二年くらいでぽっくり逝くTS少女 (am56x)
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第一話:変貌

 

 石炭を原動力とし、盛大に煙を巻き上げて汽車が走っている。晴れやかな初夏の青空の下を緩やかな丘陵を縫って走る汽車のコンパートメント席は閑散としていた。赤を基調として荘重に設えられた四人掛けの対面席をそれぞれ扉で仕切った席に一人、陰鬱な顔をして窓枠に肘をつく一人の美少女の姿があった。

 

 栗色の作り物めいた艶々とした髪をボブカットにして、垂れ下がった目尻が愛おしい瞳は紅い。十二歳ほどだろうか、まだ子供らしい顔つきは美しくそしてあどけない。たおやかで柔らかな雰囲気を醸し出す美少女は、簡素でありながら仕立てのよいワンピースに身を包み一人ちんまりと席の隅で座り込んでいる。

 

 彼女はじっと自らの手の平を見つめ続けていた。小さく愛らしく、そして美しい白い手だった。彼女はその手を見て、ぽつりと呟く。

 

「随分と変わってしまったものだ」

 

 

 

 一か月前、トロワ王国を災厄が襲った。大学の発掘チームが調査にあたっていた古代遺跡から魔王と名乗る強大な存在が復活し王都を蹂躙したのだった。

 

 人口三百万人を誇り、列強有数の優美な都市として知られていた王都シャルトー・エ・ヴィリアは都市面積にして半分近くを瓦礫に変え、またその人口のうち実に百万人近くが死傷する未曾有の大打撃を受けた。

 

 しかし、トロワ王国には未だ知られぬ英雄がいた。王立魔術研究所の研究員であるレイド・アラルガド。稀代の天才として知られたレイドは、魔王の第一撃を逃れ反抗部隊を集めていた王族唯一の生き残りクーリュリア王女に協力し魔王討伐に参加し、その要となる作戦を決行した。

 

 精神と肉体の交換術。本来は年単位の準備期間と莫大な魔力を必要とする大魔術をレイドは即席で対魔王戦の切り札として活用する。魔王と自らの肉体を交換し、魔王の魂を自らの肉体に宿らせ、そしてその肉体を塵一つ残さず消滅させるよう言い残しレイドは散った。

 

 

 公的には、レイドはその肉体を犠牲にし死んだとされている。レイドの魂が入り込んだ魔王の肉体の方も残っていない。怒り狂った魔王のヘイトを稼いで爆散したとされている。その隙をついてクーリュリア王女は王家の秘宝による必殺の一撃を魔王に叩き込むことに成功したのだ、と。

 

 だが、幸か不幸かレイドは未だ死してはいなかった。魔王というにはほど遠い可憐な美少女として生き永らえていた。

 

 

 

 

 

 

 レイドは自らの肉体を犠牲にし、死を覚悟した作戦が成功したのを見届けながら魔王の怪物のような二十メートル近い体躯が爆轟に包まれていくのに恐怖を覚えながら意識を失ったはずだった。

 

だが、彼が目を覚ましたのは、見覚えのない部屋だった。豪華絢爛とはこういうことだと言わんばかりに荘重に設えられた庶民階級のレイドには寝室と思えないほど広々とした部屋だ。

 

朝の訪れとともに差し込んだ陽光がちょうどレイドの顔に差し掛かり、彼――今や肉体的には女性だが――を目覚めさせたようだった。夏が迫っているというのにひんやりとした室内は、アーチ状の大きな窓から差し込んで来た眩い朝日に照らされる。

 

「目覚めたようだな」

「王女殿下……」

 

 発せられた声に応じてレイドが目だけを動かすと、三人の見目麗しい女性が枕元でこちらを見つめていた。そして、彼女たち全員をレイドは知っていた。一人は、クーリュリア王女。トロワ王国の王族の一人であり、紅に輝く髪に凛とした美しい顔つき、そして武芸に秀で実直な性格から僅か十八歳にして臣民の間でも人望の厚い王族だった。何故そのような高貴な方が自らの寝ている部屋にと思う間もなく、レイドは自身の声音に違和感を覚える。

 

 幼く、儚げに響く美しい声だった。それはレイドが知る自身の声とは似ても似つかない代物だった。レイドは今年で二十五になる。彼自身は自分をただの冴えない一介の男性研究員に過ぎないと思っていた。このような深窓のお姫様が発するような声など、出そうと思っても出しようがないはずだったのだ。

 

 だが、レイドの理由を探る思索は一瞬で答えを導き出す。

 

「勝ちましたか?」

「君のおかげだ。感謝してもしきれない大恩が出来たな」

 

 クーリュリア王女の顔には隠し切れない疲弊と憔悴が見えた。それでも、彼女の碧い瞳には希望の光が残っている。最大の障害は滅することに成功したのだとレイドは察する。朗報を前にレイドは緊張に硬くなっていた顔つきを安堵で緩める。

 

 そして、すぐさま困惑に染めた。

 

「しかし……どうして私はこのような姿になっているのでしょう?」

 

 レイドの知る魔王とは見上げるように巨大な漆黒の怪物だった。このような、可愛らしい手をした少女ではなかったはずだと自らの手に目線をやりながらレイドは問いかける。

 

「どうもその姿があの魔王と自称した怪物の本体だったようだ」

「何と……」

 

 俄かに信じがたいが、目の前に立つクーリュリア王女が嘘を吐くとも思えない。心の整理の付かないレイドはただぽつりと驚嘆の定型句を吐く事しかできなかった。数瞬ほど自らの変貌に気を取られていたレイドだったが、我に帰り焦燥した顔つきでクーリュリア王女を見上げ、口早に再び問いかける。

 

「私の、私の家族は無事でしょうかっ……!」

「安心したまえ、幸運なことに全員無事だった」

「そう、ですか」

 

 全員が無事など、どれほどの幸運があればそのような奇跡がありうるのだろうか。レイドは脳裏に死体の積み重なった繁華街を思い起こし、体を震わせる。あの中にレイドの家族はいないことが知れて、何よりも嬉しかった。だが、友人や知人まで含めれば……やめよう、今は考えたくないとレイドは思考を途絶させる。

 

「それで、私はどうなりますか」

 

 レイドのさらなる問いかけは、彼自身の覚悟と諦観が垣間見えた。優れた魔術師であるレイドはすぐに理解していた。現在の魔術における常識では魔力の根源は魂にあるはずというのに、自らが奪い取ったこの肉体がおびただしい魔力を帯びていることに気付いていた。ありえないといいたいが、魔王などと呼ばれる存在だ。このようなこともあるのだと納得させるしかなかった。

 

 いや、それだけなら珍しいこともあるものだとそれで終わってもいいのだが、問題はその量だった。魔王本人には遠く及ばぬとはいえ、その量は人智を越える。第二の惨劇を生み出すには十分な量であり、もし今自らが翻意すればトロワ王国の未来が消滅しかねないほどの魔力だ。

 

 もっとも封印の腕輪やら首輪やら足輪諸々が幾重にも嵌められている現状、人類最高峰の数倍程度の力しか発揮は出来ないだろう。ならば、目の前にいる三人なら何とか殺しきれるレベルとはいえた。

 

 だとすれば……今、ここで自分は殺された方がいいのではないか。レイドはそう考えた。

 

 

死を受容する覚悟と、元の肉体と失い最早生きる希望のない諦観。王国を救った英雄がこのような待遇でいいのだろうか。目の前のレイドを見て、クーリュリア王女は心を痛める。

 

「王立研究員としての立場で君は言ったね。精神と肉体の交換術は完全な入れ替わりを意味するものではない、と」

「ええ。別物の入れ物が完全な適合は果たすことはほぼありえません。徐々に肉体と精神は乖離し、数日内に死亡するはずです」

 

 精神と肉体の交換術は限られた魔導師にのみ術式が公開される極めて危険性の高い魔術だ。だがそれでも人類は完全な入れ替わりを達成してはいなかった。適合者間でのみ入れ替わりは実行可能であり、非適合者は精神と肉体の乖離という死が約束されている。

 

「……ところがだね、もう数日が経過しているといったら君は驚くかな」

「馬鹿な……いや、魔王なんて代物は我々人類の研究の埒外にある。想定外が起きるのも想定内といえるでしょう」

 

 どういった原理でそのようなことがありうるのか、レイドの頭脳が高速で回転しいくつかの仮説を生み出す。元より人類とは隔絶した魔力量がこの身にはある。乖離の遅延くらいなら、可能だと判断した。

 

 そこでふと、かの魔王もまたレイドと同じなのではないかと気が付く。あり得ないとは分かっていたが、何処か胸の奥から湧き上がる衝動に任せてレイドは口を開いていた。

 

「当然、私の肉体は消滅させたのでしょうね」

「……ああ、最早君の肉体は残されていないよ」

「そう、ですか……」

 

 一度膨らんだ期待が萎んでいくのをレイドは確かに感じた。馬鹿らしい、最初からこれが作戦の内だったというのにとレイドは自嘲する。レイドと魔王の肉体を入れ替え、その隙を突いて魔王の精神が宿った自身の肉体を滅ぼす。交換術の発動直後は精神と肉体が不安定な状態となり、如何な魔王とて魔術はもちろん肉体的にすら指一本動かせるかも危うい状態に陥るとしてこの作戦は決行された。そして、ようやく王国の蹂躙に終止符を打てたのだ。

 

「すまないな。民間人にすぎない君にだけ負担をかけてしまった」

「いえ、私も王国の民の一人です。アレは生かしてはおけず、対抗手段として私の専攻研究分野が役立ったのは僥倖でしょう」

 

 あまりに身分の違う二人。だが、クーリュリア王女はそのようなことを些事と見なしレイドに頭を下げる。忸怩たる表情はレイドに、犠牲ありきの勝利に痛痒を覚えているのを教えてくれた。

 

まだ若いが、この方なら壊滅した王族の生き残りとして上手く王国のかじ取りをしてくれるだろう。死したかつての賢王の後継者に相応しき高貴なあり方に、王国の一臣民としてレイドは目を潤ませる。

 

「ともあれ、死ぬはずだった君は生きている。喜ばしいことだ」

 

 本当に嬉しそうに顔を綻ばせ微笑むクーリュリア王女の背後、レイドは後ろに控える二人が苦虫をかみつぶしたような表情でこちらを見つめているのに私は気付いていた。侍従かつ護衛騎士のメルエイアと王属騎士団の一人であるフリスシュア。主の意見を蔑ろには出来ないのだろうが、レイドの生存を快く思っていないのが見え見えだった。

 

 数日前に僅かな期間ではあるが戦友だった背後の二人を安心させるべく、そして無様に生き残ってしまった自分が生存への希望を抱く前に挫くべくレイドは言葉を紡ぐ。

 

「ありがとうございます。ですが、原理上からいっていずれにしてもそう永い命とは思えません」

「……そう、なのか?」

「ええ、確かなことは研究施設をお借りしないと言えませんが……感じるんです。肉体が違うと悲鳴を上げている。私の精神を追い出そうとしているのを」

 

 今までの人生で感じたことのない感覚で、口で説明するのは難しかった。だが確かに精神と肉体の乖離が始まっているのだと魔導師としてレイドは直感していた。

 

「重ね重ね、謝罪させてもらう。申し訳ない事をした」

 

 悲し気に顔を歪めて再び頭を下げてくるクーリュリア王女。本当に良き心根をされたお方だとレイドは心がじんわりと温かくなっていくのを感じた。

 

「王女殿下。あなたはこれから王国の顔になられる方でしょう。そう軽々と頭を下げないで頂きたい。どうか、お願いします」

 

 だが、それではいけないとレイドは自論を滔々と脳内で紡いでいく。王族は壊滅し、国王の座に立てるのは最早クーリュリア王女しかいなかった。高貴なる王が易々と頭を下げてはいけないだろう。何よりクーリュリア王女殿下に頭を下げられこちらが逆に申し訳なくなって心が持ちそうにない。頼むから頭を上げて欲しい。

 

この方なら大丈夫と思えると同時に、あまりに実直で大丈夫かと不安にもなる。頼り甲斐を感じるのに頼りない面もあるのだ。厄介な性格のお方だ。

 

 今や幼げな美少女の顔となったレイドが困り果てたように懇願してくるものだから、クーリュリア王女も意地を張り続けられずに顔を上げる。王女は可愛いものに弱かった。

 

「周りにも言われるよ。だがこれが私の性根なのでな……」

 

 頭をかいてみせるクーリュリア王女殿下は、十八という年相応の美しき少女にしか見えなかった。

 

「コホン。話を変えようか」

 

 クーリュリア王女殿下はレイドのこれからの処遇について語ってくれた。公式の発表としてはレイドは既に死亡し、双方が消滅する形で事件は解決されたことになっているらしい。

 

「すまないが、君がこのような形で生きていると公表は出来なかった」

「いえ、当然のことでしょう」

 

 この肉体は王都を蹂躙した魔王そのものなのだ。恨まれても当然ではあるが、レイドはそんな恨みを受け止められるほど心が頑丈ではない。そう永くない余生、せめて静かに暮らせればそれでいいのだがと心中で独り言ちる。

 

「家族だけには君の正体を明かしてもいい。どうする?」

「……いえ、死んだことにしておいていただきたい」

「いいのか?」

 

 いいのだと即答するつもりだった。しかし、レイドは一瞬言葉に詰まってしまった。元より死ぬつもりだったのだ。今ここで生きているだけでも幸運なのかもしれない。だが、だとしても最早家族とも会えないと実感するのは辛かった。

 

「構いません。この身がどの程度持つのかも分からないのです。せめて男の私として家族には記憶に残しておいてもらいます」

「そう、か……」

 

 

 

 一通りの説明を終えたクーリュリア王女が去ると、再び室内に静けさが戻って来る。話をしているうちにも太陽は平素と何も変わらずゆっくりと空へと上がっていて、窓からは燦々と太陽光が差し込むようになり、すっかり室内は陽気で暖かくなっていた。

 

「リイナ、ねえ」

 

 レイドはクーリュリア王女殿下から渡された偽造の身分証に目を通す。リイナ・ラトラン。第一種魔術師資格保有の二十五歳、か。年齢は同じだが、かつてのキャリアから考えると大きく落ちたものだとため息を吐く。六留で王立第一高等魔術学校を卒業……ま、良くも悪くも普通だ。他国と違いトロワ王国では留年するのが前提で教育システムを構築している。特に高等魔術学校ともなれば、他国の大学相当の学習が当たり前の世界だ。それにしたって四留あたりがそれなりに優秀なレベルなのだが、ね。

 

