不滅の想い (島流しの民)
しおりを挟む

第壱話

初めまして。鬼滅の刃にハマって書いてしまいました。

独自設定、独自展開、オリキャラ、原作キャラ死亡と地雷たっぷりの小説となっております。そういう類のものが苦手という方はブラウザバックをお願いします。



10/19
 今更ですが、この小説には軽度のネタバレが含まれております。原作未読の方はご注意ください。


 屹立する山々は、降りしきる雪で白く染め上げられている。

 ひらりはらりと舞い散る雪は風により強く激しく大地を叩いている。一寸先も見えぬほどに濃い雪は、時に人々を山に迷わせる凶器にもなっていた。

 緩い勾配で山頂にまで続いていく山道は真っ白で、足跡の一つも見つけられない。枯れた木々が空高く聳えていた。

 辺りは薄暗くなっていて、逢魔が時はその口を開き、彷徨う者を誘い連れ去る準備をしていた。

 木々の影が、薄暗くなってきた地面と同化し滲んで消えたその時、どこからか足音が響いてきた。

 ざくりざくりと新雪を踏みしめる音は、吹き荒れる雪と風の中で、何故かはっきりと響いた。樹間を乾燥した風が吹き抜ける。木々がその枯れた身を揺らす。まるで、予期せぬ侵入者にざわめいているかのようだった。

 それは、一人の少女だった。

 闇夜に溶けていくほどに黒い髪は腰まで届くほどに長く、少々紅い毛先が木枯らしに吹かれ揺れている。

 大きな薄紅の瞳に、小さな鼻。

 外見だけを見れば、その少女は顔の整った、可愛らしい少女である。

 しかし少女の格好は、一言で言ってしまえば異様だった。

 近代化している現代社会においては珍しいといえる藁の雪靴を履いており、歩き続けているのかその藁はぼろぼろ。

 さらにその目を引くのは、彼女の服装であった。

 まだ冬が始まったばかりとはいえ、山の夜は冷える。新雪を踏みしめるだけで膝辺りまで沈むほどに雪が積もっている場所なら、その寒さはなおさらであろう。

 しかし、少女はかなり──いや、命知らずといって差し支えないほどに軽装で山登りをしていた。

 身に着ける服装は、これまた古臭い市松模様の羽織。かなり昔のものなのか、ところどころ擦り切れている。

 灰と白ばかりの世界で、緑と黒の市松羽織はいやというほどに目立っていた。

 しかし少女は寒そうなそぶりを見せるどころか、常人ではすぐにへばってしまいそうなほどの速さで山を登っていた。

 くぐもった吐息は、何故か咥えている竹のせい。

 全体的に、彼女の格好は異様だった。異様だからこそ、灰の世界で儚げな美しさを放っていた。

 空に伸びる木々の枝は、ぼんやりと眺めていると罅割れた模様のようにも見えてくる。空を見上げていた少女は、ふと何かに気づいたのか後ろを見た。

 

 

 

 

 

 闇が広がっていた。

 

 

 先ほどまでは薄闇のせいで灰色になっていた雪だけだったその空間には、今や雪どころか後ろに生えている枯れ木さえも見えないほどの闇が渦巻いている。

 夜が彼女に追いついたというわけではない。その部分以外は先ほどと変わりなく薄闇が広がっている。その部分だけ、どす黒い闇だった。

 少女は、静かに腰を低くする。それはまるで、いつでもその闇にとびかかれるような恰好で──

 

 不意に、闇の中から何かが出てくる。それは、どろどろに溶けた腕だった。

 這いずるように出て来た腕は、もがくように雪を掴み、苛立たし気にそれを投げ捨てる。どうやら全身を出したいが、つっかえて出れないようだ。化け物はようやく後ろにあった枯れ木を掴み、その全身を闇夜に現した。

 

 鬼だった。

 腕から溶け落ちた肉片は、雪の上に落ち全てを蒸発させながら地面へと消えていった。間抜けに開かれた口からは涎が延々と垂れ続けており、その鬼に知性がないことが伺える。

 充血した虚ろな目は、それでもはっきりと少女を捉えていた。どうやら、彼女は今夜の獲物らしい。

 

 鬼が跳ぶ。身体が溶けているとはいっても、その身体能力は人間を遥かに凌駕しており、普通の人間なら視認も出来ぬような速さだった。

 しかし少女は焦ることなく薄紅の目を閉じる。それは、まるで精神を研ぎ澄ましているようで──

 

 鬼が少女を切り裂こうとその腕を振るう。ぶら下がっていただけの肉片が飛び散り、肉片が飛ぶ延長線上にある全ての物を蒸発させていく。

 振り切られた腕は、少女の柔肌を裂き骨を砕き肉片と臓物を辺りにまき散らす────はずだった。

 脳内でその光景を描いていたはずであろう鬼は、何故か空ぶった腕を不思議そうに見つめる。

 先ほどまで目の前にいた少女が、消えていた。

 足跡は残っている。しかし、目の前にはいない。

 もともと知能があまり高くない鬼は、すぐに混乱状態に陥り暴れ始めた。辺りにある木々をへし折り、地面をその猿臂で乱暴に叩く。しかし、少女は現れない。

 

 ふと、破壊行動を止めた鬼の耳に、雪を踏む音が聞こえた。

 急いで振り返るが、やはり姿はない。しかし、はっきりと足跡だけは残っている。

 もしかして、と鬼は思う。

 

 もしかして、こいつは何か不思議な幻術を使うのではないか、と。

 ここに住んでいる人間が、開国とやらで周囲の見知らぬ人間と関係を持ってから、既に百年以上の月日が経つ。その交わりの中で、ついに人類はまやかしの術を手に入れたのだろうか、と。

 

 しかし、それは正しくはない。

 

 慣れないことを考える鬼の上を跳ぶ一つの影。

 それは、先ほどまでぼんやりとしていた少女だった。

 顔のいたるところに青筋を立てている少女は、まっすぐに鬼だけを見て唸り声をあげた。

 

 鬼は、その唸り声に顔を上げる。しかし、もう遅い。少女は足で近くにある木を蹴り、鬼に肉薄する。そして体を捻り、とても単純な蹴りを放った。

 蹴りは、すぅと鬼の顔に当たって────

 

 

「ぐがっ!」

 

 

 そのまま鬼の首をもぎ取った。もぎ取られた鬼の頭は、何が起こったのかわからないという表情のまま、闇の中へと消えていった。

 その隙に少女は走り出す。鬼はこんな生ぬるい攻撃で死ぬことはない。鬼を殺すには、専用の鉄で作った刀で頭を切り離すか、太陽の陽に晒すかしかない。

 その両方の術を持たぬ少女は、敵を一時的に再起不能に陥らせ、逃げ出したのだ。

 

 走る彼女を励ますように、片耳に付けた旭日の模様のような耳飾りが揺れている。

 

 

 

 

 

 ──少女の名前は竈門禰豆子(かまどねずこ)。遥か昔に鬼へと落ちた人間。兄である竈門炭治郎(かまどたんじろう)と共に、鬼殺隊に所属していた身である。

 

 

 禰豆子は、ふと立ち止まって空を見上げる。空はすっかり暗くなって、暗闇からにゅっと出てくるように雪がひらひらと落ちてくる。

 

 禰豆子は未だに鬼のまま、一人で各地を流離っていた。そんな生活にも、もう慣れてしまった。

 

 

 時は平成。もうすぐで二十世紀が終わるという時分。戦争、敗戦、バブル。日本は様々な困難を乗り越えて、発展の第一歩を踏み出し始めた頃であった。

 日本は大きな変化の中にいた。しかし彼女だけは、ただ変わらぬ悠久の中に閉じ込められたまま、時の流れに身を任せ生きている。

 

 

 

 

 かつて彼女の隣にいた兄の姿は、ない。

 

 

 

 

 

 

 ──彼女の兄、竈門炭治郎が死んで、既に八十年という年月が経とうとしていた。

 

 

 

 

 




作者は原作十七巻までの知識しかありません。
これから起こることと作品内での情報が間違ってる可能性もありますので、ご注意ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第弐話

 

 

 

 ──今でも覚えている。

 

 体が芯から凍ってしまいそうなほどに寒い朝。背中に感じる確かな温もりに頬を緩ませながら、玄関の近くに立っている自分。

 目の前には、炭がたくさん入った籠を背負ったお兄ちゃんがいる。お父さんが死んじゃって、寂しいはずなのに、私たちにその姿を見せることなくいつも気丈に振舞っている。どうやら今日も炭を売りに町に行くらしい。

 行ってらっしゃいと言うと、その赤みがかった目を少し細めて、眩しそうに笑う。

 雪に足を取られながらも、しっかりとした足取りで小さくなっていく背中を、私はじっと見つめていた。

 

 

 

 

 ──今でも、覚えている。

 

 結局その日のうちには帰ってこなかったお兄ちゃんを心配して、玄関の前でずっと座り込んでいる六太を寝かしつけようとしていた時だった。

 乱暴に開けられる扉。びゅうと強く寒い風が家の中に入ってきて、花子がきゃあと叫んだ。

 

 そこからは、一瞬の出来事だった。

 誰かが家の中に入ってきたと思ったら、横にいた竹雄が倒れた。びっくりして竹雄の肩を持つと、生暖かい感触が掌を伝う。

 血だった。

 竹雄は、何も言うことなく事切れていた。ごろりと転がった竹雄の、生気のない瞳がこちらを見上げていた。

 

 あまりの恐怖に、喉が痙攣する。叫ぼうと思っているのに、小さく短い声しか出てこない。

 周りを見ると、お母さんも、花子も、茂も、六太も、倒れていた。

 

 それを見ている私も、なんだか肩の辺りが熱くなってきて──

 

 ふらりと、身体から力が抜ける。走馬灯が走る余裕もないほどの早さで、命が零れていく。毛穴の一つ一つから魂が抜けだしているかのようだった。

 

「……う……」

 

 倒れこむ私の耳に、六太のうめき声が聞こえた。

 六太はまだ生きている。

 

 それに気づいた私は、震える体に鞭を打って六太に向って体を動かす。

 息をするたびに激痛が私の体を襲う。臓物が捩れて掠れたうめき声が食いしばった歯の隙間から漏れ出ていく。

 

 それでも、六太だけでも守らなくては。

 六太は侵入者が入ってきた際に吹き飛ばされたらしく、玄関前の雪の上に転がっている。

 やっとその身体に触れた時、後ろから足音が聞こえて来た。

 どうやら、この侵入者も六太と私が生きていることに気が付いたようだ。

 

 咄嗟に、私は六太に覆いかぶさった。

 そして、霞む視界に映った、近くに置いてあった斧を手に取って、思い切り後ろに投げつけた。

 がつんと、何か固いもの同士がぶつかる音が聞こえて来た。

 それと同時に、意識が薄くなってくる。手に触れる雪の冷たささえも、感じれないほどに。

 

「お、兄……ちゃん……」

 

 お兄ちゃんは今何をしているだろうか。

 町で寝ているんだろうか、それとも私たちみたいに変な人に襲われてしまったのだろうか。

 

 そう考えると無性に悲しくなってきてしまい、ぽろりと涙が零れた。

 ああ、会いたい……お兄ちゃんに、会いたい。

 

 

 意識が消えた。

 

 

 

 ▼

 

 

 ぐぅと、意識が眠りの奥底から引き上げられる感覚で、禰豆子は目を覚ました。

 

 どうやら近くの洞窟で寝ていたらしく、びゅうびゅうと寒い空気が外から雪崩れ込んでいた。

 空高く昇った太陽によって照らされた雪は純白の絨毯を銀の光で彩っており、そのあまりの眩しさに禰豆子は目を細めた。

 

「お、おは……よう」

 

