エルロイド教授の妖精的事件簿 (高田正人)
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プロローグ・絵本に対する駄目出し と 妖精の研究家 の 話
00-1


 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 絵に描いたようなお城の大広間が、彼女の眼前に広がっている。

 

 燦然と輝く天井のシャンデリア。窓の外は漆黒の闇。それとは対照的に、ぴかぴかに磨き抜かれた白亜の壁。分厚い絨毯の敷かれた床。大広間を埋め尽くすのは、思い思いに談笑する着飾った貴族や王族の男女。あまりにも典型的かつありきたりで、何とも現実味に乏しい光景だった。

 

「さあ、一緒に行こう、灰色姫」

 

 着飾った彼女の隣でほほ笑むのは、金髪碧眼の美男子。この国の王子様という立ち位置だが、それ以外の何も個性と呼べるものはなかった。確かに顔はハンサムではあるが、逆に言えばハンサムでしかない。

 

「いや……マーシャ・ダニスレート」

 

 本名を呼ばれ、とりあえず彼女はうなずく。

 

「はい、仰せのままに」

 

 彼女と王子様が大広間に入るや否や、居並ぶ賓客たちはぴたりとおしゃべりをやめてこちらを向いた。そのただ中で、王子様は胸を張って宣言する。

 

「諸君! 私はようやく、あの白銀の靴の持ち主を捜し当てた! 彼女、マーシャ・ダニスレートこそが、白銀の靴の持ち主だ。故に私は、約束通りここに彼女を私の妃とすることを宣言する!」

 

 発言としても演出としても凡庸なそれの答えは、割れんばかりの拍手と喝采だ。すべての貴族と王族が、今まさに彼女と王子様の婚姻を祝福している。無条件で、ただそう在るべくして。

 

「さあ、今宵は宴だ! この幸いな日を私と共に祝してくれ!」

 

 王子様の喜びの声と共に、遠くにいた楽団が舞曲を演奏し始める。舞踏会の始まりだ。

 

「…………それでは改めて」

 

 パートナーを決めて踊り出す群集から目を逸らし、王子様は彼女に向き直った。

 

「あの夜のように、私と一緒に踊ってくれないか、姫」

 

 彼女がまだ幼い少女だったら、この申し出に目を輝かせ、この場面に陶酔したかもしれない。しかし、もう成人している彼女の胸中に昂揚などはない。

 

「喜んで、王子さ…………」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 「そういう筋書きだから」という理由で、マーシャがお誘いに応じようとしたその時だった。

 

「却下だ!」

 

 大広間に響くワルツを切り裂いて、突然一人の男性の声が響き渡った。

 

「却下! 却下する!」

 

 続いて、こちらに歩み寄る靴音。

 

「却下却下却下却下すべて却下だ! 何もかも、徹頭徹尾、一切合切、最初から最後まで、ことごとく却下する!」

 

 ぴたりと止む音楽。さらに動きを止める人々。不自然すぎる沈黙と停止を一顧だにせず、マーシャと王子様の方に向かってくる人物がいる。黒いローブに尖った帽子、さらに節くれ立った木の杖を手にした壮年の男性だ。

 

「教授? そんなことをいきなり言い出しても…………」

 

 マーシャが教授と呼んだ男性は、地団駄を踏みながらさらに言葉を続ける。

 

「下らん! 心底下らん! 何だこのありきたりな上に野暮ったい台本は! 虫酸が走るとはこのことだ!」

 

 男性はまるで、鑑賞していた演劇があまりにも稚拙であるため、舞台に上がって文句を言い始めた観衆のようなことを言っていた。鼻息も荒く、彼はマーシャの隣で停止している王子様に自分の杖の先端を突きつけて怒鳴る。

 

「まずは王子! ゆくゆくは一国を統治する王族でありながら、一夜の舞踏会で見初めただけの町娘を妃にするとは何事だ! 自分の一挙一動が国政を左右することをわきまえたまえ!」

 

 続いて、その杖の先端はマーシャにも向けられた。

 

「そして灰色姫!」

「わ、私もですか? 私はただ物語の筋書き通りに行動しただけで…………」

「まったく、君はなぜ継母一家にいじめられっぱなしなのだ! 少しは頭を使いたまえ! こんな唐変木と婚姻しなくても、知恵を働かせればあの愚者どもから手を切る手段などいくらでもあるぞ!」

 

 当惑するマーシャを完全に無視し、男性はよく分からない持論を展開する。

 

「はあ、ご高説どうもありがとうございます。まったく参考になりませんが」

 

 実に冷ややかかつ慇懃なマーシャだが、男性はさらに一人で過熱していく。

 

「続いて大臣以下有象無象の役人ども! 君たちの存在理由は王と王子の補佐であり、彼らが間違った判断を下せばそれを正すのが仕事なのだ! それを血迷った王子の独断を諫めるどころか狂信的に支持するなど……私には到底理解しがたい!」

 

 彼は杖を振り回して声を張り上げるが、周囲からは何の反応も返ってこない。

 

「そしてもう一つ! なぜこの私が、よりによって魔法使いという役なのだ!」

 

 そしてついに、男性は完全に激昂した。自らの頭から帽子をむしり取って放り投げ、杖を真っ二つにへし折ってさらにはローブを引き裂く。その下に着ていたのは、近代的なスーツの上下だ。

 

「下らん! 馬鹿げている! あってはならん! この世に魔法などない。魔法も、魔術も、妖術も、呪術も、そういった類は一切存在しないし存在するはずがない! 馬鹿馬鹿しさもここに極まる!」

 

 一人だけ場違いな服装になった男性は宙を仰ぎ、先程の王子様のように宣言した。

 

「故にこの物語はすべて却下だ! 却下! 却下するッ!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「気が済まれましたか? ヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授」

 

 ここはドランフォート大学の研究室。帝国の首都ロンディーグに建つ名門校の一室だ。教授陣に個別に割り当てられたそこは、半ば彼らの私室でもある。かなり散らかってはいるものの、家具も照明も内装も揃って一級品だ。その床に落ちている一冊の本を、一人の女性が拾い上げる。

 

 大学には似つかわしくない、黒のロングスカートにエプロン姿という、典型的な侍女の出で立ちだ。自宅で働く女性が、主人の職場に着いてきたようにしか見えない。彼女はマーシャ・ダニスレート。先程までどういうわけか、灰色姫という子供向けの童話で主人公を演じていた女性だ。現実の彼女の職業は妃などではなく、大学教授の助手である。

 

 服装こそ雑用が仕事の侍女のそれだが、彼女の外見はそれに似つかわしくはなかった。やや長身の体形はほどよく均整が取れ、立ち居振る舞いも粗野なところが少しもない。芯が強く物怖じしない性格が見て取れる顔立ちも、充分美人の部類に入る。やや茶色がかった金髪の下に隠れがちな彼女の両目は、右が青、左が緑という珍しいオッドアイだ。

 

「多少溜飲が下がったが、まだ不愉快だ」

 

 マーシャの問いかけに、この研究室の主が机に肘をつきつつ返答した。年齢のわりに腕や腹に贅肉のない、すらりとした壮年の男性だ。着ているスーツも品がよく高級品らしい。丁寧に分けた黒髪の下には苦虫を噛み潰したような顔があるが、本来は理知的でいかにも真面目かつ几帳面そうな顔付きなのだろう。

 

 彼の名はヘンリッジ・サイニング・エルロイド。ドランフォート大学で教鞭を執る教育者の一人である。しかしこの大学では、彼の名前はある二文字とイコールで結ばれる。それは「変人」の二文字だ。教授という職に就きながら、自分の研究のみに没頭し、学校も生徒も他の何者も顧みない人間。すなわち札付きのマッド・サイエンティストである。

 

「子供向けの絵本の内容ですよ。私は、そこまで目くじらを立てる必要はないと思いますが?」

「マーシャ、君は何を言っている。子供向けだからこそ、情操教育にふさわしいものを提供する義務が大人にはあるのだ」

 

 エルロイドはマーシャから受け取った絵本を、まるで疫病の感染源のように嫌悪感をあらわにしつつ引き出しにしまう。

 

「継母たちにいじめられていた少女が、魔法使いの力を借りて王城の舞踏会に出席。そこで王子に見初められるがいったんは別れ、その後履いていた白銀の靴が決め手となって彼と結婚する……か。ふん、実に下らん。才能も努力もなければ、周囲と協力する精神もない輩が、ただある日突然幸運が転がり込んでこないかと期待するだけの物語だ」

 

 エルロイドが一方的に非難するそれは、「灰色姫」という昔話のあらすじだ。たかが童話一つにここまでむきになるのは実に大人げないのだが、当のエルロイドはまったくそれに気づいている様子はない。

 

「だが、どれだけ絵本の内容が低俗でも、私の研究には役だった」

 

 一通りけなして気が済んだのか、彼は少し落ち着いた様子で椅子に座りなおす。

 

「マーシャ、妖精の用意した舞台とはいえ、君には下らない芝居に付き合ってもらったな」

 

 ――妖精。それは、科学がそろそろ迷信を駆逐しつつあるこの時代では、徐々に消えつつある幻想の存在だ。けれども、おとぎ話を低俗と断じる彼が妖精の実在を疑う様子はない。そもそも、この気難しい大学教授の研究対象こそ、ほかでもない妖精なのだ。

 

 事実、エルロイドは帝国中をかけずり回り、様々な妖精による怪事を蒐集してきた。先程の絵本もその一つだ。この本を開いた者は、物語を実体験することになる。子供にとっては灰色姫になれる至福の体験だろうが、大人二人にとってはただのぎこちない芝居である。絵本に住み着いた妖精も、今頃エルロイドの罵詈雑言に涙目になっているだろう。

 

「少しは楽しかったですよ。お姫様の気分も味わえましたし」

 

 しかし、マーシャは笑顔でそう言う。確かに背景は書き割りめいているし、人物は皆大根役者だったが、それでも妖精たちが読み手のために一生懸命作った小さな舞台である。

 

「助手の君が、実はお姫様、か」

 

 一方で、魔法使いを演じさせられたエルロイドは、胡乱な目つきでマーシャを見る。

 

「普段の態度を改める気になりましたか?」

「まさか。君が王女など、たとえ天地がひっくり返ってもあり得んよ」

 

 自称秀才のエルロイドだが、今の彼に当てはまる言葉はただ一つだ。すなわち「見る目がない」。この変人教授が、自分の助手の出生について真実を知る日が来るか否か。

 

 ――――それは「神のみぞ知る」ならぬ「妖精のみぞ知る」であった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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01・はた迷惑な冤罪 と はた迷惑な教授 の 話
01-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「君の名前は、マーシャ・ダニスレート。年齢は二十二歳。北部コールウォーン出身。現在は首都ロンディーグで一人暮らしをしている。住所はバーネンストリート124-1。職場はマガノ・デーチェスの経営するパン屋の店員。結婚歴はなし。同居人もなし。そして犯罪歴もなし。…………以上、何か事実と異なる点はあるかね」

 

 警察署の薄暗い取調室で、目の前の警吏が読み上げる調書の内容に、マーシャは椅子に座ったまま首を横に振る。動きに合わせて、やや茶色がかった金髪が揺れた。

 

「そんな人畜無害の人間が、なぜフーリガンどもの悪質な悪ふざけに荷担したのか、俺は理解に苦しむな」

 

 警吏が半ば苛立たしげに、半ば呆れたような声を上げる。

 

「都会暮らしが肌に合わなかったのか? それにしても、もう少し鬱憤の晴らし方というものがあるだろうに」

 

 口調で分かる。この男性は、マーシャが悪事を働いたと頭から信じ込んでいるのだ。

 

「鬱憤を溜め込むほど、私は現在の生活に不満を抱いていませんが?」

 

 マーシャは平然と言い放つ。

 

 長い前髪に隠れがちだった両目をさらし、疑い深そうな相手の目と自分の目とを合わせる。それまではあまり目立たなかったが、こうやって顔を上げると、彼女の容貌は人並み以上に整っている。一見儚げに見えて、芯の強そうな顔立ちだ。警察署という場所で、男性相手に一歩も引かない性根の強さが、その外見から滲み出ている。

 

「だが、こちらも多くの人から目撃証言を得ているんだよ」

 

 彼女の反論を、警吏は面倒くさそうに聞き流す。

 

「あのはた迷惑な若造どもがバカ騒ぎをして市民の皆様に大迷惑をかけている最中に、君の姿があったことを」

 

 あんまりな物言いに、マーシャはため息をつく。いつも目立たないようにしているのに、なぜこんな時だけ人目に付いてしまうのか。

 

「君は外見こそ平凡だが、その左右の色が異なる瞳は見間違えようがない」

 

 警吏にそう言われ、マーシャはうつむく。前髪を長めにしているのは、自分のこの両目を隠すためだ。右目がくすんだ青。そして左はまばゆいばかりの緑。彼女の目は、世にも珍しいオッドアイだ。しかし、それだけではない。この異様な目は…………。

 

 どうすれば分かってもらえるのか。自分はフーリガンたちと一緒になって暴れていたのではなく、あの場に偶然居合わせただけだということを。目立ってしまったのは、とても説明しづらいこの左目と関係があるということを。なおもマーシャが口を開いて、自分の無実を訴えようとしたその時だった。

 

「――その女性が今日の午後、あの暴徒どもと一緒になって往来でデモ行為を行い、さらに周囲の人々に暴行を働いた、と本気で思っているのかね。だとしたら、度し難いほどの理解力と思考力と判断力と精神力の退行だ。嘆かわしい。君は今すぐ辞表を出して、動物園に就職したまえ。サルと共に檻の中にいる方が余程似合いだ」

 

 突如取調室のドアが全開にされるや否や、誰かがとんでもない早口と共に室内に入ってきた。革靴の立てる靴音と、ステッキの先端が床を突く音とが同時に重なる。

 

「だ、誰だっ!?」

 

 声の主は、警吏の問いを完璧に無視した。

 

「まったく、市民を事実無根の容疑で確保するときだけは、警察も手際がよくて困る。実にいい迷惑だ」

 

 取調室に入ってきたのは、一目見て高級と分かるスーツに細身の長身を包んだ、壮年の紳士だった。室内だが、かぶっている山高帽を取りもしない。紳士は呆然としている警吏の前を横切ると、つかつかとマーシャの前に歩み寄る。その怜悧そうな切れ長の目が、マーシャの青と緑のオッドアイとかち合う。

 

「ようやく見つけたよ。世にも珍しい〈妖精女王の目〉の持ち主を。そうだろう?」

 

 紳士はマーシャの顔を見るなりそう尋ねた。

 

「妖精女王の目?」

「何だ、知らないのかね。君は歴史と伝説にずいぶんと疎いな。帝国臣民として恥ずかしくないかね?」

 

 知っていて当たり前と言わんばかりの紳士の態度に、マーシャは警吏の方を見て尋ねる。

 

「ご存じでしたか?」

「し、知るわけがないだろう」

 

 警吏は律儀に答えるが、やはり彼も知らないらしい。無知な二人に紳士はため息をつく。

 

「秘された妖精郷、その影ノ国に住まう妖精王の加護を受けた証。深緑に輝く目を授けられた者は、人間でありながら百を超える種類の妖精を見分け、その秘密をことごとく暴くと伝えられているのだが……」

 

 紳士の目がじろりと、当惑気味のマーシャを見る。

 

「君は妖精の実在を信じているかね?」

「え、わ、私は……」

 

 苛立たしげに彼は腕を組む。その中流階級に属すると思われる出で立ち。プライドの高そうな物腰。尋問するかのような早口。何から何まで、彼を構成する全ての要素が、大学かそれに類する高等教育機関に属していることを主張していた。

 

「はい、か、いいえ、で答えたまえ。曖昧な返答は許さない。もちろん、嘘もだ。この期に及んで嘘など無意味だよ」

「……はい」

 

 どういうわけか、紳士の言葉には力がある。初対面だというのに、正体不明だというのに、真面目に答えなければならない、と強制されているかのような圧力があった。

 

「その左目で見えるからかね?」

「はい」

「常に?」

「いいえ、普段はぼんやりとしか見えません。意図して見ようと努力しないと、はっきりとは見えません」

 

 紳士は、興味深げにマーシャのオッドアイを見ている。不気味に思っているようではない。かといって、観賞しているようでもない。まったくの第三者の視点、まるで標本か剥製でも見ているかのような、冷静そのものの目だ。

 

「ふむ、任意にピントを調節可能ということか」

 

 紳士はあごに手をやり、しばらく考えている。

 

「逆に、見ようと思えば必ず見えるのかね?」

「試した回数は少ないですが、ほぼそうです」

 

 初対面の人間に、いったい自分は何を言っているのだろう。マーシャはそんなことをかすかに思う。まるでこれでは、質疑応答をする教授と生徒のようだ。

 

 だが、マーシャの言葉は真実だった。彼女の左目は、妖精としか言いようのないものを見ている。今日もそうだった。デモを行うフーリガンの一人につきまとう、小人のような何かが見えていたのだ。あまりにもその何かが悲しそうで執拗だったため、思わずマーシャはデモ行進の中に入り込んでいた。しかしその結果が、警察署での事情聴取である。

 

 マーシャの同意に、しばし紳士は無言だった。だが、やおら彼は拳を握りしめ、全身を振るわせる。それだけでなく、紳士は天井を見上げて大声で叫んだ。

 

「――――素晴らしい! これが妖精女王の目の力なのか!」

 

 正真正銘、紳士は感動していたようだ。それまでの冷徹さをどこかにかなぐり捨てて、彼は熱っぽく言葉を続ける。

 

「私はずっと、君のような存在を探していた! 妖精と呼称される生命体の研究のため、北は荒波の打ちつけるフォーダーク諸島から南は古めくヴォルンザアドの蛇人遺跡まで、国中をかけずり回った。だが今ここに、私の求めていた人材がいるではないか!」

 

 紳士は一人で盛り上がると、きびすを返してドアの方に向かい、しかしすぐに振り返った。

 

「何をしている。君はこんな穴蔵にいる必要など毛頭ない。一分、一秒が惜しい。何しろ君は、これから私の助手になるのだ。下らない冤罪などにかかずらっているひまはないぞ。早く一緒に来たまえ。私の貴重な時間をこれ以上浪費させるつもりかね?」

 

 紳士は再び大股でマーシャの方に近づくと、強引にその手を取って立ち上がらせようとする。

 

「ちょ、ちょっと待って。待って下さい!」

「そうだ、待て! どういうつもりだ!」

 

 勝手にマーシャを署から連れ出そうとする紳士の行動に、ようやく金縛りにかかっていたかのように硬直していた警吏が動き出す。

 

「何だね君、まだそこにいたのか。さっさと職務に戻りたまえ」

 

 だが、紳士の目つきは冷たい。

 

「君たちが彼女に被せようとしている罪など知ったことか。もっと頭を使いたまえ。君たちのそのカボチャ同然のお粗末な頭ならば、三日ほど必要だが、彼女が無実であり潔白であることが分かるだろうな」

 

 面罵に等しい紳士の暴言に、ついに相手は堪忍袋の緒が切れたらしい。隣にいるマーシャがかわいそうに思ったほど顔を真っ赤にし、警吏は怒鳴った。

 

「いったいぜんたい、お前は誰だ! 何の権利があってこんなことをする! ましてややって来るなり妖精がどうのこうのと……寝言もいい加減にしろ! そんなものがいるわけないだろ!」

 

 確かに、いきなり自己紹介もせずに署に押しかけるなり、妖精だの何だのと口走る紳士に困り果てるのも無理はない。

 

 だが。

 

「君、聞き逃せない失言だぞ」

 

 電光石火の勢いで、なおもわめこうとする警吏の鼻先に、紳士のステッキの先端が突きつけられた。警吏が後じさってから、おもむろに紳士はステッキを降ろし、ようやく遅れに遅れた自己紹介をする。

 

「私の名前はヘンリッジ・サイニング・エルロイド。ドランフォート大学で教鞭を執っている」

 

 やっとの事で紳士は帽子を取ると、短く一礼する。

 

「そして、畏れ多くも女王陛下より、この国に住まう不可視の寓話生命体の研究を仰せつかった者でもある」

 

 ――――これが、妖精女王の目を持つマーシャと、ドランフォート大学一の変人と呼ばれたエルロイド教授との、何とも締まりがない滅茶苦茶な出会いだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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01-2

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 二人が出会ってから、カレンダーが何枚かめくられ――――。

 

 首都の郊外にあるエルロイド邸。朝の陽光に照らされる庭を二階の窓から見ていたマーシャの顔が、不意に華やぐ。見慣れつつある一台の黒い自動車が、玄関に横付けになったからだ。ようやく彼が、自宅に帰ってきたようだ。

 

 いくらもしないうちに、マーシャの後ろのドアが、大きな音と共に開け放たれた。彼はいつも、ドアをこうやって全開にするのだ。それは、彼女と出会った最初の時から変わることがない。

 

「今帰ったぞ、マーシャ」

 

 両手にトランクを提げ、お気に入りの山高帽を斜めにかぶったエルロイドが、ずかずかと部屋の中へと入ってくる。ここは彼の私室だ。

 

「お帰りなさいませ、エルロイド教授」

 

 それを知ってなお、マーシャは平然とエルロイドに頭を下げる。

 

「マーシャ、またか? なぜそんな珍妙な格好をしたがる?」

 

 勝手に私室にいるマーシャを咎める様子もなく、エルロイドはその元から細い目をさらにいぶかしげに細める。理由はマーシャの出で立ちだ。彼女は、屋敷の侍女が着るような格好をしている。

 

「教授、お忘れですか。私は表向き、この邸宅の侍女として雇われているじゃありませんか」

 

 ロングスカートにエプロン姿のマーシャは、自分の外見の理由を語る。

 

「ああ、そうだな」

 

 しかし、エルロイドは彼女の手を借りずに、自分でインバネスと山高帽をさっさと仕舞い、ポケットから櫛を出すと黒髪を丁寧に梳く。

 

「ですから、この服装です。教授がお出かけの間、きちんとお部屋の整理整頓をしておきました」

 

 マーシャはマーシャなりに、自分の居場所をこの邸宅で見つけようとしていたのだろう。だが、彼女の気苦労をエルロイドはまったく意に介する様子がない。

 

「そんなこと、君がやるべきではなかろう。いいからさっさとその服を脱ぎたまえ」

 

 無論、それは単にエルロイドの助手を務めるマーシャが、邸宅の雑事に従事する侍女でいる必要はないという意味だ。だが、デリカシーのない物言いに、少しだけマーシャは不満そうな顔をする。

 

「教授、その言い方、なんだか嫌らしいです」

 

 彼女の抗議を、彼は鼻であしらう。

 

「心底下らん。年頃の少女でもあるまいし、どうでもいいことだ」

 

 ネクタイを緩めると、一度大きくエルロイドは伸びをする。長身で痩せているため、まるでねじった針金の束のようなシルエットだ。

 

「何はともあれ食事だ食事。朝食にするぞ。腹が減って仕方がない」

 

 どうやら、旅先からロンディーグまで食事も摂らずに列車で帰ってきたようだ。偏屈な教授だが、自宅に対する愛着は人並みにあるのかもしれない。

 

「どうせ、君はもう済ませただろう?」

 

 慌ただしげに階下に降りようとしたエルロイドが、不意に振り返ってマーシャの方を見る。

 

「電報では今朝戻るとのことでしたので、まだ食べていませんが」

「ふん、そうか。ならば着替えたら階下に降りたまえ。一緒に摂るとしよう」

 

 彼女の返事を待たずして、その細身の背中はドアの向こうに消えていった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「出張先の成果はどうでしたか?」

 

 食堂で紅茶を飲みつつ、パンにマーマレードを塗りつつ、煮豆をスプーンですくいつつ、目玉焼きを真っ二つに切りつつ、ソーセージにフォークを突き刺しつつ、さらに朝刊に目を通しているエルロイドに、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったマーシャが話しかける。

 

「ああ、あれは妖精でも何でもない。とんだでまかせだ」

 

新聞から目を上げて、エルロイドは眼鏡越しにマーシャの方を見た。常に、ではないが、彼は時折文書を読むときは眼鏡をかける。

 

「何が妖精のミイラだ、馬鹿馬鹿しい。あれはカエルと魚を適当に繋ぎ合わせた、ただの干物だ。君を同行させなくて正解だったな」

 

 四六時中研究に没頭し、それを邪魔する者を悪魔か害虫のように邪険に扱うエルロイドだが、マーシャと会話する余裕はあるようだ。それどころか、彼の方も彼女との会話を歓迎する節さえある。事実、手と口と目を同時に動かしながらも、エルロイドは律儀にマーシャに今回の出張の首尾を語った。

 

 しかし、それだけ言うと、彼は再び食事と新聞のチェックに戻る。器用なものだ。手元を殆ど見ていないのに、皿から食事をこぼしたりする様子は全くない。眼鏡の奥で、エルロイドの黒い目が活字を追って左右に動く。マーシャが彼の顔を見ていても、気づかないようだ。黙っていると、絵に描いたような知性的で洗練された紳士にしか見えない。

 

 けれども、マーシャはよく知っている。ヘンリッジ・サイニング・エルロイドというこの人物が、多分にエキセントリックな人格の持ち主であるということを。その性格は、簡単にいうならばマッドサイエンティストの類である。自分の研究のためならば周囲の迷惑など一顧だにせず、我が道をどこまでも突き進む、大きな子供のような人柄。

 

 彼が生涯の研究対象としている存在は、妖精と呼ばれる寓話生命体である。確かに存在しているが、血肉を備えた実体を持たず、むしろ寓話のようにあやふやな謎の生命体。エルロイドはその生態を解明し、体系立てた学問として科学の中に組み込もうとしている。寓話の中のキャラクターではなく、生物の一端に位置づけるつもりのようだ。

 

 だが、妖精は寓話生命体と書いたように、一般人にはその存在さえも確認できない奇妙な存在だ。凡人には、虫取り網を振り回してお化けを捕まえる学問に見えるだろう。だからこそ、エルロイドにとってマーシャ・ダニスレートという女性は得難い助手なのだ。妖精をはっきりと視認し、理解できる人間。妖精女王の目を持つ存在。

 

 エルロイドとマーシャが出会ったあの日、彼女は妖精にすがりつかれたフーリガンを見かけ、それを追ったのが原因で警察に検挙される羽目になった。教授の下で調査した結果によると、あれは古い家屋敷に住み着き、家人に仕える妖精の下僕とのことだ。きっと、家人の一人が危険な行動に走るのを諫めようとしていたのだろう。

 

 今、マーシャはエルロイドの助手として生計を立てている。妖精を追いかけ回しているとして、周囲から変わり者扱いされているエルロイドの助手である。表向きは、彼女はエルロイド邸の侍女として雇用されたことになっているのも、仕方がないと言えるだろう。マーシャは気にしていないが、エルロイドが一応彼女の評判を気にした結果らしい。

 

「マーシャ」

 

 いきなり、エルロイドが新聞を畳んで脇に置くと、眼鏡を取ってマーシャの方を見る。

 

「何でしょう?」

 

 小首を傾げる彼女に、エルロイドは真顔でこう言った。

 

「私に妖精を使って魔法をかけるのはやめたまえ」

 

 そう言ってから、彼は世界の終わりのような顔をして頭を抱える。

 

「ああっ! 私としたことが何という非科学的な言葉を!」

 

 そもそも、妖精たちを生物学的に研究しようとするエルロイドである。魔法という神秘を神秘のまま言い表す言葉は、タブーであり禁句だ。

 

「ええい、疲労がたまっているのか。まったく、魔法などこの世には存在するわけがない。単なる未解明の技能と職種に過ぎんというのに、この私が率先してそんな下らん言葉を使うとは、心底忌々しい」

「教授?」

 

 一人で唸っているエルロイドに、さすがに心配になったマーシャは顔を近づけた。

 

「とにかくだ、マーシャ。君が妖精女王の目の持ち主ということは知っている。だから、ことさらに自分を有能だと証明しようとして、私に妖精をけしかけるのはやめるんだ」

「そんなことはしていませんが?」

 

 まったくもって意味が分からない。マーシャは何もしていないのに、魔法をかけるなと言われても困る。

 

「ならば、これをどう説明する?」

 

 エルロイドの目が不審そうに歪む。

 

「食事というものはどこで誰と食べようと変わるはずがない。それなのに、こうやって君とテーブルを囲んで食べる食事と、よそで食べる食事とでは気分の高揚がまるで異なる」

「……はあ」

「私は出されたメニューでいちいち一喜一憂しない人間だ。故に、食材や調理方法は除外される。異なるのはただ一つ、君がいるかいないかだ。そうなると、君が妖精に頼んで、私の精神に何らかの干渉をしていると考えるのが妥当だろう?」

 

 真顔でエルロイドは、そう言いきった。本気で、一片の曇りもなく、完全に純粋に天然に。

 

「教授……」

 

 ややあって、マーシャは口を開く。

 

「何だ?」

「それ、本気でおっしゃっているんですか?」

「本気も何も、事実だろう?」

 

 完全にそう信じ込んでいるエルロイドの姿に、思わずマーシャの口から笑い声がもれる。

 

「ふっ……ふふっ……ふふふっ」

 

 一度笑い出すと、それはもう止まらない。

 

「あはははははっ!」

 

 楽しげに、マーシャは笑う。

 

「な、なぜ笑う! 図星を突かれたからか!?」

 

 一方的にあたふたするのは、エルロイドだけだ。

 

「違います。教授のそのでたらめな理論が、もうおかしくって…………っ!」

 

 なおも肩を振るわせるマーシャに、困り果てたエルロイドは叫ぶ。

 

「……と、とにかく、君のせいでこちらは年甲斐もなく気分が高揚して困るんだ。さっさと何とかしなさい!」

「それは無理ですよ、教授」

 

 ようやく笑いが収まり、マーシャは優しく彼に告げる。偏屈で、意固地で、変人で、しかし不器用な親しみと愛情をかいま見せる年上の紳士に。

 

「何?」

「だって、それは教授がご自分でお感じになっていることなんですから」

 

 ――これは二人の物語。妖精の見える女性と、妖精を捜し求める紳士との、奇妙で優しい物語である。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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02・小さな靴屋 と 遅くなった恩返し の 話
02-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――これは、マーシャとエルロイドがまだ出会ったばかりの話である。

 

「ここが、妖精の出る魔法の靴屋なんですか?」

 

 ランプの明かりにぼんやりと照らされた店の中を、改めてマーシャは見回す。時刻は既に深夜零時を過ぎている。先程、エルロイドが自分の懐中時計を確認しているのを、後ろからのぞき込んだばかりだ。

 

 首都からやや離れた地方都市、ランドファリー。職人の町とも呼ばれるここは、古くは職工たちによるギルドの本部も置かれていた場所である。今となっては、時代に取り残されつつある町の一つに過ぎない。既に機械産業はこの国に深く根付き、昔ながらの手製の技術は、徐々に失われつつある。

 

「マーシャ、私の前でその『魔法』などという非科学的な表現はやめるんだ。気分が悪くなる」

 

 しかし、彼女の隣に立つエルロイドは、彼女が用いた「魔法」という語に鋭く反応する。この大学教授にとって、自分が研究する妖精とは空想上の産物や、時代錯誤の迷信などではない。れっきとした生命体であり、科学的に実在を実証できる存在なのだ。

 

 だからこそ、彼は神経質なまでに名称にこだわる。自分の研究を、旧来のオカルトと一緒にされたくはないのだろう。あいにくとマーシャには、魔法を非科学的と断じる一方で、妖精を科学的とするエルロイドの思考が理解できないのだが。

 

「すみません、以後気をつけます」

 

 それでも、とりあえずマーシャは頭を下げる。

 

「君は返事こそ丁寧だが、そのくせまるで反省した様子がないようだな」

 

 彼女の態度が気に食わないらしく、エルロイドは苛立たしげな表情を見せる。

 

「……まあ、仕方がない。人口に膾炙した表現があるのは事実だ。だからこそ、私が正確な知識を衆民に公開すればいいだけの話だ。ふん、まったくもってやりがいのある仕事だとは思わんかね?」

 

 けれども、何やら自分で自分を納得させたらしく、彼はすぐに機嫌を直して同意を求めてきた。ここで期待に応えられないほど、マーシャは世間知らずではない。以前はパン屋の店員をしていたマーシャだ。無駄にプライドが高くて口うるさい人間の相手など、慣れたものだ。

 

「ええ、ドランフォート大学の教授だからこそできる大役だと思いますよ」

「そうだろう、そうだろう。私たちがいかに責任重大な仕事を果たしているか、分かってきたようだな」

 

 あっさりとエルロイドは彼女の口車に乗り、鼻高々と言わんばかりの態度で胸を張った。ちょろいものである。そして、遅ればせながら彼はマーシャの疑問に答え始めた。確かにここは、妖精が出ると噂される靴屋らしい。

 

 ここの店主は、腰の曲がった老年の男性である。寄る年波にも勝てず、靴屋の看板を下ろそうと思うこの頃らしい。しかし、このところ奇妙な出来事が店内で多発しているとのことだ。明らかに昨晩作りかけの状態で放置していた靴が、朝起きてみると完璧に仕上がった状態になっているのである。一度や二度ではなく、何度もそんなことが起きている。

 

 誰に聞いても、心当たりはないと言われるだけだ。犯人を見つけようと一晩店内で粘っていても、何の変化も見受けられない。そのくせ、気がつくときれいに仕上がった靴が置かれているのだ。警吏に相談したこともあるが、取り合ってもらえなかった。きっと妖精の魔法に違いない。そんな一部始終を、地方紙に記事として書かれたこともある。

 

 いわゆる妖精のいたずらとされる事件ならば、どんな細かなことでもエルロイドは自分の耳に入るようにしているようだ。だからこそ、出張先でいい加減なガセネタを掴まされて帰ってくることも多々ある。果たして今回は、どうなのだろうか。

 

「こうやって、妖精が魔法を使うまで――――」

 

 言いかけて、慌ててマーシャは訂正する。

 

「失礼、妖精が具現するまで待つんですか?」

 

 もしこれもイカサマか、老店主の勘違いだったら、さぞかしエルロイドは落胆することだろう。そんなことを心配しつつ、マーシャは尋ねた。このまま、ひたすら何らかの変化が起きるまで待つだけなのだろうか。

 

「まさか。それでは時間をいたずらに浪費するだけだ」

 

 案の定、時間を無駄にする人間を親の仇のように唾棄するエルロイドは、首を左右に振ってマーシャの言葉を否定した。

 

「ひとまず、私が今まで使用してきた方法を見せるとしよう。もっとも、君のその左目に比べれば、正真正銘の子供だましだがね」

 

 そう言うと、エルロイドは床に置いてあったトランクを開く。

 

「煙草ですか?」

 

 取り出された中身を見て、マーシャは首を傾げた。彼が手に持っているのは、どう見ても喫煙に使うパイプだった。彼の手の中でそれは、マーシャの疑問符のような形を描いている。恐らくは高価なものだろうが、あいにくと彼女にはよく分からない。

 

「東洋の方では、妖怪や神々は煙草の煙を忌むらしい。私も吸う機会はないがね」

 

 うんちくを傾けつつ、彼はパイプの火皿に煙草とおぼしきものを詰め、マッチを擦ると火をつける。

 

「でも、今吸う準備をしておられるようですが?」

「まあ、見ていたまえ。あまり口うるさい女性は好かん」

 

 少々口を挟みすぎたらしい。エルロイドが嫌な顔をしたので、すぐにマーシャは黙る。彼はパイプを口に運ばず、そのまま手で持つだけだ。

 

「これは、新大陸の呪術師が部族の精霊と会話する際に用いる薬草だ。要するに、精神をトランス状態に移行させるための化学物質が含まれたハーブの類だな」

 

 何食わぬ顔で、エルロイドはパイプから立ちのぼる煙の中にいる。ことさら吸い込んではいないが、だからといって息を止めている様子もない。

 

「そ、そんなものを焚いて大丈夫なんですか?」

 

 煙草ならば知識で知っているマーシャだが、新大陸の呪術師とやらが使う薬草など初めて見た。何だか恐ろしい毒の煙に燻されるような気がして、つい後じさる。

 

「安心したまえ。そもそも毒ならば、シャーマンが用いるはずがなかろう」

 

 彼女の怯えっぷりが大げさだったのか、エルロイドは胡乱な目をする。

 

「まあ、継続して服用すると何らかの害はあるだろうな。阿片か何かのように乱用すれば、の話だ。一度や二度ならば、それも間隔を空けて使えば無害だよ」

 

 そこまで言われては、マーシャも納得したような態度を取るよりほかない。内心では全然納得していないが、だからといってエルロイドのすることにこれ以上文句は言えない。自分は彼の助手なのだ。

 

「さっきの話だが――」

 

 しばらくパイプの煙が空間を占めていく時間だけが過ぎ、やがてエルロイドが口を開いた。さっきの話、と言われ、マーシャは忙しく記憶を辿る。

 

「ええと、お気に入りの靴屋が急に閉店して困っている、とおっしゃっていましたね。足がやや外反母趾気味だとか」

 

 そう言うと、エルロイドは目を剥いて大声を上げた。

 

「それは汽車に乗っていたときに話した内容だろう!? いったいいつの話だと思っているのかね!?」

 

 実際そうだ。彼女が振ったのは、首都からここランドファリーに向かう汽車で、エルロイドが何気なく言った話なのだ。煙に巻かれて、少々頭がおかしくなったのだろうか。いくら何でも遡りすぎている。

 

「私が言いたいのは、この薬草の効能だ」

 

 本当に無害かどうか、だんだん疑わしく思えてきたマーシャを差し置いて、エルロイドの講義が始まった。

 

「トランクがどうこうと言っていたような……」

「トランスだ、トランス。神懸かりや、憑き物の精神状態だよ。君もそれくらい知っているだろう? コールウォーンは因習の深い地域と聞いているが?」

「あまり、詳しくは知りません」

 

 珍しく、マーシャはエルロイドの話に乗らずに、打ち消すような発言をする。

 

「人付き合いが悪かったのかね?」

「いいえ、仕事が忙しかったので」

「そうかね」

 

 ここでさらに尋ねれば、マーシャの子供時代について少し情報が得られるはずだろう。だが、エルロイドは興味がないのかそれ以上詮索しない。

 

「まあ、どうでもいいことだ。私が言いたいのは、こういった薬効成分を持つとされる秘薬の類は、単に人間の脳に作用するだけではないと思うのだよ」

 

 パイプを手の内で弄びつつ、彼は言葉を続ける。

 

「妖精、妖怪、化物、魔物。ありとあらゆる言葉で呼ばれる寓話生命体は、単なる幻想や幻覚ではない。それは帳の向こう側に、確かに存在している」

 

 パイプの煙が周囲を塗り潰していく。その香りは、苦く焦げ臭いようでいて甘ったるい。

 

「彼らが向こう側に属しながらこちら側に干渉してくるのならば、その逆もまた然りだと思わないかね」

 

 どう反応していいのか分からず無言のマーシャを見て、軽くエルロイドは口角を上げた。

 

「だからこそ、見たまえ。――――今、私たちの眼前で帳は上がる」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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02-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 パイプの煙に包まれた靴屋の店内は、それまでのがらんとした動くもののない状態から一変していた。マーシャの足元で、ひとりでに靴が作られていく。それも、あちこちで同時進行だ。皮が型に沿って切られ、張り合わされ、さらには磨かれていく。まるで、見えない職人がそこにいるかのようだ。ただし、どうもそのサイズはミニチュアらしい。

 

「ふむ。何の変哲もない終業後の靴屋、というのはやはりカモフラージュか」

 

 今まさに見えざる手が作っているにもかかわらず、エルロイドは驚く様子もない。

 

「だが……」

 

 むしろ、その表情は苦々しげだ。

 

「まったく手間を掛けさせる。認めざるを得ないが、所詮呪術師ならぬ私ではこの程度が限界か」

 

 パイプから立ちのぼる煙は、それまで偽装されていた現実を消しゴムのように消し去り、真実をマーシャとエルロイドの眼前に見せていた。煙なしでは、どんなに目を凝らしてもここはただの靴屋だ。しかし煙の元、密かに靴の製作が進行中だ。エルロイドが妖精と呼ぶ寓話生命体は、こうして現世にいながら殆どの人の目を欺いて居座っている。

 

 だが、エルロイドにとってはまだ足りないようだ。事実、今見えているのは、ひとりでに靴が組み立てられている情景だ。“誰が”作っているのかまでは、まだ見えていない。

 

「しかぁし! 以前の私ならばここで引き下がっていたが、今の私はかつての私ではない! 言わば新作! 新品! ブランニュー・ヘンリッジ・エルロイドなのである!」

 

 唐突に奇声と共に盛り上がるエルロイドを、マーシャは正真正銘の奇人変人の類を見る目で見てしまった。いくら何でも真夜中過ぎに、ここまでテンションを上げるのは、見ていて空恐ろしい。

 

「――――失礼、つい気分が高揚してしまった」

 

 幸い、彼女の正気を疑うような視線に、エルロイドは一気に現実に引き戻されたらしい。

 

 照れ隠しの咳払いをしてから、おもむろに彼はマーシャに命じる。

 

「さあ、妖精女王の目の持ち主よ。この偽りの書き割りを君の左目でしかと見据えたまえ。そして、幕が上がってなお舞台に出ない演者を、私の前に引きずり出しなさい」

 

 芝居がかった台詞だが、彼が望むことは分かる。

 

「分かりました」

 

 うなずくと、マーシャは一歩前に出る。

 

 彼女の眼前には、未だに忙しく組み立てられていく靴がいくつかある。まだ、その本当の姿は帳の奥にある。けれども――――。

 

「ほう…………」

 

 後ろでエルロイドが、感嘆のため息をもらしたのが聞こえた。マーシャがしたのは、ただ目を開いただけだ。彼女にしか分からない、左目を開きながらも、さらにもう一枚瞼を開く独特の感覚。

 

 ただそれだけで、今まで頑なに不可視だったものはたちまち、その姿を現した。パイプの煙の比ではない。それまであやふやだった姿形が、ほぼ一瞬でクリアに視認できるようになる。そこにいたのは、人間の手ほどの身長をした、六人ほどの小人だった。いずれも子供のような頭身だが、顔はネズミだ。歪なようでいて、奇妙なバランスがとれている。

 

「ギャー! 何事じゃー!」

 

 真っ先にマーシャたちに気づいた、赤い色のとんがり帽子をかぶった小人が、しっぽを踏まれたネコのような声を上げた。よく見ると、全員帽子の色が違う。他は橙、黄、緑、青、紫だ。

 

「なんじゃなんじゃ、なんでここに人間がおるんじゃー!」

「そうじゃなくて、ワシらが人間に見えるようになってしまったんじゃー!」

 

 いちいちオーバーなリアクションと共に、小人たちは手に持った靴のパーツや道具を放り投げて周囲を駆け回る。その内の一人、緑色の帽子をかぶった小人が、不意にマーシャの方を指差して大声を上げる。

 

「おおおっ! その目はもしや、もしや――――っ!」

 

 エルロイドに負けず劣らぬ芝居がかった態度は、他の小人たちの注意を惹きつけた。

 

「ギャー! なんてことじゃ!」

「それはっ! それは畏れ多くもワシらの女王様、妖精女王の目じゃないか!」

「なんでその目を人間のあんたが持ってるんじゃ! なんでじゃー!」

 

 口々にネズミ小人たちは、マーシャの左の眼窩にある、緑色の目を見て叫ぶ。事実、この妖精たちが跳梁跋扈する空間で、彼女の左目は妖しくも美しい輝きを放っていた。

 

 マーシャとしても、妖精に話しかけられるのは久方ぶりだった。左目のいわゆる“二枚目の瞼”を開いた経験は、これが初めてではない。けれども、実のところそれはあまり心地よい経験ではない。露わになった左目から見える世界は、あまりにも現実とはかけ離れたものだったからだ。妖精とは言えど、その本質は異形で不気味なものだ。

 

 元より、彼女の左目はぼんやりと妖精の姿を捉えていた。だが、エルロイドの助手となった今、彼女ははっきりと妖精郷を見つめ、妖精の姿を露わにしている。今の彼女は、一人でおっかなびっくり向こう側を覗いているのではない。その道の専門家と共に、彼方と此方の境界線上に立っているからだ。

 

「それは、言えませんよ。大事な秘密です」

 

 口々になぜだなぜだと連呼する小人たちに、とりあえずマーシャは人差し指を唇に当ててそう言う。妖精と会話するなんて久しぶりだったため、とっさに気の利いたことが言えなかったのだ。だが、彼女の隣で熱心に小人たちを見つめているエルロイドは、それよりもさらに気が利かなかった。

 

「なんのことはない。元より有していた妖精郷との親和性が、身体の変容となってあらわれただけだ。れっきとした人間の眼球だよ。古くから伝説や民話の中で幾度か言及されている」

 

 平然とエルロイドは言い放つ。

 

「教授、無粋なことを言わないで下さい。ほら……」

 

 マーシャはエルロイドをたしなめつつ、部屋の隅を指す。

 

「みんな、すっかり怯えちゃってます」

 

 どうも小人たちは人間が怖いらしく、エルロイドの言葉に一斉に部屋の隅まで逃げてしまった。さらに遠くまで行きたいらしく、全員で押しくらまんじゅうまでしている。

 

「うむ…………」

 

 身を屈めて顔を近づけようとしたエルロイドは、マーシャの言葉に少し引き下がった。

 

「麗しき妖精女王の目を持つお方。いったいどうして、このようなところにお姿をあらわされたのでしょうか?」

 

 しばらく経って、小人たちはようやく落ち着いてきたらしい。恐る恐ると言った感じで、一人の紫色の帽子をかぶった小人がマーシャの足元に進み出る。

 

「ワシらは何か、お気に障るようなことをしましたでしょうか?」

「もしそうならば、平にお許し願います。どうぞ至らぬワシらをお許し下され」

「左様でございます。どうぞ、お怒りにならないで下さい」

「申し訳ありません」

「――ありません」

 

 他の小人も口々にそう言うと、揃って平伏する。

 

「ふむ、いささか面白い展開になってきたな」

 

 こうなると、俄然興味がわいてきたのが、エルロイド教授である。

 

「お前たちにとって、この目は妖精女王とやらの目なのか。なぜだ?」

「そんなこと決まっておる。ワシらの女王様は偉大なお方じゃ。こんなちっぽけなワシらなど、女王様の前では隠し事など何一つできぬ」

 

 それまでの恭しい態度とは違い、ややぞんざいな態度で小人はエルロイドの質問に答える。先程まで怯えて逃げていたのに、適応力は早いようだ。

 

「女王様の目は、ワシらの世界を遍く見晴るかしておられる」

「見つめられればあらゆる嘘が見抜かれ」

「睨めばたちまち身が竦み」

「そして見守っていただければもう、天にも昇る心地ってものじゃ」

「なるほど。偽装を見破り、真実を白日の下にさらす強制力を有した目か。理論では理解していたが、妖精そのものの口から聞くと納得の度合いが違う」

 

 満足げに、エルロイドは素早くメモを取っている。パイプは口にくわえているが、中身は吸っていないようだ。続いてその顔がマーシャの方に向き直ると、彼は丁寧に頭を下げる。

 

「ありがとう、マーシャ・ダニスレート。君のおかげで私の研究は、これまでとは比べものにならない速度で進展しそうだ。心から感謝しよう」

 

 突然のエルロイドの優しげな物腰に、マーシャはあたふたした。

 

「いえ、そんな。こちらこそ、ありがとうございます……」

 

 だが、マーシャの感謝をエルロイドはまったく聞いていなかった。

 

「さあ、ならば次だ。いったい、この妖精たちがなぜここでこのような作業に取り組んでいるのか、聞いてくれ」

「私がですか?」

 

 お礼の言葉を聞き流されたことで一瞬むっとしたマーシャだったが、今が仕事中だったことを思い出してその気持ちを抑えつける。

 

「幸い、君は妖精女王かその繋累と妖精たちに勘違いされているようだ。君の口から出た言葉ならば、彼らが嘘偽りを吐く確率も下がるだろう」

 

 そう言われれば、助手としては従うよりほかない。

 

「一つ、お聞きしてもいいですか?」

 

 マーシャが身を屈めると、すぐさま小人たちは立ち上がってしゃちほこ張る。

 

「何なりとおっしゃって下さい、ワシらの女王様」

「う~ん、私は別にあなたたちの女王じゃないんですけどね」

「そんな、お戯れを」

「その光り輝くお美しい深緑の瞳は、間違いなく妖精女王のお目でございますとも」

「――ますとも」

 

 自分の左目を誉められると、マーシャとしても嬉しくなる。しかし、その時わざとらしい咳払いが聞こえてきた。横を見ると、エルロイドが早くしろと目で促している。

 

「とりあえず真偽の程は置いておきますね。それで、あなたたちはどうしてこんなところで靴を作っているんですか? お仕事ですか?」

 

 慌ててマーシャは、本題に入ることにした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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02-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 それからしばらく、マーシャはネズミ小人たちの言葉に耳を傾けていた。何でも、ここの靴屋の店主は幼い頃、かすかに妖精が見えていたらしい。それが分かったのは、小人の一人がネコに捕まって弄ばれているときに、まだ少年だった店主が小人を助け出したからだ。小人たちは恩返しをしたかったが、残念ながら少年は妖精がおぼろげにしか見えない。

 

「あのネコが捕まえたネズミ、何だか小人みたいな形だったな」

 

 くらいの感覚だったのだろう。小人たちの言葉も聞き取ることはできない。時は流れ、すっかり少年は年を取り、今となっては稼業の靴作りも大分辛くなってきた。今こそかつての恩を返すときが来たとばかりに、小人たちは夜になると姿を現し、こうして売り物の靴を作っていたのだ。

 

「ふんふん、そんなことがあったんですか」

 

 一通り小人たちが話し終えると、感心してマーシャはうなずいた。それまで異質で不気味で、人間の感性とは相容れないと思えてきた妖精だけど、中にはこうして可愛らしくて健気な種類もいるのが分かったからだ。

 

「ねえ、教授?」

「そのようだな」

 

 幸い、エルロイドも興味深げにうなずいている。

 

 だが、彼の興味はそれだけでは到底満たされなかった。エルロイドは続いて、トランクの中からピンセットとガラス瓶を取り出す。

 

「さて、続きは私の研究室でゆっくり聞くとしようか」

「ええっ? 連れて行くつもりなんですか?」

 

 驚くマーシャに、エルロイドはさも当然といった顔で言い放つ。

 

「そうだ。実害がない以上、向こう側に放逐する必要はない。だが、ここまで妖精の実体に近づき、さらには会話までできているのだ。これを逃す手はないぞ」

 

 エルロイドは白い手袋をはめ、顔にマスクをつけ、ガラス瓶のコルクを抜く。そして、あたかも犯罪現場から重要な証拠を採取する警吏のような動作で身構えた。

 

「さあ、マーシャ、しっかり逃げないように目を離さないでくれたまえよ。君の目で見つめられると、妖精たちは動きを封じられるらしい。まったく、サンプルの採取にはこれ以上ないくらいの逸材だよ、君は」

 

 じりじりと近づくエルロイドに対し、再び小人たちは部屋の隅にまで逃げ出し、そこで目を見開いたままぶるぶると震えている。

 

「待って下さい。いくらなんでもそれは可哀想じゃないですか!?」

 

 まるで実験用のハツカネズミかモルモットでも扱うかのような態度に、さすがのマーシャも自分が彼の助手であることを忘れて抗議する。それに、今ここで小人たちを連れて行ってしまっては、もう店主のために靴を作ることができなくなってしまう。

 

「君はなんだ? 人間だろう? そしてこの国の国民でもある。君はどちらの味方だ? 人間か? それとも妖精か?」

 

 案の定、たちまちエルロイドは不機嫌な顔立ちになると、つけたばかりのマスクをずらしてマーシャに問いかける。

 

「両方です」

 

 即答する彼女を、エルロイドは心底侮蔑した目つきで見ると吐き捨てる。

 

「下らん。○か×かの質問に両方で答える生徒がいるか。そんな答えは不合格だ」

「私は教授の助手ですけれども、教授の生徒さんではありません」

 

 はっきりとマーシャがそう告げたときだ。ちょこちょこと赤い帽子をかぶった小人がマーシャの足元に近づくと、精一杯体を反らして彼女の方を見つめる。

 

「妖精女王の目を持つお方」

「はい、どうしました?」

 

 その小人は、大きなつぶらな目を潤ませながら、こう言った。

 

「ワシらのことはお気になさらないで下され。御身が行けと命じられれば、ワシらはそれに従うまでです」

 

 何と、小人たちはマーシャの言葉に従うと言ってきたのだ。自分から、エルロイドのサンプルになることを了承したに等しい。

 

「手っ取り早いな。さすがだマーシャ。さあ、さっさと命令しなさい」

 

 これを聞き逃すエルロイドではない。嬉々として彼はマーシャを促す。恐らく彼の脳裏には、もう小人たちを瓶詰めにして大学の研究室の棚に飾る算段が付いているのだろう。あまりにもデリカシーがない上に自分の研究の都合しか考えない発言に、ついにマーシャは怒った。

 

「教授、そんなことをおっしゃって、恥ずかしくないんですか?」

 

 強い口調ではっきりと言いつつ、マーシャはまともにエルロイドの目を見据える。

 

「な、なに?」

 

 自分よりも小柄なマーシャにまともに迫られて、エルロイドはたじろいだ。二、三歩後じさる彼を見て、さらに勢いをつけてマーシャは言葉を続けた。

 

「私の権威にかこつけて、弱い妖精さんたちを無理強いして自分の研究の材料にするおつもりですか。まったく、見損ないました。もう知りません!」

 

 口で言っていて、だんだん本気でマーシャは腹が立ってきた。自分を警吏から助け出したときは、本物の紳士に思えた彼なのに、今はどうだ。弱いもの虐めを自覚なく行っているようにしか見えない。

 

「何を言っている!」

 

 ここにいたって、エルロイドが反撃を始めた。

 

「私は伊達や酔狂で妖精を研究しているわけではない。もちろん私自身が興味を抱いているのは事実だが――――とにかく、私の研究には女王陛下も関心を抱いておられるのだ。君は私に、陛下のご期待を裏切れと言うつもりかね!」

 

 エルロイドは、さらに自分よりも位の高い方の権威を引き合いに出してきた。マーシャが助手となったのとほぼ同時に、そのことは彼から聞いている。エルロイドの妖精についての研究は、ほかでもないこの国の女王が目に留め、しかも賞賛の言葉を贈っているのだ。その事実が、エルロイドの研究への熱意をさらに燃え立たせているのは間違いない。

 

「そこです!」

「……なに?」

 

 そのことを否定することなく、むしろマーシャは自分の論理の武装に加えた。

 

「では教授、逆にお聞きしますが、女王陛下はご自分の権力にものを言わせて、無理矢理教授に妖精について研究するよう強制なされたんですか?」

 

 マーシャの質問を、エルロイドは鼻で笑って否定した。

 

「そんなわけがないだろう。畏れ多くも陛下は私の研究に目を通され、お褒めになって下さった。それだけで、私が陛下のためにこの脳髄に詰まった英知を一片たりとも残さず捧げようと思うのは当然だろう?」

「ならば教授。教授が今私に命じているのは、敬愛する女王陛下の行われたことと正反対ではないのですか?」

 

 我が意を得たりとばかりに、さらにマーシャは畳みかける。

 

「私にこの左目の権力を使い、ここで一生懸命恩返ししている妖精たちの生活をねじ曲げるよう、強制なされているのではないでしょうか?」

「う、うむ…………」

 

 そう言われて初めて、エルロイドは思い当たる節があったようだ。

 

 売り言葉に買い言葉とばかりに水掛け論の応酬を行うのではなく、押し黙ってしまった。助手のマーシャとしても、エルロイドの研究を邪魔したいわけではない。ただ、彼があまりにも人道を無視したような行動を取るとき、それを留めたいと思うだけだ。妖精たちの恩返しを顧みず自分の研究材料にするなど、紳士らしからぬ態度だ。

 

「教授は聡明な方です。どうか、公平且つ公正な判断をお願いいたします」

 

 そう言い終えてから、マーシャはぺこりと頭を下げる。彼女の目的は、エルロイドを論破することではない。単に思いとどまってもらいたいだけだ。

 