 ベッド脇のサイドテーブルに身分証を置き、レイドはベッドから降りようとしてべちゃりと床に倒れ込んだ。かつての肉体と勝手が違い過ぎて、目測を誤ってしまったのだった。

 

「なんと、小さな体なのだ」

 

 床についた手は華奢で、子供らしい小さな手をしていた。レイドは中等学校時代までは周りと比べ成長が遅く、まるで女の子のようだと揶揄されることも少なくなかった。だが、高等学校時代にぐんぐんと痛みを感じる程に成長を遂げ、卒業間際には学年でも一二を争うほどの高身長を手にしていた。

 

 それなのに、まるでかつての自分に逆戻りしたようで気分が萎える……。

 

しばらくは世話になる体だ、一度しっかり自らの変化を目に焼き付けておくか。レイドはゆっくりと身を起こし、寝室に置かれた姿見で全身を確認する。

 

 目の前で緊張に顔をこわばらせている姿が愛らしい美少女が魔王とは、あの大災厄の元凶とは、レイドにはとても思えなかった。年頃は、精々が十二といった見た目か。真っ白の長髪は腰にまでかかり、毛羽立ちの一切ない美しい髪をしていた。顔立ちも随分と可愛らしい。悪魔の所業を成し遂げたとは想像も付かない、天使のようなたおやかかつ柔らかな雰囲気の美少女だった。

 

 中身が違うからか、あるいは姿かたちがあまりにも変貌してしまったからか今の魔王の姿を見ても恐怖感を覚えることはなかった。当時相対した時には身の震えが止まらなかったものだが、今の姿に恐怖を覚えていたら一笑に付されかねないほどにただの美少女となってしまっていた。

 

 レイドはじっと鏡に映った全身像を見つめ続ける。庶民が寝間着として使うには畏れ多い、フリルの多用されたネグリジェは今のこの身には少し大きいようで袖から手が半ば隠れてしまっている。邪魔だと思い軽く手を振って袖から手を出すと、小さく華奢な手が姿を現す。

 

 この体は棺のようなものだ。そう思うと、涙腺が緩んでくる。片手を目に持っていき両目を覆って涙を拭う。一瞬で死ぬのなら恐怖を感じる暇もなかったのだろうがこれからレイドはゆっくりと忍び寄る死の瞬間を待たなければならない。

 

 やはり、死ぬのは怖かった。

 

 



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第二話:回想と出会い

 

 

 列車を乗り継ぎ、数日の宿泊を経て訪れたロ・ムーは噂に違わぬど田舎だった。黒煙を吐いて走る汽車の車窓からは、木々と畑が広がるばかりで建造物がほとんど見当たらない。駅舎が見えてくる頃には煉瓦造りの建物が幾棟も連なっているのを見て安心したが、やはり王都とは比べるべくもないほどのど田舎だと、レイドは小さく可愛らしいため息を吐く。

 

 どうしてこんな場所を選んだのだろう。身を隠すにしても、もう少し便利な場所を選んでほしいものだ。

 

 女物の服の良しあしなど分からないレイドが頂き物のワンピースとヒールの付いた靴に悪戦苦闘しながら下車すると、ほんのりと体が温まる優しい大気の間を初夏の涼しい風が吹いて全身を包む。長かった髪をざっくりと切り、その上にウィッグを被ることで露わになったうなじに風が纏わりつき、くすぐったかった。のどかに鳥たちはさえずり、まばらに行きかう人々には日常を謳歌する明るさがあった。惨禍に見舞われた王都の事情は新聞やラジオでとうに知っているだろうに、同じ国内でも距離が離れるとこうも人々は変わるのかと驚くばかりだ。

 

 駅舎前にぽつんと置かれた時計塔が午後二時を知らせる。三階建てのビルほどの高さの時計台から発せられるのんびりとした鐘の音は、どこかレイドの心を落ち着かせた。

 

「ふう」

 

 駅周辺をしばらく眺め一息ついたレイドは、さてと呟いて気合を入れるとスーツケースを半ば引きずりながら駅舎を出て、街中へと繰り出す。元魔王の肉体とはいうが、絶大な魔力量を誇るとはいえ体躯は精々が十二の少女と大差ない。おまけに魂と肉体の乖離により体は非常に貧弱で少し歩くたびに疲労し、レイドはその度に立ち止まってはゆっくりと歩みを進めていく。

 

 白い壁と煉瓦の家々がまばらに並び立ち、煉瓦の舗装路を牛車や馬車がまばらに通る。空には雲がほとんどなく、太陽が燦々と輝いている。町の中心部に進むにつれ人々の往来も王都ほどではないが頻繁になっていき、各所に店も点在している。人となりのスレた王都民とは違い、小柄になったレイドを心配したくさんの住民たちが声をかけてくれる。

 

 ロ・ムーという町をゆっくり歩きながら見回したレイドは、ここでの暮らしも案外悪くないかもしれないと思いなおしていた。

 

「ここか」

 

 迷ったせいも多分にあるがたっぷり一時間は歩いてレイドはクーリュリア王女が用意した家に到着する。白塗りの壁で庭を囲った二階建ての家だった。町の中心からは少し外れ、小さな林の中に一軒だけぽつんと建っていた大きな家だ。一人で暮らすには広過ぎる大きさで、五人くらいは優に生活が出来そうな家だった。

 

 鍵を開け、中に入る。室内には家具が用意され掃除も行き届いていた。ここまで手配してくれた王女には後で感謝しなくてはいけない。

 

 とはいえ、救国の英雄なのだからこれ位してもらっても罰は当たらないだろうと考えてしまうのは罰当たりだろうかとレイドは一人思った。

 

 

 

 レイドが目を覚ましてから既に一か月ほどが経過していた。

 

 起床後、どうにかクーリュリア王女に研究設備を極秘裏に使わせてもらうよう手配してもらい、精神作用魔法の大家たるレイド自身が己の身を調査したところ寿命は一年から二年程度だろうと判明した。

 

クーリュリア王女はその間、レイドが身を隠し余生を過ごせるだけの身分と金を創り、与えた。何も死ぬことはないと、存命の方法を探した。だが、術式を行使した当人であるレイドこそがその専門家であり、その本人が分かっていたのだ。この一撃は不可逆な代物である、と。

 

 暫定的ながら国家元首に就任したクーリュリア王女――今では女王だ――は、寛大な御心でレイドを送り出した。王となった身でありながら、親である国王陛下を初めとする数多の命を奪い取った魔王の身となったレイドを抱きしめ、先の無事を祈ってくれたことにレイドは深い感謝の念を抱いていた。

 

「もし困ったことがあったり、私に直接伝える必要のあることがあったりすれば今懐に紙を忍ばせたからその内容に従うといい」

 

 ぼそりと、抱きしめられたレイドの耳にクーリュリア女王は微かな声音で呟いた。護衛騎士であるお付きのレメエイアに気取られないように呟かれた内容は何処までもクーリュリア女王の優しさが詰まった一言で、不覚にもレイドは目から涙を零してしまった。

 

 

 

 死は避けられない。さりとて今日明日にも死ぬわけでもない。最後の日々をこれだけのどかに、静かに過ごせるのはあるいは幸運といえるのかもしれない。

 

 とはいえ、これからどうするか全く思いつかないままに田舎町に来たレイドは正直途方に暮れていた。男から女になり、名前は変わり、住み慣れた土地からは離れ、親しんだ人々とももう会うことはない。

 

 シンと静かな家で一人ぽつねんと座り込んだレイドは寂しさと恐怖でどうにかなってしまいそうな思いに囚われた。そういった思いが襲ってくるとレイドは決まって過去を思い返すのだった。そして、レイドの過去には常に幼馴染のルチアが付いて回った。両親や友人、恩師、先輩や後輩といった関係を退けて脳裏に浮かんでくるのは常にルチアの顔だった。

 

 

 

 

 

 

 ルチアとは幼少の頃からの付き合いだった。気が強く、性根の真っ直ぐな同い年の少女だった。勉強一辺倒で引きこもりがちだったレイドを引っ張っては遊びに連れ出すルチアをレイドは表面上嫌がって見せていたが、内心では次は何処へ連れて行ってくれるのだろうかとワクワクしていた。

 

 家もすぐそばにあり、何かとルチアはレイドを訪ねて来た。他にも友人がたくさんいたルチアが何故わざわざレイドと共にいるのか尋ねるとルチアは返事に窮したようだった。

 

「よくわかんねーな! けど、レイドと一緒だと楽しい!」

 

 曖昧な答えだったが、それでもレイドは嬉しかった。そのうちルチアはレイドを連れ出すばかりでなく、彼が夢中になっていた勉強に興味を示すようになっていった。

 

 ルチアに勉学を教えていると、あっという間に彼女はレイドに追いついてくれた。いつの間にか、レイドの周りに住む子供たちの中でレイドとルチアだけが飛び抜けて勉強が出来るようになっていた。

 

 初等学校ですら一年二年の留年が当たり前で、むしろ普通の才覚の持ち主なら三留を当然とする中で二人だけが一切の留年なく十二歳で中等学校への進学を決めた。

 

 中等学校に進んでも、ルチアはレイドの後を遅れることなくついてきた。このまま順当に日常を生きていけるとレイドもルチアも当然の如く思っていた。

 

 

 

 中等学校に進学して二年目、ルチアの両親が殺害された。検察局に勤めていたルチアの父がとある政治家の外国への機密漏えい事件を調べていたところ、強盗に襲われ死亡したのだ。あまりに不自然なタイミングでの強盗事件だが、証拠は揃っており場当たり的な犯行として処理されて終わった。

 

 ルチアは身寄りを失ったが、レイドと両親は我が家にルチアを受け入れることに些かの抵抗も持たなかった。両親を失ったルチアはかつての明るさをすっかり失ってしまった。犯行の行われた夜を特に恐れ、誰かの付き添いがなければ眠ることもままならないほどに憔悴していた。

 

半年ほどが経った頃だろうか、ルチアの父の同僚が訪ねて来た。彼は顔を悔しさに歪めながらもルチアの父が捜査していた政治家から暗殺を指示した証拠をつかんだと報告しに来たのだった。

 

 彼の訪問から数日後、新聞には有力政治家が軍事機密漏えい及び検察官暗殺の罪で逮捕されたことが大々的に報じられた。

 

それでようやく憑き物が落ちたようにルチアはかつての明るさを取り戻し始めた。時にはやんちゃに過ぎたハチャメチャっぷりは流石に鳴りを潜めたが、それでも日常の中で笑うようになったルチアを見られてレイドは心底安堵したものだった。

 

 中等学校をストレートで卒業し、王都の中でも最難関の王立第一高等魔術学校に二人は揃って進学した。流石に最難関高に留年者が入れることはまずなく、二人は久しぶりに同年代の友人たちに囲まれて勉学に励むこととなった。

 

 十五歳に成長し、ルチアは以前にもまして魅力的な女性へと変貌しつつあったとレイドは思い返す。翠色の綺麗な瞳、波打つ長い黄金の髪の毛、華奢な体つきは日々丸みを帯び柔らかな肢体へ成長していく。いつも機嫌がよさそうにしていて、不機嫌なところを人前ではほとんど見せることがなかった。さらに会話も上手いというか、ずっと続けていたくなるような存在だった。見た目も内面も美しい彼女を周囲は放っておかなかった。

 

 そんなルチアといつも隣にいながら、レイドは相も変わらず勉学ばかりに入れ込んでいた。彼女が隣にいるのが当然になっていたのだと今のレイドは自虐する。言い寄られるルチアを見て心のざわつきを覚えることがあったが、それで行動を何か取ることもなかった。

 

 レイドがルチアに態度を変えたつもりはなかったが、あるいはそれこそが問題だったのかもしれない。徐々にルチアはレイドに余所余所しく接することが増えた。

 

 意を決し、レイドは何か問題があるのか言って欲しいと話したことがあった。ルチアはレイドに問題はないと言った。長年見て来たルチアは寂しげに微笑む。まるで彼女自身に問題があるようにルチアは謝罪を残して去っていった。

 

 その日、レイドは漫然と抱いていたルチアと生涯を共にするのだろうという将来を捨て去った。折しも高校に親善講義のために訪問した精神感応魔法の大家である師に見初められたレイドは、時間を見つけては大学の先生の元へ赴き研究の小間使いをさせていただける立場に就いていた。研究に生涯をささげるというのも、レイドにとっては本意ではあった。

 

 高等学校を卒業し、二人は国内最高峰のパーレン大学へ進学した。レイドとルチアは未だ共にあり、一定の距離を保ちながらも親しくあり続けていた。

 

 てっきり、レイド以外の誰かと結婚でもするのではないかと思っていたルチアだがあれから未だに浮いた話はなかった。もう二十五歳になり、そろそろ危ういのではと危惧をレイドは抱きつつも自分が選ばれることはないだろうと確信を抱いていた。ルチアは家族としてのレイドに好意を抱いている。そこに疑いはなかったが、夫としてのレイドは求められていないと察してしまっていた。なまじ長く共にあっただけにありありとその空気を感じ取れてしまったのだった。

 

 それでも、例え結婚して頻度が減るとしても……レイドは一生ルチアと関わり合いを持つのだろうと思っていたのだ。

 

よもやこのような形で関係に終止符を打つ羽目になるとはなと、レイドは初夏特有の長い日に眩く照らされ依然として昼同然に明るい外を見つめ感傷に浸る。

 

 このままでは肉体と魂の乖離で死ぬ前に心が死にかねない、レイドは身一つと財布だけ持って町へと繰り出す。さっき良さそうな雰囲気のバーを見つけたのだ。酒でも飲んで気を紛らわしてしまえと年季の入った木の看板が掲げられた古びたバーの扉をレイドは躊躇いなく開ける。

 

「おや、ここらで見ない娘さんだね」

 

 昼下がりの夕に近いこの時間帯、そう客は多くなく、レイドは空いているカウンター席に座った。

 

「やあ、あなたがここのマスターか。ここいらはワインで有名だと聞いたよ。早速一杯出してはくれないか」

「お嬢さん、いくつかな」

 

 おっと、これだから身分証は手放せない。汽車の席でも何度駅員に呼び止められたことか。レイドが提示した身分証を見た壮年のマスターは失礼したとワインを出してくれる。

 

「へえ、美味しいもんだね」

「だろう? それにしてもいやに男らしい口振りじゃないか。もっとお淑やかに話せないのかい」

 

 これと一緒に飲むといいよ、そう言って出してもらったチーズを摘まみながらレイドはこれからは女性詞を使って話す必要があるだろうか考える。マスターとどうでもいいような雑談を繰り広げながらちびちびとワインで舌を濡らしていると常よりもずっと早く酔いが回って来る。

