鬼哭劾―朱天の剣と巫蠱の澱― (焼肉大将軍)
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プロローグ
少年期の終わり(前)


  †††

 

 

「ねぇ、雁夜君はさ、大きくなったら何になりたいの?」

 

 大好きな幼馴染の言葉に、僕は即座に答えた。

 

「魔術師。そう、僕はとっても強い魔術師になるんだ」

 

 幼馴染、葵さんは僕の言葉に笑みをこぼす。

 

「うーん、私には想像出来ないなぁ。雁夜君が、かぁ」

「何だよ、ソレ。ホントだよ」

 

 僕は心外だ、と頬を膨らませた。

 

「僕は強くなるんだ。きっと、爺さんより。誰よりも強くなるんだ」

 

 その言葉に嘘は無かった。

 僕は強くならなければならなかったし、強くなりたかった。

 間桐の魔術師として生を受けた以上、強くならなければ自由は無い。

 それに――。

 

「そしたら、仕方ないからさ、葵さんの事も護ってあげるよ。葵さんの大切な人も、皆、僕が護ってあげる」

 

 照れ臭い本音を包み隠して僕は言った。すると、

 

「へぇ、それじゃあ期待してるわね、雁夜君」

 

 そう言って彼女は柔らかな笑みを見せた。

 

 人間の感情には、どんな理屈をも超越する瞬間がある。

 この瞬間が、そうだった。

 その笑顔を俺はずっと覚えている。

 それは俺が彼女、禅城葵さんへと抱いていた青臭い憧れが、

 

 恋と成った瞬間だったからだ。

 

 

 

 子供の頃に見たユメがある。

 誰もが年を取るに連れて語らなくなる夢物語。

 

 心の奥底に仕舞い込んで、皆それを忘れる。

 あるいは目を逸らして視ない様にする。

 次第に、それが賢い事だと思い込む。

 

 皆、知っている。

 この世界が残酷で、どうしようも無いってこと。

 

 でも、知っている。

 誰もが愛と勇気の真っ赤な御伽噺(おとぎばなし)を待ち望んでいるって事。

 僕だって、そうだったし、十年後の俺だってそうだ。

 

 だから、後悔は無い。

 

 

  †††

 

 

 真っ赤に染まった空がやがて藍色に塗り潰されていく。

 夕方から夜へと移行する宵の口、逢魔時に、冬木市遠坂邸の庭園にて二人の魔術師は相対した。示し合わせた様に、宿命の様に、彼等は互いを見据え、向かい合う。

 遠坂邸から伸びた巨大な影が向かい会う二人を包み込み、その表情を隠していた。

 

 片方は大振りのルビーが先端に埋め込まれた杖を持ち、もう一方は目深にパーカーを被っている。パーカーの方はその身体から時折、ギチギチという音を発していた。聞く者に生理的険悪感と、本能的恐怖を引き起こす悍ましい音である。

 

 行くぞ、と杖を持った方が発し、パーカーが、来い、と受けた。

 男が杖の切っ先をパーカーに向ける。同時に、パーカーは地面に両手を着いて、獣の様に伏せると、跳んだ。恐るべき脚力であった。パーカーは十メートル程横の噴水のモニュメントへと着地すると、更にそれを蹴って跳躍する。

 その影を追って、炎が奔った。

 

「いきなり、逃げの一手かい、雁夜? それでは、同じ事の繰り返しだぞ」

 

 杖を構え炎を操る魔術師、若き遠坂家当主、遠坂時臣は言いながら、跳躍を繰り返す相手の影を追って杖の切っ先を滑らせる。時臣が杖を振る度、その切っ先に埋め込まれたルビーが妖しく瞬き、次々に炎弾が飛んだ。

 炎弾の直撃した庭木が一瞬で燃え上がり、着弾した石畳に至っては溶解している。人が受ければ無論只では済むまい。しかし、その炎の特筆すべき点はその火力、では無い。

 

 真に恐るべきは、その炎弾が着弾した場所で燃え続けているのみで、決して周囲へと拡がりを見せぬ点にある。庭木や枯草等、火種は無数にあるのにだ。

 着弾した対象のみを焼き尽くす、完璧なる炎の術式制御技術である。

煌々と燃え上る炎に照らされ、遠坂邸の庭園は暗くなる冬木の街並みとは裏腹に、昼の如き明るさであった。

 

「どうした、雁夜? 勇んで自ら勝負を仕掛けて置きながら、まさかその程度という事はあるまい!?」

 

 空を切った炎弾の一つが噴水に直撃し、一際巨大な水煙が上がる。すると、猶も炎を紙一重で避けて跳躍を続けていたパーカーの男の動きがふと止まった。

 パーカーの男、間桐家当主、間桐雁夜は両手を上げる。その手は血に塗れていた。その両手足を内側からナニカが貫いていた。

 

 蟲だ。

 巨大な魔蟲の節足や触覚、鋏角が雁夜の身体を内側から突き破っているのである。

 これこそが先程の人間離れした跳躍の種。自らの体内に寄生させた多種多様の魔蟲を操る間桐の魔術である。

 雁夜は言った。

 

「種は撒き終えた。行くぞ、時臣。今日こそ俺は、お前を超えるッ!!」

 

 同時に、ギチギチという音が一層大きく鳴り響く。それは今度は周囲から響いた。悍ましさはそのままに、山々のさざめきにも似た、地鳴りの如き大合唱であった。

 時臣は咄嗟(とっさ)に視線を辺りへと巡らせる。

 総身を包む悪寒と高揚に彼は、引き攣った様な笑みを浮かべていた。

 

「成程――私は、君を少々侮り過ぎていた様だ――」

 

 月が消えた。

 夕焼けの赤が消えた。

 覆い隠されてしまった。

 時臣の振るった炎の明りに照らされて、鈍い輝きが見える。天を覆い尽くすうねりが見える。ギチギチと鋭い顎を鳴らして威嚇(いかく)する獰猛なる魔蟲群。

 

 一匹一匹がサッカーボール大はあろうかという巨大な甲虫の群れは、その薄刃の如き羽を唸らせ縦横無尽に宙を舞い、周囲を覆い尽くしていた。百か、千か、数え切れぬ程の翅刃虫(しじんちゅう)の群れであった。

 

 ひとたび牙を立てれば猛牛の骨をも砕く肉食虫の大群である。襲われれば人間など一分と持たずにこの世から消え失せる。

 しかし、遠坂時臣は猶も泰然(たいぜん)と言い放った。

 

「だが、それでも、私の勝利は揺るがない。来い、雁夜ッ!!」

「ああ、行ってやる。行ってやるさ、時臣ッ!! 今日こそ、俺は、お前に勝たなけりゃあいけないんだッ!!」

 

 雁夜が吼える。

 胸に秘めた想いが在った。

 伝えたい言葉が在った。

 

“もし、今日この戦いに勝つ事が出来たならば、

 時臣を倒す事が出来たならば、

 俺は葵さんにこの胸に秘めた想いを伝えよう!!”

 

 遠坂時臣。

 冬木の管理者であり、五代を数える遠坂家の当主。

 相手は押しも押されもせぬ、生粋(きっすい)の魔術師だ。

 そして、雁夜が敗北を喫し続けてきた相手でもある。

 それは魔術だけに限った話ではない。

 

 文武両道で何事もソツなくこなす時臣と比べ、雁夜は至って平凡だった。

 

“恐らく、何をやっても俺は時臣に勝ち得ないだろう。

 それでいい。他の事はそれで良い。

 だが、魔術だけは別だ。魔術についてだけは、負けを認める事は出来ない。

 俺はコイツに勝ち得ないと認める事は出来ない。

 自分の想いを、あの日の誓いを、自ら踏み躙る事など出来よう筈もない!!”

 

 雁夜の目がかっと見開かれる。

 

「そうだ!! 今日こそ、今日こそだッ!! 勝つ!! 必ず、俺はッ!!」

 

 こいつに勝てれば、きっと胸を張って、俺は強くなったと言う事が出来る気がした。

 あの日の誓いを嘘にしなかったのだと自分に誇れる気がした。

 

 雁夜はちらと傍らに視線をやった。

 そこには固唾を呑んで、二人の戦いの行方を見守る禅城葵の姿があった。

 

“心配しないでくれ、葵さん。

 俺は勝つ。俺は強くなった。

 もう、貴方を護れる位に強くなったんだ!!”

 

 意志を固める。総身に力が宿る。

 そして、雁夜の咆哮に呼応した翅刃虫の大群は、八方から時臣へと襲い掛かり――同時に、空に上がった大輪の炎の華が迫り来る蟲の大群に風穴を開けた。

 

「なッ――」

 

 逆巻いて空へと奔った炎は虚空に魔法陣を描き出す。炎が描いた防御陣は遠坂の家紋を模し、夜気を焦がして紅蓮と燃える。触れた全てを焼き尽くす攻性防御陣であった。

 

「フフ、良いぞ。負けられぬのはこちらも同じだッ!! 来い、雁夜ッ!!」

 

 唸りを上げて飛来する魔蟲の群れを、舞い踊る灼熱の炎が迎え撃つ。

 

 

 

 

 遠坂時臣は笑っていた。

 彼は間桐雁夜が本気で自分に向かって来る事が嬉しくて仕方が無かった。

 

 時臣にとって、魔術とは孤独の道だった。

 魔術の鍛錬は、ただ只管(ひたすら)に、自らを研磨する作業に過ぎなかった。

 それで良い、と思っていた。

 それが魔術師として生まれた自分の、選ばれし者の義務だと思っていた。

 理解者などいなかったし、誰の理解も要らないと思っていた。

 

 揺るぎの無い信念と自負。代々の選民思想に裏打ちされた鋼の如き克己(こっき)と自律で以て、彼は他者の数倍の修練を己に課し、魔術の鍛錬に没頭した。

 

 キツくなかった、と言えば嘘になる。

 

 時臣は才気煥発で、何事もソツなくこなしたが、その実、何処までも不器用な人間だった。余裕を持った物腰も、どこまでも忠実に、優雅たれ、との家訓に従っているに過ぎない。澄ました顔で水面下で必死にもがく白鳥の様な男だった。

 

 連綿と代々受け継がれた遠坂の血脈。ただ只管に自らにそれを課す、殉教者の道。生まれた時から定められているレールを、ただ全力で駆け抜ける日々。

 

 そこに現れた二つの異物が、間桐雁夜と禅城葵だった。

 

 気付けば、孤独だった道には光があった。

 魔道の深淵は遥か深い。

 きっとこの道の先には更なる闇があるだろう。

 挫折だってあるかも知れない。

 しかし、私が折れて立ち上がれなくなる事は決して無い。

 

 彼等に恥じる生き方など出来よう筈が無い。

 

 「良い気合いだ、雁夜。だが、私とて負けられん。今日だけは負ける訳にはいかないッ!!」

 

 雁夜の裂帛の気合いに、時臣が応じて吼える。

 かつて御三家と言われ、共に聖杯の完成を夢見た同胞。

 私と同じ境遇に生まれた男。

 

 間桐雁夜は何度も私に突っ掛ってきた。

 私は幾度と無く、それを退けてきた。

 今回も退ける。退けなくてはならない。

 この時、時臣は来月高校卒業と同時に渡英し、魔道の総本山、ロンドンの『時計塔』への進学を決めていた。恐らく、雁夜と戦うのもこれが最後となるだろう。

 

 故に、絶対に負ける訳にはいかない。

 

“ここで敗北する様な奴が、どうして時計塔でやっていけるだろうか!?

 どうして彼女に、待っていてくれ、などと言えようものか!!”

 

 時臣は心を定め、魔力を込める。

 

 

 

 彼等は競い合うライバルであり、同じ夢を見た同胞であり、互いを理解出来る無二の親友であり、奇しくも同じ女性を愛してしまった恋敵であった。

 

 



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少年期の終わり(後)

  †††

 

 

「行くぞッ、時臣ッ!!」

 

 先ず雁夜が仕掛けた。

 雁夜の紡いだ呪言に応え、宙を舞う翅刃虫(しじんちゅう)の大群は天を衝いて噴き上がった炎を避けて上昇し、反転、勢いを付けて空を駆け下ると四方八方から時臣目掛けて殺到した。

 

 連なった甲虫の群れが描き出す魔蟲の瀑布は、しかし、空中に描かれた炎の紋様に阻まれ止まる。間断なく襲い掛かった魔蟲の群れは時臣の火炎陣に行く手を阻まれ、ただの一匹も突破を果たす事無く焼き尽くされて消えていく。

 

 時臣を中心に虚空に配置された攻性防御魔術陣。

 その数、実に三枚。

 如何に炎に弱いとは言え、巨大な甲虫が触れた瞬間焼き尽くされるその火力は凄まじいと言わざるを得ない。燃え散る魔蟲の甲殻と翅刃が炎に照らされ、キラキラとした瞬きと共に一瞬で炎上していく断末魔の光景は酷く幻想的ですらあった。

 

「正に、飛んで火にいる夏の虫、と言った所だな、雁夜」

 

 炎の奥で、泰然と構えた時臣が言った。

 

「炎に拠る攻性魔術防壁の複数展開。また、腕を上げたな。だがッ――」

 

 雁夜の言葉と同時に、ただ只管炎へと突っ込んでいた翅刃虫の動きに変化があった。真っ直ぐ飛び掛かるのみだった翅刃虫が空中で弧を描き、空中に折り重なって顕現した時臣の魔術防壁の継目を狙い、その隙間を縫って時臣へと迫り始めたのだ。

 

 虫の眼は非常に機能的である。

 彼らは人間には知覚出来ぬ紫外線を視認可能なだけでなく、脳への視覚情報の伝達速度に優れる単眼と、非常に広い視野とほんの僅かな状況変化すら見逃さぬ複眼を併用する事によって非常に高い視認能力を誇っている。

 

 更に、雁夜の翅刃虫はほんの僅かな魔力の揺らぎすら視認可能であり、恐るべき事に、雁夜の魔力によって各々の視覚情報を群全体で共有し、巨大な視覚のネットワークを形成している。

 時臣の張った魔術防壁、燃え上がった炎が描くそれだけで無く、その周辺に張り巡らされた目に見えぬ構成術式や魔力の流れすらも、翅刃虫達には三次元的に視えている。

 で、あるならば、彼らの飛行能力を以て、張り巡らされた魔術防壁の隙間を縫って飛ぶ事など造作も無い。

 

 何より、隊列を組んだ魔蟲の真に恐るべき点は、個々の生死を頓着せぬ、群体としての強靭さである。彼らは別の個体が焼き尽くされた箇所を避け、あるいはその身を盾にして、何匹犠牲にしようとも只管に、群全体での突破を図る。

 

 時臣の複数展開した攻性魔術陣は正に鉄壁の城塞とでも言うべき代物であったが、防壁の穴を、綻びを、繋ぎ目を、只管に無数の死で以て抉じ開け、敵へと迫る魔蟲の群は宛ら百戦錬磨の攻城兵である。

 

 無論、時臣も杖を振って魔術陣を動かし、魔蟲へと対応するが、如何せんその数が多過ぎた。前面に魔術陣を集めれば背後から殺到し、それに対応しようとすれば魔蟲は間断無く三方から群がって来るのであった。

 

「千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰ゆ。知っての通り、俺の翅刃虫の複眼は僅かな魔力の揺らぎすら見切り、その綻びへと殺到する。どんな強力な防御陣だろうと防ぎ切れる物じゃあない。俺の勝ちだ」

 

 雁夜は勝ち誇ると、更に一層魔力を込めて、魔蟲群を奮い立たせる。

 耳を劈く翅刃虫のギチギチという顎鳴りの音が一層大きくなり、彼らの飛行速度が目に見えて速くなった。魔蟲はその勢いを増し、今にも防壁を抜けようとしていた。

 

 もし、一匹でも防壁を抜けて侵入を許せば、連鎖的に全ての魔蟲が雪崩込み、時臣をその血肉の一遍まで蹂躙するだろう。

 しかし、それでも時臣は余裕の笑みを崩さない。

 

「ふふ、やるようになった。しかし、勝ち誇るのが少々早いと言わざるを得ないな。

Sprengend wird angezündet und führte aus――我が炎、塞ぐを許さず」

 

 時臣の呪言と同時に、その杖の先端に填め込まれたルビーが妖しく瞬く。同時に、群がる翅刃虫を焼き払い、更に二枚の攻性魔術陣が新たに虚空へと浮かび上がった。

 

「なにッ!?」

 

 雁夜の驚愕の呻きと共に、虚空に炎が瞬いた。

 正に、一掃。

 既設の魔術陣を避けて飛行していた魔蟲群が、不意に出現した魔術陣に絡め取られて炎上し、空に炎を舞い散らせた。

 百を超える魔蟲を一撃で殲滅し、時臣は言い放つ。

 

「防御魔術陣の数も形も、私は自在に操れる。残念ながら、私の防御に隙など無い。あるとしたら、それは愚かな羽虫を誘き寄せるただの罠だ」

「ぐ、まだだッ!!」

 

 雁夜の言葉と同時に、一度翅刃虫達は展開された防御陣から距離を取り、時臣を中心に一斉に回転を始めた。

 

 高速で羽ばたく事によって飛行する鳥類として有名なハチドリは凡そ秒間五十回もの羽ばたきが可能である。この驚異的な翼の高速運動がホバリング飛行を可能とする訳だが、こと飛行において昆虫のソレは文字通り桁が違う。

 蜜蜂で凡そ五倍、蚊や蠅に至っては十倍以上。彼等は複数の自らの翅を自在に高速運動させる事によって恐るべき飛行能力を獲得している。

 

 巨大な甲殻を備える翅刃虫の羽ばたき回数は更にその数倍。そして、数百を数える翅刃虫がその六枚の翅を自在に操り、高速振動させる事によって発生する風に指向性を持たせるとどうなるか?

 

「炎の壁を突破出来ないなら、近付いて貰うまでだッ!!」

 

 言うと同時に、雁夜が唱える。

 

「操蟲奏、螺旋風魔ァ!!」

 

 薄刃の様な翅を高速振動させ宙を舞う数百の翅刃虫の作り出す風が次第に纏まり、練り上げられ、遂には巨大な塵旋風と化す。だが、その殺傷能力は自然発生した物とは文字通り、桁が違う。

 翅刃虫のその高速駆動する薄刃の如き翅は、触れた物を切り裂き、抉り飛ばす兇器である。そして、塵旋風であるが故に、内部は外に、外部は内に、常に魔蟲の渦に引き込もうとする強力な風の流れが発生している。

 

 風に引き摺られた周囲の庭木や石造りのモニュメントが魔蟲の隊列の内へと吸い込まれた。同時に、それは凄まじい破砕音と共にバラバラに切断され、破片と成って中空へと撒き上げられた。

 恐るべき眼前の光景に、しかし、時臣は余裕の笑みを崩さない。

 

「ほう、面白い。だが、無意味だ」

 

 魔蟲の作り出す竜巻の内に立つ時臣には然したる影響は見受けられなかった。既に気流制御魔術によって周辺大気を完全にコントロールしているのである。

 時臣が杖を振り、炎弾が蟲の暴風壁へと撃ち込まれた。一際巨大な爆炎が蟲の暴風壁を貫いて奔った。百を超える翅刃虫が一撃で焼失し、焼け焦げたその残骸が宙を舞う。

 

 暴風壁の大穴は次第に周囲を飛ぶ翅刃虫が集まって埋められたが、全体の層が目に見えて薄くなり、風がその勢いを失う。もう数発も打ち込めば、暴風壁は雲散霧消するだろう。

 時臣は些か落胆したかの様に言った。

 

「まさか、こんな物で、この私の防御を抜けると思っていたのか? だとしたら、少々心外だぞ、雁夜」

「ぐっ、く、糞ッ!!」

 

 余裕を見せる時臣とは裏腹に、雁夜は言葉を詰まらせる。

 その呼吸は荒かった。心臓は少しでも血を送るべく早鐘の様に脈打ち、酷使された魔術回路の影響で周辺の毛細血管が破れ全身を激痛が襲う。雁夜は必死に奥歯を噛み締め、激痛と、否、諦めようとする自分自身と闘っていた。

 

 毛細血管が切れ、耳鼻から血を流すその顔は既に幽鬼の如き形相である。

 度重なる大規模魔術の行使によって、既に雁夜の魔力は枯渇寸前になっていた。

 

“また、俺は負けるのか?

 

 ――だ。

 

 諦めてしまうのか?

 

 い―だ。

 

 あの化物爺に挑む時も、仕方ない、とでも言うつもりなのか?

 

 嫌だ!!

 

 嫌だ。嫌だ。いやだ。イヤダ――俺は、負ける訳にはいかない!!”

 

 続行するのはただの意地で、

 絶対に譲れない矜持だった。

 

“何より――情けない姿をこれ以上、葵さんに見せる訳にはいかないッ!!“

 

 雁夜は自らを奮い立たせ、魔蟲の奥、炎の下にいるであろう時臣を睨む。

 雁夜は決して葵に自らの形相が見えぬ様、一層目深にパーカーのフードを被った。

 魔蟲が盾となって、時臣からは見えていない筈だった。

 

「まだだ、時臣。行くぞッ!!」

 

 雁夜の言葉と共に魔蟲が織り成す暴風壁の中で、甲高い音が鳴った。

 次の瞬間、時臣の頭上から大量の緑の液体が降り注ぐ。その正体は直ぐに知れた。宙を舞うバラバラになった翅刃虫の甲殻が、それの正体を告げていた。

降り注いだ液体は、バラバラになった無数の翅刃虫から飛び散った強酸の体液である。

 

 咄嗟に時臣は展開していた魔術防壁を操り、降り注ぐ強酸の体液を受け止める。緑色の体液が魔術防壁に触れた瞬間、ジュウウ、と焦げる様な音がした。

 異臭が辺りに立ち込める。そして、

 

「馬鹿なッ!! 何故、燃え尽きない!?」

 

 時臣の表情が初めて歪んだ。

 魔術防壁に受け止められた緑色の体液は焼け焦げながら、ゆっくりと防壁を侵食し、下へ下へと向かっていく。一滴、雫が時臣の袖口へと落ち、白煙を上げてその服を溶かした。

 

「ぐ、ぐぅう、これは――」

「魔術で防壁が張れるのは、お前だけじゃあないんだぜ、時臣。終わりだ」

 

 強酸の体液を呪層防御で火より守る。ただ、それだけだ。防御に集中し、操る事も出来ず、ただ重力に従って魔蟲の体液は下へと落ちる。

 しかし、魔蟲の塵旋風の中で身を躱す事の出来ない時臣に、迫り来る強酸の体液から逃れる術は――

 

「ナ、メ、るなァ!!」

 

 咆哮と共に、時臣は杖を掲げ呪言を紡ぐ。

 迸った炎が一際巨大な火柱と成って天へと駆け上がり、夜気を焦がして紅蓮と燃える。呑み込まれた魔蟲の体液は一瞬で気化し、煌々と燃え盛る炎が夜空を赤く染め上げた。周囲を舞っていた魔蟲共が余りの熱に発火し、次々と地に落ちていく。

 時臣は勝利を確信し、

 

「勝ったぞ。私の――」

「いいや、終わりだ。種は撒き終えたと言った」

 

 その瞬間、足元から飛び出た細長い何かが時臣の身体に巻き付いた。

 蚯蚓である。

 否、その大部分が地中に隠れて判然としないが、直径二十センチを超え、十メートルを超える長さの蚯蚓など存在すまい。雁夜の魔術によって操られる魔蟲、穿網蟲(せんもうちゅう)である。

 地中を掘り進み、跳び出して獲物へと喰らい付くと、絞め殺して土中へ引きずり込む性質を持つ恐るべき魔蟲であった。生来、羆や水牛等を捕食する天性のハンターである。

 人間の時臣を挽肉に変えるのに数秒とかかるまい。

 雁夜は勝利を確信する。

 

 魔蟲の一斉攻撃で周囲に気を巡らせ集中を削ぎ、螺旋風魔で逃げ場を塞ぎ、強酸の体液で上方に意識を向けた所での、土中からの強襲。翅刃虫による一連の派手な大技は全て、この土中からの奇襲の為の布石であった。

 

「俺の勝――」

 

 後は、時臣が死ぬ前に、穿網蟲を止め――

 瞬間、爆炎が視界を覆い尽くした。

 突如、時臣と彼に巻き付いた穿網虫が炎上し、文字通り爆発したのである。

 穿網虫が断末魔の悲鳴を上げ、噴き上がった炎が周囲に飛び散る。

 

「時臣ッ!? おい、無事――」

 

 雁夜には何が起こったのか全く分からなかった。

 彼は咄嗟に叫んだ。

 その時である。

 

「全く、優雅じゃないにも程があるな」

 

 炎を裂いて現れた時臣が一直線に駆け、雁夜との距離を詰めた。

 間桐雁夜は全てを悟る。

 自爆であった。

 穿網虫に巻き付かれた瞬間、遠坂時臣は懐に隠し持った魔石を使い、自らが焼かれる事も厭わず焼き払ったのだ。それは正に、自爆である。

 

 この時、時臣もまたギリギリだった。

巻き付いた穿網虫を絞め殺される前に対処するには、自らが焼かれる事を厭う余裕は無かったのである。しかし、時臣はこれを分の悪い賭けだとは思わなかった。

彼には確信があった。

 身体強化に魔術防壁、気流操作で可能な限り身を守り、巻き付いた穿網虫自身を盾とする。ならば、我が属性たる火で自分が死ぬ筈がない、という確信が。

 

 そして、賭けに時臣は勝った。

 雁夜は一瞬で接近する時臣を見とめると、咄嗟に腕を交差させて顔を守った。否、それは防御等では無い。もっと悍ましき間桐の術だ。

 瞬間、雁夜の肘から皮膚を貫き、蟷螂の鎌にも似た節足が突き出て、接近する時臣の顔へと奔った。しかし、

 

「――遅い」

 

 交差の刹那、時臣は魔蟲の鎌を掴み取り、その攻撃を終えていた。

 振り下ろした踵が石畳を砕き、掴み取った鎌を引いて相手を引き寄せつつ、全体重を肘へと乗せる。相手を引き寄せる事で、カウンターの流れを作りつつ、前進のエネルギーと全身の捩じり、瞬間的な重心落下に伴う全体重を込めた肘が雁夜の腹を打ち抜いた。

 

「ッ!! く、糞――」

 

 雁夜の身体がくの字に折れる。腹に叩き込まれた肘打ちの衝撃に雁夜の足が浮き上がり、そして、前のめりに倒れた。

 

「八大開式・裡門頂肘(りもんちょうちゅう)。雁夜、これで君の、十六度目の敗北だ」

 

 時臣は深く息を吐くと、汗を拭って静かにそう告げた。

 遠坂家初代当主、遠坂永人。その性は魔術師に非ず。

 無我の境地により根源へ至る事を夢見た武人である。

 そして、その血と技は今猶、遠坂家に脈々と受け継がれているのだった。

 

 

  †††

 

 

「痛てて、くそ、痛ぇ。ちょっとは手加減しろよな、糞」

 

 雁夜は頂肘を喰らった腹を押さえて言った。

 時臣の一撃は肋骨を圧し折って、内臓まで負傷させていた。魔術で再生したとは言え、痛覚が無い訳ではない。痛い物は痛いのだ。

 

「悪いがそこまで余裕が無くてね。おっと、雁夜、こちらの治療も頼む。火傷の痕など残っては事だ」

「自分でしろよ、自分で作った傷の治癒ぐらい」

「治癒魔術は君の方が腕が良いだろう? それだけは認めてやっているんだ。感謝して欲しいくらいだよ」

「ンだとォ?」

「ほらほら、そんな言い方しないの。ほら、雁夜君も。もう勝負は終わったんだから、お互い仲良くして」

 

 禅城葵が二人の間に割って入る。

 呆れている様な、でも優しい笑み。

 時臣と雁夜、二人が無事だった事に安堵しているのだろう事が伝わってくる笑みだ。

 葵にそういう顔をされると、いつも二人はそれ以上何も言えなくなるのだった。

 

 遠坂と間桐、二つの家を継ぐ次代の魔術師同士の競い合い、既に十六回目を迎え恒例となった雁夜と時臣の術比べは、いつもこうして幕を閉じる。この術比べの始まりは、葵と親しげに話す時臣に、嫉妬した雁夜が喧嘩を吹っ掛けた数年前に遡る。

 雁夜と時臣が真剣勝負を行い、葵の仲裁を以て終わる。いつもその様な流れだった。

 ただ、この日に限っては、雁夜は葵の笑顔を真っ直ぐに見る事が出来なかった。

 勝負の結末を受け入れる事が出来なかった。

 

“折角、告白しようと思ってたのにな……”

 

 雁夜は自分の鞄を見る。

 そこにはこの日の為にお金を貯めて買ったイヤリングが入っていた。

 

「葵さん、雁夜。知っていると思うが、私は高校卒業と同時にイギリスに行く」

 

 急に真剣な口調で時臣が言った。

 

「何だよ、あらたまって」

「雁夜、待っているぞ。君も時計塔に来い。君の才能は、この街で燻らせておくべきじゃない。そして――」

 

 何か、嫌な予感がした。

 しかし、言葉は出なかった。

 

「私はまだまだ未熟だし、至らない所もあるだろう。まだ、恋愛事に現を抜かしている訳にはいかないと思っている。だが、きっと一人前の魔術師となってこの街へと戻ってくる。葵さん、どうか待っていてはくれないだろうか?」

 

 時臣の言葉を理解するのに、雁夜は少し時間を要した。

 そして、冗談だろうと思った。

 冗談であって欲しかった。

 

 しかし、真剣な顔で時臣は葵さんを見つめていて、その言葉はどこまでも真面目な告白だった。

 そして、

 

「ッ、はい、待っています。貴方が帰ってくるまで、きっと待っています」

 

 そう言って嬉しそうにはにかむ禅城葵の顔を見た瞬間、

 間桐雁夜は停止した。

 全てを頭脳は悟っていたが、あまりの事態に、心は理解を拒否していた。

 雁夜はただただ茫然として、ただ事の成り行きを見ている事しか出来なかった。

 だから、それからの事は良く覚えていない。

 

 

 今でも思う事がある。

 あの時、もし勝っていたら、何か変わったのだろうか?

 

 

 それから、時臣は、奪われた聖杯を必ず取り戻す、などと気炎を吐いていたが、雁夜にはどこか遠い惑星の事の様に感じられた。

 全ての言葉が雁夜の表層を滑って通過していた。

 さっきまで全てが輝いていた筈なのに、急に世界から全ての色が無くなってモノクロになった様だった。

 

「大丈夫? 雁夜君。調子が悪そうだけど。まだ痛むの?」

 

 葵さんが心配そうに顔を覗き込む。

 

「あ、ああ、大丈夫、さ。心配いらない」

 

 それだけ何とか雁夜は答えると、一層深くパーカーのフードを被った。

 

 

 

 間桐雁夜が誰にも告げず家を出たのは、その二日後の事である。

 

 








プロローグ終了。


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第一章 英霊召喚
敗北者の帰還


  †††

 

 間桐雁夜の出奔から十年の月日が流れた。

 

 雁夜はただの一度も冬木の街には帰らなかったから、再開は十年振りという事になる。しかし、それでも雁夜には目当ての女性の面影が、直ぐに見分けがついた。

 

 休日の昼下がりの公園。

 小春日和の陽光が燦々と降り注ぐ芝生には、そこかしこではしゃぎ回る子供達と、それを見守る親達の笑顔で溢れている。その笑顔が不意に曇った。

 

 そんな場所に、彼は全く似合わなかった。

 青のパーカーに、ジーパン。肩に細長い筒状の袋を担いでいる。

 目深に被ったパーカーの奥に、ギラついた瞳が時折見える。

 

 太い、男だった。

 

 首が、肩が、腕が、足が、太い。

 発達した岩の様な筋肉がパーカーの上からでも見て取れた。張ったジーパンが脚の太さを物語っていた。袖口から覗く手には幾重にも束ねられた針金の如き筋肉の筋が浮かんでいる。耳は潰れ、節々に見える傷跡、そして、硬質化した石の様な手の甲はその修練の過酷さを垣間見せた。

 

 纏う空気まで、太い男である。

 その全身から立ち昇る濃厚な武の気配は決してハッタリでは無かった。

 そして、間違いなく、堅気の人間では無い。

 

 雁夜は迷う事無く、目的の女性の元へと向かった。

 たとえ十年振りだろうと、どんな人混みであろうと、彼は苦も無くただ一人の女性を見分ける自信があった。そして、一目見るだけで、自信は確信へと変わった。

 木陰で涼む彼女のすぐ脇まで彼が歩み寄ったところで、ようやく雁夜は被っていたフードを上げて、背後に自らの娘を庇う禅城、否、遠坂葵へと顔を見せた。

 

「――やぁ、久しぶり、葵さん」

「きゃ――え――も、もしかして、雁夜、君なの?」

 

 驚愕の表情を浮かべる葵に、雁夜は屈託の無い笑みを浮かべた。ざんばら髪が風に揺れる。良く訓練された猟犬の様な笑みだった。

 

「ああ、どうかした?」

「え、ええ……。その――随分、変わったのね?」

「ん、ああ、そうだね。十年振りだから、無理も無いか」

 

 十年振りに会った友人が夢枕獏世界の住人と成っていた驚愕を隠せぬ葵とは対照的に、雁夜は表情にこそ出さなかった物の、その心中は歓喜に沸き立っていた。

 ジロジロと眺める様な不躾な真似は気恥ずかしさから雁夜には出来なかったが、彼は満足だった。十年振りに見た葵は、雁夜の贔屓目を抜きにしても綺麗になっていた。

 

 ただ、その表情には陰があった。

 餓狼伝の住人に怖がっている事とは全く別の、陰が。

 それを見逃す雁夜では無かった。

 やるせない不安に雁夜は囚われる。どうやら今の彼女には、何か心痛の種があるらしい。

 

 すぐにも原因を問い質し、どんな事だろうと力を尽くして、その“何か”を解決してやりたい――衝動に駆られるままに雁夜は問う。

 

“今の俺には、彼女を守る力がある”

 

 地獄の日々を越えて得た確固とした自負と自信。

 何より、今の雁夜にはそう断言出来るだけの力があった。

 

「なぁ、葵さん。何か――あったのかい?」

 

 雁夜の問いに、葵はビクリと身体を震わせる。

 

「そ、その――「おじさん、誰!?」」

 

 葵の言葉を、背後から顔を出した少女が遮った。興味津々と瞳を輝かせ、少女は雁夜の顔をまじまじと見つめる。子供特有の屈託の無い笑みを見て、雁夜も自然と笑顔になった。どこか葵さんに似ていると雁夜は思った。

 

「ああ、凛。この人は雁夜君って言って、私の古いお友達なの」

「そうなんだ。私、凛って言うの。よろしくね」

 

 お辞儀をした凛の二房のツインテールがぴょこんと跳ねる。

 

「ああ、よろしく。ちゃんと挨拶出来るなんて凛ちゃんは偉いなぁ。あ、ちょうど良いお土産があるんだ。あげるよ」

 

 雁夜は笑顔で応じながら、懐から石を取り出す。水晶の原石に首からかけられる様に糸を通した物だった。

 

「富士の霊穴で取れた水晶だよ。幸せを呼ぶ石なんだ」

「わぁ、ありがとう」

 

 凛の顔がぱっと笑顔になった。窘める葵の声もどこ吹く風とばかりに、嬉しそうにはしゃぐ幼い少女にはまるで届いていない。

 

「こら、凛。雁夜君、悪いわ、こんな高価な物」

「ただの手土産だよ。それより、凛ちゃんって親戚の子かい? その、随分似て――」

「ありがとう、雁夜おじさん。大事にするね。どお、お母さん。ちゃんとお礼出来たよ。しゅくじょ、でしょ?」

「もう。ええ、そうね。凛はえらいわ。ごめんね、雁夜君」

 

 申し訳なさそうに言う葵の言葉は、既に雁夜には届いていなかった。

 

“お、お母さん?! ま、待て!! 落ち着け、落ち着いて――”

 

 雁夜は葵の手元へと視線を落とす。その薬指には指輪があった。

 雁夜は恐る恐る顔を上げる。

 

「あ、まだ言ってなかったわよね。私、結婚したの。遠坂、葵になったのよ」

 

 満面の笑みで葵はそう言った。

 そして、それを聞いた途端、

 

 雁夜の笑顔が空洞になった。

 

 男が理解の及ばない現実を頑なに受け入れれまいとする時ならではの、思考停止の表情。

 雁夜はそれでも何か言おうとしたが、笑みを浮かべる葵の顔を見ると、相変わらず彼は何も言う事が出来なかった。

 

 

 

 

 

 雁夜が表面上、平静を取り戻すまで二十分ばかりかかった。

 好奇心旺盛な凛から質問攻めにあったのが幸いしたのだろう。でなければ、数日はダンゴ虫の様に身を埋めて転がっていたに違いない。雁夜は自動販売機で自分と葵にコーヒーを、凛にココアを買って渡し、会話を再開する。

 

 葵が表情を曇らせている理由は二つあった。

 一つは時臣に令呪が宿り、生死を賭けた聖杯戦争への参加が決まった事。もう一つは、葵の愛娘の片割れ、凛の妹である桜が間桐の家の養子となった事である。

 

「そんな……どういうことなんだ、葵さん!?」

「聞くまでも無い事じゃない? 特に雁夜君、あなたなら」

 

 遠坂葵は、硬く冷ややかな口調で感情を押し殺し、あくまで雁夜の方を見ないまま淡々と語った。

 

 確かに、雁夜には良く分かる。

 外来である間桐の血は冬木の土地には合わなかった。代を重ねる毎に、血は摩耗し、素養のある子供は生まれ難くなっている。間桐としては遠坂と禅城という優秀な外の魔導の血を是が非でも組み込みたいのだろう。

 そして、雁夜は時臣の決断も察してしまっていた。

 

 凛と桜は双子だという。

 見る限り、凛と同程度の才能を、もし桜が秘めているのならば、全く魔術と関らせない訳にはいかないだろう。優秀過ぎる魔導の血は、決して平穏を許すまい。

 命を賭して聖杯戦争に参加する時臣が、自らに万が一の事があった時の為に、娘を間桐の家に養子に出すという事は十分考えられた。

 

 恐らく、奴としても苦渋の決断だったに違いない。

 雁夜は自身に溜まった鬱憤を含めて時臣の愚挙を悪し様に罵りたかったが、同時に、その心中を察してしまい何も言えなかった。

 

“それでも、何故、間桐の家を選んだんだ、時臣――”

 

 そう雁夜が神妙な顔で考えていた時、葵が言った。

 

「間桐の家が魔術師の血筋を継ぐ子供を欲しがる理由、あなたに分からないとは言わせないわ。あなたがいなくなったから、間桐には後継者がいなくなったんじゃない!!」

 

 どうやら自分のせいらしかった。

 

 いきなり矛先が自分に向いた事で、雁夜は戸惑う。

 狼狽(ろうばい)する雁夜に対して、まだ葵は言葉を続けようとしたが、娘の凛がそれを止めた。

 

「お母様、ダメ。それ以上は、ダメ」

 

 凛はきっと唇を結んで、涙を堪えている。

 強い子だ、と雁夜は思った。

 この幼い少女は、きっと理解しているのだろう。

 全てを知っている訳ではきっと無い。

 それでも、どうしようも無い事なのだと、きっと理解してしまっているのだろう。

 

 物分りの悪い俺とは全く対照的だ、と雁夜は思う。

 

 雁夜が葵と出会ったのは、当主である間桐臓硯が間桐に優秀な血を入れるべく互いを引き合わせた為である。しかし、雁夜は陰惨醜悪な間桐の魔道に彼女を関らせたくは無かった。

 

 きっと身を引くべきだったのだ、と思う。

 しかし、雁夜は強くなる事を決意した。

 運命を振り払う覚悟を、彼は十に満たぬ年齢で蟲蔵へと入った夜に、既に決していた。

 

“そうだ――俺は、物分りが悪いんだ”

 

「――ありがとう、凛。ごめんなさい、雁夜君。これはあの人が決めた事だもの。あなたに何か言うのは――」

 

 葵は幾分落ち着いた声で、力なく笑った。

 その時に、葵の目尻に溜まった涙を見た瞬間に、雁夜は心を決めた。

 

「待った。それで良いのか?」

「良いも悪いも無いわ。あの人が決めた事よ――」

 

 パシッと乾いた音が鳴った。

 葵は何が起きたのか分からず、頬を押さえ目を白黒とさせる。

 雁夜の平手が葵の頬を打っていた。

 

「お母様だいじょうぶ!? ッ、何するのよッ!!」

 

 凛が怒りを露わに、手に持ったココアの缶を雁夜へと投げ付けた。雁夜は避けなかった。缶が額を打ち、中身の熱いココアが顔にかかる。

 

「ごめんね、凛ちゃん」

 

 雁夜は凛へと謝ると、葵に向き直る。

 

「今のは、昔の親友からの一発。葵さん間違えちゃあいけない。君の子供は、君が幸せにするべきだ。その為なら、手伝うよ。どうやら――」

 

 それから、雁夜は地面に転がったココアの缶を手に取った。

 

「殴ってその辺を分からせないといけない奴が、いるみたいだしね」

 

 缶を掴んだ雁夜の手には浮かぶ朱い三画の紋様が浮かんでいた。そして、そこに青筋が浮かび上がる。

 ぐしゃり、とスチール缶が潰れ、雁夜の手の中に隠れて完全に見えなくなった。雁夜は手を開くとビー玉サイズに圧縮されたソレをゴミ箱へと投げ入れる。

 

「これが遠坂と間桐の問題なら。当然、俺も当事者だ。どうしても桜ちゃんに師が必要なら、俺が成るさ」

「か、雁夜くん、私――」

「まぁ、任しときなって」

 

 何か言おうとした葵の言葉を、雁夜は笑顔で遮る。

 それは遥か昔、約束を交わした時の笑顔だった。

 

“ねぇ、葵さん、俺は強くなったんだ。

 貴方を守れるくらいに。

 だから、泣き止んでおくれよ。

 貴方の大切な人は、きっと俺が守るから”

 

「ねぇ、おじさんも魔術師なの?」

 

 凛が雁夜を見上げながら問うた。雁夜は微笑み、親指を自分に向ける。

 

「ああ、若い頃は、時臣とは良く競い合う仲だったんだ」

「じゃあ、お父様のライバルだったんだ!?」

「と、言っても負け越しだったんだけどね」

「なんだ、流石はお父様ね」

 

 子供らしいと言うべきか、父を誇って無い胸を張る凛。一方で、時臣のライバル、というポジションはどうやら凛にとっては信用するに足るらしい。

 今なら勝てる、という台詞を雁夜はそっと胸に仕舞い込んだ。

 

「じゃあ、先ず、桜ちゃんを連れて来ないとな」

「おじさん、桜のこと、よろしくお願いします」

 

 雁夜に必死に頭を下げる凛の表情は真剣だった。雁夜はその頭を撫でて、任せろ、とだけ言うと、公園を後にする。先ずは間桐邸だ。

 そこで間桐の家を支配する老魔術師、間桐臓硯と一戦交えねばなるまい。

 

 ずっと恐れてきた相手だった。

 臓硯と対するならば、恐らくは命懸けとなるだろう。

 しかし、今の雁夜に恐怖は無かった。

 

「おじさん、女泣かせだな」

 

 公園を出る時、ボールを持った赤毛の少年にそう言われた。

 

「マセた事言うなぁ。ま、良いじゃないか。正義の味方ってのは大体女泣かせなんだ」

 

 そう言って雁夜は苦笑した。その目だけは笑っていなかった。

 

 






次は臓硯とのお話(物理)からの魔術(物理)戦になります。

話は変わりますが、やっとゼロのDVD買いました。
ええ、金が無かったので北米版です。


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懐かしの我が家

  †††

 

 

 聖杯戦争。

 およそ二百年前、アインツベルン、マキリ、遠坂、後に始まりの御三家と呼ばれる魔術師達は互いの秘術を持合い、万能の願望器『聖杯』を召還する事に成功する。が、それは血で血を洗う闘争への幕開けに過ぎなかった。

 

 聖杯は土地の魔力を吸って一定周期で降誕する。聖杯はその意思によって七人の魔術師を選定し、彼等にその膨大な魔力の一部を与えて『サーヴァント』と呼ばれる英霊召還を可能とさせる。聖杯を得るに相応しい一人を、死闘をもって決させるために。

 

 七人の魔術師に七騎の英霊。超常の存在を率いた殺し合いの儀式。

 それを聖杯戦争と呼ぶ。

 

 否、呼んでいた、と言うのが正しいか。

 

 第二次世界大戦の開戦前夜、日本の冬木において執り行われた三度目の聖杯戦争は、その儀式途中に願望器たる小聖杯が砕け散るというアクシデントの発生によって、有耶無耶(うやむや)の内に終結した。

 

 問題は、その際のどさくさに紛れ、円蔵山の洞窟に秘匿されていた儀式の核たる大聖杯が何者かによって奪われてしまった事である。

 

 御三家が総力を結集して構築した大聖杯はこの時を以て行方不明となる。

 大聖杯は消え、戦争は終わり、そして、月日は流れた。

 

 しかし、魔術師達の夢は、妄執は消え去ってはいなかった。

 

 

  †††

 

 

「もう二度とその面を見る事は叶わぬ、と諦めておったのじゃがな。家を捨てた愚か者が、今更何の用じゃ、雁夜?」

 

 針。

 言葉一つ、視線一つに込められた殺気が、まるで針の様である。

 この時、間桐邸の応接室は溢れんばかりの殺気で満ち満ちていた。

 

 渦巻き、肌を刺す殺気は、極低温の風雪の如く、体温を奪う。

 憎々しげに言い捨てる間桐家現当主、間桐臓硯の言葉には険があった。少なくとも、十年振りに帰省した愛息子との再会を喜ぶ風には到底見えない。

 

 小柄の老人である。

 禿頭もその四肢も、まるでミイラの様に萎びていて一切の力を感じさせない一方、その落ち込んだ眼下の奥には爛々と生気を湛えた光がある。言葉もそうだ。ミイラの如き肉体の内に、恐るべき力を秘めている事が窺える。

 

 容姿、風体、そして、その力。いずれも尋常ならざる怪人である。

 語るも悍ましい手段によって延命を重ね、長きに渡って間桐家を支配してきた不死の老魔術師、間桐臓硯。現代に生き残った正真正銘の妖怪。

 

 そして、雁夜に魔術を叩き込んだ師にして、敵。

 

 雁夜の人生において、否、間桐の家に生まれた全ての者にとって、自由とは、平穏とは、この男を殺す事を以て初めて手に入れられる物では無かったか。

 

 しかし、対する雁夜に気負った所は無かった。

 彼は既に戦う覚悟を決めて、この場所に赴いている。

 

 およそ十分前、玄関先で繰り広げられたささやかながらも剣呑な押し問答の末、雁夜は応対に出た兄の鶴野を平和的に殴って昏倒(こんとう)させると、勝手に我が家へと上がり込んだ。結局、兄の鶴野は意識を失うまで、目の前の相手が十年振りに帰省した弟だとは気付かなかった。

 

 雁夜としては臓硯に気付かれる前に、桜を確保しておきたかった。故に、彼は失神した鶴野に蟲を呑ませて桜の居場所に関する情報を聞き出すと共に、その身体を操って臓硯の注意を引き、その間に裏手の窓から邸内に侵入しようと目論んでいたのだが、仮にもここは臓硯の(ねぐら)であり、工房、魔術的要塞である。

 

 鶴野を殴り倒した所で、臓硯に発見されてしまった。

 久しぶりの再会はそんな流れのせいか、応接室に通された後も、雁夜と臓硯、机を挟んで相対する二人の間に流れる空気は最悪であった。

 

 応接室のソファに深く腰を掛け、出された茶を啜ると、気を取り直して雁夜は言った。

 

「どうも聞き捨てならない噂を聞いた。間桐の家がとんでもなく恥さらしな真似をしている、ってな」

 

 挑戦的な口調だった。否――

 

「遠坂の次女を迎え入れたそうだな。何処にいる?」

 

 殺気を隠そうともせずに、雁夜は言った。

 雁夜の気当てを真っ向から受け、臓硯はニヤリと口元を歪める。

 

「ホウ、ホウ、ホウ。鍛錬は怠っていなかったと見える。クク、雁夜。貴様は本当に優秀な息子じゃな。貴様が消え、残った貴様の兄の鶴野は凡庸。衰退は(まぬが)れぬ。間桐の純血は途絶え、零落、ここの極まれり、と思っておったのじゃが、分からぬ物よなぁ」

耄碌(もうろく)したのか? 俺は桜ちゃんの場所を聞いているんだぜ?」

「フン、耄碌、か。それは貴様の方であろうよ、雁夜。貴様、何を勘違いしてワシに対し、五分の口を利いておる」

 

 臓硯は飽く迄、余裕を崩さない。しかし、カラカラと上機嫌で嗤うその眼に、邪悪な光が宿ったのを雁夜は見逃さなかった。

 

迂闊(うかつ)よのぅ、雁夜。帰れば、死ぬ、とは思わなんだか?」

 

 底冷えする声と共に、雁夜へと影が落ちた。

 雁夜が咄嗟に天井を見上げたのと、それが落下したのは同時だった。

 

 蛭だ。天井を這っていた握り拳程の太さもある丸々と太った無数の蛭が、一斉に雁夜へと跳び掛かったのである。魔蟲は雁夜へとへばり付くと、次々とその牙を突き立てる。ぐらり、と世界が揺れた。魔蟲の毒牙が一瞬で雁夜の意識を奪いに掛かり、同時に――

 

「また、要らぬ考えを起こさぬ内に、蟲漬けにして洗脳し、我が傀儡としてくれるわ。クク、雁夜と桜、まだじゃ。まだ終わらぬ。じき、六十年の周期が巡り来る。今こそ、我らが悲願、聖杯の奪還を――」

 

 キン、と(つば)鳴りの音がした。

 断末魔の声は聞こえない。

 雁夜へと跳び掛かった魔蟲の群れは、獲物から剥がれ、次々と床へと落ちた。

 臓硯の声が途切れ、

 

「――遅い」

 

 ごろり、とその首が落ちて、床の上を転がった。

 一拍の間を置いて、臓硯の首から、床へと落ちた蟲々から鮮血が噴水の様に噴出した。

 同時に繰手の絶命によって、魔蟲の呪毒が抜けていく。

 立ち尽くす臓硯の首無し死体を前に、鮮血に塗れながら雁夜は言った。

 

「魔蟲による洗脳、催眠を行えるのは、俺も同じ。蟲噛の剣。俺に意識が無くとも、体内に寄生させた魔蟲は別だ。奴らの自己防衛本能に起因して反射行動が起こり、自動的に敵を斬る。アンタも知らない、俺の編み出した間桐の技だ」

 

 雁夜の手には一振りの太刀が握られていた。

 帰省した際に、長袋に入れていた代物である。

 雁夜はこれを自らの編み出した間桐の技と言ったが、正確には異なる。

 

 彼が十年の修練の折、暫し身を寄せていた鞍馬流(くらまりゅう)の一派から、免許皆伝の印可を受ける際に伝授された無空と呼ばれる技が、この剣の骨子と成っている。

 無空とは外界の刺激に対して自動的に繰り出される反射の剣。それは修練の果て、剣撃の際に生じる余分な思考を削ぎ落とし、遂には思考を介さず敵を斬るという業である。無の剣、空の剣。故に無空。

 

 雁夜はこれに蟲を介在させる事で、その精度を高めているに過ぎない。彼に無空を教えた師は、死角から迫る無数の矢を一瞥もせず斬り落とす事が可能であった。

 雁夜が手にしている太刀も、出立の際に師より餞別として頂いた代物である。

 

「思考を介さぬ剣を前に、洗脳など意味が無い。間桐の蟲の術は俺には通じんぞ、臓硯」

 

 雁夜は床に落ちた臓硯の首に向かって言った。

 

“当初の予定とは異なるが、此処までは想定の範囲内。

 さて、鬼が出るか、蛇が出るか――”

 

 雁夜の不安は的中する。

 不意に床に転がっていた臓硯の生首が、バラ、と解け、無数の魔蟲へと変貌した。それだけでは無い。床に流れ出た血から次々と魔蟲が湧き上がって来るではないか。蛭に似たそれは身をくねらせて地を這い、臓硯の身体へと寄り集まっていく。

 

 僅か十数秒、再び結集した魔蟲の群れが人型を形成し、ずる、と何かが這う音と共に、臓硯の身体を真っ暗な(もや)が包んだかと見えると、果たして、そこには何事も無かったかの様に無傷の間桐臓硯が立っているのであった。

 

「カカ、凄まじい技の冴えじゃの、雁夜。このワシが、一瞬、死んだ事に気付かなんだぞ」

 

 臓硯が(おぞ)ましい笑みを見せた。

 異常なる再生能力。

 この老魔術師が不死と呼ばれる所以である。

 

 無論、何かしらの種が在る事は間違いなかろうが、それを易々と看破、打破させる程、間桐臓硯という魔術師は甘くない。さしもの雁夜も、こればかりはお手上げであった。

 

“死んでも生き返ると言うのなら、死ぬまで殺すのみ。

 そう言いたい所だが、この怪物を相手に体力勝負を挑むのは愚かだな”

 

 雁夜は正攻法での打破を諦め、交渉へと移る事にした。

 臓硯の態度、行動含め、ここまで事態の推移は大方、雁夜の予想通りだった。交渉とは、対等の相手にのみ、もっと言えば人間相手にのみ成立する物である。こちらを自らの操る魔蟲か、壊れても良い玩具程度にしか思わぬ怪物相手には成立する道理が無い。

 

 臓硯を交渉の土台に上げる為には、ある程度こちらの実力を晒し、洗脳が効かない事を示す必要があった。

 交渉の道具となるのは自分自身とこの手に宿った令呪。奪い取るのは、少女一人。勿論、雁夜は切り札である令呪については手袋で隠している。

 雁夜はどかりとソファに座ると、臓硯へと問うた。

 

「聖杯の奪還、と言ったな。やはり、アンタの目的は聖杯か?」

「当然じゃろう。アレは我等が悲願。貴様とて、それを知らぬ訳ではあるまい」

「アンタ、の悲願だろう? 間桐の純血が途絶える? 一族の零落? 笑わせるなよ、吸血鬼。新しい代の間桐が産まれなくても、アンタには何の不都合もあるまい。百年なり、千年なり、アンタが生き続ければ済む話だろうが」

 

 雁夜は鼻を鳴らして言った。

 雁夜の口にした千年という言葉は決して大仰では無い。

 雁夜とて、実際の所、臓硯の正確な年齢は把握していない。ふざけた事に戸籍上の登録では彼が雁夜達兄弟の父親という事になっている。だが、更に間桐の家系図を遡ろうとすると、そこかしこに臓硯という名が出てくるのである。この老魔術師がいったい何代に渡って間桐家に君臨してきたかは知る由も無い。

 

 しかし、解っている事がある。

 間桐とは、すなわち、この老魔術師の事で、間桐に連なる他の者は、所詮、その手駒に過ぎないという事だ。否、生きる為には、そうならざるを得ない。

 

 間桐の家にとって、臓硯は絶対の支配者だった。

 幼き雁夜が強さを求めた理由がそこにある。

 雁夜の瞳に映った感情を読み取ったのか、臓硯はニヤリと口元を歪めた。

 獲物を(なぶ)るケモノの表情。怪物の笑みだった。

 

「確かに、貴様や桜より、なおワシは後々まで生き永らえる事じゃろう。じゃがな、それもこの日毎に腐り落ちる身体をどう保つのかが問題よ。間桐の跡継ぎは不要でも、間桐の魔術師は絶対必要――この手に、聖杯を勝ち取る為には、な」

 

 執念。

 妄執と言っても良い。

 臓硯の追い求める不老不死。他者の血肉を喰らい、腐り落ちる身体を何とか繋ぎ止める今の様な不完全な物ではない、完全なる不老不死。それを叶える『聖杯』という願望器。

 

 数世紀を経て猶静まらぬ、否、猶巨大に、そして歪に燃え上る不死への妄執が、それを可能とする奇跡の存在が、この街で行方不明となった夥しい屍の山が、この怪物を支えているのである。

 

“その為に、どれだけの物を犠牲にしてきた?

