどそんなこともなくて……とても嬉しかったんだ。こんなこと、生まれて初めてだから」

 

「…………」

 

「嘘だと思うかもしれないけど、本当にそう思ってるんだ」

 

ルカの言葉を聞いていると、ふとどこかで聞いたような感覚になる。

これはどこで聞いたんだったか。

 

 

 

 

『キキョウは娼婦だからってバカにすることもしなかった。それに私に騙されたと知ってもいつもどおり迎えてくれた。――そんなこと、本当に初めてだったの』

 

 

 

 

――ああ、そうだ。

これは、あの子が酔っぱらいながら言ってきた言葉。

 

大人を信用できず、背伸びして生きていた。

この街で育ち、私が想像できない程苦労を味わっていた。

 

そんなあの子が、人前で滅多に見せない酔った姿で寂しそうな笑顔で言っていた。

 

目の前の少年も、あの友人と同じように寂しさを漂わせている。

 

「あのハンカチを作った人が信用できる大人なんだって分かって……そんな人の傍で手に職をつけたいって本気で思ったんだ」

 

そう言うと、ルカは立ち上がりグラスを作業台に置いた。

すぐさま私の目の前に立ち、勢いよく頭を下げた。

 

「あなたの傍で学ばせてください。お願いします……!」

 

心なしか、彼の肩が震えている気がする。

そんな様子を見ながら、再び考えを巡らす。

 

本当に私は誰かに教えられるほどの技術は持っていない。

春さんのように素晴らしい洋裁屋だったなら弟子の一人とってもいいのだろうが、私のような未熟者が弟子なんておこがましいことだ。

誰かに教えたこともないので、師としても未熟もいいところ。

 

……そう思っても、この子を無下に帰せない自分がいる。

 

きっと私が子供に甘いせいもあるだろうが、ここまで私の作業風景を見せたのはルカが初めてだ。

そして何より、今まで“作業を邪魔しない”という約束を守ったことが大きい。

 

だが、心の中でまだ踏ん切りがつかない。

 

どうしたものかと考え、やがて一つ思いつき口を開く。

 

「頭上げて、ルカ」

 

そう声をかけると、ルカはゆっくりと頭を上げ不安げな表情でこちらを見つめる。

 

「そこまで言ってくれて本当に嬉しい。ありがとう」

 

「じゃあ」

 

「でも、ダメなの」

 

「……僕が、子どもだから?」

 

「違うよ。そんなことで断ったりしない」

 

「じゃあなんで」

 

「これは私の問題なの。――いい? ルカ。弟子をとるってことは、その人を責任もって面倒見るってことでもある。だけど今の私にはそこまでの器量も、覚悟もない」

 

弟子を取ったのなら何が何でも自分の技術を落とし込む。

そして、落とし込むための環境を整えなければならない。

ルカは家族がいない孤児。なら尚更、弟子である間、彼の生活も責任もって面倒見なくてはならない。

 

だが、人に教える事も子どもの面倒を見たこともない私がいきなり弟子をとるのは、私にとってもこの子にとってもマイナスでしかない。

 

それに、この子が心の底から私に学びたいと思っているか分からない。

そこまでの信用は、まだない。

 

 

 

「だからこれは提案なんだけど」

 

 

 

なら、どうするか。

 

どうするべきか。

 

 

 

「しばらくはお試し期間みたいな感じで軽く君に教える。それで、どちらかでもやっぱり駄目だと思ったらそれで終わり。――でももし、最後まで君が本気で弟子になりたくて、私にも覚悟ができたらその時は正式な弟子としてとる。っていうのはどうかな?」

 

やってみなければ分からないのであれば、一度試してみればいい。

心から信用できない相手を仮でも弟子に向かえるのは少々不安だが、後悔はしない。

 

私の提案を聞いたルカは一瞬喜びの表情を浮かべたが、すぐさま不安そうな顔になる。

 

「お試し期間って……いつまで?」

 

「それは教えられない。教えられない理由もね」

 

正直いつまでとか明確な時期は決めていない。

決めてもいいが、そうなると彼はその時まで演技するかもしれない。

 

ルカには悪いが、念には念を入れさせてもらう。

 

私の答えに何か言いかけたが、ルカは不安げな表情を残したまま静かに頷いた。

 

「……分かった」

 

「ありがとう」

 

「仮でも教えてくれるんだもん。文句なんてないよ」

 

 

そう言うと、ルカは不安を払拭するかのように少し笑みを浮かべる。

 

 

「じゃあ改めてよろしくね、ルカ」

 

「こちらこそ、キキョウ先生!」

 

 

 

早速、私の事を先生と呼ぶルカに、思わず苦笑を洩らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




長らく更新しておらずすみません……。プライベートでバタバタしており中々手が付けられておらず……。
これからも無理しない程度に更新していこうと思ってますので、気長に待っていただけると嬉しいです。







=質問コーナー=
Q.キキョウの飲み仲間でスピリタスで飲み比べしたらどうなる?

A.キキョウが基本勝ちます。だけど無事ではないです。
翌日は二日酔いで潰れるかと……。
ただ、キキョウはあまりにも度数が高い酒は飲めるけど好きじゃないので、スピリタスでの飲み比べはあまり気が進まなさそうですね。
(ロックになんやかんや言われたときは、「忘れるには強い酒」という安直な考えからバオに強い酒を頼んでた、って感じです)


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60 小さな蕾Ⅱ

「――そうだったんですか。それは大変そうで」

 

「ええ。イタリアを出てから色々あってここに流れ着きました。いやしかし、中々落ち着くことができませんねこの街は。噂通りだ」

 

「きっともうすぐ慣れますよ」

 

「だといいんですが」

 

ルカをお試しで弟子に取ってから一週間。

初めはそのつもりはなかったのだが、彼からの強い要望と信用できるかどうか見極めるにもいいだろうと、家事を手伝ってくれることを条件に住まわせている。

 

今は依頼人が来ているため洋裁を教えることができないので、ルカは私の自室で読み書きの練習をしている。

 

 

依頼人である茶髪に茶色い瞳のイタリア人――ラウルさんは数か月前にこの街に来たばかりらしい。

 

 

イタリア出身だが育ちは別の国で、そこで詐欺まがいのことをし警察と現地マフィアに追われに追われロアナプラに流れ着いたという。

やっと少し落ち着き、最近一仕事終えた記念にと服を頼みに来た。

 

一九〇センチほどある高身長で少しやつれているが、話すときの口調は穏やかな物腰が柔らかい人物。

 

 

 

「それでは完成したら電話で連絡しますね」

 

「分かりました。ではキキョウさん、楽しみしてますよ」

 

口端をほんの少し上げ最後にそう言い残し、颯爽と外へ出て行った。

 

 

客人がいなくなりしん、と静まり返ったが、少しの間の後静けさを跳ね除ける声音が聞こえてくる。

 

 

「終わったの? 先生」

 

「うん。ひとまず今から依頼人の要望に沿ったデザインを練る。それから仮縫いに……って流れになる」

 

「デザインするとこ見たい!」

 

「私の作業を近くで見せるのはアルファベット全部覚えてからだよ。この前言ったでしょ?」

 

「覚えたもん!」

 

「じゃあテストしようか。ペンと紙持ってきて、ここで全部書いて」

 

「……いきなりだなあ」

 

「抜き打ちじゃないと意味ないでしょ。ほら、持ってきて」

 

「はあい……」

 

ルカは手先は器用で大抵のことはすぐできるのだが、どうにも読み書きは苦手なようで英語のアルファベットを覚えるところから既に苦労している。

最初はSが逆だったりMとWの違いが分からないほどだった。

 

文字が読めなければ、洋裁の作業にも支障を来す。

読み書きできて損はないので教えるほかないと意気込んだものの、全く文字に触れたことがない子どもに一から教えられるのだろうかと心の底から不安になった。

 

 

それでも毎日作業の合間に彼の勉強を見やり、もうすぐ全てのアルファベットを覚える一歩手前まで何とか辿り着いた。

 

 

不満気な表情を浮かべ自室から紙とペンを持ってきたルカに苦笑する。

 

 

「そんな不貞腐れた顔しないの」

 

「……不貞腐れて無いもん」

 

「アルファベット覚えられてたらちゃんと教えるから。だからそんな顔しないで」

 

「だから不貞腐れてないってば!」

 

「はいはいごめんね。じゃ、どうぞ」

 

「もう……」

 

ルカの子どもらしい態度に微笑ましく思いながら、彼が渋々と紙に向かう様子を眺めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――夜も更け、時計が夜の十一時を指し示した。

自室の床に敷いた簡易的なベッドに横たわるルカに、起こさないようシーツをかけ直す。

すやすやと寝息を立てるルカの顔をほんの少し見つめた後、静かに部屋を出る。

 

 

 

そのまま作業台へ向かい、まだ途中だった作業を再開する。

 

 

 

 

今日はルカがアルファベットを全て覚え書ききったので、服作りをする時にはまず初めにデザインをすることと、デザインするためにちゃんと依頼人に拘りなどを聞くことなどを説明した。

 

だがあの子には依頼人の要望に沿った服をデザインするというのはまだ早いので、私が作業している間、余った布に引いた線に沿って真っすぐ糸を通す練習をさせた。

 

 

思ったより飲み込みが早く、気づいた時には手慣れたように糸を通していた。

だがルカは初心者なので、裁縫にもっと慣れさせるためしばらくはこの練習を続けてもらおうと考えている。

 

 

 

――と、ルカに教えつつこなしていたので、少し作業の進み具合が遅くなったのだ。

遅れ分を取り戻すため、夜遅いが作業の続きをこなす。

 

 

デザインは決まったので、ひとまず仮縫いをしなければ。

裁ちばさみに手を伸ばし、布に切り込みを入れていく。

 

 

 

 

「――せんせぇ、なにしてるの……?」

 

 

 

唐突に後ろから聞こえてきた声に思わず手が止まる。

すぐさま裁ちばさみを置き、声がした方へ言葉をかける。

 

「ごめんね、起こしちゃったかな」

 

「ううん……トイレ行こうと思っただけ」

 

「そっか。なら早く行きなさい」

 

「うん」

 

そう言うと、ルカは目をごしごしと擦りながらトイレの方へと向かっていった。

 

ルカの姿が見えなくなり、止めていた作業を再開する。

 

今回依頼されたのは、動きやすくカジュアルだが安っぽさを感じさせない服。

あまりサイズにピッタリな物だと少しばかり動きにくい。そうなるとサイズよりも大きめに作れば動きやすくはなるが、あまりにもサイズが合ってなければ逆にだらしなく見えてしまう。

 

特にラウルさんの体格は高身長で割とガタイがいいから特に。

 

となると、やはりカジュアルスーツが一番要望には沿っているだろう。

その名の通りカジュアルで着こなし方も自由。かつ動きやすく、れっきとしたスーツなので安っぽく見えることはない。故にスーツと思われないこともある服だ。

 

ラウルさんの色白さを引き立たせるなら黒やネイビーなど暗い色。爽やかさを出すならパステルカラーや白など明るい色だ。

今回は色白さを引き立たせる、ネイビーで仕立てようと思う。

 

早速、さっき大体の大きさに切ったネイビー色の生地をカジュアルスーツの形にしようと手早く裁ちばさみを再度入れていく。

 

 

「こんな時間まで仕事してるの?」

 

 

生地を切っていると、トイレから戻ってきたルカがこちらに近づいてきた。

眠そうな顔を一瞥し、一つ間を空けてから声をかける。

 

「少しでも終わらせたくてね。もう遅いから早く寝なさい」

 

「先生が仕事するなら……近くで見とく……」

 

「いや明日も作業するし、そんな無理しなくても」

 

「見る……」

 

眠そうな声でそう言った後、近くに置いてある椅子を台の反対側まで持ってきた。

そしてそのまま椅子にちょこんと座り、目を擦る。

 

「ルカ、やっぱり眠いんでしょ? なら早く」

 

「見たいんだもん……全部、見ないと……」

 

放っておけば一瞬で眠りに落ちそうな雰囲気だ。

だがここまで言っても寝室に戻ろうとしない態度を見ると、本当に見たいらしい。

これは、彼の気が済むまで好きにさせたほうがよさそうだ。

 

「そこまで言うなら好きなだけ見ていきなさい。椅子で寝ないようにね」

 

「うん……」

 

ゆっくり頷くと、眠たげな表情でじっと私の手元を見つめてくる。

その様に小さく息を吐き、止めていた手を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ルカ、寝るなら寝室に行きなさい」

 

「……」

 

「ルカ?」

 

「……すう……すう」

 

ルカに見られながら作業すること数十分。

寝起きだったからか相当眠かったようで、椅子の上で器用に寝息を立てはじめた。

 

時計の針は夜の十二時近くを示している。

 

ルカがこの時間に眠くなるのであれば、今後の作業時間は考えたほうがよさそうだ。

今日と同じ時間で仕事をすれば、きっとまた無理にでも見てくるかもしれない。

急ぎの依頼でない限り、この時間で作業するのはやめておこう。

 

そう考え、裁縫道具を片付ける。

目の前で安心しきったように寝られては、とてもじゃないが作業する気にはなれない。

 

すべて道具を片した後、ルカのほうへ足を動かし肩を揺らす。

 

「ルカ、寝室に行くよ」

 

「…………」

 

「……はあ」

 

声をかけても肩を揺らしても全く起きる気配がない。

だから寝なさいって言ったのに……。と心の中で呟き、しゃがんでルカを自身に引き寄せる。

 

 

そのまま背中と足の隙間に手を入れ、抱きかかえた。

 

 

思った以上に軽い小さな体に少し驚きつつ、横抱きにした状態で寝室へと向かう。

起こさないよう彼のベッドへ静かに横たわらせ、シーツをゆっくりと掛ける。

 

深い眠りに入ったルカの寝顔を見つめ、彼の黒髪に手を伸ばす。

 

 

 

「おやすみルカ、いい夢を」

 

 

 

ゆっくりと頭を撫で、そろそろ寝ようと自分のベッドへ身を沈める。

明日の朝食は何だろうか、とルカが作る食事に思いを馳せながら瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――キキョウが弟子をとった?」

 

「はい。現地のガキを自身の家に住まわせて教えているようです」

 

「んなこと聞いてねえな。一体どういうつもりなのか」

 

「さあ。ただ、子供に甘いアイツの事です。せがまれて仕方なく、というのもあり得るかと」

 

「……ふむ」

 

街の中心に聳え立つ高層ビルの最上階。

ガラス越しに街を見下ろし、煙草を吹かしながら部下からの報告を受けている。

 

 

やがて長くなった灰を灰皿へ落とし、徐に口を開く。

 

 

 

「あの謙虚の塊が弟子、ねえ」

 

「聞き出しますか」

 

「……いや、しばらくはアイツの好きにさせてやれ。だがそのガキについては洗っとけ。念のためにな」

 

「は」

 

「何かあれば逐一報告を」

 

「かしこまりました」

 

 

 

煙を吐き出し、サングラスの奥で街の光を見ながら灰皿へ煙草を押し付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

ラウルさんの依頼を受けてから約三週間。

昨日服を仕立て上げ、さっき受け渡しが終わった。

今日はどうやら久々に仕事らしく、ラウルさんは服を受け取るとお金をおいて足早に帰っていった。

 

 

 

――この一か月、依頼をこなしながらルカに文字の読み書きと基本的な裁縫を教えていた。

 

 

 

今ではアルファベットをすらすらと書けるようになり、単語を覚えるのに必死だ。

勉強は苦手だが読める文字が増えていく感覚は面白いらしく、私のメモ書きを見るなり「これなんて読むの」と興味津々で聞くようになった。

 

それだけでなく裁縫にも練習した成果が出始め、今ではスムーズに布と布を縫い合わせることまでできている。

裁縫にそこまで触れたことがないと言っていた割には、本当に飲み込みが早く少し驚いている。

 

依頼もこなし、今日やるべきことはない。

いつもならこの後刺繡をして過ごすところだが――

 

「先生、早く食べないとごはん冷めちゃうよ」

 

「ああ、ごめん」

 

「何か考え事?」

 

「ううん、何でもないよ」

 

そういうと、ルカは自身が作ったチャーハンを頬張り始めた。

 

私の冷蔵庫を見て「サンドウィッチと酒で生活してるの?」と呆れた時から、比較的彼が料理を担当することが多い。

 

ルカが料理をするようになって、私の食生活も変わった。

料理も一通りできるらしく、手軽なサンドウィッチ三昧の日々から様々な料理が食卓に並ぶようになった。

 

家で誰かの手料理を食べたことはこの街に来てから一度もなく、初めは違和感が勝っていたが、今では二人で食卓を囲むのが自然になっている。

 

 

――こう毎日誰かと食事をとるのは師が生きていた時以来で、少しこそばゆくなる時がある。

 

 

「この後刺繍のやり方教えてくれるんでしょ? 早く食べてほしいんだけどなあ」

 

「そう急かさないでよ。逃げるわけじゃないんだから」

 

「分かってないなあ先生は。子供の“コーキシン”は誰も抑えられないんだよ」

 

「はいはい」

 

「あ、流した。先生反応に困ったらいつもそうする」

 

「こういうのも上手く生きるコツだよ」

 

 

いつの間にか食べ終えていたルカは、むう、と少しむくれながら皿を片付ける。

自身も残り少ないチャーハンを数回口に運んで食べ終え、皿を洗っているルカへと手渡す。

 

 

 

「ごちそうさま。美味しかったよ」

 

「よかった」

 

笑みを浮かべ、慣れた手つきで皿を洗っていく。

その様を一瞥した後、刺繍の準備をしようと作業場へ足を動かす。

 

 

ルカ用に刺繍道具を準備していると、台所から物音が聞こえなくなり、代わりにこちらへ走る足音が近寄ってくる。

 

 

 

「あれ、それいつも僕が使う針じゃない」

 

「よく気付いたね。これは刺繍針で、文字通り刺繍用の針ね。ルカがいつも使ってるのは普通の裁縫用の針。何が違うか分かる?」

 

 

 

仕事を正確に、スムーズに終わらせるには基本的な洋裁の知識も身に着けておく必要がある。

 

特に手に持つ道具については知っておいてほしいので、刺繍針と普通の針を刺しているピンクッションをルカに渡し、質問する。

 

 

うーん、と唸りながらしばらく針を眺めた後、ルカはゆっくりと口を開いた。

 

「……少し太くて、糸を通すところがこっちの方が大きい」

 

「そう、よく気付いたね」

 

「へへ。でも、糸を通しやすくなっただけだよね? 別に普通の針でもいいんじゃ」

 

「刺繍は一本だけじゃなくて二本の糸を通すこともある。二本通すってなると糸通りが広い方がやりやすい。だから普通の針より太く作られてるの。別に普通の針でもできるんだけど、よりスムーズに進むのは刺繍針の方かな」

 

「へえ」

 

「他にも種類はいっぱいあるけど、今日はこの針だけで刺繍してみようか。とりあえず慣れるためだし」

 

「うん」

 

習うより慣れろともいうので、ひとまず説明はここまでにしておく。

作業台の上に置いていた刺繍枠を二つ手に取り、どこか楽しそうな表情を浮かべているルカに一つ差し出す。

 

「はい、これが刺繍枠。刺繍するときはこれに布を挟むの。今から見本見せるから、真似してみて」

 

「……あれ、先生これ二つも持ってたっけ? もしかして買ってくれたの?」

 

「ルカに渡したのは予備だよ。弟子って言ってもまだ仮だから、あるものを使ってもらうよ」

 

「…………ねえ先生」

 

「なに?」

 

「いつになったら本当の弟子にしてくれるの」

 

 

 

そう言ったルカの顔は、真剣で少し悲しげな表情。

急なことでどう答えるべきか迷ってしまい、思わず口を閉ざす。

 

 

 

「僕、これからは家事全部やるよ」

 

「え?」

 

 

 

ん?

 

 

 

 

「ごはんも毎日作るし、掃除も洗濯も……買い物も全部やるよ」

 

 

 

 

一体どうしたというのか。

 

 

 

 

「だから」

 

「ちょっと待って。なんでそうなるの」

 

洋裁を教えてはいるものの、家事を彼に手伝ってもらっているおかげで以前とそこまで作業時間は変わっていない。それにこれ以上やってもらうのは彼に負担がかかる。

だから全部やってもらうなんてこと求めてない。寧ろ気が引ける。

 

 

一回も“もっとやってほしい”と言ったことはないのに、なぜそんなことを言い出したのか。

 

 

「だって……僕が役に立ってないから本当の弟子にしてくれないんでしょ? 今のところ迷惑しかかけてないし……」

 

顔を下に向けながら放たれた言葉に目を見開く。

ため息を吐きたくなるのを堪え、持っている刺繍枠を作業台の上に置く。

 

ルカの前まで足を動かし、目線を合わせるよう屈み声をかける。

 

「そんなことないよ。迷惑だなんて一回も思ったことない」

 

「じゃあなんで……?」

 

「私言ったよね。弟子をとるってことは責任もって面倒見る覚悟がいる。その覚悟ができたら正式な弟子としてとるってことも」

 

「うん」

 

「でもね、まだ私にその覚悟ができてない」

 

ルカには申し訳ないが、まだ彼を信頼できるかどうかの見極めができていない。

だから、正式な弟子として迎えるには“まだ足りない”。

 

 

 

 

 

――だが、いつまでもこのままの状態を引きずるのは、お互いにとってよくない。

 

 

 

 

そろそろ、答えを出さなければいけないだろう。

 

 

 

 

「近いうちに答えを出す。だからあと少し……もう少しだけ待ってて」

 

ルカの茶色い瞳を見据えながら、はっきり告げる。

目が大きく見開かれた後、少し不安げに瞳が揺れた。やがて間を空けて「……じゃあ」と口を開く。

 

 

 

「約束して。絶対答えだしてくれるって」

 

「もちろん、約束する」

 

「絶対だよ?」

 

「絶対」

 

そう言葉を交わし、徐に右手の小指を立て前に出す。

私の行動を首を傾げ不思議そうに見るルカを見つめながら説明する。

 

 

 

「私の故郷だと約束をする時こうするの。えっと、“約束を守ります”って誓うための儀式……? みたいなものだと思ってくれれば」

 

「こう?」

 

「そ。で、お互いの小指をこうして……」

 

説明しながら、ルカの小さな小指に自分の小指を絡める。

 

「はい、約束」

 

 

 

きょとん、としているルカの表情に思わず笑みがこぼれる。

私の笑みに釣られてか、ルカの口端も上がった。

 

 

 

「破ったら許さないからね」

 

「分かった」

 

「じゃ、もう少しだけ待ってる。――ほら先生、続き教えて」

 

 

 

早くと言わんばかりの言葉に苦笑が浮かぶ。

 

 

“君から始めた話でしょ”と心の中で呟き、刺繍のやり方について説明を再び始めた。

 




ルカとのお話はあと一話くらい。
今後どうなるのか……。


余談ですが、ここら辺が折り返し地点……の予定。
まだまだ先は長いかもですが、ちゃんと完結までいこうとは思ってるのでどうか長い目で…………


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61 小さな蕾 Ⅲ






「――え、今日行くの? 急だね」

 

「できるだけ早めに、と思ってね。丁度依頼もないし」

 

「僕も着いて行っていい?」

 

「もちろん。……と言いたいところだけど、ルカは留守番」

 

「ええ、なんで?」

 

「相手と色々話したいこともあるから、いい子で待ってて」

 

「僕も行きたい」

 

「ダメ」

 

ルカが作ってくれた朝食を食べ終え皿の片づけをしている中今日の予定を伝える。

着いていけるものだと思っていたのか、一言「ダメ」と言えば不満げな顔を見せた。

少し外に出ていくだけなのだが、何故か着いていきたいらしい。

 

 

――だが、ルカには何としても留守番をしてもらわねばならない。

 

 

その理由を彼には伝えることはできないので、何とか納得してもらうしかない。

 

「帰りに何か買ってくるから、それで許して」

 

「でも」

 

「ルカ、お願い」

 

「……分かったよ」

 

言葉を遮りそう伝えると、ルカは渋々ながらも頷いてくれた。

不貞腐れた顔に思わず苦笑する。

 

「じゃあ先生が出かけてる間、刺繍やってていい?」

 

「いいよ。道具はわかるよね?」

 

「うん!」

 

本当は怪我しないよう見守っていたいのだが、少しは慣れてきたし大丈夫だろう。

今までは私がいる時のみ道具を持つことを許していないからか、一人で刺繍できるのが嬉しいようだ。

 

先ほどとは打って変わって笑みを浮かべているルカに釣られほんの少し口端が上がった。

 

 

 

――瞬間、作業部屋から携帯の着信音が響く。

 

 

 

ルカに「あとはよろしくね」と残りの後片付けを任せ、音の方へと向かう。

 

すぐさま携帯を手に取り、いつも通りの言葉を出す。

 

 

「はい、キキョウです……珍しいですね、貴方がこんな時間にかけてくるなんて」

 

 

電話から聞こえてきた声に一瞬驚きながら、そのまま相手の話に耳を傾ける。

片付けが終わったのか、ルカが作業場の入り口からこちらを見ていた。

 

 

ルカの視線を気にしつつ、電話の向こうへ話しかける。

 

 

 

「――わかりました。では今夜そちらに……はい、また後程」

 

 

 

最後に一言告げ、相手が通話を切ったのを確認し携帯を作業台に置く。

電話が終わったのを見計らい、とたとたと駆け寄ってきたルカへ言葉を投げる。

 

「ルカ、急で悪いんだけど夜も用事ができた。だから明日の朝まで留守番お願いできる?」

 

「え……また急だね」

 

「ごめんね。でもあの人の呼び出しに応じないわけにはいかないの」

 

「明日じゃダメなの?」

 

「相手は忙しいから難しいと思う」

 

「……」

 

「そんな顔しないで。明日の朝にはちゃんと帰ってくるから」

 

「…………」

 

「ルカ、留守番お願いできる?」

 

不貞腐れてしまったルカへ苦笑しながら言葉をかける。

あの人から「話したいことがある」と呼び出されたのであればこちらとしては応じるしかない。

 

 

少し心苦しいが、ここはルカに我慢してもらうしかない。

 

 

 

「……分かったよ」

 

「ありがとう」

 

渋々ではあるが、了承してくれたことに安堵しながらルカの頭を撫でる。

私の手を跳ねのけるわけでもなく、ただ受け入れるルカに少し口角が上がったのを感じた。

 

「あ、そうだ。念のため言っておくけど、クローゼットの奥にある箱には触らないでね」

 

外へ行く準備をしている中、いそいそと刺繍道具を出しているルカへ声をかける。

私の言葉に手を止めて不思議そうな顔を浮かべた。

 

「なんで?」

 

「大事なものが入ってるから。開けたら許さないからね」

 

「……分かった」

 

「いい子」

 

まっすぐ目を見てそう告げると、少しの間を空けて頷いた。

再び彼の頭を撫で、玄関の方へ向かう。

 

「じゃあルカ、お留守番よろしくね」

 

「うん。いってらっしゃい」

 

「いってきます」

 

短く言葉を交わし、軽く手を振って家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キキョウが家を出てから数時間、ルカは一人黙々と刺繍を続けていた。

半ば強引に押しかけ、仮の弟子として生活し始めてから初の留守番である。

 

彼はこれまでの短い人生で一人で過ごすことに慣れているが、この一か月ずっとキキョウが傍にいたおかげか、しん、と静まっている空間に心が落ち着かないでいた。

 

その証拠に、刺繍をする手は何度も止まり、一人で食べる昼食がいつもより味気ないと感じている。

 

 

死なないため必死に金を稼ぎ、大人に媚びながらの生活を送っていた子供に、この家での生活――キキョウと過ごした時間がルカにそれほどの影響を及ぼしていたのだ。

 

 

心なしか寂しげな表情が浮かべ、ただひたすら無言で刺繍を続ける中、夜ごはん何食べようかな、と考え事をしながら針を進めると指先に痛みを感じ顔を歪める。

 

 

「いった」

 

 

痛みを感じた指を見れば、ぷっくりと血が出ている。すぐさま指を口に含み、布に針を刺した状態で台の上に置く。

 

 

指を咥えたままキキョウの自室に救急箱があることを思い出し足を動かす。

 

 

ベッドの横にある棚にしまわれていた救急箱を取り出すと、ふとキキョウの言葉が脳裏によぎる。

 

 

 

 

『クローゼットの奥にある箱には触らないでね』

 

 

 

 

 

指に絆創膏を貼りながら、ちらとクローゼットの方へ何度か視線を向ける。

絆創膏を貼り終え、救急箱を戻した後もルカはクローゼットの箱に何が入っているのか気になってしまい、中々作業場へ戻ることができない。

 

 

 

好奇心のままに箱を見てしまおうか。

 

 

 

だがキキョウの言いつけを破れば弟子にしてもらえないかもしれない。

 

 

 

――そうしてしばらく立ち止まったまま考えた後、ついに足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――早かったな。もう少しかかると思ったが」

 

「ご迷惑でしたか?」

 

「いいや? 寧ろお前と二人で入れる時間が長くなったのは好都合だ」

 

「相変わらず冗談がお好きですね」

 

「冗談じゃねえさ」

 

日が沈みかけ、ネオンの光が街を包み始める頃。

高層ビルの最上階から街を見下ろし、酒の入ったグラスを揺らしながらソファに腰かけている彼から軽い冗談を飛ばされる。

 

いつも通りのことだと流しつつ、彼の傍へと歩みを進めた。

彼は口端を上げ、隣に座れと言わんばかりにサングラスを外し露になっている目をこちらへ向けてくる。

 

 

 

促されるまま、「失礼します」と断りを入れ隣に座る。

 

 

 

「張さん、それでお話というのは?」

 

「そう急ぐなよ。こうして顔を合わすのは一か月振りなんだ。まずは一杯飲んでからゆっくり話そう」

 

「でも、お忙しいのでは?」

 

「お前と飲むためなら何が何でも時間を作るさ」

 

 

 

 

張さんは空いたグラスに酒を注ぎ、目の前に差し出してきた。

これは彼から切り出すまで話せなさそうだと潔く諦め、グラスを受け取る。

 

 

そのまま「乾杯」とお互いのグラスをぶつけ、酒に口をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そういや、最近ちょっとした噂を聞いてな」

 

乾杯してからやがてお互いのグラスが空こうかという時、張さんが徐に口を開く。

 

途端、表情は一つも変えていないはずなのに、心なしか彼の声音にほんの少し固さが帯びたのを感じた。

 

 

張さんはグラスを揺らし、カラカラと氷がぶつかる音を奏でながら話を続ける。

 

「なんでも、“どっかの誰かさん”がガキを一人家に住まわせてるらしい」

 

「……」

 

「噂じゃ、弟子を取ったとかなんとか」

 

「……」

 

「だがその“誰かさん”からパトロンである男は何一つ知らされてない。――おかしな話だ。弟子をとったのならパトロン様に挨拶に行く、それが礼儀だというのに」

 

 

そこで言葉を区切り、張さんはグラスをテーブルへ置くと、すぐさまこちらへ隙間がないほどすぐ隣へと寄ってきた。そのまま私の後ろへ手をまわし、肩を抱かれる。

 

 

肩に置かれている無骨な手の力が強まっているのを感じながら、すぐそばにある彼の顔を見やる。

 

 

 

「なあ洋裁屋キキョウ――お前はこうやって呼び出さなきゃパトロンである俺に話もできねえのか?」

 

 

 

 

逃がさないと言わんばかりに視線を真っすぐ向けられる。

張さんの言葉に一瞬目を見開き、一つ間を空けた後口を開く。

 

 

 

「――まず、貴方から時間を割いていただいてしまったことをお詫びします。申し訳ありません」

 

「……」

 

「仰る通り、今私は子供を一人家に住まわせています。ですがその子はまだ弟子ではありません。正式な弟子となってから貴方にご挨拶に伺おうと思っていました」

 

「まだ?」

 

「ええ。本当は取るつもりはなかったんですが、押しに負けてしまい……今はお試しで住まわせてるだけです」

 

「相変わらず子供に甘い。相手が子供とはいえあまりにも不用心じゃないか?」

 

「……何回か顔を合わせた上で住まわせてます。それに何かあったとしても全部私の責任なので」

 

「ほう、お前がガキの責任を負うと? 自分の身も守れない、ガキ一人殺せないお前が」

 

 

 

口端を下げることなく、嘲るような口調で言い放たれた。

どこか重苦しい空気に気圧されまいと、彼の瞳を見据え言葉を続ける。

 

 

 

 

「例えばですが、弟子にした後万が一にでも貴方の不利益になることをあの子がしでかしたその時は、私が殺します。……ほかの誰でもない、私の手で」

 

 

 

 

自身の不利益な存在を彼が許すわけもない。その時は師である私があの子の命を彼に捧げる。それがマフィアである彼も納得できる責任の取り方だろう。

 

 

 

 

 

……だが、これはあくまでもどうしようもない、最悪の場合にとる行動だ。そうならないよう面倒を見るのが師の役割でもあることは分かっているので、まずはその役目を全うすることに力を入れなければ。

 

 

 

まあ、まだ弟子にするかは決まっていないが。

 

 

 

 

私の言葉に口端を下げ「ふむ」と考えるような仕草を見せ、やがて徐に再び口を開く。

 

 

 

「そこまで言うなら好きにしろ。お前の強い悪運に賭けてみるのも悪くない」

 

 

さっきまでとは違い、声音に固さがなくなったのを感じ内心安堵する。

 

 

「一つ忠告しとくが、ガキは想像以上に狡猾だ。この街で育ったなら尚更。帰ったら物の一つや二つなくなってるかもな」

 

「その時はしょうがないので追い出します。盗られた物は今まで退屈しなかったお礼としてあげますよ。ただ、今後は二度と弟子をとるような真似はしないでしょうね」

 

「盗ってなかったら?」

 

「信用に値すると判断し正式な弟子に迎えます。その時はちゃんとご挨拶に伺います」

 

「期待せずに待ってるさ。――まあ俺としちゃ」

 

 

 

そこで言葉を区切ると肩を抱いていた手がゆっくりと離れ、代わりに指先が私の頬に触れる。

 

 

 

「弟子を取らないでいてくれた方がありがたいがな」

 

「……理由を聞いても?」

 

指先で頬を撫でられ、少しこそばゆく感じながらもいつも通り受け入れる。

目を逸らした後、一つ間を空けて問いかけてみる。

 

「弟子をとっちまったら、お前とこうして過ごす時間が減っちまうかもしれないだろ」

 

「それはまあ、なくはないかと……今まで通り好きな時に家を空けれないでしょうし」

 

「そいつは困った。お前に誘いを断られた時にはショックで寝込んじまうかもしれん」

 

「…………」

 

「そんな顔するなよ。さすがの俺も傷つく」

 

冗談でも絶対にありえないことを言われてしまい、呆れて言葉が出なかった。

その呆れが無意識に表情に出ていたのだろう。

張さんはその言葉とは裏腹に全く傷ついたようなそぶり一つも見せていない。

 

 

 

ふと、頬を撫でていた指が止まる。そのまま顎に手を添えられ、顔を上げさせられた。

 

 

おかげで彼の黒い瞳と再び視線が交差する。

 

 

 

 

 

――そしてすぐさま顔が近づき、唇に柔らかい感触が落ちる。

 

 

 

 

唐突なことで目を見開いたが、すぐに唇が離れる。

 

 

咄嗟に唇を手で覆い、思い切り顔を逸らし距離を取ろうと動く。

だが、許さないと言わんばかりに武骨な手が再び私の肩をつかみ、さっきよりも更に体が密着する。

 

「あの……張、さん」

 

「お前はこういう時堪らなく可愛い反応を見せる。――そんなお前を拝めるのは俺だけの特権だ。その権利を使える機会が減るのはちと我慢ならん」

 

「え……?」

 

そう言うと、彼は空いた手を私の右手に伸ばしてきた。

 

 

やがて手の上に被せてきたかと思うと、一つ一つの指をゆっくりと絡められていく。

 

 

「不器用なお前のことだ。俺よりも弟子のことを優先することが多くなるだろう」

 

「……」

 

「これ以上、お前を我慢するのは俺にとって拷問に近い」

 

逃がさないと言わんばかりに、重なっている武骨な手にほんの少し力が入った。

 

啊、我可爱的花(なあ、俺の可愛い花)。お前の棘に……蜜に触れる機会を、俺から奪ってくれるなよ」

 

彼の言葉の真意がわからない。

さっきの口ぶりから察するに「ちゃんと呼び出しに応じろ」ということだろうか。

 

首を傾げながらも、言葉を返そうと口を開く。

 

「よく分からないですが、できるだけ貴方の呼び出しを優先しますよ。例え弟子を取ったとしても、そこを疎かにするつもりはありません」

 

「ならいい」

 

一言告げると張さんはなぜか上機嫌な声音を出した。

一体どうしたのか分からないが、彼が満足げに頬を上げているので「まあいいか」と

考えるのをやめた。

 

 

あの後張さんと朝まで二人で過ごし、ルカを一人待たせているのもあり、まだ眠そうな彼に挨拶を告げ先ほど早々にビルを出た。

朝日で照らされている道をまっすぐ歩き、帰路に就く。

 

 

職場でもある我が家のドアを開け、あの子を起こさないよう静かに部屋へと入る。

 

 

 

『――帰ったら物の一つや二つなくなってるかもな』

 

 

 

彼から言われた言葉が脳裏によぎり、足を止め作業場を見渡す。

見慣れた部屋に違和感はなく、物一つ動いてる訳でもない。

 

やがて自室へ向かえば、ルカが寝息を立てている様が目に入る。

安らかなその寝顔を一瞥した後、ゆっくりとクローゼットの方へと向かう。

戸を開け、箱を手に取り中を確認する。

 

 

 

錆びた裁ちばさみと師からもらったハンカチ。そして張さんからもらった小銃もそこにあり、触られた形跡もない。

 

 

出かける前に伝えた「箱には触らない」という言いつけをちゃんと守ったようだ。

 

 

 

「……ん……せんせえ……? 帰ってたんだ」

 

「あ、ごめんね起こして。まだ寝てていいよ」

 

「ううん……起きる」

 

 

ルカは眠そうな声音を出し起き上がり、大きな欠伸をしながら背伸びする。

目を擦り、いつものように寝具を片すとそのまま顔を洗いに行った。

 

洗面所から響く水音を聞きながら、ベッドに腰かけ彼が戻ってくるのを待つ。

しばらくすると水音が止み、こちらに足音が近づいてくる。

 

「おはようルカ、昨日は留守番ありがと。何もなかった?」

 

「うん。ちょっと指に針刺しちゃったくらい」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫」

 

まだ少し眠そうな顔でそう答えるルカに、僅かに口端が上がる。

 

 

一つ間を空け、気を取り直し彼の顔を見据えた。

 

 

「ルカ、私がいない間この箱に触った?」

 

「え、触ってないよ」

 

「本当に?」

 

「う、うん……」

 

ルカは唐突の質問に戸惑ったような表情を浮かべた。

真っすぐ目を見つめたまま、その戸惑いに構うことなく言葉を続ける。

 

「嘘ついてない?」

 

「先生、急にどうし」

 

「答えなさい、ルカ」

 

「……ついてないよ」

 

真剣な表情と声音で問いかければ、一つ間を空けて真っすぐ答えが返ってきた。

こういう時、後ろめたいことがある場合は目が揺らぐ。

 

 

だが、ルカの瞳は揺らぐどころかこちらを見据えたまま。

 

 

 

 

――もし私の言いつけを破っていれば、何が何でも追い出すつもりだった。

 

 

 

 

物を盗んでいなくても、私との約束を破る人間を傍に置くことはできない。

 

ルカを本当の弟子に迎えるに値するか見極めるため。

そして、私も覚悟を決めるため出かける前に「箱に触らない」という約束をさせた。

 

 

 

本当のところはわからない。

 

 

 

だが、子供ながらに真っすぐ目を向けてくる姿は、とてもじゃないが嘘をついてるようには見えなかった。

 

 

 

「――ルカ、大事な話がある。こっちにおいで」

 

「え」

 

「近くで話したいの。おいで」

 

私の呼びかけに再び戸惑いながらも、ゆっくりと近づいてくる。

 

箱をベッドの上に置き、彼の茶色の瞳を見据え口を開く。

 

「ルカ、私は後悔するなら死んだ方がマシだと思ってる。君を弟子に取ったとしても、それは変わらない」

 

「……」

 

「私のパトロン……後ろ盾はマフィア。だからこそ、いつ死んでもおかしくない。もしかしたら君まで巻き込まれることがあるかもしれない」

 

「……」

 

「きっと私は、何があっても君のことより自分のことを優先する。自分が後悔すると思えば君を残して先に死ぬ。そして逆に、君が私やパトロンに不利益なことをしたら私が君を殺す」

 

「…………」

 

「そんな人間の弟子になるのは、きっと“よくないこと”」

 

「…………」

 

「弟子になったら――いつ取り残されても、何かに巻き込まれても……私に殺されようと文句は言えない」

 

一つ息を吐き、徐に両手を伸ばす。

 

 

彼の小さな手を包み、問いかける。

 

 

 

「それでもいいの?」

 

 

 

ここまで言っても私の弟子になりたいなら、もう何も言うまい。

 

 

 

私の問いかけに、ルカはしばらく間を空けた後真剣な顔で話し始めた。

 

 

 

「僕の家族や友達の何人かはとっくに死んだ。中には三合会とホテル・モスクワの抗争に巻き込まれて死んだのもいる」

 

「…………その三合会の人が、私のパトロンなんだよ」

 

「知ってるよ。知ってて先生のところに来たんだよ」

 

 

 

ルカの言葉に思わず目を見開く。

 

 

 

「僕、取り残されるのも巻き込まれるのも慣れてるんだ。もし先生が先に死んでも、一人で生きていける。巻き込まれても、殺されても別にいつものことだって割り切れる自信あるよ」

 

 

淡々と告げるその様に、ほんの少し胸が締め付けられるのを感じた。

 

 

 

 

 

「だから、さ。今更だよ、先生」

 

 

 

 

 

困ったような笑みを浮かべ、言い放った。

 

 

再び目を見開き、一呼吸間を空けた後ぎゅ、と彼の両手を強く握る。

 

 

「そっか」

 

 

息を吐くように呟き、ほんの少し笑みを浮かべる。

 

 

 

「じゃあ、改めてよろしくね。ルカ」

 

「こちらこそ、キキョウ先生」

 

 

 

私がそういうと、今度は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 

――これが、私が最初で最後に弟子を取る瞬間だった。

 





要約すると「弟子ばかり構うのは寂しい。だけどそれはしょうがないからせめて誘いは断らないでほしい」。
彪に報告受けてから「連絡来るかも」とちょっと期待してたのに結局来なくて、こっちから連絡してやっと会えたと思ったら「責任もって殺す」っていうキキョウにしては珍しく割と思い入れがあるのだと知り、ちょっとイラついた大哥でした。

こういうちょっとした(?)独占欲があってもいいと思うのです。



さて、次からロベルタ再来編に入ります。
ここでロックとキキョウの関係をどうにかしたいなあ……と考えております。(考えてるだけ)


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62 お仕着せと一瞬の春


今回からロベルタ再来編です。









――バリナス州。

 

ベネズエラの州都であるその場所では、一年を通して様々な催し物が行われている。

 

雨季も終わりかけ、太陽が清々しく輝くある日、中心街ではいつも以上の人で賑わっていた。

今日という日を祝うかのように、大きな広場に設置された壇上を中心に、多くの露店が立ち並び、華やかな装飾で彩られている。

 

 

やがて大きな歓声が上がった後、男性の演説がマイク越しに広場中に響き渡った。

 

 

 

 

次の瞬間、その声は唐突の爆発音ととともに消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

夥しい叫び声。

 

 

 

逃げ惑う人々。

 

 

 

 

先ほどまでの明かる気な雰囲気は跡形もない。

 

 

そんな中、爆発の後の立ち煙を一人の女性が呆然と見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――遍く者の創造主、且つ贖い主に召します天主

 

 

 

降りしきる雨の中、粛々と牧師が一つの墓石へ言葉を並べる。

 

 

 

――主の僕、ディエゴ・ホセ・サン・フェルナンド・ラブレスの御霊に、すべての罪の赦しを与え給え

 

 

 

 

放たれた名前が刻まれた墓石を大勢の人が囲み、その場は悲しみに包まれている。

 

 

 

――願わくば、彼が絶えず望み奉りし赦しをばわれらの切なる祈りによってこうむらしめ給え

 

 

 

墓石の真ん前には、一人の少年が虚ろな表情で立っている。

 

 

 

――主よ、永遠の安息を彼に与え給え。絶えざる光を彼の上に照らし給え

 

 

 

その少年を、後ろから見守る一人のメイドの姿があった。

 

 

 

――安らかに憩わんことを。神の御名に(エイメン)

 

 

 

 

 

 

最後の祈りの言葉を終え、悲しみに暮れながらそれぞれの家へと帰る。

 

 

 

人気がなくなり、その場に残された少年――ディエゴの息子はメイドの胸へと顔を埋め、やがて堰を切ったように涙を流す。

 

 

「父さんは……悪いことなんてしてないよ……そう、だろう?」

 

 

少年は震えた声音でメイドへ問いかける。

 

 

「……御当主様は、とても立派な方に在らせられました」

 

 

メイドは少年の頭に手を置き、ただ冷静に口を開く。

 

 

 

「天を仰ぎ、地に臥して、我らが主の御前において――何一つ、恥じることのないお方にございました」

 

 

 

大粒の涙を流しながら、少年は再び問いかける。

 

 

 

「……それなら、どうして……神様は……父さんを天へ、お召しになられたんだろう?」

 

 

 

その問いに、メイドの声音はさらに固くなる。

 

 

 

「主ではありません、若様。人を殺めるのはいつだって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――人間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メイドは知っている。

 

 

 

「――Una vandicion por los vivos,(生者のために施しを、)Una una rama de flor por los muertos.(死者のためには花束を)

 

 

 

人が人を殺める理由も。

 

 

 

Con una espada por la justicia,(正義の為に剣を持ち)

 

 

 

金、欲、大儀――それらの引き換えとともに、その者が過ごしてきた日々の全てを否定し、いとも簡単に消し去られてしまうことも。

 

 

 

un castigo de muerte para los malvados. (悪漢共には死の制裁を)

 

 

 

 

 

そこに感情も感想もなく、冷徹である必要もないことも、メイドはすべて知っている。

 

 

 

 

なぜなら、彼女がそうやって過ごしてきたのだから。

 

 

だが、この事実を少年に告げることはメイドにはできなかった。

 

 

 

 

 

 

――代わりに誓うは、恩人を殺し、己の大事な者を悲しませた者への復讐。

 

 

 

Así llegamos――en el altar de los santos.(しかして我ら――生者の列に加わらん)

 

 

 

 

 

 

 

眼鏡の奥には、猟犬の如く鋭い瞳が光る。

 

 

 

猟犬に狙われた狐は、無傷では済まされない。

 

 

 

 

「<ruby><rb>En el nombre de Santa María juro castigar toda la maldad!サンタ・マリアの名に誓い、全ての不義に鉄槌を!</rt><rp>)</rp></ruby>」

 

 

 

 

 

 

――ラブレス家の当主の死に、フローレンシアの猟犬が再び牙を剥きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――ねえ先生」

 

「なに?」

 

「先生と張さんはコイビト同士なの?」

 

「違うよ」

 

「じゃあアイジンだ」

 

「違う。どうしたの急に」

 

「だってこの前挨拶行った時、張さん“今度はいつ二人で飲めるんだ”って先生にすごい言い寄ってたし。それにバオのとこのおばさんも“あの二人はとっても熱い関係なのよぉ”って」

 

「張さんはただ私をからかってただけ。マダムはその手の話題に飢えてるからそう言ってるだけ。真に受けちゃダメ」

 

「ええー」

 

ルカを正式な弟子として迎えてから張さんはもちろん、バラライカさんやイエローフラッグなど、普段世話になっている方々への挨拶も済ませているうち、あっという間に一週間が過ぎた。

 

ルカは私が挨拶用に仕立てたシャツと半ズボンに喜々として身を包み、緊張した面持ちで方々への挨拶に回っていた。

流石ロアナプラで生まれ育った子供だからか肝が据わっており、張さんやバラライカさんを前にしても怖気づくことなくしっかり自己紹介していた。

 

 

そんなルカを弟子に取ることを二人はすんなり受け入れ、「好きにやれ」と言ってくれた。

 

 

張さんには最後にまた「弟子にばかり構いすぎるなよ」と言われ、バラライカさんには「それにしても、貴女が弟子ねえ」とニヤニヤされたが、なんとかマフィアの方々への挨拶という一大目標は達成した。

 

 

そのあとにリンさんやレヴィ、バオさん、マダム・フローラにも挨拶を終え、やっと落ち着いた日々に戻りつつある。

今日も依頼はないため、前と変わらずルカに文字の読み書きをさせながら、自身は刺繍に手を付けていた。

そんな中集中力が切れたルカがいきなりさっきの質問をしてきたことに驚きつつも冷静に返答したが、どうやら彼は私の答えでは納得いかないらしい。

 

 

 

頬杖を突きながらニコニコ……いや、ニヤニヤしながら言葉を続ける。

 

 

 

「僕お似合いだと思うけどなあ」

 

「冗談でも怒るよ」

 

「別にいいじゃん」

 

「ルカ」

 

「う……なんでそんなに怒るのさ。もしかして張さんのこと嫌いなの?」

 

「そうじゃない。ただ彼の隣に立てるのは私じゃない、だから“お似合い”じゃない」

 

「難しいこと考えてるんだね、先生。ま、“ダンジョのカンケー”に口出しするのはよくないらしいからもう何も言わないけど」

 

「…………一体どこでそんなこと覚えたの」

 

「娼婦のお姉さんに教えてもらった」

 

 

本当に意味を理解して使っているんだろうかこの子は……。

 

 

 

小さく息を吐き言葉をかけようとしたが、これ以上話を引っ張るつもりはないらしくルカは読み書きの練習を再開していた。

この切り替えの早さにはいつも驚かされている。

 

 

そんなルカの邪魔をするわけにはいかないので、自身も止まっていた針を動かす。

 

 

 

 

今日の刺繍はいくつかのガーベラ。

ピンクや赤、オレンジなど色鮮やかでかわいらしいポピュラーな花だ。

形は複雑ではない上様々な色を使うことができるので、これまで何度も布に咲かせるほど個人的には気に入っている。

 

 

 

赤のガーベラが見事に咲いたところで、早速オレンジの糸を針に通していく。

慣れた手つきで手を動かしていると、「あ、そうだ」とルカが声を発する。

 

「先生、今日ちょっと外行ってきていい?」

 

「いいけど、どこに行くの」

 

「たまには気分転換もしないとなって。最近外出てないから」

 

「そっか。じゃあ夜になる前には帰ってくるんだよ。帰れなさそうだったら公衆電話で連絡して」

 

「はーい」

 

ルカはこの街で育ったので、一人で外に出すことは別に心配はしていない。というか心配する必要がないだろう。

だが子供であることに変わりはないので、こういう時はいつも念のため暗くなる前には戻るよう伝えている。

 

この言いつけも、この子はまだ破ったことはない。

 

「じゃあこれ終わったら行くね」

 

「分かった」

 

短く言葉を交わし、お互い再び手を動かしていく。

 

いつも通りの日常に、「今日は平和な一日で終わりそうだ」と心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

太陽が真上に来る昼間の時間。

職業柄喧噪の日々を送るラグーン商会のオフィスでは、平和な時間を表すかのようにラジオからミュージカル映画の曲が静かに流れている。

 

 

 

悪徳の都で未だホワイトカラーを貫いているロックは、窓際でぼんやりと外を眺めながら煙草に火をつけた。

 

 

 

優雅に煙草を吹かす同僚にソファに寝転がっているベニーはアダルト雑誌に目を向けたまま声をかける。

 

 

 

「ロック、夕食は? チャルクワンの市場に新顔の屋台が出てるんだ。なかなか旨いぞ」

 

「……」

 

「帰りに一杯引っかけていかないか?」

 

途端、オフィス内に受話器の音が鳴り響く。

ベニーはいつも通りロックが取るだろうと待っていたが、普段は電話にいち早く応じるはずのロックが動く素振り一つも見せない。

 

 

その様子を見兼ね、雑誌から顔を上げ先ほどよりも声量を上げ呼びかける。

 

「ロック? ……ヘイ、ロオオオオック!」

 

 

すると、外を見ていた顔が動く。

自身の呼びかけにやっと気づいた様子のロックへ呆れながら言葉を続ける。

 

「電話、さっきから鳴ってるよ。それに、僕の話聞いてなかったろ」

 

「あー……悪かったベニー。ぼんやりしてただけさ、たまに暇だとつい持て余すな」

 

煙草(それ)のせいかと思った。中身は大麻かなんかかい?」

 

「そういうのには興味が湧かなくてね。これは普通の煙草だよ」

 

 

ベニーとロックが会話している中、奥から出てきたダッチが代わりに受話器を手にする。

 

 

「ラグーン商会だ。――お前の方からかけてくるとは珍しいな。一体何の用だ」

 

 

器用に片手で煙草を取り出し、ジッポライターで火をつける。

電話の向こうから聞こえる話に耳を傾けていると、僅かにダッチの眉根が寄った。

 

 

 

「――ご愁傷さまだな。ともかく商売上の機密に関することにゃ答えられねえ。ワトサップにはそう伝えとけ」

 

 

淡々とした口調で言い放ち、やがて受話器を戻し煙を吐く。

 

 

「ダッチ、ビジネスかい。それとも……トラブルか?」

 

訝しむような表情を浮かべている上司へベニーもまた単調に問いかける。

 

「“変わった客を扱ってないか”、そう聞かれた」

 

「またかい? 気持ち悪いな、いったいなんだ」

 

「“また”?」

 

まるで何度か聞いているような口ぶりに、ロックは思わず聞き返す。

 

「一昨日、全く同じ内容の電話を受けたのさ。その時は情報屋からだったけど」

 

「一字一句違わない質問だ」

 

「ああ、判で押したみたいにね」

 

「ロック、お前は何か聞いてないのか?」

 

 

 

その問いに思考を巡らす。

やがて一つのある情報に行きつき、ロックは少しの沈黙を破る。

 

 

 

「――覚えがないわけじゃない。イエロー・フラッグで聞いた時は何かの冗談かと思ってた」

 

「冗談? どんな内容」

 

「おいロック! 聞いたかよ驚きだぜ!」

 

