Kuschel -独りと一人と寄り添うふたり- (小日向)
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第一章
01 ヴァジュラに襲われた民間人


 金色の瞳と目が合った。

 

 〝それ〟はなんとも形容し難い怪物だった。大きな牙を持ち、自身の二、三倍以上はありそうな図体。一見すると哺乳類だが、黒い毛並みは随分と硬そうな上に赤い(たてがみ)は酷く禍々しい。

 とてもじゃないが、見た事がない。あったとしても近しいものが人間を食べるCG映画の生物だ。

 そう、人間を食べる。

 

「――ひっ」

 

 本能が逃げろと叫んでいる。喰われる寸前で三葉(みつは)は怪物に背を向け、通学鞄を抱えて全速力で走り出す。先月友人からプレゼントされた赤いマフラーの先が無残に喰い破られた。

 あまり運動が得意ではない三葉だが、走り出すと不思議なくらいスピードが出た。これが生存本能というものなのだろうか――なんて、考える暇も無くただただ逃げる。

 

 夢だ。悪夢だ。しかし夢から醒める方法が思い浮かばず、追いかけてくる恐ろしい怪物から逃げる事しか三葉には出来ない。辺りの景色を見渡してみると荒廃とした街並みが広がっており、建物にはあちこちに穴が開いている。その中で、一際大きく穴が開いた建物が目に付く。高層ビルの真ん中に、隕石が貫いたのかと思うような風穴。そのビルは、なんとなく三葉には見覚えがある――気がした。横浜市街地の面影が僅かに重なる。

 

――なに、これ。

 

 こんな荒廃とした地は見覚えない。その筈だが、妙な感覚に後ろの怪物から注意が逸れてしまった。

 怪物が咆哮を放つ。思わず振り向くと怪物は鬣を広げ、その周りにはバチバチと青白い火花が迸っている。怪物が吼えると、それが合図なのか火花が放たれる――電撃だ。

 バチバチッと空気を震わせながら電撃が鋭い刃の如く三葉の身体に突き刺さる。全身に強い衝撃が走り、強烈な痛みに襲われた。出血している様子はないが、身体中が震え、感覚が麻痺しているのか動かそうにも動かせなかった。ガクッと膝が落ち、三葉は地面に崩れ落ちる。

 

――逃げなきゃ。

 

 そう思うものの、体が言う事を聞いてくれない。怪物は此方へ向かって飛び掛かってくる。大きな牙と鋭い爪が三葉を捉え、引き裂こうとしている。このままでは喰い殺される事はまず間違いない。恐怖で涙が零れ、地面に落ちた。

 死んだら夢から醒めるかもしれない。そうは思うが、やはり夢の中とは言え、こんなにも意識がはっきりとしている中で死ぬのは怖かった。恐怖に耐えきれず、三葉は腹の底から声を絞り上げる。

 

「――たすけて!」

 

 痛みは来なかった。

 

 代わりに怪物の大きな鳴き声が乾いた空気を震わせた。威圧感を持った咆哮とはまた違う、叫ぶような鳴き声だ。

 よろめいた怪物の後ろには人が居た。深く被られたフードのせいで顔はよく見えないが、褐色の肌と白金の髪をもった外国の青年だ。青年は巨大な(のこぎり)のような武器を構え、重そうな見た目の割には軽々と扱い怪物の肉を斬っていた。

 

 肉を断つ音と耳を劈く獣の叫びが聞こえ、血飛沫が飛ぶ。映画のような光景を前にして三葉は瞬きも口を閉じる事も忘れ、あまりの衝撃に涙も止まりただ呆然と目の前で上映されるアクション映画を鑑賞していた。3D映画顔負けの迫力だ。血飛沫はカメラのレンズではなく三葉の顔に飛んでくる。頬を伝って血が滴る感覚は映画では到底味わえないだろう。垂れた獣の血は制服に染みを作った。

 

 アクション映画は終わりを告げる。

 ズシンと重量感のある音を立てて怪物は地面へ沈み、動かなくなった。そうして青年は鋸の形をしていた筈の武器を黒い顎のような物へ変形させ、怪物を喰らう。そう――()()()()いたのだ。青年が手にする顎からは咀嚼音が聞こえ、それが終わると怪物は霧散した。

 

 青年が三葉へ顔を向ける。武器は既に鋸の形に戻っており、それを肩に担ぎながら此方へ歩み寄ってきた。呆然としていた三葉は弾かれるように慌てて声をあげた。

 

「たっ、助けて頂いて有難うござ……違う。えっと、さ、サンキューフォーヘルピングミー! ……えっと、あー……」

「……此処の言葉は分かる。怪我はないか」

「あっ、えと、怪我は、ないです。大丈夫です! ……けど、電撃? に、当たっちゃって立てな……あ! 立てました!」

 

 先程まで動かなかった筈の手足はいつの間にか自由が利く。一時期的なものだったようで安心しつつ、三葉は青年に向かって頭を下げた。

 

「すみません、助けて頂いて有難うございました」

「礼はいいから質問に答えろ。なんで民間人が此処に居る?」

「なんで……なんで?」

「学校に通うような富裕層がこんな場所に居る方が可笑しいだろうが」

「……富裕層?」

「チッ……話にならねえな。――此方ソーマ。H地点でヴァジュラに襲われた民間人を救出した」

 

 ソーマという青年は襟元につけてある通信機で誰かと連絡を取り始めた。怪物の脅威が去った三葉は改めて周囲を見渡してみる。やはり荒廃とした街だ。立ち並ぶビルは何処も彼処も穴が開いており、まともな建物は一つもないように見える。

 

――そろそろこの夢醒めてくんないかな。

 

 セオリー通りに血のついていない方の頬を抓ってみるが、痛いだけで夢から醒めそうにはなかった。そもそも痛みで目が醒めないのは先程の怪物の電撃で経験済みだ。

 

「おい」

「ひゃいっ」

 

 声を掛けられ、思わず頬を抓ったまま返事をしてしまい変な声が出た。羞恥心に駆られるがソーマは特に気にした様子もなく――と言うよりは興味が無さげに言葉を続ける。

 

「ついてこい」

「あ、はい。……あの、質問いいですか?」

「…………」

「え、えーと、さっきいたあの怪物って何なんですか……?」

「あ?」

「ひっすみません」

 

 〝何言ってんだコイツ〟というような目で一瞥され、三葉は思わず身を竦めてしまう。

 

――そういえばこの人、あの怪物倒しちゃうような人なんだよな。

 

 怒らせたらマズイ、その巨大な鋸で真っ二つにされてしまうかもしれない。三葉の頭の中で被害妄想が繰り広げられ、黒い画面を背景にBAD ENDが赤文字で浮かんだ。ナンデモナイデスと会話を終わらせ、黙ってソーマの背中を追った。

 

 暫く歩くと装甲車が見え、その傍には二人の男女が居た。男性はチェーンソーのような形状の剣を、女性は大きな銃を構えており、この世界では物騒な武器を持つ事が当たり前である事が窺える。どちらも黒髪の美男美女で、特に女性の方は大胆な露出が目立ち、抜群のプロポーションを惜しげもなく晒している。

 そんな黒髪美女は三葉を見つけると、柔らかい笑みを浮かべて近づいてくる。物騒な武器とは随分ミスマッチだが、そんな事が気にならないくらい此方を安心させる笑みだった。

 

「もう大丈夫よ。これからアナグラで貴方を保護するから安心してね」

「あ、有難うございます? ……その、此処って何処なんでしょうか?」

「旧市街地……贖罪の街と呼ばれているわ。貴方こそ、どうしてこんな危険な場所に居たの?」

「それが自分でもよく分からなくって……下校途中だった筈なんですけど、突然眩暈がしたと思ったら気づいたらこんな所に居て……」

「そう……拉致の線が高いわね。カルト教団の富裕層を狙った拉致や誘拐の事例があるのよね」

「まあ詳しい話はアナグラで聞こうや。いつまでもこんな場所に居ちゃ嬢ちゃんも安心出来ねえだろ」

 

 アナグラと言う場所が何なのか三葉には分からないが、会話の流れ的に保護施設のようなものなのだろうと結論付け、有難うございますと頭を下げておいた。

 男二人は武器と一緒に兵員室に乗り、三葉は助手席に乗るように言われて素直に装甲車に乗り込んだ。流れていく景色を窓から眺めながら、いつになったら終わるんだろうともう一度頬を抓ると血がついた。ソーマによって倒されたあの怪物は一体なんだったのだろうか。

 ブレザーのポケットからハンカチを取り、血を拭いながら三葉は隣で運転中の美女に話しかけた。

 

「すみません、質問いいですか?」

「ん? なあに?」

「変な怪物に襲われてた所をソーマさん? ……に助けられたのですが……あの怪物って何なんですか?」

「あれはヴァジュラっていう大型種のアラガミだけど、貴方アラガミを見るのは初めて?」

「あ、あらがみ? あれって神様なんですか?」

「……襲われた時、頭を強く打ったりした?」

「頭は打ってないんですがなんか電撃喰らいました……」

「そう……アナグラに着いたらまずメディカルチェックをしましょうか。ヴァジュラの電撃は後遺症が残る場合もあって危険なのよ」

 

 頭を打ったなのではないかと心配している辺り、もしやこの世界で〝アラガミ〟という怪物を知らないのは非常識な事なのだと三葉は悟った。

 荒廃とした地に、人を喰らう怪物が居て当たり前な世界。とんだ世紀末な夢だなと三葉は思いながら、アナグラという施設に着くのを待った。

 



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02 12月29日

 装甲車は三十分程走り、前方に縦一〇〇メートルはあろうかというぐらいの巨大な壁がそびえ立っている。装甲車が進むと迎え入れるように巨大なゲートが左右に割れ、壁の中に入ると町が広がっていた。バラック小屋が並ぶそこは三葉が思い浮かべるような町とは少し違っていたが、人が生活している姿を目にして少し安堵した。

 

 そして装甲車は町の中心にある施設に入る。此処が〝アナグラ〟らしい。職員に武器の入ったアタッシュケースを預けた美女――橘サクヤは三葉をエレベーターに乗せ、病室まで案内してくれた。

 そうして病室に案内されたのだが、窓がない事に違和感を覚えた。清潔な室内といくつか並んでいるベッドを見ると確かにちゃんとした病室なのだが、光源が窓からではなく人工的な光だけというのが妙な圧迫感があった。

 看護師はベッドで横になるように促し、三葉は素直にそれに従った。

 

「それじゃあ、後は宜しくね。私はツバキさんに報告してくるわ」

「分かりました。お疲れ様です、サクヤさん」

 

 お大事にね、とサクヤは病室を後にした。

 

――背中、大胆に空いてるなあ。

 

 去っていく後ろ姿を見ながら、三葉はそんなどうでもいい事をぼんやりと思う。

 

「それでは、メディカルチェックを行います。三時間程で目が覚めますので、ゆっくりお休みなさって下さい」

 

 看護師はCTスキャンのような機器をベッドに取り付ける。三葉の右手首には血圧を測るような装置が付けられると、途端に瞼が重くなった。ピッ、ピッ、と電子音を子守唄にしながら三葉は睡眠欲に従って目を閉じる。きっと次に目を開けた時は夢から醒めているのだろうと思い、現状に特に不満も恐怖も抱かないまま意識を手放した。

 

   §

 

「やあ、お目覚めかい?」

 

 目を開けると、夢から醒めていた訳ではなかった。三葉は相変わらず窓のない病室のベッドで寝かされており、周辺にあった機器はなくなっていた。

 聞き覚えのない中年男性の声が聞こえ、起き上がるとベッドの傍らには狐のような細目の男性が座っており、その隣には橘サクヤとはまた違った雰囲気の黒髪美女が立っていた。

 

「お、おはようございます……?」

「うん、おはよう。気分はどうだい?」

「大丈夫です」

「そうかい、それは良かった」

 

 男性は着物の上にコートを羽織るという何とも独特なファッションをしており、貼り付けたような笑みを浮かべている。女性の方は何処と無く贖罪の街で出会った黒髪の男性――雨宮リンドウと似ており、豊満な胸元を大きく開いた白い服に身を包んでいる。ここの女性は露出が基本なのだろうかと思ってしまう程だ。女性がクリップボードに何やら書き込んでいる横で、男性は話を始めた。

 

「まずは自己紹介をしよう。私はペイラー・榊。此処の研究者だ。彼女は雨宮ツバキ君。部隊の指揮統括や教練担当をしている女性だ」

「は、はあ……えっと、私は井上三葉です」

「ミツハ君だね。メディカルチェックの結果を見せてもらったけど、実に興味深い結果になっていてね。まずはその報告をしよう。――君の身体からP五十七偏食因子が確認された。実用化されていない偏食因子が何故君の身体にあるのか、非常に謎なところだ。その上自己生産もしている。秘密裏の実験で投与された可能性もあるけど、見たところ学生だろう? 学校に通えるような子がそんな実験をさせられるとは考えにくいし、何より君の生体データはフェンリルのデータと一致するものが無い。そうなると君は壁の外に住んでいるという話になるが、フェンリルの管仲外で学校に通えるとは到底思えないし、そもそも壁の外にちゃんと制服が支給されるような学校があるとは考えられな――」

「サカキ博士。矢継ぎ早に説明しすぎです」

 

 ツバキの制止によってサカキは言葉を止めた。すまない、つい悪い癖が出てしまったよと笑いかけ、何か分からなかった事はあるかい? と三葉に問う。

 

 分からなかった事と言えば、ありたいていに言えばサカキの放った言葉全てが三葉には理解出来なかった。P五十七偏食因子だのフェンリルだの、三葉が十八年生きていた中で一度も耳にも目にもした事がないワードさえ出てくる始末だ。混乱があからさまに顔に出ていたようで、サカキは苦笑して質問はあるかい? と再度柔らかく問い掛ける。

 

「えっと、あります。……というか、すみませんがおっしゃってる事が何一つ分かりませんでした……」

「そうかい……メディカルチェックの結果、脳に異常がある訳ではないから衝撃による記憶障害はないとして、精神的なショックによる記憶障害はあるかもしれない。ミツハ君は名前以外に、自分の事は覚えているかい?」

「……覚えてます」

「それじゃあ、生年月日と住所。それとどうしてあの場所に居たのか。分かる範囲でいいから教えてくれるかい?」

「えっと、一九九三年の――」

「――()()()()()?」

 

 書類を書くツバキの手が止まり、怪訝そうな声が飛ぶ。言葉に鋭さが含まれており、思わず三葉は身を縮めた。言葉を続けようとするツバキを今度はサカキが手だけで制止し、続けていいよ、と三葉を促す。

 

――何かマズイ事を言ったのかな……?

 

 思い当たる節は何もないが、居心地の悪さを感じながら三葉は説明を続ける。

 

「……一九九三年の十一月十四日生まれで、神奈川県横浜市旭区に住んでます。どうしてあの場所に居たのかは、私も正直詳しい事は分からないんですけど……学校帰りに突然眩暈がしたんです。そして気づいたら目の前にヴァジュラ? って言う怪物が居て……。すみません、意味分かんないですよね……」

「神奈川県、ね。そうだ、今日が何年の何月何日かは分かるかい?」

「二〇一一年の十二月二十九日……?」

「ふむ」

「……それを証明出来る物はあるのか?」

「あっあります! たぶん! えっと、鞄の中に……!」

 

 相変わらずツバキの言葉は鋭いものだった。三葉は慌ててベッドの足元に置いてあった通学鞄を取り出し、身分証明出来る物を探し始める。出てきた物は学生証と財布の中に入れてあった保険証だ。

 それらを渡すと、二人は複雑な表情を浮かべた。困惑、驚き、信じられないと言ったような様々な感情をごちゃ混ぜにした形容し難い表情で学生証と保険証を見つめ、ツバキは長い溜息を吐いた。

 

「……鞄の中を見てもいいか?」

「あ、はい! 特に大した物は入ってないんですけど……」

 

 そうしてツバキは鞄に入っている物を次々に取り出す。冬期講習の帰りだったので教科書とノートが数冊と筆記用具、それと学校帰りにコンビニで買ったメロンパンとミルクティー。その他財布と定期、携帯とデジタルカメラがベッドにつけられている机の上に並べられていく。

 

「……出版は二〇一〇年、か」

「おおっ、久しぶりに円単位のお金を見たなあ。こんなに綺麗な野口英世の千円札なんて、コレクターが喜びそうだね」

「パンの賞味期限は二〇一一年十二月三十一日……。写真の撮影日も二〇〇九年から二〇一一年の間か」

「いやあ、実に興味深い! タイムトラベルなんてもの、本当にあったんだね。物語や都市伝説として色々な話があるけれど、まさかお目に掛かれるとは夢にも思わなかったよ。いや、この場合SF用語的にはタイムスリップが正しいのかな?」

「……え? えっ、あの、……え?」

 

 タイムトラベル。タイムスリップ。言葉は三葉も知っている、未来から猫型ロボットがやってくる漫画やタイムマシンで過去に飛ぶアメリカのSF映画も見た事がある。たまにテレビでUFOや未確認生物と一緒にタイムスリップをした人間の紹介だとか、そういう番組も見た事もある。

 

 しかし知っているからと言って、それが現実にあるものだとは思った事が一度もなかった。SFの話、捏造の作り話。そういう認識でしかなかったのだが――三葉がそのタイムスリップをしたのだと目の前のサカキの口ぶりから察せられる。察せられるのだが、三葉は到底理解が出来ない。

 

「待って下さい! え、タイムスリップ!? タイムスリップって、あの、過去とか未来に行く、……えっ、あの、ドッキリですか!? そういうテレビ番組ですか!?」

「落ち着いて、ミツハ君。いや、落ち着いていられないのも分かるけど……」

「あの、すみません、けいたい、えっと、連絡を取らせて下さい!」

 

 机に置かれた携帯を取って母親に電話を掛けようとするも、圏外が表示されている。LINE通話を取ろうと思い無線LANを探してみるが見つからない。此処はとんだ辺境の地なのだと思い込みながらもタイムスリップという言葉が気になり、恐る恐るカレンダーのアプリをタップする。日付は変わらず十二月二十九日だ。

 

「うそ……」

 

 声が震える。力無く手からすり抜け、ベッドに落ちた携帯の画面には、今日の日付が表示されていた。

 十二月二十九日。それは変わらない。

 ただ、あまりにも違いすぎている、遠い十二月二十九日だったのだ。

 

 ()()()()() 十二月二十九日

 

「ここ、みらい、なんですか」

 

 それは三葉が思う西暦よりも五十九年先の西暦だった。

 



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03 八方塞がりの一本道

 二〇四六年、北欧地域にて旧来の生物の組成とは全く異なる生命体、〝オラクル細胞〟が発見される。その後爆発的に発生・増殖していったオラクル細胞は地球上のありとあらゆる対象を〝捕喰〟しながら急激な進化を遂げ、凶暴な生物体として多様に分化していった。

 このオラクル細胞の集合体からなる脅威を、人は〝アラガミ〟と呼んだ。

 

 既存の兵器はアラガミの捕喰効果の前に一切無効であり、ヒトは徐々にアラガミにその生息圏を奪われていく。

 そんな折、生化学企業〝フェンリル〟によって、オラクル細胞を埋め込んだ生体兵器〝神機〟が開発され、それを操る特殊部隊、通称〝ゴッドイーター〟が編成される――。

 

「君を助けた彼らがゴッドイーターだって言えば分かりやすいかな」

「……そういえば皆さん物騒な武器を持ってましたけど、あれが神機なんですね」

 

 サカキとツバキによる未来世界の説明を受けながら、三葉は本当にタイムスリップしてしまったんだなと諦観に近い気持ちを抱いていた。

 

 未来はもっと科学技術が発展し、猫型ロボットが出てくる漫画のような世界になっているのかもしれない。そう夢見る事は多々あったが、まさか謎の生物体により滅亡の危機に陥っているとはCG映画のような話だ。あんまりな未来に、もはや笑いが出てきそうだった。

 

――夢も希望もない未来だな。

 

「そう。ちなみに彼女も元神機使いだ。右手に腕輪があるだろう? これがゴッドイーターの証なんだよ」

「……そういえば雨宮さんって、贖罪の街でお会いした男性と同じ名字……だったような気がするんですけど、ご家族ですか?」

「ああ、リンドウの事か。あいつは私の弟だ」

 

 道理で雰囲気が似ている筈だ。ゴッドイーターというものは遺伝子レベルでの適性が必要との話なので、一人適性者が見つかるとその兄弟も同じく適性者だという場合も多いらしい。

 

 フェンリルとは人類最期の砦とも呼ばれ、唯一アラガミに対抗出来る勢力である為人々はフェンリル施設の周りに自然と集まり、フェンリル支部を中心とした都市が出来るらしい。その都市の住民はフェンリルから食料や物資等の配給を受ける代わりに、データバンクへの登録と神機使いの適合候補者とみなされた場合の適合試験を義務付けられているらしい。

 

 食べる事すら困難な状況なので、学校に通える事が出来るのは大抵上流階級の人間のみらしい。三葉はようやくソーマ達に言われた〝富裕層〟の意味を理解出来た。義務教育すらこの世界にはないのだ。

 

「なんとなく、分かりました。分かったんですけど……さっきおっしゃっていた、私の身体に偏食因子があるっていう話が、申し訳ないんですが全く理解出来ないです」

 

 これなのだ。偏食因子とはオラクル細胞に含まれる物質らしい。ゴッドイーター達は人工アラガミとも言える神機との接続の為に偏食因子を投与しているそうなのだが、三葉は偏食因子を投与された覚えは一切ない。

 そもそもサカキは〝実用化されていない偏食因子〟とすら言った。通常の神機使いですら投与されない偏食因子が何故三葉の体内にあるのか、理解のしようがなかった。

 

「そう、そこなんだよ。一般のゴッドイーター達に投与されているのはP五十三偏食因子というものだが、ミツハ君から検出されたのはP五十七偏食因子という、人体への投与の成功例が無い偏食因子なんだ。しかも自己生産もしている。通常偏食因子は定期的な投与が必要なんだけど、君の場合その必要がない。そもそも偏食因子はオラクル細胞由来のものだ。二〇四六年に発生する筈のオラクル細胞が、二〇一一年から来たミツハ君の体内から検出される事がまず可笑しな話なんだよ」

 

 こればかりはサカキもお手上げだと言ったような表情を浮かべる。

 

「もしかすると、矛盾の修正なのかもしれないね」

「……すみません、どういう事ですか?」

「ミツハ君がタイムスリップした原因だよ。二〇一一年のミツハ君にオラクル細胞が発生した事によりタイムパラドックスが生まれて、それを修正する為にミツハ君はタイムスリップをしてしまった、と言う風にね」

「……な、なるほど?」

「まあ、可能性のひとつの話だよ」

 

 いまいち理解し切れていない三葉をクスクスと笑い、サカキはツバキへ不気味な程明るく声を掛ける。

 

「それじゃあバトンタッチだ。ツバキ君、説明頼むよ」

 

 まだ何か説明があるらしい。三葉は視線をサカキからツバキへ移すと、どうにも厄介そうな表情を僅かに浮かべていた。

 ツバキは一度重たい息を吐くと、途端に表情が切り替わる。きりっとした目が三葉を見据え、思わず背筋が伸びた。

 

「……先程、フェンリルの庇護下にある者が適合候補者と見なされた場合、適合試験が義務付けられる事は説明したな?」

「? はい」

「当然だが今のお前には身寄りがない。帰る場所がなければ頼る者も居ない」

「……あ」

「そしてメディカルチェックの結果、お前に適合する可能性のある神機が見つかった」

 

 フェンリルの庇護下となる者が適合候補者と見なされた場合、適合試験が義務となる。適合試験では神機に接続する為の偏食因子が投与され、それに合格すればゴッドイーターとなる。

 ここまで情報が開示されれば、もう察しはつく。

 

「……あの、私、適合試験受けなくちゃ、いけないんですか?」

「フェンリルの庇護下になるなら、そうなるね」

 

 バトンタッチした筈のサカキが会話に割って入る。相変わらず食えない笑みを浮かべたまま、台本でもあるかのようにさらさらと話し始めた。

 

「だがミツハ君はまだフェンリルのデータバンクへの登録はしていない。今のミツハ君はまだフェンリルの庇護下ではないんだよ。だから私達は君に適合試験を強要する事はまあ、出来ないんだ」

 

 たっぷりと言外に意味を含ませながら、サカキは言葉を紡ぐ。隣のツバキは辟易したように目を閉じ、会話に介入する事はなかった。

 サカキの言葉は続く。

 

「ただ、君が適合試験を拒否するならフェンリルの庇護下にはなれない。つまり――壁の外に行ってもらう事になるんだ」

 

 言外にサカキは言う。適合試験を受けなければ死ぬ事になる、と。

 人々はアラガミの脅威から逃れる為に、フェンリルの庇護下に入り壁の中で暮らしている。壁の外はアラガミだらけの荒廃とした土地で、帰る場所も頼る人も居ない三葉が投げ出されればそれは自殺行為に等しい。

 

――あくまで、私の意志でさせる気なんだ。

 

 食えないおっさんだ。そう三葉は心中で悪態を吐くが、三葉には他に道がない。約六十年後の世界で生きていく術を平和な世界で生きた三葉には持ち合わせておらず、生きたいのならばどうしてもフェンリルの庇護下になるしかない。

 

 なるしかないのだ、ゴッドイーターに。

 

「……やります」

 

 人類の天敵。絶対の捕喰者。

 ヴァジュラに襲われた記憶は未だ鮮明だ。大きな牙と鋭い爪。金色の瞳は思い出すだけで身が縮こまる。あんな怪物を相手にしなければならない。三葉が今まで生きた中で見た凶暴な生き物と言えば、動物園で檻越しに見たライオンぐらいだ。檻越しでライオンに吼えられるだけでも、三葉にとっては十分怖かった。そんなライオンよりも数倍大きく、ずっと凶暴なアラガミを檻も何もない状態で前にしなければならない。闘わらなければならない。恐い思いをするのは間違いない。大怪我をするかもしれない。――死ぬかもしれない。

 

「受けます、適合試験」

 

 それでも他に道がない。

 



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04 セカンド・コンタクト

 適合試験を受ける事にはなったのだが、じゃあ今すぐ受けましょう、という事態にはならなかった。年末年始の忙しい時期なので支部長は会合にて不在、神機の調整をする整備班も神機の一斉メンテナンスを行っており、とどのつまりミツハにあまり手が回らない状態らしい。

 

 サカキの話によれば年明けすぐに二人の適合試験が決まっているらしく、それにミツハも合わせる形となった。適合試験に合格して正式に部屋を貰うまでは来賓用の部屋を借りる事となり、案内された部屋のベッドにすぐさまミツハは寝転んだ。

 

「濃い……一日だった……」

 

 溜息と同時に言葉を漏らし、ミツハは通学鞄からコンビニ袋を取り出した。小腹が空いたのでメロンパンを食べようと封を切り、パンを頬張る。

 先程病室で食事を渡されたのだが、現代とのあまりの味の違いに少ししか食べれなかったのだ。食糧難だという事は話に聞かされた為分かってはいたのだが、慣れるまで時間が掛かりそうだった。

 

 パンを食べながら携帯を操作するが、やはり圏外だ。ツバキの話によれば、フェンリルが独自に飛ばしている無線LANがあるらしいのだが、生憎二〇一一年の携帯には対応していないそうなのだ。

 それでもネット回線を使わないアプリであれば使えるので、ミツハはカメラロールをスクロールし始める。――課題のプリントの答え、友達と一緒に食べに行ったパンケーキ、文化祭の様子、虹がかかっていたので撮った空――これら全ての写真はこの世界から見れば約六十年も前の写真になるのだ。ミツハにとっては、少し前の出来事だと言うのに。

 

 受験生であるミツハは年明けのセンター試験に向けて毎日勉強に励んでいた。学校は一週間前に終わっていたのだが、冬期講習にミツハは参加していた為年末まで学校に通っていた。今日は講習の最終日だったのでお昼で終わり、多少の解放感に包まれながら帰宅していたと言うのに――気づけば六十年後の荒廃とした世界だ。

 

 時刻は既に二十一時過ぎを知らせており、普段なら寝るには早い時間だが今日のミツハはあまりにも疲れていた。メディカルチェックで三時間は寝ていたが、それでもその後の話に体力、というより精神力を大いに持っていかれた。こんなに早く寝るのはいつぶりだろうかと思いながらミツハは目を閉じた。

 

   §

 

 扉を開けるとサカキが立っていた。

 

「やあ、おはようミツハ君。その様子を見るとよく眠れたようだね」

「……おはようございます」

 

 時刻は七時。普段のミツハの起床時間だが、だからと言って眠気が覚めているわけではない。目が覚めてぼんやり携帯を触っているとインターホンが鳴り、慌ててドアを開けたのだ。寝癖は勿論直していないし顔も洗っていない。着替えがないので制服のまま寝た為しわになっている。恥ずかしさを感じながらミツハはサカキの言葉に耳を向ける。

 

「食堂へ案内しようと思ってね」

 

 フェンリル極東支部、通称アナグラはかなり広い施設らしく、地上は三〇〇メートル、地下は一〇〇〇メートル以上も広がっているらしい。あまりに広大な為、新人の神機使いが迷う事もよくあるらしい。

 区画移動用エレベーターに乗りながらサカキはそう説明した。確かにエレベーターのボタンを見ると沢山のフロアボタンがありアナグラの広さが窺える。

 

「私の研究室は研究区画にある。ちなみにミツハ君が昨日使っていた病室は医療区画の一般病棟フロアにあるよ」

「ええと、私が今使わせてもらっている部屋は……」

「一般居住区の来賓区画だね。分からなければ近くの職員にでも聞くといい。今から行くのは共同区画。共同区画は沢山フロアがあってね、食堂の他にもシャワールームやランドリー、あと図書館なんかもあるよ」

「……と、とにかく凄く広いって事が分かりました」

「まあおいおい覚えて行けばいいよ」

 

 エレベーターは止まり、サカキと共に降りる。食堂に足を運ぶと、右手首に腕輪をした人達が大勢居た。勿論腕輪をしていない人達も居るのだが、ミツハの目はどうしても赤い腕輪にいってしまう。

 

「ゴッドイーターって、こんなに居るんですね」

「極東はアラガミの最前線だからね。他の支部より戦力が集まりやすいから自然と多くなるんだけど、それでも正直人手不足なんだよ。人員補充してもすぐアラガミにパクリ! って事が多いからねえ」

「……食事前にする話じゃないと思います……」

「ごめんごめん」

 

 たいして悪びれる様子もなくサカキが笑う。人が死ぬなんて日常茶飯事なのだろう。ミツハもそんな日常に足を踏み入れる事になるのだが、正直実感がなかった。昨日まで無縁の世界で生きていたのだから仕方がないだろう。未だに夢なんじゃないのかとさえミツハは思う。

 職員から食事を受け取り、サカキと向かい合って椅子に座り食事に手をつける。

 

――おいしくない。

 

 食べられるだけでも十分なのだろうが、やはりそう思ってしまうのは許してほしい。

 受け渡し口を見るに食事は作っているという訳ではなく、レーションをプレートに移しているという形だった。ビーンズ煮と乾パン、それと何かの肉のパテのようなもの。全体的に薄味でパテは繊維が多く、やはり美味しいとは思えなかった。

 水で押し込むように喉に通し、プレートを空にする。

 

「ゴチソウサマデス……」

「やっぱり口に合わなかったかい?」

「うっいや、大丈夫です……ただちょっと味が慣れなくって……」

「まあそうだろうね。それでも此処は優遇されている方だって事は理解してくれると嬉しいよ」

「それは……はい。分かってます。すみません」

「けど悪い事ではないよ。ミツハ君はちゃんと美味しい物の味を知っている証だからね」

 

 ばつが悪そうに俯くミツハに、サカキがフォローを入れてくれる。

 食えない人だが、悪い人ではない。少なくともミツハはそう感じた。

 空になったトレーを返却口に置き、食堂を出る。今後の事について話す為、サカキの研究室に行く事となった。

 

 エレベーターの前でサカキと話しながら到着を待っていると、ふいに青年が視界の隅を横切る。顔を向けると、フードを被った見覚えのある青年が隣のエレベーターを待っていた。

 

「あ、えっと、ソーマさん? でしたっけ」

「……あ?」

「ああ、確かミツハ君をヴァジュラから助けたのはソーマだったね」

「そ、その節は有難うございました!」

 

 ソーマはミツハ達の姿を視認すると面倒くさそうに目を逸らした。フードを被っているせいで顔はよく見えないが、好意的な感情が全く感じられないのは確かだった。

 先日迷惑をかけたせいで疎まれているのかもしれないと下げた頭を上げながらミツハは思ったが、サカキは遠慮も何もせずソーマに話し掛ける。

 

「彼女は井上ミツハ君。検査の結果適合者であると分かってね、年明けからソーマの後輩になると思うよ」

「使えるようには見えねえけどな」

「その為に新人は訓練がプログラムされているんじゃないか。それにしても助けた女の子が後輩になるなんて、なんとも運命的な出会いだねえ」

「寝言は寝て言え、クソッタレ」

 

 そう吐き捨てて到着した隣のエレベーターに乗り込んでソーマは去っていった。サカキの軽口にも目を剥いたが、ソーマの不愛想な態度にミツハは思わず固まる。

 

――こわいひとだ!

 

 命の恩人にそう思うのは失礼極まりない事だが、フードによって表情がよく見えない事も相まってソーマに対する印象が怖い方へ向いてしまう。

 サカキは苦笑しながら到着したエレベーターにミツハと共に乗る。向かうのは研究区画だ。

 

「悪く思わないで欲しい。ソーマは不器用なところがあるからね」

「……サカキ博士はソーマさんと仲が宜しいんですか?」

「うーん。仲が良い悪いっていうより、付き合いが長いって感じかな」

 

 へえ、と相槌を打つと、サカキは細目を更に細めて笑う。その笑みは何処か、親が子に向けるものに似ていた。

 

「よかったら彼と仲良くしてやってくれ」

 



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05 P57偏食因子

 渡された書類に個人情報を書き込む。

 

「ミツハ君が過去から来たと言う事は、私とツバキ君、それと支部長だけの機密事項になる。下手にタイムスリップしたなんておおやけに言えば、混乱を招きかねないからね」

 

 生年月日に一九九三年と記し、隣の欄に十八歳と記入する。この出生年とこの年齢は、今の世界には合わない。ミツハと同じ年に生まれた人はこの世界ではもう七十七歳だ。

 

「だからミツハ君の過去を捏造しなければならない。アクセスに認証が必要ない、一般公開するノルンのデータベース用のね」

 

 サカキからもう一枚同じ書類を渡される。

 

「ミツハ君は二〇五二年十一月十四日に生まれ、学校に通えるくらいは裕福な家柄だった。内部居住区に住んでいたが、先日外部居住区に家族と共に出かけた際アラガミを崇拝しフェンリルに反発するカルト教団に家族ともども拉致され、贖罪の街でカルト教団から逃げ出したが家族はアラガミに喰い殺されてしまう。唯一生き残ったミツハ君は第一部隊に救出される――といった具合の設定でいこう」

「結構無理ないですかそれ……?」

「そういう風にデータ改ざんすればいいんだよ。支部長が適当に裏を合わせてくれるだろう。ちなみにアラガミに襲われたショックで記憶障害を発症している事にしよう。ミツハ君がこの世界について無知なのもある程度カバーできる」

「色んな設定が盛られていくぅ……」

 

 渡された新たな書類にサカキが言った生年月日を記していく。フェンリルのデータバンクに登録する個人情報だ。本物の情報が書いてある書類と偽造された書類をサカキに渡し、ミツハはソファに背を預けた。

 

 この書類の情報がデータ入力されて登録されれば、ミツハは晴れてフェンリルの庇護下だ。適合試験への拒否権はこれで完全に無くなった。

 ミツハは未だに実感が持てないまま、どんどん手続きが進んでいく。カタカタとパソコンに入力するサカキにミツハは頬杖を突きながら問い掛ける。

 

「そういえば、ノルンってなんですか?」

「データベースネットワークだよ。規制だらけ一般公開されてる情報はほんの一握りだけど」

「うわあ……闇を見た気がします」

「ミツハ君の情報にも規制が掛かるよ」

「まあそうですよね……」

 

 サカキに出されたお茶を啜りつつ、ミツハは苦笑する。サカキは画面から目を逸らさずに話を始めた。

 

「そうそう、ミツハ君の体内にあるP五十七偏食因子なんだけどね。特別変異しやすい特徴をもった偏食因子なんだ」

「……危ないんですか?」

「今まで後天的な投与の成功例はほぼ無い。ラットに投与した例はあるけれど、いずれも偏食因子の変異に耐え切れず死亡している」

「えっ、あっ、私死ぬんですか!?」

「いや。ミツハ君の場合、自然発生したものだからなのか変異しても身体に安定しているんだよ。数値を見てもブレがあるが、身体の異常は確認されていない。ただ前例がない事態だからメディカルチェックは定期的に行うようにしよう。異変があったらすぐに言うんだよ」

 

 そう言いながらいつの間にかコピーしていた書類の束をミツハは手渡される。P五十七偏食因子に関する資料だそうだ。情報量の多い資料にくらくらしながら、ソファに座りながらミツハは読み耽った。

 

 ――P五十七偏食因子。いくつか発見されている偏食因子の一つである。

 一般的な神機使いに投与されるP五十三偏食因子より身体能力の向上等は若干劣る。最大の違いは性質が非常に変異しやすいという特徴だ。オラクル活性化数値のブレが大きく、ラットに投与した実験ではいずれも三時間以内には変異に耐え切れずアラガミ化している。その為P五十七偏食因子の人体への投与は禁止されている。

 

 要約するとこのような内容だった。

 

「めちゃくちゃ危険じゃないですか……」

「後天的な投与では、ね。ミツハ君の場合一晩経っているのに身体に異常がないから安心していいと思うよ」

 

 サカキの言葉に一安心し、胸を撫で下ろす。パラパラと文字を流し見していたが、とある文字に目が止まる。

 

「博士、P七十三偏食因子ってなんですか?」

 

 P五十七偏食因子ともP五十三偏食因子とも違う、七十三の数字。P五十七偏食因子とP七十三偏食因子の相違点と類似性について、等の文章が記されていた。

 サカキはミツハの口からP七十三偏食因子の言葉が出てきた事が予想外だったようで、「コピーする前に内容を読んでおくんだった……」と頭を抱えていた。

 

「えっ、知ったらマズいやつでした!?」

「いや、一般には公開していない情報だからね……まあ知ってしまったなら仕方ないか」

 存外サカキはケロリとした様子で、ミツハにP七十三偏食因子の説明を始めた。

 

 P七十三偏食因子は最初に発見した偏食因子であり、それが元になり他の偏食因子も発見されていったそうだ。

 特徴としては著しい代謝、再生力、身体能力の向上が見られ、P五十三偏食因子に比べてよりオラクル細胞に近い偏食因子らしい。その分の扱いも難しく、人体への投与は禁止されているとの事だ。

 

「私みたいに、後天的な投与は駄目でも元々持ってる場合の人って居るんですか?」

 

 特に裏のない、単純な疑問だった。後天的な投与が駄目な場合はP五十七偏食因子も同じである。しかしミツハの体内には存在している。P七十三偏食因子もミツハと同じように、自然発生した場合があるのではないかとミツハは思ったのだ。

 

 サカキは一拍開けて、にこりと笑った。

 

「ミツハ君は父親似かな? それとも母親似?」

「えっ? う、うーん……? 癖毛な所とかはお父さん似ですけど、髪色が真っ黒なのはお母さん似です」

「そう。それらは遺伝によるものだろう。ミツハ君の突然発生した偏食因子も、もしかするとから親御さんから譲り受けた遺伝子が時間を掛けて変異して生まれたものなのかもしれないね」

「……偏食因子にも遺伝とかってあるんですか?」

「あるよ。神機使いから生まれた子供はゴッドイーターチルドレンと呼ばれていてね。潜在的に神機使いの素質があるんだ」

 

 相槌を打ちながらミツハは両親の顔を思い浮かべる。元の世界で自分はどういう扱いになっているのだろうと思うとミツハはそわそわしてくる。行方不明扱いになっていたらさぞ心配を掛けているだろう。だからといってミツハにはどうする事も出来ないが。

 

 サカキの研究室を出て、区画移動用エレベーターに乗る。立ち入り禁止区域に入らなければ好きに見て回っていいし外部居住区に出てもいいとサカキから言われた為、ミツハは探索する事にした。

 

「ああ、ミツハか」

 

 大方アナグラ内の立ち入り許可されている場所は見つくしたので、外部居住区に出ようとエントランスを歩いているとふと声を掛けられる。凛としたアルトの声は聞き覚えがあった。

 振り返るとツバキが立っていた。豊満な胸を揺らしながらミツハに近づく。

 

「外部居住区に出るのか?」

「はい。どんな感じなのか気になって」

「そうか。二十時にお前の部屋に替えの服を持っていこうと思っていてな。それまでには自室に戻るようにしておいてくれ」

「あっ、有難うございます!」

 

 制服しか着る物がなかったので非常に助かる。しかしミツハはツバキのように特別スタイルが良い訳でもないので、どうか露出が少ない服である事を願うばかりだった。

 

「それと少し調べてみたんだがな」

 

 ツバキの声量が少し小さくなる。他人に聞かれたらマズい、つまりはミツハの過去の事についてだろう。

 

「お前が発見された場所……贖罪の街は昔神奈川県横浜市の西区と呼ばれていた辺りだそうだ。心当たりは?」

「……西区は学校がある所です。学校帰り、駅に向かってる途中で眩暈がしました」

「そうか。いや、それだけだ」

 

 手間を取らせたな、とツバキは背を向ける。そんなツバキを見送ってから、ミツハはアナグラを出た。

 

――見覚えがあると思ったら、そういう事か。

 

 ヴァジュラに襲われながら見た荒廃とした街並み。横浜市街地の街並みと面影が重なったのだが、あれは慣れ親しんだ街並みの成れの果てだったのだ。あんなにも人が賑わい、物で溢れていた横浜は今や穴だらけの化物が蔓延るだけの荒野だ。

 

 外部居住区に出ると町並みが広がっていた。マンションなど何処にもない、バラック小屋が円形にそびえ立つ壁の内に広がっているだけだ。

 それでも此処は人が居た。少ないが物もある。六十年後の横浜よりは、ずっと賑わっていた。

 



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06 適合試験と同期のふたり

 ミツハが唐突に六十年後の世界に放り出されてから一週間近く経った。年が明けた事などアラガミには関係なく、年末年始だろうが神機使い達は戦闘に駆り出されている。任務受注やよろず屋にて支度をしている神機使い達をミツハはエントランスのベンチから眺めていた。

 

 今日はいよいよ適合試験の日だ。ツバキから渡されたいくつかの着替えから動きやすそうなパーカーに袖を通し、受付嬢のヒバリに名前を呼ばれるのを待っていた。本日適合試験を受ける三人のうち一人が先に適合試験を受けているらしく、ミツハはその順番待ちだった。

 

 この一週間は慌ただしく過ぎて行った。ミツハの周りが。

 ツバキはミツハに関する手続きに追われ、サカキは突然発生した偏食因子の研究をしていたりと年末年始の忙しい時期に申し訳ない事をした。

 

 ツバキとサカキの他にもう一人、ミツハの事情を知る支部長は先日アナグラに戻ってきた際に顔を合わせた。端正な顔立ちの金髪の紳士はヨハネス・フォン・シックザールと名乗り、適合試験を受けるミツハに激励を送ってくれた。サカキとは古くからの友人らしく、ヨハネスも元研究者なのだと言う。P五十七偏食因子については逐一報告して欲しいと言われ、ミツハは素直に頷き支部長室を出た。ヨハネスとはそれ以来すれ違っても居ない。

 

「もしかして、君も適合試験受けるの?」

 

 ふいに声を掛けられ、顔を上げると少年が立っていた。金色に近い茶髪と碧眼は日本人らしくない。彼の口にした君も、という言葉から恐らく適合試験を受ける三人のうちの一人なのだろう。少年の言葉に頷くと、彼は自己紹介を始めた。

 

「僕は神薙ユウ。よろしくね」

「あ、私は井上ミツハです」

 

 ユウと名乗った少年は柔らかく笑みを浮かべ、世間話でも始めようとした所でヒバリがミツハの名を呼んだ。先に受けている適合試験が終わり、ミツハの順が来たのだ。なんとも間が悪いと思いながら、ミツハはユウにいってきます、と笑うとユウも笑い返した。

 

「いってらっしゃい。頑張ってね」

 

 ユウの言葉に背中を押されて、ミツハは職員に案内されエレベーターに乗った。エレベーターは地下へ進み、訓練区画にて止まった。候補者時点での立ち入りは制限されていた区画の為、ミツハは初めて足を踏み入れる事になる。職員は重厚そうな扉の前で止まり、どうぞ、と入室を促す。ここから先は一人で行くらしい。

 

 扉を開けると、中央に赤い装置が置いてあるだけの広い空間があった。両脇には高台があり、少し見上げた所にはガラス越しの部屋がある。そこから数人が此方を見降ろしていた。見知った顔を見つけ、思わずガラスの先を凝視する。ヨハネスがそこには居た。他にも研究者のような白衣を着た者がおり、試験はもう始まっているのかとミツハは背筋を伸ばした。

 

『長く待たせてすまない。……緊張しているようだな、リラックスしたまえ』

 

 スピーカーからヨハネスの声が響く。天井の高い閉鎖空間にはよく反響した。

 

『心の準備が出来たら、中央のケースの前に立ってくれ』

 

 ヨハネスの言葉に従い、ミツハは緊張しながら装置まで歩く。リラックスしろとは言われたものの、無理な話だった。

 装置を覗き込めば、ソーマ達が持っていたような巨大な武器が鎮座してあった。これが神機なのだろう。ヨハネスからの指示通りにミツハは神機の柄に手を伸ばす。

 

 途端、ギロチンのように装置がミツハの右手首を勢いよく挟む。

 

「――ッ、痛っ、うぁ、う゛う――~~ッ!」

 

 激痛が体を駆け巡り、思わず右腕を引っ込めようとするが敵わない。装置からは、何やらぐちゃぐちゃと不快な音が聞こえ、冷や汗が全身から噴き出る。

 一体この中では何が起きているのだろうか。そう想像するよりも早く、装置が持ち上がり痛みが引いていく。

 

「っ……あれ、え……?」

 

 解放された右手首を見れば――赤い腕輪が嵌められていた。

 

『――おめでとう。これで晴れて君はゴッドイーターだ』

 

 スピーカーからは祝いの言葉が述べられる。どうやら試験には無事合格したらしい。先程の激痛は何だったのかと思う程、身体に痛みはなかった。

 神機の柄を握り直し、持ち上げてみると軽々と神機はミツハの思い通りに動いた。神機が軽い訳ではない。その証拠に地面に刃の先を置いてみると、ズシンと重そうな音が鳴る。ミツハ自身が怪力を発揮しているのだった。

 

――これがゴッドイーターの力かあ!

 

 ミツハは常人離れした力に胸を躍らせながら、エントランスで待機するように言われて試験会場を後にした。

 エレベーターで地上に上がり、先程座っていたベンチへ向かうとユウの姿はそこにはなく、代わりに帽子を被った少年が足をぷらぷらさせながら座っていた。少年はミツハに気づくと明るく声を上げた。

 

「あ、もしかして適合試験受けてきたの?」

「あ、はい。そうです」

「俺もさっき受けてきたばっかなんだ。あれめちゃくちゃ痛かったよね?」

「痛かったですね……」

「よかった、俺だけじゃなかった。パッチテストだって聞いてたのに、あれ詐欺だよなー」

 

 少年は苦笑しながらポケットからガムを取り出す。にっ、と人懐っこい笑顔を向けた。

 

「俺、藤木コウタ! ガム食べる?」

「あっ、頂きます。えっと、私は井上ミツハです」

「ミツハかあ、いくつ?」

「えーと……十八、なんですけど、表記では十九になります」

 

 ノルンに開示される情報の年齢は西暦のみで設定されるそうだ。二〇五二年生まれという事になったミツハは二〇七一年では十九歳だ。

 コウタはガムを噛みながら少し驚いたように目を開いた。「見えない」ぽろりと零された言葉にミツハは苦笑する。身長が低い為若く見られがちだ。

 

「じゃあ適合試験の年齢かなりギリギリだったんだね」

「……年齢によって変わるんですか?」

「確か、年齢が上がると適合率が下がるって話だよ。試験に受ける大抵の人って、十二歳から十八歳だし」

「へえ……そうなんですね。藤木君はいくつになるんですか?」

「十五! 藤木君じゃなくてコウタでいいよ、ミツハの方が年上なんだし敬語もなし!」

「えっと、じゃあお言葉に甘えて」

 

 暫くコウタとガムを噛みながら他愛もない世間話をしていたのだが、ミツハ達の座っているベンチに近づく足音が聞こえて振り向く。そこには赤い腕輪を嵌めた神薙ユウがいた。ユウに気づいたコウタが、ミツハの時と同じような笑顔を彼に向けた。

 

「あ、ねえ、ガム食べる?」

 

 コウタ流のコミュニケーションらしい。そう言いながらもコウタはユウの返事を待たずにポケットを探るが、すぐにばつが悪そうな顔を向ける。

 

「ごめん、切れてた。ミツハにあげたのが最後だったみたい……」

「いいよ、気にしないで」

「ごめんな! あんたも新人の適合者なの?」

「うん、さっき試験を終えたばかりなんだ。僕は神薙ユウ。よろしくね」

「俺は藤木コウタ。俺と同じか少し年上っぽいけど、一瞬とは言え俺の方が先輩って事で! よろしく!」

 

 にへっという効果音が似合いそうな笑みをコウタは浮かべ、ミツハとユウも釣られて笑った。

 ユウは今年十八歳らしく、三人の中ではミツハが一番年上だった。案内の人間が来るまでベンチに並んで座り、身の上話をしだす。どうやらコウタとユウは外部居住区に住んでいる人間らしく、年末に適合者であるとの通達が来たらしいのだ。

 

「ミツハはどの辺に住んでんの?」

「えっ、えっとー……」

「立て」

 

 返答に困っていると、いつの間にか傍に来ていたツバキの鋭い声が降る。ここ一週間でミツハはだいぶツバキと親しくなったが、その親しさを微塵も感じさせない声と眼光だった。

 

「へ?」

「立てと言っている。立たんか!」

 

 ツバキの声に慌てて三人は立ち上がる。見事に全員背筋が伸びていた。

 

「私の名前は雨宮ツバキ。お前達の教練担当者だ」

 

 鬼教官の顔を見せたツバキはこれからの予定について説明していく。

 メディカルチェックを済ませた後、異常がなければ基礎体力の強化、基本戦術の習得、各種兵装等のカリキュラムをこなしていくらしい。そういった訓練期間を終わらせた後に実戦に立つと言うのだ。

 

 メディカルチェックは適合試験を受けた順とは逆から始めるらしい。指定された時刻まで時間があるのでアナグラ内を見て回るようツバキは言い、颯爽と去っていった。ヒールの音が遠のいていく。

 

「なんか……めっちゃ緊張したあ~……」

「厳しそうな人だったね」

 

 どっと息を吐くようにコウタが猫背になる。ユウは早くアナグラ内を見て回りたいらしく、エントランスをそわそわしながら見渡していた。

 

「二人とも、良かったら時間まで一緒にアナグラを見て回らない?」

「お、いいねー! ミツハはどうする?」

「私も一緒に行くよ。……というより、案内しようか?」

「あれ、ミツハ詳しいの?」

「うん。年末から此処に住ませてもらってるの。あ、でも立ち入り禁止の区画が多かったから共同区画ぐらいしかまともに案内出来ないけど……」

 

 じゃあナビよろしく、とコウタが親指を立て、三人は区画移動用エレベーターの到着を待った。その間にコウタが唐突に「あ!」と声を上げ、ミツハとユウを驚かせる。

 

「どうしたの急に」

「ツバキ教官が来た時、焦ってガム飲み込んじまった」

「……私もだ」

 

 いつの間にか口内から消えていたガムをすっかり忘れていた。ユウは可笑しそうに吹き出し、ガム貰わなくてよかったよ、なんて軽口を言いながら三人で笑った。



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07 メディカルチェック

 メディカルチェックの時間になり、ユウがサカキ博士の研究室へ向かったその三十分後にミツハも向かう。サカキの研究室は度々足を運んでいたので迷う必要もない。

 

 サカキの研究室はいつ見ても独特だった。モニターやコンピューターがサカキの机を囲むようにして設置されており、床にはコードが至る所から繋がれている。そんなハイテクそうな機材とは場違いに、部屋の両棚の上には金屏風や漆塗りの重箱、日本刀や額装された水墨画等が飾られていた。サカキ自身いつも着物を身に着けている事から、かつてこの地にあった日本の文化を大事にしている事が窺える。

 

 そんな独特な研究室の中、サカキは四台のモニターに囲まれた赤い椅子に座っていた。

 

「適合試験お疲れ様。無事に終わって何よりだよ」

「すっごく痛かったんですけど、そういうものなんですか……?」

「おや。神機との適合率が低いと痛みが激しいんだよ。逆に高いとそんなに痛みはないんだが……まあそれはメディカルチェックを受けてみないとだね。いやあ、P五十七偏食因子と神機の適合率は如何程だろうねぇ!」

 

 サカキはうきうきとした口調でパソコンを操作し始める。研究者としてさぞ興味深いようだ。ミツハは慣れない右腕の腕輪を見ながら、サカキの準備が終わるのを待った。

 

「どうだい、ゴッドイーターになった感想は?」

「……全然実感ないです。あ、でもあんな重そうな神機を片手で持ち上げられるのは流石! って感じでした。ゴッドイーターになるとあんなに怪力になれるんですね」

「あれ? ミツハ君の場合ある程度は元々だけど、気づいてなかったのかい?」

「え?」

 

 きょとんと首を傾げるミツハにサカキは苦笑する。

 

「いいかい、ミツハ君の場合は体内に既にP五十七偏食因子がある。通常の適合試験は腕輪を嵌める際にP五十三偏食因子を注射するんだけど、ミツハ君の場合それが必要ないからね。単に腕輪を嵌めて神機と接続しただけだよ」

「嵌めただけであんなに痛いんですか……?」

「痛みは腕輪じゃなくて神機からくるものだよ。忘れがちだが、神機は人工アラガミだ。神機の中にあるアーティフィシャルCNS……人工コアとの神経接続の役割を腕輪が担ってるんだけど、いくら人為的に制御されてる物とは言えアラガミだ。捕喰しようとするアラガミを抑え込んで自分の身体の一部にしようとしているんだから、そりゃすんなりいく訳がないよね」

「……ええと、つまり私の体内とあの神機が戦ってたって感じですか?」

「そういう感じ。まあ話を戻そう。偏食因子を投与すると身体能力や再生力が向上するのは知っているよね? ミツハ君の場合、それを実感している時があると思うけど」

 

 サカキの言葉に記憶を巡らせてみる。生まれてこの方怪力を発揮した事は一度もないのだが、ふと思いつく事例があった。一週間程前の出来事だ。

 

「もしかして、ヴァジュラに襲われた時ですか……?」

 

 見た事もない怪物から逃れる為に全速力で走ると、不思議なくらいスピードが出た。

 ミツハは元々足が速い方でなく、どちらかと言えば遅い方だった。そんなミツハがヴァジュラから何とか追いつかれずに済んでいたのは、よくよく考えるとあり得ない話だ。

 

「そう。ヴァジュラはアラガミの中でも俊敏な方でね。普通の人間ならすぐに追いつかれる。それに、ミツハ君はヴァジュラの電撃を直撃した筈だ。普通なら感電死するか、生きていても後遺症が残るぐらいヴァジュラの電撃は強烈だ。だがミツハ君は少し体が麻痺した程度ですぐに立てたんだろう? 紛れもない、オラクル細胞による身体能力と再生力の向上のおかげだね」

「……私この一週間全然気づかず過ごしてました」

「まあ運動する機会もなかったからね」

 

 自分の鈍感さに頬が上気するのを感じた。サカキは可笑しそうにくすくす笑い、準備が整ったと告げる。

 向かって左側の重厚な赤い鉄扉の部屋に入るよう促され、六畳ほどの部屋のベッドに横たわると部屋を囲むように設置されている様々な機器が起動し始めた。何処からか漂い始めた甘いバニラの匂いに眠気が襲ってくる。

 

『では、メディカルチェックを始めるよ。ミツハ君はそこで横になっていればいいよ。少しの間眠くなると思うけど心配しなくていい。次に目が覚めるときは自分の部屋だ。戦士のつかの間の休息というやつだね。予定では一万八〇〇秒だ。ゆっくりお休み』

 

 部屋の角にあるスピーカーからサカキの声が部屋全体に響く。ミツハは襲ってくる眠気に逆らう事なく、素直に瞼を閉じて意識を手放した。

 

   §

 

 目が覚めると見慣れない部屋で寝ていた。意識を手放す直前、サカキは「目が覚めるときは自分の部屋」と言っていた。ミツハはこれまで来賓用の部屋で寝泊まりしていたのだが、神機使いになった事で専用の部屋が与えられるのだ。

 

 適合試験を受ける前、ダンボールに制服とツバキから渡された服、通学鞄をまとめて入れていた事を思い出し、部屋を見渡してみると部屋の真ん中にダンボールが一箱だけ置いてあった。

 部屋は来賓用の部屋とそう造りは変わらないが、質素なものとなっていた。来賓用の部屋は自室にシャワーと浴槽が完備されていたが、この部屋にはそれがない。共同区画にシャワールームがあった為、一般の神機使いは恐らく共同のシャワールームで汗を流すのだろう。

 

 ミツハは携帯で時間を確認すると、十八時四十分過ぎを示していた。ちなみに携帯の充電器をミツハは鞄の中に入れていなかった為、サカキが代用品を作ってくれたのだ。時計とカメラ、音楽プレーヤーの機能ぐらいしか使えなくなった携帯だが、それでもミツハは持ち歩いていた。

 これからの予定は何か言われていたかと思考を巡らしていると、インターホンが鳴る。誰だろうと疑問に思いつつ扉を開ければユウが立っていた。

 

「おはよう、起きてた?」

「うん、ついさっき起きたところ。これからの事何か言われてたっけ……?」

「その事を伝えに来たんだ。コウタがあと三十分ぐらいで起きるから、起きたら三人で製造区画の整備所に向かうように、だって」

 

 話を聞くと、なんでも神機の形態を決めるらしい。エレベーター前の開けたスペースには自販機とベンチが置いてあり、そこでコウタが起きるまで待とうという話になった。

 ミツハは自販機にこの世界で使われるお金を入れ、ミルクティーを買う。このお金は元々自分が持っていた六十年前のお金の半分をサカキがコレクターに売り、それによって十倍以上の値段になって返ってきたのだ。fc(フェンリルクレジット)という単位のお金は未だミツハに馴染まない。

 

「そういえばミツハは年末から内部居住区に住んでたんだっけ。それまでは外部にいたの?」

 

 ユウの疑問にミツハはぎくりと思わずミルクティーを握る手に力が入る。

 ユウとコウタは外部居住区の人間だ。住んでいる区域は離れていたものの今度休みの日に遊びに行こう、などと会話が発展していた。ならばミツハの家は何処にあるのかと矛先が此方に向くのは至極当然だ。

 ミツハはサカキから言われた〝設定〟を思い出しながら、しどろもどろに答える。

 

「えっと、元々内部居住区に住んでいたらしいんだけど、年末にカルト教団に拉致されて壁の外に出ちゃったみたいで。その時アラガミに襲われて家族が食べられちゃったらしいんだよね」

 

 〝設定〟を口にする度、ユウの表情から笑顔が消えていく。――とんだ重い設定だな、とミツハは改めて思い、軽率に口にしたのは間違いだったかと口元が引き攣る。ユウはごめん、と深刻そうな顔をして謝罪を述べ、とんだ罪悪感にミツハは駆られる。

 

「あっ、だ、大丈夫! アラガミに襲われたショックからか、家族の事覚えてないらしくって、そんなにダメージないというか……」

「記憶喪失なの!?」

「あっえっと軽くだけどね!?」

 

 ミツハを見るユウの目が段々慈悲に満ちた眼差しになってくる。ユウから見ればミツハは〝家族を失い、そのショックで記憶を失いながらも神機使いになった〟という、何とも悲劇の少女だ。

 壮大な設定のせいでユウはすっかりミツハに同情し、「困った事があったらいつでも言ってね、力になるから」と真剣な表情で力強く言う。申し訳なさを覚えながら、有難うと頷いておいた。



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08 相棒選び

 目が覚めたコウタと合流し、製造区画にある整備所に向かう。整備所にはタンクトップを着た少女が待っており、周りには神機のパーツが沢山並べられていた。

 神機の調整をしていた彼女はミツハ達に気づくと、スパナを振って「こっちこっち!」と舌足らずな声でミツハ達を呼ぶ。

 

「君達が新人の神機使いだね。私は楠リッカ。ここの整備士で、よく顔を合わせる事になると思うからよろしくね」

 

 自己紹介もそこそこに、リッカは説明を始めた。

 

 神機はアーティフィシャルCNS、所謂人工コアを埋め込んだ核に近接武器、銃身、装甲といったパーツを接合するらしい。

 パーツと人工コアの相性もあり、コウタのもつ神機の人工コアは銃身、ミツハの神機には近接武器が適しているそうだ。ちなみにユウは〝新型〟と呼ばれる神機らしく、近接武器も銃身も接合出来る神機なのだと言う。

 

 コウタとユウは銃身を早々に決めていた。連射が出来るアサルトがどちらもお気に召したようで、かっこいいと目を輝かせていた。銃は男のロマンなのだろうかとミツハは思いながら、近接武器パーツの前で云々と悩んでいた。

 

 リッカの説明によれば、近接武器はショート・ロング・バスターの三種類があるらしい。

 ショートブレードは他の刀身と比べて格段に小型かつ軽量に設計された刀身で、俊敏で小回りの利く扱いやすい刀身だ。

 ロングブレードはその名の通り長い刀身により近接武器ながら中距離からの攻撃もでき、ショートに比べて攻撃的な性能が優れている。

 そしてバスターブレードは、何と言っても大きい。ショートやロングに比べて巨大な刀身は見るからに重そうで、機動力には欠けるがリーチ・破壊力は圧倒的らしい。ミツハを助けたソーマが持っていた武器もこのバスターブレードなのだろう。正直ミツハは扱える気がしなかった。

 やはり早々にロングブレードに決めたユウの隣で、ミツハは長考する。

 

「決まらない……」

 

 日本人らしく、ミツハは優柔不断であった。手数の圧倒さでいえばショートブレードなのだろうが、なるべく敵に近づかずに狙えるロングブレードも捨てがたい。

 云々と悩むミツハの視界の隅に、ふと鎌形の武器が目についた。

 

「リッカさん、あの鎌も近接武器なんですか?」

「あれはヴァリアントサイズって言ってね、欧州で使われてるポール型神機の一種なんだ」

 

 話を聞けば、欧州ではブーストハンマー・チャージスピア・ヴァリアントサイズという柄の長い近接武器も使用しているらしい。欧州からパーツを取り寄せて調整しているのだが、極東で使われているアーティフィシャルCNSと欧州製のパーツと相性が悪いのだと言う。

 ポール型神機はブレード型神機よりも複雑な構造、機能を持ち、神機の暴走が起こりやすい上に相性が悪ければ使用者の負担がかなり大きいらしい。神機との適合率が特に高くなければ使用は今のところ許されないとリッカは言う。

 

 正直なところ、ミツハはブレード型神機よりもあの大鎌の神機に心打たれていた。これがロマンというやつか、と理解した。

 

「あの、私と神機の適合率で鎌は使えますか?」

「えっ、ヴァリアントサイズがいいの?」

「めちゃくちゃかっこいいんですもん……あっでも駄目そうなら全然大丈夫です!」

 

 ミツハの言葉にリッカはちょっと待っててね、と言い残し整備所の奥にある部屋に向かった。小窓から見える中はコンピューターが沢山あり、データの確認をしているようだ。

 

「鎌か~、確かにかっこいいね」

「近接武器もめちゃくちゃかっこいいの多いなー、羨ましいぜ」

「でしょ! 大鎌ってなんかこう、中二心を擽られるっていうか……」

「中二?」

「あっえっと、なんていうのかな、……ロマン?」

 

 ミツハの時代には漫画やアニメが溢れ、戦うキャラクターがスマートに鎌を扱う作品も多く見られた。ミツハの友人に漫画やアニメが好きな女の子がいた為、それなりに詳しくなりいざ自分が使うのかもしれないと思うと心が躍りそうだ。

 暫くするとリッカが資料を持って戻ってきた。少々難しそうな顔をしている。

 

「うーん、適合率はまあギリギリオッケーかギリギリアウトかって感じなんだよね……。ちょっと接続してみて試してみようか」

「えっ、いいんですか?」

「うん。実際に手に持ってみて馴染む可能性もあるからね。ただ危険だと思ったらすぐに神機を手放す事。いいね?」

「わかりました」

 

 リッカはミツハの神機を取り出し、元々接合されていたブレードを取り外して鎌を接合していく。

 その様子を見ながら、ミツハは手渡された資料を眺める。どうやら先程のメディカルチェックの結果らしい。数値や備考が記されているがミツハにはよく分からなかった。一般的な数値が如何ほどなのかミツハは知る由もない。

 

 接合が終えたらしいリッカはミツハを奥の部屋へ呼んだ。ミツハだけ来るように、と言われた為ユウとコウタは様々な種類の神機を眺めながらミツハを見送る。

 

「サカキ博士から聞いたんだけど、君の中にある偏食因子は特殊なものらしいね」

「あっ、はい」

「適合試験の時はかなり痛がっていたみたいだけど、神機との適合率は高い方なんだ。だからあんなに痛がるのが不思議なんだけど……資料を見てごらん。えっと、三枚目の真ん中あたりのグラフがあるでしょ?」

 

 言われた資料を見れば、そこには右肩上がりになっている折れ線グラフがあった。

 

「それは君と神機との適合率を表しているグラフなんだけど、時間が経つ毎に適合率が上がっているんだ。最初の測定時は低い数値なんだけど、最終的な適合率はそこそこ高い数値で安定してる」

「……そういえば、博士が私の偏食因子は変異しやすいって言ってたんですけど、それに関係があるんですか?」

「うん。博士は君の偏食因子はカメレオンみたいだって言ってたよ。環境に自分を馴染ませる事が出来る特殊な偏食因子だって。だからヴァリアントサイズも、もしかしたら馴染む事が出来るかもしれない」

 

 カメレオンは自分の体色を変化させて背景と同化させる事が出来る。環境に応じて、自分の身体を変化させるのだ。ミツハの偏食因子も神機と高く適合するように変化したと言うのだろうか。

 

 リッカはコンピューターを起動させ、部屋の更に奥にある小部屋に入るよう促す。何もない小部屋は頑丈そうな壁で覆われており、その壁には刃物で抉ったような傷跡が見られる。リッカが言うには、神機に振り回されて暴走した結果の傷跡らしい。

 その部屋の真ん中にリッカはヴァリアントサイズが接合された神機を置き、ミツハの腕輪にコードをつけてからコンピューターのある部屋へ戻る。

 

『それじゃあ、ヴァリアントサイズとの適合率を測るよ。神機を持ってみて。振り回されそうになったり痛みを感じたらすぐに手を離すんだよ』

 

 スピーカーからリッカの声が密室に響く。深呼吸をして、ミツハは神機を手に取った。

 柄を持つ手から、まるで神経を逆撫でするような違和感が身体を突き抜ける。途端に痛みが走り、神機が独りでに動き出す。

 

――マズイ!

 

 冷や汗が垂れ、慌てて神機から手を離す。ガシャン! と大きな音を立てて大鎌の神機は床に沈黙した。

 柄を掴んだ掌を見ると血が滲んでいた。どう見ても相性が悪いだろう。神機の事に関してさっぱりなミツハでもそれは分かる。大人しくブレード型を選ぶべきだと自分に言い聞かせていると、スピーカー越しにリッカがミツハに話し掛ける。

 

『ミツハ、大丈夫?』

「大丈夫です! ただ、適合率悪いですよね……」

『うん。今の数値だとヴァリアントサイズは扱えない。けど、今の君の偏食因子は変化してるの。凄いよ、本当に適応するように変化してるの!』

 

 リッカの舌足らずな声のトーンが上がり、興奮している事が窺える。

 五分程時間を置き、もう一度神機を持ってみてほしいとリッカの指示に従い、少しして再びミツハは大鎌の柄を握る。

 

 するとどうだろうか。先程のような痛みはなく、違和感もだいぶ小さなものになっていた。神機が独りでに動き出そうとしても、ミツハはそれを制御が出来た。

 あまりの違いにミツハは自分自身の身体がリアルタイムで造り替えられているのだと実感する。今こうして神機を手にしている間も、ミツハの中の偏食因子は更に違和感を無くそうと適応するよう変異しているのだろうか。

 

――随分と勉強熱心な偏食因子だ。

 

『やっぱりさっきよりも適合率上がってるよ。これなら大丈夫だね』

「えっ、じゃあヴァリアントサイズ使えるんですか?」

『うん。ただヴァリアントサイズは極東で使われた事がないから、君が第一の使用者になるの。欧州パーツと極東のアーティフィシャルCNSの相性が悪いのは変わらないから、違和感とかがあったらすぐに言ってね』

 

 はい、と返事をしてミツハは小部屋から出る。それじゃあ装甲を決めようか、とユウ達のいる整備所へ戻ったのだが、ユウは装甲の種類を既に決めてしまった後だった。

 

「はやい……」

「即決だったよなあ」

「すぐに展開出来るのがいいなあって思って」

 

 バックラーを選んだ彼に続いてミツハも装甲を悩みに悩んだ挙句、バランスの良いシールドを選び三人は整備所を後にした。

 



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09 放課後の屋上

 新人の神機使いは実戦に立つ前に、基礎体力の強化、基本戦術の習得、各種兵装等のカリキュラムをこなしていく。訓練無しにいきなり戦場に立つのは自殺行為も甚だしいだろう。

 

 翌日の朝七時五十五分。朝食を食べ終えた後にミツハ達新人三人は訓練所に立っていた。八時に第一訓練所集合とツバキに言われており、どんな事をするのだろうと三人で話していると訓練所の扉が開く。ツバキが立っていた。

 

「よし、全員揃っているな。それでは、本日の予定を説明する。午前は此処、訓練所で基礎体力の強化、午後は教場で兵法などの座学を行う。昼休憩は一二〇〇から一時間、終了予定時刻は一七〇〇だ」

 

 学校みたいだ、とミツハは思いながら言われた通りに動く。

 まずは基本の体力測定をするようで、毎年五月中旬の体育の時間に行われる体力テストと同じような種目をこなす。高校三年生の五月、これが人生最後の体力テストだと張り切って種目に挑んだが文化部らしい記録で終わった。

 

 一通りの種目をこなしながら、ミツハ達は驚愕していた。何と言っても身体が軽いのだ。五十メートル走も上体起こしも常人ではあり得ない記録を叩き出しており、オラクル細胞による身体能力向上の凄さを改めて感じた。更に体力の回復も早い。息切れしてもすぐに治まり、また全力で身体を動かす事が出来るのだ。

 

「すっげー……俺、ほんとにゴッドイーターになったんだなあ……!」

 

 コウタが感慨深そうに言葉を吐いた。種目を全てやり終え、小休憩中に飲料ゼリーを吸い上げながら雑談に興じる。この後は本格的な体力強化と神機を使った模擬戦闘があるらしい。

 

 三人の中でもユウはとりわけ偏食因子との相性が良いらしく、体力測定の結果はピカイチでそんなユウにコウタは負けん気としていた。

 ミツハの記録は、コウタより少し劣るものだった。P五十七偏食因子の身体能力向上はP五十三偏食因子よりも若干劣るという資料の文字を思い出し、まあ仕方がないかとゼリーを飲み込んだ。

 

 昼休憩を挟み、午後は教場で座学の時間だ。ツバキと変わって専門の職員が教壇に立ち、兵法やアラガミの特徴などについて教鞭を執る。

 長時間座って勉強すると言うのはユウ達には馴染みがなく、特にコウタはすぐ机に突っ伏してしまった。反対にミツハは日常を思わす授業に楽しく講義を受けていた。受験生なので長時間机に向かって勉強していたのだ。ノートにまとめて覚えるという至って普通の授業が懐かしく、ミツハは真剣に講師の言葉を聞き、書き連ねる。

 

「無理……課題があるって信じらんねえ……ゴッドイーターってもっと身体を動かしてなんぼのもんだと思ってた!」

「新しい事を覚えられるのは楽しいけどね」

 

 コウタとユウの会話が耳に入り、ノートを書く手を止めた。今は十分休憩の時間で講師も席を外しており、教場には三人しかいない。講義中寝ていたコウタはすっかり元気になっており、真っ白なノートと渡された課題に頭を抱えていた。

 

「どーしよ……ミツハノート見せてくんね!?」

「いいけど、あんまり綺麗じゃないよ」

「……いや、めちゃくちゃ綺麗にまとめてあんじゃん! すっげ!」

「ほんとだ。ミツハ真剣に聞いてたもんね」

 

 あまりのベタ褒めに思わず気恥ずかしくなる。特段ノートを取るのが上手いわけではないのだが、二人に比べてミツハは十二年も学校に通い、授業を受けていたので当然まとめ方にも差が出てくる。義務教育すらないこの時代でミツハはかなり教養がある方になるのだろう。

 

 ノートを写すコウタを見ながら、懐かしい気分になる。学校を休んだ分のノートを友人に見せてもらい、書き写した事を思い出す。六十年前の今日は冬休みが明け、センター試験のラストスパートを掛けている時期だろう。遅くまで学校に残り課外を受けていた日々を思い出す。

 

「ミツハって学校に通ってたんだっけ?」

 

 ユウの言葉にどきりとした。過去から来た事を知らずのうちに口を滑らせたのだろうかと焦るが、内部居住区に住んでいたという〝設定〟なのだ。内部居住区に住める人間は限られ、そういった人間はこの時代でも学校に通える程の余裕があるのだ。

 

――そうだ、そういう〝設定〟だった。

 

「えーと、うん。小学校から高校までだから、十二年通ってたよ」

「十二年も!? 学校で何してたのかは覚えてる?」

「それはまあ……大体。今みたいに椅子に座って一時間ぐらい授業受けて、十分休憩してまた授業ーって感じ、かな」

 

 記憶喪失という設定もあった。この記憶喪失の程度はどれくらいなのかちゃんと決めなければいけないと思いながら話すと、ユウはげんなりといったように苦笑した。

 

「座りっぱなしなんだ……」

「うん。だから今日の座学は懐かしい感じがしてちょっと楽しい」

「……僕も後でノート見せてもらっていい?」

 

 ユウもあまりノートのまとめに自信がないらしい。いいよと頷くとユウは礼を言って笑う。

 

――なんだかお姉さんしてる感じがする!

 

 三人の中で一番年上なのだ。この世界の事に関しては二人の方が先輩だが、こういった学校生活における点でなら頼れるお姉さんになれる。気を良くしたミツハは次の講義でもより真剣にノートをまとめた。

 

 時計は十七時を回り、一日のカリキュラムが終了した。

 ようやく机から解放されたコウタは嬉しそうに教場を飛び出し、自販機でジュースを買い喉を潤していた。

 

「なあなあ、気分転換に屋上いかね?」

 

 特に断る理由もなかったので二人は頷き、エレベーターに乗る。自室に荷物を置いた後、屋上へ向かってエレベーターを上昇させる。

 

 地下から数百メートル一気に上昇した為、いくらエレベーターに気圧制御装置が付けられているとはいえ耳が詰まったような感覚が起きる。

 そうしてエレベーターの扉が開くと、オレンジ色と強風が飛び込んだ。

 

「……此処から外部居住区を一望出来るんだね」

「そ! 俺んちあの辺なー」

「にしてもすっごく高いね」

 

 夕焼け色の空の下はバラック小屋が並ぶ外部居住区が広がっていた。何度か外部居住区に出てはいたが、こうして上から見下ろすのは初めてだ。足が竦む高さに眩暈がしそうだった。話によれば極東支部は地上に露出している部分の一辺は三〇〇メートルもあるそうだ。エッフェル塔と同じ高さにミツハは引き攣った笑みしか出なかった。

 

 地上に立って見た時はアナグラが壁の中心にあるという事もあり、あまり壁の存在は感じなかったが上から見下ろせば円形にそびえ立つ壁がよく見える。

 そして壁の向こうもまた、よく見えた。見渡す限りの荒野と廃墟が続き、かじられた高層ビルや倒れた建物の残骸が無惨にも沈黙している。それが途切れればあとは荒れ果てた大地しか残っていない。

 

 それはミツハを無性に虚しい気持ちにさせる。横浜にある有名な展望台よりも高いと言うのに、高層ビル群は何処にも見当たらない。少し目線をずらせば、かつて日本一と呼ばれていたであろう山が抉られ、崩れかけの砂山になっていた。

 

――ほんと、世紀末だ。

 

 柵に掴まって恐る恐る町を見下ろす。あの辺りにある市場でよく買い物をしていた、あの辺に住んでる親父が凄く怖かった、などの外部居住区の話を聞きながら相槌を打っていると、ヘリの音が近づく。風が強まり、音も大きくなる。屋上はヘリポートとしても使われており、任務へ赴いていた神機使い達が帰ってくるのだろう。下手に動くのも邪魔になる為、柵に掴まったままヘリを眺める。

 

「あ、第一部隊の人達だ」

 

 ユウの言葉通り、ヘリから降りてきたのはリンドウ、サクヤ、ソーマの三人だ。第一部隊は〝討伐班〟とも呼ばれており、人々を脅かす大型アラガミの討伐を主に従事しているらしい。とどのつまり凄腕の神機使いだ。

 ソーマは早々に屋上を後にしたが、ミツハ達に気づいたリンドウとサクヤは此方へ近づいてくる。「わ、こっち来た!」とコウタが興奮気味に声を上げた。

 

「この前の嬢ちゃんじゃねえか。神機使いになったんだってな」

「あっ、はい! その節はご迷惑をお掛けしました!」

「まー、気にすんな。民間人を助けるのが俺らの仕事だからなあ……って、お前ももうこっち側か!」

「ふふ、みんな訓練頑張ってね」

 

 柔らかく微笑んだサクヤに思わず惚ける。それじゃあね、と手を振って背を向ける二人の先輩神機使いを見送り、ポツンと屋上に三人残される。綺麗な人だったな、というコウタの呟きに二人は頷いた。

 

「ミツハ、知り合いだったの?」

「あ、えっと、ほら。前にアラガミに襲われたって言ったでしょ? その時第一部隊の人達に助けられたの」

「へー! やっぱ強かった!?」

「うん、すっごく。ヴァジュラっていう大型のアラガミも簡単に倒しちゃってた」

 

 倒したのは先程の二人ではなくソーマだが、同じ第一部隊の人間なら恐らく同じぐらいの実力があるのだろう。説明が面倒なのでそのままコウタに説明すれば、彼は子供のようにキラキラと目を輝かせた。

 

「俺もそんな風になりてー! な、ユウ!」

「その為にもまた明日から訓練頑張らないとだね」

「……座学はやりたくねえ~!」

「またノート見せてあげるよ」

「まじ!? やった! ありがとなミツハー!」

「そういえば課題もあったよね」

「……それ提出いつだっけ?」

「明日だっけ?」

「えっと、うん。明日」

「はいはいはーい! 提案がありまーす! 今夜俺の部屋に集まって勉強会しようぜー!」

 

 出会ってまだ二日とは思えない程会話は弾み、三人は楽し気に談笑する。

 写したいだけでしょ、と軽口を叩きながら了承し、夕食後に会う約束をしながら日が沈むのを眺めた。

 



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10 防衛班のかわいい先輩

 朝八時に訓練所に集合。十二時までは体力強化や仮想アラガミを用いた戦闘訓練を行い、昼休憩を挟み十三時から十七時まで座学にて神機使いとしての教養を培う。

 そうした日々を五日間繰り返し、訓練初日の体力測定と比べ格段に身体能力は更に向上していた。

 

 今日も同じように訓練と座学をこなし、十七時に解散。ここまではいつも通りだったのだが、講師の職員と入れ替わりに教場にツバキがやってきた。三人は条件反射のように背筋が伸びる。楽にしろ、と言われたもののこの数日で身に着いた身体はなかなか背筋の緊張を解こうとしなかった。

 

「本日をもって基礎訓練工程は修了だ。よって明日以降、お前達は実働部隊に就き実戦へ立ってもらう。ユウ、コウタは第一部隊、ミツハは第二部隊に配属だ。以降の指示は各部隊長から受けるように」

「…………」

「初日と同じ事を言わせるな。返事はどうした!」

 

 事の急転に三人はツバキの説明に驚きを隠せないが、慌てて返事をするとよし、とツバキは満足げに頷いた。

 ユウ達は驚きつつも、ついに実戦へ立てる事へ嬉しさを感じているようだった。しかしミツハは困惑していた。通常、新人は同行者の生還率が高い雨宮リンドウ少尉が率いる第一部隊へ配属となり、それから各部隊へ異動となるのが通例の筈だ。ノルンにあるデータベースでもそのような内容が書かれてあった。しかしミツハだけは最初から第二部隊所属となっている。同期二人と別部隊である事も相まって、ミツハは気分が降下していた。

 

 そんなミツハの心情を悟ったのか、ツバキはミツハだけ教場に残るように言い、他の二人を解散させた。

 

「ツバキさん……」

「何故自分だけ第二部隊所属なのか、と言いたげな顔だな」

「新人って第一部隊所属が普通じゃないんですか……?」

「お前の配属は決めあぐねていたんだ。第一部隊は防衛班と違い、大抵が大型や新種のアラガミ討伐となる。……いくら生還率が高いリンドウと同行とはいえ、六十年前の世界から来たミツハには荷が重いと判断し、第二部隊所属との決定を下した」

「それは……確かにそうですね」

「だが最初のうちはリンドウと任務に同行し、戦場での立ち回りを覚えるように。それに此処は常時人手不足でな。部隊間での人員の貸し借りも日常的に行われている。同期二人と任務を共にする事も多くなるだろう」

 

 その言葉にミツハは安堵する。同期が共に居るか居ないかで大きく緊張が変わる。なるべく一緒の任務が多ければいいなと思いながら、教場を後にした。

 

 ミツハの配属となった第二部隊は大森タツミ、台場カノン、ブレンダン・バーデルの三人で構成されている部隊だ。支部及び外部居住区の防衛を担っており、アラガミ装甲壁に近づくアラガミの迎撃も行っている。

 何度か食堂などで顔を合わせた事があり、特にカノンとは年が同じ同性である為よく相席をして食事をしていた。顔見知りの先輩が居る事は嬉しかった。

 

 自室に戻り、着替えを持ってシャワールームのある共同区画へ移動する。脱衣所に入ると先程頭に浮かべていた台場カノンが服を脱いでいた。

 

「あっ、台場さん。お疲れ様です」

「お疲れ様です、ミツハちゃん!」

 

 桃色のミディアムヘアの少女はミツハを見るなり嬉しそうに微笑んだ。何か良い事でもあったのだろうと不思議に思いながらカノンの隣のロッカーを開ける。

 

「タツミさんから聞いたんですけど、ミツハちゃん第二部隊配属になったんですね!」

「あっ、はい! そうなんです、改めてよろしくお願いします!」

「いえいえこちらこそ! 色々ご迷惑をお掛けすると思いますが……」

 

 カノンはとても先輩とは思えない程の低姿勢でミツハの配属を喜んだ。通例から外れてしまったが、カノンの居る第二部隊配属はとても嬉しい。こうして大袈裟な程喜んでくれるカノンを見てミツハは改めて思った。

 

 シャワーを浴び、ドライヤーをしていると先に乾かし終えたカノンが髪を乾かしてくれると言う。先輩にそんな事をさせる訳にはいかないと遠慮したのだが、カノンは何故か乾かしたいのだと強調した為ミツハはカノンにドライヤーを渡した。

 

「ミツハちゃん、髪長いですよね。ヘアアレンジとか色々出来そうで楽しそうです!」

「あはは……私不器用なので全然アレンジした事ないんですよね……友達にいじられるばっかりでした」

「じゃあ今度私してみてもいいですか?」

「あっ、はい! 台場さん、そういうの上手そうですよね」

「ほんとですか? えへへ、なんだか嬉しいです」

 

 ゆるふわ森ガールという言葉が似合いそうなカノンは嬉しそうにはにかみ、ミツハの腰まである長い黒髪を楽しそうに乾かしていく。可愛いなあ、とミツハは同性ながらに思う。

 話を聞くとカノンはお菓子作りが趣味らしい。休日は外部居住区にある市場に出て材料を買い、配給品と合わせて少ない材料で試行錯誤してお菓子を作るらしい。カノンは丁度昨日が休日だったらしく、クッキーを大量に作ったそうだ。

 

「よかったら、この後私の部屋に来て食べませんか?」

「えっ、いいんですか? 是非!」

 

 タイムスリップをしてからあまり甘い物を食べていなかった為、ミツハはカノンの誘いに嬉しそうに乗った。配給チケットを手に入れれば甘味などの嗜好品を入手する事も出来るのだが、まだ訓練しかしていないミツハには手が届かない代物だった。

 

 居住区の新人区画へ移動しようとエレベーターに乗り込むと、扉が閉まろうとしたところで少年が駆け込んでくる。慌てて開くボタンを押すとキャップを被った赤毛の少年が乗ってきた。

 

「あ、シュンさん」

「なんだお前らか」

「お疲れ様です、小川さん」

 

 第三部隊に所属している小川シュンだった。居住区の一般区画へのボタンを押しながらシュンはミツハを値踏みするようにじろりと見つめる。

 カノンと話をしている最中にシュンやジーナ達も混じって会話する事もたまにあった為面識はある。ちなみに彼は同じく第三部隊所属のカレル・シュナイダーと共に〝新人イジメするタイプ〟とコウタが感想を下している。申し訳ないがミツハも同意せざるを得なかった。

 

「お前、防衛班配属になったんだって?」

 

 防衛班とは第二、第三部隊の事を指している。第二部隊が極東支部及び周囲の外部居住区の防衛、第三部隊が〝エイジス島〟と呼ばれる現在建設中の巨大アーコロジーの防衛を担っている事からそう呼ばれるようになったらしい。

 

 シュンの言葉に頷き、新人らしい言葉を言おうとする前に彼は少年らしい悪戯気な表情――分かりやすく言えば悪ガキのような顔をしてミツハをじろりと見る。

 

「極東初の鎌使いだの何だの知らねーけど、足引っ張んなよ!」

「が、がんばります」

「そういえばミツハちゃんの神機は鎌なんですよね! 私はまだ見た事がないので見るのが楽しみです!」

「……そういえば、台場さんと小川さんの神機はどういうタイプなんですか?」

「俺はロングブレード。お前と同じ近接な」

「私はブラスト使いです!」

「誤射しまくりのな」

「うっ気を付けます……」

 

 誤射? とミツハが聞き返せばシュンがニヤニヤ笑いながら説明する。カノンの誤射率は全支部中ダントツなのだ、と。シュンの説明にカノンは恥ずかしそうに顔を覆い、穴にでも入るかのように蹲った。

 

「シュンさん~! これ以上はやめてください! ミツハちゃんの前ではかっこいい先輩でいたいのに~!」

「いやどうせ無理だろ! カノンの射線上には立つなよ鎌使い~」

 

 先に一般区画へ到着したエレベーターからケタケタ笑ってシュンが降りる。顔を真っ赤にし涙目のカノンを励ましながら扉は閉まり、新人区画へ止まった。どちらが後輩なのか分からない有様でエレベーターから降りて廊下を歩いた。

 



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第二章
11 初陣


 神機が収納されたアタッシュケースを持って出撃ゲートへ出る。オペレーターのヒバリに任務の確認をしたところ、第一部隊隊長である雨宮リンドウと第二部隊隊長、つまりミツハ直々の上官にあたる大森タツミと同行の任務だった。

 

 任務内容は〝嘆きの平原〟と呼ばれる場所にてオウガテイル四体の討伐。オウガテイルはアラガミの中でも小型に分類され、仮想訓練ではミツハでも危なげなく倒せる事が出来たアラガミだ。

 しかし今日は訓練とは違う、実戦だ。一歩間違えれば喰い殺されてしまう、そんな危険な戦場にミツハはこれから立つのだ。緊張はしている。しかし未だ、実感が湧かない。

 

 出撃ゲートからヘリポートへ進み、ヒバリに言われた第三発着場に着いているヘリの前で上官達を待つ。背伸びをしたりアタッシュケースの持ち手を変えてみたりしながら待っていると、二人の青年が賑やかに話をしながらやってきた。雨宮リンドウと大森タツミだ。

 

「あっ、あの、新人の井上ミツハです! 本日はよろしくお願いします!」

「おう、今日が初任務だったな。前会った時にも言ったと思うが、俺は雨宮リンドウ。部隊は違うが、まあ同行する事も多いだろうから覚えといてくれ」

「で、俺がお前さんが配属された第二部隊の隊長やってる大森タツミだ。訓練ご苦労さん、ツバキ教官はスパルタだったろー?」

 

 どちらもあまり上官らしくなく、フランクな態度で内心ミツハは安堵した。軽く会話を交わしてヘリに乗り込む。時速二〇〇キロを超えるヘリなら作戦区域まで七分程度で着くそうだ。

 みるみるうちに小さくなる極東支部を見ながら、ヘリの中で神機を組み立てる。嘆きの平原付近にはヘリが止まれるような場所はないらしく、ヘリから飛び降りて着陸する為予めヘリ内で神機を手に持つ必要があるのだ。

 組み立てると言っても、神機の核と繋がっている柄を握り腕輪に接続すればオラクル規格の特殊なアタッシュケースからパーツが自動的に接合されるので難しい操作は一切ない。

 

「おお、それがミツハの神機か。なんていう神機だっけか?」

「えっと、ヴァリアントサイズ、だそうです。大森隊長は……ショートブレードですか?」

 

 ミツハの言葉にタツミとリンドウがぶはっと吹き出す。何か可笑しな事を言ったのだろうかと焦るミツハだが、硬い硬い! とタツミがミツハの背中を軽く叩く。未だに笑いが抑えられないようで、可笑しそう頬を緩めながらタツミは口を開いた。

 

「ははっ、大森隊長って初めて言われたわ。他の奴らはタツミさんとか、そういう軽い感じで呼んでるぜ」

「えっ、あっ、そうなんですね……なんかすみません」

「いや謝る事でもないけどさ。ミツハ、結構緊張してるだろ? さっきから肩上がってるぞ」

「……してます」

「まあ初任務なんだし当然だろ。そういう新人をしっかりばっちりサポートするのが俺達の役目だ。だろ、タツミ?」

 

 勿論だと言うようにタツミはリンドウに笑い返す。だからお前はまず生き延びる事を第一に考えろ。リンドウはそうも言った。

 

「いいか? 命令は三つだ。死ぬな、死にそうになったら逃げろ、そんで隠れろ。運が良けりゃ不意をついてぶっ殺せ」

「分かりました」

「いやミツハ、そこは四つですって突っ込むところだぞ」

「えっ、あっ、ほんとですね!? 雨宮少尉、それじゃ四つです!」

「いや遅ぇし硬ぇわ!」

 

 どうやら雨宮少尉とも普段呼ばれていないらしく、再び二人は可笑しそうに笑いだす。とても命の危機が伴う任務前とは思えない程和やかな空気のまま、ヘリはとうとう作戦区域に到着した。

 

 嘆きの平原は突風が吹き荒れ、地上まで三十メートルといった所で操縦士が手を挙げた。これ以上は下げられないらしい。

 戦うフィールドはまっさらな平原なのだが、その周りは壊れた建設物が並んでいる為強風と合わさって高度を下げるのが危ないのだと言う。

 

 下は丁度木が生い茂っている部分だったのでそれをクッションにしろとリンドウからの指示が入り、ヘリの扉が開く。途端に突風が襲い、ミツハの長い髪を狂ったように靡かせる。

 

「いくぞ!」

 

 リンドウがヘリから飛び降り、それに続いてタツミも飛んだ。

 

――いかなきゃ。

 

 神機の柄を強く握る。地上三十メートルといえば、マンションの十階程の高さになる。普通の人間が飛び降りればまず自殺だ。だが今この場で神機を握る人間は、普通ではない。

 

――飛べ!

 

 生唾を飲み込み、ヘリの床を蹴る。――初陣だ。

 

 風が痛い程に体に打ち付け、地面が迫る。降下の間に着地のイメージを頭に浮かばせた。

 まずは木々のクッション、そして着地。ミツハが今手にしているのは神機、ヴァリアントサイズだ。大鎌を地面に突き立て、衝撃を更に和らげ着地の体勢を取る――そこまで考えた所で木々の枝がミツハを襲った。

 バキバキと音を立て、ミツハと神機の落下の重力を木々が殺していきながら、荒れた地面が目の前にやってくる。

 

――今!

 

 神機を振り翳し、大鎌の先端を地面に突き立てる。衝撃が腕に響くが、痺れはなかった。このまま着地の体制を取ろうとしたが、身体は予想よりも前のめりに浮いてしまう。

 地面に突き立てた鎌を支点にし、ミツハの身体はシーソーのように飛び上がったのだ。

 

「ぎゃっ」

 

 無情にもミツハはそのまま地面に放り出され、鈍い音と肺が押し潰されたような醜い声が出てしまう。

 

「おーおー、こりゃまた派手に着地したな」

「大丈夫かー?」

「……だ、だいじょうぶです」

 

 咄嗟に手をついて顔面強打は避けたものの、うつ伏せで着地したミツハは痛みよりも羞恥で死にそうだった。

 涙目になりながら立ち上がり、砂を叩いて神機を引き抜く。リンドウは苦笑しながら宥めるようにミツハの肩を叩いた。

 

「いけるか?」

「……はい、大丈夫です」

「よし」

 

 上出来だ、と言うようにリンドウは笑い、神機を肩に乗せる。ミツハに背を向け、歩む先はアラガミのいる作戦区域だ。ミツハは柄を握り直し、タツミと共にリンドウの背に続いた。

 

 少し進むと小さな崖のような場所に出た。続いていた線路だったものが途中で途切れてしまい大きな高低差を生んでいたのだ。

 下を見やれば今回の討伐対象であるオウガテイルが一体だけで徘徊している。此方に気づいている様子はなく、壊れた建物などを食べながら歩き回っていた。

 

 ミツハは本物のアラガミを見るのはこれで二度目となる。一度目のアラガミと比べ、随分と小さい為か恐怖心は強く出なかった。

 襟元に付けた小型通信機から聞こえるヒバリの説明によれば、残り三体は今ミツハ達が居る場所の丁度反対側にいるらしい。乱戦になる可能性は低く、「こりゃ丁度良いな」とリンドウは言った。

 

「ミツハ、俺とタツミはバックアップに回る。一人であのオウガテイルを倒してみろ」

「ひ、一人でですか」

「なーに、オウガテイルは仮想訓練で飽きるほど戦っただろ? 大丈夫だ、危険だと思ったらすぐに俺達が出る」

「正面には立たない方がいいからな。あと尻尾を振り翳した時はすぐ後ろに下がるか、装甲を展開した方がいい。わかったか?」

「はい。……大丈夫です」

「よし。さーて、おっ始めるか!」

 

 リンドウ、タツミ、ミツハの順に崖から降り、神機を構える。遮蔽物のないこの平原ではすぐに気づかれ、オウガテイルは獲物を前にしてその大きな顎で噛みつこうとする。隙の多い突進をステップで避け、リーチを長くする為にミツハは柄頭へ持ち手を滑らせた。

 

 ミツハの神機はヴァリアントサイズといい、生体部分である刀身を変形させる能力がある。一言で言えば、鎌が伸びるのだ。伸びた鎌から〝咬刃〟と呼ばれる幾つもの小さな刃が派生し、それらで敵を薙ぎ払う。

 咬刃を大きく展開するとその分体力も多く使うのだが、リーチがかなり伸びるので敵の攻撃範囲外からの攻撃も可能となる。逆に間合いに入った場合は柄を短く握り、咬刃を展開しない至近距離での連撃も出来る。

 先輩の鎌使いが極東には居ない為、欧州の資料などをリッカから取り寄せてもらいみっちり鎌の扱い方を練習したのだ。

 

「当たっ、てっ!」

 

 腰を低くし、オウガテイルから少し離れた位置で咬刃を展開して鎌を振り翳す。ザシュッ、と肉を断つ音と感覚と共にオウガテイルの身体から血が噴出する。耳障りな悲鳴を上げながらオウガテイルは痛みにのたうち、尻尾を大きく振りかぶる。

 

「下がれ!」

「っ、はい!」

 

 タツミの言葉に従って後方へステップする。尻尾の攻撃を躱した後、咬刃を最大まで展開させた。小さな刃が幾つも生まれた大鎌で目一杯に円を描く――ラウンドファングと呼ばれる遠距離に特化した攻撃手法だ。かなりの体力を使う為、振り翳せる時間は限られるがとんでもなくリーチが伸び、だいぶ離れてしまったオウガイルにも刃先が届く。血が噴き出し、びしゃびしゃと辺りの地面を赤く染め上げた。

 

「今なら……!」

 

 怯んだオウガテイルに一歩踏み出し、捕喰形態(プレデターフォーム)に刀身を変形させて――神を、喰らう。途端に身体が熱くなり、そして軽くなる。腕輪を通してオウガテイルから捕喰したオラクルがミツハの身体に流れ込み、バーストモードに移行したのだ。

 

 大きく飛び上がってオウガテイルの真上で鎌を振り下ろす。あちこちの肉を断たれたオウガテイルは悲痛な断末魔を上げて地面に沈んだ。血だまりの上でオウガテイルはぴくりとも動かなくなっていた。

 

――ころした、の?

 

「上出来だ」

 

 リンドウの言葉にはっとして振り向く。後方でずっと見ていたリンドウとタツミはよくやった、と口々にそう言った。

 

「神機の扱いもよく分かってるな。すげえ伸びるんだな、その鎌」

「良い動きだったぞ。ほら、捕喰してコア回収してこい」

「あっ、はい!」

 

 リンドウに促され、沈黙するオウガテイルを捕喰してコアを取り出す。するとオウガテイルの身体は霧散し、黒い靄となって空気に溶けた。コアがなくなった事でオラクル細胞が形を保てなくなったのだ。

 残りのオウガテイルを討伐する為に移動していると無線が入る。ヒバリの焦ったような声が無線に入る。

 

『緊急事態発生! 大型のオラクル反応を確認! 一分後にD地点に侵入します!』

 

 緊急事態、という言葉にミツハの心拍数が跳ね上がる。しかもヒバリが言ったのは〝大型〟だ。オウガテイルのような小型種とは比べ物にならない、大きさと凶暴さを持っている強力なアラガミ。とても初陣で相見えていい相手じゃない。焦るミツハとは反対にリンドウとタツミは冷静にヒバリの言葉を聞いた。

 

『この反応は……ヴァジュラです! オウガテイルのいる地点と近いので、このままでは乱戦が予想されます』

「オーケイ。よしタツミ、ミツハと一緒にオウガテイルを引き連れてH地点で戦え。俺がヴァジュラの相手をする」

「了解」

「オウガテイルを倒した後はピックアップポイントで待機だ」

 

 即座に指示を出すリンドウは流石ベテランと言うべき格好良さがあった。彼と同行した者の生還率は九十パーセントを超えるという所以をミツハは垣間見た。

 

 その後は指示通りリンドウと別れ、タツミと共にオウガテイルを引き連れてヴァジュラの侵入地点と反対側で交戦する。

 三体のオウガテイルを長いリーチで一気に薙ぎ払い、怯んだところをタツミが踏み込んで手数で圧倒する、という連携でそつなく殺していく。小さな引っ掻き傷や擦り傷などはあるものの、怪我という怪我は特にない。

 

「お疲れさん。よーし、ピックアップポイントでリンドウさん待つかあ!」

 

 コアを回収しながらタツミの言葉に頷いた。ピックアップポイントへ行くと程なくしてリンドウが到着し、ヘリの要請を入れる。大型種を一人で相手したと言うのに、リンドウは特に怪我もなくけろりとしていた。タツミも特に心配するような言葉を掛けなかった為、これぐらいの事は日常なのだと窺える。

 

「ちょっくらハプニングもあったが、初陣はどうだったか?」

「えっと、凄く緊張しました。でもお二人がとても頼もしかったです!」

「嬉しい事言ってくれるぜ~。よし、帰ってヒバリちゃんに俺の活躍を報告しなくちゃな」

 

 こうして無事にミツハの初陣は終わった。一息吐くと、リンドウが「帰るまでが任務だぞー」と遠足のように言い、小さく笑った。

 

 ヘリが着き、下ろされたロープに掴まってヘリに乗り込む。アナグラヘ移動している間にアタッシュケースに神機を収納するが、ふと改めてミツハは神機を見る。アラガミの血が付着した大鎌は赤く濡れ、まるで死神の鎌のようだった。

 



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12 ひとつの生き物

 アナグラへ帰投し、受付のヒバリへ帰投報告をすると新兵三人はサカキの研究室へ行くよう言われた。医務室で小さな傷に絆創膏を貼った後、そのまま研究室へ足を運ぶ。エレベーターでユウと乗り合わせたので一緒に研究室へ行くと、コウタが先にソファに座っていた。

 

「お、来たね」

「二人ともお疲れー! 初陣どうだった?」

「バッチリ」

「緊張した」

 

 初陣の感想を各々述べながらコウタの隣に座る。そんな三人の様子を見ながら、サカキは一度咳払いをして雑談を止めた。三人の視線がサカキに集まる。

 

「さて、いきなりだけど……君はアラガミってどんな存在だと思う?」

 

 サカキはユウに向かって、唐突に質問を投げかける。ユウは少し思案し、首を傾げながら答えた。

 

「人を食べる怪物、ですかね?」

「うん、そうだね。〝人類の天敵〟、〝絶対の捕喰者〟、〝世界を破壊するもの〟。まあ、こんな所かな」

 

 それからサカキはアラガミについて簡単な講義を開いた。アラガミの発生、構造、倒し方。そしてアラガミと呼ばれるようになった所以。コウタは眠そうにしていたが、ユウは真面目にサカキの話を聞いていた。訓練期間中の座学よりもサカキの講義は話し方もあってか面白味があった。

 

 サカキの講義は短時間で終わり、座学が嫌いなコウタは一番に立ち上がり研究室から出る。苦笑しながらコウタに続くユウとミツハをサカキが止めた。

 

「ああ、ミツハ君はちょっと残ってくれるかい」

「あ、分かりました。二人とも先に戻ってて」

「うん」

 

 ミツハの偏食因子の話だろうかと思いながら、ソファに座り直す。長い話になるのか、「お茶とコーヒー、どっちがいいかい?」とサカキは聞いた。お茶と答えると温かい緑茶が出され、息で冷ましながら一口飲んだ。

 

「初陣、お疲れ様。特に大きな怪我もないようで一安心だよ」

「あ、有難うございます」

 

 自分用の湯呑を持ち、サカキもソファに座る。湯気の立つお茶を飲み、彼の眼鏡を白く曇らせた。

 

「初陣はどうだったかい? さっき緊張したって言っていたけれど、それ以外に何か感じた事はあるかい?」

 

 実際の戦闘を行っての偏食因子や神機の調子について聞いたのかもしれない。しかしそれらに思う事はなく、模擬戦闘と同じような感覚で戦えたので特に言うべき事はない。それよりもミツハには、オウガテイルの肉を断った感覚を思い出していた。

 言葉にする事に迷っているとサカキが柔らかく笑う。

 

「どんな些細な事でもいい。感じた事、思った事を素直に言ってくれればいいよ」

「……ええと、なんていうか……」

 

 ミツハは言葉を考えながら口を開く。湯呑を両手で回しながら、思案する。暫く間を置いてようやく言葉がまとまったのか、お茶の水面で揺らめく自分を見ながらミツハは答えた。

 

「私、生き物を殺すのって初めてなんですよね」

 

 ミツハは平和な世界に生きていた。

 

 せいぜい殺した事のある生き物といえば蚊ぐらいのもので、ゴキブリが出てきた際は親に退治を任せて別の部屋に逃げ込んでいた。

 ミツハの周りで生あるものが死んだ姿を見るのは、葬式での棺桶の中だった。花に囲まれてぴくりとも動かずに眠る青白い顔が〝命のない〟証だった。

 

 幸運にもミツハは車に轢かれた猫の死体も見た事がなかったので、生き物の死体が赤く染まるのはテレビの中の出来事だった。――いや、見た事はあった。ヴァジュラが殺される姿をミツハは見ていた。だが呆然としていたミツハにとって白昼夢のような出来事だった。

 

「生き物って、あんなに血が出るんですね。身体を斬ったら、血が出る。そして痛そうでした。……当然ですけど、アラガミも生きてるんだって思い知りました。そして改めて、私は生き物を殺したんだなって、思いました」

「……〝人類の天敵〟、〝絶対の捕喰者〟、〝世界を破壊するもの〟。そう呼ばれるアラガミをミツハ君は〝生き物〟と認識して殺すんだね」

「そう、なんですよね。ニュース番組みたいだなって……」

「ニュース番組?」

「えっと、海外の動物園で、子供が熊の檻の中に落ちて、子供を助ける為に熊を銃で撃ち殺したっていうニュースです」

 

 撃ち殺された熊は園内でも人気の高い愛嬌のある熊らしく、銃殺はやり過ぎだと対応に批判が上がったと言うニュースだ。子供は親の目を離した隙に壊れた柵をよじ登り、熊の居る檻に入った。子供を見ていなかった親と壊れた柵を放置していた運営側の責任だと動物愛護団体から訴えられ、結局その騒動が原因で動物園は閉園したらしい。

 人命優先とはいえ、何も殺す事はなかったんじゃないか。そういった声が上がり、波紋を呼んでいると淡々とした口調でアナウンサーが伝えた内容をミツハは思い出していた。

 

「ふむ。君はその熊とアラガミが重なってみえたんだね?」

「はい。アラガミもただ、本能に従って食べてるだけなのかなって思うと、こう……。勿論人を食べて、こうして生活が脅かされてるので殺さなくちゃいけないっていうのは分かってるんですけど」

 

 それでも血を噴出し、痛みで暴れながら断末魔を上げて死んだアラガミを見ると、不思議な感覚に陥る。〝生き物を殺した〟。その事実は、熊でも人でも、そしてアラガミでも同じなのではないかと。

 

「……ミツハ君はアラガミも私達人間や熊といった動物と同じ、地球に住む一種と考えるだね」

「……そうですね、そういう風になるんですよね。ただ他の生き物よりも物凄く危険で、人間が生きる為に殺さなくちゃいけない、そういう生き物です」

「なら、犬や猫みたいに共生出来るとも考えられるかい?」

「アラガミと共生ですか? ええと……平和な世界で生きた楽観的な考えなんですけど、いつかは出来るんじゃないかなあって、思います。ライオンを懐かせている人をテレビで見た事もあるので」

 

 ミツハは平和な世界で生きたていた。アラガミによって生活を脅かされた事もなければ、アラガミによって知人を食べられた事もない。勿論危険な目には遭った。しかし心の底からアラガミを恨んでいるかと聞かれれば、首を横に振るだろう。恨める程ミツハは殺伐としたこの時代に生きていないのだ。

 

 ミツハの素直な答えに、サカキはそうかい、と相槌を打ち、笑った。曇った眼鏡が晴れ、レンズ越しにその細められた目が見える。

 

「どうかその気持ちを忘れないで欲しい」

 



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13 死神の背中

 初陣から数日経ち、相手が小型のアラガミばかりとあってミツハは特に問題もなく任務をこなしていた。

 本日は普段から仲良くしているカノンと同行の任務だ。同部隊のタツミ、ブレンダンとは既に共に防衛任務に出た事があり、カノンと出撃するのは初でミツハは多少の嬉しさがあった。タツミもブレンダンも心強いが、仲の良い同性はまた違った心強さがある。

 

 迷惑を掛けぬよう頑張ろうとミツハは大鎌を構え、討伐目標であるザイゴートに斬り掛かる――のだが、突如後方から噴出された大量のオラクル砲により妨害されてしまう。

 痛みのないただの衝撃であった為、味方識別されたバレットなのだろう。何事かと慌てて振り向けば、カノンがブラストを構えていた。

 

「――射線上に立つなって、私言わなかったっけ?」

「ヒエ……」

 

 カノンは戦闘になると豹変するらしい。

 

 ザイゴートの動きとカノンの射線に注意しつつ、無事に本日の任務は終了した。以前シュンが話していた内容はこれかと納得する。カノンの誤射率は全支部中ダントツなのだ、そう説明した時はシュンのからかいか何かなのかとあまり本気にせず聞いていたが、確信する。カノンは誤射が多い。

 

 アナグラに帰投すると、普段とは違うざわめきを見せていた。とても良い気分のするものではなく、喧騒といった表現が似合う。何かあったんでしょうか、とカノンと首を傾げていたのだが、すぐに喧騒の理由が分かった。行き交う人々はみな同じような言葉を口にしていたから嫌でも耳に入ったのだ。

 

「おい、聞いたかよ。またソーマのチームから殉職者が出たらしいぞ」

「死神の異名は伊達じゃねえなあ。エリック、良い奴だったのによ」

 

 名前も知らぬ別部隊の神機使い達は口々にそう言った。ざわめく者たちは〝死神〟という言葉を忌々しげに発しており、殉職したエリックを慎んでいるというよりは〝死神〟を責め立てているように聞こえた。

 

 耳に入ってくる話を聞く限り、どうやらユウ、ソーマ、エリックの三人が鉄塔の森にて任務を行ったところ、エリックが殉職してしまったらしい。

 ミツハはエリックという男と会った事がなかった為、亡くなった彼には申し訳ないが他の見知った二人の名前が上がっている事の方が気がかりだった。ユウとソーマの同行者が亡くなったのだ。特につい先日初陣に立ったばかりだと言うのに、早々に目の前で人が死んでいく姿を見てしまったユウが心配だった。ミツハはカノンと別れ、ユウを探した。

 意外にもユウはすぐに見つかった。エントランスの二階で人々が視線を向ける先に彼らが居たのだ。

 

「エリック? ……俺には関係ない」

「…………」

「弱い奴から先に死ぬ。ただそれだけの話だ」

「……分かった。その……今日は、お疲れ様」

 

 ソーマは相変わらず目深にフードを被っており、ユウは此方から背を向けている為どちらの表情も見えない。ただ、ソーマの言葉は淡々としていた。その言葉に周りの人間がざわめく。〝死神〟という単語が至る所から聞こえ、畏怖や非難を含んだ言葉の数々をソーマは気にする素振りもなく、喧騒から背を向けてエレベーターへ向かった。

 

「ユウ……」

 

 ソーマの背を見送っていたユウに声を掛ける。

 此方を振り向いたユウは大きな怪我などはなく、それにまず安心した。

 

「えっと、その、……大丈夫だった?」

「……うん、僕は。ただ、やっぱり神機使いは甘くないなって実感した。うん」

 

 力なくユウは笑う。その元気のない笑みにミツハは自販機でジュースを買ってユウに渡した。エントランスのベンチに並んで座り、ちゃぷちゃぷとペットボトルの中の液体を揺らす。目の前を通り過ぎる人はやはり死神の噂を立てていた。噂、というよりは陰口に近い口調だった。

 

「……強くならないとなあ」

 

 ユウはぽつりとそう呟いた。

 

「ソーマに、言われたんだ。どんな覚悟を持ってここに来たのか、って。……目の前でエリックさんが死んで、それでもすぐに任務に移ったソーマは、ちょっと怖かった。ちょっとだけね」

「……うん」

「でも、僕らは神機使いだから」

「うん」

「任務中に取り乱したら、次に死ぬのは自分になる。死なない為にも、どんな時でもアラガミがいたら神機を持たなきゃいけない。ソーマはその覚悟があるんだ。怖かったけど、かっこよかったな」

 

 ユウの言葉はアナグラの喧騒に掻き消され、ミツハ以外には聞こえないだろう。周りではソーマを死神と呼び、本当かもしれないし嘘かもしれない死神の話をする。そんな中でユウは死神をかっこいいと評した。そんなユウが、ミツハは大人に見えた。きっとこの少年は自分なんかよりもずっとずっと前を見ている。そう直感出来る程にユウの瞳は真っ直ぐだった。

 

「僕はもっと強くならなきゃ。守れるぐらい、強く」

 

 その言葉は確かな力強さを持っていた。口調が強いわけではない、大声を出しているわけでもない。ただ、芯の通った言葉は妙にミツハを恥ずかしくさせた。

 自分はこの少年の隣に居ていいのか、と。

 

――何か、しなくちゃ。

 

 無性にそんな気持ちになったミツハはユウと別れ、手っ取り早く訓練区画へ向かった。

 近々中型種の討伐任務にも同行させるとタツミから聞いた為、中型種の仮想アラガミでシミュレーションをする。

 大鎌を構え、咬刃を展開して斬り裂いていく。小型種のアラガミなら大抵ステップの範囲で攻撃が避けられるが、中型種ともなれば攻撃範囲が広くなりステップの回避だけでは間に合わない場合が増えてきた。

 ミツハはガードが苦手で、つい装甲展開の反応が遅れてしまったり踏ん張りが効かない事が多い。仮想アラガミの攻撃をガードし切れず吹き飛ばされ、転がりつつ受け身を取って体勢を立て直す。

 

「いっ、たぁー……」

 

 しかし受け身の取り方が悪かったらしい。左手首を捻ったようで柄を持つと鈍い痛みが主張する。明日も任務があるので早々に治さなければならない。神機使いは再生力も向上している為これぐらいの捻挫はすぐに治るのだが、これ以上捻挫した手で神機を扱い明日の任務に支障が出るのは避けたかった。仮想アラガミを消去し、訓練所を出る。

 

 第二訓練所の扉を閉め、エレベーターへ向かう為廊下を歩く。

 すると、派手に肉を断つ音と仮想アラガミの叫び声が聞こえた。第一訓練所からだ。

 

 第一訓練所の扉は閉まり切っておらず、僅かに中が窺える。ザシュッ、と肉を断つ音は絶え間なく聞こえ、攻撃の手を一切止めていない事が分かる。一体どんな動きをしているのだろうとミツハは好奇心に駆られ、扉の隙間を覗いた。

 

 第一訓練所に居たのはソーマだった。

 ソーマは複数の大型仮想アラガミを前に、巨大なバスターブレードを片手で振り回し次々と薙ぎ払っていく。肉を断ち、喰らう。身の丈よりも数倍大きいアラガミを前にして一歩も退く事なく、攻撃を喰らって吹き飛ばされても即座に受け身を取ってすぐ次の行動に移っていた。動きに一切無駄がない、見惚れる程の闘いっぷりだ。

 

――すごい。

 

 凄い。この一言に尽きる。

 しかし、どこか痛々しいものがあった。

 

 一心不乱という言葉が似合う動きでソーマはアラガミを斬り、喰らい、沈めていく。複数いた大型アラガミは一体、また一体と数を減らしていき、最終的に訓練所に立っていたのはソーマのみだった。沈んだ仮想アラガミは消去され、一人残ったソーマは大きく肩で息をしてその場に座り込んだ。

 

「――ックソ!」

 

 腹の底から出したような荒々しい声と共に、鈍い音が訓練所に響く。

 ソーマの拳が地面を叩き付け、石造りの硬い床はあろうことかヒビを作って割れた。

 

「エリック……」

 

 震えた声だった。とてもじゃないが、先程エントランスで淡々と喧騒から背を向けた男と同一人物は思えない声色だった。

 

 ミツハはなんだか泣きそうだった。ソーマの背中が小さく見える。

 訓練用とはいえ大型アラガミを簡単に薙ぎ払っていき、巨大なバスターブレードを片手で振り回したとは思えない背中だ。とても〝死神〟と呼ばれるような男の背中ではなかった。

 

 ソーマは覚悟がある。ユウはそう言った。それは間違いではないだろう。事実ソーマはエリックがアラガミに喰い殺される姿を目の当たりにしても、淡々としてすぐ任務に移ったのだと言っている。それが拍車を掛けて周りは彼を〝死神〟と呼ぶのだろう。

 

 だが彼は覚悟があるからといって、悲しまないわけではない。こうして人知れずやり切れぬ思いをアラガミにぶつけ、人知れず悔やんでいた。

 

――もっと、非情な人なのかと思ってた。

 

 表情は常に目深に被られたフードのせいでよく見えない。不愛想で突き放すような口調と、その圧倒的な強さ。ソーマはミツハの命の恩人であるが、良い印象はあまりない。寧ろ血も涙もないような男かと思っていたが、それらはミツハのとんだ失礼な勘違いであった。

 

 彼は十八歳の少年なのだ。

 

「……なんだかなあ」

 

 エレベーターに乗り、独り言ちる。

 未だアナグラ内は〝死神〟の噂でもちきりなのだろう。ミツハはそれらにやり切れなさを覚え、小さく溜息を吐いた。

 



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14 死に際の現実

 ヘリが到着する。降り立ったのは〝鉄塔の森〟。本日の作戦区域だ。

 

「討伐対象はグボロ・グボロ二体。新兵は中型種を相手にするのは初めてか?」

「いえ、僕はこの前コウタとコンゴウの討伐をしました」

「わ、私は初めてです」

「まあグボロ・グボロは中型種の中でもぶっちゃけ弱い方だ。落ち着いて対処すりゃ問題ない」

 

 タツミのその言葉にほっとしつつ、ミツハはヘリ内でのブリーフィングを思い出す。

 本日の任務はタツミ、ソーマ、ユウと同行だった。場所は先程述べた通り、鉄塔の森。かつて近隣都市に電力を供給していた発電施設跡地だ。乱立している鉄塔はまるで樹木のように融け爛れている。海が近いため潮風が強く、風に乗ってツンとする匂いが鼻先を掠めた。

 

 アラガミは各個撃破が基本であり、小型種程度であれば問題ないが、中型種以上との乱戦は危険が大きい。二体のグボロ・グボロの位置を確認すると、反対側とまではいかないが離れており、分断せずに四人で一気に一匹を叩き、ちゃちゃっと終わらせよう――というのがタツミの指示だった。

 

『付近には小型のアラガミの反応もあります。周囲には十分警戒して任務にあたって下さい』

「りょーかい! ちゃちゃっと終わらせて早くヒバリちゃんの顔が見たいぜ」

『それではみなさん頑張って下さい』

 

 タツミの口説きは華麗に無視し、無線が切られる。ヒバリちゃんの応援は気合入るぜ、と全く気にしていない様子のタツミは神機を構えて索敵を開始した。相変わらずだなと小さく笑いながらミツハも後に続いた。

 

 グボロ・グボロは魚類の頭部とヒレを大きくしたような体と、盾のような形をしたアラガミだ。額からは砲塔のような突起があり、そこから砲弾や酸などを出して攻撃するのだと言う。防御力は他の中型種と比べるとあまりないらしく、特にミツハの神機は〝切断〟に長けており尾ビレを狙って斬れば良いとアドバイスも貰った。

 

 初めての中型種とはいえ、ベテラン二人に新型一人が居るのだ。なんとかなるだろうと思いながらミツハは尾ビレを狙って咬刃を展開させた。

 鈍足そうな見た目とは裏腹に、突進のスピードは速い。なるべく正面に立たぬよう後方へ立ち回り、鎌でヒレを斬り裂いていく。痛みに耐え兼ねてか巨大なヒレを左右にばたつかせたので後方へステップして避ける。

 

「おい、後ろ注意しろ!」

「へっ!? きゃっ!」

 

 いつの間にか背後から近づいていたオウガテイルがミツハを尻尾で吹き飛ばす。ソーマの声のおかげで咄嗟に受け身を取る姿勢につけたのだが、飛ばされた先は運が悪く水辺だった。

 大きな水飛沫を立てて水中へ沈み、神機の重さもあってどんどん沈んでいく。慌てて足を掻いて水面へ出ようともがくが、ぞくりとうなじの産毛が立った。振り向けば濁った水の先で、オレンジ色の目が此方を見ていた。

 

――うそ、二体目!?