 その生に、どれだけの人を犠牲にするつもりだ?”

 

 その事を考えると雁夜の鞘を握る手に自然と力が篭った。

 名も知らぬ、顔も知れぬ彼等に自分を重ねる。

 まるで炉にくべられる木々の様に、屠殺(とさつ)される家畜の様に、この化け物に生き血を啜られ、この妖怪の足元に埋められているのは自分だった。

 

 そして、また一人、そこに加えられようとしている。

 それは、許される事では、無い。

 

「何者かに聖杯が奪われて、じき六十年。未だ聖杯の在り処は判らぬが、その煩悶に満ちた日々もようやく終わりを告げる。聖杯が何処に在ろうとも、令呪は再び我等御三家に宿るであろう」

「何故、そう言い切れる? 大戦の折に聖杯は奪われ行方不明なんだろう? 何かしら、操作や改竄を受けている可能性はあるんじゃあ無いのか? 俺が聖杯を奪った人間だとしたら、徒党を組んで聖杯の奪還に回りかねない御三家の人間は確実に弾く。準備期間は十分ある訳だしな」

 

 雁夜は問う。

 勿論、雁夜の手には令呪が宿っているのだから、彼は御三家への令呪の優先付与が今猶失われていない事は把握している。だが、臓硯がそれを確信している理由が分からない。

 

 そう、臓硯は確信している。

 次なる聖杯戦争と、その参加を。

 それこそが遠坂の次女を引き取り、雁夜を洗脳しようとした動機であり、間桐の血脈に拘る理由に違いない。要するに聖杯戦争に参加させる手駒が欲しいのだ。

 

 英霊との契約、令呪関連については間桐の秘術が使われている。恐らく臓硯以上に詳しい人間はこの世に存在するまい。何かしら確信するに足る情報を持っているのだろう。

 

“聖杯戦争が続き、間桐の血脈が続く限り参加出来ると確信しているならば、臓硯は俺が帰ったというだけでは桜ちゃんを決して解放すまい。

 用心深いこの男は、次回への保険として手元に置きたがるだろう。

 さて、どうするか――”

 

 雁夜の思惑を余所に、臓硯は笑みを浮かべて続けた。

 

「クク、それこそ不可能と云う物じゃ。聖杯は、ユスティーツァは、決して我等を運命から逃がしはすまいよ」

「つまり、確実に間桐に令呪は宿る、いや、確実に俺に令呪は宿る訳だ。それなら、俺が帰還した以上、遠坂桜は用済みだろう?」

「だから、解放しろ、と? 馬鹿を抜かすな。貴様が勝ち残れる保証が何処にある。あの小娘は更にその次の為の重要な素材。次なる間桐の術者を産み落とす大切な胎盤よ。クク、雁夜、貴様が戻ったのは本当に運が良い。貴様との子であれば、一層期待が持てると云う物よ。少なくとも、鶴野の子の様に魔術回路すら宿らぬという事はあるまい」

 

 臓硯の回答は凡そ雁夜の予想通りの物だった。

 ただ一点を除いて。

 臓硯はさも愉快そうに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべ、

 

「クク、とは言え、貴様が聖杯を持ち帰る事が出来たなら、その時こそ本当に娘は用済み。解放してやらんでも無い。なんじゃ、雁夜――」

 

 雁夜も笑った。

 

耄碌(もうろく)したな、臓硯。

 以前のアンタなら、絶対に言わなかっただろうぜ”

 

「そりゃあ、良い。どの道、俺も聖杯戦争には参加するつもりだし、当然、勝つつもりだ。それで桜ちゃんが解放されるならそれで良いさ。ただし、条件として、桜ちゃんはその間、遠坂家で過ごし、彼女の修業は俺が行う。アンタには指一本触れさせない。当然、蟲蔵も無しだ」

 

 雁夜の言葉に、急激に室内の温度が下がる。

 臓硯の放つ殺気が膨れ上がっていた。

 

「通る、と思っているのか?」

 

 雁夜は笑って答える。

 

「ああ、通る。逼迫(ひっぱく)しているのはアンタの方だからな。ここで俺と揉めて、万が一俺と桜ちゃんを失えば間桐の血は絶える。未来永劫令呪が宿る事は無い。アンタが言ったんだぜ?

 兄貴の子供には魔術回路が宿らなかった、ってな。蟲に魔術回路を代替させるアンタの刻印蟲も、元がゼロじゃあ意味が無い。

 それともアンタが参戦するかい? 死ぬリスクを背負って」

 

 桜に間桐の魔術を叩き込むなら当然早い方が良い。可能な限り若い内、少なくとも第二次成長期を逃せば属性を定着させる事は難しくなる為である。

 しかし、雁夜はそれでも臓硯が要求を呑むに違いないと思っていた。

 

“臓硯はリスクを冒さない。

 ここで俺と小競り合いをしても益が無い事が解っているからだ。

 俺が聖杯戦争を勝ち抜けば問題は無いし、仮に負けて死んでも、遠坂との盟約に拠って合法的に桜ちゃんを引き取れる。

 臓硯としては消耗を承知で、俺と殺り合う理由が無い”

 

 その雁夜の予想を嘲るかの様に、臓硯はにやりと笑った。

 

「クク、顔色一つ変えぬか。よかろう、と云いたい所じゃが、少々遅かったのう。遠坂の娘が当家に来て何日目になるか、おぬし、知っておるのか?」

「な――、まさか――嘘だろう? だって、俺の時は――」

 

 臓硯の言葉の意味する所に、雁夜は言葉を失い戦慄する。

 自責と殺意、そして、絶望がゆっくりと彼の胸を満たしていく。

 その雁夜の表情に満足したのか、臓硯はにんまりと悍ましい笑みを浮かべた。

 

「カカ、間桐の血肉を持つおぬしと同じ様にはいかぬからのぅ。先ず、間桐の魔術に身体を馴染ませる必要があろう? とは言え、アレについては、おぬしも身を以て知っておるか。カカ、初めの三日はそりゃあもう散々な泣き喚きようだったがの、四日目からは声も出さなくなったわ。今日などは明け方から蟲蔵に――」

「黙れ。それ以上しゃべるな」

 

 鍔鳴りと共に剣閃が瞬き、一瞬で臓硯を十二の肉塊に変えた。

 雁夜は斬り殺した蟲蔵には目もくれず、蟲蔵へと走る。

 

“糞!! 俺は馬鹿だ!! 甘かった!!”

 

 盟約相手は同じ御三家の遠坂。

 早々無茶はしないだろうと高を括った自分に腹が立つ。

 勝手知ったる我が家である。十年振りとは云え、蟲蔵の場所は覚えていた。

 

 雁夜が廊下に消えて数秒後、ずるり、と蟲の這いずる音と共に、臓硯の声が応接室で木霊(こだま)する。

 

「カカッ、激昂(げっこう)しおって。その様では桜を人質に取られれば何も出来ぬと公言しておるに等しかろうに。まだまだ青いのう。カカッ、カカカカカカカ!!」

 

 高らかな、邪悪な嘲笑が続いた。

 




<次回予告>

雁夜おじさんは桜を救う事が出来るのか!?
成長したおじさんの能力とは!?

次回、怪物二人。

臓硯死すべし、慈悲は無い。

多分、明日投稿します。


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怪物二人

  †††

 

 

 蟲蔵には懐かしい光景が広がっていた。

 蛇の交尾の様だ、と雁夜は思った。

 

 桜の全身に絡み付いた魔蟲が、その下腹部の■■■に群がって、■■■を数匹がかりで■■■している。まるで■■■か■■■の様だ。魔蟲の形状は蛭か■■■の様で、小さな物は人間の指程、大きな物は腕程の大きさである。人間の、増してこの様な少女の■■■に魔蟲は■■■し、小さな身体を■■■し、■■■している。

 間桐の最深部で、少女は蹂躙(じゅうりん)されていた。

 

 生気の抜け落ちた瞳は焦点が定まらず、どこか虚空を仰いでいる。

 当然だ。

 この闇の中には苦痛しか無い。

 

 人の脳は許容限度を超えた事態に直面した時、壊れてしまわぬ様に緊急手段を取る。

 心を閉ざし、痛みを締め出し、考える事を止めるのだ。

 

 その結果が、抜け殻の様になった少女の姿だった。

 それは雁夜にはひどく懐かしい光景だった。

 雁夜は桜を救うべく蟲蔵へと降りていく。

 

 彼は思い出す。

 蟲蔵の中は灯り一つ無い完全なる闇だ。

 視覚強化も出来なかった頃、ただ闇が開けるのを待つ他無かった。

 嵐の中の小舟の様に蹂躙されながら、ただ、苦痛が過ぎ去るのを待つしか無かった。

 

「さて、どうする? すでに蟲どもに犯され抜いた、壊れかけの小娘一匹。それでも猶、救いたいと申すなら、考えてやっても良いぞ」

 

 雁夜が蟲蔵への階段を半ばまで降りた時、背後から声がした。

 戸口に立つ臓硯の物だった。逆光となってその表情は見えないが、口調からするとこの状況は心底愉快であるらしい。臓硯は続ける。

 

「ただし、要らぬ考えを抱かぬ様に、刻印蟲を埋め込み、ワシに忠誠を誓って貰うがな。断るなら、このまま桜のハラワタを裂いてやろう。さて、どうする?」

「蟲を止めろ、臓硯」

 

 対する雁夜は抑揚の無い声で言った。

 恐れも焦りも怒りも絶望も、臓硯の求める感情の一切含まれぬ声色だった。

 臓硯は雁夜の態度に不満そうに鼻を鳴らす。

 

「フン、物分かりが悪いのう。雁夜よ、まさか忘れた訳ではあるまい? ここは間桐の最深部。このワシの工房の核であると言う事を。四方を囲む魔蟲の群れが目に入らぬか? ワシの差配一つで貴様は蟲の餌へと成り果てる。万が一にも勝ち目は無いぞ」

 

 雁夜は応えず、自らの右手の手首を噛み千切った。

 

「なッ――」

 

 臓硯が息を呑む。

 雁夜の腕を伝った血が落ちて、蟲蔵に巣食う数千の蟲共が一瞬ざわめき、直ぐに静かになった。それだけだった。血を好む魔蟲達が、血に反応しなかった。

 彼等の巣に足を踏み入れた哀れな獲物を喰らい尽くそうともしなかった。

 彼等は悟っているのだ。

 主の帰還を。

 

巫蠱法(ふこほう)胎界八種(たいかいはっしゅ)

 

 雁夜が唱え、自らの血を周囲に撒いた。

 その瞬間、変化が起きる。

 蟲蔵の全ての魔蟲がその貪欲なる本能を剥き出しにし、互いに喰らい合い始めたのである。(うごめ)く蟲共が餓鬼の如く喰らい合う様の何と悍ましき光景か。

 

 誰もが息を呑む中、ただ独り、雁夜だけがその様を見て笑っていた。

 間桐雁夜は呵々大笑し、見る間に少なくなっていく魔蟲共の中から桜を救いだすと、その腕の中へと抱き上げた。

 

「もう大丈夫だ。君は俺が助ける」

 

 雁夜は穏やかな表情で腕の中の桜へと微笑みかけると、桜の腹に右手の親指を当て、自らの血で文字を描く。すると、一切反応の無かった桜が大きく咳き込み、その口から一際巨大な魔蟲、刻印蟲(こくいんちゅう)を吐き出した。

 

 足元に落ちた刻印蟲は蠢く魔蟲の波に呑まれ、バラバラに裂かれて喰い尽くされた。

 雁夜は臓硯を見上げる。臓硯は雁夜の眼を見た。互いの視線が交錯する。

 

「この娘は貰っていくぞ。そこをどけ」

 

 今度は臓硯が戦慄(せんりつ)する番だった。

 魔術師であるが故に、否が応でも直視せざるを得ない現実。

 虚を突かれたとは云え、自らの工房内で、自らが操る使い魔たる魔蟲の操作を奪われる。

 それは、雁夜の蟲使いとしての技量が、完全に臓硯のソレを上回っているという事の証明であった。

 

 しかし、臓硯が戦慄した理由はそれでは無い。

 そんな事では無かった。

 臓硯は雁夜の眼を見てしまった。

 そこには何も映っていない。

 冷たい笑みを浮かべる雁夜の眼は何も映してはいなかった。

 人の眼窩(がんか)に、(ウロ)がある。ぽっかりと闇が口を開けている。

 

 人の脳は許容限度を超えた事態に直面した時、壊れてしまわぬ様に緊急手段を取る。

 心を閉ざし、痛みを締め出し、考える事を止めるのだ。

 

 幼くして蟲蔵に放り込まれ、闇の中、延々と蟲どもに蹂躙され、滅茶苦茶に侵されて、

 桜は、そうした。

 雁夜は、そう出来なかった。

 

 彼は目的を持って蟲蔵へと入ったからだ。

 だから、壊れる訳にはいかなかった。

 だから、心を閉ざす訳にもいかなかった。

 何より、心優しき幼馴染に、愛する人に心配を掛ける訳にはいかなかった。

 故に、彼は心を閉ざす以外の方法で、自らの精神を護る必要があった。

 

 最初は希望が彼を護った。幸せな未来の夢想が幼き彼を慰めた。しかし、絶え間無き苦痛はやがて希望すら塗り潰す。彼が壊れる前に、自らを護る術を自らの魔道に見出せたのは僥倖(ぎょうこう)であり、血の才覚が為した運命だった。

 

 雁夜が創り出したのは魔蟲に寄生する魔蟲。

 彼はこの魔蟲を吸孔蟲(きゅうこうちゅう)と名付けた。

 吸孔蟲は元はアメーバ状の非常に小さな魔蟲だが、寄生した他の魔蟲の体内に根を張り、条件を整えると魔蟲の細胞基質を餌に爆発的に増殖する性質を持っていた。その条件とは、宿主である雁夜の芳醇(ほうじゅん)な魔力と、あらゆる負の感情であった。

 

 刻印蟲がそうである様に、寄生虫と宿主とはある種の共生関係にある。

 彼等は魔力と血肉を喰らいはするが、宿主を死なせない様に振舞う。宿主の死によって理想的な生存環境が崩れるからだ。

 吸孔蟲のこの性質はより顕著(けんちょ)だった。

 

 彼等は宿主の魔力が芳醇で在れば在る程、宿主を死なせぬ為に、あらゆる苦痛から宿主を護ろうと増殖する。最終的に、脊椎と脳下垂体に取り付いた彼等は宿主の苦痛をホルモンの分泌量と受容器を制御する事で抑制する様に成るのである。

 

 幼き日の雁夜が文字通り、命懸けで辿り着いた魔術。体内に寄生させた無数の蟲に、自らの苦痛を、悪意を、狂気を喰わせ、血肉とする恐るべき、悍ましき魔術。しかし、自らの自我を護る為だけに編み出された弱々しく、哀しい魔術。

 

 それが十年の時を経て、完成に至る。

 それは雁夜にとっても予想外の事であった。

 爆発的に増殖した吸孔蟲は、宿主である魔蟲の細胞基質を喰いつつ、その細胞内に住み着くと、呼吸鎖を形成し、餌である細胞の増殖を促すべくエネルギーを供給し始めたのである。一方で、細胞を喰らって大きくなった吸孔蟲は周囲の吸孔蟲と同化し、次々とその根を拡げながら、シナプスを形成した。

 

 このシナプスは呼吸鎖から供給されるATPの反応によって伸縮、及びシナプス内のイオン輸送を熟す事で魔蟲の筋繊維と成り、神経と成る。この根が魔蟲の全身に拡がる頃には、魔蟲本来の神経や細胞が食い荒らされる一方で、その体内に吸孔蟲が操作する筋繊維と神経とが完成していた。

 

 結果、刻印蟲は完全に吸孔蟲に操られる傀儡と化した。

 これによって、本来であれば、制御の為に魔力を込めれば込める程、活性化して暴れ出す刻印蟲を、雁夜は吸孔蟲を操る事で間接的に御する事が可能となったのである。

 それだけでは無い。

 

 吸孔蟲が築いた巨大な魔蟲のシナプスは、当然、吸孔蟲を伝って雁夜の脊椎、脳へと繋がっている。それはあたかも雁夜の新たなる臓器であり、経絡であり、魔術回路であり、筋肉であった。

 

 臨戦態勢に入った雁夜の身体中に筋が浮かび上がる。魔力によって吸孔蟲が活性化し、膨張したその巨大な経脈が浮き上がっているのだ。まるで全身に青黒い(ひび)が奔っているかの様だった。

 

 臓硯は見た。

 同じ蟲使い故に、視ざるを得なかった。

 雁夜の奥に、闇の中に蠢く、数え切れぬ魔蟲の脈動を。

 怪物がそこに在った。

 

「終わったか」

 

 雁夜が言いながら、自らの足元を見た。

 そこには先程まで喰らい合っていた魔蟲達の最後の生き残りがいた。間桐の蠱毒にて創り出された最強の八種。蛭に似た姿をしているが、皆、今はまだ幼体である。それぞれ雁夜の呪言に反応し、芋虫が蝶へと変貌する様に、本来の姿を取り戻し、暴虐の限りを尽くすだろう。

 

 彼等は雁夜の身体を這い上がると、彼が自ら噛み千切った傷口から、その体内に潜り込み、その傷を埋めた。

 臓硯はワナワナと肩を震わせる。

 

「飽く迄、ワシに刃向うか。雁夜、貴様、桜を庇いながら、このワシと戦えるつもりか?」

「必要なら、そうするまで――だッ!!」

 

 言葉と共に、雁夜が仕掛けた。

 豹の如き俊敏さで踏込み、跳躍。一階分の高さを跳び上がり、蟲蔵の戸口に立つ臓硯に接近する。次いで跳ね上がった右足は臓硯に一切の反応さえ許さず、その頭部を爆砕した。

 臓硯の頭蓋が砕け、脛骨が圧し折れる。

 衝撃に首から上が無くなった臓硯の小さな体躯がくるくると回転し、階段を転げ落ちた。

 

 代わりに、雁夜はそのまま階上へと着地する。

 正に、一蹴。

 しかし、そのまま蟲蔵の外へと一歩踏み出そうとした雁夜の脚が踏み締めたのは、冷たい蟲蔵の中央、共食いした魔蟲の死骸が積み重なる石畳であった。

 

“なッ、これはッ!?

 俺が、移動したのか??”

 

 驚愕を面に出さず、雁夜は周囲に視線を送り、桜を抱く腕に込める力を強くする。

 雁夜は跳び上がる前の位置へと、一瞬の内に戻されていた。

 転がり落ちた筈の臓硯の死体は既に消失している。

 狐に包まれた様な状況だが、理由は明白。

 此処は間桐臓硯の工房なのだ。何が起こったとて不思議では無い。

 

「カカッ、雁夜よ、吐いた唾は呑めぬと知れ。ワシとしては力尽きる前に、頭を垂れる事を勧めるぞ。洗脳が難しいとなれば、貴様を殺さずに済ませる自信はワシには無いからのぉ。カカカカッ!!」

 

 頭上から臓硯の声が響く。

 同時に、雁夜の周囲に無数の真っ赤な光が点った。ずる、ずる、と何かが這いずる音がした。闇の中、蠢く何かの気配が大きくなる。否、増え続ける。

 

 蟲だ。

 ギチギチと牙を鳴らし、真っ赤な無数の眼を動かす甲蟲が蟲蔵の陰から次から次へと涌いてくる。既に数十の巨大な魔蟲が雁夜達を取り囲んでいた。

 

「気が合うな、臓硯。俺もお前を殺さずに済ます訳にはいかないと思っていた所さ。アンタの妄執もこれで終わりだ。お前はこの娘に、手を出すべきじゃあ無かった」

 

 怒りが在った。

 眼球の裏を焦がし、脳髄を焼く熱が在った。

 吸孔蟲がその熱に呼応して活性化し、雁夜の全身に浮き出た経脈が一層激しく隆起する。

 怒りは力だ。

 全ての激情が、そのまま彼の力になる。

 

 “斬り破る”

 

 雁夜は心を定めると、太刀を構え、その顔を顰めた。

 脚が動かなかった。

 

「なッ!?」

 

 脚に眼をやる。何の変哲も無い。体内の魔蟲が反応しない以上、毒や呪術、幻覚の類では無い。しかし、理屈は分からぬが、この状況が拙いという事だけは解る。雁夜の動揺を突いて、周囲を囲んでいた甲蟲が跳ねた。

 甲蟲の威容を端的に説明するならば、サッカーボール大の団子虫だ。重さは凡そ十キロ程度、そして、鋼鉄の如き甲殻を持っている。その強靭な節足で地を蹴り、その身を丸めた甲蟲が空を切って雁夜へと迫った。

 

 (ノミ)飛蝗(バッタ)の跳躍力は、獣のそれとは文字通り桁が違う。脚部の強力な筋力と剛性蛋白質(ごうせいたんぱくしつ)が産み出す跳躍は、その身体を体長の数十倍の高さへと悠々と跳ね上げる。

 その強靭な脚力を以て、高速で空を切る甲蟲は正に砲弾。

 受ければ肉は爆ぜ、骨は砕け、一撃で人間などただの肉塊と化すだろう。

 

「――遅い」

 

 鍔鳴りの音と共に、銀光が瞬き、鈍色の軌線が縦横無尽に動いた。

 瞬間、空中に三十を超える火花が咲き誇る。

 空を切った十余の甲蟲が空中に体液をぶち撒けながら裁断され、その勢いのまま雁夜の傍らを通り過ぎて地に落ちた。甲蟲は一度、二度とバウンドし、蟲蔵の石壁を砕いて止まる。飛散した緑の体液が周囲を染め上げていた。

 

 凄まじきは間桐雁夜。

 迫り来る無数の魔弾を一息の内に、その神速の斬撃で以て切り伏せたのであった。

 雁夜は太刀に着いた魔蟲の体液を振り払い、休む間も無く迫り来る次なる甲蟲の弾丸を切り払おうとして、今度はその太刀を振るう腕が止まった。

 

 “拙い、避けられな――”

 

 咄嗟に雁夜は桜を庇って身を捻じる。

 飛来した甲蟲が雁夜の腹へと深々と突き刺さった。

 衝撃に肋骨が砕け、雁夜の身体が跳ね飛ばされた。腕の中の桜を庇った事で受け身も取れずに背中から石壁へと叩き付けられ、(うずくま)る雁夜へと間髪入れずに魔蟲の群れが跳び掛かり――そして、壊滅する。

 

 躍り掛かった蟲達はポップコーンの様に弾け飛んだ。

 千切れた肉片と体液が宙を舞う。

 魔蟲共はまるで内部から爆砕したかの様に、体液を撒き散らして死んでいた。

 

「さァ、仕事だ、喇噪蟲(らそうちゅう)蛭血蟲(てっけつちゅう)

 

 起き上がる雁夜の肩に一際大きな魔蟲が乗っていた。その巨大な翅を垂直に立てて震わせている。また、その腹に巨大な血色の蛭が這っていた。雁夜が創り上げた八種の内の四番目と六番目の魔蟲である。

 雁夜は目を凝らし、腕を見た。

 そこには僅かに煌く物が巻き付いていた。

 

 糸だ。

 カーボンファイバーより細く、強靭な粘着性の糸が、雁夜の腕に、脚に巻き付いていたのである。

 雁夜は糸の先、頭上を見上げた。そこには天井に張り付く、無数の巨大な蜘蛛(クモ)の姿があった。凡そ一メートル程の胴体に二メートル以上の細長い脚を持つ巨体でありながら、器用に天井の梁へと逆さに張り付いている。

 

「成程、この糸はアレの仕業か」

 

 言うと同時に、雁夜はぐいと渾身の力で糸を引いた。

 蜘蛛の脚先には無数の細かな爪と毛があり、これを壁の小さな凹凸に引っ掛ける事で天井を歩くという重力に逆らった機動を可能としている。そして、蟲の膂力は獣のそれを遥かに上回る。彼等は自重の数倍もある獲物を難なく持ち上げる事が可能だ。

 おまけに雁夜と蜘蛛を結ぶ糸の強度は鋼鉄以上、と来れば、その結果は必然だった。

 

 雁夜の力に蜘蛛が掴っていた梁が耐えきれず、蟲蔵の天井が崩落したのである。

 

 ガラガラと音を立てて、無数の梁が、天井が降ってくる。

 即座に蜘蛛共は落下する梁を蹴って壁面へと跳ぼうとし――糸を引かれて、真っ逆さまに落下する。同時に、雁夜は跳び上がった。

 落下する蜘蛛と跳び上がった雁夜、二つの影が交差する。

 

 蜘蛛の鋭い爪が空を切り、銀光が一閃した。

 そのまま軌線は上へと奔り、落下する梁を、天井を貫く。直後、両断された蜘蛛や梁と共に、落下した天井が床へと激突し、蟲蔵内にいた全てを押し潰した。

轟音と共に、蟲蔵に跋扈していた甲蟲共の断末魔が響き、埃と瓦礫とが散乱する。

 

 散々たる惨状の上、一つの人影があった。

 蟲蔵のへし折れた梁の一つを足場に、桜を抱いた間桐雁夜が立っていた。

 雁夜は首を捻じり、ゴキゴキと鳴らすと、快悦の笑みを漏らした。

 

“ああ、俺の過ごした日々は間違いじゃあ無かった。

 俺の力は、臓硯にも通用する!!”

 

「それで凌いだつもりか、雁夜!!」

 

 蟲蔵の対角線上の梁に人影が浮かび上がり、姿を現した臓硯が吼えた。

 直後、下方から粉塵を裂いて、三体の甲蟲が空を切って迫り――

 

「ガ、カッ――」

 

 臓硯が掠れた様な声を上げた。

 臓硯が出現すると同時に、雁夜が投擲した太刀が臓硯の喉を貫いたのである。そして、太刀を投擲した雁夜の腕が、ゆらりと弧を描いた。

 

 片腕での廻し受け。

 雁夜の弧を描いた腕が、眼前に迫った甲蟲にすっと添えられる。流れに逆らう事無く、真っ直ぐに向かって来る魔弾を手の甲で、平で横に押す。ただ、それだけで甲蟲達は石壁を貫いてそれぞれ明後日の方向に飛んで行った。

 

“勝機ッ!!”

 

 同時に雁夜は桜を一際強く抱き締めると、臓硯に向かって跳んだ。

 雁夜の身体が宙を舞い、距離が詰まる。雁夜は空中で右腕を空高く掲げ、跳躍の勢いを込めて臓硯目掛けて振り下ろす。

 

「バ、か、ガァ!!」

 

 瞬間、喉から鮮血を噴出しながら、臓硯が笑った。

 空中には無数の煌きが在った。

 

 糸だ。

 魔蜘蛛の吐き出した無数の鋼糸が、雁夜と臓硯の間の空間に張り巡らされていたのだ。

 鋼糸に触れた雁夜の肩が、腕が、頬が切れ、血が噴き出――

 

「その程度で、止まるかよッ!!」

 

 一閃。

 鋼糸を裂いて臓硯の肩口へと打ち込まれた雁夜の手刀は、そのまま股下まで一息に両断した。

 

「手刀・一刀両断」

 

 雁夜が首に刺さった太刀を引き抜くと、臓硯の身体がぐらりと傾き、二つに分かれて梁から落下する。雁夜は下方、臓硯の落下した蟲蔵の闇を見ると、頬の血を拭って舐めた。

 

“これ以上は無理だな”

 

 闘争に湧く体内の魔蟲を抑え、素直に、雁夜は不利を認める。

 臓硯はまだ死んでいないし、直ぐにも戦闘を続行して来るだろう。

 このまま戦闘を続行しても、臓硯を滅ぼすのは不可能だと思われた。

 故に、雁夜は逃げる事にする。

 

「悪いな、臓硯。流石に、此処じゃあ不利だ。勝負を預ける。俺はそろそろお暇する事にするよ。じゃあな」

 

 雁夜は踵を返すと、更に跳び上がり、蟲蔵を後にする。

 背後から臓硯の声が響いたが彼は立ち止まらなかった。

 腹の傷は既に癒えていた。

 






<蟲について>
吸孔蟲(きゅうこうちゅう)……筋肉!!
喇噪蟲(らそうちゅう)……詳細不明
蛭血蟲(てっけつちゅう)……詳細不明

ちなみに臓硯が使ってた魔蟲は甲弾蟲(こうだんちゅう)と鉄繊蜘蛛(てっせんぐも)という名前です。


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模索

 †††

 

 

「あ――お母さん? お母さん!!」

 

 ぼうっとした様子で何処か遠くを見つめていた桜は、母親、遠坂葵の姿を見た途端、大きな声で泣きながら駆け出していった。大粒の涙を流す瞳に、葵の元に駆けていく足取りに、先程までの虚脱した様子は無い。

 

「お母さん、私……。私、怖かったよぅ!!」

 

 彼女は母親の胸に飛び込むとわんわんと泣きじゃくる。

 年相応の少女の姿がそこにあった。

 

「桜、桜ぁ、良かったぁ……。もう、会えないって、会っちゃいけないんだって……」

 

 その涙に釣られたのか、感極まった様子で、桜へと抱き付く凛もぽろぽろと涙をこぼしている。

 

「ゴメン。ゴメンね、桜。もう大丈夫よ。もう、絶対にあなたを離しはしないもの」

 

 そして、二人の愛娘を抱き締めた、遠坂葵もまた泣いていた。

 その様子は昼下がりの公園の広場にあっては少々奇異な光景だったらしい。増して直ぐ傍に、堅気の人間に見えない風体の雁夜が付いていれば猶更である。彼等は暇を持て余した奥様方の好奇の視線を集めていた。

 

 親子の感動の再会に水を差さぬ様に、雁夜が周囲に(にら)みを利かせると、サッと野次馬連中は視線を逸らし、サーっと波が引く様に離れていった。彼は嘆息すると自らも邪魔にならぬ様に少し距離を取り、暫し葵達を見つめていた。

 

 ぽろぽろと涙をこぼしていた三人に次第に笑顔が戻る。

 彼がずっと望み、欲し、そして、決して手に入らなかった物がそこにあった。

 雁夜は目頭が熱くなるのを感じ、暫し、眉間を押さえて空を仰いだ。

 

 少女の心を覆った絶望の殻は今割れた。

 空は雲一つ無く晴れやかで、眩しい位だった。

 

“時臣、こりゃあ一発で済ます訳にはいかないな。

 葵さんの分に、凛ちゃんの分に、桜ちゃんの分。

 最低でも三発はぶん殴ってやらないと。

 いや、ムカつくし、俺の分と、ああ、あの時の借りもあったか……”

 

 雁夜は次第に笑顔に変わっていく三人を穏やかな顔で見つめ、手を握って、開いて、また握る。内にあったモヤモヤとした感情が、丁度今の天気みたいに澄み渡っていく様に感じた。同時に、雁夜は胸がチクリと小さく痛むのを感じた。

 

 泣き、笑う、葵と凛と桜の三人。

 彼女等親子の再会は一枚絵の様に、綺麗で、感動的で、そして、雁夜が追加する物を思い浮かべる事が出来ない位に完成していた。

 

“家族ってのは、こういう物なんだろうな”

 

 暫し、雁夜が黙して待っていると、凛が彼の元へと走ってきた。

 

「ん? 凛ちゃん、どうかしたかい?」

「あ、あの、雁夜おじさん。桜の事、ありがとうございました。本当にありがとうございました!!」

 

 凛が真面目な顔で頭を下げる。

 雁夜はふっと微笑むと、その頭をわしゃわしゃと撫で、豪快な笑みを返した。

 

「なぁに子供が気ィ使ってんだよ。行っておいで」

 

 そうして、凛の背中をその大きな手で押してやる。

 

“さて、コーヒーでも買ってくるかね”

 

 踵を返して自動販売機へと向かう雁夜と、ボールを持った赤毛の少年の目が合った。

 

「おじさんがあの子を助けてくれたの?」

 

 赤毛の少年はおずおずと聞いてくる。

 

「ん? いや、大した事はしてないよ。どうしてだい?」

「いや……その、あの子最近元気が無くって、でも、今日は笑ってたから」

「ン? へぇ、成程。あの子に惚れてるのか?」

「い、いや、俺は、その、そんなんじゃ……」

 

 口籠る少年に、雁夜は笑いかける。

 

「ハハ、恥じる事じゃないさ。男は皆、惚れた女の涙には弱いもんな」

「おじさんもそうなの?」

「勿論、そうさ。好きな人には、いつも笑っていて欲しいと思ってる。君もいつか大人になった時、大切な人を護れる様な大人になりな。それと……、好きな相手にはとっとと告白した方が良いぞ」

 

 照れて更に口籠る少年の頭をぽんぽん撫でながら、雁夜は苦笑する。

 

 我ながら耳の痛い台詞だ、と雁夜は思った。

 

 

 †††

 

 

「さ、雁夜君、入って。直ぐ客間の用意をするから」

「あ、ああ、調べたい事もあるし、用意が出来るまでは書斎にいるよ。聖杯戦争についての文献が無いか探してみる」

「ええ、分かったわ。ほら、凛、桜、外から帰ったら手を洗ってうがいをする事」

 

 玄関の戸を閉めながら、雁夜はパタパタとスリッパを鳴らして洗面所へと歩く三人を見送る。少し彼は困惑していた。葵の家(遠坂邸である)に呼ばれるという状況に戸惑っていた。

 

 彼等四人は公園を後にすると、連れだって深山町の商店街で夕食の買い物を済ませ、丘の上にある遠坂邸まで話しながら歩いた。時刻は既に夕暮れに差し掛かり、空は赤く染まっていた。葵と凛と桜、それぞれ手を繋いだ影が住宅街の白壁に映っていた。

 

 そして、雁夜は今、遠坂邸にいた。

 

 臓硯と一戦交えた雁夜は当然帰る場所が無かったし、彼は聖杯戦争に関する書物を漁る為に、時臣の書斎に用があった。怯える桜が雁夜と離れたがらなかった事もある。そして、何より、桜を無理矢理奪還した事で、雁夜は葵達三人を護衛する必要があった。

 

 桜を奪還し、遠坂に引き渡す。雁夜がやった事とは言え、遠坂の横紙破りと見られるのは避けられまい。臓硯は盟約に基づいて桜の返還を迫る事が出来る。

 これは当主である時臣の不在と、間桐の人間である雁夜が噛んでいる事を理由に保留に出来るだろう。間桐家は碌に外と交流を持っていない為、余所の家が何か言ってくる事もまずあるまい。

 

 問題は、臓硯が強硬手段に出る可能性があるという事だ。

 無数の結界、霊的防御に護られた遠坂邸は正に魔術要塞と呼ぶべき堅固さではあるが、時臣不在の今、この家には魔術師が一人もいない。臓硯が桜を攫おうと思えば訳無いだろう。葵にはそれに抗うだけの力が無い。故に、雁夜が護衛として傍にいる必要があった。

 

 そう、それだけだ。

 それだけなのだが、雁夜は変に浮足立っていた。

 

 無論、彼とて最低限の分別は弁えている。家主の留守に転がり込む間男になるつもりは毛頭無い。彼は葵達母子の幸せを望んでいる。それを壊す様な事を出来る筈が無い。

 

 ただ、葵にアナタと呼ばれたり、凛と桜にパパと呼ばれる妄想が頭を過ぎっているだけである。頭の中で、遠坂家の家族写真の時臣のいる位置を自分に置き換えたりしているだけだ。人には精神の自由がある。

 

 色々と手遅れであった。

 二十年越しの恋慕がこじれていた。

 

 結局、彼はどうしようも無く葵に惚れていて、時臣の手に入れた家庭は彼が渇望した理想その物だった。おまけに、雁夜はすっかり凛と桜に対して庇護欲(ひごよく)が芽生えていた。

 

「おじさん、どうしたの? お母さんがうがいしないとダメだって」

 気が付けば、桜がニヤけている雁夜の事を不思議そうな顔で見つめていた。凛は怖がって一歩退いていた。(いか)つい大男が腕を組んで薄笑いを浮かべているのだから無理も無い。

 

「あ、ああ、そうだね、桜ちゃん。そうするよ」

 

 雁夜は思い切り冷たい水で顔を洗い、抗し難い夢妄を振り払うと書斎へと向かう事にした。

 

 

 

 本来、然したる伝手も知識も持たない雁夜は、聖杯戦争の情報と、召喚陣の敷設等々は全て臓硯の協力を得るつもりだった。しかし、こう拗れに拗れ、殺し合いまで発展してはそれも不可能である。

 

 開き直って堂々と間桐邸に帰り、臓硯に居丈高(いたけだか)に協力を要求しようかとも思ったが火に油を注ぐ事になるのは明白だった。雁夜とて勝利の確証無く、臓硯に再び挑むつもりは無い。

 

“次こそは確実に殺る”

 

 突発的に戦闘になってしまったが、冬木に戻るに当たって、雁夜は宿った令呪を使ってサーヴァントを召喚し、その召喚した英霊の力を以て臓硯を滅する計画を立てていた。

 

 彼が聖杯戦争に参加する真の目的はこれである。

 その為の触媒も彼は用意していた。

 とある退魔の大英雄所縁の聖遺物である。

 

 自身の魔力と体内の魔蟲が最も活性化する満月の夜の丑三つ時に召喚を行う事を雁夜は決めていた。まだ暫し時間がある。それまでは葵達を護りながら、桜に簡単な魔術の基礎でも教えようと思っていた。

 

“しかし、桜ちゃんの才能は厄介だな”

 

 雁夜は書斎の本を一つ一つ確認しながら、頭では別の事を考える。

 

 桜の事だ。

 雁夜の予想通り、桜は素晴らしい魔術の才を秘めていた。否、拙い事に、予想を遥かに超えて、と云うのが正しかろう。天賦の才と云うのは多かれ少なかれ、人を歪める。桜の才は放っておけば彼女を憑り殺すレベルの代物だった。

 

 桜の属性は、架空元素虚数。

 

“ハッキリ言えば、良く分からん”

 

 それが雁夜の忌憚(きたん)の無い意見だった。

 通常、魔術師の生まれながらに持つ属性は五大元素、地、火、水、風、空の五つの内のいずれかである。雁夜が水で、時臣が火だ。どちらもポピュラーな属性であり、その分応用も利く。

 

 およそ天才と呼ばれる魔術師の中には複数の属性を併せ持つ者がいたりもするのだが、飽く迄例外である。ただその例外も魔術師として優れていると云う話であって、隔絶している訳では無い。

 

 桜の才能はソレだ。存在しない六番目の元素。

 雁夜とて幼い頃から臓硯に魔術の薫陶(くんとう)を受けて育った人間である。時計塔に在籍していた時臣程では無いだろうが魔術に対する造詣は十分深い。しかし、その雁夜をして、架空元素については(ろく)に分からない。

 

 分かっているのは、この才が封印指定物であるという事だけだ。桜の才が魔術教会に知られれば、遠からず彼女は(さら)われ、ホルマリン漬けの標本としての運命が待っている。

 

 時臣が間桐に桜を養子に出した訳が良く分かる。魔道の庇護が無ければこの娘は生きていけない。才能を伸ばそうにも架空元素を扱う魔道の家となれば、時臣の伝手を使っても探し出す事は不可能だろう。

 

 しかし、やりようはある。

 間桐の蟲を使った肉体改造は自身の生まれ持った属性すら変質させる事が可能だ。

 臓硯が桜に施した蟲による凌辱によって、桜の属性は間桐の水に変質しつつある。雁夜の刻印蟲と吸孔蟲を与えて長期的に身体を慣らしていけば、水属性の魔術は勿論、間桐の特性や自身の起源を利用した強力な魔術も使えるようになるだろう。

 

 幾つか問題もある。

 蟲による属性の変質は、桜の元々持つ虚数属性の劣化を伴う事だ。

 貴重な才能が潰れる。恐らくあらゆる魔道を志す者にとって、それは度し難い蛮行だろう。しかし、危険と隣り合わせの才能なら無くなってしまった方が本人の為だ、と雁夜は思う。

 

 元々臓硯を打倒し自由を掴む手段として魔術を見ている雁夜は一般的な魔術師観という物を持ち合わせていなかった。

 

「それにしても、アイツの書斎はどうなってんだ? ちょこちょこ封印された魔本の類があるな」

 

 古書の中には魔力を帯び、意志を持つに至る物がある。付喪神とも呼ばれる貴重なマジックアイテムだ。貴重な物になると数百から数千万の値が付く。時臣の書斎の棚の上の方の段にはそれが複数冊保管してあった。書斎内に張り巡らされた結界と要石で封印されている。

 

“人が近付くと封印が強まる様になっているのは、葵さんや凛ちゃんに万一が無い様にって事なんだろうな”

 

 状況に合わせて結界が自在に機能を変え、万一を防ぐ。その術式の細やかさは、流石時臣だと雁夜は思う。実に相変わらずの様だ。

 雁夜は要石をズラし、その内の一冊を手に取る。

 

 途端本がひとりでに開かれ、そのページに真っ黒な手形が浮かび上がった。それだけではない。見る間に手形が膨れ上がり、黒い腕となって雁夜の頸へと迫った。魔本の指が雁夜の頸へと巻き付き、万力の如き力で締め上げる。

 咄嗟に雁夜は伸ばされた魔本の手首を掴んだ。

 

 ゴキリ、と骨の砕ける音がした。

 

「あっ――」

 

 魔本の手首が握り潰されていた。

 瞬間、黒き腕は消滅し、魔本は床へと落下する。

 雁夜は魔本を直ぐさま拾い上げ、ページを捲るが一切反応は無い。

 

 彼は恐る恐る表紙を見る。そこにはガーヤト・アル・ハキームと書いてあった。彼はふっと微笑する。そして、そのまま何も見なかった事にして、本を書斎の机の上に置くと、目的の文献の探索を再開した。

 

 



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切っ掛け

 †††

 

 

「ねぇ、桜。おじさんの様子を見に行きましょう」

「え、でも、お姉ちゃん。お母さんは雁夜おじさんの邪魔をしちゃダメだって……」

「そう、だから邪魔はしないわ。ちょっと様子を見るだけよ」

 

 凛は胸に手を当てそう言い切ると、おずおずと異を唱える桜の手を引いて書斎に向かう。

 彼女はヒマを持て余していた。

 

 今日は桜(雁夜も)が帰ってきたという事で、葵は腕に縒りを掛けるべく台所に籠っている。先程、奮発して商店街で大量の食材やお酒を買っていたから夕食は随分豪勢になるだろう。普段なら凛も料理を手伝うのだが、今日は桜と待っている様に言われて台所から追い出されてしまっていた。

 

 何より、尊敬する父親のライバルだという雁夜に対する興味もあった。

 子供の好奇心を止める事は難しい。

 

 二人は階段を上がって書斎の前に来ると、少しだけ扉を開けて中の様子を窺う。書斎の隅に雁夜の大きな背中が見えた。

 どうやら床に座り込んで、何かを熟読している様だ。目的の聖杯戦争についての書物が見つかったのかも知れないと凛は思った。

 

 凛は時臣から魔術の薫陶(くんとう)を受けている。

 今、時臣が異国の地で参加している聖杯戦争という儀式、命懸けの戦いについても聞き及んでいた。凛は時臣に行って欲しくは無かった。葵が、母親が泣いていた事を知っているからだ。しかし、凛は遂に止める事は出来なかった。時臣が遠坂の長として、魔術師として、避けては通れない戦いに赴いたという事も彼女は知っていたからだ。

 

 結局、彼女には父の無事を祈るしか出来なかった。

 

“おじさんはお父様の味方になってくれるのかしら?

 きっとそうよね!! 桜を連れ帰ってきてくれたし。

 顔は怖いけど、悪い人じゃないみたいだし。

 それに、きっとおじさんは母様の事――”

 

 聖杯戦争には凛の兄弟子も付いて行っている。いけ好かない男だが、その実力は確かだ。体術に至っては師である時臣すら超えている。そこに雁夜が加われば、と思った所で、凛ははたと気付く。

 

“おじさんって本当に強いのかしら?

 本人はお父様のライバルだったって言ってるけど、負け越しだったって言うし……。

 見た目は滅茶苦茶強そうだけど……”

 

 凛の想像している魔術師像と雁夜の間には(いささ)か以上に隔たりがあった。大体プログラマーとプロレスラー位イメージが異なる。凛にとって魔術師の理想像とは即ち時臣であった。

 

“良し。試してみよう”

 

 凛はまるで天啓を得たとばかりにほくそ笑む。

 

「お姉ちゃん、やめようよ。邪魔しちゃ――」

「しー!! 気付かれちゃう」

 

 咄嗟に凛は桜の口を手で覆う。それからゆっくりと雁夜の様子を窺う。

 どうやら書物を読むのに熱中しているらしく、気付かれてはいない様だ。

 凛は静かに扉を開けて部屋に入ると、桜の手を引いてさっと本棚の陰に隠れた。

 

“良し!! 大丈夫、バレてないわ”

 

 凛は雁夜の様子を窺う。

 そして、雁夜の様子に変化が無い事を確認すると、凛はポケットの中から小さな水晶片を取り出した。それを雁夜へと向ける。水晶片を通して雁夜の背中が見えた。

 

“お父様のライバルなら、この位簡単に避ける筈よね”

 

 凛は水晶片に魔力を込める。

 初歩的な宝石魔術。放たれる赤色の熱弾は勿論大した威力では無い。人に直撃しても少し熱い程度だ。しかし、

 

 無論、それは魔術がキチンと発動した場合の話である。

 

 彼女は一つの失敗を犯していた。

 この時、凛は悪戯を仕掛ける事による精神的高揚で普段以上に高い集中力を発揮していたが、ポケットから取り出した水晶片は数日前に錬成に失敗した物であった。彼女はそれを成功した物と一緒にポケットに入れた事をすっかり忘れていたのである。

 

 失敗作の水晶片は流れ込む凛の魔力に耐える事が出来ない。

 不意に凛の指の中で水晶片が歪み、赤い光を放った。

 

“マズい!! 爆発す――”

 

 失敗の直感。

 凛は咄嗟に背後の桜を護ろうと、膨張する水晶片を握り込もうとして、何かが腕を奔り――

 

 パン、と炸裂音が響いた。

 

 凛はぎゅっと目を瞑り、来る筈の痛みに身を竦める。

 しかし、痛みは無かった。

 それを不思議に思いながら、凛は恐る恐る目を開く。自分の右手を見るのが怖かった。血の噴き出た手を見た途端、激痛が襲い掛かるのでは無いかと恐れた。

 

 果たして、彼女の目の前には、背後から伸びた野太い腕があった。

 握り込まれた巨大な拳の指の隙間から煙が上がっている。

 その時漸く、凛は先程から肩に手を置かれている事に気付いた。

 

「お、お姉ちゃん、大丈夫!? お、おじさん、お姉ちゃん大丈夫だよね!?」

 

 パニック気味に叫ぶ桜の声が聞こえた。

 凛は恐る恐る振り返る。そこには雁夜の胸板があった。

 

“嘘!? 何で!? だって、さっきまでそこに――”

 

 凛は信じられない物を見た気分だった。

 いつの間にか、凛の背後に雁夜が立っている。

 パニックに陥った凛が咄嗟に距離を取ろうとして、本棚に肩からぶつかった。本棚が揺れ、最上段に置かれた赤いルビーが落ちた。それは先程雁夜が見た物と同じく、強力なブックカースを掛けられた魔書を封じていた要石である。

 並べられていた書物が次々に落下した。否、獲物を求めて彼等は躍り掛かった。

 

「キャアアアア!!」

 

 凛が悲鳴を上げる。

 空中で捲られた魔書の紙片から黒い腕が浮かび上がり、獲物を求めて伸ばされる。凛へと呪言で編まれた黒い腕が迫り――

 

「血と石を以て封ずる」

 

 空を裂いて飛んだ水晶片が貫いた。

 透明な水晶片は残影すら残さず奔った。しかし、込められた魔力の軌跡が凛と桜の目には明滅するネオンライトの様に幻想的に、機関銃のマズルフラッシュの様に苛烈に瞬いた。

 

 一撃では無い。

 瞬く間に撃ち出された水晶片が、次々と降り掛かる魔書を貫いていく。都合十二冊。水晶片はただの一発も外れる事無く、魔書の表紙へと撃ち込まれ、浮かび上がった黒い腕はいずれも雲散霧消した。

 落下した魔書は床へと落下する時には、全てただの本と成っていた。

 

 指弾である。

 本来は握り込んだ小石やコインを指先で飛ばす技だが、雁夜はこれを先の爆発した水晶の欠片で行った。水晶片に己の血を塗布し、魔力を込めて指で弾く。

 ただそれだけの技であるが、これを雁夜クラスの術者が行った時、見ての通り驚異的な威力を発揮する。秒間12発。32口径拳銃並みの威力を誇る雁夜の得意技であった。

 凛は腰を抜かしてその場へとへたり込む。

 

“た、助かった……”

 

 そう彼女がほっとしたのも束の間、そこへ大きな影が落ちる。

 雁夜だった。

 逆光となって凛からは表情が見えないが、雁夜が凛へと迫ってくる。

 

“お、怒って――”

 

 身を(すく)ませ、自らを庇うべく掲げた凛の手を、雁夜が優しく掴んだ。

 

「凛ちゃん、大丈夫かい!? 怪我は無い!?」

 

 凛をまじまじと見詰め、どこにも怪我が無い事を見て取ると、雁夜は一際大きな安堵の溜息を洩らした。

 

「良かった。心配したよ」

 

 笑顔でそう呟く雁夜。心底安堵した表情だった。

 凛は自らの手を見る。雁夜が優しく握る彼女の手は綺麗なもので、傷一つ無かった。確かに爆発した水晶片を握っていた筈なのに。

 

 彼女の疑問は直ぐに氷解する。その答えは同時に見えた。

 凛の手を握る雁夜の手から、赤い血が滴っていた。手の平が焼け焦げ、爆発した水晶の破片が突き刺さっていた。ぽたり、と真っ赤な血が床へと落ちた。

 

 その瞬間、凛は全てを悟る。

 爆発の瞬間、雁夜は被害を防ぐべく宝石を握り込んだのだ。

 

“私が、私のせいで――”

 

 凛の顔が涙で歪む。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい、雁夜おじさん。わ、私が馬鹿な事したから……」

 

 雁夜の手が凛へと伸ばされる。

 凛はビクリと震えたが、手は凛の眼前で止まった。見れば硬質化した手の甲とは対照的な、傷一つ無い綺麗な手の平があった。

 

「嘘……傷が無い? え、だってさっきは……」

「おじさんは治癒魔術が得意でね。体内の蟲が勝手に修復してくれるのもあって、この程度何ともないのさ。それより、凛ちゃんに傷が残る様な事が無くて良かった」

 

 雁夜おじさんはそう言って笑った後、

 

「さて、それじゃあ覚悟は良いね?」

 

 真剣な顔に戻って、凛に拳骨を落とす。

 ゴン、と音がして、凛は頭を押さえて蹲った。

 

「これに懲りたら二度と魔術を面白半分で人に向けない事。自分だけじゃ無く、周りの人まで危険に晒す事になる。事故が起こってから後悔しても遅いんだから」

「ッ~、は、はい、ごめんなさい」

 

 しゅんとした表情で項垂れる凛に、雁夜は再び優しい笑顔を見せた。

 

「良し、それじゃあ葵さんにバレて怒られない内に片付けよう――」

「あ、あの、雁夜おじさん、後ろ……」

 

 桜が雁夜の言葉を遮り、書斎の隅を指差す。そこは先程、雁夜が座っていた場所である。

 

「桜ちゃん、どうかしたのかい? 一体、うわっ!!」

 

 雁夜の言葉が途中で止まる。

 雁夜が読んでいた書物、聖杯戦争に関する文献が燃えていた。

 水晶片は爆発したが、凛の熱弾はしっかりと発動していたらしい。

 

「消火だ。消火!!」

 

 雁夜の叫び声が響いた。

 

 

 

 結局、火は雁夜によって直ぐに消し止められた。しかし、小火騒ぎは当然葵の知る所となり、雁夜と凛は並んで正座し、懇々と葵の説教を受けた。

 たっぷり一時間は絞られた後、凛はうんうんと唸りながら脚の痺れと戦っていた。雁夜の方は脚は全く痺れていなかったが、危うく新しい趣味に目覚めそうになっていた。

 葵に連れられて凛と桜が書斎を出ると、雁夜は聖杯戦争に関する書物を見る。

目的の文献は表紙が焼け爛れ、見事に前半部分が燃えてしまっていた。取りあえず、召喚陣の敷設について記載されている部分が読める事を確認し、雁夜は安堵(あんど)の吐息を漏らす。

 

“こればかりは適当に行う訳にはいかないからな。

そう考えると、燃えたのが前半部分だったのは幸いだった”

 

 聖杯戦争の成り立ちや令呪に関する部分は別の書物にも書いてあった。各クラスの特色と召喚の詠唱に関する部分は灰になってしまったが、そこは先程一読した際に粗方覚えている。

 一時はどうなる事かと思ったが、特に問題は無いと雁夜は判断した。

 

 それから雁夜は一息付くと本を机の上に置き、周囲に目をやる。

 書斎へと張り巡らされた結界。時臣によって敷設された完璧だった筈のソレが、今はいびつに歪み、解れかかっていた。魔書を封じていた筈の要石も幾つも亀裂が入り、機能しなくなってしまっている。

 

 要石に奔った亀裂は魔力の通り抜けた跡だ。

 先程、雁夜は凛が悪戯を仕掛けてくる事に気付いていた。気配の消し方も知らない子供に背後を取られる程、彼は腑抜けていない。ハッキリ言ってバレバレだった。

 

 故に、悪戯に気付いた雁夜は、凛が魔術の発動に集中し、視線を切った瞬間に背後に回って逆に脅かすつもりでいた。彼は片膝を立てて座った状態から、上体を一切動かさずに片足の大腿四頭筋のみを使って数メートルは跳躍出来る。目を切った一瞬に側面に回り込めば、消えた様に見えるという訳だ。

 

 凛が魔術の発動に失敗した為、咄嗟に水晶片を掠め取って爆発から庇う事になった訳だが、そこまでは別に良い。いや、良くは無いが、それは雁夜も即座に反応出来た。

 問題はその次だ。

 

 凛が宝石魔術の発動に失敗した時、指向性を持たず、宝石内に留まり切らずに溢れた魔力は周囲へと拡散した。水晶片は耐え切れずに爆散した訳だが、この時、耐え切れ無かったのは水晶片だけでは無い。周囲に拡散した魔力は時臣の結界を歪ませ、魔書を封じていた要石をも破壊していた。

 

 結果、魔書は封印から解き放たれた。

 これは完全に雁夜の想定外だった。再封印も間に合わず、咄嗟に撃ち落す事になってしまった。今日の被害総額を考えれば、時臣も決して優雅ではいられまい。

 

「これも才能って奴か……。どうにも、末恐ろしいな」

 

 時臣の結界が破壊される程の単純な魔力の放出。

 凛の出力は異常と言わざるを得ない。これが恐らく時臣が桜を養子に出して、凛を残した理由なのだろう。姉妹揃って恐るべき資質を秘めている。

 

「凛ちゃんの修業は魔力の制御からかなぁ」

 

 雁夜はこれからの事を考え、自然と笑みを浮かべた。

 

 

 

 この日から英霊の召喚を行う満月の夜までの間、雁夜は凛と桜の魔術修業を行う事になる。結果的に、それは彼の人生に訪れた唯一の安息の日々だった。葵と凛と桜がいる生活は、彼にとって望外の物だった。

 

 だから、彼は気付かなかった。

 否、気付けば再び間桐邸に赴かざるを得ないという事実が、彼を盲目にした。

 大きく運命は変化する。

 雁夜の覚えていた英霊召喚の詠唱が、ある特殊なクラスの英霊を召喚する物である事に、結局彼は気付かなかった。

 

 






次回はやっと英霊召喚です。


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運命の夜

 †††

 

 

 運命の夜、遠坂邸は重苦しい空気に包まれていた。

 原因は雁夜である。

 

 彼は時臣の工房内に召喚陣を敷設し、召喚の用意を整えると、そのまま工房内に籠って瞑想を始めた。精神集中と体内に巣食う全魔蟲の活性であった。

 臨戦状態同様に吸孔蟲の活性によって全身に膨張した巨大な経脈が浮き上がっている。まるで全身に青黒い罅が奔っているかの様だった。

 そして、臨戦状態同様に研ぎ澄まされた雁夜の放つ鬼気は工房内に収まらず、遠坂邸全体を覆っていた。それが身を刺す無数の針の如き空気を作り出していた。

 

 流石に冬木の管理者である遠坂は良い霊地を確保していた。時臣の工房に流れ込む魔力はこの上なく上質だ。何故か時臣はここで召喚を行わなかった様なので、雁夜は場を借りる事にした。

 

 定期的に雁夜の血と魔力を呑ましておいた蛭血蟲(てっけつちゅう)を数匹握り潰し、その血で以て召喚陣を描き上げる。間桐の蟲蔵で創り出した魔蟲も順調に増殖していた。雁夜は文献に倣って消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む。

 そして、祭壇に縁の聖遺物――雁夜が腰に差した太刀を設置し、工房の端に座り込んで瞑想を開始する。丑三つ時までは時間があった。

 

 雁夜が瞑想していると、一度、遠坂母娘が工房へと降りてきた。

 

「雁夜君。どうか主人を、時臣をよろしくお願いします」

「お父様の事よろしくお願いします」

 

 葵と凛が頭を下げる。

 彼女達はただ一言、真剣な表情でそう言った。

 一切の裏表の無い、真摯な言葉だった。

 

 一瞬、雁夜の心が波打ったが、顔には出なかったし、出ても薄暗い工房内では分からなかっただろう。雁夜が何か言う前に、葵と凛の後ろでもじもじとしていた桜が言った。

 

「お父様も雁夜おじさんも、皆、無事に帰ってきて下さい」

 

 雁夜は目を開くと一度頭を掻き、それから力強く頷く。

 

「ああ、任せろ」

 

 

 

 邪魔をしない様にという配慮から、直ぐに三人は工房から出て行った。

 凛と桜は名残惜しそうにしていたが、雁夜の指示には従った。時臣なら後学の為に英霊の召喚風景を見せていたのかも知れないが、雁夜にそんな気は無かった。

 

 子供は早くに寝るべきだ。それに何より――

 

”間桐の腐り(ただ)れた因習も、聖杯戦争も、これで終わりだ。

 俺が全て終わらせる”

 

 雁夜は再び目を瞑り、瞑想を続ける。

 目を瞑っていると、色々な事が想起された。それは愉快な思い出だったり、悔恨だったり未練だったり、遠い日の約束だったりした。全て彼を育み、力をくれた物だった。想いは力だ。吸孔蟲(きゅうこうちゅう)が浮き沈みしようとする心を喰らい、一層彼に力を与える。

 雁夜は静寂の中、運命の刻を待った。

 

 雁夜は英霊召喚に成功すれば直ぐにでも臓硯を滅しに行くつもりだった。臓硯が如何な力を誇ろうと、英霊に敵う道理は無い。増して、雁夜が召喚の触媒として選んだ聖遺物は、とある退魔の大英雄所縁の宝剣である。あの妖怪爺を滅ぼすのにこれ程適した英霊は他にいまい。

 

 狙うは最優のクラスと名高きセイバー。

 否、かの英霊が召喚されたなら、剣の英霊以外は有り得ない。

 

「告げる――」

 

 時間通りに詠唱を開始する。

 全身の魔術回路と共に、体内で蠢く魔蟲が喝采を上げる。

 視界が明滅し、大気から取り込んだマナに蹂躙される肉体が、一時、人である機能を忘れ、幽体と物質を繋げる為の回路に成り果てる。求めるはただ一つの奇跡。

 

 駆け巡る魔力の軋轢に晒され、悲鳴を上げる痛覚に反応し、吸孔蟲が一層活性化する。

 全ての思考が掻き消えた無我の境地。

 

「――されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」

 

 雁夜は知らぬままに召喚の呪文に異物を混ぜた。

 それは招き寄せた英霊から理性を奪い、狂戦士へと貶める二節の文言。

 

「――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!!」

 

 呪祷を結び、全身を流動する魔力の奔流を限界まで加速させる。

 風が逆巻き、稲妻が召喚陣を奔る。光が明滅し、そして、召喚の紋様が燦然とした輝きを放つ。

 

“来た!!”