「ふん。君はこういう時だけはずいぶんと口が達者だな。私がそんな、心にもない世辞に判断が鈍るとでも、思っているのかね?」

「教授は聡明な方です。どうか、公平且つ公正な判断をお願いいたします」

 

 直接彼の疑問には答えず、マーシャは再び同じ言葉を繰り返す。しばらく息詰まるような沈黙が二人の間に停滞したが、先に根負けしたのはエルロイドの方だった。

 

「――分かった。私もドランフォート大学教授である前に、栄えあるこの国の紳士だ」

 

 エルロイドは手袋とマスクをはずし、ガラス瓶に蓋をするとピンセットと一緒にトランクの中にしまう。

 

「嫌がる相手に無理強いするのは、紳士的ではないからな。今回は、サンプルはなしとしよう」

「……教授! ありがとうございます!」

 

 顔を輝かせて、マーシャは感謝する。やはりエルロイドは、紳士としてのプライドを失ってはいなかったのだ。

 

「勘違いするな、マーシャ。私は君の言葉にほだされたからではない。今回は、サンプルの必要性を感じなかっただけだ。それだけだ。いいな?」

 

 マーシャのお礼の言葉に、エルロイドはさっと目を逸らす。照れ隠しのような、言い訳のような、何とも歯切れの悪い言葉が続く。

 

「はい、もちろんです」

 

 マーシャはそれには追求せず、代わって小人たちの方を見る。

 

「よかったですね、あなたたち。教授は、あなたたちを首都に連れて行くことはやめるそうですよ。ここで、一生懸命靴作りのお手伝いをしてあげて下さいね」

 

 マーシャの言葉に、六人の小人たちは躍り上がって喜びを露わにした。

 

「あ……ありがとうございます。このご恩は忘れません」

「本当に、本当にありがとうございます。御身はワシらの恩人じゃ!」

「そんな……おおげさですよ」

 

 嬉しさのあまり本当にダンスを始めてしまった小人たちを目にして、ふとマーシャはあることを思いついた。

 

「あ、そうだ。ものは相談なんですけど…………」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「まったく、君はつくづく食えない女性だな」

 

 その日の午前中。駅への道を歩きながら、呆れたようにエルロイドは首を振った。

 

「教授のご親切への返礼ですよ」

 

 対するマーシャは、何食わぬ顔をしている。

 

「教授も嬉しそうじゃないですか?」

「私を子供か何かと勘違いしていないかね。ものにつられて大局を見誤るほど、私は愚かではないつもりだが?」

 

 もっともらしいことを言っているが、どことなくエルロイド自身も嬉しそうだ。

 

「はいはい、そういうことにしておきます」

 

 しかし、そのことをマーシャはあれこれ言うつもりはない。ヘンリッジ・エルロイドは立派な紳士なのだから。そして紳士の足はぴかぴかに光る新品の靴、彼にぴったりの靴、妖精特製の靴で装われるべきなのだから。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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03・機械による代用 と 見えすぎる目 の 話
03-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 産業革命の時代を過ぎ、この国は世界有数の工業国として、大きく羽ばたこうとしている。蒸気機関の発明による機械産業の発展は、この国を大きく富ませると同時に、古の時代から受け継がれてきたものを駆逐しようとしていた。強い電気の照明は、それまで闇の中に存在していた神秘を、陰と影の中へと追いやっていくのだった。

 

「――だが、神秘と科学とは本来一つなのだ。この二つは相容れぬものではなく、元を辿ると同じ技術、同じ思考、同じ解釈に行き着くのだ。分かるかね?」

「ある程度は……ですけど」

 

 時刻は午後二時。首都のシンボルである跳ね橋を渡りつつ、人波の中でエルロイドは隣を歩くマーシャに講義する。ステッキを教鞭のように振るうので、かなり危ない。

 

「たとえば、だ。あれを見たまえ」

 

 だが、周囲の迷惑そうな視線などどこ吹く風と言わんばかりに、エルロイドの講義にはますます熱がこもる。

 

「オートモビールですか?」

 

 エルロイドの視点の先を、マーシャは見つめる。道路を走るのは、最近馬車の代わりとなりつつある自動車だ。ほぼ水蒸気でできた白煙を吐きつつ、それは二人の横を通り過ぎていく。

 

「あれの動力は何だね?」

「蒸気機関です」

「その燃料は?」

「〈鉱水〉、だと思いましたが……」

「ならば、鉱水は何を含有している水かね?」

「……分かりません」

 

 立て続けに質問され、マーシャはさすがに言い淀む。いつからここは、大学の講堂になったのだろうか。無知をさらしたマーシャに、エルロイドはやや呆れたような視線を向けた。

 

「〈貴石〉だよ。古来から、魔法使いの触媒だの、賢者の石の原石だの、精霊の涙だのと呼ばれてきた特殊な宝石だ。君もコールウォーン出身ならば、少しは知っているだろう?」

 

 そう言われ、マーシャは懐かしの故郷を思い出そうとする。だが、彼女の追憶は、耳元でやかましく繰り出されるエルロイドの説明であっさりと妨害された。

 

「このように、古代は魔法に使われていたものが、今では正しい知識と実践によって科学の進歩発展に寄与しているのだ。素晴らしいだろう?」

 

 何がどう素晴らしいのか分からないが、エルロイドがそれに情熱を傾けていることだけは分かる。

 

「教授の研究も、いずれそうなるということですか?」

 

 マーシャの言葉に、彼は深く深くうなずく。

 

「その通り。君は知識においては劣るものの、本質を捉えるのには優れているな。私の助手としては及第点だ」

 

 マーシャも、エルロイドが喜ぶツボを大分心得てきた。彼の講義は大抵の場合、こうやって満足な結果で終わるのだ。

 

「さて、着いたぞ。ここだ、入りたまえ」

 

 跳ね橋を過ぎ、エルロイドが足を止めたのは、一軒の店舗らしき場所だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「ジン、いるかね。いるんだろう?」

 

 ノックもそこそこに、エルロイドはドアのノブを引っ張る。だが、開かない。

 

「ん? なんだ? いないのか? そんなはずはなかろう。おい! ジン! いるんだろう! 早くここを開けたまえ!」

 

 ドアを連打しつつ開けようとするエルロイドを、さすがにマーシャが止めようとした時だ。鍵の開く音が聞こえた。

 

「……誰?」

 

 店内からドアを開けたのは、十代の初めくらいの少女だった。病弱なのか、顔色がずいぶんと悪い。

 

「私だ」

 

 名乗りもせず、エルロイドはふんぞり返った調子で自己紹介する。

 

「……先生?」

「君の義父は在宅かね?」

 

 少女を押しのけるようにして店内に入りつつ、エルロイドは尋ねる。少女は黙ってうなずいた。

 

「ならいい。邪魔するよ」

 

 どうやら、彼女と彼女の父親とエルロイドは顔見知りらしい。ずかずかと店の奥に入っていくエルロイドを追おうかどうしようか、一瞬マーシャは迷う。けれども、ここで立っていると、さらにエルロイドの叱咤が飛ぶだろう。

 

「……お姉さん、誰?」

 

 彼を追おうとしたマーシャに、少女が問いかける。よく見ると、手にウサギのヌイグルミを抱えている。

 

「こんにちは、お嬢さん。私はマーシャ。マーシャ・ダニスレートよ」

 

 パン屋の接客で培った精一杯の笑顔で、マーシャは少女に挨拶する。我ながら、自分の態度はエルロイドと正反対だと思いつつ。

 

「エルロイド教授の助手をしているの。よろしくね」

 

 少女は三白眼でじっとこちらを見てから、軽くうなずいた。

 

「……モニィ」

「え?」

「……私の名前」

「モニィちゃんね。教えてくれてありが――」

「マーシャ! 何をしている。私の時間を無駄にする気かね?」

 

 案の定、向こうからエルロイドの苛ついた声が聞こえてきた。

 

「ごめんね? もう行かないと」

「……気にしないで」

 

 エルロイドの奇行に慣れているのか、モニィと名乗った少女は脇に退く。自己紹介もそこそこに、マーシャは彼の後を追った。

 

 どうもこの店は機械類全般を扱っているらしい。恐らくは修理屋だろう。ボイラーから時計、さらには蓄音機にエンジンらしきものまで、あらゆる機械が雑然と暗い店内に散らばっている。それらをエルロイドは勝手知ったる顔でかわし、さらに家人のような顔で堂々と地下へと降りていく。その足取りは速く、マーシャはついて行くのに難儀した。

 

「ジン! いるんだろう!」

 

 奥の扉を蹴破らんばかりの勢いで開けたエルロイドに、ついに返事があった。

 

「ああ、うるさいな。さっきから聞こえてるぜ」

 

 部屋の奥で、こちらに背を向けて椅子に座ったままの人影が、顔だけを彼の方に向けてそう言う。苦み走ったような顔に無精ひげを生やした、エルロイドと同年代とおぼしき男性だ。

 

「ならばさっさ返事をしたまえ」

「ここにいてどうやって返事するんだよ」

 

 彼の無茶な要求に、呆れたような声を男性は上げる。機械油で汚れた手を近くのボロ布で拭くと、椅子を回してこちらに向き直った。

 

「……ん? その嬢ちゃんは誰だ? お前の姪か?」

 

 そのやや濁った目が、エルロイドにようやく追いついたマーシャに向けられる。

 

「そんなわけがあるか。彼女は私の助手だ」

「助手……?」

 

 男性がいぶかしげに目を細めたのを、見逃すようなエルロイドではなかった。

 

「何だね? その狂人を見るような目は」

「ほう、自覚はあるようだな」

「得てして、時代に先んじた才人が狂人扱いされるのは歴史が証明している。この私の如き、この私のような、この私を筆頭とする才人が」

 

 狂人と見なされることをむしろ誇るかのように、エルロイドは胸に手を当てて鼻を高くする。しかし、すぐにその顔は不機嫌そうになった。

 

「だが、彼女はいたって正気だ。そのような目で見られるいわれはない」

 

 どういう風の吹き回しか、一応エルロイドはマーシャをかばう。彼女が狂っているように思われるのは、我慢がならなかったようだ。

 

「そうだったな。すまん、嬢ちゃん」

 

 一見すると頑固そうな男性だが、すぐに彼はマーシャに頭を下げた。

 

「こいつとは長い付き合いでな。こいつの奇行について行ける助手なんて、どんないかれた奴なんだろうとつい思っちまったんだよ」

「いえ、気になさらないで下さい」

 

 そう謝られると、マーシャの方としても少し困ってしまった。

 

 何しろ、実際問題エルロイドは奇行で知られた人間なのだ。その助手を務める以上、奇行のとばっちりを受けることは確実である。時には、それに巻き込まれるどころか片棒を担がざるを得ないことだってある。マーシャがエルロイドの側にいる理由は、今のところ給料がいいことが最大の理由だ。多少の奇行に目をつむる寛大さは、金銭で買える。

 

「俺はジン・ウォンソンだ。よろしくな。修理工だが、発明家でもあるんでね」

 

 男性は自己紹介をすると手を差し出した。握手のようだ。

 

「マーシャ・ダニスレートと申します」

 

 マーシャは怖じることなく手を出したが、ジンの方が、その手がまだ機械油で汚れていることに気づいたらしく、すぐに引っ込めた。

 

「それで教授、望みのものはできているぜ」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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03-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「素晴らしい、素晴らしいぞこれはっ!」

「だろう。このアームの付け根辺りは我ながら会心の出来だぜ。コンパクトかつ頑丈! ロンディーグの裏通りまで探したって、ここまでできる機械工は見つからないね」

「ふっふっふ、ジン。君のその自信過剰な台詞には常日頃から辟易していたのだが、今日ばかりは見逃してやろう。私は寛大だからな」

「大きなお世話だぜこの万年変人インテリが」

「自分が知性に欠けるからといって、知性に溢れる私を罵倒するのはやめたまえ機械フェチ風情が」

 

 工房とおぼしき地下室で、大の大人たちが子供のように目を輝かせつつ、そのくせ口では互いを罵っている。

 

「あの…………」

 

 まさにサバトか奇祭かという現場に、一人取り残されているのがマーシャだ。

 

「あの!」

「ん? 何だねマーシャ」

 

 ようやく正気に戻ったらしきエルロイドが、渋々彼女の声に応じる。

 

「これ……いったい何なんですか?」

 

 マーシャが指差したのは、床に置かれた巨大な背嚢のような四角い機械だ。外見こそ背嚢に近いが、珍妙なのは左右にアンテナやらアームやらパイプやらレンズやら、わけの分からない機械が取り付けてある点だ。

 

 マーシャの疑問に答えたのは、この機械の製作者であるジンだった。正式な名称はキルガニー投影機。小型のエンジンが搭載され、内部には特大の貴石が収められている。内部の貴石が常に発している特殊な振動波を内部で増幅し、三百六十度に回転するアンテナを通して周囲に放射……もといまき散らす装置とのことだ。

 

「それが、いったい何の役に立つんですか?」

 

 機能こそ分かったものの、肝心の用途はさっぱり分からない。

 

「まったく、これだから」

「そうそう、これだから……」

 

 マーシャの質問に、男二人は同時に肩をすくめて鼻で笑う。

 

「女性は困る、とでも言いたげですね。そうおっしゃりたいのですか?」

 

 気色ばむ彼女を、エルロイドは軽くあしらう。

 

「まさか。夢と浪漫を理解できない輩は困る、と言いたいだけだ。性差など些細な問題だ。膨張した胸部の有無と外性器の形状の違い程度、妖精と人間の差に比べれば無きに等しい」

「教育者の言葉として非常に聞き苦しい発言にはあえて耳を貸さないとして、もう一度お聞きしますがこれは何をする機械ですか?」

 

 いろいろとげんなりするマーシャに、エルロイドはようやくその用途を告げた。

 

「これは、妖精を見る機械だ」

「はい?」

 

 妖精と機械という相容れない言葉に、マーシャが首を傾げるのと同時に。

 

「そうそう。だからほら、ちょっとこっちに来てくれ」

 

 それまでエルロイドの隣にいたジンが、工房の片隅に移動する。

 

 そちらにはいくつかの虫眼鏡と、強力そうなライト。さらには何やら眼科医が使いそうな道具が無造作に作業台の上に置かれている。

 

「ほら、ここに座って」

 

 言われるがままに、マーシャは作業台の側の椅子に座る。

 

「少し、調べさせてもらうぜ。こいつはまだ試作機だからな」

 

 そう言うとジンは、虫眼鏡を取り上げて彼女の左目に近づけた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「うう……まだ左目がチカチカします。左目だけ、星が空から降ってきているみたいです」

 

 日が沈みつつある夕刻、マーシャは左目を押さえつつエルロイドの隣を歩いていた。あれからしばらくの間、妖精を見ることのできる左目をみっちりと調べられたのだ。貴石を使った奇妙な装置まで左目に押し当てられたのには、さすがに閉口した。

 

「科学の進歩発展に寄与できたのだ。私ならば今すぐダンスを踊るくらいに喜ばしいことだね」

「教授はそうおっしゃいますけど、涙が出っぱなしで困るんです。なんだか、瞼の調子もおかしいし……」

「ましてや、女王陛下のお望みに少しでも近づくことができたのだ。これを光栄と言わずして何と言う?」

「はいはい。教授は素晴らしいお方ですねー」

 

 彼女の疲弊など、エルロイドにはつゆほども伝わっていないことがよく分かり、さすがのマーシャも受け答えが雑になる。

 

「心がこもっていない言い方だな。真実を表現するのに最適の方法ではないぞ。私の知性と業績とこれから行われるべき偉業を讃えるには、もっと強く感情を込めて、心から真実だと確信し、さらには――――」

 

 しかし、マーシャの耳は彼のたわごとを右から左に聞き流していた。

 

「――――ッ!」

 

 彼の言葉が、聞くに堪えなかったからではない。その左目が、街路樹の陰からのっそりと姿を現したものを凝視している。黒く毛深い大型犬だ。その首から下までは。首から上は、イヌの頭骨が剥き出しになっている。空っぽの眼窩に、青い火が灯る。

 

「……マーシャ?」

 

 マーシャの硬直と言っていい立ちすくみ方に、さすがにエルロイドが怪訝そうな顔を向けた。

 

「いえ、何でもありません。行きましょう」

 

 極力気づかないふりをしようとして彼女が平静を装った時。

 

「ねえ」

 

 軋るような、のたうつような声が聞こえる。

 

「ねえ きみ」

 

 あどけない子供のような声質が、かえっておぞましい。

 

「ぼくがみえているんでしょ? なんでみえないふりをするのかな」

 

 間違いなく、そのイヌはこの世のものではない。

 

「こっちをむいてよ ねえ ねえ ねえってば」

 

 ゆっくりとこちらに近づいたその不気味な黒犬は、マーシャの顔を見上げる。骨だけになった顎骨の間から、鮮血の色をした舌がのぞく。身が竦むが、それでもマーシャは懸命に無視する。

 

「どうしてもみたくないの? どうしても? どうしてもどうしてもどうしてもどうしてもどうしても?」

 

 奇怪な声を上げつつ、イヌは彼女の周りをぐるぐる回る。妖精。一応そう呼ぶべきだろう。だがその本質は、おぞましく異質極まるものだ。マーシャは何度もこの手の異形を見ている。常ならばうまく無視してきた。だが、今は左目がおかしい。

 

「じゃあ どうしたらぼくのほうをみてくれるのかな」

 

 ジンの工房でいろいろ左目を調べられ、今彼女のいわゆる二枚目の瞼はうまく閉じないでいる。見たくもない存在を、勝手に凝視してしまう。

 

「いろいろ ためしてみようかな たとえば」

 

 突如、イヌは身を翻し、まったく妖精の存在に気づいていないエルロイドに近づく。

 

 その口がバネ仕掛けのように開くや否や、ステッキを握るエルロイドの手に齧り付こうとし――――

 

「――やめて下さい!」

 

 見えないふりをすることを忘れ、マーシャは叫んでいた。

 

「ほら やっぱり」

 

 イヌの顔は骸骨なのに、にやりと笑ったように見えた。

 

「マーシャ、誰と話しているのかね」

 

 ここに来て、ようやくエルロイドが異変に気づいたらしい。

 

「いえ、その……」

 

 彼女の目が一点を見据えていること、特にその左目が緑色に輝いているのを、素早くエルロイドは確認する。

 

「……なるほど」

 

 そして、自信ありげに何やらうなずく。

 

「さて、今日という日は記念すべき日だ。何しろこの私、ヘンリッジ・サイニング・エルロイドが実験ではなく実地で、キルガニー投影機を使った日なのだからね!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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03-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 そう宣言するや否や、エルロイドは背中に背負っていた投影機のスイッチを押す。重たげな機械音と共に、背中の投影機からアームが飛び出す。パイプから蒸気が噴出する。アンテナがくるくると回り始める。さらには、パイプオルガンのような奇妙な音まで聞こえてくる。さながら大道芸だ。当然周囲の人々は、ぎょっとして彼の方を見つめる。

 

「いやなおとがする なにそれ」

 

 周囲の異様なものを見る目をよそに、妖精のイヌは身構えて低く唸る。

 

「教授! やめて下さい!」

「何を言う。なぜやめる必要があるというのだね!」

「目立ちますから! ものすごく目立ってます! 恥ずかしいですよ!」

 

 一方、マーシャは突如注目の的となったエルロイドの横で恥ずかしさから真っ赤になっていた。

 

「気にするな! 偉業というものは、得てして人目を惹くものなのだからな! さあ、もっと見てくれ! もっと注目を! もっと注視を! そして喝采を!」

 

 しかし、投影機を背負った変人は、マーシャの頼みなどどこ吹く風だ。むしろ、自分の行動に酔いしれ、さらに周囲の注目を浴びる嬉しさから両手を広げて恍惚とさえしていた。まさに変態だ。

 

「きらい きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい それすごくきらい!」

 

 黒いイヌが叫ぶのとほぼ同時に、投影機のくるくると回るアンテナがぴたりとそちらを指した。アームの先の白熱灯が点灯し、イヌを照らす。そう、文字通りその姿を照らしたのだ。本来は不可視であり、あらゆる物理法則を無視する寓話生命体の姿を。

 

「そこにいたのかね。薄汚い野良犬が」

 

 冷たい声でそう言い放つと、エルロイドは手に持っていたステッキを構えた。

 

「きらい! いや! うるさい! やめろ! やめろぉ!」

 

 イヌは歯をむき出して狂ったように跳ねると、彼に向かって飛びかかった。黒い矢、いやむしろ黒い飛沫のようにして跳躍したその姿が、彼に届く寸前で空間に縫い止められる。

 

「――私が、それに従うとでも思っているのかね?」

 

 彼の手に握られていたステッキは、いつの間にかその本当の姿を見せていた。

 

「あ れ なに これ な ん で そ ん な」

 

 銀色の細くてまっすぐな刃が、イヌの眼窩に刺さり、胴体にまで深々と刺さっている。それはサーベルではない。剣でも刀でもない。ステッキの形をした仕込み杖の刃だ。

 

「なんで な ん で な…………」

 

 その声を最後に、黒犬の体は砂のように崩れ、風に吹きさらわれていった。頭骨が地面に乾いた音を立てて落ち、たちまち微塵に砕けて消えていく。

 

「ふむ、なかなかの出来映えだ。神に感謝を」

 

 対するエルロイドは、曇り一つない仕込み杖の刃を満足げに眺めてから、静かにそれをステッキの鞘に収める。

 

「これかね? 正教会の主教直々に祝福を授けて下さった銀製の刃だ。古来、妖精は鉄を忌むとあるが、吸血鬼や人狼は銀を忌む。要するに、金属に特殊な効果を付与したものはこの手の連中に通じるようなのだよ」

 

 投影機のスイッチを切りつつ、得意げにエルロイドは説明するが、マーシャの疑問はそこではない。

 

「いえ、そうではなくて……」

「何かね、まどろっこしい」

「相手は妖精でしたけど……殺してしまったんですか」

 

 彼女の問いに、エルロイドはあっさりと答える。

 

「彼らは死なんよ。恐らく、妖精郷に還っただけだ」

「よろしいのですか?」

「だから何がだ?」

「だって、教授は妖精ならばどんなものでもサンプルにするような方では……」

「君は私を何だと思っている?」

 

 マーシャにそう言われ、彼は不機嫌そうな顔になる。

 

「確かに、妖精のサンプルは一匹でも多い方がいい。だが、しかし、けれども、とは言え」

 

 いくつもの接続詞を重ねつつ、エルロイドはマーシャを指差した。

 

「助手に害をなすような危険な妖精を、この私が看過するはずがないだろう? 君はもう少し、自分の雇用主のことを信頼したまえ」

「教授…………」

 

 マーシャの胸の内に、温かなものがじんわりとこみ上げてきた。確かにこの人は、紛う事なき変人だ。頭が少々おかしく見えるし、行動は奇矯だし、人格破綻者に見えることだってしょっちゅうだ。でも、確かに彼は、自分を守ってくれたのだ。貴重なサンプルを得る機会を、迷わずふいにしてまでも。

 

「あの……ありがとうございます、本当に」

 

 頭を下げるマーシャに、今日ばかりは妙に優しく、エルロイドは言う。

 

「もう少しの辛抱だ。私の研究が実を結んだ暁には、このような手合いに悩まされることはなくなるだろう」

 

 彼の変わった気遣いがくすぐったく、マーシャはたまにはこんなトラブルも悪くないかな、と少しだけ思ってしまうのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 しかし次の日。

 

「ありえん……」

 

 エルロイド邸の庭で、屋敷の主人は肩を振るわせていた。

 

「どうしてこんなことになったのだ! なぜだ!」

 

 エルロイドが指差す先には、各所から煙を上げてうんともすんとも動かないキルガニー投影機があった。

 

「私に聞かれても困ります……」

 

 エルロイドにまくし立てられるマーシャは、やや迷惑そうにそう答える。

 

「たった一度だ! 一度しかこのキルガニー投影機は本来の性能を発揮しなかった。こんな馬鹿なことがあるか!」

 

 エルロイドは天を見上げて咆吼する。確かに、一度使っただけで故障してしまう装置は欠陥品だし、それをうきうきしながら持ち帰ったのはご愁傷様である。

 

「ジンさんは修理工なんでしょう? そこに持っていけばいいじゃないですか」

 

 マーシャの至極もっともな意見を耳にしたエルロイドは、彼女に自分の手帖を突きつける。

 

「マーシャ! これを見たまえ!」

「スケジュールですね」

 

 そこには首都各地を訪れる予定が書かれている。

 

「そうだ。私は既に、この装置を用いた妖精調査の予定を立てていたのだ。これでは計画を一からやり直さなくてはいけない。何という時間の無駄だ!」

「はあ……」

 

 たかが予定を変更せざるを得なくなったことに、なぜこれだけ感情的になれるのか、マーシャには皆目見当が付かない。

 

「ええい、背に腹は代えられん」

 

 ひとしきり嘆いた後、エルロイドは突如しゃがみ込むと、マーシャに向かって背を向ける。

 

「マーシャ、さあ」

「すみません。私には教授のお考えが皆目見当が付かないんですが」

 

 だが、何となくマーシャは嫌な予感がしてきた。

 

「君が、投影機の代わりになって、ここに乗れと言っているのだ。分からんのかね?」

 

 そして、その予感は的中したようだ。

 

「ええ、まったく。と言うか、分かりたくありません」

「やかましい。さあ、つべこべ言わずに来なさい、ほら」

「嫌です! 何で教授におんぶされなくちゃいけないんですか!」

「君が投影機の代わりだからだ!」

「だったら普通に横にいさせて下さい!」

 

 エルロイドは悪びれる様子もなく、マーシャに人間投影機になるよう強制してきた。いい年した男性に女性がおんぶされた格好で人前に出たら、不審がられるよりもむしろ正気を疑われる。そもそも、男性とそんな風に密着したことのないマーシャは、顔を真っ赤にして叫ぶ。

 

「それに、昨日はおっしゃって下さったじゃないですか! 助手の私を傷つけるような妖精は看過しないって!」

 

 昨日のエルロイドの言葉。この変人教授にも人を思いやる心があったと知って、少しだけどぎまぎしてしまった自分を締め上げてやりたくなる。

 

「言ったとも」

「昨日の今日で、すぐに私の左目を当てにしないで下さい!」

「それとこれとは話が別だ。私の予定を変更するわけにはいかん!」

「少しは待つことを覚えて下さい! お子様ですか教授は!」

 

 その後、どうにかマーシャは彼をなだめ、投影機を修理に出すまで調査を先送りすることに同意させた。機械は直る。しかし、一度上昇した直後に下降した信頼を直すのが困難なことを、この教授は知らないのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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04・やや余計な気遣い と シニカルな執事 の 話
04-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 朝。テーブルで朝食を摂るエルロイドに、恭しく新聞が差し出される。

 

「旦那様、今日の朝刊です」

「うむ」

 

 食後、鏡の前で容姿を整える彼に、今度は帽子が差し出される。

 

「旦那様、帽子はこちらでよろしかったでしょうか?」

「うむ」

 

 そして出勤の準備が整い、玄関に立つエルロイドの前で、扉が開けられる。

 

「行ってらっしゃいませ、旦那様」

「うむ」

 

 そのすべてに、エルロイドは他人事のように「うむ」でしか答えない。一方、そのすべてを行ったのは、まだ十代前半だがきっちりと礼服を着こなした少年だ。出で立ちこそ一分の隙なく整ってはいるが、金髪の下の顔立ちは負けん気が強そうだ。何となく、元気いっぱいな子犬を思わせる容姿をしている。

 

「教授…………」

 

 さりげなくエルロイドに仕える少年の横で、やや呆れた様子なのは、侍女の格好をしているマーシャだ。外見と肩書きは一応エルロイド家の侍女だが、大学で彼の助手をしている時間の方が長い。

 

「なんだねマーシャ? その中途半端に不満げな顔は。まるで、半熟と固ゆでが同時に目玉焼きに現れているかのようで不愉快だ」

 

 彼女の視線に気づいたエルロイドが、そちらを見る。マーシャが今日大学に行く必要はない。本日はエルロイドが、みっちりと学生たちに講義をしなくてはいけない日だ。

 

「教授はもう成人された男性でしょう? ご自分のことはご自分でされた方がよろしいのではないですか?」

 

 彼女の言葉に、エルロイドは少年の方を見ると、目で何やら促す。

 

「やれやれ、まったく。無知を平然とさらすのは感心しないよ、一般市民のお姉さん」

 

 発言を許された少年は、ここぞとばかりに鋭い舌鋒を彼女に突きつけた。

 

「オレはエルロイド家執事。執事である以上、旦那様の手となり足となり、そのわずらいとなるありとあらゆるものからお守りするのが、主命にして務めにして喜び」

 

 少年はそう言うと、胸に手を当ててエルロイドに向けて一礼する。作法にかなった仕草だが、あいにくとマーシャには、「気取ったことをするなあ」としか思われていない。

 

「日常の些末な雑事如きに、旦那様の貴重なお時間を無駄にするわけにはいかないの。そういうのは、全部オレたちが代わりにやるように、昔から決まってるから。分かった?」

「分かりましたけど……」

 

 身の回りのことを執事や侍女に任せっきりのエルロイドを見て歯がゆく思ったマーシャだが、そう言われては仕方がない。

 

「ということで、お姉さんはこれ以上無駄口を叩かないこと。旦那様のお仕事の邪魔だよ」

 

 だが、少年の呵責に予想外の援護射撃が来た。

 

「そう言うな、シディ」

 

 エルロイドが、二人の会話に加わったのだ。

 

「第三者の意見というものは、時に常識に囚われず、故にこそ正鵠を射ることがある。彼女にはある程度好きに言わせておけ。ある程度、だがな」

「かしこまりました」

 

 どういう風の吹き回しか、マーシャをかばうエルロイドだが、その是非を問わずすぐに少年は応じる。

 

「――旦那様は、お姉さんには変に甘いんだよなぁ」

 

 小さく、そんなことを呟きつつ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「彼はシディクス・マクホーネン。十四歳。代々、エルロイド家に仕える従僕の家柄に生まれた少年だ」

 

 その日の夜。書斎でコーヒーを飲みつつ、エルロイドはマーシャの疑問に答えている。改めて、マーシャはあの執事の少年について彼に尋ねていた。名前と役職くらいはマーシャも知っているが、彼はいちいち少年のプロフィールを最初から説明する。

 

「彼が私に仕えるのは、生まれたときから決まっていた役割だ。だからこそ、彼にはありとあらゆる、執事として必要な技能と知識が備わっている。もっとも、現在進行形で勉強中だがね」

 

 マクホーネン家はあの少年を、幼いときからエルロイド専属の執事として育て上げたらしい。どういう過去の関係からそうなったのかは、マーシャは知るよしもない。

 

「言わば競走馬のようなものだよ。競走馬がより速く走れるように、遺伝的に優れた性能を子孫に引き継ぐのと同じく、マクホーネン家は我がエルロイド家に仕えるよう特化している。ある種、興味深い人材だ」

 

 他人事のようにそう言うと、エルロイドは本に目を落とす。

 

「それでいいんですか?」

 

 そっけない態度に、思わずマーシャは疑問を投げかける。

 

「別に私は彼を拘束などしていない。仕事さえきちんとこなせば、プライベートにことさら容喙するつもりなどないのだが?」

 

 事実、エルロイドのシディに対する態度は、まるで家具のようだ。いて当然であり、仕えて当然であると言った感じだ。それであの少年が満足しているのだろうか。人ごとでありながら、マーシャは何となく腑に落ちなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「珍しいね、お姉さんがオレに話しかけるなんてさ。オレのこと、苦手みたいだけど」

 

 翌日、マーシャは廊下を歩くシディを呼び止めていた。彼の方は手に何冊かの本を持っている。エルロイドが寝室に置きっぱなしにした本を、書斎に戻す途中のようだ。

 

「シディさんは……」

「さん付けはやめてよ。お姉さんよりもオレは年下だよ。くすぐったいったら」

「じゃあ、シディ君」

 

 マーシャがそう言うと、シディは妙な顔をした。

 

「どうしました?」

「いや、そういう風に呼ばれたことって、あんまりないからさ」

 

 どことなく不満げのようでいながら、半ば嬉しそうでもある感じだ。パン屋に勤めていた頃、よくおつかいで来る少年を接客していたとき、こんな顔を見たような気がする。

 

「それで、シディ君こそ、私のことはあんまり好きじゃないみたいですけど」

 

 マーシャの言葉に、シディは大げさに肩をすくめる。

 

「別に。旦那様がなさることに執事がどうこう意見するなんてこと、余程じゃない限りあり得ないから。お姉さんはその『余程』には当てはまらないし。お姉さんは、旦那様の研究の助手なんだろ。きっちり励めよ」

「じゃあ、その『余程』っていうのは……?」

「聞きたい?」

「ぜひ」

「じゃあ……」

 

 耳打ちするような動作をしたシディに、不用心に顔を近づけたマーシャだが、あいにく返ってきたのは秘密の囁きではなく、額を弾くデコピンだった。

 

「痛ッ! な、何するんですか?」

 

 本気で驚くマーシャを、正真正銘侮蔑の念を込めてシディは睨む。

 

「言うわけないだろ、間抜けなお姉さん。どうしてこのオレが、旦那様の心証を害するようなことを口走るって思えるんだよ。ホント、脳にカビでも生えてるんじゃない? 掃除してあげようか? 得意だぜ?」

 

 容赦ない憎まれ口に、マーシャも言い返すことができない。だが、ここは年上の意地を見せ、聞かなかったことにする。

 

「え~、それはともかく。シディ君はいつから教授に執事として仕えているんですか?」

 

 まるで面接のような物言いだが、彼は即答した。

 

「生まれたときから」

「は?」

「いや、気持ちとしては、ってこと。そりゃあ、まだオレは成人もしてないけどさ。でも、こう見えても年齢一桁の時から旦那様のお側にいさせてもらってるぜ。光栄至極ってね」

 

 そこまで言うと、シディは得意そうな顔でマーシャの顔を覗き込む。

 

「驚いた?」

「そりゃもう、当然ですよ」

 

 一方でマーシャも、この目の前にいる小柄な少年の全身をしげしげと眺めた。

 

「フン、安っぽい頭してるね、お姉さんは」

 

 彼女の遠慮のない視線が気に食わなかったのか、シディは唇を尖らせる。

 

「どうせ、一般市民のお姉さんの考えそうなことくらい、よく分かるよ。一生を決められた家で決められた仕事で決められたように仕えて、それで満足なのかって思ってるんじゃない?」

 

 図星を突かれて、マーシャはついたじろいでしまった。本当に、この少年は頭の回転が速い上に、それを躊躇なく言動に反映する大胆さも持ち合わせている。

 

「余計なお世話。決められたように生きて決められたように一生を過ごすなんて、普通の市民だって同じじゃないか。それに気づくか気づかないかの違いだぜ。ましてや、お姉さんのその左目とどう違うんだよ。お姉さん、妖精が見える目の持ち主なんだろ? 旦那様から聞いたぜ。その目のせいで、人生の選択肢がかなり狭まったんじゃない?」

 

 ぎくりとして左目を隠そうとするマーシャを、鷹揚にシディは手を振ってあしらう。この少年執事はどこまで聞いているんだろうか。

 

「まあ、肯定も否定もいらないけど。デリケートな問題だしね。でも、お姉さんの考え方じゃ、まるで旦那様がオレにそんな生き方を強制しているようじゃないか。ちょっと、見過ごせないぜ、そういうのは」

 

 だが、シディが話題にしたのは彼女の目がどうこうという話ではなく、あくまでもエルロイドと自分との関係についてだった。彼にとっては、自分のことを誤解されるよりも、エルロイドが誤解されることの方が我慢ならないようだ。実際、マーシャが勝手に、シディが執事の仕事を窮屈に思っているのではないかと思い込んでいたのも事実である。

 

「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ――――」

 

 一方的な思い込みから妙なことになってしまったマーシャがおたおたと謝ると、シディは呆れたように鼻から息を吐く。

 

「はいはい、分かってるって。お姉さんにはそこまで邪推するような知性はないからね」

「うぅ……そこまで言わなくてもいいじゃないですか」

「事実だろ。オレは旦那様以外には手厳しいの。よ~く覚えておいてくれよ。じゃあ、仕事があるからこの辺で」

 

 そう言ってシディは一方的に会話を打ち切ると、すたすたと廊下を歩いていく。マーシャはただ、彼の小さな背中を見送るしかなかった。外見こそ一見すると洒脱に思えるものの、彼女にはその背中がどこかやるせなく見えるのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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04-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「シディ君をねぎらってあげましょうよ」

 

 大学の研究室で、マーシャはそんなことを言い出した。様々な新聞や資料に添えられた妖精の写真を、マーシャは本物と偽物に分類している。

 

「藪から棒に何を言い出すのかね、君は」

 

 机に向かい書き物をしていたエルロイドは、胡乱な目で彼女を見た。

 

「だって、あの子は十四歳ですよ。仕事一筋なんて可哀想です」

「問題視するほどのことかね」

「ことなんですよ」

「私はそうは思わないが。彼が執事として仕えるのは、我がエルロイド家とマクホーネン家との正式な契約に基づいている。彼にはきちんと給金も遅れることなく支払っている。無理難題を押しつけたり、虐待や折檻も行っていない。マーシャ、この上君はいったい何を私と彼との間に望んでいるのかね?」

「ふっふっふ」

 

 言質を取った、と言わんばかりにマーシャは含み笑いをもらす。

 

「気色悪い笑い方をするのはやめなさい。私の鼓膜が、音として脳に伝えることを拒絶しないのが不思議なくらいだ」

 

 案の定、エルロイドは嫌な顔をする。

 

「教授、ご自分と照らし合わせて考えることをお忘れですか?」

「何?」

「教授は以前、ランドファリーの靴屋でおっしゃいましたよね。ご自分の研究を、女王陛下がご覧になったと」

「ああ、その通りだ」

「そして、女王陛下からお褒めの言葉を賜ったと。その誉め言葉は、教授のお仕事に対する情熱を燃え立たせるものとなったのではないですか?」

 

 比較的理路整然とした彼女の理屈に、エルロイドは考え込む。

 

「ふむ……確かに同感だ。あれほどの名誉と歓喜、生まれてこの方味わったことがない」

「ですから、教授が女王陛下から賜ったものを、今度は教授がシディ君にお渡しになる番だと思いませんか? ね?」

 

 ここぞとばかりに、マーシャは力説する。しばらくの間エルロイドは沈黙したが、やがてため息混じりにうなずいた。

 

「――まったく、君は人を乗せるのだけはうまいな。尻を鞭で叩かれなければ、論文一つ書くこともできぬこの大学の無知蒙昧の学徒どもより、よほどましかもしれん。少なくとも、やる気はある」

「学生さんたちと私とでは、分野が違いますよ」

「それを踏まえた上で、私は言っているのだが」

「光栄です、教授」

 

 と、ここまではとんとん拍子に思えたのだが、突如彼は首を左右に振る。

 

「ふん。だが、手放しで賛同はできんな」

「ええっ? どうしてですか?」

「では、今日私が自宅で、突然シディを呼び止めて日々の感謝を述べるところを想像してみたまえ。どうだ?」

「とても素敵だと思いますよ。紳士的です」

 

 本心からマーシャはそう言ったのだが、残念ながらエルロイドは哀れなものを見る目で彼女を見る。

 

「君の想像力はどうやら惨めなまでに壊滅しているようだな。頭蓋骨の中に守られているものはいったい何だね? 私にはキノコの変種に思えてくるのだが」

「教授、言い過ぎです」

「そう言われたくなければ頭を捻りたまえ。そもそも、理由がない」

 

 そう言われてマーシャは考えてみるが、見当が付かない。

 

「理由ですか?」

「誉める理由がないのに誉める。それを人は世辞というのだよ」

「そんなの『いつもありがとう、これからも頼むよ』でいいんじゃないでしょうか?」

「マーシャ、君は執事足らんとするシディの立場というものが何も分かっていないな」

 

 エルロイドは呆れた様子で腕を組む。

 

「彼と私にとって、彼が有能で従順な執事であるのは、空気のように自然なことなのだ。それを誉めてどうする。君は『毎日呼吸ができて偉いよ』と言われて喜ぶのかね。だとしたら実に安いプライドだな。念のため言っておくが、肺や気管に疾患を患っている病者は、呼吸ができるだけでもねぎらうべき相手だがな。健康な君だからそう言っている」

 

 エルロイドの自説にマーシャは多少頭が痛くなるが、何とか理解したつもりになる。

 

「ただ誉められても、シディ君のプライドが傷ついてしまうということでしょうか」

 

 有能で当たり前の扱いならば、気が張って大変だろう、とマーシャは思う。だとしたら、ますますねぎらってやりたく思うのだが、彼女はそれが老婆心であることに気づいていない。

 

「そのようなところだ。分かったならばいい加減時間の無駄だから……」

 

 話を打ち切ろうとしたエルロイドだが、一方のマーシャはぱっと顔色をよくして手を叩く。

 

「じゃあ、まず誉められるようなことをすればいいんですね」

 

 彼女のその積極的な態度に、エルロイドはつける薬がないと言わんばかりに首を振った。

 

「マーシャ……いや、もう何も言うまい」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 数日後、マーシャとシディはエルロイドの書斎にいた。

 

「お姉さんがどうしていきなりこんなことを言い出したのか、正真正銘さっぱり理解不能だけどさ」

「はい」

「まあ、一応感謝しておくよ。ありがとう。オレじゃ、見つけられなかったからさ」

 

 いつも小生意気なことばかり言うシディだが、とりあえずマーシャに感謝する理由ができたらしい。

 

「どういたしまして。だって、私一応『お姉さん』ですから」

「年齢だけで他人から尊敬を勝ち得ようなんて、オレは虫がよすぎると思うけどな」

 

 ただそれだけで胸を張るマーシャに、シディはたちまち殊勝な態度をひるがえした。

 

「とにかく、どうするんだ?」

「まあ、見てて下さい。って言っても、見るのは難しいですけど」

 

 そう言うと、マーシャは窓を開ける。

 

「さあ、お出でなさい――」

 

 その言葉と共に、マーシャの左目が緑色に輝く。深く、妖しく。二枚目の瞼が開かれ、異界への道程が示される。

 

「風に乗り空気に溶け、囁きざわめく小鳥のような妖精たち――」

 

 彼女の言葉と共にどこからともなくわずかな風が吹き、部屋の中へと入ってくる。数匹の妖精と共に。

 

 その姿は、鳥のようにも小人のようにも見える。曖昧で不可思議な、両者の混じり合ったものだ。けれども、その姿はシディには見えないらしく、彼からは何の反応もない。

 

「あなたたちの目と手を、少しの間お借りしてもいいですか?」

 

 マーシャのその言葉に、宙に浮く数匹の妖精たちは無言のまま、そろってぺこりとお辞儀をした。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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04-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「お帰りなさいませ、旦那様」

「うむ」

 

 その日の夜分、帰宅したエルロイドをシディが迎える。

 

「どうした、シディ?」

 

 いつもと違い、シディはすぐに脇に退くことなく、手に持ったものを彼に差し出す。

 

「今日、これを見つけました」

「おや、これは…………」

 

 それは、一本の凝った作りのペーパーナイフだった。

 

「どこに置いたものか、すっかり分からなくなっていたものだな。もう諦めていたのだが、よく見つけてくれたな」

 

 それを手に持ってしげしげと眺めるエルロイドの言葉を、シディは訂正する。

 

「いえ……オレではなくて、マーシャさんが」

「マーシャが?」

「ちょっと妖精さんたちの力をお借りしたんですけどね。みんな、快く引き受けて下さいましたよ」

 

 隣に立つマーシャは、得意そうに真相を明らかにする。シディにエルロイドが紛失したペーパーナイフの特徴を教えてもらい、それを妖精に伝えて屋敷の隅々まで捜索したのだ。さらに精度を高めるため、口頭の説明だけでなく、シディに絵を描いてもらってもいる。しかし、彼女の言葉にエルロイドは露骨にしかめっ面をした。

 

「その左目を下らないことに使うのはやめたまえ。君自身が一番分かっているだろう? 妖精女王の目は誘蛾灯だ。乱用するとよくないものを引き寄せる。先日ジンのところを訪れたときのことを忘れたのかね?」

 

 エルロイドの危惧ももっともである。いたずらに左目をさらけ出すことは、異界の妖精たちを種類を問わず呼び寄せることになりかねない。

 

「教授のなくされたものを見つけ出すのは、下らないことなんかじゃありませんよ」

「ふん、減らず口ばかり増えるから君のような人間は好きになれんよ」

 

 マーシャの返答を、彼は渋面のまま受け取る。

 

「私の評価はともかく、はい」

 

 マーシャは一歩下がると、シディを前に出す。

 

「……君の考えていることはさっぱり分からんが」

「ええ」

「こうする必然性はまったく感じられないのだが」

「はい」

「とにかく、私はこれからもやり方を変えるつもりはないぞ」

「もちろんですとも」

 

 何やらシディと向かい合いつつも、彼女に言い訳めいたことを言っているエルロイドだが、ついに腹をくくったらしい。

 

「…………ええい。我ながらまどろっこしい! 時間の無駄だ」

 

 そう半ばやけっぱちのように叫ぶと、彼は胸を張ってシディの方をまっすぐに見つめる。

 

「日々私が快適に過ごせているのは君のおかげだ。改めて感謝しよう、シディクス・マクホーネン」

 

 そう言うと、そっと彼の手がシディの肩に乗せられる。まるで、貴族か騎士の叙勲のような仕草だ。

 

「こっ、こっ、これからも励ませていただきます、旦那様」

 

 対するシディは、今までに見たことがないほど緊張した様子だった。それまでずっと、空気か家具のように扱われていた身が、突如注目を浴びたのだ。

 

「そして――ありがとうございます」

 

 けれども、ただ緊張して終わりではなかった。シディは嬉しそうに笑うと、完璧な角度で一礼する。その笑顔は、きっとシディ本人も予想し得なかったものだろう

 

「ふん、時間の無駄……ではないが、少々時間を消費した。もういいだろう」

 

 相変わらずの憎まれ口と共に、エルロイドは足早に去っていった。その後を追うシディが、マーシャの方をちらりと見て小さく一礼する。対するマーシャは、一仕事終えた満足げな顔で、彼の一礼に対して応えるのであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「お姉さんに、一応お礼をしておこうと思ってさ」

 

 その日の夜遅く、シディがマーシャを呼び止めてそんなことを言ってきた。

 

「うんうん、ちゃんと『ありがとう』が言えるのはいい子ですよ」

 

 感謝の気持ちを忘れず、即行動に移すシディに笑顔で応じるマーシャだが、当のシディは呆れ顔になる。

 

「お姉さんさあ、オレのことを年齢一桁の悪ガキとかと勘違いしてない?」

「そ、そんなことないですよ」

「本当?」

「ええ、もちろんですよ」

 

 残念ながら、シディの追求は図星である。どうにも、マーシャは彼の一挙一動が、パン屋に両親のおつかいで来る小さな少年たちのそれとかぶってしまうのだ。

 

「まあ、いいけど。それで、何かオレにしてほしいこととかある? 困り事とかあるんだったら、代わりに解決してやるぜ」

 

 けれども、すぐにシディは執事の顔に戻り、マーシャに提案をしてくる。

 

「そうですね……」

 

 なかなか魅力的な誘いに、しばらくマーシャは考え込む。こんな機会は、そうないはずだ。

 

「困り事って程じゃないですけど」

「うんうん」

「一日だけ、私の執事になってくれたら嬉しいな、って思うんですけど」

 

 マーシャの答えに、若き執事は目を丸くした。

 

「はあ?」

「ほら、私ってコールウォーンの田舎出身でしょ。上流階級って何となく憧れで、ちょっとだけその雰囲気が味わえたらなーって思って…………」

 

 シディの凝視という圧力に、たちまちマーシャの言葉は尻すぼみとなった。

 

「ダメかな?」

「お姉さん、ちょっとこっち」

「はい?」

 

 手招きされて顔を近づけたマーシャの額に、再びシディのデコピンが炸裂した。

 

「あ痛ッ!?」

「まったく、執事がいれば上流階級だなんて、成金趣味にも程があるね、お姉さんは。メイドを何人も侍らせて、ご主人様ごっこをしてる物好きと大して変わらないよ」

 

 両腕を腰に当てて、心底情けないと言わんばかりの態度で、シディは年上のマーシャに説教する。

 

「ご、ごめんなさい。ちょっと調子に乗ってました」

 

 こうしていると、どちらが年上かさっぱり分からなくなりそうだ。

 

「そんなことはないけどさ」

 

 一度ため息をついてから、改めてシディは姿勢を正す。

 

「残念ながら、オレは生まれたときから死ぬときまで、ヘンリッジ・サイニング・エルロイド様の執事なんですよ。旦那様本人から解職されない限り、他の人にお仕えするなんてこと、あり得ませんから」

 

 しかし、そう言ってから、彼はにやっと笑う。それこそ、以前マーシャがパン屋に勤めているときによく見た、おつかいに来る子供たちのような顔で。

 

「まあ、仕事に抵触しないなら、ちょっとだけその妄想に付き合ってあげてもいいよ、お姉さん」

 

 どうやら、この旦那様第一のシディにも、わずかな愛嬌くらいはあるようだ。

 

「じゃあお言葉に甘えて、明日は私のことをお嬢様と呼んでね」

「それは却下」

「なんで!?」

 

 と言っても、その愛嬌は確かに「わずか」なのだが。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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05・場所を問わぬ夜釣り と うさん臭い職務質問 の 話
05-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 しなる釣り竿から伸びる釣り糸が、煌々と照らす満月の光に照らされてかすかに光ったように見えた。

 

「ふむ、なかなか大物だな」

 

 釣り竿の先でぴちぴちと暴れるニシンのような魚らしき存在を見て、エルロイドが興味深げな顔をする。

 

「そうですか」

 

 次いで、彼は相槌を打ったマーシャにその魚もどきを突きつけた。

 

「料理できそうかね?」

「帰ったらパイにしましょうか?」

「いや、やめておこう」

 

 食べる気はさらさらなかったらしく、さっさと彼はブリキのバケツの中にそれを入れると、上から本で蓋をする。一見すると海岸か湖畔で夜釣りと洒落込んでいるように見えるが、ここは首都ロンディーグの一角、それも中産階級の住宅街だ。深夜の周囲に、魚を釣れるような場所はどこにもない。

 

 それもそのはず。今釣り上げた魚とおぼしき生物は、霧の中を泳ぐ妖精の一種なのだ。今晩エルロイドはマーシャを連れ、魚釣りという名の妖精調査の真っ最中である。先程彼が懐中時計で確認したところ、あと一時間ほどで日付が変わる。

 

「本当に教授は多芸ですね。楽器の演奏に、乗馬に剣術におまけに釣りまで。何でもできるんじゃないですか?」

 

 釣り竿を深い霧の中に垂らすのは、エルロイドだけだ。隣のマーシャは、ただ付いていくだけである。かれこれ一時間半ほどが経ち、そろそろひまになってきたマーシャはエルロイドに話を振り始めた。実際、この変人教授が異常なまでに多才なのは事実だ。およそ大抵のことは人並み以上にこなす。特に弦楽器の演奏に至っては、明らかにプロの腕前だ。

 

「まさか。私にも苦手なものの一つや二つくらいはある」

 

 だが、エルロイドはマーシャの誉め言葉に眉一つ動かさない。自分が多芸であるというのは、恐らく彼にとって自明の理なのだ。

 

「なんですか?」

 

 哀れなものを見る目で、エルロイドはマーシャを見つめる。

 

「なぜ私が君に自分の苦手なものについて説明する必要があるのかね? 理解に苦しむ」

「だって、その方が親しみがわくじゃないですか。完璧すぎる人って、端から見ると冷たくて人間って感じがしませんから」

「その方が私にとっては好ましいな。怜悧且つ超然とした非人間的実在。実に素晴らしいではないか」

 

 ややうっとりとした口調で、エルロイドはそう言う。彼の脳裏には、完璧で究極の自分が思い描かれているのだろうか。

 

「教授は親しみやすいお人柄になりたいって思われないんですか?」

「私は、自分の研究を成し遂げることにのみ興味がある。そして人生は短く、すべての物事を完成させるには時間があまりにも足りない。魂を神の御手に委ねる日に、やり残したことがあるとみっともなく騒ぎたくはない。いいかね。取捨選択が必要なのだよ」

「よく分かりませんが……」

「君も、私と同じくらいの年齢になったら自然と分かるだろう」

 

 マーシャは首を傾げるが、それ以上エルロイドは追求しなかった。

 

「そら、また釣れたぞ」

 

 彼の釣り竿が振り上げられ、再び魚の姿をした妖精の一種が釣り上げられた。やや体のあちこちがゼリーのように透明であるほかは、さほど生物離れしていない造型だ。

 

「お見事です、教授」

「君の目があってのことだ。凡人には、今夜はただの霧の夜としか感じられないからな。まるで、灯台の光か探照灯を頼りに夜釣りをしているような気分だ」

 

 彼の言葉に、マーシャは自分の左目が霧を貫く強力な光を発している様子を想像してしまい、つい口元がほころんでしまう。

 

「なぜここに、こんなに妖精たちが集まっているんでしょうか?」

「やはり、理由は君の目だろうな」

 

 実際、こうやって見えないはずの妖精を目にし、触れられないはずの妖精を釣り竿で釣っているのは、マーシャが側にいるおかげだ。彼女の存在は、妖精という不確実な存在を現世に繋ぎ止める、鎖か枷のようなものなのかもしれない。

 

「一応、二枚目の瞼を開いているつもりはないんですが」

「無意識に呼び寄せているのだとしたら、少々看過はできないな。以前のように、危険な種類までやって来るのは始末に負えない」

 

 マーシャは意識して、妖精女王の目を使ってはいない。恐らく二枚目の瞼を開いてその目を露出させれば、霧の中を回遊する無数の魚影をすべて見通すだけでなく、それらをこちらに呼び寄せることさえも可能だろう。

 

「何らかの方法で、君の左目を封じられればよいのだがな」

 

 エルロイドはそう言い、苛立たしげな仕草を見せた。彼にとって、マーシャの左目は未知の具現である。どういう原理で妖精を支配しているのかも分からなければ、その原理を安定して制御する方法も分からない。未知を駆逐するのを生き甲斐とする研究者にとっては、何とも歯がゆいのだろう。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 それからしばらく沈黙が続いたが、先に口を開いたのはエルロイドだった。

 

「――私の苦手なものは、だ」

 

 唐突な話題の蒸し返しに、マーシャは驚く。

 

「いきなりどうしたんですか、教授?」

「いいから黙って聞きたまえ。私としても、君に鉄面皮な冷血漢と思われたままなのは癪に障るのだ」

「はあ」

 

 マーシャは何もそこまでエルロイドを悪人扱いしたつもりはないのだが、どうやら彼の方は一方的にそう思い込んでいたらしい。マーシャの生返事に、エルロイドは眉をつり上げた。

 

「聞きたくないのかね。君の方から話題を振っておいて聞く耳を持たないとは、まったくこれだから――――」

「わあ! すごく楽しみ! ぜひぜひお聞かせ下さい!」

 

 エルロイドの説教が長くなりそうなので、慌ててマーシャはわざとらしく目を輝かせ、ついでに拍手までする。その態度の豹変にエルロイドは当然のように嫌な顔をしたが、やがて目を逸らし、呟くようにしてこう言った。

 

「私は酒が苦手だ」

「すぐ酔ってしまうんですか?」

 

 彼は怒ったネコのようにして激しくかぶりを振る。

 

「正確には、酒を飲んで酔うのが、自分であろうと他人であろうと嫌いなのだ。なぜ酒飲みは、あんなものをありがたがってがぶ飲みするのだ? 滋養があるわけでもない、正常な判断力が鈍る、記憶が失われる、等々害悪以外の何ものでもない。理性が低下して獣性が露わになるのを、おぞましくも酔うと言い換えている。時間の無駄でしかない飲料だ」

 

 今夜も、エルロイドの痛罵は冴え渡っている。まるで酒に親兄弟を殺されたかのような物言いだ。苦手を通り越して、明らかに嫌悪している。

 

「教授……」

「何だね?」

 

 マーシャは彼の方に一歩近づくと、その顔を覗き込む。

 

「もしかして、お酒で嫌な思いをされたことがあるんですか?」

「理性的かつ知性的な私はない」

 

 エルロイドは即答した。

 

 けれども、しばらくしてからその言葉には続きが添えられる。

 

「…………私の父は、旅行先で酒に酔って事故死した。酩酊していたわけではないが、しらふならば防げた事故だ」

 

 珍しく、彼の目は街灯と満月の下、ここではない過去を見ていた。いつもまっすぐに前を見、現実とその背後にある神秘を見据えている彼の目は、今夜は追憶の先を見ている。

 

「本当に迷惑な話だ。父は何もかもやり残して、中途半端なまま、責任を取らずに勝手に死んでしまった。私と母を残して、彼は無責任にもこの世を去った。もっと長く生きられたはずなのに、父の時間は死によって無駄に消えたのだ」

 

 かたくなに、エルロイドはマーシャと目を合わせない。その左目が、自分の心さえも見通すと思っているのだろうか。

 

「だから嫌いなのだ。酔うのも、酔って醜態をさらすのも、そして周りに迷惑をかけて、時間を無駄にするのも」

 

 彼の言葉の奥にある感情は、完璧に抑制されている。だからマーシャには分からない。エルロイドが父の無責任さを嫌悪しているのか、それとも肉親の死を悲しんでいるのか、はたまた行き場のない親愛を今も抱えているのか、何も分からない。

 

 そこまで一気呵成の勢いで吐いてから、自嘲気味にエルロイドはため息をつく。

 

「ふん、下らないことを口にした。一介の助手風情に話す内容ではないな」

 

 常ならぬ感情の吐露で、エルロイドは自己嫌悪に陥っているらしい。過ぎた過去の出来事を責めるのは感情的であり、理性を重んじる彼にとってはナンセンスなのだろう。

 

「そんなことないです」

 

 だが、マーシャは明るくそう言う。普段通りの楽天的な言い方に、エルロイドは不満げな顔で彼女を睨む。

 

「ならば聞くが、君はこの話を聞いたからといって、何か得られる益があるのか?」

 

 詰問するかのような勢いの問いかけにも、マーシャは揺るぎもしなかった。彼の問いに、マーシャははっきりとこう答える。

 

「教授がお話しされて心が和らいだのならば、それで充分益ですよ」

 

 文句や愚痴は、時に誰かに聞いてもらえるだけで助かることがある。そんなことを、マーシャは幾度も経験してきた。理知的で四角四面のエルロイドだが、時には誰かにぼやきたいことだってあるのだ。そんな風に一方的に解釈したマーシャは、悠然とほほ笑む。

 

「君に話した程度で私の心がどうにかなるなど、本気で…………」

 

 と、そこまでエルロイドは言いかけた。だが、マーシャが成し遂げた顔でにこにこしているのを見て、それ以上言わずに口を閉じる。

 

「いや、いい」

 

 なにを言っても無駄、とでも思ったのだろうか。それとも、何かほかのことを感じたのか。外面からは、まったく分からない。

 

「そろそろ戻ろうか」

「はい」

 

 エルロイドが釣り糸を自分の方に引き寄せた、ちょうどその時だった。非常にわざとらしい咳払いが、二人の後ろから聞こえる。

 

「あ~、そこの男女、男女。待ちたまえ。ここで何をしてるのかね? してるのかね?」

 

 マーシャとエルロイドは同時に振り向く。そこに立っていたのは、制服を着た大柄な警吏だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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05-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「こんな夜更けに、いったい何をしているのだね? 実に、実に怪しいなあ」

 

 警吏は立派なカイゼルひげの端を指で捻りつつ、こちらへと大股で近づいてきた。おまけに腰から警棒を抜くと、くるくると回してみせる。

 

「いい年をした男性と、うら若き女性が一組。ふむふむ、どうにも事件の匂いがするな。するなあ」

 

 さらに、ぐっと顔を二人に近づける。

 

「そ、そんなことありません!」

「いいや! これはどうにも看過できる事態ではないですぞ。駆け落ち、不倫、道ならぬ恋、はたまた悲恋かあだ花か。本官は絶対に、絶対に見過ごすわけにはいきませぬなあ」

 

 マーシャの抗議を、警吏は平然と聞き流す。何のつもりか、二人の周囲をぐるぐると回っている。まるで散歩中のイヌのような動作だ。

 

「ふん、厄介な相手に目をつけられたな」

「教授、言い過ぎですよ」

 

 小声で呟いたエルロイドとそれを諫めたマーシャだが、あいにくこの警吏は地獄耳だったらしい。

 

「むむむ、そこの紳士。日々首都の治安を守るために奮闘する官憲の働きを嘲るのみならず、本官を厄介者扱いとはなんたる非礼。公務の執行を妨害するつもりかね? つもりかね?」

「さて、どうだろうな」

 

 挑発するかのように、エルロイドは大げさに肩をすくめた。

 

「それで、君たちの名前は?」

 

 気に食わないと言わんばかりの視線を一度エルロイドに向けてから、警吏は手帖と鉛筆を取り出して書く用意をする。どうやら、すっかりこちらを不審者扱いしているようだ。

 

「はい、私は…………」

「エギルネフ・グニークス・ディオーレ。トロフナード大学の教授を務めている。そしてこっちの女性はアフサン・エタレシナード。私の助手だ」

 

 本名を言おうとしたマーシャを制し、すらすらとエルロイドは二人の偽名と偽の勤め先を口にする。その名にマーシャは聞き覚えがある。以前彼が遊びでした、本名の逆読みをベースにアレンジを加えたものだ。

 

「ふむふむ、聞き覚えのない大学だな。ふむふむ」

 

 スペルを聞きもせずに、警吏はその名を手帖に書き留めた。

 

「おいおい、君。いやしくも女王陛下の臣民に仕える警吏ともあろう者が、私の務める高名なトロフナード大学を知らないのかね? んん?」

 

 不審がる警吏に、露骨な侮蔑の視線をエルロイドは向ける。

 

「なっ、なっ、なにを言うのかね、言うのかね?」

「そもそも君は、本当に警吏なのかね」

「し、失礼な! 本官が警吏ではないと言いがかりをつけるつもりかね! 今すぐ留置場に入りたいようだな! だな!」

「おいおい、何をむきになっている。やましいことがないのならば、悠然かつ泰然と構えていたまえよ。この私を見習うといい」

 

 顔を真っ赤にしていきり立つ警吏と、冷ややかでどうにも芝居がかった態度のエルロイドは実に対照的だ。

 

「そっ、それで、君たちはこんな夜更けに何をしているのかね。さっさと本官に自白するんだ。それで罪は軽くなるぞ、たぶん、たぶん」

 

 つくづく、この警吏の口ぶりは奇妙だ。はっきり言って怪しいが、エルロイドはきちんと彼に付き合っている。

 

「夜釣りだよ。釣り竿にバケツ。この格好を見て、釣り以外の何をしていると君は言うのかね? 狩猟かね? 庭いじりかね?」

「それで、釣れたのかね?」

「見てみるかね? もっとも、霧の中を泳ぐ不思議な魚の姿をした妖精の一種だ。くれぐれも、逃がさないように」

 

 冗談のようなことを、エルロイドは真顔で言う。

 

「速く、速くよこすんだ。ほら、ほら」

 

 エルロイドが突き出したバケツを、警吏はひったくって中を見る。

 

「おお……これは…………」

 

 何やら嬉しそうな声と共に、彼の口元がにやりと歪む。

 

「うまそうだ…………」

 

 その言葉に、さすがのマーシャも違和感を覚えた。妖精の種であるこの魚をきちんと視認した上に、うまそうと言うこの人は何だ?