ダッチがさらに質問しようとしたその時、荒々しい足音とともに現れたレヴィによって遮られる。

 

「この間のバオの与太……――なんだよ、皆揃ってその顔は」

 

「今まさにその話をしてたのさ、レヴィ。続きを聞かせてくれ」

 

 

 

 

三人の視線を一気に集めたレヴィは怪訝な顔を浮かべる。

片手に大量の荷物を抱えドアに突っ立っている彼女の言葉に、ロックと同じ情報を持っていると判断しダッチは話の続きを促した。

気味が悪いと思いつつ、レヴィは荷物を机に置きながら促されるまま自身の話を続ける。

 

 

 

「東欧人の売人のコワルスキーってのがいるだろ」

 

「確かホテル・モスクワの三下だな」

 

「そいつが見たって言ってんだ。サータナム・ストリート、サンカン・パレス・ホテルの廊下でよ。あいつがそのあと売り物でラリッてなけりゃ面白くねえ冗談なるンだが」

 

「見た? 一体何をだ」

 

勿体ぶるかのような語り口調に、ダッチは本命を聞き出そうと問いかける。

やがて話を知っているもう一人が、その問いに答えようと思い口を開く。

 

 

 

「メイドだよ、ダッチ」

 

 

 

放たれたその単語に、一瞬にしてオフィス内の空気が固いものへと変わる。

 

 

「――あのキリング・マシーンを、再びこの街で見た者がいるって話なのさ」

 

 

ロックの言葉に、ベニーとダッチは思わず耳を疑った。

 

二人の脳裏には、かつて映画さながらの殺戮と己の主人を何が何でも取り戻さんとする執念を纏った一人のメイド。

まさに殺戮機械のようなメイドによって街は一時混乱に陥った。

 

 

 

 

そんな彼女がこの街に舞い戻ったという話は、ラグーンにとって忌むべき内容だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

ロアナプラは湾岸に位置する港町。

小さな街といえど海外からの観光客も多く、人々の往来は凄まじい。

整備された大通りの裏では、貧しい地元民たちが何も知らない観光客の荷物を奪い取るため、目を光らせている。

 

 

そんな裏通りをルカは、小学生が通学路を通るかのように平然と歩いていた。

 

「よおルカ! 久々じゃねえかあ、とっくに死んだと思ったぜ!」

 

「おかげさまでこの通りピンピンしてるよー」

 

「おいルカ、また仕事手伝ってくれよ! お前ならいつでも歓迎するぜ!」

 

「ありがとー。暇があったらね」

 

「ルカ、今度ウチにオメエのお師匠様と来いよ! 一緒に天国連れてってやるぜ」

 

「遠慮しとくー。あと先生に手出したら殺されるからやめときなよ」

 

多くの大人たちに声を掛けられながら、軽く言葉を返す。

ルカにとってはいつもの日常であるため下品な誘いにも表情一つ変えず、時折ごみの腐敗臭が漂う道をひたすら歩く。

 

 

 

やがて、一つの小さな扉の前で足を止める。

無言で鍵の掛かっていない扉を開け、薄暗い廊下を進む。

 

 

奥から小さな足音と笑い声がいくつか響く。

音の中心であろう部屋の前で止まり、少しの間を空けた後ドアノブに手をかける。

 

ドアを開けるとその部屋には、ルカよりも一回り小さい子供たち数人が年老いた女性に見守られるように遊んでいる風景が広がる。

突如現れたルカに、子供たちは一斉に駆け寄っていく。

 

「ルカ、久しぶり! 元気にしてた?」

 

「うん、元気だよ」

 

「ルカにい! あたしやっと三つ編みできるようになったの!」

 

「お、上手にできてんじゃん。頑張ったなあ」

 

「ルカ! 俺一人で仕事できるようになった! めっちゃ金になってばあちゃんも喜んでさ!」

 

「そっか、えらいえらい」

 

次々に飛んでくる報告に苦笑いしながらも一つ一つちゃんと受け答えると同時に、小さな頭を撫でていく。

部屋の端で椅子に腰かけている老婆が、やがて徐に口を開いた。

 

「ルカ、いらっしゃい。元気そうだね」

 

「ばっちゃんもね」

 

柔和な笑みを浮かべる老婆は、周りの子供やルカとは血の繋がりはない。

だが、この危うい街で必死に生きるため支えあった仲間でもある。

そんなかつての仲間の言葉に、ルカも微笑みを浮かべて答えた。

 

 

 

「最近どうだい、修行の方は」

 

「それが意外と厳しくてさ。字覚えられなかったら裁縫教えてくれないし、作業の邪魔したらめっちゃ注意されるし……もっと甘いかと思ったんだけどなあ」

 

「あんたのその考えが甘いんだよ」

 

「うっ……まあでも、ちゃんと面倒見てくれてるし、一応教えてはくれるからありがたいんだけどね」

 

「その師匠さんは本当に面倒見がいいんだねえ。恵まれたじゃないかルカ」

 

「――うん。僕も、そう思うよ」

 

 

照れくさそうな表情を浮かべるルカに、老婆はどこか安心したようにまた口に弧を描いた。

 

 

「じゃ、僕そろそろ行くね。ばっちゃん、僕が稼げるようになるまでくたばんないでよ。いつかこいつらと一緒に腹いっぱい食わせてあげるから。ちゃんと“自分の金”でね」

 

「そりゃくたばるわけにはいかないね。楽しみにしてるよ」

 

「えー、ルカもう行くのー」

 

「遊ぼうよー」

 

「ごめん、また今度な」

 

帰りを惜しむ声に、ルカは再び苦笑いを浮かべる。

ひとしきり、子供たちの頭を撫でた後背中を向けた。

 

 

「じゃ、また」

 

 

軽く手を振り、静かに部屋を後にする。

薄暗い廊下を抜け、夕日が照らす道へ戻る。

 

 

 

 

自身の用事は済ませたので、早速師の家へ戻ろうと踵を返そうとした。

 

 

 

「――おやめください。あなた方と遊んでる暇はないのですが」

 

「おいおい水臭いこというなよ嬢ちゃん。そんなカッコでぶらついてちゃ“構ってください”って言ってるようなもんだぜ」

 

「生憎そのつもりは毛頭ございませんので。どうかお構いなく」

 

「おいおい、ちったあノッてくれてもいいんじゃないの」

 

 

二人の男がちょっかいかけているのが、自身と同じ年代であろう女の子であることを声だけで判断する。

少し引っかかるのは、妙に丁寧な口調だった。

この街で大の男に面と向かって歯向かえるのは慣れてる人間でなければ無理だろう。

 

 

なら自身と同じこの街で育った子供かもしれない。

 

いつもなら気にも止めないところだが、その時はちょっとした好奇心が働いた。

 

 

声のする方へ目を向けると、そこには男二人が褐色に黒髪の一人の少女の前に立ちはだかっていた。

 

 

ただ一つだけ異質なのは――

 

 

 

「主人の用を済まさなければなりませんので私はこれで」

 

「別に後でもいいだろそんなもん」

 

「そういうわけにもまいりません」

 

 

彼女がメイド服に身を包んでいるということだ。

 

 

見たこともない格好に目を見開き、やっぱり関わるべきじゃないと即判断し帰ろうとしたその時――男の影に隠れていた少女の顔が露になる。

 

 

 

 

瞬間、一気に頬の熱が上がり、動悸が早まる。

 

 

 

 

雷に打たれたかのような衝撃に、ルカは少女から目を離すことができなかった。

 

 

そんなルカの視線に気づいたのか、男たちは一瞬眉根を寄せてすぐ下卑た笑みへと切り替える。

 

「よおルカ。お前も混ざりたいのか? ならケツ貸せ、金は払ってやるからよ」

 

「……あーっと……今日は気分じゃないんだよねえ」

 

「んだよツレねえなあ。なんだ、ビビってんのか?」

 

「僕が? まさか。……って、ああああああ!」

 

 

男と会話をしている中、突然ルカは驚いた表情で大声を発した。

ルカの大声に男たちとメイドの少女は目を丸くする。

そんな三人に構うことなく、駆け足で男たちの間をすり抜け少女の顔を覗き込む。

 

 

若干緑がかった少女の瞳にさらに鼓動が早まるのを感じながら、ルカは興奮したような口ぶりで話し始める。

 

「やっぱりそうだ! 久しぶりだねえ、元気してた?」

 

「え……?」

 

「つれないなあ、戻ってるんだったら教えてくれたっていいのに」

 

「えっと……」

 

「おいルカ、こいつ知り合いか」

 

「うん! 前一緒に仕事してたんだけど、その後どっかのおじさんに買われて街出てっちゃった。名前は……そう、レイラ! レイラだよ! 僕の親友!」

 

もちろん、全くのデタラメである。

だが、ルカには今この場でデタラメを吐く理由があった。

 

ちら、と少女に目を向けると、意図を察した彼女は一つ間を空けて口を開く。

 

「……久しぶり。ごめんね、伝える余裕がなくて」

 

「こうして会えただけで嬉しいよ」

 

ルカは満面の笑みを。少女は少し戸惑いながら微笑を浮かべ言葉を交わす。

 

「そういうわけで、僕たちこれからいっぱいお話したいことあるから別の相手みつけてよ。じゃ!」

 

「あ、おい!」

 

「待てやコラ!」

 

男たちが見せた一瞬の隙をついて、ルカは少女の手を引っ張り全速力で走りだす。

迷路のように入り組んでいる裏路地をうまく使い何分か走り続け、やがて追っていた男たちは完全に二人を見失った。

 

 

建物の間でようやく立ち止まり、少女の手を放し二人は呼吸を整える。

 

「はあ……はあっ……大丈夫?」

 

「ええ……」

 

「あいつら子供好きだから絶対逃げられないと思って……ごめんね、いきなり走らせて」

 

「お気になさらず、体力には自信ありますので」

 

「はは、すごいねえ……」

 

軽く会話を交わし、やがてルカは顔を上げ再び少女の顔を見やる。

 

「あんな路地裏に僕たち子供は一人で歩かない方がいいよ。この街の人間じゃないなら尚更」

 

「……やはり、先ほどのはデタラメだったんですね」

 

「ああでもしないと隙作れなかったし。もしかして嫌だった?」

 

「いいえ、おかげで助かりました。ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 

少女のお礼の言葉に、再び満面の笑みを浮かべる。

口端を下げることなく、目の前の異質な少女に声をかけようと口を開く。

 

「で、なんであんな所にいたの? もしかして道案内探してた? まさかね、あんな奴らに」

 

「その通りです。何分この街は初めてなので、道を聞いてたらあの気色悪い男たちに絡まれまして」

 

「ええ……」

 

 

呆れたような声音を出すルカに、少女は不機嫌な顔で「何か?」と発する。

 

 

「ううん、何でもない」

 

 

怒らせるのはまずいと咄嗟に首を横に振る。

そうして少しの沈黙の後、ルカは恐る恐る一つの提案を投げかける。

 

「じゃあさ、僕道案内しようか?」

 

「え?」

 

「ここで会ったのも何かの縁だしさ。それに」

 

「それに?」

 

 

 

もっと一緒にいたいな。

 

とは恥ずかしさが勝り口が裂けても言えない。

 

 

 

 

「そんな恰好じゃまたさっきみたいなこと起きそうだし?」

 

「……そんなにおかしいですか。特注で作ってもらったんですが」

 

「その服自体がおかしいんじゃなくて、“この街で着る”っていうのがよくない。この街の人間は頭イかれてるのが多いから余計にね」

 

「……」

 

「どうする?」

 

ルカの提案に、少女はしばらく思案したあと、意を決したかのように口を開く。

 

「では、道案内よろしくお願いします。えっと」

 

「ルカ。君は?」

 

「ファビオラ・イグレシアスと申します」

 

「ファビちゃんね。よろしく」

 

「ファビちゃっ……よろしくお願いします、ルカさん」

 

「呼び捨てでいいよ」

 

お互いの名前を知り、二人は再び歩き始める。

ルカの人生において、生まれて初めての恋が始まろうとしていた。

 

 

――が、そんな初恋の相手である“ファビちゃん”が今街を騒がせている張本人などとは夢にも思わないルカであった。

 










ルカは体を売って生計を立ててた時期もありその名残でたまに今も声がかかります。
だけどキキョウの弟子になったことで冗談で声はかけられますが本気で致すような人間はめっきり減った感じかも……?


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63 お仕着せと一瞬の春Ⅱ

「──78年に仲間とこの店を立ち上げてから半壊15回、ほぼ全壊が6回。記録更新はここらで打ち止めにしたいんだよ。厄介ごとはごめんだ」

 

「ご愁傷さまだなあ、同情するぜバオ」

 

「主にお前に言ってんだこの野郎」

 

悪党たちの憩いの場であるイエロー・フラッグはいつものように開店早々賑わっていた。

カウンターではレヴィとロックが酒を片手に、バオのぼやきを聞いている。

 

「特に酷い有様にしてくれたのが例のメイドなんだぞ? これ以上ウチを巻き込むなってんだ」

 

「店壊されるのが嫌なら“武器持ち込み厳禁”の張り紙すれば?」

 

「んなもんとっくに試したよ。そのおまけが丸腰の客狙った押し込み強盗だ」

 

「どうしようもねえなこの街は」

 

「全くだ」

 

最早嘆きに近いバオの言葉にレヴィとロックは首を縦に振る。

三人が何気ない会話を繰り広げていると、奥の二階に続く階段から黒いスーツに身を包んだマフィアたち──三合会の組員が現れる。

先頭に立っている彪はバオへと顔を向け、口を開く。

 

「娼館の連中にも当たってみたが手掛かりなしだ。何かあったら知らせてくれ」

 

「ああ。Mr.張によろしく言っといてくれ」

 

たった一言告げると、彪は残りの組員を連れて颯爽とその場を後にする。

その背中を横目にレヴィは訝し気な表情を浮かべ、小声で話す。

 

「バオ、連中もメイド絡みか?」

 

「連中だけじゃねえ。この街の奴らは多かれ少なかれ走り回って情報を漁ってる最中だ」

 

「けっ、たかがメイドごときに何をそこまで躍起になってやがるんだ。張の旦那もヤキが回ったのか?」

 

「……いや、多分違うよレヴィ。彼らが気にしてるのはメイドの存在じゃない」

 

「あ?」

 

グラスにお気に入りの酒であるバカルディを注ぎながら、ロックの話に片眉を上げる。

 

「彼女は異端だ。だからこそ、皆彼女の目的を見定めようとしてる。前の時は目的が明確だったが、今回はそうじゃない。──“一体何の目的でこの街に来たのか”、その答え次第で皆の動向が決まる」

 

ロックは無表情で淡々と己の考えを述べた。

グラスを揺らし、カラカラと氷がぶつかる音を奏で、冷たい酒を喉に通す。

 

「面白くねえぜ、まったく。どうにも嫌な予感がするぜ」

 

「よく言うぜバオ。──っと、噂をすればだ」

 

バオがぼやいた瞬間、入り口から大勢の男たちがぞろぞろと現れた。

その顔ぶれを見たレヴィは、口端を上げてカウンターに近づく一人の男に声をかける。

 

「よおグスターボ」

 

「よおラグーンのお二人さん」

 

マニサラレラ・カルテル、タイ支部のボス。アブレーゴの側近であるグスターボはレヴィと軽い挨拶を交わす。

やがてレヴィの隣に立ち、カウンターに肘をついた。

 

「セニョール・アブレーゴは?」

 

「ボスなら事務所だよ。今ウチは大騒ぎさ。なんせ本部から直々に兵隊を送るってんだからよ。ったく受け入れ態勢も整ってねえってのに」

 

レヴィとロックは、グスターボの話にただ耳を傾けた。

内部の者しか知らない情報を漏らしてる状態に気づくことなく、グスターボは笑みを浮かべ話を続ける。

 

「まったく気が滅入る、煩わしいことだらけだよ。でもまあいい、愚痴はここらで終わりだ。なんたって今日の俺は聖母マリアに好かれてる。ちょいとあんたらに聞きたいことがあるんだが」

 

「メイド、だろ? グスターボ」

 

 

 

話を遮り、本題を当ててやる。

 

コト、とグラスを置き、レヴィはニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

「その話の前にこっちの話を済ませてくれ。今あんた、“本部から直々に兵隊が”、そう言ったなア。──そりゃ一体何の話だ?」

 

レヴィの問いに、グスターボは口端を一気に下げると同時に鋭い視線を向けた。

そんな彼の様子に怯むことなく、レヴィは淡々と話を続ける。

 

「おっかない顔すんなよ。煮え切らねえのはこっちも一緒、情報交換すれば互いにハッピーだ。聞かせてくれりゃ、こっちもあんたの質問に答えるぜ」

 

「……なんにもねえよ。ただ単にメイド絡みの用心だ」

 

「そりゃ答えを言ってるようなもんだ。時間の無駄だぜ、まどろっこしいのはやめようや」

 

「……」

 

用心しているのか、それでもグスターボは答えようとしなかった。

彼の様子を見兼ねたロックは、レヴィに続いて口を開く。

 

「グスターボ、俺たちはただ余計な地雷を踏みたくないだけ。“話は他所へ流さない”、それでどうだ?」

 

ロックの言葉に再び少しの沈黙が落ちる。それほど他所に流すべきではない話であることは容易に感じ取れた。

やがて、グスターボは諦めたかのように重い口を開いた。

 

「……くそ、わかった。ただし、絶対に他言無用だ。お友達のバラライカや三合会にもな、わかったか?」

 

「もちろん」

 

「よし、まずてめらから先に聞かせろ」

 

「オーライ、何が知りたい?」

 

交渉の末、ようやく話が進み出した。

レヴィは前のめりにグスターボと情報交換を始める。

 

「まず奴の風体、人種、人相、目立つ特徴だ」

 

「髪は黒、ヒスパニック系だが肌は白い」

 

 

二人が順調に話を進めている中、入り口から子供の声が段々近づいてくる。

 

 

「──ねえ、本当にここなの? さっきの路地裏より治安悪いと思うけど」

 

「なら私一人で参りますのでおかまいなく」

 

「いや、女の子一人で行かせるわけにいかないし……ならせめてその服着替えてから入った方が」

 

「これで大丈夫です。むしろこちらの方が都合がいいので」

 

男の子の止める言葉には気にも止めず、女の子は淡々と返しイエロー・フラッグの扉を開ける。

一瞬の戸惑いも見せることなく堂々と中へ入っていく“異質な子供”に、通りすがる周りの客たちは目を見開いた。

 

そんな光景に男の子は「やっぱり目立っちゃってるよ……」と小声でぼやきながら、彼女の後ろを慌てて付いていく。

 

 

 

やがて珍妙な客たちに気づいた店主は、これでもかというほどに目を見開いた。

少しの間の後、目の前にいるレヴィへ慌てて声をかける。

 

 

「おい……おいおいおいレヴィ! おいってレヴィ!!」

 

 

 

バオの呼びかけに店内の異様な空気に気づいたレヴィとグスターボは、同じタイミングで後ろを振り向いた。

 

 

 

──二人の視線の先には、小さなメイドが一人堂々と店の真ん中で立っていた。

 

 

 

「事務所の方に電話を入れたのですが、いずれもご不在でございました。皆様がこちらに立ち寄ることは若様がご存じでしたので、出向かせていただきました」

 

 

 

酒場とは思えないほどの緊張感が張り詰めている中、丁寧な口調で淡々と告げる。

 

 

 

 

「サンカン・パレス・ホテルにて若様がお待ちです。ご足労を願えますでしょうか」

 

「……こりゃ、一体何の冗談だ」

 

グスターボは驚きで口を開いたまま、思ったままの言葉を呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────────

 

 

三合会のアジトである熱河電影公司ビルの最上階。

夕日に照らされる街を眼下に望み、張は優雅に高級ソファへ腰かけている。

 

嗜好品である煙草を取り出し、紫煙を燻らせながらつい先ほど部屋に入ってきた腹心の部下の報告に耳を傾けていた。

 

「──大哥、コロンビアの連中が動いたようです。連中の戦闘車両が3台ばかりシッタラードの中央線道路を港湾方面へ向かったと」

 

「あそこにあるのはごつい荷揚げ場に倉庫街、そしてイエロー・フラッグだけだ。イエロー・フラッグの様子は?」

 

「俺たちは結局空振りでした。“メイドを見たら知らせろ”とバオに言付けだけを」

 

「行き違いになったわけか」

 

淡々とした報告を聞きながら、自身のライターで煙草に火をつける。

肺から煙を深い息とともに吐きだし、テーブルの上で足を組み、しばらくの間の後口を開く。

 

「──さて、俺たちはどうするべき、か。今更イエロー・フラッグに馳せ参じたところで得がない。女中の素性が火傷顔(フライ・フェイス)の言う通りなら尚更だ」

 

 

灰皿に灰を落とし、自身の考えをまとめるように淡々と話を続ける。

 

 

「前回は攫われた坊ちゃんの奪還が火種の発端だった。だから静観を決め込んでいた──が、今回に限っちゃ話は別だ。彪、奴の敵討ちは当の主が爆弾テロに巻き込まれたのが原因だったな?」

 

「はい、大哥」

 

「それはいい、少し探れば簡単にたどり着く。──だがな、肝心の敵の姿がまるで見えてこない」

 

途端、張は眉間に皺をよせ、僅かに声音を固くする。

 

「女中は舞台をこの街に移し、狐狩りをやるつもりでいる。それはここに敵がいるからだ。獲物の匂いを嗅ぎつけやってきた。俺はな彪、頭のいかれた女中のことなんざどうでもいい。こちらに累の及ばん限りは敵討ちだろうが殺し合いだろうが好きにやって構わない。──俺がどうしようもなく気になって仕方ないのは、俺でも把握できない誰かがこの街に潜んでやがることだ。テロの現場で壇上にいる奴らのケツのみを正確に蹴り上げれるほどの技術を持った野郎が、目的も分からんまま潜んでいる。それが実に気に喰わねえ」

 

張の話を一通り聞き、再び煙を吐いている上司へ彪は素直に自身の疑問を投げかける。

 

「ですが大哥。最近来た奴も含め、この街にいる奴の素性は概ね掴んでいます。それだけの腕を持ってりゃ嫌でも耳に入るはずです」

 

「……彪、名前を売る必要がない連中なら? 欲もなく金も必要としてない連中だとしたら? キキョウのように武力と無縁な奴ならともかく、力と技術を持ってる連中が何を求めてこの街に?」

 

張からの問いかけに、彪は口を閉ざした。

正体不明の得体が知れない連中の考えが分かるわけもない。

 

「推測の域は出ないがな。今後は街の利益に関与しない者も含めて情報を漁っておいた方がいい」

 

短く告げ、灰皿に煙草を押し付ける。

張が肺に残った最後の煙を吐き切った途端、奥のドアからノック音が響いた。

 

「大哥、郭です」

 

「入れ」

 

もう一人の腹心の部下の声に間髪入れず部屋へ入る許可を下す。

颯爽と郭は中へ入り、彪の隣へ立つとすぐさま口を開く。

 

「先ほど、メイド絡みの情報がまた一つ入りました」

 

「仔細を」

 

「は。……端的に申し上げますと、キキョウのとこのガキがメイドとともに行動していたと」

 

「あ?」

 

 

まさかここでキキョウの名前が出るとは思わず、張は片眉を上げ郭へ顔を向けた。

 

 

 

「キキョウと直接関わりがあるとは思えませんが、前回のこともありますので念のため大哥の耳に入れておくべきと判断しました」

 

「…………あいつの巻き込まれ体質が弟子に移ったか? ったく、あいつはなんでこうも……」

 

こめかみを抑え、小さな声で何やらぶつぶつと呟く上司の姿に、郭と彪はお互い目を合わせた。

マジで盗聴器しかけてやるか、と少々物騒な言葉が聞こえた後、彪が恐る恐る声をかける。

 

「あの大哥……それで、どうされますか?」

 

「……ひとまず、ガキのことは後でキキョウに問いただすとして、真実に一番近いコロンビアの連中に聞きに行きたいところだが……ちと口実が足りねえ。悪戯に事を荒立てるのも得策じゃない──とすれば、関わってる奴に直接聞きに行くのが最上の手か」

 

自身の考えを述べた後、傍らに脱ぎ捨てていたロングコートを手に取り、立ち上がる。

颯爽と袖に腕を通し、腹心の部下たちへ声をかける。

 

「お前ら、ちょいと出かけよう。ここらで挨拶を済ませておくのも悪くはない」

 

張は短くそう告げると、ロングコートの裾を翻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────────

 

 

「──師弟揃ってメイドを引き込みやがって! お前の師匠はとうとう疫病神になっちまったのか!?」

 

「そんな怒んないでよ!」

 

「ガキでもメイドの話くらい知ってるだろ! なんでウチに連れてきた!」

 

「案内するだけなら大丈夫って思ったんだよ! あんな武器隠してたのわかんなかったし!」

 

小さきメイド──ファビオラがラグーン商会とともに主人の元へ向かい、店にいた客全員が去った後、イエロー・フラッグの前でルカとバオが大声で言い合っていた。

事の発端は、ファビオラがマニサレラ・カルテルと撃ち合いに発展したことにあった。

 

何が何でも情報を手に入れたがったカルテルは、ファビオラに無理やり主人の元へ案内させようとしたが、仇敵でもある組織の要望に応えるわけはなく、隠し持っていたグレネードを店内にも関わらずカルテルへ発したのだ。

 

当然店が無事であるはずもなく、窓ガラスはすべて砕け、表のドアは吹っ飛び、大きな風穴がいくつも空いている──全壊と言える状態と化していた。

 

そんな店の有様に、バオの怒りの矛先はファビオラを連れてきたルカへと向けられているのである。

 

「何が大丈夫だ! 見ろ! 俺の店がどこでも誰でも入り放題のオープンカフェになっちまった!」

 

「そんなのいつもの事じゃん!」

 

「んだとッ!」

 

「まあまあバオ。この子も悪気があってやったわけじゃないんだし、キキョウに免じて大目に見てあげたら?」

 

次第にヒートアップしそうな二人を諫めたのは、これもまた思わぬ爆風に巻き込まれ営業を強制終了させられたスローピー・スウィングのオーナー、マダム・フローラだった。

 

「これで二回目だぞ! 今回はホテル・モスクワの保険もねえ! こんな有様にしやがったチビは早々に退散しやがったしよ!」

 

「僕のせいじゃないんだから当たんないでよ……」

 

「半分はお前のせいだぞこのクソガキ」

 

「はあ!?」

 

「んー……まあ、ひとまずキキョウに連絡したらどう?」

 

「えっ」 

 

「一応この子の保護者なんだし。幸い携帯は生きてたから貸してあげるワ」

 

はい、とフローラはバオに自身の携帯を差し出す。

ルカはキキョウの名前が出た途端不安そうな表情を露にする。

そんなルカに構うことなく、眉根を寄せ無言で受け取るとすぐさまキキョウの携帯番号へかけ始めた。

しばらくすると向こうが電話に出たらしく、バオは先程よりは落ち着いた声音を出す。

 

「ようキキョウ、バオだ。忙しいとこ悪いんだが、おめえんとこのガキがよ──」

 

これまでの経緯を簡単に説明する様を眺めながら、ルカは一層不安げな表情を浮かべた。

ルカの様子を見兼ねたスローピー・スウィングの娼婦たちが、「大丈夫よ。Ms.キキョウは優しいから」「ちゃんと責任とってくれるわよ」と励ますように声をかける。

 

「……はあ、分かったよ。そこまで言うならそれで手打ちにしてやる。それならフローラも機嫌悪くしねえだろうからな。だが今回だけだぞ」

 

キキョウと話がついたらしく、バオは一つ息をつき、納得したような声音を出した。

心なしかどこか満足げな表情を浮かべている。

 

「──ああ、そこにいるぜ……おいルカ」

 

「なに?」

 

「お前に代われってよ」

 

目の前に携帯が差し出されると、ルカの顔がさらに強張る。

唾を飲み込み、緊迫した表情で恐る恐る携帯を手に取った。

 

 

小さく息を吐き、しばらくの間の後重い口を開く。

 

 

「……先生」

 

『全部聞いたよ。怪我はない?』

 

「うん」

 

『よかった』

 

「…………先生、僕」

 

『ルカ、今回悪気があったわけじゃないんでしょ?』

 

言葉を遮られ飛んできた問いに、すぐさま返す。

 

「うん。カルテルも狙ってたなんて、本当に知らなかったんだ……この街の女の子じゃないって分かってたから、一人じゃ危ないと思って道案内しただけで……」

 

『だけどメイドさんの話は前したよね?』

 

「でも、放っておけなくて……」

 

『どうしても?』

 

「うん」

 

ルカの返答に、キキョウは考えているのか無言の状態が続く。

やがて、ため息らしき音が聞こえた後、再びキキョウの声が飛んでくる。

 

『分かった。バオさんも許してくれたし、そこまで責めるつもりはないよ。……だけどねルカ、今回は三合会も関わってるの』

 

「え……」

 

『さっき張さんから電話があってね。ルカとメイドさんが一緒にいたっていうのを彼も聞いたみたいで、何か知ってるかって。……カルテルだけじゃなく張さんも気にしてるってことは、今街で何か“よくないこと”が起きてる。──君なら、この意味わかるよね?』

 

子供であってもこの街で育ってきたルカは、キキョウの言葉の意味を簡単に理解できた。

街の支配者たちが気に掛ける存在と関わってしまうのは、余計な争いごとに巻き込まれるのと同義である。

キキョウに世話になっている身として、自分の軽率な行動に後悔せざるを得なかった。

 

「……その、僕……」

 

『張さんには私から説明する。ルカのせいで張さんたちに影響が出たとかじゃないから、彼もそこまで責めないだろうし。だからそんな不安そうにしないで』

 

「……怒らないの?」

 

『君は怒られるようなことはしてない、そうでしょ? まあ、悪意があったなら別だけど』

 

「それは絶対ない!」

 

『ならいいの』

 

ルカの間髪入れない否定の言葉に納得したような声音が聞こえ、緊張した表情から一変、安堵した表情になっていた。

 

『それでねルカ。話は変わるんだけど、ちょっとお願いがあって』

 

「え?」

 

『私の弟子として、一つ仕事を頼まれてほしいの』

 

唐突な話に驚くルカに、キキョウは間を空けることなく話を続ける。

 

『マダムに娼館の衣装を何着かプレゼントしようと思ってるの。全部だめになってるだろうし、どんなものがいいか聞いといてほしい』

 

その言葉に、きっとバオに手打ちにしてもらうためキキョウから言い出した条件なのだろうと察する。

申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、師から与えられた仕事を立派にこなすため、詳細を聞きだそうとすぐさま口を開く。

 

「プレゼントってことはタダなんだよね? 何着までとかある?」

 

『できれば娼婦一人につき一着。納得しないようなら二着。あと、基本オーダーメイドじゃなく、在庫のものに手を加えるだけになる。どうしてもオーダーメイドがいいなら一か月以上かかることを伝えて』

 

「分かった」

 

『お願いね』

 

「うん。……先生、ありがとう」

 

『気にしなくていいんだよ。……じゃ、気を付けて帰りなさい』

 

最後にそう告げた後、向こうから電話が切れた。

 

息を吐き、ふとファビオラの顔が頭によぎる。

最早恋心など無いに等しく、今後絶対関わらないようにしようと決意する。

あんな台風の目に関わるのは、己だけではなく尊敬する師までも巻き込んでしまうのだから。

 

ものの数時間で砕け散った初恋に思い馳せることなく、自身の仕事をこなすべくフローラへと声をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「──仕事の合間だけにとどめるさ、猫探しと一緒だ」

 

「猫というよりは、シベリアトラってところかな」

 

「そうかも」

 

イエロー・フラッグが全壊した後、ラグーン商会はファビオラと共にラブレス家当主、ガルシアがいるサンカン・パレス・ホテルへと赴いた。

そこには、ガルシアだけでなく三合会の張もおり、紆余曲折あったもののガルシアとファビオラの話を共に聞くこととなった。

 

二人の口から、前当主の死因である爆破テロはアメリカ合衆国の将校が関わっていたこと。

テロの実行犯もまたアメリカ合衆国の非正規部隊であること。

そして、その部隊は何らかの目的で今ロアナプラに潜んでいること。

ロベルタはその情報をかぎつけ、ロアナプラに舞い戻ったこと。

 

これらの話が張とラグーン商会にもたらされた。

 

一通り話を終えた後、ガルシア達はロベルタを取り戻すためロックへと協力を仰いだ。

アメリカの部隊とロベルタがロアナプラで戦争を起こすことをよしとしない張も、背中を押すようにロックへ様々な言葉で煽る。

 

ダッチとレヴィの静止の言葉がかかったとことろで、答えを出す時間が必要と判断し、ひとまずその場は解散となった。

 

──そして今、ホテルを出たラグーン商会の車中ではどこか重々しい空気が流れている中、ロックは依頼を受けようかと話を切り出している。

事の重大さを分かっていないロックへ、レヴィは真剣な表情で話し始めた。

 

「ロック、この話で問題なのは猫を探して首を突っ込んだその先だ。クローゼットを開けた途端、お前の上半身はきれいさっぱりかじり取られることもあり得る。合衆国の兵隊が絡んでるなら尚更だ」

 

レヴィの言葉にロックの顔から笑みが消える。

しばらくの沈黙の後、やがてダッチが無表情で徐に低い声音で話し始めた。

 

「一つだけ言っておこう、ロック。──もし、お前より向こうの方が追いつくのが早ければ、絶対に手を引け」

 

「ダッチ、でも……」

 

「俺がボスである以上、議論はナシだ。こいつはとてつもなく繊細で、俺たち全員にかかわる事柄だ」

 

「……だけど、俺は……」

 

ダッチの言葉に、尚納得していない顔を浮かべるロックへ追い打ちをかけるように言葉をかける。

 

「お前がムキになってるのはあの張の煽りのせいだ。そうだろ」

 

「ちが……」

 

「違わねえ。明らかにあれはわざとお前に火をつけるための挑発だ。あの男は人の扱い方ってものをよく分かってる」

 

 

ダッチの言う煽りとは、ガルシアから依頼を持ち掛けられた時の張の言葉である。

 

 

『──男ならデカいヤマこなして、気になるオンナを振り向かせるくらいの気概を見せてみろ』

 

 

 

耳元で囁かれたこの言葉をロックは一瞬で理解した。それはすぐそばで聞いていたダッチも同様であった。

思うことは各々違えど、二人は張の言葉に不快さを感じざるを得なかった。

 

 

 

ロックにとってこの手の話はある意味地雷であることを張は見抜き、それを見事うまいように引き出してきたのだ。明らかな挑発だが、効果は覿面である。

 

 

煙草を取り出し、ダッチは苛立つように乱暴に火をつけた。

 

 

「ロック、分水嶺の見極めを間違えれば予想もつかない流れが、俺たち全員の身に降りかかる。──結果、若様やあのちびメイドがどんなことになろうと、俺たちは俺たちのためにそれを避けなきゃならん」

 

 

 

 

煙を吐き出し、低い声音で告げる。

 

 

 

 

 

「そのへんが理解できないなら、金輪際俺の船から降りてもらう。──言うべきことはこれですべて、あとはお前次第だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──日が沈み、すっかり辺りが暗くなった頃。

人気の全くない全壊したイエロー・フラッグでは、バオが懐中電灯の光だけを頼りに店の金庫を探していた。

 

店に被害が及ぶ度に使う金がその金庫に入っているのである。

いつものようにカウンターだった場所をしばらく探っていると、瓦礫の下に埋もれていた小さな金庫を見つける。

 

「はあ~……こいつが壊れてなかったのが不幸中の幸いってやつだな……」

 

店を修繕するために使える金は今ここにある分だけ。

今回はキキョウに少し修繕費を出してもらうことになっているが、気前のいい常連客に全額出させるのはさすがのバオも気が引けたらしい。

 

被った埃を払いながら、ふう……と一つ息を吐く。

 

早速中身を確認しようと鍵に手をかけた瞬間、まるでガラスの破片の上を歩いているかのような音が近づいてくる。

 

一体こんな時にどんな迷惑な客だ、と心の中でバオは悪態をついた。

 

「おいあんた、今この店の有様が目に入らねえんだったら眼科に診てもらえ。なんだったら腕のいい医者紹介してやろうか?」

 

遠回しに出ていけと伝えるも、その客は一行に去る気配はない。

苛立ちを隠すことなく、背を向けたまま再び声をかける。

 

「分かんねえか? とっとと出ていけって言ってん」

 

「医者の他にも、色々と紹介いただきたい店があるのですが」

 

バオの言葉を遮った女性の言葉に、思わず体が固まる。

勢いよく後ろを振り向くと、夜の闇でトランク片手に悠然と立つ一人の女性──メイド服に身を包んだラブレス家が婦長、ロベルタの姿があった。

 

あまりにも唐突の出来事に、バオは一瞬言葉を忘れた。

少しの沈黙を破るように、ロベルタは更にバオへと近づく。

 

 

 

思わず後ずさりし、バオは苦虫を潰したような表情を浮かべる。

 

 

 

「それと、あの洋裁屋さんがご健在ならそちらも紹介いただけると助かります」

 

 

 

そう言葉を発したロベルタの顔は、何か腹をくくったような表情。

眼鏡の奥からの鋭い視線も相まって、バオは背筋が凍るような感覚が走り固唾を飲むことしかできなかった。

 



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64 盤上に集いし駒




お待たせしました。久々の投稿です。


──ルカが小さなメイドさんを道案内した翌日。

時計が午前九時を指し示す時間。とっくに朝食を済ませスローピー・スウィングへのプレゼントを用意するため、道具の手入れをしている。

 

ルカはというと、娼婦たちが希望する服を自分で選び持ってくるよう“課題”を与えたため、今は収納部屋にいる。

 

服の種類も少しずつ教えているため、覚えの早いルカにとってこの課題は特段難しいものではない。

それに、どこまでできるのか時折確認したほうがいいだろうと考え、昨日に引き続き一人でこなすべきことを与えてみた。

 

まあ、できなくてもまた教えればいいだけの話。

 

──そうしてルカの帰りを待つこと二十分。そろそろ帰ってきてもいい頃だがまだドアは開かない。

 

恐らく服選びに困っているのだろう。

あと十分戻ってこなければ迎えに行こうか。

 

時計を見ながら考えていると、途端作業台の上で携帯が振動する。

着信音が流れる中、すぐさま手に取り「はい、キキョウです」と口を開く。

 

 

『ガキにはきちんと説教したか? お師匠さん』

 

 

聞こえてきたその一言と声で、相手が誰なのか考えることなく理解する。

 

 

「ええ、ちゃんと話をしましたよ」

 

『そりゃよかった。流石のお前もメイドには警戒してるようだな』

 

「目の前であんなに暴れられたら嫌でもしますよ。……それで、どうされましたか張さん」

 

ちょっとした世間話が終わったところで、我がパトロンへ本題を聞き出す。

息を吐き出した音が聞こえた後、一つの間を空け彼が話を切り出した。

 

『お前の耳に入れておくべきだと思ってな。例のメイド絡みの件だ』

 

「……昨日お話した通り、私とルカにそこまで深い関わりは」

 

『おチビちゃんの方じゃない。今度は“猟犬”の話だ』

 

 

猟犬。

 

 

それは前にこの街へ来た、私が道案内しイエロー・フラッグを全焼させたあのメイドさんの呼び名。

以前の彼女の容姿や暴れっぷりなどは張さんに既に話しており、今回も何も知らないので私にはもう関係ない。

……はずなのだが、張さんがわざわざ電話をかけてくるということは何かしらの事情があるのだろう。

 

 

一呼吸間を空け、煙草を吸っているであろう彼へ素直に疑問をぶつける。

 

 

「彼女が何か?」

 

『どうも猟犬がお前に興味を持ってるみたいでな。詳しい経緯は省くが、バオがメイドにお前の話をしたようだ』

 

「え……」

 

『バオの話だと“洋裁屋は今もこの街にいるのか”、それを聞かれただけだと。──キキョウ、ここ数日で何か妙な依頼はないか?』

 

なぜメイドさんが私のことをバオさんに聞いたのか。

というか本当にまたこの街へ来ていたとは。

 

色々思うことはあるが、彼の問いを無視するわけにはいかない。

嘘偽りない回答をしようと言葉を返す。

 

「今私がこなすべき依頼はスローピー・スウィングのものだけです。それはバオさんを介して受けたものなのでメイドさんとは関係ないです。蛇足かもしれませんが、ここ一週間来客もありません」

 

『そうか、ならいい』

 

彼も私から情報が出てくるとは思ってなかったようで、私の言葉に素直に納得してくれた。

しつこく聞かれるかもしれないと懸念していたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

 

「もしメイドさんから依頼されたらすぐ報告します」

 

『そうしてくれ。ああ、それともう一つ』

 

思い出したような声と言葉を発した後、再び煙を吐く音が聞こえる。

 

『ラグーン……ロックがメイドの件でそっちに向かうかもしれん。その時はアイツにも話してやってくれ』

 

「え……?」

 

『メイドのご主人様がメイド探しの助っ人にロックをご指名された。今頃、バオから話を聞いてる最中かもな』

 

「……なぜ彼を」

 

『ご主人がロックに大層世話になったみたいでな。アイツはこの街では珍しい、人畜無害の皮を上手く被ってる。まあ、妥当な人選だろう』

 

久々に聞いた名前に思わず眉根を寄せる。

 

私がイエロー・フラッグで痴態を晒した日から岡島を避けているのがバレているのか、張さんも含め、周りが私の前で彼の名前を出すことが少なくなった……と思う。

 

岡島と最後に話した日から一か月以上経つが、未だにあの時のことは許せないでいる。

 

『お前がロックを毛嫌いしてるのは分かってる。が、今回はアイツに協力してやれ。下手すりゃこの街が吹っ飛びかねん事柄だ、俺としても有利に事を進めたい』

 

「……」

 

『キキョウ、俺のためにちと我慢してくれねえか?』

 

その言い方に思わず苦笑する。

彼なりの気遣いなのか、はたまた冗談を言いたかっただけなのか分からないが、少しだけ不快感が取れたような気がした。

 

「そんなこと言わなくてもちゃんと協力しますよ。この街が吹っ飛ばされるのはごめんですから」

 

私が岡島を避けているのは個人的なことであり、張さんには何も関係ない。

なら、ここは彼の“協力してやれ”という言葉に素直に従うべきだろう。

 

『少しは機嫌がよくなったようだな』

 

「ええ、貴方の冗談に救われてしまいましたね」

 

『そりゃ何よりだ。お前に男の相手をさせるのはちと気が引けるが、今度いい酒と甘いモノやるからそれで許してくれよ?』

 

「今のでまた不機嫌になりそうなんですが」

 

『おっと、じゃあここらでやめておこう。──近々また連絡する。ではキキョウ、また』

 

最後にそう言って通話が切れる。

一つ息を吐き、作業台の上へ携帯を置く。

 

岡島がここへ来ることは少し……いや、大分気が引けるが他ならぬ彼の頼みなので仕方ない。

 

再び息を吐き、椅子に腰かけたのと同時に飛んできたドアを叩く音と「先生ごめん! 遅くなっちゃった!」と元気のいい声に、思わず笑みを零し腰を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──張さんから来客があるかもしれないと告げられてから数時間。

 

刺繍に集中しているルカを横目に、スローピー・スウィングへのプレゼントに手をつけながら彼の訪問を待っている。

いつ来るのかほんの少しだけ気になっているせいか時折時計を見ては作業を再開し、しばらくして再び時計を見やり……と、いつもより大分集中力が途切れてしまっている。

 

ここまで彼と話すのを嫌悪しているとは、我ながら驚きだ。

いや、一度本気で殺そうとした相手なのだから嫌悪するのは当然か。

 

針をピンクッションへ刺し、一つため息を吐く。

すると、静かに動かしていた手を止め、ルカは私へ「先生」と呼びかけた。

 

「どうしたの? 今日ずっとソワソワしてるけど」

 

「……ごめんね、なんでもないの」

 

流石に私の様子がおかしいと感じていたのか、訝し気に聞いてきた。

手を止めさせてしまったことに申し訳なさを感じ、少し眉を下げ答える。

 

「今日のお客さん、そんなに気になるの?」

 

「……まあ……少しだけ、ね」

 

“なんでもない”という私の言葉を信じていないようで、遠慮なくいきなり核心をついてきた。

あまり詳しくは言えないので言葉を濁す。

 

「そっか。ま、もしなんかあったら僕が追い返してあげるよ」

 

「相手は大人だよ、できるの?」

 

「できるだけ頑張る。で、いざとなったら二人で逃げよ。そしたら張さんに匿ってもらお」

 

「それ、結局他人任せじゃ……」

 

「大丈夫だよ。逆に先生からやってきてくれるの嬉しんじゃないかな、張さん」

 

ルカなりに元気づけようとしてくれているのだろう。

その気遣いが妙に嬉しく、彼の言葉に思わず笑みが浮かぶ。

 

「じゃあ、もし何かあったら頼もうかな」

 

「任せなさいっ」

 

にっこりと笑みを浮かべそういう弟子に、胸につかえていた何かが軽くなった。

子供にこれ以上気を使わせてしまうのはよくないので、気を取り直し目の前の依頼に集中しようと針に手を伸ばす。

 

 

──瞬間、外から何やら声が飛んできた。

 

 

「……何躊躇ってるんですか! 早くノックしてください!」

 

「そう急かしなさんな。色々あるのさ、彼にも」

 

「こっちだってぐずぐずしてる暇はないんですよ!」

 

「ファビオラ、そんなに怒らないで……」

 

聞こえてきたのはラグーン商会のベニーと女の子、男の子の声。

ファビオラ、という女の子の名前を聞いた途端、ルカが「げっ!」と声を上げた。

顔を見やると、何やら引き攣った表情を浮かべていた。

すると、ルカは勢いよくこちらへ顔を向け、何故か小声で話し始めた。

 

「先生! 客人ってメイドさんだったの……!?」

 

「うん」

 

「言ってよ!」

 

「別に普通に接すれば問題ないでしょ? ルカだって後ろめたいことないんだし、そこまで気にしなくても」

 

「気にするよ! だって僕あの子に……」

 

不自然に言葉が止まったことに首を傾げる。

だがそれも束の間、すぐに「とにかく!」と言葉を続ける。

 

「あの子は一人でイエロー・フラッグを滅茶苦茶にしたんだよ! 何されるか分かったもんじゃ……」

 

再び不自然なところで言葉が止まる。

原因はドアから響いたノック音と「キキョウさん」と呼びかける岡島の声。

 

「ロックです。……用件は張さんから聞いてるかと思います」

 

久々に聞いた声に思わず眉根が寄ってしまう。

すぐさま顔を振り、気を取り直し椅子から腰を上げドアの方へと向かう。

 

一つ息を吐き、意を決してドアノブに手をかける。

 

「……いらっしゃい」

 

「……」

 

ドアを開ければ、目の前には岡島。その後ろにベニーと金髪の男の子と小さいメイドさんが立っていた。

自分でも思った以上に低く固い声音を出してしまい、空気が重くなる。

そのせいか岡島は気まずそうに目線を逸らした。

 

それが妙に癪に障り、また眉間に皺が寄ってしまう。

 

重々しい空気が流れる中、後ろの子供たちは戸惑ったような表情を浮かべている。

 

「や、やあキキョウ久しぶり。もしかして、仕事中だったかい?」

 

「……久しぶりベニー。大丈夫だよ」

 

ベニーが空気を察してくれたのか、戸惑いながらもいつもの調子で話しかけてくれた。

いけない、と心の中で呟き、今度こそ気を取り直しできるだけ冷静に話す。

 

「張さんから話は聞いてる。……その子たちが例の?」

 

「ああ、例のメイドを一緒に探してる」

 

「ガルシア・フェルナンド・ラブレスと申します」

 

「ラブレス家、雑役女中を務めております。ファビオラと申します」

 

「初めまして。洋裁屋、キキョウです」

 

礼儀正しい言葉遣いで自己紹介する二人に自身も名を告げる。

金髪の男の子──ガルシア君と握手を交わし、「中へどうぞ」と促す。

 

中へ戻ると、何故か顔を引きつらせているルカが立って待っていた。

 

「あ、もしかしてその子が例の弟子かい?」

 

「そっか、ベニーは初めましてだったね。―—ルカ、この二人はラグーン商会のベニーと岡島。後ろの二人は」

 

「あ、貴方は確か昨日の……」

 

小さいメイドさんがルカの顔を見た瞬間、思い出したかのように言葉を投げかける。

その瞬間、ルカは困ったように頭を掻いて「……はあ」と小さく息を吐くと、半ば諦めたかのような表情で口を開く。

 

「昨日ぶりだねファビちゃん。生きて若様のところに戻れたんだ」

 

「その呼び方やめてください」

 

「いいじゃん、別に減るもんじゃないし。―—初めましてベニーさん、オカジマさん。ルカです。先生がいつもお世話になってます」

 

小さいメイドさんの言葉を流し、ラグーンの二人に挨拶する。

張さん達に挨拶する時に教えた言葉を丁寧に発する弟子を見て、成長を垣間見た気がして少し頬が上がった。

 

「それで、今日は何の用で?」

 

軽い挨拶を済ませたところで、早速本題を切り出す。

こちらもこなすべき依頼があるので、なるべく早めに用を済ませておきたい。

……彼といつまでも顔を合わせたくない、というのが本音かもしれないが。

 

「例のメイドのことでお話を聞かせてもらいに来ました」

 

少しの気まずさが混じりつつも、岡島が固い声音で言葉を発する。

早々に本題を口にしたところを見ると、彼もいつまでも私と顔を合わせたくはないのだろう。

できるだけ冷静に言葉を返そうと口を開く。

 

「……で、メイドさんの何を聞きに?」

 

「バオからメイドに貴女を紹介したと聞きました。今妙な依頼はありますか」

 

「ない。今引き受けてる依頼はマダム・フローラからのものだけ」

 

「では、メイドはまだこちらに来てないと」

 

「そうだよ」

 

「他に来客は」

 

「ない」

 

「メイドを見たことは」

 

「全くない」

 

ただ淡々と岡島からの質問に答えていく。

お互い目を合わせることはなく、事務的に会話が進んでいく。

 

どうやらそのことが空気を重くさせてしまっているらしく、ベニーの顔が若干引き攣っている。

 

岡島も聞きたいことは聞けたようで、取り出した手帳に何かメモを書くとすぐさま口を開く。

 

「ありがとうございます。俺からの話は以上です」

 

「そう」

 

無表情に話す彼の様子にほんの少しの違和感を覚える。

 

 

……よく考えれば、何もかも違和感だらけだ。

 

なぜ彼は今回の件に手を出そうとしているのか。

 

以前メイドさんの武力を間近で見ていたというのに、懲りていないのだろうか。

 

 

張さんも今回のことは「街が吹っ飛ぶかもしれない」と言っていた。

そんな大事な件に普通なら自ら巻き込まれに行くことはない。

 

 

 

そう、普通なら。

 

 

 

 

──だが彼は人の過去を勝手に漁り、勝手に正義感を押し付けてきた人間だ。

子供に頼られたから何かしてやろうと。何かできるはずだと思っているのだろうか。

 

 

 

これはあくまでも私の勝手な憶測。

だが、彼が何かやろうとしている現状に、何故か妙に苛立ってしょうがない。

 

 

 

「じゃあ、俺たちはこれで」

 

「待って岡島」

 

去ろうとする彼の背中へ咄嗟に声をかける。

 

「どうして、この子たちの手助けを?」

 

「……」

 

「まだ自分にも何かできると思ってるの?」

 

「…………」

 

「もしかして、また正義のヒーロー気取り?」

 

私の問いかけに一向に答える気配がない。

図星なのだろうか。

 

思わず「はっ」と嘲笑してしまう。

 

 

 

「子供に期待させるような真似、やめた方がいいと思うけど」

 

 

 

自分でも驚くほどの嫌味を言ってしまう。

普段ならこんなこと絶対言わないのに。

 

彼を前にするとどうも調子が狂う。

 

「ちょっとなにを……!」

 

キキョウさん

 

小さなメイドさんが何か言いかけるが、岡島がそれを制するように私の名を日本語で発し、顔をこちらへ向ける。

 

貴女の言う通り、俺は一人じゃ何もできない無力な男だ。……貴女に、今すぐこの街を出るべきだと言ったのはあまりにも無責任だった。俺に貴女をこの街から出せる、この街から出ていった方がいいと思わせる力がなかった。そんな無責任だった俺が取っている今の行動を貴女は理解も許容もできないでしょう──だけどね、俺は気づいたんですよ

 

「……」

 

この街には……いくつもの弾丸が転がっている。その弾丸を拾い、どう使うのかは俺次第だってね

 

「……どういう意味? 