 

 雁夜は成功を確信する。

 遂に召喚陣の中の経路は、この世ならざる座へと繋がり――閃光と共に、衝撃が奔った。

 炸裂音と共に、一際強烈な旋風が工房内を駆け巡った。床が衝撃に砕け、粉塵が宙を舞う。強烈な発光に眩んだ目は何も映さなかったが、それでも雁夜は伝説の具現を確信する。

 

 眩んだ目でも十分に、雁夜には眼前にいる存在の恐るべき魔力と存在感を感じ取る事が出来た。手が震える。怖れか、武者震いか、彼にも分からなかった。

 

“召喚に成功した。

 絶対に間違いない!!

 宝剣を触媒とした以上、確実に目的の英霊を呼び寄せたはずだ!!”

 

 彼方より此方へと、招かれた伝説の現身。

 かつて人の身でありながら人の域を超えた者達。

 人ならざるその力は、全ての信仰を以て精霊の領域へと押し上げられる。

 

 頂上の霊長。即ち、英霊。しかし――

 

「問うわ。アンタが私を招いたマスター?」

 

 果たして雁夜の白んだ視界に映ったのは、小柄な少女であった。

 無論、雁夜が伝え聞く武勇から想像した勇壮な姿とは似ても似つかぬ姿である。

 

 かくして、救いを求めた者達の聖杯を巡る戦いの幕が開く。

 

 



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トラブル

 †††

 

「な……これは一体、どういう事だ?? まさか、召喚に失敗したのか?」

 

 雁夜は呟く。

 白んだ視界に映ったのは、伝え聞いた武勇から想像した勇姿とは似ても似つかぬ小柄な少女である。間違いなく、目的の英霊では無いだろう。

 

 華奢で小柄な身体に艶やかな黒髪。白と赤の巫装束の腰には、いかにも不似合いな二振りの大鉈を差している。若々しい黒瞳と白い素肌、その頬だけが今は赤い。年の頃は十三、四といった所だろうか。

 

 そして、何よりも目を引いたのは、少女が頭に付けた禍々しき魔力を帯びた朱色の鬼面と――

 

「ウッ、さ、酒くっせぇ」

 

 辺り一面に漂う咽せ返る程の酒気の大本、その手に持った瓢箪(ひょうたん)である。

 あまりの酒気に雁夜は思わず呻いた。臭いを嗅いでいるだけで酔っ払いそうである。

 

「問うわ。アンタが私を招いたマスター?」

 

 少女は問いかける。

 その口が動く度に酒気を纏った甘ったるい息が雁夜の鼻腔を擽る。

 雁夜は少し混乱し、頭が痛くなってきた。

 

 自分は今酔っ払って夢の中にいるのではないかと思えてきた。しかし、アルコールを毒素と判断し、俄かに活性化する吸孔蟲の体内で脈動する感覚が、これが夢ではない事を無慈悲に告げていた。

 

“失敗した。それは間違いない。

 何が原因だったんだ?

 師匠から頂いた宝剣が紛い物だったのか!?

 いや、あれは間違い無く宝具級の逸品だった。

 紛い物でなどある筈が無い。

 いや、その前にそもそも俺は一体何を呼んだんだ?”

 

 頭を抱える雁夜に対し、胡乱気(うろんげ)な目で少女は再び問いかける。

 

「ねぇ、ちょっと、アンタが私を呼んだんじゃないの? 反応して欲しいんだけど」

 

 少女の問いに雁夜は答えなかった。

 答える事が出来なかった。

 雁夜は絶句し、愕然(がくぜん)とした表情で少女を見つめていた。

 

「な、なによぉ? そんなまじまじと見つめちゃって」

 

“嘘だろう!?

 こ、コイツ、弱いってレベルじゃないぞ!!”

 

 聖杯に選ばれマスターとなった魔術師には一つの能力が与えられる。即ち、サーヴァントに対する透視能力。目視したサーヴァントの能力や、行使したスキル、宝具を把握出来る様になる能力である。

 

 目視した瞬間、能力を把握出来るというのは不思議な感覚だったが雁夜はそんな事を気にしている余裕は無かった。本来であれば、聖杯戦争の要である自らのサーヴァントとの初顔合わせなのだから、取るべき態度と云う物がある。

 

 彼等英霊は単なる使い魔などでは無い。自らの意志を持ち、数々の武勇に彩られた超人である。それを従え、共に戦っていくとなれば、魔術師の側にも釣り合うだけの器量という物が求められる。

 

 絶対命令権たる令呪を有しながら、自らのサーヴァントの姦計によって死亡するマスターは数多い。令呪の使用は三度のみ。で無くとも、七騎もの敵と死闘を繰り広げるとなればマスターとサーヴァントの信頼関係は重要だ。

 

 しかし、雁夜はそのパートナーを見た瞬間、絶句していた。

 とは言え、それも自らのサーヴァントのクラスがバーサーカー、そして、全ステータスがEランク相当、スキルも皆無という絶望的な事態を目の当たりにしては致し方無い事であろう。

 

「何か言ってよ、マスターさん」

 

 少女の言葉で雁夜はやっと意識を取り戻す。

 

「ん、ああ、すまない。混乱していた。いや、今もしていると言った方が良いのかな。俺は確かに、かのライコウを呼んだ筈なんだ。触媒だって用意した。なのに何で、君みたいな少女が出てくる? 君は一体何者――」

 

 雁夜は少女に問おうとした。

 この時、確かに彼は混乱していた。

 召喚したサーヴァントが臓硯討伐の要である以上、召喚失敗は致命的なのだ。彼だけでなく、桜達の今後まで懸かっているのだから、彼が狼狽するのも無理はない。

 

 しかし、この対応は拙かった。

 自らのサーヴァントについて知ろうとするのは良い。

 だが――

 

 言葉の途中で雁夜は一歩飛び退く。少女の放った殺気、その視線に混じった冷たい物に彼の本能が警鐘を鳴らしたのである。幾ら弱いと言っても、この少女は紛れも無く、人知を超えた存在、英霊なのだ。

 

「アンタ、何も知らないみたいね。まぁ、そうでもなきゃ、私みたいなバーサーカーを呼び出す筈がないか。私が呼ばれるのは道理よ、マスター。その宝剣が呼ぶとすれば、あの男か、私以外にはありえない」

 

 少女はそう言うと、雁夜を睨め付ける。

 理性持つ狂戦士。この矛盾に、しかし、主である雁夜は気付かない。

 

 勿論、平時の彼であればそこに着目しただろうし、少女の言葉でその真名まで看破出来ただろう。狂化の発動しないバーサーカーなどありえない。そして、真名まで看破出来たなら、そのカラクリに気付く事も出来た筈である。

 しかし、この時雁夜は混乱していた。何より、彼は向けられた殺気に反応していた。

 

「先の殺気、お前化生の類か?」

 

 そう言った瞬間、雁夜の眼前に刃が迫った。

 

「なッ!?」

 

 咄嗟にしゃがんだ雁夜の頭上を旋回した鉈が通り過ぎ、コンクリートの壁に突き刺さる。見れば刀身の半分程までが壁中に埋まっていた。それに冷や汗を流すも束の間に、雁夜の視界が急降下し、側頭部に鈍い痛みを覚えると同時に止まる。

 少女が雁夜の頭を掴み、床に叩き付けたのだ。

 

「二度とそう呼ぶな。次は無いわよ」

 

 憤怒の形相で少女は怒気を撒き散らす。

 雁夜は拘束から逃れようと、頭を掴んでいる少女の手首を取った。力を込め、一瞬で捻り上げようとする。雁夜は少女の膂力を知っている。容赦するつもりは無かった。しかし、掴んだ腕は、力を入れれば折れそうな、女の細腕だった。

 

 だから、彼は咄嗟に手を放した。

 瞬間、床を映していた視界が今度は急浮上し、回転する。

 少女が雁夜を壁に向けて放り投げたのだ。如何なる膂力か、雁夜の巨体がいとも容易く宙を舞う。回転する視界に上下感覚が消え失せるも、雁夜は即座に身を捻り、痛烈に叩き付けられる筈だったコンクリートの壁面へと着地する。

 

 雁夜は顔を上げ、少女へと視線を向ける。二メートル近い雁夜の巨体を軽々と宙に放った腕は、しかし、歳相応の少女の物である。

 

“クソ、やりにくいな……”

 

 そこで雁夜は愕然とする。

 理由は透視能力にあった。

 

“どういう事だ?

 コイツ、さっきよりステータスが上昇している!?”

 

 少女のステータスが変化していた。先程は全てのステータスがEランクだった筈が、今は筋力がDへと上がっている。聖杯から与えられた透視の能力に間違いがある筈は無い。かと言って、見間違いや記憶違いでは決して無い。

 

“何らかのスキルか宝具か!?”

 

 雁夜がそう思い至った時、

 

「どうしたの、雁夜君? 凄い音がしたけど、大丈夫?」

 

 部屋の外から葵の声がした。音に驚いて起きてきたのだろう。

 彼女の声を聴いた瞬間、雁夜は全ての思考を放棄し、心を決めた。

 

“葵さんを巻き込む訳にはいかない!!

 速攻でケリをつける!!”

 

 雁夜は猫の様に身体を丸めると、壁を蹴って豹の如く跳躍する。雁夜は頭上より少女へと躍り掛かった。即座に少女が反応し、迎え撃つべく顔を上げる。

 

 その眼に映ったのは闇だった。

 雁夜の上着であった。跳躍と同時に脱ぎ滑らせた上着を少女へと被せ、その視界を封じたのである。同時に放ったガンドが、腰の大鉈を掴もうとした少女の手から握力を奪い去る。少女が取り落とした大鉈が床へと落ちた。

 

“良し、無力化した!! このまま一撃で、気絶させる!!”

 

 雁夜の拳が翻る。

 入る、という確信があった。避けられるタイミングでは無かった。

 しかし、拳に返ってくる筈の手応えは無かった。

 

 雁夜の拳は空を切った。

 正拳が捉えたのは自らの上着のみ。振り抜いた雁夜の腕には白い指が添えられていた。

 

“こ、こいつ、一瞥もせずに、流しやがっただとッ!?”

 

 少女は視界を閉ざされた状態で、雁夜の攻撃を逸らし、捌いてのけたのである。

 攻撃を空振った雁夜は跳躍の勢いのまま突き進む。空振りによって身体の泳いでいた雁夜に止まる事は出来なかったし、雁夜の突きを捌いた少女も、突っ込んだ雁夜自身は受け止められず、彼等は縺れ合って倒れ込んだ。

 

“膂力と言い、体捌きと言い、この女、相当やる!!

 流石は英霊という事か、面白い!!”

 

 雁夜は笑みを漏らす。

 戦闘に際してアドレナリンが脳髄を駆け巡っているのが自分で分かった。

 雁夜は少女が落とした大鉈へと目をやる。

 最も手近な武器であり、そして、敵に取られたなら致命的な凶器である。

 

“先ずはアレを確保する。取られそうなら蹴り飛ばす!!”

 

 雁夜は即座に手を付き、起き上がろうとする。

 

「キャア!!」

 

 短い悲鳴が身体の下から響いた。

 雁夜が目をやると、そこに少女がいた。

 真っ赤な顔で、涙目になって震えている。

 雁夜は嫌な予感がして、更に下へと目をやった。

 

 雁夜の手が少女の胸を掴んでいた。

 

「な、待て、誤解――」

 

 何が誤解なのか分からぬが、雁夜が慌てて弁明しようとした瞬間、バンと工房の扉が勢い良く開かれ、

 

「凄い音がしたけど、雁夜君、何があったの!?」

 

 顔を出した遠坂葵が叫んだ。

 雁夜にとっては最悪のタイミングだったと言って良いだろう。

 

 葵が見たのは、上半身裸で少女を組み伏せ、その胸に手を伸ばして笑う幼馴染の姿だった。

 雁夜がそちらを向くと、葵の陰に隠れ、凛と桜の姿も見えた。

 

「か、雁夜おじさん……」

 

 サー、と雁夜の頭に上った血が引いていく。

 

「な、これは違うんだ!! 誤解なん――」

「「変態!!」」

 

 女性陣の声が重なる。

 直後、バーサーカーの放った拳がこの上なく綺麗に雁夜の顔へと突き刺さった。

 





シリアス「死亡確認」


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悪鬼の王

 †††

 

「大江の山の鬼の王、“大山鬼王”酒呑童子」

 

 葵達が退出した後、一頻りバーサーカーから説明を聞き終え、雁夜は呟く様に言った。話の間、彼は再び正座させられている。結局、誤解が解けたのかどうかは分からず仕舞いであったが、雁夜は深く考えない事にした。葵に桜や凛に近付くなと言われると立ち直れる自信が無かった。

 

「ふむ、どうにも信じられないな。かの日本の鬼種の頂点が、こんなちんちくり――ッ!?」

 

 その言葉途中に、雁夜が目を見開く。その視界に映るは恐るべき速度で空を切って飛来する大鉈だ。先程よりも猶迅く投擲(とうてき)されたそれは、およそ人間に反応を許さぬ速度であった。しかし、

 雁夜は難なく迫り来る大鉈の柄を空中にて掴み取る。

 

「お見事」

 

 バーサーカーが手を叩く。

 

「成る程、こりゃあ凄まじい……。これがその酒の力か」

 

 雁夜は自らの手をまじまじと見詰める。力が満ち満ちているのが分かった。

 雁夜はふと宙を舞う虻を見とめると、握った大鉈を無造作に振るう。雁夜の腕から先がその速さ故に掻き消えた。だと言うのに、その体幹に一切のブレは無い。雁夜は自らの変化に一瞬戸惑い、次いで笑みを浮かべる。

 

“成程、これが宝具の力か。

 最早、臓硯など恐るるに足りない。

 死なぬと言うなら、死ぬまで殺してやる”

 

 最大の問題であり、此度の聖杯戦争の目的でもあった臓硯の討滅が自らの手で可能になった事を雁夜は確信する。自然と雁夜は凄絶な笑みを浮かべていた。

 雁夜の一振りが生んだ旋風に翻弄(ほんろう)され、(アブ)がふらふらと飛び去った。

 

「酔ってはいるんだが、普通の酒を呑んだ時とは随分違うな。何だか、不思議な感じだ」

 

 雁夜は虻から大鉈の刃先へと視線を映す。雁夜は刃先に微かに付着した汚れを指で拭う。その直後、宙を飛んでいた虻の身体がゆっくりとズレ、二つに分かれて床へと落ちた。

 

「そう。これが私の宝具。人を超人へと変える御神酒よ。マスターには特に効果的みたいね。今のアンタの膂力は英霊にも比肩するわ」

 バーサーカーはその手の赤い瓢箪(ひょうたん)を揺らす。恐るべき魔力と酒気がそこから迸っていた。

 英霊を伝説足らしめているのは、その英雄の人品、気骨だけでなく、逸話や武装といった“象徴”の存在にある。その象徴こそが、伝説の具現たる英霊の現身、サーヴァントが備える切り札にして、究極の一。俗に“宝具”と呼ばれる武装である。

 

 この赤瓢箪に入った酒こそがバーサーカーの宝具『神便鬼毒酒』。

 一口呑めば人には超人的な膂力を与え、悪鬼羅刹の類には毒と成りてその能力を封じる神酒である。神道における武神、海神、豊穣神の三柱が、酒呑童子討伐に赴いた頼光一派にその加護と共に授けた代物であった。

 

「成程、使えるな。で、今は伝承通り、これでお前の能力を封じ込めてる訳か?」

 

 雁夜が言った。

 この御神酒こそがバーサーカー、狂戦士が理性を持つと言う矛盾、そのカラクリの種である。

 

 バーサーカー、狂戦士のクラスとして召喚されたサーヴァントは如何なる英霊であれ狂化のスキルを持ち、強力なステータスを誇る代わりにマスターとの意志の疎通が困難となる。また、マスターを度々枯渇死させる程、非常に多くの魔力を消費する様になる為、真っ当な術者からは嫌厭(けんえん)されがちなクラスである。

 

 真っ当な、と言ったのは、脆弱な英霊しか召喚出来ぬ魔術師が狂化の属性を付加させる事でその能力を底上げする為に、バーサーカーのクラスを狙う事が(まま)あるからだ。

 ともあれ、通常狂化しているバーサーカーと意思疎通が取れる筈は無い。

 

「ええ、その通りよ。と言っても、それだけじゃあ無いんだけど。ともかく、腹立たしい事にこの御神酒は私みたいな反英霊に対しては毒として働くわ。とても美味しいんだけどね。ステータスが下がるだけじゃなく、スキルも封じられる。難しいでしょうけど、反英霊が敵として召喚されていたら呑ませるのも手よ。弱体化させられるわ」

 

 バーサーカーが言った。

 今、バーサーカーは酒の力によって狂化のスキルを封じる事で、その理性を取り戻しているのである。無論、万能では無い。代わりに彼女はその能力の大半を失う上、酔っ払っている。戦闘能力の殆どを失っているのだった。

 

「酔いが醒めると力も戻るのか?」

 

 雁夜はふと思った事を聞いた。バーサーカーの事と、彼自身の事だ。

 バーサーカーは頷くと、雁夜の手に宿った令呪を指差す。

 

「ええ、段々とね。だから、細かい調整は無理だと思ってくれた方が良いわ。基本的に私はこの状態でいるから、切替が必要になった時は、令呪を使いなさい。それで私は逸話通りの力を振るう事が出来る」

「俺の魔蟲を使えば、血中のアルコール位操作出来る。入れてやろうか? そうすれば令呪だって使う必要は――」

「絶対イヤ!! 気持ち悪い。勝手に食事に蟲の卵とか混ぜたら殺すわよ!!」

「わ、分かったよ」

 

 雁夜は良い手段だと思ったのだが、バーサーカーは赤ら顔を更に赤くして激昂した。常人が間桐の魔術に対して生理的険悪感を抱くのは無理からぬ事であろう。彼女の台詞は尤もである。

 雁夜はバーサーカーの気迫に押されてたじたじになった。

 

「と言うか、これはそんな魔術で操作出来る類の物じゃないわ。一つ忠告するけど」

 

 バーサーカーは雁夜をビシッと指差す。

 

「この御神酒を呑む時は、舌を湿らせる程度に止めなさい。一度醒めて酔いが抜けるまで、絶対に続けて呑んじゃダメ!!」

「何故だ? 呑めば呑むほど強くなれそうだけど」

 

 雁夜は頓狂な口調で首を捻る。

 バーサーカーは呆れたとばかりに額に手を当てる。

 

「アンタ、人間でいられなくなるわよ。今のアンタは一口呑んで豊穣神の加護を得た状態。全身に力が漲り、魔力が迸ってる。そこで止めときなさい。それ以上は、戻れなくなるわ」

「……分かったよ。忠告として受け取ろう」

 

“つまり、最後の手段、とっておきって事か……”

 

 雁夜は全く理解していなかった。否、理解した上で、そう考えている。

 雁夜は自らの手を見る。

 全身から溢れんばかりの魔力は魔術回路を淀みなく流れ、全身に寄生した魔蟲群をその限界を超えて活性化させている。酒気による多幸感は恐れを消し去り、酔っ払っている筈なのに精神が研ぎ澄まされていくのが分かる。脳のリミッターは麻痺していた。

 

 成程、確かにバーサーカーの言葉は頷ける。

 これは戻れなくもなるだろう、という直感があった。

 雁夜は苦笑し、話を変える。

 

「しかし、バーサーカー、お前、もうちょっと試し方という物があるだろう?」

 

 先の投擲、もし掴み損ねていれば、今頃雁夜の頭部は真っ赤な柘榴(ザクロ)となっていたに違いない。しかし、バーサーカーは冷やかに言い放つ。

 

「口は災いの元よね」

 

 顔はあどけない少女その物だが、酒を片手に大鉈を投げ付ける様は如何にも凶悪その物である。雁夜は何か文句の一つも言おうと暫し言葉を探したが、溜息を一つ溢して両手を上げた。

 

「あー、分かった、悪かったよ」

 

 嘆息している様で、その口角が釣り上がるのを彼は止めれなかった。どうしようもなく浮かび上がる喜悦の笑みだ。彼は一刻も早く自らの力を試したくて仕方が無かった。

 来たるべき臓硯との対決に、心が打ち震えているのが分かる。

 

「よろしい。ま、気持ちは分からないでは無いわ。私の伝説は大分湾曲されちゃっているから……」

 

 バーサーカーの言葉はその最後は呟きとなって聞こえなかった。しかし、彼女のその横顔に雁夜は昂っていた気持ちがひゅっと冷え込むのを感じた。憎悪と諦念の混じった瞳。つい最近見た瞳と同種の物だ。とてもそれは歳相応の少女の物では無い。

 

 事情を知っている訳では無い。

 それでも、雁夜は胸が締め付けられるのを感じた。

 会って間もない、何処かの誰かの不幸を悼む。

 

 それは恐らく、闇に属し、真理の探究に耽溺(たんでき)する魔術師には適さない感情だ。しかし、間桐雁夜という一個を形作る欠かせない要素である。間桐の魔術を修め、魔蟲の巣窟と化した雁夜に、未だ人間と言う物が残っているとすれば、それはその精神をおいて他に無い。

 雁夜は努めて力強く言った。

 

「じゃあそれも正そう。本来、聖杯は俺とお前の二つの願いを叶えられる筈だ。なら、俺の分はそれに回すよ。聖杯が真に万能なら、その程度何て事ない筈だ」

「なによ、それ。アンタには何も叶える願いが無いって言うの?」

 

 バーサーカーは目を細め、まるで信じられないという表情で言った。喜怒哀楽を隠す事の無かった目の前の少女が、ハッキリと警戒しているのが分かる。

 

「ああ、その通りだ。俺は特に聖杯に掲げる望みは無い。聖杯戦争を諸々の決着に利用したいだけだからね。悪いけど、それには付き合ってもらう。その代わり、聖杯はお前が望みを叶えるのに使えば良い」

「何よ、その諸々の決着ってのは?」

「因縁の清算さ。それ以上は言えない。言いたくない。話して愉快な内容じゃないから聞かないでくれると助かる」

 

 雁夜は首を振った。

 腐り切った間桐の因習を語る気にはならなかった。葵を巡る時臣との一方的な因縁を話す気にはなれなかった。それは気軽に話すには、雁夜の内側に深く根を張り過ぎていた。

 

“望みは無い……。

 それはきっと嘘じゃあ無い。

 だが、真実でも無い。

 本当は、俺はきっとあの日をやり直す事を望んでいる”

 

 それは雁夜の偽らざる本音である。

 ここ数日、葵達と暮らして雁夜はそれを悟っていた。

 結局の所、雁夜は諦め切れて等いなかった。望みは無いなど大嘘だ。彼はあの日の続きを望んでいる。桜の事で時臣をぶん殴るなど良く言ったものだ、と雁夜は思った。

 

 自分は嫉妬に狂っている。

 自分の欲しい物を全て持っていて、それを投げ捨てようとしている時臣を許せないでいる。それは彼女達の為でも何でもない、雁夜の私怨だ。

 だが、と雁夜は思う。

 

“だからこそ、俺は時臣と雌雄を決しなくてはならない。

 桜ちゃんの為に、彼女の父親である時臣を殴り付けねばならない。

 葵さんの為に、彼女の夫である時臣を殴り倒さねばならない。

 嘘を真実に変えてしまわねばならない。

 薄汚い俺の精神が、どす黒く淀んだ理想が、尊い過去を塗り潰してしまう前に。

 あの日の誓いを嘘にしてしまわない為に”

 

 我知らず握り締めた拳がミシリと音を立てた。

 すーっと回っていた酔いが醒めていく。

 そんな雁夜の表情を見て、バーサーカーは言った。

 

「分かった、聞かないわ。ただし、一つだけ約束しなさい。貴方の戦いには付き合ってあげる。でも、聖杯戦争で敗北する事は許さない。その時は死んでもらうわ」

 

 バーサーカーの瞳は真剣で、切羽詰まった物を感じさせる。

 彼女は雁夜が蟲蔵に入った時と同じ目をしていた。

 それは何かを決意した者の目だ。

 聖杯戦争に招かれる英霊は皆、願望を抱き、聖杯の奇跡を求めている。否、それは英霊だけでは無い。マスターもだ。皆、渇望の果てに奇跡に(すが)る。

 

 大江山酒呑童子伝説。

 それは武将、源頼光が極悪非道を尽くす悪鬼を討伐するという英雄譚。

 大江山に集った悪鬼の頭領、酒呑童子は妖術を操り、多くの人々を攫って喰らい、都を恐怖のどん底に陥れる。これに対して立ち上がったのは源頼光とその配下。

 

 頼光四天王の筆頭にして無双の剣豪、渡辺綱。都一の弓の名手にして占術にも長じた傑物、卜部季武。観音菩薩の加護と怪力で知られる大鎌使い、碓井貞光。雷神の子であり、剛勇で知られる武人、坂田金時。武芸百般は元より、あらゆる芸事にも通じた笛の名手、藤原保昌。

 

 総勢六名。いずれ劣らぬ英雄、英傑である。彼等のいずれもが、それぞれ各地の鬼や妖怪等の魔性の類を討滅した逸話を持っている事からもその実力は想像に難くない。

 間違い無く、日本最高の退魔の英雄達である。

 

 頼光は三神より授かった神便鬼毒酒を酒呑童子に呑ませ、源氏の重宝童子切によって酒呑童子の首を斬り落とした。酒呑童子はその最期、首だけになっても猶、頼光へと喰らい付き、遂に敵わぬと悟ると呪詛の念を吐き出したと云う。

 

 英雄に斬り殺された鬼の王。

 そんな反英雄が望む事。

 自らに従う鬼共の復権か。自らを殺した英雄への復讐か。

 ぱっと思い付くのはそんな所だったが、それでも、雁夜は目の前の少女を信じる事にした。雁夜には、どうにも目の前の少女が伝説で語られる悪鬼の王とは思えなかった。

 雁夜は自らの胸板を叩いて頷いた。

 

「分かった。なぁに、大丈夫さ。俺は、いや、俺達は強い」

 

 雁夜は獰猛な笑みを見せる。

 

“そうだ。負ける訳にはいかない。

 如何なる英雄が相手でも、俺は死ぬ訳にはいかない。

 俺には帰る所がある。

 連れて帰らなきゃいけない奴がいる。

 待っている人がいる”

 

 雁夜は遠坂葵の事を考えると力が湧いてくるのを感じた。

 バーサーカーは彼から視線を外し、一つ嘆息した。

 

 

 †††

 

 

「いやに、静かだな……」

 

 雁夜はそう吐き捨てる。

 間桐邸へと忍び込んだ彼等を待ち受けたのは、ただの静寂であった。侵入者に対して結界が反応した感覚すら無い。腑に落ちぬ話ではあったが、足踏みしている訳にはいかない。雁夜は警戒しつつ間桐邸の最深部、臓硯の工房である蟲蔵を目指して歩みを進める。

 

 一頻り召喚したバーサーカーとの遣り取りを交わした後、雁夜は直ぐに彼女を連れて、臓硯を討つべく間桐邸へと侵入した。英霊を召喚し、宝具によって強化された今、最早雁夜が臓硯に後れを取る理由は皆無である。

 

 臓硯が雁夜の英霊召喚を察知して逃げを打つ前に、仕留める腹積もりであった。

 雁夜の予想では、間が開いた事で臓硯は以前に増して間桐邸の護りを強化しているものと思っていた。しかし、新たに敷設された結界は愚か、防衛の為に設置された魔蟲の一匹すらいない。

 

「随分、辛気臭い所ねぇ……。気が淀んでる」

 

 間桐邸内部を見てバーサーカーが言った。

 

「奥に行く程、淀みは酷くなる。気を抜くな」

 

 そうは言ったものの、崩れ落ちた梁、床や壁に染み込んだ血の跡、臓硯との死闘の痕跡を見て、期を逸した事を雁夜は悟る。

 

“遅かった……。

 この反応の無さは間違いない。

 臓硯は既に間桐邸を離れている”

 

 恐らくは雁夜の報復を(おそ)れたのだろう。令呪が宿り、英霊を召喚した事を悟られたのかも知れない。そもそも先日、雁夜が暴れ魔蟲共が壊滅した事で蟲蔵に拘泥する理由が無くなったのだろう。

 

「ハイハイ、そっちこそ仏頂面で考え込まないでよ。ここは仇敵の塒なんでしょ?」

 

 どこ吹く風とばかりにバーサーカーは瓢箪の酒を一口煽る。

 

「ああ、その筈だ。その筈だったが、気配が無い……」

 

 ギリ、と雁夜は奥歯を噛み締め、腰に差した太刀を強く握り締める。

 その様子を横目に、バーサーカーは躊躇いがちに聞く。

 

「うーんと、ねぇ、聞いて良い? その、臓硯って奴の事。さっきこの家の表札に間桐とあったわ。ねぇ、雁夜、アンタの名字も間桐だったわよね」

「言いたくないって言っただろう?」

 

 雁夜は仏頂面で答える。すると、その態度を不服とバーサーカーは口を尖らせた。

 

「協力する以上は、聞いておくべきだと思うんだけど。ほら、私、アンタの私闘に巻き込まれてる訳じゃない」

「あー、ああ……、そうだな。その通りだ」

 

 雁夜はガリガリと頭を掻くと、前を向いて歩きながらポツポツと話し始めた。バーサーカーの顔は見なかった。こちらの顔も見えない様に前に出た。口調も変えぬ様に努める。

 召喚したばかりのサーヴァントに対し、誰にも話した事の無い心中を吐露する。

そんな時どんな顔をすれば良いか、彼には分からなかった。

 

「実家だよ。ここは俺の生家だ。俺はここで生まれ、ここで育った。ここ、間桐の家は蟲を操る魔術の家柄でね。この奥にある蟲蔵には数え切れない程の魔蟲が蠢いてた。魔術回路の拡張の為、俺がこの蟲蔵に入ったのは十を数える前だったな……。地獄の日々だったよ」

 

 間桐の魔道という名の腐った因習。

 繰り返される肉体と精神への蹂躙と凌辱。

 蟲に(なぶ)られ続ける日々。

 

 それを語る雁夜の暗い精神に呼応して、体内の吸孔蟲が俄かに活性化を始める。

 廊下を突き当たると彼等は蟲蔵への階段を下りていく。周囲に人の気配は無かった。蟲蔵に未だ残っているのだろう少数の魔蟲の気配のみが在る。

 やはり臓硯は既に身を隠してしまったらしい。

 雁夜はショックを受けつつも、確認の為に階段を下りながら、話を続けた。

 

「間桐の家に生まれた者にとって親父は、臓硯は絶対者だった。ここは奴自身の不老不死の為の手駒を育てる養殖場だった。俺は才能があったらしく、色々と仕込まれた。兄貴は才能が無かったから捨て置かれた。間桐の財産目当てに、まだこの家で臓硯の使い走りをやらされているみたい――」

 

「使い走りとは酷い言い草じゃあないか」

 

 不意に蟲蔵の奥の闇の中から声が響いた。

 掠れた様な声だった。どこか危うい物を含んだ声色だ。

 聞き覚えのある声だった。声の主を雁夜は知っていた。

 

 雁夜は即座に腰の太刀の柄へと手を伸ばす。同時にバーサーカーも大鉈を抜き放ち、神便鬼毒酒の入った赤瓢箪を雁夜へと放って寄越す。受け取った雁夜が即座に一口煽ろうとすると、バーサーカーがジト目で釘を刺した。

 

「言っとくけど、舐めるだけだからね。絶対にがぶ飲みしないでよ」

「ッ、はいはい、分かったよ」

 

 雁夜は一口、御神酒を嚥下する。

 即座に全身から溢れんばかりに魔力が迸り、体内に巣食った魔蟲共が限界を超えて活性化する。魔力が魔術回路を淀みなく流れ、全身の筋肉が脈動し、そこへ酸素を送り込むべく鼓動が加速していく。戦闘への予感に闘争心が沸き立ちつつも、脳の血管に冷却材を直接ぶち込まれたかの様にその思考は冴え渡り、恐怖心は酩酊していた。

 

 雁夜の全身に青黒い罅の如く怒張した魔蟲の経絡が浮かび上がり、彼は完全に臨戦態勢へと移行する。

 

「使い走りだと思ったが違ったのか? それとも、気に障ったか? ああ、この間は殴って悪かったな、兄貴」

 

 雁夜の言葉に、蟲蔵の奥、闇の中から一人の男が進み出る。

 

「全くだ。不意打ちなんて酷いじゃあないか。それと言葉には気を遣えよ。今の私は間桐の魔術の正当後継者だ」

 

 病人の様に白い肌と白髪に全身に浮き出た青白い血管模様。

 現れたのは幽鬼の如き形相、風体の男であった。

 間桐鶴野。

 雁夜の実兄である。

 

「まさかとは思ったが、間桐の術を学んだのか?」

「ああ、そうさ。何処かの誰かが失踪したせいでな。俺に御鉢が回ってきた」

 

 鶴野の顔が歪む。

 瞬間、雁夜の背に冷たい物が奔った。

 

 蠢いていた。

 

 鶴野の皮下で数え切れぬ程の魔蟲が蠢動(しゅんどう)し始めたのだ。鶴野の全身が歪み、その肌が不規則な隆起を繰り返す。同時に僅かばかり感じていた魔蟲の気配が爆発的に増大する。

 

「グ、ガ、痛ェ、痛ェンだよ、クソが。グ、ギャ、ガァアアア、糞、痛ェ。痛ェよ、畜生!!」

 

 鶴野が悲鳴を上げ、気が触れたかの如くその身体をビクビクと震わせる。発作の如き震えはやがて収まり、鶴野は雁夜を見据える。

 

「お、お前……」

「俺がこんな事になったのはお前のせいだ。お前が失踪なんてしたから、今になって帰ってきて、親父に逆らうから。お前、お前がッ!! お前のせいだッ!! 雁夜ァ!!」

 

 鶴野は狂気を剥き出しにして増悪の視線を雁夜へと向ける。

 視線は鶴野の物だけでは無かった。

 その皮膚を貫いて無数の魔蟲が顔を出していた。無数の魔蟲の複眼が雁夜を捉えていた。

 

「な、何よ、この化け物……」

 

 バーサーカーが絶句する。

 彼等の前に立つ男は最早人間では無かった。

 不規則に蠢動する全身。不意に肌を突き破って生える節足に顎。

 臓硯と、雁夜と同じ魔蟲の巣窟と化した怪物が立っていた。

 

「バーサーカー、悪い。手を出すな。コイツは……俺がやる」

 

 雁夜が一歩前に進み出る。

 その時だった。

 

「カカカッ、どうじゃ雁夜。ワシの作品は?」

 

 臓硯の声が蟲蔵に響いた。

 雁夜は咄嗟に周囲を見渡すが、その姿は無い。

 

「臓硯、貴様……」

「カカッ、凄んでも無駄じゃ、そこにはおらんよ。それよりどうじゃ鶴野は。貴様が消えて十年。ワシが手塩にかけて改造した自身作よ。刻印蟲を大量に寄生させ、一応は間桐の魔術師として作っておったのじゃがな。

 桜が手に入って用済みになってからは方向を変えてのぉ。どうじゃ、体内の魔蟲の孵化から爆発的に変質し、僅か一週間でここまで至る。想像すらしていなかったじゃろう?

 カカッ、やれ、鶴野。雁夜を万一殺せれば、解放してやるぞ」

 

 臓硯の言葉が終わると同時に、鶴野が跳び上がり、反転して蟲蔵の梁へと逆さまに着地する。そして、その背を突き破った巨大な蜘蛛の物に似た脚が梁へと突き刺さった。

 鶴野だったモノの全ての眼が頭上から雁夜を捉える。

 底冷えする声が蟲蔵へと響いた。

 

「雁夜、お前もぶっ壊れるべきなんだよ。安心しろ、兄ちゃんがちゃんとぶっ壊してやるからなァ。頭潰して、腸引きずり出して、喰ってやる。カカッ、殺してやるぞ、雁夜ァ」

 

 間桐鶴野が頭上より襲い掛かる。

 戦闘が開始した。

 



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間桐の術者(前)

 †††

 

 

 蛞蝓(ナメクジ)の様に地を這った。

 蟲蔵の奥、闇の中で懸命に地を這う。

 一昼夜蟲共に嬲られ続けた少年に起き上がるだけの力は無かった。

 

 朦朧とした意識で身体を引き摺って蟲の中から這い出るべく進む姿は蛞蝓のソレだ。全身にこびり付いた蟲の粘液が這った後を線となって教えてくれる。

 どんなに不格好でも少年は気にしなかった。

 

 そんな余裕も無かった。

 彼は生きる為に、ただ動いている。

 十数年前、寒い夜の事である。

 

 少年は蟲蔵から這い出ようとした所で、遂に力尽きた。

 最早、指一本動かなかった。

 

「う……ああ……」

 

 寒さで震え、声を出そうとするが言葉にならず、小さな呻きが口から漏れただけだった。

 遂に死が間近に迫ってくる。しかし、危機感は無かった。生存本能すら既に働かなかった。感覚は随分前に死んで久しい。痛みも失せた。

 

 ゆっくりと少年の身体から体温が失われていく。

 ただ、寒かった事を覚えている。

 

 腕を誰かが掴んだが、少年は反応しなかった。

 引き摺られ、担がれて蟲蔵から引き上げられる。

 床板の上に寝かされ、冷え切った少年の身体に毛布が掛けられる。

 次第に暖かさが痛みとなって全身を襲い始め、少年は呻きを上げた。

 

「大丈夫か、雁夜。待ってな。今、兄ちゃんが温かい物持ってきてやるから」

 

 声がした方向に目を向ける。

 朦朧とした意識で少年、雁夜が最後に見たのは、彼の兄の、鶴野の背中だった。

 十年以上前、遠い昔の話である。

 

 

 †††

 

 

「ぶっ殺してやるぞ、雁夜ァ!!」

 

 雁夜の遥か頭上、蟲蔵の梁へと取り付いた鶴野が吼える。同時に皮下を体内に寄生した魔蟲が蠢き、その身体が不自然な隆起を繰り返す。その背を裂いて更に左右二対の節足が突き出た。長さ二メートル程の節足は蟲蔵の梁と壁へと伸び、鶴野の身体を空中に固定する。

 

 鶴野の全身に切れ間が入り、更に魔蟲の鋏角や顎、複眼が顔を出す。悍ましきその姿は最早人間のソレでは無い。そして、その戦闘能力も。

 雁夜は鶴野を見据え、一歩前に出る。

 

「やってみろ。アンタには無理だよ、兄貴」

「カ、カカッ、良いだろう、試してやるよ。間桐から逃げた裏切者がァ、どこまで持つかなァ!!」

 

 咆哮と共に、鶴野の背から周囲へ伸びていた脚が折り曲げられ、跳ねた。

 蟲の跳躍力。凄まじい速度で雁夜の背後へと真っ逆さまに落下した鶴野は、しかし、自らの足で着地する。床の石畳が衝撃に砕け瓦礫と粉塵が宙に舞う。

 

 雁夜が振り返ると同時に、宙に舞った粉塵を裂いて節足が瞬いた。鶴野の背中から生えた三本の節足が雁夜へと、そして残り三本が壁へと奔ったのである。

 

「なッ!?」

 

 寸での所で、雁夜は身を躱す。節足から生えた鉤爪が雁夜の頬を肩口を脇腹を裂き、鮮血が飛び散る。躱された事で雁夜の横を抜けた節足はその勢いのまま石畳を打ち抜いた。節足が石畳へと深々と突き刺さっていた。

 

 恐るべき切れ味と威力である。咄嗟に回避していなければ、節足は雁夜の身体を貫通していたに違いない。だが、

 

 雁夜が腰の太刀を抜き放ち、銀光が瞬く。空中に弧を描いた刃は鶴野の節足の一本を斬り飛ばし、切断面から魔蟲の体液が噴き上がる。

 直後、粉塵と緑の血煙の中、六つの火花が散った。

 

 床へと突き刺さっていた節足が、石畳を抉り飛ばしながら雁夜へと迫り、弧を描いた銀閃と打ち合わされて宙に二つの火花を散らせた。互いに弾かれた刃と鉤爪が即座に舞い戻り、更に彼等は四度切り結ぶ。

 

 信じ難い事に鶴野から生えた節足の鉤爪は、雁夜の持つ宝刀と打ち合えるだけの硬度と切れ味を持っていた。そして、魔蟲の膂力(りょりょく)。石畳すら膾の如く切り刻む節足の旋風は、人間を輪切りにするに十二分の威力を秘めている。

 

 パッと鮮血が舞った。受け損ねた鉤爪が雁夜の大腿の肉を削ぎ落としていた。

 

「どうした、雁夜? もう終わりかァ!!」

 

 がくり、と雁夜の身体が沈み込む、その好機を逃さぬと二本の節足が振り上げられ、即座に反転。恐るべき速度で節足が脳天を叩き割るべく雁夜へと振り下ろされ、

 爆砕された石畳が破片を撒き散らした。

 

「その隙はワザとだよ。蟲の力に頼り過ぎだ」

 

 振り下ろされた節足を潜り抜け、前に出た雁夜は鶴野へと肉薄していた。鶴野にとっては何が起こったか分からなかったに違いない。彼は雁夜から目を切ってはいない。確かに雁夜は動き出していなかった。降り注ぐ節足を回避出来た筈が無いのだ。

 

 縮地と呼ばれる歩法がある。

 その根幹は落歩と呼ばれる重心移動と化勁と呼ばれる身体操作にある。即ち重心を自らの前に置く事で、相手に向かって落下する様に踏み込む落歩。そして、踏み込む力と落下のエネルギー、そして地面からの反発力。自らの体内で生じる力の方向を操る中国拳法に云う処の化勁。

 

 その二つによって、初動に生じる力を全て前進のエネルギーへと変じた神速の踏込み。これを敵の視点移動に合わせる事で四肢の駆動を悟らせず、下肢の筋肉と摺足のみで行った時、正対した相手はまるで地が縮んだかの様に錯覚する。

 

 故に縮地。

 肉薄した雁夜の横薙ぎの一刀が煌く。

 勝利を確信していた鶴野には最早防御も回避も不可能であった。

 

 剣閃は鶴野の胴へと真っ直ぐに吸い込まれるように奔る。雁夜の一刀は鋼鉄すら切り裂く剛剣。鶴野の胴を容易く両断せしめるだろう。勝負はあった。

 無論、それは相手が人間ならばである。

 

「その程度、遅ェンだよ!!」

 

 間桐鶴野は人間では無い。既にもっと悍ましき何かへと変貌している。

 瞬間、鶴野の胸部を貫いて飛び出た節足が雁夜へと奔った。

 二人の影が交差し、一拍の沈黙の後、

 

「ガッ、ガハッ」

 

 雁夜の吐瀉(としゃ)した鮮血が、鶴野の顔を真っ赤に染めた。

 鶴野の胸部から飛び出た飛蝗の脚に似た節足はその一本が雁夜の放った横薙ぎの一刀を受け止め、もう一本が雁夜の腹へと深々と突き刺さっていた。雁夜の手から太刀が落ち、ガシャと音を立てて床へと転がった。

 

 雁夜の縮地は正に魔技と呼ぶに相応しい物であったが、所詮は対人用の技術、鶴野の持つ無数の蟲の複眼には通用しない。

 

「残念だったな。このままその腹を裂いてや――」

 

 鶴野は勝ち誇り、醜悪な笑みを浮かべる。瞬間、その背に冷たい物が奔り、鶴野はその口を止めた。同時に、雁夜が浮かべたるは勝利を確信した凄絶なる笑みである。

 

 咄嗟に鶴野は動こうとして動けなかった。雁夜の腹に刺さった節足が、その腹筋に締め上げられてビクともしないのだ。雁夜の背なから腕にかけての筋肉がボコリと隆起する。

 宛らそれは引き絞られたボーガンの弦であった。

 

「鞍馬金剛流抜刀術・窮奇(きゅうき)

 

 雁夜は脇差しを掴むと同時に全身の力を解き放つ。体幹より生じた力が背なから腕、足へと流れ一刀が煌いた。鞘走って瞬く銀閃は、腹部の傷の影響など一切見せぬ神速の抜刀術。

 

 刃先は疎か腕の振り、否、その体捌きすら視認出来ぬ一斬は、しかし、一瞬の銀光だけを残して空を切る。否、正確には鶴野の胸部から出た節足のみを両断していた。

 緑色の体液を両断された節足の断面から撒き散らしながら、鶴野は空中へと退避する。

 

「カッ、今のは危なかった。危なかったぞ」

 

 雁夜は笑みを浮かべたまま、舌打ちを一つ。

 自切である。

 昆虫等の節足動物にしばしば見られる自衛機能。自らの脚を自ら切り捨て、切り離す事で敵の注意を引き、本体が捕食されるのを防ぐ反応だ。

 

 鶴野は咄嗟に、胸部の節足を自切し、壁へと突き刺していた背の節足を折り曲げる事で自らの身体を空中へと跳ね上げ、雁夜の一刀から間一髪逃れたのである。

 

「冷や汗掻かせやがってよォ。さァて、その腹の傷でどこまで凌げるか――」

 

 勝ち誇る鶴野の言葉の途中、衝撃と共に鶴野を空中へと固定させていた背の節足が千切れ飛び、跳び上がった影と鈍色の瞬きがその背後を取った。

 

「見てらんないわね。アンタ、私のマスターに何してくれてんのよ」

 

 今まで勝負を静観していた雁夜のサーヴァント、バーサーカーである。

 彼女はこれまで手を出す気は無かった。これは雁夜の私闘であり、言葉の節々からその只ならぬ因縁が見て取れたからだ。マスターが手を出すなと言うのなら、横槍を入れるべきではないと彼女は思っていた。

 

 しかし、そのマスターが危ないとなれば話は別だ。

 バーサーカーは雁夜を死なせる訳にはいかなかった。まだ聖杯戦争は始まってすらいないのだ。これ以上は彼の事情を斟酌している場合では無い。

 

「終わりよ。死になさい」

 

 バーサーカーの大鉈が翻り、鶴野の頭部へと振り下ろされる。

 不意を突かれ、全ての節足を失った鶴野にそれを回避する術は無い。

 死、が彼の頭を過ぎった瞬間、

 

「やめろッ、バーサーカー!!」

 

 雁夜の咆哮が蟲蔵へと響き渡った。

 サーヴァントとしてマスターの窮地を救った筈が返ってきたのは想像だにしなかった怒号である。吃驚(ビックリ)したバーサーカーが咄嗟に身を竦め、その動きが止まる。鶴野の頭を両断する筈だった大鉈は振り切られる事無く宙を彷徨い、その刃先の重さで彼女の体勢が崩れた。身体が流れ、落下する。

 

 鶴野が振り返る。その眼が合った瞬間、バーサーカーの背を怖気が駆け抜けた。一切の感情を映さぬ蟲の複眼が彼女を捉えていた。

 鶴野が口を開く。そこからずるりと蟷螂(カマキリ)の鎌に似た蟲の斧刃が滑り出た。鶴野が首を振る。それに併せて飛び出た大鎌が弧を描き、バーサーカーの首筋へと奔った。

 

「ッ、このッ!!」

 

 咄嗟にバーサーカーは大鉈を立ててその腹で大鎌を受けた。重い。刃から柄、腕と駆け抜けた衝撃が脳髄へと響く。奥歯を噛み締めて耐えるも、空中に在っては踏ん張る事も出来ず、小柄な彼女は弾き飛ばされ真っ逆さまに落下する。

 