 一人ごちる。特に意味のないこの挨拶は、習慣になってしまったものだった。挨拶する相手なんかいないのに、つい朝になれば口を開いてしまう。

 禰豆子は悲しそうに眉を八の字にすると、そのままとぼとぼと歩き出した。

 目的地なんかはない。ただ足があるから歩くだけ。そんなことをしている間に、こんな場所にたどり着いてしまった。

 

 昨晩の鬼はどうなったのだろうかと、禰豆子はふと考える。太陽に燃やされていたらいいのだが。

 

 

 最近、年号が変わった。昭和とやらから平成になったらしい。しかし人と触れ合うことなく生きている禰豆子にとって、その違いは些細なものでしかなかった。

 相変わらず生きて、相変わらず歩くだけ。その生活に変わりはない。

 

 しかし、世の中はだいぶん変わった。

 日本が開国をして既に百年以上。その中で、日本は様々なものを取り入れ、国内を変化させていた。

 昔のような木造の家は既になく、建つ建物のほとんどがコンクリートでできた固いもの。

 人々は何やら小さな機械を手に持って、他人の会話をしている。昔のように、烏を使う人などもういない。

 いたるところに設置された街灯のせいで、夜はその暗さを失ってしまった。

 刀を持っている人間は問答無用で捕まり、牢獄に入れられてしまう。そんな世界で、鬼殺隊が存在出来るわけもなく、ここ数十年禰豆子は鬼殺隊を見ていなかった。

 

 そんな日本だからこそ、人々の鬼への恐怖が薄れていくことは不思議ではなかったと言えるだろう。

 

 鬼は空想上の生き物で、だから怖くはない。

 それが、現代に生きる人間たちの共通認識だった。

 

 しかしそれは、あながち間違いではない。

 かつては逢魔が時を我が物顔で跋扈していた鬼共は、そのほとんどが息絶えてしまったからだ。

 

 鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)

 

 鬼のことを多少なりとも知っている人物なら、この名を知らない者はいないだろう。

 全ての鬼の頂点、人喰い鬼を作る鬼、最初の鬼。

 鬼舞辻無惨は、約千年もの間この世の中で暴虐の限りを尽くしていた存在で、鬼殺隊が倒そうと骨身を削りながら刀を振るっていた相手である。

 

 数えきれないほどの人々を虐殺し、喰らってきたその鬼は、八十年前に殺された。他でもない、禰豆子の兄竈門炭治郎によって。

 

 

 すとんと、禰豆子は近くの木に凭れかかった。空を見上げるその瞳の中には寂寞の色が見え隠れしていた。

 

 

 ▼

 

 

 ──今でも、覚えて、いる……。

 

 充満する血の匂い。響く耳鳴り。

 それは、全ての終わりだった。

 

 重く立ち込めた灰の雲からは、細い雨粒が糸のように降り注いでいる。

 罅割れた地面、幹からへし折られた大木に飛び散った血痕。

 それは、今までの戦いがどれほど熾烈であったかを鮮明に映し出していた。

 

 私は多分、泣いているんだろう。

 頬を流れる熱いそれは、雨などではない。

 

 静寂が辺りに覆いかぶさっていた。雨粒が葉を叩く音だけが、辺りに小さく響いていた。

 舞い散る砂埃さえも落ち着きを見せ始めてやっと、私は足を動かした。

 動かしたといっても、それは小さく後ずさっただけ。私の眼は、事実を受け入れられずにいた。

 

 鬼舞辻が、その胸に刀を生やして立っていた。身体が動かないのか、その瞳はぼんやりとその刀に向いている。

 いつもは洒落っ気のある服装はひどく破れており、その隙間から青白い身体が見えた。

 ごぽりと、動かない鬼舞辻の口から血の塊が零れ落ちる。それは、彼の命のようにも見えた。

 不意に、強い風が吹いた。

 風は雨雲を小雨ごと追い払って、青い空を覗かせる。七色の虹が私たちを覆うようにかかっていた。

 眩い太陽の光が、梯子のように下りてくる。その先にいるのは、鬼舞辻と……。

 

 

「あ、あぁああああああああああああああっ!!!!」

 

 

 鬼舞辻の凄まじい声が辺りに響き渡る。日光を避けるために伸ばされた左手は、太陽を掴もうと手を伸ばしているようにも見える。

 鬼舞辻の体が燃え始めた。まるで細胞すべてが燃えているのではないかと疑ってしまうほどに凄まじいその炎が彼の体を燃やし尽くす。地面の水溜まりに反射した炎が、煌々と辺りを照らし出す。鬼舞辻の、文字通り命の灯はあまりにも残酷で儚くて、私は思わずぼうっとその光を眺めていた。涙で視界が霞んで、よく見えなかった。

 

 何もかもがよく見えない。だからこそ、この目に映っている景色は多分間違いなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 ──燃え盛る鬼舞辻の右腕に胸を貫かれたお兄ちゃんなんて、見間違いに決まっている。

 

 

 

 そう頭で言い聞かせても、体は素直だ。兄の命が薄れていくことをはっきりと感じている。

 駆け寄ってその身体を抱きしめたいのに、脚が動いてくれない。

 

 ああ、嫌だ。死なないで。

 そんな言葉さえも発せないまま、私は呆然と立ち尽くしていた。

 ぐらりと、お兄ちゃんの身体が傾く。鬼舞辻が燃え尽き灰になったのだ。

 独特な臭いをまき散らしながら風に吹かれていく鬼舞辻の灰は、彼に似て儚く弱々しいものだった。

 お兄ちゃんが地面に倒れる。足元に広がっていた水溜まりに倒れ伏したその顔は、瞬く間に泥だらけになった。じわりと地面に血が広がっていく。

 

「炭治郎!」

 

 周りにいた人々が駆けよっていく中、私だけが、呆然と目を見開き、その場から動けずにいた。

 その日、私は孤独になったのだ。

 

 今までは私の家族だと思っていた周りの人間の顔が剥がれ落ちる。鍍金が落ちたその後には、見たこともない顔がたくさん並んでいる。

 おかしい、私は今まで、家族を守るために戦っていたはず、なのに……。

 

 お兄ちゃんが倒れたと同時に、全部がどうでもよくなって……。

 

 気づけば、泣いていた。

 大声で、喚いて、蹲って。

 

 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。

 

 いくら泣いても涙は枯れなくて。お兄ちゃんを失った心の穴はどうしても塞がらなくて。

 

 空を見上げ、吠えるように泣いていた。

 霞む視界に映った虹が、嫌味なほどに綺麗だった。

 

 

 

 ▼

 

 

「大丈夫……」

 

 口内で転がすように呟けば、返事をするかのように木枯らしが頬を撫でていく。

 しかし、この寒さの中では「撫でる」というより「叩きつける」であり、気が付けば禰豆子の手はかじかんで赤くなっていた。

 立ち上がり歩き出す。

 

 あの日、独りぼっちになった禰豆子は、何かから逃げるように一人で旅をし始めた。目的なんかはないし、あったところで意味なんてないのだろう。

 生きる意味であった、炭治郎を亡くしたのだから。

 ぼうっと、生きているか死んでいるかもわからないような生活を送る、まさに鬼のような日々。禰豆子は、八十年ものあいだそうやって生きて来た。

 あの時鬼舞辻との戦いの場にいた人間たちとは、あれっきり会っていない。八十年経った今となっては、生きているのかすらも怪しい。

 それくらいに長い時を、禰豆子は過ごしていたのだ。

 

 ふと空を見上げると、高く青い空を遮るように送電塔が建っている。

 孤独に、それでも気品高く聳え立つ文明発展の象徴は、見事といっていいほどに辺りの景観を壊している。

 こんな山奥にまで人間たちは手を出し始めた。遠くない将来、禰豆子の居場所は人間の領地で消え果るだろう。

 禰豆子はそんな将来を嘲笑うかのように鼻を鳴らすと、変わらぬ足取りで再び歩き始めた。

 彼女の心は、今日も凪のように静かだった。

 

 

 

 

 ふと、鬼の血の匂いがして、立ち止まる。

 匂いの発生源は、近くに生えていた樹木だった。

 どうやら昨晩禰豆子が首を引きちぎった鬼の血が噴き出して、傍にあった木にかかったらしい。

 鬼舞辻が斃れて、変わったことがある。

 それは、ほとんどの鬼が死に絶えたことだ。

 しかし中には、鬼舞辻の血に関係なく生き残った鬼もいる。

 鬼舞辻の血が薄い鬼……いうなれば、あまり力がなかった雑魚鬼が、血で狂い死ぬことなく生き残ったのだ。

 雑魚鬼といってもその強さは人間とは比較にならない。彼らは容易に人間を引き裂くことが出来るのだ。

 だからこそ、最初の内は生き残った雑魚鬼を殺すために鬼殺隊が奮闘していた。

 しかしあまり知能がない雑魚といっても、中には学習する鬼もいたわけで、そのうち人前に姿を現す鬼はだんだんと減っていった。

 禰豆子も、八十年の旅の中で何度か鬼と会ったことがある。

 たいていの鬼は知能がない雑魚ばかりだったが、中には彼我の実力差を瞬時に理解し、争いを避けようとしていた老獪な鬼もいた。

 

 

 

 時代は変わってきている。その中で、変わらぬと言われていた鬼もまた、少しずつ変化していっているのだ。

 

 

「……!」

 

 

 ふと、禰豆子は雪と風の匂いの中に、何か違う匂いを発見した。

 それは、か弱い匂いだったが、禰豆子はすぐに理解した。

 

 人間の匂いだ。

 

 地を蹴り駆け出す。雪が捲れ上がり、葉をすべて落とした木々の隙間から差す陽光に煌めいた。

 枯れ木が飛ぶように後方へと飛んでいく。禰豆子は鬼に対しても出さないほどの速さで走っていた。

 微かに匂ったその人間の匂いは、どこか懐かしくて、どこか寂しくて……。

 

 走りながら、禰豆子は涙を流していた。何故かはわからないが、心が張り裂けそうなほどに辛かった。

 

 転がり落ちるように坂道を下りる。知らぬ間に麓まで来ていたようだ。

 麓といっても、こんな雪山なので住んでいる人はほとんどいない。

 しかし、木と雪に塗れた麓の中にぽつんと一軒だけ家が建っているのが見えた。

 そして、家の前には一人の男が立っている。

 

 男に近づきながら、禰豆子はやっと気づく。

 炭の匂いだ。

 炭治郎がよく背負って、町にまで売りに行っていた炭の匂いがするのだ。

 ずきりと禰豆子の胸が痛む。彼女の胸を刺した痛みは、悲しさとなって胸の底に広がっていく。気づけば彼女は大粒の涙を零していた。嗚咽が止まらないほどに、彼女は泣きじゃくっていた。

 

 男が禰豆子に気づいたらしく、こちらを見て不思議そうに首を傾げている。どうやらまだ彼女が鬼だということには気づいていないようだ。

 少しずつ、禰豆子が男に近づく。

 近づくにつれ、禰豆子は自分の動悸が早くなっていることに気がついた。

 

 

 

 ──赤みがかった目と髪に、優しそうな表情。炭の匂いが染みついた服。

 

 

 その外見は、彼女が見たことがあるもので、それと同時に八十年もの間見たいと願っていたものだった。

 

 禰豆子が、ゆっくりと目を見開く。驚愕に涙が止まっていた。

 

 

 その見た目は。

 全部、全部、全部、全部。

 

 

 

 

「あのう、大丈夫ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炭治郎と、瓜二つだったのだ。

 

 凪だった彼女の心に、一粒水滴が落ちて、大きな波紋を作った。

 

 

 




無惨との戦闘シーンと、無惨が斃れた後の鬼の扱いについてはオリジナルです。
ジョジョの奇妙な冒険の四部に出てくる元DIOの部下のように肉の芽を植え付けられた鬼はDIOの死後おかしな体になったみたいな感じで、無惨の血が多かった鬼は狂い死んでしまった、みたいな考え方です。逆にあまり血をもらっていなかった鬼は健在です。