 

彼の言葉の意味が分からず聞き返す。

訝し気な表情を浮かべる私に、岡島は引き続き真っすぐ言葉を放つ。

 

 

 

俺一人じゃどうにもならないなら、何でも利用してやりますよ。……将棋と一緒だ。相手の駒も全部利用して、ゲームに勝つ。それが唯一、この街で俺にできることだ

 

 

 

そう言う彼は私をまっすぐ見つめ、一つの迷いもない。

 

 

──あの時。私が彼に裁ち鋏を向けた時の表情と同じ。

 

 

 

今回はゲームに勝つための駒も作戦もある。あとは俺の運次第だ

 

「…………ゲームじゃないんだよ

 

そうですね。だけど、ゲームだと思えば俺の気も少しは楽になる

 

 

あの時と同じ表情。

 

だけど、どこか。何かが違う。

 

 

 

得体の知れない彼の何かに、思わず言葉が詰まった。

 

 

 

今思うのは、メイドさんを追いかけるためにこの街まで来た二人に私たちの言葉が分からなくてよかった、ということだけ。

 

 

「じゃあキキョウさん、もしメイドが来たら連絡をください。俺じゃなくてもラグーンに伝えてくれればいいので」

 

 

日本語から英語に切り替え、彼は再び淡々と話す。

 

「…………分かった」

 

「じゃあ、また。行こうガルシア君」

 

「は、はい。Ms.キキョウ、お邪魔しました」

 

最後に一言そう言うと、颯爽と去る岡島の後を三人は着いて行った。

客人がいなくなった後も何故かその場から動けずにいると、ルカから「大丈夫、先生?」と恐る恐る声がかかる。

 

「……大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけ」

 

いつもの調子で言葉を返すと、ルカも安心したのか少し微笑んでいる。

 

「先生、あのオカジマさんって人嫌いなんだね。何されたのさ」

 

「ちょっと色々ね」

 

「でも意外だったよ、先生も人に対してあんなに嫌悪感出すんだね」

 

「私にも嫌いな人の一人や二人いるんだよ」

 

「ふーん。そんな人、張さんが消しそうだけどね。オカジマさんなんで生きてんだろ」

 

「私が嫌いってだけでわざわざ殺さないでしょ。彼は暇じゃないんだから」

 

物騒なことをさらりと言うルカに思わず苦笑する。

冗談か分からないが、なんとかいつもの調子を取りもどす。

 

また気を使わせてしまったか、とありがとうの意味も込めルカの頭を撫でると、彼は「え、なあに」と照れくさそうに笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

──途端、ドアから再びノックの音が響く。

 

岡島たちが戻ってきたのかと思い顔が強張る。

 

「洋裁屋、あんたに頼みたいもんがあって来た。急ぎの依頼だ」

 

飛んできた声に岡島ではないことを確信する。すぐさまルカの頭から手を放し、二度目の来客を迎えようと足を動かす。

ドアを開けると、そこにはアロハシャツを着た男性が一人。

 

「初めましてMs.キキョウ。俺はリッチー・リロイ、早速だがあんたに頼みたいもんがある」

 

口の端を上げ、彼は口早にそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────────

 

「──セニョール・ロック、一つ聞いてもいいでしょうか?」

 

「なんだい?」

 

「丸一日歩き回ってお話にあった4軒中3軒に居留守を使われました。これは一体どういうことでしょう」

 

洋裁屋キキョウの家を後にし、ロック一行は少し遅めの昼食をとろうと近くにあった店へと入り、頼んだ料理を各々口に運んでいた。

そんな中、ファビオラは不満をぶつけるように眉間に皺を寄せながらロックへと詰め寄る。

 

口の中に残っていたものを飲み込み、持っていた箸を止めることなく口を開く。

 

「そんな不機嫌な顔してるとごはんがまずくなっちゃうぞ」

 

「なぜこんなに居留守を使われるんでしょうか!? これじゃ一向に先へ進めません!」

 

ロベルタ捜索にあたり、ロック達はまず最初の接触者であろうバオへと話を聞きにいった。

バオがロベルタに紹介した医者やら武器整備の職人などの名を聞き、一軒一軒直接聞き込みに行ったのである。

だが、キキョウ以外の人間は彼らに取り合うどころか姿さえ見せなかった。

 

唯一応じてくれたキキョウからも大した情報を得られることなく、今日の行動は空振りに終わったも久しい事実がファビオラを苛立たせている要因だった。

 

「そう怒りなさんな、当然さ。ただでさえ誤解を招きやすそうなメイド姿の子供と、この街じゃ見ることがない育ちのよさそうな子供を引き連れてるんだ。そんなややこしそうな連中にまともに取り合う人間はいないよ」

 

「じゃあなぜ洋裁屋の彼女は」

 

「Mr.張から直接話が行ってたからだと思うよ。まあ、なかったとしても彼女は応じたかもしれないけどね」

 

「は?」

 

「変わり者なんだよ、彼女は」

 

ファビオラを宥めるように、ベニーは淡々と告げる。

 

「とにかく、取り合ってもらうにはそれなりの人間が必要ってことさ。レヴィやダッチとかね」

 

「だとしても空振りでは済まされません。明日は私一人でも探索を」

 

「ファビオラ、ロックさんですらこうなんだ。残念だけど僕らだけじゃ難しいよ」

 

「ですが……」

 

「焦ってもしょうがないさ。とりあえず、レヴィには俺から頼んでみるよ」

 

そう言って、ロックは皿に残ったご飯の残りを一気にかき込む。

箸を置き、コップに入っている水を飲み干す。

 

「今日はもうお開きにしよう。張さんが用意したヨット・ハウスまで送る。食べ終わったら来てくれ」

 

そう言い残し腰を上げる。

店の出入口へ向かうロックの後ろを、ベニーも黙って着いて行く。

二人は店を後にし、車までの道中を同じ歩幅で歩く。

 

 

 

しばらく歩いた後、ベニーは徐に「ロック」と呼びかけた。

 

 

 

「僕は、僕らが彼らにできることはメイド探しのちょっとした手助けしかないと思ってる。

あのメイドは並大抵のことじゃ止まらない。皆が満足するような結果を得るのは難しいだろう」

 

「……」

 

「これ以上彼らに深入りするのは危険だ。あのメイド絡みなら尚更ね」

 

 

固い声音で発せられる言葉を、ロックはただ黙って耳を傾ける。

話を聞いているその顔には何の表情も浮かんでいないように見える。

 

 

「僕らができるのはここらが限界だよ」

 

「やってみなくちゃ分からない。まだ何も始まっちゃいない」

 

「……君、随分頑なだね。さっきのキキョウの時といい、最近ちょっと様子おかしいよ」

 

ベニーは最近のロックの様子を思い返す。

思えば、キキョウと険悪な仲になってから、何かと挑戦的な態度が増えたような印象があった。

今回の事も、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──。

数少ない同僚がこのまま消えてしまうのは惜しい。

 

ベニーはほんの少し眉根を寄せ、黙っているロックへ再び声をかける。

 

「ロック。何が君をそうさせるのか知らないけど、どんなに鋼鉄の魂を持っていても、他人の死を乗り越える度に魂はすり減っていく。この街じゃそれが常さ。だから僕はこの街で自分を試すようなことはしない」

 

「…………」

 

「ロック、今君は()()()()()()()()()()()()()()?」

 

その問いの答えをロックは口には出さなかった。

 

 

 

ただ心の中で「どこまで彼に食い下がれるのか。それを知りたいだけだ」と呟いたことなど、目の前のベニーは知る由もない。

 





頑張れロック


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65 オレンジジュースで乾杯を

私に来る依頼の内容は限られている。

 

 

娼婦や娼館や風俗バーからは煌びやかなドレスや衣装。

気にかけてもらっているマフィアの方々は主に仕事着のようなものであるスーツ。

その他にはプライベート用として頼まれることがほとんどだ。

 

今まで誰からも「捨てられるのが前提」で頼まれたことは一度たりともない。

 

昨日、リロイさんから頼まれたのは女性用の服。

それだけであれば普通の依頼として済ませられる。

 

 

 

――だが、彼が頼んできたのは“一度だけ着る”ものであり、使い捨て用の服。

 

 

 

詳細を言えば、色味は地味で処分しやすく、かつ動きやすい。だが破れにくいもの。

しかも、明日……今日までに欲しいという内容だった。

 

使い捨て用なら態々オーダーメイドする必要もないだろうと、別のところで買うことを勧めたのだが「着る本人がアンタに依頼したいんだと」とのこと。

その“着る本人”というのが誰なのかは教えてくれなかった。

 

破れにくく動きやすい服。

急ぎということなのでオーダーメイドは無理だが、ちょうど収納部屋に当てはまるセットの服がある。

 

それは、ナイロンの生地で作った首から脇の下まで袖をカットしたアメリカン・スリーブの白シャツ。

上がこれだけだと露出が高いのでポリエステル生地の黒いショート丈のジレ。

下は細い筒状だが肌に密着しない形のシガレット・パンツ。

 

リロイさんから渡された注文を満たしているのはこのセットだと判断し、すぐさま収納部屋へ服を一式取りに行き、彼へと見せた。

リロイさん自身は服に対してそこまでこだわりはないようで、「一流のあんたのおススメならいいだろ」といともあっさり納得した。

 

 

――そうして依頼料1,000ドルを前払いで受け取った。

 

 

予め聞いていた着る本人のサイズに調整が必要のため、今日改めて取りに来てもらうことになっている。

既に作業は終えており、いつものように丁寧に服を包装し、傍らで刺繍をしているルカを時折気にしつつ、リロイさんが来るのを今か今かと待っている。

 

 

彼に連絡してから三十分は経っているので、じきに来るだろう。

 

 

「ねえ先生」

 

「ん?」

 

「お昼ご飯何食べたい?」

 

黙々と刺繍していたルカが、手を休めることなく尋ねてきた。

そういえば、まだお昼は食べていなかった。

 

「私は何でもいいよ。ルカは何が食べたい?」

 

「またそれ。先生、食に興味なさすぎだよ」

 

「ルカが作るものは何でも美味しいから」

 

「……もう……じゃあリロイさん来た後に適当に作るね」

 

「うん。ありがと」

 

少し照れた表情を見せた後、呆れたような声音を出す。

照れた表情のまま再び黙って刺繍するその姿がどこか微笑ましく、思わず口端が上がる。

 

穏やかな時間が流れている中、途端にドアから来客を告げる音が響く。

すぐさまドアの向こうから「リロイだ」と声が聞こえる。

その声に腰を上げ、依頼品を手にし迷うことなく足を動かす。

 

ドアを開ければ、昨日と色違いのアロハシャツを着たリロイさんが白いビニール袋を手に立っていた。

 

「お待ちしてました。サイズの調整は終わってます。中身確認されますか?」

 

「いや、ちと急ぎなんでな。このまま貰ってくよ」

 

「分かりました。もし不備がありましたら持ってきてくだされば対応しますので」

 

「分かった」

 

淡々と言葉を交わし、依頼品が入っている紙袋を手渡す。

 

「ああ、そうだ。これあんたにだとよ」

 

リロイさんは思い出したかのような声を出すと、自身が持っていたビニール袋をこちらに差し出してきた。

戸惑いつつ受け取り中身を見ると、その中には一本の瓶――オレンジジュースが入っていた。

 

「この服を着るご本人からだ」

 

「……なぜオレンジジュースを?」

 

「“前に奢ってもらったお返し”だとよ。詳しくは知らねえ」

 

前に奢ってもらった……?

一体何のことか分からず首を傾げる。

 

「細工されてないかは確認済だ。毒入ってねえから安心しろ」

 

「……そうですか」

 

「じゃ、俺はこれで。あんたも何かあれば気軽に依頼してくれや」

 

そう一言最後に言い残すと、リロイさんは颯爽と去っていった。

しばらく見送ってからドアを閉め、ビニール袋からオレンジジュースを取り出す。

ずっしりと重い瓶のラベルには「orange juice」とデカデカと書いてある。

 

毒は入っていないと言っていたが、なんのお返しか分からないものをそう気安く口にできそうにない。

 

「変なの、ジュースがお礼なんて。子供じゃないのにさ」

 

「まあ、そうだね」

 

ルカの言葉を否定はできず、訝し気にオレンジジュースを見やる。

 

「先生ってジュースも好きなんだっけ?」

 

「好きだよ」

 

「じゃあ今飲んじゃおうよ。毒も入ってないって言ってたし」

 

「え、でも」

 

「よほどの馬鹿じゃない限り、張さんお気に入りの先生に毒盛ることないでしょ。それにあの人、凄腕の情報屋で色んなところから仕事受けてたはずだよ。そんな人が三合会のシンライってやつ落とすことしないと思う」

 

「……詳しいんだね」

 

「先生が無頓着すぎるんだよ。ここら辺の子供でも名前くらいは聞くよ。警察も世話になってるって噂もあるし」

 

そんなに有名な人だったのか。

この街の情勢に対して未だに知らないことが多いのは職業柄仕方ない……はずだ。

そもそも情報屋を使うことなんて今までなかったのだから知るはずもない。

 

「どうしても不安なら僕が先に飲もうか?」

 

「……いや、一緒に飲むよ。ついでにちょっと休憩しようか」

 

私よりもこの街に詳しいルカがここまで言うのであれば、恐らく大丈夫だろう。

折角いただいたものを捨てるのはもったいない。

 

私の言葉にルカは笑顔を浮かべ「じゃあ僕コップ用意するね!」と意気揚々とキッチンへと向かった。

その後ろ姿に着いて行こうと足を動かそうとした途端――再びドアからノック音が響く。

 

リロイさんが戻ってきたのだろうか。それも別の誰かか。

いつも通り向こうから声がかかるのを待っていると、すぐさま疑問は解消された。

 

 

「キキョウいるか、レヴィだ」

 

 

そのたった一言の声に少しばかりの警戒心も解かれ、手に持っていたオレンジジュースをキッチンで健気に待っているルカへ渡す。「先に飲んでていいよ」とだけ伝え、足早に玄関へと向かう。

 

ドアノブに手をかけ開ければ、レヴィ以外は昨日と同じメンバーがそこにいた。

 

 

「いらっしゃいレヴィ……と岡島」

 

「よお」

 

「……どうも」

 

ラグーンの二人に声をかけ、後ろにいる子供二人と一瞬目を合わせた後話を切り出す。

 

「もしかして、今日も例の件で聞き込み?」

 

「アンタにしちゃ察しがいいな。早速だが話を聞かせてもらいてえ」

 

 

 

昨日の岡島の様子から私のあの程度の言葉で止まることはないとは思っていたが、やはりまだ諦めていないようだ。

昨日そこまで上手く事が運ばなかったのか知らないが、レヴィと一緒なら少しは行動しやすいと考え連れてきたのだろう。

 

前のレヴィならこういう面倒そうな事には関わらなかっただろうに。

岡島には妙に心を許している節がある彼女は何かと面倒見もいいので、放っておけず付き合っているのかもしれない。

 

 

「分かった。何から話せば?」

 

「昨日今日であたしら以外に来客あったか? メイドじゃない誰かでもいい」

 

 

 

いつもなら依頼人の事は話さないようにしているが、張さんにも話してやれと言われている。なら今回ばかりは話さない訳にはいかない。

 

 

 

「昨日、岡島たちと入れ替わりで依頼が来てね。さっきその依頼人が受け取りに来たよ」

 

「名前は」

 

「リッチー・リロイ。凄腕の情報屋さんらしいけど」

 

「やっぱりか」

 

「ここにも来てるってことは、確実に関わってるな」

 

私の言葉にレヴィと岡島はお互い顔を見合わせ何やら話をしている。

思わず首を傾げると、すぐさまレヴィが再び口を開く。

 

「何頼まれた。やっぱ服か」

 

「うん。丈夫で動きやすくて使い捨て用の服だって。急ぎだっていうから在庫のものを渡しただけだけど」

 

「なんでそれをキキョウさんに……使い捨ての服を買うには高すぎるな」

 

「ああ。リロイは他に何か言ってたか?」

 

「着るのは別の誰かで、その本人が私にどうしても頼みたくて代理で依頼に……っていうのは聞いた。着る本人については何も聞いてない」

 

「……そうか。ちなみによ、あんたメイドを前イエロー・フラッグに道案内してたよな。それ以外で何か関りは?」

 

「ないよ。そんなに長い時間一緒にいたわけじゃないし」

 

私は本当に彼女を道案内しただけだ。

その時に何か特別なことを話した訳でもない。

 

ただの顔見知り。いやそれ以下といっても過言ではない。その程度の関係だ。

イエロー・フラッグでほんの少し酒に付き合ってもらったのはあるが、それ以外なにも……。

 

 

 

ふと、メイドさんと過ごした短い時間の記憶を振り返っていると、一つのことに気が付いた。

 

 

 

 

確か、あの時メイドさんは酒が飲めないというので、私がオレンジジュースを奢った。

オレンジジュース、そしてリロイさんの「前に奢ってもらったお返し」という言葉。

 

 

 

 

 

まさか、リロイさんの依頼主は…………。

 

 

 

 

 

「行こうレヴィ。恐らくこれ以上情報は出てこない」

 

「そうだな。――邪魔したなキキョウ、また今度一杯やろうぜ」

 

「あ……」

 

 

 

私の考えを伝えようか迷っている間に、レヴィ達は足早にその場を去り、すぐそばに置いていた車に乗り込んだ瞬間走って行ってしまう。

 

伝えそびれたことに少しの罪悪感を抱きながら、彼らが乗っている車の後ろ姿をしばらく見つめていた。

 

ラグーン商会に電話するべきか。だがあの様子だとしばらく事務所に帰らないかもしれないし……。

しばらく思考を巡らせ、この話を一番に伝えるべき人物が誰なのかを自分なりに判断し、即座に作業台の上にある携帯に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「――キキョウのとこにも来てたってことは、アイツは確実にくそメガネと繋がってる」

 

「ああ。だけど、戦争の準備ならキキョウさんのとこに来るのはやっぱり妙だ。なぜ彼女の元へ」

 

「大事なメイド服を汚した時の替えの服とかじゃねえか? 何にせよ、アイツは米軍とドンパチやる気なのは確実だ」

 

「四軒とももうすでに依頼品を渡している。なら、もう戦争に必要なものはすべて揃ってると考えていい。急がないと俺らよりも早く米軍に追いついてしまう」

 

キキョウの家を後にし、車でリッチー・リロイへの事務所へ向かっている道中、レヴィとロックは各々の考えを口にしていた。

 

「医者の話じゃ大量の精神安定剤注文してたな。おいチビッ子、奴はいつから()()なんだ?」

 

後部座席で話を聞いていたファビオラへ問いかける。

その問いに彼女は眉間に皺を寄せ、隣のガルシアへ一瞬目を向けるがすぐさま目線を戻す。

 

「……それは、その……お屋敷にいた頃から服用なさっておられたのですが……」

 

「なんだって!?」

 

ファビオラから告げられた知らなかった事実に、ガルシアは目を見開き驚きの声を出す。

 

「申し訳ございません、婦長様から固く口止めされており……ただ、あんな量ではなかったんです。まさかあそこまで量が増えているとは」

 

「あのままだとスピード(覚醒剤)に手を出す一歩手前……いや、もう入っちまってるだろうな。薬が効かなくなりゃさらに強い薬を使うしかねえからな」

 

レヴィの言葉を、ガルシアは眉根を寄せ、指の爪を噛みながら聞いていた。

 

「このままいけば、アイツは幻覚と現実の区別がつかなくなるどころか、強迫観念と被害妄想でストッパーが外れちまう。――いつ自害してもおかしくねえかもな」

 

「――どうして……どうして、追いつけないんだ……!」

 

 

 

レヴィの言葉にガルシアはたかが外れたかのように指先を思い切り噛み、血を滴らせた。

 

 

 

いくら薬に疎い少年であっても、ロベルタの身が少しずつ蝕まれていることも、手遅れになる一歩手前かもしれない状態であることはなんとなく理解していた。

だからこそ、一向に彼女へ追いつけない現状が彼をさらに焦らせていた。

 

 

 

「もう時間がない! 彼女が自分を支えられる時間は、もうわずかしかないんだぞ!」

 

「若様!」

 

涙目になりながら、焦りからくるどうしようもない苛立ちをぶつけるように声を荒げる。

一家の当主といえど、まだ幼さが抜ききらない少年。

大切な“家族”の身が危ない状況で常に冷静でいることなどできるはずもなかった。

 

堰を切ったように心が乱れている主人を、ファビオラは落ち着かせようと必死に宥める。

 

「大丈夫ですから、どうか落ち着いて下さ」

 

「君は……! ロベルタの家族じゃないからだ! だから!」

 

苛立ちの矛先がファビオラへと向けられそうになった瞬間――運転していたロックが、ブレーキを踏んだ。

唐突のことにガルシアも口を閉ざし、全員の視線はロックへと注がれる。

 

 

 

 

 

「たった一日で、俺たちは誰よりも早く彼女の襟首を掴めるところまで来た」

 

 

 

 

 

淡々と、なんの感情も乗せていない声音が発せられた。

 

 

 

 

 

 

「王手まであと少し。――その王手を決められる肝心の君がすることは、使用人の隣で泣き喚くことじゃない」

 

 

 

ここで初めて、ロックはガルシアへと目線を向ける。

 

 

 

「彼女を捕まえるための切り札は君だ。俺でもレヴィでもない。この舞台を終わらせるカギは君なんだ。君だけはしくじるわけにはいかない――分かるね」

 

「……僕だけは、しくじるわけにはいかない」

 

ロックの言葉に拳を握り、自分に言い聞かせるように繰り返す。

そこからガルシアは泣き喚くことはなかった。

 

少し落ち着いたガルシアの様子を見やり、ロックは再びアクセルを踏んだ。

 

 

 

 

 

――そんなロックの横顔を、レヴィは静かに見据えていた。

 

 

 

 

先程の、まるでガルシアを鼓舞するかのような言葉。

傍から聞けばガルシアのために言ったかのように聞こえるだろう。

 

 

だが、レヴィには少し違う意味に聞こえていた。

 

 

 

 

“例え何が起きようと進んでもらう。止まることは許さない”と。

 

 

 

ふと、レヴィの脳裏にある言葉がよぎる。

 

 

 

 

 

 

『――この街でどう行動するべきか。ロックとしてどう生きるべきか、それを見極めたい』

 

 

 

 

 

 

今朝、協力してほしいと自身に頼みに来た時、「なぜそこまでこだわるのか」と問いかけた。

その問いに対する答えがあの言葉。

 

以前まで子供に困難を押し付けるようなことはしない。自身がガルシアに銃を向けた時、いの一番に止めに来た。

そんな男が今、自分の生き方を見極めるため、便利な道具として子供を利用しようとしている。

 

今まででは考えられない彼の在り様に、どこか複雑な思いを抱きながら煙草に火をつける。

 

 

 

 

 

 

――ここまで変わっちまったのは、きっとアイツのせいだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

心の中でそう呟きながら、煙を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

夕日に照らされ黄金色に染まった海。幻想的ともいえるほどの絶景を一望できる波止場――路南浦停泊所の桟橋。

波の音とカモメの鳴き声のみが時折響く人気のないその桟橋に、張とバラライカが静かに佇んでいた。

 

かつてこの桟橋で一騎打ちを行った当の本人達が、今は武器も持たずただ顔を合わせている。

バラライカは張から聞かされた話に怪訝な表情を浮かべ、葉巻に火をつけた。

 

 

 

「――解せんな」

 

 

紫煙を燻らせ、ブルーグレーの瞳を張へと向ける。

 

 

 

「我々の行動はお前の望むものではないはずだ。なぜ情報を伝える」

 

バラライカの言う行動は、ロアナプラで何かを為そうとしている米軍を自身の手で殲滅させること。

アメリカ合衆国の兵隊に手を出すことは、アメリカそのものを敵に回すことと同義。

 

この街の存続が危うくなるような行動を取ろうとしているバラライカへ、張はある伝手で手に入れた情報を話していた。

その情報は、米軍の真の目的やどこに潜んでいるのかなど有益すぎるもの。

今回の件で開かれた黄金夜会で「米軍に手を出すべきではない」と進言していた男が、自身に情報を与えたその行動の真意を測りかねていた。

 

「メイドは早晩、米軍(獲物)にたどり着く。あのメイドはこの街で片を付けようとするだろう」

 

バラライカの視線を浴びながら、張はただサングラス越しに海を眺めている。

 

「それはこの街で致命的な疑念を与えられる結果となる。この街が砂の楼閣と化す前に俺たちがすべきことはただ一つ――この街の争乱を阻止し、美国人(アメリカンズ)を生かして脱出させることだ」

 

そこでようやく張はバラライカへと顔を向けた。

 

「そのあとメイドに後始末を任せれば、この街の誰の手も汚れず懐も痛まない。至極平和に事が終わる」

 

二人のロングコートの裾が海風で靡く。

バラライカは葉巻の煙を肺に入れ、徐に吐いた。

 

 

「…………何かと思えばそんな与太話とは。我々は予定通り所定を完結する。これは揺るがない結論だ」

 

 

 

放たれた凛とした声音が静かにその場に落ちる。

張は表情を一切変えず、再び海へと目線を向けた。

 

 

 

「――それがお前らの生き方か。そんなに軍人として死にたいか」

 

 

 

バラライカは葉巻を下に落とし、海に背を向け桟橋の手すりに肘を置く。

 

 

「張、根っからヤクザ稼業の貴様には分かるまい。己が身を捧げてまで戦い抜いた我々を、祖国は虫けらのように捨て、裏切った。……すべてを失い、ただの無頼者となり果てた。そんな我々にも譲れない矜持がある」

 

冷淡に告げるその様は、重苦しい雰囲気を漂わせている。

 

「軍旗の名の下で戦い、生と死を味わってきた生き様が、矜持こそが我々に残された唯一のものだ。――黴が生えたようなものだとしても、しがみつかない訳にはいかないんだよ」

 

そこまで話すと葉巻を海へ捨てる。

空を見上げ、肺に残った煙をすべて吐き出した。

 

 

 

「くだらねえな」

 

 

 

張はただ、バラライカが発した拘りを一蹴するかのように吐き捨てた。

 

 

 

「生き様なんぞくだらない思い込みに過ぎない。時と場合によってどうとでも変節しちまうもんさ。逆にこだわっちまうとそれ以外何もできなくなる。不器用なあの女のようにな」

 

「…………」

 

「なあバラライカ。俺たちはこの場所で最上級の服に身を包み、銃弾舞踊(バレット・バレエ)を披露した。あの日、白銀のいい月夜にどちらかが大地とキスしてこの世とおさらばするはずだった」

 

何が言いたいのか、とバラライカは張へ怪訝な表情を向ける。

そんなことを意にも介さず、張は当時の殺し合いを思い返しながら言葉を紡ぐ。

 

 

 

「――だが、俺もお前もまだ生きている。女神のご加護か、それともただの偶然か。どちらにせよ、まだ俺たちはお互いの“借り”を返してない」

 

 

 

この桟橋で行われた一騎打ちで、お互いの体に弾痕を刻まれた。

 

 

 

 

数年経った今でも、その決着はついていない。

 

 

 

 

 

 

踊る相手を変える(パートナーチェンジ)には、まだ早いんじゃないか」

 

 

 

 

 

 

踊るなら最後まで。

途中で切り上げるのは許さない。

 

 

 

 

 

張の言葉にバラライカはしばらく沈黙した後、うっすらと笑みを滲ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

――レヴィ達が去ってからすぐさま我がパトロンへとリロイさんのことを話した。

だが彼はすでにリロイさんが関わっていることを知っていたようで、「依頼受けた時に怪しいと思わなかったのか」と言われてしまった。

 

 

素直に謝罪すれば、こちらを責めるようなことは言ってこなかった。

 

 

 

「今夜は大人しくしろ。弟子も外に出すな」と告げられたため、今もルカと一緒に刺繍している。

彼から言われるまでもなく、こんな物騒な時に外に出ようとは思わない。

 

 

 

現に、さっきどこかで爆発音が響いていた。

音の大きさからして近くはないが、外に出ないに越したことはないだろう。

 

 

「物騒だねえ。ファビちゃんがまた暴れてるのかな」

 

「ずっと気になってたけど、ファビちゃんって?」

 

「あの小さいメイドさん。道案内した時ほんのちょっと仲良くなったんだ」

 

「え、ルカ会うの嫌がってた気がするんだけど」

 

「それはそれ、これはこれってやつだよ先生」

 

そういうものなのだろうか。

子供の言う“仲良し”というのはよく分からない。

 

「まあ流石にまた暴れることはないだろうけどね。あの世間知らずなボンボンのお坊ちゃんも一緒だろうし」

 

ふと、ルカのその言い方に少し棘があることが気になった。

彼の顔を見れば、どこかつまらなさそうな表情を浮かべている。

 

「ルカどうしたの」

 

「別に。ただ、あのお坊ちゃん全部欲しがってるなと思ってさ」

 

「え?」

 

「金も地位もあって、身の回りの世話をしてくれるメイドもいるくせに勝手に出ていったもう一人のメイドを取り戻しに来たんでしょ? 贅沢だよね」

 

「……」

 

「僕と歳少ししか違わないくせに全部持ってる。そういうやつ見るのが一番イライラする」

 

 

 

珍しい。

 

 

 

ルカがここまでいら立ったような様子を見せたことは、少なくても私の前ではなかった。

少し驚いた後、彼の顔を見据える。

 

私の視線にルカははっとしたような表情を浮かべた。

 

 

「ごめん先生。ちょっとむかついちゃって……」

 

「いいよ。私もその気持ち分かるから」

 

「え?」

 

「自分が欲しいものを持ってる人を見ると、なんで自分は持ってないんだろうって思ったり、無意識で相手に嫉妬とかしちゃうよね」

 

 

持ってる人間を見ると羨ましいという気持ちが膨れ上がり、それが妬みに変わる。

 

 

これまで何度も経験してきたことだ。

 

 

 

「ルカがどう生きてきたのか詳しくは知らないけど、恵まれてる人見るとイライラするのはしょうがない。――だから、そういう時は忘れるために夢中になれることをするの」

 

「……夢中になれること?」

 

「そう、私だったら刺繍かな。ルカは何だったら夢中になれる?」

 

だから、自分と他人を比べて自分は不幸だと思って生きるのがとても疲れてしまうことも知っている。

なら、もっと他のことに時間を使った方がいいに決まってる。

 

「…………わかんない」

 

「そっか、じゃあそれはこれから探そうね。ひとまず今は刺繍して忘れよ」

 

「……てっきり怒られるかと思った。そういうこと言うなって」

 

「言わないよ」

 

「…………先生も意外と大変な人生送って来たんだね」

 

「まあ、多分?」

 

「多分って……ははっ、ほんとおかしいよね先生って」

 

一通り言葉を交わしていけば、ルカの表情は段々柔らかくなっていった。

ようやく笑みを浮かべた我が弟子の頭に手を置き数回撫でれば「頭撫でるの好きだよね先生」と照れつつも受け入れてくれた。

 






ロベルタ再来編もここらで折り返しかも、です。


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66 思い馳せたその先は

ロベルタ再来編、5話目です。


──陽が沈み、夕焼けの色が空にまだほんの少し滲んでいる頃。

 

 

ロック達はロベルタの情報をリロイから聞き出し、手練れな殺し屋──シェンホアとたまたま彼女の家に居合わせ、暇だったので着いてきたソーヤーとロットンをガルシア家の費用で雇い、猟犬がいるであろう場所へと驚くほどスムーズに行きついた。

 

だが時すでに遅く、多くの銃撃音が鳴り響いていた。

それが件の米軍とロベルタの交戦が始まった合図であることは誰もが一瞬で理解した。

 

 

ガルシア達はロベルタを止めるべく、銃撃戦の渦中である建物へと入っていった。

 

 

 

──残されたロックはただ一人、車の中で事が終わるのを待っている。

 

 

 

煙草を取り出し、火を点け眉間に皺を寄せながら煙を吐く。

 

彼にできるのは、外で響き渡る銃声を静かな車中で聞きながらひたすらに待つことだけ。

 

彼が()()()局面であったとしても、彼自身が手を出すことは叶わない。

 

 

なぜならすでに、手元にあった手札は使い切ったのだから。

 

 

肺に残った煙をすべて吐き出し、半分以上が灰と化した煙草を灰皿へ押し付けたのと同時に、携帯の着信音が鳴り響く。

今、この時に連絡を寄越す人物に心当たりはなく、ズボンのポケットから取り出し見知らぬ番号からの着信に応じようと耳に当てる。

 

 

 

 

『俺だ。ちと間に合わなかったみたいだな、ロック』

 

 

 

 

聞こえてきたその声の主が誰なのか、名を聞かずともすぐさま理解する。

自身の計算に入ってなかったタイミング、かつ相手からの電話にロックは眉根を寄せた。

 

 

 

『残念だが賭けはここで終了だ。事後は俺たちが引き取る。お前は店を畳め』

 

有無を言わさないような口調に携帯を持つ手に力が入る。

 

「…………張さん、まだ幕は引いてませんよ」

 

 

眉根を寄せたまま、固い口調で告げる。

 

 

「だから、舞台袖から降りるわけにはいかない。役者はまだ残ってる、あの子もメイドも。──だから……」

 

 

 

まだ、終わらせるわけにはいかない。

 

 

そう発するのが憚られてしまい言葉が詰まる。

 

 

高層ビルの屋上で優雅に街を見下ろしているであろう相手は、ロックの言葉に一つ息を吐いた。

 

 

 

 

『だから、なんだ?』

 

 

 

 

淡々と発せられた短い一言に、思わず目を見開いた。

 

 

 

『ロック、俺がこの世で一等嫌いなことは偽善だ。それは悪事よりも質が悪い。相手だけでなく、己自身すら欺く毒だ。匂いは薔薇の香りでも、糞である事実は隠せない。──ラブレスの若当主や女中は、ただの駒にしか過ぎない。俺にとっても、お前にとっても』

 

突きつけられる言葉の羅列に、無意識に更に手に力が入る。

このまま携帯を捨ててしまいたい衝動に駆られる。

 

『お前は王手が打てるといい、俺はそれにオッズを張った。それで十分じゃないか。──だが状況は俺たちに些か不利に働き、別の一手を講じることになった。そうなった以上、彼や彼女の何を憂う必要が?』

 

 

ガルシアやメイドがどうなろうと知ったことではない。

 

彼らが必要なくなったから切り捨てる。ただそれだけ。

 

 

淡々と言い放った張に対し、侮蔑の感情にも似た怒りが湧き上がる。

 

 

 

マフィアだとしても、ほんの少しの欠片程度は情があるものと思っていた。

 

 

悪徳の都で凛と生きている彼女が認めた男ならと、そんなほんの少しの期待があった。

 

 

 

 

だが、この短い時間でそれらすべてが打ち砕かれた。

 

 

彼を勘違いしていた自分と、自分が焦がれてやまない一人の女を縛り付けているのがこの男である事実に、怒りとは別にどうしようもない吐き気もこみ上げてくる。

 

 

「──Mr.張。俺は誤解してた。あんたは、ひとでなしのクソ野郎だ……ッ」

 

隠すことなく、苛立ちを声音に乗せ告げる。

自身の感情を止める術は、今のロックに持ち合わせてはいなかった。

 

『ハッハッハッハ! いいぞ! そんなセリフを投げる奴は久しくいなかったな!』

 

「なんで……なんであんたみたいな奴が……!」

 

感情を露にする自身を嘲笑うかのように響く高らかな笑い声が、更にロックの苛立ちを募らせた。

ひとしきり笑った後、張は冷静な口調で言葉を投げかける。

 

『さっきも言ったはずだ、偽善は己を欺く毒だと。俺はお前よりはるかに正義ってもんを知っている。お前のそれが、本当に善意なのかよく考えてみることだな』

 

「……あんたは無頼者(ギャングスタ)だ。暴力の中に身を置いて、人の涙と流れる血の上に生きる人間。誰だろうと利用価値がなくなれば切り捨てる。そんなあんたがどうやって正義を、善意を語れる?」

 

苛立ちを隠さないロックの問いに、張は優雅に高級煙草(ジタン)を吸い天井を仰ぐ。

 

 

 

『どうして語れる? その理由を知りたいか。──今お前と話をしてる男は、その昔法の番人だったから、だよ』

 

 

 

返ってきた答えに、ロックは思わず目を見開いた。

 

 

『別に大した話じゃない。この街には(エックス)がつく奴が多い。それだけの話だ。だが、これで多少説得力は増しただろう。──実際、お前もラブレス家なんざどうでもいいはずだ。決して善意や正義感なんかで動いちゃいない』

 

「そんな、ことは」

 

『違わない。お前が今無性に苛立っている本当の理由は──血も涙もない、人を人と思わないマフィアに女を取られていることにある。結局お前も、ただの男に過ぎないってことだ』

 

否定しようにも言葉が出てこない。

ロックは思わず口を噤む。

 

『今回の件をこなせば認められると勘違いしたんだろうが、アイツはそんな簡単じゃない』

 

「……あんただって、彼女のすべてを支配できてるわけじゃない。彼女は、あんたのものじゃない」

 

『俺のもんさ。あの腕も、身も心も、命さえな」

 

当然と言わんばかりに言い放つ様に、思わず窓ガラスを殴る。

そうして一つ息を吐き、ほんの少し冷静さを取り戻す。

 

 

 

「──あんたが、彼女の何を知ってるっていうんだ」

 

 

 

絞り出すように、固い声音で語る。

 

 

 

「彼女がどんな思いでこの街に来たのか……どれだけアンタに信頼を寄せてるか。あんたは道具のように彼女を利用し、いざとなれば簡単に切り捨てる。そんな男に縛られていい人じゃない」

 

『やれやれ、よほどぞっこんらしい。俺相手によくそこまで言えるもんだ。まったく大した野郎だよ。──ま、俺は優しいからな。同じ女に入れ込んでる男として一つ教えてやる』

 

電話の向こうで息を吐く音が聞こえる。

余裕さを感じさせる声に拳を握ったまま耳を傾ける。

 

『アイツはお前の手に余る。飲み込まれちまったら最後、こっちが先に地獄を見る羽目になる。だからアイツのことは俺に全部任せて、別の女に入れ込んだ方が身のためだ。──ああいう女は、誰かが手綱を握らなきゃならん。だが、それはお前じゃない』

 

「…………手綱を握らせる相手を決めるのはあんたじゃない」

 

『本人が俺をご指名したんだ。お前がこの街に来る何年も前にな』

 

日本で得られなかった自由を得るために、この街へ流れ着いた彼女が命を預けている。

それがどんな意味を持つのか分かっているからこそ、言い返す言葉を持ち合わせていなかった。

 

『ま、どうしても諦められねえってんなら好きにしろ。あくまでも、()()()()()()()()()()()()()()()でだ。今更丁半ひっくり返せるとは思えねえが、精々足掻いてみることだな』

 

そこまで言い終えると、一方的に通話が切れた。

 

「──言われなくても最後まで足掻いてやるさ。彼らの退場を決めるのはアンタじゃないぞ、張」

 

 

 

 

 

ツーツー、と通話が切れた音を聞きながら、ロックは小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────────

 

 

 

 

「──郭、金三角(ゴールデントライアングル)には?」

 

「彪が今通達を取っています。じき報告があるかと」

 

社長室とは別の位置にある屋外プール。

水着に着替え、バスローブを羽織っている格好でデッキチェアに腰かけている兄貴分へ近寄りながら、郭は淡々と答えた。

 

張がサイドテーブルの上にある煙草に手を伸ばしたのを見て、ジャケットの内ポケットからすぐさまライターを取り出し、咥えるのと同時に煙草の先端へ火を点す。

 

「それにしても、まさかロックがあそこまでムキになるとはな。アイツの天然たらしには困ったもんだ」

 

「……忠告したにも関わらずまだキキョウに?」

 

「ああ、嫌われたのがよほど癪だったらしい。この期に及んで、まだ振り向かせようと足掻いてやがる」

 

 

 

見苦しいったらねえなあ、と張は楽しんでるような軽快な声音で呟いた。

 

 

「大哥、なぜあの男を生かしておくんです? これまでの行動を考えれば、始末しても問題ないかと思いますが」

 

 

 

これまで、キキョウに()()()()()()()をもたらした人間は、物言わぬ人形となり果ててきた。

 

 

見せしめとしてなのか、はたまた別の思惑か。

 

何であれ、キキョウに手出しした人間は始末されるというのがこの街の常識となっていた。

 

それが、何の力も持たないただの洋裁屋が今も五体満足でいられる要因の一つでもある。

 

 

──だが、今回は彼女に()()()()()をかけた愚かな男を生かしているばかりか、たった一回の忠告以外行動を起こしていない。

 

 

これまでとは異なる張の意思を、三合会の組員が気にならない訳もなかった。

 

 

 

「あれからキキョウとそこまで関わってなかったのもあるが──なあ、郭。お前から見てロックはどんな男だ」

 

「……銃も扱えない非力な男です。この街では珍しく、情に弱いようにも見受けられます」

 

 

唐突の問いに内心驚きながらも、表情に出すことなく答える。

 

 

「確かにあいつは善人の皮を上手く被ってる。だが、ああいう奴ほど化けるのさ。自分の利益のためならなんだって利用する。それこそ相手を顧みずにな。今だってたかが女一人を振り向かせるためだけにこの状況を、ラブレス家を利用してる」

 

「……」

 

「そんな面白い奴を殺すのは惜しい。新しい大悪党が目覚める瞬間を見届けるのも、悪くはないだろう」

 

 

 

愉しげに口元に弧を描く様に、郭は自分たち悪党を束ねる男の末恐ろしさを改めて感じた。

 

 

 

「あー、ただキキョウがロックに入れ込むってんなら話は別だ。ま、そんな心配はないだろうが」

 

「当然です。大哥以外にキキョウを落とせる男はいないでしょうから」

 

「はっ、なら早く落ちてほしいもんだがなあ」

 

キキョウが他の男に言い寄られても張が余裕なのは、彼女が張以上に信頼を寄せ、体を許した男がいないからだ。

粋すぎるほどのダンディズムさを兼ね備えた伊達男でさえ抱くまでに何年もかかったガードの固い女を、この街に来てたかが一年経った程度の男が振り向かせられるわけがない。

 

揺るぎようのない事実に郭は張にバレない程度に口端を上げ、一瞬頭によぎった『邪魔者を始末する』という考えを捨てた。

 

 

ティアドロップのサングラスをサイドテーブルに置き、羽織っていたバスローブを郭へ渡すと、張は軽い足取りでプールへと向かっていった。

 

 

水しぶきの音を聞きながら、郭はタオルを取りにプールを後にする。

 

 

一人になった張はやがて泳ぐのをやめ、濡れた黒髪をかきあげ空を仰ぐ。

 

 

空に浮かぶ満月の下では、今も銃撃の音が激しく鳴り響いている。

 

 

 

──そんな喧噪から離れた場所で響いたもう一つの音。

 

 

 

 

 

音の発信源である携帯を一瞥し、水の中を歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

ロベルタと米軍が銃撃戦を繰り広げてから数時間後。

朝日はいつものように燦燦と輝き始める。

 

日差しが照りつける河川の上を、ラグーン号が静かに走っていた。

 

昨晩、()()()()()を使い今回の件を終わらせるための道具を揃えたロックにより、ラグーン商会はラブレス家の二人を船に乗せている。

だが、今回の客は彼らだけではない。

 

この先で落ち合うのは、今回の騒動の中心である米軍部隊。

どのような経緯で、どんな手段を用いたのか誰も分からないが、ロックが単独でお膳立てしたことで、最後の最後にラグーン商会は張から()()()()()を請け負うこととなったのだ。

 

緊張感が漂う船の密室では、ガルシアが一人神妙な面持ちで座っている。

 

 

そんな彼に近寄る影が一つ。

 

 

 

「──ガルシア君」

 

 

 

淡々とした声音で呼びかけられ、ガルシアは目の前に立っている男を見上げた。

 

 

 

「顔が変わりましたね」

 

「ここからは素顔じゃ話せないからね」

 

ガルシアの目に入ったのは、口元は歪み、瞳には一切の光が入っていない顔。

その表情は、まるで何かを愉しんでるかのような。

 

「今から彼らが乗り合わせる。今度こそ決着をつけざるを得ない。――そこで君の出番だ。君にしかできないことがある」

 

「……だから、僕に電話をくれた。そうでしょう、セニョール・ロック」

 

「そうだ。これ以上誰も死なせない。あの街で片をつけられなかったが、君も彼女もまだ生きてる。なら、まだ終わってない。──次こそ外さない。君が黄金のカギだ」

 

歪な顔で話すロックに、ガルシアは思わず拳を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米軍との待ち合わせ場所に着き、停泊しているラグーン号の甲板で潮風を浴びながらレヴィは錨を上げていた。

ロベルタを追っている最中に負ってしまった両腕の銃創の痛みをひしひしと感じながら、錨を上げ終わると煙草を取り出し火を点ける。

 

壁にもたれかかり、煙を吐き出しているレヴィの傍らでは、ファビオラが神妙な面持ちで立っていた。

しばらくの間の後、やがて耐えかねたように、ファビオラがおずおずとレヴィの方へ顔を向ける。

 

「ねえ、アンタ。……アンタはどう思ってるの」

 

「何がだ」

 

「セニョール・ロックのことよ。彼が何を考えてるのか分からない。今若様とどんな話をしてるか……」

 

「さあな。なんであろうと決着は必ずつくぜ。オメエの若様に今更何ができるのか知ったことじゃねえが、あのボケは()()()()()()()()()()。なら、まだやれることはあるんだろうよ」

 

ファビオラが不安となっているのは、ロックが歪んだ表情でガルシアと話している様子を見たことにある。

今まで見たことないロックの表情に得体の知れない不安感を募らせていた。

 

そんなファビオラの心中を知るはずもないレヴィは、暗い海上を眺めている。

 

「随分信頼してるのね、彼のこと」

 

「アイツは土壇場ででかい一発をぶちかますのさ。今回は特に気合が入ってるみたいだからな。必ず何かやってくれるさ」

 

淡々と言い放つ様に、ファビオラは思わず怪訝な表情を浮かべる。

 

「彼は若様のことをそこまで?」

 

「さあ? だが、アイツは多分……」

 

言いかけて、レヴィはそこから先の言葉を出すのをやめた。

ごまかすように代わりの言葉を返す。

 

「何にせよ、ロックは必ず何かをやらかす。ここまで来たら腹を括るしかねえ。どんな結果になろうと、次が最後だ」

 

煙を吐き、遠くを見つめるレヴィの横顔を見やり、ファビオラも同じ方向へ目を向ける。

 

「……分かってるよ。若様は変わったんだ。今の彼なら必ず婦長様を連れ戻せる」

 

「そうかい」

 

これから起こる最後の舞踏に思いを馳せながら、ファビオラは固い声音でそう告げるとガルシアの元へ向かうべくその場から離れる。

 

 

 

 

 

 

──すぐ近くでは、米軍の声が飛び交っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

「──若様と何を話してたの」

 

「これからの事さ」

 

「具体的に話して。若様に何を吹き込んだの」

 

「ひどい言い草だな。……ガルシア君はどこに?」

 

「さっき(米軍)と一緒に兵隊たちがいる部屋に入っていったわ。お声を掛けれる雰囲気じゃなかった」

 

「──なるほど、そう来たか。上手くいけば……」

 

ロックはファビオラに聞こえないほど小さく何かを呟きながら、煙草を取り出し火を点す。

やがて考えがまとまったのか、怪訝な表情を浮かべるファビオラへ一歩近づき顔を見据える。

 

 

「ファビオラ、聞いてくれ。ガルシア君は彼らを巻き込むつもりだ。確かに、ロベルタの前に立つ役者は多い方がいい。……だが、まだ足りない。狂気の狭間に立っているお姫様を正気に戻すには、()()()()()()()()()()()。君の協力も」

 

「私に何をしろって?」

 

「それは──」

 

淡々と告げるロックをまっすぐ見つめ、言葉の続きを待つ。

 

 

──次に彼の口から出た話に、次第にファビオラの顔に焦燥の色が滲む。

 

 

 

話が終わると同時に、ファビオラは冷や汗をかきながらすぐさま口を開く。

 

 

 

「できるわけないでしょそんなこと! ひょっとして本気で言ってる!?」

 

「もちろん」

 

「これは魔法でもなんでもない! 一歩間違えば人が死ぬ! それを」

 

「逆に聞こうか、お嬢さん。何かを賭けないで通れる状況か?」

 

ロックは冷えた視線と声音でファビオラへ問いかける。

 

「これ以外に何ができる? 手札はすべて出し切り、あとは運だけが残った。――これからの舞台は、舞台に立つ役者によって色が変わる」

 

 

言葉を区切り、煙を吐き出す。

 

 

 

「最上のクライマックスを迎えるためには、運以外の賭けられるもの全て賭けるしかないんだ」

 

 

 

一切の光が入らない瞳で言い放つロックに、ファビオラは背筋が冷える感覚を味わう。

 

 

 

「アンタ、最初からこうなることを……!」

 

「これが俺のやり方だ。これで事が為せるならとことん地の底まで落ちてやる。そうでもしなきゃ、この賭けに勝てないのさ」

 

それはまるで自分に言い聞かせるような声音にも聞こえ、ほんの少しの違和感を覚えた。

これまでのロックの行動を振り返り、ファビオラは胸の内に残っていた疑問を思い出したかのように声に出す。

 

 

 

「何が、アンタをそこまで駆り立てるの」

 

 

 

その問いに一瞬目を見開いた後、ロックは自嘲の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

「……さあね。ただ、意地を張ってみたくなっただけの話さ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

──夜が明けるまで数時間。

米軍の最終目的地である黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)に到着する。

ガルシア達もロベルタを取り戻すため任務を遂行する米軍と共に、ラグーン号を降りた。

 

森林の暗闇に消えていく彼らを見送り、船上にはラグーン商会のメンバーのみ残った。

 

甲板では、ロックがただ一人紫煙を燻らし立っている。

 

 

そんな彼に近づく人影が一つ。

 

 

 

「ロック、中で待たねえのか」

 

「……妙に落ち着かなくてね。もうしばらくはここで待つよ」

 

「そうかい」

 

 

 

淡々と言葉を交わし、レヴィもまた煙草を取り出し火を点ける。

やがて壁に凭れ掛かり、ロックの背中を再び見やる。

 

「お前、何やけになってたんだ」

 

「なってない」

 

「嘘つけ。今回のお前は()()()こっちのやり方を通してた」

 

「……」

 

ロックは何も返すことなく、煙草の煙を吐き出した。

レヴィは反応がないことに少しも苛つく態度は見せず、冷淡な声音で続ける。

 

「今までとやり方が違った。今までのお前だったら、しなかった」

 

「今回は事の大きさが今までと違ったからな。今のままだと、上手くいかないと思った」

 

「お前はこれでよかったのか」

 

「ああ、これが俺のやり方だ。──不思議と後悔は一切ないんだ」

 

どこか清々しささえ感じる声音に、レヴィは片眉を上げる。

 

一瞬躊躇った後、意を決し口を開く。

 

 

 

「アイツに、認められなかったとしても同じこと言えんのか」

 

「……なんのことだ」

 

 

 

レヴィの言葉にロックは固い声音を出した。

 

 

 

「とぼけんな。お前がここまで変わったのは、あいつのため──()()()()()()()()()()()()っつう、くだらねえ欲のせいだ」

 

「……」

 

 

風が吹き、ロックの煙草の先から長くなった灰が落ちる。

 

 

「この先、お前の思い通りの結果になったとする。お前の手柄をあいつに語ったとしよう。──それでもあの堅物がお前に振り向くなんざ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ましてや、殺意を向けられたなら尚更だ」

 

ロックの煙草を捨てようとする手が止まる。

レヴィの言う『あいつ』が誰かなど、問うまでもなかった。

 

一つ息を吐き、煙草を河川へ捨てると箱からもう一本取り出す。

火を点し、落ち着かせるかのように吸う。

 

やがて、肺にある煙を一気に吐き出した。

 

「レヴィ。一体何を勘違いしてるのか知らないけど、俺は彼女に何も求めてない」

 

「お前この期に及んで」

 

「本当さ」

 

間髪入れず返って来た言葉に、レヴィは思わず口を噤む。

 

「このゲームの駒も、シナリオも俺の掌の上にある。ほんの少しの運に恵まれ、ここまで来た。あの街で、やっとロックとして手応えを感じてるんだ。一刻も早く結末を知りたい。その結末が俺に何をもたらすのか、今はそれだけにしか興味ないよ。──でも」

 

言葉を区切り、ロックはそこで初めてレヴィへ顔を向ける。

 

 

 

「もし、あの人が俺をロックとして認めてくれたらっていう期待は、捨て切れてないけどね」

 

 

 

まあ、期待してもしょうがないさ。そう言って自嘲するような笑みを零す。

その表情にレヴィは眉根を寄せ、盛大なため息を吐き船内へと戻っていく。

 

 

 

 

──その時、森林の奥からは二つの銃声が響き、朝日の色が輝き始めていた。

 

 

 

 

 

 




次回はロベルタ再来編、エピローグになります。



P.S
アンケートのご協力ありがとうございます。
皆様いちゃいちゃ大好きってことがよく分かりました。

糖度120%(個人的な推測)の小話を今後投稿予定なので今しばらくお待ちください……!


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67 How easy love makes fools of us.

ロベルタ再来編、エピローグです。


Epilogue 1.