 

 魔王と言ってもこの体は見た目相応の力しか発揮できないのだから、当たり前といえば当たり前だった。今のレイドは成人男性ではなくか弱い少女のようなものだった。許容される飲酒量もずっと少なくなってしまったのだろう。それにしてもコップに入ったワインを半分ほどしか飲めないとは情けのない肉体だと嘆いた。

 

「へえ、じゃあこの町で仕事を探すのかい」

「そうだね、何かいい仕事があるといいのだけれども」

 

 お互いの自己紹介や軽い来歴を話し合った後にレイドは魔術師の出来る仕事があるだろうかと尋ねてみる。

 

「マスター! 一杯ちょうだい!」

「おやローリー。これから仕事なのにいいのかい?」

「構わないわ。あら、見ない顔ね」

 

 レイドの隣に座ったのは亜麻色の髪をおさげにした可愛らしい女性だった。まだ二十歳辺りだろうか。質のいいローブを羽織り、指にはいくつか術式補助器具を嵌めている。魔術師のようだとレイドは見当を付けた。

 

「こんにちは、お嬢さん。私はレイ……リイナ。リイナという」

「なあに? お嬢さんなんて……あなたの方がよっぽど小さいじゃない。マスター、ちゃんと年齢確認したの?」

 

改めてレイドが身分証を掲示するとローリーは舌をチロリと見せて謝って来る。お茶目な娘さんだとレイドは相好を崩す。

 

 ローリーと名乗る魔術師がレイドの隣に座り、三人はローリーも交えてのんびりと会話に興じる。やがてローリーは今の仕事を愚痴りだす。これは毎度のことのようでマスターは気のない相槌を打つばかり。ローリーは新鮮に話を聞いてくれるレイドに照準を合わせ、愚痴を長々と話し始める。

 

「でね? この結界陣の整備が面倒くさいのよ。毎日三時間も付きっきりなんて信じらんない! 役場にはもっと新しい結界の購入を進めているんだけど全然取り合ってくれないのよ? 私には他の仕事もあるのにありえないわ!」

 

 ローリーの不満のタネは町を守る結界陣の老朽化にあるようだった。一定の規模の町には魔術の不正使用を阻害する結界陣が張られている。この町を覆う結界は五十年以上前のオンボロで、新型魔術の阻害効率が落ちているだけではなく、頻繁な保守を怠るとすぐに機能停止するポンコツ結界陣なのだという。

 

「よければ私にその仕事をさせてもらう訳にはいかないかね」

「えっ、あなた魔術師なの?」

「おお、それはいい考えじゃないか。ローリー、リイナは王都から逃げてきた魔術師で今まさに仕事を探している最中なんだそうだよ」

「へえ、リイナ。あなた資格は持っているのかしら?」

「勿論。大魔導師……とまではいかないが、第一種魔術師なら」

 

 大魔導師は他の学問でいう博士号のようなものだ。以前のレイドはパーレン大学大魔導師位を持っていると言えたのだが、今は王女殿下が偽造した第一種魔術師が限界だ。この資格だと出来る仕事にも限界があるのでもう少しいい偽造身分が欲しかったが、今文句を言っても仕方のないことだった。

 

「十分じゃない! 役場には私が言ってやるから早速行きましょうか!」

「結界陣を見せてもらえるならありがたいね。是非行こう」

 

 善は急げとレイドとローリーの二人はバーを飛び出し、結界陣目指して歩き出す。五分も歩いただろうか。二階建て住宅ほどの高さがある円形の塔が見えてくる。

 

「あの監視塔の中に結界陣はあるわ……大丈夫?」

「え? 何か?」

「息が切れているわよ」

 

 意気揚々と先を進むローリーにレイドは足を速めてついていこうと努力はしたのだが、たった五分ほどで額から汗が滲み、息が乱れてしまった。何と脆弱な肉体なのだろう、レイドは心中でため息をついた。

 

「もう、仕方ないわね」

「ああ……すまないね」

 

 懐からハンカチを取り出したローリーはレイドの額に当てて、汗を拭ってくれた。見た目は若々しいが、これではまるで年老いてしまったようだとレイドは自嘲の笑みを浮かべる。

 

「さ、入りましょう。ぶったまげても知らないわよ?」

 

 一方でニヤリと歪んだ怪しげな笑顔を浮かべてローリーは魔術的に施錠されていた扉を開き、レイドを内部に誘う。石造りの塔の内部には壁に沿うように幅の狭い階段が設けられている。窓はなく、光は扉から差し込むだけなので薄暗い。しかしローリーが壁にいくつも引っ掛けられているランタン型の魔力灯を指を鳴らして点灯すると、内部は真昼のように明るくなった。

 

「うわ……これは確かに古めかしい結界陣だ」

「でしょう?」

 

 石の床には今や小柄な少女程度しかないレイドの膝下ほどの高さしかない石柱が十本円をかたどるように設置され、石柱の頂部は平らに磨かれそこに魔術陣が彫られている。おお……彫るなんて原始的手段で魔術陣を起動している時点で……。

 

「面白い。ちょっと見せてもらうよ」

「え、ええ」

 

 それからしばらく結界陣を調べさせてもらった。非常に古典的で懐かしい思いにさせる結界陣はローリーの魔力供給に依存して動いているようだが、五十年はおろか八十年ほど前の理論で魔力貯蔵しているためにその効率が著しく劣悪になっているようだ。魔術陣も規定魔術の羅列が設定されていないために一々同じ項目を繰り返していて無駄が多い。

 

 しかしこれだけ古めかしい理論によって並の魔術師の違反的魔術行使効率を三割近くにまで抑えているのだから設計者は当時としては上手くやった方だろう。

 

「しかし、これなら私が創り直した方が良さそうだ」

「あーダメダメ。高等魔術学校出ならこれくらいって思うのも無理ないけどね、こんなオンボロでも警察の監査で認可が下りてるから使用に許可が下りてるの」

「そんなものなのか」

「そーよ、認可を取るには時間もお金もすっごくかかるから既成の結界を買った方が安くつくんだけどねぇ……」

 

 溜め息を吐きながらローリーは指に嵌められた術式補助具をぐりぐりといじる。

 

「ここでの仕事は至極簡単! 術式が正常に機能しているか確認して、後は真ん中に突っ立って結界陣へ魔力を供給してやるだけ! もしあなたがやる気なら、すぐにでも代わってあげるけどどうする?」

 

 何もせずにいると怪しまれることだろうし、何より何かやることがないと残りの余生に張り合いがなくなる。レイドは一も二もなく頷いて、ローリーから仕事を請け負った。

 

 



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第三話:ローリー

 

 

 

 

 夢を見る。生来のレイドはあまり夢を見る性質ではなかったが、最近はよく夢を見ていた。現在の心の軋みがそうさせるのか、決まってみるのはかつての楽しかった思い出だった。しかしその思い出はゆっくりと変転してゆく。

 

 ルチアとともに歩いた春の眩しい町景色が、共に駆けた夏の草原が、紅葉の中で手を取り合って歩いた通学路の何気ない会話が、寒波著しい冬の室内で暖房の前を取り合って体を寄せ合った他愛のない思い出が全てあの日に収斂するのだ。

 

 燃え盛り、瓦礫と化してゆく輝かしき王都。その中で倒れ行く多くの人たち。巨体を空に浮かせながらゆっくりと飛翔する黒い甲冑のような異形の化け物。嫌だ、もうこんな景色は見たくないと心が悲鳴を上げてもただその光景は脳内で繰り返される。

 

 目の前で泣きすさぶ子を守ろうと魔王を前に体を盾とする親子が光線を浴び、あっけなく塵へと化し消失する。王都防衛の要である近衛師団が擁する鋼鉄で出来た戦車が溶けてどろどろになり、路上で無惨な姿を晒している。そうだ、レイド以外にも命を懸けて戦った者は大勢いた。そしてその悉くが死んでいったのだ。

 

 レイドが凄惨な光景に耐えきれず上半身をバネのように跳ね起こし目を覚ますと、静まり返った室内で自らの心臓が激しく鼓動し浅い呼吸が繰り返される。未だ太陽の沈んだ深夜の夜闇の中で、元凶たる魔王の肉体が冷や汗を流している。不快感に苛まれ、催吐感から思わず何度か嘔吐くが口元に寄せた手にはただ唾液が垂れて来るばかりだった。レイドにとってこれは初めてではなかったからこそ、ベッドの上でも躊躇いなくこみ上げてきた吐き気に我慢することなく口を開いたのだった。

 

 あの日以来、レイドにとって眠りは必ずしも安らぎをもたらす存在となってはくれなかった。眠り、思考から解放された頭脳はレイド本人がどれだけ疎ましいと思っていようが関係なく災厄の日を再現する。レイドにとって数少ない休息の時は眠りに入る前、睡魔に負ける寸前の僅かな時間だけだった。

 

 結局今日も駄目だったか。レイドは不快感に痛む全身からゆっくりと痛みが引くのを待つ。痛みが引いていくと、涙に濡れた顔面と唾液に濡れた手の平に纏わりつく不快感に苛立ちを覚える。何故こうも自分が苦しまねばならないのか。憤りを覚えるも、その対象は自分自身なのだ。濡れた顔と手を拭う事もせずレイドはおもむろにベッド横のテーブルから酒瓶を手繰り寄せる。夜闇の中、慣れた手つきで酒瓶はレイドの手の内に収まり、そのままレイドは酒瓶を口元へと傾けた。

 

 ただでさえ酒に弱くなったレイドの体へ、とにかく酔えれば何でもいいと購入した高度数のブランデーが染み渡っていく。一口のブランデーで焼けるように全身が熱くなると同時にレイドはぐらりとベッドへと崩れ落ちた。

 

 

 

 

 ローリーから仕事を請け負った翌日、二日酔いに頭を痛めながらレイドは目を覚ました。広々とした寝室は物音ひとつしないが、窓の向こうからは朝の到来を告げるように鳥のさえずりが聞こえていた。窓を開くと、初夏でもまだ涼やかな風が顔を撫でて来る。

 

 風が気持ちよくてしばらくこのまま窓辺でのんびりしていたいが、そうはいかなかった。今日は朝にローリーが尋ねて来るのだ。役所に、レイドがローリーから結界の管理を引き継ぐ旨届け出をしなくてはならなかった。

 

 いつ来るのか分からないので手早く身支度を整えたレイドは、パンとハム、それに果物を齧って朝食を済ませてじっと待つ。だが、ここでレイドは役所がそう朝早く開くものでないことに気が付いた。キッチンに掛けられた時計はまだ六時にすら達してないことを教えてくれる。

 

 これはしばらく暇が出来たようだと、レイドは家に置かれた蔵書から適当に本を取り出して読むことにした。余計な思考を巡らせるくらいならばと、とにかく手近にある本から目を通していった。

 

 

 

 痛む頭に眉を顰めつつのんびりと読書に耽る事三時間、玄関のチャイムが鳴り出す。ようやくかと息を吐いて出迎えると、寝むたげに顔を揺らしたローリーが立っていた。昨日はしっかり整えられていた亜麻色の髪は所々にはねてしまっている。どうも朝は弱いようだ。

 

「ふわ……おはよ、リイナ。ちょっと座らせてもらっていい?」

「もちろん構わないよ、さあ入ってくれたまえ」

 

 片手で欠伸で開いた口を隠しながら涙目になったローリーはふらふらと室内に入って来る。リビングのソファに案内すると、ぽすんと腰を埋めてうつらうつらと首から上を上下させる。

 

「寝不足かい?」

「んん、そういう訳じゃないんだけど……朝は力でないの」

「何か温かい飲み物でも用意しようか? 紅茶にコーヒー、ココアなんかもあったかな」

「ココア、飲みたいかも」

「そうか、ちょっと待っててくれ」

 

 寝ぼけているローリーを置いて、レイドはキッチンへ向かった。悲しき哉、もはやキッチンへ来るたびに常用している踏み台に乗りガスコンロで湯を沸かす。仮にも魔術師であるレイドならば火など容易に自力で起こせもするのだが、科学の発達していない昔はともかく今や子供の頃より文明の利器を使い慣れ親しんでいる。火力も摘まみを捻れば簡単に調節できて、無理な使い方さえしなければ事故の危険もない。使わない手はなかった。

 

 自分の分も含めてカップ二杯分、そう時間はかからず湯を沸かし終えてからパッパと瓶からココア粉末を適量入れてリビングまで待っていくと薄々予想はしていたがソファでローリーは眠りこけていた。

 

「おーい。午後には仕事があるから午前中に役所の用事は済ませたいんじゃなかったのかい?」

「むにゃ……いい匂い」

 

 眠りは浅かったようで、声を掛けて目を開いたローリーにカップを渡す。ココアを口にすると、少し目が覚めたようでちびりちびりと忙しなくカップに口を付けてココアを飲んでいった。

 

「んー、目覚めたかも」

「それはよかった。その分だと朝食も食べてないんじゃないかね」

「あー……まあね。でも、甘い物飲んだから大丈夫」

「本当に? パンや果物くらい食べて行ってもいいんじゃないか。ハムもあるよ」

「ううん、ホントに大丈夫だから! あんまり遅く行くと混んじゃうかもだから、そろそろ出発しましょう」

 

 そう主張するローリーに押され、レイドは共に役所へと出かけることにした。あまり気は進まないが、二十五の女性として身分が登録されているのだ。周囲に不信感を抱かれてはあらゆる手配をしていただいたクーリュリア女王陛下に迷惑がかかってしまう。それにふさわしい身なりを小さい体躯とはいえ整えて、レイドはローリーの先導の下で歩いていく。

 

 煉瓦造りの小さな役所での手続きはそう時間が掛からなかった。結界塔を担当する部署が住民の住所移動やら戸籍管理やらといった多数の住民を相手取る仕事とは無縁のようで、割と暇をしていたのだった。急かしたローリーにその旨を伝えると、うっかりしていたとばかりに舌をチロリと出してあらぬ方向へ目線を逸らした。

 

 手続きを終えたレイドたちは正午前には市役所を後にする。せっかくだから一緒に昼食を取ることにしたレイドたちは市役所そばのカフェに入る。噴水のある広場沿いに立地するカフェでは、レイドたち同様に昼食を取ろうと集まった人々でにぎわっていたがどうにか軒先にある席を確保することに成功する。

 

 朝を食べていなかったからだろう、注文したバゲットサンドが届くと美味しそうに齧り付いたローリーがある程度腹を満たしてからレイドは質問をする。

 