……それにしても、無惨様の倒し方があまりにも呆気なさ過ぎたような……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第参話

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 返事をしない禰豆子を心配したのか、男は再び尋ねてくる。

 二人の距離は数メートル。この近さになっても、男は未だに禰豆子が鬼だということには気が付いていないらしい。竈門炭治郎は匂いで鬼かどうかを判断出来ていたが、やはりこの男は出来ないらしい。

 よく見ると、炭治郎の特徴の一つでもあった、額の痣もない。

 

 別人。

 

 それが、禰豆子の答えだった。

 見た目は炭治郎に瓜二つだ。内面の気真面目さがはっきりと見て取れるきりりと結ばれた唇も、意思の強そうなその瞳も、その芯のあるしっかりとした声音さえも。時代を越えて生まれ変わったのかと疑ってしまうほどにそっくりだった。

 しかし、違う。明らかに違う。

 禰豆子に対するよそよそしい態度や、拭えきれていない警戒心など、明らかに炭治郎とは違う部分もある。

 禰豆子はぼんやりと、その男を見ていた。男も禰豆子を見ていた。

 

 不意に、禰豆子はどうしようもないほどに泣きたくなってしまった。中身は違うといっても、見た目は炭治郎と全く同じなのだ。未だに精神年齢が幼い彼女にとって、割り切ることは難しいことだった。

 守れなかった兄が、自分を助けるためにその身を犠牲にした兄が、目の前にいるような気がして。

 言いたいことがたくさんあったはずだった。

 ごめんね、ごめんね、ありがとう。私を背負ってくれて。私の為に戦ってくれて。私を愛してくれて。

 なのに、何も言えない。喉がひくついて、言葉がひっかかって、何も出てこない。唾だけが口内を濡らし、しかし喉奥がからからに乾いてしまっていて。

 

「あ、うう……」

 

 再び目頭が熱くなり、涙が零れる。八十年の後悔が詰まった、哀しみの涙だった。

 男は、いきなり泣き始めた禰豆子に戸惑ったのか、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

 

「あ、あの……どうしたんですか? ……っ!」

 

 禰豆子の数歩前まで近づいた男は、そこで息を呑んでぴたりと止まった。

 その視線は、禰豆子の服装にぴたりと止まっている。

 

「そ、その血……どうしたんですか……?」

 

 言われて、禰豆子は気が付いた。

 昨晩戦った鬼の血が、彼女の着物にべっとりとついている。男はそれを見て驚愕したのだ。

 何か弁明をと口を開く禰豆子だが、口に嵌められた竹がそれを許さない。

 男はおっかなびっくりといった感じで禰豆子と彼女の服を見ていたが、その身体はすぐに硬直した。

 

「も、もしかして……鬼!?」

 

 彼は、禰豆子の瞳を見ていた。彼女の瞳は、鬼になったころから変化した。瞳孔が、猫の眼のように細長くなったのだ。

 それは他の鬼も一緒で、だからこそ瞳は鬼を見分ける一つの方法として広く知れ渡っていた。

 しかし、広く知れ渡っていたといってもそれは昔の話。現代の人間が知っているようなこととは思えない。

 しかし、目の前の男は、はっきりと禰豆子のことを鬼と言った。彼は、鬼に関して何かしらの知識があるのだ。

 がたがたと震え出した男は、小さく後ろに後ずさると、手に持っていた斧を捨てすぐに踵を返し走り始めた。

 その足取りは、恐怖のためか定かではない。何度も引っかかって、倒れそうになっている。

 あまりにも急に逃げられたので、暫しの間唖然としていた禰豆子だったが、すぐにその男の背中に向かって走り始める。

 

「たっ、助けてくれ!!」

 

 足をもつれさせながら叫んだ男は、ちらりと後ろを見て顔を青くする。鬼が追いかけてきているのだ、恐怖でしかないのだろう。

 

「うー、うー」

 

 攻撃するつもりはないと言いたい禰豆子だが、残念なことに彼女が現在発することが出来るのは鬼のようなうめき声だけ。それは、男の恐怖心を更に焚きつけるだけのものだった。

 

「い、いやだ! 殺されたくない!」

 

 失礼なと言いたげな瞳をした禰豆子は、走る男の肩を掴もうと手を伸ばす。しかし、それを察知したのか、男は半身を捻り、禰豆子の手を避ける。しかしその際に、彼の身体が大きく傾いた。

 重力に従い、彼の身体が地面へと吸い込まれるように落ちていく。しかしここで倒れたら喰われるとでも思っているのか、男は更に走ろうと足を前に出す。

 その結果、つんのめるように数歩前に進み倒れてしまう。

 

 どさり、彼の身体が地面につく──その瞬間、男が倒れた部分の雪が大きく崩れ落ち、斜面を滑り始めた。

 彼が倒れたのは、細く険しい道だった。右側には高い岩棚があり、左側は数十メートルもある小さな崖だった。

 崩れた雪の塊が向かっていくのは崖の方。男は転んだ際に足を痛めたのか、上手く立ち上がれていない。

 そのまま滑っていった雪は、崖にまで到達して、男をその上から放り投げた。

 

 

 

 

 ──鈍い痛みが禰豆子の頭を襲う。その痛みの向こうは、微かな光を放つ彼女の記憶の一片があった。

 

 暴れる禰豆子。それを抑えようとする炭治郎。雪山の中でおぶられていた禰豆子は、飢餓状態に耐えられずに、炭治郎を襲おうとしていた。

 暴れる禰豆子を何とかして落ち着かせようとしていた炭治郎が、雪によって足を滑らした。

 ふわりと浮く彼の身体。彼女が暴れていたのは、どうやら大きな段差の上だったらしく、足を滑らせた炭治郎が、下に落ちていく。驚愕と哀しみに満ちた彼の瞳は、見ているだけで心が痛くなるものだった。

 

「うわぁああああっ」

 

 男の叫び声で現実に引き戻された禰豆子は、落ちていく男に咄嗟に手を伸ばす。

 あの時は、暴れて迷惑をかけることしかできなかったけど、今なら違う。ちゃんと自分の意志で動いて、誰かを助けることが出来る。

 しかし、伸ばした手は男に届かない。男のからだが小さくなっていく。雪が積もっているため死ぬことはないだろうが、少しは怪我をするかもしれない。

 そう思った瞬間、禰豆子は飛び出していた。

 息ができないほどの鋭い空気が彼女を叩きつける。しかし禰豆子は怯むことなく、再び男に手を伸ばす。

 男は気を失っているのか、伸ばされた手を掴もうとはしない。地面が近くなってくる。

 禰豆子はすぐさま岩棚を蹴り、落ちる速度を上げて力のない男の手を掴む。雪みたいに冷たい手だった。鼻腔を切り裂くような寒さに混じって、炭の匂いがしてきた。

 

 男を持ったまま空中で回転した禰豆子は、自分が男の下敷きになることで落下の威力を弱めようと試みる。しかし、回転したのはいいものの、上手く止まれずに一回転してしまい、結果男が再び下になる。地面がすぐそこまで近づいてきている。

 このままでは男が下敷きになる。禰豆子は手を伸ばすと、そのまま素手で岩棚を掴んだ。

 岩が削れる音が森閑とした山に響き渡る。禰豆子の顔が痛みで歪む。純白の雪の上に数滴の血が飛び散った。

 しかし、やはり人よりも更に強靭な肉体を持つ鬼。禰豆子は大した怪我をすることもなく、岩棚を掴んだまま宙ぶらりんの状態でため息をついた。片手で男の服を掴んでいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第肆話

とても短い。


 雨露仁太(うろじんた)は、特に特徴もないような一般人である。幼いころに妹を亡くし、その傷を抱えながら山の麓で一人暮らしをしている青年。それが彼。

 好きなものは炭と家族。嫌いなものは鬼とピーマン。至って普通の人間。

 優しすぎるのと住んでいる場所のせいで浮いた話はないが、特に困ったこともない、平和な生活をしていた。

 だからこそ、とある昼下がりに急に鬼が彼の家へやってきたことは、彼にとって大きなショックだった。それこそ、家をほっぽり出して逃げ出してしまうくらいに。

 

 

 目を覚ますと、そこは見慣れた木目の天井だった。見知った木目を数えながら目をこすると、不意に気を失う前のことを思い出した。

 仁太は咄嗟に自分の体を触ってみる。鬼に喰われたところはないか、心配だったのだ。

 どうやら五体満足のようだ。ほっと溜息をつくと、掛け布団を退かす。悪夢のせいか、汗をびっしょりとかいていた。

 

「しっかし、縁起でもない夢見たもんだ。まさか鬼に追いかけられるなんて……」

 

 起き上がりながら呟く。しかし思えば、夢の中に出て来た鬼はかなり別嬪だったような気がすると、仁太は思った。

 猫のような瞳孔に、雪と見間違えてしまいそうなほどに真っ白な肌。年頃の女性なのか、触れたら折れてしまいそうなほどに儚いその雰囲気は、夢の中とは思えないほどリアルに仁太の頭の中に焼き付いていた。

 整った顔立ちに艶やかな濡羽色の髪の毛。

 そう、まさに今壁に凭れかかりながらうとうとしている彼女のような恰好で──

 

 

「…………?」

 

 目をこする。再び見る。鬼がいる。

 

 

「ええっ!? いるじゃん! 鬼いるじゃん!!」

 

 起きたばかりの脳のキャパシティを越える情報量に暫しの間呆然としていた仁太だったが、すぐに飛び起きた。

 彼の大声で起きたのか、禰豆子が目を開く。猫のような目が彼を捉えた。

 

「ひぃっ! た、食べないで……」

 

 引き攣った声を出す仁太に、禰豆子はそっと手を伸ばす。自分はあなたを食べたりしないという意思表示で行ったその行為は、男の恐怖心を増幅させるだけだった。

 男は近づいてくる禰豆子を見て座ったまま後ずさりをする。その顔は、恐怖に歪んでいた。

 炭治郎が見せないであろうその表情を浮かばせる仁太を見て、禰豆子は心が張り裂けるような思いだった。

 別人なのは承知している。同じ性格でないことなど、先ほどの反応からしてわかりきっていた。

 それなのに、同じ顔であることがこうも辛い。

 意図せず、ぽろりと禰豆子の瞳から涙が零れた。炭治郎はもうこの世にいないのだと、再三突き付けられたような気分だった。

 鬼の恐怖に喚き散らしていた仁太は、ふと禰豆子が見せた涙に、暫しの間目を奪われていた。

 彼は、鬼と人間は違う生き物だと小さなころから信じて疑ってこなかった。鬼は人間を喰って生きて、涙なんか流さない非情な生き物なのだと、幼少期に痛感した。

 だからこそ彼にとって、鬼という生物は恐怖の対象でしかなかったのだ。

 しかし、今目の前にいる鬼は確かに涙を流している。人間と変わらぬ、透明で綺麗な、ビー玉みたいな涙だ。

 なんだかその涙は、哀しみがぎゅっと詰まっていた。見ているだけでこちらも悲しくなってきてしまうような、痛みを伴った涙だった。

 だからだろうか、仁太は知らず知らずのうちに、禰豆子の手をぎゅっと握っていた。恐怖はもうなかった。

 禰豆子が目を見開く。細い瞳孔が揺れていた。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 そう尋ねると、禰豆子は少し俯いた後、にこりと笑って頷いた。眦に溜まった涙が、つぅと頬を伝って地面に落ちていった。

 

「だ、大丈夫……大丈夫……よかった……よかったねぇ」

 