 

 グボロ・グボロはアラガミの中で唯一の水棲性だ。水中で戦闘など出来る筈もない。いくら身体能力が上がり息が長く続くとは言っても無理がある。

 

 早く地上に上がらなければと水面を目指すが、グボロ・グボロが突進してくる。装甲を展開するが水中で踏ん張りなど不可能で後方へ身体が流される。衝撃から発生した水泡を突き破るようにグボロ・グボロが急接近し、ヒレでミツハを打ち上げた。

 

「っ、がはッ」

 

 無事水中からは脱せたが、あまりにダメージが大きい。受け身を取れずに地面に打ち付けられ、咳込んでいると水中から上がってきたグボロ・グボロがミツハへ向かって突進する。

 慌てて片膝を着いて起き上がり、シールドを展開させる。装甲がミツハとグボロ・グボロの間に挟まり、猛烈な衝撃に耐えるが踏ん張りがきかずに結局飛ばされてしまい、壊れたフェンスに打ち付けられた。鋭利な針金がミツハの肌を裂き、血を流していく。

 

――痛い。

 

 三度も渡って飛ばされたせいかタツミ達の交戦ポイントと離れてしまったようだ。目の前には大きな顎を開いて此方へ突進するグボロ・グボロが迫ってくる。右手に避けようとステップするが、予想よりも突進のスピードが速い。左足が巨大な牙に巻き込まれ、肉を抉っていく。

 

「――――ッ!」

 

 あまりの痛みにミツハは声にならない叫びを上げる。左足から絶え間なく流れる血によって血溜まりが出来た。最早動く事すら出来ないミツハだが、グボロ・グボロの猛攻は止まない。背ビレを大きく上げ、砲塔がミツハに向けられる。水泡が勢い良く放射され、装甲で受け止めるが上半身のみの支えで耐えられるわけもなく、簡単に装甲は破られ身体は壁に打ち付けられる。たらりと頭から血が流れて視界を悪くした。

 

――死ぬのかな。

 

 弱ったミツハを喰らう為か、攻撃を止めてグボロ・グボロはゆったりとした動きで地面を這い、ミツハに近づく。一歩、また一歩とグボロ・グボロが近づく度に、死へのカウントダウンが迫る。

 

――死ぬ。

 

 死ぬ。死ぬのだ。ミツハはこれから短い生涯を終え、動かないただの肉片となりグボロ・グボロの一部となるのだ。

 

――わたし、ほんとに死ぬんだ。

 

 ミツハはこれまで死にそうになった場面などに遭遇した事はないが、それでも死に際が近づいている事は分かった。確かな死の恐怖がミツハを支配していた。

 

――()()()()()()()()()()()()()

 

 死んだところで、元の世界に帰れなどしない。

 

 死の恐怖はそれすらもミツハに教えていた。

 夢だと思っていたのだ。ずっと。心のどこかではこの非現実的な世界が受け入れられず、未だに白昼夢の続きを見ているのだと思っていたのだ。死んだら元の世界に帰れるとすらも思っていた。

 

 思っていたが、いざ死を目の前にしてそれはないと確信する。この現状が、夢でもなんでもない、どうしようもないほどただの()()であるとミツハは悟った。

 

 両目からはボロボロと大粒の涙が溢れ出る。恐かった。死ぬ事への恐怖だけではない。

 たった一人で六十年後の世界に投げ出され、家族も友人も居ない、馴染んだ町並みすらないこの世界が恐いと、ミツハは思った。

 

「――たすけて!」

 

 喰われる寸前に泣き叫ぶ。クソッタレ! と吐き捨てる声と共に、グボロ・グボロの呻き声が耳を劈く。血と涙でぐちゃぐちゃになった視界では、ソーマがグボロ・グボロをその巨大な鋸で手を休める事なく斬り裂いていた。訓練所で一心不乱に仮想アラガミを薙ぎ倒していった姿と重なる。

 

 重い一撃が牙を破壊する。醜い叫びを上げてのた打ち回るグボロ・グボロの上空に飛び、捕喰形態(プレデターフォーム)へ変化させた巨大な顎を突き刺すように捕喰する。反動を利用し、空中で一回転しながら尾ビレから背ビレに掛けて真っ二つにするように斬り込んでいく。ソーマが着地するのと同時にグボロ・グボロは力なく地面に沈み、動かなくなった。

 

 ソーマはコアを回収せずに未だ泣き続ける負傷したミツハの下へ駆け付ける。相変わらず目深に被られたフードのせいで表情は見えないが、ミツハの右手を掴んだその手は熱かった。

 ソーマからのリンクエイドによって強打による体の鈍い痛みは引いたが、相変わらず左足と頭の痛みは強く主張したままで依然として血は流れ出る。ソーマが舌打ちをして襟元に付けられている小型通信機のスイッチを入れる。

 

「此方ソーマ、救護班を要請する」

『分かりました、すぐ向かわせます!』

 

 ヒバリとの通信を切り、ソーマはウエストポーチから包帯を取り出して慣れた手付きで左足の止血を行う。膝から下が全体的に抉られていた為、左太腿を包帯で強く圧迫して応急処置を施す。命の危機は去ったがその間にもミツハはずっと泣き続け、肩を震わせていた。子供のようにしゃくりを上げて泣くミツハにソーマは多少の苛立ちを感じていた。

 

「……こわい……かえりたい……」

「ならなんでてめえは腕輪をつけてんだ」

 

 譫言のように呟いた言葉に、ソーマは鋭い声色で突き放す。

 

「覚悟もない奴が戦場に出るな。ただのお荷物なら居ない方がずっとマシだ。金でも積んで逃げるんだな」

 

 そう吐き捨て、ソーマは背を向けてグボロ・グボロを捕喰しに行った。ミツハはソーマのその言葉に、また涙が溢れ出す。

 

――逃げたい。

 

 元の時代に帰りたかった。しかしミツハはその方法が分からない。この世界に来たきっかけすらも分からないのだから、帰る方法など検討もつかなかった。その事を改めて思い知ると、どうしようもないほど涙が出てくるのだ。

 

「ミツハ!」

 

 ユウとタツミが駆け付けてくる。血塗れで泣き続けるミツハに寄り添い、ユウはミツハを優しく抱き締めた。「生きてて良かった」そう呟くユウの声は震えていた。

 

 そうして、ようやくミツハは実感する。

 

――私、生きてるんだ。

――この世界に、生きてるんだ。

 



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15 地に足がつく瞬間

 病室のベッドで目を覚ますと、まずカノンがミツハに泣きついた。良かったです、と泣きながらミツハを抱き締めて無事を喜んだ。

 病室に居たのはカノンとユウ、コウタだった。ひとしきり泣いた後、カノンは「目を覚ましたって、タツミさん達に言ってきますね!」と笑って病室を飛び出した。

 

「ミツハ」

「はい」

「……良かったあ」

 

 コウタが力なく項垂れる。ずず、と鼻を啜るような音がした。

 

「ミツハが大怪我したって聞いて、まじ焦ったんだからな! そりゃ、任務に危険がつきものなのは分かってるけど、……この前鉄塔の森で殉職者が出たばっかじゃん。ミツハも、って思ったらすげー、怖くなった。ほんと、無事で良かったよ……」

「ご、ご心配をお掛けしました……」

「左足の傷が結構深いみたいで、塞がるまで三日ぐらい掛かるって」

「逆にこの傷三日で治るの……」

 

 ユウの言葉に苦笑する。流石は再生力も常人離れしている神機使いだ。

 暫くするとカノンがタツミとブレンダンを引き連れて再び病室へ戻ってきた。まずは無事であった事に安堵の表情を浮かべる彼らであったが、タツミは少し厳しい口調で今日の反省点を述べていく。

 

「ミツハ、今回の件は吹っ飛ばされた先が水辺だったり、水中に二体目が居たりと全体的に運が悪かったとは言え、周囲の注意を怠ったミスだ。ヒバリちゃんも言ってただろ、近くに小型のアラガミもいるから周囲に警戒しろって」

「……はい。すみません、大森隊長」

「だから硬ぇよ」

 

 タツミはくしゃりとミツハを撫で、早く怪我治せよ、と笑った。はい、と頷いてそのまま俯くとぼさぼさになったミツハの長い髪が顔を隠した。

 タツミは苦笑し、もう一度頭を撫でてから第二部隊を引き連れて病室を出た。再び病室はミツハとユウ、コウタだけの空間になる。

 

 鎮痛剤が効いているのか特に身体の痛みは感じなかった。毛布に隠れて左足は見えないが、布団が盛り上がっている為ギプスがされているのだろう。頭には包帯が巻かれ、身体の至る所にガーゼが貼られていた。文字通り満身創痍の状態だ。しかし生きていた。

 

――生きてるんだなあ。

 

 今でも鮮明に思い出せる、死の恐怖。あの瞬間、ミツハは確かに死に直面していた。

 それと同時に、自分の生を実感した。

 

「大丈夫?」

 

 ミツハの顔を心配そうに覗き込むのはユウだ。大丈夫だと告げるが、存外に声は震えていた。

 

「目、腫れてるから冷やした方がいいね。氷嚢貰ってくるよ」

「……ユウこそ大丈夫?」

「え?」

「いや、えっと、結構酷い顔してるから……」

 

 泣き腫らして酷い顔をしているミツハが言えた事ではないが、ユウの表情に普段の明るさはなかった。綺麗な碧眼も今やくすんで見え、力の無さをありありと示していた。

 ユウは誤魔化すように苦笑していたが、コウタが優しく背中を叩くと素直に言葉を形にした。

 

「自分の力の無さを実感してて、ちょっと凹んでる、かな」

「……今日の私の怪我は、私の注意力の無さが原因なんだからユウのせいじゃ、」

「すぐに動けなかったんだ。また、誰かが死ぬ姿を見るかもしれないって思ったら怖くなって。……結局動きが悪くなった僕をタツミさんがサポートしてくれて、ソーマがミツハを助けに行ったんだけど、かっこ悪いなあって。強くならなきゃって思ったばっかりなのに」

 

 ユウはエリックが喰われる姿を目の前で見ていたのだ。場所は、鉄塔の森。彷彿とさせるには十分過ぎるだろう。ましてやミツハはユウの同期だ。まだ実戦経験の浅い新兵は動揺して当然の出来事だが、ユウはそれすら恥じた。

 

 力の無さとは実力の事を言っているわけではない。恐らく精神力の意味合いの方が強いだろう。仲間が死の危機に瀕しても動揺を戦いの動きに出さない強さだ。場数を踏んだベテランでも恐らく難しい心の持ちようにユウは手を伸ばしていた。

 

「……やっぱりユウは強いよ」

「全然強くないよ」

「じゃあ一緒に強くなろうよ」

「そうだぜ、俺ら三人でめちゃくちゃ強くなってやろうぜ」

「……そうだね。みんなで強くなろう」

 

 笑って、三人で拳をコツンとぶつけ合った。

 

   §

 

 ユウとコウタが出ていき、ミツハは一人病室に残された。出ていく際に氷嚢を看護師にお願いしてくると言っていたので、少しすれば看護師がやって来るだろう。

 

 病室のベッドで横になるのは、ミツハが初めてこの世界にやって来た時以来だ。

 

 ヴァジュラに襲われていた所をソーマに助けられ、アナグラで保護された。メディカルチェックから目を覚ませばサカキとツバキがおり、此処が六十年後の世界であると聞かされたのだ。そうして適合試験を受けると決めた。それからもう、ひと月近くになる。

 

 この一か月間は目まぐるしい程に日々が過ぎて行った。流されるようにミツハはそれらを受諾し、腕輪をつけた。神機を持った。適合試験を受けた理由も特にはない。他に道がなかったからだ。そしてミツハは、自ら道を探す事もしなかった。きちんと自分の周りを見ていなかったのだ。

 

 ふと、改めて道を探してみるがやはり道はない。ミツハがこれまで歩んできた道はなくなっており、歩める道もない。ひと月前はその事実が特に重大な事には思えなかった。

 

――だって、本当だって思ってなかった。

 

 どうせいつか醒める()だと思い、夢から醒めれば元通りの道が用意されていると思っていた。だがそれはミツハの妄想でしかないのだ。

 もう一か月も親の顔を見ていない。友人にも会っていない、家にも帰っていない。ようやくミツハはその事実を心の底から受け入れ、涙を流した。

 

――寂しい。

 

「かえりたい……」

「やっとその言葉が聞けたよ」

 

 独り言のつもりで呟いた言葉に反応があった。

 顔を上げれば、サカキが氷嚢を持って病室に入っていた。

 

 ベッドの傍にある椅子に座り、サカキは泣き腫らしたミツハの目に氷嚢を当てる。自分の事情を知る数少ない人間を前にしてミツハはまたボロボロと泣き出した。

 

「君は今まで一度も『帰りたい』なんて言わなかった。たった一人で六十年前の世界から来たと言うのに、どこか楽観的にすら見えたよ」

「……夢だと、ずっと思ってました」

「うん」

「タイムスリップなんてあり得ないって……夢だって! 思って、たんです。死んだら元の世界に戻れるって、思って、でも、死にそうになって分かったんです、……現実なんだって。死んだら、そこまでだって。元に戻れや、しない、って。ゆめじゃ、ない、ってぇ……!」

 

 堰を切ったように泣き喚くミツハを、サカキはただ黙って聞いた。こわい、さびしい、かえりたいを繰り返す震える背中を撫でてやり、ミツハは枯れるまで泣き続けた。

 

 六十年前の平和な世界から一人やってきた少女は、これまで一度も泣き喚きはしなかった。

 取り乱したのも最初の一度きりで、少女は淡々としていた。元の世界を、家族を、友人を焦がれる事もせずに淡々とこの世界での出来事をこなしていた。

 

 そこに感情がなかったわけではない。同期と話すときは笑い、初めて生き物を殺したときは罪悪感も覚えていた。ただ、あまりにもミツハは元の世界への執着が無さ過ぎた。

 

「私、本当にタイムスリップしたんですね」

 

 現実としてこの世界を受け入れていなかったからだ。

 

 だからこそ元の世界への執着が無かった。どうせ帰れる、どうせ元に戻る。そんな思いが、たった一人で六十年後の世界へ放り出された恐怖を無くしていた。

 

「タイムスリップなんて突飛な事象、受け入れ難くて当然だ。だけど理解して欲しい。……ミツハ君は確かに、今この時代に生きているんだよ」

「……はい。やっと、実感が持てました。生きてるんですよね、わたし。この世界で、生きてるんですね」

 

 家族も馴染んだ町も何もない世界に。

 自嘲するように口元を歪め、頬を涙が伝った。

 かえりたい。

 もう一度呟き、手の甲で涙を拭う。泣き腫らした目には痛かったが、それでも乱雑に拭って涙を止めた。

 

「帰りたいです。そのためにも、生きなきゃ、だめですね」

 

 強くならなきゃ、だめですね。

 コツンと拳をぶつけ合った、つい先程の会話を思い出す。ミツハは独りであったが、仲間がいた。家族も友人も何もない世界だが、既にミツハの周りには多くの人が居た。ミツハの無事に泣いて喜ぶ同期や先輩。強くなろうと高めあえ、笑いあえる友人が既に居る。

 

――だいじょうぶ。

――大丈夫。

 

 言い聞かせるように何度も心中で呟く。

 祈るように両手を握り額に押し当てると、右手首にある赤い鉄の腕輪がヒヤリと頬に触れた。

 

 〝なんでてめえは腕輪をつけてんだ〟

 〝覚悟もない奴が戦場に出るな〟

 

 苛立たし気に吐き捨てたソーマの言葉を思い出す。

 本当にその通りだと、静かに笑った。

 



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16 井上ミツハのスタートライン

「本当に切っていいんだな?」

 

 病室にツバキを呼んだ。椅子に座り、首にクロスを巻いたミツハはツバキの言葉に頷く。

 そうか、と一言だけ返され、ミツハの長い黒髪に鋏が入れられる。紙を敷いた床にぱさりと黒髪の束が落ちた。

 

 長い髪をばっさり切り、心機一転というのはよくある話だ。ミツハの友人も高校生になるから、失恋したから、などと様々な理由で髪を切っていたが、ミツハは中学時代からずっと伸ばしたままだ。小学校と違って校則が厳しくなり、髪を短くして微妙な長さになると容儀検査の際に煩わしくなる為ずっと髪が結える長さにしていた。長い髪で見慣れてしまった為か高校に進学しても短くする気にはならず、ついでに定番の失恋した時も切りはしなかった。

 

 頭が軽くなり、首がスースーする。終わったぞ、とクロスを外され鏡を渡される。鏡に映る自分に思わず笑ってしまった。

 

「なんだか自分じゃないみたいです」

「見違えたな。短い髪も似合ってるぞ」

「有難うございます」

 

 腰まであったミツハの髪はカノンと同じぐらいの長さにまで短くなっていた。泣き腫らした目とあちこちにあるガーゼのせいでより一層別人に見え、酷い顔、と心中で呟いた。

 

――ほんとに、結構気分が変わるもんなんだな。

 

 片づけられていく切り落とされた髪を見ながら、節目に髪を切る心理をようやくミツハは理解した。たかが髪を短くしただけだというのに、今までの自分じゃないような気分になる。切られた髪に今までの自分を詰め込んでいるかのようだ。

 

「覚悟が出来たようだな」

 

 ふっとツバキが笑う。見違えたのは見た目だけではない。ミツハの纏う雰囲気そのものが違っており、ただの〝少女〟ではなくなっていた。

 はい、と頷き笑って見せた。多少の強がりも込めて。

 

   §

 

 片松葉をついて病室を出る。安静にしろとツバキから言われたが、どうしてもミツハは今行動したかった。

 エレベーターに乗ると先客がいた。金髪の癖毛とブランドの服が特徴的な、同じ防衛班のカレル・シュナイダーだった。先輩に一礼すると「誰だお前」と真顔で言われてしまった。

 

「だ、第二部隊所属の井上ミツハです……」

「言われなくても分かる」

「真顔で言われると本当に分からないんじゃって思うじゃないですか……」

「俺の目を節穴とでも思ってんのか?」

「思ってないです思ってないです!」

 

 ブンブンと勢いよく首を振って否定すると、カレルはフンと鼻を鳴らした。居住区のベテラン区画のボタンを押し、扉を閉める。一般区画へのランプがついていた為カレルは自室へ戻るのだろう。

 暫く無言の密閉空間だったのだが、カレルがミツハの左足を一瞥すると忌々しそうに口を開いた。

 

「〝死神〟と同じチームだったんだってな。運が悪かったな。いや、二階級特進にならなかっただけマシか」

 

 任務中に怪我を負ったミツハを馬鹿にするような口調ではなかった。多少の同情を込められたその言葉が、カレル・シュナイダーがソーマに向ける印象をよく物語っていた。

 

 つまりカレルはこう言いたいのだ。怪我を負ったのはソーマのせいだ、と。

 

「……この怪我はただ単に私のミスですし、そもそも助けてくれたのはソーマさんです」

「はっ、どうだか。ま、エリックの二の舞にならねえよう精々気をつけろよ」

 

 一般区画に着き、エレベーターが開く。先に降りたカレルの背中を見ながら、ミツハは松葉杖を強く握った。

 反論したい。が、大怪我を負った自分に言える事などきっと何もない。その事実が無性に悲しく、何も言葉を言わぬまま扉が閉まった。

 

 ベテラン区画と呼ばれる、曹長以上の神機使いの自室がある階でエレベーターが止まる。

 目的の人物の部屋が何処にあるのか分からない為、ひとつひとつネームプレートを確認していく。慣れない片松葉での移動もあり、十分程時間を掛けてようやく探していた人物の名前を見つけた。

 

 〝ソーマ・シックザール〟

 

 死神と呼ばれている、命の恩人の名だ。

 時刻は二十一時半を過ぎており、決して早くはない時間に親しくもない間柄で部屋を訪ねるのは不躾だろう。だが日を跨ぎたくはなかった。大きく深呼吸をして、震える指先でインターホンを押した。

 

「…………」

 

 反応はない。たっぷり一分待ってみてもう一度インターホンを押してみるが、やはり反応がない。

 もしやまだ自室に戻っていないのだろうか。それとも寝ているのだろうか。もし前者ならば待つという選択肢もあるが、後者ならばこうしてインターホンを鳴らしているだけで迷惑だろう。しかし二十一時半で寝ているとは考えにくいが、早寝である可能性も否定出来ない。

 待つか、帰るか。その二択で悩んでいると、扉が開いた。

 

「あっ」

「……何の用だ」

 

 不機嫌そうな表情を隠そうともせず、眉間にしわを作ってソーマが出てきた。

 普段目深にフードを被っているダスキーモッズは脱いでおり、黄色いシャツが目新しかった。片耳だけイヤホンをつけており、外された方のイヤホンから音楽が聞こえる。シャワーを浴びた後なのか白金の髪の毛はしっとりと艶を増していた。

 

 ミツハの短くになった髪に僅かに目を見開いたものの、すぐにじろりと蒼い瞳がミツハを見下ろした。人を拒絶する冷たい眼差しにたじろぐが、ミツハはその目を逸らさなかった。

 

「あ、あの、今日は助けて頂いて有難うございました。……私、ソーマさんに助けられてばかりですね」

「……わざわざそんなくだらねえ事言いに来たのか」

「どうしても言わなくちゃと、思って」

 

 ぎゅっと松葉杖を強く握る。ギチ、と並外れた神機使いの握力に松葉杖が悲鳴を上げるが、ミツハの耳には入らなかった。

 

「覚悟なんて、これっぽっちもなかったです。腕輪をつけた理由もないです。深く考えもせずに神機を持ちました」

 

 ミツハの言葉にソーマの眼光が鋭くなる。部屋に戻ろうとする彼を引き留めると腕を振り払われた。重心のバランスが崩れて左足に痛みが走る。思わず顔を歪めたがそのまま言葉を続けるとソーマはもう扉を閉める事はしなかった。

 

「でも、やっと覚悟が出来ました。私、今まで実感が持てないままゴッドイーターになってたんですよね」

「…………」

「有難うございます。やっと、……やっと地に足が着きました」

 

 痛む身体に鞭を打って深く頭を下げる。ソーマは暫くミツハのその姿を見つめていたが、これ以上何も言わないと分かると何も言わずに扉を閉めた。

 

 冷たいとは思わなかった。ソーマの反応を期待していたわけではないし、寧ろ最後まで話を聞いてくれただけでも有難かった。

 頭を上げて固く閉じられた扉を見つめる。ちらりと見えた彼の部屋は随分と荒れていた。まるで彼の心情を表しているかのようだった。

 

――よし。

 

 扉に背を向け、片松葉をついて歩く。早く怪我を治して神機を持ちたかった。きっと今までとは違う心持ちで神機を握れる筈だ。そうしてもっと訓練をしなければと思った。少なくとも、彼の前で大怪我を負わずに自力で乗り切れるくらいには強くなりたかった。

 

――〝死神〟なんて呼ばせたくない。

 

 自分の命を二度も助けてくれた彼を。

 同行者の死を人知れずひとりで悔やむ彼を。

 絶対に死んでやるか、と強く思う。この世界で生きていく覚悟を持ったミツハは、ささやかな決意を胸にしっかりと歩いた。

 



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第三章
17 おはようの一歩


 申し訳程度にノックがされ、返事を待たずに扉はコウタの元気な声と共に開いた。

 

「ミツハー、怪我の具合はどう――……すみません間違えましたっ!」

「間違ってない! 間違ってないから!」

「いつの間に髪切ったの?」

「昨日の夜にツバキさんに切ってもらったの」

「イメチェン?」

「うーん……イメチェンっていうか……」

「決意の断髪的な?」

「あ、そんな感じ」

 

 なんかかっけーな、とコウタが笑った。慣れない髪とコウタの言葉に気恥ずかしくなり、スースーする首元を摩る。そんなミツハにユウが似合ってるよ、とさらりと微笑んで言ってのけた為、更に首元を摩った。天然タラシってこういう事を言うのか、と密かにユウの先行きが不安になった。

 

 同期二人の他にも防衛班の面々が見舞いに来るが、開幕はほぼ同じようなリアクションをされ踵を返されかけた。カノンは髪のアレンジがもう出来ないと少々寂しそうにしていたが、長さが同じぐらいになった為お揃いの髪型が出来ると意気込みミツハの髪を編み込んだりしていた。

 

「ふふ、どういう心境の変化かしら?」

 

 ジーナが濃いアイラインを細めて微笑む。ミツハの事情を隠して言葉にするのが難しく、色々です、と曖昧に笑って返すとジーナは特に追及せずにそう、とミツハの短くなった毛先を梳く。癖毛の髪は短くなった事により一層目立ち、毛先があちこちにはねていた。「カレルさんみたいですね」カノンが言い、昨夜のエレベーターでの会話を思い出してしまい苦笑した。

 

 流石の再生力と言うべきか、グボロ・グボロの牙により深い傷を負っていた足はユウが言っていた通り三日で塞がった。しかし脹脛にある一番深かった傷は痕が残り、十センチ程の赤い線が残った。寧ろ一つしか傷痕が残らなかったのか、と改めてオラクル細胞による再生力の凄さに舌を巻いた。

 この傷痕は教訓だ。大事に付き合っていこうと少し盛り上がっている皮膚をなぞる。そんな早朝五時半過ぎ。

 

――完全に目が覚めた。

 

 この三日間は特にする事もなく、精々リハビリぐらいでしか身体を動かしていない。寝る時間も多かったせいか随分と早く目が覚めてしまった。

 食堂が開くのは六時半からなので一番乗りで朝食を取ろうにもまだ一時間程時間がある。怪我のせいで清拭しか出来なかった為、シャワーを浴びようと部屋を出た。

 

 シャンプーの量が減った。ドライヤーの時間がかなり短くなった。ずっと長い髪で慣れていたせいか、乾く速さが尋常じゃなく早く感じた。ラクだなあと思いながら髪を整え、シャワールームからランドリーへ移動する。洗濯物を回して時間を確認すると、丁度食堂が開く時間になっていた。

 

 朝一から任務がある神機使い達が食事を取っており、疎らに席が埋まっていた。何処に座ろうかと配給に並びながら食堂内を見渡していると、遠ざけるようにテーブルの端に座って食事をしている男を見つけた。周りの席には誰も座っておらず、かなり間を空けてから席を埋めていた。プレートを受け取り、男の下へ歩む。

 

「おはようございます」

 

 一言挨拶を入れ、男――ソーマの正面の席に座る。相変わらず目深に被られたフードから覗く蒼い目が、ミツハをちらりと鬱陶しそうに見つめた。しかし特に会話を振る事もなく食事を始めたミツハから視線を外し、挨拶を返す事もせずにソーマは食事を続けた。

 一か月も経てば配給の食事にも慣れ、最初の頃のように水で流し込まずとも食べられるようにはなれた。美味しいとは微塵にも思えないので食べる度に母親の手料理が恋しくなるが。

 

 携帯の通知音が鳴り、画面を見てみるが何も来ていなかった。どうやら鳴ったのはソーマの携帯のようで、彼は画面を確認すると一層眉間のしわを深めて小さく舌打ちをした。面倒くさい任務でも入ったのだろうかと思っていると、食事を終えたソーマがやはり何も言わず立ち上がる。

 

 時間にして十分程度。無視されるのは流石に堪えるので何も会話を振らなかったが、何処かへ行けと言われなかっただけで万々歳だった。

 まるで戦場にでも居るかのように一切隙がない、息が詰まる緊張感を常に纏わせている男はその緊張を解く事があるのだろうか。そんな事を思いながら、夕食の時も探してみようと予定を立てた。

 

   §

 

「シュナイダーさん、お願いしますっ!」

 

 神機の下部から排出したアンプル状のカートリッジを後方にいるカレルに放つ。銃型神機は捕喰形態(プレデターフォーム)に変形も出来ないので、神機の自己修復を待つか〝Oアンプル〟と呼ばれるオラクルが凝縮されたカートリッジで補充するぐらいでしか装填が出来ない。

 自己修復は時間が掛かる上に、Oアンプルは携行出来る数が限られる。そもそも遠距離戦闘型の神機使いは一人で戦う事を想定しておらず、近距離戦闘型の神機使いとの共闘が前提だ。何故なら近距離戦闘型の神機はアラガミを〝斬る〟という行為でアラガミから直接オラクルを奪取出来るのだ。

 

 奪ったオラクルを遠距離戦闘型神機使いに渡す事で補充が可能となり、再び弾を撃つ事が出来る。そういった連携を上手にこなしていく事で、アラガミとの戦闘を有利にさせるのだ。

 

「気が利くじゃねえか」

 

 カレルは受け取ったオラクルを神機に装填し、シユウの下半身に向かってアサルトを連射させる。そしてボロリと硬い外皮が壊れた。鎌が当たりやすいシユウの下半身はその外皮のせいで切断に長けている鎌では攻撃が通りにくいが、結合崩壊を起こした事によって幾分通りやすくなる。踏み込みを入れ、腰を低くして鎌を振り翳す。咬刃が壊れた下半身と翼の肉を一緒に断っていく。

 

 場所はエイジス島近郊、第三部隊が防衛している場所だ。先程も述べた通り、近距離型は遠距離型にオラクルを渡しながらの戦闘となる。基本近距離一人と遠距離一人のツーマンセルで組むのが鉄則だが、遠距離型が増えると近距離型の負担が大きくなる。

 

 第三部隊はジーナ、カレルが遠距離型に対し近距離型はシュン一人だ。シュンの負担を減らすべく、度々第三部隊は第二部隊から近接戦闘型の神機使いを借りて任務を行っている。ミツハの配属も加わって、第二部隊には遠距離型一人に対して近距離型が三人も居るのだ。

 

「よっしゃ、トドメは俺が頂くぜ!」

 

 瀕死のシユウにシュンが斬りかかる――が、それよりも早く頭に撃ち込まれた弾にシユウは鮮血を噴出させ、糸が切れたように沈んだ。振り向けばジーナがスナイパーを構え、恍惚とした表情を浮かべていた。

 

「ふふ……綺麗な花ね」

「ジーナ! 今のは俺がかっこよくキメるとこだったろーが!」

「あら、早い者勝ちでしょ?」

「おいシュン、喚いてないでさっさと捕喰して回収しろ」

 

――濃いなあ、第三部隊。

 

 ヘリの要請を入れながら苦笑する。相変わらず小競り合いを続けているカレルとシュンと、それを微笑ましそうに見つめるジーナ。第二部隊はこういった小競り合いもないが、だからと言って第三部隊は第二部隊より険悪だとかは全くない。単に〝喧嘩するほど仲が良い〟というものなのだろう。

 

「……そういえば、第三部隊の隊長って誰なんですか?」

「形式上はカレルよ。でも第三部隊の隊長もタツミよ、私達は防衛班なのだから」

 

 防衛班は不思議なチームだ。一見バラバラに見えるが、確固とした強い絆がある。だからこそ自分がその絆に加われるか時折不安に思う。そんなミツハの心情を察してか、ジーナは柔らかく微笑んだ。

 

「カレルもシュンもあんな感じだけど、いい子なのよ。ブレンダン達と馬が合わなくて衝突する事もあったけど、タツミがバラバラだった私達をまとめてくれて。一年前にカノンが入った時は逆にシュンが引っ張ってくれたりしてね」

「……なんていうか、本当にみなさん良いチームですよね」

「あら、他人行儀なのね。悲しいわ。貴方だってもう防衛班よ? きっと今以上に良いチームになれると思うわ」

「……なれますかね」

「なれるわよ」

 

 ジーナが妙に自信有り気に笑った。ジーナの言葉は嬉しいが、その自信は何処から来るのだろうと首を傾げているとぞくりとうなじの産毛が立つ。

 甲高い耳鳴りのような鳴き声が響き、振り向けばザイゴートが浮遊していた。神機を握り直し構えを取ろうとするよりも早く、ほんの一瞬のうちにザイゴートは真っ二つになりびしゃびしゃとコンクリートの地面を血で濡らした。

 

 そんなザイゴートを捕喰する神機はもう一人の近接型だ。シュンに礼を言おうと口を開くが、にやりと口元に弧を描いて子供っぽく笑った。

 

「来月の嗜好品配給チケット寄越せよ!」

「……あはは。善処します」

「おいこら」

 

 苦笑を漏らしながらシュンを躱しているとヘリの音が聞こえてくる。丁度いいとシュンから逃げるようにピックアップポイントまで走るが、シュンが追いかけて走ってきた。ガキだな、とカレルが呆れたように吐き捨てれば隣のジーナが可笑しそうに微笑んだ。

 



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18 懐に入る

「なあ聞いたか? なんかまた新型入ってくるらしいぜ」

 

 ヘリに乗り込み、アナグラへ帰還の最中にシュンが話題を振った。らしいな、とカレルが相槌を打ちながら会話を広げていく。どうやら近日ユウと同じ近接と銃を切り替えられる新型神機使いがロシア支部から極東支部に転属されるらしい。

 

「どの部隊に配属されるんでしょう……人員的には第三部隊ですかね」

「新型だからどうせ第一部隊だろ。チッ、割の良い任務がまた持っていかれるな……」

「シュナイダーさんほんとブレないですよね」

 

 カレルはかなりお金にがめつい。通常の任務でもより多く稼ごうとアラガミの素材は余すところなく捕喰し、資材の回収も忘れない。参考になる点も多いのだが、アラガミの討伐数に拘って深追いし過ぎる面もあるらしくタツミが大変だったと苦笑していた。

 

 アナグラに着き、職員に神機が収納されたアタッシュケースを渡しエントランスへエレベーターを移動させる。エントランス二階のラウンジには第一部隊が集まっていた。ぐったりとした様子でソファに座るリンドウとその周りに立つ第一部隊のメンバー。どうやら彼らもミツハ達と同じように任務から帰還したばかりのようで、任務報告をしている。横を通り過ぎざまにユウと目が合い、小さく手を振った。

 

「第一部隊の任務ってどんな感じなんでしょうね」

「そりゃ防衛班に渡される任務よりずっと高額報酬なんだろ」

「くっそ、支部長もなんで第一部隊にばっかデカい任務与えるんだよ!」

「高額な分強敵なんでしょうね……」

「俺なら倒せるっつーの!」

「まったくだ」

 

 シュンとカレルは口を尖らせ、ぶつぶつ文句を言いながら階段を下りる。相変わらずね、と笑うジーナの隣でミツハは苦笑した。

 

「ディキンソンさんはおふたりと違って気にしないですよね、報酬とか討伐数とか」

「私は地位や報酬なんてどうだっていいわ。ただアラガミを撃てればそれでいいの。そう、アラガミを撃ち抜いた瞬間、彼らは綺麗な花を咲かせるの。それが見られれば私は十分よ」

 

――うーん、やっぱり濃い。

 

 うっとりとした様子で微笑むジーナも二人に負けず劣らず曲者だ。アラガミとの戦いを〝生と死の交流〟、〝命のやり取り〟と考えており、独自の哲学を持っている。大きく胸元が開いた服も彼女の考えを反映したもので、弱点の心臓を露出してアラガミとの命のやり取りを対等なものにしている、のだそうだ。残念ながらミツハにジーナの思想は理解出来ない為苦笑しか返せないが。

 

 カレルがヒバリに帰投報告をしに行き、ジーナ達はベンチに腰掛けた。ミツハは側にある自販機でジュースを買い、ふてぶてしくベンチに座るシュンに渡した。

 

「小川さん、今日のお礼です」

「お、分かってんじゃねーか」

 

 どうかこれで嗜好品配給チケットの件を忘れてくれと願いながらジーナの隣に座る。報告を終えたカレルもベンチに座り、四人で今日の任務の振り返りや明日以降のアサインを確認していたのだがその途中で放送が入った。

 

『業務連絡。本日、第七部隊がウロヴォロスのコアの剥離に成功。技術部員は第五開発室に集合して下さい。繰り返します――……』

 

 途端にアナグラ内がざわめきだす。それはミツハ達も同様だ。

 

 ターミナルのノルンにはアラガミの情報が多数掲載されており、人一倍アラガミに関して無知なミツハは座学以外の時間でもアラガミに関する知識を勉強していた。その中でウロヴォロスの情報を見たときは、唖然とした。無数の複眼を持ち、触手が集まって出来たかのような体は山のように巨大だ。超弩級(ちょうどきゅう)アラガミとも呼ばれ、こんなに大きく、そして禍々しいアラガミがいるのかと絶句した程だ。

 

 そんなウロヴォロスが討伐され、コアを取り出したらしい。放送を聞いたシュンが思わずと言った様子で声を荒らげた。

 

「ウロヴォロス!? どこのチームが仕留めたんだ!?」

「しかもコア剥離成功かよ……ボーナスすげえんだろうな」

「おい、奢ってもらおうぜ!」

「やめときなさいよ、みっともない」

「第七部隊ってそんなに凄い人がいたんですか? 聞いた事がないんですけど……」

「第七部隊なんてねーよ、どうせリンドウさんだろ」

「えっ雨宮少尉は第一部隊ですよね!?」

「ぶっは、お前リンドウさんの事雨宮少尉って呼んでんのかよ!」

 

 シュンがジュースを吹き出して笑う。隣のカレルが迷惑そうにシュンの脇腹に肘鉄を食わせ、それにまたシュンが咽た。何しやがんだ! とまたシュンとカレルが小競り合いを始める二人を横目に、そうねえ、とジーナは人差し指を顎に当てた。

 

「ミツハは硬いわよね。もっと打ち解けてもいいんじゃないかしら?」

「つーか正直ディキンソンとかシュナイダーって言い難いだろ」

「うっ」

「たまに噛んでるよな」

「ううっ」

 

 シュンとカレルの言葉に言葉が詰まった。二人の言う通りで、今まで海外旅行にも行った事がないミツハは横文字の名前に慣れていない。関わった事のある外国人と言えばALTの先生ぐらいだったが、その先生も名前ではなくニックネームで呼んでいた為結局長い横文字の名前は呼んだ事がない。故にジーナとカレルのファミリーネームは非常に言い辛かった。

 

「それにカレルとカノンとは同い年でしょう? もっと砕けた感じでいいんじゃない?」

「いやでも先輩ですし」

「そうだぞ、先輩を敬うのは良い事だぞ!」

「シュンは威張りすぎよ」

「一番年下のくせにな」

「ンだとコラ」

 

 軽口を叩き合うのも彼らにとってのコミュニケーションなのだろう。ウロヴォロスの話題からすっかり逸れ、いつの間にかミツハの口調の硬さについての話になっていた。ファミリーネームではなくファーストネームで呼んでみようという流れになり、呼ぶまで帰らせないと男二人の悪ノリが始まってしまった。

 

「まさか名前が分からねえとかじゃないよな?」

「流石に覚えてますよ」

「じゃあ言え、ほらサンニーイチ」

「……シュンさんカレルさんジーナさん!」

「やっつけ感が酷い、やり直し」

 

 ひどい、とじろりとカレルを見やれば意地の悪げな顔をして笑った。悪人顔ですねと捨て台詞を吐いてベンチを立てば、くすくすと隣のジーナが微笑む。

 

「ふふ、それぐらいが丁度良いわね」

「……第三部隊ってやっぱり濃いですね」

「は、言うようになったじゃねえか」

「まあアナグラは変人の集まりだからな」

「お前が言えた事でもないがな」

「金の事しか頭にねえお前が言うな!」

 

 本日何度目かの小競り合いを始めたシュンとカレルから逃げるように、お疲れ様ですとジーナに言いその場を後にする。アナグラ内は未だウロヴォロスの話でざわついており、二階のラウンジに居た第一部隊は解散していた。

 

 ミツハはその足でエレベーターに乗り、医療区画へ移動する。傷が塞がってすぐの任務だったので看護師に経過を見せるよう言われていたのだ。

 エントランスや共同区画と違い、静かな医療区画の廊下を歩き病室へ入る。そこに看護師の姿はなく、代わりにリンドウがベッドに腰掛けていた。

 

「あ、雨宮少尉。お疲れ様です」

「相っ変わらずお前さんは硬ぇな」

 

 つい先程カレル達にも言われた言葉に思わず苦笑した。ベットのそばにある椅子に座り、ミツハはおずおずといった様子で名前を呼んでみた。

 

「えっと、じゃあ、……リンドウさん」

「お。どういう心境の変化だ? 髪もバッサリ切ってるし。……まあ死にかけてみりゃ色々変わるもんか」

 

 リンドウは笑みを浮かべながら、生き延びただけでも上出来だ、とミツハの肩を叩いた。

 

「ところでミツハ、怪我でもしたのか? 大怪我じゃなけりゃ俺が手当てしてやるよ」

「あ、いえ。塞がった傷の状態を看護師さんに診てもらいにきたんですが、いらっしゃらなくて……」

「あー、多分ちょっと待つ事になるぞ。さっき緊急の怪我人が運ばれてきたからな」

「あっ、そうなんですね。有難うございます。……リンドウさんは何処か怪我でもされたんですか?」

「いや、まー、ちょっとな。サクヤ達には内緒にしておいてくれるか? あいつにバレるとうるせえから」

 

 困ったように苦笑したリンドウに素直に頷いた。先程ウロヴォロスを討伐した第七部隊の正体はリンドウだとシュンは言っていた。もしそれが本当なら彼は第一部隊と別行動でウロヴォロスを討伐した任務の後だ。

 追求して欲しくなさそうだったので、ミツハもそれ以上聞かなかった。

 

「にしても、あの時助けた嬢ちゃんが神機使いになるとはなあ」

 

 ふいにリンドウが感慨深そうに呟いた。

 

「人生何があるか分かりませんね」

「本当だな。そういや、最近ソーマと仲良いな?」

「……えっ」

 

 何がどうしてそうなるんですか、という目でリンドウを見れば、彼は「違うのか?」と逆に首を傾げた。

 

「今朝一緒に飯食ってたじゃねえか」

「あー……あれはただ私がソーマさんの前でご飯食べてただけです。会話も何もしてませんよ」

「成程、ミツハの片思いか」

「なんでそうなるんですか!」

 

 リンドウのからかいに思わず声が大きくなってしまう。悪い悪いと笑うリンドウをじとりと見るが、その表情は悪ふざけで言っているわけでもなさそうだった。

 

「ミツハはソーマの事、どう思うか?」

「どうって……」

「あいつは〝死神〟なんて呼ばれてるが、お前はそれを信じてるか?」

 

 死神、という言葉でミツハに思い浮かんだのは、訓練所で見たソーマの背中だった。

 

「……ソーマさんは死神なんかじゃないですよ」

 

 時折すれ違う神機使いが〝死神〟の噂をする度に否定したい気持ちになる。先輩神機使いに歯向かう勇気は残念ながらミツハに持ち合わせていない為、もやもやした気持ちでその神機使い達の背中を見送るだけなのだが。

 

 ミツハの言葉にリンドウはふっと笑い、そうか、と何処か嬉しそうな声色で口を開いた。

 

「あいつは極東支部でもトップクラスの神機使いでな。修羅場を踏んでも生き残れるだけの力がある。けどまあ、だからと言って同行者全員助けられる程戦場は甘くねえだろ? 駆け付けたって間に合わない場合だって沢山ある。あいつはそれを人一倍見てんだよ。そんで人一倍それを悔やんでる」

 

 ミツハがグボロ・グボロに殺されかけた時、ソーマが助けに来てくれた。しかし一瞬でも遅ければミツハはあの巨大な牙に噛み砕かれ、ただの肉片になっていただろう。

 

 きっとソーマはその一瞬遅れた未来を沢山見てきたのだろう。だからこそあの時のソーマは訓練所で見た時のように、ただ一心不乱にアラガミを狩っていた。

 

「あいつは目の前で仲間が死ぬ事を一番恐れてる。だからずっと、仲間を遠ざけてる」

「……じゃあ死なないように強くならなきゃですね」

「ん、そうだな! 前にも言ったろ、生き延びる事を第一に考えろ。あの臆病なガキの為にもな」

「それソーマさんが聞いたら大激怒ですね」

「はは、違いねえ」

 

 あっけらかんと笑うリンドウにつられてミツハも笑った。リンドウから見ればあのソーマもガキなのだろうか。ソーマを語るときのリンドウはまるで兄のようだった。

 

「あいつ程優しい奴はなかなかいねえよ。だから、あー、なんだ。根気よくあいつの懐に入っていってくれや」

「懐に入るってあんまり良い意味じゃないですよ……」

「ありゃ、そうか?」

「でも、そうですね。仲良くなれならいいなって、思います。ていうかなりたいです」

 

 その言葉にリンドウは優し気に笑い、がんばれよ、とぐしゃりとミツハの髪を乱雑に撫でた。セクハラですよと軽口を叩けば可笑しそうにリンドウは笑い、ベッドから立ち上がり病室の扉を開けた。

 

「だいぶ防衛班に染まってきたな、お前」

 

 去り際に言ったリンドウの言葉が妙に嬉しく、有難うございますと強気に笑って見せた。

 



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19 防衛任務・前編

 ミツハと神機の適合率は基本的に高い方だ。変異しやすい偏食因子を持っているので適合率にも多少のブレがあるが、神機と合うようにも変化していく為極東とのアーティフィシャルCNSと相性の悪いヴァリアントサイズもミツハの身体にはすっかり馴染んでいる。馴染んでいるのだが、如何せんP五十七偏食因子の身体能力向上はP五十三偏食因子よりも劣るのだ。

 

 それは仕方ない。仕方ないのだが、強くなろうと決めた以上仕方ないからとそこで停滞するわけにはいかなかった。

 

「つかれた……」

 

 訓練所で小型の仮想アラガミを複数体用いて戦闘を行うが、一人だとやはりなかなかハードだ。地上にいるオウガテイルの相手をしていたらうっかり空中からザイゴートの砲弾を喰らってしまう事もままある。普段は後方からの援護射撃などがある為小型アラガミが多数出現しようと連携で的確に潰していくのだが、一人だとそうもいかない。

 

 居住区にアラガミが侵入した場合、防衛班はアラガミの迎撃は勿論民間人の避難誘導、救出もこなさなければならない為一人で食い止める事も必要となってくる。そうなった場合の役割は基本タツミやブレンダンなどの仕事で、まだまだ新兵のミツハは救出を優先に任されている。しかし早いところ一人での戦闘に慣れておいて越した事はないだろう。

 

 訓練所を出てエレベーター前の自販機でミルクティーを買う。足元に神機が入ったアタッシュケースを置き、ベンチに座って一息ついた。

 六十年を一緒に遡ってきた携帯のカメラロールを眺める。最近のミツハはこういった一息つく時間に写真を眺めるのが常であった。

 

 六十年後の世界で両親はもう生きていないだろう。友人はもしかすれば生き延びてフェンリルの庇護下になっているかもしれない。外部居住区へ出た際に視界の隅で探してみるが、年老いてしまった友人を探す事など無理な話だ。少しの間思い出に浸っていると、エレベーターの扉が開いた。

 

「わっ、あっ、あ。ソーマさん」

 

 咄嗟に携帯をスリープ状態にしてポケットにしまう。六十年前の写真を見られてしまった場合、誤魔化しが非情に面倒くさい。焦るミツハを一瞥し、アタッシュケースを持ったソーマは興味が無さげにミツハの前を通り過ぎた。

 

――訓練かな。

 

 訓練区画に居るのだからそれしかないだろうが、エリックが殉職した後訓練所に籠り、一心不乱にアラガミを薙ぎ倒していったソーマの背を見ている分多少心配になる。純粋に訓練ならばいいのだが、またやり切れない思いを人知れずぶつけているのではないか、と。

 

 遠ざかるソーマの背を見ながらそんな事を思っていると、スピーカーから警報音が鳴り響いた。その内容にミツハは緊張感が走る。

 

『緊急連絡! アラガミが最終防衛線を突破! A02ポイントの装甲壁にアラガミが攻撃中です! 想定五分で壁が突破されます! 防衛班は直ちに出撃の準備をして下さい! 繰り返します――……』

 

 放送を聞いたミツハの行動は早かった。アタッシュケースを持ち、ペットボトルをゴミ箱に投げ入れてエレベーターに乗る。まだ壁が突破されていない為、間に合えば居住区の被害はゼロで収まる。早く動けと閉まるボタンを押すと、閉まりかけの扉に褐色の手が伸びた。

 

「ソーマさん!?」

 

 慌てて開くボタンを押そうとする前にソーマは力ずくで難なく閉まる扉を開け、エレベーター内に入ってきた。壁に凭れ掛かり、腕を組む彼の足元にはアタッシュケースがある。訓練する筈ではなかったのかと不思議に思っていると、ミツハの視線に気づいたのか鬱陶しそうに言葉を紡いだ。

 

「今アナグラには第二部隊しかいねえだろうが」

「……防衛任務手伝って頂けるんですか!? すみません、凄く助かります!」

 

 第一部隊のベテランが居れば百人力だろう。礼を言って頭を下げていると、フェンリルから支給された方の携帯に連絡が入る。タツミから第二部隊に向けた一斉メールだった。敵戦力が書かれたメールにソーマが手伝ってくれる旨を返信し、時間を確認する。放送があってから一分が経っている。壁が破壊されるまで残り四分だ。

 

「えっと、敵戦力はシユウ一体とコンゴウが二体。その他小型アラガミ多数が壁を攻撃していて、此方に近づいてくる大型も一体居るそうです」

「大型は分からねえのか」

「偏食場レーダーがジャミングされているようで、特定出来ないそうです。ただ動きが早くないので到着までの時間は想定十分、らしいです」

 

 メールに書かれてある内容を音読しているとエレベーターが到着する。出撃ゲートを潜るとタツミが既にジープの運転席に座り、ノートパソコンを見ながら頻りにオペレーターと情報共有をしていた。どうやらタツミも都合良く神機を持っていたので直接来れた分、ブレンダンやカノンより先に出撃ゲートに出れたらしい。

 

「悪いなソーマ、お前任務上がりなのに」

「他の奴らは待つのか?」

「いや、とりあえず俺らだけで先に出るぞ。ブレンダンとカノンは現場で合流だ」

 

 ミツハが後部座席、ソーマが助手席に乗り込んですぐにアクセルが踏まれた。

 中央施設から壁までの距離は一・五キロメートル。時速八十キロで走ったとして到着までおよそ一分だ。壁が突破されるまでギリギリ間に合う時間だ。猛スピードで走るジープには天井がないので髪が煽られるが、長い時に比べると邪魔にはならなかった。

 

 走りながらミツハとソーマは神機をアタッシュケースから出す。柄を握るとオレンジ色のコアが鈍い輝きを放ち、生体部分から触手が伸び腕輪に繋がった。ミツハの神機の重さは十キロ以上もある。身体能力が上がっている為持ち上げる事は可能だが、十キロ以上の物を戦闘中易々と振り翳せる訳ではない。神機と接続された事で途端に神機はミツハの体の一部にでもなったかのように重さを無くし、五分の一程までに軽くなった。

 

 壁までの距離が半分を切るとソーマが舌打ちをし、バスターブレードを構えていつでも飛び出せる体勢についた。それとほぼ同時にオープンチャンネルに通信が入る。

 

『壁の破壊、想定よりも早いです! アラガミが防壁を突破!』

「もっとスピード出せねえのか!」

「無茶言うなよ、アクセル踏み切ってるわ!」

「――ザイゴート、来ますっ!」

 

 飛んでくるザイゴート目掛けてソーマが飛び上がり、巨大なバスターブレードで両断する。そのまま着地し、破壊された壁に向かって走り出した。小型のアラガミ達が流れ出した為、ミツハ達もジープから降りてアラガミ達を迎え撃つ。

 

「ミツハは避難指示を出しながら小型を潰せ! 俺とソーマで中型を相手する! 第一防衛ラインより先に通すなよー!」

「了解です!」

 

 アラガミの侵入に怯え戸惑う民間人を避難所へ誘導しながら、近づく小型アラガミを斬り落とす。避難所は第三防衛ラインより内側にある。ちなみに中央施設があるのは第六防衛ラインの内側だ。

 第一防衛ラインに住んでいる民間人はアラガミ侵入時、一番に被害を受ける為バラック小屋も他の区画と比べて粗末なものになっている。「またか」「壁の防衛強化はどうなってやがる」そんなフェンリルへの罵詈雑言の混じった悲鳴を上げながら民間人達は内側へと走り出した。

 

「避難場所はA35区画にあります! 周囲の瓦礫に注意し、焦らず進んで下さい!」

 

 騒然としている中でも響くよう大声を絞り出し、周囲の状況を見ながらの戦闘は相手が小型であっても油断が出来ないものになる。少しでも後れを取って民間人を負傷させてしまえば、そちらの救護もしなければならない。そして救護に人員を割いている分アラガミへの迎撃が疎かになり、被害が増える。防衛任務は討伐任務と違って自由度が格段に違うのだ。

 

 咬刃を展開して振り翳せば、その長い鎌のおかげで道幅いっぱいにリーチが伸びてオウガテイルは停滞する。しかし問題はザイゴートだ。空中に浮かぶザイゴートに鎌を当てるにはジャンプして斬り掛からなければならず、その隙に地上のオウガテイルはミツハを超えて内側へと進んでしまう。

 

「逃がしま、せんっ!」

 

 空中で咬刃を更に伸ばし、オウガテイル目掛けて振り下ろす。地上に着地した反動をバネにすぐさま立ち上がり、ザイゴートへ向き直るが頭部の真横を通り抜けた放射弾によりザイゴートは焦げた姿で地に落ちた。掠った頬がヒリヒリと痛む。

 振り向けばブレンダンが運転するジープの助手席から立ち上がり、ボンネットに片足をついてブラストを構えるカノンが居た。

 

「カノンちゃん、ブレンダンさん!」

「ミツハちゃん、避難誘導手伝います!」

「俺はタツミ達と合流する、頼んだぞ!」

「はいっ」

 

 ジープから降り、ブレンダンはソーマとタツミの交戦ポイントへ走り出す。その後は二人で避難誘導をしながらミツハがオウガテイル、カノンがザイゴートを迎撃していく。五分程度で民間人は大方避難し終え、取り残された人が居ないか見回りながら周囲のアラガミを排除していく。そんな中通信が入る。大型アラガミが壁に到着したようだ。

 

『大型種、B05ポイントの防壁を破壊し侵入! クアドリガです!』

『B05!? くそっ、距離があるな!』

 

 携帯でタツミ達の腕輪のビーコンを確認すると、交戦ポイントはA11区画だった。そこからB05区画までは一・五キロメートル以上距離がある。クアドリガの侵入地点から一番近いのは見回ってA18区画にいたミツハとカノンだった。

 

 不安げにカノンと顔を合わせる。しかしそれもほんの一瞬で意を決めたように互いに頷き、B05区画に向けて走り出す。

 

「タツミさん、私達でクアドリガの足止めをします!」

「みなさんが来るまでの時間は稼ぎますので!」

『……分かった、そっちにソーマとブレンダンを向かわせるからそれまで頼む! けど危険だと思ったらすぐ撤退しろ、いいな?』

 

 はい、と緊張を含んだ声を二人揃わせた。

 



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20 防衛任務・後編

 全速力で走れば二十秒近くでクアドリガの下へ辿り着く。ノルンでアラガミの情報を見ていた為クアドリガの姿は見た事があったが、実物は初めてだ。

 

 クアドリガは戦艦や戦車といった人類が作った兵器を捕喰したオラクル細胞によって生まれたと考えられており、他のアラガミとは異質な存在感を放っている。キャタピラをした脚を持ち、ミサイルポッドを装備しているアラガミは動物的ではなく、まさしく生きた戦車だ。

 

――アラガミってなんでもありだなあ!

 

 そんな事を思いながら、バラック小屋を壊しながら進むクアドリガの前に立つ。切断のみに長けたヴァリアントサイズではクアドリガに有効打は少ない。唯一〝排熱器官〟と呼ばれる頭の横にある手のような部位は鎌が通りやすいのだが、そこを狙うには跳躍しなければならず、咬刃を展開して振り回すラウンドファングが出来ないので距離が取りずらかった。普段咬刃を大きく展開して中距離から狙うスタイルのミツハには難しい相手だ。

 

「ミツハちゃん、私前足狙うので射線気を付けて下さいっ!」

「分かりました!」

 

 カノンのバレットは破砕に長けており、クアドリガの前足は破砕に弱い。なるべくカノンの射線に入らぬようクアドリガの側面に回り、飛び上がって排熱器官を大鎌で攻撃していく。

 足を止めたクアドリガは怒りの炎を上げるように黒煙を纏わせ、一気に黒煙から火炎を発生させた。範囲外にいたカノンは無事なようだったが、クアドリガのすぐ近くに居たミツハはすんでのところで後退したが少し火傷を負ってしまった。

 

「ミツハちゃん!」

「っ……だ、大丈夫です! 私、壁の方に誘導させますね!」

 

 クアドリガのヘイトはミツハに向けられ、壁へ向かって走り出したミツハを追うようにクアドリガも前進する。これで第一防衛ラインより先へ行かれる事はないだろう。

 ミツハは咬刃を展開させ、カノンのバレットによりダメージを負った前足へ鎌を入れる。キンッ、と硬い音が響き、あまりダメージが通っていない事が窺えた。

 

 そんな時にクアドリガの頭に巨大な刃が振り落とされる。

 鋸の形をしたバスターブレードだ。

 

「ソーマさん!」

 

 一・五キロ以上の距離を二分もしないうちにソーマとブレンダンは駆け付け、大型アラガミを慣れた動きで斬り込んでいく。クアドリガは二人の猛攻に怯み、暴れるように突進を始めた。

 

「カノン、ミツハ、よくやった! あとは援護を頼む!」

「はいっ!」

 

 突進を避けながら指示を出すブレンダンに頷き、カノンは引き続き足を狙って放射弾を撃つ。ミツハもステップでクアドリガから距離を置き、ラウンドファングで中距離から攻撃を地道に入れていく。

 

「来るぞ!」

 

 ソーマが注意を促すと、クアドリガは小さく足を上げつつミサイルポッドを展開し始めた。正面に立たぬよう近距離型は側面へと回り、ミツハもそれに続くがクアドリガの狙う位置が明らかに神機使い達に向いていなかった。

 クアドリガの先へ視線を動かせば、視界の隅に赤毛の少年が瓦礫に隠れるようにして身を縮めていた。少年と目が合い、怯え切った瞳はミツハにこう訴えた。

 

 たすけて、と。

 

「ミツハ!?」

 

 ブレンダンの自分を呼ぶ声を聞きながら、ミツハはクアドリガの正面――少年のもとへ走り出した。

 ミサイルポッドからは小さなミサイルが八つ生み出され、此方へ向かって今にも放出される。少年の下へ辿り着く前にミサイルは放たれるだろう。このままでは少年諸共ミツハもミサイルの餌食になる。ミツハはウエストポーチに手を伸ばし、金属筒についたセーフティーレバーを握り締めてプルリングを歯で引き抜いた。

 

「スタングレネード、いきますっ!」

 

 叫びながらクアドリガに向かって閃光弾を投げつける。途端に辺りは眩い閃光に包まれ、怯んだクアドリガのミサイルは進路を崩して少年から少しずれた位置に発射された。

 滑り込むようにして少年のもとへ辿り着いたミツハは装甲を展開する余裕もなく、少年の身体を覆うように抱き締めて爆風により飛ぶ瓦礫から少年を守る。

 

「ミツハ、子供を連れて走れ!」

 

 ブレンダンの言葉に従い、怯えて動けずにいる少年をおぶってその場から離れる。閃光弾でクアドリガの視界がやられているうちに攻撃範囲外へ逃げ込みたかったが、十秒にも満たない効果ではそれも叶わずクアドリガは唸りを上げてミツハへ向かって突進する。

 神機と自分とそう身長の変わらない十二、三歳の少年を抱えて走るのは加重的にきつく、クアドリガの突進を避けられそうにない。

 

 ――しかし、クアドリガの突進は突如止まる。

 

 痺れる様にその巨体を震わせながら地面に張り付いたのだ。肩越しに振り返ってその姿を見たミツハは思わずガッツポーズをした。

 

「敵、拘束しました!」

「……あっ、ホールドトラップですね!?」

「はい! 上手く掛かって良かったです!」

 

 逃げている最中にホールドトラップを設置していたのだ。目がやられていたクアドリガはその事に気づかず、ミツハの後ろを追った巨体はまんまと罠に掛かり大きな隙を作った。

 絶好のチャンスにソーマ達は畳み掛けるようにクアドリガに攻撃を喰らわせていく。ミツハだけはその猛攻に参加せずクアドリガから離れた位置まで移動し、少年を地面に下ろした。

 

 右足から出血しているが、傷はそこまで深くないように見える。ウエストポーチから包帯を取り出して止血を行いながら少年に話し掛ける。

 

「他に怪我はない?」

「……ないです。あのっ、有難うございます!」

「良かった。もう大丈夫だからね」

 

 ミツハが笑い掛ければ、少年は安心したのかじわりと目に涙の膜を張った。零すまいと腕で乱雑に涙を拭い、もう一度有難うと元気な声でミツハに礼を言った。

 

 生憎止血の仕方に慣れておらず、いつかソーマに施してもらった時のように綺麗に包帯を巻けなかったが一応止血は完了した。歩けそうにない為避難所に向わせる事は出来ない。ここで待機してもらい、クアドリガの討伐にミツハも加わろうと神機を握って立ち上がる。

 戦局を確認すれば、いつの間にか中型種を倒し終えたタツミが合流し四人でクアドリガに猛攻を続けていた。クアドリガはだいぶ弱っており、止めを刺したのはソーマのチャージクラッシュだった。

 

『オラクル反応消失! みなさん、ご無事ですか?』

『死者は一人も出てないぜ。民間人が一人負傷したが命に関わる傷じゃない。――うっし、お疲れさん!』

 

 オープンチャンネルに入った通信が、防衛任務が無事終了した事を告げていた。建物の損害はあるが、神機使いと民間人共に死者は一人も出ていない。ほっと胸を撫で下し、此方へ近づいてくるカノン達に手を振った。

 

「お疲れ様です!」

「お疲れ様ですっ! ミツハちゃん、かっこよかったです!」

「良い機転の利き方だったな。感服だ」

「短い間に成長したなあ。止血の仕方はもうちょい頑張れって感じだけどな」

「上げて落とすのタチ悪いですタツミさん……」

「あっはっは、悪い。でもよくやったぞミツハ。民間人を救出した上で生き残り、応急処置も済ませてある。百点満点だ」

 

 にっとタツミが笑い、手放しでミツハを褒めるので嬉しさと恥ずかしさが込み上げ、首を摩りながら笑い返した。

 ブレンダンが少年を背負い、避難所へ連れて行こうと乗ってきたジープまで歩き始める。来た時と同じ面子で分かれ、ブレンダンが運転するジープが避難所へ向かいタツミ達は先にアナグラへ戻る事になった。今度はミツハが助手席に乗り、運転するタツミに分かれている間の報告をしながらジープは進んだ。

 

「軽い火傷と瓦礫による小さな切り傷が多数、か。五体満足で何よりだ」

「ほんとですね。自力で乗り切れてすっごく嬉しいです」

「あんな事があったばかりだからなあ。この調子で次も頑張れよ」

「はい。絶対生き抜いてみせますっ」

 

 ミツハの身体は確かに小さな傷は沢山あるものの、神機使いの再生力をもってすれば半日もあれば痕も残らず消えてしまう程度のものだ。その事がとてつもなく嬉しく、思わず口元が緩んでしまう。

 

――少しは、ほんの少しぐらいはあれから強くなれたかな。

 

 ソーマの目の前で大怪我を負わず、自力で乗り切れるぐらいには強くなりたい。そう決意した断髪の夜を思い出す。ちらりと後部座席に座るソーマの方を見てみれば目が合ってしまったので慌てて前に向き直る。変に思われなかっただろうか、と妙な心配をした。

 

「ソーマもありがとな、やっぱ大型に慣れてる奴が居ると段違いに早いわ」

「手が空いてたから行っただけだ」

「それでも有難うございます! とっても頼もしかったです」

「それ俺じゃ頼もしくないって事かあ? 隊長悲しいぜ」

「えっあっ違いますそんな事ないですタツミさんもすっごく頼もしいです!」

「焦りすぎだろ」

 

 ブンブンと首と手を振るミツハを面白そうに笑い、タツミは上機嫌でジープを走らせた。整備の行き届いていない外部居住区の走行は乗り心地がかなり悪い。ガタガタと揺れながら走るジープの助手席で、切り傷を見ながらミツハは小さく微笑んだ。

 

 少年を守って出来た小さな切り傷。初めて出来た類の傷だ。

 言わば、この傷は防衛班の勲章だった。

 



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21 ヒーローのアップルパイ

 新人区画の廊下を歩いていると、見慣れない一人の少女が前方から歩いてきた。

 ゆるいウェーブの掛かった白銀の髪に赤チェックの帽子を被り、ミニスカートも帽子と同じ柄をしている。アクアマリンのような大きな瞳を縁取る睫毛は長く、きめ細かな肌は洗い立ての陶器の如く白かった。大人っぽい雰囲気を纏っているが顔立ちは幼く、その絶妙なバランスが一種の芸術品のように思えた。

 

 そしてなんと言っても目に付くのは、横隔膜程までの長さしかない短いベストから覗く豊満な丸い下乳。滑らかな曲線を描く腹部を大胆に晒し、ミツハは同性であるにもかかわらず目のやり場に困った。

 

「あっ、えと、もしかしてロシア支部から配属された新型さん……?」

 

 数日前にシュンから聞いた話を思い出す。ロシア支部から新型の神機使いが転属されるという話だ。目の前の少女はまさしくロシア美人そのもので、ミツハの言葉に少女は足を止めた。

 

「はい。本日一二〇〇付けでロシア支部から此方の支部に配属になりました、アリサ・イリーニチナ・アミエーラと申します。所属は第一部隊です」

「えっと、私は第二部隊所属の井上ミツハって言います。第一部隊にいるユウとコウタとは同期なんですけど、二人にはもう会いました?」

「ああ……あの自覚の足りない人達ですか」

 

 アリサの棘を含んだ言葉にミツハは笑顔のまま固まった。

 

「特にコウタって人、何なんですか。あんな浮ついた考えで、よくここまで生き長らえてきましたね」

「え、えーと、……あ、アリサちゃんはおいくつ?」

「十五になります」

「あっ、じゃあコウタと同い歳なんだね!」

「だったらなんですか?」

 

 高飛車な物言いにミツハの心は折れそうになる。もういいですか? とアリサは心做しか迷惑そうな表情を浮かべながらミツハの横を通り過ぎる。

 

「え、と、同じ任務に着く事があったら宜しくね」

「そうですね。旧型は新型の足を引っ張らないよう宜しくお願いします」

 

 アリサは鼻を鳴らすようにそっぽ向き、コツコツとブーツの音を響かせながら去っていった。呆然とミツハは廊下に佇み、小さくなるアリサの背を見つめた。

 

――濃い人が来たなあ。

 

 ソーマとは違うタイプの無愛想だ。ミツハは苦笑してアリサから目を背け、エレベーターに向かった。

 

   §

 

「なんっだよあの新型! クッソムカつくぞ!」

「何が旧型は新型より劣ってる、だ。まともに実戦経験もねえくせに」

 

 エントランス二階のラウンジでシュンとカレル、タツミ曰くアホコンビが見るからに腹を立てていた。恐らくアリサと話したのだろう。あの二人の性格上、アリサとすこぶる相性が悪い事は確かだ。

 触らぬ神に祟りなし。気付かれぬよう気配を消してラウンジを通り過ぎようとしたのだが、目敏いカレルに見つかってしまう。

 不機嫌そうな顔をしたままこっちに来い、と親指で示される。

 

「おいミツハ、付き合え」

「嫌です愚痴に付き合いたくないです~」

「先輩命令だぞ。お前、新型にはもう会ったか?」

「さっき居住区で会いましたよ。とんでもない美少女でしたね」

「とんでもない性悪女、だろ」

「それカレルさんが言うとブーメランですねっ!」

「ははっ、確かにな!」

「……チッ、お前もいい性格してきたな」

 

 軽口を叩きながらカレルの隣に腰掛けた。配給品の不味い菓子をつまみながらカレルとシュンのアリサに対する愚痴を聞く。新型である事を鼻にかけ、旧型を見下す姿勢のアリサにかなりヘイトが溜まっているようだ。

 両手で頬杖を付きながら適当に相槌を打ち、この場から抜け出す口実はないものかとチラチラと辺りを見る。六十年前の学生生活でもそうだったが、愚痴を聞くのは得意ではないのだ。

 

 そんな時出撃ゲートが開き、ソーマがエントランスへ入って来た。任務帰りだろうかと思っていると、丁度ソーマが横切ったので声を掛けた。

 

「ソーマさん、お疲れ様です」

「…………」

 

 やはり此方を一瞥するだけで返事はなく、ミツハに背を向けてエレベーターのボタンを押した。到着を待つその背中から目を逸らし、特に気にする事もなく再び抜け出す口実を探し始めると、突然男二人の話題がアリサへの愚痴から別のものへ変わった。

 

「お前さあ、ソーマと仲良いの? 最近一緒に飯食ってるしよ」

「えっ、無視され会話もないのに仲良く見えるんですか?」

「……死にたくなかったらあいつには関わらない方がいいぞ」

 

 カレルの言葉に思わず表情が曇る。ミツハはその言い方が嫌いだった。

 

「……それはソーマさんが死神だからって言いたいんですか?」

「実際お前死にかけただろ」

「死にかけたのは私の不注意ですし、助けてくれたのはソーマさんです。私にとってソーマさんは死神なんかじゃなくて、二度も命を救ってくれた恩人ですよ」

「……あっそ。何言っても無駄そうだな」

 

 カレルが呆れたように溜息を吐き、菓子をつまむ。マッズ、と顔を顰めてジュースで菓子を流し込んだ。

 先程より妙に空気が重くなってしまった。この二人とミツハのソーマに対する認識の食い違いからそうなるのは当たり前なのだが、仲良くしている先輩と関係が拗れるのは勘弁願いたい。どうしたものかと目線を泳がしていたが、もう一度カレルは面倒臭そうに溜息を吐く。

 

「別にお前があの死神をどう思うが勝手だが、俺まで巻き添いにしてくれるなよ? どうせ巻き込むならシュンにしとけ」

「俺かよ」

「……あの、なんか有難うございます」

 

 カレルなりの気遣いに重かった空気は息がしやすくなる。性格は悪いが、悪い人ではないのだ。良い人であると断言も出来ないが。

 息がしやすくなった空気で菓子を口に放り込む。やはり不味く、カノンが作った菓子が恋しくなる。

 

「どうせならカノンちゃんのお菓子を配給して欲しくないですか?」

「ああ、あれな。このクソ不味い配給品から作ってるとは思えねえよな」

「売れば金になりそうだよな。今度外部居住区の市場で売ってみるか」

「この人ブレないなー」

 

 愚痴からただの雑談へスイッチを切り替え、カノンの菓子について話をしていると受付嬢をしているヒバリがラウンジまで上がってきた。どうしたんですか? と首を傾げているとヒバリはにっこりと笑った。

 

「ミツハさんにお客様ですよ」

 

 ヒバリの言葉にますます首を傾げながら席を立つ。階段を降りてエントランスの一階に着くと、見覚えのある少年が母親と一緒に来ていた。

 

「あっ、この前の」

 

 数日前の防衛任務で助けた赤毛の少年だった。ミツハの姿を見ると久しぶり、と人懐こい笑顔を浮かべ、すっかり元気になった事が窺える。そんな少年の隣に立つ母親はミツハに向かって深く頭を下げた。

 

「先日は息子を助けて頂き有難うございました」

「えっ、いや、そんな、顔を上げて下さい!」

「あの、大したお礼も出来ないんですが、どうか受け取って下さい」

 

 そう言って母親が差し出したのはバスケットだ。布が被さっており中身は見えない。布を捲ってみると、格子状に編み込まれ狐色に輝くパイが入っていた。網目からは飴色まで煮詰まれたリンゴが覗かせ、ふわりと懐かしい甘い香りが漂った。

 

「お口に合うか分かりませんが、どうか防衛班のみなさんで召し上がって下さい」

「母さんの得意なお菓子なんだ。配給品から作ってるけど、すげー美味いよ」

 

 親子の言葉とアップルパイの匂いに思わずミツハの目頭が熱くなる。じわりと涙の膜が瞳を覆い、今度はミツハが深く頭を下げた。

 

「あの、有難うございます。大事に頂きますね」

 

 多少涙声になってしまい、少年が可笑しそうに笑った。

 少年は佐々木カズヤと名乗り、B37区画に母親のトウコと二人で暮らしているらしい。先日はたまたまB14区画に住む友人の家へ遊びに行く途中でアラガミの被害に遭い、そしてミツハ達防衛班に助けられたのだと言う。

 

「ミツハさん、凄くかっこよかったよ。ミツハさん見て、俺もゴッドイーターになりてえって思った」

 

 カズヤはにっと笑い、またね、とミツハから背を向けた。外部居住区に帰っていく親子の姿を見ながら、ミツハは嬉しさと懐かしさでいっぱいいっぱいになっていた。思い出していたのは、母の事だ。

 

 ミツハの母親もアップルパイが得意で、たまに学校から帰ると甘い匂いがキッチンから漂っていたのだ。誕生日ケーキも店に頼まず母親のアップルパイにローソクを差していた。バスケットから漂う甘い匂いは母のアップルパイと全く同じ匂いではないが、それでも母を思い出させるには十分過ぎた。

 母への恋しさと親子の言葉への嬉しさに目に涙が溜まる。手の甲で拭い、ラウンジに戻ろうと踵を返すといつから居たのかタツミが受付の傍からニヤニヤと此方を見ていた。

 

「えっ、あっ、た、タツミさん、いつからそこに」

「ずっとヒバリちゃんの傍に居たぜ」

「最初からじゃないですか!」

 

 つまり涙ぐんでいた姿も見られていたのだろう。恥ずかしさで頬が火照るが、それすらもタツミは微笑ましそうに目元を細めた。

 

「アラガミに戦う力を持たない民間人からしたら、どんなに新米の神機使いも無敵の()()()()に見えるもんなんだよな」

「……ヒーロー、ですか」

「おう。ミツハはあのカズヤって子のヒーローになったんだよ」

 

 〝ヒーロー〟。その単語を頭に反復させ、馴染ませる。そうすると、不思議な程心の奥底から湧き上がるものがあった。ドキドキした。嬉しかった。

 

 アラガミを殺す感触は未だに慣れない。生き物を殺す罪悪感が、たとえ相手がアラガミであってもミツハにはついて回ってしまう。

 だが、こうして実際に人を助け、感謝され、憧れの眼差しで見られるのはその罪悪感を薄めてくれた。ただの討伐任務よりもずっとミツハに向いていた。

 

「……私、防衛班になれて良かったです」

「そう言ってくれて嬉しいぜ」

「あ、アップルパイ頂いたんです。みんなで食べましょう!」

「お、いいな。ラウンジに集合掛けるか」

 

 防衛班に一斉メールを送るタツミの横で、もう一度アップルパイの匂いを嗅いだ。甘い香りと、ほのかにバニラの匂い。母親のアップルパイはシナモンの香りもするので微妙に違う香りだが、その違いが妙に嬉しかった。何故ならこのアップルパイは他でもない、ヒーローの為に作られた特別なアップルパイなのだ。

 



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22 異変

 朝。起床してトイレへ行くと下着にべったりと血がついていた。

 

――あ。そういえば月初めか。

 

 女性なら誰もが訪れる月経期だ。ミツハの場合は大体上旬にやってくる。先月はタイムスリップ直後で来ていなかった事も特に気にせず、寧ろ事の急展開さに忘れていたのだが、二か月ぶりの出血に頭を抱える。

 

――生理用品って配給されてたっけ?

 

 自室の棚を調べ上げ、ダンボールの中から生理用ナプキンを見つけたので一安心しつつ汚れた下着を洗面所で洗う。

 そんな諸々の事で時間を食ってしまった為か、食堂には既にソーマの姿はなく少々落ち込んだ。仕方が無しに一人で朝食をとっているとユウとコウタが二人揃って食堂へやってきたので珍しく三人で食事をとった。普段ソーマと会話も何もなく淡々とした食事をしていたので、会話が弾む賑やかな食事が新鮮に思えてしまった。

 

 出来ればソーマともこんな風に会話を弾ませながら食事をしたいものだと淡い希望を抱きながら、任務に向けてしっかり栄養を取る。やはり、味は美味しくない。

 

 

 

 本日の任務はアラガミ装甲壁に近づくアラガミの掃討。先日破られた壁の修繕中は特に防衛を強化しなければならず、まずアラガミを壁に近づかせない事が基本になる。

 

 極東支部の外周部にある、荒れ果てたかつての防衛拠点が本日の作戦区域だ。通称〝創痕の防壁〟。基本このエリアは第二部隊が担当しており、複数の大型アラガミや新種のアラガミが出現した時のみ第一部隊から人を借りて防衛任務を行っている。

 

 アラガミ装甲壁に八方向に建設されてある防衛施設に地下通路を使って移動し、階段を上がって分厚い鉄の扉を開く。装甲壁から一歩外に出るだけで、そこはもう戦場だ。

 振り向くと極東支部を中心に広がる外部居住区の町並みを一望出来る。しかし向き直れば、廃墟と化したかつての前線基地と消える事のない猛火が目に飛び込む。まさしく生と死の境界線。此処は人類の最終防衛線なのだ。

 

「よーし、じゃあ仲間を呼ばれると厄介なザイゴート中心に討伐していってくれ。シユウが近くにいるらしいから、見つけたら集合して全員で叩く。いいな?」

 

 タツミの指示のもと、ブレンダンとミツハ、カノンとタツミの二手に分かれてアラガミを狩っていく。

 ブレンダンの神機はソーマと同じバスターブレードだ。アラガミの側に張り付き、隙を見せた瞬間に重い一撃を叩き込む戦闘スタイルを確立しており、その模範的なスタイルは他のバスター使いの手本にもなっているらしい。

 

 浮遊するザイゴートに飛び掛り、ブレンダンがその巨大な刃で斬り込んでいく。地面に落下しダウンしたザイゴート達の中心でミツハは咬刃を展開させ、伸びた鎌を振り翳して一気に止めを刺す。

 

――あれっ。

 

 違和感があった。いつもなら軽々と振り回せる筈の神機が、重い。

 

「ミツハ? どうした――」

『此方タツミ、K地点でシユウと接触! こっちに来てくれ!』

 

 ブレンダンの言葉を遮るようにタツミから無線が入る。先程のタツミの指示通りK地点へ向かって走り出したが、そこでもやはり違和感を覚えてしまう。いつものように走れないのだ。息が上がる、速く走れない。徐々に前を走るブレンダンと距離が開いてしまう。

 

――わたし、どうしたんだろう。

 

 自分でもよく分からない不調に混乱する。確かにミツハの偏食因子は通常の神機使いに投与される偏食因子より身体能力の向上は劣る。しかしこれ程まで顕著に差が浮き彫りになる事はなかった。

 

「調子が悪いのか?」

 

 前を走りながらブレンダンが肩越しに振り返る。

 

「……少し。でも大丈夫です、戦えます」

「……そうか、無理はするなよ」

「はい」

 

 短く会話を交わし、タツミ達がいるK地点へ到着する。戦闘スイッチが入ったカノンが容赦無くシユウの下半身へ高火力の放射弾を叩き込んでいた。

 

「あはははははは! ねえねえこの程度なの? 貴方って!」

「カノンちゃん今日もキレッキレだなあ……」

 

 カノンの勢いに圧倒されながらミツハ達も加勢する。刃に近い位置で柄を握り、近距離で青い翼を斬り裂いていく。間合いを取る為か滑空するシユウを避け、少し離れたシユウに攻撃する為咬刃を展開させて重い神機を振り翳す――が、咬刃が展開しない。

 

「えっ!? うそ、なんで!?」

 

 神機は咬刃ではなく装甲を展開させる始末だ。言う事を聞いてくれない神機に戸惑うが、シユウの衝撃弾が此方へ向かって飛んできたので勝手に展開された装甲で受け止める。

 

「す、スタングレネード、いきますっ!」

 

 時間稼ぎの為に閃光弾を投げ付け、シユウの動きを止める。後方へステップで大きく飛び、シユウと距離を取るとタツミが心配した様子で駆け寄った。

 

「何があった?」

「じ、自分でもよく分からないんですけど、神機が言う事聞いてくれなくて……。あと、神機が重いんです!」

「神機が? ……分かった。とりあえずミツハは戦闘が終わるまで待機だ。ちゃちゃっと片してくるから待ってろよ」

 

 タツミの言葉に頷き、交戦ポイントから少し外れた場所で三人を見守る。

 相変わらず神機は重い。振り回せない程ではないのだが、いつもより動きが鈍くなってしまう。もしこの神機がバスターソードだったら振り回す事も出来なかったかもしれない。そして腹部がジクジク痛む。

 

――生理痛きたかあ……。

 

 もしや神機や身体の不調はこれが原因なのかもしれない。ミツハが有する偏食因子は変異しやすい特性だ。その線は十分に有り得た。

 十数分程でシユウを倒し、タツミ達がミツハのもとへ集まる。特にカノンは戦闘中とは一変し、かなり不安気な表情を浮かべている。

 

「ミツハちゃん、大丈夫ですか?」

「大丈夫です! ご迷惑をお掛けしてすみません……!」

「怪我がないようで何よりだ。しかし一体何故……?」

「あー、ヒバリちゃんに聞いてみるか。――もしもしヒバリちゃん? そっちからミツハの状態って確認出来るか?」

 

 無線でタツミがヒバリに話し掛ける。少しすると襟元に付けている小型通信機からオープンチャンネルが入った。

 

『……腕輪と付近の偏食場レーダーの観測結果から、ミツハさんの神機との適合率とオラクル活性化数値、共に通常値より低下しています』

「えっ!? そ、そんな事ってあるんですか? 早く帰ってメディカルチェック受けましょう!」

「落ち着けカノン。ミツハ、何か心当たりはあるか? なんか変なモン食ったとか」

「……えーと、もしかしたらこれかなっていう心当たりはあるんですけど、その……」

 

 男性二人の手前、なかなか言い難い。しかしタツミ達はミツハの言葉の続きを待っている。目線を泳がせながら、ミツハは尻すぼみになりながら答えた。

 

「せ、生理がきたせいかな、って……」

「……あ、あー……そうか」

「……すまん」

 

 案の定言葉に詰まった二人は同性のカノンにバトンタッチし、帰投準備を始めた。

 

   §

 

 アナグラへ帰投し、シャワーを浴びてからサカキの研究室へ向かう。ミツハは定期的に検査を受ける事になっており、一週間程前に研究室へ足を運んだばかりだ。その時は特に問題なく、数値も正常範囲内だったと言うのに。自分の身体の内側で何が起こっているのか全く分からず、少し怖かった。

 

 研究室に入るとサカキがメディカルチェックの準備を既に済ませていた。やあ、と狐のように細い目をミツハに向けて会話もそこそこにミツハは奥の機械で囲まれた部屋のベッドに横になった。睡眠ガスが狭い部屋に漂い、瞼が落ちる。

 そうして眠る事三時間。目が覚めたミツハは欠伸を一つしてサカキの居る部屋へ戻る。

 

「おはようございます」

「やあ、おはよう。いやあ、P五十七偏食因子は実に興味深いね」

「今度はどんな風に変異しちゃったんですかね……」

 

 ソファに座りながら面白そうにモニターを見るサカキに問い掛ける。サカキはおっほん、と咳払いをして椅子から立ち上がり、茶を入れながら話し始めた。

 

「女性の月経期というのは身体のバランスが崩れやすい時期なんだ。女性ホルモンが急激に減少する上にプロスタグランジンというホルモンが分泌されるから身体に不調が出やすい。それに出血が多くなるから貧血の原因にもなっているね」

 

 保健の授業で習ったような内容だ。プロスタグランジンというのは不要になった粘膜を排出する時に子宮内膜から分泌されるホルモンだ。このホルモンは子宮を収縮させ、不要になった粘膜を血液と共に体外へ押し出す働きをしているのだが、分泌量が多いと必要以上に子宮が収縮し、生理痛の原因となるのだ。ミツハは生理痛が重い方なので原因を調べた時に出てきた単語だった。

 サカキは説明を続ける。

 

「そして興味深い事に、P五十七偏食因子はプロスタグランジンの分泌量と反比例して生成量が減少しているんだ」

「じゃあ、今私の中にある偏食因子はいつもより少ないんですか?」

「その通り。それに伴ってオラクル活性も抑制されている。適合率も低下しているし、今の状態で任務に出るのは止めた方がいいだろうね」

 

 普通の神機使いよりも身体能力は低下し、神機も言う事を聞いてくれない。そんな状況でアラガミと戦うのは大変危険だろう。先程の任務を思い出し、ミツハは苦い顔をした。

 テーブルに緑茶の入った湯呑を二つ置き、サカキがソファに座る。メディカルチェックの結果が書かれた資料を渡され、ペラペラと流し読みをした。あまり詳しく読むと気が滅入りそうだった。

 

「……こういうのって、P五十三偏食因子でもあるんですか?」

「いや、そういった事例はないね。そもそも普通の神機使いは偏食因子を自己生成出来ないんだ。腕輪から一定期間ごとに偏食因子が静脈注射されるからオラクル活性も基本一定値を示している。それに後天投与された偏食因子は自然発生した場合と違って、元々人体にあるホルモンや細胞の影響を受け難いんだ」

 

 自然発生という言葉が嫌に耳に残る。

 投与された訳ではなく、自分の身体から生み出されたのだ。

 

――なんか、怖いな。

 

 身体の中に得体の知れない化け物を飼っているような気分だ。通常の神機使いとは違い、ミツハの偏食因子は管理されていない。勝手に自己生成され、変異しやすいこの偏食因子は管理のしようがないのだ。

 

――アラガミみたいだ。

 

 自然発生し、自己生成する偏食因子。別に神機使いの親から受け継いだものでもない。そもそもミツハの居た時代には存在すらしていなかった細胞だ。それが突然発生し、細胞に捕喰される訳でもなくこうして身体の変化に影響を受けながらミツハの身体と共存している。その事実がとてつもなく怖くなった。

 

「ミツハ君?」

 

 曇った面持ちをするミツハにサカキが声を掛ける。ジクジクと下腹部が痛み、脂汗が垂れる。顔色が悪いとサカキが心配するが、ミツハは誤魔化すように笑った。

 

「いえ……なんでもないです。大丈夫です」

 

 結局出された茶を飲まぬままミツハは研究室を出る。足早に自室へ戻り、ひとりでこっそり泣いた。自分でも分からない自分の事が、怖かった。



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23 おはようの返事

 本日もアラガミ装甲壁に近づくアラガミの討伐任務にアサインされていたが、当然取り消しになり全休となった。生理二日目、一番生理痛が重い日である。心做しか以前より生理痛が酷く、ミツハは重い身体を引き摺る思いで食堂へ向かった。

 

 時刻は朝六時半。食堂が開く時間だ。朝から任務に出向く訳でもないミツハはこの時間に朝食を取る必要は皆無なのだが、ソーマは大抵この時間に朝食を取っているのだ。その為ミツハは早起きをして人の少ない食堂へ足を運び、フードを被った男の姿を毎朝探している。

 プレートを受け取り、いつも通りソーマの向かいの席に座る。ちらりとフードから蒼い目が覗かれた。

 

「おはようございます、ソーマさん」

「……体調が悪いなら部屋で寝てろ」

「……えっ!?」

 

 思わぬ反応に声が裏返る。ソーマは五月蝿そうにぴくりと眉を寄せたが、そんな事はミツハの眼中に入らなかった。

 

――ソーマさんが喋った!

 

 どうせ今日も一言も会話を交わさず、先にソーマが食べ終え席を立たれるのだろうと思っていた矢先にこれだ。生理痛と昨日のサカキの話で沈んでいた気分が急上昇する。それくらいにソーマから言葉を返された事が意外だった。

 

「え、ええと、……あ、有難うございます」

「…………」

「いやっ、えっと、元気出ました。ほんとに!」

 

 口から出たのは何故か感謝の言葉だった。怪訝な顔をするソーマの瞳は珍しくずっとミツハを見ている。インディゴブルーに見つめられ上気する頬を誤魔化すように、ミツハはプレートに手を伸ばした。配給品は相変わらずの味だが、この日は何故か少し美味しく感じた。

 

 途端に上機嫌になったミツハはほんの少し、踏み出してみる事にした。普段は話題を振って無視されダメージを負う事を恐れていたが、そんな事でダメージを負わないくらいにはミツハは上機嫌になっていた。

 

「あの、ちょっと気になる事があるんですが」

「…………」

「ば、バスターブレードってどれくらい重いんですか?」

 

 昨日神機が重くなった時に思った事だ。ヴァリアントサイズの重さは十キロ程で適合率とオラクル活性が下がっていても動きが鈍くなる程度の事態で済んだ。しかしもしこれがバスターソードだったらと考えると振り回すだけでやっとかもしれない。そんな純粋な疑問だった。

 ミツハの質問にソーマは意外にも素直に口を開いた。

 

「……バスターに変えるつもりか?」

「あっ、いえ、そんなつもりじゃないんですけど。ただ見るからに重そうなので気になっちゃって」

「俺の神機は二十キロぐらいだ」

「二十……ソーマさんそんな重たいの振り回してるんですね」

「接続すれば軽くなるだろ」

「あっ、そっか」

 

 神機と接続すれば生体兵器は身体の一部にでもなったかのように、五分の一程までに重さを無くす。二十キロの神機は接続すれば体感四キロにまで軽くなり、その上オラクル活性により身体能力が向上しているので四キロなど使用者にとっては重くもなんともないだろう。

 

 そう思えば、昨日のミツハの神機は体感何キロだったのだろうとふと考える。元の重さは十キロだ。適合率とオラクル活性が下がったことにより普段よりずっと重く感じたが、それでも十キロ程ではなかった。五、六キロぐらいだろうかと予想をつけながらミツハは感動していた。なにせソーマと会話のキャッチボールが出来たのだ。案外話し掛ければ返ってくるのかもしれない。どうして今まで話し掛けなかったんだろうと今更ミツハは後悔した。

 

 そしてこの日はまた違う事が起こった。ソーマの隣の席が埋まったのだ。

 

「よっ、おはよーさん」

「リンドウさん、おはようございます」

「…………」

 

 雨宮リンドウは眠そうに大きな欠伸を一つして朝食を食べ始める。左目を隠す長い前髪は寝癖のせいでぴょんぴょん跳ねていた。

 リンドウの参入により朝の時間は一気に賑やかになった。と、いうのもリンドウがソーマに絡むのだ。「あ、俺これ嫌いなんだわ」とパサパサした肉のパテをソーマのプレートに移したり、今日見た夢の内容を聞かれてもいないのに話し出す。ソーマは鬱陶しそうな顔をしながらも突き放すような事はせず渡されたパテを食べる。つまりこれがいつも通りなのだろう。

 

「そういやミツハ、昨日カノンがお前の事すっげえ心配してたけど何かあったのか?」

 

 カノンはミツハの不調を人一倍心配し、昨夜も体調を心配するメールが届いた。三、四日任務に同行出来ない旨を書いて返信すると今度は電話が掛かり、ミツハ以上に不安げな声でお大事にして下さい! と言われたのだ。ひとりでひっそり泣いていたので声が掠れていたのも心配に拍車を掛ける原因だったかもしれない。後で顔を見せに行こうと思いながら苦笑した。

 

「え、えーと、ちょっと体調崩したら偏食因子がそれに影響受けちゃって、数日任務に出れなくなったんですよね……」

「おいおい、それ大丈夫かよ」

「大丈夫です! ちょっと神機との適合率とオラクル活性が下がったぐらいで、他に異常はないので。ただ足を引っ張る事になるので任務はお休み頂いてるんです」

「そりゃ結構な事態だとリンドウさんは思うんだが……」

「三、四日で戻るそうなので大丈夫です! ご心配お掛けしてすみません」

 

 何でもないように笑いながら言えば、それ以上ミツハの体調に関する話は広がらなかった。

 

「じゃあしっかり食って休まねえとな。ほれ、たんと食え食え」

「えっ、いやっ、結構です私そんな食べれないです。あっ、ソーマさんどうぞ」

「……おい」

 

 リンドウのプレートからミツハのプレートへ移されたレーションはソーマのプレートへたらい回しにされた。じろりと咎めるようなインディゴブルーに誤魔化すようにミツハが笑うと、ソーマは溜息を吐いて増えたレーションを食べ始める。その様子を隣のリンドウが面白そうに頬杖をつきながらくつくつと笑った。

 

   §

 

「普通に仲良いじゃねえか」

 

 食堂を出てエレベーターの到着を待っている間にリンドウがにやにやしながら言う。ちなみにソーマはいつも通り先に食べ終えてひと足早く食堂から出て行った。

 

「仲良い、んですかねえ……? 今日初めてまともに会話出来て嬉しかったですけど」

「あいつ他部隊の奴とあんまり話さねえからなあ。良い調子で懐に入っていってるな」

「だから懐に入るって良い意味じゃないんですけど……」

 

 到着したエレベーターに乗り込みながら苦笑する。懐に入るとは相手に気に入られて繋がりを持ち、取り入る事だ。別にミツハはソーマと良好な関係を築きたいだけであって、見返りなどを求めているわけではない。リンドウは居住区のボタンを押しながらにやりと口元を緩めた。

 

「リンドウさんからの有難いアドバイスだ。あいつは人付き合いに不慣れでな、こっちからガンガン踏み込んでいけば絆されるぞ。エリックがまさにそうだったからな」

「……ソーマさんとエリックさんって仲良かったんですか?」

「ああ。ソーマの正面の席、あれエリックのポジションだったからな」

 

 エリック・デア=フォーゲルヴァイデ。ひと月半近く前に鉄塔の森で殉職した神機使い。

 以前訓練所でのソーマを見てから彼の事が気になり、一度ノルンで経歴を調べてみた事がある。フェンリルの傘下企業である〝フォーゲルヴァイデ財閥〟の御曹司であり、二年前に自ら志願して神機使いとなってアラガミの最前線である極東へ赴任したらしい。

 

「あいつはソーマの親友とも呼べる奴でな、よく一緒に行動してたんだよ。年上に囲まれてたソーマからしたら初めて出来た年の近いダチだったんだろうな」

「…………」

「エリックが死んだのは自分のせいだとあいつは自分を責めてる。だからまあ、またそんな風に自分を責めてたら葡萄味の缶ジュースでもやって一緒に居てくれや」

「葡萄味、ですか」

「おう。あいつ葡萄味の飲みもん好きだからよ」

 

 リンドウは優しく笑い、ミツハの肩に手を置く。

 その言葉にしっかりと頷けば、リンドウは嬉しそうに目を細めた。

 

――やっぱりリンドウさんってソーマさんのお兄ちゃんみたいだ。

 

 そんな事をぼんやり思いながらリンドウと別れ、自室のベッドで横になる。

 一人になると思い出したかのように下腹部に鈍い痛みが響き、ぐったりと枕に顔を沈めながら先程のリンドウの話を思い出す。

 

――エリックさん、どんな人だったんだろう。

 

 ソーマの親友である、ひと月半前に亡くなった神機使い。

 ソーマに関心を持つようになったのはエリックが殉職してからの事なので、ミツハは二人が一緒に行動している姿を見た事がなかった。

 

 エリックの殉職からひと月半が経つ。きっとソーマの後悔は今でも和らぐ事がなく、リンドウの言うように自分を責め続けているのだろう。

 あの訓練所で見た時のように――ひとりで。

 じくりと下腹部が痛む。きっとこれは同情だ。ミツハはそう自覚するが、どうしても思ってしまう。

 

――ひとりにしたくない。

 

 エリックの代わりになりたいわけではない。何かがしたいわけではない。

 ただ、ほんの少しでも彼の深い傷が癒えればいいと、心から思うのだ。

 



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24 新型と防衛班

 四日目の朝。ソーマと短い会話をしながら食事をした後、サカキの研究室へ向かい適合率とオラクル活性の数値を測る。

 二日目の夕方が一番数値が低く、三日目の夕方は上昇しており、生理痛の重さと数値が見事に反比例していた。それから一晩、生理痛は治まり出血も少量で残った血が出ているぐらいだ。

 測定が終わり、数値を見てサカキはにっこりと狐のように笑った。

 

「うん、正常値圏内だ。プロスタグランジンの分泌量も通常値だし、今日から復帰しても大丈夫だよ」

「ほんとですか!」

「無理はしないようにね。ああ、それとミツハ君は自分の月経周期は分かるかい?」

「……覚えてないですね。元の世界ではカレンダーつけてたんですけど」

「じゃあ仮に三十日としよう。月経が始まった二月六日から三十日後の……三月八日だね。三月八日前後は月経が始まっていないか注意しておいて欲しい。もし始まっていたら任務のアサインを取り消す事。いいね?」

「分かりました」

 

 サカキの言葉に頷いて研究室を出る。その足でエントランスの受付へ向かい、任務の確認をする。ヒバリのもとへ行くと相変わらずタツミが彼女に絡んでいた。

 

「懲りないですねタツミさん」

「おっ、ミツハ。体調はどうだ?」

「治りました! 今日から任務復帰出来ますので連れてって下さい!」

「張り切ってんな~。じゃあ防衛任務に出るか。今回は第一部隊のアリサもアサインされてるから、上手く連携してくれ」

 

 先日廊下で話したアリサの事を思い出す。

 正直上手く連携出来るのか不安要素が強かったが、わざわざロシアから転属された新型の神機使いだ。きっと実力は相当なのだろうと期待を込めながら出撃ゲートへ向かう。神機が収納されたアタッシュケースを握りジープが駐車されている区画へ足を運んだ。

 

   §

 

「第一部隊のアリサ・イリーニチナ・アミエーラです。他部隊との連携を取るという事で防衛任務にアサインされましたが、旧型のみなさんは旧型なりの仕事をして頂ければ結構です」

「……あー、まあ、よろしくな」

 

 相変わらずな態度のアリサに防衛班の空気が固まる。今回は第三部隊も一緒の為、カレルとシュンがアリサの言葉に一気に機嫌を悪くする。

 そして八つ当たり先が一番の新人のミツハに向いてくるのだ。

 

「おい、なんで防衛任務にあいつがいんだよ」

「連携の為ってさっき言ってたじゃないですかあ……」

「ハッ、あんな調子で連携もクソもあるかってーの!」

「シュンさん声が大きいです……」

「……言いたい事があるなら、直接言えばいいじゃないですか。わざわざ陰で言うなんて、ドン引きです」

「ああ!?」

 

 じろりと咎めるようなアリサの視線をシュンが睨み返し、まさに一発触発の空気。どうどうとシュンを宥めながらタツミが割って入り、さあ出撃するぞと分断する。勿論シュンとカレルはアリサと別のジープに乗り込んだ。

 

 装甲壁外周にてアラガミの掃討を始める。

 此方は創痕の防壁がある外周部とは反対側に位置し、荒れ果てた町並みが何処までも続いており、フィールドとしては贖罪の街に近い。

 倒壊した建物が多い為、アラガミの隠れる場所も多く上層階に行かれたりもしてなかなかに追い辛い。跳躍力も上がっているが、流石に二階へ届くのがやっとの跳躍力だ。それでも常人からすればとんだ化け物レベルなのだが。

 

 神機を握り、大鎌を振るう。最後に握った時よりずっと軽く、思い通りに咬刃も展開出来た。ただそれだけでミツハは嬉しく、張り切ってアラガミを討伐する。カノンが地上へ落としたザイゴートの群れに飛び込み、その中心で大鎌を大きく振り翳し、群れを薙ぎ裂く。耳を劈く甲高い悲鳴を断末魔に、ザイゴートは動かなくなった。

 捕喰をしているとヒバリから通信が入る。

 

『中型種、作戦エリアに集まってきます!』

「ザイゴートちゃんに呼ばれちまったなあ……。数と種類は?」

『コンゴウ二体、シユウ三体です』

「まあ今日は人数も多いし大丈夫だろ。ブレンダンと第三部隊はシユウ、第二部隊とアリサはコンゴウを相手。乱戦にならないようなるべく離れて交戦しろ。いいな?」

 

 タツミの指示に従ってそれぞれ分かれてアラガミを迎撃する。ミツハが相手をするのはコンゴウだ。

 コンゴウは巨大な猿のようなアラガミで、その名は有名な金剛力士像から来ている。俊敏な動きと力任せの打撃が特徴で、人間を見つけると群れを形成して襲ってくるのだ。

 そして一番の特徴は、恐ろしいまでに鋭い聴覚だ。遠く離れた位置で戦闘していても音を聞きつけて乱入してくるので分断が難しい。先にコンゴウだけを倒すのが望ましいが、シユウを放置して装甲壁に近づかれると厄介なので今回はアラガミ種ごとに分断して戦う判断だ。壁に開く風穴はまだ塞がっていないのだ。

 

 片割れのコンゴウがだいぶ弱ってきた頃に通信が入る。

 シユウの相手をしているカレルからだった。

 

『此方カレル、シユウを一体取りこぼした。壁の方に捕喰に向かったから応戦頼む』

「分かった。逃げたシユウの状況は?」

『下半身と頭は結合崩壊させてる。あと少しぶち込めば沈むだろうな』

「オーケイ、一旦コンゴウの動きを止めてシユウの所行くぞ! ミツハはトラップでホールド狙って――」

「――待って下さい」

 

 タツミの指示を止めたのはアリサだった。

 

「まさか全員でシユウの討伐に向かうんですか? 二手に分かれてコンゴウの相手もするのが適切だと思いますが?」

「いや、駄目だ。壁が直っていない今はシユウを一気に叩かなきゃ居住区に侵入される」

「コンゴウは聴覚が鋭いんですよ? シユウと交戦すればコンゴウもすぐに乱入してきますよ」

「逃げたシユウは虫の息だ。四人で叩けばコンゴウが乱入する前に倒せる」

「虫の息なら尚更――」

 

 コンゴウをあしらう後ろでアリサの抗議が聞こえる。大幅なタイムロスだ。

 一度コンゴウから距離を取って敵の位置を確認すると、丁度先日壊されたB05ポイントの壁にシユウが近づいていた。

 

「タツミさん、時間ないです! スタングレネード、いきますっ!」

 

 大声を張り上げて閃光弾をコンゴウ目掛けて投げつける。怯んだコンゴウは動きを止め、その間にタツミ達は壁に向かって走り出した。

 まだ納得のいっていない様子のアリサを横目に、ホールドトラップを設置してすぐ傍に挑発フェロモン剤を置いておく。これに掛かってくれればコンゴウが乱入される前にシユウを倒せる時間は確保出来るだろうが、問題はシユウの位置だった。

 シユウはもう壁のすぐ近くまで迫っている。前方を走るタツミとカノンの焦りが分かる。

 

 壁に着くとシユウは丁度穴から居住区へ侵入している所だった。カノンのブラストが一早くシユウに打ち込まれ、がくりと膝を着いた。

 

「よしっ、畳み掛けるぞ! カノンは避難誘導に回ってくれ!」

「はいっ!」

 

 第一防衛ラインで交戦を開始する。

 弱っていたシユウはカレルの言っていた通り、あと少し攻撃を入れれば殺せるだろう。

 しかし問題は別にあった。

 

 ()()()()()

 

 その言葉通りの、アリサの容赦ないアサルト連射だった。

 のた打ち回るようにシユウは暴れ、バラック小屋を倒壊させる。瓦礫は足場を悪くして避難する民間人の足を遅くさせ、戸惑わせる。しかしアリサの目は民間人には一切向いておらず、ただ目の前のアラガミを殺す事だけに専念していた。

 

「アリサ! もっと周りを見ろ!」

 

 タツミの声が聞こえていないのか、はたまた耳を傾けてすらいないのか、アリサの猛攻は止まらない。

 シユウが放つ爆炎玉をひらりと躱し、アリサは懐にスライディングしながらアサルトを打ち込む。その動きは一切の隙も迷いも無く、きっと称賛に価する戦い方なのだろう。

 

 しかし、此処では違った。此処は装甲壁の内側なのだ。

 

 タツミとミツハが慌てて装甲を展開させて爆炎玉を受け止めるが、受けきれなかったものはバラック小屋を壊して火の粉を上げた。パニックを起こす民間人の喧騒の中、アリサの一撃でシユウは呆気なく倒れる。

 淡々とコアを回収したアリサは此方を振り向き、何をしているんですか、とでも言いたげな目をしながら口を開いた。

 

「さあ、次はコンゴウです。早く行きましょう」

 

 ギチッ、とミツハの隣で神機を強く握り締める音がした。

 

「……なあ、お前さん。この状況を見て何も思わないのか?」

「……? 何が言いたいんです?」

「もっとやりようがあっただろって話だ。いいか? 防衛任務は市民の安全が最優先なんだ。お前さんの戦い方じゃ避難民をビビらせちまってパニックを起こす。そうなったら収集つかんだろ」

「アラガミを迅速に撃破する事が最善だと思いますけど?」

「だから、もっと市民の気持ちを考えながら戦えって話だよ。避難してる最中に瓦礫が飛んできてみろ、怪我でもして逃げられなくなったら元も子もないだろ」

「……市民の気持ち、ですか。そんなものを優先させて、アラガミが撃退出来るとでも?」

「――お前っ!」

『タツミさん! コンゴウが装甲壁に接近しています!』

 

 タツミの怒りはヒバリの通信によって制される。ふん、と鼻を鳴らしてそっぽ向くアリサを、ミツハは呆気に取られながら見ていた。

 アリサの実力は相当なのだろう。アラガミを殺す事に関しては。

 

「……ミツハ、お前はカノンと残って民間人の誘導と怪我人を見てくれ。倒壊した家に人が居るかもしれん」

「分かりました」

「待って下さい、そんなものに人員を二人も割くんですか?」

「アリサ、これは防衛班班長として命令する。俺と二人でコンゴウを誘導して壁から遠ざけてから交戦だ。いいな?」

 

 命令という言葉でアリサは押し黙り、コンゴウの迎撃に向かって走り出した。

 

「じゃ、行ってくるわ。あと頼んだぞ」

「……はい」

 

 苦笑しながらタツミは言い、先を行くアリサを追いかける。ミツハもすぐに背を向けてカノンと合流し、避難民の誘導と救出を開始する。

 先程のタツミとアリサの会話を聞いていたのか、カノンは何処か不安げな表情をしていた。

 

「……アリサさん、すっごく強いのに、なんだか勿体ないなって思っちゃいました」

「……うん、私も」

 

 人々の気持ちを、避難誘導を、怪我人の救出を、〝そんなもの〟と言い放った。アリサの最優先事項はアラガミの討伐なのだろう。

 それは神機使いとして正しい。

 正しいが、今はただの掃討作戦とは違う防衛任務なのだ。

 

――連携どころの話じゃなかったなあ……。

 

 きっと任務に対する価値観が違ったのだ。防衛任務に対する価値観が。

 タツミがあんなに怒りを露わにしているのも珍しかったが、それだけタツミが防衛任務を大切なものだと思っている証拠だった。出来ればミツハもああいう風になりたいと強く思う。

 ただアラガミを討伐するだけではない、タツミのような力ない人々の〝ヒーロー〟になりたいのだ。

 

――だって私は防衛班だ。

 

 ミツハはアリサのように強くはない。

 それでも手を伸ばせば届き、助ける事だって出来るのだ。

 そんなものと言い放たれたものは、きっと何よりも大事なものだ。

 



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第四章
25 出来損ないの化け物


 アリサとの防衛任務から一週間近くが経った。あれ以来アリサとは一緒の任務に出る事はなく、新兵四人がサカキの講義を受ける時ぐらいでしか顔を合わせていない。

 ユウはどうやらタツミ伝いでアリサの防衛任務の話を聞いたらしく、彼は講義後に何故か「ごめんね」とミツハに謝っていた。

 

「アリサ、悪い子じゃないんだ。ただ、多分不器用なだけなんだと思う」

 

 そう言って苦笑するユウはよくアリサの隣に居た。周りから孤立するアリサをひとりにしないよう、一緒に食事をする姿もよく見かける。話し掛けても素っ気なく返されるだけだが、コウタと一緒にユウは積極的にアリサと関わろうとしていた。同じ新型のよしみもあるのだろうが、その姿はユウの人間性というものを雄弁に語っていた。

 

「あの二人、お前と死神みたいだよな」

 

 一緒にエレベーターに乗るユウとアリサをラウンジから遠巻きに見ながら、カレルは呆れたようにそう言った。

 

「それどういう意味ですか」

「物好きだっつってんだよ。趣味悪いよな、お前ら」

「……首に直にネクタイ巻く人に趣味云々言われたくないです~」

「そういうお前の服装は地味だよな」

 

 何処か馬鹿にするような表情が腹立たしいので棘の含んだ言葉をにっこりと笑って返せば、それをきっかけにくだらない言い合いが始まる。

 いつの間にかミツハとカレルは悪友という言葉が似合う間柄になっていた。皮肉屋で常に斜に構えた態度の捻くれ者だが、認めるべき相手はきちんと認める男だ。ミツハが戦果を出せばカレルは意外にも素直に褒める。そういう所をミツハは気に入っていた。

 

   §

 

「おい、聞いたかよ! リンドウさんが殺られちまったって!」

 

 任務を終えてアナグラへ帰投すると待ち構えていたのは喧騒だった。行き交う人々が口にする言葉にミツハ達は耳を疑う。

 

――リンドウさんが?

 

「なあ、その話どういう事だ」

 

 思わずといった様子でタツミがすれ違う神機使いに話を聞く。話をしていた男も大層困惑した様子で、俺も詳しい事はよく分かんねえけど、と前置きを置いて話す。

 

「贖罪の街に任務に出ていた第一部隊が、接触忌種の群れと遭遇しちまったらしい。そんでリンドウさんだけ取り残されたって話だ」

「取り残されたって……なんでそうなったんだよ」

「俺もよく分かんねえよ。けどさっき機動隊が慌ててヘリ出してたからもうすぐ第一部隊の奴ら、戻ってくんじゃねえの。そしたらもう少し詳しい事分かんだろ」

「そうか……っておい、ミツハ!?」

 

 男の言葉にミツハはエレベーターへ駆け込んだ。

 接触禁忌種というのは並みの神機使いは近づく事も許されない、非常に危険なアラガミだ。そんなアラガミが群れとなって第一部隊を襲ったのだと聞けば、ミツハは居ても立っても居られなかった。

 

 エントランスから最上階の屋上へエレベーターを上昇させる。どうか途中で開きませんようにと祈りながら数百メートルを移動し、夕焼け空が眩しい屋上で扉が開く。ヘリは停まっていたが、エンジンの火は落とされていた。人影はなく、もう一つのエレベーターを見やればランプが降下していた。どうやら入れ違いになったらしい。

 仕方が無しにミツハはエントランスへ戻ろうと閉じたばかりのエレベーターに手を伸ばす。しかしその手はぴたりと止まった。

 

 ソーマの声と鈍い衝撃音が聞こえたのだ。

 

「……クソッタレ!」

 

 その声色はいつか見た訓練所のものと同じだった。悔しさとやり切れなさが混じった荒々しい声。その声はミツハの心臓を締め付ける。

 足は当然のようにソーマのもとへ向いた。少し歩けばヘリポートの上に差した己の影に神機の刃を突き立てているソーマの姿があった。それはまるで自分自身を殺しているかのように見える。痛々しい背中は小さく感じた。

 

「っ、誰だ」

 

 他者の気配を察したソーマは勢いよく振り向く。そのフードの影から覗く蒼い目は手負いの獣のそれで、他人を遠ざけ、踏み込ませないだけの鋭さを持っていた。

 その鋭さに思わず怯む。こっちに来るなとインディゴブルーは訴えていたが、ミツハは歩みを進めた。

 

「……何しに来た」

「……ソーマさんが、心配で」

「余計なお世話だ。失せろ」

「嫌です」

 

 明確な拒絶は初めてだった。ソーマは確かに他人を遠ざけ排他的な性格をしているが、食堂で正面の席に座った時や会話を振った時もやめろとは言われなかった。だが、今は明確にミツハが踏み込む事を拒絶している。その事実が悲しく、そして寂しくなる。

 

 一向に背を向けないミツハにソーマは舌打ちをし、顔を背ける。フードに隠れてその横顔は一切見えなくなってしまった。彼は突き立てていた神機を肩に担ぎ、俯いたままミツハの横を通り過ぎる。引き留めようとソーマの左手を掴めば、大きな力で振り払われた。ソーマは此方を一瞥すらもせずに諦観のような声色で呟く。

 

「お前、もう俺に構うなよ」

「……嫌ですよ」

「死にてえのか」

「死にませんよ」

「はっ、死にかけてた奴がよく言えるな」

「その死にかけてた奴を助けたのは、誰ですかっ」

 

 思わず言葉に力が入り、拳を強く握り締めた。切り忘れていた伸びた爪が皮膚に食い込む。鈍い痛みが続くが、それだけの痛みでミツハの頭は冷静にはなれなかった。

 

「死神って周りの人は言いますけど、ソーマさん、助けてくれたじゃないですか! ソーマさんのおかげで、私生きてるんですよっ」

「てめえは俺を良いように見過ぎだ!」

 

 これ以上ミツハの言葉を聞きたくないとでも言うように、ソーマが珍しく声を荒らげる。ようやく振り向いたソーマはうっすらと自嘲の表情を浮かべて言葉を吐いた。

 

「仲間もろくに守れねえ、俺は出来損ないの化け物なんだよ……っ」

 

 まるで誰かに懺悔するかのような口振りでもあった。

 

――出来損ないの、化け物。

 

 言うつもりはなかった言葉なのだろう。ソーマは言葉を吐き出した後、ばつが悪そうに目を伏せた。肩に担いでいた神機を再び自身の影に突き立てる。鈍い衝突音がオレンジ色に染め上げる屋上に響いた。

 

――この人は、いつもそんな事を思ってたの。

 

 エリックが殉職し、死神と後ろ指を指されていた時も。

 駆け付けても間に合わず、同行者の死に行く姿を見た時も。

 どんなに危険な任務でもひとり生き残った時も。

 そして、今も。

 

――この人は、出来損ないの化け物だって、思ってたの。

 

 きっとソーマは、〝死神〟という言葉を受け入れてしまっている。己を死神だと、化け物だと罵り、責め続けている。仲間を守れなかったのは、死なせたのは自分のせいなのだと。出来損ないの化け物。それは呪いの言葉に思えた。

 呪いの言葉はどうしようもなくミツハの心臓をぎゅうぎゅうと締め付ける。自分の事ではないのに息が苦しくなり、視界が滲み始める。ぎょっとしたようなソーマの顔がぼやけていた。

 

「なんですか、それ……っ」

 

 わけもなく涙が溢れ出た。瞼を焼くような熱い涙が頬を滑り落ちる。顔を見られたくなく、俯いて腕で目を覆った。乱雑に拭うと瞼がヒリヒリと痛む。

 

「……なんでてめえが泣くんだよ」

 

 真っ暗になった視界ではソーマの表情は見えなかったが、先程より随分と落ち着いた声色になっていた事に妙な安心を覚える。

 

「わかん、ないです。ソーマさんが泣かないから、代わりに泣いてるんじゃ、ないですかね」

「…………」

 

 立ち尽くすようにソーマは微動だにしなかったが、暫くすると泣いたままのミツハに何も声を掛ける事無く、背を向けて遠ざかっていた。遠のく足音を聞きながら、ミツハは涙を拭う。顔を上げると既にソーマの背中はなかった。

 

「……出来損ないって、化け物って、なにそれ……」

 

 虚空にぽつりと問い掛ける。当然返事はないが、ソーマに直接問うたところで言葉が返ってくるとは思えなかった。

 

 ミツハは北東へ視線を向ける。アナグラからおよそ二十キロ先にある贖罪の街にリンドウは取り残されている。

 ソーマの事を語るリンドウは兄のようだった。ソーマの初陣からの付き合いだとも聞いた事があり、周りから孤立するソーマを随分気に掛けていた。だからこそリンドウはミツハにソーマの事を教えたのだろう。彼をひとりにしないよう。

 

 〝またそんな風に自分を責めてたら葡萄味の缶ジュースでもやって一緒に居てくれや〟

 

 きっとその役目はリンドウだった筈だ。しかし彼は今アナグラに居ない。その事実にソーマは自分を責めている。

 

――泣きたいのはソーマさんの方だっていうのに。

 

 なに泣いているんだろう。ミツハは自分を戒めるように両頬をバチンと強く叩いた。

 



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26 寄り添う

 アナグラはKIA(作戦行動中死亡)認定されたリンドウの話題で持ち切りだった。

 リンドウが取り残された翌日には第一部隊が遭遇した接触禁忌種の群れは姿を消し、早速調査部により捜索が開始されたそうだ。しかし最後にリンドウの姿を見た教会の中には、死体はおろか神機や腕輪すらなかったらしい。代わりに残されていたのはリンドウのDNAと一致する大量の血痕だけ。

 

 これがノルンのデータベースにアップロードされた捜索記録だった。一度ツバキに第二部隊全員で捜索の申し出をしたが、くどいと一喝され許可が下りる事はなかった。そしてその一週間後にはリンドウの捜索が打ち切られてしまった。腕輪の位置を示すビーコンと所有者の生体信号(バイタルサイン)も消え、生きている可能性は限りなくゼロに等しいという上層部の判断だった。

 それでも防衛班は引き続き、通常巡回経路を拡大して少しでもリンドウの捜索にあたっていた。しかし成果はゼロに等しい。

 

「リンドウさん、見つかんねえなあ……」

「……そろそろ戻らなければな」

 

 本日も装甲壁周辺のアラガミを討伐しつつ巡回経路を拡大してリンドウの手掛かりを探すが、やはり何も見つからない。何の成果を挙げられないまま時間だけが経ち、最終帰投時刻が近づいていた。日はもう落ちかけている。

 ブレンダンが運転するジープに乗り込み、真っ赤に染まる空を見ながらアナグラへ帰投する。アナグラの空気は曇り空のように重い。昨日リンドウがKIA認定されてからはすっかりお通夜状態になっているのだ。

 エントランスへ行きタツミが帰投報告を済ませる横で、ミツハは訓練所の使用状況を確認する。第一訓練所は使用中だった。

 

――まただ。

 

 この一週間、ミツハが確認すると大抵第一訓練所は使用中だった。まるで誰かが籠っているかのようにすら思える。

 

「ヒバリさん、今第一訓練所って誰が使ってますか?」

「……ソーマさんです。最近任務から帰ってきてもずっと訓練所に居るんですよ」

「そうですか……」

 

 やっぱり、とミツハは心中で呟く。リンドウの事件以来、周囲のソーマに対する悪評はますます膨れ上がっていた。少し耳を傾ければ、死神という言葉が何処からか聞こえてくるぐらいだ。同時にアリサに対する非難の声も上がっていた。接触禁忌種と遭遇してからというものの彼女は錯乱状態で入院しているらしい。リンドウだけが取り残されたのはアリサのせいなんじゃないか、そう疑う人間も居る程だった。

 

「なあミツハ。最近ソーマの様子どうだ?」

「……分かりません。会えてすらいないです」

 

 タツミの言葉にミツハは苦笑すらも出来なかった。

 屋上でソーマと話してからミツハは彼に避けられていた。と、言うのも食堂で彼の姿を見つけられないのだ。部隊の違うミツハとソーマでは共同区画での接点がなくなれば会う事すらままならない。

 ソーマと同じ部隊のユウとコウタの話によれば、ここ数日ソーマは食事を自室で取っているらしい。任務の時でしか姿を見せなくなったとも言っていた。それを聞いたミツハはがっくりと項垂れた。近づいていた筈の距離がふりだしに戻された気分だった。

 

 そうか、と相槌を打ったタツミは、まるで気合を入れるかのようにミツハの背中を叩く。痛いです! と抗議の声をあげると、タツミはにかっと笑った。

 

「じゃあ会いにいって様子を見てみるべきだ。そうだろ?」

「あの、私からもお願いします。ソーマさん、ちゃんと休んでいないみたいなんです」

 

 タツミとヒバリがミツハの背中を押す。ソーマは今第一訓練所に居る。エリックが殉職した後のように、やり場のない思いを仮想アラガミにぶつけているに違いない。一心不乱に神機を振るい、〝出来損ないの化け物〟を責めているのだろう。

 そうですね、とミツハは頷く。神機が収納されたアタッシュケースをヒバリに預け、エレベーターへ向かおうと受付横の階段を上がっていたが中段辺りでその足を止めた。困ったように笑いながら振り返り、ミツハはタツミ達に問う。

 

「……葡萄味の缶ジュースって、何処の自販機で売ってますか?」

 

   §

 

 第一訓練所の扉の前。分厚い鉄の扉は閉ざされているが、鍵が掛かっているわけではなかった。そっと扉を小さく開けてみる。扉の隙間から覗けるのは、ただ一心不乱に仮想アラガミを斬り落としていくソーマの姿だった。

 ソーマは今、何を思いながら神機を振るっているのだろう。自嘲したソーマの顔が、言葉が頭から離れずにいる。一度だけ大きく深呼吸をし、心を落ち着かせてから重く頑丈な扉を開けた。

 

「ソーマさ、」

 

 訓練所に一歩踏み出してソーマに声を掛けようとしたが、仮想アラガミの断末魔によって遮られてしまった。ソーマのバスターブレードが容赦なく脳天に突き刺さり、仮想アラガミは力なく沈んで霧散した。

 黒い靄の中でソーマはゆらり、此方を振り向く。鋭い蒼い目は強い拒絶の色を示しており、ぞっとするほど冷たかった。思わず後退ってしまいそうになるくらいに、今のソーマは全身で人を拒んでいた。

 

「あの、……少し休憩しませんか?」

 

 それでも引くわけにはいかなかった。小さく笑い掛けながらミツハは未だ殺気立てているソーマのもとへ歩み寄る。

 

「……なんなんだよ、てめえは」

 

 鬱陶し気にソーマは吐き出し、ミツハを睨む。その目の下には隈が出来ており、彼は随分と酷い顔をしていた。フードで隠れがちな顔を覗き込みながら、ミツハは右手に持っていたアルミ缶をソーマに差し出す。

 

「さ、差し入れです。どうぞっ」

 

 ラベルを見たソーマは僅かに目を見張った。リンドウから教えてもらった、ソーマの好きな葡萄味の缶ジュースだ。なかなか受け取ろうとしないソーマにミツハは強引にジュースを押し付ける。じろりと睨まれたが、今更そんな事で怯むほどでもなかった。

 

「……あのお節介野郎」

 

 ソーマは観念したように缶ジュースを受け取って独り言ちた。リンドウの事を思い浮かべているのだろう。先程まで放っていた殺気は鳴りを潜めて、じっとラベルを見つめている。べこ、と缶が凹む音がして、ソーマの目はラベルからミツハに移った。

 

「おい」

「はい」

「てめえはリンドウからどこまで聞いた」

「どこ……どこまで?」

 

 ソーマの質問の意図が分からずに首を傾げる。どこまで、とは何を指しているのだろうか。

 

「ソーマさんが自分を責めてるとか、そういうお話を聞きました、けど。どこまで……んん? あっ、葡萄味の飲み物がお好きなんですよね!」

「……いや、いい。変な事を聞いたな、忘れろ」

 

 その口ぶりから、なんとなくミツハは察する。彼には何か〝秘密〟があるのだと。その秘密をミツハはまだ知らない。

 

――それは私も同じだけど。

 

 ミツハにも誰にも言えない〝秘密〟はある。自分が六十年前からタイムスリップしてきたなど、そう簡単に口に出来るものではない。

 サカキなどの一部の人間は事情を知っているが、一緒に戦前を共にする防衛班の面々や同期二人には話せない。勿論ソーマにだって話せやしない。話せない、というよりも〝話したくない〟という思いが強かった。話せばきっと〝帰りたい〟と零してしまう。それはこの時代に居る人達を否定しているように思えてしまって、ミツハはあの病室で泣いた日以来その言葉を口にしていなかった。

 

 きっとソーマにも〝そういう事情〟があるのだろう。知りたいとは思う。それと同時に、彼自身から話すまでは踏み込んでいけないとも思った。

 

「……分かりました。忘れます。なので、ちょっと屋上行きませんか?」

「は?」

「気分転換ですよ気分転換! ソーマさん、最近ずっと部屋か訓練所に籠ってるって聞いたので、ちょっと外の空気を吸ってジュース飲みながら一休みしませんか?」

「断る」

「じゃあ忘れません、ソーマさんについて根掘り葉掘り聞いちゃいます。えっと、……なんだろ。あ、犬派ですか猫派ですか?」

「……お前、随分と図々しくなったよな」

「防衛班なので」

「ああ……」

「ええ……それで納得するんですか……」

 

 ソーマの反応が可笑しくてくすくすと笑った。毒気が抜かれた様子のソーマは面倒くさそうに溜息を一つ吐き、「少しだけだからな」とぶっきらぼうに了承した。

 

――押しに弱いな、この人。

 

 まさにリンドウの言葉通りだ。真正面から踏み込んでいけばソーマは逃げられなくなる。孤独を望んでいるが、きっとそれは本心ではない筈だ。ミツハはそう思っている。

 

 まずはソーマの神機を預け、その後ミツハの部屋に一度立ち寄ってデジタルカメラを持ち、ソーマと共に屋上へ向かった。久しぶりに夜空を撮りたくなったのだ。

 六十年前、ミツハはよくデジカメや携帯のカメラで写真を撮っていた。度々ひとりの時にカメラロールを見返しては自分の時代を思い出している。そのカメラに、二〇七一年の景色をようやく収める気になれた。

 

 数百メートルを鉄の箱は上昇し、扉を開く。冬の冷たい空気が頬を撫でた。エレベーターを降りて空を見上げる。息を吐き出すと形になった。

 

「すご……」

 

 今日は快晴であった為、星を遮るものは何もない。思えばこの時代に来てから、こうまじまじと夜空を見上げるのは初めてかもしれない。施設の殆どが地下にあるせいで窓から空を見る事は叶わず、夜間の外出も受付で外出申請を出さなければならないので夜空を見る機会は少ないのだ。

 

「星、よく見えますね。すごい、当たりの日引いたかも」

「これぐらいいつもだろ」

「えっ、そうなんですか!?」

 

 星空はミツハにとって惚ける程に美しかったのだが、この時代ではいつも通りらしい。ミツハのいた時代とは違い、この時代は高い建物と言えば此処アナグラぐらいしかない。外部居住区の明かりも小さなものだ。六十年前の明かりが絶えない横浜の夜空と比べれば、当然星がよく見えるのだろう。

 

 柵に背凭れて座り、ソーマは缶ジュースのプルタブを開ける。ミツハもその隣に座ってデジカメを構え、夜空を切り取った。しかし三年前に買った値段も手頃なデジカメでは如何せんフィルターなどの種類が少なく、どうしても迫力が落ちてしまう。何かいい設定はないかとISO感度やF値の数値を変え、何度か色んな設定を試しながら夜空を撮っていく。そしてようやく納得のいく設定値を見つけ、月と星を一緒に収める。最初に撮ったものよりは随分と星が映えていた。だがやはり肉眼で見る星空との差は激しい。

 

「……一眼レフ欲しい」

「……随分贅沢だな」

「夜空ってデジカメじゃ撮るの難しいんですもん……もっと綺麗に撮りたいんですけど、なかなか上手くいかなくて……」

「お前、写真が趣味なのか」

「そうですね、写真は撮るのも見るのも大好きです。ソーマさんの趣味はなんですか?」

「ない」

「ええ……あ、でも音楽はよく聴いてますよね?」

「別に趣味ってわけでもねえ」

 

 そうは言うが、この時代では音楽などの娯楽はだいぶ廃れてしまっている。そう簡単に音楽を聴けるわけでもないので、わざわざアーカイブなどから見つけているのだろう。ミツハは素直でないソーマに六十年前の携帯の画面を見せた。

 

「私、結構昔の音楽持ってるんですよ。聴きません?」

「……いつの時代の曲だそれ」

「二〇〇〇年代の曲ばっかです。結構レアなんじゃないかと思いますけど」

「お前、よくそんな昔の曲なんか持ってるな……」

 

 やはりこの時代ではミツハの時代の音楽はなかなか聴けないらしい。アーカイブで過去の文化が保存されてはいるが、それでも六十年以上も昔になると余程有名なものしか残らないのだろう。