「しかし、治安を維持する結界を担当するにしてはあっさり手続きがすんだね」

「まあ、魔術学校出には信用があるからね。それに週に一回のペースで警察から監査人が来てしっかりチェックしてるし」

「へえ、どんな人なんだい?」

「知らないわ。面識は持っちゃ駄目なの。でも、定期的に転勤し続けなきゃだから監査人になると大変みたいよ」

 

 研究畑に入り浸っていたレイドは市井の魔術事情にそう詳しい訳ではない。在野で働くローリーの話には初めて聞く事柄も多かった。バゲットサンドとついでに頼んだケーキもぺろりと食べ終えたローリーはこれから仕事だからと、にこやかに手を振りながら去っていった。

 

 ローリーと別れたレイドは早速その足で結界塔に向かい、魔力の補填と整備を済ませる。昨日ローリーが業務を行う様を見せてもらっていたおかげで全くと言っていいほど問題なく仕事は完遂出来た。

 

 しかしあまりにスムーズに済んでしまい、逆に時間が余ってしまった。どうしたものかと結界塔から出たレイドは、折角なのでいくつかの店を見て回る。八百屋に精肉店、雑貨店などを見て回っているといつの間にか果物やハム、菓子などを頂いてしまっていた。二十五と言ってもあまり信じてもらえず、身分証を見せてもなお子供のような扱いをされるのはどうしてなのだろうとレイドは首をかしげる。二十五だぞ、もう大人なのだと主張すると逆に微笑ましい笑みで周囲の人間に見られるのはどうしてなのだろうか。身分証が意味を成さない度に冷や冷やさせられ、レイドは何だか途方もない疲労感を覚えてしまった。

 

 嫌気の差したレイドは頂き物を家に置いてから再び昨日に続きバーへと足を運んでいた。マスターに子ども扱いされる理不尽を愚痴ると、何も言わずにおつまみを一品増やしてくれた。

 

「あら、また会ったわね」

 

 レイドが酒とつまみをちまちま消費していると、隣の席に見知った顔が腰を掛ける。

 

「ローリー、仕事は終わったのかい」

「まーね、あー疲れたっ! マスター、一杯頂戴っ!」

 

 昼間に見せてくれた元気の良さは仕事で使い果たしてしまったらしい。ぐでりとカウンターに肘を付くとマスターから受け取ったワインを一気に半分ほど飲み干してしまう。

 

「おいおい、いきなり飲み過ぎじゃないか?」

「いーのよ。こんくらいなんでもないわ」

 

 昨日もワイン一、二杯程度では酔っている様子はなかった。それなりにローリーは酒に強いのだろう。対照的にコップ半分で酔いが回ってしまうレイドは自分自身に悲しみが生まれる。これではいくら味が良くても大して味わえない。

 

「それより、どうだった結界維持の仕事? そう難しくはなかったでしょ?」

「まあね、私でもこなせそうでよかったよ」

「謙遜しちゃってー! あれくらい高等魔術学校出なら余裕でしょ」

 

 魔術師は人口四千万人を誇るトロワ王国において労働人口のうち二割近い人口を有するポピュラーな職業だ。だが、その中で高等魔術学校は全国でも二十校もない高度な教育機関であり、卒業者は低く見積もっても準エリートに位置する優秀な人間として扱われている。

 

「そういう君はお疲れだね」

「聞いてくれる? 今日は魔術薬の生成を頼まれたんだけど薬剤師の子が調合ミスしてさー、高級素材がみんなパーよ! あれじゃ利益と損失でトントンね。それでオーナーさんがすっごい怒鳴ってね、ユリシャちゃん泣き出しちゃったんだけどそれがオーナーさんの怒りにさらに火をつけたみたいでもう滅茶苦茶だったんだから! 私魔術師なのにいつのまにか交渉人みたいなことしているし……」

 

昨日と違い、ローリーもこの後に仕事はないようでマスターへ次々に酒を頼んでいく。今日は特に心労が酷いようで、マスターも同情してローリーに一品サービスをしてくれた。

 

 それにしても、結界魔術に魔術薬生成を同時にこなせるとは。魔術分野の垣根を越えてマルチに才能を発揮している様は、素直に称賛に価した。レイドがそれを口に出すと、ローリーは愚痴を垂れながし不満げだった顔つきが照れ顔に変わる。

 

「そ、そうかな? 何か褒められたの久しぶりかも」

「私は凄いと思うよ」

「そっかー、へへー」

 

 ローリーとの会話は尽きることがなく、たまに会話が途絶えたとしてその無言の時間も心地よかった。二人とも何も口は開かないが、顔だけは見合わせて表情だけで会話しながらのんびりと時間が過ぎていく。

 

「うえへへへー……もー飲めにゃー……」

 

 ぽつりぽつりと会話を挟みながらローリーと共に過ごす時間は、二年後の最期を忘れさせてくれた。思えば、心を許せる相手と何の気負いもなく言葉を交わしたのは随分久しぶりだった。

 

クーリュリア女王陛下は優しいお方だが、高貴な血筋に見合うだけの高貴なるオーラが対等に話をする障害になっていたように思えた。そもそもクーリュリア陛下はとてもお忙しいお方で、親睦を深めるような時間などなかった。

 

 それ以外のレイドの正体を知る者は同時にレイドの肉体の正体も知っていて、警戒を解いてはくれなかった。レイドの存在を知る者を極力減らすために接触可能な人間は少なく、そして会話を交わすほどの時間もほとんどなかった。

 

 本当は親しい人間を作るべきではないのかもしれない。だが、孤独に死を待てるほどレイドの心は強くはなかった。二年後の別れを敢えて考えず、レイドはローリーと友人関係を築きたいと思ってしまっていた。

 

「ローリー、君と知り合えてよかった」

「ふぇっ!? いきなり何よぅ?」

 

 流石に数時間も酒を飲み続けては酔いも回ってしまったようで、ローリーは呂律の回らない舌でこちらに話しかけて来る。

 

「いや、見知らぬ土地だったが君のような友人が出来て嬉しいと思ったんだ」

「そ、そっか……」

 

 酔っ払い顔を赤らめていたローリーはカウンターで腕を組んでその中に顔を埋めてしまう。酔いが回ってきたせいだろうか、ローリーの態度を前にしてレイドはどうしてだか心拍数が気付かぬうちに上がっていた。

 

「もう九時か……結構長居していたようだね。もう帰るかい?」

「んー……もうちょっと一緒にいよ……」

「そうかい? 私は構わないが」

「んー……んふー……ふふぅー。んっ!?」

 

 機嫌が良さそうに舟をこいでいたローリーの顔が一瞬にして青ざめる。

 

「きもぢわるい……」

「おいおい、流石に呑み過ぎたみたいだね」

 

 レイドの家系は酒に強い方でワインボトル一本程度では飲んだうちに入らない方で、幼馴染であるルチアもまた同じかそれ以上に酒が強かったためにうっかりしていた。水を飲ませたり、背中をさすってやったりして時間を置いて気分がある程度回復したところでお開きにすることにした。

 

「マスター、今日は帰るよ。お会計を頼む」

「あいよ」

 

 バーを出ると、ようやく空が薄暗くなり始めたところだった。トロワ王国の夏の日は長い。まだあと一時間近くは日が落ちることはないだろう。煌々と等間隔に輝く外灯の下、レイドはふらつくローリーに時折自分の肩を支えとして使わせてやりながら帰路に付く。

 

「家はどっちだい?」

「んえ……あっち」

「方向は同じか。途中まで一緒に帰ろう」

 

 体を動かしたのが幾分早すぎたのかもしれない。ローリーは歩くにつれて顔色を悪くしていく。

 

「ローリー、ここから私の家まで五分とかからない。もしよければ休憩していくかい?」

「……いーの?」

「もちろん、君さえよければ」

「うええ……行く」

 

 あんなに上機嫌だったローリーは、酒酔いで声音も随分と弱まってしまっている。

 

「君は呑み過ぎだね。気を付けなくちゃ」

「……うん」

 

 どうにか家までたどり着いたレイドは、ローリーをリビングのソファで休ませてやった。ようやく横になれたのが楽になったのか、しわの寄っていた眉間から力が抜け顔つきが安らかになる。

 

「うー……頭がぐらぐらするー……」

「君、自分がどれだけ飲める口かちゃんと把握しておかないと駄目だよ。私が男なら危なかったね」

 

 何という自虐かと、レイドは言葉にしてから思わずニヒルな笑みが浮かんできてしまう。

 

「馬鹿にしないでよねー……男相手にこんな姿見せないわよぅ。リイナ相手でちょっと油断しちゃった。いつもよりお酒が美味しくて……」

「私も今日は君と話せて楽しかったな」

「本当?」

「うん、私なんかが相手で悪かったかな?」

「そんなことないっ! ぅえええっへうっへっげふぇええげぇえええっ!」

 

 いきなり大声を出したものだから、ローリーは唾が喉に入ってしまったのだろう。むせて苦しそうにあえぎだすローリーは涙目になりながら近寄ってきたレイドの差し出した手を取り、乱れた呼吸を抑えようと胸元にぎゅうと抱え込む。ルチアばかり見ていたレイドが、初めて女性の胸に触れた瞬間だった。きっとルチアが知ったら怒るだろうなと現実逃避するも、触れてはいけない部分に触れた焦りは完全に消えてはくれなかった。

 

「おいおい、大丈夫かい」

 

 何処か上ずった声が口から出る。けれど、喉に違和感を抱えて苦しそうにしているローリーが気付いた様子はなかった。

 

「うぐえええ……でも、私リイナといっぱい話せて楽しくて、それではしゃいじゃって……だから、悪くなんて全然なくて……またお酒飲みに行きましょ? 今度はちゃんとセーブするから、ね?」

 

 涙交じりに笑みを浮かべて見せるローリーは健気で美しく見えて、その表情に魅せられたレイドは先ほどまで感じていた焦りを忘れてしまった。

 

「そうだね。うん、また行こう」

「やた……リイナの手温かい。おでこにあてていい?」

「いいけど、冷たい方がいいんじゃないかい?」

「ううん。これでいいの……えへへー」

 

 ローリーが浮かべたふにゃりとした笑みはレイドの心に再び高鳴りを覚えさせる。その後、目を瞑ったローリーはそのまますやすやと寝息を立てて眠りに落ちてしまう。温かなローリーのおでこから手を離すのに若干の未練を覚えつつも、レイドは毛布を取り出すべくリビングから出て行った。

 

 

 

 ローリーを泊めてから数日後、あれからも懲りずにレイドはバーに通い、そしてローリーも懲りずにワインの入ったコップを景気よく仰いでいた。初日以来ローリーは反省して酒量を減らしているようだったが、隣で美味しそうに酒を飲む彼女を見ているとレイドまで楽しくなってきてしまい、レイドは自分があまりストッパーとして機能していないなと自省する。

 

 目を覚まし物静かな寝室で、私はローリーのことを寝起きの頭で考えていた。本当ならば魔王の肉体が滅ぶのを自らで確認し、王都の惨劇の終止符を打つ予定だった。その時間に誰も介在させるつもりはなかった。それなのに、心の隙間にローリーが入り込んで来てどんどんと深く潜り込んで来る。十回に一回しか安眠出来なかったレイドだが、ローリーと本格的に交流を深めて以来睡眠は久方ぶりに休息として機能するようになっていた。

 

 親から頂き、なんだかんだで苦楽を共にした自らの肉体を失った喪失感は途方もないもので、見てくれがどうであろうと価値など見出せなかった。

 

 だから、この体で笑いたくなかった。楽しみたくなかった。隔離され、人との交流を奪われても覚悟の上だった。それなのに、ローリーと出会って生きることに喜びを見出してしまった。

 

 どうにかして、丸く収まる方法がないものか。上手く自らの危険性を排除しつつ、生きる道はないのだろうか。ローリーとの出会いからこっち、そんな考えが泡沫の夢のように浮かんでは消えていく。そんなこと、考えてはいけない。第一、既存の魔術にそんな方法などない。

 

 だというのに、もしレイドがいなくなった時に悲しむローリーの顔が脳裏に浮かぶとそれを見たくないと思ってしまう。いや、もしローリーがただの気立ての良い女性というだけなら、あるいはレイドは生存の方法を考えなどせず、緩やかに近付いて来る死の恐怖を紛らわしてくれる最期の安らぎとしてしか見なかったかもしれない。

 

だが、ローリーが自分を見る目から時折唯一無二の何かを期待する輝きが見て取れるのだ。それが何かは分からないが、ローリーはレイドに何かを見て取りそれに縋りたがっているような気がした。

 

 レイドがローリーに救いを見出しているのと同様に、ローリーもレイドに何かを求めている。ぼんやりとした寝起きの頭に何の根拠もなく浮かぶふんわりとした考えだが、ただレイドは求められているのなら応じてやりたいと何となくそう思った。

 

「りーいーなー! 起きてるー!?」

 

 何だか無軌道な思考を繰り返したせいで訳が分からなくなってきた。そういえば、昨日は何を話したろうか。気を紛らわそうと、ベッドの上で昨日のローリーとの掛け合いを思い起こし、あの可愛げのあるはきはきとした声を脳裏に再生しようとしていると何だか聞き覚えのある声が家の外から聞こえて来る。

 

「確か、寝室はこっちだったわよね……あ」

 

カーテンの隙間越しに、ローリーの猫のような目と目が合った。その目は驚愕に見開かれこちらを凝視していた。さて、寝ている間にとんでもない寝癖でも付いただろうか。それとも、涎の後でも付いているのかな。柔らかなベッドの温もりに多少の未練を覚えつつレイドは立ち上がり、カーテンと窓を開いてローリーと窓越しに相対する。

 

「おはようローリー、私に何か変なところでもあるかい?」

「あ、あの……リイナ?」

「ん?」

「何か、髪が……違くない?」

「え?」

 

 レイドが目の前を揺ら揺らしている髪を引っ掴むとそれは外出時に身に付けている偽の栗毛ではなく、地色の白い髪だった。寝る前にはウィッグを外しているのだから当たり前か。

 

「あー……訳アリでね。変な色だから隠してたんだが」

 

 ローリーなら、自分が頼めば秘密を漏らしたりはしないだろう。それでも少女の見た目で白い髪をしているのは普通あり得ない組み合わせだ。見られてしまい、レイドは妙に不安になってしまった。気味悪がられや、しないだろうか。

 

 恐れを見せるのが弱いような気がして、レイドは敢えて笑顔を作り大したことではないように鷹揚な態度を取って見せる。

 

「あー……なんか、ごめんなさい」

 

 幸い、レイドを見るローリーの目から嫌悪の念は見て取れなくてレイドは内心ホッと安堵のため息を吐く。

 