 

 

 

──激しい銃声の音が鳴り響いた一夜から三日が経った。

あれから嘘のように街は落ち着き、いつも通りの日常へ戻っている。

 

ルカが聞いた噂によれば、メイドの件は片が着いたと黄金夜会が布告を出したらしい。

今回の件は大事だったため、そうでもしなければ街が落ち着かないと判断してのことだろう。

 

ただの住民である私たちとしては、物騒な出来事が無事終わり一安心である。

 

ルカも世話になったお婆さんや小さな子供たちのことが気がかりだったようで、様子を見に行っている。

「もし無事だったら今日はそっちで過ごす」と言っていたので、一人で夜を過ごすことになるだろう。

 

一人の夜は久々なので、折角ならイエロー・フラッグに向かおうか。

 

……いや、確か全壊してて今は休業中だったか。

 

 

なら別の酒場に? リンさんと行く酒場なら今も営業しているだろうが、あんな高級店に行くとなるとそれなりの恰好をする必要がある。一人で入るには少し敷居が高い。

うーん、と今夜の過ごし方に悩んでいると、外から足音が聞こえてくる。

 

仕事の依頼かと予想している中、足音がドアの前で止まった。

 

やがて一つ間を空けた後、三回ノック音が響く。

 

 

 

「キキョウ。レヴィだ」

 

 

 

短く発せられた名前にすぐさま足を動かす。

ドアを開けると、怪我をしているのか両腕に包帯を巻いたレヴィが立っていた。

 

 

「いらっしゃい」

 

「よう」

 

「……その腕、大丈夫?」

 

「ああ」

 

「ならよかった」

 

見た目の割には平気な様子に安堵し、自然と口端が上がる。

凄腕のガンマンである彼女が商売道具の腕を傷つけられたのは、きっと先日のメイドさんの件が絡んでいるのだろう。

だが、無事なのであれば怪我の原因を聞く必要はない。

 

「とりあえず中に」

 

「いや、すぐに出るからここでいい」

 

来客用の椅子を出そうとしたが、レヴィの言葉に動きを止める。

どこか固い声音を発した彼女の顔を見ると真剣な表情を浮かべており、その様子に少しの緊張感を覚える。

 

「どうしたの」

 

自身の顔から微笑みを消し、問いかける。

途端、レヴィは戸惑ったように目線を逸らしたが一つ息を吐き、こちらを再び見据えた。

 

 

 

 

「単刀直入に言う。──ロックと、話してくれねえか。二人で」

 

 

 

彼女の口から出た名前と提案に、驚く他なかった。私もまたレヴィの顔を見据え口を開く。

 

 

 

「私には彼と会う理由も話すこともないよ」

 

「お前がアイツをよく思ってないのは分かってる。一度殺そうとした相手と話すことに、生産性がないことも」

 

「なら、どうして?」

 

 

例え友人である彼女の頼みでも、こればかりは素直に聞けない。

レヴィの言う通り、彼と話すことなんてなんの意味もないのだから。

 

 

「アイツを変えたのはお前だ。アイツは……お前のせいで()()なった。()()()()()()()()()()()()()

 

 

拳を握り、冷たく固い声音で発せられる。

話の筋が見えないが、彼女のいつもと違う様子に黙るしかなかった。

 

 

 

「だから、せめて今のアイツを……ロックを見てやってくれ。──頼む」

 

 

 

その言葉に、思い切り目を見開く。

 

 

 

プライドが高く、常に軽口で話す彼女がここまで真剣に私に頼みごとをするのは初めてで。

しかも、恐らく今彼女は自分ではなく、岡島のために彼と私を会わせようとしている。

 

 

いくら仲間とはいえ、あのレヴィがここまでするとは。

 

 

 

──きっと、彼女をそこまでさせる何かがあったのだ。

 

 

 

 

私には想像できない、大きな何かが。

 

 

 

 

 

「何があったの?」

 

 

 

私の古傷を抉り、身勝手な正義感を振り回した彼を今も許せないし許す気もない。

そんな彼と話せというなら、せめて会わなければならない……レヴィがここまで会わせたがる理由を知りたい。

 

レヴィも分かっているのか、やがて静かにあの喧噪の一夜の出来事を語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──路南浦停泊所。

落陽の金色で染められた海面の上を潮風が撫でる。

 

街の喧噪を忘れさせるかのような美しい光景を、桟橋でただ一人ロックは眺めていた。

 

桟橋の手すりに凭れ掛かり、煙草(スピリット)を咥える。

ライターを取り出し先端に火を点す。煙を肺に入れ、ゆっくりと外へ吐き出した。

 

かもめの鳴き声と波音を静かに聞きながら、三日前に喰らった衝撃から痛む腹を撫でる。

 

“ロベルタを取り戻す”という困難と思われた依頼を、自身ができるすべてを出し切り、成し遂げた。

自身のやり方を気に入らなかった依頼者から空砲弾を撃たれ、罵倒され……感謝の言葉をもらうことはなかった。

 

 

 

 

だが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。

自身の手で事を成し遂げた事実に比べれば罵倒など些細な事。

 

 

 

 

──はずなのに、ロックの顔が晴れることはない。

 

 

何かが足りないと、彼自身が一番実感していた。

 

 

 

足りないものが何なのか。

 

それは自分が本当に求めているものだということも、自身一人ではどう足掻いても手に入らないことを理解しているからこそ、余計に胸の内にある虚無感にも似たものが時折押し寄せてくる。

 

腹を撫でる手に力が入る。

項垂れ、ため息を吐く。

 

 

同時に、桟橋の床を踏み鳴らす複数の足音が後ろから近づいてくる。

 

 

 

「ロック、お前に客人だ」

 

「え?」

 

 

 

背中越しに聞こえたレヴィの言葉に振り向く。

 

 

途端、ロックの目線は彼女の隣に立っている人物へとすぐさま注がれた。

 

 

 

大きく目を見開き、時が止まったように全身が固まる。

 

 

 

 

「……キキョウ、さん」

 

「……」

 

 

 

 

やっとのことで絞り出した声で彼女の名を口にするが、彼女が反応することはなかった。

キキョウは一切の表情を消した顔でロックを見据える。

 

彼を見つめている黒い瞳には夕日の光が入り、まるで宝石のように輝くその綺麗さにロックは釘付けとなった。

 

「じゃあ、後は二人でごゆっくり」

 

漂う妙に重い空気から逃げるように、レヴィは一言告げると手を軽く振りながら踵を返しその場を去る。

 

 

 

「……」

 

「……」

 

 

 

残された二人はお互いの顔を未だ見つめていた。

 

そうしてしばらくの間の後、やがて先に動いたのはキキョウの方だった。

徐に足を動かし、段々とロックの方へと近づいていく。

 

キキョウが自身の隣に立ったのを見やり、ロックは煙草を床に落とし足で踏みつぶす。

 

再び沈黙が訪れ、風と波の音だけが二人を包む。

 

 

 

レヴィから聞いたよ。大変だったみたいだね

 

 

 

視線を前に向けたまま発せられた声音には、氷のような固さと冷たさが帯びていた。

まだ自身の事を許していないのを隠そうともしない態度に、思わず眉を下げる。

 

 

日本語で話しているのもわざとだろう。

 

彼女は未だ自分を日本のサラリーマンである岡島緑郎として見ているのだと、嫌でも分からせられる。

 

確かに、メイドさんを無事あの子たちの元へ戻らせたのは君の功績。君自身の行動で事を成せた

 

「……」

 

だけど、子供の命をベットして自分は高みの見物。更に、あの子たちの前で最上の結果だと言い張った。それも笑顔で

 

「……」

 

今までの君ならそんなことなかっただろうね

 

……レヴィにも同じ事を言われましたよ

 

そりゃそうでしょ。──口先だけ立派なことを言って、正義感を振りかざした君がそんなことするなんて思わなかった

 

 

ちくちくと刺すような棘のある言い方に思わず眉根を寄せる。

 

 

聞く限り、君はできること全てやった。だけどそれで誰かから称賛を得られるわけでもない。返って来たのは街一番のクソ野郎っていう罵倒だけ

 

 

キキョウは桟橋の手すりに手を置き、徐に拳を握った。

 

水平線へ目を向けたまま、続ける。

 

 

自分なりの正義と善意もって動いて、何も残らなかった。──善意なんてただの独り善がり。善意で動いても何も得られないんだよ。今回の事でよく分かったでしょ

 

ほんの少しだけ、苛立ったような声音が滲んでいる。

キキョウはゆっくりと、ロックの方へ顔を向けた。

 

 

 

岡島。本当に、これでよかったと心から思ってる?

 

 

 

一切の表情を乗せていない顔で問いかける。

 

 

 

 

視線も声音も冷淡なのに、吸い寄せられるような黒い瞳は美しさを帯びたまま。

 

 

 

初めて見た時から魅入られた瞳を見据えた後、やがて夕日へと視線を向ける。

 

 

問いに対する言葉を慎重に選び、一つ息を小さく吐く。

 

 

 

正直、今のところは何とも言えません。だけど、俺が欲したのはあの子たちからの称賛じゃない

 

え?

 

メイドと米軍が鉢合わせた時、張さんは俺にこの件を降りろと言った。彼は俺がこのゲームに負けることに賭けたんだ

 

ロックから淡々と告げられる言葉の羅列を、キキョウは静かに聞いている。

 

だけど俺はその賭けに勝った。彼は俺を思い通りにできなかった。この街の支配者の一人である彼の鼻を、()()()()()()()()()()()()

 

ロックの口から張への対抗心を感じさせるような言葉が出てくるとは思わず、キキョウは一瞬目を見開くがすぐさま怪訝な表情を見せる。

 

俺はね、その事実に少なからず心地よさを感じましたよ。強いて言うなら得られたのはそれだ。……貴女にとっては面白くない話でしょうが

 

そういうロックの顔には、どこか寂しげな色が滲んだような笑みが浮かんでいた。

踏み入ってもよいか悩み少し間を空けた後、キキョウは戸惑いが混じった声音と表情を向ける。

 

 

どうして、彼にそこまで

 

 

 

ロックはキキョウの顔を横目に見た後、視線の先にあった夕日へ背を向ける。

 

桟橋の手すりに寄りかかり、空を見上げた。

 

 

 

 

 

──彼が、羨ましいんでしょうね。認めたくないですが

 

 

 

 

 

 

自身が彼にずっと抱いていたのは、男の醜い嫉妬。

 

 

そして彼女には憧れにも似た恋情を。

 

 

自分でも思った以上にどっぷりと嵌っていたらしい。

 

 

自覚するまで時間がかかったが、こればかりはどうしようもない。

 

 

誰よりも彼女を縛ることができ、彼女を傍における彼が何よりも羨ましい。

 

言いかけたこの言葉を口に出したら、余計自身が惨めになる気がして思い留まる。

己の感情を自覚したからか、どこか胸の内が軽くなったことに笑みを零し、煙草を取り出す。

 

 

 

キキョウはロックの様子に再び戸惑ったような声音を出す。

 

 

 

岡じ

 

「Ms.キキョウ」

 

 

 

キキョウの呼びかけを、ロックは英語で遮る。

 

 

自然な動作で煙草を咥え、ネクタイを緩めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──俺は、ロックです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう告げるロックの顔にはまるで吹っ切れたような……どこか爽やかささえ感じさせるほどの清々しい笑みが浮かんでいた。

 

 

ロックのその様にキキョウの怪訝な表情が崩れる。

 

 

 

その理由は、目の前の彼が放つ雰囲気がどことなく張に似ていることにあった。

 

 

普通の元サラリーマンだと思っていた男に、大悪党である香港マフィアの幹部と同じ雰囲気を感じたことにキキョウ自身が一番驚いていた。

 

レヴィから“今のアイツを見てやってくれ”と言われた理由が、今この瞬間にようやく理解する。

 

 

この男は本気でこの街で生きて行くつもりなのだと。

 

 

日向の世界に戻る気がないのだと、理屈などでは到底説明できないが彼の態度がキキョウにそう思わせた。

 

 

かつて自分の過去を身勝手に掘り起こし、

 

挙句この街から出て行くべきだと言った偽善にまみれていた男が子供の命を道具にしてまで事を成し、

 

日向者には容赦のないレヴィが彼のために動き、

 

更には街の支配者たる張やバラライカらに認められるまでとなった。

 

 

 

 

これらの事実に、この街の呼称で名乗った彼が今までの彼と違うこと──この街の悪党であるということを()()()()()()()()()()

 

 

 

 

「……そっか」

 

 

 

 

自身が彼にされたことを許す気はない。

 

 

だが、悪党として生まれ変わった彼は最早“()()()()()()()()

 

 

 

なら、“岡島緑郎”として振舞ったあの時の行為をいつまでも根に持つべきではないかもしれない。

 

 

 

許した訳ではない。ただ、この街が彼を受け入れたのなら、自身もそうするのが礼儀だろう。

 

 

 

キキョウの中では様々な感情が蠢いたが、やがて一人でに結論付けたった一言だけ告げる。

 

 

 

 

 

「ひとまずお疲れ様──()()()

 

 

 

 

 

微笑みながら告げるとロックは一瞬目を見開いた後、こみ上げるような感情を噛み締めるように口端を上げたまま「はっ」と息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

Epilogue 2.

 

 

 

 

「──よう、探したぜ」

 

キキョウとロックが二人で話をした更に数日後。

同じく路南浦停泊所の桟橋で煙草を燻らし一人佇んでいたロックへ、張維新が声を掛けた。

 

片手には大きいハンドバッグを持ち、邪気のない微笑みを携えている。

 

「キキョウと話したそうだな」

 

「流石、彼女の事は何でもご存じのようで」

 

「フッ、仲直りできたみたいで何よりだ」

 

「そりゃどうも」

 

 

軽く言葉を交わしながらやがてロックの隣まで歩みを進めると、ハンドバックを足元に落とす。

 

 

 

「メイドの件、あれの始末金だ」

 

 

 

チャックが開いているハンドバッグからは、大量の金が詰め込まれている。

ロックはバッグの中身を一瞥し、興味がないと言わんばかりにすぐさま海へと視線を向けた。

 

 

 

「金が欲しかったわけじゃありませんよ」

 

「結末の証だ。無意味な代物じゃない。ま、どう使おうとお前の自由さ」

 

 

張は徐にポケットから高級煙草(ジタン)を取り出し、火を点す。

口に咥え、煙を肺に入れると同時に口端を下げ、硬さを帯びた声音で話し出す。

 

 

「やれやれ、今回の件は重かった。徹夜明けにフライドチキンのバーレルを食わされた気分だ」

 

「……珍しいな、アンタがぼやくなんて」

 

「迂闊には言えんさ。だが、誰だって泣き言を言いたくなる時があるだろう。──お前はどうだ? 自ら進んで悪党になり下がった気分は」

 

 

 

張の問いかけにロックは答えることはなく、真意を探るように視線だけを向ける。

 

 

 

「お前は賭けに勝ち、ラブレスの若様も目的を果たした。……だが、それで無事幸せを掴んだとでも? んなわけない。彼らに待ってるのは険しく長い茨の道だけだ」

 

「……」

 

「それはお前も承知だったはずだ。()()()()()()()()()()()()

 

「……」

 

「自分のためだけに彼らを利用した。──立派な悪党だな、ロック」

 

 

 

口元を歪め、愉し気に話す張を横目にロックは煙を吐き出す。

水平線へ目を向け、淡々と言葉を発する。

 

 

 

「俺は彼らの依頼をこなしただけだ。その過程によって詰られたとしても、別にいい」

 

「……は、随分と淡泊になったな。普通は感謝されたいもんだろうに」

 

「そうかもしれませんね。──ただ、俺はそんなもの(感謝の言葉)より()()()()()()()()()()()()()。それがすべてだ」

 

「……」

 

ロックは、数日前ようやく自身をこの街の呼び名で呼んでくれたキキョウとの時間を思い返していた。

 

自分がやれることの全てを賭けゲームに勝ち、張の鼻を明かしても尚乾いていた胸が潤った瞬間。

 

 

 

この街の住民として彼女に認められたあの瞬間は、どんなものより価値がある。

 

 

 

ロックの顔には自然と笑みが零れていた。

 

 

 

──その笑みを見た張の中で瞬時に一つの勘が働いた。

 

恐らく……いや十中八九当たっているであろうその勘の答え合わせをしようと口を開く。

 

 

 

「女神さまからキスでもされたか?」

 

「それと似たようなもんです」

 

「お前をそこまで浮かれさせるとは、罪な女だなそいつは」

 

「ほんと、まさか自分でもここまでなるとは驚きですよ」

 

 

 

彼をここまで喜ばせることができる人間は一人しかいない。

 

 

 

その人間が誰かなど今更言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

「──いい女だろ、あいつは」

 

「そんなこと一目見た時から知ってますよ。あんたには本当もったいない」

 

 

 

 

 

開き直った男ほど勇ましく愚かなことはない。

決して手に入らないことを理解しているからこそ、彼女が一番信頼を寄せ、身体を許した男に対し負け惜しみのような言葉でしか対抗できない。

 

 

 

なんと哀れで惨めか。

 

 

 

だが、それが彼をロック(悪党)として昇華させた材料の一つでもある。

 

 

 

自身が見込んだ女が一人の男を狂わせ、その男はいずれ大悪党となるであろう素質を持っている。

 

 

当の彼女は、自身の存在が一人の男を本当の意味でアウトローの世界へ引きずり込んだなど夢にも思っていないだろうが。

 

 

 

 

「……は……はっはっはっは! ほんと大した野郎だお前は!」

 

 

 

 

 

これらの事実と今のロックの姿に、張は堪らず声を上げて笑った。

 

 

 

 

「どうだ、今夜一杯。なんならキキョウも連れて来よう」

 

「ええ、ぜひ」

 

 

 

 

 

ひとしきり笑った後、良い気分のまま極上の女との酒の席に誘えばロックは躊躇いなく乗って来た。

 

 

 

 

 

はっ、と一つ息を吐いた後、ロングコートの裾を潮風で靡かせながら去る張の後ろをロックは黙って着いて行った。

 

 




How easy love makes fools of us.
(いかに容易く愛は我々を愚かにすることか)

by モリエール







ロベルタ再来編、何とか書き切りました。
大分亀更新になってしまい申し訳ないです……。

次は平和なお話を二つほど投稿予定です。


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68 ジンジャーエールのおかわり

今回はほのぼの(?)な日常のお話です。


 燦々と輝く太陽がもたらすこの身を焼き尽くさんばかりの熱。

 猛暑と呼ぶにふさわしい気候の中、俺はある人物を訪ねるため道を進んでいた。

 

 どこで喰らったのか、時折吹雪く風に煽られている俺のロングコートの裾にいつの間にやら小さな穴が空いている。

 

 縁あって生活を共にしているシェンホアから紹介されたその人物は、洋裁に関してはこの街で右に出るものはいないとか。

 彼女に頼めば、完璧に修繕してくれるだろうと考えての事だった。

 

 自身を包む漆黒のロングコートは、俺の存在を主張するための重要なアイテム。

 傷ついた衣服では、人前でクールに登場するには少々不格好だ。

 それに、長らく着用しているアイテムにはそれなりに愛着が湧くというもの。

 新調するには些か早いだろう。

 

 茹だるような暑さの中、以前通った道を行けば見覚えのある家が見えてきた。

 

 看板も立っていないあの小さな家こそが、今回俺が尋ねる人物の根城だ。

 

 俺のコートの傷を完璧に癒してくれるといいのだが。

 そう期待を込めて一流の洋裁屋の戸を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ロットンさんって女性にすっごいモテるでしょ。それも、夢見がちな女性限定で」

 

「なぜそう思うんだ」

 

「だって恋愛に夢いっぱいの女の子は、顔イケメンでクサいセリフが似合う男が大好物なんだよ。まさにそのまんまだよね。逆に現実を見る女の子にはウケないとみた」

 

「俺はクサいセリフを言ったことはない。それに、恋や愛に夢を持つ女性だからこそ輝くものがある」

 

「ほらそれ。よく平然と言え……いッ」

 

「ルカ、お客さんに失礼なこと言わないの。……すみませんロットンさん」

 

「構わない。俺と彼の仲だ。逆にかしこまられた方が困る」

 

「ひゃなしてよしぇんしぇ~……」

 

 一つ息を吐き、ルカの頬から手を放す。

 

──いつの間に交流していたのか、初めから随分打ち解けた様子でルカはロットンさんと話していた。

 

 だが、彼はあくまでも客人だ。

 それに、客人でなくても普段よくしてもらっているであろう人に対し失礼なことを言うのを私は良しとしない。

 

 抓られた頬を痛そうに撫でるルカに視線をやると、気まずそうに顔を逸らされた。

 思わず苦笑を漏らした後、すぐさま気を取り直しロットンさんへ声を掛ける。

 

「もうすぐ終わるので。もうしばらく待っててください」

 

「ゆっくりで構わない」

 

「コーヒー、おかわりする?」

 

「いただこう」

 

 ルカもそこまで気にすることはなかったようで、いつもの調子を取り戻していた。

 空になったロットンさんのカップを手に、奥の自室へと向かっていく。

 

 ちゃんと接待している姿勢に感心し、依頼された品へと手を伸ばす。

 

 

 

──今回依頼されたのは、コートの裾に空いた穴を塞いでほしいとのことだった。

 

 弾丸で打ち抜かれたものより更に一回り小さい穴。

 一見どこも空いてないように見えるが、どうやらそれでも気になるようで「一流の貴女に頼みたい」と私のところへ来たという。

 

 この程度の穴ならばすぐに終わるのと、ルカも知人が来た喜びでもっと話したかったようなので、ロットンさんには終わるまで待ってもらうこととなり、コーヒーを飲みながら寛いでいる。

 

「はい、どーぞ」

 

「ありがとう」

 

「ねえねえロットンさん、今度一緒に街観光しようよ。まだ回ってないとこいっぱいあるでしょ。僕案内したげるよ」

 

「まあそうだな。じゃあ、お願いしようか」

 

「お任せあれ」

 

「ルカ、ロットンさんを娼館に連れてって売り込む気じゃないでしょうね」

 

「そ、そんなことしないよ! ただ、連れてったら色々ご褒美もらえるかもだし……あ」

 

「そんなことしたら、しばらく外出禁止だからね」

 

「う……」

 

 手を休めることなくルカに釘を刺せば、困ったように頭を掻いた。

 ロットンさんは長い足を組み替える。

 

「随分仲がいいな、君たちは」

 

「まあね。初、そして唯一の弟子だしッ」

 

 へへ、と邪気のない笑みを浮かべながらルカが間髪入れずに答える。

 

「弟子になったきっかけはなんだったんだ?」

 

「僕が押しかけたんだ。そしたら先生が根負けして……って感じ」

 

「ルカ以外に弟子はいなかったのか? 君の腕なら門を叩く者もいただろうに」

 

「いなかったですよ。この街じゃ洋裁を身に着けようとする子の方が珍しいんです。どちらかと言えば、銃や薬の売人の手伝いとか、盗みを生業にする子が多いと聞きます。洋裁よりそれらの方がよっぽど身近でしょうから、当然と言えば当然ですね」

 

「……なるほど」

 

 納得したように呟きコーヒーを口につけた後、サングラスをくい、と上げる。

 

「そんな街で洋裁屋を営んでる貴女は、誰かの世話になっているのか?」

 

「そうだよ。なんたって、あの三合会の大幹部、Mr.張がパトロンだよ。あとそのパトロンの恋人でもあるし」

 

「なんと」

 

「違います。断じて恋人じゃないです。ルカ、変なこと言うのはやめなさい」

 

 作業している手は休ませず最後の仕上げをしながら、諫める様に間を空けず訂正する。

 

「え、先生まだそんなこと言ってるの? 張さんに呼ばれた日は必ず朝帰りするのに」

 

「なっ……!」

 

「ほう……」

 

「この前だって、張さんから花もらってたじゃん。先生それ押し花にして大事に持って」

 

「る、ルカ……! それ以上言ったら怒るよ!」

 

「むごっ」

 

 これ以上暴露される前に、慌てて席を立ちすぐさまルカの口を抑える。

 

 人前で何てこと言うんだこの子は。

 後で説教しなくてはならない。

 

 

勢いよくロットンさんへ視線を向ければ、ビクと肩を上げた。

 

 

「今の話は聞かなかったことにしてください……ッ」

 

「あ、ああ……」

 

 相手がロットンさんでよかった。

 これがレヴィやエダとか他の人だったら間違いなく笑われる上に噂になる。

 

「んー、んー!」

 

 

 

ルカがバシバシと抑えている私の手を叩く。

 

 

このままだと息がしづらそうなので、手をどかす。

 

「ぷはっ……そんな恥ずかしがることないじゃんか……」

 

「それ以上何か言ったら本当に怒るからね」

 

「……はあい」

 

 私に本気で怒られると察したのか、今度は素直に引き下がってくれた。

 心の底から安堵し、「ごほん」とわざとらしく咳ばらいする。

 

「失礼しました……えと、こちら無事修繕終わったのでご確認ください」

 

 なんとか平然を装い、修繕が終わったコートを手に取りロットンさんへと差し出し彼が持っていたカップを受け取る。

 彼は何も言わずコートへ手を伸ばし、今では塞がっている穴が空いていた箇所を見つめた後、満足そうに微笑んだ。

 

「ありがとう。料金は……」

 

「ドルなら三ドル。バーツなら百三〇で」

 

「安いな」

 

「今回はちょっとした修繕だけでしたから、これくらいで」

 

 ロットンさんはそうか、と納得したように呟くと椅子から腰を上げる。

 すぐさまポケットから財布を出し、差し出された三ドルを受け取った。

 

「ご依頼ありがとうございました。またいつでも来てください」

 

「ああ。……そういえば、イエロー・フラッグが営業再開したそうだ。この後シェンホアと合流する予定なんだが……その……ルカと一緒に来ないか」

 

「え?」

 

「行く!」

 

 少しの間も空けずに返答するルカとは反対に、唐突のお誘いに一瞬戸惑ってしまう。

 なぜ急に酒の席の誘いをしてきたのか分からず、首を傾げる。

 

「シェンホアから君はあの店の常連だと聞いた。それに、彼女も君のことを最近気にかけていたから丁度いいかと思ったんだが……迷惑だっただろうか」

 

「いえいえ、シェンホアとは私も久々に会いたいので。なら、お言葉に甘えてご一緒させていただきますね」

 

「よかった」

 

「やった!」

 

「──と、その前に私はルカとお話があるので、少しだけ外で待っててもらっていいですか?」

 

「分かった」

 

 微笑みを浮かべお願いすると、ルカは「え」と顔を引き攣らせていた。

 ロットンさんは一言返すと、ロングコートを羽織り颯爽と外へと歩みを進めた。

 

 空になったマグカップを作業机の上に置き、ルカへと顔を向ける。

 

「ルカ、こっちにおいで」

 

 

 

口端を上げる私とは反対に、ルカの顔は相変わらず引き攣っていた。

 

 

 

──後で聞いた話だと、その時の私は怒っているオーラが漂っていたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────────────────

 

 ──ルカとの『お話』を終えた後、外で待っていたロットンさんと共にイエロー・フラッグへと向かった。

 ルカの方はどことなく疲弊した顔を浮かべていたが、一緒に行きたい気持ちは変わらなかったようだ。

 

 最早ドアが意味を為していない入り口を通れば、所々に穴が空いているが最低限の店の形を取り戻している店内が目に入る。

 多くの人の憩いの場である店が営業再開したという噂はすぐに広まったようで、テーブル席はほとんど埋まっており、以前と同じ賑やかな雰囲気に包まれている。

 

 奥にあるボロボロなカウンターへ歩みを進めると、優雅に新聞を読んでいたバオさんが顔を上げた。

 

「よおキキョウ、久々じゃねえか」

 

「お久しぶりですバオさん」

 

「弟子取ってから来るのめっきり減ったな。やっぱガキの世話は忙しいか」

 

「常連が減ったからってイライラしないでよ、もっと老けるよ。あ、僕オレンジジュース」

 

「うるせえクソガキ。おいキキョウ、こいつの躾一体どうなってんだ」

 

「はは……すみません」

 

 彼の言葉に思わず苦笑を漏らしながらカウンターに座る。

 ふと、バオさんは私の後ろを着いてきたロットンさんへと目を向けた。

 

「珍しい組み合わせだな。お前さん、いつからこんな色男を連れ回すようになったんだ?」

 

「誤解を招く言い方しないでください。偶々ですよ」

 

 バオさんは軽い冗談を言いつつ、私のお気に入りであるウイスキー(Jack Daniel’s)のボトルと氷が入ったグラスを目の前に置いた。

 

「お前ェは何飲むんだ?」

 

「……ジンジャー・エールで」

 

「あー、そういやお前下戸だったっけか。たく、ここは酒場だってのに」

 

 

 

 ブツブツと何やら呟きながらも、バオさんはすぐさまジンジャー・エールの瓶とグラスをロットンさんへと渡す。

 

 

 

「ロットンさん、下戸だったんですね。なのにここで飲みの約束を?」

 

「彼女も飲みたくなる時があるんだろう。もしもの時、彼女を背負って帰るのが僕の役目だ」

 

「なるほど」

 

 シェンホアはそこまで酒癖が悪い印象はないのだが、念のために付き添うということなのだろう。

 彼は女性や子供に対しどことなく優しい面がある。

 

 

 

「乾杯」

 

 

 ロットンさんと軽くグラスをぶつけ、久々のJack Daniel’sに口をつける。

 冷えた酒が喉を通り、体に染み渡るのを感じながらグラスをカラカラと振る。

 

 

 やっぱりこのお酒は美味しい。

 

 

 

 

「──この前の傷、まだ治ってないですだヨ。アンタといるといつもケガするネ」

 

「しょうがねえだろ。終わったことをいつまでもネチネチ言うんじゃねえ」

 

「ほんとアンタといるとロクなことないネ、このアバズレ」

 

「ま、まあまあ……」

 

 

 

 ウイスキーのほろ苦さを堪能していると、後ろから聞き覚えのある声が耳に入る。

 振り返ると、ロックを挟みいがみ合っているシェンホアとレヴィがいた。

 

 すぐさまレヴィがこちらに気づく。

 

「よお、キキョウ。今日はガキと色男連れてんのか、珍しいな」

 

「あ、レヴィ姉さん」

 

「ロットンさんに誘われたの。折角だからルカも一緒にと思って」

 

「アイヤ、ロットン。キキョウ誘ったなら連絡寄越すネ。そしたら店変えたヨ」

 

 はあ、とため息を吐いた後、シェンホアはすぐさま表情を微笑へ変える。

 

唔好意思。這很煩對吧(ごめんね。迷惑だったでしょ)

 

唔緊要(大丈夫だよ)

 

 

 

 切り替えの早さに苦笑を漏らしつつ、広東語で軽く言葉を交わす。

 

 ふと、隣にいるロックと目が合った。口端を上げたまま、今度は彼へ言葉をかける。

 

 

 

「最近よく会うね、ロック」

 

「ええ、そうですね」

 

 

 そう言ってロックもまた微笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 実は、つい数日前張さんに酒の席に誘われたのだが、その時ロックも一緒にいたのだ。

 

 

 この二人が酒の席を共にしているとは思っておらず驚いた。

 

 

 

 なぜその席に私が呼ばれたのかを問えば「野郎二人じゃ華がなくてな」と、いつもの軽口で返された。

 今回も彼の気まぐれだろうと、その時はあまり気にしていなかった。

 

 

 その後は二人のグラスに酒を注いだり、話を振られたら返すなど軽い接待をしていたのだが、時折ほんの少しだが不穏な雰囲気になることがあった。

 

 

 「早くいい女見つけたらどうだ」と張さんが言えば「もう間に合ってるんで」とロックが返し、「俺は全部手に入らなくても満足できるんで」とロックが言えば「そんなのはただの虚勢だろ」と張さんが返し……というやり取りを二人は薄ら笑いを浮かべながらしていた。

 

 

 

 間に挟まれている私はただ酒に口をつけるしかできなかった。

 

 

 本当になぜ私があの場に呼ばれたのか、今でも謎だ。

 

 

 

 ──そんなこんなで、前とは違いロックとは良好な関係を築けている。

 

 

 

「ロックとレヴィも飲みに来たの?」

 

「ああ、仕事もひと段落したからな。景気づけに一杯やろうと思ってよ。そしたら、ですだよと鉢合わせしたんだ」

 

「そうだったんだ。じゃあダッチさんとベニーは?」

 

「ダッチは船、ベニーは機材のメンテで」

 

「そっか。なら、二人の飲みの席には邪魔しない方がいいかな?」

 

「いや、ぜひご一緒させてください。いいよなレヴィ?」

 

「どうせそのつもりだったんだろうが。顔に書いてるぜ、“キキョウと飲みたくて仕方ねえ”ってな」

 

「べ、別にそんなこと……」

 

「アンタら、アタシたちのことは無視カ?」

 

 

 

 三人のやり取りに再び苦笑を漏らす。

 

 隣でルカが「へえ」と何やら気づいた声を出し、ずず、とオレンジジュースを飲み干す。

 

 

 

「なあ、この人数なら席移動しようぜ。テーブル席丁度空いたしよ」

 

「そうだね」

 

 レヴィの提案に腰を上げ、グラスとボトルを持って空いたテーブル席へと向かう。

 バオさんがロットンさんに氷が入ったアイスペールを渡し、ルカは「オレンジジュースおかわり!」と元気よく注文した後パタパタと着いてくる。

 

 

 空いている席に腰かけると、次にロックとルカが私の隣に座ろうとする。

 

 

 それを見兼ねたレヴィが「おいおい」と呆れたような声音を出す。

 

 

 

「お前な……ちとあからさまじゃねえか?」

 

「え?」

 

 

 

レヴィの言葉にロックと私は同時に反応し声が重なった。

 

 

 

「何が?」

 

「はあ……」

 

「アンタも苦労してるですだね、アバズレ。アンタ、よく張大哥に始末されないネ」

 

「な、何のことだよ」

 

「無意識かよ」

 

「どうしたのレヴィ?」

 

「いや……なんでもない……」

 

 

 

 再びため息を吐くと、レヴィはロックの隣へ腰かける。

 

 シェンホアもどことなく呆れたような表情を浮かべている。

 

 

 

「僕は先生の態度も問題だと思うけどね。思わせぶりというか、隙がありすぎるっていうかさ」

 

「おおルカ、お前もそう思うか」

 

「え、何の話?」

 

「うん。だってこの前来たお客さんも、先生のことちょっとそういう目で見てたし。──美人さんだし人を忖度しないし、なんたって見るからに弱そうだからしょうがないけど」

 

 

 

 全員が席に座ったと同時に、ルカが突然私の事を話し始めた。

 

 何故かレヴィも前のめりで乗ってくる。

 

 私の問いは無視され、二人は意気投合したようにひたすら言葉を交わす。

 

 

 

「そうそう。何年か前もこいつの甘さに付け入った馬鹿がいてよ。あの時は旦那が後始末してくれたからよかったものの」

 

「僕もその甘さに付け入った一人だからあんまり言えないけど……あ、あれだ。先生は無防備ってやつだ」

 

 

 

 恐らく話の中心である私は置いてけぼりで、思わず首を傾げる。

 

 

 バオさんが黙って全員分のグラスとボトルを数本、オレンジジュースをテーブルに置き、すぐさまカウンターへ戻っていく。

 

 

 

「だから何の話……て、ルカそれ私の酒!」

 

 

 

 再び問いかけようとした時、ルカは手元をよく見ていなかったのかオレンジジュースではなく私の酒を手に取り、勢いよく口をつける。

 

 

 

 止めようと動いた時には遅く、既に飲み干していた。

 

 

 

 乱暴にグラスを置いた途端、更に饒舌に話し始める。

 

 

 

「そもそも! 僕が弟子になる前はここに一人で来てたって、よく生きてたなあって思うよ」

 

「だよなあ。子供でも分かるってのに、こいつときたら銃の一つも持ち歩かねえ。アタイが教えてやるって言っても、“あまり銃は使いたくない”って断りやがったしよ。日本人ってのは皆そうなのか?」

 

「あれ、俺にも飛び火が来てるこれ?」

 

 

 

 何だろう。

 何故か分からないが友人と弟子からの唐突な説教じみた話に思わず黙ってしまう。

 

 

 

 私の戸惑いには目もくれず、二人の勢いは止まらない。

 

 

 

「それに街の情勢にはすんごい疎い」

 

「騙されても死んでないから別にいいとか言いやがる」

 

「僕みたいな子供にはより甘い」

 

「街のやつに嫌味言われても言い返さねえ」

 

「本当に甘すぎる」

 

 

 

 

 テンポよく交互に言った後、最後は二人の声が重なった。

 シェンホアとロットンさんの視線も相まって、どこか居た堪れない気持ちになる。

 

 

 ……酒を飲みに来ただけなのに、何故こんなことに。

 

 

 

「で、でも、なんだかんだ言ったって君たちもキキョウさんが好きなんだろ?」

 

 

 

 ロックがフォローのつもりか、とんでもないことを言い出した。

 

 取り繕うような笑顔で言い放つ彼を思わず凝視する。

 

 

 

「べ、別に好きとかじゃねえ! ダチならそれなりに気にするだろ! この馬鹿クソロック!」

 

「当たり前じゃん! 好きだから心配なの! レヴィ姉さんだってそうだよねえ!?」

 

「だから違うって言ってんだろ!」

 

 

 ロックの言葉に、二人は間髪入れずに同じタイミングでそれぞれ違うことを発した。

 レヴィは眉根を寄せ、怒ったような表情を浮かべているが、心なしか頬が赤いように見えた。

 まあ、恐らく酒のせいなのだろうが。

 

 レヴィは手早くグラスに酒を入れ、そのまま一気に飲み干した。

 

 

「……ただ、恩を返す前に死なれちゃ困るってだけだ」

 

 

 

 少し落ち着いたのか、静かに一言呟いた。

 

 

 恩を返されるようなことしたかな、とこれまでの出来事をできるだけ振り返ろうと思考を巡らす。

 

 

 

「じゃあレヴィ姉さんからももっと言ってやってよ。ちゃんと用心しろって」

 

「旦那が言っても聞かねえのに、アタシが言ってもしょうがねえだろ。……それにしても、ガキにしちゃ話ができる奴だな。もっと荒んでるもんかと思ったよ」

 

「大人には明るい子供の方が受けが良かったんだよ。そっちの方が稼ぎよくなったし。ま、いつのまにかこの性格が定着しちゃって抜けなくなったんだけど」

 

「へえ」

 

 

 

 どこか感心したような声音を出し、レヴィは徐にグラスを持って席を立つ。

 流れる様にこちらへ来たと思えば、ルカの頭に腕を乗せにんまりと笑う。

 

 

 

「そんなお前に、このレベッカ姐さんがもっと有意義な話を聞かせてやろうか?」

 

「え、なにそれ。すごく聞きたい!」

 

「よおし」

 

 

 ルカの機嫌がよい返事に、レヴィはガシガシと少し乱暴に頭を撫でた。

 空気を読んでか、ルカの隣に座っていたロットンさんが席を立ち、早々にレヴィが元いたシェンホアの隣の席へと移動する。

 

 

 ルカが空けたグラスをこっそり回収し、氷を二つ入れ酒を注ぐ。

 

 

 

「人気者ですね、キキョウさん」

 

「今の話からだと全然そうは思えないけどね」

 

 

 はあ、と一つ息を吐き酒に口をつける。

 隣で話が盛り上がっている二人をちら、と一瞥し、カラカラとグラスを揺らす。

 

 

 この調子なら、これからは二人とも仲良くやれるだろう。

 

 

 数少ない友人と唯一の弟子には良い関係を築いてほしいと思っていたので、一安心だ。

 

 

 

「それにしてもキキョウ。アンタ本当に不用心すぎるですだよ。銃が嫌なら小ナイフの一本くらい持っとくいいね。ロットンだって出歩くときは防弾チョッキ着てるだよ」

 

「いや、彼女にはスタンガンとかの方がいいんじゃないか?」

 

「ははは……まあ、長く生きようとは思ってないので」

 

 

 

 苦笑いを零しながら答える。

 

 

 こういう小言は何回も言われているが、武器を持つのは自分の手に合ってないので遠慮したいのはずっと変わっていない。

 

 なので今も私が持っている武器は張さんからもらった小銃のみだ。

 ちなみにその小銃の引き金を引いたことは一度もない。

 

 

「俺が言うのもなんだが、もっと用心した方がいい。この街は特に君みたいな女性が着け狙われるだろうから」

 

「張大哥や莫欺料大飯店(ホテル・モスクワ)だって完全に守れるわけないネ。──まあ、大哥の太太(嫁さん)なるなら話は別と思うヨ」

 

「え?」

 

「ぶっ」

 

 

 

 シェンホアの言葉にロックは酒を吹き出した。

 私は驚きのあまり一瞬言葉を失ったが、怪訝な表情を隠すことなくやっとのことで声を出す。

 

 

 

「何言ってるのシェンホア」

 

「香港いた時、女に対してもっとドライだったヨ。ちぎって投げるって感じネ」

 

 話の真意が分からず、言葉の続きを待つ。

 

「アタシこの街来てまだ少ないけド、大哥がキキョウの事すごく気に入ってるのよく分かるネ」

 

「……」

 

「だから太太(嫁さん)じゃなくても、せめて恋人として隣にいたら今よりもっと安心ネ。キキョウが言えば、大哥はすぐにでも傍に置くと思うですだよ」

 

「…………」

 

 

 彼女はもう酔っているのだろうか。

 なんでここであの人の傍にいるいないの話になるのかが理解できない。

 彼にとって面倒であろう関係に発展することはきっとないのに。

 

「Mr.張はなぜ彼女を傍に置かないんだ?」

 

「さあ? あの人は分気分屋ね。何考えてるか分からないですだよ」

 

 

 

 ……そう、何考えてるか分からない。

 

 

 気まぐれで、いつも飄々としていて、私の何歩先も前を行くあの人が考えていることは私なんかじゃ予想もつかない。

 

 

 だから、望むことはできない。

 

 

「ふふっ」

 

「……キキョウさん、もしかしてそのつもりがあるんですか?」

 

「まさか。ちょっとおかしいと思ってね」

 

「え?」

 

 

 

 思わず笑ってしまった。

 

 

 ロックがどこか遠慮がちに聞いてきた問いに、微笑みを浮かべたまま返す。

 

 

 

「彼の隣に立つのは、私じゃ無理かな」

 

 

 途端、私以外の皆。談笑していたレヴィとルカも含め、その場の空気が止まった。

 

 

 

「……どうして?」

 

「だってそうでしょ? マフィアの大幹部とただの洋裁屋の女。とても釣り合うとは」

 

「でも抱かれたんだろ?」

 

「ぶっ……!」

 

 

 レヴィの言葉に再びロックが酒を吹き出した。

 

 

 唐突に彼女の口から自身の事をこの場でカミングアウトされてしまい、計らずも全身の動きが止まってしまう。

 

 

 

 ──彼の呼び出しがある度に一夜を共に過ごしていれば、嫌でも街の人たちには“そういうことだ”と周知の事実となっていく。

 

 

 今更隠しても意味はないことは分かっているのだが、やはり自分の口から公言するのは憚られるので言ってこなかった。

 

 なので否定できる訳もなく、黙って酒を飲むことしかできない。

 

 

「旦那はただの女をここまで気にかけねえよ。何回も言ってんだろ」

 

「……どうかな、あの人は気分屋だから」

 

 

 苦笑しつつシェンホアと同じ言葉を返すと、彼女は眉根を下げた。

 

 

「それに、彼はそこまで馬鹿じゃないよ」

 

「あ?」

 

「彼はマフィアの大幹部で、しかもこの街の支配者の一人でもあるんだよ。そんな人が自分の傍に置く女性に、洋裁しか取り柄のない女を選ぶわけない」

 

「じゃあなんでお前は抱かれてんだよ」

 

「少なくとも、傍に置くためじゃないと思うよ」

 

「……」

 

 

 どこか気持ちが落ち着かないので、再び酒に口をつける。

 

 

 私の話を聞いたシェンホア、レヴィ、ルカが盛大に「はあああ」とため息を吐いた。

 

 

 

 

「ここまで来たら張の旦那に同情するぜ、マジで」

 

「おう、気が合いますねアバズレ」

 

「なんでここまで拗れてんだろ……」

 

 

 

 三人は呆れたような表情を浮かべ、それぞれ何やら呟いている。

 

 

 やがて同じタイミングで表情を変えずにこちらへ視線を向ける。

 

 

 

 なんとも言えない空気に、戸惑いながら口を開く。

 

 

 

「えっと……どうしたの三人とも」

 

「まあまあ、そこまで気にしなくていいんじゃないですか。張さんの隣に立つなんて色々大変でしょうし」

 

「その笑顔、旦那が見たら間違いなく引き金引くだろうぜ」

 

「むしろあたしが今ここで刺した方がよいないか?」

 

「ロックさん、もう隠す気ないでしょ。先生が鈍くてよかったね」

 

「え」

 

 

 

 ルカの言葉にロックと同時に反応する。

 

 

 何の話か分からずルカに聞き返そうとしたが、どこか焦った様子のロック対ルカとレヴィで言い争いに発展してしまい叶わなかった。

 

 

 

 

 三人の言い争いを前に私とシェンホアは酒を飲み、ロットンさんはジンジャー・エールのお代わりをもらいに行った。

 

 

 

 

 




ロックさんも吹っ切れたのでもう怖いものなしですね←



次はあの人との甘いお話を予定してます。


キキョウさんが押し花にしてる薔薇をもらった話は以下から……。

「純粋なあなたへ」
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=19330223


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69 水も滴る……



今回は糖度120%でお送りします。


 白いパウダーを少しづつ肌の上に乗せる。

 そしてフェイスブラシを手に取り、目を瞑りささっと余分な粉を落としていく。

 

 仕上げに赤い口紅を唇に塗り、唇だけが目立たないようティッシュを押さえ、顔に馴染む色になるまで薄めていく。

 

 最後に軽く髪にヘアブラシを通し、鏡に映る自分の顔を見やる。

 

 ──自分で化粧をしたのはいつ振りだろうか。

 リンさんから「たまには自分でできるように」と、以前教えてもらったことが今頃になって活きるとは。

 

 

 多分、そこまで変な仕上がりにはなっていない……はずだ。

 

 

 

「ちゃんとおめかしできてるじゃん。あの人絶対喜ぶよぉ」

 

 

 いつの間にか隣に立っていたルカは、親指を立てにっこりと笑みを浮かべている。

 その様に思わず深いため息が出た。

 

「……こういうの、あんまり良くない気がする」

 

「大丈夫だよ。自信持って先生」

 

「い、いきなりこんな格好で行くのはちょっと……今までこういう事しなかったし」

 

「逆におめかししないで行ってた方がおかしいと思うよ僕は」

 

 今私が着ているのは、普段なら着ないものだ。

 首元に付いたタイを蝶結びにした袖が七分丈の白いブラウス。

 

 

 

 ウエストが引き締まっているように見せるロング丈の黒いハイウエスト・スカート。

 

 

 踵は低く、黒い光沢のあるピナフォア・ヒール。

 

 

 

 これらは全てルカが選んだもの。

 靴は以前依頼してくれた娼婦からいただいたものだが、それ以外は収納部屋にあった服だ。

 

 

 

 

 ──事の発端は一時間程前。

 昼食をルカと摂っていると、張さんから久々に「二人で会いたい」と呼び出しがあった。食べ終えて、いつもの服で出て行こうとしたのだが何故かルカに止められた。

「折角ならおめかししてこ! たまには媚び売らないと!」といつもより熱意を籠めたように言われ、私が言い訳じみた言葉を並べていたら「似合いそうな服選ぶのも修行の一環でしょ! 師匠なら付き合って!」ともっともな意見に押し負け、おしゃれをする羽目になったのだ。

 

 おしゃれをするからには化粧も必要だと、重い手を動かしなんとか仕上げたが……やはり違和感がすごい。

 慣れない服に身を包むのはいい。

 だが、彼から着飾って来いと言われた時以外はいつも普段の恰好だったのだ。

 

 着飾って彼と会うのは、まるで“そういう”ことを期待していると……彼に女として見てほしいと言っているような気がどうしてもしてしまう。

 

 

 ……これを言ったら、ルカに「今更だ」と呆れられるだろうか。

 

 

 

 

「──絶対揶揄われる」

 

「揶揄われたとしても内心大喜びだから。男心ってのはそういうもんだよ」

 

「でも」

 

「もう、つべこべ言わない! いつも通りの態度で行けば大丈夫だから!」

 

「う……」

 

 

 

 私のうじうじと言い訳する様に痺れを切らし、勢いよく叱るように言い放たれる。

 子供に叱られるなんて大の大人が情けないと思うが、今回ばかりは素直になれないので仕方ない。

 

 

 

「ビルまで僕も一緒に行くからさ。そしたら一人で街を歩かずに済むしいいでしょ。あ、汚れたら台無しになるからトゥクトゥク乗ろ。この時間ならまだ空いてるはず」

 

「……」

 

「そんな拗ねた顔しないでよ先生。それとも、僕が選んだ服気に入らなかった?」

 

「そういう訳じゃないけど……まだ心の準備っていうのが」

 

「パトロン待たせちゃダメでしょ。はい、行くよ」

 

 

 

 ルカに主導権を握られているのは気のせいだろうか。

 我が弟子ながら逞しいと思う反面、今はほんの少し憎らしい。

 

 

 

 手を握られ、弟子に引っ張られるまま家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──もう帰りたい。

 

 

 心の中で半泣きになりながらも出かかった言葉を飲み込む。

 

 ここからは一人で大丈夫でしょ、とルカに笑顔で送り出され、彼がいる高層ビルへ入ったはいいものの、見知った顔である三合会の人たちからの視線が痛いほど刺さる。

 

 いつも洒落っ気のない女がめかし込んでいるのが珍しいとは言え、こちらを見ながらコソコソと話す様が目に入る度に居た堪れない気分になる。

 

 だが彼からの呼び出しを蔑ろにするわけにもいかないので、重い足取りのまま進み受付の人に声を掛ける。

 いつもと変わらない営業スマイルで対応をしてくれたのが今この場で唯一の救いだ。

 

 

 促されたままエレベーターに乗り込み、最上階へと向かう。

 

 

 扉が開きいつもの道順を進んでいると、社長室の前に彪さんが立っていた。

 

 

 

「よおキキョ……珍しい格好だな、どうした」

 

「……色々ありまして」

 

 

 

 私の姿を見るなり、彪さんは驚いたような声音を出す。

 

 

 

「へえ、とうとう媚びを売るようになったのか?」

 

「断じて違います。……ニヤニヤしないでください」

 

「わりィわりィ。ま、いいんじゃねえか? 大哥も喜ぶだろうよ」

 

「揶揄われる未来しか見えませんけどね」

 

 

 はあ、と小さく息を吐けば、彪さんは喉の奥でくくっと笑う。

 

 

「あー……だがタイミング悪かったな。その恰好は意味ねえかもしんねえぞ」

 

「え?」

 

「すぐ分かる。今日は別の部屋だそうだ」

 

 

 

 彪さんはこっちだ、と社長室とは真反対の方向へと向かう。

 少し戸惑いつつも、置いて行かれないよう彼の背中に着いて行く。

 

 

 

 ほんの数分歩くと、やがて一つのドアの前で立ち止まる。

 

 

 

 社長室以外に入るのは初めてなので、何の部屋なのかは分からない。

 

 

 そのまま彪さんは流れる様にドアを開けた。

 途端、目の前に広がったのはガラス張りの向こうにある広々としたプール。

 

 

 

 ──まさか、ビルの中にもプールがあるとは。

 

 

 確か、六年前に少しの間居させてもらった隠れ家にもあったはずだ。

 

 彼はプールが好きなんだろうか。などと考えていると、彪さんに「入れ」と言われ、はっとし足早に中へと入る。

 改めて見渡すと、誰かがプールで泳いでいるのが目に入った。

 プールサイドに郭さんが立っているので、泳いでいるのはきっと張さんだろう。

 

 どうもプライベートの時間らしく、呼ばれはしたが本当に私が邪魔していいものか……。

 そう考えている間に彪さんはつかつかと奥へと進みプールサイドへ出ると、何やら張さんへ声を掛けた。

 

 

 やがて水から顔を上げ、すぐさまこちらへ視線が向けられる。

 

 

 

 私の姿を見た彼は目を見開いた後、遠くからでも分かるほど愉し気に口端を上げた。

 彼に軽く手招きされ、何を言われるのか不安に煽られつつ向かう。

 

 

 

 プールサイドの入り口まで行くと、部屋の涼しさとは違う清涼感を肌で感じる。

 意を決し、相変わらず口端を上げこちらを見ている彼へ歩みを進めていく。

 

 

 

「今日は随分可愛らしい格好だな。やっと自分から着飾ってくれるようになったのか」

 

「そう思いますか」

 

「さあ? だが、そうだと嬉しいね」

 

 

 上機嫌な声音でそう言うと、彼は腹心の二人へ軽く手を振る。

 兄貴分の指示に忠実な彼らは、何も言わず颯爽とこの場から離れていく。

 

 

 おかげで、この広いプールに彼と二人きりとなる。

 

 

 いつもの整ったオールバックではなく、水でかき上げられているせいか、いつもと雰囲気が違うように感じた。

 

 

 もっと近くに寄れと言わんばかりに、再び手招きされる。

 抵抗することもなく歩みを進め、やがてプールの縁から顔を出している彼の目の前まで近づく。

 スカートが濡れないよう、膝の後ろに手を当てつつ折り込み屈む。

 

 

 

「折角可愛い格好してるお前に言うのはあれだが……ま、しょうがない」

 

「え?」

 

「一緒に入れよ」

 

「え……」

 

 

 

 まさかのお誘いに思わず目を見開く。

 

 この格好で入るわけにもいかないので、当然戸惑う。

 

 

「流石にこの格好では……」

 

「んなわけねえだろ。水着は用意してある」

 

「なぜ……って、サイズは?」

 

「んなもん俺とお前の仲だ。知らねえ方がおかしいだろ」

 

「……」

 

 

 

 彼の言葉に顔に熱が籠る。

 目の前で浮かんでいるやりとした顔から瞬時に目を逸らす。

 

 

 

「私泳げないですよ」

 

「大丈夫だろ」

 

「本当に無理なんです」

 

「俺が傍にいるんだ。ここで溺れることはないと思うが」

 

「いや、でも……」

 

 

 

 私は学校もロクに行っていない上に、春さんと一緒にいた時も海やプールに興味がなかった。

 つまり泳ぎの練習をしたことがない。というより、泳ぎ方を知らないのだ。

 

 

 いくら彼が傍にいたとしても、迷惑をかけるだけで楽しくなるはずがない。

 

 

 だから入るのを渋るのは当然だ。

 だが、彼は引き下がる様子を一向に見せない。

 

 

 

「折角水着まで用意したのになあ。人の好意を無下にするのは良くないぞ」

 

「ありがたいですが、今回ばかりは遠慮させてください」

 

「楽しみ方は泳ぐだけじゃねえぞ?」

 

「お風呂より深い水に入ったことがないので、楽しむ余裕ないと思います」

 

「おいおい」

 

「本当ですよ」

 

 

 私が嘘をついているように見えないようで、張さんは困ったように眉を下げた。

 

 

「不安なら俺が支えてやるぞ」

 

「それだと、ずっと貴方にしがみつくことになってしまうので……」

 

「──ほう」

 

 

 しがみついた後も動かなくなる自信がある。

 流石の彼もずっとしがみつかれるのは困るだろう。

 

 

 私の言葉に何を思ったのか、張さんは愉快そうに再び口端を上げる。

 

 

「そこまで嫌なら仕方ねえな。無理強いは良くない」

 

「分かっていただけたようで」

 

「上がる。手貸せ」

 

 言われたまま右手を差し出すと、水に濡れた武骨な手が触れる。

 

 

 

 掴まれた次の瞬間──思い切り手を引っ張られた。

 

 

 

「わっ……!」

 

 

 少しの間もなく訪れた水の感覚と息苦しさにどうしたらいいか分からなくなる。

 口と鼻に水が入ったせいで余計に頭が混乱する。

 

 本能で何かに掴まろうと腕を動かすと、すぐさま強く引っ張られたおかげで水面に顔を出せた。

 そのまま彼の首元へ手を引き寄せられ、溺れないようにと何も考えずしがみつく。

 

 

 

 腰と背中に手を回され、咳き込む私を落ちつかせるように優しく背中を叩かれる。

 

 

 

「げほ、ごほッ……はあ……はあっ……」

 

「たまげた、本当に泳げねえのか」

 

「げほッ……そう……はあ……言った、でしょう……はあ……」

 

 

 

 何とか呼吸を繰り返し、段々と落ち着きを取り戻していく。

 咳も収まり、彼に文句を言おうとした途端、自分の今の姿に気が付く。

 

 自分から彼に抱き着いている構図に思わず体が硬直する。

 だが、溺れてしまうのではないかという不安から首元から手が離せない。

 

 

 

 恥ずかしさと不安でどうにかなってしまいそうになりながらも、何とか口だけ動かす。

 

 

 

「……どうして急に引きずり込んだんですか」

 

「お前があまりにも頑なだったんでな。ちと意地悪したくなった」

 

「無理強いはしないって言いましたよね」

 

