桜が芽吹く縹の空に (楠富 つかさ)
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#1

 ―私立星花女子学園―

 

 その学園は、首都圏からは程遠い一地方に存在しながらも、中高一貫の女学園として、その名を広く知られている。

 創立されて約70年という、古くからの名高き名門……とまでは言い切れないものの、その教育方針や理念、学生や教師陣達の質、そして通う生徒たちの人気は数多の著名な学校のそれに引けを取らない。

 文武両道、学問するのが学生の努め、部活動は全国進出が当たり前、語学は二ヶ国語が最低条件――――……などといった、評価や数字を是とする方針は敢えて設けず、生徒や教師の自主性に任せた運営を行い続けている。その、悪く言えば奔放過ぎる校風故か、または何代目かの経営が不味かったか、或いはバブル崩壊の影響か、やはり少子化の影響か、はたまたそれらが複合的に噛み合ってしまったからか、一時期は名門にあるまじき赤字経営に転落し真っ赤な路線をひた走り。学園存続すらも危ぶまれた時期もあったのだった。

 しかしそれも今や昔。むしろそれすら程よい笑い話となっている。自らが通う学園の経済の、それも経営陣にとっては思い出したくないような話までも、一部の生徒たちや教師たちはネタの一つにしてしまう。何なら教師陣は経営学で何が不味かったかを教えたりもしてくる。後ろよりも今と先。転んでもただでは起きない。そんな自由な校風に加え根性気質旺盛な教師陣もまた、根強い人気の一つなのだろう。

 その校風の中でも、【純粋な心と大胆な行動】という校訓は、未知なる世界で青春時代を送ることになるうら若き乙女達、責任のある教師陣を強く大きく後押ししてくれるバックボーンにもなっている。小学時代から大きく変わる環境に戸惑う少女達を、それでいい、そのままでありのままで良いと受け止める。十代という、各々の人生形成に大きく関わる時間の半分以上を指揮する教師達。その行動の本質を最初に認めるこの校訓。この寛容さを入学最初に訓示されることで、多くの生徒達や教師たちは心の何処かで、頭の片隅で、この学園ならもしかしてわたしでも、と、新たな自分に、あるいは今までの自分のままでも暫くは……と、思わせてくれるのだ。

 

 ……尤も、その後押しの影響か、色々な方向に大胆すぎる生徒も教師も事務員も増えているのは、幸か不幸か定かではないが。

 スカートの裾をギリギリまで上げてみたりぱんつを見せてきたりむしろノーパンで登校してみたり、先の赤字時代を祝って定期的に赤ペンだけでノートを取らせる赤字祭りだのを開くバカ教師も居る。そしてこれらの行動はまだ序の口である。最初の入り口からして何故か既に濃ゆいが、それも校訓のせいである。たぶん。

 

 初代理事長や学長はそんな光景を見て天の上で泣いているかもしれないし笑っているかもしれない。指差してわたし達もこうだったねぇなどと駄弁ってるかもしれない。昨日も今日も明日も明後日も、この学園ではそんな日々が続くのだ。そして多少形を変えようとも、それらはあくまで時代の移り変わりで、住まう少女たちを彩り棲まう少女たちが彩る姿そのものでしかなく。自由で純粋で大胆な彼女たちを、根本から否定するような変化ではない。

 この学園ではきっと今日もどこかでうら若き大飯食らいの乙女が大量に飯を平らげ、うら若きうっかり者はやっぱり周りを巻き込んで盛大にすっ転ぶ。あっちのうら若き乙女は教師とイチャつき、こっちのうら若き乙女は事務員おねえさんと仲良しで。吹奏楽に声楽に、ソフトボールに精をだし汗水たらし青春を謳歌する者もいれば、図書館に通いフィールドワークに余念なく、生徒会室に閉じこもり勉学を活動を研究を続ける理知的青春を楽しむ者もいる。絵画、服飾そして庭造りや薄い本づくりに命をかける乙女達もまた、目の下にクマを作って幽鬼の様にフラフラと周囲を彷徨きながらも、そのゾンビ姿はどこかキラキラと輝いている。そして、未だ自らを解放できない、後ろを眺めて下を向き、囚われたままの生徒も、やはりまた存在する。

 

 純粋な心と大胆な行動

 大胆ならばよいか

 純粋ならばよいか

 否。誰も彼も良いなどと決めていない。何かを良いと決めるのは、あくまで個人個人である。

 校訓は校訓。校風は校風。理念は理念。それらは時に優しく時に厳しく、少女たちを、教師たちを、あるいは学園長や理事長を支えて叱ってくれるのだ。

 

 色即是空。諸行無常。何事も永遠ではない。永遠ではないからこそ新たな事象が始まり既存の事象が終わりを告げる。自分を始めるのも、終わらせるのも、つまる所個々である――――

 

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 星花女学園の茶道部に所属する城咲(じょうさき)紅葉(くれは)(みなもと)沙姫(さき)は、部室がある離れ屋敷の近くの庭園で一人の女生徒の姿を視認する。よくある光景だと普段ならば気にも留めなかったが、紅葉は何か様子がおかしいと、直感で感じ取る。そうしてついっと近くの沙姫を見やれば、彼女は頭をぽんぽんと優しく叩き撫でてきて、そっとしておきましょうと促され、そうして自然と連れられる。紅葉は眉を寄せ、それらの言動全てに少しづつ引っかかったが、沙姫の先見の明と冷静冷徹さは間近で体験し続けており、よく知っていたため、そういうことならばとそのまま後を追う事に。

 

「良いのですか?」

「良い良い~」

「でも、あそこの土って……」

「そこは自己責任の範疇よ」

 

 園芸部を敵に回して良いことなど一つもない。それを二人は解っていた。件の女生徒は、何やら土を堀り返しているようだった。だからこそ紅葉は気に留め、だからこそ(・・・・・)沙姫は気に留めない。

 離れ屋敷近くの庭園は、丁度生徒同士があんなコトやこんなコトやそんなコトをする時やされる時によく使われる人気のスポットの一つである。所謂体育館裏だとなんか殴られそうとかでロマン味が薄く、校舎の屋上だといちいち鍵を借りなければいけないため教師陣に色々モロバレする。校舎から離れるとだだっ広い光景が続くため校舎から丸見えであり知られるのは教師陣どころではない。尤もそういうシチュを狙った大胆告白が好きな生徒は、むしろそちらを選ぶのだが。背水の陣効果は侮りがたし、である。

 

「ですがあの娘中等部ですし」

「情けは人の為ならず。過剰は厳禁だよ」

 

 さて置き、そんなわけで校舎から手近且つ、食堂からも教室からも職員室からも離れていて、和風文化系の部活に入っていなければ人気も少なめな庭園は、図書室や空き部屋と並んでその手の密会、二人きり向きの隠れた人気スポットの一つとなっていた。

 そのスポットで生徒が一人でいるとなれば、通常は相手待ちの状態にあたる。園芸部員が手入れをほとんどしない、自然を上手く残している形の庭園なため、人気スポットでありながら人が基本来ないのだ。待ち相手が誰かはわからないが、待つ相手がいるコト自体が幸せだ、という事を二人共認識しており、また共通もしていた。

 にも拘らず紅葉が引っかかったのは、待ってる相手がなんで好き好んで手を汚す土いじりなどをしに来るのだという事で。土でお互いを汚す謎プレイとかいきなりしだすとも思えない。園芸部員であれば解らなくもないが、これまでその部員として見たこともなければそも園芸部らしいとはとても思えない体躯の持ち主。早々に園芸部員説と待ち人待機中説が脱落した以上、それらとは別の、何か目的があって来たものだと推測したのである。

 ……今まで見たことない中等部の長身生徒が一人で、人気のない庭園の地面を園芸造園以外の何かの用事で掘り返す――字面に起こせばその用事とは犯罪くらいしか思いつかない。星花中等部の制服を着ていなければ、最悪血なまぐさい予想すら射程内に入ってくる。こんなもん紅葉ならずとも引っかかるに決まっている。

 しかし先輩であるお姉さま、源沙姫は気に留めない。面白いもの好きな彼女がそれを含めた一切合切に構わず追わず、すたすたと部室に直行するのだった。

 

(……)

 

 茶道部だけ三学年だけ、いや、これまでの星花生徒合わせてもあらゆる面でトップクラスに位置するであろう源沙姫がそうするのだから、そうするのが筋なのだろう。筋を通す彼女が、少なくとも現時点では構わないでいるコトを選んだのだから。

 

「洗礼はどんな形であれ必要」

「……」

 

 問われずとも問わずとも、そう呟いた彼女は、とても、とてつもなく綺麗で。ゾクッと、背後に冷たいものを感じるほどに、冷徹。自身もその感情があるだけに思わず軽く頷き、源沙姫の後に続く。構うなら切り捨てる、と言われたわけではなかったが、行為には責任を、という意味が籠もっていたように感じた。しゃなり、しゃなりと揺れる彼女のトレードマークのポニーテールは、何時もの如く陽気に跳ねている。何時も通りに。そう、何時も通り。纏う空気は変われども、その姿は変わらない。変わらないのに圧力がかかる。圧倒する。普段はおちゃらけていて盛り上げて、黒ぱんつだ紫ブラジャーだここは絶対領域死守戦線!! などとよくわからない事まで自らほざいたりしてしばかれたりもされている、楽しいことが大好きな先輩が、だ。

 

(……)

 

 ……貴女が同年代だったならばその洗礼は、と返そうとして、やめた。源沙姫は源沙姫でわたしはわたし。高等部で茶道部だ。じゃああの娘は? 中等部で他学年で部活も異なる。なれば手を出す段階じゃない。首を突っ込む案件でもない。だからといって、迷っていれば手助けは出来るだろう。迷っていれば、だ。だからこそ、今ではない。野次馬根性で突っ込むなど愚かこの上ない。その判断を、わたしへの誘いと促し含めて瞬時にやってのけるからこそ、この先輩の底が知れない。見知って四年以上も経つというのに未だに分からない事が多い、奇才の才人。

 

「どんな道を歩みますかね」

「あの娘次第よ……ね」

 

 源沙姫と城咲紅葉、二人は茶道の部室にするりと溶け込み消えていき、他の部員たちを交え、彼女たちの生活は今日もまた平穏に始まるのである。

 

 

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「めろんぱんがひとつ……めろんぱんがふたつ……」

 

 星花学園高等部二学年二組、所謂(いわゆる)清楚系と言われている紙居(かみい)(はなだ)が机の上でにらめっこしている。普段はマイペースで読書を嗜み、理知的な雰囲気を醸し出す物静かな彼女だが、今日は本ではなくパンを目の前にして唸っている。オレンジ色の、香ばしい美味しそうなメロンパンの匂いが充満する放課後の教室。清楚系お嬢様も時々突飛な行動を取るのである。というのも本日は購買で数量限定の夕張メロンパンが販売される日だった。年頃の娘よろしくメロンパン大好きっ子な縹もやはり購買戦線に突入、そして今日の戦果がはかばかしくなかったのが至極残念だったのだ。僅か五つしか買えなかった。