 向かう先は石畳だ。

 叩き付けられる。反転して着地の体勢を取ろうとして、視界を流れる景色の速度から無理だと悟る。激痛への予感は、しかし、裏切られた。

 

 横合いから飛び出た巨大な影が間一髪でバーサーカーの身体を抱き留めたからだ。

 彼女は自らを抱く腕の岩の様な感触に驚き、暫し目をパチクリと瞬かせていた。

 

「おい、バーサーカー、大丈夫か!?」

 

 彼女が顔を上げると、目の前に心配そうに顔を覗き込む雁夜の顔があった。ザンバラ髪の間で不安気な瞳が揺れていた。

 バーサーカーはボッと赤ら顔を更に赤らめ、抱き留める雁夜の腕を振り払って叫ぶ。

 

「なッ、ア、アンタ、一体どういうつもりよ!? アンタが大声出さなきゃもうちょっとで――」

「ああ、悪かった。だけど、言った筈だ。俺がやると。下がっていてくれ。アレがああなったのは俺のせいなんだ。アイツがあんなモノに成り果てたのは俺のせいだ。だから、俺がやらなきゃあならない」

 

 雁夜はバーサーカーにそれ以上言わせなかった。彼は腕の中からバーサーカーを降ろすと、真剣な面持ちで空中に静止した鶴野へと向き直る。

 鶴野は正に空中に静止していた。

 

「な、何よ、アレ。一体どうなって――」

「糸だ。体内に寄生させた魔蟲の吐き出した糸を天井の梁や壁に付着させて浮いている。まさか、そこまで自在に体内の魔蟲を操れる様になっているとはな……」

 

 驚嘆の声を上げるバーサーカーに雁夜が言った。

 雁夜は努めて冷静を装う。しかし、驚嘆の念に包まれているのは彼も同じだ。

 雁夜の頬を冷汗が伝う。

 

 見えない。

 原理は雁夜の語った魔蟲の糸による物で間違いないが、鶴野から伸びている糸は薄暗い蟲蔵の闇に溶け込み、強化された雁夜の視力を以てすら全く視認出来なかった。

 

 雁夜は蟲の技について遥か鶴野の上を行っていると思っていた。才に劣り、魔術の修業を科される事も無かった鶴野に後れを取る訳が無い。そう自惚れていた。

 ひうん、ひうん、と何かが空を切る音がする。

 

 直後、飛来した何かが雁夜の横を抜け、背後の石壁を数メートルに渡って横に裂いた。余りにも鋭く、不可視の斬撃であった。謎の斬撃が掠めた雁夜の頬が横一文字に裂けて、ツーと血が頬を伝う。

 鶴野の笑い声が蟲蔵に木霊した。

 

「カ、カカッ、御名答。俺の体内に巣食う蜘蛛の糸だ。だが浮くだけが能じゃねェ。操蟲術・結界糸。さっきは危なかったからなァ。腕斬られたお返しだ。バラバラにしてやるよ」

 

 再び、ひうんひうんと糸が空を切る音がする。

 重なり合う無数の音は先程の比では無い。

 不意に雁夜の腕が裂けて鮮血が噴き出る。次いで肩、足と切り裂かれ、血風が舞う。立ち止まるのは拙いと判断し、距離を詰めようとした雁夜の胸が不意に裂け、彼はその足を止める。

 

 囲まれていた。

 既に雁夜の周囲に無数の糸が張り巡らされていた。

 それが踏み込んだ雁夜の胸板を切り裂いたのだ。その鋭さ、強靭さはピアノ線の比では無い。目に見えぬ程細く、剃刀よりも鋭い糸。下手に動けば(なます)に切り刻まれるだろう。

 

 体内に寄生させた魔蟲が生成した蜘蛛糸による斬撃の結界陣。以前、蟲蔵にて臓硯が用いた物とはまるで違う。これは間桐の魔術修業に明け暮れた逐電する以前の雁夜にも、遂に不可能だった技である。雁夜には分かる。否、彼にしか分からないだろう。

 

 力と引き換えに、鶴野は数え切れぬ程に多くを犠牲にした筈だ。

 雁夜は鶴野を見上げる。

 白くなった髪、内出血の痕がそこかしこに見られる青白い肌、白濁した目。

 身体は全身ボロボロで、代わりに無数の魔蟲が蠢く醜悪なる姿。

 ぞわり、と雁夜の背に冷たい物が奔った。

 

「さァて、行くぜ。操蟲奏・結界糸」

 

 鶴野が言うと同時に雁夜の太腿が裂けた。勢いよく噴き上がった筈の血は、しかし横へと流れた。同時に雁夜の身体が蟲蔵の壁へと向かって横に跳ね飛んでいるからだ。自らの意志では無い。恐るべき力で引き寄せられているのである。

 

 向かう先に待つのは石の壁、そして、張り巡らされた斬糸の渦。斬糸の只中へと突っ込んだ雁夜の全身から鮮血が迸り、その勢いのまま壁へと叩き付けられる。衝撃に砕けた石壁の破片が飛び散り粉塵が舞う。直後、その粉塵を裂いて顔を出した雁夜が今度は蟲蔵内を斜めに横切って、反対側の壁へと飛んだ。

 

 纏わり付いた糸に引かれ、雁夜は鶴野に振り回されるまま木の葉の様に宙を舞う。

 二度、三度と雁夜が壁へと叩き付けられ、空中に張り巡らされた糸と交差する度、蟲蔵には飛礫と血の雨が降り注ぐ。

 

「雁夜ッ!! この、いい加減に――」

 

 バーサーカーは叫ぶと近くの斬糸を掴む。

 力の限り握り締めた手が切れ、彼女の血が糸を伝って流れた。同時にベキィと音を立てて、その糸と繋がる石壁に亀裂が入る。彼女は鶴野を睨み付けると、遂に大鉈を手にして、

 

「やめろ、バーサーカー」

 

 頭上から制止の声が掛かった。

 再び背中から壁へと叩き付けられる直前、雁夜は空中で反転し、激突する筈だった壁を蹴って上へ跳ぶ。同時に脇差を抜き放ち、彼は空中に静止する鶴野へと斬りかかった。しかし、

 

「は、ははッ、残念だったなァ。届かねェよ」

 

 雁夜の一刀は魔蟲の糸に阻まれ止まり、逆に鶴野の腹を裂いて滑り出た蟲の鋏角が雁夜の身体を貫いていた。雁夜の胸へと深々と鋏角が突き刺さり、返り血の飛沫が鶴野の全身を赤く染める。

 その様は正に蜘蛛の巣に絡め捕られた獲物のそれだ。

 

「カカッ、ざまァねェなァ!! 雁夜、その程度かァ!?」

 

 鶴野は勝利を確信し、頬に着いた血を舐め取る。不意の反撃及びそれを凌いだ事で、彼の嗜虐心(しぎゃくしん)に火が付いた様であった。

 鶴野の両腕が空を掻く。それと同時にその指から四方に伸びた糸が空を切り、深々と刺さった鋏角によって空中へと磔にされている雁夜へと降り注ぐ。

 しかし、絶体絶命の状況を前に、雁夜の眼光に陰りは無い。

 

「まだだ……まだ、だ……」

 

 雁夜は呟きながら胸に刺さった蟲の鋏角を掴み、一息に圧し折った。

 

「が、ギャアアア!!」

 

 思わぬ反撃と激痛に、鶴野の体内に巣食う魔蟲が鋏角を振り回す。血で滑った刃が抜けると同時に雁夜は地面へと落下し、降り注いだ斬糸は雁夜を捉える事無く空を切る。

 真っ逆さまに落下した雁夜は、辛くも地面に激突する寸前体勢を立て直して着地する。しかし、失血の影響かその足がふらついた。ぐらりと傾いだ雁夜の身体を、後ろからバーサーカーが支えた。

 

「アンタ、一体何考えて――」

「ぐ、ぐうぅ、殺す!! バラバラにして――ぎ、ぐガ、ぐ、ギャアァアアア!!」

 

 鶴野がその身体を震わせて絶叫する。同時に彼の両断された節足が再生し、切断面を突き出て生えた新たなる節足の鉤爪が周囲の壁面を抉り取った。石壁がまるで粘土の様に千切れて落下する。

 鶴野の顔は苦痛に歪んでいた。

 

「ギ、ぐ、ぐうぅ、糞!! 痛ェ、痛ェよ、畜生……」

 

 鶴野の全身が顫動し、青白い肌が紫に変色し始める。度重なる魔力消費に刻印蟲が反応し、体内で暴れ回っているのだ。魔蟲に喰われた全身の血管が断裂し、内出血によって全身が変色しているのである。

 

「な、何が起こったの!?」

「限界が来たんだ。活性化した魔蟲に、身体が付いて行けなくなった」

 

 バーサーカーの問いに雁夜が応えた。

 苦痛に喘ぐ鶴野の姿は痛ましく、見るに堪えなかったが、それでも雁夜は目を逸らさなかった。目を背ける訳にはいかなかった。

 それは肉を捧げ、命を蝕まれ、それを代価に至る間桐の魔術師の姿だ。

 兄の姿は正に雁夜自身の姿だった。

 

 次第に顫動が止まり、鶴野は悍ましき笑みを浮かべる。その引き攣った顔に浮かぶのはこの世全てを呪う狂人の笑みだ。

 

「ぐ、がカ、カカッ、クカカッ、そうだ。私を見ろ、雁夜。どうしたァ? しっかりと私を見ろよ。この姿を見ろ!! 魔蟲に蝕まれ、人を辞めた醜悪なこの姿を見ろ。しっかりと目に焼き付け、自分の罪を確認しろ!! 自分のせいだと言ったなァ!? ああ、そうさ、お前のせいさ。私がこうなったのはお前のせいなんだよ、雁夜!!」

 

 鶴野は猶も狂気に憑かれ咆哮する。

 

「お前が逃げたから、お前がいなくなったから、俺が代わりにこうなったんだ!!

 挙句に折角見付かった身代わりまで連れ出しやがって!! そのせいで俺はこのザマだ!!  許さねェ!! 許される訳がねェ!! お前もあのガキもぶっ壊れなきゃいけねェンだよ!!」

 

 鶴野の言い分にバーサーカーが怒りを露わに叫ぶ。

 

「バ、バッカじゃないの!? 黙って聞いてれば、逃げなきゃコイツがそう成ってたって事じゃない!! 自分の代わりに生贄に成れだなんて、ふざけてんじゃ――」

 

 バーサーカーの言葉を雁夜は片手を上げて制する。

 雁夜は鶴野へと告げた。

 

「終わらせよう、鶴野。これ以上はアンタの身体が耐えられない」

 

 言うと同時に雁夜の肩の上で、もぞりと何かが動いた。

 蛭だ。

 血色の巨大な蛭。雁夜の操る魔蟲、蛭血蟲(てっけつちゅう)である。

 雁夜が呪文を唱えると同時に、子供の腕程もある巨大な魔蛭は(やすり)の様な歯を剥き、何と主である雁夜の首筋へと噛み付いた。ぎょっとした表情のバーサーカーとは裏腹に、雁夜の表情に揺らぎは無い。

 

 否、失血で青褪めていた雁夜の顔色が戻り、その全身に一層強く魔力が滾っているではないか。一方で蛭血蟲は見る間に小さく萎んでいく。

 

 これこそが雁夜の操る蛭血蟲の特性。

 自らの血と魔力を吸わせておき、有事の際にこれを回収する。その悍ましき姿とは裏腹に、主の為に命を投げ出す献身の魔蟲である。

 

 同時に雁夜の体内の吸孔蟲が変質する。彼の全身に浮かび上がった刻印蟲の経絡が一層激しく隆起し、その経絡に沿って一筋の紫電が奔った。同時に、雁夜の額に切れ目が入る。開かれたそこから覗いたのは眼だ。

 鶴野同様、魔蟲の複眼がそこにあった。

 

「あ、アンタ、それ……」

 

 バーサーカーが驚愕の声を上げた。

 悍ましきその姿は、正に眼前の鶴野と同種の物だ。

 雁夜と鶴野。

 間桐に生まれ、その身に魔蟲を宿した兄弟は暫し互いに睨み合い、

 

「ク、カカッ、やっと本性現しやがったかァ、雁夜」

「ああ、出し惜しみして悪かったな。本気で行くぞ、鶴野」

 

 眼前の敵を殲滅せんと、その武威を解放する。

 

 



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間桐の術者(後)

 †††

 

 鶴野は幼い頃は雁夜と同じ様に間桐の魔術を学んでいたが、その才が雁夜に著しく劣ると判断されると捨て置かれる様になった。父である臓硯は彼に興味を失った。

 

 鶴野は醜悪な間桐の魔術から逃れられる事に安堵し喜んだが、同時に彼の小さな自尊心は砕け散った。彼は今まで自分が凡俗と、世界の真実を知らぬ愚か者と馬鹿にしていた人々と同じになった。何より、虐待された子供がそれでも親を求めるのと同じように、幼い彼には父親が必要だった。

 鬱屈した感情の矛先は自分からそれを奪った雁夜へと向かった。

 

 それが変化したのは、雁夜が蟲蔵に入った日の事だった。

 魔蟲が蠢く蟲蔵の醜悪さは鶴野も知っていた。そこで人が蟲に喰い殺される所も見た事があった。鶴野はそんな場所に自ら踏み込んだ雁夜の事が理解出来なかったし、彼も喰い殺されてしまえば良いと思っていた。

 

 魔蟲に蹂躙されボロボロにされて蹲る雁夜の姿を見るまでは、彼はそう思っていた。

 気付けば彼は蟲蔵へと踏込み、雁夜を担ぎ出していた。

 雁夜を廊下に寝かせ、毛布を取りに行く段になってから、恐怖で全身が震えたのを覚えている。鶴野はようやく間桐の魔道について心根から理解した。

 

 その日を境に、雁夜は鶴野に良く懐く様になった。

 鶴野も雁夜に対する鬱屈した感情は薄れていた。

 

 しかし、雁夜はいなくなった。

 

 高校生になり、外の世界を知って鶴野は魔術からは目を逸らした。幸い彼は優秀で、何をやってもそこそこの成果を出した。彼の事が好きだという人間も現れた。鬱屈した感情は消え去って、彼は人生を謳歌しようとしていた。

 

 だが、間桐の血は彼を逃しはしなかった。

 要らないと言われていたのに、悍ましき魔術の世界へと再び引き摺り込まれた。

 今度は幼い頃の様な生易しい物では無い。

 

 蟲蔵で蹂躙され、延々と続く苦痛に苛まれ、

 桜は心を空っぽにする事で心が壊れない様にした。

 雁夜は魔蟲に脳を弄らせ、苦痛をシャットアウトした。

 

 そして、鶴野は全てを呪う事にした。

 

 間桐を、魔術を、何より自分を置いて逃げ出した雁夜を呪った。

 桜が現れ、臓硯の興味がそちらへ向いた時、彼は心底安堵した事を覚えている。

 

 桜の教育係になり、間桐の技を使って、彼女を蹂躙する事にも躊躇は無かった。

 蹂躙する側に回れば、自分が蹂躙される事は無い。

 何より、雁夜が葵に惚れている事を知っていた鶴野にとって、彼女の娘である桜を凌辱する事は――。

 

 

 †††

 

 

「本気? 笑わせるな。バラバラにしてやるよ!!」

 

 鶴野の絶叫と共に無数の糸が雁夜へと奔った。

 咆哮に呼応するかの如く上空から不可視の斬撃が降り注ぎ、

 

「無空」

 

 同時に雁夜は半歩横へと身を躱す。回避した糸が数センチ雁夜の横を通過し、石畳を切り裂いた。しかし、即座に次の斬撃が迫る。逆袈裟(さかけさ)に奔る糸を身体を傾げてやり過ごし、足へと迫る横薙ぎの糸を跨ぐ形で回避する。更に激しさを増して十方から迫り来る不可視の斬撃を、しかし、雁夜は潜り抜ける。

 

 迫る糸だけではない。周囲には剃刀の如き糸が無数に張り巡らされているというのに、雁夜はただの一つも傷を負う事無く躱し切る。

 不可視の糸を回避する。

 雁夜はこの離れ業をその魔と武、そして知恵を以て可能としていた。

 

 蟲の複眼で、風切音で、鶴野の漏らす殺気で、魔力の揺らぎで、雁夜の六感の何れかが攻撃を捉えたならば、その身体は無意識的に攻撃を回避する。不可視の糸とて無空を修めた雁夜にとっては例外では無い。外界からの刺激全てに反応し、雁夜の身体はその思考さえ置き去りに全方位から迫り来る斬糸の嵐を躱し切る。

 

 何より今、不可視の糸は見えていた。

 血だ。

 周囲に張り巡らされた斬糸は先の雁夜の返り血で真っ赤に染め上げられている。

 であれば、雁夜が糸を躱し損ねる事は万が一にも有り得ない。

 雁夜の動きに遅れて不可視の糸が空を切り、格子状に裂かれた石畳が宙を舞った。斬糸の嵐を潜り抜け、雁夜は踵を地へと落とす。

 

「震脚」

 

 蟲蔵が大きく揺れた。

 そしてその振動は、糸を通して鶴野へと伝播する。一瞬、鶴野の糸を繰る手が止まり、その視線が雁夜へと釘付けになった。

 

「な、何だそりゃァ――」

 

 鶴野が驚愕の呻きを漏らす。同時に鶴野へと影が落ちた。落下したのは血色の巨大な蛭。雁夜の操る魔蟲、蛭血蟲(てっけつちゅう)である。先程雁夜が壁に叩き付けられた際に、舞上がった粉塵に紛れて放していた一匹であった。

 

 丸々と太った大人の腕程もある蛭が、鑢の様な歯を獲物に向けて鶴野へと跳び掛かった。しかし、

 

「ッ、その程度で、不意討ったつもりかァ!!」

 

 鶴野が即座に腕を振る。凡そ三百六十度に及ぶ鶴野の複眼の視界に死角は無い。空を切った斬糸が蛭血蟲を四つに切り裂き、鶴野の背より奔った節足が魔蟲を串刺しにした。

 

 その時である。

 蛭血蟲が爆発した。

 正確には蛭血蟲が俄かに膨らみ、その切断面から噴出した大量の鮮血が周囲へと迸ったのである。蛭血蟲がぶち撒けた血液は、当然目の前の鶴野へと降り注いだ。

 

「ガッ、この――」

 

 降り掛かった真っ赤な血が鶴野の視界を一瞬塞ぐ。鶴野が反射的に節足で顔を庇い、

 

「鞍馬金剛流体術・虎脚(こきゃく)

 

 鶴野の頬を雁夜の蹴りが捉えた。鶴野の浮かぶ空中も、雁夜にとっては一投足の間合いである。一瞬の隙に合わせ、張り巡らされた糸を潜り抜けて雁夜は数メートル跳び上がると、鶴野の顔を蹴り込んだのだ。その蹴り足が不可解な軌道を描いて糸と節足の防御をすり抜けた事に、視界を奪われていた鶴野が果たして気付いたかどうか。

 

 蹴り飛ばされた鶴野の身体が木の葉の様に宙を舞う。しかし、壁に叩き付けられる直前、鶴野は咄嗟に背の節足を丸めて壁への激突の衝撃を吸収した。硬直は無い。鶴野は即座にその八本の節足で張り巡らせた糸を掴み、空中を蜘蛛の如く移動する。

 

「縮地・八双」

 

 その影を追って雁夜が跳ねた。

 空中に張り巡らされた糸を足場に跳躍を繰り返し、鶴野へと迫る。

 

 反転を繰り返し、恐るべき速度で縦横無尽に跳び回る雁夜の姿は鶴野の複眼を以てしても、その影すら捉える事は容易では無い。何より彼が足場とし反動を利用しているのは、触れただけで肉を裂き、括れば容易く骨をも断つ魔糸である。それを蹴っての跳躍など最早人間業では無い。

 しかし、斬糸を張り巡らせた空中は、間桐鶴野の領域である。

 

「カッ、空中でこれが避けれるか!? 結界糸(けっかいし)輪転刃(りんてんじん)

 

 鶴野が腕を横に薙ぐ。同時に空中に張り巡らせた無数の糸が鶴野を中心に横薙ぎに回転した。石壁を格子状に切り裂きながら編み上げられた斬糸の壁が横合いから雁夜へと迫る。

 宛らそれは全てを切り裂く削岩機である。空中においては逃げ場は無い。

 

 しかし――遅い。

 

 事此処に至り、漸く鶴野は気付く。

 自らの張り巡らせた斬糸に無数の糸が絡まり付いている事を。

 同時に、ニヤリと雁夜が笑い、腰の脇差へと手を添えた。

 

「結界糸が使えるのはこちらも同じ」

 

 先程、雁夜が足場としていたのは鶴野の張った斬糸では無い。雁夜の張り巡らせた別の糸である。十年の修練で結界糸を修得したのは雁夜も同じ。彼はより強靭で柔軟性に富む糸を、鶴野に気付かれぬ内に周囲へと張り巡らせていたのである。

 

「い、いつの間に――」

「最初からだ。鞍馬金剛流抜刀術・窮奇(きゅうき)

 

 雁夜の全身の筋肉が隆起する。奥歯がギリと鳴った。踏込と同時に身体を丸め、腰を切る居合の構え。一瞬の緊張と解放の相克。練り上げられた力は体幹へと集い、一刀へと注がれる。鞘走りによって加速した神速の一斬が瞬いた。

 

 雁夜の脇差。その刃渡り、凡そ二尺。

 しかし、その一刀は空を切って奔った。

 

 迫り来る斬糸の壁を両断し、空を切った刃はそのまま間合いの遥か外にある鶴野の節足を貫いて蟲蔵の石壁へと突き刺さる。

 投擲であった。

 

 この技は縮地から連なる太刀と脇差を用いた神速の抜刀術であり、同時に刃を飛ばす飛刀術である。縮地にて先を取り、抜刀の刹那、相手が受けに回れば太刀の抜刀術で敵を刃ごと両断し、距離を取ったなら脇差の飛刀で貫く。

 先の先を取る事に特化した抜刀術。そして、雁夜の攻撃はそれで終わらない。

 

 鶴野が切断された節足に目をやった瞬間に接近し、前蹴り。鳩尾を捉えた蹴りは鶴野の身体を壁まで軽々と跳ね飛ばし――そこからは滅多打ちであった。

 

 眉間、水月、天突、胸尖、人中、蟀谷、電光、中府、腕訓、妙見、脛向、石門。

 接近と同時に十二の連撃が正確に人体の急所を貫き、身体を庇う節足を掴み取って下へと投げ落とす。鶴野は強かに地面へと叩き付けられ悶絶した。雁夜はそれを追って飛び降りる。

 猶も足掻く鶴野が立ち上がり、

 

「ぐ、ガッ、ま、まだだ――」

「いや、終わりだよ。そろそろ効いてきた筈だ」

 

 その正面に降り立った雁夜が告げた。鶴野は咄嗟に節足を振るおうとして、それが全く動かない事に気付く。

 

「な、何をした? 一体、何をしやがった!? 蟲共が――」

「俺の体内に巣食う吸孔蟲は魔蟲に寄生する魔蟲だ。アンタの体内に入り、そこに巣食う魔蟲共に取り付いた」

 

 雁夜は事も無げに告げる。鶴野は信じられぬと頭を振った。

 

「な、馬鹿なッ!! 一体どうやって!? 予兆は何も――」

「血だよ。派手に攻撃を至近で受けたからな。吸孔蟲の潜む俺の血をアンタは浴び過ぎた。傷口から染み込み、全身に行き渡るのに少々時間は掛かったが、最早、アンタの体内に巣食う魔蟲は俺の命令無しには動けない。臓硯の命に従う事も、その身体を蝕む事も無い。

 だから、これで終わりだ。もう戦う必要は無い」

 

 終わり。

 その言葉に鶴野は一瞬狼狽え、そして、理解する。

 

「な、か、雁夜、お前、まさか俺を助けようと――」

 

 鶴野の顔が安堵に緩み、次いで引き攣る。

 怜悧な刃の様な雁夜の眼光が鶴野を射抜いていた。

 

「兄貴、アンタは自分がそうなったのは俺のせいだと言ったな。確かにそうだ。アンタが臓硯に弄ばれ、そうなっちまった原因は逐電した俺にあるんだろう」

 

 雁夜は拳を握り締め、続ける。鶴野が喚く様に言った。

 

「そ、そうだ。お前が出て行ってからは、俺が代わりに臓硯に魔蟲を植付けられたんだ。仕方なかったんだ。俺は被害者なんだよ。だ、だから――」

「だから、間桐の家と本来無関係の幼い桜ちゃんを凌辱したのか? 彼女まで蟲の苗床になれと呪ったのか? ああ、きっとアンタの言う通りなんだろう。俺に怒る資格は無い。だが、ふざけるなよ、馬鹿野郎!!」

 

 雁夜は鶴野の言葉を遮り、その拳を振り上げ、

 

「歯ァ喰いしばれ!!」

 

 渾身の右ストレートを鶴野へと撃ち込んだ。

 

 

 †††

 

 

「死んでないでしょうね?」

 

 蟲蔵の床に倒れ伏す鶴野を横目にバーサーカーが言った。

 雁夜は床に落ちた太刀と脇差を拾いながら答える。

 

「加減はしたから大丈夫だ。それに、寄生させた吸孔蟲(きゅうこうちゅう)が治癒も施してくれるさ」

「しかし、随分と時間を掛けたわね。倒そうと思ったら一瞬だったでしょ? ボロボロじゃない」

 

 バーサーカーは雁夜を見る。

 彼の全身は戦闘の傷痕でボロボロだった。雁夜の治癒魔術の腕はかなりの物だが、節足で貫かれた大きな傷は未だに塞がっていない。

 

「吸孔蟲を気付かれない様に体内に入れなきゃならなかったし、魔蟲の制御を乗っ取るまで時間が必要だったからな。下手にやると吸孔蟲の存在に気付かれるから仕方ない」

「殺そうとは思わなかったの?」

 

 バーサーカーは雁夜の方を見なかった。

 雁夜も彼女の方を見なかった。

 彼は頷く。彼は殺さなかったし、殺せなかった。

 

「ああ、ムカついたからブン殴りはしたが、兄貴も臓硯の被害者だ。兄貴は確かに弱い人間だったが、こんな姿になった挙句、殺されなきゃならない(いわ)れは無い。どうした?」

「いいえ、何にも。ほら、処置するから傷見せなさい」

 

 バーサーカーは妙に嬉しそうな表情で雁夜の上着を掴む。雁夜は妙に気恥ずかしくなってその手を取った。彼は上半身とは言え女性に裸を見せた経験は無い。蟲蔵に入ってからは海水浴や公共浴場とも一切無縁であった男である。

 

「平気だって、それより――」

「カカッ、随分と梃子摺った様じゃの、雁夜。とっとと殺せば良いものを。まさか、蟲から解放するとは思わなかったぞ。しかし、些か、待ちくたびれたのォ」

 

 その時、蟲蔵の中に臓硯の声が響き渡った。

 その声を聞いた瞬間、雁夜の太刀を掴む腕が怒りで震えた。

 

「臓硯、貴様、どこに居る!!」

「カカッ、凄んでも無駄じゃ。ワシはそこにはおらんと言うておろうに。じゃが、何処に居るかは答えてやろう。ワシは今――」

 

 臓硯の言葉は雁夜が想像した中で、最悪の物だった。

 

「遠坂邸の前におるぞ」

 

“馬鹿な――。

 出し抜かれた!?

 いや、だが、時臣は冬木の管理者だ。魔術協会にも顔が利く。

 盟約を裏切って主の留守を良い事に遠坂の親族に手を出した等と知れたら、冬木の魔術師達どころか魔術協会すら敵に回す事になるだろう。

 

 それだけじゃあ無い。

 間桐の魔術刻印を奪う大義名分が出来た魔術協会の執行者共が、血の臭いを嗅ぎ付けた鮫の様に群がって来るだろう。

 

 臓硯が如何に耄碌しようともその程度の事が分からぬ筈は無い。

 ハッタリだ。そうに決まっている。

 だが、もし―― ”

 

 頭ではそう考えていても、雁夜の身体は震えていた。

 最悪の展開が頭を過ぎる。

 

「血迷ったか、臓硯。魔術協会が黙っていないぞ」

「カカッ、横紙破りは遠坂が先であろう? 大事な間桐の後継者を誑かし、盟約に基いて迎え入れた間桐の養女を奪わんとする女狐に、間桐の長として相応の誅を下すに何の問題がある?」

「そんな理屈が通用すると思っているのか?」

「通用するとも。カカッ、そもそも弁明など必要が無いからのォ。じき聖杯戦争が始まる。遠坂の小倅は生き残れぬ。そして、当事者は皆行方不明で訴え出る者がいない、となれば、協会とて動けまい?」

 

 雁夜は絶句する。

 頭の中で無数の疑問が反芻され、そして、葵達の顔が脳裏を過ぎる。

 

“こちらは陽動だった?

 遠坂との盟約はどうなる?

 臓硯は一体何を知っている?

 コイツの余裕は何だ?

 否、否、否、そんな事はどうでも良い――”

 

「臓硯、殺してやる!! そこを動くな!! 殺してやるぞ、臓硯!!」

 

 取り乱す雁夜の様子に、臓硯は心底愉しそうな嗤いを返す。

 

「カカッ、出来ると良いのォ? そやつらを倒してここまで走るとなると、少々時間は掛かりそうじゃが、精々足掻くが良いわ」

 

 臓硯の言葉と共に蟲蔵の天井が砕け、巨大な影が落下する。落下の衝撃に石畳が砕け、同時に何かが空を切って奔った。バーサーカーは咄嗟に後方に跳び退き、雁夜は倒れ伏す鶴野を掴んで横へ跳ぶ。

 空を切った何かは彼等の居た位置を通過し、壁へと突き刺さった。同時に、ジュウと音を立てて、石壁が熔けた。鼻を突く嫌な臭いが辺りに充満する。

 

 強酸だ。

 同時に背後の壁が砕け、瓦礫が周囲へと飛び散る。その奥に真っ赤な光が点り、巨大な節足が蟲蔵の中へと伸ばされる。

 

「こ、コイツ等……」

 

 雁夜が呻く様に言った。

 蜘蛛だ。

 天井と壁を砕いて現れた二体の巨大な蜘蛛が、彼等の前へと立塞がったのである。体高凡そ三メートル。大柄な雁夜が遥か頭上を見上げる程の巨体であった。

 臓硯の操る魔蟲。その中でも最強の物である。

 

「このッ!! 邪魔立て――」

 

 咆哮と共に跳び掛かろうとした雁夜を、前に立つバーサーカーが止める。

 

「こっちは任せて、アンタは行きなさい」

 

 彼女は二振りの大鉈を両手に構え、優しく微笑む。

 

「大切な人なんでしょ? 間に合わなかったら承知しないわよ」

 

 雁夜は即座に頷く。

 

「すまない、ここは任せた!!」

 

 それだけ言うと、雁夜は跳び上がり、大蜘蛛の開けた穴から身を躍らせる。大蜘蛛の一体がそれを追おうとして、やめた。

 蟲蔵内を覆う恐るべき殺気の渦に、彼等の本能が反応したのである。

 

「愛する女を救いに走る。邪魔は無粋よ。って、化け蜘蛛に言ってもしょうがないか。それにしても、アンタ達、運が悪かったわねェ」

 

 殺気の主である鬼面の少女は大鉈を肩に担ぎ、言い放つ。

 

「ちょっと酔いが醒めてきちゃったわ」

 

 

 †††

 

 

 複数の魔術結界に覆われた城塞の如き遠坂邸も、それを操る魔術師が不在とあればどうと言う事は無い。増して、相手は数百年を生きる妖怪、間桐臓硯である。

 遠坂邸の庭園に佇む臓硯は悍ましい笑みを浮かべていた。

 

 庭園に張り巡らされている結界の起点となる要石も既に破壊した。女子供を攫うだけなら数分と掛からない。雁夜の足を以てしても、間に合うまい。

 臓硯は間に合わなかった雁夜が絶望する顔を思い浮かべると、その邪悪な笑みを深くする。

 

 自らに逆らった雁夜には地獄を見せると彼は決めていた。

 邪念に耽っていた為だろうか、臓硯は庭を横切ろうとして、ふと彼の前に立塞がる様に立つ男に気付いた。

 

 黒尽くめの男だった。

 頭から被った襤褸(ぼろ)の陰に隠れ、顔は見えない。

 しかし、男が真っ直ぐにこちらを見ている事は分かる。

 真っ黒な襤褸が闇に隠れ、その輪郭を曖昧としていた。そして、その腰には一振りの太刀を佩いている。

 

 男が言った。

 不可思議な声だった。

 男の物とも、女の物とも判然としない、それらの混ざり合った様な不自然な声色である。そして、その声には怖い物が混じっていた。

 

「前回の聖杯戦争以来、となると、凡そ六十年振りか。久方振りだな、臓硯」

「貴様、何者じゃ?」

 

 臓硯は男を睨むと身構える。

 男の声に聞き覚えは無い。

 

「ああ、記憶を手繰っても思い出せないだろうぜ。前回は七枚舌の手伝いに奔走してたからなァ。だが、もう待つ必要は無くなった」

 

 男は太刀を抜き放ち、切っ先を真っ直ぐに構えた。

 その姿に臓硯は顔を顰める。

 それは先程まで使い魔を通して視ていた、雁夜の構えと酷似していたのである。

 男が凄絶な笑みを浮かべた。

 

「ここで会ったが百年目だ。ようやく、アンタを殺せる」

 

 



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前夜祭の終わり(前)

 †††

 

 

 夜半、遠坂邸、中庭。

 二人の魔術師が相対していた。

 

 一人は間桐臓硯。言わずと知れた間桐の当主。現代に生きる妖怪とまで言われる老魔術師だ。その目には狂気があった。

 当然である。臓硯が遠坂邸を訪れたのは、造反した息子への当て付けに、彼が守る遠坂母娘を皆殺しにせんが為である。凡そ尋常な思考では無い。

 

 一方、立塞がる形で相対するは襤褸を纏った黒尽くめの男。手には一本の太刀を握っている。男は地面と水平に大太刀を構え、腰を落とした。

 堂に入った構えであった。男もまた只者では無い。

 

 暫し、静寂が流れた。

 互いの殺気が周囲を覆い、徐々に空気が張り詰めていく。

 その空気を臓硯が破った。

 

「カカッ、口振りから鑑みるに私怨か。しかし、はて、とんと覚えが無いのぅ。カカッ、長く生きると物忘れが激しくて敵わぬ。さて、半身でも失ったか、家族でも蟲の餌にされたか? 出来れば、少しばかり、語ってくれぬかの? カカッ」

 

 老人の口から放たれるのは心底からの喜悦である。

 人の怒りと絶望という腐肉に集る蛆。

 それが間桐臓硯という魔術師である。

 そして、その言葉は挑発だった。

 臓硯は事を急いでいた。

 

 当然である。

 男に時間を取られれば、いずれ雁夜が駆け付ける。

 そうなれば、全てぶち壊しだ。

 一方で、急いでいるのは男も同じ。

 

「ああ、大丈夫だ。何度か殺されてる内に思い出すだろうぜ。安心して良い。一度や二度では済まさないからなァ」

 

 男が凄絶な笑みを浮かべる。

 同時に、ガチガチという音が一帯に満ちた。生理的険悪感を催す音である。

 蟲だ。

 臓硯の背後からぞろぞろと湧いて出た蛭の如き魔蟲の背が割れ、ソレは這い出る。

 

 翅刃蟲(しじんちゅう)と呼ばれる魔蟲である。

 一匹一匹がサッカーボール大の羽虫。しかし、読んで字の如く、二対の薄翅は刃の如き切れ味を誇り、ギチギチと音を立てるその牙は一噛みで猛牛の骨すら砕く。もし、群れで襲われれば、(ヒグマ)だろうと獅子だろうと数秒でこの世から消え失せるだろう。

 それが見る間に周囲を埋め尽くさん勢いで増え続けている。

 

「――地滑り」

 

 言うや否や、男が仕掛けた。

 縮地と呼ばれる歩法、その極致。

 男の姿が掻き消え、銀光だけが流れた。

 直後、切断された臓硯の足が宙を舞い、追って血飛沫が周囲を赤く染め上げる。

 

「カカッ、やる!!」

 

 しかし、片足を切断された臓硯が浮かべるは醜悪なる笑みである。

 駆け抜けた男へと翅刃蟲が殺到し、銀閃が縦横無尽に周囲を駆け巡った。銀の奔流に遅れ、緑色の魔蟲の体液が周囲へと迸り、斬り落とされた魔蟲の死骸が山を築いていく。

 

 疾走。男は周囲に群がる翅刃蟲を斬り捨てながら疾走する。

 それを追う魔蟲の群れ。

 しかし、縮地による爆発的な踏込と、歩法と体捌きによる静と動。以て緩急自在の疾走は、臓硯が周囲に展開した蟲の視界さえ置き去りに、敵の死角に滑り込む。

 

「頸落とし――浮雲」

 

 遂に臓硯の背後を取った男の横薙ぎの一刀が、臓硯の首を刎ね飛ばした。

 ゴロリと斬り落とされた臓硯の頭部が地面を転がり、首から噴き上がった血が一帯を真っ赤に染め上げる。

 

 本来ならば、これが尋常なる決闘ならば勝負有りである。

 しかし、これは尋常ならざる魔術戦。地面を転がった臓硯の口元には醜悪なる笑みが浮かんでいる。直後、男の勝利の確信を、その油断を突くべく、地面を砕いて現れた魔蟲が男へと迫った。

 

 身の丈数メートルはあろうかという大百足である。

 大百足は一瞬で男へ巻き付き、その首に牙を立て様として、七つの肉片と化した。

 太刀に着いた魔蟲の体液を振り払い、男は嗤う。

 

六連颶風(ろくれんぐふう)――さて、その程度か? ゾォルケン」

「カカッ、やるのぉ、若造!!」

 

 男の言葉に臓硯の呵々大笑が応えた。

 空を覆う雲の切れ間から月光が覗く。

 月光は闇の中に二つの人影を、その周囲を塗り潰す魔蟲の群れを映し出した。

 見れば地面に転がっていた筈の臓硯の頭部は無く、首を刎ねられた身体も無い。そこにあるのは大量に蠢く蛭に似た魔蟲のみ。先程確かに斬り殺された筈の間桐臓硯は全くの無傷で、男と数メートルの距離を取って相対していたのである。

 

「さて、いつまで持つか愉しみじゃが、貴様にそう時間を掛ける訳にもいかぬ。悪いが終わりにするぞ。カカッ、貴様は蟲の餌じゃ」

 

 嗤う臓硯の背後に控える魔蟲がその数を増していく。

 如何なる術理によるものか。

 その圧倒的な不死性と魔蟲の数による優位。

 臓硯は余裕の笑みを崩さない。

 しかし、それは男も同じ。

 

「そう言うなよ。俺は何百年も掛けたんだ。だから、安心して死んで行け。間桐の悲願もこれで終わりだ。聖杯は俺が頂く――結界起動」

 

 男の身体が陽炎の様に揺らめく。

 同時に遠坂邸に置かれた複数の要石が淡い光を放ち、周囲を結界が包み込んだ。

 

「さて、蟲はそれで全部か? もっと気張ってくれよ。こっちはいつまでお前のストックが持つか、愉しみでしょうがねェンだからなァ!!」

 

 男が嗤う。

 同時に、(ようや)く臓硯の顔から笑みが消えた。

 

 

 †††

 

 

「お母さん……」

 

 時間を少し遡り、遠坂邸内。

 遠坂桜は泣きそうな顔で言った。

 そんな彼女を遠坂葵はぎゅっと抱きしめる。

 

「大丈夫、大丈夫よ、桜。もう絶対にあなたを何処にも行かせやしないわ」

 

 桜を連れ戻した事に怒り狂った間桐の当主、間桐臓硯がやって来たのだ。堂々と結界を破って押し入った以上、最早問答の余地はあるまい。

 桜が連れ去られる。

 それを想像し、彼等は肩を震わせる。

 

 しかし、直ぐにその考えが間違いだと気付いた。

 恐るべき殺気。遠坂邸を包囲する様に展開された魔蟲の群れに、臓硯の剣呑な雰囲気から、彼等は察した。恐らく、あの老魔術師は私達を皆殺しにするつもりなのだ、と。

 

「凛、桜を連れて時臣の、お父様の工房に行きなさい。それから、鍵を掛けて、結界を起動させる事。出来るわね?」

 

 遠坂葵は震える我が子達に優しく微笑む。

 強い口調でも無いのに、その言葉は有無を言わせぬ迫力があった。

 

「何があっても出て来ては駄目よ。きっと直ぐに雁夜君が駆け付けてくれるわ。それまで貴方達は隠れていなさい」

 

 葵はきっと外を睨むと、立ち上がる。

 その肩は恐怖で震えていた。

 

「お母さん……?」

「駄目、駄目よ、お母様。出て行っちゃ駄目……」

 

 狼狽える桜と凛に、葵は努めて笑顔を見せた。

 

「大丈夫。お母さんがきっと説得してみせるから。だから、貴方達は隠れていなさい」

 

 遠坂葵は魔術師の妻であり、零落した魔術の家系、禅城の娘である。

 魔術に対する知識はあっても、彼女は魔術師では無い。

 闘う力など持っていない。

 

 それでも、葵は母として、逃げまいと決めた。

 その悲壮な覚悟は、凛と桜にも感じ取れた。

 

「駄目、お爺様はきっと許してくれないよ。行っちゃ駄目!!」

「そうよ。きっともう少しで雁夜おじさんが来てくれるわ。お母様も一緒に――」

 

 涙目になりながら口々に訴える桜と凛に、葵は困ったように首を振る。

 

「駄目よ。困らせないで」

 

 それから彼女は二人を優しく抱きしめる。

 

「凛、桜。お父様が帰ってくるまでは雁夜君を頼りなさい。彼はきっと貴方達の力になってくれるわ。凛、あなたは遠坂を継ぐ子なのだから、泣いちゃ駄目。時臣の言う事をちゃんと聞きなさい。桜、お姉ちゃんを支えてあげてね。さ、行きなさい」

 

 葵が立ち上がり、彼女達に背を向けると、桜は遂に堪え切れずに涙を流し――凛は魔石を握り締め、冷静に自分のすべき事を確認する。

 彼女は幼いが、確かに魔術師だった。

 彼女は考える。

 

“今はお父様も、雁夜おじさんもいない……。

 私が皆を守らなくちゃ”

 

 凛は魔石を強く、強く握り締める。

 

“お父様、雁夜おじさん……どうか力を貸して下さい”

 

「桜、力を貸してくれる?」

「え?」

 

 凛は泣きながら立ち尽くす桜に言った。

 

「私達でお母様を守るのよ」

 

 

 †††

 

 

 激痛の記憶を思い出す。

 撃ち込まれた拳は人生で最大の衝撃だった。

 起き上がった鶴野は殴られた頬を擦る。指先が頬に触れると激痛が奔り、朦朧としていた彼の意識が漸く覚醒する。彼は雁夜と戦い、そして敗れたのだ。

 

 殴られた頬は痛いが、それ以外は何とも無い。

 全身に寄生した魔蟲のせいで絶え間なく彼を蝕んでいた苦痛も今は無かった。

 確かに鶴野の皮下に刻印蟲共は存在しているが、全く反応が無いのである。

 

 鶴野の想いは複雑だった。

 憎悪の念が無くなった訳では無い。だが――。

 と、そこで鶴野ははたと気付く。

 寝ている場合ではない。

 

 雁夜に敗北したとあれば、臓硯の怒りに触れる事は必至だ。そして、それは自分だけには止まるまい。その矛先が息子の慎二へと向いた時の事を想像し、鶴野は身震いした。

 彼は即座に起き上がり、眼前の光景に絶句する。

 

「あ、何だ。もう起きたの?」

 

 起き上がった鶴野へとバーサーカーが向き直る。その両手の大鉈からは緑色の魔蟲の体液が滴っていた。

 バラバラに切断された節足がそこかしこに転がり、千切れた大蜘蛛の頭部が壁の染みとなっていた。丸々と太った腹は二つに裂かれ、今も緑の体液を垂れ流している。

 

 地獄絵図であった。

 臓硯の操る二体の大蜘蛛は八つ裂きにされ、その肉片が蟲蔵のそこかしこに転がっていた。その光景に鶴野は戦慄を禁じ得なかった。

 この二体の大蜘蛛は臓硯の操る使い魔の中でも最強のソレである。単純な戦闘能力はその一匹一匹が、臓硯によって改造された今の鶴野にも比肩しよう。

 

 対する少女は全くの無傷。

 否、返り血の一滴すら浴びていないのだ。

 

「で、まだ殺る気? 言っとくけど、マスターと違って私は手加減しないわよ」

 

 少女が鶴野を睨む。

 その目は本気だと言うのが鶴野にも分かった。

 彼は横に首を振った。

 

「そう、なら良いわ。私も身を張ったマスターの頑張りを無為にしたくないしね」

 

 少女はそう言うと笑って、鶴野へと背を向ける。

 

「待ってくれ、その……雁夜は、アイツは今……」

「アイツはこの蟲共の主と戦いに行ったわ」

 

 それを聞くと、鶴野は絞り出す様に呻いた。

 

「何で、何で戦えるんだ……。どれ程強くなったって、臓硯には、あのバケモノには敵う筈が無いのに……」

 

 少女は振り返ると、真面目な顔で言う。

 

「それはアイツが戦うべき時を知ってるからよ。短い付き合いだけどね。アイツは小利口な臆病者より、誰かを守れる馬鹿でいる事を選んだ。だから、アンタも今生きてる」

 

 少女は微笑む。

 

「折角、拾った命なんだから、色々見つめ直してみる事ね」

 

 そう言うと、少女は跳躍し蟲蔵を後にする。

 雁夜を追って行ったのだろう。

 蟲蔵の真っ暗な闇の中に、一人取り残された鶴野は大の字に寝転がる。まだ満足に動く事は出来そうに無かった。結局、また雁夜一人に押し付ける事になるらしい。

 

「畜生。アイツ、また、一人で行っちまいやがって……」

 

 そう呟くと、鶴野はぎゅっと目を瞑った。

 

 

 †††

 

 

 雁夜が遠坂邸に到着した時、全ては終わっていた。

 庭園の中心に真っ赤な血だまりが一つ。

 バラバラに斬り殺された間桐臓硯の死体がそこにあった。

 

「臓……硯……?」

 

 雁夜は必死に言葉を探したが、何も思いつかなかった。

 間桐の支配者。

 不死の魔術師。

 殺すべき仇敵。

 俺達から人生を奪った男。

 父であり、魔術の師であった男。

 己が強くなったのは、力を求めたのは、全てこの男を殺す為では無かったか?

 

 それが血だまりに沈んでいる。

 死んでいる事は明白だった。

 腕が、足が、腸が、バラバラに斬り裂かれて、地面に落ちている。

 幻術では無い。再生など有り得ない。

 追ってきた筈の臓硯の気配が弱まり、遂に消える。

 

 亡骸の前に、男が立っていた。

 黒尽くめの男だった。

 頭から被った襤褸の陰に隠れ、顔は見えない。

 真っ黒な襤褸が闇に隠れ、その輪郭すら男は曖昧としていた。そして、その手には一振りの太刀を握っている。太刀には真っ赤な血が滴っていた。

 

 その周囲には切り捨てられた夥しい魔蟲の死骸が転がっている。

 握り拳大の蛭が、サッカーボール大の蜂が、人間よりも巨大な蜘蛛が、数メートルに及ぶ百足が、皆切り捨てられ、緑色の体液を石畳にぶちまけて、死んでいた。

 男が雁夜の方を見る。

 

「お前、間桐の者か?」

 

 男が(わら)ったのが分かる。

 同時に、男は地面に転がっていた臓硯の頭部を嗤いながら踏み潰した。

 

 ぐしゃり、と音がして、血と脳漿が飛び出る。

 石畳が真っ赤に染まる。

 飛び散った血飛沫が雁夜の頬を濡らした。

 既に、血は冷えていた。

 

“それは、それは、それは、それは――”

 

 戦慄する雁夜を余所に、男はチラと遠坂邸に視線を移し、再び嗤う。

 襤褸の陰から、吊り上った口角が見えた。その醜悪な笑みを見た瞬間、

 

「キサマァッ!!!!」

 

 雁夜は腰の太刀を掴んで烈火の如く男へと跳び掛かった。

 何に怒っているのかは分からない。

 哀しい訳でもない。

 きっと臓硯とは殺し合う筈だった。

 臓硯をああするのは、雁夜だった筈だった。

 男がいなければ、臓硯の魔手は葵達に伸びていただろう。

 ならば男は恩人である筈だ。

 

 それでも雁夜は刀を抜いた。

 それは最早、理屈では無かった。

 雁夜の本能が、眼前の男が危険であると判断した。

 雁夜の感情に呼応し、一瞬で全身の魔蟲が活性化する。

 青黒き経絡が全身に浮かび上がり、彼は跳んだ。

 

 鞍馬金剛流抜刀術・窮奇(きゅうき)

 雁夜の全身の筋肉が隆起する。奥歯がギリと鳴った。踏込と同時に身体を丸め、腰を切る居合の構え。一瞬の緊張と解放の相克。練り上げられた力は体幹へと集い、一刀へと注がれる。鞘走りによって加速した神速の一斬が、闇夜を切って瞬いた。

 

 この技は縮地から連なる太刀と脇差を用いた神速の抜刀術であり、同時に刃を飛ばす飛刀術である。縮地にて先を取り、抜刀の刹那、相手が受けに回れば太刀の抜刀術で敵を刃ごと両断し、距離を取ったなら脇差の飛刀で貫く。

 先の先を取る事に特化した抜刀術。

 

 雁夜踏み込みに対し、男に動きは無い。否、雁夜の縮地は相対した者に一切の反応を許さぬ神速の踏込である。あとは雁夜が太刀を抜き放てば、即座に男の頸が宙を舞う。

 そこに一切の苦痛は無い。雁夜の一刀は断頭台(ギロチン)の刃より猶疾く、猶上手く男の頸を刎ね飛ばすだろう。

 

“殺った!!”