 適当に好きなバンドの曲を再生させ、風の音だけがする屋上に響かせる。登下校の電車の中でよく聴いていた曲だ。それをBGMにしながらミツハは再び頭上の星空を静かに見上げる。この時代でも変わらずオリオン座は夜空に輝いていた。赤色に光るベテルギウスはまだ超新星を起こしていないようで、ほっとしたような残念なような不思議な気持ちになる。

 

「……てめえは、」

 

 暫く写真も撮らずに夜空を見上げていたのだが、ふいにソーマから声を掛けられる。隣を見やればCメロの穏やかなテンポの中でソーマも空を見上げていた。

 

「リンドウやエリックと同じかそれ以上の、とんだ物好きだな」

 

 その声色と横顔に驚く。あまりにも穏やかで、あまりにも寂しげだった。

 

「……ねえ、ソーマさん」

「……なんだ」

「自分を責めるなとは言いません。でも、全部ひとりで背負い込む必要って、ないと思うんですよ」

 

 ミツハの言葉をソーマは空を見上げたままただ黙って聞いた。曲はアウトロを迎えて、携帯からは音が鳴らなくなる。再び風の音と、ミツハの声だけが静かな屋上に響いた。

 

「ソーマさんに助けられた人だって居るんです。取りこぼしてしまった方だけじゃなくて、ちゃんと手を掴めた方も、時々でいいので思い出して下さいよ。……私は、ソーマさんのおかげで生きてるんです。なのに、それが無かった事みたいにされちゃうのは、悲しいです」

 

 夕焼けに染まる屋上でも伝えた言葉だが、今度は否定されなかった。ソーマはミツハの言葉を咀嚼し、葡萄味のジュースを飲み干す。空になった缶を持ってソーマは立ち上がった。

 

「……いつか死んでも知らねえぞ」

「ソーマさんが居なかったらとっくに死んでるので!」

「はっ、……言ってろ」

 

 噛み殺したように小さく笑い、「戻るぞ」とエレベーターに向かって歩き出す。ミツハもその後を追い、隣に並んだ。

 

「ね、ソーマさん。朝ご飯また一緒に食べましょうよ。なんならベテラン区画まで迎えに行きましょうか?」

「来たら殴るぞ」

「やだ、こわい」

 

 くすくす笑いながらエレベーターは下降する。新人区画に着き、ミツハはエレベーターから降りながらソーマを見る。相変わらず隈が酷いが、訓練所で見た時よりかは幾分マシな顔になっていた。

 

「ソーマさん、お休みなさい」

 

 どうかよく眠れますように。そう願いながらお休みの挨拶をすると、一瞥されただけで顔を逸らされた。最早これぐらいでダメージなど負う筈もなかったが。

 扉が閉まり、ベテラン区画へ向かうエレベーターのランプを見ながら、ミツハはずるずると力なくその場に崩れ落ちる。

 

「緊っ張したぁ……」

 

 思わずそう吐露してしまうぐらいには心臓が五月蠅かったが、同時に充実感があった。

 

――ソーマさん、笑ったな。

 

 夕焼けに染まる屋上で見たような自嘲で歪んだものではない、噛み殺したようなソーマの笑みを思い出す。あの時のソーマは年相応な顔をしていた。

 

――明日タツミさんにお礼言おう。

 

 背中を押してくれたタツミに感謝しながらミツハは自室へ戻る。屋上で流した曲をもう一度流しながらベッドに横になると、心地良く眠れそうだった。

 



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27 恋の自覚

 翌日の朝六時半過ぎ。食堂へ足を運べばソーマの姿があった。

 

「ソーマさんって実はめちゃくちゃ優しいですよね」

「寝言は寝て言え」

 

 そう言いながらもソーマは食堂へ来てくれた。目元を見れば隈は消えており、昨夜はきちんと眠れたようでミツハはほっとする。

 プレートに手を付けながら、何か話題はないものかと思案する。ソーマは基本自分から話を振らないので会話がしたければミツハから切り出さなければならない。これが六十年前であれば昨日のテレビ番組がどうだとか今日の授業がどうだとかと話題が尽きないのだが、この時代ではそうもいかず一つ話題を振るのにも考えてしまう。相手がソーマであれば特にだ。

 

「……昨日聴いた曲、どうでした?」

「悪くはなかった」

 

 思いついたのは音楽の話題だ。ソーマの返事にぱっとミツハの表情は明るくなる。

 

「私、あのバンドの曲結構持ってるんですよ。よかったらまた聴きましょう」

「そもそもどこから拾ってきてんだよ」

「え? ……こ、コネです」

「……そういや内部に住んでいたんだったな」

 

 CDを買って携帯に落としてます、などは口が裂けても言えない。適当に誤魔化せば〝富裕層〟という設定が生きたのか追及されはしなかった。

 少し前のように、口数は少ないが時々会話を交わしながら食事を終える。先に席を立つソーマを見送り、ミツハも残りの食事に手を付けていると正面二つの空席が埋まる。

 

「おはよう、ミツハ」

「おっはよー!」

 

 同期二人がプレートを持ってミツハの正面に座る。寝癖が直っていないコウタにくすくす笑いながら挨拶を返した。

 

「さっきソーマとすれ違ったんだ。ソーマ、ちゃんと食堂に来てたみたいだね」

「なんか安心したわ。最近あいつ全然出てこなかったし。ミツハ、ソーマになんか言ったの?」

「うーん、内緒」

 

 流石に他言するのは恥ずかしく、笑って誤魔化すと二人は何やらにやついた表情をする。おやおやおや? とコウタがわざとらしく声を上擦らせるその様子は恋愛話が大好きな友人を連想させた。

 

「やっぱりミツハってソーマのこと好きなの?」

 

 予想通り、話の展開は恋愛方面に向いた。興味津々といった様子のコウタは十五歳のお年頃の男の子なのだ。

 ミツハは食べる手を止めて苦笑する。予想はしていたので慌てる事はなかった。

 

「……やっぱりって何、やっぱりって」

「だってソーマの時間に合わせてわざわざ早起きして朝飯食ってんじゃん」

「この前ソーマの様子聞いた時は明らかにがっかりしてたし」

「で、そこんとこどうなんですかミツハさんっ」

 

 レポーターのようにマイクを向ける仕草をするコウタに、ミツハは笑う。流石にもう自覚はしていたが、改めて言葉にするのは初めてだ。

 

「うん、好きなんだと思うよ」

「……うええ」

 

 ミツハの答えに後方から辟易したような声が聞こえた。振り向けば席を探しているカレルがプレート片手に顔を顰めてミツハを見ていた。

 

「お前ほんっと悪趣味だよな。これは近いうち防衛班から二階級特進が出るな……」

「カレルさんはほんっと最低な事言いますよね……もう怒りを通り越して笑いが出てきます。あはははは」

 

 カレルは舌打ちを一つしてそのままミツハの隣に座る。コウタは苦手な先輩に少し萎縮した様子を見せたが、ユウは特に気にした素振りは見せずにカレルに話し掛ける。

 

「ねえカレル、ミツハって防衛班ではどんな感じ? あんまり防衛班と組む機会なくて気になるんだ」

「あ? 別に普通だ。しょっちゅう遠距離型にオラクル分ける点は褒めれるな」

「やだ照れる。カレルさんお礼にこのパッサパサしたパテあげますね」

「うわっ、要らねえ……」

「へー、俺もミツハと組んでみたいな。遠距離と相性良いの?」

「あ、うん。私の神機はあんまり敵に近づかなくても攻撃出来るから、誤射されにくいの。私よりタツミさんの方がカノンちゃんに誤射されるし」

「ショート使いの運命だからな。あとオラクル回収率良いだろ、お前の神機」

「咬刃展開……だっけ? あれ凄いよね、ショート並みに手数が増えるし」

「あー、訓練の時に見たあれか! なんかびょーんって鎌が伸びるやつ!」

「そうそうびょーんって伸びるやつ。かっこいいでしょ~、私ほんとヴァリアントサイズ選んで良かったって思うもん。誤射されにくいし」

「重要なポイントそこなの?」

「防衛班にとっては凄く重要」

「まったくだ」

 

 コウタの苦笑にミツハとカレルは力強く頷く。カノンの誤射を如何に避けるか。これが防衛班にとって最も重要な事である。

 

 朝食を終えたミツハ達は各々解散する。ユウ達はエントランスへ向かい、カレルは自室へ戻った。第二部隊は本日もアラガミ装甲壁周辺の防衛任務が入っているが、それは午後からだ。さて出撃の時間まで何をしようと考えていると携帯に一通のメールが入る。サカキからのメールだった。

 

 『定期検査、忘れてないかい?( - 3 - )』

 

 ぷんぷんと怒っている顔文字が添えられた文章を見ながら、ミツハは慌ててサカキの研究室へ足を向けた。ミツハは二週間に一度定期検査を受けており、数日前がその検査予定日だったのだがリンドウやソーマの件に気を取られすっかり忘れていたのだ。

 

 

 

「博士すみません、忘れてました!」

「うん、素直でよろしい」

 

 研究室に入って開口一番に謝れば、サカキはにっこりと笑い特に怒っている様子はなかった。そもそもサカキは常に笑顔を貼り付けており、怒った顔をミツハは見た事がなかった。

 準備が整うまで少し待っていてくれ、とサカキはパソコンのキーボードを打ち始める。見慣れた光景をソファに座りながらぼんやり見ていたが、サカキは不意に話を始める。

 

「今朝ソーマを見かけたけれど、嘘みたいに顔色が良くなっていたね。ミツハ君、彼に何かしたのかい?」

「博士もその話するんですか……内緒です!」

「おや残念」

 

 肩を竦めるサカキは笑いながら、しかし何処か陰を含みながら言葉を続ける。

 

「ソーマと仲良くしてくれているようで何よりだよ。……リンドウ君を喪ってからの彼は、正直見るに堪えなかったからね」

「……リンドウさんって、ソーマさんの初陣からの付き合いなんでしたっけ」

「よく知っているね。六年前の旧ロシア連邦領でのアラガミ一掃作戦、これがソーマの初陣だ。私は此処アナグラの屋上で彼らを見送ったよ。私がソーマと初めて会ったのもその時だ」

「六年前って事は、ソーマさんは十二歳ですか」

「ああ。あの頃のソーマはミツハ君より少し大きい程度の背丈だったね」

「……一五〇センチ代のソーマさんって想像出来ないです」

「ソーマはこの六年で随分大きくなったからねえ。喜ばしい事だよ」

「博士ってなんだか、ソーマさんのお父さんみたいですね」

 

 ミツハがそう言って笑えば、サカキはキーボードを打つ手を止めた。お父さん、か。小さく呟いたサカキは狐目をうっすら開いてミツハを見据える。突然変わった空気にミツハはどきりとした。

 

「ミツハ君。君はソーマの生い立ちについて、知りたいとは思わないかい?」

 

 え、と思わず間の抜けた音を零す。まるで時間が止まってしまったようだ。先程まで軽快に鳴っていたキーボードを打つ音も聞こえず、よく回るサカキの舌も止まって研究室はパソコンの起動音だけが響く静かな空間になった。沈黙の中、ミツハの答えを待っているようだ。

 

 ソーマの生い立ち。それはきっとソーマの〝秘密〟に関わる事だろう。昨日の訓練所でのソーマを思い出す。的外れな事を答えたミツハにソーマは僅かに安心するような表情を見せ、忘れろと言った。

 

「……知りたいとは、思います。けど、博士の口から聞いていいようなものでもないと、思います」

「……そうかい。なんとなく、君ならそう言うだろうと思ったよ」

「ソーマさんから話してくれるまで、待ちますよ」

「ならその時が来たら、君自身の秘密も話してあげるといい。君達ふたりは全く違うようで、よく似ているよ」

 

 その言葉の意味がよく分からずに首を傾げると、サカキは笑う。準備が出来たよとミツハを奥の部屋へ促してこの話は終いになった。

 

   §

 

 メディカルチェックを終え、午後からは任務に赴く。問題なく任務を終え、本日も巡回経路を拡大してリンドウの手掛かりを探すも結果はいつも通り。アナグラへ戻る事にはすっかり日が暮れていた。

 第二部隊の面々がエントランスへ向かうと待っていたのはアリサだった。久々の顔に少々目を丸くする第二部隊を前に、アリサは勢いよく頭を下げた。

 

「そのっ、この前は失礼な事を言ってすみませんでした……!」

 

 深々と下げられた頭から帽子は落ち、アリサのゆるいウェーブの掛かった白銀の髪が垂れる。とてもじゃないが高慢な態度を取り傍若無人に振舞っていた少女と同一人物には思えない素直な謝罪に、第二部隊はポカンと口を開けた。

 

「えっ……と? と、とりあえず顔上げろって」

 

 ようやく第一声を上げたのは隊長のタツミだった。落ちた帽子をミツハが拾い上げ、アリサに渡すと有難うございます、と素直に感謝の言葉が告げられた。彼女の纏う雰囲気は最後に見た時よりもずっと柔らかい。顔は上げたもののばつが悪そうに俯いたままのアリサに、第二部隊の心境をブレンダンが代弁する。

 

「突然どうしたんだ?」

「……以前の私の言動はあまりにも失礼なものでした。……防衛任務の時の件も、本当にすみません」

「あー、その事か」

 

 タツミがくしゃりと髪を掻く。アリサと共に出撃した防衛任務の際、珍しくタツミは怒りを露わにしていた。〝そんなもの〟と言い放たれた時、防衛班として日の浅いミツハでさえもカチンときたのだ。防衛班長のタツミならば尚更だっただろう。

 

 苦笑するタツミは暫く言い淀む。ミツハ達も黙ってただ二人を見つめた。やがてタツミは苦笑を消し、真面目な顔で芯の通った声で言葉を紡いだ。

 

「市民の気持ちや避難誘導を『そんなもの』と言ったのは、悪いが防衛班長としては流石に許せん。お前さんがそんなものと言ったのは、俺達防衛班の誇りだ」

「……はい、仰る通りです」

 

 分かりやすくアリサの声色が落ちる。ぎゅっとスカートを握り、もう一度すみませんと零した。その謝罪にタツミは再び苦笑する。

 

「でもな、お前さんの実力は確かだ。まだ若いのに大したもんだ。それぐらいの実力があれば助けられる人だって増えるだろう。悪いと思っているなら、戦う力がない人を守ってやってくれ。ただアラガミを倒す事だけが人を守る事じゃないんだ」

 

 タツミの声色は優しく諭すようなものだった。その言葉にアリサは頷く。はいと返事をしたその声は少しだけ震えていた。

 

「その、……有難うございます」

「おう、今後ともよろしく頼むわ」

「ああ。戦術理論は此方も改めて学ぶ部分が多い」

「あ、あの、良かったら夕食ご一緒しませんか?」

「……いいんですか?」

「もちろんですよ! ね、ミツハちゃん!」

「ね、女子会しよう女子会」

 

 アリサの手を引くと、少女は素直に此方へやって来る。嬉しそうに笑うカノンを見て不器用ながらにアリサは笑い、有難うございますともう一度感謝の言葉を口にした。

 男二人を置いて三人並んで食堂へ向かう。近寄りがたい雰囲気は面影もなく、アリサは年相応の顔を見せている。その表情を見てミツハはソーマを思い出した。昨夜のソーマも珍しく年相応な顔をしていた。

 

「ね、アリサ。もしかしてだけど、ユウと何かあった?」

「えっ!? な、なんでそう思うんですか!?」

 

 あからさまに動揺を顔に出すアリサに、ミツハはくすくすと笑う。ミツハがソーマの事を気に掛けるように、ユウはアリサの事を気に掛けていた。ミツハとソーマの間にあの屋上での出来事があったように、きっとユウとアリサの間でも何かがあったのだろう。

 

 区画移動用のエレベーターに三人で乗り込み、共同区画まで移動する。その移動のさなか、アリサは照れたように尻すぼみになりながらミツハ達に目を向ける。

 

「その、……私、同年代の同性の友達が、いなくて。……良かったらでいいんですけど、な、仲良くして頂けたら、嬉しいです……」

 

 顔を真っ赤にしながら言うので、思わずミツハとカノンも釣られて赤面してしまう。

 

「アリサさん、可愛いですね」

「ほんと。可愛いね」

「なっ、か、からかわないで下さい!」

 

 白い頬を赤く染め上げるアリサは十五歳の少女らしく、とても可愛らしかった。三人の少女は談笑しながら廊下を歩く。食堂の扉を開ければユウとコウタが夕食を先にとっており、ミツハ達三人の姿を見ると彼らは嬉しそうに笑うのだった。

 



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28 お茶会と恋バナ

「いや~、にしてもミツハがソーマを好きだったとは。いや予想通りだったけど」

「よく気に掛けていたしな」

「うふふ、そうね」

「ミツハちゃん今度お話聞かせて下さいっ! 恋バナしましょうっ、お菓子用意しますので!」

「お前自殺志願者だったのかよ……」

「悪趣味だよな」

 

「あの……なんで話が広まってるんです?」

 

 珍しく防衛班が全員休みの日。珍しくもないが防衛班がラウンジに全員集まって談笑していたので疎外感を感じて輪に入ってみれば、まさか自身の色恋沙汰についての話をしていたとは誰が予想出来よう。

 じろりとカレルを見やれば、男は目つきの悪い目を細めてにやりとあくどい笑みを浮かべた。数日前に話を聞かれた時、賄賂でも渡して口留めするべきだったかとミツハは後悔した。

 

「カレルさんサイテー」

「まあカレルが言わなくても察していたけれどね」

「ははっ、確かにな」

「ううっ、追い打ちですよそれ……」

 

 まあ座れよと笑うタツミに促されてカノンの隣に座る。テーブルの上にはカノンが作ったお菓子が並べられており、見た目が少々独特なマカロンに手をつける。

 

「やっぱりカノンちゃんのお菓子は美味しいね」

「ほんとですか? えへへ、有難うございます〜! よかったら今度、一緒にお菓子作りしませんか?」

「ふふ、そして作ったお菓子をソーマにプレゼントするといいわ」

「ジーナさんはからかわないで下さい! お菓子作りはしたいですけども!」

 

 すっかり玩具になったミツハは意外にもそういった話が好きなジーナにからかわれ、そして同じく片思いをしているタツミに何故か「お互い頑張ろうぜ!」と親指をグッと立てられる始末である。

 ブレンダンはこういった話題が得意ではないのかあまり会話には参加せず、聞く側に徹していた。その隣でシュンはカレルと共に「死に急いでる」「性癖が歪んでる」「ドMだ」など様々な言葉でミツハの趣味が悪いと語っていた。最早気にするだけ無駄というものだろう。

 

「どうせならアリサさんも誘ってみんなでお菓子作りしたいですね」

「あ、良いねそれ。最近のアリサ頑張ってるよね、ユウと一緒に特訓とかもしてるみたいだし」

 

 何気なしにユウの名前を口にすると、カノンは途端に表情を引き攣らせる。どうしたの、と聞けばカノンは顔を掌で覆ってテーブルに伏せた。その姿は配属を知らされた日、ミツハの手前でシュンに誤射を指摘された時に似ていた。

 

「最近のアリサさん凄く頑張ってるので、私も負けないようにと勢いで昨日任務を受注したんですけど、それが鎮魂の廃寺でのクアドリガの討伐任務で……」

「えっ、クアドリガ!? そういえば昨日午後からカノンちゃん居なかったけど、一人で受けてたの!?」

「ひ、一人でなんてとんでもないです! どうしようと迷っていたら、ユウさんが手伝ってくれたんですけど、その……」

「……誤射しちゃったんだ?」

「そうなんです~! ユウさん、凄く動きが早くって! 気づいたら射線上に居るんです!」

「あはははは……」

 

 カノンは涙目になりながら申し訳なさそうに語るのだが、ミツハは苦笑しか出来なかった。ついにユウもカノンの誤射を喰らったのかと同情するしか他にない。

 

「このお菓子もお詫びにと作ったものの余りなんですけど、ユウさんいらっしゃらなくて……」

「あー、確か第一部隊ならサリエルの討伐に行ってるらしいぞ。ヒバリちゃんが言ってた」

「あら、サリエルが出てたのね。私が倒したかったわ……」

「サリエル……って、確か人型の大型アラガミでしたっけ」

 

 恍惚とした表情を浮かべたジーナはそうよ、とミツハに頷く。

 

「とっても美しいアラガミなのよ。アラガミでなければお近づきになりたかったわ」

「はあ……」

 

 相変わらずジーナの世界観はよく分からず、曖昧に相槌を打つしか出来ない。暫く会話をしながら菓子を食べていたのだが、ふと一階を見下ろすと受付に見覚えのある赤毛の少年を見つけた。

 

「あ、カズヤ君だ」

「ああ、この前アップルパイを持ってきてくれた子ね?」

 

 目が合ったので手を振ればカズヤは嬉しそうに振り返す。そのままカズヤは階段を上がり、二階のラウンジまでやってきた。

 

「久しぶり」

 

 にっと笑う少年からはふわりと甘い匂いが漂ってくる。見覚えのあるバスケットを持っていたのだ。

 

「食糧配給されたから、母さんがまたアップルパイ作ったんだよ。防衛班のみんなに持って行けって母さんが」

「えっ、わざわざ有難う……!」

「アップルパイ、凄く美味しかったです! あっ、良かったら一緒に食べましょう!」

 

 毎月一日は外部居住区への食糧配給日だ。配給されてすぐに作ってくれたのであろうアップルパイは出来たてで、ほのかに温かい。ミツハの隣にカズヤを座らせ、テーブルの上はカノンのお菓子とカズヤが持ってきたアップルパイで豪勢なものになった。

 十三歳の少年はマカロンを初めて食べたのか、独特の触感になんだこれ、と目を丸くしている。その姿が妙に可愛らしく、変声期がまだ訪れていないカズヤは少女のようにも見えた。

 

「まかろん? っていうの、これ?」

「はい! フランスっていう国のお菓子だったらしいですよ」

「配給品から作るって母さんみたい。ミツハさんはお菓子とか作んないの?」

「え。うーん……今度カノンちゃんと一緒に作ろうって話はしてる」

「へー。俺ミツハさんの作ったお菓子食ってみたいな」

「が、がんばるね」

 

 果たしてちゃんとした菓子が作れるのか不安を抱きながら頷けば、カズヤは嬉しそうにニッと笑った。命を救った事もあってか、カズヤはミツハに大層懐いている。その様子を見ながらタツミとジーナはからかうように笑う。

 

「うふふ、随分好かれたわね」

「カズヤっつったっけ? やめとけやめとけ、そいつクッソ趣味悪ぃから!」

「は!? いや、そんなんじゃないし!」

 

 ジーナとシュンのからかいに大袈裟な程反応するカズヤの顔は赤く、ミツハに向って違うからな、と念を押す姿が子供らしくて微笑ましい。カズヤはまだ十三歳だ。

 

――中学一年生かあ。

 

 外部居住区に住んでいる為、学校には通っていないのだろう。それどころか十分に食事も取れていないかもしれない。まだ成長期に入っていないのかもしれないが、それにしたってカズヤは十三歳の男の子にしては細身だった。身長は一五〇センチのミツハとほぼ同じくらいしかない。

 

「ねえ、カズヤ君。こうやって作って持ってきてもらえるのは凄く嬉しいんだけど、配給品はちゃんと自分達の為に使ってね?」

 

 こうして防衛班の為にアップルパイを作ってもらうのは大変嬉しいのだが、配給品は決して多くない。少ない材料を消費させ、それでカズヤ達が食べる分が減ってしまうのは心苦しいのだ。そんなミツハの言葉に、カズヤはあっけらかんと答える。

 

「ちゃんと自分達の分は取ってあるし、そんなの気にしないでいいよ。防衛班は俺達の為に命かけて戦ってんだし、少しぐらいお礼させてよ」

「うーん、でもカズヤ君育ち盛りだろうし、もっと食べないと……」

「……それ俺の背が低いの見て言ってる?」

「えっ」

 

 図星だったので思わず口元が引き攣る。じろりと詰るような目をしたカズヤは少々むっとした様子を見せた。

 

「俺はこれから伸びんの! 絶対一八〇超えてやるから!」

「ははは、男に身長の話は駄目だぞミツハー」

「あんまり高すぎると話すとき首痛くなるから程々がいいなあ……。カレルさんとかブレンダンさんは顔見て話そうとすると首痛いですもん。シュンさんぐらいが丁度良いです」

「お前それ喧嘩売ってんのか!?」

「ソンナコトナイデスヨー」

「でもソーマは結構身長あるぞ? 抜かされた時はショックだったなあ」

「ちょ、その話に戻るんですか!?」

「ソーマ?」

「いやカズヤ君は気にしなくていいよっ!」

 

 慌てふためくミツハをニヤニヤと頬杖を突きながらタツミは笑う。顔を赤くしながら誤魔化すようにミツハは大口でアップルパイを頬張ると、タイミング悪く第一部隊が帰ってきた。大口開けて頬張る姿など想い人に見られて堪るかという話だ。「あっ、第一部隊の人達が帰って来ましたよ!」というカノンの言葉に慌ててアップルパイを飲み込むと咽せてしまった。

 

「ええっ、だ、大丈夫ですかミツハちゃん!?」

「だい、だいじょうぶ……ありがとうカノンちゃん」

「ミツハって分かりやすいわね」

 

 ふふ、とからかうジーナに苦笑していると、ラウンジの横を第一部隊が通り過ぎる。美味そうなもん食ってんな、とつまみ食いをしようとするコウタの頭をアリサがパシンと平手で叩き、隣でユウとサクヤが苦笑する。すっかり馴染んでいる様子のアリサにお疲れ様と手を振れば、彼女は手を振り返してくれた。棘の消えたアリサは素直でとても良い子だ。

 

「ソーマさんも、お疲れ様です」

「……ああ」

 

 ユウ達から一、二歩遅れてやって来たソーマにも言葉を掛ければ、不愛想ながらにも返事が飛んでくる。エレベーターに乗り込んだ第一部隊を見送りながら上機嫌になっていると、タツミとジーナからはやはりからかうような視線を向けられたが触れない事にした。

 そんな折、第一部隊が乗り込んだエレベーターをじっと見つめていたカズヤはぽつりを呟く。

 

「……早くでっかくなりてえ」

「ははは、頑張れ少年」

「配給品の牛乳不味いんだよなあ……」

 

 自身の身長に悩むカズヤにタツミが愉快そうに笑う。矛先が向けられているミツハは苦笑しか漏らせないが、純粋な好意を向けられて悪い気になる人などそうそう居ないだろう。

 自分とそう背の変わらない年下の子供は背を伸ばす方法を真剣に考えており、それがまた微笑ましかった。

 

 暫く話をした後にカズヤは外部居住区に帰り、テーブルの上に並んであった菓子も殆どなくなったのでそろそろお開きにしようと残った菓子をつまんでいると、携帯が鳴る。誰か一人の携帯ではなく、全員の携帯が鳴った為おそらく上層部からの一斉メールだろう。

 何かあったのだろうと首を傾げながら各々の携帯を開くと、やはり上層部からのメールが来ていた。内容を読んで一番に声を荒げたのはシュンだった。

 

「はあ!? ユウが隊長って、まじかよ!」

 

 本日一五〇〇を以って、第一部隊隊長を神薙ユウに任命する。

 

 メールの内容はこの通りだった。まだ日の浅い新人のリーダー抜擢に、周りの神機使い達はざわめき始める。それは防衛班も例外ではなく、ユウの異例の昇進にシュンとカレルはメールを読みながら不平を漏らしていたが、タツミ達は流石ユウだ、と素直に祝っていた。

 

 ミツハはと言うと、突然の同期の大出世に唖然としていた。やっぱりユウさんは凄い人ですねと感嘆の吐息をもらすカノンに、本当だねと深く頷いて同意する。

 

「……カノンちゃん、作ったお菓子はお詫びじゃなくてお祝いに持っていきなよ」

「あっ、それがいいですね! そうします!」

 



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29 デートのお誘い

 ユウのリーダー就任に驚きながらも解散し、ミツハは自室へ戻ろうと新人区画に向かっていた。エレベーターの中でもう一度、先程送られてきた上層部からのメールを見返す。ユウがリンドウに代わって第一部隊の隊長になったのはユウが新型だからだとカレルは言っていた。やはり新型というのは大きなアドバンテージなのだろう。同期の大出世にシュンのような羨望は特に抱かなかったが、遠い存在になったなあという気持ちが大きい。

 

 廊下を歩いているとドサッと何かが落ちる音が聞こえる。気になって音の方へ足を運んでみれば、三箱のダンボール箱を派手に落としたユウの姿があった。目が合ったユウは恥ずかしそうに笑いながら、角が少し凹んだダンボール箱を積み重ねる。

 

「どうしたの、そんな大荷物」

「部屋が変わるから、荷物を移動してたんだけどね……恥ずかしい所見られたなあ」

「あっ、そっか。ベテラン区画に移るんだ?」

 

 ベテラン区画は階級が曹長以上の神機使いが住む区画だ。基本的に部隊長は曹長以上の人間が務めるので、ユウは腕輪を嵌めてから僅か三か月で曹長まで昇進したのだ。思わず溜息が出そうになる程の出世スピードだ。

 

「運ぶの手伝うよ、一人じゃ大変でしょ」

「有難う、助かるよ」

「あとリーダー就任おめでとう! 凄いね、びっくりしたよ」

「うん、僕も驚いてる。まだ新人区画に居たかったなあ……」

「三か月で新人区画からベテラン区画に移るって凄いよね」

「全然ベテランじゃないのにね……」

 

 そう苦笑するユウからダンボールを一箱受け取り、エレベーターに向かう。ユウの隣を歩きながら横目で彼を見ると、顔に絆創膏が貼ってある。今日のサリエル討伐の任務で受けた傷なのか、それとも。

 

「そういえば、昨日カノンちゃんとクアドリガ倒しに行ったんだって?」

「うん。……前にミツハが誤射されにくいのが重要って言った意味がよく分かったよ」

「顔の絆創膏はカノンちゃんの?」

「これは今日のサリエル戦の。一日経てば治ってるよ」

「それもそっか」

「でもカノンさんのバレットの威力すごかったなあ、ブラストだからっていうのもあるんだろうけど」

「カノンちゃん適合率高いらしいからね、ユウと同じくらいなんじゃないっけ?」

「でもミツハも適合率は高いって聞いたけど」

「うーん私の場合はなんていうか……」

 

 適合率は高くとも偏食因子自体が違うものなので、適合率が高かろうがオラクル活性はP五十三偏食因子よりも劣ってしまうのだ。ミツハの身体に流れる偏食因子が通常と違う事は一部の技術班には話しているが、ユウ達には言っていない。曖昧に笑って言葉を濁しつつ、それより、と話題を強引に変える。

 

「鎮魂の廃寺って夜景が綺麗だよね、昨日カノンちゃんと行った時オーロラ見れた?」

「見れたよ。異常気象のせいだって分かってても、やっぱり綺麗なものは綺麗だよね」

「昔はこの辺りでオーロラなんて考えられなかったしね。写真撮りたくなってきたなあ」

 

 アナグラのあるこの辺りが藤沢市という名前だった頃、鎮魂の廃寺は鎌倉市と呼ばれていた。小、中学校の頃の遠足で鎌倉の大仏や寺を見学しに行った事があるミツハだが、とてもじゃないが年中雪が降り積もりオーロラが見られるような気候ではなかった。局地的な異常気象のせいなのだが、鎮魂の廃寺周辺の地域は夜空がとても綺麗なのだ。

 

 明日は昼で防衛任務が終わる為、午後から鎮魂の廃寺での任務でも受注しようかなと考えているとエレベーターがベテラン区画で開く。エレベーター前の休憩スペースではソーマが缶コーヒー片手にベンチに座っていた。ちらりとソーマの視線が此方に向けられ、すぐに逸らされる。

 

「……あっ、ミツハ、もういいよ! 部屋すぐそこだし!」

「えっ!?」

 

 突如ユウが強引にミツハの持つダンボール箱を受け取り、三段に重ねられた箱で視界を悪くしながら足早に廊下を歩いて行った。急にどうしたんだという目でユウを見やれば、彼は手が塞がっていなければ親指でも立てていそうな表情をしながら笑う。どうやら要らぬ気を遣われたらしい。あれで扉を開けられるのか少々不安に思いながら、ミツハはソーマのいる休憩スペースで取り残された。

 

「え、えーと……」

 

 あからさまに二人きりにさせられ、視線が泳ぐ。何か話題を探すより先にソーマがベンチを立ってしまった。帰るのかと残念に思いきや、缶コーヒーはゴミ箱に捨てられるわけでもなくベンチの上に置かれたままだ。

 ソーマは自販機にコインを入れてガコンと音を鳴らす。取り出したペットボトルはミツハの方に向けられた。

 

「…………」

「……え、えっと?」

 

 ペットボトルの中身はミツハがよく飲んでいるミルクティーだった。クエスチョンマークを浮かべるミツハにソーマは少々眉を寄せ、目を逸らしながらずっと閉じていた口を開いた。

 

「……やる」

「え」

「借りは返す主義だ」

「借り……? ……あっ、この前の葡萄ジュースの事ですか?」

「分かったならさっさと取れ。要らねえなら捨てるぞ」

「あっ、あっ、欲しいです! 捨てないで下さい~!」

 

 差し出されたペットボトルを受け取って礼を言えば、ソーマはそっぽ向いて再びベンチに座って缶コーヒーを呷り始める。当のミツハはと言うと、見慣れたミルクティーのラベルを見ながら嬉しさでいっぱいいっぱいになっていた。

 

――嬉しい、めちゃくちゃ嬉しい。

 

 いつも飲んでいる筈のミルクティーだが、飲むのが勿体なく感じてしまう。思わず緩む口元を抑えきれずに、ふやけた顔をしながらソーマに目を向けた。

 

「有難うございます。私、ミルクティー好きなんですよね」

「知っている」

「えっ、あっ、有難うございますっ」

「なんでいちいち礼を言うんだよ……」

「だって、私が好きなものを選んでくれたんですよね、ソーマさん。それがなんだか、嬉しくって……」

 

 そして何より自分の好きなものをソーマが知っていた事が嬉しかった。

 貰ったミルクティーを両手で握りながら、一度小さく深呼吸をした。嬉しさで羽が付いたような今のミツハなら、なんだって出来そうだった。

 

 例えば、そう。ソーマを任務に誘う勇気だって、今のミツハは持ち合わせていた。

 

「えっと……あの、ソーマさん、明日の午後って空いていますか……?」

「……急になんだ」

「その、鎮魂の廃寺での任務を受けたいので、同行して頂けたら嬉しいなあ、と……。あそこって夜空が凄く綺麗じゃないですか。写真撮りたいなあと思うんですけど、一人で行くのは流石に怖くって……」

「防衛班のやつらとでも行けばいいだろ」

「うっ、そう、ですけど……でも、ソーマさんと行きたいんです」

「…………」

「……あっ、いや、駄目なら全然いいんですけど! すみません!」

 

 思わず恥ずかしい事を口走ってしまい、慌てて首と手を大袈裟な程に振る。忘れて下さいと照れを誤魔化すように苦笑しながら言えば、ソーマからは予想外の言葉が返ってきた。

 

「……別に、行ってもいいがてめえの身の丈に合ってねえ任務は受けるなよ。足手纏いになられるのは御免だ」

 

 まさか了承されるとは思わず、目が点になる。両手で持っているミルクティーに力が入り、べこっと間抜けな音を立ててしまった。

 

「ほ、ほんとですか!? あの、有難うございます! 今度何かお礼しますねっ」

「別に要らねえ」

「でもそんな……あっ、携帯に入ってる音楽、CDに焼いて持ってきましょうか?」

「勝手にしろ」

「じゃあ勝手にしますね」

 

 有難うございます、ともう一度笑えばしつこいと一喝され、ソーマは立ち上がって缶をゴミ箱に捨てて背を向けた。

 

「あの、あとで任務詳細のメール送りますね」

「…………」

「明日、よろしくお願いします」

 

 何も答えない背中に言葉を掛けて笑った。

 自室に戻るソーマの背を見送ってから先程までソーマが座っていたベンチに腰掛け、ペットボトルのキャップを空けた。ミルクティーはずっと両手で握っていたせいか、体温で少し温くなってしまっている。

 

――嬉しくて死んじゃいそう。

 

 上機嫌でミルクティーを一口飲む。自販機で売っている普通のミルクティーなのだが、特別甘く感じて淡いブラウンが輝いて見えた。自身の単純さにほとほと呆れるが、嬉しいものは嬉しいのだからしょうがない。何せミツハはソーマに恋をしているのだから。

 

――明日、かっこ悪い所見せたくないなあ。

 

 任務のアサインを入れた後に軽く訓練をしようと決め、もう一口ミルクティーを飲んでから立ち上がる。

 ステップでも踏みそうな軽やかな足取りで、ミツハはエントランスへ向かった。

 



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30 スノースマイル

 アナグラから鎮魂の廃寺はそう離れておらず、装甲車でも十分程度で着く距離だ。急を要さない限りわざわざヘリを出すような場所でもない為、ミツハはソーマの運転する装甲車に乗って作戦区域まで移動する。

 ジープや装甲車で移動する際は神機使いが運転手となる為、基本的に神機使いはみな運転技術の取得が必須になっている。

 

 ミツハは最初の研修期間に車の運転の仕方は学んでいるのだが、ハンドルを握ったのはゲームセンターであるようなシミュレーションでしかないので実際に運転した事はない。運転技術に不安が強かったのでソーマにハンドルを握ってもらっているのだ。

 

「……私から誘った任務なのにすみません……」

「近いうちに新人向けの講習があるだろうから行っておけ」

「はい……」

 

 申し訳なさを覚えて助手席で小さくなりながら、隣で運転するソーマを眺める。全く見えないが、ソーマはミツハよりも一つ年下だ。ノルンの表記では十八歳だが、誕生日はまだ来ていないので実際には十七歳のソーマは慣れた様子でハンドルを操作する。

 

――うん、年下に全然見えない。

 

「ソーマさんって大人っぽいですよね……」

「……いきなりなんだ」

「だって私の方が一つお姉さんの筈なのに、運転もソーマさんに任せちゃって……申し訳ないです」

「まあ、十九には見えねえよな、お前」

「いや、実際はまだ十八なので! 十九までにはまだ半年以上もあるので大丈夫です!」

「何が大丈夫なんだよ……」

 

 そんなくだらない会話をしながら装甲車は進み、辺りは雪が積もり始める。アラガミのあまり寄ってこない場所に装甲車を停め、積もった雪に足跡をつけた。

 

 まだ夕刻時なのだが、山に囲まれた場所は日の入りが早く辺りはうっすら暗くなり始めていた。早く終わらすぞとソーマがアラガミのいる作戦区域まで歩き始める。

 友人からプレゼントされたマフラーを首に巻き、ミツハもその背中を追った。ヴァジュラに先が食い破られたマフラーだが、ツバキに編み方を教えてもらって編み直したのだ。

 

 ミツハが受けた任務はそう難しくない中型二種の討伐任務だ。相手はグボロ・グボロとシユウ。グボロ・グボロは殺されかけた経験があるので苦手意識はあるが、冷静に対処すれば死にかけるような事はない。

 雪が積もって滑りやすい階段を上がり、物陰からアラガミの姿を確認する。グボロ・グボロがゆったりとした動きで徘徊していた。

 

『シユウは少し離れた位置に居ます。作戦区域の侵入まで想定五分です』

「五分で片すぞ」

「はいっ」

 

 ソーマが先陣を切り、背後からグボロ・グボロに重い一撃を喰らわす。ミツハも神機の柄の先端を握り、咬刃を大きく展開して身を抉っていく。痛みにのたうつグボロ・グボロは水泡を放つが、ソーマはひらりと避けて大きな顎にバスターブレードを叩き付ける。ボロリと牙が壊れ、追い打ちを掛けるように捕喰してバーストモードに移行したソーマは息も上げずに神機を振るう。

 

――改めて思うけど、この人ほんっと強いなあ……。

 

 五分も掛からずにグボロ・グボロは霧散し、続けて侵入してきたシユウもものの数分で倒してしまった。

 捕喰してコアを回収しながらミツハは苦笑する。殆どソーマ一人で倒してしまったのでミツハはかすり傷すら出来ていない。

 

「ぜ、全然お役に立てなくてすみません……」

「……足手纏いにならなければそれでいい」

 

 基準の低さに苦笑を零しながら、付近にアラガミの反応が無い事を確認してミツハは無線のスイッチを入れる。

 

「ヒバリさん、ちょっとやりたい事があるのでもう少し此処に居ますね。最終帰投時刻には間に合うようにしますので」

『分かりました。何か問題があれば連絡しますね。どうぞごゆっくり!』

 

 ふふ、と無線の先でヒバリが笑って通信が切られる。少々恥ずかしさを覚えながら、本来の目的であるデジカメを首から下げた。神機はアタッシュケースに収納して足元に置く。

 

 戦っている短い間にすっかり日は隠れ、空には星が瞬いていた。あまりに美しさに、ミツハは白い溜息を漏らす。

 本日は新月である為月は出ておらず、その分オーロラの色がはっきりと見えた。ミツハはデジカメを構え、幻想的なカーテンの掛かる夜空を切り取るがデフォルトの設定では上手くオーロラが写らなかった。全く迫力の無い暗いだけの写真にがっくりと肩を落とす。

 

「……そもそもデジカメでオーロラなんて撮れるのかよ」

「設定変えれば撮れる筈です……! 確かシャッタースピード遅くして、ISO感度上げて……あっ! そもそもオーロラってカメラ固定して撮るものですよ! 三脚が無い!」

「あるわけねえだろ……」

 

 オーロラを撮ろうと奮闘するミツハを呆れながらソーマは見守る。

 真剣な表情をしてデジカメを構えていたかと思えば、思い通りに撮影出来たのかぱっと表情を明るくさせて画面をソーマに見せる。ちゃんと撮れましたよ、と鼻先と指先を赤くしながら自信有り気にミツハは笑った。

 

「……お前、そういう所が年上に見えねえんだろ」

「えっ、突然何ですか……」

「さあな」

「ええ……」

「撮れたんならさっさと帰るぞ」

「あっ、もう少し! もうちょっと撮りたいです!」

 

 帰投を催促するソーマを躱してミツハは再びカメラを構え、夜空を見上げてシャッターを切っていく。良い撮影ポイントはないかと歩きながらカメラを構えていると、廃材を踏んでしまい凍った表面に足が滑ってしまう。

 

「えっ」

 

 重力に負けた身体は簡単に後方へ倒れ、雪の積もった地面へ背中からダイブしてしまった。両手がカメラで塞がっていた為受け身も取れずに盛大に転び、雪の冷たさが肌を刺した。

 

「……前見て歩けよ」

「ほ、ほんとですね……めちゃくちゃ冷たいです……」 

 

 恥ずかしさで顔からは火が出そうだった。雪がクッションになったおかげで痛みはなかったが、雪に突っ込んでしまった為顔面以外があまりにも寒い。

 両手を擦って暖を取っていると、ソーマは白い溜息を吐いてばさりとダスキーモッズを脱いでミツハの頭に被せた。

 

「えっ、あの、」

「着ていろ」

「で、でもソーマさんが寒いじゃないですか」

「別にこれぐらい寒くねえ」

「う……じゃ、じゃあお言葉に甘えて。その、有難うございます」

 

 フンと鼻を鳴らしてそっぽ向いたソーマだが、普段目深に被られているフードが無い為表情がよく見える。その表情にミツハは小さく微笑んだ。

 

――やっぱり優しいなあ。

 

 モッズに袖を通すが大きすぎて指先はすっぽり隠れてしまっている。袖を捲って指先を出し、カメラが無事か確認すると同時に今まで撮った写真を見返した。

 どれも綺麗に撮れている写真なのだが、ふと一枚だけ違和感を覚える写真があった。

 

 夜空がメインである写真の隅、建物がある部分に()()()()のようなものが写っていたのだ。ブレているのでそれが何なのかはよく分からないが、明らかに異質な存在を写真越しに放っていた。

 

「……心霊写真が撮れてしまいました」

「はあ?」

「ひ、ひとかげがうつってるんです。ほら、この辺りに!」

 

 怪訝な顔をするソーマにデジカメの画面を見せる。またくだらない事を言い始めたな、と呆れた様子のソーマであったが、問題の写真を見た途端にソーマの纏う雰囲気ががらりと変わる。思わず此方まで緊張してしまうような、臨戦態勢の空気に変わったのだ。

 

「ソーマさん?」

「……お前は先に装甲車の所まで戻ってろ」

「えっ、ど、どうしたんですか?」

「いいから戻ってろ。俺もすぐに戻る」

 

 そう告げ、ソーマは神機を構えてその場を去って索敵を始めてしまった。この人影に何か心当たりがあるのだろうかと首を傾げるが、到底ミツハには分かりもしない。

 

 仕方がないので言われた通りにアタッシュケースを持って装甲車を停めている場所まで戻る。時間を確認すると最終帰投時刻が近づいていた。静まり返った辺りは遠くから聞こえるアラガミの遠吠えがよく響く。

 

――ひとりだとちょっと怖いな。

 

 モッズから手を出し、アタッシュケースから神機を取り出した。ヒバリから連絡が無いと言う事は付近にアラガミの反応はないのだろうが、神機を握るだけでも安心感がだいぶ違う。気分を落ち着かせる為に深呼吸をすればソーマの匂いがし、逆に心拍数が上がってしまった。

 

「……大きいなあ」

 

 ぶかぶかのモッズを眺めながら小さく独り言ちた。ネイビーブルーのモッズはミツハには大きすぎる。肩幅の違いでしょっちゅうずり下がってしまうし、裾は膝下にまで届いている。調子に乗ってフードを被れば普段のソーマだ。へへ、とマフラーに口元を隠して笑った。

 

 暫く待ち惚けていると神機を肩に担いだソーマが戻ってきた。ミツハに上着を貸しているせいなのだが、黄色いシャツ一枚のソーマは随分と寒そうだ。フードを脱いでソーマの下へ歩み寄る。

 

「おかえりなさい」

「…………」

 

 先程より少々不機嫌になってしまっている。索敵の成果が何もなかったのだろうと思いながら、鼻先を赤くするソーマにミツハが元々巻いていたマフラーを背伸びして巻いてやる。

 

「……何のつもりだ」

「寒そうなので」

「お前のせいでな」

 

 もっともなソーマの返しにすみませんと苦笑し、モッズを返そうとするが別にいいと制された。ソーマはマフラーを巻いたまま神機をしまって装甲車に乗り込んだ。

 

「帰るぞ」

「はい」

 

 ミツハもソーマに続き、神機をアタッシュケースにしまって助手席に乗る。行きとは互いに違うものを身に纏いながら、ふたりは鎮魂の廃寺を後にした。

 



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31 急転直下

「ねえ、ミツハ。サリエルとコンゴウの討伐任務に行くのだけれど、良かったら一緒にどう?」

 

 そうジーナから声が掛かった午前十時。

 本日は防衛任務が入っておらず、各自で任務を受注しなければならなかったのでミツハはエントランスでどの任務を受けようか悩んでいる最中だった。

 

「さ、サリエルとコンゴウですか。大型種……えっ、二人で行くんですか?」

「流石に二人で行くつもりはないわ。第一部隊の隊長さんを誘っているの。もう一人誰か連れてくるって言っていたから、四人で行くつもりよ」

「うーん……じゃあ、行きます。大型種との戦闘も慣れていきたいですし!」

「ふふ、有難う。楽しみね」

 

 恍惚とした表情を浮かべるジーナはサリエルと戦える事が大層嬉しいようだ。エントランスのベンチに腰掛け、ジーナから任務の説明を受ける。

 

 任務の作戦区域は贖罪の街。討伐対象はサリエルとコンゴウが一体ずつ、付近には非討伐対象のオウガテイルが複数居るようだ。サリエルの弱点部位や見た目の美しさの説明をジーナから受けていると、二人のもとにユウとソーマがやって来た。ソーマに関してはユウに連れて来られた、という感じだったが。この四人が任務にアサインするメンバーだろう。

 

「揃ったわね、じゃあ行きましょうか。ブリーフィングはヘリの中でしましょ。早く撃ちたくて堪らないの」

 

 

 

 今回の討伐対象であるサリエルは視覚が鋭く、コンゴウは聴覚が鋭い。アラガミとの戦闘は各個撃破が基本であるが、コンゴウのように聴覚の優れるタイプは交戦する音を聞きつけてやって来る為乱戦になりやすい。

 なので先に聴覚が鋭いコンゴウから倒すのがベターなのだが、どうやらサリエルは随分と広い範囲を徘徊しているらしい。コンゴウとの交戦中に視覚の優れるサリエルに発見されてしまえばそれも乱戦になってしまうので、予めコンゴウとサリエルは分断して戦おうという話になった。

 

「私はコンゴウよりもサリエルを撃ちたいわ」

「じゃあ僕がコンゴウを引き受けます。一体だけならすぐに終わるだろうし。ソーマはジーナさんと一緒にサリエルを倒して欲しい」

「了解した」

「あ、じゃあ私は小型の掃討します。終わり次第ジーナさん達と合流しますので」

「そうね、じゃあミツハはH地点で小型の掃討をお願い。コンゴウは奥の建物に居るんでしょう? 反対のC地点辺りをサリエルが徘徊した所で交戦を始めましょ」

 

 ブリーフィングの結果、ソーマとジーナがC地点でサリエル、H地点でミツハが小型の掃討、奥のJ地点でユウがコンゴウの相手をする事になった。

 交戦開始のタイミングはサリエルがC地点に入った時だ。ジーナの合図でユウがコンゴウを叩き、それから各々戦闘開始するといった具合でまとまった。

 

 ヘリが着陸し、ミツハ達は神機を構えて散開した。各々交戦ポイントまで移動し、アラガミに見つからぬよう姿を潜めて様子を窺う。

 神機を持ちながらミツハは挑発フェロモン剤を用意する。複数の小型アラガミを引き受ける際は他の交戦ポイントへ乱入させないよう、ヘイトを溜めておく事が重要だ。

 暫くアラガミの鳴き声と壊れたビルの合間を吹き抜ける風の音だけが響いていたが、ジーナの声が無線に入る。

 

『――サリエル、C地点に入ったわ』

『了解。コンゴウと交戦開始します!』

「分かりました。此方も戦闘に入ります!」

 

 ユウの返事を聞き、ミツハも神機を構えてオウガテイルの中に飛び出した。

 挑発フェロモン剤を使い、小型アラガミの標的を此方へ向けさせる。複数のオウガテイルがミツハ目掛けて襲ってくるが、ミツハは咬刃を展開させてその群れを大鎌で薙ぎ払う。怯んだところを捕喰し、バーストモードに移行し大きく鎌を伸ばす。神機を解放した状態ならばラウンドファングによる体力の消耗が軽減される為、頻繁に息を整わせなくて済む。

 オウガテイルに距離を詰められる事なく小型アラガミの掃討をし、順調にその数を減らしていく。

 

 ―― ぞくり ――

 

 あと少しでジーナ達と合流出来そうだと思った頃合いで、突如寒気が走る。

 全身の産毛が立つような感覚に漠然とした恐怖を覚えていると、寒気でも何でもなく本物の冷気が後方から漂い、足を竦ませる。

 

 振り向けば、崩れて崖になっている場所からアラガミが姿を現す。所々にある建物の残骸を足場に上ってきたのだろう。そのアラガミの姿を捉え、ミツハは息を呑んだ。

 

「……ッ、こ、此方ミツハ! 接触禁忌種と遭遇しました!」

 

 ひと月半前に第一部隊が遭遇したというプリティヴィ・マータがミツハを冷たく見据えていた。第一部隊が遭遇した日以来、プリティヴィ・マータの目撃数は以前の数倍に膨れ上がっているのだ。今まではあまり出現しないアラガミだった為、詳細が分からず偏食場レーダーでの観測も難しいらしい。

 

 ノルンの報告で上がっていた画像と一致する冷酷な女神像の顔に思わず怯み、一歩出遅れてしまった。

 咄嗟にオープンチャンネルで連絡を入れると同時に、プリティヴィ・マータは氷柱のような鋭く尖った氷を複数生成し、ミツハ目掛けて連射させる。装甲を展開し受け止めるも、その圧倒的な威力に簡単に弾き飛ばされてしまった。

 受け身を取って即座に立ち上がるのだが、プリティヴィ・マータは既に距離を詰めてその鋭い鉤爪をミツハに向けていた。間一髪で爪の餌食になる事は避けたが、プリティヴィ・マータは息を吐く暇を与えずにミツハへの攻撃を繰り出す。閃光弾を使う余裕すらなかった。

 

『周囲にもう一体、大型アラガミの反応があります! ミツハさんは直ちにその場から撤退して下さい!』

「っ、撤退の余裕、ないです! 受け身だけでっ、精一杯ですっ!」

『俺が行く。待ってろ!』

 

 今ミツハの居るH地点から一番近いのはサリエルとC地点で交戦していたソーマとジーナだった。ユウもコンゴウを倒し終え、此方に向っていると連絡が入ったので暫くすれば合流出来るだろう。

 その間、ミツハはひとりで耐えなければならない。

 

――絶対、死ぬもんか。

 

 神機を強く握り締め、全神経をプリティヴィ・マータに集中させる。

 少しでも遅れを取れば死んでしまう。何せ相手は接触禁忌種だ。ミツハが敵う相手ではない。心臓が飛び出そうな緊張感と恐怖に圧倒されながらも、ミツハは冷たい女神が繰り出す攻撃を何とか躱していく。

 

 その時だ。

 

「――ミツハ、上だ!」

「えっ!?」

 

 ソーマの叫びに頭上に目を向ければ、アラガミの逃げ道となっている教会の屋根の上でヴァジュラがバチバチと音を鳴らす電球を放っていた。

 

――あ。

――死ぬ。

 

 目前に迫る高電圧の球体に装甲を展開しようとするが、間に合う筈もなく視界が真白に染まる。

 しかし電圧で皮膚が焼けるような痛みはせず、代わりに感じたのは体温と背中への鈍い衝撃だった。口内に血の味が広がり、ポタポタと滴る水滴が頬に伝う。

 

「……っ、」

「……死んでねえな」

「そー、ま、さん、血が……」

 

 眼前にはソーマが瓦礫からミツハを守るように覆い被さっていた。その頭からは血が流れ、ミツハに滴り落ちる。固唾を呑むと血の味が喉に焼けるように熱くなった。

 目が眩む程の真白な光は、ヴァジュラの電撃ではなく閃光弾の光だったのだ。間一髪でソーマに助けられたが、電撃で壊された瓦礫の下敷きになってしまった。

 

 しかしそれが好機となったか、瓦礫の隙間から見えるプリティヴィ・マータは暫く閃光弾の光に苦しんだ後、消えた獲物を探しに何処かへ行ってしまった。

 接触禁忌種が去った事にほっとしたが、まだ安心は出来ない。ヴァジュラはまだこの場に居るのだ。

 

「動けるか」

「大丈夫です」

 

 よし、とソーマが瓦礫を押しのけて立ち上がる。バスターブレードを握り直し、ヴァジュラと交戦する。

 ミツハもそれに続こうと袖で血を拭ってから地面に投げ出された神機を握る。柄を強く握り、その大鎌を持ち上げる――しかし、鎌は地面に沈んだままだ。

 

「え……」

 

 その重さに唖然とする。踏ん張って持ち上げようとすれば鎌は地面から浮いたが、とてもじゃないが振り回す事が出来る重さではない。腕が痺れ、すぐに鎌は地面に沈む。たらりと冷や汗が垂れた。

 

――なに、これ!?

 

 脳裏によぎったのは一か月前の創痕の防壁での防衛任務だ。

 あの時も神機が重かった。もしや月経が始まったのかもしれないと思ったが、それにしたって余りに重すぎる。あの時は動きが鈍くなる程度で、持ち上げるだけで精一杯なんて事にはならなかった。

 

「おい、何ボーッとしてやがる!」

「す、すみません! 神機が、重くて!」

「何言って……――っ、おい、手を離せ!」

 

 ソーマがミツハを見やれば、その蒼い目を剥いた。ミツハの持つ神機の生体部分が触手のように伸び、ミツハの腕に伸びていたのだ。

 咄嗟にソーマはミツハの腕を掴み、強引に神機を手放させる。ガシャン! と大きな音を立てて大鎌は地面に沈み、伸びた黒い触手も元に戻った。

 

 困惑するミツハ達だが、そんな事はお構いなしにヴァジュラが再び電撃を放つ。ソーマが舌打ちをひとつしてタワーシールドを展開し、電球を受け止めると同時にヴァジュラは咆哮を上げてソーマに飛び掛かる。

 しかしその黒い胴体に銃弾がとめどなく撃ち込まれ、ヴァジュラは失速し地面に這う。駆け付けたユウのアサルト連射だった。

 ダウンしたヴァジュラに追い打ちを掛けるユウに続こうとソーマは装甲を収めながら苛立たし気に後方へ振り向く。

 

「クソッ、足手纏いだ! てめえは離脱してろ……」

 

 そう吐き捨ててソーマが振り向いた先には、ミツハの神機であるヴァリアントサイズが鎮座していた。

 ()()()()()()()()()()()

 

「は……?」

『――ミツハさん!? ミツハさん、応答して下さい!』

 

 呆然とするソーマの耳にヒバリからの通信が入る。オープンチャンネルに入った通信にヴァジュラと戦っていたユウも焦った様子を見せ、ミツハが居た筈の場所を見やる。変わらず、そこには大鎌があるだけだ。

 

「おい、あいつは今何処にいる!?」

『それが……確認出来ないんです! ミツハさんの腕輪のビーコンと生体信号(バイタルサイン)が――()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉は頭を鈍器で殴られたかのような、強い衝撃を持っていた。

 ヴァジュラと交戦していたユウには隙が出来てしまい、ヴァジュラがここぞとばかりに鉤爪を伸ばす。しかしその爪はユウに届く前に砕かれた。

 

「――落ち着いて。まずは目の前のアラガミを排除しましょう。じゃないと状況確認もままならないわ」

 

 サリエルを倒し終えたジーナがスナイパーを構え、冷静にヴァジュラをスコープ越しに見据えていた。

 ソーマは舌打ちを落とし、神機を強く握ってヴァジュラにその大きな刃を叩き込む。早く探しに行きたい思いから三人はすぐにヴァジュラを倒し終え、散開してミツハの捜索にあたった。

 

 しかし、ミツハは何処にも居なかった。

 

 辺りをどれだけ探してもミツハの影はなく、それどころか、襲われたような血痕すら何もなかった。

 ビーコンも生体信号も消えたままなので探す当てもなく、捜索は調査部に任せてソーマ達は帰投するよう指示が下った。

 持ち主を無くした神機だけが無情に取り残され、その大鎌を見ながらソーマは歪に自嘲する。

 

――俺はまた、守れなかったのか。

 



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第五章
32 そういう類のもの


 リンドウの失踪から一か月も経たぬうちに出た新たなMIA(作戦行動中行方不明)認定に、アナグラ内はもっぱら〝死神〟の噂で充満していた。ソーマ達が贖罪の街からアナグラへ帰投して待ち構えていたのは、行方不明となったミツハへの心配より死神に対する畏怖だった。

 

「……何も知らないのに勝手な事を言うのね」

 

 ざわめく噂の中、ジーナが独り言ちるが喧騒にかき消されてしまう。部隊長であるユウは報告の為にツバキに連れられ、先にエントランスを後にしていた。神機の収納されたアタッシュケースをヒバリに預けるジーナに対し、ソーマはケースを持ったまま受付横の階段を上がる。

 

「ちょっと、何処に行くのよ?」

「……お前には関係ねえだろ」

「……そうね。野暮な事を聞いたわね」

 

 ジーナの言葉に足を止めずに、ソーマは区画移動用エレベーターに向かった。

 〝死神〟への畏怖や非難の渦から逃げるように背を向けて第一訓練所へ足を運び、その重く頑丈な扉を閉じた。

 

 

 

 夜、訓練所から自室へ戻ってシャワーを浴びたソーマの携帯に一通のメールが来ていた。差出人はペイラー・榊。至急研究室に来てくれという旨だった。

 おそらく特異点絡みの事だろう。仮想アラガミをひたすら叩いても鬱々とした気分は晴れず、誰の顔も見たくはなかったが特異点絡みの話ならば行かないわけにもいかなかった。

 

 特異点捜索の特務はヨハネスから出ていたものだったが、最近になってサカキからも内々に特異点捜索をソーマに依頼して来たのだ。研究の為だとサカキは言っていたが、実際はヨハネスに対抗しての事だろう。ヨハネスとサカキの目的が一致しているのならば、わざわざ内密に特異点を探し自分に引き渡して欲しいなどとは言わない筈だ。おそらく、サカキはヨハネスの企みを知っている。そしてそれとは反対の考えを持っており、だからこそ内密に特異点捜索を依頼しているに違いない。ソーマが父の企みについて知るにはサカキに付き合わなければならず、舌打ちをひとつしてダスキーモッズに袖を通す。鏡に映った自分の顔は笑える程に酷い顔をしていた。瓦礫の下敷きになった際に出来た頭の傷はもう治っている。化け物だな、と心中で呟いた。

 

 サカキの研究室のインターホンをぞんざいに鳴らし、訪問を告げる。サカキがソーマを出迎えると、その狐のように細い目をうすら見開いた。

 

「驚いた。地獄でも見たかのような顔だ」

「……何の用だ」

「聞きたい事があってね。まあ入っておくれ」

 

 そう促され、ソーマは研究室に入る。相変わらずハイテクな機材とは場違いの金屏風や額装された水墨画等が飾られ、掴み所のないサカキらしい独特な雰囲気を出している。サカキは定位置である四台のモニターに囲まれた赤い椅子に座り、ソーマをソファに座るよう促したが長居するつもりはなかったので無視してモニターの前に立ち、サカキを見下ろす。

 

「聞きたい事ってのはなんだ。手短に済ませろ」

「ミツハ君の事でちょっとね」

 

 その名前を聞き、思わずソーマはサカキを睨む。今、その名前は聞きたくなかった。

 

「彼女が姿を消す前、傍に居たのは君だろう? 何か様子が可笑しかったとか、変わった事はなかったかい?」

 

 わざわざソーマを呼び出して聞くのがそれなのかと苛立つ。思えば基本的に研究室から出ないサカキが珍しく食堂まで出向いていた時、保護されたばかりのミツハを直々に案内していた。それだけではなく度々サカキの研究室に訪ねるミツハを見かけた事があった為、二人には何か事情があるのだろう。

 

 その事情が何なのかはソーマは知らない。眉間にしわを刻みながら、ソーマはミツハが居なくなった直前の事を思い出す。ヴァジュラの電撃からミツハを助け、エリックの時とは違い手を掴めたと思ったあの直後だ。

 

「……神機が重いと言っていたな」

「神機が重い、ね」

 

 普通接続すれば神機は軽くなるが、あの時のミツハの神機は接続されていない本来の重さのように地面に沈んでいた。いや、それどころか。

 

「あいつ、神機に喰われかけてたぞ」

 

 神機の生体部分が触手のように伸び、ミツハの腕を喰らおうとしていたのだ。そしてその直後、ソーマがミツハから目を離した短い間にミツハの姿は消えていた。

 

 リンドウが消えたあの日のように、イレギュラーが多い。まさかヨハネスが何か企んでいるのかと思ったが、父がミツハに手を出す理由が何も見つからない。ミツハは取り分け実力があるわけでもない、一介の神機使いだ。せめて挙げるとするならば、極東では相性の悪いポール型神機の使い手であるぐらいだ。ポール型神機が扱える程にミツハと神機の適合率は高いにもかかわらず、神機はミツハに牙を向いた。それが大きな不可解だった。

 ソーマの言葉にサカキはそうかい、と何か納得がいったように眼鏡のブリッジを上げた。

 

「わざわざ呼び出してすまなかったね。聞きたい事はそれだけだ」

「……そうかよ」

「眠れそうにないなら睡眠薬でも出そうか?」

「要らねえ」

 

 サカキの戯言を切り捨て、研究室を後にした。エレベーターを待ち、到着し開いた扉の先にいた人物を見て顔を顰める。ヨハネスが居たのだ。その隣にはツバキもおり、二人はエレベーターから降りてサカキの研究室へ向かっていった。

 

――何の用だ?

 

 ヨハネスとツバキが二人で居るのは珍しくない。そしてヨハネスが旧友のサカキの研究室に自ら出向くのも珍しい事ではない。しかし、ヨハネスとツバキが二人揃ってサカキのもとへ訪れるのは珍しい事だった。

 疑問に思いながらも父の居る研究室にも戻る気になれず、ソーマは自室に戻る。ソファに横になるが、とてもじゃないが眠れそうにはなかった。

 

   §

 

 翌日、ミツハが撮った写真に特異点らしきものが写っていた鎮魂の廃寺での特務に出向いたものの成果はなかった。いたずらに時間が過ぎ、日が暮れて星が瞬き始める。オーロラが掛かる夜空から目を背け、アナグラへ帰投した。

 エントランスへ行くと防衛班とツバキが話をしていた。何やら穏やかな雰囲気ではなく、抗議している様子だ。受付で帰投報告をしながら、その内容を化け物並みに出来の良い耳は拾ってしまう。

 

「教官、どうしてミツハの捜索が出されないんですか!」

「遺体どころか血痕すら見つかってねえのに、KIA認定なんて早すぎんだろ!」

 

 タツミとシュンの怒りの込められた言葉があまりにも重く響き、ソーマは思わず防衛班達を見やる。

 KIA。それは戦死を意味する。遺体も血痕も見つかっていない中、たった一日でKIA認定というのは前例がなかった。

 ツバキは重い溜息を吐いた後、突き放すような口調で防衛班を一喝した。

 

「腕輪のビーコンも生体信号も消失している状況で生存していると思うのか? 神機は既に回収している。捜索に人員を回す必要は無いと支部長の判断だ」

「はっ……、そうだな。上は神機使いより神機が回収出来ればそれでいいからな」

 

 カレルが嘲笑すると、ツバキは何か言いたげな顔をしつつも防衛班から背を向けてエントランスから去った。重苦しい空気がエントランスに蔓延する。防衛班の背中は随分と痛々しく見え、カノンはすっかり憔悴したようにずっと俯いていた。とてもじゃないが見て居られない。報告を済ませたソーマはエレベーターに向かったが、その途中で名前を呼ばれる。

 ――死神、と。

 

「またお前のチームから殉職者が出たな」

 

 詰るようなカレルの言葉が、いやに耳に残る。

 

「エリック、リンドウさんに続いてミツハもかよ。お前に近づいた人間全員死んでんだな」

「カレル、八つ当たりはやめろ」

「タツミは黙ってろ」

 

 咎めるようなタツミの制止を切り捨て、カレルはソーマに詰め寄る。何も答えずにフードの奥からカレルを見据えるソーマにカレルは舌打ちを落とす。

 

「お高く纏ってんじゃねえよ。……お前、ミツハがKIAにされたんだぞ。何か思う事はねえのかよ」

「……俺には関係ない」

 

 弱い奴から死ぬ、ただそれだけの話だ。――エリックが殉職した後、ユウにも放った言葉を淡々となぞる。言葉にするとぞっとする程に冷たい声色をしていた。

 

「ッ、てめえ!」

 

 ソーマの言葉にカレルは途端に顔を顰め、胸倉を掴まれる。そして右手を固く握り締め、ソーマに向かって振りかぶった。感情に任せて振るうだけの拳は簡単に避けられるが、避けようとは思わなかった。

 

「――カレルさん、もうやめて下さい!」

 

 しかしその拳はカノンの涙ぐんだ声によって止められた。

 ずっと俯いていたカノンは顔を上げていた。その顔がソーマの目にこびり付く。カノンはぼろぼろと大粒の涙を流し、しゃくりを上げながら非難するようにカレルを強く見やった。

 

「そんな、こと、ミツハちゃんが望んでると思うんですか……ッ!」

「…………」

 

 カノンの言葉にカレルは押し黙り、ソーマに向けていた拳を下げ乱雑に胸倉から手を離す。その細い身の内からはやり場のない悔しさを叫んでいたが、カレルは舌打ちをひとつ落としてソーマから背を向けた。シュンを連れてエレベーターの中に消えていく二人から目を逸らし、ソーマもその場から立ち去ろうと鉛のように重い足を動かす。

 

「……悪い、ソーマ」

 

 タツミが苦い顔をして力なく謝罪を告げる。隊長職であり普段気丈に振る舞うタツミも随分と参っている様子だった。

 

――息苦しい。

 

 その重さに窒息してしまいそうだ。脳裏にはエリックの妹やサクヤなど、今まで戦死してきた仲間達の家族や恋人が見せた顔が浮かび、こびり付く。先程のカノンの涙もそうだ。その表情が目に焼き付き、実感させられる。

 

「……別に、あながち間違いじゃねえだろ」

 

 やはり己は死神なのだと。出来損ないの化け物なのだと。

 

――何が福音だ。

 

 あなたはこの世界に福音をもたらすの。初陣の旧ロシア連邦領での核融合炉でそう聞いた光の声とは反対に、自分の周りに付き纏うのはいつも不幸と死だけではないか。

 ソーマはエントランスから足早に去り、エレベーターに乗り込んだ。自室に戻ろうと居住区へのボタンを押そうしたが、その指先は研究区画へ向けられた。

 

 ツバキはミツハの捜索打ち切りはヨハネスが判断したと言っていた。そう告げたツバキ自身、何か訳を知っているような顔をしていた。あの二人は昨晩珍しく、揃ってサカキの研究室に出向いていた。ソーマからミツハの事を聞いたその後にだ。

 

――あのオッサン、何か隠してやがるな。

 

 サカキへの疑念が募り、インターホンを鳴らす。突然訪問したにもかかわらず、予想していたかのように出迎えたサカキにますます苛立った。

 

「あんた、なんでミツハが早々にKIAになったのか知ってんじゃねえのかよ」

 

 単刀直入に本題を告げた。サカキは定位置であるモニターに囲まれた椅子ではなく、黒いソファに腰掛けて「どうしてそう思うんだい?」と狐のように目を細めた。

 

「あいつが神機に喰われかけてた事と行方不明になった事。何か関係があるんじゃないのか。……そもそも、あいつの偏食因子はどうなっていやがる。適合率とオラクル活性が下がるなんて聞いた事がねえぞ」

 

 以前食堂で聞いた話に耳を疑ったものだ。体調不良に偏食因子が影響を受け、神機との適合率とオラクル活性が下がったと言っていた。

 己が持っている、よりオラクル細胞に近いP七十三偏食因子とは違って一般の神機使いに投与されるP五十三偏食因子は制御が容易で安全性に優れた代物の筈だ。だからこそ、体調不良で適合率やオラクル活性に影響を受けるというのは異質な事だった。

 

 誤魔化すような事は許さないと、ソーマは真剣な面持ちでサカキを見据える。その表情は睨んでいるという方が近い。サカキは暫く言いあぐねるように口を閉ざしていたが、やがて眼鏡の奥から試すような眼差しをソーマに向けた。

 

「……君はミツハ君に自分の生い立ちについては話したかい?」

 

 ようやっと口に出した言葉がそれか! と思わず眉間に嫌な線を刻んだ。忌々しい〝事故〟と共に生まれた己の出生など、誰が語るものか。

 

「……言うわけねえだろうが」

「そうかい。なら私から君に教えられる事は残念ながら何もないよ」

「それとこれに何の関係があるんだよ!」

「少し前にね、ミツハ君にソーマの生い立ちについて話そうかと思ったんだ。けれど彼女は断った。知りたいとは思うが、私の口から聞いていいようなものではないと言ってね」

「…………」

「ソーマ。今君が聞いているものは()()()()()()()()()

 

 サカキはそう言い切り、以降口を閉ざしてしまった。ソファから腰を上げモニターに囲まれた定位置に戻る。これ以上話す事は何もないらしい。カタカタと無機質なキーボードの音が鳴り始め、ソーマは退室を急かされた。

 

 これ以上此処に居ても無駄だろう。ソーマは無言で退室し、自室に戻ってソファに崩れるように身を投げた。身体が重く、このまま眠ってしまおうかと身を捩るとカシャンと軽いものが落ちる音がした。

 床を見やればCDケースが落ちていた。それは先日、ミツハが任務に同行してくれた礼だと言って持ってきたCDだった。

 ケースを拾い上げ、中のディスクを取り出す。何気なくCDプレーヤーに読み込ませてスイッチを入れた。

 

 一曲目に再生されたのはあの屋上でも聞いた曲だった。

 

 あの夜に聞いた曲と全く同じ音とリズムをスピーカーがなぞる。あの日ソーマは初めてミツハが写真好きだという事を知った。そして意外にも旧世界の曲を随分と持ち合わせ、得意げに再生リストをソーマに見せていた。スピーカーの鳴らす音に耳を傾けていると、見上げた星空とミツハの言葉が鮮明に思い出される。

 

「……てめえが居なくなってどうすんだよ」

 

 そう独り言ちて、再びソファに横になる。ソーマの出生に忌々しい秘密があるように、ミツハにも何か事情があるのだろう。それをソーマは知らない。込み入った事情がミツハにあるなんて思いもしなかったのだ。ソーマの知るミツハはあまりにも平凡で、自分とは程遠い普通の人間だった。

 

――なに知った気でいたんだか。

 

 言いようのない自己嫌悪が募り、腹の底を重くした。ぐるぐると余計な事を考え込む思考を投げ出すように、ソーマは重い瞼を閉じてソファに沈んだ。

 



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33 井上ミツハ

 ソーマ・シックザールから見た井上ミツハという人間は、全く以って普通で、それでいて不思議な少女だった。

 

 午後から第一部隊での任務が入っていたが、それまでの時間を潰す為に再びソーマは訓練所へ赴いていた。ただ目の前のアラガミをひたすらに滅ぼしていけば余計な事は考えずに済み、少しは気が紛れる。その筈だったが、出現させたヴァジュラの仮想アラガミを見てソーマの脳裏にはミツハの顔が浮かんだ。

 

 去年の末、リンドウ、サクヤの三人で出撃していた任務の途中で〝ヴァジュラに襲われた民間人〟を救出した。奇しくも行方不明になった場所と同じH地点で、まだ髪の長かったミツハを助けた。それが始まりだったのだ。

 その時のミツハはアラガミの姿すら見た事のない、世間知らずな少女だった。綺麗な学生服を身に纏い、荒廃とした世界を初めて見たかのように訝し気に眺めていた。そんな富裕層の少女にソーマは苛立ち覚えていた。のうのうと内部居住区で守られた苦労を知らない人間が、ただ疎ましかった。

 

 保護されたミツハは神機使いとなり、赤い腕輪を飾りのように右手首に嵌めた。鉄塔の森での任務でグボロ・グボロに殺されかけた時はみっともなく泣きながら「帰りたい」と吐露したのだ。その言葉にソーマは怒りが込み上がった。なんでこんな世間知らずな人間が神機を握り、己と同じ戦場に立っているのかと。血塗れで泣く女はひとりで立つ事すら出来ない、ただのガキに見えた。

 

 しかし同じ日の夜、ソーマの部屋に訪ねたミツハは別人かと思う程にしっかりと立っていた。グボロ・グボロに噛みつかれた左足の痛みに鞭を打って、短くなった黒髪を垂らしたミツハは〝世間知らずな少女〟ではなくなっていた。飾りでしかなかった赤い腕輪が馴染んで見えた。

 

 死神と呼ばれ周りから疎まれていたソーマにわざわざミツハが近づいてきたのはそれからだった。エリックが死んでから埋まる事のなかった正面の空席に、ミツハが座った。おはようございます、となんでもないように笑って挨拶し、翌日からもその席に座るようになったのだ。わざわざソーマの時間に合わせ、次第にミツハがソーマの正面の席で朝食を取る事が当たり前のようになっていた。そんな折に、ミツハが来なかった朝があった。

 

――思えば、踏み込まれないようにしていたな。

 

 その翌日にはいつも通りの時間にミツハがやってきたのだが、顔色が酷く思わず声を掛けた。それからは珍しく会話を交わし、暫くしてリンドウが加わって騒がしくなった会話を聞いていたのだが、その内容に耳を疑った。適合率とオラクル活性の低下したのだと、ミツハが笑いながら言っていたのだ。

 なんでもないように笑っては「大丈夫です」の一点張りだったミツハは確かに踏み込まれる事を拒んでいた。これ以上話を広げたくない様子で、おそらくそれがソーマの知る由もないミツハの秘密に関わる事なのだろう。その秘密すらミツハは笑って誤魔化した。

 

 ミツハはよく笑う少女だった。感情が顔に出やすいのだろう。コロコロ変わるその表情に年上だというのに子供っぽさを覚えるが、そんなミツハがソーマの前で泣いた日があった。

 接触禁忌種と遭遇し、リンドウが取り残された日の屋上だ。

 

 〝なんですか、それ……っ〟

 

 昂っていた感情が一気に冷める感覚がした。死んだ仲間の残された人間が流す涙は浴びる程に見ていたが、ソーマ自身の為に零される大粒の涙は経験がなく、狼狽えてしまったのだ。

 

――なんでこいつが泣いてんだ。

――なんで。

 

 ソーマの為に肩を震わせて涙を流すミツハに、ソーマは何を言えばいいのか言葉が見つからず呆然と立ち尽くした。お前には関係ないと拒絶すればいいのか、とんだお人好しだと呆れればいいのか、分からなかった。分かる筈もない。今までソーマに向けられた涙は全て恨みの感情を伴ったものだった。死んだ仲間を、恋人を、家族を返せ。そう悲痛な声で訴えながら流される涙に、ソーマは背を向ける事しか出来なかった。

 

――ああ、そうだ。俺は逃げたんだ。

 

 結局ソーマは何も言えずに、泣き続けるミツハから尻尾を巻いて逃げ出した。逃げ込んだ自室でスピーカーを絶叫させ、涙で掠れた声を塗り潰そうとした。しかし、消えなかった。どうしたってその泣き顔が、涙声が焼き付いてしまっては離れない。だから距離を置いた。顔を見ると思い出してしまい、どうすればいいのか分からなくなってしまうのだ。リンドウやミツハの事を考え込まぬよう、今のようにこの訓練所で同じように仮想アラガミをひたすらに叩いていた時に、ミツハが重く頑丈な扉を開けたのだ。小さく笑い掛けながら、葡萄味の缶ジュースを持ってミツハはソーマに歩み寄った。

 

「…………」

 

 ふと、神機を振るう手を止めて扉の方を見やる。当然扉は開かない。

 

――馬鹿らしいな。

 

 何を期待したのかと、自嘲して馬鹿馬鹿しい考えを振り払うようにアラガミにバスターブレードを突き刺した。仮想アラガミが霧散する黒い霧の中、ソーマは長く重い溜息を吐いて神機をケースに収納して扉に向かう。そろそろ出撃の時間になる。

 扉を開け、廊下に立っていた人物に眉を寄せた。いつからそこに居たのか、ジーナが腕を組んで壁に背を置いて佇んでいた。

 

「随分酷い顔をしているのね」

「…………」

 

 別にソーマを責め立てるような声色はしていなかったが、居心地の悪さを感じて早々にジーナの前を通り過ぎる。ジーナはそっぽ向くソーマに構わず、そのまま言葉を続けた。

 

「悔やむのは結構だけれど、そうやってひとりで抱え込んで自分を追い詰めるのは駄目よ。……ミツハだって、貴方がそんな風になるのは望んでいない筈よ」

 

 星空の下の屋上で言われた言葉と重なった。

 

「……だろうな」

「あら、分かってしてるのね」

 

――止める奴が居なくなってんだから、しょうがないだろう。

 

 背を向けたソーマはそのまま歩き出し、ジーナから遠ざかる。本日の作戦区域は贖罪の街だ。重い身体を引きずるように出撃ゲートへ向かった。

 

 

 

 贖罪の街での任務は特に問題もなく討伐し終え、ユウが帰投要請を入れる姿を横目にソーマは当てもなく歩き出す。単独行動を始めるソーマにアリサが咎めるように引き留めた。

 

「ソーマ、何処に行くんですか」

「……ヘリが来るまで適当に索敵してくる」

「素直にミツハの手掛かりを探すって言えばいいのに。ヘリが来るまでみんなで探そうぜ。……何も見つかってないままKIA認定なんて、納得いかないし」

 

 コウタの言葉にアリサ達も賛成し、散開してミツハの痕跡を探し始める。たった一晩で捜索が打ち切られたのだ。見落としているものがあるのかもしれないと第一部隊は贖罪の街の至る所を探すが、やはり手掛かりは何も見つからずにヘリが来てしまった。

 ピックアップポイントへ向かう最中でH地点を通り、ソーマは足を止めた。崩れた瓦礫は撤去されており、あの場で鎮座していた大鎌もない。本当にあの日この場所にミツハが居たのかと疑ってしまう程、煙のように消えていた。空っ風がビルの大穴に虚しく吹き抜ける。乾いた音を確かにソーマは聞いた。

 

「……ソーマ」

「…………」

 

 痛ましそうな顔をしてユウがソーマに近寄る。リンドウに続き同期のミツハが行方不明になっても、ユウは努めて気丈に振る舞っていた。部隊長という立場がそうさせているのだろう。

 いつまでのこの場に居る訳にもいかず、ソーマは踵を返してヘリに向かった。ヘリの機体が見えた辺りで無線が入る。オペレーターのヒバリからだった。

 

『第一部隊のみなさん、直ちに贖罪の街から北西に七キロ移動して下さい!』

 

 その声は随分と焦りと興奮が滲んだような色をしていた。オープンチャンネルに入った通信に第一部隊全員が何事かと耳を疑ったが、その後に続いたヒバリの言葉にソーマ達はすぐさまヘリに乗り込んだ。

 

『――ミツハさんの腕輪のビーコンと生体信号、確認出来ました!』

 

 その言葉に心臓は速まり、周りに聞こえるのではないかと思う程心拍数が大きく体内で響く。逸る気持ちを押さえつけながら神機を強く握り締め、祈るような眼差しで荒れ果てた大地をキャビンから見下ろした。

 



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34 井上三葉

 眩暈がした。

 

 ぐらぐらと視覚は眩み、寒気がしたが身体の内側は不思議と燃えるように熱かった。閃光弾の光に当たったかのように視界は真白に染まり、晴れた。色を帯びていく視界にソーマの背中はない。その代わりに見覚えのある、けれど懐かしい景色がミツハの目に焼き付いた。

 

「え……」

 

 呆然とするミツハを車が追い越した。横浜ナンバーの車が排気ガスを出しながら遠ざかっていく。

 

 夢でも見ているのかと思った。

 

 辺りを見渡せば、あまりにもミツハが焦がれた〝日常〟が広がっていた。七階建てのマンションにコンビニエンスストア、速度制限三十の道路標識に公園、その裏手にある小さな教会、部活帰りの男子生徒がよく通っていたラーメン屋。

 

 そこは荒廃としてアラガミが蔓延る贖罪の街ではない。学校から駅に続く通学路だった。

 

 何度も瞬きをして目を擦り、確かめるように世界を見る。何度見ても視界いっぱいに広がるのは何の変哲もない、三年間ミツハが通った通学路だ。

 携帯を取り出し日付を確認する。二〇一一年の十二月二十九日、午後一時過ぎ。ミツハがタイムスリップをした日付だ。

 

――私、戻ってきたんだ! 帰ってこれたんだ!

 

 変わらない日付に一瞬タイムスリップした事は白昼夢だったのか思ったが、携帯を持つ右手首には赤い腕輪が主張していた。髪も短く、着てる服も制服ではないし別のポケットに手を伸ばせばフェンリルから支給された携帯がある。確かにミツハは六十年後の世界にタイムスリップをしたのだ。

 

 そして、帰ってきた。

 

 早く家に帰って家族に会いたかった。三か月も親の顔を見ていない。この時間なら母親は家に居るだろう。そう思って駅に続く道を歩こうとしたのだが、その足は止まる。

 

――どうやって帰ろう。

 

 定期がない、お金がない。財布はあるが中身はfcで日本円ではない。此処から自宅までは七キロ程の距離があり、歩いて帰ると一時間半は掛かる。

 暫く悩んだ挙句、ミツハはすぐ近くにある教会裏手の公園に立ち寄った。白い息を吐きながら鼻先を赤くしてはしゃぐ子供達の横を通ってベンチに座る。携帯を取り出し、母親の電話番号を表示させた。

 

 十二月二十九日の午後一時。この時点のミツハは冬期講習帰りの筈だが、制服を着ていなければ通学鞄すら持っていない。髪が短くなった事と服装が変わっている事、鞄がないこの状況の言い訳に頭を抱えて、ようやっと苦し紛れの言い訳を思い浮かんでミツハはコールボタンを押した。

 

 その指は、少しばかり震えていた。

 

 携帯の画面を耳に当て、コール音を聞く。プルルルル、と冷たい電子音が掻き立てるようにミツハの鼓動を早くさせる。そして、コール音が二周目の途中でプツリと途切れた。

 

『――もしもし、三葉? どうしたのよ』

 

 鼓膜に響いた三か月ぶりの母の声に、思わず涙が零れ落ちた。

 

「……おかあ、さん……うっ、うぅ~……お母さん~……!」

『は!? ちょっとあんたなんで泣いてるの!? 何があったの!?』

 

 電話の向こうで慌てふためく母の声を聞く度に、安堵と懐かしさでぐずぐずになってしまう。十二月二十九日の朝食はなんだっただろう。不味いレーションなんかではない、母のどんな温かい手料理を食べて、家を出たんだろう。そんな事を何故か思った。

 

 安堵の涙は止まらずに、塩甘い涙がとめどなく頬を伝う。何があったのかと心配する母に、三葉は必死で言葉を紡いだ。

 

「……か、鞄なくして帰れない……」

 

   §

 

 冬期講習が終わった解放感に包まれ、受験勉強のラストスパートを前に気分転換をしようと学校帰りの横浜の街で髪を切った。気分転換はそれだけで止まらず、ショッピングモールで新しい服を買って袖を通したはいいが、制服や財布が入った鞄をショッピングモールの何処かで置き忘れてしまい、それ以降見つからない。

 

『あんた馬鹿じゃないの……サービスカウンターには言ったの?』

「う、うん、いちおう……。み、見つかったら連絡するって」

 

 そんな内容を泣きながら説明すると母は小言をひとしきり言った後、迎えに行くから待っていなさいと電話を切った。寒空の下で三十分程待っていると涙も止まったが、見覚えのある車から出てきた母の姿を見てまた泣いてしまった。

 

 子供のように泣く三葉を見て怒る気も失せたのか、母は溜息を吐いて呆れながらに帰るわよ、と三葉を車に乗せた。ダッシュボードに置かれた小さな熊のぬいぐるみは三葉が子供の頃に持っていたものだ。もう要らないからと捨てようとしたが、母が勿体ないと言ってダッシュボードに飾ったのは何年前の事だっただろうか。

 

「何やってんのよ、もー。まあ事件とか事故に遭ったとかじゃなくて安心したわ。いきなり泣くから何事かと思ったわよ」

「うん……ごめんなさい……」

「にしても本当にばっさり切ったのね。いいんじゃない、スッキリして。シャンプーの消費量減りそうでお母さん嬉しいわー」

 

 母が使う少し高めのシャンプーを高校生になってから三葉も使うようになった為、減りが早いと度々小言を言われていた。あのシャンプーはどんな香りをしていただろうか。すっかりフェンリルが支給する共用のシャンプーの匂いに慣れてしまった為思い出せなかった。

 

「ていうか何そのおっきい腕輪」

「え? えーと……か、かっこいいでしょ、ゴツくて」

「なに、今の若い子はそういうの流行ってるの?」

 

 笑って腕輪の事は誤魔化し、三葉は母から顔を背けて窓の外を眺めた。車は三十分程走り、懐かしい町並みが窓の外を流れていく。新築の家が立ち並ぶ住宅地に車は入り、ベージュ色をした二階建ての一軒家の前で車は停まった。三葉が中学生に上がる時に賃貸のマンションから引っ越した、父と母がずっと憧れていた夢のマイホームだ。〝引っ越し〟という非日常な出来事に当時は随分とワクワクしたものだった。そんな懐かしい記憶が蘇る。

 車から降り、玄関のドアを開ける。ふわりとアップルパイの匂いが漂った。

 

「……お母さん、アップルパイ作ったの?」

「そうよ。やーっと学校終わったご褒美にと思って。食べる?」

「食べる!」

 

 手を洗ってダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。切り分けられたアップルパイと温かいミルクティーが出され、サクッと音を立ててパイにフォークを刺した。

 

――そうだ、この味だ。

 

 甘いリンゴに香るバニラとシナモンの匂いが鼻孔を擽る。同じアップルパイでもカズヤの母が作ってくれたものとはやはり全然違う。あのアップルパイも美味しかったが、やはり母の作るアップルパイは子供の頃から食べ慣れた味なので特別なのだ。

 

――あのアップルパイはもう食べれないのかな。

 

 〝ヒーロー〟の為に作られたアップルパイ。あの味もまた、特別なものだった。

 もやりと腹の底が濁る。アップルパイを食べ終え、食器を洗ってからトイレへ行く。

 

 神機が重くなった時から予感していたが、予想通り下着にはべったりと赤い血が付着していた。月経時、三葉の体内にある偏食因子は通常より少ない量になり適合率もオラクル活性も低下するのだ。

 しかし先月の防衛任務で感じた時よりもずっと神機は重かった。それどころか神機の生体部分が触手のように伸び、三葉に牙を向いていた。まるで適合率がゼロになったかのようだ。

 

 〝もしかすると、矛盾の修正なのかもしれないね〟

 

 いつかサカキに言われた言葉を思い出す。三葉のタイムスリップの原因はタイムパラドックスによるものだとサカキは推測していた。二〇四六年に発生する筈のオラクル細胞由来の偏食因子が二〇一一年の三葉の体内に発生してしまった事により矛盾が発生し、それを修正する為にタイムスリップが起こったのだ――と。

 

 もしそれが本当ならば、三葉が元の世界に戻れたのは矛盾がなくなったから――体内の偏食因子が完全になくなったからではないのだろうか。

 しかし何がきっかけで偏食因子がなくなったのだろうか。確かに月経時は偏食因子の生成量が減少するが、完全になくなるわけではない。創痕の防壁での防衛任務の時と何が違うのだろうと首を傾げるが、接触禁忌種と遭遇して命の危機に瀕していたぐらいしか思い浮かばない。寧ろ危機的状況だからこそ適合率やオラクル活性は上がって欲しいものなのだが。

 

 まあ考えても仕方がないかとリビングのソファに腰掛けた。テレビをつければ年末の特番バラエティー番組が流れる。久しぶりに見た芸能人達が二〇一一年の面白かったVTRをランキング形式で振り返り、笑っていた。袴や晴れ着を着て華やかに映る芸能人と大掛かりな舞台セット。あまりにも実入りのない内容がくだらなく、平和だった。

 

――本当に帰ってきたんだなあ……。

 

 あの殺伐とした世界から。この平和な世界に。

 三葉はテレビをぼんやりと眺めながら、SF映画のような世界の事を思い浮かべる。

 

――ソーマさん、大丈夫だったかな。

 

 ヴァジュラの電撃から三葉を庇ったソーマは頭から血を流して三葉を瓦礫から守っていた。また助けられてしまったと自分の不甲斐なさに呆れつつ、呼ばれた名前を頭に反響させる。

 

――思えば、初めて名前を呼ばれた。

 

 普段ソーマからは〝お前〟だとか〝てめえ〟と雑に呼ばれていたが、あの時ソーマは確かに三葉を名前で呼んでいた。状況が状況だった為そう呼ばざるを得なかったのだろうが、嬉しかった。けれどソーマは今この世界は居ない。三葉がずっと帰りたいと焦がれていた世界にソーマは居ないのだ。

 

 夕飯の時間になり母と二人で夕食を取る。本日仕事納めの父は会社の忘年会があるらしく帰宅が遅くなると母が言っていた。残念に思いながら、母の作った肉じゃがを食べる。

 ほかほかの白ご飯と少し甘めに味付けされた肉じゃが、ほうれん草のおひたしと大根のお味噌汁。

 レーションとは比べ物にならない程の温かな味が身体に染みる。それはもう、涙が出そうなくらいに美味しかった。数か月前は何の変哲もない普通の夕食だと思っていたが、こんなにも美味しいものだとは思わなかった。

 

 改めてこの世界は快適過ぎると、お風呂に入りながら思う。新人区画の部屋には浴室がなく、シャワールームで汗を流していたので足を伸ばしてゆっくり湯に浸かるのも久しぶりだ。ぐっと湯の中で身体を伸ばす。赤い腕輪は未だ三葉の右手首に嵌っている。

 

――これ、取れないのかなあ。

 

 今は冬休みだからいいものの、学校が始まればこの腕輪は邪魔になる。取れないものかと引っ張ってみるが外れそうにはない。どうしたものかと頭を悩ませながら、ちゃぷちゃぷ足を動かしてお湯を鳴らす。その脹脛には十センチ程の赤い線が刻まれていた。

 

「…………」

 

 この傷痕は教訓、だった。

 三葉があの殺伐とした世界で生きていこうと覚悟を持った証だった。

 

 断髪の夜の事を思い出す。ソーマの部屋を訪ね、彼を〝死神〟と呼ばせたくないと強く思った日の事だ。その気持ちに嘘はない。だが、三葉はソーマの前から姿を消した。行方不明という扱いになっているかもしれない。そう思うと不安が募る。自分のせいでソーマが〝死神〟と呼ばれていないか、と。ただでさえ半月前にリンドウが行方不明になったばかりの時期にソーマのチームから新たな行方不明者が出てしまえば、きっと彼は責められてしまうだろう。

 それが不安だった。ソーマは死神なんかじゃないと否定する三葉自身が、彼を死神だと呼ばせる原因を作っていないかと。

 

――でも、戻りたくはない。

 

 浴室から出て自室の扉を開ける。三か月ぶりに入る、六畳半の自分の部屋だ。ピンク色のカーテンに少し散らかった勉強机、ベッドの上にはお気に入りの柴犬の抱き枕がある。その抱き枕を抱え、柔らかなベッドに横になる。枕元のすぐ近くにあるコンセントに繋がれている充電器のケーブルを携帯に挿し、充電しながらベッドの上で携帯をいじった。LINEを開いて友人とのグループトークで遊ぶ約束の確認をしながらダラダラくだらない会話を続けた。そうしていると次第にウトウトし始めて寝落ちする。これが失われていた日常だった。久しぶりの日常はすぐに三葉に馴染み、実感する。

 

――やっぱり私、この世界が良いなあ。

 

 だって此処は、三葉が居るべき本来の世界なのだ。

 三葉の生まれ育った町がある。三葉が帰る家がある。三葉を心配する親が居て、友人も居る。この世界にはなんでもあった。ありふれた平凡な日常がこれ以上のない幸せに感じた。

 

 元の世界に帰ってこれて心の底から嬉しかった。だが、同時に罪悪感を覚えた。ソーマ達の事を思い浮かべると、自分だけこんなにも平和な世界でのうのう生きていいのかと後ろめたい気持ちになる。

 

「……ごめんなさい」

 

 柴犬に頭を押し付け、布団に潜り込んで呟いた。二〇一一年から二〇七一年に向けて告げられた小さな謝罪は誰に届くわけでもなく消えていった。

 



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35 ありふれた日常

 まだ外が暗い六時に目が覚めた。抱き締めていた柴犬の抱き枕をぼんやりと見つめ、ふわりとアプリコットの香りが髪から漂う。そうだ、こんな香りのシャンプーだったなと思いながらベッドから降りた。

 

「あんた休みなのになんでこんなに早く起きてんの?」

 

 学校に行く時も今ぐらい早く起きればいいのに、と母に言われて苦笑した。トーストにイチゴジャムを塗り、ヨーグルトに刻んだバナナを入れて簡単な朝食を取る。七時を過ぎると大きな欠伸をしながら父がリビングにやってきた。寝癖と癖毛が合わさって父の髪は鳥の巣のようになっており、大袈裟な程三葉は笑った。

 

「なにも泣く程笑わなくたっていいだろ……」

 

 少し傷ついたように苦笑しながら父は言う。愛娘に泣く程笑われた髪を整えようと背中を小さくして洗面所へ向かった父に、三葉はくすくす笑いながら温かい涙を流した。

 

 

 

 受験組は冬期講習が終わりようやく冬休みに入った十二月三十日。一日ぐらい羽根を伸ばしてパーッと遊ぼう、と友人三人と遊ぶ約束していた日だった。一眼レフを買う為にずっと貯めていた貯金から遊ぶお金を下ろし、古い財布に入れて家を出た。

 最寄りの希望ヶ丘駅へ行くとホームで今日遊ぶ友人の一人と会った。友人は三葉の姿に気づくと目を丸くし、大きな声を上げた。

 

「髪が短くなってるー!」

 

 友人の千夏(ちなつ)は三葉の短くなった髪に大層驚いた様子だった。物珍しいように携帯で写真を撮り始める千夏を止めているとホームに電車がやってきた。横浜行の上り電車に乗り込み、吊り革に掴まりながら未だ驚きが治まらない千夏が興味津々といった様子で三葉の短くなった髪を見ている。

 

「え、なに。なんで切ったの?」

「なんか、こう、勉強に根詰めてたから気分転換に……?」

「へ~、中一以来じゃない? そんな短いの」

 

 千夏は中学からの友人なのでまだ伸ばしかけだった頃の三葉を知っている。懐かし~、と思い出すように笑う千夏に苦笑しながら電車は横浜駅に向かった。

 西口で待ち合わせをしており、人通りの多い交番前でLINEの画面を見ながら友人を探す。暫くすると人混みの中から友人二人を見つけ、ここでも髪を切った事に大層驚かれた。

 

 とりあえず腹ごしらえをしようと近くのファーストフード店に入った。チーズバーガーとフライドポテト、バニラシェイクを注文してジャンクフードを存分に食べる。その後はシネコンに入って恋愛映画を鑑賞し、感想を言いながら近くのカラオケで映画の主題歌を熱唱した。

 デンモクで適当に月間ランキングを眺めていると、三葉が登下校の電車の中でよく聴いていたバンドの曲を見つける。

 

――ソーマさん、CD聴いたかな。

 

 勝手にしろと言われたので、鎮魂の廃寺での任務に付き合ってくれた礼に携帯に入っていた曲をCDに焼いてソーマにプレゼントしたのだ。このバンドの曲も勿論入れてある。気に入った曲はあっただろうか。そう思うが、聞く術はない。

 

 二時間程してカラオケを出た後は人気のパンケーキ店に足を運び、イチゴやラズベリーと生クリームが盛られたふわふわのパンケーキを前に女子高生四人は黄色い声を上げて各々携帯のカメラを構えた。甘ったるいクリームとイチゴの酸味に思わず口元が緩む。甘いものはどうしてこんなに幸せな気分にさせるんだろうと思いながら完食し、駅の西口にあるゲームセンターでプリクラを撮って本日はお開きとなった。

 

「よいお年をー!」

「よいお年を~」

 

 友人二人とは駅で別れ、三葉と千夏は相鉄本線の下り電車に乗る。席が空いていたので濃いピンク色の座席に座り、携帯で撮ったパンケーキの写真を眺めていると隣の千夏が画面を覗き込んできた。

 

「今日デジカメじゃないんだね」

「あー……えっと、昨日デジカメ入れてた鞄失くしちゃって」

「え!? それやばくない?」

「やばいよね、制服と教科書も入ってたから冬休み明けどーしよーって感じ」

「教科書コピーしたげよっか?」

「ほんと!? 助かる~!」

 

 それから他愛もない会話をしながら電車は希望ヶ丘駅に到着し、千夏と一緒に北口を出て帰路に就いた。駅前の小さな商店街は年末とあってシャッターの閉まった店が続いており、随分と静かだった。

 住宅地に続く道を歩きながら、隣を歩く千夏は空を見上げた。冬の夕方は夜を急かすように一気に暗くなり始める。遠くから聞こえる踏切の音と昼と夜の狭間の空が三葉を随分とノスタルジックな気持ちにさせた。

 今日の夕飯はなんだろうと思いながら、三葉は毎日この閑静な住宅地を歩いて家に帰っていた。それが日常だった。どこにでもある、ありふれた日常だった。

 

「三葉の撮る空の写真好きだったのになあ。デジカメでめっちゃ撮ってたじゃん。あとうちの犬も。あれデータないの?」

「ないなー、メモリーカードも一緒に入れてたし……」

「まじかー……。あ、でもお年玉出たら一眼レフ買うって言ってたっけ?」

「うん、その予定。今お金貯めてる最中」

「じゃあカメラ買ったらどっか行こうよ、ていうか卒業旅行でどっか行こうよ」

「旅行か~! 私USJ行きたいなー」

「じゃあ関西行こ、私京都行きたいし」

 

 約束ね、と白い息を吐きながら千夏は笑った。高校受験の時も同じような会話をした。高校に合格したら自分へのご褒美にデジカメを買うと話した三葉に、千夏は笑って東京旅行をしていっぱい写真撮ろう、と言った。その時に撮った浅草やテーマパークの写真は二〇七一年に置いてきたデジカメの中に今もある。

 

「……うん、約束」

 

 三葉も笑い返し、頷いた。

 

 

 

「ただいまー」

「おかえり。寒かったでしょ、先にお風呂入っちゃいなさい」

「はーい」

 

 千夏と別れて帰宅する頃にはすっかり辺りは暗くなり、空には星が瞬いていた。母と短い会話をした後、階段を上がって自分の部屋に入る。

 ダッフルコートを脱いでパジャマを用意する。冷えた身体を温めるべく浴室に向おうと思ったが、三葉は着替えをベッドの上に置いてベランダに出た。冷えた金属の手すりに手を置き、夜空を眺める。アナグラの屋上で見た空よりも星は少なく物足りなさを覚えるが、その分住宅地の明かりが広がっている。

 

――今日は、楽しかったな。

 

 横浜の街は人で賑わっていた。物と娯楽が溢れて豊かな街だった。とてもじゃないが、六十年後には荒れ果てて化け物が蔓延る街になるとは思えないぐらい、平和な街だった。

 ジャンクフードの濃い味付け。少女漫画原作の若手俳優と人気アイドル主演の恋愛映画。飲み放題のカラオケに、見た目重視の甘いパンケーキ。プリクラに映った自分は顔が小さく目は大きい。

 

 六十年後の世界では考えられない程、平和で豊かでくだらない世界。そんな世界が、三葉の世界だ。

 

――忘れよう。

 

 星の少ない夜空を目に焼き付け、三葉は六十年後の満天の星を塗り潰す。

 忘れよう。忘れなければ。あのアラガミの蔓延る殺伐とした世界を。

 

 ソーマ達の事が嫌いになったわけではない。防壁は破られていないだろうか、カノン達は元気にしているだろうか、ソーマは自分を責めてはいないだろうか。心配に思う事はいくつもある。会いたいとも強く思う。だが、その気持ちと同じくらいにどうしても思ってしまうのだ。

 

――戻りたくない。

 

 両親や友人の顔を見る度に。賑わう横浜の街を見る度に。駅から家に続く道を歩く度に。三葉が十八年生まれ育った町を見る度に、そう思ってしまう。この平和な世界で生きたいと思ってしまうのは、いけない事だろうか。

 

 冷えるベランダから町並みをじっと見つめる。ずっと帰りたいと焦がれたこの町に三葉は念願叶って帰って来れた。ならば、あの世界の事は忘れるべきだ。何故ならこの世界にいる井上三葉は神を喰らう者ではない、ただの平凡な女子高生なのだから。

 

 忘れようと、思った。六十年後のあの世界を。

 ただの女子高生には関係のない、未来の出来事を。

 

 だがそう思えば思う程に、ソーマの顔が目に浮かぶ。自身を出来損ないの化け物だと言って自嘲した彼。三葉をとんだ物好きだと言って物柔らかな表情をした彼。年相応の顔をして笑った彼を、もっと見たいと思った。

 三葉は瞼を閉じ、星空に背を向ける。じくりじくりと三葉を詰るかのように、脹脛の傷痕が痛んだ。

 

   §

 

「三葉、悪いんだけど年賀状出してきて! 出し忘れてたのがあったの!」

 

 翌日の昼過ぎ。リビングのソファに座って単語帳をペラペラと捲っていると、母親が輪ゴムでまとめた五、六枚のハガキを三葉に向けて差し出してきた。新年の挨拶が印刷された年賀状は大晦日の午後に出しても元旦には届かないだろう。

 

「ええー……やだよ外寒いもん」

「いいじゃない、すぐ近くでしょ。ほらお駄賃あげるから」

 

 そう言って母親は五百円硬貨をちらつかせる。一眼レフの為に貯めていた貯金しかなくなってしまった三葉にとって五百円は大きかった。仕方ないなあと年賀状と五百円玉を受け取り、ダッフルコートのポケットに携帯と五百円玉を入れて三葉は家を出た。

 

 歩いて五分程の位置にある郵便局のポストへ年賀状を投函し、三葉はコンビニに足を向けた。三百円は残しておいて二百円分はおやつを買おう。そんな甘い誘惑に負けてチョコレート菓子を頭に思い浮かべる。するとチョコレートが溶けるように、三葉の視界はぐにゃりと溶けて、見えなくなった。

 

――え、

 

 眩暈がした。

 

 ぐらぐらと視覚は眩み、寒気がしたが身体の内側は不思議と燃えるように熱かった。この感覚には覚えがあった。覚えがあったからこそ、三葉は焦る。まさか、まさか! と跳ね上がる心拍数は駆け足で世界を進んでいき、三葉を置いてけぼりにしてしまう。

 

 そうして、色を帯びていく視界に見慣れた住宅地はない。コンビニへ続く道も自宅へ続く道も消え去ってしまっている。

 

 代わりにあるのは、ただただ荒れ果てた町の残骸だけ。

 

「……うそだ」

 

 魂が抜けてしまったかのように、三葉は呆けてその場に崩れ込む。震える手でダッフルコートから携帯を取り出すと、五百円硬貨がポケットの中でチャリンと音を鳴らした。携帯は当然ながら圏外で、使える無線LANは何処にも見つからない。

 いつぞやの日をなぞるかのように、三葉は恐る恐るカレンダーのアプリをタップする。表示された日付に、思わず乾いた笑みが零れた。その口元は三葉には似つかわしくない、随分と歪なものだった。

 

 二〇七一年 三月七日

 

 贖罪の街でミツハがプリティヴィ・マータと遭遇してから二日後の日付だった。わなわなと震えるミツハに追い打ちを掛けるかのように獣の鳴き声が荒廃とした土地に響き、ぞくりとうなじの産毛が逆立った。

 

 そうしてミツハは、黄色の瞳と目が合った。

 〝それ〟は鬼のような顔と巨大な尻尾を持っていた。二足歩行をする白い怪物は、CG映画のような生き物だった。

 

 オウガテイル。ミツハの初陣のアラガミであり、ミツハが初めて殺した生き物である。小型種であるオウガテイルはそう苦戦する相手ではなく、ミツハでも難なく倒す事が出来るアラガミだ。――()()()()()()()()()()

 

「――ひっ」

 

 神機がない。スタングレネードもトラップも何もない。あるのは携帯と五百円玉だけだ。戦う術がないミツハは震える足に鞭を打って立ち上がり、全速力で逃げ出した。

 



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36 ちいさな歪み、ひとつ

 倒壊した建物。廃墟と化した町並み。大きな風穴が空いた団地群。崩れたホームが剥き出しになった、希望ヶ丘駅。

 荒廃とした町の残骸は確かにミツハの生まれ育った町の面影を残していた。その面影が余計にミツハを苦しくさせる。昨日歩いたばかりの駅前の通りは無残にも荒れ果て、ありふれた日常を壊していた。

 

 そんな壊れた町の中をミツハは駆け抜ける。オウガテイルとの鬼ごっこは追いつかれてしまえば簡単に死んでしまう。神機無しではヒトはアラガミに対抗出来ないのだ。

 

 アナグラに連絡を入れたかったが、生憎ポケットに入れていた携帯は二〇一一年のものでフェンリルから支給された携帯も小型無線機も全て六十年前に置いてきてしまっている。どうにかオウガテイルを撒いて任務中の神機使いを探すぐらいしか手はないが、そもそもオウガテイルを撒けるのかが不安だ。腹を空かせたアラガミは執拗に獲物を追い、長い針を尻尾からミツハ目掛けて飛ばす。

 肩越しに振り向いてその行動を視認したミツハは咄嗟に避けるが、瓦礫が散らばって足場の悪い状況で何の加工もされていないただのショートブーツは簡単にバランスを崩して転倒してしまう。転んだ際に捻挫をしたのか、左足首から鈍い痛みが響いた。

 

――マズイ。

 

 鬼ごっこは終焉を告げる。雄叫びを上げて喰い掛かろうと飛びつくオウガテイルを前に、ミツハはデジャヴを感じながら腹の底から声を絞り上げた。

 

「――たすけて!」

 

 痛みは来なかった。

 あの日のように、痛みの代わりにオウガテイルの叫び声が空気を震わせた。血飛沫が飛び、肉を断つ音が聞こえる。あの日と違うのは、アラガミを狩るその武器が巨大な鋸のようなバスターブレードではなくロングブレードという点だ。蒼い刀身がオウガテイルのその身を抉り、斬り裂いていく。

 

 いとも簡単に倒されたオウガテイルは空気に霧散した。一分どころか三十秒足らずの出来事だ。神を喰らう者は簡単な戦闘だったのにもかかわらず随分と息を上げ、血相を変えてミツハのもとへ駆け寄る。蒼い神機を握るのは、第一部隊隊長で同期の神薙ユウだ。

 

「ミツハ、無事!?」

「ユウ……! 大丈夫、ちょっと捻挫したぐらいだから…」

「良かった……本当に、生きてて良かったよ……」

 

 目に涙の膜を張りながら、ユウは大きく胸を撫で下ろして柔らかく微笑んだ。その表情にミツハは不思議と息が詰まった。

 

「え、っと……ユウ、よく私が此処に居るって分かったね。ほら、贖罪の街からはちょっと離れてるのに」

「ヒバリさんから連絡があったんだよ」

 

 どうやら贖罪の街で任務を終えた第一部隊は丁度帰投のタイミングで腕輪のビーコンと生体信号を拾ったヒバリから連絡を貰い、ヘリで飛んできたのだという。散開して捜索に当たっている最中でユウはオウガテイルに襲われるミツハを見つけ、全速力で駆け付けたのだと言う。間に合って良かった、と上がった息を整えながらユウは笑った。

 

 散開していたメンバーに向けて連絡を入れたユウは無線のスイッチを切りながら不思議そうな顔をミツハに向ける。

 

「それにしても、あの時何があったの?」

 

 ユウの言葉にミツハの顔が引き攣る。任務中に突然行方を晦ました言い訳など咄嗟に思いつく筈もなく、話を強引に逸らす事しか出来なかった。

 

「えっ、えっとー……その……ごめん、質問に質問を返しちゃうんだけど、私の扱いってどうなってた……?」

「……昨日KIA認定にされたよ」

「えっ……」

 

 行方不明扱いだろうと思っていたミツハは戦死を意味する言葉に青褪めた。近いうちに防衛班から二階級特進が出るな、そう皮肉を放ったカレルの言葉が頭に浮かぶ。よもや六十年前の世界へタイムスリップしていたとは知らないカレル達の目にはこう映るのだろう。

 

 またソーマのチームから殉職者が出た、と。

 

 罪悪感で潰されそうだった。自分が彼を死神だと呼ばせる原因になっていないか、そう不安に思っていた事は現実になっていたのだ。ソーマは死神なんかじゃないと否定するミツハ自身が、ソーマを死神だと呼ばせてしまっている。その事実が重くミツハに圧し掛かる。

 

「……とにかく、移動しようか。みんなと合流して、ちゃんと無事だって安心させないとね」

 

 立てる? とユウはミツハに向けて手を差し出す。合流する〝みんな〟の中にはソーマもきっと居るのだろう。

 どんな顔をして会えばいいのか分からないまま、ミツハはユウの手を、取った。

 

「――――ッ、」

 

 途端、目の前がチカチカと閃光のように瞬く。

 

 眩む視界には何も見えない真白の光ではなく、見覚えのある廃工場の景色が映る。

 鉄塔の森を背景に、赤い髪とサングラスが特徴的な神機使いの男――エリック・デア=フォーゲルヴァイデがユウに話し掛け、目の前でオウガテイルに喰われた姿。噴出する鮮血に断末魔。あまりにも呆気なく終わった命と、エントランスで泣く裕福そうな少女の姿。場面は変わり、贖罪の街の教会で取り残されたリンドウに向かって悲痛な声で訴えるサクヤの姿に、プリティヴィ・マータの群れ。呆然とへたり込んでそんなつもりはなかったと呟くアリサ。生きて帰れ、と瓦礫の向こうで叫んだリンドウの声。――強くならなきゃ、と使命感にも似たユウの気持ち。

 

 それはまるで古い映画を見ているかのような感覚だった。映写機はミツハで、フィルムは――神薙ユウ。頭に流れ込んできたミツハの知る由もない記憶は、確かにユウのものだった。

 

「……なに、いまの」

 

 長い映画を見ていたような感覚だったが、時間にしては数秒にも満たないのだろう。困惑するミツハだが、目の前のユウはミツハ以上に困惑した様子で取った手をするりと落とした。信じられない、というような目をミツハに向ける。その眼差しには覚えがあった。初めてこの世界に来た日、学生証と保険証を渡したツバキとサカキのような目だったのだ。

 

「ミツハ、君は――六十年前の世界から来たの?」

 

 頭を鈍器で殴られたかのような感覚だった。え、と漏れた乾いた声は空っ風に飛ばされた。

 

――なんで。

 

 どうしてそれを知っているのかと指先が震えたが、先程ミツハがユウの記憶を垣間見たのと同じように、ユウもミツハの記憶を見たのかもしれない。そう思うと正直――()()()()()()ユウはミツハのどんな記憶を見たのだろう。ありふれた日常の一幕ならば全然良い。だが、どうしても知られたくない、悟られたくない思いがあった。

 

――戻りたくないなんて、思っちゃった。

 

 忘れようと思った。この世界を、目の前に居るユウを、みんなを。自分だけ平和な世界でのうのう生きたいと思ってしまった。それを知られるのは、怖かった。

 

「……なにを、みたの?」

「えっ、……ミツハが初めてこの世界に来た日のこと、かな。学校帰りに眩暈が起きて、気づいたら目の前の景色が荒れ果てた街に変わってて、ヴァジュラに襲われていた所をソーマに助けられた――合ってる?」

「……うん、合ってる」

「じゃあやっぱりミツハは……」

「……そうだよ。六十年前から、タイムスリップしてきたの。この二日間、私は過去に戻ってたの」

 

 信じられないよね、とミツハは笑った。どうやらユウの見た記憶はミツハがこの世界にやって来た日の事だけらしい。妙な安堵を覚えながら、今度はミツハが首を傾げた。

 

「それにしても今のって何……?」

「多分、感応現象っていうものだと思う。新型同士に起こる共鳴みたいなもの……らしいんだけど、僕も詳しい事はよく分からないんだよね」

「……新型同士って、私新型じゃないのに?」

「そうなんだよね。もしかしたら新型同士じゃなくても起きるものなのかな……」

 

 そう言いながらユウは再び手を差し出し、少し躊躇いを持ってミツハはその手を取る。今度は眩暈は起こらずに済み、ぐっと手を握って立ち上がった。足首に僅かな痛みを持ちながら、ミツハは考える。

 今まで新型であるユウやアリサに触れてもそんな現象が起きた事はなく、そんな現象があるとも聞いた事がなかった。もしや、とミツハの脳裏に嫌な考えが浮かぶ。

 

――変異、したのかもしれない。

 

 その線は十分にあり得た。ミツハの持つ偏食因子は、ミツハの知らないうちにどんどん変わってしまう。自分の事なのにミツハは自分の事が一番分からないのだ。再びタイムスリップをしたという事は、おそらく矛盾が生じたからだろう。二〇一一年の世界に偏食因子が存在するという矛盾だ。しかし、何故。何故一度はなくなった偏食因子がまた生まれたのだろう。そして何故新型同士で起こる現象がミツハとユウの間に起こったのだろう――

 

 ぐるぐると考えても分からない身体の内側に恐怖を覚えていると、ミツハの名前を呼ぶ声が聞こえる。顔を上げればコウタ達第一部隊がすぐそこまで来ていた。ミツハの顔を見るなりコウタとアリサは感極まったような顔をしてミツハのもとへ駆け寄る。

 

「ミツハ……本っ当にミツハだ! 生きてたんだな……!」

「もう! 心配したんですよ……! 今まで何処に行ってたんですかぁ……!」

 

 ミツハの無事を大袈裟な程に喜ぶ二人を見てチクリと胸の奥が痛む。アリサは目に涙を溜めながらミツハに触れようと手を伸ばしたが、ミツハは咄嗟に後退ってしまった。

 アリサは新型神機使いだ。アリサに触れれば、感応現象が起こるかもしれない。焦ったミツハは足首を捻挫している事も忘れて後退り、そして鈍い痛みに顔を顰めてその場に座り込んだ。

 

「ミツハ!? 大丈夫ですか……!?」

「あ――ソーマ! ミツハ、足を捻挫してるみたいなんだ。ヘリまでおぶってあげて欲しい。アリサは僕と一緒にヘリまでの道にいる小型アラガミの排除を手伝って。コウタとサクヤさんはソーマと一緒にミツハの護衛を」

「……了解した」

「ええ、分かったわ」

 

 ユウがテキパキと指示を出す。ミツハの様子から感応現象を起こしたくないと察したのだろう。その指示にアリサは素直に頷き、ミツハから距離を置いてほらほら早くおぶってあげて下さいとソーマの背中を押していた。

 

「……誰にも言わない方がいい?」

「うん……お願い」

「分かった。――よし! じゃあアリサ、行こうか」

「はい!」

 

 ユウは膝を折って座り込んだミツハの耳にこっそり耳打ちをし、強く頷いて立ち上がった。アリサと共に先陣を切った二人の背中は次第に小さくなる。しっかりしているな、と彼が隊長になった理由を見た気がした。ユウはよく周りを見ている。自分なんかとは大違いだと思った。

 

「……おい」

「あ……」

 

 ぼんやりしているとすぐ近くまで来ていたソーマに気づかなかった。此方を見下ろすソーマの顔を見て、ミツハは思わず目を逸らしてしまった。

 

 じくりじくりと脹脛の傷痕が痛む。目の下に出来た隈が、ミツハが居なくなっていた二日間のソーマを表していた。リンドウが姿を消したソーマの顔と重なった。きっと眠れなかったのだろう。あの時と同じように、自分を出来損ないの化け物だと呪ったのだろう。

 

――わたしのせいで。

 

 罪悪感が募る。しゃがんで背を向けたソーマに触れていいのかと躊躇いを持ったが、早くしろと急かされてしまい慌ててその背中に身を委ねた。軽々とミツハをおぶって立ち上がったソーマの肩に顔を埋める。

 

「……すみません」

「……別にいい」

 

 ごめんなさい、と何度も心中で呟いた。戻りたくないなんて思ってしまった。忘れようと思ってしまった。そして今も、――ミツハは元の世界へ帰りたいと、思ってしまう。どうしてこの世界に再び来てしまったのだろうと思ってしまう。

 

 この醜い感情をソーマに知られたくない。きっと今、自分は酷い顔をしている。ヘリに着くまでの間、ミツハはずっとソーマの肩に顔を埋めたまま一度もその顔を上げなかった。

 



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37 ただいまなんて言えやしない

 ヘリから見下ろす大地は映画のように荒れ果てていた。昨日友人と遊んだ横浜の繁華街の姿は何処にも見当たらず、ただ穴の空いた今にも崩れそうな廃墟が立ち並ぶだけだ。

 アナグラへ着くまでの数分間、ミツハはずっと窓に額を当ててかつての自分の生まれ育った町だけを眺めていた。

 

 アナグラへ帰投するとヘリポートにはツバキと第二部隊の姿があった。ヘリが着陸するなり第二部隊はローターの停止も待たずに駆け寄ってくる。ミツハは片松葉をついてヘリから降り、タツミ達三人に顔を見せるとカノンがボロリと大粒の涙を零した。

 

「えっ、か、カノンちゃん!?」

「ミツハちゃん……ミツハちゃん~……っ! 無事で、良かった、です……っ、わたしっ、もうミツハちゃんに会えないかと、おもっ、て……」

 

 あまりの安堵からか腰が抜けた様子でカノンはその場にへたり込んで、泣いた。しゃくりを上げながら良かった、無事で良かった、と震えた声で繰り返す。カノンが大泣きする為か隣の二人は幾分冷静になったようで、安堵の表情を浮かべて優しく笑った。

 

「ミツハ、おかえり」

「無事に帰って来てくれて何よりだ。……本当に、良かった」

 

 くしゃりとタツミの掌がミツハの頭を撫でる。ボサボサになった髪のアプリコットの香りを強風が吹き飛ばし、一瞬で消えた。

 カノンは涙を拭って立ち上がり、ミツハの顔をしっかりと見て、笑った。

 

「ミツハちゃん――おかえりなさい!」

 

 言葉が出なかった。ごくりと生唾を飲んで、松葉杖を握る手に力が入る。ギチッと軋んだ音にはっとして、ミツハはようやく口元を緩めた。

 

「あ――、有難うございます。あの、ご心配をお掛けしてすみませんでした!」

「捻挫以外に怪我はないか?」

「大丈夫です!」

「そうか……なら安心だ」

「しかし何があったんだ?」

「えっと、それは……」

「――お前達。話の途中で悪いが、ミツハのメディカルチェックを優先したい」

 

 返答に困るミツハに助け船を出すようにツバキが会話を遮った。それもそうだとタツミ達は身を引き、ミツハはぺこりと頭を下げてからツバキの背を追った。後ろめたさを覚えながらエレベーターに乗り込む。ツバキと二人きりの箱の中でようやくまともな呼吸が出来た。

 

 ツバキの様子からして、ミツハが失踪した理由を察しているようだった。それもそうだ。何せツバキは数少ないミツハの事情を知る人間なのだから。

 

「……もしかしてなんですけど、早々にKIA扱いになったのって、私がどうなっていたか分かっていたからですか?」

「……確証がある訳ではなかったが、サカキ博士から聞いた状況から予想はついていた。過去に戻っていたのなら捜索隊を出しても見つかりようがないからな。接触禁忌種が増えている状況で、見つかる筈のない人間に人員を割くわけにはいかないとの判断だった」

 

 事情を知っているのなら妥当な判断だろう。まさか再びこの世界にタイムスリップするとはミツハ自身思いもしなかった為、もう戻ってこないと判断しても可笑しくない。そうなれば意味もなく捜索隊を出すよりも、KIAと認定して捜索を打ち切らせるのが合理的だ。

 そう分かっているが、そのせいでソーマはまた自分を呪ったのだと思うとミツハを憂悶とさせる。

 

 エレベーターは研究区画に着き、サカキの研究室へ足を運ぶ。いつものようにサカキは四台のモニターに囲まれた赤い椅子に腰掛けており、ミツハの姿を見るなり狐目を細めた。

 

「やあ、おかえり――なんて言うのは今の君にとっては酷かな」

「……そんなことないですよ」

「そうかい? まあそういう事にしておこうか。それより、メディカルチェックの前に話を詳しく聞かせてもらえるかな? あの時、何があったのかを」

 

 ソファに腰掛け、サカキの言う通り二日前の出来事を思い出しながらぽつりぽつりと話していく。

 任務中に以前の比にならないくらい神機が重くなった事。ミツハに向かって神機が牙を向いた事。眩暈がしたと思ったら、元の世界へ戻っていた事。月経が来ていた事。そして再び眩暈がしたと思ったら、この世界へ投げ出されていた事。

 

 ふむ、とサカキはミツハの話に相槌を打つ。ソーマから聞いていた話と一致するね、とツバキと顔を合わせながら眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

「前に私はミツハ君がタイムスリップをした原因を、〝矛盾の修正〟の為だと言ったね。恐らくタイムスリップの原因はそれで間違いない」

 

 サカキは椅子から立ち上がり、ミツハの座るソファの傍へやって来た。感情の見えない狐の目がミツハを見下ろし、口は饒舌な程に回る。

 