 

「うう、五個で打ち止めなんて」

 

 否。僅かではなく上限一杯買えたのだ。しかし彼女はそんな情報を持っていなかったためこんなにやさぐれている。こんな時は五つも買えた! と前向きに考えたいところであり、上限がそもそも五個なのだからこれが精一杯の戦果で最高の数。それは判っているし、何回数えても五個しかない。数えた所で増えもしないし当たり前である。近眼のその目を更に細めたり、トレードマークの一つであるメガネを外してみたり、何か挙動不審に陥りつつある。本人としては余程ショックだったのだろう。食べ物の恨みとは恐ろしいのである。まだ一つも食べていないのに恨まれる筋合いはメロンパン側に一切ないのだが。

 

「さっきから何してるっす?」

「有里紗ちゃん」

 

 不意に声を掛けられ、ピクリと反応すると、隣にクラスメイトの長木屋(ながきや)有里紗(ありさ)がいた。快活な少女で力強いその声に、疲れ知らずの体力おばけ。ちらっと聞いた話では、陸上部でトップクラスの成績を収めたのだとか。しかし縹自身は、歌って踊れるお姫様とも称されている、彼女の歌う姿も好きだった。可愛い系の自身の声質とは違う、力強さを兼ね備える、美しくも制圧するようなその音。キラキラ眩しい存在な彼女は見ていて元気になるもので。知らずと私の声も上ずっていく。

 

「今日の限定品っすか」

「うん。でも、一人頭の個数決められちゃってて」

 

 だからね、これだけしかないの、と言って手を添え机を見せれば、そりゃそうっすよー、とほわほわ笑顔で返してくれた。それはそうだ。幾らでも買えたら限定でも何でもなくなってしまう。頭では判っていても、事前に個数上限は把握しておくべきだった。前回は十個だったため今回も十個は最低確保などと思いこんでいて完全に油断した。よくよく考え直せば当然で、パンの種類に職人のその日の出来なども含めれば変わるのがむしろ当たり前だ。落ち度は自身にこそあれ、誰も悪くないのであり、自身でも解っていた通り、気の持ちようなのである。

 

「……ふ、ふわふわかりかりで美味しいから、もっと欲しかったの」

「あー、甘い物は別腹っすもんね。特に本のお供に合うんじゃないっすか?」

「そう。そうなんだよね~……」

 

 はぁっと小さなため息一つをお供にへにゃんと縹が格好を崩し、縹も有里紗も周囲もほっとからりと一息つく。物静かで大人しい彼女が感情を顕にするのはそうない事。その一つが甘い菓子パンという事はほっこりするお話だった。縹自身も、驚くほどメロンパンに執着していたのだなと独りごちる。机にパンを並べて一体何がしたかったのか。

 

「……流石に増えないっすよ?」

「う……わ、わかってるっ」

 

 まだ後ろ髪引かれそうになるのを追撃され、ひょいひょいと慌ててカバンに詰めて、そそくさと退出する。ふう。なんだか今更ながらに子供っぽい姿を見せて恥ずかしさがこみ上げてきた。うう、今日は大人しく図書館に籠もって読みかけの本でも読みふけよう。メロンパン女とか名付けられてもいやだなぁ……メロンどころかレモン程度だし。何がとは言わないけど。呟いてたまるもんか。いいもんいいもん。レモン一個にはレモン四個分のレモンがあるんだもん。あるのはレモンであって胸はないという冷静な脳内のツッコミは聞かなかったことにした。

 

「あ、でももしかしたらそれでメロンパンもらえたりするかも……」

 

 少しだけメロンパンが好きで緑茶が好きなだけの普通の高校生。現実には起こりえないような突飛な体験などは、私自身には起こりようもなかった。なのでそんな下らない考えをぽわんぽわんと浮かせて、呟いたりもしてみるのだ。

 

「っと、その前に今日は茶道部さんとこ寄ってからにしよっと」

 

 緑茶好きな点を買われて時折茶道部からは誘われたりもしたのだが、図書委員所属では部活に力を入れる事が出来ないので辞退している。しかし誘われても辞退しっぱなしというのは何なので、こうして時折遊びに行く。こんな時は真面目気質が働くが、嫌とも苦とも思わないし、実際有意義な時間を過ごせるので、今となってはお誘いに感謝もしていた。

 

「ふざけてるけど、真面目な部活……? だよね……」

 

 時折魔法少女のコスプレだったり魔女の姿だったりナース姿だったり、凡そ茶道不向きで真面目から程遠い姿で出迎えてくれるのだが、その内容は至って真面目。幾らでも休んでいいし幾らでも訪ねていいけれど、一度部室に入ったら全部しっかり熟すこと。それが茶道部の方針だ。……それがためかどんなに変な格好でもそれで押し通すという謎の精神修行ルールが生まれている。羞恥地獄な服装だろうとそのまま茶道をやる。これでよく不満が起きないなぁと不思議に思っていたけれど、隣のクラスの茶道部員、(いずみ)美晴(みはる)によれば、むしろ楽しいからみんなもっと増やして欲しいとの事だそうで、苦笑い気味に話してくれたっけ。そしてその活動自体が真面目だからこそ、この私も誘われたのだろうなと思い返す。

 

「……うん。お茶を頂いてから、図書館に行きましょうか」

 

 放課後は図書館へ直行するか、茶道部経由で向かうか、そのまま帰宅するか、茶道部経由で帰宅するか、大体の行動パターンはこの四つだ。家も徒歩圏内なので遅くまで図書館に籠もれたり、茶道部で、ひいてはそこに連なる日本文化系ののんびりした部活の空気にあてられてから帰宅するのも楽しい。あの空間はのんびりしていて好きだ。特にそれらの部室がまとまって存在している離れ屋敷に通じる庭園は自然あふれるちょっとした日本庭園と林の空間になっており、一休みなんかにもってこいの場所でもある。

 

「メロンパン一個差し入れして、何かと交換してもらおっと♪」

 

 既に縹の頭の中は、好きなものA(メロンパン)から好きなものB(緑茶)に変わっていた。このBには甘味と淹れたてのお茶と畳のお部屋、窓から眺められ縁側からは入ることも出来る静かな庭園に、気のおけない茶道部員たちがついてくるセットメニューになっている。内気で話術が得意でない自分でも、マイペースで落ち着ける、あの畳の空間場所を思い、縹の歩みは少し楽しそうに、離れ屋敷の方に向かうのだった。

 

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「うん、やはりこの野草はさっぱりしていて大変良い。こっからだと街の野草は遠すぎて授業間に合わないからな」

 

 件の女子中学生、星花女学園中等部二学年の(たちばな)桜芽(おうが)は、人気のない庭園で歓喜していた。この野草は食べられる草というやつで、しっかり洗って干したものをそのまま食べるか天ぷらにすることで非常に美味しく食べられるのだ。草むしりという名目なら問題どころか感謝もされて良いことづく目。うんうん、良いことをすると気持ちいいな!! などと豪快に笑うその姿は、およそ中等部には見えない、たくましい姿を誇っていた。

 そも、元より西洋風味あふれるおしとやかな女学園に通うような性格でも気質でもない。未だ若くて世間知らずだったため、小学の延長、住んでいる屋敷の延長程度に中学高校を考えていたツケは重かった。自身の常識が非常識だという実感はあったが、ここまで生食や生活をダメ出しされては大っぴらに行動に移るわけにもいかない。桜芽はバカだが根は優しいので、人に迷惑だと気づけば態度は改めるのである。そこはちゃんとしっかりお嬢様である。しかしちゃんとしっかりお嬢さましてない箇所が多すぎるため相殺しきれていないのが現状であり、色々ともどかしい日々を送っているのも事実だったりする。

 

「うー、やっぱり肉たべたいな」

 

 放課後、部活がない時は鍛錬しに外へ向かうので、お外で懇意にしている焼肉屋とか肉屋からとか、そのあたりは融通が効くので良いが、学園内で全ての時間を使って門限が終わってしまっては買い出しや肉の受け取りが出来ない。ただでさえ十四歳の少女が夜出歩いては問題になる。その上目的が厳禁とされている生肉食べ歩きで事を荒立てては即座に学園から追い出されるだろう。まぁ確かにその通りだ。裸で歩いて良いなどというルールは国内にはないのだし。それと同じで加熱調理して食事を出さないといけないルールが国にはある。ユッケ事件も馬肉事件も度々あった。出した側が悪くなくても料理人が追い出されてしまう。最悪刑事責任で懲役であり殺人未遂罪だ。その責任を私が負えるかと言えばそんな事できっこない。なのでしょうがないのだ。学食で生食を強要して料理人に衛生法安全法を破らせました、てへっ♪♪ で済む話ではないのである。そもそも法律もよくわからない十三歳当時の桜芽には、自身の何が駄目なのかを理解するにはかなり重い話だった。とは言え身体を鍛える事ばかり考えていたツケがここ一年二年でどっしりと山積みになったのも事実。現在中等部二学年に無事進級出来た橘桜芽十四歳、逃げるわけにはいかないのである。

 とは言え事情はどうあれ桜芽的には、学園内で大好きな肉がしっかり加熱された状態でしか食べられないのもまた死活問題。本来問題があるのは、自分が生を食べることで周囲にどういう悪影響を及ぼすのか知らない桜芽と、そんなあんまりな育て方を容認してしまったお屋敷連中と小学校なのだが、桜芽自身が近いからここ(星花)に入学したという事実がある以上これもどうしようもないのである。自分で選んだ道なので、生食出来ないから学園変えたいなどというあんまりな我儘までは桜芽は起こさない。バカだけどやっぱり根っこは優しいのである。素直でいい子で優しいのに、壊滅的なところがお嬢様といったレベルではなく人間を疑うくらい壊滅的に駄目なお嬢様。それが、橘桜芽という少女だった。常識は駄目でも柔道の腕は体躯の良さも手伝い中等部でも既に敵なし状態で高等部と対等に渡り合えるほど。やっぱりこっちもある意味非常識だった。あまりにどっちにも極端である。当人は気づいてはいないが、ある意味では自由で大胆な校風の星花以外受け入れ先がないような娘でもあった。