 不意に、口元に嵌めていた竹が落ちた。からんと高い音を立てて床を転がった竹は、年季が入っているのかぼろぼろだった。

 禰豆子の口には、もちろん牙が生えている。しかし仁太は何故か怖いと思わなかった。なんだか、懐かしいとさえ思っていた。

 口元が自由になった禰豆子は、拙い口調でしゃべり始めた。それはまるで、幼い妹のようで。

 

 

 

『お兄ちゃんは私が守るから』

 

 

 

 ふと、頭痛と共に舞い降りて来たかつての記憶に、顔を顰める。頭痛が去った後も、胸の奥になんだかしこりが残っていた。

 

 禰豆子の瞳から既に涙は消えており、にっこりと笑みを浮かべながら仁太のことを見ていた。

 妹に似ている。彼は、ぼうっとそんなことを考えた。

 

 

 

 鬼と人と。八十年の時を越えて、禰豆子は再び自らを理解してくれる人間と出会った。

 この出会いが、彼女をその存在ごと変えていくことを、今は誰も知らない。

 

 

 




主人公の名前を反対から読むと……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第伍話

 

 木枯らしが吹き荒れるとある一日。雪で埋め尽くされた山の中に一軒、ぽつんと忘れ去られたように建っているあばら家がある。

 隙間から縫うように吹き込んでくる冷たい風に、顔を顰めながら起き上がった仁太は、ふと耳朶を打った何かの音に首を傾げた。音は、家の外から聞こえてきている。

 寝巻から着替え、ドアを開けると、家の目の前に一人の少女が立っている。ぼろぼろの市松模様の羽織に、古臭い藁の雪靴。

 ドアを開けた仁太に気づきこちらを振り返ったのは、数日前から何故か彼の家に居候をしている鬼の禰豆子であった。

 禰豆子はどうやら薪を作っていたらしく、彼女の周りには積もるほどの薪が落ちている。凄まじい音がしていたのは、どうやら彼女が斧を使うことなく自分の手で木をたたき割っていたからだろう。

 

「お、おはよう……」

「おはようございます」

 

 にこりと笑って挨拶をする禰豆子。最初は仁太も怯えていたが、彼女が仁太を喰う気がないということに気が付いてからは、特に怖がることもなく挨拶くらいなら出来るようになっていた。

 しかし、だからといって彼の中に巣食う鬼への恐怖が完全に消えたわけではなく、今でも寝起きの際に禰豆子を見ると心臓がどきりと縮み上がる感覚がある。

 仁太は玄関の脇に置いてあった藤の花の香を家の中に入れる。鬼はこの花の匂いを嫌うので、仁太は毎晩寝る前に家の前に置いているのだ。

 しかし不思議なことに、禰豆子はこの匂いが嫌いではないらしく、初めて香を見せた時は不思議そうに首を傾げながら匂いを嗅いでいた。

 彼女は不思議な鬼だった。

 牙も、瞳も、全てが鬼だ。しかしその割には太陽の下を楽しそうに歩き回り、夜になったらぐっすり眠る。更に人を喰う気はおろか血を飲むそぶりも見せないし、おまけに可愛らしい。

 薪を叩き割り終えた禰豆子が、とてとてと仁太に走り寄る。彼女の片耳に付いた旭日のような耳飾りが揺れていた。

 禰豆子は、彼女が着ている服とこの耳飾りを、何よりも大切にしているようだった。何故かはわからない。しかし、彼女は絶対に何があっても耳飾りを外さないし、服も大切に保管していた。

 理由を聞いてもにこにこと笑うだけで、仁太は正直禰豆子の扱いに困っていた。

 何を話しても「おはよう」「よかったねぇ」「だいじょうぶ」しか話さない彼女は、存在自体が不気味という理由もあるが、それ以上にコミュニケーションをとるという大切な段階を壊す大きな役割を果たしていた。

 毎日欠かさず彼女に話しかけている仁太だったが、当たり前の如く会話が広がることはない。その事実に彼の心は折れかけていた。しかし仁太の言葉はわかっているらしく、彼女はよく仁太の言葉を聞いていた。今さっきまで彼女が割っていた薪も、最初は仁太が何気なく尋ねたことだったのだ。

 

「恐怖の対象だった鬼をこんなことに使っていいものなのか……」

 

 とてとてと家の中に入っていく禰豆子を横目で見ながら、仁太は呟いた。

 その呟きは禰豆子にも届いていたのか、こちらを振り返って首を傾げた。

 

「なんでもないですよ」

 

 そう言うと、禰豆子はにっこりと笑って家のドアを蹴り飛ばしながら入っていく。どうやら彼女に引き戸は難しかったらしい。既に慣れた光景だ。

 修理をどうしようかと悩みながら頭を抱える仁太は、先ほどの禰豆子の笑みの中に、確かな寂寞が見えていたことに気が付かなかった。

 しかし、気づくその日は遠くない。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 屋内に入った禰豆子は、自らの心に芽生えた寂しさに首を傾げていた。

 先ほど蹴破ったドアからは優しい朝陽が差し込んでおり、小さな家の中を照らし上げている。舞い上がった埃が陽に反射して、宝石のように煌めいていた。

 先ほどの仁太の言葉に、彼女の心は少しだけ痛んだ。何故かはわからないが、彼が敬語を使った時に、彼女の心がちくりと痛んだのだ。

 心を抓られるような、小さな痛み。それが何なのか分らないまま、禰豆子は床にぺたんと座りこんだ。

 ぐるぐると頭をめぐらせ、辺りを見渡していると、箪笥の上に何かが置いてあるのが見えた。

 傍に寄ると、箪笥はなかなか高く、禰豆子には届かない高さであった。

 幸い、身長を少しばかり変えることが出きる禰豆子は少しだけ大きくなり、箪笥の上に置いてあった物を掴んだ。その際に何かに触れた。

 それは、小さな写真立てだった。あまり触られていないのか、埃が積もっていた。

 写真立ての中には、幼少期の仁太であろう少年と、もう一人小さな女の子が映っている。両手でピースを作って太陽のように無邪気な笑みで笑いかけている少女は、どことなく仁太に雰囲気が似ている。多分、妹なのだろう。

 禰豆子は写真立てを元あった場所に置き、自分が先ほど掴んだものを見た。

 こちらは、クレヨンだった。子供が使う、優しい色だった。やはりこれも長い間触られた痕跡がなく、箱を開けてみるとほとんど新品のクレヨンたちが顔を覗かせた。

 クレヨンを見て目を輝かせた禰豆子は、近くにあった紙を取って、何やらぐりぐりと絵を描き始めた。クレヨンを使うのが初めてなのか、少し手こずっているようだった。

 

「よいしょっと……あれ、何してるんですか?」

 

 しばらくすると、薪を集め終わった仁太が家に入ってきた。仁太は地面に座り込みクレヨンを使っている禰豆子を見ると、少しだけ寂しそうな表情をしたが、すぐに優しく微笑んだ。

 

「そのクレヨン、気に入りましたか?」

 

 仁太の問いに、禰豆子がこくこくと頷く。双眸は爛々としており、その幼子のような反応に仁太は思わず笑ってしまった。

 

「そうですか。ならよかったです」

 

 覗き込むと、禰豆子は何やら人物を描いているようだった。

 黒と肌色で描かれたそれは、恐らく禰豆子本人なのだろう。

 紙の真ん中に立つ禰豆子の周りには、木のようなものが乱雑に描かれている。

 

 

 それだけ。

 

 

 ほかには何もない。他には人物もおらず、ただ禰豆子が一人で立っている絵だった。

 禰豆子は最後に黒いクレヨンで紙の上部に何かを書き始める。それは、ぐちゃぐちゃで読みづらいが確かに文字だった。

 

『ひとりぼっちの禰豆子ちゃん』

 

 何て悲しい題名なのだろうか。仁太は胸の痛みに眉を顰めた。

 禰豆子を見るが、特に悲しそうな表情ではない。多分、独りぼっちであるということが当たり前だったのだろう。だからこそ、その状況に傷つくことさえ忘れてしまったのだ。

 その事実に、彼の心は更に締め付けられる。

 

「禰豆子さんって名前だったんですね……僕は仁太です」

「……?」

「なんでもないですよ。よろしくお願いします」

 

 悲しみを抑えそう挨拶すると、禰豆子も同じく神妙な顔つきでぺこりと頭を下げる。そして顔を上げて、微笑んだ。

 その微笑みは、誰かの物に似ていて──

 

 

『お兄ちゃん、私のこと、忘れないでね……?』

 

 

 ふと脳内をよぎった過去の情景に、仁太は頭を押さえる。

 かつての記憶。忌々しい過去。忘れられない思い出。

 仁太は思い出と共に滲み出て来た涙を手でふき取った。霞む視界の端に、写真立てが立てられてあるのが見えた。あの時のことを思い出さないために故意的に反対側を向けていたのだが、禰豆子がクレヨンを取る際に立てたので、ふとした拍子に仁太の視界に入ってきたのだ。

 笑っている菜々美に、ちょっと不機嫌そうな仁太。二人並んで立つその姿は、誰が見ても仲が良い兄妹の写真だ。

 本当なら、今も横にいるはずの菜々美と共にこの写真を見て、懐かしいねなんて言いながら笑いあうはずだった。

 

 

 それを奪ったのは、他の誰でもない鬼だ。

 

 

 ある日唐突に仁太達が住む家に現れた鬼は、あっと言う間もなく菜々美を殺した。仁太は、菜々美が殺されるのを目の前で見ていた。何もすることが出来ずに。ただただ呆然と。

 

 仁太の寂しげな表情を見て、禰豆子が目を細める。その表情は、どこか慈しみの感情も混ざっていた。

 徐に立ち上がった禰豆子は、眦に涙が残る仁太の前に立ち、背伸びしてその頭を撫で始めた。それは、炭治郎がよく禰豆子にしていたことであった。

 急に頭を撫でられた仁太は驚きに目を見開いていたが、すぐに泣き笑いのような顔になる。

 仁太より小さなこの女の子は、それでもやはり鬼で、彼よりもずっと永い時間を生きている。そう実感させられるような優しい手つきだった。

 差し込む朝陽で居間は神秘的な空気を醸し出しており、それに包まれている二人は、真冬だというのに暖かそうな光の中で笑っていた。

 

 

 

 





人を食べれば食べるほど、強くなれば強くなるほど鬼は鬼として成長していくのではないかと思っています。
現に原作でも鬼になったばかりの者はまともに喋ることが出来ず、ただ人間に襲い掛かっていました。
しかし、人間を食べれば食べるほど鬼は人間だったころの記憶も失っていきます。
鬼として成熟するため人を喰らうか、人としての矜持を守るため飢餓に苦しみ幼いままでいるか。

禰豆子は後者を選んだため、未だに言葉が喋れないのではないかと思ったりしています。



以上、何故禰豆子が喋れないかという作者の自己解釈でした。

ちなみに禰豆子ちゃんは「おかえり」と「いのすけ」も喋ることが出来ますが、出すタイミングがありません()


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第陸話

二話に分けます。ちょっと尻切れトンボ感。


 ──お兄ちゃん、私のこと──

 

 目を覚ます。いや、本当は気づいている。僕は目を覚ましてなんかいない。ここもどうせ、夢の中なんだから。

 目の前にはごうごうと吹き荒れる槍のような吹雪。耳が寒さで千切れそうだ。

 空を見上げると雪と見間違えそうなくらいに小さな星々が夜空で幽かに揺らめいている。

 吹雪の合間を縫うように僕の耳に届いたその言葉は、忘れるわけもない彼女のもので。

 

 

「菜々美!」

 

 気づけば、飛び起きて走り出していた。

 声のする方へ、気配のする方へ。

 だが、わかっている。こんなの夢なんだ。夢でしかないんだ。

 菜々美に近づけば近づくほど、身体が重くなってくる。目頭が熱くなって、どうしようもない悲しさだけが胸の中に募っていく。吐く息だけが夏の雲みたいにもくもくと後ろに飛んでいく。