「事実、腕輪と偏食場レーダーの観測結果から、ミツハ君が居なくなる直前の適合率とオラクル活性は著しく低下し、最終的にはゼロに……観測不能となった。神機が重くなった、捕喰されかけた原因はこれだろう。ミツハ君の体内から偏食因子が消失したんだ。だから、君は元の世界に戻る事が出来た」

 

 ここまではミツハも推測していた事だった。だが、それにはどうしても分からない事がある。

 

「しかし、どうして突然ミツハ君の体内から偏食因子が消えたんだろうね?」

 

 月経中は確かに偏食因子の生成量は減少する。しかし完全になくなるわけではない。こればかりはいくら考えても分からず、ついぞミツハは考えても仕方がないと答えを探す事をやめていた。

 

「偏食因子が何故消えたのか、きっと理由がある筈だ。どんな些細な事でもいいから、何か変わった事はなかったかい?」

「変わった事……接触禁忌種と遭遇していた事ぐらいしか……」

 

 防衛任務の時と明らかに違うのはこの点だ。接触禁忌種であるプリティヴィ・マータと遭遇し、次いで大型種のヴァジュラにも襲われた。上だ、とソーマに促されて頭上を見れば、電撃を放つヴァジュラを目にして死を覚悟した。

 しかし実際には電撃に直撃する事もなく、ソーマがヴァジュラからも瓦礫からもミツハを守っていた。ミツハに覆い被さって瓦礫からミツハを守り、頭からは血を流していた。

 

 雨のようにポタポタとミツハの頬に滴り落ちた感触をよく覚えている。生唾を呑むと血の味がした。そして喉が焼けるように熱くなった――

 

「あ……」

 

 神機が重くなったのは、その直後だった。瓦礫を押しのけ、ヴァジュラに応戦しようと神機を握ったが大鎌は持ち上がらず、それどころかミツハを捕喰しようと牙を向けた。思い当たる節があるならばこれぐらいしかない。

 

「……血を、少しですけど飲みました。神機が重くなったのもその直後です」

「血?」

「はい。ソーマさんが私を庇ってくれた時に、顔に血が掛かって、その時に――」

「――ソーマの血を飲んだんだね?」

 

 サカキの口調は幾分か鋭いものになり、眼鏡の奥で細い目がギラリと光って見えた。その変化に戸惑いながらミツハは頷く。サカキはツバキと顔を見合わせ、少し考え込むような仕草を見せたがやがていつも通りの貼り付けたような笑みを浮かべた。

 

「――うん、有難う。もしかしたら血液中に含まれる微量の偏食因子と捕喰し合った結果かもしれない。ミツハ君とソーマの偏食因子は違うものだからね、拒絶反応が起きた可能性がある」

「あ……確かにそうですね。普通は五十七じゃなくて、P五十三偏食因子ですもんね……」

「……そうだね。普通はそうだ」

 

 小さく頷いたサカキに違和感を覚える。その表情には何か陰りがあったが、ミツハが追及する前にサカキはパンと手を叩いてそれを許さなかった。

 

「よし、それじゃあメディカルチェックを始めようか。もう準備は出来ているから、ゆっくりお休み」

「あ、はい。お願いします」

 

 ソファから立ち上がり、向かって左手にある赤い扉を開けて小部屋に入る。話している間に捻挫の痛みはすっかり引いていた。手当をしたわけでもないのに随分と早いなと不思議に思いながら、ミツハはベッドに横になった。

 

 

 

 目を覚まして小部屋から出ると、研究室の中にはツバキが居なくなっていた代わりに違う人物がいた。ソファに座るのはヨハネス・フォン・シックザール。極東支部の支部長だ。ミツハの事情を知る一人だが、適合試験の際にガラス越しにその顔を見て以来一度も顔を合わせていなかった。

 

 書類を読んでいたヨハネスはミツハの姿を見ると目を細め、手にしていた書類をテーブルの上に置いた。おそらくメディカルチェックの結果が書かれてある書類だろう。よく分からないグラフや数値が書かれた書類を一瞥し、ミツハはヨハネスに向けて頭を下げた。

 

「お、お久しぶりです、支部長」

「ああ、こうして顔を合わせるのは久しぶりだね。話は博士からよく聞いているよ。君の偏食因子は実に興味深いとね」

 

 ヨハネスはそう言ってうっすら笑った。端正な顔立ちをした金髪の紳士は威風堂々という言葉がよく似合い、言葉のひとつひとつに威厳を感じさせる渋い声をしている。座り給え、と促され、一礼してソファに腰掛けた。

 

「前にも言ったかもしれないけど、ヨハンも元技術屋なんだよ。だからミツハ君の偏食因子に興味津々と言った訳だ」

「新型に適合するとなれば、戦力の増加が期待出来る。支部をまとめる身としてなるべく把握しておきたいだけさ」

「……新型、ですか?」

「ああ、まずはメディカルチェックの結果を説明しようか」

 

 オホン、とわざとらしく一度咳払いをしたサカキはまるで講義でもするかのような口調で話し始める。その内容にミツハは閉口した。

 

 検査の結果、ミツハの予想通り偏食因子は変異していた。変異したP五十七偏食因子は新型神機への適合も期待でき、以前のものよりもオラクル活性がP五十三と遜色がない程に向上しているそうだ。普段より早く捻挫の痛みが引いたのもそのおかげだろう。

 

「……でもなんで、変異したんでしょうか?」

「それはきっと、ソーマの偏食因子と反応したからだろう」

「あれの偏食因子は君と同じように、通常とは違う偏食因子を持っているからな」

「……えっ、そうなんですか!?」

 

 ヨハネスの言葉に心臓が跳ねた。何か秘密があるのだろうとは思っていたが、まさかミツハと同じように偏食因子が通常のP五十三とは違うものだとは思いもしなかった。

 その事実をソーマの口からではなく他人の口から聞いていいものなのかと戸惑うが、そんなミツハをお構いなしにヨハネスの言葉は止まらなかった。

 

「あれの持つ偏食因子はP七十三偏食因子というものだ。知っているかね?」

「……七十三って、人体への投与は禁止されているんじゃ……」

 

 以前サカキから教えて貰ったのでよく覚えていた。P五十七偏食因子と同じように、P七十三偏食因子は人体への投与が禁止されている。

 しかしソーマの体内に有している偏食因子は投与が禁止されている筈のP七十三偏食因子だ。もしかして、とミツハの脳裏に浮かぶ。

 

 もしかしてソーマの偏食因子も、自然発生したものではないのか――と。

 

 しかしその予想はヨハネスによってすぐに打ち破られた。

 

「後天的な投与では成功例がないが、あれの場合は胎児段階で母体を通じて投与したものだ」

「……胎児段階で、ですか」

「ヨハン、話が逸れているよ」

「ああ、すまない」

 

 サカキの介入によってその話は終わったが、ミツハはヨハネスの言葉に落胆し、そして後悔した。

 

――私、何を期待したんだろう。

 

 ソーマも自分と同じように、偏食因子が自然発生したかもしれない――なんて淡い期待は、あまりにも浅慮なものだろう。自分に嫌気が差し、ソファの表面をぎゅっと握った。そんなミツハを一瞥だけして、サカキは話を続けた。

 

「普通は血液中に含まれる微量の偏食因子を経口摂取しても影響は出ないんだが、月経が始まって生成が阻害され始めていたP五十七偏食因子はその微量なP七十三偏食因子の影響を受けてしまった。七十三偏食因子は通常の偏食因子よりもオラクル細胞に近い強力なものでね、拒絶反応が起きて互いに偏食因子を捕喰し合い、その結果――」

「一時的に偏食因子が体内から消えた、というわけか」

「その通り。しかし時間が経ってプロスタグランジンの分泌量が減った事により再び生成が開始されたP五十七偏食因子は、性質が変化していた。五十七と七十三が合わさって、全く違う性質になっていたんだよ」

「……それで感応現象が起きたんですね」

「おや、感応現象を体験したのかい?」

「あ、はい。……その時にユウは私が六十年前から来たって事を知ってます」

 

 一応秘密にしておいて欲しいとは頼んだものの、知られたのはまずかっただろうかと心配したが存外に反応は軽く、後から軽く事情を話しておくとさえ言った。

 

 説明は大方終わり、参考までにとメディカルチェックの結果が書かれた書類を渡されたがあまり読む気は起きなかった。自分の身体の事だと言うのに、知れば知る程怖くなるのだ。書類に印刷された〝変異〟の文字から目を背け、ソファから立ち上がった。自室へ戻ろうと扉へ足を向けると声を掛けられる。

 

「足を捻挫していたのだろう、部屋まで送ろう」

「えっ、いや、申し訳ないです……!」

「いや、道すがらに新型神機の説明もしておきたくてね。いいかね?」

 

 支部長であるヨハネスにそう言われてしまえば断れる筈もなく、お願いしますと頭を下げる。あまり変な事を言って困らせてはいけないよ、と狐のように目を細めたサカキにヨハネスは笑って返し、研究室を後にした。

 支部のトップと並んで歩く事などそうある筈もなく、緊張で背筋を伸ばしながら廊下を歩く。ヨハネスは肩の上がったミツハに小さく笑みを浮かべながら、明日の事について話し始めた。

 

「明日は新型神機の接続を行ってほしい。君の神機は欧州から輸入したものだったね? 新型用のパーツも輸入していたから数は少ないがある筈だ」

「わ、分かりました」

「それと遠距離型の神機なんだが――」

 

 エレベーターに向いながら話をしていたヨハネスだが、エレベーター前のベンチに座る人影を見て言葉を止めた。不機嫌そうに此方を見上げた人物はフードの奥から鋭い眼光を光らせてヨハネスを睨んでいた。

 

「ああ、もう入っても構わん」

「…………」

 

 ソーマは舌打ちをひとつ落として腰を上げる。ちらりとその蒼い目がミツハに向けられたが、思わず読みもしない手元の書類に視線を落としてしまった。

 

 ソーマの顔が、見れなかった。それはソーマが秘密にしていた生い立ちを知ってしまった後ろめたさもある。死神と呼ばせてしまった罪悪感もある。そして何より――自然発生ではないと知って落胆してしまった自分への嫌悪感が強かった。

 

――私、最低だ。

 

 ぐしゃりと書類が皺を作る。自分の愚かさに消えてしまいたくなった。

 ソーマは無言でその場を去り、サカキの研究室に向かった。顔を上げてその背中をぼんやり見つめる。あれが気になるのかね、と嗤ったヨハネスにどきりとして、何でもないですと笑い返した。

 



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38 帰りたい、帰れない

 朝六時過ぎに目が覚めた。窓の無い部屋では外の明るさを確認する事は出来ず、寝返りを打ってもお気に入りの柴犬の抱き枕は見当たらない。

 

――夢じゃないんだよなあ。

 

 ミツハは戻ってきてしまった。家族も馴染んだ町も何もない世界に。そう実感する度に乾いた笑みがこぼれる。

 あと三十分も掛からずに食堂が開く。身支度をしようとベッドから降りたが、食堂で顔を合わせるであろうソーマを思い浮かべると足が鉛のように重たくなった。

 

「…………」

 

 昨日、ミツハはソーマにお門違いな期待をしていた。偏食因子が自然発生するなんて異質な事象を、ソーマに期待してしまった。

 それはソーマは死神じゃない、化け物なんかじゃないと否定するミツハ自身が――ソーマが化け物であって欲しいと期待した瞬間ではないだろうか。

 

――だって、怖かった。

 

 自分だけ他人と違うというのは、とても怖かった。周りと違う五十七の数字が悍ましくて仕方がなく、勝手に変異して自己生成する偏食因子が怖かった。それはまるで、化け物のようで怖かったのだ。

 故にソーマの他人と違う偏食因子が自然発生ではなく、胎児段階での投与によるものだと聞いて落胆した。もしかしたらソーマは自分と同じなのかもしれない――なんて期待は、お門違いにも程があり、あまりにも失礼だろう。

 

「……ごめんなさい」

 

 罪悪感で窒息してしまいそうだった。鏡に映る自分はただの女子高生の他になく、合わせる顔など何処にもなかった。

 

 

 

 結局食堂に足を運んだのは七時を過ぎてからだった。人の多い食堂にソーマの姿は既になく、プレートを受け取って一人で席に座ると周りの視線を感じた。KIA認定されていた筈の人間が何食わぬ顔で食堂に居れば当然不思議がるだろう。居心地の悪さを感じながらミツハはプレートに手を付ける。

 

――おいしくない。

 

 慣れていた筈のレーションの味がどうにも舌に残り、水で押し込んで喉に通した。この世界に来たばかりの頃に戻ってしまったかのようだ。母の作った手料理が恋しくなり、溜息をひとつ吐いた。

 

「あれ、ミツハ今来たばかりなの?」

「あはは、ちょっと寝坊しちゃって……」

 

 食事をとっているとユウがやってきた。全く減っていないプレートを見ながらユウが首を傾げたが、適当な嘘をついて笑えばそっか、と特に気にもされずにユウは正面の席に座った。

 

「ねえ、ミツハ。昨日の夜ツバキ教官からある程度事情は教えてもらったんだけど……」

 

 小声で話すユウの言葉にどきりとした。

 

「……なんか、ごめんね。隊長になって忙しいのに、厄介な事情に巻き込んじゃって」

「厄介だなんて、そんな」

「あの、大丈夫。あんまり気にしなくていいから! 今まで通り普通にしてくれた方が、私もやりやすいっていうか……」

「……分かった。でも、ひとつだけ聞いていい?」

「うん、なあに?」

「ソーマにも言うつもりはないの?」

「……ソーマさんには一番知られたくないかも」

 

 そうやって笑って言えば、ユウは暫く黙り込んだ後に分かった、と頷く。深く追及されなかった事にほっとしつつ、何だ普通に笑えるなと自分で感心した。

 味のしないレーションを平らげ、席を立つ。美味しくなくとも水で押し込めば食べられない事はない。大丈夫、また慣れていけると自分に言い聞かせながら食堂を後にした。

 

 食堂を出たその足でミツハは製造区画へ向かった。新型神機の接続とパーツの接合をしなければならず、整備所の扉を開けると既にリッカが準備を始めていた。

 

「おはよう、リッカちゃん」

「おはよう、ミツハ。ほんと、無事みたいで良かったよ……」

「あはは……ご心配をお掛けしました」

 

 苦笑を漏らしながらリッカの傍に寄る。適合試験の際にもあった赤い装置の上に神機が置かれており、その神機は普段見慣れたヴァリアントサイズとは違っていた。

 

「これが新型の神機?」

「そう。ミツハが使ってた旧型と近いヴァリアントサイズとシールドのタイプがあったからそれを接合しておいた。銃はとりあえずアサルトにしてるけど、どうする?」

「うーん……ブラスト使いたいなあって思ってる」

「ブラストね、分かった。とりあえず接続してみて、それからブラストを接合してみよっか」

 

 リッカの言葉に頷き、ミツハは恐る恐る神機の柄に手を伸ばす。適合試験の時のような痛みをまた経験するのかと多少の恐怖があったが、柄を握って装置に右手を挟まれてもあの時のような激しい痛みは来なかった。

 

「痛っ、」

 

 ピリッとした痛みを伴った違和感が右手から全身に駆け抜けたが、痛みという痛みはそれだけのもので神機はすぐに手に馴染んだ。

 装置が持ち上がり右手が解放される。呆気なさを感じながらミツハは新しい神機を一度振り回せば、大鎌は切っ先で軽々と円を描いた。

 

「……え、これってちゃんと接続されてるの? 全然痛くなかったんだけど……」

「されてるよ。適合率が高いと痛みは少ないって言ったでしょ?」

「そっかあ……もっと激痛がくると思ってたから、なんか拍子抜けしちゃった」

 

 適合試験の時と今ではミツハの体内にある偏食因子はだいぶ性質が変化してしまっている。接続の際の痛みの無さが、自分が変わってしまった何より証拠に感じてしまってミツハは苦笑した。

 

 接続した神機の銃パーツをブラストに変え、リッカと共に整備所から出て訓練所へ向かった。その道中で神機の変形の仕方や試験的に運用されてるオラクルリザーブというオラクルを備蓄する機能の説明を受け、扉を開けた訓練所でそれらを実際に扱ってみる。

 近接武器から銃形態への変形と、アラガミから奪ったオラクルを備蓄するオラクルリザーブ。そして貯めたオラクルをバレットとしてアラガミに撃ち込む――。

 

「わっ、」

 

 思いの外射撃の反動が大きく、思わず後退ってしまった。撃ち込んだバレットは軌道がブレ、仮想アラガミから大きく外れてしまう。これが実戦だったら誤射をしてるな、とタツミを思い浮かべた。彼はショートブレード使いのせいか、よくカノンから誤射をされている。

 

「結構反動が大きいでしょ? 撃った反動で銃口がブレて誤射するー、って事がブラストは多いから気を付けてね」

「誤射は身に染みてるんで気を付けます……」

「それもそっか。これ以上タツミの苦労を増やさないようにね」

 

 いたずらっぽく笑ったリッカに苦笑した。もう一度ブラストを構え、足腰に力を込めて仮想アラガミに向かってバレットを撃ち込む。元より咬刃展開状態で大鎌を振り翳す事が多い為、足腰はそれなりに鍛えていた。今度は反動に押されず撃つ事ができ、仮想アラガミは火力の高いバレットを浴びて悲鳴を上げた。

 

「ブレストだあ……! すごい、カノンちゃんみたい!」

「ミツハがブラスト選んだ理由ってやっぱりカノンの影響?」

「うん、カノンちゃんがブラストでガンガン撃ち込んでるのがなんかかっこよくて……」

 

 戦闘中に豹変したカノンが敵を煽りながらブラストを撃ち込んでいく姿は見ていて圧倒されるものがある。勿論誤射は抑えたいが、カノンのように迷いなくアラガミを討伐出来るようになりたいものだと思いながら、ミツハはブラストを構える。悲鳴を上げて痛みにのたうち回る仮想アラガミに止めを刺した。

 

 二時間程訓練所で新型神機で仮想アラガミの戦闘をして神機を手放した。近接形態は旧型と変わりなく扱えるが、やはり銃形態はいまいち慣れず的から外れる事もあった。反動でジンジンと痺れる腕を摩りながら、神機をアタッシュケースに収納してリッカに渡した。

 

「まあ射撃の精度はこれから上げていけばいいし、問題ないよ。というかカノンの誤射で慣れてる第二部隊ならミツハの誤射は全然気にならないと思うから」

「あはは……確かに……」

「それにしても、ミツハの偏食因子って凄いなあ。海外では旧型から新型への神機の更新っていう例はあるんだけど、それは新型神機の開発で別の適正神機が見つかったっていう事なんだ。ミツハみたいに適性のなかった神機に適合出来るようになるって事例は初めてだよ」

「凄い……ことなのかなあ」

 

 リッカの言葉にミツハは目を伏せる。凄い、と言われたって喜べやしない。

 

「どんどん変わっていっちゃうから、ちょっと怖いや」

 

 冗談でも言うように笑いながら、本音を織り交ぜた。本当は、ちょっとどころの話ではないけれど。

 

 

 

 シャワーを浴び、軽く昼食を取ってからミツハはサカキの研究室へ足を運んだ。研究室に入るとサカキとヨハネスの姿があり、会釈をしてソファに座った。

 

「新型神機はどうだったかい?」

「あ、えっと、特に問題もなく接続出来ました」

「そうか、それなら何よりだ」

「ミツハ君の偏食因子なら新型にもすぐ馴染むだろうね。それじゃあ、早速本題に移ろうか」

 

 ギッ、と軋んだ音を鳴らしてサカキは赤い椅子から立ち上がった。その手には一つのカプセル剤があり、コップに入った水と一緒にミツハの前に置いた。

 

「昨日、あの後ソーマを呼んで採血させてもらったんだ」

「え。じゃあこのカプセルの中身って……」

「ソーマの血液……P七十三偏食因子が含有された、君が元の世界に帰れる手掛かりだ」

 

 その言葉に思わず生唾を呑む。目に見えて動揺するミツハの腕輪にオラクル活性を計測するコードを取り付けながら、サカキは目を細めて笑った。

 

――私、帰れるのかな。

 

 逸る心臓を押さえつけながら、ミツハはカプセル剤を手に取った。P七十三偏食因子とP五十七偏食因子が拒絶して捕喰し合えば、ミツハの体内から偏食因子は消える。そうすれば、矛盾がなくなりミツハは元の世界へ、六十年前の世界に帰れるのだ。サカキとヨハネスが真剣な面持ちで見つめる中、躊躇いなくミツハはカプセル剤を水で飲み込んだ。

 

「…………?」

 

 しかし、あの時のような眩暈は起こらなかった。喉が焼けるような感覚もしない。いつまで経っても訪れない変化に首を傾げた。

 

「博士、数値はどうなっている?」

「いやあ……これは驚いた」

 

 モニターを見ながらサカキが舌を巻く。ヨハネスが立ち上がってモニターを覗き込めば、その目を僅かに剥いて笑った。

 

「これは……いや、それもそうか。彼女の偏食因子は以前と性質が変化しているのだったな、こうなって当然と言えば当然か」

「えっ、あの、どうなったんですか、私……?」

 

 ヨハネスの言葉に嫌な予感がした。震える指先を抑えるように拳を握りながら問えば、サカキは眼鏡のブリッジを上げてレンズの奥の目を光らせる。その目にどきりとした。嫌な、予感がした。

 

「ミツハ君の偏食因子は、カメレオンのような性質を持っているんだ。環境に自分を馴染ませる事が出来る特殊な偏食因子だ。確かに一度、P五十七偏食因子はP七十三偏食因子と拒絶反応を起こして捕喰し合った。けど、新たに生成された偏食因子は性質が変わっていたんだ」

 

 サカキらしい回りくどい言い方をしていた。此方に考えさせる余地を与えながら、徐々に核心についていく。

 

「P七十三の影響を受けて、変化したんだ。勉強熱心なP五十三偏食因子は、P七十三偏食因子に馴染むようにね」

「……それって、つまり、拒絶反応が起きないって、ことですか」

「その通り。それどころか、七十三の影響を取り入れて、オラクル活性値が通常より高い数値を示している。実に面白い偏食因子だよ」

 

 初めてヴァリアントサイズを手にした日を思い出した。あの時もそうだった。初めはヴァリアントサイズとの適合率が低く、違和感が身体を走り抜けてとてもじゃないが扱えなかった。

 しかし、ミツハの偏食因子はヴァリアントサイズに馴染もうと、変化した。結果としてミツハは極東初のヴァリアントサイズ使いになった。勉強熱心な偏食因子によって。

 

 それと同じ事が起きたのだ。ミツハの偏食因子は、拒絶反応を起こして捕喰し合ったP七十三偏食因子にすら馴染もうと変化し、受け入れた。互いに喰らい合う事はもうない。それはつまり、P五十七偏食因子の生成を止める術がなくなってしまったという事だ。

 

「……厳しい事を言うけれど、聞いて欲しい」

 

 サカキの言葉に耳を塞ぎたくなった。

 

「偏食因子を失くす術が――矛盾を取り除く術が、なくなってしまった。体内に存在する偏食因子を消す方法は発見されていないんだ。唯一の手掛かりが消えてしまった以上、もう打つ手がない」

「…………」

「元の世界に帰る事は諦めた方がいい。奇跡でも起こらない限り不可能だ」

 

 五十七という数字がこれ程まで恨めしいとは思わなかった。

 

 思わず嗤いが零れそうだった。唇を噛み締めてソファから立ち上がり、サカキの顔を見ずに頭だけ下げて研究室から出た。

 ずるずると廊下の壁に凭れ掛かりながら崩れ落ちる。指先が震える。目頭が熱くなる。最悪だ、と呪った。この偏食因子も、なにもかも。

 

「――大丈夫かね?」

 

 低い声にびくりとして振り返る。ヨハネスが此方を見下ろしていた。相変わらず端正な顔立ちをしているが感情はよく見えず、少し怖く思えた。

 

「あ……えっと、すみません、大丈夫です」

「そうか……君の心情は察するよ。気の毒だが、どうか受け入れて欲しい。平和な世界で育った君からすればこの世界は苦痛でしかないと思うが、此方も全力でサポートをしよう」

「えっ、いや、そんな事はないです……! ただ、ちょっと混乱してるだけで、苦痛だなんて、そんな!」

 

 慌てて否定するミツハをヨハネスは小さく笑った。そうか、とヨハネスはへたり込んだミツハに手を差し出す。

 

「君の偏食因子は可能性に満ちている。君がタイムスリップをした理由には、もしかすると大きな意味があるのかもしれない」

「意味、ですか?」

「そう。例えば人類の未来の為、とかね」

 

 ヨハネスの手を借りて立ち上がる。彼はうっすらと微笑んで、底の知れない瞳でミツハを見据えた。

 

「P七十三偏食因子すら受け入れようとする君の偏食因子には目を見張るものがある。極東三人目の新型神機使いとしても、君には期待しているよ」

「……ご期待に添えるよう、頑張ります」

 

 ヨハネスの美辞麗句に笑い顔を作って頷いた。人類の未来だなんて大それた事、ただの女子高生には荷が重すぎる。

 

――私はただ、帰りたいだけなのに。

 

 けれど帰る方法なんてない。この世界で生きていくしかない。

 

――大丈夫。

――だいじょうぶ。

 

 断髪の夜にこの世界で生きる覚悟は持った筈だ。だが、今となってはその覚悟は何処にも見当たらず、ミツハは誤魔化すようにただただ大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 



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39 八方塞がりの閉塞感

 確かな緊張を腹の底に感じながら、昨日接続したばかりの神機が収納されたアタッシュケースを持ってラウンジまで足を運ぶ。新型神機の扱いも体調面に関しても特に問題がない為、今日から任務復帰なのだ。防衛班の面々とは屋上で第二部隊と顔を合わせただけで、それから一度も会っていない。昨日は研究室を出てから自室に篭っていたので会う機会がなかったのだ。

 

 気持ちを落ち着かせながら、ミツハは既にラウンジに集まっている防衛班に笑顔を向ける。いつも通りでいよう、と心掛けた。

 

「あのっ、お、お久しぶりです!」

「うわっ、ほんとに生きてた!」

 

 幽霊でも見るかのようなシュンの大袈裟な反応に苦笑する。その言い方は酷くない? と冗談目化してなじればシュンはひひっといたずらっぽく笑った。

 

「ミツハちゃん、身体はもう大丈夫なんですか?」

「うん、心配掛けてごめんね。全然大丈夫だから!」

「つーか何があったんだよ」

「なんか、偏食因子が変異しちゃったせいでレーダーが観測出来なかったみたい。変異したせいで身体が休眠状態? になってたみたいで、正直私も二日間の記憶無くって……」

 

 カレルの訝しげな顔にも詰まる事なくスラスラと言葉が出た。適当に考えた嘘の言い訳を並べて笑い、誤魔化す事しか出来ない話題から離れるべく神機の収納されたアタッシュケースを見せた。

 

「でも変異したせいで、新型に適合出来るようになったんですよ! 近接は変わらずヴァリアントサイズですけど、銃はカノンちゃんと同じブラストにしました!」

「えっ、ミツハちゃんもブラスト使うんですか!?」

「げぇ……よりによってブラストかよ……」

「タツミ、背中には気を付けろよ」

「ねえ、なんで誤射する前提なの」

 

 喜ぶカノンとは裏腹にシュンとカレルは同情するようにタツミの肩を叩いた。苦笑するタツミとブレンダンに誤射しませんから! と念を押すとジーナが可笑しそうにくすくす笑う。元気そうで良かったわ、と微笑んだ。

 

「タツミ、そろそろ行きましょ? ミツハの射撃の腕が早く見たいわ」

「そうだな、よっし行くか」

 

 ラウンジのソファから立ち上がり、防衛班はぞろぞろと出撃ゲートに向かった。自然に会話出来た事にほっとしつつミツハも歩き出すと、カレルがミツハの隣に来た。此方を見下ろすカレルにどうしたんですか、と首を傾げると彼は鼻を鳴らす。

 

「ついに二階級特進になったかと思ったぜ」

「ついにってなに、ついにって」

「死神に関わるのはやめとけっつったろ」

「……ソーマさんは関係ないです」

「でもお前、避けてるだろ。何かあったんだろ、あいつのせいで」

 

 目敏いな、とミツハはアタッシュケースを握る手に力を込めた。

 ミツハは今朝も七時を過ぎてから食堂へ足を運んだ。カレルの言葉は正しく、確かにミツハはソーマを避けている。彼に対する後ろめたさがあまりにも大きかった。とてもじゃないがソーマの前で笑い顔を作れる自信がなく、それ以上に醜い感情を抱いてしまった事を知られるかもと思うと、恐くて仕方がないのだ。

 

――きっと、軽蔑される。

 

 逃げているだけだ。どうすればいいのか自分でも分からないのだ。罪悪感を抱えたまま以前のようにソーマに接する事などミツハには出来ない、しかし全てを打ち明けてしまえる勇気もミツハにはなかった。

 

「……何もないです、ソーマさんは何も悪くないです」

「含みのある言い方だな、他に原因があるってのか?」

「カレルさんはなんでそうやって勘繰っちゃうんですかね……朝食の時間合わせられないのは単純に寝坊です! ……休眠状態? の影響が抜け切らなくって朝起きられなくなっちゃったんですよ」

 

 嘘に嘘を塗り重ねて誤魔化した。カレルはまだ何か言いたげな顔をしていたが、これ以上聞いても無駄だと悟ったのか面倒くさそうに溜息を吐いてあっそ、とそっぽを向く。そんなカレルから逃げるように、ミツハは早足で前を歩くカノンを追いかけた。

 

 

 

 ブラスト使いが増えた事により心成しか前衛の面々は普段より背中に気を付けて戦闘をしていたが、懸念していた誤射をする事もなく新型神機での初めての任務は特に問題もなく終えれた。ジーナとカレルに射撃のアドバイスを教えてもらいながら防壁まで戻り、防壁維持施設でジープを停めて歩いてアナグラまで帰る事になった。

 

 バラック小屋が立ち並ぶ外部居住区はミツハの馴染んだ住宅地とは程遠い。整備の行き届いていない道を歩いていると、神機使いに気づいた子供達がはしゃぎながらバラック小屋から出てきた。その中にはよく知る赤髪の少年もいた。

 

「あ、防衛班のにーちゃんねーちゃんだ!」

「アラガミぶっ倒してきたの?」

「おい、お前らあんまり騒ぐなよー」

「カズヤ君、お兄さんしてるね」

 

 小さな子供達の面倒を見るカズヤはミツハの言葉に照れたように小さく笑った。

 

「今任務帰りなの?」

「うん、そうだよ」

「そっか。おかえり、今日もお疲れ様」

「……うん、ありがと」

 

 ただいま、とは言えずにただ笑った。小さな子供達は「今日はどんなアラガミを倒したの?」とわくわくしながら防衛班に聞いていた。

 その眼差しは憧れのヒーローへ向けるそれだ。本日の任務内容を誇大して語るシュンに笑いながら、ミツハは防衛班と子供達のやり取りを見つめる。

 

――私、この人達の事を忘れようとしたんだよなあ。

 

 ただの女子高生には関係のない、未来の出来事だと割り切って。アラガミとは無縁な平和な時代で生きたいと願った。この世界を、見捨てようとした。この世界が嫌いなわけではない、ただ純粋に本来の世界で生きたいだけだった。

 

――この世界が苦痛だからとかじゃ、ない。

――ない、はず。

 

 だが、本当にそうなのか昨日のヨハネスの言葉で自信をなくしてしまった。諦めた方がいいと言われても帰りたいと願ってしまうのは、この世界が苦痛だと感じているからなのだろうか。良かった、おかえりと言われる度に心の底に黒々としたわだかまりが募ってしまう。何も良くない、私の帰る場所は此処じゃない――! そう叫びたい本音をヨハネスは気づいているのだろうか。そしてミツハ自身気づいていなかった本心を見透かして、そう言ったのだろうか――

 

「ミツハちゃん? どうしたんですか?」

 

 ぼうっとするミツハをカノンが不安げに覗き込む。「もしかしてやっぱり体調治ってないんですか!?」と心配し始めるカノンにミツハは笑い掛けた。

 

「ううん、なんでもないよ」

 

 嫌いなわけじゃない。みんなを否定したいわけではない。それは確かだった。だからミツハは醜い感情に蓋をして、ただ笑った。

 

   §

 

 翌日も六時過ぎに目を覚ましたが、やはり食堂が開く時間に足を運ぶ気にはなれなかった。冷水で顔を洗えば腫れぼったい目がヒリヒリと痛み、ニッ、と人差し指で口元を押し上げて笑った。大丈夫だと女子高生に言い聞かせ、七時を過ぎてから部屋を出た。

 

 本日も問題なく防衛任務をこなし、創痕の防壁からアナグラへ帰投した。報告ついでにデートの誘いを持ちかけるタツミに苦笑しながら足早に自室へ戻ろうとエレベーターへ向かうが、ヒバリの声によって階段を上る足が止まる。

 

「あ、ミツハさんとタツミさんは支部長がお呼びでしたよ」

「えっ、支部長が?」

「はい。お二人で支部長室まで来て欲しいそうです」

「呼び出しなんて久々だな……ミツハもって事は新型の報告かね」

 

 呼び出された理由がいまいち分からずにタツミは首を傾げながら、名残惜しそうにヒバリに手を振って階段を上がった。ミツハと一緒にエレベーターに乗り込み、支部長室がある役員区画のボタンを押した。

 

――なんの用だろう。

 

 呼び出しがミツハだけであったのなら偏食因子絡みの事だろうと予想はつくのだが、タツミも一緒となると予想がつかない。タツミの言う通り新型神機の報告だろうかと思いながら、静かな役員区画の廊下を歩いた。

 支部長室に入ると先客が居た。第一部隊隊長の神薙ユウの姿があったのだ。第一と第二の部隊長が揃い、ますますミツハが呼ばれた意味が分からなくなった。ミツハは部隊長でも何でもない、ただの一等兵だというのに。

 

「急な呼び出しですまなかったね」

 

 不思議そうな顔を浮かべる三人を他所に、ヨハネスは手を組みながらうっすらと笑った。先程の会議で決まった事なのだがね、と前置きを置いてヨハネスはミツハに目を向ける。にこ、と柔らかく目が細められた。そして開いた口から発せられたその言葉に、三人は目を丸くする。

 

「井上ミツハ一等兵の第二部隊から第一部隊への異動が決定した」

「……え」

 

 異動、という言葉に思わず間の抜けた声を漏らした。言葉の意味を理解しようとする前にヨハネスはつらつらと話を続ける。

 

「雨宮リンドウ大尉の除隊と最近のアラガミ活発により、討伐班である第一部隊の強化が必要との判断だ。それに伴い、一等兵から上等兵へ昇級させる。新型神機同士の連携も図って一層励んで欲しい」

 

 突然言い渡された辞令にミツハ達三人は唖然とした。第一部隊隊長であるユウも呼ばれていたのはこの為だったのかと納得するが、ヨハネスの言葉ははいそうですかと簡単に納得の出来る内容ではなかった。一番に抗議をあげたのはミツハ本人ではなく、タツミだった。

 

「待って下さい。そんな、急すぎます。確かに討伐班の戦力強化は重要だと思いますが、防衛班にミツハは欠かせません。戦力強化なら他の神機使いを――」

「君が言うその他の神機使いは、新型神機を扱えるのかね」

「…………」

「勿論防衛班にも新型神機使いを置いた方がいいというのは承知している。しかし接触禁忌種の遭遇事例が増えている以上、急を要するのはどちらなのか理解して欲しい」

 

 そう言われてしまえばタツミは押し黙るしかなく、分かりました、と不承不承ながらに頷いた。そんなタツミの隣に立つ当のミツハはというと、狐につままれたような奇妙な気持ちが湧き上がっていた。

 

――なんか、どんどん変わっていっちゃうなあ……。

 

 目まぐるしく変化していく日々にミツハはただ、呆然とするしかなかった。元の世界に帰れたかと思えば再び荒れ果てた世界に投げ出され、自身の偏食因子は変異して神機も変わり、元の世界に帰る事は諦めた方がいいと言われ、そして部隊の異動。色んな事が起こりすぎて、色んな感情が押し寄せて、よく分からなくなってしまう。振り回されっぱなしのミツハは流されるように、ヨハネスの言葉に頷いた。

 

「あの……えっと、頑張ります」

「そう言ってくれて嬉しいよ。急な話ですまないね、どうか人類の未来……〝この世界〟の為に尽力して欲しい」

「……はい」

 

 どこか試すようなその言葉を受け入れるしかない。

 なにせ、ミツハには他に道がないのだから。

 

――だいじょうぶ。

 

「大丈夫?」

 

 支部長室を出るとユウが不安げにミツハを見やる。事情を知っているからこその問い掛ける声にミツハは笑った。

 

「……大丈夫だよ。それにしてもユウが上官になるのかあ、なんかムズムズする。よろしくね、神薙隊長」

「ふはっ、ミツハのその堅苦しい言い方懐かしいな」

「今までお世話になりました、大森元隊長!」

「わざわざ元隊長なんて言わんでよろしい。……ま、ミツハを頼むわ、大将」

 

 第二部隊隊長が第一部隊隊長の肩を叩いて笑えば、彼は力強く頷いた。なんだかお父さんみたいですよと冗談を言いながら、ミツハは〝ヒーロー〟に別れを告げた。

 



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第六章
40 ずれてくずれていく


「本日一二〇〇付けで第二部隊から異動になりました、井上ミツハです! 宜しくお願いします!」

 

 見知った顔に改めて自己紹介をすると言うのは茶番のようで可笑しかった。アナグラの屋上はヘリのローターにより強風が吹いている。まじで!? と強風に負けない声量で大袈裟な程驚くコウタにまじだよ、とミツハは笑い掛け、防衛班にもしたように神機が収納されたアタッシュケースを見せた。

 

「なんか新型の適合者は今のところ討伐班に優先させてるんだって」

「確かに最近アラガミの動きが活発になっていますからね……でもミツハと一緒に戦えるなんて嬉しいです!」

「も~アリサは可愛いなあ~! 新型神機の扱いについて色々聞くかも、リンクバースト? する時のバレット放射とかよく分かんないところもあって」

「なんでも聞いて下さい、新型の扱いに関してはミツハより先輩ですからね!」

「あらあら、張り切ってるのねアリサ」

 

 ふふっと得意げな顔をするアリサを微笑ましそうにサクヤが笑った。さあ早く出撃しましょうとアリサは張り切ってヘリに乗り込む。新型の先輩として格好良い所をミツハに見せたいようで、念入りにユウと本日の任務内容を確認し合っていた。

 

 すっかり丸くなったなあ、と感じながらミツハもヘリに乗る。すると先に搭乗していたソーマの蒼い目がフードの下から覗かれ、ばちりと目が合った。跳ねる心臓を抑えながらミツハはにこりと笑みを浮かべて頭を下げた。

 

「あの……えっと、改めてよろしくお願いします! 足手纏いにならないように頑張るので!」

 

 存外普通に舌は回るものだなとほっとした。ソーマは奇妙なものを見るように眉を寄せたが、俯いた事によりフードに隠れてその顔は見えなくなった。

 

「……身体はもういいのか」

「あっ、はい! ご心配お掛けしてすみません、全然大丈夫です」

「……そうか。ならいい」

 

 なんでもないように笑って言えば、それきりソーマは黙りこくってしまった。行方不明になっていた件や偏食因子の件について何か聞かれるかと思ったが杞憂だったようだ。

 

――まだ眠れてないのかな。

 

 ちらりと見えた目元には隈があった。簡単には消えないような根深いそれを消してやりたいと思う。彼の深い傷が癒えればいいと、心から思う。

 

――なんて、どの口が言えるんだろう。

 

 ぎゅっとスカートの裾を握って皺を作る。結局自分は他の神機使いと同じようにソーマを化け物と見なして、ただ自分を重ねていただけではないのだろうか。独りが怖い、だから自分と同じだと当て嵌めていたかった。

 もしかするとそうかもしれない、と思い始めるとどんどん塗り潰されていってしまう。どんな顔をすればいいのか分からずに、結局目を逸らしたまま強がるように笑う事しかミツハには出来なかった。

 

 

 

 第一部隊に異動となって初めての任務は〝愚者の空母〟でボルグ・カムランの討伐だった。ボルグ・カムランは初めて相対するアラガミであるどころか、そもそもミツハは大型アラガミとの戦闘自体あまり慣れていない。図鑑やノルンのデータベースで勉強したボルグ・カムランの情報を思い出しながら、ミツハは瓦礫の陰に身を潜める。

 

「えっと、此方ミツハ。ターゲットを確認出来ました」

『了解、みんなも準備は良い?』

『ええ、問題ありません』

『こっちも大丈夫、いつでも撃てるわ』

 

 標的を囲うように配置し、奇襲の体制を取る。瓦礫の陰から捉える事が出来るボルグ・カムランは巨大なサソリ型のアラガミだ。腕部分は盾の役割を担っており、二つ合わせることで鬼の形相をした頑丈な盾が完成する。長く伸びる尾の先は鋭い針になっており、その攻撃範囲の広さに注意が必要である――と、頭の中で復唱していると隊長のユウが狼煙を上げる。行くよ、と通信機から聞こえるゴーサインにミツハは神機を構えて地面を蹴った。

 

 先陣を切って鋼鉄の甲殻に衝撃を与えたのはソーマだった。その巨大なバスターブレードがボルグ・カムランの鋭い針に叩き込まれる。前衛のユウ、ミツハがソーマに続き、アリサとコウタ、サクヤはユウ達の援護や周囲の小型アラガミを的確に潰していく。

 

 

――すごい、混戦にならない。

 

 アラガミとの戦闘は各個撃破が基本であるが、分断が難しい場合などは混戦となり小型種による妨害で大きな事故に繋がる場合が多い。しかし周囲に浮遊するザイゴートがボルグ・カムランと戦う前衛に近づく前に、その身体は地面に撃ち落とされる。その為ユウやソーマは大型種に専念でき、存分に戦えるのだ。

 

――防衛任務とは全然違うなあ。

 

 防衛任務はアラガミを防壁に近づかせないよう、また壁の内側であるならば周囲への損害も気にして戦わなければならない。作戦の自由度が制限されるが、討伐任務は自由度が高い代わりに戦うアラガミ自体が格段に凶暴だ。慣れない大型種との戦闘に戸惑いながらもミツハは切断に弱いボルグ・カムランの尾を狙って大鎌の切っ先を振り翳す。痛みを振り払うように大きく揺れる尾を避けるべく後方へステップし、ボルグ・カムランから少し距離を置いて咬刃を展開させた。いくつもの小さな刃が形成された禍々しい大鎌を垂直に振り落とした後に咬刃を引き戻してその硬い肉を抉っていく。

 

――全ッ然手応えがない!

 

 流石は大型アラガミとあり、攻撃の重みだけでなく防御力も厄介だ。咬刃を展開させて息が上がるミツハはバーストモードに移行しようと神機を捕喰形態(プレデターフォーム)へと変形させたが、ボルグ・カムランは耳を劈く雄叫びを上げてその場で回転する。振り回されて辺りを薙ぎ払っていく長い尾は攻撃範囲が広い。後方へステップして距離を取ろうとしたが、そのリーチをミツハは見誤ってしまう。

 

「きゃあっ!」

 

 尾に打ち付けられたミツハは散乱した瓦礫に向かって吹き飛ばされたが、ミツハの身体を受け止めたのは硬い瓦礫ではなくソーマの腕だった。

 

「範囲攻撃は避けるんじゃなくて装甲使え」

「す、すみませんっ!」

「慣れていないなら突っ込むな。ブラストがあるんだろうが、そっちを使っててめえは盾を結合崩壊させろ」

「は、はいっ!」

 

 ソーマの指示に従い、ミツハは神機を銃形態へ切り替えてブラストを構える。ボルグ・カムランの盾は近接攻撃が通りにくいが、銃の破砕が有効で結合崩壊させれば近接武器でも攻撃が効くようになる。氷属性のバレットを装填してミツハはぐっと足に力を込めて踏ん張りを効かせ、鬼の形相をする盾にブラストを撃ち込んだ。ヴァリアントサイズはオラクル回収効率が良く、大量のオラクルを消費する高火力のバレットも連射する事が出来る。盾にとめどなく弾を撃ち込めばボルグ・カムランの盾は傷つき、ボロリとその硬い甲殻を壊してオレンジ色の内部を剥き出しにした――結合崩壊だ。

 

「結合崩壊、確認しました!」

「よしっ! アリサは前衛に、ミツハはそのまま援護に回って!」

 

 アサルトからロングブレードに変形させたアリサと入れ替わり、ユウの指示通りミツハは援護に徹する。小型アラガミを捕喰しながらコウタやサクヤへオラクルを分け与えつつ、ボルグ・カムランの後足にバレットを撃ち込んでダウンさせる。一気に畳み掛けようと前衛三人が神機を振りかぶり、その硬い肉に刃を突き刺した。断末魔を上げるボルグ・カムランの口にユウが蒼穹の刀身のまま弾丸を放つ。新型のロングブレード特有のインパルスエッジだ。近距離から弾丸を受けたボルグ・カムランはその巨体を震え上がらせ、静かに音を立てて沈んだ。耳障りな咆哮はもう聞こえず、潮騒だけが空母に響いた。

 

「……よしっ、みんなお疲れ様!」

 

 ぱっと顔を上げて笑ったユウは神機を振るい、蒼い刃についた鮮血を払う。ぴくりとも動かないボルグ・カムランを見てほっと息を吐き、ミツハはユウのもとへコウタ達と共に駆け寄る。

 

「ミツハ、お疲れ様。大丈夫だった?」

「大丈夫! ソーマさんが助けてくれたので……あの、有難うございます!」

「……足手纏いにはならないんじゃなかったのかよ。リーチも分からねえのに前に出るんじゃねえ」

「ちょっとソーマ、ミツハはボルグ・カムランとの戦闘は初めてなんですからそんなきつい言い方しなくてもいいと思いますけど」

「えっ、そんなきつい言い方でもなかったと思うけど……寧ろアドバイスな気が……あ、そうですよアドバイスですよねっ? 慣れない相手には鎌よりブラストで遠距離から攻撃しろっていう……」

「知らん……」

 

 ソーマは仏頂面で神機に附着したボルグ・カムランの血液を振り払って背を向けた。ソーマって言葉が足りませんよね、と口を尖らせるアリサに苦笑しながらミツハは神機を収納して輪から抜け出した。

 

 海岸に面した空母の甲板に腰を下ろし、足をブラブラとさせながら遠くに見えるドーム状のエイジス島を眺める。防衛班は本日、アラガミ装甲壁周辺の任務ではなくエイジス島の防衛任務が入っていた筈だ。昨日まではミツハもその任務にアサインする予定だったのだが、突然の異動に防衛班の面々は納得のいかない様子を見せていた。カノンは特に悲しんでいたが、それでも頑張って下さい、と笑ってミツハを送り出した。防衛任務にアサインされる機会は緊急事態でもない限り殆どなくなるだろう。寂しいなあ、と夕焼けに染まるエイジス島を見ながらぼんやり思った。

 

「ミツハ、あと少しでヘリ来るって」

「あ、分かった」

 

 夕焼け空を眺めているとユウがやってきた。彼はミツハの隣に腰を下ろし、少し硬い表情でミツハを見やる。

 

「ねえミツハ」

「んー?」

「……ソーマの事、嫌いになっちゃったの?」

 

 この世界に戻ってきて数日経つが、ミツハは一度もソーマの正面の空席に座っていない。少し前までは毎日短い会話を交わしながら食事を共にしていたのだが、二日間の行方不明を機になくなったそれに〝ついに目が覚めたのか〟と事情を知らない神機使い達は噂した。物好きなミツハがついに死神に嫌気が差したのだ、と。

 

 この問い掛けが出てくるという事は、ユウもその噂を耳にしたのだろう。ユウの耳にも届いているそれは、当然ソーマも聞いている筈だ。そう思うと悲しくなるが、それでもどうしたってミツハはあの空席に座れなかった。こんな自分が座っていいとは思えないのだ。

 

「……違う。嫌いになったとか、そんなんじゃないよ。……ただ、気持ちの整理がついてなくて、ちょっとひとりでいたくって」

「……そうだね。ここ数日、色んな事があったもんね」

「ね。ちょっと頭パンクしそうだもん。でも大丈夫だから、心配かけてごめんね」

 

 笑ってミツハは立ち上がった。近づいてくるヘリの音が聞こえ始め、ユウは不安げな表情を浮かべながらも同じように立ち上がる。「帰ろうか」笑って歩き出したユウに頷き、その背を追った。

 

 

 

 アナグラへ帰投し、支部長室に呼ばれたユウは足早にエントランスから去った。忙しそうな今やリーダーである同期の背中を見送り、ミツハはエントランスの自販機でミルクティーを購入する。

 

「ミツハってよくミルクティー飲んでますよね。コーヒーより紅茶派なんですか?」

 

 ガコン、と落ちてきたペットボトルを取りながらアリサの言葉に頷いた。

 

「うん。ていうか私苦いの駄目だからそもそもコーヒー飲めないんだよね」

「ミツハらしいね。そういや支給品にも紅茶の茶葉あるけど、あれ美味いの?」

「あの茶葉渋みが強くて美味しくないんだよね……自販機のミルクティーの方が断然美味しいよ」

「そうねえ、あの茶葉はちょっと美味しくないわよね……」

「最近支給品の質が目に見えて落ちてるよなー。この前のプリンのレーションも不味かったし」

 

 苦い顔をしたコウタとサクヤに同意する。そんなミツハを見てアリサは名案を思い付いたようにそれなら、と人差し指を立てて笑った。

 

「あの、私の部屋にロシアから持ってきてた紅茶の葉があるんです。良かったらこの後一緒にお茶でもしませんか?」

「あー……ごめん、この後神機の事でちょっとリッカちゃんの所に行きたくって」

「あっ、それなら気にしないで下さい! 神機の更新をしたばかりですからね、メンテナンスはちゃんとしておかないといけませんしっ」

 

 また今度にしましょう、と特に気にした素振りを見せないアリサにごめんねと背を向け、エレベーターに向かった。丁度到着したエレベーターにソーマが乗り込んでいたのでそれに同乗し、新人区画へのフロアボタンを押した。

 

「……リッカの所に行くんじゃなかったのかよ」

「え」

 

 投げかけられた言葉に、ペットボトルを握る手に力が籠った。エレベーターの扉は閉まり、逃げ場のない狭い箱に閉じ込められる。

 

「……聞こえてたんですね」

「……何かあったのか。それともあの野郎に何か言われたか?」

「あ、あの野郎とはどの野郎ですか」

「支部長だ」

「…………」

 

 尋問される犯罪者のような気分だった。エレベーターはまだ止まらない。警報を鳴らす心臓が痛かった。

 ミツハはゆるりと意識的に口角を上げて曖昧に笑う。そんなミツハに、やはりソーマは奇妙なものを見るように眉を潜めるのだった。

 

「なんでもないです」

「……そうかよ」

 

 その会話を最後にして箱の中に沈黙が落ちる。心臓の音だけが響く箱は静かだが足が震えた。

 

 新人区画に着いたエレベーターから降り、ミツハは足早に自室へ逃げ込んだ。鍵を閉めてベッドに身を投げ、サイドテーブルに置いてあるデジカメに手を伸ばす。

 

「…………」

 

 ベッドに横たわりながら写真を見返すと、柔らかな白いシーツにぽたりと丸い染みが生まれ、それは人知れずに乾いて消えた。

 



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41 世界と世界を天秤に

 うっすらと辺りが明るくなり始める早朝の空気。ひんやりとした廊下に出て階段を下り、ダイニングに足を運べば焼き魚の香ばしい匂いが漂う。おはようと笑う料理中の母と新聞を広げる父の姿。

 

 そんな、何の変哲もない日常の、夢を見た。

 

「…………」

 

 貼り付いた重い瞼を開く。時間を確認するとまだ朝日は遠く、アラガミも静まり返る午前二時半過ぎを示していた。

 ミツハは深い溜息を吐いて布団の中に潜り込む。胎児のように小さく丸まって目を閉じたが、また平和な世界の夢を見そうで気が気じゃなかった。

 

――もう諦めて、忘れた方がいいのに。

 

 二度とあの世界に帰る事は出来ないのだから。そんな手の届きようのない過去の世界に焦がれ続けるのは不毛な事にこの上ない。迷って周りに心配や迷惑を掛けるくらいならば潔く諦めるべきだと理解しているが、どうにも消す事が出来なかった。駄目だなあ、と自分の不甲斐なさに小さく自嘲した。

 

 

 

 結局熟睡出来ないまま朝日は昇り、欠伸を噛み殺しながらミツハは一人で食事を取り任務へ向かった。本日は贖罪の街でヴァジュラとシユウの討伐でアサインされているのは新型三人とソーマの四人だ。装甲車が停めてある区画へ向かえばそこにはアリサとソーマの姿があった。

 

「あれ、ユウはまだ来てないんだ」

「そうなんです、珍しいですよね」

 

 普段集合時刻の五分前にはやってくるユウが遅れるというのは珍しい事だった。寝坊したのかな、と神機が収納されたアタッシュケースを装甲車に詰め込みながら思うと、アリサがミツハの顔を覗き込む。近づいた距離にどきりとした。

 

「ミツハ、少し隈が出来てますよ。ちゃんと眠れていないんですか?」

「あはは……バレットエディット? についてちょっと勉強してたら夜更かししちゃって……」

「成程。確かに新型のブラストはオラクルが貯められる分バレットの幅が広がりそうですもんね……でも夜更かしはいけませんよ?」

「はーい」

 

 お姉さんみたいだね、とアリサに笑い掛ければ彼女は当然です、と胸を張って得意気に笑う。そんな仕草が可愛らしく、くすくす微笑んでいるとユウが慌ててやって来た。

 

「遅いですよ、ユウ」

「ごめん、ちょっと寝坊しちゃった」

「もう。ミツハといいユウといい、しっかりしてくださいよ?」

 

 やはり姉のように振る舞うアリサだが、その姿はちょっと背伸びをして頼りないと思っている兄にお説教をする妹のようにしか見えない。さあ行きますよ、とユウと共に装甲車に乗り込むアリサに続き、ミツハとソーマも装甲車に乗る。おはようございます、とようやく挨拶をすればソーマは一瞥だけしてそっぽ向いた。

 

   §

 

 ヴァジュラという少々苦手意識のある大型アラガミの討伐任務だったが、お前はシユウの相手をしてろとソーマに言いつけられヴァジュラと相対する事なく本日の任務は終わってしまった。ほっとしたような拍子抜けしたような微妙な気持ちになりながら帰投準備に移る。かつての横浜を染め上げる夕焼けは見覚えのあるもので、悲しいくらいに綺麗だった。

 

「あ、ソーマ。ちょっと話があるんだけどいい?」

「……わかった」

「有難う。それじゃ、二人ともお疲れ様」

「うん、お疲れさま~」

「お疲れ様です!」

 

 アナグラへ帰投するなりユウがソーマを連れ出した。そんな姿を見ながら神機の収納されたアタッシュケースをヒバリに預けるミツハの横で、アリサが訓練所の使用許可を取っていた。

 

「訓練?」

「はい。ブラストと連携する事は今まであまりなかったので、ちょっとシミュレーションしたくって」

「アリサは頑張り屋さんだなあ……私も見習わないと」

「あ、だったらこの後一緒に訓練しませんか?」

「うーん、また今度お願いしていい? 今日夕焼けが凄く綺麗だったから、写真撮りたくなっちゃって」

「そういえばミツハは写真が趣味なんでしたっけ。良かったら今度見せて下さいね」

 

 そうやって笑ったアリサと別れ、人気の少ない所で話をしているユウとソーマを横目にミツハはエレベーターに向かった。

 

 一度自室に戻ってデジカメを取り、屋上へエレベーターを上昇させる。ぶわっと強風が髪を靡かせ、赤い空がミツハを照らした。アナグラへ帰投しながら見た空は怖い程に赤赤とした夕焼けだったが、今は既に夜が混じって薄紫色の空とピンク色の雲が幻想的に外部居住区に影を落としていた。そんな空に一粒、淡く光る一番星を見つけた。ひとつだけぽつんと浮かんだ星は何処か可哀想に見えた。

 

 誰も居ない屋上を歩き、柵に肘をついてカメラを構えた。ファインダー越しに見る夕焼けは大きな遮蔽物もなく、その空の広さが痛い程に分かる。高層ビルやマンションの障害物がない分、綺麗だが味気なく感じてしまう。

 

「…………」

 

 やめた方がいいとは分かっている。

 だが、どうしても、求めてしまう。

 

 デジカメは撮影モードから再生モードへ切り替わった。小さな液晶モニターには六十年前の世界が映し出され、ミツハはそれらを見返す。今日の夕焼けと同じような空もあったが、画面に映る夕焼け空には電線や高層ビル群が漆黒の影となって空の面積を少なくする分、オレンジ色を一層映えさせていた。

 

 写真を遡る手は止まらない。一番古い二〇〇九年三月の写真の中には、卒業式の写真に混じって千夏と卒業旅行で東京に遊びに行った時の写真もあった。浅草の雷門や東京タワーの写真、それと有名なテーマパークで遊び倒してマスコットキャラクターと笑顔で写る、千夏とまだ髪の長い三葉の写真。

 

――約束、守りたかったな。

 

 関西旅行に行こうと笑った千夏と、写真に写る千夏が被ってしまう。お金を貯めて買うつもりだった一眼レフカメラは結局買えぬまま、千夏との約束も守れないままミツハは二度と六十年前の世界に帰る事は出来なくなってしまった。

 

「……かえりたいなあ」

 

 ぽつりと呟いてしまえば、滑り落ちるようにして涙が零れた。頬をゆっくりとつたってコンクリートの地面に落ち、小さな丸い染みを作った。それは数を増やしていき、まるでその場だけ雨が降り出したかのように濡らしていく。

 ミツハはそのまま涙を拭う事もせず、嗚咽も上げずに滲んだ視界で写真を眺めた。懐かしい写真を見る度、とめどなく涙が溢れ出ては止まらない。いったん零れてしまうと歯止めなど効かず、ミツハがずっとひた隠しに押し殺していた醜い感情も一緒に溢れ出てしまう。

 

 この世界で生きる覚悟は持った筈だった。強くなろうとした筈だった。あの断髪の夜にそう誓った、それは確かだった。

 だがその強がりはあの日、無機質なコール音の末に聞いた母の温かな声を聞いて、ぐずぐずになって消えてしまった。母親と電話が繋がったあの瞬間、ミツハは〝神機使い〟から〝ただの少女〟に戻ったのだ。覚悟も何もない、ただの女子高生に。

 

 きっと一度も元の世界に帰る事のないままならば、こんな葛藤も生まれなかっただろう。だがミツハは知ってしまった、触れてしまった。ありふれた平凡な日常が、どれ程までに幸せな事かを。両親が居る、帰る家がある、生まれ育った町も、友人も、なんだってあの世界にはあった。それらを前にすれば、強がりなんていとも簡単に解けてしまうのだ。一度解けた強がりは、もう元には戻れなかった。

 

 だが、そんな事言える筈もないだろう。

 おかえり、と迎えてくれるのだ。ミツハの無事に泣いて喜ぶ人が居るのだ。そんな人達を見捨てたい訳じゃない、どうでもいい訳じゃない。防衛班のみんなも、ソーマ達も、外部居住区に住むカズヤ達もミツハにとってとても大切なものだった。

 

 だからこそ苦しくなる。

 

――わたし、どっちが大切なんだろう。

 

 帰りたいと強く思う。だが、この世界の事だって大切だった。矛盾する想いに雁字搦めになり、ミツハはただ声も出さずに静かに泣く事しか出来なかった。世界から消え入るように、隠れるようにして嗚咽を噛み殺してただ、泣いた。

 

――帰りたい。

――帰りたいなんて、思って、

――ごめんなさい。

 

 夕焼けは一瞬にして夜に隠れてしまう。ピンク掛かった薄紫が濃い紫に呑み込まれると、ガコンと物音が静かな屋上に響いてミツハは大袈裟な程に肩を揺らした。

 

「…………?」

 

 辺りを見渡してみるが何もなく、冷たい風が吹き抜けるだけだった。三月も中旬になったとは言え、夕方になると一層に寒さが増してぶるりと震えてくる。袖口で乱雑に涙を拭い、涙が乾いてからデジカメの電源を落として踵を返す。

 エレベーターに向かうその途中で、ミルクティーのペットボトルが落ちていた。先程の物音はペットボトルの音だったのだろう。まだ未開封のミルクティーを拾い上げるが名前など書かれてある筈もなく、結局どうすればいいのか分からずその場に置きっ放しにしてミツハは屋上を後にした。

 

――そういえば、アリサの茶葉の件どうしよう。

 

 ミルクティーを見て思い出した先日の会話に頭を悩ませる。一緒にお茶をしたいのは山々なのだが、新型のアリサと近づけば感応現象が起きるかもしれないと危惧してしまう。

 

――結局私は自分の事しか考えてないや。

 

 知られるのが怖くて、嘘を吐いて誤魔化して、逃げてばかりの自分はあまりにも滑稽だった。

 

――せめて、ちゃんと笑わなきゃ。

 

 これ以上余計な心配や迷惑は掛けさせぬように、とミツハは自分を戒めるように両頬をバチンと強く叩いた。ヒリヒリと痛む頬に涙は引っ込んで、仮初の強がりを身に纏った。

 



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42 向き合う事から逃げている

「……誰にも言わない方がいい?」

「うん……お願い」

 

 誰にも聞かれぬようにと小さく耳打ちをするその声を、化け物染みた出来の良い耳は拾ってしまった。

 

 数日ぶりに見たミツハの姿は特に大怪我をしている様子もなく、見慣れないダッフルコートに袖を通してへたり込んでいた。早く行けとソーマの背中を押すアリサを追い払い、ぼうっとするミツハに声を掛ける。一瞬目が合い、それは逸らされた。

 

「……おい、早くしろ」

「あっ、す、すみません! ……あの、重かったらすみません」

 

 おずおずと言った様子でソーマの背に体重を預ける。ミツハは一度も顔を上げず、ソーマの肩に顔を埋めたままもう一度謝罪した。すみません、と声にしたそれは震えていた。

 普段と様子の違うミツハに違和感を覚えた。あの日どうして消えたのか、この二日間どうしていたのか。聞きたい事は山ほどあったが、結局それは聞けずじまいだった。ヘリに乗る間もミツハは顔を上げずにただ窓から荒れた大地を見下ろすだけで、一度も此方を見ようとはしない。何処か憔悴したようにも見えるミツハに問い質す事など出来なかったのだ。

 

 ヘリはアナグラに着き、ミツハがツバキに連れられ研究室へ向かったその数時間後にソーマはサカキから呼び出された。ミツハとの話が終わるまで待つように言われ、エレベーター前のベンチで座っていると二人の人影がサカキの研究室から出てきた。その顔を見て、ソーマは思わず顔を顰める。

 

「…………」

「ああ、もう入っても構わん」

 

 メディカルチェックを終えたミツハと父が並んで歩いていた。下手に口を開いてミツハの手前でヨハネスと口論にはなりたくなかった為、舌打ちをひとつだけして腰を上げる。一九〇センチに近いヨハネスの隣ではミツハはより一層小さく見え、俯いて頑なにソーマの顔を見ようとはしなかった。

 

――ああ。

――何か聞いたのか。

 

 じろりとヨハネスを睨めば、父はうっすらと口元を緩めた。目元は笑っていない、虫唾が走るいつもの笑い方だ。

 一体己の過去をどこまで知ったのか聞きたかったが、言葉を呑み込んで二人の前から去る。研究室の扉を開けば、サカキが黒いソファに座って書類を神妙な面持ちで眺めていた。

 

「ああ……呼び出したのに待たせて悪かったね」

「……ミツハに何か言ったのか」

「メディカルチェックの説明の際にP七十三の事を少しね。事故の事については何も言っちゃいないさ」

「説明だと……? あいつと俺の偏食因子に何の関係があるってんだ」

 

 ソーマの問いにサカキはにこりと笑った。ちょっとね、とあからさまにはぐらかしたサカキに苛立つが、狐はソーマの睨みに気にした素振りも見せずに飄々とした笑みを貼り付けたままだ。

 

「……チッ、用っていうのは何だよ」

「採血をお願いしたくてね」

「はあ? なんで血なんか……」

 

 数年前までならば研究目的で散々採血させられていたのだが、最近はめっきりそういった事もなくなっていた。何故今更――とソーマは疑問に思ったが、少し考えればすぐに思い当たる節が見つかった。

 ソーマの血液には当然ながらP七十三偏食因子が含有されている。ミツハが姿を消したあの日、ミツハはソーマの血を浴びていた。その直後にミツハの神機に異変が起き、彼女自身煙のように姿を晦ましたではないか。

 

「俺の血が……P七十三偏食因子が、あいつが居なくなった事と関係あるのかよ」

「……やっぱりソーマは賢い子だね」

「答えろ。そしたら採血させてやる」

「ああ、説明するよ。ソーマには知る権利がある」

 

 貼り付けた笑みを浮かべたまま手元の書類に目を落とす。その書類はミツハのメディカルチェックの結果が記されているものだった。五十三でも七十三でもない――五十七の数字が印字されていた。

 

「彼女の体内にある偏食因子は一般の神機使いに投与されているP五十三偏食因子ではなく、P五十七偏食因子なんだ。この偏食因子は変異しやすく、周りの影響を受けやすい偏食因子でね。……前にミツハ君の体調不良で適合率とオラクル活性が下がった事があっただろう? あれは月経中のプロスタグランジンに影響されて偏食因子が抑制された結果なんだよ」

「――――」

「あの日、ソーマがミツハ君を庇った際に彼女はソーマの血を飲んだんだ。P五十七偏食因子は血液中の微量のP七十三偏食因子にすら影響を受け、拒絶反応を起こして捕喰し合い、一時的に彼女の体内から偏食因子が消えてしまった。腕輪のビーコンと生体信号が観測されなかったのはこのせいだ」

 

 そういう類のものだと、以前サカキは言った。ソーマを出産するアイーシャの身体にP七十三偏食因子を投与し、子宮を介して胎児であったソーマにP七十三偏食因子を受け継がせた。その結果、暴発捕喰事故を引き起こしヨハネスと赤子だったソーマを除いた全ての人間をアラガミ化したアイーシャが喰い殺した――そんな、口にするのも憚られる〝秘密〟。

 

 それと同じ類のものだと、サカキは言った。

 

 偏食因子の数字が違うというのはそれ程までに大きな意味を持っていた。実用的な偏食因子が出来れば話は別だが、現状は扱いが容易で安全なP五十三偏食因子以外のものは人体への投与が禁止されている。ソーマという特例を除いて偏食因子が五十三でないというのは、あり得ない事なのだ。

 

「――なんで、それがミツハの身体にあるんだよ。P五十七は投与が禁止されてる筈だろうが」

 

 そう、あり得ないのだ。特にP五十七偏食因子はオラクル細胞特有の突然変異という性質が顕著に表れており、危険性が高い代物だ。ラットでの投与実験でも成功した例がない筈だ。その偏食因子が、何故。

 ソーマの問いにサカキは目を細め、首を振った。

 

「悪いけど、それを話す事は出来ないよ。言っただろう、()()()()()()()()だと」

「はっ……あいつも俺と同じで、腹ン中に居た頃に投与されたってのかよ」

「そう思っていてもいい。今の話で君がミツハ君をどう捉えるかはソーマの自由だ。そもそも気になるようであれば直接ミツハ君に聞けばいい」

「……とんだ狸野郎だな」

「酷い言いようだ。私はただの、観察者だよ」

 

 スターゲイザー――星の観察者。森羅万象を冷然と観察するその姿勢を周囲が揶揄したものだ。――何が観察者だ、とソーマは顔を顰める。そんなソーマにサカキは苦笑し、腰を上げた。

 

「さて、約束だ。採血に協力してもらうよ」

「……チッ」

 

 立ち上がって準備を始めたサカキから目を逸らし、ぞんざいにソファに座る。気になるなら聞けばいいと言ってのけたサカキの言葉が反響した。

 

――聞いてみりゃいいだけの話か。

 

 明日の朝、食堂で顔を合わせるミツハに聞けばいい。ただそれだけの簡単な話だった。

 

 しかしその翌朝――正面の空席は埋まる事がなかった。

 

   §

 

 空席は埋まらぬまま数日が経ち、ミツハが旧型から新型に神機を更新したという話を人づてで耳にした。それと一緒に耳にする噂は聞く度に腹の底が曇るものだった。埋まらぬ空席を見ては死神を忌み嫌う神機使いはこう言った。

 

 〝物好きなミツハがついに死神に嫌気が差した〟――と。

 

 避けられているな、と思ったがよくよく考えてみればそうなって当然の事だった。ミツハに異変が起きた原因はソーマにあるのだ。ソーマのP七十三偏食因子が影響して、ミツハのP五十七偏食因子は変異した。己を脅かす化け物に自ら近づこうとする者などいないだろう。

 

――そう、化け物だ。

 

 何をさも当然のように、ミツハがいつも通り己に接するのだと思ったのだろうか。おはようございます、と笑って空席を埋める事を期待していた。浅はかな期待だった。自惚れにも甚だしく、己の愚かさに笑いが出た。

 

 

 

 数日ぶりにミツハと顔を合わせたのはヘリの中だった。新型神機に適合した事により突然第一部隊へ異動となったミツハを見やれば、彼女はにこりと笑って目を伏せるように頭を下げた。

 

「あの……えっと、改めてよろしくお願いします! 足手纏いにならないように頑張るので!」

 

 その声色は普段通りのものだった。その笑い顔は普段通りのものだった。普段通りに装っていた。

 

――なんだ、こいつ。

 

 だからこそ違和感が拭えなかった。まるで何事もなかったかのように笑うその顔は気味が悪かった。――ソーマが知っているミツハではないような気がした。

 

「……身体はもういいのか」

 

 偏食因子の事を聞くのではなかったのかと、核心に触れなかった自分に呆れた。ソーマの言葉にミツハは大丈夫です、となんでもないように笑う。その顔はいつかの食堂での事を思い出させた。

 

 ボルグ・カムランの討伐任務は問題なく終え、普段通りを装って話し掛けるミツハに背を向けてアナグラへ帰投する。自販機の前で支給品の事について会話するミツハ達の横を通り過ぎ、エレベーターに乗り込むとアリサ達と話をしていた筈のミツハが駆け込んできた。出来の良い耳が拾っていた言葉の通りリッカの所へ行くのだろうと思っていたが、その指は製造区画ではなく新人区画のフロアボタンを押した。

 

「……リッカの所に行くんじゃなかったのかよ」

「え」

 

 べこっ、とペットボトルが凹む音が静かな箱の中に響いた。動揺しているのが目に見えて分かる。ミツハは点灯した新人区画へのフロアボタンを呆然と見つめては、頑なに此方を見ようとしなかった。

 

「……聞こえてたんですね」

 

 疚しさをその声色に滲ませていた。わざわざ嘘を吐いてアリサの誘いを断ったというのは、あまりにミツハらしくなかった。

 

「……何かあったのか。それともあの野郎に何か言われたか?」

「あ、あの野郎とはどの野郎ですか」

「支部長だ」

 

 この問いはある種、賭けだった。

 ヨハネスは恐らくミツハの偏食因子の事を知っている、それどころか、ソーマが聞かされていない〝秘密〟すら知っているだろう。ミツハを第二部隊から第一部隊へ突然異動させたのも単純に〝新型だから〟という訳でもない筈だ。きっとなにか、裏がある。ソーマはそう睨んでいた。

 

 此処でミツハが暴露すればいいと思った。ヨハネスに何を言われたのか、何を聞かされたのか、その小さな身にひた隠しにしているものが何なのか。吐露して、その取って付けた笑みを崩せばいいと、そう願った。

 

 しかし――

 

「なんでもないです」

 

 それは柔らかな拒絶だった。

 ゆるりと口角を上げて笑ったミツハは、確かにソーマに踏み込まれる事を拒絶していた。

 

 

――こいつは、

――散々人には踏み込んで来たくせに、自分は拒むのか!

 

 不器用に笑うミツハに苛立ちが募る。なんでもない、大丈夫だと笑っては踏み込ませぬよう、緩やかに線を引いていた。

 

「……そうかよ」

 

 そんなミツハにソーマが言える事など、何もなかった。その線を踏み越え、重く頑丈な扉を開かせる言葉など見つかる筈もないのだ。

 新人区画でエレベーターの扉は開き、ミツハは逃げるように早足でエレベーターから降りた。その小さな背中を、ソーマはただ見送る事しか出来なかった。

 

   §

 

「あ、ソーマ。ちょっと話があるんだけどいい?」

 

 アナグラに帰投するなりユウに呼び出された。人気のない少し離れた場所で、ユウは神妙な顔をしてソーマを見やる。そして頭を下げた。

 

「ソーマ、ごめん。……サカキ博士が落としたディスクの中身を、見た。……マーナガルム計画の事を、知った」

 

 ごめん、ともう一度ユウは謝罪した。

 サカキが落としたというディスク――十九年前の会議の模様が記録されているものだ。父ヨハネスと母アイーシャ、それにサカキの間で交わされた、マーナガルム計画に関する会議だ。ソーマの誕生がどのようにして決められたかを知る事が出来る記録映像を以前からサカキに見るよう勧められていたが、一度もソーマはそのディスクを受け取った事はなかった。

 

 なんとかしてサカキはソーマにそのディスクを見せたいようだったが、ソーマが断り続ける為ユウを介して搦め手で攻めようとでもしたのだろう。そんなディスクを普段から持ち歩き、わざわざユウの前で落とすわけがない。

 

「チッ……あのオッサン、余計な事ばかりしやがって……」

「ご、ごめん。勝手に見ちゃって……」

「……何処まで知っているのかは知らんが、過ぎた事に興味はない。そもそもあのオッサンが見るように仕向けたんだろうが、お前が詫びる筋合いはねえ。……だが、余計な詮索はやめろ。いいな?」

 

 ソーマの言葉にユウは顔を上げた。その青い目は勿論だと言うように真っ直ぐソーマに向けられていた。

 

「詮索はしない。けど、聞きたい事はある」

「なんだ」

「ミツハはこの事、何処まで知ってるの?」

 

 そうきたか、とソーマは僅かに眉を顰めた。

 

「……P七十三偏食因子の事だけは聞いたらしい。事故の事は知らねえ筈だ。……そういうお前は、どうなんだ」

「どう……って?」

「何か知ってんだろ、ミツハの事。……何処まで知ってんだ」

 

 ミツハを発見したあの日、誰にも聞かれぬようにと小さく耳打ちをするその声を聞いた。ソーマ達よりも早くミツハのもとへ駆け付けたユウは、何かしらミツハの秘密を知ったのだろう。

 ソーマの問いにユウは少し思いあぐねるように黙り込んだが、やがて慎重に言葉を紡いだ。

 

「……何処まで、の基準がなにか分からないけど、ミツハがずっと隠してる、ソーマ達に言えない事がなんなのかは、知ってるよ。でも、僕からそれは言えない。……ごめん」

「……そうかよ」

「ミツハだって、ずっと言うつもりはなかったんだと思う。僕は感応現象で、勝手にミツハの秘密を知ったんだ。……僕がミツハの記憶を見た時、ミツハはこの世の終わりみたいな顔してた。それぐらい知られたくなかったんだろうね」

「…………」

「……最近、ミツハはアリサの事避けてるよね。多分、同じ新型のアリサと感応現象を起こしたくないんだと思う。事情を知ってる僕にも、ミツハは何も言わない。聞いても大丈夫だって笑うだけで、何も。隊長なのに、不甲斐ないや」

 

 そう言ってユウは力無く困ったように笑った。

 

「今のミツハって、ソーマみたいだよね」

「はあ?」

「リンドウさんが居なくなった後の、ソーマみたい」

 

 そう言われ、ソーマは言葉を失った。あの時の自分はただ、逃げていた。どうすればいいのか分からず、考え込まぬようミツハを避けていた。

 今のミツハもただ、逃げているだけなのだろうか。

 

「あの時、ミツハがソーマに何をしてあげたのかは知らないし、聞こうとも思わない。けど、今度はソーマの番なんじゃないかな」

 

 にこりと、ユウは優しく微笑む。その笑みはただ優しいだけではない、大地に根を張る大樹のような、力強さを兼ね揃えていた。

 

「何をしていいのか分からないなら、してもらった事を返してあげればいい。大事なのは、知ってるとか知らないとかじゃない。……手を伸ばすか、伸ばさないかだよ」

 

 

 

 ガコン、と自販機でミルクティーを買う。

 ミツハがよく飲んでいる、ミツハが好きな飲み物だ。

 

 あの日、あの訓練所でミツハは重く頑丈な扉を開けた。リンドウから聞いたソーマの好きな葡萄味の缶ジュースを持って、ソーマに笑い掛けた。星空の下で、ソーマに寄り添った。あの時のミツハはソーマの偏食因子も過去の事も知らなかった。拒絶すらもした。逃げ出した。――それでもミツハは、ソーマに歩み寄った。

 

 エレベーターは数百メートルを上昇する。夕焼け空を撮るとミツハは言っていた。それはアリサの誘いを断るただの口実かもしれないが、それでもミツハは屋上に居るという確信があった。それだけ今日の空は綺麗だったのだ。

 鉄の箱の中で、ソーマは柄にもなく緊張していた。訓練所の扉を開けたミツハもこのような気持ちだったのだろうか。そんな事を思いながら、エレベーターは屋上へ到着した。

 

 扉が開く。オレンジ色が目に飛び込む。ひとつ、深呼吸をしてソーマは一歩、踏み出した。

 

「――――」

 

 そしてソーマは目にする。夕日に染まり、黄昏に呑み込まれてしまいそうな程に弱々しいミツハを。

 嗚咽を噛み殺し、声も出さずに細かく肩を震わせて静かに泣き続けるミツハは、世界を拒むように消え入ってしまいそうだった。黄昏は、夜に呑まれて見えなくなった。

 

 手にしていたペットボトルはするりと手からすり抜けた。ガコン、と大袈裟な音を立てたそれは静かな屋上に響き渡り、ミツハはびくりと肩を揺らした。

 

 見てはいけないものを見てしまった――何故か、そんな気持ちに駆られた。

 

 ソーマは息をする事も忘れ、咄嗟に踵を返して閉じたばかりのエレベーターに乗り込んだ。小さな鉄の箱の中に逃げ込み、ようやく呼吸が出来た。は、と浅い息を吐き出し、ソーマはずるずるとその場に崩れ落ちた。

 

「馬鹿かよ……」

 

 逃げ出した自分自身も、ひとりで隠れるように泣くミツハも。

 

 明日になれば何事もなかったかのように、ミツハは笑うのだろう。なんでもないと笑って、大丈夫だと笑って、泣いた事などなかった事にするのだろう。

 そしてソーマも、ミツハに涙の理由を尋ねる事もなくいつも通りの憮然とした態度で彼女の前に立つのだろう。

 

 逃げているだけだ。ソーマも、ミツハも。そう自覚しながら、ソーマはミツハの静かな泣き顔を思い出す。誰にも見られる筈のなかったその涙を、ただ瞼の裏に焼き付けた。

 



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43 科学者とラット

 第一部隊に異動して数日が経った。本日は朝から単独任務らしいソーマを除いた五人での討伐任務だったが、昼過ぎには終わり無事アナグラへ帰投した。エントランスで神機をヒバリに預け、早々に帰ろうとしたミツハをヒバリが呼び止める。

 

「あ、ミツハさん。支部長がお呼びでしたよ」

 

 支部長、と聞いて気分が重くなる。偏食因子の話だろうか。ヨハネスはミツハの特殊な偏食因子に何やら期待している節があり、荷が重いのでやめて欲しいのが本音だがそうも言えず、頑張りますと笑うしかない。

 

 役員区画へエレベーターを移動させ、人気のない静かな廊下を歩く。訪問を告げるインターホンを押せば、ヨハネスが直々にミツハを出迎えた。

 

「任務終わりで疲れているところ、呼び出してしまってすまないね」

「あっ、いえ、全然。大丈夫です!」

「少々込み入った話になる。座って待っていてくれ」

 

 ヨハネスが扉を閉めるとカチャリと音が鳴った。やはりP五十七偏食因子に関する事か、とミツハは気が滅入ってしまった。

 言われた通りにソファに腰掛けて待っているとヨハネスが紅茶を出した。淡いキャラメル色をしたミルクティーからはふわりと甘い香りがする。頭を下げて高級そうなカップに手を伸ばせば、普段飲む自販機のミルクティーとは大違いな上品な味がした。質の良い茶葉を使っているのだろう。支給品の茶葉もこれぐらい美味しければいいのに、と思いながらカップを置いた。

 

「新型神機の扱いはどうかね?」

「特に問題もなく使えてます」

「やはり君の偏食因子は順応性が高いのだな」

 

 ヨハネスはそう笑い、色違いのカップとソーサーを持ってミツハが座るL字型のソファに腰掛けた。此方はストレートティーのようで、綺麗な飴色した紅茶を一口飲む。カップをソーサーに置いたヨハネスは「本題に入ろう」と空気を変えた。

 

「君は、マーナガルム計画を知っているかね?」

「マーナガルム計画、ですか? いえ……聞いた事がないです」

「……マーナガルム計画というのは偏食因子を生化学的に応用利用するプロジェクトでね。以前、ソーマは胎児段階でP七十三偏食因子を母体を介して投与したと説明しただろう。あれは〝偏食因子転写実験〟という、このプロジェクトの一環として行われた実験だ」

「……実験、ですか」

 

 実験。その言葉は随分と気分が悪くなるものだった。まだ胎児だったソーマを、成功するか分からない〝実験〟に利用した――なんて酷い話だ、とミツハは顔を曇らせる。そんなミツハを一瞥して、ヨハネスは話を続ける。

 

「だが、このプロジェクトは今や永久凍結されている。偏食因子転写実験の失敗によってね」

「え……でも、ソーマさんがP七十三偏食因子を持ってるって事は、成功してるんじゃ……?」

「P七十三偏食因子を投与した母体が――被験者のアイーシャ・ゴーシュが偏食因子に耐え切れず、アラガミ化して暴発捕喰事故を引き起こしたのだ。プロジェクトの参加メンバーは私とペイラーしか生き残っていない」

「――――」

 

 絶句するしかなかった。それはつまり、ソーマの母親により、ソーマが生まれた事により――大勢の人が喰われたと言う事だ。

 

 胎児段階での投与と聞いて落胆した自分を呪いたくなった。自然発生ではないと知って落胆した自分を殺したくなった。何も知らぬくせに、ソーマにお門違いな期待をした自分があまりにも愚かで、醜かった。

 息が、詰まる。苦しかった。

 

「なんで……そんな事を私に……?」

「……生まれながらにP七十三偏食因子を持ったソーマを研究する事により、神機の開発や今日におけるゴッドイーターの誕生に大きく貢献した。何かを犠牲にするという事は、代わりに何かを得るという事だ」

 

 ヨハネスはうっすらと笑い、ミツハに目を向けた。

 

「君の偏食因子は可能性に満ちている。例えば、君のP五十七偏食因子を受け継いだゴッドイーターチルドレンにソーマと同じようにP七十三偏食因子を投与すれば、よりオラクル細胞に近い偏食因子を持った子が生まれだろう。限りなくアラガミに近い人間が、ね」

 

 ぞくりと背筋に寒気が走る。ヨハネスは穏やかに笑っているが、その目元は冷たい。まるで実験用のラットでも見るかのような、そんな眼差しをミツハに向けていた。

 

 嫌な、予感がした。

 

「――あっ、あの! すみません、私これで失礼しますっ」

 

 此処に居てはいけないと全身が告げていた。慌てて立ち上がり支部長室から逃げ出そうとしたのだが――立ち上がった足はぐらりと力無く崩れ、ミツハは柔らかなソファに倒れ込む。机に置いていたカップが倒れ、中に入っていたミルクティーが床を汚した。ふわりと甘い香りが鼻先を掠める。

 

「……なに、か、はいっ……て……」

「隠し味に睡眠薬を少々。お気に召したかね?」

 

 猛烈な眠気に襲われ、今にも瞼が落ちそうだった。嘲るように一笑したヨハネスは腰を上げ、執務机から取り出した頑丈そうな小振りのアタッシュケースを机の上に置く。その中身には白い液体が入った注射器のようなものが収められていた。普段つけている茶色の手袋を外し、ヨハネスはゴム製の白い手袋にはめ直して注射器の先に細長い管を取り付けた。そして、眠りに誘われるミツハを見下ろす。

 

「ゴッドイーターチルドレンというのは、当然だが片親より両親が神機使いの間に生まれた子供の方が潜在的な力は勝っている」

「……その、なかみって」

「P五十三偏食因子を持った人間の精液だ。今から君に人工授精を行う」

「や、やだ……やめてください……!」

 

 恐怖で溢れ出す涙がソファに零れ落ちた。こっちに来ないでと涙で濡れた目でヨハネスを睨みつけるが、男は冷たい目でミツハをソファに縫い付ける。

 

「安心していい、痛い思いをさせるつもりはないよ」

 

 ジィ、とミツハのシャツのファスナーが下ろされる。外気に曝け出された上半身がぶるりと震えた。手足をばたつかせて抵抗しようとするが、力の入らない四肢は簡単に手折られてしまう。心臓が飛び出てしまいそうな恐怖心とは裏腹に襲いかかる強制的な眠気に意識は朦朧とし始め、ゴム手袋越しに触れられた肌の感触すらもう分からなかった。

 

「君がタイムスリップした理由には、大きな意味があると言っただろう。きっと人類の未来の為に、その身を捧げる為に、君はこの世界に来たのだ」

 

 聞きたくない、とミツハはかぶりを振る。人類の未来だのこの世界の為など、そんなものは平凡な女子高生にあまりにも荷が重すぎる。ボロボロと泣き腫らしながらミツハはヨハネスを否定する。

 

「そ、……なの、しらない……わたしはっ、ただの、」

 

「ただの――化け物だろう」

 

 その言葉に、胸の奥で何かがひび割れた。

 

「偏食因子が自然発生するなど、化け物以外のなんだと言うのだ? ……生憎私は科学者でね。化け物に何をしようと、それで多大な結果が得られるのであれば厭わないのだ。――その化け物が例え、()()()()()()()()()だろうとね」

 

 冷たい笑みを浮かべるヨハネスは自分自身すらも嘲笑し、ミツハに触れる。淡々としたその手つきはヒトではなく、ただの実験動物を扱っているものだった。ぐらりぐらりと脳は揺さぶられ、今にも途切れそうな意識の中でミツハは泣き叫んだ。

 

「いや……やめて、やだっ……だれか、たすけてっ!」

 

 悪足掻きでしかない叫びを聞き届ける者は目の前のヨハネスしかおらず、鍵の掛かった密室は誰からも邪魔される事はない。ヨハネスは冷然と〝実験〟を進めるべく注射器を手に取り、眠りに落ちていくミツハの身体にその中身を注入する――かと、思われた。

 

 ただの悪足掻きでしかない叫びに呼応するように、扉は開かれる。激しい衝撃音と共に鍵の掛かった扉は文字通り、〝ブチ破られた〟。

 

「なっ――」

 

 珍しく顔色を変えたヨハネスが扉を見やる。閉じゆく意識の最後、ミツハは確かに――ソーマの姿を見た。

 



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44 後悔

「あ、ソーマさん。今ミツハさんが支部長とお話をされているので、支部長室に行かれるのは少し待ってからの方がいいと思いますよ」

 

 朝から特務に出向いていたが空振りで終わり、早々に切り上げてアナグラへ帰投するとヒバリからそう言われた。ミツハの名前を聞いて先日の屋上での事を思い出す。あの日の翌日、ソーマが予想していた通り何事もなかったかのようにミツハは笑顔を取り繕っていた。

 ソーマはエントランスを後にしてエレベーターに乗り込む。褐色の指は自室のあるベテラン区画ではなく、役員区画のフロアボタンを押した。

 

 恐らくヨハネスはミツハのP五十七偏食因子を何かに利用しようとしている。その何かは分からないが、それは確かだろう。

 六年前の旧ロシア地域での初陣が脳裏に過ぎる。任務に同行したヴィヨン中尉はヨハネスに示唆され、婚約者への指輪をソーマに託して死んだ。人類が生き残る為の道を示し、選択肢を与えたと平然とした面を下げてヨハネスは言ってのけた。その時湧き上がった怒りをソーマはよく覚えていた。それと近しいものを、今のヨハネスから感じるのだ。

 

――何か、嫌な予感がする。

 

 人気のない静かな役員区画の廊下を歩き、支部長室の扉の前に立つ。訪問を告げるインターホンを鳴らそうとしたその時、ソーマのその鋭い聴覚は僅かな声を拾った。

 

 たすけて、と涙に濡れた声を。か細いミツハの叫び声を。

 

「――――」

 

 ぞわりと身の毛がよだち、激情がソーマを襲った。

 

 一歩、右足を後退る。そして大きく上半身を捻り、重心を左足に傾かせながら力任せに右足を頑丈な扉に、叩き込む。

 ソーマの蹴りによって激しい衝撃音を立てて扉の建て付けは壊れ、ただの鉄の板となった扉をソーマを蹴り倒す。廊下と支部長室を隔てる物はなくなり、中の様子が明らかになる。

 

 そうしてソーマは、その蒼い目をこれでもかと見開いた。

 

 部屋の中に居たのは当然、ヨハネスとミツハだった。しかし一目見て異常だと分かる。ミツハは、泣いていた。

 ぐったりと涙を流しながらソファに眠るミツハは服が乱れ、その肌を光の下に曝していた。そんなミツハを押さえつけるように覆い被さるヨハネスはゴム手袋越しに白い液体が入った注射器を手にしている。細長い管が取り付けられたその注射器の中身は何か、理解するよりも早く怒りで燃え上がる身体は動いた。

 

 ヨハネスの胸倉をつかんで立ち上がらせ、拳を強く握る。――ゴッ! と鈍い音が支部長室に響き、ヨハネスは執務机に打ち付けられた。

 

「――てめえっ、何してやがるっ!」

 

 はっ、はっ、と荒い呼吸をしながらヨハネスを睨みつける。父は殴られた頬を抑えながら、ソーマと壊れた扉を見て一笑した。

 

「ふっ、扉を蹴破るとは我が子ながらに恐ろしいな。()()()()()、仲が良いのだな」

「化け物同士、だと……?」

「なんだ、知らんのか。ペイラーから聞かされていたと思ったのだがね」

 

 ソーマだけでなく、ミツハも同じ〝化け物〟という括りにされているのが気に掛かる。ヨハネスは机に凭れ掛かったまま、ソファで眠るミツハを一瞥する。その目は、ソーマにも覚えのある眼差しだった。

 

「彼女の偏食因子が、P五十三偏食因子ではなくP五十七偏食因子だと言う事は知っているな? 何故、ラットでさえ投与の成功例がない偏食因子が彼女の身体にあるのか、疑問には思わないか?」

「…………」

 

 その問いにソーマは黙り込む。気にはなっていたが、ついぞ聞けなかった事だった。続きを促すように睨み続ければ、ヨハネスは十秒にも満たない静寂の後に口を開いた。

 

「彼女のP五十七偏食因子は人為的に投与されたものではない。――()()()()()()()()()()()

 

 投与ではなく、自然発生――耳を疑う言葉だった。

 

「は……嘘言いやがれ。自然発生だと? ンな事、あるわけ……」

「言っただろう、彼女も〝化け物〟だと。井上ミツハはこの世界の人間ではない。六十年前の世界から人類の未来を救うべくこの世界へやって来た、化け物だ」

 

 目の前の父が世迷言でも言い始めたのかと思った。もう一度殴って目を覚ましてやろうかと思う程に、あまりに突飛な話だった。

 だが、この男がこんな作り話のような冗談を言うとは思えなかった。

 

「六十年前の十二月二十九日、P五十七偏食因子が突然変異で彼女の身体に発生し、因果律の矛盾により彼女はタイムスリップを起こしたのだ。本来二〇四六年に発見される筈のオラクル細胞由来の偏食因子が二〇一一年に発生したという、矛盾の修正の為にね」

 

 十二月二十九日――ソーマが贖罪の街で〝ヴァジュラに襲われた民間人〟を救出した日だ。あの時のミツハはアラガミの姿すら見た事もなく、荒廃とした世界を初めて見たかのように訝し気に眺めていた。

 ヨハネスの世迷言が本当ならば、当然の事だった。六十年前にアラガミなど居る筈がない。アラガミによって食い荒らされた荒廃とした世界など、知る筈もないのだ。

 

――そりゃ、言えるわけもねえ。

 

 偏食因子が自然発生し、六十年前からタイムスリップをしたなど、知られたくなくて当然だ。隠そうとして当然だ。そういう類のもの、と言ってのけたサカキの言葉を思い出す。まさにその通りの、口にするのも憚られる秘密だった。

 

「三月五日、彼女は贖罪の街で行方不明になっていただろう。ソーマ、お前の偏食因子によって一時的にP五十七偏食因子が消失し、六十年前の世界に戻っていたのだ。だがその二日後にP五十七偏食因子が再び生成され、彼女はこの世界に帰ってきた。P七十三の影響を受け、その性質を変化させてね」

「……新型に適合するようになったのもそのせいか」

「ああ、そうだ。そして彼女のP五十七偏食因子は、今やP七十三偏食因子すらも受け入れるよう変異した。――P五十七偏食因子は、可能性に満ちているのだ。彼女の偏食因子を受け継いだゴッドイーターチルドレンにP七十三偏食因子を投与すれば、……ソーマ。お前よりも、よりアラガミに近い人間が生まれるとは思わないか?」

 

 冷ややかな、氷の瞳をソーマに向ける。その眼差しにソーマは戦慄した。ソーマがまだ子供だった頃、檻越しに何度も見た目だった。

 

「限りなくアラガミに近い人間を作り上げ、その存在自体を疑似特異点として成り立たせる。その為に彼女にP五十三偏食因子が含有された精液で人工授精を試みた。まあ、邪魔されてしまったがね」

 

 肩を竦めてうっすらと笑うヨハネスに吐き気がした。ミツハを見やる冷たいその目は、ソーマに過酷な実験を課す度に何度も見せた科学者のそれだ。

 そう、実験だ。脂汗が滲み、ソーマの脳裏には女の身体がフラッシュバックした。

 

 ――十三歳の時だった。精通して間も無く、ソーマは小さな個室で待機するようヨハネスに命じられた。ベッドとシャワールームがあるだけの、殺風景で簡易な部屋だった。そんな部屋に女がひとり入ってきた。十八、九ぐらいの若く綺麗な女は服を脱ぎ、まだ幼さが残るソーマに触れ、そして、

 そして――

 

「……ぁ、クソッ、この外道……っ!」

 

 纏わりつく体温を忘れるように腕を振り払う。依然としてヨハネスの目はラットでも見るかのような、嫌な目をしていた。そんな眼差しから逃げるように、ソーマは眠り続けるミツハを抱えてヨハネスに背を向けた。

 

 ソーマの腕の中で眠るミツハの目元は、涙の痕と隈で随分とやつれて見えた。かえりたい、とぽつりと呟かれた小さな寝言にソーマは胸が締め付けられる。鉄塔の森でグボロ・グボロに殺されかけた時もミツハは帰りたいと身体を震わせて泣いた。その時はただ世間知らずな少女だと、覚悟も何もないただの少女だと怒りさえ込み上がった。だが、全てを知った今ならば分かる。

 

「……覚悟なんてなくて当然だったな」

 

 自室に逃げ込み、ソファにミツハを眠らせる。脱いだモッズを毛布代わりにミツハにかけ、露出した肌を隠した。その泣き腫らして赤くなった目元の理由は、ヨハネスに襲われて泣いた際に出来たものだけではない筈だ。黄昏に呑まれた屋上でミツハは泣いていた。きっとあの日だけではない、人知れずミツハは泣き続けていたのだろう。

 

――なに、逃げてんだ。

――なんで、逃げたんだ。

 

 ミツハが泣いていた事を、ソーマは知っていた。ソーマは見ていた。静かに、隠れるように泣くミツハを。

 あの屋上でソーマが逃げ出さずに、ミツハがソーマにしてやったように彼女にミルクティーを差し出してやれば、何かが変わっていたかもしれない。結局、自分はいつも手遅れになってから後悔するのだ。伸ばした手はいつだって間に合わない。

 

――いや、

――そもそも俺は、手を伸ばしてすらいねえじゃねえか。

 

 救いようのない、出来損ないの化け物だ。化け物がふたりの部屋の中で、ソーマは逃げ出した自分をただ、呪った。

 



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45 Kuschel

 本当なら今頃、私は何をしているんだろう。

 

 入試を受けて二月の自由登校の期間に友人と遊び倒して三月の卒業式を迎え、大学生活の準備をしながら過ごしている時期だろうか。一眼レフを買って千夏と関西旅行に行っているかもしれない。千夏は京都に行きたがっていた。三月の京都は桜が咲いているだろうか。京都の町並みと桜は随分写真映えしそうで、買ったばかりの一眼レフのメモリーカードがすぐに無くなってしまいそうだ。撮りすぎだと千夏が呆れながら笑い、そんな友人の笑い顔を三葉は撮るのだろう。

 

 本当なら今頃、そんな日々を過ごす筈だった。

 

「ん……」

 

 深い海の底から意識が浮上する。気怠い身体は鉛のように重く、薄ぼんやりとした意識のままで瞼を開く。ぼやけた視界は徐々に鮮明になっていき、荒れた部屋が目に入った。ミツハの部屋ではない、何故自分はこんな所で寝ているのだ――寝起きの覚醒しきっていない頭で意識が途切れる前の記憶を巡らせていけば、途端に頭のてっぺんから爪先まで震え上がった。

 

 朦朧とした意識、力の入らない四肢、照明灯の下に曝された身体、ゴム手袋越しに触れる指、注射器を持った〝科学者〟、実験台に縫い付けられる、〝化け物〟――

 

「――――ぁ、いや……っ!」

 

 恐怖で思わず飛び起きる。するとミツハの肩からばさりと見覚えのあるコートが床に落ちた。ネイビーブルーのダスキーモッズ。それが誰のものなのかなど、考えなくても分かるだろう。この部屋は、いつか寒空の下で嗅いだ温かな匂いで満ちていた。

 

「……起きたか。……とりあえず服を整えろ」

「え? ……あっ、えっ、あ、わーっ! す、すみません! ごめんなさい!」

 

 同じソファに腰掛けていたソーマに言われ、自身の身体を見下ろしてみればシャツは前が全開になっており淡いピンクレースを晒していた。かあっと頬が上気し、ミツハは慌ててソーマに背を向けて乱れた衣服を整える。その手は馬鹿みたいに震えており、上手くファスナーが噛み合わなかった。

 

――どうしよう。

 

 ソーマに背を向けたまま、震えた手を握り合わせる。何があったのか、そう聞かれてしまったらミツハは上手く誤魔化せるだろうか。自信が無い。そもそも何と言って誤魔化せばいいのだろう。

 

「……おい」

「――あ、あのっ、あ、有難うございましたっ!」

 

 分からないままタイムリミットは来てしまい、ミツハは咄嗟に笑い顔を貼り付けてソーマの方へ向き直る。ソファカバーをぎゅっと握りながら不自然な程明るく舌を回した。

 

「えっと、た、助けて頂いて有難うございます! その、――だ、大丈夫です、ので、」

「……その下手クソな作り笑い、もうやめろよ」

 

 痛ましいものでも見るように眉を顰めながら、ソーマはミツハの言葉を遮った。貼り付けた笑顔の下を見透かすような蒼い瞳にどきりとする。ソーマは床に落ちたモッズを拾い上げ、袖を通しながらその裏側へ踏み込んでいく。ひび割れた何かがどんどん軋み、悲鳴を上げる。

 

「……クソ親父から話は聞いた」

「――あ、えと、……し、支部長ってソーマさんのお父さんだったんです、ね。今まで全然気付かなかった、」

「話を逸らそうとするな」

「っ、」

「てめえが六十年前の世界から来たって事、P五十七偏食因子が自然発生した事、……あの場で親父が何をしようとしていたか。……全部、聞いた」

「――――」

 

 ――ボロリ。笑い顔が剥がれ落ちた。無理に作っていた笑い顔は飴細工のようで、脆いそれは簡単に壊れて跡形もなく砕け散る。ソファカバーを握っていた手は何かを諦めたかのように力無く解け、上手く呼吸が出来なかった。

 

 逃げる事など許さないと言いたげに、ソーマはその蒼い瞳をミツハから逸らさない。フードを被ってない今はソーマの表情がよく見えるというのに、まるで靄が掛かってしまったかのように上手くピントが合わなかった。まるで世界から爪弾きされた感覚だ――否。まるで、ではない。爪弾きも何も、ミツハは元々この世界の人間ではないのだ。六十年前の世界から来た、ただの化け物なのだ。

 

――ああ、

――なんか、もう、

――……()()()()()()()

 

 ひび割れた何かは、音を立てて完全に崩れ落ちた。自分の内側で確かに、何かが崩壊した音をミツハは聞いた。

 

 薬の効果が抜け切っていないのか身体は重く、立ち上がるだけでも億劫だった。それでもソーマの蒼い瞳から逃げるように部屋を出ようとしたが、咎めるようにソーマが逃げ出すミツハの腕に手を伸ばす。

 その、手を、

 

「おい、話は終わってねえ――」

 

 パシン、と。

 乾いた音は大袈裟な程に響いた。

 

 褐色のその手は、手持ち無沙汰に宙に投げ出されていた。行き場を失くした指先が僅かに震え、ソーマは立ち尽くすように呆然としてミツハの顔を見る。彼女の黒い瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。

 

「――わたしっ、ソーマさんにだけは、絶対っ、知られたくなかった!」

 

 そう叫び、ミツハはソーマの部屋から飛び出した。一拍遅れてからミツハを呼び止める声がしたが、振り向く事もせずにミツハはエレベーターへ駆け込む。行先は、屋上だ。

 

 眠っている間に日はすっかり傾いてしまい、赤々とした空が屋上を照らしていた。その屋上の柵に掴まり、下を覗き込む。三〇〇メートルもの高さがある屋上から見る地上は遥か遠く、いくら身体能力が向上している神機使いと言えども――ここから飛び降りれば、一溜まりもないだろう。

 

 死んだところで、元の世界に帰れなどしない。それは分かっている。グボロ・グボロに殺されかけて死に直面したあの日、この現状が夢でもなんでもない、どうしようもないほどただの現実であるとミツハは悟ったのだ。

 

 だが――このまま生き続けたところで、元の世界には帰れないのだ。

 

――ならいっそ、死んだ方がずっとマシだ!

 

 もう、限界だった。もう駄目だった。もう耐えられそうになかった。

 実験動物でも見るかのような、冷たいヨハネスの瞳を思い出す度に震え上がる。怖かった。この世界で生き続け、あんな目で見られるくらいならば、あんな目に遭うくらいならば、この場で飛び降りた方がずっとずっと幸せな事のように思えた。

 

 だって、そうだろう。この世界における井上ミツハという存在は、ヨハネス曰く――この世界に身を捧げる為にやってきた、ただの化け物なのだ。

 そんな存在意義など、ごめんだった。

 

 ぎゅっと柵を強く握り締める。傾いた太陽はミツハの影法師を長く伸ばし、揺らめかせる。この柵を乗り越え、飛び降りてしまえば全てが終わる。元の世界とこの世界の事で悩む事も、罪悪感で押し潰れされる事も、こんな目に遭う事もなくなる。一歩、踏み出すだけでいい。

 

 そう、一歩。ただ一歩を踏み出すだけだ。

 

 その一歩が――ミツハはどうも、踏み出せなかった。

 

「…………」

 

 恐かった。死ぬ事への恐怖ではない。エリックが死んだ後のように。リンドウが行方不明になった後のように。また、ソーマが自分自身を責めるのではないかと思うと――恐いのだ。

 

 この命は、何度ソーマに助けられただろうか。初めてこの世界に来た日。グボロ・グボロに殺されかけた日。プリティヴィ・マータと遭遇した日。少なくとも三度は、ソーマに助けられている。

 そんな、ソーマに助けられた命を、ここで捨てると言うのか。

 

――そんなの、できない。

 

 死ねない理由は他にもあった。強くなりたいと思った理由は、なにも元の世界に帰る為だけではない。

 

――〝死神〟なんて、呼ばせたくない。

 

 絶対に死んでやるか、そう強く思ったその覚悟は、嘘じゃない。嘘じゃないからこそ、ただの一歩が踏み出せない。ソーマの事を思い浮かべると、どうにもこうにも死ねないのだ。

 

「――ミツハ」

 

 心成しか震えた声で、名前を呼ばれた。

 

「……何しようと、してんだよ」

 

 一歩、ソーマが踏み出す。近づく声にミツハは柵を握る手を緩め、もう一度強く握って勢いをつけるようにして手を離す。涙で濡れた目を手の甲で拭い、振り返る。赤々としていた筈の空は既に薄紫色に変わり、そんな淡い色がミツハの顔を照らす。――なんでもないです、と使いまわした言葉に唇を形どり、そのまま緩やかに曲線を描かせた。

 

「……あ、えっと、さっきは取り乱してすみません。あの、もう、大丈夫なので――」

「大丈夫じゃねえだろ」

「……だいじょうぶです」

「大丈夫なんかじゃ、ねえだろうが」

 

 一歩、また一歩とソーマがミツハに歩み寄る。逃げるように後退るが、柵に阻まれそれは叶わなかった。

 

「大丈夫でもねえくせに、大丈夫だなんて言うんじゃねえよ」

「…………」

「てめえが、」

 

 夕日に照らされた白金の髪を靡かせながら、ソーマがミツハの前に立つ。その目はただひたすらに真っ直ぐと、ひとりの少女に向けられていた。

 

「てめえが、言ったんだろうが。全部ひとりで背負い込むなって。そのお前がひとりで背負い込んで、どうすんだよ。俺に言ったあの言葉は、ただの上っ面な綺麗事かよ」

「ちが、綺麗事なんかじゃ、ない、」

 

 ソーマの言葉にかぶりを振って否定する。その口元はみるみるうちに歪んでいった。自分自身の言葉に追い詰められるなど、思ってもいなかった。

 

 ひとりで背負い込む必要なんてない。それは本心だ。

 

 だけど、

 

「――綺麗事、なんかじゃ、ない、けど、……言えるわけ、ないじゃないですか!」

 

 その言葉をミツハ自身が受け入れる事は、出来なかった。堰を切ったように、心の奥底に沈めた醜い感情が溢れ出していく。泣きながら声を荒らげるミツハを、ソーマはただ黙って見ていた。まるで見守るかのように、静かにミツハの号哭を聞く。

 

「ひとりで背負い込むしか、ないじゃないですか! だって、だってソーマさんも、ユウも、カノンちゃんだってカレルだって、みんな、みんな私と、違うじゃないですか! 私と同じ、六十年前の人なんて、この世界のどこにも、いないじゃないですか!」

 

 一度回った舌は止まらずに、今の今までずっと押し殺してきた感情は破竹の勢いで吐き出される。沈みかけの夕日に染まる静かな屋上に、ミツハの悲痛な叫びだけが響き渡る。

 

「私が帰りたい場所は此処じゃない、私の世界は此処じゃない! 私はもっと、普通に生きたかった! 普通に学校に行って、普通に友達と遊んで、子供の頃からの夢だったカメラマンにだって、なりたかった! ――わたしは、元の世界に、帰りたい!」

 

 心の底からの叫びだった。本音だった。その本音は、この世界の全てを否定する事を意味していた。――帰りたい! この残酷な世界から逃げ出したい! アラガミとは無縁の平和な世界でのうのう生きていたい! ――そんな、陋劣で醜悪で自己愛に満ちた浅ましい本音を。

 

「けどっ、そんなこと言えるわけ、ないじゃないですか! みんな、おかえりって……良かったって、言ってくれてるのに、そんな……そんな、酷いこと、言えない。言えるわけ、ない。だって……だって、わたしっ、」

 

 おかえりなさい、と涙で濡れた目を細めて笑ったカノンの顔が、声が、頭から離れない。その表情を思い出せば、内心に積もり積もった仄暗い感情は悲しいくらい簡単に、霧散する。

 

「――元の世界と同じくらい、みんなのことが大切で、大好きで!」

 

 それもまた、ミツハの本音だった。

 相反する本音のどちらかを切り捨てる事なんて出来なかった。

 

「……だから、帰りたいなんて、言えなくて。帰りたいなんて思っちゃ駄目だって! ……そんな風に、思って。でも、やっぱり私は帰りたくて。どっちが大切かなんて、決められなくって……、も、分かんない、分かんないよぉ……!」

 

 号哭は静かに止み、ミツハは弱々しくその場に泣き崩れる。肩を震わせ、その小さな身体に背負い込んだ重圧に窒息する。

 みっともない本音を曝け出したミツハを、ソーマはただ静かに見下ろした。その蒼い瞳に自分がどう映っているのか、どう見られているのか。恐くてとてもじゃないが顔を上げられそうにはなかった。

 

「……ミツハ」

 

 力なく項垂れるミツハに、ソーマがようやく声を掛ける。その声色はあまりにも穏やかで、寂しげなものだった。いつかの屋上で聞いた声色が、重なる。

 

「それは、決めるようなもんでもねえだろうが」

 

 その声色に、ミツハは唇を震わせて顔を上げる。見上げたソーマの顔は、悲しいくらいに穏やかで、寂しげで、泣き出してしまいそうな。そんな顔をしていた。

 

「なんでどっちか切り捨てようとするんだよ。そんなもん、どっちも大切で済ませればいいだけの話じゃねえか。……そうやって理屈の檻で押し殺した先にあるもんなんて、ただの……ただの、後悔だけだ」

 

 まるでソーマ自身経験したような口振りだった。優劣をつけてそのどちらかを切り捨てる。そうやって失いながら生き続ける事がどんなに苦しいか、ソーマ・シックザールという男はよく知っていた。

 その苦しみに寄り添ったのは他でもない――ミツハだった。白い息を吐きながら、ミツハが好きなバンドの歌を流しながら、ふたり並んで星空を見上げた。そして、ミツハが言ったのだ。あまりにも穏やかで、寂しげな顔をするソーマに、飾り気のないミツハの本心を。

 

 〝全部ひとりで背負い込む必要って、ないと思うんですよ〟

 〝私は、ソーマさんのおかげで生きてるんです〟

 

 その言葉に、嘘はない。

 

「……だいじょうぶ、……なんかじゃ、ないです」

「……ああ」

「なんでもないなんて、嘘です」

「ああ」

「ずっとずっと、こわかった。だって、わたしだけ周りと違うんです。タイムスリップなんかしちゃうし、偏食因子は自然発生しちゃうし! 化け物みたい……みたい、じゃなくて、化け物そのもので……自分が、こわい。独りが怖い、独りは、……寂しい、です」

「――ああ、そうだな」

 

 胸が締め付けられる程の優し気な声で、ソーマはミツハの弱音を受け入れる。見下ろすだけだった目線をミツハと合わせ、震える指先でたどたどしく涙を掬う。その温かさにまた、涙が出た。

 

「……こわいです。このまま生きていくのが、怖くて……仕方なくて。でも、死ぬのだって、恐くて……」

「なら、ひとりじゃなきゃいいんだろうが」

 

 震える声でソーマが語る。

 

「俺は、ずっと独りで良かったんだ。独りで、居るべきだったんだ。……それを、てめえが、勝手に踏み込んできたんだろうが。なのに今更、自分は独りだと? ――ふざけるのも大概にしろ。てめえが独りだって言うんなら、俺も、独りだ」

 

 その弱音は、まるで鏡のようだった。独りが怖い。周りと違う事が怖い。化け物の自分が何よりも恐ろしい。

 その弱音は、本音は、ミツハのものであると同時に、ソーマのものでもあった。

 

「俺だって、――独りは、怖い」

 

 だから、だろうか。

 今までずっとひた隠しにしていた弱音は簡単に喉を震わせ、言葉になった。

 

「他人と違う事がどんなに怖いか、そんなもん俺がよく知っている。……同じじゃねえか。俺も、お前も。ひとりなんかじゃ、ねえだろうが。――俺にそう思わせたのは、ミツハ。お前だろうが」

 

 その言葉に。

 その声色に。

 その表情に。

 

 ――心が、打ち震えた。

 

「――――ぁ、うぅ」

 

 背負い込んだ重圧は涙になって零れ落ちていく。ボロボロと熱い涙を流す度、押し潰されそうになった心が軽くなる感覚がした。――救われるとはきっとこういう事なんだと、湧き上がる熱い感情にそう思った。

 

 とめどなく溢れ出す涙を拭う。手の甲で泣き腫らした目を擦ると、その手を取られた。そして、引き寄せられる。優しく、寄り添うように。ぎこちなく背中に回された手はやはり震えていた。だが、温かい。飴細工でも扱うような優しく不器用な手が、何よりも愛おしかった。

 

――だから、死にたくないと思ったんだ。

 

 ソーマ・シックザールという、誰よりも不器用で、誰よりも優しい男を悲しませたくない。

 人類の未来の為なんかではない。この世界の為なんかではない。ミツハがタイムスリップした事に大きな意味なんて、きっとない。

 

 きっと――

 

「……ソーマさん、」

 

 その背に、手を回す。

 

「やっぱり、こわいです。さびしいです。元の世界に帰りたいのは、変わんないです」

「……ああ」

「だから、私がこの世界に居る理由に……わたしの――生きる理由になって、ください」

 

 きっと、ソーマ・シックザールというひとりの〝人間〟と寄り添う為に、ミツハはこの世界にやって来たのだ。

 そう思っても、いいだろうか。

 

「……なら、絶対に死ぬな」

 

 俺はもう、誰かを失うのはごめんだ――。

 

 ソーマの震えた声に、ミツハは何度も頷き、泣いた。小柄なミツハの身体はソーマの腕の中にすっぽりと収まり、互いに縋りつくように抱き締め合う。互いに互いと寄り添うように、抱き締め合った。

 

 ――独りは怖い。独りは寂しい。

 きっと、どんなに強がったところで結局、その弱さからは逃げられない。

 だからこそこうして、互いに手を取り合って、分かち合って、抱き締め合って、――寄り添い合って生きていくのだろう。

 

 ひとりでは生きていけない、弱い生き物なのだから。

 



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46 ひとりからふたり

 震える小さなその身体に、何を背負うと言うのだろう。

 

 堰を切ったように泣き喚く井上ミツハという少女は、あまりにも弱々しく、少し触れてしまえば壊れてしまうんじゃないかと思う程に不安定だった。

 

 そんな少女に、ソーマはずっと救われていた。本当はずっと怖かったくせに、本当はずっと自分自身がひとりで背負い込んでいたくせに、拒絶すらもした他人の心配をするこの少女に――ただ、返してやりたいと、思った。

 小さなその手を取ってやりたい、震えるその身体を抱き締めてやりたい、守ってやりたい――そんな、わけのわからない熱い感情が、込み上がった。

 

 その込み上げる熱い感情の名前を、ソーマはまだ知らなかった。

 

   §

 

「……落ち着いたか」

 

 泣き腫らした目が痛い。屋上を赤く染め上げていた筈の空は夜に呑まれていた。冷たい空気と優し気なソーマの声色にようやく頭が冷静になる。

 そして、みっともなく曝け出した自分の醜態を思い出して奇怪な叫び声を上げた。

 

「っ、あ、あああああ! す、すみません! ごめんなさい! お、お見苦しいところをお見せしました!」

「五月蠅い、耳元で騒ぐな」

 

 ソーマの腕の中から抜け出し、真っ赤に染まる顔を両手で覆う。穴があったら入りたい気分だった。あんな、ただの八つ当たりでしかない薄汚い感傷をソーマにぶつけてしまった。思い出すだけで顔から火が出そうだ。

 うう、と丸まった背中を羞恥で震わせる。そんなミツハにソーマはなんて言葉を掛けるか悩むように頭を掻いた。

 

「……あー、なんだ。その、……死ぬ気が失せたんなら、それでいい。二度と馬鹿な事考えるんじゃねえぞ」

「……死のうだなんてそんな、」

「飛び降りる気だっただろうが、どう見ても」

「……そ、そう見えちゃいました?」

「その下手クソな作り笑い、やめろっつったろ」

 

 呆れたようにひとつ溜息を漏らし、ソーマは腰を上げてすっかり暗くなった空を見上げる。

 一番星の隣にも星は瞬いており、冷たい風が頬を撫ぜた。その冷たさに、火照った頬が冷めていく。

 

「……あの、」

「なんだ」

「私、ソーマさんに謝らなくちゃいけない事があります」

 

 俯いていた顔を上げ、立ち上がる。

 

「……ソーマさんの偏食因子が自然発生じゃないって、胎児段階での投与だって聞いて、正直……なぁんだ、って。がっかり、しました。いくらその時は事故の事を知らなかったとは言え、最低な事を思っちゃいました」

「…………」

「ソーマさんが私と同じ自然発生だったら良いなって、思って……すみません。ソーマさんの事、化け物じゃないって言っておきながら、その私がソーマさんが化け物だったらいいなって、思って、……ごめんなさい」

 

 深く、頭を下げる。醜い感情を知られる事をずっと恐れて、逃げ続けていた。軽蔑されても仕方がない、嫌われて当然の事を、ソーマに思ってしまった。判決が下されるのを待つ罪人のように、強く唇を噛み締めてソーマの言葉を待った。

 

「――そうか」

 

 下された判決は、その一言だけだった。

 

「……え、あの、……そ、それだけですか」

「なんだよ」

「わ、私すっごく最低な事を思っちゃったんですよ!? 知られたら絶対軽蔑される! って思って、わたし、ずっと逃げてて……」

「……お前、ずっと避けてたのはそれが理由か」

「……はい。こんな、こんな最低な事を思っちゃった事を知られるのが、恐くて、」

「……偏食因子についてどうこう思った事より、そっちの方が腹が立った」

 

 仏頂面でソーマが眉を寄せる。不貞腐れているようにも見えるその表情を隠すようにフードを被り、俯くミツハの額を軽く小突いた。

 

「言っただろ、周りと違うのは俺も同じだ。前例がねえ、俺と同じP七十三を持つ人間なんていねえ。……お前がそう期待するのも、分からなくもない」

「……それでも、ごめんなさい」

「くどい。この話は終わりだ」

 

 なかなか引き下がらないミツハにソーマが一喝し、ようやくミツハの口から謝罪が漏れる事はなくなった。小突かれた額を押さえながら、ミツハは謝罪の代わりに有難うございますと笑って見せた。作り笑いでもなんでもない、自然に出来た笑みだった。フン、とそっぽ向かれてしまったが。

 

「戻るぞ」

「あ、はい」

「そしてあのクソ親父を査問会に訴えてやる」

「さ、査問会……」

 

 ソーマの言葉に思わず口元が引き攣る。確かに訴訟すれば勝てるかもしれない。いくらP五十七偏食因子の利用を目的として実験であったとしても、強姦紛いの行為は思い出すだけで震え上がる。

 しかし、だ。それにはとある問題が生じる。

 

「でも、私の存在って支部長ありきで成り立ってるので、下手に訴えるとかそういう事、出来ないと思うんですよ。出生とかそういう裏合わせは支部長がしてくれてるので」

「…………」

「私の事情を上層部に説明するわけにもいけませんし」

「……本部に知られたらそれこそラットになるな」

 

 エレベーターを待ちながらソーマは頭を悩ませた。偽りの出生、偽りの家族構成、偽りの拉致事件。ミツハがこの世界で生きる為に、サカキが作り上げた〝設定〟通りの裏合わせやデータ改ざんを行ったのは他でもないヨハネスだ。立場上、ミツハはヨハネスに抗えないのだ。

 

「とりあえず、あの狸が何処まで噛んでるのか問い詰める」

「狸って誰ですか」

「サカキのオッサンだ」

「ソーマさんって口悪いですよね」

 

 到着したエレベーターに乗り込み、サカキの研究室へ向かった。エレベーター内の電灯に照らされ、暗がりだった視界は明るくなる。ソーマはミツハの顔を見下ろし、ひでえ顔、と小さく笑った。

 

「そ、そんなに酷いですか。えっ、腫れてます?」

「かなりな」

「う、うう……なんかみっともない所ばっかり見せてる気がします……」

「今更だろ。……まあ、下手クソな作り笑いよりかはずっと良い」

「…………」

「なんだよ」

「いえ……破壊力大きかったなあって……」

「はあ?」

 

 意味が分からないといった様子でソーマは怪訝な顔をする。どういう意味だと問い詰められる前にエレベーターは研究区画へ到着し、ふたりは並んで廊下を歩いた。

 研究室のインターホンを押すとサカキが驚いた顔でミツハ達を出迎えた。連絡もなしに突然ふたり揃って訪れた事が予想外だったようだ。

 

「……その様子だと、何かあったようだね」

 

 泣き腫らしたミツハの目元を見て、サカキは眼鏡の奥で表情を曇らせる。中に招かれたミツハ達はソファに並んで座り、単刀直入という言葉通りにソーマがサカキを睨むようにして見上げた。

 

「あんた、親父がこいつのP五十七偏食因子で何か企んでた事、知ってんのかよ」

「……その企みが何か、聞いていいかい?」

「……こいつに子を宿して、生まれてくるゴッドイーターチルドレンにP七十三偏食因子を投与させて疑似特異点に成り立たせるっていう、クソみてえな企みだ」

「――そうか、疑似特異点か」

 

 盲点だった、そう言ってサカキは頭を抱えた。この様子ではサカキはヨハネスの企みを知っていた訳ではないのだろう。親身になってくれていたサカキがヨハネスと共謀していた訳ではないと知り、胸を撫で下ろした。

 

「……ヨハンがP五十七偏食因子を何かに利用しようとしていたのは、なんとなく察していたよ。けどまさか、アイーシャと同じ方法を使って疑似特異点を作り上げようだなんて、考えてもいなかったよ。……随分、特異点探しに焦っているようだね」

「……あの、話の腰を折るようで悪いんですけど、特異点って何なんですか?」

 

 自分の身に起こった事だと言うのに、随分と置いてけぼりにされてしまっている。特異点だの疑似特異点だの、初めて耳にする言葉にミツハは首を傾げた。

 

「……〝ノヴァの終末捕喰〟。多分、ミツハ君は初めて聞く言葉かな」

「そう、ですね。初めて聞きました」

「所謂〝終末論〟というやつでね。……アラガミ同士が捕喰を続ける事で、やがて地球全体を飲み込むほどに成長した存在――〝ノヴァ〟によって引き起こすとされる、人類の終末理論だよ。今から数年前、この理論を信じたカルト教団が集団自殺を図った事で広く知られるようになってね」

 

 そのサカキの説明にますますミツハは首を傾げる。信憑性の薄い、都市伝説のようなものを感じた。

 

「……えっと、つまり迷信、ですか? ノストラダムスの大予言とか、マヤ文明の二〇一二年人類滅亡説、みたいな」

「おおっ、随分レトロチックな言葉が出てきたねえ。案外ミツハ君はそういうオカルトが好きなのかい?」

「来年が二〇一二年だったので、オカルト番組の特番が多かったんです」

「そうか、時期的にそうだったね」

「……おい、話が脱線してんぞ」

「ああ、すまない。――それで、ヨハンはその終末捕喰を信じているようでね。終末捕喰を起こす鍵となるのが、特異点なんだよ」

「……その特異点を、私の偏食因子を使って作ろうとしたんですか?」

「特異点というのはアラガミのコアなんだ。超高密度の情報集積体、それがコアだ。色んな偏食因子を組み合わせ、変異させた結果生まれてくる子供もまた、――超高密度の情報集積体を持ったアラガミと、言えるのかもしれないね。人間でも、アラガミでもない存在。逆を言えば、人間でもありアラガミでもある不思議な存在だ。疑似特異点として成り立たせる可能性としては十分あり得る。……ヨハンの目の付け所は流石だ」

 

 饒舌に回る舌は研究者らしく、ひとりの科学者としてヨハネスに賛美を送るサカキに一抹の不安を覚える。

 

「……てめえは、親父につくのか」

「いいや。私とヨハンでは、価値観が違いすぎる。十九年前の会議で、彼とは道を違えてしまったよ」

 