「いや。口外してくれないと約束してくれればいいんだ」

「それはもう! 絶対誰にも言わないわ!」

「助かるのだが、新聞配達の人間も来るかもしれないので声は抑えてくれ」

「あ、ごめんなさい」

 

 家に入れたローリーに今日はどうしたのだと用件を聞くと、泊めてくれたお礼をしようと思って朝食を作ってやろうと来たのだという。手提げ鞄には卵や玉ねぎなどの食材が入っていた。

 

「リイナ言ってたよね。朝は温かいスープが食べたいけど自分じゃ作れないって」

「そう……だったかな? あまり覚えてない」

「えー……リイナいっつもコップ一杯飲む程度なのに酔っぱらっちゃったのー?」

 

 その一杯程度で酔ってしまうようになったのだ、悲しいことに。

 

「ああいや、でも王都ではそういう食生活だったものでね。ちょっとした物足りなさがあったのは確かだよ」

「だから、私が作ってあげる。一回作ったら冷蔵庫に入れて時間遅延もかければ三日は持つから」

「ほう、君も夕飯はマスター頼りかと思ったが料理が出来るんだね」

「王都は料理屋さんがたくさんあるのかもしれないけど、ここらへんじゃ自炊出来なきゃ冷たいご飯ばっかりになるわよ?」

 

 何でもないように会話を続けようとしたが、やはりというべきか。ローリーの目線がレイドの頭頂部にちらちらと向けられていた。嫌悪は感じられないが、変わって好奇の念はありありと見て取れた。すっごい興味がありますという顔をしている。

 

「やっぱり、気にかかるかい?」

「でも、綺麗じゃない。隠さなくてもいいと思うけどな。触ってもいい?」

「いいよ。ただの髪だけれどね」

「おおー、サラサラの綺麗な髪じゃない」

 

 髪の間を指で梳いたり、束で掴みあげてはジッと見つめたりするローリーの顔をやや下から見上げる。どうにも嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。誉めそやされるのがどうにも恥ずかしくなったレイドは否定的な言葉で冷や水を浴びせかけてしまう。

 

「しかし、奇異の目は避けられない」

「そう……かもね。でも、私の前ではそっちでいいわ。偽栗毛の時より今の方がリイナ可愛いもの」

 

 そう言ってローリーはレイドの頭を抱きしめる。可愛い……可愛いか。この身となってから、王都からここに来るまで、そして来てからも何度となく言われ続けているが何度言われてもむずがゆい。私は男なのに……。これでは成長して見返した過去が水の泡だ。

 

「可愛いって言われるの、慣れてない? リイナみたいな子なら言われ慣れてそうだけど」

 

 

 図星を付かれ、レイドは少し体をびくりと動かしてしまう。中等学校時代までは言われ慣れて無反応を貫けていたのだが、身長がぐいぐいと伸びて以来は聞かなくなっていたせいで耐性が失われてしまっていた。かつてのレイドは意地を張るだけの若さがあったが、今のレイドは客観的に見ればこの肉体が非常に見目麗しいこと自体は肯定していた。それに価値を見出せないだけで。

 

「んふふー。でも、その反応してくれた方がいいから慣れなくていいわ」

「そうかね」

 

 あえてそっけない反応を見せるレイドだが、赤く染まった頬が内心の照れを隠しきれてはいなかった。出先でもこのような態度を町の人々に見せていたので、ロ・ムーでのレイドへの評価は定まりつつあった。

 

「あははー赤くなってるー」

「そんなことはない」

「そう? そういうことにしといてあげる」

 

 ニコリと微笑むローリーの笑顔が眩しく、レイドは思わず反論の口を止めてしまった。

 

 

 



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第四話:ルチア

 

 

 レイドと遊ぶようになったのにたいした理由はなかった。引きこもりがちな同い年の子供がいると知って遊びに誘おうと家に突撃したのがきっかけだった。

 

 嫌がる素振りを見せながらも連れ出したら楽しそうに遊ぶレイドを見ていると、私はその態度が愛らしくてレイドへよく構うようになっていた。

 

 その日は雨が降っていて外で遊ぶには不都合で、だからといって遊ばないなんて選択肢が私の中にはなくて、だから新しく買ってもらった雨玉模様の傘を手に意気揚々とレイドの家に駆けこんだ。

 

 毎日のように顔を合わせていたレイドのお母さんは私が来るといつも嬉しそうに歓迎してくれて、その日も私を温かく出迎えてくれた。

 

「よくきたわねルチアちゃん」

「ん! レイドはなにしてる!?」

「今は本を読んでたかしら? 二階の自分の部屋にいたと思うわ」

「わかったー!」

 

 何をして遊ぼうかワクワクしながら階段を勢いよく駆け上がり、扉が開きかけのレイドの部屋にスッと隙間に体を潜り込ませて侵入を果たす。私にかかればこの程度の隙間すらも進入路と化すのだ。

 

 さあ、遊ぼうとか声を張り上げようとした私は、目を輝かせて本にかぶりついているレイドを見て大声を上げるのをやめてゆっくりとレイドの後ろへと回り込む。一体、何を読んでいるのだろう?

 

「レイドはなにしてるの?」

「お勉強」

 

 まだ初等学校に通う年齢じゃないのにレイドは大人の人が読みそうな分厚い装丁の本を前にページをめくっていた。当の私はまだ文字をようやく全部学び終えたかどうかといった有様で、後ろから覗いても何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。

 

「楽しい?」

 

 私に目線を向けることもしないで、レイドはコクコクと首を動かす。

 

「何が書いてるの?」

「魔術についてだよ。教えてあげる?」

「欲しい!」

 

 正直なところ、最初の私はレイドが嬉々と話していること自体を好ましく思っていて、内容はてんで理解していなかった。けれど、段々とレイドの話で色んな世界を知っていって、私も出来るようになりたいと欲を持って、少しずつ勉強へと身を乗り出すようになっていったのだった。

 

 

 

 レイドに勉強を教わるようになったおかげで私は学校では常にトップクラスの成績を誇っていた。中等学校に入ってからもレイドの部屋に押し入っては勉強を教わったり雑談に興じたりしていた。

 

 そんな日常が続くと思っていた。

 

 その日も私はレイドの家に行って、戻ってきたところだった。夕飯間際にはお父さんも帰ってきて、久しぶりに三人で夕食が取れそうだねとお母さんは嬉しそうにしていた。

 

 突拍子もなく、キッチンから馬に鞭を入れるような擦過音が何度か鳴り響いた。私は事情を全く理解出来なくて、お母さんが何かやらかしたかなくらいにしか思っていなかった。ちょっと顔を見てこようと身を沈めこませていたリビングのソファからのん気に身を起こそうとしていた時、血相を変えたお父さんがリビングに駆けこんで来た。

 

「逃げるんだ!」

 

 慌てた様子のお父さんがそう言ったのとほぼ同時に、お父さんの背後からキッチンで鳴った音が響いて、お父さんが倒れる。倒れた先には顔を隠した筋骨隆々の男二人組が立っていて、拳銃を握っていた。倒れたお父さんに向けて拳銃が撃ち込まれ、それでようやく先ほどから鳴り響いていた音が発砲音なのだと私は知った。

 

 二人組は私には手を出さずに家から消えた。

 

 数年前に世界全体で流行した“リリシーの風邪”のせいで、私には両親のほかに近しい親類がいなかった。財産だけは奪い取っていった遠縁の親戚は私を引き取ることに難色を見せ、結果私はレイドの家に養子として迎えられることになった。

 

 延々と続くかに見えた虚無の日々の中で、レイドとその両親は私に尽くしてくれた。荒み切り、地獄に堕ちたかのように無感動で唐突に怒り狂うようになった当時の私を三人は見捨てずに傷が癒えるのをじっと待ってくれた。

 

 夕食の席で三人に当たり散らして、それが結局自分の傷心を誤魔化すために三人を傷付けたに過ぎないのを自覚して一人自分勝手に泣いていたのを慰めてくれたレイド。幼児退行を起こし夜尿症に悩まされた私のマットレスを文句ひとつ言わずに換えてくれたレイドのお母さん。殺人犯が大人の男の人のせいでトラウマになり、近づくだけで罵倒を浴びせられても耐え続けたレイドのお父さん。

 

 傷の癒えた私が当時のことを謝罪しても三人は大したことをしていないといい、立ち直った私のことを喜ぶばかりだった。

 

 半年ほども経ち、ある程度私の精神が持ち直してきた頃に朗報が舞い込んできた。時々お父さんと一緒に帰ってきては夕食を共にしたお父さんの同僚の人が私に会いに来たのだ。

 

 彼のおかげでお父さんを殺した真犯人が牢獄に送られ、数年間に及ぶ裁判の末に極刑が言い渡された。私服を肥やしでっぷりと肥えていた体も牢獄生活が堪えたのか、裁判の席ではやせ細り巨万の富を以てしても覆らない死刑を前に窪み落ちた眼窩が黒ずんで見えた。

 

 ざまあみろと思う反面、死刑の確定を前にそこまで私は喜びを抱けなかった。ただ、終わったなと思うばかりだった。

 

 

 

 どうにか立ち直った私は立ち遅れた勉強を再びレイドから猛指導してもらい、ぎりぎり最難関の王立第一高等魔術学校に進学することが叶った。内申点は正直絶望的だったけれど、そこは入学試験でレイドほどでないにしろ他の受験者へ圧倒的な差を付けることで進学に持ち込むことが出来た。

 

 レイドと一緒に再び学生生活を送る中で深刻な問題といえば、この頃からレイドの身長が急速に伸び始めたことだ。

 

 あの、女の子みたいに可愛らしかったレイドの背がどんどん伸びていく。女の子みたいな声がどんどん低くなっていく。それが無性に私は嫌だった。まるでレイドがトラウマとなった大人の男の人へ変貌していく様が見せられているようで、ありえないと分かっていても成長した先のレイドがどうなるのか不吉な予感を抱いてしまっていた。

 

 そして、私は自身のどうしようもない性癖に気が付いてしまう。ちっさくて女の子みたいなレイドをネタに自慰行為を密かに敢行していた私は、性癖がすっかり小さい女の子みたいな存在じゃないとイケないようになってしまっていることに遅まきながら気が付いた。やばいと思った時にはもう遅く、気が付けば十二歳ほどの少女の中で目を惹く美貌の持ち主がいると股の間が疼くようになってしまっていた。

 

 けれど、それはレイドが急激に変貌していくことに耐えきれない故の逃避なのだと私は考えていた。レイドの成長に伴う自身の変化に心の整理が出来なくなった私は心を乱すのを恐れレイドから少し距離を置くようになっていた。

 

 そんな私の態度はレイドにも察せられてしまったみたいで、ある時レイドは自分に何か問題がないか言って欲しいと単刀直入に切り出してきた。レイド自身には何も罪はない。私は不吉な妄想が現実になるはずがないと思い込みたかった。だから、レイドには何も問題なんてないと告げたのだけれど、あまりレイドは納得していないように見えた。

 

 私の馬鹿らしい妄想はレイドの成長が止まったことで終わりを告げた。成長仕切ったレイドは男らしさをそう身に付けてはいなかった。確かに学年の男子で一二を争うほどに身長は伸びたのだけれど、体躯は依然としてほっそりとしていて顔も結局女らしい。ホッとしたのと同時に高等学校の三年間ずっと悩んでいた自分があまりに滑稽で笑ってしまった。

 

 大学へ進学すると二人とも忙しい毎日を送るようになった。実家通いとあって毎日何かしらの形で顔を合わせるけれど、長々と話をする機会がめっきりと減ってしまった。高等学校時代から大学に顔を出していたレイドは大学生となってなおさら教授の研究室に入り浸るようになり、そのくせ他の講義も卒なくこなしていく。国内最高峰の大学に入り、同程度の才覚を持つ者に囲まれるようになって周りに埋もれていく私とは大違いだった。

 

 この頃のレイドは似合ってもいない口髭を生やすようになっていた。周りからも似合っていないと何度言われてもレイドは髭を剃ろうとはしなかった。そうでもしないと未だ女性に間違われるのが億劫になったらしかった。声も男性的というより中性的で、身長も高いこともありカッコいい女の人にしか見えないのはレイドを知る人なら一致した彼の外見的な特徴だった。

 

 私が大人になってから、時折レイドと結婚しないのかという問いを友人たちから聞かれるようになっていた。誰しもが私がレイドのことばかり話すので、だったらもう結婚しろと言い出すのだった。

 

 正直、レイドとは子供の頃からずっと一緒だったから生涯を共にするのは当然だと私は常識的に考えていた。ただそれは夫婦という関係かと自問するとどうにもしっくりと来なかったのだ。あと、その……私は自分で自分を調教して小っちゃかった頃のレイドのような存在にしか性的に興奮できなくなっていた。今のレイドと体を重ねると考えると億劫だった。

 

 いつか子供が欲しくなる時が来たら、改めてレイドに話を持ち掛ければそれでいいだろうと私は思っていた。男女の営みを私は意図的に避けていた。中等学校時代に生まれた大人の男性へのトラウマが、大人の象徴的な行為たる男女の営みへも及んでいたのだった。

 

けれど、レイドはあまり男らしくはない。レイドとなら、抵抗感はあまり抱かずに出来そうな気はしていた。あまりそういう行為には乗り気ではないのだけれど、レイドのお母さんにあまり心配をかけるのも良くない。

 

 私ももう二十五歳になった。流石に子を産むのにこれ以上遅れるのも母体への負担が大きくなるかもしれないとも思っていた。折を見てレイドに話をしようと思っていたのだ。レイドと身を重ねる想像をしても嫌悪感を抱くことはなかった。だとしても、する時には絶対に髭を剃らせようと思いながら。

 

 まさかあのような想定外の大災厄が起きるとは私は思ってもみなかった。

 

 

 魔王の災厄と名付けられた当日、私は体調が思わしくなくて家で寝込んでいた。レイドも両親も職場に出勤していってしまい、静かになった自室でただじっと横になっていた。突如として、家全体が揺れると共に窓から閃光がほとばしり爆音が鳴り響いた。

 

 一体何事かと思ったけれど、子供のころと違い私は勇敢ではなかった。見に行こうなどとは考えられず、しばらくベッドの中で事態の様子を窺おうと思った。

 

 爆音は一回では収まらなかった。間隔を置かずに連続で響き、その度に家が振動し軋む。それから銃声が連なり響き出し、砲撃音までもが屋外から聞こえだす。

 

 戦争でも起きたのだろうか。けれど、列強であるトロワ王国の中心たる王都にいきなり直接攻撃など出来るものとは到底思えなくて、けれど現実として恐ろしい物音が私の耳元まで届いていた。

 