 閑話休題、一学年の早い段階から生肉食を禁止されたため、肉が駄目なら生魚と目をつける。何故か生から離れる選択肢は存在していなかったものの、桜芽は切り替えが早いのだ。勝負は一分一秒、コンマセコンド以下で決まる。うだうだとこの先六年間食べられない生肉に括っていては埒が明かない。勝負は明快に一本以外価値なし!! というわけで、毎日毎日学食で刺し身ばかり食べていたら、部活でとうとうあんた生臭いから乱取りやだ!! ちゃんと身体洗えとこっぴどく怒られたのだった。なんだようしょうがないじゃん。好きなものは好きなんだし嫌いなものは嫌いなんだから!! しかしそう返せば、そんな我儘は常識範囲内でだこの馬鹿野郎!! と巴投げでぶん投げられる。全くじゃじゃ馬を部員に持つと苦労するなぁと桜芽自身は思っているが、それもこれまで培われてしまった、自分が食べるだけだから迷惑かけてないしいいじゃないかという、桜芽の身勝手さが招いたことなので、仕方なく今日も明日も明後日も、生食はお預けの日々を送ることになる。今日もお豆腐明日も煮豆明後日も卵焼きと目玉焼きと炒り卵。なんてことだ。肉の血の味が足りない。豆は畑の肉とか言われているがあれはただの豆でありヤサイであり植物である。偽物の肉である。謎肉ならぬ偽肉祭りなんぞ食べ飽きた。いいから肉をよこせ肉祭りだ肉はまだか生肉を持てー!! 十三歳当時の橘桜芽は憤慨していた。憤慨したいのは勝手に肉扱いされた上に偽物呼ばわりされた豆の方ではあるが。生肉。生食べたい。生だ。生を食わせろ生が良いんだ私は生を求めるんだなどと呟いても、女の子を生で食べたいとかエロい痴女めとか野獣オーガなどと勝手に痴女い勘違いでからかわれたりするので、幸い生肉とか生魚とか思われないのは桜芽の、バレたら即退学という危険な立場的には好都合だった。憤慨している桜芽本人としては生肉を全然味わえず湯で肉や揚げ肉や炒め肉といった加熱調理済みの偽肉ばかりを食べるしかない悲しみを誰かと共有したかったが、それらを食べて悲しくなる生徒は誰もいない上に偽物ではなく本物の肉なのでそもそも分かるはずもなかった。一人で生肉ゲットのチャンスを伺っていた十三歳お嬢様JCに、世界はかくも冷たく悲しみに満ちていたのである――――もうだめだ……もはやこの学園内で生を手に入れるのは不可能だろう……生肉を食べるためには学園内で牛や豚を飼うしかない……そして、それを実行に移さないくらいまでは桜芽にも常識はあった。流石に自分の屋敷内ですらしたことないのに学園でそんな事をすれば即座に叩き出される自覚くらいはあったのである。もはやこうなれば外部調達するしかない。そして思い立ったが吉なのが桜芽なので、昨年秋には早々に外交任務を遂行し、牛の商人と直に接触、取引を完了して新鮮な生肉を定期的に最寄りのコンビニに送って貰うことに成功したのである。生肉ゲットだぜ。しかし自分の部屋に直に送って貰うと用途が速攻でバレて問い詰められてあっさりバラされ退学させられてしまう。そう、いざツテを手に入れても油断しないのがお嬢様としての努めである。……牛の生肉を食べる以外で用途があればそれはそれで危険人物だろうから恐らく退学になるのだが。そして個人の趣向で拘れば、桜芽としては豚の商人の方が良かったが豚の商人と生の取引、という字面の響きが何故かいやらしく感じたので、やめた。こんな単語検索でもしたらどうせいやらしい画像が一杯出てくるに違いない。同級生(腐)から貰った、いんたーねっとちしきってやつで既に愛した豚の価値観が歪んでいた。豚に対する熱い風評被害である。愛する豚肉を自身の中で勝手に上げたり下げたりする忙しい桜芽は、そんな一年生時代を思い出していた。ちなみに学園のパソコンで実際に豚の商人と検索したところ、その手のえっちな画像は一個も出てこないどころか美味しそうなとんこつラーメンの画像がこれでもかと大量に出てきたためエロ画像テロではなく飯テロ犯人として濡れ衣が着せられることとなった。当然ながら生肉マニアな桜芽にはこの魅惑的な小麦製品でも響きにくかったが、お昼に豚骨ほかほかチャーシュー大盛りラーメン画像とか、ころすきか! とか一部の生徒から怒られたりもした。まったく世界は理不尽だな!! 桜芽はそんな事を思い出して静かな庭園で一人雑草を握りしめて憤慨していた。憤慨したいのは肉どころかたんぱく質に全く関係ない雑草の方ではあるのだが。このお嬢様はあっちもこっちも色々極端なのだった。

 

「牛の肉もやっぱり加熱しないとだし……ううんどうにかして生で食べられないものか……」

 

 さて、今日も今日とて頭の中は次回の山ごもり修行日程と肉で埋まっている。野草が学園内で、しかも教室から歩いて五分の距離にあるのには狂喜乱舞したが、庭園での雑草量などたかが知れている。そうなると人間欲深いもので、サラダ(雑草)も肉ももっと食べたいという事になる。サラダは山ごもりすれば食べられるしなんとでもなるが、牛刺しがあるから生で大丈夫だと思ったが……そこもツメが甘かった。豚だろうと鳥だろうと牛だろうと、肉は加熱しろというお達しである。鳥インフルやら狂牛病やら豚インフルやらでそれは常識ではあるのだが、桜芽的にはやっぱり手厳しいのである。大胆な行動と純粋な心を全面に押し出して純粋に大胆に生肉を食べたら、一学年時代を真似ることになる。学園内で他生徒に食中毒を起こされたらその全責任負えるはずもないのは流石に桜芽も一年生時代で学習してきたので、豚でも鳥でもない牛ならセーフだとか生姜とわさびに漬け込めばセーフだとかくんせいだからセーフだとか理由をつけて強行突破はしなかった。しかし、いざ生肉が定期的に手に入りサラダも比較的近場にあることが判明すると、どうにも諦めきれない女であるのも事実。そんなトコは年頃に純粋乙女なのだった。うんうんとああでもないこうでもないと、にく、にく、血の味、なまにくがたべたいなどと唸りながら、食べられる雑草をぶちぶち採取し続ける大柄な制服少女姿。なかなか狂気に満ちていた。写真部が通りかかったならば被写体にすること間違いなしである。しかし今日の写真部エースは恋人とイチャつくのに忙しかった。桜芽さんギリギリセーフである。

 そもそも、流石の自由な校風の星花女子学園でも、基本他の学園よりも厳しいお嬢様学園なのである。生肉食べる習慣を身につけよう! などといった、炎の発明を全力で捨て去る文明消滅修行などを蝶よ花よと育てられた大事な人様のお嬢様に、よりにもよって大事な大事な青春時代真っ盛りに行うはずもない。アラスカやシベリアでは生肉を食べる習慣は未だに僅かにあるにはあるが、ここは残念(?)ながら暖かめな日本であり、例え北海道最北端でもそんな教育枠を設ける必要自体はなかったのだ。文明あふれる星花学園にこのまま通えば、こんな愉快な桜芽も少しづつ文明人として生きてくれるだろう。

 

「あ、今日は生卵飲みたい気分」

 

 文明人に進化するのはもう少し時間がかかりそうである。

 

「牛乳入れてコーラ入れて、お砂糖で味付けしたいな」

 

 と同時に、甘いもの好きな、やっぱりちゃんとした年頃の乙女でもあった。




どうも、第一回以来のリレー小説を書かせて頂きました、坂津眞矢子です。はじめましての方ははじめましてです。読んで下さりありがとうございました!
 さて、一発目ということで、舞台となる星花学園についての全史と現在の簡単な紹介と、そこに通う他の生徒の一例に学園内部の少しの描写、加えて主軸二人の簡単な現在環境とご紹介。これらをまとめて出来る限り文量を減らして書いてみました。四分割ですので丁度三千文字づつ程度の読みやすい文章としてあります。桜芽さん編が濃ゆい気がしますが気のせいです()
 ではでは、スタートは大事ということで割と元気よく書けたかと思いますので、ここらで第二の方にバトンタッチです!


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#2

茶道部が活動している離れ屋敷の周りには、多種多様な木々が植えられている。お屋敷にある日本庭園と比べても、遜色ない庭である。梅、赤松、櫟、榊......ぱっと見で私が分かるのはそのくらいだけど。紅葉なんかも植えてあって、秋になると色鮮やかになる。

 そんな庭園の飛石通りに進めば、ふわりと茶の湯の香り。その香りにつられるようにして、趣のある部室の戸を引いた。

 

「またメイド服ですか......」

 

「メイド服いいじゃん。可愛いし似合ってるよ」

 

「メイド服は飽きました」

 

「ほほう......プレイ的な意味で?」

 

「はったおしますよ?」

 

「きゃ〜めぐこわ〜い......えいっ」

 

「なに自然にめくろうとしてるんですか!」

 

 戸を引いて靴を脱ぎ、綺麗に揃えていると、いつもの茶道部らしい楽しげなやり取りが、一番手前の障子の向こう側から聞こえてきた。奥の方ではお点前の指導をしているらしく、「お棗を取って」とか「水の時は引き柄杓よ」といった声がする。

 

「お邪魔します」

 

 そっと両手で障子を開けてみると、メイド服を身につけ、座布団の上ですっと背筋を伸ばして正座している二人がいた。

 

「へい、らっしゃい!」

「いらっしゃい、紙居さん」

 

 そう言いながら源先輩は振り返って微笑み、扇子をぱちんと閉じた。メイド服と扇子の組み合わせってインパクト強いなぁ、似合ってるけど......

 四方田先輩がさっと座布団を敷き、ぽんぽんと叩く。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 畳でも良いんだけれど、先輩方は座布団に座っているので、ご厚意に甘えて座らせてもらう。四方田先輩みたいに自然に気を配れるのってかっこいいし、憧れるなぁ。  和風お嬢様然とした容姿に加えて、真面目かつ明るくてノリも良い。人に好かれる要素をいっぱい持っている。きっと初対面の人でも障りなく接する事が出来るんだろうなぁ。

 

 そんなことを思いながら、深呼吸して、空いた障子から見える立派な庭園を眺めたり、漂ってくるお茶の香りを楽しんだりして、この癒し空間を満喫する。人と壁を作ってしまう私でも、程よい距離感を持って接してくれる。やっぱり茶道部の茶室はとても居心地がいい。

 

「そういえば、えと、メロンパンのお裾分けです」

 

 上限一杯に買った数量限定のメロンパンをずいっと差し出す。日々のお礼をちょっぴり込めて。

 

「おー、ありがとうございます。これ限定のメロンパンですか。美味しいそうですね」

 

 あとでいただきますと言ってから、四方田先輩は近くのお盆の上に置いた。

 

「じゃあ、あたしらも始めましょうか」

 

 源先輩がすっくと立ち上がり、お茶菓子と茶器をお盆に乗せて運んできた。濃い茶色のポニーテールが靡いてふわりと芳醇な香りが広がる。

 なんだろ......コーヒーみたいな香りがする......