 

「……マーシャ」

「どうしました?」

 

 不気味なものを見る目のマーシャに、隣のエルロイドがそっと囁く。

 

「こいつの後ろを見たまえ」

「え?」

「気づかれないように、さりげなく、だぞ」

 

 そう言われて、マーシャは抜き足差し足で警吏の後ろに回り込む。幸い、警吏はにやつきながら魚を眺めていて、こちらにはまったく関心を示していない。

 

「……ええっ?」

 

 一瞬、それを見たマーシャはびっくりして大声を上げそうになり、慌てて口元を押さえた。何しろ、警吏の制服のズボンからは、獣の尾が伸びているのだ。

 

「キツネ?」

「恐らくカワウソだよ。まったく、君の目はつくづく面白い連中を引き寄せてくれるな。表面上は取り繕っているが、あいにくと頭隠して尻隠さずという奴だな」

 

 エルロイドは、おかしそうにくつくつと笑う。

 

「ど、どうして教授は、この人が……カワウソ? だと分かったんです?」

「ちらちらとそれらしきものが見えていたからな。霧の中を泳ぐ魚がいるのだ。官憲に化けるカワウソがいてもおかしくはあるまい。まったく、妖精女王の目を持つ君が、あっさりと騙されてどうする。人間として情けなくないのかね」

 

 マーシャと違って、エルロイドは即この警吏が妖精の類であることを見破ったらしい。

 

「すみません……」

「まあ、君の場合はその目があるからな。小細工を見破ろうと気を張る必要などないのか」

 

 彼の言う通り、マーシャの左目は妖精の偽装をすべて打ち破る力を持っている。多少騙されやすくても、なお余りある異能の効力だ。

 

「そろそろいいかね?」

 

 エルロイドが声をかけると、妖精の一種とおぼしき警吏は、ようやく真面目ぶった顔に戻る。

 

「ふ、ふむ。どうやら、暗闇に乗じていかがわしい行為に及ぼうとしていたのではないようだな。関心、関心」

「なっ……そ、そんなことあるわけないじゃないですか!」

 

 とんでもないことを言われ、マーシャの顔が赤くなる。

 

「ならば、それを無罪放免ということで返してもらおうか。研究用のサンプルとして取っておきたいのでね」

 

 バケツに向かって伸ばされたエルロイドの手を、乱暴に警吏は払いのける。

 

「いいや、これは没収である。没収!」

「ほう、その理由は?」

「え~と、その、う~ん……そう、強固復権であるからである! 強固復権!」

「……それを言うなら、証拠物件ではないのかね?」

「そう! そうそうそ~う! 証拠物件として本官が預かるのである! 異論はないな? ないな?」

 

 居丈高にまくし立てる警吏に、なぜかエルロイドは折れた様子でうなずく。

 

「まあ、仕方がないな」

「うむ、ならばよし! よし! 行っていいぞ、ほら! 行っていい!」

 

 さっさといなくなれと言わんばかりに邪険にする警吏に、さらにエルロイドは食い下がった。

 

「ところで……」

「ん? まだ何かあるのかね?」

「ネストラーム警視はお元気かね? 首都の警吏ならば、彼の直属ではないのかな?」

「ネ、ネスト……ラー……ム?」

 

 突然の人名に、警視は目をしばたたかせている。反応に窮しているのは間違いない。

 

「そう、私は彼とはずいぶん懇意にしていてね。このところ会っていないので、少々心配なのだよ。で、どうだね?」

「も、もちろん元気である! 日々健康そのものだそうだ! 元気で健康!」

「それはよかった。寝覚めはいいと?」

「もちろん!」「毎日愛妻の食事を平らげていると?」

「当然だ!」

「撞球の腕も最近上がったのではないかね?」

「その通り!」

 

 エルロイドの言葉に一つ一つ大げさに同意する警吏を、突然彼は睨みつける。

 

「君」

 

 その言葉の冷たさに、それまで威張っていた警吏がびくりと震えた。

 

「そもそも、ネストラームなる人物など、存在しないのだが?」

「は、はいぃ!?」

「全部、私の空想の産物だ。さて、架空の人物と知り合いと豪語する君は、いったい誰なのかな?」

 

 あまりにも単純な引っかけにまんまとはまった警吏は、目を白黒させたまま冷や汗を垂らしている。自分が偽りの警吏だとばれてしまったのが、よく分かるのだろう。

 

「もういい。マーシャ、その左目で見たまえ」

「はい」

 

 そう命じられ、マーシャは一歩前に進み出る。自分の内にある二枚目の瞼を開く感覚。それと共に、彼女の左目が緑色に輝く。

 

「そ、そ、その目は! その目はぁ!」

 

 警吏が、まるで暴風をまともに浴びたかのようにのけぞり、次いで悲鳴を上げた。それは明らかに人間の声帯が出す音ではなく、獣の金切り声だった。持っていたバケツが地面に落ちる。一瞬で警吏の姿は引き裂かれるようにして消え、そこにいたのは小さなカワウソだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「いじめすぎですよ、教授。初めから私が左目で見ればよかったんじゃないですか?」

 

 後ろを振り返ることなく、一目散に霧の中へ逃げ去っていくカワウソから目を逸らし、マーシャはエルロイドをたしなめる。

 

「何を言う。人外と会話できる機会など、そうあるものではない。時間を費やす価値はあった」

 

 マーシャの言葉に対し、エルロイドは悪びれる様子は一切ない。これもまた、彼にとっては妖精研究の一環らしい。

 

「それに……」

 

 地面に落ちたバケツを、エルロイドは拾い上げる。何匹か逃げてしまったが、残っている魚もいるようだ。

 

「人間をなめてかかった妖精が、吠え面をかいて醜態をさらすのを見るのはなかなか痛快だっただろう?」

 

 そう言って冷ややかに笑うエルロイドに、マーシャはため息をついた。

 

「教授って…………」

「知性的だ、と言いたいのだろう。分かるとも。君の言いたいことは、きちんと分かる」

 

 勝手にマーシャの言葉の続きを断定してうなずいているエルロイドに、彼女ははっきりとこう告げた。

 

「結構性格がねじけていらっしゃるんですね」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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05-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「教授、そろそろ機嫌を直して下さいよ」

 

 次の日の午後、大学の研究室にこもっていたエルロイドを、マーシャは気分転換の散歩に連れ出していた。川沿いの道を、二人はやや早足で歩いている。

 

「マーシャ!」

 

 しかし、当のエルロイドの機嫌は、現在最悪の状況だ。

 

「この私が! 機嫌を悪くしていると! 君は言いたいのかね!?」

「違うんですか?」

 

 だが、彼は自分が不機嫌だと認めたくはないらしい。マーシャの問いに、エルロイドはそっぽを向いて虚勢を張る。

 

「ふん、私はちっとも不機嫌ではない。今日も頭脳は明晰であり、判断は明瞭だ」

「……懐中時計がすられたのは見抜けませんでしたけど」

「なッ……!」

 

 その一言に、彼の顔色が青くなったり赤くなったりと忙しい。

 

「ま、まだすられたと決まったわけではなかろう! 昨日私がどこかで落とした可能性もある!」

 

 彼が不機嫌な理由は一つ。昨晩帰宅して気づいたのだが、お気に入りの懐中時計をいつの間にかなくしていたらしい。

 

「教授がお調べになった資料によると、東洋の方ではカワウソは時々妖術で人をたぶらかすとされているんでしょう? やっぱり昨日の……」

 

 マーシャの想像は、エルロイドも考えていたらしい。だがそうなると、彼はあの警吏の姿をした妖精に弄ばれていたことになる。魚の妖精を失うことは避けられたが、まんまと気づかぬうちに懐中時計を奪われたのだ。

 

「ああもう、その話はなしだなしだなし! 以後口にしないように、いいな?」

「はい……分かりました」

「よろしい。及第点だ」

 

 赤っ恥をそれ以上直視したくないらしく、エルロイドは強引に話を打ち切る。それにきちんと応じたマーシャだったが……。

 

「あら、カワウソ」

「なにぃ!?」

 

 奇声を上げるエルロイドを無視し、マーシャは少し離れた公園のベンチを見る。そこには、一人の青年が隣に小さな檻を置いて座っている。中にいるのは、確かにカワウソだ。

 

 マーシャとエルロイドの視線に気づいたらしく、青年がこちらを見る。

 

「こんにちは」

「ええ、こんにちは、お二人とも」

 

 目が合ってしまったので、今さらそ知らぬ顔もできず、マーシャは彼に近づいた。

 

「そのカワウソ、もしかしてあなたのペットなんですか?」

「いや、野生の個体だよ。人には慣れていない」

 

 青年は視線を下げ、檻の中で大人しくしているカワウソを見る。季節はずれの厚着をしている青年だ。コートだけでなく、手には手袋、首にはマフラーをしっかりと巻いている。強いくせのある茶色の髪と、色素の薄い青い瞳が印象的な容貌をしている。特にその瞳は、青白いと言ってもいい。まるで、北方の凍てつく空か、海に浮かぶ流氷の色だ。

 

「僕は野生動物を保護する団体に属していてね。こいつは先日この近くの川で保護したんだ。どういうわけか、こんなところにまでやって来て、先祖の記憶でも辿ったんだろうかね?」

 

 穏やかな口調でそう言う青年の言葉に、ついついマーシャは惹きつけられる。

 

「どういうことです?」

 

 何とも不思議な雰囲気の青年だ。ここにいるのに、いないかのようだ。

 

「昔は首都を貫流するこの川も、カワウソや他の野生動物が暮らすきれいな河川だったんだよ。今は見る影もない……と言うほどではないけど、少なくともカワウソには住みにくい場所だね。僕は悲しく思うよ」

 

 青年の視線が、流れる川を見る。どぶ川ではないものの、生活排水や工場廃水が流れ込み、確かに野生動物が健康に住めるとは思いにくい水質だ。

 

「だが、人間の文明が進歩すれば、自然を開発して都市へと作り替えていくのは理の当然だ。そうでなければ、今も人類は洞窟で生活し、生肉に齧り付いていることだろう」

 

 横から、エルロイドが青年との会話に加わった。

 

「ええ。僕もすべてを自然に還せば、それで問題が解決するとは思っていませんよ。万物には調和、釣り合いが必要なのです」

 

 青年は、あの不思議な色の目でエルロイドの方を見る。

 

「善には悪が、光には闇が、生には死が、天には地が、そして現実には幻想が。ありとあらゆるものには、対立する二項があり、故にこそ調和が保たれる。僕たち人間は、それをきちんと管理することによって、ひいては自分たちの立ち位置を見つけられると思うのです」

 

 青年の持論に、エルロイドは難しそうな顔をする。

 

「東洋の陰陽の思想に近いな。ともすればそれは、二つの勢力の間を取り持つことに終始し、正常な進歩と発展を送らせることになりかねないと私は思うが」

「ですが、前へ前へと進むことだけが正しいと信じる姿勢は、同時に後ろを振り返ったり立ち止まることを恐れているようにも見えますね」

 

 双方が持論を主張しているが、幸いけんか腰ではない。

 

「ふん、自分の論説を擁護する姿勢は大事だ。私の生徒も見習ってもらいたいよ」

「こちらこそ、若輩者が知ったようなことを言いました」

 

 そう言って、青年は立ち上がる。

 

「そろそろ行かないと。では」

 

 ベンチから立ち上がって檻を手に持った青年だが、少し歩いてからくるりと振り返った。

 

「そうそう、今日会ったのも何かの縁だね。これを君にあげよう」

 

 青年は分厚いコートのポケットに手を入れると、何かを持ってマーシャに差し出す。

 

「これは…………?」

 

 反射的に手を出してそれを受け取ったマーシャの目が、驚きで大きく見開かれた。

 

「わ、私の懐中時計!? な、な、なぜ君がこれを持っているんだね!?」

 

 マーシャの両手の上に乗っているのは、昨日なくしたはずのエルロイドの懐中時計だったのだ。大あわてでエルロイドはマーシャの手からそれを取ると、蓋を開けて文字盤を見る。多少あちこちが泥で汚れているが、きちんと時計は時間を刻んでいる。

 

「おや、あなたのでしたか。それはよかったですね」

 

 青年は驚く様子もなく、そう言い放つ。

 

「私と君は初対面だろう!? どうしてこんなことが?」

 

 もちろん、昨日の夜気づかれずに青年が彼から盗んだ可能性もある。だが、手に持った檻の中にいるカワウソが、そんな現実的な理由付けを拒んでいる。あまりにもできすぎた話だ。しかし、青年は質問に答えることはせず、そのままきびすを返して立ち去っていく。

 

「ま、待ちたまえ!」

 

 なおも追いすがろうとするエルロイドに、青年は振り返る。

 

「昔から、こういう不思議が起きたときに、人々は言っていたんじゃないですか?」

 

 そして、彼は言う。

 

「――――妖精の仕業って」

 

 ――――これが、妖精を目で見る女性、マーシャ・ダニスレートと、妖精の血を引く男性、ダヴィグ・オリエンとの出会いだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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06・期待すべき玉の輿 と 激辛カレー の 話
06-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「はあ……」

 

 エルロイド邸の一階にある台所で、一人の侍女が大きくため息をついた。赤色に近い茶色の髪をアップにした、まだ成人していない若い女性だ。大きな目と髪の色が相まって、どことなくいたずら好きなリスに見える顔立ちをしている。

 

「もっと辛いものが食べたい……」

 

 侍女はそう言うと、スープ皿にスプーンを入れてかき回す。

 

「キュイは辛党だからね」

 

 テーブルの向かい側に座り、紅茶の入ったカップに口をつけているのはマーシャだ。今は侍女や使用人たちの昼食の時間だ。

 

「なんでこの国のご飯は味付けがおおざっぱなんでしょうねー。物足りないですー」

 

 キュイと呼ばれた侍女は、我が意を得たりとばかりに大きくうなずく。

 

 彼女の名前はキュイ・ペリテーニュ。マーシャよりも年下だが、エルロイド邸の侍女としては彼女の方が先輩だ。しかし、経験の多さを鼻にかけて先輩風を吹かせることもなく、むしろマーシャのよき同僚にして友人でもある。

 

「でも、あなたの好きなカレーは、母国の料理じゃないでしょ?」

「そうそう、そうなんです!」

 

 何気ないマーシャの一言に、キュイはテーブルから身を乗り出して同意する。彼女はこの国の出身ではなく、隣国からの移民である。まるでアルバイト感覚であちこちの職を転々とし、とうとうこの変わり者の教授が住まう屋敷の侍女になったらしい。お気楽で流行に目ざとい性格からは想像も付かないが、それなりに苦労を重ねてきたのだろう。

 

「こっちに来てから食べたんですけど、最高ですよね、カレー! もう、神様のお作りになられた傑作ですよ! もしくはスパイスの奏でるハーモニー! 芸術! 楽園! パラダイス!」

 

 キュイが宗教的とも言える情熱を傾けて語るのは、帝国の料理でもなければ隣国の料理でもない。香辛料をふんだんに使った異国の料理、つまりカレーである。

 

「わ、私はそこまで入れあげてないけど……」

 

 あいにくとマーシャは、彼女のようなカレーの信奉者ではない。帝国でも、まだカレーは珍しい料理に入る。ここロンディーグだからこそ、庶民にも手の届く形で食べられるような代物と言ってもいい。キュイのような一介の侍女でも、給金を惜しげもなくつぎ込んで熱中する対象となりうる料理だ。

 

「はあ……」

 

 けれども、そんな風に目を輝かせたのもつかの間。再びキュイはため息をつく。

 

「辛いことがあったらお酒! じゃないけど、辛いことは辛いもので忘れたいです……」

 

 肩を落としてうつむくキュイが見ていられなくて、マーシャは極力優しい声で尋ねる。

 

「また振られたの?」

「お前は友だちみたいな感覚で、恋人には見られないって……」

 

 吐くようにそう言うと、キュイはテーブルに突っ伏す。さりげなくマーシャが真下のスープ皿を退けていなければ、それで洗顔していたような勢いだ。見ての通り、絶賛キュイは失恋中である。さらに悲しいことに、マーシャはこの状態の彼女を何度も目撃している。正確に数えていないが、少なく見積もっても両手の指全部の数よりは見ているだろう。

 

「ああもう、マーシャさん! 今の私は色気より食い気です! いつかまたカレー店に付き合って下さい!」

 

 ややあってキュイは跳ね起きると、マーシャを自分のストレス解消に引き込む。

 

「い、いいけど……」

 

 キュイはマーシャの友人である。友人の頼みとあっては断れない。だが同時に、マーシャは少しだけはた迷惑にも思っているのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャさんマーシャさんマーシャさぁぁん!」

 

 キュイとやけ食いの約束をしてから数日後の夜。エルロイドと共に大学から帰宅したマーシャに、キュイがぶつからんばかりの勢いで駆け寄ってきた。

 

「キュイ? どうしたの?」

「いたんですよ! いたんです! ついに、ついに見つけ出しました。見つかったんです!」

「何がいたんだよ。ゴキブリか? 旦那様がお帰りになった早々騒々しいぞ」

 

 両手を振り回して力説する彼女を、エルロイドにかしずく少年執事のシディが白眼視する。

 

「シディ、構うな。行くぞ。マーシャ、そこでキュイに付き合ってやれ」

 

 しかし、当の旦那様であるエルロイドは、取り立てて不快そうな顔もせず、彼女の奇行を無視する。

 

「いいんですか?」

「本人にとっては重大な問題なのだろう。好きにしたまえ。私は一切関知しないが」

「かしこまりました」

 

 仕える主人の言葉とあっては、シディも態度を軟化させざるを得ないようだ。

 

「旦那様のご親切に感謝しろよ、キュイ」

 

 脇を通り過ぎるキュイに、すかさず釘を刺すのは忘れてはいないが。

 

「は、はい、どうもすみませ……じゃなくてありがとうございます、旦那様!」

「ふん、時間を無駄にしたくないだけだ」

 

 実際、エルロイドは寛大な心からキュイの不作法に目をつぶったわけではなく、本当に関心がないらしい。一瞥もせずに二階へと昇っていくエルロイドの背にぺこぺことお辞儀をしつつ、キュイはマーシャに飛びつく。

 

「マーシャさん! 今度のお休みの日、是非一緒に来て下さい」

「……カレー店に?」

「そうです! そこで出会っちゃったんです。私の王子様に」

 

 王子様、というロマンチックな言い方に、思わずマーシャの唇から笑みがもれる。

 

「素敵な表現ね」

 

 だが、キュイは首を左右に振った。

 

「いいえ、マジです」

「……マジで?」

「ええ、マジで」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ロンディーグにあるカレー専門のレストラン。レイアウトをことごとく異国風に整えたそこは、もはや空気さえもこの国とは異なっていた。強い香辛料の香りに混じって、甘ったるい不思議な香りが漂っている。香辛料の源は、あちこちのテーブルで食される様々な種類のカレー。一方甘い香りの源は、大きなソファに腰掛けた人物がくゆらす水パイプだ。

 

「よく来たな。マーシャ・ダニスレートとやら。余はヴィーダルシャ・アーナーンディヤナ。光耀王国に属する諸王、その八番目の子である」

 

 その人物はヘビをかたどったパイプの先から口を離し、煙を吐きつつそう言う。濃い褐色の肌に黒い髪、さらに長身痩躯の驚くほど美しい顔立ちの青年だ。爬虫類を思わせる吊り上がりすぎた目を除けば、だが。

 

「……どういうこと?」

 

 あまりにも唐突な展開に、あ然としつつマーシャは隣に立つキュイに尋ねる。

 

「これが事実なんですよ。ええ。この前ここで知り合った、私のお付き合いしているお方です」

 

 そう言うとキュイは得意満面といった顔で胸を張る。

 

「何を立ったまま喋っている。座ってよいぞ」

「はい、喜んで」

「あ、どうもありがとうございます」

 

 キュイはうきうきとした調子で、マーシャはなおも驚きが隠せないまま、ヴィーダルシャと名乗った青年の向かいに腰を下ろした。ここはレストランの一番奥にある特等席らしい。他は普通の椅子とテーブルだが、ここだけは立派なソファが置かれ、床には絨毯が敷かれている。そこに腰掛けたヴィーダルシャは、異国から輸入された美術品のようだ。

 

「ふむ、面白い目をしているな」

 

 座るや否や、ヴィーダルシャが身を乗り出してマーシャの顔を覗き込んだ。オッドアイに気づかれたことが分かり、マーシャは反射的に顔をうつむける。

 

「隠さずともよい。美しい色だ。故郷の母君の身を飾っていた、エメラルドの首飾りを思い出す」

 

 彼はマーシャの拒絶に気分を悪くする様子もなく、懐かしそうに言う。

 

「ヴィーダルシャ様……」

 

 一方で、早速マーシャに関心を向けるその態度が、キュイは不愉快だったらしい。

 

「ははは、妬いたか。その顔が見てみたかった。愉快だぞ」

 

 彼女のふくれっ面を、ヴィーダルシャは鷹揚にいなす。

 

「給仕、来るがよい」

 

 彼がそう告げると、可哀想なくらい萎縮しているボーイが、メニュー表を片手にやって来た。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「故郷の料理はお口に合いますか」

 

 無難と思える料理をいくつか頼み、マーシャたちの前にそれらが並び、ようやく食事と相成った頃。マーシャの心の中でもそろそろ、最初の驚きが冷めてきた。まさかキュイが異国の王子様とお付き合いをするとは思わなかったが、これはこれで面白い。せっかくだから、異文化と交流しようという意気込みが出てきた。

 

「これは余の国の馳走ではない」

 

 あっさりとヴィーダルシャは首を左右に振る。

 

「そうなんですか?」

「余の国の料理を、この国の風土にあった形で作り替えたものだな」

 

 彼の故国である光耀王国は、諸王によって統治される東方の大国だ。帝国とも国交があり、文化や輸入品と共に料理も入ってきたらしい。かなりアレンジされて、ではあるようだが。

 

「でも辛くておいしいですよね」

「そのとおり。キュイ、お前を気に入ったのはほかでもない、その辛党なところだ」

 

 真顔でヴィーダルシャは妙なことを言う。

 

「大抵の人間が完食を断念するこの激辛、お前はこともなげに平らげる。いや、むしろこれぞ美味といわんばかりの表情で。実際そうだろう?」

「はい、とってもおいしいです」

 

 強引な展開だが、彫刻像のように整った面持ちの彼が言うと、それだけで殺し文句となるのだから恐ろしい。まさか、キュイの辛党なところがこんなところで活かされるとは思いもよらなかった。マーシャは運命の不可思議さに、改めて驚嘆する。

 

「余も辛いものには目がなくてな。どうだ、余とこの者とは、気が合うように見えるであろう?」

「ええ、恐らく……たぶん……きっと。総合的に判断すれば」

 

 異国の王子と移民のメイド。エルロイドと自分を思わせる凸凹な組み合わせに、マーシャは無責任に同意できなかった。

 

「歯切れが悪いな。キュイ、お前はどうだ」

「仰せのままにぃ…………」

 

 一方、キュイは彼の問いかけにうっとりとうなずいている。完全に夢中になっているようだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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06-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「ヴィーダルシャ様は……」

 

 食後に砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲みつつ、マーシャはヴィーダルシャに話しかける。

 

「さん、でよい。故国を離れた今は、一人の男性としての客分だ」

 

 異国の王子はそう言うと、典雅に水パイプに口をつける。

 

「ヴィーダルシャさんは、どうしてこちらの国に来られたんですか? 留学でしょうか?」

「この国は面白いが、さりとて倣うべきものではない」

 

 甘ったるい煙を吐きつつ、彼は答える。タバコではなく、様々な種類の香料を焚いた香に近いもののようだ。

 

「余の国には余の国のやり方がある。率先して倣わずとも、時代が自ずと余を導く」

 

 過剰に吊り上がった目が、マーシャのそれと合う。暗く硬く、さらに重たく深い、渦巻くような視線だ。

 

「そして、時の流れと共に世相がどんなに変わろうとも、余と余の国は絶えぬ。死した後、再び生まれる。生まれた後、再び死ぬ。生と死は相反するものではない。同じ輪の中にあるのだ」

 

 不可思議なことをヴィーダルシャは言う。この場にエルロイドがいれば、東洋の輪廻の思想だと分類しただろう。

 

「よく分からないけど格好いいです……」

 

 座る場所をヴィーダルシャの隣に移したキュイが、恋する乙女の視線で彼を見上げる。彼の発言など寸毫も理解せず、ただ彼の声と仕草に酔っているようだ。

 

「それよりも、余には果たさねばならない務めがあってな」

「それは?」

「嫁取りだ」

 

 ヴィーダルシャが真顔で言い放ち、思わずマーシャは飲んでいたコーヒーでむせるところだった。

 

「我が王家には、そろそろ新たな血を入れる必要がある。血と財を守るために近き者同士で婚姻する時代は過ぎた」

「そのために、海を越えて帝国まで?」

「まあ、物見遊山を兼ねているのは事実だがな。ふふ、これはここだけの秘密だぞ」

 

 ヴィーダルシャがおかしそうに言う横で、不意にキュイが深刻そうな顔をする。

 

「あの……」

「どうした?」

「……私、実は移民ですから、帝国人じゃないんですけど……ダメでしょうか?」

 

 仮にヴィーダルシャが帝国人から嫁取りを考えているなら、移民であるキュイは除外されてしまうだろう。出自を偽らず正直に告白したキュイだが、幸いにも彼の態度は変わらなかった。

 

「気にするな。それくらいでは余と舌の合う人間を手放したくはない」

「ヴィーダルシャ様……感激です」

 

 彼氏の懐の深さに改めて感動しているキュイを、彼は慈愛のこもった視線で見つめる。

 

「そして正直だな。正直者は、余は好きだぞ」

 

 だが、その目が動くと意味ありげにマーシャの方に向けられる。

 

「何しろ、嘘は必ず見抜かれる。そうだな、マーシャ?」

 

 意味深なその台詞に、マーシャは曖昧にうなずくしかなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャさんマーシャさんマーシャさぁぁん!」

「はいはい、今度はどうしたの、キュイ」

 

 レストランでの会食から幾日かが過ぎ。再びキュイがマーシャに飛びついてきた。

 

「デートの、デートのお誘いです! ついに私、ヴィーダルシャ様とデートなんですよ!」

 

 片手にヴィーダルシャからの手紙とおぼしきものを持ち、彼女は目を輝かせる

 

「むふふー、これはついに、私も玉の輿ってことになりますか? なりますよね? なっちゃいますよね!?」

 

 すっかりキュイは盛り上がっているが、それも当然だ。異国の王族にと付き合うなど、キュイの人生からすると望外の幸運だろう。

 

「あ、もちろんそうなっても、マーシャさんとは仲良くさせて下さいね。身分の差なんて、関係ありませんから」

 

 殊勝なことを言うキュイに、マーシャの顔がほころぶ。

 

「もちろん、こちらこそよろしくね。それで、また同じお店かしら」

「違います。今回は森林公園でお散歩しようってお誘いが来たんですけど……うわーっ!」

 

 突然キュイは、それまでの幸福そうな表情を一転させ、不安そのものの顔になる。

 

「なんだか急に怖くなってきました」

「どうして?」

「だってその、お食事の時はお喋りするよりも食べる方に集中できますし、だから、その、会話がうまくできなくても大丈夫ですけど……。お散歩ってことだから、気の利いたお話とかできないとダメですけど、私そんなに頭よくないから…………」

 

 確かに、ポジティブだがやや頭の方が残念なキュイに、王族との小粋な会話など逆立ちしても無理だ。

 

「マーシャさん、一緒について行ってもらえますか!?」

「え? い、いいの?」

 

 結局、キュイの考えついた解決策は、マーシャという増援だった。

 

「お願いしますー。私、すごく緊張して絶対ドジなことしそうですから。フォロー! フォローを是非、是非お願いしたいんです!」

 

 そう頼られてしまうと、マーシャとしても了承せざるを得なかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「こういうのもたまにはいいですね~」

「ええ、本当にそうね」

 

 結局、次の休日にマーシャはキュイのお付きで森林公園を訪れていた。ヴィーダルシャも今日は一人ではなく、執事とおぼしき中年の男性を一人連れている。ピクニックや散歩で多くの人が訪れる中、ヴィーダルシャの異国情緒溢れる容貌は多くの人の目を引いていた。

 

「あっ、ウサギです。ほら、ウサギ!」

「本当だ。かわいいわね」

 

 キュイの指差す向こうには、ノウサギとおぼしき茶色のウサギがこちらをうかがっている。

 

「ふむ」

 

 ヴィーダルシャがそちらをじろりと見るや否や、ノウサギは耳をピンと立てて一目散に逃げていった。

 

「あれ……逃げちゃいました。怖かったのかな?」

「まだ余たちが遠くにいたからだな」

「え? 普通逆じゃないですか。遠くにいたら、危なくないから逃げないと思うんですけど……」

 

 つかの間キュイは彼の言葉に疑問を呈するが、すぐにうなずく。

 

「あ、でもヴィーダルシャ様がそうおっしゃるんでしたら、そのとおりですよね、はい!」

 

 キュイは、ヴィーダルシャの言葉ならば全部肯定するつもりらしい。

 

「あまりに近づくならば、ああいった小さく弱々しい獣たちは逃げることさえ出来ず動けなくなるのだ。極東ではそれをこう言う。『ヘビに睨まれたカエル』と」

 

 ヴィーダルシャの「ヘビ」という語を聞いて、キュイが身を竦ませた。彼女は実は、ヘビが大の苦手なのだ。一度生きている大きなヘビと鉢合わせした際に、卒倒したことがあるほどである。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 公園と名付けられているものの、ここは自然保護区であり、奥まで歩くと森林に入り込む。

 

「なんだか変ですよね」

 

 木立の間に伸びる道を歩きつつ、キュイが不思議そうな顔をする。

 

「さっきから、誰もいません。それに、こんな奥にまで来たの、初めてです」

「人払い、という奴だ。多くの人間が騒ぎ立てるのは、余は好かぬ」

「ヴィーダルシャ様?」

 

 キュイの疑問を否定も肯定もしない彼の言葉に、キュイはますます頭に疑問符を浮かべている。だが、ヴィーダルシャは完全に彼女の動揺を無視し、数歩先に歩いてから振り返る。

 

「キュイ、お前には余の秘密を明かしておこう」

 

 突然始まった告白は、彼女の疑問符を打ち消すのに充分な重みがあったらしい。

 

「は、はいっ! 何でもどうぞ!」

「だがそれは、お前が余にとって、秘密を打ち明けられる仲であるからではない。元より、暴かれぬ秘密などないのだ。だが、その時がこのような形で訪れるとは予想外だったがな」

 

 含みを持たせた言葉と共に、ヴィーダルシャの目がマーシャを見る。

 

「そうであろう。エメラルドの目を持つ娘。この国の物言いに乗っ取るならば、妖精女王の目を持つ娘よ」

 

 その言葉と共に、ヴィーダルシャと執事の姿が溶けるようにして消える。同時に、マーシャの左目が緑色に輝いた。彼女の意思を介在しない、反射的な動きだ。一瞬の静寂の後、何かがゆっくりと木々の間から姿を現してくる。硬い鱗がこすれ合う音。太く重たいものが地面を這う音。霧が晴れるようにして、それは二人の前に具現していく。

 

 黄金色に輝く鱗。やや人間に似た胸と肩と腕。しかし、長い首の先にある頭部と、地面に長々と伸びる胴体は、明らかにコブラの形をしていた。

 

「余はヴィーダルシャ・アーナーンディヤナ。余の王国は秘された地下にあり、余の民は皆地を這うヘビの同胞である」

 

 ヒトとヘビのかけ合わさったようなその姿は、光耀王国ではナーガと呼ばれている。

 

「キュイ、お前の友が余の姿を見抜く目を持つ故に、先んじてこの姿を見せることにした。さて、お前には余がどのように見える?」

 

 ヴィーダルシャは堂々と腕を組む。そのすぐ隣には、彼の執事が無言で控えていた。だが、その姿は彼と同じナーガに変じている。

 

「キュイ? キュイ? どうした?」

 

 彼の問いかけに、キュイは無言のまま答えない。

 

 いぶかしげな雰囲気を身にまとったヴィーダルシャが、立ち尽くすキュイに顔を近づける。その口の先端から二叉に分かれた長い舌が伸びると、素早く出し入れされた。だが、頑ななまでにキュイに変化はない。ややあって、ヴィーダルシャの口からため息がもれた。

 

「……いかんな。完全に気を失っている。いささか驚かしすぎたようだな」

 

 彼の言葉通り、キュイは立ったまま気絶していた。大のヘビ嫌いのキュイである。突如巨大なヘビ人間の姿を見せられて、気絶するなと言う方が無理である。彼女のその醜態を見て、急に興味が失せたようにヴィーダルシャはきびすを返した。長い長い胴体が気怠げに動く。どうやら、キュイの玉の輿計画はあっさりと潰えてしまったらしい。

 

「まあよい。縁は巡るもの。一つの縁が途切れたところで、次の縁が余と誰かを結び合わせる。あるいは…………」

 

 そう言うと、彼は長い首を動かしてキュイを再び見る。

 

「再び切れた縁が、どこかでつながるやもしれぬ」

 

 ヴィーダルシャのその言葉に、マーシャはどことなく未練とでも呼ぶべき響きを感じるのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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06-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 マネキンのように棒立ちになったままのキュイを担ぐようにして公園の外にまで連れ出し、どうにかこうにかデートは終了した。ちなみに担いでいたのは、ヴィーダルシャの執事である。取るものもとりあえずマーシャは二人に別れを告げ、彼女をエルロイド邸にまで連れ帰った。その後何とかキュイは意識を取り戻したものの……。

 

「残念だったわね、キュイ」

 

 次の日の朝、食堂でマーシャとキュイは向かい合って食事をしていた。

 

「ナンノコトデショウカ」

 

 マーシャの言葉に、壊れた蓄音機から聞こえてくるような返事が返ってくる。

 

「キュイ?」

「ゼンゼンキオクニゴザイマセン」

 

 片言の上に胡乱な目つきで、キュイは心そこにあらずといった感じで虚空の一点を見据えている。

 

「ヴィーダルシャさんのことよ。あなたも残念かもしれないけど、別に私は黙っていたわけじゃなくて……」

 

 我ながら弁解じみたことを言っている、とマーシャは自己嫌悪にかられる。ヴィーダルシャを一目見たときから、左目がうずくように反応するのは分かっていた。彼が人間ではなく、強力な妖精の類であることに気づいてはいたのだ。

 

 だが、まさかその正体がナーガだとは思わなかった。いきなり相手の正体を妖精女王の目で暴くのも無礼だと思っていたし、なによりも舞い上がっているキュイの乙女心に水を差したくなかった。だが、マーシャの気遣いは結果として、どうにもちぐはぐな結果で終わることになったのだが。

 

「シバラクユメヲミテイタミタイデス。ワルイユメデシタ」

「ショックが大きすぎたみたいね……」

 

 自動人形のような動きでパンを口に運ぶキュイを見て、長々とマーシャはため息をつく。

 

「カレー……」

「え?」

「カレー……しばらく食べたくありません」

 

 不意にキュイの口調が人間のそれに戻ると、彼女はがっくりと肩を落とす。

 

「そうよね……」

「色気も食い気もなくなったら私、どうなるんでしょう……」

 

 平たく言えば、今の彼女は失恋状態だ。両手の指を上回る数ほど繰り返された体験が、また一つ彼女の人生に加えられたということになる。その痛みがどのようなものかは分からないものの、ただ想像だけを巡らせてマーシャは彼女に寄り添う。だが、そんな心の傷を癒そうとする静かな時間を、突如叩き割る存在がやって来た。

 

「マーシャ! マーシャ・ダニスレート!」

 

 音を立てて食堂のドアが開かれるや否や、今回の事件にほとんど関与しなかった人物が足音も荒々しく乗り込んできた。

 

「教授? どうされました?」

 

 言わずと知れたこの屋敷の主人、エルロイドである。その顔は赤く、憤懣やるかたないといった感情を全身で体現している。

 

「わ、わ、私はだね、今日ほど、き、き、君に失望したことはないぞ!」

 

 普段の流暢な口調もどこかに放り投げ、ややどもりつつエルロイドはマーシャに人差し指を突きつける。

 

「教授、何か根本的に誤解されているようですが……」

 

 立ち上がりつつあったマーシャに、さらに追加の言葉が叩きつけられる。

 

「光耀王国出身の妖精、それも巨大なヘビの妖精だと! なんて素晴らしいサンプルなのだ!」

 

 特大の爆弾を発言という形で爆発させたエルロイドに、マーシャは跳び上がらんばかりに驚く。

 

「ちょっ、ちょっと教授! キュイの前で今その話は…………!」

 

 マーシャは人差し指を自分の唇に当てるが、怒髪天を衝くエルロイドは聞く耳を持たない。

 

「なぜ私にすぐ報告しなかったのだ! 君は私の研究の進歩と発展と探求の機会をふいにしてしまったのだぞ。分かるか!? この重大な科学に対する不敬、不埒、不徳な行為が!」

 

 昨日エルロイドは大学に行っていて、帰ってきたのは夜遅くだった。マーシャはとりあえず一部始終をメモにして彼に報告したのだが、今になってそれを読んだらしい。

 

「ヘビナンカイマセン」

 

 案の定、エルロイドの無遠慮極まる発言は、キュイのトラウマを速やかに想起させてしまったらしい。再び彼女の目が曇り、言葉遣いが片言に戻ってしまう。

 

「ああもう! ですから教授、その話は後でうかがいますから今はちょっとだけ遠慮して下さいませんか? そもそも、教授は関知しないっておっしゃったじゃないですか!」

「ヘビは古来より、秩序にして混沌、神聖にして邪悪、両義の体現としてあらゆる文化で畏れ敬われている。ここ帝国にも蛇人の遺跡とされる禁忌の土地があるくらいだ。そこさえも未だ未踏だというのに、まして諸外国から渡来したヘビの妖精など……考えるだけで垂涎の的だ! 君は私の助手でありながら私の研究の邪魔をする気かね!」

「ゼンブユメデス。ワルイユメナンデス」

 

 今やエルロイド邸の食堂は、混乱のるつぼと化していた。大学の講堂よろしく自説をぶちまけるエルロイド。心を閉ざして自動人形となり果てたキュイ。そして両方を取り持とうとして右往左往するマーシャ。今のマーシャにとって、ヘビは少なくとも混沌の象徴であることだけは確かなようだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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07・砂漠の短剣 と 人類の限界 の 話
07-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「う~ん…………」

 

 エルロイド邸の書斎で、マーシャは窓際に立って、右手に持ったものを陽光にかざしていた。

 

「どうかね? どんな風になっている? 早く説明したまえ」

 

 すぐ隣で机に向かうエルロイドが、彼女に催促する。

 

「見えることは見えるんですが…………」

 

 マーシャの言葉に、エルロイドは苛立たしげに万年筆で机を叩く。

 

「曖昧な物言いはやめるんだ。何が、どのような形で、どうなっているのか、正確に分かりやすく簡潔かつ明瞭に述べたまえ」

「教授、そんなに急かさないで下さい。お子様ではないのですから」

 

 さすがに気分を害したのか、マーシャが緑色に光る左目を彼に向ける。彼女が手に持っているのは、古風な中東の短刀だ。鞘も柄も金と宝石で装飾されている。

 

「むむ……すまなかった」

 

 エルロイドをたしなめるマーシャの言葉は、どうやら不発では終わらなかったようだ。意外なほどにあっさりと、エルロイドは前言を撤回する。そうなると、マーシャとしても強く出る理由はない。

 

「残念ですが、妖精がいることは分かりますが、それがどんな形で、どうなっているのかまではよく見えません」

 

 打って変わって優しくなった彼女の言葉に、たちまちエルロイドは持ち前の好奇心を復活させる。

 

「厳重に隠されているのかね?」

「う~ん、うまく表現しにくいんですけど……」

「構わん。妖精を見ることのできる人間の貴重な意見だ」

「はっきり見えないと言うより、はっきり存在していないような感じです」

 

 マーシャはそう言いつつ、首を傾げる。

 

「この目ではっきり見ることができれば、それと同時にはっきりと妖精が存在するように思えるんです。逆に言えば、見えない以上存在しているような、そうでもないような曖昧なままといったところでしょうか。うまく説明できなくてすみません」

 

 彼女の表現は曖昧模糊としたものだったが、対照的にエルロイドははっきりと大きくうなずく。

 

「ふむ、充分にあり得る説明だな。彼らが物体を通り抜け、同時に数ヵ所に遍在し、人の心の中に入り込み、時間を飛び越えたりするのも、一重に存在が曖昧だからということか。そして、彼らがはっきりと君の目に観測されると、同時にその存在は現在のこの場所に縛り付けられ、可視の実体として具現する。なかなか面白い意見だ。興味深いよ」

 

 エルロイドが立ち上がって手を伸ばしたので、マーシャは短刀を彼に渡した。この短刀は彼が買い付けたものだ。持ち主に加護をもたらすという曰く付きの刀剣らしいのだが、その真偽はともかく、刀身に妖精が潜んでいることは事実のようだ。だが、マーシャの妖精女王の目をもってしても、その妖精がどんな種類なのかは分からないままだ。

 

「しかぁし! その程度で私が諦めると思ったら大間違いである!」

 

 突如エルロイドは、テンションを上昇させて叫ぶ。

 

「教授、刃物を振り回すのは危ないですから……」

 

 マーシャの言う通り、実に危険だ。

 

「見えないとなると、ますます見たくなるのが人間の心情だ。そうではないかね?」

「いいえ、全然」

 

 平静な彼女の返答に、エルロイドがつんのめる。

 

「なんという現状に対する諦観かね!? ヒトはその歴史の始まりから、常に様々な難題に直面し、それらに果敢かつ不断に挑戦し続けることによって文明を発達させてきた。帝国が未曾有の発展を遂げたのも、過去の逸材たちによるたゆまない努力と研鑽があってこそである。マーシャ、君は現代文明にあぐらをかいて怠惰に堕するつもりかね!?」

「いえ教授、なにも私はそこまで重大なことを言ったはずではないんですが……」

 

 何やら話が壮大になりつつあるので、マーシャは適度に彼の気分を落ち着ける。どうにもエルロイドの気性は、何かを引き金に気球のように空へといっさんに駆け上がっていくので困る。付いていくマーシャは、うまく調整して気球を軟着陸させるのが役目だ。

 

「見えないということは、見えてはいけないという意味でもあると思うんです。そこに土足で踏み込むのは、いかがなものでしょうか?」

 

 マーシャがそう言うと、途端に憑き物が落ちたようにエルロイドは真顔になる。

 

「タブーか」

「タブー?」

 

 短刀を机に置き、エルロイドは机の周りを歩き始める。こうなると、彼の姿は教養豊かな紳士に変わるのだ。

 

「南洋諸島などにある禁忌の類だ。種々の禁を課すことにより、首長の霊的な力を高める誓いと思ってくれて構わん。我が国にもあるだろう? 英雄たちがその生涯において何度も結んだ誓約の数々が。彼らはそれにより比類なき強さを得、またそれにより非業の死をとげたのだ。物語を彩るスパイスだな」

「あまりよく知りませんが?」

「情けない。君も下らない三文小説に目を輝かせていないで、少しは歴史を学びたまえ」

 

 保守的というか頑迷というか、批判的なエルロイドの物言いにマーシャはむっとする。

 

「私の読んでいるのは三文小説じゃありません。りっぱな通俗小説です! エンターテインメントです!」

 

 エルロイドが批判したのは、彼女が連載を追っている新聞の小説だ。

 

「ただの潜水艦が改装に改装を繰り返し、空を飛ぶどころかついに宇宙にまで進出し、月の裏側にある暗黒帝国と戦うような荒唐無稽極まる小説のどこに高尚さを求めるべきか、私は本気で悩むよ」

 

 呆れ果てた様子で、彼は机に手を置く。その拍子に、机に積み重なっていた書類の山が崩れた。

 

「教授には分かりませんけど、ロンディーグじゃ大人から子供までこの小説の続きを楽しみにしているんですよ。すごいでしょう?」

 

 だが、物語というものは荒唐無稽であっても面白い方がよい。偏屈なエルロイドの狭い了見とは裏腹に、この小説は今や大人気である。マーシャもその熱心な読者の一人だ。

 

「まあいい。娯楽は個人の自由だ」

 

 散らばった書類を元に戻しつつ、エルロイドは無関心にそう言い放つ。その手が一枚の手紙を取り上げ、目の前に持っていった。その差出人の名前をしげしげと眺めてから、やおらエルロイドは口を開く。

 

「そんなことより、この短刀にいる妖精の方が問題だよ」

「そんなことですか……」

 

 マーシャはため息をつく。

 

「私は知の探求者だが、だからといっていたずらに助手の身を危険にさらす気はさらさらない。確かに君の言う通り、この短刀に宿る妖精が見てはならないタブーならば、君の能力を無作為に使うべきではない。そこは納得できる」

 

 どうやら、エルロイドなりにマーシャに配慮した結果らしい。

 

「一応ありがとうございます。一応ですけど」

「礼には及ばない。聡明な私には、好奇心を満足させる方法がいくつも思いつくのだよ」

 

 そう言うと、彼は大股で書斎の出入り口へと向かう。

 

「マーシャ、出かけるぞ」

「どこへですか?」

「遍在宇宙交信協会のところだ」

 

 そのうさん臭すぎる名を聞いて、マーシャはこれで何度目かのため息をついた。

 

「またあの怪しげなサークルのところですか……」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 遍在宇宙交信協会。科学と神秘がない交ぜになったこの時代の申し子とも呼ぶべき、いんちきと思い込みとごく少量の啓蒙がミックスされた団体である。自称、彼らは科学の徒であり、盲信や迷信から自由にされた新時代の人類を啓発するのが目的である。しかし、マーシャから見れば、彼らは有象無象のオカルトや占いや降霊術のサークルと大差ない。

 

 元より、彼女の雇用主であるエルロイドは、オカルトを毛嫌いしているはずだ。魔法という語など、耳にしただけで嫌な顔をするほどである。幼児向けの絵本に魔法という語が使われていることさえ、彼にとっては不愉快らしい。だが、不可解なことにやっていることは完全にオカルトであるこの協会を、エルロイドは度々利用しているらしい。

 

 そもそも、この二人の出会いからして、協会のお膳立てがあったらしい。警察署にいたマーシャをエルロイドが見つけられたのは、協会経由の情報があったからだ。エルロイド本人は何気なくマーシャにそれを教えたのだが、当のマーシャはぞっとした。いくら自分が目立ってしまったからとはいえ、知らない相手に行動を監視されるのは気味が悪い。

 

「私は、あまりあのサークルは好きになれません」

 

 ロンディーグを縦断する市電に揺られながら、マーシャは隣のエルロイドに言う。

 

「私も同感だ。正直に言えば、虫が好かんよ」

 

 意外な彼の意見に、マーシャは目を丸くする。てっきり、会員ではないものの、エルロイドは協会に入れ込んでいるとばかり思っていたからだ。

 

「でしたら……」

「私個人の好悪と、彼らが使えるかどうかはまた別問題だ。君があの中東の短刀に対して何らかのタブーを感じるのならば、次善の策として彼らを頼るのもやぶさかではない」

 

 どうやらエルロイドは、マーシャに配慮して好きでもないサークルの元を訪れる気になったらしい。そう言われると、マーシャとしても心苦しくなってしまう。

 

「すみません。私のわがままで教授にご足労をかけてしまい……」

 

 素直に謝る彼女を、エルロイドは冷めた目で見る。

 

「ふん。まあ、時間の無駄ではある」

 

 いつもならば、その後には自分がいかに多忙な人間であり、時間が貴重であるかを延々と語ると相場が決まっている。自慢や嫌みではなく、本心から彼はそう思っているのだ。

 

「だが、進歩と進展と進化にこのような回り道はつきものだ。階段にも踊り場があるだろう? それと同じように考えれば、納得できる時間の使い道だ」

 

 しかし、今日は機嫌がいいのかエルロイドは長広舌を振るうことなく、マーシャの顔を立てた。市電は二人を乗せて、ロンディーグの町並みを抜けていく。目的地まで、もうすぐだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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07-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 マーシャの手を肉厚の手で握りしめて情熱的な握手をしているのは、恐ろしく太った中年の女性だった。

 

「ブホホホホホ! あなたがエルロイドちゃんお付きのメイドさんのマーシャ・ダニスレートちゃんね。以後よろしくお願いよ、ブホホホホホ!」

 

 本人は笑っているつもりらしいが、どう聞いてもそれは肥えたブタが鼻を鳴らす音だ。

 