 誰でもいいから早く帰ってきてほしい。そう思いながら私はただベッドの中で震えるばかりだった。

 

 夜になり、ようやくレイドの両親が帰ってきた。彼らから外の様子を聞かされ、ようやく家の外に出た私は王都の状況を目の当たりにして心が冷たく凍り付いていった。

 

 幸運にも私のいた周辺は全くと言っていいほどに無傷だった。けれど、王都の西区と南区は壊滅し私の目の前で凄まじい火勢を見せつけていた。そして私とレイドの職場である王立研究所も南区にあったのだ。

 

 居ても立っても居られなくなった私が無我夢中に駆けだそうとするのをレイドの両親は止めた。取り乱す私は抑えつけられ、何も出来ない自身の無力さを呪った。

 

 翌日、無事だった鉄道駅から続々と軍人さんがやってきて王都に展開し治安は維持された。そして正午、元々あったものに加え人の集まる場所に増設されたスピーカーから政府公式の発表が放送された。

 

 レイドが帰ってきてくれることを念じ続けていた私はその放送を聞いてついに気を失ってしまった。放送によれば王都を襲った大災厄である魔王を屠ったのがレイドで、その身を犠牲に王国を救った英雄だと報じた。

 

 レイドが死んだ? あり得ない。だって、私は昔からレイドが遠くにいても方向が分かったんだ。今でもレイドのことを感じてるんだ。嘘だ。私を騙そうとしている。

 

 けれど、誰しもが私の言葉は最愛の人物を失った英雄レイドの悲劇的な幼馴染としてしか受け取ってくれなかった。

 

 確かに信じがたいかもしれないけれど、でも……私には分かるんだ。だから、だから……私は虚勢を張り続ける。もし、レイドの死を認めたらもう私は生きる気力を失ってしまうから。

 

 一回でも最愛の人を失うのは御免だと思ったのに、また私に同じ目に遭わせるというの? そんなことは認められなかった。

 

 私はレイドの気配を辿り汽車に飛び乗った。どうせ誰も信じてくれないのだ。同僚たちにも、友人達にも、そしてレイドの両親にも私の今回の旅行は傷心旅行だと説明していた。けど違うんだ。絶対に絶対にレイドは生きているんだ。だから、私が見つけてあげるね、レイド。今度はもう遠くに行かせない。もう二度と私の傍から離したりなんかしないんだ。目の届く範囲、手の届く範囲からレイドを離さない。私は今回の事件で思い知らされた。レイド、あなたが私の全てだ。逃がさない。

 

 

 

 




夫婦同然な両想いカップル→レイドTS化→ルチア覚醒


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第五話:新天地にて

 ロ・ムーに移住してから二週間ほどが経過していた。

 

ローリーから結界整備の仕事を受け継いだレイドは毎日のように結界を生成する塔に通っていた。レイドほどの魔術師ならばいくらでも改善の余地は思いつくのだが、それをすれば警察から結界の認可が取り消されると脅されては手を加えようもない。

 

 レイドは大人しく塔まで毎日歩き、数時間かけて仕事をこなしていた。日常にはある程度のルーチンがあった方が怠惰にならずに済む。ひんやりとした薄暗い塔の中は思索の場として案外悪くなかった。

 

 しかし折角良好な思索の場を見つけてもレイドが精力的に動いていた研究とは切り離されてしまっていた。まさか研究所に戻る訳にもいかず、実験設備もない。迫る死の恐怖を忘れさせてくれるかつての研究への思索は行き詰まりを見せていた。よりにもよって実験が中途の段階で自らの研究から切り離されてしまったレイドは、その実験の推移をああだこうだと考えてみるも、考えれば考える程実際の結果が垂涎の的として浮かび上がってくる。

 

 

 次第に思考はもし研究設備を保有できたならと、どんどんと夢想的な代物へと変貌していってしまっていた。思考の行き詰まりが死を想起させる環境下で、予算の下りなかった機器設備のカタログスペックを思い出しては自らが使う様を想像するのは楽しかった。

 

段々と我慢ならなくなっていたレイドは日課となりつつあったバー通いの中で、酒飲み仲間となりつつあり、家にもちょくちょく顔を見せてきては世話を焼いてくれるローリーと酒を嗜みながらバーのマスターのその辺の質問を重ねてみる。するとなんと隣町に国内有数の魔術大学があるというではないか。

 

 行ってどうにかなるわけでもないと分かってはいたが、レイドはせめて見るだけでもと汽車へと飛び乗っていた。黒煙と白い蒸気を盛大に吹かしながら進む汽車に揺られること、僅かに数分。到着したロ・ムーの隣町であるパレーは海に面した避暑地でもあり、よほどロ・ムーより賑わいを見せていた。ロ・ムーに到着した時など駅のホームに降り立ったのはレイド一人だったが、パレーにはレイドと一緒に十数人ほどが降車する。その際、かつて海外留学で嗅いだ潮の匂いが微かに鼻をくすぐる。ふと辺りを見渡すと、建物の隙間から海が垣間見えた。澄んだ青空とそっくりな紺碧の海は波が穏やかだ。かつて留学していた時に見た荒々しく波打つ海とは全く性格を異にする姿にレイドは目を丸くする。場所が変われば、海がこうも優しい顔を見せるものなのか。

 

レイドの目線に釣られてか、あるいは元より知っていたのか。旅装に身を包み、これからのバカンスに浮かれている降車した人々も海を目にして嬉し気にはしゃぎだす。彼らの陽気に当てられてしまったのか、研究設備への憧憬によって焦りが先立ち、ささくれ立っていたレイドの心持ちも少しばかり角が取れる。穏やかで美しい海と陽気な人々に囲まれ、レイドが思わず浮かべた微笑が周りの人々の目を惹きつけるが、レイド当人は気付いた様子もなくパステルカラーが眩しい煉瓦造りの駅舎から去っていった。

 

 二週間ほど滞在しロ・ムーに愛着を抱きつつあったレイドだが大学へと向かう道中、誰しもが明るく行き交う程ほど活気ある人気と見るだけで目を楽しませるカラフルな歴史ある家屋群、白で統一された美しい舗装路、洒落た数々のカフェに噴水などを見せつけられると移住したくなってきてしまった。こちらの方が余程、余生を送るには優雅に暮らせそうだった。

 

 午前中に早々と仕事をこなし今日のレイドはフリーだった。大学を目指しつつ、ふと喉の渇きを覚えカフェでコーヒーを嗜んだりおまけに貰ったアイスクリームに舌鼓を打ったりおまけに貰った炭酸ジュースでお腹がいっぱいになりかけたりおまけに貰った野菜でまさかの荷物が生まれたり荷物にへばっているレイドを女学生が取り囲んできて荷物を持ってもらったり大人だと言っても信じてもらえず頭を頻繁に撫でられたり抱きしめられたり運んでもらったりしているとようやく大学の学び舎が見えて来る。

 

 道中で無駄に疲れ、肩で息をしながらレイドは網に包まれた野菜片手に大学構内へと足を踏み入れる。高等魔術学校に入ってから背が伸びる以前と同じような扱いを受け、せっかく背が伸びて大人扱いされるようになったというのにまた逆戻りだとレイドは小さくため息を吐いた。

 

 女学生たちは講義で行ってしまったが、しっかり図書館の場所は尋ねている。身分証があれば何冊か借りることも叶うだろう。後は、あわよくば研究設備を目に収め……出来たら触るくらいは……或いは、何かの奇跡で手伝いを申しつけられて実力を見出されて自由に触れるような立場に……あまりにも自らに有利な夢想にレイドは悲しくなり、もう一度ため息を吐いた。

 

 

 

「おや?」

 

 何処か懐かしい大学の雰囲気を味わいつつ、レイドはふらふらとあちこちを巡りながら図書館を目指していると思いもしない男の姿が目に入った。

 

 ソレス・ヴェルリ。レイドの大学時代の同期で、禁術を奇抜な方法で平和利用する術を提唱して総スカンを喰らった人物だ。確か、死者蘇生術と魂と肉体の交換術を組み合わせた永久の命の生成を目指していたのだったか。目標が目標故に研究室ではとんでもない危険人物扱いされていた奴だが、レイドが話しかけてみればそう悪い奴でもなかったのを覚えていた。ただ、ちょっとばかし思想が危険でおかしいのを除けばだが。

 

 噂では秘密の研究所に引き抜かれただの、軍の最強兵士生成計画にマッドサイエンティスト枠としてかかわってるだの言われているがレイドは彼が資産家の令嬢に入れ込まれて半ば強引に結婚させられたのを知っていた。

 

 そうか、この大学の名前に聞き覚えがあると思ったがソレスの新しい姓であるヴェルリの名を冠した私立大学だったからか。そう納得したレイドはソレスを目で追い続ける。

 

 最早自分そのものとして話しかけることなど叶わないが、それでも旧友が近くを歩いているとなるとどうにも落ち着かなかった。レイドはどうすることも出来ないというのに、ソレスの後を追いかけてしまっていた。

 

 初めはこそこそと身を隠して追いかけようなどと考えたが、小さくなった体躯ではとてもソレスの歩調についていけなかった。荒くなっていく息が漏れるのを両手で抑え、必死に押し殺しながら早足でついていく羽目になってしまった。

 

 大学有数の変人を追いかける見目麗しい小さな美少女の図は、意図せずして周囲の目を惹く事となった。

 

「君、僕に何か用かね」

 

 当然の如くソレスに気取られるも、レイドは努めて自然な調子を保って目を背けて見せた。イケるか? 流石に無理か? レイドは意外とイケるのではと期待をこめつつ他人の振りをする。

 

「それで誤魔化したつもりか、お馬鹿さん」

 

 おや、ソレスにしては口調が柔らかいとレイドは目を丸くする。さしもの彼もはた目には十二歳程度の見た目をした美少女に大人と同じような毒舌を向けはしないようだった。

 

 しかしカツカツと近付いてきて上から目線で狐のように細い目で睨みつけられると、さてはてどうしたものかとレイドは困ってしまった。何も考えず衝動に任せて追いかけた結果がこれだ。やはり感情とは厄介な代物だ。

 

「その癖、変わらないなレイド」

「なっ!?」

 

 どうすればこの肉体のレイドを看破できるというのか。自身の名を呟いたソレスを前にレイドは驚愕で体が硬直してしまった。

 

「思案の時にこめかみへ手を当てようとして、結局触れなかったろう? 君が良く見せた動作だよ。姿かたちは変われども、指揮中枢である魂の指揮の癖までは変わりようがない。足の運び方、望まない状況に相対しての誤魔化し方、元の君の特徴をしっかり捉えていた。現在の肉体に最適化しようと行動様式の変遷は見受けられたがね。それに……精神作用魔法の大家であり、僕が唯一友人と認めた君がむざむざ大昔の遺物如きに殺されるとは思えなかったのだよ」

 

 してやったりといった顔つきのソレスへ一矢報いたくなったレイドはすぐさま口を開いた。

 

「これもまた運命哉、私は偶然にここを訪れたのだがね。君がいて、そしてよもや正体が露呈してしまうとは……そうだ、私の正体を知ると殺されかねないから君は正体を暴くべきではなかったんだよ、ソレス」

「はあ……レイドよ、どうせその肉体が魔王のものだからといった理由なのだろう? それがどうしたというのだね。君の才能を失うよりは、そしてただ一人の友を失い会えなくなるよりは些事だと言えるね」

 

 はったりを噛まして主導権を握ろうとしていたレイドは、ソレスが感傷の念を表に見せていることに衝撃を受ける。皮肉屋でほとんど感情を見せなかった大学時代の彼を知るレイドは、ここまではっきりと感情を見せられ驚きで何も言えなくなり、口をパクパクと動かすばかりとなってしまった。

 

「ついて来たまえ、何か目的があってここへ来たのだろう?」

 

 ローブを颯爽と翻し真っ直ぐ歩き始めるソレス。慌てて追いかけようと我に帰ったレイドはもつれそうになる足をどうにか動かしその背を追いかける。

 

「待ってくれ。もう少しゆっくり歩いてくれないか、追いつけない」

「ふふ、いいだろう」

 

 せめてもと出したレイドの要望は、レイド自身の予想とは裏腹に叶えられた。その際、ソレスが一瞬振り返って見せた優し気な表情もまたレイドを驚かせる。この男、こんな顔も出来たのか……。

 

二人はゆっくりとした歩調で大学構内を歩いていき、やがて研究室の一角に到着する。広々とした研究室の片隅に設けられた部屋で、事務仕事や論文の執筆活動に使われているようだった。事務机が中央に設えられ、左右には本棚が並び、事務机の前には四人掛けのソファが置かれている。昼下がりの強烈な太陽光が事務机の背後にある窓から差し込み、薄いカーテンを貫くことで柔らかな光に減衰されて室内を照らしだす。

 

「ま、コーヒーくらいは入れてあげよう」

「すまないな」

 

 来客用……というより、普段は睡眠を取るために使われているであろう毛布が隅に畳まれたソファにレイドは小さな身をちょこんと収め、隣の給湯室からマグカップを持ってきたソレスから受け取った。

 

「それで? 随分と愛らしい見た目になったものだね」

 

 事務机越しにソレスは机に肘をついて両手を組みながらこちらを興味深げに見つめて来る。

 

「そういうな。これでも王都を破壊した魔王の肉体だぞ?」

「ふふ、だが君が中身なら間違いは起こるまい?」

「当然だ」

「なら、いいだろう」

 

 ソレスならば、無用に秘密を明かすような真似はしない。もう既に正体はばれたのだ。レイドは正直にこれまでの経緯を明かした。

 

「魂と肉体の交換術を使ったと聞いたが、あれを実地で使うとは流石と言ったところだね」

 

 本来、魂と肉体の交換術は巨大な魔法陣を形成してかつ長い時間をかけてゆっくりと二者間の魂を交換する術式だ。だが魔王相手に悠長な真似はしていられない。レイドは削れる工程を出来るだけ削り、実践で使用可能なアレンジをその場で施した。それは一種の賭けではあったのだが、発動自体にミスが起きるとは微塵もレイドは考えなかった。

 

「だが、適合係数を無視した交換だ。お察しの通り、私の寿命は長くはない」

「……そうか」

「順当に見て、一年。長くとも二年が精々だと結論付けている」

「それで、君はその寿命の問題を解決しようとここに来たのかい? なら、おあつらえ向きの設備が整っているよ。何せ私は学長の娘婿だからね、最新の設備を導入してもらえた」

 

 マグカップを持ったままソレスは鷹揚に両手を広げて見せ、かつてよく見せた皮肉気な笑みをレイドに披露する。

 