 豪雨のような吹雪を抜けると、そこは「あの日」と同じく春の麗らかな陽が降り注ぐ原っぱだった。不思議なことに、先ほどまで叩きつけるように吹いていた吹雪はもうそこにはなかった。

 

「お兄ちゃん……」

 

 膝に手をついて荒い息を吐いていた僕は、不意に耳朶を打った菜々美の声に顔を上げた。

 菜々美がいた。弾けるような笑みでこちらを見ていた。それを見ている僕の顔も、無意識のうちに綻んでいた。

 ああ、やっとだ。やっと僕は、菜々美を救うことが出来たんだ。

 菜々美に走り寄る。花柄の可愛らしいワンピースは、彼女があの日着ていたものと全く同じ。膝元に寄った皺までもあの日のままで。まるで、時が止まったみたいな……。

 

 手を伸ばす。あと少しでその白く柔らかな手に触れることが出来る。菜々美もこちらに手を伸ばす。その目は、何かを訴えかけるように揺れ動いていて────

 

 

 

『汚い、汚い、汚いのう』

 

 

 視界が揺れた。目の前にいたはずの菜々美の顔が、なんだか遠くへ行ってしまったような気がして、思わず頭を抱えた。いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。

 この声を、僕は知っている。僕の心の中にある恐怖という棚に詰め込まれたその存在。忘れたくもなかったし、忘れられそうにもない悪鬼。

 目を開くと、そこには──皮肉なことに──これもまたあの日と同じ格好をした、鬼の姿があった。

 元々は真っ白であっただろう死装束を絵の具やら何やらでどす黒い虹色に染めており、手に持った刀もまた同じように虹色の光を放っている。

 真っ青な肌は死装束と相まってまさに死人のよう。ぎらぎらと光る眼だけがこちらを捉えていた。

 

『お前の色はなんだ? お前の色はなんだ?』

 

 壊れた人形のように同じことを繰り返す鬼。しかしガチガチと歯を鳴らしていた僕は、何も応えることが出来なかった。

 

『汚いのう、汚いのう』

 

 嘲笑うようにそう呟いた鬼は、ゆっくりと刀を振り上げた。ぎらりと七色の煌めきが揺れて、こちらに向かってくる。

 

『お前の血は、赤色なのか?』

 

 吸い込まれるように放たれる袈裟切り。不思議な光を放つ刀は、そのまま僕の鎖骨を砕き内臓を斬り伏せるはずだった。

 

「危ないっ」

 

 どん、と誰かに押される。視界がぐらりと揺れて、すぐに地面と横づけになる。

 

 ああ、一緒だ。あの時と一緒だ。結局僕は、何も変わっちゃいないんだ。

 自らの情けなさに涙が溢れてくる。胸が絞られているかのように痛む。

 涙で淡く彩られた僕の視界に、臙脂色の雨が降り注ぐ。

 頬にかかったそれは、妙に生暖かくて……。

 見上げると、そこには鎖骨辺りから刀を生やした菜々美が、こちらを見ながら立っていた。

 

「あ、ああ……あああああっ!」

 

 あまりの衝撃に脳が上手く働かない。映像は瞳を通して脳に入ってくるが、それが何の意味を持っているのかすらも理解ができない。

 ただ、肌でひしひしと感じてしまう。

 僕は、大切なものを守れなかったのだ。

 肩口のすぐ下に生えた刀の根元から、じわじわと鮮やかな血が服を侵食していく。花柄のワンピースに薔薇が生えて来たようで、僕は目を見開いてそれを呆然と見ていた。

 刀が抜かれる。菜々美の傷口から血液が溢れ出て来た。

 そこでやっと僕は現実に戻ってきて、菜々美に駆け寄った。倒れこんだ菜々美を抱き起すと、その華奢な体はいつもよりも重く感じた。

 触った掌がぬるりと滑る。菜々美の命が漏れ出ている。

 

「菜々美、菜々美っ!」

「おに、い……ちゃ……」

 

 掠れた声で、菜々美は僕を呼ぶ。微かに開いた口からはひゅーひゅーと空気が漏れていて、菜々美の状態がいかに危ないかを示していた。

 顔は既に真っ青で、血の気がない。幼い僕にだってわかるほど、致命傷だった。

 

『色がない、色がない……汚いのう……』

 

 鬼は引き抜いた刀から血を払い、血だまりの中に倒れる菜々美と僕を見て呟いていた。その言葉に、僕の思考が怒りに染まる。

 菜々美の血を、汚いだって? こんなにも生きようと必死で、生にしがみつきながら涙を流す菜々美を、汚いと切り捨てたのか? 

 視界が赤く染まっていく。先ほどまで体を蝕んでいた恐怖の震えは消え去り、上塗りするかのように怒りの震えが体の隅々を支配していく。

 怒りに任せ言葉を発しようと口を開くと、それよりも先に菜々美が僕の袖をくいと引っ張った。

 見ると、脂汗を額にたくさん浮かばせた菜々美が、それでもにっこりと笑いながらこちらを見ている。

 

「大丈夫、怒らないで……? 私は、お兄ちゃんが生きていればそれでいいから……」

「菜々美、菜々美っ。もう喋るな、大丈夫だから。兄ちゃんが助けてやるから」

 

 その言葉に、菜々美は笑みを深くする。多分、気づいているのだろう。僕が菜々美を助ける術なんて持っていないことを。自分は、もうすぐ死へと転がり落ちていいくのだろうということに。

 だが、菜々美は笑う。その小躯のどこにこれほどの力が隠されていたのだろうかと思ってしまうほどに、力強い笑みだった。

 

「お兄ちゃん、私のこと、忘れないでね……?」

「忘れるわけないだろ! これからもずっと、一緒にいるんだから!」

「うん、うん……ずっと、一緒だから……一緒だから」

 

 菜々美の瞳がだんだんと虚ろになっていく。焦点の定まっていないその瞳は、果たして仁太の顔を見ているのか、それとも目の前を流れ行く走馬灯を眺めているのか。

 

「逃げて、お兄ちゃん……」

「けど、そしたらお前が!」

「いいから。逃げて。私は大丈夫だから……。お兄ちゃんは、私が……守る、から」

 

 もう喋るのも苦しいだろうに、菜々美は懸命に声を絞り出す。

 その力強い声音が原動力だったかのように、仁太の脚がひとりでに動き出す。ここに留まって菜々美のために戦いたいと心では思っているはずなのに、全く動けない。その代わりに足が動き始め、菜々美から遠ざかっていく。

 空は次第に白け始め、浮かんでいた星々もやがて明るい空に滲んで消えていく。

 逃げ出した仁太を、鬼は何も言うことなくじっと見つめていた。追いかける気はないようだった。

 

 足を引きずるように動かしながら、仁太は咽び泣く。

 結局、彼は変わっていないのだろう。

 妹を失って、こんな哀しみはもう味わいたくないと泣いたあの日から。一歩も進めずに、地団太を踏みながら指を咥えて空を見上げるだけ。

 上手く呼吸ができずに、溺れた子犬のようにあえぐ。熱くなった身体に雪が当たり、急速に冷やしていく。

 強くなりたかった。なりたいと願った。けど、何もできなかった。

 

 妹を守れるくらいに強くなって、そして二人でまた幸せに暮らす。そんな生活を毎晩夢見ては、引きずられるように目を覚まし現実に眩暈を起こす。

 

 大好きな妹を守る。守り切る。

 

 不滅の想いは変わらぬまま、ただその場にとどまり続けて。

 いつか、羽ばたき空飛ぶことを夢見ている。

 

 

 ▼

 

 

 頬を擽る、どこか心地よい感覚で仁太は目を覚ました。

 どうやら泣いていたらしく、目を開けたにも関わらず、視界がはっきりとしない。

 少し頭を動かすと、再び頬に何かが掠り、首元がむずむずするような痒さが体を取り囲む。

 起き上がり見てみると、禰豆子が仁太の横で同じく寝ていた。仁太を寝かしつけていたらしく、その手は彼の頬に添えられていた。くすぐったいと思っていたのは彼女の手だった。

 

「お姉さんみたいだ」

 

 ぼそりと呟くと、それに応えるかのように木枯らしがあばら家を軋ませる。

 禰豆子は、その見た目とは反して面倒見の良い優しい鬼である。悪夢にうなされていた仁太を心配し、寝かしつけようと頭やら頬を撫でるほどに。

 その行為が、今まで妹しかいなかった仁太に、姉という概念を植え付ける。

 仁太は、自分よりもずっと小さな少女のことを妹と見ず、姉のような眼差しで見ていたのだ。

 

 静かに立ち上がった仁太は、厠へ行くために玄関のドアを開ける。山の麓に住む仁太は、当然周りの社会とは断絶された場所に住んでいるので、彼の家にはこういった昔ながらの物がいくつも存在していた。

 ドアを開けた仁太は、寒さに両の手を擦りながら厠へと向かう。そんな彼の耳に、雪を踏む足音が聞こえて来た。

 頭をめぐらし足音の方を見ると、ひとりの男が立っていた。

 丁寧に切り揃えられた前髪が幾重にも重なっているかのような髪型で、太い眉の下の、酷い隈を持つ瞳が仁太を見据えている。二又になった眉尻がぴくりと動き、くすんだ金色の髪がさらさらと揺れていた。

 黒い詰襟の隊服のようなものを着ており、動きやすいようにと雪靴を履いている。背は仁太よりも頭一つ分ほど小さいが、その身体は無駄がなく引き締まっていることが見て取れ、目の前の男がどれほどの鍛錬を積んできたのかが明確に示されていた。

 彼の腰には大きな刀があり、男は仁太を警戒するように手をはばきの辺りに置いている。すぐにでもその刀身を曝け出せる自信があるのだろう。

 

 見つめ合う二人。剣呑な空気が辺りを覆う。

 先に口を開いたのは、剣士だった。

 

「鬼はどこだ」

「……は?」

 

 あまりにも突拍子のないその言葉に、仁太は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 仁太の反応に、男はむっと眉を顰める。

 

「鬼はどこだと聞いている」

「えと……どちら様でしょうか?」

 

 仁太の言葉に、男は自分が自己紹介をしていなかったことに気づいたらしく、刀から手を退かし口を開いた。

 

「悪かった……。俺の名は我妻善爾(あがつまぜんじ)。鬼殺隊の剣士だ。鬼の噂を聞いてここに来た」

「鬼殺隊……ですか」

「ああ、そうだ。鬼を滅し人々に安寧を与える。それが俺たちの役割だ。それで、鬼はどこにいる」

 

 話はもう終わりだとでも言いたげに、善爾は目を細める。

 風が吹き、積もり積もった雪の表面を吹き飛ばしていく。ヴェールのような雪に包まれた善爾の口からは、雪よりも濃いほけが風に揺らめいている。

 

「し、知りません。僕、鬼なんて知りません」

 

 気づけば仁太は嘘をついていた。

 禰豆子のことを言えば全てが解決するはずだった。

 妹を殺した憎い鬼。目の前にいるだけで膝が笑い始めるほどに怖い鬼。

 目の前にいる善爾は、鬼退治の専門家だ。禰豆子について話せば彼は容易に解決するだろう。

 しかし、仁太はあえて禰豆子のことを言わなかった。

 何故かは彼自身もわかっていない。

 ただ、確かに一つ言えることがあるとするならば、彼の中で鬼に対する価値観が変わっているということだった。

 鬼は絶対悪で、恐怖の対象。その今までの見方が、禰豆子と接しているうちに変わっていたのだ。彼女の優しい笑顔を、悲しそうな涙を見ているうちに、仁太は彼女を守りたいと思っていた。