 

 雁夜は確信する。

 彼は気付かなかった。

 男が既に手にした太刀を捨て、腰の脇差しを掴んでいる事に。

 

「――流――」

 

 ゴキリ、と骨の砕ける音がした。

 男が腰から鞘ごと抜き放った脇差しが、翻った雁夜の、太刀を持つ右手首を砕いていた。

 

「なッ――」

 

 雁夜の呻きが不意に消える。

 男の肘が雁夜の腹を衝いていた。そして――

 

「――抜刀術・建御雷(タケミカヅチ)

 

 鯉口を切って翻った刃が縦に奔り、雁夜の肩口から腹までを切り裂いた。

 鮮血がパッと舞って、周囲を真っ赤に染める。

 

“馬鹿な。コレは――”

 

 雁夜は愕然としながら敗北を悟る。

 

 鞍馬金剛流に抜刀術は二つ在り。

 一つは縮地から連なる太刀と脇差を用いた神速の抜刀術であり、同時に刃を飛ばす飛刀術。先の先を取る事に特化した風魔の名を冠する抜刀術・窮奇。

 そしてもう一つは、鞘受けから体当てによる崩しの後に放たれる、後の先を取る事に特化した抜刀術。雷神の名を冠する建御雷。

 

 それは、雁夜の最も得意とする技である。

 

 ぐらり、と雁夜の身体が揺らぎ、俯せに倒れた。

 肩口から吹き出した鮮血が地面に血溜まりを作りだす。

 刃は鎖骨を割り、胸骨を裂いて肺を抜け、肋骨までを断ち斬っていた。雁夜の口から血の泡が漏れる。肺から逆流した血液であった。彼は何事か呟こうとしたが、言葉には成らなかった。

 

 勝負はあった。

 如何に雁夜の治癒魔術の腕を以てしても、即座に回復出来る様な傷では無い。

 

「さて、終わりだな。恨むなら、惰弱な己と、その身に流れる間桐の血を恨め」

 

 男は脇差しの切っ先を雁夜へと向ける。

 一方、雁夜は刃を見なかった。

 彼は遠坂邸を見ていた。

 そこにいるだろう葵達を見ていた。

 そして、力を振り絞る。

 

「令……呪……っ……る。我が――」

 

 雁夜の意志に反応し、彼の右手の甲に浮かんだ令呪が矢庭に赤光を放ち始め――

 男の踵がそれを踏み砕いた。

 雁夜の右手の指が小枝の様に圧し折れ、令呪がその輝きを失う。

 

「残念だったな。令呪は使わせない」

 

 男が刃を振り被る。

 同時に雁夜が大きく目を見開いた。

 それは頸を刎ねんと迫る凶刃に驚いたのでは無く――

 

「おじさんから離れなさい!!」

 

 叫びと共に闇夜を赤光が裂いた。

 空を切った魔弾(ガンド)を避け、男はとっさに跳び退ると、魔弾の射手へと視線を向ける。

 

 視線の先にいるのは遠坂家長女であり、まだ幼き少女、遠坂凛であった。

 






<後書き>
待たせ過ぎて申し訳ありません。



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愛といふ感情


永遠に存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である。

――「コリント人への第一の手紙13章」



 †††

 

「駄目!! 凛!!」

 

 葵の絶叫が聞こえる。

 遠坂邸から駆け出した葵が凛へ近付こうとして、

 

「邪魔立てするな」

 

 男の声を聞いた途端、葵は身を竦めてその動きを止めた。

静かな、それでいて有無を言わさぬ凄味の有る口調だった。しかし、ただ、気圧されたというだけでは無い。葵は金縛りにあったかの様に、その場から一歩たりとも動けなくなっていたのである。

 葵は顔を真っ青にして、声を上げる事も出来ずに立ち竦んでいた。

 

「お母様!!」

 

 凛が叫ぶ。それを見て、男は感嘆の呻きを漏らした。

 

「心の一方、不動不縛。ほう、お嬢ちゃんの方はまだ動けるか……。だが、無駄な足掻きだ」

 

 男が言いながら、凛へと近寄る。その歩みに先程ガンドを避けた時の様な警戒の色は無い。男は既に凛の実力を見切っていた。

 

「近付かないで!! 撃つわよ!?」

 

 凛が叫ぶも、男が歩みを緩める様子は無い。

 凛は後退(あとずさ)りながら、宝石を握り込んだ拳を男に向ける。気丈に振舞ってはいるがその小さな手は震えていた。

 

「駄、目……だ……ガッ、ごふっ」

 

 雁夜が言葉を発そうとして大きく咳き込んだ。

 吐き出した血塊が地面を濡らす。視界が霞み、意識が朦朧(もうろう)となるのを雁夜は感じた。

 

「このッ!!」

 

 凛が叫ぶと同時に、握り込んだ宝石が崩壊し赤色の弾丸が空を切って飛ぶ。しかし、

 それを男は難なく切り払った。

 

 二つに分かれた魔弾が石畳に着弾して炎が上がる。

 幼くとも凄まじき天稟である。凛の繰り出す魔弾、当たればただでは済むまい。しかし、男には決して当たる事は無い。当たる様な仕手では無い。ただ直進する熱弾、速度も余りに遅い。眼前の男はたとえ目を(つむ)っていようと避けられるだろう。

 

「フンッ、無駄だ……。諦め――」

 

 その時、男の足が石畳の中へとズブリと沈み込んだ。否、石畳の中では無い。男の足元へと伸びた影。これは遠坂邸の影と重なり合っているが、遠坂邸のバルコニーから顔を出した遠坂桜の影である。桜の影はコールタールの様に男の足首へと絡み付くと、男の体表を競り上がっていく。

 

 男は咄嗟に振り払おうとするが、底なし沼に落ちたかの様に、もがけばもがく程にどんどん足が影中に没していくのである。

 

「お姉ちゃん!!」

「良くやったわ!! 桜!!」

 

 凛は会心の笑みを浮かべ、手にした宝石に魔力を込める。それは先程の一撃とは違い、彼女の物では無い。

 凛が握り込んでいた宝石は二つ。一つは彼女手製の自信作、もう一つは時臣が魔力を込めた逸品である。

 

 全ては計画通り。

 自身を囮に桜の術の範囲に敵に誘き出し、時臣特製の宝石魔術で仕留める。

 

「いっけぇーー!!」

 

 凛の言葉と共に、夜の遠坂邸庭園を紅蓮の炎が駆け巡った。

 

 喩えるならばそれは爆炎の蛇。指向性を持った爆風である。

 凛によって撃ち出された爆炎は直後、眼前の男を呑み込み、夜空に紅蓮の華を咲かせた。その一撃は、凛の想像を遥かに超えた威力であった。熱で蕩けた石畳が爆風で飛礫(ひれき)となって周囲へ落ちる。人間など骨すら残らぬだろう。

 

「やったー!! どう、お母様!? 私――」

 

 勝利を確信し、凛は葵を見る。

 しかし、彼女の顔は青褪(あおざ)めていた。

 それは我が娘が魔術師として、侵入者を殺めてしまった事に対する物では無い。

 

 凛は気付かなかった。

 真っ直ぐに放たれた炎が、その方向を変え、夜空を真っ赤に染め上げているその意味に。

 凛の放った爆炎を浴びれば、人間など骨すら残らぬだろう。

 ならば、男は人間では無い。

 

「お姉ちゃんッ!!」

 

 桜が叫ぶ。

 

「え、嘘……」

 

 振り返った凛が怯えた顔で、呟く様に言う。

 その視線の先、炎の只中から、男が現れた。

 その全身に纏わり付いた赤き炎が、一歩、また一歩と歩く内に振り払われて消えていく。

 全くの無傷であった。

 

「悪いが、餓鬼の遊びに付き合うのも些か厭きた。終わりだ」

 

 男が太刀を持つ手に力を込める。

 絶望が笑っていた。

 

 

 †††

 

 

「ねぇ、雁夜君はさ、大きくなったら何になりたいの?」

 

 大好きな幼馴染の言葉に、僕は即座に答えた。

 

「魔術師。そう、僕はとっても強い魔術師になるんだ」

 

 幼馴染、葵さんは僕の言葉に笑みをこぼす。

 

「うーん、私には想像出来ないなぁ。雁夜君が、かぁ」

「何だよ、ソレ。ホントだよ」

 

 僕は心外だ、と頬を膨らませた。

 

「僕は強くなるんだ。きっと、爺さんより。誰よりも強くなるんだ」

 

 その言葉に嘘は無かった。

 僕は強くならなければならなかったし、強くなりたかった。

 間桐の魔術師として生を受けた以上、強くならなければ自由は無い。

 それに――。

 

「そしたら、仕方ないからさ、葵さんの事も護ってあげるよ。葵さんの大切な人も、皆、僕が護ってあげる」

 

 照れ臭い本音を包み隠して僕は言った。すると、

 

「へぇ、それじゃあ期待してるわね、雁夜君」

 

 そう言って彼女は柔らかな笑みを見せた。

 

 人間の感情には、どんな理屈をも超越する瞬間がある。

 この瞬間が、そうだった。

 その笑顔を僕はずっと覚えている。

 その笑顔を俺はずっと――

 

 

 

 母の顔は覚えていない。

 

 物心が付く前に、死んだからだ。

 幼い雁夜と鶴野を連れて、間桐の家から逃げようとしたらしい。

 

 子を思う愛故の行動。その代償はとてつもなく大きかった。

 臓硯は怒り狂い、彼女は蟲の餌になった。

 そして、幼い兄弟は愛という物について知る機会を永遠に失った。

 

 後に臓硯から聞いた話だが、蟲蔵の底には人骨が散見されたし、きっと本当の事なのだろう。無論、それは全部臓硯の作り話で、母は我が子を置いて間桐の家から逃げ出したのかも知れない。どちらにせよ救いの無い話だ。

 

 しかし、自分達を護ろうとして母は臓硯に殺されたのだ、と雁夜は思っている。

それは雁夜が親から受けた唯一の愛だったからだ。

 否、物心が付いた時には臓硯から間桐の魔術修業を受けていた雁夜にとって、伝え聞いたそれは彼が唯一誰かから受けた愛だった。

 彼女は身を(てい)して我が子を護ろうとした。その命さえ捧げて。

 

 顔も知らぬ母の愛について考える時、雁夜は力が湧いてくるのを感じる。

 同時に、底なしの増悪が身を焦がすのも。

 そうして、彼はいつか必ず臓硯を殺すと決めた。

 

 雁夜にとって愛とは護る事であり、捧げる事だった。

 そして、敵への殺意と裏返しの物でもあった。

 三つ子の魂、百までと言うが、雁夜の考えが矯正される事は無かった。間桐の家は臓硯が作った巫蠱(ふこ)の壺で、雁夜はその底で世界を呪うちっぽけな毒蟲だった。

 後に、禅城葵や遠坂時臣との出会いを経て、雁夜は成長する。

 

 間桐の物でない常識も手に入れ、彼の世界は拡がった。

 しかし、巫蠱の(おり)は未だ彼の奥底に確かに存在している。

 

 

 倒れ伏した雁夜の傷口に一匹の魔蟲が潜り込んだ。

 そして――

 

 

 †††

 

 

 男が凛に近付く。

 凛は咄嗟に逃げようとしたが、恐怖に足が縺れて倒れ込んでしまった。

 

「いや……た、たすけて、お父様……」

 

 その時、男の足元から影が伸びた。腕の形をした影は男の体表を上ったかと見えると、その首へと巻き付いた。

 桜の魔術である。彼女は叫び、

 

「お姉ちゃん!! 逃げ――」

「下らん」

 

 男が腕を振るうと同時に、風船が割れるかの様に影手が爆ぜた。男が太刀を構え、その身体が獲物に跳び掛かる直前の豹の如く沈み込む。

 

(キジ)も鳴かずば撃たれまいに――」

 

 しかし、男は動かなかった。

 

 男の背後で、間桐雁夜が立ち上がっていた。

 

 彼は幽鬼の如き形相で、砕けた右手に代わり、左手で太刀を掴んで立っている。

 

「まだ立つか……。死ぬ気か?」

 

 男は振り返り、油断無く雁夜に対する。

 最早、凛や桜の事は眼中に無かった。

 しかし、雁夜の現状は、とても戦闘に堪えうる物では無い。

 

 鎖骨から胸骨を断ち斬られ、手首と指の骨が砕かれた雁夜の右腕は全く使い物にならない。肺を切られた為に、雁夜の口からは今も血の泡が漏れている。喋る事も出来ぬ状況。地獄の苦しみである筈だ。失血は酷く、とても立ち上がれる状態では無い。

 回復の為の蛭血蟲のストックも今は無い。

 

 如何に雁夜の治癒魔術の腕を以てしても、戦闘の続行は死と同義である。

 故に、論理的に、合理的に行動する魔術師・間桐雁夜の戦いは決着している。

 

 しかし、彼の、人間・間桐雁夜の戦いは終わらない。

 否、終わる筈が無い。

 

「か、雁夜おじさん……」

「大……丈夫……、葵さん……、護るから……。俺が……きっと……」

 

 半泣きになってへたり込む凛に対し、雁夜は譫言の様に呟き、笑みを浮かべる。

 

“彼女を護ろうと思った。

 彼女の大切な物を全て護ろうと思った。

 自分と関われば、きっと魔術師としての運命が、濁流となって彼女を襲うだろう。

 だから、諦め切れなかったあの日に、彼女を護る事を誓った”

 

 失血によって朦朧とする意識の中、雁夜の脳裏には幼き日の葵の姿があった。

 幼き頃の葵に良く似た凛の姿が、かつての葵の姿と重なっていたのである。

 今、雁夜にあるのは幼き日の誓い、原初の意志だ。

 

 その心中には熱が在った。

 戦えば、きっと彼は死ぬだろう。

 しかし、生も死も、既に雁夜の頭には無い。

 無我の境地、忘我の極致。

 

 これは献身では無い。

 今、雁夜の心を支配する赤熱化した鉄の如き感情が、献身などと言う生ぬるい物である筈が無い。それはもっと激しく、もっと真っ直ぐで、もっとどす黒い炎である。

 

「第七、第八魔蟲、解放――」

 

 雁夜が告げる。同時に、彼の体内で八種最後の魔蟲、屍蟲が動き出す。

 間桐の魔術とは蟲を媒介にした呪術である。奇しくも彼の魔術の師、間桐臓硯がソレによってその不死性を獲得したのと同じく、その蟲は死を超える呪を己に掛ける物であった。

 

 ドッドッドッ、と音がする。

 エンジン音に似たそれは心音である。

 周囲に聴こえる程に大きく、有り得ない程に速い。

 

 第七魔蟲、紫電蟲(しでんちゅう)の効果である。

 その魔蟲の特性は吸孔蟲(きゅうこうちゅう)の改造。雁夜の全身に吸孔蟲が創り上げた神経系に取り付き、発電細胞を形成する。雁夜の全身に浮かび上がった経絡を、紫電が奔った。

 同時に心音が速度を増し、雁夜の傷口から血が噴出する。

 

 電気による強圧的な心拍の上昇、延いては身体能力の向上。

 雁夜は自分の傷を見る。溢れ出る血を眺める。

 失血によるショック死まで凡そ二分。そして――

 

 雁夜は大太刀を地面と水平に構えた。

 対する男も大太刀を地面と水平に構える。

 奇しくも、二人の構えは鏡像の如く、全くの同一であった。

 バチリ、と雁夜の身体を紫電が奔り、対する男の身体が陽炎の如く揺らめいた。

 

「そこまでよッ!!」

 

 声と共に鈍色の輝きが宙を舞った。

 サッと男が身を伏せると同時に、その数センチ上空を旋回した大鉈が通過する。男がそれを一瞥すると同時に、雁夜が仕掛けた。

 身体を捻り、握った太刀を自らの背後に隠す。そのまま雁夜が前のめりに倒れんばかりに沈み込むと同時に、彼等の距離は消失した。

 

「脛落とし・薙ぎの残月」

 

 電光石火、紫電が駆ける。

 一歩一瞬で距離を詰め、雁夜は超前傾姿勢から全身のバネを使って逆袈裟に斬り上げる。地面すれすれに奔った刃が男の眼前で弧を描いて跳ね上がった。ぱっと鮮血が舞い、同時に跳ね上がった男の足が雁夜の顔を捉えた。顔面を蹴り上げられた雁夜の身体が大きく跳ね上がり、直後頭上より降り注いだ大鉈を男は跳び退く形で回避する。追撃を阻む形で雁夜を守った大鉈は石畳を砕いて地面へ深々と突き刺さった。

 息つく間もなく、頭上より舞い降りた影が男へと跳び掛かる。

 鈍色の輝きが空を切って男に飛び、横へと駆ける形でそれを避けた男の動きを大鉈に繋がる綱が遮った。一瞬の停止に合わせて地面から大鉈を引き抜き、舞い降りた影は男へ迫る。

 

 男が大太刀を左手に握り直し迎え撃った。刃が交差し二つの火花と血風が宙に舞う。

 横薙ぎに振るわれた大鉈の軌跡を八双に構えた太刀が斜めに逸らし、同時に男が放った足払いを踏み台に襲撃者は跳躍する。再び上を取られたと思う間もなく、男の死角から大鉈の斬撃に遅れて弧を描いた綱がその首へと迫った。しかし、男は一瞥すらせず、手の甲で背後から迫る綱を弾くと、上空から投擲された大鉈を避けて大きく後方に跳躍。距離を取った。

 

 男に大鉈による被撃は無い。

 男が血を滴らせているのはその手のみ。

 その傷は、先の雁夜の一刀による物である。

 

 先の一合、雁夜の放った逆袈裟に対し、男が取った行動は頭受け。

 柄頭での防御である。

 神速の斬撃に、握った太刀の柄頭を合わせて受ける。その技量は見事。しかし、雁夜の一刀は柄の茎ごと男の右手を半ばまで切り裂いていた。

 その手では、最早刀は握れまい。

 しかし、それは逆に言えば――

 

「左手だけで、あれを凌ぐか……。やるわね」

 

 両手の大鉈をぐるりと回し、二人の間に着地したバーサーカーは渋い顔で言った。

 そう、男は頭上より強襲したバーサーカーの連撃を、左手一本で凌ぎ切ったという事である。それは凡そ人間業ではない。

 

「さて、退く気は……無いみたいねェ」

 

 バーサーカーの言葉に、男は何も答えなかった。

 ただ茫然とバーサーカーを睨み続けている。

 男の視線を無視し、バーサーカーはちらと背後の雁夜に目をやる。そして、

 

「で、マスター、大丈夫? 死ぬなんて言わないでよ。後は私に任せて、ちょっと自分の治療に専念してなさい。アレを片付けたら、直ぐに治してあげ――」

 

 大鉈を掴んで男へと跳び掛かろうとしたバーサーカーの襟首を、雁夜が背後から掴んで引いた。余りに勢い良く引かれた事で、襟で首が絞まったバーサーカーが短い呻き声を上げる。

 

「キャ、なッ、何!? なにすンのよッ!?」

 

 涙目に成りながら背後の雁夜を睨むバーサーカーを無視して、雁夜は彼女が腰に吊るした瓢箪を取り上げる。

 

「酒を、寄越せ……」

 

 雁夜はそう言うと一気に瓢箪の酒を煽り、口腔に溜まった血諸共に嚥下する。瞬間、焼ける様な熱が喉から彼の全身へと拡がった。

 

「バ、馬鹿ッ、一気に呑み過ぎ――」

 

 バーサーカーの持つ宝具『神便鬼毒酒』。

 神道における武神、海神、豊穣神の三柱が、酒呑童子討伐に赴いた頼光一派にその加護と共に授けた代物である。一口呑めば人には超人的な膂力を与え、悪鬼羅刹の類には毒と成りてその能力を封じる神酒。

 

 一口目。豊穣神の加護により全身を駆け巡った魔力が、体内の魔蟲をその限界を超えて活性化させる。雁夜の全身に浮かび上がった経絡を紫電が駆け抜け、全身に力が満ちた。

 先の鶴野戦ではその戦法故に大量の血と魔力を回さねばならず、神便鬼毒酒はその効果を殆ど回復のみに使われる事となった。しかし、今回は違う。

 

 硬質化した筋肉が傷口を締め上げ噴出する血を止める。潤沢な魔力を喰らった体内の魔蟲がその傷を埋めていく。へし折れた右手までもが見る間に回復し――

 

「兜割り・鬼鋏」

 

 言葉よりも疾く、間合いを詰めた雁夜が大上段に構えた太刀を男の脳天へと振り下ろした。男が太刀を跳ね上げ受ける。否、受けようとした。

 しかし、雁夜の一刀は男の翳した刃を弾き飛ばすと、そのまま男の肩口から入って腹下へと抜けた。斜めに裂かれた胸板から血が迸り、返り血が雁夜の顔を朱に染める。

 

 強い。浅い。互いの思考は一瞬。男は退き、雁夜は追う。

 一歩踏み込むと同時に雁夜が手首を返し、その手の中で振り下ろされた太刀が百八十度反転する。六部の力で打ち込み、敵が躱した瞬間、地面の反発と全身のバネを使った返しの刃で敵を断つ。流れる様な上下一対の斬撃は、同時に敵の頭部を挟み込む大鋏。

 その必殺の逆風を、その手首を、男の右手が腰から引き抜いた鞘が打ち砕く。ベキリ、と破砕音が響いた。

 

「抜刀術・建御雷――」

 

 男が言い、雁夜が嗤う。

 砕けたのは彼の手首では無い。鞘を受けた太刀の柄である。雁夜の握った太刀が衝撃に跳ね飛ばされ地面を転がったが、その時には雁夜の指が動きの止まった鞘へと絡み付き――

 

「鞍馬金剛流体術・虎脚」

 

 瞬間、雁夜の蹴りが男の顔面を跳ね上げた。

 鞘を引くと同時の右の上段回し蹴り。グシャリ、と肉と骨の潰れる音が響き渡る。そして、男が仰け反り空いた腹へと間髪入れずの前蹴り。男の水月に爪先がめり込み、それを踏み台に雁夜は跳んだ。

 蹴り抜いた鳩尾を踏み台に相手の身体を駆け上がり、その顎へ膝蹴りを叩き込む。今度の音は人が車に()き潰された時のそれである。

 

 男が更に大きく仰け反り、雁夜はその肩に着地し拳を振り被る。

 今の雁夜が本気で放つ下段突きは波止場に設置されたテトラポットすら叩き割る威力を誇る。人間の頭部など振り下ろされるハンマーの前の鶏卵に同じである。

 

““殺った””

 

 その雁夜の確信を、男が嗤う。

 男は先の一撃で仰け反っているのでは無い。身体を反らせる事で右拳を思い切り振り被っているのだ。

 

「神力・星兜(ほしかぶと)

 

 人間の身体が地面と平行に飛んだ。

 



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前夜祭の終わり(中)

 †††

 

 真っ直ぐに繰り出された掌底を、雁夜は腕で受けた。同時に男の肩を蹴って後方に跳ぶ。相手のバランスを崩しつつ、受ける衝撃を宙に逃した。超人的反応と身体操作による完璧な防御。故に――

 

 彼は幸運にも九死に一生を得た。

 

 風に舞う木の葉の様に十数メートル程吹き飛んだ雁夜は背中からブロック塀に叩き付けられる。衝撃でブロック塀が瓦解し、雁夜はそのまま遠坂邸前の道路上を転がると向かいの石壁へとぶつかってやっと停止する。

 

 雁夜は血反吐(ちへど)をアスファルトにぶちまける。

 掌底を受けた腕はへし折れ、砕けた骨が肉を破って覗いていた。

 雁夜は自らの腕を見る。そして、視線を上げ――

 

「「雁夜おじさんッ!!」」

「マスター、避けてッ!!」

 

 凛と桜、バーサーカーの絶叫が重なる。

 雁夜の視界が石柱で埋まっていた。

 

 遠坂邸の結界の要の一つとして設置されている石柱。男はその一つを引き抜き、恐るべき速度で放り投げたのである。これ以上ない追撃であった。数百キロの石柱がこれまた数百キロで空を切る。

 

「覚――ろ――穿――」

 

 雁夜は魔蟲を以て対処する。否、そうしようとして、無理だと悟った。

視認から着弾までの一刹那は奇妙な程にゆっくりと流れた。口から吐き出した空気が言葉に成らずに宙を滑る。腕から全身に伝播(でんぱ)した衝撃が彼から言葉を奪っていた。そも悠長に詠唱を行う様な時間は無い。刀は無く、腕はへし折れている。迎撃も不可能だった。しかし、雁夜は冷静に思考する。

 

 それは死を直前にした極限の集中力。

 人は死に瀕した時、視覚以外の全ての情報をシャットアウトし、状況への対処法を自らの全記憶から検索する事がある。俗に走馬灯と呼ばれる物だ。

 

 答えは直ぐに見つかった。

 

「ウ――オォオオオオオオ!!」

 

 跳躍。同時に身体を丸め、眼下を過ぎ去る石柱を蹴って更に上へ。背後で着弾した石柱がブロック塀を打ち抜いた。対する雁夜は遠坂邸の庭木を足場に跳び上がり、邸宅の屋根へと舞い降りると自らの指先を噛み千切る。

 

 指先から滴下された朱色の血が屋根を濡らし、そこから生じるは無数の魔蟲。ギチギチと牙を鳴らし、左右二対の翅を震わせ空を舞う翅刃蟲である。

 

「舞え、翅刃蟲(しでんちゅう)。眼下の敵を、喰い殺せッ!!」

 

 無数の翅刃蟲が空を切り、同時に雁夜は邸宅の屋根上を駆けた。その間にも指先から滴り落ちた血を媒介に無数の翅刃蟲が生み出され、男へと向かって飛来する。

 

 男が目深に被ったフードの奥、その眼球が殺到する翅刃蟲、そして頭上を疾走る雁夜を追ってギョロリと動き――大きく仰け反る。

 

 直後、空を切った大鉈が男の眼前数センチの距離を通過した。

 

「なに余所見してンのよ!? アンタの相手はこの私よッ!!」

 

 声の主はバーサーカー。彼女は手にした綱を手繰り寄せると同時に男へと躍り掛かった。先程投擲した大鉈を引き寄せ空中でキャッチし、跳び掛かった勢いを乗せて男へと振り下ろす。同時に男の腕が空中にて弧を描いた。

 

「フン、御転婆(おてんば)も大概にしておけ。巌牆(がんしょう)の下に自ら臨む事もあるまいよ」

 

 手を開き、指に力を込めて軽く折る。弧を描いた虎爪が捕えたのは殺到する翅刃蟲であった。指先が高速振動する刃の如き翅の間をすり抜け、巨大な牙を持つ頭部を千切り落とすと、男は魔蟲の胴を掴んで向かい来る大鉈を受ける。翅刃が大鉈と打ち合い、火花と甲高い音を撒き散らした。

 

 停止は一瞬。バーサーカーの大鉈は無数の魔蟲の翅刃を難なく両断する。砕けた翅刃が外灯の光を乱反射させて煌き、空中に多量の魔蟲の体液がぶち撒けられた。

交差の一瞬。魔蟲の残骸が視界を塞いだ一瞬。その一瞬に、大鉈を振り下ろすバーサーカーの手首を、男が掴んだ。

 

「ッ、このッ!!」

「まったく、遅い」

 

 振り下ろされる腕の勢いをそのままに、掴んだ手首を引き体勢の崩れた腹に肘を叩き込む。その衝撃に浮き上がりつんのめったバーサーカーの小柄な身体を、手首の関節を極めつつ男は担ぎ、その勢いのまま空中へと背負い投げた。

 

 自ら跳び掛かった方向に、倍速で回転しながらバーサーカーは宙を舞い、

 

「ッ、ぐ、このッ――しょうがない。任せたわ、マスター!!」

 

 言うと同時に彼女は手の中の大鉈を上空へと投げ上げた。その先には、

 

「任された。ナイスだ、バーサーカー!!」

 

 屋根から飛び降りた雁夜が左手で大鉈を掴み取る。

 雁夜の全身を一際大きく紫電が奔り、打ち下ろしの切っ先が男へと真っ直ぐに奔った。

 

「闇を駆ける稲光。まるで雷獣だな。ああ、解っているさ、薄緑」

 

 男が足元に取り落とした太刀を爪先で跳ね上げ、空中にて掴み取る。同時にその柄に巻かれた封印の呪布が崩れ落ち、刃がその真なる輝きを取り戻す。

 

 背後を取った。隙を衝いた。防御は到底間に合わぬタイミングであった。

 元より雁夜の一刀は受ける事適わぬ剛剣である。

 

 しかし、太刀打ち合う甲高い金属音と共に、男の構えた大太刀が、落下の勢いと全体重を乗せた雁夜の一刀を易々と受け止めていた。

 衝撃に足元の石畳が砕け、ギリギリと打ち合わされた刃が軋みを上げる。

 

「ッ、女子供には……、随分と甘いんだな。小手返しからの背負いじゃあ無く、そのまま地面に叩き付けて足刀で首を折るか、踵蹴(かかとげ)りで頭を砕くかしてりゃあ勝負は着いてた」

「ああ、そうしていれば、貴様に背後を取られて頭を蹴り砕かれていただろうな」

 

 男がフードの奥で獰猛な笑みを浮かべたのが分かり、雁夜は苦笑する。

 

「ピンピンしておいて良く言うぜ。お前一体何者だ? 一体何が目的だ?」

「さて、な。貴様が知る必要は無い」

 

 鍔迫り合いの硬直は一瞬、彼等は互いの刃を跳ね上げると弾かれた様に距離を取った。

 

「バーサーカー、無事か?」

「ええ、何とかね」

 

 言葉の通り辛くも地面に着地したバーサーカーが振り返り言った。

 

「そりゃあ良かった」

 

 そうは言ったが雁夜はバーサーカーの方を見なかった。眼前の男から目を切る事が出来なかった。その頬を冷汗が伝う。

 男の手にした太刀には、魅入られる様な妖しい魔力があった。流麗な直刃は見る者に感動と、畏怖を与える天険の如き美しさを持っている。ただ美しいだけでは無い。それに途方も無い神秘が宿っている事が一目で解る。刃という名の概念武装。間違い無く宝具の域にある逸品である。

 

“これは、マズいな……”

 

 状況は二対一。

 おまけにこちらは英霊と魔術師。

 雁夜はバーサーカーの宝具で人外の膂力を手にしている。

 だと言うのに――

 

「で、マスター、そろそろ頭に昇ってる血は醒めた?」

 

 バーサーカーが綱を引き、雁夜の手にする大鉈を回収する。不意を突かれ雁夜は反応が出来なかった。釣られてそちらへと視線を送ると、代わりに彼が取り落とした太刀が飛んで来る。バーサーカーが放り投げた物だ。

 

 雁夜は太刀を掴み取ると一瞬キョトンとした顔になったが、直ぐに薄い笑みを浮かべて男を真っ直ぐに見据えた。

 

「ああ、そうだ……。そうだな。すまなかった」

「オーケー、それじゃ、この場を切り抜ける方法を考えましょう?」

「良い考えがある。俺が更に酒を呑むってのは――」

「却下。他にもうちょっとマシな案は無いの?」

 

 言いながら彼等は敵手を挟み込む様に動く。同時に遠坂邸の庭木、周囲の街路樹がざあっと音を立ててさざめき、辺りを照らす外灯、星明りが次第に消えていった。代わりにギチギチと魔蟲が牙を鳴らす悍ましき音だけがどんどんと増していく。

 

「フン、マキリの業か。何度見ても醜悪な物よ」

 

 周囲を取り囲む夥しい翅刃蟲を見て、男は吐き捨てる様に言った。

 

「まったく、同感だ。だが、これ以外に知らなくてね」

 

 雁夜は太刀を左手で握り、構える。右腕の治癒は完了まで数分を要する。ただでそれを許す程、この敵手は甘く無いだろう。

 

「アンタと間桐にどんな因縁があるかは知らないが、アンタは俺の大切な人達に刃を向けた。だから、ここで殺す」

「クハッ、ハハハハハ、なるほど、笑わせる。――やってみろ」

 

 男は一頻り嗤うと太刀の切っ先を雁夜へと向ける。死の圧力。男の研磨された針の様な明確な殺意に反応し、雁夜が大きく飛び退くと、魔蟲の大群は獲物へと飛び掛かった。

 

 闇夜。より黒い靄が男へと降り注いだ様に見えた。外灯の明りを反射した翅刃がきらきらと瞬き、時折、その悍ましき姿が浮かび上がる。空が三に、魔蟲が七、視界全てを塗り潰す程の翅刃蟲の大群は今、たった一人の敵を喰い尽くさんと殺到している。

 

 蝗災(こうさい)。大量発生した虫の相変異による群体行動は古くから国を滅ぼす天災の一種だとされてきた。その底無しの食欲は、眼下の全てを喰い尽くす。

 黒い(もや)が降り注いだそこからは全てが消えた。着弾箇所は石畳が深く抉れ、周囲に植えられた遠坂邸の庭木は黒い靄に取り込まれたと同時にこの世界から消滅した。

 

 ただ、一人を除いて。

 

 銀閃が黒い靄の内より発し、縦横無尽に煌きながら庭園を横へと奔った。

 魔蟲の断末魔の叫びは、彼等自身の発する蠢動音に掻き消された。だが、魔蟲の主である雁夜には分かる。瞬間瞬間に襲い掛かった魔蟲の命が恐るべき速度で刈り取られている。

 

 銀光が弧を描き速度を上げて向かい来る。襲い来る魔蟲の群れを斬り捨てながら男は雁夜へと迫った。

 雁夜は太刀を握る手に力を込め、バーサーカーへと念話を送り、

 

『バーサーカー、聞こえているか? 俺が時間を稼ぐ。皆を連れて逃げろ』

 

 彼等は同時に敵を迎え撃った。

 

「それも却下よッ!!」

 

 バーサーカーの投擲した大鉈が空を切り、翅刃蟲を裂いて背後から男へと迫った。しかし、男は一瞥すらせず、横へと跳んでこれを避けつつ太刀を振るって向かい来る翅刃蟲を斬り捨てる。

 

 一振り。鋼鉄の外殻を持つ翅刃蟲がただの一振りで十把一絡(じっぱひとから)げに両断され、その翅刃、体液が宙を舞う。同時に、踏み込んだ雁夜の一刀が男の首へと奔った。

 魔蟲の亡骸を抜いて奔った横薙ぎの一閃。男は仰け反ると同時に顔を背ける事でそれを紙一重に回避すると、その手の剣を大きく弧を描く様に振るった。殺到する無数の魔蟲が(わら)の様に千切れ飛び、跳び掛かったバーサーカーが振るった大鉈を打ち払われて後退する。

 

 雁夜は即座に太刀を上段に構え直し、

 

「やるッ!! 鞍馬金剛流――」

「遅い――陰刀・水月」

 

 雁夜の渾身の唐竹割を男の横薙ぎの一閃が阻んだ。と同時に、男が抜いた脇差しが、雁夜の腹を突いていた。

 

「ぐっ、ガッ、クソッ!!」

 

 雁夜は咄嗟に後退する。脇腹を貫いた刃が抜けると同時にパッと周囲に血飛沫が舞って、血の臭いに興奮した翅刃蟲が一層獰猛さを増して男へと殺到した。

 

「チッ、ムシケラ風情が、邪魔をするなッ!!」

 

 男は向かい来る翅刃蟲を避けて跳び退り、その影を追って魔蟲の群れが空を切る。逃げる男と追う魔蟲。男は両手の剣を振り回し、追い縋る翅刃蟲を切り落としながら遠坂邸の庭園を縦断する。

 

「マスターッ!! クソッ、よくもッ!!」

 

 雁夜の腹部から流れる血を見とめるとバーサーカーは咆哮し、大鉈を振り被って男の後を追って駆け出そうとして、

 

「待てッ、バーサーカー!! 止まれッ!!」

 

 雁夜の声がその足を止めた。

 同時に翅刃蟲に追われた男が庭園中央の石造りのモニュメントに触れた。石像を背に襲い来る魔蟲の方向を限定する腹である。その判断に痂疲は無い。しかし、

 

 瞬間、モニュメントに埋め込まれた宝石を中心に、遠坂邸庭園内に埋め込まれた総勢二十余の宝石が炎を帯びる。強大な魔力の畝りに気付き、男は咄嗟にモニュメントから離れようと動く。その向かう先は翅刃蟲の群れの只中である。

 設置された宝石が妖しく瞬き、男の身体が激しく燃え上った。

 

 空へと昇る爆炎に、人間が呑まれるのが見えた。

 男の身体を包んだ炎は一瞬で爆発的に燃え広がり、巨大な火柱となって夜気を焦がす。十メートル程上空へと昇った炎は虚空に紅蓮の華を描き出し、周囲を舞っていた翅刃蟲が炎に舐られ、その火力の前に成す術無く燃え落ちていく。

 

「ッ、何て威力!! これは一体ッ!?」

 

 熱波に煽られ腕で顔を覆いながらバーサーカーが言った。下手に接近していれば彼女もまた炎に呑まれていたに違いない。

 

「遠坂邸に張られた侵入者迎撃用のトラップだ。庭園内の小結界を幾つか無効化すると起動する様になってる。威力の方は見ての通りだ」

 

 雁夜は納刀すると脇腹を押さえて言った。

 迎撃用の結界を起動させたのは雁夜である。彼は遠坂邸に逗留した数日の内に邸内の魔術結界について大凡を把握していた。後は起動のタイミングを図り、蟲を使って敵を火点へと誘導するだけである。

 

 雁夜は夜気を焦がす炎を見つめた。

 

“この火力と対象範囲のみを焼き尽くす技量。

 お前も腕を上げたみたいだな、時臣”

 

 残した結界の威力精度にかつての好敵手の腕前を見る。雁夜と同じく、彼もまた修練の日々を送り、研鑽(けんさん)を続けていたらしい。武者震いか、雁夜の肩が少し震える。彼は自然と笑みを浮かべていた。

 

 そして――雁夜は炎を、その奥の敵を見据え腰を落とす。

 砕けた腕で鞘を握り、左手を柄に沿える。彼が頼るは自身最速の技、居合の構え。

 

“敵が炎に呑まれる様を見た。

 逃れ得た筈は無い。故に、生きている筈は無い。

 しかし……”

 

 起動した時臣の魔術結界は、内に捉えた獲物を焼き尽くす。男の周囲数メートルは一瞬で摂氏数千度の焦熱地獄と化した筈だ。巻き込まれた魔蟲は尽く消炭に、石造りのモニュメントはその熱に耐えかね真っ赤に燃えて蕩けている。

 

 しかし、雁夜には敵が死んでいないという確信があった。

 

“敵は先程、凛ちゃんの放った炎に耐えた。

 耐火魔術か、結界か、何某かの防御手段を持っている。

 だが、無傷である筈は無い。この好機は逃さない”

 

 ギリ、と奥歯が鳴った。そして――

 

「ク、カカッ、良いぞ。良い殺気だ。緩めるなよ。そのまま研ぎ澄ませてろ。漸く煩い羽虫がいなくなったんだ。これより少々、鬼眼の業を見せてやろう」

 

 炎の奥から男の声が響く。

 男の物とも女の物とも知れぬ不可思議な声色が残響し、炎の中に男の輪郭が浮かび上がる。それと同時に雁夜が仕掛けた。

 

「鞍馬金剛流抜刀術・窮奇(きゅうき)――」

 

 雁夜の全身の筋肉が隆起し、体表を紫電が奔る。踏込と同時に身体を丸め、腰を切る居合の構え。一瞬の緊張と解放の相克。練り上げられた力は体幹へと集い、一刀へと注がれる。鞘走りによって加速した神速の一斬――それを一閃が叩き切った。

 

「遅い。居合の生命は電瞬にある――抜刀術・卍抜(まんじぬ)き」

 

 雁夜の幸運は右腕が砕けていた為に右手に鞘を持ち構えていた事。そして、男の一刀を前に太刀を抜く事すら出来なかった事である。

 

 男の放った横薙ぎの一閃は鉄拵えの鞘ごと受けた雁夜の上腕骨を粉砕し、その身体を中空へと舞い上げた。構えた太刀と鞘が自然と刃を受ける形となっていなければ、雁夜の上半身のみが宙を舞っていたに違いない。

 

 何が起こったのか分からなかった。

 否、衝撃に跳ね飛ばされ、砕けた腕の痛みを以て何が起こったかは分かったが、理解が出来なかった。先んじて仕掛けた筈の自分が抜刀する事すら、否、反応する事すら出来ずに斬られたのだ。

 

 刀を抜いて人を斬るに、ただ鍔鳴りの音のみが聞こえて鞘を出入りする刃の色は見えず。それは正に電瞬の抜刀術。そして、それだけでは男の攻撃は止まらない。

 雁夜を追って地面と平行に刃が奔る。同時に一つの影が雁夜の背後から飛び出し、その肩を蹴って跳び上がった。

 

「このッ、よくもやってくれたわねッ!!」

 

 バーサーカーである。

 彼女は左の大鉈を投擲すると右の大鉈を振り被り、頭上から男へと躍り掛かった。

 男は咄嗟に追撃を諦め、足を止めて飛来する大鉈を打ち払う。しかし、頭上から迫った大鉈を切り払ったと同時に、一撃目と同じ軌跡を描いた二撃目が男へと降り注いだ。

 

 落下の勢いを乗せたバーサーカーの唐竹割。その刃が男の眼前に迫るに至って、彼女は漸く男の姿をしっかりと視認した。

 

 (すす)けた襤褸の奥の、見覚えのある、その姿を。

 

「嘘……何で――ぐぅッ!!」

「――流・無刀取り」

 

 バーサーカーの呟きは空に掻き消え、悲鳴に変わる。

 彼女は一刀を振り抜かなかったし、振り抜けなかった。交差の瞬間、男がバーサーカーの手首を掴み取り、その腹へと柄頭を叩き込んでいた。衝撃にバーサーカーの身体が浮き上がり、小柄な身体がくの字に折れる。そして、彼女の身体は宙を舞った。

 

 バーサーカーの跳び掛かった勢いを利用して、男が雁夜へと向かってバーサーカーを放り投げたのだ。

 それは地面に着地し体勢を立て直そうとする雁夜に直撃した。

 

 雁夜は咄嗟に抜刀しようとしていた太刀を捨てる。彼の右腕はへし折れていて、放り投げられたバーサーカーを受け止めるには左手に握った太刀を捨てる必要があった。

 敵の眼前で手にした得物を投げ捨てる。愚かだと知っている。悪手だと知っている。受け止めた隙を敵が突く事も知っている。しかし、雁夜に躊躇は無い。

 

 二人の身体が激突し、縺れ合って――

 

「さァ、終わりといこう。心の一方『居竦みの術』」

 

 ドクン、と自身の心音が一つ。

それを最期に世界から音という音が抜け落ち、一瞬、彼等の動きは完全に停止した。

 

 二階堂平法に心の一方なる奥義有り。

 

 その術理は気当て。気とは殺気であり、空気の振動、音である。

 示現流でいう処の猿叫(えんきょう)と原理は同じ。示現流が鶏の断末魔と例えられる程の裂帛の咆哮と殺気で相手を怯ませるのに対し、心の一方はヒトの可聴域を超えた咆哮で三半規管を一時的に麻痺させ平衡感覚を奪い去り、併せて放たれた殺気によって敵を金縛りに陥れる技である。

 

 居竦みの術とはその極致。

 人は鼓膜が受けた音を耳小骨で減衰させた上で内耳の三半規管、更にはその奥の蝸牛へと伝えている。居竦みの術はこの耳小骨を共振させる事によって生来の減衰機能を殺し、内耳の器官及び周辺動脈へと衝撃を与える技である。

 

 その効果は三半規管の麻痺による聴覚、平衡感覚異常だけに止まらない。衝撃を受けた蝸牛神経が強制的な眼球頭反射を引き起こす事での視覚喪失、耳下腺内を通る外頸動脈の裂傷による舌神経の麻痺、蝸牛に繋がる前下小脳動脈の圧迫による意識の消失。

 

 居竦みの術とは視覚、聴覚、平衡感覚、言葉に意識までもを刈り取る魔技。しかし、その効果は一瞬で、その原理故に耳を塞ぐといった音の遮断と敵に対する剣気で以て簡単に無効化出来る。

 

 無論、両腕の塞がった雁夜と宙を舞うバーサーカーはそれが出来る状況に無く、男はその隙を見逃す程ヌルくは無い。

 

 雁夜とバーサーカー、縺れ合った彼等の隙は一瞬で、心の一方による停止も一瞬。しかし、それは男にとって両人の頸を刎ねるに十二分の時間である。

 

「その怯み、貰った。心形刀流・三心刀」

 

 刃が飛んだ。男が抜いた脇差しを投擲し、同時に踏み込む。飛刀は雁夜とバーサーカーを串刺しにせんと真っ直ぐに空を切り――火花を散らして、

 

「二天一流・二刀八相」

 

 弾かれた飛刀を踏み込んだ男が掴む。即座に刃が跳ね上がり――

 

「それがどうしたァッ!!」

 

 縦横無尽に煌いた左右二刀の一瞬八斬。宙に瞬く四つの十字を、雁夜の握った大鉈が打ち払い、彼等互いの間に八の火花を散らせてみせた。

 

 

 二刀流、片手での斬撃は敵の骨を断つ事が出来るのか?

 三半規管が麻痺し、動き得ぬ筈の男はそれを迎え撃つ事が出来るのか?

 出来る。出来るのだ。

 見よ。異形と化すまでに鍛え込まれた男の背なから両の腕の肉を。

 その連撃は瞬きの間に八度敵を両断し、血煙と共に敵を無数の肉片と化す。

 見よ。神経に根を張り雁夜の体中で脈動する醜悪なる魔蟲の蠢きを。

 三半規管の麻痺は愚か、意識すら無くその刃は敵を斬る。

 

 

 男の膂力は片手での刀法にて人を藁の様に容易く両断し、間桐雁夜には意識すらなく剣を振るう技がある。

 

 先の一瞬、バーサーカーを抱き止めた雁夜は、口を開き、ギリと彼女の襟首を噛み締めた。それは両手を塞がれた雁夜がバーサーカーの落下を防ぐ為であり、渾身の力を込めた際に噛み締めた奥歯が砕けぬ様にしたのである。

 

 無空。

 無空とは外界の刺激に対して自動的に繰り出される反射の剣。それは修練の果て、剣撃の際に生じる余分な思考を削ぎ落とし、遂には思考を介さず敵を斬るという業である。無の剣、空の剣。故に無空。

 

 その技が修練の果て魔導との融合によって完成に至る。

 雁夜はこれを蟲噛の剣と名付けた。

 

 放たれた心の一方によって耳の痛みを感じる間も無く、雁夜の意識はブラックアウトする。同時に、バーサーカーの身体から力が抜けて、彼女の手から鉈が落ちる。

 

 その瞬間、雁夜の体内に巣食う魔蟲の自己防衛本能に起因した反射行動に拠って、それは始まる。雁夜の経絡と同化した紫電蟲は宿主の生命の危機に反応し、発電。迸った電気刺激に併せ、雁夜の身体はその限界すら超えた速度で駆動する。

 落下する大鉈を左手で掴み、それを繰り出す。

 

 それとは即ち、蟲噛の剣。

 

 繰り出される左右二刀の連撃を大鉈が打ち払う。

 

 そして、彼等は示し合わせた様に互いに距離を取った。

 男は絶対の好機を凌がれたが故に、雁夜は漸く意識を取り戻した為に、彼等は距離を取って相対した。

 

 雁夜が口を離すとバーサーカーは地面へと落下し、尻餅をついた。

 男は満足そうに嗤い、雁夜は引き攣った笑みを浮かべる。

 

「成程、無空を体得していたか。思ったより、やる。が、無傷とはいかなかった様だな。それも当然。動かぬ身体を強制的に動かした反動はどうだ?」

 

 心の一方を受けた雁夜の両耳からドロリと一筋の血が垂れた。

 ダラリと垂れた右腕はへし折れ、最早、剣を掴む事すら儘なるまい。

 また、紫電蟲による蟲噛の剣は人の反応限界、駆動限界を容易く超越するが、その反動は大きい。雁夜の服の下では処々の筋肉が断裂し、彼の全身を紫色に染めている。

 

 雁夜は何か言おうとして、舌が上手く動かぬ事に気付いて口を噤んだ。

 まだ心の一方の影響も残っている。それを悟られるのは不味い。

 

“何事か話して時間を稼ぎ、あわよくば情報を得たかった所だが仕方ない。

 しかし、一体、どういう事だ?

 鞍馬金剛流の技術体系に、心形刀流の飛刀術、二天一流の二刀流、二階堂平法の心の一方に、神明夢想流の抜刀術。どれも生半な腕じゃあない。

 いや、今、問題なのは――”

 

 立ち上がったバーサーカーが叫んだ。

 

「何で、アンタがソレを持ってるのよッ!! それは、アタシ達の――」

 

 足元に大鉈を突き立て、今にも男に向かって飛び出しそうになるバーサーカーを雁夜が押さえた。しかし、それは彼女の身を慮っての事だけでは無い。彼女の腰に吊るされた宝具、神便鬼毒酒を奪い取る為である。

 

「なッ、馬鹿ッ、やめ――」

 

 激昂していたバーサーカーは反応が遅れた。そして、雁夜は神酒を煽る。

 

 神便鬼毒酒、二口目。

 これより先は武神の領域。

 間桐雁夜は迷う事無く、そこへと一歩踏み込んだ。

 





お待たせして誠に申し訳ありませんでした。
言い訳と後書きは活動報告にて(12日中に書きます)。


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呪詛の福音

 †††

 

 

「ねぇ、―――はさ、大きくなったら―――たいの?」

 

 ――――の言葉に、――は――――。

 

「魔術師。そう、―――――魔術師になるんだ」

 

 ―――――は―――笑みをこぼす。

 

「うーん、―――――出来ないなぁ。―――が、かぁ」

「何だよ、―――。―――だよ」

 

 ―――心外だ、と―――ませた。

 

「――強く――――。きっと、―――より。―――強くなるんだ」

 

 その言葉に―――った。

 ―――――ければな――かったし、強くな―――た。

 ――――――として生を受け――上、強く――――自由は無い。

 それに――。

 

「そしたら、―――からさ、―――――も――げるよ。――の―――も、皆、―が―――」

 

 ――――音を―――は言った。――と、

 

「へぇ、それ―――期―――るわ――、―――」

 

 そう―――女は―――を――

 

 

 

 大事な物が失われていく。

 代わりに何かが入り込んでくる。

 その一方で、記憶の奥底から響いてくる言葉があった。

 

「カカッ、雁夜よ。儂が憎いか? 恨めしいか? 殺したいか? ならば存分に淀み狂い、この世全てを呪うが良いわ。その目に映る全てを呪う、その呪詛こそが、貴様の体内に蠢く魔蟲を目覚めさせる暁の鶏声となるのじゃからのう」

 

 いつか聞いた原初の言葉。

 視界が真っ赤に塗り潰されていく。

 

「殺意こそがその血肉、増悪の怨嗟こそが呪の本質と心得よ。生きたくばその怒りを忘れるな。恨み、憎しみこそが自らを高める糧と知れ。貴様こそがこの蟲蔵の、我が巫蠱(ふこ)(おり)なのじゃからのう。カカッ、カカカッ!!」

 

 誰かの高笑いが聞こえる。

 一方で、ぞわり、ぞわりと自らの内側で動き出す物の感覚がある。

 

 ああ、頭の内側で、ヤツラの蠢く音がする。

 

「――クッ、カカッ――カカカッ――――」

 

 無意識に、己の口を衝いて出たのは誰かと重なる高笑い。

 その解放は、同時に、雁夜の中に存在する全ての枷を取り払い――

 

 その体内に巣食う魔蟲全てを暴走させた。

 

 

 かつて冬木という街に、間桐という魔術の家があった。

 第三法の成就を夢見るも、その家はとうの昔に魔術師としての限界を迎えており、魔術回路は目減りする一方。子々孫々と受け継がれる筈の魔導の血脈は衰え、間桐の魔術はそう遠くない将来潰えるであろうと思われていた。

 

 だから、少年は造られた。

 

 巫蠱という呪法がある。

 犬神、猫鬼と呼ばれる呪術と同種のまじない。

 犬神が生き埋めにした犬が餓死せんとする一瞬に斬り落とした生首を辻道に埋め、その怨念が増した霊を呪詛の触媒にするのと同じく、巫蠱は無数の毒蟲を一所に集め、互いに殺し合い、喰らい合わせ、生き残った一匹を以て呪いを成す。

 

 間桐家当主、間桐臓硯が行ったそれも原理は同じ。

 間桐の家とは即ち、臓硯の造りし巫蠱の澱。

 

 間桐の蟲蔵、巫蠱の坩堝の底、淀みの中で少年は生まれた。

 彼はかつてその底で世界を呪うちっぽけな毒蟲だった。

 そこは暗かった。そこは冷たかった。そこは痛かった。

 だから少年はそこに住まうモノ達と一緒に、世界を呪う事にした。

 

「――る」

 

 本来、そこで他のモノ達と一緒に彼は死んでいた筈だった。

 それならば何処の魔術師の家系にでも起こり得るありふれた血の悲劇に過ぎなかった。

 しかし、間桐の妖怪はそれを許さなかった。

 妖怪は少年に光を与えた。

 夥しい魔蟲の群れに蹂躙され、その身体を喰い荒らされ、寒さに震えながら闇の中で世界を呪う毒蟲に、希望の糸を垂らして見せた。

 惨酷にも世界の暖かさを教えて見せた。

 

「――やる」

 

 血の覚醒。

 導かれるままに少年は覚醒し、その才覚は巫蠱の澱から彼を救い出した。

 皮肉にも、そのココロだけを置き去りに。

 その呪詛の念だけを引き連れて。

 

「――殺してやる」

 

 そうして、彼は生まれた。

 

 時が経ち、少年は成長する。

 知己を得て、情理の皮を纏い、信愛の服を着て、記憶を闇の中に置き去りにする。

 しかし、運命は彼を逃さない。

 

 妖怪が滅びても、マキリの呪いは潰えない。

 あらゆる呪詛は己に還る。

 かつて世界を呪った少年に、再び因果は巡り来る。

 

 

 †††

 

 

「アンタ一体何考えて――ッ――」

 

 鬼毒酒を煽った雁夜を咎めようとしたバーサーカーの言葉が途中で途切れる。言葉の途中、雁夜がバーサーカーを思い切り突き飛ばしたのだ。

 

「悪い……。逃げろ……」

 

 雁夜が息を荒げ、呟く様に言った。

 突き飛ばされバーサーカーの身体が空中にある一瞬。その一瞬に、雁夜とバーサーカーの視線が交差し、彼女は全てを理解する。

 バーサーカーは雁夜へと手を伸ばす。その手が何かを掴む事は無く、彼女の口を衝いて出た言葉は結局雁夜の耳に入る事は無かった。

 

 変化は一瞬。

 神便鬼毒酒を煽って一拍の後、

 雁夜の体内を嘗てない嵐の如き魔力の渦が駆け巡った。

 

 雁夜にとって、唯一誤算であったのは、

 その体内を駆け巡った嵐の前に、間桐雁夜という一個の意志は容易く消え去り、

 魔蟲の闘争本能に操られるその躯のみが残った事。

 今、彼は正気でも曖昧でもなく、敵であろうと味方であろうと、

 ただその間合いに入るもの全てを斬る魔神へと変貌を遂げていた。

 

「カカッ」

 

 笑むと同時に、雁夜は足元に転がる太刀を蹴り上げ、その右腕にて掴み取る。

 へし折れ骨の覗いていた筈の雁夜の右腕は、この時既にその治癒が完了している。

 彼はそのまま左手で地面へと突き刺した大鉈を引き抜くと、恐るべき勢いで大鉈を振り抜いた。握った大鉈の横薙ぎに遅れて、その柄に綱で繋がったもう一本の大鉈が弧を描き、空を切る。

 弧を描いた銀閃は、突き飛ばされて体勢を崩したバーサーカーの頸へと奔り――

 

「貴様の相手は、俺だろう?」

 

 襤褸を纏った男が跳んだ。バーサーカーと雁夜の間に割り込むと同時に、打ち下ろしの一刀。大鉈同士を繋ぐ綱を叩き切られ、弧を描いた大鉈はその遠心力に従って明後日の方向へと飛んでいく。

 

「ク、クハッ、カカカカカカカカッ!!」

 

 雁夜が両手を左右に掲げる。

 右手の大太刀、左手の大鉈を地面と水平に掲げたと同時に、その体表に罅の如く浮かび上がった経絡を紫電が奔り、その額に無数の切れ目が入った。開かれたそこから覗くは、魔蟲の複眼。

 複眼は男のみならず、その場全員の一挙手一投足までもを同時に捉え映し出す。

 

「フン、鬼毒酒に呑まれたか。どうやら、武神たる八幡ノ神の加護と体内に無数の魔蟲を飼う貴様とは最高の、否、最悪の相性らしいな。だが、その姿、実にらしい。己の内に巣食う魔蟲と相食み、呪を振り撒くその醜悪な姿こそが貴様等マキリの本性よ」

 

 男は太刀を構え、雁夜を睨み付ける。

 神便鬼毒酒を醸造したる三神の一、武神・八幡ノ神。その名の八とは多数、幡とは旗を指す。旗とは神々の憑代であり、彼の加護を得る軍陣である。その加護を奉じて八幡神は古来より武家の守護神とされ、本地垂迹によって八幡神が阿弥陀如来と同一視されると八旗に宿る者は八方天であるとされた。即ち八幡神とは天部八方を護る神々と、無明の現世をその無限の光であまねく照らす大いなる者の総体なのだと。

 

 本来、軍勢へと降り注ぐべき無数の加護。

 神便鬼毒酒は雁夜にこの武神の加護を齎した。それは彼の体内に巣食う魔蟲一匹一匹を憑代とした無数の加護。魔蟲達の覚醒と、間桐雁夜の崩壊は火を見るよりも明らかだった。

 神の力が魔蟲に宿る。

 雁夜の身体から稲妻が奔った。それは先程までの体表を奔る紫電とは訳が違う。大気の絶縁限界すら超える持続的な放電現象。天災と比肩するソレである。

 

 経絡に取り付き発電を行う紫電蟲の本来の機能は、電気刺激による強圧的な心拍上昇、電気信号による肉体の強制駆動、電気鎮痛によるゲートコントロール等が挙げられる。

飽く迄も戦闘補助の為の魔蟲である。

 それが今、神便鬼毒酒によって紫電蟲の発電能力は異常進化を遂げていた。

 

 瞬間的に大気の強力な絶縁性すら上回る放電能力とそれを支える吸孔蟲のエネルギー供給能力。経絡から放たれる電雷の発光が、雁夜の姿を青白く浮かび上がらせる。

 バヂリッと雁夜の腰に差した鞘へと電流が奔った。

 

「クヒヒ、カカッ!!」

 

 それを合図に、雁夜は踏み込んだ男を標的に定め、地を蹴り跳んだ。

 それはさながら、否、落雷その物である。

 

 雁夜の突進に先んじて電撃が飛ぶ。電撃に打ち据えられた敵が衝撃と痺れを自覚する間も無く、接近した雁夜の大鉈による唐竹割。大鉈が男の肩口へと喰らい付き、そこで止まる。

大鉈を振り下ろした雁夜の手首を、男の腕が掴んでいた。同時に再び電撃が奔る。

 