「マダム・プリレ。そう鼻息荒く私の助手に迫るのはやめてもらいたいのだが。美女と野獣という語を容易に連想させる構図に、私の優秀極まる脳細胞と神経が萎縮して困る。人類史に対する罪として提訴したいくらいだ」

 

 一人で来客用の椅子に腰掛けたエルロイドが、自分たちを迎え入れた家の主人に向かって嫌悪感もあらわにそう言う。

 

「んまぁ、エルロイドちゃんったらなんて正直なんでしょ。アタクシのことを美女なんてもう、可愛いわぁ。ブホホホホホ!」

 

 対する女性は、エルロイドの皮肉を美辞麗句として受け取ったらしく、再び鼻を鳴らす。

 

「失礼、マダム、君は何か思い違いをしているようだね。私は君のことを美女などと、生まれてこの方一度も口にしていないのだが?」

「え~? だって今言ったわよ。『美女と野獣』って。あなたの大事なメイドさんを野獣呼ばわりするのはちょっと可哀想だけど、でもいいわ! 正直なエルロイドちゃんに免じて許してあげる! どうせなら美少女の方がいいけど!」

「なぜ私が君に許してもらわねばならないのだね。良識を弁えない自己中心的な人間と会話するのは実に疲れる」

 

 自分のことを棚に上げて批判するエルロイドに、ようやく肉厚の手の束縛から自分の手を引き抜いたマーシャが、じっとりとした視線を向ける。

 

「教授?」

「なんだね」

「鏡って見たこと、ありますか?」

「何を言っているのだね、君は。理解に苦しむ」

 

 残念ながら、マーシャのシニカルな発言はエルロイドにはのれんに腕押しだったようだ。

 

「あ、おほぉん!」

 

 少しの間無視された女性が、自分の方に注意を向けようとこれ見よがしに咳払いをした。

 

「遍在宇宙交信協会ロンディーグ支部長、プリレームヤ・シュディジニャーヤ・ヴィリフデヴァ。それがアタクシの名前よ。以後よろしくね。長くて呼ぶのが大変なら、可愛くマダム・プリレって呼んでくれても構わないわよ。ブホホホホホ!」

「はあ、どうも……」

 

 ようやくマーシャに自己紹介したマダム・プリレに、とりあえずマーシャは頭を下げる。市電を降りてしばらく歩いた先に、彼女の屋敷はあった。ここは都会の真ん中にあるというのに、奇妙に人通りの少ない空白地帯のような場所だ。屋敷自体はかなり古いものらしく、ややほこりをかぶった年代物の家具や書籍が大量にある。

 

「きれいなお顔をしているわね、マーシャちゃん。ご両親のよいところをきちんと受け継いでいる顔立ちよ。細いラインのお鼻の形なんかもう、素敵」

 

 マダム・プリレはそう言うと、脂肪でだぶついた顔の奥にある小さな目を細める。彼女の顔は怖いが、声音は優しい。

 

「あ、ありがとうございます。そう言われたのは、初めてです……」

「んまあ、なんておかわいそうな。子供が健やかに育つのに誉め言葉が必要なのは常識よぉ。もう、仕方ないわね。代わりにアタクシが愛してあげる! ハグよハグ!」

 

 彼女が両腕を広げて襲いかかるのを、何とかマーシャはかわす。

 

「マダム、私の助手を絞殺もしくは圧殺するのはやめてくれないか。君の腕力では粉砕骨折を免れん」

 

 座ったままのエルロイドも、さすがに危機感を覚えたらしくそう警告する。

 

「そ、それに、子供時代はいい人に囲まれて、全然寂しくなんかなかったですよ。お仕事も忙しかったですし」

 

 マーシャは自分が可哀想ではなかったことをアピールするのだが、マダム・プリレはさらに感動して大声を上げる。

 

「まあまあまあ! ちっちゃいときからお仕事一筋なんて大変だったのねえ。アタクシ涙が出ちゃうわ!」

 

 ぐるりと太すぎる首が動くと、エルロイドを見据える。

 

「エルロイドちゃん、しっかり働いて、この子を幸せにしてあげるのよ」

 

 対するエルロイドは即答した。

 

「無論、そのつもりだ」

「きょ、教授?」

 

 彼の発言に、マーシャは驚く。いきなり幸せにするのは当然と言われて、驚かないわけがない。

 

「俊英たる私の過去、現在、未来は常に栄光に彩られている。その側にいる彼女が幸福になるのは当然だろう? 重力の法則と同じくらい、私の成功と彼女の幸福は保証されている」

 

 エルロイドはそう言うと、得意そうに胸を張る。

 

「自信だけはすごいわね……」

 

 彼のプライドの高さに、図太そうなマダム・プリレも舌を巻いたようだ。

 

「さて、無駄話はこれくらいにしよう。時間を無駄にしたくはないのでね」

 

 突然来訪した身でありながら、エルロイドは平然と話を進める。

 

「マダム、これを見てくれ。マーシャの言葉によると、この短刀の中には妖精が潜んでいるらしい」

 

 彼がトランクから取り出した短刀を見て、マダム・プリレは真面目な顔になる。

 

「ふ~ん、この子には分かるのね」

「妖精女王の目だ。知っているかね」

「あなたと同じく文献の中でね。実物は滅多にお目にかかれないわ。〈炯眼〉としてはかなり上位の代物ね。空恐ろしいわ」

 

 そう言うと、彼女はマーシャの方を見て笑う。

 

「マーシャちゃん。その目をうちのか弱い会員ちゃんたちに教えないでね。お願いよ」

「知識を独占するするつもりかね?」

 

 いぶかしげな顔をするエルロイドに、マダムは鼻を鳴らす。

 

「違うわよ。刺激が強すぎるだけ。楽しく明るくサークル活動をする程度には、いらない知識も沢山あるのよ」

 

 マーシャは目の前のこの女性が、何を考えているのか分からなかった。怪しげな協会の上層部でありながら、会員を啓発する気がないのだろうか。それでいて、本人は知識が豊富なように見える。

 

「やあねぇ、そんな深刻そうな顔をしないでよ。明るく楽しくっていうのは、アタクシのモットーなの。ここでもサークルと同じく、明るく楽しくいきましょ」

 

 沈黙が苦しかったのか、マダム・プリレは再び「ブホホホホホ!」と笑いつつお茶を濁す。

 

「君が明るかろうが楽しかろうが、関係のないことだ」

 

 エルロイドは冷たく断言する。

 

「問題は、マーシャの目をもってしても、妖精の種類や性質を特定できない点だ。どうすればこの妖精を短刀の外に出せるのか、心当たりはあるかね?」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「まあまあ、来た早々せわしいわねぇ……」

 

 などと言いつつ、マダム・プリレが自宅の書斎にこもって半時間ほどが過ぎた。

 

「残念だけど、ないわ」

 

 戻ってくるなり発せられた彼女の一言に、エルロイドは跳び上がらんばかりに驚く。

 

「な、な、何だと! そんなはずがないだろう!」

「もう、エルロイドちゃん、癇癪を起こしちゃ嫌よ」

「だったら、私は何の為にここまで来たのだ。時間の無駄ではないか!」

 

 八つ当たりに近い論理の展開に、マダム・プリレは呆れた様子で腰に手を当てる。

 

「あのねえ、いくらアタクシが何でも出来る天才美少女賢者に見えても、神様でもなければ悪魔でもないの。理解なさい?」

「む、むむむ……」

 

 押し黙るエルロイドの代わりに、マーシャが口を開いた。

 

「厳重に封がされていて、絶対に出てこないようになっているんでしょうか?」

「違うわよ。大抵の封印ならば、あなたの妖精女王の目ならば破ってしまうわ。何と言っても、女王の目ですもの」

「じゃあ、どうして…………」

「まあ、有り体に言ってしまえば、人間の限界って奴よ。マーシャちゃんのせいじゃないわ。エルロイドちゃんも諦めなさい」

「回りくどい物言いはやめたまえ。どうすれば妖精は出てくるんだ?」

 

 ショックから立ち直りつつあるエルロイドが、ようやく本質に触れる。

 

「風よ」

「風?」

「シムーンという、中東に吹く熱風があるわ。夏の砂漠で砂を巻き上げて吹き荒れる、恐ろしい風が。この短刀は、そのシムーンから逃れる為、風除けとして妖精を封じ込めたものよ」

 

 マダム・プリレは先程までのテンションの高い口調とはかけ離れた、落ち着いて知性的な口調で説明する。

 

「だから、逆に言えばシムーンが吹かない限り妖精は出てこないの。分かる?」

「し、しかし……何とならないのか? こんな近くに貴重なサンプルがあるのだぞ! 君は口惜しくないのか、マダム・プリレ!」

 

 彼女の理路整然とした説明に、一人だけ納得できないでいるのがエルロイドだった。目の前の短刀には確かに妖精がいる。しかし、それを確認する術がない。そんな宙ぶらりんな状況に耐えられないのか、彼は食い下がる。

 

「ならば、シムーンをここロンディーグで再現できるかしら。それができるならば、これに潜む妖精も姿を現すかもね」

「じょ、冗談ではない。これでは……これではまるで、八方塞がりではないか。前進、進歩、発展とは程遠い!」

 

 事態がまったく予想し得ない展開になったらしく、エルロイドは狼狽しているようだった。

 

「ねえ、エルロイドちゃん。あなたはなぁに?」

 

 そんな彼に、マダム・プリレは分厚い頬の肉を揺らしながら問いかける。

 

「あなたは才能はあるし努力家だけど、ただの人間でしょ? アタクシもそう。できることばかりじゃないわ。ただの人間が、自然をどうにかしようなんて、おこがましいと思わないかしら? 時には自分に不可能なことを認めて、諦めるのも必要よ」

 

 なだめすかすような彼女の言葉に対して、エルロイドは最後まで首を縦に振ることはなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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07-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 マダム・プリレの屋敷を後にし、エルロイドとマーシャは道路を足早に歩いていた。石畳を打つステッキの音の間隔が、ずいぶんと早い。

 

「わ、私は諦めないからな!」

 

 余程、彼女の言葉が腹に据えかねたのだろうか。先を行くエルロイドが振り返ると、マーシャに向かってそう啖呵を切る。

 

「まさか……中東にまで行かれるつもりですか?」

「そうではない! 多忙な私が、短刀一本のためだけに帝国を離れて海を渡る時間があると思っているのかね!?」

 

 エルロイドは激したのか、とうとうステッキを振り回しつつ大声を上げる。

 

「私には才能がある! 科学がある! 向上心がある! そして何よりもマーシャ、君がいる!」

 

 突如、彼は立ち止まるとステッキの先端でマーシャを指す。

 

「わ、私ですか?」

 

 いきなりそんなことを言われ、再びマーシャは驚く。今日はこれで二度目だ。彼女とエルロイドとの関係は、あくまでも助手と教授、侍女と雇用主の関係どまりだ。それ以上に進展することはない。けれども、時折こうやって知ってか知らずか、エルロイドはマーシャの心を揺さぶるようなことを平然と言ってくるから困る。

 

「そうだ。妖精女王の目を持つ君がいるならば、私にとっては何よりも心強い助力だ。あのうさん臭いマダムの言葉になど、私は惑わされないからな! 必ずや、私はこの短刀から妖精を摘出してみせる!」

 

 案の定、エルロイドはマーシャのことを助手として必要としていた。端的に言えば、彼女の妖精女王の目が必要なのだ。

 

「認めるものか! 何としてでも、私は私の信じる道を歩ききってみせる。科学に不可能はない! 人に限界はない! 人間の意志は自然に打ち勝ってみせるのだ!」

 

 エルロイドは熱っぽくそう宣言する。それはまさに、科学を信奉する者の言葉だった。自然には勝てないというマダム・プリレの言葉は、彼の信条と対立するものだったのだろう。

 

「そうでなければ……」

 

 だが、鋼の如き不退転の決意を堂々と述べた後で、不意にエルロイドの表情が曇った。それまでの熱に浮かされた狂騒と言ってもいい情熱は急にしぼみ、影が差す。

 

「そうでなければ、私の研究は輝かしい未来への先駆けではなく、ただの一代限りの資料の羅列でしかないではないか…………」

 

 それは、エルロイドがまず見せることのない、彼の弱気な側面だった。ずいぶんと、短刀から妖精を取り出す手段がないという事実が堪えたらしい。日頃絶対の自信を持っている自信の研究にさえ、評価が低くなる。確かに、彼の妖精に対する研究が社会に影響しなければ、それは無意味な資料でしかない。後継者もいない、ただの一代だけの物好きだ。

 

「教授?」

 

 しかし、そんなエルロイドにマーシャは優しく呼びかけた。

 

「何だね?」

 

 不満げな彼の声など無視して、マーシャはほほ笑む。

 

「きっと、教授は成し遂げられますよ。絶対に、教授の研究は将来役に立ちますから。私はそう思います」

 

 マーシャの力強い駄目押しに、エルロイドは疑問を投げかける。

 

「なぜそう断言できるのだね。君はこの国の官僚ですらないのだぞ」

「女のカンですよ」

「カンとはまた……非科学的な」

 

 エルロイドは辛辣な言葉と共に肩をすくめかけ、しかしそうすることはなかった。

 

「それに、私が信じたいんです。私が、教授を応援したいんですよ。いけませんか?」

 

 マーシャの続く言葉は、彼と違い辛辣さなど欠片もなかった。

 

 エルロイドは目を上げて、マーシャを見つめる。マーシャもまた、臆することなく彼を見つめかえす。左側だけが緑色に染まった、不思議なオッドアイで。妖精を見つめ、ひれ伏させるその女王の目で。

 

「……勝手にしたまえ」

 

 長いような短いような沈黙の後、エルロイドは短くそう告げた。

 

「はい、では勝手にさせていただきます」

 

 それだけ言うと、二人は再び歩き始めた。エルロイドが先に歩き、マーシャが後に続く。

 

「……今日の君はずいぶんと優しいな」

 

 しばらくして、何気ない様子でエルロイドが口を開き、だが慌てて訂正した。

 

「いや、優しいのではない。口がうまいな。そうだ、口がうまい。口がうまいだけだ」

「がんばっている人は、応援したくなるんです」

 

 自分の動揺をうやむやにしようとするエルロイドを見て、マーシャはくすくすと笑う。

 

「そんなものかね」

「そんなものなんです」

「……理解に苦しむな」

「苦しんでもいいですよ」

 

 そんな言葉を交わしながら、二人は歩いていく。その後ろ姿は、いつもよりもほんの少しだけ寄り添っているように見えた。

 

 ――いつもよりも、ほんの少しだけ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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08・失踪の事件 と 漆黒の歴史 の 話
08-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 イローヌ。ロンディーグの北東に位置する、現在は牧畜と漁業で生計を立てている小さな町である。歴史的に見れば古代の史跡があちこちに見受けられ、時折歴史の授業の一環で学校の生徒たちが訪れることもある。だが、普段は静かでやや閉鎖的な町だ。

 

「本当にこんなところにいるんでしょうか?」

「少なくとも、彼はここで消息を絶っている。何の手がかりもない以上、まずはここから捜索を始めなくてはな」

 

 牧場を横切って海に続く道を歩きつつ、マーシャとエルロイドは会話を続ける。

 

「あ、可愛いウマがいます。おいで」

 

 マーシャの視線がエルロイドから、こちらに向かって近づいてきた一頭のウマに向けられた。

 

「まだ子供かな?」

 

 とことこと近寄ってきたそのウマの大きさは、どう見ても子馬である。

 

「それは既に成体だよ。ポニーだ」

「えっ、こんなに小さいのに? 可愛いです」

 

 ずいぶんと人なつっこい性格らしく、マーシャが柵から手を伸ばして頭を撫でても、ポニーは大人しくされるがままになっている。

 

「体が大きくて力が強ければ、それだけで優れた種として確立するのではない。生態系には様々なポジションがあり、そこに様々に適応した生物がおさまっている。ただ単に大きくて強くて硬い生物が勝つだけの単純な生態系ならば、今頃この星は恐竜のものだ」

 

 急に生物学の講義を始めるエルロイドだが、マーシャはポニーに夢中で聞いていなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「やはりこの辺りですね」

 

 その後ポニーに別れを告げたマーシャとエルロイドは、海岸を歩いていた。マーシャはしきりに周囲を見回し、エルロイドはその後に続いている。

 

「君には見えるのか。便利なものだ。さあ、速やかに目的地を見つけるんだ」

「教授、人を猟犬みたいに言わないで下さい」

 

 そう言いつつも、彼女はあちこちに目を凝らす。

 

「ここです。この洞窟が入り口のようです」

 

 やがて、二人がたどり着いたのは海岸沿いにある大きな洞窟だった。

 

「出入りはあるかね?」

「いいえ。出入りした様子はありません。閉じています」

「ふむ。……穴居生活を営んでいる、というようでもなさそうだな」

 

 マーシャの答えを聞いて、エルロイドは中を覗き込んだ。

 

「では、頼む」

「はい」

 

 一度うなずいてから、マーシャは一歩前に進み出る。その二枚目の瞼が開かれ、深緑の左目が薄暗がりの中で輝いた。それは妖精の秘密を暴き、その姿を白日の下にさらす妖精女王の目だ。

 

「……洞窟に門とは、いやはや恐れ入るよ」

 

 彼女の目によって、洞窟の闇を吹き散らすようにして中から姿を現したのは、錆びた鎖の巻き付いた門だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「先程から、まったくこれはいったい何なんだ!?」

 

 錆びた鎖はマーシャが触れただけで崩れ落ち、門はやはり彼女が触れただけで開いた。それを横目で見つつ意気揚々と中に入ったエルロイドだったが、半時間もしないうちにうんざりしたと言わんばかりの声を上げていた。

 

「なんだか、お話の中にいるみたいです。ねえ教授?」

「それも、まるで幼児向けの絵本の中だ。古来の神話伝説の類を簡易化して再現しているようだな」

 

 二人が今いるのは、どういうわけか森の脇を通る街道だ。

 

「助けて下さい! 英雄様!」

 

 少し離れた森の入り口では、古めかしい馬車が横倒しになり、火が燃えている。巨大なドラゴンに連れ去られようとしているのは、ドレスを着た妙齢の貴婦人だ。

 

「やかましい! 私は英雄ではない。私はヘンリッジ・サイニング・エルロイド。むしろ英才である!」

 

 必死に助けを求める貴婦人に、エルロイドはにべもない。

 

「助けて下さい! 英雄様!」

 

 だが、貴婦人は絶望する様子もなく、まったく同じ調子でまったく同じ台詞をまったく同じように繰り返している。これで四台目の馬車と四人目の貴婦人だ。

 

「さあ、俺がお前をさらってやる。付いてこい」

 

 続いてウマにまたがってあらわれたのは、装飾過多の鎧を身につけ、しかし兜をかぶらずに素顔をさらした騎士だ。白い歯を見せてワイルドに笑いつつ、マーシャに手を差し伸べる。

 

「せっかくの申し出ですが、遠慮いたします」

 

 エルロイドとは違い、マーシャは丁寧にその誘いを断った。

 

「さあ、俺がお前をさらってやる。付いてこい」

 

 だが、騎士は気分を害した様子もなく、まったく同じ調子でまったく同じ台詞をまったく同じように繰り返している。これで五匹目のウマと五人目の騎士だ。

 

「頭が痛くなりそうだ。いや、既に痛い。こんなことなら頭痛薬をもってくるべきだったな」

 

 先程からの陳腐なやり取りに、エルロイドは額に手をやって目を閉じる。実際、門をくぐってからずっとこの調子なのだ。洞窟の中は幻想的な森に変じ、何度も何度も同じ光景と人物とやり取りが繰り返される。まるで寸劇だ。恐らく向こう側としては、エルロイドが颯爽と貴婦人を助け、マーシャが騎士の申し出に応じることを望んでいるのだろう。

 

「戻りましょうか」

「いや、構わん。下らんことはさっさと済ませよう」

 

 明らかに、これは妖精のいたずらである。だが、それにしても異常だ。出来の悪い学芸会を何度も繰り返しているに等しい。

 

「それにしても、どうして同じ台詞の繰り返しなんでしょうか。寸劇だとしても、もう少し台詞にバリエーションがありそうなものですが?」

 

 さすがに不信感を覚えたマーシャが、そんなことを口にする。

 

「その程度の知能しかないのだろう。あるいは…………」

 

 エルロイドはしばらく考えてから、仮説を口にする。

 

「老朽化してあちこちが壊れているのか」

 

 そう言われて、マーシャは周囲を見回した。まるで、書き割りに綻びを見つけようとするかのように。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ようやく二人がたどり着いた先は、丘の上に立つ一軒の豪勢な屋敷だった。

 

「終点がここか。思ったよりも小さな箱庭だったな」

 

 そう言いつつ近づくエルロイドたちの前で、屋敷の扉が開き、中から一人の人間が姿を現した。

 

「ようこそ。俺の領地に。歓迎しよう、異邦の客人たちよ」

 

 黒ずくめの格好にマントをはおり、帯剣した十代の少年である。

 

「ダラン・フーハンガーかね?」

「ふっ……」

 

 すかさず名前を聞くエルロイドに、少年は芝居がかった仕草で笑う。

 

「それはかつての俺の名だ。今はその名は捨てた。名も、人生も、過去も」

 

 そう言うと、彼は胸を張る。

 

「今の俺は漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルム。この異界を治める領主だ」

「何だって?」

「漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルムだ」

「すまないが、もう一度言ってくれないか。君はベールズ・フーハンガーの息子のダラン・フーハンガーだろう?」

「だから違う! その名はもう捨てたって言ってるだろ! 俺は漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルム。漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルムが今の俺なんだよ!」

 

 何度も本名を連呼するエルロイドに、ついに自称漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルムが怒った。先程までの傲慢そうな態度をかなぐり捨てて、地団駄を踏みかねない勢いで大声を上げる。

 

「何が何だか分からないし分かりたくもないのだが、まあとりあえず数千歩譲ってそういうことにしておこう。漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルム君」

 

 とてつもなく面倒くさい人間を相手にしている表情で、エルロイドはようやく折れた。

 

「よろしい」

 

 ほっとしたのか、ツァーテスは再び傲慢そうな顔でうなずく。彼の出で立ちはやや古めかしく、よい生地を使っているが、なぜか黒一色なのが寂しい。腰から下げているのは、異常に刃の幅が広い剣だ。

 

「せっかくだから、挨拶代わりに俺の力の一端を見せてやろう。なあに、俺が魔神から奪った力のほんの千分の一程度だがな」

 

 マーシャの視線が剣に向けられているのに気づいたのか、ツァーテスは得意げにそう言うと、すたすたと歩き出す。二人から少し離れると、彼は柄を右手で握りしめ、突然叫んだ。

 

「さあ、お前の力を見せてみろ! 天さえ喰らう混沌の魔剣よ!」

 

 彼は腰の剣を抜き放つ。それは、刀身が虹色に輝く光に覆われた不可思議な剣だった。

 

白日を切り裂き虹を創る剣(ズェッターヒュング)!」

 

 その名を高らかに叫ぶと共に、彼は剣を横薙ぎに振るった。次の瞬間、刀身に宿る虹色の光が刃となって大気を切り裂いて飛んでいく。

 

 ややあって、凄まじい爆音が遠くから聞こえた。遙か遠くの山の頂に、その虹色の光は衝突し、そこをものの見事に粉砕しつつ切断していたのだ。

 

「どうだ? こんなことができる帝国人など、どこにもいないだろう?」

 

 凄まじい破壊力を二人に見せつけることができ、ツァーテスは胸を張りつつ剣を鞘に収める。

 

「ど、どうして!?」

 

 無関心な様子のエルロイドとは裏腹に、マーシャは驚愕していた。いくらなんでも、ただの人間が剣の一振りで山の一部を粉砕するのはやり過ぎである。

 

「だから言っただろう。これが魔神の力だ」

 

 だが、彼女の驚きがツァーテスにとってはこの上ない賛辞だったようだ。

 

「付いてこい。久しぶりの客人だ。歓迎してやろう」

 

 口ではそう言うものの、いそいそと彼は屋敷に向かって歩いていく。

 

「ずいぶんと偉そうな態度だな。根拠のない自信は見ていて痛々しくてかなわん」

 

 憤懣やるかたない様子のエルロイドに、マーシャは半ば呆れつつ口を開いた。

 

「教授」

「何だね?」

「鏡って、見たことあります?」

 

 そう言うと、マーシャは少年の後に続いて屋敷へと向かった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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08-2

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 屋敷に招待された二人は、応接室に案内された。テーブルにはココアの他に、チョコレートやケーキなど甘い物ばかりが置かれている。

 

「食べないのか?」

 

 ツァーテスの言葉に、エルロイドは首を左右に振る。

 

「異界で食事をすると帰れなくなるというのは、神話や伝説でよく見受けられる。君としても、我々に居着かれては困るのではないかね?」

 

 少々棘のある物言いに、ツァーテスは嫌な顔をした。

 

「さて、本題に入ろう。私はヘンリッジ・サイニング・エルロイド。ドランフォート大学で妖精の研究をしている教授だ。こちらはマーシャ・ダニスレート。私の助手だ」

「よろしくお願いします」

 

 マーシャが立ってお辞儀をすると、ツァーテスは少しどぎまぎした。

 

「あ、はい」

 

 素が出ている。

 

「私は見ての通り多忙な身だが、君の父とは懇意にしていてね。彼から、自分の息子が行方不明になったという話を聞いて、いてもたってもいられず捜索を買って出たのだよ」

 

 エルロイドはここに来た理由を語る。実業家のベールズ・フーハンガーはドランフォート大学に多額の資金援助をしていて、その縁でエルロイドが息子の捜索に呼び出されたのだ。

 

 もちろん、ベールズは警察に捜索を依頼していた。だが、彼の息子は一ヶ月が経っても行方不明のままだった。藁をもすがる思いで、父親であるベールズはエルロイドに息子の捜索を懇願してきた。イローヌでは、度々妖精が目撃されたこと。そして、妖精は時折人をたぶらかし、自分たちの隠れ里に案内して一緒に遊ぶという言い伝え故に。

 

「そして、我々は君を見つけた。時間をこれ以上無駄にする必要はない。一緒にロンディーグに帰ろう。支度をしたまえ」

「断る」

 

 どんどんと話を進めるエルロイドだが、ツァーテス、いやベールズの息子のダランは首を振る。

 

「即答かね。無駄に悩んで時間を浪費しない姿勢だけは評価しよう。だが、小旅行は終わりだ。もう寄宿舎に帰る時間だよ」

「だから断る。あそこは俺のいるべき場所じゃない」

「自分で自分のいるべき場所を選ぶ気概か。まだ学生の身、それも親に養ってもらっている身でかね?」

「それは今までの俺だ。弱くて、情けなくて、無力で、何も出来ないその他大勢でしかなかった俺の場所だ。だけど、今の俺は違う」

 

 ダランは側に立てかけてある自分の剣に、愛おしげに触れる。

 

「今の俺には力がある。誰にも負けない、自分の意志を押し通す、強くて気高くて破壊も創造も思いのままの、揺るぎない力がある。そして何よりも、俺には、守るべき者たちがいるんだ」

 

 そう言うと、彼は視線をドアの方に向け、猫なで声で呼びかける。

 

「おいで、シル、フェン、それにユー」

 

 その言葉と共に、ドアが開いた。

 

「はぁい、ツァーテス様」

「お呼びですか?」

「嬉しいです、私たちの主様」

 

 次々と、甘ったるい声と共に三人の少女たちが入って来た。外見はよく似ているが、衣装が違う。赤、黄、緑とおよそ三色に分かれている。

 

「妖精かね」

 

 ふわふわとした足取りで三人の少女たちはやって来ると、椅子に座るダランにしだれかかる。

 

「あんた、妖精を研究しているって言ったよな。そうさ、この子たちは妖精だよ。俺が見つけて、俺が保護して、俺が養ってやってる子たちさ。この子たちには、俺が必要なんだよ。そうだろう?」

「はい、ツァーテス様」

「私たちの、偉大なる主様」

「あなた様がいなければ、私たちは生きていけません」

 

 男の庇護欲と征服欲と支配欲をピンポイントで刺激するような物言いに、マーシャは顔をしかめた。嫌らしいと言うよりうざったい。

 

「どうやって、その子たちを見つけたんですか?」

 

 はっきりとしたマーシャの物言いに、ダランはびくりとした。

 

「そ、その……話せば少し長くなるけど、いいかな?」

「ええ、大丈夫ですよ。ねえ、教授?」

「構わん。貴重な資料だ」

 

 当然とばかりに、エルロイドはうなずく。許可を得て、ダランは傍目から見ても緊張した様子で大きく息を吸い込んだ。本当に、あまりにもちぐはぐな少年だ。ものすごい力を振り回しておごっているように見えて、こうやってマーシャの言葉一つで緊張する様子はただの少年でしかない。

 

「学校の歴史の授業の一環で、ここを訪れた時から、すべては始まったんだ。あの時の俺は、本当に何も出来ないただのガキだった。したくもない勉強をして、周りの顔色ばかりうかがって、話したくもない相手と話して、生きているって気がしなかったよ。本当に、生きにくかった」

「その気持ちは、多少理解できるな」

 

 唐突に始まったダランの厭世的な物言いに、意外にもエルロイドが同意した。

 

「そりゃ結構。それで、たまたまこの洞窟に一人で立ち寄った時に、そこに門が現れたんだ。あんたたちも、通ったんじゃないか? バラと黄金で彩られた、きれいな門を」

 

 マーシャとエルロイドはお互いの顔を見合わせる。あの門は、錆びて朽ちかけた門だったはずだ。

 

「どこにも居場所のない俺だから、迷うことなくくぐったよ。ここじゃないどこかに行けるんだったら、どこでもよかった。そして、気づいたらここにいたんだ。あの、すべての始まりとなった森に俺は立っていた」

 

 そして、それから始まったのは、ダランを主人公とした英雄の物語のダイジェスト版とでも言うべき内容だった。

 

 世界を飛び越える際に、いつの間にか契約を結んでいた混沌の魔剣。それを使い、ドラゴンに襲われた妖精の王妃を助け出す。そして魔物に支配された妖精の都に素性を隠して忍び込み、魔神の配下として仕えつつ少しずつ力を蓄えていく。クライマックスには妖精の軍を率いて魔神を討滅し、ダランはついに魔物たちから妖精の国を取り戻したのだ。

 

「…………ということで、俺は救国の英雄、漆黒公としてこの領地が与えられた。だけど、今も魔神復活をもくろむ魔物たちの残党はいる。奴らから領地と、そこに暮らしている妖精を守る役目があるんだ。今の俺は充実している。生きているって気がする。必要とされている。認められている。こここそが、俺の生きるべき場所だったんだ」

「でも、ご両親は心配されているんじゃないでしょうか?」

 

 マーシャの一言に、救国の英雄としての仮面はダランからあっさり剥がれ落ちる。

 

「……あ、あんな、自分の仕事と家柄と体面しか考えていないような奴ら、俺の親なんかじゃない。きっと……ただの、育ての親だ」

「そんな……」

 

 あまりの物言いに、マーシャは二の句が継げなかった。

 

「じゃあ、あんたはこの子たちを捨てて戻れって言うのか? この子たち、俺がいなかったら生きていけないんだぞ!」

 

 その言葉に、それまで無反応だった妖精たちが動き出す。

 

「ツァーテス様、もしかして、いなくなっちゃうんですか?」

「お願いです、私たちを見捨てないで下さい!」

「どうか一緒にいて下さい。どんなことでもいたしますから」

 

 この三人の妖精は、ダランと一緒になって魔神を滅ぼした旅の仲間らしい。それぞれ剣士、魔法使い、僧侶だとか。

 

「安心しろ。俺が、お前たちを見捨てるわけないじゃないか」

「嬉しいです、ツァーテス様」

「あなた様こそ、私たちの王です」

「感謝いたします、我らが主よ」

 

 ダランの優しい一言に、たちまち三人は猫なで声を出すのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「だから、戻れない。あいつらにもそう伝えてくれ。きっと、出来の悪い俺がいなくなってせいせいしてるさ」

 

 ダランはそう言って、会話を打ち切った。

 

「どう思うかね」

「ひどいことを言ってばかりで、本当に困った人です。ご両親のことをあんな風に言うなんて、納得できません」

 

 今日は泊まっていけとダランに言われ、二人は客室をあてがわれた。

 

「そう言うな」

 

 部屋を訪れたやや怒り気味のマーシャを、エルロイドはいなす。

 

「教授は、あの子の肩を持つんですか?」

「そうではない。彼の言っていることは確かに納得はできん。だが、理解はできる。男は誰しも、強くなりたいのだ。強くなって、周りを見返して、周囲にすごいと褒めそやされたいのだ。生物のオスとしての本能だな」

「私はそんなこと思いませんよ」

「それは君が女性だからだ。私も、力を求める希求はある。だが、力さえあればすべてが押し通ると思うのは、若い証拠だな。若者故の生意気な発言、少しは甘く見てもらえると私も嬉しい」

 

 いつになく物わかりのよいエルロイドの言葉に、マーシャは好奇心を刺激された。

 

「教授も、昔はあんな感じだったんですか」

「私はもう少し知性的だったがな。少なくとも、他者から気まぐれに与えられた力を振りかざして、自分に酔いしれることはなかった。それではあまりにも滑稽だ」

 

 そう言うと、エルロイドは深く考え込む。

 

「だから、彼にはやはり家に帰ってもらわねばならん。すべてが自分に都合よく回る世界に長く人がいたら、どうなると思う?」

「分かりませんが」

「気が狂うか死ぬだろう」

 

 率直な一言に、マーシャは背筋が寒くなった。ダランの経験を鑑みると、この場所は夢のような世界だ。すべてが訪れた人間に都合よく進み、無条件で歓迎され、褒めたたえられ、崇拝される。ここほど理想郷に近い場所はないだろう。ただ、マーシャとエルロイドが見てきた光景は、あちこちが歪で狂っていたのだが。

 

「当然だろう? そもそもヒトが生活する場所に、ここのような異常な環境などどこにもない。適度なストレスによって、人は生命活動を営む。一切のストレスが排除された世界は、墓場と同義だ」

「私としても、あの子は戻る必要があると思います」

 

 エルロイドは科学的な観点から断じるが、マーシャもまた深くうなずいた。

 

「それは…………」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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08-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「俺を説得しようと居座るかと思ったけど、ずいぶんと早く帰るんだな」

 

 次の日、マーシャとエルロイドはダランの屋敷を後にしようとしていた。あくまでも帰る気がないならば、さっさとダランは二人を追い出せばいいのだが、こうやって彼は律儀に見送りに来ている。果たしてどこまで彼が帰る気がないのか、マーシャは分からなかった。

 

「その子たち……」

 

 彼女は、相変わらず腰巾着のようにダランにベタベタ引っ付いている三人の少女たちを見る。

 

「ああ、シルとフェンとユーか。どうしたの?」

「外に出入りするときは、アザラシの姿だって言いましたよね」

 

 それは、昨日ダランが話したことだ。三人の妖精は、アザラシの皮をかぶって化けられると言っていた。

 

「え、うん。そうらしいな。見たことはないけど。アザラシの皮をかぶって人の目をごまかしているんだ。動物の皮を脱いだら、中には可愛い女の子がいる。面白いだろう?」

 

 いきなりマーシャに尋ねられ、ダランはどぎまぎしつつも答える。

 

「それがどうしたんだ?」

「ならば、女の子の皮の下には、何がいると思います?」

「へ?」

 

 不可解なマーシャの言葉に、ダランは目を丸くした。彼女の言葉がまったく理解できていないらしい。

 

「ダラン・フーハンガーさん。この場所は、もう寿命なんです」

 

 マーシャは心苦しさを覚えつつも、ついに本当のことを口にする。

 

「じゅ、寿命?」

 

 それは、彼女が妖精女王の目を持つ故に分かった、理想郷の真実だった。

 

「ここは妖精たちの隠れ里です。本当ならば、もう寿命を迎えて、閉鎖する場所だったんですよ。妖精たちはあなたとほんの短い間遊びました。でも、それももう終わり。一緒に帰りましょう」

 

 彼女の言葉に、妖精たちが反応する。

 

「ツァーテス様、帰っちゃ嫌です」

「ずっと一緒にいましょうよ」

「私たちのこと、嫌いになっちゃったんですか?」

 

 ワンパターン極まる甘言だが、ダランの心を鷲掴みにするには充分すぎるほどだった。

 

「い、嫌だ! 俺は帰りたくなんかない。帰らない! ここにずっといるんだ! この子たちだってそれを望んでるぞ! なぜ分からないんだ!」

「それは、この子たちがあなたにとって今一番聞きたい言葉を発しているだけです。意味はありません」

 

 マーシャは、この妖精の隠れ里で何度も似たようなものを見てきた。甘い言葉、甘いシチュエーション、甘いキャラクター。だが、それらはすべて張りぼてであり、何の意味もない。

 

「もう、この子たちは抜け殻です。その本質は妖精郷に帰っています。あなたはずっと、抜け殻相手に一人芝居をしているんですよ」

「嘘をつくな! いったい、何様のつもりで俺に説教するんだ!」

 

 マーシャの言葉に耐えられなかったのか、ダランは腰の剣を引き抜いて切っ先を彼女に突きつける。だが、マーシャが一瞥すると剣はひとりでに彼の手から落ちた。

 

「なっ、何でぇ!?」

 

 ダランが悲鳴を上げる。妖精の作ったオモチャが、妖精女王の目の持ち主を傷つけられるはずがない。

 

「私がこんなことを言っているのは、それが危険だからです」

「危険って何だよ! 外の方がよっぽど危ないじゃないか!」

「いいえ。ならば、しっかりと見て下さい。この場所の本当の姿を」

 

 とうとう、マーシャは覚悟を決めた。言葉で説得できるのならば、そうしたかった。だが、ここまでしなければならなかったのだ。マーシャの二枚目の瞼が開く。

 

 次の瞬間、世界は一変した。緑豊かな丘陵地帯は、荒廃し変色した大地に。立派な屋敷は焼け跡のようなあばら屋に。地面に落ちた剣は、ただの棒きれに。そして――――。ダランが、言葉にならない絶叫を絞り出した。三人の妖精の真の姿を見たからだ。それは、麦わらを集めて作った、ただのカカシでしかなかったのだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 洞窟の外で、ダランは地面にうつ伏して泣きじゃくっていた。漆黒公ツァーテス・シュテンヴェルムなど、どこにもいない。今ここにいるのは、ずいぶんと汚れた制服を着た、ダラン・フーハンガーという一人の少年でしかなかった。

 

「きっと、あの妖精たちは、あなたを騙していたわけじゃないと思います」

 

 ダランを慰めようと、マーシャは言葉を尽くす。妖精女王の目で現実を突きつけるのは、正直言って気が進まなかった。けれども、このまま放っておいて彼の命に関わるのならば、嫌な思いをしてでも真相を見せるしかなかったのだ。

 

「あちこちが限界だったんですけど、それでも最後のお客さんのあなたを歓迎していたんです」

 

 妖精の隠れ家は、既に寿命を迎えていたのだ。妖精たちは妖精郷に抜け殻だけを残して帰り、そして今、最後の客人が隠れ家を後にした。三人の目の前で、門が崩れていく。

 

「これで、もうあの隠れ場所はなくなったのか」

 

 エルロイドが尋ねると、マーシャはうなずいた。

 

「ええ。もし中に人間がいたら、そのまま帰ってこられなかったでしょう」

「その方がよかった!」

 

 突然、うつ伏していたダランが大声を上げた。

 

「また現実に帰るくらいなら、またつまらない連中と付き合うくらいなら、いっそ死んだ方がましだ!」

 

 ダランは拳を握りしめ、何度も地面を殴りつける。

 

「どうしてあんたたち、俺を連れ出したんだ! どうして、あのまま死なせてくれなかったんだよ!」

 

 その顔がこちらを見た。

 

「どうせ、勝手な正義感からだろ! そうやって現実を押しつけて、自分たちの正義を押しつけて、さぞかしいい気持ちだろうな! あんたみたいな現実で成功している連中に、俺みたいな弱い連中のことなんて分かるわけないんだ! 口では俺を助けるみたいな事を言ってるくせに、内心では弱者を見下して自己満足に浸ってるんだよ! この偽善者!」

 

 理想郷から現実へと引き戻された怨みを、これでもかとばかりにダランはエルロイドたちにぶつける。だが、それはどう控えめに見ても八つ当たりでしかなかった。

 

「私も若い頃は君と同じだったよ」

 

 なおも顔を真っ赤にして罵ろうとするダランが、エルロイドのその言葉にぴたりと動きを止めた。

 

「私は父と妾の間に生まれた子だ。幼い頃は兄たちに虐待され、寄宿舎に入ったら上級生たちにいじめられた。初恋の相手には振られ、教師たちからはいわれない差別を受け、就職には失敗し、さらには不治の病を抱えている。おまけに数年前に事業に失敗し、借金まみれだ。家族には縁を切られ、友人もいなければ結婚など夢のまた夢だ」

 

 壮絶な過去を告白したエルロイドだが、ダランが硬直しているのを見て、すぐに言葉を続ける。

 

「――と、私がこのような過去と現状だったのならば、君は満足かね?」

「は?」

「何を驚いている。全部でたらめに決まっているだろう。私の過去を、どうして昨日会ったばかりの君に事細かに説明しなくてはいけないのかね?」

 

 皮肉とも指摘ともつかないエルロイドの言葉に、完全にダランはついて行けないでいる。

 

「私が君を助けたのは、君の捜索を君の父に依頼されていたからだ。ただそれだけだよ。君がどうしても死にたいのならば、家に帰ってから首を吊るか、寄宿舎に戻って窓から飛び降りるべきだな」

 

 そこまで言われて、ダランは何も言い返せなかった。

 

「あんたなんかに、俺の辛さが分かるわけないんだ…………」

 

 そう愚痴ると、彼はうつむく。

 

「確かにそのとおりだ。私は君ではない。どうして君ではない私が君の辛さを理解できるというのだね? できぬことを相手に要求し、叶えられなかったら拗ねるのは時間の無駄だ」

 

 さらにそう言われ、ますます彼はうつむく。

 

「あのまま、死にたかった……」

「架空の好意を示す妖精の抜け殻と共に死ぬのは、いくら何でも惨めではないかね。君は、そんな程度の人間なのか」

「あんたなんかに…………!」

 

 顔を上げたダランは、何が分かる、と言いたかったのだろう。だが、その先は続かなかった。

 

「一つ、提案がある」

 

 エルロイドは顔色一つ変えず、彼の言葉を遮る。

 

「私の助手は、私から見れば荒唐無稽極まる通俗小説にはまっていてね」

 

 いきなり話題を変えられて困っているダランに、マーシャが助け船を出す。

 

「日報に連載されている潜水艦の小説ですよ。読んだことあります?」

 

 その一言で、幸いダランには通じたようだ。

 

「す、少し……じゃなくて、ファンなんだ……実は」

 

 彼は顔を赤らめて告白する。

 

「君も同じような小説を書きたまえ」

 

 エルロイドのその提案は、まさに青天の霹靂だった。

 

「お、俺が?」

「君の冒険活劇、私にはピンと来なかったが、その雰囲気や人物、さらに物語の構成はあの通俗小説とよく似通っている。私は君の空想を、君一人にとどめておくのはもったいないと思う」

 

 平坦だが心のこもった彼の言葉に、ダランの涙が止まった。

 

「で、できるかな……俺」

 

 ややあって、遠慮がちにダランはエルロイドに尋ねる。

 

「私は、できると思う。あの小説が人気なのだ。君が自分の空想をきちんと読める形で文章にするのならば、成功するだろう。それが、君の新しい居場所になるのだ」

 

 エルロイドがそう言うと、ダランは押し黙った。

 

「……どうだね?」

 

 しばらくして、彼は強くうなずく。

 

「書くよ、俺。書いて、成功してやる。絶対に!」

「そうか、そうこなくては」

 

 涙を拭うダランを見て、満足げにエルロイドは腕を組む。

 

「できたら、まず私に見せなさい。私は小説の面白さについては不得手極まるが、文章を読みやすく添削することくらいは可能だ」

 

 ――かくしてここに、後の小説家は最初の一歩を踏み出したのである。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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09・孤島の密室 と 即席の幽霊屋敷 の 話
09-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 古色蒼然とした城の前で、十数名の男女が口々に何やら叫んでいる。

 

「いったいどうなっているんだ!」

「こんなことになるなんて聞いていないぞ!」

「何とかならないのかね!」

「こんなところ、一秒だっていられないわ!」

 

 言い争っているのではない。発言内容はまちまちだが、要約すると全員、「ここから出たい」と言っているのだ。

 

「落ち着きたまえ、諸君」

 

 と、ここで一人の男性が飛び交う言々句々の合間を縫って大きな声を上げた。ちょうどよいタイミングだったらしく、男女は口を閉じてそちらに注目した。発言の主は、もちろんエルロイド教授である。隣に礼服を着たマーシャを連れている。普段着や侍女の服装と違い、着飾るとマーシャはある種の気品さえ漂わせている。

 

「状況をまとめてみよう。現在、我々が乗っていた船がない。我々は湖の中心にある孤島に、正確に言えばここイースグラム城に閉じ込められている状態だ。船が我々を置き去りにして出港したのか、それとも隠されたのか、はたまた沈められたのか。詳細は不明だ。ただ言えることは一つ」

 

 エルロイドは含みを持たせつつ、周囲を見回す。

 

「我々は、この島から出ることができない。通信も無理だ」

 

 その事実を突きつけられ、再び男女は取り乱す。

 

「落ち着きたまえ、と言っただろう。みっともなく騒ぐのは紳士淑女の所業とは思いがたい。この私を見習いたまえ」

 

 周りの狂乱を尻目に、むしろエルロイドは楽しんでいる様子で言葉を続ける。

 

「面白いではないか。まるで推理小説の冒頭だ。我々は外部との連絡を取ることができないまま、否応なく事件に巻き込まれていくのだ」

 

 何人かの特に若い男女は、彼の言葉に顔を青ざめさせる。最近の流行りは、荒唐無稽な空想科学小説だけではない。密室や孤城、はたまた無人島などで行われる殺人事件を扱う推理小説も人気だ。

 

「しかぁし! 私たちは物語の登場人物のように事件に振り回され、あるいは犯人に殺され、あるいは逃げようとして死ぬ役回りではない!」

 

 ここぞとばかりに、エルロイドは力説する。

 

「さあ諸君! 城に戻ろう。そして、この事件を解決しようではないか。我々が物語の主役となって、物語を完結まで導くのだよ。実に興奮するね!」

 

 ひとしきり喋り終え、エルロイドは満足した様子で城の入り口へと向かう。他の人々も、毒気を抜かれた表情でためらいがちにその後へと続いた。

 

「どうだね。素晴らしい演説だろう?」

 

 肩をそびやかせながら、エルロイドは隣を歩くマーシャに話しかける。

 

「皆様の恐怖心を取り去るのかかき立てるのか、判別しにくい表現ではなかったかと」

「どちらも目的ではない。楽しむのが目的だよ」

「そうですか……」

 

 案の定ぶっ飛んだ彼の発言に、マーシャはがっかりした様子で眉を寄せる。礼服を着ているので、どこかの貴族の令嬢と言っても十分通用する丁寧な仕草だ。

 

「それに、これで彼らの注目はこの私の発言と目的に向けられた。優秀な私の人心掌握のスキル、君も参考にするといい」

「はいはい。了解です」

 

 気のない返事だが、エルロイドは怒る気配もない。

 

「こうすれば、彼女に不満の矛先が向くことはないだろう」

 

 そう言うと、彼は城の窓を見上げる。

 

「イースグラム城の所有者にして、半年前に行方不明になったダルタン・イースグラム卿。その姪にして、私たちをここに招いた張本人である、フォリー・イースグラム嬢に、だよ」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「ヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授、お心遣い、大変に感謝いたします」

 

 イースグラム城の一室で、一人の年若い少女がエルロイドに対して感謝していた。短めにカットした黒髪に鋭い眼差しをした、細身で気の強そうな少女だ。彼女が先程エルロイドの演説を窓から観察していた、フォリー・イースグラムである。

 

「ブホホホホホ! まったくもう、エルロイドちゃんも女性には優しいのねえ。普段は堅物、困ったときには紳士。その落差にレディはもうメロメロよぉ! ブホホホホホ!」

 

 部屋にいるのはエルロイドとフォリー、そしてマーシャ。さらにどういうわけかあの巨体の女性、マダム・プリレも同席していた。

 

「私はいつでも紳士だ。そして男女平等である」

 

 遠慮のないマダム・プリレの呵々大笑に、エルロイドは不満げな様子を隠さない。

 

「大丈夫ですか、フォリーさん」

 

 二人のやり取りはさておく形で、マーシャはフォリーに話しかけた。

 

「ええ、ありがとう。私は平気よ」

 

 気丈な様子で、フォリーは軽く微笑んでみせた。だが、それは虚勢であることは誰の目から見ても明らかだった。

 

「疲れたときには甘いものを摂りたまえ。脳細胞が活性化し、よい思考が導き出される」

 

 そう言って彼女にテーブルにあったキャンディーの載った皿を勧めつつ、エルロイドは本題に入る。

 

「さて、もう一度情報を整理しよう。フォリー嬢、説明を」

 

 彼女はキャンディーに手をつけず、一度うなずいてから姿勢を正した。

 

「私のおじである、皆さんもご存じのダルタン・イースグラムが、この島で消息を絶って半年経ちました」

「どのようにして?」

「分かりません。おじは時折この城に、使用人も連れず一人で訪れることがありました。長くても四日程度ですが。ですが、あの時は一週間経っても戻らない為、家族と使用人で捜したのですが、見つかりませんでした」

「船は?」

「私有の汽船はそのままです。いくつかあるボートも、なくなってはいませんでした」

「つまり、ダルタン卿がこの島を抜け出した、あるいはボートで漕ぎ出しているときに湖に転落した、という可能性は低いわけか」

 

 エルロイドは腕を組む。季節的に見て、水泳をしていておぼれた可能性も低い。

 

「皆無じゃないの?」

 

 マダム・プリレが横から口を挟む。

 

「可能性を追求していったらいくらでも出てくる。それこそ、月から宇宙人がやって来て卿をさらっていった、という可能性もゼロではないわけだ」

 

 彼の言葉に、マダムは笑顔で応じる。

 

「別世界の魔法によって向こうに召喚された、という可能性だってあるわけね」

「それはない。皆無だ。魔法などというものはこの世界に存在しない。もちろん、別世界においてもだ」

 

 あいにくと、宇宙人は認めても、決して魔法だけは認めないのがエルロイドのポリシーである。

 

「それはさておき、フォリーさん、続けて下さいますか?」

 

 マーシャが促すと、フォリーは二人のやり取りに特別関心を示さず、先を続ける。

 

「おじは、自分にもしものことがあったら読むように、と手紙を残しておかれました。そこには、半年後くらいにお二人を初めとする、親好のあった多くの方々を島にお招きして、皆で自分の思い出話に花を咲かせて欲しい、と書いてありました」

「ということは、あなたのおじ様、自分が行方不明になることを予感していたってことになるわね」

 

 マダム・プリレが不思議そうな顔をする。この屋敷に招かれた人間はマーシャを除き、ダルタン・イースグラムとは交際がある身だ。貴族にして冒険家のこの男性は、世界各地の神秘に関心のある好事家として、西へ東へと忙しく駆け回って好奇心を満たしていた。まさにバイタリティの塊のような男である。友人がこれだけ多いのもうなずける。

 

「こうなることも、織り込み済みだったということになるのか」

「おじの願い通りにしたのですが……どうしてこんなことに…………」

 

 フォリーはがっくりと肩を落とす。楽しい親好の場が、突如脱出不可能の牢獄に変わってしまったのだ。いくらエルロイドがかばったとはいえ、周囲から責め立てられてフォリーは相当まいっている。

 

「元々、ここは幽霊の出る城と言われる場所なんです。昔この地方を治めていた領主が血の涙もない暴君で、多くの無辜の人々を悪魔の生贄に捧げていたという伝説があります。だから、今もこの城には当時の犠牲者の未練が残り、訪れる人に害をなすと…………」

 

 だんだんと妄想が膨らんでくるフォリーの肩を、マダム・プリレは肉厚の手でさする。

 

「ダルタン卿はそういう伝説やお話が大好きだったからねえ」

「この島は本当に呪われているのではないでしょうか!? だから、私たちもここから出られないし、そしておじも幽霊に呪い殺されて……私たちも、一人一人この島で……!」

「下らん発想だ。貧相な上に迷信深く、稚拙な上に独自性に乏しい」

 

 だが、彼女の妄想はエルロイドに一蹴された。

 

「フォリー嬢。科学が無知と迷妄を駆逐しつつあるこの時代を生きる女子として、何という前時代的な発言だ。死んで脳細胞が壊死した人間が、どうして思考できるというのだね。幽霊? 亡霊? 死霊? まして死者の呪い? 馬鹿馬鹿しい。生者と意思疎通ができる存在は生者だけだ。だとすると幽霊は死者ではない。そんなことも分からないのかね」

 

 ここぞとばかりに冴え渡るエルロイドの痛罵に、フォリーは目を白黒させている。外見はダルタン卿の姪として気丈そうだが、中身はやはり十代の少女である。

 

「まったく、ダルタン卿の姪がそのような無知でどうするのかね。ここに集まった卿の友人たちも、帰れないことで騒ぎこそすれ、幽霊如きに怯えることなど――――」

 

 エルロイドがそう言っていたときだ。激しいノックと共に、ドアが大きく開かれた。

 

「イ、イ、イースグラムさん!」

「どうしてあなたは、こんなところに私たちを呼んだんですか!」

 

 一組の男女が、片方は真っ赤な顔で、片方は真っ青な顔でがなり立てた。

 

「出たんですよ! 出たんです!」

「幽霊が! ダルタン卿の幽霊が、この城にいるんです!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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09-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「階段を透き通った人影が登っていったんだ! 後ろ姿だけだけど、あれはダルタン卿だった!」

「バルコニーに貴婦人のドレスを着た人間がいたんです。でも、振り返ったら……顔が骸骨だったの!」

「首のないメイドが廊下を歩いていたんだ! 本当だぞ! 嘘じゃない!」

「首を吊った女が、庭の木にぶら下がっていたのよ!」

 

 イースグラム城の客間。そこに一同に会したダルタン卿の友人たちは、口々に自分が見たという幽霊を熱く語っている。

 

「いつからここはイースグラム城ではなく、陳腐な幽霊屋敷に変わったのだ」

 

 一方で、徹底的に冷めているのはエルロイドだ。

 

「同感ね。幽霊が一度に大挙して押し寄せるわけないじゃない。ムードもなにもないわよ」

 

 彼の隣でマダム・プリレが同意する。

 

「意外だな。君は幽霊を信じないのか?」

「ブホホホホホ! エルロイドちゃんほど頑迷じゃないけれど、見ての通り天才美少女賢者のアタクシは目利きなの。本物と偽物の区別くらいはちゃんと付くわよ」

 

 彼女はそう言うと、近くのテーブルの上に置いてあった装置を肉厚の手で叩く。

 

「これ、な~んだ?」

「蓄音機でしょうか?」

 

 マーシャは顔を近づける。

 

「正解、って言いたいけどはずれっ! 懐かしいわね。これは故郷でよく見た尋問……じゃなくて催眠装置よ」

「催眠装置?」

「そう。島と城のあちこちに仕掛けてあるわよ。貴石を介した特殊な振動波で、近くの人間に暗示を擦り込むことができるの」

「にわかには信じがたいが……」

 

 エルロイドも疑わしげな顔をする。何やら、マダムの話は怪しげになってきた。

 

「もちろん、うまく行くかどうかかなり振れ幅があるわ。アタクシも試作品をいくつか見ただけよ。きっと、みんなが見ている幽霊は、これで作り出された幻覚ね。ついでに、行方不明の船もこれが原因。アタクシたちの目に見えないように、隠されているはずよ」

 

 この肥満体の女性は、自称北方の亡命貴族である。故国を捨てて亡命するくらいなのだから、国の暗部を見てきたのだろう。ただし、マダムの身の上が本当である保証など、どこにもないのであるが。