 

「はい、どうぞ」

 

 右左右。作法と感じさせないくらいに流れる動作で菓子器を置く源先輩。その白魚のような手が優雅に滑る。

 お皿には三切れの羊羹が乗っていた。小倉と、少し黒っぽいのが黒砂糖、緑は抹茶入りだろうか。

 一口食べてみると、ずっしりと餡子の旨み。美味しさで飛んでいってしまいそう。小豆本来の甘さを生かして練り固められた羊羹は、この後点てる抹茶のまろやかな苦味との相性が良いに違いない。

  

 ゆっくりと時間をかけて食べ終わると、先輩方はお茶を点てる準備を始めていた。

 私にも茶器と茶筅が渡ったところで、お茶を淹れ始める。場の雰囲気が変わって、静寂に包まれる。わいわいきゃいきゃい遊んでいても、やる時はとことんしっかりやるのが茶道部だ。メイド服だけど。

 

 少し熱いぐらいに温めた茶器に、茶杓で一、二杯。少しだけ冷ましたお湯を、柄杓で注ぐ。この時少しだけお湯を柄杓に残しておくのが作法らしい。

 いよいよ茶筅をもってお茶を点てる。

初めはダマにならないように、茶筅でお椀の底を軽くこするイメージ。泡が出てきたら茶筅の先を浮かして、泡を細かくするように縦に動かす。仕上げは、のを書くようにに回すだけ。そうすれば誰でも薄茶を美味しく点てることが出来る。

 

 ちらりと先輩方を見てみると、点てる時の姿勢や所作が綺麗で無駄がない。シャワシャワという小気味いい音がリズミカルに聞こえていたので、きっと泡はきめ細かくて、とてもまろやかな抹茶に仕上がっているだろう。

 

 私もいつもより気持ち長めに泡を細かくしていくと、かなり良い感じに点てることができた。三つの茶碗から、ホッとする香りが湯気と一緒に立ちのぼる。

 右手で茶碗を持って、左手に乗せ、キュッキュッと左に回す。場にいる全員が同じ動作をして飲み始めた。美しくみせるための作法なのだなぁと、視界の隅で先輩方の動きを見て思う。三回で飲み干せる量しかないけれど、場の雰囲気やお茶そのものの美味さも合わさって、十二分に満足できるものだった。鼻歌を歌いながら、庭園を見ながら抹茶の余韻に浸る。

 

「縹さん幸せそうですねぇ」

 

 全身で幸せを表現している四方田さんが言う。和風お嬢様がふわふわしている姿は、先輩に失礼かもしれないけれど、とても可愛らしい。

 とりあえず私も幸せを表現するのににこっとしてみる。話すより表情の方が確実に伝わるだろう。

 

 その後は、今日の抹茶は何処産だとか、茶碗は金継ぎの方がかっこいいとか、茶道についてのお話をした。

 

「あ、もう茶道具片付けてしまいましょうか」

 

 源先輩がテキパキとお盆に飲み終わった茶碗を乗せていく。さらりふわりとポーニーテールが靡く。あ、やっぱり先輩からコーヒーの香りがしている。

 

「せ、先輩、それってシャンプーの香りですか?」

 

お盆を持って今にも立ち上がろうとしている時に声をかけてしまった。なんてタイミングの悪さ......反省。

 

「え、そうよ、コーヒーの香りのシャンプーだけど......縹さん使ってみる?」

 

お盆を置き、すぐさま綺麗な姿勢に戻る。

 

「いえ、少し気になっただけです」

 

 茶室にコーヒーの香り。これもよく言ってる一種の崩し......? で良いのかなぁ。ちょっとした悪戯心というか、遊び心というか......

 

「縹さん、多分そこに深い理由とかはないですよ。ただ楽しんでるだけなので」

 

「なにぉぅ!? 洋物に和物とかめっちゃ相性いいのよ!」

 

「絶対そんな理由でそのシャンプー使ってませんよね......」

 

 淡々とする四方田先輩に対して、心外だと言わんばかりに、コミカルな表情で抗議する源先輩。

 

「あ、緑茶にチョコとか、餡子にコーヒーって合うんですよね〜〜」

 

 かなり前にテレビでやってたから試してみたんだよね。こだわる人はお茶の種類とチョコの組み合わせを試しているとか。

 

「そうなのよ!」

 

 ほんのちょっぴり食い気味に源先輩が話す。

 

「緑茶にメロンパンも意外と合いますよ」

 

「縹さんはメロンパン本当に好きですねぇ」

 

 そう言ってにこりと四方田先輩が微笑む。

 

 その後、コーヒーと餡子を試してみようという話になって、源先輩がコーヒーを入れてきたり、「しゅーくりーむに濃いお茶......」と四方田先輩が考え出したりした。入れたコーヒーを泡立てるか立てないで悩み、泡立てもただのマキアートじゃん! と言う風に、軽口を言いあえる先輩達を見て少しだけ羨ましく思ったりしていると、時間はあっという間に過ぎた。ふと時計を見てみれば、ちょうど長い針が二周するところだった。そろそろ図書館に行く方がいいかな......?

 

「そろそろ図書館の方に行きますね」

 

「あらら、もうそんな時間ですか。気をつけていってくるのですよー」

 

「もう帰っちゃうのかー。明日も来る?」

 

「あ、はい!」

 

「準備して待ってるね!」

 

 足が痺れないようにゆっくりと立ち上がると、ひらひらと手を振る先輩方に、ぺこりとお辞儀をして茶室を後にした。

 

 あー、美味しかったなぁ、とお茶と羊羹の余韻に浸りながら、来た道......ではなく庭を軽く一周できるルートを歩く。

 自分のカバンにはメロンパンが入ってい

る。ふわふわかりかりの限定品。以前食べたその味と香りと食感を思い出すと、すぐにでも味わいたくなる。しかし残念ながら図書室は飲食禁止。本を読みながら食べられるのはお家に帰ってからなのだ。

 早く食べたいから今日はちょっとだけ早めに帰ろうかな? そんなことをほわほわと考えながら庭を巡っていると、ちょうど通ろうと思っていたルートに人影が見えた。

 あぁ、そういえばここってそんな噂があったような......その、相手待ちスポットだとかなんとか。目の前の人影はかなり体格が良く、しゃがんでいても大きい。そしてなにやら土を、いや草をむしっている。

 なんで草をむしってるんだろ、園芸部の人かな? と、思ってそのまま通り過ぎようとした時だった。

 

「......く......なまにく......食べたい......」

 

 なまにくなまにくと、草をぷちぷちするリズムに合わせてぼそりぼそりと呟くその異様さに身が硬くなる。気づかれないように通り過ぎるのが一番なのは分かっているけど、下手に音を立てて気づかれて、会話することになったら大変だ。自分の内気さの度合いは十分に分かっている。茶道部の先輩方のように、初対面でも気兼ねなく話せるような特殊なものを持っているなら別なんだけどね......。

 

 図書館に寄って早めに帰り、メロンパンを堪能したいのに。でも気づかれて走って逃げるのは印象悪いし、話すのはそもそもできないし、本当にどうしよう。

 

 「まぁ、なるようになるよね......」

 

 多少ぎこちない動きだけれど、一歩一歩と図書館へ歩を進めるのだった。



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#3

にゃあ、と黒猫が間の抜けた声で鳴いた。

 

 ひとりの少女が、吹きすさぶ風に紺色のローブをなびかせている。その内側から、白いブラウスとチェックのスカートがのぞく。星花女子の夏の制服だ。図書館の屋上には、彼女と一匹の猫以外誰もいない。そもそも屋上は立ち入り禁止になっているはずだが、彼女たちにとってそんなことはどうでもいいのだった。

 

 彼女には、まるで英語を理解するように、となりにいる黒猫の言うことがわかる。そして彼女は自分のことばを理解させることもできる。残念ながら、ほかの猫の鳴き声は分からない。彼女にドイツ語やオランダ語が聞き取れず、話せないように。

 

 出て来たよ、と黒猫は言った。ちょうど、ひとりの少女が背の低い離れから姿を見せたところだった。

 

「ほんとうにあの子なの?」

 

 彼女は黒猫に尋ねる。今回、彼女に課せられた仕事は、その少女を殺すことだ。これまで複数の殺人を行ってきた彼女にとっては、人を殺すこと自体にそれほど大きなためらいはない。しかし、あの少女が処理の対象であるということは、にわかには信じがたかった。

 

「間違いはないよ。同情しているのかい?」

「いや、そうじゃない。やれと言われればやる」

 

 黒猫は笑うように喉を鳴らした。黒猫が言うには、彼女は──|紙井(かみい)|縹(はなだ)は、将来的に黒猫たち“組織”を脅(おびや)かす存在らしい。いままで殺めてきた人間たちもみんなそうだった。その危険の芽を摘むことが、黒猫の目的であり、彼女がしていることだ。

 

「でも、あんなに人畜無害な顔してるのにね」

「そういうものだよ。ほんとうに危険な人間は、一般人と見分けがつかないものさ。そしてその危険には、本人でさえも気が付かない」

「ふーん。なるほどねー」

 

 黒猫が言うことを理解しているのかしていないのか、彼女は気のない返事をする。彼女自身も黒猫から多くのことを知らされていない。黒猫たちの組織とはいったい誰(何?)のことなのか。脅(かすとはどういうことなのか……。しかし、彼女にとっては、それもどうでもいいことだった。

 

 黒猫に言われたとおりの人間を処分する。その報酬として、彼女は不思議なちからを得ることができる。それが、彼女たちのすべてだ。

 

「しかし、わざわざこんなからくりを用意しなくても、もっとぱぱっとやっちゃえばいいのに。君にはボクが与えた|ちから(・・・)があるんだから」

 

 彼女を見上げて、黒猫が言った。彼女は手にワイヤーを握りしめている。そのワイヤーは、はるか上空につながっており、その先には、たくさんの風船によって浮かんでいる檻があるはずだった。

 

 ワイヤーを引っ張れば、檻が開き、|中身(・・)が落下するという仕掛けだ。それを思い返し、彼女は満足げにほほ笑む。

 

「そこは、『郷に入っては郷に従え』ってやつだよ。星花には星花のやり方があるんだ」

 

 黒猫がにゃあ、と相づちを打つ。彼女にとって、猫のあいづちは分りにくい。はいでもいいえでもにゃあだから。

 

「人間の都合はボクには分からないよ。……それで、どうして檻の中身が豚なんだい?」

 

 黒猫に尋ねられ、くくく、と彼女は含み笑いをした。

 

「豚が空を飛ぶことはあり得ないからね。これは私なりのユーモアであり、シニシズムなんだよ」

 

 ***

 

 ぷちぷち草むしりをする彼女のほうをなるべく見ないようにして、後ろを通り過ぎようとする。目が合ったりしても気まずい。後ろ姿に見覚えはないし、話しかけてくるようなこともないだろうけど……。それでも、念には念を入れ、すこしも気づいていないふうを装う。

 

 自慢じゃないけど、私の仕事場(?)である図書館は、この学校で一番新しい建物だ。もちろん、それは一番おしゃれって意味でもある。改築のときにデザイナーの卒業生が設計したとかで、白いタイルが壁一面に貼られていて、外からは現代的というか近未来的な雰囲気がする。中はいたってふつうの学校の図書館といった感じで、それもまた落ち着くのだ。

 

「……?」

 

 その屋上に、人影のようなものが見えた。

 

 図書館の屋上は、危ないから立ち入り禁止になっている。図書委員の私だって上ったことはないし、そもそもどこに屋上への階段があるのかも知らない。そんなところにいる人なんて、掃除のひとくらいだろう。

 

 つい、足を止めてしまった。目を細めて見ると、その人影は線が細くて、身長も私とたいして変わらないくらいだ。女の子のようにも見える。ここの生徒なのかもしれないけど、何かの衣装のような──黒いマントかローブみたいなものを着た、変なかっこうをしていた。

 

 ふ、不審者さんかな。不審者さんだとしたら、早く先生に言わないと……。

 

 あんまりじっと見ていたからか、その人影と目が合った気がした。彼女も私の視線に気が付いたらしく、軽く手を振ってくる。

 

 振りかえしたほうがいいのか、と迷っていると、彼女は何かを引っ張るような仕草をした。それから、上を見ろ、というように空を指(ゆび)さす。

 

 不審に思いながらも、指図されたとおり見上げる。初夏の青く澄んだ空に、白く光る点のようなものが浮かんでいた。飛行機だろうか。それにしては動かないというか、動いていないのにだんだん大きくなっているような……。

 

 ……もしかして、落ちてきてる?