 大気を劈く電雷の炸裂音と強烈な発光。周囲に飛び散った稲妻が一帯を打ち据える。掴んだ右腕から流れ込んだ大電流が男を怯ませ、その瞬間に雁夜は更なる力を込める。

 

 剛剣で以て圧し切り、敵をこのまま両断する腹である。今の雁夜にとって人体など(ワラ)も同然。しかし、敵もまた怪物。彼等の動きは拮抗する。

微動だにしない彼等とは裏腹に、足元の石畳は衝撃に耐え切れずに陥没、次いで反発によって爆砕されたかの如く弾け飛ぶ。

 

 その刹那、飛礫に遅れて舞上がった粉塵を裂いて彼等の間に銀光が奔り、男が地面と水平に吹き飛んだ。十メートル程宙を舞った男は地面に背中から叩き付けられ、その瞬間に受け身を取って跳ね起きる。

先の一瞬、雁夜の右の刺突を男の太刀が逸らし、それを合図に拮抗が崩れた。

 男は突きを払いのけつつ身を翻し、肩口へと喰い込んだ大鉈を押し返す。その瞬間に翻った雁夜の蹴りが男の腹へと突き刺さったのだ。

 結果、男は跳ね飛ばされ、雁夜は即座に追撃へ移る。

 

「クヒヒ、カッ、カカッ」

 

 笑むと同時の電撃突撃。

 思考を排し、紫電蟲による強制駆動を行う今の雁夜の速度は正に電光。踏み込む彼は紫電の残光のみを残し、空を切る。

 同時に、男が太刀を構え直しつつ横へ跳ぶ。それを追って銀光が奔り、遠坂邸の庭園に無数の火花を撒き散らす。六度切り結び、更に加速。彼等は互いの刃を打ち合わせながら遠坂邸の庭園を走り抜ける。

 

 男は大鉈の横薙ぎに対し身を沈めて回避。直後、沈み込む相手の頭部を蹴り上げんと跳ね上がった足を柄頭で迎撃する。頭受けを合わせ膝の皿を打ち砕いた事に笑みを浮かべる間も無く、振り下ろされる一刀を刃で以て受け止める。

 受けた衝撃で足元の石畳が弾け飛ぶも、巻き上げた粉塵が彼等に掛かる事は無い。発破に掛けられた様にしか見えぬ戦闘風景を遥か後方に、彼等は駆け抜けながら戦闘を続行している。余人には最早、彼等に遅れて剣の薙ぐ暴風、戦闘の余波にて弾け飛ぶ石畳と空中で咲き誇る火花、雷光で以てその軌跡を知るのみであった。

 

 不意に遠坂邸のガラスが砕け散り、その壁面の一部がへしゃげて砕かれた煉瓦が宙を舞った。同時に旋廻しつつ空を切った大鉈が遠坂邸の庭木を両断し、コンクリート塀へと突き刺さる。

 

 パッと血飛沫が舞った。

 男の拳が雁夜の腹を捉え、彼の身体は遠坂邸の壁面へと叩き付けられた。雁夜は止まる事無く大鉈を投擲し敵の追撃を防ぐと同時に上へと向かう。空を切った大鉈は男の脇腹を掠め、庭木を両断し、塀へとその刀身を埋めたと、そういう訳である。

 

 舞った血飛沫は男の肩口と脇腹、雁夜の全身から迸った物であった。

 男と雁夜、彼等は遠坂邸の屋根の両端に立ち、暫し互いに睨み合う。

 切り結ぶ最中、何度となく男を雷が打ち据えた。

 

 無論それは気象現象の類などでは無く。紫電蟲の覚醒した雁夜から迸った電撃である。魔蟲の複眼による銃弾すら視認可能な動体視力と空間把握、紫電蟲による無空、蟲噛、発電による雷速の強制駆動。接近と同時に自動で相手に奔る雷撃と併せ、今の雁夜は人の姿を持った雷である。しかし――

 

「フン、そろそろ、逆立ちしても勝てない事が理解できたか?」

 

 男が満身創痍(まんしんそうい)の雁夜へと言い放つ。

 超過駆動のその代償。

 全身の筋肉の断裂と無数の裂傷。

 二口目の神便鬼毒酒によって跳ね上がった膂力、魔蟲を使った我武者羅な戦闘は雁夜の肉体の限界を、否、人の限界を遥かに超える代物である。

 本来ならば一合切り結ぶだけで肉が千切れ、骨が潰れる程の負荷。心拍の鼓動は既に毎分三百を優に超え、全身の動脈が圧に耐え切れずに破れだし、雁夜の全身を血で真っ赤に滲ませている。

 そして、男に斬られた部位が十余り。

 

 既に二十回は死んでいる筈の負傷を受けながら、雁夜は神便鬼毒酒によって引き上げられた治癒能力と莫大な魔力による魔蟲の再生能力によって漸く生き永らえていた。否――

 

「クッ、カカッ、カカカカカカカッ!!」

 

 死と再生の相克。

 負傷と再生を繰り返しながら、雁夜は猶も戦闘を続行する。

 呵々大笑と共に、雁夜は男へと跳び掛かった。駆け引きも何も無い全力突撃。互いの距離が詰まり、大気の壁を切り裂いて雁夜の体表から迸った雷が男へと飛ぶ。目も眩む発光、次いで来る衝撃に炸裂音、それを合図に彼等は再び切り結ぶ――筈であった。

 

「岩流・虎切」

 

 跳び掛かった雁夜に先んじて男が刃を振るった。

 右より振りし風剣を偽りとし、左より振り返す風車で斬る。本来、フェイントを織り交ぜた、返しの刃で敵の胴を両断する技である。ただし、今回に限って初手の袈裟切(けさぎ)りは牽制では無い。

 その一刀は向かい来る雷撃を切り払った。

 

 間髪入れず、突進に合わせた逆胴。甲高い音と共に十文字に交わった彼等二人の刃がギリギリと軋みを上げ、衝撃に互いの足元が陥没し屋根瓦が宙を舞う。

 鍔迫り合い。己の腕力で以て、敵を圧し切るこの状態は剛剣を誇る雁夜にとって必勝の型である。しかし、

 

「新陰流・松葉」

 

 ほんの少し、男が身を引きながら手にした太刀の角度を僅か数ミリずらすだけで、圧し切った筈の雁夜の刃は空を切り、その根元へと滑った男の刃が雁夜の手の甲を縦に斬った。

 咄嗟に腕を退いた事でからくも両断を免れる。しかし、その一瞬の隙に翻った男の前蹴りが、雁夜の鳩尾(みぞおち)へと喰い込んでいた。

 

「グッ、ガッっハッ!!」

 

 蹴り飛ばされた雁夜は踏鞴(たたら)を踏んで後退する。

 神便鬼毒酒によって限界を超えて強化された雁夜を、男はその剣技を以て嘲笑うかの様に翻弄していた。

 

「所詮、獣の剣よ。力ばかりで単調極まる。いや、頼みのその力も少し落ちてきたか。いずれにせよ、電撃の捌き方ももう分かった。終わりだ。次は、その腕を貰うとしよう。それから、その頸を刎ねてやる」

 

 男が雁夜を見据え、太刀を上段に構える。

 その言葉、表情に在るのは侮りでは無い。絶対的な力の差を背景とした余裕である。

 

「カカッ、カカカッ!!」

 

 それでも雁夜は止まらない。

 恐らく彼の体内に浸透した神便鬼毒酒の効果が切れるまで、腕を落とされようが足を刎ねられようが、彼が止まる事はあるまい。

 

 雁夜もまた太刀を構え、その両足に力を込めて、

 上げた脚を振り下ろす。

 

 衝撃で屋根瓦が砕けて宙を舞い、遠坂邸が大きく揺れる。それは瓦礫によって相手の目を眩ませる為の一手であり、揺れで相手の動きを止める震脚であり、跳躍の為の踏込である。

 飛散した屋根瓦が男へと降り注ぐ。その陰に隠れ、太刀が飛んだ。飛刀が空を切って男に迫った。男は重心を落とし、目を凝らす。飛礫が陽動である事など百も承知。男は本命の飛刀を容易く見切り、しかし、そちらに意識が逸れた瞬間、雁夜の姿が掻き消える。

 

 男が太刀を切り払い、横へと動き始めた時、雁夜は既にその背後を取っていた。

 腕を殴り付ける。男の握った太刀が弾き飛ばされ宙を舞い、同時に、その首に二本の野太い腕が巻き付いた。

 

 裸締め。

 バックチョーク、スリーパーホールドと呼ばれる技である。

 首に右腕を回して自らの左腕を掴み、左手は相手の後頭部を押して絞めると同時に、両足で相手を挟み、後方へと重心を傾ける。

 綺麗に決まった裸締めには対処法が存在しないとされるが、それは勿論、無手での戦いにおける話である。敵が武器を持っているなら絞め技は基本的に必殺とはならない。

 

 故に雁夜は初撃で敵の太刀を弾いている。そして、足でのフックを完成させる際に敵の腰に差した武器を確認し、脇差しの柄を足の内側に挟み込む事でその使用を封じている。

 男は腰だけでなく背中にも武器を担いでいたが、裸締めが決まっている状況でそれを引き抜く事は不可能であった。

 

「クハッ、カカカカッ!!」

 

 それは勝利を確信した喜悦の笑み。

 ここまで来れば、否、雁夜の裸締めは必殺である。

 裸締めとは巻き付けた腕で気管を絞める事による窒息狙いの技では無い。頸動脈を絞める事によって頚動脈洞反射を引き起こし、一瞬で相手の意識を刈り取る技である。

 決まったが最期、凡そ数秒で敵の意識は奈落の底へと落ちていく。

 

 しかし、雁夜の狙いは敵を落とす事では無い。

 失神までの数秒を待つつもりなど元より無いのだ。

 雁夜は絞める腕に捻りを加える。つまり、頸椎を捻じ折る事による即死。否――

 

 血風が舞った。

 雁夜の身体から滑り出た無数の蟲の牙、鋏角が敵の身体を串刺しにしたのだ。それはさながら中世の処刑器具たる鋼鉄の処女(アイアン・メイデン)。そして、それと同時に――電撃が奔った。

 

 人の電気に対する絶縁性は皮膚にあると言って良い。

 人間の全身を覆う皮膚の高い電気抵抗こそが人を電気から守っている。

電気椅子による死刑執行において、罪人の頭部と電極との接触面に生理食塩水で濡らしたスポンジを挟むのは頭部の電気抵抗を減らし、罪人が速やかに死ねる様にとの処置である。

 また、感電事故において心臓を電気が通過する様に流れた場合、その死亡確率は飛躍的に跳ね上がる。人体の器官の内、心臓は特に電流に敏感で容易く心室細動が引き起こされる為である。

 

 密着状態、電気を通し易い血に塗れ、心臓を挟み込む様に電極となる魔蟲の牙が突き立てられた状況からの、紫電蟲の一斉励起による極大の電撃。

 大気を劈く轟音と共に迸った稲妻の渦。周囲に飛び散った電撃が屋根瓦を弾き飛ばし、邸内外全ての電灯を叩き割る。縦に裂けた庭木が焼け焦げ、夜が発光によって明滅し、折り重なった二人の身体が大きく跳ねた。

 

 瞬間、雁夜は両腕に力を込め、捻り上げる。

 電気刺激による筋収縮。

 感電の危険がある部位に触れる時、決して手の平で触ってはならないというのは良く言われる事である。感電した際、反射によって筋肉の瞬間的な収縮が起こり、感電部分を握り込んでしまう事があるからだ。その時に生じる力は肉体の限界を容易く超越する為、これを引き剥がす事は容易では無い。

 

 この筋収縮を利用して、雁夜は男の頸部に巻き付けた腕に更なる力を込め――

 ゴキリッ、という骨の砕ける音がした。

 

「クッ、カカッ、今のは少々ヒヤリとしたぞ」

 

 男が嗤う。

 男の手が雁夜の腕を掴んでいた。

 折れたのは男の頚骨では無い。

 男が感電の際の筋収縮を利用して、首に巻き付いた雁夜の腕を握り潰したのである。

 

 そのまま男は掴んだ腕を引き、身体を丸めて雁夜を空中へと背負い投げる。同時に取り落とした大太刀を蹴り上げ掴み――

 

「さて、仕舞いだ。天然理心流・無明剣」

 

 迸った銀光が真っ直ぐに雁夜の身体を貫いた。

 音が一つに被撃が三。

 腹、胸、腕と男の放った突きが雁夜を貫き、彼は宙に血を撒き散らしながら放物線を描いて落下する。遠坂邸の屋根から地面まで十メートル余り、庭園中心の石畳に叩き付けられ、一度大きく跳ねるとそれきり彼は動かなくなった。

 

「マスターッ!!」

 

 バーサーカーが駆け寄る。抱き起そうとするその手が雁夜に触れた瞬間、バヂリと電気が流れた。反応の無い雁夜とは裏腹に、彼の体内の魔蟲はその活動を止めていない。しかし、それはさながら蝋燭の燃え尽きようとする最後の輝きに見えた。

 

「マスター、しっかり。返事しなさい」

 

 バーサーカーは雁夜の傷を確認し、絶句する。人間の限界を超えたその代償がそこにあった。全身の筋断裂、至る所の血管が裂け、血塗れだった。それでも彼女は怯む事無く治癒魔術を施していく。時折、その顔が苦痛に歪んだ。感電による火傷と裂傷でその手はズタズタになっていた。

 

「ッ、あの娘達を護るんでしょ? そう言ったじゃない。返事しなさいよ、マスター。ねぇ、返事してよ。ねぇ、ねぇったら!!」

 

 バーサーカーが叫ぶ。しかし、雁夜に反応は無い。

 それは当然の帰結である。

 幾度と無く致命傷を受けながら、彼は魔蟲の再生能力に頼って戦闘を続行していた。神便鬼毒酒の効果が弱まり、深手を負った事で、遂にそれに限界が来たのだ。

 

 契約によって繋がったラインを通して、雁夜の命が失われていくのがバーサーカーには分かった。その心中にあるのは後悔の念である。

 こうなる事は分かっていた筈なのだ。

 敵の方が強い事は分かっていた。彼が神便鬼毒酒に勝機を見出す事も分かっていた。

 自分にはどこかで止める事が出来た筈だった。

 否、自分が――

 

「か、雁夜君……」

「お、おじさん……。嘘、だって、そんな……」

 

 葵と凛が言った。

 桜は糸が切れた様にその場にへたり込んでいる。

 その声を聞いた瞬間、バーサーカーは成すべき事を思い出す。

 

 彼女は神便鬼毒酒を少量口に含むと、口移しで雁夜に飲ませた。飽く迄少量。最早、神便鬼毒酒という劇薬の効果を受け入れるだけの力は雁夜にはあるまい。それでどれ程生き永らえる事が出来るかは分からないが、少なくとも今少し現界させて貰わねば。

 

 彼の意志を継ぐ。

 

“彼女達は私が護る”

 

 そう彼女が心を定めた瞬間――

 

「また、抱え込むか。相変わらず、変わらんな。いや、当然か」

 

 遠坂邸の屋根の上、男がバーサーカーを見下ろし言った。

 

「アンタ、一体何者? それは私達の――」

「悪いが何も言う事は無い。そこを退いては――くれぬだろうな。フム、ならばせめて苦痛無く、主と共に逝かせてやるが慈悲という物か。間桐の妖怪を殺す為の我が“宝具”。お前に向けたくは無かったが致し方なし」

 

 男が背に担いだ弓を引き出す。裂けた襤褸が落ちて、男の姿が露わになる。

 鎧。血の如き真っ赤な具足。そして、なお紅い、禍々しき朱の鬼面。

 バーサーカーの被った物と同種の鬼面を男は被っていた。

 否、それよりも――。

 

 新月の夜に月がある。

 見よ、闇夜に覗く弓張月。

 男の手の中で引き絞られた美しき霊弓を。

 

「弓矢八幡・雷上動(らいじょうどう)。安心しろ、痛みは無い。苦しみも無い。抵抗する意味も、死の実感すらも無いだろう。そんな物を感じる前に、貴様等の肉体はこの世界から消え失せる」

 

 男は静かに告げる。

 そして、逆巻く恐るべき魔力の波動と共に、地上に彗星が奔った。

 

 






雁夜「雷という」(ギィィ)


後書きは明日活動報告でやります。
敵のステータス開帳もそっちで。


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前夜祭の終わり(後)

 

 

 †††

 

 

 遠坂邸の屋根の上に立つ男の襤褸が裂け、その姿が露わになる。

 血の如き真っ赤な鎧と、なお紅い、禍々しき朱の鬼面。

 男の手には月があった。

 男の掴んだ神々しき霊弓が、新月の闇夜に美しき弓張月を描き出している。

 

「弓矢八幡・雷上動。安心しろ、痛みは無い。苦しみも無い。抵抗する意味も、死の実感すらも無いだろう。そんな物を感じる前に、貴様等はこの世界から消え失せる」

 

 男は静かに告げ、弓を引き絞る。

 霊弓から迸った魔力が、番えた矢へと収束する。空間を覆い尽くす魔力の波動は、見る者に重圧となって降り注いだ。しかし――

 

「ナメんじゃ無いわよッ!!」

 

 バーサーカーは臆する事無く背後に雁夜を庇って仁王立ちすると、その頭に掛けた鬼面を自らの顔へと回した。瞬間、彼女の様子が一変する。

 

 変化は一瞬。

 鬼の面が生物の如く脈動し、彼女の皮膚と同化する。次いで悍ましき魔力がバーサーカーから迸り、彼女の周囲に蜃気楼の如き歪みを形成した。

 

「ア――アァアアアアアアアァアアア―――!!」

 

 少女が吼えた。

 バーサーカーの喉から迸った慟哭は、最早言葉を成さずに天を衝く。それは大気を震わせ、木々を揺らし、その場全ての者を圧する怨嗟の咆哮。

 鬼面の奥に浮かぶ常軌を逸した眼光。髪を振り乱し、両手に大鉈を構えたバーサーカーに、最早先程までの可憐な少女の面影は見当たらない。

 

 この時、この場で唯一透視能力を持つ雁夜が健在であったならば、直ぐにバーサーカーの変化に気付いたであろう。今、彼女のステータスは以前とは比べ物にならぬ程に上昇している。

 それは理性を失い、狂気に呑まれ、醜悪なる怪物に成り果てた末に漸く得られる力。

 

 今、正にバーサーカーは狂戦士(バーサーカー)と成ったのだ。

 彼女もまた、間違いなく人域の踏破者、英霊である。

 

「狂気に呑まれ、鬼に堕ちるか。哀れな……」

 

 しかし、バーサーカーを見た鬼面の男がそう吐き捨てる。

 と同時に、ギリ、ギリと音がした。

 引き絞られた弦の音色、だけでは無い。

 

 それは世界の歪む音。

 鬼面の男とバーサーカーとの間、射線上の空間が引き絞られる音である。

 

 弓矢八幡・雷上動。

 それは神仏たる文殊菩薩が造り、その化身、猿号擁柱と呼ばれた神代の弓聖、養由基から源頼光が賜った霊弓である。養由基の放つ矢が文殊菩薩の智慧による未来視によって必中を誇る神業であるのに対し、鬼面の男の放つソレは武神、八幡ノ神の権能の限定行使により空間を歪め、的と己の距離を(ゼロ)とする事で必中足らしめる魔技。

 

「その慟哭もここで終わる。せめて安らかに散るが良い」

 

 言葉と共に矢が空を切る。

 瞬間、逆巻く恐るべき魔力の波動と共に、地上に彗星が奔った。

 それは空間湾曲による擬似的な光速超過。放たれた矢は正に雷となって敵を穿つ。

 

 故に、如何な膂力であれ、如何な防御であれ、その一射を凌ぐには不足である。

 遠坂邸の一角が爆砕し、衝撃波と共に粉塵が舞い上がった。衝撃に周囲へと弾け飛んだ飛礫がバーサーカー達の背後にあったブロック塀を薙ぎ倒し、公道へと降り注ぐ。砕けた電柱が倒れ、二度三度と火花が瞬いた。

閃光と轟音、逆巻いた暴風に押され、凛達は尻餅を付いて倒れる。耳と目が麻痺し、恐怖で身体は硬直している。それでも、彼女達は叫ばずにはいられなかった。

 

「雁夜おじさんッ!!」

 

 巻き上げられた粉塵に隠れ、雁夜達の安否は不明である。

 しかし、如何に幼い子供でも絶望的な状況だと本能で分かった。

 アレは嵐や雷、地震や津波と同種の物だ。人の手に余る事象である。

 

「よくもッ!! よくも、おじさんを――」

 

 白む視界で、それでもカッと頭に上った熱に従い、凛が叫ぶ。否、叫ぼうとした。

 しかし、言葉は途中で途切れた。

 鬼面の男が殺気を湛え、真っ直ぐに彼女を見据えていたからである。

 

 それはこの日、初めて鬼面の男が見せた本気の殺意。

 心臓を鷲掴みにされた様な錯覚を覚え、凛は微動だに出来なかった。

 

 ぽたり、と血が落ちた。

 舞っていた粉塵が次第に収まり、倒れ伏す雁夜の姿が露わになる。彼から数メートル離れた場所にクレーターが出来ていた。鬼面の男の放った矢の着弾箇所である。

 

 正しく隕石でも落ちたのかという有様だった。

 バーサーカーの姿は無い。

 否、その二十メートル程、後方。遠坂邸の前に止まった車の中に彼女はいた。

 

 衝撃に撥ね飛ばされた彼女は、背後のブロック塀をぶち抜き、道路に止めてあった乗用車に背中から突っ込んだ。車が大きく跳ね、ガラスは砕け散り、サイドドアは陥没。彼女はそのまま車内へと転がり込み、衝撃に横滑りした車が向かいの家の門に激突して止まる。

 

 再び、ぽたり、と血が落ちる。

 鬼面の男の弓を持つ手から真っ赤な血が滴っていた。

 

「何者だ?」

 

 男が凛へと問うた。否、その後ろの木陰に向かってである。

 同時に何かが空を切って男へと奔った。

 男が横に跳んでそれを回避し、その足元の屋根瓦が次々と砕けて宙を舞う。

 無数の石火が瞬いた後、凛の背後の木陰からスッと一つの影が進み出る。

 

 一人の男である。

 百九十を超える長身に、闇に溶け込む黒の神父服。カソックの上からでも見て取れる鍛え上げられた鋼の如き肉体。戦闘を目前に熱を持たぬ瞳。物静かな、影の様な男だった。

 振り返った凛が男を見て驚きの声を上げる。

 

「き、綺礼、なんでアンタが……。いや、それより――」

「ふむ、凛、これは一体どういう状況だね? いや、良い。先ずは師の家を荒らす狼藉者を片付けるとしよう」

 

 男、言峰綺礼は凛の頭にポンと手を乗せるとニコリともせずに言った。

 

「凛、君は下がっていなさい。ああ、いや、奥様を頼む」

 

 綺礼の指先が袖の中に一瞬隠れ、次の瞬間、ぞろりと黒い刀身が顔を出す。五指に握られた四本の刃。代行者特有の投擲武装「黒鍵」である。

 

 言峰綺礼。

 聖堂協会所属、元第八の代行者にして、遠坂時臣に師事する魔術師見習い。凛の兄弟子にあたる人物である。言峰と遠坂の盟約に従い、今は聖杯戦争に参加する時臣と共に行動していると凛は聞き及んでいた。

 それがどうしてここにいるのか?

 疑問はあったが、凛は黙って疑問を呑み込むと葵のもとへと駆けていく。

 

 そちらをちらりと一瞥すると、言峰綺礼は真っ直ぐに進み出る。確りとした足取りであった。鬼面の男と相対する綺礼に臆した様子は欠片も見当たらない。

 彼は倒れ伏す雁夜を見た。

 綺礼は未だ状況が呑み込めてはいない。何故、師の家が戦場になっているのか分からなかったし、彼は雁夜とも面識が無かった。しかし、凛達が彼等の身を案じている事は分かった。

 

 故に、彼は自らが成すべき事を判断する。

 

「貴様、邪魔立てする気か――ッ!!」

 

 男が矢を番え、弓を綺礼へと向ける――より速く、綺礼は鬼面の男へと黒鍵を投擲した。予備動作無しで放られた四本の黒鍵が空を切り、男へと降り注ぐ。

 先程、雁夜を射抜く筈だった男の矢が逸れた原因。それこそがこの投擲剣。雷上道から矢が放たれるより一瞬早く、綺礼の放った黒鍵が男の腕を掠めていたのである。

 

 闇に紛れる黒い刀身、飛来したそれは宛ら砲弾。着弾と同時に屋根瓦が弾け飛び、黒鍵が遠坂邸の屋根を貫いて虚空に消える。

 辛くもそれを回避した鬼面の男が息吐く間もなく、綺礼の放った次弾が空を切る。綺礼の投擲する黒鍵は神速なれど、鬼面の男にとって避けられぬ速度では無い。

 

 しかし、余りに数が多過ぎた。避けると同時に、身を躱した先に間髪入れず、逃げ道を塞ぐ様に無数の黒鍵が飛んでくるとあっては避け続けるのは不可能である。

 鬼面の男は避け切れぬと判断すると、その手甲で黒鍵を受けた。避け切れぬ黒鍵を叩き落とし、次弾が迫るより前に雷上動で敵を討つ。その動きは淀み無く、その判断に痂疲は無い。男の腕ならば次弾が届くまでの一刹那に、容易く綺礼の頭を射抜くだろう。ただ一つの誤りは、その黒鍵を投擲しているのが埋葬機関の代行者、言峰綺礼であるという事である。

 

 黒鍵を受けた瞬間、男の身体が衝撃で弾き飛ばされ、屋根瓦を砕いて遠坂邸に埋没した。

 

 鉄甲作用。

 埋葬機関秘伝の黒鍵投擲術である。

 それは作用反作用の法則を容易く超越する。今、綺礼の放つ黒鍵の着弾時の衝撃は通常の数十倍にまで跳ね上がっているのだ。そして、綺礼は敵の動きが止まったと見るや否や、更に黒鍵を投擲する速度を上げる。

時間にして凡そ二十秒、遠坂邸の屋根は無数の黒鍵に貫かれ半壊した。

見るも無残な有様である。しかし――

 

「ッ、その程度で、この俺が殺れると思うなッ!!」

 

 男が吼えた。

 男は瓦礫の中から飛び出ると、更に飛来する黒鍵を躱しながら、抜き放った太刀を滑らせる。弧を描いて地面に吸い込まれた一刀に次いで、蹴りが屋根へと打ち込まれ、ベキベキという破砕音と共に切り落とされた遠坂邸の一角が綺礼へと降り注いだ。

 影が落ち、降り注いだ瓦礫の山が綺礼の視界を埋め尽くす。

 

「下らん――主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた――火葬式典」

 

 詠唱と共に投擲された黒鍵が、降り注ぐ遠坂邸の屋根を貫く。同時に、降り注いだ瓦礫の山が炎に包まれ燃え上がり、黒鍵に貫かれた穴を起点に 左右にバラけて落下する。

 両断された燃え上がる瓦礫はゆっくりと左右に分かれ、綺礼を避ける様に落下した。しかし、同時に綺礼へと一つの影が落ちる。

 銀光の瞬きと共に、屋根から飛び降りた男の一刀が綺礼へと奔った。

 

「その動きは読んでいる」

 

 綺礼は後方に大きく跳び退き、これを回避。同時に、片手を自らの背後に回す。

 着地した鬼面の男が刀を振り被り追撃の構えを見せた所で、綺礼の背後で光が爆ぜた。綺礼の手を離れた直径数センチの火球が爆裂し、強烈な閃光を放ったのだ。

 それは一瞬男の眼を晦まし、勝負を決定付ける。

 

 綺礼はダンッ、と黒鍵を地面に突き立てた。否、正確には背後で炸裂した閃光によって、敵を覆い隠す程に巨大化した己の影に黒鍵を突き立てたのである。

 

「読んでいる、と言っただろう? 動こうとしても無駄だ。私の影がお前を掴んで離さない。そして――」

 

 綺礼は懐から一冊の書物を取り出す。聖書であった。それが開かれるとバラバラと凄まじい速度で独りでにページが捲られていく。次いで紙片が宙を舞った。

 

「これで終わりだ。――神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海たる水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」――鳥葬式典」

 

 宙を舞っていた無数の紙片が詠唱と共に黒鍵へと変貌する。それだけでは無い、彼が今まで投擲した黒鍵の尽くが中空へと浮かび上がり、くるりと反転すると、その刃先を標的へと向けたのである。

 綺礼が胸の前で十字を切る。

 

 瞬間、無数の黒鍵の弾雨が鬼面の男へと殺到した。

 動けぬ獲物を抉り啄ばまんと無数の飛刃が宙を舞う様は正に鳥葬。

男は微動だにしない。否、綺礼の影縫いによって微動だに出来――

 

「この程度で、俺を殺す? 笑わせるなよ、小僧。――神力・星兜」

 

 言葉と共に、男の全身の筋肉が膨れ上がり――無数の黒鍵の雨が降り注ぐ。飛来した刀剣による絨毯爆撃。石畳が衝撃に弾け飛び、地面が揺れる。

 撒き上がった粉塵の中から、一つの影が跳び出て、綺礼へと迫った。

 綺礼は咄嗟に自らが影縫いに使った黒鍵に目をやった。彼が陰に突き刺した黒鍵は如何なる力が加わった物か、刀身が半ばで圧し折れ、柄が砕け散っている。

 影縫いが破られた事を悟ると、綺礼は即座に迎撃態勢を取り、黒鍵を投擲する。

 

 鉄甲作用によって投擲された黒鍵はその威力故に受ける事が出来ない。それは敵も承知の筈。綺礼は男が紙一重で避けてこちらに向かうなら黒鍵を抜いて跳び掛かろうと思った。大きく避けて跳び上がったなら黒鍵を投げて迎撃しようと思った。しかし、

 

 男は投擲された黒鍵を片手で易々と薙ぎ払った。

 

「遅いな。終わりだ」

 

 一体如何なる膂力を秘めているのか。男の腕が伸ばされる。徹甲榴弾にも比肩する黒鍵数発を纏めて弾く剛腕は人間など藁の様に引き千切るだろう。

 

「――ヌルい」

 

 しかし、綺礼は伸び来たる男の腕、その手首を手の甲で受け、軌道を逸らす。そして即座に手首を返して男の腕を掴んで引き寄せると同時に、一歩踏み込んだ足を引いた。踏み込んだ男の足と綺礼の足とが交差する。

受けから始まり、踏み込んだ敵の足に自らの脚を絡めて体勢を崩す梱鎖歩、空いた脇腹へとカウンターで放つ必殺の頂肘まで、一連の動作は一呼吸の内に完了する。綺礼渾身の頂肘、肘打ちは確実に男の鎧を砕き、肋骨を粉砕して敵の内臓を爆裂せしめるだろう。

 

 しかし、綺礼は不意に梱鎖歩を解き、掴んだ手を離すと舌打ち一つを残して横へと跳躍。男から距離を取った。

 

「綺礼ッ!! 危ないッ!!」

 

 遅れて凛の絶叫が綺礼の耳へと届いた。

 瞬間、死が降り注ぐ。

 

「アァ――アァアアアアアアァアアア―――!!!」

 

 暫し沈黙していたバーサーカーが跳躍し、頭上から鬼面の男へと躍り掛かったのだ。

 

「チッ、この――」

 

 鬼面の男の言葉が途中で途切れる。

 轟音と共に石片が宙を舞った。バーサーカーの大鉈による一撃は、ショベルカーの掘削の如く、石畳を数メートルに渡り大きく抉ってその下の地面ごと中空へと跳ね上げた。

 

 同時に瞬く無数の火花。

 柄から伸びる綱を掴んで振り回すバーサーカー大鉈、綺礼の投擲した無数の黒鍵、鬼面の男が抜き放った刃がそれぞれ激突し中空に火花を咲き誇らせたのである。

 

 しかし、それも一瞬。

 バーサーカーが跳ね上げた土砂石片が落下し、巻き上がった際の粉塵に紛れて鬼面の男は両者から距離を取って大きく跳躍。彼は半壊した遠坂邸の屋根の上へと着地する。

 鬼面の男が言った。

 

「フン、今日は随分と邪魔が良く入る。まぁ、良い。当初の目的は果たした。これ以上は結界も綻ぶ頃合だ。この勝負は預けよう。貴様等全員、次は死を覚悟しておけ」

「逃げる気か? いや、逃がすと思っているのか?」

 

 黒鍵を構え、綺礼が言った。男は苦笑を返し、バーサーカーを指差す。

 バーサーカーは血走った目に殺意を溜め、膝を付き肩で息をしていた。低く唸る声にも先程までの力は無い。不意に彼女が手で自らの顔を、その顔に張り付いた鬼面を覆った。

 

「グ、グゥゥウァアアァア――あ、うぅ……」

 

 嗚咽と共にバーサーカーの顔から鬼面が落ちた。同時に彼女の瞳は理性と憔悴の色とを取り戻す。

 魔力切れだ。

 遂に狂化は愚か、宝具の使用に回す魔力すらも尽きたのだろう。狂化を施した英霊の戦闘には莫大な魔力を要する。元より死に瀕した雁夜からの魔力供給で追いつく筈も無い。

 先程の強襲も、自前の貯蔵魔力による最期の足掻きに他ならない。

 全く動けなくなる前に、彼女は無理を押して勝負に出た。

結果は御覧の有様である。

 

「そちらのサーヴァントもガス欠でアウト。俺はこの場は見逃してやる、と言っている。貴様が本当に勝てるつもりなら追って来い。殺してやるよ」

 

 鬼面の男は太刀を鞘へと収めると、右手の手甲を外した。男の右手の地肌が露わになる。

 

「だが、そう急く事もあるまい。貴様等が今回の聖杯戦争に参加するつもりなら、どうせ殺り合う運命なのだからな」

 

 男の晒した右腕には、朱き無数の紋様があった。

 皆が息を呑む音がした。

 それは紛う事無く聖杯戦争のマスターである事の証明、令呪に他ならない。問題はその数だ。男の腕に描かれた令呪、その数はどう見ても十画を超えている。

 

 通常、参加者に宿る令呪は三画のみ。その例外は聖杯戦争の審判として聖堂教会から派遣される監督役と、裁定者として聖杯に召喚されるルーラーのサーヴァントのみ。

 その意味を察した綺礼が表情を強張らせる。

 

「貴様……。その無数の令呪、まさか父を――」

「逸るなよ。これは俺が今回の聖杯戦争の為に掻き集めていた物だ。過去の聖杯戦争において、敗退者共の残存令呪を回収していたのは監督役だけじゃァねェって事さ」

 

 令呪とはサーヴァントを律する鎖であり、膨大な魔力の塊。

 能力の強化は勿論、己のサーヴァントをその意志に反して自刃させる事も、空間転移に拠って引き寄せる事も可能な三度限りの切り札であり、マスターにとっては自らより遥かに強大な英霊を御する上での生命線なのだ。

 圧倒的な優位と言わざるを得まい。

 

「開催の地、トゥリファスにて待つ。臆せぬならば来るが良い。ああ、そうだ。そこで倒れている死にぞこないにも言っておけ。不覚が許されるのは今宵までだ。精々、本当の戦いが始まるまでに強くなっておけ、とな」

 

 鬼面の男は雁夜を指差してそう言うと、大きく後方に跳躍し夜の闇へと消えていった。

 

 同時に一帯を覆っていた人払いの結界が解除され、戦闘の終了を告げる。

 男の気配が消え、後には静寂とボロボロになった遠坂邸のみが残った。いずれ戦闘痕を見た付近の住民が警察に通報し、この場所も次第に騒がしくなるだろう。

 この場に残された各人は追撃よりもそちらへの対処を考えねばなるまい。

 余りにもアッサリとした幕引きであった。

 

「フン、この状況――追うのは無理だな」

 

 綺礼は男の消えた方向を見つめ、一人呟く様に言った。

 綺礼は自らの腕を見る。彼の右腕はへし折れ、あらぬ方向へと曲がっていた。先程、鬼面の男の掌打を逸らした方の腕である。

 

「完全に捌いた筈だったが――。どうやら、見逃された様だな……」

 

 綺礼の二の腕のカソックは破れ、そこからは朱き三画の紋様が覗いていた。彼に宿った令呪である。或いは鬼面の男が退いたのは、この綺礼の令呪を見たからなのかも分からなかった。

 

“あと数分……。否、数秒も在れば敵はこちらを皆殺しに出来た筈だ……。

 

 無闇に追い詰める事によって、英霊を喚ばれる事を畏れたか?”

 綺礼は顎に手を当て、思考に耽る。

 周囲の被害は甚大。更に綺礼は未だに事態を把握出来ていない。

 そもそも何故、遠坂邸で戦闘が起こっていたのか?

 あの鬼面の男は何者か?

 あのサーヴァントは?

 倒れている男は何者だ?

 疑問が次々と湧き上がったが、綺礼は凛達の安否を確認するのが先だと思い直した。少なくとも眼前のサーヴァントとそのマスターと思わしき男に戦闘の続行は不可能だ。

 

 綺礼が踵を返して凛達の方へ向かおうとすると、バーサーカーがその足を掴んだ。その手は弱々しく、無様に縋る様に、否、実際、英霊ともあろう者が藁にも縋る思いなのだろう。必死に綺礼の足に縋り付いている。

 

「お、お願い。マスターを、助けて……」

 

 バーサーカーが言った。絞り出す様な声だった。

 

“私が魔術師であると知って主の治療を求めたか?

 だが懇願する相手を間違っている。”

 

 そう綺礼は思った。自分も聖杯戦争に参加するマスターである以上、敵と成り得る人間を治療する理由は無い。増して、綺礼は雁夜の事を何も知らないのだ。自身の傷の手当てもしなければならない。

 

 それは極めて打算的な判断だった。

 そこに綺礼自らの思考、心情を差し挟む猶予は全く無い。

 故に彼は気付かなかった。

主の治療を願って敵に縋る少女の手を振り払う時、綺礼には我知らぬ内に、己の胸の奥底でチリと浮かび上がる感情がある事に。彼は無自覚にその感情に蓋をし、冷静に振舞う。

 

「ふむ、すまないが――」

「綺礼ッ!! お願い!! おじさんを、雁夜おじさんを助けてッ!!」

 

 綺礼の言葉は、彼へと跳び付いた凛の必死の懇願に遮られた。身体を両手で揺さぶられ、へし折れた右腕に奔る激痛に綺礼は顔を歪める。しかし、凛はそれに気付かず、猶も激しく綺礼の身体を揺すって懇願する。

 

「ぐ、ッ、り、凛……。取りあえず、手を離してはくれないか?」

「あッ、ご、ごめんなさい」

 

 謝る凛を前に、彼は頭を掻いて一つ大きく息を吐く。

 

「ふむ、そうだな。それでは、凛、状況を説明してくれないか?」

 

 

 †††

 

 

 心臓が今にも張り裂けんばかりに脈打っているのは決して走っているせいだけでは無い。

 脳裏に渦巻く後悔と焦燥が主たる要因に違いなかった。

しかし、落ち着く事など出来なかった。

立ち並ぶ民家の屋根を蹴って、一直線に目的地へと夜の街を駆け抜ける。

 心臓が破れても良い。

 足が千切れても構わなかった。

 ただ彼女を――、彼女達を救う事が出来たらそれで良い。

 ただ一念に突き動かされ、目的地へと辿り着く。

 門扉を蹴破って中へと転がり込んだ。

 

 そこには絶望があった。

 

 間に合わなかったという事実だけが、絶望的な光景を突き付けてくる。

 世界が歪んでいる様に感じた。

 自分が震えている事に気付いたのは、ずっと後になってからだ。

 

 大切な人だった。

 ただ一人、愛した人だった。

 彼女を護ろうと思った。

 彼女の大切な物全てを護ろうと思った。

だから、強くなると誓った。

 なのに……。

 真っ赤な血に塗れた彼女の死体がそこにあった。

 死んでいる。

 死んでいる。

 生きているはずが無い。

 胴体を失って生きている人間などいるはずが無い。

 彼女の肩から上の部分だけが血だまりの中に沈んでいた。

 

 どれ位、それを見つめていたのかは分からない。

 一瞬だった様な気もするし、数十分だったのかも知れない。

 俺は半狂乱に成って彼女の娘達を探した。

 護ると誓った彼女の大切な物。

 命に代えても救いたかった人達。

 やっと見つけた彼女達は――

 

 

 悪夢に魘され手を伸ばす。

 

「あ、葵さんッ――葵さんッ!!」

 

 夢中で彼女の名前を呼んだ。

 その指先が誰かに触れる。逆光になって霞んだ視界に映った人影を、雁夜は夢中で抱き締めた。断裂した全身の筋肉が悲鳴を上げたが彼は気にしなかった。ただ失う事が恐ろしくてならなかった。その腕を離せば彼女が永遠にいなくなってしまうのではないかと思った。

 

 彼の身体はガタガタと震えていた。

 初めて蟲蔵に入った晩も、臓硯と対峙した夜も、兄弟である鶴野と殺し合った時ですら、否、鬼面の男に殺される瞬間にすら、ここまで怖いと感じた事は無かった。

 恐怖と言う感情なぞ、とうの昔に蟲の餌になった物だと思っていた。

 柔らかな手の温もりが頭に、回された背に伝わる。

 次第に震えが止まり、恐怖が消える。

 

 あんなに狼狽していたのに、腕の中の彼女に触れられるだけで、不思議と雁夜は落ち着く事が出来た。すると今度は気恥ずかしくなってくる。ただでさえ、自分が不甲斐無いせいで護るべき葵達を危険に晒してしまったのだ。本来、合わせる顔も無い失態である。

 だと言うのに、取り乱した挙句に葵に抱き付くなど――。

 しかし、雁夜は抱き締めた腕の力を抜く事が出来なかった。

 

“ああ、葵さん。俺はやっぱりアナタの事が……”

 

 漸く、雁夜は自覚する。

 それは隠しようも無い彼の本心だった。

 積年の想いだ。元より諦められる筈が無かった。

 たとえ彼女の心が時臣へと向いていようとも。

 たとえ彼女が時臣の妻となっていようとも。

 

 その程度の事で、諦められる筈が無かったのだ。

 武の修業に明け暮れていた為か、雁夜の恋愛観は間桐を出奔する当時のままで止まっている。否、長年の夢妄、積愁の念が拗れに拗れて膨れ上がっているのだ。

 自分に嘘を吐き、彼女の幸せを願うなどと耳触りの良い言葉で自分を誤魔化すのは、最早不可能だった。不可能だと悟ってしまった。

 

 抱き締めた腕の中に感じる女性特有の丸みと柔らかさ。

 鼻腔を擽る甘い酒の匂い。

 正に天にも昇る様な心地だった。

 ん? 酒?

 

「えっと、あの、葵さ――」

 

 雁夜は恐る恐る腕の中の女性へと目をやる。

 

「あ、震えは治まった? えーと、それじゃあ、マスター。出来たら放してくれると嬉しいんだケド……」

 

 そこには恥ずかしそうに俯くバーサーカーの姿があった。

 どうやらずっと葵さんと勘違いしてバーサーカーを抱き締めていたらしい。

 雁夜は何も言わず、ぎこちない動作で首だけを動かして辺りを見回す。首関節のモーターがどうやら壊れたらしい。ギギギと音を立てそうな挙動だった。

 

 どうやら遠坂邸の客間であり、ベッドの上である。これを誰かに見られると非常に拙いのでは無いか? 否、何もやましい所は無い。そもそも自分は葵さん一筋なのである。それは先程、再確認したばかりでは無いか。

だが、取りあえずこの場を葵さん達に見られる事だけは避けなければ。そもそも召喚の際も誤解によって――と、雁夜の頭脳は一瞬にしてフル回転し、自問自答を繰り返しながら取るべき行動を過去の経験から引っ張り出そうとする。

 

 しかし、石柱を投擲された時と違い、こちらは幾ら過去の経験を思い返してみても正解は見付かりそうも無かった。当然である。存在しない物を探すなど正に徒労という物だ。

 

 待て、何でも無い事の筈だ。

 落ち着いて一言バーサーカーに詫び、何事も無かった様に振舞えば――。

 そこまで考えた時、目を輝かせ、興味津々といった体でこちらを見つめる凛と桜の二人と目が合った。

 

 

 †††

 

 

 時は少し遡り、遠坂邸の応接室。

 遠坂葵と言峰綺礼はそこにいた。

 マホガニーのテーブルを挟み、向かい合ってラウンジチェアに座っている。テーブルの上に置かれたヘレンドのティーポットから紅茶の良い香りが漂っていた。

 応接間は運良く先の戦闘による損壊を免れた場所である。

 

「言峰さん、先程は危ない所を助けて頂き、本当にありがとうございます。ですが、貴方は主人と行動を共にしていたのでは? それが何故こちらに?」

 

 葵は深々と綺礼に頭を下げると、浮かんでいた疑問を口にする。その顔と口調には不安がありありと滲んでいた。

 凡そ三年前、時臣が弟子を取ると言って連れてきた男がこの言峰綺礼だった。

 綺礼は真面目な男で、魔術を忌避して然るべき聖職者でありながら貪欲に魔術を学ぶ様は、時臣を大いに喜ばせた。三年の間に形成された彼の綺礼に対する信頼は揺るぎなく、娘の凛にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。

 

 葵も真摯で礼節を忘れぬ所作を決して崩さぬ綺礼の事を信頼していたし、その聖職者らしい禁欲的、模範的な態度は凛に見習わせたいと思っている程だった。

 一番弟子の称号を奪われた凛は事ある毎に彼に反目していたが、言峰綺礼は自他共に認める正に時臣の片腕とも言える存在である。

 それが何故、聖杯戦争開始が差し迫ったこの時期に一人日本へと帰って来たのか?

 

 綺礼は師である時臣と共に聖杯戦争に向けての準備に動いていると葵は聞いていた。二ヶ月程前に時臣は自らが在籍していたロンドンの時計塔に行くと言って冬木を発っており、冬木国際空港で二人を見送った事を葵は覚えている。

 既に二人共が今回の聖杯戦争の開催地へと入っているものだと思っていたのだ。

 綺礼の存在は時臣に何かあったのではないかという不安を葵に抱かせるに十分の物だった。

 

「はい、奥様。時臣氏の指示で私は一度こちらへと戻る事になったのです。貴方達の身にも危険が及ぶかも知れぬ、と師は心配しておられました。私が間に合ったのは運が良かった。いや、彼のお陰でしたね」

「ええ、雁夜君がいなかったら、私達家族は今頃……」

 

 葵の表情が曇る。恐怖がぶり返してきたのだろう。

 事実、綺礼の到着が今少し遅れていたら、彼女達の命は無かった。

 綺礼は葵の様子を見て、少し話題を変える事にした。

 

「ふむ、奥様。彼とはどの様な御関係で? 随分と親しい間柄と見受けられますが」

「幼馴染なんです。私と、時臣の。尤も、時臣は失踪した彼を恨んでいるかも知れません。彼の魔術師としての才覚に一番期待していたのはあの人でしたから」

「失踪?」

「ええ、雁夜君と時臣は良く腕試しというか、魔術比べをしてて……。私は兄弟の様に思っていたんですが、彼はライバルだと思っていたんでしょうね。男の子ですから。時臣に負けて、彼が時計塔に行くと分かって、家を飛び出したんです」

「ほう、そんな事が」

「主人は随分とショックを受けていました。あの人があれ程怒っていたのを私は初めて見た気がします」

「ですが、彼は帰ってきた。聖杯戦争に参加する為に」

 

 綺礼は葵の話を聞き、やはりあの雁夜という男はここで始末しておくべきなのでは無いかと思った。意識の戻っていない今は、彼を始末するまたとない好機に違いない。

 負け続けてきた男。

 再び姿を現した彼が師に敵対しないとどうして言えるだろうか?

 確かに彼には葵達の件で借りがあるのかも知れない。

 だが、だからこそ弟子である自分が汚れ役を引き受けるべきでは無いのか?

 

 だが――と、そう考える一方で綺礼は雁夜に興味を覚えていた。

 鮫がどれ程薄まろうと血の匂いを嗅ぎ分けるのと同じく、綺礼本人にすら無自覚に、彼は嗅ぎ取っていたのだろう。人の魂の削られる様な足掻きと、それの報われぬ瞬間にこそ訪れる真の絶望。悲劇の織り成す血の匂いを。

 後は全てが蛇足だ。

 我知らぬ内に彼は理論武装し、獲物が死なぬ様に理屈を付け、自らを言い負かす。

 綺礼が暫しそのまま自問自答していると、葵が言った。

 

「その、言峰さん。事情は分かりました。この家もこの有様ですし、私達は実家の禅城を頼ろうと思います。貴方は直ぐに時臣の元に戻って下さい」

 

 綺礼が来た事で救われたのは事実である。

 しかし、綺礼という強力な戦力を護衛としてこちらに縛り付けておく訳にはいかない。敵は尋常な相手では無いのだ。味方は一人でも多い方が良い。

 葵の言葉に綺礼は頷く。

 

「分かっております。ただし、直ぐという訳にはいきません。貴方達の安全を確実に確保する必要がありますし、何より目的の物を持ち帰らねばなりませんから」

「目的の物? それは何なのです?」

 

 綺礼の答えは大凡葵にとって予想外の言葉だった。

 

「英雄王に代わる英霊を召喚する為の触媒です。ブカレストに向かった我々は敵の襲撃を受けました。そして、時臣氏の元に届くはずだった聖遺物、英雄王ギルガメッシュ所縁の品を敵に奪われたのです」

 

 









ソロモンよ私は帰ってきた!!