 

「それに、これを見て」

 

 続いて、マダムは二人を部屋の一角に案内した。そこでは、あちこちからパイプを突き出した不格好な装置が駆動している。

 

「これは?」

「キルガニー収集機よ」

「ええと、それって、以前教授がジンさんのところで作ってもらったけれど、一日で故障した…………」

「あれは投影機だ。こちらは収集機。ちゃんと聞きたまえ。初歩的な間違いだぞ。だが、なぜこんなものがここにあるんだ?」

 

 機械音痴のマーシャの間違いを、すかさずエルロイドが訂正する。

 

「元からあったって感じじゃなさそうね。後からこの部屋に置かれたって気がするわ。それも、調度品に隠れる形で。匂うわねえ」

「ならば、これの回線はどこにつながっている?」

 

 その疑問に、マダムは顔を歪めて笑みを浮かべた。

 

「うふふ、気になるわよねえ。この回線の行き着く先に何があるのか、アタクシもちょっと興味がわいて来ちゃったわ」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「フォリーさん」

「あら、あなたは……」

 

 マーシャはエルロイドとマダムから離れて、バルコニーで一人佇んでいるフォリーの元を訪れていた。

 

「エルロイド教授の助手の、マーシャ・ダニスレートです」

「え、あ、そう、そうね。マーシャさん。どうしたのかしら?」

 

 丁寧に挨拶するマーシャに、フォリーは少し鼻白んだ様子を見せた。

 

「だいぶ、お疲れになったのではないですか?」

「そんなことはないわ。この程度のこと、予想の範囲内よ」

 

 強気を見せたフォリーだったが、すぐにそのペルソナははがれる。

 

「――と言いたいけれど、さすがにちょっと堪えたわ」

 

 そう言って苦笑するフォリーを見て、マーシャは進み出る。

 

「お隣、よろしいですか」

「ええ、いいわよ」

 

 静かに自分の隣におさまったマーシャを見て、フォリーは目をしばたたかせた。

 

「不思議な人ね、あなた」

「そうでしょうか。私としては、自分程度などただの一般人だと思っていますけど」

「そういうところが、よ。あなた、出身は?」

「コールウォーンです。そこの名士のお住まいで、ずっと小間使いをしていました」

「ロンディーグには?」

「まだ不慣れですね。助手のお仕事が見つかってほっとしたんですよ」

「……ぶしつけな言い方をするけれど、コールウォーンってかなりの田舎よね」

「そうなんです。こっちに来るまで、自動車なんて見たこともほとんどなかったんですよ」

「そうなの?」

「はい」

「……そんなに田舎だったかしら?」

 

 打てば響くような反応を見せるマーシャに、フォリーは少し首を傾げた。

 

「まあいいわ。あなたはそんな田舎の出身なのに、まるで物怖じする様子がないの。今ここにいるのは、どっちを向いても私の連れてきた使用人以外は、みんなあなたよりも身分が上なのよ」

 

 フォリーの目が、客間で所在なげに佇むダルタン卿の友人たちを見る。

 

「それなのに、あなたはちっとも気後れしたり、萎縮している様子には見えないわ。そして周りも、あなたがそういう風に振る舞ってもいぶかしく思う様子もない。本当に不思議な人」

 

 そう言って、彼女はため息をついた。

 

「――私のおじが生きている間に、あなたと会って欲しかったわ。あの人はそういう刺激を欲しがっていたのよ」

「フォリーさんは、本当にダルタン卿のことがお好きだったんですね」

「そんなことないわよ。いつもいつも、突飛な行動ばかりして困った人だったわ。いつだったか、未踏大陸のおみやげで不気味な呪術の人形をプレゼントしてきたときは困ったけど。突き返してやったわ」

 

 くすくすと笑うマーシャを見て、フォリーの乾きかけた唇にも笑みが浮かんだ。

 

「今回だって、思い出話をして欲しければ、何もこんな幽霊城に皆を招かなくてもよかったのに。でも、本当はいい人だったわ。大きな子供みたいで、いつだって皆を引っ張って、引っかき回して、そのくせ包容力があって、頼りがいがあって、場を明るくする人で…………」

 

 そこまで言って、フォリーはマーシャが自分をじっと見ているのに気づいた。

 

「な、何よ。身内のことを持ち上げるのは当然でしょ。おかしい?」

「そんなことありませんよ。仲良きことは美しいことですから」

 

 恥ずかしかったのか、顔を赤らめて語気を強めるフォリーを、マーシャはあしらう。

 

「ふん、口ばっかり上手なんだから、あなたは」

 

 その程度では、フォリーの機嫌は直らないらしい。

 

「私のお仕えしている教授も、卿とそっくりの方ですよ。我が道を行く人で、常人に理解できない思考の持ち主で、プライドが高くて、変わり者で、偏屈で…………」

 

 マーシャの淀みないエルロイドの評価に、フォリーは返答に窮する。

 

「そ、それはすごいわね。あなた、よく助手でいられるわね」

「だって、私は知ってるんですよ。教授のいいところだって、ちゃんと。フォリーさんとダルタン卿との関係と、似ているんじゃないですか?」

 

 マーシャの言葉に、フォリーはしばらく考えていたが、やがてうなずく。

 

「確かにそうね」

 

 かくして、夜は更けていく。密室と化したイースグラム城で、謎の幽霊たちと共に。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「我々はこの城の謎を解かねばならないのである! 未だ迷妄に取り憑かれて怯えている人々を救う為にも、卿の名誉を回復させる為にも!」

 

 次の日、エルロイドはダルタン卿の私室で、フォリーたちを前にして再び熱く語っていた。

 

「ということで、イースグラム城の捜索、許可していただけるかしら」

 

 マダム・プリレが具体的な目的を告げる。

 

「もちろんです。願ってもない話で、感謝します」

 

 フォリーは首肯する。

 

「それで、このキルガニー収集機の回線をたどった先に、何かある可能性が高いとのことですね」

「そうなのよ。昨日エルロイドちゃんと軽く調べてみたけど、おおよそこの階の回線は、全部ここ、卿の私室にたどり着いているの。怪しいわね、ブホホホホホ!」

「見たところ、何か装置が置かれているようには見えませんが?」

 

 マーシャが周囲を見回すが、怪しげなものは見つからない。

 

「ふん、君たちは観察力にだけ頼っているな。情けない話だ」

 

 ここぞとばかりに、エルロイドが胸を張る。

 

「鋭い観察力、明晰な思考力、躊躇ない実行力。いずれも必要だが、秀才はそのさらに上を行く。なぜか分かるかね?」

 

 エルロイドは周囲を悠然と見回す。

 

「――天性の直観力。まずそれがあるからこそ、才人はスタートラインからして凡人と異なるのだ」

「教授、自画自賛はいいですから――」

「マーシャ、今いいところなのだから邪魔をしないように」

 

 長くなりそうなのでマーシャが突っ込みを入れ、その発言に嫌な顔をしつつ彼は本棚に近づいた。

 

 その手が一冊の事典をつかんで引っ張ると、ゆっくりと本棚自体がスライドしていく。

 

「見たまえ。君たちの観察力では、ここまでは見抜けなかっただろう?」

 

 その裏にあったのは、秘密の通路だった。

 

「すごいわ! さすがエルロイドちゃん。冴え渡ってるわねえ!」

「こんなのがあるなんて知りませんでした!」

「なに、実に初歩的な推理だ」

 

 得意満面な様子のエルロイドに、マーシャは尋ねる。

 

「どうして分かったんですか?」

「男の浪漫だ。秘密の通路といえば、本棚の裏と相場が決まっているだろう?」

 

 大まじめな彼の返答に、マーシャは呆れた。一瞬尊敬の念を抱いて損した気分である。どうやら昨日のフォリーの発言と合わせて考えると、ダルタン卿はエルロイドの同類らしい。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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09-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 通路は階段へと繋がり、その先は地下に通じている。

 

「何なんです、これは?」

 

 天井と壁を這う回線を見つつ、マーシャは尋ねる。

 

「収集機で集めたエネルギーを、一箇所に集積しているようだな」

 

 マダム・プリレによると、キルガニー収集機は貴石を通じて、感情と思考によって発生する生体エネルギーを収集する機械らしい。

 

「どうしてそんなことを?」

 

 フォリーがいぶかしげな顔をしつつ、指で回線に触る。今頃ここには、城に閉じ込められて幽霊を見せられた来客たちの、過剰に生産された生体エネルギーが伝送されているのだろう。

 

「城の光熱費を浮かせるためでしょうか?」

「エステのためね。アタクシには分かるわ!」

「知性をさらに高めるためだ。当然だろう?」

 

 三者三様の意見は一致を見ることなく、皆は目的地とおぼしき場所にたどり着いた。

 

「ついたようだな」

 

 頑丈な鉄扉を前にし、エルロイドはためらうことなくノブを回す。鍵はかかっていない。

 

「では私も」

「マーシャ、君は下がっていたまえ」

「いいえ。教授が行かれるのでしたら、従うのが助手の仕事ですので。職務放棄は私の生き方に反します」

「ふん。勝手にしたまえ」

 

 さして嬉しそうな顔もせず、エルロイドは扉を開けて中に入る。続いてマーシャが入り、その後からマダムとフォリーが続いた。

 

「漢字……?」

 

 最初にマーシャの目に飛び込んできたのは、部屋の壁と床と天井に書かれた、見慣れない文字だ。東洋で使われる漢字に違いない。複雑な図形と共に、それがびっしりと記されている。

 

 四隅には大きな装置が置かれ、そこにいたのは――。

 

「あ、お客さんだ」

「お客さんかな?」

「お客さんだよね?」

 

 全身に電光をまとい、機械工の使うような道具を持った小人が三人。

 

「どーも、妖精です」

「たぶん妖精です」

「きっと妖精かも?」

 

 楽しげに自己紹介する小さな彼らに、マーシャは聞く。

 

「あなたたち、ここで何をしているんです?」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「とりあえず直りました」

「苦心惨憺」

「一生懸命」

「爪に火を灯す勢いで」

 

 装置の上で跳ね回っている妖精たちを見て、エルロイドが興味をそそられている。

 

「これは何だね?」

「簡単に言えば、機械類に取り憑く妖精ですね。いろいろな機械に取り憑いて、それをこっそり壊してしまうんです」

 

 マーシャの説明に、妖精たちは一斉にブーイングをする。

 

「うわー風評被害」

「説明不足です」

「愛情も不足しますよ」

「……と言っても、いたずらのレベルですけどね。すぐに元に戻してしまいますから、大抵気のせいで終わってしまうそうです」

 

 マーシャが妖精から聞いたところによると、彼らの存在理由はそんなところらしい。

 

「だが、ここにある機械は壊れたままだったのだろう。それはどうしてだ?」

「このお城に雷が落ちました」

「だから装置、壊れました」

「そして、私たちが生まれました」

「あれ? 逆でしょ?」

「そうだっけ?」

「覚えていないので説明の義務はありません」

「でも今、お姉さんに頼まれました」

「女王様の命令みたいです」

「だから装置、直しましたよ」

 

 一度に妖精たちがまくし立てたが、エルロイドは何とか理解できたようだ。

 

「本来ならば正常に動くはずの装置は、今まで落雷によって故障していたということか。そして今、妖精たちが修理したということは……」

「ええ、正常に本来の役目を果たすことでしょう」

 

 マーシャの言葉と共に、部屋の床が動き出した。円陣のようにして描かれた漢字と線が作り出す中央の床板がはずれ、中から柩が出てきた。その蓋が開く。

 

「…………ふう。いやはや、やはり失敗か。そうそう簡単に、八卦を合わせ、四象を辿り、陰陽を結び、太極には至れないものだな」

 

 中から姿を現したのは、身長二メートルに達しそうなほどの巨漢だった。ライオンのたてがみのような白髪とひげを生やしている。

 

「お、お、お…………おじ様!」

 

 絶句するフォリーを見て、巨漢が破顔する。

 

「おお、そこにいるのはフォリーか。よくここが分かったな。むむっ! それにエルロイドじゃないか。さてはお前だな、フォリーをここに連れてきたのは。それに誰かと思えば、マダム・プリレまでいるぞ。ははははは、お前たちがフォリーと一緒ならば、ここまで来られたのもうなずける話だ。なかなかやるじゃないか!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「あ~とにかく、全員儂の実験に付き合ってくれてありがとう! 感謝している! 愛している!」

 

 私室で熱い紅茶を飲みつつ、巨漢は大げさに感謝する。彼こそ、今まで行方不明になっていたダルタン・イースグラムである。

 

「実験ですか!? ただの! ただの実験に、おじ様は沢山の人を巻き込んだんですね! そうですね!?」

「返す言葉もないのう。だが、そうしないと儂は目覚めなかったわけだからなあ。一人の人命を救うのに、犠牲はつきものだろ? それともフォリーは、儂が二度と目覚めなかった方がよかったのか? おじとして、それは少々悲しいんじゃが……」

「そ、そんなことは言っていません!」

 

 かんかんに怒っているフォリーだが、突如その舌鋒が弱まる。

 

「私だって、おじ様が無事で嬉しいんですから…………」

 

 何だかんだ言って、彼女も敬愛するおじに再開できて嬉しいのだ。

 

「ダルタン卿、実験を重ねて自らが求める真実へと至らんとするその求道心、それ自体は敬服する。だが、少々方法がずさんだね。私ならば、もっとうまく、より速やかに、目立たない方法で行う自信がある」

「う~ん、目立つも何も、こうしないと駄目だったんじゃよ」

 

 無駄に自信に満ちているエルロイドの言葉に、さすがのダルタンも困った顔をする。

 

「もう、ダルタン卿ったら焦らしてばかりじゃ嫌よぉ。ちゃんと順を追って、教えて下さいな。ね?」

「おうおう、儂もそうしたいと思っておったわ。じゃあまず、『尸解仙』という言葉は知っておるかね?」

 

 そして、東洋に存在する仙人についての講義が始まった。彼らは自然と一体化して不老不死となり、個人として究極へと至っている。この仙人を目指したのがダルタン卿である。尸解仙とは、仙人になる為に尸、つまり死体を置き去りにする方法だ。本家では偽の死体を用意して仙人になるとされているが、彼は肉体を捨てて昇華すると解釈している。

 

「……ということで、儂は尸解仙の装置を組み上げた。地脈の結節であるこの場所も用意した。仙人になる羽化登仙の準備は整ったわけじゃ。だが、やはり万一失敗した場合のことも考えておかなければならないと思ってのう。仙人にもなれず、フォリーにも会えない状態はさすがにごめんじゃ」

 

 仙人になるには長い修行が必要とされるが、ダルタン卿はそれらの過程を装置で短縮化するつもりだったらしい。東洋の神秘を組み込んだ装置は用意できた。エネルギーのラインである地脈が集中する場所として、この城を選んだ。準備は整ったが、さらに彼は蘇生の為の準備も整えていたのだ。

 

 ダルタンの解釈による尸解仙は、肉体を捨てる。成功すれば仙人になり、肉体には囚われなくなる。だが失敗すると、肉体は仮死状態になったままで終わってしまう。待っているのは緩慢な死だ。そこでダルタンはキルガニー収集機で生体エネルギーを集め、仮死状態に陥った自分を蘇生させるよう保険をかけておいたのだ。

 

「じゃが、まさか落雷で装置が動かないとは思わなかったぞ。いやはや、エルロイドにダニスレート嬢、儂を目覚めさせてくれて本当にありがとう。二人は儂の命の恩人じゃ!」

 

 終わりよければすべてよし、と言わんばかりに大笑いするダルタンの横で、フォリーが疲れ切った顔をしている。

 

「結局、全部おじ様の自作自演だったわけなんですね……」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「まったく、たいした御仁だ」

「本当にそうでしたね。誰も怒っていなかったですから」

 

 汽船から下り、マーシャとエルロイドは歩いている。ダルタンが姿を現せば、彼の友人たちはそれまでの不機嫌な様子など捨てて、彼の帰還を純粋に喜んでいた。ダルタンの豪放磊落な人柄故だろう。

 

「マーシャ、どうした?」

 

 エルロイドがマーシャの顔を覗き込む。

 

「気分が優れないように見えるが……?」

 

 彼の指摘に、マーシャは一瞬顔を背けた。だが、やがて決心したように彼の顔を見つめる。

 

「教授」

「何だ」

「尸解仙の法は、成功していたんです」

 

 彼女のその発言は、正真正銘の爆弾だった。

 

「……な、なに?」

「ですから、ダルタン卿はお気づきではなかったようですが、羽化登仙は成功したのです」

 

 エルロイドは臆する様子もなく、マーシャの目を見つめる。その緑色に染まった左目を。

 

「……見たのかね?」

「はい。この左目で。ダルタン卿の背中から生える、昆虫のような二枚の薄い羽根が見えました」

 

 彼女だけには見えていた。ダルタン卿の背に、羽が生えていたのを。それは、彼が知らずに人を捨てていた証だろう。

 

 エルロイドはしばらく黙っていたが、やがて深々とため息をついた。

 

「…………知らぬは本人ばかりなり、か」

「ええ」

 

 自ら知ることなく、ダルタンは仙人の領域へと足を踏み込んでいた。それがどのような結末へと至るのか、マーシャは知らない。エルロイドも知らない。彼が今後どうなるのか、誰も知らないのだ。

 

 しかし、マーシャは見てしまった。彼が人道を踏み外しているという、現在だけを。その将来も分からないまま。

 

「マーシャ」

 

 やがて、エルロイドは立ち止まると口を開いた。

 

「はい」

 

 彼はマーシャを見たまま、しばらく無言だった。しかし、やがていつになく優しい語調で、エルロイドはこう言うのだった。

 

「――見えるというのも、辛いものなのだな」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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10・貯金の使い道 と ちょっとしたデート の 話
10-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 その日、エルロイドは自室の書斎の窓から外を眺めていた。といっても、夜なので外は真っ暗闇だ。眺めているのか、ただ窓の近くに立っているのか、実のところ判別しない。

 

「シディ、困ったことになった」

「何なりと、お申し付け下さい」

 

 彼の執事であるシディは、主人の言葉を聞いて背筋を正す。それこそが、この少年の存在理由だからだ。

 

「最近貯金の使い道がないのだ」

 

 エルロイドが深刻な顔で発したその言葉を受けて、シディの反応は少し遅れた。

 

「は、はい」

 

 「兵は神速を貴ぶ」ではないものの、スピーディーを信条とするシディにしては珍しいことだった。

 

「思えば、このところずっと根を詰めていたからな。この辺りで少し、気晴らしでもしたいところだ」

「おっしゃる通りかと」

 

 人並みなエルロイドの反応に、内心少し喜びつつシディは同意する。エルロイドへの忠心が揺らいだことは生まれてこの方一度もないが、それでも時折彼のエキセントリックな言動にはついて行けないことがある。今回はありがたいことに、実に人間らしい悩みだ。

 

「――と、普通の人間ならば口にするところだろう。だがシディ、私は常人とは異なる」

 

 しかし、シディの月並みな反応に、エルロイドは不満げな顔をする。どうやらブラフだったようだ。

 

「……おっしゃる通りです」

 

 よく分からないまま、シディは再び同意するしかなかった。まんまと引っかかった自分に、彼は内心で舌打ちする。「ドランフォート大学の教授たる方のお悩みにしては、矮小ですね」と言えばよかったのかもしれない。

 

「私にとって仕事は生き甲斐であり、娯楽であり、人生である。世間一般には仕事を苦痛だの退屈だの懲役だのと言う輩もいるが、彼らの問題点はただ一つ、自分の望む仕事に就いていないというだけなのだ。その点私は違う。私の仕事は、私の望みそのものだ。生活に支障が出ないならば、無償でも構わないくらいだ」

「大学で学生たちを相手に講義をするのは、とてつもない苦痛だとおっしゃっていたような気がしますが?」

 

 頭を捻って発したその一言に、さらにエルロイドは顔をしかめる。

 

「シディ、君もマーシャに影響されているようだな。反応の仕方が似てきたぞ」

 

 主の機嫌を損ねてしまったのは明白だ。慌ててシディは謝罪する。

 

「も、申し訳ありません」

 

 あの平凡なくせに妙に腹の据わった助手に似てきては、執事の沽券に関わる。

 

「彼女のような人材は一人いれば充分すぎるほどだ。君まで彼女の言動に倣う必要はないのだぞ。君は君で有能な存在だ」

「ありがとうございます」

 

 叱るだけでなくねぎらいの言葉をかけてくれるエルロイドに、シディは少しだけ顔がにやけてしまうのを隠せなかった。

 

「だが……そうだな。ならば、彼女の日頃のはたらきに何かしら報いる、という名目で少し出費も考えてみようか」

 

 エルロイドがいつもの気まぐれを起こしたらしいが、シディは素早くそれに対応する。

 

「でしたら、このようなものがあります」

「宝飾店のカタログが。悪くない」

 

 彼が差し出した冊子をエルロイドは受け取り、中身を見ていく。

 

「……オパールの指輪か。なかなかいいものだな。面白い。だが、ありきたりだ。私が行うのにふさわしいとは言えない」

 

 このまま購入かと思いきや、彼は冊子を閉じてシディに返した。

 

「まあいい。この際、出費はまた今度考えるとしよう。あの助手と行える、何か手頃な娯楽がないだろうか。シディ、思い当たる節はないか?」

「それでしたら……」

 

 シディはすかさず、引き出しから一通の手紙を差し出す。

 

「以前、このようなものが届けられました」

「ふむ」

 

 受け取るとエルロイドは差出人を確認する。

 

「近々行われる音楽会の招待状です。旦那様は受け取られたときは気乗りしないご様子でしたのでそのままにしておきましたが、いささか状況が変化したのではないでしょうか?」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャ、今何をしている?」

 

 突然のノックに部屋着姿のマーシャが自室のドアを開けてみると、そこにはなぜかエルロイドが立っていた。

 

「お手紙を書いていましたが」

「誰にだ?」

「以前お世話になった服飾店の娘さんです。今度結婚されるので、お祝いの手紙を書こうかと思いまして」

「ふむ、どこで知り合ったのかね?」

 

 なぜか妙にプライベートに関心を払ってくるエルロイドに、マーシャはいぶかしげな顔をする。普段のエルロイドは、自分の研究以外のこの世のすべてに関心がないような顔をしているのだが。

 

「聞きたいですか? 長くなりますけど……」

「いや、いい。君の私事にそこまで関心があるわけではない」

「そうですよね、承知しております」

 

 そう言って会話を終わらせようとしたマーシャだが、エルロイドはまだ立っている。

 

「まだ……何か? あ、分かりました。お仕事ですね。はい、どうぞ!」

 

 ドアを大きく開けて自室に招こうとしたマーシャだが、エルロイドは手を振って否定する。

 

「いや、違う。違う、そうではない」

「はい……?」

 

 何やら、今日の彼は煮え切らないことおびただしい。

 

 と、そこまで説明してから、エルロイドは本論に戻る。

 

「いや、そんなことはどうでもいい。マーシャ、私宛に音楽会の招待状が届いている。チケットは二枚あって困っているのだ。今度、君も一緒に来たまえ」

 

 一気呵成とばかりに自分の目的を告げたエルロイドは、マーシャの反応をじっとうかがっている。しばらく彼女はきょとんとしていたが――

 

「――はい。喜んで」

 

 そう言うと、軽く一礼する。まるで、ダンスに誘われた良家の淑女のように。

 

「そう来なくてはな。当然の反応だ」

 

 エルロイドは悠然としているように見えるものの、どことなくほっとした様子だ。

 

「……一つお聞きしますが」

「何だね」

「教授は、本当に困っていらしたんですか?」

 

 マーシャにそう尋ねられ、彼はうろたえる。

 

「と、当然だ。私は人からの好意はきちんと応えたいと思っている。紳士として振る舞うのは当然の務めだろう。何を言っているのだね、君は」

「そういうことにしておきます。教授からのせっかくのお誘いですもの」

 

 マーシャの笑みに、エルロイドはそっぽを向くことで応える。こうして、彼の目的はとりあえず達成できたのであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「まったく、君は平然と馴染んでいるな。コールウォーンでもこのような会合が頻繁にあったのかね?」

「いいえ、教授。滅多にないですよ」

 

 演奏会当日。会場で夜会服に身を包んだマーシャを見て、改めてエルロイドは感想を述べた。

 

「とてもそうとは思えないな」

 

 普段侍女や助手をしているとは思えないほど、彼女の姿はこの場に溶け込んでいた。

 

「どうですか、私の格好。おかしなところとか、ありません?」

 

 改めてマーシャは、今日の服装の感想をエルロイドに尋ねる。主賓ではないため、色合いや形は地味で目立たない。けれども華美なものや装飾過多なものを嫌うエルロイドにとっては、彼女の外見は充分観賞に堪えうるものだ。

 

「いや、問題ない。よく似合っている」

 

 彼の率直な感想に、マーシャは目を丸くして驚きを露わにする。

 

「教授、今日はすごく紳士的ですね。どうされましたか?」

「私は常日頃から紳士だ。それに、私が選んだコーディネートだ。問題ないのは当然だろう?」

「ふふ、そういうことにしておきましょう」

 

 何やら含みを持たせたマーシャの言葉に、エルロイドが抗議しようとしたその時だった。

 

「あら、あちらの方…………」

 

 マーシャの目が、階上のロイヤルボックスへと向けられる。

 

「ん?」

 

 つられてエルロイドがそちらを見ると、一人の老婦人がこちらを見ているのに気がついた。目立たないが、周囲にそれとなく警備の人間を連れているようだ。

 

「なっ!?」

 

 だが、驚くのはそこではない。彼女の顔に、エルロイドは見覚えがあったのだ。

 

「――じょ、女王陛下ではないか。なぜこのような場所にいらっしゃるのだ?」

 

 エルロイドは大声で叫びそうになるのを、何とか理性で押しとどめる。だが、その厳格かつ気品のある顔立ちは忘れもしない。彼女こそ、帝国女王ゼネディカだ。

 

「陛下だったんですか? でしたらお静かに、教授。きっとお忍びで来ておられるんですよ」

「そ、そうだが……」

 

 落ち着いているマーシャを少し羨ましく思いつつ、彼はおかしなことに気づいた。

 

「いったいなぜ君が陛下のお顔を?」

 

 女王の顔写真が新聞に載ることは稀にあるが、大概は遠くからの写真である。それに、田舎育ちのマーシャがこの国の政治に詳しいとはとても思えない。

 

「いえ、なんだか、以前お会いした方にそっくりだな、と……」

「そっくりだと?」

「はい。コールウォーンのお屋敷に務めていた頃、よく尋ねてきた方なのですが……」

 

 何やら話がおかしな方向に流れていく。エルロイドは、てっきりマーシャが女王を見つけたのだと思っていたが、どうやら違うらしい。彼女は単に知り合いに似た人物を見つけただけのようだ。

 

「陛下は教授とお話しされたいのでしょうか?」

「だとしたら、供の者を使いとしてよこされるはずだ。君の気のせいだろう」

 

 結局のところ、マーシャはただ勘が鋭かっただけのようだ。エルロイドが見ている前で、マーシャは階上の女王に笑顔を見せると、目立たないようにそっと頭を下げる。まるで、しばらく会っていない祖母と再会した孫のような自然な笑顔だ。

 

 その脇でじっとしているのも失礼に当たると思い、エルロイドも彼女に倣って一礼する。対する女王は静かにうなずいただけだ。周囲の護衛らしき人間が何やら動くが、彼女が何事か囁くとすぐに元に戻る。

 

「君は不思議な女性だよ、マーシャ・ダニスレート」

 

 率直なエルロイドの感想に、むしろ彼女の方が不思議そうな顔をするのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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10-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「なかなかの演奏だった。生の演奏は指揮者と演奏者の息づかいが伝わるようで、よいものだな」

「蓄音機から聞こえてくる音楽も、それはそれで味がありますけれどね」

 

 演奏会も終わり、マーシャとエルロイドの二人は連れだって廊下を歩いていた。廊下はホールから出てきた人たちでごった返している。

 

「もう、陛下はお帰りになったのでしょうか?」

 

 周囲をきょろきょろと見回すマーシャに対し、エルロイドは無関心なように見える。

 

「さて、分からんな」

 

 だが、果たして本心からそう言っているのかどうかまでは分からない。何しろ女王ゼネディカこそ、かつてエルロイドの研究に目を通すだけでなく直々に褒誉を賜り、彼を奮起させた張本人だからだ。

 

 演奏の余韻に浸っていた二人の背に、突然大声が投げかけられる。

 

「ヘンリッジ! おい、誰かと思ったらヘンリッジじゃないか。ずいぶん久しぶりだな!」

 

 マーシャとエルロイドが振り返ると、そこには一組の男女が立っている。年齢はエルロイドと同じくらいだろう。気障だが野性味のある赤毛の男性と、黒髪の大人しそうな女性だ。

 

「どうしたどうした、珍しいこともあるもんだな。学生の時分は、いつ誘っても絶対に応じなかったお前が、今日は研究室から出てくるなんて、明日は氷柱が降るな。あっはっはっは!」

「ケンディストン……」

 

 人混みを掻き分けるようにしてこちらに近づく男性と、その後ろに続く女性に、エルロイドの口が男性の名前らしきものを発する。

 

「そうだよ。懐かしいなあ、学友にして悪友よぉ。覚えてるか、俺たちの武勇伝の数々を?」

 

 大げさに握手を求めてくる男性に、エルロイドの眉がぴくりと動いた。

 

「すまない、人違いのようだ。帰ってくれたまえ」

 

 くるりと背を向ける彼に続こうかどうしようかとマーシャが迷うひまもなく、ケンディストンと呼ばれた男性は彼を追いかける。

 

「ああああ、すまん、すまん。むしろ朋友、親友、いや畏友だよお前は、なあ、そうだろ? ヘンリッジ・エルロイド」

 

 どうやら、自分のことを悪友呼ばわりされたことが、エルロイドの気に触ったらしい。畏友と呼ばれ、彼は足を止めて振り向く。

 

「……私の方が間違えていたようだ。久しぶりだな、ケンディストン・フーハンガー」

 

 エルロイドは静かに握手に応じる。名前から察するに、彼はイローヌで妖精と暮らしていたダランの親戚のようだ。力強くエルロイドの手を握りしめたケンディストンの目が、後を追って近づくマーシャに向けられる。

 

「そちらのレディは? ま、まさか……」

 

 正装した彼女を見て、彼はとんでもない勘違いをしたらしく、ぱっと顔を輝かせる。

 

「おいおい! ずいぶん若い奥様だなあ。お前の教え子を捕まえたのか? しかも美人じゃないか。お前にはもったいない良妻だなあ、おい」

 

 無茶苦茶な言葉に絶句するマーシャだったが、対するエルロイドはぶすっとした顔で訂正する。

 

「彼女は私の助手だ。勘違いしないように」

「あ、そうか。そりゃ残念だ」

 

 間違いを正されたケンディストンはあっさりと引き下がる。

 

「まあ、ここで立ち話もなんだな。予定がないなら、これから食事でもどうだ? うまいカモ料理の店を見つけたんだ、再開を祝って乾杯といこうじゃないか」

 

 彼に強く勧められ、しばらく考えてからエルロイドはうなずく。

 

「飲酒を無理強いするのでなければ、同行しよう」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 それからしばらく後。マーシャとエルロイド、それにフーハンガー婦人を含む三人は、ケンディストンの案内で一軒のレストランにいた。店内の照明はほどよく弱められ、静かに会食を楽しむのに最適のムードがかもし出されている。マーシャは周囲をそれとなく見てみると、どうやら自分たち以外にもコンサート帰りの人間が何組かいるようだ。

 

「俺たちの古巣、ドランフォート大学に乾杯!」

 

 高々とグラスを掲げるケンディストンに、渋々といった感じでエルロイドもグラスを掲げる。

 

「女王陛下と帝国に乾杯」

 

 中に入っているのは、アルコールではなくレモン水だ。マーシャはワインをたしなみたかったのだが、彼に配慮して自分も同じものにしている。

 

「マーシャさん、先程は夫の勘違い、すみませんね」

 

 ケンディストンの隣に座る彼の夫人が、丁寧にマーシャに謝る。

 

「いえ、お気になさらないで下さい」

 

 マーシャとしても、それ以上過ちを責める気など毛頭ない。

 

「二人はなかなか似合いのように見えるんだがなあ、俺は」

「人を外面だけで判断する、君の悪癖は直っていないようだな」

 

 エルロイドは給仕にメニューを注文し終えてから相好を崩す。

 

「それにしても、君が代議士か」

 

 エルロイドがマーシャに説明したところによると、このケンディストンという人物は、彼の大学時代の同級生である。その頃は悪童がそのまま成長したような札付きの不良だったが、いつの間にか代議士にまで出世していたようだ。

 

「まあ、八割方親父のコネだな」

 

 あっさりとケンディストンは、出世が親の七光りによると認める。

 

「いいや、六割五分だろう。君の口の上手さは確かに政治家向きだよ」

 

 エルロイドはそう言うと鼻で笑う。

 

「だが、君のような舌先三寸で大脳がカタツムリと同レベルの人間が国政の一端を担う、か。帝国の栄光にもかげりが見えてきそうで空恐ろしいよ」

「馬鹿言え。俺が首相になった暁には、帝国は未曾有の発展を遂げること請け合いだぜ。洋の東西を問わず、帝国の名はこの星全土に知れ渡ることになるのさ」

「その言葉で何人の有権者が釣れるのか、拝見させてもらうとしよう」

 

 あくまでも無愛想な様子を崩すことはないが、エルロイドはそれなりにこの旧友との会話を楽しんでいるようだ。

 

「一方お前は大学の教授か。上層部に絶対に媚びないお前にしちゃかなり早かったな」

 

 ケンディストンに話題を振り向けられ、エルロイドはつまらなそうに答える。

 

「望む研究を続けるためには、それ相応の肩書きが必要だっただけだ。研究さえできるのならば、教授だろうが助教授だろうがなんの興味もない」

「昔からお前は、出世にはちっとも関心がないんだよなあ」

 

 大げさにため息をついてから、ケンディストンはぐっと上半身を近づける。

 

「それで、お望みのものは手に入ったかい、教授?」

 

 即答が返ってこないため、彼いぶかしげな顔をする。

 

「……あれ? 聞いちゃいけない話題だった?」

 

 どうやら、痛いところを突いてしまったと思ったようだ。

 

「いや、そうではない」

 

 ややあって、エルロイドは首を左右に振った。

 

「未だ五里霧中、と表現するほど手詰まりではないが、あいにくと明々白々な結果が出ているわけでもない」

「そりゃ大変だ」

 

 彼の研究がどのようなものか、さらにどれくらい成果が出ているかなどは、ケンディストンの興味を惹かなかったようだ。

 

「早いところ結果を出すか、もしくは期限を決めて諦めろよ。お前も俺も、もう大学時代の頃とは違うんだからな」

 

 代わって、彼はお節介ともとれるようなことを口にした。

 

「何を言う。私はあの時よりもさらに聡明になった。学生時代の聡明さに今の聡明が組み合わされて二倍、いや二乗である」

 

 案の定、エルロイドは不愉快そうな顔で反応する

 

「あー違う違う。そう言う意味じゃないって。お前のインテリはよく分かっているからさ」

 

 大げさに手を振って、彼はエルロイドをあしらう。

 

「そうじゃなくて、お前も俺もいい年だってこと。若くはないぞ、分かってるのか?」

「若さなど……」

 

 鼻で笑って相手にしないエルロイドだが、なおもケンディストンは食い下がる。

 

「まだ独身だろ? それでいいのか? 俺みたいな凡人から見ると、ワケ分からん研究に一生を費やす男なんて、嫁の来手がないぞ。まあ、実家に頼めば何とかなるか。エルロイド家もなかなか良家だし」

「どうでもいいことだ、興味がない」

「お前ならそう言うと思っていたけどな、ヘンリッジ」

 

 そう言って、月下氷人になりつつある旧友は笑う。

 

「君の方はどうなのかね?」

 

 エルロイドはさっさと話題を変える。これ以上結婚についてあれこれ世話を焼かれるのはごめんだ、と思っているのが傍目から見てよく分かる。

 

「ああ、みんな元気さ。チビが最近とみにやんちゃになって困るぜ」

「それはそれは大変なことだ」

 

 ちらりとマーシャがフーハンガー婦人の方を見ると、笑顔でうなずかれた。

 

「だが、楽しいもんだ。自分と連れ合いの血を半分ずつ分け合った人間が存在して、しかもそれが俺の子供だっていうのは不思議な気分だ。自然と、こいつのためなら何でもしてやろうって気になってくる。こいつが健やかに育つのにふさわしい、善い国にしようって気がするんだよ、本気で」

 

 それまでの不真面目な様子とは打って変わって、ケンディストンは柔らかな笑みを浮かべつつ言った。そこにいるのは、かつての不良でも、出世街道を歩む代議士でもない。一人の父親だった。

 

「それを聞いて安心したよ」

 

 そんな旧友の所信表明を聞いて、エルロイドもまた口元にかすかな笑みを浮かべていた。

 

「かつての君ならば、享楽の果てに売国奴になりかねない不信にして不敬な輩だった。だが、今の君ならば安心だ。やや心配な面はあるものの、とりあえず国政を任せるに足る人物だと言えよう」

「ドランフォート大学一の秀才にお墨付きをもらえて、俺としても光栄だね」

 

 何はともあれ、かつての学友たちはテーブルを囲んで旧交を温めるのであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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10-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 レストランでフーハンガー夫妻と別れ、マーシャとエルロイドは馬車の客室内にいた。

 

「楽しかったですか、教授?」

「やや食べすぎたようだ。それに、多少喋りすぎた」

「それだけ、昔の友だちと再会できて嬉しかったんですよ」

 

 自分のことのように嬉しそうなマーシャだが、あまりエルロイドは楽しそうではない。

 

「君はどうなのだね?」

「ご心配なく。フーハンガー夫人と、しっかり親交を深めましたから」

「それはよかった」

 

 エルロイドはすぐ黙り込んでしまう。

 

「嫌みでも言われたんですか? いつもの教授のように」

「私がいつ嫌みを言ったのだね?」

「いつもでは?」

「ふん、諧謔の一環と言いたまえ」

 

 マーシャがいぶかしく思うほどに、今夜のエルロイドの毒舌は勢いに欠ける。

 

「マーシャ、君は……」

 

 しばらくしてから、エルロイドはマーシャの方を見ないで口を開いた。

 

「はい?」

「君は、男女はすべからく家庭を築くべきだと思うかね?」

「基本的にはそう思いますが……」

「旧態依然の思想だな。そもそも、今は女性も社会に進出する時代だ。夫が外で働き、妻が家計を切り盛りして満足するのは、思考停止というものだ」

 

 しかし、エルロイドはそれだけ言うと、また黙ってしまった。どうも歯切れが悪く、何か苛ついているようだ。

 

「教授、何がおっしゃりたいのですか? 要領を得ない物言いは、教授らしくありませんが」

 

 マーシャがやや問い詰めるような物言いでそう尋ねると、エルロイドはようやく彼女の方を見る。だが、すぐに目を逸らし、窓の外に目をやった。

 

「――知らぬ間に、皆まともになったものだ」

 

 その言葉は、マーシャに向けたものと言うよりは、むしろ独白に近かった。

 

「大学一の馬鹿者、地獄行きの愚者と皆が口を揃えて言っていたあの男が、いつの間にか所帯を持ち、妻子を養い、さらには代議士とはな。驚く限りだ」

 

 どうやら、栄職に就いたケンディストンの姿がそれなりにショックだったらしい。

 

「そして、皆老いていく。彼も、私も。誰も死からは逃れることはできぬ。それまでに、私は私の人生すべてを捧げたものを、きちんと完成できるのだろうかな」

 

 マーシャの知る限り、エルロイドは研究一筋である。人付き合いも悪ければ、愛想も悪い。自分の興味関心の趣くまま、それに没頭していれば充分満足のように見えていた。

 

 だが、彼もやはり人の子である。大学時代は不良だった同輩が、今では所帯持ちで立派な父親にして代議士に成長した姿を、否応なしに自分と比べてしまったのだろう。確かにエルロイドはドランフォート大学の教授である。けれども、彼が心血を注いでいる妖精の研究は、未だに完成していない。そして同時に、未だに世間に認められていない。

 

「教授…………」

 

 慰めの言葉がとっさに思いつかないマーシャの顔を見て、急にエルロイドは機嫌を悪くする。

 

「ええい辛気臭い! 私をそのような哀れむような目で見るのはやめたまえ! 私は君如きに憐憫の情を抱かれるような弱者ではない!」

「教授、弱者のなにが悪いんですか!? 勝手に一人で落ち込んで、勝手に一人で怒らないで下さい!」

 

 腹立ち紛れに声を荒げるエルロイドだったが、今夜のマーシャはそれに怖じることなく、強い語調でたしなめる。

 

「む、むむ……。わ、悪かった…………」

 

 それに反論する元気もなかったのか、エルロイドはもごもごと謝ると黙ってしまった。再び、馬車の中を居心地の悪い沈黙が支配する。

 

「教授、気分が塞ぐときは、お馬鹿なことをしましょう」

 

 その空気が嫌で、マーシャは意図して明るい口調でそう提案した。

 

「お馬鹿だとぉ!?」

 

 突然話題が切り替わり、エルロイドの声が上擦る。

 

「はい。大まじめで、下らないことをするんです。沈んだ気持ちを盛り上げる有効な手段として、最近では有識者の間でも評価が高いれっきとした健康法なんですよ」

 

 もちろんこれは、マーシャの口から出任せだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「……それで、ここかね?」

「ここしか思いつかなかったんですが……」

 

 エルロイドの呆れかえった声に、マーシャはやや居心地の悪そうな態度を取る。マーシャが馭者に頼んで自宅から変更した行き先とは、遍在宇宙交信協会の会館である。二人の前にはでかでかと、惑星の配置と宗教的なシンボルが組み合わされた悪趣味な協会のポスターがある。

 

「ブホホホホホ! あぁらエルロイドちゃんにマーシャちゃん、夜更かしなんて悪い子たちねえ。でも歓迎しちゃうわ、ブホホホホホ!」

 

 扉を開けて中に入ると、さっそく広間にいたマダム・プリレがこちらを見て駆け寄ってきた。酒樽が転がるような動きだ。背中には何本ものパイプと旗とライトを背負い、手には色とりどりに光るランプを持っている。

 

「マダム・プリレ、訪問早々率直に尋ねさせてもらうのだが、君たちはいったい何をしているのだね? 万魔節は当分先だぞ」

 

 エルロイドは彼女の仮装を見て、忌まわしそうに後ずさりする。万魔節とは、秋の終わりに行われる古い祭である。現在こそ仮装して練り歩くイベントだが、古くは聖人の目をかいくぐって悪魔が地上に現れる日とされていた。

 

「太古よりおおへび座付近の惑星から来訪している、爬虫類タイプの知的生命体との交信の練習よ。どう、この壮大なる銀河に未知の可能性を求める開拓者精神! アタクシたち、輝いているでしょ!」

 

 奇抜な格好の由来を、マダム・プリレは熱く語った。いかんせんその熱意は二人には通じず、マーシャとエルロイドは狂人を見る目で彼女を見る。

 

 だが、この怪しげでうさん臭くどうしようもないほどチープな活動こそが、遍在宇宙交信協会の存在理由である。その証拠に、広間には大勢の男女の会員が集まっている。皆同じような格好をしてランプを振りつつ、怪しげな言葉を唱えている。彼と彼女たちはきっと、マダム・プリレの言う通り、宇宙からの来訪者と交信を願っているのだろう。

 

 しかし、マダム・プリレは熱心な会員たちを尻目に二人に近づくと、その耳元で囁く。

 

「まあ、身も蓋もなく言うと、在庫一掃セール兼プロモーション活動の練習中なのよ」

「それはどういう意味かね?」

 

 少しだけ興味を示したエルロイドの言葉を呼び水にして、マダム・プリレは状況を説明する。

 

「アタクシたちが手ずから製作した宇宙交信グッズを販売して、サークル活動費の足しにしようって思っていたのよ。でも結果は惨敗。赤字もいいところよ。やっぱり、目に留まらない物は売れないわね。だから、今度は市民の前で実演販売をして、もっと大々的に宣伝しようと練習しているの。ついでに最近暇だったから、気晴らしも兼ねているわ」

 

 要するにこれは協会としての啓蒙活動ではなく、グッズ販売のためのプロモーションを練習しているだけのようだ。

 

「何という俗悪な集団とその行動だ。知性というものがこれっぽっちも感じられず、場当たり的な愚行の数々は節足動物にすら劣る。まさに下卑下劣の極みだな。怖気がする」

 

 めまいを覚えたのか、エルロイドがそう言いつつよろめく。

 

 マダムたちのあまりにも下らない行動に、彼の痛罵がようやく本領を発揮し始めた。

 

「そんなことはどうでもいいわ! さあエルロイドちゃん、マーシャちゃん。ここであったが百年目、あなたたちも一緒にグッズの宣伝の練習に参加してちょうだい! はい、お願いよ!」

 

 一方、マダムはこれ幸いとばかりに、二人にグッズを押しつける。

 

「マーシャ」

 

 彼女の勧誘を完全に無視して、エルロイドはマーシャに呼びかける。

 

「はい、何でしょう」

「私は君に感謝しよう」

 

 その言葉に、マーシャは不審そうな顔をする。

 

「唐突にどうされましたか? ……私はやりませんからね?」

「わ、私もこんな狂気じみたサークル活動に参加するつもりはない!」

 

 マーシャにサークルに参加するつもりかもしれないと勘違いされ、大あわてでエルロイドはそれを否定する。

 

「ただ、こうして狂騒に大まじめに取り組んでいる衆愚たちを見ていると、私の悩みなど些末なことだったと思えてきたからだ。事実、些末なものだったようだな」

 

 どうやら、エルロイドの機嫌もようやく上向いてきたらしい。

 

「私は、私の道を行く。それしか、できないのだ。そして、それで充分だ」

 

 彼はそう言い、晴れやかな顔でマーシャの方を見る。いつもの傲慢で、自信に溢れ、自分こそが世界を牽引すると信じて止まない、あの教授の顔が徐々に復活していた。

 

「でしたら――」

 

 マーシャはそう言うと、一歩彼に近づき、やや上目遣いでその顔を見る。

 

「その道行きに、私も同行させていただきます」

「なぜだね?」

「教授は今、孤独な自分にお酔いになっておられるようですが、道というものは私道でもない限り万人に公開されているものですよ。教授が歩もうとしている道が、いずれ多くの人々が進む道となるならば、私がその一番乗りです。素敵だと思いません?」

 

 マーシャの物言いも、エルロイドに負けず劣らず痛烈である。自分の雇い主が自己陶酔している、と平然と言ってのけるのだから空恐ろしい。しかし、彼女の口調は穏やかで、言っていること自体は優しい。だからこそ、エルロイドも怒ることなくこう尋ねる。

 

「君は本気で言っているのかね?」

「知性を疑います?」

 

 マーシャは少しおどけてみせる。

 

「いや、先見の明がある」

「そうおっしゃると思っていました」

 

 どこまでも平然としている彼女を見て、エルロイドは静かに肩をすくめた。

 

「やはり、君は不思議な女性だ、マーシャ・ダニスレート」

 

 それは、何度か繰り返された言葉だ。けれども今夜は、さらに一言彼は付け加えた。

 

「そして――――得難い女性だよ」

 

 と。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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11・不自然な密室 と 強引な解決策 の 話
11-1


 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャさ~ん、これで何回目ですか~?」

 

 異様に長く続く廊下を歩きつつ、マーシャの隣を歩く女性が間延びした声を上げる。レースやフリルでたっぷり装飾された服を着た、かなり小柄の女性だ。

 

「ええと……」

 

 マーシャはさっと記憶を辿る。

 

「二十一回目よ」

 

 それは、この見覚えのある廊下を歩いた回数だ。

 

「もううんざりです~。ちょっと休憩しましょうよぉ」

 

 とうとう女性の方は、その場に座り込んでしまった。だらしなくお尻を床につけていることからして、相当肉体的にも精神的にも参っているようだ。

 

「ええ、そうしましょう」

 

 周りに誰もいないのを確認してから、マーシャも床にハンカチを敷いてから座り込み、壁にもたれ掛かる。

 

「これが妖精のいたずらなんですかぁ?」

「きっとそうね。少なくとも、この家の造りがもともとこうだった、という可能性はなさそうね」

「そうだったら一体どれくらいの大きさなんですかぁ……」

 

 女性は首を左右に振る。外見こそ幼いが、中身はマーシャと同年代なのがよく分かる。だからこそ装飾過多な服装が、似合うようでやや似合っていない。

 

「ごめんなさいね、マーシャさん。こんな変なことに付き合わせちゃって」

 

 彼女が謝るので、マーシャは努めて気にしていない様子を装う。

 

「気にしないで、ルーニー。私の雇い主は、こういうことの専門家なの。だから助手の私も慣れっこよ」

 

 実際、エルロイドならばむしろ嬉々として現状を楽しんでいるに違いない。

 

 そう言いつつも、マーシャの左目は周囲を油断なく見回していた。この家はあたかも鳥籠のようだった。その形状が、ではなく用途が、である。そして、マーシャたちは閉じ込められた小鳥だった。だが、ここまで妖精郷の近くに位置しながら、妖精の姿は見えない。よほど妖精が姿を見られたくないのか、あるいは何かルールがあるかのどちらかだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 そもそも事の発端は、マーシャの友人であるルーニー・ペイワークの婚約である。服飾店に勤めていたこの小柄な女性は、若手弁護士のボーヘン・ダイラバートの未来の妻となることが決定したのだ。ボーヘンは決して辣腕ではないが、依頼人の身分を問わず親身になって接することから、特に貧しい人々に人気の弁護士だった。

 

 そんな彼がエルロイドの元を訪れたのは、婚約者のルーニーから、「自分の友人が勤めている先はドランフォート大学の教授、それも妖精を研究する教授のところだ」という情報を得たからだった。ボーヘンが大学にいるエルロイドに面会するなり切り出したのは、「自分の依頼人が相続した財産の中に、妖精の出る家というものがある」という話だった。

 

 ボーレンによると、その依頼人は多額の負債を抱えていて、なるべく高値で相続財産を売りたいと思っているそうだ。しかし、この妖精が出る家というのは、ひどくくせ者だった。相当強力かつ根性のねじ曲がった妖精が住み着いているらしく、誰かが住もうものなら全力でいたずらと嫌がらせをしてくるのだ。これでは家が売れるはずがない。

 

 ということでボーレンは依頼人を助けるべく、家から妖精を追い払ってほしいとエルロイドに協力を仰いだのである。もちろんエルロイドは同意した。依頼人のためでもボーレンのためでもなく、自分の知的好奇心を満足させるために。だが彼も折悪しく立て込んだ仕事があり、まずはマーシャが一人で派遣されることとなった。結果がこれである。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 柱時計が七時を告げ、マーシャは目を開く。

 

「おはようございます~。マーシャさん」

 

 並んだベッドの隣から、もぞもぞとルーニーが起き上がった。

 

「おはよう、ルーニー」

 

 マーシャも起き上がり、軽く体を動かす。眠った気がしない。ここは家の中の寝室だ。ベッドも寝間着も勝手に拝借させてもらった。結局、二人はこの家で一泊してしまったのだ。

 

 妖精の住む家という触れ込みは間違っていなかった。それどころか、群を抜いて力の強い妖精がいるらしい。何しろ、マーシャの妖精女王の目を持ってしても、妖精を従わせることはおろか正体を暴くことさえできないのだ。妖精は家の中のどこかに隠れていて、マーシャの緑色に輝く目から見事に逃げおおせているらしい。

 

 そもそも、ここは家といっても本来は廃屋だ。マーシャがルーニーに連れられて足を踏み入れた家は、調度品もなければ掃除もされていない、ほこりの積もったどこにでもある廃屋だった。しかし、二人の後ろでドアがひとりでに閉まって鍵がかけられるや否や、そのどこにでもある廃屋の光景は、消しゴムで消された鉛筆画のように消えていった。

 

 マーシャとルーニーは昨日、よく手入れが行き届いた室内を延々と歩き回らされている。壁には額縁に飾られた絵がかけられ、あちこちには東洋の漆器や陶器が置かれている。暖炉には石炭が積まれ、台所の戸棚にはパンやハムが収納されている。一見すると、ただの無人の家だ。ここはあの廃屋ではなく、妖精郷に程近い別世界に位置しているらしい。

 

「これからどうしましょうか?」

 

 普段着に着替えつつ、ルーニーが心配そうな声を上げる。

 

「出口を探すよりほかないわね。このまま閉じこもっていても仕方がないわ」

「でも、いつまでたっても出られませんよ」

「だからといって、引きこもったままじゃ埒があかないわ」

 

 エルロイドの助けを待つのも手だが、その間にできることはやっておきたい。

 

「マーシャさんはたくましいですね~。普通なら安全地帯を見つけてじっとしていようって思いますもの。私、そう思ってました」

 

 ルーニーは、尊敬の感情がこもった目でマーシャを見ている。

 

「じゃあ、あなたはここで待ってる?」

 

 何気なくマーシャがそう言うと、「やだやだ、そんなこと言わないで下さい~」と言ってルーニーがすがりついてきた。

 

「離ればなれはもっといやです~。このお家で引き離されたら、到底再会できそうにありませんから」

 

 彼女の尋常でないうろたえ方を見て、マーシャは痛感した。自分はすっかり、怪事に慣れっこになっている。そうこうしている内に、ルーニーが着替え終わり、ようやくマーシャは気づいた。自分はまだベッドに腰掛けたまま、寝間着姿でいる。

 

「ちょっと待っててね。私も着替えるわ」

 

 そう言ってマーシャが寝間着を脱ごうとしたその時だった。遠慮のない靴音がドアの向こうで響く。しかも、次々とドアが開かれては閉じる音が連続して聞こえる。手当たり次第に誰かが、ドアを開けて室内を覗いて回っているらしい。いや、誰かなどと言うのは回りくどい。こんなことをするの一人しかいない。

 

「マーシャ! いないのか! マーシャ!」

 

 動く暇もなく、寝室のドアが勢いよく開かれる。

 

「むっ! やはりここにいたのか、マーシャ。それにそちらにいるのは、ボーヘン君の婚約者であるルーニー君で間違いないな。まったく、ここの妖精は私たちを絶対に逃がしたくないらしい。こしゃくな奴だ。さあマーシャ、君の調査結果を私に……!」

 

 早口でまくし立てつつ部屋に入ってきたのは、やはりエルロイドだった。けれども、その足が途中で止まる。

 

「教授」

「何かね?」

「見てお分かりになりませんか?」

「……な、何かね?」

 

 口ではそ知らぬ風を装っているが、エルロイドは明らかにたじろいでいる。マーシャは寝間着の肩紐や裾を手早く整えて、ゆっくりと丁寧に彼に説明する。

 

「女性の部屋にノックもなく入ってくるのは、紳士的ではないと私は思うのですが。ましてや、女性が着替えようとしている最中に」

 

 マーシャの言葉に、大あわてでエルロイドはきびすを返した。反論さえなく閉じられたドアの向こうに、マーシャはフォローする。

 

「ご心配なく。着替えていたのではなく、これから着替えようとしていただけですから」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「先程は本当に済まなかった。私の配慮が足りなかったことは謝罪しよう」

 

 廊下を歩きながら、エルロイドは隣のマーシャにしきりに謝っている。

 

「教授、ですからお気になさらないで下さい。何度も言いますが、着替えていたのではなく、着替えようとしていただけですから」

「似たようなものではないか」

「大違いです」

 

 おおざっぱなエルロイドの分類に、マーシャは困ってしまう。いつも人の視線や思惑をまったく顧みないエルロイドにしては珍しく、今回はちゃんと罪悪感を覚えたらしい。だが、逆に言えばややこだわりすぎだ。マーシャは今怒ってなどいないのだが、エルロイドはしきりと先程のことを蒸し返すのだ。

 

「そうだろうか?」

「そうなんです。お願いですから、済んだことを根掘り葉掘り問いたださないで下さい。少し恥ずかしいです」

 

 とうとう、マーシャの方が音を上げた。実際やや頬が赤い。

 