 仁太の言葉に、善爾は目を更に細くし彼を睨みつける。目の下の隈がくっきりと見えた。

 

「嘘をつくな。俺にはお前が嘘をついているか、音でわかる」

「……音?」

「ああそうだ。お前からは嘘の音がする。それに、後ろの家の中からは鬼の音もしてくる。お前、一体何を隠しているんだ」

 

 語気を強めた善爾が一歩仁太に近づく。中てられた殺気に、仁太は数歩後ずさってしまう。

 再び、両者の間に剣呑な空気が流れる。

 先に動いたのは善爾だった。

 鯉口を切り、流れるように抜刀。そのまま腰を低く下ろし、地を蹴った。

 すると、彼の身体が霧のように揺らめいて消えた。あまりの速さに、仁太は目で追えなかった。

 高速で動く善爾の姿は見えず、彼の金の髪だけが流れるように動いて見える。それは、まるで稲妻が走っているかのようだった。

 不意に、目の前に善爾の体が現れる。額が地面に当たってしまうのではないかと心配になってしまうほどに前傾姿勢の善爾は、そのまま刀を振り上げ逆袈裟を仕掛ける。

 その剣筋だけをかろうじて視認することが出来た仁太は、のけぞるようにして剣の切っ先を躱す。鋭い音が耳に響き、銀の一線が流れるように仁太の視界に映った。完璧に避けたと思っていたが、見ると服の一部が斬られていた。

 背中から倒れこんだ仁太は、善爾のどろりと濃い殺気に体中から冷や汗を流す。

 彼は本気で殺す気だったのだ。

 

 攻撃を躱された善爾は、面白くなさそうな表情で再び刀を構える。

 今度避けられるかどうかはわからない。しかし、仁太は何故か降伏するつもりはなかった。

 何が何でも躱してやろうという思いが、彼の胸中でむくむくと膨らんでいた。

 

 立ち上がる仁太。善爾は特に動くこともなく、じっと仁太を睨みつけている。

 ぴたりと動きを止める二人。熱くなった体を雪が冷やしていた。

 しかし束の間の休息もすぐに終わる。善爾が体を傾かせ、再び刀を振るう態勢に入った。

 どこから刀身が襲ってきても躱すつもりで身を構えていた仁太だったが、善爾が動こうとしたまさにその瞬間、まるで二人を仲裁するかのように仁太の家のドアが吹き飛んだ。

 




オリキャラ登場です。
名字でわかるかもしれませんが、まあ後々キャラは説明したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第漆話

 

 

 睨みあっていた二人は、吹き飛んだドアを見る。捻じれた金具が凄惨さを語っていた。

 下手人は言わずもがな。ドアを蹴っ飛ばした状態でぼうっと空を見上げている禰豆子であった。

 

「ね、禰豆子さん! 何で出て来たんですか!」

「……?」

 

 何故怒られているのか理解していないのか、禰豆子はこてんと首を傾げる。

 

「お、はよう……大丈夫」

「おはようございます! けど今それどころじゃないんですって! 家の中に入っててください!」

「禰豆子だと……?」

 

 首を傾げる禰豆子を無理やり家の中に戻そうと格闘していた仁太は、後ろから聞こえて来た氷よりも冷たい善爾の声に思わず振り返った。

 善爾は、鬼をも殺せそうなほどに鋭い視線で禰豆子を睨んでいた。禰豆子は殺気に身構え、小さな声で唸る。

 

「貴様、禰豆子というのか……」

「お、鬼退治さん! 禰豆子さんは鬼なんですけど、優しい人なんです! 別に俺を喰ったりしてませんし、そんな素振りも──」

「やかましい」

 

 一蹴。善爾は仁太の言葉を切り捨てると、緩慢ともいえる所作で刀を構えた。

 

「貴様が本当に禰豆子という鬼ならば、俺は貴様を斬る」

「き、斬るって……禰豆子さん、この人に何かしたんですか!?」

 

 首を振る禰豆子。どうやら彼女も善爾のことは知らないらしい。

 

「知らないだろうな。俺だって話を聞いていただけで実際に会うのは初めてだ」

「じゃ、じゃあなんで……!」

「お前に語る必要はない」

 

 再び一蹴。善爾の瞳からは怒りが見て取れた。

 再び身を傾ける善爾。空気がぴんと張り詰める感覚が辺りを覆った。

 善爾が息を吸う、どこか不思議な音だけが辺りに満ちていて、禰豆子は思わず少し距離を取った。

 

「雷の呼吸、壱ノ型────」

 

 善爾の周りを紫電が飛び交う。彼の周りにあった雪は溶けて消え、むき出しの地面が何らかの力によって捲れあがっていた。

 善爾の呼吸の音がいよいよ大きくなって、彼の身体が更に傾く。

 禰豆子が目を見開き、襲い掛かってくるであろう善爾を見る。

 

 そして、善爾が一歩踏み出して──

 

「霹靂一閃」

 

 消えた。

 否、消えたのではない。加速したのだ。

 先ほど見せた走りとは比にならない速度での直線疾走。それは、仁太の眼にはもちろん、禰豆子の眼をもってしても完全に見極めることはできなかった。ただ、雷のような轟音が響き渡って、次の瞬間には敵が目の前にいる。

 善爾が飛び出した瞬間、禰豆子は本能的に危機を察知し飛びのいていた。

 結果、善爾が禰豆子に負わせた傷は頬に残る浅くはない傷一つだけ。それも、数十秒もしないうちにすぅと消えてしまった。

 しかし、その傷は禰豆子を怒りの渦に落とすには十分すぎるものだった。

 牙をむき出しにして威嚇する禰豆子の体躯は、先ほどよりも確実に大きくなっている。仁太よりも頭一つほど小さかったその身体は、今や彼よりも大きく筋肉質な巨躯に変わっていた。右眉の少し上には大きな角が付いており、その禍々しさに善爾は微かに目を見開いた。

 見開かれた、猫のような瞳孔はぴたりと善爾に向けられている。

 

「……それがお前の真の姿か? 醜い鬼め」

 

 豹変した禰豆子の姿に暫しの間動きを止めていた善爾だったが、すぐに刀を構えなおす。

 禰豆子は何も応えることなく、ただ唸り声をあげている。

 

「その首、すぐに断ち切ってやる」

 

 霹靂一閃。

 

 

 再び善爾が霞のように消える。彼が立っていた地面の雪が捲れ上がり、舞い上がる。まるで岩に叩きつけられ白く泡立った波のようだった。

 目にも止まらぬ速度で禰豆子に肉薄した善爾は、身を捩り手に持った刀──日輪刀を彼女の首に向け振り抜く。

 禰豆子はそんな善爾に向け手を伸ばし──

 

「禰豆子さんっ!」

 

 しかし、その手が触れる直前、仁太が禰豆子の名を呼んだ。その瞬間、彼女の目が大きく見開かれ、まるで何かを押さえるかのようにぎゅっと伸ばした掌を固く握りしめた。

 

 しかし善爾の刀は止まらない。吸い込まれるように動きを止めた禰豆子に向け振り抜かれた刀は……それでも彼女の首を切り離すことはなかった。

 

「なっ!?」

 

 首を切り落としたと確信していた善爾は、刀を全力で振り抜いた反動で態勢を崩す。空中で態勢を立て直すことも出来ないまま、彼は雪の中へと突っ込んでいった。

 彼の太刀筋は確実に禰豆子の首を斬るはずだった。しかしできなかった。

 起き上がった善爾は、何故自分の刃が禰豆子に当たらなかったのかを理解する。

 

 先ほどまで善爾よりも大きかった禰豆子が、今度は膝辺りまでしか身長のない幼女に変わっていた。

 怒りに豹変していたその姿は元に戻っており、大粒の汗を額に浮かべながらも目を固く閉じているその姿は、まるで自らの中で何かと戦っているような姿だった。

 やがて彼女の中で決着がついたのか、禰豆子が目を開く。薄桃色のその瞳からは、怒りの音は聞こえてこない。

 善爾はまろび出そうになった悪口を口内で転がし、禰豆子に刀の切っ先を向けた。

 

「貴様が怒りを収めたところでどうだというのだ。俺は変わらず貴様に刀を突きたてるだろう」

 

 言い終わらぬうちに地を蹴り加速。出来る限り姿勢を低くしながら疾走し、禰豆子の足元に潜り込む。

 大きく息を吸い、全集中の呼吸をおこなう。酸素が体中に送り込まれ、血液が活性化していくのが手に取るようにわかる。筋肉が増強され、みしりと身体のどこかから筋肉が軋む音がした。

 

 左足をひきつけ、両手で柄を持つ。両の手に全ての力を乗せ、善爾は驚愕の表情で彼を見下ろす禰豆子に向かって刀を振り上げた。

 

「雷の呼吸伍ノ型 熱界雷っ!」

 

 振り上げられた刀身はまっすぐに禰豆子に向かい進み、その左わき腹を裂きなおも突き進む。禰豆子の表情が痛みに歪んだ。

 しかし、胴体が真っ二つに分かれる直前に仰け反ったおかげで、禰豆子の傷はそこまで致命傷にはならなかった。

 しかし、治癒するには数十秒の時を必要とする。

 その隙を見逃すほど善爾は甘くはなかった。

 

「その首、もらったっ!」

 

 倒れこみ苦しそうに善爾を見上げる禰豆子に向かい、彼は高らかに勝利を宣言しながら刀を振り上げる。

 そして、禰豆子の首に向かって、落とすように刀を振り切った────

 

 

 

 




【大正コソコソ噂話】
善爾は全集中の呼吸・常中を使えないよ。理由は明らかではないけど、常中を教えてくれる師匠がいなかったっていうのが理由と言われてるよ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第捌話

 仁太は、しりもちをついたまま、目の前で繰り広げられている戦闘をただ茫然と眺めていた。

 禰豆子は鬼だ。だから、自分とは違うとは理解しているはずだった。

 だが、いざ現実を目の当たりにすると、言葉に出来ない悲しさが彼の胸に宿った。

 禰豆子が、先ほどまで笑いあっていた人が戦っている。そして自分は何もできずに蹲っているだけ。

 何も変わっていない。あの日から。あの時から。

 

 禰豆子と善爾の実力は、少なくとも仁太からすれば拮抗しているように見える。お互いが相手に致命傷を与えられないまま、ずるずると戦闘は続いていた。

 しかし仁太は知っている。

 永遠なんてないことを。ずっと続くものなんてないことを。

 心地よい場所にいたら、無意識のうちにその空間がずうっと続くのではないかという錯覚に陥ってしまう。

 しかしそんな現実はない。時が経てば何もかもが変わっていく。

 花は枯れるし人は死ぬ。

 拮抗していたと思っていた二人も、徐々に差が出始めた。

 

 善爾の動きが変わった。先ほどまでも俊敏な動きを見せていたが、彼が不可思議な呼吸を始めてからは、それが更に速くなった。その身体が消えたのかと錯覚してしまうほどの速度で一直線に走る善爾は、そのまま禰豆子の首に向け刀を振るう。

 ぞわりと、心が粟立った。禰豆子が殺されそうになって、仁太は初めて恐怖を覚えたのだ。

 幸いなことに禰豆子は何とかその剣筋を躱したが、次に躱せるかどうかはわからない。仁太は動かない自分の足を呪いながら、心の中で練豆子を応援した。

 刀を空ぶらせた勢いで倒れこんだ善爾だったが、すぐに起き上がり再び刀を構える。

 

 行かなければ。この戦いを止めなければ。

 そう思ってはいるものの、脚が動かない。まるで接着剤でも塗りたくられたかのようにぴたりと地面にくっついて離れないのだ。

 

 仁太は小さく舌打ちをする。変わりたいと願っていたのに、この体たらく。自らの情けなさに恥じるのはこれで何度目だろうか。

 自分に向け叱咤激励を飛ばすが、返ってくるのは僕が行ったところでという弱気な言葉。

 