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新たな決意

 †††

 

「あの人は、時臣は無事なのですか!?」

 

 驚愕に声を荒げる葵に対し、綺礼は飽く迄冷静に告げる。

 

「はい、奥様。御安心下さい。襲撃者は処分しました。時臣氏も健在です。ですが、時臣氏の召喚に使う触媒を運んでいた運び屋達は壊滅。時臣氏の元に届くはずだった英雄王所縁の聖遺物は敵の手に落ちました」

「それは……ッ!!」

 

 葵は言葉を失う。

 綺礼の告げた内容は葵に少なからぬ動揺を与えた。

 時臣が命懸けの戦いに臨んでいるという事は葵も理解している。

 否、理解していると思っていた。

 

 だと言うのに、時臣が窮地にあると聞いただけで、葵の心はざわめき、とても冷静ではいられなくなっていた。魔術師の妻になると決めた時に、覚悟は出来ていた筈なのに。

 葵はギリと唇を噛み締めると、頭を振って冷静になろうと努める。

 聖杯戦争のルールについて多少ではあるが葵は時臣から聞き及んでいた。

 

 七人の魔術師各々が自ら最強と思う英霊を召喚し、最後の一組になるまで殺し合う生存戦。そして目当ての英霊を召喚する鍵となる触媒こそ、英霊所縁の聖遺物。

 旧き時代に遡る程、神秘は純度を増すとあって、人類最古の英雄王は正に最強の英霊である。時臣が八方に手を回して用意したその英雄王所縁の聖遺物こそ、彼に勝利を約束する代物である、筈であった。

 

 英雄王所縁の聖遺物が発見された時の時臣の喜びようを葵は覚えている。彼は正にその時、勝利を確信していた。心配する葵に対し、彼にしては珍しく熱っぽく、かの英雄について饒舌に語っていた事を覚えている。

 

 時臣の言葉に間違いがあろう筈も無い。

 彼が呼ぶ筈だった英霊は正に最強だったのだろう。

 しかし、時臣が葵に語り聞かせた勝利の方程式は崩れ去った。

 否、事態はもっと悪化している。

 

「奪われた、という事は……。敵は主人の聖遺物を使って召喚を行う事になるのですね」

「はい、下手人はこの冬木から大聖杯を奪ったユグドミレニアに連なる魔術師でした。英雄王は間違いなく敵に召喚されるでしょう。そして、此度の聖杯戦争の開催地トゥリファスはユグドミレニア一族の本拠地。時臣氏が大聖杯の奪還を企むならば、彼等との激突は不可避かと」

 

 葵は目の前が真っ暗になった気がした。

 時臣の事は勿論信じている。

 しかし、それでも、自分は時臣を引き止めるべきだったのではないか。

 そんな後悔の念が頭を過ぎる。

 勿論、葵とて分かっている。

 泣いて縋った所で、時臣が止まる筈も無い事は。魔術師としての時臣はどこまでも魔術師だ。彼は自らに科せられた遠坂家の宿命を捨てられまい。例え、家族と天秤に掛けた所で、彼は魔術師である事を選ぶだろう。

 不利であろうとも、決して退く事は無い。

 

 それが遠坂時臣という男だ。

 夫の性は妻である葵が最も良く知っていた。

 知っていて結婚したのだ。

 それでも……。

 

「奥様、お気を確かに。英雄王の聖遺物を失った事は確かに痛手ではありますが、敵のサーヴァントの真名を把握している事は大きな優位。奪ったユグドミレニアには敵も多い。如何様にも、やりようはあります。時臣氏も既に次善の策を実行に移すべく動いている。どうか御安心下さい」

 

 力強く語る綺礼に対し、葵は丁重に頭を下げる。

 

「言峰さん。どうか主人をよろしくお願いします」

「承りました。最善を尽くします」

 

 それから、二人はこれからの事を話し合った。綺礼は葵達を禅城に送り届けたら、直ぐにでも時臣の工房から目的の品物を探し出して日本を発つつもりであったらしい。事態が切迫している事は間違いない。葵としても一刻も早く綺礼には時臣の元に聖遺物を送り届けて欲しい。

 

 一方で、綺礼の任務には葵達の身の安全の確保も含まれる。禅城の家に皆を送り届け、時臣と交流のある魔術師に彼女達の身の安全は任せるつもりであったが、状況が変わってしまった。元々綺礼が葵達に気を配って貰う様に頼むつもりだったのは、同じ御三家の同胞であり交友のある間桐家だったのである。

 

 鬼面の男は聖杯戦争開催の地で待つ、と言った。

 ただ殺すだけならあの場で十分に可能であった以上、下手に小細工を弄するとは思えぬが用心しておくに越した事はない。既に近縁者を狙った襲撃は絵空事では無くなった。何より、当初時臣達が懸念していた襲撃者は鬼面の男とは別口なのである。

 

 魔術師同士の対立が殺し合いに発展する事はままあるが、魔術師同士の対決とは純粋なる魔術勝負、決闘じみた形式の段取りで解決されるのが慣例となっている。魔術師は世間一般の法や倫理に外れた存在であるが、故にこそ彼等には幾つもの遵守すべき不文律が存在する。

それは聖杯戦争においても同様で、幾つかのルールや鉄則が存在するし、それを参加者に厳守させるべき審判役も存在する。

 

 時臣達が危惧したのは、今回、聖杯戦争にその例外が紛れ込んだ事だ。

 “魔術師殺し”の異名を取る男、衛宮切嗣。あらゆる手段を用いて魔術師(エモノ)を狩る謀略戦の専門家(エキスパート)を、御三家の一角、アインツベルンが雇い入れた為である。

 

 魔術師でありながら魔術だけでなく近代兵器にも精通し、その手口は悪辣かつ無慈悲。

 不意打ち、騙し討ちは当たり前。狙撃に毒殺などまだマシな方で、捕えた敵を魔術で洗脳し、偽の情報を流す事で同士討ちを煽ったり、標的を殺す為なら市街地でガス兵器を使用するなどやりたい放題。あまつさえ旅客機に乗り合わせた無関係の乗客ごと標的を爆殺してのける手際は魔術師では無く暗殺者のそれだ。

 その恐るべき暗殺者をアインツベルンは自陣営に招き入れた。

 

 聖杯戦争において優先的に令呪を受ける事の出来る御三家は、逆に言えば参戦が確約している。こと情報戦においてこれは大きな不利である。魔術系統や人と成りだけでなく、調べようと思えば、居住地やその人間関係まで洗う事も容易い以上、徹底して手段を選ばぬ暗殺者の魔の手が葵達に伸びないとは限らない。

 

 時計塔に派遣していた密偵が消息を絶ち、聖遺物を輸送していた運び屋が襲撃を受けた。聖杯戦争の監督役である綺礼の父、言峰璃正から伝え聞いた話では未だ召喚されたサーヴァントは半分に満たぬ筈であるが、既に聖杯戦争は始まっている。

 間桐家当主に宛てた時臣直筆の書状を綺礼は持参していたが、力を貸してくれそうな人物を探す所から始めねばならない。しかし、魔術師一家の護衛とあっては古巣の聖堂教会を頼る訳にもいかず、綺礼には伝手らしい伝手が無い。

 

 時臣と連絡を取ろうにも、時臣の機械嫌いのせいで時間のかかる状況だ。

 綺礼は暫し沈黙していたが、やがて口を開いた。

 

「一人、心当たりがあります。金で動くフリーランスでありながら、腕の良い魔術師に。彼との護衛の話がまとまり次第、私はブカレストに戻る事にしましょう。少々不便を掛けますが、夜は決して出歩かない様に、凛達にも言い聞かせて下さい。私が言ったのでは、凛は反発するでしょうから」

「分かりました。言峰さん、何から何までありがとうございます」

 

 そう言うと、葵は丁重に頭を下げた。

 

 

 それから二日後。

 戦闘から三日経ち、漸く間桐雁夜は目を覚ました。

 

 

 †††

 

 

「そうか……。俺は、負けたのか……」

 

 事の顛末を聞いた雁夜はそう呟くと、目を瞑って天井を仰いだ。

 自ら口にすると、敗北の事実は実感を持って襲ってくる。

 雁夜の握り締めた拳が骨の軋む音を上げた。

 

「雁夜おじさん、あの時の事、覚えてないの?」

 

 おずおずと尋ねる桜に対して、雁夜は首肯を返す。正確には鬼毒酒の二口目を呷ってからの記憶が欠落していた。凛は何かを言おうとして、結局口を噤む。暫し沈黙があった。

 雁夜は二人の様子を見て、自らの不甲斐無さを恥じた。

 自らの無力を悔いるのは何度目だろうか。

 

 その時だった。

 雁夜は一瞬だけ顔を顰め、そして、目の前に凛と桜がいる事を思い出し、何事も無い風を装う。数年振りの感覚と苦痛への戸惑いを、気取られぬ様に雁夜は苦笑の裏に隠す。

 

 それは皮下に蠢く魔蟲の胎動。

 脳髄の裏側に纏わり付いた蟲共が、自らの内側で好き放題に這い回っている感覚。頭の中を常に掻き毟られている感覚。蟲蔵の中で嫌と言う程に味わった感覚であった。随分と長い間忘れていた苦痛と、吐き気を催す強烈な違和感とが全身を駆け巡っている。

 雁夜の体内に巣食う魔蟲共が、雁夜の魔術制御を外れて異常に活性化しているのだ。

 

「ああ、どうにも記憶が曖昧なんだ。でも、ゴメン。おじさんの力が足りないばかりに、二人には怖い思いをさせてしまったね」

 

 雁夜は桜と凛に頭を下げた。

 彼のその肩が震えているのは悔恨のせいだけではない。

 一方で、頭を下げられた二人は戸惑いながら互いの顔を見比べる。

 過ごしたのはホンの僅かな時間だったが、それでも雁夜の人と成りは二人とも分かっているつもりだった。

 

 だが、あの時の雁夜は余りにも違い過ぎた。

 凛を、皆を護ろうと死に瀕して猶、立ち上がった雁夜の姿と、神便鬼毒酒の魔力に振り回され暴走した姿。そのどちらもが彼女達には見た事の無い姿だった。

 その時抱いた恐怖を二人は振り払えずにいた。

 

 あの時、確かに二人は雁夜に恐怖を抱いた。それは彼自身に対する恐怖であり、同時に、彼を失ってしまう事に対する恐怖であった。

 彼が負った傷は凛や桜の目にも致命傷である事が分かるものだ。日が経つにつれ、二人は彼がもう二度と目を覚まさないのでは無いかと不安に思い、次に、目を覚ました雁夜が以前と違っているのでは無いかと不安に思った。

 

 目を覚ました彼は、あの夜の、ただ只管に死ぬまで戦い続ける怪物なのではないかと。

 だから二人は胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべる。

 どうやら不安は杞憂だった様だと、雁夜の様子を見て、彼女達はそう結論付けた。そう信じる事が出来た。

 

「ううん、ありがとう、雁夜おじさん。きっと、助けに来てくれるって信じてた」

 

 そう言って微笑みを浮かべる桜の瞳には涙が滲んでいた。

 雁夜は不意に目頭が熱くなるのを感じて、眉間を押さえる。

 報われたと思った。

 やってきた事は無駄では無かったと思った。

 力及ばず無様に負けたというのに、そう思ってしまった。

 

「皆が無事で良かった。後で、その言峰って人にはお礼を言わなきゃいけないな」

 

 雁夜は努めて陽気な調子で言った。

 言葉とは裏腹にその脳髄を怒りが焼いている。

 

“俺は負けた。

 臓硯にまんまと出し抜かれ皆を危険に晒し、

 護ると誓っておきながら、無様に敗北し――救けられた。”

 

 忸怩たる思いがあった。

 一歩間違えば、皆に危害が及んでいても不思議では無かった。

 取り返しの付かぬ事態になっていたかも知れない。

 そして、自分にはそれを止める力が無かった。

 それが雁夜には許せないでいる。

 

“あの時、俺は差し違えるつもりだった。

 それ位は可能だと思っていた。

 だが―― ”

 

 雁夜は自身の胸の傷痕に触れる。それは先の戦いで敵の刃が貫いた箇所だ。刃は胸骨を裂いて心臓の直ぐ脇を通り抜けた。ホンの数センチ、刃がズレていれば雁夜は死んでいただろう。結果、彼は生き永らえた。――死ぬ事すら出来なかった。

 

 死を覚悟して励起させた八種最後の魔蟲、屍蟲。

 刃は雁夜の心臓に取り付いたソレを正確に貫いていた。

 結果、屍蟲はその能力を発現する事無く、不発に終わる。

 屍蟲と神便鬼毒酒。それで何とか出来ると思っていた。だが、結果は――。

 ギリ、と噛み締められた奥歯が鳴った。

 

“もっとだ。

 もっと力がいる。

 彼女達の為にも、俺は強くなければならない。

 二度と負けない為に”

 

 幼少から殊更に力を求めた。

 それが雁夜が間桐で生きる為の術だった。

 大切なヒトを護る為にはそれしか無いのだと、今も雁夜は頑なに信じてい――

 

「なにを思い詰めた顔してんのよ」

 

 ぺしっと雁夜の額を傍らに控えていたバーサーカーが叩く。

 目を白黒させる雁夜にバーサーカーは続ける。

 

「襲撃にあった。ピンチだった。でも、皆無事で誰も死んでない。上出来でしょ。それとも、この結果が不満なワケ? 自分が勝てなかったから」

「そういうワケじゃあ――」

「まァ、サーヴァントである私の方としては、我がマスターの勇猛極まる判断と行動には少々思う所が無い訳じゃあ無いんだけどね~」

 

 雁夜は言葉に詰まる。

 バーサーカーは笑顔である。

 しかし、有無を言わさぬ迫力があった。

 笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点である。

 

「あっ、ハイ、すいませんでした」

「分かればよろしい。ま、でも、間に合わなかったら承知しないって約束だったし、今回だけは勘弁したげるわ」

 

 深々と頭を下げる雁夜に、バーサーカーは寂しそうな笑顔を返す。

 

「無茶はもうやめてよね。一人で戦ってるワケじゃないんだから」

 

 バーサーカーは小さく呟く。

 

「私も、もう躊躇わないわ」

 

 その言葉が雁夜の耳に届く事は無かったが、彼は彼女の表情に気付くと膝を打って笑った。

 

「ああ、そうだな。俺の認識が甘かった。敵は怪物。一人じゃあ勝てそうにない。こちらからもよろしく頼む、バーサーカー」

 

 真っ直ぐに見詰めて微笑む雁夜に対し、バーサーカーは気恥ずかしそうに視線を逸らす。

 

「さて、それじゃあ、俺は綺礼って人に会ってくるよ。礼を言わないといけないし、少し話したい事もある」

 

 起き上がろうとすると視界が霞むのを雁夜は感じた。

 神便鬼毒酒の代償。頭蓋の内から魔蟲の狂騒が聞こえる。

 

“蟲蔵に入ったあの時と同じだ。

 俺は強くなれる。”

 

 魔術師としての一歩を踏み出した時と同じ覚悟と、それを乗り越えた自負から来る確信を胸に、間桐雁夜は再び立ち上がる。

 

 その背中から、彼の傷を癒していた蛭血蟲の死骸が落ちた。先の戦いからずっと宿主に魔力と血を送り込み続け、その身体を癒していた魔蟲は干乾びて小さくなってしまっている。

 彼はそれに気付かなかった。

 

 後日、部屋を片付けていた遠坂葵がそれを見て悲鳴を上げる事になるが、それはまた別の話である。

 



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interlude




 最強の魔術は何か!?







 

 † interlude †

 

 時を少し遡る。

 遠坂邸から南に向かうと山林がある。

 雁夜達と鬼面の男との戦闘から数分後、そこに五つの人影があった。

 

「ホホ、遅きに失したのォ。魔術師殺し殿に何と言われるやら」

 

 戦闘の推移を睨んでいた一人が言った。

 スーツを着た初老の男である。

 整った身形、紳士然とした佇まいとは裏腹に、その節々から匂い立つ強烈な武の気配。何より遠坂邸に張られた結界を抜き、深夜、数百メートルは離れた場所の戦闘を看破しているという事実が、男が只者では無い事を告げていた。

 

 それもその筈。その場に集った五人全員が名うての魔術使い。

 アインツベルンの魔術師殺しに雇われたフリーランスの傭兵である。

 周囲には認識阻害の結界が張られている。彼等はその中で遠坂邸での戦闘の経過を観察していた。

 

「奴は何も言わんよ。結果にしか興味が無い男だ」

 

 筋骨隆々とした禿頭の男がそう言って煙草に火を付ける。

 

「ねぇ、それより行くの? 行かないの?」

 

 全員に向けて銀髪の女が聞いた。

 

「チャンスには違いないわよ。一人は瀕死。そのサーヴァントはガス欠で動けない。もう一人も怪我と消耗。結界は解れ、工房は戦闘でボロボロ。対してこちらは五人」

「遠坂の嫁と娘どころか、令呪二つとサーヴァントが一つ。幾らになるか見当も付かんな」

「アホか。危ない橋を渡るなら勝手にせい」

 

 禿頭の男は笑みを深くし、初老の男は首を振る。

 

「先の戦いは見たじゃろ。ワシは降りるぞ。どうせマスター二人はトゥリファスに向かう。ガキを攫うならその時よ」

 

 初老の男は手をヒラヒラと振って踵を返し、その場から離れた。それを見送り、痩身の男が腕を組んで口を開く。

 

「さて、爺さんはそう言うが、都合良く行きますかね? 遠坂の弟子が戻ってきたのは襲撃に備えてでしょう。なら、そのままノコノコと戻る筈が無い。手が出せなくなる可能性は十分ある」

「フン、ガキの使いじゃねぇんだぜ。行くべきだ。リターンはデカい」

 

 禿頭の男は不敵に笑い、他の三人も頷いた。

 ジュ、と音がして、禿頭の男が手にした煙草が燃え尽きた。瞬間、辺りは完全なる闇に包まれる。しかし、彼等の目は爛々と輝きを増していた。

 獲物を前にした高揚に瞳孔が拡大し、同時に発動した視力強化魔術によって、梟の如き夜目を手に入れる。決断した後の彼等の行動は素早かった。

 

 元々、彼等に与えられた任務は、遠坂時臣の子女の拉致。

 敵の家族を人質に取る事は広く誰に対しても有効な戦法であるが、それは敵の逆鱗に触れる事を意味する。魔術の家柄において一家断絶の持つ意味は殊更重い。情報が出回れば他陣営とも友好接触が難しくなるばかりか、外道を行うマスター打倒を旗印として敵の連携を招きかねない。

 

 尤も、聖杯を奪ったユグドミレニアと奪還を企む御三家という構図の出来上がっている此度の聖杯戦争においては少々趣が異なる。この聖杯戦争は詰まる所、トゥリファスを根城とするユグドミレニアを御三家がどう崩すかという戦いに他ならない。

 

 ユグドミレニアとの敵対は決まっているし、御三家の協力も決まっている。

 ユグドミレニアを血祭りに上げた後に、御三家同士で互いに相食む事も決まっている。

 故にこその誘拐だった。

 

 遠坂を使い潰してユグドミレニアを倒し、漁夫の利を得る計画。

 遠坂の内弟子である綺礼にも令呪が宿った事で、それは一層の効力を上げる筈だった。

 

 しかし、ここで問題が三つ。

 一つは間桐からの参戦者が臓硯から雁夜に代わっている事。無論、凛や桜の誘拐は時臣達だけでなく雁夜の逆鱗にも触れる事になる。二つは雇った連中が欲に駆られて逸った事。家族の命が握られている事を相手が知るタイミングは完璧に調整されなければならない。相手に対応の時間を与えるなど愚の骨頂であるからだ。雁夜と綺礼という予定に無い人間が居た以上、彼等は計画を練り直すべきだった。

 

 そして、三つ目。

 横合いから伸びた手が痩身の男の顔を掴み、グシャリ、と肉の潰れる音がした。

 戦慄が奔る。

 即座に残りの三人が跳び退り、彼等は敵から距離を取る。

 卵。

 まるで卵でも握り潰すかの様な手軽さで、ソレは人の頭部を握り潰した。

 痩身の男の身体が糸の切れた操り人形の様に力無く倒れる。

 フー、フーと荒い息遣いが闇の中で木霊する。

 そこには先程、綺礼と戦っていた鬼面の男が立っていた。

 

「ハッ、ハハッ、問答無用だな。何者か知らんが何処までも邪魔しやがる。仕方がねェ、お前ら合わせろ。ブチ殺してやる」

 

 言うが早いか禿頭の男の全身の魔術回路が励起する。

 飛び退くと同時に詠唱を終え、懐から取り出した拳銃の弾を中空へと放り投げる。直後、禿頭の男は大きく身体を仰け反らせ、火を吹いた。

 炎の吐息は見る間に大きくなって宙を舞う銃弾を呑み込み、鬼面の男へと迸る。火炎放射器もかくやという炎が鬼面の男の視界を覆い付くし、同時に、炎に呑まれた弾筒が炸裂し、弾丸が空を切る。

 

 男が操るのは炎だけでは無い。

 無造作に放り投げた無数の銃弾も、着火の際に弾頭が敵を向いていれば用を成す。

 炎に隠れ、撃ち出された弾丸が乱れ舞い、

 

「ハッ、あれだけの戦闘で消耗が無い筈はねェ。このまま――」

 

 同時に、鍔鳴りの音は禿頭の男の背後から響いた。

 禿頭の男は反射的に振り返り、そして見た。仲間の首が、腕が血飛沫と共に宙を舞う。

 背後を取られたと思う間も無く、鬼面の男の腕が翻る。

 禿頭の男もプロである。

 幾千と繰り返した魔術起動は、反射と同じ。危険を脳が認識するより猶速く、彼の身体を強化魔術が包み込み、その肉体を一つの岩盤へと変化させ――そして死んだ。

 

 無造作な右腕の横薙ぎ。ただその腕の一振りで、禿頭の男の上半身が千切れて宙を舞った。

 炎が視界を覆ったのは鬼面の男だけでは無い。

 炎を避けた鬼面の男の動きを、彼等は結局見切れず、あまつさえ炎に呑まれたものだと錯覚した。ただ一つ幸運だったのは、苦痛すらなく死ねた事だろう。

 ベシャリと音を立て、合わせて一人分の肉片が地面に落ちる。

 

「う、嘘……」

 

 残った魔術使いの女はそれだけしか言えなかった。

 鬼面の男は低く唸ると、大きく肩で息をしながら女へと近付く。

 

「言え。貴様等は誰の指示で動いている?」

「た、たすけ、ヒッ――」

 

 女が悲鳴を上げたが直ぐに止まる。彼女の首筋を鬼面の男が掴んでその身体を宙吊りにすると、勢い良く木の幹へと叩き付けた。

 

「答えろ!! 誰の命令で此処にッ――」

 

 鬼面の男が荒々しく女の身体を揺さぶり問い質す。その言葉の途中、ポタリと木の上から落ちた何かが鬼面の男の腕を食い千切った。

 黒い、握り拳大の蛭に似た魔蟲。

 無数の刻印蟲の大群が降り注いだのである。

 

「フン、ようやくお出ましかッ!!」

 

 鬼面の男は咄嗟に跳び退き、降り注いだ刻印蟲から距離を取る。一方、避ける事の出来なかった銀髪の女は成す術も無く魔蟲の餌食となった。見る間に肉という肉を食い千切られ、生きたまま魔蟲の大群に呑まれた彼女の断末魔の悲鳴が辺りに響き渡る。

 

 同時に響き渡る呵々大笑。

 鬼面の男が刀を抜こうとして、横へと弾き飛ばされた。

 一撃では無い。全身を無数の衝撃が貫き、鬼面の男は数メートルに渡って弾き飛ばされる。

 

「小癪――」

 

 鬼面の男は空中で受け身を取って着地。それに合わせ、木陰から飛び出た残る最後の魔術使い、初老の男が接近する。軽気功による瞬脚。その踏込は一陣の風の如し。

 

「千拿鎚――」

 

 接近と同時に初老の男の右腕が鬼面の男の脇腹へと奔り――540度程回転した。

 武術で云う立関節、などでは無い。迫り来る腕を掴み取り、鬼面の男は力任せに捻じり折ったのだ。そこからは一瞬であった。

 

 最速の居合とは何か?

 グシャリ、と音がしたと同時に、初老の男の胴体から血が噴出する。

 その頭部は陥没し、耳鼻からは脳漿が噴き出ていた。

 

「柳剛流・頭浴びせ斬り」

 

 最速の居合。

 その答えの一つが抜刀と斬撃を同時に行うコレである。

 敵の脳天に額を打ち付けると同時に左逆手にて抜刀。体重と腕力にて抜きながら敵の胴を圧し斬るという技。密着状態で、抜くと斬るを同時に行う事により、居合の要、鞘走りを排し、剣速に拠らぬ迅さを得る。が――

 

「――爆破」

 

 爆発が鬼面の男を呑み込んだ。

 

 頭蓋を砕いた。

 腕をへし折り、頭を潰して、胴を半ばまで切断した。

 その瞬間に、初老の男の唯一無事だった左手が鬼面の男の眼前へと伸び、爆炎を発したのである。

 

 それは掌を中心とした周辺空間の大気操作。

 指輪を打ち合わせ、袖先に仕込んだ管から噴霧した気化燃料に着火。魔術による大気操作で大量の酸素を送り込む事により爆発を生む。初老の男の奥の手である。

 即死した筈の初老の男の有り得ぬ反撃。

 次の瞬間、紅蓮を裂いて奔った拳が初老の男へと撃ち込まれた。

 対物砲の一撃でも受けたかの様に初老の男の身体が千切れ飛び、無数の肉片となって辺りに降り注ぐ。

 

 噴煙の中から顔を出した鬼面の男はそのまま魔蟲の大群を睨み付けた。爆発によって全身が焼け焦げ、纏った具足が高熱化しジュゥとその肌を焼く。それでも鬼面の奥、血走ったその目の眼光に揺らぎは無い。

 

「とっとと姿を現せ、臓硯。時間の無駄だ」

「カ、カカッ、良い玩具が手に入ったと思ったのじゃが、一蹴か。カカッ、やるのゥ」

 

 銀髪の女性を埋め尽くした魔蟲の群体が一塊になり、蠢くソレは次第に人影を形成していく。果たして、そこに現れたのは魔蟲の主、死んだ筈の間桐臓硯であった。

 愉快そうに呵々と嗤う臓硯に対し、鬼面の男は苛立たしげに吐き捨てる。

 

「チッ、化物が。貴様、どうやって生き残った。あの時、確かに貴様の本体は結界内にいた筈だ……」

「カカッ、そうさのう。確かに少々肝が冷えたぞ。しかし、この通り儂は生きておる。お主、千載一遇の好機を逃したのう。カカッ」

「質問に答えろ。蟲蔵を潰され、間桐には奴等がいた。結界を発動した時、貴様の気配が確かにあった。あの時、貴様の本体は遠坂邸にいた筈だ」

「フン、儂にも協力者がおってのぅ。それの手引きで結界を抜けれたというワケじゃ。カカッ、雁夜の到着が思いの外早かったからのぅ。お陰で助かったわ。カカカッ、腹が捩れそうじゃったぞ? お主と雁夜が戦い始めた時には――」

 

 言葉の途中、鬼面の男の右拳が臓硯の頭を殴り潰した。鼻から上が肉片に変わり、血飛沫と共に脳漿が辺りに撒き散らされる。

 

「黙って質問にだけ答えろ」

 

 しかし、それにも係わらず、臓硯は会話を続行する。

 吹き飛んだ血飛沫は直ぐに魔蟲に変質し、臓硯の足元へと集ってその身体へと還って行く。恐るべき光景だった。

 

「カカッ、無駄じゃ無駄。しかし、クッ、カカッ、貴様が番犬の真似事とは笑わせる。涙ぐましい姿じゃのゥ。まさか罪滅ぼしのつもり――」

 

 鍔鳴りが一つリンと鳴った。

 翻った刃が嘲笑毎、臓硯の身体を両断する。

 

「黙れと言った。貴様は――」

「御老公。遊ぶのはそれ位にして頂けませんか。この男、敵でしょう? こちらとしては厄介な手合いには早急に死んで頂きたいのだが」

 

 不意に頭上から振った声に、鬼面の男が顔を上げる。

 生い茂る木々の枝。凡そ数ミリ、子供でも容易く手折れる細さの枝葉を足場に彼等は立っていた。一人は先程胴体を両断された筈の間桐臓硯。そして、もう一人。

 ローブに身を包んだ痩せぎすの男。

 モノクルを指で弄びながら、眼下の鬼面の男をつぶさに観察している。

 

「貴様、何者だ?」

 

 鬼面の男の問いに男は恭しく一礼して応じる。

 

「どうもお初に御目に掛かる。私はユグドミレニアの末席に連なる者。ま、端的に言って、貴方の敵ですね。で、御老公、私としては連戦で疲弊した今が好機かと思うのですが。不確定要素は潰しておくに限る」

「やめておけ、ノイマン。この男、サーヴァント無しで殺すはまず不可能じゃ。さて、遠坂の女房と娘子を餌に、雁夜と遠坂の小倅を使い潰そうと思っておったが、こうなっては最早それも不可能。ここは退いてやろう。この貸しは高く付くぞ」

 

 ノイマンと呼ばれた男を止め、踵を返そうとした臓硯を鬼面の男の殺気が射抜く。

 

「馬鹿が。逃がすとでも思っているのか?」

 

 息を荒げ刀を抜く鬼面の男に対し、臓硯は呵々と嘲笑を返した。

 

「カカッ、言ったぞ。千載一遇の好機を逃した、と。貴様が幾ら強かろうと、最早、儂は殺せぬよ。それは貴様の方が良く分かっているのでは無いか?」

 

 悍ましい笑みを向ける臓硯の前に、ノイマンが進み出る。そして、

 

「ふむ、やる気かい? 私は別に構わないが、君の方はどうだろう?」

 

 ノイマンの言葉に合わせ、周囲に蠢く魔の気配が充満する。

 鬼面の男が周囲に視線を送る。

 木々の合間、鬼面の男を取り囲む様にソレらは展開していた。ソレは一見、人影の様に見える。だが――鬼面の男が息を呑む音がした。

ソレは人間では無い。人間である筈が無い。水死体を思わせる青白いブヨブヨとした身体で、軟体生物を思わせる触手が伸びている。頭部には目と口があり、全身が鱗で覆われている。見る者に生理的険悪感を与える異様。

 

 その醜悪なる怪魔達が三十体ばかし周囲を取り囲んでいた。

 だが、真に醜悪なのはその異様では無い。

 

「貴様……」

 

 鬼面の男の呟きは怒りで震えていた。

 

「見た目が悪いのは御愛嬌だが、結構使える連中だ。不気味の谷という奴かな。彼等は肉食で特に人の肉を好む。ああ、僕自身は戦闘能力が皆無でね。勿論、君には敵わない。君と戦えば、きっと私は死ぬだろう。でも、その時に手綱を失った彼等がどうなるか。試してみるかい? ああ、別にベットする事になるのは見知らぬ誰かの命だ。大した事じゃあ無い。好きにすると良いさ」

 

 ノイマンは顔色一つ変えずに言い放つ。

 要するに彼は、余計な犠牲者を出したくなければ大人しく死ね、と言っているのだ。

 鬼面の男は何も答えず、荒い息を吐きながら刀を構える。

 

「ふむ、抗いますか。消耗が激しい様ですが、彼等を相手に何処まで持ちますかね?」

 

 ノイマンが愉しそうに微笑む。その時、怪魔の一体が呻いた。

 

「ぅヴぉぉ、……れカ……た、すげ、て……」

 

 その言葉を引き金に、鬼面の男に怪魔達が一斉に躍り掛かる。

 鬼面の男は気付いていた。

 この醜悪なる怪物達の正体は元人間であると。

 魔術によって変質させられた被害者であると。

 自分と同様の存在であったと気付いていた。

 故に――

 血風が舞った。

 

 怪魔の俊敏性、膂力は羆をも上回る。硬質の鱗に覆われた皮膚は鋼の様に堅く、軟体生物の様な肉はあらゆる打撃を無効化する。

 それを鬼面の男は、藁の如くに斬り捨てた。

 

 銀光の瞬きと共に宙を舞った怪魔の身体がバラバラになって辺りへと降り注ぐ。跳び掛かった十数体の怪魔は一瞬で無数の肉片に成った。

 その様子を見てノイマンは静かに笑う。

 

「ほう、やりますねェ。これは確かに戦力を整えた方が良さそうだ。では退きましょうか、御老公」

「カカッ、トゥリファスで待っておるぞ」

 

 臓硯とノイマンの身体が闇に溶け込み、消えていく。鬼面の男も追おうとはしなかった。彼等の気配が完全に消え去ると、ノイマンの予言の通り、怪魔共がそれぞれバラバラの方向に向かって走り出したからである。

 

「聖杯に集る蛆虫共が……。アレは誰にも渡さん」

 

 鬼面の男は手近の怪魔を叩き潰すと、紅い瓢箪に入った神酒を煽る。

 それから、彼は逃げる怪魔の掃討に向かって走り出した。

 

 




 ルーン魔術、死霊術、召喚術、混沌魔術、陰陽術、錬金術、占星術、数秘術、カバラ、ブードゥー、卜占、呪法、巫術。

 多種ある魔術が、ルール無しで戦った時……。

 尋常なる決闘では無く……。

 英霊を召喚し、あらゆる武術、近代兵器まで用いた何でも有りの
『実戦』で戦った時、最強の魔術は何か!?


 今現在、最強の魔術は決まっていない。


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事態の推移と推理について

 †††

 

 遠坂邸の応接室には暫しの間、何処か緊迫した空気が流れていた。その空気を作り出しているのは部屋の中央で向かい合う二人の男、即ち間桐雁夜と言峰綺礼の二人である。

 

 無論、彼等とて馬鹿では無いし、礼儀知らずでも無い。

 それぞれ互いに、師の家族を救って貰った恩があり、サーヴァント共々治癒して貰った借りがあるのだ。また、戦略的にも下手に敵対するよりは、共闘に持っていく方が後々有利なのは明白である以上、友好的な態度は必然と言える。

 

 彼等もそれは理解している。

 しかし、その空気は緊迫していた。

 

 数分前。

 

 言峰綺礼は応接室に入った雁夜を一目見るなりその目を爛と輝かせた。雁夜の人と成りについて綺礼は聞き及んでいる。治療を施した際に彼の状況も把握していた。

 

 しかし、改めて見れば、酷い冗談の様な人間だ。否、体内の魔蟲が醜悪に蠢くその様は人の形をしたナニかと言った方が正しいに違いない。その事に遠坂母娘は気付いていない。気付かず笑う彼女達に笑みを返す蠢く毒蟲の群れを幻視して、綺礼は知らず知らずの内にその口端を歪めていた。

 

 一方、雁夜は葵と綺礼が親しそうにしているのが気に喰わず、露骨に舌打ちしていた。

 

 雁夜が応接室の綺礼を訪ねた際、綺礼は遠坂葵と時臣の安否について話していた。その際に、時臣の事を心配し心を痛める葵を元気付けようと励ました綺礼が、葵の肩に手を置いていただけだ。綺礼が雁夜を見て笑みを浮かべたのも全く別の理由だが、それを雁夜が知る由も無い。

 

 雁夜の中で綺礼の人物評価が地に落ちた瞬間である。

 

「はいはい、ガン垂れてないで、建設的な話をしましょ。私達はずっとアンタが起きるのを待ってたんだから」

 

 様子を見ていたバーサーカーが呆れた顔で言った。

 雁夜の憤りを余所に、話し合いの場が設けられた。聖杯戦争についての話をするという事で葵が席を外すと、雁夜はドカリとソファに腰を下ろし、改めて目の前の男の戦力を確認する。

 

 強い。

 一見しただけで雁夜はそう断じた。

 ただそこに在るだけで分かる事がある。

 

 ゆったりとしたカソックに覆われているが、袖口から覗く指から幾重にも巻き付けられた針金の如き力強さが見て取れる。硬質化した手の甲は、人を殴る訓練を怠っていない証左だ。姿勢と重心。男の座った椅子の軋みから、その鍛え抜かれた巌の如き肉体が見えてくる。

 

 何より剃刀の如く鋭い視線が雄弁に男の力を物語っていた。

 

“これが時臣の弟子か……。”

 

 時が経ったものだと思い知る。

 どこまでも自分の先を行く男だと雁夜は思った。それは単なる感嘆の念では無い。雁夜は頭を振って余計な思考を追い出すと、目下の問題に集中する事にする。

 

 一方で、相手の力量を値踏みしていたのは綺礼も同じ。

 

「フム、やはり何事も自分の目で確かめるに限りますね。間桐は後継となれる碌な人間がいない故、参戦する事は無いと聞いていましたが、時臣師の目も級友相手には曇るらしい。調子は如何ですか?」

 

 聞き捨てならない台詞と共に差し出された手を取って握手を交わす。綺礼が差し出した手の甲に朱き紋様、令呪の存在を見て取ると、雁夜は笑みを返した。

 

「治癒を施してくれた術者の腕が余程良かったらしい。もう戦闘も問題無さそうだ。その節は大変世話になった。礼を言わせて貰う」

「礼を言うのはこちらの方ですよ。師の家族を救って貰ったのだから。握力も回復したようですね。結構。では、これからの事について話し合いましょうか」

「ああ、こちらもそのつもりだ。ところで、そちらの英霊の気配が無いが、アサシンを召喚したのか?」

 

 雁夜は周囲に視線を配りながら言った。サーヴァントは霊体化すれば一般人からは不可視となる。とは言え、遠坂邸内に存在しているならば魔術師である雁夜が感知出来ない筈はない。否、たとえ雁夜の感知をすり抜けたとしても、雁夜の内部で蠢く魔蟲が無反応という事は有り得ない。

 

 そんな事が可能な存在があるとすれば、ただ一つ。

 気配遮断のスキルを持つ暗殺者の英霊、アサシン。

 しかし、雁夜の予想に反して、綺礼は首を振った。

 

「いえ、私はまだサーヴァントの召喚を行っていませんので」

「なんだ、そうなのか――。いや、という事はアンタ、アレと単身やりあったのか?」

「アレとは、遠坂邸を襲撃した鬼面の男の事でしょうか?」

 

 雁夜は首肯する。

 

 鬼面の男。

 アレは正に怪物だった。

 雁夜とて間桐を出奔した後に、幾人もの本物と対峙している。正に天才、異才と称するに相応しい手合いや、実際に人外の化生と呼ばれる類や猛獣とも闘った事がある。

 だが……。

 

「そちらのバーサーカー嬢と二人で応戦したのですが、ふむ、まぁ、見逃されたのでしょうね。事実、こちらは満身創痍だった。向こうがその気であれば、こちらは全滅していたでしょう」

「それか、何か戦闘続行が困難な訳があったか、ね。退く時、アイツは聖杯戦争開催の地、トゥリファスで待つ、と言っていたわ」

 

 バーサーカーは言いながら雁夜の隣にちょこんと座る。綺礼はソファに座る二人の前に紅茶を置くと、向かい合う形で席に着く。

 

「ふむ、戦闘続行が困難な訳とは?」

「そう言われると具体的には思いつかないんだケド。そうねぇ、例えば――」

「神便鬼毒酒」

 

 綺礼のバーサーカーへの問いに、割り込む形で雁夜が答えた。

 雁夜には一つの確信があった。

 

「言峰さん。アンタはアレが何者だと考えてる?」

「ふむ、恐らくは貴方と同見解かと。不可解な点は幾つか在るものの、あの尋常ならざる力と宝具、サーヴァントと考えるのが自然――否、そう考える他無い。宝具から予想するに、その真名は、源頼光でしょうか」

「不可解な点ね……。確かに不可解な事だらけだな」

 

 雁夜は暫し何処まで踏み込むか考えながらバーサーカーへと念話を送る。

 

『バーサーカー、この男にお前の真名周りについて気取られる様な事はあったか?』

『いえ、何も。情報のやり取りや今後の方針なんかはアンタが起きてからって事であんまり喋って無いしね。葵達もその辺は知らないし、そもそも私の伝承は湾曲されてるから分かり様が無いわ。とは言え、私がアレと無関係とは思ってないでしょーね、多分』

『その辺については後で聞かせて貰うぞ。しかし、そうか……。』

 

 目の前の男に一体どこまで話したものかと雁夜は思案する。

 

 言峰綺礼、遠坂時臣の弟子で聖杯戦争の参加者。

 忌々しい事に葵からの信頼は厚いらしい。そして、自らの留守中に家族の保護を一任する程度には、時臣もこの男を信用している様だ。

 魔術師の世界では、その成果を巡って子弟が相争う事など珍しくないと言うのに。

 

 魔術師としての倫理を是として生きる時臣が、その事を想定していないとは思えないが……。兎も角、時臣とこの男は組んでいる。

 ここで話した内容は時臣にも筒抜けになると考えて間違いあるまい。

 

 本人の実力も折り紙付きだ。治癒魔術の腕は確かな物だし、本人は謙遜したが、あの鬼面の男と渡り合った技量に疑いの余地は無い。

 目の前の男は死にかけた雁夜に治療を施し、消滅しかけていたバーサーカーを救った。言峰綺礼には今の所、敵対の意志は見受けられないが、その友好関係が最期まで続くとは限らない。

 

 否、続く筈が無い。

 雁夜はこの聖杯戦争で、時臣と雌雄を決するつもりなのだから。

 

 それは既に彼の中で決定事項だった。

 時臣を殴り飛ばして葵さんや桜ちゃん達に詫びを入れさせる必要があるし、聖杯を手に入れるというバーサーカーとの約束もある。時臣は相変わらず大聖杯奪還を目論んでいるだろうし、サーヴァントが聖杯への願いを抱いて喚ばれる以上、時臣のサーヴァントにも戦わなければならない理由があるだろう。

 

 雁夜とて言峰神父に治癒して貰った恩を感じていない訳ではない。時臣が変わらず根源到達を夢見ているなら叶えさせてやりたい気持ちも無いでは無い。葵さんもきっとそれを望んでいると思う。聖杯が真に万能で皆の願いが叶うなら問題は無い話だが、きっとそうはならないだろう。

ならなかったから、今もこんな聖杯戦争(ぎしき)は続いている。

 

 だから、戦いは必然だ。そこから逃げるつもりは毛頭無い。

 故に、最終的に障害となり得る目の前の男には、こちらの戦力を可能な限り隠したい。とりわけ己がサーヴァントの真名に繋がり兼ねない情報など以ての外だ。

 

 しかし、一方で時臣との決着を差し置いてでも、雁夜には優先せざるを得ない事がある。

 

 遠坂邸に現れた鬼面の男。

 皆を危険に晒したあの男を、雁夜は許せなかったし、許す訳にはいかなかった。何より、あの男が間桐の一族に憎悪の念を燃やしている限り、再び激突する事は避けられまい。臓硯が撒いた禍根と思えば複雑ではあったが、皆の安全には代えられない。

 

 それは避けられない戦いである。

 あの男は聖杯戦争開催の地で待ち受けている。

 激突は必至だったし、そうでなくとも、もし聖杯戦争が終わり、サーヴァントが消えてバーサーカーの宝具である神便鬼毒酒まで無くなれば、あの男を討伐する機会は永久に失われてしまうだろう。

 

 そして、バーサーカーの宝具の力を借りてすら彼我の実力差が明白であった以上、時臣達との同盟はあの男を討つ上での生命線である。元よりトゥリファスは聖杯を奪ったと目される者達の本拠地だ。敵地に飛び込む以上、御三家同士の協調関係は必要不可欠である。

 

「まぁ、あの男の正体が何にせよだ。アレが俺達にとって厄介な敵である事に間違いはない。どうだろうか、言峰さん。あの鬼面の男を討伐するまで、共同戦線を張らないか? ああ、勿論、直ぐに返事をしてくれとは言わない。そうだな――」

「いえ、それには及びません。その話、お受けしましょう」

「ん? それは助かるが、時臣に指示を仰がなくていいのかい?」

 

 綺礼の即断即決に雁夜は首を傾げる。綺礼と時臣が子弟の間柄である以上、彼等の行動方針の決定権は時臣にあるものだと雁夜は思っていた。同盟の締結などという重要事項であれば、先ず師である時臣に判断を仰ぐべきである。

 

 考えられる理由は二つ。

 判断を仰ぐ必要が無いか、仰ぐ事が出来ないか――。

 

「ええ、と言うより、仰げませんので。これより同盟についての話は私の独断となります。状況を鑑みるに時臣師が反対するとも思えませんが、向こうで落ち合った後、もう一度同盟については師を交えて話す機会を設けて頂きたい」

「それは一体どういう事だ?」

 

 怪訝な顔で問いかける雁夜に、綺礼は淡々と答える。

 

「我々はブカレストにて敵の襲撃を受け、時臣師が召喚する筈だった英雄王所縁の聖遺物を奪われました。襲撃したのはユグドミレニアの手の者だった。結果、サーヴァント召喚の触媒となる聖遺物を失った我々は、二手に別れる事にした――。

 私は一度日本に戻り時臣師の家族の保護と、代わりとなる聖遺物の回収を。時臣師はルーマニア内に用意していた幾つかの拠点や協力者の安否確認を」

「時臣は無事なのか?」

「連絡用の水晶盤が先の戦いで破損しましてね。時臣師に限って滅多な事は無いとは思いますが、師の機械嫌いのせいで連絡を取る事もままならない有様です」

「そうか。アイツがそう簡単に死ぬとも思えないが……。今の話は葵さんには黙っていてくれないか? ただでさえ、あんな事の後だ。不安にさせたくない」

 

 あの男の機械嫌いはどうやら未だ以て健在らしい。

 時臣に限って万が一も無いだろうとは思ったが、雁夜はその話を葵の耳に入れたくはなかった。彼女の哀しむ顔も、時臣を想う憂い顔も見たくなかったからだ。

 バーサーカーは隣に座る雁夜の横顔を醒めた目で一瞥すると、綺礼に続きを促す。

 

「何処も彼処も随分と物騒な状況みたいね」

「ええ、ですから同盟の件はこちらにとっても渡りに船。私の一存ではありますが、時臣師も異を唱える事はありますまい。何しろ、我々は聖杯を奪ったユグドミレニア一族の牙城を切り崩し、時臣師が召喚する筈だった最古にして最強の英霊、英雄王ギルガメッシュを討たねばならないのですから」

「英雄王ギルガメッシュ、ね……」

 

 雁夜は苦々しく呟く。

 メソポタミア文明に伝わる世界最古の英雄譚に登場する神代の大英雄。

 神秘とは古ければ古い程その力を増す性質がある。時臣が一体どういう伝手を駆使して召喚の為の触媒を手に入れたかは不明だが、完全に裏目に出た形である。

 

「ところで、そのユグドミレニアってのはどういう奴等なんだ?」

「……御三家にとっては正に宿敵の筈ですが。まさか――」

「ああ、良く知らない。と言うよりも、出奔してたせいで俺はそいつ等が宿敵であった事さえ知らなかったからな」

 

 そう言い放つ雁夜を見て、綺礼は呆れ顔で額を押さえた。

 とは言え、雁夜がユグドミレニアの一族について知らぬのは無理からぬ話なのである。ユグドミレニアが前聖杯戦争の混乱に乗じて冬木の聖杯を奪った下手人であるという情報がある程度の確度を以て知れ渡ったのは、つい先日の事である。また、知れ渡ったと言っても、時計塔内部の有力者と僅かな関係者の耳に入ったに過ぎない。

 

 直後に諸々の大きな動きがあったものの、時計塔に伝手が在り、常にアンテナを張っていた時臣と違い、間桐の家を出奔して修業に明け暮れていた雁夜がそれを把握している筈も無い。

 

「ふむ、まぁ、良いでしょう。彼等は魔術師の寄り合い所帯の様な一族です。衰退しかけた一族が寄り集まっている」

「間桐の様な、か?」

「そうですね。魔術回路の衰退、自らの魔道の停滞、理由は皆似たり寄ったりですが、詰まる所、彼等はユグドミレニアという名の大樹の元に集った魔術師達だ。元二流から三流魔術師の集団。時臣師はそう評価していました。恐れるに足らず、と」

「評価していた、ね……。で、油断してて出し抜かれた、と」

「ふむ、全くその通り。見誤っていた、と言わざるを得ないでしょうね」

 

 綺礼の言葉に、雁夜は溜息を吐いた。

 

「時臣の詰めの甘さと油断は相変わらずか……。敵はウチの化物爺やアインツベルンから見事に大聖杯を掠め取った奴等なんだ。舐めてかかれる相手じゃねェだろうに」

「返す言葉もありませんね。我々もまさかラドクリフがユグドミレニアと合流しているとは思っていませんでした」

 

 綺礼の言葉に雁夜は眉を顰める。

 

「その名前は流石に俺でも知っている。あのラドクリフで間違いないのか?」

「ええ、御察しの通り、北のアインツベルンに並ぶ錬金術の大家の、あのラドクリフです。我々はブカレストでラドクリフ製ホムンクルスの戦闘部隊による襲撃を受けました」

 

 雁夜は眉間を押さえた。

 どうにも行く手に厄介事の山が、幾重にも立塞がっている気がしてならなかった。

 綺礼は続ける。

 

「今、トゥリファス周辺、主に空路の要となるブカレストには四つの勢力が存在し、水面下で争いが起こっています。一つはトゥリファス入りしようとする我々の様な聖杯戦争の参加者達。一つはユグドミレニアへの牽制として魔術協会が雇ったフリーランスの魔術師達。一つはそんな外部から来る魔術師を狩ろうとするユグドミレニアの魔術師とホムンクルスの戦闘部隊。そして、アインツベルンの刺客である『魔術師殺し』」

「『魔術師殺し』の衛宮切嗣をアインツベルンが雇い入れたのか? それは……、また何というか、アインツベルンも思い切った人選をしたもんだな。前回の敗戦が余程応えたらしい……。しかし、何で協会がユグドミレニアに対して態々喧嘩を売るような真似をする必要があるんだ? 今までの聖杯戦争に対しても協会は静観の立場を崩してなかった筈だが」

「時計塔において、ユグドミレニアが聖杯を旗印に、協会からの離反を目論んでいるという情報が出回ったからですよ。聖杯戦争で勝手に殺し合うには構わないが、協会からの離反には死を、という事の様ですね。随分と名うての連中が集められた様です」

 

 どうやら事態は思っていた以上に深刻で、自分の与り知らぬ所で勝手に進行しているらしい。御三家が取り仕切る儀式である筈が最早蚊帳の外ではないか、と雁夜は思った。魔術協会と本当に衝突するとなれば、聖杯戦争の結果がどうあれ碌な事にならないのは目に見えている。

 

「ユグドミレニアはまだ離反を宣言した訳では無いんだよな? 協会はどの程度動いてるんだ?」

「正式な宣言があった訳ではありません。しかし、トゥリファスには相当数の腕利きが監視、及び有事の際の処理の為に派遣されています。直ぐにでも粛清に移れる様にという事でしょう。まだ大手を振って殺し合う段階ではありませんが、小競り合いは既に確認されています。ただ、協会がフリーランスの魔術師ばかりを派遣している理由は不明ですが、そのお陰で未だに全面戦争には至っていません」

「フリーランスの連中が行方不明になってもお互いに知らぬ存ぜぬ、か。協会内部でゴタついてンのかね? その辺は時臣が詳しいんだろうけどな。残念ながら連絡付かずだ」

「問題は、いつ令呪が宿って彼等が聖杯戦争の参加者に成ってもおかしくない存在である、という事です。否、既に彼等の多くは令呪の確保に向けて積極的に動いている」

「そりゃ有事の際に、ユグドミレニアの召喚した英霊と一戦交える可能性があるとなればそうだろうよ。連中の粛清まで見据えりゃ、是が非でもサーヴァントは手に入れときたいに決まってる。召喚出来るサーヴァントの総数が決まってる以上、自陣営の強化と敵の弱体化を同時に図れるんだからな。おまけに勝ち抜けりゃ何でも願いが叶うと来たモンだ。腕に自信がある奴は乗るだろう」

「ですが、それをユグドミレニアが黙っている筈も無い。フリーランスの者ばかりを雇った事も裏目に出ている様です。連携が出来ていない。そんな状況だからか隠蔽工作も杜撰なもので、既に何件か殺人事件としてニュースになっていますね」

「碌な連携をしなくなるのは成果主義の弊害だな。ただ、協会の連中が各個撃破されてる状況なのは俺達御三家側にとっても余りよろしくないんじゃないか? 残る参加者の枠を埋めるのはユグドミレニアの魔術師じゃあ無い方が良い。協会の連中とならユグドミレニア打倒には協力出来そうだからな」

「ええ、そう考えた人間はあなただけではありません」

 

 綺礼はそこで言葉を区切ると、口の端に笑みを浮かべた。

 

「御三家の一角、アインツベルンが用意した聖杯戦争の参加者。『魔術師殺し』、衛宮切嗣も同じ様に考えた様です。彼は既にサーヴァントを召喚し、ブカレストでユグドミレニアの魔術師とホムンクルス達を狩っていました」

 

 




 色々片付いたので再開します。
 細かい事は活動報告にて。



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幾つかの疑問点

 †††

 

 およそ数時間後、言峰綺礼は時臣の工房に保管してあった目的の物を回収すると戦地へと戻って行った。冬木国際空港からトルコを経由してブルガリアのソフィアに、そこから陸路で時臣の待つブカレストに戻るという。

 最寄りであるブカレストやブダペストの空港を使えば敵の哨戒網に引っかかるとの理由である。聖堂教会の御膝元であるソフィアであればその心配も無用という訳だ。

 

 綺礼は最後に紐を通した水晶片とルーマニアに点在する情報屋、拠点、霊脈の位置が書かれた地図を雁夜へと渡していた。水晶片は宝石魔術によって情報の遣り取りをする為の核石である。連絡を取る際はそれを使えとの事だった。

 

 応接室の窓から丘を下って行く綺礼の後姿を見送ると、雁夜はバーサーカーへと向き直る。綺礼から得た情報と今後の行動について整理する必要があった。

 遠坂時臣並びに言峰綺礼と一応の協力体制は取り付けたが、雁夜は綺礼とは別行動を取る事を選択した。葵達の保護を自分が請け負う事で、綺礼を一刻も早く時臣の元に戻す事にしたのである。彼女達の身の安全については既に考えがあった。

 

 これは一人戦地で行動する時臣の安全と今後の為だ。勿論、雁夜は時臣がその程度でくたばる様な奴だとは微塵も思っていないが、目当ての英霊を召喚する為のクラスが埋まってしまわないとも限らない。召喚の触媒を届けるならば早いに越した事は無い。

 

 そんな現実的な思考の裏側に、危険に晒してしまった葵達への埋め合わせを自分がしたいという感傷があった。彼女達を護るのは自分だという独占欲に近い感情も。

 

「これからどうするの?」

 

 バーサーカーはそう言うと、先程冷蔵庫から勝手に取り出してきたアイスの蓋を開け、その裏に付着したアイスをペロリと舐めた。

 

「……意地汚いぞ」

「む……、良いじゃない。こんなに美味しいんだもの。残しちゃ勿体無いわ」

 

 反省する気は更々無いようである。尤も、鬼に行儀がどうこう言う方が無粋なのかも知れないが……。そう雁夜は思い直して、話を続ける事にする。

 

「取り急ぎ、葵さん達の身の安全の確保だな。これにはアテがある。色々と聞きたい事も出来たし丁度良い。それが一段落したら、日本を発つ」

「……遂に、敵の根城に向かうってワケね」

 

 バーサーカーの瞳に炯々とした光が宿る。

 相変わらずアイスをつついてはいるが、彼女の空気が変わった事に雁夜は気付いていた。戦いだの魔術だのについて話す時、彼女には見た目相応の少女から伝承通りの悪鬼へと変貌を遂げる瞬間がある。酒気が一層増した気がして、すんと雁夜は鼻を鳴らした。

 

「その前に時臣達と合流だな。先ずは空路でソフィアへ。そこからは鉄道と車で移動だ。で、時臣の弟子が去った所で幾つか確認したい事がある」

 

 雁夜はバーサーカーの方へと向き直る。

 

「先ず、あの鬼面の男の事だ。アレは何者だ?」

「……何者って言われても、知らないわよ?」

 

 何故、知っていると思うのか? とでも言いたげな表情である。

 

「……いや、知らないって事は無いだろう。あの鬼面の男の武装、星兜と薄緑に、弓もあったンだったか……。宝具からいって、アレは剣か弓の英霊として喚ばれたサーヴァント、源頼光以外に有り得ない。当然、お前は正体を知っていた筈だ。いや、少なくとも戦いの途中で気付いた筈だな」

「ええ、そうね。どの武器もあの男の物で間違いないわよ」

「で、何でその源頼光がお前と同じ鬼の面を着けてンだ?」

「さぁ……、そう言えば、何でなのかしらね?」

 

 キョトンとした顔で答えるバーサーカーに雁夜は額を押さえる。

 酔っ払いに何かを期待したのが間違いだったのかも知れない。

 半ば本気で雁夜がそう考えた所で――

 

「そもそもアレ、ライコウじゃないわよ」

 

 バーサーカーがシレッと答えた。

 

「背丈や声が全然違うもの」

「いや、お前明らかに知ってる風だったじゃねーか!!」

「……それが不思議なのよね。見覚えのある武器持ってるし、顔も見えないから一瞬、確かにライコウの奴だと思ったのよ。ただ、冷静に考えると全然違うのよね。あの腐れ外道を別人と間違える筈は無いんだけど……」

 

 バーサーカーが神妙な顔付で考え込み始めたのを見て、雁夜は別の可能性を考え始める。どうにもバーサーカーが嘘を言っている様には見えない。そもそも仮にアレがライコウであったとしても幾つか疑問が残る。

 

「英霊が召喚される時、基本は全盛期の姿で来る筈なんだが、稀にその英霊の持つ逸話によって生前と異なる姿になる事があるらしい」

 

 そこまで言って、目の前の逸話とは似ても似つかぬ少女の姿に雁夜は首を振った。

 

「というかアンタの方こそ、心当たりは無いの?」

「どういう事だ?」

 

 怪訝な顔をする雁夜にバーサーカーが言った。

 

「あの男、アンタの家に異常な恨みを抱いていたみたいじゃない。そもそも令呪まで持ってたわよ。ホントにサーヴァントなの? 有り得ないと思うんだけど、透視の能力で分かんなかったワケ?」

 

 スプーンを突き付けるバーサーカーに対し、雁夜は一瞬怪訝な顔付きになり、次いで机を叩いて声を荒げる。

 

「いや、確かに透視の能力は機能していない。あの男を見ても何も見えなかった。何らかの隠蔽能力が働いたのかと思ったんだが……。それより、令呪ってどういう事だ!?」

「あ、そっか、アンタ気を失ってたもんね。アイツの腕に令呪があったのよ。それも無数に。十画以上あったんじゃ無いかしら」

「……ハッタリの可能性は?」

「そこまでは分からないわ。使っているのを見た訳じゃないし。ただ、私の目には本物に見えた。偽物にしても随分と精巧ね」

 

 雁夜は眉間を押さえた。

 状況を整理するつもりが、分からない事だらけだった。

 

「頼光は山伏に化けて、お前達大江山の鬼を騙し討ちした逸話がある。ステータスなんかの隠匿能力を持っててもおかしくは無い、と思ったンだがな……」

 

 不可解な点は他にもある。

 

 ライコウが日本有数の大英雄である事に疑いの余地は無いが、幾らなんでも宝具かそれに準ずる能力が多過ぎる。

 そもそもサーヴァントとは英霊をクラスという枠に当て嵌め、押し込める事によって召喚されるのだ。当然、生前の能力、伝承が全て再現され備えられている訳では無い。英霊の格や知名度である程度の上下はあるにせよ、あの鬼面の男は明らかに異常である。