「良くないとは言ったが、しないとは言ってない」

 

「屁理屈ですよ、そんなの」

 

「しょうがねえだろ。お前があんなこと言うもんだから」

 

「あんなこと?」

 

 

 どのことだ。

 落ち着いた頭で自身が言った言葉を振り返る。

 

 張さんは背中を叩いた手を止める代わりに、更に抱きしめる力を強めた。

 そのためどうしてもブラウス越しに彼の身体が密着するのを感じてしまう。

 

「ずっとしがみついてくれるってんなら試すしかないだろ」

 

「なッ……!」

 

 声だけでも上機嫌だと分かる。

 

 

 

 誤算だ。まさかそれで喜ぶとは。

 

 

 

「……ずっとは、迷惑でしょう」

 

「お前から触れてくれるのは滅多にないからなあ。絶好の機会を逃したくなかった」

 

「だ、だからってあんな無理やり」

 

「だが試す価値はあった。──現に今も、しっかり俺にしがみついてる」

 

 

 私の耳元に口を寄せ、艶のある低い声音で囁いた。

 

 

 

 瞬時に耳から背中を伝い全身に痺れが走ったような感覚を味わう。

 

 同時に羞恥も相まって顔に熱が帯びていく。

 

 

 

「……溺れたくないので、仕方なく……です」

 

「はは。びびってる姿はそそるが、お前の身長ならちゃんと足はつくぞ」

 

「え……?」

 

「手離して、ゆっくり降りてみろ」

 

「で、でも」

 

「俺は手を離さん。安心しろ」

 

「……」

 

 

 いつもより柔らかい声音にどこか安心したような心地になる。

 言う通りに恐る恐る手を離し、ゆっくりと沈む。

 

 彼の肩に手を置きながら足を伸ばすと、やがてプールの底に足がつく。

 もう片方の足も底につければ、さっきまでの不安は薄まり、自然と安堵の笑みが零れた。

 

 

 

 

「ちゃんと言う通りにできたな。いい子だ」

 

 

 

 

 張さんは柔らかい声音で呟いた後、背中から私の頬へと手を動かす。

 冷たい指先が頬を撫でる触感に思わず身震いする。

 

「……じゃあ、私は上がります」

 

「おいおい、こっからがお楽しみだってのに」

 

「何の話ですか」

 

「折角触れ合ってるんだ。もうちょいこのままでもいいだろ」

 

「触れあっ……今は違いま、すッ」

 

 

 いきなり腰に回っていた武骨な手に思い切り引き寄せられ、再び彼の体と密着し底に足が着いたことでできた隙間が再びなくなる。

 

 

 更に頬に熱が帯びるの感じながら、彼の顔を見上げる。

 

 

「そう睨むなよ」

 

「……離していただけると嬉しいんですが」

 

「断る」

 

 胸板を押し返そうと力を入れるがびくともしない。

 それどころか、余計に彼の腕の力が強まっていく。

 

 いつもより冷たい肌の感触が手の平に伝わる。

 

 

 

 ──彼の素肌に触れるのはいつもベッドの上。

 

 

 

 嫌でも思い出してしまうせいか、いつもより鼓動がうるさい。

 

「ひゃっ」

 

 突然、ブラウス越しから背中に指が触れ変な声が出てしまう。

 腰から背骨に沿って指先が徐々に這い上がって来ると共に、ぞわぞわとした感覚が背中に伝いびくりと肩が震える。

 頬に触れていた手が後頭部へ添えられ、彼の腕から逃げることもできず、両手で拳を握りただ耐えるしかできない。

 

「なに、してる……ですか」

 

「んー?」

 

「んう……ッ」

 

「服の上だってのに、いい反応するなあ」

 

「し、知りません……!」

 

「お前は背中触る度いつも体を震わせる。だが──」

 

 

 

 言葉を止めると、またしても彼の口が耳へ触れるか触れないかの距離まで近づく。

 

 

 

「こうして囁きながら触ると、もっといい反応をする」

 

「ひぁ……ッ!」

 

 どこか艶やかささえ感じる声音が耳から脳に響く。

 口が動く度ほんの少しだが唇が耳に触れる。

 同時に今度は上から背骨をなぞられ、また肩を震わせ己の口から何とも言えない声が漏れ出る。

 

「やめ、てくださ……」

 

「可愛い反応見せられてやめれるわけねえだろ」

 

「や……」

 

 

 熱い吐息が耳に触れる。

 

 

 自身が吐き出す息も熱が帯びてる気がする。

 

 後頭部を押さえていた手が離れ、頬が武骨な手に包まれる。

 拘束がほんの少し緩まったのを計らい、すぐに離れようと身体を捩る。

 

 

 やっとのことで背を向けることができたが、逃げることを許さないように少しの間もなく彼の両腕が後ろから伸び、瞬く間に引き寄せられた。

 

 

 今度は背中越しに彼の素肌が密着する。

 

「逃げることないだろ」

 

「……貴方が、触ってくるから」

 

「触るなってほうが無理な話だ」

 

 

 彼はくく、と喉の奥で笑う。

 

 

 

 そのまま更に強く抱きしめられる。

 心なしか鼓動がより早まった気がした。

 

「折角のおしゃれを台無しにしちまったな」

 

「……本当ですよ」

 

「悪かったよ。で、なんでこの格好を?」

 

 私がこの格好をしているのがどうも気になっていたようで、再び問いかけられる。

 今度は冗談めかした言い方ではないので、本当に疑問だったのだろう。

 

 

 どう伝えようか迷った後、口を開く。

 

 

「……ルカの押しに負けました」

 

「あ?」

 

「たまにはめかし込んだ方がいいと強く言われたので……。服はあの子に選んでもらったんですよ」

 

 包み隠さず告げると、頭上からため息を吐く音が聞こえる。

 

「お前な、ガキ相手に押し負けてどうする。それも弟子に」

 

「あの子の修行の一環にもなると思ったので」

 

「全く」

 

 呆れたような声音で呟いた。

 確かに、何歳も年下の子に言いくるめられるのは大人としてどうかと自分でも思う。

 

 

 これ以上何か言われる前に話題を変えようと頭を巡らす。

 

 

 

「──あの子が選んだ服、気に入りませんでしたか?」

 

 

 

 少し考えて何気なく問いかけてみる。

 びしょ濡れになった今、聞いても意味はないかもしれないが。

 

 

 

 

「清楚な服もよく似合う。お前の弟子は将来有望だな」

 

 

 

 

 一つの間を空けることなく返って来た言葉に、思わず笑みが零れる。

 長年お世話になっているパトロンから弟子の事を褒められたら嬉しいに決まってる。

 

 

 

「ありがとうございます」

 

「ただ一つ言わせてもらうなら、お前が俺のために選んでくれたら完璧だった。まあ、おかげで普段と違うお前を見れた。今度ルカに何か褒美をやらねえとな」

 

「……あまり甘やかさないでいただけると」

 

「お前に言われたくねえな」

 

 

 反応に困ることを言われてしまい、少し言葉が詰まった。

 そのあとすぐさま返された一言に苦笑を漏らす。

 

 

 

 ──ふと、水に晒され無意識に寒気も感じていたからか鼻先がむずむずするのを感じる。むず痒さが段々強まってしまい、自然と鼻と口へ手を持っていく。

 

 

 

「はっ、くしゅ……すみません……」

 

 

 

 我慢できずくしゃみしてしまう。

 鼻をすすりながら謝ると、「上がるか」と彼は愉快そうに笑いながら言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 びしょ濡れになった服を脱ぎ、部屋の奥にある浴室で軽くシャワーを浴びる。

 用意されていたバスローブを纏い、タオルで頭を拭いていく。

 

 かごに置いていた服は彪さんが持って行ったようで、張さん曰く「裸で帰らせるわけにもいかねえだろ」と、どうやら乾かしてくれているらしい。──下着もあるので一瞬慌てたが、女性に預けているようでその気遣いはとても有難かった。

 

 張さんも入れ替わりでシャワーを浴びており、彼が上がって来る前にルカへ連絡しようとテーブルの上にある電話で「今日はしばらく帰れない」と伝えると「分かった。で、どうだった? 張さん嬉しがってた?」と面白がるように聞かれ、なんだか気に入らなかったので答えずに切った。

 

 プールを眼前に眺望できる位置にあるデイベッドに腰かけると、ぽたぽたと水滴が髪から落ちた。

 どうせすぐ乾くだろうが、滴ってこない程度に再び拭く。

 

 

 

「連絡は済んだか?」

 

 

 

 声のした方へ振り向くと、バスローブに身を包みタオルを首にかけた彼が目に入る。

 前髪は下がっており、先程とはまた違った雰囲気を醸し出している。

 

 

「ええ」と短く返すと、張さんがこちらへ近づいてくる。

 ふと、彼は足を止め私の髪に視線を向けた。

 

 

「髪くらいちゃんと拭け」

 

「拭きましたよ」

 

「まだ濡れてる。風邪ひくぞ」

 

「すぐ乾きますよ」

 

 私の言葉に「全く」とため息交じりに呟く。

 

 

 すると彼は私の前に立ち、唐突に頭がタオルで包まれた。

 

 

 

「あ、あの」

 

「なんでこういうとこはズボラなんだ」

 

 

 呆れたような声音を発しながら、彼は私の髪をガシガシと拭く。

 思いもよらない行動に、戸惑いよりもこの人に世話をさせている現状に恥ずかしさの方が勝る。

 

 

「自分で拭きます」

 

「俺がしたい気分なんだ、大人しくしてろ」

 

「でも」

 

「たまにはこういうのもいいだろ」

 

 

 ……どこか楽しそうにしているのは気のせいだろうか。

 こう上機嫌で言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。

 

 

 やめる気配もないので、言葉通り黙って受け入れる。

 少し乱暴ではあるが痛くはない。それどころか、どこか心地よささえ感じる。

 彼の大きな手に包まれると、何故か無条件で安心してしまう。

 

 目を瞑り、しばらく安らかな気分に浸っていると彼の手が止まった。

 タオルが外され、視界が開けると真っ先に張さんの顔が目に入る。

 

 

 

 だが彼はまだ私の頭に視線を向けており、徐に直接髪に触れる。

 

 

 

「伸ばさないのか」

 

「伸ばす予定はないですね」

 

 短い方が何かと楽な上に、年中暑い気候だと伸ばす気になれない。

 

 

 

 ──昔は母のようになりたくて、せめて髪だけでも真似たいと伸ばした時期はあるが、この街に来た時からその気は失せた。

 

 

 

「俺が伸ばしてほしい、と言ったら?」

 

「……長い髪が好きなんですか?」

 

「別にそうじゃないが」

 

 

 確かに長髪の方がより女性らしさは出るだろうが、今まで彼に伸ばしてほしいと言われたことがないので些か驚いた。

 張さんは私の短い髪を指先でいじりながら「ただ」と続ける。

 

 

「長い方がキスしやすいと思ってな」

 

「…………髪にキスするんですか?」

 

 

 

 意味が分からず首を傾げる。

 私の問いかけに彼はふっ、と息を吐くように笑う。

 

 

 

「キスはしたいところにするもんさ。それに、場所によって意味も違う。──例えば」

 

 

 言葉を区切り、髪をいじっていた指先を止めた。

 そのまま彼が少し前屈みになり視線が同じ高さになる。やがて私の左手を優しく掴むと、流れるように自らの口元へ運ぶ。

 

 

 

「ここは称賛」

 

 

 

 一言呟いた後、彼の唇が指先に軽く触れる。

 

 思わず手を引っ込めようとするが、強く握られ逃げることができない。

 

 

 

「ここは懇願」

 

 

 

 次は掌に口づけされる。

 

 目の前で繰り広げられる行為に、次第と顔に熱が集まり始める。

 

 

 

 

「敬愛──欲望──恋慕」

 

 

 

 

 手の甲から手首へ。手首から腕へと、ゆったりとした動きで次々に唇を寄せていく。

 口づけしている間も、彼の瞳はこちらを向いたまま。

 

 

 どこか艶かさを感じる視線に、喉が詰まる感覚が押し寄せる。

 

 

 

 ──そうして彼の手が離れたかと思ったのも束の間。

 

 

 今度は、首筋に指先が触れる。

 

 這わせた後を追うように、次第にゆっくりと彼の顔が首筋へ近づいていく。

 バスローブがはだけ、露になった肩をごつごつとした手が包み、優しい力で押し倒される。

 

 驚きと羞恥からか、抵抗することを忘れた。

 ……いや、抵抗する気など最早なかったかもしれない。

 

 

 どのみち、熱のこもった視線から逃れることなどできるはずもない。

 

 

 

「執着」

 

 

 

 

 首筋で吐息を感じた後、すぐさま唇が触れる。

 

 

 

 

「誘惑」

 

 

 

 次に耳元で囁かれ、思わず身体が震えた。

 

 

 耳から背骨に伝う甘い痺れを我慢するように拳を握るが、間を空けることなく武骨な右手が左の拳を包む。

 

 すぐさま、力を抜けと言うように指先が触れる。

 無言の命令にも似た行動に手の力を抜くと、ゆっくりとお互いの指が絡み合う。

 

 

 顔を上げ、彼は空いた左手で私の頭へ触れる。

 

 

 

「親愛──そして」

 

 

 

 鼻先がぶつかりそうなほどの距離で呟く。

 言葉を区切り、今度は頭から唇へと手が触れる。

 

 

 

「愛情」

 

 

 

 そっと指先で唇を撫でた後、私の頬を大きな手が包む。

 目の前にある彼の顔には、柔らかい笑みが浮かんでいる。

 

 

「髪が長くなれば、お前を愛でる部分も増える」

 

「……揶揄わないでください」

 

「揶揄っちゃいない。ただ、今のままじゃ足りないって話さ」

 

「足りない?」

 

「ああ」

 

 

 一体、何が足りないのだろうか。

 彼の言葉の真意が掴めず首を傾げる。

 

 

 

「いくら言葉を交わそうと、どれほど触れ合っていようと、お前の全てはまだ俺のモノになっていない」

 

 

 途端、彼の顔から笑みが消え、真剣な眼差しが降り注ぐ。

 

 

「なあキキョウ。そろそろ俺の傍に来る気はねえか?」

 

「……」

 

「俺はいつまでもこんな曖昧な関係でいるつもりはないぞ」

 

 

 告げられた内容に目を見開く。

 本気で私を自身の傍に置く気があるとは思えない。

 

 

 ……だが、彼のまっすぐな瞳が冗談だと思わせてくれない。

 

 

「何度も言っているが、俺はお前の全てが欲しい。身体を差し出されただけじゃまだ足りない」

 

「……」

 

「たった一言、俺の傍にいたいと──俺の女になってもいいと言ってくれれば、それでいい」

 

 

 

 絡まっている彼の指に力が入る。

 

 

 

「まだ、その気にはなれねえか」

 

 

 

 いつもの冗談を言う時とは何もかも違う。

 

 ──かつて、抱かれてもいいかと問われた時と同じ表情を浮かべ、同じ声音をしている。

 

 

 

 彼の傍。

 

 つまりこの人の隣に立つ気があるかどうかを、今は問われている。

 

 

 

 しばらく考えた後、意を決し彼の瞳を見据える。

 

 

 

「貴方の隣に立つべきなのは、私じゃありません」

 

「なぜそう思う」

 

「……私には洋裁しかありません。頭もよくない上に、力もない。何の取柄もない。貴方の傍にいるには、私には色々なものが足りなさすぎる」

 

「じゃあなぜ抱かれた」

 

「それとこれとは話は別のはずですよ。私は抱かれてもいいと思ったから抱かれた。貴方の隣に立てると思ったからじゃありません」

 

 

 あの時は抱かれてもいいかどうか。それだけの話だった。

 だから、彼の傍に立つ女性が現れたらこの関係も終わりにするべきだと思っている。

 

 

 ──抱かれたからといって、彼の隣にいれると思い上がるのは違うだろう。

 

 

 私の返答を聞くと張さんは眉間に皺を寄せ、静かに話し始める。

 

 

「確かに、俺はそれなりの立場にある。ただの女にはちと荷が重いかもな」

 

「……」

 

「だが、俺がそこまで考えてないと思うか?」

 

「え?」

 

「俺やバラライカが気にかけてるとは言いえ、それを抜きにしてもお前はこの街の荒くれ者ども相手に上手くやっている。香主や龍頭相手にも臆さず、毅然と振舞った肝っ玉もある」

 

「えっと……」

 

「芯を曲げないのもお前の強みだ。自分を曲げないのは時に厄介だが、お前は曲げれないんじゃなく敢えて曲げない。これは大きな違いだ」

 

 

 私の戸惑いに構うことなく張さんは話を続ける。

 

 

「気立ての良さも、肝っ玉のでかさもそこらの女とは別格だ。そして、何年も俺と信頼関係を築いてきた。これほど俺の隣にふさわしい女はいない」

 

 

 頬を指先で撫でながら告げられる内容が、どこか気恥ずかしく思わず目を逸らす。

 

 

「これから先そんな女は出てこない。お前以上の女を俺は知らない──お前なら、俺の隣が務まる。そう確信してる」

 

「……そん、なこと」

 

「俺はお前をよく知っている。だから疑いようもない」

 

 

 

 彼が冗談を言っているようにも見えない。

 恐らく、本気で私が隣にふさわしい女だと思っている。

 

 

 買い被りにも程がある。

 

 

 彼の言葉に呆気にとられてしまい、黙ってしまう。

 

 少しの沈黙の後、張さんは頬を撫でる指を止める。

 

 

「なあキキョウ。今までお前の我儘はなるべく聞き入れてきたつもりだ。それはこれからも変わらない。お前が望むもんは、俺が与えられるもんなら何だってくれてやる。できうる限りの望みは叶えてやる」

 

「……」

 

「これ以上何が要る? ──俺の傍に居たいと言わせるために、後は何をすりゃいい」

 

「…………」

 

啊、我可爱的花(なあ、俺の可愛い花)。これでもお前は俺の隣に居たいと、微塵も思えないのか」

 

 彼の傍に居たい。この人と一緒に居たい。

 

 彼の隣にふさわしい女であったなら、恐らく望んでいたかもしれない。

 ──だが、私は決してその立場を望んではいけない。

 

 彼の瞳を見据えたまま、静かに口を開く。

 

 

「張さん。私は今まで、貴方から色んなものを貰ってきました」

 

「……」

 

「パトロンとして支えてもらって、ルカを弟子に招くことも許してもらえて……貴方の腕に包まれてる時、言葉通りクソ野郎の事を忘れさせてくれた」

 

 

 空いた右手で頬にある大きな手に触れる。

 

 

「何より“邪魔になったら殺す”と。他の誰でもない貴方自身が殺してくれると、はっきり言ってくれた」

 

 数えきれないほど人を殺し、血に塗れたこの手で殺してくれる。

 狂っているかもしれないが、あの時の言葉に心から歓喜したのだ。

 

 

 ──死にたくても、死ぬことを許されなかったから。

 

 

「感謝してもしきれません。……そんな貴方の傍はきっと、とても心地いいのでしょうね」

 

「なら」

 

「だからこそ、怖いんですよ」

 

 

 一切考えてこなかったわけではない。

 

 

 抱かれて、その先はあるのか。

 もし、その先があるなら彼と共に生きることになるかもしれないと、我ながら馬鹿なことを考えた。

 

 彼の隣は茨の道だ。

 外に出る時は一切気を許せず、常に命が危ぶまれるのだろう。

 

 だとしても、彼の隣という立ち位置は控えめに言っても魅力的と思える。

 

 彼と共に生きるのは私にとって悪いことではない。寧ろ幸せだと感じるだろう。

 ──だからこそ、幸せが壊れた時の絶望は計り知れない。

 

 一度味わった幸福が崩れ去ったら。

 そう考えると怖くて、とても彼の隣にいてもいい権利を欲することはできない。

 

 

 

 こんな臆病な私が、彼の隣にふさわしいとは思えない。

 

 

 

「その心地よさがなくなるのが、何より怖い。だから貴方の隣は望めない」

 

「……」

 

「ごめんなさい、張さん」

 

 黒い瞳を見据えたまま、はっきりと答える。

 張さんは目を逸らしふむ、と考えるそぶりを見せる。

 

「そうだったな。お前はこういう話には慎重……いや、臆病になることを忘れてた」

 

「……」

 

「つまり、だ。来るかも分かんねえその時に怯えてると。逆に言えば、その怯えさえどうにかなれば、俺の隣にいてもいいってことだな?」

 

「え」

 

「どうなんだ」

 

「…………そう、かもしれませんね」

 

 他にも色々あるのだが、一番の要因ではあるので肯定にも似た言葉を返す。

 

「言質は取ったぞ。……やれやれ、もっと気楽に考えればいいものを」

 

「そういう訳にはいかないでしょう」

 

「はは、お前らしい」

 

 息を吐くように笑うと、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。

 やがて両手から手が離れ、彼はデイベッドの端に腰かける。

 自身も体を起こし、はだけていたバスローブを直して隣に座る。

 

「ったく、これからも骨が折れそうだ」

 

「諦める選択肢は」

 

「愚問だな。今更、引けるわけもない」

 

「……頑固ですね」

 

「お前もな」

 

 呆れたような表情で言われ、思わず苦笑いを浮かべる。

 

 

 

「その内、うだうだ考える余裕もなく俺の傍に居たいと言わせてやる」

 

 

 

 ニヤリとした笑みで言った後、流れる様に頬へキスをされる。

 何を言っても諦めてくれなさそうな雰囲気に、心の中でため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──ああ、順調だ。後はあんたらが暴れてくれればいつでも動ける。……それに関しては無事に用意できたら連絡する。楽しみにしててくれ……ああ、じゃあまた」

 

 

 人の気配が一切しない古倉庫。

 錆びた鉄骨に腰かける男の声以外には、かすかに外から波の音が響く。

 

 

 

 男は通話を終えると、携帯をポケットに入れる。

 すぐさま煙草を取り出し、先端に火を点す。

 

 

 

 所々穴が空いている天井を見上げ、煙を吐く。

 

 

 

 

「ああ……ようやくだ……ようやく貴方のために動ける」

 

 

 

 

 微笑みを浮かべ、誰もいない空間で一人呟く。

 

 やがて煙草を口に咥え腰を上げる。

 傍に置いていた黒いロングコートを羽織り、男は高らかに革靴の音を響かせその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

= 予告 =

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『本当に哀れで馬鹿で間抜けで、意地を張ることしか能のない愚かな女だ』

 

 

 

一人の男は嘲笑い

 

 

 

『お願いだから……もうやめてください……もう、疲れたの……』

 

 

 

一人の女は泣き崩れ

 

 

 

『お前一人くらい背負える』

 

 

 

大悪党は毅然と告げる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──ロアナプラにてドレスコードを決めましょう

 

              最終章 『What is lost is lost.』──
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




と、いうことで、次回から最終章に入ります。


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最終章 【What is lost is lost.】
1 舞い戻った亡霊


大変お待たせしました。
ここから最終章突入です。





 太陽が沈み、辺りが闇に満ちた頃。

 全壊してからようやく修繕が終わったイエロー・フラッグは、今日も今日とて荒くれ者達で賑わっていた。

 怒号と笑い声がひしめき合い、以前の騒がしさに戻っている。

 地元の住民達は決して近づかない、ロアナプラの中立地帯である酒場。

 ──そんなアウトロー達の憩いの場の入り口を潜る一人の男。

 

 光沢のある革靴。

 地面まで着きそうなほどのロングコート。

 紳士が被るようなソフトハット。

 

 身に着けているもの全てが黒に染まっている男は、長い足で颯爽と酒場の真ん中を歩いていく。

 流れる様にカウンターに座る漆黒の男をバオはすぐさま瞳で捉える。

 異様なファッションではあるが、そんな人間はこの街にはごまんといる。気にするほどの事ではないと、静かに「注文は」と無愛想に尋ねた。

 

 

「アマレットジンジャーを」

 

 

 発せられたのは低いハスキーな声。

 それだけならなんとも思わなかった。

 

 

 

 

 ──だが、バオは思わず動きを止めた。

 

 男の声を聞いた瞬間、奥深くに潜っていた記憶が蘇る。

 

 

 

 

 長らく存在を忘れていたが、一度聞けば一瞬にして顔や姿、佇まいを思い出せるほど印象深い男。

 

 だからこそ、驚愕せざるを得なかった。

 

 あの男はもう二度と現れないはずだった。

 この街どころか、この世とおさらばし地獄へ行ったはずだ。

 

 だが、聞き間違うはずもない。あの声は間違いなく彼のもの。

 彼も女が好みそうな甘い酒──アマレットジンジャーをよく飲んでいた。

 

 目を見開き、恐る恐る男を見やる。

 

 バオの刺さるような視線に男は口端を上げ、ハットを脱ぐ。

 露になった顔を見た瞬間、バオの目は更に見開かれていく。

 

 

「て、てめえは……!」

 

「Shh……騒がれると少し困るんだ」

 

 

 

 人差し指を口に当て告げる。

 柔らかい口調と笑みとは反対に、バオへ向けている視線には少しばかりの殺気が含まれていた。

 

 銃口を向けられているかのような緊張感に冷や汗が溢れ出す。

 指先一本も動かせないほど、今のバオに余裕など一切なかった。

 

 

「酒は出してくれないのか」

 

「あ……ああ……」

 

 

 やっとのことで絞り出せたのは覇気のない声。

 手先が震えることはなかったが、いつもより酒を作るスピードが遅くなる。

 

 少し遅れて出されたグラスを揺らし、カラカラと鳴らした後、酒に口をつけた。

 

「やっぱり甘いなこの酒は」

 

「…………」

 

「どうしたんださっきから。そんな亡霊を見たような顔をして」

 

「……俺の目には、アンタは地獄から蘇った亡霊にしか見えねえぜ。いつ戻って来たんだ」

 

「なんだ、覚えててくれたのか。嬉しいねえ」

 

「忘れたくても忘れられねえよ、てめえの顔は」

 

 はっと鼻で笑う男へ、一瞬躊躇った後更に言葉をかける。

 

「てっきりくたばったのかと思ってたぜ」

 

「まだこの世に未練があってね、死ぬに死ねなかったのさ」

 

 優雅に佇む目の前の男をバオは怪訝な表情で見据える。

 

「とまあ、冗談はさておき……なんせこの街は久々だからな、少し聞きたいことがある。だが生憎時間がない、手短にいこう」

 

 男がグラスを置きカウンターに肘をつく。

 

「──お、おいッ……!」

 

「しっかりしろ!」

 

 瞬間、後ろから騒音が飛んできた。

 何やら切羽詰まった様子の男たちは、テーブルに突っ伏している飲み仲間の一人に呼びかけている。

 

 騒いでいる男たちへ店内の視線が集中する。

 

「こいつ急に血を吐きやがった!」

 

「な、なんで……ッ」

 

 男たちの言葉に、周りの客がどよめき始める。

 どよめきが更に広がる前に店を出ようと、いくら呼びかけても反応しない仲間の身体を無理やり起こす。

 

 ──テーブルから上がった仲間の顔には、血がべっとりと着いている。

 白目を向き、顔のあらゆる穴から血が滴っている。

 最早生きているか分からない仲間を担ごうと、肩に触れた。

 

 その拍子に、流れる血の量が一気に増えたかと思うと、唐突に口から噴水のように血が溢れ出す。

 

 

「なっ……!」

 

 

 

 カウンター越しから見ていたバオは思わず声を上げた。

 

 痙攣しながら湧き出ている血の噴水は止まることなく、次第に周りへと飛沫が広がっていく。

 あまりの光景に店内すべての客が声を静める。

 

 ──やがて血が止まった頃には、足元に血の水たまりができていた。

 力尽きたように血だまりへ体が倒れた瞬間、沈黙を破るように娼婦の悲鳴や男たちの困惑した声が響き渡る。

 

 客たちは叫び声と怒号を上げながら、即座に店の外へ出て行く。

 

 ただ一人、カウンターに座っていた男は微笑みを浮かべたまま優雅に酒を飲んでいる。

 

「ちと派手すぎたかな。まあ、最初はこんくらいが丁度いいか」

 

「て、てめえ……まさかまたこの街でなんかやらかす気か!」

 

「俺がただ観光のために戻って来たと思ったのか。なんともめでたい頭だな」

 

 困惑するバオへ男は淡々と返し、「さて」と空になったグラスを置く。

 

「あんな騒ぎが起きたんだ、ここに長居するわけにはいかない。ので、俺の質問に素直に答えてくれると嬉しいね」

 

 柔らかい口調と笑みはそのままでも、携えている視線は冷たいもの。

 バオは、非常用としてカウンターの下にガムテープで張り付けている銃へ手を伸ばす。

 

「うちの店で騒ぎを起こしやがった野郎に話すことはねえ」

 

「勇ましいのはいいことだが、自殺行為はおススメしない」

 

 男はコートのポケットから透明な液体が入った小瓶を取り出し、見せびらかすようにゆらゆらと揺らす。

 

「これを少しでも吸うとたちまちぐっすりだ。割った途端、空気中にすぐさま散布される。俺は耐性があるから問題ないが、お前はどうだろうな」

 

「……」

 

「お前がお寝んねしてる間に無事でいられるかどうかは、俺の気まぐれにかかってる。俺の事を知ってるなら、これがはったりじゃないのは分かるだろう。くだらない死に様を見せたくなかったら、銃から手を離すんだな」

 

 

 

 バオは心の中で舌打ちし、目の前の男を忌々し気に睨む。

 

 

 

「……お前、また何かやらかしたらもう二度とこの街から生きて出られねえぞ。どうやって生き延びたのかは知らねえが、今度ばかりはそういかねえ。マフィアどもが血眼でお前を狙う」

 

「アイツらも全知全能じゃない。いくらでもやりようはある。鼠一匹が入り込める隙間は一つや二つあるもんさ。──それは前回、俺がこの身を持って証明してやっただろ?」

 

 男が浮かべたニヤリとした笑みに背中に冷や汗が伝う。

 

 そうだった。

 こいつは一人であれだけのことをしでかした男だった。

 

「……今度は一体何が目的だ。まさかまた」

 

「それは今後のお楽しみ。──さて、世間話はここまでだ。マフィアどもが来る前に済ませよう」

 

 自分より何枚も上手の男に勝てる見込みは明らかに低い。

 ならばとにかく、まずは自分の命を優先する。

 

 

 

 己にできることは、目の前のイかれた亡霊の質問に答えることだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──明日には終わりますが、いつ頃来られますか」

 

「では、終わり次第連絡ください。すぐ受け取りに来ます」

 

「分かりました」

 

 目の前の依頼人と言葉を交わす間、隣にいたルカは今のやり取りをメモしている。

 私一人の時はしていなかったのだが、どの服が誰の依頼なのかルカにも見分けやすいように取らせることにしたのだ。

 ずっと文字の読み書きをさせていたおかげか、今では簡単なものならすらすらと書けるようになった。

 

 弟子の成長を感じれるのは悪いものではない。

 ──春さんもこんな気持ちになっていのたのだろうかと、時々思うことがあるのはここだけの秘密。

 

 今度の依頼人──ラウルさんからはワイシャツとスラックスのクリーニングを依頼された。

 大事な仕事があるから念のため、ということらしい。

 

 依頼品をルカへと渡せば、手際よく畳んだ後、作業台の上に置いてくれた。

 初めは皺が寄ってしまう畳み方をしていたが、今はそんなことなく丁寧に服を扱っている。

 

「いくらですか?」

 

「バーツなら四八〇、米ドルなら十五ドルで」

 

 値段を告げると、ラウルさんはポケットから財布を手に取りドル札を差し出した。

 躊躇いなく受け取り、丁度の金額であることを確認する。

 

「そういえば聞きましたか、例の噂」

 

「噂?」

 

「イエロー・フラッグの件ですよ」

 

 イエロー・フラッグの噂? 

 だが、あの店で何か起きるのはいつものことだ。今更何を聞かされても驚くことはないが、聞いておいて損はないだろう。

 いえ、と一言返すと、すぐさま噂の内容を知らされる。

 

「昨夜、客の一人が死んだそうですよ」

 

「ラウルさん、それいつもの事だよ。あの店で人が死ぬなんて何もおかしいことじゃない」

 

「確かに、あの店じゃ何も珍しくはないでしょう。──ただ死んだだけなら、ね」

 

 意味深な言葉に思わず首を傾げる。

 ルカも気になっているようで、ラウルさんの方を見つめ話の続きを待っている。

 

「なんでも、何の前触れもなく急死したんだとか。その時の有様といったら酷いモノだったそうです。突然噴水のように血を吐き出し、体内にはほぼ血が残っていなかった。死体の足元には一瞬にして真っ赤な水だまりができたそうですよ」

 

 それは確かに異常な死に方だ。

 ルカも想像したのか「うげえ」と舌を出し、吐くような仕草をしている。

 

「──それともう一つ、面白そうな話がありましてね」

 

「もう一つ?」

 

「ええ。店主の話によれば、騒ぎを起こしたのは亡霊だとか」

 

「え?」

 

「正確には、“今まで死んだと思われていた人間”だったそうですよ。──その亡霊は、何年か前にこの街で麻薬組織を率いてマフィア達を相手取った男だとか」

 

 

 

 

 

 

 ──淡々と告げられた内容に思わず目を見開く。

 

 

 

 

 

 こちらの戸惑いに気づいていないのか、ラウルさんは話を続ける。

 

 

 

「前回より派手な演出ですが、やり口は同じだそうで。当時の事件を覚えている人間は、亡霊が舞い戻って来たと噂しているようです。マフィア達が躍起になって探してるみたいですよ」

 

 唐突に血を吹き出して死んでしまう薬物。

 その薬物を撒いたのはあるイタリアマフィアの男。

 

 心当たりがありすぎる内容に、心なしか鼓動が早まっていく。

 

 ……あの男の事を忘れるはずもない。

 だが、アイツは死んだ。

 張さんやバラライカさんに追い詰められた後、まだ生きていたヴェロッキオさんに処分されたはずだ。

 

 

 

 ──人を殺すことに長けている彼らが殺し損ねるなど、あり得るはずがない。

 

 

 

「先生、大丈夫? 顔色悪いよ」

 

「……大丈夫だよ」

 

 ルカが心配そうな表情で私の顔を覗き込む。 

 久々にあの男の事を思い出したせいで、嫌でも気分が悪くなる。

 

「ああ、失礼。女性にこの話は少々刺激が強すぎてしまいましたね」

 

「いえ、お気になさらず。──ラウルさん、その亡霊についてもっと詳しいことは分かりますか? 例えば容姿とか、名前とか」

 

「そうですねえ……名前までは分かりませんが、背は高く、全身黒ずくめだったらしいですよ」

 

「……そうですか」

 

 この情報だけでは何とも言えない。

 落胆したことが表情に出てしまっていたのか、ラウルさんは「すみません、お力になれず」と苦笑していた。

 

「まあとにかく、街はまたざわついてます。くれぐれも気を付けください。貴女のような可憐な女性を狙ってくるかもしれませんから」

 

「……ありがとうございます。ラウルさんもお気をつけて」

 

「ええ。では、今日はこれで。また明日」

 

 物騒な話をした後とは思えない柔らかな微笑みを浮かべ告げると、ラウルさんは颯爽と外へ出て行った。

 

 それにしても、何とも後味が悪い話だった。

 あの男と決まったわけではないが、バオさんが冗談で話すわけがない。

 きっと、アイツに似た誰か。……そうであってほしい。

 

「先生、ほんとに大丈夫? 休んだ方がいいんじゃ」

 

「……大丈夫だよ。ごめんね、心配かけた」

 

 未だ心配そうな表情を浮かべているルカを安心させようと、笑顔を浮かべる。

 

「…………聞いていいか分かんないけどさ、さっきの亡霊に何か心当たりあるの?」

 

 流石に気になってしまうか。

 自分でも分かるほど取り乱したのだから、無理もない。

 

 ごまかしは効かないと判断し、今度は素直に答える。

 

「ないわけじゃない。だけど、あり得ないんだよね」

 

「え?」

 

「生きてるわけがないの。──五年前にその亡霊は始末されたはずだった。それはバオさんもよく知ってるはずなのに」

 

 

 

 思わず眉間に皺が寄る。

 あの男が舞い戻ってきたなんて、とんでもない悪夢でしかない。

 

 

 

「その亡霊と何があったの?」

 

「……ルカは知らなくていいよ」

 

「先生と何か関りがあるなら知っておきたい。僕も今回関わるかもしれないし」

 

「そんなこと」

 

「ないとは言い切れないでしょ? 念のため知っておきたいんだ、自分の身を守るためにも。……お願い、先生」

 

 懇願するような目つきと表情を見据える。

 ……確かに、何も起きないとは限らない。

 

 話して何か問題が起きるわけでもない。

 この子の言う通り、知っておいて損はないだろう。

 

 

 

 ──()()()の二の舞にさせないためにも、できるだけのことはするべきだろう。

 

 

 

 一つ息を吐き、ルカの顔をまっすぐ見つめ口を開いた。

 

 

 

 

 

 




とうとう始まりました最終章。
散りばめてしまった伏線を回収する時……。

このまま完結まで突っ走れればいいなと思ってます。


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2 亡霊のロシアンルーレット

 ──イエロー・フラッグで騒ぎが起きてから二日。

 ラグーン商会事務所には、パソコンに向かい手を動かしているベニーとソファで煙草を片手に寛いでいるロックの二人のみ。

 

 レヴィとダッチは例の噂がどこまで真実なのかを探るため街へ情報収集に出ており、事務所に残っている二人は出る幕なしと言わんばかりに留守を任されていた。

 

「なあベニー」

 

「んー?」

 

「例の亡霊の話、本当だと思うかい」

 

「さあ、どうだろう。ただまあ“死んだ人間が生き返った”なんて、にわかには信じられないよね」

 

「だよな」

 

 沈黙を破るように、ロックは軽くベニーへ話題を投げかける。そのまま煙草を灰皿へ押しつけながら煙を吐く。

 

「それにしてはマフィア達が異様にざわついてる」

 

「そりゃそうさ。例の亡霊が亡霊だからね。神経質にもなるんじゃない?」

 

「ベニーは亡霊の男を知ってるのか?」

 

「僕がこの街に来る前に殺されたらしいからねえ。僕も話しか聞いたことないよ」

 

「そうか」

 

 あまり期待していなかったのか、ロックは落胆する様子も見せず再び煙草に火を点ける。

 窓の外を見ながら紫煙を燻らすロックの姿に、ベニーは一度手を止めた。

 

「ロック、今度は何考えてるんだい」

 

「……亡霊が本当に例の男だとしたら、何のためにこの街へ戻って来たんだろうな」

 

「その男が何を考えてるのか知らないけど、ロクなことにはならなさそうだね」

 

「ロクなこと……」

 

 どこか遠くを見据え、静かに呟く。

 そんなロックの横顔を見つめた後、ベニーはビールを呷り腰を上げる。

 

「ロック、今回ばかりは容易に手を出さない方がいいと思うよ」

 

「え?」

 

「メイドの時と状況は少し似てるけど、今回は何かが違う。この前死んだのは何の組織にも繋がっていない、この街に来たばかりのただのチンピラだった。そんな人間をピンポイントで狙ったとは考えにくい」

 

「……」

 

「これはあくまでも僕の推測だけどね、殺すのは誰でもよかったんじゃないかな。なら、ここにいる僕らだって殺されてもおかしくない」

 

「…………」

 

「今回は死ぬ確率が皆平等だ。こんな野蛮なロシアンルーレット、せめて一歩引いた立場でいたいね」

 

 ベニーの言葉にロックは眉根を寄せた。

 煙草の先端の灰が長くなっていく。

 

「だとしたら、だ。このロシアンルーレットの景品はなんだろうか」

 

「え?」

 

「ベニー。この件で何よりも重要なのは、亡霊は何を得るためにロシアンルーレットを持ち掛けたのかってことだ」

 

「……」

 

「ゲームを仕掛けるのは大抵景品が目当ての時だ。──大きな目的がないまま、あんな派手なことをやらかすとは考えられない」

 

 顎に手を当て、考えるような仕草を取る。

 そんなロックの様子にベニーは肩を竦めて、はあ、と深いため息を吐いた。

 

「──ああ……ったく、とんだ無駄足だった」

 

「ぼやくなレヴィ。昨日の今日だ、しょうがねえさ」

 

 ベニーがロックへかける言葉を失ったその時、苛立ったような声音を発しながらレヴィが乱暴にドアを開けた。

 後ろに続いているダッチがそんなレヴィを宥めている。

 

「おかえり、早かったね」

 

「これといった情報を得られなくてな。バオのとこにも行ったんだが、噂以上の話は聞けなかった」

 

「得たもんといえば、マジで亡霊が復活した可能性が高くなった、っていう事実しかねえ」

 

 話しながら冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ドカッとレヴィはソファへと腰かける。

 

「本当にあの野郎が生き返った、となると……また血の嵐が吹きそうだな」

 

「もう吹いてるさレヴィ。──バラライカのとこにもう一体死体が増えたそうだ。それも、イエロー・フラッグのものと同じ状態のな。だが、ホテル・モスクワとは関係ない人間だったらしいが」

 

「……チッ」

 

 自身のボスが淡々と告げる内容に、レヴィは苛立ちが増したのを隠すことなく舌打ちし、勢いよく缶ビールを開け呷っていく。

 

「ったく、これじゃ前の時と流れが全く同じだ。奴さんの目的が分からないまま、こっちは死のギャンブルにいつの間にか付き合わされてる。向こうがやりたい放題のこの上なくクソッタレなゲームにな」

 

 ダッチは頭をガシガシと搔きながら、ベニーから缶ビールを受け取った。

 ロックは密かに眉根を寄せ、一人掛け用のソファに腰かけ足を組みビールに口をつけているダッチへ視線を注ぐ。

 

「ダッチ、前の時と同じって?」

 

「そうか、二人は詳しくは知らなかったな。──前回、例の亡霊は一人の女を手中に収めようと躍起になってた。これはお前達も知ってるな」

 

「ああ」

 

「うん」

 

 

 ダッチは二人の短い返答を聞くと、煙草に火を点け話を続ける。

 

 

「あの野郎はな、女が目的だってことを悟られないようカモフラージュのためだけに何十もの死体をあげた。何の前触れもなく、唐突にだ。それも人目に付くようにド派手なもんをな。しかも手口は巧妙で、マフィア達でさえ野郎の尻尾を掴むだけでも何週間とかかった。……俺達は訳も分からず、ただ気味が悪い死体が積み上がっていくのを眺めながら、己がその成れ果てにならないよう祈るしかなかったんだよ」

 

「は、はは……そんな大げさな」

 

「残念ながら大げさでも冗談でもねえよベニー。こいつはオカルトじゃねえ、本当の話だ」

 

 苦笑いが浮かんでいるベニーの顔に対し、レヴィは真剣な表情を向けた。

 缶の底に残っていたビールを勢いよく飲み干し、やがて冷淡な声音で静かに呟く。

 

「今回も同じだ。何が何だか分からないまま、アタイらはいきなり始まったロシアンルーレットに巻き込まれてんだよ」

 

 再び苛立ったように舌打ちをする。

 

「ダッチ、レヴィ」

 

 二人の話をただ黙って聞いていたロックは眉間の皺を深くし、重々しく口を開く。

 

「彼女のとこには行ったのか。──前回の景品だった、彼女のとこに」

 

「……」

 

「……」

 

 ロックの言葉に沈黙が流れた。

 その沈黙をものともせず、自身の考えを告げる。

 

「前回と全く同じ。なら、今回も彼女が目的だっていう可能性は十分ある」

 

「流石に亡霊野郎も同じ轍を踏むとは思えん。あれはとにかく狡猾な男だった」

 

「……まあでも、確かに流れは今んとこ一緒だよな」

 

 

 レヴィの肯定するような発言に頭を掻くダッチへ更に言葉を続ける。

 

 

「──ダッチ、死んだ人間が生き返るなんてあり得ない。今回の犯人は全くの別人で、前回の件をただ模倣してるだけなんじゃないか」

 

「バオもあの男の顔は良く知ってる。アイツが見間違うとは思えねえ」

 

「亡霊が死んだのは何年も前。変装でもなんでも、顔だけならいくらでも似せる方法はある。流石のバオでも、正確に偽物と本物の見分けをつけられるはずがない」

 

 ロックが告げた推測を聞き、ダッチは無表情で何かを考えている。

 やがて煙草を一気に吸い、灰皿へと思い切り押し付けた。

 

「……渦中にいるかもしれねえ奴とは正直関わりたくないってのが本音なんだがね。それにアイツの事は張が面倒みると思うが」

 

「ダッチ、でも」

 

「だが、正直何も知らないままってのは怖くて眠れねえ。現状をもう少し把握したいところだな」

 

 ダッチのぼやきに一瞬焦ったロックだが、すぐさま発せられた言葉に安堵する。

 

「一つだけ言っておく。アイツの生存確認が済んだらお前の出番はそこで終わりだ。これ以上深堀するな。後は張やバラライカらに任せろ。これは上司命令だ」

 

 安堵したのも束の間、ダッチの言葉に再びロックは眉根を寄せた。

 

「……もし、その二人が彼女を保護しなかったら?」

 

「流石にあの亡霊の好きにはさせないだろうさ」

 

「……」

 

 納得がいかないと言わんばかりのロックの表情を一瞥し、愛銃ソード・カトラスの調子を確かめているレヴィへ呼びかける。

 

「レヴィ、お前が着いて行け」

 

「あいよ。こいつが馬鹿しないように見張ってるさ、ボス。──行くぞ、ロック」

 

 冷静な態度を取っているが、恩人でもある女が狙われているかもしれない事実はレヴィにとっても気がかりであることをダッチは理解していた。

 勿論、ロックの暴走を止めるストッパーに適役でもあるからこその人選である。

 愛銃をホルスターに収め、腰を上げるレヴィの後を慌ててロックが追いかけ、二人は足早に事務所を出て行く。

 残されたベニーとダッチは顔を見合わせ、お互い同時に肩を竦めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 かつて、ロアナプラはただの朽ちた港町であった。

 

 世界のありとあらゆる裏社会の人間が協力し、時に激しい争いを繰り広げながら三十五年の月日を経て、闇夜の精気が満ちる悪党の安息の地──悪徳の都へと変貌させていった。

 

 そんな街の経済を現在支えているのは、タイの有名な観光地ではない。

 風俗店やクラブ、賭闘技場など淫靡な雰囲気が漂う歓楽街の収入も悪徳の都の存続を保っている要素の一つである。

 

 その内の一つ、三合会が仕切る高級クラブ『金詠夜総会(ゴールデン・スウィギン・ナイトクラブ)』。

 

 絢爛豪華なクラブの入り口にはマフィア達による警戒が敷かれ、鼠一匹入りこむ隙がない。

 貸し切りとなった広々とした部屋の真ん中にある一つのテーブルを、四つの高級椅子が囲んでいる。

 

 その椅子に腰かけ、それぞれ用意されていたボトルの酒に口をつけるのは、連絡会に召集されたマフィアの幹部達。

 

 三合会、ホテル・モスクワ、コーサ・ノストラ、マニサレラ・カルテル。

 今夜、街の支配者達の会合が開かれようとしていた。

 

 

「全く、メイドの件が片付いたばかりだというのに。最近は一層忙しないわね」

 

 

 嗜好品である葉巻を咥え溜息混じりに発したのはバラライカ。

 呆れたような表情を浮かべる彼女へ視線が集まる。

 

 

「なんだモスクワの。米軍とヤリ合えなくて鬱憤が溜まってんのか?」

 

 

 軽快な口調で言葉をかけたのは、ヴェロッキオの後任であるロニー。

 笑みを浮かべる口には歯列矯正の器具がついており、ロアナプラに来た直後に彼が行った粛清は街の住民に悲惨な光景を焼き付けた。

 人々は彼を「ロニー・ザ・ジョーズ」と呼び、その渾名は今や街中に知れ渡っている。

 

「貴様が吐くくだらないコメディはつくづく私を苛立たせる。それに、お前は今笑っていられる立場なのか? 軽い言動は慎めイタ公」

 

「そいつはお互い様だぜ。私情で散々周りを引っ搔き回しといて、よくそんなふんぞり返れるな。お前の面の厚さは尋常じゃねえようだ」

 

「二人とも、そこまでだ」

 

 いつも以上に剣呑な雰囲気が部屋を包み込む中、張が二人を諫める。

 

「ようやく落ち着いたからこそ、再び混乱を招くのは避けたい。我々が迅速に処理しなきゃならん」

 

 淡々とした声音で発された言葉に、ロニーとバラライカはお互いに鋭い視線を交わすも口を閉ざした。

 

「早速だが本題に入らせてもらう。──諸君も知っての通り、ここ数日で妙な死体が上がっている。うちでは昨日と今朝に二体発見された」

 

「うちも今朝一体上がったわ」

 

「こっちは二体」

 

「うちは一体だ」

 

 張に続いてバラライカ、ロニー、そしてマニサレラ・カルテルの新しいボスであるグスターボが各々の縄張りでの死体数を口にする。

 

「イエロー・フラッグのものと合わせて七体。──初日からまだ三日しか経っていないというのに、広範囲での死体数の多さ。そして全て同じ死に様となると、どう考えても異常だ」

 

 張は高級煙草(ジタン)を口に咥え、後ろに立っていた郭がすかさず火を点す。

 

「ええ、そうね。こっちでも探りを入れたら、どうも死体を置いてった人間が中国系の顔つきだったって話よ」

 

「らしいな。だが生憎こちらには全く身に覚えがない」

 

「その言葉どこまで信用できるもんかね」

 

「ロニー、アナタだって人の事言えないはずよ。──事の始まりは、奴の亡霊らしいしな」

 

 冷徹な声音で発せられた言葉に、ロニーは張り付けていた笑みを崩した。

 苛立つ一つの要因であった軽薄な笑みが剥がれたことに、バラライカは心の中でほくそ笑む。

 

「亡霊の件について俺から一つ。……死体をウチの医者が調べたところ、五年前にも起こった大量殺人に使われたものとほぼ同じ成分のヤクが検出されたらしい。そいつをベースにしちゃいるが、快楽成分を無くし、より派手に死ねるよう改良されたものだろう、ということだ」

 

 煙草の煙を肺一杯に入れ、灰皿へ押し付ける。

 無表情で煙を吐き出した後、張はサングラスに隠れた瞳を他の面々へ向ける。

 

「やり口も、死に様の派手さも何もかも五年前と同じだ。そう思わないか、バラライカ」

 

「それにこの不快感もね」

 

「ああ、全くだ。……ロニー、例の亡霊はお宅のとこの人間だった。何か情報を持っているのなら、些細なことでも惜しみなく提供してほしい」

 

 話を振られたロニーへ全員の視線が向けられる。

 張の問いかけは予想の範疇だったらしく、戸惑いも苛立ちも見せず酒を口に含む。

 

「アイツは確かに本国で処刑された。俺もこの目で穴あきチーズになるのを見たんでな。あの時の奴が偽物じゃなかったなら間違いなく今も地獄の底にいる」

 

「例の薬物に関しては? 精製法を知ってる人間は一人くらいいるでしょう」

 

「あのヤクはアイツのオリジナルブレンドだ。レシピを知ってたのはアイツ一人だけ。それに、あれはただの殺人薬物だ。利益よりも損失がでかすぎる。ンな代物扱うには少々手が余る。だから奴の倉庫にあった在庫も全て処分したんだ。今更世の中に出回ることはないはずだった」

 

「だが、現に今この街を再び蝕みつつある」

 

 葉巻を灰皿に押し付け冷淡とした声音を発するバラライカ。

 

「本当にヤクについて何も知らないのか?」

 

「残念ながらな。Chiaro di luna(キャロディ・ルーナ)やヤクに関しては、アイツがこの街へ派遣された時に一切の情報を消したみたいでな。いくら探っても何もでてこなかった。……我が兄弟ながらつくづく優秀な男だったな。全く、惜しい人を亡くしたよ」

 

 酷薄な笑みを浮かべわざとらしく肩を竦めるロニーに、バラライカは呆れた表情を浮かべた。

 

「まあとにかく、俺が知ってるのはそれくらいだ。今回の件に関してはコーサ・ノストラ(うち)とは全くの無関係。期待に応えれず申し訳ないね」

 

「なに、関係ないってことが分かっただけでも十分さ」

 

 ロニーの言葉に薄く笑みを浮かべる張。

 大した情報は期待していなかったのか、その笑みには焦燥一つも滲んでいない。

 

「……となると、今回の件は奴の模倣をしている馬鹿の仕業、ということか?」

 

「着飾り野郎の真似事かは知らんが、くだらないことに俺たちが巻き込まれてるのは確かだな」

 

「死んでも尚我々に面倒をかけるなんて、いい加減にしてほしいわ。ねえ張」

 

「全くだ、バラライカ」

 

 二人は互いに呆れも混じった笑みを零した。

 すぐさま口端を下げ、張は考えるように顎に手を添える。

 

「後は、何が目的かだが……」

 

「前と全く同じってんなら、お宅んとこの洋裁屋が目当てなんじゃねえのか」

 

 最早空気と化していたグスターボがようやく口を挟んだ。

 張は頭を掻き、煙草の煙を吐く。

 

「まあ……安直ではあるが、その可能性は否定できないんでな。アイツの身柄は責任もってこっちで預かるさ。今うちの部下が迎えに行ってる」

 

「ハッ、随分好待遇だな。やっぱアンタも惚れた女には弱いのか?」

 

「男ってのはそういうもんだろロニー。それにもし本当に目的がアイツなのであれば、身近に置いた方が色々都合もいい」

 

「よく言うわ、前みたいに釣り餌として放置するのも手だというのに。大分過保護になったわね、貴方」

 

「揶揄うなよ」

 

 ニヤリとした笑みを浮かべるバラライカに、張は思わず苦笑する。

 眉を下げるも、否定も肯定もしない男にバラライカは喉の奥でくつくつと押し殺すように笑う。

 

「何はともあれ、目的がなんであろうとこれ以上惨禍を広げられるのは困る。この街の秩序と安寧を保つため、一刻も早く鼠の愚行を止めねばならん。──よって」

 

 

 

 

 表情を切り替え、固い声音で張は告げる。

 

 

 

 

「亡霊とその手下どもの迅速な殲滅のため、連絡会に参加している四組織の共闘が必要だと俺は考える。各々思うところはあるだろうが、五年前の厄災を繰り返さないためにも相互の協力を求めたい」

 