 善爾の逆袈裟斬りのような斬撃が禰豆子に直撃する。左わき腹にするりと入った刀は、そのまま障害物もなく禰豆子の体を切り裂いていく。

 あわや真っ二つというところで禰豆子がかろうじて身を仰け反らせ刀から抜け出す。しかしその表情は苦痛で歪んでいる。

 当たり前だろう、身体を切り裂かれたのだ。

 禰豆子の苦しそうな表情を見るだけで心が痛む。それなのに、脚はかたくなに動かない。

 息が荒くなって、視界がぼやけてくる。禰豆子から滴る血に自分の情けなさを重ねて、仁太は胸を痛めていた。

 身体を切り裂かれた禰豆子が、苦しそうに息を吐きながら膝をつく。

 それを見た善爾が叫んだ。

 

「その首、もらったっ!」

 

 吸い込まれるように落ちていく刀。もう避けようがない。

 これから起こるであろう凄惨な光景を頭に描いた仁太は、そのあまりのむごさに目を固く閉じた。

 

『──お兄ちゃん』

 

 そんな仁太を呼ぶ、懐かしい声。

 目を開くと、真っ暗な世界の中にぽつんと、菜々美が立っていた。

 

『お兄ちゃん、守ってあげて』

 

 掠れた声で菜々美は言葉を紡ぐ。目には涙が溜まっていた。

 

『彼女を、守ってあげて』

 

 

 目を開いた仁太は、近くに落ちていたこぶし大の石を拾うと、善爾に向って全力で投げつけた。

 まっすぐに飛んで行った石は、禰豆子の首に当たる寸前だった善爾の刀に当たった。

 ぴたりと止まる善爾の刀。禰豆子はその隙を見て後ろに跳んだ。彼女の首筋から血が垂れていた。

 

「……お前、鬼に憑りつかれてるのか?」

 

 地面に転がった石を一瞥した善爾は、刀を仁太に向けながら尋ねた。

 

「何故鬼を助けようとする。鬼は人を喰う下衆共だ。守る意味なんかない」

「鬼を守れるほど、僕は強くありません……。今も昔も、守られてばかりの弱虫なんです」

 

 震える声で仁太は応える。けれどもその声の芯には、手に取って触れるほどに現実味のある勇気があった。

 

「そ、それでも……そんな僕にだって正しいことと悪いことくらいはわかります……!」

「……それで、お前は俺の行為が悪いことだというのか。俺の方が悪人だというのか」

「僕からすれば、あなたは悪人です。罪のない一人の少女を切り捨てようとした、極悪人です!」

 

 きぃんと、雪山に仁太の声が響き渡る。不思議と脚の震えは止まっていた。

 善爾は叫んだ仁太を冷めた目で見ると、吐き捨てた。

 

「頭が固いやつめ。どの時代だって頭の固い馬鹿から死んでいく。お前もその一人だったということだろう」

 

 善爾が消える。そう思ったら、次の瞬間には目の前に現れていた。

 身体を横に捻じり、刀の切っ先が背中の後ろに隠れるほどに振りかぶった善爾は、流れるような動作で刀を振る。ぴたりと向けられた双眸からは情けは微塵も感じられず、ただただ怒りが滲み出ていた。

 死を直感した仁太は、目を閉じることもなく自分の胴へと向かっていく刀を見ていた。

 

 だがしかし、善爾の刀が仁太を切り裂くことはなかった。

 その刃が仁太の胴に届く一瞬前に、一つの影が目の前に現れる。

 禰豆子だった。禰豆子は仁太に迫っている刀を素手で掴むと、切り裂かれるのもお構いなしに思い切り握りしめた。紅い血が垂れ、純白の雪の上に日の丸のような紋章を作っていく。

 しかし、禰豆子が負った傷はそれだけだった。

 善爾はそれ以上、刀を禰豆子に押し込むことが出来なかったのだ。

 まるで、石に刃を立てているような硬さ。中途半端に食い込んだ刃のせいで、善爾は動くことも出来なくなっていた。

 禰豆子がもう片方の拳を握りしめる。その拳に、善爾は不思議と冷静な気持ちで自身の終わりを察した。

 振るわれる拳。行先はもちろん善爾の腹部。

 鈍い音が山中に響き渡り、小鳥たちが驚いて飛び立っていく。枝に積もっていた雪が衝撃で地面に降り注いだ。

 腹部に重い打撃を受けた善爾は、ゆっくりと前傾姿勢になって──今度は消えることなく雪の上に倒れこんだ。白目を剥いている辺り、気絶しているらしい。あれほどまでにすさまじい打撃を食らって気絶だけなのは、やはり彼の身体が強靭なためなのだろう。

 

 善爾から腕を離した禰豆子は、未だに血が流れ落ちる腕をさすりながら仁太を見る。その瞳に宿る優しさは、まるでお手本のような美しさで。

 思わず見惚れていた。先ほどまでの危機のことなどとうに忘れ去ってしまった仁太は、何もかも忘れて微笑む彼女を見つめていた。

 彼女の掌の傷が完治する。まるでぎゅっと閉められた蛇口のような鮮やかさだった。

 禰豆子が仁太に近づく。しりもちをついている仁太は動くことも出来ずに、ただ彼女の優し気な顔を見上げていた。

 仁太の目の前まで歩いてきた禰豆子は、徐にしゃがみ込むと仁太の頭を撫でた。

 その温かさと優しさに、思わず仁太は泣きそうになっていた。慌てて目頭をぐっと抑えると、引っ込んだ涙が胸の奥底がじんわりと温めた。

 

「ありがとうございます、禰豆子さん……」

 

 何も言うことなく頭を撫で続ける禰豆子に仁太は礼を言う。

 いつもみたいに、決まった数個の単語しか喋れない禰豆子に対する独り言のようなものだった。実際、仁太は返事なんて想像していなかった。

 だからだろうか──禰豆子が口を開いた時、仁太は思わず目を見開いて彼女の顔を見た。彼女はにっこりと笑って仁太を見返した。

 

「私も……あ、りが……とう。じん、た」

「禰豆子……さん?」

 

 全ては変わっていく。

 花は枯れるし人は死ぬ。

 

 変わらぬと言われていた鬼もまた、少しずつ変化していっている。

 

 例えば、人から隠れて暮らす鬼。

 例えば、人と争わずに逃げ惑う鬼。

 

 そして、だんだんと人間の心を取り戻していく鬼。

 

 

 がちりと動かなかった禰豆子の中の歯車が、少しずつ動き始めた。

 動き始めた二人を祝う祝詞の如く、暖かな光が二人を包んでいた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第玖話

遅くなりました。


 

 

 善爾にとって、鬼という生物は憎悪の対象でしかなかった。

 鬼殺隊であった両親は、戦いの最中に殉職した。人々の平安を守るために、己の身を滅ぼしてまでその刀を振るったのだ。

 鬼殺隊は政府に認められていない非公式の組織である。鬼を殺したところで誰からも礼など言われない。それなのに、両親は必死に戦った。

 彼らの原動力となったのは、祖父への愛情だった。

 愛する親のため、善爾の両親は自らの命をも散らしたのだった。

 

 善爾は、今は亡き祖父が大嫌いだった。

 彼の祖父はとても強い人だったらしい。

 当時何人もの柱が敗れ、その命を落としていた鬼舞辻無惨直属の鬼である十二鬼月の上弦を一人で斃したという話も残っているほどだ。

 

 そんな、伝説のような祖父。

 だが、やはり善爾は彼のことを好きになれなかった。

 

 祖父は、鬼に憑りつかれていたのだ。

 柱になれるほどの実力を持っていた祖父は、それでも柱になることはなかった。鬼舞辻が消えた後、彼が真っ先にしたことは、一人の鬼を捜索することだった。

 

 それこそ、血眼で。自らの命を削ってまで、祖父は一人の鬼を探していた。

 何でも、恩のある鬼だったそうだ。

 名前は竈門禰豆子。善爾も、両親から聞かされていた。

 

 祖父の最期の言葉は、我が子に対する感謝の言葉でもなく、鬼を殺しきれなかった悔いの言葉でもなく。

 たった一言の、簡単な言葉。

 まるで我が子を伝達用の烏としか思っていないかのような、業務的な言伝だったらしい。

 

 善爾の両親は、祖父の遺言に忠実に従い、その言葉を届けるために鬼と戦い禰豆子を探していた。

 

 

 

 

 ──だから、死んだ。

 

 

 

 

 鬼に言葉を届けるなどという馬鹿なことを成し遂げようとしたために、殺された。

 

 だから善爾は、もし自分が禰豆子を見つけたら、絶対に殺してやるという心持で鬼殺隊に入ったのだ。

 入ったといっても、鬼殺隊は既にほとんど活動をしておらず、哨戒を繰り返しているだけの警備集団だった。

 銃刀法違反という法がある世の中では、当たり前といえば当たり前のことだった。

 

 しかし善爾は諦めることなく、法に触れそうな手段を使ってまでして日輪刀を手に入れ鬼殺を続けていた。

 

 

『おじいちゃんはね、すごく優しい人だったの』

 

 それが、善爾の両親の口癖だった。

 

『優しすぎて、他人に騙されるようなお人好し。捨て子だった私たちを養子にしてくれて、本当の子供みたいに育ててくれた……それが私たちのおじいちゃん。けどね、そんなおじいちゃんよりも優しい人がいたって、おじいちゃんが昔言ってたの』

 

 かつての日を懐かしむように目を細める両親。善爾は彼らのそんな表情が大好きだった。

 

『それが、私たちが探している禰豆子さんって鬼と繋がるの。だからね、私たちはおじいちゃんからもらった愛情と恩を、禰豆子さんに返すの』

 

 善爾は、意味がわからなかった。

 何故祖父が受けたものを親が返さなければいけないのか。祖父が返せなければそれで終わりでいいだろうと思っていたのだ。

 

『善爾もいつかわかるはずよ。想いはね、消えないの。ずぅっと残り続けて、優しく光り続けるの』

 

 優しい口調。肌に溶け込んで、心を撫でていく春風のような声音。善爾は目を閉じて、優しさの音を聞きながらまどろみの中へと落ちていく。

 

『滅びることのない、消えない想いを、私たちが受け継ぐ。そしていつか、おじいちゃんに、禰豆子さんに届くように……それまで、大切にしていくの』

 

 その日、善爾は祖父の遺言を受け取った。

 使うことなどないと心の奥底に封印していたその言葉は、不思議なことに忘れることはなく、ずぅっと彼の心の内で暖かな音を鳴らし続けていた。

 

 祖父の名前は我妻善逸(あがつま ぜんいつ)

 かつて、竈門炭治郎兄妹と共に戦っていた、一人の鬼殺隊だった。

 

 

 ◆

 

 

 鼓膜をゆっくりと震わせる優しい音で善爾は目を覚ました。

 身体を包む暖かさは、鬼を滅するために軽装で雪山に上ってきていた彼の心を緩ませる。

 目を開けてしばらくの間は優しさの音に浸っていた善爾だったが、不意にその優しさの音に紛れて鬼の音がしていることに気が付き、自分が陥っている状況を思い出した。

 布団を蹴り飛び起きる。日輪刀を探すが、いつもは枕元に置いてあるその感触を感じられない。

 顔を上げると畳の上に座り込んでクレヨンで何やら描いている鬼と人の姿がある。

 竈門禰豆子。祖父の恩人とやら。八十年という月日が経って初めて善爾は巡り合うことが出来たのだ。胸中に沸き上がる、憎しみとは違う何かの感情に善爾は顔を顰めた。

 見ると、彼女のすぐそばに善爾の日輪刀が置かれていた。

 起き上がった善爾に驚いたのか、男と禰豆子がこちらを見る。

 暫くの間睨みあっていた善爾と禰豆子だったが、禰豆子はそこまで善爾に興味がないのか、すぐにクレヨンで何かを描き始めた。

 