「むむ……複雑だな」

「そうです。複雑なんです」

 

 そこまで感情に訴えて、ようやくエルロイドの謝罪を兼ねた追求は止んだのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 エルロイドが足を止めたのは、一見すると何の変哲もないドアの一つである。だが、その向こうは「ここが応接室だ」というエルロイドの言葉通りだった。それまでずっと当てずっぽうにしか移動していなかったマーシャとルーニーが驚いたのは、言うまでもない。二人とも、ドアを開けるまで中がどうなっているのか予想すらできなかったのだ。

 

 応接室の内装は、これまでマーシャが見てきた部屋の中で図抜けて贅沢だ。やや悪趣味と形容するくらい、絵画やら陶器やらが所狭しと置かれている。むしろ、倉庫に近いとも言えよう。その中で、エルロイドは手持ちの小さなコンロで紅茶を煎れ、少しの茶菓子と共に二人に勧める。そして自分は、それまでずっと書き込んでいた手帳を見せた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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11-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「見たまえ。これがこの家のおおまかな見取り図だ」

 

 そこには、鉛筆で描かれたこの家のスケッチがある。

 

「こことここ、そしてこことここ。以上の四箇所で空間のねじれが発生し、この別の空間が出現している」

 

 ソファに腰掛けたエルロイドはそのスケッチの四箇所に、それぞれ鉛筆で丸をつけてから、その鉛筆を使ってもう一つのスケッチを指す。

 

「ただの廊下……」

「ですね~」

 

 向かいに腰掛けたマーシャとルーニーがそれを見て応じる。そこに描かれていたのは、側面にはずらりとドアが並んだ筒状の空間だ。

 

「そのとおり。意味のない個室が延々とつながっている。長さは可変だな。極端に長い場合もあれば、ほんの部屋が二つだけの場合もある」

 

 鉛筆が動くと、そこに「2~∞?」と記される。

 

「一階はまれにしかあらわれず、私たちは主に二階と三階をさ迷っているようだな。一階から直接三階に行くことはできず、必ず二階を経由している。二階から三階、あるいは二階から一階へ階段を使わず、出現した空間を経由して移動することもあった。昇降の感覚を味わわずに移動するのは不気味だな」

 

 エルロイドの説明に、ルーニーが悲鳴を上げる。

 

「すみません、聞いているうちにどんどんこんがらがってきたんですが~」

「情けない。君は位相幾何学をもう一度学び直したまえ」

 

 だが、彼の講義について行けない相手に対して、エルロイドはにべもない。

 

「では、私たちは何とかして一階にたどり着き、ここを通り抜けて玄関に行かねばならないんですね」

「そうだ。だが、現時点においてここは必ずねじれに巻き込まれる。故に君たちはいっこうに脱出できなかったのだよ」

 

 どうやら、これが迷宮と化した家の種明かしのようだ。確かに、どれだけ玄関を目指しても、知らない間に二階か三階に送り返されてしまうのでは、いつまで経っても出られないのも無理はない。

 

「マーシャ。ここで君の目を使いたまえ」

 

 説明を終えて腕を組むエルロイドだが、マーシャはためらう。

 

「ですが、先程も説明しましたが……」

 

 妖精の本質を暴くマーシャの左目は、今回に限り不発である。そのことを、彼女はエルロイドに真っ先に説明している。

 

「君は、この家のどこかに妖精が隠れていて、そいつを左目で見ない限り正体を暴けない、そう考えているのではないのかね?」

「違いますか?」

「嘆かわしい。君はそれでも私の助手か? こんな単純なことさえ見抜けないとは、将来が思いやられる」

 

 一日を丸々費やして彼のために働いた助手に向けて、この言い草である。

 

「悪かったですね。どうせ私の目は節穴の亜種ですよ」

 

 マーシャがむくれるのも無理はない。だが、彼女の表情はエルロイドの次の言葉で驚きへと変わる。

 

「結論から言おう。この家自体が、妖精なのだよ」

「ええっ!?」

「そもそもここはどこだ? あのボーヘン・ダイラバートが高値をつけようと必死の廃屋ではなく、まったく違う場所だろう? 廃屋に妖精が住み着いていたずらをしているのとはわけが違う。それならば、言わば私たちは妖精の腹の中にいるとも考えられないだろうか?」

 

 得意満面に自説を披露したエルロイドだが、すぐに真顔に戻る。

 

「もちろんこれは仮説だ。そして、仮説は立証しなければならない。さあ、マーシャ、頼むぞ。私は推理することはできるが、実際に妖精を暴くのは君の力が必須だ」

 

 そう言われては、助手のマーシャとしてもこれ以上仏頂面ではいられない。

 

「……分かりました。お任せ下さい」

 

 彼女は立ち上がると、一度深呼吸する。

 

「ここでいいんですか?」

「構わん。手始めに壁面を凝視したまえ」

 

 マーシャはうなずくと、じっと応接室の壁紙を見つめる。その二枚目の瞼が開かれ、左目が鮮やかな緑色の光を帯びた。

 

「もっと強く」

 

 だが、数秒経っても何も起こらない

 

「もっと長く」

 

 しかし、エルロイドは諦めない。

 

「もっとだ!」

「教授、ちょっと黙って下さい。こんなに長く一箇所を見たことなんて……!」

 

 とマーシャがエルロイドに抗議したのと同時に。

 

「アーア、ウルセーナー。バレチマッタジャネーカ」

 

 壁紙がぐにゃりと歪み、応接室の空間そのものが一瞬だけ揺らいだ。まるで壁の中に隠れていたかのようにして、何かが姿を現して床に降り立つ。

 

「これはこれは、ずいぶんと可愛らしい姿だな」

 

 大きさは子供ほど。ぶかぶかの服を着た、小さな少女の姿をした妖精だった。どことなく、人形のような出で立ちとぎこちない動きだ。

 

「ウザッテーナー。心ニモナイコト言ッテンジャネーヨ。人間ノクセニヨー」

 

 その口が開くと、獣のような乱杭歯がずらりと姿を見せた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「フン、間抜ケ面ガ雁首揃エテ並ンデンナー」

 

 その妖精は三人の顔をじろじろと見ながら、早速失礼なことを口にする。相当口が悪いようだ。

 

「私の隣の二人についてはあながち間違いではない表現だな。だが、そこに私を加えるようでは、たいしてこの妖精の知性は発達していないようだ」

「ナンダトー。ヤルカテメー!」

 

 小さな拳で殴りかかってくる妖精を、エルロイドは軽くかわす。

 

「やれやれ、凶暴でかなわん。マーシャ、少し大人しくさせてくれないか?」

「やってますけど……」

 

 彼の頼みに、マーシャは困惑気味に答えた。先程からずっと妖精女王の目でその妖精を見ているにもかかわらず、妖精はまったく怖じる様子がない。

 

「ヒャヒャヒャ! 偽物デアタシヲドウコウシヨウナンテ、チャンチャラオカシーゼ! オ前ノ目玉ハがらす玉ナンダヨ! ナンダッタラアタシガクリ抜イテヤロウカァ?」

 

 関心がエルロイドからマーシャに移った妖精は、ここぞとばかりに彼女を馬鹿にする。

 

「待て、偽物とはどういう意味だ?」

 

 妖精の言葉に、エルロイドが早速興味を示した。

 

「ソノマンマノ意味ダゼ、オ馬鹿サン。コイツノ目ハりあめいがん様ノ粗悪品サ! 人間ノ分際デ女王様ノ目ヲ授ケラレルナンテ、クソ生意気ナ小娘ダゼ、ムカツクナァ!」

「リアメイガン……」

 

 その名をマーシャは呟く。

 

「伝承で妖精の女王とされる存在だ。妖精郷を兄もしくは伴侶である妖精王アルヌェンと共同統治すると言われているが……」

「ダガ! テメーノ目ハりあめいがん様ノ目ニャ足元モ及バネーヨ! 紛イ物ガ本物気取リデノサバッテンジャネーヨ!」

 

 余程、この妖精は女王リアメイガンを慕っているようだ。同じ目を持つマーシャを偽物呼ばわりし、敵意を露わにしてくる。

 

「わ、私はそんなつもりでは……」

 

 むき出しの悪心に、マーシャがたじろいだとその時。

 

「マーシャ、まともに取り合わないように。所詮は妖精の戯れ言だ。真面目に聞く価値はない」

 

 彼女をかばうようにして移動したのは、エルロイドだった。

 

「ウルセー! テメーハソイツノ何ナンダヨ! 保護者カ? 親父カ? 彼氏カ? ソレトモ旦那様ナノカヨ?」

 

 癇癪を起こしたように地団駄を踏む妖精に、エルロイドは胸を張る。

 

「情けない。人間にレッテルを貼らなければその偉大さを理解できないとは。私はそのような一つ一つの細かな称号を既に必要としない存在だ。矮小な名詞によって個々の可能性をつみ取るなど……ふん、まさに愚者の所業だな」

 

 なにやら自己の言葉に陶酔しつつ天井を仰ぐエルロイドの姿を目にして、妖精は毒気を抜かれたように口をぽかんと開けた。

 

「アノー、スイマセン。コイツ、何言ッテンノカ全然分カンネーンダケド」

 

 次いで妖精は、それまで罵倒していたマーシャにそんなことを言ってきた。

 

「気にしないで、妖精さん。人間の私でも、理解できないことがよくあるから」

「アッ、ソウ。大変ナンダナ」

 

 妖精は首を左右に振って困惑している。どうやら、根っからの邪悪な存在ではないようだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「さて、何はともあれ、家の意志たる君が姿を現してくれたのは好都合だ」

「ホー、分カルノカヨ」

 

 少女とも人形ともつかない姿をした妖精は、精一杯反っくり返ってエルロイドに対峙する。口は悪いし手も早いし態度も横柄だが、幸い邪悪ではないらしい。家屋敷に住み、いろいろないたずらをする妖精に近いが、どうも別種のようだ。

 

「君は現世の家に居着く妖精ではない。家の扉を媒体に、自己そのものである異相空間に人を引きずり込む妖精だ。外周のない家が君の形態であり、ここは君の体内だ。そして今私たちが対峙している君は、言わば象徴であり、イメージだ。家が媒体で君が本体なのではなく、君が客体で家が主体なのだろう?」

 

 エルロイドの推理に、妖精は手を叩く。

 

「ヒャッヒャッヒャッ、ゴ教授恐レ入リマス。ダイタイ正解ダゼ。誉メテヤルヨ!」

「では、誉めてくれるついでに、私たちをそろそろ出してもらえないだろうか。手品の種が明かされれば、手品師はショーを終えるのではないのかね?」

 

 エルロイドの提案を受けて、妖精はしばらく考え込むように見えたが、それはフェイクだった。

 

「ヤーダヨ!」

 

 ぴょん、とテーブルに妖精は飛び乗ると、真っ赤な長い舌を出してエルロイドを小馬鹿にする。

 

「アイニク、アタシハマダマダ遊ビ足リネーンダヨ。モット遊ボウゼ、ナア?」

 

 エルロイドはどんな返事をするのか。マーシャは内心固唾を呑んだ。妖精を追い回すことに腐心する彼のことだ。突然変心し、しばらく逗留すると言い出す可能性だってある。

 

 だが、マーシャの予想は真っ向から裏切られた。

 

「お断りだ。私の助手を紛い物呼ばわりするような輩に費やす時間は、一秒さえも惜しい」

 

 エルロイドは妖精の誘いをその言葉で切って捨てる。

 

「教授……」

 

 一瞬、マーシャの心臓が大きく鼓動した。どうやら、エルロイドは妖精がマーシャを罵倒したことをちゃんと覚えていたらしい。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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11-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「ケッ、テメー自分ノ立場ッテモンガ分カッテネーナ! アタシノ許可ナシデ、ドウヤッテココカラ出ルツモリダヨ! アァン!?」

 

 だが、妖精は真っ当なエルロイドの発言が相当お気に召さなかったらしく、目をむいてすごんでみせた。

 

「ふむ、確かにそうだな」

 

 エルロイドが同意すると、ここぞとばかりに妖精は詰め寄る。

 

「ヒャヒャヒャ! 口ノ利キ方ニ気ヲツケナ、学者先生。ソウダナー、『オ美シイ妖精様、ドウカコノ卑シイ豚メニ寛大ナオ慈悲ヲオ恵ミ下サイ』ッテ言イナガラソコデオ願イシテミロヨ。ソウシタラ、考エテヤラナイデモネーゼ?」

「ほう、私のプライドを粉砕して遊びたいようだな」

 

 分かりやすい妖精の恫喝だが、エルロイドはまったく動じない。

 

「グダグダ言ッテネーデサッサト腹括レヨ。ソウシネート、死ヌマデココカラ出ラレネーゼ」

「残念ながら、私には別の方法がある」

「ソーデスカソーデスカ。ジャア、ソノ別ノ方法ッテノヲ見セテクレヨ。アルンナラナ! ヒャヒャヒャ!」

 

 ゲラゲラと顔を歪めて笑い転げる妖精を尻目に、エルロイドは立ち上がるとステッキを手に取った。

 

 その握りが取りはずされる。

 

「それ、もしかして銃ですか?」

 

 ルーニーの問いかけに、エルロイドはうなずく。目立たないが、確かにそれには撃鉄も引き金もある。エルロイドが愛用する仕込み杖の一本だ。

 

「脳ガ腐ッチマッタカ? アタシニソイツヲブッ放シテモ意味ネーゾ!」

 

 杖に仕込まれていた拳銃を構えるエルロイドを見て、妖精がわめく。

 

「安心したまえ、私の脳は腐ってなどいない。むしろ今日も明晰極まる。自分でも恐ろしいほどにな」

 

 彼はそう言うと、躊躇なく引き金を引いた。乾いた発射音と共に、弾丸が銃口から発射される。だが、狙いはテーブルの上の妖精に向けられてはいなかった。弾丸は妖精の頭の上を直進し、壁に掛かっていた肖像画の額を見事に打ち抜いていたのだった。

 

「ギャー! ナンテコトシヤガルンダヨ! コノクソ野郎ガ!」

 

 次の瞬間、妖精の口から耳障りな悲鳴がほとばしった。妖精は眉をつり上げて怒りを露わにしている。一方、当のエルロイドは平然としている。

 

「おや、手元が狂ってしまったようだな。私としたことが珍しい」

 

 そんな白々しい嘘をつく余裕さえあるようだ。

 

 彼はすぐさま弾丸を装填すると、再び狙いを定めて引き金を引く。今度も妖精には当たらず、代わりに窓際に置かれていた淡い翡翠色の花瓶が木っ端微塵に割れた。

 

「ウギャー! テ、テメー、ワザトヤッタナコラ!」

「いやはや、珍しいこともあるものだ。この私が二度もはずすとは。だが、三度目の正直という言葉もある。今度こそ」

 

 まるで自分の体に弾丸が当たったかのように苦しがる妖精だが、それを目の当たりにしてもエルロイドは射撃をやめようとしない。

 

「ヤ、ヤメロ、ヤメロッテ言ッテンダローガヨー!」

 

 妖精の悲鳴と共に、今度はソファーの背もたれに焦げた穴が開いてしまった。

 

「アアー! フザケンナー!」

「さて、次は……」

「テメーマジデ許サネー! コンナコトシテタダデ済ムト思ッテンノカヨコラー!」

 

 妖精はエルロイドに飛びかかるが、彼は先程と同じく難なくそれをかわす。

 

「おや、こんなところにワインの瓶があるな」

 

 続いてエルロイドが目をつけたのは、テーブルの上に置いてあった赤ワインの瓶だった。

 

「ソ、ソレヲドウスルンダヨ。マ、マサカ……」

 

 躊躇なくエルロイドは瓶の先端を机に叩きつけて割り、その中身を平然と床にこぼしていく。高級そうな絨毯に、赤い染みが広がっていく。

 

「ヤメロー! ヤメロヤメロヤメロヤメロ! 人ノ家ダカラッテ好キ放題シヤガッテ! ブッ殺シテヤルカラナ!」

 

 もはや怒髪天を衝くという言葉さえ生温いほどに激昂する妖精を、不意にエルロイドは睨む。

 

「ならば早くしたまえ。君にできることは二つ」

 

 片手でワインを床に注ぎつつ、彼はもう片手の人差し指を立てる。

 

「一つは、私たちを速やかに解放すること。もう一つは……」

 

 彼はもう一本指を立てる。

 

「そこで泣き叫びながら、私が完膚無きまでにこの家を破壊し尽くすのを眺めていることだ」

 

 言うなり彼は、ワインの瓶を壁の絵に投げつけた。

 

「ギャアアアアアアアア! コノ人デナシヤロー! 外道! 悪魔! バカヤロー!」

 

 無惨に傷と染みがついた肖像画を見て、妖精は身もだえしながら絶叫する。

 

「さて、次はどんなことをしようか。童心に返るようで、これはこれで面白くなってきたぞ」

 

 エルロイドはぐるりと室内を見回す。まだまだ、室内に無事な家具とインテリアが数多くあった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 エルロイドによる、室内の破壊行為という交渉兼拷問は三十分ほど続いた。その結果がこれである。

 

「ゴメンナサイ教授ゴメンナサイまーしゃサンゴメンナサイるーにーサンアタシガ調子ニ乗ッテマシタ悪イノハ全部アタシデス心カラ反省シテイマスノデコレ以上ヒドイコトヲシナイデクダサイ」

「ふむ、ようやく素直になったようだな」

 

 応接間は、フーリガンが暴れた後のような惨状になっていた。壁の絵は一枚残らず破られ、汚され、傷つけられている。壁には石炭でびっしりと落書き(どうやら数学の公式らしい)がされ、皿や壺はことごとく叩き割られていた。床はワインとガラスの破片と紅茶がぶちまけられ、絨毯はすっかり見る影もなくなっている。

 

 例えるならば、これは体内で病原菌が活動しているようなものである。病原菌がヒトの体内で増殖したことにより、免疫が反応して熱が出たり腹を下したりする。だが同時に、咳や痰によって病原菌を体から追い出そうとするはたらきもある。エルロイドがしたことはそれとまったく同じだ。妖精の体内で暴れ回り、わざと追い出されようとしたのである。

 

「ゴメンナサイ皆サンモウ二度トイタズラナンカシマセン大人シク故郷ニ帰リマス誰ニモ迷惑カケマセンダカラオ願イデスココカラ出テ行ッテ下サイ」

 

 結果として、彼の作戦は大成功した。今や妖精にとって、この三人は遊び相手から、頭を下げてでもいいから出て行ってもらいたい相手になったらしい。その表情はもはやいじめられっ子のそれだ。

 

「そこまで言われては、私も帰宅するのにやぶさかではない。なあ?」

 

 フーリガン顔負けの非道に手を染めておきながら、エルロイドはけろりとしている。

 

「ええ、そのとおりです」

「は、はあ……」

 

 いつものこととばかりにマーシャは平然としているが、ルーニーはついて行けないようだ。

 

「オ帰リハアチラトナッテオリマス」

 

 妖精が応接間のドアを開けると、その先の光景は廊下ではなかった。すっかりご無沙汰となっていた、あの廃屋の玄関だ。余程早く出て行ってもらいたいらしい。

 

「玄関まで行く必要さえないとは。手っ取り早いのは素晴らしい。さあ、マーシャ、それにルーニー君。先に行きたまえ」

 

 鷹揚にエルロイドは、まず女性二人を優先する。

 

「あ、はい」

「ありがとうございます」

 

 妖精が出てきてからすっかり蚊帳の外だったが、外に出られるのならば何でもいい。マーシャは促されるままにルーニーと共に外に出る。

 

「それでは、さらばだ。なかなか楽しめたよ」

 

 二人が外に出たのを確認してから、エルロイドも外に出る。振り返ると、廃屋の玄関から異質な応接間が見えるという奇妙な光景が見える。

 

 三人が出て行ってから、妖精の顔が突如として変わる。眉をつり上げ、歯をむき出しにして、妖精は吠えた。

 

「二度ト来ルンジャネーヨ! バーカ!」

 

 叩きつけるようにしてドアが閉められ、消えていく。

 

「安心したまえ。私としても、これ以上君と関わる気はない」

 

 かくして、妖精を研究する教授は、その手で一体の妖精を現世から放逐したのである。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「くそっ! くそくそくそくそくそっ! 何だよあの変人野郎は! 滅茶苦茶じゃねーか!」

 

 妖精は誰もいない応接室で頭を抱えて叫んでいた。エルロイドたちをからかっていたときとは異なり、その外見は人形よりも人間の少女にずっと近く、滑舌も普通の人間と変わりない。

 

「あ、あんなイカれた奴、初めて見たぜ! やってられるかよ!」

 

 妖精は半べそをかいて室内を見回す。

 

「……これ、全部あたしが片づけるんだぞ。ふざけんなー! バカー!」

 

 ここは彼女のすみかではなく、彼女の体内に等しい。内臓を引っかき回された不快感はさぞかしひどいものだろう。だが次の瞬間。突如として、部屋の壁が消えた。床が消えた。すべてが闇に染まり、家具や調度品の気配さえもなくなる。

 

「――――ッッ!」

 

 その闇は、ただの暗がりではない。重たく、分厚く、異様な威圧感がある。

 

「な、なんだよ……」

 

 彼女は極度の内弁慶だ。外周のない家の形をした彼女の体は、妖精郷に程近い場所にある。それが丸ごと、どことも知れぬ闇の中に投げ込まれたのだ。怯えない方がおかしい。しかし彼女の顔が、恐怖よりも驚愕に染められる。

 

 闇がカーテンのように左右に開かれ、何者かがゆっくりと姿を現してくる。

 

「あ、あなた様は……」

 

 その姿は、漆黒のドレスを身に纏った長身の女性に近い。だが、そのドレスは無数の仮面で飾られているという異装である。全身の仮面は喜怒哀楽を表現し、顔の仮面はすべてがはぎ取られたドクロだ。滑るように進み出る女性を見て、妖精の唇が動く。

 

「女王、様。その、お姿は…………」

 

 けれども、妖精は最後まで言葉を発することはできなかった。女性が腕を妖精に向かって伸ばすのと同時に、すべては無明にして無音の闇の中へと消えていった。

 

 ――かくして、くだんの家に妖精が出ることは二度となかった。その理由がエルロイドたちとは別にあることを、今は誰も知ることはない。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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12・妖精兵団 と 仲違いによる戦略的撤退 の 話
12-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 その日、マーシャとエルロイドが屋敷に帰ってきたのは、既に夜もかなり更けてからだった。彼女が玄関のドアノブに手を伸ばしたその時、かん高い早口が聞こえる。

 

「止まれーッ!」

 

 子供のようなその声は、マーシャの足元からした。

 

「ダニスレート王国国境警備隊だっ! 入国許可証を見せろーっ!」

 

 すかさず、マーシャはスカートに手をやりつつ膝を屈め、視線を低くする。

 

「私ですよ、妖精さん」

 

 それは子供や幼児に視線を合わせるどころではなく、地面を這う昆虫を見る視線だ。マーシャたちとドアとの間に、軍馬にまたがった騎士がいる。甲冑に身を固め、軍旗を手にし、背後に射手の隊列を配備させた騎士だ。ただし、手の平サイズの。

 

「ギャギャー! じょ、じょ、じょじょじょ女王様ァーッッ!? こ、これは失礼しましたーッ!」

 

 文字通り手の平の上に乗ってしまうサイズの騎士は、マーシャにそう言われて軍馬諸共のけぞった。

 

「開門、かいもーんっ! 女王陛下のご帰還であーるっ!」

 

 騎士が大あわてで軍旗を振り回すと、ひとりでにエルロイド邸のドアが開いていく。

 

「うわー女王様だ」

「お帰りなさーい」

「よくご無事でー」

「嬉しいですー」

 

 玄関をくぐって帰宅するマーシャとエルロイドに、わらわらと射手の武装をした兵士たちが嬉しそうに群がってくる。誰も彼も騎士と同じく手の平サイズなので、マーシャは踏んづけてしまわないようにやや気を遣った。彼らは幻覚などではなく、正真正銘の妖精たちである。

 

「毎回大げさですね」

「ふん、妖精とは実に不思議な存在だな。まさか、我が家にこうして憑くとは思いもよらなかった」

 

 楽しそうなマーシャに対し、エルロイドの反応は芳しくない。このところ毎日、こんなやり取りが繰り返されている。どういうわけか、この妖精たちはマーシャを姫君とし、エルロイド邸を領地とし、ここに居着いてしまったのだ。

 

 マーシャに対しては、まるで彼女が本物の女王であるかのようなうやうやしさを見せた騎士の妖精だったが、エルロイドの姿を認めた途端、その態度が一変する。

 

「こらーっ! 止まれッ!」

 

 軍馬の手綱を引き締め、大あわてで騎士はエルロイドの前に立ちふさがる。

 

「お前は誰だっ! 入国許可証を見せろーっ!」

「ふん、馬鹿馬鹿しい。なぜ主である私が君たちに足止めされなくてはいけないのだね。理解に苦しむ」

 

 妖精にそう命じられても、当然のことながらエルロイドは聞く耳を持たない。だがそれが、妖精たちをさらに刺激した。

 

「こらー! 不法越境者だ! ただちに応戦しろーっ!」

 

 騎士の命令一下、たちまち射手たちが弓を引き絞る。

 

「撃てー」

「放てー」

「発射ー」

 

 やる気のない発言とは裏腹に、一斉に放たれた矢は狙い過たずエルロイドの上半身に次々と当たる。

 

「やかましい! 私はこの家の正当なる所有者だ! 今すぐ射撃を中止して撤退するように! さもなければ――――」

 

 次の瞬間、一際強力な一矢が彼の顔に当たり、小さな爆発音と共に爆ぜる。

 

「きょ、教授!?」

 

 さすがに驚くマーシャだが、煙が晴れた跡にある彼の顔は無傷だ。だが、その顔が怒りで見る見る紅潮していく。

 

「もう勘弁ならん! 今日という今日は君たちを全員展翅してやろう! 覚悟しろ!」

 

 妖精たちを追い回すエルロイドの背中を見つつ、マーシャは呟く。

 

「むきになればなるほど、遊ばれているような気がしてならないのですが…………」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 遡ること一週間前。マーシャはエルロイドの命令で、とある古びた金属片に対して妖精女王の目を使用していた。何でもその金属片は、かつて七十年戦争を勝ち抜いた国王、フィーサー三世が用いた剣の破片だとか。もっとも、金属片と共に同封されていた教会の資料によると、どうやら贋作らしいのだが。

 

「せいれーつ!」

「気をつけっ!」

「敬礼っ!」

 

 だが、彼女の緑色に輝く左目に呼応して出現したのは、手の平サイズということをのぞけば正真正銘の兵団だった。何しろフィーサー三世は、何度となく神がかった勝利を帝国にもたらしてきた。彼の死後、その武装が聖遺物となったのも当然である。そして真偽を問わず、強い想念がこもった器物は妖精を引き寄せる。

 

「フィーサー陛下の血を継ぐお方、我らをお呼び下さってありがとうございます。我ら妖精騎士団、あなた様のお声一つで戦場を共に駈けましょうぞ!」

 

 剣の破片(贋作)からあらわれた騎士は、軍旗を高々と掲げてマーシャにそう宣言する。彼はエルロイドではなく、マーシャの方を一心に見つめていた。

 

「ほう、これは……」

「……可愛いですね」

 

 本人は厳粛な騎士の誓いを述べたつもりだが、あいにくとマーシャとエルロイドにとっては愛嬌のある仕草にしか見えない。

 

「そ、そんなお戯れを! 戦が生業の我らを指して可愛いなどと……あまりにご無体ですぞ、女王様!」

 

 悲痛な声を上げる騎士に、マーシャはほほ笑む。

 

「私は女王様ではありませんよ、ただの教授の助手です」

「ご謙遜を。こうして御前に立つだけで、フィーサー陛下と共に轡を並べて戦った日々を思い出しますぞ。あなた様はまさしく、陛下の繋累にございます」

 

 自信満々に言ってのける騎士の妖精の発言に、マーシャは首を傾げてエルロイドの方を見る。

 

「どういうことでしょうか?」

「贋作から出てきた妖精だ。そういうごっこ遊びで楽しんでいるのだろう」

 

 先程から妖精の一挙一動に興味深げな視線を向けるエルロイドだったが、妖精の発言そのものについてはまったく信じてはいないようだった。

 

「……ところで、敵はどこに? 何故に我々は呼び出されたのでしょうか?」

 

 召喚の余韻がおさまると、騎士と兵士たちは揃って周囲を見回し始める。

 

「あの、えーと、それはですね――――」

 

 彼らが望む戦いの助っ人ではなく、単に研究の対象として呼んだだけという事実を、何と言って彼らに説明しようか。マーシャが考えを巡らす暇もなく、騎士はエルロイドの姿を見て突然叫んだ。

 

「むむむ! 怪しい奴を発見! きっと、たぶん、恐らく、楽観的に見て、あれこそ敵性対象に間違いなし!」

 

 そうなると、次の行動は迅速そのものだ。

 

「ロングボウ、構え!」

「何だね? 何をするつもりで…………」

 

 一斉に大弓を引き絞る射手たちに、エルロイドは不審そうな目を向けたのと同時に。

 

「はっしゃー!」

 

 騎士の命令一下、無数の矢がエルロイドに向かって放たれる。

 

 ――――その後はお定まりだ。エルロイドが怒り、妖精たちを追い回す。そんな光景が、以来何度となく繰り返されてきた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャ、君は仕事を放り出して妖精で遊んでいるのかね?」

 

 次の日の早朝、休講日にもかかわらず大きなスーツケースを手に出かけようとしているエルロイドは、大あわてで身支度したマーシャに対して冷たい視線を向けていた。

 

「おっしゃろうとしていることが、私には意味不明です。それと、どこに行かれるのですか、教授」

「見て分からないのかね。大学に行くのだよ」

「でしたら、私も――」

 

 同行します、と言うはずだったマーシャの言葉は、エルロイドの即答で遮られた。

 

「その必要はない」

 

 冷たく拒絶の意思に満ちた言葉に、マーシャは驚いたように口をつぐむ。

 

「私は君を助手として雇ったのだ。身近で妖精と遊ばせるためではない」

「私は遊んでなどいません」

「ならば、なぜ妖精を好き放題にさせている」

 

 エルロイドは言葉少なに問いかける。今日は相当機嫌が悪いようだ。

 

「教授もご存じですが、妖精とは自由気ままに遊ぶ者たちです。たとえ女王の権威であっても、服従を強制することは難しいですよ」

「君がイローヌで漆黒公とやらに剣を突きつけられたとき、その目が強制力を有したのを確認したが?」

 

 確かに、妖精の隠れ里で漆黒公を名乗る少年がマーシャに剣を突きつけたとき、その剣はひとりでに落ちた。

 

「あれは恐らく、この目に害が及ぶからでしょう。そもそも、この研究対象である妖精たちは騒がしいですが無害です」

 

 マーシャが何気なくそう言った一言だったが、残念ながらそれはエルロイドの堪忍袋の緒が切れる一言だった。

 

「私にとっては実に、大いに、とてつもなく有害だっ!」

 

 正真正銘激怒するエルロイドに、マーシャは怯えたように一歩後ろに下がった。

 

「毎日毎日彼らの戦争ごっこに付き合わされ、実に私は不愉快だ! マーシャ、君はそうではないだろうが、私は多忙なのだ! 時間を無駄にし続ける苦痛がいかほどのものか、少しは君も頭を働かせたまえ!」

 

 怒りにまかせてさらに言葉を続けるエルロイドに、マーシャは何一つ反論しない。

 

「まったく、君には心底失望したぞ。私の研究が遊びではないことくらい、君が一番よく分かっているはずではなかったのかね?」

 

 劣等生を見る目で、エルロイドはマーシャを見る。その事実を理解したのか、彼女は一度きつく唇を噛んでから、深々と頭を下げた。

 

「――――申し訳ありません。私の配慮が足りませんでした。本当にすみませんでした」

 

 しばらく、マーシャは頭を下げたままだった。しばらく、エルロイドはじっと彼女の頭を見ていた。しばらく、居心地の悪い沈黙が続いた。ややあって、先に口を開いたのエルロイドだった。

 

「私はしばらく大学に避難する。その間に、彼らを何とかしておくように」

「はい」

 

 続いて頭を上げたマーシャは、一見すると何事もないかのような顔をしている。

 

「そうか。ならばよろしい」

 

 そう言うと、エルロイドはきびすを返してドアを開ける。その背中に、マーシャの声が投げかけられた。

 

「教授」

「何だね?」

 

 胡乱な目でこちらを見るエルロイドに、もう一度マーシャは頭を下げた。

 

「――行ってらっしゃいませ」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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12-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「――マーシャさん、怒ってます?」

 

 エルロイドが一方的にマーシャとの別行動を勧告した後。黙々と掃除をする彼女に対し、恐る恐るといった感じで侍女のキュイが尋ねる。

 

「いいえ」

 

 キュイの方を向くマーシャは、一見すると普段と何ら変わりない。

 

「悪いのは教授のご期待に添えなかった私ですので」

 

 だが、明らかにその身にまとう空気は冷たかった。

 

「うぅ……。どう見ても怒ってるんですけど」

「ですから、私は少しも怒っていませんので」

 

 そう断言されてしまうと、キュイにとってはとりつく島もない。

 

「いや、その……」

 

 続いて、彼女の後ろからフォローを入れたのは、エルロイドの執事であるシディである。

 

「旦那様の執事のオレが言うのも何だけどさ。…………気にするなって」

 

 主人を常に立てるシディだが、今回ばかりはマーシャに同情していた。さすがに、エルロイドの怒りが理不尽だと思っているらしい。

 

「私は気にしていませんので」

 

 それに対し、マーシャは短く答えるときびすを返した。

 

「皆さん、戻りますよ」

「はーい」

「待ってー」

「行くよー」

 

 彼女の後を、騒動の元凶となった妖精たちがちょこちょことついていく。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 一方、マーシャを自宅に置いてきぼりにし、一人エルロイドはドランフォート大学の研究室で椅子に腰掛けていた。

 

「……ふん、実に静かだ」

 

 磨かれた窓から青空を眺めつつ、彼は一人呟く。

 

「静かなのはよい。心が落ち着く」

 

 返答のない完全なる沈黙に、エルロイドは満足げに目を細めた。

 

「これなら仕事もはかどるに違いない」

 

 ――初日である。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――二日目。

 

「まったく、本来こうあるべきだったのだ」

 

 書庫から持ち出した大冊を机の上に並べつつ、エルロイドは充実しきった表情でそんな言葉を口にする。

 

「私としたことが下らないことに時間を浪費していた」

 

 今のエルロイドにとって、マーシャと取り巻きの妖精のいない空間は大変居心地がよいらしい。

 

「今から遅れを取り戻そう」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――三日目。

 

「ふふん、素晴らしい成果だ」

 

 エルロイドは仕事の手を休め、午後のティータイムを満喫している。

 

「こうしてみると、大学も捨てたものではないな」

 

 誰にも邪魔されることのない環境下で、彼の集中力は驚異的な持続力を見せていた。

 

「何より、我ながら自分の才知に驚かされる」

 

 エルロイドが自画自賛するのも無理はないようだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――四日目。

 

「おや、シディか」

 

 階下の食堂で朝食を済ませ、仕事にかかろうと机に向かったエルロイドの元を、執事のシディが訪れていた。

 

「ご不便はないかと、僭越ながら伺わせていただきました」

「いいや、大丈夫だ。わざわざ足を運ばせて時間を無駄にさせたな」

 

 敬意のこもった態度を取るシディに、明朗快活な表情でエルロイドは応える。

 

「とんでもない。むしろ執事としての職務をしばらく果たしておりませんので、心苦しく思います」

 

 もっとも、シディがそう言うのも当然である。エルロイドが急遽自宅から避難して既に四日目である。自宅に待機した執事としては、主人の身の回りが気にならないはずがない。

 

「気にする必要はない。降ってわいた休日と思って堪能するといい」

「そのようなわけにはいきません。いつ旦那様が戻られてもよいように、家人一同お待ちしております」

「そうか……」

 

 家人一同、というシディの発言を聞き、かすかにエルロイドの表情が曇る。

 

「マー……」

「は?」

 

 彼の声が小さく、慌ててシディが聞き直す。

 

「いや、何でもない」

 

 だが、エルロイドは首を左右に振ってそれ以上の追求をさせなかった。

 

「何かご必要なものがございましたら、すぐに用立てますが?」

「ああ、その点においては大丈夫だ。何しろここにこもってからというもの、実に調子がいいのだよ」

 

 たちまちエルロイドは上機嫌に戻る。

 

「というより、本来の私はこうあるべきだったのだ。いや、こうだった、と表現するべきだな」

 

 彼はやおら立ち上がると、胸を張って歩き出す。

 

「資料に囲まれ、一人熟考し、霊感に身を任せ、洞察を書き記す。すべてが静寂と秩序の元に行われ、何一つ混沌はない。孤独とは孤高であり、故に充足している」

 

 うっとりとした表情で、エルロイドは演説を続ける。今の自分が、彼には理想の姿なのだろう。優秀な識者、完璧な秀才、研究に打ち込む博識。それがエルロイドの描く究極の自画像である。

 

「つまり、今の私は大変満足している。安心したまえ、シディ」

 

 シディの方を向く彼の顔は、どこまでも晴れやかだ。

 

「旦那様がそうお感じになるのでしたら、私としても何も申すことはありません。安心しました」

「うむ、そうだろう。そうだろうな、シディ」

 

 一礼するシディに、鷹揚にエルロイドは何度も頷いてみせるのであった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――四日目の午後。

 

「少し疲れたのか?」

 

 しかし、異変は突然起きてしまう。

 

「能率が落ちるのはよくない」

 

 読んでいた『西部沼沢地における魔女信仰』を閉じ、エルロイドは眼鏡をはずす。どうにも本の内容が頭に入ってこない。

 

「休息も必要と言うことか……」

 

 軽く伸びをする彼の顔には、まだ深刻さはない。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――五日目。

 

「調子が出ないな」

 

 研究室の床に靴音を立てながら、エルロイドは意味もなくその場をぐるぐると回る。初日から三日目までの調子のよさが、今ではすっかり失われていた。

 

「壁に突き当たるのが早すぎる」

 

 彼の言葉通り、考察はすっかり袋小路に入り、まるっきり進展していないのだ。

 

「時間を無駄にはしたくないな」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――六日目。

 

「何という効率の悪さだ…………」

 

 とうとう、エルロイドは机に肘をつき、絶望したかのように顔を覆ってしまっていた。

 

「自分で自分が嫌になるのは久しぶりだな」

 

 もはや、完膚無きまでに集中力は失われている。

 

「情けない、こんなことではいかん!」

 

 彼は自分を叱咤するべく大声を上げるのだが、それは完全に無意味だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――七日目。

 

「完全に袋小路だ……」

 

 呆然とした様子で、エルロイドは椅子に座ったまま宙を仰ぐ。

 

「何なのだこれは!? いったいどのような妨害が行われている!」

 

 かんしゃくを起こしてみても、研究室に反応する存在は皆無である。

 

「あまりにも理不尽だぞ、なあマーシャ」

 

 横を向く彼の目は、何処か遠くを見ていた。

 

「マーシャ……」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――七日目の午後。

 

「……シディか、よく来たな」

 

 手持ちぶさたすぎて無意味に本棚を整理しているエルロイドの元を、シディが再び訪れていた。

 

「旦那様……。もしかして、お加減がよろしくないのでしょうか?」

 

 数日会わなかっただけでやつれてしまった雰囲気の主人を見て、慌ててシディが駆け寄る。

 

「いや、そうではない」

「顔色が悪く見えますが、お風邪でも……」

「違うと言っている。私は壮健だ。肉体においては、だがな」

 

 そう言うと、エルロイドは自嘲したように力なく笑う。

 

「お前が帰ってから、しばらく調子が悪くてな。昨日と今日にいたっては目も当てられない」

 

 本を棚に戻す手を休め、改めて彼は自分の若き執事の方に向き直る。

 

「情けない。これでは初歩的な問題にすら頭を抱えてのたうち回る、この大学の劣等生どもと大差ないな。奴らのことが笑えんよ」

「そのようなことはありません。学生でありながら知性を磨くことを放棄した連中と、偉大な研究に身を捧げる旦那様との間では天と地ほどの開きがあります」

 

 エルロイドの自己憐憫に対し、シディは否定の形で即答する。

 

「心情と立場においてはそうかもしれないな。だが、結果はどうだ?」

 

 けれども、エルロイドはなおも首を振る。

 

「志や目標など、いくらでも美辞麗句でごまかせる。重要なのは結果だ。そして実際、総合して評価するならば、この一週間の仕事はさんさんたるものだ。順調なのは前半だけ。後半は目も当てられん。正真正銘の徒労、時間の無駄だったな」

「そのようなことは……」

「気遣い感謝する、シディ。だが、これが現実であり事実だ」

 

 そう言われてしまうと、もはやシディに返す言葉はない。

 

「心中、お察しいたします」

 

 頭を下げた自分の執事をしばらく眺めてから、エルロイドは口を開く。

 

「……シディ。マーシャはどうしている?」

「どうしている、と申しますと?」

「私はそのままの意味で言っているのだが」

「旦那様がおられるときと何も変わらず、侍女としての務めを果たしております」

「何も変わらず、か?」

「はい、そうですが」

「……ふん。まったくもって不愉快な話だ」

 

 口ではそう言っているのだが、ようやくそれまでげっそりしていたエルロイドの顔に血色が戻ってくる。口調にもどことなく力が戻ってきた。

 

 それを目にして、改めてシディは口を開いた。

 

「……旦那様、出過ぎた真似と重々承知しておりますが、一言申し上げさせていただきます」

 

 主人の沈黙が先を促していると理解し、彼はさらに先を続けた。

 

「そろそろ、自宅に戻られた方がよろしいかと」

 

 シディがこうして、エルロイドに何かしら提案することはあまりない。

 

「――シディ」

「無礼な発言、申し訳ありません」

 

 即座に謝罪するシディを、エルロイドは手で止める。

 

「この私が、たかが自分にとって耳の痛い発言をされた程度で憤激する小人物だと思っているのかね? 私は効率を第一に求める人間だ。個人の感情や矜持など、それが時間を無駄にし効率を悪くするのならば、意味など何一つ見出さない」

「では……」

 

 つい一週間前、研究対象である妖精に対して激昂した人物の物言いとしては少々首を傾げたくなるような発言だが、エルロイドは吹っ切れた様子でシディに対してうなずいた。

 

「ああ、そろそろ頃合いだ。帰ろうではないか。どうやら、私はやり残したことをきちんと終えなければ、調子を取り戻せないようだからな」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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12-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「――さて、一週間ぶりの我が家だ」

 

 その日の日没後。エルロイドは自宅の玄関の前に立っていた。ちなみにシディは既に先んじて戻り、彼の帰宅の準備を整えている。

 

「まあいい。行こうか。時間を無駄にしている」

 

 一方的に非難してしまったマーシャに何と言おうか、あの妖精兵団にどう対応しようか、結論が出ないまま、彼はドアを開けた。

 

「……教授?」

「なッ!? マ、マーシャ!?」

 

 よりによって、玄関にはマーシャがいた。その青と緑の両目が、エルロイドの姿を認めて驚きで見開かれる。

 

「さ、さては君は私が入るのをそこで待ち受けていたな!?」

 

 驚愕するエルロイドだが、マーシャは落ち着いて否定する。

 

「いえ、そんな器用なことはできません。偶然居合わせただけですが」

 

 後ろ手にドアを閉め、改めてエルロイドはマーシャと向かい合う。一週間ぶりに対峙する助手に、奇妙な懐かしさを彼は覚えた。思えば、彼女を雇ってからというもの、常にマーシャはエルロイドのそばに控えていた。たった一週間の空白が、まるで一年のようにも感じるのは不思議でしかない。

 

「そ、それで何だね? 私に何か言うことがあるのかね?」

 

 どのように会話を進めていいものか皆目見当がつかず、エルロイドは逆にマーシャに尋ねる。

 

「ええ、一つ」

「ふん、聞こうではないか。私は優秀で寛大だからな! はははははっ!」

「では――――」

 

 さて、何が出てくるか。苦言か恨み言か愚痴か非難か。表面上は平静を取り繕いつつも、内心身構えるエルロイドに対し、マーシャは一礼する。

 

「お帰りなさいませ、教授」

「あ、ああ」

 

 頭を上げたマーシャは、それ以上何も言わない。

 

「……それだけかね?」

「はい、それだけですが」

「そ、そうか」

 

 エルロイドは何度か彼女の顔色を伺ってみるのだが、それ以上の変化はない。

 

「ところで、君の周りにいたあの妖精たちはどうなった?」

 

 改めて、彼は周囲を見回す。今日は騎士も射手も見あたらない。

 

「彼らはもういませんよ」

 

 マーシャのその一言に、エルロイドは目を限界まで見開いた。

 

「な、何ぃ!?」

「教授が大学に出向された途端にみんな元気をなくして、次の日には半分がいなくなり、その次の日には全員が暇をいただきたいとのことでしたので、望み通りに解雇しました。ご安心下さい、もうあの妖精たちはこの屋敷にはいません」

 

 今は日没後だが、まさに青天の霹靂である。エルロイドに対してあれほどいたずらを仕掛けてきた妖精の兵団が、彼が大学に非難した三日目にはもう消失していたとは。

 

「なぜそれを早く言わないのだぁ!」

 

 彼が大声を上げるのも無理はない。あまりの事態の変化と、それに一人だけ取り残されていた自分を直視し、エルロイドは取り乱すしかない。

 

「私は、あの妖精のうるささに耐えかねて大学に退避したのだ! いなくなったのならばなぜそれを教えない!」

「シディ君が大学に様子見をしたときは、とても調子が良かったそうですので」

「そもそも彼らは私の研究対象だぞ! なぜ解雇した!?」

「教授がとても嫌がっておられたので」

「むむむ……」

 

 くやしいが、マーシャの言うことは正論である。

 

「もういい! 押し問答は時間の無駄だ。さあ主人の帰宅だぞ、助手は助手らしく振る舞う必要がある!」

 

 とうとう問答を一方的に中止し、エルロイドは胸を張り、大手を振って歩き出した。

 

「はい、承知しております。ですので、お帰りなさいませ、と申し上げました」

 

 それに素直にマーシャは付きそう。いつものように、何事もなく。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「それにしても、まさか妖精たちが自主的にいなくなってしまうとは思わなかったな。彼らの言動は、完全に姫に仕える騎士そのものだった。ただのごっこ遊びで終わったな」

 

 次の日の昼。書斎でエルロイドは一週間の間にたまった手紙や書類に目を通していた。

 

「あの子たちは、遊びたかったんだと思います」

 

 そばで紅茶を煎れるマーシャがそう言う。

 

「君とかね?」

「いいえ、教授と」

「私とか?」

 

 マーシャの意外な発言に、エルロイドは首を傾げた。どう見ても、妖精の兵団はマーシャを中心に回っていた。

 

「はい。あの子たちは、教授と遊んでいるときが、一番活き活きしているように見えました。だから、遊び相手がいなくなってしまったら、途端に元気をなくして消えてしまったんです」

「私はいい迷惑だったがな。消えてくれてせいせいする」

 

 今さらそう言われても、エルロイドにとっては困るだけだ。

 

「本当ですか?」

「無論だとも」

「教授は子育てが苦手そうですね」

「子供は好かん。自己中心的で、自分勝手で、見栄っ張りで、おまけにうるさく何を考えているのか分からん。実に困る」

 

 彼が偽らざる本心を吐露すると、なぜかマーシャは大きくため息をついた。

 

「……マーシャ、なぜため息をつく」

「いえ、世の中には『大きな子供』という表現もあるな、と思っただけです」

「なんだね、それは」

 

 紅茶の入ったカップを彼女から受け取り、しばしエルロイドは機をうかがう。場の雰囲気はなごやかだ。今が、ちょうどよい感じだろう。

 

「少なくともマーシャ、君には迷惑をかけたな。謝罪しよう」

「……え?」

 

 不意にエルロイドがそう言うと、マーシャの動きがぴたりと止まった。

 

「あの妖精たちの昼夜を問わないいたずらに、少し私は苛ついていた。大学に避難する直前、君にやや当たり散らしてしまったのは事実だ。済まなかったな」

 

 それは、エルロイドがどう言おうか迷っていたことだ。だが、いざ口にしてみれば、続きは淀みなくすらすらと出てくる。助手に謝罪する雇い主。そんな構図などどうでもいい。重要なのは、それが一つのわだかまりだったということだ。ほんの小さな謝罪一つで、エルロイドが一週間持て余していた気掛かりがあっさり溶けて消えていく。

 

 彼の言葉を耳にしたマーシャは、珍しくひどくおたおたとしていた。ぎこちない動作でポットをテーブルに置き、せわしなく視線を周囲にやり、何度か両手を握ったり開いたりし、最後には深々と頭を下げた。

 

「ごめんなさい、教授」

「なぜ君の方が頭を下げる」

 

 既に落ち着きを取り戻したエルロイドとは対照的に、マーシャの方が平静を失っていた。

 

「私の方こそ、助手なのに下らない意地を張っていました」

 

 頭を上げたマーシャは、どこかすがるような目をしていた。それを見て、エルロイドはようやく理解した。考えてみれば、彼女はまだ若いのだ。成人しているものの、自分よりもずっと年若い女性である。いつも平静で悠然としているように見えていたので、その事実をずっと忘れていた。

 

「教授が私を必要とされないのでしたら、お好きなように、とずっと思っていて、だからあんな風に、ずっと知らん顔をしていて……」

 

 恥ずかしげに顔を赤くしてそう告白するマーシャは、妖精女王の目を授かった境界線上の住人ではない。怒りもすれば悲しみもするし、いじわるをされれば意地を張ったりもする、ごく普通の血の通った女性だった。

 

「君が謝る必要などない。主人が道を誤れば、助手が迷惑をこうむるのは当然だろう?」

「ですが、教授は私よりも先に謝罪されました。教授は何も道を誤ってなどいません。本当です」

 

 真摯にそう言われ、安堵する自分にエルロイドは気づいた。

 

「……そう思うかね?」

「はい。心から」

 

 怖じることのないマーシャのオッドアイと、エルロイドの目が合う。

 

「ありがとう。そう言ってくれると、胸のつかえが取れる。明日からの作業に身が入りそうだ」

 

 そう言うと、深々とエルロイドは椅子に身を沈めた。すべての物事が、あるべき場所におさまっていく心地よさが、心中に広がっていく。

 

「それにしてもマーシャ、君が意地を張るとはな。君は何事も顔色一つ変えずにそつなくこなす印象があったからな」

 

 何気なくエルロイドが追求すると、ようやく落ち着きつつあったマーシャが恥ずかしそうな顔に戻ってしまう。

 

「教授、その、そうあからさまに言われると少し恥ずかしいです」

「何を言う。人間は自分の欠点を認めなくては成長できないぞ。これは厳然たる事実だ。いいかね、君は実のところ意地っ張りだ。少々意外だったな。いや、実に意外だ」

「だからといって掘り下げないで下さい。自分でもなんであんな馬鹿なことをしたんだろうって、本当に恥ずかしいんですから…………」

 

 常日頃の平然としたマーシャとは違う顔を発見し、エルロイドは大笑する。

 

「ははははは、何を照れている。私だって自分の過ちを素直に認めるのだ。優秀だからな! 君も優秀でありたいのならば、同様にしたまえ!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 すっかり機嫌を直して本調子に戻ったエルロイドだが、その笑いがふと止まる。

 

「おや、こんな手紙もあったのか」

 

 その手が、机の上に置かれていた一枚の手紙を取った。

 

「どちら様からです?」

「例の剣の破片の贋作があった教会からだ。今さらなんだ?」

 

 彼は手紙を開封すると、素早く中身に目を通していく。

 

「どうされました?」

 

 次第に複雑そうな顔になっていくエルロイドの表情を見て取ったのか、マーシャが尋ねてきた。

 

「妙な話だ。教会の資料を調べ直したところ、あの破片が偽物ではなく本物である可能性が高いと言ってきた」

「そうですか」

「マーシャ、何を平然としている。そうだとすれば……」

 

 エルロイドの思考が次々と事実を結びつけていく。

 

 もし破片が本物なら、あの妖精たちはかつてフィーサー三世と共に戦った妖精兵団の成れの果てなのか。彼らはマーシャを王の繋累と認め、故に従った。ならば、彼女の出自は……。

 

「いや、所詮は妖精の戯れだ」

 

 そう言って、エルロイドは思索を強引に打ち切る。

 

「恐らくな……」

 

 それ以上考えることを、彼は無意識のうちに恐れていたのかもしれない。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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13・青いバラ と 見果てぬ夢 の 話
13-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 オラゴー岬方面へと向かう舗装されていない道路を、一台の自動車が走っている。時刻は正午過ぎ。柔らかな日差しを跳ね返す黒い車体は、人っ子一人いない田舎の道路にはやや似つかわしくない。運転席ではエルロイドがハンドルを握り、隣にはマーシャが腰掛けている。

 

「教授が園芸に関心がおありだなんて、意外でした」

「人間も植物も同じだ。水をやり、肥料をまき、虫を駆除し、時には添え木を当て、または剪定をし、さらに花実が育つまで時間がかかる。教育と園芸とは実に似通っていると思わないかね?」

 

 何やら難しいことを言うエルロイドを横目で見ながら、マーシャはしばらく首を傾げていたが、やがて大きくうなずく。

 

「ああ、なるほど。つまり、人を教える大変さをよくご存じの教授ですから、花を育てる大変さもまた理解できる……ということでしょうか?」

 

 彼女の返答は、どうやらエルロイドの言わんとするところだったらしい。彼もまたうなずく。

 

「ふむ、マーシャ。君は一を聞いて十を知るという言葉を体現しているな。珍しいこともあるものだ」

「これから行くところに興味がありますから。頭も冴え渡るというものです」

「女性はやはり花を好むというということか。私の母もそうだった」

 

 どうやら、二人がこれから向かうのは妖精関連ではなく、園芸関連の場所のようだ。

 

「お母様には、記念日などに花をお送りするのはいかがでしょうか?」

 

 マーシャの提案を、エルロイドは即座に否定する。

 

「気が向かないな」

「あら、どうしてでしょうか。たとえ野に咲く一輪の花であっても、それはまぎれもなく神様の傑作ですよ。贈り物としてはとてもよいものではないかと思いますが」

 

 マーシャがそう言うと、エルロイドは視線を正面に戻して遠くを見る。

 

「造物主の傑作、か。だが我々がこれから目にするのは、神ならぬ妖精の作かもしれないがな」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「おお、エルロイド教授ではないですか。今日はよく来て下さった。多忙な中、こんな老骨に時間を割いて下さり感謝しております」

 

 一本しかない田舎道を走り抜けた先にあったのは、ツタが執拗なまでに壁面に絡みついた一軒の館だった。玄関に立つエルロイドとマーシャを、館の主人らしき腰の曲がった白髪白髯の老人が出迎える。

 

「こちらこそ、過分のご対応痛み入ります、ドリズン・スレーラバージ名誉教授」

 

 普段の唯我独尊の態度はどこへやら。エルロイドは丁寧に頭を下げて挨拶する。どうやら彼はエルロイドの元同僚、あるいは若き日のエルロイドを教えた人物のようだ。

 

「ははは、もう退職した身ですから、そんなにかしこまらないで下され。して、そちらの女性は?」

 

 ドリズンが目をしばたたかせつつ、エルロイドの隣に立つマーシャを見る。もっとも、その目はやや濁っていて、本当に見えているかは少々疑わしい。

 

「ええ、彼女は私の助手です。名前はマーシャ・ダニスレート。コールウォーン出身で、なかなか優秀ですよ」

「それはそれは。聡明な教授の眼鏡にかなうのですから、何とも素晴らしいものですな」

 

 と、そこまで言ってから、ドリズンは自虐気味に笑う。

 

「いやはや、年を取ると要領が悪くなって我ながら嫌になりますな。こんなところでお二人を引き留めて申し訳ない。こちらへどうぞ」

 