 

 真上から、私に向かって一直線に。

 

「ど、ど……っ!?」

 どういうこと!? どうして!?

 

 とか、いろんなことが頭の中を駆け巡る。そしてそれが私に直撃したら──いや、もし直撃しなくても、私のすぐ近くに落ちたとしたらどうなるか、いやでも想像してしまう。

 

 死ぬ。

 

 間違いなく死んじゃう……!

 

 ここから走って逃げるのが一番の選択肢なんだというのもわかっていた。でも、自分の死を想像した瞬間、足がすくんで動けなくなった。今から数秒後には、いままで私だったものが、ただのお肉の塊になってしまっている。死ぬっていうのはそういうことで、それはとても怖いことだ。

 

 逃げなきゃ死ぬ。でも、逃げられない。

 

 今までに食べたいろんなメロンパンのことが、走馬灯のように頭をよぎる。三歳の時に初めて食べた、おばあちゃんちの近くのパン屋さんのメロンパン。あれをひとくちかじったとき、私はメロンパンが好きになったんだっけ。カリカリのクッキー生地に、ふわふわのパン生地と、ほのかに甘いザラメ。お盆に帰省した時にまた買いに行こうと思っていたのに、もう私があのメロンパンを口にすることはないのか……。あれから、街のパン屋さんを見つけては、メロンパンを買いに行ったなあ。今思えば、限られたおこづかいという条件が、私のメロンパンへの愛情を燃え上がらせていたのかもしれない。

 

 星花を受験するために、空の宮に初めて来たときのことも思いだす。試験の前日に、空の宮中央の駅前のパン屋さんで買って食べたメロンパンもおいしかった。あそこのメロンパンはしっとりしていて、はちみつの香りがする。このメロンパンを好きな時に食べるため、何としても合格したい──そんなモチベーションにもなった。今でも、月に数回は食べたくなる。

 

 そして、今カバンの中に入っている、星花購買部の夕張メロンパン。購買でいつも売ってるやつもいいけど、この夕張メロンパンはいくつでも食べられてしまう。もちろん高級なやつだから、お値段もそこそこする。でも、このメロンパンを食べるためなら、ほかのものを我慢することだって、全然苦じゃない。それくらいおいしいのだ。

 

 もっとメロンパン食べたかったなあ。きっと世界には、まだまだ私が知らないようなメロンパンがたくさんあるんだろうな。それを食べることなく、人生の幕を下ろしてしまうのは、とても悔しい。

 

 でも、同時に、私の人生は幸福だったとも思う。メロンパンのおいしさを知ることができたから。神様、私はメロンパンに出会えて幸せでした。どうか来世でも、メロンパンをたくさん食べさせてください。

 

 実家の近くのパン屋のおじさん、空の宮の駅前のパン屋のお姉さん、購買のおばちゃん……先立つ不孝をお許し下さい。

 

「………?」

 

 ……走馬灯ってもっと一瞬な気がするんだけど、どうなのかな。さっきから、カバンを開けて、メロンパンをひとくちかじれるくらいの時間は経っているような……。

 

「……大丈夫ですの?」

 

 振り向くと、すぐ後ろに知らない女の子が立っていた。驚いて、ひっ、と引きつった声が出そうになる。私よりも十センチは背が高い。私は小柄なほうだけど、それを抜きにしても彼女はけっこう大きく見えた。

 

 彼女は何かを掲げるように、片手を挙げていた。視線を持ち上げると、途端に家畜小屋のようなすえた匂いがする。私と彼女を押しつぶすくらいの大きさの、ふさふさの毛のかたまりみたいなものが、まるで呼吸をするかのようにうごめいていた。

 

 状況についていけない私を気にとめず、女の子は「なんですの、これは」とかつぶやきながら、巨大なふさふさを地面に下ろした。重めな音がする。やっぱり、これが落ちてきてたらつぶれてたかも。それを片手で受け止めてたこの子もこの子だけど。

 

 この子が、私を助けてくれたってことだろうか……。

 

「あ、あの……」

 

 ありがとうございます、と言おうとしたが、彼女はもう、地面に横たわるそれにしか興味がないみたいだった。

 

 私も彼女の脇から、おそるおそるそれをのぞき見る。

 

「……え」

 

 豚だった。

 

 空から、私めがけて一直線に降ってきたのは、豚だった。死んでしまったのか、それとも気絶しているのか、まぶたを閉じたまま動かない。

 

「驚きましたわね……。まさか、本当に豚さんが降ってくるだなんて」

 

 女の子は意味深長なことを言う。そのせいで、この状況がつかめていないのが私だけなような気がしてくる。

 

 実は、今日は全国的に豚模様だったとか?

 

 天気予報を思い出そうとしたけど、ダメだった。今朝は眠くて、まともにテレビのニュースを見られなかった。微妙に暑かったせいで、昨夜よく寝つけなかったのだ。

 

 思い出すのをあきらめて、落ちてきた動物に目をやる。豚の実物を見るのは初めてだった。まるまると太っていて、思っていたよりふさふさ毛が生えている。スーパーのお肉のコーナーで切り身になってるやつとか、豚(とん)コレラが流行ったときにニュースで流れてた、殺処分待ちのやつくらいしか見たことがなかったけど、こう見ると意外にかわいい。もっと小さいサイズのやつなら、ペットとして飼うのもありかもしれない。

 

 みたいなことを考えていると、背後から誰かが駆けてくる音がした。別にやましいことをしているわけではないけど、少し慌てて振り返る。別の人に見られたら、騒ぎが大きくなってしまうかもしれない。

 

 でも、その心配はなかった。そこにいたのは変な格好をした女の子で、私に数メートルの近さまで迫っていた。ちょうど図書館の屋上に見た人影のような、ローブかマントみたいなものを被っている。そして、その手には銀色に輝く刃物のようなものを持っていた。

 

 刃物のようなものというか、まぎれもなく包丁だった。彼女と目が合って、むき出しの殺意が伝わってくる。どう考えても狙いは私だ。

 

 今度こそ、死んじゃう。死んじゃう死んじゃう死んじゃう死んじゃう!

 

 しかも、今度は空から豚が降ってくるとかそういうわけの分からない方法じゃなくて、ただ学校に侵入してきたヤバい人にナイフで刺されるという──なんというか、|ふつうの(・・・・)方法で──。

 

 あっけに取られているうちに、そのヤバいひとは私のすぐそばに来ていた。もう避(よ)けられない。痛みをこらえる準備をする。不審者のひと、なるべく痛くないところを刺してください。できれば一撃でお願いします……。

 

 目をつぶろうとした瞬間、横から突き飛ばされた。砂の上にしりもちをつく。ローブをまとった不審者さんが、ふわっと宙を舞った。包丁がその手から滑り落ちる。

 不審者さんが地面に背中を打ち付ける。がはっ、と肺から空気が漏れるような声が聞こえた。

 

「危ないところでしたわ……」

 

 殺人(未遂)鬼を投げた本人──さっきまで豚を眺めていた女の子は、ふぅ、とため息をつく。

 彼女が地面に転がる不審者さんのほうへ歩み寄ろうとしたとき、どこからともなく黒猫が彼女の顔に飛びついた。まるで彼女を邪魔するように。

 

「クソっ!」

 

 不審者は弾かれたように飛び起きて、包丁をひろう。それから黒猫を引っぺがしてローブの内側にしまい込み、風のように図書館のほうへと走っていった。

 

 すべてのことが、口を半開きにしてぼーっと眺めている間に終わってしまった。中庭には、また、女の子と豚と私だけが取り残される。

 

「……猫さん?」

 いや、それはもう終わりましたけど……。

 

 スカートが汚れるのにも気づかず、地面にへたりこんだままの私に、彼女は手を差し出す。土いじりのときは軍手でもしていたのか、白い手のひらは汚れていない。ありがたくつかまらせてもらうことにした。

 

「お怪我はありませんこと? さきほどは乱暴なことをして、申し訳ありませんでしたわ」

 

 思いのほか強い力で引っ張られて、今度は反対側によろけそうになる。彼女に肩を支えられ、今度こそ自分の足で立とうとしたが、うまくいかなかった。

 

 膝ががくがく震えている。怖かった。死ぬかと思った……。空から豚が降ってくるなんて現実感がなかったけど、ヤバいひとに刺される方はとんでもなくリアルだった。恐怖の余韻でこんなふうになってしまうぐらい。まだ、まぶたの裏に、ローブの不審者さんの姿が焼き付いている。

 

 私のからだの震えが止まるまで、女の子は支え続けてくれていた。立てるようになってから、そろそろと手を離す。

 

「……ご、ごめんなさい」

 

 私が謝ると、彼女はほほえみながら首を横に振る。投げ技を決めるところを見たから、けっこう怖い人なのかと思ったけど、とてもやさしそうな笑顔だった。私はやっと、日常に引き戻されるような気がした。

 

「……えっと、その、ありがとうございます。二回も、助けてもらって……」

「いえいえ、お気になさらず」

 

 お気になさらず。なんだか、育ちがよさそうなことばづかいだ。お嬢様なのかもしれない。この学校、そういうひと多いし……。お嬢様がぷちぷち草むしりしてたのもシュールだけど。

 

 さっきまであり得ないことが起こりすぎたせいか、この子の変なところにも気が付かなかった。彼女は、髪が真っ白だった。染めてるのかな。染めるのって校則では大丈夫なんだっけ。それとも、お嬢様パワーで校則もひとりでにねじ曲がってしまうとか?

 

 くだらないことを考えていると、彼女はまた豚のほうに視線を注いだ。死の危険はとりあえず去ったけど、残された問題はちっとも解決していない。

 

「この豚さん、いかがいたしましょうか……」

 

 豚は相変わらず、庭に寝そべっている。ここは人目に付きにくいところだから、まだ誰にも見られずに済んでいる。騒ぎが大きくなるのはごめんだった。いや、騒ぎは大きくなってもいいけど、その中心で有名人になるのはいやだ。

 

「……とっ、とりあえず、早く先生に言って、片づけてもらいましょう」

「えっ」

 私が提案すると、彼女が驚いた声を出す。ダメなの……? 一番いい案だと思うんだけど。

 

「それはいけませんわ」

「……どうしてですか?」

 

 彼女は豚に愛着を持っているみたいだし、もしかしたらかわいそうだと思ったのかもしれない。このまま先生に報告したら、豚はたぶん回収されて、どこかへ連れ去られてしまう。こんな大きな動物に引き取り手なんてそう見つからないだろうし、育てるのもお金がかかる。たぶん殺されてしまうだろう。それは無慈悲だ。

 

 しかし、彼女は予想外の発言をした。

 

「食べられなくなってしまいます」

「……は?」

「豚さんが食べられなくなってしまいますわ! 先生には言わずに、私たちで何とかいたしましょう」

「えー……」

 

 食べるって……この豚を? 空から飛んできて、私を押しつぶそうとした、この豚を……?