「おい、俺の刀を返せ」

 

 鋭い声で言うと、禰豆子は面倒くさそうに肩越しで善爾を見つめ、傍にあった日輪刀をぽいと彼に向って投げた。

 まさか本当に返してもらえるとは思っていなかった善爾は、しばらくの間目の前に回転しながら滑ってきた日輪刀を眺める。

 しかし、善爾が我に返って刀を握る前に、仁太が慌ててそれを取り上げた。

 

「何やってんですか禰豆子さん! また斬られますよ!」

「大丈夫、私、仁太、まもる……」

「それはありがたいんですけど、僕としてはもうちょっと安全な方法で……」

 

 唸ってばかりだった禰豆子が話していることの驚く善爾だったが、すぐに立ち上がり仁太を睨む。

 

「さっさと刀を返せ。俺は一刻も早くこの鬼を殺さなければならん」

「だめですよ! 禰豆子さん、せっかくいろんな言葉喋れるようになったんですから!」

 

 善爾の睨みにも、仁太は大して怯えることなく言い返す。先ほどまでの怯えっぷりとは天地の差である。

 

「喋れるようになった? そんなどうでもいいこといちいち報告するな。鬼は殺す、それだけだ」

「けど、禰豆子さんは何もしてないじゃないですか!」

「何かしてからじゃ遅いんだ。さっさと刀を返せ」

「渡せません。絶対に渡しません! 禰豆子さんに危害を与える人の手助けなんて、僕は死んでもしません!」

 

 死んでも渡さないの意思表示なのか、仁太が刀を抱き蹲る。

 善爾は蹲った仁太を見下ろし、苛立たし気に叫んだ。

 

「鬼は殺さなきゃいけない存在なんだよ! 放っておくと人が死ぬ! それをお前は見殺しにするつもりか!?」

「禰豆子さんは人を殺したことなんてない! 善爾さんだって、殺されてないじゃないですか!」

「…………っち」

「禰豆子さんはあなたを殺すことだってできた! それなのに、介抱までしてあなたを生かしたんです! 禰豆子さんは他の鬼とは違うんです! そんなのもわからないんですか、あなたは!」

 

 捲し立てるような仁太の言葉に、善爾は思わず黙り込んでしまう。

 正論だった。禰豆子は善爾を気絶させたにも関わらず、その命を奪うどころか布団を敷いて彼を介抱までしたのだ。

 それに、善爾だって理解していた。

 禰豆子の内側から溢れてくる、泣いてしまいそうなほどに優しく悲しい音。鏡張りの地面に映る青空のように綺麗で、透き通った音。

 交じり合ったその音は、複雑な音階で善爾の鼓膜を揺らす。

 

 禰豆子は悪い鬼などではない。心優しい、小さな女の子なのだ。

 

 しかし、善爾は自分の心を斬り捨て拳を握りしめる。心の奥に燻るのは、あの日の両親の言葉。

 優しいはずだった祖父の言葉は、呪いになって善爾を蝕んでいた。その蝕まれた呪いを原動力に善爾は動いていたのだ。

 禰豆子を憎んでいたはずだった。素晴らしい祖父を誑かし、鬼を愛する道へと誘った悪鬼だと思っていた。

 それなのに、目の前の禰豆子を見ていると今まで信じていた自分の心が揺らいでくる。

 その優しい音を聞くと、自分が間違っていたのではないかと思えてくる。

 実際、善爾が間違っているのだろう。

 祖父は正しかったのだ。全ての鬼が悪いわけではなく、中には人間に歩み寄ろうとする鬼もいるのだと。

 だが、それでも善爾は心の刃を収めることが出来なかった。

 貫き通していた今までの自分を曲げるわけにはいかなかった。

 

 自分が何のために鬼殺隊に入ったのか、善爾は苦虫を噛み締めているような表情で二人を睨んだ。

 

「……俺の親は……貴様を探している最中に死んだ! 鬼に貴様のことを尋ねて、隙を見せた瞬間に嬲り殺されたんだ!」

 

 突然の善爾の科白に、禰豆子は目を見開く。その言葉の意味を理解したのだ。

 禰豆子の顔がどんどんと暗くなっていく。その表情はまるで夏の空を埋め尽くす曇天のようで、見る者の心を不安にさせるものだった。

 

「貴様がいなければ、死ななかった人たちだ! 俺の祖父も、お前を探そうとしたせいで柱になれず、うだつの上がらないまま死んでいった!」

 

 禰豆子に責められるような非はないことなど、善爾にもわかっていた。

 だが、理解するのと納得するのでは話は別だった。

 大好きだった両親。いくら嫌いになろうとしてもいつも憧憬の眼差しで見ていた祖父。

 全員、全員。

 一人の鬼に囚われたせいで死んでしまった。

 

 ふと、善爾は両親が生前彼に向け優しい口調で話していたことを思い出した。

 

『私たちはね、おじいちゃんの遺言に縛られて禰豆子さんを探してるわけじゃないのよ、善爾』

『禰豆子さんはな、私たちの恩人でもあるんだ』

『おじいちゃんを助けてくれて、優しさの本当の意味を教えてくれたの。もしおじいちゃんが禰豆子さんに会っていなければ、私たちは鬼を斬るために刀を振るっていたかもしれないもの』

 

 善爾には意味がわからなかった。

 鬼なんて憎んで当然の生き物だ。刀を振るなんて、鬼を殺す以外にどうやって使うのだろうか。

 そんな善爾を諭すように、語り掛けるように言う。

 

 

『それじゃダメよ。何事も本質を見抜かなきゃダメ。ただ闇雲に刀を振るうだけなら、悪鬼と一緒よ。勧善懲悪の意味をはき違えては、あなたは強くなれないわ』

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、善爾の手は震えていた。仁太を退かせば、すぐに刀が手に入る。それなのに上手く力が入らなくて、棒立ちしたまま禰豆子を睨んでいた。

 

「この世界、頭の固い馬鹿が先に死んでいくんだ! 全員鬼を斬れなかった弱者だ!」

 

 心の中身を全てぶちまけた善爾は、荒い息で禰豆子と仁太を見る。

 禰豆子は、悲しそうな瞳でこちらを見ていた。彼女からは、寂しさと哀れみの音が聞こえていた。

 薄桃色の瞳を悲しそうに細めた禰豆子は、か細い声で尋ねた。

 

「本当の強さ……なに?」

 

 その言葉に、善爾は言葉を詰まらせる。

 それを聞いていた仁太もまた、身につまされる思いだった。

 強くなりたいと思っていた。どうすればいいのかわからなかった。ただ漠然と漂うだけの日々はとても辛く耐え難いものだった。

 禰豆子は静かな瞳で善爾を見据える。

 

「鬼、斬る……強い?」

「……刀をより使える方が強いに決まっている」

「違う」

 

 首を振る禰豆子。そして、さも当たり前かのように言った。

 

「何かを守る……もっと、強い」

「…………」

 

 善爾は握りこぶしを解き、刀を取ろうと上げていた腕をだらんと下げた。

 

 何も言えなかった。目の前にいる少女の言葉はどこまでも正しく、宙ぶらりんのまま苦しんでいる善爾の心を射抜いた。

 

 ……思えば、彼の両親はいつも誰かを守るために刀を振るっていた。

 例え自分が危なかったとしても、死の淵にまで追い込まれたとしても。

 決して、自分の感情で刀を振るうことなんてしなかった。

 

 多分、祖父もそうだったのだろう。

 祖父はとても優しかったと聞く。

 その祖父は、この少女から、優しさの本質を教えてもらったのだろうか。

 善爾は急に、自分が情けなくなってきた。

 

 鬼を殺してきて数年という年月が経ち、やっとそんな簡単な事実に気が付いたのだ。

 そしてそれを彼に教えたのは、他の誰でもない鬼。憎んでいた鬼から大切なことを気づかされ、善爾は改めて自分の小ささに気が付いた。

 自分の両親も、こんな想いを持って刀を振るっていたのだろうかと思うと、なんだか胸の奥が酸っぱくなって、よくわからない感情が彼の心を占めた。

 

「何かを守ることが強い……」

 

 そう呟くと、心のどこかが暖かくなったような気がした。その場所は紛れもなく、彼の祖父が子孫に託した言葉があった場所で。

 やはり彼も、我妻の意思を紡ぐものだったということなのだろう。

 何だか急に体が怠くなった善爾は、大きなため息を一つ吐いた。

 

「…………わかった。わかったよ」

「……何がわかったんですか?」

「めんどくさいなお前。もうこの鬼に斬りかかることはしないって言ってるんだ。ほら、さっさと刀を返せ」

「本当ですか? 返した瞬間襲い掛かりません?」

「本当に面倒くさいなお前!? さっさと返せこの野郎!」

 

 ひったくるように刀を奪うと、腰にぶら下げる。刀の重みが心地よい。

 

 それは、守るもののために振るう刀の重さだった。

 

 

 蹴り飛ばされたドアを踏みつけ外に出ると、禰豆子もついてくる。

 

「なんだお前、餌はないぞ」

 

 肩越しに振り返りそう答えると、禰豆子はぽかんと首を傾げた。

 

「ばいばい、いのすけ」

「誰だそれは」

 

 鋭く問うと、禰豆子はころころと笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おじいちゃんが私たちに託した伝達はね、とても簡単なものだったの』

 

 

 

 

 

 ふと、善爾の心の中で眠っていた両親の言葉が起き上がる。

 

 

『とっても簡単で、だからこそおじいちゃんらしくて』

 

 

 そう言う両親の表情はとても楽しそうで。善爾はそんな顔をずっと見上げていた。

 

 

『だからね、善爾も大きくなったら、その言葉の意味を、分かってほしいの』

 

 

 あの日の約束。その言葉の意味を知ることが出来ずに走り続けた鬼殺の日々。

 長い、長い、遠回りの後、ようやく善爾は答えにたどり着くことが出来たのだ。

 

 

『絶対に忘れないでね、この言葉をおじいちゃんが禰豆子さんに言おうとしていた言葉。それはね────』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──ありがとう」

「……?」

 

 

 ぽつりとつぶやかれた言葉に、禰豆子は再び首を傾げる。

 若干の気恥ずかしさを感じつつも、善爾は再び口を開く。

 

「ありがとう、だよ。俺の祖父と、両親からの伝言。お前に……禰豆子に伝えてくれってさ」

「…………うん」

 

 暫く考えこんだ後、禰豆子ははにかんだ。その表情は、彼の両親が見せたものと同じくらいに優しいものだった。

 

 

 

 あの日伝えられなかった想いは、愛は、温情は、八十年の時を経てそれを持つべき者の胸中へと帰っていく。

 時に形を変え、時にその意味すらも変えながら、それでも消えることなく紡がれていく。

 不滅の想いは禰豆子の中へ。

 

 口角を僅かに上げた善爾は、晴れ渡った空を見上げるような爽快感に包まれながら目を閉じた。

 彼の目の前には、既に亡くなったはずの両親と、一人の男が立っている。

 善爾と似たような姿恰好をしている彼は、多分──いや、推測などしなくても答えはわかっていた──善爾の祖父である、我妻善逸なのだろう。

 善爾の両親と祖父は、何を言うでもなくただ彼を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。

 優しい音が彼を包む。幼子が母親の膝元で微睡むような、深い安心感。

 

「ありがとう」

 

 囁くように善爾は言う。

 それは、誰に向けての言葉だろうか。それは彼自身にもわかってはいなかった。

 ただ一つ言えることがあるとするならば……それは決して祖父の遺言ではない、自分自身の正直な気持ちだということだけだった。

 

 

 

 




いのすけという言葉が使えて満足です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。