「そういう、訳じゃないんだ」

 

レイドは陰鬱な表情を隠すことなく、無機質に自らが生きてはいられないと話す。この身に宿った魔力が国家の危険を招くのだ、と。自らが認めた才能が諦めていることに、何より数少ない友人が死を受容していることにソレスは眉を顰める。

 

「それがどうしたというのだ?」

「国防上、被害者感情の二つから見て私の生存は望ましくない、という訳だ」

「馬鹿らしい! 君の才能をそんなことで捨て去るのかい? あり得ないね! 君は生きるべきだ!」

「そう、言ってくれるのは嬉しいがね。この変化はそう簡単にどうこう出来るやわな代物ではないよ」

 

 レイド程の天才が簡単にあきらめることにソレスは我慢ならなかった。生涯生きてきて同等の才能を持つものなどいないと周囲を半ば見下していた自分の長い鼻をへし折ったライバルであり、ようやく持てた友人が死ぬなど許されない暴挙だと怒りを覚えた。

 

「……だったら、どうしてここに来たんだ? 何かを期待していてここに来たんだろう!?」

 

 激高し立ち上がったソレスはつかつかとこちらに歩み寄り、レイドの華奢で細い肩を掴みぎりぎりと手の力を強める。

 

「何を躊躇っている!? お前には守るものがあるんじゃないのか! ルチアや家族に恩師、友人たちを悲しませたまま果てる気だというのか? 孤独で寂しいのだろう? 死が怖いのだろう? こういう時くらい本音を曝け出したまえ! 寂しい時に寂しいと言えないと、本当に魔王になってしまうぞ!」

 

 皮肉屋で、ほとんど取り乱したことのなかったソレスがここまで感情を露わにしている。これまでにない……いや、無理やり婚約が決められたことを知らせにきた時以来久しぶりに見たソレスの切羽詰まった表情にレイドは心が揺さぶられる。

 

 そうだとしても、魔王の犯した数々の暴虐を見たレイド自身がこの体へ憎しみを抱いていた。自分の肉体を失う羽目になった運命を背負わせた憎悪を日々ぶつけていた。さっさと死んでしまえと鏡を見る度に頭の片隅をよぎっていた。レイドはこの体を受け入れてはいなかった。

 

 だから、真っ直ぐに向けられるソレスの純粋な感情からレイドは目をそらしてしまった。口をつぐみ、床へ目線を降ろしてしまった。

 

「帰りたまえ、レイド」

 

 ソレスはレイドの肩から手を離し、背を向ける。体を震わせながら、底冷えのする冷たい声で出口を指さし退出を求める。

 

「すまないな、ソレス」

 

 レイドは謝罪を残しながら、素直に立ち上がり出口へと向かう。どのような形であれ、旧友と話せたことにレイドは満足した。これで心残りが一つ減った。

 

「翻意した時、僕は協力を惜しまないよ」

 

 出口の戸を閉じようとした時、聞き逃しかねない小さな声がレイドの耳に届いた。ぶっきらぼうだが、レイドを想いやった言葉にレイドの胸の奥が温かくなっていく。

 

「……考えておく」

「是非、考えを翻したまえ」

 

 レイドは背後のソレスへ振り返ることなく手を振って別れた。遅れて肩が痛むことに気が付いたが、その痛みをレイドは悪いものと思えなかった。

 

 

 

 ソレスに出会った帰り、レイドは何処か浮かれ調子で帰路に着いていた。クーリュリア陛下には悪いが、ソレスなら秘密を漏らすようなこともあるまい。かつての自身を知る者と隠し事なく話が出来た内心の喜びが、歩調を弾んだものにさせた。

 

 二週間も経ち、ロ・ムーの町に顔見知りも増えて来た。挨拶を交わしたり、何でもないような雑談をこなしつつゆっくりと歩いているとローリーの姿が目に入る。

 

「やあ、帰りかい」

「そーよー。あー! 疲れたー!」

 

 足をふら付かせたかと思うと、ローリーはレイドの背後にわざわざ回り込んできて腕を回し抱き付いて来る。

 

「んっふっふー、今日もリイナは良い匂いですなあ」

「やめてくれ、恥ずかしい」

 

 スンスンと頭髪に鼻を埋めてローリーが揶揄ってくる。レイドの方が年上だというのに、あまりに小さな体躯のせいで子供のように扱われてしまう。最初の頃は遠慮があったのに、仲が深まった代償にローリーはやたら身体的スキンシップを図るようになってしまった。

 

「そんなこと言うなよー、リィイナァー……今日もマスターのトコ行こうぜー」

「そうだな、どうせ私たちは共に料理も出来ないしな」

「ちょっとー、リイナと違って簡単な料理くらいは私作れるわ。一緒にすなー」

 

 長い事実家暮らしだったレイドに家事スキルなどあるはずもなく、専ら外食で食事を済ませていた。家庭料理の暖かみに恋しさを覚えるが、マスターの料理の腕は確かでこれはこれでと自分自身を納得させていた。

 

「マスター。今日も来たわよー」

 

 扉に付いた鈴の音を鳴らしながら店内に入ると、夕刻とあってそれなりに席は埋まっていた。二週間近く通っていればほぼ知り合いのようなもので、周りの酔っ払いたちとも気楽に会話を弾ませながらレイドとローリーの二人はいつも座っているカウンター席に腰を落ち着けた。

 

「すまないね。いつものスープを頂けるかな」

 

 マスターの料理はどれも美味しいが、レイドは素朴ながら暖かみのあるジャガイモのスープを好んで食していた。マスター曰く、ジャガイモでなくソーセージの方が主役だと言うがレイドは肉のうま味を吸ったジャガイモの方を主役と見なしていた。そう主張し続けていたおかげか、レイドの注文するスープは気持ち多めにジャガイモが入っている。マスター、大好きだとレイドは顔をにやけさせる。愛くるしい見た目で見せる満面の笑みは周囲の空気を何処かほんわかとしたものへと変えているのに本人は気付いていなかった。

 

「構わないとも。先にワインでも飲むかい?」

「飲む飲むー!」

 

 レイドよりもよほど子供らしいローリーの無邪気な物言いに、レイドはマスターと顔を見合わせクスリと微笑む。

 

「はーい、リイナ。乾杯よ!」

「はいはい、乾杯」

 

 陽気にグラスを持つローリーは乾杯を済ませると早々にグラスの中身を飲み干してしまう。これは、今日も帰りに自分が介抱する羽目になるのだろうかとレイドは訝しむ。もうレイドは慣れてきてどうとも思わなくなりつつあるが、レイドの家の方が近いのでローリーはよく家に泊まりこんで来る。段々と私物も増えてきてこのままだと同棲生活になりそうで、レイドは冷や冷やしていた。あまり関係を深めるべきではないと思っていても、孤独でいるのは恐ろしくてレイドはローリーの人懐っこさを邪険にできなかった。

 

 トロワ王国の夏は日が沈むのが遅い。まだ明るいからいいだろうとぐだぐだと過ごしていると、いつの間にか夜の九時を過ぎてしまっていた。それでもいまだ空は薄暗くも日は沈んでいなかった。これで冬は四時前には真っ暗になるのだからバランスというものを考えて欲しいものだと酔いの回った頭でぼんやりとレイドは文句を脳内に浮かべる。

 

「うえあー……んへー……。リイナはかあいいねえ。うえっへっへっへぇ!」

「はいはい、ありがとうローリー」

 

 すっかり出来上がったローリーはえへえへと笑いながらレイドを抱きしめてすりすりと頬を寄せて来る。妙齢の女性であるローリーは可愛らしく、衣服越しにも柔らかな感触がふにょりと感じられる。だが今のレイドは女で、もはや同性なのだ。慌てる要素などなかった。そう脳内で呟きながらも体は嘘を吐けない。慌てるレイドの様がおかしくて、そして一縷の希望を脳の片隅に浮かべながらローリーはますます体を密着させていくのだった。

 

 何時間も席を埋めるばかりでお金を落さないのもマスターに悪い。レイドはここで明日の朝食も買い込み、そろそろお暇することにした。

 

「自分の家まで帰れるかい?」

「えー、無理だよー! 泊めてってー!」

「しょうがないな」

 

 案の定こうなったとため息を吐いて見せる。だが、レイドも一人寂しく夜を迎えるよりはローリーが居てくれた方が嬉しかった。喜んでいるのを気取られると調子に乗りそうだから教える気はないが。

 

「んー! リイナ優しいー! 好きだぞー!」

「こらこら、夜なんだからあんまり大声を出すな」

「はーい、リイナのゆーとーりにしまーす……」

 

 頭をふらつかせるローリーの手を取りながら、レイドは今の新しい家まで帰ってきた。防衛術式がレイドの帰宅を認識して薄らと緑色に輝く。町を覆う結界がある手前、控えめにしてはいるが警報くらいにはなるとレイドは自制していたが実のところ王都の大豪邸でも見られない厳戒な魔術的防衛機構が備え付けられていた。

 

 べたべたとしてくるローリーの邪魔を捌きながらレイドはどうにかポケットから鍵を取り出して扉を開け、室内へ入った。指を鳴らし魔力灯が灯ると一気に室内が明るく照らされる。暗がりを歩いていたレイドは少しほっとした気分になった。

 

「酔い覚めに何か飲むかい」

「んー、水で!」

「はいはい、ちょっと待っててくれ」

 

 リビングのソファに倒れ込んで気持ちよさそうに身を横にしたローリーを置いてレイドはキッチンにある魔力駆動式の冷蔵庫から水を取り出しピッチャーからコップに中身を移し替える。

 

「ほら、どうぞ」

「ありがとー、リイナーずっと私のお世話してくれー」

「はは、それは困るな」

 

 ローリーの他愛のない言葉にレイドはずきりと心を痛ませる。だがそれを見せる訳にはいかないのだ。内心を押し隠すためにレイドは背を向けて軽く返答を残した。

 

 

 




ソレス君、短時間で正体見破るなんて洞察力がすごいなあ(小並感)


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第六話:再開

 翌朝、朝から仕事があるのだというローリーを起こすべくレイドはローリーに貸した客室を訪れていた。彼女がノックをした程度では起きないことをすっかり身に覚えさせられたレイドはノックを申し訳程度にした後に部屋へと入る。貸した当初は殺風景だった客室は、いつの間にか増えた私物で乱雑に散らかりすっかりローリーの私室同然に扱われていた。

 

「ローリー、起き給え。朝だよ」

「んむむう……もうちょっと寝かせてぇ……」

 

 ベッドで気持ちよく横になっているローリーをゆさゆさと揺らすも、やはりというべきか起きる気配がない。それどころか抱き枕の代わりとしてその身を拘束されかけたレイドは慌てて距離を取る。

 

 しばらくレイドはじっとローリーの寝顔を眺める。可愛げのある整った顔立ちがむにゃむにゃと惰眠を貪ってふにゃけ、乱れた亜麻色の髪があちこちにピンと跳ねてしまっている。そっと跳ねた髪を抑えつけるように撫でると人肌の温もりが感じられ、レイドはさっきまで一人だったことを忘れられるようでホッと顔を緩める。

 

「リイナ、優しい顔してる」

 

 そう長い時間撫でていた訳ではないが、レイドの気付かないうちに目を覚ましたらしいローリーが嬉しそうに髪を撫でるレイドの手にそっと自らの手を重ねる。

 

「そうかな」

 

 気恥ずかしさを覚え目線を逸らすレイドを見て微笑むローリーは、白い髪を露わにしているレイドの両頬に手を添えて目と目を合わせてからにんまりと笑い朝の挨拶をする。

 

「えへぇ、おはよう」

「おはよう、朝ごはんにしようじゃないか」

「んー、お腹空いたーっ!」

 

 どぎまぎと顔を赤らめて声音の調子を狂わせたレイドがくるりと背を向け出口へ歩き出すのをローリーは愛おしそうに眺め、そしてベッドから降りてその背を追った。

 

 料理の出来ないレイドと出来ないこともないがずぼらであまりしたがらないローリーの二人の朝食は自然と冷たいパンとハム、それに果物を齧る程度になる。王都にいた頃は温かい朝食が食べられたのだがと内心不満を抱いていたレイドの不満はここ十日ほどほぼ毎日共に朝を迎えているローリーのおかげで、簡単ながら温かなスープが飲めるようになり解消されていた。

 

「んー、いい味だよローリー」

「そう? ありがとう」

 

 微妙な顔つきをしてパンを咀嚼していたレイドが満足げにスープを掬って飲むさまをローリーはニコニコと見つめながら自分自身もハムと卵、それに玉ねぎで作ったごく簡単なスープを口に運ぶ。一人で食べる朝食は冷たかろうとどうでもよかったが、レイドと共にとる食事は出来るだけ美味しく取りたかった。

 

 食事を取りおえると、レイドはいつものように栗色のウィッグを被った。鏡を前に髪をいじるレイドを横目にローリーもまた寝ている間に乱れた長い亜麻色の髪に櫛を入れ整えていく。幸い、ローリーの髪質は軽く櫛を入れれば簡単に髪を整えられるので寝癖に苦労したことはなかった。

 

「白い髪、私は綺麗だと思うけどなー」

「そう言ってくれるのはありがたいが、私はあまり……ね」

「そっかー」

 

 レイドはローリーにあまり自身の事情を話していなかった。何処で嘘がばれるかも分からなかったし、手遅れな気もするがあまり深入りしては離別の時に後悔すると思っていた。

ローリーはそれに何も文句を言うことはなかった。

 

「今日は家庭教師かい」

 

 ローリーはロ・ムーの町では貴重な高等魔術学校出の準エリート魔術師だった。そのため魔術師が入用の場面では引っ張りだこのようで、町の重役の子供が夏休みの間に魔術の勉強を教えるのも仕事の一つだった。

 

「そーよー。物覚え悪くてやんなるの。私が教えるの下手なのかなー?」

 

 親御さんの金払いはいいし、理不尽なことも言ってこない。教える子も真面目ではあるんだけれどとローリーは愚痴る。悪感情の発露とローリーも自覚する発言の数々をレイドは嫌な顔一つせずに聞いてくれることがローリーは嬉しかった。

 

「ふふ、頑張ってきたまえ」

「ありがとっ。いってきまーす!」

「いってらっしゃい、ローリー」

 

 綺麗にウインクを決めてローリーはローブを羽織って仕事に出かけていった。朝から夕まで働くローリーと違い、レイドは結界の整備を数時間するだけだ。だからといって暇な訳ではなく、一人で暮らすには広過ぎる家の掃除に手を掛けていた。料理は出来なくとも、いくらかの家事は手伝わされたり留学中に覚えたりで出来ない訳ではない。ましてやこの家はレイドの私有物ではなく、クーリュリア女王からの借りものだとレイドは思っていた。最大で二年、滞在させてもらう間に汚して返す訳にはいかないと雑巾片手にあちこち拭き回っていった。