 おぼつかない足取りで、ドリズンは二人を庭へと案内する。エルロイドはこの人物に、庭にあるバラを見るよう招待されたのだ。そのバラとは――――。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 スレーラバージ邸の庭は、小さいながらも非常によく手入れされていた。底に植えられた木の一本一本に、屋敷の主の深い愛情が注がれているのが見ていて分かる。エルロイドとマーシャが足を止めたのは、その中にある一際大きなバラの木だった。

 

「これは――――」

 

 普段は仏頂面のエルロイドが、今日ばかりは言葉を失っている。

 

「きれい――――」

 

 隣でそんな感想を口にしたマーシャに、エルロイドが我に返ったのかすかさず突っ込みを入れる。

 

「マーシャ、その反応は即物的だぞ」

「あら教授、これはドリズン様が手ずからお育てになった言わば作品です。美しくなるよう惜しげもなく手を加えられた作品を見て、きれいに思うのは当然でしょう?」

「ふむ、言われてみればそのとおりだ。だが、何よりもこれは……驚きだ」

 

 言い返すマーシャの言葉を真顔で受け止めつつ、再び彼はバラの花を眺める。

 

「ええ、本当に。これが……」

 

 マーシャもすぐにバラへと視線を戻した。

 

「……青いバラ、か」

 

 エルロイドの言葉の通りだ。その木には、サファイアのような輝きを放つ真っ青なバラが咲いているのだ。

 

「驚きましたでしょう?」

 

 じっと見入る二人の側に、ドリズンが近づく。かすかにその言葉には、得意そうな感情が交じっていた。

 

「確かに。人類の進歩と共に発展し続ける科学が、いつかはこれを可能にすると私は信じていましたが、まさかこの時代に、この目で見ることができるとは思いませんでしたよ」

 

 エルロイドはマーシャの方を見て説明を始める。

 

「有史以来、ヒトは様々な色のバラの品種を生みだしてきた。しかし、この色だけは決して作ることがなかったのだよ。それが――」

「今ここにある、ということですか」

 

 彼女が言葉を引き継ぐと、そのままエルロイドは首肯する。二人の息のあった会話につられたのか、青いバラについての説明はドリズンに受け継がれた。

 

「そのとおりです。青いバラの原種は、現在見つかっておりません。私たちバラの愛好家も、様々な方法で青に近い色合いのバラを作り出そうと苦心惨憺してきました。しかし、まさか私の庭園で、世界中の愛好家の夢が結実するなど……自分でも信じられないくらいです」

 

 ドリズンは貴重な宝石を見る目で青いバラを見る。いや、事実これは宝石だ。

 

 このドリズンという人物は、相当バラの育成に精力を傾けてきたようだ。この館の手入れが行き届いた庭を見れば、彼の努力と精根が如実に伝わってくる。その彼の庭に、世界中のバラの愛好家が夢見る青いバラが咲いたのだ。これこそまさに、バラの形をした宝石である。

 

「これは、どのようにして育てたのですか?」

「いや、それが分からないのですよ」

 

 しかし、エルロイドの質問にドリズンは首を振る。

 

「取り立ててこの木にのみ、特殊なことをした記憶がなくて。肥料も他のものと同じものを与えていますし、見たところ特別の虫がついていたり、病気にかかっているようにも見えないのです。我ながら、なぜこうなったのかさっぱり分からず、手放しに喜べないのが実状です」

「どうしてでしょうか?」

 

 マーシャが尋ねると、さらに彼は説明する。

 

「今のところ、これは偶然の産物です。突然変異、とでも言いましょうか。れっきとした品種として認められるのには程遠い状態でして。できれば、いや、是非……」

 

 そしてドリズンは、深々とため息をついた。

 

「同好の士の庭にも、同じものを咲かせたい。そうなれば、皆どんなに喜ぶことか…………」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 その後、意図的にエルロイドはドリズンを連れてその場を後にした。今バラの木の側にいるのは、マーシャただ一人だ。

 

「妖精さん、出てきて下さいね」

 

 彼女が呼びかけると、すかさず青いバラの周辺から歓声が上がった。

 

「はいはーいっ!」

「お呼びとあらばっ!」

「即参上ですっ!」

 

 彼女の緑色に輝く左目に従い、三匹の妖精が姿を現す。

 

「何かご用でしょうか? 女王様と同じ目の人間さん!」

 

 外見はいわゆるフェアリーに近い。羽虫のようなほぼ透明の羽根が生えた、可愛らしい小人の姿だ。全員が女性で、手に手にじょうろや鋏やはしごを持っている。

 

「このバラを青く染めたのはあなたたちの仕業で間違いないですね?」

「はい!」

「そのとおりです!」

「大正解!」

「……やっぱり」

 

 悪びれる様子もなく、むしろ得意そうに跳びはねる三匹を見て、マーシャは内心ため息をつく。いくら何でも、少々やり過ぎだ。

 

「どうしてそんなことをしたんですか?」

「おや、ご存じありませんか?」

「私たち、妖精王様のバラ園の庭師なんです」

「妖精王様のバラ園はご覧になったことあります? すっごくきれいなんですよ」

「なんてったって、私たちが毎日手入れしてますから」

「あれ、でも今私たちここにいますよね」

「……ってことは、バラ園は荒れ放題?」

「きゃーっ! どうしようどうしよう?」

 

 勝手に説明して、勝手に盛り上がり、勝手に危機感を抱いている妖精たちを、マーシャは軽く手を叩いて諫める。

 

「はいはい、落ち着いて下さいね」

「あっ、スミマセン」

「妖精王のバラ園は、これのような青いバラが咲く場所なんですか。素敵ですね」

「はいっ! 一度ぜひご覧になって下さい。いつでも大歓迎ですっ!」

「こらこら、妖精王様の許可がないのにそんなこと言っちゃ駄目じゃない」

「そうそう、後で怒られちゃうよ」

 

 妖精たちは、それはそれは楽しそうに、マーシャとの会話に興じる。

 

 恐らくはた目から見れば、マーシャが一人でバラの木に話しかけているように見えることだろう。さすがにそれでは、彼女の正気が疑われる。エルロイドが意図してドリズンを遠ざけたのは、そのような配慮によるところが大きい。いくら変人であることを誇りにしているようなエルロイドでも、自分の助手が同類に思われるのは嫌なようだ。

 

 このたびエルロイドがここスレーラバージ邸を訪れたのは、館の主であるドリズンに招待されたからだ。彼からの手紙には、庭に青いバラが咲いたこと、そしてそれがエルロイドの研究と何か関連があるのではないかということが書かれていた。そして、ドリズンの予想は的中した。マーシャの目の前にいる妖精たちが、バラを青く染めてしまったのだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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13-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「要するに、いたずらでこんなことをしたんですね。いつものように……」

 

 バラを青く染めた理由をいたずらと断じたマーシャだったが、当の妖精たちは首を左右に力強く振った。

 

「違いまーす」

「人間さん、大はずれっ」

「いたずらじゃありませんよーだ」

「じゃあ、どうしてです?」

 

 しかし、さらに彼女が問いただすと、妖精たちの目が泳ぎ始める。

 

「え~とですね……」

「それは……」

「どうしてでしたっけ……?」

 

 マーシャの顔が険しくなったのを見て、さらに妖精たちは焦る。

 

「えーとえーとえーと……そうだっ!」

「思い出しましたっ!」

「すっかり忘れてました!」

 

 だが、幸い彼女たちの記憶は答えを導き出すことができたらしい。

 

「ずばり、ご褒美です!」

 

 一匹の妖精が大声で宣言する。

 

「どうして青いバラがご褒美なんですか?」

「だって、このバラを育てたお爺さん、とっても大事に育ててましたから」

「バラがみんな喜んでます」

「妖精王様のバラ園を思い出しちゃいますよ」

「それに、ずっとお爺さん、青いバラを咲かせたいって思ってましたから」

「ちょっとだけ、妖精王様のバラ園から抜け出して、お手伝いしちゃいました」

 

 にこにこと満面の笑みを浮かべて、妖精たちは青いバラの周囲を飛び回る。

 

「その結果がこれ、じゃーん! 素敵な青いバラでーす」

「贈り物だよ!」

「心のこもったプレゼント!」

「お爺さん、喜んでるよね!?」

 

 自分たちの行動が騒動の種になっていることなどつゆ知らず、妖精たちはドリズンに好意が伝わったと無邪気に信じている様子だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「お気に召しましたかな?」

 

 後ろから声がかけられ、マーシャが振り返ると、底にドリズンが一人で立っていた。

 

「わーっ! お爺さんだ!」

「一時撤退!」

「恥ずかしいよーっ!」

 

 彼の姿を見るや否や、妖精たちは口々にそんなことを言いつつバラの葉の間に逃げ込んでしまった。まるでネズミかリスのような動きだ。

 

「ええ、とても」

 

 普通の人間は、妖精を視認できない。それを知っているマーシャは、落ち着き払ってドリズンの問いに答える。

 

「嬉しいことです」

 

 おぼつかない足取りで、彼はマーシャの隣に立つ。

 

「ドリズン様は、バラの育成を手がけて長いのですか?」

「ええ。気がつくと人生の半分以上を、バラと共に過ごしてきました」

 

 そう言ってから、ドリズンは苦笑する。

 

「はは、こんなことを言うようでは、教育者失格ですかな」

「いえ、そんなことはありません。その結果、こうして珍しいバラと私たちを引き合わせて下さったのですから」

 

 マーシャが即答すると、ややドリズンは驚いた様子だった。

 

「ふむ、彼が君を助手として選んだのもうなずけますな。お嬢さん、あなたはなかなか頭の回転がよろしい」

「光栄です」

「ですが、一つ訂正をしましょう」

 

 しかし、ドリズンは彼女を手放しで誉めはしない。

 

「青いバラは珍しいものではありません。今まで、一度たりとも存在しなかったものです」

「そうですか?」

「もしかして、どこかでご覧になったことがおありで?」

「そう言うわけではありませんが……」

 

 改めて、マーシャは目の前の青いバラを見つめる。

 

「なぜでしょうか。どこか、この青は見ていて懐かしさがこみ上げてくるんです」

 

 事実、マーシャはこの青いバラを見ても、自分でも不思議なほど驚きはしなかった。それまでまったく感じなかったことだが、この青にはどこか郷愁を誘われる。記憶の奥底、過ぎ去った昔日のどこかで、このバラの咲いている様子を見た覚えがあるような気がするのだ。

 

「ふむ、確かに、青に近い色のバラは作られてきました。それこそ、白のバラに色水を吸わせれば、青いバラの紛い物も作り出せます。お嬢さんは幼い頃、それを目にしたのでしょう」

「ええ、きっとそうですね」

 

 けれども、マーシャはそれ以上記憶の糸を手繰ることはしない。ドリズンの説明に、彼女は納得して追求を打ち切る。

 

「多くの園芸家が、青いバラを作り出そうと努力と交配を重ねてきました。この私も、その一人です。青いバラ、という言葉は何を意味するかご存じですかな?」

「不可能、幻想、あり得ないという意味だとか……」

 

 マーシャがそう言うと、ドリズンは満足げに首肯した。ゆっくりと彼は手を伸ばし、青いバラの花弁を撫でる。

 

「ええ。世の中には二種類の人間がいましてな。片方は、不可能が不可能のままで構わない者。もう片方は、不可能を可能にしないと気が済まない者。私は……はは、後者でしたよ」

 

 彼の言葉には、ある種の妄執さえもこもっていた。いったいどれほどの情熱と努力と精根、そして執念と心血がこの一本のバラに込められているのだろうか。

 

「まさか、人生の終わりが間近になって、長年の夢を目にすることができるとは。惜しむらくは、これを品種として増やせないことでしょう」

 

 そう言って、ドリズンは深々とため息をつく。

 

「ですが……本当に美しい。現世に化成した幻想とは、まさにこのようなものを言うのでしょうな」

 

 彼の言葉に、ただマーシャはうなずくしかなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「……なるほど、やはりあのバラは妖精の仕業によるものだったのか」

 

 その夜のこと。あの後スレーラバージ邸で一泊するように勧められ、エルロイドは素直に同意した。人気のない談話室で、マーシャはエルロイドと向き合っている。

 

「ええ、妖精たちがはっきりとそう言っていました」

 

 彼女の返答に、エルロイドは顔をしかめる。

 

「遺伝によるものではなく、妖精の干渉による着色では、確かに品種として認められることはないだろうな。一代限りの変異、あるいは明日になったら消えている可能性さえある」

 

 しばし天を仰いでから、彼はマーシャに向き直る。

 

「時にマーシャ、君はそのことをドリズン氏に教えたかね?」

「いいえ」

「そうか……それはよかった」

 

 珍しく露骨に安堵した様子を見せるエルロイドを見て、マーシャは首を傾げる。その仕草に、彼は慌てた様子で言葉を続ける。

 

「いや、まあ、そういうことだ。そうではないかもしれないが、そうだろう」

「教授?」

 

 意味不明の説明に、ますますマーシャは不審がる。

 

「もしかしてドリズン様は、教授の研究に懐疑的なのでしょうか?」

「いや、そういうわけではない。むしろ彼は私の研究を後押ししてくれた、よき理解者と言ってもいい。そもそも、この私が自分の研究の偉大さが分からないような輩の元で、いたずらに時間を浪費する可能性など皆無だ。少しは頭を働かせたまえ」

「ドリズン様は、私を頭の回転が速いと誉めて下さいましたが?」

「残念ながら、それは世辞だ」

「断言なさらないで下さい」

 

 自信満々な彼の発言に、マーシャはむっとするが、それを押し殺す。

 

「いいのですか? 教授は、この青いバラの調査を依頼されたのでしょう?」

「そうだ。ドリズン氏も手放しで青いバラを受け入れる気はなかったようで、過去の文献を調べて青いバラについての情報を集めたのだ。結果、私の研究と重なることになった」

「妖精王のバラ園、ですか」

 

 マーシャがその名詞を口にすると、案の定彼の顔色が変わった。

 

「なっ……!?」

 

 だが、すぐにエルロイドは平静を装う。

 

「むむむ、マーシャ、なぜ君がそれを知っている?」

「今日会った妖精たちがそう言っていましたので」

「まったく、妖精から直に証言を得られるとは、つくづく君は私の研究にふさわしい助手だよ」

 

 多少出鼻をくじかれた様子だったが、エルロイドは説明を始める。

 

「そのとおりだ。常若の国、永遠なる黄昏の土地、遙か妖精郷を治める妖精王アルヌェン。彼のバラ園は、青いバラが美しく咲き誇る場所だと伝説では語られている」

「アルヌェン……」

 

 マーシャは妖精の王たる者の名を呟く。どこかその響きは、不思議な懐かしさを帯びていた。

 

「彼はよく現世に顔を出しているらしい。商人、騎士、旅人、楽師、時には浮浪者に化けて、様々な物語に彼は登場している。英雄に対するトリックスターの役割だな。だが、その本質はむしろ死神に近い。彼は本来、影の国という冥界の王なのだ。事実、彼は幾度となく英雄のいまわの際に現れ、その魂を自らが支配する冥界へと連れ去っている」

 

 一通り説明を終え、エルロイドが満足した様子を見てから、マーシャは本題に入る。

 

「ご自分の庭に突然咲いた青いバラ。それが妖精と何か関係があるのではないかと、ドリズン様は教授をお招きになったわけですね」

「そうだ。氏は私の研究が科学的見地から行われる、れっきとした学術であると知っている。さすがは我が母校の名誉教授だな」

 

 けれども、急にエルロイドはこんなことを言い始める。

 

「だが、果たしてそれを伝えるべきかは、実は私は少々悩んでいるのだよ」

「白黒や正誤を即断される教授にしては珍しいですね」

 

 マーシャの疑念ももっともだ。彼は自分の研究に絶対の自信を持っている。妖精とは実在する生物であり、系統立てて科学的に説明できる存在だと常に吹聴している。

 

 それなのに、ここに来て急に真実を隠すような物言いをするとは、実にエルロイドらしくない。

 

「うむ、それと言うのも…………」

 

 と、彼が言葉を続けようとしたその時だった。突然外から、女性の悲鳴が上がった。恐らくは、この邸宅で働いている侍女の声だろう。すかさずマーシャとエルロイドは立ち上がり、談話室のドアを開けて外に飛び出す。

 

「こっちだ!」

 

 意外なほどに機敏なエルロイドの後を追って、マーシャは階段を登り、上階にあるドアが開けっ放しの部屋に飛び込む。そこはドリズンの私室だったようだ。彼はベッドの脇でうつぶせに倒れ、その側で侍女がおろおろとしていた。

 

「いかん! すぐに医者を!」

 

 エルロイドの叱咤で、ようやく硬直していた時間が動き出す。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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13-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「かなり衰弱しておられます」

 

 エルロイドの運転する自動車に乗ってやって来た医師は、深夜にもかかわらず嫌な顔一つせずに診断を終えた。

 

「原因は何だね?」

「老衰によるもの、としか」

 

 ドリズンの私室を出てから、エルロイドはややためらいがちに尋ねる。

 

「後どれくらい保つ?」

「分かりません。決して無理はなさらず、静養に努めて下さい」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「……いやはや、お恥ずかしいところをお見せしました」

 

 マーシャがエルロイドと共にドリズンの私室に戻ると、彼はベッドで仰向けに横たわっていた。

 

「加齢は恥などではありません。我々にとって老いるとは、それだけ知識が増し加わっていることなのですから。あなたに比べれば、私などまだまだ若輩です。東洋では月とスッポンと言うらしいです」

 

 枕を背もたれ代わりにしてあてがい、辛うじて上半身を起こした形のドリズンは、エルロイドの言葉に目を丸くする。

 

「ははは、これはこれは。学生の時の君に聞かせてやりたい言葉ですな」

「いや、それは……ははは」

 

 やはり、エルロイドはドリズンの教え子だったようだ。何やら恥ずかしげな表情を浮かべつつ、エルロイドは頭をかく。

 

「まったく、我々が来るからと言うだけで、無理をするのはやめていただきたい。本当はそうやって、横になっているのが相応ではなかったのですか?」

「まあ、医者にもそう言われていました。ですが、せっかく私のバラを見に来てくれたのです。手ずから案内したいと思うのが人情ではないですか」

「バラはバラです。誰が案内しようと、美しいことに変わりはありません」

「まあ、それは百も承知なのですが。やはり……こう、手塩にかけたものを人に紹介するのは、誰にも譲りたくないのですよ」

 

 人情を意に介さない冷ややかな物言いは、エルロイドの平常運転である。けれどもそれに気分を害することなく、ドリズンは静かに尋ねる。

 

「ところで、エルロイド教授、それにお嬢さん。あの青いバラはどうでした? 君の研究する、妖精という生命体の干渉によるものだったのでしょうか?」

 

 年老い、衰え、死期が迫っていながらもなお、彼の口調ははっきりとしていた。ドランフォート大学の名誉教授にふさわしい知性をたたえつつ、彼はさらに言葉を続ける。

 

「だとしたら、いろいろ納得できます。たった一本だけ、突然青いバラが咲くという奇妙な現象。それが肥料や遺伝や病気ではなく、君の研究する妖精の仕業ならば、それはそれとして理解できます」

 

 そして彼は、まっすぐにエルロイドを見据える。

 

「教えていただけますかな? エルロイド君」

 

 それはあたかも、教え子に正答を要求する教師の姿だった。

 

「……確かに、私の助手はあのバラに妖精が住み着いていたのを発見しました。問いただすと、バラを染めたのは自分たちだと言っています」

 

 ややあってから、多少ためらいがちにエルロイドは口を開いた。その言葉は、ドリズンの予想した通りのものだ。

 

「では……」

 

 かすかに天井を仰ぎつつ、ドリズンは嘆息する。

 

「やはり、見果てぬ夢でしたか……」

 

 妖精によるバラの染色。妖精たちにとって、その行為はドリズンへの素敵なプレゼントだった。だが、所詮それはただの一代限りの変異を産んだだけであり、品種には程遠い。彼のような愛好家にとっては、単に絵の具でバラを青く塗ったのと同じなのだ。青いバラを作り出そうと生涯を費やしたドリズンに与えられたのは、完璧な紛い物だったのだ。

 

「それは断言しかねます」

 

 けれども、エルロイドは力強く彼の嘆息を否定する。

 

「……はい?」

「妖精というものは、極めて気まぐれです。教授も、文献を調べてそう思われたのではないですか? 彼らは息をするかのように嘘をつき、真実を歪め、人心を惑わします。彼らがバラを青く染めたと証言したからといって、本当かどうかは分かりません」

 

 ドリズンは当惑した様子だが、なおもエルロイドは滔々と言葉を続ける。

 

「科学の徒である私たちが、妖精如きの怪しげな証言を鵜呑みにするわけにはいきません。バラが青く染まった遺伝的要因を、妖精たちがいい加減な言葉で偽っている可能性がなきにしもあらず、いやかなり高いと言えましょう」

 

 そこまで言うと、エルロイドは少しだけほほ笑む。

 

「ですからドリズン名誉教授、あれはもしかすると、本物かもしれません。本当に、あなたの庭で世界初の青いバラが咲いたのかもしれませんよ」

 

 その笑みは、普段のエルロイドがいつも浮かべている仏頂面とは百八十度異なる、人情味に満ちた優しいものだった。

 

「…………エルロイド君」

「はい」

「君は、少し変わったね」

 

 ドリズンはそう言うと、深々と息をついてからベッドに身を沈める。エルロイドの持論は牽強付会そのものである。妖精たちの証言を嘘と決めつけ、天然の青いバラが咲いたという、途方もなく可能性の低い現象を大げさに強調しているのだ。だがそれは、長年青いバラを咲かせようと努力してきた、この老いた名誉教授に対する思いやりに間違いない。

 

「ならば進化したのでしょう。私は日々進歩しています。より賢く、より優れた人物へと。教授がそう判断されるのでしたら、本望ですね」

 

 そんな隠れた配慮などおくびにも出さず、エルロイドはドリズンの賞賛を受けて鼻を高くする。

 

「いや、やっぱり変わってなかったね、君は」

 

 ドリズンはそう言いつつも、どこか安堵した様子だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――それから約一ヶ月後のこと。

 

「私は悲しみはしない」

 

 ロンディーグの教会にある墓地に、喪服姿のエルロイドとマーシャがいた。

 

「彼は現世で成すべき務めをすべて成し遂げたのだ。故に、この時が来た。今頃、彼は主宰の御許で永遠の安寧を得ているだろう。喜ばしいことだ」

 

 二人が立っているのは、ドリズンの名が彫られた墓石の前だ。

 

 二人が帰宅して間もなく、ドリズンの訃報が伝えられた。もう、あの老碩学はこの世にはいないのだ。曇天の下、エルロイドはドリズンの墓前にひざまずくと、静かにバラの花束を置く。

 

「あなたが好きだったバラを、墓前に捧げます。青くはありませんが」

 

 無言で鎮魂の祈りを捧げる彼の後ろ姿からは、普段の傲岸不遜な自称科学の徒の面影はない。

 

「結局、ドリズン様はあのバラを私たち以外には明かさなかったんですね」

「氏は聡明な方だ。あのバラが超常の類によって青く染まったことをご存じだったのだろう」

 

 寄り添うようにしてその隣にひざまずくマーシャに、エルロイドは目を向ける。

 

「だが、私は死期の迫った彼が、最後に見果てぬ夢を叶えたのだと思ってもらいたかった」

 

 エルロイドとドリズン。二人の関係についてマーシャは詳しく知ることはない。しかし、彼の言葉の端々に込められた感情から憶測することくらいはできる。きっと、エルロイドにとってドリズンは、数少ない敬意を払うべきと認めた相手だったのだろう。案外、まだ大学生だった頃にこってりとしぼられた相手かもしれないが。

 

「それが、私の恩師に対するせめてもの返礼のつもりだったのだ。――もっとも、氏は私の下らない気遣いなどお見通しだったに違いないが。自己満足の域を脱しない独り相撲だったな」

 

 はた目から見ると、献花を終えて興味を失ったかのような態度で、エルロイドはさっさと立ち上がる。

 

「そんなことはありませんよ」

 

 彼に続いてマーシャも立ち上がった。

 

「真実をただ告げるだけなら、子供のおつかいと変わりません。教授の嘘ではなく、しかし真実でもない絶妙な配合の説明を、ドリズン氏は面白く聞かれたに違いありません」

 

 何やら誉めているのかけなしているのか微妙な彼女の物言いに、エルロイドは胡乱な顔で抗議する。

 

「まるで私が詐欺師のような物言いだな」

「教授は嘘はお嫌いでしょう?」

「当然だ。科学は真実をひたむきに追究する。その使徒である私が虚言を弄するなど言語道断だ」

 

 相変わらず、エルロイドは無駄に自信を持って胸を張る。いつもならば、ここでマーシャは呆れているはずだ。しかし今日、マーシャは嬉しそうにほほ笑む。まるであの時、老いた恩師を労る際に浮かべたエルロイドの笑みのような微笑を。

 

「ですが、教授は真実をただそのまま告げておしまいにはされなかったですよね。とても、私にとっては素晴らしい配慮に見えました」

 

 マーシャはエルロイドに、はっきりと自分の思いを告げた。彼が下らない気遣いと切り捨てたその行動が、自分にとってはとても尊く、しかもドリズンの心を慰めたであろうことに確信を込める。

 

「君がそう言うのならば、もしかするとドリズン氏への慰めにもなったのかもしれないな」

 

 しばらくエルロイドはマーシャをじっと見ていたが、彼女が前言をひるがえす様子が微塵も見受けられないため、やや照れた様子でそんなことを言った。

 

「……それに、私としても救われる思いだ」

 

 と、小さく付け加えて。

 

「さあ、行こう」

 

 彼が墓地の外に向かって歩き出したため、マーシャはその後に続く。

 

「ところで教授」

「何だね?」

 

 エルロイドは首だけ振り返って彼女の方を見る。

 

「教授は先程、ドリズン様は主の御許におられると言われましたが、もしかすると、ほかのところに出張中かもしれませんよ」

 

 何を言っているんだ、といった顔をエルロイドがするので、さらにマーシャは言葉を続ける。

 

「青いバラをことさら好む、あの妖精王の庭におられるのかもしれません」

 

 ――――主を失ったスレーラバージ邸。そこの庭園に咲いていたはずの青いバラは、もう元の色に戻っている。まるで、すべてが主の見ていた、泡沫の夢であったかのように。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 死の床にあった老人は、ふと目を開いた。

 

「……誰です?」

 

 乾ききった唇が動き、囁きとも呻きともつかない声がもれる。ここはどこなのか、今が何時なのか、果ては自分が誰なのかも曖昧だ。けれども、徐々に頭の中に霧が立ちこめているような状態が薄れていく。すべては、ベッドに横たわる自分の近くに、ひしひしと何者かの気配を感じるからだ。

 

 老衰によってすっかりかすんだドリズンの目が、辛うじて焦点を結ぶ。恐らく昼間なのだが、室内は灰色にくすんでいる。ドアの付近に、何者かが立っていた。

 

「そうですか……」

 

 改めて口からため息がもれる。その中に安堵が混じっていることに、ドリズン自身かすかに驚く。どうやら、時が来たようだ。すべての生者に定められた、寿命という時が。

 

(エルロイド君ならば、『自分が死ぬときこのような現象が起こるのか!』と目を輝かせそうなものだね)

 

 心の内で、彼は自分の教え子の一人の顔を思い浮かべる。あの歩く唯我独尊とでも言うべき人間が、まさかうら若い女性を助手に連れて自分のところに来るとは思わなかった。かなり性格が丸くなっていたのは、あの女性のおかげだろうか。

 

 ゆっくりと、その人影らしきものはこちらに近づいてくる。

 

(死を告げる天使、というわけですか)

 

 ドリズンはふと、自分の人生を振り返る。決して自分は信心深い方ではなかった。しかし、そんな不心得者のところにも、主宰の限りなき無辺の慈愛は及ぶようだ。

 

「生前ろくに教会にも行かなかった不信心な者ですが、どうぞお連れ下さい」

 

 相手は神の使いだ。決してこの老いた哀れな魂を、むげに扱うことはないだろう。そう願いつつ目を閉じたドリズンだったが、思いもよらないことが起こる。

 

「――私は貴様たちの崇める神とは異なる」

 

 その声は、五感すべてが衰えたドリズンの意識が覚醒するほどの、異様な魅力に満ちていた。声という形の、それは魅了そのものだ。

 

「いや、その千変万化なる姿の一。かつてこの国に住まう定命の者は、私をこう呼んだ」

 

 見開かれたドリズンの視線が、声の主へと向けられる。

 

「妖精の王、アルヌェン、と」

 

 そこに立っていたのは、古風な衣に身を包んだ美貌の青年だった。腰まである長髪は乳白色、そしてドリズンを見下ろす双眸は鮮血よりもなお紅い赤色だ。

 

「あなたが……」

 

 白皙の美青年を前にして、ドリズンは言葉を失う。その人間離れした美貌のみならず、まとっている雰囲気そのものが、彼をこの世のものではない存在であると主張していた。それまで曖昧だったのを忘れたかのようにして、彼の脳が働く。アルヌェン。妖精の王。妖精郷の支配者。影の国の王。死と冥府の領主。そして何よりも……。

 

「貴様の庭、なかなかよいものだったぞ。私の庭園から逃げ出した庭師どもが、あれこれと手伝いたくなるのもうなずける」

 

 何よりも彼は、青きバラが咲き乱れる庭園の主人だ。アルヌェンは当惑するドリズンをよそに、テーブルにあった花瓶からそっと一輪のバラを抜く。白骨のような長い指に挟まれたバラの花は、見る見るうちに青く染まっていく。

 

「ああ、だからバラは青くなったのですね……」

「そうだ。これは私の花、私のバラ、そして私のもの」

 

 幻想と化した青いバラを手に、アルヌェンは死の床につく老人に告げる。

 

「故に、ここのバラの持ち主であった貴様もまた、今から私のものだ」

 

 それと同じ言葉が、かつて英雄の魂を冥府へと連れ去っていく時、幾度となく発せられたのだろう。

 

「生から死への刹那を悠久に引き伸ばし、影ノ館にて私の庭を整える役目を貴様に与えよう。役を終えたとき、今度こそ貴様は貴様の奉ずる神の元へと行くがよい」

 

 アルヌェンは冥府の王。彼に仕えるということは因果の理をはずれ、生者でもなく死者でもない状態に移行することだ。たとえ死後の安寧を約束するとはいえ、あまりにも大きな変化だ。

 

 恐れと戸惑いに満ちたドリズンを見て、アルヌェンは薄氷のような笑みを浮かべる。

 

「どうだ? 拒むのならば、それもまたよし」

 

 問答無用で連れて行くつもりはないようで、ドリズンは少し落ち着く。と同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。所詮は、燃え尽きるろうそくが最後の一瞬光を放っただけのようだ。

 

「私のバラは……美しかったですか」

 

 もはや呼吸することさえ疲れた様子で、彼は尋ねる。

 

「もちろんだ。人の身で、よくぞここまで花を慈しんだ。花たちの喜びが私の耳にも伝わる」

 

 妖精王のその一言。手放しで彼とその心血を注いだバラを誉める言葉。それを聞いて、乾いたドリズンの肌を一筋の涙が伝う。ならばもう、思い残すことはない。

 

「それでしたら……」

 

 自分のバラは、妖精王の心をも動かしたのだ。こんな喜びがどこにあるだろうか。死を前にして、これほどの祝福が与えられるなど、考えもしなかった。思えば、自分がバラを育ててきたのも、それを見る人の心を喜ばせたかったのではないだろうか。ならば自分の努力と情熱と精根のすべては、今この時のためにあったのかもしれない。

 

「どうぞ連れて行って下さい。あなたの花園に」

 

 震えるやせ細った手を、ドリズンはアルヌェンに向かって伸ばす。彼の手を、慈しむかのように美しく整った手が握りしめる。

 

「よかろう。来るがよい」

 

 ――――その日、一人の老人がこの世を去ったかに見えた。だが、彼は妖精王の庭園に招かれたのだ。その、バラに傾けた深い深い、ひたむきな愛故に。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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14・泥棒カラス と 強制的な自然保護 の 話
14-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ロンディーグ駅。

 

「教授、道中お気を付けて下さいませ」

「ああ、行ってくる。君は心配するな」

 

 帽子にインバネス姿のエルロイドは、マーシャの別れの挨拶を受けて軽くうなずく。これから彼は、一ヶ月ほど出張で出かけなければならない。今回は大学の公用であり、マーシャは留守番だ。目の前には、もうじき発車しようとしている機関車がある。

 

「心配はしていませんよ」

 

 しれっとそう言うマーシャに、エルロイドは顔をしかめる。

 

「ふん、単なる社交辞令、あるいは慣用句ということか」

 

 マーシャがお世辞を言っていると思ったらしい。

 

「そういう意味ではなく、教授のことですから向こうでも何一つ問題なくお過ごしになられるだろう、と信じているだけですよ」

 

 マーシャの返答に、しばらくエルロイドはあっけにとられていたようだが、やがて首を軽く左右に振る。

 

「まったく、君は私を過小評価しているのか、それとも過大評価しているのか判別しにくくて困る」

「私が唯々諾々と従うだけでは、教授も面白くないと思っていますので」

 

 打てば響くように返ってくる彼女の返答に、かすかにエルロイドは笑う。

 

「君くらい気骨のある連中が大学にいれば、私ももう少しやりがいがあるのだがな」

 

 だが、すぐに彼の笑みは消える。

 

「いずれにせよ、私はしばらく留守にする。何かあったらシディと協力するように」

「はい、分かっています」

 

 マーシャがそう答えると、満足したのかエルロイドはきびすを返す。

 

「それと…………」

 

 だが、不意に彼はマーシャの方を見ると、念を押すかのような口調でこう付け加えた。

 

「あの憎きカラスどもに盗まれた懐中時計を、できれば見つけておくように」

 

 そう言うと、今度こそエルロイドは客車へと乗り込んでいった。やがてマーシャの目の前で扉は閉められ、汽笛と共に機関車の煙突が白煙を上げる。もう発車の時刻だ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「う~ん…………」

 

 次の日、マーシャは望遠鏡を片手に街路樹を見上げていた。

 

「どう、お姉さん。見つかった?」

 

 その隣にいるのは、エルロイド専属の執事であるシディだ。こちらは木の梯子を小脇に抱えている。

 

「なかなか見つかりませんね。木の枝が密集した場所なのか、それともカラスの巣なのか区別しにくいです」

「おいおい、頼むよ。そんなんじゃ旦那様が帰ってくるまでに探し物の目星さえつかないぜ。自分が役に立たない侍女ですって宣言するのに付き合うのはごめんだからな」

 

 シディは煮え切らないマーシャの反応に顔をしかめる。

 

「私と一緒になってシディ君も探しているんですから、役に立たないって点ではあなたも同罪ですよ」

「ふん、すぐにそうやって人を自分と同レベルに落とそうとするのは感心しないぜ」

 

 二人が先程から探しているのは、紛失したエルロイドの懐中時計である。以前カワウソの妖精にすられたそれは、今回は室内に突如侵入してきたカラスの群れによって盗まれてしまったのだ。どうも、彼の懐中時計は妖精に好かれる何かを発している可能性がある。

 

「それにしても、重いでしょう? 代わりましょうか?」

 

 望遠鏡をしまって歩き出したマーシャは、隣で梯子を抱えるシディに提案する。

 

「いいっていいって。一応お姉さんだってレディだろ? だったらこういうのはオレの仕事さ」

「シディ君って変なところで律儀ですよね」

 

 マーシャが目を丸くすると、シディは盛大にため息をついた。

 

「あのさ、あんたオレと年がら年中顔を合わせているくせに、オレがどういう仕事しているのか理解してないだろ。執事が律儀じゃなくてどうするんだよ」

 

 マーシャの見当はずれの感心は、シディにとってはむしろ当惑する部類だったようだ。隣でのほほんとしている年上の女性に対し、シディは噛んで含めるようにして言う。

 

「とにかく、お姉さんの仕事はカラスの巣を探すこと。オレの仕事は梯子をかけてその巣を調べること。目標は旦那様の懐中時計を見つけること。単純明快だろ?」

「私はバードウォッチングは未経験なんですけどね…………」

 

 だがいかんせん、マーシャの言う通りだ。こうやって望遠鏡を使っても、カラスの巣などごくまれにしか見つからない。

 

 そう言いつつ、マーシャは再び足を止めて望遠鏡を覗き込む。やはり、どこにカラスの巣があるのか分からない。干し草の上に落とした針を探すような気分だ。そろそろマーシャが、自分の左目にある妖精女王の目を使おうかと算段し始めたときのことだ。

 

「何をしているんだい? こんなところで」

 

 突然二人の後ろから、優しそうな男性の声が聞こえた。

 

「あ、すみません。お邪魔でしたか?」

 

 マーシャと話すときの生意気そうな態度を捨て、シディはネコをかぶった丁寧な物腰で振り返る。

 

「あ、あなたは……」

 

 一緒に振り返ったマーシャは、口を軽く開けて驚く。

 

「やあ、久しぶり。また会ったね。奇遇、かな?」

 

 そこにいたのは、以前カワウソの入った檻を手にしていた、あの不自然に厚着をした青年だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「改めてよろしく。僕はダヴィグ・オリエン。自然保護団体〈ヤドリギ〉で働いているんだ。会えて嬉しいよ」

「え、ええ……どうも」

 

 突然の再会による驚きもそこそこに、ダヴィグと名乗った青年はマーシャに親しそうに自己紹介をしてきた。そうされては、こちらも無視はできない。マーシャも改めて名乗ってから、シディをダヴィグに紹介する。

 

「それで、どういったご用件でしょうか? オレたちは少し忙しいんですが」

 

 心なしか警戒した様子で、シディはダヴィグに尋ねる。

 

「用件も何も、君たちこそ何をしているんだい。見たところ、バードウォッチングを楽しんでいるようには見えないようだけど?」

「お恥ずかしい話ですが、探し物をしているんです」

 

 これも何かの縁だと思い、マーシャは手短に自分たちの実状を説明した。ダヴィグは、あの警吏に化けたカワウソを連れていた。こういった不可思議な事態には、少しは詳しいだろうとかすかな期待を込めて。

 

「ああ、やっぱり」

 

 マーシャの期待は裏切られず、一通り耳を傾けたダヴィグは大きくうなずく。

 

「というと、似たようなことがあちこちで?」

「そう。このところ、カラスが群れで金物を盗んでいるのがあちこちで目撃されているんだ」

「気のせいじゃないですか? だってカラスですよ」

 

 やはりシディは、ダヴィグの反応にいい顔をしない。

 

「確かに、カラスは知能が高くて遊び好きで、木の実やネジ、石などを遊び道具として持ち歩くことだってある。けれどね、少々その度合いが異常なんだ」

「やたら盗まれてるってことですか」

「少しこの頻度はおかしいね。まるで、ロンディーグ中のカラスたちが何者かに操られているようにも見えるよ」

 

 そこで口を閉じると、ダヴィグは軽くマーシャに目配せする。

 

「たとえば……妖精とか?」

 

 彼女の言葉に、得たりとダヴィグは笑う。

 

「そう。君には見えるんだろう。妖精女王の目を持つ君ならば」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「どうしたんです、シディ君。今日はご機嫌斜めみたいですけど」

 

 その日の夜。エルロイド邸で夕食を終えたマーシャはシディに話しかける。ダヴィグと別れて以降、どうもシディはぶすっとしている。

 

「別にそうじゃないけどさ」

 

 シディは銀食器を磨きつつ、彼女に視線を向ける。

 

「どうもあの人、オレは好きになれないよ」

「ダヴィグさんをですか?」

「そうだよ。お姉さんは何とも思わないわけ?」

 

 そう言われて、マーシャは首を傾げつつ、今日再会したダヴィグという青年を思い浮かべる。くせの強い茶色の髪。色素の薄い青い目。なかなかハンサムな容貌。だが何よりも目立つのは、季節はずれの厚着だ。

 

「特には?」

 

 しばらく考えてから出した彼女の返答に、案の定シディは大げさに呆れかえる。

 

「やれやれ、不用心というか人がよすぎるというか。よくそれで旦那様の助手が務まるよなあ。お姉さんはその妖精女王の目があるから、旦那様が認めているだけだからな。くれぐれも、自分が有能で瀟洒だと勘違いして、勝手にうぬぼれないように」

「はいはい。シディ君は心配性ですね。でも教授思いで優しいところは私は好きですよ」

「お姉さんにそう言われても嬉しくないね」

「本当に?」

 

 そう言ってマーシャがシディの顔を覗き込むと、彼は露骨に視線を逸らした。少し照れているらしい。しかし、すぐにシディは親が子供を叱るような口調で続ける。

 

「いずれにせよ、お姉さんはあの人に自分のことや旦那様のことや、エルロイド家のことをぺらぺら話したりしないこと。いいね?」

「確かに私も、少しなれなれしいような気もしますけど、お友だちになりたいのかなって思うくらいで……」

 

 マーシャの思考はあくまでも性善説だ。それでも、ダヴィグの妙に親しげな様子はやや不可解ではある。しかも、その親しさはマーシャ限定なのだ。

 

「まあ、そりゃあ妖精について変な目で見られずに話せる相手は貴重だよなあ……」

 

 一度は納得しかけたシディだが、さらに念を押す。

 

「でも、子供や心の純真な人間しか妖精が見えないって言うのはただの言い伝えだから。妖精の実在を知っているだけで、安易に気を許したりしないように!」

 

 伝承では、妖精が見えるのは子供や心の清らかな人間だ。だが、必ずしも現実がそうとは限らない。

 

「分かりました。善処します」

 

 首を縦に振るマーシャを見て、ようやくシディも安心したようだ。

 

「そういうこと。お姉さんは旦那様の助手なんだから、旦那様の益となるよう心がけていなくちゃ。それが、オレたちの務めなんだぜ」

 

 しかし、ダヴィグとの付き合いはこれで終わりではない。明日、二人は森林公園で彼と会う。時計探しに付き合うとダヴィグが提案したためである。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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14-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「二人とも、これを見て」

 

 森林公園の道を歩きつつ、ダヴィグが外套のポケットから地図を取り出してマーシャたちに見せる。

 

「カラスが金属類を集めたり盗んだりした場所と、その日付が書いてあるんだ」

 

 独自に調査したのか、それとも警察から情報提供を受けたのかは不明だが、彼の所属する自然保護団体はこの事件に本腰を入れているらしい。

 

「ずいぶんと分かりやすい図式ですね」

「うん。僕たちの相手は、自分の居場所を隠す気がないようだね。恐らくカラスを端末にして操り、金属を集めさせているようだ」

 

 シディの発言にダヴィグは同意する。実に分かりやすい地図だ。この森林公園を中心に、石を投げ込まれた水面のように被害が拡大している。あからさまに、この森林公園付近が怪しい。

 

 不意にカラスの鳴き声が聞こえ、マーシャは目を上げた。近くの大木の枝に、一羽のカラスがとまっている。そろそろ日が暮れる。カラスたちはこの公園の中で夜を明かすのだろう。そのカラスがひょいと枝から飛び降りると――――。

 

「消えた!?」

 

 マーシャの隣にいたシディが驚きの声を上げる。カラスの姿はどこにもない。

 

「向こう側に移動したと言った方が近いね」

「似たようなものじゃないですか」

 

 ダヴィグが発言の内容を訂正し、シディはやや嫌な顔をした。マーシャが木の根元に駆け寄ると、そこには根が盛り上がってできた空間がある。カラスの姿はその隙間に吸い込まれてしまったようだ。軽く左目が反応する。明らかに妖精郷か、それに類する場所への入り口だ。

 

「さて、これでだいたい元凶のいる場所は突き止められたようだね。どうする?」

 

 マーシャの背中に、ダヴィグの落ち着き払った声がかけられた。

 

「君たちは盗まれたエルロイド教授の懐中時計を取り戻したいんだろう? この先にそれがある可能性は高いよ。もちろん、まだどこかのカラスが自分の巣に置いている可能性もあるけどね」

 

 マーシャとシディに、彼は意味深な笑みを浮かべる。

 

「いったん引き返すかい? それとも、このまま突入するかい?」

 

 その腹に一物ある態度に、シディが眉を上げる。

 

「何が目的なんです? エルロイド家に恩を売るのが目的なんですか?」

「さあ。どうだろうね」

 

 さらに何か言おうとしたシディを遮る形で、マーシャは口を開いた。

 

「ダヴィグさんの方こそ、このまま引き返すという選択肢はないのではありませんか?」

「ほう、どうしてだい?」

 

 挑戦的な彼女の物言いを受けても、ダヴィグは面白そうな態度で応じるだけだ。何となく、彼は妖精のような人だ。マーシャはふと、そんなことを思う。ここにいるのにいないかのような、希薄であやふや、異質で奇妙な存在感がそっくりだ。

 

「もちろん戦力が不足しているのでしたら、撤退も止むなしでしょう。しかし、ダヴィグさんは昨日、ご自分が自然保護団体に所属しているとおっしゃっていました。カラスの本能をねじ曲げ、人間に敵対するような行動を取らせる元凶がここにいるのでしたら、速やかに是正するのが自然保護団体の一員としての責務ではないでしょうか?」

 

 マーシャの持論にしばらくダヴィグが無言で耳を傾けていたが、ややあって大きく同意する。

 

「ああ、そのとおりだよ。君は本当に明晰だね、マーシャさん」

「特別そんなことはありませんよ。ただ――」

 

 手放しで誉められても、マーシャは照れる様子もない。なぜならば……。

 

「教授でしたら、そうおっしゃると思っただけです」

 

 エルロイドのように考え、彼のように発言した。マーシャにとってはただそれだけのことである。

 

「それで、戦力はいかほどでしょうか。こちらは見ての通り、腕っ節に自信のある二人ではありませんが?」

「ご冗談を。君の炯眼に従わない妖精など滅多にいないよ。暴力など妖精の前では無力だ。だけど、君の目はすべてを見通し、すべてを従える」

「だったら、むしろあなたの方がオレたちに助力を願うんじゃないかな?」

 

 すかさずシディがイニシアチブを取ろうしてそう言うが、曖昧にダヴィグは笑うだけだ。

 

「そうでもないよ。僕はこう見えても、それなりに妖精のあしらい方は知っていてね。まあ、君たちは懐中時計を取り戻したい。僕は歪んだ自然を元に戻したい。目的が一致したね」

「ええ。そのようですね。でしたら……」

 

 そう言って、マーシャは静かに大木の根元に目をやる。一見すると、ただの穴もしくは隙間でしかない。

 

「この目を使うのに、異論はありませんよ」

 

 マーシャの左目が緑色に輝く。それは虚飾を壊し、真実と露わにする妖精女王の目だ。彼女のその目を、ダヴィグは極めて高価な宝石を見るかのような目で見ていた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「な、何なんだ、ここは!?」

 

 大木の根元の穴は、確かに妖精の住まう場所への入り口だった。今回は、分かりやすい扉やドアのようなものは現れない。ただ、三人がその穴に足を踏み出した途端、吸い込まれるようにして中に入ってしまっただけだ。体が液体のように溶けてしまったのか、それとも縮んでしまったのかは定かではない。

 

「その反応、とても新鮮ですね」

「ああ、本当だよ」

 

 周囲を見回して驚きの声を上げるシディを見て、マーシャとダヴィグは平然とそんなことを言う。まるで初心者があたふたする様子を見て楽しむベテラン勢だ。

 

「どうして二人ともそんなに落ち着いているんだよ!?」

「慣れてますから」

「珍しくもない景色だからね」

 

 あくまでも落ち着いたマーシャとダヴィグの反応に、シディは途方に暮れた様子で額に手をやる。

 

「頭と目がおかしくなりそうだよ……」

 

 彼がそう言うのも無理はない。およそ、縮尺というものがこの場所は徹底的に狂っている。普通に立っているだけで目が眩み、まともにまっすぐ歩くことさえおぼつかない。

 

 三人がいるのは、どうやらロンディーグを模した場所らしい。家々が立ち並び、あちこちには跳ね橋や時計塔など、見覚えのある建物らしきものも見える。しかし、そのいずれも平面的だ。どうも、この場所は巨大な球体らしい。内面に空から見たロンディーグの映像が貼り付けられている。

 

 そのくせ、近づくにつれて建造物は立体感を増してこちらに向かって立ち上がってくるのだ。完全に二次元と三次元が入り混じっている。恐らくこれは、空を飛ぶカラスの視点から見たロンディーグなのだろう。遠くの景色は鳥の視点から形作られ、近くの景色は地に足がついた人間の視点から再構成されている。

 

 そんな二重の構造に、シディが慣れる暇もなかった。

 

「カー! カー! 侵入者発見! 侵入者発見!」

 

 カラスの鳴き声と人間の大声とが混じったその声は、三人の頭上から投げかけられた。

 

「カー! カー! 人間発見! 人間発見!」

 

 すぐさまマーシャは真上を見上げた。羽音が聞こえる。それもカラスのそれにしては、ずいぶんと大きな羽音が。

 

 建物の屋根付近で、二羽のカラスが羽ばたきつつホバリングしている。だが、その姿は軍服を着た人間が混ぜ合わさったデザインだ。言うなれば、カラスの頭と翼を有する天使のような姿である。軍服を着た上に手に小銃を持った天使など、前代未聞ではあるのだが。二羽のカラスはこちらを見て、しきりに大声で叫んでいる。

 

「おやおや、早速ばれてしまったようだね」

「ちょっと、どうするんですか! 見つかっちゃいましたよ!」

 

 ダヴィグはのんきに空を見上げているが、シディは焦る。明らかに連中はこちらを歓迎してはいない。

 

「連中は空を飛べるんだ。歩くしか能のない僕たちなんかすぐに見つけてしまうよ。それに僕たちはこの領域の異物だ。どうせすぐに見つかる」

 

 ダヴィグが状況を説明しているうちに、二羽のカラスが小銃を構えたままこちらに向かって降りてくる。

 

「動くな!」

「手を上げろ!」

 

 だが、姿を現したのは彼らだけではなかった。二羽の上げた警戒の叫びが周囲に伝わったのだろう。次から次へと、四方八方からカラスたちが三人の周囲にやって来る。

 

「人間だ!」

「人間がいるぞ!」

「なんでここに?」

「しかも三人!」

「三人もいる!」

「大きいのとちっちゃいのと中くらい!」

「人間だぞ!」

「珍しいな!」

「ちょっとこっち向いてくれよ!」

「あ、こっちも!」

「目線お願いします!」

「サインも!」

「スマイルも!」

「笑って! ほら笑って!」

「もっとよく見せてよ!」

 

 カラスたちは、ある者は地面に降りてこちらを覗き込み、ある者は上空を旋回しながら興味深げにこちらに視線をやり、さらにある者はホバリングしつつ穴の開くほどこちらを見つめている。どうやらマーシャたちに興味津々らしい。口々にがなり立てるその声はやたらと響き、一斉に喋られると鼓膜がおかしくなりそうになる。

 

「ものすごくうるさいですね……」

「まあ、本質はカラスだからね……」

 

 さすがに顔をしかめるマーシャに、ダヴィグは苦笑する。これはカラスの姿を取る妖精の一種だろう。本来無形の妖精がわざわざカラスの姿を取るのは、その特性を真似るためだ。群れをなして行動し、やかましく、さらに好奇心旺盛なのは、すべてカラスの習性である。

 

「なぜ人間がここにいる!?」

「目的は何だ!?」

 

 狂騒とも言えるカラスたちの騒ぎが少し収まってから、マーシャたちを発見した二羽のカラスがこちらに質問してきた。鳥によく似たその手は、今も油断なく小銃を構えている。

 

「あなた方のリーダーに、会いたくて」

 

 マーシャは銃を恐れることなく、端的にそう答えた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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14-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「カー! 大佐! 侵入者の人間を連れてきました! カー!」

「カー! 計三人です! 全員元気で健康です! カー!」

 

 三人が軍服を着たカラスたちによって連れてこられたのは、変わり果てた大聖堂だった。あちこちにがらくたが山のように積み上げられ、機械油の焦げる匂いが周囲に立ちこめている。

 

「ごくろうだった。ガー!」

 

 その報告を受けたのは、聖堂の入り口付近に設けられた玉座に腰掛けていたカラスだった。もちろん玉座も廃材で形作られている。明らかに、カラスが持ち運びできる大きさではない廃材も多い。恐らくカラスたちは人間に化けて、これらのゴミをこっそりくすねてきたのだろう。

 

「カー! 下がらせていただきます! カー!」

 

 敬礼しつつ、カラスたちは三人の側から離れる。

 

「それで……」

 

 ゆっくりと、玉座に腰掛けていた大佐と呼ばれたカラスが立ち上がる。

 

「お前たちか。基地内に許可なく侵入してきたスパイというのは」

 

 一歩歩く度に、体の各所から蒸気が吹き上がり、錆び付いた機械が無理矢理動くような音が響く。その姿は、無数の廃材を組み合わせて作った人形だ。

 

「基地?」

 

 ダヴィグが首を傾げた。

 

「そうだ。知らないとは言わせないぞ」

「知りませんでしたが?」

 

 マーシャが真顔でそう言うと、カラスは吠えた。

 

「ガー! 生意気なことを言うな! ガー!」

 

 嘴の付け根から火花が散り、軍服のあちこちが展開すると内部の機械がむき出しになる。ところどころ黒い羽毛が残っているのが、ボロ布のようで痛々しい。

 

「あっ! それは!」

 

 怒った際に発生した熱を冷ましたいのか、体内のパーツがむき出しになった大佐を見て、シディが叫んだ。

 

「何だ、そんなにじろじろ見るな」

 

 慌てて開いた部分を閉じる大佐だが、三人ともしっかりと見ていた。大佐の体の中に、あの懐中時計が埋め込まれている。

 

「それは教授の懐中時計です。お返し下さい」

「か、返せだと!?」

 

 マーシャは丁寧に頼むのだが、案の定大佐は聞く耳を持たない。

 

「ガー! 駄目だ駄目だ駄目だ! 俺様の新たなボディがようやく完成しようというのに、いまここで邪魔をするつもりか! ガー!」

 

 頭の両脇から映えたパイプから熱い蒸気を吐きつつ、大佐は嘴を鳴らして怒鳴る。それに乗じるのが周りのカラスたちだ。

 

「そうだ! 大佐の野望を止めようとしてもそうはいかんぞ! カー!」

「人間め! 盗人猛々しいとはこのことだ! カー!」

「泥棒!」

「どろぼう!」

「ドロボー!」

「カー!」

「カー!」

 

 一斉に叫ぶため、耳を塞ぎたくなるような騒音だ。

 

「一つ、質問なんですが」

 

 彼らに充分叫ばせてから、ようやくマーシャは口を開く。

 

「あなただけはなぜ機械仕掛けの人形なんですか?」

 

 彼女の質問に、即座に大佐は食いつく。

 

「よくぞ聞いてくれたな、お嬢さん。それには聞くも涙、語るも涙の深い深い理由、長い長い物語があるわけよ。まずはだな……」

「手短にお願いします」

 

 自己顕示欲の高そうなカラスだが、マーシャはにべもない。

 

「あ、はい」

 

 一瞬大佐は毒気を抜かれたようだが、すぐにとうとうと自分の出自を話し出す。その話によると、大佐は元々馬車に轢かれて重傷を負ったカラスらしい。必死に生きようとあがくうちに、いつの間にか機械と融合したこの体を手に入れたとか。

 

「今なら分かる! 人間は愚かだ! 人類は穢れている!」

 

 大佐は熱っぽく語りながら金属製の翼を広げる。

 

「故に俺様は決起する! これは革命だ! カラスの軍勢を率いてロンディーグを支配し、帝国を蹂躙し、そしてついに選ばれたカラスのみが生きる千年帝国を俺様は作り上げるのである!」

 

 機械と融合したカラスは、他のカラスに知恵と体を与え、自らの基地を作り出す力を手に入れていたのだ。大佐の演説に、周囲のカラスたちは一斉に歓声を上げる。

 

「カー! さすがです大佐!」

「カー! カッコイイであります!」

「どこまでもついていきます!」

「万歳! 大佐万歳!」

「ばんざーい!」

 

 中には空に向かって発砲するカラスもいる始末だ。

 

「――もしそれが成功するならば」

 