 ミツハの感じた不安は杞憂だったようだが、どこか悲しそうにサカキは語る。しかしその悲し気な表情は眼鏡のブリッジを押し上げると一変し、さて、といつも通りの狐のような笑みを貼り付けた。

 

「ヨハンがそのつもりなら、そろそろ此方も手を打たないといけないね。ああ、P五十七偏食因子を使って特異点を作り上げるのは無理があると私からヨハンに否定しておこう。それでも、用心はしておいて欲しい」

「わ、わかりました」

「それと、ソーマ。彼女を助けてくれて有難う。少しでも遅ければ、取り返しのつかない事になっていたよ」

「……もうとっくに手遅れだったけどな」

「え!? そ、そうなのかい、ミツハ君!? それならピルの処方を――」

「えええ!? ちがっ、ちがいますよ!? ソーマさんも何言ってるんですか!?」

「五月蠅い、そういう意味じゃねえ!」

 

 慌てふためくミツハとサカキに付き合っていられないとでも言うように、ソーマはソファから腰を上げる。扉に向かうソーマを追ってミツハも立ち上がったが、何かを思い出したようにくるりとサカキの方へ振り返った。

 

 どうしたのかい? と首を傾げるサカキに、ミツハは真剣な面持ちでサカキを見やる。逃げ出したあの日とは違い、しっかりとサカキの顔を見れた。

 

「……諦めた方がいいって言われても、やっぱり私は、元の世界の事を諦めきれません」

「……戻る方法はもうない。不毛な事だと思うけれどね」

「だって、諦めきれないんです。どうやったって私は、元の世界の事を忘れられません。夢にも見ます、贖罪の街を見る度に横浜を思い出します。それなら、諦めようとする事の方がずっと、不毛だと思います」

 

 ミツハの言葉に、サカキはそうかい、と何処か嬉しそうに相槌を打つ。

 

「強くなったね、ミツハ君」

「独りじゃないので」

「そうかい。それは喜ばしい事だ」

「……あと、お願いしたい事があるのですけど、……いいですか?」

「ああ、なんだい?」

 

 おずおずと尋ねるが、サカキは穏やかに続きを促す。まるでミツハがこの先に続ける言葉を知っているかのようだった。

 

「私が、六十年前の世界から来た事。自然発生したP五十七偏食因子を持ってる事。……第一部隊と、防衛班のみんなに、打ち明けたい、です」

 

 このままずっと、嘘を吐き続けるのは耐えられません。

 言葉の最後は震えてしまった。だが、まるで赤ペンで花丸をやる教師のように、サカキは細い目を更に細めて、笑った。

 

 サカキは、知っている。こわい、さびしい、かえりたいと繰り返しては病室のベッドで泣き喚く、弱い少女を。

 帰りたいから、生きなきゃ駄目だ。帰りたいから、強くならなきゃ駄目だ。

 そう自分に大丈夫だと言い聞かせた虚勢を張る少女をよく、知っていた。

 

「――ああ、是非打ち明けると良い。……本当に、強くなったね」

 

 だからこそ、サカキはミツハの言葉に優しく頷いた。強がりでも虚勢でもなんでもない、ミツハの言葉を後押しするように笑うのだ。

 有難うございます、と頭を下げてミツハは研究室を出る。扉のすぐ近くで待っていたソーマは、やけにすっきりしたミツハの顔を一瞥だけしてエレベーターに向かって歩き出す。ミツハもその後を追い、隣に並んだ。

 

 ――その翌朝、正面の空席はようやく埋まる。おはようございます、と笑うミツハの声が仄暗い噂を掻き消すのだろう。

 



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47 大好きな人達

「打ち明けるとは言ったものの、一晩経って冷静になるとそもそも信じてもらえるのか不安になってきました」

「まあ世迷言だと思われるだろうな」

 

 不味いレーションを食べながらミツハは頭を悩ませた。突然六十年前の世界からタイムスリップしてきました、なんて言えば頭が可笑しくなったのかと思われてしまいそうだ。

 

 空席が目立つ食堂は話しているうちに人が増えていき、神機使い達は怪訝なものでも見るようにミツハ達を一瞥する。死神の正面の空席が埋まった事がそんなにも意外らしい。まじかよ、と引き攣った声が遠巻きから聞こえるがふたりは気にせず話を続けた。

 

「そもそもサカキ達にはなんて説明して納得させたんだよ」

「保険証とか学生証とかの身分証を見せたんです。あと、デジカメで撮ってた写真とか、円単位のお金だったり、そういうので信じてもらえました」

「なら同じようにそれ見せりゃいいだろ」

「そ、そうですね。そうします。……なんかもう今から緊張してきました」

 

 胃がキリキリする、と言って完全に朝食を食べる手が止まってしまった。そんな様子のミツハをソーマは呆れながらに見ていると、見慣れた顔が食堂の扉を開けた。第一部隊隊長の神薙ユウはミツハとソーマの姿を見ると、眠たげな顔から一変してぱっと顔を綻ばせた。

 

「おはよう、ふたりとも! ……うん、やっぱりふたり揃ってる方がしっくりくる」

「あ、あはは……その、色々ご心配お掛けしました」

「……世話を掛けさせたな」

「いいよ、全然。安心した」

 

 良かった、と柔らかくユウは笑った。きっとユウは気づいていたのだろう、ミツハが何度も言った〝大丈夫〟が〝大丈夫〟なんかじゃない事に。ユウは周りをよく見ているのだ。ミツハの嘘など、きっと感応現象なんて事が起こらずとも分かっていたに違いない。

 聡い少年は何があったのか深く聞いてくる事はしなかった。あとはごゆっくり、とでも言うように笑って背を向けるユウを、慌ててミツハは呼び止める。

 

「あのね、その、……第一部隊と防衛班のみんなに、もう全部打ち明けようと、思いまして、ですね。ひ、ひとまずそのことを隊長さんにご報告します」

「……そっか。大丈夫、なんだね。本当に」

「うん、大丈夫。……このまま嘘を吐いてる方が、辛いなって、思って」

 

 ミツハの言葉にユウは安堵の表情を浮かべる。そして年相応に悪戯っぽく笑った。

 

「嘘吐くの下手だもんね、ミツハ」

「うっ、じ、自分では割とちゃんと笑えてる! って思ってたんだけど」

「うーん。無理して笑ってるなあって思ってた」

「あからさまな作り笑いだったしな。下手クソなんだよ、お前」

「ううう……」

 

 下手クソな作り笑い、とは昨日何度もソーマに言われたがそこまでバレバレだったとは思いもしなかった。くすくすと可笑しそうにユウが笑った。

 一度ミツハ達のもとから離れてプレートを受け取ったユウはソーマの隣に腰掛ける。食事を取りながら、継続してミツハの事について話を進める。

 

「ブリーフィングの時に話す? ……あ、でもミツハは今日アサインされてなかったっけ」

「うん。だから先に防衛班のみんなに話そうかなーって思うんだけど……緊張で胃がキリキリする……」

「……第一部隊のみんなには僕から話そうか? 一応隊長だし、信じてもらえると思う」

「……お願いしていい?」

「うん、任せて。その代わり、タツミさん達としっかり話してきてね」

 

 ユウの言葉にミツハはしっかりと頷く。第一部隊に異動して以来、防衛班の面々とはまともに会話をしていない。アナグラに帰投しても部屋に籠るか屋上で空を眺めているかのどちらかが殆どだったので、会話をする機会をなくしていた、という言い方が正しいが。

 携帯を取り出し、防衛班長のタツミにメールを送る。返信はプレートに盛られたレーションを食べ終える頃に届いた。タツミ達が任務から帰投した後、ラウンジに防衛班を招集してくれるようだ。有難うございますと文字を打ち、送信する。

 

「頑張ってね、ミツハ」

「……うん。ありがとね、ユウ」

 

 優しく背中を押してくれる彼の言葉にはにかんで笑った。下手クソな作り笑い、とはもう言われなかった。

 

 自室に戻り、ずっと仕舞われたままだった通学鞄を久しぶりに出す。その中から学生証などを取り出し、髪の長い顔写真を見ると少し笑ってしまう。そしてミツハは何気なしに、クローゼットを開ける。そこにはもうずっと着ていない、高校の制服がハンガーに掛けられてた。

 

   §

 

 昼下がりにタツミからメールが届き、学生証とデジカメを持ってミツハはラウンジへ向かう。そこには既に防衛班の面々が集まっており、賑やかに雑談していた。そんな彼らの中へ混じるように、お久しぶりです、と声を掛ける。ミツハの姿を見ると一同は不思議そうな顔をした。

 

「お前、なんだその格好は。コスプレか?」

 

 からかうようにしてカレルがミツハを見やる。ラウンジへやって来たミツハは――高校の制服を身に纏っていた。紺色のブレザーにベージュ色のカーディガン。ストライプの入った赤いリボンに、リボンと同じ柄の赤いプリーツスカート。三か月ほど前までは毎日のように着ていた制服だが、いざ久々に袖を通すと懐かしさより恥ずかしさが勝ってしまう。

 

「……えっと、ですね。……と、とりあえずこちらをどうぞ」

 

 どうにも歯切れが悪くなってしまいながら、テーブルの上に持ってきた学生証と電源の入れたデジカメを置く。ミツハの生年月日が記された学生証と、人が賑わいビルが立ち並ぶ横浜の写真。タツミが学生証を手に取る。一九九三年の文字に、はっとしたようにミツハを見上げる。

 

「ずっとみんなに、隠していた事が、あって」

 

 緊張で震える手を誤魔化すように、ぎゅっとスカートの裾を握り締める。

 

「私、六十年前の世界から来ました。タイムスリップして、来ました」

 

 言葉にすると随分チープなものになる気がする。突飛な事を言い始めたミツハに、一同は呆気に取られたように何も言葉を発しなかった。

 

「オラクル細胞って、確か二〇四六年に発見されるものなんですよね。でも、二〇一一年の私に、P五十七偏食因子が突然変異で発生しちゃって。……博士が言うにはタイムパラドックスの修正の為に、私はタイムスリップしちゃった、みたいです」

 

 思えば自分自身からこの事を話すのは初めてだ。ユウは感応現象で知り、ソーマはヨハネスから聞いて知った。どう言っていいのかよく分からず、言葉は支離滅裂になっていないだろうかと不安になる。

 

「その、ちょっと前に私、行方不明になってたじゃないですか。休眠状態? とかよく分かんない事を言ってたと思うんですけど、嘘です。あの時、私の中にある偏食因子が、ちょっと色々あって一時的に身体からなくなっちゃってて。タイムパラドックスが一時的になくなったので、……その、行方不明の二日間、私は元の世界に、六十年前の世界に、戻ってました」

 

 シン、と先程の賑やかさが嘘のように静まり返る。

 途中で野次を入れられる事も、馬鹿らしいと話を中断させられる事もなかった。独白のようなミツハの突飛な話を、ただ黙って聞いていた。

 

「今までずっと、嘘を吐いてて、ごめんなさい」

 

 謝罪を最後に独白は終わり、沈黙が落ちる。防衛班とは思えない程の静けさだった。その静寂を打ち破ったのは、やはり班長のタツミだった。タツミはソファから腰を上げ、ミツハの前に立つ。

 

「ミツハ」

「はい」

 

 ――くしゃり。

 少し乱雑で、だが優しい手つきで、彼はミツハの頭をくしゃっと撫でた。

 

「話してくれて、ありがとな」

 

 そう言ってタツミは笑った。疑いも戸惑いも何もない笑い顔だった。その言葉にじわりと目頭が熱くなる。

 

「こ、んな、わけわかんないこと、信じてくれるんですか……」

 

 零れ落ちそうな涙を我慢しながら、そう問い掛ける。するとタツミは至極当然のように、寧ろそんな問いをするミツハを馬鹿だなあ、とでも呆れるように、笑った。

 

「仲間の事を信じてやれないで、どうするんだよ」

 

 ――敵わないな、と痛感した。今まで逃げ続けていた自分が本当に馬鹿だと思えるくらいだった。そうだ、防衛班とは、こういうチームだった。一見バラバラに見えるが、その根っこは深く固い絆で結ばれている。だからこそ、大好きなのだ。

 

 ぼろぼろと涙腺が壊れたように泣くと、タツミは宥めるように優しくミツハの丸い頭を叩いた。泣くなよ~、と困ったようにタツミが苦笑する。

 そしていつの間にか、しゃくりを上げる声はもうひとつ増えていた。貰い泣きしたらしいカノンが大きな瞳を揺らめかせていたのだ。

 

「ミツハちゃ、っ、うぅ、泣かないで下さい~!」

「なんでカノンちゃんが泣いちゃうの~……」

「だってぇ……」

 

 ぐずぐずに泣きながらカノンがミツハに抱き着く。上擦った声で互いの名前を呼び合った。

 

「ミツハちゃん、いっぱいお話しましょうね。わたし、聞きたい事がいっぱいあります。ミツハちゃんがどんな世界で過ごしていたのか、知りたいです。一緒にお菓子作って、一緒に食べて、いっぱい、お話しましょうね」

 

 目尻の涙をきらきらとさせながら、カノンが花のように笑う。おかえりなさい、と笑った屋上でのカノンの顔が重なった。今ならちゃんと「ただいま」と答えられそうだった。

 うん、と頷いてミツハもまた泣き笑いを浮かべる。そんな二人をシュンはあーあ、と呆れるように見ていた。

 

「……ぶっちゃけよく分っかんねえけど、こんなご時世じゃあ何が起きても、不思議じゃねえしなあ」

「いや、流石に不思議でない事はないだろう」

「物は言いようだろ、石頭!」

「ふふ、そうね。不思議は不思議だけれど、それで私達がミツハへの認識を改める事はないわ。そもそも神機使いに生い立ちや過去の事情なんて関係ないわ、ただアラガミをひたすら撃ち抜くだけなのだから」

「……なんだろうな。正しい事を言ってる筈なのにジーナが言うとちょっと違って聞こえるな」

「あら、そう? このご時世、悲劇の一つや二つ誰にでもあるものでしょう」

 

 タツミが苦笑するとジーナは首を傾げた。

 すっかり防衛班らしい賑やかさに戻っているその横で、カレルはずっと黙ってデジカメに目を落としていた。ピッ、ピッ、と操作する電子音が聞こえてくるので写真を一通り見ているのだろう。

 カレルがずっと無言なのが気に掛かり、涙を拭っておずおずとミツハはカレルに近づく。

 

「か、カレルさん? 何か気になる写真でもありました?」

「……この写真の場所、今で言うどの辺だ?」

「贖罪の街です。丁度私の学校があった場所がH地点の近くだったみたいで、なんとなーく面影感じる写真多いですよね」

 

 デジカメの画面に映し出されていたのは横浜駅周辺の街並みだった。雨上がりの学校帰り、駅に向かう最中で空に虹が掛かっていたので横浜の街と一緒に空を撮った時の写真である。

 ふうん、とミツハの言葉に相槌を打ったカレルはやけに真面目な顔をして言葉を続けた。

 

「このデジカメにある写真、貴重な旧世界の写真集として売れば金になるんじゃないか?」

「……なんていうか、カレルさんってほんとブレないなー」

 

 カレル・シュナイダーという男はこういう男だった。呆れるミツハを心外そうに鼻を鳴らし、カレルはデジカメをミツハに返す。

 

「金は大事だろ。少なくとも金がありゃ、生きやすくはなるだろうが。配給の飯が不味いなら上手い飯を金を払って買えばいい。戦うのが嫌になったんなら、大金積んで逃げればいい」

「…………」

「六十年前の物が溢れた時代に比べればさぞ不便だろうな、このご時世は。ならせめて、こんなご時世でも生きやすいようにしておけよ。金で解決出来る問題は金で解決しておけ」

「……初めてカレルさんがお金の事で良い事言ったなって感動してます」

「なんだとこら」

「あはは。でも、ほんとですね。目から鱗でした。カレルさんがお金に拘る意味も、ちょっと分かった気がします」

「なら投資でも始めてみるか? 良い儲け話があるんだが」

「絶対やだ~! この人ほんとブレないな~!」

 

 大きく首を振って断ると、そのやりとりを可笑しそうにタツミ達が笑った。

 久しぶりの防衛班の輪の中はとても息がしやすい。前よりもずっと、居心地が良かった。

 

   §

 

 防衛班の面々と別れ、ミツハは軽い足取りでエレベーターに向かう。第一部隊も任務から戻ってきている筈だ。ユウに礼を言いに行こうとベテラン区画へのフロアボタンを押す。

 するとゆっくりと閉まる扉に待ったを掛けるように、男女の揃った声で「ミツハ!」と大きく名前を呼ばれてびくりとした。

 

 慌てて開くボタンを押して外を見やれば、アリサとコウタがエレベーターへ駆け込んでくる。

 その様子から、二人がミツハに何を言いたいのかは簡単に察しが付く。

 

「……ユウから話聞いたよ」

「……驚いた? ていうか、こんな突拍子もない事信じれた?」

「当たり前じゃん! そりゃあ、まじで!? とは思ったけど、……なんだろ。妙に納得行った部分はあるかなあ。ミツハ、俺らとなんか雰囲気違うっつーか……。内部に住んでるからだと思ってたけど」

「……そうですね。この時代に似合わないくらい、ミツハって凄く柔和でしたし」

「にゅーわ?」

「辞書でも引いて足りない頭を補ったらどうですか」

 

 首を傾げるコウタにアリサは呆れたような冷たい目を向けた。少し前の刺々しい雰囲気を彷彿とさせて少し笑った。

 笑って、きゅっと唇を結ぶ。アクアマリンのような大きな瞳を見つめるとどきりとしたようにアリサが少し、たじろいだ。

 

「……その、アリサ、ごめん。感応現象が怖くって、今までずっと、避けて、ました。……本当にごめんなさい」

 

 エレベーターの扉が閉まり、ミツハの声は小さな箱の中に響いた。

 ゆっくりと動き出した箱の中、アリサはミツハの言葉に柔らかく微笑んだ。

 

「――いいんです。誰だって、知られたくない事ってあると思います。この世界で自分がたったひとりだって思ったら、怖くて動けませんよね」

「アリサ……」

「確かにちょっと寂しかったですけど、お相子です! 前の私の方がもっと酷かったですし!」

「俺に対しては今でも結構酷いと思うんだけど」

「コウタは黙ってて下さい」

「ほら~! 聞いたかよミツハ!」

 

 アリサとコウタが言い合いを始め、随分と賑やかになったエレベーターの中でふふっとミツハは二人を見ながら笑った。

 するとコウタが「久々にミツハの笑った顔見た」と安心したように笑い、その口元をにやっと湾曲させた。

 

「今朝久々にソーマと一緒に飯食ってたじゃん。ソーマとなんかあった?」

「ていうかユウだけじゃなくてソーマも知ってましたよね。ソーマと何かありましたね?」

「うーん内緒の方向で~!」

「ミツハはそうやって内緒ばっかりじゃないですか! いいです、今度カノンさんと一緒にミツハの部屋に突撃します。そして女子会開いて色々聞きます」

「何それ楽しそう。それ俺も混じりたい」

「女子会って言ってるじゃないですか。女装でもするんですか? ドン引きです」

「ほら~! 温度差がひでえ!」

 

 よよよ、とわざとらしく泣く仕草をするコウタに笑い、エレベーターはベテラン区画で停まった。それじゃあね、とエレベーターから出ると、いつかの日のようにエレベーター前の休憩スペースのベンチでソーマが缶コーヒーを飲んでいた。

 

 ――あっ、と後方からアリサの声がする。

 振り返るとコウタが閉まるボタンを連打しており、その隣でアリサが笑いながら――と言うよりにやつきながら手を振っていた。そして急かされるように扉は閉まり、エレベーターのランプは上へ向かって点滅した。

 

「……なんだあいつら」

「な、なんでしょうね、あはは」

「そういうお前もなんだよ、その格好」

 

 ソーマが制服姿のミツハを一瞥する。

 妙な恥ずかしさが生まれ、首元を摩りながら苦笑した。

 

「防衛班のみんなに話す時、この世界に来た時の服で話そうと思って……。学生証に写ってる写真も制服姿でしたし、そういうアレで」

「ああ……お前の学校の制服か」

「そうですそうです。三か月前まで毎日着てたのに、久々に着るとコスプレ感があってめちゃくちゃ恥ずかしいです」

 

 照れを誤魔化しながら笑う。「そうか」特に興味無さげに相槌を打たれ、それはそれで少々寂しいものがあった。面倒くさい女子の心境だ。

 

「この区画に何に用か?」

「あ、ユウにお礼言おうと思って」

「あいつならまだ部屋に戻ってねえぞ」

「えっ、そうなんですか」

 

 話を聞けばどうやら報告書に不備があり、ツバキに呼び出されているらしい。部隊長は大変だなあと思ったが、ここ暫く心配を掛けさせていたミツハ自身が彼の心労を増やす原因になっていたに違いない。

 申し訳なさを覚えながら、礼を言うのは明日のブリーフィングの時にしようと思い踵を返す。が、その途中で足はソーマの方へ向き直った。

 

「……そういえば、初めてソーマさんと会った時ってこの服でしたよね、私」

 

 二〇七〇年の十二月二十九日、贖罪の街のH地点。ヴァジュラに襲われた場所であり、ソーマと初めて会った場所である。

 その時ミツハが着ていたものと全く同じだ。紺色のブレザーにベージュ色のカーディガン。胸元で揺れる赤いリボンに、リボンと同じ色のプリーツスカート。

 

 違うのはマフラーの有無と髪の長さ、それと右手首に嵌る赤い鉄の腕輪。

 

「そうだったな」

「あの時、助けてくれて本当に有難うございました。ほんと、ソーマさんには助けられっぱなしですね」

「……そうでもねえだろ」

 

 缶コーヒーを飲み干したソーマは立ち上がり、ゴミ箱に缶を投げ入れる。ガコン、と綺麗に箱に入ったそれにナイスシュート、と呟けばくだらなさそうに溜息を吐かれた。

 ソーマは制服姿のミツハを見下ろし、何か思い出したようにふっと笑いを零す。

 

「え、なんですか」

「あの時の英語、クソみてえな発音だったなと思い出してな」

「英語? ……あー! だって、外国の人だと思って……! いや外国の人ですけど! ていうかソーマさんもそうですけど、明らかに外国から来た人もなんでみんな日本語ペラペラなんですか!? 翻訳コンニャクでも食べてるんですか!?」

「なんだそれは。ゴッドイーターは複数の言語を習熟するよう義務付けられているだろう」

「……英語の勉強始めます」

「そうしておけ」

 

 呆れた顔をしてソーマは噛み殺すようにして小さく笑う。年相応の、ミツハがもっと見たいと思った笑みだった。

 調子に乗って教えて下さいと笑って言えば、それぐらい自分でやれと断られてしまったが。そんなやりとりにもまた、ミツハは擽ったいように柔らかく笑った。

 



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第七章
48 嵐の前の騒がしさ


 実験動物でも見るかのような、檻越しに何度も見た父の冷たい目。

 今でも吐精する度に脳裏に浮かぶ、女の身体と熱い体温。

 化け物に課せられる〝実験〟。

 

 ――それらを、目にしたからだろうか。思い出したからだろうか。

 悪夢はこびり付いた錆のように、ずっとソーマについてまわった。

 

「――クソッ」

「わっ!」

 

 冷水を掛けられたかのようにして目を覚ますと、此方を見下ろしていたアリサが驚いた顔をした。荒れた波を落ち着かせるように長い息を吐くと、それは白い形になって空気に溶けた。

 

 鎮魂の廃寺での任務前。直前に別件の単独任務に赴いていたソーマは一足早く集合ポイントへ到着し、仮眠を取っていた間に仲間達が来ていたようだ。アリサは驚いた顔を取り繕うようにしながらソーマを見下ろした。

 

「ちょ、ちょっと、吃驚させないで下さいよ」

「ソーマが居眠りなんて珍しいね」

「魘されてたみたいだけど、大丈夫?」

「……ああ」

 

 追求されるのが面倒で適当に返事をすれば、コウタは物珍しいものでも見るように目を丸くした。

 

「おお? やけに素直だなあ!」

「五月蠅い、黙ってろ……」

「……いつも通りだ、大丈夫でしょ! さあ、行こうぜ!」

「どうして貴方が仕切るんですか」

「でもコウタが言うと元気が出るよね」

「だろー?」

 

 ユウの言葉にコウタがにやっと笑い、先陣を切って廃屋の二階から飛び降りた。それにユウ達も続き、ソーマも出陣しなければと億劫な身体を立ち上がらせると、赤いマフラーを巻いたミツハがソーマの顔を覗き込むようにして近づく。

 

「……大丈夫です?」

「しつこい、大丈夫だ」

 

 悪夢に苛まれるのはよくある事だと内心で付け足し、ミツハの言葉を切り捨てる。するとミツハは何を思ったのか、やけに凛々しい顔をして口を開いた。

 

「……大丈夫でもねえくせに、大丈夫だなんて言うんじゃねえよ」

 

 精一杯の低い声だったのか、言葉を発した後にけほっと小さく噎せていた。

 

「……何の真似だ」

「ソーマさんの真似です。似てました?」

「全然似てねえしなんか腹立つ」

 

 えー、と不服そうな声を漏らしながらミツハはクスクスと笑った。鼻先を赤くして小刻みに白い息を漏らす。その様子にソーマは呆れたように白い溜息を短く吐き、神機を担いだ。

 

「……くだらねえ。行くぞ」

「はーい」

 

 廃屋から飛び降り、先に行くユウ達と合流するべく積雪に続く足跡をなぞっていく。

 隣を歩くミツハは夜空を見上げて「一番星見つけました」と指差していた。つられてソーマも空を見上げ、星を見ると屋上で聴いた六十年前の曲が思い浮かんだ。不思議と、不快感は薄れていった。

 

   §

 

 支部長のヨハネスが、出張で欧州に飛ぶという話を耳にした。ヨハネスが不在だという事に安心感を覚える。これで暫くは呼び出される事もないだろう。

 結局ヨハネスとの一件はミツハの事情もあり、ソーマとサカキ以外に口外する事はなかった。それでもいつでも駆け込み寺になれるようにと、サカキの研究室のロックはミツハの腕輪認証で開けるように設定してくれた。時々用がなくても突撃訪問してやろうとミツハは小さな画策をする。

 

 本日全休であったミツハは自室のベッドでごろごろと横になる。ここ数日ソーマは単独任務で野営を続けているようで、数日前の鎮魂の廃寺での任務以来顔を合わせていない。そもそもあの日も直前に単独任務をしていたようだ。

 

――特異点探し、かあ。

 

 以前から単独任務で何をしているのか気にはなっていたのだが、その内容はヨハネスからの〝特務〟であり、特異点探しを続けているらしい。姿形も分からない特異点の捜索は難航しており、その焦りが生み出した結果が先日の〝実験〟だとサカキが言っていた。

 

 それからと言うものの、ソーマは以前に増して特異点探しに明け暮れているらしい。

 

 特異点が見つかれば、ミツハの偏食因子を利用して擬似特異点を生み出そうとする必要も無くなる。「ソーマなりに、ミツハ君を守ろうとしてるんだろうね」――と、腕輪認証の設定をしている時にサカキが笑っていた。

 あくまでサカキの言葉なので、ソーマの真意がその通りなのかは分からない。それでもその言葉を思い出す度に顔がふやけてしまうのは不可抗力だ。

 

 暫くベッドの上で堕落した休日を謳歌していたのだが、不意に携帯からメールの受信を知らせる音が鳴った。画面をつけて確認してみれば、メールの差出人はペイラー・榊。研究室に来て欲しいとの事だった。

 

――何の用だろう。

 

 定期検査の予定日は数日後の筈だ。小首を傾げながらボサボサになった髪を整え、ミツハは部屋を出た。

 エレベーターに乗って研究区画へ向かおうとする途中、ベテラン区画で一度エレベーターが停まった。

 

「あれ、ソーマさん帰って来てたんですか?」

「さっきな」

「そうなんですね、おかえりなさい。……なんていうか、お疲れ様です」

 

 扉が開いた先に居たのは、先程まで頭に浮かべていたソーマだった。その表情を見るに、特異点の捜索は空振りだったようだ。

 ソーマはフードの下に隈を隠しながらエレベーターに乗り込む。移動先のフロアボタンを押そうと手を伸ばしたが、その手がぴたりと止まった。

 

「……お前もサカキに呼ばれてんのか」

「も、という事はソーマさんもですか? んー、何の用事でしょう。偏食因子絡みですかね?」

「ロクでもない予感しかしねえな……」

 

 壁に背凭れたソーマが苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。そんな様子に苦笑しながらもエレベーターは進み、研究区画へ着いた。

 インターホンを押そうとしたが、直前であっと気付いたミツハは得意気にインターホンの上にあるフェンリルマークに腕輪を翳す。ピピッ、と音を鳴らしてロックが解除された。

 

「……腕輪認証させたのか」

「駆け込み寺になれるようにって博士が。これでドッキリ訪問出来るので、やりたかったらいつでも言って下さいね」

「やらねえよ」

 

 そんな雑談をしながら扉を開き、研究室の中に足を踏み入れる。インターホンを押さずに突然入室した事にお咎めは何も無かった。サカキは四台のモニターに囲まれた赤い椅子から立ち上がり、ミツハ達を出迎えた。

 

「やあ、呼び出してすまなかったね」

「今度は何の用だ」

「災い転じて福と為す、雨降って地固まる……という風にはいかないかい?」

「……何が言いたい?」

「まだこの中身を見てくれる気にはならないかな?」

 

 不機嫌を隠さないソーマの言葉に、サカキは狐のように笑いながら懐から小さな黒いディスクを取り出した。どういう意味だろうと首を傾げると、隣のソーマは舌打ちをひとつ落として無言で背を向けた。

 

「えっ、ソーマさん?」

「いや、待ってくれ! すまなかった、本題は別なんだ」

 

 サカキの慌てふためく声に、部屋から出ていこうとしていたソーマの足が止まる。肩越しに振り返ったソーマは射貫くような目つきでサカキを睨んだ。

 

「だったら最初からそう言いやがれ。……こいつの一件とその中身の件は別問題だろうが、混濁させるんじゃねえ」

「……そうだね、それは謝ろう。ただ、君がヨハンとアイーシャの事を誤解してるんじゃないかと思ってね。彼らは……」

「――くどいぞ!」

 

 その先を聞きたくない、とでも言うようにソーマが一喝してサカキの言葉を遮る。その声色の鋭さに思わずびくりとすると、ソーマはばつが悪そうに顔を顰めた。

 

 〝ヨハンとアイーシャ〟――二人の険悪な会話からその内容は何となく察する事が出来たが、察するからこそ誤解も何もないだろう、とミツハはサカキの言葉に反論したくなってしまう。

 思い出すのは、ヨハネスの氷の瞳だ。

 

「……そのディスクの中身って、あれですか。その……」

「ああ、十九年前のマーナガルム計画に関する会議の記録だよ。ソーマ自身に関わる事だからね、前々から見て欲しいと頼んでいるんだけれど……この通りでね」

「……チッ、やり方が気に入らねえんだよ。ユウにそいつの中身を見せただろう。余計な事しやがって……」

「ああ、まさかこんな大事な物を落とすとは……不覚だったよ。拾ってくれたのがユウ君で、実に良かった。彼は信用出来る。これからはユウ君も交えて、君達に特異点について色々頼む事になると思うけど、よろしく頼むよ」

 

 にっこりとサカキは貼り付けた笑顔で、まるで台本をなぞるかのように言葉を連ねた。辟易してしまいそうなその笑顔と口調に、ミツハは思わず苦笑を漏らした。

 

「いけしゃあしゃあと、よく言うぜ」

「……ソーマさんが狸って言う気持ちが分かった気がします」

「だろう」

「あ、でも初日に博士の事、食えないおっ――こほん。食えない人だと思ってたので、今更かもでした」

「なんだい、ふたりして酷いなあ」

 

 肩を竦めるサカキにソーマは眉を寄せるが、〝特異点〟の言葉を耳にして部屋から出ていこうとはしなかった。サカキの方へ向き直り、ソーマは面倒臭そうに勿体ぶっている〝本題〟へと話を促す。連日の野営と先程のサカキとの会話でどっと疲れているようだった。

 するとサカキはにこりと笑い、モニターを回り込んでミツハ達の前にやって来た。

 

「お疲れの所申し訳ないが、鎮魂の廃寺まで君達に護衛をお願いしたいんだよ」

「護衛、ですか?」

「一体誰をあんな所へ連れてけってんだ」

 

 ミツハ達が首を傾げると、サカキは胸を張って答える。

 

「――私だよ!」

「……えっ、博士が外に出るんですか!?」

「ミツハ君、それじゃあまるで私が引き籠りみたいな言い草じゃないか」

「実際籠ってんだろうが。……あそこに何の用があるんだよ」

 

 心外そうな表情を浮かべるサカキに、ソーマが訝しむ。

 フェンリルの頭脳であるサカキは滅多な事で装甲壁の外に出る事は許されていない。研究に必要な素材なども神機使いや調査隊に回収してもらうのが常なので、そんなサカキが直々に現場に赴くというのは余程の事があるのだろう。

 サカキはソーマの問いに、やはり勿体ぶるようにして笑った。

 

「行けば分かるさ。是非とも君達と一緒に行って欲しいんだ。損はしないと思うよ」

「……博士っていつも重要な所を言いませんよね。慣れましたけど」

「お楽しみは直前まで知らない方が良いものだろう?」

 

 そんなサカキらしい返しをされ、追及する事は出来なさそうだった。サカキが何を考えているのかよく分からないが、教える気もなさそうなので考えても仕方がない。

 じゃあ行きましょうか、とソーマと一緒に研究室から出ようとしたのだが、サカキが二人を呼び止める。

 

「待ってくれ。私がアナグラから出る所を誰かに見られるのはマズい」

「ああ? じゃあどうしろってんだ」

「ていうかマズいって事は秘密裏に行くんですね……」

「元々私達は秘密を共有した仲じゃないか。実はこの日の為に、準備してきたものがあるんだ」

 

 こっちに来てくれ、と手招きしながらサカキが部屋の奥の右手にある扉へ向かう。その部屋は普段ミツハがメディカルチェックを行う左手の扉の部屋と同じ広さをしているが、精密機械は全くなく、倉庫のような真っ白な部屋だった。

 そんな部屋に、大きなオラクル規格の密閉式コンテナが鎮座されていた。蹲れば大人一人は入れそうな大きさをしているコンテナだ。

 

 それを目にし、隣のソーマが馬鹿馬鹿しそうに頭を抱えた。

 

「……なんだこりゃ。おい、まさか……」

「そう! このコンテナに私が入るから、装甲車まで運んでくれたまえ!」

「お、思った以上にストレートな方法ですね!? えっ、密閉ですよね、これ。息って大丈夫なんですか?」

「ふふふ、心配は無用だよ」

 

 子供のような笑い顔を浮かべながら、サカキはコンテナのロックを外して蓋を開ける。そして中からオーストラリアだとかハワイだとかの海の魅力を伝えるテレビ番組ぐらいでしか見た事のない、スクーバダイビングで使うような器材を取り出した。

 レギュレーターと呼ばれるマウスピースのついた空気調整器からはV字型に小さなボンベが二つ後ろに伸びている。テレビで見たような形や大きさとは随分違っており、サカキのお手製だと言う事が分かる。今日の為にわざわざ用意したらしい。

 

「このボンベひとつの容量は二〇〇CCだ。二〇〇気圧で空気が充填してある。さて、ミツハ君。二つで空気何リットルになるかな」

「え!? え、えーと、二〇〇CC……それが二つで四〇〇CC……〇・四リットルが二〇〇気圧で……あれ、掛けるんだっけ、割るんだっけ……」

「……八十リットルだろ」

「そう! 八十リットルだ。ソーマは賢いね」

「馬鹿にしてんのか」

「こ、言葉が痛い……」

「じゃあ人間が一気圧下で一分間に消費する空気量はどれくらいか知ってるかい?」

「…………」

「そんなの体格や運動量でまちまちだろうが」

「成人男性の平均体格、安静時でいいよ。さてミツハ君、何リットルかな」

「……ソーマさんパス!」

「七、八リットルってとこじゃねえのか」

「正解だ! およそ七・五リットルだよ。つまりこの装置で平均的な男性なら十分四十秒呼吸出来る。それだけあれば、このラボから格納庫まで行ける筈だ」

「はあ……そうなんですね……」

 

 まるで一方的に殴られたかのようなクイズ大会は終了し、サカキはうきうきとした様子でコンテナに入り込んだ。呆れた様子でソーマが蓋を閉め、「なんで俺が……」と愚痴を漏らしながらソーマがコンテナを押して研究室から出ようとする。

 

「おい、さっさと行くぞ」

「……わ、私、文系だったので。あの、はい。化学基礎と生物基礎しか取ってなかったので! 気圧の問題なんて高校受験以来だったので!」

「置いてくぞ」

「わー! 待って下さい!」

 

 恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じながら、先を行くソーマの隣に並ぶ。エレベーターに向かう最中もミツハは己の学の無さを弁解していたが、ソーマはどうでもよさそうに適当に相槌を打つだけだった。

 うう、と羞恥に嘆きながら廊下を歩いていると、すれ違う職員達が怪訝な顔をしたので慌てて平静を取り繕う。エレベーター前に着くと何を思ったのか、ソーマは勢いよくコンテナを押してドアにコンテナを追突させた。

 ふごっ、と中からくぐもった悲鳴が聞こえ、ソーマは身を屈めて緊迫した声色でサカキに言葉を掛ける。

 

「保安部の連中だ。静かにしてろ」

「…………」

 

 念の為ミツハも辺りを見回してみるが、エレベーター前のスペースにはソーマとミツハ以外誰もいない。エレベーターが到着し、乱暴にコンテナを押してわざとらしく壁にぶつけるソーマにミツハは苦笑した。

 

「ソーマさんって案外意地悪ですよね」

 

 コンテナの中で息を潜めるサカキには聞こえぬよう、小声でソーマに言えば彼はほくそ笑んだ。ささやかな復讐らしい。

 

「散々迷惑掛けられてんだ、これくらいいいだろ」

「あ~この人確かに年下なんだな~って思いました。可愛いところありますね、ソーマさん」

「うるせえ」

 

 そっぽ向いたソーマが可笑しくてくつくつと笑った。

 暫くエレベーターは高速で地上一階に向かって上昇していたのだが、地下三〇〇メートル辺りの居住区でエレベーターが停まった。

 

 扉が開くと、第三部隊の面々がぎょっとしたように目を見開いた。ソーマとミツハだけなら特段目新しくもないのだが、コンテナの存在感があまりにも大きいのだろう。第三部隊は無言でソーマとコンテナを見比べた。

 

――き、きまずい。

 

 ミツハ一人であれば仲の良い彼らと同乗しようとスペースを開けたのだろうが、隣にはソーマが居る。そして何よりソーマを良く思っていないカレルとシュンが居るのだ。悪趣味だの性癖が歪んでるだのドMなどと言われた事をよく覚えている。失礼極まりない男どもだと今更ながらに腹が立ってきた。

 

 あれやこれやと考えているうちに無音の時間が過ぎ、エレベーターの扉が閉まりソーマが長い溜息を吐いた。面倒臭い連中が乗ってこなくて良かった、とその表情からひしひしと伝わってきたが、意外にもすぐに扉は開いた。扉の外にあるボタンをシュンが押し直していたのだ。

 

「なんだそれは」

 

 開いた扉の先でカレルがぞんざいに尋ねる。ぴりり、と険悪な空気を感じ取ってミツハは気が重くなった。隣のソーマも同様らしい。

 

「……見りゃ分かんだろ、コンテナだ」

「中身を聞いてる」

「死体でも詰まってんじゃねーのか? ミツハ、ついに死体処理手伝わされてんのかよ」

「ねえ、今の発言は流石に許せないんだけど! もー、乗らないならボタン押さないでよ、こっちは急いでるのー!」

 

 じろりと詰るようにカレル達を見やる。するとカレルの隣に居たジーナが今までのやり取りに呆れたような溜息をひとつ漏らし、エレベーターに足を踏み入れる。

 

「何が入っていても私達には関係ないわ。出動まで時間がないのよ、行きましょう?」

「チッ……地獄行きでない事を祈るぜ」

「普通に地上一階行きなので安心して下さーい」

 

 第三部隊が乗り込んで来た為、ミツハとソーマは脇へ詰める。大きなコンテナのせいで随分と手狭になり、シュンが鬱陶しそうに踵でコンテナを蹴飛ばした。

 突然の衝撃に驚いたであろうサカキのくぐもった声が中から響き、ミツハとソーマは肝を冷やす。狙撃のイメージトレーニングに夢中になっているジーナは気づいていないらしいのだが、カレルとシュンは訝し気に顔を見合わせる。

 

 ――まずい、とミツハは慌てて二人の間に割って入った。

 

「あ、あの、ねえカレル! この前旧世界の写真でお金がどうとか言ってたじゃん! あれ音楽でもいけない!? ほら、私六十年前の曲がいっぱい携帯に入ってるの!」

 

 そう言いながら、ミツハと一緒にタイムスリップをしてきた六十年前の携帯を取り出す。ロックバンドの曲を大音量で流せば「うるせえ!」とカレルに頭を軽く叩かれたが、不可解な音より金になるかもしれない音の方に意識が向いたようだ。曲を流しながら、カレルは考えるように顎に手を添えた。

 

「それ、アーカイブに残ってる曲か?」

「この前探してみたけど、残ってなかったよ。あのアーカイブ、六十年前の曲と言ったら誰もが知ってる国民的ソングぐらいしか残ってないし……」

「成程な……金になりそうだな」

 

 にやりとカレルは口元に弧を描かせる。うわー悪い顔してるー、と辟易しながら軽口を叩けば黙ってろと言いたげにもう一度頭を軽く叩かれた。そんなやり取りにシュンがケタケタと笑いながら曲に耳を傾けた。

 

「つーかお前、こういう曲聴くんだな。なんか意外だわ。恋愛ソング聴いてるイメージ強かったのによ」

「何そのイメージ……。友達の影響でロックバンドが好きなの。その友達に誘われて文化祭でバンド組んだ事もあるし……」

「ああ、それらしい写真あったな」

「……えっ!? あの、カレル、え、……見たの!?」

「デジカメにあった写真は最初から一通り見たからな」

「待って、え。最初からって、どの最初から……」

「日付が古い順から」

「中学の卒業式じゃん……!」

「セーラー服におさげだったな」

「もう喋んないで……」

 

 本日二度目の羞恥で顔を赤くする。ニヤニヤと馬鹿にするようなカレルの目線を感じるがこれ以上喋るとどんどんボロが出ると思い、ミツハはへの字に口を結んだ。

 丁度再生していた曲が終わる頃にエレベーターは地上一階に着き、カレル達から逃げるようにしてミツハとソーマは格納庫へ向かった。

 

「疲れた……」

「……まあこっちとしては助かったがな」

「何かトラブルがあったようだね? でも無事に此処まで来れば後はもう安泰だろう!」

 

 途中にある神機保管庫で受け取ったアタッシュケースを兵員室に積み込みながらミツハは愚痴を零す。ずっと蹲っていたサカキは身体を大きく伸ばし、アタッシュケースと一緒に兵員室に乗り込んだ。ジャンプをして後部ハッチを閉め、ミツハは助手席に座る。

 

「それでは今回も運転お願いします!」

「講習行っとけっつったろ」

「行きたいのは山々なんですけど余裕が無くって……」

 

 動き出した装甲車に揺られながらミツハは苦笑した。ソーマとその話をしてから暫くしてミツハは元の世界に戻り、帰ってきたかと思えば部隊異動に続いてヨハネスとの一件。気持ちの整理がついても第一部隊での任務は未だ慣れず、大型アラガミとの戦闘に疲れ果てて休日は今日のようにベッドに沈む一方だ。とてもじゃないが、講習会に行ける余裕がない。

 

 鎮魂の廃寺に着くまでの間、静かな装甲車内にBGMとして携帯で音楽を鳴らす。先程エレベーター内でも流したバンドの曲だ。

 暫くはその音楽だけしか響かない車内だったが、不意にソーマが口を開いた。

 

「……そういや、防衛班の奴らの反応はどうだったか」

「反応? あ、打ち明けた時のですか?」

「ああ」

 

 先程カレルと六十年前の曲でくだらないやり取りをしたせいで気になったのだろう。ミツハはフロントガラス越しに見える薄紫色の空を見上げながら、ふふ、と温かな記憶を思い出して笑った。

 

「なんていうか、拍子抜けするぐらいあっさり受け入れてくれました。仲間の事を信じてやれないでどうするんだよ、って。タツミさんが」

「……そうか」

「はい。やっぱり私、この人達の事大好きだなって改めて思いました。……カレルとシュンはあんな感じですけど、悪い人なんかじゃなくって。良い人……でもないけど。でもそういう、欠点とか口喧嘩も多いところ全部まとめて防衛班らしくって、好きだなあって」

 

 防衛班の顔ぶれを頭に思い浮かばせ、くすくすと笑う。一見バラバラに見えるチームだが、休日にわざわざ全員でラウンジに集まってお茶をするぐらいなのだ。その根の温かさと強さを、ミツハはよく知っている。

 

「戻りたいか?」

 

 此方を見ずに、ソーマが問う。その問いにミツハは一瞬口元を引き攣らせたが、それはすぐに解けた。

 

「……本音を言うと、そうですね」

「そうか」

 

 咎めるような声色ではなく、まるでそう答えるだろうと分かっていたかのような吐息交じりの穏やかな声だった。

 その声色に安堵する。バンドの曲を聴きながら、廃寺に着くまでふたりは他愛もない会話をぽつりぽつりと続けた。

 

「……バンドだとか卒業式の写真ってなんだ」

「内緒です」

「チッ……」

 



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49 邂逅

 鎮魂の廃寺に着いたのは、すっかり日が落ちてからだった。首元を吹き抜ける風の冷たさに、マフラーを取ってくればよかったと少し後悔した。

 

 装甲車から降り、神機を構えてユウ達のもとへサカキを連れていく。装甲車の中でサカキから、通常任務に偽装してヴァジュラとシユウの討伐をユウ達に命じていた事は聞いていた。本日ミツハが全休であったのも、もしかするとサカキが根回ししていたのかもしれない。第一部隊総出の事態に、ますますミツハはサカキの目的が何なのかと首を傾げるばかりだ。

 

 地上のアラガミはソーマに任せ、浮遊するザイゴートをブラストで撃ち落としつつユウ達が居る作戦区域のD地点へ向かう。遠くのエイジスが見える崖の上で、ユウ、アリサ、コウタ、サクヤの四人がシユウの死体を取り囲んでいた。

 ユウがシユウを捕喰しようと神機を変形させるが、それをサカキが止める。

 

「――それ、ちょっと待った!」

「……えっ、博士!? ソーマとミツハも!?」

「なんでこんなとこに?」

 

 滅多な事ではアナグラの外へ出ないサカキの登場にユウ達は随分驚いているようだった。首を傾げるユウとコウタにサカキは手招きをして笑う。

 

「説明は後だ。とにかくそのアラガミはそのままにして、ちょっとこっちに来てくれるかな?」

 

 サカキの言葉に不思議そうな顔をしながら、ユウ達と共に物陰に身を隠す。「何があるの?」声を潜めながらサクヤが尋ねてきたが、ミツハも詳しい事情は聞かされていないのだ。一緒になって首を傾げていると――サク、と雪を踏む音が聞こえた。

 

「――来たよ!」

 

 声の声量こそは小さいが、随分と興奮した声色でサカキが呟く。放置されたシユウの死体に目を向ければ、白い人影があった。

 

 雪のように白いショートカットの髪に、抜けるような青白い肌。ボロボロなフェンリルの旗をポンチョのように身に纏い、他は何も身に着けていない。冷たい雪の中だと言うのに、素足のままで足跡を刻んでいた。その足跡は小さく、背丈はミツハとほぼ同じくらいだ。

 

 そんな白い少女の手足は――真っ赤な血で染まっていた。

 

 少女はシユウの骸に飛び乗り、何やら死体を漁るように身を屈めた。一体何をしているのかとアリサ達と顔を見合わせたが、ソーマは何かを悟ったのか一番に飛び出した。それに続いてミツハ達も少女を取り囲むようにして近づく。

 

 先程少女が何をしていたのか――それは、すぐに分かった。

 少女はシユウの硬い翼の一部をもぎ取り、それを――〝喰って〟いたのだ。

 

 少女はごくんとか細い喉を上下に揺らし、ゆっくりと此方を振り向く。

 

「……オナカ、」

 

 あどけない、ソプラノの声だった。

 

「スイ、タ……」

 

 そんな可愛らしい声とは似つかわしくない、赤く染まった口元を拭った。

 

「……ヨ?」

 

 血に濡れた首を傾げながらたどたどしく言葉を紡ぐ少女は、なんとも異質だった。月明りに照らされた琥珀色の瞳と目が合い、ミツハは思わず後退る。

 

――なんだろう、この子。

 

 不思議な感覚がした。人の姿をした〝何か〟に狼狽えるようにミツハがまた一歩退くと、それを止めるように後ろから両肩に手を置かれた。緊迫した空気を壊すようなサカキの陽気な声が頭上から降ってくる。

 

「いやあ、ご苦労様! やっと姿を現してくれたねえ!」

 

 サカキは随分と上機嫌なようで、顔をいつも以上に口元をにやつかせながら少女に話し掛ける。最も、少女はあまり意味が分かっていないようで首を大袈裟な程に傾げるばかりだが。

 

「は、博士、」

「ふたりとも、此処まで連れてきてくれて有難う。君達のおかげで、此処に居合わす事が出来たよ!」

「……礼などいい。どういう事か説明してもらおうか」

「いや、彼女がなかなか姿を見せてくれないから、暫くこの辺一帯の〝餌〟を根絶やしにしてみたのさ。どんな偏食家でも、空腹には耐えられないだろう?」

「……チッ、悪知恵だけは一流だな」

「そもそも説明になってない……」

 

 訝し気な顔をするソーマとミツハをのらりくらりとサカキは躱し、ミツハの肩から手を離して少女の下へ歩み寄る。状況が飲み込めていないコウタがあの少女が何者なのかと尋ねるが、サカキは勿体ぶるように研究室で説明すると言い、この場での明言はしなかった。

 

「……餌、ってどういう事なんでしょう」

「う、うーん……あのシユウがあの子の餌、ってこと……?」

「私にもよく分かんない……でも、あの子食べてたもんね」

 

 アリサとコウタと顔を見合わせて頭を悩ませる。白い少女は相変わらずゆらゆらと身体を揺らしながら、ミツハ達の姿をそれぞれ見ていた。そしてその琥珀色の瞳はソーマを捉えて、何かが気になるようにじっと凝視する。

 

「……あの二人、何をコソコソしているんでしょう。怪しいです」

 

 少女の目線の先に居るソーマはサカキと何やら声を潜めて話をしていた。説明不足なこの状況にアリサは少々腹が立っていたのか、棘を含んだ声色で二人に声を掛ける。

 

「そこ、コソコソ何してるんです?」

「――ああ、ごめんごめん!」

 

 アリサの言葉にサカキがわざとらしい大声をあげて此方に向き直った。サカキはにっこりと胡散臭い笑みを浮かべ、耳を疑うような言葉を続けた。

 

「ちょっとソーマから人生相談を受けていてね。いやあ、初恋の悩み。誰もが通る道だねえ」

「は――」

「ええ!? ソーマが!?」

「マジで!?」

 

 衝撃的な言葉にアリサとコウタが大袈裟に驚く。

 

 ――初恋。

 

 その言葉の響きに、ミツハは開いた口が塞がらなかった。サカキの言葉にソーマも目を剥き、怒気を含んだ声で否定する。

 

「ふ、ふざけるな! 誰がそんな――」

「あ、あ、相手は誰なんです!? 私、貴方がミツハ以外の女の子と話してる姿見た事ないんですけど!?」

「うるせえ、黙ってろ! クソッ、付き合ってられねえ……」

 

 問い詰めるアリサからソーマは背を向け、神機を肩に担いで階段を下りていく。早足で階段の下へ消えていくソーマの背中を見送りながら動揺で固まるミツハの背中を、少し呆れたようにユウが軽く叩いた。

 

「……いや、嘘だと思うよ? こんな状況で、ソーマがそんな場違いな話をするわけないだろうし……」

「――あ、そ、そうだよね!? びっくりしたあ……」

 

 少し考えればアリサの不信感を誤魔化すための虚言だと分かる事だ。一瞬でも真に受けた自分が恥ずかしく、火照る頬を抑えながらミツハはソーマの後を追って階段を降りた。

 

 寺の境内を抜けるとミツハ達が乗ってきた装甲車が見えた。白い少女とサカキを兵員室に乗せ、乱暴にハッチを閉めるソーマの様子からして随分腹の虫が悪いようだ。そんなソーマにユウとサクヤが近寄る。閉じたハッチを不安そうに見ている。

 

「ソーマ、何なのあの子……?」

「博士、あの子を誘き寄せる為に、僕達にミッションを依頼したって言ってたよね。ひょっとして……」

「……サカキのオッサンに聞いてくれ。俺も何を企んでるのか、よく分からねえ」

 

 ユウはあの少女が何なのか、何か気づいているようだった。ミツハがユウに尋ねようとする前にソーマが運転席に向かい、「早く乗れ」とフードの下から覗くインディゴブルーが無言で訴えていたので、慌てて助手席に乗る。アクセルを踏んで動き出した車内に、行きと同じように携帯で曲を鳴らした。

 

「博士、ほんと何を考えているんでしょうね」

「あの狐が考えてる事は理解出来ん」

「狸の次は狐ですか」

 

 苦笑しながら、サカキの言葉を思い出す。サカキはあの少女を誘き寄せる為に、色々と根回しをしていたようだった。その上サカキが直々に赴いたのだ。それ程までに白い少女は特別な存在なのだろうとは察するが、その正体が何なのかはいまいちミツハには分からなかった。

 そして、もう一つ。サカキの虚言を思い出す。

 

「……ソーマさんって、恋した事ありますか?」

 

 ミツハの唐突な問い掛けに、ソーマはぴくりと眉を動かした。

 

「お前、なにオッサンの言葉を真に受けてんだよ……」

「いや、流石にあの場で恋愛相談してたとか思ってませんけどね!? ただ、まあ、……気になってしまいましてですね?」

 

 どうしても目が泳いでしまうミツハの心臓は妙な打ち方をした。そんなミツハを一瞥し、ソーマは馬鹿馬鹿しいとでも言うように溜息を吐いた。

 

「あるわけねえだろ」

「……そう、ですか」

「なんだよ」

「いえ」

 

 した事がない、ではない。あるわけがない、とソーマは言った。

 まるで自分とは無縁の事だと言いたげな言葉だった。

 

――それはそれで、なんだか寂しい気も、する。

 

「……そういうお前はどうなんだよ」

「えっ、この話続くんですか」

「てめえから言い出したんだろうが」

 

 まさかソーマからこの話題の続きが振られるとは思ってもおらず、ミツハはぎこちない苦笑を浮かべる。

 

「ご、ご想像にお任せします」

「此処で降ろすぞ」

「……あ……あり、ます……」

「元の世界でか」

「そう、ですけど……うう、もう許して下さい……思い出すだけでセンチメンタルになってくるので……」

「はあ?」

 

 俯きながら両手で顔を覆う。想い人に昔の恋愛事情を話すというのはなかなか拷問染みた事だった。

 良くも悪くも、ミツハは高校生〝らしい〟恋愛をしていた。思い出すと複雑な感情が腹の底に濁り、それを掻き消すようにミツハは携帯の音量を上げる。五月蠅くなった車内だが、ソーマには何も言われなかった。

 

   §

 

 アナグラに着き、第一部隊の面々はサカキの研究室に足を運ぶ。すぐに少女について説明されるかと思いきや、定位置の赤い椅子に座ったサカキは頻りにキーボードを叩いており、解析が終わるまで少し待っていてくれと興奮気味にモニターを見ていた。

 

 暫くソファに座りながら、ぺたんと床に座る白い少女を訝し気に見ていたのだが十分そこらでそれも終わった。サカキが椅子から立ち上がり、モニターを回り込んで少女の傍へやって来た。ミツハ達もソファから腰を上げ、少女を囲むようにしてサカキの前に立つ。

 

「いやあ、長らく待たせてしまって悪かったね」

「それで、この子は一体何なんですか?」

「アラガミだよ?」

「…………」

 

 サクヤの問いに、なんでもないようにサカキが平然とそう返した。

 けろりと吐かれた〝アラガミ〟という単語に一瞬静まり返り、そしてソーマを除いた全員で驚愕の声を揃わせた。

 

「あ、あの……今、何て……!?」

「ふむ、何度でも言おう。これはアラガミだよ」

「ちょっ!? まっ、あ、あぶっ!?」

「えっ、あ……」

「まあ落ち着きなよ。これは君達を捕喰したりはしない」

 

 危険を感じて身を引こうとするコウタとアリサに、サカキが可笑しそうに笑い掛ける。

 

「知っての通り全てのアラガミはね、〝偏食〟という特性を有しているんだ」

「……アラガミが個体独自に持っている捕喰の傾向……私達の神機にも応用されている性質ですね」

「その通り。まあ君達神機使いにとっては常識だね」

「……知ってた?」

「当たり前だ」

「勉強したよね」

 

 少し焦ったようにコウタはちらりとソーマとユウに問えば、呆れたような声が返ってくる。その様子にミツハは小さく苦笑しながら、説明の続きを聞く。

 

「このアラガミの偏食はより高次のアラガミに対して向けられているようだね。つまり、我々は既に食物の範疇に入っていないんだよ。……誤解されがちだが、アラガミは他の生物の特徴を以って誕生するのではない。あれは捕喰を通して、凄まじいスピードで進化しているようなものなのだ。結果として、ごく短い期間に多種多様な進化の可能性が凝縮される……それがアラガミという存在だ」

 

 講義のような説明を咀嚼して、理解する。サカキの言葉に、一同は呆気に取られたように白い少女を見やった。

 

 多種多様な進化の可能性。例えば、虎を捕喰したオラクル細胞はその特徴を取り入れ、結果としてヴァジュラという虎に姿を模したアラガミが誕生した。クアドリガは見た目通り、人工物である兵器を捕喰してその通りに進化した。

 

 ならば、このアラガミは。ヒトの姿を模したこのアラガミは、きっと――。

 

 辿り着いた可能性に、サクヤが信じられない、と言った声色でサカキに問う。

 

「つまり、この子は……」

「うん。これは我々と同じ、〝とりあえずの進化の袋小路〟に迷い込んだもの。――ヒトに近しい進化を辿ったアラガミだよ」

「……人間に近い、アラガミだと?」

 

 そう聞き返したソーマの声は、僅かに震えていた。

 

「そう。先程少し調べてみたのだが……頭部神経節に相当する部分が、まるで人間の脳のように機能しているみたいでね。学習能力もすこぶる高いと見える。実に興味深いね」

「――――」

 

 サカキの言葉に、ソーマだけでなくミツハも言葉を失った。

 

――()()()()

 

 人間の姿をしたアラガミが何なのか、ミツハは悟った。

 琥珀色の瞳を見て湧き上がった不思議な感覚は、きっと――〝世界から爪弾きされたもの〟同士の、ある種の同族意識だと理解した。

 

 サカキが話を続けるが、生憎と耳に入ってこなかった。ミツハはただ呆然と人の姿をしたアラガミを見つめる。少女はミツハと目が合うと、にこっと朗らかに笑った。

 

「――最後に、この件は私と君達第一部隊だけの秘密にしておいて欲しい……いいね?」

 

 呆然としている間にいつの間にやら話が終わっていたようだった。はっとして顔を上げたミツハは、狐のように底の知れない表情をしたサカキを見た。

 そんなサカキにサクヤが訝し気に声をあげる。

 

「ですが、教官と支部長には報告しなければ……」

「サクヤ君。君は天下に名立たる人類の守護者、ゴッドイーターが……その前線拠点であるアナグラに秘密裏にアラガミを連れ込んだと、そう報告するつもりなんだね?」

「それは……しかし、一体何の為に?」

「言っただろう? これは貴重なケースのサンプルなんだ。あくまで観察者としての、私個人の調査研究対象さ」

 

 言い負かすようにサカキがサクヤを問い詰める。たじろぐサクヤを他所に、サカキはにっこりと笑顔を浮かべていけしゃあしゃあと言葉を連ねた。

 

「そう! 我々は既に共犯なんだ。覚えておいて欲しいね」

「うわあ……」

「博士って本当……なんというか……」

 

 食えない人だ。アリサと顔を見合わせながらそう思った。

 そんな様子に気に掛ける事もなく、サカキは狐のようににこにこと笑いながら床に座る少女を見やる。そして、ソーマに顔を向けた。

 

「彼女とも仲良くしてやってくれ。……ソーマ、君も宜しく頼むよ」

「――ふざけるな!」

 

 叫ぶような声だった。

 

「人間の真似事をしていようと、化け物は化け物だ……!」

 

 その言葉が、誰に向けられたものなのか。その言葉に、どんな意味が込められているのか。

 ――痛いぐらいに、ミツハには分かってしまう。

 

 ソーマは少女から逃げるように、研究室を後にする。その小さな背を追おうとミツハも扉に足を向けたのだが、それをサカキに止められてしまう。

 

「すまない、ミツハ君。少し話したい事がある」

「……それは、今じゃなきゃ駄目ですか」

「じゃあ聞こう。今ソーマを追って、なんて言葉を掛けるつもりだい?」

「…………」

「……博士、その質問は意地悪だと思いますよ」

 

 咄嗟に言葉が出ず、唇を噛むミツハとサカキの間にユウが割って入った。すまない、と肩を竦めるサカキだが、相変わらず狐のような目をミツハに向けている。辟易しながらサカキの方へ向き直ると、にこりと笑ったサカキはユウ達に退室を促した。

 

「……それで、話ってなんですか?」

「この子の事でね」

 

 ユウ達が研究室から出ていき、部屋にはサカキとミツハ、そしてアラガミの少女の三人だけとなった。ミツハは少々不満げな顔を浮かべながらサカキに問う。

 

「……博士、この子って、〝特異点〟……ですよね?」

「ああ、そうだよ。よく分かったね」

「そりゃあ……人間に近いアラガミって、似たような事を最近聞いたばかりですし」

 

 〝ヨハンの目の付け所は流石だ〟――そう言ったサカキの意味が分かった。

 人間に近いアラガミが特異点になるのならば、限りなくアラガミに近い人間もまた、特異点に成り得るのかもしれない。ラットを見るヨハネスの目を思い出し、ミツハは振り払うように拳を握った。

 

「特異点って確か、終末捕喰を起こす鍵……なんですよね? 博士はなんで、支部長に秘密でこの子を……」

「言っただろう、個人的な研究だと。……すまないね、ミツハ君。深く追求しないでくれると有難い」

「……わかりました」

 

 きっと聞いても無駄なのだろう。素直に食い下がるミツハに、アラガミの少女は大きな声をあげた。

 

「……オナカスイタ!」

「わっ!?」

 

 暫く大人しく座っていた少女は突然立ち上がってそう叫んだ。びくりと驚くミツハとは反対にサカキは子供でもあやすように笑いながら、オラクル規格の小さな保管庫から何処か見覚えのあるヒレを取り出し、少女に手渡した。すると少女は嬉しそうにむしゃぶりつく。

 

「ゴハン! イタダキマス!」

「グボロの尾ビレだあ……美味しいの?」

「……オイシイ? ンー? ウマイ! イタダキマス、……マス? スル? イタダキマス、スルカ?」

「えっ、わ、私はいいよ」

 

 ずい、とヒレの一部をミツハに差し出すが丁重に断る。「ソウカ?」こてんと首を傾げた少女は、再びヒレを美味しそうに食べ始めた。

 

 この少女に尻尾が生えていたのなら、子犬のように大きく振っていた事だろう。夢中で食事をするその様子が、友人が飼っていた白いポメラニアンのように見えた。

 アラガミだとか特異点と言う事で少々身構えていたのだが、そんな毒気が抜かれる程の無邪気な姿だった。

 

「ミツハ君は、この子をどう思うかい?」

「……どう、って、言われても」

 

 口いっぱいに頬張る少女を見ながら、サカキがミツハに意地悪をするかのように問う。

 

「難しく考えなくていい。ソーマと同意見か、そうじゃないかって事だよ」

「…………」

 

 化け物は化け物だと言い切り、出ていったソーマを思い浮かべる。彼がこの少女を認めない気持ちは、ミツハにもよく分かる。認めたくないのだ。

 

 だって、そうだろう。

 姿形はどう見ても人間の少女そのもので、脳まであると言う。言葉を発し、此方の言葉も理解している。そんな人間のような化け物が、目の前に居る。

 

――じゃあ私達は、なんなんだろう。

 

 片や、アラガミ化した母親から生まれ落ち、生まれながらにして偏食因子を持った人間。

 片や、オラクル細胞由来の偏食因子が自然発生し、時代を飛び越えた人間。

 

 そんな化け物のような人間とこの少女の境は、何だと言うのだろう。何を以ってして、人間を人間たらしめるのだろう。何を以ってして、アラガミではないと言うのだろう。

 姿形。意思疎通。人間を、喰らわない。それが境だと言うのならば――。

 

 考え込むように、白い少女を見下ろす。すると琥珀色の瞳と目が合い、ごくんと喉を上下してミツハに飛びついてきた。

 

「イタダキマシタ!」

「わっ、え、ちょっ!?」

 

 ミツハの腰回りに抱き着き、その勢いに圧倒されて尻もちをついてしまう。愛らしい少女の見た目をしているとはいえ、その実態はアラガミだ。抱き着かれる腕のその強さに焦り、ミツハはサカキに助けを求めるように目で訴え掛ける。そんなミツハに、少女は首を傾げた。

 

「ンー……ミツハ?」

 

 たどたどしく、確かめるように名前を呼ばれた。

 

「え」

「みつは! ……ンン? ハカセ?」

「あっ、えっと、……ミツハ! 私、ミツハだよ。博士はあっち」

 

 そう言ってサカキの方に目を向ける。にこりと笑ったサカキに、少女はクイズに正解した子供のように、ぱっと顔を綻ばせた。

 

「ミツハ! ハカセ! ゴハーン!」

 

 それぞれを指差しながら、少女は楽し気に名前を呼んだ。学習能力がすこぶる高い、と言ったサカキの言葉を思い出す。これまでの会話から名前を聞き取り、もう個人を覚えたらしい。

 

「凄い、もう覚えたんだ」

「スゴイ? ウマイノカ?」

「う、美味くはないかな……? んー……偉い? 良い子?」

「エライ?」

「うん、偉い」

 

 子犬にしてやるかのように、少女の頭を優しく撫でてやる。すると少女はもっと撫でろと言わんばかりに手にすり寄り、エライ! と嬉しそうに笑った。

 そんな無邪気な姿に、思わず此方も笑いが零れてしまう。

 

――なんか、和むな。

 

 純真無垢。その言葉通りの少女だ。無邪気で真っ白な姿を見ていると、少女を拒絶したい気持ちが薄れてくる。

 

「……さっきの質問、ちょっと保留にしていいですか」

「おや、決められないかい?」

「ソーマさんがああ言った気持ち、よく分かるんです。分かるんですけど……普通じゃないのは、私も同じじゃないですか。だから、その、……ちゃんと考えたいなって」

 

 〝普通〟ではないアラガミ。〝普通〟ではない人間。化け物なのは、どちらも同じだ。

 ミツハの答えに、サカキは嬉しそうにくすくすと笑った。

 

「ミツハ君は向き合うんだね、この子と。ソーマと違って」

 

 声を荒げて出ていったソーマの背中は、随分と小さく見えた。迷子の子供のようにも見えた。人間の定義が、揺らいでいるのだ。

 ミツハは柔らかな表情を浮かべ、未だ腰に抱き着いたままの少女を撫でた。

 

「……ソーマさんって不器用じゃないですか」

「そうだね」

「だから、割り切ってこの子を完全に否定する、なんて器用な事、出来ないと思うんです。悩んで、考えて、迷うんだと思います。逃げたんならなりふり構わずとことん逃げ続ければいいのに、優しいから。それで結局、自分が辛くなるんだろうなあって……」

 

 それがソーマ・シックザールという男だ。ミツハはソーマの震える手を思い出した。温かな、優しい手を。

 

 そうだね、とサカキはもう一度頷いた。

 

「きっと、岐路に立っているんだろう。人間か、アラガミか。ソーマは子供の頃から自分が何者なのか、ひとりで悩んでいたようだしね」

 

 思い馳せるように、サカキが目を細める。幼いソーマの事をミツハはよく知らないが、想像はつく。ひとりで背負い込んで、眠れぬ夜を何度も過ごしたに違いない。

 だが、それは過去の話だ。

 

「でも、今のソーマはひとりじゃない。ミツハ君が居てくれるんだろう?」

「当たり前じゃないですか」

「言い切ったね。頼もしい事この上ないよ」

 

 肩を竦めてサカキが笑う。ソーマを追おうとした時、言葉なんて思いつかなかった。今でもなんて言葉を掛ければいいのか分からない。ミツハだってこの少女をどう捉えるか、まだ分からないのだ。

 

 それでも、分からなければ分かっていけばいい。

 

 ずっと話を聞いていた少女は内容をいまいち理解し切れていないのか、きょとんとした顔で「ヒトリッテ、ウマイノカ?」と首を傾げた。そんな様子に、ミツハは穏やかに笑った。

 

「ひとりはね、美味しくないよ」

 



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50 壊された未来

 世界を滅ぼす特異点であるアラガミの少女をアナグラに匿ってから一晩経った。

 エントランスは今日も神機使いや居住区の人間が世話しなく行き来している。全く以っていつも通りの風景だ。アナグラにアラガミが居る、という知らせは耳に入ってこない。一先ずその事にほっとした。

 

 本日はユウ、コウタ、ミツハの同期三人組で任務にアサインされていた。

 討伐対象はヴァジュラとグボロ・グボロの堕天種。大型と中型の堕天種討伐に対して、まだ入隊して三か月の神機使いにやらせるのかとミツハは気が重かったが、討伐班にとっては日常茶飯事らしい。ハードだなあ、と携行品の補充をしながらミツハは苦笑した。

 

 補充を終えてエントランスの二階に上がると、本日の同行メンバーであるユウとコウタが話をしていた。ブリーフィングを先に始めているのかと思いながら、ミツハは二人に声を掛ける。

 

「二人とも、何の話してるの? 私抜きでブリーフィングならちょっと怒るんですけど〜」

「あっ、ミツハ! 丁度いい所にー!」

「え、なに。どうしたの?」

「今コウタと昔の話しててね」

「昔?」

 

 二人に混じってミツハも話の中に加わる。階段横の柵に肘をつきながら首を傾げれば、コウタは子供のように目を輝かせながらミツハに笑い掛けた。

 

「アラガミが出てくる前の世界の話。すっげえ平和だったんだろ?」

「あ、それぐらい昔の話なんだ……てっきり子供の頃の話かと思っちゃった」

 

 アラガミが出現する前の、平和な世界。ミツハが生まれ育った、本来の世界だ。

 コウタの言葉に頷けば、そっかあ、と頬杖をつきながら天井を見上げた。

 

「ノルンにさ、旧世代の動画がいっぱいストックされてるログがあるんだよ。それ見てたら、昔はどんな事を思いながら過ごしてたのかなって気になって」

「ミツハが居た時代って、丁度その時代でしょ? 良かったら教えてくれないかな」

「別に何か面白いような事を思いながら過ごしてたわけじゃないんだけどなあ……。普通に学校に行って、普通に過ごしてたぐらいしか言えない……」

「俺らにとって普通じゃねえもんそれー! そもそも学校って何すんの、勉強だけ? そんなん俺ぜってー行きたくないんだけど」

 

 講義の事を思い出したのか、コウタが苦い顔をして口を尖らせた。六十年前の〝普通〟と、この世界の〝普通〟はあまりにも違いすぎており、何の変哲もない事がこの世界では特別な事になるのだ。

 そういえばそうだったなあ、と二日間だけ元の世界へ帰っていた時に痛感した幸せをミツハは思い出す。命のやり取りなど全くない、何の心配もなく明日を迎えられる、それが当たり前だった世界。

 

「学校は確かに勉強ばっかりだけど、ずっと机に齧り付いてるわけじゃないよ? 体育の授業だってあったし、文化祭とかもあるし」

「文化祭? なにそれ、お祭り?」

「うん、学校のお祭り。クラスごとに模擬店とか演し物やったりして、あと体育館でステージ発表したり……」

「FSDみたいな感じかー! いいな、楽しそうじゃん」

「え、FSD……?」

「年に一度、民間人にアナグラを開放するお祭りがあるんだよ。多分、ミツハの言う文化祭と似た感じだと思う。各部署が屋台を出したりステージイベントするんだ」

「へ~! そんなのあるんだ」

 

 フレンドシップ・デーという祭りは毎年七月の頭にあるらしい。夏祭り的な位置なのだろうとミツハは六十年前の横浜での大きな花火大会を思い出した。

 楽しみだね、と少し先の未来を思い浮かべて笑った。そんなミツハに、コウタが問い掛ける。

 

「ミツハさは、どんな未来を想像してた?」

「……どんな、って、うーん……? 普通に平和な時代が続くんだろうなあって思ってたし、夢だったカメラマンになって世界中を飛び回りたいなあ、みたいな、未来? ……どんな未来っていうより、自分の未来ばっかり想像してた」

 

 今思えば、自由に未来を描くというのはとんでもなく幸福な事になるのだろう。当たり前に平和な世界が続くと信じて疑わなかったから、存分に自分の将来を考えられたのだ。

 こんなご時世では、自分の将来の夢もそう簡単に描けない。生きるのに精一杯な世界で、自分の描ける未来はきっと限られている。

 

「やっぱ、考え方っつーの? それが違うんだな。俺は子供の頃からゴッドイーターになって、家族を守ってやるんだ! って事ぐらいしか、自分の未来なんて描いてなかったしさ」

「それは素敵な事だと思うけどなあ」

「でも、選択肢がないんだよ。ゴッドイーターになるぐらいでしか、自分の未来は切り開けないからね」

「……それもそっか。カメラマンとかそういう夢、描けないもんね」

「瓦礫しかないのに何撮るんだよって話だよな」

 

 可笑しそうにコウタが笑う。コウタは家族を守りたいという夢を描いて、神機を握った。ミツハの時代では、〝家族を守りたい〟という夢自体そうそう浮かばないだろう。守らなくとも、平和に生きていけるのだから。それが当たり前の世界だった。

 

 コウタは何か思い出したように、ポケットに手を突っ込んだ。そして布製のキャラクターストラップのようなものを掌に乗せる。そのキャラクターはコウタそっくりだった。

 

「見てよこれ! 妹が作ってくれたお守りなんだ」

「え、可愛い~! 妹ちゃん器用だね?」

「だろ~! うちのノゾミはまじ世界一可愛いから!」

 

 シスターコンプレックスのきらいがあるコウタは妹の事になると随分言葉が熱っぽくなる。

 ミツハの言葉に気を良くしたコウタはへへ、と笑い、お手製のお守りを大切そうにポケットにしまった。

 

「今度の休暇にはお返しにお土産いっぱい持って帰ってやるんだ!」

「コウタ、良いお兄ちゃんしてるよね」

「ねー。私一人っ子だったから、なんかそういうの良いなあって憧れる」

「僕も。兄弟とか欲しかったなあ」

「私がユウのお姉ちゃんになろうか? ほらほら一歳年上だし、お姉さんだし?」

「あはは……たまにミツハが年上って事忘れるんだよね……」

「確かに! 俺と同い年に見えるもん」

「十九になるんですけど……」

 

 けらけらと笑いながら雑談をしていたが、出撃の時間が近くなる。そろそろ行こうか、と柵から手を離して出撃ゲートに向かって歩き出した。

 

「あ、ねえコウタ。良かったら妹ちゃんのお土産にさ、六十年前の写真持って行かない?」

「え、良いの!? 六十年前の写真ってすげえ貴重じゃん」

「デジカメに入ってる写真現像すればいいだけだし、全然良いよ。任務終わったら、私の部屋でどれ現像するか選ぼっか」

「それ僕も行っていい? 六十年前の写真見てみたいし」

「勿論いいよ〜」

 

 ユウの言葉に頷き、ミツハは楽しそうに笑った。

 

――うん、話して良かったなあ。

 

 こんなにも昔の時代の話で盛り上がれるとは思わなかった。今までずっとひた隠しにしていた分、〝知ってもらいたい〟という意識が強くなっていた。

 

――私が居た世界の事、もっと知って欲しい。

 

 そんな平和な世界があったと、忘れてしまわれないように。

 

   §

 

 任務を終え、日が落ちてからアナグラに帰投する。〝煉獄の地下街〟と呼ばれるかつての戸塚駅地下街での任務だったのだが、茹だる暑さにミツハはすぐさま帰投後すぐにシャワールームへ駆け込んだ。

 

 煉獄の地下街はつい最近までは避難民や物資を流入する地下道として使われていたそうなのだが、地下を捕喰し続けたアラガミとぶち当たり溶岩が湧き出すようになったらしい。オラクル細胞による身体能力が活性している神機使いでなければ数分と居られない地獄のような場所であり、神機使いであっても嫌になる程の暑さである。

 

 シャワーを浴び、夕飯を食べてから部屋でデジカメを眺めているとインターホンが鳴った。扉を開けてみれば部屋着姿のユウとコウタがスナック菓子とジュースを持って立っていた。帽子を脱ぐと随分と印象が変わるな、とコウタを見ながら思う。

 

「お邪魔しまーす」

「お菓子パーティーだー!」

「いつの間にか趣旨が変わってるね!?」

 

 スナック菓子の封を切ったコウタ見ながらくすくす笑う。ソファに座り、テーブルを囲んで菓子をつまみながらデジカメをコウタに渡した。物珍しいものを見るように目を輝かせながらコウタはボタンを押し、小さな画面に平和な世界を映し出していく。

 

「なんかこのでっかい建物、見覚えある」

 

 一枚の写真でコウタの手が止まる。画面を覗き込むと、横浜駅近くの大きなビルが写り込んだ空の写真が表示されていた。

 

「多分それ、贖罪の街にあるおっきな穴が開いたビルだよ」

「あれが!? 見る影もないじゃん」

「というか、あの建物ってなんの施設だったの?」

「施設っていうか、百貨店だよ」

「ひゃっかてん」

「地下から最上階までぜーんぶ色んなお店が入ってるの」

「そんなに店要る?」

 

 コウタの返しに思わず苦笑した。それもそうだ。ブランドの違いなど、物が溢れかえっているからこそ出来る〝選択〟なのだ。様々な店の建物が立ち並ぶ横浜の街並みを、二人は圧倒されるようにずっと眺めていた。

 ピッ、ピッ、と写真を切り替えていく。有名な展望台から一望した横浜の街並み、みなとみらいの観覧車、なんとなく下校中に撮った猫の写真。

 他にも、様々な写真がデジカメの中には詰め込まれていた。学校行事の写真、生まれ育った町並みの写真、家族の写真。髪の長いただの少女が、写真の中では楽し気に笑っていた。

 

「なんか、すげーな」

 

 写真を見ながら、コウタが呟く。

 

「こんな平和な世界、本当にあったんだな。そんで、ミツハはそんな世界で生きてたんだよな」

 

 六十年。数字で見れば半世紀と少し。歴史の教科書を開いてみればせいぜい一、二ページ分ぐらいにしかならない年数が、まるで遥か昔であるかのように思えてしまう。

 それぐらいに、六十年前と六十年後では違い過ぎていた。

 

 スナック菓子をつまむ。美味しくはない。六十年前のコンビニにこの商品が並んでいたら、ミツハは絶対に買わないだろう。口の中の水分が一気に吸われてしまうそんな菓子を、ごくんと飲み込んだ。

 

「……帰りたいなあって、正直、思っちゃう」

「思って当たり前じゃん」

 

 そう、迷いなく即答された。

 

「だって、ミツハの家族も友達も居るんだろ? そりゃ、誰だって帰りたいって思うっしょ」

「ね。何も悪い事じゃないよ、ミツハ。だから、無理に隠そうとしなくて良かったんだよ」

「……やばい涙出そう」

「そういう所だよな~、ミツハが年上に見えないの!」

 

 二人の言葉に目頭が熱くなり、そんなミツハの姿にコウタがししっと笑う。からかうコウタを詰るようにじとりと見るが、年上の威厳なんてものがないミツハには対した威力もなかったらしい。コウタは気にせずデジカメに目を落とした。

 

「そういえば、この人って殆どミツハと一緒に写ってるよね。凄く仲良かったんだ?」

 

 話題を変えるべくか、ユウはミツハの隣で笑う女子高生を指差した。

 ミツハよりも背は高く、顔立ちも大人びているショートヘアの少女だった。

 

「えっとね、中学からの友達。千夏っていう子なんだけどね、まあ、うん。めちゃくちゃ仲良かったというか、し、親友? というか、なんというか」

「つまりすっごく仲良かったんだな」

「どんな子だったの?」

 

 少々気恥ずかしく、しどろもどろに話していたミツハにユウ達は可笑しそうに笑った。

 

「……千夏はね、なんていうか、かっこいい女の子! って感じの子。ロックバンドが好きでね、他校の人と一緒にバンド組んでて、時々ライブしたりしてたの」

 

 デジカメを取り、小さなライブハウスでの写真を映す。高校生バンドが集まって披露する小規模なフェスの写真だ。ステージの上でスポットライトに照らされながらギターを弾く友人を撮ろうと、奮闘しながらカメラを構えた記憶が蘇る。

 

「かっこいい子なんだけど、小さくて可愛いものが好きでね。ポメラニアン飼ってて、写真撮って〜ってよくお願いされてたなあ」

「ぽ、ぽめ?」

「ポメラニアン。犬の品種! ちっちゃくて可愛いんだよ〜!」

 

 デジカメの写真を切り替え、首を傾げるコウタに画面を見せる。毛玉のような真っ白い小さな犬を抱き抱える千夏の写真だ。

 ポメラニアンを二人は初めて見たようで、可愛い! と画面に食いついていた。

 

「たまに居住区で犬は見かけるけど、姿が全然違うね」

「ノゾミが見たら喜びそうだな~! これ現像してもらっていい?」

「いいよ~、他に何か欲しいのあった?」

「んっとなー……」

 

 横浜の街並みや観覧車の写真を選んでいきながら、スナック菓子をつまみながら思い出話を広げていく。髪の長いミツハの写真を見ては「懐かしい」と二人は笑い、そんな髪の長い少女が生きた平和な世界を目に焼き付けていた。

 

 スナック菓子の中身が空になった頃合でお開きとなり、その頃にはすっかり夜も更けていた。日中の任務が場所も相まってなかなかハードだった為か、思わず欠伸をするとコウタにも伝染ったらしく、大きな欠伸をしていた。そんな様子にユウがくすくすと笑う。

 

「そろそろ寝るかあ」

「遅くまでお邪魔してごめんね」

「全然いいよ、こっちも楽しかったし」

 

 おやすみ、と二人が出て行き、部屋にはミツハ一人となる。デジカメの電源を落とし、ミツハはベッドに寝転がった。

 

――千夏、どうしてるかなあ。

 

 親友の顔を思い浮かべ、彼女が好きなバンドの曲を流す。デジカメに残る写真には、確かに千夏が写るものが多かった。それだけ一緒に居たのだ。自慢の親友をユウ達に紹介出来た事がなんだか嬉しかった。

 懐かしさに胸をいっぱいにしながら、ミツハはそのまま眠りに落ちる。ギターの音が心地良かった。

 



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51 真夜中の談笑

 小学校の卒業と同時に引っ越した為、入学した中学校に同じ小学校の顔触れは居なかった。同じ旭区内に引っ越したのだが、元々住んでいた場所は希望ヶ丘町から離れた若葉台町だったので、若葉台小学校から希望ヶ丘中学校に進学した者は三葉一人だけだったのだ。

 同じ小学校の者同士で既にグループが出来上がっており、同じクラスになれて良かったと喜んでいた。そんな様子を少し羨ましく思いながら、三葉は廊下側の席で一人担任がやってくるのを待っていた。

 そんな時だ。後ろからトントン、と肩を叩かれた。

 

「ね、希望ヶ丘小の子じゃないよね? どこ小?」

 

 後ろを振り向くと、ショートヘアの少女が頬杖をつきながら笑っていた。

 

「あ、えっと、若葉台小。引っ越してきたの」

「え、じゃあ同小の子いないの?」

「うん、そうなんだよね……」

 

 眉を下げながら頷くと、少女は「うわー、それ辛いね」と三葉に同情するように苦笑した。そしてニッ、と白い歯を見せて朗らかに笑った。

 

「私、上原千夏。仲良い子とクラス離れちゃったからさ、ちょっと寂しいんだよね。良かったら仲良くしてよ」

「あっ、うん、こちらこそ! えっと、私は井上三葉。よろしくね、上原さん」

「上原さんって! 硬いよ、千夏でいーよ、千夏で」

「ち、ちなつ」

「うん。よろしくね、三葉」

 

 上原千夏は、カラッとした夏の太陽のような少女だった。

 その後は担任が来るまで他愛もない話をした。家はどの辺に住んでいるのだとか、入る部活は決めたかだとか。どうやら三葉が引っ越した家と千夏の家は近いようで、一緒に帰ろうね、と笑い合った。

 結局部活が終わる時間の違いでなかなか一緒に下校する事は叶わなかったが、朝は待ち合わせをして一緒に登校する仲になった。

 

 春も、夏も、秋も、冬も。三年間中学校まで続く道を並んで歩いた。同じ高校に進学したので、駅までの道をまた三年間一緒に歩いた。

 歩きながら、何を話していただろうか。大抵は今日の授業の話や、飼い犬の話。それと部活の話だったり、好きなロックバンドの話や写真の話が主だった。ギターが趣味の千夏がとてもかっこよく見えて、弾いている姿を撮ると今度は千夏が三葉の写真に「かっこいい!」と目を輝かせていた。

 

「バンド組んでCDデビューしたら、絶対三葉にジャケ写お願いするから! その時はよろしくね?」

「あはは、専属カメラマンみたいな感じで?」

「そうそう、そーんな感じ!」

 

 そんな夢のような〝未来〟の話もした。そんな日がいつか来ると信じていた。

 そんな、懐かしい夢を見た。

 

   §

 

「…………」

 

 夢から醒めると、未来の世界だった。

 

 のそりと重い身体を起き上がらせる。その際につう、と涙が頬を伝ったので手の甲でそれを拭う。

 時計を見るとようやく日付が変わろうとする時刻で、眠りに落ちてから二時間程度しか経っていなかった。眠気はある。が、どうにも眠るのが怖くなる。

 

――会いたいなあ。

 

 目を擦りながら、目尻に浮かぶ涙を殺す。気持ちの整理はついたが、だからといって諦められた訳ではない。こうして夢に見る。その度に会いたい気持ちが大きくなり、寂しさで打ち震える。

 以前と違うのは、寂しいと思って良いと、思えるようになった事だ。

 

 このまま寝たらまた夢を見るだろう。いっそもう朝まで起きていようかと思いつつ携帯をいじる。カメラロールを遡っていくと千夏が飼っていたポメラニアンの写真があった。その白い子犬の姿を見て、ミツハはアラガミの少女を思い出した。

 

――あの子も夜は眠るのかな。

 

 そう疑問に思えばどんどん気になってしまう。ミツハは携帯をだぼっとしたパーカーのポケットに入れ、スリッパを履いて寝間着姿のままで部屋を出る。深夜帯なので廊下の電灯は最小限のものしか点けられておらず、薄暗い静まり返った廊下をひっそりと歩いた。

 

 エレベーターを降下させて研究区画に足を運び、サカキの研究室のロックを腕輪認証で開く。中の様子を見るように薄く扉を開けると、ずっと薄暗い廊下に居たせいで眩しいくらいの蛍光灯の明かりが隙間から漏れて目を細めた。

 どうやら人が居るらしい。それが誰なのかは、花が咲くような明るい声ですぐに分かった。

 

「みつはー!」

 

 ミツハの姿を見てぱあっと顔を綻ばせたアラガミの少女だが、ミツハは少女よりも研究室のソファに座っている人物に目を剥く。あちらの方も突然訪れたミツハにぎょっとしたようで、フードで隠れていても驚いた表情がよく見えた。

 

「そ、ソーマさん!?」

「馬鹿、声がでけえしさっさと扉を閉めろ!」

「あっ、ご、ごめんなさいっ!」

 

 深夜帯の研究区画にそう人は残っていないだろうが、それでもアラガミの少女を匿っている部屋の入口で止まるのはあまりに迂闊だろう。慌ててミツハは研究室内に入り、扉のロックを掛けた。

 

「……え、な、なんでソーマさんが居るんですか?」

「サカキのオッサンにコイツ寝かしつけろって押し付けられたんだよ……」

「あー……お、お疲れ様です」

 

 ぐったりと疲れた様子のソーマにミツハは苦笑するしかなかった。

 寝間着姿で来てしまった事に少々、というよりかなり恥ずかしさを覚えながらソーマの隣に座る。ショートパンツから出た足を少しでも隠そうとパーカーの裾を伸ばした。

 

「こんな時間に何しに来たんだよ」

「ちょっと寝付けなくって」

「……そうか」

「はい」

 

 赤くなったミツハの目元を見てソーマは目を細めたが、寝付けない理由も泣いた理由も聞かれなかった。聞くまでもないのだろう。

 アラガミの少女は床に這っている配線のコードでじゃれているようだ。千切れてしまわないのか不安に思うが、ソーマが止めに入らないので心配ないのだろう。最も、千切れてしまってサカキが困ればいいと思っているのかもしれないが。

 

「なんか、子犬みたいで可愛いですよね」

 

 きゃっきゃっとじゃれるその姿はやはり千夏が飼っていた白いポメラニアンを連想させる。少女の姿を見ながら笑ったミツハに、ソーマな怪訝は顔をした。

 

「あいつはアラガミだろうが……」

「そうですけど……でも、見えません? ほら、ポメラニアンみたいで」

 

 言いながら、ミツハはパーカーのポケットから携帯を出す。カメラロールを遡り、ポメラニアンの写真をソーマに見せた。

 

「友達が飼ってたポメラニアンのブランちゃんです。ね、なんか似てません?」

「安直な名前だな」

 

 ブラン。フランス語で〝白〟を意味する言葉だ。白い犬だから、ブラン。安直な名前だが、名付けた時は中学生だった為フランス語というだけでだいぶかっこよく見えたのだろう。事実、犬を飼ったと話をしていた時の千夏は自信満々に名前の由来を話していた。

 そんな事を思い出していると、ソーマがぽつりとアラガミの少女を見ながら呟く。

 

「……お前はあれをどう思う」

 

 迷子の子供のような声だった。化け物は化け物だと言って突き放したものの、やはり悩んでいるのだろう。ソーマらしいな、とミツハは思った。

 

「……分かんないです。私もちょっと、混乱してて……なんか、よく分かんなくなってきますよね。色々と」

「……そうだな」

「なので考え中です。答えが出たら、ソーマさんにも言いますね」

 

 そう笑って言えばソーマは目を伏せた。だが、別にいいと拒否の言葉は出なかった。

 カメラロールを見返しながら、ミツハは俯くソーマに努めて明るい声で話し掛ける。

 

「ソーマさんって犬派ですか、猫派ですか」

「……前にも聞いてきたな、それ」

「定番の質問ですし。私は断然犬派です! 友達みたいに飼いたかったんですけど、お父さんが犬アレルギーだったんですよね。なので柴犬の抱き枕で我慢してました」

 

 言いながら、ベッドの上で横たわる柴犬のぬいぐるみの写真を見せる。中二の時に買ってもらったお気に入りの抱き枕だった。可愛いでしょう、と笑うとソーマは呆れたような顔をした。

 

「ソーマさんはどっち派ですか」

「どっち派って言える程犬も猫もこの辺に居ねえだろ」

「う、それもそうですね……猫の写真あったかなあ……」

「……ネコ? ウマイノカ?」

「た、食べ物ではないかな……あれ、でも中国とか食べてる国もあるんでしったっけ?」

「俺が知るかよ……」

 

 ミツハ達の話を聞いて気になったらしいアラガミの少女がソファに近寄ってきた。結局猫の写真はデジカメの方にしか入っておらず、代わりにポメラニアンの写真をアラガミの少女に見せた。

 

「犬、っていう動物でね? ペットとして可愛がってたんだよ」

「カワイイ?」

「うん、何て言うのかな……ちっちゃくて愛らしい……?」

 

 改めて〝可愛い〟という言葉の説明をするのはなかなか難しかった。首を傾げながら辞書に書いてあるような事を言えば、アラガミの少女はミツハとソーマを見比べた。

 

「みつははそーまより〝ちいさい〟から、〝カワイイ〟だな! そーま、あってるか?」

 

 自信満々にそう告げた少女は答えを確かめるようにソーマを見た。そんな少女の言動にミツハは悲鳴をあげそうになる。

 

――こ、この子はソーマさんになんて事を聞くんだ!

 

 変な声が出そうになった口を手で押さえて止め、恐る恐る隣に座るソーマをちらり見やる。否定されたらどうしよう、立ち直れそうにない。なんて怖く思いつつも、やはりソーマが何と答えるのか気になってしまう。ドキドキしながら、ソーマの言葉を待った。

 が、

 

「……くだらねえ事言ってないで、てめえはさっさと寝ろ」

「エー! オナカスイタ! ねむれないぞー!」

「…………」

「……なんだよ」

「いえ……」

 

――くだらないって言われるとそれはそれで……。

 

 不完全燃焼のような微妙な気持ちになりながら乾いた笑みを浮かべた。

 ソーマの有耶無耶にした答えに気が抜けてしまったのか、忘れていた眠気が主張し始める。隠れるように欠伸をしたがソーマに見つかり、溜息を吐かれた。

 

「おい……お前は此処で寝るなよ」

「寝ませんよー……そもそも今夜はあんまり寝たくないというか、なんというか……」

「……それでも部屋に戻って横になってろよ。明日も大型討伐にアサインされてんだろうが、休んどけ」

「うう……わ、わかりました。部屋に戻ります」

 

 そう言われてしまえば反論の術もなく、渋々頷いてソファから腰を上げた。扉へ向かうその途中で「おい」とソーマから声を掛けられ、振り向くと目の前が真っ黒に暗転する。ふわりと、温かな匂いがした。

 

「えっ、そ、ソーマさん?」

 

 乱雑に投げ渡されたはソーマのダスキーモッズだ。ばさりと大きなモッズを両手に抱え、ミツハは首を傾げた。

 

「そんな格好で夜中にうろついてんじゃねえよ」

「うっ、あ、ご、ごめんなさい、有難うございますっ。明日の朝返しますねっ」

 

 改めて言われると寝間着姿の格好に気恥ずかしくなり、身の丈には大きすぎるモッズに袖を通す。大きなモッズの裾はミツハの膝下まで届き、そんな姿にアラガミの少女はきゃっきゃっと目を輝かせた。

 

「オオ? みつはがそーまになったー!」

「ソーマさんになっちゃったよー」

「そーまはみつはにならないのか?」

「うーんならないと思うなあ……」

「……駄弁ってねえでさっさと帰れ」

「はーい。おやすみなさい」

「オヤスミ?」

「寝る前の挨拶だよ」

「ソウカ! オヤスミ!」

「うん、おやすみ」

 

 元気よく覚えたての挨拶をする少女に笑って手を振り、ミツハは研究室を後にする。部屋に戻る最中にも欠伸が出た。自覚していたよりも随分眠気が強いようだ。これでは朝まで起きられないだろうが、先程とは打って変わって夢を見そうだとは思わなかった。

 

――なんか、安心するなあ……。

 

 自室に戻り、モッズを着たままベッドに横たわる。その温かな匂いに包まれ、屋上でソーマに抱き締められた記憶が蘇る。思い出すと恥ずかしさやら何やらで顔から火が出そうだが、口元は不思議と緩んでしまう。

 この温かな匂いは、ミツハを酷く安心させるのだ。

 そんなこそばゆい感情に胸をいっぱいにして、ミツハは胎児のように小さく丸まって目を閉じた。

 



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52 はい、チーズ

 任務から帰投すると、ヒバリから声を掛けられた。どうやらサカキが第一部隊の皆を呼んでいるらしい。

 ソーマは何やら苦虫を噛み潰したような顔をして、お前らだけで行ってこいと先に部屋に戻ってしまった。サカキの用件は想像に容易い。あのアラガミの少女に関しての事だろう。

 

 研究室を訪ねるとアラガミの少女は個室から出ており、ぺたりと床に座り込んでいた。モニターに囲まれた椅子から立ち上がったサカキは第一部隊を出迎え、少女の傍に立った。

 

「今日君達を呼んだのは、この子の名前についての事でね」

「名前、ですか?」

「ああ、いつまでもこの子扱いでは色々と不便だからね。どうもこの手の名付けは得意じゃなくてね、代わりに素敵な名前を考えて欲しいんだが……どうかな?」

「どうかなー」

 

 サカキの言葉を真似するように、アラガミの少女は舌足らずに首を傾げる。そんな様子にユウはくすくすと笑いながら頷いた。

 

「いいですね、それ。でも僕もあんまりネーミングセンスに自信ないんですよね……」

「ふっ……安心しな、ユウ。俺、ネーミングセンスには自信があるんだよね」

「嫌な予感しかしないんですけど……」

「そうだな~、例えば……」

「例えば?」

 

 思いあぐねるコウタにミツハが聞き返す。するとコウタは何か良い名前が思いついたのか、表情をきりっとさせて自信満々に口を開いた。

 

「――ノラミとか!」

 

 一瞬、部屋の中が静まり返りコンピューターの起動音だけが響いた。

 

「……ドン引きです」

「ノラミか~……」

「ドラミちゃんみたい……」

「なんだよみんなして! じゃあ他に良いのがあるのかよー!」

「うーん……アリサ、どう? ロシアの言葉とかで何か良いのないかしら?」

「え、ええ!? 私ですか!?」

「なんだよ、自分のセンスを晒すのが怖いのか~?」

「そ、そんな訳ないでしょ! え、えーと……」

 

 矛先を向けられ、アリサは顎に手を当てて必死に考える。しかし、どうにも思いつかないようだ。うんうんと唸るアリサに助け船でも出すかのように、アラガミの少女は元気良く言葉を発した。

 

「シオ!」

「そ、それ! 丁度同じ名前を考えてたんです!」

「嘘吐け! ……えー、でもやっぱノラミでしょ」

「シオ!」

「……それ、貴方の名前?」

「そうだよー!」

 

 サクヤの問い掛けに、アラガミの少女――シオは嬉しそうに頷いた。

 

「どうやら、此処に居ない誰かが先に名付け親になってしまったみたいだね」

「え、それって……」

 

 ミツハ達はフードを被った男の姿を思い浮かべた。もしかすると、サカキは既にアラガミの少女に〝シオ〟という名前が付けられていた事を知っていたのかもしれない。だとしたら、ソーマが呼び出しを無視して一人で部屋に戻ってしまったのも頷ける。きっと茶化されると思ったのだろう。

 

 コウタは納得いっていない様子で、ノラミにしないかとシオに苦笑しながら尋ねたが「やだ」と一刀両断されてしまっていた。名付け親の座をソーマに取られてしまった事が悔しいらしい。ちくしょう、と嘆くコウタの姿が可笑しかった。

 

「シオ、かあ。良い名前つけるなあ、ソーマ」

「でもなんでシオなんだろう……お塩? 塩みたいに白いから?」

「多分、フランス語だと思いますよ」

 

 首を傾げるミツハにアリサが言葉の説明をする。「フランス語?」ミツハがそう聞き返すと、アリサは頷いた。

 

「シオって言葉、確かフランス語で〝子犬〟っていう意味ですから」

「子犬、か。そうねえ、確かにこの子、子犬っぽいものね」

「でもあの人がこんな名前を付けるなんて意外です……って、ミツハ? なんか顔が緩んでいますよ?」

 

 アリサの言葉に、思わず口元が緩んでしまう。

 フランス語で、子犬という意味。

 先日の深夜、研究室でソーマと話した内容を思い出した。

 

――好きだなあ、そういうところ。

 

 きっとミツハが研究室から出た後、ソーマが名付けてやったのだろう。その様子を想像するだけで微笑ましくなる。

 ふふふ、と零れる笑みを噛み殺しながら、ミツハはシオの名前を呼んだ。

 

   §

 

 その日の夜、もしかして、と思いながらミツハはデジカメを持って研究室へ足を運んだ。

 先日と比べて早い時間だった為、サカキは定位置に座ってモニターを眺めていた。サカキはミツハの姿を見るなりにっこりと笑い、入口から見て右手の扉を指差した。

 

「彼ならシオの部屋に居るよ」

 

 言葉通りに赤い扉を開ければ、シオとソーマの姿があった。

 

――やっぱり、気になるんだな。

 

 ああは言ったものの、こうして様子を見に来ているのだ。突き放し切れないソーマの優しさにミツハはふふっと笑った。

 

 倉庫だと思っていた部屋はどうもシオの為に作られた部屋らしく、防音設備が整っており壁も特殊な素材で作られているのだと言う。そんな真っ白な部屋の中は先日訪れた時よりも随分散らかっており、壁にはクレヨンで落書きまでされている。

 

「賑やかな部屋になりましたね」

「足の踏み場がないくらいにな」

 

 ベッドに腰掛けるソーマはシオを見下ろす。床にぺたんと座るシオはアラガミの素材がたっぷりと入ったバケツを両手で抱え、美味しそうにその中身を食べていた。相変わらず、子犬のように元気良く頬張っている。

 

「シオって、フランス語で子犬って意味らしいですね」

「……そうらしいな」

「良い名前ですね、ソーマさん」

「……知らん。コイツが勝手に自分でつけたんじゃねえのか」

「別にソーマさんが名付けたなんて誰も言ってないじゃないですか~、墓穴ですよソーマさん」

「帰れ」

「あはは、ごめんなさい」

 

 そっぽ向くソーマにくすくすと笑いながら、ソーマの隣に腰掛ける。拗ねたような仏頂面をフードの下から覗かせていた。

 

「何しに来たんだよ……」

「シオに猫の写真を見せようかなって思って。デジカメの方にはあったので」

「ねこ? しゃしん?」

 

 会話の内容が気になったのか、ご飯を食べていたシオの手が止まる。ミツハはポケットからデジカメを取り出し、シオに渡した。

 

「えっとね、この前言ってた猫って動物だよ」

「これがねこなのか? ちいさくてかたいなー」

「えっ? ……あっ、そ、それ自体はカメラって言って……あー! 食べないで! それはご飯じゃない! だめー!」

 

 大口開けてデジカメを食べようとするシオを慌てて止める。六十年前の思い出が詰め込まれているカメラが食べられてしまっては立ち直れそうにはない。

 シオの手からデジカメを没収し、どこも壊れた様子がない事に胸を撫で下ろした。

 

「あ、あのね? これはカメラって言って、写真を撮る為の道具であって、食べものじゃないんだよ」

「しゃしん、を、とる?」

「うん。えっとね、」

 

 首を傾げるシオにカメラを向けた。シャッターボタンを押し、パシャッと音を立ててシオの写真を撮る。そうして撮ったばかりの写真を画面に映し、シオに見せてやった。すると、琥珀色の瞳をきらきらと輝かせた。

 

「オオオー!? シオだ! これが〝しゃしん〟なのか?」

「そうだよ〜。なんだろう……時間を切り取って、閉じ込める? みたいな? 改めて写真の説明するって難しいですね……」

「……レンズを通して物体に反射した光なんかを拾って、それをカメラで焼き付けて可視化してんだよ。お前、写真が趣味のくせにその辺曖昧なのかよ」

「そ、そんなカメラの構造とか難しい事考えながら撮ってないですもん。それに時間を切り取るって言い方の方が夢がありますし!」

 

 呆れた顔のソーマに言い訳しつつ、過去に撮った写真をシオに見せる。興味津々に画面を見つめているので、もう食べられる心配はないだろう。

 

 撮影日が新しい順から見返していくと、月初めにソーマと鎮魂の廃寺で撮ったオーロラの写真が液晶画面に映し出される。「シオここしってるー!」と馴染みのある景色にはしゃぐシオだが、ミツハはその写真を見て「あ」と間抜けな音が口から零れた。

 夜空がメインである写真の隅、建物がある部分に白い人影のようなものが写っているのだ。

 

「そういえば、心霊写真だと思ってたこの人影って、もしかして」

「こいつだろうな」

「実はめちゃくちゃ惜しい所撮ってたんですね」

 

 思わぬ偶然に小さく笑った。突然索敵に行ったソーマの理由もよく分かったが、よもやこんな愛らしい少女が特異点の正体だとは思いもしなかっただろう。〝世界を滅ぼすアラガミ〟という言葉からは連想出来ない見た目だ。特異点捜索も難航する筈だと頷けた。

 

 暫くシオと一緒に写真を見返していたのだが、ある一枚の写真を見てシオは興奮気味に目を見開かせた。琥珀色の瞳がきらきらとしている。その瞳に映るのは、赤銅色の満月だった。

 

「これ、なんだ!? ツキがあかいぞ!?」

「……月食か」

「そうなんです! 二〇一〇年の十二月二十一日に皆既月食が見れたんですよ! なので写真部と天文部が合同で撮影会したんですよね。一眼には敵わないですけど、コンデジでもよく撮れてるでしょう~!」

「げっしょく?」

「……ソーマさん説明お願いします」

「お前なあ……」

 

 饒舌になったかと思えば急に大人しくなるミツハに、ソーマが溜息を漏らした。先日からソーマの前で学の無さばかり晒しているが、今更取り繕えるとは思えないので開き直る事にした。

 月食とは地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月に掛かる事より月が欠けて見える現象の事――と、ソーマの百点満点な説明をしっかりと聞いて覚える。しかしシオには少し難しかったようで、理解しきれていない顔をしながらももう一度月食の写真に目を落とす。赤銅の月がどうも気に入ったようだ。

 

「ツキって、こんなふうになるんだな。シオもみてみたい!」

「次の月食っていつになるんだろう……ソーマさん知ってます?」

「知らん。そんなもんいちいち確認してるわけねえだろ」

「で、ですよね。少なくともすぐには見れないかなー……」

「そうかー……」

 

 シオは残念そうにしょげた。分かりやすいその様子にミツハは柔らかい笑みを浮かべる。カメラに映る写真を眺めながら、子供をあやすように語りかけた。

 

「でも、だからこうやって写真に撮ってるんだよ。貴重な瞬間だったり、大切な記念だったり、楽しい思い出だったり。そういう忘れたくないっていう瞬間を切り取って、形に残して、思い出せるの。そしたら今のシオみたいに時間を飛び越えて、伝える事が出来るでしょ?」

 

 ミツハが写真を好きな理由はそれだった。

 始まりは小学校低学年の時だ。両親が作ったミツハのアルバムを見て、不思議な感覚が湧き上がった。赤ん坊の時の記憶は勿論ない、保育園の思い出も薄ぼんやりとしている。

 しかし、形には残っていた。写真に写る記憶にない自分の姿を見ながら、両親はこの時はこんな事があった、などと思い出話を広げていた。その話を聞くのが好きだった。写真の面白さにハマったのは、おそらくその時だった。

 

 ミツハの言葉をシオは目を真ん丸にして聞いていた。そして、少し惚けたようにまじまじとカメラを見つめる。

 

「しゃしんって、すごいな。うまく、いえないけど……スゴイ!」

 

 そう言って、シオは瞳を輝かせて笑う。その表情は幼い頃の自分を見ているようだった。

 

「なら、いっぱいしゃしんをとりたいぞ! シオ、ミツハたちとはなすの、スッゴクたのしいから!」

 

 弾けるような笑顔を見せ、シオはカメラを掲げた。撮って撮ってとカメラをミツハに渡し、ヘンテコなポーズを取る。無邪気な様子をファインダー越しに見つめ、シャッターを切る。パシャッ、と軽快な音がまた楽しいようで、きゃっきゃっと次の写真をとせがんできた。

 

「そーまもとろー!」

「や、やめろ、引っ付くな!」

 

 ベッドに腰掛けるソーマの隣に座り、その腕をぐいぐい引っ張る。あどけない少女の行動に、流石のソーマもたじたじとなっている。和むなあ、と二人の姿に微笑みながらカメラを向けた。

 

「はい、チーズ」

「おい馬鹿、撮んな!」

「ちーず? ちーず!」

「ソーマさんも笑って下さいよー」

「笑えるか!」

 

 撮れた写真には満面の笑みを浮かべるシオと、どこか照れたように此方を睨むソーマの姿が写っている。「そーま、へんなかおしてるな」と画面を見ながらシオが可笑しそうに笑うが、当のソーマはじろりと鋭い目でミツハを詰っていた。

 

「消せ」

「やーでーすー」

「つぎ! そーまがシオとみつはとってー!」

「……おら、撮ってやるからカメラ寄越せ」

「嫌ですよ、渡したら絶対消しますよね!?」

 

 渡せ嫌ですの押し問答を繰り返しながら、取られないようにとカメラを持つ手を背中に回す。

 すると、いつの間にか隣に来ていたシオがミツハの手からカメラを奪い、一歩下がって先程のミツハを真似るようにファインダーを覗いた。

 シオの突然の行動にミツハとソーマは面食らうが、次の瞬間にパシャッ! と軽快な音が小さな部屋の中に響く。切られたシャッターにミツハはぱちくりと目を丸くした。

 

「……しゃしん、どーやってみるんだ?」

「えっ? あ、えっと、ここの三角マークのボタン押して……」

 

 首を傾げるシオの傍に寄り、再生ボタンを押す。液晶画面には、今しがたシオに撮られたソーマとミツハの写真が映し出されていた。

 カメラを取ろうとソーマがミツハに詰め寄っていたが、シオの突飛な行動に目線はどちらもカメラに向けられている。フードに隠れてソーマの表情は見え難いが、ふたりとも随分間抜けな顔をしていた。

 

「これみたら、そーまとみつはがカメラとりあってたの、おもいだせるな」

 

 押し問答をしていた姿を思い出したのか、シオがくすぐったく笑う。そして、にぃーっと屈託のない表情を咲かせた。

 

「オモイデ、だな!」

 

 アラガミの少女。特異点。ヒトならざるもの。

 それでも、こうして写真に写る美しいものを見て感動している。写真を見返して、撮った瞬間を思い出して笑っている。思い出を、残そうとしている。その姿はミツハとなんら変わりなかった。

 

――同じ、なのかなあ。

 

 アラガミの少女。特異点。ヒトならざるもの。

 ――それが、気にならないくらいに。それが一体なんだと思うくらいに、シオの〝心〟は温かいものだった。

 その温かさに、思わず頬が緩む。ふふ、としまりが悪くなった口元から笑みを零し、ミツハはくつろいだ顔でシオを見つめる。ぱちくりと月のようにまんまるな瞳を瞬かせた後、シオはもう一度カメラを構えた。

 

「ちーず!」

 

 覚えたての言葉でファインダーを覗き、シャッターを切る。ソーマは呆れたように溜息を漏らしたが、止める事はしなかった。無駄だと諦めたのか、絆されたのか。後者であればいいなと、漠然と思った。

 



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53 蚊帳の外のバイキングデート

 シオをアナグラに匿ってから一週間が経とうとしていた。

 ミツハやユウ達が研究室に足を運んでシオと接していた為、スポンジのように吸収してどんどん言葉を覚えていくシオは見た目と同じ十代の少女と変わらぬ知識や言葉を身に着けていた。口調は相変わらずあどけないものだったが。

 

 この一週間、アナグラ内に変わった様子は何もない。いつも通り神機使い達が行き交うエントランスで、ミツハはターミナルと睨めっこをしていた。本日は事前に第一部隊に任務が出ておらず、各自で任務を発行しなければならないのだ。

 どの任務を受けようか頭を悩ませていると、そんなミツハの頭に重みが掛かる。ピンク色のブランドシャツが真横にあった。

 

「……重いんだけど」

「丁度良い肘置きがあったもんでな」

「誰が肘置きですか誰が」

 

 頭に置かれた男にしては細い腕を振り払う。身長が一八〇センチもあるカレルとは三十センチも差があり、頭の位置がカレルの肘より少し上ぐらいになるのだ。顔を見て話そうとすると首が痛くなるのが悩みの種だ。

 

「今から防衛任務?」

「ああ、エイジスのな」

「……それ私も同行したいなー、なんて」

「断る。取り分が減るだろうが」

 

 相変わらず報酬第一のカレルらしい答えが返ってきた。取り付く島もない返答にミツハは不満を漏らす。

 

「ええー! いいじゃん、取り分が減る代わりにちゃちゃっと終わらせて次の任務に行けばいいのに!」

「あ? じゃあお前付き合えよ、高額報酬の討伐任務に連れて行かせるぞ」

 

 ニヤリとカレルが口元を湾曲させる。目付きの悪さと相まってなかなかの悪人面だ。

 以前のミツハならば萎縮して引き下がっただろうが、第一部隊に異動してから大型の討伐任務にばかりアサインしている今ならば怯む程の内容でもなかった。

 

「別にいいよ、最近の任務内容そんな感じのばっかりだし」

「ハッ、華の討伐班は大変だなぁ?」

「正直防衛班に戻りたい……」

「愛しの死神が居るのにかよ」

「それとこれとは別だしソーマさんは死神じゃありませーん」

「チッ、面白くねえ奴」

 

 からかいをさらりと躱したミツハにカレルがつまらなさそうな顔をした。舌打ちを一つ落とし、ミツハに代わってターミナルを操作する。迷いのない手で贖罪の街でのボルグ・カムラン堕天種の討伐任務を発行していた。

 

「同行するからにはしっかり働けよ」

「が、がんばりまーす……携行品とバレットの準備してきまーす……」

「おう、早くして来い。ラウンジで待っとくぞ」

 

 大型の堕天種かあ、と苦笑いを浮かべながらカレルと別れた。

 よろず屋で携行品を補充し、ターミナルでバレットの準備をする。防衛任務の後に戦うボルグ・カムランは黄金に輝く荷電性の堕天種だ。火属性に弱く、破砕が効くので高火力の火属性バレットを用意してウエストポーチに詰め込む。攻撃習性と弱点部位の特徴を思い出しながら、ラウンジへ向かった。

 

「あれ、どっか行くの?」

 

 階段を上がると、第一部隊の男三人がエレベーターから出てきた。ちょっとね、と笑うユウは見覚えのあるコンテナを押している。

 

「えーっと、素材集めに。もうなくなっちゃったみたいで」

「……なるほど」

 

 随分ぼかした言い方だったが、コンテナの存在とソーマがやけに周りを警戒している様子から、恐らくシオの食糧確保だろうと察する。納得したミツハにコウタが笑い掛けた。

 

「ミツハも来る?」

「あー……私今から防衛任務に行くから、また今度で!」

「防衛任務? なんか緊急事態あったの?」

 

 居住区に何かあったと思ったのか、コウタは神妙な面持ちをした。此処最近はアラガミの変化が活発になっており、居住区外周のアラガミ装甲壁も対応し切れなくなっているらしい。

 家族が外部居住区に住んでいるコウタの不安を煽ってしまい、ミツハは慌てて首を横に振る。

 

「あ、違うの。ただ単に私が防衛任務したくって、エイジスの防衛任務に無理矢理カレルにお願いしたの」

「なんだ、そういう事か。居住区にアラガミが侵入したのかと思ったよ」

 

 ほっとしたようにコウタが胸を撫で下ろすと、ずっと仏頂面だったソーマが言葉に棘を含ませながら割って入ってくる。何処か呆れたような口調でもあった。

 

「おい……喋ってねえでさっさと行くぞ」

「お? なんだよソーマ、ノリ気じゃん」

「呑気な野郎だなお前は……」

 

 いくらコンテナで隠れているとはいえ、エントランスという人が行き交う場所にいつまでも居たくないのだろう。噛み合っていない二人に苦笑するとソーマが溜息を吐いた。

 

「本当、あのオッサン何考えてやがんだ……」

「ま、まあずっと狭い部屋に閉じ込めておくのは可哀想ですし」

「ユウと同じ事言いやがって……呑気な奴らだぜ」

「その分ソーマさんがメリハリ付けてくれるじゃないですか。役割分担ってやつです」

「分担も何も俺だけじゃねえかよ」

「頑張って下さい!」

「…………」

「いたっ、地味に痛いです」

 

 ぐっと親指を立てて笑えば、ソーマは呆れて物も言えないようで言葉の代わりに右手がミツハの顔の前に伸ばされた。曲げた中指の先を親指の腹に引っ掛けてから弾き出す、俗に言うデコピンだ。力の加減はされているのだろうが鈍い痛みに見舞われて額を押さえ、ふふ、と笑みを零した。以前では考えられない、他愛もないじゃれあいに嬉しくなる。

 

「……おいこらミツハ。先輩待たせておいて逢引きかよ。先にヘリ行っとくぞ」

 

 そんな風にふやけていると、カレルのやけに冷めた声が後方から聞こえる。振り向けば第三部隊の面々が少し離れた所からミツハ達を見ていた。くすくすと笑うジーナと白い目をするシュンに思わず顔が赤くなる。

 

「あっ、あいっ、――~ッもう! 今行くから! あ、あの、カレルの冗談は気にしないで下さいね!? そ、それでは!」

 

 流石に本人が居る目の前でからかわれるのは耐え難い。出撃ゲートに向かう第三部隊を追い掛けようと、ミツハはソーマに弁解をして慌てて駆け出した。

 神機保管庫に向かう彼らに追いつき、ミツハは恨めし気にカレルを睨む。

 

「そ、ソーマさんが居る前でああいう事言うのやめてくれない!?」

「さっさと来ねえお前が悪い」

「そうだけど……そうだけどぉ……!」

 

 赤く染まる顔を両手で覆いながら嘆いた。相変わらずシュンは珍妙なものでも見るような白い目をしており、うんざりしたような声色でミツハに問い掛ける。

 

「つかお前、死神と付き合ってんの?」

「付き合って! ない!」

「あら、そうなの? 仲が良いから、てっきりもう付き合ったのかと思ったわ」

「……そ、そう見えます? 見えちゃいます? やっぱり前とちょっと違いますよね!?」

「顔がうぜえ」

「痛い!」

 

 盛大ににやけているとカレルから頭を叩かれた。非難の声を上げればカレルはフンと鼻を鳴らしてそっぽ向く。

 そんな二人のやりとりを見ながら「仲が良い事ね」とジーナが薄く笑った。その言葉に嫌そうな顔をされたが。

 

   §

 

 防衛任務の後の討伐任務は流石にきついものがあり、倒せはしたが帰りのヘリの中でミツハは疲労困憊といった状態で背凭れていた。

 

 第一部隊は自力でバーストモードに移行出来ない旧型神機使いが二人に対し、リンクバーストが出来る新型神機使いが三人も居る。ミツハより新型の扱いに慣れているユウやアリサが率先してリンクバーストをしていたのだが、今日は新型がミツハしかいない。隙を見てはカレルやジーナ達にリンクバーストをしていたのだが、あまり慣れていない事をしたせいか疲れ切った身体が重かった。

 

「リンクバースト疲れた……」

「それ便利だよな。お前なんで防衛班抜けたんだよ」

「第一部隊ばっかずりいぞー!」

「私に言わないでよ……」

 

 今思えば、ミツハが第一部隊に異動した理由は〝新型になったから〟というだけではないのだろう。第一部隊は討伐班という別名の通り、基本的に上層部から発令された討伐任務を担っている。担当区域が予め決まっている第二、第三部隊より、ずっと動かしやすい筈だ。

 

 〝実験〟を上手く隠蔽する理由付けに討伐班に下される〝特務〟という言葉を使えば下手に詮索される事はない。突然姿を消したとしても、特務中にKIAになった、と言えばいいのだから。

 

――思い出したら憂鬱になってくる……。

 

 ヨハネスが欧州に飛んでから一週間近くになる。そろそろ帰ってくる頃かと思うと気が重くなるが、仄暗い考えを打ち消すように首を振った。

 ヘリはアナグラの屋上に着き、神機が収納されたアタッシュケースを持ってキャビンから降りる。エレベーターを待つ四人の影を夕日が長く伸ばした。

 

「久々にミツハと共闘出来て楽しかったわ。良かったらまた手伝って頂戴」

 

 到着したエレベーターに乗り込みながら、ジーナがふふっと笑った。

 

「取り分が減るから来るなって言う人がいるんですけど、いいですか? カレル・シュナイダーって名前の人なんですけど」

「リンクバースト要員でなら歓迎してやるよ」

「そんな事言っちゃう人にはアラガミバレットと間違えて普通のブラストバレット撃っちゃうかもしれなーい」

「誤射したら撃ち返すぞ」

「あら、撃ち合いするなら私も混ぜてくれない? 綺麗な花を咲かせましょ?」

「ジーナが言うと冗談に聞こえねーんだよ……」

 

 言い合いをしているとジーナが冗談めいて笑う。シュンが引き攣った口から零した言葉に同意するようにミツハ達も苦笑した。

 

 報告をしにヒバリのもとへ向かおうとエントランスの階段を降りていると、一階から上がってくるユウとソーマに出くわした。コウタの姿はない。シオを隠しているコンテナがない事から、恐らくサカキの研究室に行っているのだろう。

 げえ、とあからさまに嫌そうな顔をしたシュンは先に一階へ降りる。カレル達もシュンに続いたが、ミツハだけは足を止めた。

 

――あれ。

 

 フードに隠れたソーマの表情に、妙な違和感を覚えた。

 

「ソーマさん?」

「…………」

 

 小首を傾げて声を掛ける。ソーマは一度薄く口を開いたが、一文字に硬く結んでしまった。そのまま無言でソーマは立ち去ってしまう。すれ違いざま、迷子のようなインディゴブルーをミツハは見た。

 

「……何があったか聞いてもいい?」

「勿論。……というか、ミツハには一番聞いて欲しいな」

 

 困ったような顔をしながら、ユウが頷く。しかしここでは話しにくい内容なのか、「また後でね」と言葉を濁してユウはエレベーターに乗り込んだ。その背を見送り、ミツハは溜息のように息を吐き出した。

 

――シオと何かあったのかな。

 

 仲良くしていたのになあ、とポケットから携帯を取り出す。デジカメではなく携帯なら前面カメラがある為、簡単に自撮りが出来るので一緒に撮ったりしていたのだ。カメラロールに映る写真をぼんやり眺めていると、何してんだよ、と一階からカレルの声がした。

 

「早く神機預けろよ」

「あっ、うん。今行く」

 

 兎にも角にも、ユウから事情を聞かない事には始まらない。ヒバリに神機が収納されたアタッシュケースを預けて自室に戻った。ベッドに寝転びながらカメラロールを見返していると、フェンリルから支給された方の携帯にメールが届く。差出人はユウからだった。

 



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54 ボーダーライン

「お邪魔しまーす」

「呼び出しちゃってごめんね」

「いいよ、全然」

 

 夕食後、ベテラン区画に足を運んでユウの自室を訪ねた。

 新人区画からベテラン区画へ移ったユウは前リーダーであるリンドウの部屋を使用しており、ユウの趣味ではないようなものも目立つ。曰く、なかなか片付けられないそうなのだ。

 そんな、何処と無くリンドウの面影を感じる部屋にはコウタの姿もあった。フェンリルマークが描かれた黒いジャージを身に纏ったコウタはソファに座りながら、頬杖をついて何やら頭を悩ませていた。どうしたの、と隣に腰掛けて声を掛ける。

 

「ソーマの事、ユウから聞いてさ」

「……そっか」

 

 話したのか、と少し意外に思ったが、コウタにソーマの事を誤解させたままでいるのも良くないだろう。

 ソーマの生まれの事。事故の事。偏食因子の事。

 それらを聞いて、コウタはどう思ったのだろうか。

 

「そんなもん、ずっとひとりで背負って、かっこつけてんじゃねえ! ……って、正直思った」

 

 そんなミツハの心情が分かりやすく顔に出ていたのか、コウタは苦笑しながらミツハの無言の問いに答える。コウタらしい答えだと思ったと同時に、言いようのない安心感が生まれた。

 

「……そうだよね、その通りだよね」

 