 この子もたいがいふつうじゃない。関わらないほうがよかったかも。

 

「で、でもどうするんですか? 早くどこかへやってしまわないと……」

「そうですわね。ひとまず、豚さんには、もっと目立たないところに移動していただきましょう」

 

 どうやって、というのは聞くまでもなかった。彼女は空から降ってきた豚を片手で受け止めたのだ。物陰まで引きずっていくなんて、大したことじゃない。問題は場所だった。

 

「どこかいいところは……」

 

 ちらっ、と助けを求めるような目で見られる。場所の心当たりが一つだけあった。教えたくはないけど、彼女は命の恩人だ。しかも命二つ分。メロンパンに換算すると、私がこれからの生涯に食べられる個数を計算に入れれば、二千個分は優(ゆう)に超えてしまうだろう。

 

 メロンパンの恩は大きい。私も共犯者か……。

 

 ずるずる、跡を残しながら、二人して──二人と一匹して?──来た方向に引き返す。茶道部の部室がある離れの裏なら、誰も通らない。学校の敷地と外を隔てる塀との間に置いておけば、どこからも見えないだろう。

 

「爺やを呼びますわ。豚さんをおうちにご招待して、お料理になってもらいましょう」

 

 爺やって、執事みたいな人のことだよね。ほんとにお嬢様らしい。でも、私は正直、もう関わるのはごめんだった。一応義理立てはしたから、もういいんじゃないかとも思う。

 

「は、はあ。もう勝手にしてください……」

 

 私が投げやりに言うと、彼女はまたも私の想像を超えた言った。

 

「あなたもいらっしゃるんですわよ?」

 え?

 

「あなたも、この豚を食べなくてはいけません。ひとりじめはよくないと教わりましたわ」

 えー。

 

 ***

 

 桜花寮の一室に帰った彼女は、制服を脱ぐこともせず、ベッドに寝転がった。地面にたたきつけられた背中は痛むが、それよりも紙井縹の殺害に失敗したことが彼女の心に大きな傷跡を残していた。

 

 壁にこぶしを打ち付けると、ひりひり痛む。黒猫が彼女のおなかの上へ、なだめるように飛び乗った。

 

「いやはや。豚が空を飛ぶこともあるもんだねー。ああ、あと君も空を飛んだね。見事なもんだったよ」

 

 なだめてくれると思っていた黒猫に煽(あお)られ、彼女はぶち切れそうになるところを、何とかこらえた。もう高校生だ。猫相手に逆上するほど、ヤバいやつではない。

 

「……ぬかったよ。あんな変な護衛が付いているとは思わなかった」

 

 君を投げ飛ばした生徒のことか、と黒猫が尋ねると、彼女は露骨にいやそうな顔をする。

 

「……あれはふつうの人間なのか? 子豚とはいえ百キロはある。しかもかなりの落下速度だったはずだ。それを片手で受け止めるなんて……」

 

 黒猫はつまらなそうにあくびをした。こいつ、態度がデカいな、と彼女は思った。失敗に付け込んで、足もとを見てくるタイプの猫だ。今日はちゅーるの日だったが、これでは与えるものか迷ってしまう。

 

「その答えは、君もわかっているはずだよ」

「………」

 にゃあにゃあ、猫は彼女の胸のあたりをふみふみした。雄だったらぶっ飛ばしているところだ。

 

「君はなぜ、わざわざ彼女をその手で殺そうなんて思ったんだい? そんな危ない橋を渡らなくても、君のちからがあれば簡単に済む話だろう」

 肉球がだんだん彼女の顔に近づいてくる。ふみふみ、ふみふみ。

 

「………」

 やがて、ぺた、と黒猫は彼女の鼻の頭に前足で触った。

 

「君はちからを使わないんじゃない。使えないんだ。ここでは、|常識的に(・・・・)起こりえないことを起こすのが禁止されている──君たちにしかわからない、ある実体によってね。なら、あれも、常識の|範疇(はんちゅう)を出ないふつうの女の子だよ」

 

 彼女は猫のわきに手を入れて、持ち上げた。みょーん、と体が伸びる。これをやるたびに、ゴムみたいだな、と思う。

 

「……その通りだよ、エロ猫」

 

 黒猫を枕元に座らせ、立った耳の間を撫でる。黒猫は心地よさそうに目を細めて喉を鳴らした。

 

「それで、どうするんだい? ちからが使えなければ、君はただの女の子だよ。ボクとしては、あきらめてもらっても構わないけれど──その場合、君も晴れて一般人の仲間入りだ」

 

 からかうような口調だった。まるで彼女があきらめないことを知っているような、そんな言いぐさだ。

 

 黒猫の思惑通り、彼女は不敵に笑う。そして、天井を強い視線を注ぎながら──まるで、その向こうにいる誰かを睨みつけるようにしながら、つぶやいた。

 

「それもいい考えかもだね。まあ、心配いらないさ。殺すべきはあの怪物じゃなく、なよなよしたほうだ。私はやり遂げるよ。|おまえたち(・・・・・)がどんなルールで縛ろうとしてもね」



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#4

「いっち! にーっ! いっちにーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「いっち! にーっ! いっちにーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

 

 ジャージを着込んだソフトボール部員たちが威勢のいい掛け声とともに二列縦隊を作って学園敷地内を走り回っている。

 

 先頭で掛け声をリードしているのは下村紀香。一年生ながら四番打者を務めており、その長打力は超高校級を誇る。さらに言えば声の大きさも超高校級である。そのためランニングでは掛け声のリード役をよく任されている。

 

「いっち!」

「「「そーれっ!!」」」

「にーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「さんっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「しーっ!」

「「「そーれっ!!」」」

「「「いち、にっ、さんっ、しーっ、にーっ、にっ、さん、しーっ!!」」」

 

「ブヒィィィィィィッ!!!! ブヒヒッ!!」

 

 紀香は体勢を崩して転んでしまい、隊列までもがガタガタと崩れて、たちまちランニングは中断された。

 

「な、何だ今の間抜けた音は……」

 

 紀香は地面に這いつくばったまま、音がした方を見た。そこには茶道部と華道部と書道部が部室として使用している離れがある。

 

「紀香ちゃん、大丈夫?」

 

 同級生の有原はじめが紀香を抱え起こした。

 

「ああ。はじめも聞いたろ? すんごい間抜けな音」

「音というか、イノシシの鳴き声じゃない……?」

「「「イノシシぃ!?」」」

 

 紀香とチームメイトの声が一致した。

 

「うん。わたし、昔イノシシに出くわしたことがあるんだ。ちょうどあんな鳴き声だったよ」

 

 空の宮市の北部はあまり栄えてない土地なのでイノシシが出ることがある。しかし学園周辺でイノシシが出るという話は全く聞いたことがない。

 

 だが実際イノシシだとしたら危険だ。突進されたら間違いなくケガを負う。部員たちは練習よりも身の安全確保を優先した。近くにいた教師に事の次第を報告すると、直ちに教職員総出でイノシシ捜索が始まり、外にいた生徒たちは校舎内に避難させられた。

 

 このとき、一台の白塗りの高級車がひっそりと学園を後にしていたことは誰も知らない。そして実際にはイノシシではなく豚であったことも、イノシシよりも危険な存在が学園に存在していることも。

 

 * * *

 

「いきなり目が覚めて鳴き出したからびっくりしましたわ。爺やが来るのがもう少し遅かったら見つかるところでした」

 

 白髪の長身の少女、橘桜芽は大きくため息をついた。その隣には銀縁眼鏡の少女、紙居縹が、うつむき加減で居心地悪そうに後部座席に座っていた。

 

 後ろのトランクには豚が積み込まれている。覚醒して大声で鳴き出したものだから、すかさず桜芽がゲンコツを頭に落として再び気絶させてから積み込んだ。

 

 だが縹の居心地の悪さの原因は後ろのブタではなく、初対面の少女が隣の席に座っていることである。縹は人見知りが激しかった。

 

「あの……その……」

 

 次の言葉がなかなか出てこない。

 

「豚さんのことが気になりますか?」

 

 桜芽の方から聞いてきた。

 

「え、あ、はい……」

「可哀想ですが、仕方ないことなのです。人間は他の生き物の生命を犠牲にしなければ生きていけないのですから、いちいち気にしていられません」

 

 桜芽はもっともらしいことを言った。

 

 こちらも何か言葉を返さないといけない、と縹は強迫観念にかられた。しかし何をしゃべっていいのかわからず、口をモゴモゴと動かすだけであった。

 

「そういえば自己紹介がまだでしたわね」

 

 桜芽が縹の方に体を向けた。

 

「私は橘桜芽と申します。桜の芽と書いて桜芽です。中等部二年二組、部活は柔道部ですわ」

「えっ」

 

 背が高く大人びているからか、縹は勝手に先輩だと思いこんでいたが、確かにタイの色は中等部二年生を示す黄緑色である。

 

 柔道部所属というのは納得がいった。空から降ってきた豚を片手で軽々と受け止め、不審者をいとも簡単に投げ飛ばす。よほどの力が無いと出来ない芸当だから、それを活かす部活に入るのは当然の流れであろう。

 

「あっ! そうだ!」

 

 縹はついに声らしい声を出した。肝心なことを思い出したからである。

 

「けっ、けっ、警察を呼ばないと……! あの不審者、殺人鬼をどうにかしないと……!」

「そんなこと、豚さんを頂いた後でも遅くありませんわ」

「そんなことって……私、刺し殺されかけたんですよ!? それに、放っておいたら他の生徒が狙われるかもしれないのに!」

「その心配はありません。()()は明らかにあなた個人を狙っていました」

「何でそう言い切れるんです?」

「眼でわかります」

「……?」

「同じ殺人鬼でも強盗目的や快楽目的だと獲物を狙う肉食獣のような目つきをしています。怨恨絡みだと怒りが眼に宿っています。『ムシャクシャしたからやった。誰でも良かった』というようなタイプだと目の光が弱々しく虚無的ですね」

 

 桜芽は実際にさまざまな殺人鬼を見てきたかのように、立て板に水といった感じでスラスラと語るが、縹は全く理解が追いついていなかった。

 

「しかしあの不審者は目が座っていました。殺しを仕事にしている人間、殺し屋の目です。つまり、あなたのことを疎ましく思っている第三者が殺しを依頼した、ということが考えられますね」

「……」

 

 物腰の柔らかい態度と裏腹に、言葉には圧迫感があった。それこそ的外れな推理だと言わせないような。

 