 しかし、彼らの熱狂に冷や水を浴びせたのは、マーシャの一言だった。

 

「あなたの居場所はどこにもありませんね、大佐」

「な、なにぃ!? どういう意味だ!」

 

 彼女の言葉に、大佐は怒るのではなくむしろ怯えたようだった。

 

「それは、あなたご自身が一番よく分かっているのではありませんか?」

 

 マーシャが一歩前に進み出ると、大佐は一方後ろに下がる。

 

「だってあなたは――」

 

 彼女の左目が、緑色に輝いた。

 

「カラスではなくてガチョウですもの」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 マーシャの左目で見つめられ、大佐はよろめいた。その手が拒絶するように彼女の顔に向けられるが、それくらいで妖精女王の目の権威から逃れることはできない。一声叫ぶと大佐の体は結合力を失い、ただの廃材の山とひとそろいの軍服となってその場に崩れた。

 

「た、大佐ー!」

「大佐がー!」

 

 駆け寄ったカラスたちが、次の瞬間硬直する。

 

 軍服の中から慌ただしく現れたのは、一羽のガチョウだったのだ。元は白い羽毛のガチョウだろうが、すっかり廃油とゴミと煤で汚れて黒くなっている。遠目で見れば、カラスと見間違えそうなみすぼらしさである。その口が開くと、ガチョウの鳴き声が聞こえる。

 

「た、大佐が……」

「カラスじゃなくて……ガチョウ?」

「ガチョウ? なんで?」

 

 しばしカラスたちはお互いに顔を見合わせていたが、すぐに憤怒の形相で足元のガチョウをにらみつける。

 

「騙したな! こいつめ!」

「よくもガチョウのくせにカラスみたいな顔をしやがって!」

「生意気なんだよ! この家禽が!」

「ガチョウの分際でふざけるな!」

「訴訟! 訴訟!」

「囲め! 囲め!」

「確保! 確保!」

「死刑! 死刑!」

 

 何とまあ嫌われたものである。よほど、ガチョウをトップに据えて軍隊ごっこをしていたことが気に食わなかったらしい。罵声を浴びせられたガチョウは大あわてで廃材の中から抜け出すと、エルロイドの懐中時計を嘴に引っかけて飛び立った。逃げる気だ。

 

「あっ、こら! 待て!」

 

 追いかけようとするシディを、ダヴィグが引き留めた。

 

「大丈夫だよ」

「大丈夫って――」

 

 なおも追おうとするシディを制し、静かにダヴィグは右手を挙げ、不格好に羽ばたくガチョウを指差す。

 

「――凍れ」

 

 その言葉と共に、一瞬だけ周囲の空気が痛いほどに凍てついた。針のような冷気が瞬時に放射され、消える。変化があったのはガチョウだけだった。全身に霜を生やしたガチョウが、地面に落下する。

 

 その開いた口から、ざらざらとゼンマイや歯車がこぼれ落ちた。

 

「自動人形?」

「どうやらそのようだね」

 

 驚くシディを尻目に、ダヴィグはガチョウを持ち上げると、手で霜を払う。

 

「どこかの家でほこりをかぶっていた自動人形に、妖精が取り憑いていたずらしていたようだね」

「殺したんですか……?」

 

 ダヴィグは首を左右に振る。

 

「妖精郷に帰っただけさ。ここよりもさらに異界に近い場所にね」

 

 三人の周囲で、急に無言になったカラスたちが軍服を脱ぎ、ただのカラスに戻っていく。同時に、周囲の風景もかき消えるように変わっていく。やがて、三人が立っていたのは元の森林公園にある木の根元だった。妖精は妖精郷に帰り、その影響を受けたカラスはただの鳥に戻ったのだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「どこから見ても、よくできている以外はただの自動人形ね」

 

 その日の夜。マーシャはエルロイド邸の一室に、動かなくなったガチョウの自動人形をそっと置いた。妖精が抜け出した今、以前のような生々しさはどこにもない。ただの自動人形だ。

 

「でも、これがひとりでに動き出すなんて。妖精たちも余程暇を持て余しているのかしら」

 

 ダヴィグはこれを、懐中時計と一緒にマーシャたちに渡すとその場を立ち去った。彼曰く

 

「僕は自然保護団体の人間だよ。生物が保護の対象。人工物は対象外さ。むしろ、君たちの雇い主が持ち帰ったら喜ぶんじゃないかな」

 

 とのことだ。実際、これはエルロイドの研究対象となること請け合いだ。

 

「興味がおありでしょう? ねえ、教授――――」

 

 そう言いつつ振り返って、はたとマーシャは気づいた。ここにいるのは、自分一人だけだ。

 

「ああ、そうでした……」

 

 エルロイドは今、出張中である。マーシャはガチョウを指でつついてから、部屋を後にした。誰もいない部屋と、呼びかけても返事が返ってこないことに少しだけ寂しさを覚えながら。彼が帰ってくる日を、少しだけ待ちわびながら。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「まったく嘆かわしい。正しい知識がなければ資料一つまともに整理できないのか」

 

 一方その頃、エルロイドはまだ机に向かっていた。出張先の大学の書庫から妖精関連の資料を集めたのだが、妖精という見えないものを扱うだけあって記述は混乱し、時系列さえもいい加減である。エルロイドにとっては、目を覆いたくなる無秩序だ。

 

「これでは単に掃除に来たのと変わらん」

 

 エルロイドはそう愚痴ると、手元の本を閉じて机の隅に押しやる。そこには既に、うずたかく日記や記録や報告書が積み上げられていた。

 

「マーシャ、この辺りのものを大まかに年代順にしておくように――――」

 

 そう言いつつ振り返って、はたとエルロイドは気づいた。ここにいるのは、自分一人だけだ。

 

「ああ、そうだった……」

 

 自分は今、出張中である。ここにいない彼女を自然に呼んでしまうほど、マーシャという存在は自分の中でいて当然になっているのだろうか。

 

「……時間の無駄だ」

 

 それがなぜなのか知りたいとは思わず、エルロイドはいつもの決まり文句と共に思考を打ち切った。ほんの少し、ロンディーグの自分の屋敷を懐かしく思いながら。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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15・胡蝶の夢 と 思わぬ里帰り の 話(前編)
15-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 そこはひどく奇妙な場所だった。時折四方八方からかすかな人の声が聞こえたり、何もない空間にぼんやりと数式らしきものが漂っている。色彩はやや単調で暗く、まるで一枚の写真の中にいるかのようだ。人の声はどれもこれも意味不明の囁きでしかなく、耳を澄まそうとしてもすぐに消えてしまう。マーシャが今いるのは、豪華な応接室だ。

 

 向かいの椅子に腰掛けたエルロイドが指を鳴らすと、側のテーブルにティーセットが瞬時に出現する。

 

「教授、すっかりこの場所に適応していらっしゃいますね」

 

 マーシャの言葉に、彼が唾棄する魔法のような妙技を見せたエルロイドは悠然としている。

 

「これは私の夢だ。私が私の夢に馴染むのは当然に決まっている。君は違うのかね?」

「歩いてこちらに来るだけで一苦労ですよ。雲の上で流れる糖蜜の道を歩くような気分です」

「そうか、難儀なものだな。だが、得難い経験だろう?」

 

 そう、ここはどうやらエルロイドの夢の中だ。マーシャはそこに招待された身らしい。二日前から、マーシャが就寝するとその精神らしきものが体から離れ、エルロイドの夢の中に入っていくのだ。

 

「古代のシャーマンや霊媒師などは、恐らく他者との共感能力を有する人種だったのだろう。自他を隔てる精神の壁が薄く、他者の記憶、感情、想像、思考を自分のことのように感じ取ることができていたのだ。そして今、私たちもそれに類する体験ができている。何という幸運か!」

 

 ひとしきり感動してから、エルロイドはマーシャの方を上機嫌で見る。

 

「マーシャ、君はそう思わないのか?」

「他人の頭の中にお邪魔するのは、どうも居心地が悪くて……。本当によろしいのですか?」

 

 だが、他人の夢の中、ひいては頭の中にいるということは、その人の記憶、つまり多くの秘密に一番近い場所にいることだ。うっかり彼の秘密をのぞき見てしまうのではと思うと、マーシャはどうしても萎縮してしまう。

 

「構わん。ことさら君に隠さねばならないことなど、優秀な私にはない。仮にあったとしても、私は自分の情報管理はきちんとできている。現実の君のように、ここでもリラックスしたまえ」

「……それでは、お言葉に甘えて」

 

 そこまで言われて、ようやくマーシャは少し肩の力を抜く。エルロイドの私室に招待されただけだ、と自分に言い聞かせつつ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 出張中のエルロイドが夢の中にマーシャを招くのは、単に茶会を開くためではない。彼はマーシャに、向こうで集めた妖精関連の情報や考察を話して聞かせていたのだ。本来それらは、彼がロンディーグに帰ってきてから行うことである。時間の節約とばかりに、彼は夢の中でその作業を前倒ししていた。付き合わされるマーシャはいい迷惑である。

 

「まさか、君と共にここを散歩する日が来るとはな」

 

 一通り作業を終え、気分転換とばかりにエルロイドはマーシャと散歩に出ていた。周囲はロンディーグほどではないものの、発展した町のように見える。

 

「現実よりも先に、夢の中で訪れるとは思いませんでした」

「よい町だろう? 私の生まれ故郷、ストゥルハーネンは」

 

 エルロイドは平然とそう言う。ここは彼の夢の中である。そして同時に、ここは彼の郷里の町、ストゥルハーネンを再現した場所でもあるらしい。マーシャはそこを訪れたことがないので比べようがないが、彼の言葉を信じればおおよそ現実のストゥルハーネンと大差ないそうだ。

 

「でも、誰もいませんね」

 

 マーシャは近くのパブを覗いてみる。

 

「さすがの私でも、自分以外の人間を勝手に脳内に住まわせるほど寛大ではない。そもそも私が他人の何を知っている? 外見、氏名、年齢、職業、家族構成。そのようなものをいくら知ったところで、他者の個性を理解することなどできんよ」

 

 無人の店内を眺めているマーシャを横目に、エルロイドはステッキを振りつつ講義を始めた。

 

「はた目から見た聖人が実はとんでもない悪党であり、逆に札付きの悪人が実は虫も殺さぬ淑女である可能性だって皆無ではない。もっとも、善悪の両極端を単純に結びつけること自体、陳腐で使い古された手段だがな」

 

 要するに、エルロイドは自分の記憶から故郷を再現はできたが、そこの住民までは再現する気はなかったらしい。

 

「ふむ、今日の私はいつになく多弁のようだ。やはり、夢の中とはいえ君に会えるのは嬉しいものだな」

 

 ひとしきり喋り終えてから、彼は長広舌に律儀に付き合ったマーシャに対し、珍しくはにかんだような笑みを見せた。おまけに、「君に会えるのは嬉しい」ときたものだ。出張でしばらく別れていたので、彼女のありがたみを実感したらしい。

 

「私は少し疲れますけどね。朝起きてもなんだか寝た気がしなくて疲労がたまりそうです」

 

 しかし、エルロイドの暴走気味の知性に夢の中でも付き合わされている女性は、しれっとそんなことを言う。彼を喜ばせることよりも、毎晩寝てからもなお仕事に駆り出される実状を訴えることを優先したらしい。

 

「それを聞いて安心したよ」

「どうしてです?」

「もしかすると、君もまた私の夢が作り出した存在ではないかと、少々疑っていたところだ。妖精の仕業であるとは言え、他者と夢を通じて交感するなど神秘の領域だろう?」

 

 エルロイドは彼女のつれない言葉にも気分を害さず、くるりとステッキを回すとマーシャをまっすぐに見つめる。

 

「マーシャ・ダニスレート、君は果たして本物のマーシャかね?」

 

 彼の鋭い眼差しが、怖じることなくマーシャに向けられる。かすかに、マーシャはたじろいだ。

 

「わ、私は……」

 

 自己の真実性に疑問を投げかけられたからではない。思いのほか、エルロイドのその目は怜悧で、刃物のような硬質さを帯びていたからだ。その目には見覚えがある。初めて彼と出会った日。警察で初めてマーシャを見た、あの学者の目だ。

 

「ああ、君は本物だ。私には分かる」

 

 しかし、すぐに彼の双眸には温かさが戻る。

 

「先程の問いかけに対し、私にとって都合のよい返答をしない君は本物だ」

「どういうことでしょう?」

「私が君に会えて嬉しいと言えば、普通ならば『私も同感です』と答えるものなのだ。しかし君ははっきりと自分の意見を述べた。私の期待などお構いなしに」

 

 一人で納得しているエルロイドに、マーシャは首を傾げる。

 

「……誉められているんでしょうか。それとも遠回しに非難されているんでしょうか?」

 

 だが、エルロイドは答えない。機嫌良く笑いながら、彼はさらに付け加える。

 

「それに、君は明らかに私の夢の外からやって来た、生身の人間だ。私には分かる」

「どうして分かるんです?」

「優秀な私にとっては造作もないことだ。そうだろう?」

「比較対象がないので、私には何とも言えませんが」

 

 マーシャの気のない返答にも、エルロイドが機嫌を損ねた様子はない。

 

「さあ、そろそろ戻ろう」

「はい、分かりました」

 

 エルロイドに続こうとして、かすかにマーシャはよろめく。だが、それにエルロイドが気づくことはなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「えええぇーっ!?」

「そんなに驚くことかしら、キュイ」

 

 次の日の朝。眠い目をこすりつつ、マーシャは食卓に着いた。夢の中でも現実と同じように働いたせいで、寝た気がしない。

 

「だって、だってだってだって、それはすごいことですよ!」

 

 顔色の悪さを同僚のキュイに指摘され、マーシャは一通り近況を話したのだが、返ってきた反応がこれだ。

 

「考えてみればそうかもね。他人の夢を行き来できるなんて、普通じゃ考えられないことよ」

 

 夢を通じてエルロイドとやり取りしているという話を聞いても、キュイは頭ごなしに否定はしない。だが、驚くのも当然だろうとマーシャは思う。

 

「そうじゃないです、そうじゃないんですよー!」

 

 しかし、彼女は大げさな動作でマーシャの予想を否定する。

 

「そんなプライベートな場所に招待するくらい、旦那様はマーシャさんのことを信頼していらっしゃるんですよ。ええ、すごいです!」

 

 力強く両手の拳を握りしめて、キュイは文字通り力説する。

 

「そういうものかしら?」

 

 マーシャは実感が沸かない。そもそもエルロイドが夢の中に自分を招待したのは、単に時間を無駄にしたくないためだろう。

 

「考えてみて下さいよ。マーシャさんは、誰か知らない人に頭の中を覗かれたくないでしょ? だって、もしかしたら勝手に恥ずかしい思い出を見られちゃうかもしれないんですよ?」

「そうね。それだけは遠慮しておきたいわ」

 

 キュイの言葉に対し、マーシャは同意する。自分の記憶を他人に覗かれるなど、考えただけでぞっとする出来事だ。

 

「なのに旦那様は、マーシャさんを自分の夢にお招きしているんでしょ。これが信頼されてなくて何だって言うんです? すごいことですよこれは!」

 

 キュイは当然のような顔をしてそう言うが、今一歩マーシャの心には響かない。何しろ、エルロイドは文字通りの変人である。信頼などという殊勝な言葉が脳内にあるのかすら疑わしい。

 

「じゃあ、私も逆に招待してみようかしら」

「むむ、旦那様の信頼に応えようっていうんですね。健気ですねえ、マーシャさん。微力ながら応援します! しちゃいます!」

 

 何気なくマーシャはそう言ったのだが、キュイの琴線に触れたらしくさらに彼女は盛り上がっている。

 

「別に、教授は私のことをことさら信用しているわけじゃないわ」

 

 冷めた口調でマーシャは自分の考えを口にする。

 

「教授は、自分のことを完全にコントロールできているって自信があるから、私を招いたのよ。それに、とにかく話をすることで考えをまとめたいみたい」

「そうかもしれませんけど……」

 

 キュイはやや不満そうだったが、反論することはなかった。何しろ、とにかくマーシャが眠そうだったからだ。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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15-2

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「ふあぁ……眠い」

 

 極めて矛盾した表現だが、夢の中でマーシャは目を覚ました。ここ数日ずっと続いている、眠りの中で起きるという独特の感覚が五感を苛立たせる。正直に言えば、不愉快と表現してもいい感覚だ。この感覚に平然と慣れ親しみ、あまつさえ率先して明晰な夢を活用しようとするエルロイドの神経は、明らかに異常である。

 

「あ……そうだっけ。教授に呼ばれて…………」

 

 夢の中で、マーシャはベッドから起き上がる。夜眠ったと思ったら、すぐさま夢の中で目を覚ます。こんな生活を続けていれば、熟睡した感覚など皆無だ。

 

「もう少し寝ていたいけど……。教授がお待ちだし…………」

 

 もごもごと呟きつつ、マーシャは寝間着から着替える。

 

 寝ぼけ眼をこすりつつも、何とかマーシャは身支度を調えた。これから不安定な経路を通って、エルロイドの夢へとお邪魔しなくてはいけない。ひっきりなしに訴えかける睡眠欲を責任感からねじ伏せ、マーシャは自室のドアを開けた。だが、その先にあるのはまた自室だった。

 

「え?」

 

 マーシャの両目は、ベッドで寝ている自分をはっきりと見た。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 吹き抜ける風に、マーシャは目を細めた。照りつける爽やかな陽光が眩しい。顔を上げると、中天に輝く太陽。遠くには森。辺りはのどかな牧草地が広がっている。綿のような羊の群れ。記憶が蘇ってくる。大事な過去なのに、なぜかろくに顧みることのなかった記憶が。

 

「ここは……?」

 

 ここはコールウォーン。そのはずれにある「呼びかけの丘」だ。

 

「早く戻らないと……。旦那様を待たせちゃっている……」

 

 マーシャは牧草地に背を向け、細い道に沿って丘を登り始めた。古来より現世と妖精郷の境目とされる場所に、一軒の館が人知れず建っている。マーシャは何の疑いもなく、そこへと向かっていた。そして、いつの間にか彼女の背格好は縮み、十代の初め程度の年齢にまで戻っているのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 そのころ、いつまで経っても姿を現さないマーシャに、エルロイドがしびれを切らしていた。他人の夢と自分の夢とを結ぶ細くて不可解な経路。マーシャ曰く「雲の上を流れる糖蜜の道」を平然と渡りきり、彼はマーシャの夢の入り口に来ている。そこでエルロイドを出迎えたのは、ロンディーグにある自分の屋敷だった。

 

「それにしても……まるでおとぎ話だな」

 

 だが、それは単なるエルロイド邸ではない。屋敷すべて、すなわち門扉から庭から外壁から屋根から煙突に至るまで、刺々しく黒いイバラがびっしりと覆っているのだ。太さは最大のところで人間の胴体ほどもある。細いところでも腕ほどもあるのだ。それが屋敷を覆い尽くし、誰も入れないようにしている。

 

「さしずめ私は救いの手を差し伸べる王子か? 心底馬鹿馬鹿しい」

 

 エルロイドは自己嫌悪にかられたのか、苦虫を噛み潰したような顔をする。確かにこれは有名なおとぎ話、『イバラの森の眠り姫』のパロディだ。物語の中で姫は百年の眠りにつき、城はイバラで覆われる。ある日やって来る王子が、イバラを切り開き姫を助け出すのだ。

 

 だが、ここにいるのは王子ではない。恐らくマーシャは屋敷の中にいる。そして中に入ろうと画策しているのは、不可能を理不尽で踏破し、無理が通れば道理が引っ込むを体現するヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授なのである。

 

「小賢しい。私を阻もうとしてもそうはいかんぞ」

 

 エルロイドはそう呟きつつ、周囲を改めて見回すのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「バドリオンさん! それにサーヴァニさん!」

 

 館の入り口で、マーシャは同じくここで働いている二人と出くわした。

 

「……おや、これはこれは」

 

 バドリオンと呼ばれた白髪白髯の執事は、一瞬驚いた顔をしたもののすぐにいつもの穏やかな顔に戻る。

 

「えっ? ええっ!?」

 

 だが、もう一人はそうではなかった。

 

「マーシャちゃん!? なんでです?」

 

 光耀王国出身の褐色の肌をした長身の女性は、目を見開いて露骨に驚きを表現する。

 

「マーシャさんではないですか」

「ごめんなさい、遅くなっちゃって」

 

 バドリオンの言葉に、ぺこりと幼いマーシャは頭を下げた。

 

「どうしてここに来たんですか? しかも、その格好は……」

 

 サーヴァニがさらに彼女に問い尋ねる。

 

「え? その格好……?」

 

 マーシャはきょとんとする。サーヴァニの質問が心底理解できない。

 

「旦那様……怒ってますよね?」

 

 しかし、彼女にはサーヴァニの奇妙な質問よりも気掛かりなことがある。自分は館の主に用事を仰せつかっていたのに、放り出して今まで遊んでいた。マーシャはそう思い込んでいた。

 

「そうですね……」

 

 否定も肯定もせず、バドリオンはしばらく白い顎髭を撫でつつ考え込む。

 

「実際に、会いに行ってみるのはいかがでしょうか?」

「……バドリオンさんも怒ってます?」

「怒ってはいませんよ。けれども、少々困惑しています」

「困惑?」

 

 マーシャは首を傾げた。謹厳実直を地で行く彼にも、困惑することがあるのだろうか。

 

「ええ、当然です! だってマーシャちゃんは……」

 

 さらに言いかけたサーヴァニを、バドリオンは制する。

 

「まあまあ、サーヴァニ。詳しいことは、旦那様がお決めになるでしょう」

「は、はい。そうですね……」

 

 二人の様子にややマーシャはいぶかしげな顔をしたが、それ以上関心はなかった。

 

「まあいいけど。私、旦那様に会ってきます!」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャ! マーシャではないですか!」

 

 館に足を踏み入れた幼いマーシャだったが、速効で出くわしたのは見るからに厳しそうな老齢の侍女だった。

 

「うわ……ビルケットさんだ」

「何か言いましたか、マーシャ」

 

 とっさに柱の陰に隠れようするマーシャを、ビルケットと呼ばれた侍女は一瞬で見つけて近づく。彼女はこの館で働く侍女たちの長だ。

 

「なんでもありませんっ」

 

 逃げ隠れしてもお説教されるだけなのは骨身に染みているため、マーシャは大人しく柱の影から出てくる。

 

「どうしてここに? それにその格好は何ですか?」

 

 ビルケットの疑問に、マーシャはまたかと思う。

 

「……みんな同じこと聞くよね。どうして?」

 

 そう言っても彼女の表情が変わらないため、マーシャは頭を下げる。

 

「すみません。ちょっと外で遊んでました……」

 

 自分でそう言うと、改めてマーシャは外見に自信がなくなる。靴が土で汚れていたり、スカートの裾に干し草でもつけていると、ビルケットからきつく叱られていたからだ。

 

「おかしくありませんか?」

 

 その場でくるりと回ってみると、とりあえずビルケットはうなずく。

 

「一応、身だしなみは合格です」

 

 気難しく頑固そのものといった彼女の表情が、少しだけ緩む。

 

「それよりも……本当にマーシャなのですか?」

「そうですよ。さっきからバドリオンさんもサーヴァニさんも変なこと言ってばっかりです。みんな私を忘れちゃったんですか?」

 

 マーシャがそう言うと、呆れたようにビルケットは息を吐く。

 

「そんなことありませんよ。あなたのようなおてんば娘を、この館の住人が忘れるはずなどありません。旦那様にご迷惑をおかけした日々、あなたも忘れてはいないでしょうね」

「う~、は、反省してます……」

 

 そう言われると、マーシャの脳裏に昔日の記憶が次々と蘇ってくる。大抵は自分が何かドジを踏んで、それをビルケットに怒られている絵柄だ。

 

 それなのに。

 

「本当に、あなたがいなくなってから、この館は灯が消えたようでした……」

「ビ、ビルケットさん?」

 

 マーシャにとって厳しく怖い存在でしかなかったビルケットが、そっと彼女を抱きしめる。

 

「どのような因果の乱れでしょうね? まさか幼いあなたに再び会えるなんて」

 

 意味が分からず、マーシャは彼女の手の中で目を白黒させるだけだ。

 

「でも、歪みは必ず正されるもの」

 

 けれども、すぐにビルケットはマーシャを解放する。すぐに彼女の顔は、マーシャが見慣れた厳しい侍女の長へと戻る。

 

「さあ、旦那様に挨拶してきなさい」

 

 一度うなずくと、マーシャは二階へ登る階段に足をのせる。

 

「それと……」

「はい?」

 

 振り返ると、ビルケットはかすかに笑っていた。

 

「お帰りなさい、マーシャ」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「入れ」

 

 館の奥にある一室のドアをノックすると、すぐに返事があった。

 

「失礼します……」

 

 おっかなびっくり幼いマーシャが入ると、そこに館の主人はいた。

 

「マーシャ……?」

 

 本棚に向かっていた彼の手から、分厚い大冊が滑り落ちて床に音を立てる。

 

「あの……遅れて大変申し訳ありませんっ。反省していますっ」

 

 とにかく、マーシャは頭を下げて謝る。

 

「どうして、ここに来たのだ」

「え?」

 

 だが、返ってきた返事は思いもよらないものだった。

 

「貴様は国元に帰らせたはず……いや、そもそもその姿形は……」

「だ、旦那様? 何を言ってるんですか?」

 

 今日の館の住人は皆おかしい。全員、マーシャのことを見るや否や驚くのだ。首を傾げるマーシャに、足早に館の主人は近づく。

 

「いや、待て」

 

 しばらく彼女をじっと見てから、彼はうなずく。

 

「なるほど。夢を通ってここに来たのか。現世の中で一番妖精郷に近い場所とは、人の見る夢の中。過去の記憶を辿り、ここに行き着いたようだな」

 

 その細長い指が開かれ、マーシャの顔に彼の手が触れる。右目を手の平で塞ぐような形だ。

 

「さあ、目を覚ませ。半分だけ、その目を開くがいい」

 

 彼の言葉が呼び水となって、マーシャの中で分離していた過去と現在の記憶が混ざり合う。

 

「アーリェン様……。お久しぶりです」

 

 姿形も現在のそれに戻ったマーシャは、かつての主人に改めて挨拶した。

 

「息災にしているようだな、マーシャ・ダニスレート」

 

 白皙の肌に赤い瞳を持つ館の主は、怖気を振るうような笑みでもって彼女の挨拶に答えた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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15-3

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 マーシャの夢の中で再現されたエルロイド邸。その庭園に、黒いイバラによる巨大な山ができていた。

 

「はっはっは! どうだマーシャ! 君のフーリガン顔負けのバリケードなど、私の前ではただの厚紙同然だ。さあ、いい加減観念して姿を現したらどうだ!」

 

斧を持ち甲冑を着た無数の騎士たちを従え、呵々大笑しているのはエルロイドである。

 

 イバラによって徹底的に封鎖されたエルロイド邸を奪取するべく彼が行ったのは、単純極まる人海戦術である。ここは現実ではなく夢だ。すなわち、個人のイメージが具現できる。エルロイドはマーシャの夢の中で己の想像を形にし、無数の騎士たちを作り出して使役したのだ。間違いなく、その精神自体ははた迷惑とはいえ強靱そのものだ。

 

 騎士たちによって玄関までの道を切り開いたエルロイドだが、屋敷からは何の返事もない。

 

「いいだろう。そちらがその気ならば、もはや遠慮は無用。この私の知略をその目で見るがいい! マーシャ・ダニスレート!」

 

 負けん気に火がついたのか、エルロイドはステッキを掲げてそう宣言する。かくして彼は扉を開き、屋敷の中へと突入するのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 一方こちらはコールウォーン。呼びかけの丘に建つ影ノ館の一室である。

 

「アーリェン様、昼間からお酒はどうかと思われますが」

 

 テーブルに置かれたグラスに琥珀色の液体を注ぐアーリェンを見て、マーシャが苦言を呈する。酒類を一滴たりとも飲まないエルロイドのところで働いていると、アルコールの香りが少々鼻につく。

 

「私は酔わないのだよ、現世のものではな」

 

 白骨の如き指でグラスを持ち、アーリェンは静かに中身をたしなみながらそう言う。

 

「ではどうして?」

「決まっている。この蒸留酒の銘柄は味と香りがとてもよい。私の好みだ。酒をたしなむからと言って、常に酔いたいわけではないのだぞ」

「心しておきます」

 

 とりあえずマーシャはうなずいてから、年齢が少女から大人に戻って以来ずっと思ってきた疑問を口にする。

 

「改めてお聞きしますが、旦那様は何者なのですか?」

 

 夢の中を通って返ってきた昔の職場。元同僚の誰もが驚く中、平然としていたのはこのアーリェンだけだ。そして彼の一言で、マーシャは記憶を取り戻した。明らかにこの存在は人外である。

 

「マーシャ、貴様はどう思う?」

 

 アーリェンの血のように赤い瞳が、こちらをじっと見る。反射的に、マーシャの左目が緑色に輝く。本人の意思を介在せずに、妖精女王の目が反応する。それは、高位の妖精かそれに近しい存在を見たときによく起こる現象だ。

 

「――妖精王、アルヌェン」

 

 ややあって、マーシャはエルロイドから教わった名を口にする。

 

「ほう。ではなぜ、妖精の王がコールウォーンに館を構えている? 彼の住まいは妖精郷ではないのか?」

 

 妖精の王の名を聞いても、アーリェンの表情は変わらない。

 

「コールウォーンは、現世と妖精郷が交わる数少ない場所だとか。元より妖精たちは現世で好き勝手に遊んでいます。今さら王族が姿を現したところで、さして驚くほどのことではないかと」

「貴様の減らず口も、ここで働いている間は実に耳障りだったが、不思議といなくなるとつまらなくなる。貴様のいない影ノ館は、むしろ闇ノ館と改名したくなる暗さだ。手短に挙げればバドリオンは堅物そのもの、ビルケットは口やかましく、サーヴァニはそそっかしい。どうだ? 妖精の王の侍従たちとは思えない貧相な顔ぶれではないか」

「元同僚を悪く言う口は持ち合わせていませんので」

 

 飄々とマーシャは言い返す。それに怒ることなく、アーリェンは大きくため息をついた。外見こそ美青年だが、どことなく彼は太古から風雪に耐えてきた老木のような雰囲気を漂わせている。いや、それは恐らく事実なのだろう。彼と定命の人間とは、時間の流れそのものが異なる。

 

「逃がした魚は大きい、と言うが……。貴様をクビにしたのは少々早計だったようだな」

 

 しばらくしてから、ふと気がついたかのようにアーリェンは口を開く。グラスをテーブルに置き、改めて彼はマーシャをじっと見た。

 

「マーシャ、気が変わった。この影ノ館に戻れ」

 

 マーシャは間髪入れずにこう答えた。

 

「お断りいたします」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 一方こちらは、姿を現さないマーシャに宣戦布告したエルロイドである。

 

「やかましい! 先程から何だそのたわごとは!」

 

 彼は自分の四方に斧を持った騎士たちを配置し、効率のよい動きで廊下や部屋を埋め尽くすイバラを伐採していた。だが、エルロイドは自分のてきぱきとした作業に満足せず、虚空を見上げて大声を上げる。

 

「私を見ろ! 日々君と同じように夢と現を行き来しつつも、精神も肉体も健全健康健常そのものだ! 君の方が軟弱なのだぞ!」

 

 彼がそこまで叫ぶ理由。それは、この屋敷の空間そのものをみっちりと埋め尽くす猛烈な眠気である。それは気配のみならず「眠い……」「眠い……」「眠い……」とマーシャの声で四方八方に訴えかけているのだ。

 

 どうやらこの黒いイバラは、マーシャの眠気そのものがイメージとなって具現した存在らしい。連日就寝と同時に夢の中で目覚め、エルロイドの仕事に付き合わされていた彼女の無意識のストレスが、こういった形となってしまったのだろう。おかげで夢の中のエルロイド邸は封鎖され、空間は眠気を訴える呟きで満ち満ちている。

 

「分かった。よく分かった。もう嫌と言うほど理解した!」

 

 一階を制圧した時点で、とうとうエルロイドの方が折れた。とてつもなく珍しいことに、彼の方が根負けしたのだ。

 

「私の負けだ! 私が悪かった! だからその妄言をいい加減やめるんだ!」

 

 騎士たちの動きをいったん止め、エルロイドは両手を挙げる。

 

 しかし、黒いイバラに変化はなく、呟きが止むことはない。

 

「マーシャ! 聞いているのかマーシャ! 交渉に応じようと私は言っているのだ!」

 

 あたかも従業員にストライキを起こされた店主かオーナーのように、エルロイドはマーシャを交渉の場に招く。だが、やはり何の変化もない。

 

「……聞いているのか!」

 

 ただでさえ四方八方から延々と同じことを呟かれ続けた上に無視され、ついにエルロイドの堪忍袋の緒が切れた。仕込み杖のステッキから白刃を抜くと、彼は手近にあったイバラを切り落とす。それでも、何の反応もない。

 

「……聞いているんだろう!?」

 

 彼の声音に、かすかに不安なものが混じった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「即答か」

「はい」

 

 怖じることのないマーシャの態度を見て、アーリェンの目が不気味に細められる。

 

「妖精の王の意向に背くとは、たいした度胸だ。それだけは認めてやろう」

 

 その言葉を聞いて、聞こえないようにマーシャはそっとため息をつく。どうしてこう、自分の周囲の男性は無駄にもったいぶる人ばかりなのだろう。

 

「アーリェン様は、ご自分の権威を振りかざして他人を思うがままに支配するようなお方ではない、と知っているだけです」

「それは買いかぶりというものだ。いや、むしろ無知だな。そもそも、貴様をこの影ノ館に連れてきたのはこの私だ」

 

 唐突に、アーリェンは話を変える。どことなく、あざ笑うような調子が声に込められている。

 

「不思議に思わないのか? 貴様の父と母はどこにいる? 貴様の郷里はどこだ? 貴様は物心ついたときからここにいると思っているが、それ以前はどこにいたのだ?」

 

 それらはいずれも、幼い日のマーシャが不思議と疑問に思わなかったことばかりだ。

 

「真実を、知りたいとは思わないか?」

 

 だが、彼女は間髪入れずにこう答える。

 

「思いません」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「マーシャ」

 

 マーシャの部屋に、エルロイドは騎士を連れずに立ち尽くしていた。

 

「マーシャ・ダニスレート」

 

 彼の言葉に答えるものは皆無だ。

 

「なぜ、目を覚まさない……?」

 

 エルロイドは下を向く。部屋の隅にあるベッドの中に、マーシャはいた。しかし彼女は仰向けになったまま、目をつぶり動かない。完全に寝入っている。

 

「タヌキ寝入りもいい加減にするのだ! 君のわがままに付き合っていられるほど、私は暇ではないのだぞ。さあ起きるんだ。仕事が私と君を待っている。女王陛下も私の研究の成果をお待ちだぞ。君は陛下の期待に応えたくないと言うつもりかね!?」

 

 不意に大声を上げて彼女を詰問するエルロイドだが、すぐにがっくりと肩を落とした。

 

「――――認めよう。私が悪かった。わがままだったのは、むしろ私だ」

 

 ややあって彼の口から聞こえたのは、謝罪の言葉だった。

 

「君は無理をおして、私の身勝手に付き合ってくれたのか。すまない」

 

 ここに来てようやく、エルロイドは理解した。自分がどれだけ、マーシャに無理をさせたのか。そして、どれだけマーシャが付き合ってくれたのか。

 

 だが、それは遅きに失した。何の反応もしないマーシャの姿を見ていると、不安がかき立てられる。もしこのまま彼女が目覚めなかったら? 夢の中で人が眠ると、そのまま永眠してしまうのか? 悪い想像だけが、勝手に育っていく。

 

「分かるか? この無様さが? 君が答えてくれなければ、私が何を言ってもただの道化の一人芝居だ!」

 

 実際、それは一人芝居だ。彼が何を言っても、答えてくれるマーシャがいなければ無意味なのだから。

 

「だから、目を覚ましてくれないか、マーシャ。…………私に、答えてくれないだろうか?」

 

 幾たび謝っても反応しないマーシャに、エルロイドはすがるような声を上げる。それは、普段の彼を知る人間が見たら、目を疑うかのような姿だった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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16・胡蝶の夢 と 思わぬ里帰り の 話(後編)
16-1


 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「また即答か」

「はい」

 

 影ノ館の一室で、マーシャはアーリェンと向き合う。ここが夢か現かは分からない。その両方なのかもしれない。元より彼女の目の前にいるのは、寓話生命体である妖精の王だ。

 

「……バドリオンか誰かが、貴様に余計なことを教えたのか?」

「いいえ」

 

 だが、たとえそうであってもはっきりさせておかねばならないことがある。

 

「不可解だな。人間とは過去を積み重ねて自らを形作るもの。寓話として位置し、常に変わらず刹那であり続ける我らと異なることは知っている。ならばなぜ、貴様は自らの過去が空白でありながらそこまで悠然としていられる?」

 

 疑問を投げかけるアーリェンに対し、マーシャはほほ笑む。

 

「なぜ笑う?」

「アーリェン様は常にすべてをご存じのようなお顔でしたが、同時にひどく退屈そうでした。子供心に、まるで死人のようだと思ったことだってあります」

「ここは影ノ館。集うのは影と死に近き者たちだ」

「ですが、今のアーリェン様はまるで少年のように活き活きしていらっしゃいます。未知とはいつだって、殿方の心を沸き立たせるのですね」

「見てきたように語るのだな」

 

 アーリェンの言葉に、力強くマーシャはうなずく。

 

「いつも、見ていましたから。ここを離れ、ロンディーグで働いていた間、ずっと」

 

 それはマーシャにとって、決して忘れられない事実だ。今も目を閉じれば、ありありと思い描ける光景である。

 

「ご質問にお答えしましょう。今の私には、帰るべき場所があるからです」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「な、なぜ私がこのようなことを…………」

 

 その頃、エルロイドはマーシャの眠るベッドの脇で、忙しく立ったりひざまずいたりを繰り返していた。しかも、密室であるにもかかわらず周囲をやたらと見回しているため、落ち着かないことおびただしい。

 

「マーシャ! 助手でありながら私を放り出して熟睡している君が悪いのだからな!」

 

 エルロイドが唐突に叫ぶものの、やはり仰向けに眠ったままマーシャは身動き一つしない。血色がよいのが唯一の救いだ。彼女の体勢は一歩間違えると、柩の中で永劫の眠りについた死人という、縁起でもないものを連想してしまう。

 

「……いや、悪いのは私だ」

 

 立ち上がったのもつかの間、すぐに彼は落ち込んだ様子でひざまずく。

 

 今のエルロイドに、マーシャの眠りを責める気はない。いや、余裕はない。何しろ、彼女がこうやって眠ったまま起きてこないのは、ほかでもないエルロイドの紳士らしからぬ行動が原因だったのだから。

 

「君を起こすのは、君をこき使うためではない。君を働かせるためでもない」

 

 そう呟きつつ、彼は遠慮がちに毛布と寝台の間に手を入れる。

 

「――君に、目を覚ましてもらいたいだけだ」

 

 エルロイドは、そっと毛布の中から自分の手を抜いた。その手が握っているのは、完全に弛緩したマーシャの片手だ。

 

「そのためなら、私は――――」

 

 彼はその白い手を穴の開くほど見つめる。それなりに家事や仕事をしている手だが、不思議と荒れているようには見えないきれいな手だ。

 

 自分は何をしているのだろう。エルロイドの中の理性的かつ保守的な部分が警鐘を鳴らしている。それは迷信の産物であり、愚かな俗習且つ下らない童話の真似である、と。しかし、彼は意図してその警告に耳を貸さず、徹底的に無視を決め込む。実に理知的ではなく、紳士的ではなく、さらには文明的ではないと普段の彼ならば批判するだろう。

 

 たとえ自己嫌悪にかられようとも、エルロイドは一縷の望みに賭けたかった。マーシャを目覚めさせる方法として、思いつくことはどのようなことであろうとも試したかった。一人の人間にここまで入れ込むことが、この偏屈な教授の人生で始めてであることに、今の彼は気づいていない。

 

「マーシャ…………」

 

 ――そっと、彼はその手の甲に口を付けた。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「私はロンディーグで、ヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授の助手をしております。ですから、ここに戻るわけにはいきません」

 

 高らかに、マーシャは妖精王アルヌェンに対してそう宣言した。曖昧な現と夢の間で、人間と妖精、生と死、光と影の交錯する影ノ館で、その言葉は何よりも己を決定づけ、正しくその有り様を定める誓いの言葉だ。

 

「そして、だからこそ今の私に消された過去は重すぎます」

 

 アーリェンは右目を眇める。

 

「必要ない、とは言わないのだな」

「アーリェン様が真実を隠すのは、それなりの理由があってのこと。助手として多忙を極めながら、同時に自分の過去を振り返るのは少々手にあまります。時が来れば、いずれ自ずから明らかになるでしょう」

「なぜそう言える?」

 

 そう問われ、マーシャは笑みを浮かべる。

 

「アーリェン様が、私にお教えしたい顔をしていらっしゃいますから。秘密を黙っているのはお辛いでしょう?」

 

 何ともちゃっかりした彼女の言葉に、しばしアーリェンは呆れた様子だった。

 

「……貴様の口の達者さは、奴にそっくりだ」

 

 ややあって、彼は軽く宙を仰ぎつつそんな事を言う。

 

 マーシャはあえて、その「奴」が誰なのかを尋ねない。ただ、アーリェンの口調には、まるで悪友かはた迷惑な旧友を呼ぶかのような親しさが見え隠れしている。

 

「お前がそこまで入れ込むとは、新しい主人は相当な聖人君子のようだな」

「まさか。その逆ですよ」

 

 表情一つ変えずにマーシャはそう言うが、逆にアーリェンは驚く。

 

「逆だと?」

「とんでもない方です。強引で、わがままで、我が道を行く人で、人の迷惑を顧みず、研究さえできればそれでいいような、まるで大きな子供のような人ですよ」

 

 マーシャはなぜそこまで主人をけなしつつ、それでいて慕うのか、アーリェンには理解できないようだ。

 

「自分の主人をそこまでけなすとはな。ならばなぜ貴様はそんな奴に義理立てする?」

「あの方は、私を必要としていらっしゃるからです。私と、私のこの目を」

 

 マーシャは、おもむろに自分の左目を指差す。

 

「ほかでもないアーリェン様の授けた、この目を」

 

 あやふやな記憶。マーシャの記憶は、どれだけ遡ってもここ影ノ館から始まる。それ以前を知らず、それに疑問を抱くことさえなかった。自分はここに引き取られた、と信じてきた。

 

 その曖昧な記憶の始まりから、彼女の左目はこの色だった。この世のものではない妖精を見てしまう目。同僚は皆、その目は妖精王の付けた徴だ、と言ったものだ。

 

「それはお前にとって祝福であり、呪いであり、烙印となり、聖痕となる。どう転ぶか分からんぞ」

 

 神話や伝承、そして妖精王は語る。ヒトを超えた力は救いと滅びの両方をもたらす、と。

 

「どのようなものであろうとも、あの方ならばきっと人々の役に立つものに変えて下さるでしょう。私は信じています」

「たいした信頼だな」

「ずっと、側で見てきましたから」

 

 そう、マーシャ・ダニスレートはずっと見てきた。あのはた迷惑な教授が、自らの破天荒な道のりの果てに、多くの人々を導く里程標を築こうとしている後ろ姿を、ずっと。

 

 それは、何ともドタバタとした、とんでもない日々だ。トラブルが日常茶飯事の日々と言ってもいいかもしれない。ここ影ノ館の静けさとは対極にある毎日。だが、それはマーシャにとって、とても居心地のよい喧噪でもある。あの紳士と共に歩む日々は、不意に迷い込んだ懐かしき職場よりもまばゆく輝いている。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「――――ならば、立ち去るがいい」

 

 しばらくの沈黙の後、深いため息と共にアーリェンはそう言った。妖精の王は、ただ一人の人間の思いを変えることを諦めたのだ。

 

「元より、貴様を影ノ国に戻す気はない。ここは今、危難に見舞われている。貴様のような奴がいるとかえって邪魔だ」

 

 果たしてその言葉がどこまで本当なのか、マーシャは分からない。

 

「アーリェン様、でしたら……」

「人間如きの気遣いは無用。これは妖精の問題だ」

 

 助力を願い出ようとしたマーシャの言葉を、彼は切って捨てる。あるいは、最初に彼が妖精郷の危難を口にしたら、マーシャはここに残ることを一考したかもしれない。だとすれば、やはり初めからアーリェンはマーシャを手元に戻すつもりがなかったのだろうか。

 

「そもそもこれは泡沫の夢。すべからく夢は覚め、そして覚めてしまえば夢は忘れるものだ」

 

 アーリェンはマーシャの前を横切り、自室のドアを開ける。その先に廊下はなく、真っ暗闇しかない。だがそれは恐ろしく異質なものではない。一日働いた充足感と共に部屋の照明を消したときに現れる闇のような、温かさと穏やかさに満ちている。

 

「さあ、行け。貴様を必要としている者が待っているぞ」

 

 引き寄せられるかのようにして、マーシャの体はドアの向こうへと吸い込まれていく。ろくに別れの言葉さえ、告げられないまま。

 

「因果が巡るのならば再び会おう、マーシャ・ダニスレート。いや――」

 

 アーリェンの口が動くのが見えたが、マーシャはその続きを聞き取ることはかなわなかった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「アーリェン様、よろしかったのですか?」

 

 マーシャがいなくなってから、入室したバドリオンが尋ねる。

 

「一度地に落ちた菓子を拾い上げて口に運ぶ趣味はない」

 

 アーリェンの返事はそっけない。だが、彼は彼なりに再会を楽しんでいた。

 

「でも、まさかこんな形でマーシャちゃんに会うなんて思いもよりませんでした」

 

 サーヴァニの言葉にも同意できる。

 

「夢を辿って幼くなって来るとはな。奴にとっては、一夜の夢の出来事だろう」

 

 彼女にとってコールウォーンの日々は、幼い日の思い出になったようだ。今の彼女はロンディーグにいる。そしてそここそが彼女の居場所になったのだと、アーリェンははっきりと理解した。

 

「ゼネディカ、貴様の孫はずいぶん面白く育っているぞ」

 

 彼は小声でそう呟くのだった。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 



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16-2

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

「…………ん」

 

 マーシャは目を開ける。ぼんやりと意識が戻ってくるが、まだ自分がどこにいるのか、何をしているのかはっきりしない。片手に違和感を感じ、彼女はそちらにゆっくりと目を向ける。

 

「……教授?」

 

 自分の片手を、どういうわけかベッドにひざまずいた姿勢のエルロイドが持っている。しかも……。

 

「マ、マーシャ!? 目を覚ましたのか!?」

 

 彼女の言葉に、ものすごい慌てようでエルロイドは手を離す。といっても放り出すのではなく、毛布の上に彼女の手をちゃんと降ろす。

 

「……教授、私の手にいったい何を……?」

「いや、その、これはだな、昔から言い伝えられてきた逸話に基づいて、決して下らない目的があったわけではなく…………」

 

 何やら言い訳めいたことをエルロイドは言っているが、残念ながらすべて徒労である。マーシャは一部始終をちゃんと見ていた。そもそも、自分の手にきちんと感触が残っている。

 

「……私の手にキスしましたね」

「口を付けただけだ」

「それをキスというのですが?」

 

 胡乱な目で見つめるマーシャを、そっぽを向いたエルロイドは横目でにらむ。

 

「下らん。枝葉末節にこだわるのは馬鹿げているぞ。君がいつまで経っても寝ているから、いろいろと目を覚ます方法を模索していただけだ」

「それがキスですか」

「昔話にあるだろう。眠りについた姫は王子の口付けで目を覚ます。ふん、恋に恋する女児を言葉巧みに夢中にさせる実に低俗で安直で無粋な内容だ。馬鹿馬鹿しい」

 

 自分を王子に、マーシャを姫に例えたことに凄まじい自己嫌悪を覚えたらしく、エルロイドは今までに見たことがないほどの苦い顔をする。不愉快そのものの彼から顔を逸らし、マーシャは自分の手の甲を見る。手とはいえ、異性にキスされたのは初めてだ。だが、まさか相手が彼とは思わなかった。しかも、こんなロマンチックのかけらもない方法で。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 どうやら、自分はここで寝ていたらしい。周囲の曖昧な雰囲気は、この空間が夢であると主張している。夢の中でも寝ていたとは、余程自分は疲れていたらしい。そして、エルロイドは自分を起こそうとして手を尽くしたらしい。その方法がキスとは、何とも凄まじい論理の飛躍だ。けれども、その瞬間を想像するとマーシャの頬が急に赤くなる。

 

「だが、ほっとしたよ」

 

 思いのほか優しい言葉をかけられて、マーシャは彼の方を見た。

 

「このまま君が目を覚まさないのではないかと、我ながら弱気な妄想に駆られてしまった。今後、このようなことのないように」

 

 彼のような人間が、弱気な妄想とやらをするのだろうか。マーシャはかすかに疑問を抱いたが、大人しくうなずく。

 

「はい、教授……」

 

 だが、ここで彼女の目は少しだけ覚める。

 

「あ、そうでした。じゃあ、もう起きますね。お仕事が待ってますから……」

 

 ベッドから起き上がろうとしたマーシャだったが、意外なことにエルロイドはそれを制する。

 

「いや、そのままでいい」

「え?」

 

 常ならば急ぐように言う彼だが、今夜は妙なこともあるものだ、とマーシャは驚きに目を見開く。

 

「私は君の労苦も知らずに、君を酷使しすぎたようだ。確かに凡人にとって、就寝後もなお脳を活動させるのは大変だっただろう。本当に、気遣ってやれずにすまなかった」

 

 続いてエルロイドの口から出てきた言葉に、さらにマーシャはびっくりする。どういう風の吹き回しか、今夜の彼は紳士すぎると言ってもいい。

 

「教授……」

 

 けれども、何となく彼の言葉に甘えたくなってしまうから不思議なものだ。

 

「だから、今日はもう休みなさい。今後、君を夢の中にまで呼びつけることはしない。ゆっくり休み、明日の活動に備えるように。それが私の助手としての務めだ」

 

 こんなことまで囁いてくれるのだから、マーシャが嬉しくならないはずがない。

 

「……ああ、分かりました」

 

 だからこそ、再び横になったマーシャは呟く。

 

「これ、夢なんですね」

「は? はぁ!?」

 

 父性さえ漂わせていたエルロイドの顔が急変する。

 

「こんなに教授が物わかりがよくて親切なはずないですから。あなたは、私の作った夢の中の登場人物ですね」

「なっ! な、何という無礼なことを君は言うのだ! そ、それでは普段の私の意固地で不親切だと言っているようなものだぞ!」

「普段の教授は、さっきみたいなことはしませんから」

 

 少しだけ片手の甲を見せると、たちまちエルロイドはたじろぐ。

 

「あ、あれは単なる気の迷いだ! マーシャ、君は私の気遣いをむげにするつもりかね!」

 

 結局、これがいつものヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授である。彼とのやり取りは、マーシャにとって長旅から帰宅したときの私室のように懐かしく、心地よい。

 

「何とでもどうぞ。夢は夢ですから。覚めたら忘れてしまうのが夢なんですよ」

 

 そう言うと、マーシャは手で口を覆いつつあくびをする。

 

「だって本当に、まだ眠くて…………」

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 エルロイドの見ている側で、マーシャは再び気持ちよさそうに寝入ってしまった。

 

「……また寝てしまったか」

 

 彼の言葉にも、マーシャが何かしら反応する様子はない。

 

「まあ、そもそも私はそう命じたのだ。何もおかしなことではないな。助手として君は優秀だぞ、マーシャ」

 

 彼は格好をつけてそんなことを言うが、すぐに誰も反応しないのに気づく。

 

「覚めたら忘れてしまうのが夢、か……」

 

 エルロイドは、ベッドの脇から立ち上がりながら独りごちる。ならばこのやり取りも、マーシャは朝目覚めたら忘れてしまうのだろうか。例えば、彼女の手の甲にキスしたことも。

 

「ああ、ぜひ忘れてくれ、マーシャ」

 

 彼はそう言うと、静かにその場を後にするのであった。ほんの少しだけ、名残惜しそうに。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 ――それから時は流れる。

 

「お帰りなさいませ、教授」

 

 ロンディーグ駅に到着した機関車の車両から、エルロイドが降りてくるのを目ざとくマーシャは見つけた。

 

「うむ。出迎えご苦労、マーシャ」

 

 出かけるときと何ら変わりない様子のエルロイドは、言葉少なに彼女の言葉に反応する。出張は終わり、彼はロンディーグに帰ってきた。

 

「出張先はどうでしたか?」

「悪くはない。それなりに有益な情報は得られた」

「お体の方は?」

「健康そのものだ。君がいなかったからと言って、私が不摂生をするような人間に見えるかね?」

「まさか、教授はいつだって紳士です」

「そのとおりだ。よく分かっているではないか」

 

 駅のホームを歩きつつ、二人はてきぱきと現状を確認する。

 

「……教授?」

「何だね」

 

 だが、マーシャは不自然なことに気づいた。こんなことは、ロンディーグを出立する前のエルロイドには見られなかった行動だ。

 

「……教授?」

「だから何だね。しつこいぞ」

 

 エルロイドは、苛立たしげに石畳をステッキで突く。

 

「どうしてこちらをご覧にならないのですか?」

 

 マーシャは彼の方をじっと見る。

 

「ふん、何を言っている。理解不能だ」

 

 マーシャの言葉通り、先程から妙にエルロイドはマーシャの方を見ようとしない。正確には、彼女の顔に視線が行こうとすると、あからさまに逸らすのだ。

 

「先程から、不自然に私から目を逸らすように見えるのですが…………」

 

 だが、頑としてエルロイドは認めようとしない。

 

「君の気のせいだ。そうに決まっている」

 

 そう言われては、マーシャとしても従わざるを得ない。何しろ、彼女はエルロイドの助手であり、侍女でもあるのだ。

 

「では、そういうことにしておきます」

 

 さっさと疑問を打ち切って前を向くマーシャだが、そうすると逆にエルロイドの方が彼女の方をじっと見る。

 

「……本当に覚えていないのかね?」

 

 ややあってから、エルロイドは彼にしては珍しく遠慮がちに尋ねてきた。だが、あまりにも断片的な疑問のため答えようがない。

 

「何をです?」

 

 マーシャは逆に尋ねる。彼女の平然とした様子に、ますますエルロイドは遠慮した様子を見せたが、やがて思いきった様子で早口で聞いてきた。

 

「私が以前、君の夢の中に入ったときのことだ。君は目が覚めたら忘れてしまうと言ったが、本当だな? そうだな? そうに違いないな?」

 

 どうやら、その時のことを未だにエルロイドは気にしていたようだ。彼女が夢の中でのやり取りを覚えているのかどうかが、出張先でもずっと頭の片隅から離れなかったらしい。

 

「さあ、どちらでしょうか。教授は、どちらだとお思いですか?」

 

 彼の疑問に対する答えは、マーシャの思わせぶりな答えだった。

 

「なっ……!」

 

 面白いようにエルロイドの顔色が変わる。

 

「では君は、あの時私がしでかしたことを覚えているのだな。そうなんだな?」

「しでかした? 何をです?」

「今の君に教える必要などない!」

 

 相当焦った様子で、エルロイドはステッキを手から取り落とす。

 

「とにかく、どうなんだ!? はっきりしたまえ!」

「ふふっ。何のことでしょうか。記憶にあるようなないような――――」

 

 花がほころぶように笑いながら、マーシャは足早にその場を後にする。

 

「待て! 待ちたまえ!」

 

 大あわてでステッキを拾い上げ、エルロイドは彼女の後を追う。

 

「マーシャ、君は私の侍女であり助手でありながら私をからかうつもりかね! 待つんだ! まずは立ち止まって話を……!」

 

 二人の通った後を、小さな妖精たちが楽しそうに飛び去っていく。それは人の夢に住まう妖精だ。

 

 ――こうして、二人の歩む道は現実でも寄り添っていく。その道が分かたれず一つに重なるのは、もう少し先の話のようだが。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 (おわり)



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