 ひとりで背負う必要などない。しかし、なかなかどうしてソーマ・シックザールという男は不器用なのだ。

 

――もっと、頼ってくれればいいのになあ……。

 

 そう寂しく思ってしまう。それでも、何処か縋るように薄く開いた口は、頼ろうとした証だろう。以前のソーマならば、きっと一瞥すらもせずに立ち去った筈だ。そういう男だったと、ミツハはよく知っていた。

 

「……それで、ソーマさんは今、何をひとりで背負っているのかな。……予想はちょっと、つくけど」

「……シオの事でね」

「やっぱり」

 

 L字のソファに腰掛け、ユウが話をし始める。その内容はミツハ自身、身を抉られるものがあった。

 

 愚者の空母にて、倒し終えたアラガミを捕喰するシオが、「一緒に食べよう」と無邪気にソーマを誘ったのだ。シオ曰く、ソーマのアラガミは食べたがっていると言って。

 その言葉が、ソーマの琴線に触れたのだろう。化け物と一緒にするなとソーマは声を荒げ、背を向けてしまった。帰りのヘリの機内がさぞ重い空気になっただろうと想像に容易い。

 

「ソーマさんのアラガミ、かあ」

 

 話を聞き、ミツハは溜息を吐きだすように呟いた。

 ソーマの持つ偏食因子はP七十三という、一般的な神機使いに投与されるP五十三偏食因子やミツハの身体に発生したP五十七偏食因子よりもずっとオラクル細胞に近い偏食因子だ。

 だからこそ、ソーマはどの神機使いよりアラガミに近い位置に立っている。その曖昧なボーダーラインに立つ恐怖は、ミツハもよく知っている。

 

「……ソーマさんがシオを否定したい気持ちも、ちょっと、分かるんだよね」

「ミツハも、やっぱシオはただのアラガミだって思うの?」

 

 少し寂しそうな顔をしてコウタが言う。シオを妹のように可愛がっているコウタは、シオをただのアラガミだと見なすのは悲しいのだろう。

 その言葉に、ミツハは首を振った。

 

「ただのアラガミだとは思ってないよ。……ただのアラガミじゃないから、その、なんていうか、怖いんだよ」

「怖い?」

「私もソーマさんも、少なくとも〝普通〟の人間じゃ、ないでしょ? ……アラガミに近い人間、だから」

「アラガミに近いって……ソーマがそう思ってんのは分かるけど、なんでミツハもそう思うんだよ」

「聞いてない? 私の偏食因子、……自然発生してるんだよ」

 

 自然発生――その言葉に、コウタは言葉が詰まったように唇をきゅっと結んだ。

 普通の神機使いは、投与によって偏食因子を持つ。潜在的に神機使いの素質があるゴッドイーターチルドレンは、神機使いの親から偏食因子を受け継いでいるのだ。間違っても自然に生まれるものではない。オラクル由来のものが自然発生するなど、それこそアラガミぐらいでしかありえないのだ。

 

 P七十三に比べれば、P五十七のオラクル活性は劣る。オラクル細胞に近いという意味では異なるが、ミツハだって違う意味でアラガミに近かった。

 震えそうになる声を抑えながら、ミツハは言葉を続ける。部屋は静まり返っていた。

 

「……人間に近いアラガミが、怖い。だって、何が人間なのか、よく分からなくなっちゃうの。……シオは、確かにアラガミだけど、人を食べないし、意思疎通だって出来る。私達となんら変わりなくて……変わらないから、自分が本当に人間なのか、分からなくなる。……偏食因子が自然発生して、自己生成もしてる私は、人間なんかじゃなくて、……アラガミなんじゃないか、って」

 

 人間か、アラガミか。その定義が、天秤が揺れ動く。

 きっとこの怖さは、ユウやコウタには分からない。だって彼らは〝普通〟だ。だから、彼らはただ黙ってミツハの言葉を聞いていた。否定も同調も何もせず、それでも〝普通〟ではない者の気持ちを少しでも知ろうと、真剣に耳を傾けている。

 

「でも、シオを見てると……なんだろう。和まない? 無邪気で、真っ白で……純真無垢って言葉が本当に似合うよね」

 

 重い空気を変えるように、努めて明るい声でユウ達に問い掛ける。ずっと静かに聞いていたユウはミツハの問いに深く頷いた。

 

「……うん。それは僕にも分かる。可愛いよね、妹が出来たみたいって思う」

「確かに! 妹みたいだよね、シオ。名前を呼んだら笑って返事をして、子供みたいにどんどん言葉を覚えて、写真を撮ってはしゃいだりして。……そんな姿を見てたら、人間とかアラガミとか、関係ないのかなあって、思ったりもする」

 

 思い出だと言って、写真を撮るシオの姿が脳裏によぎる。シオの心は人間より人間らしく、温かかった。

 

――そう感じてるのは、きっとソーマさんも同じだ。

 

 そうでなければ、名前など付けてやらないだろう。わざわざ部屋に訪れたりしないだろう。写真に写るソーマの顔は、決して嫌悪感に塗り潰された表情をしていなかった。

 

 だが、認めたくないのだ。人間に近いアラガミを。そうしなければ、自分が何者なのか分からなくなってしまうから。

 

「その、ソーマさんも悩んでるんだよ、きっと。自分の事と、シオの事で。化け物だって拒絶しても、切り捨てられなくって。……だから、ひとりでぐるぐる悩んじゃうんだよ」

「……やっぱり、ミツハってソーマの事よく見てるよね」

 

 柔らかくユウが笑みを零す。カレルからソーマの事で何を言われようとからかわれているだけなので恥ずかしさもないのだが、真面目なユウから言われると照れが出てしまう。

 

「えっ、そ、そうかな」

「うん。ソーマの事を話してる時のミツハ見てたら、こっちが照れてくるくらい」

「な、なにそれ~……」

 

 そんなに分かりやすい顔をしていたのだろうかと、両頬を手で押さえた。むにむにと頬肉を揉んでいるとコウタは可笑しそうに笑った。

 

「ミツハって、本気でソーマの事好きなんだな」

「ほ、本気じゃないと思ってたんですかコウタ君」

「いや、んー……なんていうかさ。……なんでミツハはソーマの事好きなんだろうって、不思議だったんだよな。あいつ、感じ悪いじゃん。あえてそうしてたんだろうけど、突き放すような態度ばっか取るしさあ。ソーマのどこが良いんだろうって、正直思ってた」

 

 ごめんな、とばつが悪そうな顔をして謝る。だが、その疑問は大抵の人間が思っている筈だ。

 事実、死神と呼ばれているソーマに近づくミツハは〝物好き〟と呼ばれ。ふたりで食事を取っていると奇妙なものでも見るような眼差しを向けられる。冗談交じりだが、カレル達からは悪趣味だのなんだの言われる始末だ。それはきっと、ソーマの外側しか知らないからだろう。

 

「……私も最初はソーマさんの事、怖い人だと思ってた。もっと、血も涙もないような人なのかなあ、って。そんな風に、思ってた」

 

 この世界に来たばかりの頃。まだ髪が長かった頃の話だ。

 命の恩人ではあるが、良い印象はあまりなかった。表情は常に目深に被られたフードのせいでよく見えず、不愛想で突き放すような口調と圧倒的な強さ。それらが相まって、血も涙もない非情な男なのだと思っていた。

 

 エリックが殉職した日――訓練所で人知れず悔やむ姿を見るまでは。

 

「その時のソーマさんの背中がずっと小さく見えて……なんか、泣きたくなった。この人のどこが死神なんだろうって、ソーマさんを死神だって言う周りにもやもやした」

「……あいつ、すっげえ淡々としてたのに」

「手負いの獣みたいだよね。自分の弱さを周りに見せたくないんだよ」

 

 その弱さを少しでも、曝け出してくれれば良いなとミツハは思う。

 

「そんなソーマさんを見てたら、ひとりにさせたくないなあって思って。……同情もあったんだと思う。でも、ずっとひとりで背負い込んでるものを私も一緒に分かち合いたくなって、もっと笑って欲しいなあって、……思い、まして……ですね……」

 

 話しているうちに恥ずかしくなり、言葉が尻すぼみになる。

 ソーマをどうして好きなのか、改めて言葉にすると難しいものがあった。終わりは明確だが始まりが曖昧なのが恋というものだろう。はっきりと恋に落ちた瞬間というものはなく、ソーマ・シックザールという男を知っていくうちに、愛おしさが込み上げてきたのだ。

 

 誰よりも不器用で、誰よりも優しい男を、ただ抱きしめたかった。

 

「愛だね」

「愛だなあ」

「…………うう」

 

 感嘆に近い声色で二人が呟く。からかわれている訳ではないのだが、だからこそその言葉にますます頬が紅潮し、気恥しさに耐え切れず逃げるようにソファから腰を上げた。

 

「か、かえる……恥ずかしくて死にそう……」

「顔が林檎みたいになってるぞ〜」

「い、言わなくていい……お邪魔しました! また明日!」

 

 ニヤニヤと笑うコウタからそっぽ向き、ユウの部屋から出た。元はリンドウの部屋だったユウの隣はソーマの自室がある。

 流石に今日はシオの部屋には行っていないだろう。インターホンを鳴らそうと手を伸ばしたが、掛ける言葉が思い浮かばずに手を下ろした。

 ミツハだって人間近いアラガミをどう見るか、まだ答えが出ていない。人間の定義が揺れる怖さだってある。

 

――明日、シオとちゃんと話そう。

 

 だが、ただ怖いからと言ってあの温かな少女を無下にもしたくなかった。それはきっとソーマも同じである筈だ。ただ、向き合うのが怖いだけで。

 その怖さをどうか少しでも和らげないだろうか。そんな事を思いながら、ミツハはベテラン区画を後にした。

 



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55 独りと一人

 決して大きい方ではないという自覚はある。重さで肩凝りに悩まされるという経験がなければ、体育の授業で揺れて邪魔になるといった経験もない。豊満な丸みに憧れないと言えば嘘になるが、大して気にしてはいない筈だった。そもそも身長が低いのだ。低身長に見合ったサイズだろうと思っていた。

 

 の、だが。

 あからさまに比較をされると面白くないのは仕方がないだろう、女子として。

 

「ありさ、ぷにぷにー……みつはは、んんー……?」

「ぷにぷに! 嘘でもぷにぷにって言うところ!」

「ぷにぷに!」

「そこお腹……! ちょ、やめ、く、くすぐったい!」

 

 小さな手でミツハの腹をくすぐるように揉みながら、シオは無邪気に笑った。

 どうやらシオはヒトの個体差が気になり始めたようで、研究室に訪ねたミツハ達の身体をぺたぺたと興味深そうに触っている。

 下心も何もない純粋な興味でアリサの豊満な胸の柔らかさを堪能した後、明らかに膨らみの小さいミツハの胸にも手が伸びたのだが、首を傾げられる始末だ。無邪気な反応だからこそ余計に身が抉られた。

 

「うう……時代? 時代の差なの? 六十年経つと発育が良くなるんですか博士!?」

「まあ、確かに六十年前と比べると平均身長なんかは高くなっている傾向にあるよ」

「ほらー! 時代が悪い!」

「時代関係なくミツハは小さい方だと思うけどな」

「……それは身長の話で合ってる?」

「し、身長!」

 

 据わった眼差しでコウタを見やれば慌てた様子で頷く。控えめな胸を見下ろすと遮るものもないので足元がしっかりと見えた。うう、と小さく嘆くと励ますようにアリサが明るくフォローを入れる。

 

「ほら、女の子は小さい方が可愛いって言うじゃないですか!」

「でも胸はないよりある方がいいじゃん……」

「ぼ、僕達が居る前でそういう話はちょっとやめない……? 反応に困るから……」

「……ユウってソーマさんと同い年なんだよね」

「え、そ、そうだけど……?」

 

 今時の男子高校生でもしないような初々しい反応を見せるユウに、ミツハは神妙な面持ちで問い詰める。ユウが引き攣ったように笑った。

 

「男の子同士でそういう話ってしない? 例えば、ほら。ど、どれくらいが好みだとか、なんだとか」

「ソーマとそういう話しないって……!」

「……ち、ちなみにユウの好みを聞いても?」

「アリサも乗らないで!」

 

 女子二人に詰め寄られ、すっかりたじたじとなったユウは顔を赤くして後退る。コウタの腕を掴み、逃げるように研究室の扉へ向かった。

 

「そ、そろそろ夕食の時間だし、僕達先に行くね!」

「あ、逃げた」

「私達も行きますか?」

 

 扉の向こうへ消えていった男二人の背を見送り、アリサが首を傾げる。時刻は午後六時過ぎ。夕食を配給する食堂が開く時間だ。夕食と言っても朝食とそう変わり映えしないレーションの食事を思い浮かべながら、ミツハは首を振った。

 

「私はもう少し此処に居るよ。……ちょっと、シオと話したい事があって」

「……分かりました。じゃあ先に行ってますね」

 

 お先に失礼します、とアリサはユウ達を追うように研究室から出ていった。何があるのかと首を傾げるシオに笑い掛け、手を引いて研究室の右奥にある個室へ向かった。

 

「女の子同士で恋バナかい?」

 

 ハザードマークが描かれた赤い扉に手を伸ばすと、モニターに囲まれた椅子に座るサカキから冗談めかして声を掛けられる。にっこりと細められた狐のような目では何処まで察しているのか掴め切れず、跳ね返すようにミツハも笑った。

 

「……そうですね、なので博士は入って来ないで下さいね!」

「くださいねー?」

「おや残念」

 

 ミツハの言葉を真似するシオに肩を竦めてサカキが笑う。相変わらず散らかったままのシオの個室に入り、二人並んでベッドに腰掛けた。

 

「なあ、こいばなってなんだ? うまいのか?」

「こ、恋バナは食べ物じゃないけど……えっと、ソーマさんの事でね」

「……そーま」

 

 この場に居ない男の名を口にすると、シオは明るい表情に陰りを見せた。叱られた子供のように膝を抱える。

 

「シオ、そーまのことおこらせちゃった……」

 

 しょんぼりした顔でシオは指先をもじもじとこね合わせる。泣き出してしまいそうな少女の声はたどたどしく、精一杯に自分の気持ちを伝えようと覚えたばかりの言葉を探していた。

 

「……シオ、そーまを見つけてうれしかった。シオ、ずっとひとりだったから。だから、みんなを見つけて、うれしかったんだ」

 

 ずっと独り。その言葉に、ミツハは心臓が掴まれたかのように胸が軋んだ。

 

「でも、そーまはうれしくなかったみたいだ。なんか、うーんと……さびしいな」

 

 ぎゅっと膝を抱え、シオは小さく背を丸める。その姿は孤独に怯える弱い生き物そのもので、鏡を見ている気分になってしまう。

 独りは怖い。独りは寂しい。それはミツハも痛いくらいに知っていた。

 

――シオも、同じなんだ。

 

「……シオも独りだって、思うんだ?」

「だって、だれもいなかった。シオ、〝フツウ〟じゃないんだろ?」

 

 シオは小さな手を広げる。五本ある細い指。人間と変わらない手の形だが、血色の無い恐ろしいまでに白い肌の色は人ならざる者の証だろう。

 人間に近いアラガミ。それは人間とも言えず、アラガミとも言えない。二人と居ない孤独の存在だ。

 

「でもシオ、みんなを見つけてうれしかったんだ。みんな、おなじだったから。だから、うれしかった。ひとりじゃないって、シオおもったよ」

「同じ?」

「うん。そーまも、みつはも、ゆうも、シオも! みんなおんなじ、〝なかま〟だった!」

 

 熱弁するようにシオが語る。琥珀色の瞳は嬉しそうに溶け、ふにゃりと細められた。

 

「うれしかった。ひとりじゃないって、うれしいな」

 

 飾り気のない、真っ白で純粋な言葉だった。柔らかく無邪気に笑ったシオに、ミツハは優しく頷いた。

 

「……そうだね。独りって寂しいもんね」

「みつはもさびしかったのか?」

 

 こてんとシオが首を傾げる。不思議と言葉はすらすらと喉から出てきた。

 

「うん。……私もね、〝普通〟じゃないんだ。過去の世界からタイムスリップして来ちゃったから」

「かこ? たいむすりっぷ?」

「なんていうのかなあ……あっ、ほら。デジカメに大きな建物がいっぱい並んだ街があったでしょ?」

「あった! ヒトもいっぱいいたなー」

「あの写真の場所って、今の贖罪の街なんだよ。……六十年前の贖罪の街が、あの写真の街だったの」

「……んーっと、つまり……むかしってことか?」

「うん、昔。本当だったら私は、サカキ博士よりもずっと年を取ったおばあちゃんになってるの。でも、時間を飛び越えて六十年後のこの世界に来ちゃった。……ひとりで」

 

 一九九三年生まれのミツハは、本来二〇七一年の時代では七十八歳のしわくちゃの老人だ。六十年という年月をミツハは飛び越えてしまった。

 

「自分が生まれ育った町も、家族も、友達も、この世界には何もなかった。それどころか世界は滅びかけてるし、私と同じタイムスリップした人なんて誰も居ないし。なんか……寂しかったし、怖かった」

「今はさびしくないのか?」

「うん。……いや、嘘。本当はちょっと寂しい。でもソーマさん達が居るから、大丈夫って思えるようになった」

 

 寂しさで眠れない夜だって勿論ある。夢を見ては涙だって出る。

 だが、ひとりで背負い込んで押し潰される事はもうなくなった。ソーマが居るおかげだ。

 ミツハの言葉にシオが笑う。そうか、と声を上擦らせた。

 

「じゃあシオとおんなじだな!」

「ね、同じだね」

 

 にぃーっとシオは嬉しそうに口元を緩めていたが、ふと何かに気づいたように目を丸くして首を傾げた。琥珀色の瞳にじいっと見つめられる。

 

「みつはは、かえりたいか?」

 

 どきり、と心臓が鳴った。

 

「……帰りたい。けど、みんなと離れるのも、……寂しい」

「そっか。むずかしいな」

「うん、難しいね」

 

 天秤は均衡を保ったまま、極端に傾く事はない。帰りたいと強く思うが、ソーマ達と離れてしまうのも嫌だった。もしも六十年前へ帰れるチケットが手に入った時、今のミツハが迷いなくそのチケットを受け取れるのか分からない。

 

 難しいなあ、と仰ぐように天井を見上げる。クレヨンの落書きは流石に天井には描かれておらず、真っ白な天井に付けられた蛍光灯がミツハ達を照らす。化け物を照らした照明灯を思い出した。

 

「……シオは、嫌じゃない? 周りと違う自分が、怖くならない?」

 

 世界を滅ぼす特異点であるシオと、過去の世界から拒絶されたミツハ。自分の存在が、自分が何なのか、怖くなる時がある。同じ世界から爪弾きされた者同士、シオが自分自身をどう思っているのか知りたかった。

 ミツハの問い掛けに、シオはきょとんとした顔をする。

 

「……〝ジブン〟って、なんだ?」

「え」

「うまいのか?」

 

 しかし返ってきた答えは素っ頓狂なもので、ミツハは思わず笑いが漏れた。どう説明すればいいだろうかと脳内の国語辞典を引っ張り出していたが、ミツハの返事を待たずにシオが言葉を続けた。

 

「〝ジブン〟がなにかはよくわからないけど、みんなシオのことシオってよんでくれるだろ? ――だから、シオはシオだ!」

 

 微塵の迷いもなく、清々しいまでにシオは自信満々にそう断言した。琥珀色の瞳が眩しいぐらいに、きらきらと輝いている。

 その目でミツハを覗き込む。琥珀色の瞳に、呆気に取られた黒髪黒目の少女の姿が映り込む。

 

「シオとみつははおんなじだけど、ちがうところもあるな。みつはとありさも、ちがうだろ? ありさはぷにぷにだけど、みつははぷにぷにじゃないもんな」

「うっ……ぷにぷに……そうだね、私とアリサは全然違うね……」

「こうたはカチカチでー、そーまはおっきいよな。いろもちがう! ありさはしろだけど、そーまは、うーんと……ココア? チョコ? みたい。ふしぎだなー」

 

 ヒトの個体差についての話だろう。確かに同じヒトという種でも、同じ人間というのはひとりとして居ない。人種、性別、体格差、性格。違って当たり前の事だ。それが〝個〟というものを作るのだ。

 

「だからこわくないぞ。シオはシオで、みつははみつはだ。ちがうけどおんなじだから、おもしろいな!」

 

 みんなちがって、みんないい。小学校の国語の教科書に載っている有名な詩を思い出した。シオのひたすらに真っ直ぐな言葉に、ミツハはじわりと目頭が熱くなる。

 

 人間でも、アラガミでも、二人と居ない化け物であろうと、自分は自分だ。井上ミツハは井上ミツハという一人の存在でしかなく、それ以上でも以下でもない。それはシオやソーマも同じ事だ。

 〝一人〟と〝独り〟を履き違えていた。〝個〟と〝孤〟は全くの別物だ。

 

――まさか、シオに諭されるとは思わなかった。

 

 ふふ、と口元から柔らかな笑みが零れ落ちる。血の気の無い小さな手に、ミツハの手を重ねる。体温はないが、じんわりとミツハの体温がシオに伝わった。

 

「ねえ、シオ。私、シオに会えて嬉しいよ」

「みつはは、うれしい?」

「うん。……ソーマさんだって、嬉しくないわけじゃないと思うよ」

「……でも、そーま、おこってた。シオが、おこらせちゃった」

「じゃあ、仲直りすればいいよ」

 

 不安そうな表情を浮かべるシオに、ミツハは元気づけるように力強く笑って手を握る。

 

「ソーマさんは、気付いてないんだよ。違う所ばっかり目に映っちゃうから、みんな同じだって分からないんだよ。……私も、シオに言われるまで分からなかったし」

「……じゃあ、そーまにおしえなきゃだな! みんなおんなじだって!」

 

 屈託もなくシオがはにかむ。その真っ白な笑みに、そうだね、と目を細めた。

 

――きっと、大丈夫。

――大丈夫だよ、ソーマさん。

 

 迷子の目をしたインディゴブルーを思い出す。きっとシオなら、ソーマの深い心の傷を癒せるだろう。みんな同じ仲間だと、気付かせてくれるのだろう。ただ、向き合う一歩が踏み出せないのだ。

 

――なら、背中を押してあげればいい。

 

 くつろいだ笑みを浮かべたまま、そのままぼふんとベッドに寝転がる。手を繋いでいたシオもつられてベッドに転がり、きゃっきゃと楽しそうにミツハの腕にくっついた。

 



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56 あなたの手を引く、背中を押す

 滞りなく本日も任務を終え、昼下がりにアナグラへ帰投した。午後は特に任務が入っておらず、報告を終えた第一部隊は各々解散した。ユウとコウタ、アリサはシオに会いに研究室に向かったようだが、ソーマとサクヤは自室に戻っている。

 

「ミツハも来る?」

 

 研究室に向かうユウに誘われたが、ミツハは首を横に振った。

 

「ちょっと、ソーマさんのところ行ってくる」

 

 にへ、と口元を緩める。すると、二日前にユウの部屋へ訪ねた時のような顔で「よろしくね」と柔らかく微笑まれた。妙に気恥ずかしくなってしまい、首元を摩ってはにかんだ。

 

 ベテラン区画へ足を運ぶ。途中の自販機でジュースを買い、ソーマの自室の前に立つ。こうしてソーマの部屋へ訪ねるのは、グボロ・グボロに殺されかけた日以来だ。

 

――すこし、緊張する。

 

 ひとつ、深呼吸をしてインターホンを押した。

 

『……誰だ』

「あっ、えっと、ミツハです」

 

 以前とは違い、すぐに反応があった。どうせ一度目は反応が無いだろうと指はボタンに添えられたままだったので、インターホンから聞こえた応答の声に少し驚いてしまった。

 名前を告げると通話は切られ、すぐに扉が開いた。隈を隠すように目深に被られたフードを覗き込む。

 

「何か用か」

「えーっと、その、……ちょっと屋上行きませんか?」

 

 言いながら、ミツハは右手に持っていたアルミ缶をソーマに差し出した。

 葡萄味の缶ジュースだ。

 

「…………」

 

 ラベルを見て、ぴくりと眉を寄せられた。

 葡萄味の缶ジュースに、屋上。

 言外に意味を含んだそれらに、ソーマは何か察したのか思案するようにその場に立ち竦んだ。じろりと蒼い目がミツハを見やる。その目を逸らさずに、黒い目にソーマの姿を写り込ませた。

 

 先に目を逸らしたのは、ソーマだった。

 差し出された缶ジュースを受け取り、一歩扉から出た。ミツハの横を通り過ぎ、部屋のロックを掛けてエレベーターに向かって歩き出す。その隣に並び、言葉は交わさずにエレベーターに乗り込んだ。

 

 数百メートルを鉄の箱は上昇し、扉を開く。澄み切った青空に、千切った綿菓子のような白い雲がすうっと泳いでいた。

 三月もそろそろ終わりを迎え、四月になろうとしている。春の柔らかな日差しと吹き抜ける風が気持ち良く、任務終わりとあって思わず眠気がやってきた。

 

 柵に手を置いて外部居住区や壁の向こうを眺める。今日は天気が良い為、随分遠くまでよく見えた。そうやって眺めるミツハの隣にソーマは腰を下ろし、缶ジュースのプルタブを開ける。カシュッ、と軽快な音が響いた。

 

「ユウから聞きました。シオと喧嘩しちゃったって」

「……喧嘩じゃねえ」

 

 どこか不貞腐れるような声に苦笑しながらソーマを見下ろす。フードのせいで殆ど顔が見えなかった。

 

「前、シオの事をどう思うかって、ソーマさん聞きましたよね。色々考えて、シオと話してみて、答えが出ました」

「…………」

「……同じなんだなって、思いました。私も、シオも」

 

 べこ、と缶が凹む音がした。揺れる蒼い瞳がミツハを見上げる。思わず力の籠った手とは裏腹に、その表情は諦めに近い静かな色をしていた。置いて行かれた子供のような、そんな目だ。

 

「……あいつは、ただのアラガミだろうが」

「じゃあ、私はなんなんですかね」

「人間だろうが」

「偏食因子が自然発生してるのに?」

「…………」

 

 ミツハの言葉にソーマは唇を噛み、口を噤んだ。狡い言い方だと自分でも思った。

 

「……少なくとも、〝ただの人間〟じゃないですよね。だったらシオも、〝ただのアラガミ〟じゃ、ないですよね」

 

 それはソーマも分かっている筈だ。だからこそ、怖いのだ。シオがただのアラガミじゃないからこそ。

 彼女がただのアラガミのように、意思疎通も出来ず人を捕喰しようとするのであればソーマは躊躇いなく細い首を刎ねるのだろう。ただのアラガミじゃないから、出来ないのだ。

 

 柵から手を離し、ソーマの隣に座る。柵に背凭れながら言葉を紡いでいく。黄昏に呑まれた屋上を思い出しながら。

 

「普通じゃないって、怖いじゃないですか。自分と同じ存在が居なくて、たった独りなんですよ。……それがどんなに怖くて寂しいか、私達はよく知ってるじゃないですか。……それは、シオも同じなんですよ」

 

 ずっと独りだったと、寂しそうにシオは言った。ミツハ達を見つけて嬉しかったと、シオは言った。

 独りが怖い。独りが寂しい。だから、独りきりじゃ生きられないのだ。膝を抱えて背中を丸める小さな白い少女は、一人の生き物だった。それはもう、ミツハ達となんら変わりのない。

 独りが怖いから分かち合いたい。独りが寂しいから傍に居たい。そう願うのは、シオも同じなのだ。そう願ってしまうのだと、ミツハとソーマはよく知っている。抱き締め合った温かな体温をミツハはよく覚えている。

 

 それを思い出していたからだろうか。口から紡がれる言葉は、温かなミルクを注いだ紅茶のような、自分でも吃驚する程の優し気な声色をしていた。

 

「……お前は、それでいいのか。アラガミと同じで、いいのかよ」

 

 ソーマが問う。その声は少しばかり擦れていた。

 

「〝アラガミ〟と同じは嫌ですよ。でも、〝シオ〟と同じなら、全然良いです。……正直、嬉しかったんです。シオが居てくれて。同じ、なんですもん。……ソーマさんは本当に、これっぽっちも嬉しくなかったですか?」

「俺は……」

 

 続きが見つからないのか、ソーマは誤魔化すように缶ジュースを呷った。缶ジュースの飲み口を見つめ、思いあぐねている。暫く風の音だけが屋上に響いた。

 嬉しいわけがないだろう、と以前のように強がって切り捨てるような言葉すらソーマは紡がない。手負いの獣は、今はその鳴りを潜めている。迷子のその顔を覗き込み、手を引いてやるかのように笑い掛けた。

 

「……その、大丈夫ですよ、ソーマさん。案外、拍子抜けするぐらい簡単な事だったりするんです」

 

 人間でも、アラガミでも、二人と居ない化け物であろうと、自分は自分だと言う事。それはみんな同じだと言う事。

 片や、オラクル細胞由来の偏食因子が自然発生し、時代を飛び越えた人間。――それでも、ミツハはミツハだ。

 片や、アラガミ化した母親から生まれ落ち、生まれながらにして偏食因子を持った人間た人間。――それでも、ソーマはソーマだ。

 そんな簡単な事を、ずっと見落としていた。

 

 黒い瞳に、蒼い瞳を写り込ませる。髪色や肌の色と言い、ミツハとソーマは全く違う。白に近いソーマの金髪とは正反対にミツハの髪色は漆のように真っ黒であるし、ソーマの肌はミルクチョコレートのような褐色の色だがミツハはあまり日に焼けていない生白い色をしている。背丈の差だって、いくら男女差があるとは言えかなりある方と言えるだろう。

 その違いすら愛おしいとでも言うように、ミツハは柔らかく笑う。

 

「なので一度、ちゃんと向き合ってみませんか? 悩んで眠れないくらいなら、当たって砕けろってやつですよ」

「……砕けんのかよ」

「く、砕けたら拾っときますので……」

 

 比喩として言った言葉にまさか突っ込まれるとは思わず、苦笑しながら親指を立てた。するとその返しが可笑しかったのか、ソーマは呆れたように肩の力を抜いた。くっ、と噛み殺す小さな笑みがその口元から漏れた。

 

「つくづく思うが、とんだ物好きだよな、お前」

 

 とんだ物好き。今と同じような状況で、しかし今とは違う空の下でも言われた言葉だ。

 別にミツハは物好きな訳ではない。ソーマだから、こうして心の内に触れたいと思うのだ。

 だのにその本人にそんな事を言われるのがなんとなく面白くなく、少しドキドキしながら別の意味合いを込めた否定の言葉を告げる。

 

「……その、別に物好きってわけじゃ、ないですよ。だ、誰にでもこんな事する程お人好しでもないですし」

「あ? じゃあなんで俺なんかに構ってんだよ」

 

 しかし別の意味を汲んでくれるどころか、怪訝な顔をされる始末である。

 

「そ、それ聞きます!? な、内緒です内緒。それぐらい自分で考えて下さい!」

「はあ……?」

 

 心底意味が分からないと言う顔をされ、些かショックを受けた。周りからは分かりやすいだのなんだの言われるのに、当の本人は全く気付いていないらしい。

 

――でも当たり前と言えば当たり前か……。

 

 自分とは無縁の事だと思っているのだから。〝俺なんか〟に好意を向ける人が居るなど、夢にも見ていないのだろう。

 

「……此処に居るのに」

「何がだよ」

「な、内緒です~」

 

 聞かれぬようにと小声で独り言ちたのだが、ソーマの鋭い聴覚はしっかり拾っていたようだ。

 追及するソーマを誤魔化すべくポケットから携帯を取り出し、曲を流す。千夏が取り分け好きだったロックバンドの曲だ。

 

「そ、それよりですね! その、前に友達とバンドやったって話したじゃないですか。カレル達とエレベーターで乗り合わせた時に」

「……ああ、金だか写真がどうとか言ってたな」

「そうですそうです。その時のバンドで演奏した曲がこれなんですよ! 私、ギター担当したんです!」

 

 高校二年生の文化祭の時だ。体育館で行われるステージ発表に一緒に出ようと千夏が言いだし、千夏の指導の下コピーバンドをしたのだ。千夏はボーカルとリードギターを担当し、楽器にあまり慣れていないミツハは千夏に教わりながらリズムギターを担当していた。リードギターに比べてリズムギターは幾分簡単なコードだったが、少々見栄を張りたくてミツハは自慢気にソーマに語った。

 

「ギター弾けんのか、お前。似合わねえな」

「に、似合わないってなんですか……」

「さあな」

 

 心外だ、とじろりとソーマを見やるが気にも留めずに缶ジュースを呷っている。そんなソーマに口を尖らせつつ、空を横切る雲を眺めながらミツハは話題が戻らないようにバンドの話を広げた。練習中の小話や文化祭本番の話など、くだらないと笑ってしまうような話をソーマに語る。六十年前のミツハ自身の事は今までソーマに話していなかった為、話のネタが尽きる事はない。

 ソーマは缶ジュースを呷りながら時折相槌を打ちながら聞いていた。しかしいつの間にか玉を転がすような声ばかりになり、相槌がなくなっていく。

 

――い、一方的に話し過ぎた……?

 

 そう不安になり見上げていた青空から視線を下ろす。顔色を窺うようにソーマを盗み見ようとしたのだが、不意に肩口に重みが乗る。ネイビーブルーのフードがすぐそこにあった。

 

「そ、ソーマさんっ?」

「…………」

「……ね、寝てます?」

 

 問い掛けるも返事はない。ミツハが話を止めれば、携帯から再生される曲と寝息を立てる音だけが聞こえた。フードから覗くその表情は隙だらけで、戦場にでも居るかのような息が詰まる緊張感など何処にも見当たらない。大人っぽいと常々思っていたが、寝顔は案外あどけなさが残っていた。

 日向ぼっこに最適な天気の下、長々と話を聞いていれば眠くなるのも当然だろう。任務終わりに連れ出している上に、閉じられた目の下には隈がある。ぐるぐるとひとりで悩んでいたせいであまり眠れていなかったのだろう。

 

――写真撮ったら怒られるかな……。

 

 無音カメラのアプリが入っている携帯ならばシャッター音で起こしてしまうと言う事はない。暫く悩んだ挙句、欲に逆らえずミツハはカメラアプリを起動した。前面カメラに切り替えて腕を伸ばす。多少の罪悪感を覚えながら、カメラロールにツーショット写真が追加された。

 

「……へへ」

 

 画面に映る写真に思わずにやけてしまう。にへ、と口元を緩ませながらミツハも目を閉じる。

 眠気がやってきていたのはミツハも同じだ。少しぐらい良いだろうと、麗らかな春日の中で微睡んだ。

 



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57 シオの家出

 翌日、サカキから第一部隊全員に呼び出しが掛かった。昨日の今日とあってソーマも素直に呼び出しに従い、全員で研究室を訪ねる。

 中に入るとシオは個室から出ており、サカキの隣にぺたんと座っていた。呼び出した当の本人はいつになく神妙な面持ちで第一部隊を迎え、普段よりも驚く程真面目な声色で話を始めた。

 

「呼び付けてすまない。私ではどうにもならない問題が発生してしまってね……」

「な、なにがあったんですか……」

 

 胡散臭い貼り付けたような笑みすらその顔からは消え去っており、事の重大さが窺えた。只事では無いと第一部隊は身構え、ごくりと固唾を呑んでサカキの話を聞くのだが――

 

「彼女に、服を着せてくれないか……」

 

 深刻そうな雰囲気とは裏腹に、内容は至極拍子抜けしてしまうものだった。

 

「はあ……服、ですか?」

 

 随分大袈裟だと言いたげにサクヤが聞き返した。サカキは頷き、少し寂しそうな顔をしてシオを見下ろす。その表情は娘の為に嬉々として買ったプレゼントを「要らない!」と跳ね返されてしまった父親のような顔だとミツハは思った。

 

「様々なアプローチを試みてみたんだが、全て失敗に終わってしまってね……」

「きちきち、ちくちく、やだー」

「……と言う事らしい。是非女性の力を借りたいと思ってね」

「なら何で俺を呼ぶんだ……戻るぞ」

 

 踵を返そうとするソーマに思わずミツハは「あ」と声を漏らしてしまう。その声にぴたりとソーマの足が止まったが、じろりと詰るように視線だけが振り向かれた。

 

「……居てもしょうがねえだろうが」

「で、ですねー……」

 

 何もシオと話すのは今でなくていいだろう。そもそも第三者が居る手前、ソーマの性格上絶対に話そうとしないだろうなと思い直しソーマを見送る。そんなソーマに便乗するかのように、コウタはしたたかにユウに笑い掛けた。

 

「俺も役に立てそうにないし……ちょっと今バガラリーが良いとこだったんだ。男子代表として、リーダー! 任せたぜ!」

「ええ!?」

 

 早い者勝ちとでも言いたげにそそくさとコウタは出ていき、残されたユウは出ていくタイミングを見失ったようだ。サクヤが呆れたように溜息を吐いた。

 

「全く薄情な男どもねー……とにかく、ちょっと着せてみますよ」

「……僕はこっちで待ってますね」

 

 残されたものの流石に手伝える事もなく、ユウは困ったように笑いながら個室に入っていく女性陣を見送った。

 相変わらず散らかった部屋のベッドには恐らくサカキが着せようとしたのであろう服が放り出されていた。一本のラインが入った大きな襟が特徴的なトップス、水色のカーディガン、紺色のプリーツスカート、赤いスカーフ。

 それらはどう見てもあの服で、ミツハは苦笑した。

 

「せ、セーラー服……」

「博士ってこういうのが趣味なんでしょうか……ドン引きです……」

「い、いいじゃない。シオに似合いそうで」

 

 怪訝な顔をするアリサの横でサクヤがセーラー服のトップスを拾い上げる。そして柔らかく笑顔を浮かべながら、いやいやと首を振るシオに近寄った。

 

「シオー? ちょっとバンザイしてみよっかー」

「やだ! ちくちくする!」

「あっ、に、逃げないで〜!」

 

 するりとサクヤの懐をすり抜け、壁際へ逃げたシオが顔を顰める。その姿はさながらお風呂を嫌がる子犬のようで、可愛いなとミツハは小さく笑った。

 

「シーオーちゃーん。女の子がいつまでもそんな格好じゃ駄目なんだよ?」

 

 言い聞かせるようにアリサが宥めるが、シオはわっと癇癪を起こした子供のように大声をあげて逃げ出した――壁へ向かって。

 

「ちくちくやだぁー!」

「え、ちょ――」

 

 ドゴッ、と可愛げの無い大きな破壊音が小さな部屋に響き、土煙が視界を悪くする。部屋に蔓延する埃に咳き込みながらシオが居た場所を見やれば、少女一人分が通れそうなくらいの風穴が開き、通風管等の配管が剥き出しになっていた。

 

 シオの姿は、ない。シオが――アラガミが、偏食場を遮断する専用の部屋から出ていってしまったのだ。

 それがどんな事態を引き起こすのか想像に容易い。三人の顔色が一瞬にして青褪め、慌てて部屋から飛び出した。

 

「あ、あの、シオちゃんが……!」

「壁を壊して外に……」

「に、逃げ出しちゃいました!」

「……やはり、予測出来ない……!」

 

 ユウと話をしていたサカキは珍しく目を見開き、嘆くように言葉を漏らした。その直後、追い打ちを掛けるように警報音がスピーカーから鳴り響く。

 

『緊急事態発生! 施設内にアラガミの偏食場反応を観測、観測ポイントは研究区画です。研究員は直ちに避難、並びにゴッドイーターは戦闘準備を――』

「は、博士、こ、これって結構ヤバいのでは!?」

「ひ、非常にマズい事態だ。とにかくユウ君はソーマ達を呼んで、なるべく早くシオを連れ帰って来て欲しい! 通常任務に偽装して任務を発行しておくから、頼んだよ!」

「分かりました!」

 

 サカキの言葉にユウは研究室から飛び出した。研究区画の廊下は研究員が避難しようと混雑しており、その合間を縫うようにしてエレベーターに向かっている。

 

「三人は研究員に実験中の事故だと説明して落ち着かせて欲しい。私は放送を訂正するようにオペレーターに連絡を入れてくるよ」

「実験って、具体的にどういう……」

「そうだね、新型レーダーの実験って事にしておいてくれ。レーダーの運用テストに使用した擬似偏食場が暴発した、という具合に」

 

 よくもまあすぐに嘘が思い付くものだと関心しながら頷き、ミツハ達は騒然とする研究員達の中に飛び込んだ。

 結果として、存外すぐに騒ぎは沈静化された。サカキの実験事故だと説明すれば研究員達はどっと呆れ返ったように「またか」とぼやき、馬鹿馬鹿しくなったのか各々の研究室へ戻っていった。

 

――またか、って言われちゃうくらいなんだ……。

 

 お騒がせしました、と研究員に頭を下げながらミツハは苦笑した。

 

「まさか壁を壊しちゃうなんて、流石に驚いたわね……」

 

 騒ぎが沈静化した後、ミツハ達は瓦礫で散らかったシオの部屋の掃除に取り掛かった。風穴が開いた壁を見ながら、サクヤが溜息に近い言葉を漏らす。やはり可愛らしい見た目をし、ミツハ達と何ら変わりなくてもその根本はアラガミである事には違いないのだ。

 

「ほんとですね。あんまり遠くに行ってないみたいだから良かったですけど……」

「大丈夫ですよ、ユウならすぐ見つけてくれるでしょうし!」

「そうね。それにソーマもついてるし安心か」

 

 散らばった瓦礫をバケツに入れながら話す。確かに五感が鋭いソーマならば捜索にもってこいだろう。

 しかしアリサは何か不安要素があるのか、「そうですけど……」と難しい顔をした。

 

「……でも、ソーマってシオちゃんの事どう思っているんでしょう。名前を付けてあげるぐらいなのに、化け物なんて酷い事言ったりして……どうなんですか、ミツハ」

「ええっ、私に振るの!?」

「だってソーマの事ならミツハに聞くのが一番かと」

「え、ええ~……なにそれ~……」

 

 恥ずかしさで苦笑するが、そう言われて嬉しくないわけもなく口元が歪に緩んだ。

 しかし内容が内容の為、どう答えようと考えているとサクヤが困ったように眉を下げながら形の良い口を開いた。

 

「シオの事はちょっと難しい問題よね、ソーマにとって」

「……さ、サクヤさんも知ってたんですか? あの、ソーマさんの事」

「これでもソーマとの付き合いは結構長いのよ?」

「……あの、何かあるんですか? あの人……」

 

 置いてけぼりにされていたアリサが間に入る。コウタはユウから話を聞いているので、第一部隊のメンバーでソーマの事情を知らないのはアリサだけだったようだ。変に隠すのも可笑しいだろうと、サクヤが過去を振り返るようにソーマの出自について話を始めた。

 

――改めて、がっかりした自分を殺したくなる……。

 

 サクヤの話を聞きながら、何度目かの自己嫌悪に陥る。ソーマ自身はさらりと流してくれたのだが、それでも自然発生でないと知って落胆した自分が嫌で仕方がなかった。

 脹脛に残った傷痕のように、きっとこの罪悪感はしこりとなって残るのだろう。消えて欲しいとも思わないが。

 

「……あの人にも、そんな事情があったなんて」

 

 ぽつりとアリサが呟く。腹の底に何やら抱えたような、複雑な顔色だった。今でこそ柔らかな雰囲気を纏っているが、アリサだって少し前までは人を拒絶するような、それこそソーマのような態度を取っていたのだ。

 

「何かとみんな色んな事を抱えているわよね、この部隊」

「そうだねえ。こんなご時世、誰にでも悲劇の一つや二つはあるものだろうしね」

 

 唐突に介入してきたサカキの声に驚く。扉の方へ振り向けばにっこりと貼り付けたような笑みを浮かべたサカキが立っていた。

 

「ミツハ君にとっての悲劇は、この世界に来てしまった事かな」

「……博士の事いよいよ嫌いになりそうです」

「はは、すまない。冗談だよ」

 

 悪いなんて思ってもいないような声で謝られ、ミツハは口を尖らせる。サカキは時々、此方を試すように意地の悪い事を言ってくる節がある。サカキのそういう部分は少し苦手だった。

 

「ユウ君達が戻って来たよ」

「じゃあ、シオちゃん見つかったんですね?」

「ああ。此処もだいぶ片付いたし、もう戻ってくれていいよ。夕食の時間だろうしね」

 

 そう言われて時間を確認してみれば、食堂が開く時間になっていた。アリサとサクヤは夕食を取りに先に研究室から出ていったが、ミツハは残る事にした。ソーマとシオがどうなったか、少し心配なのだ。

 

「保留にしていた質問の答えは出たかい、ミツハ君」

 

 研究室のソファに座りながら待っていると、例によってサカキが笑い掛けてくる。

 保留にしていた質問――シオの事をどう思うか、初めてシオと出会った日に問い掛けられたものだ。

 

「……出ましたけど、意地悪な事を言う博士には内緒です~」

「おや、ソーマと二人だけの秘密ってやつかい」

「うっ、そ、そういう事でいいです……!」

 

 先程のお返しにと意地悪をしたのだが、逆に此方が撃沈する形で終わってしまった。そもそもソーマの名前を出す時点で察してはいるのだろう。わざわざ聞こうとする辺りがサカキらしいのだが。

 

 暫くすると研究室のインターホンが鳴る。ミツハが出迎えると、コンテナを押したユウとソーマが立っていた。扉を閉めてからコンテナを開ける。ひょっこりとコンテナからシオが顔を出し、「タダイマ!」と元気良く笑った。

 

「やあやあ、有難う有難う! 一時はどうなる事かと思ったよ」

「そりゃこっちの台詞だ」

「せりふだー!」

 

 シオがソーマの真似をする。その様子にふふ、とミツハは笑った。どうやら心配は杞憂だったようだ。顔を緩めながら二人を見ていると、ソーマから照れ隠しのように睨まれた。

 

「部屋の壁壊れちゃいましたし、シオどうします? 博士」

「応急処置が必要だね。その間この部屋に居てもいいんだが、ちょっと考えがあるんだ。ソーマとミツハ君は残ってくれるかい」

 

 わざわざ二人を残そうとする辺り、何かあるのだろうと察しの良いユウは素直に頷いて研究室から出ていった。しかしサカキの考えが何なのか、ミツハには全く予想が出来なかった。

 ユウを見送りながら首を傾げていたのだが、扉が閉まるなり迫るようにしながらサカキが焦りの滲んだ声を出した。

 

「大変だよ、二人とも!」

「藪から棒になんだ」

「ヨハンが帰ってくる!」

「――え」

 

 サカキの言葉に一番動揺したのはミツハだった。

 近いうちに出張中のヨハネスが帰ってくるだろうとは思っていたが、いざその事実を耳にすると大袈裟なくらいに気分は急降下した。隠れるように拳をぎゅっと握る。

 

「……そりゃいつかは戻って来るだろ」

「その通りだが、この状況は非常にマズい。壁に穴も開いてるし騒ぎがあったばかりだ。ヨハンは必ず此処に様子を見に来るよ! 折角欧州にお暇願ったのに、ああ、なんてことだ!」

「……え、そ、それで、どうするんですか? 結構マズい事態じゃないですか……」

 

 ヨハネスは特異点を――シオのコアを求めているのだ。見つかる訳にはいかないのだが、シオをこのまま研究室に匿っていてもヨハネスの目から逃れるのは難しいだろう。

 

「絶対に見つからない安全な場所にシオを隠す必要があるね」

「そんな場所があるのか」

「一つだけ心当たりがあるよ」

「何処だ、早く言え」

 

 なかなか核心に触れようとしないサカキの言い回しにソーマが苛立つ。サカキはその糸目をきりっとさせ、至って大真面目な顔をしてソーマを見やった。

 

「君の部屋だ」

「……冗談は顔だけにしろ、オッサン。そもそも俺の部屋じゃコイツの偏食場反応がバレるだろうが」

 

 怪訝な顔をしながらもっともな言い分でソーマが抗議するが、サカキはそう返される事など分かりきったような体で棚から四つの機械を取り出した。タバコの箱を一回り大きくしたような黒い金属製のボックスに、四本の可動式の短いアンテナがついている。

 

「偏食場探知ジャマーだ。これを部屋の四隅に設置すればレーダーから探知されなくなる。電源は部屋のコンセントから取れるようにしておいた。じゃあ、よろしく頼んだよ!」

 

 にっこりと笑いながら、捲し立てるようにサカキがぺらぺらと饒舌に舌を回す。決定事項だと言わんばかりに機械を押し付けると、大きな溜息がソーマの口から漏れた。

 あまりにも準備が良すぎるサカキにソーマは憮然とするものの、渋々といった様子でそれを了承する。押しに弱いのは相変わらずだな、とミツハは可笑しくなって苦笑した。

 

「……あ、あとで遊びに行きますね?」

「……勝手にしろ」

「しろー!」

 



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58 お泊り会

 「遊びに行く」と言って「勝手にしろ」と言われたのは、正直予想外だった。ソーマの部屋に訪ねた事は過去に二回あるが、中に入った事はない――いや、あった。ただその時は事情が事情だった為、想い人の部屋に居るという嬉し恥ずかしのドキドキではない嫌な心臓の跳ね方をしていたのだが。だが今日は、前者の意味合いで心臓が跳ねている。

 夜更けにベテラン区画を訪ね、緊張しながらインターホンを押す。応答はなかったが、すぐに扉が開かれた。

 

「早く入れ」

「お、お邪魔します」

 

 中にシオが居る為、あまり扉を開けていたくないのだろう。急かすように招き入れられ、ミツハはソーマの部屋に足を踏み入れる。

 中に居たシオはソーマの部屋を物色していたのだが、ミツハの姿を見るなりぱっと表情を綻ばせた。可愛らしい表情をしているのだが、その右手にはどうも似つかわしくない――拳銃が握られていた。ぎょっとしたようにソーマが目を剥く。

 

「ば、馬鹿野郎! 勝手に物を取んなっつっただろうが!」

「シオこれしってるぞ! バガラリーだ!」

「コウタの野郎……」

 

 どうやらコウタからバガラリーというアニメを見せられていたらしい。きゃっきゃっとはしゃぐシオから拳銃を取り上げ、深い溜息を吐くソーマにミツハはくすくすと笑った。

 

「……何笑ってんだよ」

「仲良いなあと思って」

「…………」

「て、照れ隠しで銃を向けるのはどうかと思います!」

「照れてねえ」

 

 拳銃のグリップ部分で頭を軽く叩かれた。ふん、とそっぽ向いて拳銃を棚に戻すソーマを見ながら、ソファに座るシオの隣に腰を下ろす。

 拳銃を取り上げられてしょげた様子は何処にもなく、既に別の物に興味が移ったようだ。ソファの後ろの棚に置かれてあるコンポを見ながら、シオは琥珀色の目は輝かせる。「シオこれしってるぞ!」とコンポを指差し、得意気な顔をしてソファの上で飛び跳ねた。

 

「これジュウバコだな!」

「……そりゃコンポだ」

「こんぽ?」

 

 的外れな名称を告げたシオにソーマが何度目かの溜息を吐いた。音楽を聴く機械だとミツハが教えてやれば、ソーマが実際にプレイボタンを押してやる。するとコンポの両脇とベッドの枕元にあるスピーカーから耳に馴染みのある曲が流れ出した。

 

――これ、ソーマさんにあげたCDだ。

 

 鎮魂の廃寺への任務に付き合ってくれた礼にと、携帯に入っているロックバンドの曲をいくつかCDに焼いてソーマにプレゼントしたのだ。ちゃんと聴いてくれているのだと、心の底がむずむずと小躍りした。

 口元を緩ませていると、ソーマが驚きの声を上げてシオへ詰め寄る。何事かと隣を見やれば、シオの口が皿でも含んだように左右に突っ張っていた。ソーマが彼女の口を開かせると、銀色の円盤――CDがちらりと見えた。これにはソーマも血相を変え、慌ててシオの口からCDを引っ張り出す。

 

「お前、貴重なCDを! これは喰うもんじゃねえ、聴くもんだ!」

「うまくなかった!」

「なら喰うんじゃねえよ……!」

 

 すっかりシオのペースに呑まれてしまっている。茶番のようなやり取りにソーマには悪いが笑いながら、救出されたCDを覗き見る。アラガミだからか唾液などはついていないが、歯で擦ったような引っ掻き傷が小さくついていた。

 

「ったく、油断も隙もねえな……」

「傷ついちゃってますね……聴けるんでしょうか、これ」

 

 ソーマは一度曲を止め、元々入っていたCDと入れ替えて再生させる。透き通った女性シンガーの歌声がスピーカーから流れ、鼓膜をくすぐった。どうやらCDは無事なようだ。

 ほっとするソーマの横で、ミツハはその曲を聴き入る。物悲しい旋律だが、強い芯の通った歌声が印象的だった。

 

「そーま、これなに?」

 

 シオがスピーカーに耳を寄せ、首を傾げた。

 

「歌だ。人間は言葉をリズムやメロディに乗せて、気持ちを伝えたり表現したりする」

「うた……うたか」

 

 聴き入るようにうっとりとシオが目を閉じる。「気に入った?」そうミツハが尋ねると「うん!」と元気良くシオは頷いた。

 

「うたも、いいな。しゃしんもうたも、シオにいろんなこと、おしえてくれるな」

 

 ふふふ、と子供のように無邪気にシオが笑う。スピーカーから流れる音を鼻歌でシオが真似し、少々歪んだハーモニーがソーマの部屋に響いた。シオのたどたどしい歌に耳を傾けながら、微笑ましくなってミツハも頬を緩めた。

 

「良い曲ですね、これ」

「なんだ、知らねえのか。確か二〇〇九年のリリース曲だったぞ」

「そこまで音楽に詳しい訳じゃないので……男性ロックバンドの曲ばっかり聴いてたので、女性シンガーはあんまり知らないんですよ」

「ろっく? さっきのがみつはのすきなうたなのか?」

 

 先程取り出したCDにシオが手を伸ばす。しかしシオの手が届く前にソーマが避難させるようにCDを取り上げた。

 

「おい馬鹿、触んじゃねえ」

「えー! そーまのけちー!」

「壊されたら堪ったもんじゃねえからな……」

 

 CDを棚に仕舞いながらソーマが呟く。先程ソーマも言ったように、この時代では音楽というのもだいぶ廃れてしまいCDの入手も難しい。だが今しがたソーマが取り上げたCDの音源はミツハの携帯にも入っているのだ。今再生されている曲と違い、壊されて痛いようなものでもない。

 

「壊れたらまた焼いてくるので、そんなに気にしなくても……」

「そういう問題じゃねえ」

 

 何故か溜息を吐かれてしまった。首を傾げていると、シオがソファから飛び降りてベッドへ向かった。

 ソーマのベッドの上は銃や刀剣などで塞がっており、シオはそれを邪魔だと言わんばかりに床に落としてベッドの上で跳ねる。傷んでいるのか飛び跳ねる度に軋んだ音が響いた。

 

「シオのベッドのほうがもっとはねるぞ!」

 

 そんな文句を言いながら、枕元にあるスピーカーに近寄る。離れた場所にあるスピーカーからも同じ音が流れ出すのが気になったようだ。

 床に散らかされた武器類を見ながら、ソーマが面倒くさそうに頭を抱えた。

 

「……そ、そもそもなんでこんなに武器集めてるんです? 壁には撃った痕もあるし、ちょっと吃驚するんですけど……」

 

 荒れた部屋を見渡しながら、ミツハが口元を引き攣らせる。

 アナグラにある個室の壁には大画面のモニターが埋め込まれており、窓がない代わりにモニターに風景を映し出したりしているのだが、ソーマの部屋の場合は何故か人型のターゲットが設置されている。

 ミツハの問いに、ソーマは意地悪でもするかのように僅かに口元をにやりとさせた。

 

「用意に越した事はねえだろ」

「何の用意ですか……」

 

 本気なのか冗談なのか分かりづらい。苦笑しか返せなかったが、「さあな」とからかうように小さく笑う顔は普段より子供っぽく見えた。自室とあって気が抜けているのだろうか、随分と雰囲気が緩んでいる。昼下がりの屋上で盗み見た寝顔を思い出した。

 

「きょうはしゃしんないのかー?」

「しゃっ、しゃしん!?」

 

 無邪気なシオの言葉に、ミツハの心臓がどきりと跳ねた。疚しい事がある証拠だ。

 不自然に動揺したミツハにソーマは怪訝な顔を見せ、それから逃げるようにしてミツハはソファから腰を上げてシオのもとへ向かう。隠し撮りをした事を本人にバレるのは避けたかった。

 

「け、携帯なら持ってきてるよ」

「けーたい! いっしょにしゃしんとれるな!」

 

 前面カメラがついている携帯の方がデジカメよりもツーショット写真が撮りやすい為、シオは此方の方がお気に入りのようだった。

 ベッドに腰掛けてカメラアプリを起動するとシオが楽しそうにミツハに顔を近づける。花の咲くような満開の笑みを浮かべ、それにつられてミツハも笑った。

 

「撮るよー」

「ちーず!」

「それじゃ口尖っちゃうよ」

 

 以前ミツハが写真を撮る際に口にした言葉をシオが真似する。携帯の画面には口を尖らせながら笑うシオとミツハの姿が映り、それを見返して二人で笑った。

 シオの興味がソーマの部屋から携帯に向けられ、無暗に物を漁られる心配がなくなり安心したのかソーマは読書をし始めた。何やら難しそうな分厚い本だ。何の本なのか気になりじっと見ていると、ばちりと視線が合った。

 

「……なんだよ」

「な、何の本かなあって」

「気圧も分からねえ奴には理解出来ねえ内容だと思うが、知りたいか?」

「……い、いじわる」

「てめえはシオの面倒見とけ」

 

 面倒事を押し付けるように視線で追い払われる。「遊びに行く」と言って「勝手にしろ」と言われたのは予想外だったが、こうしてシオの相手をミツハに任せて自分の時間を確保する為だと思えば納得がいく。

 

――楽しいから全然良いんだけど。

 

 まさかこうしてソーマの部屋で穏やかな時間が過ごせるとは思いもしなかった。ベッドに寝転んでカメラロールを遡るシオの頭を撫でながら、「これなんだ?」と問い掛けるシオの疑問に答えてやる。パンケーキや柴犬の抱き枕の写真を見ては随分と目を輝かせていた。

 暫くするとシオの問い掛けが少なくなってくる。おや、と見下ろしてみれば琥珀色の瞳は今にも瞼で隠れてしまいそうだった。

 

「ねむい?」

「んんー……」

 

 力の無い生返事が返ってきた。愚図るようにシーツに頭を擦りつけていたが、次第にその動きも止まって寝息を立て始める。ベッドに放り出された携帯を手に取り、時間を確認すると二十三時近くになっていた。もう随分遅い時間だったようだ。

 

「眠ったか」

「ぐっすりです」

 

 本を読んでいたソーマが顔を上げる。ソファから腰を上げ、スヤスヤと眠るシオの寝顔を見下ろした。

 

「ったく、オッサンも面倒な事押し付けやがって」

「まあ支部長が来ちゃうんじゃ仕方ないですし……」

 

 苦笑しながら正論を返すが、馬鹿らしい事に自分の言葉に気分が沈んだ。

 ――支部長。ヨハネスの顔が浮かび、重い溜息を吐いた。

 

「……帰って、来ちゃうんですねえ……」

「……そりゃいつかは帰ってくるだろ」

「そうですけど」

 

 それでもなあ、とシーツを握った。あの事件がきっかけで色んな事が吹っ切れたとは言え、恐怖心はついて回る。

 

「何かあったら言え」

「……はい」

 

 握っていた手は簡単に解けた。ひとりで背負い込んでいた以前とは違うのだ。ソーマの存在が心強かった。

 少々むず痒くなり、首元を擦りながらはにかんだ笑みを浮かべる。

 

「え、っと。じゃあそろそろ帰りますね」

「遅くまで悪かったな」

「私が来たくて来たんですから、気にしないで下さい」

 

 そう言いながらベッドから腰を上げるが、引っ掛かるように途中で腰が止まってしまう。パーカーの裾をシオがぎゅっと握りながら眠っているのだ。子供のようで可愛いなとは思うものの、放してくれないと部屋に戻れない。苦笑しながら小さな指を一本一本解くように裾から放していく。

 の、だが。

 

「いぬー!」

「えっ、わっ、シオ!?」

 

 力強く引っ張られ、バランスを崩した身体がベッドに倒れ込む。ぎしっ、と軋んだスプリング音を立ててシーツに沈むと、まるで抱き枕だと言わんばかりにシオが腕に絡まりつく。起きている様子はなく、写真で見たばかりの柴犬の抱き枕を夢に見ているのかもしれない。

 抜け出せないかと身じろぎをしてみるが、流石アラガミとあってか力が強くて叶いそうになかった。

 

「……ど、どうしましょう」

「…………」

 

 助けをソーマに求める。ベッドに寝転ぶミツハとシオを見下ろし、ソーマは顔を手で覆って深い溜息を吐いた。「抜け出せそうにねえか」「無理です」短い会話を交わし、ソーマはもう一度溜息を吐く。今日だけで何度溜息を吐いているのか気になるくらいだった。

 

「……そのまま寝とけ。起こして騒がられるのも面倒くせえ」

「……お、お泊まりだ」

「変な言い方すんな」

 

 そっぽ向くようにソーマは背を向け、ソファの背凭れに掛けられていた毛布を掴む。毛布を貸してくれるのだろう。

 しかしミツハの腕を抱き枕にしているシオは、服の繊維が気にならないと言って逃げだしたばかりだ。毛布の肌触りは果たして大丈夫なのだろうか。

 

「シオって寝る時、毛布使ってましたっけ?」

「……掛けても蹴っ飛ばしてたな」

「駄目じゃないですか……」

 

 またちくちくすると嫌がって逃げ出されたら大事だ。世話の焼ける奴、と呆れたようにソーマが愚痴を零すが、随分優しい声色をしていた。

 

「毛布はソーマさんが使って下さい。別に一晩ないくらいで風邪引きませんし」

「だとしてもお前はなんか羽織っとけ」

 

 そう言い、ソーマはばさりとダスキーモッズをミツハに掛けてやる。ショートパンツから露出した肌が隠れ、「あ」と思わず間の抜けた声が漏れた。確かに生足を曝け出したままソーマの居る部屋で眠るのは恥ずかしく、羞恥で頬が赤くなった。

 

「有難く使わせてもらいます……」

「じゃあさっさと寝ろ」

「はーい、おやすみなさい」

 

 にへらと笑って就寝の挨拶を告げる。ふん、とソーマはそっぽ向いて照明を落とし、ソファに横になった。

 静かになった部屋では自分の心音が五月蠅いくらい身体の内側で響く。それでも嬉しいハプニングにふにゃりと口元が緩み、小さく身じろぎしてシオを向き合う形を取る。果たして安眠出来るのか不安が強かったが、不思議と眠気はすぐやってきた。

 

――ソーマさんの匂い、落ち着くんだよなあ。

 

 ぼんやりとそんな事を思いながら、ミツハはゆっくりと目を閉じた。

 

   §

 

「……眠れねえ」

 

 寝静まった真夜中。普段なら無音である筈の自室に響く、二人分の寝息。シーツが立てる衣擦れの音。出来の良い耳は物珍しい音を拾うように鼓膜を擽り、意識すると妙に目が冴えてしまう。

 気にもせずに眠るミツハが少し恨めしく思えてしまい、嘆くようにソーマは独り言ちた。

 



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第八章
59 お茶会と恋話・そのに


 シオ専用の服を作ろう、とサカキが言い出した。

 普通の服はどうも繊維が気に入らないらしく、また逃げ出されても困るのでそれならば繊維が気にならない服を作ればいいと。整備士のリッカをも巻き込んだ事態となり、不承不承にソーマが溜息を吐いていた。

 

「結局外部に漏らしてんじゃねえかよ」

「服作りとなると第一部隊だけじゃどうにもなりませんし……」

「つーか別にこのままでもいいだろうが」

「女の子にこんなボロ布着せるってどうかと思います」

「見た目だけだろ」

 

 そう言いながらソーマは鼻を鳴らして足元に座る少女を見下ろす。シオはバケツいっぱいに入った手羽先のようなシユウの部位を口いっぱいに頬張ってむしゃぶりついていた。女の子と言うには確かに豪快過ぎる。

 ヨハネスの訪問が去り、壁の穴も大急ぎで塞いだ為シオは一日で研究室に戻った。掃除をした筈なのにまた乱雑に散らかっている部屋のソファにミツハとソーマは腰を下ろし、シオの服作りについて話をしていた。

 

「素材集め、明日行きませんか? 確か鎮魂の廃寺でサリエルの討伐任務あったじゃないですか。ついでに新月なのでオーロラ撮りたいですし」

「ついでが本命だろ」

「あはは……今度はちゃんと三脚使って撮りたくって……」

 

 ミツハの言葉にソーマが呆れた顔を見せた。

 以前ソーマと鎮魂の廃寺でオーロラを撮ってからひと月程になる。初めてのオーロラ撮影とあってあまり満足する写真は撮れなかったのでリベンジがしたいのだ。

 苦笑を返すと、食事を終えたシオが口の周りに食べカスをつけた顔で見上げる。

 

「しゃしん、とるのか? シオもしたい!」

「てめえが外に出るのは駄目だ」

「ええー! シオ、おとなしくしてるぞ! しゃしんとりたいー!」

 

 取り付く島もない体で却下するが、なかなか引き下がらずシオはジタバタと手足を振り回して駄々を捏ねる。暫くソーマと押し問答を繰り返していたのだが、なかなか折れないソーマにシオは矛先をミツハに向けた。おねだりをする幼気な琥珀色の瞳にじっと見つめられ、断りづらくなってしまう。

 

「しゃしんって、〝キネン〟のときにとるって、みつはいってたな」

「そ、そうだね。言ってた言ってた」

「そーまとなかなおりしたキネンに、とりたい!」

「なっ、何が記念だ、馬鹿!」

 

 なかなかに威力が大きかった言葉だったらしい。弾かれたようにソーマが動揺し、その頬を紅潮させる。その様子が微笑ましく、ミツハは口元を緩めてシオに笑い掛けた。

 

「……よし、ソーマさんとシオが仲直りした記念に撮りに行こっか!」

「やった! キネンだ!」

「おい、勝手に決めんじゃねえよ!」

 

 ソーマが吼える。じろりと睨まれるが、赤くなった顔では普段のような鋭さは全くない。

 

「記念写真は大事です!」

「何が記念だ何が」

「だからソーマさんとシオが、」

「もういい何も言うな」

 

 ミツハの言葉を遮るように、ソーマは顔を手で覆って深い溜息を吐く。これは押しに負けた時の顔だ。ミツハは勝ち誇ったように、にへらと笑った。

 

「行きますよ、ソーマさん」

「いくぞー!」

「……勝手にしろ」

 

 ――そんなやりとりをしたのが昨晩の事だ。

 翌日の午前中は二週間に一度ある定期検査を受ける為、再びサカキの研究室に足を運んだ。

 検査結果は「オラクル活性は低下気味だが問題ない」という、通常の神機使いならば異常の事態を簡単に言ってのけた。低下という言葉が気に掛かり、神妙な面持ちでサカキに問い詰める。

 

「て、低下って、どうして」

「月経前で黄体ホルモンの影響を受けているからねえ」

「あー……そういえば月初めですね」

「そういう事。けど神機を扱う分には全然問題ないよ。もっと顕著に現れるのは始まってからだろうしね。だから安心してシオを廃寺まで連れて行ってくれ」

 

 シオを連れ出す事は勿論サカキにも話している。にっこりとサカキが笑い、楽し気にミツハを送り出した。

 オーロラを撮るのも目的の一つだった為、廃寺に出向くのは夕方になってからだ。出撃まで微妙に時間が空いており、時間まで何をしようか考えながら廊下を歩いていると携帯が鳴る。カノンからの着信だった。

 

「もしもし、カノンちゃん?」

『ミツハちゃん、今って時間大丈夫ですか?』

「うん、出撃が夕方からだからそれまでは」

『じゃあ、良かったらラウンジまで来てくれませんか? 今防衛班のみんなで集まってお茶してるんです!』

「あっ、行く行く! すぐ行くから待ってて!」

 

 カノンの誘いを断る筈もなく、電話を切って早足でエレベーターに乗り込んだ。

 鼻歌を歌いながら数百メートルを上昇し、エントランス二階でエレベーターが停まる。ラウンジへ向かう途中で名前を呼ばれた。少女とも少年とも言えないアルトの声で。

 

「ミツハさん、久しぶり!」

 

 ラウンジのソファから赤毛の少年が飛び出してきた。あどけない表情を浮かべながら嬉しそうにミツハのもとへ駆け寄り、にーっと白い歯を見せて笑った。

 

「カズヤ君、来てたんだ!」

「ほら、食糧配給日だったし。母さんがアップルパイ作ったから、防衛班のみんなにって」

 

 丁度先月も同じようにしてカズヤがアップルパイを持ってきていた。ラウンジを見ると防衛班の面々がアップルパイを切り分け、和やかと言うよりは賑やかなお茶会を楽しんでいる。

 ミツハに気づいたタツミとカノンがソファから立ち上がり、タツミはからかうようにカズヤの頭に肘を置いた。

 

「コイツがミツハ呼べってうるさくてなあ」

「う、うるさいって言われるほど言ってない!」

「ミツハちゃんが異動してから、会う機会なくなっちゃったじゃないですか。カズヤ君寂しかったみたいで」

「カノンさん!」

 

 髪色と同じように顔を赤くしながらタツミの腕を払いのける。すっかりからかわれしまっているその姿は、いつぞやミツハがソーマの事で茶化されていた姿と重なった。好意を向けられている相手が自分だと言う事に恥ずかしさを覚えるが、微笑ましさもある。

 

「ミツハさんも食うでしょ、アップルパイ」

「えっ、でも防衛班のみんなで食べてもらった方が……」

「お前を呼ぶ口実なんだから食ってやれって」

「……俺タツミ嫌い」

「んな冷たい事言うなよ」

 

 不貞腐れたように口を尖らせるカズヤの頭を乱雑にタツミが撫でる。ボサボサになった赤毛を直しながら、カズヤは視線でミツハをソファに座るよう訴える。テーブルには手の付けられていないアップルパイが一皿あった。

 ほらほら座ってください、とカノンに背中を押されてラウンジのソファに腰を下ろす。向かいにはカレルが座っており、年下の少年から好意を向けられるミツハを鼻で笑った。

 

「いいじゃないか、死神より可愛げあって」

「でもカレルと比べるのもおこがましいぐらいソーマさんって可愛い所あるんだよ、知らないでしょ~」

「そんなもん知りたくもないがな、気色悪ぃ」

 

 からかいを軽口で返しながら、アップルパイにフォークを突き刺す。サクッと軽快な音を鳴らした。最後に食べたアップルパイは母の作ったものだ。味は勿論違う。それでも、優しい味だと言う事に変わりはなくてフォークは進んだ。

 隣にカズヤが座り、カップに手を伸ばす。中の液体は黒い、コーヒーだ。顔を顰めながら飲んでいる為苦いのだろう。背伸びをしている様子が可愛らしかった。

 

「ねえ、ミツハさん。異動した先の第一部隊って、ソーマって人が居る部隊だよね?」

 

 コーヒーカップを置きながら、じろりと。少し緊張の色が滲んだ瞳で問われる。カズヤからソーマの名前が出るのは少々どきりとしてしまう。

 

「えっ、そ、そうだけど……?」

「……付き合ってんの?」

 

――十三歳の男の子って、案外グイグイくるんだな!

 

 物怖じしていないという訳ではないのだろう。問うた声はようやっと絞り出せた、というような小声だった。

 等身大でぶつかってくる少年にすっかりミツハはたじたじとなり、首元を摩りながら困ったように笑った。

 

「つ、付き合ってないな~……」

「……ふーん」

 

 緊張したような表情とは一変し、あからさまにほっとした安堵の表情を浮かべるカズヤにミツハは言いようのない罪悪感が生まれた。まるで幼気な少年を弄んでいるかのようだ。

 苦笑を浮かべていると、向かいのカレルがにやりと悪い顔をした。からかいのネタが目の前に転がっているのだ、カレルが見逃す筈がない。

 

「で? 最近死神とはどうなんだよ」

「何かあったとしてもカレルに言うわけないじゃん」

 

 そもそも死神と呼ぶのはやめてくれないか――そう言葉を続けようとした所、間に数人を挟んで話を聞いていたブレンダンが「そういえば」とミツハに視線を向けた。

 

「昨日の朝、ソーマの部屋から出てくるのを見たんだが――」

 

 衝撃。カチャン、と右手からフォークがすり抜け、わなわなと手先が震えた。顔に熱が集まえり、動揺を隠せないまま口を開く。

 

「えっ、あの、ぶ、ブレンダンさん!? み、見間違いじゃないですかね!?」

「お前その慌てようはそうだって言ってるようなもんだろ……」

「は? なに、おまえ。朝帰り? しかも押しかけてんの? お前見かけによらず案外やるんだな……」

「ご、誤解! 変な事言わないでよ!」

 

 カレルとシュンがあからさまに怪訝な顔をするが、反対にカノンとタツミは目を輝かせていた。「どういう事ですか、ミツハちゃん!」とカノンに迫られる。

 

「ちが、えっと。その、任務で! 確認したい事があって部屋に行ったけど、私が寝落ちて、その、そういうアレで!」

「それで? 何かあったりしたのかしら?」

「あるわけないじゃないですか!」

「そう、つまらないの」

「つまらないって何ですか……!」

 

 ジーナが不満そうに溜息を漏らす。防衛班にシオの事を説明する訳にもいかず、曖昧な返し方が逆に怪しいのか暫くからかわれた。カズヤが聞き側に徹して話に混じって来なかったのがせめてもの救いだった。アップルパイの最後の一口を頬張り、詰るようにカレルを睨む。

 

「も、もうこの話題やめない? 飽きてよそろそろ」

「打てば響くから面白いんだろうが」

「性格わっる……! ていうかカレルこそそういう話ってないの――」

「おい、……ミツハ」

 

 意趣返しをしてやろうと口を開けば、遮るように低い声で名前を呼ばれる。どきりと心臓が跳ね、声の方へ振り向けばラウンジから少し離れた所にソーマが立っていた。フードに隠れて表情はよく見えない。

 

「時間だ。行かねえなら置いてくぞ」

「えっ、あ! す、すみません! すぐ行きます!」

「なんだよミツハ、デートか?」

「任務! サリエル倒してくるの!」

「あら、羨ましいわ」

 

 カレルのからかいを躱してソファから立ち上がる。出撃の準備をしなければ、と慌ててソーマのもとへ向かおうとしたのだが、袖を掴まれて引き留められる。カズヤが少々不満げな顔をしながらミツハを見上げていた。

 

「カズヤ君?」

「……いってらっしゃい、気を付けてね」

「う、うん。いってきます」

 

 聞き分けの良い子供はすぐに袖を手放したが、なんだか悪い事をしている気分になってしまう。真っ直ぐに好意を向けてくれる少年にどう接するのが正解なのか分からず、ミツハは苦笑を浮かべながらラウンジを後にした。

 

「す、すみません。ちょっと準備してくるので、一回部屋に戻りますね」

「あいつは俺が連れてくるから、お前は準備が出来たら直接格納庫に行け」

「はい、お願いします」

 

 二人でエレベーターに乗り込み、新人区画と研究区画の階層ボタンを押す。下降し始めた鉄の箱の中で、珍しくソーマから会話を切り出した。

 

「……あの赤い髪のガキ、外部居住区の子供か?」

「あ、はい。カズヤ君って言うんです。ほら、前にソーマさんに手伝って貰った防衛任務があったじゃないですか。その時に助けた子で、時々防衛班に差し入れ持って来てくれるんですよ」

「随分懐かれてんだな」

「あはは……可愛いなって思うんですけど、ちょっと恥ずかしくなっちゃいますね」

 

 照れを隠すように首元を摩った。新人区画に着くまではもう少し掛かる。

 

「ソーマさんが十三歳の頃って、背丈ってどれくらいありました?」

 

 そう言いながら、ミツハはソーマを見上げる。

 十三歳のカズヤの身長は一五〇センチのミツハとそう変わりないが、将来的に一八〇センチを超す事を目指しているらしい。そのカズヤが目標としている一八〇センチにソーマの背は近い。サカキの話によれば十二歳の頃は背が小さかったらしいが、成長期の男の子というのは一年でもかなり背が伸びるものだ。ソーマがカズヤの年齢だった頃はどれくらいの背丈だったのか気になった。

 見上げた三十センチ近く上にある整った顔は、何処か居心地が悪そうに逸らされた。

 

「……覚えてねえな」

 

――なにかマズい事を聞いただろうか。

 

 逸らされた目に、咄嗟にそう思った。続ける言葉に迷っていると、エレベーターが新人区画に到着した。

 

「あ、えっと、それじゃあまた後で!」

「ああ」

 

 素っ気ないがきちんと返事が返ってきた。疑問に思いながらもエレベーターを降り、自室に続く廊下を歩いた。

 



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60 記念撮影

「本当に三脚持ってきやがった……」

 

 右手には神機が収納されたアタッシュケース。左肩には三脚が入ったバッグケース。装甲車の格納庫でソーマが呆れた声を出したので、ミツハは強気に笑った。

 後部ハッチを開き、兵員室に荷物やシオを隠したコンテナを積み込む。それらと一緒にミツハも兵員室に乗り込んだ。

 

「シオの話し相手しときますので!」

「端からてめえに運転させる気ねえよ」

 

 バン、とハッチが閉まり薄暗くなる。すぐに車が動き出し、アナグラから装甲車が出た事を確認してからコンテナの蓋を開ける。ひょっこりと顔を出したシオが微笑んだ。

 

「しゃしん、たのしみだな!」

「その前の討伐がしんどいけどね……二人でサリエル討伐かあ……」

「シオがみつはまもるぞー! ほら!」

「え――ええっ!?」

 

 シオがコンテナから出した右手を翳すと、細い五本の指が生き物のように伸び出した。伸びた指先は形状を変え、次第に輪郭をしっかりと成していく。出来上がったシオの手だったものは、ショートブレードの神機のような形をしていた。

 

「なかまをいじめるやつは、シオがやっつけちゃうからなー!」

「心強い~……! ……前衛は二人に任せよ」

 

 討伐対象のサリエルは空中を浮遊している為、大鎌を普段のように振り回してもなかなか刃先が当たらないのだ。ブラストで援護射撃に徹していようと決め込みながら、装甲車は廃寺へと進んだ。

 

 十分程度で鎮魂の廃寺に着き、後部ハッチが開かれ冷気が入り込んだ。アナグラからたった十分走っただけだと言うのに、辺り一面銀世界だ。

 白い息を吐きながら赤いマフラーを巻き、シオと一緒に兵員室から降りる。サカキがノルンをハックして発行した任務の為、オペレーターからの通信は無い。通信が無いというのはなかなか不便で、アラガミの位置は自分達で確認しなければならないのだ。

 

「サリエルさん、何処にいますかね……」

「……御堂の方だ。行くぞ」

「いっくぞー!」

 

 しかし、少しソーマが辺りの気配を窺うとすぐに歩き出した。そう言われて御堂の方角へ意識してみれば、ぞわりと産毛が逆立つような悪寒がした。アラガミがいる反応だ。何度か経験のある感覚だが、不快感には慣れずに首元を摩った。

 

「どうかしたか」

「えっ、いえ。なんか、こう。アラガミが居る時の悪寒って未だに慣れないなーって……。なんか、ぞわぞわしますし」

 

 ミツハの曖昧な言葉にソーマがぴくりと眉を寄せる。

 

「てめえも感じんのか」

「えっ、普通感じないんですか?」

「普通の神機使いはな」

「……あー、五十三じゃないから、ですかね」

 

 付近にアラガミが居る際に感じる、産毛が逆立つ悪寒。てっきり本能的な危険予知なのかと思ったが、ソーマの反応からそうでもないらしい。

 ミツハ達を案内するように前を歩くシオの姿を見ながら、ソーマが吐き出すように言葉を紡いだ。

 

「クソ科学者どもが言うには、偏食因子とアラガミの間に起こる相互作用だとよ。P五十三偏食因子には無いらしいが」

 

 ソーマの持つP七十三偏食因子は、P五十三偏食因子よりもオラクル細胞に近いものだ。おそらく共鳴反応のようなものなのだろう。それがミツハにも同じように感じると言う事は――自分達が如何にアラガミに近い人間だと言う事を実感させられる。

 

「……まあ、危険予知って便利じゃないですか」

「はっ、物は言いようだな」

「多分その感覚がなかったら反応が出遅れて死んでた場面ありますもん、私。グボロの時とか、マータの時とか……あ、結局どっちもソーマさんに助けられてる……」

 

 危険予知したって結局駄目じゃないか、と自分の不甲斐なさに苦笑した。そんな会話をしながら歩くと、サリエルが徘徊する御堂の前に到着した。

 奇襲するタイミングを窺うべく身を潜めようとしたのだが、そんなものはお構いなしにシオが飛び出す。「あの馬鹿」ソーマが悪態を吐きながら飛び出し、ミツハもそれに続いた。

 

 ――討伐は問題なく終了し、サカキが欲しがっていた羽衣も手に入れた。

 シオの手製の神機は銃型にも変形可能なのだが、シオ自身のオラクル細胞を弾体として射出していたせいか随分空腹のようだ。サリエルの骸にシオがむしゃぶりつき、美味しそうに妖艶な女神の姿をしたアラガミを喰っていた。

 そんな姿を見ながら、ミツハは御堂から出た。近くに立てかけておいたバッグケースから三脚を取り出して組み立てる。ソーマの呆れた視線が背中に刺さるが気付かないフリをした。

 

 はあ、と指先を吐息で温めてカメラの設定をする。ISO感度やシャッタースピード、それとセルフタイマーの設定。シャッターを押す僅かなブレを防ぐ為にはリモートスイッチと言う所謂ケーブル式のシャッターを用いるのが理想的なのだが、生憎手に入らなかったのでセルフタイマーで代用している。

 ちなみに三脚はサカキからの貰い物だ。研究用で使うものなのか、随分しっかりした三脚なので強風で動く事はないだろう。

 

「……お前が真面目な顔してると違和感があるな」

「えっ、酷い……」

「なんかムズカシイかおしてるなー」

 

 真剣な顔をしてカメラの設定をしているとソーマがぼやき、便乗するように食事を終えたシオもやってきた。見慣れない三脚が珍しいのか近寄り、取り付けられたカメラを覗き込む。

 

「しゃしん、とるのか?」

「うん。でもいつもの撮り方と違って、写真撮るのに二十秒掛かるからシャッターボタン押したら動かさないでね」

「わかった! おとなしくしてるぞー!」

 

 試しに一枚、シャッターを切る。シャッタースピードは二十秒。二十秒間シャッターを開いたまま、オーロラの淡い光を何度も重ね撮りして焼き付ける。ゆっくり時間を掛けてシャッターを切る為、例え息を止めて動かないように注意していても三脚が無いとブレてしまうのだ。

 そうして、二十秒。時間を掛けてシャッターが閉じ、写真が撮られる。画面を確認すると、ミツハは感嘆の息を漏らした。

 

「はああ……! やっぱり三脚って大事……! ほら、見て下さい! この前と全然違いますよ! ちゃんと綺麗なカーテン状になってます!」

「わ、分かったから落ち着け」

 

 興奮しながら画面をソーマに見せつける。はしゃぐミツハに感化されたのか、シオも同じようにはしゃいできゃっきゃと黄色い声を上げた。

 

「うまくとれたのか!?」

「うん! えっとね、前もオーロラ撮った事があるんだけど……ほら! 全然違うでしょ?」

「オオー!? ハクリョクがちがうな!」

 

 ひと月前に撮った写真をシオに見せ、その違いに目を丸くした。同じカメラで撮った同じオーロラの写真でも撮り方次第でまったく違うのだ。「しゃしんっておもしろいな」とシオが目を輝かせた。

 

「シオ、まえにそーまとみつは、みつけたぞ! しゃしんとってたけど、これってそのときのしゃしんか?」

「あっ、気付いてたんだ? そうだよー、その時は三脚がなかったからあんまり綺麗に撮れなくってね……」

「デートしてたのか?」

「でっ、」

 

 無邪気なシオの声に言葉が詰まる。少なくともミツハは想い人と二人きりで出掛けたあの日の事を〝デート〟と勝手に認識しているが、ソーマの手前で肯定し辛い。

 返しに悩むミツハを他所に、シオはいつぞや〝可愛い〟の話をしていた時のような、無邪気な顔で笑った。

 

「デートって、たのしいことだってハカセがいってたぞ。みつはたちたのしそうだったから、デートだ!」

「……変な言い方すんじゃねえ」

「そしてきょうもたのしい! デートだな!」

「もう黙れ」

 

 ぺしん、とソーマがシオの丸い頭を軽く叩いた。しかし存外シオは楽し気で、ソーマの手を掴むと強引に引っ張りミツハの前に立つ。たじたじとなったソーマが仏頂面を崩していた。

 

「おい、シオ!」

「しゃしん、とろう? たのしいときはとるって、みつはいってたもん! シオはいま、たのしいぞー!」

「……撮るなよ?」

「いや撮りますけど」

 

 ミツハは手にしていたデジカメの設定をデフォルトに切り替え、躊躇いなくシャッターを切る。悪戯が成功した子供のように笑って見せれば、ソーマは不機嫌な顔をした。

 

「撮るなっつったろ」

「え、今のは完全にフリでしたよねソーマさん」

「んな訳あるか」

「いいじゃないですか、元々仲直り記念を撮りに来たんですよ?」

「その言い方やめろ……」

「照れてます?」

「ねえよ」

 

 間髪もなく即答された。以前こうして写真を撮りに来た時に比べ、言葉は弾むように交わされる。ひと月前だってだいぶ仲良くなったと自分では思っていたのだが、今はそれ以上だ。ミツハは嬉しくなってにへらと笑った。

 

「なあなあ、さんにんでとれないのか?」

 

 笑ったミツハの顔をシオが覗き込む。三脚があるのでセルフタイマーに設定すれば三人写った写真は撮れると説明すれば、シオは花が咲くように笑った。

 

「とろう! なっ、そーま!」

「馬鹿らしい、お前らだけで撮れよ……おい、放せ。シオ」

 

 逃がすまいと言わんばかりにソーマの腕にシオが絡まりつき、カメラの前から動こうとしない。三脚にカメラを取り付け、タイマーの設定をする。デジカメの液晶画面に映る二人の姿にくすくすと笑った。

 このまま自分が行かずにふたりの写真として残すのもいいなと思ったが、シオがミツハを呼んだ。

 

「みつはー! そーまがにげだしちゃうぞー! はーやーくー!」

「あはは、今行くから」

 

 シャッターボタンを押して二人のもとへ駆け寄る。タイマーの設定は五秒だ。シオとミツハで挟むようにしてソーマの逃げ場を無くすと、彼は呆れたように息を吐き出した。

 白い息が空気に霧散する前にパシャッ、と軽快なシャッター音が静かな廃寺に響き、次いでシオの楽し気な笑い声が響いた。

 



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61 女子会と言えば

 もはや恒例となったサカキ博士による第一部隊への呼び出し。研究室へ足を運べばサカキがにっこりと楽しそうに笑っていた。

 

「リッカ君に頼んでいたシオの服が出来たんだ」

「は、早いですね……」

「流石はリッカ君だ。サクヤ君、シオに着せてやってくれないかな」

「ええ、分かりました」

 

 素材を渡したのは昨日の夜だ。服というのは丸一日も掛からずに出来てしまうのか、はたまたリッカの腕が早いのか。きっと後者だろう。

 サクヤが服の入った紙袋を手渡され、シオの部屋に入っていった。以前のように暴れないか不安だったが、存外すぐに扉は開いた。サクヤが柔らかく微笑みながらシオの手を引く。

 

「お待たせ」

 

 その声色は随分と弾んでいた。サクヤに手を引かれて出てきたシオの姿に、一同は息を呑む。見違えるとはこの事だとミツハは思った。

 

 ――その姿は、真っ白な天使のようだった。

 

 背中にはそれこそ天使の羽を模しているのかフリルが翼のように装飾され、それが緑色のリボンでまとめられて動く度にひらりと揺れる。パレオに近いふわりとした白いワンピースの内側には緑色のフリルが覗き、胸元は大きな白薔薇の飾りがついたリボンが施されていた。

 ワンピースと言うより、ウエディングドレスと言った方がイメージが近い。布切れを纏っていただけの野性的な姿からは一変し、何処か儚ささえも感じる姿をしていた。

 

「キャ~! 可愛いじゃないですかぁ~!」

「しゃっ、写真! 写真撮っていい!?」

「ホントに普通の女の子みたいよね」

 

 シオの姿にアリサとミツハが黄色い悲鳴を上げる。こうして見ると本当に普通の女の子のようで、とてもじゃないがアラガミだとは思えないだろう。

 ミツハは携帯を取り出し、カメラアプリを起動させてシオの返事を待たずに画面をタップする。目を輝かせる女性陣を前に、シオも少し照れたようにはにかんだ。

 

「おお、可愛いじゃん! ね、ソーマ!」

「まあ……そうだな」

 

 コウタの振りに、ぶっきらぼうながらにソーマが認める。その素直さに、コウタは酷く驚いたように目を丸くした。

 

「おお……予想外のリアクション……」

「今日のソーマ素直だね」

「寝言は寝て言え」

「何だ、いつも通りじゃん」

 

 ユウのからかいにソーマは眉を寄せる。その顰めっ面にコウタが笑った。第一部隊の全員が集まり、自分の事で楽しそうに談笑している光景にシオは嬉しそうに目を細めた。

 

「なんか、きぶんいい……」

 

 ぽつりとシオが呟き、柔らかく微笑みながら胸の前で両手を組んで目を閉じた。祈るようなポーズで、シオは優しいメロディーを紡ぎ始める。それこそ、着ているドレスと相まって天使が奏でる歌に思えた。

 耳に心地良いソプラノの音色はオルゴールのようで、その鼻歌に驚きながらも第一部隊の面々は聴き入る。シオが気持ち良さそうに歌うその曲は、ミツハには耳に覚えのある歌だった。

 ――ソーマがシオに聴かせた歌だ。その時も真似するように鼻歌を歌っていたのだが、どうやらメロディーを覚えていたようだ。

 

「これ、しってるか? うた、っていうんだよ!」

 

 一通り歌い終えたところで、シオがぱっと瞳を開いて自慢げに笑った。琥珀色の瞳はきらきらと輝いている。

 

「すごい……」

「凄いじゃない、シオ!」

 

 アリサとサクヤが、その歌声に舌を巻いた。二人の賛辞を受け、シオはきょとんと首を傾げながらユウに話し掛けた。

 

「なんだ? これ、えらいか?」

「うん、凄く綺麗な歌だったよ」

「……へへへ。そっか、えらかったか! なんかきぶんいいな!」

 

 ユウに褒められ、シオは落ち着かないように身体をくねらせる。そんなシオに今度はサクヤが首を傾げた。

 

「それにしても、歌なんて何処で覚えたの?」

「んー? ソーマのへや!」

「なぬ!?」

 

 ご機嫌に答えられた言葉に、一同の視線はソーマに集まる。注目を浴びたソーマは居心地が悪そうに目を伏せた。

 

「ソーマといっしょにきいたんだよ! なっ、ミツハ!」

 

 無邪気な瞳が、今度はミツハに向けられる。同意を求めるその言い方は、ミツハもソーマの部屋に居た事を言外に伝えていた。

 ソーマに向けられていた視線がミツハにも移り、一同はニヤニヤと茶化すように笑った。ミツハの頬に熱が集まる。

 

「あらぁ? あらあらあら?」

「へぇ~、そうなんですかぁ~」

 

 サクヤが噂好きな主婦のような声を上げ、次いでアリサが裏を探るような怪しげな視線を向けた。ソーマは紅潮する頬を隠すようにそっぽ向く。

 

「し、知らん……」

「頑張ってるね、ミツハ」

「が、頑張ってるって何が!?」

 

 ユウは満面の笑みでミツハに親指を立てる始末だ。驚いていたコウタはにやりと口元を吊り上げ、ソーマを肘で突きながらいやらしく目を細める。

 

「なんだよー、いつの間に仲良くなっちゃってんの~?」

「……チッ、やっぱり一人が一番だぜ」

「ちょ、逃げないで下さいよ!」

「うるせえ、あとはどうにかしろ」

「ひ、ひどい! 共犯なのにー!」

「何が共犯だ何が!」

 

 居た堪れなくなったのか、ソーマは顔を赤らめて背を向けてしまった。

 ソーマが出ていってしまえば集中砲火を受けるのはミツハだ。ソーマが逃げるのならば自分も退散しようと研究室から出ていくソーマの背を追うのだが、逃がすまいと言わんばかりにアリサに手を掴まれる。アクアマリンのような瞳に迫られる。

 

「ミツハ、ソーマの部屋に行ったんですね? いつですか? 何をしたんですか? 何かされたんですか!?」

「きゃー! アリサの目が怖いよー!」

「えっとな、ソーマのへやでいっしょにねたよ!」

「寝――ちょ、えええ!? あの人意外と手が早いんですね!?」

「わああああ! ご、誤解! 何もないってばー!」

 

 顔を真っ赤にし、涙目になりながらミツハはかぶりを振る。きゃあきゃあと悲鳴を上げながら騒ぐ二人のやり取りに周囲は可笑しそうに笑い、止めに入る事はしなかった。

 

「決めました、今夜女子会を決行します! 場所は私の部屋です!」

 

 不意にアリサが高らかに宣言する。真似するようにミツハも声を張り上げた。

 

「ふ、不参加表明をします!」

「そんなの受け付けません! さあミツハ、そうと決まれば早くシャワーを済ませてパジャマパーティーです!」

「ひええ……!」

 

 ぐいぐいと背中を押され、研究室から押し出される。助けを求めようとちらりとユウを見やったが、「楽しんで!」とでも言うようにまたしても笑顔で親指を立てられただけだった。

 

   §

 

「お、お邪魔しま~す……」

「ミツハ、いらっしゃい! 待ってましたよ!」

 

 夜。同じ新人区画内にあるアリサの部屋を訪ねると、可愛らしいピンクのパジャマ姿のアリサがミツハを出迎えた。

 もこもこした素材のパジャマの下に薄いキャミソールを着ており、スウェットのショートパンツから伸びる生足はリボンの付いたサイハイソックスによって、所謂〝絶対領域〟が作られている。世の男子が理想とするパジャマ姿だな、とミツハは何故か感心すら覚えた。

 

 中に足を踏み入れ、ぐるりと部屋を見渡す。急いで片付けたのかダンボール箱に衣服が乱雑に詰め込まれており、「そこは見ないで下さい!」とアリサに釘を刺された。

 棚にはロシアから持ってきたと思われるマトリョーシカ人形や沢山の化粧品等が並び、ミツハの部屋よりも女の子らしい部屋だった。

 そんな部屋のソファに腰掛ける。どうぞ、と香りの良い紅茶を出された。

 

「前に言ってた、ロシアから持ってきてた茶葉です。配給品のより全然美味しいと思いますよ」

「あっ、有難う。香りからもう美味しいって分かる……」

「ふふふ、でしょう」

 

 アリサが得意気に笑いながらミツハの隣に座る。可愛らしい小薔薇の装飾が施されたティーカップに注がれたのは、透き通った飴色のストレートティーだ。その紅茶を一口飲んでみる。すっきりとした控えめな甘さは爽やかで、飲んだ後に鼻の奥で香りが広がった。

 

「で、結局どうなんですか? あの人と」

 

 紅茶の味を堪能していると、アリサがじろりとミツハの顔を覗き込む。ふわりと紅茶とは違う甘い香りがした。シャワーの後なのでボディクリームか何かの匂いだろう。

 

「ど、どうと言われましても」

「一緒に寝たって! 言ってたじゃないですか!」

「だからそれは誤解だって! 寝たのはシオと!」

「シオちゃんと? そもそもどうしてソーマの部屋に泊まったんですか?」

 

 首を傾げるアリサに事の顛末を説明する。

 ソーマの部屋に行った理由と、泊まる事になった理由。特にアリサが期待するような事は何もなく、なんだ、と彼女は少々がっかりしていた。

 

「てっきりもう付き合っているのかと思いました」

「ジーナさんにも同じ事言われた……そ、そう見えるの?」

「見えますよ。前々から仲良いなとは思ってましたけど……ミツハが私達に秘密を教えてくれたのも、ソーマと何かあったからなんでしょう? 前よりずっと距離が近くなったと言うか、なんて言いますか。収まる所に収まった、みたいな感じ有りますもん」

「……そ、そっかぁ~」

「顔にやけてますよ……」

 

 むに、と緩んだ頬を抓まれた。ミツハの顔を覗き込んだまま、アリサも口元をにやつかせて笑う。

 

「告白、しないんですか?」

「こ、心の準備と言いますか」

「でも絶対両思いだと思いますよ、ミツハ達」

 

 何故か自信満々にアリサが言う。傍から見れば想い合っているように見えるのだろうか。アリサの言葉に顔がにやけるが、ふと冷静になる。

 

 ――正直なところ、自分がソーマにとって特別な位置に立っている自覚という名の自惚れはある。

 抱き締められたあの黄昏の屋上での記憶は思い出すだけで恥ずかしさと嬉しさ、それと温かい何かで胸がいっぱいになる。同じ〝普通〟じゃない者同士、他人より深い所でソーマと通じている筈だ。それに気づかない程、ミツハは鈍感でもなかった。

 

 しかし、だ。おそらく鈍感なのはソーマの方なのだ。

 

「ソーマさん、私がソーマさんの事好きって微塵も気づいてないし……」

「……えええ」

 

 にやついていたアリサの口元が引き攣り、それにつられてミツハも苦笑した。

 そもそもソーマの中に恋愛という概念があるのか気になる所だ。〝俺なんか〟に好意を向ける人間などいない、恋など自分には無縁だと思っている男だ。そんなソーマが誰かに恋愛感情を抱くのか疑問である。

 

 ソーマに好かれているという自惚れはある。パーソナルスペースが広いソーマが部屋にあげてくれるくらいなのだ。押しに弱いとは言え、任務に付き合ってくれる上に一緒に写真だって撮らせてくれた。これで自惚れない方が無理がある。

 だが、それが恋愛としてなのかは分からない。

 

「……だったら尚更、告白した方がいいんじゃないですか? 直接ガツンと言ってやらないと、あの人きっと気付きませんよ」

「そうかもしれないけど……うーん……ま、まだいいかなあ……」

 

 アリサの言う事にも一理あるが、少なくとも今すぐに告白しようという気はミツハには起きなかった。

 

「それは……シオちゃんが居るからですか?」

「えっ」

 

 突然出てきたアラガミの少女の名前にどきりとした。彼女もまた、ソーマにとって特別な少女である。

 

「で、でもソーマとシオちゃんはそういうのじゃないと思いますよ? 確かにシオちゃん、ソーマに凄く懐いてますし今日のソーマは随分シオちゃんに甘かったですけど――」

「ちっ、違うよ!? 別に三角関係とかじゃないからね!?」

「えっ、そうなんですか?」

 

 確かにシオはソーマによく懐いており、ソーマもそれを受け入れている。無邪気にソーマに引っ付くシオと、そんなシオにたじたじとなりながらも甘んじているソーマはとても仲が良く見えるが、その間に恋愛感情があるとは思えなかった。距離の近さに微笑ましいなと思う事はあっても、ヤキモチを焼くような事はない。

 

「そういうのじゃないけど……うーん。シオが居るからって事になるのかな。ソーマさんは今までずっと、自分の事とかシオの事で悩んでたけど、やっと受け入れられたんだよ。なのにまた悩ませるような爆弾を落としたくないと言うか……」

 

 告白した所で、それをソーマがすんなりと受け入れてくれるとは思い難い。今までずっと苛まれていた悩みからようやく抜け出せ、前を向けたと言うのにそれを躓かせるような事はしたくなかった。

 ――それに加えて、今の距離感が心地良いというミツハの下心もあるのだが、それには口を噤んだ。

 

「……ミツハってソーマに甘いですよね」

「そりゃあ、好きだし」

 

 にへ、と頬を緩ませる。包み隠さずに想いを告げるミツハに、あてられたようにアリサの方が顔を赤くした。顔を隠すようにティーカップに口をつける。

 

「……やっとミツハが年上なんだなあって実感湧きました」

「な、なにそれ。ちょっとひどい。……そういうアリサはどーなの」

「えっ、な、なにがですかっ」

 

 形勢逆転と言わんばかりに、今度はミツハが口元をにやつかせた。カチャン、とカップをソーサーに置く音が響く。

 ぎくりとアリサが仰け反ったが、逃がすまいとミツハは距離を詰めた。広いソファで身体が密着する。

 

「ユウと! ねえねえどうなの、アリサはユウに告白しないの?」

「ゆっ、ゆゆゆユウとはそんなんじゃありませんから! その、た、確かに好意的に思っていますけど、そ、それはあくまでリーダーとしての尊敬ですし!」

「私には根掘り葉掘り聞いておいて誤魔化すのは不公平だー!」

 

 不満を漏らすとアリサは言い返せないのか口を結ぶ。期待するようにじいっとアリサを見やれば、観念したのかぼそぼそと言葉を紡ぎ始めた。

 

「……告白は、しません。今の私なんかじゃ、全然駄目です。助けられてばっかりで、不甲斐なくて……。ユウに告白する時は、もっと自分に自信を持ってからって決めてるんです」

 

 顔を赤くしながら、恋する乙女はいじらしく胸の内を明かした。陶器のように白い頬を赤く染め、柔らかくはにかむ。その仕草に今度はミツハがあてられてしまう。

 

「……アリサは、どうしてユウを好きになったの?」

 

 アリサが変わったきっかけは、ユウにある。リンドウが居なくなった後、錯乱状態で入院していた彼女に親身になっていたのはユウだった。

 二人の間に何があったのかは知らないが、きっとその出来事がきっかけでアリサはユウに惹かれたのだろう。どうして好きになったのかなんて聞かなくとも分かる事だったが、つい聞いてしまった。彼女の口から聞いてみたかった。

 

 アリサは少し困ったような顔をしながら自分の掌を見下ろした。その掌を胸に当て、優しい声色で思い出すように語る。

 

「手を、握ってくれたんです」

 

 ――それからアリサは、自身の事を語り始めた。自分の過去の事――両親をかくれんぼで探させていた最中に、二人がアラガミに喰い殺されてしまった事を。リンドウが取り残された日の事――自身の誤射によってリンドウを瓦礫の中に閉じ込めてしまった事を。そして、感応現象を通じてユウに救われた事を。

 

「温かい気持ちが流れ込んできて……その温かさに、凄く安心したんです。救われるってこういう事なんだなあって、思っちゃいました」

 

 闇の底で子供のように泣きじゃくっていた自分に気付き、誰よりも早くその手を取ってくれた人――アリサは愛おし気に、そう言った。聞いている此方まで恥ずかしくなってしまう程の、慈愛に満ちた声だった。

 

「……好きな人って、なんか、すごく……温かいよね」

 

 アリサの言葉に、ミツハは深く頷く。アリサがユウに救われたように、ミツハもソーマに救われた。

 抱き締められたあの温かさが。不器用なその手の温かさが。

 その温かさが、押し潰されそうになっていたミツハを救った。温かいから好きだと思うのだろうか。好きだから温かいと感じるのだろうか。――きっとその両方だ。

 

「ずるいですよね。そんなの、好きにならない訳がないじゃないですか」

 

 アリサが笑う。恋をしている顔だった。

 

「お互い鈍い人を好きになっちゃいましたね」

「あー、ユウも恋愛面に関しては鈍そうだもんね……」

「そうなんですよ! あの人自分以外の人にばっかり目を向けるせいなのか、自分の事には全然で……それにユウって凄くお人好しじゃないですか! ちょっと色々心配です……」

「じゃあアリサがちゃんとユウの事、見てあげないとだね?」

「……ふふ、ですね!」

 

 お姉さんぶるようにアリサが快活に頷いた。恋する乙女のその表情はきらきらと輝いて見え、もしかすると自分もこんな顔をしているのかもしれないと思うと少し恥ずかしくなる。くすぐったくてはにかむとアリサは楽しそうに微笑み、紅茶のおかわりを注いでくれた。

 



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62 鈍感主人公

 ――高校一年生の夏休みの時だった筈だ。

 夏休み前に初めて彼氏が出来た三葉の家に千夏が押し掛け、事情聴取の如く根掘り葉掘り聞かれた事があった。夜通しで恋バナをして合間にバンドや写真の話をして、また恋バナに戻り。結局あの日寝たのは何時だっただろうか。日付はとうに変わっていた筈だったが、目が覚めたら昼過ぎで、そして目の前に親友の寝顔があった印象が強くて覚えていない。

 千夏は三葉より幾分大人びた顔立ちをしており、睫毛の長さに羨ましく思った記憶がある。

 

「まつげなが……」

 

 朝六時過ぎ。目を覚ますと眼前に美少女の寝顔があった。

 アクアマリンのように大きく綺麗な瞳は今や閉じられ、長い睫毛が呼吸に合わせて揺れている。あどけない寝顔は十五歳の少女そのものだ。しかし時折捩るその身体は随分と発育がよく、絶妙なバランスがある種の芸術品のように思える。

 

――アリサの写真集出せば飛ぶように売れそう……。

 

 金にがめつい悪友とつるんでいるせいだろうか。つい不純な考えが頭に浮かんでしまったが、それを頭から追いやる。アリサを起こさぬようにと配慮しながら、ミツハはアリサのベッドから降りた。

 

 結局昨晩の女子会は夏休みに千夏と盛り上がった女子会とは異なり、日付が変わる頃合いで閉幕した。自室に戻るのも億劫となり、そもそもアリサが「ソーマとしたんなら私ともして下さい、お泊まり!」とミツハをベッドに寝転がしたのでそのまま寝落ちた経緯だ。

 どうにもアリサはこういった友達同士のやりとりが新鮮で楽しいらしい。昨晩のアリサは随分と浮かれていた。

 

 そんな女子会の閉幕から約六時間――恋する乙女は本日も神狩りの任務が入っている。寝ている間に乱れた衣服を整え、身支度をするべく自室へ戻ろうとしたのだがぴたりと足が止まる。

 アリサに何も言わずに出ていくのも悪いだろう。アリサが起きるまで待っていてもいいのだが、あと二十分も経たないうちに食堂が開く。とどのつまりソーマとの食事の時間だ。

 別に約束している訳でもないのだが、すっかり習慣となった上に想い人と一緒に食事を取りたい乙女心と言う名の下心があり、ミツハは申し訳ないと思いつつもアリサの肩を揺らした。

 

「アリサー、私部屋に戻るね?」

「んん……な、なんじですか……」

「六時十二分」

「……あっ、お、おはようございます!」

 

 時間を聞き、アリサが飛び起きる。そして何故か慌てた様子を見せた。

 

「ふ、普段ならもう起きてるんです。その、昨日寝るの遅かったじゃないですか! いつもなら支度も終わってるんですからねっ」

「まだ六時だし別に寝坊ってわけじゃ……」

「……ミツハは早起きなんですね?」

「だって早く食堂に行かなきゃソーマさん食べ終わっちゃうし」

「あー、朝一緒に食べてますもんね。大体あの人がもう少し時間遅らせればいいのに」

「私が勝手に時間合わせてるだけだし……」

 

 口を尖らせて文句を言うアリサにミツハは苦笑で返す。

 

「またしましょうね、女子会」

 

 お邪魔しました、と部屋の扉を開けるとアリサに見送られる。ふふ、と微笑んだアリサにミツハも笑って頷いた。

 

   §

 

「おはようございます」

「ん」

「何かありました?」

「……何もねえよ」

 

 六時四十分。食堂に足を運び、いつものようにプレートを受け取ってソーマの正面の席に座る。朝の挨拶をすれば、素っ気ないながらも反応が返ってくるようになったのはいつからだろうか。ちらりと此方を見やった蒼い瞳にミツハは首を傾げる。

 

「何も無いって顔じゃないですよ」

「……この後クソ野郎の所に顔出さなきゃいけねえのがムカつくだけだ」

「クソ野郎とはどの野郎ですか」

「支部長だ」

「……あー」

 

 ソーマの言葉にミツハは口元を引き攣らせる。そういえば帰ってきてたな、とヨハネスの顔を思い出す。ソーマが不機嫌になるのも致し方無いだろう。

 

「そういえば今日の任務、ソーマさんはアサインされてませんでしたけど……あれですか」

 

 特務――特異点の捜索。ソーマがヨハネスから命じられている単独任務だ。ああ、とソーマが頷く。

 

「灯台下暗しってやつだな。笑えるぜ」

 

 ヨハネスが探している特異点――シオは既にサカキが保護しており、アナグラ内で過ごしている。どんなに捜索を命じても見つかる筈がないのだが、いつまでも特異点が見つからなければヨハネスは業を煮やすだろう。

 ――その矛先がどこに向くか。そこまで思考を巡らしてミツハは大きく息を吐き出した。

 

「や、やめましょうこの話。朝から気が滅入ります」

「同感だ」

 

 肩を竦め、ソーマは朝食を食べる手を再開する。ミツハが席に座ってからプレートの量はあまり減っていなかった。

 乾パンを食べながら、他愛もない雑談にシフトチェンジする。

 

「そういえば昨日アリサと女子会したんですけど、男子会とかってしないんですか?」

「そんなもん俺がやるように見えるのかよ、お前……。そういうのは俺じゃなくてユウかコウタに聞け」

「えー。ソーマさんも男の子なんですから参加しましょうよ」

「そもそも集まって何するんだよ……」

「……恋バナ?」

「尚更やる意味ねえだろ」

 

 呆れたような口調でソーマが一笑する。その取り付く島もない返しにミツハは口を尖らせた。

 

「別に恋バナって言っても、好きな人が居るからするって訳でもないですよ?」

「そういうもんか」

「そうですよ。ほら、どんな人がタイプだとか、付き合うならどんな人がいいだとか。そういうのも恋バナですよ」

「そうか」

「…………」

 

 〝また何かくだらない事を言い出したな〟とでも言いたげな生返事で相槌が打たれる。実際ソーマにとってくだらない話になるのだろうが、ミツハにとってはそうでもない。話半分で聞くソーマに少々ムッとして、ミツハはストレートに〝探り〟を入れる。

 

「ち、ちなみにソーマさんってどういう人がタイプなんですか」

 

 先程までミツハがしていた一方的な話とは違い、問い掛けだ。質問に相槌が返される事はなく、一瞬だけ食事を取るソーマの手が止まった。そして呆れた視線を向けられる。

 

「戦闘で足手纏いにならねえ奴」

「……そういうのじゃない……」

 

 異性の好みというより、同行メンバーの好みではないか。ちなみにその条件にミツハはあまり当て嵌まらないので少々ダメージを負ってしまうが、食い下がらずに畳み始めていた風呂敷を再び広げる。

 

「み、見た目の好みとか、内面の好みとか。そういうの聞いてるんですけど」

「どうでもいい」

「ぐう」

 

 そしてあえなく撃沈した。思わず〝ぐうの音〟を漏らすミツハにソーマは問い掛ける。

 

「そういうお前はどうなんだよ」

 

 好み云々より好きな人が目の前に居るんですけどね――などと思いつつも言える筈もなく。ミツハは少し頭を悩ませて、目の前に座る想い人をじっと見る。

 

「……背。が、高い人……とか?」

「カレルか」

「なんでそうなるんですか!?」

 

 勘付いてくれるどころか勘違いを生んでしまいそうになり、ミツハは内心で悲鳴を上げた。

 〝直接ガツンと言ってやらないと、あの人きっと気付きませんよ〟――昨晩のアリサの言葉が思い出される。踏み込んだ質問をすれば少しくらい気付いてくれるかもしれない。そう思ったのだが一筋縄ではいかないようだ。

 

――……ラノベの主人公に恋するヒロインってこんな気持ちなのかな。

 

 そんな思いすら頭に浮かび、ミツハは苦笑を隠すようにレーションを咀嚼する。相変わらず美味しいとはお世辞にも言えない味をしているが、特に苦でもなくなった。

 



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63 愛とか恋とか

 本日の任務にアサインされたメンバーを見てミツハが思ったのは、〝珍しいな〟というぐらいのものだった。

 第一部隊にいつものように討伐任務が下されたのだが――その同行メンバーに、第一部隊隊長のアサインがなかったのだ。神薙ユウを除いた残りの五人での討伐任務は珍しい。フリーの討伐任務ではなく、〝第一部隊〟宛てに下された討伐任務で隊長がアサインされていないと言うのはミツハは初めての経験だった。

 しかしミツハは第一部隊に異動してまだ日が浅い。リンドウが隊長だった時にもこういった事はあったのかもしれない――と、特に気にも留めていなかった。

 

 ソーマの腹に何か抱えたような表情を見るまでは。

 

「……今日の任務、ユウだけ居ませんけど珍しいですね」

 

 場所は〝煉獄の地下街〟。茹だるような暑さに辟易しつつ、ミツハは隣を歩くソーマに問い掛ける。

 本日第一部隊に下された任務内容は、シユウとグボロ・グボロ各一体の討伐。共に堕天種ではあるが、それでも連日大型の堕天種を相手にしていた討伐任務と比べれば呆気ない。隊長であるユウが居なくとも問題ない相手だ。

 

 ミツハに問い掛けにソーマは眉を顰めた。この暑さの中でもソーマは相変わらずダスキーモッズを着込んでおり、フードも目深に被っている。暑くないのだろうかとミツハは常々疑問に思う。

 

「どうも俺一人じゃままならねえと判断したらしい」

 

 ソーマが忌々し気な舌打ちと共に吐き捨てる。主語のない一見不明瞭な言葉ではあったが、ミツハはその意味を汲み取った。

 

「……特務、ですか」

「ああ」

「矛先、そっちに行ったんだ……」

 

 独り言のつもりでミツハが呟く。見つかる筈のない特異点捜索に業を煮やしたヨハネスは、ミツハではなくユウに矛先を向けた。また自身の偏食因子を使って疑似特異点を作り上げようとするのではないかと気が気ではなかったのだが、サカキからの忠告もあってそうならずにほっとする。だが、代わりユウに危険な特務を回される形となってしまい心苦しかった。

 

「……あいつはそう簡単にやられるタマじゃねえだろうが」

 

 そんなミツハの心境を読んだのか、はたまた分かりやすく顔に出ていたのか。ソーマがぶっきらぼうながらに言葉を掛ける。不器用なソーマの優しさに胸が温かくなり、そうですね、と頷いた。

 

「ユウが頑張ってるんですから、私も負けないように頑張らないとですね! 中型の堕天種ぐらいちょちょいのちょいで倒せるように――」

『此方コウタ! K地点でシユウを見つけたから、こっちに合流頼むよー!』

「行くぞ」

「はっ、はい!」

 

 意気込んでいると二手に分かれて索敵をしていたコウタから無線が入る。K地点まで駆け抜けると、荷電性のシユウが辺りに電撃を撒き散らして暴れていた。

 通常のシユウとは違い表面の外皮は黒っぽい色をしており、硬さを増している。中型の堕天種を〝呆気ない〟と評したが――あくまでそれは、第一部隊メンバーが揃っていての話だ。ミツハ一人では寧ろ此方が呆気なくやられてしまうだろう。ちょちょいのちょいで倒せるようになるのは一体いつの話になるだろうか。

 

――単独任務って自殺行為なんじゃないの……。

 

 特異点の存在を〝強力なアラガミのコア〟という情報でしか知り得ないヨハネスは、それこそ接触禁忌種のような危険なアラガミの討伐を特務として言い渡しているのだろう。それを単独でこなすと思うと――想像するだけで震え上がる。ミツハなど簡単に死んでしまうだろう。

 

――でも、ユウなら、……きっと大丈夫。

 

 先程ソーマが言ったように、ユウがそう簡単に倒されてしまうとは思えない。ユウの実力は本物だ。

 それでも、無事に帰ってくるように祈りながらミツハは漆黒の大鎌を振り翳す。硬い外皮に邪魔されてあまり手応えはなかったが、後方から放たれたサクヤの援護射撃によってシユウは怯んだ。

 

   §

 

「はー、サッパリした~……」

「地下街での任務はあんまりやりたくないですよね……」

 

 煉獄の地下街での任務を終え、第一部隊はアナグラへ帰投する。自室に浴室がない新人区画に住むミツハ達はすぐさま共同区画のシャワールームへ駆け込み、汗を流して一息吐いた。

 脱衣所に設置されている化粧台の前に並んで座り、ドライヤーで髪を乾かす。髪が短いミツハはアリサより先に髪を乾かし終え、椅子から立ち上がってアリサの背に回った。

 

「ドライヤー私やるよ」

「あっ、いいんですか? お願いします」

「長いと大変だもんね」

 

 まだ湿り気のある髪の束を掬い、ドライヤーの熱風を当てていく。ふわりと柔らかなプラチナブロンドが靡いた。

 

「コウタから聞いたんですけど、ミツハって私が来る少し前までは長かったんですよね?」

「うん。ずっと伸ばしてたから腰近くまであったかな」

「随分長かったんですね。どうして切ったんですか?」

「んっー……なんていうか、決意の断髪的な……」

 

 アリサの髪を乾かしながら、髪を切った経緯を説明する。グボロ・グボロに殺されかけたのは適合試験を受けて間もない、一月の下旬頃の話だ。中学の頃からずっと伸ばしていた髪を切ってから、もう二か月と半分になる。

 

――もしもあの日、死にかけなかったら私はどうなってたんだろう。

 

 そんな事をふと思った。死に直面したあの日、ようやくミツハはタイムスリップをしたという現実を受け入れた。死んでも元の世界には戻れないと悟ったのだ。

 だが、ずっと夢でも見ているのだと思いながら神機を握っていたのなら――

 

――どこかで死んでただろうなあ……。

 

 ある意味あの日の出来事はショック療法だったのかもしれない。苦笑を浮かべながら語るミツハに、アリサは成程と頷いた。

 

「ミツハのその短い髪は、戦う証なんですね」

「そんな感じかなー。なんか、また伸ばそうとも思わないし」

 

 少なくとも、神機を握っている間は短いままでいるだろう。そう告げると、楽し気にアリサが笑う。

 

「髪が長かった頃の写真ってないんですか? 見てみたいです!」

「そ、そんな見て面白いようなものでもないと思うんだけどなあ……」

 

 髪を乾かし終え、六十年前の携帯を取り出す。椅子に座ってカメラロールを開き、写真を遡ろうとしたのだが――画面を覗き込んだアリサが目を輝かせる。画面をタップし、とある一枚の写真が拡大表示された。

 

 その写真は――一週間程前、ソーマが屋上でミツハに寄り掛かってうたた寝をしていた時に撮った、ツーショット写真だった。

 

 ヒァ、とミツハが息を呑むような奇妙な悲鳴を上げる。ニヤニヤとアリサが笑った。

 

「あらぁ、ラブラブですね~?」

「あ、あわわ」

「これソーマに見せたら絶対面白いですよ?」

「あわわわわ」

 

 壊れたロボットのように悲鳴を上げるミツハをアリサがからかう。シャワーの後だと言う事を抜きにしてもすっかり顔は赤く染まり、耐え切れずミツハは椅子から立ち上がった。

 

「さ、さきにもどるね! ばいばい! おつかれさま!」

「あ、逃げた」

 

 早口で言葉を捲し立て、慌ててミツハは脱衣所を後にした。

 大きく息を吐き出して逸る心臓を落ち着かせたところで、エレベーターに足を向ける。夕食の時間まで少しあるので、シオのもとへ行こうと思ったのだ。

 

 共同区画から数百メートル地下にある研究区画へ足を運び、サカキの研究室を訪ねる。インターホンを押さずに勝手知ったる顔でロックを解除し、中に足を踏み入れる。

 

「こんにちは!」

「ミツハ君もだいぶ遠慮が無くなったねえ」

 

 まあいいけどね、と特に咎められる事無く済まされる。サカキのこういった態度も遠慮を無くす原因だとミツハは思う。

 シオの部屋へ行こうと右手の扉へ向かう。するとサカキが楽しげに笑った。

 

「先客が居るよ」

 

 その言葉通り、シオの部屋には先客が居た。見慣れたネイビーブルーのダスキーモッズを着込んだ先客――ソーマはベッドに腰掛けてシオと一緒に音楽を聴いていた。イヤホンを半分ずつ使い、随分と距離が近い。ふふふ、とミツハは口元を緩めた。

 

「なんですかー、いつの間に仲良くなっちゃってるんですか〜?」

「……腹立つ言い方やめろ」

 

 先日のコウタの言葉を真似て笑えば、拗ねたようにソーマが睨む。その様子にくすくすと微笑みながら、シオの隣に腰掛けた。

 

「何聴いてるの?」

「んー? このまえの!」

 

 そう言ってシオは鼻歌を歌いだす。今イヤホンから流れているフレーズをそのまま真似ているのだろう。その鼻歌は先日聴いた、あの女性シンガーの曲だ。シオは随分この歌が気に入っているようだが、何か考えるように首を傾げた。

 

「このうた、キレイだけどなんだかフシギなきもちになるなー」

「曲調がちょっと物悲しいからかなあ。そういえば、なんて曲名なんですか?」

 

 二〇〇九年リリース曲らしいので、曲名や歌手名を聞けば思い当たる節があるかもしれないとソーマに尋ねる。彼は手元の音楽プレーヤーの画面を見ながら口を開いた。

 

「my life、って曲名だ。alanという旧中国地域の出身の歌手らしいが、知ってるか?」

「あ、歌手の名前はちょっと聞いた事ありますよ! 確か、何か映画の主題歌歌っていたような……何の映画だったっけ……」

 

 過去の記憶を引っ張り出そうと頭を捻るが、思い出せそうにはなかった。ふ、と小馬鹿にするようにソーマが小さく笑い、恥ずかしくなって話題を逸らした。

 

「それにしても、ソーマさんがこういう歌聴いてるってなんだか意外でした」

 

 美しくさよならを言おう――そんな別れの歌だ。儚げで美しく、物悲しい旋律を好んでソーマが聴いているというのが少し意外だった。しかし不思議と似合わないな、とは思わなかった。それはミツハがソーマの内側を知っているからだろうか。

 ミツハの言葉に、ソーマは何か詰まったように一度口を噤んだ。しかし取り繕うように軽い悪態を吐く。

 

「……偶然見つけただけだ。てめえが聴いてる曲の方がよっぽど似合わねえだろうが」

「うっ、よ、よく言われますけど……で、でも、ロック系ばかり聴いてるわけじゃないですよ? ちゃんと女の子らしく流行りの恋愛ソングも聴いてましたし!」

「れんあい? れんあいってなんだ?」

 

 聞き慣れない言葉が気になったのか、ずっとイヤホンに耳を傾けていたシオが割り込んできた。面倒な事言いやがって、と目だけでソーマが訴える。

 そんな視線をひしひしと受けながら、ミツハはしどろもどろにシオの好奇心に答えてやる。

 

「え、えーと……だ、誰かを好きになって恋する事が、恋愛かなー……?」

「コイ? まえにソーマがハツコイっていってたやつか!?」

「ありゃ嘘だ、忘れろ」

 

 間髪を容れず即座にソーマが否定し、シオの頭を軽く叩いた。思わず苦笑が漏れる。

 叩かれたがじゃれあいと思っているようで、シオは特に気にした素振りも見せず寧ろきゃっきゃと楽しそうに笑った。

 

「〝すき〟になるのがコイなら、シオはミツハとソーマにコイしてるぞ! シオ、ふたりのことすきだからな!」

「シオ……!」

「…………」

 

 満面の笑みを浮かべ、シオは感激するミツハに抱き着く。ソーマも特に反論せずにじゃれあう二人をただ見つめていた。

 ミツハに引っ付いてはくすぐったく笑うその愛くるしさに胸がいっぱいになる。嬉しく思いつつ、ふにゃりと口元を緩めながら困ったように笑った。

 

「でもね、シオ。それは恋とはちょっと違うよ」

「そーなのか?」

「うん。シオは、ユウ達の事も好きでしょ?」

「うん! シオ、みんなのことだいすきだよ」

「でしょう。それは恋じゃなくて、うーんと、友愛? かな。恋の〝好き〟は、友愛じゃなくて恋愛の方。〝好き〟にも色んな形があるんだよ」

「ゆうあい……? れんあい……? ……んー、なんだかいろんなアイがあるんだなー」

「ねー。ちなみにコウタが妹ちゃんに向けてる〝好き〟は家族愛。ちょっと行き過ぎてるような気もするけど」

 

 シスターコンプレックスのきらいがあるコウタは度々シオに妹のノゾミの事も話していた。熱弁するコウタの姿を思い出したのか、シオは可笑しそうに笑った。

 

「でも、みんなだいすきだけど、ユウたちとミツハとソーマのすきはちょっとちがうぞ?」

「そうなの?」

「ミツハとソーマは、うーんと、とくべつ」

「…………」

「……ふふふ、そっかあ」

 

 柔らかくシオが微笑む。〝特別〟という言葉にミツハは一瞬驚いたような表情を見せたが、溢れ出るように優しく微笑んだ。

 

「特別ですって、ソーマさん。嬉しいですね」

「……別に。どうでもいい」

「照れてる照れてる」

「てれてるー」

「クッソお前ら……」

 

 少女二人からからかわれ、ソーマはすっかりたじたじとなってフードをより一層目深に被り直した。

 ――特別。

 シオは人間に近いアラガミであり、ソーマとミツハはアラガミに近い人間である。〝普通〟ではない似た者同士だ。そんな見えない繋がりを、シオも感じているのだろう。

 ユウ達に向ける友愛とはまた違う愛情に、シオは足をぷらぷらと揺らしながら首を傾げた。

 

「とくべつだけど、これはコイじゃないのかなー?」

「……恋って字の通り、下心がついて回るものだと思うしなあ……」

「したごころ?」

 

 ミツハの呟きにシオが琥珀色の瞳をきょとんとさせる。純真無垢といったその表情に、ミツハは何か綺麗なものを汚しているような妙な後ろめたさが募った。

 

「……だめ! シオにはまだはやい!」

「えー! したごころってなーにー! ソーマ、なにー!?」

「きゃー! 矛先がー!」

「てめえら少しは大人しくしてろよ……」

 

 騒ぐミツハ達をソーマが面倒くさそうに一瞥する。シオに問われても「知らん」の一言で跳ね除け、居心地が悪そうにベッドから立ち上がった。

 

「そろそろ飯の時間だろうが、帰るぞ」

「あ、ほんとだ……。じゃあね、シオ。また来るね」

「うん! またなー!」

 

 ブンブンと大きく手を振り、シオは部屋から出ていくミツハ達を見送る。「随分楽しそうだったね」と笑うサカキをソーマが一睨し、そんなやりとりに苦笑しながら研究室を後にした。

 研究区画の廊下を並んで歩く。エレベーターに向かう最中、ソーマが疲れたように溜息を吐き出した。

 

「何であんな話になったんだよ……」

「歌の話からまさかああなるとは思いませんでしたね……。でもタイムリーでしたよ、恋バナです恋バナ」

「くだらねえ」

 

 昨朝の会話を思い出し、ミツハはにやりと口元をいたずらっぽく緩めた。そんなミツハに呆れ、ソーマが呟く。

 

「愛だのなんだの、自分の事すらよく分からねえあいつに分かるわけねえだろ」

「えー。でも私達の事は特別って言ってくれたじゃないですか。その違いって重要だと思いますよ?」

「普通じゃない化け物同士って意味でだろう。そんなもんただの仲間意識だ」

「そうかもですけど。でも、ちゃんと繋がりをシオは感じてるって事じゃないですか」

 

 エレベーターに乗り込み、狭い箱の中で会話する。ソーマは随分と難しく考えすぎているような気がした。

 

「恋愛に限らずですけど、友達同士で感じる友愛だったり、家族に向ける家族愛だったり。そういうのって、何かしら繋がりがあるから感じられるんじゃないですか」

「…………」

「その繋がりが、なんていうか……広い意味での、あ、愛なんじゃないですかね。愛って何も、恋人同士の間にだけ生まれるものじゃないですし」

 

 気恥ずかしい事を言っている自覚はあったが、恥を忍んでミツハは語る。ソーマはただ黙って聞いていた。

 

 初めてミツハが知った愛というのは、家族愛だった。そこそこ裕福な一般家庭に生まれ、一人娘とあって両親から目一杯に愛を受けて育った。友人にも恵まれ、中学で出会った千夏は家族と同じくらい大切な存在だった。それは友愛より、親愛という言葉の方が近い。

 

 様々な繋がり経て、色んな形の愛があるのだとミツハは学んでいた。それが特別だとは思わなかった。誰かに愛されて生きる事は、ミツハにとって当たり前の事だった。それが〝普通〟だと思えるくらいに、ミツハはごく普通の平凡な少女だったのだ。

 ほんの、数か月前までは。

 

「……繋がり、か」

 

 ソーマが呟く。エレベーターはベテラン区画のすぐ近くまで来ていた。

 

「それが愛になるってんなら……俺には無縁の話になるな」

 

 自嘲の笑みすら浮かべず、さもそれが当然のように言い放つ。

 ベテラン区画で扉が開き、じゃあな、とソーマがエレベーターから降りた。

 

「……えええ」

 

 扉が閉じられた箱の中で、嘆きの声をミツハは上げる。思わず項垂れてしまいそうになるくらいだった。

 無縁だと言って頑なに切り離してしまうのは何故だろうか。どうしてそんなにも自分が愛されるわけがないと強く思ってしまうのだろうか。

 ベテラン区画から離れていくエレベーターの中で一人、ミツハは改めて思う。

 

――な、なんていうか……

――頑張ろう……!