 だが縹には誰かの恨みを買うようなことをした覚えはない。敢えて上げるなら、学園駅前商店街のパン屋でメロンパンをごっそり買い占めたことがあって他の客から冷たい視線を浴びせられたことがあるが、その程度で殺されるのは食べ物の恨みは怖いとはいえ、あまりにも理不尽ではないか。

 

「何で私が……一体誰が……」

「大雑把ですが犯人の目星はついています。確実に学園内の人間ですわ」

「えっ!?」

「あんな怪しい格好をして学校の中に入ろうものなら、たちまち警備の人に取り押さえられていたことでしょう。なので、内部の人間の仕業と考えるのが妥当です」

 

 脳をぐちゃぐちゃにかき回されたような感覚が縹を襲ってきた。殺し屋が学園の中にいるなら、一大事どころではない。

 

 殺人鬼の体型は線が細く身長も自分と変わらなかった。ということは生徒なのか。

 

 一体誰が……猜疑心が縹の心を蝕んでいき、脂汗が彼女の額に滲み出した。

 

 一方、桜芽は縹の心中なぞ知らぬといった感じで、縹に言った。

 

「ところで、まだあなた様のお名前をお聞きしていませんわね。タイの色から高等部二年の先輩とお見受けしますが」

 

 *

 

 橘家は一言で言えば武家屋敷のような造りをしていた。瓦屋根つきの木製の大きな門は高級感と威圧感を与え、縹はつい歩みをためらった。

 

「橘さんって物凄いお嬢様なんですね……」

「一応、祖先は武家でこの辺りを統べていた大名の家臣でしたから。あと、そこをしばらく動かないでくれませんか。危ないですから」

「はい?」

 

 縹はとりあえず、言われた通り立ち止まった。

 

 桜芽が重量感たっぷりの門をゆっくりと開けた。その瞬間であった。

 

「キィエエエーーーーーーーッ!!!!!!」

 

 猿の鳴き声のような甲高い奇声とともに、門から人影が飛び出してきて何かを振り下ろしたが、桜芽はすんでのところでかわした。

 

 人影の正体を知った縹はまたもや戦慄した。

 

 血の如き真紅の鎧兜で身をまとい、両手には日本刀が握られている。西日を受けて禍々しい光を放つそれは、間違いなく真剣だと縹は断定した。

 

 まるで戦国時代の武将が現世にタイムスリップしてきたかのようである。

 

「な、何なのこれ……」

「キィエエエーーーーーーーッ!!!!!!」

 

 武将が桜芽に向かってやたらめったら斬りつける。が、桜芽はそれを簡単に蝶が舞うようにヒラリヒラリとかわしていく。

 

「キィエエエーーーーーーーッ!!!!!!」

 

 武将が顔をめがけて突きを放った。桜芽は頭だけ動かしてひょいと避けると、武将に突進してその体を持ち上げた。その動きは素早すぎて、縹の目には桜芽が瞬間移動したようにしか見えなかった。

 

 武将は刀を落としていて、手足をばたつかせた。

 

「ま、参った! 参ったから下ろしてちょうだい!」

「はい、わかりました」

 

 桜芽は丁寧に武将を下ろした。

 

「娘が久しぶりにお客様を連れて帰宅するというのに、なかなかのお出迎えではありませんか? お母様」

「お、おかあさま!?」

 

 武将は兜を脱ぐと、桜芽と同じ白い髪が垂れ落ちた。さらに面頬を脱ぐと、整った女性の顔が顕になった。

 

「驚かせて申し訳ありませんでした」

 

 女性は縹に向かってにっこりと微笑んだ。さっきまでかぶっていたいかつい面頬とは大違いの柔らかい笑みであった。

 

「私が桜芽の母です。今のは気にしないくださいね。橘家独特の親子のコミュニケーションですから」

「は、はあ……」

 

 もう何がなんだか、である。娘も娘なら母も母だ。

 

「では、お入りください」

 

 桜芽に促されて、縹は処刑台に登るような気持ちで門をくぐった。

 

 *

 

 客間は質素であり外観ほどに威圧感を与えてはいないのだが、縹は緊張のあまり正座したままでほとんど身動きが取れなくなっていた。それでも出された緑茶と茶菓子の饅頭はきっちりと頂いたが。

 

「結局、こっちは食いっぱぐれちゃったな……」

 

 カバンの中にはメロンパンが入ったままである。

 

「でも、二度と食べられなくなる寸前だったことを思えば、ね……」

 

 そのとき、スーッとふすまが開いた。

 

「お待たせしました」

「!?」

 

 一瞬、誰かと思った。鮮やかな紫の生地に、舞い散る桜の花びらの模様をあしらった着物。着ている者が白髪であることで、桜芽だとわかった。その白髪もうなじが見えるぐらいに後ろでまとめられている。

 

 綺麗だ。縹は率直にそう感じた。紫と桜と白の組み合わせがこれ程合うとは。

 

「紙居先輩、どうされましたか?」

「いえ、そのっ、着物姿がよく似合っているな、と。普段から着物を着られていのですか?」

「いいえ。今日は客人たる先輩と一緒に食事を共にするのですから、特別です」

 

 縹は急に恥ずかしさを覚えた。自分のことを特別扱いしてくれるのは良いとして、自分の制服と着物では釣りあってない気がしたからである。

 

「さあさあ、豚さんがお待ちかねですわよっ」

 

 桜芽の声は、少し上ずっているような気がした。

 

 食堂に通された縹はまたもや身を震わせた。その原因は、部屋の四方に飾られているいかめしい装飾品の数々である。

 

 縹の席の後ろには、戦国時代に使われていたであろう古い長槍が。

 

 左側には、自分の身長の倍程度はあると思われるヒグマの剥製が。

 

 右側には大きな窓があるものの、その左右に阿吽一対の仁王像が。

 

 正面には『見敵必殺』と、力強く荒々しい文字が書かれた額縁が。

 

 とても気分良く食事をする場所とは思えず、一歩まかり間違えれば暴力団の事務所のようであった。

 

「紙居さん、本日はようこそいらっしゃいました」

 

 正面の桜芽の母が丁寧に頭を下げた。彼女もまた紫の着物を着ていたが、こちらは梅の花の模様があしらわれている。

 

「さて、諸々の事情は桜芽から聞いています。すでに学校を通して警察の方には通報しておりますので」

「学校はどうなったのでしょうか。他の生徒は無事なのでしょうか」

「特に危害はないと聞いております。ただ今学校には警察が捜査に入っていて、今しがたこちらにも刑事さんが事情聴取に来られましたが、桜芽が代わりに対応致しました。また日を改めて紙居さんに話しを聞きに来ると思いますが、今はここで心身をお休めになってください」

「つまりは、今日はお泊りして頂くことになります」

 

 左側の席にいる桜芽が言った。

 

「え、あの……」

「すでにご両親にも連絡して許可を取ってあります。ご心配をかけてはいけないので今日のことは黙っておりますけど。あとご自宅が襲撃されぬよう、選りすぐりの手練の者たちに周辺を警備させております」

 

 桜芽は大丈夫ですわ、と言わんばかりに親指を立てた。手際の良さに縹はつい感心を覚えた。

 

「しかしせっかく実家に帰ってきたというのに、お父様がおられないのは残念ですわね」

「お仕事ですか?」

「ええ、ちょっとアフリカへ修行に」

「しゅ、修行……? 一体何の?」

「私のお父様は武芸者ですの」

 

 桜芽は橘家について説明を始めた。

 

 橘家は「橘花武道塾」という道場を全国各地で運営しており、そこでは柔道剣道空手道なぎなた、その他諸々の武道を学ぶことができる。桜芽の父親は塾の門下生の一人であったが、祖父に認められて橘家に婿養子入りする格好で桜芽の母親と結婚した。だが父親は非常にストイックな性格で常に己を鍛えることばかり考えており、先月から過酷な環境に自らの身を置いて鍛えるためにアフリカのサバンナに旅立ったという。最低でもあと一年間は帰ってこないらしい。

 

 縹は、きっと橘家にはまともな人間はいないのだろうと、失礼ながらもそう思わざるを得なかった。

 

「失礼します」

 

 先程運転手を務めていた爺やが入室してきた。片手で持っているお盆にはカクテルグラスが三つ置かれていて、二つには赤色の、もう一つにはオレンジ色の液体が入っている。まず縹の席に、オレンジ色の方が置かれた。

 

「ノンアルコールの食前酒でございます」

 

 ノンアルコールなのに食前「酒」とは矛盾しているが、特に気にはしなかった。それよりも気になっているのは自分と桜芽、桜芽の母と中身が違っていることである。

 

「あ、あの……私だけ違うんですけど」

「ああ、私たちが飲むのはちょっと刺激が強いものでして、先輩がとても飲めるようなものではございませんので」

 

 桜芽が答えた。

 

「まさか、本物のお酒……?」

「そんなわけないでしょう。お酒は二十歳になってからです」

「じゃあこれは一体……」

「スッポンの生き血にマムシの粉末を混ぜた、橘家特製のノンアルコールスタミナカクテルですわ」

「ひいっ!?」

 

 縹は素っ頓狂な声を出した。

 

「あ、先輩のは普通のノンアルコールオレンジカクテルですからご安心を」

「そうじゃなくて……酒よりもいろいろときついものを飲んじゃって大丈夫なのですか?」

「子供の頃から飲んでいましたわ」

「ええー……」

 

 いただきます、と橘親子は中身を一気に飲み干してしまった。

 

「くぅぅ、この鼻から突き抜ける血生臭い風味が良いですわね」

「うふふ、これ、殿方に飲ませたらもっと凄いのよ。どんなに元気がなくてもたちまちあの槍のようになってしまうのだから」

 

 桜芽の母が縹の後ろにある槍を指差す。

 

「いやだもう、お母様ったら!」

 

 桜芽は頬に両手を添えて恥ずかしさを体で表現した。

 

 縹も一応は中身を飲み干したが、オレンジの香りを楽しむ余裕がなかった。

 

(食前酒でこのレベルなら次は何が出てきてしまうのだろう……)

 

「サラダでございます」

 

 爺やが続いて持ってきたのはシーザーサラダである。野菜の上に豚しゃぶが乗っていた。まともな食事だとわかって縹は少し胸をなでおろした。

 

 自分の生命を奪いかけたブタが、逆に生命を奪われてしまい自分の生命の糧になろうとしている。何とも皮肉で可哀想な気がしたが、料理になってしまった以上は食べることが何よりの供養だ。縹はそう考えることにした。

 

 桜芽の母も同じくシーザーサラダであったが、桜芽だけは違っていた。

 

「お嬢様はこちらでございます」

 

 桜芽の席に置かれた皿には、名前がわからない雑草が乗っていた。盛り付け方は草むしりしてそのままポイと置かれたように雑であり、ドレッシングの類すら一切かかっていない。

 

「まあ、この香りは那須高原に生えている野草ですわね」

「さすがお嬢様、ご明察の通りでございます」

「……あの、その草は食べられるものですか?」

()()食べられますとも。この土の香りがたまらないのですわあ……」

 