 張の言葉に眉根を寄せる者、冷淡な表情を浮かべる者、口元に薄笑いを浮かべる者。それぞれ思うことはあれど、誰一人異を唱える者はいなかった。

 

 

 

 連絡会での方針が決まり、解散の言葉を張が発しようとしたその時──静かに入り口の扉が開かれる。

 

 

 入って来たのは張の腹心である彪。

 彼の姿を見た途端、張はサングラスに隠れた目を少しばかり見開いた。

 

 普段彼は張の傍にいるが、今回はキキョウを迎えに行かせていたため連絡会には付いてこなかった。

 ──今頃は彼女と共に隠れ家(セーフ・ハウス)にいるはずの彼が、なぜこの場に現れるのか。

 

 支配者たちの視線が集まる中、彪は足早に張へと近づいていく。

 

 

「大哥」

 

 

 背後に立ち顔を寄せられてようやく分かるほど微かだが、彪の表情に焦りが滲み出ていることを感じ取る。

 一つ間を空け、耳打ちされた内容に張はサングラス越しからでも明確に驚いた表情を見せる。

 

 

「何があった、張」

 

 

 張の表情を見逃すはずもなく、異常を察しバラライカはすぐさま尋ねた。

 

 サングラスのずり落ちを真ん中を指で押さえ、くいっと上げて直す。

 しばらくの間を空け、彪から報告された内容を真剣な面持ちで張は静かに告げた。



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3 摘まれた花

 窓の外では強い日差しが降り注いでいる。

 そんないつものような晴天さとは真逆に、街では嵐のような出来事が起こり始めているらしい。

 

 私の内心も街と同じように穏やかではない。

 原因は、いそいそと外へ出る準備をしているルカの姿。

 

 ──昨日、例の亡霊の話をルカに伝えたのだが、どうやら話を聞いている内に時折様子を見に行っているお婆さんや子供たちのことが気になったらしい。

 

 電話がない家のため直接会うしかなく、「生きているかどうかだけでも知っておきたい」、「そんなイカれた人間なんだったら、アイツらに言っておかないと」と、外へ出ることを懇願された。

 

 心配なのは痛いほど分かる。だが、私も唯一の弟子を危険に晒すようなことはなるべく避けたい。

 

 今にも出て行きそうな勢いだったルカをなんとか引き止め、せめて一人で行くのはやめてほしいと伝えると「じゃあロットンさんに付き合ってもらう。この前街を案内する約束したし丁度いいでしょ」と、提案された。

 

 今の状況で街の案内というのもどうなのかと思ったが、口実としては使えるのでそれならと了承し、彼の居候先であるシェンホアの家へ電話をかけロットンさんに事情を話すと快く引き受けてくれた。

 

 ……とはいえ、やはり心配ではある。

 大人と一緒であっても、何も起きないという保証はない。

 

「ねえルカ、やっぱり今は外でない方がいいんじゃない?」

 

「すぐ帰って来るよ。それに、この前シェンホアさんからもらったナイフも持っていくし」

 

 そう言って、ポケットから小さいナイフを出しこちらに見せる。

 張さんから貰った小銃を持たせようとしたのだが、「それは先生の護身用でしょ」と頑として受け取らなかった。

 

「……ルカ、何度も言ってるけど」

 

「外では何も食べない飲まない。チビ達の様子見たらすぐに帰る。で、帰る時には必ず電話する、でしょ。分かってるよ」

 

 外へ出ると決まった時から何度も伝えている言葉を、めんどくさがる様を見せることなく口にしてくれた。

 表情に出さないだけで多少うんざりしていたかもしれないが。

 

「早く来ないかなー」と椅子に座り足をパタパタするルカを見ていると、作業台の上でコール音が鳴り響く。

 震える携帯を手に取り、すぐさま通話ボタンを押し耳に当てる。

 

「はい、キキョウです」

 

『彪だ。急にすまない』

 

 聞こえてきた広東語に思わず驚く。

 彪さんから連絡が来るのは初めてだ。

 

 珍しい通話相手に戸惑いながらも、いつも会う時のような口調で話しかける。

 

「どうされましたか」

 

『お前、今日予定は?』

 

「え? ……この後知人にルカを預けて、その間に依頼品をお客さんに渡そうかと」

 

 唐突の質問に首を傾げながら、一つ間を空けて答える。

 

『預ける?』

 

「ルカがどうしても外に出たいと言いまして。一人では不安なので知人に護衛を頼んだんです」

 

『いつ帰って来るんだ』

 

「できるだけ早く帰るように言ってますが、何時になるかは」

 

『そうか……』

 

 一体どうしたのだろうか。

 

 街が大変な状況であれば、張さんの腹心である彼も暇ではないはず。

 ただ私の予定を知りたいがために電話をかけてくるとは思えない。

 

 そんな私の疑問に答えるかのように、一つ間を空けて彪さんが言葉を続ける。

 

『一昨日起きたイエロー・フラッグでの騒動、お前知ってるか?』

 

「もちろん」

 

『なら話が早い。──もし奴が舞い戻って来たのであれば、前回同様お前が巻き込まれる可能性がある。そうならないよう、お前を保護しろと大哥からのお達しだ』

 

「え……」

 

『“お前達には事が収まるまで三合会(俺達)の保護下に入ってもらう。拒否権はない”とのことだ』

 

 有無を言わさない伝言の言葉に当惑する。

 前回は囮に使われたというのに、なぜ今回は保護する判断になったのか。

 

 いや、よく考えてみれば私をただ安全な場所に置いたところで彼に一つもメリットはない。

 今回の騒動の犯人が私が目的とは確定していないが、何かあった時の保険として手元に置いておきたい。ということかもしれない。

 

「……それは、急な話ですね」

 

『今回は事が事だからな。それに、お前だって弟子を安全な場所に置きたいんじゃないか?』

 

 

 更に拒否しづらいことを言われ、思わず苦笑する。

 

 

『今から俺がそっちに行く。ガキには悪いが、今日の外出は中止するよう言ってくれ』

 

「……ですが、ルカは世話になった人が無事かどうか見たいと言ってます。せめて、保護下に入る前に少しだけ会わせてあげてくれませんか」

 

『だが』

 

「お願いします」

 

 いつ騒動が収まるか分からない。

 今も心配と不安が入り混じった表情でこちらを見ている子が、一目見れないまま長くなるかもしれない保護下での生活を平静に過ごすのは無理だろう。

 

 彼も早く張さんの命令をこなしたいだろうが、少しでも弟子の懸念を無くしてあげたい。

 

 彪さんは一つため息をついた後、諦めたような声音を出す。

 

『なら、俺がガキを目的地まで連れてってやる。その後は隠れ家(セーフ・ハウス)に直行だ。それでいいな?』

 

「ええ、ありがとうございます」

 

『詳しいことは後で説明する。最低限の荷物だけ用意してろ』

 

「はい」

 

『じゃ、また後で』

 

 彼は最後に告げると、すぐさま通話を切った。

 携帯を耳から離し、こちらを見つめているルカに声を掛ける

 

「ルカ、急だけどこの後彪さんが迎えに来る。三合会が私たちを保護してくれるって。だから安全な場所でしばらく過ごすことになったから」

 

「本当に急だね。それは別にいいんだけど……ばあちゃん達には会えるの?」

 

「隠れ家に行く前に連れてってくれるって。だからそんな不安そうな顔しないで」

 

 微笑みながら告げれば、ルカは安堵の表情を浮かべた。

 

「じゃあロットンさんには悪いけど、来たら帰ってもらうしかないね。多分もうこっち向かってるだろうし」

 

「そうだね」

 

 隠れ家ってどんなとこだろうねー、とルカは呑気な声音で呟いた。

 

 ふと、時計を見やると十三時二十分を指していた。

 早いところ今日の残りの予定である依頼品の受け渡しを済ませようと、再び携帯を手に取りラウルさんの番号へとかける。

 

 だが、何回かけても一向に出る気配がない。

 

 十回ほどコール音が鳴った後、諦めて通話終了ボタンを押し作業台の上に置く。

 そのまま荷物をまとめようと、自室へと足を進める。

 

 何かあった時のため、少しの現金と何年か前にもらった偽の身分証を入れている袋をベッドの下から取り出す。

 他に何か入れるものがないか考え、部屋を見渡す。

 

 そこでふと思い出し、クローゼットまで歩みを進め奥にしまっている箱を取り出す。

 

 少し埃被っている蓋を開け、中に入っている小銃を手に取る。

 

 ……ついに、この銃の引き金を引く時が来るのだろうか。

 それは少し嫌だな、と苦笑する。

 

 袋に入れるかどうか悩み銃を眺めていると、表からドアをノックする音が飛んでくる。

 

 

 

「ラウルです。依頼してたものを受け取りに来ました」

 

 

 

 すぐさま聞こえてきたのは、昨日依頼に来ていたラウルさんの声。

 だが、唐突な彼の来訪に疑問が浮かんでくる。

 

 連絡してから受け取ると言っていたのに、なぜ連絡が来る前にここへ来たのか。

 そもそも連絡しても出なかったというのに。

 何回か依頼してくれているお客さんだが、街がこんな状況だと疑り深くなってしまう。

 

 

 

 ……何だろうか。妙に胸騒ぎがする。

 

 

 

 胸の内に生まれた小さな不安から動けずにいると、ルカが「はーい」と軽快な声音で返事をした。

 

 その声にハッとし、一瞬遅れて口を開く。

 

 

 

 

「ルカ待って!」

 

 

 

 

 すぐさま立ち上がり、焦りを声音に乗せ呼びかけながら、小銃を片手に作業部屋へ走る。

 

 作業部屋に着いた瞬間と同時にバタン、とドアが乱暴に開かれた音が響いた。

 

 

 

 

 ──次の瞬間、目に入ったのは開きっぱなしのドアと、入り口を塞ぐように立っている黒いハットとロングコートを身に着けている高身長の男。

 

 

 

 そして──床に倒れていくルカの姿。

 

 

 

 あまりにも予想外の光景に動きが止まる。

 

 

 手に持っていた小銃を構えることも忘れ、ピクリとも動かないルカから視線が外せなかった。

 

 

 

 

「やあ、久しぶりだねMs.キキョウ」

 

 

 

 男の声に我に返る。

 黒一色のコーデに身を包んでいる声の主へ、慣れてないながらも小銃を構えた。

 

 

 

「まさか弟子を取ってたなんてね。君の腕が引き継がれていくのは、とても喜ばしいことだ」

 

「……誰だ、お前」

 

 男の軽快な口調に眉間に皺が寄る。

 ハットのせいで顔は見えない。

 

 

 ──だが、この光景はとても覚えがある。

 

 

 五年前、真夜中に現れた頭の上から足のつま先まで真っ黒な格好のあの男に、同じように銃を突きつけた。

 

 

 今、目の前にいるのはあの男と同じ格好、同じ口調の男。

 死んだはずだと頭では理解していても、嫌でも重なってしまう。

 

 

「はは、忘れるなんて酷いな。俺は今まで、君の事を一日たりとも忘れたことはなかったというのに」

 

 

 気色悪い言葉と共に、男はハットに手を伸ばした。

 

 

 

 ──次の瞬間、露になったその顔は忘れたくても忘れられないあの男のもので。

 

 

 

 

 目を見開いたまま体が硬直し、息が詰まる。

 

 しばらく沈黙が流れた後、ニヤニヤとした顔を再び眉間に皺を寄せながら見据え、やっとのことで声を絞り出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ヴェスティ?」

 

 

 

 

 

 

 今、街で“蘇った”と噂されている亡霊の名を口にする。

 

 なぜ生きているのか。

 どうしてこの街に戻って来たのか。

 そもそも本当にあの男なのか。

 

 疑問ばかりが頭に浮かんでは消えていく。

 

「なんだ、やっぱり覚えててくれたのか。嬉しい……ねッ!」

 

 ヴェスティは言い終えるのと同時に一気に距離を詰めてきた。

 反応する間もなく、右手を掴まれ引き寄せられる。

 

 次の瞬間、腹にとてつもない衝撃が来たのと同時に銃から手を離してしまう。

 胃の中のものがせり上がって来る勢いに耐えられず、口から思い切り吐瀉物をまき散らす。

 

 掴まれていた右手が離され、思わず床に膝を突き腹を押さえる。

 

「げえっ……かは……!」

 

「汚いなあ。美人が台無しだぞ」

 

 ヴェスティはえずく私の姿を見下ろしながら、愉快だと言わんばかりの口調と声音を発した。

 

 拳を強く握り、床に顔を向けたまま視線だけを銃の方へ向ける。

 

 ……立ち上がらなければ手に届かない距離。

 取に行くにしても、ヴェスティの隣を通らなければならない。

 

 私とこの男とではあまりにも力の差がありすぎる。

 銃を手にすることは不可能に近いだろう。

 

「久々の再会だ、ゆっくり話でも……といきたかったんだがな。あの童顔野郎が勘づくかもしれないから、手っ取り早く済ませよう」

 

 人をイラつかせるような口調は本当あの時から変わってない。

 爪が食い込むほど、拳を握る力が段々強まっていく。

 

 胃液独特の匂いが口の中に充満している中、呼吸をなんとか落ち着かせ顔を上げる。

 

「一体、何しに来た……」

 

「何しに来たと思う?」

 

「ふざけるな」

 

「ふざけてないさ。前と同じだよ」

 

 ニヤニヤとした気色悪い笑みを浮かべたまま告げられる。

 前と同じ……。

 今回も私の腕が目的だと言いたいのだろうか。

 

「お前も懲りないな。あの時、張さんに敵わなかったくせに……ッ」

 

 瞬間、言い終えるより前に顔に蹴りを入れられ、衝撃と痛みが走る。

 勢いよく床に体を打ち付け倒れてしまう。

 

「う……」

 

 すぐさま髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。

 

 痛みで顔が歪む中、揺れる視点をなんとか目の前の男に定める。

 

 

 

「あまり俺を苛立たせるなよ」

 

 

 

 目に入ったヴェスティの顔は先程とはまるで違う──酷く冷めた目と表情だった。

 

「何もできない愚図が……舐めた口を叩くなッ」

 

 紳士とはかけ離れた荒っぽい口調とともに髪を引っ張られ、そのまま床に顔面を叩きつけられる。

 三回ほど叩きつけられた後、ようやくヴェスティの動きが止まった。

 

 鼻から血が流れ、視界は歪み、立ち上がる気力を失う。

 

 遠のく意識の中、今の自分と同じように倒れたままのルカを瞳で捉える。

 

「にげ、なさ……ルカ……おねが……」

 

 言葉が絶え絶えになりがならも、必死に声を絞り出す。

 

 本当なら今すぐに駆け寄ってあの子だけでも逃がしたいのに、体は微塵も動かせない。

 

 

 

 

 ──無情にも声はルカに届くことはなく、重くなっていく瞼に抗えずそのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──気絶したか。ったく、手間かけさせやがって」

 

 倒れているキキョウを見下ろし、男はチッと苛立たしそうに舌打ちした。

 落ちていたハットを拾い、汚れを払う仕草をする。

 

「さて……どう処分しようかね、このガキ」

 

 同じように倒れている洋裁屋の弟子を見つめ呟く。

 

 顎に手を添え少しの間考えた後、男はニヤリと口端を吊り上げる。

 ルカの傍まで歩みを進めると、徐に顔を踏みつけた。

 

「気が変わった。折角だ、お前にもチャンスをやるよ」

 

 ぐっ、と踏みつける力を強めながら言葉を続ける。

 

「お前も可哀そうだなあ。あんなクソッタレな売女のせいでこんな目にあって。同じ巻き込まれた者として、これはせめてもの慈悲だ」

 

 ぐりぐりとルカの顔を踏みにじった後、静かに足をどかす。

 そのままコートのポケットからスキットルを取り出した。

 キキョウの自室である奥の部屋へ足を動かし、スキットルの蓋を開け、中の液体を部屋全体にまき散らしていく。

 

 中身が無くなったスキットルを投げ捨て、ガソリンの匂いが充満している部屋から再び二人が倒れている場所へと戻る。

 

 優雅に煙草(Camel)を取り出し口に咥え、ライターで火を点けるとルカへ再び視線を注ぐ。

 

「運が良けりゃ生き延びられるかもな。俺のように、な」

 

 くくっと喉の奥で笑い、煙を吐き出す。

 

 もう一度煙を吸った後、奥の部屋へ煙草を投げ入れた。

 男はすぐさまキキョウの髪を掴み、足を動かす。

 

「あー、重てえな……くそっ」

 

 ぶつぶつと呟きながら、キキョウを引きずってその場から去っていく。

 

 

 

 ──男とキキョウが消えたすぐ後、部屋からは黒い煙が立ち上っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 連絡会が開かれる少し前──ロックとレヴィはラグーンの事務所を出て、車を走らせていた。

 例の亡霊の件と関わっている可能性があるキキョウの様子を見るためである。

 

 助手席に座っている拳銃使い(ガンスリンガー)は、窓の光景を見ながら黙々と紫煙を燻らせている。

 吸い終えると新しい煙草を取り出し、再び火を点す。

 車を走らせてから十数分しか経過していないにも関わらず、灰皿に追加された吸い殻は十を超えようとしていた。

 

 一本……また一本と、明らかに尋常ではないスピードで煙草を消費していく相棒に、ロックは少し躊躇いながらも言葉をかける。

 

「やっぱりレヴィも心配か? 彼女のこと」

 

「してねえよ。少し気になってるだけだ」

 

「……にしては、煙草の数がいつもより多いよね」

 

「うるせ」

 

 どこか不機嫌そうな表情を浮かべぷい、とそっぽを向かれてしまう。

 この行動が照れ隠しであることは考えずとも分かってしまい、ロックは思わず苦笑する。

 

「そういえば、レヴィはキキョウさんに何か恩があるんだよな。一体どういう」

 

「てめえ、誰から聞いた」

 

「この前飲んだ時自分で言ってたじゃないか。“恩を返す前に死なれたら困る”って」

 

「あー……そうだったか? ったく、とんだヘマだ」

 

 レヴィは眉根を寄せ、チッと苛立たしそうに舌打ちをする。

 

「昔の話だよ」

 

「一体何やらかしたんだ?」

 

「言いたかねえ。……黙って運転しろ、クソロック」

 

 不機嫌な声音で呟き、灰皿に煙草を押し付けた。

 そうこうしている間に、目的地付近に到着する。

 

 路地に車を停め、二人は黙って車を降りた。

 

 キキョウの家へと歩みを進めていると、向かい側から一つの人影が近づいてくる。

 その人影が見覚えのある人物であることを二人は同時に気づいた。

 

「よう優男、こんなとこで何してんだ」

 

「やあロットン」

 

 銀髪にいつものサングラスとロングコートという出で立ちのロットンに、ロックとレヴィは気さくに声を掛ける。

 ロットンも二人に気づき、片手を上げ軽い挨拶を交わす。

 

「俺はMs.キキョウのところに少しばかり用事がな。二人は?」

 

「奇遇だね、俺達も彼女のとこに向かってるんだ」

 

「そうか」

 

 立ち止まり言葉を交わした後、三人は路地を曲がり足並みを揃えて歩き出した。

 

「おめぇがキキョウに何の用があるんだ」

 

「実は彼女じゃなくルカにな。彼と出かける約束をしてる」

 

「こんな時にか? 今外に出るのはちと不用心じゃねえか」

 

「Ms.キキョウにルカの護衛を頼まれたんだ。彼女も弟子が心配なんだろう」

 

「ガキの護衛? お前そんなことしてんのか」

 

「ちょうど暇だったからな」

 

 雑談を交えながら歩みを進めていけば、あっという間にキキョウの家へと辿り着く。

 ロックが一歩前に進み、玄関のドアをノックした。

 

「キキョウさん、ロックです。今お時間いいでしょうか?」

 

 中にいるであろう家の主へドア越しに声を掛ける。

 いつもならすぐ出てくれるのだが、しばらく経ってもドアが開かれる気配はない。

 

「留守なのかな?」

 

「今回はアイツも噂を知ってるからこいつに護衛頼んだんだろ。外に出るわけねえ」

 

「じゃあなんで」

 

「おい優男。キキョウにはこの時間に来るって伝えたのか」

 

「ああ」

 

 ロットンの返答にレヴィは眉間に皺を寄せ、やや乱暴にドアを叩く。

 

「キキョウ、いるなら返事しろ」

 

 声を掛けるもやはり反応がない。

 レヴィの眉間の皺が更に深くなっていく。

 

 ふと、ロットンが静かに呟く。

 

「…………なんか、焦げ臭くないか?」

 

「……確かに」

 

「誰か近くで焚火でもしてんのかぁ?」

 

 三人は周りを見渡すが、それらしい光景は見つからない。

 こうしている間にも、次第に焦げ臭さが強くなっていく。

 

 ──途端、ロックの中で妙な胸騒ぎが現れる。

 

 律儀な彼女が約束の時間に家にいないこと。

 それどころか、護衛の対象であるルカさえ出ないこと。

 

 焦げ臭さと共に胸騒ぎも段々と増していく。

 

 まさか、とロックは自身の脳裏によぎった一つの可能性に、嫌な汗が背中を伝う。

 

「──レヴィ」

 

「分かってる」

 

 同じく現状の異様さに気づいていたレヴィは、ロックの固い声音での呼びかけにソード・カトラス(愛銃)を構えた。

 一気に張り詰めた空気に包まれる。

 

 ロックは緊張した面持ちで手を伸ばす。

 

 鍵がかかっているはずが、ドアノブはすんなりと回る。

 異常な何かが起きていることをはっきりと理解し、勢いよくドアを開けた。

 

 ロックの瞳に映ったのは──部屋の中は黒煙が充満し、奥から火が上がっている様。

 更にはすぐ近くでルカが倒れている。

 

 異様な光景に目を見開いた後、ロックはすぐさま足を動かした。

 

「げほッ……キキョウさん!」

 

「くそっ……!」

 

 煙を吸い込まないようハンカチを口に当て、キキョウの名を呼ぶ。

 ロックのすぐ後ろをレヴィが着いて行くが、あまりの煙たさに思わず足が止まってしまう。

 

 ロットンも続くように腕で口を覆い部屋に足を踏み入れ、倒れているルカの傍へ近寄る。

 

「君は早くMs.キキョウを」

 

「キキョウさん……!」

 

 ロットンはロングコートを脱ぎ、ルカの小さな体を包み抱きかかえると足早に外へ出た。

 火が上がっているキキョウの自室へ駆け足で進むロック。

 

 何とかレヴィも片腕で口を抑え足を動かすが、火の手が近づいていることに気づきすぐさま声を掛ける。

 

「ロック、一旦外に出るぞ! 火がこっちに回る!」

 

「でも……!」

 

「早くしろッ!」

 

 今にも火の中へ飛び出しそうなロックの腕に自身の腕を回し、レヴィは強引に外へ連れ出そうとする。

 このままでは己も無事では済まないと肌に当たる熱に直観で感じ取り、「くそっ」と苦虫を潰したような表情で吐き捨て、レヴィと共に外へ戻る。

 

 そうして黒煙を脱した二人は、咳き込みながら空気を肺に取り入れていく。

 

「Ms.キキョウはどうした?」

 

「……いなかった……くそっ!」

 

「げほッ……ロック、落ち着け。まだ死んだと決まったわけじゃねえ」

 

 レヴィは苛立っているロックを諫めるように、静かに言葉をかけた。

 

「おいロットン、ルカは」

 

「息はある。だが苦しそうだ」

 

 コートに包まれ目を閉じているルカの呼吸音はヒュー、ヒューと異常なもの。

 苦し気に呼吸する姿を見やり、レヴィはチッと舌打ちする。

 

「──おいおい……なんだこれは」

 

 途端、少し離れた距離で声が聞こえてきた。

 

 三人が目を向けた先には、張の命令でキキョウを迎えに来た彪が立っていた。

 サングラスで瞳は隠れているものの、現状を理解できず困惑している表情であることは一目瞭然であった。

 

 呆然とした後、すぐさま彪は三人の元へ駆け寄った。

 

「おい、どういう状況だこれは」

 

「俺達が来た時には既に火が……キキョウさんの姿はなかった」

 

「彪、なんでアンタがここに」

 

「亡霊の件があるからな、キキョウを保護するよう命令されてたんだ。……一足遅かったみたいだが」

 

 彪は黒煙が上がっている家へ目を向け、静かに呟いた。

 次にルカへ視線を動かし、ロットンへ淡々と声を掛ける。

 

「ガキは」

 

「辛うじて生きてる。すぐ医者に見せた方がいい」

 

 異様な呼吸音を繰り返している姿を眼に映し、少し間を空けた後再び口を開く。

 

二挺拳銃(トゥーハンド)、ガキをすぐリンのとこに連れていけ。アイツには俺から話をつけておく」

 

「おう」

 

「彪さん、張さんには」

 

「今連絡会だ。大哥には俺から報告する」

 

 行け、と短く言い残し、彪は足早に去っていく。

 

「アタイらも行くぞ。こいつに死なれるのはまずい」

 

「ああ」

 

「着いてこいロットン!」

 

 彪が去り少しの間を置き、レヴィは口早に二人に告げた。

 ソード・カトラスをホルスターに収めると、駆け足で車への道を戻る。

 

 ロックとロットンは慌ててレヴィの後ろを着いて行く。

 

 

 

 ──キキョウの家からは、黒煙の中で更に激しく火が上がっていた。

 






ここからどんどん不穏になります。
がんばれキキョウさん。


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4 亡霊と花

 

 ……。

 

 

 

「──だか──早く──」

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

「ま──ここか──だろ」

 

 

 

 ………………何か声が聞こえる。

 

 

 

 遠くではないところで誰かが話をしている。

 朧げな意識では、はっきりと言葉が聞こえない。

 

 

「そん──なにも──おと──」

 

「いくら──でも──かけす──だ」

 

 

 

 暗闇の底から段々と意識が戻っていくのを感じると共に、目の前で繰り広げられている会話がはっきりと聞き取れるようになる。

 

 

「──あのな、俺達が喧嘩を売ろうとしているのはこの街全てと言っても過言じゃないんだ。時間をかけるのは当然だろ」

 

「たかがこんな小さな街一つを荒らすのに、時間をかけるのは無駄だ」

 

「分かってねえな。お前も、お前のボスもこの街を舐めすぎてる。この街は裏社会の見本市。つまり世界中の悪党どもの巣窟だ。そんなところで無計画に暴れてみろ。一日と持たねえぞ」

 

「見た感じそうは思えねえけどなあ」

 

「この街から生きて帰った俺が言うんだ。もう少し、俺の言葉を信用してくれてもいいんじゃないか?」

 

「詐欺師の言葉をか? は、笑わせるんじゃねえよ」

 

 意識がはっきりしていくにつれて、話しているのは二人の男だということを理解する。

 その男たちが交わしているのは中国語。

 広東語と同時に中国語も学んでいたおかげで、なんとか話の内容を聞き取ることができた。

 

 完全に覚醒していない脳であっても、その会話が穏やかなものではないことが嫌でも分かってしまう。

 

 やがてゆっくりと瞼を開け、顔をほんの少し上げる。

 私が目覚めたことに気づいたのか、一人が颯爽と目の前に立った。

 

 

 

「おはよう。気分はいかがかな? シニョリーナ」

 

 

 

 頭上から降り注いできた声に、すぐさま意識を失う前の記憶が巡る。

 

 いきなり現れた真っ黒なコーデに染まった男。

 

 

 その男にたった一人の弟子が床に倒されていく様。

 

 

 腹に感じる鈍痛。

 

 

 自身が出した吐瀉物の臭い。

 

 

 床へ乱暴に顔を叩きつけられる衝撃。

 

 

 最後まで起き上がることのなかった弟子の姿。

 

 

 

 混濁していた意識が電流が走ったかのように覚醒し、反射的に身体を動かす。

 

 だが、一歩も前に進むことなく強制的に動きを止められてしまう。

 動きが止まった原因は、両手足首につけられた重々しい鉄の枷。

 

 目に映る嵌められた枷と動かす度に鳴る金属音に、自身が囚われているということを理解する。

 

 ──そして、自身をこんな姿にしたのが誰なのかも。

 

「……最悪だ。お前が目の前にいるから余計に」

 

「おー怖い怖い。そう睨むなよ」

 

 

 両手を上げ、わざとらしく怖がるそぶりをする目の前の男──ヴェスティに苛立ちが募り自然と眉根が寄っていく。

 

 

「今度は何を企んでる」

 

 不機嫌を隠さない声音で駄目元で問いかけた。

 

 すると、意外にもすんなりと答えが返ってくる。

 

「殺された人間が生き返った時、一番初めに何を望み、何をするか。答えは単純」

 

「……」

 

「自分を殺した憎き人間への復讐さ。だから俺はここにいて、君は無様な姿で囚われている」

 

「……懲りないな、お前も」

 

「前の俺とは違う。現に、張の手が伸びる前に君を攫うことができた。今度はヘマしないさ」

 

 勝ち誇ったような笑みを浮かべ言い終えると、ヴェスティは優雅に煙草を吸い始める。

 

 攫った、ということはもうここはロアナプラじゃないのだろうか。

 いや、さっきの会話を聞く限りだとまだ街にはいるはずだ。

 

 周りを見渡し、自身が今いる場所がどこなのか何とか把握しようと試みる。

 

 コンクリートの壁に囲まれている小さな部屋。

 窓一つなく、部屋を照らすのは宙にぶら下がっている電球一つから発せられる淡い光だけ。

 

 残念なことに、ここがどこなのか皆目見当もつかない。

 

「言っておくが、逃げようとしても無駄だぞ。運よく抜け出せたとしても、外にも仲間の見張りを置いている。君にできることは何もないよ」

 

「……」

 

「まあ折角だ、少し二人で話をしよう。こうしてちゃんと会話ができるのも、最後かもしれないしな」

 

 ヴェスティが後ろに立っていた男に一言声を掛けると、仲間であろう男はため息を吐きつつもドアの方へと向かっていく。

 

 ドアが閉まる音が響き、二人きりになるとヴェスティは傍にあった椅子を引きずり、やがて私の目の前で腰かけた。

 足を組み、ニヤニヤとした笑みを浮かべ口を開く。

 

 

「俺は、君の事をずっと想ってた。俺が死んだ後、君が張の妾としてのうのうと生きていた間も、ずっとだ」

 

「……」

 

 

 途端、ヴェスティの顔から笑みが消える。

 瞳には一切の光が入らず、次第に氷のような冷たさを帯びた低い声音へと変わっていく。

 

「そう、君に──お前如きに、手こずらせてしまった不甲斐なさも……張より上手く立ち回ることができなかった未熟さも、コーサ・ノストラの馬鹿どもから解放させられなかった愚かさも、足手まといの仲間を早く処理しなかった後悔も、最後の言葉をくださった時の顔も……忘れるはずがない」

 

 いつもの気取った紳士なものとは違う口調と、冷淡に告げられる話にどこか違和感を覚える。

 自分の事のはずなのに、まるで()()()()()()()()()()()()()

 

「この数年、君と張に復讐するためだけに時と金を費やした。そして今、復讐に必要な材料が揃い、ようやく俺の悲願が達成される。本当、生きててよかった」

 

 そう言い放つ男の顔に浮かぶ、心の底から喜んでいるような──子供のような無邪気な笑みに背筋が凍る。

 

 ふと、五年前のあの日の出来事が頭によぎる。

 確かあの時、この男は……。

 

 まさかと思い、胸の内に湧き上がった疑問を投げかける。

 

「……お前、その右目は」

 

「右目がどうかしたのか」

 

「…………いや、なんでもない」

 

 

 

 ──やっぱり。

 

 思えばあの日、あの男は張さんに右目を撃ち抜かれていた。

 

 だが目の前にある顔には傷一つついていない。

 義眼かとも思ったが、どうやらこの反応だと違うらしい。

 

 復讐だというなら、右目についても話で触れるはずだ。

 そして、さっきの話しぶりと私の問いかけに対する反応。

 

 

 間違いない。

 

 こいつはヴェスティじゃない別の誰か。

 

 

 

 確信を得た後、すぐさま別の疑問が浮かび上がる。

 

 

 

 ──じゃあ、目の前にいるこの男は一体誰だ。

 

 嫌な汗が顔を伝い、思考を巡らせるも目の前の男に関して「ヴェスティの真似事をしている」ということしか情報にない。思い当たる人物が一人も出てこないのは当然だった。

 

 

「本当は今すぐにでも殺したいとこなんだが、君に会いたがってる男がいてね。色々済ませたらその男の元へ連れていく。この街とも永遠におさらばだ」

 

「……私に、会いたがってる?」

 

 唐突な話に思わず困惑する。

 戸惑う私に構うことなくぺらぺらと話しだした。

 

「さっきここにいた男や外にいる野郎どものボスだよ。この街で暴れるには俺一人じゃ心許ないからな。彼と取引した時、君を生きて連れてくる事を条件に人手を借してくれたんだ」

 

「……」

 

「話を聞くと、どうも彼は三合会と藤崎 仁に恨みがあるみたいでね。君があの極道と三合会幹部に関わりがあることを教えたら、真っ先に喰いついてきたよ。使えるものは何でも使うってね」

 

「……は?」

 

「それに、彼は究極のサディストでね。傷だらけの女を見ただけで射精する変た……素晴らしい嗜好の持ち主だ。特に美人の顔が歪んでいるのが好みだそうだ。非常に悩んだが、殺すよりもそんな男に送る方が君にとって地獄だろうと判断した」

 

 ちょっと待て。

 今、聞き捨てならない名前が出てこなかったか。

 

 ぺらぺらと喋る話の内容が入ってこないほど、動揺していた。

 

「運が良ければ藤崎仁に会えるかもな。まあ、その時は無事じゃないと思うが」

 

「……そんな人、私は知らない」

 

 なぜ彼の名前が出るのか。

 なぜ私が彼との関わりがあると知っているのか。

 連れて行くのが目的なら、この街にまだ留まっている理由はなんだ。

 

 頭の中で多くの疑問が飛び交い混乱するが、つらつらと言葉を並べる様が癪に障り、冷静を装い嘘をつく。

 

「おや、薄情だな。師の親友であり、自分をこの街へ導いた人をそう言うのか」

 

「な……」

 

 驚きのあまり息が詰まり、言葉にすることが叶わない。

 ずっと抱いていた苛立ちと意地だけで保っていた平静が、言い放たれた内容によって崩れ去る。

 

「なんで知ってるのか。そう言いたげだな」

 

「……」

 

「伝説のヤクザが率いてるとはいえ、所詮周りはただのチンピラ。警戒が甘いんだよ。だから家に盗聴器を仕掛けられる。ま、流石にほんのちょっと苦労したけどな。ただ老人の話だけじゃ信憑性が欠ける。後は独自調査の賜物ってね」

 

「……どうやって」

 

「それは企業秘密」

 

 気色悪い笑みを浮かべ、口に人差し指を当てる様に思わず顔が引き攣った。

 

「ああ、そうそう。君の家は消し炭になってるよ。あの可愛い弟子も焼け死んだみたいだが」

 

「……は?」

 

 今、この男は何と言った。

 

 私の家が灰になった? 

 弟子が焼け死んだ? 

 

 ── 一体何を言っている。

 

 

「……あの子に、何をした」

 

「この街を出るのに心残りは少ない方がいいだろ? 俺のちょっとした気遣いだ」

 

「答えろ! あの子に何をしたッ!?」

 

 ずっと変わらない鼻につく笑みで話す男に耐えられず、大声が出てしまう。

 強く握る拳は震え、何とか落ち着こうと呼吸を繰り返す。

 

 確かあの後、ロットンさんや彪さんが来る予定だったはずだ。

 もしルカが目を覚まさなかったとしても、きっと二人のどちらかが保護してくれている。

 

 ……そうだ。まだ希望はあるはずだ。

 そうであってほしいと、心の底から願うしかない。

 

 

「君が寝ている間、仲間に様子を見に行ってもらったんだ。そしたら三十分もしない内に全焼。遺体一つ見つかってないとさ。小さい体だったから骨まで燃えやすかったのかもな」

 

「そんな、はず」

 

「仲間が記念に撮ってきてくれたんだ。見せてあげよう」

 

 胸ポケットから何かを取り出し、「ほら」と得意げに目の前にそれを差し出される。

 

 見せられているのは一枚の写真。

 その写真には、焼けた家の残骸に人だかりができている光景が映し出されている。

 

 だが原型を留めていないその家の周りは、慣れ親しんだ風景で。

 

 ──この焼けた家は、我が家であったことを確信する。

 

 

「ここまで焼けてたら、そりゃ遺体も見つかるわけがない」

 

 

 

 違う。そんなわけない。

 

 ルカの事だ。

 

 きっと、私が気を失った後に起きて上手く逃げ延びてるに違いない。

 例え誰かが救ってくれてなくても、あの子ならきっと……。

 

 

「しばらく起きないよう薬を打ったからな。あの子一人で生き延びた、なんて希望は捨てたほうがいいぞ」

 

「な……」

 

「子供とはいえ、やすやすと目撃者を放置しておくと思うか? 君と張への復讐に身を焦がしてきたこの俺が」

 

 私の心を読んだかのような言葉に思考は止まり、否定さえできなかった。

 

 そんなはずはないと自分に言い聞かせながらも、絶望にも似たこの感情は段々と強くなっていく。

 

 

「これで心置きなくこの街とおさらばできるだろう? 感謝の言葉一つくらい欲しいもんだ」

 

 

 愉し気に言い放つ姿に、自分の中の糸が切れた。

 

 瞬間、冷静でいることができず感情の赴くまま体が動く。

 

 目の前の男に勢いよく飛びかかろうとするも枷が邪魔をする。 

 鉄枷が手足首に食い込むほど、前のめりになる。

 

 だというのに、相手は顔色一つ、眉一つ動かさない。

 それどころか、取り乱す私を嘲笑うかのような表情を浮かべている。

 

 

「いいねえ、その顔。ああでも、この様子だと目の前で殺した方がより効果あったかもなあ。しまった」

 

「ふざけるなッ!」

 

 

 嬉しそうに呟く様に声と息が荒くなる。

 

 

「お前の狙いは私だろ! なんであの子まで!」

 

「嫌がらせに決まってんだろ。そんなことも分かんねえのか」

 

 男は鼻で笑うと煙草を床に落とし、踏みつぶす。

 

 どこの誰かは知らないが、この男はアイツと全くの同類だ。

 我慢を覚えていない子供のように、自分の欲望の赴くまま師の服を奪い去り……。

 

 

 ──挙句には私の親友を手にかけた。

 

 

 深く息を吐き、荒い呼吸を何とか整える。

 

 

 

「…………本当に、前と全く同じだな」

 

 

 燻る怒りはそのままに、だが口調は冷静に告げる。

 

 

「自分の思い通りにならなかったら暴れ、人を傷つけ……それが許されると、自分が何よりも偉いと思ってる」

 

「あ?」

 

「まるで我儘が通らず癇癪を起してる子供のようだ。あの時から何も変わってない」

 

 明らかに別人だが、敢えてヴェスティとして話す。

 鼻につくあの薄気味悪い笑みが剥がれた顔を見据え、こいつが嫌がるであろう言葉を言ってやる。

 

 

 

「そんな奴があの人に復讐する? あの人に手を出せるとでも?」

 

 

 

 何年もこの街の支配者として君臨してきた彼と子供じみた男。

 どっちがより上手かなんて考えなくても分かる。

 

 相手が誰なのか分かっていない子供には、大人が優しく諭さなければならない。

 

 そう思うと、驚くほど自然に笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

「──叱られる前に、この街から出て行った方が身のためだよ。坊や」

 

 

 

 

 

 

 柔らかな声音で告げると、顎に勢いよく男の蹴りが飛んでくる。

 凄まじい衝撃の後からじんわりと滲み出てくる痛みを感じる間さえ許さないかのように、すぐさま髪を掴まれた。

 

「ふざけんなよ、このクソ売女が……ッ」

 

 鋭い視線と声を向けられる。

 だが、殺気を纏っていようと癇癪を起した子供など怖くない。

 

 再び口端を上げ、目の前の子供の顔をしっかり見据える。

 

「お前に……言われたくないな、クソ野郎」

 

 今度は拳で右頬を殴られる。

 口の端が切れ、血が滴っていく。

 

 途端、騒ぎを聞きつけたのか仲間の男が部屋に戻って来た。

 

 仲間の声掛けに男は振り上げた拳を徐に下げ、荒い息を整えると髪から手を離した。

 

 

「……俺と彼の契約は、君を生かして連れてくる事だ」

 

 

 まるで自分に言い聞かせるかのように呟いた後、新しい煙草を取り出し火を点す。

 

 

「だが、君の状態については問われていない。──つまり、手足がもがれていようが顔が歪んでいようが、生きてりゃ構わないってことだ」

 

 再び乱暴に髪を掴まれ、無理矢理顔を合わせられた。

 煙草の煙を吹きかけられ、思わず目を瞑る。

 

「すぐに連れ去るのはあまりにももったいない。張への手土産としても使わせてもらう」

 

 笑みを浮かべながら言うと、男は顔だけで何か仲間へ合図を送っていた。

 

 すると、仲間は手に小さなカメラらしき物を持ってこちらへ近づいてきた。

 やがて男に髪を掴まれた状態でシャッター音が切られる。

 

 

 

 

 

 

「精々耐えて見せろよ。じゃないと面白くない」

 

 

 

 

 

 

 あまりにも酷く歪んだ笑顔で呟かれたその声音は、吐き気を催すほどの気味悪さを帯びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──またか」

 

「ええ、またです」

 

 高層ビルの最上階にある社長室の高級椅子に腰かけ、彪からの報告を受けている張は眉根を寄せ煙草の煙を吐き出す。

 

「ラチャダ・ストリートの娼館で、死体は売春婦のものでした。その売春婦は昨夜、客を一人とっています」

 

「……」

 

 張がデスクを指先でトントンと叩く音を聞きながら、彪は報告の続きを口にする。

 

「他の売春婦や店主の話によれば、その客が帰りしばらくした後、例の如く血を吹き出し急死したそうです」

 

「その客については」

 

「中国系の顔の男です。ただその後の足取りは掴めておらず、現在捜索中です」

 

「監視カメラには」

 

「ワトサップにも確認してもらっていますが、今はまだ」

 

 彪の報告に「そうか」と一言呟き、煙草を灰皿へ押し付ける。

 新しい一本を取り出すと、張の後ろに立っていた同じく腹心の部下である郭がすかさずライターで火を点けた。

 

「他に死体は出てないのか」

 

「今朝、ブラン・ストリートで一つ。ほぼ同時刻にチャルクワン・ストリートで二つ出たと」

 

「バラライカとロニーの縄張りか。被害に関しちゃ三合会(うち)が一番だが、次に多いのはコーサ・ノストラか。──こりゃ、ますます亡霊の怨念と思えてくる」

 

 少しの冗談を交えながら考えを口にし、煙を吐く。

 

「妥当な路線でいけば、三合会やコーサ・ノストラに被害が偏ってるのも亡霊の復讐と捉えられるが……亡霊の方は、相変わらずのらりくらりとこっちの視線を掻い潜ってやがる。まだ確たる証拠がないのが痛い」

 

 デスクを叩く指が止まる。サングラスの奥の瞳を彪へ向けた。

 

「彪、ガキはまだ目を覚まさないのか」

 

「はい。リンに診せていますが、どうやら薬を盛られたらしくしばらくは目覚めないと」

 

「なんとしてでも叩き起こすよう伝えろ。アイツには起きてもらわにゃならん」

 

 デスクの上に足を置き、やがて窓の外へと視線を向ける。

 

 

「キキョウを攫ったのが亡霊なら、野郎共と繋がってることを確信できるんだがな」

 

「……大哥、そのキキョウの事で一つ報告が」

 

 

 キキョウが忽然と姿を消してから二日目。

 張は彼女の行方も探してはいるが、街の安寧を優先するべき状況では多くの人数と時間を割くことはできず、何一つ情報が掴めていない。

 このタイミングで攫われたのは亡霊が関連していることは明白だが、決定的な証拠がない。

 唯一残った手掛かりである弟子も眠ったまま起きる気配もない。

 

 女一人のために自身の組織を動かすには何もかもが足りない。

 

 三合会タイ支部長として優先するべきことを考え、より慎重に振舞わなければならない。

 例え、彼女の生死がどうあろうとも。

 

 

 だからこそ大した情報を期待せずに、彪からの報告を黙って待った。

 

 

「実は……売春婦の死体にこれが」

 

 

 歯切れ悪く言いながら彪が懐から出したのは、端々が血に染まっている茶色の封筒。

 差し出されたそれを手に取ると、「Dear Mr.Chang,(親愛なる張氏へ)」と綺麗な字で書かれていた。

 

 中身を確認されたのか、既に開いている封から指を入れ中のモノを取り出す。

 

 出てきたのは一枚の写真。

 そこに映っていたのは──髪を乱暴に掴まれ、口端から血を流している女。

 

 

 

「…………随分ご丁寧な報せだな」

 

 

 昨日から姿を消していたキキョウの姿に、眉根を寄せほんの少し不機嫌さが混じった声音で呟いた。

 

 

「彼女は生きてる、ってか。舐められたもんだ」

 

「……大哥。例の死体にそれを置いたということは、やはり」

 

「ああ。十中八九、キキョウを攫った奴とヤクをばら撒いている奴らは繋がりがある」

 

 

 遠慮がちに発せられた郭の言葉に同意した張から不機嫌さは消え失せ、淡々とした声音を発した。

 

 

「だが、攫った後も死体が上がってるってことは、まだ何か目的がありそうだな」

 

「大哥、少なくても相手はこの街を熟知しています。ならば大哥とキキョウの関係を知ってるのも当然。そこを狙われたのでは」

 

 写真を見つめながら呟く張に、すかさず郭が自身の考えを口にする。

 

「その封筒は挑発するようにわざわざ大哥に宛てています。なら、大哥を狙っているのは明白」

 

「つまり、アイツは餌にされたってわけだ。ったく、こうなるのを防ぐために早々に保護しようと思ったんだがな。今回も先を越されちまった」

 

 

 顎に手を添え、ふむ、と考えるそぶりを見せる。

 

 

 

「──妙だな」

 

「はい?」

 

「俺を狙ってキキョウを人質にするのは理解できる。が、にしては大事にしすぎてる。俺だけが狙いなら、わざわざ街中にヤクをばら撒く必要はない。──前回はキキョウが目的で街が荒らされた。だが今回は街が荒らされ始めたのとほぼ同時期に攫われている。その上わざわざこんな知らせを寄越したのなら、キキョウから目を逸らすための攪乱という線は消える」

 

 淡々と吐き出される言葉を、彪と郭は黙って聞き続ける。

 

「亡霊の嫌がらせ、と言われればそれまで。だが、本当に俺だけが目的とは思えん」

 

「……あの男はたった一人の女のために街を荒らした奴です。十分可能性はあるかと思いますが」

 

「本人だろうとそれを真似してる奴だろうと、そこまで愚かじゃないはずだ。同じ轍を踏むとは思わん。……まあ、それは亡霊のみぞ知るところだがな」

 

 残り少なくなった煙草を一気に吸い、長くなった灰と共に灰皿へと押し潰す。

 新たに煙草を取り出すことなく、写真をぺらぺらと揺らす。

 

 瞬間、張は何かに気づいたのか手を止め、すぐさま写真を裏返す。

 

「……」

 

 張の目に映っているのは、綺麗な字で書かれた短い一文。

 眉根を寄せしばらく見つめた後、一つため息を吐き胸ポケットに入れる。

 

「今回はちと気味が悪すぎる。これは、俺たち以外の誰かにも動いてもらいたいところだな」

 

 そう呟くと、張は徐に立ち上がった。

 

「大哥、どちらへ」

 

「この件に首を突っ込みたがってるはずの野郎に会いに」

 

 口端をニヤリと上げ、彪の問いかけに答えた。

 郭が手にしているロングコートのポケットに手を入れ颯爽と羽織る。

 二人の部下は顔を見合わせつつも、社長室を出て行こうとする張の背中に着いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──というわけで、お前らに協力を頼みたい」

 

「張さん、ウチは便利屋じゃないんだ」

 

 張が向かった先はラグーン商会事務所。

 優雅にテーブルに長い足を置き、硬い面持ちをしているラグーンの面々へ語られた事務所へ赴いた理由を聞いたダッチはすぐさま拒絶の意を示す。

 

「これはラグーン商会というより、レヴィとロック。お前達二人への依頼だ。俺たちは街の安寧を最優先に動かねばならん。女一人に割ける時間と人はちと少ない」

 

 張が煙草を取り出すと、彪が慣れた手つきで火を点す。

 

「正直、アイツを攫ったのが亡霊だっていう確証は得ていない。が、確実に攫った奴とヤクをばら撒いている人間は繋がっている。キキョウを探すうち亡霊に近づけるかもしれん。お前達二人がキキョウを探し、俺達はヤクをばら撒いている人間を追う。そっちの方が効率がいい」

 

 腕を組み、壁に凭れ掛かっているレヴィの隣に立っているロックは怪訝な表情を浮かべた。

 確かに三合会として動ける理由は少ない。それでも、彼女が消えたというのにいつものように飄々としている張の態度が彼から滲み出ている不機嫌さの要因だった。

 いくら三合会タイ支部長の立場があれど、もう少し何かあるだろう。と口に出すことはできないので、ロックは心の中で呟いた。

 

「でもよ旦那、今んとこアイツがこの街にいるのかさえ可能性は五分五分だ。正直、生きてるのだって怪しい。そうだろ?」

 

「……張さん。さっき彼女を攫った人間と繋がってる、そう言いましたよね。その根拠はどこから」

 

 

 

 煙を吐き出す張へ二人はそれぞれ問いかけた。

 足を下ろし、灰皿へ煙草を押し付ける。

 

 

 

「相手は随分気前が良いらしくてな。今朝出た死体におまけがついてた」

 

 

 

 そう言って懐から一枚の写真を取り出した。

 テーブルに置かれた写真をダッチが手に取り、ラグーンの他の三人も後ろから覗き見る。

 

 写っている光景に、特にレヴィとロックの二人は驚愕した表情を浮かべた。

 

 

「ご丁寧にこれを送って来たってことは、まだアイツは生きてる可能性が高い」

 

「……この裏の言葉は」

 

 ダッチが裏返した途端に現れた文字の羅列を見やり、ロックが怪訝な声音を出す。

 

「そっちの真意は分からん。──ロック、お前さんこういうのは得意分野だろ。お前お得意の探偵ごっこがアイツを救うカギになるかもしれん」

 

「……」

 

「レヴィ、お前はアイツにデカい借りがある。その借りを、今まさに返すチャンスじゃないか?」

 

「……」

 

 二人の身体が一瞬硬直したのをダッチは背後で感じとり、眉間に皺を寄せる。

 

 ──完全にあっちのペースに持っていかれた。

 張維新がたった今切った手札はあまりにもこの二人に効きすぎる。

 

 この男はそれをよく理解しているから質が悪い。

 

 

「ダッチ」

 

 

 ロックが呼びかけたその真意を分からぬダッチではなかった。

 だが敢えて応えることなく、張を見据え口を開く。

 

「……張さん、これはどう考えてもあんたに向けた招待状だ。俺達を巻き込まないでもらいたいね」

 

「残念ながら、この街の住民ってだけでもう巻き込まれてんだぜダッチ。それはお前さんもよく分かってるだろ」

 

「だとしても血の噴水ショーの観客でいた方がまだマシだ。自分からショーの役者になるつもりはねえ」

 

「己が望もうと望んでなかろうと、このショーは無理やり舞台上に引っ張り出されるのさ。どこぞのクソ野郎の気まぐれでゲストが決まる、クソみたいなルーレットによってな。そんなもんとっとと終わらせたいだろ」

 

「……ダッチ、俺は亡霊の目的が張さんだけとは思えない」

 

 言い終え、張が新しい煙草を取り出したタイミングを見計らい、ロックは自分の考えを徐に口にする。

 

「確かにこの写真は挑発とも取れる。だけど、本当に張さんだけが目的ならここまで大事にする必要はないはずだ。相手にとって敵が増えるだけで、なんのメリットもない」

 

「はは、ノッてきたなロック。──お前の言う通り、ちと今回は狙いが不明瞭すぎる。だからこそ気味が悪くて仕方ねえ。なら、頼れるとこには頼らねえとな」

 

「……なら尚更、ウチが首を突っ込む理由は」

 

「ダッチ、この話アタシは受けるぜ」

 

 言葉を遮ったのは、これまで黙っていたレヴィだった。

 彼女から放たれた言葉が意外だったのか、ダッチはすぐさま振り向く。

 

 ──サングラスに隠れた瞳に映ったのは、とても冗談を言っているようには見えない真摯な表情。

 

「正気かレヴィ。いくら借りがあるとはいえ渦中に突っ込んでいくのは」

 

「それもあるけどよ、このままだとこの馬鹿は確実に暴走する」

 

 言いながらロックの後頭部をバシッと叩く。

 叩かれた部分をさすりながら睨んでくる視線を意に介さず話を続ける。

 

「旦那の依頼とアタシの借りを返す手伝いって名目がありゃ大分動きやすい。街がこの状況なら尚更だ」

 

「だが」

 

「今回は相手が国じゃない分まだマシだ。──亡霊どもを見つけたら迷わず撃っちまっていいんだろ、旦那」

 

「ああ」

 

 ダッチ、と最後にレヴィは呼びかける。

 ラグーン商会のボスとして決断を求められている。

 

 ──頭をガシガシと掻きしばらく思案した後、やがて諦めたように溜息を吐いた。

 

「…………まあ、アイツは昔からの馴染みだからな。このまま死なれるのも後味が悪い」

 

「決まりだな」

 

 ダッチの言葉を聞き、張は満足げな表情で呟いた。

 

「何か分かったら連絡くれ。今は少しでも情報が欲しい」

 

「あいよ」

 

「頼んだぞ」

 

 途中まで吸った煙草を灰皿に押し付け腰を上げると、張は最後に短く告げ部下を引き連れ颯爽と事務所を後にした。

 

 漂っていた緊張感の余韻が消えぬまま、ロックは写真を眺めているダッチへと声を掛ける。

 

「ダッチ、早速だけど俺達は動くよ。一刻も早く彼女を見つけないと」

 

「慌てるなロック。ご丁寧にこれを張に送ったってことは、まだ生かしとく意思が向こうにもあるんだろ。その気がありゃ、弟子もろとも始末してるはずだからな」

 

「でも、こんな状態なら今何されてるか……」

 

「焦っても何も始まらねえ。まずは、この言葉の意味が何なのか探るのも一つの手だぜ」

 