 

 体力はないので休んでは動き、休んでは動くのを繰り返す。元来真面目な気質なレイドはゆっくりとだが家の整備を着実にこなしていた。

 

 ある程度のところで家事に見切りをつけたレイドは遅まきながら結界の整備に向かう。もはやルーチンとして確立されたため、家事よりもよほど気楽に仕事をレイドはこなす。ひんやりとした空気を内包した結界塔から出ると、時刻は未だお昼を過ぎたばかりだった。初夏が過ぎ去ろうとしていた。正午過ぎの昼真っ盛りの暖かな空気が冷えた体を優しく包み、じんわりと体に熱が戻っていく感覚をレイドは心地よく目を細めて受け止めた。ロ・ムーの町は相変わらずのどかで温かく、何処かゆっくりと時が進んでいくように思われた。

 

「やあ、リイナ。結界の調子はどうかな」

「任せてください。しっかり万全の調子ですよ」

「そうかいそうかい、ならばよろしい。ところで今、帰りかな」

「ええ。一旦昼ご飯にでもしようかと」

 

 近くを通りかかった騎馬警官と軽く会話をこなす。治安維持に不可欠な結界の維持を担当するにあたって、警官とはちょくちょく世間話をするようになっていた。

 

「よかったら乗ってくかな? 君くらいなら乗せてあげられるよ」

「はは、そこまで私は病弱ではありませんよ」

「そうかい? ちゃんと寄り道せずに帰るんだよ?」

「ははは……気を付けます」

 

 どうにもレイドは町の人間からは病弱な子供のように扱われているようだった。美しくそれでいて小柄な子供にしか見えない見た目も相まって周囲の人間に庇護欲を湧き上がらせていた。特に時折見せる陰鬱な表情は、まるでこの世から消えてしまいそうで放っておけない雰囲気をしていた。

 

 燦々と天上から太陽の光が青空の下から降り注ぐ。今日はそよ風が吹いている。時折吹く風が木々を揺らして、木の葉が揺れて涼やかに音を鳴らす。ロ・ムーの町はそよ風がよく吹く町だ。海が近いからだろうか。いずれにせよ、夏が迫ろうとする道行く人々にとってはありがたい風だった。

 

 レイドは周りに構われながら菓子やらなにやら持たされて一旦家路に付く。町から少しばかり外れたレイドの住む家の周りは木々が林を形成していた。そのため、いつも町の賑やかさとは無縁だった。木漏れ日が差し込む天然のアーケードを通り抜け家に戻ると、家の前に一人の女性が立っていた。胴部をベルトで締めたワンピースに身を包む、肩甲骨にかかるまで伸ばされた金髪の女性だ。その後姿に、レイドは凄まじい既視感を覚えた。

 

 間違えるはずがない。ルチアだった。波打つ鮮やかな長い金の髪、ワンピース越しに垣間見える見慣れた体のフォルム、母の形見として常に嵌めていたのを覚えている無垢の金指輪、大学時代に誕生日だからとレイド自身が手ずから作成した魔術を効率的に行使するために贈った紅色に光を反射するイヤリング、ルチアが長旅にと買い込んでいた革張りの鞄……露わになった手の指一本の形状に至るまでレイドの記憶は覚えていた。

 

 声をかけたい。再び触れ合いたい。そういった感情が一気に噴き上がるが、いまさらどんな顔をして会えばいいのか。そう思うと勇気は萎み、上げかけた腕は降りる。

 

 レイドが迷い、ぐずぐずしているとルチアは振り返ってこちらに微笑みかけて来る。もうそれだけでレイドは涙腺が崩壊寸前になってしまった。

 

「あなたがここの家主さん?」

 

 こちらに目線を合わせようと屈んで優しく微笑むルチアに泣き顔を見せまいと無駄な抵抗をするレイドは思い切り顔を地面に俯かせる。

 

「……レイドって人を知らないですか?」

「わ、るいが……知らない名だ」

 

 声を震わせ弱弱しく平常を装うレイド。だが、レイドがルチアを隅々まで記憶に残しているのと同様にルチアもまたレイドをよく覚えていた。姿かたちを変えてもなおその人由来の習性が消え去る訳ではなく、そして例えそれすら隠しても、あるいは忘れていたとしても今のレイドを追い求めてレイドの精神の気配だけで遥々数百キロ正確にやってきたルチアに正体が露見しないはずもなかった。

 

「嘘、相変わらず下手くそですねレイド」

 

 そう言ってルチアは人差し指を伸ばし、ぺしぺしと指の横腹で俯いたレイドのウィッグを叩いて来る。その様はそう怒るでもないレイドの不手際を責めるルチアの所作に他ならず、ついにレイドは耐え切れず涙を石畳に零した。

 

「入れてくれますか? 何があったのか、私に教えてくれますか?」

「……入り、給え」

 

 家に入り、往来からの視線が遮られると途端にルチアはレイドの頭を掴んでウィッグを取り去る。偽りの栗毛は取り去られ、白いボブカットの髪が露わになった。

 

「あっ!」

「よかった、です。怪我を隠している訳ではないみたいですね」

 

 俯き顔を見られまいとしていたレイドもいきなりの挙動に驚き、顔を上げて取られたウィッグを呆然と見つめる。ボロボロと涙を零していたのだが、虚を突かれ涙も止まってしまった。

 

 動きを止め、ウルウルと紅の瞳で見上げて来る小さくなったレイドの涙をルチアは指で掬う。レイドの体液。口に含むとしょっぱかった。その行動も理解しがたいものでレイドの動きを停止させる。

 

 そしてルチアと目が合ってしまう。目と目で次々に意思が相互に伝わり、伝えられていく。レイドはルチアが自身の死を信じられずにここまで追ってきた執念を感じ取り、あまりの妄執に白旗を上げてしまった。

 

 ルチアの唐突な暴挙の連続に悲しみが薄れ、レイドはつい昔ながらの調子に戻ってしまった。レイドの口の端に笑みが薄く浮かぶ。

 

「……唐突に過ぎないかい? 本人の了承は取るべきだろう」

「取っちゃ駄目な、そういう感じはしなかったから」

 

 平然とそうのたまうルチアは昔からそうだった。レイドが本気で怒るような真似は決してするようなことがなかった。揶揄いの範疇をしっかり弁え、一線を越えないような配慮は欠かさなかった。ルチアが一瞬顔を背けながらも間に合わずに見せてしまった悪戯に成功した小悪魔の笑みをレイドは見逃すことはなかった。

 

「案内するよ。この新居も意外と居心地がよいものだよ」

「レイド以外の人の匂いがします。女の人……」

「ああ」

 

 肯定の返事を返したことをレイドは後悔した。さっきまでの優し気だったルチアの瞳に凄まじき怒気が浮かんだからだ。だが、それは一瞬のことですぐさま消える。再び微笑をたたえた可愛らしい美女の姿に戻ったルチアに、レイドは今のは勘違いだったろうかと首を傾げながらリビングへ案内した。

 

 クルクルとルチアの手で回っていたウィッグはテーブルの片隅に置かれ、興味深げにあちこちを見渡すルチアをソファに座らせる。

 

「王都から真っ直ぐ来たのかい? 遠かっただろう」

「三日かかりました」

 

 疲れていたのだろう。腰をソファに落ち着けたルチアはぐったりと背中まで体重をかけてソファに埋もれる。何か飲み物でも用意してやろうとレイドがリビングの隣にあるキッチンへ姿を消そうとすると、猛烈な勢いでルチアが立ち上がりこちらに迫ってきた。

 

「な……どうした?」

「お願いです。私の前から姿を消さないで下さい。お願い、します……」

 

 さっきまで取り乱していたのは一方的にレイドだったが、ここにきて鬼気迫る気配でレイドの肩を押さえるルチアの顔は恐怖に染まっていた。その顔はレイドには見覚えがあった。両親を失ったルチアが浮かべていた表情だった。

 

「すまない。キッチンにもテーブルはあるんだ。そっちで飲み物でも飲もうか」

「……はい」

 

 広々として、日光もたっぷりと浴びられる明るいキッチンには四人掛けのテーブルがあった。ソファのように柔らかくはない白塗りの木椅子にルチアを座らせ、レイドは冷蔵庫からオレンジを切って入れた冷たい水を取り出す。ガラス容器の中で、揺ら揺らと水に入ったオレンジが揺れる。

 

 二人でコップを傾け、少しの間沈黙が場を支配する。仄かにオレンジの甘味と酸味が口の中に広がった。

 

「荷物を持って歩いて疲れたろう」

 

 気遣う素振りを見せるレイドだが、レイド本人も結界塔からここまでの道のりでよろよろだった。ようやくありつけた水分をありがたいと一気に飲み干していく。

 

「そうですね……これ、誰に作ってもらいました?」

 

 ルチアも温かな陽気の中、旅行鞄を持って歩き回り軽く汗ばんでいた。だから飲み物はありがたく頂いたが、レイドがこのような気の利いた飲み物を用意しないことを理解していた。何より、オレンジの切断面がそれなりに料理を嗜んだ人間の者だった。さらにキッチンの高さからして右手に包丁の類を持った身長百五十センチ前後の人物が切ったものだとアタリを付けた。

 

「ゆ、友人がちょくちょく立ち寄ってね」

 

 微笑みを絶やさないルチアから何故か底知れぬ威圧感を受けたレイドの声は少し震える。おかしい、何故言い訳染みた口調になっているんだと自問しながらも冷や汗が顔を伝った。

 

「それは、後で聞きます。それより……今までの事情、聞かせてくれますか?」

「そうだな。一から、話していこうか」

 

 ぽつり、ぽつりとレイドは今までの出来事を話していく。だが、どうしても永くはない命について述べることが憚られた。一度家族を一気に失って感情を失ったルチア、明るさを失って破れかぶれになった過去のルチアが思い返される。そんな幼馴染の姿をもう一度見たくなかった。

 

「レイド。魂と肉体の交換術の副作用はどうしました?」

 

 レイドが王立魔術研究員であるように、ルチアも研究所の一研究員だった。専攻分野が異なるとはいえ、互いに魔術の極みに立つ存在であり、その概要を知らないはずがなかった。

 

「そ、れは……魔王の肉体が打ち消したようだ」

「嘘つき」

 

 咄嗟に付いた嘘はあっさりと看破されてしまう。意図して目線を合わせようとしたレイドの表情の強張りを、幼馴染のルチアが見抜けないはずがない。

 

「言って、下さい。本当はどれくらい生きられるんですか?」

「……二年。もって、二年だ」

「そうですか」

 

 二人して声を震わせて、どうにか言葉を紡ぎ続ける。テーブルの上で組んでいた手が震え、それを必死に抑えようとするレイド。目を瞑り、ぎゅっと体を強張らせるルチア。重たく暗い絶望的な空気が纏わりつく。

 

「何で、あなたが……」

 

 レイドは生きている。それだけを支えに気を張っていたルチアの緊張の糸が切れた。意識が遠くなり、ふらふらと背もたれに身を預けるルチアに慌ててレイドが駆け寄った。

 

「ルチア! 大丈夫か!」

「ね、レイド。私は嫌です。いなくならないでください」

 

 互いに震える身を抱きしめ合う。小さくなったレイドは椅子に座るルチアと顔の高さがそう変わらない。おでことおでこ、鼻と鼻が触れ合って互いに息が重なる。ルチアの瞳から零れる涙がレイドの頬に流れて落ちる。

 

「……こんな姿に、なってもかい」

 

 生まれてからずっと共にあった男の体。それを失い、レイドは諦めていた。二年足らずの寿命だとしても、それは大切な肉体が先んじてあの世に旅立ったのを追うだけだと考えていた。

 

 レイドは今の体を好んでいなかった。愛すべき王国を蹂躙し、尊い命を多数奪った魔王の肉体に愛着など抱けなかった。どれほど見た目がよくてもそれが何だというのだろう。殺人鬼が美人だとして、それが罪の贖罪になりえはしないのだ。

 

「レイドは、レイドです」

 

 だが、ルチアがそう言ってくれるのなら。幼馴染であり一生涯共にありたいと思える他でもないルチアが、今のレイドを肯定してくれるというのなら。どんなにレイドが否定してもただ一人、ルチアが肯定してくれるというのなら。思索の果てに生まれた姿かたちのあやふやなアイデアがレイドの頭でふと、形を結んだ。

 

「……一つ、手立てがある。可能性とも言えない僅かな思い付きだが」

「生き延びられる?」

 

 ルチアの縋るような目に、レイドは小さく頷きを返す。

 

「だったら、して下さい!」

「徒労に終わる可能性の方が高いよ」

「それでも、です!」

「資金もかなりかかる」

「う……だと、してもどうにかしてかき集めます!」

「ルチア。君は私を受け入れてくれるのかい? 今の、私を」

 

 ルチアは躊躇うことなく頷いた。ルチアの瞳がレイドを拒絶せず真っ直ぐにレイドを受け入れた。

 

 ルチアのおかげで、今ようやくレイドは生への執着を確固として抱いた。彼女の為なら、生き延びたいと思えた。

 

「正直、私は怖かった。体を失って別の姿になって……受け入れられるのか」

「今のレイドも素敵ですよ。とっても可愛らしいですっ! 大事なのは、中身ですよ中身っ! レイドが中にいるからその見た目も映えるのですっ!」

 

 鼻息荒く肯定の言葉をつらつらと述べ始めるルチアのおかげで、レイドの顔から不安が消える。最後に、レイドは鼻先にいるルチアへ問いかける。

 

「こんな私を肯定してくれるかい」

「私、レイドのことが大好きですよっ! 今のあなたも間違いなく素敵ですっ!」

 

 ルチアが迫り、唇を重ねる。すぐに離れてしまったが、照れて顔を真っ赤にしたルチアはようやく眩いばかりの笑顔を目の前で見せてくれた。

 

「ありがとう、ルチア」

 

 レイドもまた突然の接吻に顔に血が上るのを感じたが、それ以上に自らを受け入れてくれた喜びの方が優った。天使のような美少女の顔でふわりと浮かべたレイドの笑顔はルチアを魅了し、感極まったルチアは再びレイドと唇を重ねた。二度目は長く、そして暖かみのある愛情に満ちた口づけだった。

 

 




プロット上の最終回です。レイド君は生きることへの希望を見出し、最後の戦いを始めます。俺たちの戦いはこれからだエンドですね。綺麗な終わり方じゃないか?


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