 

 ソーマがいつか、人から愛されているのだと分かってもらえるように。

 なかなかに前途多難だな、と思いながらミツハは強く意気込んだ。

 



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64 VS氷の女王

 翌日、第一部隊に召集が掛かった。役員区画にある教官室への召集――ツバキからの呼び出しだった。

 部屋に入ると、ユウの姿があった。他に来ている者はおらず、ミツハとユウの二人きりとなる。顔や腕のあちこちに絆創膏が貼られているが、大きな怪我は無さそうでほっとした。

 

「その、……お、お疲れ様です」

「なんで敬語なの」

 

 ふ、と気さくにユウが笑う。しかしその表情は何処か張り詰めたものがあった。また何か特務を言い渡されたのかと懸念を抱いたが、アリサ達他の面々がやって来て聞けずじまいだった。

 だが――張り詰めた表情の意味は、意外にもすぐ知る事となる。

 

「揃っているな」

 

 教官室に第一部隊全員が揃ってすぐ、ツバキがハイヒールを鳴らしてやって来た。第一部隊の面々を一瞥し、ツバキは手元の資料に目を落とした。

 

「事前にユウには伝えておいたが……お前達第一部隊には明日、接触禁忌種の討伐任務にあたってもらう」

「……接触禁忌種、ですか」

 

 ツバキの言葉にサクヤがいち早く反応する。接触禁忌種と聞いて思い浮かぶのは――ミツハも遭遇した事がある、プリティヴィ・マータだ。

 冷たい氷の女王はひと月半前に群れを成して第一部隊を襲い、リンドウをKIAにさせた。当時のミツハは第一部隊ではなかったので、アリサから聞いた話でしかその時の事情は知らない。だが、第一部隊にとって宿敵であると考えなくとも分かる。

 ああ、とツバキが神妙な顔をして説明を続けた。

 

「今回のターゲットから、前リーダーの腕輪らしき信号が確認された。目下調査中だが、おそらく……先の戦いの相手だろう」

 

 その言葉に、空気が重苦しくなる。前リーダー――雨宮リンドウの手掛かり。リンドウが行方不明になった後、防衛班も総出で捜索に当たっていたがついぞ何も見つからなかった。それがようやく見つかったのだ。ぎゅ、と誰かが拳を握る音が聞こえた。

 

「今回も先の戦いと同じように、群れを成して移動している。苦しい戦いになるかもしれんが……現状の戦力を鑑みて、勝てない相手ではないと判断した」

 

 そして厳しい口調で、まるで言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

「仇などという雑念を混ぜるな。くれぐれも慎重に戦いを進めろ……いいな?」

 

 ツバキはそう念を押し、第一部隊を解散させた。明日の討伐に備えて各自準備をしろとの事だった。

 

「リンドウ……」

 

 教官室を後にし、エレベーターに向かう最中でサクヤが呟くように男の名を呼んだ。

 

「やっと……やっと……!」

 

 感極まった様子でサクヤは肩を震わせた。そんなサクヤを支えるように、アリサが肩にそっと手を置いて顔を見合わせる。互いに力強く頷き合うその瞳には、強い意志が宿っていた。

 

   §

 

「……サクヤさんとリンドウさんって、恋人同士なんでしたっけ」

 

 サクヤ達と別れ、ミツハはソーマと共にエントランスへ向かった。明日の戦闘に向けて準備をしようと思ったのだが、ミツハには群れを成したプリティヴィ・マータとの戦闘経験が無い。どう対処すれば良いのかアドバイスを貰うのも兼ねて、ソーマに付き合ってもらったのだ。

 ミツハの問い掛けにソーマは頷いた。ソーマはリンドウ達との付き合いが長く、二人の様子を傍で見て来ていたのだろう。

 

「明言はしてなかったがな」

「……ツバキさんは仇なんて考えるなって言ってましたけど、まあ、無理ですよね……」

「…………」

 

 無言は肯定だ。エレベーターの中に沈黙が落ち、地上一階に到着した。

 携行品やバレットの準備をし、ターミナルで前回の交戦状況などを振り返る。ソーマからも群れと戦った様子の話を聞いているうちに、ミツハに不安が募っていった。

 

 別名、氷の女王と呼ばれるプリティヴィ・マータは単独でも脅威的な存在だったが、それがヴァジュラと共に群れを成して行動しているらしい。ミツハはひと月前、贖罪の街で交戦した時の事を思い出し――あれが群れになるのか、と恐怖が湧いてきた。

 

「わ、私なんかが混ざっていい戦いなんですかね、これ……。足手纏いになる自信しかないんですけど……」

 

 ミツハの神機使いとしての実力は高いわけではない。第一部隊に異動した理由も、ヨハネスの口実作りの為だ。とてもじゃないが、接触禁忌種と渡り合えるような実力はミツハに持ち合わせていなかった。

 途端に弱々しくなったミツハに、ソーマは少し考えて言葉を掛けた。

 

「……ツバキがいけると判断したんだろうが。せいぜいアイツの期待を裏切らねえ事だな」

「ぷ、プレッシャー……」

「…………」

 

 気遣いのつもりで言ってくれたのだろうが、余計に気負ってしまったミツハにソーマは呆れたように溜息を吐いた。

 

 群れを成した接触禁忌種相手にそのまま飛び込むと言うのは自殺行為も甚だしい。接触禁忌種の討伐だけではなく、リンドウの腕輪を探す事も目的である為、一体ずつ群れから引き剥がして仕留めていくのが一番だとソーマは言った。大勢のアラガミを相手にする際、分断は基本の戦術だ。

 

 エントランスの外れにあるベンチに腰掛けながら、自販機で買ったジュースを片手に簡単なブリーフィングをする。

 

「前とは違って、戦える奴が六人居るんだ。群れを食い止めるチームと一体ずつ殺していくチームの二手に分かれりゃいい」

「む、群れを食い止めるって……三人だけで出来ますかね」

「あくまでこっちは足止めだ。スタンやトラップ狙って、別チームに合流させねえよう引き付けて逃げりゃいい。要は持久戦だ」

 

 なるほど、と話を聞きながら頷く。明日の任務の作戦区域は鎮魂の廃寺だ。狭い通路やアラガミだけが通れるケモノ道も存在している地形の為、なかなか分断が難しい区域である。どう分断するか考えつつ、ソーマと話を続ける。

 

「どうチーム分けするかは明日ユウが決めるだろうが……少なくとも、俺は群れを相手するつもりだ」

「私は……どっち向きなんでしょうね……。複数のアラガミを相手するのは防衛任務で慣れてるんですけど、相手が相手ですし」

「今回の場合、てめえは単独相手向きだろ。持久戦は短いに越した事はねえ。ブラストの高火力で手早くブチ殺せ」

「が、がんばります」

 

 ミツハと神機の適合率は高い方だ。偏食因子がソーマのP七十三変色因子の影響を受けた事により、オラクル活性もP五十三と遜色ない程度に向上した。実力は伴わなくとも、ブラストから放たれる威力はカノンと同じぐらいである。新型である事とブラストの火力のおかげで第一部隊の討伐任務をこなせていると言ってもいい。

 

 後衛に回るのならばオラクル充填のアンプルも必要だと携行品のリストに追加した。ちゃぷちゃぷとペットボトルの中のミルクティーを揺らしながら、明日の討伐の事を思う。

 苦しい戦いになるとツバキが言った通り、一筋縄では行かないだろう。

 

「……生きて帰るぞ」

 

 缶コーヒーの飲み口を見つめながら、ソーマが言った。その言葉にミツハは柔らかく頷き、小さく微笑む。

 

「……ソーマさん、リンドウさんみたいですね」

「数も数えられねえ奴と一緒にするんじゃねえ」

 

 数? とミツハは小首を傾げる。そして初陣のリンドウの言葉を思い出して合点がいった。

 

「命令は三つ。死ぬな。死にそうになったら逃げろ、そして隠れろ……そして、運が良かったら不意をついてぶっ殺せー……って、やつですよね。初陣の時に言われました」

「自分が守れねえでどうすんだって話だがな」

 

 呟くようにソーマが吐き捨てる。何処か憂いを帯びた表情をするソーマに、ミツハは強気に笑い掛けた。

 

「ならせめて、私達はしっかり守りましょう!」

「……そうだな」

 

 目を細め、ソーマは頷いた。

 

   §

 

 鎮魂の廃寺のP地点――破壊された仏像が鎮座する、御堂の中。ミツハとコウタは神機を構えて臨戦態勢についていた。

 チームはユウ、コウタ、ミツハの群れから引き剥がしたプリティヴィ・マータを討伐する三人と、ソーマ、アリサ、サクヤの群れを足止めする三人に分かれた。新型は一つのチームにまとまらない方がいい事と、群れを足止めするのはベテラン二人の経験値と技量が必要となる事からこのような分かれ方となった。

 

 群れから一匹を引き剥がし、御堂に連れ込んで一匹ずつ確実に殺していく。その引き剥がす〝囮役〟はユウだ。ユウの到着を待ちながら、ミツハは一度大きく息を吐き出した。

 

「緊張してる?」

 

 肩の上がったミツハにコウタが問う。

 

「そりゃあ……だって接触禁忌種だよ!? コウタは怖くないの?」

「なんかミツハのあがりっぷり見てたら逆に冷静になったっつーか……」

「うっ……と、とにかく誤射しないように……誤射しないように……!」

 

 銃形態に変形させた神機をしっかりと握り、もう一度息を吐き出す――と、ぞくりとうなじの産毛が逆立った。身体を走り抜ける悪寒にミツハは御堂の入口に銃口を向ける。

 

「コウタ、来る!」

「オッケー!」

 

 そう言葉を交わした途端、プリティヴィ・マータを引き連れてユウが御堂の中に転がり込む。氷の女王の咆哮が御堂の中に響き渡った。

 

「スタングレネード、いきますっ!」

 

 咆哮に紛れながら叫び、ミツハは閃光弾を放つ。ヴァジュラ種と同様、プリティヴィ・マータも閃光弾に眩む時間が比較的長い。まずは怯んだ隙に優勢に立とうと、ユウが神機を捕喰形態に変形させた。

 

「ミツハ、まずは胴体を結合崩壊させよう! コウタ、支援お願い!」

「了解!」

「任せといて!」

 

 ユウによるリンクバーストでミツハ達もバーストモードに移行し、怯みから立ち直ったプリティヴィ・マータに向かってバレットを撃ち込む。――ドンッ! と重厚音を立てて炎を帯びたオラクル砲がプリティヴィ・マータの胴体に直撃し、氷の女王は叫びをあげた。

 冷たい眼差しが鋭くミツハに向けられる。氷柱を生み出し、仕返しと言わんばかりにミツハ目掛けて放たれた。

 

「させるかよっ!」

 

 その氷柱は途中で撃ち落とされる――コウタの援護射撃だ。

 その隙にユウがプリティヴィ・マータの後方へ回り込み、蒼い刀身を突き刺して雄叫びをあげながら切り裂いた。

 獲物に張り付いて攻撃するユウを巻き込まぬよう気をつけながら、ミツハとコウタはのたうち回るプリティヴィ・マータに合わせて射撃を続ける。

 このまま押し切れるか――と猛攻を続けたところで、氷の女王は牙を向いた。威嚇するように咆哮をあげたかと思うと、辺り一帯に氷の柱が地面から突き出した。

 

「二人共、気をつけて!」

 

 ユウは装甲を展開して身を守っていたが、銃形態の神機では装甲が開けない。目測で距離を測っていたのだが、ミツハはそれを見誤ってしまう。氷柱に吹き飛ばされ、ミツハは御堂の壁に打ち付けられた。肺から押し出されるような潰れた音が漏れる。

 

「ぁぐっ、」

「ミツハ!」

「だ、っじょぶ! ――撃てる!」

 

 体勢を崩したミツハに、プリティヴィ・マータが飛び掛かる。鋭利な爪がミツハを引き裂こうとていたが――その迫り来る冷酷な面に、ブラストの大きな銃口を向ける。大きく息を吸い込んで、止めた。

 

「――――ッ!」

 

 壁に背を預け、反動を殺してブラストを連射する。呼吸をせず、一心不乱にただただ大砲を放ち、撃つ。目の前で高エネルギーの炎が弾け、破裂する。びりびりとブラストを支える腕が痺れるが、歯を食いしばってオラクルが空になるまで撃ち抜いた。

 

「っは、――敵っ、ダウン! あとおねがい!」

「任せて!」

 

 土煙が上がる中、プリティヴィ・マータはその場に倒れ込んだ。ずっと息を止めていたせいか酸欠気味のミツハは身体に鞭を打って立ち上がり、邪魔にならぬよう少し離れた所まで移動して息を整える。

 

――き、キツイ……。

――カノンちゃんのスタミナ、よくよく考えると凄いな……。

 

 肩で息をしながらそんな事を思った。ブラストを撃つ時のイメージはずっと傍で見てきたカノンだ――勿論誤射という点を除いてだが。

 アンプルでオラクルを充填して息が整ったところで神機を構え直す。標的の姿を確認すると、既に決着がつく一歩手前だった。

 

 既に結合崩壊を起こした顔面にコウタが発砲し、怯んだ隙にユウが懐に滑り込む。赤く染まった刀身を振り翳し――、

 氷の女王は断末魔をあげ、ゆっくりと地に沈んだ。

 

「……目標、撃破!」

 

 ユウが神機を翳して鮮血を払い、捕喰形態に変形させる。一先ず無事討伐出来た事にほっとしたが、それも束の間だ。

 ユウの神機が、プリティヴィ・マータを喰らう。ぎちぎちと肉を断つ咀嚼音が響くが――それだけだった。

 

「……腕輪、ないみたい」

 

 少し残念そうに、しかし何処かほっとしたような複雑な表情でユウが首を振った。そっか、とコウタが死骸を見ながら呟く。だが、まだ一匹目だ。

 

「それじゃあ、二回目。今と同じような戦い方でいこう。ただ範囲攻撃はなるべく敵から離れるようにして、攻撃を喰らわない事を一番にしよう」

「うん、次は気をつけます……」

「まあ切り替えてこーぜ!」

「次もよろしくね、ミツハ」

 

 励ますようにコウタに背中を叩かれたが、打ち付けられた箇所だった為痛みが響いた。己の落ち度なので痩せ我慢をしたが。

 ソーマに連絡を入れながらユウが御堂から出ていく。ミツハはその背を見送り、次の戦闘に備えて回復錠を取り出した。

 

 群れから引き剥がし、御堂に連れ込んで討伐し、また一匹群れから引き剥がし――着実に数を減らして行き、最後はE地点で合流して全員で討伐した。腕輪はまだ発見していない。

 

「……ラスト、いくね」

 

 連戦のうちにすっかり日は落ち、月明かりが息絶えたプリティヴィ・マータを照らした。群れの最後の一匹を取り囲み、ユウは捕喰形態に変形させた神機を構える。捕喰の様子を静かに見つめ――コウタが神妙な面持ちで問う。

 

「……あった?」

「……ううん、何も」

 

 元の刀身の形に戻しながら、ユウは首を振った。サクヤが緊張を吐き出すように呟く。

 

「ないわね……」

「最近の調査隊、いい加減過ぎますよ!」

「まあまあ……到着前に逃げちゃったのかもしれないし……」

 

 愚痴るアリサをコウタが宥める。その様子を見ながら、ミツハは廃屋の壁に背をつけて息を吐いた。空振りで終わった事により、張り詰めていた緊張の糸が途切れかけた時に――

 

 ――ぞくりと。悪寒が走り抜けた。

 

「っ、」

 

 ソーマにもその感覚があったようで、臨戦態勢に切り替えて辺りを警戒する。どうしたのかとコウタが問おうと口を開くが――咆哮がそれを遮った。

 大地を揺さぶるような獣の雄叫びが空気を劈く。途端、一番にソーマが飛び出してミツハ達もそれに続いた。

 

 そしてミツハ達は――〝帝王〟の姿を見た。

 

 崖の上から悠然と此方を見下ろす、巨大な獣。漆黒の身体に顎鬚を生やした邪悪な帝王のような顔を持つ、ヴァジュラ種に似た――それでいて比べものにならない程の威圧感を持った、漆黒の巨獣。

 

 群れのボスはこの獣だと、一同は悟った。

 

 帝王は群れを狩り殺した神喰らい達を睥睨する。思わず足が竦む程の、鋭い眼光だった。

 暫く身動ぎのひとつもせず睨み合っていたのだが、その睨み合いの末に帝王は眼中に無いとでも言うように悠々と背を向けて去っていった。それでもその圧倒的な存在を残すように、張り詰めた空気は戻らなかった。

 

「あいつを倒さないと駄目って事ね。待ってなさいよ……!」

 

 帝王が君臨していた崖を睨みながら、サクヤが静かな怒りを滾らせて呟いた。

 

「ディアウス・ピター、だっけ。確か、ヴァジュラ種の頂点に位置づけされてる……」

「ああ……リンドウとやり合ったのも、アイツだろうな」

 

 ユウとソーマが言葉を交わすのを聞きながらミツハは驚愕した。今回戦ったプリティヴィ・マータすら強敵だったというのに、まだ上がいるのか、と目眩がした。

 

「…………わ、」

「ちょ、ミツハ?」

 

 ぐらりと軽い目眩が起こり、ミツハはその場にへたり込む。コウタが慌ててミツハの傍に駆け寄った。

 

「なんか、手足がぴりぴりする……」

「ブラストの撃ち過ぎじゃない?」

「あんなにブラストに偏って戦ったの初めてだからなあ……」

 

 苦笑しながら、コウタの手を借りて立ち上がる。

 

――そういえば、適合率下がり気味なんだっけ……。

 

 ブラストの火力は申し分ない程出ていたのだが、反動が心做しか普段よりも大きかった。先日の定期検査でサカキから言われた言葉を思い出し、真っ白な溜息を吐く。吐き出された息が空気に溶けると同時に、プリティヴィ・マータの死骸も霧散した。

 



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65 無力

 第一部隊の前に姿を現した帝王――ディアウス・ピター。その翌日から行方を追おうと、リンドウと戦った贖罪の街や姿を見せた鎮魂の廃寺周辺を中心に索敵を行っていたのだが尻尾は掴めなかった。

 そして本日も引き続き追跡をするべく、調査隊や偵察隊と協力しながら任務に出る筈だったのだが――

 

「……あ、アレがきたので三日間ぐらいお休みします……」

「……連絡はメールでいいから寝とけよ」

 

 ソーマが呆れたように息を吐いた。蒼い瞳がフードの奥から覗かれる。その目には、少し顔色の悪いミツハの苦笑が映った。

 

 月経中に分泌されるプロスタグランジンというホルモンにより、P五十七偏食因子は生成が阻害されてしまう。それに伴ってオラクル活性や神機の適合率が下がり、戦闘の危険度が増すのだ。それ故に月経中の出撃はサカキから止められている。

 先日の定期検査の際、サカキからオラクル活性や適合率が低下気味だと言われていた。近いうちに月経が始まるのだろうと思っていたが、それが今朝からだったのだ。

 じくじくと痛む腹を押さえながら、ミツハはソーマの正面の空席に座る。

 

「索敵って人手が多い方がいいのに、すみません」

「お前が欠けたぐらいでそんなに影響出ねえよ、気にすんな」

「それはそれでちょっと悲しいんですけど」

 

 悲しい事にそれは事実なのでミツハはばつが悪そうに小さく笑った。

 元々今日は先日のプリティヴィ・マータ戦の時と同じように二チームに分かれての追跡だったのだが、ミツハが欠けた事によりユウとコウタの二人だけになってしまった。しかしユウが居るのならば、欠けた分も上手くカバーするだろう。ソーマが言う通り影響はそう出ない筈だ。

 

「だが、人数が減ったからユウのチームは先に帰投させるつもりだ。帰ってきたら情報共有しておけよ」

「分かりました」

 

 ソーマの言葉に頷き、頭の中で今日の予定を立てる。ユウ達が帰投するのは昼過ぎだろう。まずはサカキのもとで検査を受け、予定日より少し早いが神機をメンテナンスに出すのもいいかもしれない。

 そんな予定を立てながら、トウモロコシのスープを飲む。食べづらいと不評の品質改良された巨大なトウモロコシもスープにすれば幾分美味しかった。

 

   §

 

「適合率もオラクル活性も通常の約半数値まで低下してるよ。いやあ、本当一気に下がったね」

「なんでちょっと楽しそうに言うんですかね……」

 

 メディカルチェックを受け、結果の数値を見ながらサカキがうきうきと声を上擦らせた。研究者として興味深いのだろうが、内心は少し複雑だ。

 

「そうそう、今回は採血もお願いしたいんだけどいいかな?」

 

 キーボードを叩きながらサカキが言う。その言葉にミツハは首を傾げた。

 

「採血ですか?」

「うん。P五十七用の薬を作ろうと思ってね。低下を軽減する薬なんかが作れるかもしれない」

「あっ、お願いします!」

 

 低下が軽減されれば出撃も可能になるかもしれない。勢いよく返事をするとサカキは目を細めた。

 採血をし、研究室を後にして自室のベッドで横になる。生理中に採血した為か軽い貧血になり、倦怠感が身体に襲ってそのまま目を閉じた。

 そうして数時間。昼下がりに目を覚まし、時計の時刻を見てミツハは飛び起きた。

 

――メンテ行くの忘れてた!

 

 急ぎではない為慌てる必要はないのだが、寝過ごしてしまったような気持ちになりミツハは身なりを整えて部屋を出た。どうせ明日は生理痛が酷くて一日部屋に引き籠るのだろう。ならば今日のうちにしたい事を済ませておきたかった。

 エレベーターに乗り込み、神機保管庫へ足を運ぶ。丁度良く整備士のリッカの姿もそこにあり、彼女はミツハの姿に気付くとスパナを片手に手を振った。

 

「どうしたの、ミツハ」

「少し早いけど、神機のメンテお願いしたくって……いいかな?」

「勿論! ミツハはちゃんとメンテしに来てくれるから助かるよ」

 

 小首を傾げながら問えば、リッカは快活に了承した。神機のメンテナンスの日程は整備班から通知が来るのだが、それを守らない神機使いも多いのが現状だ。

 リッカは特殊な手袋をはめ、ミツハの神機を手に取る。接続していない神機に触れれば捕喰されてしまうが、オラクル規格の特殊な手袋越しに触れればそれは防げるのだ。茶色く分厚いグローブは小柄なリッカがはめると随分大きく見えた。

 

「うーん、ちょっと銃身が疲れてるね。オラクルを貯める部分が傷んでるから、パーツ交換しとくよ」

「あー、ブラスト撃ちまくったせいかな……。カノンちゃんみたいに撃ってたんだけど、難しいね」

「反動が大きいって事は、それだけ神機に負荷が掛かってるからね。ミツハの場合は新型だから、負荷が近接や装甲の方にも影響が出ちゃうかもしれないの。ブラストだけのカノンとは違うから、あんまり偏った使い方はしないであげてね」

「き、気を付けます」

「まあその辺りの負荷をどこまで減らせるかが私達の仕事なんだけどね。もっと安定感が増すパーツにするのが良いんだろうけど、そしたら重くなって機動力が欠けちゃうし……」

 

 リッカは神機を見ながらぶつぶつと考え込む。神機の構造などについての知識は生憎とミツハは持ち合わせておらず、下手に口出しをする事も出来ない。

 あとはもうリッカに全て任せて自分は部屋に戻っていようか――そう思った時、けたたましい警報音が鳴り響いた。

 

『緊急連絡! アラガミが装甲壁を突破し、外部居住区に侵入を確認! 速やかにこれを撃退して下さい! 繰り返します――……』

「っ、リッカちゃん、神機を――」

 

 条件反射のように身体が動いたが、リッカの手に収まる自分の神機を見てはっとする。次いでリッカの厳しい目が向けられた。

 

「サカキ博士から聞いてるよ、適合率が下がってるって。そんな状態で、君を出撃させる事は出来ないよ」

「…………」

 

 適合率が下がっている今、無理に防衛任務に出ても逆に迷惑になるだけだ。もどかしさが湧き上がり、拳を強く握る。すると、神機保管庫に慌ただしく第二部隊が駆け付けた。

 

「た、タツミさんっ!」

「ミツハ?」

 

 思わずと言った様子で、防衛班長に声を掛けるミツハ。

 

「その……私も、同行させて下さい」

「……駄目だ。お前、今出撃出来ないんだろ?」

 

 此処に来る前、帰投していたユウとコウタから話を聞いていたらしい。そうですけど、とミツハはかぶりを振った。

 

「でも、避難誘導とか、負傷者の手当てとか! それなら今の私だって、やれます! ……その、だから……お願いします」

 

 神機を受け取るタツミの背中に語り掛ける。元々の所属が防衛班という身だったからだろうか。外部居住区が危険に晒されている時に、自分は安全な所でただ待っているだけというのは嫌だった。じっとしていられない。警報音が鳴り響いた瞬間から、ミツハはずっと飛び出したい気持ちでいっぱいだった。

 ミツハの言葉に、タツミは不敵に笑った。ちらりとカノンの方を一度見やって、いいぜ、と頷いた。

 

「ただあまり前に出過ぎるなよ。流石にお前を守りながらは戦えないからな」

「あっ、有難うございます!」

「……もー、気を付けてね? ……行ってらっしゃい」

「うん、行ってきます!」

 

 少し困ったような顔をしながら、リッカは防衛班を見送った。神機保管庫を出て、外部居住区へ繋がる扉を開く。

 

 ――途端に、世界は変わる。

 

 火の手が上がり、悲鳴が聞こえる。アラガミの咆哮が耳を劈く。壁に向かって走り出すタツミ達の背を追った。

 今回突破された壁はE区画の防壁だった。既にアラガミは第一防衛ラインを超え、家屋が密集している第二防衛ラインの内側まで侵入していた。

 アラガミを掃討しようと神機を握ったタツミ達は駆け出す。一方でミツハは第三防衛ライン付近で止まり、普段は手が塞がっているせいであまり使わない拡声器を手に持った。

 

「第四防衛ラインの避難所へお願いします! 焦らず進んで下さい! 怪我をされた方はいませんか!?」

 

 周囲を見渡しながら人の流れを作る。怪我をした人には応急処置を施し、歩けないようであればおぶったり肩を貸して避難所まで連れていく。神機が扱えなくても、出来る事は確かにあるのだ。

 今回はアラガミの侵攻が早かった為、第三防衛ラインの避難所ではなく、より内側にある第四防衛ラインの避難所へ誘導しなければならない。しかし避難所へ収容出来る人数は限られており、避難所へ向かって走る住民の流れを見ながらミツハは無線機を取り出した。ヒバリへ連絡を入れる。

 

「此方ミツハ、至急可搬型シェルターの要請お願いします!」

『了解です! それと、そちらの誘導が落ち着いたらA区画にもお願いします!』

「A区画、ですか?」

『現在、A07ポイントの防壁にアラガミが集まっているんです! 突破まで、もう間もなくです! 現在帰還中の第一部隊にも要請していますので、迅速に住民の方々の避難を!』

「っ、分かりました!」

 

 E区画からA区画は丁度真逆の位置にある。避難警報自体は防壁が突破されてから外部居住区全体に出ているのだが、侵入地点から真逆の位置に住んでいる人々は避難に出遅れる場合も多いのだ。

 真逆の位置にあるが、外部居住区というのは円形に広がっている。中央施設を迂回していけば早く着くのだ。

 大方住民の避難が終えた事を確認し、ミツハはE区画に背を向ける。A区画に向けて走り出したその時――外側から破壊音が響き、土煙が上がった。

 防壁が突破されたのだ。

 

「っ、」

 

 焦りが滲む。戦力は今のところ、E区画から侵入したアラガミの討伐にあてられている。ヒバリは帰投中の第一部隊に応援要請を入れたと言っていたが、辿り着くのは何分後だろうか。

 火の手が上がる遠くの――第一防衛ラインの家屋を見ながら、ミツハは被害の無い内側の区画を走り抜ける。

 

――ああ、もう、もどかしい!

 

 普段とは違い、ミツハの手に漆黒の大鎌はない。自由に使える両腕を大きく振りながら走るが、大きな神機を持っている時の方が早く走れる事は明らかだった。何故だか、無性に悔しくなった。

 拡声器を持ち、B区画の途中で進路を変える。壁の外側へ向かって走りながら避難を促した。突破場所はA07ポイント――B区画寄りの場所だった。アラガミが流れ込んでしまったのならA区画に留まる筈がない。

 住民に避難を促しながら走り、第三防衛ラインまで到達する。しかし、アラガミは既に此処まで到達していた。

 

「タイミング悪いなあ……!」

 

 目の前で上がる土煙や炎に、思わず愚痴が零れる。防壁を突破したアラガミに対してではない、自分自身に対してだ。

 侵入したアラガミは小型アラガミの堕天種ばかりだ。小型相手であればミツハ一人でも対応出来る。だが、今日は戦う事すら出来やしない。その事実が腹の底を重くさせた。

 閃光弾やトラップを使って上手くアラガミを避け、避難誘導をしながら負傷者の手当てをしていく。逃げ遅れた人が居ないか確認しながら回っていると、崩れた家屋の前で蹲っている一人の女性の姿が目に映る。――見覚えのある、赤毛の髪をしていた。

 

「――ッ、どうしたんですか!?」

 

 声を掛けながら駆け寄る。振り返った女性は――佐々木トウコ、カズヤの母親だった。

 

「ミツハさん……!」

 

 トウコは涙を流しながらミツハに懇願した。助けて欲しい、と。崩れた家屋に目を向けた。

 そこには――

 

「――――か、ずや……くん」

 

 崩れた家屋の下敷きになった、佐々木カズヤの姿があった。

 

 頭から血を流し、赤毛を更に赤く紅く染め上げている。あんなにも明るい笑顔を向けていたカズヤは、今や顔色を真っ青にして震えていた。

 途端、指先から急激に冷えていくのを感じた。

 あまりにも強烈で残酷な目の前の光景に、ミツハは一瞬真っ白になる。だが、そんなミツハをはっとさせたのも、目の前のカズヤだった。

 

「……ミツハ、さ……」

 

 うっすらと目を開け、弱々しい声でミツハの名を呼ぶ。冷水を頭から掛けられたような気分になり、慌ててミツハは瓦礫に手を伸ばした。

 

「っ、待ってて! いま、今助けるから!」

 

 いくらオラクル活性が下がっているとは言え、神機使いではない一般人に比べれば身体能力の向上は化け物染みたものである。カズヤの身体に圧し掛かる瓦礫を押しのけようとするが、その重さに顔を顰めた。

 歯を喰いしばって重い瓦礫を持ち上げる。僅かに出来た隙間を見逃すまいと、トウコがカズヤに手を伸ばした。無事にカズヤが瓦礫の下から抜け出せた事を確認し、ミツハは手を離す。ズシン、と重い音が地面を揺らした。

 

 だが、まだ安心は出来ない。ウエストポーチから包帯とタオルを取り出し、すぐさま止血を行う。後頭部を打ち付けたのか、大きな傷が開いていた。傷口に押し付けたタオルは見る見るうちに赤く滲んでいく。タオルで圧迫して固定しようと包帯を巻き付ける。その手は、馬鹿みたいに震えていた。その震えを誤魔化すように、ミツハは気丈に振舞った。

 

「だい、じょうぶ。大丈夫だよカズヤ君。痛かったよね。怖かったよね。もう、もう大丈夫だから。だから、」

 

 だからもう安心して――

 その言葉は、アラガミの鳴き声によって掻き消された。

 ぞくりとうなじの産毛が逆立つ。振り向けば、オウガテイルの堕天種が此方を見据えていた。捕喰者の目に、ミツハ達の姿が映る。

 

――なんで!

――なんで私は今、神機がないの!

 

 己の内側にあるP五十七を呪いながら、ポーチに入っている閃光弾に手を伸ばす。

 それと同時に、オウガテイルが飛び掛かり――

 

 同時に、巨大なバスターブレードがオウガテイルを両断した。

 

「ソーマさん!」

 

 ディアウス・ピターの追跡に出ていた第一部隊が帰って来たのだ。アリサとサクヤが少し離れた所でアラガミを掃討している。これでもうアラガミの侵攻を許す事はないだろう。

 

「てめえは早くガキを連れて逃げろ! 死にてえのか!」

「っ、はい!」

 

 ソーマが声を荒げ、ミツハはカズヤをおぶって慌てて立ち上がる。トウコと一緒に走り出し、避難所を目指した。

 しかし、避難所は既に人でいっぱいだった。先程と同じようにヒバリに連絡を入れ、シェルターが搭載された大型トラックと救護班を待つ。ミツハは膝の上にタオルを敷き、自身の膝を枕にさせてカズヤを寝かせた。

 

「有難うございます」

 

 深々とトウコが頭を下げる。

 

「二度も、カズヤを助けて頂いて……本当に、有難うございます」

 

 目に涙を浮かべながら、トウコは深い感謝の言葉をミツハに告げる。だが、ミツハは曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。

 

 神機を扱えていれば。月経が来たのが今日でなければ。――P五十七偏食因子なんかじゃ、なければ。

 A区画に侵入したアラガミは小型種だ。一早く駆け付けたミツハが掃討していれば、居住区への被害はもっと少なかっただろう。カズヤが瓦礫の下敷きにされ、大怪我を負う事だってなかったかもしれない。

 

――神機使いなのに、どうして、

――神機が使えないんだろう。

 

 人とは違う、P五十七偏食因子が恨めしかった。それは前例のない、自分独りしかいない恐怖からではなく――

 肝心な時に戦えない自分への、怒りからだった。

 

「……ごめん、カズヤ君」

 

 膝の上で眠るカズヤの額を撫でる。

 

――私はこの子のヒーローなのに。

――……だったのに。

 

 ジクリと。ジクジクと。重い痛みが腹の底に響いた。

 



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66 温かな手

 月経中に分泌されるプロスタグランジンというホルモンにより、P五十七偏食因子は生成が阻害されてしまう。それに伴ってオラクル活性や神機の適合率が下がり、戦闘の危険度が増すのだ。

 

 ――しかし、神機に捕喰されてしまう程、適合率が下がる訳ではない。

 

 防壁が破られて丸一日。ソーマ達の加勢やユウとコウタが持ち帰った新種のアラガミのコアにより防壁が強化され、その後の被害は特に無く無事に防衛任務は幕を下ろした――大きな爪痕を残して。

 

 瓦礫の撤去や倒壊した家屋の修理など、するべき事はまだまだある。第二部隊は任務が終わり次第協力しているそうだ。

 ミツハも手伝おうと掛け合ってみたが、「顔色が悪いから休んでいろ」と断られてしまった。結局、下腹部の痛みに悩まされてほぼ一日中ベッドの上に縫い付けられている為、ぐうの音も出ないのだが。

 

――情けないなあ……。

 

 長い溜息を吐きだす。脳裏に過るのは、自分を慕ってくれている年下の少年だ。

 

――……カズヤ君。

 

 きちんと応急処置を施して止血をしたのが功を奏したのか、一先ず命に別条は無いそうだ。それでも針を縫う程の大怪我であったのは変わりなく、傷痕が残るのは間違いない。後頭部と打ち付けたとなれば後遺症の心配だってある。

 それらを思うと――どうしようもない程、自分自身への憤りが胸に沸き上がった。

 

 ジクジクと鈍い痛みを噛み締め、ミツハはのそりとベッドから起き上がる。

 適合率は低下している。普段より体内にあるP五十七偏食因子は減少している。だが、ミツハは確かにこの世界に――六十年後の世界に居る。

 ひと月前、完全に偏食因子が無くなって元の世界に帰った時とは違う。神機に捕喰されかけたあの日とは、違うのだ。

 

――神機が、使えないわけじゃない。

 

 自室を出てエントランスへ向かう。訓練所の使用許可を取り、神機保管庫に足を運んだ。第一部隊の神機は見当たらない為、まだ任務から戻ってきていないのだろう。その空いたスペースの近くには、ミツハの神機が収納されたアタッシュケースが置かれてあった。

 

――仕事早いな、流石リッカちゃん。

 

 〝点検済〟のシールが貼られたアタッシュケースを持ち、ミツハは神機保管庫を後にした。

 エレベーターを地下へ進ませ、訓練区画で停止させる。第一訓練所の扉を開け、アタッシュケースを開く。柄を握り、神機を接続させた。

 

「……うん、大丈夫」

 

 思わずほっと息を吐いた。普段より確かに重さを感じるが、大鎌はミツハの手に素直に収まってくれている。

 くるりと柄を回転させれば、それに合わせて刃が空中で円を描いた。腰を沈め、足を踏ん張らせる。自身を中心にして大きく鎌を振り翳すと刃が伸び、いくつもの禍々しい小さな刃が派生した。ヴァリアントサイズの特徴である、咬刃展開状態だ。

 

――なんだ、できるじゃん!

 

 重さも感じるし、タイミングのズレも多少ある。だが、戦えない程ではなかった。

 鈍い痛みに蓋をし、仮想アラガミを出現させる。オウガテイルとザイゴートを複数体、ミツハ一人でも相手出来るアラガミである。

 大鎌を振り翳し、群れを成すオウガテイルを薙ぎ払う。地上のオウガテイルが怯んだ隙に飛び上がり、大鎌を垂直に振り下ろす。着地と同時に咬刃を展開し――

 

「っ、」

 

 しかし鎌は伸びず、リーチが足りずにオウガテイルはミツハの懐へ入り込む。後方へステップして距離を取ろうとしたが、思いの外身体が重くすぐに距離は埋められてしまう。柄の握る箇所を変え、リーチを短くしてオウガテイルに刃を向ける。

 だが、こうも距離を詰められると遠距離に適した大鎌はその本領を発揮しない。どうにか距離を作る隙を窺っていると、上空を浮遊するザイゴートが砲弾を放つ。

 

――あ、

――まずい……!

 

 装甲を展開しようとするが間に合わず、ミツハはそれを喰らってしまう。訓練用のシミュレーションである為貫通性はなく、ただの衝撃で済むのだが打撲のような鈍い痛みは伴う。

 閃光弾を投げ、無理矢理に隙を作って距離を取った。息を整えながら、神機をヴァリアントサイズからブラストへ変形させる。

 

――先に、ザイゴートから倒そう。

 

 コクーンメイデンやザイゴートは遠距離から飛ばされる砲弾がなかなかに厄介で、中型や大型アラガミとの戦闘中に妨害される事がよくある。討伐任務でも厄介なのだが、防衛任務だと尚更厄介なのだ。小型アラガミであろうと、力を持たない民間人からすればその力は無差別に発砲される機関銃のようなものだろう。

 ブラストを構え、空中を浮遊するザイゴートに照準を合わせる。反動に負けないよう足の指先に力を入れ、引き金を引いた。

 

「ぅひゃっ!?」

 

 だが、思った以上に反動が大きかった。踏ん張っていた足はいともたやすく反動に負け、後退ってしまう。その際に銃口がブレ、バレットはザイゴートではなく訓練所の壁に傷を作る。

 それだけならまだ良かった。次の引き金を引いていないにもかかわらず――神機は自分の意志を持ったかのように、ひとりでにバレットを撃ち始めるではないか。

 

「ま、ま、まって!? ストップ! お、落ち着いて!?」

 

 ドンッ、と神機が勝手に発砲する度に腕に鈍い衝撃が走る。神機の暴発は、止まらない。

 何とかしようとミツハはブラストからヴァリアントサイズへ変形させようと試みたが、神機は言う事を聞かずオラクルが尽きるまで撃ち続けた。これではどちらが無差別に発砲する機関銃だろうか。

 ジンジンと反動による衝撃で手足を痺れさせながら、ミツハは嘆く。

 

「う、うそだあ……!」

 

 出現させた仮想アラガミはバレットが命中していたのか動かなくなった。黒い靄となって霧散する仮想アラガミを前に、ミツハは「こんな筈じゃなかった」と項垂れた。

 

――でも、ブラストを使わなければ、なんとかいける……かな?

 

 適合率が下がった状態でブラストを扱うのは暴発の危険が高い。ならば鎌一辺倒で戦えばいいのではないか、とミツハはもう一度オウガテイルを出現させた。

 

――咬刃もなるべく使わないようにして、基本的な動きだけで立ち回ろう。

――装甲はいつもより出が遅いから、攻撃を予想して早めに展開して……。

 

 頭の中で扱いにくい神機との立ち回りを考えながら、オウガテイルと交戦する。一体、また一体と順調に倒していくのだが、ミツハの身体に異変が出始める。

 

――寒い。

 

 冷や汗が止まらず、悪寒が身体を走り抜けた。それまで蓋をしていた下腹部の痛みがジワジワと主張し始め、ミツハは顔を顰める。

 それでも身体に鞭を打ち、最後の一体に大鎌を振り下ろす。ザシュッ、と切っ先がオウガテイルの肉を断ち、仮想アラガミは霧散した。

 

「つかれた……」

 

――流石にそろそろ休憩しないと……。

 

 神機を杖代わりにして、ふらつく足を支える。肩で大きく息をしていると、不意に訓練所の扉が開いた。

 

「……お前、何してんだよ」

 

 振り向くと、ダスキーモッズのフードを目深に被った男――ソーマの姿があった。

 

「そ、ソーマさん!? な、なんでここに……」

「保管庫に行ったらてめえの神機が無かったからな。まさかとは思ったが……何やってんだよ」

 

 言いながら、ソーマは訓練所に足を踏み入れる。咎めるような口調にミツハは居心地が悪くなり、苦笑を浮かべた。

 

「……適合率が下がってても神機が使えないわけじゃないので。その、上手く戦えるように、訓練……というか」

「その顔色でか?」

「そ、そんなに酷いです?」

「真っ青だぞ、お前」

 

 そう言われてしまいミツハはもう一度苦笑を浮かべようとしたのだが――ぐらり。

 地面が、揺れた。

 神機はするりとミツハの手からすり抜け、音を立てて固い床に沈んだ。しかしその音はやけに遠くから聞こえ、自分が何処にいるのか分からなくなってしまうようだった。

 

「っ、おい!」

 

 ソーマの焦った声がぼんやりと聞こえたが、姿は見えない。目を開けている筈なのに、視界は真っ黒で――ようやくミツハは、自分が眩暈を起こしているのだと気付いた。

 意識が飛んだのは一瞬だった。気付いたら、温かな体温に包まれていた。

 

「……ぶっ倒れるぐらいならやるんじゃねえよ」

「…………ごめんなさい」

 

 前のめりに倒れ込んだミツハを、ソーマの腕が抱き抱えた。起き上がろうと足に力を込めたが、未だに続く眩暈のせいで地につけた足は不安定にぐらつく。まだ立てそうにはなかった。

 

「そ、の……だいじょうぶです、あの、軽い貧血なので……。ちょっと横になれば治るので……ごめんなさい」

「…………」

 

 羞恥と不甲斐なさでミツハは泣きそうだった。ミツハの言葉にソーマはひとつ舌打ちを落とし、一度ミツハを抱き起こす。

 ゆっくりと優しい手つきで身体を傾けられ、冷たい床に横たわったのだが――頭部だけ、何か温かいものに触れている感触があった。

 

「……あの、」

「……んだよ」

「……な、なんでもないです」

 

 言葉は真上から降ってきた。眩暈はだいぶ収まり、ぼんやりと視界が開ける。深いオリーブ色のズボンが真下にあった。

 

――あれ。貧血の時って頭は低くした方がいいんじゃ……?

 

 そんな疑問が浮かんだが、まあいいか、とソーマの好意を受け取る。

 片膝を立てたソーマは横にした方の太腿にミツハを寝かせ、大人しくしていろと言わんばかりに軽く後頭部を叩いた。

 悪寒で冷え切っていた身体は少しずつ体温を取り戻し始める。身体の中で酸素が巡り始めるのを感じながら、ミツハは自由が利くようになった手を強く握った。

 

「…………なんで、適合率下がっちゃうんでしょうね」

 

 苦笑交じりに言ったつもりだったが、存外口から出た声は弱々しく震えていた。一度口を開いてしまえば次から次に零れそうになる弱音を止めるべく、ミツハはきゅっと口を噤んだ。

 だが、噤んだものを優しく解いてやるかのように、ソーマの大きな手がミツハの頭を優しく撫ぜる。

 その掌は、涙が出る程に温かかった。その温かさの前では、強がりなんていとも簡単に解けてしまうのだ。

 

「……わたしが、」

 

 噤んだ口が解けたかわりに、強く、爪が食い込むほどに拳を握った。

 

「わたしが、五十七なんかじゃ、なければ……適合率が下がらなければ……! そしたら、アラガミだって倒せて……カズヤ君が、あんな目に遭わなくて、済んだのに……っ」

 

 悔しかった。戦えない自分が。

 恐かった。ひとつの命の灯が、目の前で消えてしまいそうで。

 

 P五十七偏食因子が恨めしくて堪らない。アラガミから民間人を守ってこその神機使いだ。

 それなのに、目の前で民間人が危険に晒されているのにもかかわらず、神機使いのくせに戦えやしない自分。小型アラガミにさえ苦戦してしまい、しまいには貧血を起こしてソーマに迷惑を掛けている自分が情けなくて、不甲斐なくて――

 

「どうして、五十七なんだろう……!」

 

 前例のない自然発生。普通とは違う偏食因子。

 ずっと〝人とは違う〟事を悩んでいたが、今はそんな事どうでもよかった。

 自然発生でもいい。普通と違った偏食因子でもいいから――戦える自分でいたかった。〝ヒーロー〟でいられる自分でいたかった。

 そんな弱音を吐露するミツハに、ソーマは――

 

「……適合率が下がってなかったら、お前は普通に第一部隊の任務に出撃してただろうが」

 

 事実を、ただ告げる。

 

「どの道あのガキが瓦礫の下敷きになるのは変わらねえだろ。それどころか、お前が俺達の任務に同行してたら発見も遅れて、母親諸共アラガミに喰い殺されていたかもしれねえ」

「…………」

「防壁の強化に使った新種のアラガミのコアは、人数が減ったから先に帰投させたユウ達が取って来たんだろうが。結果を見りゃ、お前の適合率が下がってたからあのガキは助かったし、防壁の強化も間に合った。それを見落としてんじゃねえよ」

 

 ――悲しいが、それが事実だ。

 防衛任務に同行したのは、ミツハが第一部隊の任務に出撃せずアナグラに残っていたからだ。通常通り任務に同行していたのなら、ミツハは防壁が破られた事を帰投中に知る事になる。〝一早く駆け付けたミツハが掃討していれば、居住区への被害はもっと少なかっただろう〟――そう思うのは、目先だけの都合のいい話でしかない。神機を持てなかったから、ミツハは一早く駆け付ける事が出来たのだ。神機を持っていたのなら、ソーマ達と同じタイミングで防衛任務に加勢する事となる。どの道、居住区の被害拡大は免れないのだ。

 それでも。

 

「……そう、ですけど……っ」

 

 それでも、何も出来なかった自分に悔しいと思ってしまうのは、傲慢なのだろうか。

 どうしようもない事実を突き付けられ、それでも拭えない悔しさに涙が滲む。これ以上醜態を晒したくない思いで、流れ落ちないようにと唇を噛んだ。

 その痛みを和らげるように、ソーマの掌がミツハの頭を優しく撫でる。さらりと、癖のある黒髪が広がった。

 

「泣きたきゃ泣いとけ」

「…………」

「今更だろ」

 

 穏やかな声で、そう言われた。頭に触れる温かさに、ミツハは強がりが解けたように彼のズボンを濡らした。

 

――ずるい。

 

 悔しさと、込み上げる温かさに、はらはらと涙を落とす。泣きながら、数日前のアリサとの会話を思い出していた。

 ソーマは旧型神機使いだ。ソーマとミツハの間では、新型同士に発生する感応現象は絶対に起こり得ない。

 

 ――それでも、胸の奥に流れ込んでくる温かな気持ちは確かなものだった。

 この温かさこそがソーマの優しさなのだと感じながら、ミツハはひとしきり泣き続けた。

 

   §

 

「……いや、本当、なんかみっともない所ばっかり見せてて……ええ……恥ずかしくて死にそうなんですけど……」

「なら無理に訓練なんかするんじゃねえよ、馬鹿」

「うう……ごめんなさい……」

 

 涙が止まった所で頭も冷静になり、改めて羞恥が込み上がった。貧血も治まったのでのそりと重い身体を起き上がらせる。

 

――本当、ソーマさんには助けられっぱなしだ……。

 

 自分の不甲斐なさに最早呆れ返ってしまうぐらいなのだが、ひとしきり泣いたせいか気分はすっきりしていた。

 少しふらつきながら立ち上がり、床に放置された神機を拾う。流石にこれ以上訓練するつもりもなく、神機をアタッシュケースに収納すると横から褐色の手が伸びた。

 

「神機は俺が戻してくるから、てめえは医務室に行っとけ」

「え! い、いいですよそんな! 医務室に行く程の事でもないですし、これ以上迷惑掛けたくないですし……」

「散々任務だの写真に付き合えと言ってた口がよく言えるな」

「だ、だからこれ以上はって言ってるじゃないですか!」

「それこそ今更だろうが」

 

 そう言ってソーマはアタッシュケースを持って扉へ向かった。手持ち無沙汰になったミツハは仕方なくソーマの背を追う。訓練所を出て、エレベーターに続く廊下を並んで歩いた。

 

「適合率が下がってる時に神機を握るなんざ馬鹿な真似、もうすんなよ」

「…………」

「……おい」

「だ、だってぇ……」

 

 その言葉に目を泳がせる。低下中に訓練をするなと言われても、ミツハは約束出来なかった。

 

「出撃出来ないって、やっぱり不便じゃないですか……適合率が下がってても戦えるようになれたら、それに越した事ないですし」

「……てめえは〝辛うじて戦える〟、そんな状態で接触禁忌種を相手する気あんのか」

「えっ、そ、それは流石に……無理ですけど……」

 

 接触禁忌種など、通常通りの適合率であってもあまり相手にしたくないアラガミだ。そのアラガミを適合率が下がった状態で戦うなど、自殺行為もいい所だろう。

 そう答えたミツハに、ソーマは言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

「なら明日は大人しくしていろよ」

「…………」

 

 含みのあるソーマの言い方に、ミツハは思わず足を止めた。

 

――接触禁忌種?

 

 その単語に、ミツハは二体のアラガミの姿を思い浮かべる。

 一体は先日戦った氷の女王、プリティヴィ・マータ。

 もう一体は――

 

「……ディアウス・ピターの行方、分かったんですか」

 

 プリティヴィ・マータの群れを倒した翌日から、ずっとその足取りを探っていた漆黒の巨獣。

 ミツハの問い掛けに、ソーマも足を止める。そして、頷いた。

 

「ああ……明日、決着をつけてくる」

「……そう、ですか」

 

 リンドウの仇討ちに、ミツハは同行出来ない。残念に思うよりも、あの帝王と相見えずに済んだ事にほっとする自分がいた。

 

「なんか、変な言い方ですけど……同行出来なくて良かったなって、思います」

 

 プリティヴィ・マータを相手する時だって、本当に無事に戦えるのか不安が大きかった。その後、初めて帝王の姿を見た時は――恐怖で足が竦んだ。そんな自分がディアウス・ピターと戦えるとは、思えなかった。

 そうか、ソーマが相槌を打つ。咎める様子はなく、寧ろ同意するような声色だった。ミツハには荷が重い相手だと、きっとミツハ以上にソーマは分かっている筈だ。

 

「てめえは大人しくアナグラで待ってろよ」

「……待ってます」

 

 ソーマの言葉に、ミツハは強く頷く。祈るような眼差しで、ソーマを見つめた。

 

「絶対、無事に帰って来て下さいね……待ってますから」

「……ああ」

 

 そして、同じくソーマも強く頷いた。決戦前夜の誓いのような、そんな約束を交わした。

 



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67 温もりのお返し

「…………」

 

 研究室のソファに横たわり、ぼんやりと天井を見上げる。

 ディアウス・ピターの討伐に出撃した第一部隊を見送ってからと言うものの、どうも落ち着かず検査という名目で研究室で暇を潰していた。シオはお昼寝しているようで自室から出てこない。残念だなと思いつつ起こすのも悪いので、サカキの言葉を話半分に聞く。昨日に比べて適合率やオラクル活性も上昇し、明日になれば通常値に戻るだろうとサカキは言っていた。

 

「タイミングが悪かったねえ。いや、良かったと言うべきかな」

 

 ソファの横にあるテーブルに湯呑を置きながら、サカキが狐のように笑う。相変わらず此方の出方を窺うような物言いに、ミツハは口を尖らせて起き上がった。

 

「博士のそういう言い方嫌いでーす」

「おや、じゃあこれから気を付けなければ」

「……でも、良かったっていう気持ちの方が強いです。ピターの討伐は、第一部隊のみんなにしてもらいたいっていうか……」

「ミツハ君だって第一部隊じゃないか」

「リンドウさんがリーダーだった時、私は防衛班だったですし」

 

――戻れるなら、防衛班に戻りたいですし。

 

 そう内心で呟いた言葉が声にならないよう、サカキが出した茶を一口飲む。渋みが強い緑茶で思わず顔を顰め、サカキがそれに小さく笑った。

 

「そうそう。リッカ君から聞いたよ、一昨日の防衛任務に同行したって。そして昨日はこっそり訓練していたらしいじゃないか」

「えっ、訓練の事はリッカちゃん知らない筈じゃ……」

「神機を預けに来たソーマと鉢合わせしたらしくてね。怒ってたよ、リッカ君。適合率が下がってるのに無理に扱うなんて! ってね」

「う……ちょっとくらいなら大丈夫かなって思っちゃって……捕喰される程下がってないですし……そう、適合率ですよ適合率! 薬で上げる事って出来そうですか?」

 

 強引に話を逸らすミツハにサカキが苦笑する。採血してまだ二日しか経っていない。早急すぎるなと自分でも思ったが、意外にもサカキは「ああ、その事なんだけどね」と眼鏡を指先でくいと押し上げる。どうやらもう調べていたらしい。

 

「一般の神機使いは定期的に偏食因子を投与しているだろう? だからミツハ君にもP五十七偏食因子を投与して、減少した偏食因子を人工的に増加させて適合率を上げれないか考えてみたんだけれどね」

「……難しそうなんですか?」

「難しい、と言うか無理だね。ほら、ミツハ君のP五十七偏食因子は、一度大きく性質が変異してしまっただろう?」

 

 一か月前――P七十三偏食因子の影響を受けてミツハの偏食因子は大きく変異した。それは新型神機に適合するようになったり、オラクル活性の上昇という形で顕著に現れたのだが、そこまで頭に思い浮かべればミツハにもサカキの言いたい事が理解出来た。

 

「……つまり、私のP五十七と投与するP五十七の性質が違うから、危ないんですか?」

「そういう事。例えば、同じ血液型でもRHプラス型とマイナス型があるだろう? 通常のP五十七偏食因子はプラス型だけど、ミツハ君の偏食因子はマイナス型……といった感じかな」

「あー……なんか聞いた事あります。マイナスの人にプラスの血を輸血すると、赤血球が壊れたりするんですっけ……?」

「溶血という現象だね。最悪死に至る場合もある。それの偏食因子版とでも覚えていてくれたらいいよ」

 

 死に至る――その言葉にミツハはゾッとし、成程確かに無理ですねと一息で返した。

 そもそもP五十七偏食因子の後天的投与は成功例がない。いくら体内にP五十七偏食因子があるからと言って人工投与するのは危険が大きいだろう。

 

「適合率が下がっている間はゆっくり休むように。それに越した事はないね」

「……ええー」

「おやおや、ミツハ君は随分と仕事熱心なんだね」

 

 不満の声を漏らしたミツハにサカキが可笑しそうに笑う。だってぇ、と口を尖らせた。

 

「休日って訳でもないのに休むのは、こう、周りに申し訳ないなあと……」

「日本人って感じだねぇ」

「博士だって日本人なんじゃないんですか?」

「失礼。流石六十年前の日本人だ、と訂正させてもらおう」

「なんですか、それ」

 

 サカキの言い方にミツハはくすくすと笑う。沈んでいた気分もだいぶ浮上してきた。よし、とミツハはパチンと自分の両頬を叩き、ソファから腰を上げた。

 

「そろそろ帰りますね。お邪魔しました」

 

 時計を見れば、星が浮かぶ時刻だった。帰る前にシオの部屋を覗いてみたが、寝息を立てていたのでそっと扉を閉じた。エレベーターに乗り込む。自室がある新人区画のフロアに出た。

 

「あっ――」

 

 自室に向かう途中、見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 オレンジ掛かった茶色の髪に成長途中の小柄な少年――コウタだ。シャワーを浴びた後なのか、ハネっ気の強い髪はしっとりと落ち着いていた。

 

「コウタ、帰って来てたんだね!」

「おう、体調はもう平気かー?」

「うん、明日には復帰出来るよ。ていうかコウタの方こそ、平気そうで良かった……」

 

 小さな怪我はあちこちにあるが、目立った怪我は特に無い。無事に帰って来た事に安堵すると、コウタは曖昧に笑った。普段の明朗としたコウタらしくない、陰のある笑みだった。

 

「……リンドウさんの腕輪、見つかったよ」

 

 重苦しく、コウタはそう告げた。討伐したディアウス・ピターからリンドウの腕輪が発見された――それはつまり、リンドウの戦死が確定したのだ。

 

「そっ……か……。……見つかって良かった、って言うのは、なんか、違う気がするね……」

 

 言葉に詰まり、ミツハもまた曖昧に返した。腕輪が見つからなければ、一抹の希望をまだ持てた。もしかしたら何処かで生きているのでは無いか、と。

 しかしその希望すら打ち砕かれた。KIAの文字が頭に過ぎり、ソーマの顔が浮かんだ。

 

「ミツハ」

 

 名前を呼ばれ、俯いていた顔を上げる。「あー、なんつーか、」と言葉を迷うように少々難しい顔をしていたが、やがて吹っ切れた笑みを浮かべた。白い歯を見せ、ニッと笑う。

 

「アイツの事、頼んだ!」

 

 そう言い、拳を突き出される。一瞬豆鉄砲でも食らったような顔をしたミツハだが、すぐに力強く頷いた。アイツ、と言うのが誰であるかなんて、愚問だろう。

 

「うん、頼まれた!」

 

 突き出された拳に、コツンと拳をぶつける。彼の事が心配なのは何もミツハだけではない。仲間思いのコウタが、ソーマを心配しない筈が無いのだ。

 

   §

 

 ぴゅうぴゅうと乾いた風が音を立てる。春先と言えど、夜はまだまだ寒い。それに極東支部の屋上は地上三〇〇メートルもあるのだ。風の冷たさを紛らわすべく、熱を持ったスチール缶をカイロ代わりに掌で転がした。

 

――やっぱり、居た。

 

 屋上の柵に肘をつき、ぼんやりと外部居住区を見下ろす男。自分よりもずっと大きい筈の背中が、酷く小さく見える。いつか見た訓練所での記憶と重なった。

 ゆっくり近づくと気配に気づいたのか、ソーマは鈍い動きで此方を振り向く。驚きは無い。ソーマらしからぬ緩慢な動きは、ミツハだと分かっていたような素振りだった。

 ただ、少し居心地が悪そうに顔を背けられる。

 

「……お前、なんでこういう時に毎回来やがるんだよ」

「い、居るかなって思って。……だめでした?」

「……勝手にしろ」

「じゃあ勝手にします」

 

 にへらと笑い、ソーマのもとへ歩み寄る。フードで隠れがちな顔を覗き込みながら、いつぞやのように右手に持った缶を差し出す。あの時とは違い、缶は熱を持ったスチール缶だ。

 

「体、冷えちゃいますよ」

「……甘いのは好きじゃねえ」

「そこは、ほら。私チョイスなので。疲れた時には甘いものですよ」 

 

 そう言ってミツハが笑えばソーマはひとつ溜息を吐き、包帯の巻かれた右手でそれを受け取った。自販機で売っている缶タイプのホットミルクティー。「あったかいでしょう」何故か自慢げにミツハが言う。呆れた様子で「そりゃあな」とソーマが返した。

 そんな短いやりとりをしながら、ミツハは腰を下ろして柵に凭れ掛かる。何を言うわけでもなく、同じようにソーマも腰を下ろした。やはり甘いものは飲む気になれないのか、プルタブを開けずにミルクティーをただ掌の上で転がしている。

 

「ソーマさん」

「なんだ」

「おかえりなさい」

「……ああ」

 

 相槌の声は少し、掠れていた。その声色に、ミツハの胸はきゅうと締め付けられる。

 本当は今、ひとりになりたい気分なのかもしれない。リンドウはソーマの初陣からの付き合いだ。ソーマにとって一番長く戦場を共にした、きっと兄のような存在。そんな男の死が確定してしまったのだ。ひとり、ひっそりと悼みたいのかもしれない。

 だとしても。――だとしても、だ。

 

「ソーマ、さんっ!」

「な――っ、おい、何しやがる!」

「き、昨日のお返しです」

 

 ソーマの腕を強引に引っ張ると、案外簡単に頭は曲線を描いた。太腿をさらりと撫ぜた髪がくすぐったかったが、普段見上げてばかりの顔が真下にあると言うのは新鮮だ。

 

「これ、する方はそんなにですけど、される方はめちゃくちゃ恥ずかしいですよね。私も昨日めちゃくちゃ恥ずかしかったですもん」

「…………」

「そ、そんなに睨まないで下さいよぅ」

 

 鋭い視線から逃げるように、苦笑しながら夜空を見上げた。ぴゅうっと冷たい風が頬を撫でる。熱くなった頬には気持ち良かった。

 

――いや、する方もめちゃくちゃ恥ずかしいけど!

 

 見栄を張って大人ぶってみたものの、心臓はばくばくと音を鳴らす。平然としていた昨日のソーマも、内心ではだいぶ恥ずかしかったのかもしれない。そんな風に思いながら、彼の頭をフード越しに撫でる。

 

「誰も来ませんよ」

 

 満天の星空の下、風の音とミツハの声だけが響く。此処にはソーマとミツハしか居ない。

 

「だからちょっと、休んじゃいましょうよ」

 

 そう言って、柔らかくソーマを見下ろす。彼の右手に持っていたミルクティーを取り、頬に当てる。じんわりと、ぬるくなった熱が冷えた肌をあたためた。鋭い視線は鳴りを潜め、夜空を見上げていた。

 ソーマは起き上がろうとはしなかった。押しに弱い。そう教えてくれたのはリンドウだ。一緒に居てやって欲しい。そう、リンドウから言われた。

 

 だからミツハはあの日、訓練所の扉を開けたのだ。

 だからミツハは今日、此処に来たのだ。

 

「……体調は」

「もう平気です。適合率も上がってますし、明日から出撃出来ますよ」

「そうか」

「足手纏いにならないように頑張りますね」

「訓練、してねえだろうな」

「してませんよ。大人しく待ってましたよ」

「そうか」

「約束、しましたからね」

「……そうだな」

 

 ぽつりぽつりと会話を交わす。手の中にあるミルクティーは次第に冷えていき、ただの無機質なスチール缶になっていく。そうなったら、今度は掌でソーマの頬を包む。指先で彼の輪郭をなぞった。

 

「……物好きな奴」

 

 奇妙な顔をしながらソーマが言う。苦笑しか返せなかった。

 

「お前も、エリックも、……リンドウも」

 

 名を紡ぐ音は、少し震えていた。吹き続ける冷たい風のせい、だけではない。

 

「とんだ物好きな奴だったな」

 

 思い出すように遠い目をして、蒼い瞳に星空を映す。ミツハも同じように空を見上げた。ソーマが今どんな表情をしているのかなんて、見なくても分かる。

 

「……物好きなんかじゃ、ないですよ、私。それに、エリックさんとリンドウさんも、きっと」

 

 自分なんかが彼らの事を語っていいのか、分からない。烏滸がましいような気もする。

 

「物好きじゃなくて、たぶん、ソーマさんが……好きだからですよ」

 

 それでも、きっとそうだろうという自信があった。だからミツハは話し続ける。

 

「私はエリックさんと話した事もないので、よく分かりません。でも、リンドウさんなら分かりますよ。だって、ソーマさんの話をする時のリンドウさん、お兄ちゃんみたいでしたもん」

 

 リンドウはソーマの事をよく気に掛けていた。ソーマを気に掛けるミツハに、リンドウはソーマの事を話してくれた。一緒に居てやって欲しい。その言葉に頷けば、リンドウは嬉しそうに笑っていた。兄のようだと、思ったのだ。

 

「……アイツは」

「はい」

 

 僅かに震えているのは相変わらずだ。だが、穏やかな声色をしている。その穏やかな声はいつだって、ミツハの心を揺さぶった。

 

「初めて会った時からずっと、飄々とした奴だった」

「変わらないんですね」

「デカくてムカつきもしたな」

「ああ、確かその頃のソーマさんって小さかったんでしたっけ」

「……誰に聞いた」

「博士から」

「あの野郎……」

 

 恨めしそうな声にくすくすと笑う。ソーマもふっと溜息を吐くように薄く笑った。

 

「あと五センチ、結局届かずじまいだった」

「…………」

 

 見上げていた視線を下ろし、ソーマを見やる。蒼い瞳には相変わらず星空が映っている。手の届かない遠い光の粒をソーマはずっと眺めていた。

 声を掛けようと口を開いて、閉じる。口元に緩い弧を浮かばせ、彼の額に手を当てる。さらりと揺れる白金の綺麗な髪を、優しく撫ぜた。

 

――昨日の、お返し。

――お返しに、なればいいな。

 

 そんな事を思いながら。そんな事を祈りながら。

 ふたり、彼の死を悼んだ。

 



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第九章
68 変わりゆく前兆


「復帰一発目が大型種二匹……しかもどっちとも堕天種……」

 

 巨大な竜巻が常に発生している何もない平原。潔い程に壁も遮蔽物も何もなく、見通しの良い平原は本日討伐対象のアラガミがよく見えた。

 ボルグ・カムラン堕天種とサリエル堕天種。氷属性のバレットを装填し、ミツハは嘆きながらブラストを構える。

 前衛はユウとアリサ。後衛はミツハとコウタだ。毎度ながら新兵四人に任せる任務内容なのかと疑問に思うが、ユウが居るのだから大丈夫だろうという安心感がある。

 俊敏な動きで攻撃を与えていく前衛二人に注意しながら、ブラストを撃つ。ひとりでに撃ち続けるという事もない。適合率は通常通りだ。

 

「ま、サクヤさんが元気になるまで俺達だけで頑張ろー、ぜっ!」

 

 コウタが上空を浮遊するサリエルに向かって連射を放ち、撃ち落とす。その隙を見逃さずにユウがロングブレードで斬り掛かる。サルエル種は宙に浮いている為、近接武器は刃が届きにくい。こうして遠距離型の神機使いと協力する事が討伐の要になる。

 そうした後衛支援はサクヤが群を抜いているが、本日は休みを申請していた。咎める者など第一部隊の中に居る筈が無い。

 そうだね、とコウタの言葉に頷き、大きく息を吸う。サリエルの鮮やかに広がるスカートのような部位に狙いを定め、溜め込んだオラクルを放出させた。

 

   §

 

 任務終わり、アナグラに帰投してユウと一緒にサカキ博士の研究室に足を運ぶ。シオのおやつとしてサリエルの部位の一部をこっそり持ってきたのだ。

 

「博士、シオのおやつ持ってきましたよ」

「おや、有難う。でも残念ながらシオはお昼寝中だよ」

「あれっ、またですか。最近よく寝てますよね」

 

 小さな保冷パックをサカキに渡すユウの横で、ミツハは静かにシオの部屋を覗いてみる。やはり先日と同じようにベッドで横になっていた。ここのところ、シオは眠ってばかりだ。

 そうなんだよねえ、とサカキが困ったように肩を竦める。保冷パックの中身を冷蔵庫に移しながら、サカキは神妙な声で話を続けた。

 

「リンドウ君の腕輪が見つかった頃から、どうもシオの様子が少し……気になるんだよ」

「気になる?」

「今日みたいに眠っている事が多かったり、起きていてもぼーっとしていたりね」

 

 そう告げたサカキの言葉通り、元気溌剌としたシオはここ数日見ていない。話しかけても上の空といった感じだった。

 何かあったのだろうかとミツハは首を傾げるが、生憎と思いつく事は何もない。早く元気になって欲しいと願いながらユウと一緒に研究室を出た。

 

「リンドウさんの腕輪が見つかった辺りからかあ……」

 

 エレベーターに続く廊下を歩きながら、ユウがぽつりと呟く。何やら考え込んでいる様子だ。

 

「もしかしてユウ、何か心当たりでもあるの?」

「心当たり……というか、ええと、何というか……」

 

 言いにくい事情でもあるのか、目線は泳いでいる。独り言のようなそれに思わず問い掛けてしまったが、深く追求しない方が良かったかもしれない。

 話を変えようと頭の中で話題を探し始めたが、泳いでいた目線がミツハに向けられたので話題探しは中断した。ユウはミツハだけに聞こえるよう、ひっそりと隠れるように話をする。

 

「ソーマがね、リンドウさんの腕輪が見つかった時、不思議な感覚がしたって言っててさ」

「不思議な感覚?」

「物事が確定したような、取り返しがつかないような、そんな感覚。……僕も、そう思うんだ」

 

 ミツハはリンドウの腕輪が見つかった瞬間を知らない。ディアウス・ピターがどれほど強敵で、腕輪を取り出した瞬間、どんな思いだったのかミツハは知らない。

 だからユウの言う〝取り返しがつかない〟ような感覚がどんな感覚なのか分からないが――

 

「……でも、二人がそう言うんなら、きっとそうなんだろうね」

 

 リンドウの腕輪が発見された事によって、彼の死が確定した。だがそれは表面的な事実なだけであり、それだけではないのかもしれない。一体どんな事実が隠されているのかミツハには考え付かないが、少なくともユウの表情を見れば良くない事だというのは明らかだ。

 

 エレベーターに乗り、役員区画まで階層を移動する。ユウはツバキへの報告があるらしい。チーン、と到着を知らせる音がなる。扉が開くと、見知った人物がエレベーターを待っていた。

 

「あ」

 

「サクヤさん、体調は大丈夫ですか?」

 

 黒髪のショートボブに前掛けのような薄い布で豊満な胸を隠し、アシンメトリーなパレオから伸びるすらりとした脚が魅力的な女性――橘サクヤだ。

 その表情は浮かない顔をしており、ユウの言葉にサクヤは薄く笑みを浮かばせた。

 

「ごめんね、今日休んじゃって」

「いえ、全然気にしないで下さい。任務の事なら僕達に任せて、サクヤさんはゆっくり休んでて下さいね」

「あら。流石リーダー、頼りになるわね。……じゃあちょっとだけ甘えちゃおうかしら。なんてね」

 

 ふふっと笑って見せるが、空元気だと言うのは見て取れる。ユウと入れ替わりでサクヤが乗り、ミツハとサクヤを乗せてエレベーターは居住区へ向かって移動し始めた。

 

 ちらりと顔を覗いてみる。目は少し腫れており、あまり眠れていないのかうっすらと隈も出来ていた。

 二人きりの空間に、少し気まずくなる。そもそも今までサクヤと二人きりになる機会は少なく、何て声を掛けようか迷ってしまう。いや、そっとしておくべきだろうか――そんな風に悶々としていると、サクヤが苦笑を零した。

 

「なんか、気を遣わせちゃってごめんね?」

「ええっ!? そ、そんな事ないですよ! ただ、なんていうか、……私は身近な人が、亡くなったりとか。そういうの、あんまり経験してなかったので……分からなくて」

 

 恋人の死が確定してしまったサクヤの心情がどれ程辛いのか、ミツハには想像出来ない。当事者になってみないと分からないだろう。

 素直に吐露したミツハに、サクヤは困ったように肩を竦めた。

 

「六十年前の極東……日本って平和だったんだもんね。分からなくていいのよ、こういうのは」

「そう……ですよね」

「……そうだ、ミツハ。この後時間ある?」

「え? あ、はい。大丈夫ですけど……」

 

 エレベーターはベテラン区画のすぐ近くまで来ていた。サクヤの言葉に頷くと、彼女は新人区画行きのボタンを二回押してランプを消した。

 

「ちょっとお茶淹れるから、お話ししましょう? ミツハと二人きりで話する事って、あんまりなかったものね」

 

   §

 

「お、お邪魔します!」

「散らかっててごめんね〜。お茶淹れてくるから、適当に座ってて」

 

 ベテラン区画にあるサクヤの自室には初めて入る。少し緊張しながらソファに腰掛け、茶を用意するサクヤを待つ。散らかっていると言うが彼女の部屋は綺麗に片付けられており、料理を嗜んでいるのか棚の上にはトマトなどの食材もまとめられていた。

 そして同じ棚の上には、写真立てが置かれてある。

 

――サクヤさんツバキさんと……リンドウさん。

 

 三人は同郷らしく、幼い頃からの付き合いらしい。何となくずっと見るのも憚《はばか》られ、目線を逸らすと丁度サクヤが茶を淹れ終わったらしい。ティーカップを両手に持ち、テーブルまで持ってきた。

 

「お待たせ」

「有難うございます」

「砂糖とミルクはどうする?」

「あ、お願いします!」

 

 飴色の紅茶に砂糖とミルクを入れ、くるくるとティースプーンでかき混ぜる。甘党なミツハはストレートで飲むよりミルクティーとして飲む方が好きだ。こういう所が子供っぽいのかもしれないと自分でも思うが。サクヤは何も入れずに、ストレートのまま一口飲んだ。

 

「最近ソーマとはどう?」

「そっ、ソーマさんとですか!?」

 

 まさかソーマとの事を聞かれるとは思いもよらず、先日の事を思い浮かべて頬が赤くなった。そんな様子のミツハにサクヤはあらあらと笑う。

 

「この前アリサと女子会したんでしょう? 女子会と言えば恋バナじゃない。その真似っこよ」

「そ、そうですけど……あ、相変わらずです、たぶん」

 

 膝枕をされたりしたりの仲が相変わらずなのか進展しているのか分からないが、ソーマの鈍い様子は相変わらずだ。

 そっか、とサクヤが目を細め、飴色の紅茶に視線を落とした。

 

「ソーマにはミツハがついてるから、安心ね」

「安心って……」

「ソーマの事、よろしくね」

 

 柔らかくサクヤが笑う。表情は普段通りの穏やかなものだが、どこか強い意志のようなものを感じた。

 

――物事が確定したような、取り返しがつかないような感覚……か。

 

 先程、廊下でユウが話していた事。そう感じたのはサクヤも同じなのかもしれない。

 

「ソーマもさ、リンドウみたいに一人で色々背負おうとするところ、あるじゃない。だから、ちゃんと見といてあげてね? ……なんて、ミツハには今更か」

 

 語り掛けるように言葉を紡ぐ。彼女の声色には、何処か自戒の念が込められているような気がした。

 

「……サクヤさんも、ソーマさんと結構付き合いは長いんでしたっけ」

「ええ。初めて会ったのはソーマが初陣から帰って来た時だったかな。私、その頃はオペレーターしてたのよ」

「えっ、そうなんですか!?」

 

 初めて知ったサクヤの過去にミツハは驚きの声を上げる。ヒバリのようにオペレーターの制服に身を包んだ彼女を想像してみるが、普段の露出の多いサクヤを見慣れているせいかなかなか想像つかない。しかしオペレーターをしている姿は想像に容易かった。サクヤのオペレーションも射撃の腕のようにきっと的確なのだろう。

 

「そうなの。元々神機使いの候補者だったんだけど、適正神機が見つかるまでオペレーターをしてたの。あの頃は早く神機使いになりたくて仕方なかったわ」

「そうだったんですね。なんか、神機使いになりたい人って意外に多いですよね。私の知り合いの子も神機使いになりたいーって言ってますし……」

 

 危険な職場だというのに不思議で仕方ないが、外部居住区の子供は特に神機使いに憧れる者が多い。ミツハの言葉にそりゃあね、とサクヤは苦笑する。

 

「アラガミからみんなを守ってあげようって意気込む子が多いもの。それに……私の場合は、リンドウの帰りをただ待つばかりで嫌だったもの」

「……サクヤさん」

「置いて行かれるのは……嫌だったのにな……」

 

 力無くサクヤが呟き、顔を隠すように紅茶を一口飲む。普段、大人のお姉さんとして部隊をサポートするサクヤが弱音を吐く事は珍しかったが、ミツハの脳裏には普段の彼女らしくないサクヤの姿が浮かんだ。

 再びこの世界にタイムスリップした日、ユウと起こした感応現象で浮かんだ白昼夢のような景色の一部だ。リンドウが教会に取り残され、悲痛な声で訴えるサクヤの姿を思い出し――罰が悪そうに目を伏せた。感応現象が起きなければミツハは知る由もなかったサクヤの姿だ。

 

 しんみりしたと空気が流れる。窓のない部屋は話したり音楽を掛けなければ完全の無音で、ティーカップをソーサーに置く音がやけに響いた。その空気を破る一声をミツハがあげる。

 

「あっ、あの! そのー……む、昔のソーマさんがどんな感じだったとか、よかったら教えてくれませんか? 確か、背はまだ小さかったんですよねっ」

 

 明るい声を務めてにへらとミツハが笑う。場違いのように思えるその声色に、サクヤはふふっと微笑んだ。

 

「そうねえ、気になるわよね。特にあの子、自分から絶対話さないだろうし」

「まあ自分の事を色々話すソーマさんって想像つきませんしね」

「背はねー、ミツハよりちょっと大きいくらいだったかな? その頃はツバキさんが第一部隊の隊長をしててね。写真もツバキさんが持ってるんじゃないかな」

「えっ今度見せてもらおう……」

 

 思わぬ情報に胸がときめく。六年前、ソーマが十二歳の頃の写真。ミツハが少し大きいピカピカのセーラー服を着ていた頃、ソーマはアラガミと戦い始めたのだ。自分とソーマとの差を思うと、何とも言えない気持ちになる。

 

「会ったばかりの頃のソーマは、ちょっと世間知らずな所があってね。多分あんまり外に出る機会もなかったんだろうし、ある意味箱入り息子って感じだったかな」

「あー……確かに。ソーマさん食べ方とかすっごく綺麗ですもんね」

「……お父様が支部長だものね。色々教わったんでしょうね」

 

 ソーマの父――ヨハネス。あの冷たい氷の瞳を思い出してしまい、ミツハは唇をキュッと結ぶ。彼の事を口にしたサクヤも少し暗い顔をしていた。何故だろう――そう疑問にすら思う前に、サクヤが言葉を続けた。

 

「身長が伸び始めたのは、十三歳から十四歳ぐらいの時だったかなあ。いつの間にか抜かされちゃってて、男の子の成長の早さにびっくりしちゃったな。……そうそう、その頃のソーマはツバキさんや私をちょっと避けててね。リンドウに思春期でも来たのかーってからかわれてたなあ」

 

 当時の事を思い出したのか、サクヤはふふ、と小さく笑う。ソーマにもそんな時期があったのかと想像しては微笑ましくなった。事情があったとは言え抱きしめられたり膝枕をされたりしたせいか、ソーマが異性を意識するイメージがあまりなかったせいだ。

 

「それからは……第一部隊でずっと戦って、色んな人の死を見てきて……ミツハも知ってる、今のソーマになったの」

 

 サクヤの声が憂いを帯びたものになる。第一部隊は数ある極東支部の部隊の中でも精鋭部隊で、それ故に与えられる任務は危険なものが多い。それはミツハも身を持って知っている。

 そこで六年間、ソーマはずっと戦ってきたのだ。人の死を多く見届け、死神と呼ばれるようになり――身も心も研ぎ澄まされた、鋭利なナイフのような男になった。

 訓練所の彼の背中を思い出す。ああして人知れずやり切れぬ思いをひとり抱え込んでいたのは、いつからなのだろう。――きっと六年前からずっとなのだろう。

 

「……ほんと、全然世界が違うんだなあ……」

 

 呆けたようにミツハがぽつり、呟く。そうね、とサクヤが頷いた。

 

「私、六年前は十三歳で……引っ越して、新しい家にウキウキしてて。中学校に入学して、千夏……親友と、出会って。勉強が大変だったり、部活が楽しかったり、友達と遊んだりで……六年、あっという間に過ぎました。大怪我した事もなかったし、事故や事件に遭う事もなかったです。本当、悲劇の一つや二つも何もないまま……過ごしてたんだなって……」

「ミツハはそれでいいのよ」

 

 ぽつりぽつりと考えをまとめるように話すミツハに、サクヤは優しく微笑みかけた。

 

「そんなミツハだから、ソーマも息がしやすいんじゃないかな」

「そう……でしょうか」

「そうよ。だから……」

 

 言いかけたサクヤは一度口を閉じ、ティーカップに入っていた紅茶を一気に飲んだ。空になったカップをソーサーと一緒に持ち、ソファから腰を上げる。

 

「ソーマの事、よろしくね」

 

 先程も言った事を繰り返し、静かに笑った。妙に圧倒されるものがあった。そんなサクヤにミツハは言葉が出ず、静かに頷いた。

 ――この時点で、既に事は決まっていたのだと、ミツハは後になって思い知る。

 

 事実、翌日にシオが行方不明になり――その夜、サクヤの行方も分からなくなった。

 



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69 抗いないようのない運命

 シオが行方不明になった。

 サカキの依頼でユウ、サクヤ、アリサと共に愚者の空母でシオの食事に出掛けた先でシオが海へ飛び込み、そのまま行方が分からないそうだ。

 

「その時のシオちゃん、なんだか様子が可笑しくて。全身に紋様みたいなのが浮かんでて……エイジス島を見ながら、誰かがタベタイって呼んでるって言って、そのまま……」

「海に飛び込んだ、と……。シオ、どうしちゃったんだろう……」

 

 アリサの部屋で話を聞きながら、ミツハは先日から様子の可笑しかったシオを思い出す。

 そもそもサカキはシオの様子が可笑しい事に気付いていたというのに、どうして外出させたのだろうか。シオの食事ならば、先日もミツハ達がおやつとしてアラガミの一部をサカキに渡していた。ソーマも特務の合間に集めていると話していたので、食事に困るような事はない筈なのだが。

 

「……オペレーターの方達が話しているのを小耳に挟んだんですけど、エイジス近郊の海域で特殊な偏食場が観測されているそうなんです。多分、シオちゃんの事だと思います」

「それは……結構マズい状況だね……」

「シオちゃんが支部長に見つかっちゃったら……なんて、考えたくないですね」

 

 重々しくアリサが言う。当然、支部長のヨハネスにもこの事は伝わっているだろう。恐らく明日にでもユウやソーマに特務が言い渡されるに違いない。ヨハネスの目を上手く掻い潜れるのか不安になるが、上手くやってくれると信じるしかない。特務となってしまったら、他の第一部隊の人間は一切手出し出来ないのだ。

 

――エイジス島に何があるんだろう。

 

 シオはエイジス島を見つめ、海中に姿を消したそうだ。エイジス島といえば、最高機密のベールに覆われたヨハネスの御膝元だ。そのヨハネスは特異点探しに躍起になっている。この一致が偶然だとは思えなかった。

 同じ新人区画にある自室に戻り、ベッドに横たわる。天井を見つめながら、ぼんやりと先日のユウとした会話を思い出した。

 やはり何か、物事が確定したのだろうか。取り返しのつかないような何かが。

 

――運命、とか。

 

 特異点。

 特異点としての――運命。

 

 ミツハの意思や行動に関係無く、突如として発生してしまった偏食因子のように。タイムスリップしてしまった、抗う事の出来ない運命のように。

 特異点として生まれたシオにも、何か抗えない運命があるのだろうか。それが確定してしまったのだろうか。

 

 それが――人類最後の希望と謳われるエイジスに関係があるのだろうか。

 ベッドの上で悶々としてしまうが、答えを教えてくれる者は誰も居ない。不安を抱きながら眠りについた。

 

   §

 

 翌日、予想通りユウとソーマは特務を言い渡されたらしい。本日第一部隊に下された鉄塔の森での討伐任務のアサインメンバーに、ユウとソーマの名前は無かった。

 鉄塔の森まではヘリを使って行く。屋上のヘリポートはユウ達が使用するらしく、ミツハ達は出撃ゲートから進んだ先にある第一発着場での集合となった。ミツハが着いた時には既にアリサの姿があり、少し遅れてからコウタがやってきた。

 

「サクヤさん、遅いね」

 

 本日の討伐任務にはサクヤもアサインされていたのだが、集合時刻を過ぎてもその姿は現れなかった。「まだ体調悪いのかな」コウタが心配そうに呟くが、ミツハは妙な胸騒ぎがしていた。先日の何かを決意したようなサクヤの顔を思い浮かべる。

 

「……私、様子見てくるね」

 

 そう言ってヘリポートを後にし、ベテラン区画にあるサクヤの自室へ向かった。インターホンを何度か押してみるも、返事がない。オペレーターのヒバリなら何か知っているかもしれないとエントランスへ向かう途中、声を掛けられた。

 

「あれっ、ミツハ。出撃したんじゃなかったの?」

 

 タンクトップと赤いゴーグルが特徴的な少女――整備士の楠リッカだ。

 

「その、サクヤさんが来なくって。部屋に行ったんだけど居ないみたいだし……リッカちゃん、何か知らない?」

 

 首を傾げてリッカに尋ねてみる。すると彼女ははっとしたように目を見張り、何処か気まずそうに目を伏せた。

 

「……急用があるって言って、何処かに行ったみたいだよ」

「……そっか」

「その……暫くは戻らないと思うな」

 

 何かを隠しているのは明らかだったが、恐らく口止めされているのだろう。それに驚きはしたが、やっぱり、と何処か腑に落ちる部分もあった。

 先日の時点で、既に事は決まっていたのだ。あの時のサクヤは、そういう顔だった。

 ヘリポートへ戻り、アリサとコウタにサクヤの事を説明して三人だけで出撃する。キャビンの中で、アリサはずっと何かを考え込んでいる様子だった。

 

 鉄塔の森での任務内容はシユウとその堕天種、そしてボルグ・カムラン堕天種の三体の討伐だ。三人しか居ない上にシオに続いてサクヤも居なくなった事への不安からか、戦闘は泥沼と化しアナグラへ帰還する頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。

 疲労困憊の中帰投報告をすると、ヒバリから研究室へ行くよう指示される。――シオの事だと察したミツハ達は急いで研究室へ向かった。

 

「は、博士! シオ、見つかったんですか!?」

 

 研究室へ駆け込む。モニターに囲まれたいつもの椅子にサカキは座っており、室内にはソーマが居た。ユウの姿は見えないが、恐らく報告に行っているのだろう。ミツハの問いにサカキはこくりと頷いた。

 

「ソーマ達が見つけてくれてね。今は落ち着いて部屋で眠っているよ」

「よ、良かったぁ……」

「とりあえず……シオちゃんは無事に見つかって安心ですね」

「そうだなー……」

 

 ほっと胸を撫で下ろして息を吐く。しかし無事に見つかったとは言え、状況はあまり芳《かんば》しくないようだ。サカキはいつになく難しい顔をしてモニターと向き合っており、ソファに座るソーマはずっと俯いたままだ。

 

「……シオを見つけた時、何かありました?」

 

 ソーマの隣に座り、顔を覗く。存外、酷い顔をしていた。揺れる蒼い瞳を誤魔化すように、ソーマは目を伏せながら頷いた。

 

「……少し、いいか。話がある」

「……分かりました」

 

 ソーマから言い出すのは珍しい。ソファから腰を上げて研究室から出た彼の後を追い、研究区画の中でもあまり使われていないフロアへ出る。

 人気のない廊下は嫌に静かで、壁に背をついたソーマが掠れた声で話を切り出した。

 

「今のあいつは、エイジスに引かれているらしい」

「……やっぱり、エイジスに何かあるんでしょうか。あそこ、支部長に許可された人しか入れませんし……」

 

 エイジス島には防衛班に所属していた時に何度か立ち寄った事がある。だがそれはエイジス島の外周にあるアラガミ装甲壁に近づくアラガミの掃討の為であり、壁の中には一度も入った事がない。故にエイジス内部がどのようになっているのか、エイジス島の防衛担当である第三部隊ですら知る者は居ないのだ。

 

「何かあるのは間違いないだろうな。……シオは何かに呼ばれていると言っていた。エイジスにはシオを呼ぶ〝何か〟がある」

「……支部長が特異点を探してるのも、その〝何か〟の為なんでしょうか……」

「恐らくな」

 

 苦い顔をしてソーマが頷く。エイジスに何かがあるのは確かだ。だが、それが何なのかまでは分からない。あと一歩、核心に届かない。

 沈黙が落ちる。重苦しい空気の中、ミツハは記憶を遡る。

 ヨハネスが話していた、あの思い出したくもない記憶。

 

「……あの日」

 

 ぽつりと、沈黙に声が落とされる。少しばかり震えた声だった。

 

「その……支部長室に、呼ばれた時……人類の未来の為って、言われたんです。人類の未来の為に、その身を捧げる為に……私はこの世界に来たんだって。それが、私がタイムスリップした意味なんだって……」

 

 睡眠薬のせいで朦朧とする意識の中。涙で滲んだ視界の中。曝け出された肌を照らす照明灯の光を背に、氷の瞳をした科学者はそう言っていた。そう言われた。思い出しただけで声が、手が震えた。

 

「おい」

 

 そんなミツハに、無理をするなとでも言いたげにソーマが震える手を添えるように握る。その温かさに震えは止まった。妙に乾いた喉を潤すように唾を飲み込み、一息吐いて話を続ける。

 

「……支部長が思う〝特異点〟の意味がこういう事なら、……エイジスに、特異点を捧げる〝何か〟があるんじゃないでしょうか。それが、支部長の言う人類の未来の為……だったり」

 

 特異点を捧げる事で、どうして人類の未来の為になるのかは分からない。そもそも特異点というのは世界を滅ぼすアラガミと言われている。その〝何か〟と言うのが特異点を破壊するものなのかもしれないが、そうだとするとヨハネスがミツハの偏食因子を使って特異点を作り出そうとした意味が分からなくなる。わざわざ作ろうとするぐらいに、ヨハネスにとって特異点は必要なものだという事だ。

 

 考えれば考える程に謎が深まる。エイジスも、ヨハネスの思想も、特異点も。全て断片的な情報ばかりで、考える事は出来ても答えに行き着く事は出来ない。

 それがなんだか、もどかしい。

 

「……人類の未来、か」

 

 吐き出すようにソーマが呟く。触れるだけだった手を、強く握られた。

 

「例えそうだとしても……俺はあの野郎に差し出すつもりは毛頭ない。お前も、シオも。特異点が何だって言うんだ」

 

 強い意志が込められた言葉だった。その言葉にミツハも強く頷く。

 ――特異点だの化け物だの何だろうが関係ない。シオはシオだ、そう何の迷いもなく、琥珀色の瞳をきらきらさせて言っていた。

 

「それが特異点の運命なんて……そんなの絶対、認めたくないですもん」

 

 ミツハがタイムスリップした意味のように。シオが特異点として生まれた意味も、そんな悲しい理由であって欲しくない。

 ――あって欲しく、ないのだ。

 



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70 方舟

 その日の夜遅く、ユウから電話があった。内容は今から部屋に来て欲しい、との旨だった。

 こんな時間に珍しい。何かあったのだろうかと疑問に思いながら、ユウの部屋があるベテラン区画へ向かう。エレベーター前に行くと、コウタがエレベーターの到着を欠伸をしながら待っていた。

 

「あれ、もしかしてコウタもユウに呼ばれた感じ?」

「うん。何かあったのかな」

「……なんか嫌な予感がするんだよね」

「ミツハも? 実は、俺も。シオの様子は変だし、サクヤさんもどっか行っちゃうし。俺、嫌な事が二つ重なるとすげえテンション下がるんだよなー……」

 

 エレベーターが到着する。乗り込みながら、コウタは苦い顔をした。

 

「二度ある事は三度ある……って事にならなきゃいいな」

「……そうだね」

 

 ユウの部屋に入り、コウタと並んでソファに座る。何かあったのか聞いてみたが、「みんなが揃ってから話をするね」と言われてしまった。

 みんな――つまり第一部隊全員呼んでいるらしい。その言葉通り、暫くするとソーマがやって来た。しかしサクヤは兎も角、アリサの姿はいつまで経っても見えない。

 

「こんな時間に何の用だ」

 

 部屋の奥の壁に背を預けたソーマがユウに尋ねる。ユウは何とも言えない神妙な面持ちで、ノルンのターミナルに向き直った。操作をすると、画面にはサクヤとアリサの姿が映った。

 

「サクヤさん、全員揃いました……」

『夜中に呼び出してごめんなさい。貴方達には、話さない訳にはいかないと思って……』

 

 何処からかビデオチャットを掛けてきているらしいサクヤは、どうにも沈んだ様子をしている。隣に映るアリサも同様だ。どうして行方不明になっていたサクヤと一緒に居るのか。それも不思議だったが、兎にも角にもサクヤの話に耳を傾ける。

 

『……今から言う事を心して聞いて。どうしてリンドウが死んだのか、エイジスで何が行われているのか分かったわ』

 

 リンドウ――そしてエイジス。サクヤの言葉に空気が重苦しいものへと一変する。二度ある事は三度ある。先程、エレベーター内でコウタと交わした言葉を思い出した。

 

『私は前からリンドウが遺したディスクの解析を試みていたの。リンドウの腕輪を取り戻して、認証のロックが掛かっていたデータを見る事が出来たわ。……ユウ、貴方も見たでしょ』

「……アーク計画、でしたっけ。サクヤさん、もしかしてエイジス島に……?」

『ええ……。プログラム実行ファイルがあったじゃない。それ、エイジスの警備システムをダウンさせるプログラムだったのよ。そのプログラムを利用してエイジス島に潜入したの』

「アーク計画……ですか?」

 

 聞いた事もない単語に耳を傾げる。単にこの世界の事に疎いミツハが知らないだけなのかとも思ったが、隣に座るコウタも知らないようだ。

 話だけだと長くなるから、とサクヤはユウのターミナルにデータを送る。ユウはそれらを印刷し、テーブルの上に置いた。

 

「レポートと、何かの名簿?」

「リンドウさんが遺したデータにあったものだよ。リンドウさん、本部からの命令でエイジス計画について調べていたみたいなんだ」

 

 つまり、これはフェンリル本部への報告書なのだろう。事の大きさに尻込みつつも、ミツハはレポートを手に取って読み上げてみる。

 

 ――内容は、このようなものだった。エイジス計画を〝隠れ蓑〟として、〝アーク計画〟という別の計画を進めているらしい。このアーク計画は〝真の人類救済の為のプラン〟とされているようだが、詳細は不明との事――

 

『そのアーク計画がどういうものなのか……エイジスに忍び込んでみたら、支部長が全て教えてくれたわ。……終末捕喰を起こして一度地球上の生命をリセットし、その新しい世界に人類を残す為の方舟。それがアーク計画よ』

「……終末捕喰を防ぐんじゃなくて……起こすんですか」

 

 どうして支部長が特異点を探しているのか、どうしてミツハの偏食因子を使ってまでわざわざ作り出そうとしたのか――ようやく合点がいった。終末捕喰を起こすには、特異点は必要不可欠な鍵だ。

 ヨハネスはそんなリンドウの探りを察知し、アリサを洗脳してリンドウを暗殺させようとした。接触禁忌種の群れが現れる事を、ヨハネスは知っていたのだろう。全てはヨハネスの掌の上だったのだ。

 

「確かか、それは……」

 

 ソーマが問う。自分の実父の事だというのに、妙に冷静な物言いだった。

 

『残念ながら、ね……貴方のお父様は、アリサに私も殺させようとした。アリサの主治医もグルだったのよ。治療にかこつけてご両親の仇のあのアラガミを、暗示でリンドウに摩り替えていたのね』

「アリサは大丈夫?」

 

 心配そうにユウが尋ねる。大丈夫です、とアリサは画面上で頷いた。

 

『ユウやリンドウさん、サクヤさんのお陰です。もう、あんな暗示なんかには負けません』

「そっか……なら、良かったよ」

 

 アリサは静かに、だが力強く答えた。その言葉にユウは安心した様子で息を吐く。サクヤは一度柔らかく口元を綻ばせ、一拍置いて顔付きを硬いものにする。

 

『……以上が、エイジス計画とアーク計画の全容。そして、そこにあると思うけど、〝方舟〟に乗る事が出来るメンバーのリストよ』

 

 終末捕喰が起きれば地球は完全な破壊と再生を迎え、全ての種が一度完全に滅び生命の歴史が再構築される。地球の歴史上で何度か起こった、大量絶滅と同じ生命の再分配システムだと言う。

 

 ノアの方舟みたいだ、とミツハは思った。大洪水を方舟に乗って逃れる。だが、方舟に乗る事が出来るのはノアとノアの家族、そして全ての動物の雌雄一匹ずつだ。方舟に乗らなかった全ての人、動物は洪水に呑まれて絶滅した。水が引いた後ノアと動物達は方舟から降り、今の生き物の先祖となった――

 それと同じ事を、アーク計画ではしようとしているのだ。

 

 テーブルの上に置かれた名簿を見る。初めて目にする名前が多い中、サカキや第一部隊、防衛班の面々の名前も記載されていた。探してみたが、佐々木カズヤ達外部居住区に住む者の名前は殆ど無い。だが、コウタの家族の名前は見つけた。

 

『此処に居る私達全員の名前も記載されているわ。加えて、収容者から二等親以内の親族の収容も認められている。……まあ、私とアリサはエイジスに忍び込んだ事でリストから外れちゃったけど。それでも、このままいけば貴方達は〝救われる〟側ってわけ。逆に私達は極東支部からもお尋ね者にされちゃってるでしょうね』

 

 言いながら、サクヤは肩を竦める。一通り話終えると、ミツハの隣に座るコウタはずっと俯いていた顔をわなわなと上げた。

 

「エイジス計画が……嘘? ……そんな、そんな事って……」

「コウタ……」

 

 その顔色は顔面蒼白そのものだった。当然だ。エイジスが完成すれば母と妹を守れる――その一念でコウタは神機使いになり、ずっと戦ってきたのだ。

 だというのに、現実は他の人達を犠牲に自分達だけ生き残るという、非情なものだった。

 項垂れたコウタを一瞥し、ソーマは覚悟を決めたような神妙な顔つきで宣言する。

 

「……俺は元からあの男に従う気は無い。それに、俺の身体は半分アラガミだ。そんな奴が次の世代に残れると思うか?」

『……それでも支部長……貴方のお父様は、貴方もリストアップしているわ』

「知った事か」

 

――……そうだ。私の名前も、あるんだよなあ……。

 

 ソーマとサクヤの会話を聞きながら、ミツハは名簿の名前を眺める。井上ミツハ――自分の名前も記載されていた事に驚きだった。

 ただの化け物だろう――そう言い放ったのはヨハネス自身だと言うのに、その化け物を方舟に乗せるつもりなのか。ヨハネスの考えている事がミツハには毛頭理解出来なかった。

 

『改めて言っておくけど、私はこの船を認めるつもりはないの』

『ええ、私達は支部長の凶行を止めなければならない。とりあえずは身を隠して、エイジスへの再侵入方法を探すつもりです』

「……そっか。……分かりました。見つからないよう、十分気をつけて下さい」

 

 ユウは止めない。止めた所で彼女達は聞きはしないと分かっているのだろう。有難う、とサクヤは頷く。

 

『……伝えておきたかった事は、それだけ。どうするかは、貴方達が自分で決めてね。その結果、私達の敵に回ったとしても恨まないから安心して』

『邪魔するようなら、全力で排除しますけどね』

『アリサ……!』

『冗談ですよ……でも、出来ればそうならない事を願っています』

『……それじゃ、もう切るわ。後悔のないように、しっかり考えなさい』

 

 そうして、通信が切られる。部屋に静寂が落ち、空気が沈む。

 ユウはターミナルの画面を落とし、項垂れたままのコウタを見やる。憔悴した様子のコウタに、掛ける言葉が見つからないようだ。

 ソーマは三人を残し、無言で部屋を立ち去った。その蒼い瞳に迷いはない。ミツハはソファに腰掛けたままその背を見送った。

 

 部屋に三人が残る。ユウ、コウタ、ミツハの同期三人だ。前にこの三人だけで集まったのはいつだっただろうか。ソーマの事をユウの部屋で話した以来だろうか。最終的にミツハのソーマに対する想いを語り、墓穴を掘ったように顔を赤くして逃げた筈だ。

 その前は、ミツハの部屋で六十年前の世界の事を写真を見せながら話をした。コウタの妹への土産に渡した横浜の写真は喜んでくれたそうだ。

 

 同じ日に神機使いになり、訓練を共にした仲という事もあり三人揃った際はいつだって空気は軽くなったものだが――今日ばかりは、そうもいかない。

 重い沈黙が続く。暫くして意を決したように、コウタは顔を上げた。

 

「……悪い。俺は――アーク計画に乗るよ」

 

 コウタのその言葉に驚きはしなかった。そっか、とユウは相槌だけ打つ。ミツハもまた、うん、と静かに頷いた。――きっとそう言うだろうと、分かっていたからだ。

 

「勿論、それがどういう事かってのも分かってる。でも、エイジス計画がなくなっちまった以上、他に母さん達を確実に守れる方法はない。……俺は、どんな事をしても家族を……母さんと妹を守るって決めたんだ。ゴッドイーターになったのもその為なんだ」

 

 ゴッドイーターになって家族を守ってやるんだ――コウタが子供の頃から描いていた未来を聞いていた。知っていた。コウタがどんなに家族を大切に思っているか、ミツハ達は知っているのだ。

 

「だから俺、アーク計画に乗るよ」

 

 ごめん。コウタはもう一度謝る。謝らなくていいよ。ユウが穏やかに言った。

 

「サクヤさんも言ってただろ、後悔のないように自分で決めてって。コウタがそう決めたんだったら、それでいいんだよ。僕が横槍を入れるような事じゃない」

「そうだよ。それにコウタならそう言うだろうなって、なんとなく分かってたもん。ね」

「うん。第一部隊のムードメーカーで、座学が苦手で、バガラリー好きで、そして家族の事を何より大切に想っているのが、僕達の知ってるコウタだからね」

「……ありがとな」

 

 呟くようにコウタが言った。ほんの少しだけ空気が緩む。詰まった息をひとつ吐き、コウタはミツハとユウへ問い掛ける。

 

「……ユウ達はさ、どーすんの?」

「僕は……一度、支部長から直接話を聞いてから決めたい、かな。あの人が何を思ってこんな計画を決めたのか、知ってから決めたいと思う」

「ユウのそういうとこ、本当ユウって感じだね」

「確かに。お前らしいよ」

 

 コウタと顔を見合わせて頷き合う。そうかな、とユウは少し困ったように笑い、テーブルにある印刷された資料に目を落とす。アーク計画についてのレポートと、方舟に乗れる人間の名簿だ。

 

「正直さ、支部長のしている事も……間違っているとは思えないんだ。人類を確実に救うなら、支部長のしている事はきっと正しいとも……思う。だから、すぐには決められないや」

 

 終末捕喰が起きれば、地球上全ての生命が一度破壊されてしまう。近い将来全人類が滅んでしまうのならば、一〇〇〇人という限られた数を確実に救って次世代に繋いだ方が良い――方舟に乗るという事実は、残る人々を見捨てて自分だけ生き残るという考え方と共に、そういった考え方も出来るのだ。そう考える人だって居る。ヨハネスがそう考えるように。

 

「……そっか。……ミツハは?」

「私? 私はー……多分、乗らないかな」

 

 話題を向けられ、ミツハは苦笑しながら答えた。二人に比べて随分曖昧な物言いだなと自分で思った。

 

「私はソーマさんと同じように支部長に従う気はないし……。そもそも、タイムスリップしてきたってだけでも実感湧かなかったのに、その世界で人類が滅亡するから宇宙船に乗って回避しようーって……まるで、六十年前のSF映画を観てるみたいなんだもん。……実感、湧かないんだ」

 

 ミツハがこの世界に来てから、まだ半年も経っていない。アラガミの脅威は戦ってきたのだから分かるのだが、人類がアラガミによって生活圏を奪われ、日に日に滅亡に近づいていく過程をスキップしている。人類が滅亡してしまうなんて言われても、あまりに現実味が無さ過ぎるのだ。

 

 この数か月でミツハは六十年前では経験出来ない死線をいくつも潜ってきた。だが――所詮はたかが数か月だ。生まれてからずっとこの世界で暮らしてきたユウやコウタ達と比べたら、この〝世界〟に対する意識が薄くなってしまうのは、最早どうしようもない事なのだ。

 

 世界が滅びる。人類が滅亡する。――何かの物語みたいだ。どうしても、心の奥底ではそう思ってしまう。

 

「……そうだよな。ミツハは、そうだよなあ……」

 

 埋まる事のない絶対の溝を少しでも埋めるように、コウタが繰り返し言葉を咀嚼する。そもそも〝世界が滅びる〟という点で見れば、ミツハの世界はとっくに滅んでしまっている。人と物が溢れて賑わう横浜の街並みは、この世界にはもうないのだから。

 

「……僕達はさ、やっぱり考え方とか、信念とか。そういうのはそれぞれで違うから、同じ方向に進む事が難しい時だってある。今が、そうみたいにさ」

 

 語り掛けるような口調で、だが芯を持った言葉は不思議と力強い。ユウは本当に不思議な男だと思う。穏やかだが、決して揺らぐ事は無い。何処までも真っ直ぐな碧い瞳を向けられる。

 

「だけど、僕達が一緒に強くなろうって誓った事は変わらないよ。だからさ、違う道を選んで進んだとしても、その道で強くなっていこう。コウタは家族を守る為に強くなって、僕もまた誰かを守れるように強くなりたい。だからミツハも……ミツハが選んだ先で、強く在って欲しい」

 

 いつかの病室で交わした誓い。拳を合わせた日の事を目に浮かばせ、ミツハは頷いた。

 ――強くならなきゃ。あの日そう思ったのは、元の世界へ帰る為。ならば、今は――

 

 逡巡し、もう一度ミツハは頷く。

 たかが数か月。されど数か月。守りたいと思ったもの。強くなりたいと思った理由は、見つかっていた。

 



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71 ヒーロー

 エイジスの事実を知り、眠れぬ夜が明けた翌朝。開いたばかりの食堂は普段なら人は多くないのだが、この日は妙に席が埋まっていた。早い時間に朝食を食べに来たというより、目が覚めてしまい落ち着かずにとりあえず食堂へ足を運んだという者が多い。その日のアナグラは変に浮き足立っていた。

 

 理由は明白だ。フェンリルから支給された携帯には、黎明に上層部からの一斉メールが二件届いていた。一件はアリサとサクヤが指名手配になったという旨。もう一件は――神機使い全員に支部長の出頭命令が下されたという旨。

 

 『順に一人ずつ呼び出しを行う。呼び出された者は必ず指示に従い、支部長室に出頭するように』

 

――一人ずつ、かあ……。

 

 メール画面を見ながらミツハは重い息を吐く。あの一件以降ヨハネスはミツハに接触して来ないが、特異点が未だに見つかっていない以上ミツハに再び矛先が向けられても何ら不思議ではないのだ。ヨハネスが進めるアーク計画に終末捕喰――特異点は必要不可欠な鍵なのだから。

 もう一度溜息を吐き、携帯の画面を落とす。配給口からプレートを受け取り、いつも通りフードを被った男の姿を探した。

 

「おはようございます」

「……ああ」

「メール、見ました?」

 

 席に座りながら聞けば、ソーマは顔を上げて苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。

 

「出頭命令の件か。……俺が呼び出されるとは思えんが」

「そうなんですか? じゃあ私も呼び出されないかも……?」

 

 ヨハネスに対して確執があるのはミツハも同じだ。サクヤ達がエイジスに侵入し、真実をヨハネス自身が明かした翌日のタイミングで神機使い全員を個別に呼び出しとは、十中八九アーク計画についてだろう。方舟に乗る事の出来る限られた人間、それが神機使いなのだ。アーク計画に乗るか、乗らないか。そのふるいを掛けに来る筈だ。

 しかしミツハはソーマと同じように、わざわざふるいを掛けるまでもなく反対だというのはヨハネスも分かりきった事だろう。意味の無い問答をするつもりがないのならば、呼び出す意味もない。――意味のない問答をするだけならば。

 

 ソーマは眉根を顰めて首を振った。

 

「……お前の場合はそうもいかねえだろ」

「…………うー」

 

 先程も言ったが、特異点が見つかっていない以上ミツハに矛先が向けられても不思議ではないのだ。意味のない問答をするつもりはなくとも、一か月前のような〝実験〟を強行するつもりはあるのかもしれない。

 そう考えるだけでミツハの気分は重く沈む。不味いレーションを苦い顔をして飲み込んだ。

 

「出頭命令が下ったからと言って素直に従う必要はねえだろ」

「無視しちゃえーって事ですか?」

「お前がのこのこと来る筈がないのは奴自身分かっているだろう」

 

 出頭命令に背けられるだけの事をしたのだ。あんな事があって二人きりにわざわざなりに来る馬鹿だとはヨハネスも思っていないだろう。

 ソーマの言う通り、行きたくなければ行かなければいい。

 だが――昨夜のユウの言葉を思い出すと、単純に〝行かない〟という選択肢を選びたくはなかった。

 

「その……話を、したいとは思うんです。でも二人きりにはなるのは嫌で……」

「……話? あいつとか?」

「ちょっとあの時、気になる事があって」

 

 あの時――ヨハネスは嗤っていた。血を分けた己の息子――ソーマの事を語ったヨハネスの冷たい笑みは、自分自身すらも嘲笑していた。それは何処か、自虐的な笑みを感じさせた。

 

 方舟に乗る事が出来る名簿にミツハの名前があったのは驚きだったが、ソーマの名があった事には驚かなかった自分がいた。それはあの男のあの顔を見たからだろうか。ソーマの事を化け物だと言っているが、息子とも言っている。自身が化け物と罵る男が息子である事は否定しないのだ。

 

――あの人は、ソーマさんの事をどう思っているんだろう。

 

 ヨハネスが何を思って、あんな顔をしたのか。何を思って、化け物のソーマやミツハをリストアップしたのか。ユウのように、一度話をしてヨハネスの思いを知りたかった。

 

「本気か?」

 

 怪訝な顔をしてソーマが問う。ミツハは頷き、小さく笑って強がってみせた。

 

「……連絡が来たら俺にも知らせろ」

 

 他にも何か言いたそうな顔をしていたが、ソーマはそれらを噛み殺してそれだけ告げた。ミツハは強がりではない笑みを浮かべて頷いた。

 

   §

 

 本日は特に任務が下されておらず、各々呼び出しが掛かるのを待っている状態だ。ミツハは騒がしいエントランスのベンチに腰掛け、自販機で買ったミルクティーを飲みながら携帯が震えるのを待っていた。

 一度話をすると決めたものの、やはりヨハネスに対しての恐怖心は拭えない。ソーマにああ言い切ったが一人になると、やっぱり行かない方がいいだろうか、なんて思い始めてしまう。

 

――いや、ちゃんと話を聞こうって決めたんだから。

――一人じゃないんだし、大丈夫、大丈夫。

 

 後ろ向きになってしまう思考を振り払い、俯いていた顔を上げてミルクティーを飲む。気分を少しでも上げようと、六十年前の携帯を取り出して音楽アプリを開くミツハを見下ろす影が出来た。

 

「なあ。お前確か、第一部隊だろ?」

 

 話した事もない別部隊の神機使いの男だった。突然声を掛けられ、驚いたミツハは慌てて携帯をポケットにしまう。

 

「えっ、あ、はいっ。第一部隊所属です」

「だよな。死神とよく居る奴だし覚えやすくて助かるわ」

「……その、何か用ですか?」

 

 男の態度に思わず棘のある声で返してしまう。ソーマの事を〝死神〟と呼ぶ輩《やから》を好きになれないのは仕方ないだろう。

 そんなミツハに男は「怒るなよ」と軽薄そうに笑った。

 

「第一部隊の奴なら、なんか知ってんじゃねえかなって思ってよ」

「何をですか?」

「橘サクヤとあのロシアから来た新型の事」

 

 二人が指名手配にされた事は今朝のメールで全神機使いに知れ渡っている。指名手配にされたと言う事は、二人を調査部に身柄を引き渡せば報酬が貰えるのだ。――その報酬を欲しがる者も当然居る。ミツハは眉を寄せるが、努めて平静を装った声で男を突き放す。

 

「知りません。二人が何処に居るのかは第一部隊のみんなも分かりませんから」

「でもよ、第一部隊のお前らからの連絡なら出るんじゃねえの」

「それが掛けてみても出ないんですよ」

「じゃあ今ここで掛けてみてくれよ」

 

 男が厭らしく笑う。下卑た笑みにミツハは言葉が詰まった。

 

「……嫌です」

「なんだよ、やっぱり出るんじゃねえか」

「……知りません。掛けてませんもん」

「じゃあ掛けてみろって」

「だから、嫌ですって」

「指名手配されてる奴を庇うのかよ」

「ねえ、何の話してんの?」

 

 押し問答から逃げるタイミングを窺っていると、少年の声が不穏な空気を打ち破った。

 声変わり前の高いアルトの声。頭に包帯を巻いた赤毛の少年が男を睨むように見上げていた。

 

「えっ、かっ、カズヤ君!? 怪我はもう大丈夫なの!?」

「ミツハさん慌て過ぎ」

 

 くつくつと笑うカズヤの顔色は瓦礫の下敷きになっていた時と違い、血色が良く健康的な顔色だ。ミツハはほっと胸を撫で下ろした。

 

「で、何の話してたの? 俺も混ぜてよ」

 

 無邪気さを装って笑っているが、少年の声には圧が掛かっていた。男は舌打ちを落とす。

 

「ガキが聞くようなもんじゃねえよ」

 

 そう言って男はミツハに背を向ける。遠ざかっていく背中に、カズヤは子供っぽくべえっと舌を出していた。

 

「……有難ね、カズヤ君。助かったよ」

「助けられてばっかなんだし、ちょっとくらい良いカッコしたいじゃん」

 

 少年は背伸びをするように胸を張り、今度こそ無邪気に笑った。その笑みに張り詰めていたものが緩む。そっか、とミツハは擽ったい笑みを浮かべた。

 

「怪我はもう大丈夫なの?」

「うん。ミツハさんが応急処置してくれたお陰で全然へーき」

「ええー、無理してない……?」

「してないって。……走ったり運動するのはまだ駄目って言われてるけど、それぐらいだし」

「こ、後遺症とかない? 怪我したの後頭部だし、ほ、ほんとに大丈夫?」

「だから心配しすぎだって」

「心配するよー……」

 

 何せ命の灯が消えてしまいそうな姿を目の当たりにしてしまったのだ。弱々しい声、真っ青な顔、頭から流れる真っ赤な鮮血。今の元気に振る舞うカズヤからは程遠い姿が目に焼き付いていた。

 カズヤは困ったように苦笑し、怪我の辺りを避けて頭を搔く。そして何か思い付いたのか、悪戯っぽく笑った。

 

「ね、ミツハさん。今時間ある?」

「えっと……呼び出しがいつ掛かるか分かんないけど、それまでなら大丈夫だよ」

「じゃあちょっと、外に出て歩きながら話さない? もう全然平気だって分かったらミツハさんも安心するっしょ」

 

 後押しも忘れずに、カズヤはどうにかミツハを連れ出そうとする。そんなカズヤにくすりと笑い、ミツハは頷いた。残っていたミルクティーを飲み干し、ペットボトルを空にして立ち上がった。

 

   §

 

 外部居住区のアラガミ被害から約一週間が経つ。建物の損壊が大きかったカズヤの住む第三防衛ライン外側の復旧作業もだいぶ進んでおり、突貫工事ではあるがバラック小屋も建ち並んでいた。

 

「この辺まだ瓦礫多いから気をつけて」

「ふふ、はーい。カズヤ君も気をつけてね」

 

 エスコートするように一歩前を歩くカズヤについて行く。外部居住区は年端もいかない少年少女が縄跳びなどで遊ぶ傍、狭い路地に目を向けてみれば真っ昼間から酒を煽る大人も少なくない。屯する数人の大人達と目が合わぬよう目を逸らした。

 就ける職も限られているので浮浪者が多いのは仕方がないとは言え、治安が良いとはお世辞にも言えない。テレビでしか見た事がないようなスラム街が今ではこんなにも身近にある。

 

「ミツハさんって、元々内部居住区に住んでたの?」

「え、元々? ……あっ、うん。そうだよ」

 

 カズヤの問いに一瞬首を傾げたが、少年にはミツハが六十年前の世界から来た事を話していない。少々心苦しく思いながらもミツハは少年に嘘を吐く。「やっぱり」カズヤは疑う事もなく、少し大きい瓦礫の上に立って振り返った。瓦礫の厚さ分、カズヤの頭が高くなる。

 

「あーいう大人、見慣れてない感じだったし」

「あはは……あんまり外部居住区に出てなかったから、ちょっと世間知らずでごめんね」

「や、謝んないでいーよ! あーいうの、本当は慣れない方がいいんだろうし」

 

 路地裏の吹き溜まりを一瞥するカズヤ。近くに捨てられている酒瓶に目を向け、少年は口を尖らせた。

 

「飲んで捨てるんじゃなくて、集めてアナグラに持っていけば配給品貰えんのに」

「まあ、面倒臭いんだろうね」

「それで配給品が少ないって文句言うんだよ、あいつら。あーいう大人にはなりたくねーや」

「き、聞こえちゃうよ? 行こ行こ!」

 

 ああいう輩に絡まれたくはないとミツハはカズヤの手を引いて歩き出す。弱気なミツハをカズヤは面白そうに笑った。

 

「ミツハさんって案外臆病なとこあるよね」

「うっ、大人なのに格好つかなくてごめんね……」

「カッコつけなくていーよ。寧ろ俺の方がカッコつけたいのに」

 

 やはりカズヤは瓦礫の上に立って話す。ミツハより背を高くしていたいようだ。背伸びをしたがる少年は頭に巻かれた包帯を指の腹でそっとなぞり、困ったように笑う。

 

「だって俺、二回もミツハさんに助けられたんだよ。なんつーか、守られてばっかだなって」

「…………」

 

 そう言ってくれるカズヤに、ミツハは上手く言葉が出なかった。

 確かに一度目は大きな怪我をさせる事なく助けられたが、二度目はそうじゃない。駆け付けるのが遅ければ。ソーマが来るのが遅ければ。目の前の少年は、死んでしまっていたかもしれないのだ。

 胸を張って助けたとは言えず、ばつが悪そうな表情を浮かべる。そんなミツハを見下ろしながら、カズヤは言葉を続けた。

 