 

 

 焦燥の色を浮かべているロックを宥めつつ、手にしていた写真を手渡す。

 渡された写真を裏返し、丁寧な字で書かれている文字を目で追い怪訝な表情を浮かべ口にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

「──Where the holy Hannah rests in the sea hangs. ( 海に眠る聖なるハンナが吊られし場所)……どういう意味なんだ」

 

 

 

 

 

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5 枯れない瞳


お待たせしました。
最終章、5話目です。


 医薬品の臭いが充満し、機械音と呼吸音が静かに響く部屋。

 三合会タイ支部のお抱え医師であるアタシ、通称『闇医者ビアン』こと林 翠蘭(リン スイラン)の治療室のベッドには、キキョウちゃんの弟子が静かに横たわっている。

 ──二日前、珍しく暇を持て余していたアタシの元にラグーンの二人とシェンホアの家の居候である妙に顔が整った優男が連れてきた急患だ。

 

 喉と肺が若干やられていたからか喘息の発作のような呼吸音を出していたが、命に関わるようなことではなかった。

 それよりも、首筋にあった小さな切り傷から入り込んだであろう“何か”の方が問題だった。

 

 恐らく強制的に気絶させる劇薬に近いものなのだろうが、たった数ミリの切り傷から察するに、注入されたのはごく少量のはず。

 いくら子供とはいえ、まさかひと一人をたったそれだけの量で一日以上眠らせるほどの薬物とは。

 

 調べようにも少量すぎて血液からも採取できず、どんな対処が適切か分からなかった。

 

 頭を抱えながらも、昨日我が上司から告げられた「何としてでも起こせ」という命令を遂行するため、ひとまず気づけ薬に似た効果を持つ薬を投与している。

 

 

 だが、正常な呼吸音になり安らかな表情となったその顔は、一向に目覚める気配はない。

 

 

 どうしたものかと頭を悩ませ、ベッドの横にある椅子に座る。

 すやすやと眠る寝顔を見据えた。

 

 

 

「ねえアンタ、とっとと起きてくれないと色々困るんだけど。アタシ子供いたぶる趣味ないのよね」

 

 

 

 薬で起きないなら痛みならどうかと、何回か頬をひっぱたいたのだが身じろぎ一つしなかった。

 

 このまま目覚めなかったら、最悪刺してしまおうか。

 人体は把握しているので、急所を外せば死にはしないだろう。

 

 人を治すのが仕事であるアタシがそう考えるほど、割とお手上げな状態だった。

 

 

 

「アンタだってキキョウちゃんがいなくなったままなのは嫌でしょ。……自分を可愛がってくれてる師匠を思うなら、少しは起きる努力してみたら?」

 

 

 

 こんな声掛けは無駄だと分かっているが、何か言わなきゃ気が済まなかった。

 

 アタシの嫌味も含んだ言葉は無情にも届かず、やはり微塵も動く気配がない。

 盛大なため息を吐き、気分転換にコーヒーを飲もうと腰を上げる。

 

 

 

 

 

 

「…………ん……」

 

 

 

 

 

 部屋のドアまで足を進めた時、後ろから何か音が聞こえたのを感じとる。

 

 まさか、とほんの少しの期待を抱き、ゆっくりと振り向く。

 

 

 

 

 

「うーん……んぅ……」

 

 

 

 

 

 ──ベッドの上で微動だにしなかった患者が声の主だと気づくのに、少し時間がかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──やあルカ君、気分はどう?」

 

「……まあまあ」

 

「そうか。何はともあれ、起きてくれて安心したよ」

 

 ルカが二日間の眠りから覚め、ここがリンの診療所だと説明されたタイミングで訪れたのは、張からキキョウ捜索の依頼を受けたレヴィとロック。

 そして──

 

「無事でよかった。目覚めないと聞いた時はどうなるかと思ったが」

 

「案外しぶといネ、このコ」

 

ルカをリンの元へ届けたロットンと、彼の付き添いで来たシェンホアも同じタイミングでやって来た。

 

 まだぼんやりとした頭で、ルカは眠る前の記憶を辿っていた。

 

 自分の護衛を引き受けてくれたロットンを待っていたこと。

急遽、三合会に自分と師が保護されることになったこと。

 その三合会の迎えとして彪が来てくれることになったこと。

 

 そして、依頼品を受け取りに来たラウルを迎えた時にいきなり目の前が真っ暗になったこと。

 

 これらを全て思い出し、はっ、と周りの大人たちを見やる。

 

 

 

「……先生は?」

 

 

 

 小さく呟いた声に、その場の時間がぴた、と止まったように静まり返る。

 ロック達はお互い顔を見合わせ、どこか気まずそうな表情を浮かべている。

 

 異様な雰囲気に、ルカの中の不安は段々と大きくなっていく。

 

 

「ねえ、先生は? 先生はどうしたの。ねえ……?」

 

 

 声を微かに震わせながら、再び周りへ問いかける。

 誰もが言葉を詰まらせる中、やがてルカの前へ出てきたのはレヴィだった。

 

 自分を見下ろしている顔には何の感情もなく、ただ淡々とした声音が発せられる。

 

「お前が眠りこけてる間、キキョウがどっかの馬鹿に連れ去られた」

 

「え……」

 

「今はどこにいるか分かんねえが、死んじゃいねえことは確かだ」

 

 レヴィの一言にルカの顔に安堵の表情が滲み出る。

 

「だが、そんな悠長なことは言ってられねえ。早く見つけねえと手遅れになる。アタシとロックはアイツの行方を追ってる」

 

「…………」

 

 安堵したのも束の間、放たれた言葉の意味を理解する。

 

『今生きていてもいつ殺されるか分からない』

 

師が危険な状態であることを認識し、ルカの表情が再び曇っていく。

 

「彼女を追うには情報が足りない。君の協力が必要だ」

 

「僕の……?」

 

「どんな些細なことでもいい。こうなる前のことを話してくれるかい?」

 

 レヴィの隣にある椅子に腰かけ、ロックはルカと目線を合わせ話を促す。

 拳を握り、不安げな表情のままルカはこくりと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──じゃあ、そのイタリア人が君を?」

 

「うん。そっから先は覚えてない」

 

「そのイタリア人の特徴は?」

 

「茶髪に茶色い瞳。あとすごく背が高い。でも来た時は全身真っ黒で、帽子も被ってたから顔は見てない」

 

「背はどれくらいか分かるかい」

 

「アイツがラウルさんなら一九〇センチのはず」

 

 ルカから出てくる情報をメモに取りながら、ロックは淡々と質問をし続けた。

 一つも間を空けることなく、ルカも枯れた声で答えていく。

 

「他に何か覚えてることは?」

 

「うーん……」

 

 一通り自身が体験した出来事を話し終えてしまったがために、ここで初めて言葉に詰まる。

 頭を傾げ、唸りながら考える様にロックは「なんでもいいんだ」と声を掛けた。

 

 

 

「…………あ、そういえば」

 

 

 

 しばらく唸った後、何か思い出したかのような声音を発し、ロックを見据え言葉を続ける。

 

 

 

「顔踏みつぶされながらなんか言われた……ような気がする」

 

「具体的には覚えてるかい」

 

「ちゃんとは覚えてない……でも、なんか先生の事をバイタとか、“同じ巻き込まれた者”がとか言ってたような……ごめん、一瞬の事だったから気のせいかも」

 

「いや、いいよ。攫った男の人物像がなんとなく掴めた」

 

「売女、ねえ」

 

 ルカの話を黙って聞いていたレヴィは意味深に呟いた。

 その静かな呟きを聞き逃すことなく、ロックは後ろに立っている彼女へ目線を向ける。

 

「何か気にかかるのか、レヴィ」

 

「いや、もしキキョウを攫ったのがあの着飾り野郎ってんなら、奴にしちゃ随分陳腐で乱暴な言葉だと思ってよ」

 

「確かにそうね。あのクズはどんな時も言葉だけは丁寧だったわ。例え女に手を上げる時でさえも」

 

 レヴィは面白くないとでも言わんばかりに、つまらなさそうな表情を浮かべる。

 もう一人、当時の亡霊の事を知っているリンも続けて同調する。

 

「アイツの女に対する姿勢は少し異常だったわ。レヴィに対してもシニョリーナって呼びかけてたものね」

 

「たく、今思い出しても鳥肌がたつぜ。あのクソ気味悪い振る舞いはよ」

 

 ちっ、とレヴィは腹立たしそうに舌打ちをする。

 

「まあ、それは昔の話だ。一回死んで人格が変わったって線もあるぜ」

 

「それはないだろう」

 

「死人は蘇らないですだよアバズレ」

 

「ただの冗談だ。そう真面目にとんな」

 

 レヴィの言葉にロットンとシェンホアがすぐさま反応する。

 ロックは聞き取った情報を全て書き終えると、ズボンのポケットにメモを入れながら腰を上げた。

 

「起きたばっかりなのにありがとう。後はゆっくり休んで」

 

「……ロックさん」

 

 病室を出て行こうとするロックの背中に、ルカが遠慮がちに声を掛けた。

 振り向いたロックの顔をじっと見据える。

 

 

 

「先生のこと、絶対見つけてね」

 

 

 

 シーツを強く握りしめ言い放たれた言葉に一瞬目を見開いた後、少しだけ口端を上げた。

 

「ああ、そのつもりだよ」

 

 たった一言短く告げ、ロックとレヴィは病室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルカの元へ訪れた四人もいなくなり、静けさを取り戻した病室の隣の部屋でリンは固定電話を手にしていた。

 

「──ええ。なので、着飾り野郎本人である可能性は限りなく低いかと。まあ、もしキキョウちゃんを攫ったのがアイツなら、の話ですが」

 

『そうであってほしいね。あの野郎が本当に蘇ったのなら夜も眠れん』

 

「苛立ちでですか?」

 

『はは、それもあるかもな』

 

 広東語で話している相手は彼女の雇い主でもある張。

 軽い冗談を交わし、真剣な表情へ変え話の続きを口にする。

 

「──アタシ、変装が得意で高身長で薬物を扱ってる。その上一人では何の行動もできず、キキョウちゃんに固執している。そんな男に心当たりがあるのですが」

 

『奇遇だな、俺もだよ』

 

「……大哥、まさか」

 

『その()()()の可能性は十分考えられるが、今はそれよりも目の前の事に集中しなきゃならん』

 

 電話越しでも伝わる緊張感に、リンは口を噤む。

 

『すべては亡霊を捕まえりゃ分かること。お前はお前の仕事をこなしていればいい』

 

遵命(かしこまりました)

 

 張からの有無を言わせない口調に、ただ従う事しかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──結局、攫った奴の正体は分からず終いだ」

 

「犯人の背格好が分かっただけでも十分な収穫だ。人種まで把握できたのは運が良い」

 

 リンの診療所を出、車を走らせロックとレヴィは言葉を交わしていた。

 眉間に皺を寄せ、苛立ったような声音で話すレヴィと対極にロックは冷静な態度を見せる。

 一つ間を空け、やがて怪訝な表情で言葉を続ける。

 

「……ただ、なぜ目撃者であるルカ君を生かしたのか気になるな」

 

「もしかすると、大した意味はねえかもな。奴の気まぐれで生かされたってのも考えられる」

 

「そんな自分の首を絞める真似するかな」

 

「ヴェスティの真似事してるってんなら十分あり得る。奴もそうだったみたいだからな」

 

 目を見開いているロックの表情を横目に煙草に火を点ける。

 

「大分前に張の旦那から聞いたんだが、アイツはゲームを盛り上げるためにわざと仲間を差し出したんだと」

 

「なんだよ、それ」

 

 ロックは困惑した表情をレヴィへ向けながら車を走らせ続ける。

 

「ほんとイカれてやがる。──そんな奴の真似をしてる人間も当然狂ってるだろうな」

 

「……そんな奴のとこにキキョウさんは」

 

 ハンドルを握る手に力が入る。

 その瞬間を見逃さず、レヴィは少しの間迷った後、意を決し口を開く。

 

 

 

 

「──ロック、このままアイツを捜すなら最悪の事も覚悟しておけ」

 

「……」

 

「今までは旦那や姐御がいたってのと、アイツの運の良さもあって五体満足で生きてこれた。だが今、アイツは一人だ」

 

 煙をため息とともに吐き出し、固い声音で続ける。

 

ジョン・ドウ(亡霊)が寄越した写真から察するに、今も手枷に嵌められていいようにされてるはずだ。……アタイらが見つける頃にはもしかしたら、もう」

 

 レヴィの言葉はロックが急停止したことで止まる。

 唐突の行動に、運転席の男に訝し気な目線を向けた。

 

 

 

 

「彼女はバラライカさんと似て、死に方に拘ってる」

 

 

 

 

 ハンドルを強く握り、強張った声と表情で語る。

 

 

「後悔して死ぬくらいなら、後悔する前に死ぬ。そういう生き方をこの街で貫いてきた。──そんな自分の意志で死にたいとしてきた彼女が唯一、命を預けた他人が張さんだ」

 

「……」

 

「俺はそれが理解できなくて、彼女を張さんから……この街から離すべきだと。それが俺のすべきことだって考えてた」

 

「……馬鹿な考えだ」

 

 何の話だと思いながらもレヴィは淡々と言い放つ。その反応にロックは「全くだ」と苦笑し、続ける。

 

「でも、理解はできなくても意思を汲むことはできる。──張さんに殺されたい。彼に殺されるなら後悔しない。それは、張さん以外に殺されたくないってことだ。彼女にとって、張さんは生きる理由の一つなんだ。彼から切り離すことは、彼女から生きる糧を奪ったも同然だ」

 

「……」

 

「俺が彼女にできるのは、彼女がそう望む限り張さんの元へ届けることだけだ。……例えどんな状態であっても」

 

 真剣な表情で聞いているレヴィへゆっくりと顔を向け、口端を上げる。

 

「だけど最悪は避けるに越したことはない。だから一刻も早く探し出そう、レヴィ」

 

 目を見開き、しばらくロックの顔を眺めた後、ため息とともに煙を吐き出す。

 徐に懐からラッキー・ストライク(煙草)の箱を軽く振り、飛び出した一本をロックへ差し出す。

 

 しばらく煙草を見つめ、手を伸ばす。

口に咥えたのを見計らい、レヴィが手早くライターで火を点ける。

 無言でやり取りを終えると、煙草を窓の外へ捨てながら「次はどこだ」と問いかける。

 

「イタリア人ならイタリア人に聞くのが一番」

 

 一言告げると、ロックは相棒から貰った煙草を咥えたまま車を発進させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──単刀直入に言う。今話題の亡霊について、貴方が知ってることを教えてほしい」

 

「なんでお前達が首を突っ込んでくる」

 

「俺たちは張さんからの依頼でキキョウさんを探してる。少しでも情報が欲しい」

 

「張からの依頼ってだけでたった一人の女のために動いてんのか? は、どうもラグーンは不景気らしい。この際だ、運び屋から足を洗ったらどうだ。俺がいい仕事を斡旋してやる」

 

「そりゃありがたいね。アタイらだけじゃなく、亡霊野郎が暴れてるせいで今じゃどこもかしこも不景気だ。どうせなら街中にその気前の良さを振るってやんなよ。アンタは一躍ヒーローになれるぜ、ロニー」

 

 二人が向かった先は、チャルクワン・ストリートより少し離れた場所に位置するコーサ・ノストラ事務所。

 唐突の来訪者を出迎えたのは、高級椅子に腰かけているロニーと、ボスを囲むように立っている部下たちの鋭い視線。

 

 刺さる視線に怖気づくことなく、二人はロニーの軽口に乗りながら言葉を交わす。

 

「張からの依頼だとしても、俺がお前らにわざわざお話しなきゃならん理由は?」

 

「キキョウさんは亡霊、もしくは亡霊に近しい人間に攫われた。彼女を追っていくうちに、今回の騒動の首謀者に繋がる可能性が高い。──それに、貴方も今回の件は緊急で片を付けたいはずだ。かつての身内だった人間の名前を持った亡霊が暴れてるとなれば、静観する訳にもいかない。放っておくことは、マフィアの面子に関わってくる」

 

 肯定も否定もしないロニーを見据え、間を空けずロックは続ける。

 

「俺たちはただ少しでも情報が欲しいだけだ。こっちが知ってる情報も惜しみなく提供する」

 

 最後に放たれた言葉を聞き、ロニーはデスクに肘を置き顎に手を添える。

 しばし考えたそぶりを見せた後、やがて笑みを浮かべた

 

「よし、いいだろう日本人。お前のよく回る口に付き合ってやる。ただし、俺の機嫌が悪くない間だけだ」

 

「感謝するよ、Mr.ロナルド」

 

 口から覗く矯正器具が光る。

 ロックは小さく息を吸い、強張った声を発する。

 

「今回の騒動の原因である亡霊──ヴェスティはアンタ達コーサ・ノストラがきちんと始末した。そうだな」

 

「ああ」

 

「なら分かってると思うが、今この街を騒がしてるのは別の誰か。ただの模倣犯でしかない。死人は蘇らない」

 

「俺らをんな当たり前の事言われないと分からない間抜けだと思ってんのか? 舐められたもんだ」

 

 背もたれにのしかかり、嘲笑するような笑みをロックへと向けた。

 そんなロニーと反対に、一切の表情を変えず押しかかる威圧感に負けじと矯正器具が覗く顔を見据え続ける。

 

 ここでビビっては相手に飲まれてしまう。

 今この場で、それは決して許されない。

 

「だが、彼を目撃した人間の内、彼を知っている人は皆口を揃えてヴェスティだと言っている。いくら数年前に死んだとはいえ、強烈な出来事を起こした男をそうそう見間違うはずはない」

 

「……」

 

「その上、今起きているのは全て以前の騒動と酷似している。無差別な殺人も、三合会の縄張りで一番被害が出ていることも、死に方の派手さも全てだ」

 

 ロックは当時の事を知らない。だが、レヴィや周りの話を聞けば聞くほど一連の騒動が前回をなぞって起こっていることだと確信できた。

 ロニーも自身と同じく当時の現場を知らない。

 ならば自分と同じ考えを持っているはず。

 

だが敢えてはっきりとその考えを口にする。

 

「今回はヴェスティをよく知っている人間が模倣犯の可能性が高い。それも、この街で起きたことも、ヤクの精製法も、キキョウさんに固執していたということも全て知ってるほど近しい人物だ。──それは当時のヴェロッキオ・ファミリー。もしくは現コーサ・ノストラ内。それか彼個人に心酔していた外部の人間のどれか。でなければ、ここまでの真似事はできない」

 

 そこで初めてロニーの愉快そうに歪んでいた口元が段々と下がっていく。

 長い足を組み、流暢に話す目の前の日本人を鋭い視線で射貫く。

 

 

 

 

「Mr.ロナルド。貴方は亡霊の正体、目星ついてるんじゃないですか」

 

 

 

 

 ロニーはロアナプラでのコーサ・ノストラのボス。

 そんな男がヴェスティの名前が出てから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 例え亡霊の正体を掴んでいなくとも、コーサ・ノストラでしか得られない情報を持っているかもしれない。

 その情報を引き出すには、一歩踏み込む必要があった。

 

 はっきりと告げられた一言を最後に沈黙が落ちる。

 ロックは重圧的な空気の中で、じんわりと冷や汗を滲ませた。

 

 しばらくの間の後、ロニーは「はっ」と鼻で笑い、再び軽く口端を上げる。

 

 

コーサ・ノストラ(うち)の人間が犯人の可能性もあるって言うんなら、この俺が裏で糸を引いてるって考えなかったのか」

 

「数か月でこの街でのコーサ・ノストラの地位を確立した手腕を持つ貴方が、大勢を敵に回すような愚かなことするはずない。()()()()()()()()()()()()()()()を知ってるなら尚更」

 

「ありがたいねえ。俺の事を高く買ってくれてるわけだ」

 

 愉快気に口端を上げたまま、懐から煙草を取り出す。

 すかさず部下がライターで火を点け咥える。

 盛大に煙を吐き出し、悠々とした態度で口を開く。

 

「お前の言う通り、大方目星をつけてる。が、実際本当にそいつかどうかは確信できちゃいない」

 

「それでも構わない。貴方が目星をつけてるその人物は」

 

 ロックの問いかけに再び煙を吐き、笑みを消して静かに話し始めた。

 

「アイツがまだイタリアにいた頃、コーサ・ノストラじゃない人間とちょくちょく会っててな。アイツと会ってた人間がChiaro di luna(キャロディ・ルーナ)の仲間だったらしいが、今じゃ全員地獄で晩餐会中だ。──たった一人を除いてな」

 

「……その残った一人については」

 

「茶髪に茶色の瞳を持った高身長の男だ。最近まで行方知らずだったんだがな。──そいつがここ三か月以内にロアナプラに身を寄せ、ぶらついていたことが分かった。今はぱったり姿を見せなくなったが」

 

「姿が見えなくなったのは、騒動が起きてからでは?」

 

「ご名答」

 

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、長い足を組み替える。

 

「なぜそれを連絡会で言わなかったんです? 張さんは知らない様子だった」

 

「これは俺もついさっき知ったことでな。タイミングが悪かった」

 

 肩を竦める仕草を見せるロニーの言葉に、これ以上深堀する必要もないとロックは「そうですか」と一言だけ返す。

 

「情報提供ありがとうございました、Mr.ロナルド。じゃ俺達はこれで」

 

「待て」

 

 去ろうとする二人を呼び止め、ロニーは背もたれから身体を離し、デスクに肘を置く。

 

「もし見つけたら俺にも連絡を寄越せ。裏切り者とはいえ、かつての仲間の名を利用されるのは些か不愉快なんでな。一回くらい顔を拝みてえ。勝手に殺されるのは困る」

 

「アタシらが襲われても撃つなってか」

 

「そういう時は手足でも撃っとけ。お前ならできるだろ、二挺拳銃」

 

 言いたいことだけ伝えると、「行け」と告げラグーンの二人は今度こそ部屋から出て行った。

 ロニーは再び背もたれに寄りかかり、はあ、と一つため息を吐く。

 

「ボス、よろしかったんで? あいつらに喋って」

 

「一刻も早く事態を収めたいのは張も同じさ。それに奴らはただの運び屋だ。喋ったところで、俺達がどうにかなるわけでもねえ。使える駒は使わねえとな」

 

「しかし……」

 

「俺の行動が気に入らねえか? カミッロ」

 

 ギロリと睨みつけると、部下は「いえ」とすぐさま口を閉ざす。

 

「それより、問題はあのロシアの女狐だ。張と違ってアイツはどうも人間とお話が得意じゃねえみたいだからな」

 

 はあ、と再びため息を吐きながら、デスクの上に足を乗せる。

 少しの間何かを考えた後、やがて徐に固定電話へと手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ロックとレヴィがコーサ・ノストラの事務所へ赴いたのと同時刻。

 ホテル・モスクワ事務所内──バラライカ専用の個室では、彼女が全幅の信頼を寄せている遊撃隊(ヴィソトニキ)の面々が銃を片手に並んでいた。

 彼らの目の前には、両手を後ろに縛られ、頭を床につけている東洋人が一人。

 

「──なるほどね。ただ、こっちにも通さないといけない筋があるのよ。アナタだってそうでしょ? ……まあ、そうね。アナタと私の仲だからなるべく考慮はするけど、保証はできないわ。相手の出方次第ではこっちも行動を考える必要がある。……それは後で詳しく話しましょう。今から今朝出てきた害虫の相手をしなくちゃならないの。……死体の近くをうろついてたからちょっと声を掛けたら大当たりだった、運が良いわ。……ええ、ではまた」

 

 バラライカは手にしていた固定電話の受話器を戻すと、高級椅子に腰かけたまま冷徹な瞳で縛られている男を見下ろす。

 

「お前が所属している組織。飛龍(フェイ・ロン)衆とか言ったか。以前はいくらか名を上げていたらしいが、ここ数年は他のマフィアに押されまともに動きが取れなくなっていると聞いた。──そんな落ちぶれた上海マフィアがここまで上手く事を運べるとは思えん。協力者は誰だ」

 

「……」

 

 バラライカの問いに言葉ではなく無言が返って来る。

 一つの間を空けずに、部下の一人が勢いよく顔を殴りつけた。

 

 直後、銃声が鳴り響く。

 足に風穴を空けられた男は堪らず呻き声を上げ、苦痛の表情を浮かべる。

 

「速やかにこちらの質問に答えろ。無駄な手間を取らせるな」

 

 底冷えしそうなほどの声音で淡々と告げると、遊撃隊の一人が男の頭を無理やり上げた。

 

「い、イタリア人だ! 背が高ぇ、いつも黒いコート着てる男だ!」

 

「そいつの名前は」

 

「ヴェ、ヴェスティって名乗ってた!」

 

「お前たちがそいつと手を組み、この街で暴れまわってる理由は」

 

「元々、三合会の縄張りだけ、手に入れる予定だった……けど、他のマフィアも邪魔だから、そいつ、が持ってる麻薬をばら撒いて……ッ、荒らせば、街を支配してるマフィアどもが弱まって……付け入る隙ができるはずだって……! ……この街を乗っ取れば……ウチの組織も名が上がるって、ボスが……ッ」

 

 途切れ途切れに紡がれた言葉を聞き、バラライカは男を見据えたまま思案する。

 やがて徐にデスクの上に置かれた一枚の写真を手に取った。

 

「その動機は理解できる。──が、女を攫った理由には少し足りないな。たかが女一人で街が揺らぐなど、いくら落ちぶれていようとそこまで愚かな考えは起きないだろう。他に何が目的だ」

 

 バラライカが手に持っている一枚の写真。

 そこに映っているのは、自身の友人が囚われている姿。

 

 両手足は縛られ、胸の谷間には根性焼きの跡がいくつも並び、口端や鼻から血を流している。

 

 写真が入っていた封筒には、「Dear Mr.Chang,(親愛なる張氏へ)」と綺麗な字で綴られていた。

 

「その女、は……ボスが用がある、から……攫っただけだ!」

 

「お前たちのボスが彼女に何の用がある」

 

「日本の……! フジサキってヤクザと関わりがあるから……何か使えるかもしれねえって……それ以上は知らねえッ!」

 

 出てきた名前にバラライカは思わず目を見開く。

 すぐさま眉根を寄せ、再び男へ投げかける。

 

「わざわざこんな写真を寄越す理由は」

 

「アイツは、張への挑発にも使える、って……! 少しでも、隙を生みやすくするためって言ってた……ッ」

 

「ヴェスティの居場所は?」

 

「し、知らねえッ! 一部の人間しか知らされてねえんだ……!」

 

「──そうか」

 

 男からこれ以上情報は搾り取れないと踏み、バラライカは顔と目線を逸らし、指で軽く耳を塞ぐ。

 途端、ボリスの指示により遊撃隊は一斉に銃を構える。

 次の瞬間には多くの銃声が鳴り響き、敷かれている絨毯には血が染み込んでいく。

 

 

 

「諸君、ご苦労。引き続き任務を続行せよ」

 

 

 

 バラライカの一言に遊撃隊は死体を数人で持ち、全員部屋から去っていく。

 唯一残ったボリスは、バラライカが葉巻を咥えたのを見計らいライターで火を点けた。

 

「フジサキ、か。ここで彼の名が出てくるとはな」

 

「ええ。それも、キキョウと関りがあるとは」

 

 煙を吐き出し、凛とした声音でボリスへ告げる。

 

「──軍曹、飛龍衆と藤崎仁の関係性を迅速に調べろ。この街の騒動と関係ないかもしれんが、何も知らないよりいくらかマシだろう」

 

「了解」

 

「必要となれば、私が彼とコンタクトを取る」

 

「は」

 

 上官からの指示を全うするべく、ボリスは颯爽と部屋を去っていく。

 ただ一人残されたバラライカは、再び写真へ目を映す。

 

 

 

 

 

「相変わらずいい瞳をしている。──それでこそ、私の友人よ」

 

 

 

 

 写真の中でこちらを見据える黒い瞳には光がある。

 今まで何度も見せつけられた、末恐ろしいほどの真っすぐさがまだ帯びている。

 

 

 

 ──彼女は()()()()()()()()

 

 

 自分を害する者に決して負けまいと、彼女に残った唯一の矜持が故の瞳。

 ここまで傷ついても尚変わらないことの喜びにも似た感情と、友人が痛めつけられている姿の不快感が混ざり合い、バラライカは複雑な笑みを浮かべる。

 

 

 

「……まあ、あの男は不快さの方が勝るかしらね」

 

 

 

 ()()()()()()()()の宛先である男がこれを見たらどんな顔を見せるのか、少しばかり興味をそそられた。

 



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6 虫食い跡

最終章、6話目です。



 春も終わりを告げ、夏に差し掛かろうとしている季節。

 薄桃色の花びらで埋め尽くされた道は元に戻り、人々は夏を迎える準備をしている。

 

 そんな四季がはっきりとしている国──日本。

 首都である東京に建つ大きな日本家屋の庭では、一人でひっそりと、池の傍らで座り込んでいる老人──藤崎 仁は餌を食べる鯉を見つめていた。

 

 彼の人生は苛烈そのものだが、そんな事を微塵も感じさせない穏やかな笑みを浮かべている。

 

「親父」

 

 仁を親父と呼び、近づくのは藤崎組若頭である佐伯。

 自身の右腕でもある佐伯の呼びかけに、仁は鯉を見つめたまま口を開く。

 

「どうした。茶でも淹れてくれるのか」

 

「勿論。ですがその前に、耳にお入れしたいことが」

 

 冗談に乗りつつも、いつもより固い声音を出す佐伯に、仁は黙って話の続きを待つ。

 

「近頃、縄張り(シマ)に出入りしてる中国系の奴らについて洗い出したところ、どうやら上海マフィア、飛龍(フェイ・ロン)衆の人間のようです」

 

「……飛龍衆か。懐かしい名だな。戻って来たところで、今や落ちぶれた組織が何かできるとは思えんが」

 

「現在目立った動きはありません。ですが、今後藤崎組(うち)に仕掛けてくるのは確実かと」

 

「懲りてないな、全く」

 

 仁はため息を吐き、数年前に行われた上海マフィアとの抗争を思い出していた。

 

 かつて、飛龍衆は日本で多くの商売に手をつけていた。

 そのうちの一つの商売によって自身の縄張りは荒らされ、その上堅気にまで手を出されたとあっては最早潰す以外の選択肢はなく、一年と数か月の抗争を繰り広げた。

 

 藤崎組の抗争とある事件によって飛龍衆は政界からは切られ、裏社会からも追い出され、日本で動くことさえままならず自分たちの故郷に帰っていた。

 

「特に懸念することもないだろうが念のためだ。飛龍衆の目的を洗っておけ」

 

「……親父、そのことについてなのですが」

 

「なんだ」

 

「先程、その……」

 

 普段は確然たる姿勢で喋る男が歯切れは悪く、言葉を選んでいる。

 若頭の珍しい様子に仁は振り返り、顔を見やる。

 

「どうした、お前らしくもない」

 

「──失礼しました。実は、ホテル・モスクワのバラライカから連絡がありまして」

 

「……あのお嬢さんか。なぜ」

 

 唐突に出された名前に、流石の仁も驚きの表情を見せた。

 

「どうやら、ロアナプラでも飛龍衆が動いてるようで」

 

「それが何でこっちに関わって来る」

 

「……」

 

 仁の問いに、佐伯は口を噤む。

 言うのを躊躇う佐伯に、すぐさま声を低くし催促する。

 

「はっきり言え、佐伯」

 

 親父の命令は絶対。やくざ者であれば誰もが身に染みている掟。

 佐伯は意を決し、仁の顔を見据えたまま静かに告げる。

 

 

 

 

 

「──キキョウ……李緒さんが、飛龍衆に捕らえられたそうです。バラライカから、彼女についての情報提供を求められています」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 ──路南浦停泊所の桟橋の上で、バラライカは紫煙を燻らしていた。

 ただ静かに、太陽の光によって輝きを放ちながら波打つ穏やかな海を見つめている。

 

 彼女がここにいる理由は、そんな街の喧噪を忘れてしまいそうな絶景を眺めるためではない。

 

「待たせちまったか」

 

 背中越しに聞こえてきたのは、最も事態の収束を望んでいるであろう男の声。

 普段と変わらぬ悠然とした声音にバラライカは煙草を落とし、足で踏み潰す。

 

「そうでもないわよ。時間厳守が美徳なのは変わらないみたいね」

 

「あんたとの会合は最優先すべき事柄だ。そりゃ何が何でも駆けつけるさ」

 

「どうだか。貴方が今でも駆けつけたい相手は別にいるんじゃなくて?」

 

「……」

 

 言葉を交わす間、二人の距離は段々と縮まっていく。

 やがてバラライカの隣に並んだ張は、彼女の最後の言葉には沈黙を貫き、懐から煙草を取り出し火を点ける。

 

 軽い冗談さえ今は乗る気がない様子の彼に、バラライカは微かに上がっていた口端を下げた。

 

「──最近うろついてる鼠の群れの正体が分かったわ」

 

 本題の切り口を告げると、新しい煙草を口に咥え、深紅に塗られた唇から煙をゆっくり吐く。

 

「飛龍衆。貴方は聞いたことあるんじゃないかしら」

 

「……ああ、ちんけな上海マフィアだろう。大分前に三合会(うち)と一回かち合ったこともある。そんな落ちぶれた奴らがなぜここに」

 

「奴らの目的は二つ。──一つはこの街の利権。矮小な組織が考えることは世界共通みたいね」

 

「全くだ、面白味の欠片もない。で、もう一つは」

 

 一切の感情が乗っていない声音での催促に、バラライカは一つ間を置いて続ける。

 

「二つ目は、あるヤクザへの手土産調達」

 

「手土産?」

 

 怪訝な声音を出す張へ視線を向け、長くなった灰を地面へ落とし「少し長い話になるわ」と静かに語り始めた。

 

「十年以上前、飛龍衆は日本で過激な舞台を催していたらしい。金持ちの道楽の道具として仕入れた堅気は数知れず。裏社会だけでなく、政界の人間も何人か関わっていた。その内の一人の政治家がより多くの利益を得る代わりに、飛龍衆の幹部に自身の一人娘を差し出す予定だった。──が、それは政治家が起こしたある事件によって白紙になった」

 

 話の続きを促すように、張は無言でバラライカを見据えた。

 期待に反することなく、すぐさま続きを口にする。

 

「妻を殺したのよ。事件自体は大したものじゃなかったけど、その政治家は表でも影響力がありすぎた。数多くの政界の人間が海外マフィアと関わっていたなんて、あまりにも不利益な事実。日本政府は飛龍衆と政界の繋がりが表に漏れることを恐れ、その事件を材料に政治家を政界から切り、当時飛龍衆を潰そうと動いていた極道と手を組み、飛龍衆の存在を闇に葬った。主な資金源だった日本での商売を失った奴らは順調に落ちぶれていった。──と、ここまでは前置き」

 

「……」

 

「飛龍衆に引き渡すはずだった政治家の娘はヤクザの友人の家族だった。その時娘には友人しか家族がおらず、その友人さえも死に一人となった時。再び娘を材料に権力を手にしようとしたらしい。だが、それも失敗に終わる」

 

「また例のヤクザが活躍するのか」

 

「今回彼の出番は少し遅かった。──今度は娘が父親を殺したのよ。色々酷い仕打ちもされたみたいだから、因果応報ってやつかしらね」

 

「……」

 

「犯罪者となった娘を気にかけていた例のヤクザは、日本からこの街へ娘を逃がした」

 

「……」

 

「そしてその情報は、何故か着飾り野郎の亡霊の手に渡った」

 

 張はそこでようやく話の繋がりを理解する。

 煙草を地面に落とし、一つ間を空けバラライカは続ける。

 

「亡霊から情報を聞いた飛龍衆の幹部──現ボスである(ハオ)は、ヤクザへの復讐のためその娘を利用しようと考え、この街に鼠を放った」

 

 

 

 

 バラライカの話に耳を傾けながら、張は咥えていた煙草を手に取り、ため息と共に煙を吐く。

 

 

 

「手土産が誰かなんて、聞くまでもねえな」

 

「ヤクザと貴方が同時に釣れる餌なんてあの子だけ。まあ、上手くかかるかは別だけど」

 

 呆れたような表情を浮かべ、心底つまらなさそうに言葉を続ける。

 

「亡霊から、娘の価値はこの街でも発揮されると吹き込まれたそうよ。──仮にもこの街で一番広い縄張りを持ってる貴方のお気に入りを攫えば、いずれ隙ができるはずだとね」

 

 

 放たれた内容に、張は片眉をぴく、と上げる。

 

 

「初めは三合会の縄張りだけ荒らし、丸め込もうとする計画だった。ただ、そうなるとホテル・モスクワ(うち)やコーサ・ノストラも少し邪魔。だから三合会だけでなく街全体にヤクをばら撒き、乗り込む算段をつけてたみたいね」

 

 バラライカの話に耳を傾けながら、張は咥えていた煙草を手に取り、ため息と共に煙を吐く。

 

 

 

「──バラライカ、今の話はどこから聞いた。アイツの情報は死んだということ以外手にできなかったはずだ」

 

 

 素直な疑問をバラライカへ投げかける。

 語られた話はこれまでホテル・モスクワや三合会のコネクションでさえ得られなかった情報。

 

 たった一人の女について分かっていたのは、ある洋裁屋から辿ってようやく知れる程度の僅かな経歴。そして、既に死んだとされていることだけ。

 肝心の本名、詳細な経歴、顔写真さえ知ることができなかった。

 

 まるで、国そのものが彼女の存在を隠しているかのように。

 

 何故そんなものを目の前の女が語れたのか、張が疑問に思うのは当然だった。

 

「例のヤクザとちょっとした縁があってね。中々首を縦に振ってくれなかったけど、なんとか彼の協力を取り付けた。おかげで、やっとあの子の資料を手に入れられた」

 

 そう言って書類の入った封筒を張へと手渡す。

 書類を取り出し、静かに読み始める張を横目に言葉を続ける。

 

「あの子の個人情報はトップシークレットとも言える扱いだった。政界の汚職が絡んでた上に、例の政治家はいずれ日本にトップになるはずの男だったのもあったから念には念をってことなんでしょう。道理で調べがつかないはずだわ」

 

 

 

 ふと、バラライカはいつか聞いた彼女の言葉を思い出していた。

 

 

 

 

『──私はただ、一人の男を最後まで否定しただけですよ』

 

 

 

 かつて放った「なにをしでかしたのか」という問いに返って来た一言。

 その男が、彼女がこの街に流れてきた理由だと薄々感づいていたが、まさか政界の中心人物とは思っていなかった。

 

 彼女の全ての不幸の元凶は自身の父親。

 日本で自ら絶ったはずの男との因縁が、海と年月を隔てても尚彼女を縛り続けている。

 

 ここまで不運なことは中々ないだろう。

 今もどこかで亡霊に弄ばれているであろう彼女に、バラライカは哀れみを感じざるを得なかった。

 

「アイツの巻き込まれ体質は生まれつきだったか。ここまでくると同情を覚える」

 

 資料に目を通し終えた張は、煙草を地面に落とし踏み潰す。

 バラライカは淡々とした声音での呟きに胸の内で同意し、渡すべきか今の今まで迷っていた彼宛ての手紙を、意を決し胸ポケットから取り出す。

 

「勝手に中身見ちゃったけど、ついでにこれも渡しておくわね」

 

「…………亡霊からの手紙か」

 

「ええ。もしかして、既に受け取ってたかしら?」

 

「ご丁寧に死体のおまけでついてたよ」

 

「あらそう。なら、これはいらないかしら? 貴方宛てだから渡した方がいいと思ったけど」

 

 眉間に皺を寄せ、差し出された白い封筒をサングラス越しに睨む。

 少しの間の後、徐に受け取り中の写真を目に映すと「はっ」と嘲笑する。

 

「センスがねえな。少しは趣向を変えりゃいいものを」

 

「……へえ、意外と冷静ね。もう少し苛立つものと思ったけど」

 

「まあ、つまらんもんに巻き込まれた苛立ちはあるがな。それよりも、こんな形でアイツの本名を知っちまった方がショックだね」

 

「あら、なぜ?」

 

 

 

 

 張は写真をポケットにしまい、サングラスのズレを直す。

 

 

 

 

「アイツの口から直接聞きたかった。なに、男のつまらない願望さ」

 

 

 

 

 わざとらしく肩を竦めて見せる張に、バラライカは思わずくす、と微かに口端を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 一体、どれほどの時間が経っただろうか。

 時間の感覚が奪われてしまい、何日ここにいるのかも、今が昼なのか夜なのかも分からない。

 

 これまで何度も気絶してはその度に起こされ、あの男にされるがまま身体を傷つけられた。

 シャツは裂かれ、露になっている胸元には煙草を押し付けられて出来た火傷痕が広がり、鼻から垂れた血は口元にまでこびりつき、右腕は骨を折られ歪んだ形で鎖に繋がれている。

 失血死しないよう考慮しているのか、鼻以外から血はそこまで出ていないものの、最早痛みの感覚さえなく身体を動かすことはできない。

 

 煙草を押し付けられ、腕は折られ、逃げることは叶わない。

 

 一人の男からもたらされた今の状況に、まるで昔に戻ったようだと自嘲する。

 

 だが昔と違うのは、心はまだ相手への恐怖に染まり切っていないこと。

 この場で私ができるのはあの男に屈しないことだけ。

 その意地が、私をまだ絶望の淵に立たせていない。

 

 ふと、たった一つのドアがゆっくりと開かれる。

 閉まる音の後にカツカツ、と革靴がコンクリートの床を踏む音が続く。

 

 やがて足音が止まると同時に、だらんと首を下げたままの状態の視界に黒い革靴の爪先が映る。

 

 

  

「おはよう、よく眠れたかな」

 

 

 

 最早聞きなれてしまった声に、何とか顔を上げる。

 

「本当なら交代で痛めつけてもいいんだがな。だが、俺も彼らも君ばかりに時間を割けられないんでね。君も休憩ができて嬉しいだろ?」

 

「…………相変わらず、口が減らない男だな。毎回、面白くないことを言って、楽しいのか?」

 

 にやついている顔が目に入り、途切れ途切れになりながらも呆れを隠さず掠れた声で呟く。

 

 瞬間、左頬に衝撃と痛みが走る。

 

 殴られたのだろう。もうこの痛さにも慣れてしまった。

 

 

「こんな惨めな姿になっても、まだ死なねえのか」

 

 

 苛立ったような声に「生かしたまま連れて行くんじゃないのか」と敢えて的外れな言葉を放つ。

 「チッ」と大きく舌打ちした後、髪の毛を掴まれ強引に目を合わせられる。

 

 殺気を含んだ視線に負けまいと、相手の瞳をしっかり見据えた。

 

 

 

 

 

 

「──その瞳だよ、俺が何よりもムカつくのは」

 

 

 

 

 

 

 ヴェスティは小さく呟くと、苛立ちを露にしたまま顔を更に近づけた。

 

 

 

 

「利き腕も折った、背中と同じ痕を体中につけてもやった。なのに、なんでまだその瞳は死なねえ。何もできない愚図のくせに、いっちょ前に意地は張るってか?」

 

 

 

 

 

 ハッ、と鼻で笑うと、今度は嘲笑したような表情を浮かべ言葉を続ける。

 

 

 

 

 

「本当に哀れで馬鹿で間抜けで、意地を張ることしか能のない愚かな女だ。こんな様じゃ洋裁屋どころか女としての価値もない。多少その外見のおかげで上手く生きてきたんだろうが、最早それもできなくなった。──張はただの女が自分に歯向かったっていう物珍しさだけでお前を生かし、ついでにタダでヤれる女として都合よく抱いてたに過ぎない」

 

「……」

 

「こうしてみると、つくづく糞みたいな人生だな。何の価値もないのに無駄に生き延びて、他人の都合のいいように利用される。家畜の方がいくらかマシだろうに」

 

「……」

 

「お前、本当に張が自分に惚れてると思ってたのか? だとしたら、お前は救いようのない脳みそを」

 

「は……はは……ッ」

 

 ヴェスティが喋っている途中で思わず笑ってしまった。

 私の笑い声に、ようやくうるさい口が止まる。

 

 何故笑ったのかと言わんばかりの視線に、今度は自身の口を開く。

 

 

 

「私を罵倒するのに……そこまで必死にならなくても、いいだろうに」

 

「……あ?」

 

「嫌いな相手に、無駄な口を叩いて……ちょっかいだして……大の大人が……」

 

 

 

 本当なら大笑いしたいところだが、今の気力では僅かしか口端を上げられない。

 髪を掴む手に更に力が入るのを感じつつ、言葉を続ける。

 

 

 

 

「確かに、私、は……愚かな女だ……何もないのに、高望みしてきた……それは事実」

 

 

 

 ヴェスティの言う通り、あの人が私に惚れるなんてあり得ない。

 その上、こんな傷ついた体ではもう彼と夜を共に過ごすことさえできないだろう。

 彼の隣に立ちたいなんて、最早心の中で口にするのもおこがましい。

 

 

 

 

 ──ただ、どんなに惨めな姿になっても尚、私はこの男に屈しなかったという事実を彼に知ってほしい。

 そして、爽やかささえ感じるあの飄々とした笑みで「お前らしい」と言ってくれたらいいなと、こんな時でも思ってしまう。

 

 

 

 こういうところが、きっと私の愚かさなのだろう。

 

 

 

「だがお前は……そんな愚図で、馬鹿な女への嫌がらせのために、何年も無駄にしたことを、分かってない」

 

「……なんだと」

 

「復讐なんて、言葉を使うには……あまりにも、お前の行動は……子供じみている」

 

 たった一つの小さな望みが。あの人の存在が、私を私でいさせてくれている。

 微かに上げた口端を保ったまま、怒りの表情に満ちた顔を見据えたまま告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に哀れなのは、一体どっちだろうな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の精一杯の嫌味は、目の前の子供を怒り狂わせるには十分だった。

 

 

 

 

 ──そこから先は、ただひたすら自分の血の味ともたらされる痛みを感じることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──うーん」

 

 ラグーン商会事務所のソファで、ロックは写真を片手に唸っていた。

 彼の目に映っているのは、写真の裏に記された一言。

 

「ロック。ずっと写真と睨めっこしてるが、何が引っかかってる」

 

「いや、この一文がどうしても気になってさ」

 

 愛銃を磨きながら、レヴィは小一時間ほど唸っている相棒に堪らず声を掛けた。

 言葉を短くかわした後も、ロックはぶつぶつと呟きながら思考を巡らしている。

 

Where the holy Hannah rests in the sea hangs.(海に眠る聖なるハンナが吊られし場所)。絶対何か意味があるはずだ」

 

 わざわざ張へ宛てた手紙に記したということは、必ず何か意図があるとロックは確信していた。

 顎に手を添え、眉間に皺を寄せる。

 

「この書き方からして、場所を示してるのは確かだ。だけど、『海に眠る聖なるハンナ』っていうのが分からない。一体何のことを言ってるんだ……」

 

 前回の事件をなぞって今回の騒動は起きている。

 なら、五年前と何かしら関りがあるのだろうか。

 

 心の中でも呟きながら、今度は騒動の元となった前回の事件の流れを改めて思い返す。

 

 

 

「キキョウさんを手に入れようとしたのが発端……そこから街で騒ぎを起こし、仲間を差し出した……その後は……」

 

 

 

 ふと、ロックの口が止まる。

 彼の頭の中に浮かんでいるのは、ラグーン号でキキョウから語られたある女の子の話。

 

『犯人があの男だって張さん達が気づいたのは女の子がきっかけで、自分の犯行だとバレた原因であるその子を腹いせで殺したの』

 

 自分が原因で殺されたと、自嘲したかのような微かな笑みを浮かべて話してくれた。

 誰もその女の子について触れていなかったから、気づくのに時間がかかってしまった。

 

 微かな希望を抱き、当時の事を知っている目の前の彼女へ顔を向ける。

 

「レヴィ」

 

「あ?」

 

「キキョウさん、確か仲良かった娼婦の墓参りに毎年行ってるんだよな」

 

「ああ、それがどうした」

 

「その子の名前、分かるか」

 

 真っすぐな視線を向けられ、唐突の質問に訳が分からないままレヴィは答えを口にする。

 

「──アンナだ」

 

 瞬間、ロックの中ではピースが全て嵌ったような感覚が巡る。

 目を見開き、再び写真に記された一文へ視線を向けた。

 

「そうか……そういうことか」

 

 納得したような声音で呟いた後、ロックは勢いよく立ち上がった。

 

「お、おいロック?」

 

 手紙と携帯を手に取り、困惑顔を浮かべているレヴィへ声を掛ける。

 

「レヴィ、少し出かけよう。確かめたいことがある」

 

「……急にどうした」

 

 戸惑いながら愛銃をホルスターに収めつつ、スタスタと出入口のドアへ歩くロックへ問いかけた。

 ドアノブに手をかけ、レヴィへ視線を向けながら告げる。

 

 

 

 

 

「彼女の居場所が分かったかもしれない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──『海に眠る』は文字通り。ハンナっていうのはヘブライ語で恩恵。これに『聖なる』がつくとなると、多分聖アンナのことだ。ハンナはギリシャ語だとアンナになる。そして、その聖人が吊られたっていうのは死を意味する」

 

 ラグーン商会事務所を出た後、ロックはすぐさま携帯を片手に車を走らせた。

 自身の推測を報せるべき相手である張は呼び出しにすぐさま応じ、ロックは焦りを少し滲ませた声音で語る。

 運転しながら繰り出される話を、レヴィは助手席で煙草を吸いながら耳を傾けている。

 

「つまり、あの一文の意味は『海で眠ってるアンナという女性が最期に殺された場所』になります」

 

『だがあそこは何年も使われてない。人が出入りした形跡はなかったが』

 

「古い倉庫となれば自然と調べも甘くなる。恐らくそこを突かれたのかもしれない。相手は街中にある監視カメラを潜り抜けるほど狡猾だ。そんな人間にとって形跡を残さず、倉庫の部屋を隠すことは容易い」

 

『……わざわざあんな古倉庫に、か』

 

 張が呟いた後、トントン、と机を指で叩く音が聞こえてくる。

 ロックは息を小さく吐き、レヴィが無言で指差す方向へ車を走らせる。

 

「亡霊はヴェスティが起こした騒動をここまで模倣した人間だ。なら、ヴェスティが貴方たちに捕らえられた原因であり、キキョウさんの友人だった女の子が殺された場所を使うのは不思議じゃない。亡霊が彼女に拘っているなら尚更だ」

 

『……』

 

 ロックはハンドルを握る力を強めながら、一つ間を空けて言葉を続ける。

 

「彼女がいなくなってもう五日だ。あの写真の様子じゃ、生かされてるとしても五体満足無事なわけがない。今、どんな姿になっているか想像もできない」

 

『想像したくない、の間違いじゃないか?』

 

「それは貴方も同じでしょう」

 

 

 淡々と言葉を返し、ハンドルを握り直す。

 

 

『奴の悪ふざけ、という可能性もある』

 

「だとしても、確かめない訳にはいかない。今その古倉庫にレヴィと向かってます」

 

『仮にあそこが当たりだとして、どうやって俺に知らせる。そうなったら悠長に電話できる暇はないかもしれん』

 

「現場に着きそうになったらかけ直します。そのまま繋いでおいて、外れなら俺から切ります。当たりなら、中継を聞いて貴方自身がどう動くか判断すればいい」

 

『なるほどな』

 

 張から納得したような声音が発せられる。

 レヴィが再び無言で差す方向へハンドルを切った。

 

『これで当たりだったら、お前にはボーナスもつけてやらねえとな』

 

「ご自由にどうぞ。じゃあ、また後で」

 

 少しの冗談を最後に二人の会話は終わる。

 携帯をポケットに入れ、両手でハンドルを握り「次はどっちだ」と指示を仰ぐ。

 

「そのまま真っすぐだ」

 

「分かった」

 

 淡々とした指示に素直に頷き、アクセルを深く踏みスピードを上げた。

 

 







皆さま、いつも読んでいただきありがとうございます。
今回はキキョウさんの過去について伏線を回収するお話になりました。

そして、いよいよ次は「ロアナプラにてドレスコード……」の終幕への大きな一歩を踏み出す内容になります。
まだもう少し続きますが、引き続き見ていただけたら嬉しいです。


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7 もがれた花弁

最終章、7話目です。

※注意※
キキョウさんがとても酷いことになってます。
心の準備を……。


 かつてロアナプラは土地の場所故に、黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)から運ばれる麻薬の密売所としても有名な港町であった。

 数多くの麻薬が集った時代の名残からか、今や誰からも使われていない無人倉庫もいくつか存在する。

 

 その内の一つである、街の端に位置する大型の無人倉庫。

 

 ロックは倉庫の入り口が見えてきた位置で車を停め、約束通り張の番号へ再びかける。

 短く「着きました。通話はそのままで」と放った後、ポケットに携帯を入れた。

 

 レヴィと同時に車を降り、いつもよりやや早い歩調で倉庫の道を進む。

 やがて、錆びた扉の前に立つと、レヴィは無言でソード・カトラスをホルスターから抜いた。

 

「静かすぎるな。()()()()()()

 

「ああ、見張りが一人もいねえ。──妙な空気だ。鍵もかかってねえ」

 

「ここが当たりなら、罠かもな」

 

「引き返すか?」

 

「いや、このまま行く」

 

 

 ロックは一歩前へ踏み出すと、後ろで二挺拳銃を構えている相棒へ声を掛ける。

 

 

「行こう、レヴィ」

 

「オーライ」

 

 一つ間を空け、ロックは入り口である引き戸の取っ手を両手で力強く開けていく。

 錆びた鉄と鉄の音が鳴り響き、やがてひと一人入れる隙間ができる。

 

 ロックが引き戸から手を離した瞬間、レヴィが戸に背をつけ、隙間から中の様子を見る。

 数秒後、勢いよく中へと入り、銃口を自分の視線の先へ向けた。

 

 しん、と静まり返る空間の中、レヴィは銃を構えたまま静かに歩き出す。

 彼女の足が動いたのを目にし、ロックも倉庫の中へ足を踏み入れる。

 

 ── 一見、ただの古びた倉庫。

 中央にぶら下がるチェーンブロックは錆びており、その真下には乾いて黒くなった血がコンクリートにこびりついている。

 

 人の気配はなく、静寂が二人を包み込む。

 

「普通ならここで撃たれてもおかしくねえが……嫌な気配は変わらねえな」

 

「俺にも分かるよ。やっぱり妙だ」

 