 

 現段階で宝具級の武装が三つ。ステータスの隠蔽能力に、明らかに後の時代、別の技術体系の剣技の数々をあの男は披露している。そして、あの男が本当にライコウならば象徴とも云うべきあの刀を持っていない筈が無い。

 

 この時、雁夜は思考に没頭していた。

 だから、気付かなかった。

 騙し討ちの逸話を聞いた自らのサーヴァントがどんな表情をしているかを。

 打ち消す様にバーサーカーが言った。

 

「それより、アンタの家が恨まれてる理由については心当たり無いの?」

「間桐を恨んでいる人間なら掃いて捨てる程いると思うぞ。俺もその一人だからな。ただ、アレが源頼光なら話が合わない。ライコウは平安時代の英雄だ。間桐が日本に移って来たのはもっと遅い」

 

 あの鬼面の男は間桐を恨んでいた。アレはハッタリでは絶対に無い。そして、臓硯が人に恨まれる様な外道行為を繰り返していたのは間違いないし、臓硯がいつから生きているのかも定かではないが、頼光は平安時代の英霊だ。

 

 間桐が日本に移住したのはもっと後の時代である。

 薄緑にしても雷上動にしても、源氏の重宝故にライコウ以外の使用者がいない訳ではない。牛若丸で有名な義経も薄緑を愛刀としているし、頼政は雷上動を使って鵺を射落したという逸話が残っている。しかし、いずれにしても間桐が日本に移り住み始めた時期とは乖離がある。

 

 ――と、そこまで考えて、雁夜は不可解な事実に気付く。

 時期の話であれば、もっと不可解なことがある。

 

「……何で、あの時、遠坂邸にいたんだ?」

 

 真剣な顔でボソリと呟いた雁夜に、バーサーカーが不思議そうな顔をする。

 

「何の事?」

「鬼面の男だよ。アレの憎悪は本物だった。奴が間桐に連なる者を殺す為に現れたのは間違いない。奴は臓硯を、間桐の当主を結界の内側に閉じ込めて、逃げ場を奪った上で殺してる。周到に用意された計画だった筈だ」

「ええ、そうでしょうね。魔術師が自らの工房から出たタイミングを狙ったんでしょ。絶好の好機だったと思うけど、何かおかしいの?」

「ああ、幾つか不可解な点がある。遠坂邸を覆う様に結界が発動していた事だ。あれは外と中を完全に遮断する大掛かりな物だった。臓硯を殺す為の物だろうが、いつ張ったんだ?」

 

 バーサーカーは腕を組み、少し考えてから答えた。

 

「……えーと、どういう事?」

「時臣が聖杯戦争に参加する為に家を留守にする。時臣不在の時なら、腕のある魔術師なら時臣が遠坂邸に張った結界に邪魔されずに結界の敷設も可能だろう」

「ええ、それの何が問題なのよ?」

「臓硯を殺す為の結界を何故遠坂邸に張るんだ? 臓硯が遠坂邸に来る事になったのは、俺が間桐の家で臓硯と一悶着起こしたからだ。そして、一悶着起こした後は遠坂邸には俺がいた。あの夜までな」

「結界の敷設は……、まぁ、そんな事してれば普通は気付くわよね……」

「時臣の張った結界と俺が張った魔蟲の哨戒網を潜る必要があるからな。そこらの魔術師なんぞには絶対無理だ。出来るとすれば互いの手の内を知ってる臓硯か、時臣か――」

「魔術師のサーヴァント、キャスターくらいって事?」

 

 雁夜の言葉をバーサーカーが引き継ぐ。

 

「ああ、俺達が出て行ってから結界を敷設したにしても、臓硯にその存在を気付かれず、逃がさないレベルで展開された事になる。元々敷設してあったって話なら、俺達の知覚を抜けたって事だ」

「近現代の魔術師の手際じゃないわね。結界に特化してるか、神代の英霊か。でも、良く考えるとおかしくない? それだと、あの鬼面の男とキャスターが組んでるって事でしょ? 本当にそうならこの間全員死んでるわ。アイツ一人相手であのザマだったんだから」

「だが、あの鬼面の男が結界と無関係というのは考え難い。アイツは結界を利用して臓硯を殺してる。案外、結界の敷設や支援に特化しているのかも知れないな。だから、敵が増えても姿を現さなかった」

 

 バーサーカーは髪を掻き上げると眉根を寄せる。

 

「んー、一応筋は通ってそうだけど……」

「勿論、断言するつもりはない。あの結界が俺や時臣狙いの物だった可能性もあるしな」

「ああ、なるほど。帰ってきたあの弟子の人や葵の夫を狙ってたワケね。で、別の獲物が引っかかったと」

「御三家が聖杯戦争に参加するって情報は知れ渡ってるだろうし時臣(・・)狙いだったって可能性は普通に有り得る。それに、俺に令呪が宿った事を知ってるのは極少数だ。臓硯が参戦してくると考えたのかも知れない。で、臓硯を狙ったら鬼面の男の横槍が発生し、キャスターとそのマスターは飛び火しない内に離脱した。鬼面の男も漁夫の利を狙う存在に気付いていたからトドメを刺さずにサッと退いた。一応、辻褄はあうか……」

 

 雁夜は時臣の名に殊更力を込めて言った。

 

「あのさ、マスター。その場合、あの結界が葵の夫を狙ったもので、この付近にキャスターが潜んでいる可能性があるワケよね。で、アンタはどうするの?」

 

 バーサーカーは急に真面目な調子で言った。

 雁夜は迷わなかった。

 

「ああ、時臣(・・)を狙ったサーヴァントが潜伏している可能性がある以上、葵さん達を放ってはおけない。みんなの安全の確保が最優先だ」

 

 雁夜の答えにバーサーカーは暫し沈黙していたが、やがて一つ嘆息すると諦めたといった表情になった。

 

「……はぁ、そうね。別に長い付き合いってワケじゃないけど、アンタがそういうヤツだって事はもう分かった。ええ、良いわ。マスターの方針には従います。で、具体的にはどうするつもり? 聖杯戦争の間中付きっ切りで護衛するとか抜かしたら、その時は分かってるでしょうね?」

「え……いや、でも、それ以外に確実な方法が無いし……」

 

 言いよどむ雁夜に対し、

 

「……そうね、マスターの気持ちはすっごく良く分かるんだけど、私にはそれは葵の夫(・・・)の仕事じゃないかと思うの。だってマスターは単なる友人(・・・・・)でしょう? 本来なら葵の夫(・・・)であり、凛や桜の父親(・・・・・・)がやるべき事よね。葵の夫(・・・)だって聖杯戦争に参加する以上、それ位分かってたはずだもの。ねぇ、そう思わない? 葵の単なる友人(・・・・・)であるマスターとしては」

 

 バーサーカーは終始笑顔だった。

 朗らかな花の様な笑顔である。

 異様な空気とその手に握った大鉈さえなければ……。

 

「……俺が悪かった……」

 

 閉口する雁夜に対し、バーサーカーはそっぽを向いて鼻を鳴らす。

 

「大体、アンタがいつまでもここにいたら戦いに巻き込むだけでしょうが……。まったく」

 

 それから彼女は残りのアイスを片付ける事にした。

 アイスはもう溶けかけていた。

 




FGOはじめました(過去形)


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旅立ちの準備(前)

 

 †††

 

 冬木市の北西部、深山町の外れに二棟、純和風建築の屋敷が並んでいる。うち一つは現在空き家であるが手入れはしっかりと行き届いており、直ぐにでも人が住める様に維持されている。元々武家屋敷であるというだけあって、本邸の他に広い庭、土蔵に離れや道場まで備えた豪邸だ。

 

 価格も物件からすれば随分格安と言える値だが、もう長い間買い手が付いていない。

 尤も、元々いわく付きの物件である上に、隣にはヤクザ「藤村組」のお屋敷、この建物の維持管理もその藤村組がやっているとなれば真っ当な人間は近寄るまい。真っ当な人間は……。

 

「まさか雷画の爺さんとお隣さんになるとは思わなかった。人生分からんモンだな」

「へぇ、藤村組の組長と面識があったんですか?」

「ああ、以前、チャイニーズマフィアを相手に一稼ぎしてた時に色々と世話になった。修業中の身だったし、藤村組も仁義を解さない連中をシマから追い出そうとしていたからWin-Winの関係でな。持ちつ持たれつって奴だ」

 

 男はそう言ってニッと笑うと、煙管を銜える。

 大型の猟犬を思わせる笑みだった。

 

 男の名は金剛地武丸。間桐の家を出奔した雁夜に武術を教えた師にあたる人物である。

 

 今、深山町の外れにある元武家屋敷に雁夜はいた。

 その庭にある道場の中で、師と向かい合って座っている。他愛の無い言葉の遣り取りを交わす彼等の間には、ある種異様な空気が在った。

バーサーカーは我関せずといった様子で一人離れ、道場の端に座って酒を呑んでいる。

 

「で、俺を態々呼び付けた理由は何だ?」

 

 武丸が聞いた。口を動かす度に、彼が銜えた煙管が上下に動く。

 師の銜える煙管に雁夜は見覚えがあった。否、忘れられるはずも無い。

その煙管が所々鈍色に輝いているのは表面の金メッキが剥げ、地金のタングステン鋼が覗いているからだ。元々純金製と偽られて売られていた代物である。

 雁夜はかつての修業の日々において、その煙管で何度となく額を叩き割られている。

 本来の用途はその重さ故、観賞用の逸品だ。

 

「護りたい人がいる。力を貸して頂きたい」

 

 雁夜は言葉と同時に頭を下げた。

 武丸は呆れた顔で、暫し頭を下げ続ける雁夜を眺めていたが、一つ舌打ちすると大きく紫煙を吐き出す。

 

「大切な人間なら猶の事、テメェで護れ……と言いたいところなんだが、弟子の頼みだ。受けるに吝かじゃあねぇが、事情の説明はしてくれるんだろうな?」

 

 雁夜は頷き、事の経緯を説明する。

 聖杯戦争の間、葵達の身の安全を確保する為の手段として雁夜が選んだのは、師を彼女達の護衛として招聘する事だった。そして、それは結果的に成功だった。

 

 武丸が藤村組と縁があった事で、藤村組の屋敷の隣に居を構える事が出来た。この近辺は藤村組の若い衆が夜間も見回りを行っている。先の戦いで結界が破壊され、御三家の居所として割れている遠坂邸に留まるより、遥かに安全と言えた。

 元武家屋敷を買うにあたって、間桐の家にあった土地の権利書が数枚消える事になったが、皆の安全を思えば些末な事である。

 

「フン、七騎の英霊に七人の魔術師による決闘ねェ。ハハ、随分と面白そうな事に首を突っ込んでるじゃないか? お前等魔術師も存外決闘好きだよなァ」

 

 聖杯戦争について聞き、武丸は開口一番そう言って笑う。

 

「笑い事じゃないんですがね」

 

 対して雁夜は楽しそうな師の反応に閉口した。

 巨木が年輪の代わりに針金の束を重ねた様な分厚い身体。ザンバラ髪の隙間に覗く向かい傷と鋭い眼光。何より纏った空気が間違いなく堅気の人間のソレでは無い。

 

 雁夜と二人連れだって新都の駅から屋敷まで歩いた訳だが、道中行き交う人々がサッと道を開け、目を逸らしていたのも当然と言えよう。彼等は皆、二人が藤村組の屋敷の方へと向かった事に対し、一様に納得していた。

 

 バーサーカーは少し距離を置いていた。

 理由は一緒にいると二人が警察に呼び止められる為である。

 

 雁夜はそれを全て師の風貌のせいだと思っている。

 雁夜にとっては教授を受けた師ではあるし、武丸が義侠の徒である事も知っている。

 だが、魔術師の雁夜から見ても、目の前の男は正真正銘異常者の類だった。

 

 斬った斬られたしか頭に無い本物の戦闘狂。

 一瞬の命の遣り取りに、人生を賭けるに躊躇の無い破綻者。ブレーキの壊れた暴力装置。間違いなく凛や桜の教育に悪影響しか及ぼさないであろう手合いである。

 だが、強い。

 

「何か、凄く失礼な事を考えてないか?」

 

 武丸が目を細めて紫煙を吐き出す。雁夜は苦笑して首を振った。

無論、傍から見れば雁夜とて五十歩百歩の存在である。

 

「たまーにお前、師弟の関係だって事忘れてやがんな。ああ、そういや言うのを忘れてた。雷画の爺さんの好意で、幾人か腕の立つのを呼んでくれるそうだ。隣の藤村組の屋敷にいるから、何かあれば直ぐに駆け付けるとよ」

「そりゃありがたい。恩に着ます」

 

 心底嬉しそうに微笑む雁夜に釣られて、武丸も笑みを返す。

 

「無事帰って直接雷画の爺さんに礼を言え。俺から伝える気はねェからな」

「ええ、分かりました。そうします。ああ、それと、師匠。皆の前では煙管はやめて下さい。師匠はどうでも良いですが、皆の身体に悪い」

 

 武丸は仏頂面で腕を組み、暫し紫煙を燻らせると露骨に話題を変えた。

 

「それより、七人の魔術師が七騎の英霊を召喚して戦うと言ったな。お前の喚んだ英霊ってのはそこのお嬢ちゃんになンのか?」

 

 武丸は道場の端に座るバーサーカーを指差す。

 

「ええ、それが何か?」

「いや、羨ましいと思ってな。敵の魔術師が六人に、ンなバケモンが六騎もいるんだろう? そして、各々の悲願と名誉を賭けて戦える。これ以上の舞台があるか?」

 

 師の言葉は熱に浮かされた子供の様だ。

 少なくとも、雁夜にはそう思えた。

 どこまでも純粋に、これから命懸けの戦いに挑む自分を羨んでいる。

 一方で、チラリと道場の端に目をやると、バーサーカーが仏頂面をしているのが分かった。不謹慎な台詞か、バケモノ呼ばわりか、いずれにしても師の言動が気に喰わなかったらしく無言でこちらを睨んでいる。

 

「ああ、師匠。そんな事より、聞きたい事があります」

 

 雁夜は溜息を一つ吐くと、真剣な表情で言った。

 

「師匠に教えて頂いた鞍馬金剛流。先日、同じ技を使うヤツに出会いました。相手が生身の人間か召喚された英霊かは分かりませんが、どちらにせよ尋常な手合いではありません。そういった人物に心当たりはありませんか?」

「ふむ、そう言えば、お前に鞍馬流のルーツについて話した事は無かったか……。しかし、マジで何も知らんのか? 一応、その筋では有名な流派の筈だが」

「ええ、全く」

 

 雁夜はキッパリと言った。

 

「……お前、何でウチの門戸を叩いたんだよ……」

 

 武丸は呆れた顔で呟くと、額を押さえる。暫し、彼はそのまま沈黙し、大きく紫煙を虚空に吐き出す。

 

「一つ、大事な事を聞き忘れていた。ソイツにお前は、負けたのか?」

「ええ……、俺は敗北しました。結果、皆を危険に晒してしまった。無論、この聖杯戦争を利用して奴とは決着を付けるつもりです。命を賭して」

 

 雁夜はそう言うと押し黙る。

 その脳裏に浮かんだのは敗北の記憶だ。

 彼は自らの不甲斐無さに打ち震えていた。

 武丸はそんな雁夜の様子を見ると一度大きく舌打ちし、スッと立ち上がった。

 

「フン、命を賭して、ねェ……。おい、修業の日々を覚えているな。先ず、初めにお前には必要最低限を除いて魔術の使用を禁じた。理由を覚えているか?」

「魔術に頼る姿勢を断つ為、でしたか」

「そうだ。魔術師にも接近戦が出来る奴はいるし、武術を修めている奴もいる。武威を得る為だったり、鍛錬の果てにある境地に触れる為だったり、理由は様々だがな。だが、奴等の過半は、技術を修めていても戦士では無い」

 

 武丸の口元が歪んだ。その眼は全く笑っていない。

 

「技術ばかりで、その差、その意味を教えていなかった。実戦修行に移行してからは魔術使用の禁を解き、お前の創意工夫に任せた。結果、お前は飛躍的に強くなったが、それについて学ぶ機会を失った。良い機会だ。ソイツを身体に叩き込んでやるよ。二度と何者にも負ける事が無い様に」

 

 雁夜は異を唱えなかった。

 黙って立ち上がり、師を、武丸を真っ直ぐに見据える。

 

「流派のルーツなんかについてはその後ですか?」

「ああ、安心しろ。死んでなけりゃあ教えてやる」

 

 武丸が嗤い、雁夜も笑みを浮かべる。

 

「ちょ、ちょっと!! あのさァ、マスター。何で戦う事になってるのか知らないケド、アンタ病み上がりでしょう? 無茶しないでよ」

 

 黙って事の成り行きを見守っていたバーサーカーが流石に抗議の声を上げた。雁夜は振り返り、慌てるバーサーカーに微笑を返す。

 

「安心しろ。もう完治はしてる。ここ数日でなまった身体を動かしたかった所だし、今より強くしてくれるってンなら願っても無い話だ」

「あ、ちょっと――」

 

 猶も止めようとしたバーサーカーの言葉がその途中で宙に泳ぐ。

 振り返った雁夜は真剣な目を見ると、彼女はそれ以上何も言えなくなっていた。

 

 道場の中央へと歩を進めながら、雁夜は壁際に置いた自らの刀に視線を送り、

 

「ああ、師匠、悪いが刃を潰した刀が無い。無手でお願いしたいンだが、開始の合図は――」

 

 その言葉は途中で途切れた。

 唐突に、弾かれた様に雁夜が跳び退き、それを追って突き出された腕が空を掻く。

 

「気ィ抜いてンじゃねェよ。本気で来い」

 

 腕を突き出した体勢のまま、武丸は淡々と告げる。

 雁夜は答えなかった。その頬を伝った冷汗が赤く染まって床へと落ちる。

 滴り落ちた血の滴が、彼等互いの間に点々と続いていた。

 武丸が突き出していた右腕を自らの眼前に掲げる。

 

 その手には、耳が握られていた。

 先の一瞬で、千切り取った雁夜の右耳である。

 血を流しながら、雁夜は苦々しい笑みを浮かべる。

 

「修業の日々を覚えているか? 先ず山籠もりで羆を相手に最低限の膂力と体力を。チャイニーズマフィア相手に対人、対武器、対多数を学んだな? 今日はその次だ」

 

 武丸の口元が実に愉しそうに歪む。

 

「対魔術師、対異能者、対超人を想定した人間の殺(こわ)し方を教えてやるよ」

 





延々会話するだけの話が続いたのでカッとなって戦闘を書いた。
今では反省している。



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旅立ちの準備(後)

 †††

 

「雁夜ッ!!」

 

 バーサーカーの絶叫が道場内に響く。

 千切られた雁夜の耳を見た瞬間、彼女の理性は沸騰した。

 

 魔力に拠って編み上げられた武装が瞬時にその手の内に出現し、その小さな身体が獲物を前にした豹の如く沈み込む。叩き付けられたその殺気に武丸が笑みを歪め――

 

「やめろ、バーサーカー。手を出すな。これは俺の戦いだ」

 

 バーサーカーの動きを雁夜が止めた。

 彼の口調は至極落ち着いたものだったが有無を言わさぬ迫力があった。

 

 バーサーカーには理解出来ない。

 そういう戦いでは無かったはずだ。

 そも、この男を招いたのは葵達の護衛にする為ではなかったのか?

 戦う理由など無い筈ではないか。

 

 バーサーカーが判断に迷っている一方で、雁夜もまた迷っていた。

 千切られた耳をどうするか。

 雁夜の治癒魔術の腕ならば治療は容易い。それこそ数秒もあれば完全に傷を癒着させ血を止める事など造作も無い。

 しかし、傷口を一度癒着させてしまえば、この勝負の後で千切れた耳を元通りにくっつける事が難しくなる。治癒は飽く迄も治癒であって、復元では無い。

 

 一方で治癒しなければ、失血による体力の損耗は免れない。

 紫電蟲による心拍上昇等の一部の技にもリスクが付き纏う事になる。

 隙だらけだった己の頸椎や目を狙わなかったのはこれが理由なのだろう、と雁夜は思った。そして、師の問いにどう応えるべきなのか、と。

 

「兵は拙速を貴ぶ。先手を取る事は勝負事の大原則だ。基本は必殺。無理ならば出来る限り削る事。目を潰す。動脈を抉る。四肢を折る。相手が武器を手にしている場合はこれを封じる。援軍の気配があれば喉を潰す。そんなところか。さぁ、どうする?」

 

 武丸が言いながら無造作に雁夜との距離を詰める。

 強いられた選択に対し、雁夜が取った行動は攻めの一手。

 耳の治癒を行わず、全身の魔蟲を励起させて、一瞬で勝負を決める腹である。

 

「良い気付けになりました。本気で行きます」

 

 何処か弛んでいた事は間違いない。

 呆けていた、と言っても良いだろう。

 実戦では無いと高を括った愚かさを右耳ごと千切り取られ、雁夜の意識が実戦へと切り替わる。奥歯を鳴らす。魔力を流す。

 餌の気配に体内の魔蟲が呼応する。幾千、幾万の魔蟲の覚醒。音ならぬ音。呪が自らの内側でうねりを上げる音を聞く。

 緊張と高揚の相克。

 

 一瞬の内に雁夜は戦闘態勢へと移行する。

 対峙する両者の間の空気が切り替わる。その一瞬に――武丸が先程千切り取った雁夜の耳を放り投げた。千切られた耳は放物線を描いて宙を舞い、雁夜の視線がそれを追って一瞬泳いだ。瞬間、ダンッと武丸の足元で床板の砕ける音が響く。

 雁夜がそちらに視線を返した時には、既に雁夜の眼前にソレは在った。

 回転しながら飛来する床板の破片である。武丸が踏み割った床板を雁夜に向けて蹴り上げたのだ。

 床板の影に隠れ、武丸の姿が一瞬、雁夜の視界から消えた。

 雁夜は咄嗟に床板を片手で弾く――その瞬間、彼の右の視界が消失した。

 

「ぐ、このッ――」

 

 衝撃に仰け反りながら、雁夜は背後に落ちた硬貨の音で何があったのかを悟る。

 指弾だ。

 指で弾き飛ばした硬貨で、蹴り上げた床板ごと雁夜の右目を正確に射抜いたのである。

 千切った耳を投げる動作に視線を集め、もう一方の手で硬貨を握り込むと同時に、踏み抜いた床板を跳ね上げて死角を作り、そこへ指弾を叩き込む。

 死角から突如出現する弾丸を防ぐ術は無い。否、気付かぬ内に封じられていた。

 

 雁夜は即座に体勢を立て直したが、同時に武丸はその右の死角へと滑り込んでいる。危機を察した雁夜が跳び退こうとするも既に遅い。

翻った武丸の左拳が雁夜の顎を捉えた。

 接近と同時の左の連打。二つ三つと拳を叩き込まれ、雁夜の頭がピンボールの様に跳ね回る。

 

 が、それも一瞬。

 顎を捉え引き戻される拳。その袖口を右手で掴むと同時に、雁夜は左腕を振り被る。その瞬間、ズラリとその左手の平を貫いて蟷螂の鎌に似た魔蟲の牙が飛び出した。

 

「行くぞ。死ぬなよ、師匠……」

 

 言葉と同時に閃光が瞬き、左腕が翻る。

 師の首を狙った横薙ぎの一閃は、しかし、空を切った。

 

「甘いんだよ。いつまで敵の身体を気遣ってやがる」

 

 左手の手首を返して、袖口を掴んだ腕を取り、外に捻る。

 死の刃を前に武丸が取った行動はそれだけだ。しかし、たったそれだけの動作で、雁夜の膝は崩れ、つんのめった雁夜の左腕は宙を薙ぐ。

 

「ッ、合気――ガッ!!」

 

 雁夜の言葉はその途中で吐血に変わった。

 

「弱点はこれを突く。徹底的に、だ。死ぬなよ、雁夜……」

 

 雁夜の左腕を掻い潜ると同時。雁夜がその術理を理解した直後。その危機を直感する前に、がら空きになった雁夜の左脇腹に、武丸の右フックが突き刺さっていた。

 

 そして、それは一撃では終わらない。

 即座に二撃目の右フックが全く同じ軌道を描いて雁夜の脇腹へと突き刺さる。雁夜の身体が衝撃に浮き上がり、くの字に折れた。

 一撃目の際、既に肋骨が砕けた事は互いに承知している。

 雁夜は咄嗟に跳び退こうとして、それが無理だと悟る。

 身体は浮き上がり、右腕を掴まれていた。

 腕を引いて相手の身体を引き寄せ、距離を殺すと同時に体勢を崩す。三発目の右フックは雁夜の脇腹では無く、頭部へと奔った。

 ギリギリで引き戻した左腕でガードが間に合うも、武丸の剛腕は受けた腕ごと雁夜の頭部を激しく揺さぶった。衝撃が脳を揺らす。

 

 武丸の攻め手は全く冷静で、ソツが無い。

 上下の打ち分けがある以上、雁夜はガードを上げざるを得ない。故に自然にガードに上げたその腕で、雁夜は自らの口元を武丸の視線から一瞬隠した。

 

 隠すのは一瞬で良い。

 既に二撃目で砕けた肋骨が内臓へと突き刺さり、大量の血が腹から迫り上がっている。

 雁夜は口内に止めていたそれを、武丸へと勢い良く噴き出した。

 

 その血を使った目潰しは――果たして、道場の床を赤く染めただけに終わる。

 血を噴き出したのと殆ど同時に、武丸は後方に跳び退く事で血の目潰しを回避していた。

 

「……随分と引き際が良い事で。いくらなんでも小細工一つにビビり過ぎでしょう?」

 

 雁夜は軽口を叩きつつ、潰れた右目、折れた肋骨に、傷付いた内臓の治癒を開始する。一方で彼は必殺の機を逃した事を痛感していた。

 

「退き時と見れば躊躇うな。対魔術師、異能者戦の要諦だ。お前等の小細工は容易く臓腑を焼く。迷ったら一度退き、敵の能力を見極めろ。ま、今のは迷う必要が無かった。狙いの本命は電撃だろう?」

 

 師の言葉に雁夜は苦笑いを返す。

 先の攻防、雁夜の狙いは紫電蟲による電撃にあった。

 血を噴き出しての目潰しで師に隙が出来るとは思っていない。喩え目を眩ませた所で、無空と聴勁を使って普段と遜色無い動きが出来るだろう。故に、掴んだ左手を離して折角の有利を手放すとは思わなかった。最低限視界だけを護るか――視界さえ捨てて攻撃を続行する。

 

 そう読んで、目潰しと同時に掴んだ腕に血をぶち撒けて導通を上げ、紫電蟲による電撃を叩き込む。一度感電すれば身体は強張り、掴んだ指を自力で離す事も出来なくなる。その時点で勝敗は決する、はずだった。

 腕を掴まれた瞬間に電撃を行わなかったのは、体表上に金属の類があれば皮膚の表面を通って電気がそちらに流れ、不発に終わる可能性があった事。そして、もう一つ……。

 

 兎も角、肋骨を犠牲に張った必殺の罠をあっさりと看破され、状況は圧倒的に不利な事は間違いなかった。右目は当然として、砕かれた肋骨も直ぐには再生しない。

 否、それよりも――。

 

「何、良い様にやられてンのよッ!! 何を遠慮してンのか知らないケド、そんな卑怯者に負けンじゃないわよッ!! さっさと本気出しなさい!!」

 

 結局、黙って見守る事にしていたバーサーカーが、堪え切れずに野次を飛ばす。

 その言葉に雁夜は苦笑する。

 無論、雁夜は遠慮などしていない。

 問題は、バーサーカーにはそう見えているという事だ。

 そう見える程に、動きが鈍っている。

 

 原因はハッキリしていた。

 雁夜がその体内に寄生させた魔蟲の反応が鈍っているのだ。

 雁夜の体内に寄生した魔蟲の総数は億を超える。彼等は雁夜の魔術回路はおろか神経や血管、内臓に筋肉といったあらゆる部位に寄生し、既にその生体機能の一部と化している。

 普段、食事をするのに箸の握りを意識しない様に、雁夜にとって体内に巣食う魔蟲は自身の手足も同じ。中でも生体活動に根差した魔蟲の操作は息をする様に扱える。

 それが狂っていた。

 

“先日の戦いで無茶をした影響か、神便鬼毒酒の後遺症か。

いや、違うな……。”

 

「どういう心境の変化ですか? 随分と、卑怯な手を使う」

「ふむ、ようやく気付いたか」

 

 雁夜の言葉に武丸は笑みを浮かべる。

 その口に銜えた煙管が上下に揺れ、紫煙が言葉と共に宙に舞った。

 

「魔蟲の活性が酷く弱い。それに、先程の小手返し。合気の生体反射を利用する技は、俺には効果が薄いと知ってる筈だ。首への斬撃が迫った場面で使う技じゃァ無い。効く確信があったって事でしょう?」

「ククッ、御名答。敵の力は悟られぬ様にこれを削ぐ。状況なり心理で縛るも良し。今回は手っ取り早い手段を使わせて貰った。多種の霊草と毒蟲を煎じた物を煙草と共に燻した香だ。お前の魔蟲の働きを鈍らせる。

普段から魔蟲に頼り切ってる奴には効果抜群だった様だな。

 ああ、それと、敵の力を推測するのは良いが、決め付けるのはウマくない。俺の合気を魔蟲の痛覚遮断程度で防げると思わない方が良い」

「それは卑怯な手段を使ってる人間の台詞じゃァないですね」

 

 言いながら雁夜は自身の傷の治癒状況を確認する。

 

“内臓に突き刺さった骨の癒着は粗方完了。視界は魔蟲の複眼でカバー可能。

 活性の落ちた魔蟲の掌握も殆ど終了。

 戦闘態勢は整った。さて、どうするか――”

 

 と、そこまで考えた所で、

 バンッ!!と大きな音を立ててバーサーカーが戸を開け放った。

 

 ただ戸を一つずつ開けているだけではあるが、その後ろ姿には鬼気迫るモノがあった。怒りに打ち震えているのだろう事が背中越しにでも理解出来る。

 

「バーサーカー……。その、手を出すなと――」

「私が煙たかっただけだから。何も問題無いわよね?」

 

 そう振り向いたバーサーカーの微笑には、一切の有無を言わさぬ迫力があった。

 雁夜はバーサーカーへの追及を止め、愉しそうに笑う武丸へと集中する。

 

“換気して貰ったバーサーカーには悪いが、恐らく煙管はブラフだ。”

 

 そう雁夜は結論付ける。

 雁夜の操る魔蟲はその体内に寄生している物だけでは無い。元々葵達の警護の為に一定数の魔蟲を遠坂邸近辺に配置しているし、この屋敷の周囲も同様だ。

 ここに葵達を避難させ、聖杯戦争から護ると決めて直ぐに彼は屋敷の周囲へと魔蟲を展開していた。異変があれば直ぐに気付く。

 だが、それらの魔蟲に変化は無い。活性が落ちているのは雁夜の体内の魔蟲のみ。殊更神経系に根を張る魔蟲の被害が甚大である事に比べ、多少なり煙を吸ったであろう独立型のモノに対して影響が無さ過ぎる。

 また、師は戦闘が始まってから煙管の火皿に詰めた刻み煙草を交換していない。駅からの道中や屋敷で話の間に吸った煙で魔蟲の活性が落ちればどこかで気付いた筈だ。

 

 結論として、煙管はブラフで、別の方法で毒を盛られた可能性が高い。

タイミング的には恐らく初撃で耳を千切った時に違いない。傷口から毒を入れたにしろ別の方法にしろ、耳を千切れば雁夜は痛みを遮断する。結果、毒に気付くのが遅れる。

 

 では、ブラフを張った理由は何か?

 煙草の紫煙を毒と錯覚させてこちらの行動を制限する。実際、バーサーカーが扉を開けたから不発に終わったが、そうで無ければ扉を蹴破って庭へと移動していた可能性は高い。

 でなくば、もう一度毒を使うつもりでいるか……。

 

「さて、次は何を教えてくれるんです? 不意打ちに毒と、卑怯な小細工を披露して終わりってわけじゃあ無いでしょう?」

「ク、ククッ、本当に、魔術師ってヤツは――トロケそうなほど甘い。その卑怯な手際に翻弄され、今の今まで気付かなかった未熟に対して、逆に何か思う所は無いのか?」

 

 師の問いに雁夜は押し黙る。

 武丸は袴の脇開きに片手を仕舞い、もう片方の手で煙管を掴んで燻らせると、紫煙と共に言葉を吐き出す。

 嗤っているが、その眼に喜楽の色は無い。

 その言葉の端々に火薬の匂いがあった。

 

「お前は今から一体どういう戦いに出向くと思っているんだ? 敵が卑怯な手を使ったから負けました、とでも言うつもりか? 墓の下で言えりゃァ良いけどなァ。覚えておけ。卑怯とは敗者が最期に云う言葉だ」

 

 言い終わると同時に、雁夜の額が弾けた。

 全く間を置かず、道場の床に三つパチンコ球が転がり、一つは雁夜の背後の壁へとめり込んだ。雁夜の指先、顎を伝った血が床に落ちる。

袴の脇開きに手を入れ、出所を隠した指弾。一息に放たれたパチンコ球は袴の生地を突き破ると、雁夜へと奔った。

 

 一つが空を切り、一つが叩き落とされ、一つが防御した指の骨を砕き、一つが額を割る。

 それに合わせ、武丸は跳んだ。

 

 サイドステップを挟んで、雁夜の潰れた右目の死角から跳び掛かる。振り被る事無く、踏込の推進力を拳に乗せる。突きが目標に当たる瞬間はまだ踏み込んだ前足は空中にあり、接近と攻撃を一手で兼ねる刻み突き。

 

 ここからゼロコンマ数秒の攻防があった。

 咄嗟に滑り込んだ左手が顎を捉える筈だった武丸の右拳を逸らす。しかし、突きを捌いた雁夜は同時に振り被ろうとした右腕を咄嗟に止めた。

武丸の踏み込んだ右足が雁夜の右足を踏み付けていた。

 武丸はそのまま払われた右腕を戻さず、雁夜の上着の襟を取ると、踏み込んだ勢いを乗せて左膝を跳ね上げ――それを雁夜は右腕で受ける。

 

 無論、跳び膝蹴りの衝撃を腕で完全に止める事は出来ない。

 足を踏み付けられた事で動きを制限されていた雁夜の上半身は大きく仰け反り、そこへ不可避の左拳が振り下ろされた。

 底拳を利用した振り下ろしは、空手などでは俗に鉄槌打ちと呼ぶが、彼等の流派では全身のバネを使って繰り出すソレをその象形から雷と呼んだ。

 

 その威力を雁夜は知っている。

 頭部を失った羆の死骸を山籠もりの際に幾度と無く目にしていた。

 降ってくる死に対し、しかし、雁夜に恐怖は無い。

 

 雷が奔った。

 雁夜の左腕から奔った紫電が武丸の身体を貫いたのである。

 襟を掴んだ師の腕を取ると同時の紫電蟲の一斉励起。電撃が武丸の身体の自由を奪い、その腕が空を切る。同時に、その身体を雁夜は中空へと蹴り上げた。

 百キロを超える武丸の巨体が宙を舞う。

 

“ここで決め――”

 

 雁夜がそのまま追撃に移ろうとした瞬間、その視界を鈍色の輝きが塞いだ。

 煙管だ。師が銜えていた煙管が雁夜の左目へと向かって落ちてきたのだ。咄嗟に雁夜はそれを左手で弾き飛ばし――失敗を悟る。

 

 雁夜の左腕を一本の針が貫いた。

 同時に蹴り上げられた武丸は猫の様に身を躱し、天井へと着地する。

 雁夜は一歩飛び退き、腕に刺さった針を引き抜く。二寸程の長さの鉄の針。煙管の中に仕込まれていた含み針である。

 

「影打ちと言う。一射目の煙管の死角に隠した針だ。単純だが、見切る事は難しい。ああ、動くなよ? 毒が回るぞ」

 

 武丸の声は上から響いた。

 彼は床に降りる事無く、天井に立っている。

 足の指で天井の竿縁を掴んで立っているのだ。

 雁夜は答えなかった。

 彼は状況を確認している。

 右腕は折れていた。解放骨折である為、一度骨を正常な位置に戻して治癒魔術を行う必要がある。そもそも時間を要する為、戦闘中の回復は絶望的だ。

 

 左腕の毒については目下対処中。筋肉を絞めて上腕動脈を圧迫する事で止血は完了。現在、蛭血蟲が傷口に噛み付き、血ごと毒を吸い出しにかかっている。

 右腕は動かない。左腕は動かせば一気に全身に毒が回るだろう。

 

 両腕を封じられた状況である。

 雁夜の頬を冷たい汗が伝った。

 

「魔術を修め、武技を練る。正に俺の上位互換とも言えるお前が、何故これほどに遅れを取るのか……。多少は理解出来ているか?」

 

 武丸の問いに雁夜は苦々しい笑みを浮かべる。

 さて、何と言ったものか……と彼が思っていると、背後のバーサーカーがボソリと言った。大鉈を掴んだその手には青筋が浮かんでいる。

 

「何故も何も、アンタが卑怯な事ばっかしてるからじゃない……!!」

「フン、この程度は実戦における駆け引きの一部に過ぎん。毒にせよ、指弾にせよ、一つ一つなら何も問題なく捌けていた筈だ。何度も言った筈だぞ? 一つの事を成さんと欲すれば十の布石を打て。事を起こさんとすれば事前に事を成せ。お前のヌルさは別にこの一戦に限った事じゃァ無い」

 

 武丸は無表情で続ける。

 

「仔細までは知らんが、お前は既に命懸けの戦いに二度敗れている。一度は敵の思惑に嵌り、一度は怒りに我を忘れてな。結果、我が身だけで無く、その庇護すべき対象をも危険に晒した大馬鹿者。それを恥じ、悔い改める気も無いというのなら介錯してやるのも師の務めだろうよ。さて――」

 

 武丸が天井から落下する。

 彼は猫の様に身体を翻し、床へと着地するとニヤリと笑った。

 

「そろそろ、毒が回ったようだな」

「……なん、で……毒が――」

 

 言葉が口からこぼれ、そのまま雁夜は片膝を付く。

 視界が歪み、舌が麻痺して上手く言葉にならない。立ち上がる事が出来なかった。

 

「吸血によって毒を吸い出すというのは応急的に良く使う方法ではあるが、常に感染のリスクが付き纏う。特に口内が傷付いていたり、体力が落ちている場合には避けるべきだ。お前が毒の排除に使った蟲も例外じゃァ無い。お前等魔術師は魔術によって多くの物事に対して簡単に対処出来るが、それ故にとても傲慢で、無防備だ。電撃を使うならもう少し考えるべきだったな」

 

 この時、武丸は複数の毒を使用している。

 一つは多種の霊草を煎じた強力な虫下し。初手で雁夜の耳を削いだ時に、傷口に同時に塗り込む事で魔蟲の活性を大幅に下げている。

次に、針に仕込んだ多種の毒虫から抽出した神経毒。

 初期症状は眩暈に四肢の痺れ等。意識は明瞭なまま症状は急速に進行し、やがて中枢神経が麻痺する事で呼吸困難に陥り、死に至る猛毒である。

 

 無論、一つ一つであれば雁夜には大した効果が無い。

 強力な神経毒も麻痺の症状が進行する前に、体外の魔蟲が血ごと毒を吸出し、速やかに体内の魔蟲が解毒してしまう。故に、武丸は先ず解毒を行う体内の魔蟲の活性を下げ、毒の吸い出しにかかる魔蟲には死んでもらう事にした。

 耳の失血を止めなかった雁夜は回復の為に蛭血蟲を出し、その状態で迎撃の為に電撃を使っている。電撃は武丸だけでなく、雁夜の体表上の蛭血蟲をも焼いていた。

 後は傷付いた魔蟲が毒を吸出しに掛かって自爆したというだけである。

 

 それは雁夜の自覚していない弱点だ。

 彼は己の痛覚を遮断する事に抵抗が無い。

 だから、傷付く事に躊躇いを持たない。

 大切な者が傷付く事に酷く怯えている癖に、それ以外が傷付く事にはまるで抵抗が無い。

 自らの事も、自らを支える魔蟲の事も頭から抜け落ちている。

 それは生物として根幹的な欠陥ではあり、同時に間桐雁夜の強さの源泉でもある。

 

「武術とは研鑽、練磨の歴史だ。例えば脳内麻薬のコントロールによる死の直前の集中力。それが蔓延るとそれをカモにする術が出てくる。二階堂兵法の心の一方等がそれだな。死の直前の集中力は視覚以外の五感を切り捨てる事で超人的な反応速度を得る物だ。自然、切り捨てられた感覚が無防備になる。

 お前のソレも同じだ。体内に寄生させた魔蟲に頼った戦法はお前の強さではあるが、同時に弱点でもある。そして、弱点と見ればこれを突くのは勝負の鉄則だ。

 魔蟲に頼る事に慣れ過ぎているから対応が遅れる。簡単に解毒出来ると考えているから毒への対処を怠る。さて、そろそろ呼吸も出来なくなる頃だ。そのままだと死――」

 

 大鉈が武丸の言葉を途中で裂いた。

 

「アンタの勝ちよ。クソ野郎」

 

 前方から飛来した大鉈が肩肉を食い千切ったと見るや、後方に凄まじい力で引き寄せられ視界が回転、次いで襲い掛かった衝撃によって壁へ激突した事実を知る。

 バーサーカーがその手の大鉈を投擲すると同時に躍り掛かり、武丸の襟首を掴んで壁へと放り投げたのである。

 バーサーカーは倒れた武丸には目もくれず、雁夜へと近寄る。

 

「マスター、毒を抜くわ。直ぐに――」

 

 

 

 使われた神経毒は末端神経を麻痺させるがその思考を奪う物では無い。

 雁夜は酷く澄み切った思考で、己の四肢が壊れていくのを感じていた。

 

“あの時と同じだ。

 あの時と同じなら、やるべき事は決まっている。”

 

 十に満たぬ齢で蟲蔵に入ったあの時。

 魔蟲に全身を蹂躙され、苦痛で脳が焼き切れそうになったあの時。

 感覚を捨てる必要に迫られたあの時と同様に――

 

 山籠もりで衰弱し、逃げる事も出来ずに羆に喰われそうになったあの時。

 動かない肉体を捨てる必要に迫られたあの時と同様に――

 

“改造すれば良いんだ。そういう能力にすれば良い――。”

 

 皮下で魔蟲が顫動する。その全身に赤黒い罅が奔った。無論ただの罅では無い。動脈や筋と見紛う程に巨大な神経が皮膚に浮き上がっているのだ。

 

 毒によって麻痺した神経を不要と断じ、魔蟲の総体が創り上げる新たなる経絡。

 無数の魔術師達が子々孫々と血の練磨の果てに魔術回路を増強していく営みの、その生涯の何と遅き事か。否、比するソレは人間の業では無い。

 見よ。魔蟲が擬似魔術回路として浮き上がり、即座に成形されていく様を。

 

 バヂリッ、と雁夜の浮き上がった経絡上を紫電が奔った。一度では無い。その上半身に一定の間隔で電流が奔り続ける。

 

「マ、マスター!! 何を!?」

 

 半ば悲鳴に近いバーサーカーの声が上がった。

 同時に、雁夜の口から呼吸音が漏れる。

 体内に巣食った紫電蟲の電撃によって強制的に横隔膜に筋収縮を引き起こし、無理矢理呼吸を行っているのである。

 

 一つ、二つと大きく呼吸し、欠乏していた酸素が全身に循環すると、雁夜は立ち上がった。

 そして、雁夜と武丸。二人は何事も無かったかのように向かい合う。

 

「行くぞ。全力で来い」

 

 武丸の言葉に雁夜が応える。

 互いに決着が近い事は分かっている。

 大尾が近い事は誰の目にも明白だった。

 

「ッ――!? ――!! ――ッ!!」

 

 バーサーカーが何事か叫び、戦いを中断させようとしている。しかし、既に二人の眼中には無い。如何なる言葉もその耳へは届いていない。

 

 雁夜の全身を紫電が奔る。

 次第にそれは激しくなり――雁夜は武丸へと跳び掛かった。

 

 先の鬼面の男との戦いの記憶を思い出した訳では無い。

 しかし、雁夜はこれが自らの奥義であると確信していた。

 紫電蟲の一斉励起による電撃の強制駆動。

 意志を持つ、雷に至る。

 

 残影のみをその場に残し、雁夜は跳躍んだ。

 肉体の駆動限界を遥か超越した人間大の雷が武丸へと奔る――

 

「見事――と言ってやりたいが、この場は俺の勝ちだ」

 

 武丸の反応は、雁夜にとって冷や水を被せられた様な――否、その物である。

 

「oṃ Varuṇa-samudgate svāhā!!」

 

 向かい来る雁夜を前に、武丸は指を組む。刀印が切られると同時に、雁夜の眼前に数リットルの水の塊が出現し、雁夜は勢いのままに水の塊へと突っ込んだ。

 瞬間、水を伝って雁夜の纏っていた電撃が周囲へと迸る。一瞬の明滅と共に道場内の電灯が弾け飛び、全身を焼かれた雁夜の動きが止まった。そこへ――

 

「電気は水に吸われる様に流れる。制御出来ない力は自らを焼くと知れ」

 

 武丸の右拳が、雁夜への胸へと撃ち込まれた。

 一瞬の静寂。その後に――

 

「何で、師匠が……魔術を――」

 

 呟きと共に、雁夜は糸が切れた様に倒れ込んだ。

 

 

 

 

 






色々と反省すべき点は多々あるが、どうしたものか……。


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interlude

 †††

 

 鞍馬金剛流に心臓打ちは二種あり、その両方が必殺の技である。

 

 一つの要は心臓振盪。

 人間の心臓は衝撃を受けた際に不整脈が発生する。そして、その不整脈の発生が心臓の収縮が終わる直前の極僅かなタイミングに起こった場合、心筋が痙攣を引き起こし、心臓は停止する。これが心臓振盪である。

 

 心臓振盪が発生すれば人は一瞬で意識を喪失する為、刹那の攻防を主とする勝負の場にあっても十二分に必殺と成り得る。

 無論、正中線上にある心臓に正確に打撃を通す事は難しく、人の身体は皮、肉、骨に護られている。また、発生が刹那の拍子となれば実戦の場で使う事は更に難しい。

 聴剄を以てその刹那の間を見切る事が理想とされるが、この問題の解決に主として使われるのは浸透剄である。

 

 即ち力積の大きな押す打撃。

 衝撃を与え続ければ、いずれタイミングが重なり心臓振盪が起こる道理である。

 

 そして、もう一つ。

 先程、武丸が雁夜に叩き込んだ一撃。

 

 即ち、渾身の一撃で以て左第五胸骨をへし折り、砕いた胸骨をそのまま心臓に叩き込む事によって相手を絶命させる技である。

 

「ッ、このッ!! マスターッ!!」

 

 倒れた雁夜へとバーサーカーが駆け寄る。

 その襟首を左腕で掴んで、武丸が引き止めた。

 

「待て。迂闊に近付くな」

「邪魔を――」

 

 バーサーカーがキッと武丸を見返し、絶句する。

 先程迸った電撃に焼かれてその身体中が火傷だらけなのは別に良い。問題は最後に雁夜に撃ち込んだ右腕だ。

 

 捻れている。

 そうとしか表現出来ない。

 五指が関節を無視して別方向に回転し、それぞれ明後日の方向を向いている。手首は完全に反転し、肘から手首までの間で前腕が470度程回転し、捻じれていた。

 

「アンタ、その腕――」

「やはり、素手じゃあ屍蟲を抜くのは無理だな。後は頼んだ。スマンが――コレの相手は俺一人じゃァ無理だ」

 

 武丸が引き攣った様な笑みを浮かべる。

 その視線の先で――倒れ伏した間桐雁夜が立ち上がった。

 そこかしこに見える大小無数の傷。骨折、毒、電撃による火傷痕。

 

 既に満身創痍だった筈だ。

 満身創痍の状態で致命の一撃を受けた筈だ。

 

 バーサーカーは即座に駆け寄って治療を行おうと思っていた。

 確かにそう思っていた。

 その筈なのに……。

 

「マ、マスター?」

 

 そう問いかけるバーサーカーの声は微かに震えていた。

 今の雁夜に生気は無い。

 血を流し過ぎた為か肌からは血色が失せ、俯いたまま微動だにしないその様は正に幽鬼の様である。

 

 一方でその変化は明白だった。

 全身を覆っていた赤黒く浮き出た経絡が刻一刻とその数を増し、一層その隆起を強めているのである。次いでその傷痕に変化が起こる。

まるでビデオの逆再生を見ている様であった。

 解放骨折によって突き出ていた骨が肉の中に自ら埋まっていく。全身の傷が跡形も無く消え失せ、入れ替わる形で赤黒い隆起がその身体を覆っていく。

 

「これがアイツの切り札だ。心臓に憑り付かせた屍蟲がその停止と同時に覚醒し、魔蟲と術者の支配領域が反転する。宿主の修復と改造が終われば――来るぞ」

 

 武丸の言葉と同時に、俯いていた雁夜が顔を上げる。

 前髪の隙間から雁夜の目が覗く。

 その眼を見た瞬間、バーサーカーは覚悟を決めた。

 

「止める方法は?」

「ぶっ倒せば止まる。今回は屍蟲も先の戦いで死んで間が無い急造品だからな。先程打ち込んだ毒も残ってる筈だ」

「アンタ、一体何が目的?」

「一つはお嬢ちゃんにコイツを見せる事。もう一つは屍蟲の処理だ。俺の魔術刻印を雁夜に移す時に邪魔になるんでね」

 

 喋り終えると同時に、無数の鈍色の輝きが空を切って奔った。

 武丸の放った指弾が、棒立ちの雁夜へと次々と撃ち込まれ――果たして、床へと落ちた。

 

 握り込んだ硬貨等を指で弾いて飛ばす。指弾とはただそれだけの技ではあるが、武丸のそれは厚さ5ミリの鉄板をも貫通する威力を誇る。その速射性も相まって、人間程度なら数秒あれば蜂の巣に変える事が出来る――筈だった。

 指弾に使用した硬貨は全て床に落ちたが、どれ一つ転がる事は無かった。

 あるものは捻れて反り返り、あるものは外縁部が反転して中心部を突き破り、皆原型を止める事無く拉げている。

 

「コレは一体、何がどうなってるワケ……?」

 

 バーサーカーの背に冷たいモノが奔った。

 床に落ちた拉げた硬貨にではない。恐らくはそれを成したであろう、雁夜の全身から立ち昇るどす黒い靄。可視化される程の呪詛の渦にだ。

 

「呪層防壁。ガンドなんかと原理は同じさ。呪詛ってのは本来物理的干渉力を持たないが、ここまで強力になれば話は別。全身がフィンの――」

 

 ひうん、と何かが空を切る音が聞こえ、同時にバーサーカーと武丸は跳躍する。

 直後、左右に別れて跳躍した彼等の間を銀光が瞬いて、彼等の立っていた場所の床板が賽の目状に切り刻まれ上空へと跳ね上がった。

 

 武丸はそのまま扉を蹴破って外に逃れ――待ち受けていた無数の翅刃蟲の群れと対峙する。一方で壁際へと逃れたバーサーカーは、その動きを止めていた。

 

 正確には、動けずにいたのだ。

 ひうん、ひうん、と先程にも増して無数の風切音が聞こえる。

 その音をバーサーカーは知っていた。

 間桐鶴野と戦った際の、触れれば斬れる見えざる糸が空を切る音である。

 

 耳を澄ましバーサーカーは警戒を強め――その視界の中で空気が歪み、瞬く。

 同時にバーサーカーのその手に大鉈が具現化し、彼女は空を切った無数の斬糸を一刀の元に切り払い――

 

「カカッ」

 

 背後から聞こえた嗤笑で、死線を悟る。

 

 油断は無かった。

 糸を見切る事には集中したが、術者である雁夜から目を切った訳では無い。

 バーサーカーが反転する。同時に大鉈の横薙ぎを自らの背後へと叩き付ける。果たしてその一撃を難なく潜り抜け、雁夜の右腕が翻った。

 バーサーカーの脳裏に奔った死の直感とは裏腹に、スッと伸ばされた雁夜の腕は撫でる様に優しく彼女に触れた。反転と共に放った横薙ぎの一撃で身体が泳ぎ、無防備となったバーサーカーの脇腹へ、伸ばされた雁夜の手が触れる。

 

 そして、そのままその五指がバーサーカーの脇腹へと喰い込んだ。

 

「ッ――!!」

 

 苦悶の声を上げる間は存在しない。

 即座にバーサーカーは理解した。

 職人が卸した魚のワタを掻き出す様な手際で以て、掴まれた脇腹が肋や臓腑ごと引き千切られるのが分かった。

 

「――逃げろ」

 

 その言葉が聞こえたか、否か。

 パッと真っ赤な血の華が咲いて、温かいモノが彼女の頬を濡らした。

 

「え?」

 

 決死の瞬間、バーサーカーの脇腹を千切り取る直前に、雁夜の右腕、その二の腕の血管が内側から爆ぜたのだ。噴き上がった雁夜の血が辺りを朱く染め上げる。

 

 体内で膨れ上がった呪詛の暴発であった。

 雁夜とバーサーカーの視線が一瞬交差し、彼等は弾かれた様に動き出す。

 

 雁夜は左腕を振り上げる。同時にその手の平を魔蟲の鋏角が突き破って出現し――背後から空を切った針が、彼の背中へと深々と突き刺さった。

 それは背骨と肩甲骨の間を抜け、雁夜の心臓へと憑りついた屍蟲に迫り、呪層防壁に阻まれ止まる。

 

「合わせろッ!!」

 

 武丸の声を聞くまでも無く、既にバーサーカーは動いていた。

 雁夜の右手首を掴むと同時に、自らのスキルである『怪力』を発動。その剛力に任せ、そのまま雁夜を背中から道場の壁へと叩き付ける。

 道場の壁が衝撃に木片を撒き散らして陥没し、その背に刺さった針は一層深く打ち込まれた。

 

 果たして、屍蟲を貫く程に。

 

 壁へと叩き付けられた雁夜は跳ね飛ばされ、そのまま床へと俯せに倒れ込むと動かなくなった。

 動きを止めた雁夜を見て、バーサーカーは深く息を吐く。

 

「どうやら、トンでも無いマスターに召喚されちゃったみたいね……」

 







これだけ盛っておけば雁夜おじさんが鯖連中と渡り合っても問題あるまい(慢心)




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