「俺、ゴッドイーターって無敵のヒーローなのかとずっと思ってたんだ。アラガミをぶっ倒して、俺達を守ってくれるヒーローは最強なんだって。そう思ってた」

「……うん」

「でもあの時のミツハさん、震えてたじゃん。それ見たら、そうじゃないんだなって思ってさ」

「……ごめん、夢を壊しちゃったね」

「ちが、そうじゃなくて! なんていうか、ゴッドイーターだって人間じゃん! って、思い知ったっていうか」

 

 予想外の言葉に目を丸くするミツハ。カズヤはミツハの右腕に嵌まる赤い腕輪に目を落とす。

 

「無敵のヒーローだって思ってた。でも、ヒーローだって怖くなる時もあるし、震えるんだ。ヒーローは強いけど、無敵じゃないんだよな」

 

 漫画やアニメの主人公のように一撃で敵を倒せる必殺技があるわけではない。怪我をする。恐怖を覚える。下手を打って死にかける。最悪、死ぬ。

 少年は現実を知った。無敵の、最強のヒーローだと思っていたヒーローは、ただの子供の幻想なのだと。

 現実を知って尚、少年は笑う。

 

「だから、ますますゴッドイーターになりたくなった」

「……無敵のヒーローじゃないって知ったのに?」

「無敵じゃないから、俺はヒーローを助けるヒーローになりたい。……俺だって、助けられてばっかじゃなくて……ミツハさんを、助けたいし!」

 

 頬を髪色のようにしながら、カズヤは金色の瞳を真っ直ぐミツハに向ける。真正面からぶつかってくる少年のひたむきさに当てられ、擽ったさに下唇を噛んだ。

 

「……ありがとう、カズヤ君」

 

 そして堪らないといった様子で破顔する。今度はカズヤが恥ずかしそうに唇を噛み、瓦礫から下りた。上にあった金色の瞳が真横にある。カズヤの身長はミツハとそう変わらない。

 今は、まだ。

 

「あっ、防衛班のねーちゃんだ!」

「カズヤも一緒じゃん」

「お姉ちゃん久々だね」

 

 不意に声を掛けられる。防衛班に所属していた時、任務帰りに何度か会った事のある子供達だった。

 げっ、とカズヤは苦い顔をする。はしゃぐ子供達はそんなカズヤを御構い無しに、ミツハとカズヤの間に割って来た。

 

「タツミが言ってたんだけど、お姉ちゃんってもう防衛班じゃないの?」

「あー、えっと、うん。討伐班に異動しちゃって」

「討伐班!? なんかかっこよさそう!」

「どんなアラガミと戦ってんの!?」

 

 子供達は目を輝かせてミツハに質問を投げる。その勢いに圧倒されつつ、くすくすとミツハは笑った。

 この子供達はミツハを〝無敵のヒーロー〟だと思っている。いつかカズヤのように現実を知る日はそう遠くないのかもしれない。それでも今は、自分達をアラガミの脅威から救ってくれるヒーローだと思っている。そしてミツハもまた、そんなヒーローで在りたかった。

 

――だって私は、防衛班だ。

 

 ただアラガミを討伐するだけではない、力無い人々のヒーローになりたい。

 そう思ったのだ。タツミの背を見て、そう感じたのだから。

 

――アーク計画は、この子達を切り捨てるんだ。

 

 世界が、人類が滅びると言われても、いまいち実感は湧かなかったが――

 外部居住区が、力無い人々が犠牲になる事は耐えられなかった。

 

「あ――」

 

 ポケットに入れていた携帯が鳴る。メールの着信を知らせていた。

 

「……ごめん、呼び出されちゃった。アナグラに戻るね」

「えー、久々に会えたのにー」

「こら、我儘言うなよ」

「カズヤだって寂しがってたくせに」

「そーいうの言うなっつの! ミツハさん、行こ!」

 

 逃げるようにカズヤはミツハの手を引き、アナグラへ向かってずんずんと歩き出した。どうやら送ってくれるらしい。笑みを零すと、カズヤは慌てた様子で手を離した。顔が赤い。アナグラへ続く道を並んで歩いた。

 

「カズヤ君」

「ん?」

「私、外部居住区のみんなを守るヒーローで、いるからね」

 

 ミツハの宣言に、カズヤはきょとんとした顔を見せる。何を今更言い出すんだ、とでも言いたげな顔だった。

 



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72 親の心子知らず

 浮ついて騒がしいエントランスとは真逆に、役員区画の廊下は嫌になる程静かだ。エレベーターの扉が開き、ミツハは重い足を一歩踏み出した――ソーマと共に。二人の足音が静かな廊下に響く。

 支部長室はエレベーターを出てまっすぐ歩いたその突き当たりにある。長い廊下を歩きながら、その心臓は支部長室に近づくにつれて逸る。この廊下を歩いたのはあの日以来だ。

 

「あの日、」

 

 静寂を打ち破るようにミツハは口を開いた。重苦しい役員区画の空気とは真逆に声は明るい。明るく努めていた。

 

「助けてって叫んだら、ソーマさんが来てくれてびっくりしました。部屋に鍵掛かってましたし、もう駄目だーって思ってましたもん」

 

 意識は薬で朦朧とし、声を上げても人通りの少ない役員区画、特に支部長室周辺では気づく者などそう居ない。居たとしても、部屋は鍵の掛かった密室だった。

 しかし、絶望的な状況は扉と共に、文字通りブチ破られた。あの日、タイミングよくソーマが支部長室に来ていたおかげでミツハは事なきを得た。

 

「……元々お前が居るとヒバリから聞いていたからな。親父が何か企んでいると睨んでいたから行ってみたら、その通りだったってわけだ」

 

 ソーマが忌々しく吐き捨てたその言葉に、ミツハは目を丸くした。あの日、ソーマが支部長室に来たのは偶然かと思っていたが、そうではなかったらしい。

 

「じゃあ、あの日ソーマさんが支部長室に来てたのって、偶然じゃなかったんですね」

「……まあな」

「なら尚更、助けに来てくれて有難うございます。……それに、今日も」

 

 歩いていた足を止める。支部長室の扉の前だ。壊された扉はすぐに直されたらしく、重厚な扉が健在している。この一枚隔てた先にヨハネスが居る。

 

「……何かあったら叫べ」

 

 扉近くの壁に背を預け、ソーマは静かに、だが強く念を押すように言った。ミツハは頷く。

 

「はい。……や、でも、たぶん大丈夫です。前ああなったの、飲んだ紅茶に薬入ってたせいですし!」

「だとしても、何かあるかは分かんねえだろ。用心は忘れるなよ」

「……はい」

 

 もう一度頷き、ひとつ息を吐く。それでも心臓は嫌な脈打ち方をしていた。大丈夫だとは思っていても、一度染み込んだ恐怖心はそう簡単に拭えずにいる。

 ソーマに背を向けて扉の前に立つ。震える指先で扉の横にあるインターホンを押した。ロックの外れる音がする。

 

『――入り給え』

 

 目の前のインターホンから聞こえてきた声色に僅かに肩が揺れた。扉に手を伸ばす前、ちらりと横目でソーマを見る。盗み見たつもりだったが、示し合わせたかのように視線はばちりと噛み合った。

 

――うん、大丈夫。

 

 扉を開け、支部長室に入る。執務椅子に座っていたヨハネスはその視線をノートパソコンからミツハへと向ける。氷の瞳がにこりと細められた。

 

「随分な番犬を連れているようだね」

「……番犬って、そんな言い方はやめてください」

「これは失礼。いや、正直驚いているんだよ。来てくれるとは思わなかったからね」

 

 いけしゃあしゃあと言ってのけるヨハネスに思わずミツハは眉根を寄せる。弱気になっては駄目だと言い聞かせ、ミツハは気丈に言葉を放った。

 

「前は薬のせいでああなりましたけど、そうじゃなかったら支部長は私に敵いませんから! 神機使いの身体能力に一般人が敵わないのはご存知でしょう?」

「ああ、確かにその通りだ。だが、奥の部屋に神機使いを待機させているとは考えなかったのかね?」

「えっ……」

「君は実に平和ボケした思考だ。いっそ愛おしいぐらいだよ」

 

 ヨハネスは優しげな微笑みを浮かべながら、そんな皮肉を紡いだ。笑うヨハネスとは反対にミツハの顔は一瞬ににして青褪める。

 ミツハが警戒して来る事はヨハネスも分かっていた筈だ。ならば力付くでミツハを抑え込める、自分に忠実な神機使いを用意しているかもしれないと少し考えれば確かに分かる事だった。――思いっ切り失念していたが。

 慌てて踵を返し扉に手を伸ばそうとしたミツハだが、それをヨハネスが制止する。

 

「冗談だよ。先日、神薙ユウ隊長から特異点と思われるアラガミの発見報告があってね。そちらの当てが外れるまで、君に手出しはしないよ」

「…………」

「さて、では話をしようか」

 

 信じられないとでも言うようにヨハネスを睨みつけるが、男はまるで気にもせず机の上で手を組んで笑った。

 ミツハは沈黙を放ちながら扉から離れ、執務机の前に立つ。硬い顔を崩さないミツハに、ヨハネスは一枚のカードを差し出す。

 

「サクヤ君達から話は聞いているのだろう。これが方舟の乗船チケットだ」

「要りません」

「そう言うだろうとは思っていたよ。全く、残念だ」

 

 肩を竦め、カードを机に落とす。軽い音が支部長室に響いた。意味のない問答だった。

 机に落とされた薄いカードを一瞥し、ミツハは問答を続けた。

 

「……ずっと疑問に思っていたんですけど、どうして私も、方舟に乗る候補にあがっていたんですか?」

 

 問いを、続ける。

 

「その、私は……ただの、化け物なんでしょう。そんな化け物を、次世代に残したいんですか」

「おや、自分自身を化け物だと認めるのかね」

「話を、逸らさないで下さい」

「……私はね、君がタイムスリップした事には、それは人類にとって大きな意味があると思っているんだよ」

「……利用価値があるから生かすって事ですか」

「本来二〇一一年に居る筈の君が、二〇七一年に居る。オラクル細胞が発生したのは二〇四六年だ。歴史の矛盾を修正するだけならば、何もこの時代でなくとも良かった筈だ。にもかかわらず、君は二〇七一年に居る。人類が新たな一歩を踏み出そうとする、この歴史の転換期にだ。君はきっと、世界に選ばれたのだよ」

 

 まるで演説でもするかのように、ヨハネスは雄弁に語る。それが真実だと信じて疑わないように、朗々と語り述べる。男の声は部屋によく響いた。嫌に自信に満ちた声でこうも悠々と語られては、ヨハネスの言葉が正論だと思い込んでしまいそうになる。

 だが――

 

「私がタイムスリップした事に、そんな大それた意味なんて、ないですよ」

 

 ミツハはそう断言した。ミツハもまたそれが真実だと信じて疑わないような、自信に満ちた否定だった。

 ほう、とヨハネスが一声唸る。

 

「ならば君は、何の意味もなくこの世界にやって来てしまったのかい? 平和な時代を謳歌する筈だったと言うのに、凄惨な時代へわざわざやって来て死と隣り合わせの戦いを強いられているのは、全くの無意味だと」

「……そう、です。たまたま私の身体に偏食因子が発生して、たまたま六十年後に飛ばされた。ただ、それだけです。人類の為だとか、世界に選ばれたとか、そんな大きな意味なんて、きっとないんだと思います」

「では君は意味もなく、本来居るべきではない世界で生きていると言うのかね?」

「意味がないなら、自分で意味を持たせればいいだけの話じゃないですか」

 

 淡々と語るヨハネスと同じように、ミツハも淡々と答える。言葉に下手な感情が乗らぬよう努め、平然とした面を貼り付けて言葉を紡ぎ続ける。

 

「私は、……ソーマさんと出会う為にタイムスリップしたんだって、そう思うようにしましたから」

 

 まるで惚気のような言葉を最後に沈黙が落ちる。ヨハネスは僅かにだが目を見張り、閉じた。

 沈黙を破ったのは可笑しくて堪らないと言ったような、ヨハネスの笑い声だった。

 

「ふっ……はは、そうか、そうかい。化け物同士の傷の舐め合いをする為だけに、君は元の平和な時代を捨ててタイムスリップしたのかい? それは少々、六十年前のラブストーリー映画を夢見すぎでは?」

 

 予想外の言葉だったらしい。お手上げだと言わんばかりにヨハネスは肩を竦めた。愉快そうに笑ってはいるが、その笑みには不思議と嘲笑の色は滲んでいない。

 ヨハネスの言葉を受け止め、ゆっくりと咀嚼する。感情に任せて勢いのまま言葉を放ちそうになるのを抑え、ミツハは努めて冷静な口調で問答を続けた。

 

「……化け物化け物ってよく言いますけど、私は、私ですよ。……その、確かに私は普通じゃないです。それに、ソーマさんも。普通じゃない事が化け物の定義になるんなら、私もソーマさんも化け物……なんだと、思います。だけど、私は私ですし、ソーマさんはソーマさんです。化け物が化け物を好きになったとか、傷の舐め合いだとか、そういうんじゃなくて――私が、ソーマさんという人を……好きに、なったんです」

 

 淡々と、独白のように静かに語る。だが言葉には確かな力強さがあった。穏やかな口調とは反対に拳を強く握り、ミツハは真っ直ぐヨハネスを見据えて語る。噛み合う視線を逸らす事なく、笑い飛ばす事もせず、ヨハネスはただ黙ってミツハの言葉を聞いていた。

 

「化け物だって、ひとりの生き物ですよ。笑ったり、悲しんだりします。誰かを好きになったり……します。貴方の都合の良いように、物みたいに扱われて良いような存在じゃ、ないです。私も、ソーマさんも」

 

――そして、シオも。

 

 ヨハネスが探し続ける特異点の少女を思い浮かべながら、ミツハはそう宣言した。

 タイムスリップした意味を。特異点として生まれた意味を。身勝手に決める男へ向けて断言する。男はやはり黙って聞いていた。

 しばしの沈黙の後、ヨハネスは組んでいた手を解き、机の上に落とされたカードを手に取った。薄っぺらいカードを再びミツハに向け、諭すような口調で言葉を紡ぐ。

 

「……私はやはり、君は方舟に乗って欲しいと思っているよ。――純粋にね」

「……それは、どうしてですか?」

「簡単さ。君に生きていて欲しいからだよ」

「それ、主語は私だけじゃ、ないですよね」

 

 ミツハの鋭い切り込みに、ヨハネスは押し黙る。だが、その通りだと言わんばかりに口元を緩めた。

 脳裏に、あの日のヨハネスの顔が浮かんだ。

 

 〝その化け物が例え、血を分けた己の息子だろうとね〟

 

 そう告げたヨハネスは確かに嗤っていた。――自分自身を。

 

「……貴方はソーマさんの事、どう思っているんですか」

 

 疑問は零れ落ちるように声になった。

 ミツハに問いに、ヨハネスは一笑した。

 

「あれは私の愚息だ。……この答えでは不満かね?」

「…………いえ」

 

 子に死んで欲しい親など、居る筈がない。少なくともミツハはそう思う。

 そしてそれは――この親子にも当て嵌まるのだ。

 

「時に、ミツハ君」

 

 ヨハネスが椅子から立ち上がる。思わず後退ったミツハだが、ヨハネスはミツハではなく壁に掛けてある額縁へ向かっていた。

 

「君はアルコールは飲めるクチかね?」

 

 唐突に。あまりに唐突にそんな事を聞かれ、それまで表情を崩さぬよう努めていたミツハは豆鉄砲でも喰らったような顔をした。

 

「……えっ、あの、私まだ未成年ですので飲んだ事ないです……」

「律儀だね。だがもう十九になるんだろう。極東でなければ成人した年齢ではないか」

「よ、酔わせる気ですか!?」

「そんなつもりはないよ」

 

 くつくつと笑いながら、ヨハネスは額縁に手を掛けた。嵐の海に浮かぶ一枚の舟板の絵。それを取り外すと、裏側の壁に埋め込まれるようにして五十センチ四方の四角い扉があった。

 

「な、なんですかそれは……」

「ワインセラーだよ」

「わ、ワインなんて飲めないですよっ」

「なに、ただのジュースも置いてある」

 

 ヨハネスは扉を開け、緑色のボトルを一本手に取った。

 

「ワインを発酵させる前の、ただの葡萄の絞り汁だよ。六年前から寝かせていたものだ」

 

 そう語るヨハネスの声色は、初めて耳にするものだった。穏やかで、なにかを懐かしんでいるようにも思える。

 ちらりとセラーの中を覗いてみると、今しがたヨハネスが手に取ったものと合わせて十二本のワインボトルが並んでいた。銘柄などミツハには分かる筈もないが、物資に乏しいこの時代でワインなどという嗜好品は極めて貴重な代物には違いないだろう。

 

「……ソーマさんが葡萄ジュース好きなのって、支部長譲りなんですね」

 

 思わずそう呟いた。ソーマとヨハネスの共通点に、やはりこのふたりは親子なのだと思わざるを得なかった。

 そう、何気なく呟いた言葉だった。

 その何気ない言葉に、ヨハネスはぴくりと反応した。

 

「……ソーマは今も葡萄ジュースが好きなのかね」

「えっ、あ、はい」

 

 何気なく呟いた言葉が質問として返ってきた。裏のない、純粋な問いとして。

 

「ふっ……余程気に入っていたらしいな」

 

 ミツハが頷けば、ヨハネスは噛み殺したように小さく笑ってボトルを眺めた。その横顔は、驚く程に穏やかだ。――ソーマの姿と重なった。

 

「すまない、やはりコルクを抜くにはまだ早いようだ」

 

 ボトルをセラーに戻し、額縁を掛け直す。普段のような冷たい笑みではない。くつろいだ笑みを浮かべながら、ヨハネスはミツハと、扉の向こうに居るソーマを見た。

 

「……いつかあれと分けて飲むと良い。ああ、そうだ。君の方が一年早く酒が飲めるだろう。あれは恐らく酒に強いだろうからな。飲めるように酒を嗜んでおき給え」

 

 呆気に取られ、ミツハは言葉が出なかった。

 あまりにも――父親の顔をしていたから。

 

――見た事ある。

 

 誕生日が来て成人が近づく度に、振袖の写真を撮ろうと両親は言っていた。娘の未来を楽しそうに語る親の顔をミツハはよく知っていた。よく見ていた。

 ヨハネスは、そんな表情を浮かべていた。

 

「……そんな先の事、アーク計画が起きたら叶わないじゃないですか」

「だから方舟があるのだろう。君も、ソーマも。席は用意してあるのだ。……考え直してくれる気にはなったかね」

 

 もう一度、カードを差し出す。

 ミツハはやはり、首を横に振った。

 

「……残念だよ」

 

 途端、ヨハネスは顔を引き締め普段の底の知れない表情に戻った。空気が変わる。ミツハも顔が強張り、いつの間にか緩めていた拳を握った。

 

「これ以上は平行線のようだね。話は以上だ」

 

 険しい声色で、退室を促される。それに従っても良かったのだが――ミツハはまだその場に留まった。

 

「あの……最後に質問、いいですか」

「……何かね」

「貴方は私の事を、どう思ってるんですか。……その、あんな事をして殺そうとしたくせに、こんな事を話してくれたりして……」

「……ひとつ訂正させて貰おう。殺すつもりなど毛頭無かったよ」

「で、でも! 母体を介してP七十三を投与するって、つまり……!」

「君の持つ偏食因子は、P七十三偏食因子すらも受け入れるように変異しているではないか。拒絶反応が起きない……それは君がよく知っているだろう」

 

 それは、その通りだった。ミツハの持つP五十七偏食因子は、既にP七十三偏食因子と拒絶反応を起こさない。だからミツハは、六十年前に帰る手掛かりを失ってしまったのだ。

 

 押し黙るミツハに、ヨハネスは言葉を続けた。

 やはり、淡々と。底の知れない笑みを薄っすらと浮かべながら、いつか聞いたような言葉を口にした。

 

「それと……私は君に、期待しているんだよ」

 

 いつか聞いたような言葉。

 だが、その意味は確かに違っていた。男の話を聞いた今ならば、違って聞こえる。

 

「化け物同士、仲が良いのだろう?」

 

   §

 

 重厚な扉を開け、廊下に出る。扉を出てすぐの所にはソーマが立っていた。

 その姿を見て、ミツハは糸が切れたかのようにその場にへたり込んだ。

 

「なっ、おい、何かあったのか」

 

 ソーマは慌ててミツハに駆け寄り顔を覗き込む。焦った表情のソーマに、ミツハは気の抜けた緩い表情を浮かべた。

 

「お、終わったーって気が抜けたら……力も抜けて……あはは」

「……とにかく、何も無かったか」

「危ない目にあったりとかは、全然。大丈夫です」

「そうか」

 

 ソーマはそう一言告げ、ミツハに手を差し出す。ミツハはにへらと擽ったそうに笑みを浮かべ、その手を取って立ち上がった。

 

「何の話をしたんだ」

 

 エレベーターに向かいながら、ソーマが切り出す。ミツハはぎくりと一瞬表情が固まった。

 

「……方舟に乗るか乗らないかっていう話と、その……色々と」

 

 ソーマ本人にミツハの口からしていいような話ではないような気がして、有耶無耶に答える。釈然としてなさそうな顔をしていたソーマだが、そうか、と深く追及せずに食い下がった。

 

 廊下を並んで歩きながら、ソーマの顔を盗み見る。ヨハネスとあんな話をしたばかりだからか、やはりソーマの横顔はあの男と重なって見えた。

 



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73 三つ葉のクローバー

 出頭命令から一晩が経ち、アナグラは昨日以上にざわついていた。

 早々にチケットを手にする者、乗船を拒否する者、大勢の犠牲の上に生き延びる事に悩む者、呼び出されなかった事に憤る者――アナグラは混迷を極めていた。

 

――防衛班のみんなはどう答えただろう。

 

 エントランスの喧騒から逃れるようにエレベーターに乗り、地下へと向かいながらミツハはぼんやりと思った。良い意味でも悪い意味でも利己的なカレルはきっと乗るだろう。タツミは外部居住区を見捨てる筈がない。ならば他のみんなはどうだろうか。聞いてみようかとメールボックスを開いたが、こんな事をメールで聞いてしまうのは憚られてやめた。

 

 新規作成の画面を消し、代わりに受信箱を開く。一番上にある今朝届いたばかりのメールを開き、短い文章を見つめた。

 コウタは暫く休暇を取るそうだ。アーク計画に賛同した者は特異点の捜索に駆り出される。賢明な判断だと思う。しかしアリサとサクヤ、そしてコウタが居なくなった第一部隊はユウとソーマ、ミツハの三人しかアナグラには残っていない。

 

――これ任務とか大丈夫なのかな。

 

 第一部隊に下される任務は大型種や堕天種の討伐が主だ。腕のあるユウとソーマの足を引っ張らないようにせねば、と意気込むが今日のミツハは休みである。二週間に一度ある、定期検査の日なのだ。

 研究区画で止まったエレベーターを降り、サカキの研究室へ向かう。腕輪認証でロックを解除し、周りに誰も居ない事を確認して扉を開ける。もしもシオが部屋から出ていたら扉の隙間から見られる可能性があるのだ。用心に越した事はない。

 

「はっかせー、検査お願いしまーす」

 

 研究室に入るとサカキしか居ない。どうやらシオは個室にいるようだった。

 

「おや、予想よりだいぶ早いね。準備するまで待ってくれるかい」

「はーい。あんまり共同区画に居たくなくって、早めに来ちゃいました」

「まあ、そうだろうねえ」

 

 サカキは肩を竦めながらキーを叩く。軽快な音を聞きながらミツハは勝手知ったる顔でお茶を注ぎ、ソファに座った。

 

「ミツハ君も昨日呼ばれたんだろう。どうだったかい?」

「何かあったりとか、全然。ただ、うーん……前に博士が、ソーマさんに対して支部長の事を誤解してるって言ってた意味が、ちょっと分かったかなあって……」

「おや」

 

 ミツハの言葉に、サカキはキーを打つ手がぴたりと止まった。狐のような細目が更に細められるが、何処か優しい表情を浮かべていた。

 

「何を話したのか、よければ聞かせてもらえるかい」

 

 頷き、ぽつりぽつりとヨハネスと話した内容を語る。

 話の主軸は主にソーマの事だった。改めてヨハネスとソーマの事を思うと、親子なのだと心から思う。噛み殺したような笑い方も、どうしようもない程に不器用な所がそっくりだ。――こんな事、ソーマ本人に言ったら怒られてしまうだろうが。

 

「博士はずっと知ってたんですよね。だから、ソーマさんと支部長が和解出来るようにディスクを見せようとしてたんですね」

「……ああ、そうだよ。私は今でもヨハンやアイーシャの事が好きだからね。あの親子が争うような事は避けたかったんだがね……」

 

 溜息を吐き、サカキは困ったように力無く笑った。サカキの願いは虚しく、親子の間には埋まる事のない絶対の溝が出来てしまっている。

 ヨハネスの話を聞いたミツハとて、あの一件が無かった事に出来るわけではない。今でもヨハネスを許す事など出来やしないが――愛など自分には無縁だと言うソーマの誤解を解きたいとは思った。

 

 ヨハネスはソーマを愛している。生きて欲しいと、幸せを願っている。愛されていない訳ではないのだ。

 

 複雑な胸中に、言い表せない靄が立ち込める。靄を流すようにお茶を半分程一気に飲んだ。一息吐き、ミツハはサカキに問い掛ける。

 

「ディスクの中身はマーナガルム計画の会議の記録って言ってましたよね。どんな内容なんですか?」

「ヨハンとアイーシャがソーマへの偏食因子の投与を決断した会議の記録と、それとヨハンがアイーシャの出産前に撮ったビデオだよ。元々胎児段階での投与が確実だというのはラットでの実験から分かっていたんだけど……人体での臨床実験、ソーマへの投与を最初に提案したのはヨハンではなく、実はアイーシャなんだ」

 

 遠い日を思い耽るように、サカキはしみじみと語る。

 

「滅び行く世界を子供達に見せたくないと言ってね……ソーマに未来を託したんだ。世界に福音をもたらすように願い、インド神話に出てくる人々に活力を与える神の酒である名をつけた。それが〝ソーマ〟だよ」

「……名前の由来、ソーマさんは知ってるんですか?」

「さあ……どうだろうね。ヨハンが直接教えるとは思えないけど、ソーマは賢いから知識としては知っているんじゃないかな。ミツハ君は自分の名前の由来、知っているかい?」

「私のは、三つ葉のクローバーが由来ですよ。小さい頃は幸運の四つ葉じゃないのかーって思ってましたけど……今は、自分の名前が好きですよ」

 

 四つ葉が〝思わぬ幸運〟ならば、三つ葉は〝ありふれた幸福〟だ。この世界に来てその意味を強く理解するようになった。

 ご飯が食べられる、安心して眠れる場所がある、在り来たりの日常がある。何も特別な事ではない。だが、それらはどんなに幸せな事だろうか。

 

「誰かを幸せにするのに、四つ葉みたいな特別な事は要らないから、三つ葉です。探せばどこにでもある三つ葉だからこそ、いつでも誰かを幸せにしてあげれる、そんな子に育って欲しい――って。作文の課題で、親に名前の由来を聞いてみたらそう言われました。元々三つ葉のクローバーが由来だろうなーって思ってはいたんですけど、まさかそんな意味が込められてるとは思いもしなくて。それから自分の名前が好きになりました。……名前のように育ったかは、自信ないですけど」

 

 あはは、と恥ずかしそうにはにかんだミツハに、「良い親御さんだね」とサカキは優しく目を細めた。

 

「名は体を表すと言うけど……ミツハ君によく似合った名前だと本当に思うよ。良い名前だ」

「あ、有難うございます。な、なんか照れますね」

「つまりミツハ君はソーマにとっての三つ葉のクローバーという訳だ!」

「そ、そうなれたらいいなー! 検査の準備はまだなんですかー!」

「もう少し雑談に付き合っておくれよ」

 

 真面目な顔から一転、からかい始めたサカキにミツハは居心地を悪くし、残りの茶をちびちびと舐めるように飲み湯呑みで顔を隠す。そんなミツハをサカキは可笑しそうに小さく笑いながらカタカタとようやく作業を再開した。

 部屋にキーの打つ音だけが響く。何も話さなければ、研究室は無機質なキーの音と機械の稼働音しかしない。

 

「……シオの様子はどうなんですか?」

 

 明るい少女の声は今日もしない。サカキはキーを打ちながら答える。

 

「今は少し落ち着いてはいるけど、だいぶ不安定なようでね。特異点としての覚醒が始まっている証拠だ」

「その、どうにかならないんですか?」

「シオの暴走を抑える可能性のある酵素を持ったアラガミ素材がある事が分かってね。今ソーマとユウ君に収集をお願いしているんだ。ミツハ君も協力してくれるかい?」

「えっ、そうなんですか!? 勿論ですよ! ……って、普通の討伐任務の方って大丈夫なんですかね……? 第一部隊、今人手不足ですけど……」

 

 素材の収集をしながら討伐任務を熟す――というのはミツハにとってはなかなかハードだ。体力が持つだろうかと不安になるミツハだが、サカキはあっけらかんと笑った。

 

「ぶっちゃけ、今上層部から下される任務はもっぱら特異点捜索のものだ。チケットを受け取った神機使いが我先にと受注しているだろうね」

「あー、成る程……。うぅ、カレルの前でボロが出ないように気を付けなきゃ……」

 

 チケットを受け取るであろうカレルは特異点捜索の任務を受ける筈だ。聡いカレルの前で嘘を吐き通すのは難しいだろう。ユウ曰く、ミツハは嘘を吐くのが下手なのだから。

 ずっしりと気分が重くなり、残った茶を飲み干す。空になった湯呑みをテーブルに起き、手持ち無沙汰に準備が整うのを待っていると、不意にサカキが口を開いた。

 

「もしもの話なんだけど」

 

 カタカタとキーを打ちながら、視線は画面を見つめたまま――なんでもないただの雑談のネタでも振るかのような口調で、サカキは問う。

 

「シオとは別の存在が特異点として生まれた時、代替の存在が出来た事でシオの特異点としての覚醒が治まるかもしれない――としたら、ミツハ君はどうするかい?」

 

 カタカタとキーの音が響く。機械の稼働音が響く。無機質な音が、部屋を埋めた。下手をしたら窒息しそうな程で、ミツハは短く息を吐き、吸った。

 

「……それって、つまり、私が――」

 

 タン。

 

 続けようとした言葉は、一際大きく鳴ったエンターキーの音で遮られた。

 

「お待たせ、検査の準備が出来たよ」

「…………」

 

 けろりとした顔でサカキは小部屋へ促す。眼鏡のブリッジを押し上げ、椅子の背凭れに体を預けた。

 

「なんの確証も理論もない、ただの〝もしも話〟だよ」

「……博士のそういうところ、ほんと嫌いです……。支部長も博士も大概ですよ」

「類は友を呼ぶと言うしね。ヨハンは今でも私の親友だよ」

 

 サカキの言葉にミツハは苦い顔をしてソファから腰を上げる。左側の小部屋へ向かい、中に入る前にサカキの方に顔を向けた。ツンと口を尖らせ、無愛想ぶりながら。

 

「もしも本当にその時が来て、私が実験体になって特異点を生み出した時、……博士が一番後悔……というか、気にするんじゃないですか? ……今の支部長と博士みたいに」

 

 ミツハの言葉にサカキは僅かに目を剥き、肯定も否定もせずに目を閉じた。

 

「私はただの観察者だからね。道標は出したとしても、介入はしないよ。ただ……君達がどう選択するのか、気になるだけなんだ。アラガミであるシオへ、君達がどう選択するのか」

「アラガミだとしても、シオはシオですよ」

 

 ミツハはそう即答する。

 

「私は、シオが好きです。大切です。だから、助けられるなら助けたいです。……そして! 出来れば平和的に解決したいです! 何かを犠牲にするとかは、最終手段で。……これが答えじゃ、駄目ですか」

「……いいや、十分だよ。それが、ミツハ君の答えなんだね」

 

 サカキはふっと笑い、再びキーボードに向き直った。再開されたいつも通りのタイピング音を聞きながら、ミツハは小部屋に入る。防音の部屋に入ってしまえばタイピング音も聞こえない。右側の壁に耳を傾けてみるが、少女の声もやはり聞こえなかった。

 



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74 建前のない本音

「ええ、う、うそ、ピターってあの一体だけじゃなかったの……」

「基本アラガミは無限に湧いてくるもんだろうが」

「そ、そうですけどぉ……ぴ、ピターかあ……」

「大丈夫、みんなで行けば無理な相手じゃないって」

 

 サカキから依頼された素材の中に〝帝王爪〟という素材があった。ミツハは初めて聞いた素材の名前だったが、ユウとソーマはそうではなかったらしく。どうやらあのディアウス・ピターから収集出来る素材なのだと言う。ぐずるミツハにユウは苦笑しながら「頑張ろうね」と背中をポンと叩いた。

 

 今日はシオが久々に意識がハッキリしていた為、シオの部屋で集まってブリーフィングをしている。そして聞かされたサカキからの任務内容にミツハは驚愕した。まさかディアウス・ピターを相手する事になろうとは。

 しかもディアウス・ピターだけでなくハガンコンゴウも同時討伐対象だ。場所は鎮魂の廃寺。入り組んでいるのにアラガミの抜け道が多い場所は分断が困難だ。

 

「てーおーそー? うまいのかー?」

「うーん……高級食材ではあるのかな……?」

「そうなのかー。うーん、ハラヘッタナー……」

 

 意識はハッキリしているが、それでもやはり以前のような明るさはない。以前シオの食料として集めた素材を与え、彼女の丸い頭を撫でてやる。きゃっきゃっと戯れる彼女を、もう何日見ていないだろうか。

 

「……足手纏いにならないように頑張るね」

 

 シオの為に出来る事ならば、やってやりたい。先日のサカキとの会話を思い出し、ミツハは腹を括ってそう宣言した。

 二人はこくりと頷く。

 

「今回は三人しか居ないし、コンゴウ種も一緒だから苦戦は間違いないと思う。準備をしっかりして、明日討伐に向かおう」

 

   §

 

――三人しか居ないんだよね……。

 

 エントランスで明日の準備をしながら、ミツハは重い溜息を吐いた。ユウ、ソーマ、ミツハの三人だけとなれば、ミツハは後衛支援が主になる筈だ。

 しかしコンゴウ種が同時討伐である以上、混戦が予想される。そうなると援護射撃の精度も必要になってくるが――正直言ってブラストで精度の高い援護射撃はかなりの腕がいる。そしてミツハはブラストを使い始めてまだ一か月しか経っていない。ターミナルでディアウス・ピターとハガンコンゴウの情報を見ながら、ミツハはぼやく。

 

「誤射しそうで怖い……」

「第二のカノンになる予定でもあんのかよ」

 

 悩む頭に重みが掛かる。真横にはピンク色のブランドシャツ。視線を上へ向けると、目付きの悪い長身痩躯の男が立っていた。

 

「か、カレル……」

「ディアウス・ピターにハガンコウゴウか。報酬美味そうだな」

「の、覗き見やめてよー! そして重いー!」

 

 頭に置かれた細い腕を振り払う。悪びれる様子もないカレルの左手には神機が収納されたアタッシュケースが握られていた。

 

「今から防衛任務?」

「いや、シュン達と一緒に特異点の捜索だ」

 

 その言葉にどきりと心臓が跳ね、視線をターミナルの画面に戻す。そうなんだ、と平静を装って相槌を打った。

 

――シュンもチケット受け取ったんだ。

――……シュン達って事は、他は誰なんだろう。

 

 悶々とするミツハを見下ろしながら、カレルは問う。

 

「お前はどっちなんだよ」

「……乗らないよ」

「馬鹿な奴だな」

 

 ミツハの答えにカレルは鼻を鳴らした。

 

「生き残ってさえいりゃ、元の時代に帰る方法だって見つかるかもしんねえのに」

「…………」

「死んだらそれまでだろ」

 

 カレルは何処までもカレルらしく、ある意味で一番竹を割ったような性格だ。どう行動するのが一番無駄がないのか、己に利があるのか。それを一番理解しているからこそ、この究極の選択もあっさりと答えを出せたに違いない。

 ――死んだらそれまで。その通りだ。

 

「……確かに生きてたら元の時代に帰る方法が見つかるかもしれないけど、でも、見つからないかもしれないじゃん」

「その見つからねえっていう可能性も、生きてみねえと分からねえだろ」

「みんなが居なくなった世界に、生きる理由なんてないし」

 

 思わず鋭い言葉になってしまい、カレルは押し黙った。そして面倒臭そうに長い溜息を吐き、癖毛であちこちに跳ねている頭を掻いた。

 

「死神が乗らねえから、お前も乗らねえって? アホか目ぇ覚ませ恋愛脳」

「な、なんでそうなるのー……」

「でも多少は事実だろ」

「…………うん」

「ほらな」

 

 馬鹿にするように一笑された。「変な建前つけるんじゃねえよ」そうも言われ、ミツハは小さく笑った。視線をターミナルの画面からカレルへ移し、言葉を紡ぐ。

 

「……正直言うと、ね」

「おう」

「この世界が滅びるとか、滅びないとか、割とどうでもいい」

 

 建前のない本音を。

 

「みんなの事は好きだけど、この世界は別に好きじゃないし……私にとっての一番の理想って、元の時代に帰って、その上みんなも一緒にタイムスリップして私の時代に来て欲しい。……なんて、凄い傲慢だけど」

「傲慢っつーか、ただお前にとって都合のいい妄想でしかねえだろ。現実的じゃねえな」

「……そうだね。絶対叶わないし、ただの妄想だね」

 

 歯に衣着せぬカレルの物言いに苦笑を漏らし、安心した。何処までも利己的なカレルだからこそ、ミツハの傲慢さを否定はしなかった。ただ現実的ではないと事実を告げるだけだ。

 だからこそ、ミツハもまた歯に衣着せずに言葉を紡げるのだ。

 

「私は元々この世界の人間じゃないし、だけどこの世界で生きていこうって思えるのは、みんなが好きだからだもん。第一部隊のみんなや、防衛班のみんな。それに外部居住区のカズヤ君達。……方舟のチケットはカズヤ君達には貰えないし、第一部隊もコウタしかチケットを受け取ってない。防衛班は、多分タツミさんは貰ってないでしょ?」

「おう。こっちの賛成派は俺とシュン、あとブレンダンだ。カノンはまだ保留らしいが、多分乗らねえだろう」

「そうなんだ……半々に分かれた感じなんだね」

「つーか、お前の言う〝みんな〟の大部分は死神だろ。もしタツミ達や第一部隊の他の連中、あと外部居住区の奴らも全員乗って、死神一人だけ乗らねえって事になったら、お前も乗らねえだろ」

 

 答えにくい問いにミツハは言葉が詰まる。逡巡するように視線を泳がせ、恐る恐る口を開いた。相手がこの男だからこそ言える事だ。

 

「……うん、乗らないよ」

「やっぱり恋愛脳じゃねえか」

「うう、もうそういう事でいいよ……」

 

 遠慮という言葉を知らずに言ってのけるカレルに、ミツハは頬を赤らめつつ言葉を続けた。

 

「私はソーマさんが居なかったらとっくに死んでるし、ソーマさんが居るから今もこの世界で生きてるんだよ。だから……」

「だから彼が居ない世界で生きる意味はないって? いいわね、熱烈で。そういうの好きよ」

 

 艶のある声がミツハとカレルの間に割って入る。左目を眼帯で覆い、胸元の大きく開いたカシュクールが特徴的な銀髪の女性――ジーナが目を細めて笑っていた。

 

「じ、ジーナさん!? き、聞いてたんですか!?」

「だって興味深い話をしてるんだもの。分かるわ、ミツハ。私はアラガミを撃ち抜く為に生きているんだもの。彼らが居なくなった世界なら私も果てるわ」

「さ、流石ジーナさん……」

 

 ジーナもカレルと同様、何処までも彼女らしく相変わらずだ。「だからって支部長の目の前でチケット破り捨てるのはやめろよ」辟易したようにカレルがそう言う。ふふ、とジーナは不敵に微笑んだ。

 

――ほんと、流石ジーナさんだ……。

 

 己の価値観を徹するジーナに、最早尊敬の念すら抱く。ジーナは唇に人差し指を当て、カレルを見やりながら首を傾げた。

 

「ところでカレル。シュンが遅いって怒っていたけれど、行かなくていいのかしら?」

「……行くに決まってんだろ」

「そう。いってらっしゃい。特異点、見つかるといいわね?」

「ここ数日探し続けてまだ手掛かりすら見つかっていないんだ。ったく、誰か隠してんじゃねえのか……?」

 

 的を射たカレルの発言に喉から心臓が飛び出しそうだった。目を逸らすミツハにカレルは目を細め、ミツハの細い肩に肘を置いた。

 

「お、重いんですけど」

「おい、第一部隊。お前ら最近よく博士の部屋を出入りしてるよな。コソコソ何やってんだ?」

「に、任務ですー! 明日のピターとハガンコンゴウの討伐任務も博士からの依頼任務なのー! 厄介なアラガミの素材収集頼まれてるのー!」

 

 嘘は一つも吐いていない。カレル相手に嘘を吐くのは逆に怪しまれるだけだ。

 そうかよ、とカレルは未だ疑いつつも引き下がり、出撃ゲートへ向かった。ほっと胸を撫で下ろすと、ジーナにくすくすと笑われた。

 

「安心して一息吐くのは、誰も居ない場所でする方が得策よ?」

「ええっ、えと、あの、安心というか、カレルって変に勘繰っちゃうし……」

「私は興味無いから安心して頂戴。それより、明日ピターとハガンコンゴウの討伐なんですって? 大物の相手じゃない、流石討伐班ね」

 

 ジーナは特異点の事よりも目先のアラガミに食い付き、ターミナルの画面に表示されたままのディアウス・ピターとハガンコンゴウの情報を覗き見る。

 

「接触禁忌種……防衛班に居るとなかなか相手にしないのよね。どんな華を咲かせるのか、一度撃ち抜いてみたいわ」

 

 恍惚とした表情を浮かべてうっすらと笑うジーナに苦笑を漏らすが、ピンと閃いた。

 ジーナはスナイパー使いだ。その射撃の腕はサクヤにも負けず劣らず、支部内でもトップに位置する。

 

「あ、あの、ジーナさん。今第一部隊って、三人しか動ける人が居なくて……明日の任務も三人で行く予定なんですよね。それで、後衛支援が足りてなくって……」

「あら。なら私もアサインしていいかしら?」

「お願い出来ますかっ? 正直ブラストで精密な後衛支援って自信無くて……! あっ、でもユウにちょっと確認してみますね!」

「ふふ、良い返事が聞けると嬉しいわ」

 

 携帯を取り出し、ユウにメールを送る。すぐに返ってきたメールを開くと大歓迎だと了承され、ジーナは嬉しそうに微笑んだ。

 

「ディアウス・ピターとハガンコンゴウね。確か神属性のバレットが有効よね……?」

「あ。バレットエディットもちょっと教えてくれませんか? スナイパーのバレットをブラスト用に改造したくて……」

「あら。勿論良いわよ。ここじゃなんだし、お茶でもしながらブリーフィングしましょうか」

「そうですね」

 

 ターミナルの電源を落とし、ジーナと共にラウンジへ向かう。道すがら、ジーナはふと思い出したように薄く口を開いた。

 

「私、正直ミツハの世界はあまり興味が無いのよね。アラガミが居ない世界なんでしょう? さぞ平和なんでしょうけど……刺激が足りなくて、どうすればいいのか分からないわ」

 

 顎に人差し指を当て、困ったようにジーナは小首を傾げた。

 

「そ、その話も聞いてたんですか……」

「狙撃手は気配を消すのが得意なのよ」

 

 得意げに笑うジーナにミツハはひくりと口元が引き攣る。自分の傲慢な発言に、後ろめたい気持ちが波のように押し寄せてきた。

 

「……すみません」

「あら、なんで謝るの?」

「だって、この世界の方が良いって思う人だって居るのに、みんな私の時代に来たら良いのにー……なんて思うのって、人の気持ちを無視してるなあって……」

 

 そう弁明するミツハを、ジーナは「なんだ、そんな事」と拍子抜けしたような口調で言った。

 

「私がずっとアラガミを撃ち続けていたいと思うのは、私の傲慢。彼らが居なくなってしまったら私は生き甲斐を無くすのと同義だけれど、みんなからしたらアラガミは居ない方がいいでしょう? ただ、私の傲慢の方がミツハより現実的っていうだけの話よ」

 

 唇に手を当て、内緒話だと言うように魅惑的に微笑んだ。

 ジーナの価値観や哲学はミツハには理解出来ないが、だからと言って否定するような事は絶対にしない。逆もまた然りだ。

 そうジーナに言われると、ミツハは少し許されたような気分になり、そうですね、と笑った。

 



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75 天秤にかける

「手が空いていたらで構わないんだけど、防衛任務も手伝ってくれないかしら? みんなが方舟とか特異点とか言ってポジション空けちゃうから、防衛任務で出っ放しなのよ。好きなだけ撃てるっていっても、一人で行って来いなんてちょっと酷いわよね」

 

 ディアウス・ピターとハガンコンゴウの討伐をジーナに手伝って貰った帰り、彼女にそう言われた。

 防衛班六人のうち三人は特異点捜索の任務を受けており、他の神機使い達も同様で増援も難しい。通常の討伐任務が受注されにくくなった為、アラガミが増え防衛任務の出動が急増したのだ。タツミとカノン、ジーナの三人で何とか回している状況らしい。

 

 話を聞いたユウは「じゃあ」とミツハへ目を向ける。ミツハもまたユウに視線を送っており、互いに何を言いたいのか分かりきっていた。

 

「ミツハは防衛班の増援を頼んでもいいかな。多分、一番難関な任務は今回の任務だっただろうし、あとは僕とソーマだけでも大丈夫だよ」

 

 ――そう言われた通り、サカキから頼まれた素材集めはユウとソーマの二人で滞りなく遂行していた。二人の圧倒的な実力を前にしては、正直な話ミツハは居ても居なくてもあまり変わらないのだ。

 その事に少々の悲しさを覚えながらも、ミツハは大鎌を大きく振り翳す。長く伸びた大鎌から派生する幾つもの咬刃がオウガテイル四匹を巻き込み、斬り裂いていく。鮮血を噴出しながら怯むオウガテイルは簡単に投げ飛ばされ、体勢を整えようとするその前にショートブレードが斬り掛かり――

 

 そして、強烈な放射弾により消し飛んだ。

 

「――射線上に立つなって、私言わなかったっけ?」

「かっ、カノン〜! お前はもっと射線見ろって!」

「……はっ! す、すみませんタツミさん〜!」

 

 本日もカノンは全支部中ダントツの誤射率に恥じぬ誤射を見せ、ショートブレード使いのタツミはその餌食となっていた。味方識別されたバレットは貫通性のないただの衝撃で済むのだが、それでも吹き飛ばされはするので痛いものは痛い。いてて、と二の腕を摩りながら立ち上がるタツミにミツハは苦笑した。

 

「懐かしい……」

「誤射を見て懐かしむなっつの」

 

 そう零すとタツミが口を尖らせる。アラガミの残骸を捕喰してコアを回収し終えたミツハに、カノンは肩を落として嘆きの声をあげた。

 

「ううっ、久しぶりのミツハちゃんとの任務だから格好良いところ見せたかったのにぃ……」

「だ、大丈夫! 格好良かったよ!? 流石カノンちゃんのブラストは威力が段違いだな〜って思ったもん! それにブラストを使うようになってから改めてカノンちゃんのスタミナの凄さに驚かされるし……」

「ほっ、本当ですか!? これからもガンガン撃ちまくって頑張っちゃいますね!」

「誤射は減らしてくれよなー……」

 

 遠い目をしながらタツミが呟く。その目には諦めの色が滲んでおり、ミツハは同情するようにもう一度苦笑した。

 

 神機をアタッシュケースに収納し、ジープに乗せて帰路に就く。方舟のチケットを手にした神機使いは特異点の捜索に出払っている為、装甲壁周辺に近づくアラガミの数は多い。三人で掃討し終えた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。

 舗装されておらず瓦礫が散らばっているアナグラまでの道はタイヤが頑丈なジープでもガタガタと揺れる。大きなアタッシュケースが揺れて落ちてしまわないようにしっかりと持ち手を握りながら、ハンドルを操作するタツミへ顔を向けた。

 

「防衛班、最近は毎日こんな感じなんですか?」

「そうだなあ。人手不足に拍車が掛かっちまってるからな。もうクタクタだわ」

「でも、私はちょっと助かってます。戦ってる間は撃つ事に集中してるので、難しい事を考えずに済むので……」

「難しい事?」

 

 カノンの言葉にミツハは首を傾げる。はい、とカノンは頷き、物鬱げに眉をハの字にさせた。

 

「回答の期限、もうすぐなのに全然決められなくって……」

 

 カノンはまだ保留中らしい――カレルがそう言っていた通り、カノンは未だアーク計画への答えを出せていないようだ。浮かない顔のまま、カノンは言葉を続ける。

 

「その……怖いんですよね。アーク計画って一般の人は殆ど助かりませんし。逃げるのも、留まるのも怖くて……周りの人達はどんどん決めているので、焦っちゃいます」

「……いくら期限がもうすぐだからって、焦っちゃうのは良くないと思うよ。ほら、焦ると周りに流されやすくなっちゃうし」

「そうだぞ、カノン。焦って答えを出した結果、やっぱああすりゃ良かったって後悔しないようにな」

「……そうですね。もうちょっと、考えてみます」

 

 ミツハとタツミの言葉を受け、カノンは少し安心したように微笑んだ。三人を乗せながらジープは進む。ガタガタと揺れる度にカノンと肩をぶつけながら、一緒に空を見上げた。

 

「もうすぐ満月ですね」

 

 カノンがそう呟いた通り、空に浮かぶ月は円に近い形をしていた。あと数日経てば満月になるだろう。雲の全く掛かっていない空は月の形がよく見える。息を吐きながら、ミツハは独りごちるように言葉を吐息に乗せた。

 

「今日は星がよく見えそう」

「凄く良い天気でしたもんね。最近は暖かくなってきましたし、春って感じですねえ」

「もう四月も中旬だもんね。早いなあ」

「って事はミツハのあの大号泣から一か月か。早いもんだな」

「だっ!? いや、あの、大号泣って言う程でもなかったと思うんですけど!」

「いやいや、大泣きしてただろ。カノンも一緒に」

「しょ、しょうがないじゃないですかあ〜!」

 

 悪戯げに笑うタツミに顔を真っ赤にして後部座席から二人で抗議を上げる。賑やかな三人を乗せたジープは時折大きく揺れながら、アナグラへの道を走った。

 

   §

 

 アナグラに戻ったミツハはサカキの研究室へ足を運んでいた。研究区画の静かな廊下を歩き、周りに職員が居ない事を確認して腕輪認証で扉のロックを解除する。研究室の中は暗かった。

 

「あれ、博士居ないんですか?」

 

 電気のスイッチを押して部屋を明るく照らす。どうやら珍しい事にサカキは不在のようだった。扉の鍵を閉め、ミツハはシオの部屋がある右奥の扉へ向かった。

 

「シオ、起きてるー?」

「……ミツハー?」

 

 声を掛けると、ベッドで横になっていたシオがもそりと此方に顔を向けた。琥珀色の瞳にミツハを映し、そこに映る少女は嬉しそうに破顔した。

 

「起きてたー! 体調はどう?」

「うーん、オナカスイタ!」

「そっかそっか。何かおやつなかったっけ」

 

 にへらと口元を緩めながら、室内にある小さな保冷庫を開く。シユウ種の手羽先のような素材を手にし、シオに手渡すと「イタダキマス!」と元気良くかぶり付いた。

 その様子を微笑ましく見ながら、シオの隣に座る。今日はだいぶ調子が良いようだ。この調子がずっと続いていてくれればいいのに。そう願いながら、シオの丸い頭を優しく撫でた。

 

「さいきん、アリサ達いないなー」

「……ちょっと遠くにお出かけしてるんだよー」

「お出かけかー。シオもお出かけしたーい!」

「また三人で出掛けたいね」

「うん! デートしたいぞ!」

「デート……したいな〜……」

 

 下心を織り交ぜながらシオの言葉に頷く。三人で鎮魂の廃寺へ行った時の写真を見返したかったが、生憎とデジカメはミツハの自室だ。ソーマを間に挟んで三人で撮った写真を思い浮かべ、ミツハは柔らかく笑った。

 

 暫くシオと話をしていると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。サカキが戻ってきたのだろう。

 話し声はこの研究室の持ち主であるサカキと――ソーマのものだった。二人に加わろうとミツハは扉に手を伸ばした。

 

「――ああ、そうだ。ソーマにちょっと聞きたい事があるんだった」

「あ?」

「いや、もしもの話なんだけれどね」

 

 扉の奥から聞こえてきたその会話に、どきりとして伸ばした右手が固まる。

 

 ――星の観察者(スターゲイザー)。サカキの異名が頭に浮かんだ。

 

「シオの今の状態は、特異点としての覚醒が始まった証だと話しただろう」

「ああ」

「なら、もしもシオとは別の存在が特異点として生まれた時、代替の存在が出来た事でシオの特異点としての覚醒が治まるかもしれない――としたら、どうするかい?」

 

 ソーマが息を呑んだ――そんな息遣いが聞こえた、ような気がした。扉を一枚隔てているというのに、二人の声は嫌になる程よく聞こえた。ミツハが扉の奥へ意識しているせいで、偏食因子によって発達した聴覚が拾っているのかもしれない。未だ固まったままの手は、妙な緊張で強張った。

 

「……親父のやり方は反対なんじゃなかったのか」

 

 地の底から這い出たような声がした。対するサカキの声は、普段通りの掴み所のないあっけらかんとした声だ。

 

「もしもの話だと言ったじゃないか」

「…………」

 

 ソーマは答えない。沈黙が落ち、手持ち無沙汰だった右手は拳を握った。きっとソーマの右手も今、こうして言いようのない気持ちをぶつけるように握られているに違いない。

 扉の前で動かないミツハに、シオが首を傾げる。残り少しだった手羽先を口の中に放り込み、

ベッドから降りてミツハの顔を覗き込んだ。

 

「どうしたんだ?」

 

 無邪気なシオの声は果たして扉の奥にも聞こえたのだろうか。聴覚が誰よりも鋭いソーマに反応はなかったが、サカキは口を開いた。何も答えないソーマに痺れを切らしたのか、それともシオの声が聞こえてアクションを起こしたのか。

 

「もっと簡単に聞こう。シオとミツハ君。どちらが大切かと問われたら――どうするかい?」

「――――」

 

 息を呑んだのはソーマだけではなかった。衝動に突き動かされるように強張っていた右手は扉を開け、二人の目がミツハに向けられる。

 目を見開いたのはソーマだけだった。鍵は掛けていた。電気は、点けたままだった。

 確信犯は、狐のように目を細めた。

 

「――そんなの、決めるような事じゃないです!」

「……ミツハ」

 

 二人の間に割って入り、声を荒らげた。揺れる蒼い瞳にきゅうっと心臓が締め付けられ、ソーマの手を引く。握られていた拳は一瞬、狼狽えるように強張ったが、雪が溶けるように解け、手を重ねた。

 その手を強く握り、逃げるように慌ただしく研究室を後にする。サカキは引き留めることもせず、研究室から出て行くふたりをシオと並んで見送った。

 

「ソーマさん、行きましょう!」

 

「今日、星がよく見えるんです!」

 



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76 愛するということ

 閉じた扉を、観察者と特異点は見つめていた。

 

「ハカセ、ミツハおこらせた! いけないんだぞー」

 

 滅多に見せないミツハの怒りに、シオがサカキを咎める。サカキはレンズの奥で薄く笑いながら肩を竦めた。

 

「ソーマを怒らせた、と前に言った事があったね。ほら、一番最初にデートした時さ。その時、シオはどうして悲しかったのかい?」

 

 サカキの質問に、シオは琥珀色の瞳をぱちくりと瞬きさせる。うーんと少し頭を悩ませた後、シオははっきりとした口調で言った。

 

「だって、ソーマ、くるしいカオをしてた。さっきのミツハも、ソーマも! くるしいカオは、みたくないぞ。みんながカナシイと、シオもカナシイ。だってシオ、みんなのことが――すきだからな」

 

   §

 

 空には少しだけ欠けた月と、満天の星だった。

 風は冷たい。頬を撫ぜる風が、昂ぶった激情を冷静にしてくれる。

 息を吐く。流石にもう、吐息は形になって見えはしない。

 

「ソーマさん」

 

 名前を呼ぶ。握ったままの手を解き、振り返って男と向き合った。

 

「……なんて顔、してるんですか」

 

 困ったようにミツハが言う。ソーマはばつが悪そうに目を伏せた。フードに隠れ、目元がよく見えなくなってしまった。

 

「あんなの、博士の意地悪ですよ。ほら、博士ってああいう嫌な質問、よくしてきますし」

 

 重苦しい空気を打ち飛ばそうとするように、明るい声色でミツハは話す。小さくミツハが笑いかける度に、ソーマは苦しむように強く拳を握った。

 

「だから、その、気にしなくていいんですよ」

「……揺らいだんだ」

「え?」

 

 ずっと押し黙っていたソーマが、重々しく口を開く。ぽつりと呟かれた声は、冷たい風に吹き飛ばされてしまいそうな程に弱々しい。

 そして、懺悔でもするかのように言葉を続けた。

 

「お前の偏食因子を使えば、シオの特異点としての覚醒を止められるかもしれないと博士から聞かされた時――そういう手段もあったのかと、一瞬……揺らいだ」

 

 悪い――ソーマの口から謝罪の言葉が落ちる。

 怯んだようにミツハは言葉に詰まったが、すぐに穏やかに息を吐いた。別段、予想外という事でもない。そう思ってしまって仕方がない事だとミツハも分かっていた。

 

「それは……、ちょっとくらい揺らいで、当たり前だと思いますけど」

「…………」

 

 ミツハの言葉に、なおもソーマは目を伏せて沈黙を続ける。ミツハは再び困ったような表情を浮かべ、口を噤んだ。下手に空気を和まそうとはしなかった。夜の屋上に沈黙が落ち、風の音だけ響く。

 暫くの間静寂が星空を支配していたが、先に耐えかねたのはソーマの方だった。

 

「……どちらが大切か、か」

 

 サカキの言葉を復唱するソーマ。まるで独り言ちるような静かな口調で、静寂を破る。

 

「俺は、……シオの事が大切だ」

「……はい。知ってますよ」

「あいつには笑っていて欲しいし……失いたくない」

 

 〝死神〟と彼を呼ぶ者が聞いたら信じられないような穏やかで優しい声色で、ソーマは静かにそう宣言した。それが、サカキの問いに対するソーマの答え――では、ない。

 

 言葉には続きがあった。

 伏せていた目を、ミツハに向ける。月明かりに蒼い瞳が照らされていた。

 

「だが――それは、お前も同じだ」

 

 そう、真っ直ぐに告げる。穏やかな声色とは裏腹に、蒼い瞳は酷く苦しそうだ。

 ソーマのその答えは、サカキの二者択一の答えにはそぐわない。どちらが大切か――サカキの問いに、ソーマはついぞ答えられなかった。

 

 そんなソーマに、ミツハは――場違いな笑みを零した。

 

「私達って、自分の言葉に言い負かされてますよね」

 

 ミツハの瞳には星空ではなく、いつかの黄昏の空を映していた。まるで慈しむように微笑みながら、ミツハは一歩、ソーマに歩み寄った。

 

「そんなの、決めるような事じゃないです。〝どっちも大切〟って事で、いいじゃないですか。……ソーマさんが、言ったんですよ」

 

 どちらが大切か。何が一番大切なのか。

 決められないのは――ミツハも同じなのだ。

 

「……いいのか、それで」

 

 ソーマが問う。いいんです。ミツハは頷いた。

 

「いいんですよ。そんなの、決められなくって当然だと思います」

 

 ミツハもまた、真っ直ぐにソーマを見つめた。視線がかち合う。迷い子のような蒼い瞳に、夜空と、ミツハが映る。

 

「選べないって、なにも悪い事ばかりじゃないと、思うんです。そう、思いたいです。だって、それだけ――失くしたくない大切なものが、沢山あるって証じゃないですか。ソーマさんはそれだけ、大切なものが周りにあるんです。それってすごく、幸せな事だと思うんです」

 

 静かな屋上に、小さく息を呑む音が聞こえた。蒼い瞳が、僅かに揺れる。震える手に手を伸ばし、ミツハは優しくその手を取った。

 弾かれたりなどはしない。肌寒い満天の星空の下で、手の温もりを感じた。重なった手に一度視線を落とし、顔を上げる。

 蒼い瞳に映る少女は悲しげに微笑みながら、まるで自分にも言い聞かせるように、まるでそうであって欲しいと願うように。

 声を微かに震わせながら、けれど力強く語る。

 

「どっちが大切かなんて、分からなかったら無理に決めなくていいんです。それでいいんです。数字で計れるようなものじゃないし、機械でもないんですから、割り切れなくて当然です。……私だって、元の世界と、この世界とで、いつまで経っても決められませんし、いつか決められるようになるとは思えません。だって、元の世界も、みんなも――大好きなんですから」

 

 そう言って、やわらかく笑った。あの日のように心の底からの本音ではあるが、あの日のような悲痛な叫びではない。

 相反する本音同士は、どちらかを切り捨てる事はせずミツハの胸の内にずっとある。

 あの日、この屋上で。ソーマの言葉を聞いてから、ずっと――

 

「だから、いいんです」

 

 そして今、この星が瞬く屋上で。あの日のソーマのように、ミツハは言葉を紡ぐ。

 穏やかで、少し寂しげで、泣き出してしまいそうで。

 それでも、確かに優しく微笑みながら。

 

「いいんですよ、ソーマさん。分かんなくて。決められないから悩んで、迷っていくのが……きっと、――人間なんだと、思います」

 

 理屈で割り切れない思いがある。天秤では計り切れない感情がある。失いたくない大切なものが、増えていく。

 

 その度に悩みながら。迷いながら。後悔しながら。

 

 それでも前に進んでいくのが、人を人たらしめるのではないのだろうか。決して化け物では成し得ない、人間〝らしさ〟なのでは、ないのだろうか――

 

「――――」

 

 まるで衝動のように。重なっていた手を強く握られ、手を引かれる。

 そして、強く、少し痛いくらいに。噛みしめるように、確かめるように、抱き締められた。

 

「そ、ソーマさん!?」

 

 力強い抱擁に動揺するミツハだが、耳に響くソーマの心臓の音を聞き、驚きで固まっていた腕を優しく背中に回した。心臓の音は驚く程に速い。けれど、心地良い。

 

「……俺は、」

 

 肩口に声が落とされる。

 

「お前の言う通り……どっちも大切だ。どちらかを切り捨てる事は――したくない」

 

 理屈の檻に閉じ込めていた感情を解き放つ。ぼろぼろと溢れ出した本音に、ミツハは静かに頷きながら耳を傾けた。

 

「だが――同じじゃないとは、思っている。シオも、お前も、共に居ると……心が、安らぐ。だが、……お前はたまに心臓に悪い。……今だってそうだ。だが……それが、心地良い」

 

――それって、

 

 告げられた言葉に、今度はミツハの心臓がどきりと跳ねる。口を衝いて出そうになる言葉を、すんでのところで呑み込んだ。

 沈黙するミツハに、ソーマはたどたどしい言葉を続ける。

 

「はっきりとは、分からねえ。大切なもんの意味に悩むなんて、初めてだからな。……だが、分かりたいと、思う」

 

 言葉が落とされる度に、ミツハは涙が滲むのを必死で耐えた。ソーマのその言葉は、その感情は――確かな一歩だった。 

 

「……じゃあ、待ってます」

 

 ソーマの言葉を聞いて――ミツハはやはり、やわらかく微笑んだ。

 

「だから、焦らないで、知っていってください。私、いつまでも待てますからっ。だから、……そうやって、ゆっくり進みながら……答えを見つけていきましょうよ」

 

 知ってください――自分がどれだけ愛されているか。

 見つけてください――愛が、どんなものなのか。

 

 ソーマ・シックザールという〝化け物〟は愛を知らない。

 ――そんな化け物が、一歩踏み出す。

 無縁の話などではない。〝俺なんか〟などではない。ずっと、気づかなかっただけだ。知らなかっただけだ。ただ一歩、踏み出さなかっただけなのだ。

 

 ゆっくりと。悩みながら、迷いながら――

 ソーマ・シックザールという〝人間〟は、これから愛を、知っていくのだ。

 



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77 終わりへの序曲

 いつものように、区画移動用エレベーターに乗り込んで地下数百メートルまで下がる。研究区画の廊下はいつも静かだ。時折扉が開けっ放しの部屋からは薬品の匂いが漂ったり、何やら小難しい話をしている研究員の声を耳にするが、それらを通り過ぎて奥の扉まで足を運ぶ。

 ミツハは慣れた動きで扉のロックを腕輪認証で解除し、辺りに人が居ない事を確認してから扉を開ける。いつもより、少しだけ緊張している。そんな緊張を解すように、部屋のど真ん中でシオが大の字になって寝ていた。

 

「おや、いらっしゃい。もうすぐソーマ達も来る筈だよ。予想ではあと七八〇秒だ」

 

 四台のモニターに囲まれた赤い椅子に座るサカキが、やはりいつも通りの顔でミツハを出迎えた。そんなサカキに、思わずミツハもいつものような軽い口調で返してしまった。

 

「今日は何のアラガミ素材依頼してるんですか?」

「ボルグ・カムランをね。ほら、漢方じゃサソリは頭痛やひきつけに効くって言うだろう?」

「確かにサソリ型ですけどぉ……アラガミを漢方には出来ないと思うんですけどぉ……」

 

 サカキの言葉に苦笑しながらソファに座る。そして思い出したかのように、むっと眉を寄せてサカキを睨んだ。

 

「ていうか、私ちょっと怒ってるんですけど!」

「おや、何にかい」

「惚けないでください〜。なんでソーマさんにあんな事聞いたんですか。それに、私が居るって分かって聞きましたよね!?」

「ははは、まさか奥の部屋に居たなんてねえ」

 

 あっけらかんとサカキは笑った。どう見ても確信犯だ。

 

「ミツハ君にも言っただろう。アラガミであるシオへ、君達がどう選択するのか知りたいんだ。……それに、ソーマの変化が気になってね」

「……ソーマさんの?」

「前のソーマなら、あの場で答えが出せていたかもしれない。けどソーマは何も答えられなかった。……それが不思議と、少し嬉しいんだよ」

 

 そう言って、レンズの奥の目を細めて小さく笑みを零す。その姿にミツハの怒りはみるみるうちに萎んでいき、ひとつ溜息を吐いて肩の力を抜いた。

 

「……だからって、あーいう言い方はすっごく意地悪だと思うんですけど。そーういうところですよ博士〜」

「ははは、許しておくれよ。そういえば、あの後ソーマと何かあったのかい?」

「……内緒! です!」

「その間が気になるなあ」

 

 くすくすと笑うサカキから目を逸らし、大の字になって寝ているシオを見下ろす。ここ最近は元気そうだったが、今日はどうだろうか。シオの体調は未だ不安定だ。

 

――早く元気にならないかなあ。

――そしたら、また三人で廃寺に行って、写真を撮って……。

――オーロラもいいけど、満月も撮りたいな。

 

 今夜は満月だ。ここ数日は晴天続きの為、満月がよく見えるだろう。寝る前カメラを持って屋上へ行こうかと考えていると、ブザーが鳴る。「ソーマとユウ君だ」サカキがモニターを見ながら言い、ミツハが扉を開けて出迎えた。

 

「ほらよ、頼まれてた素材だ」

「ああ、有難う。確かに受け取ったよ」

「……堕天種二体分の素材だあ……お疲れ様です……」

 

 通常種のボルグ・カムラン一体の討伐ではなく堕天種二体の討伐だったらしい。相変わらずサカキが依頼する任務は先日のディアウス・ピターといい、なかなか討伐難度の高いものばかりだ。苦笑するミツハの隣にユウが座る。存外けろりとした顔だ。

 

「ソーマと一緒だったから全然苦戦しなかったよ」

「よく言うぜ。お前一人でブッ倒す勢いだっただろうが」

「ひえ……流石リーダー……」

「大袈裟に言わないでよ、ソーマ」

 

 謙遜しているが、ソーマが嘘を言う筈がない。ミツハはつくづくユウの実力の高さに驚かされるばかりだ。

 

――それにしても、いつも通りだなあ。

 

 ちらりと横目でソーマを盗み見る。屋上でのやりとりを思い出しては恥ずかしくなるのだが、ソーマは特に変わった様子はない。

 

「……どうした」

「えっ、いえ、なんでもないです〜……」

 

 暫く談笑をしていると、ずっと眠っていたシオが目を覚ました。琥珀色の瞳がぱちりと開かれ、少女らしからぬ大雑把な動きで体を起こす。

 

「おや、お目覚めだね」

 

 椅子から立ち上がり、サカキがシオの顔を覗き込む。寝起きのせいか、それとも体調がやはり本調子ではないのか、シオはぼんやりとしていた。

 

「……今の君は〝シオ〟かい? それとも星を喰らい尽くす〝神〟なのかい?」

 

 サカキが尋ねると、シオは首を傾げた。

 

「ほしは……おいしいのかな」

「さあな。こんな腐り切った地球(ホシ)なんか喰う奴の気がしれないぜ」

 

 ソーマが苦笑しながら言う。その穏やかな声色に、ミツハは頬を緩ませた。

 

「そっか。でもなんでかな。たまに、きゅうに、タベタイー! って……ッ、」

「し、シオ!?」

 

 言葉の途中で突然シオが苦しみだし、全身に紋様が浮かび上がる。ぎょっと目を丸くし、ミツハとユウは思わずソファから立ち上がる。

 それと同時に、サカキが大慌ててで先程ソーマから受け取った〝食事〟をシオに勧めた。するとそちらに気が向いたのか、浮かんでいた紋様はすっと消えた。

 

「治まったね……」

「あ、アリサから話は聞いてたけど、は、初めて見た〜……」

 

 ほっとしてミツハは腰が抜けたようにソファに座り込んだ。無邪気にアラガミの素材を頬張るシオは、とてもつい数秒前まで苦しんでいたとは思えない。その急変する様子にますますミツハは不安になってしまう。

 

「……おい、一体いつまでこの状態が続くんだ」

 

 ソーマが苦い顔をして唸った。サカキもお手上げだと言わんばかりの口調で言葉を紡ぐ。

 

「うーん、折角人らしさが出てきたところだったのに、あれ以来一気に不安定になってしまったね……。彼女の中で、二つの心が対立し合っているのかもしれない。一つは人としての心。そしてもう一つは……」

「〝特異点〟だろ」

「特異点……。それが支部長がやろうとしている、終末捕喰の鍵なんですか?」

 

 ソーマの言葉を聞き、隣に立っていたユウは確認するようにサカキへ尋ねる。

 特異点という言葉自体をユウが聞くのはおそらく初めてだろう。だが、シオがどういった存在であるのかはとっくに察しがついていた筈だ。「ああ」とサカキは頷く。

 

「ユウ君は支部長の特務もこなしていたから、気付いているよね。彼女のコアは〝特異点〟と呼ばれ、終末捕喰の発動に不可欠な要素だ。……もう分かっていると思うけど、私はまだ彼にそれを渡したくない。私は私で、彼女に感じているもう一つの可能性を、試していたいと思っているんだ」

「可能性……ですか?」

「ああ。ミツハ君にはだいぶ前に話したと思うけど、覚えているかな」

「えっ、だいぶ前って……」

 

 シオが来たのはここ一か月の話だ。それ以前に、サカキとシオに関わるような話をしただろうか。逡巡してみるが、ぱっと思い当たる節は見つからなかった。

 

「……あんたらがそれぞれ何を考えているか知らねえが、俺はあんたの側についたなんて思っちゃいねえ。俺達やアイツをオモチャにするようならどっちも一緒だ」

 

 刺のある口調でソーマがサカキを睨む。サカキは少しの怯んだ様子もなく笑った。

「フフ、心配しないでいいよ。《私は》彼女に何もしちゃいない。こうしてみんなと一緒に居て貰えさえすればそれでいいんだよ。そう、それがいずれは――」

 

――あ。

――シオと私達が一緒に居るって、それ――……。

 

 数か月前の記憶に手が届きそうな矢先――、

 

 ――鈍い衝撃が部屋を揺らし、暗闇に包まれた。

 

「なんだ!?」

「――爆発!?」

「えっ、う、うそ、何が起こったの!?」

 

 地下深くにある施設は停電が起こってしまえば光源が何処にも無く、一寸先すら何も見えない程の暗闇だ。

 軽くパニックになるミツハだが、サカキの落ち着いた声が暗闇の先からした。

 

「……分からない。だけど心配ない。もうすぐ中央管理の補助電源が復旧する筈――」

 

 そこまで言ってサカキが絶句したと同時に、まるで見計らったかのようにスピーカーから――ヨハネス声が響いた。

 

『やはりそこか、博士』

「――ぐわああああ! しまったああああ!」

「えっ、は、博士!?」

「な、ど……どうしたんだ」

 

 滅多に声を荒らげないサカキの絶叫が部屋に木霊する。未だに暗闇は晴れず、ミツハは下手に身動きする事も出来ず声の先を見つめた。

 

「……やられたよ。この緊急時の補助電源だけは中央管理なんだ。この部屋の情報セキュリティもごっそり持っていかれてしまう」

 

 その言葉に三人は愕然とする。暗闇の中、息を呑む音が揃った。

 

「……って事は……まさか親父の野郎!」

「ああ……完全にバレたね」

「そんな……」

 

 どうしよう――全身の血の気が一気に引いた。焦る思考を更に掻き乱すように、今度はけたたましい警報が鳴り響く。

 

『緊急警報! 極東支部装甲ビル内に外部から識別不明のアラガミの侵入を確認! 偏食場反応複数! 全ゴッドイーターは至急防衛出動、保安部、調査部以外の全職員はセーフルームに避難せよ! 繰り返す――……』

「あ、アラガミだって!? まさかヨハン、欧州からあの技術を持ち帰ってきたのか!?」

「なんだあのってのは!」

「ユウ君やアリサ君達新型が、感応波でお互い接触交感出来るのは知っているだろう? 新型神機の可変機構にも導入されている技術さ。本部にそれを応用してアラガミを操る研究をしている科学者が居るんだよ」

「なんだと……」

 

 放送を聞き、サカキは驚きのあまりその場に尻餅をついた。それが分かる程に暗闇に目が慣れ、ミツハはサカキとソーマの話をやりとりを聞きながらソファから立ち上がる。

 

――ビルの外部からアラガミが来たって事は、外部居住区も危ないんじゃ……!

 

 そう不安に駆られるが、アラガミが現れた時の産毛が逆立つような嫌な感覚はしない。だが此処は地下深くだ。地上付近でアラガミが現れたのなら、遠過ぎてミツハには感じなかったのかもしれない。

 扉の方へ足を向けると、既にユウが非常レバーに手をかけ、自動ドアを手動で開こうとしていた。

 

「ふたりとも、神機を取りに行こう!」

「うん! 外部居住区も心配だし……!」

 

 重たい金属製の扉をユウと共に押す。一拍遅れて、ソーマがそれに加わると扉はこじ開けられ、完全に開く手前にソーマは振り返って叫んだ。

 

「博士、シオ! 俺達が出たらロックして奥の部屋に隠れてろ!」

「よく見えないんだが、やってみるよ。君達も気をつけてくれ!」

 

 サカキの返事を聞き、ミツハ達は廊下へ出た。そこは騒然としており、職員達が避難しようと走り回っていた。

 外から中を覗かれはマズいと、急いで扉を閉めて走り出す。いつまで経っても非常灯のままという事は、エレベーターも動いていないだろう。逃げ惑う職員達を掻き分け、三人は非常階段を駆け上がった。

 

――まだ、しないな。

 

 一〇〇メートル程駆け上がっても、未だにアラガミの気配は感じなかった。防衛班からの連絡も無い。

 形容し難い妙な不安が募る中、再び微かな爆発音が聞こえてきた。

 

「下……?」

 

 怪訝そうにソーマが呟く。その言葉通り、爆発音は下から聞こえてきた。

 

「あの、ソーマさん」

 

 踊り場で立ち止まり、目を凝らすようにして足元を見下ろすソーマに声を掛ける。

 

「アラガミの気配……私はいつまで経っても全然感じないんですけど、ソーマさんはします?」

 

 その問いに、ミツハより遥かに感覚の鋭いソーマでさえも――首を横に振った。

 

「……だとすると、あの警報は陽動……?」

 

 ユウが言葉を落とす。そうだろう、という確信があった。

 

「戻るぞ!」

「分かった!」

「はい!」

 

 上ってきたばかりの階段を駆け下りる。職員達は既に上階へ行っていた為、サカキの研究室がある階へはすぐに辿り着けた。薄暗い非常灯が三人の影を作る。

 

「扉、開いてる……」

 

 研究室の扉は半分程開きっぱなしになっていた。扉に近づく。隙間から、微かな煙と刺激臭が漏れた。――何かがあったのは間違いない。

 

「シオ!」

 

 ソーマが研究室に飛び込む。中にサカキとシオの姿は居ない。それどころか、シオの部屋の扉が開いており――窓などある筈も無いのに、ぴゅうぴゅうと風の音が聞こえた

 

「なに、これ……」

 

 シオの部屋を覗き、ミツハは眉を潜めた。

 

 部屋の壁に、人が通れそうな大穴が《綺麗に》開いていた。地下に張り巡らされる通風管(ダスク)が丸見えになっており、風の音はそこからする。大穴にソーマが駆け寄り、中を覗き込む。

 

「シオ! 博士!」

 

 名前を叫ぶが、虚しく木霊するだけだった。

 

「クソッ、上に行ったのか下に行ったのかすら分からねえ……!」

「そんな……」

 

 あまりに突然の出来事に、ミツハはくらくらと目眩がしそうだった。つい先程まで、いつも通りだったと言うのに。シオを心配しながら、元気になったら何をしたい、あれをしたいと考えていたと言うのに――、もう叶わないのだろうか、と弱気になってしまう。

 

――いつも通りが終わるのは、いつも突然だ。

 

 この世界へタイムスリップした日のように。現実はいつだって突然だった。

 用は済んだとでも言いたげに、電源が回復したのか部屋の照明が点いた。半開きだった扉が自動で閉まり、ユウが閉じた扉を見つめた。

 

「どうして表のドアが開いてたんだろう」

「……シオと一緒に博士が連れ去られてなければ……避難したのかな」

「そう考えるのが妥当だろうが、今はシオを取り返す方が先決だ。上か下かどっちに行ったのかは分からねえが、行き先はあそこしかない」

 

 ソーマが拳を強く握りしめながら言う。三人の頭には同じ単語が浮かんだ。

 

「エイジス……」

「ああ。だがどうすりゃ入り込める……。エイジスの防衛の時、何処か入り込めそうな道は見なかったか」

「見てないですね……。空路にしろ海路にしろ、どうやっても外からじゃ入り込めませんよ、あそこ……」

 

 防衛任務に赴く際は常にヘリで移動していたが、パイロットが通信で上陸の許可を常に取っていた。そうしなければ撃ち落とされてしまうのだ。

 海路にしても、外周に大砲が取り付けられているのを知っている。攻め込まれない為に設計してあるアーコロジーなのだから当然だ。

 

 打開策は何も浮かばない。此処に留まっていても仕方がないと、ミツハ達は通路へ出た。エレベーターへ向かうとその扉が開き、予想外の人物が出てきた。

 

「シオが連れて行かれたのね」

「さ、サクヤさん! アリサ……!」

 

 以前と変わらぬ、凛とした態度のサクヤとアリサがそこには居た。夜遅くの通信以来音信不通で心配していたが、怪我は何処にも無さそうだ。

 

「お前ら……! 勝手に縁を切ったんじゃなかったのかよ」

 

 皮肉めいてソーマが言う。だが声色は穏やかで、ミツハとユウも二人が無事に来てくれた事に安堵した。

 ソーマのぶっきらぼうな物言いに、アリサは髪を手で払い口を尖らせる。

 

「どうせ、貴方達だけじゃ心細いだろうと思って戻ったんですよ」

「……実は、外部居住区に潜伏しながら、エイジスへの再進入の方法を探ってたんだけどね。アーク計画の発動を前に、外周は完全にシャットアウトされてて……正直、打つ手無しなの」

「……この騒動も、どうやらアーク計画の搭乗者をエイジスに行かせる為のカモフラージュみたいですよ。おかげで、捕まる事なく此処に戻ってこれた訳なんですけど」

「そうなんだ……エイジスに……」

 

 途端、防衛班の顔が浮かんだ。アーク計画に乗るのは防衛班のうち、三人だ。カレル達はあのエイジスに、既に居るのだろうか。

 それどころではないと言うのに、余計な事を考えてしまっている。頭の隅に追いやっていると、ユウが顎に手を当てて唸った。

 

「……その人達はどうやってエイジスに行ったんだろうね」

 

「きっと――アナグラの地下に……エイジスへの道はあるよ」

 

 ユウの疑問に、聞き慣れた声が答えた。

 全員が一斉に非常階段へ振り向く。赤茶色の髪に黄色い帽子を被り、薄いマフラーを巻いた第一部隊のムードメーカー――

 

「コウタ!」

「……へへ、なんか、久しぶりだね、コウタ」

 

 ユウが一番に名前を呼び、続けてミツハは穏やかに笑った。サクヤ達から通信が来た夜、ユウの部屋で話をして以来だ。

 少しだけ居心地が悪そうにしながら、コウタも小さく笑った。

 

「……あなたは、アーク計画に乗ったんじゃなかったんですか……?」

 

 青い瞳をまんまるにして、アリサが思わずと言ったように言葉を零す。だが、すぐに驚きの表情は柔らかいものになった。

 

「……ううん。戻ってきてくれて、……ありがとう」

 

 真っ直ぐにコウタを見つめ、優しく微笑む。

 

「……行こう! 多分こっちだよ!」

 

 久しぶりに聞くコウタの元気な声に、沈んでいた気持ちが明るくなる。コウタは先導してエレベーターへ乗り込んだ。ミツハ達もその後へ続く。エレベーターは一先ず神機保管庫のある階へ向かった。

 

「外部居住区も一瞬だったけど停電になってさ」

 

 神機が収納されたアタッシュケースを手にし、再びエレベーターに乗り込み最下層を目指す道すがら、コウタが口を開いた。

 

「そしたらテレビでアナグラが襲撃されたって速報やってて……俺、ユウ達にも連絡したんだぜ? でも繋がんなくてさ……唯一繋がったのがサカキ博士だったんだ。それで、シオが拐われたって聞いてさ」

「それで戻ってきたのか。どいつもこいつも馬鹿な奴らだ」

 

 ソーマは苦笑を零しながら、仲間達を見回した。相変わらずな素直ではない言い方だと、ミツハはくすりと笑う。そんなミツハに頷くように、アリサも可笑しそうに微笑んだ。

 

「クールなふりして、一番血の気が多い人に言われたくないんですけど」

「アリサは人の事言えないんじゃないかなー」

「そんな、それを言ったらサクヤさんだって、一人でエイジスに忍び込もうとしてたじゃないですか」

「ええっ、一人で!? そうなんですか!? だ、第一部隊の人ってみんな凄いなあ……」

「なんで他人事みたいなんですかミツハ。そういうミツハだって、血の気が多いとは言えませんけど、すっごく熱い人だなって思ってますからね、私」

「な、何に対して熱いのかなあ……」

「あらぁ? 言って欲しいんですかぁ?」

 

 狭い箱の中でくだらない言い合いをしていると、コウタが呆れたように肩を竦めた。

 

「なんかもーあれでしょ。みんなしいたけの背比べってやつだよ」

「コウタ、それどんぐり」

 

 間違ったことわざに、すかさずユウが訂正を入れる。女三人は噴き出し、こんな状況だというのに笑い声で満ちた。

 

「いいんじゃない、みんなおんなじで」

 

 みんなを見ながら、ユウがはにかんで言った。そうだね、とミツハは頷いた。ソーマもまた、呆れながらに蒼い瞳を穏やかに細めていた。

 地下へ進む。最下層につくそれまでの間。扉が開かれる、そのもうすぐまで。

 



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78 信念

 最下層への扉が開いた。

 薄暗い地下プラント内を走り、ミツハ達は巨大な輸送路の扉をついに見つけた。先導していたコウタが扉脇にあるパネルを調べてみるも、すぐに苦々しい表情を浮かべる。

 

「駄目だ、キーを解除出来ない……」

「――結局、全員集合したようだな」

 

 ヒールの音と、凛としたハスキーなアルトの声が響く。振り替えると、そこには少し苦笑を浮かべるツバキが立っていた。

 

「ツバキさん……!」

「心配するな。誰もお前達を捕らえたりはしない。フェンリル本部から、後任が決まるまでは支部長権限を委譲されてな。お尋ね者はお前達では無く、シックザール前支部長という訳だ」

 

 《前》支部長――それはつまり、フェンリル本部からしてもアーク計画はヨハネスの独断であり、彼は反逆者の烙印を押された証だ。

 そして、ツバキは未だこのアナグラに留まっている。第一部隊と同じ意志である証だった。

 ツバキはいつもの悠然とした態度でコウタを見やる。

 

「それにしてもコウタ、どうして此処がエイジスへの道だと気付いた?」

「……扉を見つけたのは、地下の旧居住区予定地を見たくて忍び込んだ時です。博士が、アナグラのプラントのリソースがエイジス建設に使われてるって講義で言ってたから……きっとその輸送路が地下にある筈だって思って」

「講義では寝てばかり居ると聞いていたが、意外とそうでもなかったようだな。……解除キーなら私が持っている。覚悟は、出来ているんだな?」

 

 怜悧な眼差しが一同に向けられる。「勿論です」即答したのはリーダーのユウだった。次いでソーマも、愚問だと言うように力強く頷く。コウタも、アリサもサクヤも、己が信念を胸に頷いた。

 

 ミツハもまた同じように頷く。髪が揺れる。短い黒髪の毛先が踊る。

 

「私も、覚悟は出来ています」

「……ならば、第一部隊へ支部長代行として命令する。ヨハネス・フォン・シックザールを連れ戻し、アーク計画を阻止してくれ。頼んだぞ……ゴッドイーター」

 

   §

 

 輸送路の先には海底を貫くリニア列車があった。ツバキのバックアップにより列車は動き、それに乗り込んでミツハ達はエイジスへ侵入した。神機を構え、サクヤの案内に従って最上部へ走る。

 暫く走ると円形の広く開けた場所に到達した。そこで誰もが足を止め、目を疑った。

 

 〝それ〟は巨大な女の顔だった。エイジスの天井から逆さまに女の顔が浮いていた。美しい女の顔だ。それが余計に、禍々しさを放っていた。

 綺麗な曲線を描く輪郭。穏やかに伏せられた瞳を縁取る睫毛。頭部から伸びる長い髪――のような巨大な触手。触手はエイジス全体を取り囲むようにうねくりながら広がっている。

 

 造作だけを見れば、女神像のような神々しさがある。だが、あまりにも異様なその風貌に得体の知れない恐怖や嫌悪感が湧き上がってきた。

 

 なんだ、あれは――一同誰もが思い、そしてソーマが震えた声で言葉を落とした。

 

「お袋……?」

 

 ソーマの言葉に耳を疑い、ミツハは禍々しい女神の顔に目を凝らす。

 その輪郭。その面差し。その雰囲気。

 その女神は、確かに――ソーマの面影を重ねる事が出来た。

 そして女神の額に開いた裂け目に、囚われた雪の妖精を見つける。

 

「シオ……!」

 

 ソーマが叫ぶ。琥珀色の瞳はぴくりとも動かなかった。

 

「涙の手向けは、我が渇望する全てなり……か」

 

 シオのすぐ脇まで伸びたクレーンに乗ったヨハネスが、女神と特異点を見つめていた。ヨハネスの視線の先に居るシオは、小さな身体を透明感のある薄絹に包まれ、身に纏っているワンピースも相まってさながら花嫁のようであった。どう見てもいたいけで可憐な少女だ。

 その少女を、ヨハネスは無機物でも見るかのように一瞥した後、呆れた視線をソーマへ目を向けた。

 

「ソーマ……随分とこのアラガミと仲が良かったようだな。それは愚かな選択というものだぞ、……息子よ」

「黙れ……! てめえを親父と思った事はない! シオを解放しろ!」

「……よかろう。特異点が手に入った今、〝器〟などに用はない」

 

 囚われたシオの身体がびくりと痙攣する。額の裂け目が金色に輝き、シオを中心に波紋が広がるように光は触手全体に行き渡る。コアと同じ色をした鈍いオレンジの光が灯籠のようにエイジスを照らしていた。

 そして、役目を終えたと言わんばかりにシオが解放される。地上二十メートル程の高さから、羽を捥がれた妖精が地面に落下した。

 

 ソーマが地面を蹴る。手を伸ばす。無骨な褐色の指先が反る。――だがその手は、あと一歩届かなかった。

 少女の身体が無機質な硬い鉄の床に叩き落とされた。

 

「シオ……」

 

 怒りが込み上がった。ヨハネスの思いは知っている。何故ヨハネスがアーク計画を強行しようとしているのか。そこに愛がある事も知っている。

 それでも、許せなかった。あんな無垢で無邪気な少女を、どうして物のように扱えるのか、ミツハには理解出来なかった。科学者の氷の瞳が脳裏に過ぎり、神機の柄を強く握りしめてヨハネスを睨む。

 

「長い……実に長い道のりだった。年月をかけた捕喰管理によりノヴァの母体を育成しながら世界中を駆けずり回り、使用に耐えうる宇宙船を掻き集め……選ばれし一〇〇〇人を運ぶ計画が、今! この時を持って成就する!」

 

 感極まった声色でヨハネスが語る。その後ろで、夜空には轟音を上げて幾筋もの光の柱が伸びていく。目を凝らす。それは宇宙船だった。

 

「今回こそ私の勝ちだよ、博士。そこに居るんだろう? ペイラー」

「……やはり遅かったみたいだね」

「博士……」

 

 いつからこの場に居たのか、背後の物陰からサカキが現れた。いつも腹の底が読めない狐の顔には悲しげな表情が浮かんでいる。そんなサカキを糾弾するようにヨハネスが叫ぶ。

 

「我々はこの一瞬ですら、存亡の危機に立たされ続けているのだ! 星を喰らうアラガミ、ノヴァが出現し破裂すれば、その時点でこの世界が消え去るのだ。……そのタイミングはいつかだ? 数百年後か? ……数時間後か!?」

 

 言葉に緩急をつけながらヨハネスは語る。何かの演劇を見ている錯覚を覚える程、ヨハネスの言葉には感情を捲し立てる熱があった。

 

「やがては朽ちる運命のエイジスに身を隠して終末を待つなど、私はごめんだ。避けられない運命だからこそ、それを制御し、選ばれた人類を、次世代に向けて残すのだ! 君が特異点を利用して行おうとしていた事も、結局は終末を遅らせる事でしかない。違うかね? 博士」

 

 ヨハネスの言葉に、一同の視線がサカキに集まる。眼鏡を一度押し上げ、観念したようにヨハネスを見上げて口を開いた。

 

「私は……限りなく人間化したアラガミを生み出す事で〝世界を維持〟しようと考えた。完全に自律し、捕喰本能をもコントロール出来る存在として育成していく事で、終末捕喰の臨界手前で留保し続けようと試みたのさ」

 そこまで言葉を続けて、サカキはミツハ達を少しだけ振り返って目を伏せた。

「そしてその為に、シオと君達を利用してしまった。許してくれ……」

「……アラガミとの共生、ですか? 博士が、やろうとしていた事って……」

 

 ミツハが問う。サカキは頷いた。

 

 〝なら、犬や猫みたいに共生出来るとも考えられるかい?〟

 

 初陣の日、サカキから問われた事だった。ミツハはそれに、出来ると答えていた。そう答えたミツハに、サカキは笑っていた。

 対するヨハネスは、サカキ達を見下ろしながら憐れむような眼差しを向ける。

 

「昔からそうだ。君は科学者としては、随分とロマンチス過ぎる」

「そういう君も、人間に対して悲観主義者(ペシミスト)過ぎたんじゃないのかい」

 

 再びサカキがヨハネスを見上げる。ヨハネスはふっと嗤った。

 

「少し違うな、博士。確かに私は人間という存在自体にはとうに絶望している。だが、私は知っているのだ。それでも人は賢しく行き続けようとする事を! アラガミやノヴァと何ら変わらないその本能、飽くなき欲望の先にこそ、人の未来も拓かれてきた事を!」

 

 熱く。力強く。第一部隊がそうであるように、ヨハネスもまた確固たる信念を胸に抱き、大衆を震わす演説の如く男は語る。

 サカキは諦めたように目を伏せた。

 

「……これ以上は平行線だね。……ともあれ、シオのコア――終末捕喰の特異点が摘出されてしまっては……もう私に打つ手はない」

「そう悲しむ事はない。この特異点は、次なる世界の道標として、この星の新たな摂理を指し示すだろう。それは定められた星のサイクル。言わば、神の定めたもうた摂理だ。そして……その摂理の頂点に居る者は、来るべき新たな世界にあっても、〝人間〟であるべきなのだ!」

 

 遠くに轟音が聞こえる中、その轟音をも掻き消す程、高々にヨハネスは宣言する。

 

「――そう! 人間は……いや、我々こそが! 〝神を喰らう者〟なのだ!」

 

 その言葉が合図であったかのように、ヨハネスの真下の鉄の床が割れる。そして、そこからコアのように光り輝く巨大な繭が迫り上がってきた。

 繭はゆっくりと綻ぶ。クイックモーションで再生される開花のようだった。花開いた中心にあったのは、花柱や花糸ではない。――アラガミが居た。

 

 女神のアラガミだ。ノヴァと同じ顔をしたアラガミは、ノヴァのような穏やかな表情はしていない。冷酷な瞳が、神に仇なす人間を鋭く射抜いている。

 粛清を下す裁きの女神の背後には、銀の魔狼(まろう)。ゴッドイーター達には馴染み深いエンブレムの顔だ。

 銀狼(ぎんろう)は男が女を守るように、愛おしむように、巨大な二本の爪で女神を抱いていた。

 

「〝アルダノーヴァ〟――」

 

 ヨハネスが裁きの女神の名を呼ぶ。愛おしい者へ呼びかける声と眼差しであった。

 

「ノヴァの育成過程において誕生した、ノヴァの剣であり、盾。女神ユニットと男神ユニットによる二神一体の――神」

 

 そして何を思ったのか、ヨハネスは――アルダノーヴァに身を投じた。

 男神ユニットから伸びた触手がヨハネスを絡み取り、体内へ飲み込んだ。二神一体の神はヨハネスを捕喰した事で最後のピースがはまったかのように、銀狼の双眸がギラリと光る。

 

 気でも狂ったのかと思う行動だ。だが、ヨハネスは至って正気なのであろう。それが余計に、恐ろしい。

 

――あなたが、その身を捧げてしまうんだ。

 

 人類の未来の為に、ヨハネスはその身を捧げている。ミツハに向けて放った言葉を、ヨハネス自身が実行しているのだ。

 そうまでする執念に、ミツハは恐ろしさを覚える。それと同時に、穏やかな顔を思い浮かべると悲しくもなった。

 

「人が神となるか、神が人となるか……。この勝負、とっても興味深かったけど、負けを認めるよ。……今や君はアラガミと変わらない。でも君は、それも承知の上なのだろうね」

 

 変わり果てた旧友の姿を一瞥し、サカキは背を向けた。絞り出すような声で、祈る。

 

「科学者が信仰に頼るとは皮肉な事だが……今は君達を信じよう。――ゴッドイーター達よ」

 

 そう祈り、サカキはその場を去る。決別だ。この二人の間にある溝は、ついぞ埋まる事はなかった。

 

『――それでは諸君、始めようか。終わりを、ね』

 

 何処からともなくヨハネスの声が響く。それはアルダノーヴァの中から反響するようだった。

 

『この手で君達を討ち、私は未来を切り開く。明日を生きる――人間達の為に!』

「……言いたい事は、それだけか?」

 

 咆哮のような叫びを、地を這う低い声が切り捨てる。

 

「俺にとっちゃ、未来なんてもんはクソッタレだ。……ああ、そんなもの、今まで考えた事もなかった」

 

 ソーマがシオを抱き寄せたまま語る。口調は酷く静かだ。だが、沸々と煮え滾るような熱を帯びた声で語る。

 

「――だがな」

 

 アルダノーヴァを――異形の姿をした父と母を見上げる。

 

「それでも、てめえが自分勝手に作る未来よりも……こいつらと作る未来の方が、俺は、いい」

 

 ソーマはその手に抱いていたシオを優しく床に横たえ、立ち上がる。神機を握る。シオに背を向ける。仲間達を見回し、一言告げる。

 

「お前ら……背中は預けたぜ」

 

 その蒼い瞳はごうごうと燃えていた。

 それはこの場に居る誰もがそうであった。

 

「……リンドウ、見てる? やっと此処まで辿り着けたわ。此処に居る、みんなのおかげよ」

 

 サクヤは真の仇敵へ神機の銃口を向けながら、此処に居ない恋人の名を呼ぶ。落ち着いた声色で、けれど感極まったように長い睫毛を震わせていた。

 

「俺、これまでずっと、家族やみんなが安心出来る居場所を誰かが作ってくれるのを待ってたんだ。……でも、気づいたら簡単な事だった。自分がその居場所になればいいんだって……! それを作る為に……俺、戦うよ!」

 

 コウタが強い決意を胸にして猛る。まだ幼さの残る少年だが、その目は臆する事なく、勇猛にアルダノーヴァを見据えていた。

 

「私も……みんなが居たから気づけたんです。こんな自分でも、誰かを守れるんだ……って」

 

 アリサが少しだけ震えた声で、それでも芯のある声で胸の内を語る。心を閉ざしていた頃からすれば信じられない程、優しい声をしていた。

 

 此処に居る誰もが、揺るぎない決意を、確固たる信念を、強い覚悟を決めて立っている。神機を握っている。明日を懸けて、戦おうとしている。

 

 井上ミツハという少女も、同じように。

 

「……私は今でもずっと、元の世界に帰りたいって思ってる。でも、この世界で生きようって思わせてくれたみんなを、私は……失いたくない。それが、私の……戦う理由」

 

 第一部隊、防衛班、外部居住区の、みんな。

 そのみんなが、好きなのだ。大切なのだ。失いたくない。

 

――だから、守りたい。

――大切な人を守れるヒーローに、私はなりたい。

 

 こんな世界の明日になんて、ミツハは興味はない。ヨハネスが切り拓く新世界の未来などは、どうでもいいのだ。

 

 ――けれど。

 

 みんなが居る明日ならば、こんな世界の明日を迎えてみようと思えるのだ。

 第一部隊のみんな。

 防衛班のみんな。

 外部居住区のカズヤ達。

 そして、ソーマ。

 そして――シオ。

 

 みんなが居る明日でなければ――意味などはない。

 

 だからミツハは、この場に居る。神機を握っている。なんの覚悟もなく神機を握っていたあの頃とは違う。流されるまま戦場に立っていたいつかとは違う。

 

――私は、この世界に生きている。

――大切な人が生きる明日に、私も生きていたい。

 

 それがミツハの、神機使いとしての覚悟であった。

 仲間達それぞれの覚悟を聞き届け、それらを胸に――第一部隊のリーダーが一歩前に出る。

 

「シックザール支部長……僕は、貴方が間違っているとは思わない。貴方にも譲れないものがある……それだけの話だ」

 

 ユウの言葉は、こんな状況にあっても酷く穏やかだ。ミツハ達の思いを、そしてヨハネスの思いをもしっかりと受け止め、根を張った大樹のように立ち続ける。

 

「でも、同時に僕にだって譲れないものはある。僕は、この世界に生きるみんなを守りたくて戦ってきた。僕は……僕は、此処に居るみんなと一緒に、これからもこの世界で人々を守る為に戦っていく。それが、僕というゴッドイーターの誇りだ!」

 

 強い意志の宿った瞳が、アルダノーヴァを見据える。ユウの言葉が、ミツハ達を鼓舞するように心を震わせてくれた。

 その熱に震えたのは、きっと第一部隊だけではなかった。

 

『――神への懺悔は、それでいいのだな』

 

 宙を浮かぶアルダノーヴァが牙を向ける。両者の心の隔たりを、それぞれの信念の違いを感じ取り――神はついに、粛清を下す。

 

『降り注ぐ雨を……溢れ出した贖罪の泉を止める事など出来ん。その嵐の中、ただ一つの舟板を手にし、私は送り出してみせる。人が生きる未来の為に!』

「それでも僕達は……人間は、この世界で生きていくっ! みんな、行こう! 命令は――」

 

「――絶対に、死ぬな!」

 



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79 忘れられない

 ――どうするのが、最善だったのだろう。

 

 大鎌の神機を握りながら、

 異形と化したヨハネスを見ながら、

 動かないシオを見ながら、

 実父に刃を突き立てるソーマを見ながら、

 穏やかな父親の顔をしたヨハネスを思い浮かべながら、

 そんな事を、ふと思う。

 

 思ってはみるが、何かが思いつく訳でもない。

 

 井上ミツハという少女は、本当に〝ただタイムスリップしただけ〟なのだ。

 この世界に多大な影響を与える訳でもない。人類の未来を救える訳でもない。シオを救える訳でもない。ヨハネスを、ソーマを、和解させる道へ導ける訳でもなかった。この戦いの勝敗が揺らぐ訳でも、特に無い。

 井上ミツハがタイムスリップした事に大きな意味なんて、本当になかったのだ。

 

   §

 

「首なんか、どこにもねえじゃねえか……クソ親父」

 

 地に落ちたアルダノーヴァを見下ろしながら、ソーマがぽつりと呟いた。肩で息をしながら、フードを目深に被り直す。ソーマは一度目元を擦り、ノヴァを見上げた。

 粛清の女神を倒してもなお、ノヴァが止まる事はなかった。

 

「畜生、あのデカブツ……止まらないよ!」

 

 コウタが叫んだ通り、ノヴァの髪のような触手は際限なく伸び続け、エイジス中枢部の眼下に広がる装甲都市を飲み込んで進んでいく。このまま装甲壁を乗り越え、海を渡り、地球そのものを飲み込むのも時間の問題だろう。

 ノヴァを動かした張本人であるヨハネスを倒しても、解決策は何も浮かばない。女神は尚も場に似合わない穏やかな顔を浮かべながら輝いていた。

 

「……そうだ、博士なら……! 博士なら、何か止める方法を知ってるんじゃ……!」

「不可能です」

 

 振り返ったミツハに、物陰から姿を現したサカキが断言する。その顔付きはとても険しい。そんな、と絶句する一同にサカキは言葉を続ける。

 

「残念だが、溢れ出した泉は……ノヴァが止まる事は……ない。アラガミの行き着く先、星の再生……。やはりこのシステムに抗う事は出来ないようだ」

 

 サカキは捕喰されゆく楽園を見下ろしながら、静かに語る。無情な現実を突きつけるサカキに、ソーマは激昂した。

 

「ふざけるな! そんな事……認めねえぞ!」

『……そう。それでいいのだ。ソーマ……』

 

 己を打ち破った息子の声に反応したかのように、地に落ちたアルダノーヴァの男神像からヨハネスの声が響いた。その声は今にも途切れそうな、絞り出したような弱々しい声で、息子の名を呼ぶ。

 銀狼の姿では、ヨハネスが今どんな顔をしているのか分からない。それでも、ソーマと呼んだ刺のない声色にミツハは胸が苦しくなった。

 銀狼の目がミツハに向けられた――そんな気がした。ヨハネスは声を絞り上げる。

 

『お前達は早く……方舟に……』

「支部長……貴方、もう……!」

 

 今にも息絶えそうな声に、ヨハネスを憎むサクヤでさえ声を震わせた。ヨハネスは一笑する。

 

『余計な心配は無用だ……。元よりあの舟に私の席は……ない』

「何ですって……!」

『世界にこれだけの犠牲を強いた私だ。次の世界を見る資格など無い……。後はお前たちの仕事だ……ふふ、適任だろう……?』

 

 ヨハネスが笑うと、第一部隊は苦い顔をした。この男は、確かに――人類の事を、この星の事を、憂う者だった。自分が生き延びる為に動いていたのではない。人類を生かす為に、息子を生かす為に――全てを利用したのだ。

 救おうとする人類を、息子を、そして、自分自身すらも利用して――。

 黒幕はヨハネスである。だが――決して、悪ではなかった。

 

「親父……」

 

 ソーマが小さく呟く。その声色に憎しみは伴っていない。

 ヨハネスは息子の言葉を聞き届け、ふっと笑みを漏らす。

 きっと、穏やかな顔をしている。

 きっと――父親の顔をしている。

 

『アイーシャ……今、そちらへ行くよ……』

 

 その言葉を最期に、アルダノーヴァは糸が切れた人形のように動かなくなった。

 それがその男の最期であった。

 

「……アイーシャ、すまない」

 

 事切れたヨハネスを一瞥し、サカキは悲しい顔でノヴァを見上げる。

 

「私達は結局、こんな争いの先にしか答えを探せなかった。私達は、君に償えたと言えるのだろうか……」

 

 ノヴァに問い掛ける。当然、答えは無い。ノヴァは依然として侵食を続け、揺れはますます強くなるばかりだ。

 ミツハとアリサはついぞ立っていられなくなり、その場に座り込んだ。震える肩を寄せ合い、ノヴァを見上げる。誰もが曇った表情を浮かべ、見つからない解決策に拳を強く握る。ノヴァの胎動は強さを増し、誰もが覚悟を決めていた。

 

――ここまで、なのかな。

 

 死んでしまう事にどうとは思わなかった。本来なら、ミツハはとっくに死んでしまっているか、方舟のチケットを手に出来ずに終末捕喰と共に死ぬ老婆だ。此処で仲間と共に果てるのならば、それでも構わないような気がした。

 

――でも。

 

 抗うように、唇を噛む。

 あのノヴァは、シオの命を取り込んでいる。

 シオの存在がこの星を喰い滅ぼし、みんなを殺してしまうのは見たくはなかった。

 

――だって、シオは……。

 

『ありがとね』

 

 声が、響いた。

 その声は――紛れもない、シオの声だ。

 

「え……?」

 

 先程まで続いていた揺れが嘘のように、ぴたりと止まった。ノヴァが放っていたオラクルのオレンジ色の光は消え、青白い光が宿る。

 

『みんな、ありがと』

 

 横たわったシオの方へ目を向ける。シオの身体は鉄の床と一体化するように黒ずみ、青い紋様が光っていた。そしてその小さな身体は、ノヴァの額から伸びる一本の触手と繋がっている。それはまるで、船と港を繋ぐロープのようだった。

 声はシオの身体からではなく、ノヴァから響いていた。ノヴァを見上げる。穏やかな顔をした女神から、シオの声がする。

 いつもの、少したどたどしくて、ソプラノの明るい声が。

 

「まさか……ノヴァの特異点となっても、人の意識が……残っているなんて……」

 

 サカキが震える声で呟く。「奇跡だ」そうもサカキは呟いた。奇跡を前に、ミツハ達は呆然とノヴァを見上げる。星を喰らう女神は、その触手の進路を変えた。そしてノヴァ自身が――ゆっくりと、空へ上昇していく。

 

「シオ……お前……?」

 

 ソーマがシオへ問い掛ける。えへへ、とシオは小さく笑った。

 エイジスを覆う鉄骨の隙間から、夜空が見える。星の輝きが綺麗だ。その星にも負けないくらい、一際輝いているものがあった。

 夜空にぽっかりと浮かぶ、白い円。

 

『おそらの、むこう。あの、まあるいの』

 

 ――今宵は、満月であった。

 

『あっちのほうが、おもちみたいで、おいしそうだから』

「……まさか……ノヴァごと、月へ……持っていくつもりか!」

 

 いつものシオらしい、食い意地に張った言葉であった。だが、その言葉の真意を察したサカキが驚愕の声をあげ、第一部隊全員に衝撃が走る。

 

――月に?

 

 サカキが何を言っているのか、一瞬理解が出来なかった。ゆっくりと理解する時間さえもくれなかった。

 ノヴァの上昇は進む。シオの身体とノヴァを繋ぐロープは、緩みをどんどん無くしていく。

 

「シオ! あいつまだ生きてるんだろ!? ……サカキ!」

「私にも分からん! ただ……そんな事が……!」

 

 泣きそうになりながらコウタが叫ぶ。この場に居る全員が、奇跡を理解出来ずにいた。そして同時に、強く理解していた。

 

 シオは救う気なのだ。人類を。この世界を。

 ――その身を捧げて。

 

『シオね、わかるよ。……いまなら、わかるよ。ほんとのにんげんのかたち』

 

 この場の誰よりも落ち着いた声で、シオは言葉を紡ぐ。

 

『たべることも。だれかのために、いきることも。だれかのために、しぬことも。だれかを、ゆるすことも』

 

 たどたどしく。けれど、しっかりと言葉を紡ぐ。最初の頃は簡単な言葉しか喋れなかったというのに、今のシオはこんなにも上手に自分の思いを言葉で伝えている。

 嬉しいのに、悲しい。視界がどんどんぼやけていく。

 

『それが、どんなかたちをしてても……みんな、だれかとつながってる』

 

 そう告げるシオの声は、愛に満ちていた。嬉しさと、寂しさと、愛しさに満ちた、優しい声。胸が痛い程に締め付けられる。

 みんな、違う生き物だ。同じ存在なんてひとりとしていない。

 だからこそ、みんな同じだ。繋がっているのだ。独りでは、ないのだから。

 きっと誰よりも――シオがそれを理解していた。シオが、それを教えてくれたのだ。

 

『シオも、みんなといたいから……だから、きょうはさよならするね。だって、シオ……みんなのかたち、すきだから。……えらい?』

「全然っ、偉くなんか……ないわよ……!」

 

 泣き崩れるアリサが、涙声を震わせた。その声色にシオは困ったように小さく笑う。

 

『へへへ。そっか、……ごめんなさい。さよならするけど、おもいで、いっぱいあるから』

 

 思い出。

 その単語に、ミツハは唇を震わせた。沢山撮った写真が、頭の中を駆け巡る。 

 

『おそらのむこうで、きらきら、かがやくから。……だから、しゃしん、いっぱいとってほしいな。……えへへ。おもいで、だな』

 

 シオは擽ったいように笑った。

 シオに撮られた、くだらない押し問答をしていたソーマとの写真。

 チーズと言って口を尖らせたまま写った、シオの写真。

 廃寺で撮った、三人の写真。

 ミツハのカメラに詰め込まれた、沢山の写真。それらを思い出だと、シオは言う。

 

「……思い出じゃ、ないよ、シオ」

 

 ミツハは、首を横に振った。 

 

「シオのこと、思い出にしないよ……」

 

 言葉だけだと、酷い言葉だ。そんな言葉を涙ながらにミツハは紡ぐ。

 涙で視界がぼやけ、ノヴァの女神像が真っ白な少女に見えた。シオを見つめながら、ミツハは思いのままに言葉を吐き出す。走り出す感情に、上手く言葉がついてこない。

 それでも強く、泣きながら訴える。

 

「思い出って、普段は、頭の中に無くて……でも、たまに写真とかを、見返して。こんな事もあったなあって、思い出すから、〝思い出〟に、なるんだよ!」

 

 思い出すから、思い出と言うのだ。言葉にすると、拍子抜けする程当たり前の事。

 ミツハは、ミツハ達はきっと、シオを〝思い出〟に昇華する事なんて、一生出来ないのだ。

 

「わたしは……私達は! シオのこと、ずっと忘れない。忘れたくないんじゃなくてっ、……絶対に、忘れられない。思い出すんじゃなくて、……ずっと、思ってる。シオのこと、ずっと思ってるよ! だから……、シオを思い出に、出来ないよ……。いっぱい、写真も撮る。綺麗に撮るよ! それをっ、シオにも……見て欲しいよ……」

 

 しゃくりを上げながら、ミツハは叫んだ。ぼろぼろと溢れ出す涙を拭う事もせず、シオをひたすらに見つめて、願った。

 

『……みてるよ。おそらの、うえから。……えへへ』

 

 シオは笑う。悲しさを滲ませて、儚く笑う。――また、涙が溢れ出た。

 

『もう……いかなきゃ』

 

 そして、とうとうタイムリミットが来てしまった。

 

『だから、おきにいりだったけど……そこの、〝おわかれしたがらない〟じぶんの〝かたち〟を……たべて』

 

 浮かび上がるノヴァを地上に留めているのは、シオの身体に繋がる一本の触手だ。まるでシオの身体が碇のように、ノヴァを繋ぎ留めている。最早ただのオラクル細胞の塊でしかない小さな身体で、目一杯足掻いているようだった。

 ――みんなとまだ一緒に居たい。

 そう願う、シオの想い。

 

『……ソーマ』

 

 ずっと俯いている男の名を呼んだ。

 

『おいしくなかったら、ごめん』

「……ひとりで、勝手に決めやがって」

 

 絞り出したような声は、ひどく震えていた。今にも泣き出しそうな声で、けれどいつものようにぶっきらぼうな口調でソーマは呟き、ノヴァを見上げた。

 

『だけど、おねがい。はなれてても、いっしょだから』

 

 シオの言葉を聞き、ソーマは神機を強く握った。柄を握るその右手は、震えている。

 

「ソーマ」

 

 ユウがソーマの名を呼ぶ。目に涙を溜めながら、ソーマを見て力強く頷いた。それを見届け、ソーマは歩き出す。シオの亡骸のもとへ。

 全てが、スローモーションに見えた。

 ソーマの歩みも。捕喰形態へ変形する神機も。シオの身体に喰らいつく、その瞬間も。

 

 ――ありがと、みんな。

 

 そんな、声が響いた。――お礼を言うのはこっちの方だと、誰もが思った。

 

 空を見上げる。ノヴァは額の光が伝播するように、その全身の色を白く変えていった。

 想いの鎖が断ち切られたノヴァが、月へ向かって飛び立っていく。地上に貼り付いた触手を引き剥がすように道連れにして、月へと昇っていく。ノヴァは上昇しながら姿形を変え、まるで百合の花のように咲き誇った。

 小さくなっていくノヴァを見届け、ミツハは大鎌の柄を支えにして立ち上がる。目に溜まった涙を手の甲で拭う。辺りには雪のように、オラクル細胞の光の粒が降り注いだ。

 

 その光に包まれるように――ソーマの持つ神機は、まるで天使の羽のように、真っ白な色に変わっていた。汚れのない、純白の色。シオの色だった。

 ソーマはフードを脱ぎ、月を見上げる。そして降り注ぐ光の粒のひと欠片を右手で掴んだ。

 同じようにミツハも月を見上げる。満月は、まるで地球のように青い色をしていた。

 

「ソーマさん」

 

 左手に漆黒の大鎌の神機を持ちながら、ソーマのもとへ歩み寄る。呼び掛けた声は涙で掠れていて、酷い声をしていた。滲み出そうになる涙を必死に押し留め、小さく笑う。少しでも、彼の心が癒えるように願いながら。

 

「……帰りましょ?」

 

 一歩。また一歩とソーマに歩み寄り、右手を差し伸べる。未だ、指先は震えていた。

 

「帰って……シオの写真、いっぱい撮りたいです。シオの写真だけじゃなくって、色んな写真、撮りたいです。いつか、シオに見せる時のために、沢山」

 

 そう言って笑い掛ける。震える手に、ソーマの右手が重なった。

 

「ああ。……俺も、付き合う」

 

 ソーマはミツハの手を引き、歩き出す。最後にもう一度青い月を見上げ、別れを告げて歩き出した。奇跡が繋いだ明日を、迎える為に。

 



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80 月の下で笑う

 大鎌を振り翳す。いくつもの小さな刃が肉を抉り、怪物は悲鳴を上げてのたうち回る。その隙を見逃さず、大量のオラクルが撃ち込まれた。

 

「撃破だ」

「これで全部かな……? 小型だけだとラクでいいねー」

「何処がだ。報酬が不味過ぎる……」

 

 カレルが忌々しそうに舌打ちをする。相変わらずの悪人面だなあとミツハは苦笑した。

 

 ノヴァによる終末捕喰の危機は去ったが、アラガミが消えていなくなるわけではない。まるで何事も無かったかのようにアラガミは今日も地上を闊歩し、神を喰らう者達は今日も神機を握っている。

 

「此方ミツハとカレル。こっちのアラガミ倒せたよー」

『了解。みんな倒せたみたいだし、帰投ポイントに集合で!』

「はーい」

 

 ユウと繋がった通信を切る。ミツハは今し方倒したオウガテイル堕天種のコアを回収し、カレルと共に帰投ポイントへ向かった。

 

「ったく、アーク計画が実行されてりゃ、こんな小銭稼ぎともおさらばだったのに」

「み、耳が痛いからそういう事言うのやめてくれないかなあ……」

「フン。第一部隊(てめえら)が止めたんだ。デカい仕事が来たら、俺にまわすぐらいの詫びはしろよな」

 

 第一部隊によってアーク計画が阻止され、搭乗者は普段の日常へ返された。エイジス防衛の必要が無くなった第三部隊は、第一・第二部隊の支援が主な仕事になり、報酬重視のカレルは眉間のシワをなかなか崩そうとはしなかった。

 

「近々本部の連中が査察に来るらしいからな。目立って腕を買われ、本部直属の神機使いになれりゃ儲かるかもな」

「私はなるべく目立たないようにしよ……」

「事件の当事者だもんなあ?」

「それ以外にも色々あるし〜……」

 

 苦い顔をしながら荒れた道を歩く。帰投ポイントへ近づくと、先に到着していた他の第一部隊の仲間達の姿が見えた。その中には当然、フードを目深に被った男も居る。ミツハがそれまでの苦い顔を一転させると、隣のカレルが馬鹿にするように鼻で笑った。

 

 何事も無かったかのような、日常だ。

 

 突如出現したアラガミ〝アルダノーヴァ〟の急襲により、旧日本近海に建設中だったエイジス島は半壊。同日、エイジス計画を推進していた極東支部前支部長、ヨハネス・フォン・シックザールがエイジスの崩落事故により死亡――

 

 表向きの事件の顛末はそういった形で知らされるそうだ。サカキとツバキが隠蔽処理の大量の書類に忙殺されながら、アーク計画は粛々と闇に葬られた。

 アーク計画を知らぬ大半の人々はエイジス島という希望が打ち砕かれ、アラガミの襲撃に怯える以前と変わりない生活を強いられている。そしてアーク計画を知る神機使い達もまた、以前と変わらず神を喰らいを続けている。

 

 以前のような日常を――ほんの少しずつ、変化をもたらしながら。

 

   §

 

「あ」

 

 夜。冷たい風が吹く屋上に出ると、夜空を見上げている男が目に入った。

 いつも目で追っている、ネイビーブルーのダスキーモッズを着た男。普段目深に被っているフードは脱いでおり、白金の髪が外灯と月明かりに照らされていた。

 

「ソーマさんっ!」

 

 浮かれた声で名前を呼ぶ。今日は特に何もない、いつも通りの一日であった。まさかこの時間、この場所でソーマに会えるとは思ってもおらず、ミツハはステップでも踏みそうな軽やかな足取りで駆け寄った。

 ソーマはゆっくりと振り向く。その顔に驚きはない。いつかのように、ミツハが来ると分かっていたような顔をしていた。

 

「……やっぱり来たな」

「えっ、やっぱりって何ですか」

「来ると思っていた」

 

 隣に並ぶ。ミツハがソーマを見上げると、ソーマは夜空を再び見上げた。

 

「……撮りに来るだろうと、思った」

 

 ソーマの言葉通り、ミツハの手にはカメラが握られている。空には満月を過ぎて欠けた月と、満天の星々。ソーマの言葉通り、今夜の夜空は綺麗だった。

 空が綺麗だから、撮る。写真好きなミツハが取りそうな分かりやすい行動だ。

 だが、そう言われるとまるで――

 

「……わ、私が来ると思って、ソーマさんも来たんですか?」

「……さあな」

 

 ソーマは顔を上げたまま、此方を見ない。顔が見たかった――頬を赤らめながらミツハはそう思った。ミツハの自惚れが正しければ、きっとソーマも同じように照れていたに違いない。

 少し残念に思いながら、カメラの電源を入れてミツハも空を見上げる。半分近く隠れた月。カメラの液晶画面に映るその月は、地球のような青い色をしていた。

 

 〝月の緑化(りょくか)〟と呼んでいる。

 シオが月に旅立ってからと言うものの、月はそれまでの白色ではなく地球と同じような青い衛星へと変わった。

 サカキ曰く、月で終末捕喰――生命の再分配が起き、岩だらけだった月に生命が生まれたそうだ。海と植物だけの、何億年も遥か昔の地球のような星が、今の月だ。

 そんな月に、シオが居る。

 

「……やっぱりコンデジじゃなくて、一眼欲しいなー……。望遠レンズも欲しい」

「贅沢だな」

「だって、綺麗に撮りたいじゃないですか」

 

 シャッターを押し、夜空を撮る。肉眼で見るよりいくらか輝きを失った月と星の写真に、ミツハは口を尖らせた。

 ミツハはカメラを構えたまま、レンズを夜空ではなくソーマに向ける。顔を背けたソーマの先へ回り込み、シャッターを切る。

 

「……おい」

「えへへ」

「笑いながら撮り続けるな」

 

 呆れたようにソーマは眉を寄せ、背を向けて空を見上げる。顔が見えなくなってしまったが、ミツハは構わず撮り続けた。

 

「……そのカメラ、間違っても防衛班の奴らに渡すなよ」

「だ、大丈夫ですよぅ」

「どうだかな」

 

 ミツハのカメラには六十年前の写真だけでなく、シオの写真も沢山残っている。なかなか重要機密が詰まったカメラになってしまった。

 暫く好きに撮っていたのだが、ソーマがふと月からミツハへ顔を向けた。シャッターチャンスを見逃さずに撮ろうとしたのだが、伸ばされた手によって阻まれてしまう。

 

「あっ、ソーマさーん!」

「貸せ」

「け、消しますよね!?」

「消さん。……撮ってやるって言ってんだ」

 

 ミツハの手からカメラを奪う。取り返そうとしてみるも、カメラを持つ手を頭上に伸ばされてしまってはミツハが届く筈もない。背伸びをするミツハをソーマが見下ろした。

 

「撮るばかりじゃなくて、お前の写真もあいつに見せてやれよ」

 

 そう言って、ソーマはカメラのレンズをミツハに向ける。液晶画面にソーマを見上げるミツハが映り、その頬はみるみるうちに紅潮していった。そして、狼狽えるように後退る。

 

「う、だ、誰かと一緒に撮るのなら全然良いんですけど、私単体で撮られるってなかなか無くて……ええ、き、緊張しますね!?」

「お前がいつもやってる事だろうが」

「そ、そうですけど〜……! ちゃ、ちゃんと撮ってくださいね!? 半目とか嫌ですからね! あ、光源がこっちにあるのでもうちょっとあっち側で撮って欲しいです! あと暗いからってフラッシュは焚かないで、あとあと、居住区の外灯があるのでそれをぼかして……」

「注文が多い……」

 

 もう適当に撮るぞ、とソーマはぶっきらぼうにカメラを構えた。ソーマの顔はカメラに隠れてしまってよく見えない。それでも、カメラ越しに目と目があっているのは確かだ。

 

「下手でも怒るなよ」

 

 シャッターを切る直前、ソーマが言い訳のように言葉を紡ぐ。

 

「誰かを撮るなんざ、お前が初めてなんだからな」

 

 シャッターを切る。パシャリと軽快な音が夜の屋上に響く。

 ミツハは笑った。笑うミツハを見て、つられてソーマも小さな笑みを零した。

 そんなふたりに混じるように――頭上の(シオ)が、一際大きく煌めいた。

 




Kuschel 無印編はこれにて完結となります。

無印編以降のお話が完結しましたら、また同じように1話ずつ投稿していけたらいいなと思います。

もしよかったら、感想を書いて頂けると本当に嬉しいです…!

ここまでのお付き合い、有難うございました!


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