「気抜くなよ、ロック。相手は銃じゃなくヤクで勝負を仕掛けてきた野郎だ。アタシでもアンタを守れるか分からねえ。何があっても自分の命優先にしろ、いいな」

 

「ああ」

 

 強張った表情のまま、二人は徐に足を動かした。

 ロックは彼女の居場所の手掛かりを探そうと、倉庫の奥で積まれている廃材の山へと近づく。

 レヴィは銃を下ろし、彼の後ろを無言で着いて行く。

 

 木材や瓦礫を所々触れていき、細かいところまで確認していく。

 

 やがて、薄汚れているビニールシートが被せられている箇所へたどり着く。

 

 勢いよくシートを剥がすと、鉄骨と木材、煉瓦が転がっているのみだった。

 例外なく廃材へ手を伸ばし、懸命に手掛かりを探っていく。

 

 

 やがて壁際で積み上がっている鉄骨に触れた途端、ロックの手が止まる。

 

 

「……これは」

 

 ロックが感じたのは、鉄特有の冷たさではなくペンキで塗装された木材の感触。

 鉄骨ではないそれを調べようと、一番上にあるものへ手を伸ばし動かした瞬間、下に積まれているものも全て繋がっているかのように、同じように動く。

 

 

 

 ──積まれたかに見える鉄骨ではないそれは、一つの大きな壁となっていた。

 

 

 

「……」

 

 

 

 そのことに気づいたロックは勢いよく木製の鉄骨の壁を前へ倒す。

 

 ガタン、と大きな音と共に現れたのは、一つの灰色のドア。

 即座に二人の間には最大の緊張感が走る。

 

「レヴィ」

 

「ここまでご丁寧に隠してたってことは、十中八九そうだろうな」

 

 レヴィは咥えていた煙草を吐き捨て、ソード・カトラスを握り直す。

 眉間に皺を寄せ、ドアノブに手をかけようか迷っているロックへ煙草を踏み潰しながら声を掛ける。

 

「ロック、そのドアを開けるのは応援が来てからの方がいい。大事に取っておいた餌を亡霊がいつまでも放置するはずがねえ」

 

「……」

 

「にも関わらず、まだ現れねえってことはアタイらをその中へ誘い込もうとしてるか、入った瞬間殺そうとしてるかだ。運よく本当にいなかったとしても、こんな不気味な事に突っ込むには無謀すぎる」

 

「でも……」

 

「キキョウを助けたいのはアタシも一緒さ。だが、張の旦那が来るまでここは大人しく」

 

「帰るのか? 寂しいねえ、折角の客人をもてなそうと思ったんだが」

 

 

 

 渋い顔のロックへ提案するレヴィの声を遮ったのは、二人の背後から届く男の声。

 

 

 

 瞬間、レヴィは鋭い視線と銃口を声の主へ向ける。

 

 

 ロックも同時に同じ方向へ視線を動かすと、目に映ったのは整った黒髪に、黒いロングコートを身に着けている高身長の男。そして、その後ろで銃を構えている男二人。

 お互い銃の引き金(トリガー)を引くことはなく、牽制状態が続く。

 

 緊張感と殺気が漂う中、高身長の男はただ一人口端を上げ余裕の笑みを見せる。

 

「いやあ、まさか俺が少し留守してる間に客人が来るとはな。戸締りしてなかった俺も悪いが、勝手に入るのは行儀が悪いぞお二人さん」

 

「はっ、女一人こんなとこに閉じ込めていたぶってる悪趣味野郎がよく言うぜ。説教する前に、テメェの行動を見直しな」

 

「やれやれ、この街の女は何かと口が悪いな。可愛げの欠片もない」

 

「生憎、そういうのは昔から品切れでね。男に振りまく愛嬌なんざ娼婦だけに期待しな亡霊野郎」

 

 

 わざとらしく肩を竦める亡霊との会話にレヴィはただ冷たい声音で応じる。

 ここで引き金を引けば、ロックを逃がせる可能性が更に低くなってしまう。

 今も逃がせる確率は十分低いが、ここから更にゼロへ近づかせることは避けなければならない。

 

 相手の出方を探り、なんとか応援が来るまで持ち堪える。

 これが今できる最大の事だった。

 

 そんなレヴィの考えを知る由もなく、ロックは冷静を保ちつつ口を開く。

 

 

「あんたが、亡霊」

 

「君は以前この街にはいなかったな。──ヴェスティだ、名前だけでも覚えてくれよ」

 

「……この五日間、何度もその名前を聞いたんだ。嫌でも覚えたさ」

 

「そりゃ嬉しいね」

 

 

 殺伐とした会話の後、再び静寂が訪れる。

 殺気と緊張感が満ちている空間で、誰一人動こうとしない。

 

 やがて数分経った後、唐突に銃声が鳴り響く。

 ヴェスティの後ろで構えていた男の内一人がレヴィへと発砲したのだ。

 

 

 

「下がれロック!」

 

 

 

 弾丸が当たることはなく、レヴィは横へ走りながら指示を出し引き金を引く。

 武器を持っていないロックはいつものように鉄火場を彼女に任せ、隠されていたドアへと手を伸ばそうとした。

 

 だが、ドアノブに触れる前にその手は止まる。

 ──ロックの後頭部には、銃口が押し付けられていた。

 

 

「ロック! ……くそっ」

 

 

 男二人を相手にしているレヴィはロックの元へ駆けつけることはできない。

 彼女の助けは期待できないと判断し、後ろの男の出方を待つ。

 

「君たちは張の差し金だろ。俺を殺せと依頼が?」

 

「……俺達は殺し屋じゃない、ただの運び屋だ。アンタを狙ってるのはあくまでもマフィア達であって、俺達は別の目的があってここに来た」

 

 レヴィの銃口を避けて、大分距離があったはずの自身の元までやって来た。

 鉄火場から身を引く立場であっても、この男が相当の手練れであることは理解できる。

 

 だが、そんなすぐ殺せる立場だというのに悠長に話を切り出したということは、まだ自分が殺されるまでほんの少し猶予がある。

 この小さなチャンスを逃すまいと、慎重に言葉を交わす。

 

「別の、ねえ。てことは、あの女を助けに来たのか? たかが女一人のために運び屋を動かすとは。張もヤキが回ったな」

 

「確かに俺達は張さんから依頼された。でもそれだけじゃない」

 

「あ?」

 

 銃口を向けられている緊張感の中、冷静を保とうと小さく息を吐く。

 やがて、ゆっくりと顔をヴェスティへと向け、はっきり告げる。

 

 

「彼女にこのまま死なれちゃ困る理由が、俺達にはある。だからここに来た」

 

 

 

 ロックの言葉にヴェスティは目を見開いた後、薄い笑みから酷く冷めた表情へ変え「ああ、なるほど」と呟く。

 

 

 

「お前もあの女の毒牙にかかったクチか。全く、東洋人の好みはあれなのか? 一体、何がいいんだかなあ……理解に苦しむ」

 

 

 心底呆れたような声音を発し、ため息を吐く。

 ロックは眉間に皺を寄せ顔を見据えていると、ヴェスティは何か思いついたかのように今度はニヤリとした表情を浮かべる。

 

「まあ、そうだな。たった一人の女のためにここまで来た男の気概を無下にするのは、ちとあんまりかもな」

 

「え……?」

 

「見たところお前は丸腰だし、いいだろう」

 

 

 歪んだ笑みを浮かべながら愉しげに話すヴェスティに、ロックは背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。

 

 

 

「会わせてやるよ。あの腐った果実みたいな女に」

 

 

 

 放たれた一言に、今度はロックが目を見開いた。

 

 

 

 

 

「会いたいだろ、キキョウに。アイツはその扉の向こうだ」

 

 

 

 

 

 催促するように、銃口を更に押し付けられる。

 抵抗することを許されない空気の中、ロックは恐る恐る手を伸ばした。

 ドアノブを回し、ギギギ、と錆びた音を響かせながらゆっくりと押す。

 

 ドアが開かれロックの視界に映ったのは、真っ暗な空間に階段が下へと続いている光景。

 

 後ろで多くの銃声が響く中、「ロック!」と相棒の声が届く。

 

 

 

「さあ、どうぞ」

 

 

 

 唾を飲み込み、拳を強く握り、意を決して足を動かす。

 

 外の光のみが照らしている階段を、二人はゆっくりと降りていく。

 

 やがて階段の終わりと共に見えてきたのは、一つの錆びた灰色のドア。

 最後の一段を踏み、ドアの前でロックは足を止める。

 

「どうした、行かないのか?」

 

 躊躇っているロックを愉快そうに見ているヴェスティが声を掛ける。

 声音から愉しんでいることを察し、ロックは心の中で舌打ちしながら徐にドアを開ける。

 

 

 

 途端、ドアの向こうから血の匂いが混じった悪臭が一気に漂う。

 

 

 

 顔をしかめ、たった一つの電球が照らす部屋の中を見据える。

 

 

 

 

 

 すぐさまロックの視界に入ったのは──部屋の奥で両手足を鎖で縛られ、関節が複数あるかのように歪んだ右腕。露になった胸元に多くの火傷痕が刻まれたキキョウの姿。

 

 

 

 そんな変わり果てた彼女の姿に、ロックは考える間もなく飛び出した。

 

 

 

「キキョウさん!」 

 

 

 

 銃を突き付けられていたことなど忘れ、真っ先にキキョウの元へと駆け寄った。

 力なく下へ向いている顔を両手で上げると、気を失っているのか目は閉じており、鼻から垂れた血はこびりつき、頬が腫れている顔が目に入る。

 

 生気を感じない姿に、ロックの脳裏には“最悪の事態”がよぎり、焦燥な表情で必死に声を掛ける。

 

「キキョウさんッ!」

 

「……」

 

 

 目の前で呼びかけても反応しない。

 それでもロックは叫びにも似た声を出し続ける。

 

 

 

「キキョウさん! 俺です! ロックです!」

 

「……」

 

「目を開けてください! キキョウさん!」

 

 悲痛な声で叫ぶ運び屋を後ろで見ながらヴェスティは静かに銃を懐に収め、気づかれないようゆっくりとドアを閉め鍵をかける。

 

 そのことにロックは気づくことなく、震える両手でキキョウの両頬を包み、何度も彼女の名を呼ぶ。

 

「キキョウさん!」

 

「…………ろ……く……」

 

 彼の呼びかけが功を奏したのか、キキョウの瞼と口が微かに動く。

 掠れた声音で途切れ途切れだが、確かに自身の名を呼んだことに心底安堵する。

 

「キキョウさん、しっかり」

 

「な……で……」

 

「貴女を助けに来ました。レヴィも一緒です」

 

「…………に……な、さ……」

 

「喋らないで。今は生きることだけ考えてください」

 

 安堵したように微かに口端を上げ、乾いた血がこびりつきザラザラとした頬を両の親指で撫でる。

 やがてゆっくりとキキョウの顔を下ろすと、後ろを振り返りニヤニヤと笑みを浮かべている男へ怒りの表情と声を向けた。

 

「アンタ……なんで、こんな……!」

 

「落ち着けよ、何も殺す気はない。ただ、少し痛い目見てもらおうとしただけさ」

 

「少し……これのどこがッ」

 

「俺だってここまでするつもりはなかった。だが、こいつが無駄な意地を張って生意気な口を叩いた。圧倒的に自分が不利な状況でも尚、俺を苛立たせやがった。自業自得だ。──思えば、あのアンナって娼婦もそうだったな」

 

 

 ヴェスティはポケットからCamel(煙草)を取り出し火を点ける。

 息と共に煙を吐き出し、キキョウとロックを見据え語り始めた。

 

 

「世界でも特に腐った肥溜めのこの街で育ったメス豚のくせして、自分が一番良い女だと思い込んでた。そんな豚に誑かされた仲間も不甲斐ないが……何より男のナニを咥えてきたドブの匂いがする口であの方に生意気な言葉を吐きやがった」

 

 

 

 苛立った声音で発せられる、さっきまでの丁寧な口調とはかけ離れた酷い言葉の羅列にロックは眉間の皺を更に寄せる。

 

 

 

「自分が最高な女だと勘違いしてた娼婦如きがしゃしゃり出やがったから、あの方がわざわざ処刑する羽目になった。今思い出しても腹が立つ。──まあ、あれの最期がまさにメス豚らしく無様だったのが唯一笑える点だな」

 

 

 

 朧げな意識の中で聞かされる自身の親友の話に、キキョウは残った僅かな力で視線をヴェスティへと向ける。

 何か言いたげな瞳に見据えられていることに気づくと大きく舌打ちし、「その()をやめろ」と吐き捨てると、煙草を床へ落とし荒々しく踏み潰す。

 

 

 

「相変わらずムカつく女だ。──本当、なんであの方はお前に拘ったのか」

 

 

 

 酷く冷めた表情で呟き、新しい煙草を咥える。

 

 

 

「そうだ……お前如きの存在があの方を縛っていい訳がない。お前があの時黙って彼の言うことに従ってれば、あんなことにならなかったんだ」

 

 

 

 前髪を軽くかき上げながら、目の前で痛々しい姿で捕らえられている女を睨む視線には殺気が含まれていた。

 飄々とした態度しか見せなかった彼の鋭い眼光に、ロックは一瞬息を忘れた。

 

「マフィアってのは誇りだなんだと言っちゃいるが、所詮面子を気にしないと生きていけない無様な人種だ。……だが、あの方はそんなマフィアの中でも本当に素晴らしい人だった。人心掌握に長け、目的のためなら何だって利用し突き進み、欲しいものを余すことなく手に入れていた。傍から見りゃ、自分の思うがまま他人を利用しているだけのクズに映る。だがあの方を慕い傍に居た人間はマフィアも含め誰一人、彼をそんな風に思ったことはない」

 

 ライターを取り出し、煙草に火を点ける。

 昔を懐かしむかのように微かな笑みを浮かべ、顔を天井へ向けるとゆっくりと煙を吐く。

 

 ロックは唐突に始まった話に困惑するも、最大の緊張感が張り詰めている空間では彼の話を遮ることはできなかった。

 ただ背中に滲む汗を感じながら、目の前の男の話に耳を傾ける。

 

「俺はそんなあの方にすべてを教わった。麻薬の作り方、ルートの確保方法や捌き方、人を騙すためのコツ。そして、誰にも屈することない男の生き様を見せてくれた。そんな男の右腕として認められたのは俺の誇りだったし、これからもそう生きていくんだと思っていた」

 

「……」

 

「だが、五年前この女と出会ってから全てが狂った」

 

 

 一つ間を空けて放たれた声音はとてつもなく冷めたもの。

 ぐしゃ、と咥えていた煙草を握り潰し、再び鋭い視線をキキョウへと向ける。

 

 

 

「服を集めるのが趣味な彼は、この女を手に入れることしか考えなくなった。何度も“彼女の腕は素晴らしい”だの、“可愛くてものにしたい”だの聞かされたよ。そこまではいいんだ。彼のためなら、俺はなんだってやると決めていたからな。──問題なのは、こいつがあの方の誘いに首を縦に振らず、陥れたことだ」

 

 

 

 

 

 ぐしゃぐしゃになった煙草を床へ落とし、更に力強く踏み潰す。

 

 

 

 

 

「お前が素直にあの人と共に来れば、張にも遅れを取らず生き延びたはずだった。あの方は……ボスはとてつもなく頭がよくて、機転も利いて、それを一人で実行できる力があった。そんな人が、たかが香港マフィアごときにヘマするわけねえんだよ」

 

 

 

 

 男が語っているのは、かつてこの街でマフィア達を相手取った『クソ紳士』の話であることをロックは途中から気づいていた。

 そして、目の前の亡霊は誰よりもヴェスティに心酔していることも。

 

 ヴェスティを褒め称えたその姿は、悪徳宗教の洗脳に近いものをロックに感じさせた。

 

 

 

 

「だから、あの方が殺されたのはこの女のせいだ。全部、この女が言いなりにならなかったのが悪い」

 

 

 

 

 まるで子供のような言い分に、ロックは思わず顔を引きつらせる。

 

 それってただの逆恨みだろ、と喉まで出かかった言葉を何とか抑える。

 そもそも、当時は既に張との信用ができていたのだから、尚更彼女がクソ紳士の言いなりになるわけがないことは簡単に考え付く。

 

 ただ一人の男が勝手に暴走し、勝手に仲間を差し出して自滅への道を早め、マフィア達に制裁されただけの事。

 彼女に何の罪もない。

 

 ロックは怒りと同時に呆れさえ感じていた。

 

「俺はな、あの人が死んだ時からずっとこの女に復讐するためだけに生きてきた。この女が壊れるまで耐えがたい地獄を味わってもらう。悪趣味上海マフィアのボスに渡せばそれが叶う。今日がその日だ。──長かった俺の復讐も、ようやく終わる」

 

 

 

 酷く冷めた声と視線を二人へ浴びせ呟く。

 

 

 

 ──瞬間、ドアの向こうから多くの銃声と怒号が響き渡る。

 

 

 

「あー……やっぱこうなるか」

 

 

 ロックは驚きと困惑が混じった表情を滲ませる。

 ヴェスティは後ろのドアに顔を向けながら淡々と呟いた。

 

「まあそれは想定内だが、問題は向こうの数だな。相手は三合会かホテル・モスクワのどっちか……いや、あるいは両方か? となると、ちと苦労するかもな」

 

 はあ、とため息を吐く焦燥を感じさせないヴェスティにロックは恐る恐る声を掛ける。

 

「……こんなところで油売ってていいのか。仲間が戦ってるんだろ」

 

「おいおい、いくら好いた女と二人きりになりたいからってそう焦って追い出さなくてもいいだろ。まあ、もう少ししたら出て行ってやるからそれまで待てよ」

 

「もう少し?」

 

「この街に集まるのは飛龍衆の大半だ。百以上が相手なら元軍人どもや香港マフィアも少しは苦労するだろうが、退かせられるとは思っちゃいない。数こそ正義とは言うが、向こうも精鋭揃いらしいからな。真っ向勝負じゃ勝ち目は低いだろう。そこで、俺の商品が役に立つってわけだ」

 

 薄笑いを浮かべ、懐から透明な液体が入った一つの瓶と何かのスイッチらしき機械を取り出しこれ見よがしに見せる。

 

「この倉庫にいくつかこの薬が散布されるよう仕掛けをしていてね。これを吸えばたちまち末梢神経障害(ニューロパチー)を起こして、耐性がない奴は動けなくなる。本当はVERA(ベラ)を使いたかったんだが、あれは散布用じゃない上に仲間もろとも死なせるのはいただけないんでな」

 

「……あんたのお仲間だって、全員耐性があるわけじゃないだろ」

 

「まあな。だから作用しないようここへ来る前に別の薬を飲むよう指示してある。そこまで考えなしじゃないさ」

 

 

 

 ふと、ロックの中で一つの疑問が生じる。

 何故、彼は自身にここまで喋るのか。

 初対面、かつ自分の目的を阻害しようとしてる相手にここまで喋る理由はなんだ。

 

 

 不気味な状況に、ロックは意を決して口を開く。

 

 

「なんで、俺にここまで」

 

「話すのかって? ただの気まぐれさ。それに、もうすぐ死ぬ奴に喋ったって問題ないだろ」

 

「……」

 

「まさか、生きて帰れると思ってたのか? めでたい頭だ」

 

 嘲笑するように鼻で笑うと、瓶とスイッチをポケットに入れた。

 

 

「あー、そうだ。お前に一個聞きたいことあったんだ」

 

 

 

 思い出したように呟くと、キキョウに視線を向ける。

 

 

 

「その女のどこがいいんだ?」

 

「……」

 

「俺は全く魅力を感じないが、顔は多少整ってる上に胸もまあデカい。でもそれだけだろ? こいつは他人の力がなきゃ生きていけないくせに、媚びを売ることもできない無意味に生き意地張ってるだけの女だ。この街で今まで五体満足で生きてたのは奇跡に近い」

 

 

 ロックは拳を握りしめ、顔をしかめた。

 すぐさま汚いものを見るかのような視線から庇うように、キキョウの前へ立ちふさがる。

 

 目の前の男は、何人も惨い殺し方で葬って来た殺人鬼。

 だが一皮剥ければその正体は── 一人の男に依存し、その依存先がなくなった腹いせをたった一人の女性に向けただけの哀れな男。

 

 

 そう思えば、これまでよりも簡単に言葉を紡げられる気がした。

 

 

 

「確かに、この人は張さんの存在があるから助かってた部分もある。それは事実だ」

 

 

 

 ポケットに忍ばせている通話が繋がったままの携帯の存在に、ロックは一つの賭けをしていた。

 その賭けに勝つためには、時間を稼ぐことが必要不可欠。

 できるだけ相手の興味を自身の話にそそらせ、この場に留まらせるため言葉を続ける。

 

「でも、彼の存在をひけらかすだけじゃこの街で生きてはいけない。逆に、そんなことをすれば寿命をより短くする」

 

「……」

 

「なぜ彼女がずっと生き延びてきたのか。答えは単純だ」

 

 息を吸う。

 前からは冷たい視線、後ろではか細い呼吸を感じながらネクタイを少し緩める。

 

 

 

「この街の人間相手との駆け引きに勝ち続けてきた。彼女はただ自分の生き方を貫いた。銃を向けられようと、甘いと言われようと、誰が相手でも臆することなく自身の生き様を魅せ続けた」

 

 

 

 

『その生き方を貫きたいなら貫けばいい』と。『どうするかは自由だ』と、この街での生き方を示してくれた。

 

 

 

 彼女だからこそ、その言葉は誰よりも説得力があり、沁みた。

 

 

 

 

「それが、ロアナプラ(悪徳の都)で認められた洋裁屋キキョウだ。欲情するかどうかなんて、そんな陳腐なもので彼女を計ってる内は彼女の良さは分からない」

 

 

 

 

 きっと、彼女を心から憎んでいる男には一生分からないだろう。

 分かってもらおうとも思わない。

 

 

 

 ヴェスティは「はああああ」と盛大なため息を吐き、呆れたような表情を浮かべる。

 

 

 

「盲目だな、まさかそこまでとは。……そいつ、変なフェロモンでも出てんじゃねえか」

 

「俺がそれにあてられたと?」

 

「じゃなきゃ説明がつかねえよ」

 

 

 ヴェスティは煙草を取り出し火を点けると、再びため息を吐く。

 

 

 煙を吸おうとした途端、ドアを勢いよく叩く音が響く。

 すぐさまヴェスティがドア越しへ声を掛ける。

 

 

「どうした、用件ならそこで言え」

 

「上の騒ぎは聞こえてるだろ。こっちが若干押されてる。船も守っちゃいるがそろそろ限界だ。あれ作動させて早く女を連れてこい」

 

「おいおい、ちと早いぞ。もう少し踏ん張ってほしいんだが……相手はどれだ。状況が知りたい」

 

「倉庫内は三合会。外じゃロシアとイタリアが来てる」

 

「……コーサも来てんのか。まさかここで出張って来るとは予想外だったな。あのジョーズめ」

 

「なら早く」

 

「ああ、そうだな」

 

 飛龍衆であろう男と軽妙な会話をした後、ドアの鍵を開ける。

 頭に怪我を負っているのか、額から血を流した男が部屋に入ると、ヴェスティは煙草を捨てた。

 

「外に出たら作動させる。お前は女を」

 

 短く指示しながら、ロックとキキョウの方へと歩み出す。

 ロックは冷や汗をかきながら、すぐさま傍に置いてあった椅子を持ち警戒した姿勢を取る。

 

「それ以上来るな!」

 

 焦燥感に駆られながら叫ぶ。

 一体何やってるんだ。ここには来ないのか。

 心の中で悪態をつきながら、歩みを止めない男を睨む。

 

 

「騎士気取りか? 滑稽だな」

 

 

 ハッ、と鼻で笑うと、凄まじい速さで動き出す。

 暴力とは無縁な生活を送って来たロックは目で捕らえることができなかった。

 

 頬に入る拳を防ぐことはできず、唯一の武器でもあった椅子を手放し、呻き声を発しながら流れるままに倒れる。

 

「ろ……く……」

 

 キキョウは掠れた声で必死にロックの名を呼ぶ。

 強烈な衝撃を受けた後、ロックは即座に自身を見下げている男へ顔を向ける。

 

 途端、囚われている彼女へ近づく仲間の男が視界の端に映る。

 反射的に立ち上がろうとするロックの喉をヴェスティは足で押さえつけた。

 

「がっ……」

 

「往生際が悪いぞ。男なら潔く諦めろ」

 

 喉を押さえている足を両手で掴み、呻きながらも自身を見下げている男へ視線を向ける。

 ロックの抵抗をものともせず、ヴェスティは静かに銃を取り出した。

 

「ほんの少しだが話した間柄だ。お前は楽に殺してやるよ」

 

 淡々と告げながら仲間へ鍵を投げ渡し、銃の安全装置(セーフティ)を外す。

 ロックは歯を食いしばり、向けられている銃口を見る。

 

 

 

 ここで終わりかと、目を瞑る。

 

 

 

 ──瞬間、一つの銃声が鳴り響く。

 

 

 

 撃たれたはずなのに、痛みを感じない。

 

 

 

 不思議に思い、ロックは恐る恐る目を開けた。

 同時に、ドタ、と人が倒れる音が耳に入り、音の方向へ視線を向ける。

 

 目に入ったのは、キキョウの前で仲間の男が倒れている様。

 唐突の事に戸惑いながら、次はヴェスティへと視線を動かす。

 

 彼はロックではなく、釘付けになったように別の方へ顔を向けている。 

 

 

 

 

「相変わらず、女を口説くのは下手くそらしいな」

 

 

 

 

 彼の視線を辿ってみると、煙が出ている銃口を構え、粋が良すぎる恰好で告げる男が一人。

 

 

 

 

 

 

 

「よう、着飾り野郎」

 







いつも見てくださる方、ありがとうございます。
感想などいただく度、モチベーションに繋がっております。

最終章も佳境に入ってまいりました。
突っ走れるようほどほどに頑張ります。



お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、最後のセリフは序章でのシーンを意識してます。



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8  切実な願い

最終章、8話目です。


 ロックと亡霊が地下へ繋がるドアを潜った後も、レヴィは一人敵と対峙していた。

 相手は二人。張が言う、亡霊が連れてきた上海マフィアだろう。

 

 悪徳の都で二挺拳銃として名を馳せた彼女にとって、敵が複数いる場合の鉄火場など珍しくもない。

 男達はそれぞれ反対方向へ走りながら、レヴィへと銃口を向ける。

 彼女も軽やかな身のこなしで弾を避け、引き金を引く。

 

 まずは一人に的を絞り、神経を研ぎ澄ませる。

 こちらへ向かってくる一人の片足へ銃弾が命中すると同時に倒れ、手から銃を離した。

 

 今度は少し遠くで銃を構え発砲しようとしているもう一人へ二つの銃口を構え、集中を研ぎらせることなく弾を放つ。

 

 二つの銃声が鳴り響いた少しの間の後、眉間に風穴が空き、ゆっくりと後ろへ倒れた。

 

「チッ……」

 

 舌打ちし、空になった弾倉を入れ替える。

 一つ息を吐き、相棒の元へ急ごうと足を動かす。

 

 途端、外から近づいてくる雑音が耳に入り、レヴィの足が止まる。

 

 反射的に入口へと走り出し、外の音を拾うべく耳を澄ます。

 ──車のドアが閉まる音と同時に、何十人もの足音が聞こえてくる。

「旦那か」と、少しの期待に胸を膨らませる。

 

 

 だが、その期待はすぐさま砕かれた。

 

 

「たく、何手間取ってるんだかな。あの詐欺師は」

 

「最後にまた楽しんでるんじゃねえか。独り占めしてたって話だしよ」

 

「いいご身分だな、腹立つぜ」

 

 中国語とも広東語とも違う言語に、味方ではないことを悟る。

 足音からして十人やそこらの数ではない。

 

 流石のレヴィも、大人数相手では冷や汗をかかざるを得なかった。

 

「ちくしょう……あの亡霊野郎、ビビりやがって」

 

 亡霊は万全な準備を整え、街を騒がせた。

 こうなることも予想し動いていた用意周到さに悪態をつくしかなかった。

 

 夜なら奇襲がかけやすいが、生憎今は真昼間。

 身を隠す場所など無いに等しく、最早正面から迎えるしか選択肢が残されていない状況に、再び舌打ちする。

 

 この場をどう切り抜けるか。

 張が来るまで持ち堪えられるか。

 そもそも彼がここに現れるまでどれくらいなのか。

 

 ロックが東洋の神秘的な何かで亡霊を倒し、自分の元に戻って来ることは神のご加護がない限り絶対にない。

 味方が一人もいないレヴィにとって、この後来るであろう応援だけが頼みの綱だった。

 

 はあ、とため息を吐き、倉庫内を見渡す。

 目に映ったドアの近くのビニールシート。

 ひとまず隠れてぎりぎりまでやり過ごそうと考え、勢いよく駆け出す。

 

 雑にビニールシートを被り、うつ伏せになり、敵が現れるのを待つ。

 

 やがてギィ、と錆びた鉄が擦られる音が響き、何十人もの足音が近づく。

 

「誰もいねえじゃねえか。こんな人数割く必要あったか?」

 

「“ボスへの土産を確実に調達したいなら指示に従え”ってよ。あの野郎、この件が終わったら絶対殺してやる」

 

「やめとけ、ありゃボスのお気に入りだ。手出したら俺らが杭州湾の藻屑にされる」

 

「……チッ」

 

 舌打ちした男は、苛立ちを押さえることなく近くにあった木材を蹴る。

 蹴った木材が飛んだ先はレヴィのいるビニールシート。

 

 見事に真上へ飛んできた衝撃に、呻き声こそ上げなかったものの「絶対ェコロス」と心の中で殺意を高めていた。

 

 やがて段々と近づいてくる足音に、レヴィは更に息を潜め、ソード・カトラスを握り直す。

 

 せめて旦那が来るまで一人でも片付けねえと。

 小さく息を吐き、覚悟を決める。

 

 

「おい、やべえぞ! 表に奴らが──ッ」

 

 

 

 途端、後方──入り口から戸惑ったような言葉が飛んでくる。

 何事かと、その場にいた全員が視線を動かす中一つの銃声が鳴り、言葉を発した男は最後まで続けることなく床へ倒れていく。

 

 静けさが場に落ちる。一つ間を空けて、高らかな革靴の音が響く。

 それは、黒いロングコートを颯爽と翻し、カスタムされたベレッタM76二挺を手に現れた。

 

 

 

 

「これはこれは、盛大なパーティの途中だったようだな」

 

 

 

 

 三合会は金義潘の白紙扇──雅兄闊歩こと張 維新が凛然と発する。

 

 

 

「残念だが、この街じゃ諸君は招かれざる客だ。ここいらでお引き取り願おうか」

 

 

 彼の一言を聞き大勢が驚く中、レヴィは荒々しくビニールシートを払いのけ勢いよく飛び出すと、間髪入れず近くにいる敵へ発砲する。

 

「遅かったな旦那! 待ちくたびれたぜ!」

 

「よく堪えたな二挺拳銃」

 

 不敵な笑みを浮かべる二人が言葉を交わし、敵の二人がほぼ同時に倒れると同時に入り口が大きく開かれる。

 瞬時に、黒スーツに身を包んだ男たちが倉庫内へなだれ込む。

 

 踊るように次々と敵をなぎ倒していく張を筆頭に、彼の部下達も敵を屠っていく。

 飛龍衆も負けじと応戦し、倉庫内はたちまち怒号と喧噪で満ちる。

 

 レヴィも意気揚々と引き金を引く。

 やがて倉庫の中央まで来ていた張の元へ駆け寄り、即座に背中合わせとなる。

 

「旦那、キキョウはあのドアの先にいる。ロックと亡霊もそこに」

 

「ロック一人で行かせたのか。亡霊に魂をかすめ取られなきゃいいが」

 

「アイツだって鉄火場を何度か潜り抜けたんだ。そう早く死にゃしねえ」

 

「だといいがな」

 

 背中越しに言葉を交わしながら、眼前の敵へそれぞれ弾を的確に打ち込んでいく。

 

 四、五人ほど葬った後、張はサングラスに隠れた瞳で飛龍衆の一人が奥のドアへと駆け込む姿を捕らえる。

 二人は息を合わせ、同じ方向へと足早に向かっていく。

 

二挺拳銃(トゥーハンド)、こいつらはここにいる分だけじゃない。倉庫の周りだけじゃなく、近くの港にもうじゃうじゃいる。外はバラライカとロニーに任せちゃいるが、キキョウを外に出させたら連れ戻すのはちと厄介になる」

 

「姐御とロニーも来てんのか。連絡会がほぼ勢ぞろいなんて、随分手厚いお出迎えだな旦那」

 

「どいつも神経尖らせてたからな、当然っちゃ当然だ」

 

 歩みを進めながら、二人は向かってくる敵を難なく倒していく。

 やがて開かれている隠し通路の前まで来ると、レヴィは振り返り張の背中を守るように立ち塞がる。

 

「旦那は二人を。アタシはここを守る」

 

「ああ」

 

 短く言葉を交わし、張は躊躇うことなく暗闇へ足を踏み入れた。

 一挺を腰のホルスターへ戻しながら、暗い階段を降りていく。

 下へと行くにつれ、何やら響いている物音が近づく。

 

 程なくして、開かれたままのドアと同時に部屋の光景が目に入る。

 

 まず、先程自身より早く部屋へ入った男の眉間を撃ち抜いた。

 硝煙が漂う中、すぐさまもう一人の男へと銃口を向け、静かに告げる。

 

 

 

「相変わらず、女を口説くのは下手くそらしいな」

 

 

 

 サングラスの奥で、ちら、と鎖に繋がれている女へ視線を向けた。

 彼女の姿に、張はかつてある男と対峙した時の光景を思い起こしていた。

 

 あの時の彼女も酷い有様だったが、今はそれ以上に無残な姿となっている。

 最早生きているのかも怪しい。

 

 張はグリップを握る力を強めつつも、極めて冷静な態度を貫く。

 

 

 

「よう着飾り野郎」

 

 

 その一言を聞いた瞬間、ヴェスティはロックを押さえつけたまま銃口を張へと向ける。

 驚いた表情から一変、ニヤリと口元を歪める。

 

「……ちゃ……さ……」

 

「よう童顔野郎」

 

 張の登場にキキョウは僅かに顔を上げ、途切れ途切れに名を口にするもそれを遮るようにヴェスティが言葉を発する。

 すぐさま「はっ」と鼻で笑い、続いて口を開く。

 

「まさか、張 維新自らこんなとこにお出ましとはな。いくらお前でも、タダでヤれる女は手放したくないってか」

 

「……」

 

「この際だ、女を選び直したらどうだ。こいつのせいで街は荒らされて、お前たちマフィアが手を煩う羽目になった。こんな面倒な女、傍に置くのは損しかないぜ?」

 

「……」

 

「お前の事だ、こいつの過去も全部洗ったんだろ。なら、どれだけ厄介な女か理解したはずだ。そんな女のために命張る必要なんざどこにもない。俺が連れ出してやるから、銃下ろして仲間と一緒に家に──」

 

「よく喋るな。Out of the mouth comes evil.(口は禍の元)って言葉知らねえのか。馬鹿は死んでも治らないらしい」

 

「ほざくなよクソ野郎が」

 

「それはお互い様だ」

 

 お互い姿勢と表情を崩さず、ただ淡々と言葉を交わす。

 殺気と緊張感が包む中、張は一つため息を吐き、呆れたような表情を浮かべる。

 

「まったく、アイツの皮を被ってるってのによくあんなに陳腐な言葉を並べたもんだ。お前、本当にヴェスティの事知ってるのか?」

 

「あ?」

 

「あれはこの俺に対してでも紳士ぶった口調を変えなかった。そこだけは感心していたもんでな、よく覚えてるよ」

 

「……」

 

「仮にも最期まで紳士らしさを貫いた男の名を背負うには、些か感情のコントールができてなさすぎる。こんなガキに名前を使われるとは、ヴェスティもあの世で泣いてるだろうさ」

 

 

 ヴェスティの名前が出た瞬間、亡霊の顔から笑顔が消える。

 次第に眉根を寄せ、鋭い視線を張へと注ぐ。

 

 

「俺としちゃ白いベールを早く脱いでもらいたいんだが……まだその気になれないかな?」

 

「よく喋るのはどっちだよ。お前はお話に来たのか? 違うだ──ろッ!」

 

 言い終えるのと同時に、亡霊は足を掴んでる手をものともせず、ロックの顔を思いきり蹴り上げる。

 刹那、一瞬の隙も無く態勢を整え、勢いよく張の元へと走り出す。

 張も素早く引き金(トリガー)を引くも、あっという間に距離を詰められる。

 

 亡霊は張の銃を持っている手を掴み、強引に銃口を上へと逸らす。

 すぐさまもう片方の手で銃口を向けようとするも、張も亡霊と同じ行動を取り、お互い至近距離で睨み合う。

 

「間近で見るとより童顔が際立つなあ。サングラス似合ってねえぞベイブ」

 

「本当によく吠える野郎だ。そんなんじゃ、背格好は同じでもどんどん大好きなヴェスティからかけ離れていくぞ」

 

「お前がヴェスティの何を知ってるってんだ。知ったような口叩くんじゃねえ」

 

「少なくともお前より幾分かマシだった、てことだけは分かるな」

 

 両者とも笑みを浮かべながら罵り合い、掴む手は強い力が入っているからか震えている。

 そんな二人を、ロックは痛む顎をさすりながら起き上がり、眺めていた。

 

 何の武力もない自身が助けに入ったところで、張にとって邪魔でしかないだろう。

 文字通り眺めることしかできなかった。

 

 しばらく拮抗状態が続く中、先に動いたのは張だった。

 勢いよく亡霊の腹を蹴り、「ぐっ」と呻く声と共に二人の距離は離れる。

 

 蹴られた衝撃で亡霊の態勢が崩れると、ポケットからリモコンと小瓶が飛び出し床に落ちる。

 カラン、と音が響き、片膝をつき腹を押さえている亡霊とロックはほぼ同時に音の方へと視線を向けた。

 

 刹那、二人は同じタイミングで同じ方向へと駆け出す。

 その一瞬の隙を見て、張は銃口を亡霊へと向けた。

 

 小瓶とリモコンへ手を伸ばそうとしているロックへ亡霊が銃を向けた途端、一つの銃声がその場に鳴り響く。

 

 

 

 ──次の瞬間には、ロックへ向けられていた銃は床へと落ち、亡霊の手は血塗れとなっていた。

 

 

 

 唐突の衝撃に亡霊が目を見開いたそばから、再び銃声が轟く。

 ロックは亡霊に目もくれず、リモコンと小瓶を奪い取り瞬時にその場から離れた。

 

 右膝を撃ち抜かれ、床に手をついている亡霊に張は足早に近寄る。

 すぐ傍で立ち止まり、見下ろしたままもう片方の無傷な腕に二発撃ちこむ。

 

 肘に穴が空き、支える腕を失った体が床にゆっくりと打ち付けられる。

 やがて顔だけを動かし、自身を見下ろし銃を向けている張を睨む。

 

 

「まさか……こんな……こんなとこで……!」

 

「詰めが甘いんだ。お前も、ヴェスティも」

 

 

 苦虫を潰したような表情を浮かべる男へ、張は冷たい声音で淡々と呟いた。

 ロックは床に伏している亡霊の姿を眼に映し、一つ息を吐くと徐に張へと近づく。

 

「張さん」

 

「それは?」

 

「瓶は動きを鈍らせる薬物。これが倉庫中に眠ってるようです。こっちはそれを散布させるためのスイッチだと、こいつが」

 

「詐欺師の言う言葉だ、信用していいか分からんが……まあ、一応預かっておこうか」

 

 差し出した手に小瓶とリモコンが渡されると、流れるようにコートのポケットへと入れる。

 そして、ロックはすぐさま未だ鎖に繋がれているキキョウの元へと駆け出す。

 既に死体となっている男が手にしている鍵を取り、足の枷へ差し込む。

 

 がちゃん、という音と共に枷が外れる。

 次々に鍵を差し込んでいき、遂に最後の枷が外れる音が鳴る。

 

 ──最早、自力で立てる体力もないキキョウは、自身を支える枷が無くなり前へ倒れる。

 流れるようにロックが受け止め、態勢を整えるため床に膝をつき、キキョウを抱きかかえた。

 

 ボタンなどお構いなしにワイシャツを荒々しく脱ぎ、酷い根性焼きの跡が広がる胸元を隠すように体へかけた。

 浅い呼吸を繰り返すキキョウに、眉間に皺を寄せる。

 

「生きてるか」

 

「ええ。でもこのままじゃ……」

 

「裏に車を回してる。そこにダッチとリンがいるはずだ。レヴィと一緒に向かえ」

 

「はい」

 

 張からの指示を聞き、ロックは自身の腕の中にいる彼女の膝裏に腕を入れ、横抱きで抱える。

 すぐさま部屋を出ようと早足に、たが慎重にドアへと向かう。

 

 

 張の横を通ろうとした瞬間、ふとロックの足が止まる。

 

 

 

 

「──キキョウさん?」

 

 

 

 

 動けないはずのキキョウが張のストールへ手を伸ばし、握ったのだ。

 唐突の出来事に、ロック同様、張も驚いた表情を見せる。

 

 

「……ちゃ、さ……」

 

 

 か細い声で張の名を呼ぶ。

 僅かに開かれた瞼から覗く黒い瞳は焦点が合っていない。

 

「ちゃん……さ……」

 

「無理に喋るな。お前の事はロックが面倒みる」

 

 顔と銃口を亡霊へ向けたまま静かに言い放つ。

 それでも尚、キキョウの手は離れない。

 

「こ……どは……ちゃ……と……」

 

 何かを伝えようとするキキョウに、今度は口を挟むことはなかった。

 途切れ途切れに放たれる言葉の続きを、二人は静かに待つ。

 

 

「ちゃ……と、あい……を……こ……て、くだ……」

 

 

 彼女が言わんとしている言葉を理解し、一瞬片眉を上げる。

 顔の向きはそのままに視線を動かし、空いた手でキキョウの頬へと手を伸ばす。

 

 

 

 

「ちゃんと殺してやるから安心しろ。今は何も考えるな」

 

 

 

 

 ほんの少し柔らかい声音で放ち、いつもの傷一つなく、滑らかなものとは程遠いざらついた肌を撫でた。

 その言葉を聞き、キキョウは微かに口端を上げる。

 やがて力尽きたかのように瞼を閉じ、ストールから手が離れた。

 

 

「後は頼むぞ」

 

「はい」

 

「まて……くそッ……! その女だけは俺が……!」

 

 部屋を立ち去ろうとするロックの背中に、亡霊は床に這いつくばりながら苦し紛れに言葉を発する。

 だが、ロックは立ち止まることなくそのままドアを潜り階段を上っていく。

 

 キキョウとロックの姿が見えなくなっても尚、張は亡霊から銃口を向け続けていた。

 

「俺が……! どれだけの時間をかけて、ここまで来たと……思ってる!」

 

「んなもん知るか」

 

「クソ……クソッ……!」

 

 亡霊は痛みと怒りから表情を歪ませ、張を睨む。

 少しの間の後、床についている顔は段々と不気味な笑みへ変わる。

 

「お前……あの女を救ったところで、何かあると思ってんのか?」

 

「……」

 

「あの腕の有様見たろ。ありゃ……もう使い物にならねえぞ」

 

 ニヤニヤと下劣な笑みを浮かべる亡霊に、張は酷く冷めた表情と視線を向ける。

 

「体中に一生残る痕もつけてやった……あのロシア女みたいな、醜い体にしてやった」

 

「……」

 

「女としても、職人としても……最早何の価値もねえ。その上、日本政府の厄介ごとに巻き込まれたクソ面倒な人間だ。お前はアイツを、少し特別扱いしてたみたいだが……その特別待遇するには、アイツにゃ何も残ってなさすぎる」

 

「……」

 

「お前らマフィアは……利益がない人間を好まない」

 

「……」

 

「そんなお前が、あんな生きてるだけ損しかない女を今後どう扱うか……見ものだな」

 

 最後の悪あがきなのか、亡霊はわざと挑発するような言葉を吐く。

 特に言い返すわけでもなく、張は一切表情を変えずただ黙って聞いていた。

 

 やがて静かに一つ息を吐き、ゆっくりと口を開く。

 

「生きてるだけ損、か。確かに、傍から見りゃそうかもな」

 

 落ち着いた声で、淡々と話す。

 

「だが、それはこの街の人間皆そうさ。生きてるだけで世界のどっかの誰かにとって迷惑に思われる。お前も、この俺も」

 

「……」

 

「ここはそういう場所だ。世界のどっかで爪弾きにされた奴らの巣窟だ。何の価値もない奴らのな」

 

「……」

 

「だが、そんな人間でも何かしらの使い道はあってな。だから心配されなくても、アイツなりの使い道を探してやるさ」

 

 微かに口端を上げ、堂々と告げる。

 勝ち誇ったような笑みに、亡霊は口端を下げた。

 

「……いくら、あの女を気に入ってるからって……現実逃避してんじゃ」

 

「それが事実だ。それに──」

 

 グリップを握り直す。

 口端を上げたまま、言葉を続ける。

 

 

 

「現実逃避してんのは、死んだ人間をいつまでも追いかけてるお前の方だろう。何とも哀れだ」

 

 

 

 嘲笑するかのように発せられた一言に、亡霊は一瞬目を見開いた後すぐさま怒りの表情を浮かべる。

 

黙れ……黙れ黙れ黙れ! この腐れマフィアがッ! 殺してやる……! 殺してやる!

 

 怒声で発せられるイタリア語が部屋中に響く。

 辟易したような表情で、張は片耳に指を入れる仕草を取った。

 

 亡霊の声が轟く中、階段から複数の足音が聞こえてくる。

 やがて彪を筆頭に、黒いスーツに身を包んだ三合会の組員たちが姿を現した。

 

「大哥、倉庫内はあらかた片付けました。余った人員は外の増援へ回してます」

 

「そうか。バラライカとロニーに片がついたらこっちに来るよう伝えろ。こいつの処遇を決めなきゃならん」

 

「は」

 

 彪へ指示をしている間、他の組員たちが亡霊を取り囲む。

 身を捩っての抵抗も虚しく、使い物にならなくなった両手に難なく手錠をかけられる。

 

 その様子に張はようやく銃を下ろし、ホルスターへと戻す。

 ポケットから煙草を取り出し咥えると、彪がすぐさま火を点ける。

 

「キキョウはリンの元へ運ばれました。ガードは郭に任せてます。後は診療所まで無事につけばいいですが」

 

「加えてレヴィがいるならひとまず安心ってところだが……念のためリンの家に何人か向かわせろ。何が起こるか分からんからな」

 

 ライターをしまい、彪はすぐさま部屋を出て階段を上っていく。

 

「上に運べ。あの中央のヤツにぶら下げとけ」

 

 淡々と指示すると、男たちは無言で亡霊を抱え部屋を出て行く。

 

 一人となった空間で静かに煙を吐く。

 

 サングラスの奥で、キキョウが囚われていた部屋の奥を見据える。

 床には血が飛散った跡がいくつもあった。

 

 冷めた表情で血痕を見た後、先の灰が長くなった煙草を床に落とす。

 足に強い力を込め煙草を踏み潰すと、踵を返しその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──随分余裕ね」

 

「吸わなきゃやってられん時もあるさ。特に、こんな場所で待ちぼうけを喰らってる時は」

 

「……それ、ヤクじゃないわよね」

 

「俺は仕事にそんな野暮なもん持ち込まない主義さ」

 

 三合会と飛龍衆が争っている大型倉庫から少し離れた路地。

 喧騒と銃声が届いてはいるが、銃弾が飛ぶことはない安全な位置に停まっている一台の大型バン。その傍で、リンとダッチが言葉を交わしていた。

 運転席にはつまらなさそうな表情を浮かべているベニーが座っている。

 

 リンはキキョウの治療のため。ラグーン商会は張から受けた依頼をこなすため。

 それぞれの役目を果たすべく、これから来るであろう人物たちをただ待っている。

 

「本当に来るのかしら。あのホワイトカラーが足手まといにならないといいけど」

 

「アイツはそれなりに上手くやる男さ。レヴィも分かってるから着いて行ったんだろ」

 

「……」

 

「焦ったっていいことはねえぜリン先生よ。短気は損気だぜ」

 

「言われなくても分かってるわよ。偉そうに指図しないで」

 

 ギロ、と切れ長の眼でダッチを睨む。

 男嫌いで有名な彼女の態度にダッチは怒ることもなく、煙を吐いて頭を掻く。

 

「でもダッチ、本当にいいのかい? 加勢に行かなくて」

 

 運転席の窓から顔を覗かせているベニーからの問いを聞きながら、ダッチは煙草の灰を地面に落としす。

 

「これはマフィアの沽券に関わる事柄なんだぜベニーボーイ。俺達が出る幕じゃない」

 

「そりゃそうかもだけど……」

 

「今はただ時を待つのさ。待っときゃ来る」

 

 ダッチの返答に、ベニーは怪訝な表情を浮かべながらも口を噤む。

 

 ──この場所に着いてから、かれこれ三十分は待ちぼうけを喰らっている。

 ベニーやリンが焦り始めるのも無理はなかった。

 

 咥えている煙草が短くなり、最後の煙を吐きながら地面へ落とす。

 踏み潰し、新たな一本を口にしようとポケットへ手を動かした瞬間、その時は唐突にやって来た。

 

 路地の曲がり角から複数の足音と共に銃声が近づいてくる。

 途端、三人の視線は段々と大きくなる喧噪の方向へ注がれた。

 ダッチはポケットではなくホルスターへと手を伸ばし、S&W M29 6インチの大口径リボルバーを握る。

 

 

 

「──ダッチ!」

 

 

 

 自身の名前を呼んだのは、一つの銃声と共に現れたロックだった。

 何かを抱きかかえている彼の背後には、追っているであろう敵に対しレヴィが発砲している。

 そして、凄まじい飛び蹴りを敵へと見舞っている三合会組員の郭。

 ロックを先頭に車へと走る彼女たちの姿に、ダッチは即座にホルスターから銃を抜く。

 

「ベニー! エンジンかけろ!」

 

 ダッチがそう指示すると、すぐさま車のエンジン音が響く。

 バンのスライドドアを勢いよく開け、ロック達が乗り込むのを待つ。

 

「ちょっと! なんでアンタもいるのよ!」

 

「今はどうでもいいだろ! 状況見ろクソ女!」

 

 心底嫌そうなリンに、郭は飛び蹴りした相手の顔を思いきり蹴り上げながら言葉を返す。

 更に嫌味を返そうとしたリンだったが、息を切らしたロックがバンの目の前まで来たのが目に入り、口を噤む。

 

「リンさん、キキョウさんが……!」

 

「分かってる! 早く中に!」

 

 ロックが抱えているものが意識を失ったキキョウであることを瞬時に理解し、座席が取っ払われ、広々とした車へ乗り込む。

 ロックも後に続き、中へ入るとリンから「そこに置いて」と、既に敷かれている白いシーツを指される。

 指示通り、シーツの上にキキョウを慎重にリンと共に下ろす。

 車の外ではダッチとレヴィ、敵による銃声が鳴り響いている。

 

 喧騒が響く一方で、リンはキキョウに被せられているワイシャツを取り、真剣な表情で状態を診ていた。

 

 

「これは……」

 

 

 途端、眉根を寄せ呟くと、スライドドアから顔を出す。

 

「アンタ達! のんびりしてる時間ないわよ! 早く!」

 

 大声で叫ぶと「分かってる!」とレヴィから一瞬の間もなく返って来る。

 銃声を響かせながら、レヴィは勢いよく車へと駆け出す。

 

 バンの目の前で立ち止まり、もう一発弾丸を敵に見舞うとすぐさま中へ乗り込んだ。

 郭も乗ったのを見計らいダッチも助手席に座ると、リンがドアを勢いよく閉める。

 

 同時にベニーがアクセルを踏み、車が動き出す。

 敵の団体がいる方へと突っ込むみ、二人ほど轢いたが停まることなく敵の姿が遠くなっていく。

 

 喧騒が遠のいていく中、郭は懐のホルスターから一丁のダブルイーグルを取り出した。

 

「珍しいな、アンタが銃持ってるなんて」

 

「不本意だがな。流石に俺でも車の中から拳を見舞うなんて芸当はできねえ」

 

「銃の腕前は信用していいのか?」

 

「それなりに扱える。だが銃に関しちゃお前が確実に上だ。頼んだぞ、二挺拳銃」

 

「オーライ」

 

 

 

 郭とレヴィがそんな会話を繰り広げている間、リンはただひたすらキキョウの状態を診ていた。

 眉根を寄せ、緊張感を孕んでいる彼女の様子にロックは不安そうな表情を浮かべる。

 

 

直至肱橈肌(腕橈骨筋まで)……然後、前臂嘅神經(となると、前腕の神経が)……」

 

 

 唇に指をあて、考えながら広東語でぶつぶつと呟く。

 やがて「チッ」と舌打ちすると、勢いよくロックへ顔を向けた。

 

 

「アンタ!」

 

「え……あ、はいッ!」

 

 

 

 唐突に呼ばれ、反射的に返事する。

 

 

「ドクの番号分かる!?」

 

「ドクって、ハートランドの……?」

 

「さっさと答えて!」

 

「え、ええ……知ってますけど」

 

 理不尽なリンの言葉に戸惑いつつ返答した。

 リンはすぐさまポケットから携帯を取り出し、ロックへと投げる。

 乱暴に手渡され、なんとか落とさずにキャッチした。

 

「今すぐアイツに繋いで。アタシの家に来るよう伝えなさい」

 

「え、えっと……」

 

「早く!」

 

 鬼気迫る表情で催促され、ロックは疑問を口にすることもなく携帯の番号を押す。

 

「どうした、リン」

 

 切羽詰まった様子のリンにレヴィが怪訝そうに尋ねる。

 リンは自前の医療バッグから道具を取り出しながら、口を開く。

 

「これはアタシ一人じゃ手に負えない。人手がいるわ。一刻も早く手を打たないとまずいことになる。最悪死ぬわよ」

 

「……」

 

「時間がない、とっとと飛ばして!」

 

「だとよ、ベニーボーイ」

 

「安全運転は期待しないでくれよ」

 

 

 更にエンジンを吹かした車が猛スピードで道を駆け抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





まだ色々問題は残ってるので、いざ後始末。


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