 桜芽はフォークで草をすくい上げてクンクンと匂いを嗅ぐと、そのまま口に放り込んだ。

 

(食っちゃった、ウシみたいに食っちゃったよ、おい……)

 

「うーん、美味しい! 紙居さんも遠慮なさらずにどうぞ」

「は、はい……」

 

 縹は視線を草を頬張っている桜芽からシーザーサラダに向けた。まずは豚しゃぶから手をつけることにした。

 

「ううむ……これは……」

 

 絞めたばかりの豚だからか、はたまた腕前の良い料理人でも雇っているのか、味はそんじょそこらの店で出される豚肉とは全く別物と言っていい程、濃厚でまろやかあった。

 

「なかなか美味しいです」

「喜んでもらえて嬉しいですわ」

「橘さんは豚しゃぶを召し上がらないのですか?」

「私は火を通した食べ物が苦手なのです」

「あれ? でもそれじゃ豚肉が食べられないのでは」

「え? どういう意味ですか?」

「いやその、カンピロバクターとかトキソプラズマとかの食中毒が……」

「??? 言葉が難しすぎてよくわかりませんが、食中毒は罹ると大変と聞きますわね」

 

 桜芽は全く理解していない様子である。豚肉はじゅうぶん加熱して食べないと、ウィルスや寄生虫由来の様々な食中毒を引き起こす実は大変危険な食べ物である。少し前にとある焼肉店が生肉食を提供して死者を出したため、法規制の強化や啓蒙活動が進められた。そのことで豚肉はじゅうぶんに加熱しなければならないということが一般常識として広まったはずなのに……。

 

 しかし次に出された料理は、無慈悲にも一般常識に反するものであった。縹と桜芽の母に出されたのは厚切りの、よく火が通されたトンテキであったが、桜芽の目の前には桜色の塊がドンと置かれたのである。

 

「肩の肉でございます」

 

 途端に、桜芽の眼の色が露骨に変わった。

 

「来たわキマシタワー、これよこれ! この赤身と脂身のコントラスト……」

「あの、橘さん」

 

 桜芽は行儀悪く両手で肩肉を掴み、豪快にかぶりついて身を食いちぎった。

 

「んっ、んっ、んふぅぅんん!! おいひぃぃぃいいい!!」

 

 咀嚼しながら恍惚の表情を浮かべ絶叫する桜芽に、縹はドン引きした。清楚なお嬢様の姿はもはやどこにもない。むしろ漢文の授業でやった『鴻門の会』で項羽に差し出された豚の肩肉を食らう豪傑樊ロ會(はんかい)そのものである。

 

「たっ、橘さん! 食中毒になってしまいますよ!」

「久しぶりの生肉!! あああああ……タマリマセンワー!!」

「だめだ、聞いちゃいない……」

 

 桜芽の母に助けを求めようとしたが、逆に「大丈夫ですわ」と返された。

 

「この子は体質が少し特殊でしてね、私たち常人と違ってありとあらゆる毒素が効きませんし、有害な寄生虫が一切生存できないのです」

「えええー……」

 

 縹はナイフとフォークを持ったままでしばし固まってしまった。

 

 今日は空から豚が降り、不審者に生命を狙われて、さんざんな目にあってきた。しかしそれも橘桜芽という異形の存在の前では霞んでしまう程である。

 

(私はとんでもない人間、いや怪物と関わってしまった……)

 

 もはやトンテキの味がわからずゴムを噛んでいるような気分に陥っていたが、食事はまだ続く。次に出されたのは豚丼である。ご飯が埋もれるほどに豚肉が盛り付けられていたが、この時点で縹は食欲が失せており食べ切れる気がしなかった。

 

 しかし出されたからには食べなくてはいけない。無理にでも箸を動かそうとしたとき、

 

「ウソでしょ……」

 

 桜芽に出されたのは丼モノであったが、豚丼ではない。巨大な丼に無造作に盛り付けられたものは、なんと豚の内臓一式であった。グロテスクなそれらを見てしまった縹は食べたものを一瞬、逆流しかけた。

 

 桜芽はヨダレを垂らしていて、目つきは彼女の後ろに鎮座しているヒグマの剥製のそれと全く同じになっていた。

 

「こっ、ここが一番美味しいところなのですわ……」

 

 桜芽は褐色の肉塊を手に取り、高々と掲げた。肝臓、即ちレバー。生で食すると食中毒発症間違いなしの超危険部位である。

 

 桜芽は肉の脂とヨダレでテカっている唇から舌を突き出して、レバーをチロチロと舐めはじめた。その仕草は狂気的で扇情的ですらあったが、縹は恐怖感しか抱かなかった。

 

「いただきますう……」

 

 舌でしばらく弄んだ後、桜芽は大きく口を開けてレバーに噛み付いた。咀嚼するごとに目が血走っていく。

 

「んっ、はぁうっ! んああああああっ! おっ、おっ、おっ、おいひぃぃいいいですわああああ!!!! あはぁんっ、あっあっ……」

 

 いわゆるアヘ顔状態で、桜芽は身をビクンビクンッと震わせた。

 

「うっ、うーん……」

 

 衝撃的な光景の連発に脳が絶えきれなくなった縹は、とうとう意識を手放して椅子から崩れ落ちてしまった。

 

「あらあら、ちょっと刺激が強すぎたかしらね」

 

 桜芽の母の呑気な声が、縹の耳に届いた最後の言葉であった。



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#5

加熱された肉擬きなどとは比べ物にならない、

久々の血肉の味に恍惚としている桜芽の横で、

ドサリ、と物音がした。

横を見ると、そこには泡を吹く倒れている少女が。

 

「かっ...紙居先輩っ?!大丈夫ですかっ?!」

 

「気絶してるだけよ、少し安静にしてあげなさい」

 

「…やっぱり先輩も生肉を欲していたんですね!

惜しいですが...お気に入りの豚の脳ミソを差し上げますから、

目を覚まして下さい!!」

 

「……貴女はもう少し、常識を知りなさい...」

 

母が何を言っているのか分からないが、

目が覚めるよう懸命に呼び掛ける。

 

声をかけ続けていると、小さな声が聞こえた。

 

「ん... 」

 

やっと目を覚ましてくれたと、桜芽は安堵した。

 

「良かった!目を覚ましましたわ!大丈夫ですか?」

 

「ろ...ぱん...」

 

幽かに可愛らしい声が聞こえた。

 

「あの...今なんと...」

 

「...ろんぱん...」

 

「すみません、もう少し大きな声で...」

 

「めろんぱんっっっっっっっっっ!!」

 

先刻まで穏やかな寝息を立てていた少女が、突然、咆哮した。

 

「めろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろっめろんぱんめろんぱんめろんぱんめろんぱん...」

 

「先輩?!しっかりしてください!!」

 

「あ...これ...白い...めろん...ぱん...?はむっ」

 

「それはお母様の頭ですの~っ!!」

 

「あら...甘噛みってのも良いわね...」

 

「お母様~っ!」

 

――――――――――――――――――――――――

 

鹿威しの音が、カポーンと心地良く響き、蹲の水は、月の光を反射している。

少し大きく開いた障子の向こうには、

額を畳に擦り付けて土下座している少女と

おろおろする少女、恍惚としている女性。

なんとも異様な光景である。

 

「本っ当にすみませんでしたっ!」

 

「良い甘噛みだったわ、それに免じて許しましょう」

 

縹は、歯形が深く付いた竹刀を見て、自分の先程の行為に驚きつつ。

生身の人間ならひとたまりもないであろうそれを甘噛みと言い張る美女を見、

さすがは橘さんの母だと、畏敬と畏怖の念を抱いていた。

 

「本当に、抑えるのが大変だったんですよ...」

 

桜芽は、部屋を飛び回る猛獣と化してしまった縹の姿を想起し、ため息をついた。

散々暴れ回った縹は、メロンパンを食べさせる事でやっと鎮静化させられたのだった。

 

「一体どこからあれだけの力が涌いてくるのですか......

..そういえば」

 

桜芽は、ふと思い立って言った。

 

「すみません紙居先輩、一度、私の手を思い切り握ってみてください。」

 

唐突な頼みに困惑しつつも、目一杯に手を握る縹。

 

「分かりました...えいっ...!」

 

が。

 

「やはり...」

 

結果は、桜芽の予想通りであった。

 

(握力は恐らく15kg程度...

先程の異質なオーラも感じられませんし...)

 

「一時的に、力がハチャメチャに強くなるみたいですね。

きっかけは恐らく...」

 

「メロンパンね。

紙居さん、今までにこんな事が起こった事はあるかしら?」

 

「...いえ...こんなのは初めてです...」

 

「先輩、メロンパンで何か心当たりはありますか?

いかにも見た目がヤバそうなメロンパンを食べた、とか」

 

「いえ...そんな事は...

あっ、でも...」

 

「何か御座いまして?」

 

「そういえば、かれこれ10時間以上もメロンパンを食べて無かったんです...!

もしかしたら、それが原因かもしれません...」

 

「好物の力は恐ろしいですわね...

それにしても、メロンパン断ちであそこまでの力を生み出せるとは...」

 

久々の生肉だからと言って、他人が気絶するほどグロテスクに喰らう子が何を言うかと

ツッコミそうになったが、何も言えなかった。

 

「自分でも恐ろしいです......どうして私にこんな力が...」

 

「ただ、貴女のその強大な力は、一時的。

もし誰かがその力を知っていて、邪魔に思っていたとすれば。」

 

「力が出ていない時を襲われますわね。今日の様に。」

 

「で...でも、こんなの初めてだし、この力も、ここに居る人しか知らないんじゃ...」

 

「分からないわ。でも、可能性は低くはない。

警戒しておくに越した事はないわ。」

 

「それに、今日あの者は、殺しを失敗しましたわ。

姿を見たのもありますし、次は確実な方法で...」

 

「殺される.........?」

 

「...その可能性は、低くは無いわね。」

 

「...そん...な...

私、何も悪い事してないのに...!」

 

「......」

 

頬を伝う雫が、縹の服を濡らしてゆく。

重苦しい空気が漂う部屋に、すすり泣く声が響いていた。

 

重い雰囲気を最初に断ち切ったのは、桜芽であった。

 

「私に...私に任せて下さい!」

 

「......えっ?」

 

「私に、先輩を守らせて下さい!」

 

「でっ...でも、そんなの...駄目です...」

 

縹は、上ずった声で伝える。

自分のせいで橘さんが傷つくなんて、そんな事あってはならない、と。

しかし。

 

「これでも私、力には少々自信がありましてよ?

紙居先輩を護衛しながら自分を守る位、お手の物です!

お母様も...」

 

そう言って、桜芽は、母親をちらりと見た。

母の向けた表情に安堵の表情を浮かべ、彼女は続けた。

 

「大丈夫です。お母様も認めて下さっていますし、貴女に拒否権は有りませんわよ?

徹底的に護衛させていただきますわ!

それに...」

 

桜芽は急に立ち上がり─

 

「私も、こんなに血湧き肉踊るのは、久々ですわっ!」

 

─彼女はキメ顔でそう言った。



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